なんか一人だけ世界観が違う (志生野柱)
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導入


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 導入です


 ある者は笑い、ある者は泣き、ある者は叫び、ある者は逃げ出した。

 そのどれもが一様に、数瞬の時差も無くどろどろの液体になって死んだ。

 

 祭壇の上で一人、少年は惨状を理解できずに放心していた。

 

 呆然と、祭祀場の華美な天蓋を見上げ──()()を見た。

 

 無限に広がる宇宙の果て、およそ地球上の生物からはかけ離れた『何か』が耳障りな音楽を奏で、踊り、取り囲むもの。

 何かを産み落としては自らそれを喰らい、崩壊と再生、創造と破壊を繰り返す。脳が理解を拒否する冒涜的な言葉を吐きながら眠りこける、およそ想像も及ばぬもの。

 

 その触手が意志を持って動くと、取り囲む異形が慄くように身動ぎする。

 複数本が絡み合い、崩壊の止まった太い触手が一方向を指向する。

 

 付き従うものたちが一斉にそちらを確認するように動いた。目に該当する器官を持たない異形までもが、みな一様に。

 そして人外の知で以て、その冒涜的な呻き声と挙動から在りもしない意図を汲み、平伏した。

 

 一つの異形が嘲笑にも似た咆哮を上げる。無数の触手が蠢くそれは、動作の端々から『眠るもの』への軽蔑を滲ませている。

 しかし、少なくともその意思を叶えるつもりはあるように見えた。

 

 

 少年は──

 

 

 

 

 大陸と呼ばれる地の西半分を統べる、アヴェロワーニュ王国。

 その首都たる王都は、錬金術や魔術を駆使し、頑強かつ美麗な建物と高度な上下水道を備えた街だ。

 

 上空から見るとバウムクーヘンのような複層円形都市になっており、白亜の王城を中心に、貴族の別邸や王室・大貴族が利用する高級商店が建ち並ぶ一等地。中堅レベルの商店や富裕層の平民、王国中の冒険者を管理する組合(ギルド)本部がある二等地。最低限、王都の品位を損なうことのない生活水準を維持できる平民が暮らす三等地がある。

 

 区画はそれぞれ水路によって分けられており、四方の跳ね橋がそれらを繋ぐ。

 外縁には高さ5メートルのカーテンウォールがあり、町中には精強無比たる衛士が巡回する。魔物や敵の侵入に対して万全の構えだ。

 

 何百年にも亘る魔術師・錬金術師の囲い込み政策が作り上げた、国内、いや世界最高級の文明を誇る街。それが王都だ。

 

 美味い食事。強固で快適な住宅。良質な衣服。高度な医療。隙の無い治安。

 そういったものを求めて王都に来る者は、国の内外を問わず多い。

 

 ──と、そんな内容の記されたパンフレットを読み終えた少年は、綺麗な印字の施された滑らかな紙を、大事そうに鞄の中へしまい込んだ。

 

  王都以外では──というより、製紙技術を持つ錬金術師が紙を安定供給できないすべての土地で、紙は貴重品だ。大抵は羊皮紙か樹皮を使う。だから、それは別段おかしな行動という訳ではない。

 

 だが、この王都では、それはおのぼりさんの代名詞的な行動として知られていた。

 錬金術師が錬金術組合のオーダーに沿って安定した供給を維持しており、トイレで尻を拭くのにすら紙を使えるこの王都では。

 

 微笑ましいものを見る生温かい視線と、くすくすと揶揄うような笑いが少年に向けられる。

 

 とはいえ、少年の価値観に沿えば、何ら可笑しい行動はしていない。

 まさか自分が笑われているとは思わず、また初めて見る王都の威容に心を奪われて、少年は心を弾ませたまま大通りを進んでいく。

 

 善良な市民にとっては初々しく微笑ましい、しかし見慣れた光景で、その少年の事を特に記憶する者はいないだろう。

 そういった者を狙う、悪しき企みを持つ者を除いて。

 

 外見は10歳かそこら。王国では一般的な金髪碧眼に、年齢に特有の中性的な顔立ち。目を引くほどの秀麗さは無く、目に留まるほどの醜さもない、平凡な外見。

 少し痩せ気味だが、王都以外──郊外の村や辺境の街の出ならそんなものだろう。

 

 体躯に対してやや大きめの鞄は、旅行者であることを印象付ける。しかし、それも珍しいものでは無かった。誰の意識にも留まらない、背景のような少年。

 しかし、そういった者にこそ注意を払う者もいる。

 

 「君、ちょっといいかな?」

 

 きょろきょろと物珍しそうに周囲を眺めていた少年は、その呼びかけに数テンポ遅れて反応した。

 斜め後方から、二人組の男性が近付いてくる。全身を反射防止加工のされた全身鎧で包んでおり、その胸元や腕章には王国の紋章が刻まれている。

 

 「衛士さん? 何か御用ですか?」

 

 子供にしては流暢で丁寧な受け答え。

 初めに声を掛けてきた方の衛士はヘルムを取って膝を突き、少年と視線を合わせてから問いかける。齢の頃は20代後半といったところか。一般的な金髪碧眼ながら、眉の片方に傷跡が残っており、強面の部類に入るだろう。

 直立したまま見下ろすように話しかけて子供を泣かせた経験でもあるのか、物腰も口調も務めて柔らかくしているように思える。

 

 「小さいのにしっかりしているね。王都には奉公で来たのかい?」

 

 王都外から丁稚奉公に来るというのは、この年代の子供が一人で王都を訪れる理由の最たるものだ。ちなみにもう少し成長した15,6歳程度であれば、今度は冒険者になりに来る割合が大きく増加する。

 衛士の予想通り、少年はこくりと首肯した。

 

 「はい。えっと、二等地の『タベールナ』という宿屋でお世話になります」

 「え? あそこなのか」

 

 会話には参加せず、周囲を眺めていた衛士の片割れが声を漏らす。

 顔はヘルムで見えないが、その宿屋を想起して、少なくともネガティブな感情を抱いてはいなさそうだ。

 

 「それは偶然だな。実は、いつもあそこの食堂を使っているんだ」

 「オヤジさんの……料理は勿論だが、酒のチョイスが巧い。……いや、子供に言っても仕方のない話だが」

 「確かに。もしよかったら、案内しようか? 少年……えっと、名前は?」

 

 少年は鞄を置き、頭を下げた。

 

 「フィリップ・カーターです。えっと、お申し出はありがたいのですが、衛士さんの職務を邪魔するわけにはいきませ……まいりません。ですが、お二人のお心遣いは、旦那様にもお伝えします」

 

 少し面食らったように、衛士たちが顔を見合わせる。

 敬語に怪しいところがあるとはいえ、10歳かそこらで身に着けるにしては十分だ。尤も、主に富豪や衛士のような一般人より数段上の人間を相手にする二等地の宿屋であれば、このくらいの教育はされていて当然なのだが。

 

 「本当にしっかりしてるね。俺はジェイコブ、こっちが──」

 「ヨハンだ。あまりきょろきょろしない方がいいぞ。治安は万全と言いたいが、最近は何かと物騒だ」

 

 言って、片割れもヘルムを取って顔を見せる。

 ジェイコブとヨハン。二人に似た雰囲気を感じ取れるが、顔立ちはそう似ている訳でもない。兄弟という風情でもないし、フィリップは気のせいだと思うことにした。

 

 戦闘経験の豊富な兵士や冒険者であれば気付けるのだが、彼らの纏う空気は同じ釜の飯を食い、共に地獄を経験して作り上げられた「戦士の風格」と呼ばれるものだ。

 

 「あまり怖がらせるなよ。でも、宿に着くまでは寄り道はしない方がいいね」

 

 ジェイコブが穏やかに、頭を撫でながら言う。

 金属製の籠手越しではあるが、幸いにも装甲の隙間に髪が引っ掛かるというアクシデントは起こらなかった。

 

 「分かりました。ありがとうございます」

 

 フィリップが鞄の肩ひもをかけ直そうとすると、ヨハンが鞄を持ちあげて補助してくれる。

 

 「ありがとうございます」

 

 フィリップの礼に軽く手を振って応えると、二人はヘルムを被り直し、挨拶を残して去っていった。

 

 さて、と。フィリップも気持ちを入れ替える。

 王都の治安が悪いという話は聞いたことが無いが、その王都の治安を維持する衛士が言った言葉だ。

 

 目的地まではなるべくしっかりと前を向いて、よそ見と寄り道をせずに向かうことにした。

 

 親切な衛士たちと別れたあと、フィリップは地図を見ながら跳ね橋を目指していた。衛士に言われた通り、きょろきょろはしていない。だが地図を睨み付けていては、あまり意味はないだろう。

 

 区画を分ける水路は刻印型の魔術によって常に清潔に保たれており、陽光を受けてきらきらと煌めいている。

 等間隔で8つ設置された水路を渡るための跳ね橋には、衛士たちが常駐し目を光らせている。水路へ落ちた者や、跳ね橋を渡ろうとするあからさまに怪しい者、或いは滑落の危険がある大荷物などへの対応が彼らの仕事だ。

 

 「こんにちは」

 「あぁ、こんにちは」

 

 地図を片手に見上げるように挨拶をすれば、衛士もにこやかに──ヘルム越しではあるが、声で分かる──挨拶を返してくれる。

 彼らが引き留めるのは顔を隠した者や、暗器を携えた者だ。王都に来たばかりらしき少年を特に気にする必要はない。それはフィリップも同じで、特に衛士に憧れていたりとか、或いは彼らの仕事を邪魔する理由があったりはしないので、そのまま跳ね橋を渡る。

 

 綺麗な水路だが、魚がいたりはしないのだろうか。

 気になって水路を覗いてみるが、故郷の街の近くに流れていた川の何倍も綺麗なのか、小魚一匹居なかった。

 

 少しだけ落胆して、フィリップはまた歩き始めた。

 そんな姿を微笑ましそうに見送って、衛士も正面に向き直る。

 

 橋を渡った先の二等地は三等地よりも小綺麗で、道を歩く人の服にも装飾が多かった。

 少し歩いて三叉路に行き当たると、フィリップはまた地図を広げた。王都の構造は聳え立つ王城を中心とした層構造で、区画ごとの移動に迷うことは殆ど無い。しかし、区画の中から一つの建物を探し出すのは、現地の住民でなければ難しい。

 

 地図には一応目的地である宿屋とルートが書かれているが、フィリップが目指しているのは来てくれるという迎えとの合流場所だ。

 

 「えっと……」

 

 その合流地点は、実は既に通り過ぎている。

 地図と実際の街並みの照らし合わせに手間取っていたのが主な原因だろう。

 

 「こっちかな?」

 

 少し細い路地へ、フィリップは躊躇いも無く進んでいく。

 初めて王都にやってくる少年に細い路地を経由するルートを提示する訳は無いので、当然ながら間違いである。

 

 少し進んだときだった。

 

 「ちょっと!」

 

 背後、少し遠くから、少女の甲高い声が届く。

 フィリップは何故か怒りを孕んだような呼びかけに怯みつつ振り返り。

 

 「《スリープ・ミスト》!」

 

 家と家の隙間、人ひとりが何とか入れそうな隙間から伸びた腕。その主が行使した睡眠の魔法を浴びて、膝から崩れ落ちた。

 意識の途絶える寸前、声を掛けたと思しき少女がフードで顔を隠した男に口元を押さえられ、それでも自分へ手を伸ばすのが見えた。



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 美しい。

 

 岩壁を魔術と錬金術で平らに成形しただけの、窓もない灰色の壁が。

 回廊と部屋を分け隔てる、錆び付いた鉄格子が。

 右手と壁を繋ぐ、武骨な鎖と手枷が。

 天井から漏れ滴る水滴、きっと地下水であろう雫が。

 隣で震えて縮こまっている、同年代くらいの少女が。

 

 かすみ、ぼやける視界に映る全てのものが、目を覆いたくなるほど美しい。

 

 現状をおかしいと判断する理性も、見知らぬ大人に拐かされた恐怖も残っている。残っているのに──どうでもよくなるほど、世界の全てが美しい。

 

 何が起こった?

 フィリップは不自然を通り越して不気味なまでの感動に抗いながら、必死に記憶の糸を手繰る。

 

 王都に丁稚奉公に出て来て、奉公先の人との待ち合わせ場所に向かっていて、それで──誰かに魔術を使われて、眠らされた。

 隣の少女は、その時に助けようとしてくれた子だ。

 

 その少女が、自分の隣で眠って──いや、気絶だろうか。とにかく意識を失っていた。

 

 フィリップは即座に誘拐されたのだと思い至る程度には賢く、しかし現状を打破しようと行動できない、思考を巡らせもしない程度には子供だった。

 そして、何より。

 

 (綺麗だ。美しい。おかしい。どうして──全部が美しい)

 

 薬学の知識があれば、それは精神作用を持った希少性の高い薬草を煎じた、一種の麻薬が齎す症状だと分かるだろう。

 

 しかし、フィリップはただ目に映る全てに美麗さを感じ、その胸を打つ感動に疑問を呈することしか出来なかった。この程度の薬効であれば、舌を噛んだり、指を折ったりする程度の肉体的刺激で軽減できるのだが、フィリップは精神作用に対して疑問で──精神作用で抵抗してしまった。

 

 溢れ続ける感涙をそのままに、そっと目を閉じる。

 

 たかだか人間の思考程度で錬金術製の麻薬に抵抗できるはずもなく、フィリップの思考は「美」の一色で埋め尽くされた。

 

 数分の後、少女も微かな身動ぎと共に覚醒した。

 

 「こ、ここは……?」

 「どこかの地下室、たぶん」

 

 目を閉じたまま、なるべく冷静に聞こえるように声を掛ける。地下牢と言わなかったのは、なるべく威圧感を与えないようにだ。

 驚いたように跳び起きて、少女はフィリップから距離を取った。

 

 「あなたは?」

 

 寝起きで頭が回っていないのか、それとも魔法で記憶を消されているのか、単に覚えていないだけか。

 

 「僕はフィリップ・カーター。君と一緒に誘か──ここに連れてこられた」

 

 フィリップの回答は冷静で機械的だが、気遣いも滲ませている。

 努めて少女に恐怖を抱かせないようにという思いが伝わったのか、少女は元居た位置まで戻った。

 

 「フィリップ? あなた、タベールナっていう宿屋を知ってる?」

 「うん。そこで丁稚奉公をすることになってた」

 

 やっぱり、と、少女は少しだけ嬉しそうにしていた。

 

 目を閉じたまま、フィリップは聴覚を遮断できないことを恨んで、感謝した。

 

 なんて、なんて美しい。

 どこからか吹き込んでくる風の音。滴り落ちる水滴の跳ねる音。隣で話している少女の少し甲高い声。身動ぎするたびに手元で擦れる鎖の音。耳を澄ませば微かに聞こえる、より地下から聞こえてくる音楽。自身の呼吸音、鼓動すらも。

 足音がする。隣で少女が動こうとして、手枷に付いた鎖がそれを阻害する。

 

 耳を覆いたくなるほど、音に溺れていたくなるほど、美しい。

 

 「美に溺れているかな、少年」

 

 鼻につく芝居がかった声。少女が嫌悪感を覚えて身動ぎしたのを、美を求めて鋭敏化した感覚が捉える。

 おい、という合図を受けて、二人の人間が地下牢へと入ってくる。鎖が解かれ、フィリップは持ち上げられた。薬か魔術かは不明だが、フィリップの身体の自由は奪われていた。

 

 「ちょっと、何するつもり!」

 

 怒りを孕んだ声。

 少女が飛び出そうとして、やはり鎖に阻害されていた。ギン、と、一度鎖が張ったあと、たわんだ音がしない。本当に全力で男を止めようと──フィリップを守ろうとしているらしい。

 

 その意思と行いこそ美しいと評されるべきだが、フィリップはその鎖の音と、男の鼻につく嘲笑だけを美しいと感じていた。

 

 「そう焦るな、リトルレディ。この少年が駄目なら、次は君が贄になるのだから」

 「贄ですって?」

 「そうとも! 我らが神──時を支配する神、アダマント様への贄になるのだ! 光栄に思うがいい!」

 

 贄。神。アダマント。あぁ、なんと美しい言葉だろうか。

 その言葉が持つ悍ましい意味を理解しながら、薬の効果はその言葉を讃えていた。

 

 叫び続ける少女は無視され、フィリップは担がれたまま階段を降り──やがて祭壇の上に寝かされた。

 

 一定のリズムとメロディーを繰り返す音楽が奏でられ、アダマントという神への讃美歌が紡がれている。2、30人はいるだろうか。

 

 馬車と野盗、カルトには気を付けなさい。そう言って送り出してくれた母親の顔を思い出す。

 悲哀と寂寥が鎌首をもたげ、すぐに美への渇望と感動がそれを塗り潰す。とめどなく流れる涙に、美しさへの感動以外は混ざらない。

 

 「さぁ、時神アダマント様、(しもべ)たる我らの貢物を、どうかお受け取り下さい!」

 

 讃美歌の繰り返しが止まり、メロディーが変化する。

 

 「『門』が開いたら、君はアダマント様を賛美し、その命を捧げるのだ。なに、心配はいらない。薬と──この魔法が全てやってくれる。《ドミネイト》」

 

 身体に不可視の鎖が巻き付いたような感覚がある。

 研究者でも無ければ呪文さえ知らないだろうが、それは王国法では禁呪に指定されている、他人を支配する魔術だった。

 

 フィリップの意志に反して、目蓋が勝手に持ち上がる。首が勝手に空を──祭祀場の装飾華美な天蓋を見上げる。

 

 フィリップの頭上では空間が渦を巻き始め、祭壇の下、地面に描かれた魔法陣が血よりも赤く輝き出した。

 

 

 讃美歌の盛り上がりが最高潮に達し──『門』が現れた。

 

 

 ◇

 

 

 カルト教団『時神の(しもべ)』の不幸は、一体幾つ重なっていたのだろうか。

 

 そもそも真っ当に生きていれば、一神教以外の宗教を信仰することなどないはずだ。大陸に存在する王国、帝国、聖王国の全てが一神教を国教とし、その一神教は公認の分派以外をカルトと呼んで蛇蝎のごとく嫌っている。破門者は国王だろうと生死不問の重罪人として扱われるし、カルト信者は判明した時点で討伐が厳命されている。

 

 そういう意味ではカルトに帰依した時点で人生は不幸のどん底だったはずだが、それでは終わらない。

 

 構成員の誰かが持ち込んだ、時を支配するという神についての文献。これは単なる怪文書というか、その持ち込んだ構成員が面白半分にでっち上げたものだった。

 

 ちょうどその頃、カルトのリーダーはある儀式の知識を得た。『時神の僕』のようなちゃちな地下サークルではなく、()()たちの集会にこっそりと紛れ込み、知り合った狂信者に教わったのだという。

 その儀式は──本当に、時を統べる神との交信を可能とするものだった。

 

 リーダーが発案し、大多数の信者が儀式の実行に賛同した。乗り気でなかった者も、過激派の信者が生贄にするための子供を攫ってきた時点で選択を迫られた。ここで足抜けするか、地獄まで付き合うかの選択を。

 カルトに参加している彼らに、足抜けした後で行く当てなど無かった。

 

 何人かの贄を無駄にした後、王都に不慣れそうな少年を連れてきた。

 これまでの儀式の失敗を反省し、限りなく自由意志と思考を奪った状態で儀式に臨んだ。最大の不幸は──その少年を選んだことだろうか。

 

 いや、違う。その回の儀式をそのタイミングで行い、その少年を贄にして、そして──成功してしまったのが、彼ら最大の不幸だった。

 

 儀式は成功した。

 

 彼らの次元と時を統べる神の居る次元は接続され、その姿が映し出される。

 だが──そもそも、時間を支配する神は『アダマント』などではない。クロノスでもカーリーでもトートでも、一神教の唯一神でもない。

 

 そも、彼らは「神」などという、信仰に依って立つしかない矮小な共同幻想ではない。

 

 彼らを示すのに「神」という言葉を使うのであれば、それは「この上なく偉大で強大なもの」という意味でしかない。

 

 外宇宙より訪れた、偉大なるもの。

 

 彼は人間であり、非人間であり、脊椎動物であり、無脊椎動物であり、動物であり植物だった。

 彼は貴方で、私で、彼で、あれで、これで、あそこで、ここで、過去で、現在で、未来だった。

 

 強大で、巨大で、およそありとあらゆる存在、大きさ、範囲という概念のことごとくを超越するもの。

 

 「ia……」

 

 フィリップの口から声が漏れる。

 それを理解する前に、カルト信者たちの何人かが逃げ出した。

 

 「ia……」

 

 フィリップの言葉が、残った者たちの脳に浸透する。

 聞いたこともないその音が、彼を讃えるものであると理解できた。

 

 「……Yog-Sothoth!!」

 

 残っていた者たちに最早逃走するだけの気力は無く、幾人かがすすり泣く声が聞こえていた。

 

 誘拐されたことによる恐怖。カルトという犯罪者集団への嫌悪。その理解しがたい儀式への拒絶感。

 フィリップが抱いて然るべきすべての感情はいま、「美」への探求と感動に置き換えられている。

 

 何を見ても、何を聞いても美しいと感じてしまう。適切な中和剤を服用するか、薬が自然に抜けるまではこのままだろう。

 

 身体は洗脳魔術の支配下にあり、予め下された「現れたモノを讃えよ」という命令だけを忠実に守っている。

 

 歪んだ空間の向こうでは、一つ一つが太陽のように強烈な光を放つ玉虫色の球体の集積物が蠢いていた。

 ()()とこの地下祭祀場を繋いだ空間のひずみを『門』と表現するのは誤りだと、フィリップは何故かそう思った。

 

 ()()が──絶えず形や大きさを変える虹色の輝く球の集まり、触角を持った粘液状のそれこそが、門であり鍵であると理解できた。

 

 『門』が開く。或いは、彼がその場から退いたのかもしれない。

 彼によって遮られていた、閉ざされていた空間が見える。

 

 そこは玉座のある宮殿だった。

 この世のあらゆる屋敷よりも巨大で、どんな砦よりも堅牢で、どんな城よりも荘厳で、そこには何もなく、全てがあった。

 

 音が居た。無が居た。闇が居た。

 口にするのも悍ましい異形がいた。目を焼くほど美しい異形がいた。光輝く何かが居た。触手を持った何かが居た。

 

 それらはどんな音楽家でも模倣のできない音を奏で、どんな貴婦人でも真似のできない踊りを舞い、玉座を取り囲んでいた。

 

 玉座に坐するは、泡立ち膨張と収縮を繰り返す影。何かを産み落としては自らそれを喰らい、崩壊と再生、創造と破壊を繰り返す。脳が理解を拒否する冒涜的な言葉を吐きながら眠りこける、およそ想像の及ばぬもの。

 

 「ぁ……」

 

 か細い声が漏れる。

 それは液状化して死んだカルト信者の誰かが遺した、今わの際の言葉だった。

 

 どろどろの残骸だけが残った部屋で、それでも魔法の効果に縛られたフィリップは言葉を紡ぐ。ただそこに在るモノを賛美するために。

 

 「ia……」

 

 駄目だ、と思った。

 この世の全てが咽び泣くほど美しいのに、()()は吐き気を催すほど醜悪だった。

 平常時に目にしていたらどうなるかは、カルトたちの結末が物語っている。それを賛美するなど、この世の全てへの冒涜ではないか。

 

 「ia……」

 

 涙に血が混じる。

 美しいこの世界に在って、それでもなお気色の悪い異形の幾つかが、興味深そうにこちらを見ていた。

 嗤うもの。慈しむもの。無関心なもの。心配そうなもの。見下すもの。

 

 胃の内容物が一気に逆流する。昼食すら摂っていなかったフィリップが吐き出したのは、胃液と少量の血だった。

 それをさえ美しいと感じるのに、()()だけはどうしても駄目だ。

 

 嘔吐し、血涙を流してもなお、支配の魔術は残留した魔力だけでフィリップの身体を突き動かす。魔法抵抗力を磨いた者であれば簡単にレジストできる残留思念、魔術の残りカスにさえ、一般人のフィリップでは従うしかなかった。

 

 「──Azathoth!! ia! ia! Azathoth!!」

 



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 空間のひずみの向こう側で、魔王が蠢く。

 

 その触手が意志を持って動くと、取り囲む異形が慄くように身動ぎする。

 

 複数本が絡み合い、崩壊の止まった太い触手が一方向を指向する。

 

 空間どころか時間すら同じではないはずなのに、それが指すのがフィリップ自身であると理解できた。

 

 

 付き従うものたちが一斉にそちらを確認するように動いた。目に該当する器官を持たない異形までもが、みな一様に。

 

 そして人外の知で以て、その冒涜的な呻き声と挙動から在りもしない意図を汲み、平伏した。

 

 無数の触手を持ち、顔のない頭で咆哮する異形が嘲笑を漏らす。それはフィリップと、玉座に眠るものへ向けられたものだ。

 山羊にも似た、人の表情と触手を持ち、その全てに似ていないと思わせる違和感を持った異形が冷笑する。どこか慈悲を湛えたようにも見えるそれは、フィリップへ触手の一本を向けた。

 

 吐き気が収まり、魔法の効果が消える。

 身体の自由を取り戻したフィリップが初めに取った行動は、反射的に祭壇から転がり落ちることだった。

 

 四つん這いになり、在りもしない吐き気を抑えるように荒い息を漏らす。

 薬の効果も消えており、碌に覚えてもいない彼らの姿を思い出すだけで気を失いそうだった。

 

 頭上では空間のひずみが消え、それと同時に周囲に人の気配が生じる。

 

 いや──人ではない。

 極限まで抑え込まれてはいるが、感じる異物感は先ほどの異形と酷似している。この世の全てに唾棄し、冒涜するような気配。

 

 「ふむ、壊れる寸前といったところですか」

 

 嘲りが多分に含まれているのに、穏やかで耳触りの良い声。

 

 うずくまるフィリップの隣に片膝を突き、声の主が顔を覗き込んできた。

 

 「あなた、は……?」

 

 胃酸と過呼吸で喉が荒れたのか、魔法によって発音不可能な名前を無理矢理唱えさせられたからか、フィリップの声はかすれていた。

 血色も悪く、目は落ち窪み、唇はカサカサに荒れている。

 

 「私はNyarlathotep……どうぞ、ナイ神父と呼んでください」

 「ナイアーラトテップ……ナイ神父?」

 

 にっこりと笑う、浅黒い肌に黒髪黒目の青年。その身体は確かに黒いカソックに包まれており、一神教の神父であることを示す十字架が首元で揺れている。

 女性どころか男性でも誘惑されそうな甘いマスクと、その魅力を引き出す笑顔を向けられて。は、と。フィリップの口から失笑が漏れた。

 

 神父? この悍ましく、冒涜的な、神どころか世界そのものに唾棄するような存在が?

 

 血の気が引くような、身体──いや、その奥底、精神から大事な何かが抜け落ちていくような感覚がある。

 その空いた穴を埋めるように、ふつふつと()()()が湧いて来た。

 

 「はは、はははは、あはははははは!」

 

 面白い。あぁ、傑作ではないか。

 神? 世界を創造した、人類に魔法を教えた唯一神? なんだそれは。人類はそんな──信仰に依って立つしかない、矮小なる下等存在を崇めているのか?

 何という蒙昧、滑稽の極みか!

 

 しかし、あぁ、言葉に縛られたヒトの思考が恨めしい。

 強大で、この上なく偉大なるもの。彼らを称するのに相応しい言葉もまた「神」だとは!

 

 「ははは、ははははは!」

 

 嗤い続け、どれだけの時間が経っただろうか。数分かもしれないし、数秒かもしれない。数時間ということは無いだろうが、分からない。

 

 「ナイ神父、これは狂気というものではないの?」

 

 落ち着いた女性の声。すっと脳に染み込むような声と共に、優しく頭頂部に手が置かれた。

 途端に笑いの発作が収まり、冷静さを取り戻した。いや、それだけではない。()()のことを理解している。知り、畏れ、理解しているのに──拒絶感も恐怖も湧いてこない。

 

 「流石は母神。お優しいことですね」

 

 ナイ神父が嘲るが、女性は淡々と答えるだけだ。

 

 「この子の守護は、我らが父王の命令よ? 使徒たる貴方が、それを無視すると?」

 「痴愚の意図なき命令ですよ。……まぁ、どれだけ愚かな命令であれ、従いますが」

 

 フィリップの頭に手を置いているのは、顔を薄いヴェールで隠した妙齢の美女だ。“銀色”としか形容できない月光色の長髪や、白い陶磁器のような肌、豊満な肢体の魅力は、身に纏う漆黒の喪服によっても些かなりとも減じることが無い。

 惜しむらくは──彼女に感じる気配もまた、あの場に居た異形と同じことだ。

 

 「シュブ=ニグラス……」

 

 慌ててその手を払いのけ、立ち上がって距離を取る。

 いつの間にか与えられた智慧が、彼女の強大さを訴え、警鐘を鳴らしていた。

 

 「そう、私はShub-Niggurath。マザーとでも呼んで頂戴? 授けた智慧はきちんと定着しているようね」

 

 にっこりと笑う森の黒山羊。母親(マザー)だか修道女の指導者(マザー)だか知らないが、冗談のような呼び名を指定するものだ。

 フィリップの知識は相変わらず異物感と拒絶感を()()()()()()と主張しているが、最早拒絶感や恐怖を感じることは無かった。

 

 「なんで、こんなところに……」

 

 ナイアーラトテップ。魔王の使徒。千の貌を持ち、この世の全てを嘲り貶す冒涜者。外神最強の一角。

 

 シュブ=ニグラス。千の子孕みし森の黒山羊。無数の眷属を産み落とす豊穣神。地属性の最高位神格にして、外神最強の一角。

 

 罷り間違ってもこんな小さな辺境の星に同時に顕現していい神格では無かった。

 

 神父が略式の礼を取り、喪服の貴婦人がカーテシーをする。

 

 「我が父王の命に従い、君を守護しよう。白痴の魔王が寵児よ」

 「お爺様の気まぐれだけど、安心して。あなたには外神すべての加護と寵愛が約束されているわ」

 

 ふっと、目の前が真っ暗になった。

 与えられた知識にある外神の名前が意識に浮かんでは消えていく。かつて旧支配者を産み落とし、旧神を駆逐せんとした外なる神。信仰に依らない確立した存在である彼らは、「神という生物」という表現が最も近しい。

 

 それが──守護? 自分を?

 

 まるで意味が分からなかった。

 いっそ発狂できたらいいのに、と。フィリップは自分から狂気を奪った魔女を果敢にも睨み付け。

 

 「どうしたの?」

 「……いえ、何でもありません」

 

 返された微笑から目を逸らした。

 フィリップがこれまで見た中で、という狭い範囲でも。そして、全人類の中でという広い範囲でも、マザーの容姿は()()()と頭に付けても間違いにならないほど、一番に美しかった。

 

 普通なら、その美貌は異性を強烈に魅了する。フィリップのような10歳の、未だ性を知らない子供でさえも。

 しかし残念ながら、或いは幸運にも、フィリップは彼女の本性を知っている。彼女が外見通りの綺麗で優しげなお姉さんなどではなく、人間に、人間社会に、この星に、宇宙の全てに、何ら価値を見出さない邪神であると知っている。

 

 知っている。

 ナイアーラトテップ。シュブ=ニグラス。その他無数の、この世界の外側に犇めく強大無比な邪神、外なる神々の名を、性質を、本性を、在り方を。

 

 知っている。

 クトゥルフ。ハスター。かつて外なる神々と全宇宙を巻き込んだ大戦争を繰り広げ、敗北した劣等種。旧支配者たちの名を、性質を、弱さを。

 

 知っている。

 ノーデンス。クタニド。旧支配者と地球の支配者の座を巡って争った、この星に古くから在る神々。旧神たちの名を、性質を、弱さを。

 

 知っている。

 彼らの強大さを。人間も、人間社会も、築き上げた歴史や文明も、この星も、虫でも払うような気軽さで滅ぼすことが出来る彼らのことを。

 

 知っている。

 彼らと比した、人間の脆さを。弱さを。

 

 知っている。

 この世界の真実を。この、泡沫の世界の、夢の世界の姿を。最も強大で最も悍ましい、盲目白痴の魔王が夢見る、この世界の儚さを。この世界が、人も、星も、旧神も、旧支配者も、外なる神々でさえも、一個存在の夢でしかないことを。

 

 果たしてそんな世界に、一個存在の一挙動で文字通り夢と消えてしまう泡沫の世界に、価値があるのだろうか。

 

 知っている。知っているのに。知っているだけで脳の芯まで狂気に沈んでしまうような、狂気に落ちることこそが救済であると叫びたくなるような知識があるのに。狂うことができないでいる。

 

 

 地下祭祀場でフィリップの前に立つ二人の──否、二柱の外神。

 千なる無貌ナイアーラトテップと、豊穣神シュブ=ニグラス。彼らの自己紹介に則るのなら、ナイ神父とマザー。

 

 嘲笑と冷笑が混じった微笑を向けられて、しかし、フィリップの心にはさざ波一つ立つことが無かった。

 

 知識はある。外なる神たる彼らの強大さも悍ましさも知っている。知識は畏れよと叫んでいる。

 だがそれだけだ。フィリップの瞳孔、汗腺、筋肉、恐怖を反映して反応するあらゆる器官は、平常通りに機能している。収縮することも、冷や汗を流すことも、震えだすこともない。

 

 それに、自分でも驚くほど自分のことをよく理解できている。客観視にも近いほどの冷静さがある。

 

 「貴女の仕業ですね、シュブ=ニグラス」

 

 フィリップが恨めし気な視線を向けると、ヴェール越しに優し気な微笑が向けられる。

 

 「えぇ、その通り。一々怖がられては面倒ですもの。幼年期はおしまい。……それと」

 

 幼い頃からよく躾けられ、また周囲の大人にも恵まれていたフィリップでさえ舌打ちしそうになるほどあっさりと返す。しかし、言葉の最後でマザーは言葉を切り、微笑に含まれる冷笑の度合いを強めた。

 

 「みだりに名を呼ぶものではないわ。ヒトにとって、それは耐え難いほどの猛毒でしょうから」

 

 フィリップは今度こそ舌打ちを漏らした。

 名前を知るだけで精神を汚染する可能性があるとはどんな冗談だと言いたいが、彼女たちがそれだけの存在であり、そしてその懸念は正しいと、与えられた知識がそう確信している。

 

 「分かりました……マザー」

 

 この場のように自分しかいないのであれば、問題にはならないだろう。しかし、呼び名や態度と言うものは癖になりやすい。大勢の居るところでポロっと名前を呼んでしまえば、後に待つのは。

 理解して身震いしたフィリップに、マザーは優しく微笑んだ。

 

 「はい、良い子ね」

 「おままごとは堪能されましたか? そろそろ、このじめじめした場所を出たいのですが」

 

 ナイ神父が慇懃に、しかし嘲笑を隠さずにそう提案する。

 全くの無意味と知りつつ、フィリップは言い返した。

 

 「ナイ神父はお好きでは? こういう鬱屈としたところ」

 「えぇ。ヒト風情が神と交信しようとする様も、気紛れにヒト風情と戯れる邪神も、どちらも滑稽で面白いです。ですが──」

 

 ぱしゃり、と、黒い革靴の爪先で、元は人間だった液体を弄ぶ。

 

 「こんな汚らしいものが散乱した場所は、魔王の寵児には相応しくないでしょう」

 

 意外な反応にフィリップが目をぱちくりすると、マザーが困ったような微笑を浮かべた。

 

 「よく分からないでしょう? お爺様への忠誠心はあるのだけど、同時に見下してもいるの。お爺様の寵愛を受ける貴方にも、似たような感じなんでしょうね」

 

 知識としては与えられているし、理解もしている。

 しかしいざ目の前にして「あ、こういうことか」という一段階を踏むまで、知識は知識でしか無かった。

 

 「まぁ、出ようという意見には賛成よ。行きましょう、えっと……そういえば、名前を聞いていなかったわね」

 

 外なる神が人間ごときの一個体の名を訊ねた。その事実が可笑しくて、フィリップはくすりと笑いを漏らした。

 ごく自然に「人間如き」という思考をしていることには気付かないまま。

 

 「フィリップ・カーターです。どうかよろしく」



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 12歳の少女、モニカ・カントールは宿屋の看板娘だ。

 母アガタは従業員を統括する女将、父セルジオは料理長として客に出す酒を自ら選定して仕入れている。

 

 そんな二人の娘として生まれ、二等地に構えた宿屋を継ぐ次代の女将として、従業員の使い方や経営について学んできた。

 二人はモニカに最高の教育を用意したかったが、魔術の才は無く、王国最高の学校である魔術学院への入学許可は下りなかった。ならば仕方ないと、二人は自分たちに出来る限りの環境を用意した。

 

 衛士団との提携も、そのうちの一つだ。

 

 王都の衛士は全員が軍学校か魔術学院の成績上位卒業生か、元Aランクの冒険者──最高位たるSランクの一つ下、成績と人間性を評価された者だけが至る領域にいた者たちだ。それらの極めて厳しい入団条件に加え、3年以上の実戦経験が要求される。

 戦士や魔術師として、そして人間として高度に完成され、さまざまな経験を重ねてきた彼らと積極的に接することは、モニカにとって良いことだと考えたのだ。実際、彼らはモニカを妹のように可愛がり、モニカも彼らを兄のように慕っている。

 

 しかし、彼らが用意できないものもある。

 それは『関係性』そのものだ。

 

 衛士団との提携で得られたのは接点だけであり、彼らの人徳がモニカと友好的な関係性を築いたのだ。

 

 では、同年代の、それも異性であればどうか。丁稚──部下として用意した少年を、モニカは友達として受け入れるのか、それとも単なる使用人として遠ざけるのか。

 母アガタはどうせなら前者であって欲しいと願いながら、息子の奉公先を探している友人に声を掛けた。

 

 両親から少し年下の少年が丁稚に来ることを聞くと、モニカは弟が出来るように思えて嬉しかった。

 

 名前を聞き、容姿を聞き、性格を聞き、好きな食べ物やら好きな色やら、両親が知らないようなことまで聞いて困らせるほど期待していた。弟分が王都に来る日の前日は興奮のあまり夜中過ぎまで眠れないほどだった。

 

 当日はいつもより1時間も早起きして、仕事を手早く──両親が苦笑するほど──終わらせ、迎えには自分が行くと言った。

 元よりそのつもりだった二人は、どこか諦めたようにモニカを見送った。

 

 到着予定はおやつごろだったが、待ち合わせ場所に着いたのは昼過ぎだった。

 折角だし、と、モニカはいつもの寄り道コースを巡ることにした。

 

 「お、モニカちゃん。こんにちは。また寄り道かい?」

 「こんにちは、おばさま!」

 

 ふらりと入った服屋で、店長の老婦人がにこやかに話しかけてくる。

 

 モニカには少し早い大人向けの、特にフォーマルなドレスや礼服を扱う、質の良さと品ぞろえの良さで二等地でも名の知れた店だ。いつもの寄り道コースのスタート地点であり、一番時間をかける場所でもある。

 季節に応じて飾られている服の生地やデザインが一新され、気に入ったものがあったら手に取ってみる──残念ながらモニカに合うサイズはないので、試着は出来ない──だけでも相当な時間が過ぎていく。

 

 頭部のない真っ白なマネキンは不気味だが、ドレスで着飾ると途端に美しく見えてくるのが不思議だ。貴婦人然とした澄まし顔まで見えそうで、ポージングや配置のレイアウトが如何に優れたものかが伺える。

 

 「おばさま、これ着けていい?」

 

 アクセサリー類はモニカでも着けられるが、そういった小物類は窃盗の被害に遭いやすく、店によっては試着を制限している場合もある。

 この店は常連に限って試着を許可しており、モニカは何も買わないが下手な常連より店主と仲がいい。一言断ってからであれば、と、老婦人に許されていた。

 

 「いいよ。鏡を出してあげようね」

 「ありがとう!」

 

 小さな宝石のあしらわれた髪飾りを着けてみる。

 うん、これは。

 

 「モニカちゃんには少し大きいね」

 「そうみたい……」

 

 頭に重みを感じるほどで、いろいろと我慢しなければいけない「大人のおしゃれ」という感じだ。

 知識として知ってはいるが、それを受け入れられるほど、そして受け入れなければならないほど、モニカは大人では無かった。

 

 「こっちのはどうかね?」

 「それもかわいい!」

 

 

 

 と、そんなことをしているうちに、ふと店の壁に掛かった時計が目に入った。

 機械時計は高価で、二等地の店でも数軒しか時計は置いていない。

 

 いまが3時前だから、えっと。

 

 「遅刻寸前じゃない! おばさま、ありがとう! またね!」

 

 サボって来ている時にもこういうことがあるのか、老婦人は慣れた様子で手を振って見送った。

 

 待ち合わせ場所に着いたのはギリギリの時間だったが、周りにそれらしき子供はいない。

 両親に何度も尋ねた容姿、年齢を想起するが、やはり付近に該当する子供はいなさそうだった。

 

 こういう時は取り敢えず待っておくのがセオリーだが、待ち合わせというものを初めて経験する上に遅刻寸前だったモニカは、既にここを通った後だと思い、家までの道を戻り出した。

 

 幸いにも──或いは不幸にも、待ち合わせ相手の少年も、土地勘の無さゆえにそこを通り過ぎていた。

 

 少し走ると、地図を持ってふらふらしている少年が見えた。

 

 金髪の少年など王国では珍しくもないが、明らかに王都に不慣れな金髪で少し年下の少年となれば、きっと確定だろう。

 モニカは追いつけたことに安堵して──ふらふらと脇道に吸い込まれていく少年を見て硬直した。

 

 そっちは近道でも何でもない、しかも暗い路地だ。

 

 「ちょっと!」

 

 慌てて呼び止めると、びくりと震えた少年が振り返り──横合いから伸びた手が魔術を使い、少年を眠らせた。

 

 「ひ──むぐっ!?」

 

 発作的に叫ぼうとしたが、背後から口を押えられ、拘束される。

 出来る限り暴れたが、大人の腕力に敵うはずもない。そのまま少年を眠らせたのと同じ魔術師に魔法をかけられ、意識を奪われてしまった。

 

 モニカが目覚めた時、腕は手枷と鎖で壁に繋がれ、地下牢のような場所に閉じ込められていた。

 

 「こ、ここは……?」

 

 あれから何時間が経過しているのかは分からないが、モニカの主観にしてみれば、口を押えられて魔術をかけられた──誘拐されたのはついさっきだ。

 声が震えるのを抑えきれず、それでも誰かが答えてくれるのではないかという淡い期待を抱いていた。

 

 「どこかの地下室、たぶん」

 

 落ち着いた声。

 弾かれたように顔を上げると、さっき見た少年がモニカと同じように拘束されていた。

 静かに伏せられた顔からは雫が零れており、見えない表情を容易に想像させる。

 

 「あなたは?」

 「僕はフィリップ・カーター。君と一緒に誘か──ここに連れてこられた」

 

 誘拐、という直接的な言葉を避けたのは現実逃避だろう。

 同情と、フィリップという名前に興味を引かれ、モニカは一歩分だけ距離を詰めた。

 

 「あなた、タベールナっていう宿屋を知ってる?」

 

 尋ねれば是と返され、やはり、奉公に来たという。

 予想が的中したということと、待ち望んでいた弟分に会えたということで嬉しかったが、現状を思い出せばすぐにその歓喜も萎んだ。

 

 何か話してフィリップの涙を止めようと──そして自分の恐怖を紛らわせようと口を開くが、言葉より先に靴音が響いた。

 

 誰か来た。

 咄嗟にフィリップの前に動こうとするが、手首の鎖がそれを阻害する。

 

 やってきた男が何か喋っているが、意味不明だ。

 男は一方的に喋るだけ喋ると、連れていた部下に命じてフィリップを連れ出そうとした。

 

 止めようとしたが、鎖は固く、手枷が食い込むばかりだった。

 

 「そう焦るな、リトルレディ。この少年が駄目なら、次は君が贄になるのだから」

 

 男の話し方は芝居がかっているというか、自分に酔っている感じが生理的に気持ち悪かった。

 しかし、そんな態度よりも聞き捨てならない言葉があった。

 

 「贄ですって?」

 

 言葉の正確な定義なんて知る由もないが、無事に帰っては来られないだろう。

 そんな目に遭わせてたまるかと抵抗するが、強固な鎖はびくりともしない。

 

 「そうとも! 我らが神──時を支配する神、アダマント様への贄になるのだ! 光栄に思うがいい!」

 

 諦めたように目を閉じたまま、涙を流し続けるフィリップ。

 喉よ張り裂けろと言わんばかりに叫ぶが、男たちは見向きもしない。叫ぶのを止めようともしないのは、それだけ防音性が高いのか。どれだけ叫ぼうと、助けは来ないのか。

 

 その絶望と叫び続けた酸欠で、気付けばモニカの意識は途絶えていた。

 

 

 

 

  こつ、と。硬い石の床が靴音を伝える。

 地下室から複数の人間が階段を上ってきているようだ。

 失神していたと自覚したモニカは、飛び起きると鉄格子に駆け寄り──手枷によってそれを阻まれる。

 

 「フィリップは!? ねぇ、あの子はどうしたの!? 無事なんでしょうね!?」

 

 靴音は……3つ。

 先ほど地下牢から去っていったカルトは3人。ならば、フィリップは──?

 

 「フィリップ!! ねぇ、ねぇってば!!」

 

 浮かんでしまった考えを振り払うように、痛む喉を酷使して叫ぶ。

 自分の声で聴覚の殆どを埋め尽くしていたが、それほどに渇望していた声は、確かに音の空隙を縫ってモニカに届いた。

 

 「──あの子も助けないと」

 

 フィリップの声だ。

 無事を確信して安堵の息を吐こうとして、吐くだけの息が残っていないことに気付く。

 

 慌てて息を吸うと、喉の痛みを思い出したように咳き込んだ。

 

 ぱたぱたと軽い足音が早くなる。硬質で重い大人らしき足音は、見守るようにゆっくりと付いて来る。

 カルトでは無さそうだが、それよりも。

 

 「大丈夫?」

 「フィリップ!! 良かった、無事……で……」

 

 モニカを鉄格子越しに、心配そうに見つめるフィリップ。

 地下牢の扉を開けようとして鍵が無いことに気付き、途方に暮れるのは可笑しかったが、笑いの衝動は湧き上がってこなかった。

 

 目を閉じてひたすらに泣いていた時と違い、心配そうな顔や呆然とした顔、ころころと表情が変わるのは可愛らしいと──2歳しか違わないが──思える。

 しかし、その瞳には絶望にも似た何かが宿っていた。

 

 恐怖ではない。嫌悪や怒りとも違う。絶望に似ているが──諦め、だろうか。

 この世の全てが劇作家の描いた台本に従う喜劇だった、と告げられれば、あんな顔をするのではないか。

 

 そんな推察を、モニカは首を振って追い払った。

 ただ犯罪者に誘拐されて怖かったのだろうと、そう自分に言い聞かせていると、二つの靴音が追い付く。

 

 「鍵ならここですよ」

 「あぁ、うん……」

 

 歯切れの悪い返事をしたフィリップ。モニカは少し不思議だった。

 お礼を言わない礼儀知らずな少年には見えなかったのだが、もしかしてお礼を言いたくないような相手──あのカルトの仲間かと思い、声の主を見て。

 

 「君が、彼の言っていた女の子ですか」

 

 この世のものとは思えない美貌の神父に目を奪われ、恐怖や疑問の全てが吹っ飛んだ。



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 フィリップと別れた後、ジェイコブとヨハンの二人は大通りの巡回を続けていた。

 魔術や錬金術の発達した王都とは言え三等地。平民の暮らす区画ともなれば、住民同士の争いで攻撃魔術が飛び交うようなことはない。高度な戦闘訓練を受けた衛士ではなく、住民の有志で結成された自警団に任せておけばいい。

 

 しかし今は、衛士団を束ねる団長を始め、構成員のほぼ全員がそう思っていなかった。

 

 「またカルト絡みか。2年ぶりだな」

 「今度は何処の、何て奴らなのかね」

 

 カルト、と一口に言っても、その数は未知数だ。

 大陸全土で信仰されている『一神教』は、世界を創造し、人間を作り、魔法を教えたという唯一神を信仰するもの。正統派と呼ばれる母体と、それに認可された分派が存在し、それ以外の全ての宗教を『カルト』と呼び嫌っている。同じ神を信仰していようと、魔王を信仰する魔族たちであろうと、はたまた辺境の村にありがちな土着信仰であろうと、非認可のそれらは全て『カルト』だ。

 

 「前回は魔王を信仰する『魔王教団』だったか?」

 「魔王は100年前に勇者に倒されたっていうのに、よく分からん連中だったよな」

 

 数日前、衛士団の全体招集で、団長が言っていたことを思い出す。

 

 ──ここ数日、三等地で平民の子供が失踪したとの通報が立て続けに挙がっている。この頻度は異常だが、覚えがある者もいるだろう。

 

 ──カルトのいかがわしい儀式、その贄にされている可能性がある。

 

 ──前回の魔王教団は壊滅させたが、その残党か、或いは全く別のカルトかもしれん。

 

 ──各自、そのことを念頭に置き、巡回するように。

 

 「まぁ、カルトってのは……ヨハン?」

 「あぁ。俺たちを見て顔を隠したな。素人が」

 

 二人の視線に気付いたのか、一人の男が路地裏へと駆け込む。

 フード付きのマントは旅装として一般的だが、鎧姿の二人を見て慌ててフードを被ったのは失敗だろう。「顔を見られたくないことをしています」と自白しているようなものだ。

 

 「待て!」

 

 軽装の男と違い、二人は全身鎧だ。足を止めての斬り合いや馬上戦では有利な重装だが、走るのには向いていない。狭い路地裏に逃げ込んでしまえば、軽装の男に分がある。

 そう考えていたのだろうが。

 

 「……なっ!?」

 

 ほんの数十秒で距離が埋まる。

 

 男が慌てたように短剣を取り出すが、構える間もなくヨハンの拳がそれを吹き飛ばす。

 ヨセフは男の頭部を掴み、走ってきたスピードに男自身と鎧の重量を乗せ──全身を壁に叩き付けた。

 

 「ぐぇ!?」

 

 蛙が潰れたような声を上げ、男が撃沈する。

 錬金術によって成形された住宅の壁はびくともしなかったが、その分、衝撃は男に集中したのだろう。当分、起きる気配はなさそうだった。

 少し遅れて追い付いたジェイコブが苦笑交じりに男の腕を縛り上げる。

 

 「また怒られるぞ、ヨハン」

 「殺しちゃいないんだ。こいつからは感謝されるさ」

 

 

 男は連行され、尋問官による取り調べを受けた。

 結果──

 

 「女衒、ですか」

 「えぇ。奴隷商人なんかに売りつけるために、女子供を誘拐する犯罪者ですね。グループで動いてるらしいので、今日中に拠点の位置と、これまでに攫った子供の詳細を聞き出しておきます」

 

 言って、錬金術による自白剤も、洗脳魔法による支配も使わず、極めてクリーンな()()を行うと評判の尋問官は、にっこりと微笑した。

 顔や服──ではなく、何故かその上に着ているエプロンに赤茶色の染みが付いており、非常に怖かった。

 

 その笑顔の圧力に押されるように、二人は拘置所を出た。

 

 日も傾いでおり、夜闇が夕焼けを塗り潰し始めていた。

 

 「元、異端審問官なんだっけか。あの人」

 「二つ名持ちのな。……毎度思うけど、二つ名持ちの尋問官って冗談みたいだよな」

 「確かに」

 

 二つ名は、自分で勝手に名乗っても定着するものでは無い。むしろ、自信過剰な愚か者として嘲笑されることだろう。

 だが逆に、冒険者ギルドや国から正式に二つ名──称号を与えられるということは、その他大勢とは一線を画す存在であることの証明になる。二つ名持ちは希少且つ、強力であると、大陸の国家全てが共通の認識を持っているのだから。

 

 具体例を挙げるなら、魔王の復活に呼応して現れるという『勇者』や、王国最強であることを示す衛士団長が受け継ぐ『(つわもの)』、帝国のSランク冒険者が戴く『自由の先導者』など。錚々たる面々が、二つ名持ちの栄誉を賜っている。

 

 ならば、ただ尋問技術のみでその領域に至った彼は一体。

 

 「……飯にするか」

 「そ、そうだな」

 

 二人は顔を見合わせ、話題を変えることにした。

 歩き出し、向かう先は普段二人が使っている宿屋だ。

 

 「そ、そういえば、あの少年──フィリップ君がいるんだったか」

 「あぁ、そうだったな。迷わず着けたといいんだが」

 

 衛士団が提携している幾つかの宿屋は、所属団員の宿泊・食事の料金が割引される。正確には不足分を国が補填して支払っているのだが、衛士たちには「他より安い」ことが重要だった。

 二等地にある宿屋『タベールナ』も、その中の一つだ。主人兼料理長の酒選びのセンスが抜群なことから、一部の衛士に人気がある。

 

 「あ、女将さん」

 

 入口の前に見慣れた顔が立っており、ジェイコブが片手を挙げて挨拶する。ヨハンはヘルムを取り、黙って一礼した。

 

 「お帰り。ジェイコブ、入るときはヘルムを取りなよ」

 「おっと」

 

 随分と近い距離感だが、女将本人の気質と、二人が5年以上ここを拠点にしているということもある。

 第二の母親、第二の実家のような愛着があるし、女将自身も息子のように世話を焼いてくれる。それを鬱陶しいと思わせない加減と気質が、この宿が繁盛しているもう一つの理由だろう。

 

 「フィリップ君は無事に着けましたか?」

 

 言われた通りヘルムを取ったジェイコブが尋ねると、女将は驚いた。

 衛士たちだけでなく、従業員以外の誰にも丁稚奉公が来るとは言っていなかったし、その子供の名前を教えていなかったからだ。名前を知っているのは──

 

 「セルジオかモニカから聞いたのかい?」

 

 夫か、娘か。

 宿屋の看板娘として働いているモニカは、衛士たちから妹のように可愛がられている。まだ12歳だが、接客だけでなく人を上手く使う才の片鱗も見せており、親として期待できる自慢の娘だった。

 だが、今は──

 

 「いえ、ここに来たばかりの本人に会ったんですよ。三等地の門前通りで」

 「何だって? それで、その後は?」

 「え? ここで丁稚をって……何かあったんですか?」

 

 尋ねられ、女将は慌てつつも要点を押さえて話し始めた。

 

 曰く。モニカは奉公に来るという少年を迎えに行くと言って三等地まで出掛けていったが、何時間経っても帰ってこない。買い物帰りにサボって遊んで帰ってくることもあるため、今日くらいは少し遅くなっても仕方ないと思っていた。しかし昼過ぎに家を出たというのに、日没にも帰ってこないのは少し遅すぎる。もうしばらく待って帰ってこなければ、衛士団に捜索を願い出ようと思っていた。

 

 ジェイコブとヨハンは顔を見合わせ、努めて明るく女将に笑いかけた。

 

 「なら、同僚に声を掛けて、俺たちも探してみます」

 「モニカちゃんも同年代の子と遊ぶのは初めてでしょう? 羽目を外すこともありますよ。帰ってきても、あまり怒らないであげてください」

 

 長い付き合いの二人を信用したのか、或いは食堂から聞こえてくる忙しそうな従業員の悲鳴に限界だと察したのか、女将は礼を言って引っ込んだ。

 

 二人はもう一度顔を見合わせ──来た道を全力で駆け戻った。

 

 「『悪魔の瞳』は?」

 「はい?」

 

 拘置所入口の扉を開け放つや否やジェイコブが発した問いに、声を掛けられた衛士が素っ頓狂な声を上げる。

 予想外の事態にも的確に対応できるよう訓練された衛士の思考回路は、さまざまな疑問を横に置いて記憶の走査を開始した。

 

 数秒とせず、ジェイコブは答えを得た。

 

 「さっき、シャワー室に──」

 「感謝する!」

 

 言うだけ言って、ジェイコブは駆け出した。

 えぇ……と、困惑の声を漏らす衛士の肩を叩き、ヨハンも後を追う。

 

 シャワー室の扉を開けると、脱衣所に全裸の探し人がいた。

 他にも数人の衛士が腰にタオルを巻いただけだったり、或いはブツをぷらぷらさせたまま困惑の視線を向けている。

 

 半裸か全裸の集団の中に全身鎧の二人がいれば目立つことこの上ないが、集まった視線を利用して目当ての顔を見つけると早足で近付く。

 

 「どうしました? というか、汗臭いですよ」

 

 細身の裸体と股間のブツを堂々と晒しながら、尋問官は微笑した。

 

 「いや、話す前にパンツぐらい履けよ」

 「てかアンタこそ鉄臭い……いや、生臭いぞ」

 「ここの洗濯カゴにエプロンとか入れるなよ、当番が可哀そうだから」

 

 周囲からの突っ込みを深い微笑を向けて黙らせると、『悪魔の瞳』の二つ名を持つ尋問官、クワイリーは二人に向き直った。

 

 「それで?」

 「いや、パンツ……まぁいい。例の女衒の本拠地は聞き出せたか?」

 「勿論ですよ。彼の所属する組織は奴隷商会ラグダーの調達部門。王都での活動拠点は三等地の倉庫。仲間の総数は彼が把握しているだけで4人。警備は最低6人。商会側の商品回収担当者が来るのは1週間後。現在の収穫は1。今日明日でもう1人がノルマだそうです。他に何か? 彼の家族構成や歴代の恋人の名前、童貞を捨てた相手とプレイ内容から最後に寝小便を漏らした年まで、何でも知っていますよ」

 

 立て板に水、というか、血でも流したのかと思うほど流暢に、楽しそうに、しかしどろりとした圧を纏うクワイリー。

 仕事の成果を誇るように微笑む彼に、ヨハンがたじろぎつつも問いかける。

 

 「収穫1というのは本当か? 今日、子供が二人失踪している」

 「本当ですよ。まぁ、彼の仲間が攫った分は彼も知らないでしょうが、倉庫に置かれている商品は1つだそうです」

 

 疑うのが仕事の尋問官にしては、犯罪者の証言を鵜呑みにするものだ。

 即答したクワイリーにそう思った二人の表情を見て、クワイリーは軽く笑った。

 

 「はは、まぁ、それが一般的な思考でしょうね。ですが……思考は嘘を吐きます。痛みもそうです。しかし、恐怖だけは嘘を吐きません」

 

 どう考えても快活に、爽やかな笑みを浮かべながら言う台詞ではない。

 

 二人はさっと思考を巡らせて、証言の真偽を確認する手っ取り早い方法を選ぶことにした。

 

 「その倉庫の場所を教えてくれ。それから、捜索願の提出を頼む」

 

 焦った様子の二人に肩を竦めて、クワイリーは軽く応じた。

 

 「地図を書かせてあります、お渡ししましょう。それと、失踪したという子供の情報を」

 

 

 ◇

 

 

 奴隷商会ラグダーの調達部門王都拠点が襲撃されたのは、仲間の一人が捕縛されたその日の夜だった。

 女衒──奴隷として価値の高い者を見極める観察眼を持った調達担当者は4人。捕縛された者にしてみれば同僚に当たる彼らの数は正確だったが、警備は外注で、その正確な数までは分かっていない。クワイリーが聞き出した6人という数字も、覚えている顔が6つというだけで、実際にはもっと多い可能性がある。

 

 「いつものことだが、団長は俺たちを超人か何かだと思ってるよな」

 「というより、自分と同レベルを期待してるんだろ」

 

 対して、倉庫を取り囲む衛士の数は5人。

 予想される敵の最低数の半分しかいない。本当はもう少し大勢で行くつもりだったのだが、部隊を編成している時に衛士団長がふらりと現れてこう言った。

 

 「お前ら、奴隷商人相手に何をビビってるんだ? それより、尋問の結果が真実である場合のことを考えて、捜索隊に人員を割け」

 

 上司に命じられれば、組織の一員としては従うほかない。

 5人? 5人か……少し多いんじゃないか? と言い募る団長を説得し、団長も含めた他の手の空いている者が総出で失踪者二名の捜索をしている。

 

 ここ数日、衛士団は夜な夜な失踪者の捜索をしていた。昼間は住民トラブルに、夜間はより質の悪い犯罪者に警戒しながらパトロールしている彼らの休息時間を削り、総出で、だ。

 

 それでも失踪者が見つかっていない現状では、捜索隊の数は出来る限り減らしたくない。尋問官が「収穫1」という情報を聞き出しているとなれば、尚更その奴隷商会以外の関与を疑うべきである、と。

 

 確かにその通りではあるが、確実に一対多の戦闘になるのはどうなのか。

 

 「団長、絶対こっちに来るつもりだったよな」

 「あの人脳筋だから、捜索とか向いてないしな……」

 

 相手の総数は不確実だが、それでも衛士たちよりは多い。多数の敵が立てこもる拠点を寡兵で包囲しているという状況にあって、衛士たちは笑いながら会話する余裕まであった。

 

 「いやー……捕縛にも向いてないんじゃないか?」

 「あぁ。あの人、前に宰相閣下にお叱りを受けたとき、「奴らは敵ではないですか! 敵を殺すのに理由など不要であります!」って反論したらしいぞ」

 

 その言葉に何人かが噴出し、残りも苦笑いを浮かべている。

 

 「なら、こいつらも人質以外は30秒で皆殺しにされてたな」

 「あり得るな。まぁでも、俺らは真面目に仕事をするぞ。……30秒で、全員捕縛する」

 

 衛士たちが抜剣する。

 その後、彼らは一人も被弾することなく、予想の倍以上いた犯罪者25名を適度に痛めつけた上で捕縛した。所要時間は36秒、見つかった子供は一人だけだった。

 

 「だから、言ったでしょう?」

 

 自分の聞き出した情報に絶対の自信を持っていたクワイリーは、衛士たちの報告にそう返した。

 

 「いや、信じて無かった訳じゃないんですが……とにかく、自分たちも捜索に加わりますね」

 「戦闘直後にですか? 少し休憩しては?」

 「あんなの、衛士なら準備運動にもならないですよ。というか、尋問官殿だって、これから25人分は仕事ですよ?」

 

 衛士がそう言うと、クワイリーは何故か不思議そうな顔で首を傾げた。

 おかしな反応に衛士も首を傾げるが、クワイリーはすぐにあぁ、と納得して手を打った。

 

 「さっき捕縛した25人のことですね。実際に尋問するのは3、4人ですから、そう負担にもなりませんよ」

 「そうなんですか?」

 「えぇ。残りは──おや?」

 

 詰所の扉が開き、疲れ果てた様子の衛士たちがぞろぞろと帰ってくる。

 ヘルムを取った者の顔を見れば、成果が芳しくないことはすぐに分かった。

 

 「駄目だったんですかね」

 「えぇ。死体が見つかったのでしょう」

 

 いつもならまだ捜索している時間だが、それを切り上げて帰ってきたということは、そういうことだろう。

 落胆している者の中でも冷静な者が、カウンターから失踪届のファイルを取り出す。一枚めくっては「死亡確認」の判を押し、必要事項とサインを入れていく。しかし、最新の二枚には触れていなかった。

 

 自分で書いた書類を思い出し、クワイリーは手続きをしている衛士に近付いた。

 

 「フィリップ少年とモニカ嬢は、見つからなかったのですか?」

 「あぁ。ジェイコブとヨハンと、あと団長も、まだ探してるが……」

 

 衛士は言葉を切り、首を振ってその先を示した。

 見つかったという死体が余程酷い状態だったのだろう。歴戦の衛士たちの中にも座り込み、顔を青くして俯いている者もいる。

 

 「それから、カルトの集会場らしき地下室を見つけた。明日はそこの検分だな」

 

 クワイリーはその言い方に引っかかりを覚えた。

 

 「集会場と……子供たちの死体だけですか? カルト信者は?」

 「見つからなかったらしい。恐らく、儀式が失敗したか何かで破棄した拠点なんだろう」

 

 『悪魔の瞳』の二つ名を持つ尋問官、クワイリーは落胆のため息を漏らした。

 



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 地下室から地上へと続く螺旋階段を昇りながら、邪神たちはフィリップにあれこれ話しかけていた。

 それは魔王の寵児という記号ではなく、フィリップという一個人への興味が湧いたということなのだが、フィリップにしてみればあまり嬉しいことでは無い。

 格言にもある通り。触らぬ神に祟りなしだ。

 

 まぁ、もう遅いのだが。

 

 「そういえば、貴方は私たちを敬う気持ちなんて持ち合わせていないのに、どうして遜って話すのかしら?」

 「癖みたいなものですよ。実家が宿屋なので、常に丁寧に話すよう教えられていましたから」

 

 遠回しに「敬え」と言われたわけでは無いだろう。

 彼らにとって人間は羽虫も同然。不愉快なら殺せばいいだけの話だ。魔王の寵児と彼らは言っているが、要はお気に入りのモルモットの世話をしろと、そういうことだろう。白痴の魔王の命令に、意図などありはしないだろうが。

 

 「宿屋? これからそこに帰るのよね?」

 「いえ、王都には奉公で来ているので……あ、荷物……」

 

 路地裏に置きっぱなし──というのは、希望的観測か。治安が良いと評判の王都なら衛士の詰所か──いや、そんな露骨な証拠は残さないだろうし、処分されているか。

 

 「治安が良い……?」

 

 自分の思考に首を傾げ、苦笑する。

 ふらふらと路地裏に入った間抜けは自分だし、カルトがそううようよしている訳も無いだろう。貧乏くじを引いた、ということだ。

 

 ふと、先を進んでいたナイ神父が足を止める。つられて二人も足を止めるが、足音は止まらなかった。

 

 「上から……誰か来る?」

 

 たたた、と、急ぎ足で降りてきたのは、フードを目深に被った二人のカルト信者だった。

 とはいえ、フィリップの感情を揺らすことは無い。後ろには微笑を浮かべたマザーが、そして前方には──?

 

 「っ!? きょ、教主様? 何故こちらに? 儀式は終わったのですか? それに、その子供と、そちらの女性は……?」

 

 困惑も露わに立ち止まった信者たちは、フィリップの前に立つ()()()()()()()一礼した。

 

 千の貌。ナイアーラトテップの別名は、その化身の多さに由来する。

 カルト信者やフィリップの記憶から教祖の姿や声を検索し、模倣することなど造作もないだろう。

 

 「儀式は成功だとも。彼は時神様……いや、そのさらに上位に坐します御方の意に従い、解放することになった。君たちも拝謁の栄誉に服してきたまえ」

 「おぉ! では、あの少女は我々が後程解放しておきましょう! 教主様ももう一度、共に拝謁いたしましょうぞ!」

 「流石は教主様! 共に儀式の成功を喜びましょう!」

 

 一行が狭い階段の端に避けると、二人は我先に階段を降り──マザーとすれ違った瞬間に、背中から触手に貫かれて絶命した。

 

 「どうせ殺すなら、さっさと殺せばよかったのに」

 

 不思議そうなマザーに嘲笑を向け、先ほどと同じ姿に戻ったナイ神父は触手状態の右腕を振って血を払った。

 出来の悪い生徒を見るような──いや、もっと露骨な嘲笑を向けられて、マザーがむっとした顔をする。

 

 「階段の上で殺したら、血が垂れて靴が汚れるではないですか」

 「私にちょっと跳ねてるんだけど?」

 「ははは。ところで、聞こえますか? 何やら叫び声が」

 

 そう言われて耳を澄ますが、地下──吸音性の高い土に囲まれているからか、何も聞こえない。

 マザーには聞こえたのか、「貴方を呼んでいるみたいよ?」と言う。

 

 神父に向けて薄いヴェールでは隠し切れない怒気を滲ませるマザーに気圧されつつ、フィリップは階段の上を指差した。

 

 「地下牢の階に、まだもう一人捕まってるんです」

 

 少し階段を昇ると、確かに叫び声がする。

 フィリップは慌てて駆け出すが、邪神二人の歩む速度は変わらなかった。

 

 「あまり無闇に動かないでください。カルトの残党が居るかもしれませんよ? 君は脆弱なのですから──」

 

 その嘲弄に、フィリップは何ら感情を動かされなかった。神父の言葉を無視して階段を昇りながら、フィリップは前を向いて叫ぶ。

 

 「えぇ。ヒトは脆弱で、矮小です。──だからこそ、あの子も助けないと。助けを待ってなんていられない」

 

 二人を置いて先行するフィリップに、ナイ神父は深いため息を吐いた。

 

 「身の程を知ってなお、ああも無鉄砲とは。この先も苦労しそうです」

 「あら、可愛らしくていいじゃない。貴方もそうでしょう?」

 「えぇ、大好きですよ。本当に面白い──」

 

 二人はゆっくりとフィリップの後を追う。

 その背後で、二つの死体がグズグズに溶けて消え失せた。

 

 二人が追い付くと、フィリップは鉄格子の扉に付けられた頑丈そうな錠前に呆然としているところだった。

 ナイ神父は嘲笑を漏らすと、ポケットから小さな銀色の鍵を取り出す。

 

 「鍵ならここですよ」

 

 マザーはいつ鍵を拾ったのかと首を傾げていたが、受け取ったフィリップはそれが鍵などでは無いことに気が付いた。

 

 鍵のように見えるのは持つ部分だけで、そこから伸びるのは平らな板でしかない。

 じっと見つめると、その先端部分が複数本の細くて黒い触手に分裂し、うねうねと蠢いた。さながら生きたマスターキーである。

 

 「あぁ、うん……」

 

 諦めと呆れが礼の代わりに口から漏れた。

 鍵を回す前に錠が外れ、何とも言えない気分になっていると、ナイ神父が地下牢を覗き込んでいた。

 

 「君が、彼の言っていた女の子ですか」

 

 ぽかんと口を開けて呆然としている少女に代わり、フィリップが首肯する。

 放心するのも無理はないだろう。一緒に誘拐された少年がカルトに生贄にと連れて行かれ、今度は神父と喪服の女性と一緒に帰ってきた。冗談のような状況だと、フィリップ自身さえそう思う。

 

 「さぁ、ここを出よう」

 

 フィリップが手を伸ばすが、安堵か、はたまた別の理由か、少女は腰が抜けて立てない様子だった。

 

 「……ナイ神父?」

 「酷いお方だ。この私に、糞の詰まった肉袋を抱えて歩けと?」

 

 フィリップにしか聞こえないように、にっこりと微笑んで言うナイ神父。

 しかし従う気はあるのか、それ以外の代替案を提示できなかったからか、それ以上言い募ることなく少女を抱え上げた。

 

 ひゅっ、と、少女が鋭く息を呑んだのは何故だろうか。

 まさかナイ神父の正体に気付いた訳では無いだろうが、と、フィリップは的外れな心配を抱いた。

 

 一行は地下施設への入り口になっていた一軒家の廃墟を出ると、まず現在地を確認することにした。

 とは言っても、フィリップに土地勘は無く、邪神二人は言うまでもない。必然的にモニカに視線が集中するのだが、彼女はまだ放心状態──というか、彼女を横抱きに抱えるナイ神父を呆然と見つめていた。

 

 (あぁ、これは、あれか。吊り橋効果に単純な外見(APP)の暴力で()()ちゃった感じか)

 

 そう悟り、フィリップはつい顔を歪めた。

 

 (そいつは止めた方が……まぁ、他人の恋路に口を出すつもりはないけど)

 

 幼気な少女に好かれて、ナイ神父も悪い気はしないだろう。

 いや……しない、か? 本当に? 言ってみれば蛆虫に好意を寄せられるようなもので、悍ましい以外の感想を抱かないのではないか?

 

 「あとは、気持ち悪い、とか、身の程を知れ、とかでしょうか」

 「心を読まないでください。……それはともかく、ここは?」

 

 きょろきょろと辺りを見回すが、当然ながら街並みに見覚えは無い。

 強いていうのなら、建物や道の質から見て二等地だろう。三等地より狭いとはいえ、十分に広大な区画だ。その中から一件の宿屋を探すのは楽なことでは無い。

 

 「私が知る訳が無いでしょう。……お誂え向きに、人が来ます。尋ねてみましょうか」

 

 立ち並ぶ民家からは明かりが漏れておらず、かなり夜も更けた頃だと推察できる。

 そんな時間に大通りを外れた住宅街をふらふらしている者がいる?

 

 「カルトの残党では?」

 

 フィリップはそう言うが、その人影が近付いてくるにつれ、違うと理解できた。

 ガチャガチャと、厚みのある金属同士が擦れる音。それは金属鎧に特有のもので、統一したローブ姿の者しかいなかったカルトでは無さそうだ。

 

 先を歩く鎧の方が少し装飾が多く、ランタンを掲げ持っている。

 

 「そこの者。我々は王都衛士団である。このような時間に何をしているのか、聞かせて貰えるか」

 

 小走りで近づいて来ていた二人組の衛士は、一定の距離まで近付くとその速度を緩めた。

 警戒するような、それでいて遅さを感じさせない動きで顔が見える距離まで近付くと、片割れが驚いたように叫んだ。

 

 「モニカちゃん、それにフィリップ君じゃないか! 無事でよかった! そっちの……神父様とご婦人は?」

 「ジェイコブ、さん……?」

 「あぁ!」

 

 ヘルム越しの声では判別が付きにくいが、確かに聞き覚えのある声だった。

 ヘルムを取らず、剣の柄から手を離しもしないのは、二人の素性を怪しんでいるからか。

 

 無事でよかった、ということは、何が起こったのかは知っている? まさか、カルトとグル──

 

 ぽむ、と。フィリップの疑念が視線に宿る前に、頭に優しく手が置かれた。

 マザー……ではなく、ナイ神父の大きな手だった。うへぇ、という表情は、衛士たちには夜闇で見えないはずだ。

 

 「そこの──」

 

 ナイ神父が示したのは、さっき出てきたカルトの根城になっていた空き家だ。

 

 「地下室、いえ地下牢から叫び声が聞こえたので、様子を見に来たのです。この子たちはそこで捕らえられていたので、救出しました」

 「地下牢だと? おい」

 「はっ!」

 

 片割れはジェイコブよりも偉いのか、命じられたジェイコブはランタンを付け、抜剣して空き家に突入していった。

 そこまで警戒しなくても、中には人の残骸とは想像もできないどろどろの液体しか残っていないだろうが。懸念点と言えば階段で殺した二人分くらいだが、この狡猾な邪神が何も考えていないということはないだろう。

 

 「子供たちを救出したとのことだが、彼らに怪我は?」

 「幸いなことに無傷でした。これも神の御加護あってこそでしょう」

 

 にっこりと笑うナイ神父。フィリップは顔を背けて失笑を堪えた。

 確かに薬の影響は取り除かれているし、狂気も払われた、だが、受けた精神的ダメージは計り知れない。少なくとも一回は発狂しているのだから。

 

 それに──『神の加護』とは。全くお笑い種だ。

 

 「ふむ。我々も確認したいのだが、いいか? 彼らが落ち着いたら、詳しい話も聞きたい」

 「如何ですか、フィリップ君?」

 「……えぇ、構いません」

 

 軽く頷いて見せたフィリップに頷きを返すと、衛士はナイ神父の腕の中で呆然としているモニカに目を向けた。

 

 「彼女はまだ呆然としていて。えっと、一緒に捕まっていたので、僕が話せます」

 「なるほど。……君は随分と気丈なのだな」

 

 ぴくり、と、自分でも眉が動いたのが分った。

 失策だったか。もう少し怯えて見せた方がそれっぽかったか。

 

 年相応に、露骨に表情が動いてしまうフィリップに、ナイ神父の向ける嘲笑の視線が刺さる。

 その視線は衛士へと移り、すっと目が据わった。

 

 「気に留める必要もない虫」だった評価が「駆除すべき虫」へと格上げされたのは、マザーと神父を除くこの場の全員にとって不幸だっただろう。

 しかし、神父の腕が触手へと変わる前に、夜の静けさを大きな笑い声が掻き消した。

 

 「はっはっは! 男子足るもの、そうでなくてはな! 弱った女性を助けようという気概、素晴らしいぞ、少年!」

 

 その上機嫌な態度は本物で、不信感を覚えた様子はない。

 夜闇がフィリップの微かな表情の揺らぎを隠してくれたらしい。

 

 ぐりぐりと頭を撫でられるが、金属の籠手越しでは嬉しさより硬さが勝つ。しかも関節部に髪の毛が挟まって地味に痛い。

 だが──褒められて悪い気はしなかった。

 

 今がどうであれ、フィリップは確かに、あの地下牢ではずっとモニカのことを気遣っていたのだから。

 

 近所の者から怒られそうな大笑いを聞きつけたからというわけではないだろうが、ジェイコブが空き家から戻ってきてそれを止める。

 

 「ちょっと、団長。声が大きすぎます」

 「おお、すまんな! あっはっは!」

 「団長……」

 

 呆れを滲ませつつ、ジェイコブが報告する。

 隠す必要もないと思っているのか、聞き耳を立てるまでも無く内容は聞き取れた。

 

 曰く。確かに地下牢は存在し、そのさらに下層には祭祀場らしき空間があった。カルト構成員らしき者も、その死体も見つからなかったが、最近まで使用されていた痕跡はあった。そして──地面に掘られた、死体処理用と思しき幾つかの穴と、既に使われたのであろう土の盛り上がりが発見された。

 

 「ふむ。では私は応援を呼び、現場と周囲の捜索を行う。まだ残党がいるかもしれん。……少年、話は後日、聞かせてくれ。神父様とご婦人も、構いませんな?」

 「了解です。……あの、私は?」

 

 ちらりとフィリップの方を見ながら尋ねたジェイコブに、団長は不思議そうに首を傾げた。

 

 「少年たちを家まで送る以外に何があるんだ?」

 「は、はい! では、行きましょう。宿屋タベールナまでで問題あり……問題ないかな?」

 

 ジェイコブは神父とフィリップのどちらに話しかけるか迷い、結局、少しでも知っているフィリップを選んだようだった。

 フィリップとしても邪神と話すよりは気が休まるので、これ幸いと先導するジェイコブと並んで歩くことにした。

 

 「はい、お願いします。ここは二等地ですよね?」

 「あぁ、そうだよ。……少し歩くけど、大丈夫かい? 疲れているなら、俺が背負っていくけど」

 「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

 

 そっか、偉いね。と、それだけ言って、そこで会話は途切れた。

 荷物を失くした以上、整備された道を歩くのに苦労はしない。だが、ずっと実家の宿屋を手伝っていたから年相応以上に体力はあるが、それでも子供の範疇は超えていなかった。乗り心地の悪い乗合馬車で王都まで来て、それなりに重い荷物を持って歩いて、その上麻薬と支配魔術だ。身体はボロボロだったはずだが。

 

 「万が一を考えて回復魔術をかけたのだけど、眠れなくなってしまいそうね」

 

 いつの間にか隣に来ていたマザーがそう言う。

 麻薬と支配魔術を打ち消した時かと納得したフィリップとは違い、比較的知識のあるジェイコブが驚きの声を漏らした。

 

 「疲労を回復する回復魔術ですか!? それは──ッ!?」

 

 言い終える前に、ヴェール越しにその美貌を目にしたジェイコブの言葉が止まる。

 不思議そうなマザーだが、彼女がナイ神父より短気ではないという保証は無い。「気持ち悪い、悍ましい」と、触手を一振りするだけで、あの頑強そうな鎧ごとぐちゃぐちゃのミンチにされるだろう。

 

 「疲労を回復する魔術は、そんなに珍しいのですか?」

 「あ、あぁ。そうだね。信仰魔術……奇跡や神秘と呼ばれる部類の魔術の中でも、かなり高位の魔術だよ」

 「へぇ、すごいんですね、マザー」

 

 適当に相槌を打つが、興奮した様子のジェイコブは感心したようにナイ神父を振り返った。

 

 「もしかして、高名な神官の方々なのですか?」

 

 いえ、無名な邪神です。とは言えず、フィリップは丸投げすることにした。

 

 「さぁ? 僕も先ほど助けて頂いただけなので……そうなんですか、ナイ神父?」

 「いえ、我々は二等地の『投石教会』に身を寄せている、しがない神父と修道女ですよ。彼女は喪服ですけどね」

 

 王都に詳しい衛士相手に、千なる無貌のハッタリが通用するのか見物だった。

 しかし、ジェイコブは意外な反応を返す。

 

 「あぁ、あの教会でしたか! お伺いしたことはありませんが……」

 「ははは。大通りからはだいぶ外れていますし、もっと行きやすい教会はいくらでもありますから」

 

 そんなふざけた名前の教会が実在するのも、ナイ神父がそれを知っているのも衝撃だった。

 フィリップに向けられたウインクの意味は、「化身に調べさせました」だろうか。

 

 「そ、そうですね。実は、詰所の地図を見て「誰がこんなとこにわざわざ行くんだ」と思っていたのですが、貴方がたのような素晴らしい神官様が居るのなら、お伺いすべきでした」

 「それは光栄です」

 

 にっこりと笑うナイ神父の腕の中で呆然としていたモニカが、ようやく復帰したのか声を発する。

 

 「神父さま、投石教会の方なの?」

 「えぇ、そうですよ。もし良かったら、ミサに来てみてください」

 「はい、是非!」

 

 その時は自分も付いて行こうと、でれでれになっているモニカと、つつくと丸くなるダンゴムシを見ているような笑顔を浮かべるナイ神父を見て決意する。

 

 「貴方も来て頂戴ね?」

 

 そんな決意を知ってか知らずか、マザーがフィリップの頭を撫でる。

 まさかジェイコブの前でそれを振り払うわけにもいかず、何とも言えない顔でそれを受け入れた。



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 それからしばらく歩いて、フィリップたちは大通りに出た。

 いくら王都とはいえ夜通し営業している店は少なく、漏れ出る明かりは裏通り──歓楽街からのものだ。その歓楽街にも人気は少なく、大通りを一人で歩いているその女性はとても目立っていた。

 

 ランタンを掲げ持ち、こちらへ足早に駆け寄ってくる女性。

 はじめは反射的に剣の柄に手を掛けたジェイコブも、顔を判別したときには嬉しそうにこちらを向いていた。

 

 「女将さんだ! 二人を探していたんだろうね」

 

 その言葉を聞くと、モニカが微かに身動ぎをする。

 これ幸いとモニカを下ろしたナイ神父にもじもじしながらお礼を言って、すぐに女性の元へと駆けていく。

 

 「お母さん!」

 「モニカ! 良かった、無事だったんだね!」

 

 しっかりと抱き合う二人の姿を見れば、カルトや地下牢といった冷たい非日常のことなど忘れ、暖かな日常に戻ることが難しいことでは無いと思えた。

 尤も、それはモニカに限った話なのだが。

 

 きっと──ここにいたのがフィリップの母親だったとしても、自分は()()はならない。

 フィリップは勿論母親のことを愛しているし、母親はその何倍も、何十倍もの愛を注いでくれている。だが──その日常が儚い泡のようなものだと知って、それを殊更に大切にできるほど、フィリップは大人では無かった。簡単に言って──諦めてしまったのだ。

 

 「あの人が、宿屋タベールナの女将さんだよ。フィリップ君」

 「そうなんですか? じゃあ、挨拶をしてきます」

 

 フィリップが向かい、挨拶をすると、女将はフィリップのことも強く抱きしめていた。

 号泣する女将とモニカ、そしてその二人に挟まれて困ったように笑うフィリップを見て、ジェイコブは深く安堵した。

 

 「いい光景ですね」

 

 つい、ナイ神父に同意を求めてしまう。

 ジェイコブの予想に違わず、彼はにっこりと笑って首肯した。

 

 ほっと一息ついて、ジェイコブは深々と、ナイ神父とマザーに向けて頭を下げた。

 

 「今回の一件、我々王都衛士団に代わり民を救って頂き、本当にありがとうございました。私は衛士団を代表できる立場にありませんが、お二人のことは団長に──いえ、団長を通して国王陛下に伝えて頂けるよう、私からお願いしておきます。それ以外にも、きっと何かお礼を──」

 「不要ですよ」

 「不要ですわ」

 

 ぞっとするような冷たい声に弾かれて顔を上げる。

 明確な怒りに、ジェイコブはごくりと喉を鳴らした。

 

 「それは、どういう──?」

 「今回の一件、我々は我々の意志に基づいて行動しただけです。それに礼などされては、我々の行動の価値が、意思の価値が、貴方たちによって定められてしまうではないですか」

 「失礼いたしました。そんなつもりは──」

 

 そんなつもりはなかった、というのが単なる言い訳でしか無いと気付き、ジェイコブは唇を噛んだ。

 相手は神官──俗世とみだりに交わるべからず、という教義を忠実に守っている神官は今どき珍しいが──ということもあり、贈り物などは確かに好まれないだろう。賄賂の類と無縁な清廉潔白な聖職者も珍しいが、彼であれば、とも思う。

 

 「言葉だけで十分ですよ。とはいえ、そうもいかないのが組織でしょう。……そうですね、では、あの子にいろいろと便宜を図ってあげてください」

 

 その助け舟に飛びつくように、ジェイコブは慌てて言葉を紡ぐ。

 

 「は、はい! フィリップ君とモニカちゃんには最大限のケアを用意しますし、今後二度と彼らのような子供が脅かされないよう、王都の治安を十全にしたいと思っております!」

 

 まぁこんなところか、と、二人の邪神はほくそ笑んだ。これで、何かあってもフィリップを積極的にどうこうしようとはならないはずだし、何もしないより幾らかマシだろう。一歩目としては上々だ。

 マザーはついうっかり「あの子」と言っていたが、焦っていたジェイコブは気付かなかったか聞き流したようだ。

 

 一頻り泣いて満足したのか、二人の子供を連れた女将が近付いてくる。

 

 「お二人がこの子たちを助けてくださったんですよね? 本当に──本当に、ありがとうございます」

 

 深々と頭を下げ、同時に子供たちにも頭を下げさせる。

 フィリップは物凄い顔をしていたが、奉公先の女将に逆らうわけにもいかず、黙って従っていた。

 

 愛玩するような笑みを向けるマザーと、愉悦に満ちた嘲笑を向けるナイ神父。

 湧き上がる殺意を抑えきれそうにない。が、内に秘めた獣性を解き放ったところで、所詮は人間。ほぼ最高位の神格二柱に敵うはずもなく、それを正しく理解し、理性的に我慢しているところが、邪神たちにしてみれば愛おしく、滑稽なのだが。

 

 「ほら、あんたらもお礼言いな」

 「ありがとうございます!」

 「ありがとう……ございます……!」

 

 モニカは朗らかに、フィリップは食い縛った歯の隙間から絞り出すように言う。

 

 それがまた愛おしく、滑稽で、二人はそれぞれ性質の違う笑みを浮かべた。

 

 「お礼なんていいのよ。おいで、フィリップ君」

 

 慈母の如き表情を浮かべて両腕を広げるさまは、如何なる名画にも勝る美しさを湛えている。

 が、その抱擁を望まれたフィリップは深く、重いため息を零した。

 二人きり、或いはナイ神父も加えた事情を知っている者だけしかいなければ、唾でも吐いていたかもしれない。

 

 仕方なく、なるべく嫌そうに見えないように早足でマザーの元まで向かうと、フィリップはふわりと抱き締められた。

 

 嫌悪感と、それを打ち消して余りある多幸感と懐かしさが押し寄せる。

 それが彼女の能力や魔術によるものでは無く、フィリップ自身が純粋に、そして自然にそう感じているのだと理解できるのが、殊更に嫌悪感を募らせるのだが。

 

 「では、我々もそろそろ教会へ戻りましょうか」

 「分かったわ。……またね。貴方に神の御加護がありますように」

 

 そんな冗談と、フィリップの額にキスを残して、二人は夜闇に溶けるように消えていった。

 

 苦虫をダース単位で噛み潰したような顔のフィリップには誰も気付かず、私たちも帰りましょう、という女将の声に従った。

 

 

 こうして、フィリップが王都に着いたその日に巻き込まれた事件は解決されたのだった。

 

 




 導入おしまい


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潜む悪魔
8


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ1 『潜む悪魔』 開始です

 推奨技能は各種戦闘技能と〈クトゥルフ神話〉か〈オカルト〉、〈応急手当〉〈信用〉です。




 フィリップが巻き込まれた誘拐事件から数日後。奉公先の従業員たちともそれなりに交流を深め、それなりに仕事を任され、それなりの結果を出していたフィリップは丸一日の休日を貰えることになった。

 

 「フィリップ、明日は一日休みなのよね?」

 「うん、そうだよ」

 

 あの一件があったからか、或いはもともとそういう気質なのか、モニカはフィリップによく懐いていた。いや、彼女の方が年上なので、その表現は少し正確ではないが。

 たまにフィリップの部屋にふらりと現れては、買い物やサボりに付き合わせている。

 

 「なら、一緒に少し遠出しない?」

 「え……何処に行くか聞いてから返事してもいい?」

 

 まぁ十中八九()()()だろうが、なるべくならあの二人には会いたくない。

 

 「投石教会に決まってるじゃない! 神父さまに会いに行くわよ!」

 

 千なる無貌ナイアーラトテップが化身、浅黒い肌に黒髪黒目のナイ神父と、豊穣神シュブ=ニグラスが化身、銀髪に銀の瞳、喪服姿のマザー。

 白痴の魔王の意図なき命令により、フィリップを守護するというモノ。この世の何より悍ましく、強大なる邪神たち。

 

 積極的に会いたくないどころか、叶うなら死ぬまで遭遇などしたくなかった。

 まぁ、もう遅いが。

 

 少なくともあの二柱はフィリップの個人名を訊ねる程度には興味を持っているし、その上でその手から逃れられるはずもない。

 現に今も窓の外に、黒い触手で編まれた、カラスを模したと思しき醜悪な使い魔が見える。仮にあれの目の届かない奥まった部屋や地下に行ったとしても、全にして一なる者からは何人たりとも逃れることは出来ない。彼はフィリップで、フィリップは彼がフィリップであることを知っている。逃げようとも思わなかった。

 

 少し考え、行っても行かなくても変わらないかと思い直す。

 それに、モニカ一人で行かせるのは不安だと、あの日にそう確信している。あの神父に惚れているらしいモニカを、一人で行かせるのは。

 

 「分かった、いいよ。一緒に行こう」

 

 そう言うと、モニカは嬉しそうに笑った。

 

 「じゃあ、今日は早めに寝ましょ。おやすみ、フィリップ!」

 

 たたた、と小走りに出て行ったモニカ。あぁ、あれは──

 

 察して、フィリップは耳を塞いだ。

 

 「こら、モニカ! お客様がいるんだから、廊下を走らない!」

 「わ、ごめんなさい!」

 

 

 ◇

 

 

 

 二等地の奥まったところに、家に囲まれるようにひっそりと建っている小さな教会。

 知る人ぞ知る、というわけではなく、近所の人はみんな知っている。

 

 規模こそ小さいが、小汚いわけでもみすぼらしい訳でもなく、過度な装飾や異常な清潔さがあるわけでもない。

 年季を感じさせる傷や汚れと、それなりの手入れが見受けられる、至って普通のバシリカ型教会だ。

 

 ただ、もっと新しく、綺麗で、大きな教会が近くに幾つかあり、さらには住宅街のど真ん中ということもあって、「何かのついでに」とか、逆に「ミサの帰りに買い物しよう」といったことが無く、人気が無かった。

 最近になって「あそこの神父と大修道女はとんでもなく美形だ」という噂が立つようになり、それに釣られた者がちらほら足を運んでいるが。

 

 「こんにちは! ……あれ?」

 

 元気よく入っていったモニカだが、噂の美形二人が何処にもいない。

 しょんぼりするモニカを適当に慰めつつ、フィリップは最奥に据えられた大きな聖女像を見上げた。

 

 (一神教の聖女、マリア。700年前に魔王を封印した、始原の聖女……だったっけ)

 

 もともと熱心な信者という訳では無かったフィリップは、そんなおとぎ話を思い出していた。

 だが。

 

 (なんで頭が欠けてるんだろう。いや、それで二人がいないのかな? 直すための職人を呼びに行ったとか?)

 

 ありそうと言えばありそうだが、ナイ神父が頭部の欠けた像を見て愉快そうに笑っているところの方がもっと簡単に想像できた。

 

 頭部が欠けたといっても首が丸ごと無いわけではなく、被害を受けているのは顔の左半分だけだ。

 その程度なら、あの無駄に器用な邪神は片手間に修繕できそうだが。

 

 「この聖女像は、ずっと昔からこの状態なんですよ」

 「神父さま!」

 

 急に背後に現れたナイ神父。フィリップは飛び退くが、モニカは嬉しそうに挨拶をしていた。

 

 「100年前、魔王がこの国に攻め込んだとき、魔王軍の投石によって聖女像の頭部は欠損しました。しかし、この教会に避難していた民には石の一片、瓦礫の一かけらさえ当たらなかったのです。人々はこれを聖女様の加護と喜び、崇め、感謝しました。そして当時無名であったこの教会に、『投石教会』の名を付けたのです」

 「そのお話、知っています! 本で読みました!」

 

 モニカが夜な夜なこの教会について調べていたのは知っているが、まさか成果があったとは。

 いや、二等地の教会だし、歴史あるものなら調べれば出るのは当然か。

 

 「ほう、きちんと勉強しているのですね。感心です。折角ですから、お祈りしていかれませんか?」

 「はい、神父さま!」

 

 二人は連れ立って奥の祭壇へと歩いて行った。意外にも優し気に対応しているナイ神父を見て、放っておいても大丈夫そうだと判断する。

 幼子に向ける優しさではなく、殺す必要のない虫を窓の外に放るような、そんな優しさだが。

 

 「ちなみに、あの頭部はきちんと修繕されていたわ」

 「うわぁっ!?」

 

 急に背後に現れたマザーがそう囁き、フィリップは飛び上がった。

 叫び声に反応して振り向いた二人だが、モニカはすぐに祈る姿勢に戻り、ナイ神父は嘲笑を浮かべていた。

 

 「ここに着いた翌日に、暇を持て余した彼が「歴史を再現しましょう」とか言って、石を投げて壊したのよ」

 「ははは……本当に暇だったんでしょうね」

 

 フィリップの中に在る常識の残滓が、罰が当たりそう、という感想を抱く。

 同時に、彼らに罰を下せる者など存在しないとも、唯一神など存在しないとも知っているが。

 

 「この教会ごと燃えればいいのに」

 

 そう願わずにはいられなかった。

 

 

 ◇

 

 

 少し経って、二人が祈りを終えた頃。

 モニカとナイ神父が身廊に並ぶ信者用の長椅子に掛け、少し離れた椅子にはフィリップとマザーが座って話していると、少しの軋みを上げて扉が開いた。

 

 来客か、という意識に反応して、仕事で染みついた習慣がフィリップの腰を上げる。すぐに仕事場では無かったと思い返して座り直すと、既に立ち上がっていたナイ神父が嘲笑交じりの一瞥をくれた。

 

 すぐに来客と向き直り、ゆっくりと向かっていく。

 その仕草や所作の一つ一つが洗練されており、彼が信仰に捧げてきた時間と信念の深さを感じさせる見事な作法だった。

 

 まぁ、模倣だが。

 

 信仰どころかその正反対に位置する邪神は穏やかな笑みを浮かべ、やってきた男へと声をかける。

 

 「こんにちは。礼拝であれば、このままお進みください。その他の御用でしたら、私がお伺いします」

 「こ、こんにちは。えっと……」

 

 そっと振り返って客を見てみると、簡素な平民風の服装の男に、何故か見覚えがあった。

 片眉に傷跡の刻まれた強面に、少し困ったような表情。どうにも記憶と一致しないが、フィリップは一応声を掛けてみることにした。

 

 「ジェイコブさん?」

 「え、あ、フィリップ君!」

 

 正解だった。だが、やはり違和感が拭えない。

 思い返してみれば確かに彼の声だし、顔も同じに見える。服装一つでこうまで印象が変わるのかと感心もするが、鎧と平服では体格すら違って見える。仕方のないことだと自分を納得させていると、隣でマザーが首を傾げていた。

 

 「貴方のお知合い?」

 「……あの日いた鎧を着た人ですよ」

 「あぁ! 二人居たうちの片割れね?」

 

 こそこそとそんな話をしているマザーとは違い、ナイ神父は自力で名前から個体を特定したようだった。

 流石は千なる無貌、経験値が違う。

 

 「あぁ、あの時の衛士さんですか。お久しぶりです」

 「は、はい! お久しぶりです!」

 

 握手など交わしつつ、ナイ神父はジェイコブを手近な長椅子へ誘導した。

 放っておかれたモニカが頬を膨らませるが、神父は気付かないふりをしている。

 

 フィリップがどうやってモニカの気を紛らわせるか考えている隙に、ジェイコブはナイ神父へ相談を始めていた。

 

 「ふむ。この数日ずっと、ですか。いくら王都衛士団が精強とはいえ、流石に心配になりますね」

 「はい。あいつもヤワな奴じゃありませんが、捜索の網にかからないとなると……」

 「隠れているか、隠されているか、ですか」

 「……はい」

 

 厄介ごとの気配を感じ、フィリップの耳に神経が集中する。

 

 魔王こそ100年前に封印されたものの、未だ魔物の跋扈するこの世界では、自分の身は自分で守るのが鉄則だ。

 それが難しい一般市民を守るための衛士は精強無比とはいえ、所詮は人間だ。先代の衛士団長は王都を襲撃したドラゴンを一人で討伐した変態──もとい、超人らしいが、外神に比べれば蟻にも劣るゴミみたいなもの。

 

 だが、そんなゴミでさえ正規の手順を正しく踏めば、外神との交信も可能なのだ。

 あの時神なんたらというカルト集団の残党や、或いは全く別のカルトが王都に残っていないという保証は無い。

 

 最大神格の庇護を受けるフィリップが死ぬことはないだろうが、王都は──というか、この星は別である。何かの手違いで外神と旧支配者が戦争状態にでも突入すれば、辺境の小さな星の一つや二つ、簡単に滅びることだろう。

 

 「それで、その……勝手なお願いとは理解しているのですが、お二人にもヨハンを探すのに協力して頂きたいのです」

 「ヨハンさんが居なくなったんですか!?」

 「えっ!? あ、あぁ、実は、あの日からずっと……」

 

 反応したのはフィリップではなく、モニカだった。

 あの宿屋をずっと拠点として使っているらしいし、付き合いで言えばフィリップよりもずっと長く、親しいのだろう。

 

 「わ、私も探します!」

 

 マジか。

 そんな顔をしているフィリップに、二つの視線が向けられる。言うまでもなく、彼の守護を任じられた邪神の二柱である。

 

 フィリップの自由意志を縛るつもりはないのか、或いは何かしらのトラブルに巻き込まれた方が面白いからか──ナイ神父に限っては後者の可能性が高い──、二人はフィリップの行動を制限するつもりはないようだった。どころか、フィリップに合わせる様子を見せている。

 

 「……僕も、微力ながらお手伝いします」

 

 これで満足か、愉快そうな神父。

 そんな視線を返すが、完全に無視された。まぁ完全にフィリップの意志で動いているわけではないので、それも当然だが。

 

 「子供たちだけで動かれても心配ですし、衛士団には普段お世話になっていますからね。そのご恩を、少しでも返させて頂きましょう」

 

 よくもまぁ思ってもいないことを、あれだけの笑顔で口に出せるものだ。

 フィリップはそんな的外れな感心を抱いた。

 

 

 

 



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9

 ヨハンの捜索について大まかな役割を決め、早速行きましょう! というモニカの声に従う形で、フィリップたちは教会を出た。

 大通りまで出てから散開することに決め、連れ添って歩く。その途中で、ジェイコブは何度もモニカとフィリップに念を押していた。

 

 「いいね? 無理はしないこと。暗くなってきたら切り上げて、家に帰ること。不審な人物を見かけても、後を追いかけないこと。理由は覚えているね?」

 「勿論! 大通りは人が多いから、暗くなったら全員の顔を判別するのには集中力がいる。だから、長丁場になることを見越して、早く寝て体力を温存するため!」

 「それと、あからさまに不審な人物は、それ以外の人から視線を逸らすための囮かもしれないから、ですね」

 

 それらしい理屈を並べてはいるが、要は、というか文字通り子供騙しだ。

 正義感に燃える子供たちを遠ざけて、もっと危ないところに首を突っ込まれるよりは、大通りを監視するという「任務」を与えて安全なところに置いておいた方がいい。

 

 フィリップも別にヨハンがどうなってもいいとまでは言わないが、衛士に任せる方が確実だと理解しているし、外神の加護を当てにして危険に首を突っ込むほど生き急いではいない。

 それに、フィリップが参加したところで、結局はあの邪神二人に頼ることになる。それなら、お荷物は分を弁えて大人しくして、彼らが勝手に成果を上げることを期待していた方が賢い。

 

 モニカと一緒に、ぼく、がんばります! そんな感じの態度を演じてはいるが、内面はもはや無垢な少年とは程遠いし、瞳もそれを反映して仄暗い。たぶん真剣に観察されれば一瞬でバレる演技だが、相棒を失った──まだ死んだと決まった訳ではないが──ジェイコブは、焦りからそれに気付かなかった。

 

 「あぁ、一緒に頑張ろう! じゃあ、俺は裏通りの方を見てくるから。服屋さんが閉じる頃には帰るんだよ!」

 

 大通りに着くとすぐに、ジェイコブはそう言い残して走り去った。

 この二等地でもまれな機械時計を所有している服屋は、いつも決まった時間に店を閉める。それを見て近所の店も仕舞い支度を始めるので、この辺りは午後6時だけは正確に把握できる。

 

 「さて、どうしますか? 私は手伝うと言ってしまいましたが」

 「私はパス。この子と一緒にお買い物でもしておくわ」

 

 この子と、の辺りで抱き寄せられそうになるが、フィリップは身を捩って脱出した。

 今のフィリップは失踪した衛士捜索に燃える少年なので、そう不自然ではないだろう。

 

 「では、そのフィリップ君に質問です。どうしますか?」

 

 どうしますか、とは、つまり「本気」で探すのか否かということか。

 勿論、否である。こんなところで眷属を召喚されれば大通りは地獄になるし、多数の触手を持つ化身でも象られたら王都が滅ぶ。

 

 「人間に出来る範囲で」

 

 人間と言ってもピンキリなのだが、フィリップの周囲には一般人しかいなかったので知る由もない。

 モニカのような吹けば飛ぶ人間もいれば、先代衛士団長のような変態もいる。

 

 ナイ神父は多少のレクチャーをしてフィリップを蒼褪めさせ、それを見て一頻り笑った。

 

 「では、私たちはあちらを──おや?」

 

 ナイ神父も移動しようとするが、その前に遠くの空で閃光が弾け、道行く人々も含めた全員の視線を集めた。

 

 「おい、今のって」

 「衛士の使う信号魔術か?」

 「何かあったの?」

 

 ちょうどジェイコブが向かった方角で打ち上げられた信号に嫌なものを感じ、フィリップはナイ神父に視線を向けた。

 おや、私に頼るのですか? とでも言いたげな嘲笑を黙殺すると、神父はつまらなそうに肩を竦めた。

 

 「様子を見てきます。マザーはこの子たちを」

 「えぇ、任せて」

 

 きちんとモニカも勘定に入れていたナイ神父とは違い、マザーはフィリップの両肩に手を置いた。

 隣人を愛せとまでは言わないから、せめて演技だけはしてくれと思う。

 

 「あ、あの、神父さま!」

 

 モニカが呼び止めるが、ナイ神父は一瞥すらせず歩き去る。

 特に気を悪くした様子もなく、モニカはその背中に手を振りながら叫んだ。

 

 「気を付けてくださいね、神父さま!」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ジェイコブが裏通りからも数本外れた、空きも多いがアクセスが悪く、人気のない倉庫街を捜索していた時だった。

 たまたま何かの作業をしていたのか、少し汚れた動き易そうな服装の男が二人、倉庫の一つから出てきた。

 

 ちょうどいいとジェイコブが近寄っていくと、男たちは近付いてくる屈強な見知らぬ男に警戒していた。

 

 「すまない、ちょっといいか? 人を探してるんだが」

 

 二人は顔を見合わせると、ジェイコブに向き直った。

 

 「別に構わないが、手短に頼むよ」

 「あっ! あんた、衛士の人だろ? 見たことあると思ったぜ。犯罪者でも探してるのか?」

 

 片方が言うと、もう一人もジェイコブの顔に見覚えがあったのか、あぁ! と納得の声を漏らした。

 

 強面は覚えやすいからな、とジェイコブは嬉しいような悲しいような微妙な気持ちになるが、それは自己評価が低すぎるというものだろう。彼らにしてみれば、ジェイコブは子供と話すときにはヘルムを取り、視線を合わせても一定確率で泣かれる、ちょっとかわいそうだが面白くて良い奴、程度の肯定的な認識だ。

 第一、人柄と戦闘力に高い評価が得られていないと入団許可が下りない衛士に、否定的な印象を抱いている者の方が少ない。気にしているのは本人ばかりである。

 

 それはともかく、彼らは報酬を求めたり、嘘を交えたりすることなく、非常に素直に話を聞かせてくれた。とはいえ──

 

 「すまねぇな、衛士さん」

 「一応、ウチの連中にも聞いてみるよ。何か分かったらあんたに……いや、詰所に知らせればいいか?」

 

 特に何の収穫も得られなかったが。

 この数日はずっとこんな調子だ。何者かが意図して隠しているか、或いはヨハン本人が全力で隠れているのなら、住人への聞き込み程度では見つからないだろう。

 

 「あぁ、助かるよ。時間を取らせて悪かった。ありがとう」

 

 礼を言って立ち去ろうとするジェイコブの目の前で、男の片割れが急に怒声を上げた。

 

 「おい、お前! そこは立ち入り禁止だぞ! 何やってる!」

 

 驚きつつも男の視線を追って振り返ると、建物の一つからふらふらと出てくる男の姿が目に入った。

 酷く衰弱しているのか、頑強そうな鎧の割りには足取りが弱弱しく──鎧?

 

 王都の中で鎧を着たまま出歩けるのは、衛士、冒険者、騎士、そして軍学校の生徒だけだ。

 

 王都衛士団の団員に支給される全身鎧は、人によって性能や細かな外見に差がある。

 よく斥候を担当する者の鎧には消音の工夫が、よく前衛を担当する者の鎧には防御系のエンチャントがされていたりと、衛士の強さを底上げする大切な装備だ。

 

 そして、ジェイコブはその鎧に見覚えがあった。

 その背中を幾度となく守り、幾度となく背中を預け、肩を並べて死線を潜り抜けてきた──

 

 「ヨハン! 大丈夫か! ヨハン!」

 

 ジェイコブは限界を迎えたように倒れ込んだ鎧の男に向かって走り出す。

 作業員の男の片割れが「詰所に伝えてくる!」と駆け出し、もう一人は倉庫の中から救急キットを取り出してジェイコブに続いた。

 

 「おい、ヨハ──ッ!?」

 

 ぐったりと倒れ伏したヨハンを助け起こすと、ジェイコブは右手にべったりと付着した血液と、その流出源であるヨハンの腹部に開いた傷跡に目を瞠った。

 ヨハンは主に前衛を担当しており、その鎧は機動性よりも防御力を重視した厚手のもので、付与されている魔術も防御に特化したものだ。それが抉るように破壊され、脇腹も内臓が零れそうなほど酷く損傷している。

 

 「ぁ……」

 

 か細い声が漏れる。

 掠れた小さな声を聞き逃さないように、なんて、繊細な配慮は王都衛士団には不要だ。

 

 「おい、起きろよ、ヨハン! 《ウォークライ》!」

 

 魔術の効果によってアドレナリンが分泌され、意識の鮮明化、戦意高揚や痛覚の軽減といったバフが付与される。

 

 あまり魔術の素養が無いジェイコブは魔力がごっそりと奪われる感覚に吐き気を催しながら、咳き込んでいるヨハンに懸命に笑いかけた。

 

 「起きたかよ、ヨハン」 

 「ジェイコブ……? モニカ嬢とフィリップ君はどうなった……?」

 「あぁ、無事だよ。二人とも、お前を探すのに協力してくれてるんだ。今度、礼を言わないとな」

 

 それを気休めと受け取ったのか、ヨハンは苦笑した。

 魔術によって話すことくらいはできるが、回復系の効果は一切ない。生死の境から引き上げることは出来ていない以上、そう捉えられても仕方ないのだが。

 

 「だ、大丈夫か、あんた! いま手当を──」

 「あぁ、いや、いい。ジェイコブ、お前も……逃げろ。あいつが……あの悪魔が来る前に!」

 「悪魔? ──ッ、下がれ!」

 

 作業服の男を突き飛ばし、ヨハンを抱えてその場から飛び退く。

 鎧を着た屈強な男を抱えての跳躍は、先ほどの補助魔術が無ければいくら衛士でも不可能なものだった。

 

 幸運に感謝しつつ、つい先ほどまで3人がいた位置に突き刺さっている槍を一瞥する。

 禍々しい気配を纏うその槍を投擲したと思しき人影が、ヨハンが出てきたのと同じ建物から姿を現した。

 

 「なるほど、悪魔……あいつのことか」

 

 現れたのは、みすぼらしい腰布だけを身に着けた、山羊のような顔と蝙蝠の羽、先端の尖った尻尾と蒼褪めた肌を持つ矮躯の悪魔だった。

 羽の数は4枚。中位悪魔の証だ。

 

 「外シタカ。良イ反応デハナイカ」

 

 悪魔は耳障りな声で、こちらを嘲るように言う。

 地面に突き刺さった槍を引き抜くと、二股に分かれた舌をべろりと出した。

 

 「貴様モ衛士トカイウ連中カ。精強ナ、美味ソウナ魂ダ」

 

 中位悪魔は一般に、人が使役できる最高位の悪魔であると言われている。

 その召喚には生贄と、優れた魔術師数人での大儀式が必要だが、裏を返せば、()()()()()()()()で使役できるということでもある。

 

 契約を遵守するその特性と、高い知能と戦闘力を併せ持つことから、召喚士と呼ばれる類の魔術師は一定以上の力を付けると必ず悪魔を使役するほどだ。

 

 「何処のどいつに使役されてるのか知らないが──!」

 

 ジェイコブはヨハンを置くより、男に逃げるよう指示するより先に、魔術によって生成した信号弾を打ち上げた。

 中位悪魔程度であれば、王都の衛士は一対一で問題なく対処できる。しかし、それはまともな武器や防具あっての話だ。平服で帯剣もしていないジェイコブと、満身創痍のヨハンではどうしようもない。

 

 「おい、こいつを連れて逃げろ!」

 「あ、あぁ! ……え? あんたはどうするんだよ!」

 

 ジェイコブは何も言わず、拳を握って構えを取った。

 興奮効果のあるウォークライはまだ効果時間中のはずだが、ヨハンがぐったりし始めている。

 

 「大通りへ行くんだ! 喪服を着た銀髪のご婦人を探せ!」

 

 ジェイコブの知る限り最高の回復魔術の使い手を頼り、男を行かせる。

 律儀にも二人が曲がり角に姿を消すまで、悪魔は何の行動も起こさなかった。

 

 「……実は、俺も見逃してくれたりするのか?」

 「何ヲ馬鹿ナ。最モ活キノイイ魂ヲ選ンダ、ソレダケノコト!」

 

 言葉通りジェイコブを生かすつもりは無いようで、悪魔は槍を構えて突撃してきた。

 軌道は見える。普段であれば問題なく弾くか、受け流せる攻撃だ。だが──剣も無く、鎧に付与された多種多様な補助魔術も無い。特に悪魔は、銀武器か魔法武器以外ではまともなダメージが通らない。

 

 分の悪い賭けだが──応援が来れば勝ちだ。

 

 「ギハハハ!」

 

 下品な笑い声を上げながら、無様に転がって回避したジェイコブを笑う。

 

 「中位悪魔風情がッ!」

 

 拳を振り上げて殴りかかると、悪魔は面白そうにその顔を差し出した。

 たかだか人間の拳程度で中位悪魔が傷付かないと知っているのだろう。実際、このまま拳がぶつかっても、ジェイコブの拳は大した手応えを得られず、逆に悪魔にカウンターを入れられるのが精々だろう。

 

 その判断は正しいが、それならば拳を受ける前にカウンターを入れればいいのだ。わざわざ顔で拳を受けるのは、無意味な行動を取った人間への嘲りか。

 

 だが──

 

 「それは慢心だ、馬鹿が!《エンチャント・フレイム》!」

 

 それは普段であれば、剣に炎を纏わせる魔法武器化の魔術。

 魔術型の衛士に、緊急用にと教わっていたものだ。前衛型で魔術の素養がないジェイコブでは発動するだけで精一杯、持続時間は短く、細かな制御も利かない。そのうえ二回も使えば魔力切れになる。

 

 切り札というには余りにも弱く、お粗末な代物だ。

 しかし、この場で悪魔のニヤケ面を殴り飛ばすには十分。

 

 驚愕の表情を拳によって強引に歪められ、炎でその表面を焼かれながら、悪魔はもんどりうって吹き飛んだ。

 

 

 



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10

 悪魔を殴り飛ばしたジェイコブは、その両拳を焼かれる痛みと魔力欠乏から来る虚脱感で膝を折った。

 

 武器に炎属性を付与し、一時的に魔法武器にする《エンチャント・フレイム》は、確かに悪魔に有効なダメージを与えた。肉を打つ感覚、骨を砕く感覚は確かにあった。しかし、悪魔は顔を砕かれたからといって引き下がるような魔物ではないし、その背後にいる使役者も、その程度で退かせはしないだろう。

 むしろ今度こそジェイコブを殺そうとしてくるだろう。今度こそは、油断も慢心もなく。

 

 「ギハ、ギハハハ! 貴様、ヨクモ……!」

 

 案の定、悪魔は激高しながら立ち上がる。

 未だ立ち上がれないジェイコブの元まで来ると、その喉元に槍を突き付けた。

 

 眼前に立った悪魔は嘲笑を向けてはいるが、顔の左半分には深い火傷を負っており、その目には怒りが宿っていた。

 どう嬲って殺せば、この屈辱が晴らせるだろうか。そんなことを考えている目だった。

 

 「はは……」

 

 槍を掴むと、悪魔は驚いたように一歩後退る。

 いや──怯えたように、か?

 

 「は、ははは……」

 

 ジェイコブの口から笑いが漏れる。

 どう考えても押されているのはジェイコブなのに、だ。

 

 「はははははは!」

 

 もう一歩、悪魔が下がろうとして、ジェイコブが槍を掴んでいるが故に失敗する。

 その抵抗で自分が怯えていることに気付いたのか、悪魔が奇声を上げた。

 

 「ナニガ可笑シイ!?」

 「その──ッ!」

 

 片手を槍から離し、固く握って振りかぶる。

 最早魔力は尽きているが、魔術は何も魔力だけをリソースとして使うものではない。

 効率は悪く、威力は落ち、何より継戦能力を落とすため、実戦においてはまず使われないもう一つのリソース。

 

 生命力を代用し、再詠唱する。

 

 「──無様がッ! 《エンチャント・フレイム》ッ!!」

 

 炎が拳を包む。

 もはや痛みすら感じない。神経までも焼かれたか。

 

 「好都合!」

 

 再度、同じ位置に拳がめり込み、ジェイコブが固く握っていた槍を手放して悪魔が吹き飛ぶ。

 悪魔が手放し、ジェイコブの武器となった槍の穂先にも《エンチャント・フレイム》の炎が宿る。

 

 利き手の右にはもはや感覚が無い。仕方なく左で槍を構え、投擲の姿勢を取る。

 この距離ならば問題ないだろう。

 

 「ヤ、ヤメ──」

 

 自分の槍で頭部を吹き飛ばされ、悪魔は塵となって消えた。

 

 それを見送ることなく、ジェイコブは今度こそ倒れ込んだ。

 やはり、適性のない魔術行使は甚大なダメージを負う。満足感と疲労感、そして戻ってきた両手の痛みを味わいながら、ジェイコブは不思議な足音と二つの金属質な足音の二種類を聞き取っていた。

 

 「ジェイコブ! 大丈夫か!」

 

 遠く、応援に来てくれた衛士たちの声が聞こえる。

 しかし、もっと近くに不思議な足音と禍々しい気配が生じ、彼らの接近が止まった。

 

 (なんだ……一体……)

 

 顔を上げると、すぐ側に立つ影がある。

 足は異様に細く、四本の指には鋭い爪が生えている。腰から上には羽毛が生えそろっており、黒いコートを着たようなシルエットになっていた。頭部はカラスのそれだが、瞳だけが金色だった。ヒトのような腕には羽毛が無く、背中からは翼が生えている。

 人間大に、各部のバランスを無視して無理矢理引き延ばした金眼のカラス。簡単に言えばそんな感じの怪物。

 

 聞き覚えがあった。

 金色の瞳を持つのは、魔物ではない()()()()()

 

 しかも、こいつは伝承にも残され、軍学校や魔術学院で必ず習うほどの大物──

 

 「72柱の悪魔──!?」

 

 驚愕の声を漏らすと、それは見下すようにジェイコブを一瞥した。

 

 「左様。七十二柱が一。総裁位を戴くハーゲンティである」

 

 口──正確には嘴だが──を開かずに何処から声を出しているのか不思議だが、それも悪魔の特性の一つ。

 

 こいつらは別格だ。

 魔物ではない本物の悪魔。100年前に勇者によって倒された魔王サタン直属の配下であり、世に混沌を齎すもの。中にはドラゴンと同等の力を持つ者までいる、正真正銘の怪物だ。

 

 その言葉には支配の力があり、その瞳には嘘を見抜く力がある。

 

 人間によって支配されることなどなく、気紛れに災厄を齎す忌まわしきもの。

 いくら王都衛士団が精強とはいえ、巡回用装備では分が悪い。

 

 「そいつにやられたのか!?」

 

 衛士たちが抜剣する。

 一人が前に、もう一人が少し下がる簡易戦闘隊形を取るが、ハーゲンティはそれを不愉快そうに見るだけだった。

 

 「ふむ? 些か、数が足りないのではないか? 貴公らは確かに強いが、その武器、その数では無駄死にだろう」

 

 その分析は正しい。

 来てくれた衛士は二人とも前衛物理型だ。ジェイコブの《エンチャント・フレイム》のような隠し玉、切り札の一つ二つあるかもしれないが、それで72柱の悪魔を倒せるとは考えにくい。

 

 せめて防衛戦時に使う本気の装備か、きちんとした付与魔術や攻撃魔術を扱える魔術型の衛士でもいれば違ったのだが。

 

 或いは──

 

 「聖職者でもいれば、意外となんとかなるかもしれませんよ?」

 

 衛士たちとは反対側から、ハーゲンティを挟み込むように。

 まるで図っていたかのような、完璧なタイミングで。

 

 カソックに映える金の十字架を胸元で揺らしながら、悠々と現れた。

 

 「ナイ神父……!?」

 「ふむ、神父か」

 

 ぱか、と、今まで閉じていた嘴が開かれる。

 あれは不味い。悪魔が種族的に持つ特性。その言霊には強力な支配の力がある。

 

 「耳を──」

 

 声が出ない。もうそれだけの力も残っていなかった。

 もう、間に合わない。

 

 「『自ら死ね』。その教義に捧げた人生、最期に無駄にすると良い」

 

 たった一句。それだけで人を容易く殺せる。

 本物の悪魔とはそういうもの、そのレベルの怪物なのだ。

 

 たった一言で──あの素晴らしい神父様が殺されてしまった。自分が助けなど求めなければ、そんなことは無かったのに。あの素晴らしい御仁は、きっと多くの人を救っただろうに。

 

 ジェイコブは悔恨に固く目を閉じ──驚愕の声で再び目を開けた。

 

 驚愕の声を上げたのは、たったいま神父を殺したはずのハーゲンティだった。

 

 「馬鹿な、何故効かない!?」

 「伝説によれば、悪魔の言葉には弱きものを惑わす力があるそうですね。なるほど、完全無詠唱の支配魔術は、確かに格下相手には有効でしょう」

 

 神父はにっこりと、その甘いマスクを際立たせる魅力的な笑顔を浮かべる。

 しかし、正面から相対したハーゲンティには、その目の奥に宿る明らかな嘲りが見て取れた。

 

 「なるほど、そこらの木っ端ではないな。たかが神父、たかが人間と侮ったか」

 

 ハーゲンティは努めて冷静に、自分に言い聞かせるようにそう呟く。

 だが悪魔にとって、その声は単なる特性に過ぎない。眼前の神父は防御魔術か何かでレジストしたようだが、魔術型ならば肉体的に弱いのが道理。脆く、そして短命な人の身では、物理と魔術の双方を同時に修めようとすれば、どちらも中途半端なものになるからだ。

 最上位である72柱の悪魔の言霊を弾くほどの使い手であれば、その人生の全てを魔術に費やしたことだろう。若く、才能もあるようだが、それ故に驕っている。

 

 「だが、姿を晒したのは失策であるな」

 

 高く跳躍し、その鉤爪を振るう。

 人の肉どころか金属製の鎧でも容易く切り裂く爪と、その外見の細さからは考えられないほどの剛力を秘めた蹴り。たとえ勇者が相手であっても回避を選択させられるという自信を持つ攻撃だ。

 

 それを。

 

 「蹴りとは。まるで人間のような攻撃ですね」

 

 いとも容易く、何の変哲もないカソックに包まれた右手で受け止めた。

 骨が砕ける感触も、肉を割く感触も、飛び散る血の匂いもない。鋼を──いや、鋼であっても切り裂く自信はある。まるで、あの勇者の鎧──アダマンタイトを蹴り付けたような感触だった。

 

 「防ぐか」

 

 侮りは捨てたはずだった。だが、まだ甘かった。

 

 「貴様、勇者にも比肩するな」

 「ははは、悪魔というのは、どれも貴方のように近眼なのですか? 勇者と私が比肩など、物が見えていないにも限度があります」

 

 それは単なる謙遜という訳では無かった。

 明朗な笑顔の裏には深い嘲笑が潜み、そして僅かな不快感も隠している。

 

 まさか、自分の方が勇者より上だとでもいうつもりか。魔王サタンを下した勇者よりも。

 

 「戯けが!」

 

 ハーゲンティは翼を広げ、その羽を弾幕のように射出する。

 着弾と同時に魔力が爆発する特性を持つ羽の弾丸は、面となって神父を覆い隠した。直後、爆発する。

 

 「これも避けるか!」

 「当たってくださいと懇願したら、一考くらいはしてあげましょう」

 

 背後にジェイコブを庇うように立ち、ハーゲンティを挑発する。いや──嘲笑する。

 何の戦術的な意図もなく、ただ矮小なるものを卑下し、嘲笑う。およそ神職にあるまじき心根だが、それだけに不気味だった。

 

 「貴様からは徳を感じない。神の庇護、寵愛、赦し、そして神への崇敬と祈り。神父ならば当たり前に持ち合わせているものが何一つ感じられない……。貴様、何者だ?」

 「──伏せろッ!!」

 

 後ろに庇ったジェイコブのさらに背後からの指示。

 神父の姿が掻き消えると同時、4つの影が迫る。

 

 「衛士の増援か。退き時だな」

 

 二人の衛士の挟み込む斬撃と、その頭上から飛来する火球。

 もう二人の増援──今度は魔術型だ。衛士は練度だけを見るのなら、ハーゲンティにとっても十分に脅威となり得る。魔法武器や魔術無しでは物理的に傷つかないからこその余裕だったが、些か遊び過ぎた。

 

 「では、このくらいは置いて行って貰いましょう」

 

 衛士たちの攻撃を跳躍して回避し──背後で猛烈な殺気が膨れ上がる。

 不味い。これは、本当に、不味い──!!

 

 「ガ、ァッ!?」

 

 顔面を殴り飛ばされて派手に吹き飛び、倉庫の一つにぶち込まれた。その飛翔中にさえ、その気配はぴったりと這い寄ってくる。

 

 自身を埋める瓦礫を吹き飛ばして起き上がると、神父はやはり正面に立っていた。

 その右手に握られている、拳より二回りほども大きい拍動するアメジスト。見覚えなど無いが、知識としてハーゲンティは()()を知っていた。

 

 「ふむ。やはり、隷属術式が刻まれていますね。……ボスは誰です?」

 「……命程度で、契約を違えるわけが無かろう」

 

 神父が握っているのは、ハーゲンティの心臓だった。

 拳より大きな宝石、しかも魔術的な力を多く含む悪魔の心臓を破壊するのは容易いことでは無い。しかし、もしあれが破壊されれば、ハーゲンティの身体は速やかに死を迎え消滅する。

 

 だが、それがどうしたというのか。悪魔は魂が破壊されない限り、無限に転生することができる。

 ここで殺されたところで魂は地獄へと戻り、肉体はまた再構成され、召喚の時を待つことになるだけだ。

 

 悪魔の魂のような強力な存在を破壊するには、契約を破らせるか、より上位の存在による攻撃しかない。たかだか神父、それも徳の低いこの男に、そんな攻撃手段があるとは思えない。

 だいたい、72柱に列席するということは、すなわち全悪魔の中で最高位であることを示す。

 

 「私を真に殺したいのであれば、最低でも座天使の加護を受けてから──は?」

 

 ()()()()()()

 ハーゲンティの魂に刻まれ、身体を縛る隷属術式。そこに刻まれた契約内容が、ハーゲンティの同意なく一方的に書き換えられた。

 

 そんなことは不可能だ。そんなことが可能なら、契約に意味など無くなってしまう。故に、術者も、悪魔も、契約魔術には一つの穴も開けていない。内部から書き換えること、外部からの干渉、術式そのものへの介入、あらゆる手段への対抗策が幾重にも張り巡らされている。

 

 「ふむ、なるほど。まぁ、本物の悪魔が中位悪魔などと行動を共にしている時点で、とうに察しは付いていましたが」

 

 まさか、と、ハーゲンティは喉を鳴らした。

 術式そのものを完全に解析し、改竄した? 馬鹿な。ハーゲンティに隷属を課したのは、彼より上位の──

 

 「もう結構ですよ。お疲れ様でした」

 

 ぴし、と。神父が拳に込めた力に耐え切れず、アメジストの心臓にヒビが入る。

 耐え難い痛みと不快感がハーゲンティに襲い掛かるが、そんなものに構っている暇は無かった。

 

 無くなる。自分が、存在が、記憶が、魂が。

 

 「や、やめ──」

 「おっと」

 

 軋む。

 数千年を生きるハーゲンティをして味わったことのない、魂に鎖が絡みつく感覚。

 

 「命乞いは契約違反ですよ。それから──死ぬことも」

 「クッ!」

 

 詰んでいた。

 まさか、これほどの術者が人間から生まれるとは。

 

 「その魔術。かのソロモン王にも匹敵する。……見事」

 

 ハーゲンティはそう讃え、瞑目した。

 長く生きたものほど生に執着するようになるとよく言われるが、それは人間の尺度だ。

 100年、200年では、死が殊更に恐ろしくなる。500年も生きれば死への恐怖が薄れ始め、1000年も生きれば今度は死を想い始める。そして数千と年を重ね──高位の悪魔たちは、死に無頓着になっていた。

 

 この世の堕落の全てを貪り、究極の悪性と成り果てて、その結果がこの様か。

 

 ハーゲンティはそう自嘲し、長い一生を終えた。

 

 



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11

 ハーゲンティの心臓の残骸を手から払いながら、ナイ神父は塵となった死体を一瞥した。

 その直後に、二人を追ってきた衛士たちが倉庫に突入してくる。

 

 「ご無事ですか、神父様!」

 「まさか、あの悪魔を祓われたのですか!?」

 

 何の感情も宿さない、ただ目の前を飛んでいた羽虫を叩き潰したような気楽さで、ナイ神父はにっこりと笑った。

 

 「いえ、殺しました」

 

 悪魔への対処の難易度は、その方法によって大きく変わる。

 

 首を刎ね、心臓を貫き、頭を砕き、その他のあらゆる方法で息の根を止める……難易度、低。

 対抗魔術によって悪魔を地獄へ送還する……難易度、中。

 神聖属性の魔術によって悪魔を祓う……難易度、高。

 

 この法則に照らせば、神父が取った手段はそう非現実的なものではない。

 だが、それは一般的な悪魔の話だ。

 

 「え? ジェイコブを倒すほどの悪魔を、ですか……?」

 

 白兵戦に長けた衛士を倒すほどの──ジェイコブが倒れているのは外傷ではなく魔力欠乏と自傷にも近い手の火傷が原因だが──悪魔ともなれば、話は別。

 アウトレンジから確実に効く悪魔祓いの奇跡か退散魔術を撃ちまくるのが安全策だ。尤も、そんなことをすれば宮廷魔術師でも一瞬で魔力欠乏に陥ることだろう。だからこそ、戦闘能力の高い高位悪魔は脅威なのだ。

 

 高位の聖職者であれば、もしかしたら悪魔祓いの奇跡で72柱の悪魔も退散させられるのかもしれない。そんな予想を立てていた衛士たちは、無傷で悪魔を殺したと言う神父に不審そうな目を向けた。

 

 儀式は彼らの領分だが、戦闘は衛士の領分。

 相手がどの程度の戦士かを見切る観察眼は一朝一夕で身に付くものでは無いが、彼らは歴戦と呼ばれる部類。その目に狂いが無ければ、眼前の神父に悪魔を一方的に下すだけの技量はない。

 と、いうことは。

 

 「なるほど! では、そういう事で報告しておきます!」

 

 部外者には秘密の魔術か何か。

 そうアタリを付け、衛士は神父の言葉に乗っかることにした。

 

 「えぇ、そうしてください」

 

 それを厭う理由も無い神父は、そう笑顔で返した。

 

 

 ◇

 

 

 見知らぬ男がヒィヒィ言いながら、それでもしっかりと支えて連れている男に見覚えがあった。

 男は誰かを探しているのか、しきりに周囲を見回している。顔を見るのではなく服を見ているようで、おそらく探し人の特徴を誰かから教わっただけで、面識は無いのだろう。

 

 「あれ、ヨハンさんじゃない?」

 

 フィリップが見つめる先に誰が居るのか気付いたモニカが駆け出すが、すぐに足を止めて小さく悲鳴を漏らした。

 少し近付けば、フィリップにもその理由が分かる。

 

 脇腹は鎧ごと抉るように消失しており、応急処置こそされているようだが、あまりにも不足だ。

 

 「マザー……?」

 

 彼を治してくれと言ったらどういう反応をされるだろうか。

 どうして? とか、貴方に得があるの? とか聞かれるのはまだマシな方か。殺す方が楽じゃない、とか言い出したら弁解の余地が無い。

 

 「どうしたの?」

 

 深い慈愛を湛えた、絵画や聖典に描かれた聖母をも凌ぐ美しい微笑。

 その慈悲と愛情が人類すべてに向けられていれば、彼女は聖女の生まれ変わりとして崇められることだろう。

 

 「彼の治療をお願いできますか?」

 

 フィリップがダメ元でヨハンを示して言うと、マザーは意外にもにっこりと微笑んだ。

 

 「えぇ、いいわよ。えっと、呪文は確か……《エンジェル・カドル》」

 

 魔術が効果を発揮した瞬間、ヨハンの身体が光り輝く。

 欠損部位は直ちに修復され、失った血液が補充され血色が戻り、体力や疲労まで回復したのか、支えていた男から離れている。

 

 「い、今のは……?」

 

 致命傷からの完全復活。

 神官一人ではまず不可能、高位神官数名での大儀式による天使の降臨とその補助が大前提となる最高位魔術だ。当然ながら蘇生の大儀式などと同様、教会の秘術に分類されるものであり、ヨハンのような衛士であっても知らない術法だった。

 

 ヨハンは何が起こったのか分からず困惑しているようだが、それはフィリップも同じだった。

 

 まさか二つ返事で治してくれるとは、どういう風の吹き回しか。そう思ってマザーの様子を伺うと、嬉しそうにフィリップを見つめるマザーと目が合った。

 

 (……なるほど)

 

 これは、あれだ。

 フィリップがそう()()()()から治しただけで、それ以外に意図なんてない。

 子供が露店で売っているお菓子を欲しがったとき、買い与えた所で何も問題が無いから買ってあげた。それで喜んでくれるなら自分も嬉しい。それだけのこと。

 

 ヨハンの命を救うことにコストが無く、デメリットが無く、突っぱねてフィリップの機嫌を損ねるのを厭ったから。ただそれだけの理由で命を救ったということは、つまり、ヨハンの命が乗った天秤のもう片側には、フィリップの機嫌が乗っていたということだ。

 フィリップの機嫌を損ねた所で、彼女たちには何のデメリットも齎さないだろう。フィリップが本気で彼女たちを殺そうとしたところで、適当に可愛がられて、適当に嘲笑われて、それで終わりだ。彼女たちに()()させることすら出来はしない。

 

 だから──それほどまでに無価値なものと同じ天秤に命を乗せ、あまつさえフィリップの機嫌に重きを置くなど。

 

 絶対的な価値観の相違と言い切れてしまえたら、どれだけ楽だっただろうか。

 フィリップに与えられた知識は、その価値感を理解してしまった。そういうものだから仕方ない、という諦めと共に。

 

 「ありがとうございます、マザー」 

 「どういたしまして。このくらい、なんてことないわ」

 

 おねだりに応えてお礼を言われた。

 それは世間一般で言うお菓子を買い与えたような感覚なのだろう。慈しみに溢れた微笑は深い慈愛を感じさせ、フィリップにさえ心地よさと安心感を与えてくれる。

 

 「おぉ、フィリップ君も。本当に無事だったのか」

 

 心中に溜まったもやもやとした感情を溜息で追い払っていると、心なしか嬉しそうなヨハンが近付いて来た。

 ヨハンが失踪したのはフィリップ捜索の途中だったということもあり、責任感と罪悪感が良心をつついてくる。

 

 「はい。ヨハンさんたち……と、こちらのマザーと、もう一人の神父様のおかげです。二人とも投石教会の方なんですよ」

 

 後頭部に視線を感じて慌てて付け足す。

 機嫌を損ねられると、フィリップなどより余程不味いことになる。自分で助けた命だからと殺すことを躊躇うような、そんな生温い思考はしていないだろう。

 

 焦りのあまり余計なことを付け足してしまうのは、経験値の不足だ。そもそも幼少時から実家の手伝いをしていたフィリップは、嘘や誤魔化しに慣れていない。ミスは隠さず報告すれば、ベテランの従業員が何とかしてくれるからだ。隠し慣れていない動揺はすぐに表情に出るし、視線も泳ぐ。

 まさか眼前の少年が必死に天秤の均衡を保っているとは思わず、ヨハンは不器用そうな笑顔を浮かべた。

 

 「良かったよ。ジェイコブの気休めじゃないかと思ってたんだが」

 「ジェイコブさんにお会いしたんですね。実は、ジェイコブさんと、例の神父様やモニカと一緒にヨハンさんを探していたんです」

 「あぁ、聞いたよ。本当にありがとう。……ところで、さっきの回復魔術は、あの方が?」

 

 フィリップは「大修道女(マザー)」と呼んでいたか。

 だが、教会は意外と縦社会だ。王国が信仰している正統派は特に年功序列が顕著で、ぱっと見──喪服のヴェールで顔立ちをはっきりと判別することは難しいが──20歳そこそこで指導者の地位に就くのは不可能にも思える。

 

 結局、あれほどの回復魔術を使えるのなら、特例も通るだろうと自分を納得させた。

 

 「この若さで、凄まじい魔術でした。命を救って頂いたご恩は、決して──」

 

 籠手を取って握手を求める動作の途中で、ヨハンは魅入られたように硬直した。

 いや、事実、魅入られてしまったのだろう。

 

 マザーの顔を隠すヴェールは、そう厚いものでは無い。レース装飾の施された精緻な薄絹は、3歩ほどの距離まで近付けば表情まで容易に見て取れる。

 流れるような銀髪、妖しく輝く銀の瞳、透き通るような白い肌。神が作り上げたような──というか、神が作った──美しさの化身。具体的な指標(APP)で表すのなら21。ちなみに一般人は10、人間の限界は18である。

 

 人外の美を目の当たりにしたヨハンは、その理由が驚愕か魅了かは定かではないが、一時的に思考を停止しているようだ。

 

 「……ヨハンさん?」

 

 外見が美しいものはその性質までも美しい……と、必ずしも言い切れないことは常識だ。

 美しい花畑が食人植物や肉食昆虫の狩場なんてことはザラにあるし、名剣や妖刀と呼ばれる部類のものは幾万の命を斬り捨てて輝く。勇壮と威厳の象徴とされるドラゴンも、半面、災害の化身でもある。

 

 だが──そんな常識に囚われないほどに、美しかった。

 

 「壊したんですか?」

 

 咎めるような声を向けられて、マザーは首を傾げた。

 

 「そんなつもりは無いけれど、ヒトって簡単に壊れるものでしょう?」

 

 確かに。

 そんな軽い納得を覚えてしまったフィリップは、微かに自己嫌悪しながらヨハンの身体を揺すった。

 

 「ヨハンさん? 大丈夫ですか?」

 「ヨハンさん、どうしたの?」

 

 ただ突っ立っているヨハンを不審に思ったのか、モニカも戻ってくる。

 少し続けて揺すっていると、ヨハンは弾かれたように意識を取り戻した。

 

 「はっ! す、すまん、大丈夫だ。投石教会でしたか、今度お礼に伺います」

 

 握手を求めていたことも忘れて、ヨハンはそそくさと立ち去ってしまった。

 何だったんだろう、と首を傾げたフィリップとは裏腹に、モニカはニヤリと悪そうな笑みを浮かべた。

 

 「あれは……()()たわね!」

 「……なるほどね?」

 

 それは本当に勘弁してほしかった。

 別に好意を抱くなとは言わない。モニカだってナイ神父にぞっこんだし、個人の感情に口を出す気はない。彼らは人外の美を纏い、さらに強大な力を持っている。惹かれるなという方が難しい要素だ。フィリップのようにその性質や本性までも知っていれば話は別だろうが、それを知った時点で発狂するので意味のない仮定である。

 

 恐れるべきは、外神たちの方だ。

 人間の扱いに慣れたナイ神父──ナイアーラトテップであれば、幼気な少女の向ける好意も、目的の為にうまく活用してみせるだろう。或いは愉悦のためにかもしれないが、とにかく衝動的に殺したりはしないはずだ。

 問題はマザー──シュブ=ニグラスだ。ヒトの肉体に、延いては湧き上がる感情に不慣れな彼女は、少し気分を害しただけで国を滅ぼしかねない危うさがある。

 

 気色悪い虫を一匹殺して、周囲を見回せば同じ虫がうじゃうじゃいる。

 腕の一振りでその巣を壊す力があるのなら──どうするかは想像に難くない。

 

 マザーが人間のことを「取るに足らないもの」と認識し続ける限りにおいて、この星の安寧は保たれる。故に、なるべく無関心に、無関係でいて欲しいというのが偽らざる本音であり、その安寧を保ち続ける最も簡単な手段だ。

 

 「ねぇ、マザー。ヨハンさん、どうですか?」

 

 興味津々といった風情で──事実、他人の色恋沙汰に敏感なお年頃なのだが──無邪気に訊ねるモニカに、フィリップは慌てふためいた。

 

 「も、モニカ? 本人の居ない所でそういうのは良くないよ」

 「本人がいないから聞いてるのよ!」

 

 幸いにして、マザーは片手を耳元に添え、囁くように口元を動かしていて、モニカの話を全く聞いていなかった。視線だけはフィリップに向けられているが、何を話しているかには興味が無いらしい。最低限の安全監視といったところか。

 

 「通信魔術? 神父さまとかしら?」

 「……たぶん、そうだね」

 

 わざわざ地球由来の魔術を使うということは、そうだろう。

 他の外神との交信という可能性もあるが、これ以上地球に外神が増えるのはよろしくないはず。地球に眠っているクトゥルフが目覚める程度であれば何ら問題はないが、その目覚めに他の旧支配者が反応し、外神・旧支配者対旧神の大戦争とか、外神対旧支配者対旧神の三陣営による邪神大戦にでもなれば──

 

 「フィリップ!」

 「うわっ!? な、なに、モニカ?」

 

 フィリップが想像するだに悍ましい未来予想図に瞳をどろどろに溶かしていると、それに気付いたモニカが慌てたように両肩を掴んで揺さぶった。

 悪夢から引き戻されたフィリップが焦ったような笑顔を浮かべると、モニカは安堵と呆れを混ぜた溜息を零した。

 

 ちょうど同じくらいのタイミングで、通信を終えたマザーが近付いてくる。

 

 「あちらも一段落付いたみたい。一度、教会へ戻りましょう」

 

 これ幸いと了承を返し、フィリップはこれ以上モニカに余計なことを言わせないように、必死にマザーと話し続けた。

 その背中に向けられるモニカの生温かい視線と、本当に嬉しそうなマザーの微笑には気付かないまま。

 

 

 



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12

 王都の地下には、魔法によって成形され、錬金術由来の浄水装置が据えられた、広大な下水道が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。

 

 その内壁は錬金術によって造られた強度と耐久性に優れた建材で舗装されており、汚れの付着だけでなく魔物の発生を防ぐ効果もある。しかし、犯罪者などの「地下に潜らなければいけない」輩にとっては残念なことに、そこは立ち入り禁止区域であり、定期的に衛士や冒険者による『掃除』が行われていた。

 

 しかし──住人が全くいないというわけではない。

 掃除役である戦闘特化の衛士や、下水掃除を割り振られるCランク以下の低級な冒険者では発見できない、高度な隠蔽魔術を使える者。

 

 闇商人。カルト。禁呪研究者。

 そういった才あるはぐれ者たちは、互いに接触しないように──接点があると、誰かが捕まった時に売られるリスクが発生するから──暮らしていたのだが、それも数週間前までの話だ。

 

 彼らは完全に掌握されていた。

 自らの棲みかにかけていた魔術を容易く暴かれ、必死の抵抗を嘲笑われて、生きるために傅いた。

 

 地下空間を一掃し、手駒として掌握した偉大なる者。

 同じ名を冠するだけで不愉快と嫌っていた魔物としての悪魔を支配下に置き、72柱に総裁として列席したハーゲンティにさえ隷属の術式を刻めるほどの超大物。

 

 それが──二人。

 

 二つ並んだ玉座の右手に座るのは、騎士のような全身甲冑に身を包んだ端正な顔立ちの悪魔。男性とも女性ともつかない中性的な美を湛えた顔を晒しているが、その双眸は最高位悪魔であることを示す金色に輝いている。

 72柱の悪魔に数えられ、公爵位を戴くエリゴス。

 

 左手の玉座に座るのは、人と犬と鷲の頭を持ち、竜の身体を窮屈そうに玉座に据えた悪魔。すべての頭部には一対の金色の瞳が輝き、エリゴスに並ぶ最高位悪魔であることを示している。

 72柱の悪魔に数えられ、エリゴスと同じ公爵位を戴くブネ。

 

 「ハーゲンティが殺された」

 

 口を開かない悪魔特有の発声で、エリゴスが愉快そうに言う。

 玉座の下に跪く中位・高位の悪魔たちが慄くように身動ぎするが、口を開くことは無い。エリゴスたちにしてみれば高位悪魔など木っ端、中位悪魔など虫けら同然である。許可なく口を開けば苛烈な粛清が待っていた。

 

 「どこぞの神父が、ワタシの隷属術式を書き換えて、な」

 

 ククク、と、喉を鳴らすようにして笑うエリゴス。

 同調するような笑いが配下の悪魔たちからもちらほらと零れ──全ての悪魔が内側から爆発して死んだ。

 

 「人の失敗を笑うなよ。嫌な奴らだな」

 

 飛び散った血液を何滴か浴びて、不愉快そうなブネが犬の首を向ける。

 口を開かないのは、他の悪魔と同じだ。

 

 「それで、どうするのだ? その神父とやら、明確な障害となろうが?」

 「どこの教会に属する者かもわからないからね。ワタシが教会を端から潰す計画だろう? その時にでもついでに殺しておくさ」

 

 人型のエリゴスとは違い、竜の身体に人、犬、鷲の首を持つ明らかな異形のブネは、人前で活動するのに向いていない。

 表舞台に出るのは最後の時とあらかじめ決めてあった。

 

 「貴様の魔術は既に破られているのであろう? まず斥候を出すべきではないか?」

 

 侮りとも取れる言葉に柳眉を逆立てるが、エリゴスは同格相手には激発しなかった。

 より正確には、その言葉の正しさを理解して、納得していた。

 

 悪魔は残忍だが、馬鹿ではない。むしろ狡猾だ。卑怯上等、勝てば善し。プライドは高いが、それを押し通せるだけの相手かどうかは見分けなければいけない。

 

 「……確かに、その通りだ。行けるな、ビフロンス」

 「お任せを」

 

 呼ばれた悪魔は、この地下空間の扉を守っていた、同じく72柱の悪魔だ。

 頭の前後に顔を持つ、双頭のケンタウロスと言えば分かりやすいか。砥上げられた槍を持っているが、それは床に置かれ、二人に跪いている。

 

 「よし、行け。72柱に伯爵位を戴き列席するお前の力、ワタシに見せてくれるな?」

 「はっ。この王都より、全ての教会を抹消してご覧に入れましょう」

 

 玉座に掛ける二人は、その士気の高い返答に満足そうに頷いた。

 

 「よろしい。では行け」

 「全ては──魔王サタン様の復活のために」

 

 

 ◇

 

 

 ヨハンが見つかりました!! と。

 何日も消息を絶っていた団員の無事が声高に叫ばれ、鬱屈としていた衛士団本部が沸き立った日から数日。

 

 同所、医務室にて、いくつか埋まっているベッドのうちの一つに衛士たちが集まっていた。

 

 「結構顔色戻ってきたなー」

 「手もミトンじゃなくなってるな! ……ま、まぁ、包帯はまだ取れてないけど」

 

 わいわいがやがや騒ぐこと数分。

 パンパン、と手が叩かれ、医務担当官──ではなく、尋問官のクワイリーが人だかりを散らしに来た。

 

 「ほら、お昼休みは終わりですよ」

 

 ちぇ、とか、昼飯忘れてた、とか言いながら医務室を後にする団員たちを見送って、クワイリーは横になっているジェイコブに向き直った。

 

 「それにしても、驚きましたよ。瀕死の貴方が、失踪していたはずのヨハンに担がれて帰ってきたんですから」

 「はは……」

 

 回復魔法としては最高位、教会の秘術の中では蘇生の大儀式に次いで二番目の、高位回復魔術《エンジェル・カドル》を受けたヨハン。

 対して、適性のない魔術を繰り返し行使し、生命力を用いた代償詠唱まで行い、魔力と生命力を殆ど空にして帰ってきたジェイコブ。

 

 生命力はそのまま、生きるための力のことだ。ゼロになれば死ぬ。

 魔力は時に生きる意志とも言われ、ゼロになっても死にはしないが、傷の治りや体力の回復が著しく遅くなる。

 

 その二つを大きく削られ、さらに両拳に酷い火傷を負って担ぎ込まれたジェイコブだったが、医務担当官は慌てず騒がずクワイリーを呼んだ。

 

 体力を削り、生命力を削り、生きる意志を奪い、それでも生に執着させ、情報を吸い上げるのが仕事のクワイリーだ。

 傷の治療こそ本職に劣るものの、()()()()()()()()ことに関して彼の右に出る者はいない。

 

 「そういえば、また少し増えたか?」

 

 医務室をぐるりと見回してジェイコブが言うと、クワイリーもそれに倣い、頷いた。

 

 「そうですね。連日の教会襲撃──いえ、破壊、という方が正しいですね」

 「何か分かったんですか?」

 

 クワイリーは隣のベッドで寝息を立てている男をちらりと確認すると、少し声のトーンを下げた。

 

 「現場から上がってきた推測ですが、襲撃者の目標は教会の破壊です。司祭や牧師、居合わせた信徒の死傷者は全て、直接の攻撃を受けていません」

 「巻き込まれただけ、ということですか」

 

 ヨハンが発見された日から今日にかけて、一等地から三等地まで区画を問わず、教会が襲われている。

 襲撃される教会の位置や規模に規則性は無く、無人の教会から地区統括の立場にある大教会まで、分け隔てなく破壊されていた。

 

 目撃者の証言に拠ると、襲撃は信徒に化けた魔物によって行われたものだという。この情報は教会関係者の間で瞬く間に拡散され、今では幾つもの教会が定期ミサを中止している。

 神の家たる教会を閉鎖することは出来ないが、せめて無関係な信徒は守ろうということだろう。

 

 「それにしても……この期に及んで、本気装備の解禁がまだとは」

 

 怒りも露わにジェイコブが吐き捨てる。

 クワイリーは苦笑するだけで何も言わない。

 

 本気装備や戦争用など色々な呼ばれ方をする、衛士たちの一張羅。

 普段は王城の兵器庫で眠っている、個人用に一から制作され、退団時に鋳潰される武器防具。

 

 普段使いの巡視用装備とは一線を画す品質とエンチャントが施された準国宝級のそれらは、滅多なことでは装備許可が下りない。

 

 理由はまぁ、色々だ。

 軍隊に常に最上位装備をさせておくということは、常に戦争の用意が出来ているということだ。それでは他国との間に要らぬ摩擦を生んでしまう。

 

 衛士団は攻撃戦では一番槍であり、防衛では最前線となる盾であると同時に、警察組織や治安維持部隊の役目も持っている。彼らが常に本気の武装をしていては、民衆も落ち着いて生活できないというものだ。適度な威圧感を与えるために鎧を纏い帯剣しているが、本気装備とは格が違い過ぎる。

 

 そして最も大きな理由は、彼らこそが()()()()であることだ。

 所属条件に軍学校か魔術学院の成績上位卒業者かAランクの冒険者であることと三年以上の実戦経験を課す組織など、衛士団以外には存在しない。数こそ王国最後の盾を自称する近衛騎士団に劣るものの、二つの軍が衝突すれば鎧袖一触に屠られるのは近衛の方だ。

 

 そんな連中に最上位装備をそう易々と持たせられるか、というのが、王宮警備を担当する近衛たちの総意である。

 万が一クーデターでも起こされれば、その成功が確実なものになってしまう。

 

 「国王陛下は、なんと?」

 「いえ……恐らく、陛下はこの現状をご存知ありません」

 「は? ……クソ、騎士団長か?」

 

 近衛騎士団長が王都衛士団に対して狂信にも近い憧れを抱いているのは、衛士団に属する者であれば周知の事実だった。

 

 彼は決して無能でも愚かでもない。騎士団において、軍学校卒業者の割合は3割程度。残りは家督を継ぐ見込みのない貴族の次男・三男辺りが大半を占める。そんな組織に在って異色な、軍学校次席卒業者という輝かしい経歴。しかも、衛士団の先代団長と同期──ドラゴンを単騎で落とす変態の次席である。「奴が衛士になるのなら、私には騎士が似合いだろうさ」と騎士になった辺りから諦めが見えるが、騎士団長にまで昇り詰めた辺り、優秀であることは間違いない。

 

 悲しむべきは──彼の知る「衛士」が、衛士たちをして「変態」「超人」「人外」と言われ放題だった先代団長と、「超人」の名を受け継ぎ、新たに「脳筋」の称号を得た現衛士団長だけだということ。そして、そんな彼らに次席として喰らい付ける程度には、彼自身が強いこと。

 

 問題が起こり、手に負えないと判断し本気装備の解禁を申請してから許可に時間がかかるのは、騎士団長の認識に原因の一端がある。すなわち──「この程度の問題であいつらが屈する訳が無い」と。

 

 騎士団長のそれが悪意ではなく好意ゆえに衛士たちも心の底から嫌うことはできなかったが、好かれてもいなかった。積極的に暗殺しようとは思わないけど、一日一回、クローゼットに足の小指をぶつければいいのにな。くらいである。

 

 「分かりません。報告が途中で握り潰されている可能性も」

 

 そしてさらに残念なことに、近衛騎士団は無能の掃き溜めにも近かった。

 トップは優秀だ。近眼ではあるが、衛士たちが認めるだけの強さはあるし、貴族が幅を利かせる近衛騎士団で平民ながらトップに立った傑物だ。……本当に、色眼鏡を外しさえすれば手放しで尊敬できるのだが。

 

 だが配下は、率直に言ってヘドロだった。

 

 実家の権力で地位を得るのは当たり前。賄賂、恐喝、平民出身者や低位貴族への身分差別が横行している。

 もはや騎士団長個人がどうこう出来るレベルではないし、だからこそ清廉な衛士団への憧れが加速しているのだろうが、それはこうなるまで放っておいた先代以前に問題がある。

 

 「……団長が何も言わないってことは、まだ何とかなるってこと……なんですかね?」

 

 途中で不安そうになったジェイコブに、クワイリーは肩を竦めて返した。

 

 「さぁ? あの人も脳筋ですからね」

 

 王都衛士団──駄目そうだった。



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13

 ヨハン捜索以来、フィリップとモニカは宿屋の仕事で忙しくしていた。

 掃除・洗濯・買い出しなどの雑用は丁稚や新入りの仕事だし、モニカは次期女将ということもあって時間があれば経営などの勉強をしなくてはいけない。

 

 「おーい、カーター君。食材の買い出しお願い出来るかー?」

 「え? 今からですか?」

 

 洗濯を終えて厨房で水を飲んでいると、副料理長の男がメモ片手に言う。

 フィリップはつい昨日、料理長に言われて食材と酒を買ってきたばかりだ。それも荷車一杯分。

 

 「昨日行ったばっかりですけど、漏れがありましたか?」

 「いや、それがな……」

 

 ぴっと親指で背後を示す副料理長。

 身体を傾けて彼の背後を見ると、モニカより少し年上の料理人見習いがきまり悪そうに縮こまっていた。

 

 フィリップの視線に気付くと、とぼとぼと近づいて来て頭を下げた。

 

 「すまない、フィリップ君。実は調味料をこぼしてしまって……万が一にも足りなくなると困るんだ」

 

 地元の宿屋であればミスした本人が自分で買いに行くのが当たり前だが、王都では違う。

 買い出しは丁稚の仕事で、それを奪うことはたとえ店の主人でも許されないのだ。元は一等地の貴族邸や王城で働く執事やメイドといった侍従職の矜持だったのだが、それが一般人にも定着し、やがて町全体がそんな文化になったらしい。

 

 「はい、分かりました。いつものお店でいいですよね?」

 「おう、頼むわ」

 

 副料理長が渡したメモにざっと目を通し、フィリップは落ち込んでいる料理人に苦笑を向けた。

 

 「こぼしたって、大袋から溢したんですか?」

 「そうなんだ……本当にすまない……」

 

 がはは、と豪快に笑う副料理長に背中をバシバシ叩かれながら縮こまっていく。

 

 ちらりと窓に目を向ければ、もう日が暮れかけている。

 ……かなり急がなければ。夕食の準備はもう始まりつつあるし、大袋一つとなると10キロはある。行きはともかく、帰りに全力疾走は無理だ。

 

 「じゃあ、行ってきます」

 

 相場より少し多めの金を受け取って、フィリップは宿屋を小走りで出発した。

 

 

 

 そんな平和な一日──の、はずだったのだが。

 

 「おや、奇遇ですね」

 

 一日も終わりに近づき始めた夕暮れ時には、というか、なるべくなら一生会いたくない相手が、にっこりと笑顔を浮かべて佇んでいた。

 

 二等地の教会で暮らす神父が二等地の商店街に来るのは不思議ではないが、ナイ神父の纏う浮世離れした雰囲気とはマッチしない場所だ。

 買い物時とは少しズレているが、それでも人が全くいないわけではない。

 

 奥様方やお使いらしい少女たちの視線を集めながら、神父は何を買う訳でもなく店を回っているようだった。

 今夜のメニューに迷っているように見えるが、そもそも食事の必要性すら怪しい身だ。怪訝そうなフィリップの表情を一瞥して、彼は思い出したように手を打った。

 

 「あぁ、そういえば君の奉公先は宿屋でしたね。食堂はありますか?」

 「……えぇ」

 

 何を言い出すか見当のついたフィリップは、無駄と知りつつも抵抗することにした。

 さっと調味料や香辛料を扱っている店に近付き、メモ通り大袋一つを注文する。その後ろにぴったりと神父が付いて来ているが、それは無視する。

 

 「まいどあり。けどカーター君、昨日も来なかったかい?」

 「宿の者が、ちょっと溢してしまいまして」

 

 苦笑交じりに店主と言葉を交わし、重いけど大丈夫かい? という心配に頷いて答える。

 実際、他に荷物のない状態なら10キロの袋を抱えて歩ける距離だ。

 

 受け取ろうとしたフィリップだが、その横から伸びた腕が袋をひょいと持ち上げる。

 香辛料の詰まった袋を肩に担いでにっこりと笑うナイ神父に、フィリップは溜息を苦労して呑み込んだ。それはさすがに「宿屋の丁稚」として許容される行為ではない。

 

 「ナイ神父?」

 「私が持ちますよ。これから食事をしにいくつもりだったので、ついでです」

 

 厚意を理由も無く無碍にするのが好まれないのはどの町でも同じだ。親切は拒むのではなく、受け取り、そして他人や当人にしっかりと恩返しするのが美徳である。

 

 「気にする必要はありませんよ。もしご主人に怒られそうなら、私が謝りますから」

 

 頭をぽんぽんと撫でられ、虫唾が走るような不快感が襲い掛かる。

 マザーは母神だからか、懐かしいような温かさも同時に感じるのだが、ナイ神父からは胡散臭さを同時に感じるだけだ。

 

 先ほどからずっと二人を見ていた──というか、ナイ神父に熱い視線を送っていたご婦人方が黄色い悲鳴を上げるが、フィリップには敗北を告げるホイッスルに聞こえた。

 

 「……お願いします」

 

 これも仕事、これも仕事と口の中で唱えながら頭を下げる。

 満足そうに頷くナイ神父の顔を見ていたら、きっと拳の一つでも握っていただろう。殴りかからない辺り、身の程を知っている。

 

 そんな中途半端な賢しさと惨めさがいっとう面白く、ナイ神父は浮かべた微笑をより深いものにした。

 

 「では、行きましょうか」

 

 先んじて歩き出したナイ神父に続く。

 

 しばらく歩いていると、不意に周囲の音が遠ざかり、ナイ神父の声がやけに鮮明に聞こえるようになった。

 

 「防諜魔術です。姿は見えますが声は聞こえませんよ」

 「……便利なものですね」

 

 防諜魔術や無詠唱がどの程度の技術なのかは、魔術知識のないフィリップには分からないが、舌打ちや溜息を人目を憚らずできるというのはストレスの軽減になる。

 ナイ神父はそんな気楽な感想に嘲笑を向けるが、フィリップが黙殺するとつまらなそうに肩を竦めた。

 

 「それで、何してるんですか?」

 「君に会いに来たんですよ」

 

 ナイ神父が悪戯っぽい仕草でウインクを飛ばすが、フィリップの冷え切った視線に撃ち落された。

 声は聞こえずとも遠巻きに姿を見ているご婦人方が黄色い悲鳴を上げ、何人かが意識を飛ばして周りの人に受け止められていた。

 

 「そうですか。ではお帰り下さい」

 「はは、手厳しい。ですがその前に、“ナイ神父”として君のご主人にお話すべきことがありましてね」

 

 王国に於いて、ではなく、一神教が広く信仰されているこの大陸において、聖職者の地位は高い。少なくとも神父が「主人に話がある」といえば、丁稚風情がそれを妨げるのは許されない程度には。

 染みついた習慣が舌打ちを自制させるが、代わりに溜息として不満を出力する。

 

 すると、神父の纏う雰囲気が一変した。

 

 「魔王の寵児よ。君の意向は最大限尊重するつもりです。ですが──」

 

 底冷えするような声色。『見るな』と、常人の本能であればそう警鐘が鳴らされる威圧感がある。

 残念ながら、恐怖や狂気というものの一切を剥奪されたフィリップは、とうに常人の域を出てしまっているのだが。

 

 何の気負いもなくナイ神父と視線を合わせる。

 髪と同じ黒だったはずの瞳が、吐き気を催すような極彩色に輝いていた。

 

 神威。いや、もっと悍ましい『存在感』のようなものが僅かに感じられ、投石教会の“ナイ神父”としてではなく魔王の使者“ナイアーラトテップ”としての言葉であることを示していた。

 

 「君の守護。そのために行われるあらゆる行為は、この世の全てに優先されます。フィリップ君、君の意思も例外ではありません」

 

 それはそうだろう、と、フィリップは暴風にも勝る威圧感に難なく耐え──というより、殆ど気づくことなく──気楽に納得した。

 

 フィリップ自身には実感も無ければ恩恵も無いが、フィリップは『魔王の寵児』だ。白痴の魔王が何の意図も考えもなく守護を命じた、小さな星の矮小な生き物。外神にとっては一瞥する価値も無いモノだ。

 そんなフィリップの意志と、アザトースの命令。どちらを優先するかなど考えるまでも無いこと。

 

 「まぁ、そうでしょうね」

 

 あっけらかんと言い放ったフィリップに、ナイ神父は満足そうな笑みを浮かべた。

 

 「理解が早くて助かります」

 「……着きますよ。袋、ありがとうございました。あと、すぐにその目を引っ込めてください」

 

 常人であれば最低でも嘔吐、最悪発狂しかねない冒涜的な色合いだった瞳が、瞬き一つで落ち着いた黒に変わる。

 それを確認したフィリップが案内するように扉を開けると、従業員たちの元気な声が飛んでくる。

 

 「いらっしゃい! ……お、カーター君。お疲れさま、すぐ持って行ってあげて!」

 「はーい」

 

 小走りで厨房に向かう背後で、「お食事ですか、ご宿泊ですか?」という問いに「ご主人と話したいのですが」と答える声が聞こえた。

 

 

 

 食事時を過ぎ、忙しさが急に落ち着く時間帯がある。

 従業員たちが食事を摂ったり、身体を休めたり、交代の人員に引継ぎをしたりと自由に過ごす中で、一つのテーブルがまだ埋まっていた。

 

 4人掛けの片側にカソックの長身が一つ。

 対面には宿屋の主人セルジオの仏頂面と大量の疑問符を愛想笑いで隠した女将アガタが並ぶ。

 

 「……ごゆっくりどうぞ」

 

 沈黙に支配されたテーブルを遠巻きに見守る従業員たち。凍ったような空気のなか、誰も行きたがらなかったので仕方なく全員分の水を配膳したフィリップがそそくさと立ち去ろうとする。

 しかし、その背中に制止の声が掛けられた。

 

 「あぁ、フィリップ君。君も座ってください」

 「いえ、まだ仕事が──」

 「残りはやっておくよ。お盆貰うね」

 

 料理人見習いの青年が爽やかに、段取りよくフィリップを送り出した。

 おのれ、恩を仇で返すとは。別にそこまで恨むことでは無いが、クローゼットの角に足の小指をぶつける呪いをかけてやるぞ。

 

 そんな益体の無いことを考え──これを現実逃避という──、フィリップは大人しく空いた席に着いた。

 

 「……どういう状況ですか?」

 

 隣に座る神父にそう訊ねると、正面に座った二人が困ったような笑顔を浮かべた。

 はて、何か不味いことでもあったか。思い起こしてみるが、不味いことのオンパレードだ。神父はその素性がもうダメ、フィリップも出自こそ普通の人間だが『魔王の寵児』とかいう肩書がダメ、ついでにバックにいる外神がもう全然ダメ。

 

 何もできない。無力感に苛まれつつあるフィリップにしかし、主人は仏頂面のまま声を掛けた。

 

 「そう心配そうにするな。お前は何もしていない」

 

 続けて女将が安心させるように、揶揄うような笑みを向ける。

 

 「それとも、何か心当たりがあるのかい? アイリーンに言いつけようか」

 

 アイリーン・カーター。フィリップの母親だ。

 故郷の街で宿屋を経営しており、女将のアガタとは古い友人らしい。フィリップの奉公受け入れもその縁らしいが、それはともかく。

 

 丁稚として不味いことは何もしていないと言える程度には、フィリップは自分の仕事に自信を持っていた。

 仕事上の話、特に叱責でないことは、フィリップにとっては当然のことなのだ。だが心当たりはその外だし、山のようにある。

 

 「ははは……それでは、どういった話なんですか?」

 

 下手な誤魔化しに女将が「おや?」という顔をするが、フィリップの仕事ぶりも知っているからか、特に言及はしてこなかった。

 にこにこと笑顔を浮かべるだけの神父に一瞥を向けて、仏頂面のままセルジオが説明を始めた。といっても、

 

 「こちらの神父様が、お前に魔術を教えたいと仰られている」

 

 という簡潔な一文だけだったが。

 

 「え? それだけですか?」

 

 あまりに短い説明に聞き返したフィリップに苦笑しつつ、アガタが口を添える。

 

 「魔術の修行は大変なんだよ? 普通は一等地の魔術学院で三年間、寮に入って勉強するんだから」

 「彼は魔術の修行のため、奉公を中断、あるいは辞めさせたいと仰っている」

 

 それは少し強引だ、と、フィリップは訝しんだ。

 いくら神父が強い発言力を持つとはいえ、正式な文書などを交わしていない私人間の交渉であっても、契約に口を出すことはできない。より正確に言えば、してはならないとされている。

 

 「アイリーンとも約束したし、あんたが一人前になるまでは面倒を見る──いや、見なきゃいけないと思ってるんだよ」

 

 アガタはそう言うが、ナイ神父は笑顔を崩さず口も開かない。

 しびれを切らしたように、セルジオがとんとんと机を爪弾いた。

 

 「とはいえ、神父様に魔術を教わるなんて機会は滅多にない。そのチャンスをフイにしちまうのも、それは責任と意地の取り違えってモンだ。だから──フィリップ、お前が決めろ」

 「……え?」

 

 考える余地のない二択だった。

 日常か、非日常か。しかもそれは、心穏やかに未来への階段を一段ずつ踏み締めて昇る日常と、いつ訪れるかも分からない破綻に怯えながら地獄へ転がり落ちる非日常が並ぶ選択肢。

 

 誰だって前者を取るし、仮に日常に飽いていたとしても、悍ましい邪神たちと3人で過ごす非日常など願い下げだろう。

 

 選択権があるのなら、誰だって日常を選ぶ。

 

 しかし──ここで初めて、ナイ神父の視線がフィリップに向けられる。

 つい数時間前に経験した音の遠ざかる感じが訪れ、すぐ側にいる二人との間に音の隔絶が齎されたのが分かった。

 

 「フィリップ君。お分かりでしょうが──」

 

 にっこりと笑うナイ神父。

 極彩色に輝く吐き気を催すような瞳には、苦虫を噛み潰したような顔のフィリップ自身が映って見えた。

 

 「──これは父王の命に基づく、決定事項です」

 

 

 

 



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14

 結局、フィリップは少しでも日常にしがみつくことにした。

 

 朝起きて宿の仕事をこなし、昼から夕方にかけて教会で魔術を教わり、夜にはまた宿の仕事。

 ハードスケジュールにはなるが、体力的に問題はない。むしろ、宿の仕事で人間と交流するのは、精神の安定にも大きく貢献してくれることだろう。

 

 もうナチュラルに「人間との交流」なんていう思考が出てくるようになってしまったフィリップだが、自覚は薄い。それが滑稽で、かつ魔術を教えるという当初の目的は達成できるので、ナイ神父はそれを快諾した。

 

 今日はその初日──

 

 教会を訪れたフィリップは感情の読めない微笑を浮かべたナイ神父と、歓迎を満面の笑みと抱擁で表したマザーに仏頂面を向けていた。

 

 「それで、どういう目的があるんですか? 手元に置いておくのが狙いでは無さそうですけど」

 

 フィリップを守るために手元に置くというのであれば、むしろ朝と夜の就寝中を重視するはずだ。

 そう言うと、ナイ神父は嘲りも露わに肩を竦めた。

 

 「言ったでしょう? 魔術を教えるためですよ」

 

 ちらりとマザーの表情を伺うが、嘘を教えられている感じではない。

 ならば本当に魔術を習うことになるのだろうが、正直意味が分からなかった。

 

 たかだか人間の使える魔術が、邪神に通じるワケがないからだ。

 

 たとえば、フィリップでも知っている基礎魔術の《ファイアー・ボール》。火球を生成し射出する火属性で最もポピュラーな魔術だ。

 これの火力──攻撃力は、込める魔力の量に依存する。1の魔力では1の威力、10の魔力では10の威力になる。その威力から攻撃対象の魔法防御力を引いた値がおおよそのダメージになる。

 

 では眼前のナイアーラトテップの魔法防御力は如何ほどかと言えば、当然ながら人間の比ではない。

 フィリップが50人同時に全力で《ファイアー・ボール》を撃ち込んだところで、汗の一滴もかかないだろう。そもそもフィリップは魔術を習ってもいないので、意味のない仮定ではあるが。

 

 「何の意味があるんですか? まさか、僕に戦えと?」

 

 自慢ではないが、フィリップは弱い。

 幼少期から仕事を手伝っていたから体力はあるが、それも同年代に比べてという低い指標での話だ。邪神から見て吹けば飛ぶ塵芥なのは人間すべてが当てはまるが、たとえば衛士たちからしても、フィリップはキック一発で殺せるかもしれない程度の存在だ。

 

 「まさか。そこまで君を評価していませんよ」

 

 ナイ神父が嘲りも混ぜずに淡々と評する。

 現実を知っているフィリップが無感動に肩を竦め、マザーが少しむっとした顔を向ける。

 

 「ですから、君には召喚魔術を教えます。……あぁ、安心してください、魔物を使役するようなちゃちなモノではありませんから」

 

 言われて、フィリップは納得に手を打った。

 確かに召喚魔術であれば、フィリップ自身の脆弱さは問題にならない。聞きかじりだが、高位の召喚魔術であれば天使や悪魔を使役できるという。まさか、そのレベルか。

 

 最高位に位置するミカエル・ガブリエル・ウリエル・ラファエルの四大天使は流石に無理だとしても、六枚羽の熾天使や、四枚羽の智天使は人間では仰ぎ見ることしかできない魔術を使うという。

 悪魔には72柱という他の悪魔とは比べ物にならない化け物であることを示す称号がある。王位や君主、公爵は無理だとしても、伯爵位でも十分に強いだろう。

 

 そして、天使の手を借り悪魔を従えた王様の出てくる御伽噺は、故郷に居た頃のフィリップの愛読書だった。

 

 心が一度壊れているとはいえ、フィリップも少年だ。

 天使遣い。悪魔遣い。かっこいいじゃないか。いいじゃないか! そんな興奮を抱きつつあったのだが

 

 「では手始めに、クトゥグアを召喚してみましょうか」

 

 ナイ神父のその言葉で、一気に冷めた。

 

 というか。

 

 「生きた炎ですか? あれ……という代名詞が正しいのかは分かりませんが、あれは旧支配者では?」

 

 フィリップが受けたのは外なる神の加護だ。

 対して、クトゥグアは異なる陣営である旧支配者。

 

 与えられた知識から疑問を呈すると、ナイ神父は嘲笑交じりに拍手を贈った。

 

 「そこに気付くとは、教え甲斐のありそうな生徒で嬉しいですよ」

 「えぇ。きちんと知識は身についているようね」

 

 マザーは純粋に褒めているようだが、頭を撫でるのは止めて欲しい。

 ナイ神父のように肌でも知識でも不快感と拒絶感を覚えるのではなく、マザーには知識でしか嫌悪感を覚えないのだ。むしろ本能や感覚は深い安堵や懐かしさに包まれ、その抱擁に身を委ねたくなってしまう。それでも頭はきちんと悍ましいと理解しているので、そのギャップが苦しい。

 

 頭に乗った手を払ったときに聞こえた残念そうな声は無視して、フィリップは答えを待った。

 

 「旧支配者と我々外神、どちらが強いと思いますか?」

 「外神」

 

 即答だった。

 もちろん、外神から無作為に選んだ一柱と旧支配者から同じく選んだ一柱が戦えば、相性や条件の絡んだ勝負になる可能性もある。場合によっては旧支配者が勝つかもしれない。

 

 だが、外神にはアザトースとヨグ=ソトースという規格外が存在する。

 ヨグ=ソトースは万物の原型、窮極の雛型。あらゆる外神、そしてあらゆる旧支配者もまた、彼なのだ。

 そしてアザトース。この世の全てを夢見るもの。

 

 「えぇ。無知蒙昧なる父王と、門番気取りの引き篭もり副王。あの二柱だけで、旧支配者全員を相手取れることでしょうね」

 「だからこそ──私たちの庇護を受ける貴方に、誰も手出しできないのよ」

 「……虎の威を借りよう、と」

 

 狐というか、トラにくっついたダニが近いか。冗談みたいな存在の格差だ。

 

 期待を裏切られたのは腹立たしいが、クトゥグアを呼べるというのはいい。なんせ、あれの配下である炎の精は太古の昔、ナイアーラトテップの棲みかを焼き払い、追い出している。

 対抗手段としてはその上位であるクトゥグアは素晴らしいカードだ。万が一、召喚に失敗しても、出てくるヤマンソは外神。つまりフィリップを焼き払うことは無い。

 

 内心に反骨の炎を灯し、フィリップは決意の笑みを浮かべた。

 

 「分かりました、やります」

 

 だがフィリップは知らない。

 

 ナイアーラトテップは()()()()()()()()移動しただけだということを。

 たかが炎の精の上位存在、恒星が意志を持った程度の熱量でナイアーラトテップを殺し切ることなど出来はしないということを。

 

 勿論、化身の10や100は一度に焼き殺せる。

 だが、ナイアーラトテップは無数の化身を持つ。無限から10を引こうが1000を引こうが、大した意味はない。

 

 懸命に対抗手段を会得しようと意気込んでいるフィリップにそれをバラすのは、いったいどのタイミングが最も面白いだろうか。やはり、呪文を習得し達成感に浸っている時か。そこが一番効果的だ。

 

 その時どんな表情をするだろうか。

 

 落胆? いや、激昂か? 真偽を確かめようとダメもとでクトゥグアを召喚するだろうか。ならばそのとき、眼前で彼奴を屠ってやろう。

 希望を眼前で完膚なきまでに叩きのめし、ついでに個人的な恨みも晴らしてしまおうじゃあないか。

 

 絶望するだろうか。それはいい。絶対に壊れないようになっている人間に壊れるほどの絶望を与えたらどうなるのか、ここで一つ実験と行こう──

 

 「あ、そうそう。アレにクトゥグアは通用しないわよ」 

 「……え?」

 「……は?」

 

 アレ、と、ナイ神父を指して言うマザーに、二人の放心の声が重なった。

 

 「マザー? 何を言って──」

 

 実験計画を立てた傍から破り捨てられ、震え声でナイ神父が怒り混じりに疑問を投げる。

 しかし、マザーの怒りはもっと大きかった。

 

 無言でナイ神父を睨み付ける。しかも、銀色だった瞳は形容しがたい色に輝いており、神威に加えてもっと悍ましい何かも漏れ出している。

 

 「そ、そうなんですか……?」

 

 マザーはしょんぼりした顔のフィリップの頭を撫でて慰める。

 今度は手を払われなかった。

 

 タイミングが()()とこんなものか、と落胆の表情を浮かべたナイ神父が、とてつもなく重いものに衝突したような挙動で吹き飛んで壁にめり込んだ。

 

 轟音と暴風にドン引きしてはいるが、フィリップがマザーの手を払う様子はない。

 調子に乗ったマザーが抱き締めようと両手を広げるが、流石にフィリップも我に返って軽く避ける。

 

 マザーはまた残念そうな声を上げるが、フィリップにそれを気にしている余裕はなかった。

 

 「今のは……?」

 

 何も見えなかった。

 マザーの触手かと思ったが、違う。マザーはいま完全にナイ神父のことを無視して、フィリップを愛玩していた。

 

 魔術による圧縮空気弾? 違う。そんなものではナイアーラトテップに効果を及ぼせない。

 空間による攻撃? 違う。空間などではなく、もっと高次のものが動いていたし、何も動いていなかった。

 

 いまナイ神父を殴りつけたのは──強いていうのなら、世界?

 

 「まさか……ッ!?」

 

 よろよろと瓦礫の中から姿を見せたナイ神父は──いや、それは最早ナイ神父では無かった。

 かろうじて人の似姿ではあるが、それはとても人には見えない。足が3本に増え、体長は3メートルほどまで伸びている。二本の腕には鋭い鍵爪が鈍く輝き、ぽっかりと空いた空虚な顔の頭部には、3つの目が燃え上がっている。

 

 「やれやれ、手より先に口を出して欲しいのですが?」

 

 存在しない口から恨み節をこぼしつつ、よろよろと歩いてくる。

 本来の姿──という表現は不適切か。脆弱な人の肉体を捨て、邪神の肉体となってなお甚大なダメージがあるようだ。

 

 「副王よ。貴方が──」

 

 ナイアーラトテップが何かを言おうとして、それより早く世界に潰されて消滅した。

 

 唐突に過ぎる出来事にフィリップが呆然としていると、ギィ、と微かな軋みを上げて教会の扉が開いた。

 まぁあれだけの爆音で壁に衝突して、壁が半壊したのだ。近隣住民が様子を見に来るのは当たり前だろう。しかし、理由の説明は面倒だ。

 

 フィリップが現実逃避ぎみに扉を見遣ると

 

 「貴方が介入するほどの事でも無いでしょう。ちょっとした実験、しかも未遂ですよ」

 

 微笑しつつ文句を垂れるナイ神父が入ってきた。

 

 「次にこの子で実験しようとしたら、貴方にはこの任を外れて貰うわよ」

 「……分かりました。父王の命を遂行できなくなるのは困りますからね」

 

 やれやれ過保護ですね、とでも言いたげに肩を竦めるナイ神父。

 化身が幾万といるのは知っていたが、こうして直に見ると本当に冗談じみている。

 

 もう一回くらい殺しておこうかしら、と凄惨な笑みを浮かべるマザーを宥めつつ、フィリップは先ほどの攻撃を思い返していた。

 

 (副王……ヨグ=ソトース。見られているんだろうとは思っていたけど、まさか直接介入されても分からないなんて)

 

 殴ったのか蹴ったのか投げたのか、或いはもっと別な方法かは知らないが、さっきナイ神父を吹き飛ばしたのはヨグ=ソトースで間違いない。

 だが、ナイ神父やマザーが見せた神威や存在感といったものを全く感じなかった。

 

 隠して顕現とか抑えて顕現していたわけではないだろう。100%抑え込めるならともかく、1%でも漏れればそれは暴圧となってフィリップに襲い掛かる。気付かないはずがない。

 

 あれは──偏在だ。

 

 ヨグ=ソトースは世界そのもの。

 故にあの時、ナイ神父を殴り飛ばした()()()()()()()()()()()だった。そこにいたのではなく、そこが彼だった。

 

 まさに規格外。それが──フィリップを庇護する外神だ。

 

 「魔術を学ぶ意味、ある……?」

 

 フィリップは呆然とそう呟いた。

 

 

 



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15

 フィリップの疑問は尤もなものに思える。

 絶対者であるヨグ=ソトース、そして外神最強の一角であるナイアーラトテップとシュブ=ニグラスが傍に付いているフィリップを害せるものなど、この世に存在するのか?

 

 まずいないだろう。ならば、フィリップが魔術を学ぶ意味などないではないか。

 

 しかし、それはフィリップの──小さな視座と大いなる知識を持つ者からの意見だ。

 

 「フィリップ君。君は──」

 

 ナイ神父の言葉を遮るように、扉の軋む音がする。

 見れば、数人の心配そうな顔が並んでいた。フィリップにも見覚えがある、近所の人だ。

 

 「あの、大丈夫ですか……?」

 「すごい音でしたし、なんか壁も崩れてますけど……」

 「悪魔にやられたんですか……?」

 

 ナイ神父はにこやかな笑顔を浮かべると、「お騒がせして申し訳ない」と会釈しつつ入口へ歩いていく。

 

 「フィリップ君、あとで──いえ、マザーから説明を受けておいてください」

 

 これは面倒になっただけだな。フィリップはジト目を向けるが、無意味なことだと悟ってすぐにやめた。

 マザーに向き直ると、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。

 

 「どうして魔術を学ぶのか、よね。私たちの無能を説明するのは恥ずかしいのだけど──」

 

 彼女は謙遜をしない。

 誰かを相手に遜る必要が無いし、そもそも彼女より上位にはそれこそアザトースくらいしかいない。

 

 ならばその言葉は紛れもなく彼女の真意なのだろうが、それでも冗談じみている。

 

 彼女もナイ神父も、ヨグ=ソトースだって、決して全能ではないと、フィリップは知っている。だが、その権能は人間とは比べ物にならないほど強大なものだ。

 彼女が無能なら、フィリップはどうなる?

 

 その格差は思い知っているが、フィリップはその言葉に言い知れない不快感を覚えた。言語化できなかったので黙っていたが、マザーは目敏くそれを感じ取っていた。

 

 「あ、ごめんなさい。貴方を馬鹿にしたつもりはないのよ? えーっと……そうね。私たちに出来ないことを説明するのはって、言い直すわ」

 

 慌てた様子さえ見せるマザーに、フィリップは自虐的な笑みを浮かべた。

 まさか、人間風情にここまで気を遣うなんて。酔狂な邪神もいたものだ。その考えを理解しようなどとは思わないが。

 

 「それで、ね? 私たちは、貴方をあらゆる危険から守るつもりよ。でも──その、どの程度なら危険なのか、私たちには分からないの」

 「えっと……?」

 

 フィリップが疑問を感じていると見るや、マザーはすぐさま言葉を重ねた。

 

 「えっと、そうね。たとえば、クトゥルフやハスターは、貴方にとって明確な脅威でしょう?」

 「え? えぇ、それは勿論」

 「じゃあ、ノーデンスやヒュプノスは? ゼウスやシヴァはどうかしら? 私たちにしてみれば羽虫との区別が付くくらいだけど、貴方たちはこれをすら“神”と呼ぶのでしょう?」

 「……あぁ、そういうことですか」

 

 要は、彼らとフィリップの存在の格差が問題なのだ。

 

 神々の力関係は、概ね三段階に分けられる。

 

 唯一神やゼウスといった地球の神々、信仰に寄生し、信仰無くしては存在できない『旧神』。彼らが最弱だ。

 

 次に、クトゥルフやハスターなどの『旧支配者』。彼らは人類より古い歴史を持ち、信仰を必要としない独立した生物だ。

 

 そしてナイアーラトテップやシュブ=ニグラスといった『外なる神々』。

 外神とも呼ばれる彼らは、前述の二つとは存在の次元が違う。高い戦闘力を持つと表現できなくもないが、そもそも戦闘に発展することのほうが稀なほど、強大なものだ。

 

 そしてフィリップは──いや、人間は弱い。

 邪神が出るまでもなく、もっと下等な非神格であるティンダロスの猟犬やショゴスにだって簡単に負ける。神話生物に限った話ではない。ドラゴン、悪魔、精霊、もっと低俗なオークやゴブリンといった魔物にだって、簡単に命を奪われる。いや、悪意を持たない、毒蛇や蜂といった普通の生物にだって。

 

 弱い。弱すぎる。だが弱いからこそ、脅威の度合いを測ることができるのだ。

 

 対して、彼女たち外神は強い。

 脅威の度合いを測る必要が無いほどに。吹けば飛ぶような矮小な存在か、多少本気を出せばどうとでもなる敵か。その程度の認識なのだ。

 

 フィリップがドラゴンの前に立っていたとして、彼女たちがドラゴンを脅威と判断できるかどうか。

 1ミリと1メートルは大きな差だが、一光年を測り取る定規では1ミリと1メートルは判別できない。そういう話だ。

 

 つまり、フィリップが最低限自衛できるようになればいい、と。

 

 「あまり関係のない話ですが、地球の神々の話は、この国──いえ、この大陸ではしない方がいいですよ」

 「えぇ、分かっているわ、ありがとう。一神教は唯一神のみを信仰しているからよね? ……共通認識に寄生する虫を信仰するなんて、ヒトって本当に不思議よね?」

 「はははは……」

 

 出てこない言葉の代わりに乾いた笑いをこぼしていると、近隣住民への説明を終えたらしいナイ神父が戻ってきた。

 

 「何やら楽しそうですね?」

 「ははは……ところで、さっきの人たち、悪魔がどうとかって言っていませんでしたか?」

 

 適当に話題を変えると、二人もそれに乗ってきた。

 

 「ここ最近、王都の教会が悪魔の襲撃を受けているんですよ。ここはまだですが……この分なら、そう遠くないうちに襲われるはずです」

 「へぇ、教会が。……え? じゃあ、宿の方が安全じゃないですか?」

 

 なんでわざわざ襲われる可能性のある場所に長時間滞在させるのか。当初の予定では泊まり込みだったし、ほぼ確実に襲撃を受けることになる。

 悪魔程度が彼らの守護を抜けるかと言われれば勿論ノーだが、最も確実な防御は危険から守ることではなく、危険に近付けないことだ。

 

 「敵と危険度が明確な方が、訓練にも身が入るでしょう?」

 

 言って、ナイ神父はにっこりと笑う。

 マザーが怒る気配も無ければ、世界に殴られもしない。邪神たちは思ったよりスパルタだった。

 

 「な、なるほど……?」

 

 フィリップ自身、その理屈に納得してしまっていた。

 確かに、何をするにしても目標の設定は大事だ。「悪魔を撃退する」という目的……に、対してクトゥグアの召喚は些か以上に過剰だが、まぁ、うん。そこには目を瞑ろう。

 

 「では、早速理論から教えます。現在の大陸で浸透している魔術体系は、太古に唯一神が人に授けたものとされていますが──」

 

 思ったより本格的な講義の予感に目を白黒させていたフィリップだが、数日後には魔術理論にも慣れ、現代魔術との大きな差異に頭を抱えるまでになっていた。

 

 

 ◇

 

 

 現代魔術:遥か昔に唯一神が人間に与えたと言われる魔術、その体系全般を指す。魔術の習得には『起動詞』の暗記と『魔術式』の理解、発動に必要な『魔力』の確保が必須である。

 数学で言えば、起動詞は公式の名前、魔術式は公式、魔力は変数に当たる。

 起動詞を詠唱することで魔術式が展開され、威力や持続時間といった欲しい「解」に応じた変数、つまり魔力が消費される。

 

  例)《ファイアー・ボール》(起動詞)

    『威力』=『消費魔力』*1(魔術式)

 

             神が与えた云々は後付けのストーリーであるため、無視してよい。

 

 起動詞:詠唱文、詠唱句、その他いろいろな呼び方がある。呪文と言えば伝わる。起動詞と魔術式に直接的な関係性はないはずだが、起動詞が違うと魔術式が展開されない。

 魔術式:魔術の発動に関わる根幹の部分。魔術によって変数の数や係数は様々で、効果が高いほど難解な傾向にある。

 魔力:魔術発動に際して消費される精神力。生きる意志とも言われる。消費量は魔術式が導き出す解に依存する。

 

 クルーシュチャ方程式:ナイ神父オリジナルの魔術式。解いてみろと言われたが、難解過ぎて分からなかった。あとヨグ=ソトースとマザーに殴られていたので、きっとろくな魔術じゃない。

 

  いちおう、魔術式を書き残しておく。

 

      『塗り潰された跡』

 

        マザーに聞いた。やっぱり碌なものじゃなかったし、解かなくて良かった。

 

 

 

 

 領域外魔術:現代魔術とは全く違う、外神や旧支配者由来の魔術。習得には呪文の暗記と、呪文やゆかりのある対象への理解が求められる。

 つまり僕は呪文の暗記だけでいいということか。ラッキー。

 

 違った。

 魔術の発動には魔力が必須。場合によっては正気度も必要らしいが、こちらはマザーの加護で減らないので問題ない。

 これからは魔力を成長させる訓練をすることになるだろう。

 

 あと、こちらの魔術は一定確率で失敗するし、召喚や交信、接続系の魔術は相手や経路の都合で大惨事になる可能性もある。どうせ練習するなら現代魔術の方がよかった。

 

 

                    ──フィリップの魔術ノート vol.1

 

 

 ◇

 

 

 

 邪神たちによる講義開始から1週間ほどで、フィリップは魔術を実践する段階に至った。

 その成長速度はナイ神父にとっては意外で、マザーにとっては非常に喜ばしいことだったのだが、フィリップは理解を積めば積むほどにやる気がなくなっていた。

 

 というのも──

 

 「領域外魔術が使い辛いことこの上なくて笑えますね。なんですかこの汎用性の無さは」

 

 たとえば、現代魔術における火属性攻撃魔術。

 火球を射出する《ファイアー・ボール》。それより貫通力に長けた《ファイアー・ランス》。炎の壁を作り出す《ファイアー・ウォール》。武器に火属性を付与する《エンチャント・フレイム》。火に耐性を与える《プロテクション・ファイア》。

 ぱっと思いつく初級魔術だけでこれだけある。

 

 対して領域外魔術、特に召喚術はといえば。

 

 「炎の精の召喚、フサッグァの召喚。その次はアフーム=ザー? その次がクトゥグアで、その次はヤマンソ? 何ですかこの10か100か1000みたいな。冗談は存在だけにしてくださいね」

 

 大は小を兼ねると言うが、ことこの分野に関してはそうはいかない。

 現代魔術に与えられた選択肢が弱火から強火だとしたら、領域外魔術にある選択肢は『家を焼く』『街を焼く』『国を焼く』『大陸を焼く』『星を焼く』なのだ。

 

 フィリップがぷりぷりしているのを愛おしそうに見つめながら、マザーがぽつりと呟く。

 

 「憑依顕現を使えば、制御も利くんじゃないかしら?」

 「本当ですか!?」

 

 目の前に釣られた餌に飛びつくフィリップ。

 が、飛びついた直後、その苦々しい字面に気付いた。

 

 「ん? 憑依……?」

 

 語感からしてもう嫌な予感しかしないが、いちおう聞いておこうじゃないか。

 

 「えぇ。貴方の肉体に外神を降ろすの。そうしたら、きっと自分の手足のようにその権能を使えるわよ? やってみる?」

 「あ、いえ、結構です」

 

 フィリップは自分の精神が健全な人間であるなどと嘯くつもりはないが、人間を辞めたとまで言うつもりも、今後辞める予定も無い。 

 邪神たちの知識や視座を得たフィリップがまだ辛うじて人間にしがみついていられるのは、肉体的に脆弱だからだ。弱いものとして、人間としての価値観を持ち続けるのに、この脆弱な身体は必須だった。

 

 ただでさえフィリップは「ヒトは矮小で脆弱である」ということを理解しているのだ。自分がそこから外れてしまったらどうなるか、フィリップ自身にすら想像が付かない。

 

 「では、きちんと召喚対象を使役できるようになりましょう。目標はクトゥグアですよ。さぁ」

 

 ナイ神父に促され、フィリップは魔力を集中する。

 

 「ふぅ……」

 

 召喚に必要なのは、呼び出す相手に対する理解だ。

 こと外神に関しては理解など無くとも問題ないが、旧支配者となれば話は別。きちんとした理解、きちんとした詠唱が不可欠だ。特に、暴走すれば町一つを簡単に焼き払える相手を呼び出す時は。

 

 「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ふぉまるはうと うがあ ぐああ なふるたぐん」

 

 フィリップの詠唱に合わせ、自動的に魔力が消費される。続けてフィリップの正面、召喚の魔法陣が描かれている場所が燃え上がる。

 

 いける、と。フィリップはそう直感した。

 

 詠唱は最後に召喚対象を称えて締めくくられる。このまま一気に──!!

 

 「いあ くとぅぐあ!」

 

 

 



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16

 フィリップ・カーターの朝は早い。

 

 カーテンの隙間から差し込む朝日で目覚めると、窓を開け朝の清涼な空気を吸い、昇ったばかりの陽光を浴びて一日の始まりを実感する。

 向かいの家の屋根に止まったカラスが深々と頭を下げる。一瞬だけその輪郭が揺らぎ、その身体を編んでいた漆黒の触手が蠢いた。

 

 見慣れた光景に溜息をこぼし、洗面台へ向かう。

 顔を洗って気持ちを仕事モードにセットしたら、次は厨房だ。

 

 顔を合わせた料理人や従業員たちと挨拶を交わしつつ、既に用意されている朝食を摂る。皿洗いは料理人見習いたちの仕事だ。フィリップはごちそうさまと告げるだけでいい、というか、それ以上のことは仕事を奪うことになり、フィリップが怒られてしまう。

 

 故郷との文化の違いにも慣れたことを自覚しつつ、全員の名前と割り当てられた仕事が書いてあるボードを見る。

 今朝は空き部屋1つのセッティング。既に掃除は終わっているようなので、担当者はフィリップ一人だ。

 

 作業の音で起こすのは不味いため、宿泊客の大半が起き出し、食堂へ向う時間帯を待つ。

 その間は自分で書き留めたノートを使い、邪神たちの魔術講義を復習する。ちょっとした魔導書になりつつあるそれを万が一にも覗き見られないよう、細心の注意を払わなければならない。

 

 朝分の作業を終えたら、大通りの出店なども開き始めるいい時間帯だ。教会へ向かう旨をボードへ書き込み、帰宅時間は暫定で夕食前としておく。

 

 教会に向かう道すがら、フィリップは訓練の進捗を思い返し──深いため息を吐いた。

 

 クトゥグアの召喚と使役。

 難易度はそう高くない魔術だが、フィリップはこの一週間の訓練で試行した100回以上、一度も成功していない。

 

 一番初めの一回。

 クトゥグアの召喚そのものには成功したのだが──

 

 拍子抜けするフィリップと我が子の成長を喜ぶように拍手するマザーを他所に、召喚された極小の恒星は、顔を引き攣らせたナイ神父を灰も残さず焼き払った。そのまま呆然とするフィリップを完全に無視して、追放も帰還も命じていないのに勝手に帰った。

 

 その後の全ての試行において、ナイ神父が近くにいなければ召喚を拒否し、ナイ神父がいれば彼を焼き殺して満足して帰っていくだけ。

 何もできないと言っても過言では無かった。

 

 フィリップに実害が出ていないからか、外神たちが完全に傍観しているのが救いだった。

 これで外神対旧支配者の戦争にでもなっていれば本当に笑えない。まぁ彼らの目的はあくまでフィリップの保護で、それは忠誠心や愛情に拠るものではないし、この反応も当然だが。

 

 「おはようございます」

 「フィリップ君、おはよう」

 

 教会に入ると、ナイ神父はおらず、マザーがふわりと微笑んで挨拶を返した。

 今日はまた失敗を重ねる日かと落胆する。どうせならクトゥグアに焼き払われるナイ神父を見る方がストレス解消になるのだが。召喚に成功する感触を体で覚えるのは効果的だろうし。

 

 殺しても殺しても無限の残機で帰ってくるナイ神父だ。逃げたのではなく今日は()()無しでの召喚の練習をしろということだろう。

 

 「今日は一日餌無しだけど、頑張ってね」

 「はい、マザー」

 

 答えると、マザーが教会の壁や天井に沿って防御魔術を展開する。万が一クトゥグアやヤマンソが暴走した場合に備えたものだ。

 

 

 その日は一度も成功しなかった。

 

 ステンドグラスから差し込む夕日で帰り時を察する。消費した魔力は倦怠感を齎し、それが何の成果も挙げていないという事実が負担を倍以上に錯覚させる。

 頭を撫でたり抱擁したりして励まそうとするマザーを適当に躱し、店の閉じ始めた大通りを歩く。

 

 俯いた視線の先には数歩先の地面しかなく、沈み切った思考はオートパイロットで宿までの道のりを歩かせる。

 

 一週間連続の失敗は、フィリップのプライドを酷く傷つけていた。

 今でこそ自分を含む人間という種族そのものを見限ったように振る舞えるが、その前──あの地下祭祀場で絶望する前は、フィリップはそれなりに自信を持っていた。

 

 実家の手伝いで大きなミスをしたことは一度もない。新しい仕事を任された時も、先輩の仕事ぶりを見て、それを拙いながら模倣することが出来た。

 フィリップは天才ではない。だが決して無能では無かったし、努力すれば確実に結果を残すだけの才を備えていた。

 

 仕事はそれを顕著に自覚させ、フィリップは自信を持って仕事に取組み、それがさらなる結果を挙げる。自己昇華の螺旋が綺麗に成立していたのだ。

 

 だが──ここに来て、フィリップは自分の無能を見せつけられた気分になった。

 

 そもそも人間風情がクトゥグアを召喚し使役しようとするのが分を弁えない傲慢で、アザトースの加護がなければそれこそ100回死んでいる。100回以上の試行を重ね、未だ健在であるというだけで喜び咽び泣くのが普通だ。

 その幸運の上に立ち。フィリップは──自らの弱さを唾棄する。

 

 何度でも試行できる土台を用意されて、何故、未だに成功しないのか。

 決まっている。フィリップが脆弱で、矮小で、存在の格が劣るからだ。

 

 何もできない。本来ならクトゥグアを視認しただけで発狂死する人間風情が、何をやれる気になっていたのか。

 

 クトゥグアを使役して神父への対抗手段にする? お笑い種だ。

 所詮は人間。共通認識に寄生する蛆虫を神と崇めるような種族だ。本物の神──偉大で強大なるものどもに抗おうなど、分を弁えないにも限度がある。身の程を知るべきだ。

 

 「あー、駄目だ。弱気になってる」

 

 敢えて口に出し、ベッドを抜け出す。

 気持ちを切り替えようと、フィリップは夜の街をランニングすることにした。

 

 その背中を触手で編まれたカラスが追ってくるが、フィリップは気付かない。さらにその後ろ、フィリップを見失うギリギリの距離を走って追いかける、少女にも。

 

 

 

 ◇ 

 

 

 

 フィリップ出奔と同時刻、投石教会。

 

 マザーは使い魔の触手カラス越しにフィリップを見ており、ナイ神父は梯子を使って聖女像に登り、石の表面に微小な文字を刻んでいた。この作業はこの教会に住み着いて以降ずっと続けているが、触手も権能も使わず、針のような彫刻刀を扱っているので、まだ頭部の半分にも刻み終えていなかった。

 

 フィリップはそもそも作業を知らず、マザーは興味が無いので誰も「何をしているのか」と尋ねていない。だからナイ神父が刻んでいる文句の内容は彼しか知らないが、極小の邪悪言語で刻まれているのはアザトースを讃える言葉の数々だ。

 この作業ペースでいけば、1年程度で聖女像の全身に文字が刻まれる。この教会を訪れた信徒たちは、アザトースを讃える言葉が全身に刻まれた聖女像に跪き、祈ることになるだろう。

 

 アザトースは信仰に依って力を左右される小さな存在ではないし、そもそも信仰されていると知覚するだけの知性がない。

 

 完全にナイ神父の趣味であった。

 

 「あの子の後ろを走ってるヒトがいるわ。殺す?」

 

 フィリップを見守っているマザーが言うと、ナイ神父は作業の手を止めて振り返り、明確な嘲笑と呆れを向けた。

 

 「金髪の少女でしょう? 彼の姉貴分です。殺しても構いませんが、あとで確実に怒られますよ」

 「じゃあやめておくわ」

 「そろそろ人間の顔と個体間の関係を覚えてはいかがです? まだ彼しか認識できないでしょう?」

 

 作業に飽きたのか、ナイ神父は梯子から飛び降りると、持っていた工具を片付け始めた。

 

 「ちょっと、馬鹿にしないで頂戴。ヒトの個体差くらい、ちゃんと見れば分かりますー」

 「きちんと個体を識別して、それを記憶しましょうと言っているんですよ」

 

 マザーの言う個体差の認識は、ヒトが虫に抱くそれと変わらない。

 女王アリと働きアリは体格差で判別が付くが、働きアリAと働きアリBの区別は難しい。数百匹の暮らす蟻の巣から働きアリAを見つけ出せと言われたら不可能。その程度だ。

 

 強固にマーキングされ、注視しているフィリップは判別できる。だがそれ以外は。

 

 「それは無理よ。この街にだって何十万ってヒトがいるのよ? もっと整理して欲しいわ」

 

 ナイ神父が「ダメだこりゃ」と言いたげに肩を竦めるが、使い魔の視界越しにフィリップを愛玩しているマザーはそれを完全に無視した。

 

 ナイ神父が工具を片付け終えて信徒用の椅子に座ると、ちょうどそのタイミングで教会の扉が控えめな軋みを上げて開いた。

 嫌なタイミングでの来客にもかかわらず、いつも通りの微笑を浮かべ、ナイ神父が対応のため歩いていく。

 

 「こんばんは。夜分遅くにどうされましたか?」

 

 入ってきたのは帽子を被った背の高い男だった。

 几帳面に扉を閉め、帽子を取って一礼する。

 

 「こんばんは、神父さま。こんな時間に申し訳ありません」

 

 平服姿ではあるが、服そのものの仕立ては良く、素材も悪くない。立地ゆえ当然ではあるが、二等地の住民らしい。

 

 「実は明日、急用ができてしまって。ミサに行けない代わりに、せめて今からお祈りをと思いまして」

 「そうですか。その真摯な祈りは、きっと主もお認めになることでしょう」

 

 礼を告げて、男は最奥の聖女像の前に跪いた。

 

 「それにしても、意外ですね」

 「何がです?」

 

 神父の呟きに祈りを邪魔されても気を悪くした様子もなく、跪いた姿勢のまま話に応じる。

 

 「高位悪魔ともなると、ミサの代わりに自主礼拝をするのだな、と」

 

 男の顔から表情の一切が抜け落ち──ナイ神父もマザーも、穏やかな表情の聖女像も纏めて爆炎に呑み込まれた。

 

 

 

 



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17

 教会全てを吹き飛ばすつもりで攻撃した男だったが、壁や聖女像を舐めた炎は逆再生のように収束していく。

 蝋燭の火のようなサイズまで収束された炎を握り消し、眼前の神父は嘲りも露わな笑顔を浮かべた。

 

 「攻撃というのは、範囲が広ければいいというものではありません」

 

 攻撃魔術──それも建造物を一撃で倒壊させるほどの威力のそれを、こうも容易く制圧するか。

 

 「……見事だ。貴様がハーゲンティを殺したという神父で相違ないな?」

 

 めきめきと不快な音を立てながら、男の姿形が変わる。

 後頭部からもう一つ顔がせり出し、下半身は馬のような四足歩行に。体長もそれに応じて肥大し、長身のナイ神父をすら見下すほどだ。

 

 「我こそはビフロンス。魔王サタン様の親衛隊たるゴエティアにて、伯爵位を戴く者である」

 

 そう名乗りを上げ、片手に持った槍を床に打ち付ける双頭のケンタウロス。

 嘲笑を消さないナイ神父もそうだが、我関せずと虚空を見つめている──より正確には使い魔の視界を使ってフィリップを見つめているのだが、そんなことはビフロンスには分からない──マザーにも苛立ちを覚える。

 

 72柱の悪魔、ゴエティアといえば、魔王軍最強の四天王にも並ぶ精鋭だ。

 その名を聞いてなお、嘲り、無視するだと?

 

 不遜! 傲慢!

 

 「畏れ、怯えよ!」

 

 ビフロンスの怒りを込めた豪速の突きが神父の喉元を目掛けて繰り出される。

 避けることもできない神父の首に命中し──鋼を突いたような痺れに握っていた槍を取り落としそうになった。

 

 「防御魔術か、いつの間に!?」

 

 槍を両手で握り直し、ナイ神父を睨み付ける。

 詠唱の素振りをビフロンスに悟らせない戦闘技量。悪魔の膂力に耐えうる防御魔術の強度。まだ年若い人間が身に着けるにしては高度に過ぎるものだ。

 

 ハーゲンティを殺したというのも納得の才覚。称賛に値する。

 

 「中々に強いな。では、先に──」

 

 槍を振り、穂先をマザーに突き付ける。

 この期に及んでなお柔らかな微笑を浮かべて虚空を見つめている女は不気味だが、魔術の気配は感じない。

 

 「貴様から殺すとしよう!」

 

 喪服のヴェールもろとも首を断ち、虎落笛のような音を立てながら吹き上がる血を見せれば、神父の薄ら笑いも歪むことだろう。

 そんな思考は、何の変哲もないレースの編み込まれた喪服に鋼の穂先が弾かれた時点で掻き消えた。

 

 「ば、馬鹿な!?」

 

 二度、三度と斬り付けてなお、何の痛痒も感じていないかのように無視を続ける女に恐怖すら覚える。

 

 いや、痛痒どころか──気付いてもいない?

 

 「せめて防御魔術くらい使ってはどうです?」

 

 神父の呆れ声も聞こえていないようだが、そんなことも気にならないほどの衝撃がビフロンスを打ち据えていた。

 

 何の──何の対策もなく、槍の一撃を受けた?

 馬鹿な、在り得ない。ビフロンスがどうこうではなく、たとえ子供が戯れに斬り付けただけでも簡単に首が落ちるだけの鋭さの槍を?

 

 服? そうか。魔術師の纏うローブには強い魔力が込められ、防御魔術やエンチャント無しでもある程度の防御力を持つ。

 い、いや、だが、この女の喪服には何も感じない。魔力は残滓すら感じ取れず、見れば見るほど精緻で繊細な薄布という印象を抱く。

 

 ビフロンスは己の持つ全ての知識を動員し──万事を知るという悪魔の叡智を以てしてなお、分からない。

 

 未知は、怖い。

 何も知らないことは怖い。中途半端な知識は怖い。ほぼ完全な中の、ほんの少しの欠落が怖い。

 

 では。全知の存在が直面した未知は、一体どれほどの恐怖なのだろうか。

 

 「ば、馬鹿な!? あ、あり、在り得るかッ!! そんな……私の、私たち悪魔の知らないことなどッ……!」

 

 喚く。囀る。

 ゴエティア、72柱の悪魔に数えられ、中でも伯爵位を戴くほどの高位悪魔が。

 啼き恐れるほどの未知。知らず後退するほどの恐怖。

 

 なまじ高度な知性と深い智慧があるだけに、眼前の女と背後の男の異常性を理解できてしまった。

 

 悪魔は全てを知っている。全知全能たる唯一神に造られた、かつての天使は。

 知っている。唯一神が創り給うたこの世の全てを知っている。──その気になっていたことを、いま知った。

 

 フィリップなら、全知など在り得ないと呆れるだろうか。或いは智慧の深さに同情し、憐れむだろうか。

 いや、きっと──フィリップは笑う。「それは知らないままでいいことなのに」と。

 

 視界が揺らぎ、音が遠退く。

 

 神父の嘲笑は変わらず神経を逆撫でし、女の無関心が怖気を催す。

 

 「おっと」

 

 愉快そうな声。

 神父の上げたそれに続いて、古びた金属の上げる軋みが耳に届いた。

 

 「……え?」

 

 蝶番の音。

 そう理解したときには視線は扉に向いており、女と神父、そして自分を順繰りに見る金髪の子供が目に入った。

 

 少年が呆然と漏らした声は、異形なるこの身に対する驚きと怯えか。 

 

 「フィリップ君、いらっしゃい。こんな夜中にどうしたの?」

 

 今まで何の反応もしなかった女が、気付けば立ち上がって満面の笑みを浮かべている。

 その表情と雰囲気の差に呑まれそうになりながらも、ビフロンスの頭脳は現状を正確に理解していた。

 

 未知の強者二人と、価値の高いらしい少年。

 

 理解のできない二人から逃れるように馬の体躯を活用し、凄まじい速度で動く。

 この現状を打破するための解決策。人質を手中に収めるために。

 

 

 ◇

 

 

 フィリップが魔術を習いに教会に通い始めてから、約一週間。

 上手くいっていないのは、毎日疲れた顔で落ち込んで帰ってくるフィリップを見れば簡単に分かった。

 

 魔術の才能が無いモニカでは、フィリップの苦悩を解決してあげることはできない。

 せめて何か出来ることはないかと考え、少しばかりの夜更かしをしていたら、窓の下を走っていくフィリップの背中が見えた。

 

 慌ててその背中を追いかけると、フィリップはどうやら教会に向かっているようだった。

 今から訓練に行く、という訳ではないのは、体力を気にした様子もない全力疾走ですぐに分かった。大方、ストレス発散に走り出して、身体が勝手に行き慣れた道を選んでいるのだろう。

 

 「はぁ……はぁ……」

 

 意外にもフィリップは健脚で、そう足が遅いわけでもないモニカを突き放して走る。行き先が分かっていなければ見失っていたかもしれない。

 しばらく走って教会へはもう少しという所まで来ると、フィリップも息切れを起こして立ち止まり、膝に手をついていた。

 

 モニカは何となく見つかってはいけないような気分になっていたが、壁に身体を隠しても荒い息を整えるのに苦心していては意味が無い。

 

 「ふぅ……モニカ、何してるの?」

 

 まさか見つかると思っていなかったモニカが飛び上がるのを見て、フィリップが呆れたような笑みをこぼす。

 ぱたぱた足音を立てて後ろを付いて走り、荒い息を押し殺しもせず零していては見つけるなという方が難しい。

 

 「僕を追いかけてきたの?」

 「……そうよ。こんな時間に一人で外に出ちゃ駄目じゃない。お母さんに怒られるわよ」

 

 ぷりぷり怒って見せてはいるが、もしアガタに見つかれば怒られるのは二人とも同じだ。

 何も考えずにフィリップを追ってきたことを少しばかり後悔しながら、モニカはフィリップの手を取る。

 

 そのまま先導するように手を引くが、フィリップは反対側に進もうとして不思議そうに立ち止まった。

 

 「帰らないの?」

 

 フィリップの言葉に、モニカは快活に──というには下心を滲ませて笑った。

 

 「折角ここまで来たんだもの。神父さまに送ってもらいましょ」

 「えぇ……まぁ、うん、いいよ。行こう」

 

 何が嫌なのかは分からないが、フィリップは少し逡巡してついてきた。

 教会に着くころには、歩幅の大きいフィリップが先を歩くかたちになっていた。古いながら手入れのされている扉は、心地よい軋みを上げてゆっくりと開く。

 

 「……え?」

 

 そんな素っ頓狂な声を上げたフィリップの身体を避け、何があるのかと教会の中を覗く。

 意外そうな顔の神父が真っ先に目に入るが、それ以上に無視出来ないものが即座に視線を奪い取った。

 

 どこか焦ったような、怯えたような顔で猛然と走ってくるケンタウロス。

 その豪脚は小さな教会の回廊を一瞬で駆け抜け、フィリップを捕まえようと右手が伸びる。

 

 守らなくちゃ。

 そう意識しているのに、身体はピクリとも動かない。

 

 あの地下牢で相対したカルトの教主。破綻者の男も怖かったが、眼前の異形はその比ではない。人間と悪魔の間にある隔絶した生命体としての格差。

 自分より強い生物の放つ気迫が、モニカの身体を凍り付かせていた。

 

 頭は回る。だが空転だ。現状を打破する名案は思い付かない。

 姉貴分としてフィリップを──弟分を守らなければ。ほんの少し身体を引っ張るだけで、教会の外に出られる。扉を閉じて、あの怪物から逃げ出して、衛士を呼んで。それまで逃げられる? 分からない。まずはフィリップを助けて、一緒に逃げて、神父さまとマザーは? えっと。えっと。

 

 一瞬の思考。

 その一瞬はケンタウロスがフィリップを捉えるのに十分な時間のはず。だが──

 

 「──ァ」

 

 断末魔。

 大きな手のようなものに横殴りにされ、ケンタウロスが吹き飛んでいく。

 

 並んだ長椅子は緩衝材にもならず、軌道上にあった全てを木片に変えて諸共に壁に激突し、ぐったりと横たわった。

 

 一体、何が。

 ケンタウロスを殴り飛ばした巨大な手は──いや、それは手ではない。

 

 黒光りする、粘液にまみれた気味の悪い触手。それが何本も絡み合って織り上げられた、見るも悍ましい吐き気を催す翼。

 鳥、竜、天使、悪魔。翼ある生物は数多いが、そのどれとも似付かない。およそ地上に在ってはならない醜悪な形のそれを辿ると、満面の笑みを浮かべるマザーの背中に辿り着いた。

 

 彼女は聞くだけで吐きそうな音を立てながら、体躯の何十倍もありそうな翼を収納していく。

 あのケンタウロスから感じた威圧感のようなものは一切感じられない。だというのに、モニカは一歩も動けなかった。

 

 フィリップの服の裾を掴んだ手が震える。

 足も、歯も、恐怖を反映する器官の全てが一斉に恐れを叫んでいる。だが逃げられない。事ここに至り、フィリップを庇うという意識は頭から吹っ飛んでいた。

 

 軽快に近付いて来たマザーは、呆然とするフィリップの頭を小突いて片目を閉じた。

 

 「夜はきちんと寝ないと駄目よ? 魔力の回復には食事と睡眠が大切、教えたでしょう?」

 

 フィリップの呆れたような溜息を最後に聞いて、モニカはその意識を手放した。

 



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18

 どういう状況だろうか。

 なんとなく走り出し、なんとなく慣れた道を選び、教会の近くまで来て。折り返そうとしたらモニカがいて、そのまま教会に連れられて。

 

 ドアを開けたらケンタウロスがいた。

 

 「……え?」

 

 ナイ神父とマザーと何かを話している──少なくとも戦っている様子は無かったが、彼らの仲間ではないはずだ。

 フィリップに与えられた智慧は沈黙しており、それが外神にとっての敵や味方、或いは配下や落とし子といった「知っておくべきもの」に値しないと分かる。

 

 だが、彼らの基準は大雑把だと、彼ら自身が言っていた。

 どこからどこまでがフィリップにとって外敵となるのか、彼らは判断できない。少なくとも──いまフィリップに向けて猛然と走ってくるケンタウロスのように、明確に敵対行動を取るまでは。

 

 それでは後手に回ってしまう。

 フィリップ自身が危険を明確に察知していたとしてもだ。

 

 故にこそ、自己防衛。魔術の修得が求められていた。……とはいえ。

 

 フィリップの心中にあるのは困惑のみ。

 上位悪魔の放つ気迫は同格以下の生命に対して恐怖を刻み、戦意を奪い、身体を硬直させる。強者の風格、明確な殺意、圧倒的な存在感。その全てに首を傾げる。

 

 こんなものか、と。

 

 槍は脅威だ。鋭く砥上げられた穂先、よくしなり強靭そうな柄。突く、斬る、叩く、色々な殺し方のできる優れた武器だ。

 それを保持する腕が脅威だ。フィリップの胴ほどもある太さの筋肉は、人間のそれより遥かに強い力を秘めている。拳一つで地面を陥没させることもできるだろう。

 筋骨隆々の身体を支える足が脅威だ。馬の体躯はしなやかで強靭で、一蹴りでフィリップの頭蓋を破裂させられる。

 

 その全てが──無意味。

 

 「人間を殺すことが出来る」。なるほど、それで? いや、むしろ──わざわざ殺そうとしないと、ヒト程度も殺せないのか?

 

 眼前に迫っていた無価値なものがマザーの触手の翼に打ち据えられ、教会の内装を巻き込んで吹き飛ぶ。

 それを無感動に見送り、さて、今のは何だと視線で説明を求める。

 

 「夜はきちんと寝ないと駄目よ? 魔力の回復には食事と睡眠が大切、教えたでしょう?」

 

 駄目か、と、フィリップは諦めを多分に含んだ溜息を零した。

 

 マザーは今のケンタウロスを、フィリップにとっての危険だと認識していなかった。

 もしフィリップを危機から救い出した自覚があるのなら、マザーの性格的にまず心配の言葉をかけるはずだ。いや、無事だという確証を得てなお「怖かったでしょう?」と抱擁してくるか。

 

 そのどちらも無いということは──マザーはいま、ただフィリップの元に来るまでの道のりに虫がいたから払った。その程度の認識しかしていない。

 

 「どうしたの? もしかして、私に会いたくなった?」

 

 期待を滲ませ、本気で問いかけるマザー。

 さてどう返すかと考え始めた矢先、背中にずしりと重みがかかる。

 

 「え? ちょ、ちょっと、モニカ!? 大丈夫!?」

 

 青白い顔でぐったりとはしているが、外傷や嘔吐の類は見受けられない。

 攻撃されたり毒を受けたりしたわけではないようだがと思索を巡らせ、ふと思い当たる節があった。

 

 マザーの触手。

 

 フィリップはさも当然のように認識して、何ならケンタウロスの方に意識を割いていたが、普通はそうはいかない。

 

 シュブ=ニグラス──延いては外神、いや邪神たちは、目視どころかその気配を感じるだけで発狂することもある。ヒトは殺そう、壊そうとするまでも無く、ただ同じ空間に在るだけで勝手に壊れて死んでいく。

 存在の格が違う。ナイ神父の目、ヨグ=ソトースの拳、マザーの触手──身体のほんのごく一部を目にするだけで、知性あるものはその知性を呪って死ぬことになる。

 

 遺伝子に刻まれた本能的恐怖──暗闇に光る一対の光源、蜂の羽音、蛇の威嚇音。そういった捕食者や外敵に感じるものとは違う、知的生命体ゆえの未知への恐怖。

 無限を恐れ有限に安寧を感じる。そのくせ半端な既知を広げ未知を減らそうとする。その愚かしさの負債は、彼らの弱さゆえに未だ取り立てられていない。

 

 もしも、未知の全てを踏破したら──行き着く先は、あの悍ましき宮殿だ。

 

 「って、現実逃避してる場合じゃないだろ。マザー、モニカの狂気を……ッ」

 

 言い淀む。

 フィリップは一度狂気に堕ちたが、マザーによって泥の底から掬い上げられている。

 それが必要な処置だったと知っているが、それが良いことだとは思えない。

 

 狂気は、人間に残された最後の逃避場所だ。

 恐怖や絶望、嫌悪や憎悪、怒り、悲しみ。人間は様々な感情によって自分自身を傷付ける。狂気はその最終到達点。この上無く平穏に凪いだ精神の死。

 死が救済などと嘯くつもりは無い。だが、死ねずに苦しみ続けるより何倍もマシだ。

 

 狂気に堕ちることもできず、全貌すら見えない宇宙的恐怖に苛まれ続けるのは辛いだろう。フィリップではもはや想像しかできないが、そんなことになったら殺してやった方がいい。

 

 「奪う? それとも、記憶だけ改竄しましょうか?」

 

 モニカを抱きかかえているフィリップを一瞥しての質問。

 その二択であれば。

 

 「後者を。モニカは──さっきのケンタウロスから僕を庇って気を失ったと」

 「えぇ、いいわよ」

 

 とん、と。軽く頭を小突いただけで作業が終わった。何の詠唱も魔術も無く、ただ自分の権能だけで記憶を改竄したか。

 モニカに異常が表れないことを確認して、フィリップは長椅子の一つに少女の身体を横たえた。

 

 一息ついて、今度は瓦礫の積み上がった壁際、瀕死のケンタウロスと話しているナイ神父の元へ向かう。

 

 

 

 いや──瀕死の、ではない。

 そのケンタウロスは完全に死んでいた。殴られた衝撃で身体の内容物が片側を突き破って飛び出している。馬車に轢かれた犬猫の何十倍もグロテスクな死に様に、さしものフィリップもドン引きだった。

 

 これが殺意ある攻撃によって生まれた光景ではなく、ただ進路上にいたから払われた、その結果というのがもうダメ。人が払った羽虫の行く末に興味を抱かないように、マザーもそうだった。

 

 しかも、だ。

 仮にも聖職者の恰好を借りているナイ神父は、どう見ても外法と思しき魔術によって、ケンタウロスの魂を壊れ切った肉体に留まらせていた。つまり──ケンタウロスは()()()()()()()()()()()

 

 ケンタウロスが漏らすのは苦痛の声。

 確実に即死しているであろう傷だが、魂が残留していることによって、その痛みを感じているのか。想像するだけで背筋が凍るような痛みに違いない。

 

 マザーに抱いたそれより大きな拒否感を覚えるが、残念ながらフィリップの価値観もかなり歪んでいた。

 この年の少年であれば、即座に止めるか逃げ出すか、或いは嘔吐の一つでもするだろう状況。だというのに、フィリップは丸めたダンゴムシを爪弾いて遊ぶ子供に対するような、「仕方ないか」という諦めと呆れ程度の拒否感──自分はやらないけど、別に叱りつけるまでもないか、程度のものしか抱かない。

 

 ケンタウロスに正面から相対し、攻撃されてなお「無価値」と断じたフィリップだ。

 ならば、この拒否感は。

 

 (あぁ──そうか。これは“気持ち悪い”だけか)

 

 無価値なものが無感動に殺され、その命を弄ばれ──何の感動も無い。

 ただ、身体の内容物を片面から溢れさせ、血と内臓で床を汚し、あまつさえその状態で生き永らえ、痙攣し痛みに呻いている眼前のそれが。ただただ気色悪い。

 

 馬車に轢かれた蛙が内臓をぶちまけ、痙攣している。

 それに対して抱く感想から「気持ち悪い」以外の一切を取り払ったような、冷たく酷薄な感動。数分もすれば記憶からも消える、その程度のもの。

 

 マザーとナイ神父の行いを、フィリップの感想も、どちらも命への冒涜だと、見た者がいれば全員がそう詰ることだろう。

 そして、三人は笑う。この程度のことが冒涜とは、と。もしかしたらナイ神父は戯れに白痴の魔王を讃える言葉を唱え、これこそが冒涜だと示すかもしれないが──その場合、フィリップは真顔になる。

 

 「ビフロンス……でしたか? 伯爵位らしいですが、貴方のボスはゴエティアの悪魔ですか? それとも、魔王でしょうか」

 

 零れ落ちた内臓を椅子の残骸らしき木材で突っつく様子は、虫で遊ぶ子供のそれと大差がない。

 質問などして尋問の真似事をしているが、苦痛が大きすぎて回答どころかまともな思考すら出来ていないように見える。

 

 どうでもいいからモニカが起きる前に仕舞いにしてほしい、と。フィリップは溜息を吐いた。

 

 

 ◇

 

 

 王都地下下水道、悪魔たちによって居住性を高められたその一角に、張り詰めた空気が漂っていた。

 

 二つ並んだ玉座の右側には騎士の悪魔エリゴスが。左の玉座には竜の身体に人と犬と鷲の三頭をくっつけた異形の悪魔ブネが座る。

 

 その足元に傅く数多くの中位・高位の悪魔たち。近衛騎士団を壊滅させられるほどの数がいたが、その全てが身体を縮め、震えていた。

 原因は言わずもがな、玉座に坐する最高位悪魔二人の放つプレッシャーだ。

 

 「ビフロンスもやられた、か」

 

 そう呟いたのはブネだ。エリゴスが黙したまま頷きを返し、二人は同時に溜息をついた。

 

 「これ以上、魔王様をお待たせするわけにはいかん」

 「左様。……最早、我らが動くほかあるまいて」

 

 言うと、ブネは三つの頭にある全ての目を閉じる。

 エリゴスもそれに倣い、昂った心を落ち着けるため深呼吸を繰り返した。

 

 数秒の沈黙を経て、今度はエリゴスから口を開く。

 

 「あの神父の仕業だろうな。生憎、“目”は教会に入れなかったが……封殺する手は見つけた」

 

 エリゴスに脳裏に浮かぶのは、ビフロンスが死ぬ直前に教会へ入っていた少年だ。

 ビフロンスは彼が現れた瞬間に、それまでの遊びが嘘のように一瞬で殺された。まるで──彼を守るように。

 

 「ワタシがそれを用意する。ブネ、君はその間、神父を抑えておいてくれるか?」

 「構わん。だが、いいのか? 神父など捨て置き、計画を実行すべきではないのか?」

 

 いや、と、エリゴスは険しい顔で首を振る。

 

 「あの神父は無視できない。どうせ敵対することになるのなら、対抗策を持ったうえでこちらから仕掛けるべきだ」

 

 そこまでの相手かと驚きつつ、ブネはしっかりと頷いた。

 エリゴスが立ち上がり、足元に傅く悪魔たちを睥睨する。

 

 「半数はワタシと来い。残りはブネ、お前が使え。明日の正午、行動を開始する」

 

 斯くして──悪魔たちは破滅へと転がり始めた。

 

 

 



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19

 教会の片隅に、半ば瓦礫に埋もれるように打ち捨てられた死骸。

 身体の半分が潰れ、反対側から内容物を零れさせた、馬車に轢かれた犬猫より幾分凄惨な死に様だ。

 

 その傍にしゃがみ込み、元は長椅子の一部だった木片でつつき回すという、およそ聖職者にあるまじき行為に及ぶナイ神父。

 

 身体の中身が少なくとも半分はズレている状態に在って、その死骸が未だ()()()()()のも、彼の魔術によるものだ。……生きているのであれば、死骸ではなく残骸と表現すべきか?

 

 「何してるんです、神父?」

 

 気色悪いという感想となるべく離れたいという思いを呑み込んで、フィリップは最も悍ましい形で死者を現世に留め、あまつさえ弄んでいる神父に問い掛けた。

 

 「なに、ちょっとハッキングをね」

 「はっきんぐ……?」

 「彼のボスと、その目的を探っていたんですよ。それにしても……君はモテますね、フィリップ君」

 

 いきなりなんの話だと面食らうフィリップを他所に、ナイ神父は嘲りを隠すこともなく笑う。

 

 「我々の弱点──勿論、君の事ですよ。それが露見しました」

 

 それは不味い……のだろうか。

 正直なところ、露見して、狙われるからどうしたという気持ちが大きい。

 

 ナイ神父は無数の化身を持ち、マザーもその気になれば常にフィリップを見ていることくらいできるだろう。最強の監視役たるヨグ=ソトースの耳目は世界の全てを網羅しているし、フィリップを害せる者などいない。

 魔王が復活しようが、天使が硫黄と炎の裁きを下そうが、天空神が雷を降らそうが、フィリップの血の一滴さえ零すことは出来ないだろう。

 

 どこの誰が、何の目的でフィリップを──というより、教会を狙っているのかは知らないが、無意味なことだ。

 

 フィリップを守護する者を害するため、その守護対象であるフィリップを狙うとは。

 竜を殺したいなら寝込みを襲うべきだ。逆鱗を撫でる必要はどこにもない。

 

 「今日明日どうこうという話でもありませんし、今日は帰って休むことをお勧めしますよ。見たところ、魔力欠乏気味ですし」

 

 珍しく気遣う様子のナイ神父に、フィリップは思ったよりも悪い状態なのかと心配になる。

 ここまで走ってくるくらいの体力はあったし、そう眠いわけでもない。だが確かに言われてみれば自分でも分かる程度にはネガティブな思考が目立ったし、危ないと言われれば危ないのかもしれない。

 

 「そうします」

 

 フィリップは素直に気を失ったままのモニカを背負い、教会を後にした。

 

 その背後で世界に空間に陽炎のような揺らぎが生じ、ナイ神父は笑顔ながら慌てた様子で両手を挙げる。

 

 「きちんと説明しますから、もう少しお待ちを。副王」

 

 扉がしっかりと閉じ、フィリップに声が届かないのを確認する。

 そうしている間にも空間の揺らぎは激しさを増し、いつしか玉虫色の力場に変わりかけていた。

 

 『聞こう。寵児を危険に晒す判断を下した、その故を』

 

 声ではなく、意思が伝わる。

 無理やり声に当て嵌めるなら、重厚で威厳ある、と表現できる響きだった。

 

 「彼の成長のためですよ。危険に際して危機回避本能を励起させ、魔術の行き詰まりを解決して差し上げようかと」

 

 いけしゃあしゃあと宣うナイ神父に、マザーの訝しむような目が向けられる。

 それに肩を竦めて応じると、また極彩色の力場へと向き直った。

 

 「今回の“危険”は精神的なものではなく、物理的なものでしょう? 本当に危ないと判断したら、貴方が介入すればいいだけのことではありませんか? 副王よ」

 『元より、そのつもりだ。そして──ふむ。彼の成長は、我々としても喜ばしい。貴様の判断を赦そう』

 

 慇懃に一礼したナイ神父は無視して、副王は意思の向ける先をマザーに変えた。

 

 『そういうことだ。過度の干渉は控えろ』

 「命令しないで頂けるかしら? あの子の成長の機会を奪うつもりなんて無いから」

 

 フィリップがいれば瞠目するであろう、普段の態度からはかけ離れた険の籠った声。

 だが、母神としての側面を抜いたシュブ=ニグラスなどそんなものだ。自分以外の全てが些事。冷笑を以て万物を睥睨する、地属性最強最大の神格。

 

 その神威が嫌悪と共に発散され、ナイ神父が放置していたビフロンスの生きた死体が一瞬で朽ち果てて崩れ去った。ついでに人の身体を保てなくなったナイ神父が無数の触手の集合体になるが、彼はすぐに化身の強度を高めることで姿を取り戻す。

 

 『……ならば、よい』

 

 心底のものではないが、言葉として納得を示し、ヨグ=ソトースの気配が消える。

 とはいえこの空間における存在そのものが無くなったのではなく、世界の表面に顕出するのを辞めただけだ。彼は世界のどこにでもいるし、世界そのものが彼だ。

 

 「相変わらず、夫婦仲のよろしいことで」

 

 ぽっかりと空いた顔をうねうねと蠢く触手で埋め、元の顔の形に成形しながら、ナイ神父が皮肉を隠さずに嘲る。

 

 殺してしまおうか。

 そんな内心が透けて見える一瞥を投げ、マザーはその殺意を溜息で晴らした。

 

 「さておき、悪魔共は明日の正午にことを起こすようです。どうします? 次もマザーが対処しますか?」

 「次も?」

 「えぇ。そこに……転がっていた、さっき貴女が叩き殺したのが例の悪魔の尖兵ですよ」

 「叩き……? あぁ、え? 何を言っているのか分からないのだけど……?」

 

 大きな羽虫とでも思っていたのだろうが、()()が人質を取り、自分と敵対する光景が想像できないらしい。

 悪魔如きが烏滸がましい、と、フィリップであればそういうのだろうが、その認識もまだ甘い。

 

 「今から蚊が二匹ほど敵対して、人質を取ろうとしてきます」と。そう言われた時に感じる全ての感想が、今のマザーの内心に当てはまるだろう。

 

 これは思ったより重症だと、ナイ神父は初めて笑顔に含ませる苦笑の割合を嘲笑より大きくした。

 

 「人間の個体認識は後にしましょう。まずは人間大の危機認識を身に付けましょうね」

 

 マザーとて、人間の尺度で物を見ることの重要性は理解している。だからこそ人の似姿を取り、何よりうじゃうじゃいて気色の悪いヒトの群れを、退屈しのぎや戯れといった道理無き理由で薙ぎ払ったりしていないではないか。

 

 それに。

 

 「貴方に言われると、どうにもやる気が失せるのよね……」

 

 大きなため息をついて。

 マザーは結局、フィリップのためと自分に言い聞かせることにした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 翌朝。

 夜更かしのツケを払わされるように寝坊したフィリップは、いつもより一時間も遅い朝食にありついていた。厨房の本格始動は既に始まっており、片隅でひっそりと食事を摂っているフィリップに構う余裕は無さそうだ。

 

 しかし、勤務態度は良好で、職務能力もそれなりに高い、最近は魔術の勉強まで始めた丁稚だ。ちょっと冗談じみた存在が珍しく寝坊していれば、目も引くし話しかけてみたくなるもの。

 

 「君が寝坊って、珍しいね。やっぱり魔術の訓練は大変かい?」

 

 いつぞや調味料をこぼしたという料理人見習いの青年がこそこそと話しかけてくる。

 ちょうどパンを頬張ったタイミングだったフィリップは、しばらく咀嚼と嚥下を急ぎ、そして口を開いた。

 

 「いえ、昨日は特別疲れていただけです。ご迷惑をおかけしてすみません」

 

 魔力欠乏による精神疲労と、教会からの帰路を気絶したモニカを背負って歩いた肉体疲労。

 深い睡眠を提供するには十分な要素だった。同じ町に特級の邪神が二柱いて、窓の外にはその耳目たる異形のカラス、さらにはヨグ=ソトースの存在を知り、この世界の脆さまで知っていてよく眠れるものだと自分でも思うが。

 ヒトという弱すぎる存在に与えられた大いなる智慧は、諦めという最適解をフィリップに与えていた。

 

 「いや、謝る必要はないさ。むしろ、君はもっと我儘になるべきじゃないか? 仕事を減らすとかさ」

 

 違うのだ、と。フィリップは口走りそうになるのを自制した。

 

 確かに朝仕事、昼勉強、夜仕事のハードスケジュールをこなす勤勉な少年に見えるだろう。主人も女将も「それは無茶だ」と言っていたし、魔術の訓練が終わるまでは丁稚奉公を中断、あるいはもう中止してもいいと言ってくれた。

 だが、宿の仕事はいわば心の休憩時間。癒しなのだ。

 

 三等地の宿は、稀に王都外から常識を知らないという意味のアホがやってくる。

 一等地の宿は、人間の分際でどうしてそんなに偉そうなんだ? という連中が来ることがある。

 

 だが二等地は、いい感じに自分の分を弁えた人間が多い。特にこのタベールナは、衛士団と提携していることもあって、客の質が著しく高い。

 たまに使用後のベッドシーツや布団をきっちり畳んでいたりして、清掃担当がぼやいていたりするが、それも善意や習慣による行動だろう。

 

 「ありがとうございます。本当につらくなったら、旦那様に相談してみますね」

 

 へらっと笑って誤魔化すと、ふらふらと副料理長が近寄ってきた。

 

 「カーター君。寝坊なんて珍しいじゃないか。夜更かしでもしたのか?」

 

 がはは、と、周りの視線を無視した声量の笑い声からは、責めるような印象は感じない。

 まぁ、さっき衆人環視のなか、滾々と「できないのならそう言え。出来ると言うのなら、やってみせろ」といった旨の説教を料理長──宿の主人から受けているので、これ以上は不要と思われているだけだろうが。

 

 ちなみに寝坊は30分。説教は20分ほどだった。

 

 「あはは、ちょっと寝付けなくて。疲れてはいたんですけど」

 「あー、あるよな。疲れてるのに寝れないの。疲れすぎるのも良くないって聞くが」

 

 ベッドに入ってから数分で眠りの世界に入ったフィリップはすこぶる健康的に疲労していたのだが、ベッドに入った時間がいつもより遅かった。

 身体は疲労回復に十分な睡眠時間を確保し、結果、起床時刻が遅くなった。

 

 「そうらしいですね。あまり根を詰め過ぎないようにします」

 

 閉じられた状態とはいえ、迂闊にも机の上に置きっぱなしだったノートを鞄に突っ込む。

 会話の流れからしてそう不自然な動きではないはずだが、フィリップは冷や汗が止まらなかった。勝手に覗き見るような育ちの悪い従業員はいないだろうが、万が一ということもある。誰かがフィリップの迂闊さの責任を取るような事態は避けなくては。

 

 「ごちそうさまでした。行ってきます」

 「おう、頑張れよ!」

 

 そのまま宿を出ようとしたフィリップの背中に、快活な声が掛けられる。

 

 「おはよう、フィリップ君。久し振りだね」

 

 聞き覚えのある声に振り返ると、ひらひらと手を振っているジェイコブと目が合った。

 両手に酷い火傷を負ったと聞いていたが、そんな痕跡は微塵もない。知己の無事を喜ぶだけの人間性までは捨て去っていないフィリップは、素直に笑顔を浮かべた。

 

 「ジェイコブさん。おはようございます」

 「聞いたよ。魔術の練習を始めたんだって? すごいじゃないか」

 

 言葉をそのまま表情に張り付けたような、素直な称賛と感心の見て取れる笑顔を浮かべて、ジェイコブは腰より少し高い位置にあるフィリップの頭を撫でる。

 

 「……ありがとうございます。でも、あんまりセンスはないみたいで」

 

 あはは、という空虚な笑いは、その言葉に含まれているのが謙遜ばかりではないことを顕著に表していた。

 声色にネガティブなものを感じ、ジェイコブは多少慌てながら話を進める。

 

 「あー……まぁ、魔術は適性の有無とか、その方向性も大きく関わってくるからね。なにか一分野でも適性があるのなら、魔術学院にだって行けるかも。フィリップ君の適性は何だったんだい?」

 「て、適性ですか? えっと……」

 

 そういえば、と、想起する。

 現代魔術には様々な系統の区分がある。攻撃魔術と補助魔術の役割区分、火・水・地・風・光・闇の自然6属性に無属性を加えた7属性に分ける属性区分。この二つが主に指標となるだろう。

 

 攻撃魔術に高い適性を持っていれば攻撃魔術師として。逆に補助魔術、中でも回復魔術に適性があればヒーラー、付与魔術に適性があればエンチャンターとして、求められる役割も必要な技術も大きく異なる。

 

 一般に強力な魔術師とされるのは、多くの分野に高い適性があるか、一点特化でも他の追随を許さないレベルの適性があるかだ。魔術師の二つ名持ちといえば、自然6属性全ての攻撃魔法を高度に使いこなすという、帝国最高の魔術師『魔術軍団(ワンマンアーミー)』。大陸最強の聖属性魔術師にして、王国でも有名な公爵家の令嬢である『明けの明星』。王国第一王女にして大陸最強の火属性魔術師『恒星』。

 他にもいるのだろうが、魔術の世界に詳しくないフィリップがぱっと思いつくのはこの辺りだった。

 

 フィリップの魔術適性は不明だ。

 魔術学院志望だったり、或いは学院生であれば真っ先に調べるのだが、現代魔術ではなく領域外魔術を専門に学んでいるフィリップには必要のない情報だった。ナイ神父も調べようとはしなかったし、フィリップも邪神に通用しない魔術体系に興味は無かった。

 

 「召喚魔術……ですかね?」

 

 咄嗟に口をついて出たのは、未だ成功したことのないその魔術分野だった。

 現代魔術体系に詳しくないフィリップでは適性区分に『召喚魔術』のカテゴリがあるのかさえ知らないが、ジェイコブが浮かべたのは微妙な表情だった。

 

 「あぁ……なるほど。確かに、召喚魔術は死霊術ほどじゃないけど、結構冷遇されてるからね……」

 

 召喚魔術は、一般に通常の魔術を扱えない者の術だと言われている。

 術者本人よりも召喚物の方が強くなければ召喚する意味が薄いが、それゆえ自分より強いものに頼る弱者の魔術と蔑まれることもあるのだ。

 

 なお、その言説についてフィリップは全面的に同意するところである。

 

 



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20

 大前提として、フィリップは弱い。

 邪神や神話生物が手を出すまでも無く、地球現生の魔物や毒性生物、肉食獣などに簡単に殺される10歳の少年でしかない。

 

 その自覚があるだけに、召喚術の評価は妥当なものだと思える。しかし、それは10歳の少年にしては余りに夢のない、達観したものだった。

 まさかフィリップが()()()()とは思っていないジェイコブが慌てて言葉を続ける。

 

 「あ、いや、もちろん、召喚魔術は普通の魔術にはできないようなこともできるし、一長一短だけどね」

 

 フィリップがモチベーションを失くさないように、しかし嘘を吐かないようにと必死に励ますジェイコブの背中、金属鎧に覆われた広いそこで、バン、と小気味のいい音が鳴る。

 いつの間にかすぐ近くに来ていたジェイコブの相棒、ヨハンが呆れ顔でその背中を叩いていた。

 

 「口下手か」

 「お、お前が言うのか……」

 

 意気消沈したジェイコブに代わり、ヨハンが片膝をついてフィリップと視線を合わせる。

 ぎこちない笑みは子供との会話に慣れていないことを窺わせるが、その瞳と声色には確かな誠意が籠っていた。

 

 「例の神父様とご婦人に師事しているらしいな。彼らは素晴らしい実力の持ち主だ。彼らが教える価値ありと判断したんだ。きっと君には才能があるんだろう」

 「あ、あぁ。それは間違いない! ……そうだ、もしよかったら、少し見学させて貰えないかな? ちょうど色々と──フィリップ君?」

 

 内心がそのまま表情に反映されてしまうフィリップの顔には、はっきりと「不味い」と書かれていた。

 

 人間二人が紛れ込んだところで、マザーは意に介さないだろう。ナイ神父はその結果どうなるかは分かっていても、その結果を積極的に変えようとはしないはずだ。

 齎される結果は大別して二つ。

 

 フィリップの魔術が失敗し、二人は詠唱に含まれる悍ましい名前によって多少の精神的ダメージを負う。

 そしてフィリップの魔術が成功した場合、二人は発狂するか、クトゥグアによって焼き殺される。

 

 フィリップは今や、人が持っているべき道徳心や信仰心の類をほとんど持たない人でなしだ。大いなる智慧はヒトを超越した価値観を与え、最早人類が滅びようと「まぁ、そうだろうな」程度の関心しか抱かないことだろう。

 

 だが──人格にこびりついた善性と人倫の残滓が、この善良な衛士たちを殺したくないと叫んでいる。

 

 「えっと、そう……ですね……」

 

 頭を回す。

 なんとか断る方法はないか。教会の魔術は部外秘と言うか? いや、ならばフィリップに教えているのがおかしい。辻褄が合わない。 危険だと言うか? いや、たかだか1週間そこらの訓練しか積んでいない者の魔術など、歴戦の衛士たちには蜂の一刺しにも劣るだろう。 

 

 さてどうするかと悩んだまま口ごもると、ヨハンがジェイコブを小突いてこそこそと囁く。

 

 「いや、普通に考えて、そういうのは教える側に頼むべきだろう。フィリップ君だって困ってるじゃないか」

 「だ、だよな。俺も言ってて思った……。フィリップ君、これから教会だよね? 一緒に行かないか?」

 

 さっと思索を巡らせ、その程度であればと頷く。

 衛士たちはほっとしたように笑うと、フィリップの不意を突くような言葉を投げかけた。

 

 「ありがとう。ついでに、道中で昨夜の事を色々と聞かせて貰えるかな?」

 「昨夜ですか? あはは……」

 

 なんで寝坊の事を知っているのかと一瞬不思議そうな顔になり、続いてばつの悪そうな顔になる。30分近くも説教されていれば目にも留まるだろう。

 そんな納得に至ったフィリップだが、とりあえず浮かべた愛想笑いは二人の不思議そうな顔を見て同じものに変わった。

 

 「あー……何か可笑しなことがあったのかい?」

 「え? えーっと……?」

 

 なんかおかしい。

 そもそもなんで宿屋の丁稚が寝坊した話を聞きたがるのかと考え、そもそもなんで寝坊したのだったかと回想し。思い当たるものがあった。

 

 「あっ……モニカから聞いたんですか?」

 

 具体的に何を、とは言わない辺り、フィリップの警戒が見て取れる。

 なんか不思議な反応だな、と思いつつも、衛士たちは素直に首肯する。

 

 「あぁ。昨日、フィリップ君とベッドを抜け出して教会に遊びに行って──そこで、悪魔に襲われたんだってね」

 

 笑いの衝動が込み上げてくる。

 そう。そうだった。昨日──僕はモニカと一緒に、悪魔に襲われたじゃないか。

 

 何が寝坊だ。それは悪魔に襲われるよりも大きな、衛士が話を聞きに来るほどの事件なのか? 何を馬鹿なことを考えているんだ。全く──価値観が歪むとこういうところが不便だ。これではマザーのことをどうこう言えないではないか。

 

 だが、聞いてくれ。弁解させてくれ。

 無価値な羽虫が叩き潰されたのを──ましてや、他人が叩き潰したのを、一晩寝ても覚えている方が珍しくないか。

 

 俯き、肩を震わせて失笑を懸命に堪える。

 その様子は恐怖に震える様子によく似ていて、衛士たちは肩を叩き、頭を撫でてフィリップを励ました。

 

 なんとか笑いの衝動を鎮めて顔を上げると、頬は赤く、目は涙に潤んでおり、健気にも恐怖に抗い切った少年といった風情だった。

 我慢できずにちょっと漏れた笑いは、都合よく嗚咽と間違われ、また励ましを受けた。

 

 何度か深呼吸を繰り返し、フィリップはようやく二人に頷くことが出来た。

 

 「はい。僕の覚えていることであれば、何でもお話します。ですが、ナイ神父がすぐに対処されたので、あまり詳しいことは……」

 「あぁ、大丈夫だよ。歩きながら、大まかなことだけでもいいんだ」

 

 三人で並んで歩き、教会へ向かいながら、フィリップは懸命に「悪魔が怖くて、ナイ神父が強くて、結局何も分からないからナイ神父に聞いてくれ」と、要約すればそうなるであろう内容を長々と語る。

 衛士たちも要領を得ない、しかし悪魔に襲われた子供らしい話に相槌を打ち、時に励ましたり慰めたりしながら、ナイ神父に尋ねるしかないかと意識を切り替える。

 

 フィリップは丸投げするつもりで実際に殺したマザーではなくナイ神父を槍玉に挙げているが、この判断はかなり危うい。

 

 マザーよりは人間の利用価値を知っているナイ神父だが、価値を知っていることと、価値を感じることとは全くの別物だ。口裏を合わせることで生じるメリットは、彼らを殺すメリットを超えられるだろうか。彼らを殺した時、フィリップが機嫌を損ねるから。マザーであれば、そんな理由で天秤を傾けるだろう。

 

 いや──フィリップは彼らが殺されたとして、本当に機嫌を損ねるだろうか。

 

 もしかしたら──

 

 「え? 殺しちゃったんですか? もう、しょうがないな……ちゃんと後始末はしてくださいよ」

 

 ──と。盆から零れた水を見るような目で死体を眺め、軽い諦めだけが感傷として残るのではないか?

 

 それを人でなしだと感じる人間性はある。

 だが、彼らの死を悲しめる自信は無かった。

 

 フィリップが感じるであろう全ての想いは未来のもの。つまり未知だ。

 

 未知は怖い。怖いから──確かめてしまいたくなる。

 

 本能が囁く。この精神を苛む未知への恐怖を、実験という最も簡単で確実な方法で晴らしてしまおうと。

 朽ちかけの良心はそれを一蹴できない。()()()()()()()()()()、死んだところで何の問題も無いではないか。人は死ぬ。傷で、病で、寿命で、狂気で。刺され、噛まれ、斬られ、撃たれ、焼かれ、縊られ、轢かれ。簡単に死ぬ生き物だ。無為に、死ぬ生き物だ。

 

 ならば──フィリップの役に立て。その未知を、せめて払ってから死んでくれ。

 

 フィリップの心中で何かが牙を剥く。唸り声を上げる、屈強な四肢に鋭い鉤爪を持ったそれは、利己心だけを集めて煮詰めたような醜悪な瞳の獣だ。

 

 しかし、フィリップにとって、そして衛士たちにとって幸運なことに、それと良心がせめぎ合っている間に第三者が声を掛けてきた。

 

 「待ちたまえ、フィリップ・カーター君」

 

 脇道から現れたのは、長い黒髪に端正な顔立ちの青年だった。

 衛士たちのものとは違う甲冑を纏っており、騎士か何かだと推察できる。しかし、衛士二人の反応はフィリップの予想とは違うものだった。

 

 「武装状態での王都内の移動は禁止されている。冒険者であれば認識票と依頼カードを、旅人であれば入口で発行された許可証を見せて貰おう」

 

 ヨハンが前に出ると同時、ジェイコブがフィリップを庇うようにして下がらせる。

 王国騎士団や近衛騎士の鎧がどんなものか知らないが、どうやら眼前の男はそれらに属するものではないようだ。

 

 「悪いが、君たち木っ端の巡視に構っている暇はない。カーター君、緊急の用件がある。一緒に来て貰おう」

 

 何をいきなり、と、ジェイコブは苦い表情を浮かべる。

 しかし、ヨハンが取った行動はもっと苛烈だった。

 

 ヨハンは抜剣と同じ動作で青年の首元を目掛けて剣を振り抜く。居合と呼ばれる攻撃法だが、直剣ではその攻撃が持つポテンシャルを最大限に発揮することは出来ない。

 それが原因ではないだろうが、青年は軽くのけぞることで致命の一撃を易々と躱した。

 

 「ジェイコブ!」

 「応!」

 

 ジェイコブが空に向けて魔法の光弾を打ち上げる。昼前の空にも映える爆発を伴うそれは、いつぞやに見た信号弾だ。

 

 「フィリップ君、下がって! 離れ過ぎないように!」

 

 有無を言わせない圧力を持ったジェイコブの声は、並の少年であれば身体を硬直させてしまうだけの戦意が籠っていた。

 二人は甲冑姿の青年を鋭く睨み付ける。ヨハンはジェイコブとフィリップに聞こえるように、いや、辺りの店や民家に危険を知らせるために、大声で敵の正体を叫んだ。

 

 「襲撃だ! 敵は高位悪魔、目視1!」

 

 青年から、ほう、と感心の息が漏れる。

 

 「そのカテゴライズには物申したいが、何故分かった?」

 

 確かに、フィリップの目からは人間にしか見えない。擬態の気配も無いし、きっとそれが本来の姿なのだろう。

 ヨハンはどうやって見破ったのか。答え合わせをされて、フィリップはなるほどと手を打つことになる。

 

 「馬鹿が。口を動かさずに喋るのは高位悪魔の特徴だ」

 

 盲点だったというように笑い、青年──悪魔は腰に佩いた曲刀を抜き放った。

 

 「いかにも。ワタシは七十二柱の悪魔が一、ゴエティアにて公爵位を賜るエリゴスである。そこの──カーター少年を差し出せば、いま君たちを殺すことは無いと約束しよう」

 

 フィリップを指して言うエリゴスに、ヨハンとジェイコブは揃って中指を立てた。

 

 「いまは、だろう? よしんば未来永劫殺されないとしても、子供を差し出して生き永らえるのは御免だな」

 「全くだ」

 

 本当に可笑しいと、エリゴスは肩を震わせる。

 曲刀を地面に突き立て、即座の攻撃の意志は無いと示し、口を開かずに言葉を続ける。

 

 「二人でワタシを相手取る気か? それは自信過剰だぞ。今は退き、仲間を集めてから奪還作戦なり、討伐作戦なりを組むべきだろう」

 

 その言葉はきっと真実だ。

 衛士二人は剣を構えているが、フィリップに逃げろとは言わない。それはフィリップに人質としての価値を感じているから──ではなく、眼前の悪魔を、フィリップが逃げおおせるだけの時間、抑えておけると言う確固たる根拠が無いからだろう。

 

 遠ざけて守り切れないのなら、手元で守り切るしかない。その負担がどれだけ大きなものであれ。

 

 「クク……では、その覚悟に免じて、あと40秒──増援が来るまで待ってやろう。あぁ、準備時間も必要か?」

 

 嘲るような声色から、その申し出が敬意や善意に拠るものではないと分かる。

 悪魔は嘘を口にしない。そう言ったからには、増援が来るまで攻撃してこないはずだ。それはつまり、二人殺すも増援ごと殺すも同じだということ。

 

 その自信を、それを齎す力を。衛士たちの決死の覚悟を目の当たりにして──フィリップは首を傾げる。

 

 眼前の悪魔。フィリップが目的だと明言したそれに、何の価値も見出せない。

 衛士たちは死ぬだろう。悲しめるだろうか。悲しめたとしても、きっとマザーに蘇生を頼むことは無いだろう。適当に悲しんで、適当に冥福を祈って、それで終わりだ。

 

 悪魔はどうなるだろう。

 ナイ神父が殺すか? マザーが殺すか? それともヨグ=ソトースが殺すか?

 

 どうだっていい。

 

 泡沫のようなこの世界で、誰がどう死のうが知ったことじゃない。

 

 「ジェイコブ! ヨハン!」

 「来てくれたか!」

 「あぁ。もうしばらくで団長と、本気装備が何人か来る! それまで持ち堪えるぞ!」

 

 路傍の石を見るようなフィリップの目には誰も気付かないまま、状況が変化する。

 

 衛士たちの増援が到着し、2対1だった戦局は10対1にまで差を広げた。格闘戦は3倍差で絶対有利だというが、それは一人一人が互角の力を持っている場合だ。

 その人数差を前にして、エリゴスは哄笑する。

 

 「準備はいいか?」

 

 地面に突き立てていた曲刀は抜き放たれ、禍々しい刃には地獄の黒炎が宿る。

 

 衛士たちが魔術の詠唱を開始し、剣を構えて陣形を築く。

 

 「さぁ、祈り給え──!!」

 

 



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21

 フィリップの眼前で繰り広げられる攻防戦は、意外にも拮抗する場面が多くあった。

 

 衛士たちは個々の技量が高く、さらに連携が高度に噛み合っていた。エリゴスの防御を掻い潜った斬撃が鎧を傷付け、回避しても追尾する魔術は的確にエリゴスの隙を突く。

 このままいけば勝てるのではないか。そんな期待すら抱かせる戦いはしかし、エリゴスの浮かべた嘲笑が薄れず、衛士たちの顔に疲れが見え始めて戦局を変える。

 

 「中々に練り上げられているではないか。良い肉体、良い魂だ!」

 

 剣は当たる。魔術も当たる。

 エリゴスの攻撃は確実に回避され、或いは魔術によって防がれている。

 

 だが──衛士たちの攻撃は全くと言っていいほど効いていなかった。

 

 「だが武装が悪いな。ワタシの鎧に、ワタシの魔力に、まるで通じていないぞ? そして──!!」

 

 エリゴスが衛士の一人に肉薄し、黒炎に包まれた曲刀を振るう。

 剛腕による一閃は空気を切り、燃え盛る炎が空気を喰らう。独特な音を上げるその一撃は、防御姿勢を取る衛士の寸前で半透明の障壁によって防がれた。

 

 「気付いているか。ワタシの一撃は、その程度の鎧など一撃で破壊するぞ。肉体諸共に、な!」

 

 炎がひときわ大きく膨れ上がり、魔術障壁に罅が入る。

 不味いと思った時には既に遅く、その衛士は大きく吹き飛び、急所を庇った剣と腕を滅茶苦茶に破壊されて気を失った。即死ではないだろうが、かなりの深手だ。

 

 後衛の一人が後を追い、治療魔術をかける。とはいえ、何の儀式もないただの治癒魔術では、複雑骨折などの重傷は治せない。剣が折れ、無用となった鞘を添え木代わりに物理的な応急処置を進める。

 

 戦線に残ったのは8人。

 10人いればなんとかなっていたが、少し厳しい数字だと、衛士たちの表情が物語っている。

 

 苦々しく歪む顔を順繰りに眺め、エリゴスは愉悦の笑みを浮かべた。

 

 「さぁ、次は誰だ? ワタシに剣を向けたのだ、惨たらしく死ぬ覚悟は出来ているのだろう?」

 

 圧倒的な力の差など無く。ただ衛士たちの武装が貧弱であるが故に、この戦場はエリゴスのものだった。

 

 ヒーラーらしき衛士と共に、フィリップも応急処置を手伝っていた。

 とはいえ、一般的な知識しかないフィリップでは、刃物で深々と切り裂かれたり、凄まじい熱で焼き溶かされたりした傷の手当には手間取る。

 

 一人の傷をどうにかすれば、新たに一人が傷付き、倒れる。誰一人として死んではいないが、それも「今は」と頭に付く。

 

 戦線を支える衛士が減るごとに負傷者の出るスピードは増える。

 幸いにもと言うべきか、或いは不幸にもと言うべきか──このペースなら治療体制が決壊する前に、衛士たちが全滅する。

 

 一人癒し、一人倒れ、それを癒し、次が倒れ。最後の一人が倒れ──エリゴスが哄笑する。

 ことここに至るまで誰も逃げ出さなかったのはフィリップにとっても意外だったが、それ故に彼らはここで死に瀕している。

 

 「クク、さぁ、終わりだよ。そちらの治療術師君、君も戦ってみるかね?」

 

 舌打ちし、その衛士も長剣を抜いてフィリップの前に立つ。

 それを見て、エリゴスは酷薄な笑みを浮かべた。

 

 「この衛士たちを診ていたからか? 死ぬことは無いと思っているな? だがワタシは貴様を殺し、その後でこいつらも殺すぞ」

 

 衛士は言葉を無視して一歩だけ下がる。

 そのまま振り向くことなく、フィリップに告げた。

 

 「逃げろ、少年。なるべく王城側にな」

 「高潔な判断のつもりか? そうだな……では、その少年を差し出せば、貴様ら全員を見逃してやろう。9人か、1人か。どうするね?」

 

 は、と。衛士はその提案を一瞬の迷いも無く鼻で笑い、中指を立てた。

 

 「そんなことしたら、俺がこいつらに殺されるね。俺だって、そんなクソ無様を晒す奴は団長でも殺す。……行け、少年」

 

 戦闘型ではない彼では数秒と保たないだろう。

 フィリップがその数瞬で逃げ延びる可能性は、投げたコインが直立する確率より低いに違いない。

 

 そのコンマ数パーセントの為に、彼は仲間と共にここで死ぬ。

 

 矮小なヒトにありきたりな無為な死だ。

 だが──フィリップの人格にこびりついた人間性が喝采する、勇敢な死だ。

 

 最後の衛士が突撃し──数合の剣戟の果てに倒れる。

 

 無価値なものを見る目をしたフィリップを庇い、弱き者を嘲るエリゴスに切り伏せられた衛士たち。

 フィリップが走ったそのほんの数歩が、彼らの抵抗の結果だ。

 

 何たる無為。何たる無価値。

 フィリップの価値観はそう判断する。一切の買い被り無く、一切の侮りなく、正確にヒトの命の価値を見定める。

 

 「ハハハハ! 無様な!」

 

 エリゴスのその嘲りにすら、フィリップの価値観は同意する。

 

 「さて、待たせたね少年。君は有効な手札なのだ。私と共に来てもらうよ」

 

 勝ち誇った顔で近付いてくるエリゴスに、フィリップは初めて感情の籠った目を向けた。

 

 あぁ。人間は無価値だ。

 彼の者たちにしてみれば、その姿を目にするだけで狂って壊れる生物など、認知する価値も無い矮小な存在だ。認めるとも。フィリップを含めたあらゆる人類は無価値だ。

 

 だが──

 

 「それはお前も同じだよ、悪魔」

 「何?」

 

 呟きを耳にして、エリゴスの歩みが止まる。

 

 人間は無価値だ。だが──それは悪魔もそうだ。

 ヒトも、悪魔も、天使も。魔王も、神も! 世界の中心で眠る魔王に、かの宮殿を守る副王に、幾千の落とし子を孕む地母神に、千なる無貌に。この宇宙に犇めく強大で偉大なるものどもに比べれば、塵芥にも劣る!

 

 「無価値なお前が、勇敢な彼らを侮辱するな」

 

 彼らが死んだところで、あぁそうか程度の感傷しか抱かないだろう。

 人は死ぬ。その達観した価値観は揺るがない。しかしそれでも、美しいまでに勇敢な彼らが侮辱されるというのは、フィリップにとって酷く()()()なことだった。

 

 「生意気なガキだな。神父共を殺したら、痛めつけて殺してやる」

 

 歯を剥き出しにして凄むエリゴスに対して、フィリップの睨み付ける視線はちっぽけなものだ。その構図を客観視すれば、フィリップだって笑うことだろう。

 口角を吊り上げ──嗤うように、咳き込むように、泣き叫ぶように、嘲るように、綴る。

 

 「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ほまるはうと うがあ ぐああ なふる たぐん

 

 呪文が毒だ。名前が毒だ。

 存在そのものが神への冒涜に当たるようなモノへの呼びかけ。その名前。常人であれば耳にしただけで、神経に爪を立てるがごとき不快感に襲われるだろう。

 

 そして只人よりも智慧ある悪魔であれば。

 

 「な、んだ。それは、その魔術は……ワタシは、そんな魔術……『やめろ』! 『喋るな』!」

 

 エリゴスが口を開き、支配魔術がフィリップを縛る。そのはずだった。

 フィリップの耳に届いたのは、耳触りのいい穏やかな音だ。声ならざる音はしかし、明確にフィリップを包み、守護する意図を伝えていた。

 

 魔王の宮殿にて賛美と眠りの曲を奏でるもの。

 原初の外神が一柱。音そのもの。彼がフィリップの味方である限り──あらゆる音が、フィリップを害することは無い。 

 

 「いあ──」

 「ば、馬鹿な!? 『やめろ』! 『やめろ』!」

 

 フィリップの足元に巨大な魔法陣が展開され、魔術の成立を知らせる。

 あとはその名を讃え、呼び出すだけだ。

 

 エリゴスは今や耳を塞ぎ、頭を抱えて蹲っていた。

 フィリップは嗤う。

 

 あぁ──無価値なお前に相応しい、無様な姿だ。

 

 「──Cthugha

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 衛士対悪魔の様子を使い魔の視界越しに観察しながら、マザーは退屈そうな溜息をついた。

 我関せずと聖女像の表面に微細な文字を刻む作業に没頭しているナイ神父に、信者用の椅子で虚空を見つめるマザー。いつも通りの光景だった。

 

 「ねぇ、退屈なのだけど。あの子のところに行っていいかしら?」

 

 心底退屈だと声に出ているマザーの問いに、彫刻刀の音が止まる。

 カソックの上に着たエプロンから石のクズを払い、振り返ったナイ神父の顔には色濃い嘲笑が浮かんでいた。

 

 「昨日の話を忘れたんですか? 悪魔には彼の踏み台になって貰わなければ」

 「……あんなので本当に成長できるの? ショゴスとか、ティンダロスの追跡者くらい用意してあげた方がいいんじゃない?」

 

 ほう、と、ナイ神父は珍しく感心の息を漏らす。

 

 「貴女にしてはいい案ですね。もう少し成長したらそうしましょうか」

 

 マザーが提示したのは、二人が個体を認識できる最低のラインだ。

 旧支配者が飼い慣らすこともある神話生物たちは、フィリップにとって善き訓練相手になることだろう。

 

 そしてフィリップが召喚魔術をマスターすれば、指の一弾きで消滅させられるレベルの雑魚となる。いい感じの踏み台だ。

 

 「そういえば、どういうプランなの? 今はクトゥグアの召喚と使役よね? 次は?」

 「次はハスターか、クトゥルフ辺りでしょうか。四属性を満遍なく習得させたいと思っています」

 「クトゥルフ……? クトゥグアもそうだけど、妙に弱いのを選ぶのね?」

 

 フィリップを強くするという目的に対して、その目標はマザーの視点からは低いものだった。

 召喚や使役は相手側の都合で結果が左右され、召喚対象が暴走することもある。それなら、マザー──シュブ=ニグラスが母神としての権能を使い、より強大な新たな外神として産み直すとか、魔術によって旧支配者を憑依させるとか、もっと確実でもっと強くなる方法は幾らでもある。

 

 外神、特にナイアーラトテップやシュブ=ニグラス辺りの上位存在からすると、旧支配者は十把一絡げの雑魚だ。

 四属性による区分では、彼らは同じく地属性最高位。ハスターは風属性最高位、クトゥルフは水属性最高位とされている。

 

 だが──弱すぎる。

 

 属性のトップ同士だからといって、彼らは決して同格などではない。

 

 本気になったシュブ=ニグラスであれば、他の三属性の旧支配者全てを相手取ることも可能だ。そんなシュブ=ニグラスでさえ副王たるヨグ=ソトースには一歩劣るというのが、外神のインフレ具合をよく表している。まぁ長がアレなので、今更ではあるが。

 

 「地球で生きていくなら、これでも過剰なくらいですよ?」

 「……そうかしら?」

 

 未だに尺度が地球の規模に合っていないマザーに嘲笑を向けるが、マザーはもうそれどころではなかった。

 

 「あ、あの子が詠唱を始めたわ! 今日こそ成功するといいのだけど……」

 

 目を輝かせて虚空を見つめるマザーの様子は狂気的だったが、ナイ神父としても興味のある内容だった。

 フィリップの強化・育成はアザトースの命に基づく必要事項だ。フィリップが今後、旧支配者対外神の邪神大戦に巻き込まれたとしても、何の影響も無く生きていける程度に強くなるのは決定している。

 

 これはその第一歩だ。

 

 「私にも見せてくれませんか? この辺りの壁に投影して頂けると──」

 

 ナイ神父が壁を示し──轟音と共に、ちょうどその場所に大穴が空いた。

 

 「……」

 「……」

 

 もうもうと立ち込める土煙のなか、三対の光源がゆらりと揺れる。

 

 ゆっくりと、威厳すら感じる足音を響かせながら、その姿が土煙を破る。竜の身体に犬と人と鷲の頭を持った異形の悪魔──

 

 「我が名はブネ。七十二柱の悪魔が一、ゴエティアにて公爵位を戴く者である。我が同胞が来るまでの間、しばし──」

 

 ぴたりと、言葉が止まる。

 

 蛇に睨まれた蛙。

 ブネの状態を表すのなら、いい感じに似合いの言葉だ。惜しむらくは──彼我の力の差が、蛇と蛙程度では到底足りないことか。

 

 マザーの瞳は美しい銀色に輝き、ナイ神父の瞳は吐き気を催す極彩色に輝く。

 二人からは神威にも似た強大な気配と、それを何百倍も上回る悍ましい気配、そして明確な怒りが感じ取れた。

 

 ブネが予想していた恐怖とも戦意とも違うもの。困惑は一歩の後退として表れる。

 

 「……!?」

 

 言葉が出ない。

 貼り付けたような笑顔の神父が怖い。能面のような無表情ながら明確な怒りを感じる女が怖い。

 

 たかだか人間に、などと思う余裕はなかった。

 

 ドパァン! と。擬音にすればそんな感じの、水の入った革袋が破裂するような音を聞いて、ブネの意識は消滅した。

 

 何を語るでもなく。何をするでもなく。

 何の怒りを買って、どうやって死ぬのかを知ることもなく。

 

 この場にフィリップがいれば笑うほど無為に、無価値に、ブネは死んだ。

 

 「……邪魔が入りましたね。あちらの壁にお願いできますか?」

 「……残念。山場は終わったわ」

 

 ナイ神父が落胆の声を上げ、背後で壁が逆再生のように修復されていく。

 膝をついて本気で落ち込む神父の頭にも、それを愉快そうに見下ろすマザーの意識にも、最早悪魔のことなど一片も残っていなかった。

 

 教会の修復が完全に終了し──悪魔がいたという証は、綺麗さっぱり無くなった。

 

 

 



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22

 フィリップに足りていなかった要素は──魔術に失敗し続けた原因は何だろうか。

 

 魔力はある。召喚魔術は魔力量や制御能力に劣る者にも強大な力を与える魔術だ。要求される魔力量は通常の魔術と比べてかなり少なく、肉体的に発展途上のフィリップでも十分に補える。

 

 対象への理解もある。召喚対象であるクトゥグアに関する知識は、地下祭祀場で外神や旧支配者についての知識を植え付けられたときに理解している。クトゥグアの側も、最大神格の寵愛を受けた相手のことは認識しているだろう。

 

 召喚し、使役するという強い意志もある。強大な相手からの守護は約束されているが、外神視点で害とならないもの──地球上のあらゆる存在が、その監視網を潜り抜けることがある。敵を殺す手段、自衛手段の確保は必須だ。

 

 結論から言って──問題だったのは最後。()()()()()()()()()

 その決意自体はいい。殺せないのと、殺せるが殺さないのでは大きな差異がある。敵に剣を振り下ろせないのでは戦闘は絶対不利。いや、戦う以前の問題だ。

 

 その自覚を持ち、一週間の訓練の間維持し続けたフィリップは、少なくとも無能ではない。

 だが、それは()()だった。

 

 召喚魔術によって喚び出される対象は、召喚者の意思を汲む。それに従うかどうかは二者の関係性によるが、少なくとも意思疎通が出来ないということは無い。

 フィリップの「敵を殺す」という強いモチベーションは確かにクトゥグアへと伝わり。そして──擬人的な表現をするのなら、この一週間、クトゥグアは首を傾げていた。

 

 『敵ってどれ?』と。

 

 ナイ神父がいる時はいい。

 クトゥグアにとって長年の敵であるナイアーラトテップがいるのだ。フィリップの思う『敵』とは違うが、クトゥグアの中での矛盾はない。

 颯爽と召喚に応じ、灰も残さず焼き殺し。仕事を完了して帰るだけだ。

 

 だがナイ神父がいない時、クトゥグアは困惑する。

 魔王の寵児である召喚者の他には、その召喚者が信を置くシュブ=ニグラスしかいない。嫌悪はあるようだが、敵対には至らない軽微なものだ。

 故に、クトゥグアは召喚を拒否する。ちょっと何言ってるのかわかんないです、と。

 

 

 そして今──クトゥグアにも理解できる命令が下る。

 召喚理由はこれまでの何倍も強固な意志の籠った、これまでと同じくらい単純で明解なもの。

 

 『この不快なゴミを焼却しろ』と。

 

 あぁ、これはいい、と。クトゥグアは笑う。

 今までの中途半端に身の程を弁えた、自虐的で遜ったような命令とはまるで違う。クトゥグア好みの、クトゥグアの視座に合った、実に魔術師らしい傲慢な命令だ。

 

 クトゥグアは火球の化身を象り、召喚に応じようとして──恒星にも匹敵する超高温の身体が、超新星爆発並の更なる極高温に呑み込まれた。

 

 意思が届く。

 ただ簡潔に、傲慢に。“退け”と。

 

 それは、きっとクトゥグアと同じく召喚者の命令と成長に昂りを覚えたのだろう。それの属する陣営を思えば、クトゥグアよりもその情動は大きいかもしれない。

 

 魔術による繋がりを利用して無理矢理に自分が出ることはできるが──今日のクトゥグアは酷く上機嫌だった。

 

 魔術師の召喚に際して横入りされることなど日常茶飯事。今回の召喚を見逃すのは惜しいが、それの興奮や歓喜もまた理解できるがゆえ。

 騒ぎ立てる隷下の炎の精たちを鎮め、クトゥグアは召喚魔法陣へ続く魔術経路を快く譲った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 魔法陣を経由して召喚されたのは、この一週間で見慣れつつあった極小の恒星──ではない。

 燃え上がる三枚の花弁と、それを守るような環状の炎。掌大の小さなサイズ感もあって、幻想的な姿ながら可愛げも感じられる。火の妖精と言われても信じられるほどだ。

 

 クトゥグアを召喚する際に、最も気を付けなくてはならないもの。

 クトゥグアを生きた恒星と表現するのなら、彼或いは彼女は「意思を持った超新星爆発」。内包するエネルギーは桁から違う。

 

 フィリップは高々と掲げた右手に灯るその炎に、言い知れない不安感を覚えた。

 

 「あ、あれ……?」

 

 クトゥグアじゃない。しかも、どうやら制御下にない。流れ込んでくる思念から、どうやら興奮状態らしいと判断できる。

 

 ──これ、もしかしなくてもヤバいのでは?

 

 フィリップの眼前で荒い息を繰り返していた悪魔が、フィリップの焦りを感じ取ったのか、口角を吊り上げる。

 

 「ク、クク……召喚に失敗したようだな! なんだ、その矮小な火の精は?」

 

 エリゴスの嘲りを滑稽と笑う余裕も無く、フィリップは暴れようとするヤマンソを魔術経路を介して鎮めようと試みる。

 とりあえず『止まってください』と念じてみるが、聞き入れてくれる様子はない。というか、届いているのかも怪しい。ヤマンソはエネルギーを凝縮し始めており、召喚主であるフィリップにはその照準先が分かった。

 

 「え? ちょ、ちょっとストップ!」

 

 召喚時に思い浮かべた召喚目的は眼前の悪魔(不快なゴミ)の焼却だ。断じて()()()の焼却ではない。

 フィリップの叫びを聞き入れることなく、ヤマンソは破壊の準備を着々と進めている。

 

 駄目だこれ、終わった。

 足元の衛士や王都どころか、この星が焼き尽くされる。

 

 僕は今後、死ぬに死ねないまま宇宙空間を漂って、人の居ないどこかの星で孤独に暮らすんだ……。

 

 そんな絶望の未来が頭を過り、失神しそうになる。

 嫌だ。いくらなんでもそれは嫌だ。そんな状態でも傍にナイ神父とマザーはいるだろうが、それこそがその未来で最も嫌な部分と言っても過言ではない。

 

 向こう何年あるか分からない人生を、邪神と三人で過ごす? 嫌に決まってる。

 そんな未来は嫌だ。

 

 

 だから──()()()()

 

 

 渾身の思念が流れ込み、炎の花弁が大きく揺らぐ。

 しかし、それだけ。

 

 いくら魔王の寵児とはいえ、意思の力はヒトのままだ。

 外神を屈服させるほどの意思強度など持てるはずも無く、むしろその傲慢ですらある抵抗を焼き払わんと、ヤマンソのエネルギーが一段と膨れ上がる。

 

 それはやがて必要十分な域に達し──フィリップに実行の意が伝わる。

 

 駄目だったと舌打ちをする間も惜しんで、フィリップは焼却の寸前で一言、叫ぶことに成功した。

 

 「ヨグ=ソトース!!」

 

 ことここに至り、エリゴスも漸く()()が何かに薄々ながら気付いたようだ。

 反射的に一歩後退り──それが、エリゴスの取った最後の行動だった。

 

 瞳孔は開き、鼻孔は膨らみ、大量の発汗と筋肉の震えが見て取れる。だが、その場から逃げようとはしない。いや──実行できるだけの身体の自由が利かないか。

 釘付けになるほどの恐怖は、狂気に陥った者によく見られる症状だ。

 

 気付いたか。眼前のそれが、火の精などという可愛げのあるものではないと。

 気付いたか。眼前のそれが、この星をすら容易く焼き払える超位の存在であると。

 

 気付いたか。この世には、知ってはいけないモノが存在することを。この世が如何に繊細で、如何に残酷かを。

 

 蒙は啓かれた。

 

 普段のフィリップであれば喝采すらしていただろう成長を最後に、エリゴスの意識は消滅した。

 

 

 

 明確に敵と認識していた悪魔の死はしかし、フィリップに何の感動も与えなかった。

 より正確には、フィリップはそんなことを気に掛けている場合では無かった。

 

 ヤマンソが焼却を始める寸前、ヨグ=ソトースへ呼び掛けることには成功した。

 だが、問題は副王がどれだけフィリップの意志を汲んでくれたかだ。

 

 フィリップは死なないだろう。星は守られたか? 大陸は? この国は? この街は? 足元の衛士たちは?

 

 どこまで守ってくれた?

 

 最悪の未来は避けられたか?

 

 思わず閉じていた目をおそるおそる開き──瞠目する。

 

 フィリップを中心に半径30メートルほどが焼き払われ、店も家も構わずあらゆる建造物が消滅している。焼け跡も残っていない辺り、燃えたのではなく蒸発したか。

 だが、円状の破壊は30メートルで止まっている。その外側は完全に無傷だし、足元に転がっている衛士たちも10人全員無事だ。

 

 考え得る限り、最高の結果じゃないか。

 ヨグ=ソトース。素晴らしい仕事ぶりだ。この期に及んで姿も見せない自称守護者と自称保護者とはわけが違う。流石は全にして一、一にして全。フィリップもまた彼と言うだけの事はある。

 

 破壊を免れていた家の間から、ガチャガチャと鎧を鳴らして衛士の増援がやってくる。

 ヒーラーがいるかは分からないが、足元の彼らもこれで一安心だろう。少なくとも、フィリップの施した一般的な応急処置よりは何倍も実践的なものが再処置されるはずだ。

 

 安堵の息を漏らすが、衛士たちは転がる味方を助け起こそうとしない。

 

 というか、動きがどうもおかしい。一定距離まで近付くと接近を止め、距離を保ったまま横に展開していく。

 フィリップを中心に円を描くように……包囲するように。

 

 なんかおかしい。そう感じたフィリップの身動ぎに反応して、彼らは一斉に抜剣し、或いは魔術を照準した。

 

 「動くな!」

 

 攻撃の意思を見せれば、即座に首を刎ねられる。

 敵意と警戒の籠った声と視線で、そう理解するのは簡単なことだった。

 

 まぁ、少し考えれば分かることだ。

 

 衛士団に悪魔出現の報が届く→現場到着とほぼ同時に町の一角が熱破壊される→右手に炎を灯した子供with足元に倒れている衛士たち

 

 現状から推察されること1、破壊は悪魔の仕業。

 現状から推察されること2、破壊は右手に炎を灯した子供の仕業。

 

 結論──この子供は悪魔。

 

 「いや、違う、違います! 僕は悪魔じゃ──」

 

 自分で言っておきながら、ちょっと笑えてくる弁解だった。

 フィリップが衛士の立場ならもう斬りかかっていてもおかしくない程度には、いまのフィリップは悪魔に見えるだろう。事実として町の一角を吹き飛ばしたのはフィリップだし、包囲されるのは必然なのだが、それでも悪魔扱いには断固として抗議する所存である。

 

 「何をしている? これはどういう状況だ?」

 「あ、団長! それが……」

 

 見覚えのある、他の衛士たちより少し装飾のある鎧を着た衛士が現れると、包囲していた衛士たちの雰囲気が和らぐ。

 弛緩したというよりは、安心感を持ったという感じだ。

 

 顔を寄せて会話している二人の話の内容は聞き取れないが、さて、どうなるのだろうか。

 最善の結果は無罪放免、最悪の結果は……ここで衛士全員が敵に回ること? いや、捕縛され、フィリップが悪魔であると晒し上げられることが一番困るか。

 

 衛士団長は王国最強の戦士らしいが、ヤマンソと接続した今なら分かる。

 外神の前で、人間同士の強さなど誤差だ。

 

 虫も殺せない貧弱な者。町一番の力自慢。軍隊の精鋭部隊員。国内最強の兵士。

 どれも全く同じに見えるほど、ヒトと彼らの間には隔絶した差がある。知識として理解はしていたが、いまは体感し、納得した。

 

 衛士団長を含む衛士全員の抹殺は、そう難しいことでは無い。

 だが国内外にフィリップが悪魔だと吹聴された場合、この大陸での生活は難しくなる。敵対者全員を殺し、フィリップが王座に就く……というのは、フィリップにとっては避けたい展開だった。

 

 「あの……僕、悪魔じゃないんですけど……?」

 

 なるべく刺激を与えないように、もう一度呼び掛けてみる。

 足元に転がっている負傷した衛士たちを示して、「ほら、この人たちの手当てをしていたんです」と付け加えてみるが、反応はあまり芳しくない。

 

 どうせ、彼らが目覚めれば証明されることだ。急ぐこともない。

 そんな諦めを抱いていると、衛士の一人が恐る恐るといった体で問いを発した。

 

 「召喚魔術師……なのか?」

 

 今以外のあらゆる場面ではNOと答えるところだが、フィリップは首肯した。

 どこか安堵したような空気が流れ、同じ衛士が召喚物を帰還させるよう言ってきた。

 

 フィリップは肩を竦め、右手に灯った炎を一瞥した。

 さて──どうやって帰還させるのだろう。

 

 この一週間、クトゥグアを召喚する魔術をずっと練習していた。餌となるナイ神父がいれば成功するが、その後は勝手に帰っていたので……帰還や追放といった召喚魔術と対になる魔術の練習はしていない。

 

 困惑と放心の中間のような顔で突っ立っているフィリップに、同じ衛士が苦笑いで尋ねる。

 

 「も、もしかして……制御できてない? それ」

 

 フィリップが首肯すると、衛士たちに共通した雰囲気が流れる。「勘弁してくれよ」と、声に出さずとも伝わってくる。

 

 そんな中からフィリップに近付いてくる者がいた。衛士たちの鎧より一段装飾の華美なものを纏った衛士団長だ。

 歩調に恐れは見られないが、気乗りしないような雰囲気は感じ取れた。

 

 やがてフィリップの前まで来ると、彼は頭を掻きながら説明を始める。

 

 「魔力を制御できない魔術師と、召喚物を制御できない召喚魔術師、あと自分で何を作ってるか分からない錬金術師は『爆弾』だ。我々は捕縛、或いは処断しなくてはならない」 

 

 尤もだと思ったフィリップは即座に両手を挙げ、降参の意を示す。

 物分かりのいい爆弾だと、誰かが呆れ声で呟いた。

 

 



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23

 地下牢というものは、どこも似たような造りらしい。

 

 魔術で成形し、錬金術製の建材によって舗装された床や壁。魔力を制限する効果のある手枷から伸びる鎖は、壁に埋まった杭と繋がっている。

 いつぞや見た、というか捕まっていたカルトのものと同じだ。何なら、こちらの方が築年数があるだけにちょっと汚い。

 

 まぁ、あの時は目に映る全てが美しく感じるように薬を盛られていたので、あまり意味のない比較だ。

 

 魔力を制限され、ヤマンソとの接続は遮断された。

 本体から遠く離れた地球で化身を顕現させ続けるのが面倒だったのか、或いは副王が何かしら手を回したのか、ヤマンソは大人しく帰還してくれた。

 

 ()()を手放した今もこうして王都衛士団の留置場に拘留されているのは、フィリップがその爆弾をいつでも再召喚可能ということと、その破壊規模が問題視されているからだ。前者に関しては、再召喚というより召喚しても制御できないという点に問題があるのだが。

 

 拘留から3日。

 待遇はそこまで悪くない。三食おやつ付き、手枷付きであればシャワーもできるし、暇つぶしなら看守が話し相手になってくれる。ベッドはそこそこ柔らかく、地下ということもあって暑くも寒くも無い。

 目覚めた衛士たちが悪魔の存在と、フィリップが彼らの手当てをしていたことを証言してくれたのが大きい。投石教会で魔術を学んでいたことも調べが付いたようで、教会関係者待遇なのかもしれない。

 

 少なくとも処刑はされないだろう。悪魔として扱われることもない。

 となれば、ここには触手カラスの監視もなく、ナイ神父もマザーもそう易々とは侵入できない極楽浄土。もう何か月か、いやもう何年かはここに居てもいい。

 

 王国屈指の実力者集団である衛士たちは、フィリップを必要以上に警戒したり、恐れたりしないというのもいい。

 警戒はある。恐れもある。だが、過剰では無く、不足も無い。()()()()()()()()()()()()()()()という但し書きが付くが。

 

 召喚魔術師としての機能を制限された今のフィリップを、彼らはただの子供として扱っている。適度な尊重、適度な軽視、適度な警戒。素晴らしい。嘲笑も冷笑も愛玩も混じらない。なんて素晴らしい。

 

 「ここに住もうかな……」

 

 うっかり漏れた心の声に、牢の外にいた看守が苦笑いを浮かべる。

 待遇が良いとは言うが、それは他の牢獄と比べての話だ。地下牢は地下牢。行動を極端に制限し、空を見ることにすら書類の提出が必要なクソのような場所だ。

 

 三等地──いや、王都外の街でもここより何十倍もマシな暮らしができるだろう。

 

 「そう言わないでくれよ。色々と手続きを進めてるから、もうじき出られるさ」

 

 皮肉と受け取った看守が肩を竦めてそう言う。

 フィリップも同じジェスチャーを返し、冗談だということにする。

 

 少しすると、地上へ続く階段から硬質な足音が聞こえてきた。

 時計の無い地下空間では時間の感覚が薄れるが、朝食はついさっき摂ったばかりだ。看守もそちらに目を向けるが、入ってきたのは平服の男だ。

 

 「あ、団長。お疲れ様です」

 

 衛士団長=ちょっと豪華な鎧の人という等式が頭の中で成立していたフィリップは、看守の言葉と敬礼を確認するまで誰か分からなかった。

 

 彼は看守に返礼すると、フィリップの牢を覗き込んだ。

 鋭い視線がフィリップの頭頂から爪先を舐め──白い歯を剥き出しに、粗野ながら明朗な笑顔を浮かべた。

 

 「元気そうだな、カーター少年!」

 「……お久しぶりです。お陰様で、体調に問題はありません。もう二、三年はここで暮らせますよ」

 

 フィリップは王都にやってきた初日に巻き込まれた拉致事件の聞き取り調査で、衛士団の数人と面識があった。衛士団長もそのうちの一人だ。

 

 「あっはっは! なら、これは朗報ではなく悲報かもしれんな!」

 

 衛士団長は笑いながら、小脇に抱えていた書類の束を見せる。

 鉄格子まで距離があるが、表題くらいは難なく読める。

 

 『執行書』。ふむ、なるほど。内容が重要な書類か。

 

 「……処刑ですか?」

 「勿論、違うぞ! これは──君の釈放に関する書類だ! たぶんな!」

 

 朗らかな、しかし曖昧な言い方に首を傾げると、看守が苦笑いを浮かべる、

 

 「団長、それ、誰が作った書類ですか?」

 「騎士団長だ! 二等地を吹き飛ばした罪を悪魔討伐の功で相殺するように、ボコ……脅し……言いくるめて来た!」

 

 チンピラかよ、と。看守とフィリップの心が一つになる。前任の衛士団長を知っている看守は、仕方ないか、と首を振っていたが。

 

 というか、そういえば。フィリップは今更ながら、自分が二等地の一角を吹き飛ばしたのだと思い出した。

 

 「死者とか、怪我人とか、いなかったんですか?」

 「避難は済んでいたからな! 共に、ゼロだ!」

 

 その質問と、返答を受けての安堵の息は意識してのものだ。

 消滅した建物の数と立地を考えれば、100人規模で殺していたかもしれない。常人であれば、この三日間ずっとその恐怖に震えていてもおかしくない。

 

 高位悪魔を殺した興奮も、人を殺したかもしれない恐怖も、家々を焼き払ってしまった罪悪感も、フィリップの心には浮かばなかった。どころか、独房暮らしを満喫する始末。

 

 人格の破綻と価値観の変化が進んでいる。

 良くない兆候だ。いや本当に。人間を人間たらしめるのはその思考だ。イス人やグールを知っていれば誰だってその結論に至る。

 

 何より不味いのは、その現実に気付いたフィリップが苦笑を浮かべていること。今までのフィリップであれば眉根を寄せ、激しく顔を顰めていたはずだ。不味いと理解してはいるが、実感が薄れてきている。

 

 心底からの溜息を吐いて、フィリップは衛士団長に向き直った。

 よし。……後回しにしよう。現実逃避とも言う。

 

 「弁償とか、どうなるんですか?」

 「君が心配する必要はない。というか、今回の一件はだいたい俺らが悪いからな」

 

 答えたのは、団長から書類を奪い取って熟読していた看守だ。

 資産など無いフィリップは一安心と溜息を吐く。

 

 「えーっと、あとは……おっと。そんなことより、ここを出る方が先だよな」

 

 悪い悪いと笑って、彼は地下牢の扉を開ける。

 三日ぶりの娑婆だ、と、伸びをして──留置場内の別室へと案内された。

 

 

 取調室より幾らか小綺麗で、犯罪者以外の接待に使われるらしいソファと机を据えた部屋だ。

 扉を開けると、中には既に一人の衛士が待機していた。

 

 ローテーブルのホスト側に座っていた彼は即座に立ち上がり、団長へと敬礼する。

 

 「お疲れ様です、団長」

 「おう。ご苦労さん」

 

 顔や籠手を着けていない腕からは包帯が覗き、かなりの傷を負っていることが分かる。

 もしやと思い顔をじっと見つめるが、包帯のせいで人相が判別できない。

 

 その視線に気付いた衛士が苦笑を浮かべ、名乗ってくれる。

 

 「俺だよ、ヨハンだ。三日ぶりだな、フィリップ君」

 「あぁ、ヨハンさん。傷は大丈夫ですか?」

 

 悪魔との戦いで負傷した彼に応急手当を施したのはフィリップだった。とはいえ、それは日常生活で負う小さな傷に対しての治療方法を、刀傷や魔術的な炎に対して無理矢理に拡張した拙いものだ。 

 素人の処置がプロの治療を妨げてはいなかっただろうかと、そんな意図のある心配だったのだが、ヨハンは深く頷いた。

 

 「あぁ。うちのヒーラーに聞いたよ、君が応急処置をしてくれたんだってな。本当にありがとう」

 「いえ、僕を守って負傷されたんですから、当然です」

 

 フィリップがそう言うと、ヨハンは少し考えて首を横に振った。

 

 「いや、俺たち衛士が守ったのは二等地……いや、この王都の住民だ。君もその中に含まれるというだけで、つまり、君が責任感や罪悪感を持つ必要はない」

 

 口下手か、と呟いた団長を睨んで、ヨハンはぽりぽりと頭を掻いた。

 

 「まぁ、なんだ。そんな訳だ。……それより、君の今後について話さなければならないんだ。取り敢えず座ってくれ。もうじき、保護者の方も来るはずだ」

 

 ゲスト側のソファを示され、フィリップは大人しくそれに従った。

 

 保護者が来ると言われて、フィリップは地下牢に戻りたくなった。

 誰が来るにしても、だ。

 

 奉公先の主人と女将に迷惑をかけるなど言語道断、衛士沙汰など論外だ。

 

 ナイ神父には色々と聞きたいこともある。ベストとは口が裂けても言いたくないが、ベターではあるか。

 マザーだったら最悪だ。フィリップを拘束している相手の話を聞いてくれるとは思えない。というか、フィリップが地下牢に拘束されていることを知った時点で留置場を吹き飛ばしていてもおかしくないが、ナイ神父が上手く誤魔化してでもいるのだろうか。

 

 こんこん、と、二度のノック。

 

 立ち上がったヨハンが扉を開けると、やはり、ナイ神父が立っていた。

 

 「やぁ、フィリップ君。お元気そうで何よりです」

 

 浮かべた笑みには珍しく嘲笑の色が薄く、何なら上機嫌に見える。

 悪魔の襲撃に際して姿も見せず、そのうえ捕まったフィリップの前にニコニコ上機嫌で現れるとは良い根性だ。コツは掴んでいる。ここを出たら早急にクトゥグアを召喚してやろう。

 

 ピキピキと青筋を立てているフィリップを完全に無視して、ナイ神父はその隣に腰掛けた。

 

 ヨハンが対面に、団長がナイ神父の向かいに座り、対談が始まる。

 口火を切ったのは衛士たち。

 

 「まずは、謝罪を。今回の一件では大変なご迷惑をおかけしました。今後はこのようなことの無いよう、我々も一層、訓練と巡回を強化いたします」

 

 団長が深々と頭を下げ、ヨハンもそれに倣う。

 思い当たる節の無い謝罪に困惑するフィリップに、ナイ神父がそっと耳打ちする。

 

 「王都の掃除は彼らの仕事です。悪魔の跋扈、その襲撃に君を巻き込んだこと、その両方の責任は彼らにあると言えます。ついでに言えば、君が二等地の一角を焼き払った──君が悪魔に対処しなければいけなかったのも、ね」

 「……それは責任転嫁では?」

 

 囁き返したフィリップに、ナイ神父は愉快そうな笑みを向ける。

 

 フィリップが責任を感じる──衛士団の責任を認めないということは、彼らに何の期待もしていなかったということだ。

 

 小さな人間の都市一つを守るという些事すら実行できないという辛辣な評価。ヒトと悪魔とを正確に比較できる視点と、その双方を遥かな高みから見下す知識。なるほど、こう噛み合い、こう成長するのか。

 非常に興味深く、面白い。

 

 王都衛士団は精強だ。大陸最高峰の武装組織といえる。

 そんな彼らにすら何の期待も抱かない程度には、フィリップはこちら側に寄ってきている。

 

 笑顔の神父に気付かず、頭を上げたヨハンが言葉を続ける。

 

 「フィリップ君の行動の正当性は、我々王都衛士団が証明しました。対処に際して発生した損害は衛士団が全て請け負います。召喚魔術に使用した触媒などがあれば、それも」

 「なるほど。では、教皇庁へ連絡する必要は無さそうですね」

 

 神父の言葉に、衛士たちの額に冷や汗が滲む。

 教皇庁は一国の王以上に不興を買ってはいけない相手だ。目を付けられたら何を措いても赦しを乞わねば、人権すら剥奪される。一神教からの破門はそれだけ重い。

 

 「それと、その……フィリップ君の今後についてですが」

 

 言い淀んだヨハンに代わり、団長がその先を続ける。

 

 「フィリップ・カーター君。君には魔術学院へ入学して貰う。魔術を学ぶんだ」

 

 打診や提案ではない、断定形の言い方にデジャヴを感じ。

 フィリップは取り敢えず。

 

 「……はい?」

 

 そう聞き返した。

 

 



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24

 つい一週間ほど前にも似たような状況になった。

 

 あの時「魔術を学べ」と言ってきたのはナイ神父で、その目的はフィリップの強化、延いては魔王より与えられた命令の遂行にあった。

 そこにフィリップの意志は関係ない。乗り気でも、そうでなくとも、彼らは淡々と実行しただろう。

 

 そして今回もまた、おそらく。

 

 「これは未熟で魔力を制御できない、かつ強力な魔術師に課される処置だ。申し訳ないが、拒否権は無いと考えてくれ」

 

 申し訳ないと団長は言うが、王国の制度を決めたのは彼ではない。

 謝る必要など無いし、召喚物の制御を誤った──正確には召喚そのものをトチったのだが──フィリップには当然の処置だ。扱いが爆弾と同じだというのなら、その場で()()()されなかっただけ有情とも言える。

 

 魔力の制御できない魔術師なんて一般人と同じだと思うかもしれないが、それは違う。

 何かの拍子に魔力がエネルギーに変換され、肉体諸共に弾ける……というのはマシな方。どこぞのカルト教団のように『繋がっちゃいけないところ』と不意に接続して、挙句それが道のど真ん中だったら?

 

 魔術は未解明要素の塊だ。今まで起こらなかったことが、次の瞬間にはポンと実現しているかもしれない。彼らの対応は正常で、正当だ。

 

 「あー……」

 

 神父の顔をそっと窺うが、仮面のような微笑が内心を量らせない。

 魔術学院への入学。フィリップの強化という点では問題ないはずだが、彼の強化計画は一時の中断を免れないだろう。その程度で盤を返すほど怒ったりはしないと信じたいが、もしかしたら。

 

 フィリップの心配を余所に、ナイ神父は鷹揚に頷いた。

 

 「それが王国の沙汰だというのであれば、是非もありません。フィリップ君、私の授業は一時中断としましょう」

 「え、あ、はい。分かりました」

 

 王国の法に基づく命令だ。いくら神父──司祭位の聖職者とはいえ、口を挟むことはできない。

 個人間の契約も同じだ。王国法はそれより優先される。

 

 そして邪神の機嫌と策謀は、あらゆる人間の都合に優先される。フィリップも含めて、だ。

 

 ナイ神父が是と返した。であれば、それは魔王の意に、いや、魔王の命に沿うことなのだろう。フィリップに拒否権は無い。

 

 「書類等の手続きは私が代理人として処理します。フィリップ君はお疲れでしょうし、そろそろお家に帰してあげられませんか?」

 

 団長が頷くと、ヨハンがさっと立ち上がり、壁際に据えてあった棚から武骨なブレスレットを取り上げる。

 

 「魔力を吸収する腕輪だ。容量的に、たぶん一週間くらいは保つと思う。ひび割れてきたら、ここに交換に来てくれ」

 「分かりました」

 

 錬金術製の特殊合金らしき材質のそれは、外見の割りにかなり軽い。とはいえ大人用らしく、かなり邪魔だ。

 

 フィリップが鬱陶しそうに腕輪を弄っていると、団長が苦笑を向ける。

 

 「すまんな。魔術学院に入るまでの辛抱だ。具合は……うむ、良さそうだ」

 

 その腕輪は魔力を無限に吸い上げるのではなく、一定値を残した余剰分を吸収する仕組みらしい。

 もともと魔力量が多いわけではないフィリップなら、確かに一週間くらい保ちそうだ。それ自体が邪魔という不快感はあるが、魔力欠乏に特有の倦怠感などは無い。

 

 手続きにどのくらいかかるか分からないが、それまではゴテゴテの安全装置付きで過ごすことになりそうだった。

 

 

 留置所を出ると、意外な顔がフィリップを出迎えた。

 

 儚げな相貌と銀糸のような髪は、静かで淑やかな立ち姿によってその美しさを際立たせている。道行く者はその立ち姿に、その妖艶な魅力に溢れた肢体に、そして非日常的なゴシック調の喪服に目を惹かれる。

 平時であれば声を掛ける男の一人、二人、この留置所の真正面であっても居そうなものだが。

 

 「…………」

 

 この殺気に気付けないほどの馬鹿はいなかったらしい。

 

 留置所の正門、そのど真ん中ド正面に立ち、全身から殺気を滾らせていれば、絶世の美女も危険な不審者に早変わりだ。

 門番役の衛士が顔を引き攣らせ、しかし最後の一歩を踏み出さないマザーには何の対処も出来ず、その一挙手一投足を観察している。

 

 さて、この街の寿命はあとどれくらいだろうか。

 

 通用口から出てきたフィリップを見つけると、カウントダウンは停止する。

 

 ヴェール越しにも分かるほど華やかな笑顔を浮かべて、マザーはフィリップに駆け寄り、抱き締めた。

 

 「おかえり、フィリップ君。大丈夫だった? ヤマンソに何かされてない? 拘束されて苦しくなかった? ごめんなさい、貴方を助けようとしたのだけど、そこの■■■が邪魔をするものだから」

 

 耳朶を打つ甘やかな囁きに混じる、およそ人の口からは出ることの無い冒涜的な罵倒。

 衛士達が聞いていれば嘔吐か卒倒は免れないようなそれの宛先は、マザーの視線を追うとすぐに判明した。

 

 フィリップの知覚能力では察知のしようもないが、彼がその存在を知覚させてくれれば別だ。

 

 留置所を守るように、その敷地と地下空間の強度が増している。

 物質の硬度や強度が云々ではなく、世界そのものが確立し、固定され、外部からのあらゆる干渉を跳ね除けるほどに。

 

 「な、なるほど……」

 

 そこは完全にヨグ=ソトースの支配下──いや、彼そのものだった。

 如何なシュブ=ニグラスとはいえ、ヒトの化身を象ったままでは突破どころか干渉も難しいだろう。

 

 「ま、まぁ、これは仕方ないですよ。拘束も苦しくありませんでしたし、大丈夫です」

 

 邪神大戦開幕まで秒読みだったし、そのど真ん中にいたらしい。

 顔の引き攣りを抑えて笑顔を浮かべると、マザーも安堵したように微笑みを返す。そして、フィリップの右腕に嵌った──というか、半ばぶら下がるように付いているサイズの合わない腕輪に目を留めた。

 

 「あら、なぁに、それ?」

 「あ、えっと、魔力を吸収する腕輪だとか……」

 

 フィリップが邪魔そうに弄ぶと、マザーがそっと手を差し出した。

 反射的に渡しそうになって、すぐに手を引っ込める。

 

 「いや、壊れちゃいますよ」

 「あら、そうなの?」

 「まぁ、多分……」

 

 腕輪の効果は「残余魔力が一定値になるまで吸い上げる」だ。

 仮にその数値を10、フィリップの魔力を50、腕輪の限界値を100とすると、フィリップが二人居ても問題なく魔力を制限できる。だがマザーはというと、その魔力量はフィリップの100倍では利かないだろう。

 

 壊れるくらいならいいが、爆発でもされると面倒だ。特に衛士たちの目の前では。

 

 「交換しに行くのも面倒なので、触らないでくださいね」

 「えぇ、分かったわ。それじゃ、左手を出して?」

 

 言われるがままに腕輪の嵌っていない方の腕を差し出すと、マザーが柔らかくその手を握る。

 

 嫌悪感に混じる、安心感や温かさ。悍ましく、心地よい、不思議な感覚だ。

 

 「帰りましょう?」

 

 柔らかな微笑と共に、その手が引かれる。

 

 嫌悪感が薄れつつある自分を呆れ交じりに自覚して、フィリップは大人しく従った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 煩雑な書類手続きは終わり、ヨハンは神父を見送るために出て行った。

 

 衛士団長は一人、応接室に残り、ソファに深々と座って天井を仰ぎ、瞑目していた。

 

 「あぁぁぁぁ……」

 

 口から漏れる呻きは、極度の緊張から解放されたことによる安堵のもの。

 

 弾みをつけて身体を起こすと、テーブルの引き出しから書類の束を取り出す。

 表題には『人物調査書』とあり、副題には先ほどまで正面に座っていた少年、フィリップ・カーターの名前がある。

 

 フィリップ・R・カーター。臣民管理局の記録によると、今年10歳になった少年。王都外の街で宿屋の次男として生まれ、奉公契約に基づき王都へ出向。魔術適性は未検査につき評価無し。

 

 いち平民、しかも王都外の人間だ。記録はこの数行で終わっている。

 前科無し、近親者による犯罪歴も無し。近親者の魔術適性から推測される本人の魔術適性は一般の範疇。まさに十把一絡げの平民だ。

 

 あんな馬鹿げた召喚魔術を行使できる才覚者とは思えない。血統に拠らない突然変異的な魔術の天才か。或いは。

 

 「教育者がおかしい、か……」

 

 ページをめくる。

 フィリップの調査書は一枚だけで、次の書類は表題の下にナイ神父と書かれている。

 

 詳細──不明。

 

 臣民管理局にあるのは、()()()()二等地の投石教会に赴任してきたという記録だけ。いや、より正確には。

 

 「教皇庁による一級閲覧制限、ね……」

 

 一級といえば、国王や王太子といった国家の最重要人物しか閲覧を許されない、最重要機密区分だ。

 

 「こっちも……」

 

 もう一枚。名前はマザーとなっている。

 そもそも臣民管理局の人物調査書に役職が書かれている時点で可笑しい。普通はフィリップのようにフルネームで書かれる。

 

 そしてこちらも当然のように、教皇庁による人物記録の閲覧制限が掛かっている。

 

 ただの教会関係者ではないだろう。良くて教皇庁からの出向。正面戦闘で悪魔を下したという報告が本当なら、その戦闘能力は一介の神父の領分を大きく超える。

 教皇庁、延いては教皇直轄領ジェヘナは、()()()()一切の武力を保有していない。だが、彼らが聖騎士と高位神官からなる精強な特殊部隊を擁するのは公然の秘密だ。

 

 「教皇庁の尖兵、か?」

 

 正体不明の二人の神官。警戒が必要だと強く認識する。

 

 衛士団長は書類をテーブルに投げ出し、もう一度天井を仰いだ。

 想起するのは、フィリップを捕縛したときに同行していた衛士たちだ。その約半数が──本部の医務室で療養している。

 

 怪我をした訳ではない。彼らはみな一様に、その精神を病み、健忘や反響動作といった狂者に特有の症状に憑かれているのだ。

 

 衛士団の医官は腕利きだが、それは外傷や毒といった戦闘時に発生しうる傷害に対しての治療が主だ。精神を病んだ者は往々にして修道院へ送られ、軟禁生活となるがゆえ、その治療に関するノウハウはない。

 彼らは自傷行為に走らぬよう拘束され、寝台の上で睡眠魔術を掛けられて昏睡している。

 

 フィリップの召喚した火の妖精──いや、それに類する何か。あれが原因であることは間違いない。

 

 「教皇庁め……子供を使って何をするつもりなんだ……?」

 

 衛士団長は()()()()()()少年を案じ、せめて教皇庁といえど干渉できない学びの聖域、そこでの生活が有意義なものとなるように祈った。

 

 「神よ、少年にご加護を」

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ1『潜む悪魔』 ノーマルエンド

 技能成長:【応急手当】+1d3 【オカルト】+1d3 【魔術理論】+1d10
 SAN値回復:なし

 取得物:呪文【クトゥグアの召喚】 魔術学院への入学書(処分不可) 魔力制限の腕輪(処分不可)


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森の黒山羊
25


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ2 開始です。

 推奨技能は【応急手当】、【ナビゲート】か【追跡】、【信用】、【クトゥルフ神話】です。


 フィリップにとって最も急務だったのは、故郷の街で宿屋を経営している母への報告だった。

 

 魔術学院への入学と、それに伴う奉公契約の解消は、王国法に基づく決定事項だ。

 親の了承など必要ないし、書類にはナイ神父が保護者としてサインしている。王都にいる彼の方が何かと都合がいいので、フィリップもそれには納得している。

 

 とはいえ、母はフィリップが今も丁稚として懸命に働いていると思っているのだ。ナイ神父に魔術を習い始めたことは、旧友である女将からも聞いているだろう。だが、まさか王都の一角を吹き飛ばし、一時的に拘留までされたとは知らないはずだ。継続的な拘束の代替措置として魔術学院に入学することも、また。

 

 それらを説明する──納得させる必要はない──のが、入学手続きが終わるまでの期間でこなさねばならない、フィリップに与えられた課題だった。

 

 「はぁ……」

 

 フィリップの心中を表すような、重く、長いため息が漏れる。

 

 同じ乗合馬車に乗っていた客の何人かが一瞥をくれ、すぐに興味を失う。

 

 一応言っておくと、母親に会いに行くこと自体は嬉しいイベントだ。

 価値観は順調に歪んでいるが、フィリップは10歳の少年だ。母親を恋しく思う気持ちはあるし、もしも一つだけ命令できるとしたら、フィリップは外神たちに「家族を傷付けるな」と命じるだろう。

 

 それを人間性であると、そう主張出来たらどれだけ楽だろうか。

 家族を──コミュニティを守ろうとするのは、社会性動物の基本的な本能に過ぎない。暗闇を恐れ、未知を拓こうとし、海や空に畏れを抱くのと同じ、単なる本能だ。

 

 それを自覚しているからこそ、フィリップの心中は暗い。

 

 尤も──

 

 「溜息を吐くと、幸福が逃げるそうですよ?」

 

 隣でそう笑いかけるナイ神父の存在が、最大のストレス源ではあるのだが。

 

 故郷の街から王都までは、定期的に乗合馬車が出ている。

 フィリップも王都に来るときに利用したが、運賃が安い割に乗り心地はそれなりにいい。デメリットは大人数を運ぶ都合上、スピードが出せないことくらいだ。あと、雨の日は蒸れるので、乗客全員がイライラする。たまに喧嘩騒ぎもあるが、街道のど真ん中で放り出されたら目的地まで歩くしかないので、だいたいは自重する。

 

 逆に晴れた日は日差しや風が心地よく、乗客も気分よく会話したり、たまに食料や土産物なんかを交換したりしている。和気藹々と過ごしていれば、のろのろとした馬の歩みも気にならない。たまに到着したことを惜しむ者もいるくらいだ。

 

 今日は折よく晴れで、風も柔らかい。

 

 ナイ神父と行く、ゆらり乗合馬車の旅。

 そんな表題が付きそうな状況でなければ、それなりに楽しい時間だったのだろう。

 

 せめてマザーなら、と思わないでもないが、マザーもマザーで、ふとした拍子に乗客全員を皆殺しにしてしまいかねない危うさがある。

 普通にどっちも嫌だった。

 

 ナイ神父が乗客女性全員の視線を独り占めしており、連れの意識を奪われた男性からの怒りや苛立ちの視線も混じっている。

 乗り合わせた者の8割ほどの視線を涼し気に受け流して、ナイ神父は馬車の外へ顔を向ける。柔らかな風に揺れる髪と穏やかな風貌が合わさり、とても絵になるのが腹立たしい。

 

 「ほら、見えてきましたよ、フィリップ君」

 

 この状況から逃れられるという喜びと、家族に邪神を紹介しなくてはならない憂鬱が半々で湧き上がる報告だった。

 どうせ馬車を降りたところで隣にナイ神父がいることには変わりないので、喜びの方が僅かに薄いか。

 

 「神父様は、ヴィーラムの町にお勤めなのですか?」

 「いえ、小旅行で訪れただけですよ。普段は王都に身を置いています」

 「まぁ、王都に? お若いのに、すごい神官様なのですね!」

 

 馬車を降りてなお女性に囲まれている神父を一瞥し、このまま置いて行こうかと思索する。

 

 勝手知ったる我が故郷だ。どこが安全で、どこが危険かは大体知っている。万が一のことがあったとしても、クトゥグア召喚のコツは掴んでいるし、腕輪を外せば問題なく詠唱できる。自衛としては些か以上に過剰だが。

 

 そんなフィリップの思考を読んだのか、ナイ神父は名残惜しそうにする女性たちを適当にあしらってこちらへ歩いて来た。

 フィリップにも分かるような色濃い嘲笑を浮かべて、一言。

 

 「嫉妬ですか?」

 

 フィリップの右手で、高まった魔力を吸収しようと、腕輪がかたかたと震えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 フィリップが故郷を離れ、王都へと丁稚奉公に出てからまだ一カ月くらいしか経っていない。

 顔見知りに会えば何かあったのかと心配されそうで、何となく気まずいタイミングだった。喜んでいいのかは分からないが、結局、彼らの視線と意識はナイ神父が独り占めしていた。

 

 すれ違う人々がフィリップに挨拶し、その連れに目を向け、意識を奪われる。そんな流れを飽きる程度に繰り返して、ようやく実家の宿屋に辿り着く。

 受付に座っていた兄に至っては、フィリップより先に神父に目を向けていた。おかえり、ではなく、いらっしゃい! と挨拶したのが良い証拠だ。

 

 フィリップの兄、オーガスト・カーター。フィリップと同じ金髪碧眼だが、3歳の差がある分、フィリップより背が高く体つきもがっしりしている。一月の間にまた背が伸びたらしく、受付の椅子に座っていてもフィリップと目線が同じくらいだ。

 

 「お兄ちゃん、ただいま」

 「ん? うわ、フィリップか」

 「うわって……」

 

 苦笑を浮かべた裏で、フィリップは深く安堵していた。

 

 肉親に対しては、どうやら普通に対応できそうだと。

 少なくとも兄に対しては、無価値だなんだという感想は浮かんでこない。再会の感動も薄いが、一月の別れならこんなものだろう。

 

 「母さーん! フィリップが…… え? なんで神父様同伴で帰ってきたんだ?」

 

 現状を説明しようとして、その異常性に気付いた兄の言葉は尻すぼみになった。

 

 そもそも神父──司祭級の聖職者は、滅多なことでは俗世と関りを持たない。いち個人と交流し、その家を訪れるなど異常事態だ。あり得るとすれば、仕事の一環──病人の治療や悪魔祓いなど。

 

 「まさかフィリップ、おまえ、悪魔に憑かれたのか……!?」

 「いや、違うけど」

 

 即答する。

 悪魔騒ぎに巻き込まれたし、悪魔の何倍も質の悪いモノに憑かれてはいるが、悪魔憑きになった覚えは無い。だから否定し辛い勘違いをしてくれるな。

 

 兄が冗談だと肩を竦めて見せると、受付の奥から不機嫌そうな女性が姿を見せた。

 

 「オーギュ、あまり大きな声を……え? フィル? どうしたの?」

 「お母さんも、ただいま。ちょっと色々あって、帰ってきたんだ」

 

 フィリップとオーガストと同じ、金髪碧眼の女性。二人の母親であり、この宿の女主人でもあるアイリーンだ。

 客もいるというのに大声を上げたオーガストを叱り、彼女はカウンターを回ってフィリップの傍へ出てきた。

 

 「ちょっと痩せたんじゃない? それに、肌もちょっと荒れ気味ね」

 「あはは、環境が変わったからね……」

 

 超のつく高ストレス環境下に。

 

 「それより、ちょっと大事な話があるんだ。今は忙しい?」

 「それは……そちらの神父様に関係した話?」

 

 魔術学院入学とナイ神父に直接の関係はないが、話には同席するだろう。魔術学院への入学は拘束の代替措置だ。そもそもの原因となった魔術を教えた相手というのであれば、説明のためそこに居てもおかしくない。また、ナイ神父は魔術学院に関連した全ての書類に保護者としてサインした身だ。顔合わせすらしていないというのは、むしろ異常かもしれない。

 

 外神たちの興味の対象はあくまでフィリップ個人で、その家族には人間と同程度の──つまり、一切の興味を抱いていないのが幸いしていた。

 

 「そんなところ。結構長い話になりそうなんだけど」

 「うーん……今日は泊まっていくのよね?」

 

 期待を滲ませた問いに、フィリップは苦々しい思いを隠して頷いた。

 別に泊まるのが嫌と言うわけではない。ここはフィリップの生家だ。自分の部屋、自分のベッド、自分の枕で眠るのは久し振りだ。それを嫌う理由も無い。

 

 嫌なのは、自分の生家にナイ神父が泊まることだ。しかも、ナイ神父とひとつ屋根の下で眠るなど。

 

 帰りたいのは山々だが、そうもいかない。

 乗合馬車はスピードが出せない性質上、魔物や盗賊の活発になる夜には運行していないのだ。日も暮れ始めた今頃では、きっともう手遅れだろう。

 

 「じゃあ、夜にでも話しましょうか。夕方は忙しくて」

 「そうなの?」

 「えぇ。貸し切りのお客さんがいてね」

 

 それは珍しい。

 

 ヴィーラムの町は王都にほど近く、乗合馬車を含めた色々な交通の中継地点になっている。

 その特性上、宿や食堂、厩舎は豊富だ。貸し切りになどせずとも、寝泊まりする場所に困ることは無い。大規模な団体客であれば、わざわざこんな微妙な位置の町に宿泊するスケジュールにすることもないだろう。王都まで行った方が何倍もいい施設に泊まれる。

 

 わざわざ貸し切りにするような客と言えば。

 フィリップは脳内カレンダーをぱらぱらとめくり、思い当たったイベントの一つを口にした。

 

 「あ、野外訓練?」

 「そう。いつもよりちょっと早いけどね」

 

 毎年夏ごろになると、魔術学院や軍学校の学生が野外訓練に来る。

 近所にある森がそれなりに深く、魔物や狼などの害獣が生息し、薬草なども自生しているといううってつけの環境だからだ。

 

 似たような森は王国内に沢山あり、学生たちは幾つかの班に分かれ、それぞれの演習地で一週間ほど課題をこなすことになる。

 野外訓練と言っても、野宿をするのは行程の最終日だけで、それまでは現地の宿を使って快適に過ごせる。尤も、王都の生活に慣れた彼らにとって、トイレで用を足した後に紙を使うことすらできないのは不便の極みだろうが。最近では先輩から教訓を得て、紙をどっさり持っていく者もいるという。

 

 「去年はお向かいさんだったけど、今年はうちなんだ」

 「そうなのよ。今日はまだ二日目だから、あと四日待ってくれれば──」

 

 顎に手を当てて日を数えるアイリーンに、フィリップは首を振った。

 

 「あんまり長居できないんだ」

 

 右腕を振ると、サイズの合っていない武骨な腕輪が揺れる。

 爆弾扱いの魔術師を見たことのなかったアイリーンが首を傾げ、フィリップは言葉の不足を悟った。

 

 「魔力を吸収する腕輪なんだけど、もし壊れたり失くしたりしたら、王都衛士団に言って替えを貰わなくちゃいけないから」

 「魔力を……? どうしてそんなものを?」

 「話すと長くなるから、夜に纏めて話すよ。何か手伝うことある?」

 

 フィリップが尋ねると、横からオーガストが割り込んで言う。

 

 「薪探しと洗濯物の回収、どっちがいい?」

 「なんでまだ終わってないのよ……」

 

 呆れ声のアイリーンの様子から分かる通り、どちらも普通はとっくに終わっている仕事だった。

 

 「じゃあ……薪取って来るよ。ナイ神父の案内よろしく」

 

 兄のサボり癖は治っていないようだが、ちょうどいい。

 一日中ナイ神父の傍にいるというのもぞっとしない話だ。これ幸いと家を出ようとして、オーガストに肩を掴んで止められた。

 

 「ちょっと待て。えーっと……これ持ってけ」

 

 カウンターからごそごそと取り出したのは、フィリップの腕ほどの刃渡りを持つ大ぶりのマチェットだった。

 薪といっても、何も生木から枝を斬り落としてくるわけではない。落ちている枝の中で、良さそうなものを拾ってくるだけだ。不要な荷物が殊更に足を引くような深い部分まで行くつもりはないが、些か物騒ではなかろうか。

 

 「なんでマチェット?」

 「護身用にな。ここ最近、狩人連中がビビるほどのがいるらしい」

 「え……」

 

 弓矢を持ち、薬草や獣の経験と知識を持つ狩人が恐れるほどの獣? それは魔物じゃないのか。マチェット一本でどうにか出来る相手じゃないだろう。

 

 「魔物? それとも熊?」

 

 近くの森でクマが出たという話は聞かないが、もし弓矢が通じないほどの大熊なら、かなり大掛かりな罠を張る必要がある。狩人たちも慄くだろうと勝手に納得していたのだが、オーガストの返答は予想の斜め上だった。

 

 「いや、山羊だよ」

 「や、山羊……?」

 

 確かに森で山羊を見たという話は聞かないが、山羊は草食動物だ。ということは、こちらから攻撃しなければ基本的には温厚なはず。弓矢で武装した狩人がビビるような相手かと言われれば首を傾げざるを得ない。

 偶蹄目の強靭な脚力に固い角を持つ山羊、中でもアイベックスなどの攻撃的な種を知らないフィリップはそんなことを考える。人間など簡単に蹴り殺せるし、角で吹き飛ばすこともできるのだが。

 

 「そう。なんか黒山羊が群れで囲んで、何をするでもなくじーっと見つめてくるんだってさ」

 

 フィリップは頭を抱えそうになるのを苦労して自制した。

 

 

 





 シナリオ2 シナリオ名は──『森の黒山羊』です。


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26

 森に入った者を取り囲む黒山羊の群れ。

 嫌な予感という言葉が可愛らしく思えるほどの悪寒を催すワードだった。

 

 「どうした? 顔色悪いぞ?」

 

 そう言って覗き込んでくるオーガストを大丈夫だからと押し遣って、フィリップは家を飛び出した。

 

 クトゥグアを呼ぶつもりでヤマンソを召喚してしまったときに匹敵する──いや、高揚状態だったあの時よりも余程、動揺は大きい。

 

 悪意のない、純粋な愛玩と冷笑で構成された微笑を浮かべるマザーの顔が脳裏に浮かぶ。

 何を企んでいるのかは分からないが、フィリップにとって害となるものではないだろう。ただし、それは本当に「フィリップにとって」だ。他の人間のことは一切考慮されていない。

 

 場合によっては、このマチェットより物騒なモノを使うことになるかもしれない、と、右腕に嵌った腕輪を一瞥する。

 

 そんな覚悟を決めて森に入ったのだが、森の中は拍子抜けするほどに普段通り、静かに懐かしい相手を受け入れてくれた。

 懐かしいと言っても、フィリップが最後に森を訪れたのは一月ほど前だ。森の木々と同じ時を生きるドライアドたちにしてみれば、ほんの数瞬でしかない。風も無く揺れる梢と優しい風が、姿を見せない彼女たちの歓迎の表れだ。

 

 手近な木に手を当て、森の恵みに感謝を捧げる。

 思えば、超自然的な存在に向けて感謝を示すのは久し振りのことだった。食事前の神への祈りすら、ここ最近は疎かにしていた。唯一神などという共同幻想に祈ることの滑稽さを知ってしまったのが、主な原因だろうが。

 

 食事前の祈りを欠いたくらいでは眉を顰めない寛大なる唯一神とは違い、森の守護者であるドライアドたちは厳格で陰険だった。

 森への感謝を忘れ、いたずらに木々を傷付け、環境を乱すと、彼女たちは毒性植物や獣を使って罰を下す。半面、礼を尽くせば、豊かな恵みを与えてくれるのだ。

 

 「さて、と」

 

 適当に目に付いた枝を拾い、背負い籠へ入れていく。

 ここ最近は雨が無かったのか、枝はどれも都合よく乾いている。もう夕刻だが、干す必要は無さそうだ。

 

 「……」

 

 木の皮や茂みに目を凝らし、動物のフンを凝視し。狩人の真似事をしてみたものの、知識のないフィリップでは何も分からない。第一、熊や狼といった即座に逃げなければならない相手の痕跡以外の見分け方など知らない。完全に真似事の域を出ていなかった。

 

 「もっと奥に行かないとダメなのかな?」

 

 マチェットを一瞥する。

 狼相手にも熊相手にも心許ない武器だ。魔物相手なら投げて気を引くくらいにしか使えないだろう。というか、そもそも藪払いに使う道具だ、武器じゃない。

 鞘から抜いてみると、叩き切るために砥がれた鈍い刃が妖しく光る。何の変哲もない、鉄製の鉈だ。黒山羊が想像通りの存在なら、心許ないどころの話ではない。

 

 半袖に薄手の長ズボンは、森歩きに適した服装とはいえない。いまこれ以上進むのは愚策だ。とはいえ、マザーの悪戯だとしたら、無視するのも怖い。

 もしもフィリップ以外にとって害になるのなら、それは阻止しなければならない。

 

 「装備を整えて、明日もう一回来ようっと」

 

 フィリップは居るのかも分からないマザーに聞こえるように口にして、足早に森を立ち去った。

 

 

 

 普段の数倍は気を張っていた久し振りの森歩き。しかも、半日近く乗合馬車に揺られた後の、だ。

 疲れ切って帰ってきたフィリップを出迎えたのは、頭痛すら催す光景だった。

 

 「あぁ、お帰りなさい。フィリップ君」

 

 軽快に手など振って見せるナイ神父。その装いは、漆黒のカソックから宿に備え付けの水色の部屋着──浴衣へと変わっていた。

 人の気も知らないで何をやっているのかと頬が痙攣するが、ナイ神父のことだ、フィリップの神経を逆撫でするためだけにやっていると言われても納得できる。何ならその可能性が高い。

 

 「御母堂と兄君には、私の方から事情を説明しておきましたよ」

 「……それは、どうも」

 

 にこやかなナイ神父とは違い、フィリップの反応は硬い。

 

 二等地の一角を焼き払った挙句、奉公契約を半ば勝手に解消してきたのだ。当然のことながら怒られるだろう。アイリーンは仕事中だろうが、今夜にでも行われるであろう説教を思うと気が重かった。

 

 「例の黒山羊の調査、何か進展はありましたか?」

 

 フィリップの気を紛らわせようとしたわけではないだろうが、ナイ神父が話題を変える。

 他人事のような聞き方に眉根を寄せるが、事実、他人事なのだろう。マザーがフィリップに直接的な害を及ぼすとは考えにくいし、保護者であるナイ神父の出番はないということか。まさに、親子か姉弟の戯れを見守るだけという立ち位置である。

 

 「何も。マザーも存外、子供っぽいところがあるんですね」

 

 フィリップが肩を竦めると、ナイ神父は微笑を浮かべた。

 その表情に珍しく嘲笑が混じっていないことに──正確には、嘲笑を巧妙に隠していることに、フィリップは気付けなかった。

 

 「まぁ、現時点ではタイムリミットはありません。ゆっくり調べていいですよ。……ここの大浴場は中々ですから」

 「……なるべく早く終わらせて、王都へ帰ります」

 

 これ以上生家にナイ神父を泊まらせたくないし、あまり時間をかけすぎるとマザーが拗ねるかもしれない。()()()()()というのは、そういう意味だろう。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 その日の夜、できるだけ怒られたくないと早めに部屋に戻ったフィリップは、オーガストの裏切りによって話し合いの席に着いていた。

 対面にアイリーン、隣にナイ神父が座った構図に既視感を覚える。

 

 手を組んでフィリップを見つめるアイリーン、両手を膝に置いて俯いているフィリップ、仮面のような微笑のナイ神父を順繰りに見て、「じゃ、俺は寝るから」と部屋に戻っていったオーガストが恨めしい。

 

 「フィル。神父様から聞いたわ。王都で何があったのか」

 

 びくりと身体が震えたのを自覚する。

 やっぱりその話かという諦めが半分、怒られることを怖がっている自分への安堵が半分、内心を占めていた。

 

 思えば、誰かに叱られるのは久し振りだ。

 丁稚奉公に出る時には仕事でミスもしなくなっていたし、ここ最近はマザーとナイ神父と一緒にいることが多かった。彼らはフィリップを愛玩し、冷笑し、嘲笑うが、叱りつけることはしない。

 

 それはフィリップに──いや、あらゆる人間に一切の期待を抱いていないからだろう。だから失望しない。ヒトは脆弱で無価値なモノだと知っているから、それ以上のことを望まない。

 怒られないというのはつまりそう言うことなのだが、かといって怒られることに幸福を感じられるほど、フィリップは大人では無かった。

 

 いやだなぁ。あぁ、でも、まだ「母親に怒られたくない」とは思えるんだなぁ、と、現実逃避気味に考える。

 

 「……おめでとう、フィル」

 「…………え?」

 

 思いもよらない言葉に顔を上げると、穏やかな微笑を浮かべたアイリーンと目が合う。

 

 「魔術学院は王国最高の学校よ。三年間、きちんと勉強してきなさい」

 「う、うん。……あ、あの、お母さん。怒ってないの?」

 

 フィリップが尋ねると、アイリーンは微笑をより深め、にっこりと笑顔を浮かべた。

 あ、だめだこれ。めちゃめちゃ怒ってる。

 

 「怒ってるわよ? ねぇ、フィル……」

 

 ごくり、唾を呑む。

 魔術学院への入学。奉公契約の解消。二等地の一部の焼却。衛士団による拘留。

 心当たりがあり過ぎて、どれから怒られるのかすら想像が付かなかった。

 

 「そういう大事なことは、ちゃんと自分の口から言いなさい」

 「……うん」

 

 神妙に返事をしたフィリップに「よろしい」と頷いて、アイリーンは席を立った。

 予想の何倍も簡潔で短い説教だ。ナイ神父──部外者が居るからと手を緩めるような性格でもないし、どういうことだろうか。

 

 「え、あの、それだけ?」

 

 別に怒られたいわけではないが、こうもあっさりしていると拍子抜けだ。

 呼び止めると、アイリーンは不思議そうに振り返る。

 

 「まだ何かあるの?」

 「え、いや……無い、けど」

 

 歯切れ悪く返したフィリップを見て少し考え、アイリーンはぽんと手を打った。

 

 「もしかして、丁稚奉公を辞めたのを気にしてるの?」

 「まぁ……うん。あと、二等地を吹っ飛ばしちゃったこと…… いろんな人に迷惑かけちゃったし……」

 

 常日頃から他人に迷惑を掛けぬようにと二人を躾けてきたアイリーンだ。流石に少しも怒っていないということは無いだろう。

 悪魔を倒した功によって二等地を吹き飛ばした罪を相殺すると、衛士団長は言った。だが、あれは衛士団の無能を詫びる意味もあったのだろう。本来、功罪を比べてゼロにするのなら、その功の全容と罪の全容が完全に判明し、一致していなければならない。

 

 ボソボソと告解すると、アイリーンは立ったままフィリップに向き直る。

 

 「ねぇフィル、あんたは宿屋をやりたかったの?」

 

 穏やかで単純な問いに、フィリップは即答できない。

 10歳の時分に明確な将来設計を立てている者の方が珍しいだろう。フィリップも同じで、なんとなく言われたから丁稚奉公に行っただけだった。

 

 YesともNoとも答えられず、黙って俯いたフィリップに、アイリーンは呆れ笑いを向ける。

 

 「魔術学院に行くのは嫌?」

 

 フィリップは首を振って否定する。

 理由はともかく、王国で豊かな暮らしを送るのなら、学院卒業は最高の近道だ。加えて言えば、邪神たちから距離を取ることもできる。

 

 「なら、丁稚奉公なんてどうでもいいじゃない? 勿論、あんたが勝手に辞めて帰ってきたっていうなら大問題だけどね」

 

 私人間の契約を他人が解消することはできない。無意味な仮定を冗談として挙げて、フィリップの反応を待たず、アイリーンは続ける。

 

 「それにね、フィル。誰かに迷惑をかけないように、誰かを見殺しにするのは、それは自分が怒られたくないだけの最低な人間よ?」

 

 あんたがそうじゃなくて良かったわ、と。アイリーンは穏やかに笑った。

 

 それはその通りだ。そもそも誰かを助けるということは、その敵対者を助けないということだ。誰かの命に、意思に、優劣を付け、それを基準に切り捨てる傲慢な行為。

 それもまた人間らしいと言えば人間らしいのだが、生憎と、或いは幸運にも、フィリップはそこまで人間を卑下していなかった。というより、衛士たちの輝きに中てられた熱が残っていた。

 

 とはいえ、気分と価値観は別物だ。

 フィリップの中には確かに、その傲慢を嘲笑う何かが潜んでいる。

 

 納得いかないようなフィリップの表情を見て、アイリーンはさらに付け加える。

 

 「フィルの未熟が誰かに迷惑をかけたのなら、成長しなさい。停滞は謝罪にはならないわよ?」

 「………………分かった」

 

 成長しろ、と。その言葉が胸に突き刺さる。

 

 瞠目し、瞑目し、顔を覆い、天井を見上げ、表情を覆い隠し。声を繕い、了解を示す。

 その仕草は傍から見れば、感極まって泣いているようにも見えた。

 

 深く頷いて、アイリーンは立ちあがる。

 

 「魔術学院できちんと勉強するのよ? いいわね?」

 「うん。分かったよ、お母さん」

 

 

 アイリーンが立ち去った後、表情を隠したままのフィリップを一瞥し、ナイ神父が嘲るように言う。

 

 「勘の鋭い方でなくて助かりましたね」

 「うるさいですよ、神父」

 

 両手で覆った顔の下──吊り上がった口角のままに、吐き捨てる。

 

 「は、ははは……」

 

 笑いが零れる。

 

 別に説教が楽しかったわけでも、面白かったわけでもない。

 ただ、フィリップは猛烈にすっきりした、開放感にも近い爽快さを味わっているのだ。

 

 この一週間ほど、二等地を吹き飛ばして以来、ずっと心に突き刺さっていた棘は、罪悪感などでは無かった。

 

 あれは()()だ。

 

 盲目白痴の最大神格の寵愛を受け、千の仔孕みし森の黒山羊に智慧を受け、千なる無貌に教えを受け、それでもこの様かと。自分自身に深く失望していたのだ。自分の能力を過大評価し、期待し、自分でそれを裏切り、勝手に失望していた。

 

 そして今、その霧は払われた。

 

 無能であった。ならば成長すればいい。そう、その通りだ。

 

 「はははは……」

 

 ズレている。そう自覚する。

 二等地を一部とはいえ吹き飛ばし、多くの人の家財を失わせた。衛士団や国が生活を保障してくれるだろうが、もしかしたら路頭に迷う人もいるかもしれない。

 

 その罪を自覚していながら、フィリップはただ自分の力不足を嘆いていた。

 謝罪も贖罪も、その思考の片隅にすら浮かばなかった。

 

 ズレている。おそらく、もう手遅れなほどに。

 

 それを不味いと思うだけの理性は、辛うじて残っていた。

 

 

 



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27

 翌朝、フィリップはここ数日で最もすっきりした目覚めを迎えていた。

 

 それは何も、長年使い慣れた枕だからという理由だけではない。

 この一週間、ずっと胸に刺さっていた棘が抜け、早朝に特有の開放感と爽快感を存分に味わうことが出来る。

 

 「あぁ、フィリップ君。おはようございます」

 

 などと挨拶してくる、食堂で優雅に紅茶を傾けるナイ神父がいなければ、最高だったのだが。

 

 「……おはようございます、ナイ神父」

 

 適当に挨拶を返し、厨房へ向かう。

 まだ客のいない時間帯だが、ナイ神父と一緒に食事というのは勘弁してほしいところだ。

 

 「おはようフィリップ。ここで飯か?」

 「おはようお兄ちゃん。別にいいでしょ?」

 

 オーガストが肩を竦め、予備の椅子を持ってきてくれた。

 

 「今日はどうする? 何もやることが無いなら──」

 「ごめん、今日はちょっと手伝えないかな」

 「お、おう。そうか」

 

 食い気味の否定にしょんぼりしつつ、オーガストは仕事に戻る。

 

 さて、と。

 フィリップは王都のものより質の悪い、しかし馴染み深いパンを咀嚼しながら考える。

 

 腕輪の容量的に、あと一日か二日くらいしたら王都に戻っておきたい。別に即座に壊れるような気配があるわけではないが、念のためだ。

 明後日の時点では馬車の旅に備えて体力を温存しておきたい。ということは、今日中にマザーの狙いくらいは掴んでおかなければ間に合わない。

 

 この手の推理は仮説を立て、それを棄却していくのがセオリーだ。

 フィリップは以前に何かで読んだそんな定石に従い、仮説を立てていくことにする。

 

 仮説1。マザーが課したテスト。黒山羊の殲滅か、そこまで行かずとも対処させることが目的。

 仮説2。マザーの悪戯。フィリップをビビらせればそれでOK。

 仮説3。マザーではなくナイ神父の差し金。フィリップの成長が目的。

 仮説4。実は邪神絡みではなく、ただ自然発生した黒山羊。フィリップが過剰に反応しただけ。

 

 現状ではまるで情報が無く、全ての仮説が棄却できない。

 仮説4に関してはもう願望でしかないが、できればそれであってくれと思う。

 

 逆に一番真実であってほしくないのは、仮説1だ。

 クリア条件不明、かつクトゥグア(盤面返し)は封じられている。対処の方法が思いつかない。

 

 右腕を一瞥し──とりあえず情報を集めようと、フィリップは森へ向かうことにした。

 

 

 

 現在判明していることとして、森のある程度深部まで進むと、黒山羊の群れに囲まれるという情報がある。というか、それくらいしかない。

 あとは彼らの攻撃性が低いということくらいで、正直手詰まりだ。だが幸い、情報を集める簡単な方法がある。

 

 長袖に長ズボン。厚手の作業手袋に、例のマチェット。小ぶりなナイフと火打石。水筒と昼食のパン。万一に備え、薬草を煮詰めた軟膏と包帯も持っていくことにする。

 

 「ちょっと森へ遊びに」という風情からはかけ離れた装いに、道ですれ違う人々はしかし、微笑ましいものを見るような目を向ける。冒険者に憧れる時分は誰にでもあるし、木の棒と鍋の蓋があれば誰だって英雄になれるのが子供時代だ。ごっこ遊びの延長か何かだと思われているのだろう。

 

 誰にも呼び止められることは無く、これ幸いと森へ入る。今日は別に何をするつもりも無いのだが、一応、木々と森の恵みへ感謝を捧げておいた。

 

 「さて……」

 

 何も考えず奥を目指すか、黒山羊の痕跡を辿るかと考え、取り敢えず奥へ進むことにする。

 そもそも黒山羊の痕跡を見つけ、追跡する方法など知らないので、あまり意味のない思考だった。

 

 森林のような複雑な環境ほど動物や人の痕跡を見つけやすいと言うが、フィリップには難しかった。プロのいう「簡単」ほど当てにならないものは無いが、その知恵の全てを否定することも無い。

 

 たとえば、樹皮の表面をマチェットで傷付けるくらいなら、ドライアドたちの怒りには触れないこと。

 狩人たちが森を開拓するとき、迷わないようにする目印らしい。

 

 ざく、と、手近な木を切りつけてみるが、なるほど。本当に樹皮の表面が傷付くくらいなら、ドライアドは罰を下さないようだ。

 

 「黒山羊、黒山羊……」

 

 たん、たん、と。目印をリズムよく刻みながら進む。

 遠巻きに見てくる山猫、逃げていく毒の無い蛇に手を振り、蜂の羽音と蛇の威嚇音からは即座に遠ざかる。怪しげなキノコには触れず、薬草は摘まずに場所を覚えておく。

 

 宿を手伝うようになる前から、薪拾いで歩いて来た森だ。慣れたものである。

 

 「ふんふんふー……ふ?」

 

 鼻歌交じりの行軍を続けること小一時間。少し開けた場所に見慣れない沼があった。

 

 池でも泉でも川でもなく、沼だ。

 雨が降って水が溜まったわけでもなく、地下水が湧き出たわけでもなく、どこかから水が流れて来たわけでもない。ただ今までは無かったはずの場所に、濁った泥だまりがある。

 

 「……え、なにこれ。怪しすぎるでしょ」

 

 何かが出そうという雰囲気ではないが、今まで無かったものがあるというのは十分に異常だ。

 それに沼といえば嵌ったら不味い、底が無いという逸話に事欠かないが、本当に不味いのは沼の全容が掴めないことだ。泥の表層は地面によく擬態する。まだ大丈夫だと思って踏み出したら、そこはもう沼だった──ということが普通に起こる。

 

 なるべく近付かないでおこう。

 そう判断し、木に寄りかかり、根を踏むように進む。さすがにずっとという訳には行かないが、沼が見えなくなるまでは。

 

 しばらく進み、そろそろいいかなと地に足を付ける。

 

 「……ん?」

 

 沼──ではない。

 土の下に何か金属質なものがあるのか、ちゃり、と石とは違う音が鳴る。

 

 拾い上げてみると、見慣れない紋様の書かれたコインだった。少なくとも王国の共通通貨ではない。

 鑑識眼に自信があるわけではないが、軽さから金でないことは断言できる。そう高値が付くものではない。

 

 しょうもな、と、普段であれば捨てるところだが、ここは森の中。ドライアドたちの監視下だ。拾ったものを戻す程度で怒られるのかは分からないが、不興を買う恐れのあることは止めた方がいい。ポケットに突っ込んでおく。 

 

 そのまましばらく探索を続けていると、不意に甲高い悲鳴が耳を刺した。

 

 身体を強張らせ、その方角やその他の音──獣の唸り声や弓弦の音などを聞き取ろうと耳を澄ます。

 

 「……」

 

 何も、聞こえない。

 虫たちが沈黙し、風も無く梢は凪ぎ、本格的に森が音を吸い始める。

 

 正体不明の沼に、悲鳴。そして静まり返る森。

 全く最高のシチュエーションだ。このタイミングで黒山羊が出てきたら漏らしても笑われないだろう。

 

 そっと、足音を立てないように進んでいく。幸いにして、よく肥えた柔らかな土は音を吸ってくれた。おかげでフィリップにも何も聞こえないわけだが。

 

 どのくらい進んだだろうか。数秒か、数分か。まさか数時間ということはないだろうが、喉の渇きと気疲れはそのくらいだ。

 

 水筒を傾け、残りが少ないと舌を打つ。

 その時、ふと耳に入ってくる雑音があった。不自然なほど静かな森の中で、()()()()()はよく通る。

 

 その声の方角へと必死に足を進め──林冠を突く煙を目にする。

 

 すわ森林火災かと身体が強張るが、それにしては煙が小さいし、熱も漂ってこない。

 

 ……キャンプか?

 魔物や害獣の出現報告は少ない森だが、いないわけではない。街と街を隔てるような立地でもないし、わざわざ森に入る者もいないだろう。娯楽目的で野宿するような物好きが居るのなら話は別だが。

 旅行者や道楽者の線を排除すると、残る可能性は。

 

 「例の学院生かな?」

 

 警戒しつつ、しかし足早に煙の方へ向かう。

 やがて少し開けた場所に辿り着き──瞠目する。

 

 「え……マザー……?」

 

 切り株に腰掛けた女性がいた。

 滑らかな銀髪を背中に流し、仕立ての良さそうな黒い服を纏っている。ぱっと分かる共通点は、あとは背中を向けていても分かるプロポーションのよい肢体くらいのものだ。

 

 フィリップの動揺が雑音を生み、女性が振り返る。

 顔立ちが露わになり、フィリップの認識が誤りであったことが判明する。

 

 まず第一に、彼女はマザーでは無かった。

 フィリップが見てきた()()の中で最も美しい女性であることは間違いない。見る者全てを魅了する、とか、絶世の、とか、そんな形容が何の誇張も無く似合う。だが、マザーやナイ神父のような見る者の正気を奪うような人外の美ではない。具体的な指標(APP)に直すのなら、17か18といったところか。ちなみに人間の限界値は18、ナイ神父とマザーは21だ。

 

 次に、女性という表現。

 かわいいではなく綺麗という形容が正しい風貌ではあるが、まだあどけなさの残る容姿は、女性ではなく少女という年齢であることを窺わせる。身に纏う制服からも、その表現が正しいことが分かるだろう。

 魔術学院の生徒ということは、例の野外訓練に来た生徒か。アイリーンの言によれば一年生とのことなので、14、5歳だ。

 

 「……ふぅ」

 

 安堵の息を漏らす。

 少し年上とはいえ、絶世の美少女を前にまずやることが溜息。しかも魅了ではなく安堵によるもの。失礼云々以前にどうしたお前と言われそうな行為だが、フィリップにも言い分はある。

 

 異常に静かな森を、非武装単独で、しかも黒山羊に怯えながら歩いて来たのだ。

 それでマザー──シュブ=ニグラスに出会ってみろ。失禁ものだ。まぁフィリップ以外なら発狂してもおかしくないが、それはさておき。

 

 「……」

 

 どう話しかけるのが一番怪しくないだろうか。

 現状、少女の側からすれば、フィリップはこの怪しげな森を一人でふらふら歩いている怪しげな子供だ。これ以上の悪印象を与えると、黒山羊について訊けなくなる恐れもある。そんな無意味なことはしたくない。

 

 とりあえず「こんにちは」と挨拶してみるが、怪訝そうな一瞥だけが返ってくる。

 

 一歩近づくと、少女は警戒も露わに立ち上がり──顔を顰めて腰を下ろした。足を痛めているのだろうかと目を向けるが、革製のブーツの上からでは分からない。だが、膝の下ほどまでを覆う黒い革のブーツは、ヒールが5センチほど上げられている。ピンヒールではないが、森歩きに適しているとは言えない靴だ。推測に間違いは無さそうだ。

 

 「足を痛めてるんですか? 軟膏ならありますけど……」

 

 リュックを漁り、薬草を磨り潰して作った軟膏入りの小瓶を差し出す。錬金術製ではなく自家製の民間療法的な代物だが、効果のほどはフィリップの経験によって裏打ちされている。流石に骨折のような重傷に対しては痛み止めくらいにしかならないが、打撲や軽い捻挫くらいなら二日で治るだろう。

 

 とはいえ。

 少女視点、フィリップは怪しげな子供から、怪しげな小瓶を差し出す子供に格上げされた訳で。

 

 「……それ以上近寄らないで」

 

 と、魔術を照準されるのも自業自得である。

 

 明確な敵意にしかし、フィリップが気に掛けたのは全く別のことだった。

 少女からは完全に意識を外し、森の気配と世界の動きに細心の注意を払う。ほぼ確定で、この森はシュブ=ニグラスの──マザーの支配域だ。それに、表層に顕出していないとはいえ、フィリップは常にヨグ=ソトースの庇護下にある。

 

 フィリップに向けられた敵意と攻撃の予備動作に、果たしてどういう反応をするのか。

 

 一秒、二秒と経ち、何も起こらないことを確認する。

 少女が無害であると──無価値であると判断してくれたらしい。

 

 「ふぅ。ただの軟膏ですよ。何なら、僕が先に塗ってみましょうか?」

 

 じわじわと精神を苛んでいた孤独と重圧から解放され、少しハイになっていたフィリップは「何なら舐めちゃう」と軟膏を付けた指先を口に含み──その苦みとエグさに強烈に顔を顰めた。

 

 



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28

 フィリップの挺身──自爆とも言う──が功を奏したのか、少女はある程度心を開いてくれた。

 

 足の手当は自分ですると言い張り、フィリップからは軟膏を受け取るだけだったのだが、「これ、添え木にしてください」と木の枝を差し出せば「添え木……?」と首を捻り、「包帯も差し上げますよ」と手渡しても巻き方が分からず途方に暮れ、結局、フィリップが応急処置をしていた。

 

 昔から日常生活で起こるような怪我の治療はしていたし、最近では刀傷を負った衛士の応急処置を間近で見て、実践もした。捻挫の処置くらいならお手の物だ。

 

 「よし、終わりです。痛みはあると思いますけど、二日もすれば治りますから」

 「……ありがとう」

 

 もともと足にぴったりと沿う形状のブーツを履いていたので、多少不格好にはなっているが、二重の固定だと思えば気にならない。少なくともフィリップからは、だが。

 

 わざわざ森歩きにまでブーツを履いてくるくらいなのだ、おしゃれには五月蠅いかもしれない。

 そう思って顔色をうかがうが、怒りや嫌悪といった感情は見られない。というか、未だに怪訝そうな顔のままだ。

 

 「あー、えっと……フィリップ・カーターです。どうぞよろしく」

 「……ルキア・フォン・サークリスよ」

 

 コミュニケーションにはまず自己紹介から。そう思って名乗ってみると、意外にも彼女は名乗り返してくれた。

 気位が高そうというのもあるが、怪しい者じゃありませんという弁解がまるで通じない状態だったのに、よく名乗る気になったものだと思う。フィリップなら偽名を名乗るところだ。

 

 だが、名前にフォンと付くのは貴族の特徴だ。

 まさか偽名に貴族の名を使うとは考えにくいし、本名だろう。

 

 「貴族様でしたか。そうとは知らず、ご無礼をお許しください」

 

 サークリス……聞き覚えのある名前だが、思い出せない。

 思い出せないということは外神絡みではなく、その他の()()()()()()ということだが、人名を忘れるのは不味いと自嘲する。

 

 会ったことは無いはずなので、世間話か何かの話題に上がっただけだろう。 

 

 「……構わないわ」

 

 意外そうなのは、フィリップが年相応以上に礼儀を弁えた対応をしたからか。

 まさか宿屋の丁稚風情でも知っているはずの有名人ということはあるまい。

 

 「サークリス様は、魔術学院の生徒なんですか?」

 「……えぇ」

 「ということは、野外訓練の最中ですよね?」

 「……そうよ」

 

 会話をするつもりはないと、言葉にせずとも分かる態度だった。まぁフィリップが露骨に怪しいので、諦めも付くが。

 

 「えっと、班の方は? お聞きしたいことがあるのですが……」

 「……聞きたいこと?」

 

 黒山羊について言及しようとすると、近くの茂みががさりと音を立てる。

 フィリップが腕輪に手を掛けるより早く、ルキアが魔術を照準する。学生でも魔術師ということか、一般人並みの適性しかないフィリップでは考えられない速度だ。

 

 「戻りました、サークリス様! 薬草をお持ちしましたよ……って、その子は?」

 

 茂みを掻き分けて現れたのは、ルキアと同じ制服を着た金髪の少女だった。

 フィリップへ向けられた視線には露骨に怪しむ色が浮かんでおり、平民の子供ではなく木の妖精だと言うべきだったかと真剣に悩む。

 

 「フィリップ・カーターです。ちょうど軟膏を持っていたので、サークリス様の手当をさせて頂きました」

 「エリー・フォン・アルマンよ。お礼は……このくらいでいいかしら?」

 

 言って、エリーは片耳から宝石の付いたピアスを外すと、フィリップにその輝きを見せる。

 木漏れ日を反射して深みのある緑色に煌めくのは、爪ほどの大きさのエメラルドだ。売ればさぞかし高値が付くことだろう。

 

 「えっと……」

 

 言い淀み、受け取ろうとしないフィリップに怪訝そうな視線が向けられる。

 謝礼目的の俗人だと思われるということは、逆に言えば金という要素を通じた場合に限り、一定の信頼関係が築けるということでもある。これを蹴るのは惜しいが、いま重要なのは情報だ。

 

 「まさか、足りないとでも? 言っておくけど、これは──」

 「いえ、それより、お聞きしたいことがあるんですが……」

 

 言葉を遮る無礼を咎め、エリーが眦を吊り上げる。

 しかし、叱責の言葉より先に、また別の班員が帰ってきた。

 

 「戻りました……。すみません、サークリス様。薬草見つかりませんでした……。あれ? アルマン様、その子は?」

 

 どこかふわふわした雰囲気を纏う少女の帰還を皮切りに、ぞろぞろと班員らしき学生たちが帰ってくる。

 皆が一様にルキアへ謝罪し、それからフィリップに怪訝そうな視線を向けるのは予定調和じみていて、正直面白いほどだった。

 

 何人かは露骨な「なんだこいつ」という警戒を、残りは平民に対する侮蔑の視線を向ける。ルキアに至っては完全に関心を失っているようだ。警戒が解けたのは嬉しい限りだが。

 

 「……それで、何が聞きたいのかしら?」

 

 早くどっか行けよ、という内心の見え透いた態度で、エリーがそう問いかける。

 

 「はい。えっと、皆様は3日ほどこの森で訓練されているんですよね?」

 「……そうだが?」

 

 聞いておいて即、興味を失ったらしいエリーに代わり、金髪の男子生徒が肯定してくれる。

 ありがとうございますと一礼して、フィリップは本題を提示した。

 

 「黒い山羊を見ませんでしたか? もし見たのなら、その場所を──」

 

 大真面目に訊いたフィリップだが、言い切る前に、誰かが鼻で笑う。

 目を向けると、二人居る男子生徒のうちのもう片方、茶髪の少年が横柄な態度でせせら笑っていた。

 

 「貴様の目は節穴らしいな。……黒山羊だと? そんなもの、そこらじゅうにいるではないか」

 

 少年が、ほれ、とフィリップの背後を指す。

 振り向きざまに腕輪を外し、警戒姿勢を取るさまはまさに「弾かれたように」という形容が似合う。

 

 曇り始めた空の下、暗がりの生まれた木々の合間に目を凝らし──何もいない? と首を傾げるフィリップに、背後から複数の嘲笑が突き刺さった。

 

 「あははは! なに、その怖がり方? ぼく、山羊が怖いの?」

 「うーん……草食動物だぞ? 確かに目は不気味だが」

 

 少女を窘める空気を漂わせ、金髪の少年が鎮静を図る。

 しかし、また別の少女に揶揄われ、口を閉じてしまった。

 

 「庇うことないわよ、レオン。くすくす……それとも、貴方も怖いのかしら?」

 

 生まれついての貴種が雑種に向ける、侮蔑と嘲笑。フィリップたち平民にとっては珍しくも無いことだ。

 

 向けられた悪意を一顧だにせず、フィリップはただ安堵した。

 

 このタイミングで背後に黒山羊が居たら普通にビビるし、何なら衝動的に効きもしないパンチが出るところだ。出るのは悲鳴か小便の可能性もあるが。

 

 「なんだ、冗談ですか? あはは、勘弁してくださいよー」

 

 同調の笑いを浮かべ、空気に混じる。

 知らないなら知らないと言ってくれれば、早々に立ち去ると言うのに。時間を無駄にした。今日中に痕跡を見つけておきたかったのだが。

 

 「お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした。僕はこれで失礼しますね」

 「……待ちなさい」

 

 無価値なものを見る目にならないように気を遣いながら、一礼してキャンプを去ろうとする。

 しかし、最初から一貫して興味なさげだったルキアが待ったをかけた。生徒たちがぎょっとした目でルキアとフィリップを交互に見て、最終的にフィリップを睨むのは何故なのか。

 

 「私たちが黒山羊を見たのは本当よ。……それは普通じゃないということ?」

 「……はい。森のどのあたりでしたか?」

 

 ルキアは少し考え、淡々と

 

 「入り口付近以外。森のほぼ全域で」

 

 と答えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 終わった。もうこの森は……いや、ヴィーラムの町も終わりかもしれない。

 テストは不合格だ。やはりフィリップには何もできない。何の力も無く、授けられた智慧を上手く扱うことも出来ず、人間らしく大いなる存在の前に無為に散るのだ。いや、散りはしないが。

 

 「なんだ? この町はそんなに獣害が酷いのか?」

 

 膝を折ったフィリップに困惑し、茶髪の少年が心配そうに町の方角を見遣る。

 意外と平民の暮らす街のことを気に掛けるのだなと感心するが、それも現実逃避にしかなっていない。

 

 智慧はあるのだ。考えろ。智慧を活かせ。

 森の黒山羊、シュブ=ニグラスの落とし子たち。マザーの眷属たる彼らの狙い、延いてはマザーの狙いはなんだ? フィリップを害するのであれば、こんな回りくどい事をする必要はない。となると、前回の悪魔騒動と同じ、フィリップの成長……ここまでは前提だろう。

 

 もっと考えろ。

 腕輪のことはマザーも知っているし、魔術の訓練ではないはず。では森歩きによる基礎体力の向上? いや、そんな小賢しいことを考えるのはナイ神父の方ではないか?

 

 となると、テスト考案者はナイ神父か? それは不味い。マザーとは違い、ナイ神父はフィリップの機嫌などという何の価値も無いものには頓着しない。テストに失敗すれば、ヴィーラムの町が──フィリップの故郷が狂人と神話生物の跋扈するソドムのごとき魔境と化すかもしれない。というかソドムの方がマシまである。

 

 考え、考え、考えてもなお、答えは出ない。

 フィリップは未だ黒山羊に出会ってすらいない以上、情報が圧倒的に足りないのだ。それが本当に落とし子なのか、或いはただの黒山羊なのかすら、フィリップは判断できない。 

 

 ふと、ぱちりと焚火の燃える音が耳につく。頭を抱えたフィリップを訝しみ、嘲る生徒たちの笑い声が耳に障る。

 

 

 ──それ以外の、あらゆる音が消えているが故に。

 

 

 ぞくりと、背中を刺す気配がある。

 マザーに感じる複雑な感情から、嫌悪以外の全てを取り払ったような気配だ。

 

 ごくりと唾を呑む音、高まっていく心臓の鼓動が耳に障る。急に様子の変わったフィリップを訝しむ声など、もはや耳に入らない。

 最高位悪魔をすら無価値と斬って捨てた価値観が、今は全力の逃走か、この場での焼却を強く推奨してくる。

 

 気付けばキャンプ地は黒山羊の群れに囲まれており、鳴きもせず、蹄の音すら立てない彼らに、生徒たちとフィリップはじっと見つめられていた。

 

 「は、ははは……良かったな、黒山羊が自分から来てくれたじゃないか!」

 

 誰かの揶揄が耳に障る。

 これは──()()()()は駄目だ。

 

 黒山羊の群れを無条件にマザーの眷属だと思い込んでいたが、誤りだった。こいつらはあまりに()()で、それゆえにフィリップのことを理解していない。おそらく、落とし子のさらにその孫くらいの下級存在。マザーやナイ神父であれば、目に留めることも無いほどの。

 保護者無しのテストに用意するなら、確かにちょうどいい塩梅だ。腕輪が無いならの話だが。

 

 黒山羊の群れに混じり、統一されたローブ姿の魔術師の姿も見える。

 

 「カルト?」という誰かの呟きが、フィリップの歯ぎしりに混じる。

 黒山羊に感じた、知恵ある者全てが抱くであろう嫌悪感とは違う、フィリップ自身の価値観から生じる、フィリップ自身の嫌悪感。

 

 フィリップがいま抱いている全ての恐怖、全ての絶望、全ての諦観の元凶がカルトだった。

 彼らは例の時神なんたらとは何の関係も無い団体だろう。だが、蜂に刺された者は蜂全てを恐れ、蛇に噛まれた者は蛇全てを遠ざける。それと同じだ。カルトはカルト。一個人や一団体ではなく、カルトという記号によって括られる。

 

 「どうなってるのよ!?」

 

 カルトに囲まれ、女生徒の一人が魔術を放つ。

 基礎的な氷の槍を撃ち出す魔術は、狙い過たずカルトの一人を木に縫い留めた。

 

 タイミング的にフィリップがグルだと思われてもおかしくないが、フィリップの放つ殺気にも近い嫌悪感が、彼らにその推測が誤りであると教えていた。

 また、カルトの魔術師は所詮はぐれ。国内最高の教育機関である魔術学院で教えを受ける彼らの敵では無いというのも、精神の安定を保っていた。

 

 程なくしてカルトの半数ほどが殲滅され、半数が森の奥へと逃げていく。

 しかし、それを追いかけるだけの余裕はなかった。

 

 「くそ、山羊には効かない!?」

 

 その叫びが、理由を端的に表している。

 氷の槍が、炎の球が、迸る雷が、風の刃が、岩の弾丸が、悉く黒山羊の毛皮に弾かれている。腐っても神話生物の末裔ということか。

 

 「さ、サークリス様っ!」 

 

 誰かが叫び、それまで立ち上がりすらしなかったルキアが片手を上げる。

 生徒たちが目を庇ったのを見て。フィリップも直ちにそれに倣う。

 

 「──『粛清の光』」

 

 



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29

 淡々と、戦意の一片も感じられない詠唱が齎したのは、天から突き刺さる一条の光だった。

 

 フィリップたちを取り囲む黒山羊の群れに合わせて円を描き、雷のように轟音を伴わず、木々を焼くこともない。

 何の破壊力も無い、ただ眩しいだけの光だ。だが無力かと言えば、決してそんなことは無い。

 

 光・聖属性のほぼ最高位魔術『粛清の光』は、実のところ攻撃魔術ではない。どちらかといえば通信魔術に近いそれは、唯一神に仇為す邪悪なるもの全てへの神罰を齎す。

 

 木々を、神聖なるドライアドたちの護る森を傷付けることなく、唯一神へ祈らない黒山羊たちを塩の柱に変える。一切の回避・防御を無効化し、唯一神より格の劣る全ての魔性を罰する裁定の光だ。

 

 「わぁ……流石はサークリス様! あれだけの魔物を一撃で!」

 

 生徒たちが口々に褒め称えるが、ルキアは無関心に座っているだけだ。

 その傲慢なまでの無関心に、フィリップは勝手ながら理解を示す。

 

 あれだけの力があるのなら、世界はさぞかし脆く、つまらないだろう。世界が脆いと知ってしまったら、後に残るのは絶望や諦観だけだ。

 

 しこたま塩を積み上げたわけだが、森の木々は大丈夫なのだろうか。

 そんなどうでもいいことを考えているから、フィリップは背筋を刺す気配が消えていないことに気付けない。

 

 「あ、まだ一匹いますよ!」

 「あれくらいは私が!」

 「いや、俺が!」

 

 ひときわ体格のよい黒山羊が、あの魔術をも無効化して生き残っていた。

 生徒たちが最早死に体と勘違いして魔術を撃ち込み──ぱぁん! と、水袋の破裂するような音が森に木霊する。

 

 「……へ?」

 

 隣にいた女生徒だったものを頭から被り、どろどろに濡れた男子生徒が呆けた声を上げる。

 

 「ア゛ア゛」と。無理に文字化するのならそんな感じの、喉を絞るような唸りが聞こえる。それが黒山羊の鳴き声だと、フィリップだけが理解していた。

 

 最悪だと、フィリップは舌打ちを漏らす。

 黒山羊の群れは確かに低俗な三世代程薄まった神話生物だった。だが、その大本──本物のシュブ=ニグラスの落とし子は、まだこの森にいて、この群れに混じっていたのだ。

 

 「ア゛ア゛ア゛」と、黒山羊が鳴く。いや、鳴き声ではなく──嗤い声か。

 眼前の矮小なる人間を、愛しき母の匂いを付けた人間を見て、哄笑している。

 

 「ひ」

 

 血に濡れた少年が悲鳴を上げようとして、その前に失神して倒れた。

 彼と、先に死んだ少女はとても幸せだ。その山羊の、最も悍ましい姿を見ることなく、神を冒涜する邪悪なるものを目にすることなく死ねるのだから。

 

 ぱかり、と、山羊の首元が開く。拳ほどもある乱杭歯が並び、粘度の高い涎を垂らす大口だ。

 ぎょろり、と、頭蓋だけでなく体全体に無数の目が現れる。その全てが揃いなく動き、この場の全員を睥睨していた。

 体中から生えた太い触手が地面を叩き、木々を揺らす。

 

 「見ちゃだめだ!」

 

 フィリップが叫び、最も近くにいたルキアの正面に出て視界を遮る。

 それがギリギリ間に合っていたことは、背後から聞こえる「ちょっと!?」という怒りの声が証明してくれた。

 

 間に合っていなかったらどうなるかは、それを直視してしまった他の生徒たちが端的に示していた。

 

 「う、うわぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 「いやぁぁぁッ!?」

 

 一人死亡、一人失神、一人をフィリップが庇ったので、残りは三人。うち二人が金切り声を上げながらバラバラに逃げ出す。残る一人は──

 

 「もぐ。もぐもぐ……」

 

 土を食っていた。

 

 「もぐ……ん? もぐもぐ」

 

 土を掌一杯に掬い、口へ運び、咀嚼する。硬い石などは口から取り出して捨て、柔らかな土を嚥下する。

 

 「何を……何が起こっているの……?」

 

 角度やフィリップの体格的に、ルキアから黒山羊を隠すのが限界のようだ。黒山羊は見えずとも、狂気に陥った班員や逃げ出した友人のことは把握しているだろう。

 追って走られても困るが、幸いにも、ルキアは片足を痛めている。一人での移動すら困難だろう。

 

 「もぐもぐ……ァ」

 「ひッ……」

 

 どす、と、蹲って土を食べていた少年が触手の下敷きになる。

 それは見えたのか、ルキアが悲鳴を呑み込んだのが分かった。

 

 呻くような哄笑と無数の視線がフィリップに向く。

 

 ヨグ=ソトースは動かない。

 落とし子程度の存在を脅威として認識できないのか、或いは別の理由があるのか。だが少なくとも、テストは続行ということだろう。

 

 「ごめん、我慢して!」

 「痛っ!? ちょっと!」

 

 足を痛めている側の肩を担ぎ、ルキアを強引に歩かせる、体格的にも体力的にも、抱いたり背負ったりするのは不可能だった。

 背を向けて逃げ出す二人を追うこともせず、背後では黒山羊の食事が始まっていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 最悪だった。

 フィリップは自分を──大いなる智慧を与えられ、狂気を奪われ、自分が変わっていくのを正気のまま受け入れなければならない現状を、決して幸せだとは思っていない。

 そんな状態に道連れなど必要ないし、フィリップ以外のあらゆる人間が、こんな異常を目にすることなく生きていけたらいいと思っている。半面、愚かで脆弱な人間がその蒙を啓かれることは、心の底から祝福するのだが。

 

 さておき、フィリップのテストに巻き込まれた彼らには本当に謝罪の念に堪えない。

 既に死体となったモノはともかく、今も恐怖に駆られて逃げ惑っている二人と、恐怖と困惑に耐えてフィリップを見つめるルキアには。

 

 「手荒を謝罪させてください、サークリス様。ですが、必要な行為でした」

 

 おそらく、足首の捻挫は悪化しただろう。

 走り辛い森を全力で走ったのだ。フィリップ自身が正気かと笑う暴挙だが、こうしなければ今頃は落とし子に美味しく頂かれていた。

 

 それを分かっているのか、ルキアは静かに頷く。

 

 「すみません。もう一度、足を診せて貰えますか?」

 「……えぇ」

 

 ルキアが片足を差し出す。

 少し瞠目して、フィリップは靴紐を解き、足を締め付けるようなロングブーツを脱がせる。

 

 やはり腫れが悪化しており、自家製の軟膏程度では完治しない域かもしれない。

 

 「森を出たら神官に見せてください。軟膏はもう痛み止め程度にしかならないと思うので……」

 「……分かったわ」

 

 日も暮れてきた。こうなると、下手に動けば黒山羊たちに察知され、先ほどのように取り囲まれてしまう。それに、ルキアの足はこれ以上の酷使に耐えられないはずだ。

 幸い、大樹の根元にうろがある。姿を隠し、休むことはできそうだ。

 

 半ば詰んでいるが、外神からの干渉は無い。

 いや、違う。まだ詰みには遠いのか。ルキアも森も町も、フィリップが自ら課した枷だ。この腕輪と同じ、外そうと思えば外れる、何の意味も無い拘束。だが外してしまえば、罰が下る。

 

 腕輪を外せば、法の裁きが。

 ここで全てを見捨てれば、待っているのは人間性の破綻だ。親を見捨て、故郷を見捨て、助けられる者を、自分が巻き込んだ者を見捨て、フィリップがフィリップであり続けられる保証は無い。

 

 それが嫌だから、フィリップはテストに際し、自らにハンデを課した。

 それを捨てれば簡単にクリアできるから、試練は未だ続いているのだろう。副王はその無様な足掻きを冷笑し、マザーは愛玩して、そしてフィリップの成長を確かめるのだ。

 

 「……」

 

 足の調子を確かめているルキアを見遣り、森のどこかを彷徨い逃げている二人を思い返す。

 

 最悪のタイミングで野外訓練に来てしまった──いや、フィリップが、最悪のタイミングで故郷に帰ってきてしまったのか。哀れにも巻き込まれた被害者たちを、何としても生還させる。

 そう決意した矢先、男の悲鳴が森に木霊する。

 

 弾かれたように立ち上がるが、ルキアは最早走れず、フィリップの体力も限界に近い。逃げることも出来そうになかった。

 

 「……大丈夫よ」

 

 木のうろに座り込んだまま、ルキアが囁く。

 恐怖の中にも確固たる決意の窺える瞳が、フィリップの諦観に塗れた目を射抜いた。

 

 「平民を守るのは貴族の務め。私が貴方を守るから」

 

 赤い瞳に射止められ、呆けたように口を開くフィリップの態度を勘違いしたのか、彼女は片目を閉じて微笑みかける。

 

 「さっきは無様を見せたけど、これでも聖痕者なのよ?」

 

 閉じていない側の瞳に、幾何学的な紋章が見える。

 

 聖痕者。神が認めた各属性最高最強の魔術師だ。

 自然六属性から一人ずつ、最も強い力を持つと認められ、唯一神より聖なる刻印を与えられた者たち。

 

 道理で、名前に聞き覚えがあったはずだ。

 

 『明けの明星』の二つ名を持つ、光属性の聖痕者、ルキア・フォン・サークリス。

 魔術関連の書籍を読めば必ず出てくる名前だ。指の一弾きで敵対者に雷を降らせ、邪悪なるものを塩の柱に変えてしまう、稀代の魔術師。

 

 『粛清の光』などという、フィリップでは聞いたことも無いような高位魔術を易々と扱う辺り、只者では無いと思っていたが。

 

 なるほど、と、フィリップは妙な既視感の理由に納得し、その決意の美しさを称える。

 

 そして──無価値だと、破綻しつつある価値観が切り捨てた。

 

 

 聖痕者? 神が認めた属性最強?

 なるほど。では、その神の強さは、一体誰が認めたのだ?

 

 

 共同幻想の認める最強とは、確かに全てのヒトの中で最強なのだろう。そして、全人類程度が母集団の時点で、そんなものに価値はない。

 

 「……それは凄い」

 

 だから、そんな感情の籠らない返答が出たのも仕方ないだろう。

 

 嘲笑うとまでは行かずとも、大人が幼子に向けるような冷笑が混じったのは否定できない。

 瞠目され、観察するような視線を向けられて、フィリップは演技の練習の必要性を強く認識した。

 

 「……これ、よかったら」

 

 誤魔化すように、持ってきたパンを取り出す。昼食ではなく夕食になってしまったが、日持ちするものだ。大丈夫だろう。

 半分に分けたそれを齧りながら、上手く誤魔化せたかと視線を向け──視線が合い、すぐに逸らす。全然誤魔化せていなかった。

 

 「あの、えっと……」

 

 何を言えばいいのか。フィリップが迷っているうちに、ルキアの興味はフィリップから逸れてくれた。

 

 「さっきの魔物……あれは何? いえ、そもそもあれは魔物なの?」

 

 黒山羊の親玉、シュブ=ニグラスの落とし子。

 人類最高の魔術程度であれば難なく抵抗し、人を嗤いながら喰らう悪性の個体。あれが今回のテストの試験官役なら、とても()()()のだが。

 

 「……僕にも詳しいことは分かりません」

 

 首を振ったフィリップの嘘を敏感に嗅ぎ分け、眉根が寄せられる。

 だがフィリップも意地悪で隠しているわけではなく、彼女の精神を守るために情報を秘匿しているのだ。彼女がこれを知ることで抵抗できるようになるというのであれば一考するが、そうでない以上、発狂リスクを背負うのは無意味だ。

 

 「……僕が信用できないのは分かります。でも、森を出るまでは同行させてください」

 

 フィリップが巻き込んだのだ。名前も知らない、顔も声ももう覚えていない学生が4人殺され、一人は恐怖に駆られて逃げ惑っている。

 全てフィリップのせいだ。最悪のタイミングで帰省して、最悪のタイミングで森を訪れ、彼らから情報を得ようとしたフィリップのせいだ。

 

 ならばせめて、フィリップが残る二人を助けなくてはならない。

 それは贖罪ではなく、大前提だ。

 

 「僕が、貴女を守ります」

 

 





 あとフィリップくんのいる「地球」は「銀河系オリオン腕太陽系第三惑星」だよ。ただ僕らのいる地球とは地理とか物理法則とか魔術の有無とか文明レベルとか、その他諸々が色々違うよ。つまり異世界の地球だね。

 自分のいる星と混同兄貴、さては魔術師か?



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30

 ルキア・フォン・サークリスが聖痕を発現させたのは、彼女がまだ5歳の頃だった。

 朝起きて、侍女が持ってきた洗面具で顔を洗い、別の侍女が捧げ持った鏡を見て──左目の奥に刻まれた、聖なる証を見た。

 

 元来、サークリス公爵家は光属性に高い適性を持つ者を輩出する血統だった。先々代当主も光属性の聖痕者だったというし、ルキアが選ばれたこと自体は、望外のことという訳でもない。しかし、彼女があまりに若く、また次期当主の座からは遠い次女だったのは問題だった。

 

 その血統を採り入れようとする者は、なにも政略結婚を申し入れてくる王国や他国の王侯貴族だけではない。

 

 拉致し、解体し、分析し、その血統を解明すればいいと考える者がいた。

 あるいは拉致し、強姦し、子供を産ませてしまえばいいと考える者もいた。

 

 この10年間、ルキアはそんな悪意に晒され続け──その全てを、神より最強と認められた力でねじ伏せて来た。

 

 今では敵対者を塩の柱に変える粛清の魔女『明けの明星』なんて呼ばれ方をしている。

 

 ルキアは強い。間違いなく、人類で十指に入るほどに。

 そして、その強さは魔術的なものだけでは無かった。

 

 彼女は生まれついての貴種だ。

 傲慢であれ。気品を忘れず、優雅であれ。半端に群れるのであれば、孤高であれ。公爵令嬢として相応しく在れと、周囲も自分も求め、応えて来た。

 ゴシック、と。そう呼ばれる、この世で最も美しい生き様を体現していた。

 

 魔術学院への入学も、最も適性の高い者たちが在籍するAクラスに割り振られることも、彼女にとっては予定調和だった。

 一つ問題だったのは、彼女と肩を並べるクラスメイトたちが、思った以上の俗物揃いだったことか。

 

 同調と擦り寄り。サークリス公爵家の名と聖痕者『明けの明星』の名、どちらか片方でも大きいものが二つも並んでいるので仕方ないとは思うが、しょうもないとも思う。

 

 一学期中盤、学院側が企画した野外訓練は、そんな俗物と一週間も行動を共にしなければならない、面倒極まりないものだった。せめてルキアの糧になることがあればいいのだが、彼女が苦戦するような敵はすなわち、人類が総力を結集しなければならない敵だということ。田舎町の森にそんな怪物が居るはずもない。

 

 だから、足首を痛めたのは想定外で、ある意味望んでいた試練でもあった。些か以上にしょうもない教訓だが、今度から森に来るときはブーツは止めよう。

 

 背後から声を掛けられたのは、そう自嘲している時だった。

 

 「マザー?」と。愕然と、自分ではない誰かに向けられた畏怖と驚愕が届く。

 振り返ると、10歳くらいの少年が目を瞠っていた。

 

 ルキアは自分の美しさを自覚しているし、美しく在ろうとしている。容姿だけでなく、その在り方も含めてだ。

 だから憧れの視線を向けられるのには慣れていたし、不躾な視線を投げられるのも、不快だが慣れてはいる。そんなルキアに、少年は安堵の息を吐いたのだ。

 

 少し癪だったが、それ以上に怪しかった。

 田舎の森だが、害獣や魔物も出る。子供が一人でフラフラしていい領域ではないし、そんなところにいる子供は、少なくとも単なる平民の子供ではないだろう。

 

 擬態型の魔物だとまでは思わないが、無条件に味方だと信じるのは愚かな行為だ。

 こんにちは、と挨拶などされても、何の判断材料にもならないのだが。

 

 一歩、少年が踏み出す。

 ルキアのキルレンジは視界。そういう意味では近寄ろうが遠ざかろうが関係ないが、牽制の意味を兼ねて立ち上がり──右足に走った痛みに顔を顰める。

 

 弱みを見せたのは失態だが、それはルキアの性格的に、優雅ではないし美しくも無いから許せないというだけだ。別に立てなかろうが走れなかろうが、子供一人を塩の柱に変えることなど造作もない。

 

 心配の言葉と共に、少年が怪しげな小瓶を差し出す。

 軟膏だと言ってはいるが、それを即座に信用できない程度には、内容物は毒々しい緑色だった。

 

 それ以上近付くなと魔術を──流石に悪意が無いことくらいは分かるので、待機させているのは殺傷性の低い閃光魔術だ──照準する。

 

 攻撃の意志と、世界最強の魔術師が放つ魔力はかなりのプレッシャーのはずだが、少年は気付きもせず、何故か森や空をきょろきょろと見回して──警戒している。

 なんだこいつ。ルキアの内心を端的に表すのなら、そんな感じだった。敵意よりマシだが信用には至らない、呆れが多分に含まれた関心。

 

 それは少年が見るからに不味そうな軟膏を舐め、案の定顔を激しく顰めたことで強固になった。

 

 

 軟膏は受け取ることにしたが、生憎と、応急処置の心得など無い。

 怪我をしたことが無いとまでは言わないが、両手の指で数えられるはずだ。その全部が屋敷の中か、庭でのこと。すぐに侍女や主治医が駆け付け、処置してくれた。捻挫など、たぶん生まれて初めてだった。

 

 包帯の巻き方すら分からず呆然としていると、例の少年が代わりにやってくれた。

 足を触られるのに多少の抵抗はあるが、ルキアに対して何の感情も抱いていないような少年相手だ。頑なに拒否するのはルキアだけが意識しているようで癪だった。かといって、わざとスカートを翻したりとか、はしたない挑発はしないが。

 

 処置が終わり、思った以上の手際に感心する。

 礼を言って──さて。怪しげな少年は怪しげな小瓶を差し出す少年を経て、年齢以上の治療技術を持つ謎の少年になったわけだが。殺したら不味いだろうか。

 

 衛士団と騎士団総出で追い回されても撃退できる、盤面を返せる強者に特有の──敵を殺し慣れた者に特有の思考が鎌首をもたげる。

 数秒の迷いを経て、それはゴシックではない──美しくないという結論を下す。

 

 ルキアの視線をどう勘違いしたのか、少年は唐突に自己紹介を始めた。礼儀として名乗りを返すと、少年は驚いたように姿勢を正す。

 まぁ、そうだろう。容姿はそこまで広まっていないが、『明けの明星』ルキア・フォン・サークリスの名は大陸全土に轟いている。左目を注視すれば、世界最強の証が輝いていることだろう。

 

 そんな予想はしかし、フィリップの一礼によって覆される。

 

 「貴族様でしたか。そうとは知らず、ご無礼をお許しください」

 

 整った礼儀だ。流石に社交界レベルとまでは行かないが、王都の店でも十分に通用する域だろう。だからこそ、その知識の浅さが噛み合わない。

 先代の死去以来、唯一神が後継を認めていない闇属性以外の聖痕者5名の名前は、少し本を読めば出てくるはずだ。魔力制限の腕輪は見習い魔術師の証だし、全くの素人ということもあるまい。

 

 モグリか? 立ち消えたはずの不信感が再燃する。

 

 跳んでくる質問に適当に返しつつ、観察する。

 

 武器らしい武器といえば、リュックに結われたマチェットくらいのもの。刃物の射程は投擲しても魔術に大きく劣る。脅威にはならない。

 低級の魔力制限器が壊れていないあたり、魔術の腕も察しが付く。召喚術師の場合は召喚物によって脅威度が大きく変わるが、Aクラス召喚物である天使や悪魔もルキアの敵ではない。前者は唯一神に愛されるルキアに攻撃することは無く、後者は唯一神に敵対するものだ。腕の一振りで塩の柱に変えてしまえる。

 

 その結論に達した時点で、ルキアの心中からフィリップへの興味は完全に消えていた。

 

 

 ◇

 

 

 怖い、と。そう感じたのはいつぶりだっただろう。

 

 腕の一振りで敵対者に雷を降らせ、指の一弾きで悪しき者を塩の柱に変える粛清の魔女。そう呼ばれる頃には、ルキアに天敵などいなかった。王国最強の魔術師である第一王女、ルキアと同じ聖痕者である彼女ですら、ルキアが──最も神に近い魔術を扱うルキアが本気を出せば、拮抗すれど最後には勝てる。そう信じていたし、それが事実だった。

 

 字面通りの意味で、ルキア・フォン・サークリスという魔術師は無敵のはずだった。

 

 悍ましい、うめき声にも似た哄笑が耳に障る。

 精神の根幹を揺さぶるような気配が気に障る。

 少年が体で隠してくれたその姿を見れば、きっと気が触れる。

 

 駄目だ、と。本能的にそう思ったのは、生まれて初めてのことだ。殺そうとして殺せない相手など、今まで一人もいなかったというのに。

 

 クラスメイトが死んでいく。俗物がどうなろうと知ったことでは無いと思っていたが、目の前で狂死されると流石に慄いてしまう。

 

 乱雑に手を引かれ、ただ逃げるために走るのは屈辱でしかなかった。

 優雅でも無ければ美しくも無い。強く在れと定めた生き方に、何も沿えていない。

 

 命と精神の危機に瀕してすら生き様に固執できるのは、彼女の強さの証明だろう。だがそれを自覚し、誇れるほど、彼女は大人では無かった。

 

 何とか逃げ延びて、木のうろに縮こまる。

 火を焚くこともできず、服を土で汚し、息を荒らげ、恐怖に震えて。何という無様か。

 

 自分一人なら、自嘲の笑いでも零すところだ。

 だが、ここには平民が──貴種として守るべき者がいる。これ以上の無様は晒せない。

 

 自分を鼓舞する意味も込めて、使命を再確認する。

 

 「平民を守るのは貴族の務め。私が貴方を守るから」

 

 少年が困惑も露わに見つめ返してくる。

 恐怖はある。気負いも、責任感も、僅かながら絶望だってある。だが、ルキア・フォン・サークリスは最強だ。

 

 「さっきは無様を見せたけど、これでも聖痕者なのよ?」

 

 並ぶ者無き強者、聖痕者として、この無垢な少年くらいは助けなければ。

 

 自身が世界最強であることの告白。流石に少年の態度も変わるかもしれないと、微かな危惧を抱いて。

 

 

 「それは凄い」と、明確な冷笑を突き付けられた。

 

 

 意味が分からなかった。

 視線は合っていたし、左目に輝く聖痕が見えなかった訳ではないだろう。聖痕者を知らないという風情でも無かった。誤魔化そうとしているあたり、間違いない。少年は確実に「聖痕者が何たるか」を知っていながら、それを冷笑した。聖痕者に向ける冷笑はつまり、唯一神に向ける冷笑だ。

 

 不愉快だと、そう少年を切り捨てることは簡単なことのように思える。事実、何の魔術的素養もないフィリップは、ルキアにしてみれば赤子のようなものだ。

 

 ならば、その冷笑の原因は、やはり先程の無様に起因するものか。あの黒山羊の首領、あれに相対したときに見せた無様ゆえ、侮られている?

 そう思ったが、少年の目にあるのは侮りというより、正確な現状認識に基づく諦めに見える。

 

 となると。

 

 「さっきの魔物……あれは何? いえ、そもそもあれは魔物なの?」

 

 あれが本当にルキアでは太刀打ちできない、正真正銘の怪物だという可能性。

 尋ねてみるが、少年は知らないと言う。それが嘘であると、悪意に慣れ真実と虚偽を見分ける眼を得たルキアにはすぐに分かった。

 

 眉根を寄せ、嘘に気付いたことをアピールする。

 

 少年はその露骨な仕草には気付いたようだが、本心を語ることはしなかった。

 何故か。力の片鱗は見せ、最強であることも明かした。それでもなおルキアよりも怪物の強さを信じるだけの、明確な根拠があるということか。

 

 だが、少年の目に絶望は無い。

 

 挙句世界最強に向かって「貴女を守る」などと宣言する始末。何者で、どういうつもりなのか。

 消えた筈の興味が再燃する。もはや、不信感などは消え失せていた。

 

 

 




 おっす、オラ塩の柱って打ったら一定確率で誤変換されて困ってる志生野柱! よろしくな!
 こっちは約6時間、小説1話から2話分の時間をかけて才能が無いことを知るだけに終わり、完成すらしなかったルキアちゃんのイラスト! 供養しておくよ! よろしくな!

 
 
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31

 交代で見張りをしようと言ったのはどちらで、いまはどちらが見張りの番だったか。

 たぶんどちらもフィリップだったと思うが、フィリップはその足音を聞いて()()()()()()

 

 二足歩行の足音が複数、森のそこかしこから聞こえてくる。十中八九、黒山羊にくっついていたカルト連中だろう。

 殺意に近い嫌悪感が鎌首をもたげるが、彼らに見つかれば即、黒山羊──シュブ=ニグラスの落とし子が出てくると考えていいはず。カルト全員と黒山羊を一網打尽にする場合、フィリップが切る手札は自ずと固定される。

 マチェットは論外。パンチ・キックも論外。では残るは領域外魔術だが、これは盤面返しなので最終手段。

 

 ルキアの足は限界だ。走ること自体はともかく逃げ切るのは不可能。戦闘と逃走の二つが無理なら、残る選択肢は隠れ潜むことしかない。

 

 「サークリス様、起きて──」

 

 揺り起こそうと手を伸ばした時、森の中に悲鳴が木霊する。

 女性の声だったが、ルキアはフィリップの前で寝息を立てている。となると、心当たりはもう一人の女生徒しかない。

 

 「ッ!?」

 

 跳び起きたルキアの口を押さえ、静かにとジェスチャーで示す。

 

 ルキアもすぐに足音と気配に気付き、こくこくと頷きを返した。

 

 今回のテスト、おそらく設計者はナイ神父だ。

 フィリップが自分に枷を付けなければ至極簡単になり、逆に枷を付けるほど難易度が上がる。しかも、ほぼ全ての人間を同等に無価値と認識しているフィリップが、殊更に嫌悪するカルトまで絡めてきた。

 この底意地の悪い感じはマザーでは有り得ない。だが、ナイ神父にしては甘すぎる気もする。彼ならば、試験官役にはもっと強力な神話生物を配置しているはずだ。

 

 シュブ=ニグラスの落とし子は個体差が激しい。一星を統べるような個体もいれば、宇宙の塵じみたものもいる。たかだかカルト風情と行動を共にしている時点で、あの個体の程度が知れるというもの。

 

 まあ、その他大勢の神話生物や外神と比べて強い弱いを論じることに意味はない。重要なのは、あれがフィリップが色々と捨てるには十分な相手だということだ。

 

 幸いにして、カルトたちの足音は遠ざかっている。もう一人の子を本拠地なり黒山羊の元へなり連れて行っているのか、或いはフィリップたちを探してなのかは不明だが、とにかく、一難は去ったようだ。

 

 「ふぅ……大丈夫みたいです」

 「えぇ、そうね……」

 

 互いに顔を見合わせ、安堵の息を漏らす。

 気が抜けたのかルキアは微かながら笑顔を浮かべていたが、フィリップの顔は険しいままだ。

 

 テスト用に配置されたオブジェクトの概要は見えてきた。だが、依然としてテストの内容は不明だ。どうなればクリアなのか。まさか盤面返しが正攻法ではないだろう。

 

 「あの魔物とカルト、一体どういう関係なのかしら?」

 

 探るような言葉の先は、フィリップでは無かった。

 聞かせるつもりも無かったであろう独り言に、フィリップは何も返さない。ルキアも何も言わず、黙考の姿勢になる。

 

 それはフィリップにも分からないが、どうすべきかは決まっている。

 

 「カルトは殺します。全員」

 

 肌のひりつく殺意に、ルキアが目を瞠った。

 殺気に慣れていないわけではないだろうが、まさか平凡な少年がこうも深い憎悪を抱くとは思っていなかったのだろう。

 どんな経験をしたのかと興味深そうに見てくるが、話すつもりは無かった。

 

 フィリップが意図した沈黙に耐え切れなくなったわけではないだろうが、ルキアはフィリップの右手を示して言った。

 

 「その腕輪は、どうしたの?」

 「これは……」

 

 二等地の一角を吹き飛ばしました、と打ち明けるべきか。どうせ顔も名前も割れているし、少し調べれば分かることだ。隠す必要もない。

 それに、フィリップもちょうど目が冴えていて、二度寝と言う気分ではない。ルキアの顔を見るに、彼女も同じなのだろう。

 

 「話すと長くなりますよ?」

 「……聞かせて頂戴」

 

 空が白み始めるまで、文字通り語り明かすつもりで始めた話は、いつしかルキアの話に変わり、またフィリップの話に変わり。それを何度か繰り返して、二人が互いのことに少し詳しくなった時には、二人は並んで眠りに落ちていた。

 

 

 ◇

 

 

 

 朝の森というのは、澄んだ空気と林冠から差し込む朝日によって、清涼な目覚めを齎してくれるものだと、何かで読んだ。

 フィリップは思う。「さてはお前、森で寝たことないな」と。

 

 フィリップの経験した森での目覚めは、朝露に濡れ、地面に体温を奪われて寒さに震えながら、周囲にうろつくカルトの気配や黒山羊の蹄音がしないかを警戒するという清涼とは程遠いものだった。

 

 カルトに関しては完全にイレギュラーだし、朝露はもろに気候条件だし、上着を地面に敷くのではなく布団のように被って寝たのはフィリップの知識不足だ。

 責められるべきはどちらかといえばフィリップなのだが、とにかく、フィリップは昔読んだ本の作者に呪詛を送った。

 

 同じような境遇のはずだが、ルキアは平然としていた。

 その差異には野営慣れではなく、その制服が非常に高性能だという要素が大きく影響している。

 

 フィリップと同じく朝露に濡れてはいるが、白いブラウスが透けて下着が見えるといったアクシデントは起こらず、長い銀髪を鬱陶しそうに手櫛で梳くだけだ。

 

 「お、おはようございます。サークリス様」

 「えぇ、おはよう。……凍える寸前みたいだけど、大丈夫?」

 

 こくこくと頷いたのか、ただ筋肉が震えただけなのか、ルキアには判別できなかった。

 

 ぱちりと指を弾き、魔術を行使する。

 林冠から差し込む陽光が微かに揺らぎ、フィリップの周囲がにわかに暖かくなった。

 

 「す、凄い。ありがとうございます」

 

 太陽光の限定的な屈折と、フィリップが炎上しない程度の制御。陽光がスポットライト状にならないように、光から遠赤外線を抽出しているようだ。

 指の一弾きで実行するには高度な魔術だが、光属性の聖痕者にしてみれば朝飯前か。

 

 「どういたしまして。朝食は……無理そうね」

 「いえ、僕が何か探してきますよ」

 

 そう意気込んで森へ繰り出したフィリップだったが、さて、フィリップの聞きかじり野営知識によると。

 

 「蛇が意外と美味しくて、キノコは駄目、なんだっけ」

 

 毒キノコを見分ける眼を持たないフィリップだ。地元の森ゆえ「これは死ぬやつ」くらいの知識はあるが、それ以外はまるで分からない。キノコ類を全て避けるのは勿体ない気もするが、万が一毒性の高いキノコを引いたら終わりだ。致死性でなくとも、幻覚で外神を見たらいろいろと諦めてクトゥグアを呼び出してしまうから。

 幸い、朝の森が冷え込んでいることもあって、蛇の行動はかなり鈍いはず。フィリップにはマチェットもあるし、頭部を切断して捕らえ、持ち帰ることもできるだろう。

 

 残念ながら、地面の小さな穴や根の隙間に隠れて眠る蛇を見つけることは出来なかったが。

 

 じわじわと空腹を感じ始めると、思考が過激な方へ向かう。

 

 「……シェボンって美味しいのかな」

 

 マチェットを弄びながら呟くフィリップは完全に蛮族だが、流石に子供が刃物を持った程度で敵う相手ではない。ジビエなど夢のまた夢だ。

 ちなみにシェボンは山羊の中でも成熟した個体の肉を指すので、正確には仔山羊の肉を意味するカプリットが正しい。

 

 「お腹減ったなぁ……お、キイチゴだ」

 

 何粒か摘んで頬張ると、強い酸味と仄かな甘みが口の中に広がる。栄養の多寡はともかく、空きっ腹に突き刺さるほど美味しかった。

 

 それなりの数をポケットに詰め、他に目ぼしいものが無いかと探す。

 川でもあれば魚や小さなカニでもいそうだが、森の食材といえば、あとは昆虫くらいしか思い浮かばない。野兎やブタといった選択肢はない。罠を作ってのんびり待つわけにもいかないし、火を焚いて調理もできないからだ。

 

 昆虫はウサギやブタよりも栄養価が高いと聞いたことがあるが、フィリップは非人間的なことをしたくないし、ルキアは美しくないことはしたくない。

 生き様に一家言あるという点で、ルキアとフィリップの思考は一致する。二人とも虫を食べようとは思わないはずだ。

 

 体力回復という点において、あまり意味のない朝食になる。

 しかし、美味い飯は精神を癒すことができる。このような状況下では無視できない影響だ。

 

 「戻りました。キイチゴしか見つかりませんでしたけど、朝食にしましょう」

 「ごめんなさい、何も手伝えなくて」

 「足が悪化したのは僕の所為ですから、謝らないでください」

 

 キイチゴをつまみつつ、二人で脱出について考える。

 カルトは夜行性なのか、影も形も見えなかった。しかし、森は変わらず黒山羊のテリトリーだろう。迂闊な行動は即、ルキアの死に繋がる。

 

 昨夜の時点で、救援を呼ぶという案には否決の判が押されている。

 森の中とは言え、閃光弾や狼煙の出所くらいすぐに分かる。救援が来る前にカルトに囲まれ、それをルキアがボコボコにした後、黒山羊に殺される。先ほどの焼き増しにしかならない。それとこれはフィリップの我儘だが、これ以上余人の目に黒山羊やカルトを触れさせたくはなかった。

 

 ルキアが提唱した「姿を隠して森を抜ける」という案は、確かに最善だ。光の屈折を利用した透明化の魔術は見せて貰ったが、素晴らしいものだった。だが残念ながら、フィリップでも分かるほど強大な魔力が漏れている。カルトの魔術師にも察知されるだろう。

 

 フィリップの提唱した「カルトを全員殺し、黒山羊からは逃げる」という案は、フィリップ視点では素晴らしいものだった。残念ながら、逃げ切れる可能性が50%を下回るということで却下されたが。一応、唯一神に頼るのではなく収束した光による熱攻撃など、物理的な攻撃なら通じるかもしれないとは伝えてある。勿論、かもしれないという部分にアクセントを置いて。

 

 となると、ここは。

 

 「魔術無し、自分の隠密技術のみで森を踏破する……」

 「えぇ。それが一番安全だと思うわ」

 

 見つかったら終わりである以上、魔力を察知される可能性のある魔術行使は厳禁。

 フィリップにとっては普段通りで、ルキアにとっては難しい条件だった。

 

 カルトに見つかったら、黒山羊を呼ばれる前に全員殺す。

 黒山羊に見つかったら取り敢えず攻撃してみて、無理そうなら逃げる。

 

 大切なのはこの二つだ。

 

 認識を一つに、頷き合って木のうろを出て──「ア゛ア゛ア゛ア゛」と、聞き覚えのある哄笑が聞こえた。

 

 「見つけたぞ。愛しき母の芳香を漂わす子よ

 

 フィリップが腕輪を外すより、ルキアが魔術を行使するより早く、極太の触手が振るわれる。

 強かに二人の胴体を打ち付け、10メートルは離れた木まで吹き飛ばす。隠れ場所から一歩も逃げることなく、二人の意識は暗転した。

 

 



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32

 この日二度目の目覚めは、一度目のものより何倍も不快だった。

 

 全身が軋みを上げて痛む。どこも折れてはいないようだが、激しく打ち据えられた打撲痕と内出血は酷いだろう。

 耳障りな哄笑と、ゴキブリのように這い回るカルトの気配が神経を逆撫でする。

 

 手は見覚えのある枷で縛られており、一切の魔力操作が封じられている。こうなる前にカルトを森ごと焼き払っておけばと思うも虚しい。

 

 胴体は木に縛られており、座った姿勢から立ち上がることもできない。

 本格的な詰みの気配を感じつつ、ルキアを探す。

 

 周囲を見回すが、地面に魔法陣を描いたり、祭壇を準備しているカルトの群れしか見えない。あとは木に磔られた、いつ死んだのかも分からないオブジェのような死体が幾つか。頼むから死んでいてくれるなと、当てもなく祈る。

 誰が願いを聞き届けたのかは不明だが、ルキアはすぐ近くにいた。

 

 フィリップの動きを感じ取り、同じ木の反対側に縛られていたルキアが囁く。

 

 「フィリップ、無事ね?」

 「……はい」

 

 囁き返すと、安堵の空気が伝わってくる。

 何とか二人とも無事なようだが、ここからどうすべきか。

 

 フィリップの中ではカルトの鏖殺は決定事項となりつつあるが、それはルキアの精神衛生や身の安全には優先されない。

 ここでギブアップしてヨグ=ソトースに頼るというのはナシだ。ここは逃げ、その後、マザーなりに頼んで森を制圧する。他力本願と笑うがいい。召喚術とはそういうものだし、クトゥグアやヤマンソより幾らかマシなはずだ。たぶん、きっと、おそらく。……マシだと嬉しい。

 

 「どこか痛む?」

 

 フィリップが諦観交じりに瞳をどろどろに濁らせていると、ルキアが心配して声を掛ける。慌てて取り繕い、フィリップはルキアに心配を返した。

 

 「サークリス様こそ、ご無事ですか?」

 「えぇ、大丈夫よ。ありがとう」

 

 おや? と。フィリップは首を傾げる。

 今までのルキアの対応はどちらかと言えば無感動で、社交辞令的な印象が強かった。だが今は、どうにも返答に感情というか、熱がこもっているように感じる。

 

 だが、悪い方向への変化ではないし、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 

 「サークリス様、魔術は使えますか?」

 

 言ってから、ルキアもフィリップと同じ状態ではないのかと気付く。

 期待薄になった質問にしかし、ルキアは肯定を返した。

 

 「えぇ。ただ、枷を壊すのに一瞬かかるわ」

 

 感嘆の口笛を吹き──そのあまりに迂闊な行動に、我が事ながら愕然とする。

 そもそもあまり品のいい行為ではないし、目上の人にやるべき行為でもない。普段のフィリップなら普通に自制していたであろう行動だった。

 

 幸いにもカルトも黒山羊も気づいていないようだが、あまりに馬鹿すぎる。

 

 微かに回転の鈍い頭で考えて、ふと思い当たるものがある。

 

 酒か?

 

 昔、宿の仕事を手伝っていたとき。客が美味そうに飲んでいた酒に興味を持って、コップ一杯ほど呑んでみたことがある。その時に感じた酩酊感は、いまの状態によく似ていた。

 まさか捕虜に酒を飲ませる訳もないので、単に酩酊効果のある薬か何かだろうと察する。

 

 魔力を制限する手枷に、木への拘束。ついでに酩酊剤。

 結構な念の入れようだが、幸い、フィリップもルキアも泥酔には至らないし、ルキアに至っては制限装置のキャパシティが魔力量に追いついていない。

 

 何とかなりそうか? フィリップが脱出の具体案を考え始めたとき、二人の方に一人のカルト信者が近付いてくる。

 

 「お目覚めですか。母の愛し子よ」

 

 慇懃な口調で、彼はフードを取って深々と頭を下げた。

 フィリップへ向ける視線には確かな敬意が宿っており、その態度が上辺だけのものではないと理解できる。

 

 一瞬だけ脳裏を過った「外神の化身か」という推察は、すぐに違うと自答できる。

 外神は確かにフィリップを守ろうとするが、それは最大神格の命によるものだ。フィリップへの敬意など一片も持ち合わせていない。

 

 神威とでもいうべき暴力的な存在感も無く、嫌悪感も無い。完全にただの人間に見えた。

 

 「こうして相対すると、確かに分かります。貴方の宿す、その叡智が」

 

 男は裂けるような笑顔を浮かべ、フィリップの頭部へ手を伸ばす。

 触られる前に払いのけるつもりだったが、彼ははっと気づいたように手を引っ込め、頭を下げた。

 

 「失礼いたしました。自己紹介もせず。……私はアルト・ハイマンという男の身体を間借りしている、ある種族のネゴシエーターです」

 

 身体を間借りするという異常なワードに、フィリップは寄生虫を想起する。

 その嫌悪感が視線に乗ったのか、男は苦笑を浮かべて早口に弁解を始めた。

 

 「お断りしておきますが、勿論、合意の上で、ですよ? 彼には我々に知識を提供して頂き、我らもまた彼に知識を提供しているのです。智慧の集積地、我らが大図書館へのアクセス権を与える代わりに、蔵書と智慧の寄贈を求めたまでのこと。彼も合意して、今は快適な執筆作業の最中です」

 

 断片的に会話を漏れ聞いていたルキアが「殺す?」と囁くが、フィリップは否定を返す。

 この男、肉体的には人間だが、智慧がある。おそらく、対魔術防護くらいの用意はしているだろう。

 

 「まぁ、それはさておき。我々は貴方にも是非、智慧の供出をお願いしたいのです。対価は望まれるものをご用意いたしますので」

 

 その一連の主張。フィリップは──()()()()()()()()()()()()

 

 フィリップに智慧を与えたのはマザー──シュブ=ニグラスだ。その智慧によって、フィリップは外神の視座と価値観を理解している。

 同じ陣営ながら潜在的な敵でもある外なる神を知っている。かつて産み落とし、そして全宇宙を巻き込んだ大戦争を交えた旧支配者を知っている。ともすれば旧支配者の喉笛を食い千切るかもしれない、優秀な奉仕種族を知っている。

 

 だが、そこまでだ。

 

 人間ごときが持つ智慧を求める矮小な種族や、人間の脳を研究する意味不明な種族のことなど、シュブ=ニグラスは一切認知していない。

 たとえ彼らがシュブ=ニグラスの信奉者であろうと、幾度となく生贄を捧げる儀式を行い、戯れに化身を召喚させることがあっても、その記憶や目に留まらない。

 

 フィリップに与えた智慧の中に無価値なものは無い。逆に言えば、外神の視座から見たあらゆる無価値なものについて、フィリップは知らない。

 

 故に、なんだこいつ、と。

 フィリップはただの狂人を見る目で、無価値なものを見る目で、男を睥睨する。

 

 視線を受け、彼は困ったように笑った。

 

 「信用できないのは承知の上ですが、このままだと、我らが母への供物にされてしまいますよ?」

 

 すっと半身を切り、祭壇とその奥にいる黒山羊を示す。

 

 我らが母──シュブ=ニグラスの召喚儀式か。

 テストの失敗条件はマザーの降臨? いや、そもそも──これは、本当にナイ神父の用意したテストなのか?

 

 ナイ神父がテストを作るのなら、そんな甘っちょろい終了条件を設定するはずがない。アレはもっと面倒で、残酷なテーマを用意するはずだ。

 となると、仮説の大半が棄却され、新たな仮説が立つ。

 

 仮説1。出てくるのはマザーじゃない別の邪神。ナイ神父の性格を加味するのなら、フィリップに敵対的な神格?

 棄却だ。ヨグ=ソトースに匹敵する邪神が存在しない以上、何が出てきても本質的には無意味。あくまでフィリップが自力で対処できる範囲で、かつ適度にいろいろと捨てさせる強さでないといけない。

 

 仮説2。……実はテストでも何でもない、ただそこにいたカルトと黒山羊。

 棄却──できない。

 

 カルトの演説は続く。

 とはいえ、と、それだけが選択肢ではないことを強調する。

 

 「今宵は新月。そして母の寵愛を受ける貴方と言う供物。我らが神をお呼びするのに、これ以上の条件はありませんから」

 

 母の寵愛というワードが出る辺り、フィリップの特異性には気付いているはず。だが一部だけだろう。まさか最大神格の寵愛すら受けているとは思うまい。

 単なる人間にシュブ=ニグラスの知識があるとは思えないが、それは今はどうでもいい。カルトはどうせ皆殺しだ。

 

 「貴方の智慧が無為に失われるのは、私としても許し難いのです。そこで、貴方の精神だけでもこの場から逃がし、しかる後に適当な肉体に戻すという方法にはなりますが、助けて差し上げようかと」

 

 自信満々にそう言って、男は握手を求めるように片手を差し出す。

 

 狂人の戯言に時間と思考を費やす余裕はない。失せろと吐き捨てると、彼は驚愕に目を瞠り、そして歓喜に身を震わせた。

 

 「おお、おお! クロガサテングダケの服従作用に抵抗するとは! やはり母の寵愛を、シュブ=ニグラスの乳を口にしたのですね!」

 

 ──は?

 

 全ての思考が吹き飛ぶ。

 脳が全力で記憶の走査を開始し、智慧とすり合わせ、フィリップが未だフィリップであることを確かめようとするが、間に合わない。

 

 「であるならば、貴方の意志と、そして我らの悲願を尊重するとしましょう。儀式の時まで暫し、そちらのレディと共にお休みください。《スリープ・ミスト》」

 

 昏睡作用の霧を吹きかけられ、意識が途絶える。

 

 引き延ばされた時間の中で、男が確かにシュブ=ニグラスの名を口にしたことを含め、これまでに蓄積してきた様々な要素が絡み合い、一つの結論を導き出す。

 

 

 これは──テストでも何でもない。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 結論から言って、フィリップの推察は正しい。

 今回の一件に外神たちの意図は一切──傍観を選択したナイ神父のそれは除いて──絡んでいない。

 

 マザーは今も王都で退屈そうに留守番をしているし、ナイ神父も森の環境には一切手を加えていない。副王に至っては、血の薄い矮小な落とし子のことなど気にも留めていない。

 

 騒動の中心はフィリップではなく、あくまで黒山羊だ。

 

 何百年か前に辺境の惑星に漂着し、そんな田舎の覇者にすらなれなかった落とし子の恥晒し。外神たちにしてみれば目に留める方が難しい劣等存在に、現地のカルトは崇拝の念を向けた。

 落とし子は崇拝の返礼として、自分の知る限りの母なる神の情報を与えた。そして、カルトは何代もの代替わりを経て、遂にシュブ=ニグラスを信奉する狂信者の集まりとなった。

 

 黒山羊は己の子孫、魔術や物理攻撃に耐性を持つ仔山羊たちを従え、カルトを従え、ただひたすらに準備を進めてきた。

 

 才ある魔術師を捕らえ、血肉を植え付けて疑似的に孕ませ、より強大な魔術師を産ませる。そうして自分の勢力を強化し、遂に母なる神を喚ぶ儀式を実行できるまでに至ったのだ。

 

 その最終段階で、最高位の魔術師を捕らえた。だが、それはおまけだ。

 懐かしき母の匂いを纏う、寵愛を受けた幼子。

 

 未だ汚れのない、如何にも生贄向きの少年だ。

 

 喰ってしまいたい衝動と、犯してしまいたい衝動を押さえる。母への供物に傷や汚れがついてはいけない。

 物欲しそうな配下のカルトにはあとで女の方を与えると言ってあしらい、儀式の準備を進めさせる。

 

 母を呼び、その乳を頂く。

 乳というと赤子に与えるものという印象があるが、本質的には血液だ。

 血と肉を頂き、我らは存在の階梯を一つ、いや数段飛ばしで昇るのだ。

 

 「お父様、儀式の用意はまもなく整います。また、新月はあと2時間で頂上に至ります」

 

 配下の報告に鷹揚に頷き、例の少年を見る。

 

 暴れでもしていたのか、配下の一人が睡眠魔術を行使し、眠らせるところだった。

 傷付けぬようにという命令を守っている配下に満足し、無数の目を閉じる。

 

 漸くだ。

 漸く悲願が──母との再会が叶う。

 

 

 



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33

 調子の外れた太鼓に合わせて、耳障りな合唱が始まる。

 ここではないどこかに向けた賛歌は、ルキアの知らない邪神への捧げものだ。

 

 穢れなき少年。穢れなき乙女。

 生贄にはもってこいの人間が二人もいて、カルトの興奮は最高潮らしい。

 

 漏れ聞こえる言葉から、新月が頂点に来るのを今か今かと待っているのが分かる。それ以外にも、彼らがフィリップを邪神に捧げ、その智慧を授かろうとしていることも。

 

 ぎちり、と、食い縛った奥歯が音を立てる。

 カルトたちは二人とも魔術で昏倒していると思っているだろうが、あの程度の魔術強度では、あと50回撃ち込んでもルキアの耐性を貫くことはない。

 

 いまこの場で、不愉快極まるカルトを皆殺しにするのは簡単なことだ。だが、それはフィリップに禁じられている。

 

 そう。()()()()()()()()()()()

 

 確かに、火力という概念からかけ離れた、ほぼ無条件で相手を塩の柱に変える超級の魔術は無効化された。だが逆に、ルキアの持つ最高火力は未だ試していないし、物理的な火力攻撃であれば通じるかもしれないとも言っていた。

 ならば、カルトを鏖殺し、あの異形を数分でも足止めすれば、フィリップだけでも逃げられるかもしれない。

 

 普段のルキアならフィリップの制止など無視していただろう。

 弱者の救済が強者の義務などと嘯くつもりはない。ただ単に、カルトの生贄になって死ぬより、()()を助けて死ぬ方が美しいからだ。

 

 醜く死にたくないのではない。一瞬たりとも無様に生きたくないのだ。群れることなく美しく優雅(ゴシック)であれ。自分で定めた、自分に定めた生き様だ。

 

 普段なら、ちょっと止められたくらいで止まることは無い。

 普段通りでない思考と行動は、フィリップが盛られたのと同じクロガサテングダケの毒によるものだ。錬金術の素材や死霊術などの黒魔術に分類される邪法に使われる猛毒のキノコだが、その毒からは強力な服従作用のある麻薬が造られる。酩酊感や幸福感をもたらす神経を刺激し、命令に従うことが幸福であるように錯覚させるのだ。

 

 フィリップの言葉に従いたい。命令して欲しい。それこそが幸福であるから。

 同じ木の反対側に縛られ、眠りこけた少年を想起する。声が聞きたい。顔を見たい。何でもいいから、その存在を感じたい。

 

 強烈な酩酊感と多幸感の中で、冷静な部分が疑問を提起する。

 

 何故、()()()()()()()()そう感じるのだろう?

 元々持っていたカルトへの嫌悪感と、フィリップから感じる殺意にも近い憎悪は混ざりあい、今やルキアも殺意を持っている。それがもうおかしいのだ。

 あらゆる人物のあらゆる命令に従わせるのが、クロガサテングダケの毒ではないのか?

 

 ルキアの中途半端なトランス状態は、クロガサテングダケの毒が魔術的手法によって精製されたことに原因の一端がある。魔術毒となったそれは、世界最高の魔術師であるルキアの魔術耐性に阻まれ、ただの酩酊剤程度の効果しか齎さないはずだった。

 

 もう一つの原因は、黒山羊の本性、シュブ=ニグラスの落とし子の真の姿を直視し、カルトに拉致されるという状況にある。強烈な精神的ショックは正気度を喪失させ、ルキアを他者依存状態へ陥らせている。

 

 最後の、そして最大の要因は、ルキア本人の性質にある。

 美しく、孤高に、気品を忘れず優雅に。ゴシックと呼ばれるそれは、ルキアが後天的に、自分の意思で定めた性質、生き様だ。

 

 その他にもう一つ、彼女はある性質を生まれ持っていた。

 自己愛、自分の価値観への絶対的信頼、盲目的愛情と服従。ゴシックと究極的に相性が良い、ロリータと呼ばれる性質だ。

 

 この極限状態が生来の気質を励起したのか、或いは薬物の影響かは不明だが、とにかく、ルキア自身すら自覚していなかったルキアの本質が表出した結果、限定的な服従状態というフィリップにとって都合のいい状態になっていた。尤も、ルキアの独走という最悪の中の最悪が避けられただけで、地獄には変わりないのだが。

 

 カルトたちの歌声と演奏が変化する。

 空を仰いでも月は見えないが、おそらく、もうじき新月が頂上に来るのだろう。

 

 フィリップが起き出す気配を感じて、ルキアはそっと目を閉じる。

 その一挙手一投足、発言の一つをも聞き逃さないように。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 目覚めたフィリップの前にいたのは、例の自称ネゴシエーターの男だった。

 憐れみを込めた目で見つめられ、嫌悪感が倍増する。

 

 「儀式の用意が整いつつあります。智慧持つ少年よ。これが最後通牒であり、最終勧告でもあります。どうか、その智慧を無為に散らさないで頂きたい」

 「……聞きたいことがあります」

 

 狂人の戯言を丸ごと無視して、フィリップはそう訊ね返す。

 男は不快感を覚えた様子もなく、どうぞ、と先を促した。

 

 「ですが、時間はそう多くありませんよ?」

 「聞きたいことは一つだけです。僕がシュブ=ニグラスの乳を口にしたというのは、どういうことです?」

 

 シュブ=ニグラスの乳、あるいは血肉。

 口にしたものに大いなる力を与える代わりに、身体を変質させる劇毒。大概の場合において、身体能力の向上や魔術的能力の獲得などの効果を示す。

 フィリップにとって重要なのは、その恩恵ではなく「身体を変質させる」という部分だ。

 

 フィリップはまだ人間か? 矮小で、脆弱で、吹けば飛ぶような無価値な存在のままか?

 

 もしも無価値と見下す人間の範疇を外れ、ただ大いなる視座と人外の肉体を持つモノになってしまえば──人の精神と人の肉体、その双方を失って、それはまだヒトと呼べるのか?

 

 これはフィリップの存在にかかわる至上命題だ。

 殺してでも聞き出す。ナイ神父が以前悪魔に使った、死体を生き続けさせる外法。あれを使ってでもだ。

 

 「おや、心当たりが無いと?」

 「えぇ。そんな汚泥にも劣るものを口にした覚えはありませんね」

 

 ふむ、と、顎に手を当てて考え込み、数秒の後に指を弾く。

 

 「では、祝福を受けたのでは? 以前に大いなる母に拝謁したことは?」

 

 前に一度会いませんでしたか? みたいな聞き方をされても困る。なんせ近所の教会にいるのだ。積極的に会おうとは思わないが、会おうと思えばいつでも会えるし、何なら向こうから会いに来る。

 

 「額に手を当てられたとか、口づけを賜ったとか、何かありませんか?」

 

 知識欲に目を輝かせて、男が尋ねる。

 そんなことを言われても、その程度なら日常茶飯事だ。会った日には必ず何かしらのスキンシップがあるし、そんなのを一々数えていられない。

 

 寵愛にも祝福にも山ほど心当たりはあるし今更どうでもいいが、肉体の変質だけは駄目だ。

 

 この脆弱で矮小で何もできないと言っても過言ではない無価値な身体は、フィリップが人間であり続けるための重要な、最後の砦なのだ。この身体が弱いからこそ、人間であるからこそ、フィリップは無価値なヒトに寄り添い、人間と人間社会を守ろうと思えるのだから。

 

 「いえ、ね? 私も確たる証拠があって申し上げたワケではないのです。ですが、貴方の漂わせるその香り。星と月の香りは、上位者の祝福を受けた者に特有のもの。特に、あの黒い仔山羊が反応したということは」

 

 母なる神の祝福に相違ないかと。そう考察を語った男は、なるほど、確かに智慧があるらしい。少なくとも単なる狂人ではなく、智慧を得た果てに狂った、探求者のなれの果てだ。

 

 「仮に、祝福を受けたと言ったら、丁重にもてなしてくれたりするんですか?」

 「ははは。我々は既に、貴方が祝福を受けている前提で行動していますよ」

 

 祝福を受けているから──母なる神にとって特別な存在であるから、それを捧げて見返りを貰おうと。そういうことか。

 

 「なるほど。じゃあ、彼女は逃がしても問題ないでしょう?」

 「あぁ、いえ。彼女にはその子宮に需要がありますので」

 

 木の裏側でびくりと震えた気配を感じる。

 犯されるか、切り分けられるか。部位を指定した時点で、碌な目に遭わないのは目に見えている。

 

 「君の精神だけであれば、私が助けて差し上げられますが?」

 

 無言で中指を立て、返答の代わりとする。

 

 「……そうですか。では、君を捧げ、母なる神より智慧を賜ることにしましょう」

 

 フィリップを縛る縄が解かれ、担ぎ上げられる。

 睡眠魔術の余韻と酩酊感をもたらす麻薬の影響で、フィリップは半ば全身麻痺に陥っており、抵抗らしい抵抗が出来ない。

 

 どうせ、シュブ=ニグラスを召喚した時点で決着だ。彼らは鏖殺され、フィリップは悠々と、或いは鬱々と、マザーに手を引かれて森を出るだけのこと。抵抗しようと服従しようと、訪れる結果は変わらない。

 だが、頭の片隅に何かが引っかかる。意識の有無に関わらず、彼らの全滅は決定事項だ。だが、絶対に意識を残しておかなければならない理由があったはずだ。マザーを止めなければならない理由があったはずだ。守らなければならない人が、いたはずだ。

 

 寝惚けて、酔っている場合ではない。

 この場にはフィリップが助けなければならない相手が、まだ一人残っている。()()()()()()()()()()()()時点で、ナイ神父の関与を棄却するべきだったのだが、後の祭りだ。

 

 もしナイ神父が彼らをフィリップに宛がう枷として用意したのなら、黒山羊には「殺さないように」と命令、或いは調教していたはずだ。その方がフィリップが背負うモノは多くなり、つまり捨てるモノも多くなる。

 

 「──『粛清の光』!」

 

 確固たる意志を感じさせる声が、反省にかまけて意識を手放しそうになっていたフィリップの頬を張る。

 

 夜天を裂き、一条の光が森を穿つ。

 禍々しさが一切感じられない現代魔術。中でも光属性のほぼ最高位に位置する、邪悪なるものを問答無用で塩の柱に変える神の審判。

 

 カルトの群れをなぞるように軌道を描き、カルトたちが断末魔を漏らすことも無く塩の柱に変わる。

 

 邪悪か神聖かでいうと邪悪寄りのフィリップだが、幸い、フィリップは照準対象ではないらしい。

 

 詠唱者に目を向け、瞠目する。

 

 赤い瞳に燃え上がる、強靭な守護の意志が伝わる。

 全身から吹き上がるようなプレッシャーは、最高位魔術の行使を経てなお余った余剰魔力によるものか。精神力や生きる意志とも呼ばれる魔力は、時に余人の心を強烈に震わせる。

 

 だが無価値だと、破綻しつつある価値観が評定を下す。

 そして、彼らと同じだと、人間性の輝きを焼き付けられた記憶が喝采する。

 

 素晴らしい。美しい。

 

 「その子を放しなさい」

 

 淡々と、ルキアが宣告する。

 振り切れた殺意が見掛け上の冷静さを齎しているのか、怜悧な美貌は怒りや憎悪で歪んでおらず、状況も相俟って神聖さすら感じさせた。

 

 あぁ、いや、神に認められた聖痕者──聖人なのだったか。

 

 かつて堕落都市ソドムを町ごと焼き払った、神の僕たる天使の中でも最高位、熾天使の所業として語られる、罪人の粛清。

 フィリップを抱えていた狂人、今や唯一残ったカルトが警戒も露わにフィリップを放す。どさりと乱雑に地面に落とされ、痛みに呻く。

 

 「……」

 

 じりじりと後退っていたカルトが、ふと弾かれたように踵を返し、走り出す。

 ルキアはそれを追わない。いや、追えない。

 

 その身を挺して天を裂く光から祭壇を守っていた黒山羊が再起動し、ルキアに襲い掛かる。極太の触手による一撃は、ルキアの展開した魔力障壁によって辛うじて防がれた。

 

 「ッ!」

 

 コンマ数秒遅れていたら、ルキアは血煙と肉骨粉として森の栄養になっていた。

 ルキアは光属性最強の魔術師だが、その性質は極めて攻撃に特化している。貴族の嗜みとして剣術などの武術を修め、相手の攻撃を見切る目を養ってはいるが、相手は人間の速度をぶっちぎる怪物だ。嗜み程度ではどうにもならない。衛士レベルの才と研鑽があれば危なげなく対処できるのだろうが、純魔術型といっていいルキアでは高望みだ。

 

 「逃げて、フィリップ! 時間は稼ぐから!」

 

 折れかけといっていい足をさらに酷使し、ルキアは最早走ることもままならない。

 隙を作れても、フィリップと共に逃げるのは不可能だった。自己犠牲的な判断に、天上の唯一神は何を思うのか。喝采するか? いや、きっと、真実は格言にもある通り。

 

 神は天にいまし、すべて世は事もなし。──この過酷な現状すら、神の描いた運命の通りなのだ。

 

 ならば。

 そんな神は、地に堕ちてしまえばいい。フィリップの死が神の定めた運命であろうと関係ない。()()()()

 

 「《明けの明星》ッ!」

 

 どくん、と。右目が疼くのを意識から外し、ルキアの持つ最高火力を展開する。

 

 周囲から光が消え、闇の帳が降りる。いや、光は消えたわけではなく、ルキアの掌の上へと収束していた。ルキアの周囲一帯に存在する全ての光を凝縮させた親指の爪ほどの大きさの光弾は、人間では計測すらできない超高エネルギーの塊だ。

 

 光の質量はゼロ。故に音もなく、余波も無く、大気を裂くことも無く、それはただ静かに射出された。

 

 地球の重力程度であれば容易く振り切るだけのエネルギーを持つ光弾は、魔術の効果が切れるまでの約二秒間、直線状に存在する物体を貫通して突き進む槍だ。やがて宇宙空間で拡散するまで、射線上にあるものはたとえ星でも貫き通す。

 黒山羊を貫き、森を貫き、光弾が街を貫く前に世界に呑まれて消える。

 

 光ゆえの回避不可。性質故の防御不能。

 粛清の光を最強の範囲攻撃魔術だとすれば、明けの明星は最強の単体攻撃魔術。

 

 周囲に光が戻った時、黒山羊と森は凄惨な状態だった。

 

 小さな光球が起点とは思えない、フィリップが二人は入るサイズの破壊痕。光が通過した後に、そのエネルギーが破壊に変換されたことによるものだ。

 

 傷口を沸騰したようにぼこぼこと泡立たせ、腐臭を漂わせる黒山羊と、くりぬかれたように綺麗な断面を覗かせる森。正反対ではあるが、その破壊は同一射線上に存在し、同じ一撃で死に貫かれたことが窺えた。

 

 

 



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34

 痛みを味わったのは、本当に久方ぶりのことだった。

 数百年前にこの星に漂着した時の、大気圏外から地表への落下。宇宙空間という死の世界での漂流と、断熱圧縮による炎上、硬い岩盤との衝突。

 死ぬ寸前まで行った。身体の半分が死滅し、残る半分を自切し、そこから再生させた。様子を見に来た現地の神々と一戦交え、辺境の森へと逃げ延びた。あの時と同等の苦痛だった。

 

 だが、まだ生きている。

 まだ、母を呼ぶ悲願を達していない。まだ死ぬわけにはいかない。まだ、まだ!

 

 身体の再生が遅い。かつて唯一神を名乗る蛆虫に負わされた傷と同質のものか。

 体組織の約4割が抉り取られ、1割ほどしか再生していない。あの魔術、連射は利くのか? だとしたら不味い。だが、時間を稼ぎさえすれば──!!

 

 人質に取ろうとフィリップに触手を伸ばし──光が消え、次の瞬間には腕が吹き飛んでいる。

 

 無数にある触手の一本が切断されたところで、大した痛痒を感じない。だが、あの魔術、まさか連射ができるのか。

 

 終わる? そんな懸念が頭を過る。

 数百年をかけて準備した、存在の階梯を上がり、母に認めて頂く、そのための計画が。母の寵愛を受ける絶好の贄を手に入れ、最高の状態で儀式へ臨むはずだったのに。たかが苗床程度の価値しかないヒトの女風情に、計画が壊される?

 

 許容できない。

 そんなことがあってたまるものか──!!

 

 「ッ!?」

 「──!!」

 

 怒号を上げようとした黒山羊が静止する。思った以上に強力な魔術に舌を巻いていたフィリップが静止する。手応えを感じ、殺意を研ぎ澄ませていたルキアが静止する。

 

 虫の鳴き声が、鳥の囀りが、木々の騒めきが、黒山羊の気配によって沈黙していた全ての生あるモノたちが、いまこの時を祝福していた。

 

 黒山羊が天を仰ぐ。

 頂点に浮かぶ新月が、悲願達成の時を告げていた。 

 

 今だ、と、そう思ったのはフィリップか、黒山羊か。ルキアではないだろうが、この場の全員が意図していたのが時間稼ぎだというのは、中々に面白いことだった。 

 

 ルキアはフィリップを逃がすため。

 

 フィリップと黒山羊は意を同じく、ただこの時を待っていた。

 

 「母よ、我が貢物をお受け取りください

 

 黒山羊の触手が蠢き、フィリップを指向する。数秒遅れで放心状態から復帰したルキアが慌てて魔術を準備するが、遅い。

 

 「母なる神を讃えよ。《ドミネイト》

 「ッ!?」

 

 酩酊感と昏睡の余韻による麻痺が抜けず、地面に横たわっていたフィリップの身体がびくりと跳ねる。

 以前に地下祭祀場で味わったものと同質の、しかし何倍も強烈な、身体に鎖が巻き付くような感覚がある。支配魔術に特有の感覚なのだろうが、行使した者の魔力量が段違いだからか、あるいはその存在ゆえか、不快感が大きい。

 

 「フィリップ!? 待ってて、今──ッ!?」

 

 解呪しようとしたルキアへ触手が振られ、行動がキャンセルされる。辛うじてガードに成功し、触手を《明けの明星》によって千切り飛ばしてはいるが、流石に同時並行で支配魔術を解除することは出来ないらしい。

 いくら当代最強の魔術師とはいえ、やはり人間。所詮はその程度かと、先ほどまでの焦りを忘れて嘲りの声を漏らす。

 

 毒が効いているのか、ほとんど抵抗も無く支配魔術に身を任せているフィリップが口を開いたのを見て、黒山羊の興奮は最高潮に達した。

 

 「いあ──」

 

 フィリップが唱えるのに合わせ、黒山羊自身もその名を呼び讃える。

 

 「Shub-Niggurath

 

 みしり、と、世界が軋んだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 思ったより不味い、と、フィリップは横たわったまま顔を引き攣らせた。

 

 外なる神の「外なる」が示すのは、この宇宙の外だ。外神はこの宇宙の外側にその本体を置き、化身を用いてこちら側、宇宙の内側に干渉している。ナイ神父はナイアーラトテップの化身だし、マザーはシュブ=ニグラスの化身だ。その真の姿は極めて冒涜的で名状し難く、人はたとえ視界に収めずとも、同じ空間にいるだけで精神に甚大なダメージを負う。

 

 だが、人のいない星や宇宙空間ですら、彼らは化身を象り、決して真体を現さない。

 その理由は単純で、彼らは宇宙空間に──三次元空間には収まらないからだ。

 

 無理に顕現しようとすれば、この通り。世界が軋みを上げ、壊れることになる。

 黒山羊の歓喜の声が五月蠅い。というか、山羊ならせめてメーメー鳴け。そんなしょうもないことを考えてしまうほど、現状は芳しくない。

 

 フィリップの想定では、ここでマザーを呼んで黒山羊を(マザーが)ブチ殺し、ルキアとマザーと三人仲良くおてて繋いで森をおさんぽしておうちへ帰るはずだった。あとは騎士団なり衛士団なりにカルトの存在を告げ、フィリップの腕輪を解いてもらい、副王にヤマンソが出てきた場合の処理を頼み。満を持して、この森からカルトの肉の一片、骨の一かけらすら残さず熱消毒する。

 故郷も掃除して、恨みも晴らして、すっきりした気分で魔術学院へ行く……はずだったのだが。

 

 「どうして……」

 

 みしり、みしり、世界が軋む。

 ヨグ=ソトースが慌てて世界の構造を強化し、シュブ=ニグラスを追放しようと焦っているのが目に浮かぶようだ。

 

 フィリップは普通にヒトの姿を象った状態で招来されると思っていたのだが、どうにもおかしい。まぁ最悪、千の仔孕みし森の黒山羊と称される化身、見るだけで精神がぐちゃぐちゃに崩れるような悍ましい姿で来るかもな、くらいの懸念はしていたが、これはそれ以上だ。

 

 というか、何をどうやったら外神の真体を引き出せるのか聞きたいくらいだ。大昔、それこそ唯一神が存在する以前に起こった、旧神対旧支配者対外神の大戦争。あの時でさえ、彼ら外神は化身を用いて戦争に臨み、旧支配者も旧神も纏めて冷笑するだけの戦力差があった。

 

 「どうして……」

 

 それが何故、たかが落とし子一匹、それもこんな辺境の惑星の覇者にすらなれないような劣等個体を相手に、真体を引っ提げてきているんだ?

 

 ヨグ=ソトースとシュブ=ニグラス。二柱の間には隔絶した力の差がある。正面衝突したとしても、難なくヨグ=ソトースが勝つだろう。

 ただ、いま彼はリソースの大半を世界の保護に割いている。世界が崩れず、フィリップとその守る対象が傷付かないように細心の注意を払い、そのうえシュブ=ニグラスの存在の一欠片すらこの宇宙に入れさせないように押しとどめている。いくら何でも不利だった。

 

 かちかちと歯の鳴る音がやけに大きく聞こえる。

 それもその筈で、眼前で理解できない強大なものが顕現しようとしているルキアと、その存在の偉大さを知るが故に畏怖する黒山羊、そして予想をぶっちぎる張り切り具合を目にしたフィリップ。この場の全員が一様に身体を震わせ、歯の根が合わなくなっている。

 

 数十秒の攻防を経て、漸くヨグ=ソトースの制止に気付いたのか、化身を送り込む方向にシフトする。

 新月から一条の闇が差す。黒い光という物理的に在り得ないはずのそれは、明度がゼロでありながら、フィリップの網膜を強烈に焼く眩しさだった。

 

 空間から粘度を持った影が滴り落ちる。

 先ほどの世界を軋ませるようなものとは違う、もっと生物的で、生理的嫌悪感を催させる湿った音が耳に障る。

 

 「く、そっ……!!」

 

 普段のフィリップなら絶対に口にしない、品の無い罵倒。

 宛先は現状と、思い通りに動かない身体だ。これから現れるものを、ルキアには決して見せてはいけない。今までの矮小な黒山羊や顕現の予兆とは訳が違う、本物の邪神だ。見れば精神がグズグズに腐り果てる。

 

 立ち上がり、ルキアの前に立ち塞がる──のがベストだったのだが、麻痺の残る身体は言うことを聞かず、ルキアを押し倒してしまう。

 仰向けに倒れ込み、困惑したようにフィリップを見つめるルキアの目を閉じさせ、耳を塞ぐ。両手の枷のせいで抱き締めるような形になったが、知覚の大部分はマスクできたはずだ。嗅覚も……まぁ、だいぶ汗臭いだろうが、我慢して貰おう。

 

 ルキアを押し倒し、強く抱きしめたフィリップの背後で、余人には決して見せてはいけない変化が起こっていた。

 

 爛れ、泡立ち、光を呑み込む色の雲が立ち込める。その中に無数に蠢く眼球は、全ての視線をフィリップへと注いでいた。

 蠢きのたうつ黒い触手が複雑に絡み合い、翼のように、抱擁するように広がる。見上げるほどの巨大な体躯に釣り合わない、蹄のある二対の短い脚が地面を踏み締めると、芝や低木が一斉に成長し、枯れ、落ちた種が新たに萌芽する。木々は枯れて朽ち、辺りには得も言われぬ臭気が漂った。

 

 「■■■■■?」

 

 およそ人の、いや、この世に在ってはならない邪悪な言葉が発される。

 その宛先は守護対象であるフィリップか、はたまた召喚者であり落とし子でもある黒山羊か。

 

 ちらりと振り返り、その威容に顔を引き攣らせる。

 知識として、シュブ=ニグラスの化身の一つであるこの形態を知ってはいる。だが、こうして正面から相対してみると、やはり──怖い。

 

 知っているし、それに対する恐怖や狂気は奪われている。だが生物的な本能として、自分の何十倍も大きな存在には恐怖を感じるものだ。本性を現した落とし子が8メートルくらいなのに対して、シュブ=ニグラスはいま30~40メートルはある。その存在に対してではなく、そのサイズゆえに、普通に怖い。

 

 「おお、母よ……!

 

 感涙に咽び、黒山羊がその足元に跪く。

 

 シュブ=ニグラスが一歩を踏み出し──聞くに堪えない音を立てて、落とし子を踏み潰した。

 

 「■■■■■?」

 

 先ほどと同じ発音の邪悪言語が囁かれ、フィリップへと触手が伸ばされる。

 

 その表面を滴る黒い粘液は、落ちた先の芝を変色させ、急成長させ、或いは死滅させている。触られたら即人外化するだろうと簡単に推測できる触手は、ルキアを抱き締めたままのフィリップに触れる寸前で静止する。

 

 ヨグ=ソトースが干渉した形跡はない。

 そっと触手が引かれ、その巨躯がバグを起こしたようにブレて消えた。

 

 強大な気配が消失したことを確認し、フィリップはそっと振り返る。

 

 人影がある。

 銀髪に、銀の瞳。この世ならざる美貌をヴェールで隠し、妖艶な魅力に溢れる肢体を漆黒の喪服で包んだ女性。

 ヴェール越しにも分かる、愛玩の色濃い冷笑。シュブ=ニグラスが普段フィリップに対して見せる化身、マザーが、いつも通りの風情でそこに立っていた。

 

 「ふぅ…………」

 

 深く、この数か月で最も深く、溜息を吐く。

 

 終わった。終末的な意味ではなく、今回の騒動はこれで終結だという意味で。

 

 既に痺れや不快感は無くなっていたが、緊張の緩和による脱力のせいで動きにくい。このまま眠ってしまいたい衝動に駆られるが、腕の中で窮屈そうにしている少女のことを思い出し、唇を噛んで眠気を覚ます。

 ルキアを放して立ち上がると、マザーが柔和な微笑を浮かべ、抱擁するように両腕を広げていた。

 

 「久しぶり、フィリップ君」

 「……お久しぶりです、マザー」

 

 解放感と脱力感と、その他諸々の感動によって全てがどうでもよくなっていたフィリップは、そのままふらふらとマザーの抱擁に身を任せた。

 

 甘やかに頭を撫でられると、抱擁から感じる懐かしさと温かさにつられ、眠気が再燃する。

 駄目だ。これは本当にダメなやつだ。ここで一生過ごせる、人を堕落させとろとろに溶かしてしまう楽園だ──

 

 「フィリップ?」

 

 背後から心配そうな声が聞こえ、慌てて唇を噛む。

 痛みによる覚醒は古典的ながら効果的な方法だと何かで読んだのだが、どこぞの森歩き本とは違い、こちらは本当だった。

 

 「……ッ!」

 

 弾かれたようにマザーから距離を取る。

 回復魔術を掛けてくれたのか、疲労感や倦怠感はすっきりと無くなっていた。マザーが名残惜しそうに眉尻を下げるのを無視して、フィリップは軽く頭を下げる。

 

 「ありがとうございます」

 「いいのよ。もう痛いところはない?」

 「はい。……彼女も足を怪我しているので、処置をお願いできますか?」

 

 ルキアを示して言うと、マザーは機嫌よさそうに「えぇ、いいわよ」と頷いた。

 マザーと面識のないルキアは困惑も露わにフィリップを見遣るが、フィリップが安心させるように頷くと、大人しく片足を差し出した。

 

 フィリップが真横で見張っているからというわけではないだろうが、権能ではなく現代魔術によって治療を施す。

 片足だけが獣化するとか肥大化するといったアクシデントも無く、骨折一歩手前の傷が完治する。それが儀式無しに人間一人が行使できる魔術として妥当かどうかの判断は、現代魔術の知識に乏しいフィリップには下せない。

 

 だがまぁ、納得したように頷くルキアの態度から見て、そう大それたものでは無いのだろう。

 フィリップはそう楽観し──

 

 「貴女は神なのですね?」

 

 と、そう問いかけたルキアに、そんな楽観をぶち壊された。

 

 

 



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35

 ルキアは何故、マザーを指して神と言ったのか。それが分からない。

 確かにマザーの容姿は、彼女こそが美の女神であると言われても信じられるものだ。

 

 星明かりの下で輝く銀糸のような髪は滑らかで、物珍しさよりも美しさに目を惹かれる。柔和な光を湛えた銀色の双眸は吸い込まれそうに深く、それでいて星々の煌めきを宿している。

 

 透き通るような白い肌でありながら不健康さを感じさせないのは、その肢体が女性的魅力に溢れた艶やかなものだからだろうか。

 

 ゴシック調の喪服と精緻な装飾の施されたヴェールにはぎょっとさせられるが、彼女の魅力の前では些細なことだ。むしろ、その非日常的な装いこそが、彼女の纏う神秘的な雰囲気を最大限に引き出していると言えよう。

 

 ただ、いかんせん整い過ぎている。

 どんな絵画にも描けず、どんな彫刻でも表せない美といえばそれらしいが、彼女のそれは間違いなく人外の美だ。ただ見惚れるようなものでは無く、魅入られるといえばいいのか。

 湖面に映る自分に酔いしれて命を落としたナルキッソスのように、いっそ害ですらある美しさ。只人が見れば精神を揺さぶられるだろう。

 

 だが発狂するほどかと言われると、それは流石にNOだ。

 

 大陸全土で信仰されている一神教は、その聖典や外典、偽典に至るまで、一貫して唯一神のみがこの世界にただ一柱の「神」であるとしている。その容姿についての言及はないが、一般的に男神だとされることが多い。

 聖痕者──聖人であるルキアがそれを知らないはずはないのだが、さて。まさか唯一神以外の神性を認めるのか、それともマザーこそが唯一神あるいはその化身であると思っているのか。どちらにしても、理知的なルキアらしからぬ結論と言える。

 

 「さ、サークリス様? 一体何を……」

 「違うの?」

 

 マザーが何も答えず、ルキアを意識の片隅にすら置かず、ただフィリップに愛玩するような笑みを向けているのが幸いだった。

 変に肯定されても困るし、唯一神とルキアを嘲るように否定されても困る。とはいえこのまま黙っていられても不自然なので、フィリップが会話して誤魔化すことにする。

 

 「いえ、この方は……王都の投石教会にお勤めの神官様です」

 

 とんでもなく苦しい言い訳だった。

 黒山羊を一撃で潰すなどおよそ一介の神官にできる攻撃ではない。なんせ、最強の魔術師であるルキアでも無理だったのだ。なんでこんな森の奥に神官が居るのかとか、なんでルキアを庇う必要があったのかとか、なんで黒山羊が見るも悍ましい潰れ方をしているのかとか、そんな疑問が浮かぶことだろう。

 

 ルキアがフィリップをじっと見つめる。

 どの質問が飛んでくる? どう答えれば不自然ではない?

 

 そんな露骨な警戒が表情に表れないようにと願うが、フィリップの演技力を鑑みると絶望的だろう。

 

 「……そう。失礼いたしました、神官様」

 

 だから、ルキアがそう言って頭を下げたのは、まさに青天の霹靂だった。流石に正面から話しかけられて無視するのは不味いと分かっているのか、或いはフィリップの視線を受けてか、マザーは鷹揚に頷く。

 思わず「え?」と口走ると、彼女は穏やかな微笑を浮かべる。

 

 「貴方の言うことだもの。嘘だとしても、それは貴方の為か、私の為の嘘でしょう? 嘘でも本当でも、信じるわ」

 

 まさに全幅の信頼を見せるルキアに、フィリップは

 

 (え? 発狂してる?)

 

 という失礼極まりない、しかし正しい疑いを向けた。

 

 「サークリス様? ちょっと僕の目を見て貰えますか?」

 

 怜悧な光を湛えたアルビノの赤い瞳を見つめる。

 狂気に溶けていたりとか、毎朝鏡で見るような諦めに濁った影は見受けられない。両目に輝く紋章は、唯一神より最強と認められた証である聖痕──両目?

 

 「右目にも模様が浮かんでますよ? えっと……」

 

 手頃な棒を拾い上げると、およそ木とは思えない硬さだった。地面に絵を描くのにはちょうどいいが、あまり長々と触っていたいものでは無い。というか、落ちた枝まで変生させるのか。

 

 「ちょっと歪んでますけど、こんな感じの」

 

 どことなく左目の紋章に近しいデザインだ。地面に手書きの分かりにくい絵を見て、ルキアはさっと思索する。

 

 「……聖痕かしら?」

 「いや、僕に聞かれても……」

 

 魔術の素養に乏しい自覚のあるフィリップは、魔術書の類を読まない。特に現代魔術について書かれた書物など、無用の長物だ。才能がない以上、それを磨くこともない。

 ゆえに魔術知識は薄く、聖痕者については「当代最強」程度しか知らない。あとはどの属性の術者が誰、くらいだ。どうせ関係のないことだし、紋章がどんな形なのかとか、何処に発現するのかとか、聖痕者にはどんな特権があるのかとか、そういったことを調べようとは思わなかった。

 

 「そもそも、聖痕が二つなんてあり得るんですか?」

 「在り得なくはないわ。5代くらい前の教皇は、水と火の聖痕者だったし」

 

 反属性のハイブリッドとか、ちょっとかっこいいな。

 そんな少年的な──年相応の感想を呑み込み、フィリップはとにかく発狂してはいないようだと胸を撫で下ろす。

 

 「ま、まぁ、それは帰ってから調べればいいことですよね」

 「えぇ、そうね」

 

 話が一段落したタイミングで、マザーがぽんと手を打つ。

 音につられて注目すると、彼女はにこりと微笑んだ。

 

 「居心地のいい森だけど、夜も遅いし、帰りましょう?」

 

 居心地が……いい……?

 植生は芝から木々まで悉くが変性し、今や異界だ。黒山羊の死体に、カルトと仔山羊だった塩の柱の数々。周りを見渡せば死体かそれに類するものしかない。

 

 「……そうですね。帰りましょうか」

 

 帰ろうという部分にだけ同意して、マザーの差し出した手を取る。

 ルキアにはフィリップが手を差し出し、どこか嬉しそうにその手を取ったルキアも並んで三人で宿へ戻ることにする。

 

 図らずも当初の予定通り、三人仲良く森のお散歩だ。

 思い描いていた想像図では真ん中にマザーがいたのだが、まぁ、誤差だろう。

 

 昨日は帰らなかったわけだし、アイリーンやオーガストがさぞかし心配している……だろうか。ナイ神父が上手く誤魔化してくれている可能性もある。どうせなら怒られないであろう後者がいいな、などと考えながら、フィリップは疲れを溜息として吐き出した。

 

 5人の生徒が死んだことを悼みもせず、あれだけ憎んでいたカルトの死を喜ぶことも無く、ただ漫然と疲れたと息衝く。その異常性を自覚することも無く、そんなフィリップに愛おしそうな視線を向ける二人の女性に気付くことも無く、帰って寝たいと欠伸を零した。

 

 

 ◇

 

 

 教皇庁・第四尖塔『摩天牢』

 枢機卿や教皇の暗殺を企てた重罪人や、信仰を穢した聖職者などが拘束される、地上約30メートルに聳える牢獄だ。

 

 その最上階、枢機卿レベルの権限でしか入れない、最上級機密エリアに拘束されているのは、壮年の男性だ。

 伸び放題の髪や髭は高ストレスによって白髪の割合を多くしており、かつては艶のある金髪であったことは、よく観察しなければ分からないほどだ。鍛えられていた肉体は痩せ衰え、石の床にぐったりと座り込んでいる姿には一片の覇気も感じられない。

 

 そんな姿の彼を見て、彼が闇属性最強の魔術師、唯一神より認められた聖痕者であると看破できる者はいないだろう。

 

 いや──

 

 「貴様の処刑が決定した。元、闇の聖痕者──いや、魔王の預言者エゼキエル」

 

 牢の外から宣告する兵士に、彼は何も答えない。

 発声に差し障るほど枯れた喉では無理もないが、それでも彼は微かに口角を上げた。僅かに動く口元は「やっとか」と呟いたようにも見える。

 

 「執行は本日、たった今だ。だがその前に、枢機卿より質問を預かっている」

 

 両手両足に三つずつ、最上級の魔力制限装置を付けられてなお、その耐魔力は一介の兵士の魔術を容易く弾く。

 ゆえに魔術ではなく、剣によって頭を落とすため、牢を開けて中に入る。

 

 「闇の聖痕は唯一神ではなく、魔王サタンが刻む。それがお前から移ったということは、魔王が目覚めたということか?」

 

 エゼキエルの口元が歪み、明確な嘲笑を浮かべる。兵士は不快そうに眉根を寄せるが、どうせこれから死ぬ男だ。殴る必要もない。

 

 か細い、嗄れた声を聞き取ろうと、兵士が一歩近づく。

 

 「──その、通りだ」

 

 弱々しく、兵士が何をするまでも無く死にそうな男の言葉に、完全武装の兵士が怯えて下がる。

 その無様を一瞥し、エゼキエルは魔王より預かった言葉を伝える。それは兵士にでも、いずれ彼が伝えるであろう枢機卿や教皇に向けたものでもない。

 

 「ルシファー様は、御自らと同じ名を持つ少女をお認めになられた。彼の者こそは、いずれ父なる神と、我らが魔王の右席へと至る者なり」

 

 この光景を見ているであろう、唯一神へ伝える。

 

 ただ強さのみが指標となる聖痕者の中で、闇属性だけは例外だった。

 この世全ての魔術師の中で、闇属性に最も優れ──唯一神を唾棄し、世界を唾棄し、己の価値観にのみ生きる者。闇属性だけが聖痕者不在であることも珍しくない理由はそこにある。

 

 だがその事実と、預言の内容は相反するものだ。

 唯一神と魔王サタンの双方が、同じ人間を聖人として認めた? それは遥かな昔──魔王など存在せず、サタンが未だ天使長ルシフェルであった時代以来のことだ。

 

 それが魔王の見せた歩み寄りか、或いは宣戦か。全知全能たる唯一神と、その反逆者である魔王サタンのみぞ知ることだ。

 

 「御言葉はそれだけだ。……殺してくれ」

 

 兵士は苦しげな男の請願に頷き、その首を刎ねた。

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ2 『森の黒山羊』 クトゥルーエンド

 技能成長:【応急手当】+1d3 【オカルト】+1d3 【サバイバル】+1d6
 SAN値回復:通常なし ただし、KPが森歩きによって正気度を回復できると考える場合、妥当な量の回復を与えてよい

 特記:同行者『ルキア』が20の【クトゥルフ神話】技能および特性『シュブ=ニグラスを信仰』を取得。

 取得物:金属製のコイン


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魔術学院編入
36


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ3 『魔術学院編入』

 推奨技能は【魔術理論】と【現代魔術】、交渉系技能です。
 注意:【現代魔術】が実戦レベルでない場合、戦闘技能もしくは領域外魔術の習得が推奨されます。


 故郷の森で起きた騒動から2週間後。

 フィリップは魔術学院の寮へ入るまで丁稚を続ける代わり、宿泊費を無料にして貰った王都のタベールナへ戻っていた。

 

 既にナイ神父の魔術講義は中断されており、やたらと早起きする必要は無い。普通に起きて、普通に丁稚の仕事をして、普通に寝る。邪神の影も無く、神話生物のかたちも……いや、窓の外には触手で編まれた醜穢なカラスがいるが、あれは無害なので善し。普段なら拗ねてあっちから絡んでくるマザーも、どこか機嫌良さそうにしているので善し。ともかく、邪神に絡む必要のない素晴らしい生活だ。

 

 しかも、今日から三年間、それが続くのだ!

 

 魔術学院は、基本的に家族等の関係者の立ち入りも制限される。何かのトラブルがあった時などは流石に例外だが、ただ様子を見に来ました、なんて理由では門扉を潜れないだろう。監視の目は実質ゼロ。フィリップに無害で、世界に無害で、人に無害で、そしてフィリップに重圧を感じさせないヨグ=ソトースの監視など無いも同然!

 

 「早く来ないかな、迎えの人」

 

 フィリップが王都に戻ってすぐに届いた学院からの手紙には、10日後──配送時間を考えるに、今日か明日のどちらかに迎えが来るはずだ。

 必要なものは全てナイ神父がいつの間にか揃えておいてくれたし、何ならトランクに詰めてくれている。何も心配することは無い。

 

 新しい環境への恐れなど微塵も無く。友達出来るかな、という年相応の不安も無く。勉強が出来なかろうが、落ちこぼれと笑われようが構うものか。フィリップが赤点を取ったら人が死ぬのか? 発狂でもするのか? フィリップが落ちこぼれたら世界が滅ぶのか? 否、否だ! その気楽な世界の何と素晴らしいことか!

 

 年頃の少年らしく「学校」に夢を見れば良いモノを、フィリップはただ邪神のいない地への逃避だけを考え、その時を今か今かと待っていた。

 

 「…………」

 

 部屋で一人、今日来るのかも怪しい誰かを待っていると、嫌なことが頭に浮かぶ。

 人間を──人類をゴミ以下の認識しかしていない邪神たちは、別にいなくなるわけではないということ。むしろ目が届かない分、制止もできないのが怖い。まぁ制止したところで聞き入れてくれるかは非常に微妙だが。

 

 いや、フィリップが絡まない限り、人類を含めた大概に価値を感じない邪神たちだ。早々トラブルを引き起こしたりはすまい。よしんば何かしら問題があっても、狡猾さにおいて並ぶ者無きナイアーラトテップと、全にして一なるヨグ=ソトースがいる。何とかなるだろう。

 

 一つの懸念が払拭されると、次の懸念が浮かぶ。

 あの二人……何かの間違いで魔術学院に来たりしないだろうか。ここ最近やたらと機嫌のいいマザーはともかく、普段から何をしているか分からないナイ神父は、しれっと「今日からこのクラスの担任になりました、ナイ教授です」とか言いつつ教室に入ってくるような、嫌なビジョンが見える。

 

 なんせナイアーラトテップ、千なる無貌だ。「魔術学院ですか? 古巣ですよ」とか言われてもおかしくない。

 そんなことになったら……いや、そこまで悲観するようなことか? 確かにいない方が嬉しいが、どうせ逃げ切れないのは分かっていることだ。いるかもしれないな、くらいの心構えはしておかないと、あのナイ神父のことだ。フィリップが希望を持っているという理由だけで絶望を持ってくるかもしれない。いや、来る。

 

 「気付いてよかった……」

 

 他人の悪意に確信が持てるというのも嬉しくない話だが、これで一つの悲劇が防げたと拳を握る。

 

 フィリップがこれ以上悪い想像をするのを止めようとしたわけではないだろうが、そのタイミングで扉がノックされる。

 

 「フィリップ、迎えの人が来たわよ」

 「今行く。ありがとう、モニカ」

 

 呼びに来ただけではないのか、扉を開けるとモニカが待っていた。

 その顔には何故か楽しそうな表情が浮かんでいる。いつか見たような愉悦の表情を、何処で見たのかと想起する。

 

 「すっごい美人さんだったわよ。なんか親しげだったけど、どんな関係なの?」

 「魔術学院の先生じゃないの? 知り合いはいないけど……」

 

 まぁフレンドリーな人なら、フィリップが多少は物を知らなくても──或いは知り過ぎていても、即座にどうこうしようとはならないだろう。そんな打算込みの安心感を抱いて、迎えの待っているという応接室へ入る。

 

 どんな人なのだろうかという疑問には、モニカの言った「すごい美人」という言葉によって微かな期待も混じっている。

 フィリップは男性であればナイ神父、女性であればマザーという人外の美を日常的に見ているだけあって、人間レベルの美形には動じない疑惑がある。人間の枠で言えば間違いなく最高峰の美しさを持つルキアに初めて会ったときにすら、魅了ではなく安堵の溜息を吐いたくらいだ。

 

 だが、マザーを目にしているという意味ではモニカも同じだ。同性ということもあってフィリップよりも女性の美しさに敏感なはずのモニカが、それでもマザーと比することなく「美人だ」と言うのだから、相当なものだろう。

 

 果たして──

 

 「え? マザー……?」と。フィリップはいつかと同じ勘違いをした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 「改めて、お久しぶりです。サークリス様」

 

 応接室のソファに浅く掛け、居住まいを正したフィリップが頭を下げる。

 対面に座ったのは、故郷の森で知り合った少女、ルキアだ。

 

 「えぇ、久し振り。会いたかったわ、フィリップ」

 

 怜悧な相貌には親しげな微笑が浮かんでおり、出会った頃の警戒は一片も見られない。長い銀髪は変わらず艶やかで、アルビノの赤い瞳は確かな信頼の籠った光を湛えている。

 だが、その起伏に富んだ肢体を包む着衣は、以前の魔術学院の制服では無かった。まさか私服なのか、どこかの誰かを否応なく彷彿とさせる、黒いゴシック調のワンピースを着ている。

 

 アルビノの白い肌とのコントラストと、ルキア自身の纏う優雅な雰囲気との調和。彼女に最も相応しい装いを挙げるとすれば、そのワンピースは正解だと言える。非常によく似合っているのだが──銀髪に黒ゴス。フィリップの触れてほしくない部分、主に人間関係的な意味でのそこを的確に抉るようなコーディネートだった。喪服じゃないだけマシと取ればいいのだろうか。

 

 「何か御用ですか? 今日は少し予定がありまして……」

 

 なるべく首から下を目に入れないように意識しつつ、努めて冷静に問い掛ける。

 ルキアはいたずらっぽく微笑むと、ポケットから一通の封筒を取り出した。

 

 「魔術学院からお迎えに来ました。貴方のお時間を、私に頂けますか?」

 

 面食らったフィリップに親愛の籠った笑顔を向け、封筒を差し出す。受け取ったフィリップが封を切ると、中には一通の書類──職員が行うはずだった編入生向けオリエンテーションをルキアに一任する旨が書かれた委任状が入っていた。

 

 もう一度ルキアを見つめ、首を傾げる。

 

 フィリップの記憶が正しければ、彼女はまだ一年生、学校側が何かを任せるような学年ではない。それに、確か公爵家次女とかいう大きな肩書を持っていたはずだ。雑用を任せていいのだろうか。

 

 怪訝そうな表情から内心の疑問を読み取ったのか、ルキアは「貴方が来るって聞いて、立候補したの」とウインクする。

 確かに、フィリップより一足遅くヴィーラムの町を出ることになったルキアには別れ際、魔術学院に行くことを伝えた。だが、まさか学院に通う前に再会するとは。

 

 「それは……ありがとうございます。やっぱり知り合いの方が気楽ですから」

 

 制服なら……いや、黒ゴスでさえなければ、もはや言うことは無かったのだが。

 

 「奉公先というのは、ここの事よね? お別れと挨拶は済ませた?」

 「はい。昨日のうちに」

 

 フィリップに頷きを返し、立ち上がったルキアに続く。

 

 「じゃあ、荷物を持って。出発するわよ」

 「了解です」

 

 あらかじめ業者用の搬入口に置いてあったトランクを取りに行くと、ちょうど副料理長と料理人見習いの青年が作業をしていた。

 彼らはフィリップに気付くと、時間を確認するように窓の外を見る。

 

 「迎えが来たとは聞いたけど、もう行くのかい?」

 「はい。オリエンテーションとか、色々とあるみたいで」

 

 金曜日の昼下がり。宿の仕事は一段落する頃だろうが、月曜日から授業の始まるフィリップには、オリエンテーション以外にも魔術適性検査が予定されている。

 そう長々と時間を取るものではないらしいが、あまり遅くなるのもよろしくないだろう。

 

 「そうか。元気でな! 夏休みには戻って来いよ!」

 

 副料理長にばんばんと背中を叩かれ、「戻って来い」という言葉に深く感謝する。

 短い間だったし、然して有能な人材だったわけでもないが、それでもフィリップを高く買ってくれる──こうして声を掛けてくれることの有難みを、「普通」に飢え始めたフィリップはよく理解していた。

 

 「はい、必ず」

 

 サムズアップして返し、ハイタッチを交わす。

 

 玄関先で待っていたルキアに合流すると、その後ろには豪華な造りの馬車が停まっていた。

 

 しっかりした造りと精緻な細工はまるで貴族の使う馬車だが、フィリップでも知っている魔術学院の校章が刻まれており、ルキアの私物──公爵家の所有物ではないと分かる。それを牽引する二頭の馬もまた、軍馬のように大きく強靭そうな種類だ。

 国内最高の教育機関というだけあって、予算は潤沢らしい。編入生とはいえ平民一人の迎えにこんな高い馬車を使うとは。

 

 「すごい……」

 

 その馬車の使用許可が下りた主な要因である公爵家の次女は、目を輝かせるフィリップに嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 

 




 【魔術理論】:
 現代魔術を扱う上で必要となる、魔術への理解度と知識を表す技能。

 魔術学院生は一般的に50程度の技能値を持つ。【知識】では不適切だと判断される事項についてのロールに使う。

 【現代魔術()】:
 現代魔術を扱うための技能。()内には各種属性が入る。詠唱時にロールし、失敗した場合、その魔術は命中しないか発動しない。

 技能値が10以下の場合、魔術を詠唱することは出来ない。

 技能値が高いほど、より高度な魔術を習得できる。魔術学院生は一般的に50程度の技能値を持つ。聖痕者は一般的に99の技能値を持つ。


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37

 豪華な外観に負けず内装も綺麗に飾られた馬車は、その乗り心地も素晴らしいものだった。

 王都の大通りがきちんと整備されているという要素も大きいだろうが、サスペンションの具合やソファの柔らかさが絶妙だ。

 

 「ここに住めますね……」

 

 フィリップの呟きを冗談だと受け取ったのか、ルキアはくすくすと抑えた笑いを漏らす。

 だが衛士団の独房にすら三年は住めると言ったフィリップだ。その発言は当然ながら本気である。

 

 しばらく馬車に揺られていると、御者席と車内を隔てる窓がノックされる。

 対応しようとしたフィリップを片手で制して、ルキアがそれに応じる。考えてみれば、ルキアは学院の関係者、フィリップは部外者だ。いくら身分や年齢的にフィリップが格下とはいえ、オリエンテーション中は出しゃばらない方がいいだろう。

 

 御者と一言、二言交わし、ルキアは不機嫌そうに小窓を閉める。

 

 「ごめんなさい、フィリップ。抜き打ちの検問らしいわ」

 「あぁ、衛士団のですか?」

 

 不定期、不定地点で行われる、通行人の抜き打ち検問。滞在許可のない外国人や、認識票の期限が切れた冒険者なんかを一斉摘発する目的で始まったらしいが、貴族の家紋が掲げられていようが、魔術学院の校章が刻まれていようが、彼らは躊躇いなく、そして確実に職務を遂行する。

 ごく稀に、禁制品の毒物や魔術品の類を持ち込む貴族や、貴族の馬車に見せかけて()()を輸送する奴隷商などもいるためだ。

 

 まぁそんな官憲の理屈など、一般人にはどうでもいいことだ。混雑するし痛くもない腹を探られるしで、あまり好意的には見られていない。

 中でも貴族からは、探られると痛い腹を探られ、しかも賄賂や恐喝の類が一切通じない相手ということもあって、蛇蝎の如く嫌われている。反抗して用心棒もろともボコボコにされた貴族もいるとか、いないとか。

 

 「降りた方がいいですか?」

 「……そうね。順番が来たら降りましょう」

 

 フィリップが嫌悪を一片でも感じさせれば、聖痕者としての特権と公爵家の力、そして世界最強と認められた魔術を以て検問を突破するつもりだったルキアは、高まりつつあった魔力をそっと収めた。

 

 程なくして、馬車の扉がノックされる。

 

 「王都衛士団です。ただいま不定期検問を実施中です。全員馬車から降り、いくつかの質問に答えてください」

 

 武装解除などの勧告が無いのは、衛士団の強さに裏打ちされた自信ゆえか。

 誰がどう反抗して来ても、それをねじ伏せればいいという端的で単純な最適解。不定期検問のマニュアルを作ったのが先代団長──変態とか脳筋とか、好き勝手に呼ばれていた人物であることと、無関係ではないだろう。

 

 「……魔術学院の生徒ですね? 学籍番号と名前を──お、フィリップ君」

 「え?」

 

 事務的に淡々と、マニュアルの内容をそのまま読み上げていたような衛士の声に、いきなり親しげな色が混じる。

 ヘルム越しの声では分かりにくいが、もしかして。

 

 「ジェイコブさん?」

 「あぁ、久しぶり! 元気そうで良かった!」

 

 ヘルムの下から出てきたのはやはり、見覚えのある強面だった。

 

 「ジェイコブさんも。お仕事お疲れ様です」

 

 握手など交わしつつ、ジェイコブの無事を心底から喜ぶ。

 以前に悪魔の襲撃からフィリップを守って負傷していたはずだが、そんな様子は微塵もない。やはり鍛え方が違うのかと感動するところだ。

 

 「授業開始は来週からって聞いてたけど、今日から寮暮らしかい? 悪いね、こっちの都合で」

 「いえ、国の法律ですから」

 

 手にしたバインダーにさらさらと何事か書きこみ、馬車の中をちらりと覗く。最後にフィリップの右腕に付けられた腕輪を一瞥して、ジェイコブは軽く頷いた。

 

 「よし、問題ないよ。もうすぐ一等地だから、気を付けて……というのは、無駄な心配かな」

 

 ルキアの両目──正確にはその奥に輝く聖痕に目を向けて、ジェイコブは苦笑いを浮かべた。

 

 一等地は貴族の多い土地だ。治安はいいが、身分による格差や差別などは付き纏う。その点、最高位貴族であり聖人でもあるルキアがいれば、その手のトラブルとは無縁でいられるだろう。

 フィリップも礼儀作法の類は王都の二等地で働ける程度のものを身に付けているが、貴族相手に通じるかは微妙なところだ。彼らは所作の一つ、表情の一部から相手の考えを読む。権謀術数渦巻く社交界で生きるための術なのだろうが、非常に勘弁してほしい。

 

 なんせ、フィリップは全人類を無価値と断じるような価値観の持ち主だ。

 

 貴い血? 生まれながらの貴種?

 冷笑を内心に押さえ込むだけでも一苦労だ。

 

 「よし。ご協力ありがとうございます。よい一日を」

 

 一通りの仕事をこなしたのか、ジェイコブが形式通りの敬礼をする。

 フィリップがそれを真似て返すと、彼は快活に笑ってフィリップの頭を撫でた。

 

 「勉強頑張れよ。腕輪は学院長に会うまで着けておいてくれ」

 「分かりました」

 

 フィリップが話している間、ずっと無関心を全身で表現して馬車の横に立っていたルキアが、軽くため息を吐く。

 

 「終わったのなら、もう発ちたいのだけど?」

 

 ジェイコブに宛てた言葉には、フィリップが衛士団に持つような親しみのようなものが一切籠っていない。赤い瞳からは行程を邪魔されたことによる苛立ちが透けて見え、感情に呼応するように高まる魔力が不可視の圧力となって撒き散らされる。

 魔力に敏感な魔術師でなくとも気圧されるようなプレッシャーだが、そこは流石に歴戦の衛士。動じたりはしない。

 

 「王国法に基づく不定期臨検へのご協力と、その遵法精神に感謝いたします。良い一日を。……じゃあね、フィリップ君」

 

 ルキアにマニュアル通りの慇懃な礼を見せ、最後にフィリップとフィストバンプを交わして、ジェイコブは次の馬車へ向かっていった。

 

 その背中を不愉快そうに一瞥して、ルキアはエスコートするように片手を差し出した。

 

 「行きましょうか」

 

 その手を借りてタラップを上がり、馬車に乗り込む。

 馬車が動き出してからもルキアは不機嫌そうな雰囲気を纏っており、対面に座ったフィリップとしては大変居心地が悪い。

 

 思えば、王都に来てから乗った馬車はこんなのばかりだ。

 

 行きも帰りも中々に居心地の悪い帰省だったが、ナイ神父だけでなくマザーまでいた帰りは格別だった。膝枕の寝心地は素晴らしかったが、二度と起きられないのではないかという恐怖もあったので二度とやらないで欲しい。

 

 「森でも聞いたけれど、その腕輪は衛士団に着けられたのよね?」

 「え? あぁ、はい」

 

 魔力を制御できない魔術師や召喚物を制御できない召喚術師は爆弾と同じ。その理屈は分かるし、あの場で処分されても文句は言えなかった。まぁフィリップが死んだ後に何が起こるのか、そもそもフィリップが死ねるのかは全く不明だが。

 

 「試した方がいいのかな……?」

 

 外神には過去も未来も関係ない。死者の蘇生くらい造作も無いだろう。死も時間も決して不可逆ではないと、フィリップは知っている。

 その知識に基づくのなら、フィリップが死んだ事実が無くなるとか、死ぬ前まで巻き戻るとか、その手の死を回避する現象が起こってもおかしくない。だが同時に、「死んだから何?」というスタンスである可能性もある。死が無価値ということはつまり、生もまた無価値なのだ。生きていようが死んでいようが、彼らにとっては同じかもしれない。

 

 「試すべき……か……? いやでも……」

 

 ヨグ=ソトースの庇護というどんな鎧よりも堅牢なものに守られ、大概のものを無価値と断じる価値観を持っている身としては、死を意識することは滅多にない。悪魔に襲われた時も、黒山羊に襲われた時も、フィリップは一度も死ぬかもしれないとは思わなかった。恐怖すら感じなかったくらいだ。

 

 こういう時は最悪のケースを想定するのが良いと聞く。ちょっと考えてみよう。

 フィリップが死んだ場合に起こり得る、最悪の結末──シュブ=ニグラスか真なる闇、無名の霧による、フィリップの外神としての再創造?

 

 「よし、やめよう」

 

 即決だった。

 価値観こそ順調に歪んでいるものの、未だ知性や思考能力が人間の域を出ないフィリップですら、こんなクソみたいな未来予想図を描けるのだ。外神の手にかかればもっと悍ましいものが描き上がるに違いない。

 

 現実逃避気味の妄想に車内の気まずさが如何に幸せな問題だったかを突き付けられ、瞳をどろどろに溶かしていると、ルキアが心配そうに覗き込んでくる。

 

 「大丈夫? 酔ったのなら、少し休憩する?」

 「あぁ、いえ。大丈夫です……」

 

 死ぬことがあるか無いかで言えば、無いだろう。悪魔や黒山羊のような下等生物ならいざ知らず、ナイアーラトテップやシュブ=ニグラスに匹敵するレベルの敵となると、旧支配者でも屈指。そうそうフィリップの前に現れることは無いだろうし、そのレベルを見落とすヨグ=ソトースではない。

 病気だけは本当に気を付けようと心に誓って、この話──いや、この思考は終わりだ。

 

 「そういえば、その聖痕、闇属性のものだったらしいですね」

 

 先日、正式な教皇庁からの公表で、ルキアは闇属性の聖痕者であると認められた。

 依然としてそれに価値を感じこそしないものの、その才能には素直に敬意を表するところだ。

 

 聖痕は最強の魔術師に与えられる。「与えられたから最強になる」のではなく、「最強になったから与えられる」。

 つまり彼女は弱冠15歳にして、全人類の中で光属性と闇属性の魔術に関しては、並ぶ者がいない域にまで磨き上げていたということになる。並々ならぬ努力はあったのだろうが、それでも、一辺の才能もない者が到達できる領域ではない。

 

 「すごいですね。僕に魔術の才能はないので、憧れます」

 「ありがとう。でも、これに価値があるとは思えないのよね」

 

 ──ん? いま何か、とんでもないことを言わなかったか?

 この聖人、神より与えられた聖なる証を無価値と言ったのか? なんで?

 

 「そ、れは……どうしてです?」

 

 声の震えを抑えることも出来ず、内心の疑問をそのまま吐き出す。

 ルキアは何も気負うことなく、軽く微笑んだ。

 

 「だって、これを刻んだ唯一神が無価値じゃない?」

 

 

 



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38

 ルキアの言に「そうですよね!」と、全面的に同意することは出来ない。

 いや、フィリップ個人としては共感するところなのだが、問題は何故ルキアがその思考に至ったのかだ。まさかフィリップのように大いなる智慧を授けられたわけではないだろうが、啓蒙を──「気付き」とでもいうべき、真理へと至る道標を得たのかもしれない。

 

 「えーっと……その、サークリス様は、信仰をお捨てになられたのですか?」

 

 万が一にも声が漏れないように、最大限抑えて問い掛ける。

 

 この大陸で一神教を信仰しないということは、つまり、あらゆる人権が認められないことに等しい。

 破門宣告を受けた者はたとえ国王であっても生死問わずの重罪人扱いだし、カルトに属すると判明した者はその場で切り捨てても罪に問われないどころか、褒章が出ることもある。

 逆に唯一神に認められた聖人たちや、神に仕える神官たちは大きな権力を持つ。

 

 信仰が力になる唯一神が定めたシステムなのか、ただ単に人間の利権が絡んだ結果なのかは定かではないが、とにかく、そういうシステムになっている。

 

 中でもルキアは二つの聖痕を持つ稀有な人間であり、公爵家次女という高い地位にもある。

 棄教したなどと、万が一にも知られるわけには行かないだろう。

 

 「いいえ? ただ、正しき神を知っただけよ」

 

 ルキアの穏やかな微笑とは裏腹に、フィリップの背中には冷や汗が滝のように流れる。

 もう嫌な予感どころの話じゃないワードだが、一応聞いておこうか。

 

 「その神とは?」

 「勿論、シュブ=ニグラス様よ」

 

 ぐっと呑み込んだ溜息の理由は、フィリップ自身にすら判断が付かない。

 

 フィリップたちがヴィーラムの町を発つまでの数日、やけに熱心にマザーに絡んでいたルキアを知っている。何より、彼女はあの森でマザーに「貴女が神か」と問いかけた。極めつけはマザーを意識したと思しき黒ゴス。

 だから勝手に、彼女はマザーを神と崇めているのだと思っていたのだが。

 

 「マザーではなく?」

 「神官様のことよね? 信仰とは違うけれど、同じ神を崇める同道者であり先達として尊敬しているわ」

 

 マザーの正体や、その悍ましき本性については気付いていないのか。

 

 ならば、ルキアの逸脱は軽微なものだ。少なくとも、この世界が「何」かまでは知らない。フィリップのように絶望と諦観に彩られた余生を過ごすことは無いだろう。

 

 同道者の不在は悲しむことではなく、むしろ祝福すべきことだ。

 

 こんなクソみたいな世界を誰かに見せる必要などない。モニカもアイリーンもオーガストも、ジェイコブやその他のあらゆる善良な人々が、何も知らず、自分が無知であることにすら気付かず死ねればいいと願う。

 

 だが──素晴らしい。何とも素晴らしい!

 

 森で唱えた賛美の一節を紐解き、解釈し、その悍ましき名を神の名と理解して、その存在が唯一神を遥かに超えるものと理解して、己の無知を理解した。

 蒙は啓かれた。啓蒙は果たされたのだ。

 

 その開眼を祝福しよう。ようこそ、智慧ある者よ。

 

 まだ誤謬も多く、その歩みはフィリップから見ても小さな一歩だ。外神から見れば蝸牛の歩み、赤子の智慧にも等しい。

 だが確実な一歩だ。只人とは一線を画する確かな一歩、常道の外、人道の外への記念すべき第一歩目だ。

 

 「──ふぅ」

 

 内心の興奮を抑えるため、数回の深呼吸を繰り返す。

 

 「サークリス様、他人の前でその名前を口にしないでくださいね」

 

 かつてマザーにされた注意をしておく。その名前が精神を汚染するからと、フィリップは確かにそう言われていたし、知ってもいた。

 

 そして今、その名を耳にした者の辿る結末を知った。

 深い実感の籠った言葉だからか、ルキアは素直に頷いた。

 

 「えぇ、分かったわ。──見えてきたわよ」

 

 ルキアの示した窓の先、魔術学院の校舎が見える。

 

 「おぉ……」

 

 区画一つが高い塀によって仕切られ、広大な敷地には白亜の校舎だけでなく、闘技場のような体育館や、砦のように頑強な魔術実験棟が聳える。

 一等地で最も高い宿よりなお大きな学生寮や、千人近い生徒を収容する校舎の窓には錬金術製と思しき薄く精緻なガラスも嵌っており、王城にも並ぶ絢爛さだ。

 

 思わず感嘆の声を上げたフィリップに温かい視線を向けて、ルキアはくすりと微笑んだ。

 

 「珍しい?」

 「えぇ、それはもう」

 

 一般市民のフィリップが、この手の絢爛な建物を目にすることは無かった。王都の中心部に聳える王城も三等地からでは掌に乗るような大きさだし、一等地の貴族の別邸などは見たこともない。唯一これまでに見たことのある宮殿といえば、地下祭祀場で交信魔術が繋いだ、あの悍ましき──あれはノーカウントでいいだろう。

 

 スピードを落とした馬車の窓から敷地を眺めていると、一つの建物の前で停止する。

 先んじてルキアが降り、エスコートするように片手を差し出した。

 

 「ここが寮よ。まずは荷物を置きましょう」

 

 手を借りてタラップを降り、手を繋いだまま寮の中へと案内される。寮の内装も見事なもので、調度品の類も少なくない。これは掃除や維持が大変そうだと苦笑いを浮かべるが、すぐにその必要が無いことに気付いて顔を綻ばせる。

 

 掃除は担当の清掃員が、維持は専門技能を持つ業者が行う。フィリップがここで何かをする必要は無く、ただ寝て、食事をして、漫然と過ごせばいい。ふらりと邪神がやってくることのない場所ということもあって最高だ。

 

 「お帰りなさい、サークリスさん。……そちらの子は?」

 

 廊下の奥から現れた女性に声をかけられ、ルキアの顔に浮かんでいた柔らかな微笑が消える。

 

 「今日から入寮するフィリップ・カーター君よ。部屋の鍵を頂けるかしら?」

 

 まるで出会った頃のように冷たい空気を纏うルキアに驚くが、台詞の内容は知人に向けたものだ。寮監か何かだと察せられるが、喧嘩でもしているのだろうか。

 

 「あぁ、この子が。寮長のアグネスよ。よろしく」

 「よろしくお願いします」

 

 握手を交わし、鍵を受け取る。

 特に変わったところのない金属製の鍵にはネームプレートが付いており、[502 カーター]と彫られている。502号室ということは、五階? フィリップの実家もタベールナも二階建てで、それより高い建物に入ったことはない。気分も上がると言うものだ。

 

 「男子寮に入るのは初めてだから、少しワクワクするわ」

 

 フィリップの興奮に同調するようにそう言って、ルキアはフィリップを先導して歩き出した。手を握ったまま歩く様子に迷いは無く、女子寮も同じような造りなのだと分かる。

 少し長い階段を昇り、三つの階を素通りする。どうやら本当に五階らしい。

 

 「ここね。さぁ、どうぞ」

 

 鍵を持って目を輝かせていたフィリップにドアの前を譲り、にこにこと微笑ましそうに笑う。

 そんなルキアには気付かず、鍵を開けて扉をくぐる。

 

 まず目に入ってくるのは、校庭──運動場という意味ではなく、芝が敷かれ、木々が植わり、テラスが設置された庭だ──が一望できる、大きな窓。朝日も夕日も、白亜の校舎を照らすその暖かな光を存分に取り入れることが出来る。少し校舎が被ってはいるが、荘厳な王城も見える。

 

 次に目に付くのは、大きなベッドだ。

 フィリップが3人寝転がってもなお余る、キングサイズだ。今まで使っていたものの倍くらいの幅がある。スプリングの反発は少し強めだが、すぐに慣れるだろう。とりあえず寝る前に飛び跳ねてみよう。

 

 「床も壁も厚いけれど、飛び跳ねちゃ駄目よ? 危ないから」

 「……しませんよそんなこと」

 

 輝かせていた目を逸らし──その先にあったドアを開ける。

 木製の籠と足元に敷かれたマット、そしてもう一つのドアから推察するに、ここは脱衣所、奥は風呂か。

 

 「お風呂まであるんですね」

 「えぇ。いいお部屋でしょう?」

 

 いい部屋だ。というか、いい部屋過ぎる。

 宿で働いていただけあって、部屋の規模や間取りなどから等級を推測することはできる。尤も王都の中でも一等地はとりわけ高級なので、単なるエコノミー・シングルグレードの部屋が田舎のスーペリア・クイーングレードに匹敵するなんてこともあるかもしれない。

 

 だが、このレベルの部屋は二等地でも見ないほど。グレードで言えばデラックスかラグジュアリーのキング。

 

 いち学生、しかも平民が泊まれるような部屋ではない。というより完全に貴族向けの部屋だ。

 

 「……ん?」

 

 寮の外観を思い出し、部屋のサイズと比較する。

 このレベルの部屋が並んでいるとしたら、どう考えても1000人規模──男子寮なのでまあ約半数の500人がいるとして、500部屋も入らない。

 

 「二人部屋ですか?」

 「一人部屋よ?」

 

 生徒は原則、寮に入らなければならない。一等地の中でも別荘街と呼ばれる貴族の邸宅が集まる区画からは遠い場所だし、毎朝馬車を出すのも手間だろう。平民は家が近いと言っても二等地だ。馬車など持っていないだろうし、持っていたとしてもかなりの時間がかかる。となるとやはり、大半の生徒は寮に入るはずだが。

 

 「いえ、正確には五階は一人部屋と言うべきね。四階は二人部屋、それより下は……どうだったかしら?」

 「あぁ……なるほど」

 

 大方、貴族用のいい部屋なのだろう。ルキアの口ぶりからすると彼女も五階の住人なので、公爵家の令嬢が泊まるようなグレードだ。

 ではどうしてフィリップがそんなところに泊まれるのか。実は大貴族の隠し子で……なんて裏事情に心当たりはない。母方のご先祖様はヴィーラムの町で宿屋を営んできた由緒のはっきりした家系だし、父方のご先祖様も、ずっとヴィーラムの町で狩人をしていたはず。

 

 となるとやはり、フィリップがここに来ることになった原因が絡んでいるのだろう。

 

 「大切な生徒を爆弾と一緒には出来ません、ってことですかね」

 

 右腕の腕輪を一瞥する。

 特に行動の制限もされていないので忘れがちだが、フィリップがここに来たのは継続的な拘束の代替措置だ。

 

 召喚物を制御できない召喚術師は爆弾と同じ。しかもフィリップのそれは物理的な影響だけでなく、精神的なダメージすら負わせる特級の爆弾だ。想定通りにクトゥグアが来るにしろ、ヤマンソが横入りしてくるにしろ。だからここで魔術を学び、制御できる爆弾になってこいと、そういうことだ。

 

 まぁ、現代魔術を学んだところで、彼らを制御できるようになるという保証は無いのだが。

 

 フィリップの自嘲を受け、ルキアは即座に首を振った。

 

 「いえ、それは違うわ。だってもしそうなら、私に案内を任せないでしょう?」

 

 ルキアは最高位貴族であり、神の認めた聖人だ。学院側がフィリップを危険視しているのなら、そんな超の付く重要人物を近付けたくは無いだろう。

 だがその理屈には穴がある。ルキアは最高位貴族で、聖人だが、人類最強の魔術師でもある。爆弾の処理を任せるなら、彼女以上に確実な人材はいないと言える。

 

 「うーん……どうでしょうね?」

 「不安なら、それも含めて学長に聞きましょう。学校を案内して、最後に会うことになっているから」

 

 安心させるような微笑に敵意や警戒は見られない。学院側の意向はともかくとして、少なくともルキアに隔意は無さそうだ。

 

 「……いえ、大丈夫です」

 

 誰に隔意を持たれようが、誰に警戒されようが、どうでもいいことだ。

 どうせ遍く全てが無価値なのだから。

 

 今後も王国で生活していくため、フィリップから爆弾というラベルが剥がれ、魔術学院卒業生という綺麗なものに貼り替えられればそれでいい。

 

 「そう? 不安なことがあったら、何でも相談して」

 「ありがとうございます。えっと、次は?」

 

 ルキアはさっと思索して、学院長室までの最適なルートを構築する。

 寮から学院長室までを結び、なるべく色々な場所を効率よく経由するとして、まず始めは。

 

 「図書館に行きましょうか」

 

 



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39


 何とは言いませんが4等2枚でした


 国立魔術学院大図書館といえば、この世に存在するあらゆる書物を写本し蔵書していると言われるほど、蔵書数の多いことで有名だ。

 一般文芸から歴史書、兵法書に錬金術のレシピ本、歌劇の台本から魔術書まで、公的に出版されたあらゆる書物が納められている。

 

 その数は500万冊を超えると言われ、司書や学院長ですら、もはや何が何処にあるのかを正確に把握することは不可能だ。

 

 「おぉぉぉ……!」

 

 書棚の間を回り、開きっぱなしの口から感嘆を漏らし続ける。

 王都外で紙が貴重と言っても、羊皮紙で綴られたクオリティの低い本すら無いわけではなかった。フィリップもそれなりに本は読んでいたし、愛読書と呼べるものもあった。

 

 「す、すごい。ソロモン王の自伝、二版だ……こんな状態で……」

 

 何らかの魔術によって保護されているのだろう、経年劣化の具合はフィリップ個人の蔵書と同等か、それより少ないほどだ。

 現行版が300とか400とかその辺りなので、本が原型をとどめているだけで奇跡のような代物であるはずだが。

 

 震える手で本を元あった場所に戻し、興奮するフィリップを微笑ましそうに見つめていたルキアに向き直る。

 

 「すみません。行きましょう」

 「生徒証が発行されたら、貸し出しもできるわよ」

 「貸し出し!?」

 

 どちらかといえば図書館ではなく博物館に置かれているべき書物のはずだが、どういう管理だ。

 

 「すごい……学院すごい……」

 

 半ば放心状態でぶつぶつと呟きながら、ルキアに手を引かれて図書館を回る。

 書棚は同心円状に並んでおり、場所によってカテゴリが違うらしい。とりあえず神話の棚と冒険譚の棚は覚えておこうと気を張っていたが、残念ながらこの広大な書棚の森では、人間の記憶など大して役に立たないだろう。

 

 だが、少なくとも迷い込んで出られないということにはならないという安心感はある。

 それは円の中心部に重厚な金属の板が聳えており、威圧的な存在感を放っているからだ。

 

 「あれは何ですか?」

 

 金属製ながら、縦に6メートル以上ある大きな扉だ。図書館の中でもひときわ異彩を放っており、書棚と本が暖かさを齎すものだとしたら、それは冷たさを纏って対極にいた。

 

 扉といっても、何処かに繋がっているわけではなく、ただ空間にぽつんと聳えている。

 近付いてみると、精緻な装飾が施されているのが分かる。一部には文字も刻まれており、「神威と至高の智が我を創り、我が前に創られしものは無い」と読める。

 

 「禁書庫への門よ。一般生にアクセス権は無いから、入りたいときは私に言って」

 

 それは……駄目じゃないのか?

 まぁ禁書に指定される書物など碌なものじゃないだろう。読むだけで精神が摩耗するような劇物とか、解いたら精神の変容する魔術式とか、その手の遺物というか異物が混じっていないことを願うばかりだ。

 少なくともフィリップは入りたいとか、中の本を読みたいとは思わない。むしろ、その辺の書棚にある初級魔術の本の方がよほど興味をそそられる。

 

 非魔術師にとって、魔術は憧れだ。だが何も、天地万物を焼き払うような魔術が使いたいのではない。指先に火を灯し、腕の一振りで水を凍りつかせるくらいでいいのだ。

 領域外魔術なんて、火力が高いだけで調整の利かないそれこそ爆弾のようなものだ。強いと言えば強いが、あまりに稚拙な強さといえる。

 

 「堪能しきれていないとは思うけど、そろそろ次に行くわよ」

 「あ、はい。次は何処に?」

 「次は──」

 

 ルキアに手を引かれ、体育館、実験棟と回る。

 残念ながらどちらも個人で使用するには許可が必要で、中に入ることは出来なかった。

 

 外観だけで語るなら、闘技場然として物々しい雰囲気の体育館は何となく心惹かれるものがある。逆に異質なほど白い壁に、極限まで数を減らした窓、そしてそこに嵌った鉄格子から嫌な雰囲気を感じる実験棟には、なるべく近付きたくない。

 

 本校舎へ入り、保健室へ案内される。

 清潔に整えられた内装と、消毒液の香り。好き嫌いの分かれる雰囲気だろうが、フィリップは割と好きな空気だった。

 

 「あら、サークリス様。どうされましたか?」

 

 学校医らしき白衣の女性が立ち上がり、一礼する。

 あちらは職員でルキアは生徒のはずだが、やはり高位貴族相手では勝手が違うのだろうか。

 

 「この子の案内をしているだけよ」

 「フィリップ・カーターです。これからお世話になります」

 

 握手を交わすと、彼女はにっこりと人好きのする笑顔を浮かべた。

 

 「ステファン……よ。よろしくね」

 「? はい。よろしくお願いします」

 

 微妙な間がフルネームで名乗るのをやめたからだと気付き、ルキアが片眉を上げる。

 それは嫌悪や怒りによるものではなく、むしろ感心によるものだ。

 

 学校医ステファン・フォン・ボードは、その名前に冠する称号の通り、貴族だ。ついでに二つ名持ちなのだが、その二つの要素が持つ威圧感のせいで、保健室を利用する者は多くない。

 多少のけがや病気で訪れることはなく、相談事が持ち込まれたことは一度も無い。彼女が苦労して修得したカウンセラーとしての技能は故に一度も使われたことがない。大怪我は医者ではなく神官に診せた方が早いし、端的に言って、彼女は途方も無く暇だった。

 

 ──いや、医者は暇でいいのだが。

 

 せめて編入生には隔意を持たれないようにという意図だったのだが、ルキアは平民であるフィリップに対する配慮だと受け取った。

 

 「よろしくね。……ほんと、切実に。指切れたーとか、膝擦りむいたーとかでも全然来てくれていいから」

 「あ、はい……」

 

 なんで必死そうなのかと首を傾げつつ、保健室を出る。

 

 「最後は学院長室ね。滅多に来ることは無い場所だから、覚えなくてもいいわよ」

 「まぁ、そうですよね。何かしらの問題が起きない限り……」

 

 もともと要領はいい方だし、変なプライドがあるわけでもない。静かに大人しく、事なかれと生活するのに抵抗は無いし、呼び出しを食うこともないだろう。

 問題を起こしたからいまここにいて、問題を起こしたから隣にルキアがいるのだという都合の悪いことは忘れて、フィリップはそう楽観した。

 

 

 

 魔術学院学院長ヘレナ・フォン・マルケルは転生者だ。

 

 彼女は100年前、魔王討伐へ向かった勇者パーティの一員であり、風属性の聖痕者でもあった。

 苛烈を極めた戦いを生き残った彼女は、その生涯を賭して勇者の偉業を語り継いだ。そして自らの悲願であった魔術の極致へと至るため、その死に際して転生の魔術を行使した。

 

 ヘレナの知識は現代人のそれを遥かに凌ぎ、非常に高い魔術適性を持っている。中でも風属性は聖痕に至り、一度の死を経て、若返ってなおもその力に衰えが無いことを示していた。

 

 世界最強の一角である彼女は応接用のソファに掛け、対面に座った少年を値踏みするように見つめていた。

 

 魔術師にとって、外見から推察できる情報に大した意味は無い。無垢な少女が他人を支配する魔術を使い、よぼよぼの老翁が指の一弾きで大地震を起こす、そんな光景もありえるのだ。

 王都衛士団からの情報によると、少年は二等地を吹き飛ばした張本人だという。あの事件は魔術師の中では未熟者の失敗談としてそこそこ知られているが、その破壊の徹底ぶりには舌を巻いた。

 

 普通、召喚術師は錬金術製の建材によって構築された建造物を、跡形も残さず焼却するほどの火力は出せない。精々が家一軒を全壊させるくらいだ。それ以上となると天使や悪魔、或いは上位精霊や龍などの高位存在を使役する必要があるが、未熟な召喚術師は縁を繋ぐことも出来ないだろう。

 

 やはり──教皇庁の関係者か。

 

 衛士団長が重要人物として報告していた、投石教会に勤める二人の神官。彼らが教皇庁から派遣されたという裏付けは取れている。カーター少年が丁稚奉公に来たのは数か月前とのことだが、彼らの赴任は数年前。一見、何の関係も無いように見える。神官がカルトを嫌い積極的な行動に出たのも、カルトから救い出された子供が懐くのも、理解できる。

 

 だが、そこまでだ。

 基本的に教会の魔術、奇跡や秘蹟と呼ばれる類の魔術は門外不出だ。少し接点のある程度の少年に神父が魔術をレクチャーすることなど在り得ない。

 

 なんせ教皇庁は過去、聖人であるヘレナにすら魔術教導を許可しなかったほどだ。

 

 「君が例のカーター君ね。初めまして、学院長のヘレナ・マルケルよ」

 「フィリップ・カーターです。お世話になります」

 

 フィリップは聖痕者として広く知られる名前に反応した様子もなく、平然と握手に応じる。

 ヘレナの聖痕は右手の甲にあり、今は白い手袋によって隠されている。聖痕者に限らず聖人に──いや、余人に対する興味の薄いフィリップは、少なくとも即座に彼女が何者かに思い当たることは出来なかった。

 

 「その腕輪は、もう外してくれていいわ」

 

 一定値以上の魔力を吸収する腕輪。相手を過剰に傷付けることの無い、拘束具としてポピュラーなものだ。

 フィリップが外したそれを受け取ると、掌の上でぴしりと音を立てて真っ二つになる。規定量を大幅に上回る魔力を流し込まれたことによる自壊もまた、この腕輪を扱うのなら珍しくない光景だ。

 

 今まで壊れていなかったということは、フィリップの魔力量は一般人並み──つまり、魔術師としては下の下。やはり、あれだけの大破壊を起こせるような器ではない。彼がその尖兵あるいは諜報員である可能性も薄いだろう。

 

 となれば、警戒すべきは彼ではなく教皇庁だ。

 カーター少年を使って何をする気なのか、それを明らかにするか、少なくとも彼の安全を確保する必要がある。

 

 「──学長?」

 「あぁ、失礼。この時間って眠くなるのよね」

 

 夕刻の暖かな日が差す学長室、特に柔らかな椅子やソファは誤魔化し抜きで眠くなる。ルキアは不愉快そうな視線を向けるが、フィリップは苦笑するに留めた。

 

 「とりあえず、適性検査をしましょうか。この結果でクラスが決まるけど、気負わずね」

 

 検査と聞いて身体を強張らせたフィリップに安心させるような微笑を浮かべる。

 フィリップに対して何かをするとか、そういった工程は無い。むしろその逆。フィリップが魔術を使い、それをヘレナが検分するのだ。

 

 「ここじゃ手狭だし、体育館にでも行きましょうか」

 

 だったら初めから体育館で集合にしろよと言いたげな視線を向けてくるルキアを一瞥して、彼女の変化を祝福するように笑いかけた。

 

 

 



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40

 ルキアと手を繋いで歩きながら、フィリップは内心の焦りを表情に出さないように必死だった。

 

 魔術師が魔術を使うのは、健常な人間が走ったり、跳躍するようなものらしい。その速さや飛距離は才能や努力によって大きな個人差があるが、少なくとも全く走れないし跳べないという者はいないだろう。

 魔術師である以上、魔術の強さや詠唱速度に個人差はあれど、魔術が全く使えないということはない。

 

 だが、それは現代魔術の話だ。

 フィリップが使える召喚魔術は領域外魔術。出てくるモノはさておくとしても、その体系から全く違う。現代魔術の心得などなく、使える魔術はゼロ。最低限起動詞を覚えている魔術と言えば、ルキアの見せた『粛清の光』と『明けの明星』くらいだ。当然ながらあんな高等魔術を使える訳も無い。

 

 さてどうするかと頭を悩ませていたが、その時間も体育館に到着したことで終わる。

 内部も外観同様闘技場かスタジアムといった風情だが、体育の授業ではなく実戦を想定した魔術訓練に使われる施設なので、あながち間違ったレイアウトではない。

 

 ヘレナが倉庫らしき場所から金属製の人形を引き摺ってきて、フィリップの前にどさりと置く。人形と言っても精緻な人型ではなく、横棒の折れた十字架に近いフォルムだ。ずんぐりとした胴体は支え無しに自立可能ではあるが、強い衝撃を加えれば倒したり吹き飛ばしたりできるだろう。

 如何にも標的ですといった風情の人形を示し、ヘレナはさも当然のように言う。

 

 「錬金術製の対魔術標的人形よ。大抵の魔術には抵抗すると思うから、遠慮なく撃っちゃって!」

 

 ことここに至っても上手い誤魔化し方が思い浮かんでいなかったフィリップは、大人しく挙手して自己申告することにした。

 

 「あの……実は、普通の魔術を使ったことがなくて……どうしたらいいですか?」

 

 学院長は一言「ふむ」と納得したように頷き、ぐっと親指を立てた。

 

 「じゃあ、例の召喚魔術でもいいわ!」

 「いや、駄目でしょ」

 

 仮にも魔術学院の施設だ。二等地の民家より魔術防護が弱いということはないだろう。

 学院長もそれを加味した上で、二等地の一角を吹き飛ばすような魔術でも大丈夫だと言っているのだろうが、問題はそこではない。

 

 ちらりとルキアを見遣ると視線が合い、「どうしたの?」と首を傾げられる。

 それに答える余裕も無く、優雅な雰囲気を纏う黒いゴシック調のワンピースを一瞥し、次いで彼女も無価値と言った聖痕を見る。

 

 ルキアはシュブ=ニグラスの名を聞いただけで()()なった。

 召喚の呪文を黒山羊やカルトが用意していた祭壇や儀式場によって省略し、最後の一節、その名を讃える箇所を聞いただけでだ。名前が毒だと知ってはいたが、具体例を突き付けられるとより理解が深まる。

 

 あれは人前で詠唱していい魔術じゃない。いや、人前じゃなくても限りなく駄目なのだが。少なくとも余人の耳のある場所では避けた方がいい。

 

 「大丈夫よ。理論上、サークリスさんの魔術でも──」

 

 ジュッ、と、熱した鉄板に水滴を落としたような、一瞬の軽い蒸発音が鳴る。

 一挙動すら要さず行使されたルキアの魔術が夕日を収束させ、金属人形に大穴を空けていた。

 

 「私の魔術が、何か?」

 「…………高かったのに」

 

 真顔になった二人の間で右往左往しつつ、必死に頭を回転させる。ヤマンソは論外、クトゥグアも火力過多、かといって現代魔術は全く使えない。

 適度に火力があり、制御できる可能性があり、二人を発狂させることの無い解決策──。炎の精? いやいや、あれ単体を呼ぶ呪文なんて知らない。クトゥグアを呼び、それを介して使役することは出来るだろうが、そもそもクトゥグアを呼ぶのがあまりにハイリスクだ。

 

 「いえあの、アレは制御に難があるというか……いろいろ問題があって……」

 

 ごにょごにょと言い訳するフィリップを安心させるように、ヘレナは肩に手を置いて笑いかける。

 

 「大丈夫。いざとなったら、私たちが止めるから」

 

 いや、無理だろう。

 何が出てくるかはフィリップ自身すら分からない、クトゥグアかヤマンソの二面コイントス。クトゥグアが出ればフィリップが制御することも可能かもしれないが、ヤマンソに関してはたぶん無理だ。

 そしてどちらが出るにしろ、人間の魔術が通じる相手ではない。

 

 「えーっと……」

 

 仕方ない。なるべくコレはやりたくなかったのだが──

 

 「《接続招来:炎の精》」

 

 囁くような詠唱。

 現代魔術に精通した彼女たちが聞いたことも無い起動詞に目を瞠り、咄嗟に魔術防御を展開する。

 

 一秒、五秒と時間が経過し──何も起こらない。

 

 当然だ。

 領域外魔術に《接続招来:炎の精》などという魔術は存在しない。ありもしない魔術の、存在しない呪文を唱えたのだ。何かが起きたらフィリップが一番驚く。

 

 フィリップがとった手段、それは「でっち上げ」だ。

 適当な魔術をでっち上げ、当然のように失敗し、失敗しちゃったてへへ、で終わり。誰も発狂せず、何も壊さない、最良の手段と言える。

 

 もし万が一現代魔術に《接続招来》という起動詞を持つ魔術があったとしても、現代魔術の発動には起動詞の暗記詠唱だけでなく、魔術式の理解も必要だ。当然ながら、適当ぶっこいただけのフィリップがそれを発動させることは無い。

 

 「──失敗みたいです」

 

 駄目でしたえへへ、と。そんな感じの照れ笑いを模して顔に貼り付ける。

 通じるかどうかで言えば不明だが、自信の有無はと聞かれれば無いと答えるレベルの演技だった。

 

 「……そうみたいね。大丈夫よ、そういうことも珍しくないから」

 

 ヘレナはそう言いつつ、内心は穏やかではなかった。

 

 フィリップはいま一切の魔力操作をしていなかった。つまり魔術は失敗したのではなく、端から行使の意志が無かったということだ。

 学院長である自分にすら、或いは自分にだからこそ、魔術を秘匿した。それが彼の意志なのか、教皇庁の指示かは分からない。だがどちらにせよ、彼の魔術は秘匿されるべきものだということか。

 

 警戒心が渦巻き、それを倍する好奇心が鎌首をもたげる。

 

 好奇心は大切だ。

 それは人間がここまで文明を発展させるのに大きく寄与した要因であり、知性あるモノが持つ正当な権利であり、あらゆる知識の源であり、唯一神の定めた死という理をヘレナが捻じ曲げるに至った理由でもある。

 

 未知は怖い。

 100年前の魔王大戦、あれは未知の魔術と未知の攻撃のオンパレードだった。仲間が死に、街が滅び、国が潰れた。未知の魔術で、未知の攻撃で。どうすれば防げるのか、どうすれば躱せるのか、どうすれば守れたのか。天才魔術師と呼ばれ、聖痕を刻まれたヘレナは、未知の洗礼を受け、未知を恐れた。

 

 だから──未知を、失くそうと思った。

 

 「──あの、学院長?」

 「あぁ、失礼。大体分かったから、今日は帰ってくれて結構よ。また月曜日にね!」

 

 親しみやすい笑顔を浮かべ、サムズアップしてみせる。

 フィリップは安堵したような溜息を吐き、一礼して去っていった。

 

 「……一緒に帰らないのかい?」

 

 終始フィリップに熱い視線を送っていたルキアを揶揄うが、返ってきたのは見定めるような視線だった。

 

 それを叱りつけるべきか、ヘレナは判断しかねる。

 

 ヘレナの実家マルケル家は侯爵位だが、ルキアの実家サークリス家は公爵位。侯爵位の中でも下の方のマルケル家と国内最高位貴族では、出店の焼き鳥と一等地のレストランで出てくるソテーくらいの差がある。

 

 だが、ヘレナは聖人だ。爵位のような俗世の立場には縛られない地位にある。それはルキアも同じで、しかも彼女は二属性の聖痕を刻まれている。聖痕の数と偉さに関係はないが、単に一属性の頂点と異なる二属性の頂点では重みが違う。しかも光属性と闇属性──唯一神が世界で初めに創造した『光』と、それ以前より存在していた原初の『闇』。自然六属性と並んで表される中で、格別に強力だと言われる二属性のハイブリッド。

 

 公的な立場に何か差があると言われるわけではないが、魔術師の中では常識だった。

 

 そして表向き、魔術学院の中ではあらゆる公的権力が失効するとされている。

 教師と生徒。その関係性だけが存在し、生徒間に存在する上下関係は先輩後輩と、あとは生徒会くらいのもの。爵位による区別、貴族と平民の差別を失くし、ただ魔術の才のみによって自らを誇れと。ヘレナがまだ学生であった時分からの習わしだ。

 

 だが、その風習も廃れて久しい。

 一応入学時や始業式などで周知してはいるが、効果のほどは微妙だ。

 

 一部の逸材、ルキアや第一王女のような規格外の魔術師ほど、この規則を守る傾向にある。彼女たちは国王──いや、この王国という体制そのものすら、己が魔術によって屈服させられるからだろうが。

 

 さておき、ヘレナは教師で、ルキアは生徒。ここはやはり不遜な目つきを咎めるべきかと息を吸って、

 

 「彼をAクラスに入れて。それだけよ」

 

 言うだけ言って、彼女はフィリップの後を追って出て行った。

 

 行き場を失くした息を吐き、空を仰ぐ。

 

 言われずとも、最上位クラスであるA組への編入は決定事項だ。これはルキアがどうこうではなく、衛士団から彼の引き起こした破壊の規模を聞いた時点で決定している。

 ルキアと、彼の背後にいる何者かも、それは分かっているだろう。

 

 その思い通りに動くのも癪だが、それが最も合理的な判断であることも確か。

 

 苛立ちを舌打ちに変えて晴らし、呟く。

 

 「教皇庁……何を考えているのやら」

 

 

 



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41

 評価への返信で前書きを使うとかいう妙案を思い付いた。
 が、なんか余程の暴言とかが飛んでこない限りは高評価にニヤニヤし、有益な低評価に相槌を打つだけです。返信が欲しい場合は感想欄でオナシャス!



 翌朝。これまで使ったことも無いような高級ベッドは、フィリップに極上の睡眠を齎した。

 もともと寝つきはいい方で、寝起きもそこまで悪くない。だが横たわってからほんの数十秒で眠りに落ち、二度寝の誘惑を容易く振り払えるほどすっきりとした目覚めを迎えるというのは、ここ最近無かったことだ。

 

 それが貴族向けベッドの力なのか、或いは邪神という超のつく高ストレス源から離れたことによるものかは不明だ。たぶん、その両方だろう。

 

 魔術学院学生寮──最高だ。

 

 洗面所で顔を洗い、部屋を出る。そのまま寮を出て食堂へ向かい、適当に空いた席で食事を摂る。

 1000人規模の学生を擁するだけあって、生徒たちも全員の顔を覚えているわけでは無いのだろう。見知らぬ顔に興味を示すことはない。時折同年代にしては小さな身長や幼い顔立ちに「おや?」と怪訝そうにする者もいるが、すぐに「そういう奴もいるか」と興味を失う。

 

 ナイ神父が用意してくれたトランクには制服の他に、見苦しくない程度に仕立てのいい私服とパジャマが入っていたので、都合よく(有難く、ではない)使っている。おかげで生徒たちの中に紛れ込んでも、とりあえず即座に「なんだこいつ?」と遠巻きにされることは無い。大人しく食事を摂り、さっさと部屋に戻って予習でもしよう。

 

 生徒が友人たちと楽しそうに朝食を摂り、会話と食器の立てる音が喧騒を作る。

 平和だなぁ、と、柔らかいパンを頬張りつつ、なんだか涙腺が緩んでくるフィリップ。その隣に音を立てずにトレイが置かれ、椅子が引かれた。

 

 「おはよう。ここ、いいかしら?」

 「はい、どうぞ…… あ、おはようございます、サークリス様」

 「えぇ、おはよう。よく眠れたみたいね」

 

 穏やかな笑みを浮かべたルキアの手が伸びる。フィリップの頭を何度か撫でて、彼女は可笑しそうにくすくすと笑った。

 もしかして、とフィリップが撫でられた箇所に手を遣ると、掌にぴょこぴょこと当たる感触がある。一応洗面台で確認したのだが、一部の寝癖が直りきっていなかったらしい。

 

 照れ笑いを零しつつ、本当に平和だなと胸が詰まる思いだ。

 

 「今日、何か予定はある?」

 「いえ、特には。予習でもしようかなとは思ってましたけど」

 

 魔術の適性が無い者はどれだけ魔術を練習しようと、その適性が伸びることは無い。というより、練習のしようがない。

 

 剣でも弓でも、或いは跳躍や登攀でもいいが、何かしらの技能を練習するときに漫然とやっては意味がない。反復動作の中で自分が「これだ!」と思えるような会心の動作を経験し、コツを掴むのが重要だ。だが適性の無い者は何度魔術を行使しようと、成功することが無い。コツを掴む以前の問題だ。

 

 それを知るルキアは軽く思索する。

 ここで「それは無意味だ」と突き付けたところで、フィリップのやる気を削ぐ以外の結果は産まないだろう。それはあまりにも非建設的だ。

 

 「じゃあ、まずは魔術理論から勉強しましょうか。私が教えてあげるわ」

 

 実践ではなく理論分野であれば、やって身に付かないことはない。テストの役に立つくらいの生産性もある。 

 

 フィリップにとっては未知の分野、未知の学問だ。

 表情を強張らせ、硬く頷く。

 

 その顔のまま食事を再開したフィリップを可笑しそうに見つめて、ルキアも朝食を摂ることにした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 二人が食事を終えて立ち去った後、食堂は騒然としていた。

 

 無理もない。

 あのルキア・フォン・サークリスが他人と食事を摂るというだけで極めて珍しいのに、穏やかな微笑を向けるところなど見たことが無い。しかも異性。

 

 普段から誰かと連れ添うことの少ないルキアが誰かを側に置くというのは、その場所を熱望しているファンや、逆にその場所に誰かが居ることでルキアの完全性が損なわれると考えるファンにとって、とても許容できることではない。と言ってもまさか聖人であり最高位貴族でもあるルキアに正面から「誰よそいつ!」などと喧嘩を売れるわけも無く。

 

 「おい、さっきのチビって一年か? 誰か、同じクラスの奴ー?」

 

 食堂に居た生徒たちが互いに顔を見合うが、手を挙げる者はいない。

 いやいやそれは可笑しいだろうと、初めに声を上げた生徒が重ねて問いかける。

 

 「A組の人ー?」

 

 一番可能性が高いのは、やはりルキアと同じAクラスか。

 意図の明確な質問に数人が挙手するが、その答えは全員が一致し、そして食堂にいた者の期待を裏切るものだった。

 

 「はーい。でも、知り合いじゃないぞ?」

 「え? そんなことある?」

 「Aクラスじゃないのは確か。てかいくらチビとはいえちっさ過ぎたよな? 10歳ぐらいじゃなかった?」

 

 フィリップの近くに居た数人が「そういえば」「確かに」と頷き合う。

 誰かが「弟とかじゃない?」と呟き、幾人かがそれに納得したように手を打つ。しかし、また別の生徒がそれを否定する。

 

 「いえ、サークリス公爵家にルキア様より年下のご子息はいらっしゃらないはずよ」

 「そういえば、確かに。……え? じゃあホントに誰?」

 

 学年・性別どころか知人かどうかという枠すら超えて、食堂に居た生徒全員が顔を突き合わせて同じ問題に挑む。学校としては素晴らしいと拍手し、データを取るべき状態なのだろう。

 だが、その問題がいち生徒のゴシップというのは些か問題だった。

 

 「ちょっと、誰かサークリス様に聞いてきてよ」

 「いや、それは流石に……」

 

 別にルキアが誰と一緒にいようと、彼らがそれに口を挟む権利は無い。それは交友関係に限った話ではなく、あらゆる公権力と隔絶した立場である聖人で、最高位貴族で、最強の魔術師であるルキアのやることに文句を付けられる者が一体何人いるのか。

 

 「ま、まぁ待て。ここで朝食を摂ったということは、寮暮らし──少なくとも昨日泊まったのは確かだ」

 「泊まった……!?」

 「アホ、流石に女子寮なワケないだろ」

 

 ほっとした空気が流れるとともに、寮というワードが幾人かの生徒の記憶を励起した。

 

 「あ、そういえば……」

 

 もったいぶって空けた間に、狙い通り食堂の全員が注目する。

 演出に気を遣っただけあって、彼の持っていた情報はかなり核心的なものだった。

 

 「昨日、サークリス様が一等馬車でどっか行ったじゃん? 帰ってきたところを見たんだけど、誰かをエスコートしてたぞ」

 「エスコート!?」

 

 公爵家の次女ともなれば、普通はエスコートを受ける側だろう。彼女より位の高い女性に同行するときは例外だが、その例外も一人しか心当たりが無い。

 その「例外」はいま公務で国外に居るはずだし、少年とは無関係だろう。だが、そのレベルとなると──

 

 「ジェヘナ、いや教皇庁の関係者じゃないか? 枢機卿のご子息とか……?」

 「いやー……あのサークリス様だぞ? その程度の相手をエスコートするか?」

 

 傍若無人を地で行く第一王女ほどではないが、ルキアもその力ゆえ他人や権威を省みない傾向にある。唯一神への信仰心はともかく、宗教としての一神教には一片の敬意も無いだろう。

 

 「確かに……。じゃあ誰なんだよ!?」

 「わ、わからん……。今度会ったら聞いてみるか。……男子の方に」

 

 ルキアにではないと明言した生徒に「まぁ、うん」という諦めと理解の視線が向けられる。この場の誰もルキアに物申す度胸は無かった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 魔術は道具だ。

 

 目的達成のため最適な魔術を行使するのが魔術師のあるべき姿であり、魔術の行使そのものを目的としてはならない。

 

 ──と、魔術理論の教科書は序文でそう述べているが、フィリップにとっては取り敢えず魔術を使うのが目標だった。

 

 対価を支払えば誰にでも習得・詠唱可能な領域外魔術とは違い、現代魔術はその資質の大部分を先天的な才能に依存する。生まれ持った魔術適性がゼロの者は100の努力を積み重ねたとしても、ただ100の時間を浪費するだけに終わる。だが100の才能を与えられた者は、一片の努力も無しに100の結果を出せる。

 

 学院長は魔術を行使する瞬間を見れば適性を判別できると言うが、フィリップに関してはもっと客観的な証拠がある。

 衛士団が使う魔力拘束の腕輪だ。通常レベルのそれは、ルキアやヘレナが付ければ一瞬で崩壊する程度のもの。一般的な魔術師でも1週間から10日ほどで壊れるはずだ。それが2週間そこら耐えたということは、魔術適性、特に魔力量は著しく低い。

 

 フィリップが向こう100年、いや1000年の間血を吐くような努力をしたところで、ルキアやヘレナの域に至ることは無いだろう。いや、一般的な魔術師レベルになれるかも怪しい。

 

 だがそういった天賦の才を持たない者が魔術に携わることが無いのかと言われれば、それはNOだ。

 魔術師と科学者の中間に位置する錬金術師、召喚物の補助を受ける召喚術師、医学をベースに一つの道具として魔術を使う治療術師など、魔術戦に特化したいわゆる「魔術師」以外にも、広義の意味での魔術師は多い。

 

 フィリップは幸い召喚術師に適性があるようだし、難易度の高い攻撃魔術や防御魔術といった直接戦闘系の魔術に傾倒する必要は無さそうだ。

 

 それにマザーの薫陶を受け、ナイ神父に教導されたというフィリップは、意外にも魔術理論についての知識がある。現役の学院生ほどではないが、在学期間で最も簡単と言われる一学年前学期の中間試験程度であればパスできる知識量があり、理解の深さもかなりのものだ。

 

 「これなら、有用な魔術式を幾つか暗記して、変数を代入した時の演算速度を磨いた方が良さそうね」

 

 楽しそうなルキアとは対照的に、フィリップの表情は真剣そのものだった。

 なんせ、最強の魔術師から直々に魔術を教わるのだ。気合も入る。それもワンミスで世界が滅びるかもしれない領域外魔術とは違う、健全な気合の入り方だ。

 

 「よろしくお願いします」

 「えぇ、よろしくね。早速だけど、教科書を出して?」

 

 学院長も編纂に関わったという魔術理論の教科書。指三本ほどの太さがある大判の本には、魔術理論の基本事項が全て詰まっていると言われている。

 フィリップも荷物の中にこれを見つけた時にさらっと読んでみたが、流石に難解だった。一人で取り組もうとすればすぐに限界が来るだろうと推察できたが、先生がいるとなれば話は別だ。

 

 「まず始めに──」

 

 

 詳細は省くが、ルキアは意外と厳しい先生だった。

 

 

 



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42

 昼食を摂りに食堂へ向かうと、その場にいた生徒たちの視線が一斉に集中した。

 

 大人数から注目されることに慣れていないフィリップが思わず立ち止まるが、ルキアは慣れているのか気付いていないのか、急に立ち止まったフィリップに不思議そうな顔を向けた。

 

 「どうかした?」

 「え、あ、いえ、何でもないです……」

 

 ルキアが食堂へ向き直る瞬間に視線が散り、台本でもあるのかと聞きたくなるようなタイミングの良さに苦笑が浮かぶ。

 

 列に並び、ランチセットのトレイを受け取る。

 あらかじめ見繕っておいた空席に向かおうとすると、ルキアが逆方向へ足を向けた。

 

 「あそこ、空いてますよ?」

 「えぇ、そうね。でも、もっといい場所があるわ」

 

 先導して歩き出したルキアに付いて行くと、他の席からは見えない奥まった位置に、四人掛けのテーブルがぽつんと一セット設置されていた。

 校庭の見える窓際ということもあり、隔離された場所のくせに明るく開放感がある。さながら特等席──いや、事実、ルキアが普段から独占している特等席なのだろう。

 

 「確かに、いい場所ですね」

 

 ここだけ食堂というよりテラスのような感じだ。

 清涼さの中に儚い雰囲気が重なり、正面に掛けたルキアにはとても似合う。フィリップはおまけだ。

 

 「でしょう? 朝はここで待ち合せね。昼と夜は一緒に来ればいいから」

 「分かりました」

 

 男子寮と女子寮は別の棟だし、一緒に来るというのは現実的ではない。とはいえ朝の混み合う時間帯で互いを見つけるのは至難の業だ。髪色や存在感などで目立つルキアはともかく、容姿が平凡で、そのうえ背丈の低いフィリップは簡単に埋もれるだろう。

 こうして定位置を決めておけば合流しやすいし、ここは先客に取られることも無い。いいアイディアだ。

 

 昼間はずっと一緒にいる前提で話しているが、二人ともクラスが別になるという可能性については考えていない。

 ルキアは完全に『フィリップをAクラスにしろ』という自分の要求が通る前提で考えているし、フィリップはクラス分けのことなど何も考えていない。

 

 「食べ終わったら、今度は五元魔術式に挑戦してみましょうか。五元の示す五つの要素、覚えてる?」

 「発動位置、発動対象、遅延時間、残留時間、消費魔力の五変数……でしたっけ」

 「正解よ」

 

 フィリップの答えをさも当然のように採点し、ルキアはふと首を傾げる。

 

 ルキアが3歳か4歳のときに通過した場所だが、学院のカリキュラムでは何年生の単元だったか。

 ……まぁ、いいか。

 

 「代入するべき数値が増えれば増えるほど、魔術の持つ多様性も増えるわ。けれど、魔術式が複雑だから強い魔術とは一概に言えない」

 「そうですね」

 

 何がどうなっているのかまるで分らないほど複雑なうえ、解いても碌な結果にならないナイ神父の魔術式を思い出して頷く。

 

 こうして魔術に触れれば触れるほど、あのクルーシュチャ方程式の異常性が良く分かる。

 

魔術式はあくまで魔術の実行に必要な要素や行程を数式化した、いわばイメージだ。だがナイ神父オリジナルだというあれは、本当に単なる数式なのだ。そのくせ解けば魔術的な現象が起こるという、ちょっと何言ってるのか分からないシロモノである。

 

 「……ちょっと水を取ってきます」

 

 コップを持って立ち上がり、厨房の側へ向かう。

 ちらりと生徒たちの方を見ると、ほぼ全員がフィリップの方をじっと見つめていた。

 

 思わず振り返り、背後に何かあるのか確認するが、何の変哲もない壁があるばかりだ。少し進むと視線が追従してきて、フィリップの勘違いや自意識過剰ではないと分かる。

 服装を目視で、顔や髪形を手で触って確認するが、何もおかしなところは無い。

 

 じゃあ何だよ、怖いよ。

 思わず後退るフィリップの方に、一人の男子生徒が近付いて来た。

 

 「あの、ちょっといい……ですか?」

 「え、はい。何か……?」

 

 ぎこちないというか、どこか気後れしたように話しかけられ、フィリップも思わず素で対応してしまう。仕事だと思えばもう少しきちんと対応できたのだが。

 

 「あの、サークリス様とはどういったご関係で……?」

 

 食堂の空気が一気に緊張に包まれ、全員が息を呑んで耳を傾ける。

 それを感じ取ったフィリップは困惑しつつ、どう答えるべきかと考えた。

 

 「友人」というのは当たり障りのない答えのように思えるが、ルキアは公爵令嬢、フィリップはただの平民だ。彼女の立場を思えば、あまり褒められた答えではない。

 かといって、単なるオリエンテーションの担当と編入生というには仲がいい、か。何も考えていなかったが、ここは向こう3年間過ごす場所だ。ルキアのため、フィリップのため、迂闊な言動は避けるべきだろう。

 

 「以前にサークリス様に助けて頂いたことがあって。恩人、と言えば、的確でしょうか」

 

 正誤で言えば限りなく誤に近い。

 森の一件はフィリップが彼女たちを巻き込んだというべきだが、こう言っておけば少なくともルキアの評判が下がることは無いだろう。

 

 フィリップの答えを受け、生徒たちの雰囲気が変わる。

 困惑が半分、安堵が半分といったところか。高い地位にあるルキアが平民と交わるのは善しとされないだろうし、安堵は分かる。が、その困惑はなんだ。

 

 「そ、そうですか。お時間をありがとうございました……」

 「あ、いえ、どういたしまして……」

 

 何故か慇懃で、そして態度がぎこちなかった生徒が一礼して去っていく。

 なんだ今の、と首を傾げて、当初の目的通り水を汲んで席に戻る。

 

 「遅かったわね?」

 「そうですか? ちょっと混んでましたけど」

 

 適当に誤魔化して食事を再開する。

 口裏を合わせようという発想どころか、数秒前の困惑のことなどすっかり忘れ、王都でも最高級の料理に舌鼓を打った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 魔術理論を学ぶ上で最も重要なのは、読解力でも記憶力でもない。

 残念なことに、魔術理論を伸ばす上での最適解は、実践だ。つまり、魔術式の構築と演算による魔術の行使。

 

 師がどれだけ「こういうものだ」と教え、知識でどれだけ「こういうものだ」と知っていても、自分で魔術を使ったときの納得感の有無は大きな差になる。

 百聞は一見に如かず、百見は一考に如かず。そして百考は一行に如かず。

 

 身の丈に合わない知識を与えられたフィリップは、それをよく知っていた。

 

 せめて簡単な初級魔法でも使えたら、予習の行き詰まりも晴れるはず。

 魔術理論の教師役を買って出てくれていたルキアにそう言うと、彼女は体育館を翌日まる一日貸し切りにしてくれた。

 

 恐るべきは聖人の発言力というべきか、或いは公爵家のか。最上級のカードを二枚も持ったルキアが一番のジョーカーだろう。

 

 「魔術を使ってみたいのよね?」

 「はい」

 

 ルキアはさっと思索し、指を二本立てた。

 

 「非魔術師である貴方が魔術を使う方法は概ね二つ。一つは勿論、努力すること。理論上、非魔術師が魔力操作能力を後天的に会得する確率は著しく低いけれど、ゼロではないわ。死ぬまでの間、死ぬほど努力すれば、もしかしたら上振れを引けるかも」

 

 人間の寿命、約60年から70年の間、身を削るような努力をして上振れを引けるかどうか。

 それで才能が開花したとしても、ルキアのような天才は数秒の研鑽も無くそれ以上の結果を出すし、それは一般の学院生でも同じことだ。

 

 残酷なまでの、才能による格差。

 努力ではどうにもならないからこそ、魔術師はこうして王都に囲い込まれ、優遇されているのだろうが。

 

 「もう一つは、熟達した魔術師に魔力操作を任せること。その人の魔力で、その人が魔術を使うけど、魔術式の演算と起動詞の暗唱は他の魔術師が行うの」

 

 ルキアはさも当然のように言い、フィリップは無知ゆえに「へー、魔術師ってすごいなぁ」と感心しているが、これは王国法では犯罪に当たる。

 

 魔術師が非魔術師を介して魔術を使うということは、その非魔術師を魔力タンク兼砲台として使うということだ。

 法施行以前には、魔術師が魔力操作を誤れば自爆してしまうような危険な魔術や、全魔力≒命を代償とするような大魔術・黒魔術の類を他人に使用させる者がいた。

 

 このままでは魔術師による非魔術師の家畜化、或いは道具化が始まると危惧した当時の国王がこれを禁じ、その手法を記した魔術書は全て王城の禁書庫へと封じられた。のだが──まさか後世の天才が、独力でその理論と手法を再現するとは思わなかったのだろう。

 

 「今から試すのはそれね。私が魔術を使うのをすぐ側で見て、感じて、コツを掴むの」

 「なるほど。よろしくお願いします!」

 

 フィリップが何をするわけでもないが、せめて感覚を研ぎ澄ますくらいはと気張る。

 それを微笑ましそうに眺めてから、ルキアはフィリップの背後へ回り込み、背中に手を当てる。

 

 「早速だけど、準備はいい?」

 「はい!」

 

 フィリップの背後、ルキアの存在感が数倍にも増す。

 その心拍、息遣い、微かな腕の震えまでもが察知できるほどに。

 

 奥へ、奥へ、フィリップという存在の深部へと、不可視の手が伸びてくるような感覚がある。

 ルキアの手はずっと背中に当てられたままのはずだが、フィリップは彼女に抱擁されているかのような錯覚に陥りそうだった。

 

 全身を、いや、存在の核を、柔らかく甘やかに愛撫されているような、快と不快との中間に浮かぶような奇妙な感覚だ。

 

 やがてその感覚も薄れ、フィリップの奥底へと延びていた手が引いていく。

 ルキアが背中からそっと手を放すのを感じて、フィリップは不思議そうに振り返る。

 

 魔術を行使したような感覚は無かったが、もしかして見落とした──いや、感じ落としたのだろうか。

 

 「これは……」

 

 困ったような、悲しむような、貼り付けた微笑を向けられ、フィリップの肩にも力が入る。

 ルキアは少しだけ黙考し、決心したように頷いた。

 

 「率直に言うわね? 貴方の魔力量だと、使える魔術は物凄く少ないわ。たぶん、中級魔術が限界だと思う」

 

 三秒、五秒、十秒と時間が経ち、ルキアはフィリップの、フィリップはルキアの言葉を待つ。

 

 「……え? それだけですか?」

 

 と、ルキアの言葉がそれで終わりだと気付いたフィリップが確認する。

 予想とは違う反応に、ルキアは首を傾げつつも頷く。

 

 多種多様な上級魔術を使いこなすルキアにしてみれば、フィリップの魔力量で切れるカードの少なさは絶望的なものとすら言える。

 だがフィリップにとって、現代魔術はそこまで重要ではない。勿論使えるに越したことは無いが、暖炉に火を灯し、コップの水を凍らせるくらいでいいのだ。魔術戦、正面から攻撃魔術を撃ち、防御魔術で相手の攻撃を防ぐといったレベルは求めていない。

 

 フィリップに現代魔術の才は無い。それはナイ神父のお墨付きだ。

 だが、現代魔術だけが魔術ではない。現代魔術と比べて多様性と汎用性に欠け、多大な代償と危険を伴い、ついでに味方や環境を含めた周囲に害を及ぼす領域外魔術。あれはしかし、最高火力という点では現代魔術に大きなアドバンテージがある。

 

 正気度減少無しに領域外魔術を行使でき、召喚した邪神が反逆あるいは暴走したとしても、フィリップにだけは害を及ぼさない。正確にはヨグ=ソトースの庇護によって害を及ぼせないのだが、それはさておき。

 領域外魔術のデメリットをほぼ全て無視できるという意味で、フィリップは非常に高い領域外魔術の適性を持つ。過剰な火力と周囲への汚染を無視できないという点で、これも中々切れないカードではあるが。

 

 対人・対神話生物を問わず、一対一の殺し合いになったとき、わざわざ現代魔術を使うことは想定していない。さっさとクトゥグアを召喚し、あとはよろしく。それで終わりだ。

 だが領域外魔術では、たとえば野営の時に火を熾したり、飲用水を作り出したりはできない。そういう汎用性と利便性を持つのは現代魔術だ。

 

 「初級魔術は、どんなことができるんですか?」

 「え? そうね…… 火球を作って撃ち出したり、氷の槍を射出したりとかかしら。光属性なら……」

 

 ルキアの片手に丁度収まるサイズの光の球が、もう片方の手には同サイズの雷を固めた球が浮かぶ。

 

 「こうして明かりを灯したり、電気を操作して弾丸にしたりできるわ。でも──」

 

 体育館の片隅に捨てられたように転がっていた、ルキアが昨日魔術で大穴を空けた標的人形が雷の弾丸に撃ち抜かれる。

 

 穴が二つに増えるかと思ったが、魔術はその表面で弾けて消えた。

 

 「威力は低いし、抵抗されることもあるし、あまり強くないわよ?」

 

 フィリップが求めているのは、火力面での単純な強さではなく、汎用性と利便性だ。

 氷室代わり、火打石代わりになればそれで十分。

 

 そう伝えると、ルキアは不思議そうにしつつも、フィリップがその域に至るまでは練習に付き合うと言ってくれた。

 

 「じゃあ、初級魔術を使ってみるわね? 集中して──」

 

 もう一度フィリップの背中に手を当て、魔力操作を始める。

 

 日曜日をまる一日費やして、フィリップが習得できた魔術はゼロだった。

 

 



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 意外かもしれないが、魔術師にとって最も重要なのは『体調管理』だ。

 

 魔術師は魔術の行使に際して、記憶力、計算力、集中力などを高い水準で要求される。当然ながら、魔力もそうだ。

 日頃の訓練によって鍛えられたそれらはしかし、万全な体調でないと100%のパフォーマンスを発揮できない。栄養不足、睡眠不足などは脳の働きを著しく低下させ、魔力の回復効率も落とす。

 

 そう考えると、野外訓練は整った環境に慣れた彼ら学院生を劣悪な環境に置き、その重要性を理解させるいいカリキュラムなのかもしれない。

 それはさておき、高度な技能を持つ魔術師を育成するための学院は、生徒の体調管理に非常に重きを置いている。

 

 特に睡眠への力の入れようは素晴らしい。

 基本、消灯は22時頃。20時以降のカフェイン摂取は制限され、消灯時間以後に騒いでいる者には罰則が課される。勿論、部屋で静かに起きている分には大丈夫だが、推奨はされない。

 

 ベッドはふかふかで、沈み込むような穏やかな眠りを提供してくれる。

 宿にいた時分は他の客の気配で起きてしまうこともあったが、厚い壁と全員が一斉に眠る環境のお陰で、フィリップも快適な眠りを得られた。昨日丸一日、習得することもできない魔術を延々と使い続け──ルキアの補助あってだが──魔力枯渇気味だったのだが、倦怠感は一片も無い。

 

 それはいい。それは大変に素晴らしいのだが──

 

 「ッ!?」

 

 跳び起き、カーテンを払って窓の外を見る。

 ちょうど朝日が地平線から顔を出し、白亜の王城と校舎を清涼に照らすところだった。

 

 時刻にして五時半といったところか。全然余裕の目覚めだが、フィリップは深く安堵の息を零した。

 

 寝坊などいつだってしたくはないが、今日だけは特に不味い。

 なんせ、今日はフィリップの初登校日なのだから。

 

 二度寝するには微妙な時間だが、ゆっくり確実に準備できると考えれば残念な気持ちも失せる。

 顔を洗い、真新しい制服に袖を通し、クローゼットの鏡で全身を、洗面台の鏡で寝癖を確認する。

 

 学院指定のクラッチ・バッグに教科書や筆記具が入っていることを確認し──さて、時間が余りまくっている。

 

 本来は七時ごろに起きて朝食を摂り、そこからゆっくりと準備するようなルーティンなのだろうが、それに気付いたのは準備を全て終えてからだった。

 

 制服のまま朝食を摂って服を汚すのも嫌だったので、普段着用の私服に着替える。

 何やってるんだろう僕、と消沈しそうになるが、ハンガーに掛かった制服を見ればそんな気も晴れるというもの。

 

 端的に言って、フィリップはとても興奮していた。

 

 なんせ学校に通うなど生まれて初めてのことだ。それがたとえ王国法に基づく拘束措置だとしても、楽しいことに変わりはない。

 

 教科書を眺めて時間を潰し、食堂が開く頃合いを見て部屋を出る。

 早起きして勉強していたと言えば優等生然としているが、使えもしない魔術に思いを馳せて恍惚としていただけなので、そんな評価をされたら恐縮する。

 

 少し早い時間ということもあり、食堂はかなり空いていた。

 スムーズに朝食のトレイを受け取り、まばらな生徒たちの視線を無視して、教わった特等席へ座る。ルキアはまだ来ていないが、もしかして待つべきだったか。

 

 失敗だ。

 焼き立てのトーストも、とろりと溶けて染み込んでいくバターも、肉汁の輝くベーコンエッグも、気品ある香りを漂わせる温かい紅茶も、フィリップの視覚と嗅覚に「早く早く」と訴えかけてくる。

 

 記憶を辿り、ルキアの台詞を思い返す。

 確か「朝はここで待ち合わせ」だったか。待ち合わせるだけなら先に食べててもいいよね! と思わなくもないが、流石に軽視が過ぎるだろう。

 

 冷えていく朝食たちを諦めてしばらく待っていると、既に制服を着たルキアが顔を見せた。

 

 「おはよう、フィリップ。早いわね」

 「おはようございます、サークリス様」

 

 ルキアは少しの間フィリップを観察するように注視して、やがて安堵したように微笑した。

 

 「魔力はちゃんと回復しているわね。ちゃんと眠れたようで良かったわ」

 「あはは……昨日はもう夕食時から倒れそうでしたからね……」

 

 ほぼ一日中、ルキアの手を借りて魔術発動の感覚を身体に染みつかせていたのだ。当然ながら魔力消費も激しく、気付いたらルキアに膝枕されていた、なんてことも何度かあった。

 失神してもなお練習を続行したのは、今日から始まる授業のためだ。魔術を実践する授業などもあり、その度に適当な魔術をでっち上げるのも疲れるし、気付かれるリスクも高くなる。

 

 「私もご飯を取ってくるわ。ちょっと待ってて」

 「あ、はい」

 

 作法を損なわない程度の早足で厨房の方に向かったルキアを見送って、フィリップは軽くお腹を擦った。

 しばらくして戻ってきたルキアが持っているトレイも、フィリップと同じモーニングセットだ。やっぱり朝はカリカリのベーコンとスクランブルエッグだよね、と勝手に共感しつつ、立ち上がってルキアの椅子を引く。

 

 「ありがとう。ちょっとそのまま、動かないで」

 「え? はい」

 

 ふっと背筋が冷えるような奇妙な感覚を味わい、それもすぐに消える。

 

 今のは何だったのだろうと背中を掻きつつ、「もういいわよ」というルキアの言葉を受けて席に戻る。

 

 「待っててくれてありがとう。でも、明日からは先に食べてていいわよ?」

 「あはは、今日はたまたま早起きだっただけなので。たぶん普段は僕の方が遅いですから、サークリス様こそ、僕を待つ必要は無いですよ?」

 

 今日に関しては本当に、いっそ暇なほど早起きだった。

 どれだけ浮かれているのかと自嘲しつつ、トーストにかぶりつく。舌を焼かない程度に熱いバターがもちもちしたパンから染み出し、フィリップは思わず天を仰いだ。

 やはり、ここの飯は美味すぎる。

 

 一等地に卸される食材は全て国内最高品質。シェフは王宮や貴族の屋敷に仕えるような腕利きばかり。

 不味くなる方が不思議と言うものだが、ここまで美味くなるのも不思議だ。

 

 「やっぱり美味しいですよね、ここのご飯」

 「それなら良かったわ」

 

 肉汁の弾けるベーコンに湯気を立てるスクランブルエッグを乗せ、一緒に食べる。

 この瞬間が一日で一番幸福な時間なのではないかと錯覚するが、学院にいる限り、同じことを昼食時にも夕食時にも思う。

 

 何も考えずに舌鼓を打っていたせいで気付くのが遅れたが、ふと思い至り、口の中のものを慌てて呑み込む。

 

 「あ、ありがとうございます。サークリス様。これ、温めてくれたんですよね?」

 「どういたしまして。……ふふっ」

 

 可笑しそうに口元を隠したルキアに首を傾げると、彼女は自嘲混じりの微笑を浮かべた。

 

 「魔術を限界まで秘匿したのだけど、温まった料理でバレるわよね」

 「あははは……」

 

 何気なく「魔術を秘匿した」と言っているが、あの森では出来なかったことだ。

 

 彼女の魔術によって光を操作し、透明化してカルトの目を掻い潜るという脱出方法が取れなかったのは、あまりに強大な魔力が周囲に漏れていたからだ。その魔術の気配は、魔力に疎いフィリップですら一瞬で彼女の位置が分かるほどだった。

 だが今は、彼女の魔術行使に気付けなかった。

 

 ほんの数週間前にできなかったことが、今はかなり高度にできるようになっている。

 才能の格差には最早乾いた笑いしか浮かばないが、その小さな弱点すら克服しようという意識には素直な尊敬が浮かぶ。

 

 「凄いですね。僕もいつか、そんな魔術を使ってみたいです」

 

 その言葉は本心だ。

 フィリップに与えられた領域外魔術、火力の目盛りは「町」「国」「星」である。こういう器用な芸当には称賛と羨望を抱くのが正直なところだ。

 

 ルキアは痛みを堪えるように一瞬だけ目を閉じ、すぐにフィリップへ笑いかけた。

 

 「なら、物凄く頑張らないといけないわよ?」

 

 気を遣わせてしまったかと自省するが、こういう時に罪悪感に任せて謝ると、かえって相手を傷付けることにもなりかねない。

 喉まで上がってきた謝罪を呑み下し、口角を上げる。

 

 「そうですね。今日から授業ですし、頑張ります」

 「えぇ。分からないところがあったら、いつでも相談して頂戴」

 

 激励に礼を言って、食事を再開する。

 

 食べ終わる頃には話題はすっかり変わり、何故かルキアの実家の話になっていた。おかげで貴族社会に少し詳しくなったのだが、その知識が役立つことはあるのだろうか。

 

 

 



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44

 朝食を終え部屋に戻り、さっき脱いだ制服にもう一度袖を通す。

 本当に浮かれているなと自覚しつつ、顔に浮かぶのは苦笑や自嘲ではなく期待の笑みだ。

 

 この三日間、人外を想起させるような出来事が何一つ無かった。ルキアの私服には驚かされたが、マザーのことを忘れてしまえば、彼女に最もよく似合う衣装と言っても過言ではない。そのうち慣れるだろう。

 

 限りなく人外の美に近しい容姿に“慣れる”なんて発想が浮かぶ時点で、既に人外の美に慣れている──深層心理にマザーの存在が刻み込まれているのだが、それを自覚してはいない。

 

 歯を磨き、髪を整え、もう一度荷物を確認して、部屋を出る。

 階段を降りていくにつれ、同じ道を行く生徒の数が増えていく。確か四階以上が貴族向けだったので、平民の数もそれなりに多いのだろう。

 

 男子寮の出口は教室棟へ向かう生徒でごった返しており、朝市もかくやという人混みに思わず溜息を吐く。

 

 時間に余裕をもって出てきたつもりだが、教室に着くのはギリギリかもしれない。というか──

 

 「あれ? 教室ってどこだろう」

 

 昨日は何も考えず、正確には余分なことを考える余裕も無いほどのペースで魔術の練習をしていた。魔力消費が思考の質と速度に大きく影響するというのは本当なのだなと益体の無いことを考え、それは現実逃避だと自嘲する。

 とりあえず職員室か、学長室に行けばいいだろうか。或いは──

 

 「……ん?」

 

 寮の入り口は依然として生徒で溢れかえっているのだが、どうにもおかしい。

 さっきからその数が全く減らないどころか、人混みが捌ける様子もない。何なら人の数が増えているし、外側には数人では利かない数の女子生徒まで見える。基本的に異性寮への立ち入りは禁止のはずだが。

 

 何かのトラブルだろうか。

 トラブルだったとして、それはフィリップが遅刻するよりも大きなトラブルだろうか。もし違うのなら、道を空けて欲しいのだが。

 

 平均年齢16歳の男子生徒の群れを割って歩けるような体力・体格は、10歳のフィリップにはない。

 せめて何が起こっているのかくらいは把握したいとぴょんぴょん飛び跳ねるが、身長と跳躍力が生徒の壁を超えるに至らない。

 

 だが少なくともフィリップの存在をアピールすることは出来たのか、人混みの奥から「フィリップ!」と呼ぶ声がした。

 他にも何人かのフィリップ何某が在籍しているらしく、何人かが「俺?」「僕?」と困惑している。フィリップもその一団に加わりたいところだが、その前にフィリップの前にあった人だかりが左右に割れる。

 

 「……え?」

 

 割れた人波の中心を、靴音も高らかに堂々と歩いてくる探し人。

 ちょうどクラスについて尋ねようと思っていたルキアが、柔和な微笑を浮かべてそこにいた。

 

 「おはよう……は、さっき言ったわね。その制服、よく似合っているわ」

 「ありがとうございます。あの、僕のクラスって分かりますか?」

 

 かつて海を割った水属性の聖痕者の御業、まさに聖人のような──いや、彼女も聖人なのだが、とにかく聖典に描かれた者のように人波の割れる光景と、それに対して抱いた色々な感想を取り敢えず横に置く。

 今最も重要なのは、フィリップのクラスとその教室が何処なのかだ。クラス分け──ヘレナの適性検査で魔術をでっち上げたので、フィリップにもどうなるかは分からない。

 

 「えぇ、勿論。行きましょう?」

 

 ルキアが手を差し出すと、周囲から押し殺したようなどよめきが起こる。

 慣れているのか、ルキアはそれに一瞥もくれない。

 

 自分から案内を頼んだわけだし、このエスコートを断るのは地位云々を抜きにしても失礼に当たる。

 

 「……はい」

 

 突き刺すような視線は無視して、フィリップは大人しく手を引かれて歩くことにした。

 

 

 

 

 一人の例外も無く、すれ違う生徒全員から注視され続け、流石のフィリップも居心地の悪さを覚え始めた頃、ルキアが一つの教室に入る。

 

 三人掛けの長机が扇状に三行三列、教卓と黒板から離れるにつれて数段ずつ高くなるような鉢状に据えられた、シンプルなレイアウトの講義室だ。

 入口の壁には『1-A』と書かれたプレートが貼られており、ルキアのクラスだと容易に判別できる。

 

 荷物を置くのだろうと思ったフィリップは律儀にドアの前で止まったのだが、繋いだままの手を引かれて一緒に入ってしまう。

 

 不意の抵抗に振り返ったルキアに「入っていいんですか?」と尋ねると、彼女は不思議そうに小首を傾げた。

 

 「勿論。ここは貴方の教室よ?」

 「え? あー……そうなんですね」

 

 魔術学院におけるクラス選別基準は実力ただ一つのみ。

 フィリップはその実力を見る適性検査で魔術を使わなかったはずだが。

 

 少し考え、すぐに納得のいく理由に思い至る。

 

 そもそもフィリップは拘束措置としてここに来たのだ。何をやったのか──何ができるのかは、既に王都衛士団から報告されているだろう。

 適性検査の結果に関係なく、最上級クラスに割り当てられた可能性もある。

 

 そうなると適性検査で敢えて魔術を使わなかったのは失敗かもしれない。

 楽観するのなら、あの失敗によって「制御不能だ」という主張に説得力が出た。悲観するのなら、「テストで実力を隠す変な奴」みたいな認識をされたかもしれない。

 

 まぁどの道、あそこでクトゥグアを呼ぶという選択肢は無かった。

 誰も発狂せず何も壊さず、ついでにフィリップが巧く魔術を使えるような、そんな手段があったのなら悔やむところだが、最善の選択だったと思えば後悔も無い。

 

 ルキアの先導に従い、最奥列最後尾の窓際に座る。

 緑豊かな校庭だけでなく、遠くに絢爛な一等地の街並みも見える特等席だ。思わず感嘆の声を上げると、隣でルキアがくすくすと押し殺した笑いを漏らす。

 

 確かに、ここは授業を受ける場所で、景色に感動するような場所ではない。

 

 照れ笑いを浮かべつつ、誤魔化すように教室をぐるりと見回し──生徒の大半と目が合い、思わず視線を窓の外に戻す。

 

 クラスに知らない奴が居たら気になるのも分かる。が、全員がじっと注視してくるとは。

 

 「一等地に行ったことはある?」

 

 ただ視線を逃避させただけなのだが、窓の外に興味を惹かれたのだと勘違いしたルキアがそう問いかける。

 

 「いえ。二等地も宿の周りと商店街ぐらいですね」

 「今度の休日、一等地に出掛けない? 案内してあげるわ」

 「いいんですか? じゃあ、是非」

 

 王国内のほぼ全ての才ある魔術師・錬金術師が集められる王都は、円層構造の中心側に行けば行くほど、街を構成する要素の質が上がる。

 それは建築物もそうだし、そこで働く従業員の技能、取り扱う商品の質、そしてそこに住まう人間の質。

 

 貴族とその従者が住民の大部分を占める土地だ。平民であるフィリップは、たとえ多忙な身では無かったとしても、わざわざ見に行こうとは思わなかっただろう。

 だがルキアが案内してくれるというのなら、万が一にもトラブルに巻き込まれたりはしないだろう。まさか公爵令嬢に喧嘩を売ってくるような間抜けもいまい。

 

 「最高のエスコートを期待して頂戴?」

 「あはは……」

 

 立ち居振る舞いの麗しいルキアが言うと様になっているが、エスコートは男性が女性に対してするものだ。この場合はフィリップがルキアをエスコートすると言うべきなのだが、残念ながら周辺地理に明るくないフィリップでは難しい。二人の立場を考えるなら、いち平民が最高貴族の隣を歩くなど夢のまた夢だ。

 

 「いつか、今度は僕にエスコートさせてください」

 

 失笑を受ける覚悟で、半ば意地で吐いた言葉にしかし、ルキアは蕩けるような笑みを浮かべた。

 

 「えぇ、期待しているわ」

 

 予想とは違う反応に「おや?」と思うが、それを動作や台詞で出力する前に教室の扉が開き、「はーい、着席してー」と手を叩きながらヘレナが入ってくる。

 唐突な学院長の来訪に生徒たちがざわつくが、ヘレナが教卓に着く頃には皆が着席し、きちんと口を閉じていた。

 

 「何故、私がこの1-Aの教室に来たのか。まずはその理由について話します」

 

 ルキアと話すときとは違い、温和ながらしっかりとした教師然とした態度のヘレナからは、確かに最強の魔術師に相応しいカリスマを感じ取れる。

 普段と違う態度に首を傾げたルキアを見て一瞬だけ顔を引き攣らせたあたり、こちらは演技──とまでは言わないが、素ではないのだろう。

 

 「既にご存知でしょうが、1-A担任のアルナ先生、1-Aのボード君、アルバート君、ラインさん、アルマンさん、ハークさんの6名が、野外訓練中に亡くなりました。葬儀に出席された方もいらっしゃるでしょうが、もう一度、この場で黙祷を捧げましょう」

 

 重い内容に反して、生徒たちの反応は軽い。

 特に仲の良かったのだろう幾人かは顔を悲嘆に歪めているが、大多数は「言われたからやる」くらいの温度感で目を閉じている。

 

 名前も知らない相手に冥福を祈られるのも妙な気分だろうが、フィリップも周りに倣って目を閉じる。

 

 数秒の後、誰からともなく目を開ける。

 ヘレナが空気を切り替えるようにぱんぱんと手を叩き、また全員が注目した。

 

 「いいニュースもあるわよ! アルナ先生の代役が決まるまで、前学期はこの私が担任になります! それだけではなく、編入生もお迎えすることになりました!」

 

 ヘレナの言葉に反応して、生徒ほぼ全員がフィリップの方を向く。

 注目を浴びることに慣れたわけではないが、この2日ずっとルキアと一緒にいたのだ。ある程度の免疫は付いた。

 

 「カーター君、前に来て、自己紹介をして貰える?」

 「はい」

 

 教卓に向かって下りつつ、何を話せばいいのだろうかと軽く思索する。

 別に何を言わなければならないという決まりは無いだろうが、フィリップの場合は「言ってはならない」事項が多すぎる。取り敢えず色々とぼかして──

 

 「フィリップ・カーターです。少しトラブルがあって、編入することになりました。至らないところもあると思いますが、よろしくお願いします」

 

 こんな感じか。

 ぺこりと頭を下げて締めくくると、ルキアを含めた数人が律儀にぱちぱちと拍手してくれる。

 

 残りの生徒は顔を突き合わせ、情報量の少ない自己紹介について議論を交わしていた。

 

 「何か質問のある人ー?」

 

 ヘレナが問いかけると、何人かの手が挙がる。

 当てられた男子生徒が立ち上がり、えーっと、と脳内で言葉を纏める。

 

 「ここに来られる前は、何をされていたんですか?」

 

 妙に慇懃な言葉に首を傾げつつ「二等地で丁稚を」と答えると、教室内が困惑に包まれる。

 何か可笑しなことを言っただろうかと考えを巡らせる間もなく、次の質問が来る。

 

 「サークリス様のことを「恩人」と仰っていたそうですけど、何があったんですか?」

 

 あ。

 そんな呟きを漏らしてルキアの顔色を窺うが、彼女は不機嫌そうに質問した女子生徒を見ていた。

 

 「──色々と」

 

 端的に言い切り、言外に「詳しく話す気はない」と示す。

 上手く伝わったようで、彼女は不服そうにしながらも何も言わずに着席した。

 

 「次の人──」

 

 まだ数人が手を挙げており、ヘレナが誰から当てるかと迷う様子を見せる。

 

 あまり触れてほしくない質問ばかりが飛んできて、フィリップは早くも帰りたくなった。

 

 



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45

 一限のホームルームが伝達事項の通達で終わり、記念すべき初授業の思い出を質問攻めの記憶で埋められたフィリップは、机にぐったりと突っ伏していた。

 「疲れています。起こさないでください」などと書かれた看板の幻すら見える沈み具合にしかし、1-Aの生徒たちは果敢にも話しかけてくる。

 

 ちょうどルキアが学院長室に呼ばれて居なくなったのもあって、机の周りはぐるりと取り囲まれていた。 

 

 「あの、カーターさん、ちょっといいですか?」

 「……はい?」

 

 長机の両側にある通路、フィリップの座った窓側にたった一人の男子生徒が、こんこんとノックするように机を叩く。

 眠っていたわけではないものの、硬質な机が鋭く音を伝え、不快感に体を起こす。

 

 「お疲れのところすみません。あの、カーター卿のご親族で間違いありませんか? 先々代枢機卿の……」

 「は? いえ、違いますけど……」

 

 カーターもフィリップもそう珍しい姓名ではない。著名なカーター氏といえば枢機卿や劇作家が真っ先に上がるし、地元でもカーター一家は何世帯かあった。小さい町ゆえ片手の指に収まる数だったが、王都ともなればもっと多いだろう。王国全土、大陸全体へ母集団を増やせば、10000人以上のカーター氏が存在するはずだ。

 

 カーター氏=枢機卿関係者という連想は安易に過ぎるし、これまで「カーター? 枢機卿の親族?」なんて聞かれたことは一度も無い。

 不思議なことを聞くものだと首を傾げると、彼は「そうなんですか?」と同じように首を傾げていた。

 

 全カーター氏に「枢機卿の関係者ですか?」と聞いているとしたら相当なアホか、もしくは枢機卿以外のカーター氏に会ったことのないウルトラレアケースかのどちらかだ。

 

 「では、カーターくんとお呼びした方が……?」

 「え? まぁ、はい。好きに呼んでいただければ」

 

 クラスメイト達が顔を見合わせ「え?」「なんかおかしくね?」と囁き合う。

 何がおかしいのか知らないが、取り敢えず放っておいて欲しい。今日はもう疲れた。

 

 「貴族様ではないのよね?」

 

 平民らしき女子生徒がそう問いかけ、フィリップは頷きを返す。

 

 また一頻りざわざわと議論が交わされ、初めに話しかけてきた男子生徒が問いかける。

 

 「寮の最上階に住んでるって本当? あそこはサークリス様みたいな最高位貴族とか、教会関係者用なんだけど……」

 「あー……はい。……なるほど、そういう」

 

 思えば衛士団で拘留されていた時も、三食おやつにシャワー付き、看守との会話も自由という爆弾らしからぬ待遇だった。

 あれはナイ神父が手を回したか、背後にある教会に遠慮したのかと思われるが、フィリップを学院に入学させたのはその衛士団だ。「教会関係者だ」という報告が挙がっていてもおかしくない。

 

 妙にいい部屋が宛がわれるから隔離措置だとばかり思っていたが、本当に違ったのかもしれない。

 

 「僕は本当にただの一般市民ですよ。普通に話してください」

 

 群がっていた生徒たちが顔を見合わせ、誰かが「本当に?」と尋ねた。

 

 「そんな無意味な嘘は吐きませんよ」

 

 苦笑交じりにそう返すと、生徒たちの間に安堵したような空気が流れる。

 まぁただでさえ聖人のいるクラスだ。この上教会関係者が来たとなれば、もはや迂闊に冗談の一つも言えなくなる。

 

 「じゃあ、フィリップって呼んでもいい?」

 「10歳なんだっけ? 魔術はどれくらい使えるの?」

 「どんな仕事してたの?」

 

 唐突にわいわい騒ぎ始めた生徒たちだが、この雰囲気こそが彼ら本来の姿なのだろう。

 フィリップに遠慮する必要が無いと知って、いつも通りの空気になったらしい。

 

 内心の疲れを出さないよう、なるべく丁寧に質問に答えていく。時には逆に質問を返したりして、クラスメイトの名前や顔を覚える努力も忘れない。

 何事も無ければ向こう3年間、同じ教室で過ごす仲間だ。大切にするに越したことは無い。

 

 そう思っているのはフィリップだけではないようで、彼らの態度や口調からはフィリップを溶け込ませようという意図が感じられる。

 気遣いを有難く受け取り、きちんと会話しようとした矢先だった。

 

 「なんで平民がサークリス様と一緒にいるんだ」

 

 と、誰かが呟き、和気藹々とした空気が冷え切り、間違えようのない険が混じる。

 責めるような視線の大半は発言した者に向いていたが、数人は発言者に同調したようにフィリップを睨んでいた。

 

 「彼女はこの国で最も高貴な女性の一人だ。お前のような下賤な者と一緒にいるべきではない。身の程を弁えろ」

 

 その言説を否定する言葉を、フィリップは持ち合わせていない。

 

 ルキアとフィリップでは身分に差があり過ぎるし、魔術の才能という面でも大きな差がある。彼女の隣に並び立つには何もかもが足りない。

 それを他人に指摘されたところで、血筋も才能も先天的なものだ。悔しいとか残念だとか、そういった感情を催すわけでもない。

 

 血筋なんてどうでもいいじゃん。だって人はみな無価値だもの! という歪んだ平等思想の持ち主としては二三言いたいことはあるが、ここで波風を立てるのもよろしくないだろう。ルキアの名前が出ている以上、何がどう転んで彼女の不利益になるかも分からない。

 

 「え? まぁ……はい、そうですね」

 「貴様如き雑種、本来であればこの魔術学院に立ち入ることも許されないものを」

 

 これについてもまぁ、否定はできない。

 フィリップは非魔術師だ。その才能の無さたるや、ナイ神父が嘲笑──するのはいつものことだが、フィリップに甘いマザーですら、現代魔術ではなく領域外魔術に特化すべきだと言うほどだ。ルキアに丸一日特訓して貰ってなお、魔術発動の感覚さえ掴めなかった。

 

 ここにいるべきではない無能だと言われればその通りだが、ここに来たのは衛士団に言われたからだし、王国法に基づく拘束措置でもある。

 

 「そうですね?」 

 

 先程からの判然としない相槌に、絡んでいた男子生徒が眦を吊り上げる。

 

 「口の利き方に気を付けろ。私もサークリス様ほどではないが、伯爵家に連なるれっきとした貴族だ」

 「……失礼いたしました」

 

 立ち上がり、略式の礼を取る。

 意外にもしっかりとした作法に、成り行きを見守っていた生徒たちが感心したような声を上げる。

 

 「ふん。分かったのなら、今後はサークリス様の周りをうろちょろしないことだ」

 「縁を切れ、と?」

 「どういう意図の確認かは知らんが、そういうことだ」

 

 高圧的ながら、ここまでのフィリップの対応と、そもそもフィリップが年下ということもあって、完全に自分の主張が通った気でいる。

 

 確かにフィリップは貴族と平民の分を弁え、それなりの礼儀作法を身に着けた模範的一般人ではある。

 そして、フィリップは偏執的なまでに「人間らしさ」に拘る。それはルキアが己に定めた『美しく生きる(ゴシック)』より平凡で、易しい生き様に思えるかもしれない。だがフィリップにとっては最優先事項だ。

 

 他人に言われたから友達を辞めるというのは、フィリップの主観ではとても人間らしいとは言えない。

 権力に屈し長いものに巻かれるのが人間らしいと言えるかもしれないが、そんな家畜のような生き方はごめんだ。悍ましいものどもが人間らしい死を許さないとしても、せめて人間らしく生きていたい。

 

 それに、フィリップはルキアのことを気に入っていた。

 遍く全てが無価値だという認識に変わりはない。だが、その中にも優劣はある。

 

 肉親であるアイリーンとオーガスト。家族同然に扱ってくれたアガタとセルジオ、モニカ。衛士団には人間の輝きを魅せられたし、ルキアが啓蒙を得たのは心の底から喜ばしい。彼ら彼女らに幸あれと、宛先も無く祈るところだ。

 逆に、フィリップがこうして人間らしさに拘泥しなければならなくなった、絶望と諦観の原因を作り出したカルトの事は心底憎んでいる。カルトを皆殺しにするスイッチがあるとしたら、なるべく苦しんで死ぬように改造してから連打するだろう。

 

 フィリップの定めた生き様と、その価値基準に照らせば、返す答えは決まっている。

 

 「嫌です」

 

 突き放すように言うと、男子生徒の目が据わる。

 

 「貴様、私をライウス伯爵家次期当主、カリスト・フォン・ライウスと知って言っているのか?」

 「え? えっと……?」

 

 思い返してみるが、名乗られた覚えはない。

 名乗りもしない奴のことをどうして知っていると思うのか分からないが、もしかして有名人なのだろうか。

 

 確かに、ライウス伯爵家という家名には覚えがあるような気もする。

 知り合いではないし、ルキアや他の誰かとの世間話に出た記憶は無い。となると何かで読んだのだろうが──

 

 「あ、ゴルドア・フォン・ライウス卿の御親類ですか?」

 「そうだ。先々代の水属性聖痕者、ゴルドアは我が曽祖父に当たる」

 

 ルキアと知り合ったのをきっかけに聖痕者について勉強し直した甲斐があったと、内心で口角を吊り上げる。

 それはともかく──魔術の才能は先天的なもの。つまり、その血統には大きな意味がある。ルキアのサークリス公爵家がいい例だ。

 

 彼も一般の魔術師とは一線を画す才能を持っているのだろう。

 

 それで? だからどうした?

 

 人類最強にもなれず(聖痕も持たず)、身分を振りかざして粋がるだけの半端な強さには、残念ながら価値を見出せない。

 彼が全力を出したところでルキアには及ばず、ルキアが全力を出したところでフィリップに傷一つ付けられないのだから。

 

 内心の冷笑が表情にも出たのか、カリストがいきり立つ。

 

 「何が可笑しい?」

 「……いえ、別に。とにかく、サークリス様と縁を切るのは嫌です」

 

 フィリップが言い切ると、生徒たちの半数ほどが感心したように頷き、残りは呆れたように溜息を吐く。

 当然ながら、最も苛烈な反応をしたのはカリストだ。

 

 「そうか。……これだから、物分かりの悪い平民は嫌いなんだ」

 

 内ポケットに手を差し入れ、刃物を警戒するクラスメイト達を嘲笑うように、小さな布片を取り出す。

 よく見れば、それは仕立てのよい薄手の手袋だった。

 

 「まさか」「止せ」と騒ぎ立てる周囲には構わず、不愉快そうにフィリップを見つめる。

 

 乱雑に投擲されたそれは、フィリップの顔に当たり、そのまま地面に落ちた。

 

 「貴族と平民の間に存在する隔絶を教え込んでやろう。拾え」

 「……決闘、ですか」

 

 言われた通り素直に手袋を拾い上げ──

 

 「随分と、面白いことをしているようね?」

 

 カリストを制止していた者も、フィリップを諫めていた者も、怒りに顔を歪めていたカリストも、無価値なものを冷笑していたフィリップすら、呼吸を忘れて静まり返る。

 そんな“圧”の籠った声だった。

 

 「さ、サークリス様……」

 

 こつり、こつりと、静寂の中にルキアの靴音だけが反響する。

 ルキアは無表情のまま、身動き一つできずに固まっているカリストと、「これはもしかして怒られるやつだろうか」と内心ビクビクしているフィリップの間に歩いてくる。

 

 「こ、これは貴族法に基づく正式な決闘です。いくらサークリス様といえど、口出しは……」

 

 眼前の人間に一片の価値も認めていないことを示すような、冷たい視線に射抜かれたカリストの口調が尻すぼみになる。

 

 フィリップは与えられた智慧によって人間を見下すようになったが、ルキアは元から自分自身の強さを土台として高い視座を持ち、人間と社会を軽んじていた。

 フィリップが養殖だとすれば、ルキアは天然モノの逸脱者だ。

 

 両目に輝く聖痕は、それだけの力を持つ証。

 さらに彼女は実戦経験者であり、5歳の頃から敵対者を塩の柱に変え、敵国の軍勢を光の槍で刺し貫いてきた『粛清の魔女』。

 

 単なる学生が盾突ける相手ではない。

 

 黙り込んでしまったカリストを置いて、フィリップは美人が怒ると迫力があるなぁ、なんて現実逃避じみた感想を抱きつつ、さてどう言い訳しようかと頭を回転させる。

 

 幸いにして、或いは不幸にも、言い訳の必要は無かった。

 

 「フィリップの介添人(セコンド)には私が就くわ。期日はいつ?」

 

 ルキア・フォン・サークリス。光属性と闇属性の頂点に君臨する最強の魔術師──やる気だった。

 

 



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46

 王国法の中でも貴族法と呼ばれる、貴族が持つ特権や与えられた義務について記された章に、決闘の権利は明記されている。

 自らの命を賭して叶えたい主張、命に代えても通したい主義がある場合などに決闘の申し込みが認められ、相手は受け入れて決闘に臨むか、辞退して相手の主張を受け入れるかの二択を迫られる。

 

 自身の代わりに戦う代理人を立てることはできないが、介添人を同伴させることはできる。

 

 介添人は二人目(セコンド)とも呼ばれ、味方する側の当事者が敗北した場合にのみ、決闘に参戦することができる。いわば復讐役だ。

 

 「な、何故です!? サークリス様が介入するようなことではありません!」

 

 慌てふためくカリストにフィリップが首を傾げ、それを見たルキアも首を傾げる。

 

 「いえ、普通に関係あると思いますけど……」

 

 空気を読まずにそう口にしたフィリップに、周囲が「あ、それ言っちゃうんだ」という目を向ける。

 

 カリストが絡んでいるのはフィリップだが、彼はルキアの名前を出して責めて来た。フィリップが最も嫌ったのは、フィリップのせいでルキアが与り知らぬところで不利益を被ること。

 本人が来たのなら、本人に任せてしまうのが一番いい。

 

 「そういえば、どうして決闘を挑まれたの?」

 「えーっと……」

 

 順を追って説明すると、ルキアの顔が段々と険しくなっていく。

 それに応じて部屋が暗くなっていくのは、おそらく錯覚ではない。

 

 「フィリップが私に相応しくない? ……そう。面白い言説ね?」

 

 部屋が闇に包まれ、ルキアの掌に浮かんだ小さな光球だけが唯一の光源になる。

 

 底冷えのするような声色からは明確な殺意すら感じ取れる。決闘という舞台の外での攻撃は普通に罪に問われるが、ルキアの実力であれば騎士団と衛士団を丸ごと敵に回しても難なく退けられる。

 敵対者は殺すし、不愉快でも殺す。取り敢えず粛清の光をぶっ放し、塩の柱に変わらなかった者だけが善良な者だ。そんな暴虐すら許される──否、その暴虐を貫き通すだけの力がある。

 

 周囲の生徒たちが踏鞴を踏んで下がるが、そんな小さな逃避ではルキアのキルレンジを出られない。

 

 彼女に撃つ気があるのか単なる脅しか、それはフィリップには分からない。

 恫喝なんてまだるっこしいことをする暇があったら鏖殺するような気もするし、そうじゃない気もする。ナイ神父やマザーのように振り切っていれば分かりやすいのだが、それはそれで面倒だ。

 

 どちらにせよ、このまま放置しておいていいことはない。

 

 フィリップは二人の間に入り、ルキアに落ち着けと身振りで示す。

 

 「ま、まぁ落ち着いてください。ここでそんな魔術を使ったら校舎が壊れちゃいますよ」

 

 『明けの明星』は半物理型の魔術だけあって、魔術防御を貫通しやすい。『粛清の光』を弾くような相手にも有意なダメージが見込める高威力の魔術だ。

 魔術学院の校舎に如何ほどの防御力があるのかは知らないが、まぁ耐え切れないだろう。

 

 フィリップの制止を受け、ルキアがそっと魔術を解除する。

 教室内に光が戻り、生徒たちが安堵の息を吐く。

 

 「ごめんなさい。少し熱くなってしまって」

 「え? いえ、謝る必要はありませんけど……」

 

 フィリップに向けて謝るルキアを見ると、どうにもマザーの姿が脳裏をチラついてやりづらい。

 彼女の判断基準がフィリップの機嫌に依存するとまでは思わないが、判断材料の一つくらいにはなっていそうで怖い。

 

 「それで、期日は?」

 「あ、い、一週間後でお願いします……」

 

 カリストが呟き程度の声量でそう伝える。

 

 では一週間後に向けて猛特訓だ。必然的に──

 

 「一等地観光は延期かぁ」

 

 フィリップの呟きを耳聡く聞き取り、同じ落胆を抱いたルキアがもう一度魔術を照準する。

 

 チャイムが鳴るまでの五分を全て費やし、何とか矛を収めて貰った。

 

 

 ◇

 

 

 

 その日の昼休み、ルキアに連れられて食堂へ向かったフィリップを見送って、カリストは数人の友人と共に私室に籠っていた。

 ソファに座った者、窓際の壁にもたれかかった者、同室の者のベッドに勝手に座った者。位置的にカリストを囲むようになっているが、彼らの視線は一様に慮るものだった。

 

 「なぁ、カリスト。どうしたんだよ、決闘なんて」

 「あぁ。お前らしくないぞ」

 

 自分のベッドに腰掛けたカリストは頭を抱え、ぼそりと呟く。

 

 「頭に血が上ってたんだ。でなきゃ、平民に決闘なんて持ちかけない」

 

 決闘は貴族対貴族であれば、伝統と格式ある裁定手段として重んじられる。だが血統的に魔術適性に乏しく、武術に秀でているわけでもない平民、しかも年下を相手に吹っ掛けたとなれば話は別だ。

 それが即座に法律に反するとか、貴族社会において重大な意味を持つということはない。だが、それは単なる弱い者いじめだ。

 

 最高位貴族として一点の曇りなく美しい生き様を求められ、それに応え続けてきたルキアが怒るのも理解できる。

 あれは高貴でもなければ美しくも無い、無様な行為だった。

 

 だが、それでも。

 

 「それでも、誰かがサークリス様をお諫めし、常道に戻して差し上げねばならん」

 

 あれは譲れない主張だった。

 貴族と平民の間には、魔術の才能──戦う力の差が顕著に表れる。勿論全ての貴族が高い魔術適性を持ち、全ての平民がそれに劣るわけではない。だがルキアは世界最高の才能を持ち、やがては王国を先導する立場になる。

 

 その時、戦争になったとしたら?

 

 貴族は王を補佐する立場として、国の体制を維持するのに重要なものを最優先にする。

 時には100の兵や100の貴族を守るため、1000の平民を見殺しにするかもしれない。

 

 その残酷な決断を迫られた時、彼女は一片の躊躇もなく、一片の後悔も無く、首を縦に振る必要がある。

 ほんの少しでも心に傷が付けば、それは積もり重なって破綻を招くからだ。

 

 冷酷であれ。無関心であれ。

 今までのルキアは求められるまでもなく、そう在った。

 

 「で、でもさ。そのサークリス様が介添人だったら、勝ち目は無いんじゃないか?」

 

 疑問形ではあるが、表情を見るまでもなく内心では不可能だと思っているのが分かる。当然だ。カリスト自身も不可能だと分かっている。

 聖痕は最強の証。彼ら聖痕者に対抗できるのは同格である聖痕者だけで、カリストはその域に無い。

 

 友人の心配を吹き飛ばすように声を上げて笑い、カリストはベッドに寝転がった。

 

 「サークリス様に勝つ必要などない。あの方の傍から平民が消えれば、それでいいのだから」

 「……カーターを殺すのか?」

 「何を言ってる? 決闘とはそういうものだろう?」

 

 確かに、カリストの言う通りだ。

 当然ながら大多数の場合において、決闘は戦力的に有利な者が挑みかける。故に戦力に劣る挑まれた側は和解を申し入れ、妥協点を探ることが多い。

 

 だが落としどころが見つからず決闘に至った場合、ほぼ確実にどちらかが死ぬ戦いになる。

 

 決闘の場において手加減や温情が認められないわけではないが、手心を加えるような余裕があれば、その主張を通すために決闘などしない。

 

 相手を殺すか、自分が死んででも通すべき主張だと。

 決闘を挑むということは、そういうことだ。

 

 「フィリップ・カーターを生かす代わりに見逃してくれなどと、そんな無様を晒してまで生き延びたくはない」

 「い、いや、でも──」

 

 カリストは言葉を最後まで聞くことなく、弾みをつけてベッドから起き上がり、部屋の扉を開ける。

 そう言えばそろそろ午後の授業かと友人たちもそれに続き、どうにか止めようと言葉を探るが、カリストの決意は固い。

 

 「奴が死に、私が死に、サークリス様は以前の彼女に戻る。それで、この話は終わりだ」

 

 突き放すように言ったきり、カリストは一言も発さずに教室へと戻った。

 

 

 ◇

 

 

 ほぼ同時刻、食堂。

 人混みから隔離された特等席で向かい合い、フィリップとルキアは共に昼食を摂っていた。

 

 既に決闘騒ぎの事を忘れかけている──開戦直後に介入して終わらせる気でいる──ルキアとは違い、フィリップは真剣に決闘に挑むつもりでいた。

 それはルキアがどうこうではなく、もっと個人的な理由によるものだ。

 

 勿論、決闘に挑む理由そのものはルキアだ。彼女のことは気に入っているし、他人に言われたから友達を辞めるなんて家畜じみたことはしたくない。

 とはいえ、万が一フィリップが負けてもルキアが勝つので、決闘の結果についての心配はない。

 

 そして当然ながら、フィリップが負けることはあり得ない。

 

 学生の喧嘩の域ならばいざ知らず、命の懸かった決闘になって黙っているヨグ=ソトースではないだろう。

 いくらカリストがルキアに大きく劣る魔術師の卵で、副王にしてみれば認知する価値も無い相手だとしても、フィリップを死に至らしめる攻撃を仕掛けたとなれば話は別だ。

 

 フィリップは即座に世界全ての干渉を跳ね除けるほど強固な鎧に守られ、敵対者は時間と空間の絶対性を知って死ぬことになる。

 観戦者の何割が巻き添えで発狂するのかなど、副王にはどうでもいいことだ。

 

 故に、フィリップはこの決闘に於いて、一撃も貰わずに完勝する必要があった。

 

 「となると、急に難易度が跳ね上がる……」

 

 食事の席ということも忘れて深々と溜息を吐いたフィリップに、ルキアが窘めるような視線を向ける。

 

 「行儀が悪いわよ?」

 「あ、すみません……」

 

 フィリップの真剣な表情と憂いの籠った目を見て、ルキアは微かに顔を歪めた。

 

 「彼の言葉を気にしているのなら、その必要はないわ。貴方が私に釣り合わないなんてことは、絶対にないから」

 「え? あ、ありがとうございます」

 

 それが本心か慰めかは、然して問題にはならない。

 彼女とフィリップの間に大きな社会的地位の差があるのは事実だ。それを正確に認識してなお、フィリップに気後れは無い。

 

 社会的地位も含めて、彼女とフィリップは等しく無価値だ。

 同じく非力で矮小で無価値で無意味な人間だ。

 

 遥かな視座を与えられたフィリップは、この世の誰より人間を平等に見ることができる。

 

 貴族名鑑に名前が載り、豊かな財産を持ち、人類最強の証を与えられたから、何だと言うのか。その全てが一個存在の一挙動で纏めて滅ぶ、泡のような世界だというのに。

 

 そんな価値観を持ちながら貴族を尊重し、社会的立場に重きを置くのは、それが人間らしいと思うからだ。

 内心の冷笑は、どうやらカリストにも見抜かれていたようだが。

 

 「あと一週間で初級魔術が使えるようになると思いますか?」

 

 話を逸らす意図も含めての質問に、ルキアは一瞬考えて首を横に振る。

 

 「難しいわね。もし初級魔術を習得できたとしても、魔術師相手に初級魔術なんて何の効果も無いわよ?」

 

 確かに、ルキアほどの魔術師であっても、初級魔術の稲妻の弾丸は標的人形の耐性によって無力化されていた。

 魔術式に代入できる魔力量や算出される威力の限界値が著しく低いのが原因だろうが、そもそも初級魔術は戦闘用ではなく、半ば道具扱いだ。無理もない。

 

 「ですよね……」

 

 と、なると。

 フィリップに残されたカードは鬼札一枚。切れば勝てるが、色々と終わる。しかもクトゥグアのつもりで切ったけど、出てきたのはヤマンソでした! なんてオチもあり得る最悪のカードだ。これならヨグ=ソトースが介入した方がマシである。たぶん。

 

 「待って? まさか、戦うつもりなの?」

 「え? それは、まぁ、はい」

 

 パンチでもキックでもいいが、火力調節の利く魔術ならもっといい。

 というか副王の介入と邪神の招来がダメ。それ以外なら何でもいい。

 

 邪神の招来に関しては、フィリップの魔術行使がトリガーだ。自分の意志でどうにかなる。

 

 だが副王の介入は、フィリップが致死の攻撃を喰らった時点でアウトだ。決闘のセオリーなど知らないが、様子見程度の攻撃から始まるという保証はない。初手に最強の一撃を持ってくるものだとしたら、先制した上で倒す必要がある。

 

 つまり、純戦闘型魔術師に発動スピードで勝り、かつ一撃で相手を戦闘不能にさせるだけの魔術が必要ということだ。

 

 「無理かな……?」

 

 初級魔術はルキアほどの実力があっても、その力の1割も発揮できないほど威力上限が低い。

 仮に習得できても、カリストに先制し一撃で倒すなんてことは不可能だ。

 

 フィリップの無意識の呟きを耳聡く聞き取り、ルキアが悩ましげに眉根を寄せる。

 

 「難しいわね。一般に中級魔術以上が実戦用だと言われているけど、魔力量が同格以上の相手なら魔力抵抗で弾かれることもあるし、対魔術師戦は上級魔術の撃ち合いになることが多いわ」

 「そうですよね……」

 

 ルキアの魔術理論講義でも教わったことを繰り返したのは、フィリップを止めようという意図があってか。

 

 エンチャント系の魔術でも使えれば魔術師相手でも有意なダメージが見込めるのだが、肝心の武術の心得が一切ないので無意味な仮定になる。

 召喚術は……制御可能で、誰かに見られても発狂されず、この星や生態系に影響を及ぼさない召喚物に限り、選択肢に入る。そんなものはないので、これも無意味な仮定だ。

 

 現代魔術も召喚術も望み薄となると、領域外魔術?

 召喚物を媒介としない純粋な魔術も存在するらしいが、生憎、ここには領域外魔術を教えてくれる教師はいない。

 

 いや、ナイ神父は来なくていいが。

 

 



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47

 決闘が宣言された日から4日後の夜、フィリップはトランクをひっくり返していた。

 魔術の練習で何の成果も出せず、癇癪を起こして暴れていた──というわけではなく、ある物を探していたからだ。

 

 「無い……?」

 

 ナイ神父の魔術講義を受けると決めた時、セルジオとアガタにプレゼントしてもらったノート。

 王都以外では高級品である紙を100枚も綴じ、革の表紙を付けたクールな逸品だ。

 

 「不味いなぁ……」

 

 まだ半分も使っていなかったのだが、問題は「勿体ない」とか「貰いものなのに」とかそういう心情的なところにはない。

 

 あれはナイ神父の魔術講義の時に使ったもの。当然、講義の内容がびっしりと書き込まれている。

 ルキアの魔術訓練に行き詰まり、いよいよ領域外魔術に頼るしかないという段階になったので、何か突破口になるようなものを探して読み返そうと思ったのだが──無い。

 

 部屋が荒らされた形跡はないし、フィリップもあれを持ち出した覚えはない。

 となるとパッキングした時点で入っていなかったという説が出てくるのだが、荷物を用意したのはナイ神父だ。

 

 彼が初めから入れていないのだとしたら、何かしら目的があるはずだ。少なくとも必要物を入れ忘れるような間抜けではないし、フィリップがただ単に困るだけの嫌がらせはしないだろう。尤も、目的があればフィリップが困ろうが喜ぼうが関係なく、文字通りなんでもやるだろうが。

 

 「どうしよう……ん?」

 

 トランクの奥底に、幾つかの封筒を括った束がある。

 

 見覚えはないが、ナイ神父からの手紙だろうか。複数枚あるのはぱっと見て分かるが、それにしても分厚い。封筒の束どころかちょっとした本くらいの厚みがある。

 

 どう見ても不審だが、ナイ神父が入れたものなら、少なくともフィリップの不利益になるモノではないはずだ。少なくとも開けた瞬間に災厄が解き放たれるとか、フィリップの肉体年齢が50歳プラスされるとか、そういった代物ではないだろう。

 

 とりあえず束を解いてみると、それぞれの封筒には表題が書かれている。

 

 『トラブルに巻き込まれた時に開く』『逃げ出したいときに開く』『守るべき者の前でのみ開く』『大切な者を失くした時に開く』と読めるが、その全てがナイ神父の字だ。

 できれば読まずに処分したいところだが、試しに洗面台に流してみたところ、無傷の状態でトランクに戻っていた。この分だと燃やすとか破るとかも効かないだろうが、一応試しておこうか。

 

 そう思って立ち上がると、手中から紙束がばさばさと音を立てて落ちる。

 

 封筒を掴み損なったのかと思ったのは一瞬で、4通の封筒が未だ手中にあることは確認すればすぐに分かった。

 では落ちている黄ばんだ羊皮紙は一体、何なのか。考えるまでも無い。

 

 4通の封筒のうち、『トラブルに巻き込まれた時に開く』がひとりでに開き、その厚みを失くしていた。

 

 「ホントに勘弁してほしいんだけど……」

 

 王都であれば普通に手に入る錬成紙ではなく、質の悪い羊皮紙を使う理由が知れない。書きにくいし劣化は早いし、虫害を受けることもある。

 封筒はいったんトランクに置き、羊皮紙の束を取り上げる。

 

 「えーっと? 拝啓、父王の寵児フィリップ君──」

 

 

 ◇

 

 

 こんなクソ怪しい──失礼。中から何が出てくるかも判然とせず、危険か否かの判断さえつかないモノを自分の生活空間で開けるほどのトラブルに巻き込まれているらしいですね。

 その様を見ているだけで箸が進みます。王国人の君にも分かりやすく言えば、上がった口角が下がりません。

 

 それはともかく、この封筒には問題解決における最上の手段を同封してあります。是非お役立てください。

 読書家の君には、きっと気に入って頂けると思います。

 

 魔王の寵児に「身の程を弁えろ」などと宣った愚昧に、君と彼らの間に存在する「隔絶」とやらを教授して差し上げましょう。

 誰を侮辱し、誰を敵に回したのかを、懇切丁寧に。

 

 読むときは机ではなく、ベッドやソファで、なるべく楽な姿勢で読むことをお勧めします。

 それなりの長編ですからね。

 

 では、お身体に気を付けて。よい週末を。

 

 

    ──ナイ神父

 

 

 ◇

 

 

 手紙を読み終え、フィリップはもう一度手紙を処分しようとした。

 今度は力尽くで破ろうと試みるが、質の粗悪な羊皮紙には裂け目一つ入らない。

 

 これを内ポケットに忍ばせておけば、弓矢くらいなら防いでくれるのではないだろうか。

 

 そう思った瞬間、読み終えた分の手紙と封筒が音も立てずに燃え上がり、一瞬のうちに燃え朽ちて消えた。

 

 溜息を零しつつ、地面に散乱した羊皮紙を拾い集める。

 さっと目を通した感じ、誰かの手記のようだ。見知らぬ土地の名前や人物の名前に混じり、大いなるダゴン、この世で最も偉大なるクトゥルーという表記も見られる。

 

 知識にある名前に苦笑しつつ、紙を繰る。

 

 「うわぁ……」

 

 前半はともかく後半は字体も文法も内容もぐちゃぐちゃで、これを書いた人物の行く末を否応なく想像させる。

 

 これのどこが「問題解決における最上の手段」なんだ。

 「つらいのは君だけじゃないんだよ。だから頑張れ」みたいな精神論なら、悪いがクトゥグアを呼ばせて貰う。焼けて死ね。

 

 瞳をどろりと濁しつつ、ベッドに腰掛ける。

 

 本腰を入れて読み始め──気付けば、フィリップはその()()にのめり込んでいた。

 

 

 

 翌朝──

 

 目元にうっすらと隈を浮かべ、達成感と疲労感を悲壮感で洗い流して休日を迎えたフィリップは、内心の興奮を抑え込むのに必死だった。

 ルキアと向かい合って朝食を食べている、いまこの瞬間もだ。

 

 読み終えたとき、脳に植え付けられるような不自然さとともに魔術を二つほど習得したのだが、そんなことはどうでもいい。

 

 あの手記──読み終え、フィリップに魔術を授けた直後、役目を終え満足したように燃えて消えた手記。

 あれは素晴らしい物語だった。記憶を消してもう一度読みたい本ランキング、堂々の一位だ。

 

 誰かに盗まれたり、勝手に見られたりすると困るのは確かで、役目を終えた瞬間に焼却するのは正解だ。あのギミックも、ナイ神父としてはフィリップの手間を省いたくらいの認識なのかもしれない。事実、魔術の使えないフィリップではマッチを貰いに行くところからスタートだ。あれは時間の短縮としては素晴らしい。

 

 だが、せめて、せめてもう一度。クライマックスを読み、頭からもう一周──これでは二度か。ではもう二度、読んでから焼却したかった。

 

 「フィリップ? やっぱり体調が悪いんじゃない?」

 

 二度と読めない神作品を思って嘆息するフィリップに、つい先ほど、隈を見た時と同じ心配をするルキアに笑顔を向け、首を振る。

 

 「いえ、大丈夫です。昨日、最高に面白い物語を読んでいたので……少し寝不足で」

 

 下手糞な欠伸のフリで誤魔化されてくれたのか、それ以上は何も言ってこない。

 ただ注意深く観察するような目を向けている辺り、魔力欠乏気味だと判断したら直ちに訓練は中止、お昼寝タイムになることだろう。

 

 「……良かったなぁ」

 

 本当に、最高に面白かった。

 冒険譚や神話の類にはもともと目が無いが、フィリップの嗜好に非常によくマッチした、素晴らしい作品だった。

 

 惜しむらくは、たかだかクトゥルフ程度を「この世で最も偉大」だと認識する智慧の浅さか。三次元世界に存在が収まる時点で、あんなのはタコとなんら変わりない。ちょっとデカくてテレパシーの使えるタコだ。

 

 あとはまぁ、あれがノンフィクションで、あの素晴らしい文才を持った御仁はもはやこの世におらず、彼の作品をもう二度と読むことができないという点だ。

 これは惜しい。本当に惜しい。フィリップに文才があれば二次創作でもするところだ。

 

 「よっぽど面白い話だったのね。誰の、なんて言うタイトルの本?」 

 

 苦笑交じりに尋ねてきたルキアに、あれが如何に素晴らしい物語かを語って聞かせたい衝動が鎌首をもたげる。

 

 あれは本当に、本当にいい話だった──のだが、ルキアがこれ以上触れて、振れてしまうのはよろしくない。フィリップの精神衛生的にも、社会的にも、ルキア本人にとってもだ。

 

 「……ソロモン王の『わが生涯』です」

 「あぁ、例の二版第一刷?」

 「いえ、自前の…… え? あれ第一刷だったんですか?」

 

 本当になんでこんなところにあるんだ。王立博物館にでも寄付すべきだろう。

 いや、それはともかく。

 

 いま重要なのはあの素晴らしい物語ではなく、その副産物──フィリップの習得した魔術の方だ。

 

 十中八九、あれは領域外魔術に属するものだと考えて間違いないだろう。起動詞の暗記も魔術式の理解も要さず、ただ「あ、この魔術が使えるな」と分かるような感覚だけがあった。

 

 「あの、このあとの魔術訓練で、見て欲しいものがあるんです」

 「もちろん構わないけど……それって、もしかして魔術?」

 

 フィリップは神妙に頷き──ルキアは目を輝かせた。

 

 「凄いじゃない! どんな魔術を覚えたの? 汎用魔術? それとも攻撃魔術?」

 

 ルキアの質問を、フィリップは曖昧に笑って誤魔化す。

 

 現代魔術は「この魔術を覚えよう」と決め、起動詞を暗記し、魔術式を理解する。その後は繰り返し実践練習をして、魔術式の演算速度を実戦レベルまで高めるだけだ。

 故に、使いたい魔術、覚えたい魔術が先に来て、それを習得するという結果が伴う。

 

 しかし、領域外魔術は一部の例外を除き、「この魔術を覚えよう」と意図したものだけを習得するのは不可能に近い。

 先人の記した魔術書を読み解き、気付けば幾つかの魔術を覚えている。しかし、その魔術がどんな効果で、どれだけの代償を必要とするのかが分からないなんてこともある。

 

 フィリップのように、「まずはクトゥグアを召喚しましょう。呪文はこれ、消費魔力はこのくらいです」なんて、的確な教育を施せる先生がいる方が稀だ。

 

 今回はフィリップも魔術書を介して魔術を習得した。

 どんな魔術なのか、どんな効果なのか。その辺りは全く分からない。ただ、呪文の中に邪神や神話生物の名前が入っていないので、爆弾にならないのは確定している。

 

 素晴らしい。非常に素晴らしい。

 待ちに待った火力調整キットの導入だ。

 

 「その辺りも含めて、検証するのを手伝って頂きたいんです」

 

 フィリップの不思議な物言いに首を傾げつつ、ルキアは迷うことなく頷いた。

 

 

 



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48

 そろそろクラブや教師から苦情が来るのではないかという頻度で貸切にしている、闘技場のような体育館。

 

 並んだ標的人形の総数は六体、三つの種類がある。

 

 木製の最も安価で、最も耐性の弱い人形が二つ。

 金属製の、値段も耐性もそれなりの人形が三つ。

 そして、既に胴体に大穴が空いている最高級の錬金術製の標的人形が一つ。

 

 ルキアにかかれば指の一弾きで薙ぎ倒せる的たちだが、木製の人形でも素人の中級魔術くらいなら抵抗するらしい。

 体育館の片隅に見るも無残な状態で転がった、かつては人型だった炭の破片を見た後では、そんなカタログスペックに対する信憑性も薄いが。あれはルキアが試し打ちした初級魔術の『サンダー・ボール』一発でああなった。

 

 フィリップもそれくらいできるのではないか、と。ほんの数分前まではそんな期待を抱いていたのだが──

 

 がっくりと膝を折り、「何も……何もできない……」と諦観を口から垂れ流すフィリップの姿を見て、その期待に沿う結果が得られたのだと思う者は一人もいないだろう。

 

 フィリップが習得した二つの魔術のうちの一つを試してみたのだが、結果は失敗だ。

 

 強すぎるとか、弱すぎるとか、誰かが発狂するとか、そういう以前の問題だ。

 魔術を詠唱し、魔力を失う感覚と、代償の支払いをすっ飛ばすいつも通りの過程を踏み──魔術は()()()()()()()

 

 クトゥグアの時と同じだが、今回は何かを呼ぶ類の魔術ではないはず。

 

 ということは、つまり。

 

 「無能だ……ただの無能だ……」

 

 クトゥグアの召喚に失敗し続けた時と同等の落ち込み具合を晒し、もはや何もしたくないと体を丸める。

 

 意気消沈は疲労時に顕著に表れる症状だが、魔力欠乏でも同様だ。

 連日の授業と魔術訓練と、質のいい食事と睡眠。元々魔力量や回復速度に劣るフィリップだ。消費と回復のサイクルはギリギリのバランスを保っていたのだろう。

 

 そこに、昨日の魔術書の閲覧と睡眠不足だ。破綻してしまうのも当然といえる。

 

 だが──今はそんな自己分析と自己理解より、いい薬がある。

 

 「フィリップ、おいで」

 

 ルキアに抱き起こされ、そのまま柔らかく甘やかに抱擁される。

 

 石鹸と紅茶の匂いの奥に、形容しがたい甘くとろけるような香りを感じる。

 柔らかな胸元の感触が、頭を撫でる手から感じる深い愛情が、仕立てのいい私服の触り心地が、彼女から感じる全てが、心地よい。

 

 「おやすみなさい。少し眠って、また頑張りましょう」

 

 卑下と諦めでどろどろに濁った心を溶かすような囁き。

 この一週間の魔術訓練で恒例となりつつあった膝枕へと誘導され──フィリップはそのまま、意識を手放した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 数時間後。

 フィリップは眠りに落ちる以前数分のことをすっぽりと忘却し、少し薄れた倦怠感の中で目を覚ました。

 

 仰視視点でルキアの顔を見るのはここ数日で慣れていたが、また魔力欠乏を起こしていたのかと思うと情けなくなる。

 

 「すみません、また……」

 「大丈夫よ。もう起きられる?」

 

 言葉の上では質問しつつ、ルキアは目を凝らし、フィリップの体内を巡る魔力を視ていた。

 魔力の量や流れに異常も不足も無いことを確認し、その上で「起きれるか」と聞いている。それは要するに「起きる意志はあるか」という質問なので、フィリップは自分の体調をさほど気遣うことなく起きられる。

 

 「はい。ありがとうございます」

 

 立ち上がり、先ほどと変わらない位置に無傷のまま置かれている人形を見遣る。

 

 発動しなかったのではなく遅延発動なのではないかという淡い期待が立ち消えるが、そこまでの落胆は無い。

 

 フィリップが習得した魔術は二種。一つが駄目だったからと全てを投げ出すには、まだ時期尚早だ。

 

 「もう一つを試してみます」

 「……落ち着いて、集中して」

 

 右手で標的を照準し、脳に植え付けられた知識から詠唱文を探し当てる。

 現代魔術と比べて圧倒的に少ない量の魔力が失われ、その代わりとでも言うように正気度を削ろうとする。だが、たかが魔術がもたらす精神的影響など、外神の庇護を受けるフィリップには何の痛痒も無い。

 

 代償を踏み倒し、結果だけを傲慢に要求するフィリップの有様は、正しく魔術師然としていた。

 

 「──行きます。《萎縮(シューヴリング)》」

 

 何が起こる魔術なのかは、聞いたことの無い呪文に目を瞠るルキアだけでなく、行使したフィリップにも分からない。

 なんとなく語感的に威圧系、精神干渉系の魔術だと思っていたのだが、それは間違いだった。

 

 それはルキアの『粛清の光』のような荘厳さも、『明けの明星』の美しさも一切持ち合わせず、初級魔術のように炎や氷が弾丸や槍を形成するといった派手さも無い。

 

 始めに異常を知らせた感覚器は、鼻だった。

 鼻腔の奥にツンと突き刺さるような刺激臭が漂いはじめ、二人はほぼ同時に鼻と口を覆った。体育館に天蓋が無く、通気性が良くて助かったと笑える辺り、そこまで濃度の高い気体ではないようだ。

 まさか毒ガスを発生させる呪文なのかと、また制御の利かなそうな気配に辟易とする。しかし、標的人形を見遣れば、すぐに違うと分かった。

 

 目視で異常を確認した時には、既に手遅れと言える惨状だった。

 ぱっと見た限り、人形は黒くなっていた。

 

 だが表面に色が付いたわけではなく、むしろ内部から染み出すような感じだ。

 ぼこぼこと泡立ちながら滴り落ちる、黒い液体。

 

 ショゴスか無形の落とし子でも彷彿とさせるようなグロテスクなそれに苦笑する。

 こんなものをかけられたら、さぞかし気分が悪いだろう。それがどういう攻撃になるのかは不明だが。

 

 また使えない魔術かと自嘲して一歩踏み出し──その肩を強く掴まれ、制止される。

 

 「ちょっと待って」

 

 鼻と口を覆ったまま、ルキアが慎重に近付き、ぼこぼこと泡立つ人形を観察する。

 

 いや、泡立っているのは人形ではなく──かつて人形だった黒い液体が、泡立っているのか。

 液体はかなりの速度で乾き、ぼろぼろの炭のようになった人形の残骸にこびりついている。

 

 この凄惨な光景には覚えがある。

 

 錬金術師が特殊な素材を溶かすのに使う、強酸性の溶媒──熱濃硫酸、だったか。あれに特有の、強烈な脱水作用と炭化。

 

 見た限り、今の魔術に酸の生成や投射といったプロセスは無かった。

 ただ唐突に、標的に対して脱水作用を引き起こし、炭化させ──その体積を三分の一以下まで()()させた。

 

 強いか弱いかで言えば間違いなく「強い」に分類される魔術だ。

 

 発動から効果の顕出までに時間があるように見えたが、生物相手なら体組織が内側から焼ける痛みにのたうち回り、反撃どころではないだろう。

 魔術師自身が持つ魔術抵抗を貫通するだけの力があるかどうかはともかく、内部からの破壊だ。防具は無効化できる。

 

 高威力実戦型。

 フィリップが望む系統の魔術を習得できたと、ルキアも我が事のように笑みを浮かべ──微妙な顔つきのフィリップを見て、首を傾げる。

 

 おめでとう、という祝福の代わりに、大丈夫? と心配を向ける。

 フィリップは微妙な表情のまま振り返り、苦い笑いを浮かべた。

 

 「これ、制御できる気がしないんですけど……」

 

 ずっと望んでいた、フィリップ自身の意志で制御可能な魔術──では、ない。

 

 魔術を行使したフィリップには漠然と、この魔術に必要な魔力と、魔力を削った場合どうなるのかが理解できた。

 それによるとこの『萎縮』の制御可能な要素は、攻撃範囲のみ。

 

 威力の制御は利かず、命中箇所は確実にこの人形と同じ末路を辿る。

 

 勿論、何もできないよりはマシだ。

 範囲の制御が出来れば、手足のみを攻撃して生かしつつ無力化することもできる。

 だが、再起不能だろう。命の懸かった決闘ならともかく、学院の授業で行う模擬戦などでは絶対に使えない。

 

 5段階評価で言えば3。100点満点のテストなら50点といったところ。可もなく不可もなく──そんな感じの魔術だった。

 

 「ついでに、グロテスク過ぎて、あまり人間相手に使いたくありません」

 

 ()()()()()()()()()()、という前提を口にしなかったのは意図してのことだ。

 ヒトに対して一片の価値も感じないフィリップだ。殺人に対しても、惨たらしい死に対しても、自分がそれを引き起こすことに対しても、特に忌避感は無い。

 

 だが、ヒトは同族の死を嫌う。特に、理から外れた凄惨な死を。

 

 それを積極的に齎そうとするモノをどう扱うかは、想像に難くない。

 人類が滅ぼうが星が砕けようが死ぬことは無いフィリップだが、社会から弾き出されては平穏無事に快適な生活を送ることはできない。

 

 それは困る。

 故に、明後日の決闘までに威力の制御を習得するか、この『萎縮』を抜きにして戦う必要がある。

 

 だが──フィリップは漸く、「魔術をどう扱うか」という訓練を積む段階に来たのだ。

 今までの「魔術を習得できるか」というステップからは、一段上に登れた。

 

 モチベーションは最高だ。だが──コンディションがあまり良くない。

 数時間の昼寝程度では、魔力の回復が追い付かなかったらしい。酷く眠いし、身体も重い。

 

 ぼろぼろの炭になった人形を一瞥して、これを片付けたら部屋に戻ろうと決めた。

 

 

 



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49

 決闘当日を迎え、体育館の名を冠した闘技場は、その形状通りの用途で使われることになった。

 

 観客席にはクラスメイト達が座るだけで、規模に対して人入りがあまりに疎らだ。これが興業なら大赤字だが、今から行われるのはただの決闘。ただの殺し合いだ。

 法律で認められた権利の行使であり、見慣れずとも珍しくはないアクシデント。

 

 まだ皺も無い制服に身を包んだ平民と、仕立てのいい服を着慣れている貴族。

 決闘に臨むには不釣り合いな二人が中央に向かい合い、片手を掲げて宣誓文を読み上げる。

 

 「私カリスト・フォン・ライウスは、自らの主義と主張が王国法および神の教えに何ら逆らわず、また貴族として誇りあるものであると、ここに宣誓する」

 「私フィリップ・カーターは、その主張が仁義にもとるものであるとし、自らの主張こそ王国法と神の教えに従うものであると訴えるものである」

 

 あらかじめカリストの手配した立会人が、二人の宣誓を受け厳かに宣言する。

 

 「ならば両名に並び立つ未来は無く、王国法貴族章第5項に基づく決闘権の行使と実行を、ここに認可する」

 

 きちんとした決闘を行う場合、挑む側は宮廷への届け出が必要となる。

 決闘が正しく行われているか、正当性のある決闘か、その他諸々の決闘にまつわる事項を精査し監督する、貴族院決闘管理局なるものが存在するらしい。立会人はそこから派遣されてくる。

 

 一般的には戦闘経験を積んだ魔術師か騎士がその役割を負い、不正があった際には当事者を鎮圧することもある。のだが──

 

 「で、では、介添人は宣誓を……」

 

 そろそろ決闘が始まろうかという頃になり、時間の経過とともに不機嫌さを増して押し黙ったルキアに慄いていては、仕事も満足にこなせまい。

 

 「……あの、サークリス様?」

 「──何か?」

 

 何かありましたか? ではなく、何か文句でもあるんですか? 後ろに隠れているのはそんな険のある言葉だろうな、と察せられる声色だ。

 フィリップは既にカリストと向かい合い、ルキアの方に振り向いてはいけないと言われている。

 

 「その、カーター氏の介添人として宣誓して頂く必要が……」

 

 見ていて気の毒なほどの萎縮ぶりには苦笑の一つも浮かべたいところだが、眼前で覚悟の決まった真剣極まる表情をされては、そうもいかない。

 

 「──悪く思うな。彼女と、この国の為だ」

 「…………」

 

 カリストは囁くが、フィリップは何も答えない。

 答えを欲してもいなかったということは、それきり目を閉じたカリストの態度で分かる。

 

 「私ルキア・フォン・サークリスは、フィリップ・カーターの介添人として、彼と意志を同じくして戦うことを、ここに誓います」

 

 王国法への誓いも無く、神への誓いも無く、それは定型文からはかけ離れていたが、立会人の彼はそれを気に掛ける余裕すらなかった。

 

 「で、では、三者の誓いにより、この決闘の正当性を認めるものとします。両者、構え──」

 

 カリストとフィリップの両者が弾かれたように距離を取り、自分が想定した倍の距離が開く。

 その位置こそ決闘開始の地点であり、今後、立会人が開戦を宣言するまで接近も後退も許されない。相対距離を保ったままじりじりと円を描くように移動し、少しでも相手の魔術照準を狂わせる努力をする。

 

 研ぎ澄まされた集中力は時間を何十倍にも引き延ばして知覚させるというが、武術の訓練を積んでいないフィリップの集中力が見せるのは、精々が数倍に伸びた世界。

 通常であれば魔術の照準や魔術式の演算に使われるこの準備時間を、フィリップは半ば無意識に過去の回想に使っていた。

 

 走馬灯、ではない。

 死期に際した自分の歴史の回顧に何の意味も無いからではなく、フィリップの意識、理性、価値観その他のフィリップを構成するあらゆる要素が、いまこの瞬間を死期と認識していない。

 

 一撃で自分を殺せる相手の前に敵対者として立ち、その戦意をぶつけられてなお、一片の『死』も感じない。

 たかが人間風情に自分が殺されるビジョンが見えない。

 

 では、この脳裏に浮かぶ光景は何なのか。

 ルキアの協力を得て魔術を練習してきたこの一週間の、切り刻まれた一瞬が何度も何度もリフレインする。

 

 これは──そう、言うなれば()()()()だ。

 

 これまでの練習を省みて、この場における最適解を選択するための回顧だ。

 

 目に浮かぶ、吹き飛ばし燃え尽きた町の一角。目に浮かぶ、ぼろぼろに炭化した標的人形。目に浮かぶ、制御を試みて悉く失敗し、蹲る自分。

 結局、《萎縮》は攻撃範囲の制御すらまともにできなかった。

 

 眼前敵の排除には使える。だが過剰だ。

 フィリップに課せられた制限は『一撃貰う前にカリストを倒す』という一つのみ。

 

 どろどろに溶かし、ぼろぼろに炭化させ、かつて人間だった萎びたモノにすることではない。

 殺し合いなら躊躇いなく使うと言ったが、元より、この決闘は殺し合いではない。いや厳密には、カリストとフィリップの戦いですらない。

 

 フィリップに掛かった制限の理由は、フィリップに致死性の攻撃が加えられた時点でヨグ=ソトースが『敵』を知覚し、その排除に動き出すからだ。

 故に、これはフィリップがカリストを倒すのが先か、副王がカリストに気付くのが先かというスピードレース。

 

 カリストを殺す必要性も、残酷な殺し方をする必要性も、かつて人間だった炭をクラスメイト達に見せる必要もない。

 

 ならば、賭けるしかないだろう。

 もう一つの呪文に。フィリップが習得しておきながら、終ぞ標的人形相手に効果を齎さなかった呪文に。

 

 どちらも邪神絡みでない点で一致し、『萎縮』は100%の確率で惨たらしい死を与える。だがもう一つの呪文は未だ未観測ゆえ、綺麗な攻撃である可能性が有意に存在する。

 

 「──始めッ!」

 

 号令が下り、意識の加速が頂点に達する。

 

 魔術式の演算を必要とせず、呪文詠唱の一工程で即座に発動できる領域外魔術は、発動速度の面で現代魔術に勝る。

 だが──カリストの才能は一級品だ。ルキアやヘレナといった最高レベルでこそないものの、その演算速度はフィリップの予想など平然と上回ってくる。

 

 「《深淵の息(ブレス・オブ・ザ・ディープ)》」

 

 フィリップの詠唱完了とカリストの詠唱開始はほぼ同時。ほんの一挙動しか要さないフィリップの魔術に、カリストが用意していた大魔術の演算速度が追い付いた。

 これで魔術が発動しなければ、カリストの攻撃魔術がフィリップへ殺到し──副王が介入する。

 

 結論から言って、賭けに勝ったのはフィリップだった。

 

 

 魔術式の演算が終了し、あとは起動詞の詠唱によって魔術が完成する。

 その時点でフィリップの死が決定づけられるほどの攻撃魔術を用意して──最後の、ただの詠唱が完了しない。

 

 カリストの口から出たのは訓練を重ね、今や手足と同等に使いこなせるほどに砥上げた攻撃魔術の起動詞ではなく、ごぼりという空気と水の音だった。

 

 始めは嘔吐かと思った。

 詠唱には口を、演算には脳を使う以上、その双方を大きく狂わせる嘔吐は妨害として手軽ながら最上級。圧縮空気弾を腹に食らいでもしたのだろうかと。

 取り敢えず吐き出してしまおうと、まずは魔力障壁を展開し、身を屈めて息を吸い、吸い──!?

 

 「ごぼッ……」

 

 息が、吸えない。身体が重い。まるで──()()()()()()()()()()()()

 

 蹲り、本能に従って胴体を頭より高くすると、気道を猛烈な勢いで逆流してくるものがある。

 開けた口のみならず、鼻からもツンと刺すような刺激と共に、大量の水があふれてくる。

 

 水が舌の上を通ったとき、ぴりぴりと強い塩の味がする。塩水、いや、海水か?

 

 吐いても吐いても、排出しても排出しても、肺を満たすのは海水ばかり。もう何秒、何分、呼吸も無く海水を吐き続けているのだろう。

 いや、息を吸い筋肉を動かして吐くのではなく、ただただ肺から溢れた水を垂れ流している。自分の意志ではどうにもできず、ただ苦しむことしかできないでいる。

 

 どうして呼吸困難に陥っている? 苦しんでいる? 無様に地面に蹲り、服を汚している? 地面を掻きむしる手の制御が利かず、爪が割れる。痛い、痛いが、それ以上に苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい苦しい苦しい苦しいくる

 

 ぶつん。と、意識が途切れる。

 

 全身の酸素循環が完全停止してから30秒。失神こそしたものの未だ死には至らないカリストの口からは、止まることなく海水がどくどくと溢れていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 決闘を申し込まれた時点で、クラスの空気は半ばお通夜状態だった。

 せめてフィリップの最期が楽しいものであるようにと、みんな色々と絡んでくれたし、決闘に際して体育館の観覧席に来て、一言も発さずに見守ってくれていた。

 

 その視線には同情や口惜しさが滲んでいたのだが──今のこの沈黙は、全く質の違うものだった。

 

 どうしてフィリップが立ち、カリストが横たわっているのか。

 今の呪文は何なのか。ああも苦しませる必要はあったのか。

 

 責めるというよりは、眼前の異常に慄く視線。

 

 恐怖や嫌悪を色濃く浮かべたクラスメイトたちの視線を一身に受け──その全てを無視して、フィリップは顔を引き攣らせていた。

 

 『深淵の息』。『萎縮』ほどではないが、こっちもこっちで大概グロテスクだ。

 窒息死は死因の中でもかなり苦しい方だと何かで読んだが、習得した魔術が窒息死か脱水炭化死の二択とは。

 

 「そ、それまでッ! カリスト・フォン・ライウス氏の戦闘続行は困難とし、決闘の終結を宣言するッ!」

 

 勝者の宣言を忘れ、立会人が早口にそう告げる。

 フィリップに向ける視線は、早く魔術を解除しろという意味だろう。

 

 さて──ここで、魔術は既にフィリップの手を離れているという話があるのだが。

 

 『深淵の息』は非常に使い勝手のいい魔術だ。

 発動時間や消費魔力の少なさは他の領域外魔術と並んで高評価だが、何より、撃った直後には魔術師の制御を離れ、以降は継続的に相手に影響を与え続けるという優れた特性がある。

 

 要は純粋な連続投射型の攻撃魔術ではなく、相手の肺を基点とした設置型のデバフなのだ。

 

 で、だ。

 つまりそれは、フィリップの意志で解除できないということで。

 

 「制御不能です!」

 

 諸手を上げてそう叫ぶと、立会人が血相を変えてカリストに駆け寄り、物理的な救護処置を施していく。

 

 ちらりと振り返ると、未知の魔術を興味深そうに分析しているルキアと、絶句しているクラスメイト達の姿が見えた。

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ3『魔術学院編入』 ノーマルエンド

 技能成長:【魔術理論】+1d10
 SAN値回復:1d6


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ダンジョン攻略試験
50


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ4 『ダンジョン攻略試験』

 推奨技能は【現代魔術】を含む戦闘系技能、【クトゥルフ神話】、【ナビゲート】です。


 決闘に勝利し、フィリップはルキアとの学園生活を守り抜いた──そんなつもりで戦った訳ではない──のだが、残念ながら、フィリップを取り巻く環境は一変した。

 或いは、初期の段階までロールバックした。

 

 ルキアと並んで校舎を歩き、教室に向かう道すがら、すれ違う生徒たちの会話が漏れ聞こえる。

 

 「あれが例の──」

 「あぁ、枢機卿の──」

 「未知の魔術を使ったって──」

 

 諦めの滲む嘆息を漏らし、それを見た生徒たちが「聞かれていたか」と慌てて口を噤む。

 決闘から未だ二日だというのに、既に学院中に話が広まっている。

 

 ゴルドア・フォン・ライウスの曾孫と決闘して勝った。その際に未知の魔術を行使した。

 事実はここまでだ。

 

 そこに「教会関係者」という要素──ナイ神父やマザーは教会に棲み付いているだけで、一神教とは何の関係も無いのだが──が加わるとあら不思議。

 教皇庁によって開発された新しい魔術を行使する謎の編入生の出来上がりだ。勘弁してほしかった。

 

 カリストは一命を取り留めたものの、意識不明のまま王宮附属病院で療養中。決闘の当事者としてフィリップは学長に呼び出されて事情聴取を受けたし、この噂についても真偽を問われた。嘘だと返しておいたが、信じてくれたかどうかは怪しい。

 幸いにして、或いは当然ながら、フィリップを責める者はライウス伯爵家を含めて誰もいなかった。

 

 学長は決闘に至る経緯を話したときには同情し、自分の力不足を嘆いていたし、決闘に臨んだフィリップの心意気を褒めてもくれた。

 それはそれとして今度その魔術を見せろと言われたので、「肺のある」標的が必要だと返しておいたが、それはさておき。

 

 伯爵家からはフィリップとルキア、学院とサークリス公爵家に謝罪文が届けられたし──ルキアへの配慮が過剰だ──、カリストからフィリップへの決闘挑戦はその権利を今後一生に渡って剥奪すると書いてあった。

 決闘管理局からは勝者であることを証明する文書が届いたし、ついでにルキアにも「手を煩わせてすまなかった」という旨の謝罪文が来ていた。

 

 ……ルキアの介入が思ったより大きな影響を及ぼしていてちょっと笑えてくるが、まぁいい。

 

 あとは……ナイ神父から届いた、『そっちを使ったのはいい判断です。なんせ繰り返し痛めつけられますからね』という旨の手紙くらいか。

 

 本当に、色々なことがあった。

 だが一番嫌な変化は──

 

 「あ、サークリス様とカーターさん。おはようございます」

 「……おはようございます」

 

 慇懃な態度に戻ってしまったクラスメイト達だ。

 

 一番最初にフィリップに向けられていた「枢機卿の親族だ」という認識。

 あれを否定した言葉は、どうやら信憑性を失くしたらしい。

 

 教室に入り、いつもの席へ向かう。

 隣に座ったルキアと話しつつ、彼らの様子を窺う。

 

 フィリップたちとは一定の距離を置き世間話に興じる彼らは、時折ちらちらとこちらを確認している。

 二人の話を邪魔しないように声量を抑え、しかし二人が話しやすいように教室を適度な喧騒で満たす。それを意識してやっているのが見て取れるほどの緊張具合だ。

 

 フィリップも昨日は否定しようと必死だったが、彼らも「そうなんですね」「分かりました」と答えるだけで、態度は一向に変化しない。

 何を言っても無駄だと察するのにそう時間はかからなかった。

 

 ルキアに口添えを頼んでみたものの「この私に口裏を合わさせるだけの“バック”があると思われるだけよ?」と言われ、即座に撤回した。

 

 じゃあどうするか。

 ナイ神父経由で教皇庁が「フィリップ・カーターと教皇庁は無関係だ」という声明を出す? いや、どう考えても逆効果だろう。

 なら逆に「フィリップ・カーターは神に背く逆徒である」と──いや、破門されれば快適な生活どころではない、賞金稼ぎや征伐軍から逃げ回る日々だ。より正確にはその全てがナイ神父とマザーの手によって薙ぎ払われ、半ば魔王扱いで孤独に生きるしかなくなる。

 

 「はぁ……」

 

 諦めに瞳をどろりと溶かし、机に突っ伏す。

 

 思い描いていた平和で快適な学園生活からは少し違ってしまったが、まぁ……まぁいいだろう。ここは邪神の気配もなく、這い寄る狂気も渦巻く混沌も無い、平和な場所だ。

 自分にそう言い聞かせていると、扉を開けてヘレナが入ってくる。

 

 授業の開始かと生徒たちがぞろぞろと席に着き、フィリップも身体を起こす。

 

 全員の聞く姿勢が整ったのを確認して、ヘレナが口を開く。

 

 「おはようございます。連絡事項が二つあるので、傾注してください。まず一つ目、明日から試験準備期間になります。授業は4時限まで。クラブ活動は全て停止、委員会も時間短縮が義務付けられますので留意してください」

 

 留意しろって言われても活動時間を決めるのは先輩たちだよね、と誰かが囁き、くすくすと笑いが起こる。

 ヘレナも肩を竦めて「確かに」と笑った。

 

 「今回の期末試験は例年とは違い、実践分野を校外で行います。関連事項をまとめた書類を後日──いえ、今日の終礼で配りますから、目を通して準備しておくように」

 

 日付を思い出すように視線を泳がせ、言い直したヘレナに苦笑を向ける生徒はいない。

 誰もがその内容に驚愕し、ざわざわと近場の生徒と議論していた。

 

 「校外でテスト?」

 「あれだろ? 野外訓練が中止になったから──」

 「一緒にやるってこと? 勘弁してよ……」

 

 魔術学院の試験は前後学期の中間・期末の年四回。それぞれ理論分野・実践分野に分かれており、片方が赤点でも片方が合格であれば落第はしない。

 

 学院生は一般的に実践分野に傾倒しており、魔術理論について積極的に勉強しようという生徒は少数派だ。

 魔術が使えるならそれでいいし、社会もそれを許容する。理論なんて七面倒臭いものを学ぶのは、研究分野に進むごく一部の生徒か、フィリップのような実践分野に難のある生徒くらいだ。

 

 故に学院生にとって理論分野のテストは難解で、逆に実践分野のテストは簡単だ。

 理論分野を捨てて実践分野で進級をもぎ取ってきた生徒も、先輩の中には何人もいるだろう。

 

 そして、校外での実践分野試験。恐らくはAクラス1班の壊滅によって全面中止となった野外訓練の補填も兼ねたものが、普段のものより簡単であるはずがない。

 

 それを察した生徒たちが怨嗟の声を上げ、ヘレナはそれを笑って受け止める。

 

 「はははは、励み給えよ学徒諸君」

 

 揶揄うように激励して、すっと表情を切り替える。

 横暴だの勘弁してくれだのと騒いでいた生徒たちも、明確に切り替わったヘレナの雰囲気に中てられ、口を噤む。

 

 「もう一つ。今後一切、生徒間での決闘を禁止します。貴族法は──いえ、あらゆる身分階級に基づく特権は、この学院内に於いて効力を失うと何度も教えたはずですね」

 

 学院内では魔術の腕のみが自らを誇る唯一の指標。その大前提を今一度周知させる。

 フィリップを含めた全ての生徒を睨みつけるように見据え──ルキアの冷たい目に負けそうになるのをぐっと堪える。

 

 「次に私の生徒を殺すと宣言した(決闘を挑んだ)者は、その相手より先に私が戦います。いいですね?」

 

 わざわざ手袋を外し、聖痕を見せつける必要は無い。

 ヘレナ・フォン・マルケル──風属性最強の名は、既に全世界に轟いているのだから。

 

 はい、と、クラス全員が一斉に返事をした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 その日の昼食時には、誰も彼も同じ話題について話していた。

 フィリップとルキアも例外ではなく、いつもの特等席で向かい合い、校外試験を話題に挙げる。

 

 「今回の実践試験、行き先は王都付近のダンジョンらしいわ」

 「へぇ、ダンジョン……」 

 

 ダンジョンとは、この大陸全土に点在する謎の構造物のことだ。

 規模や内部構造は物によって異なり、築年数もバラバラ、生息する魔物も土地に従うこともあれば無視することもあり、まさに「謎の」建物。

 

 ダンジョンを専門に研究する考古学者や博物学者も少なくないが、彼らの大多数は「ダンジョンとは総称であり、前時代に造られた迷宮や砦もあれば、今世紀に入ってから造られた模造品も含まれる」と口を揃える。

 

 何で出来ていて、何があって、何が出てくるのか。それはモノによって異なり、当然ながら危険度も異なる。

 遺跡、迷宮、洞窟、森、砦、古城。規模に比例して生息する魔物や出土品の格も上がり、踏破難易度と恩恵が高くなる。

 

 それらを調査したり、或いは出土する遺物を回収したり、或いは最奥部までの踏破を目的としたり。

 多様な目的を持ってダンジョンに挑む冒険者も多い。

 

 王都近郊に存在するダンジョンはそう多くない。

 高難易度のものがあるという話は聞かないが、ダンジョン自体が往々にして危険性のある場所だ。

 

 「踏破したら合格、とかでしょうか?」

 「かもしれないわね。となると、そこまでの難易度のものは用意されないと思うけど……」

 

 難易度は規模に比例する。

 全学院生が押し掛けて詰まったりしない規模となると、かなりの高難易度になるだろう。

 

 野外訓練のように何人かのグループに分けられ、各地の小規模ダンジョンへ分散するというのが一番ありそうだ。

 

 「ダンジョンってことは、魔物と連戦することもあるんですよね……」

 

 魔物はともかく、連戦はフィリップには厳しい。

 集中力もそうだが、魔力量と魔力回復速度が一般魔術師に比べて大きく劣るフィリップは、継戦能力に欠ける。

 

 『萎縮』も『深淵の息』も魔物相手になら存分に振るえるとはいえ、そもそもキャパシティ的に何十発、何百発と連射するのは不可能だ。

 

 「限界が来たら、あとは私がやるわ。たぶん評価はグループごとでしょうから、実戦経験を積むことと、自分の限界を見極めることを目標にしましょう」

 「……はい!」

 

 なるほど確かに、と。いつもの魔術講義のようなルキアの言葉に頷いて、厳しいけどいい先生なんだよなぁなどと感動する。

 グループ分けが任意なのか抽選なのか、あるいは教師による選別なのかも定かでは無いが、二人とも別のグループになるという可能性は考慮していなかった。

 

 その日の終礼で配布された「遠足のしおり(原題)」を読むと、各グループは5名から6名で決定済み、ルキアとフィリップは同じ班であることが分かった。

 

 それはいい。それはいいのだが。

 

 「所要物、行程、移動経路、“自己判断”ってなんなんだ……」

 

 各員に配布されたしおりはペラペラで、とても野外訓練や試験の要綱とは思えない。

 内容も、要約すれば「君たちのグループはこれ。目的地はここ。あとは自分たちで考えて?」である。投げっぱなしもいいところだ。

 

 試験準備期間である明日からの一週間で荷物を用意し、行程を計画し、試験開始日に学院を発つ。

 試験終了日までにダンジョン最奥部へ到達すれば満点。到達できなかった場合や脱落者が出た場合は減点され、野外訓練の時のような未知の魔物による襲撃を受けた場合は直ちに中止。

 

 「結構ハードですね……」

 「えぇ、そうね……」

 

 その気になればダンジョン最奥部まで一直線の道を()()()ルキアは、禁止事項、特に『ダンジョンの破壊を禁じる』という文章が何処にも記載されていないことを確認しつつ相槌を打った。

 最悪の場合、試験期間全てを行程に費やしても何とかなる。試験終了時刻を基準として、ダンジョンの入り口から最奥部までの最短距離を全力疾走するのにかかる時間を引いた時間が、行程に費やせる限界時間だ。

 

 目を細めてしおりではない何かを見つめるルキアに「なんか物騒なこと考えてるな」と苦笑していると、席の周りにぞろぞろと人が集まってきた。

 

 

 



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51

 人の気配に思考を妨げられたルキアが眼光を鋭くするのに先んじて、声をかけるべきかと所在なさげにしているクラスメイトに向き直る。

 

 「もしかして、同じグループの方々ですか?」

 

 しおりにはルキアとフィリップ以外にも3名の名前がある。

 フィリップ側の通路に並んだクラスメイトも3名。ちょうど合致する。

 

 並んでいた三人のうち、二人が女子生徒、一人が男子生徒だ。つまりグループはフィリップとルキアを入れて男子2:女子3。肩身の狭い旅路になりそうだ。

 

 男子生徒はフィリップと同じスタンダードな金髪碧眼だ。フィリップより高身長なのは当然として、クラス内では真ん中くらいか。あまり絡んだことは無いが、フィリップの決闘に際しては卑下ではなく同情の視線をくれたような覚えがある。

 

 女子生徒は片方が茶髪に翠眼という珍しい顔立ちで、もう片方は金髪に碧眼。茶髪の方は確か、ユリア・ベルトだったか。フィリップと同じ平民で、カリストに決闘を申し込まれた後はよく絡んでくれた。せめてその最期が楽しいものであるように、という気遣いは、幸いにして無駄になったが。

 

 「先ずは名乗って貰えるかしら?」

 

 ルキアは不機嫌そうに、半年近く同じクラスだったはずの彼らを誰何する。

 男子生徒とユリアが少し傷付いたような苦笑を浮かべ、金髪の女子生徒が靴音も高らかに一歩進み出た。

 

 スカートに触れるカーテシ──ではなく、気を付けの姿勢で直立不動となった。

 

 「はい! あの、シルヴィア・フォン・アルカスです! ルキフェリア・フォン・サークリス聖下と、フィリップ・カーター猊下と同じグループになれて、その、光栄至極に存じますっ!」

 

 最後には片手を胸に当て跪く、最敬礼の姿勢に────はい?

 

 絶句し、思わずルキアを見遣ると、彼女も予想外のことに怒りを忘れて瞠目していた。

 

 他のグループは既に教室を去っており、彼らだけが広い教室にぽつんと残っている。

 シルヴィアの感動は伽藍洞の教室に反響し、それがより一層フィリップとルキアの混乱を煽る。

 

 一秒、五秒、十秒と時間が過ぎる。

 

 「えーっと……」

 

 ぽつりと呟いたのは誰だったか。フィリップとルキアでないのは確かだから、ユリアか男子生徒のどちらかだろうが。

 二人は顔を見合わせ、男子生徒がすっと進み出て略式の立礼を取る。

 

 「リチャード・フォン・ルメールです。よろしくお願いします」

 「あ、ユリア・ベルトです。私も皆さんと同じグループになれて嬉しいです!」

 

 ユリアも続き、ぺこりと頭を下げる。

 

 ここまで、シルヴィアは微動だにしていない。

 

 「えっと、よろしくお願いします。ところでその、“猊下”というのは……?」

 

 もちろん、言葉の意味は知っている。

 『聖下』は教皇や聖人に対して付けられる敬称で、猊下と呼ばれるのは枢機卿──なるほど。訊くまでも無かった。そんな当たり前のことをここまで考えないと思い至らない辺り、凄まじく動揺していた。

 

 「いえ、なんでもありません。改めて、フィリップ・カーターです。枢機卿の親族だという話は全く根拠のない出鱈目──」

 

 いや、根拠はあるか。

 未知の魔術を使う教会関係者が途方もなく怪しいのは分かるし、それが以前に枢機卿の中にもいたカーターという名前と結びついたのも理解できる。

 

 そんなことを考えて言い淀んでしまったことで、ますます否定の信憑性が薄れるのだが。

 

 「──です。猊下とか様とか、敬称は不要です。普通に平民として、クラスメイトとして扱ってください」

 

 そう言われてもね、と三人は顔を見合わせる。

 もはや編入初日のように「なーんだ、勘違いだったのかー!」で済まされる程度の認識ではないらしい。

 

 「フィリップ・カーター猊下」

 「いえあの、普通に呼び捨てで……というか猊下はナシでってさっき……」

 「ではカーター様」

 「様も無しでって言いましたよ!」

 「……では、カーターさん」

 

 ここが最終防衛ラインです。これより先には通しません。

 そんな覚悟の籠った視線を向けるシルヴィアと、困った人だ、とでも言いたげな視線を()()()()()()向けるリチャード。

 

 フィリップを──()()()()()()()雑に扱うということは、一神教を、延いては彼ら自身の信仰を雑に扱うということだ。

 彼らからしてみれば、フィリップが自分を平民だと()()ことも耐え難いのだろうが、フィリップにとっては、謂れのない敬意を向けられることこそ耐え難い。

 

 この辺りで妥協すべきか。というか、これ以上は押し通せないと目を見れば分かる。

 

 「……はい、なんでしょうか、アルカス様」

 

 意趣返しという意図はなく、単に相手が貴族だからと遜る。……なるほど、敬意の有無ではなく社会への適合として、確かに「敬意を示す」のは必要なことだ。

 それが理解できたところで、フィリップは本当に枢機卿の親族ではないので固辞と否定は続けるが。

 

 「カーターさんの事情はお聞きしません。カーター卿の──枢機卿の周りを嗅ぎまわるのは、あまりに危険な行為ですから。ですが、その、一つだけ」

 

 向けられた敬意を当然のものと受け止めて返すあたり、シルヴィアも生まれついての貴種なのだろう。

 一瞥すればルキアは既にグループメンバーに興味を失くしたように、姿勢を戻してしおりを黙読している。聖下とか呼ばれていたが、彼女は聖人だ。フィリップとは違い「正しい」呼ばれ方だからか、唐突さに驚きこそすれど、そう気にはならなかったのだろう。

 

 「あの、投石教会の神父様とお知り合いというのは本当でしょうか!」

 

 『投石教会』というワードに過剰に反応したのは、フィリップではなくユリアの方が先だった。

 

 「えっ、そうなんですか!? あの超絶美形で有名な神父様と!?」

 

 「し」「ん」「ぷ」でだんだん濁っていくフィリップの瞳。

 帰りたいなぁ、と。諦めに満ちた笑顔を浮かべて、端的に首肯する。

 

 わぁ、と。女性二人が色めき立った。

 

 「紹介してくれませんか!?」

 「お目通りだけでも!」

 

 別に、フィリップがどうこうするまでもないだろう。投石教会はやや複雑な道の先にあるが、なにも迷宮の最奥というわけではない。何かのついでに行くような便利な立地ではないというだけで、行こうと思えば簡単に行ける。勝手に行って、勝手に会ってくればいい。

 

 そんな旨のことを伝えると、彼女たちは揃って首を横に振った。

 

 「ダメなんです。もう予約が来月までぎっちりで、キャンセル待ちの列も、いつも何十人も」

 「えぇ……?」

 

 何それ聞いてない。

 そんなことになっていたのなら──いや、彼らに下された命令はフィリップの守護だけで、彼らが何をやっているかの報告義務はない。ないのだが、まさか俗世と積極的に関わっていたとは予想外だ。

 

 「なのでお願いします! あ、いえ、勿論、問題が無ければ」

 

 問題の有無で言えば大ありだ。

 何が悲しくて積極的に邪神に会いに行かなくてはならないのか。

 

 いくら明日から試験準備期間──午後からは自由とはいえ、指定されたダンジョンについて調べ、最適な旅程と装備を計画する必要がある。

 二等地まで出掛け、行列に並ぶような余裕はない。どうせ二等地へ行くのなら、ダンジョン攻略経験の豊富な衛士──彼らは軍学校か魔術学院の成績上位卒業生か、元Aクラス冒険者だ──に攻略のコツでも聞いた方がよほど有意義だ。

 

 ……待てよ?

 

 「ナイ神父に紹介した後、すぐに別行動でもいいのなら」

 

 これだ。これなら邪神たちに絡む必要が無くなる。

 どうせ二等地まで出るのなら、衛士団だけでなくタベールナの方にも顔を見せておきたい。ついでに夕食も……寮の門限に間に合うだろうか。外泊許可を申請して泊まるとなると、流石に明日の授業に差し障る。

 

 「投石教会というと、二等地の教会ですよね? どうせなら、冒険者ギルドや衛士団本部へ行って、ダンジョン攻略について色々と訊いてみませんか?」

 

 イケメンに女性二人ほど興味の無いリチャードが、ちょうどフィリップの逃避計画と同じことを提案してくれる。

 これ幸いと「良いアイディアですね!」と乗っかり、ルキアの意向を確認するように一瞥する。

 

 「サークリス様はどうされますか?」

 「私は──そうね。神官様にご挨拶だけして、フィリップと一緒に行くわ」

 

 やっぱりそうなるよなぁ、と、内心辟易する。

 フィリップとしては、ルキアにはこれ以上邪神に関わってほしくないのだが──同時に、浅いながら確かな智慧をもっと高めて欲しいという思いもあり、その自己矛盾が苦しい。

 

 ぱち、と、内心の歓喜を表すように、ユリアが手を叩いて笑顔を浮かべる。

 

 「じゃあ、明日は二等地にお出かけですね! 私、馬車の申請を出しておきます!」

 

 三者三様のお出かけムードを漂わせる女性陣に、フィリップとリチャードは顔を見合わせて苦笑を浮かべた。

 

 



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52

 ストック生産は古戦場期間中停止するので、次は1週間後とかですかね。
 ……期間中に次が投稿されたら、逃亡して書いてるってことです。


 かたかたと馬車に揺られながら、フィリップは油断すると零れそうになる溜息を呑み込んだ。

 

 昨日まで──厳密には昨日の就寝寸前までは、大して気にならなかった。

 あぁ、明日はお出かけかぁ。先週の一等地観光は延期になっちゃったけど、そういえば埋め合わせの話をしてないなぁ。そんなことを考えていたのだが、二等地じゃなくて一等地に行きたいなぁ、なんてことを考え出した頃から、だんだん内心が曇ってきた。

 

 二等地かぁ。ナイ神父とマザーにまた会わなくちゃいけないのかぁ。逃げ出せたと思ったら、たった2週間で再会かぁ。

 そんなことを考えていたら、寮のベッドの上だというのに「帰りたいなぁ」なんて口を突いて出て、思わず苦笑したほどだ。まだ寮を出ていないどころか、日付が変わってもいないというのに。

 

 

 申請者がルキアでは無かったからか、学院が貸し出してくれた馬車はグレードの落ちた、というか、一般的な運送用のキャラバン型馬車だった。

 ちなみに、ダンジョンまでの足にもこれと同じ型のものが貸し出される。今から尻と腰が痛くなってきそうだ。

 

 「停めてください。ここから歩きます」

 

 御者役をしてくれていたリチャードに告げ、馬車を下りる。

 見慣れた道を先導して歩いていると、ふと目の前に人の列が現れる。教会までまだ曲がり角が二つも残っているのだが──

 

 その横を素通りして教会へ向かうと、「なんだこいつ」という視線が並んだ人々から投げかけられる。

 十数人目の横を通り過ぎたとき「ねぇ、ちょっと」と呼び止められた。

 

 「貴方たち、この先の教会に行きたいのよね?」

 「あ、はい。投石教会に用があります」

 「やっぱりね。この列が待機列よ。最後尾に並んでね」

 

 順番抜かし──というより、この列の行き先を知らない者だと思われたのだろう。事実、この列が教会に続いているというのは半信半疑だった。諭すような言い方に、つい「あ、そうなんですね」なんて返してしまう。

 

 もろに関係者のフィリップに、教会どころか教皇庁にすら顔パスで入れるルキアがいる。押し通ることは容易いが、そこまでして二人に会いたいかと言われれば、勿論NOだ。

 

 よし。これを言い訳に、みんなには諦めて貰おう。

 息を吸って振り返り、適当な謝罪を口にしようとした時だった。

 

 「あぁ、彼は特別なんです。道を空けてください」 

 

 と。耳障りな──耳触りの良い声がする。ダメだ、遅かった。

 

 並んでいた人々に加え、背後ではユリアとシルヴィアが黄色い悲鳴を上げる。

 その喧騒の中に在って、地面を叩く革靴の音が一歩、また一歩、ゆっくりと近づいてくるのがいやに鮮明に聞こえた。

 

 ごくり。唾を呑む音を聞く。

 人外の美に中てられた女性のものか、或いは。

 

 深々と溜息を吐いて、覚悟を決めて振り返る。

 

 「やぁ、お久しぶりです。フィリップ君」

 

 いつも通りの慇懃な言葉遣い、普段通りの丁寧な一礼。

 黒い髪と褐色の肌、長身痩躯に異国の顔立ち。一挙手一投足が絵になる邪神(おとこ)は、軽い会釈程度の一礼で、路地に並んでいた女性たちをノックアウトした。

 

 

 何とか意識を保っていた人に、美しさの暴力で倒れてしまった人を任せ、教会へ向かう。

 ナイ神父とフィリップが並び、少し離れてルキアとリチャード、かなり離れてユリアとシルヴィアが続く。

 

 ナイ神父が教会の扉に手を掛けた時、不自然にならない程度に長身を傾ける。

 

 「フィリップ君。まだあの糞袋をお傍に置いているんですか? もう少し見る目を養われては如何です?」

 「…………」

 

 不愉快そうに囁かれ、フィリップも不愉快そうにその黒い瞳を見返す。

 フィリップの視線が一段鋭くなった時点で、ナイ神父が目を細めて笑い、睨み合いは一瞬で終わる。

 

 「さぁ、入りましょう。マザーもお待ちかねですよ」

 

 フィリップの交友関係とフィリップの守護に関係は無い。強制するようなことでもないと判断したのか、これ以上言い募るつもりは無いらしい。

 

 扉が開かれると、見慣れたバシリカ型教会の内装が目に入る。

 よく整えられたカーペット、整然と並んだ信者用の椅子、最奥でステンドグラスから差し込む光を浴びる聖女像。その下で、漆黒の喪服に身を包んだ女性が待っていた。

 

 何度目かの溜息を吐き、大人しく彼女の元に向かう。

 

 「久しぶり、フィリップ君」

 「お久しぶりです、マザー」

 

 ぺこりと頭を下げ、抱擁を無抵抗に受け入れる。

 ひとしきり愛玩されて解放されたのち、クラスメイト達の方に向き直る。

 

 「えっと、こちらが投石教会の主──いえ、管理人のナイ神父、あちらの女性がマザーです」

 

 (あるじ)というかヌシ、と言いたいのを堪える。そもそも教会は神の家、その主は当然ながら唯一神だ。

 その常識に照らせば、神父は管理人に過ぎない。

 

 二人を順番に示して紹介し、今度は彼らの方に向き直る。

 

 「こちらは僕のクラスメイトで、今度、校外試験で同じグループになった方々です」

 「シルヴィア・フォン・アルカスです! よっ、よろしくお願いしますっ!」

 「ユリア・ベルトです! あの、お会いできて光栄です!」

 

 ガチガチに緊張した女性二人を苦笑交じりに眺め、ナイ神父の顔色を窺う。内心の読めない、フィリップを含めた誰にも読ませない貼り付けた微笑だが、彼女たちにとってはそれすら猛毒だ。

 

 「そうですか。フィリップ君がお世話になっています。ご迷惑をおかけしていませんか?」

 

 迷惑も何も、接点を持ったのはつい昨日だ。

 ちなみにこの質問に冗談でも「迷惑だ」とか「邪魔だ」と答えた瞬間に首が飛ぶとは、フィリップを含めた誰も気付いていない。

 

 「い、いえ! とんでもありません!」

 「それは良かった。折角ですし、お祈りしていかれませんか?」

 「よよ、よっ、よろこんで!」

 

 わちゃわちゃしている二人に──ではなく、内心で渦巻いているであろう軽蔑や嘲笑を一片も感じさせない微笑を浮かべたナイ神父を見て、まぁ大丈夫そうかと安堵する。

 

 それを背後からふわりと抱擁して、マザーはフィリップの愛玩を再開した。

 

 「栄養状態は良さそうね。睡眠の質も量も十分そうだし……魔力もかなり上がったんじゃない?」

 「そうかもしれません。ここ最近は、ずっとサークリス様に鍛えて頂いていたので」

 

 抱き締められ、頭を撫でられると、どうにも気が抜けて眠くなる。

 マザーの体温、感触、匂い、気配、彼女を構成する全てが、フィリップの本能を麻痺させる。いや、逆に励起しているのだろうか。「ここは安全だ」と、脳と身体を休眠させているのか。

 

 この程度の触れ合いは日常茶飯事だっただろう。ほんの二週間空いただけだというのに、もう耐性を失くしたらしい。

 

 そんな自虐も、意識と一緒に流れていきそうだ。

 

 「ご無沙汰しております、神官様」

 

 ──と、いつも通りの、涼やかなルキアの声が意識を繋ぎ止める。

 彼女の声も耳に心地よく、普段なら傍に在っても気にせず眠れるような透明感のある声だ。だが、ことマザーの前では、彼女の一挙手一投足に注意を払う必要性を思い出させるアラームとなる。

 

 「!?」

 

 さっきまで立っていたはずだが、気付けば長椅子に座ったマザーの膝の上だった。

 半分寝ていたのかと愕然としつつ、ぱっと体を起こす。

 

 「ルキアちゃん。久しぶりね」

 

 親しげな呼びかけに、フィリップとリチャードが鳩が豆鉄砲を食ったような顔でマザーを見る。

 

 リチャードの驚きは、たかがいち神官風情が聖人に向けて親しげな口を利いたことによるもの。

 フィリップの驚きは、たかがいち人間風情がマザーの記憶に留まっていることによるもの。

 

 二人の認識は上下関係が逆転していたが、その驚きように大差は無かった。

 

 呆然と、見目麗しい女性二人が言葉を交わすのを眺める。

 

 片や人類最高、まさしく「当代随一」「絶世」の言葉が相応しい美少女。片や人類以上、直接目にすれば毒にすらなる相貌の美女。

 

 儚げな雰囲気と、神秘的な気配。折り目正しい制服と、ゴシック調の喪服。血のように赤い瞳と、神秘的な銀色の瞳。発育途中ながら女性的魅力を感じさせる肢体と、成熟した女の色香を感じさせる肢体。色素の薄い銀色の髪と、「銀色」としか形容のできない月光のような髪。

 

 異なる点もあり、共通する点もある。

 総合的な「美しさ」においてはマザーが別格だ。だが──それは、ルキアの美しさを損ない、貶める要素にはならない。

 

 彼女たちが並んで会話している。その光景だけで世の男性は意識を飛ばし、ここが天国かと錯覚するほどだろう。

 

 美しさに慣れ、その本性を知るフィリップはともかく、リチャードはその例外になれなかった。

 フィリップの隣で、長身がふらりと揺らぐ。慌てて身体を支えるが、体格の差がある。倒れる先を床から長椅子へ誘導できたのは幸運だった。

 

 頭を打ったりしていないことを確認して、そっとナイ神父の方へ向かう。

 

 シルヴィアとユリアは聖女像の前に跪いて祈りを捧げており、今ならこっそりと話せそうだ。

 

 「……あれ、どういうことです?」

 「さぁ? 私にもなんとも。アレも信者には優しいなんて生易しいモノじゃありませんしね。……私としては、ああいう低俗なものを傍に置くのは、君の有って無いような品位を損なうので止めて頂きたいのですが」

 

 またか、と、これ見よがしの嘆息を返答とする。

 

 森で知り合ったルキアを紹介した時から、ナイ神父はずっとこの調子だ。

 何が気に入らないのかは知らないが、モニカには向けなかった隔意を抱いているらしい。

 

 ちょうどいい機会だ。その理由くらいは訊いて──

 

 「何のお話をされてるんですか?」

 「……ルメール様が気を失ってしまったので、処置をお願いしていました」

 

 ユリアがナイ神父の声に反応し、距離を詰めて来たので咄嗟に誤魔化す。

 つい視線を逸らしてしまったのだが、その先にリチャードが寝ていてくれて助かった。

 

 「えぇ!? なんで!?」

 

 幸せそうな寝顔のリチャードに気付き、ユリアがぱたぱたと駆け寄っていく。

 外にいた人たちと同じ理由ですね、と端的に返し、そういえばと思い出す。

 

 「大盛況ですね?」

 「えぇ。人の口に戸は立てられないとは言いますが、本当に鬱陶しいですね」

 

 同意を求めるように囁いたナイ神父から一歩離れる。無駄に耳触りのいい声なので、近くで囁かれると毒だ。

 

 長く真剣な祈りを終えたシルヴィアが立ち上がったのを見て、そろそろ頃合いかと見切りを付ける。

 

 「じゃあ、僕はそろそろ行きますね。ダンジョンの攻略について、色々と訊くことがあるので」

 

 フィリップが断りを入れると、ルキアがマザーとの会話を切り上げ、一礼してこちらへ歩いてくる。

 当初の予定ではリチャードが冒険者ギルドへ行ってくれるはずだったのだが、彼はまだ幸せな夢を見ている。放置でいいだろう。

 

 ナイ神父とマザーに見送られ、教会を後にする。

 その背中に「そういえば」と呼び止める声がかかる。

 

 「あの物語はお気に召しましたか?」

 「…………」

 

 どういう意図の質問なのかは知らないが、非常にNOと答えたい。ナイ神父のセンスを認めるのは癪に障る。

 だが──彼の齎したものだから。そんな理由であの素晴らしい作品を貶すのは、物語に触れる者としてあってはならないことだ。作品は作品、作者は作者、紹介者は紹介者。全く別の、独立したものだ。それも分からない者に、物語に触れる資格は無い。

 

 「──えぇ、とても」 

 

 とはいえ、心情を切り離すのは難しい。

 せめて顔を見ないように前を向いて言って、フィリップは扉を開けて出て行った。

 

 その背後で、ナイ神父の口角が僅かに動いた。

 

 



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53

 


 教会を出ると、フィリップの行く先を遮るような人だかりが目に付いた。

 つい先ほど抜かした、ナイ神父への拝謁待ちの列だ。それが今は横並びになり、壁を作っている。

 

 「ちょっと失礼」と手刀を切って通り抜けようとして──当然の如く、その腕を掴まれた。

 

 掴んでいるのは中年の女性だが、フィリップより体格がいい。腕に力を込めてみるが、簡単には放してくれそうになかった。

 

 「ちょっと君、神父様とどういう関係なの!?」

 「そうよ! 私だって何度も通ってるのに、顔パスには程遠いんだから!」

 

 まぁそうだよね、そういう反応になるよね、と。諦め交じりの納得に落ちた時だった。

 ぱし、と。軽い音を立てて、フィリップの腕を掴んでいた手が払われる。

 

 フィリップと女性が同質の驚きを浮かべ、距離を離す。

 

 その間に銀色の影が滑り込み、フィリップを庇うように立ちふさがる。

 

 「悪いけど、そこを通して頂けるかしら?」

 

 悪いとは微塵も思っていない、いっそ嘲るような──その実、眼前の人間に一片の価値も認めていない、冷たい声色だった。

 初めて会った時を思い出すが、あの時は魔術を照準されていた。彼女たちへの対応はまだマシな方だ。

 

 なんだこいつ。と、フィリップを捕まえていた婦人がルキアを睨み──その双眸の奥で輝く、世界最強の証に目を留める。

 

 「君……い、いえ、貴女は……!?」

 

 愕然と、畏怖を通り越して恐怖すら浮かべて呟く。

 群衆が一斉に距離を取ろうと下がり、後ろの方で状況を理解していなかった者から苦情の声が上がる。ルキアに視線を固定したままそれを押しのけ、とにかく距離を取ろうと足を動かすものだから、転ぶ者もちらほら見受けられる。

 

 あぁ、これが正解なんだ、と。今更ながら聖痕者に敵意を向けられた一般人の正しい反応を理解したフィリップ。

 野生の熊にでも出会ったような反応を示す人々。

 

 「そういうこと。お分かり頂けたのなら、退いて頂戴」

 

 これ見よがしに溜息など吐きつつ、ルキアが一歩を踏み出す。

 ナイ神父ファンクラブはそれだけで解散した。……いや、ファンという言い方は良くないか。狂信者(ファナティック)に堕ちきってはいないはずだし。

 

 「ありがとうございます。助かりました」

 「気にしないで。行きましょう」

 

 ルキアと手を繋ぎ、見慣れた道を歩く。

 向こう三年は見ないだろうと思っていた景色だが、心中に湧き上がるのは懐古ではなく鬱屈とした疲労感だ。

 本来の目的の半分も達成していないというのに、とても疲れた。

 

 大通りまで戻り、脳内地図を参照する。

 確か、ここから少し一等地側に行けば衛士団本部があったはずだ。

 

 「ここからは、僕が先導しますね」

 「えぇ、お願いね」

 

 フィリップもそう詳しいわけではないので近道などは教えられないが、通りにある美味い食事処くらいなら紹介できる。

 もう少し大通りから外れると、工場通りと呼ばれる鍛冶屋や石材加工場などが並ぶ男心くすぐるエリアがあるのだが、残念ながら女性受けがあまりよくない。

 

 門限を考えると寄り道の余裕はないし、お出かけの補填はまた後日にしようと決める。

 

 詰所へ行くと、入り口の横に立っていた門番役──彼らの配置はローテーション制だ──の衛士が手を振ってくれた。

 何か問題があったかと近づいていくと、彼が顔見知りであることに気が付いた。フィリップが拘留されていた時、看守役だった人だ。

 

 「カーター君、久しぶり。今日はどうしたの?」

 「お久しぶりです。ちょっと、学院の課題で質問したいことがあって……えっと、元冒険者の方で、手の空いている人がいたら紹介して欲しいんですけど」

 

 フィリップがそう言うと、彼は面食らったようにフィリップの顔をまじまじと見て、すぐににっこりと笑った。

 

 「お誂え向きに、君も知ってるジェイコブは冒険者上がりだよ。そして今日は昼番だ。受付に言ったら、案内してくれると思う」

 「昼番って、お仕事なんじゃ……?」

 「行けば分かるよ。じゃ、よい一日を」

 

 彼は少し崩した敬礼と共に会話を切り上げてしまった。

 えぇ……、と困惑を漏らし、諦めて詰所に入る。

 

 「こんにちは。どうされましたか?」と、受付を担当していた衛士に尋ねられる。素直に「昼番のジェイコブに質問がある」と言うと、意外にもすんなりと案内してくれた。

 

 『当番室』と書かれたプレート付きの扉を開けると、中には目を疑う光景が広がっていた。

 そこそこ広い部屋にはソファやテーブルが置かれ、調度品代わりに剥き出しの直剣が壁に掛かっている。居住性でいえばそんなに悪くなさそうだが、ソファには6人の衛士たち──彼らが昼番なのだろう──が一様にぐったりと座り込んでいた。

 

 彼らは静かな来客には気付かず、ぶつぶつと何事か呟いている。

 

 「……天変地異」

 「い……胃薬」

 「り……理不尽、は駄目か。……利息」

 「く……おい、また「く」か。……燻製」

 「既出。ちなみに燻製器も既出な」

 

 ──しりとりだ。

 衛士たちが死んだ顔で俯き、部屋の中だけ数倍の重力を感じさせるほどどんよりとした空気を纏い、しりとりをしている。

 

 どういう状況だこれは、とルキアと顔を見合わせる。

 案内してくれた受付役の衛士が、苦笑と共に説明してくれる。

 

 「昼番って、ホントにやることないんですよ。この部屋にいるのが仕事みたいなもので……部屋が臭くなるっていうんでトレーニングは禁止、カードゲームは確実に賭けになるんで自重。で、この有様です」

 

 巡回するでもなく、検問や見張りをするでもなく。

 ただ非常時の戦力として常駐を義務付けられた、誰かが割り当てられる悲しき暇人たち。それが昼番だという。

 

 「まぁ、そんなわけだから、ちょっと外の空気でも吸わせてやってください。……ジェイコブ先輩! お客さんですよ!」

 「……え? あ、あぁ、オーケー。今行く」

 

 身体を揺すられたジェイコブがぱちぱちと目を瞬かせ、「いま起きました」とばかり周囲を見回す。

 部屋の入口で苦笑を浮かべているフィリップに気付くと、不思議そうにしながらもソファを立った。

 

 とりあえず外に出ようということになり、詰所の前に据えられたベンチに座る。

 

 「で、どうしたんだ、フィリップ君? ……デートコースには些か武骨過ぎると思うけど」

 「違いますよ。学院でやる試験について、質問したいことがあって」

 「え? いや、俺は卒業生じゃないぞ……?」

 

 そうじゃなくて、と、試験の概要を説明する。

 黙って聞いていたジェイコブも、聞き終えると「なるほどね」と納得した様子を見せた。

 

 「確かに、ダンジョン攻略と旅程の構築なら、冒険者上がりの俺でも役に立てそうだ。なんでも聞いてくれ」

 

 どん、と、張った胸を叩いてみせるジェイコブ。

 

 「じゃあまず、持ち物について──」

 

 

 ◇

 

 

 

 翌日の放課後。

 フィリップたちは試験準備期間で空いた午後を利用し、本格的にダンジョン攻略の準備を始めることにした。

 

 フィリップはリチャードと共に、一等地の刃物屋に来ていた。

 真っ先に用意すべきは必須物、というジェイコブの助言を受けて、まずは医療品と武器・防具を揃えることになったからだ。

 

 武器も防具も純魔術師には不要なはずだが、生憎とグループには一名、非魔術師という意味での一般人が紛れ込んでいる。

 薪を切り揃えるのにいちいち魔術で鎌鼬など起こしていられないし、鉈の一本でもあればやれることの幅は広い。「鉈と剣とナイフは別物! 代用し辛い!」という先人の言葉もある。

 

 ジェイコブは「火打石は絶対に要るぞ」とも言っていたが、ほぼ無尽蔵の魔力を持つルキアがいれば魔術でどうとでもなる。

 逆に、彼女の魔術ではカバーできない方面──食料調達やけがの治療など──は道具でカバーするのがいいだろう。

 という旨を伝えたところ「サークリス様を火起こしなんて雑用に使うんですか!?」と猛反発を受けたのだが、当の本人が「いいんじゃない?」と言ったことで収束した。

 

 フィリップとリチャードの男子組が武器調達、ユリアとシルヴィアに半ば連行されていったルキアの女子三人は医療品調達という運びになり、今に至る。

 

 刃物に心惹かれるのは男子共通なのか、フィリップがナイフと鉈を購入した後も、リチャードはしきりに直剣を検分していた。

 その手際の良さと視線の鋭さに、思わず声をかける。

 

 「剣術の心得がおありなんですか?」

 「え? あぁ、えぇ、まぁ。少しだけ」

 

 ルキアも儀礼剣を一通り修めていると言っていたし、貴族とはそういうものなのだろうと軽く納得する。

 しかし、そんなほとんど無に近い関心は、続くリチャードの言葉で思考のキャパシティを埋め尽くすほどに成長する。

 

 「僕は攻撃魔術が得意ではないので。魔術剣をメインに──」

 「魔術剣!!」

 

 魔術剣は魔術で作り出した剣ではなく、魔術を付与した剣のみを指す言葉だ。

 剣による斬撃は純粋な物理攻撃だが、それでは威力が不足する場合や、相手に物理耐性がある場合などはエンチャントと呼ばれる系統の魔術を使い、威力を底上げする。

 

 威力や射程では純粋な剣に勝るものの、攻撃魔術には大きく劣る。

 召喚術と同じで、あまり強力とは言い難い魔術分野だ。

 

 それに、魔術剣の強みを十全に活かすには、剣術と魔術の双方を高度に極める必要がある。

 

 魔術に傾倒し、単なる木の枝を名剣へ昇華させるほどの魔術を付与したとしても、当たらなければ意味がない。

 剣技に傾倒し、空を舞う隼にすら命中させる超絶技巧を会得したとしても、物理装甲の前には無力だ。

 

 魔力枯渇は肉体能力や判断力を大きく低下させるため、先天的に高い魔力を持っていると言うのも重要だ。

 

 それだけの才と努力を積み重ねられるのなら、大人しくどちらかに注力した方が大成する。

 

 だが──そんなことはどうでもいい。

 魔術剣はカッコいい。

 

 フィリップが神話と並んで愛好する冒険譚にも、魔術剣士は数多く出てくる。

 100年前に魔王を封印したという勇者も、剣術と魔術を極めた魔術剣士だったらしい。

 

 いいなぁ! すごいなぁ! と目を輝かせるフィリップに、リチャードは怪訝そうな顔を向ける。

 

 「あー……そんなに良いモノでもありませんよ?」

 「かっこいいじゃないですか!」

 

 フィリップの使える魔術はカッコよさの欠片も無いどころか、使うタイミングすら非常に限られるものばかり。弱さではなく強さが原因なだけまだマシだが、それにしても限度がある。

 

 ちょっと見せてください! というお願いは、ここが店内で剣が売り物ということもあり、後日へ繰り越しとなった。

 

 



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 明日ワクワクチンチンのフルチンになってくるので、副反応次第ではストック生産が停止します。
 あとD_CIDE Traumereiのリリース時期によってはさらに投稿遅れます。
 あとMELTY BLOOD:TYPE LUMINAを買ったらもっと遅れます。


 カリストが病院のベッドで目を覚ましたのは、決闘から4日後のことだった。

 窒息による失神は脳に深刻なダメージを与え、後遺症が発現する危険性もあった。幸いにして、身体機能にも脳機能にも異常は無い。

 

 だが──カリストの心には暗い靄がかかっている。

 

 見舞いに来てくれたクラスメイトや家族から、フィリップ・カーターが何者であるかは聞いた。

 挑む相手を間違えたとか、相手の力量を見誤ったとか、色々と言われた。それが慰めなのか責めなのかは、どうでもいい。

 

 事実として、カリストは挑み、負けた。

 フィリップが想定以上の演算速度を有し、未知の魔術を使い、一片の戦意も無いくせに殺すつもりで魔術を撃ってきた。そんなもの、何の言い訳にもならない。

 

 負けた理由の細分化は、言い訳を探すのと何ら変わりない。

 要は──カリストは弱かった。ただ弱かったがゆえに、負けたのだ。

 

 もう少し魔術の完成が早ければ。出の早い魔術を牽制として撃っていれば。勝負の結果は変わっていただろう。

 

 「──は」

 

 横たわったまま、笑いを漏らす。

 

 決闘を挑み、返り討ちに遭うなどという無様を晒した自らを嘲って──ではない。

 その笑みは自嘲ではあったが、その宛先はたったいま自覚した子供っぽさ、自分の幼稚さだ。

 

 結局のところ、カリストは()()()()()

 

 ボコボコにされた。

 手も足も出ず、惨めに地面に転がされ、苦しみ悶えさせられた。しかも、自分が最も自信のある水属性の魔術で。

 

 反骨心が燃え上がる。

 ()()()()。決闘は禁じられてしまったが、学院のカリキュラムには模擬戦もあるし、実践試験は野外でのダンジョン攻略らしい。速度を競うのも悪くない。

 

 殺し合いでもそれ以外でも、何でもいい。とにかく、負けたままではいられない。

 

 あぁ、本当に幼稚だ。だが──そんな自嘲も立ち消えるほど、悔しい。

 

 「彼は使徒かもしれない」と呟いていた父──ライウス伯爵の横顔を覚えている。

 

 教皇庁が『使徒』と呼ばれる特殊部隊を擁することは知っている。彼らが表には出ないような残虐で殺傷性の高い魔術を使うことも。

 まだ子供のようだが、子供というのはそれだけで警戒されにくい。暗殺や監視にはもってこいで──兵士として幼少期から教育するのも理に適っている。

 

 もしそれが本当なら、挑みかかるのは本当に愚かなことだ。だがそれでも、負けたままではいられない。

 

 貴族社会がどうとか、互いの立場がどうとか、そういうのは放っておこう。

 もう一度、いや何度でも、壁として立ちはだかってくれ。

 

 「あぁ──全く、度し難い」

 

 吐き捨てるような罵倒の宛先は、ここまで拘泥していた貴族の誇りをかなぐり捨て、ただ勝ちたいという思いだけに従おうとする自分自身だ。

 

 今度は邪魔者としてではなく、互いに互いを殺し得る好敵手として挑ませてほしい。

 

 カリストの考察が正しければ、フィリップの「最速」はあの魔術で間違いない。肺を水で満たし溺水させる恐ろしい魔術。

 あれは詠唱妨害として非常に優秀だし、窒息は大きなダメージになる。だが同時に、それ以外の影響は殆どない。

 

 水中呼吸の魔術を予め自身に掛けておき、カリストの実力でも詠唱を破棄できる中級程度の魔術を主体として戦えば正面からの打倒も可能だ。

 

 勿論、彼の手札があれだけであるはずもない。彼は未だ10歳とのことだが、カリストが魔術の訓練を始めたのは5歳のころ。フィリップも同じくらいだとして、訓練期間は5年程度か。

 魔術は一人で研鑽するより、誰かに教授され、誰かと切磋琢磨する方が上達が早く質も良いと言われている。

 

 カリストの実力的に、競争の相手はかなり少なかった。

 ルキアやヘレナ、第一王女のような超越者には遠く及ばず、かといってその他大勢の魔術師からは一歩抜きんでている。

 

 以前に一度だけ、ルキアと模擬戦をしたことがあるが──あれは今より酷い、敗北感を通り越して服従心すら呼び起こさせる大敗だった。勝ちたいとか競いたいとか、そんな戦意に類する感情全てを消し去ってしまうほどの、圧倒的な力量差だった。

 

 聞くところによると、フィリップはそのルキアの教導を受けているらしい。

 そんな相手を侮った──そんなつもりはない。カリストは本気で、一撃で相手を殺すつもりだった。その上で負けたのだから、こうまで悔しい。

 

 差し当たり、期末試験の成績でも競ってみるか。

 

 口角を上げて思考を打ち切り、体力回復に専心すべくベッドへ身体を沈める。

 普段のカリストではありえない心情、ありえない思考だと、カリスト本人は自覚していなかった。

 

 

 ◇

 

 

 装飾の無い普通サイズのキャラバン型馬車と、輓馬として一般的なクラスの馬が一頭。

 王都内外を問わず、普通に生活していれば珍しくもないものだ。だが、それが全校生徒分──1グループあたり5人と考えて約200台もあれば、壮観という他無い。

 

 騎士団のパレードなどはもっと多いのだが、王都一年目のフィリップが目にした中では最上級だ。

 

 「おぉ……」

 

 感嘆など漏らしつつ、ずらりと並ぶ馬車の中から自分たちAクラス1班に割り当てられた物を探して歩く。

 ルキアとシルヴィアが既にその側にいるはずなのだが──フィリップはトイレに行っていたので一足遅くなった──、一際目立つはずのルキアの姿も見当たらない。

 

 しばらくきょろきょろしながら歩いていると、見覚えのある顔と目が合った。

 フィリップの視線を受け、話していた班員に断りを入れてからこちらへ歩いてくる。

 

 「カーターさん、少しお時間を頂けますか?」

 「……えぇ、勿論。お身体の方は大丈夫なんですか、ライウス様?」

 

 皮肉ではなく、と予防線を張りつつ、馬車の間を縫って歩き出したカリストの先導に従う。

 

 カリストが学院に復帰したのは、期末試験の理論分野が終わり、実践分野の開始前日のことだった。

 理論分野が零点でも、実践分野が合格点なら進級に影響は無い。そしてカリストの実力であれば、一週間程度のブランクを加味しても実践試験をクリアできると判断し、後日の追試などの措置は辞退したそうだ。

 

 グループ分けの時点でカリストはフィリップとは別の班に組まれていた。

 しかし、彼らとルキア班の行き先──攻略対象のダンジョンは同じものだった。

 

 王都近郊にダンジョンが点在すると言っても、学生の試験で使える程度の難易度となると数は絞られる。試験ということでグループ毎の実力に見合ったものを選ぶとなれば、尚更だ。

 だからといって決闘までした二人を教員の目の届かない同じ場所に送るのはどうなのか、という指摘は生徒からも上がった。

 

 しかし、カリストとフィリップの双方が「構わない」と言ったことで、そのまま続行ということになった。

 

 「お陰様で、快復しましたよ。──あぁ、これも皮肉ではなく」

 

 同じ言葉を返し、ははは、と笑い合う。かなり空虚な、乾いた笑い声だったが。

 

 「貴方が何者であるか、おおよその見当は付きました。非礼を謝罪したいところですが……」

 「僕はただの平民ですよ」

 「──であるなら、私も頭を下げるわけにはいかないのです」

 

 食い気味に答えたフィリップに苦笑しつつ、カリストはそう言って肩を竦めた。

 ご尤も、とフィリップも同じジェスチャーを返す。

 

 決闘を挑むということは、その主張を貫き通すか、主張を貫いて死ぬかの二択だ。

 フィリップが彼を殺さなかった──正確には立会人が焦るあまり中断に近い形で終わらせたのだが──のは、決闘という伝統と文化、そして規則に照らせば褒められた行いではない。生き残ったのならもう一度挑む、というのが普通だからだ。無意味に何度も殺し合うより、一回で雌雄を決すべきである。

 

 カリストもそのつもりだったのだろうな、と。フィリップは苦い笑いを浮かべた。

 未知の魔術を行使したことで、フィリップ・カーター=枢機卿の親族説は強固なものになった。中には「いや、きっと教皇庁の尖兵か諜報員だよ」なんて言説を唱える者もいる。

 そんな中で「いや本人は平民って言ってるからもう一回挑みます」は許されないし、事実、ライウス伯爵家は許さなかった。

 

 とはいえ、本人が頑なに「いや平民です」と主張する以上、一方的に「枢機卿の親族に対して大変な失礼を──」なんて謝罪はできない。

 逆にクラスメイト達が呼ぶ「カーターさん」という呼び方も、基本的な礼儀だと言われてしまえば反論し辛い。

 

 「さておき、カーターさん。今回の試験、ひとつ競争をしませんか?」

 「競争ですか? 内容は?」

 

 フィリップの問いに、カリストは「何も」と両手を広げてみせた。

 

 「ただ、どちらが早いか、どちらが高得点かを競う。それだけです。何かを賭けるとか、そういうのは無しで」

 

 まるで普通のクラスメイトのような提案に、フィリップも苦笑を浮かべる。

 命を懸けた戦いを挑んできた彼と、本当に同一人物なのだろうか。

 

 「別に、構いませんよ」

 「ありがとうございます。……あぁ、見えましたね」

 

 すっとカリストが前方を指す。

 その指の先を追うと、馬車に荷物を積み込んでいるリチャードの姿が見えた。どうやらフィリップの班の馬車まで案内してくれたらしい。

 

 「ありが──」

 

 頭を下げ礼を言おうとしたとき、ぐい、とフィリップの腕が引かれ、カリストとの距離が空く。

 馬車に引っかかったような重さではなく、むしろフィリップを気遣う、抱擁するような引き寄せ方──抱き寄せ方だった。

 

 「…………」

 

 見上げるまでもなく、フィリップを背後から抱き締める感触には覚えがある。

 

 「──では、私はこれで。今回は負けませんよ」

 

 カリストは苦笑しつつ形式通りに一礼し、快活な笑みに似合う爽やかな挑発を残して去っていった。

 

 見上げると、フィリップを抱き締めたままカリストの背中を見つめる、ルキアの双眸に宿る剣呑な光が目に付いた。

 

 同質のものに覚えがある。

 マザーがナイ神父に時折向ける「殺してしまおうか」という視線だ。

 

 やばいかもしれない。そんなフィリップの危惧を察知したのか、或いは「今じゃなくていい」という結論を出したのか、ルキアの視線が外れる。

 赤い瞳を心配そうに潤ませて、腕の中のフィリップに向けた。

 

 「何を話していたの?」

 「……えっと」

 

 フィリップとカリストは、ただ案内してもらっただけ、なんて言い訳が通じる関係性ではない。それにカリストの去り際の言葉はルキアも聞いていただろう。

 下手な誤魔化しは逆効果だと、マザーという前例で学んでいる。

 

 「試験の成績で競争しようっていう話です」

 

 なるべく気楽そうに言うが、ルキアが怒っているのは「カリストが絡んできたこと」なので、宥める効果は無い。

 

 「そう。なら、勝たなくちゃね?」

 「……そうですね」

 

 別に勝ち負けはどうでもいいが、フィリップたちは元Aクラス冒険者に教導を受け、旅程や荷物を最適化している。

 似たようなことは他の班もやっているが、攻略速度で言えばルキアを擁する1班は他の追随を許さないだろう。着順は成績と関係ないが、1着は貰いだ。

 

 「間もなく出発します。各班、荷物の積み込みと搭乗を完了してください! 間もなく──」

 

 準備完了を促すヘレナの声を受け、馬車の傍で駄弁っていた生徒たちが動き出す。

 フィリップとルキアも馬車へ戻り、乗り込んだ。

 

 「お帰りなさい、サークリス様。カーターさん、荷物貰いますね」

 「お願いします」

 

 後部にいたシルヴィアに荷物を渡し、フィリップとルキアは並んで座る。

 フィリップの対面にユリア、ルキアの対面にシルヴィア、輓馬を扱えるのが彼だけだったので、リチャードは御者席だ。

 

 初めはフィリップとユリアの平民組がやると言っていたのだが、ユリアは操作センスが乏しく、全員一致で「一週間も乗っていられない」と言ったのでボツ。フィリップに至っては手綱を握った瞬間に馬が暴れ出したので論外。どうやら動物に好かれない気質らしい。

 

 ルキアとシルヴィアは乗馬の経験はあるものの、リチャードのルメール家が伯爵位なのに対して、サークリス家は公爵位、シルヴィアのアルカス家は侯爵位だ。しかも輓馬を扱った経験はないということで、この形に落ち着いた。

 

 馬車の中に男はフィリップ一人だ。

 肩身が狭いと苦笑しつつ、外に目を向ける。

 

 門に近い班から続々と出発しており、フィリップたちもじき順番が回ってくる。

 

 馬車の旅にはいい思い出が無いが、今回は楽しめそうだ。

 

 

 



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55

 個人差があるって言う話は先にしておくね。
 副反応めっちゃキツかった。これからの民は解熱鎮痛剤だけじゃなくて、追加でエアーサロンパスを用意しておくと便利よ。肩とか腰とか痛むし、脇の下のリンパが腫れる。貼るタイプより使いやすい。

 匂い無理! って人は無理しなくてOK。38~39℃の熱の中、嫌いな匂いに包まれて寝るほど苦痛なことも中々無いからね。

 耐えた自分へのご褒美にメルブラ買います。30日以降のストック生産は遅々たるものになります。たぶん。逆にモチベが上がる可能性もある。


 行程は計画通りに進み、一日目は近くの町の宿に泊まり、二日目は野営した。

 

 現在は三日目ということもあり、班員同士もかなり打ち解けていた。

 平民同士で価値観の合う──もちろん常識的な範囲で──フィリップとユリア、男同士で感性の近いフィリップとリチャード、高位貴族同士で並んでいるだけでも華やかなルキアとシルヴィア、女性三人。この組み合わせは、特にいろいろな場面で見られた。

 

 フィリップとしては、熱心な一神教徒で油断すると「カーター猊下」なんて呼んでくる、かつナイ神父に惚れ込んでいるシルヴィアとはあまりお近づきになりたくないので、この組み合わせは都合が良かった。

 

 からからと馬車に揺られ、軽く寄りかかってくるルキアの重さと温かさを感じながら、街と街の間に広がる平原の景色を眺める。

 先ほどまではルキアと話していたのだが、彼女は女性陣に取られてしまった。……いや、別にフィリップのモノではないのだが。

 

 「試験が終わったら夏休みですね! もしよかったら、三人でどこかに遊びに行きませんか?」

 

 ユリアの提案に顔を見合わせる二人の貴族令嬢。

 それを横目に、フィリップもぼんやりと考える。

 

 夏休み。

 王都の宿が最も賑わう時期だ。観光で王都を訪れた人々は、大概の場合に三等地か二等地の宿を取るからだ。日帰りとか友人宅に泊まるとか、そういう例もあるが。

 

 フィリップもタベールナに戻る予定だし、手伝うことになるだろう。

 丁稚奉公ではなく臨時手伝い扱いになるとしたら、給金が少し減るかもしれない。ちょっと交渉してみよう。

 

 「ごめんね、ユリア。私たちは王宮祭の準備があるから……」

 

 え、普通に嫌だけど、という顔をしているルキアに代わり、シルヴィアが答えた。

 ユリアは落胆はせず、逆に「あ、そうですよね!」と、どこか嬉しそうにしている。

 

 その不思議な反応と聞き慣れない単語に、フィリップもシルヴィアに視線を向ける。

 

 「王宮祭ってなんですか? 語感からはお祭りみたいに聞こえますけど」

 「そういえば、カーターさんは王都に来たのは今年でしたよね! 王宮祭は建国祭とも言いましてですね」

 

 滔々と語り出したユリアの言を要約すると、王宮祭=建国祭は、毎年夏に王都全域を挙げて行われる盛大な祭りらしい。ちなみに「建国祭」の方が正式名称だというのはシルヴィアの言だ。

 祭りは一週間に亘って開催され、最終日には国王陛下ご観覧の御前試合も行われるという。

 

 「その準備とお二人が──あぁ、何か礼典が? 貴族は出席せよ、みたいな」

 

 フィリップが尋ねると、二人より先にユリアが答えをくれた。

 

 「いえいえ、皆さんは御前試合に出られるんですよ! ルメール様なんて、昨年度は17位だったんですよ!」

 「へぇ……?」

 

 それは凄いのだろうか。

 優勝だったんですよ! とか言われたらミーハー的に握手でもしてもらったかもしれないが。

 

 フィリップの薄い反応にユリアが頬を膨らませるが、彼女が何か言う前に、自分の名前を出されたリチャードが会話に加わる。

 

 「17位じゃなくて22位だよ、ベルト」

 「え? あー、そうですね。あはは……」

 

 ユリアは何故かルキアをちらりと見て、誤魔化すように笑う。

 その反応にフィリップとルキアが揃って首を傾げ、シルヴィアが苦笑する。

 

 「御前試合の上位5位って強さが段違いで、毎年同じなんです。だから、6位の人が実質1位──っていう冗談があるんです」

 「毎年ですか? それは……」

 

 上位5名それぞれに隔絶した強さがあるか、出来レースかの二択だろう。

 フィリップは後者だろうなぁ、と何とも言えない微妙な表情を浮かべていた。

 

 それを見て、ユリアが苦笑を浮かべて補足を入れる。

 

 「本当に、上位の5人は強さの次元が違うんです。5位の近衛騎士団長、4位の衛士団長、3位の学院長、2位のサークリス様、そして1位の第一王女殿下」

 

 自分で口にしておきながら「うわぁ、よく考えたらホントに頭おかしい隔絶だぁ」という表情になるユリア。

 リチャードとシルヴィアも似たような感想を抱いたのか、ユリアに向ける苦笑は薄い。

 

 確かに、上位3名は上から聖痕者、聖痕者、聖痕者だ。隔絶が存在すると言うのも納得だが。

 

 「あの、上位3位って……」

 「そこは出来レースよ。私たちが本気で戦って、闘技場──いえ、王都が無事で済むわけが無いでしょう?」

 

 言い淀んだ3人に代わり、ルキアが答える。

 確かに上から王族、公爵、侯爵で家格順になっていた。

 

 仕方のないことだと諦める理性はあるが、少年心がブーイングしている。

 しょうもな、という内心を反映したフィリップの表情を見て、ユリアが慌てたように口を開く。

 

 「で、でも、サークリス様たちの試合、凄いんですよ!? 私たちじゃ再現できないような高等魔法が、お花畑みたいにばらばらーって!」

 

 独特な表現を用いて空気を盛り上げようとするユリアに、シルヴィアがくすくすと笑う。「流星みたいに、とかじゃなくて?」という突っ込みには同意を置いておこう。

 

 「見映えを意識した台本があるのよ。私とステラ──第一王女との試合もね」

 

 ユリアが「聞きたくなかったぁ!」と耳を塞いで悶えているが、それはそうだろう。

 本気で戦うのなら『明けの明星』クラスの攻撃魔術の撃ち合いになるだろうし、その場合王都は壊滅的な被害を受ける。祭りどころではない。

 

 いいなぁ、見映えを意識するなんて器用なことが出来て、と隣の芝生を羨むフィリップ。

 火力の目盛りに「人」が追加されたのは最近の事だし、見映えは最悪だ。とても国王陛下の御前でお見せできるものでは無い。

 

 「ルメール様は、やはり魔術剣で?」

 「はい。あぁ、でも、剣技で言えばやっぱり衛士団長と騎士団長が凄いですよ」

 

 僕も負けました、と爽やかに笑うリチャード。

 リチャードとユリアが口早に語った内容によると、彼らは並み居る魔術師の攻撃魔術を()()()()()その順位にいるのだという。ちょっと何を言っているのか分からなかった。

 

 理論上、投射型魔術を剣で切ることは可能だ。飛ぶ鳥を落とすような話だが、不可能ではない。

 だが、弾速や弾幕の密度を考えて、それが許されるのは素人までだ。御前試合にエントリーするような本職の戦闘魔術師の使う攻撃魔術は、威力も密度も段違いだ。一発、二発斬り落としたところで、雨霰と降り注ぐ魔術に呑み込まれるだろう。

 

 雨粒を切り伏せて濡れずに家まで帰るのと、難易度的にはそう変わらない。

 

 「それは……凄い、ですね」

 

 尺度が人間である以上、フィリップの脅威にはならない。だが、その技量は驚異的だ。少なくともフィリップの才能では10年そこらの研鑽で踏み入れる領域ではない。

 

 「えぇ、それはもう。カーターさんも、今年はご覧になるのでは?」

 「そう、ですね……」

 

 フィリップが行きたいと言い出さずとも、たぶんモニカに連れ回されることになる。もちろん「行きたくない」と断言すればモニカも無理強いはしないだろうが、別に行って困るわけではないし、行くことになるだろう。

 祭りといえば故郷では収穫祭くらいしか無かったし、規模も段違いだろう。

 

 「サークリス様の魔術戦が見られると思うと、今から楽しみです」

 

 人類最高の魔術対人類最高の魔術。フィリップでは生涯足を踏み入れることの無い、仰ぎ見るだけの──或いは見下すだけの──領域。機会があるのなら見ておきたかった。

 再現性や価値の有無は関係ない。ただ自分には出来ないことに憧れる、それだけだ。

 

 目を輝かせるフィリップに、ルキアは不思議そうな顔を向けた。

 

 「前に『粛清の光』と『明けの明星』は見せたでしょう? あれ以上を期待されても困るのだけど……」

 

 流石にあの時より進歩してはいるけど、と指の一弾きで馬車の中を暗闇に染め上げ、自身の周囲に4つの光球を浮かばせるルキア。

 最上級魔術の無詠唱同時展開に、フィリップよりも魔術に詳しい3人が愕然を通り越して呆然と見つめる。シュブ=ニグラスの落とし仔でも劣等個体なら指の一弾きで葬れそうだった。

 

 とりあえずリチャードに「前を見てくれ」と手ぶりで示して、ルキアに胡乱な目を向ける。

 

 光は重量がゼロのくせに膨大なエネルギーを秘める、よく分からない存在だ。そのエネルギーを抽出して攻撃する『明けの明星』は、フィリップに許された領域外魔術と似て制御が利きづらい。

 戦略級魔術とか破城魔術とか、そういう規模の大きいカテゴリに属するもの。普通は100人単位の魔術師が天使召喚を行い、その補助を得て使うレベルの魔術だ。

 

 それを4つも同時展開している。彼女はどこを目指しているのだろうか。破軍破城はゴールではないらしい。

 まぁ──星一つ砕けない時点でまだまだ伸びしろがある、なんて考えも浮かぶのだが。

 

 「でも、そうね。フィリップが来るのなら、いつもより張り切らないと」

 

 そう言って笑ったルキアに、シルヴィアが苦笑する。

 

 「お、お手柔らかにお願いします……」

 

 ルキアの張り切った状態は知らないが、仮に黒山羊と対峙した時レベルだとしたら、まず間違いなく百般の魔術師に勝ち目はない。

 そこまで考えて、ふと気づく。

 

 フィリップはシルヴィアの強さがどれほどのものかを知らない。いや、リチャードもユリアも、ルキアを除く班員全員の強さを知らない。

 これから共にダンジョンを攻略しようという仲間だというのに、彼らが何を得意として、何が不得意なのかすら詳しくは知らないのだ。

 

 確定しているのは、彼らはルキアより弱いということだけ。その時点でフィリップは目を留めるだけの価値がないと無意識下で判断し、「どういう戦闘スタイルなのか」「どうやって連携すべきか」といったことをまるで考えてこなかった。

 

 リチャードが魔術剣を扱うということは知っているが、その実力がどの程度なのかは知らない。

 ユリアとシルヴィアが何を得意とし、何を苦手とし、どんな風に戦うのかを知らない。

 彼らとルキアの間に隔絶が存在することは聞いているが、どの程度の差があるのかを知らない。

 

 端的に言って、連携も何もあったものではない。

 敵を殺すだけならルキア一人で何とでもなるだろうし、最悪の場合はフィリップが盤面をひっくり返せばいい。

 

 だが今回はダンジョン攻略──閉鎖空間での連戦が予想される。

 クトゥグアなんて召喚した日には、酸欠+蒸し焼きでデッドエンド。班員は全滅、フィリップは恐らく外神として産み直されて人間を辞めることになる。

 

 ──嫌すぎる。班員とは絶対にはぐれないようにしなければ。

 

 「そ、そういえば、連携訓練とか、全然してませんでしたね!」 

 

 ルキアが唐突な話題の切り替わりに面食らった素振りも見せず、端的に「そうね」とだけ返す。

 それが不味いことだという認識はなさそうだった。

 

 「私たちは、野外訓練の時にちょっとだけ練習しましたけど……」

 

 どうやら前回も同じ班だったらしい、シルヴィアとユリアが顔を見合わせて頷き合う。

 だが、5人中3人が入れ替わった状態ではどの程度の再現が出来るのかは不明だ。

 

 前回の班はおそらく、全員が純魔術師だったはず。リチャードのような前衛型魔術剣士や、ルキアのような単騎破軍を可能とする超級の魔術師、フィリップのような召喚士──もとい、グロテスクな攻撃魔術二つと半自爆召喚攻撃しか持ち合わせないお荷物はいなかっただろう。

 

 ユリアがルキアを見て、フィリップを見て、リチャードを見て、そして首を横に振った。

 

 「あまり意味は無さそうです」

 

 そうだろうな。むしろそうであってくれて安心した。

 フィリップがそんな安堵混じりの納得に落ちていると、御者席のリチャードが声を上げる。

 

 「日も傾いてきましたし、そろそろ野営の準備をしませんか?」

 「了解です」

 

 返答しつつ、周囲を見回す。

 かなり遠くまで見渡せる平地だが、所々に木が生えている。その根元ならタープの設営も楽だろうし、薪も探しやすそうだ。

 

 リチャードが街道から逸れた平原上に馬車を停め、木の幹に馬を繋ぐ。

 

 「準備が終わったら、連携の練習をしないとですね!」

 

 身体を伸ばしながらそう言ったユリアに頷いて同調しつつ、フィリップも割り当てられた仕事に取り掛かった。

 

 



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56

 男子用テントと女子用テント二つの設営。火と水の確保、食材調達といった野営に必要な準備を全て終え、焚火の周りに車座になって、フィリップたちは今更ながら自己紹介をしていた。

 と言っても名前や趣味といった意味の無いことは省き、得意魔術や戦闘スタイルに重きを置いた、かなり武骨なものだが。

 

 連携、と一口に言っても、やるべきことは数多い。

 

 誰が何を得意として、何が苦手で、どうすれば個々人のポテンシャルを最大限に引き出しつつグループとして最適な形になるのかを理解して実行する。これが最終目標だ。

 では、まずやるべきことは何か。当然ながら、誰が何をできるのかをグループ全員が理解することから始まる。

 

 先陣を切ったのはフィリップだ。「ハードルが上がるから最後にしてくれないか」といった旨の冗談交じりの苦言も飛んできたが、そんなことはないので安心して欲しい。

 

 「僕は……二種類の攻撃系魔術しか使えません。攻撃能力は高めですが、魔力量が低いので連射力はそこまでありません。射程は恐らく視界だと思います」

 

 判然としない上に情けない自己分析だが、返ってきたのは嘲笑ではなく猜疑の籠った視線だった。

 

 「二種類、ですか?」

 「はい。決闘で使った魔術と、もう一つは……そうですね、『アシッド・スピア』に似た魔術と考えて頂ければ」

 

 強酸性の液体を槍状に形成して撃ち出す投射型魔術の名前を挙げると、これまたグロテスクな魔術だと女性二人の顔が歪む。

 実際には投射どころか内部からの破壊なのだが、わざわざ言う必要はないだろう。

 

 「……では、後衛か中衛ですね」

 「そうですね。その辺りが妥当かと」

 

 どこに配置されても何もできないので、なるべくお荷物にならない場所でお願いします。そんな内心を呑み込み、右隣りのルキアへ視線を向ける。

 

 「いいんじゃないかしら? 魔力が枯渇するまでは継戦能力を高める練習をする予定だったし、詠唱機会の多い中衛にしましょう」

 

 先生からのお墨付きも出たので、フィリップのポジションは決定だ。

 なんとなくそのままルキアの戦力分析に移る流れだと思っていたが、先に口を開いたのはフィリップの左隣にいたユリアだった。

 

 「はい! 私、火属性魔術には自信があります! 得意魔術は『ヴォルカニック・マイン』です!」

 「設置型の攻撃魔術か……」

 

 リチャードが微妙な表情を浮かべ、フィリップに「どんな魔術なんですか?」と訊かれたルキアが薄っすらと同質の感情を表出させる。

 

 「空間座標を変数に含む、そこそこ高難易度の魔術ね。魔力感知能力に長けた魔術師なら設置場所を看破できるし、魔力操作が得意なタイプなら掌握することも可能。……難易度のわりに弱い系統の魔術よ」

 「ひ、酷い!? 間違ってはいませんけど……威力は高いんですから!」

 

 絶対に活躍して見せますから! と意気込むユリアを見て、ルキアはナンセンスだと首を振った。

 

 設置型魔術は直接攻撃向きの性能ではなく、あくまで布石として使うものだ。

 地雷があるかもしれないという注意で集中力を散らしたり、掌握しようと意識が向いた隙を突いたり。相手と自分の力が拮抗しているほど、意識のロスは大きな隙になる。

 

 そして、今回の目的地はダンジョン。想定される敵は知性に劣る魔物だ。

 地雷を警戒するような知能は無く、しかし魔力感知能力には長けている。本能的に地雷の位置を避けて突撃してくるうえ、無知性ゆえに「感知できない地雷があるかもしれない」という恐れを抱かない。

 

 普通に正面から攻撃魔術で殺した方が早い相手だ。

 

 まぁ、そういうことを学ぶ試験でもあるのだろう。

 勝手に納得して、ルキアは肩を竦めて口を閉じた。

 

 「まぁ、そういう攻撃スタイルなら後衛か?」

 「前回の班では後衛だったので、今回もそれで!」

 

 ルキアと似たような思考を経たのか、生温かい視線になったリチャードが言う。ユリアも異論はないようだが、しきりに「見ててくださいよ! もう全部私が倒しちゃいますから!」と息巻いていた。

 

 「順番的に、次は僕ですね。といっても、もう周知だと思いますが……」

 

 リチャードが自分の左側に置いた直剣の鞘をこつこつと叩いて示す。

 攻撃魔術は苦手だが魔術剣を使えるというリチャードが前衛以外の場所に配置されることは無いだろう。

 

 「一応、初級魔術くらいなら斬り払えます。タンクとしては心許ないかもしれませんが、お役に立てるよう頑張ります」

 

 初級魔術であっても攻撃魔術なら馬鹿にできない弾速だ。それを斬るとなると普通に高度な技量が求められるのだが。

 

 リチャードはそれを誇示することも無く、ユリアとシルヴィアはそれに思い至らず、ルキアは「自分の魔術は斬れないだろう」という自信──当たり前だが──のもと、フィリップはリチャードが人間というだけで価値を見出さず。誰も大きなリアクションをしなかった。ぼそりと「いいなぁ魔術剣」と呟いたフィリップの反応が一番大きかったくらいだ。

 

 全員の視線が集中し、シルヴィアがこほんと喉の調子を整える。

 

 「私は、その、恥ずかしながら光属性が得意で……『サンダー・スピア』とか、『ライトニング・フォール』を好んで使います……」

 「お、知ってる魔術だ……」

 

 フィリップが現在練習中の初級魔術の名前に眉を上げて呟く。電流を槍状に形成して撃ち出す投射型魔術で、貫通力がそこそこ高い。後者の魔術は名前すら知らなかったので、きっと中級以上の魔術だろう。

 そっと身体を傾け、ルキアに耳打ちする。

 

 「『ライトニング・フォール』ってどんな魔術ですか?」

 「空から稲妻を降らせる上級魔術よ。難易度はそれなりに高いけど、屋内戦では全く使えないし、ダンジョン攻略でも出番は少なそうね」

 

 実力者に特有の酷評に苦笑しつつ、内心で首を傾げる。

 

 魔術戦は上級魔術の撃ち合い、中級魔術以上しか手札にカウントされない、みたいな話があったはずだ。

 それなりに高難易度の上級魔術が使えるのなら、それ以外の手札だって豊富にあるはずだ。わざわざ初級魔術を使う必要は無いはずだが。

 

 全員が不思議そうにシルヴィアを見つめ、ユリアが「『サンダー・スピア』ですか?」と尋ねる。なんでそんなクソザコ魔術を? とでも言いたげなのは、そのクソザコ魔術すら使えないフィリップ以外の全員がそうだ。

 

 もにょもにょと口ごもったシルヴィアに追い打ちをかけるように視線が集まるが、それはすぐに引き剥がされる。

 

 全員が一斉にその理由に思い至ったからとか、同時に興味を失ったからではない。

 日が沈み切った夜闇の中で、すぐ目の前に焚火という明るすぎる光源があることで気付くのが遅れたが、フィリップたちが通ってきた街道をやってくる影がある。

 

 人独りとか異形の影ではない。背部に追突防止用のランタンを吊るしたキャラバン型馬車の列──そこそこ規模の大きな商団かなにかだ。

 明かりを馬車あたり一個のランタンしか付けていないうえ、そのランタンの油もかなり少ないのか光量が少ない。気付いた時にはかなりの距離まで近づいていた。

 

 街道上で一団が止まり、一人が駆け足でやってくる。

 「おーい、火をくれないかー?」などと叫んでいるのが聞こえるが、彼らはあそこで一泊するつもりだろうか。まだ夜は浅いとはいえ、日は沈み切っている。これ以上の行軍は確かに危険だし、これ以上誰かが来るとは考えにくいが、街道上で旅団を停めるのは些か常識外れだ。普通はフィリップたちのように街道から少し離れ、木の下などにキャンプを設置する。

 

 フィリップたちの元までやってきたのは、平民向けの服を小綺麗に整えたような装いの、二流商人といった風情の男だった。

 

 「悪い、火を貰っていいか? あと、油が余っていたら分けて欲しいんだが……」

 

 男は誰が代表者なのか計りかねたように全員を順番に見る。ルキアの顔を見ている時間がやけに長かったが、仕方のないことだろう。

 最終的に、最年長の男性であるリチャードに視線が固定された。実際の家格序列はルキア>シルヴィア>リチャードなので、彼は三番目だが。

 

 「……火打石を持っていないのか?」

 

 不愉快そうに尋ねたリチャードに、男はばつの悪そうな笑みを浮かべた。

 

 「いや、火打石も薪もあるんだが、火口が無いんだ。木を削ってフェザースティックや大鋸屑を作ろうにも、ここまで日が沈んじまったら危ないだろ?」

 

 訝しむような視線はそのままに、リチャードが首の動きで火を示す。

 男はその端的な許可に頭を下げて礼を告げ、持っていた薪に火を移してキャラバンの方へ帰っていった。

 

 「今夜は見張りが必要になりそうですね」

 

 リチャードが商団を半ば睨むように見ながら面倒臭そうに言う。

 この辺りの街道には魔物や獣が出ないということもあって、前回はみんなで普通に眠れたのだが。

 

 別に盗まれて困るようなものは無いはずだが、万が一寝首を掻かれるようなことがあったら困るということだろうか。

 フィリップたちは彼らのいる街道からはそれなりに離れたところにキャンプを設置しているし、誰かが近付いてきたら寝ている者を起こす程度でいいだろう。

 

 「と、とりあえずご飯にしませんか?」

 

 最善のタイミングでそう提案したことで、シルヴィアは自身への追及を皆に忘れさせることに成功した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 火を貰った松明を掲げ、小走りでキャラバンへと戻った男は、組まれていた薪に火を突っ込んだあと、その傍にドカッと腰を下ろした。

 既にその周りには用心棒らしき凶悪な見た目の男達が座り込んでおり、鋭い視線が集中する。

 

 平凡な見た目の男が、その内面も平凡であったなら竦み上がってしまうほどの圧がある。

 直後──

 

 「どうでしたか、部門長?」

 

 用心棒の一人が、男に向かってそう問いかけた。

 

 男はそれを当然のように受け止め、口角を上げる。

 

 「子供が5人、うち女が3人。1人はとんでもない上玉。年頃的に全員処女童貞だろうな。──なぁ、こりゃどういう冗談だ? 王都の調達部門が壊滅、商会は王国から撤退──その道中で、王国部門の長である俺の前に、こんな極上の獲物が現れるってのは!」

 

 一団から笑い声と歓声が沸く。

 彼らは確かに商人ではあったが、それは「商会に所属している」というだけのこと。

 

 かつて王都の侵食を試みていた野心的な奴隷商会──結局は衛士団の目を逃れられず、手出しを諦めたのだが──の調達部門。つまりは女衒、あるいは人攫いと呼ばれる犯罪者の集まりだ。

 

 「男二人は労働力としちゃ微妙だが、それでも年頃を考えりゃ相応の値は付く。女三人のうち一人は扱い辛いレベルで高値だろう。……ボスのご機嫌伺いくらい、ワケ無いぞ」

 

 台詞に含まれた欲と金の気配とは裏腹に、男の声には深い安堵があった。

 同調するように、用心棒──いや、実働役の男達も溜息を吐いたり、地面に寝転がって唸り声を上げたりする。

 

 王都に進出した調達部門がほんの一週間で壊滅したこと、一切の利益を上げなかったこと、帝国を本拠地とする彼らの王国進出を白紙にしたこと。どれも男のせいではないが、男の責任になることだった。

 手土産の一つでも持って帰らねば首を切られることは想像に難くない。そこに現れた最上級の獲物だ。

 

 「ガキどもを包囲しろ。気付かれないよう、広く、ゆっくりとだ」

 

 包囲網は初めは広く粗くでいい。それをゆっくりと狭め、気付いた頃には逃げられない──その状況を作り出してしまえば、子供5人を拘束することなど造作も無い。いや、もしかしたら勝手に諦めて降伏するかもしれない。

 

 「あぁ……全く、首の皮一枚って感じだな……」

 

 なんとか組織からの粛清は避けられそうだと、男はもう一度深々と溜息を吐いた。

 

 

 



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57

 食事を終え、テントに籠って身体を拭い、さてそろそろ見張りのローテーションを決めて眠ろうかという話になった頃。

 ふと、リチャードが剣呑な気配を纏った。

 

 ユリアとシルヴィアが怯え、戦闘慣れしていないフィリップですらその変容に気付くほどの切り替わり方だ。

 

 「囲まれました。おそらく、さっきの奴の仲間でしょう」

 

 端的ながら危機的状況であることを明確に伝える報告に、フィリップとルキアは同質の理由で「面倒だなぁ」という表情を浮かべる。

 ユリアが立ち上がりかけるのをシルヴィアが制し、その腕を掴んだままリチャードに問いかける。

 

 「商人に見せかけて実は盗賊だった、ということ?」

 「おそらくは。……どうしますか?」

 

 リチャードがあまりに真剣な表情でそう訊ねるものだから、フィリップはつい失笑を漏らしてしまった。

 

 「あー……なにか面白いことが?」

 

 ルキアとフィリップ本人を除く全員から怪訝そうな視線を向けられ、リチャードにそう問われて、フィリップは先の質問が何の冗談でもないことを理解した。

 

 「あぁ、いえ。……降伏する、という選択肢があるんですか?」

 「え? いえ、それはありませんが……例えば、包囲網の一部を切り開いて、馬車で逃げるとか」

 

 そう言われて、フィリップはなるほどと手を打って納得した。

 言われてみれば、それはそうだ。包囲しているということは、少なくとも相手は数で勝っているのだろう。それを()()()()()()というのは、普通に考えれば選択されない戦略だ。

 

 リチャードに言われるまで、フィリップは完全に「降伏か鏖殺か」という二択で考えていた。

 相手が10人だろうが10億人だろうが誤差と判ずるような価値観を持っていると、戦略的思考まで鈍っていけない。視座が高いくせに視野が狭いというか、価値観だけが外神で思考能力は矮小な人間のままというか。これもまだフィリップが人間であることの証明と、ポジティブに考えることにしよう。

 

 眠気混じりの頭でそんなことを考えていると、隣でルキアが退屈そうに口を開く。

 

 「敵なんでしょう? なら、全員殺せばいいじゃない」

 「ですよね!」

 

 ノータイムで同意したフィリップを除く全員が、正気を疑うような目で二人を見る。

 否定し辛い疑惑をかけてくれるな。フィリップもルキアも一度狂気に溺れているんだ。

 

 「私が全部やってもいいわよ?」

 

 塩の柱を乱立させようと右手を掲げたルキアだが、神罰執行に待ったがかかる。

 止めたのはフィリップだ。まぁ、フィリップ以外の制止が届くかは微妙だが。

 

 「待ってください。折角ですし、連携の練習に使いましょう」

 

 なるほど確かに、と頷くリチャードとシルヴィア。ユリアは苦笑いだが、異論はないようだ。

 

 「ですが、包囲されています。ダンジョン攻略時を想定した一方向を前方とした突破型の陣形では、後衛が……いえ、なんでもありません」

 

 リチャードが後衛に割り振られたルキアとユリアを見て、心配を取り下げる。

 片や世界最強、片や地雷使い。後衛という字面からは考えられないほど攻撃的な面子だった。そもそもルキア一人で確実に事足りるのだから。

 

 「馬車の数からの大まかな推測ですが、敵は60人前後です。包囲網が狭まりきる前に、円を描くように移動しつつ少数ずつ相手取りましょう」

 「いいですね。それで行きましょう」

 

 そうしないと、陣形も連携も無視した1対12になる。別にそれでも構わないが、連携の練習という主目的からは外れてしまう。

 

 「前衛……ルメール様が先陣を切り、僕とアルカス様がその援護、僕たちのキャパシティを超えた相手をサークリス様とベルトさんでカバー……で、いいんですよね?」

 「はい。あ、でも、進行方向などの決定は……」

 

 リチャードは意思決定を身分序列の低い自分が担っていいのかと、ルキア、シルヴィア、フィリップを順番に見遣る。

 フィリップに戦術知識はないし、別に構わないと頷く。シルヴィアはちらりとルキアの方を伺ったが、そのルキアが頷いたことでそれに倣う。

 

 この中で最も戦闘経験が豊富なのはルキアだろうが、戦術も戦略もまとめてねじ伏せる超火力型なので、司令塔には不向きだ。適性の有無や能力の有無ではなく、前線に立ってこそ真価を発揮するという意味で。

 

 「分かりました。精一杯、務めさせて頂きます」

 

 別にそこまで気負わずとも、何かあったらルキアがいるし、最悪全滅してもフィリップは死なないだろう。閉鎖空間でクトゥグアを召喚するという盛大且つ手の込んだ自殺でもしない限り。

 それもヨグ=ソトースが自殺(事故)を認めるのか、それとも阻止するのかで変わってくる。フィリップの自害を認めないのなら、それこそフィリップは無敵だ。まず死ぬことは無い。真なる闇や無名の霧レベルの存在が敵対してきたら話は別だが、その場合宇宙ごと滅ぶので気にする必要は無い。

 

 「まぁ、気楽にいきましょう」

 

 伸びなどしつつそう言ったフィリップに、ユリアが諫めるような目を向ける。

 

 「カーターさん、相手は盗賊とはいえ、多数です。油断しすぎるのは……」

 「あ、そうですね。すみません」

 

 盗賊だろうが騎士だろうが、60人だろうが65億人だろうが大した差異じゃない。

 ないが、「連携の練習にしましょう」と言い出したのはフィリップだ。不真面目な態度は彼らの気に障るだろうし、何より不誠実だ。今のはフィリップが悪い。

 

 素直に頭を下げると、ユリアも「こちらこそ、生意気を言いました」と詫びる。

 礼儀としては正しいが、フィリップに向けるのは間違いだ。身分を訂正しても受け入れられないのは分かったので、もはや何も言わないが。

 

 「──包囲網が動き始めました。攻勢に出ます」

 「了解です」

 

 言うが早いか、リチャードが駆け出す。

 迷いのない足取りからは()()が最も手薄なのだと推察できるが、フィリップには何も感じ取れない。魔術師の知覚能力とは素晴らしいものだと羨ましくなるが、その嫉妬も意識して切り捨てる。

 

 リチャードの速度はフィリップに気遣ってか、フィリップが全力の7、8割で走れば追いかけられるものだ。

 そんな速度で走っていれば、襲撃者の側がその動きを察知するのも容易い。

 

 「敵襲ーッ!」

 

 一行を見つけた賊の一人が警告を発し、静かだった平原がにわかに騒ぎ立つ。

 包囲網が一気に動き出し、フィリップたちの方へと詰まってくるのが感じ取れた。

 

 普段の穏やかな態度からは想像もつかない鋭い殺気を纏い、敵意も露わに走ってくるリチャードを見れば、そう叫びたくなるのも分かるが、襲われているのはフィリップたちではなかったのか。

 

 だが、まぁ。

 どちらが()()()かと考えれば、その叫びは間違っていない。

 

 彼らにとってフィリップたちは単なる獲物ではなく、死力を尽くすべき敵だ。死力を尽くしたところで、生還できる可能性は限りなく低いのだが。

 

 リチャードの身体が大きく前傾する。

 這うほどの踏み込みを発端に、地面すれすれを滑空するような歩法で距離を詰める。フィリップの全力疾走どころか動体視力が追い付くギリギリの速度は、敵に反射的な防御だけを許可する。

 

 「ひッ……!」

 

 賊が身体の前に剣を構え、身体を強張らせて目を閉じる。

 素人目にも分かる戦闘慣れしていない者の怯えだ。もしかしたら、盗賊になったばかりの元農民とかかもしれない。

 

 「《シャープネス》《デュラビリティ》《エンチャント・サンダー》ッ!」

 

 切れ味向上と耐久力向上の付与魔術。鞘に電流を纏わせ、抵抗を疑似的ながらゼロにするという変則的な使用法の属性付与。

 並の魔術師が研鑽の果てに辿り着く三種同時詠唱を事も無げに行使したリチャードは、一太刀の下に賊の構えた剣諸共にその首を撥ね飛ばした。

 

 剣を振っただけとは思えない、空気を切り裂く鋭い音が尾を引いて残る。

 

 「魔術師かッ──うわぁッ!?」

 

 血を吹き上げながら倒れる仲間を見て、驚愕と恐怖を叫び声として出力した──戦意への変換が遅かった者が、胴体を逆袈裟に切り裂かれて倒れる。

 今度はほぼ無抵抗、というか、抵抗が間に合っていなかった。あの地面を這う蛇のようにも、超低空を飛ぶ燕のようにも感じられる独特の歩法。距離と接近速度を誤認させる効果があるらしい。

 

 「クソ、《ファイアー・ラン──ごぼっ……!?」

 

 リチャードまで少し距離のあった賊が、攻撃魔術を詠唱しようと口を開く。

 しかし、出てきたのは声ではなく海水だった。

 

 「助かりました、カーター様」

 「いえ」

 

 魔術行使の予兆を見て咄嗟に詠唱を妨害できたのは、正直我ながら素晴らしいと思う。

 だが、男が使おうとしていたのは初級魔術だ。リチャードなら斬り落とせたと考えると、今の援護はフィリップの魔力を浪費しただけということになる。

 

 やはり、戦闘は難しい。

 

 「こ、こいつら、魔術学院の生徒か!?」

 「なんでこんなところに!? 野外訓練の時期はもうとっくに──クソ!」

 

 魔術師──いや、魔術を使える者が混じっているようだが、そう数が多いわけではないらしい。

 大多数は非魔術師。しかも戦闘経験の浅そうな者ばかり。なりたての賊か、寝込みを襲うばかりで正面戦闘をしたことがないのか。

 

 また一人、リチャードの刃によって命を落とす。

 まだ4人目、フィリップの魔術によって地上で溺れている者を除けば3人目でしかないというのに、賊は既に戦意を喪失し始めている。

 

 まぁ戦意の有無で言えば、フィリップの後ろで「今の判断は微妙だったわね」とか言っている、コーチングモードのルキアが一番戦意に欠けるのだが。

 

 「うわぁぁぁッ!!」

 

 フィリップたちの()()()、けたたましい叫び声が上がる。

 何事かと振り返った者の中に、ルキアとユリアは含まれていなかった。

 

 吹き上がる火柱が夜闇を払う。その中に一瞬だけ見えた人影は、瞬きの後には灰も残さず燃え尽きていた。

 

 「あ、背後の警戒用に仕掛けておきました!」

 

 どうですか。ちゃんと役立ってるでしょう? すごい威力でしょう? と、自慢げに胸を張るユリア。

 あれが設置型反応起動魔術『ヴォルカニック・マイン』か。確かに、火柱──否、溶岩は5メートルくらいまで噴き上がっている。呑み込まれればひとたまりもない熱と勢いだろう。

 

 敷設位置を避けて動かれたら意味がないのは分かるが、それでも素晴らしい火力だ。あれぐらいでいいんだよ、あれぐらいで。

 

 「く、クソ、撤退だ! 撤退しろ!」

 

 誰かが叫び、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

 

 「逃がしません! 《ライトニング・フォール》!」

 

 片手を掲げたシルヴィアの詠唱に応じ、空から一条の稲妻が伸びる。ほんの一瞬の瞬きながら、内包する電流量も電圧も膨大だ。

 攻撃の意志を持った雷に打たれた賊が、身体の所々を黒く焦がして倒れる。

 

 魔術が呼ぶ雷は一撃で終わりのようだが、連続詠唱によって断続的に落雷が起こる。絶縁破壊の轟きは耳に痛いのだが、意識に影響を及ぼすレベルではない。より正確には、そのレベルの音は遮断されている。

 

 雷の直撃によって即死するか、その閃光と轟音で意識を奪われるかして、逃げ惑う賊は数を大幅に減らしていた。敷設された『ヴォルカニック・マイン』を踏み抜く不運な者もちらほらと見受けられる。

 

 それにしても。

 

 「なんか、既視感が……」

 

 片手を掲げた姿と、空から降り注ぐ光による攻撃。

 雷轟はともかく、瞼を閉じてなお網膜に焼き付くような強烈な光には覚えがある。

 

 ちらりとルキアの方を一瞥すると、かなり苦々しい表情を浮かべていた。

 フィリップの視線に気付くと、こちらへ歩いてくる。陣形は崩れるが、もはや戦闘は掃討段階に入っている。陣形を維持する必要もないだろう。

 

 「あの、サークリス様──」

 「《サンダー・スピア》ッ!」

 

 シルヴィアが指を弾き、詠唱する。

 雷の槍が形成され、逃げる賊の一人を背中から穿った。

 

 戦闘スタイルの模倣──というには、実力も結果もお粗末なものだ。どちらかといえば、戦闘時の外観の模倣。しかも劣化コピー。

 意味があるのかと聞かれれば、たぶんNOだ。

 

 「…………」

 

 もしそれに戦略的価値があるのなら、ルキアはこうも苦々しい表情にならないだろうから。

 

 「あれってやっぱり、サークリス様の真似ですよね?」

 「ッ………………」

 

 ルキアはたっぷり30秒は絶句して、ころころと表情を変えた──好意的な表情は一つも無かった──あと、がっくりと項垂れた。

 

 「フィリップ。よく見ててね?」

 

 フィリップの両肩を力なく掴み、言い聞かせて背中を向ける。

 そっと片腕を掲げ──

 

 「《粛清の光》」

 

 既に降伏した者も、未だ逃げようと走っている者も、既に馬車へ辿り着き鞭を振るおうとしていた者も、例外なく塩の柱へと化す神罰が執行された。

 光は音もなく、そして対象に悲鳴を上げさせる暇すら与えず、極めて静かに敵対者を掃討する。

 

 「流石、凄まじい攻撃範囲ですね!」

 

 ユリアが無邪気に褒めるが、ルキアの表情は硬い。

 

 「うーん……」

 

 フィリップが悩ましげに唸る。

 

 確かに、『粛清の光』と『ライトニング・フォール』は似ても似つかなかった。

 前者は触れた者を瞬時に塩の柱に変える光の連続照射。後者は一発の落雷を連続詠唱によって断続的に引き起こしているだけ。特殊攻撃と物理攻撃という差異もある。恐らくだが、シルヴィアの魔術は子世代や孫世代の黒山羊にすら通じない。

 

 落雷より静かで、遥かに速い光による攻撃。

 どちらが強いかを論じる必要もないほど、両者間には隔絶が存在する。

 

 だが、それはそれとして。

 

 「似てはいませんけど、やっぱり真似ですよね?」

 「…………」

 

 フィリップじゃなかったらその違いを身体に教え込んでいた、と。ルキアは後にそう語った。

 



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58

 半月の淡い光が静かに照らす、夜の帳に覆われた平原。

 乱立する塩の柱は月光を反射して微かに輝き、遠くに揺らぐ焚火が温かな光を灯している。

 

 『粛清の光』の対象外だった死体を焼却する溶岩の赤々とした光が、それらの静かな光景を台無しにしていた。

 

 「ねぇ、ユリア。この『ラーヴァ・スポット』といい、さっきの『ヴォルカニック・マイン』といい、設置型魔術に拘りでもあるの?」

 「いえ、特には。でも、溶岩……というか、火山には憧れがあるんです! 子供の頃にですね──」

 

 賑やかに会話を弾ませている女性陣に、黙々と、しかし不愉快そうに剣に付着した血脂を拭っているリチャード。

 どうやらルキアだけでなく全員が実戦経験者らしく、明確な殺人行為に後悔や恐怖を抱いている者はいない。まぁ居たとしても、フィリップにカウンセリングの技能は無いのだが。

 

 「……さて、馬車を検めましょうか」

 「あ、そうですね」

 

 汚れの残りカスを『エンチャント・フレイム』で焼き払ったリチャードが面倒そうに言う。

 彼らは十中八九この辺りを縄張りとする盗賊なのだろうが、もしかしたらその財産が馬車に積まれているかもしれない。盗賊のモノは討伐者のモノ(法指定危険物等を除く)というのは常識だが、誰も金には困っていないし、何より馬車十台分もの大荷物を抱えていては旅程に差し障る。

 

 よほどのモノだけは回収して、残りは近所の町の衛兵にでも言いつけて放置しておけば、この辺りを管轄する領主が勝手に回収して勝手にサークリス家に貢いでくれるだろう──というのが、ルキアを含む貴族組の意見だったのだが。

 

 「これは、ちょっと放置しかねるというか……」

 「そうですね。奴隷……ですか」

 

 残念ながら、彼らは盗賊ではなく奴隷商だった。

 その財産は当然、奴隷──つまり、生きた人間である。

 

 馬車あたり一個の檻に一人の奴隷が入れられ、手枷と檻は鎖で繋がっている。

 

 そこらで拉致してきました、という風情ではない。

 既に体には鞭で打たれた傷跡が幾条にも刻まれ、首には奴隷であることを示す首輪が嵌っている。その目には生気が無く、困り顔で顔を見合わせるフィリップたちを見るや、即座に土下座の姿勢になった。

 

 助けに感謝する、という意味ではない。

 自分が商品で相手が客だと教え込まれ、決して口を開かず身じろぎもせず、ただ躾け通りの姿勢になっただけのこと。

 

 それを見て、リチャードの表情が怒りと悲哀に歪む。

 

 「ここで解放しても、多分……」

 

 野垂れ死にすることになる。積極的に死のうとするだけの人格さえ残っていないと思わせるような、目を覆いたくなるほどの損耗具合だ。

 この世の全てがどうでもよくなった、あるがままを受け入れる──流れに抗うだけの気力も失せた、ただ生きているだけの死体。それが10()

 

 「どうします? これ」

 

 フィリップが「まぁ順当に近くの町まで持っていくよね?」というニュアンスで尋ねるが、フィリップよりも王国法に詳しいルキアとリチャードは答えかねる。

 

 帝国とは違い、王国に奴隷制は無い。

 つまり。法律上彼らを奴隷として扱うことは出来ないのだ。その扱いは拉致被害者でも不法入国者でも何でもいいが、少なくとも関係各所への報告義務が生じる。

 

 この辺りを管轄する領主を調べるのは面倒だし、宮廷に報告する──王都まで戻るのはもっと面倒だ。

 とはいえ見なかったことにするのは心が痛むし、どうしようか。

 

 そんな旨の悩みをルキアとリチャードに共有され、フィリップも共に頭を悩ませる。

 フィリップの頭に浮かんだ「全員殺せばいいのでは?」という最速の解決策は、浮かんだ瞬間に人間性の残りカスによって却下された。あまりにも非人間的すぎる。

 

 商品として見苦しく無いよう、給餌や排泄はきちんと管理されていたようだが、全員が粗末な麻製の筒型衣だ。衣服や資金を彼らの馬車から適当に見繕ったとしても、肝心の意志が死んでいるようでは、彼らが自力でどうこうできるとは思えない。

 せめて最寄りの町までは護送し、それなりの処置をしてあげたいと思うのが人情だ。

 

 フィリップに人情なんてものが残っているかは微妙だが、それはそれとして。

 

 「馬車が10台。僕らは5人です。護送するにしても、人数が足りません。それに──」

 

 ねぇ? と、手近な馬に水を向けると、ぷいと顔を背けられる。何が気に入らないのだろうか。

 

 森での一件が頭を過り、腕をすっと馬の鼻先に持っていく。

 やってから「噛まれるかもしれない」と怖くなったのだが、穏やかな気性の個体だったようで、鼻息も激しく嘶いて数歩下がるだけだった。

 

 なるほど、匂いか?

 月と星の香りとか、愛しき母の芳香とか、そういうアレか?

 

 思えば、この旅路を含め野生動物に襲われたことは一度も無い。黒山羊は除いて。何かしら野生動物に嫌われる匂いでも振りまいているのか。

 これはもしかしたら、向こう一生乗馬や御者を経験することは無いかもしれない。シャンタク鳥とかになら乗れるかもしれないが、たぶんアザトースの玉座に連れていかれる。

 

 「一応、サークリス様とアルカス様も馬を扱うことはできると思いますけど」

 

 奴隷を全員ケージから出し、馬車に詰め込んでも2台分は必要だ。

 フィリップたちが移動することを考えると全部で3台。まともに馬車を操れる技量を示したのはリチャードだけ。逆に手綱を握らせるなというレベルの実績があるフィリップとユリア。平民組が使えないのであれば、貴族たちに頼るしかない。

 

 「死体の処理、終わりましたよー。皆さん、何されて……んっ」

 

 肌に浮かぶ傷跡を見るまでもなく、粗末な衣装と首輪と檻という要素は彼ら彼女らの立場を明確に示す。

 ユリアが不快そうに顔を顰めたのは、奴隷たちを憐れんで──という訳では無さそうだ。商品として見苦しくないよう清潔に整えられてはいるが、どうにも薄汚く思えたのだろう。何歩か下がる。

 

 王国法で禁じられている以上、奴隷市場や奴隷そのものを見慣れることは無い。

 その反応も分からなくはないし、それが正常なのだろう。

 

 フィリップのように、()()()を完全に同列に見られる人間はそう多くないはずだ。少なくとも、フィリップの人間性の残滓はユリアを奴隷たちより一段上に見ている。

 

 「これをどう処分するのか、という話をしていたんです。最寄りの町まで護送するにしても、御者が……ん?」

 

 その肌に刻まれた鞭の傷跡を見て、ふと思い至る。

 

 「別に、僕たちの誰かが御者をやる必要はないのでは? 彼らの中に、輓馬を扱う技能を持った人がいるかもしれません」

 「あぁ、確かに!」

 

 どうせ檻から出し首輪も外す予定だったので、彼らを解放するのに問題はない。

 ただ、その後彼らがフィリップたちに従ってくれるかどうか──正確には、言葉を理解するだけの自我が残っているかどうかは別だ。よく躾けられているが、やり過ぎなようにも思える。

 

 奴隷一人一人に「御者できる?」と聞いて回るのも手間だったので、とりあえず全員を解放して1か所に集めることにする。

 フィリップたちが客ではないとは分かるはずだが、誰一人逃げ出そうとはしなかった。

 

 他人に命じることに慣れている貴族組がてきぱきと奴隷たちを誘導し、横一列に並ばせる。

 早くも遅くもない足取りで動く奴隷たちからはやはり生気を感じず、ユリアが気色悪そうに数歩ほど離れた。

 

 並ばせてみると、女性5人、男性5人でちょうど半々。男性は一様に筋肉質で頑丈そうで、女性は身体だけでなく顔にも拘ったのだろうと思わせる綺麗な人ばかりだった。

 理想的な個体に徹底した教育を施した、理想の商品だったのだろう。なんでそれを持って王都の方角から来たのかは疑問だが。

 

 「この中で御者の経験がある者は?」

 

 リチャードの発した端的な問いに、男性が二人と女性が一人、ゆっくりと手を挙げる。

 フィリップたちの間に安堵の空気が流れる。彼らにはまだ意志の疎通が可能なだけの自我は残っているらしい。

 

 「よし。では、お前と、お前。適当な馬車を見繕い、仲間全員を4人ずつに分けて乗せろ。その後は私たちの馬車についてこい」

 

 指された奴隷たちが頭を下げる。

 無言なのは、彼らには「断る」という選択肢が初めから存在しないという躾けの賜物か。「畏まりました」とか「承りました」といった一言を添える必要も無い。主人にとって奴隷が命令に従うのは当たり前で、奴隷にとっては主人の命令に従うのが当たり前だからだ。

 

 フィリップたちが先んじて自分たちの馬車に戻り、奴隷たちが乗った馬車の前に付ける。

 キャラバン型という点では同じだが、人間用のケージを積んでいた関係上、奴隷たちの馬車の方が頑丈そうなのが面白い。

 

 「現状、お前たちの扱いは微妙だ。だが逃亡を企てた場合、悪意ある不法入国者として処断する。肝に銘じておけ」

 

 リチャードが釘を刺すが、それも「一応」の域を出ない。

 彼らにはもう、何かを考えるという機能が残っていない。結局、最寄りの町に着くまでも、着いてから衛兵に引き渡すまでも、彼らが自発的な行動を起こすことは無かった。

 

 



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59

 当初の予定では、カリストはフィリップたちと同日か一日遅れでダンジョンに到着するはずだった。

 カリストが遠慮したとかそういう話ではなく、彼の班員が用意した荷物の量と馬の疲労を考えた結果、そういう旅程になっただけだ。

 

 しかし、目的地のダンジョンに着いた彼らの前に、フィリップたちの馬車は無かった。

 ダンジョン内部に馬車を乗り入れたとは考えにくいし、まだ到着していないと考えるのが普通だろう。何かのトラブルで到着が遅れている、と考えるべきだ。

 

 「やりましたね、ライウス様。俺たちが一番乗りです」

 「そうだな。だが、1班は精鋭揃いだ。私たちの攻略速度次第では追い抜かれる。気を引き締めて行くぞ」

 

 無邪気に喜ぶ班員に同調したい気持ちをこらえ、ゆるく諫める。

 彼は確かに、と頷き、気持ちを切り替えるようにぺちぺちと自分の頬を叩いた。

 

 我々Aクラス2班は、贔屓目無しに見てもかなり強い。

 だが、1班はまさに隔絶した強さを誇っている。

 

 世界最強の魔術師であるサークリス様、教皇庁の秘匿部隊『使徒』の一員と思しきカーター氏。

 弱冠15歳にして近衛騎士団長を唸らせるほどの剣技を誇るルメール。サークリス様への憧れを原動力に魔術を研鑽してきたアルカス様。幼少期に見た火山への思い入れだけで一系統の魔術を半ば極めたという変人ベルト。

 

 班員同士が正面から殺し合えば、確実にこちらが負ける。それは隔絶した強さの二人を除いて、5対3にしても同じだ。

 それだけの差があるということは、当然、ダンジョン攻略の速度も大きく負けているということになる。同時にスタートすれば大差で負け、数時間程度のリードも簡単に詰められるだろう。彼らの遅れがどれほどのものか分からない以上、あまりのんびりもしていられない。

 

 「馬は繋いだか? 餌の用意は? 荷物は持ったな?」

 「えぇ、万全です!」

 「いつでも行けます!」

 

 班員たちは士気も高く、実力も申し分ない。

 彼ら彼女らとであれば、と思わせてくれる。

 

 「よし、攻略開始だ!」

 

 

 

 出発時の勢いのままに、快調にダンジョンを踏破していく。

 

 カリストやフィリップたちの攻略目標とされたのが迷宮型のダンジョンということもあり、最深部への進行速度はそう早いわけではない。

 だが、出現する魔物は班員たちの連携、そして個人の高い実力によって難なく撃破されていく。

 

 全員が純魔術師ということもあり、機械式の罠を発見する力は低い。だが魔術式の罠には絶対に引っかからずに進めているし、機械式罠も魔術によってどうとでも対処できた。

 矢が飛んでくれば魔力障壁や風魔術で生成した乱気流の壁によって防ぎ、火炎放射は届く前に水魔術によって消し止め、落とし穴はその上に分厚い氷の床を張って凌いだ。

 

 正解のルートが分かっていれば、半日ほどでゴールできるレベルだろう。

 王都からはかなり離れた場所にあるダンジョンということもあり、不安もあったが、これくらいなら問題なくクリアできるだろう。

 

 そして、カリストたちが順調に攻略できるということは、フィリップたちに大きくリードするということでもある。

 フィリップたち1班が全く詰まらずにゴールできる強さを持っていたとしても、カリストたち2班も全く詰まらない難易度のダンジョンであれば、先に攻略を開始した2班が勝つのは自明の理だ。

 

 「あとは、この迷路をクリアするだけだ」

 「はい。だいぶ順調ですね!」

 

 罠にも魔物にも脅かされず、絶好調と言った風情の班員たちが笑う。

 だが、この迷路は本当に厄介だ。

 

 カリストたちが同時に全力で魔術を撃ち込んでも破壊できない強度の壁は、4メートルほどの高さの天井までしっかりと繋がっている。

 ショートカットも俯瞰しての正解探しも不可能。左手の法則が使えるかどうかも不明。こつこつマッピングしていくしかない。

 

 「おっと、分岐点だ。視界内敵影無し、罠の気配無し。えーっと、前回の曲がり角から……何歩でした?」

 「120歩、12マスだな」

 「ありがとうございます。……よし、と」

 

 方眼紙に辿ってきたルートを書き込んだ班員が、次はどうするのかとカリストに目線を向ける。

 十字に交差した通路はどの方向も同じに見える。何も手がかりが無ければ手あたり次第になるところだが、ここまでの足跡を記してきた地図がある。どちらが最深部に近く、どちらが外縁に向かうかくらいは判別できる。

 

 尤も最深部に向いているからといって、行き止まりでないとは限らない。順番選びの指標くらいにしかならないが。

 

 「こっちから行こう」

 

 既に何度も、行っては戻りマップに記しという作業を繰り返している面々だ。

 「こっちがゴールか!」という浅はかな期待は無く、しかしモチベーションは高い。

 

 「了解です!」

 

 意気揚々と歩を進めること十数分。行き止まりには突き当らず、こちらが正解だったのでは? と弛緩した空気が流れ始めた頃。カリストの足がぴたりと止まる。

 ちょうど中列にいたカリストが止まれば、後ろは近く、前は少し遠くで同じように止まる。

 

 「っと、どうしました?」

 

 カリストにぶつかりそうになっていた班員が踏鞴を踏みつつ、軽く問いかける。

 魔術罠の気配もなく、機械式罠の作動した様子もない。敵影があれば前衛が既に動いているだろうし、それも違う。

 

 「あ、あぁ、いや……」

 

 カリスト自身、足を止めた理由は判然としない。

 だが、足は根が生えたように進もうとせず、背筋に氷の柱を突っ込まれたような悪寒と身体の震えを覚えていた。

 

 息が出来ない。肺に海水が満ちている様子もなく、ただ単に、恐怖から来る呼吸困難に陥っている。

 

 「あ、あれは、何だと思う?」

 「え? 何って、小部屋でしょう? これまでにも何個かあったじゃないですか」

 

 今度はお宝部屋か、はたまたモンスタールームか。そんな会話をしながら扉へ向かう班員たちを止めようと手を伸ばす。いや、伸ばしたつもりで、声を張ったつもりだった。

 だが、過呼吸気味の浅く速い呼気を連続して吐き出しながら、手をだらりと下げたまま微かに震えていることしかできない。

 

 迷宮型ダンジョンに自然生成される『扉』は、これまでにも何個かあった。その度に中を確認し、ゴミ同然の物が入った宝箱や、指の一弾きで壊滅させられる雑魚魔物の集団に苦笑してきた。

 彼らが無警戒になるのも分かる。カリストだって、この身体の内部から無数の針が突き出してくるような、強烈なトラウマの刺激が無ければそうしていた。

 

 外観は同じだ。迷宮の扉と同じサイズ、同じ素材、同じ意匠。同じ扉だ。

 だが、それは違う。

 

 中からは微かにフィリップの気配が──より正確には、フィリップにかけられた、あの恐るべき『深淵の息』と同質の気配がする。

 

 「ぇあ」

 「──ッ!?!?」

 

 肌の粟立つような湿った音を立て、扉に手をかけていた班員が縦に潰れた。

 気の抜けた断末魔から痛みは感じられず、即死であったことは間違いない。

 

 カリストを除く残った3人が全員飛び退き──いや、一人、立ち尽くしている者がいる。

 

 「お、おい。どうし──うわぁッ!?」

 

 手を伸ばした仲間の前で、立ち尽くしていた班員が潰れる。

 飛び散った血と肉とを浴び、絡まった足で下がろうとした班員が転倒する。

 

 そのまま数秒硬直して、彼も同じ末路を辿った。

 

 「ら、ライウス様、逃げ──」

 

 ただ一人残った仲間がカリストの腕を引く。それに応える余裕は無かった。

 

 眼前の光景とは関係なく、苦痛の記憶に基づく硬直に陥っていたカリストに、さらなる静止が上書きされる。

 それは魔術的なものかもしれないし、カリスト自身の本能によるものかもしれない。恐怖ではなく、畏怖──自身と接触を試みているモノに対し、全身が「畏れよ」と叫んでいる。

 

 『君はどうする?』

 

 そんな、端的な問いが聞こえた。

 耳朶を打っているのか、或いは脳に直接響いているのか。それは分からない。

 

 少年とも少女とも取れる幼く中性的な、しかし、とても優しそうな声色だった。カリストへの害意など一片も無く、敵意の一かけらも感じさせない、聞き心地のよい声だ。

 

 『私の下僕になる? なるのなら、力をあげるよ?』

 

 ()()()()、赤い瞳に見透かされる。

 気付けば景色はダンジョン内部とは全く違う、荘厳で広大な地下聖堂へ変わっている。

 

 幻覚、なのだろう。

 足元はくたびれた絨毯のように見えるが、足から伝わる感触は先ほどと同じ硬い地面だ。吊るされた燭台に蝋燭は無く、しかし、青白い炎が灯っている。

 

 「────」

 

 声が出ない。

 いや、出なくて良かった。もし出たとしても、意味のある言語ではなく単なる悲鳴だっただろうから。

 

 カリストのほんの10メートル前に、それはいた。

 

 水死体のように膨れた青白い巨躯と、それを支えるにはあまりに頼りない短い多脚。身体中に備わった無数の赤い眼球。

 この世界に存在するどんな生物とも似つかないが、強いて挙げるのなら、その外見はヒドネラムと呼ばれるキノコに近い。集合体恐怖症の人間であれば見ただけで卒倒し、そうでなくとも気分を害するものだ。

 

 知らず、神を罵倒する。

 おお、神よ。どうしてこのように悍ましく、見るに堪えないモノをお創りになったのか。

 

 『はは、さっきのヒトと同じ反応だね。……それで、どうする? 私に傅いて力を得る? それとも、君も潰れる?』

 

 静かで、穏やかな問いだ。

 有無を言わさぬ圧力も、言葉から想起される殺意も感じない。

 

 本当に、カリストの答えなどどうでもいいし、ただ答えに応じた対応をするだけのことなのだろう。

 

 考える。

 眼前のソレが何であれ、善きモノではないだろう。そんな存在の下僕になど、誰が願ってなるものか。

 

 だが──

 

 『力が欲しいんだね? しかも──君は()の敵なんだ? あぁ、私はすごく幸運だよ』

 

 カリストの心底にある思いは、声に出すまでもなく汲み取られた。

 

 『いいね、いいよ、いいだろう。力をあげる。その代わり──あの鬱陶しい外なる神の……なんだっけ? 寵児だか尖兵だか知らないけどさ、殺してきてよ』

 

 どくん、と。腹の底で、自分ではない何かが拍動する。

 

 快不快の範疇などとうに超えた、今すぐ腹を捌き内臓全てを引きずり出してもまだ心地よいと思えるような、いっそ感動的な異物感がある。

 自分ではない何か。自分を蝕む何か。この世に在ってはいけない何かが、自分の内を這い回っている。

 

 『もう行くといい。全く、無貌の君に目を付けられておいて、この私の下僕になれるなんて。君は本当に幸運だね?』

 

 幼子に向けるような冷笑を最後に残し、その幻影は消え去った。

 

 荘厳な地下聖堂は無味乾燥な迷宮に、くたびれたカーペットは潰れた班員の血と肉片に戻る。

 優しさすら湛えた声は消え、カリストを呼び続ける仲間の声が戻る。

 

 外界全ての連続性が断たれたことに酔いそうになる。だが、あれは幻覚ではない。

 眼前に散らばった死骸と、腹の底で脈打つ異物がその証明だ。

 

 「ライウス様? 顔色が……」

 

 顔だけでなく全身の血色が悪いことは、自分の腕を見ればすぐに分かった。

 肌は蒼白で、透けそうなほど病的な色だ。

 

 血の気が失せ、代わりに血ではない何かを流し込まれたような色。アルビノや貧血では有り得ない、異常を表す色だ。

 カリスト自身ですら、我が事ながら気味が悪いと顔を顰めるようなもの。班員が一歩、二歩と後退るのも無理はない。

 

 その動きに反応して、カリストは片腕を振り──水の刃を形成する魔術を行使し、最後の班員の頸を刎ねた。

 

 驚愕に目を見開いた顔が地面に落ち、湿った音と鈍い音が混じった、何とも不快な音を立てる。

 

 何で殺したのだろう、と。カリストは倒れ伏す身体と噴き上がる血液を無感動に見つめながら、空転する頭で考える。

 彼が憎かったわけでもなく、殺さなければならないという強迫観念があったわけでもない。ただ、そうするのが普通だと思ったから──いや、それも違う。人間が呼吸するのは普通だが、『そうするのが普通だから』呼吸をする者はいない。

 

 それと同じ。カリストはただ、普通に殺した。殺そうと意識するまでもなく、人間が息を吸って吐き、飯を食い水を飲むように、普通に殺した。

 

 これまで通りの自我、これまで通りの価値観など消え失せ、()より定められた使命だけが身体を動かす操り人形。

 思考し肉体を動かしているのが、この主体が、雛の寄生したカリストなのか、カリストの肉に棲んでいる雛なのか。それすら判然としない。

 

 「フィリップ・カーター……」

 

 零した血涙は確かに赤く。しかし、それが信じられないほどの顔色のまま、カリストの身体はふらりふらりと迷宮を彷徨い始めた。

 

 



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60

 予定より一日遅れてダンジョンに到着したフィリップたちは、その近くに停められた馬車を見て思い思いの表情を浮かべた。

 ルキアが苛立ちと不快感を露わにしているのに、フィリップが無関心なのが対照的だ。

 

 別に、カリストたちに先着されたところで問題にはならない。試験は「制限期間内で最奥部に到達できたか否か」を問うもの。異なるグループが同じ目的地だったとしても、先着順で点数が決まったりはしない。

 グループ同士で被りがあった場合は、互いに協力したり利用したりしてもいいと学校側から通達されている。ちなみに妨害行為は禁止だ。

 

 「先客がいるみたいですけど、僕たちは僕たちのペースで、落ち着いて行きましょう」

 

 リチャードが落ち着いた声でそう言うが、ルキアの纏う剣呑な空気は晴れない。

 

 二着だったことが許せない、というより、カリストの存在に我慢ならないらしい。

 ルキアが最初に馬車に気付いていたらまず馬車を消し去り、その後ダンジョンも同じく極太の光線に穿たれて消滅していた──まさかそんなことはしないだろうが、そう思わせるだけの迫力はあった。

 

 「先に攻略してる班がいるなら、僕らは楽に進めそうですね」

 

 フィリップが冗談めかしてそう言うと、空気を変えようという意図は伝わったのか、ルキアが細く長く息を吐く。流石は最高位魔術師の精神力と言うべきか、その一動作だけで苛立ちを払ったらしい。

 フィリップに向けた笑顔に曇りは無く、先ほどまでのひりついた空気が嘘のようだ。

 

 「そうね。でも、ちゃんと警戒しながら進むのよ? はぐれたり転んだりしないようにね」

 「あはは、気を付けます」

 

 いくら領域外魔術が消費魔力の少ない魔術体系だといっても、フィリップの魔力量は一般人のそれ──純魔術師とは比較にならないほど少ない。1人で戦えばそう遠くないうちに魔力が枯渇し、ただの貧弱な子供になる。まぁ死ぬか死なないかで言えば、確実に死なない。フィリップは、という但し書きは付くが。

 

 緊張と弛緩のバランスが取れた所で、ダンジョンに踏み込む。

 迷宮型ダンジョンの例に漏れず、魔物や罠ではなくその構造自体が一番の障害だと思われるが、果たして。

 

 

 一時間ほどダンジョンを彷徨い歩いていると、3つほどの機械式罠にかかった。といっても、実害が出る前にルキアとシルヴィアによって適切に対処されたし、魔術式罠に至ってはルキアが支配し、魔物に対して逆用していたくらいだ。

 設置型魔術はこういうことになるのよ、とは、ユリアに向けた言である。

 

 魔物は大半が先客によって掃討されており、彼らが通らなかったと思しき道の魔物もゴブリンやスケルトンといった雑魚ばかり。

 『萎縮』も『深淵の息』も通じないスケルトンは強敵だったが、それはフィリップ対策が万全というだけで、魔物として弱いことに変わりはない。ルキアが出るまでもなく、普通にリチャードが切り伏せた。

 

 いやースケルトンは強敵でしたね! などと冗談を飛ばしつつ、着々と進む。

 残念ながらウケなかったのは、その分ゴブリンが見るも無惨な死を遂げたからだろうか。

 

 休憩も挟みつつ、かなりのハイペースで迷宮を踏破していく。罠も魔物も大した障害では無かったし、その余裕は迷路の攻略に大きく貢献した。

 このペースなら今日中に最奥部に到達できそうだし、そもそも試験を課した学校側も、ダンジョン内で夜を明かすことは想定していないはずだ。

 

 同調されたり諫められたりしつつ、迷宮を進む。快調に踏破したかと思えば行き止まりで、大幅に道を戻ったりしなければいけないのも、ここまで余裕があればスパイス程度だ。飽きなくてちょうどいい。

 

 そんな弛緩した空気を漂わせたまま、フィリップたちは()()に到着した。

 

 そこに広がる異常は、曲がり角を曲がる前からフィリップたちに伝わっていた。

 漂ってくるのは鉄と、内臓と、糞尿と、肉の腐った匂いの混じり合った悪臭だ。目に入らずとも何があるのか、おおよその見当が付く。

 

 「ぉぇ……」

 

 堪えきれず、フィリップが嘔吐する。

 

 人間(どうぞく)の死体に感じる恐怖──捕食者の存在に怯える心も、社会性動物として仲間の死に覚えるべき無念も、何も無い。首を切られた死体から噴き上がる血液を見ても「汚いなぁ」くらいの感想だし、ぐちゃぐちゃに潰れた悪魔の死骸を見た時だって「気持ち悪いなぁ」としか思わなかった。

 

 だが、それは別に悪臭に対して耐性をくれる要素ではない。臭いものは臭いのだ。

 

 「魔物の死骸……では、ないでしょうね」

 

 フィリップの背中を擦り、自身も顔を顰めながら、リチャードがそう断定する。

 

 普通、魔物は落命から数分で身体が消滅する。稀に身体の一部が残留することもあるが、普通は全身だ。それには当然、切断された部位や流れ出した血液も含まれる。

 つまり、こんな風に悪臭を垂れ流すことはあり得ないのだ。

 

 「様子を見てきます。カーターさんを……」

 「私が診ておくわ」

 

 反射的に胃が痙攣するような悪臭の源に、リチャードは服で口元を抑えただけの簡易的な防護で突っ込んでいく。

 戦闘経験の差なのだろうが、よくやるものだと感心すら覚える。

 

 ルキアに支えられ、水を貰って口を濯ぐ。

 発作的な嘔吐だったからか、こみ上げてくるものはもうない。

 

 リチャードはすぐに戻ってきたが、その顔は蒼白だった。

 

 「2班の奴らでした。……その、かなり不可解な死に様です」

 

 不可解な、とは、珍しい言い方だ。

 凄惨な、とか、残酷な、なら聞き覚えもあるのだが。

 

 不思議そうなフィリップに「持ち直しが早いですね」と苦笑の成分が多い心配を向けてから、リチャードは死骸の状況を端的に説明した。

 

 「崩落も無く圧死、ですか……」

 

 妙に覚えのあるワードに()()()()()()()

 この精強なパーティにいて、こんなにも簡単なダンジョンで、副王の庇護を受けるフィリップが、だ。

 

 不味い。

 これは、非常に、不味い。

 

 皆に動かないよう伝え、曲がり角の先を目指す。

 警鐘を鳴らす智慧を無視して、その先の道にふらふらと歩を進める。慌てて班員が付いてくる足音を聞きながら、またか、と、薄く溜息を吐いた。

 

 まただ。また、フィリップには枷が付いている。

 

 このクソみたいな現状を打破したければ、さっさとダンジョンを飛び出して焼き払えばいい。クトゥグアの火力であれば、ほんの数秒の顕現で事を終えられる。幸いにして町からは遠く、通行人も限りなく少ない立地だ。他人を巻き込む心配は無い。

 

 だが、それにはルキアたちが邪魔だ。

 彼女たちの精神と肉体を傷付けずに、なんて繊細なオーダーは宛てるだけ無駄。外神には大きく劣る旧支配者にとってすら、人間への気遣いなど望むべくもない。

 

 「カーターさん、これを……」

 

 一人だけ、圧死ではなく首を切られて死んでいる骸がある。

 それもまた「不可解な」と評される所以なのだろう。

 

 「……一人、足りませんね」

 

 漂う臭気から嗅覚を守るため押さえた口元から、くぐもった声で会話するフィリップとリチャード。

 

 天井が落ちてきたような痕跡──罠の気配はない。崩落の跡もだ。

 扉すらないのっぺりした壁には、押し潰される際に噴き出した内容物が飛散している。大質量の襲撃があったことは間違いないが、襲撃者の痕跡は無い。

 

 そして。

 

 「ライウス様の死体がありません。まだ生きているはずです」

 

 負傷している可能性は高いが、この惨状では痕跡は判別できない。そこらじゅうに血と肉と内臓が、人のパーツが転がっている。

 

 ユリアとシルヴィアが口元を押さえて見えない場所まで駆けていき、ルキアですら顔を蒼白にするような惨状だ。

 ルキアにこの手のスプラッタ耐性が無いのはあの森で知っていたが、クリーンな殺し方──塩の柱に変えるか、跡形も残さないか──を常用してきたからだろうか。

 

 「何があったのか、早急に聞き出す必要があります。内容によってはこのダンジョンを熱消毒することになりますが……」

 「そ、それは、どういう──?」

 

 あらゆる迷宮に自身の居城を連結する「扉」を生成する権能を持つ旧支配者、アイホート。

 もしもアレが介入してきたのなら、この場を早急に離れる必要がある。

 

 だが、それが正解なのかどうか、対邪神の専門家ではないフィリップには判断が付かないのだ。

 

 カリストを探し出し、アイホートの介入を確定させたうえで後腐れなくダンジョンを破壊するべきなのか。或いは、このダンジョンは既にアイホートに汚染されていると仮定して焼却すべきなのか。

 どの道、アイホートはこの場にはいないだろう。あれの本拠地はもっと大きな迷宮で、こんな片田舎の弱小ダンジョンではない。「扉」が繋がったか、アンテナの立った人間がいたか。そのどちらかだ。

 

 あれ自体の害悪性はそこまで高くない。強いことは強いが、正面戦闘であればクトゥグアに軍配が上がる。地球に棲み付いている時点で格が知れると言うものだが、アイホートはそれ本体より雛の方が厄介だ。

 

 雛を植え付けられた生物は、アイホートの意を汲んで動く下僕となる。その対価として、これまでとは比較にならない力を得られるのだ。それは物理的な腕力などもそうだし、魔力や再生力といったものも含まれる。生物として一つ上のステージに登ることができるのだ。

 

 そして──雛が十分に成長した時点で、()は用済みとなる。

 

 体内を食い荒らして成長した雛は、宿主の全身を突き破って体外へ巣立つ。当然、全身を内側から食い破られた宿主は命を落とすことになる。

 

 雛の排除はあらゆる外科的・内科的医療では叶わず、治療系魔術でも不可能。

 唯一の対抗手段はそれ専用の領域外魔術『アイホートの雛の追放』。ちなみに、フィリップは未修得だ。

 

 だからこそ、不味い。

 

 アイホートが雛を植え付けるのに、その場にいる必要は無い。今この瞬間にも「扉」が繋がり、アイホートがテレパシーを介して接触してくるかもしれないのだ。

 フィリップはまぁ、大丈夫だろう。そんな遅効毒じみたモノを良性要素として素通りさせるほど、我らが副王は愚かではない。

 

 だが。ルキアやリチャードは別だ。

 彼らはただの人間であり、アイホートやその雛にとっては価値の高い、良質な魔力(エサ)の詰まった相手だ。目を付けられる可能性は十分にあるし、フィリップでは対処できない。

 

 もちろん、王都まで戻ればマザーやナイ神父が処置してくれるだろう。だがそこまで肉体が持つかどうかが問題となる。

 良質な餌は良質な成長を齎す。少し考えれば分かることだ。一般人には数週間の猶予があるかもしれないが、最高級の魔術師では数日かもしれない。

 

 やはり、最優先はルキアたちをダンジョン外に出すことだろう。

 

 「ここを出ましょう。……筆記試験を落とした人は?」

 

 ひりつき始めた空気と、自分の中にある焦りを誤魔化すため、冗談を飛ばす。

 リチャードが苦笑して肩を竦め、ルキアは眩しそうに目を細めて、フィリップに応える。

 

 「大丈夫です。行きましょう」

 「えぇ、分かったわ。 ……筆記試験52点のフィリップ」

 「ちょっと、やめてくださいよ」

 

 ルキアの揶揄にフィリップがすかさず突っ込む。リチャードが微妙な顔で「僕は47点でした……」と呟いた。平均点は40点強、赤点は25点なので、二人とも普通にパスだ。

 ちなみにルキアは当然のように100点だった。彼女と一緒に、しかも教わりながらテスト勉強をしたはずなのだが。

 

 まぁ、空気はいい感じに弛緩した。このまま何事もなく出られればいいのだが、と。ぐちゃぐちゃの死体を見て離れた──話し声の届かない場所まで行った理由は察せられる──シルヴィアとユリアを迎えに行こうと歩き出し。

 

 ユリアたちがいるはずの交差路から猛烈な勢いで飛んできた「何か」が、湿った音を立てて眼前の壁に激突する。

 

 「うわっ!? びっくりした……」

 

 思わず身体を強張らせたフィリップの前にリチャードが飛び出し、剣を構える。

 

 「こ、れは……!?」

 

 愕然と漏らしたリチャードに釣られ、飛来した物体を見る。

 

 壁面に赤い液体を残し、地面に落ちて湿った音を再度響かせるそれ。

 

 「ユリア!?」

 

 交差した道、ユリアとシルヴィアがいるはずの道から、シルヴィアの叫び声が聞こえる。

 

 フィリップたちの眼前で、驚愕と恐怖の表情を浮かべたユリアの頭部がごろりと転がった。

 

 



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61

 リチャードくんはそこそこ長身で細身の金髪碧眼。身長は160センチ後半。
 シルヴィアちゃんはスレンダーな体系の金髪碧眼。身長は150センチ前半。
 ユリアちゃんはもう死んだ。


 2班メンバーの凄惨な死体を直視してしまったユリアとシルヴィアは、フィリップが嘔吐した辺りまで戻って自分たちも吐いていた。

 

 二人とも魔術戦の経験はそれなりに豊富だ。

 人間を溶岩で溺れさせ、落雷によって炭化させたことも一度や二度ではない。馬車に轢かれて潰れた動物だって、何度か見たことがある。

 

 だが、縦に潰れた人間など初めて見るに決まっているだろう。人体の構造上、縦方向の力にはそれなりに強いはずだ。

 

 人体とは思えない潰れ方、人間とは思えない死に様に精神を揺さぶられ、傷付いた心が肉体とダメージの分散を試みる。結果、胃の収縮という形でそれは叶えられ、乙女にあるまじき醜態を隠す羽目になっていた。

 

 二人の精神は一頻り胃の内容物を吐き戻して満足したらしく、同じようなタイミングで水魔術を使い、口や顔を洗い始めた。

 身だしなみを整え、顔を見合わせて気まずそうに笑う。吐瀉物を火属性魔術で焼却したら、後始末は終わりだ。

 

 「やっぱり、皆さん慣れてましたね……」

 「ルメール卿とサークリス様は従軍経験がおありだしね。……でも、カーターさんの反応は不思議だったわね」

 

 ユリアは確かに、と頷く。

 

 フィリップは曲がり角を曲がる前──凄惨な死体を直視する以前に、漂ってくる臭気に耐えきれず嘔吐していた。にもかかわらず、死体に対しては殆ど無反応だった。臭い対策に口元を覆うだけで、死体を検分する様子は医者や神官にも劣らず落ち着いたもの。死体──それも残酷な死に様には慣れているのに、死体が発する臭いには慣れていない? 何とも不思議な状態だ。

 

 「やっぱり──」

 

 ぼそりと呟いたユリアに、シルヴィアが鋭い目を向ける。

 牽制の意を多分に含んだ視線に慌てて口を押さえると、シルヴィアは呆れたように笑った。

 

 「カーターさんはいち平民、ただのクラスメイト。不本意だけど、そう接しなきゃ」

 「そ、そうですよね!」

 

 誤魔化すように笑い合っていると、ふと足音が耳に入る。

 フィリップたちのいる深部側ではなく、今さっき進んできた入り口側からだ。

 

 すわ魔物かと魔術を照準した二人だが、伸ばした腕はすぐに下ろされる。

 

 「ライウス卿!?」

 「ご無事だったんですね!」

 

 それぞれの言葉で驚愕を表す。

 

 幽鬼のような足取りでゆっくりと近づいてくるのは、確かに二人の知るカリスト・フォン・ライウスだった。

 

 覚束ない足元、病的な色の肌、虚ろな双眸。全て()()()()()だ。自分を除く班員が全滅し、しかもあんなにも惨たらしい死に様とあっては。

 

 「よかった。心配してたんですよ! 何があったのかーって──」

 

 安堵からかにっこりと笑顔を浮かべたユリアが一歩、カリストに歩み寄る。

 

 その一歩が足音を立てると同時、シルヴィアに猛烈な悪寒が襲い掛かる。

 害意。殺意。悪意。その全てに似て、そのどれとも違う不可視の圧力が向けられている。反射的に魔力障壁を展開できたのは、入学以前に実家で受けた魔術戦訓練の賜物だ。

 

 ぞぷ、と。そんな微かな音が障壁で弾け、少し遅れて横の壁からも同じ音がする。

 壁に据えられた燭台の光を反射し、きらきらと輝いて散る水の飛沫。水刃生成と射出──初歩的な攻撃魔術だが、知識にあるそれとは発生速度も弾速も桁違いだった。

 

 「ッ……」

 

 思わず、自分の喉元に手を当てる。

 攻撃は確実に魔力障壁によって防いだはずだが、生きている実感が薄い。どこも痛まないが──視界が、こうも赤くては。

 

 「ユリア、大丈夫?」

 

 視界の端、()()()()背の小さくなったユリアに問いかけるが、返事は無い。

 カリストが次弾を放つ気配が無いのを確認して、少しだけ視線を向ける。

 

 「ユリア……!?」

 

 首から血を吹き上げていたユリアの身体が、力を失ってゆっくりと斃れ伏せるところだった。

 

 「ユリア!?」

 

 シルヴィアの叫び声に反応したのか、或いはかなり後方の壁まで飛んでいったユリアの頭部に気付いたのか、背後──フィリップたちがこちらへ駆けてくる足音が聞こえる。

 

 ユリアの死体に駆け寄りたいのをぐっと堪え、大きく下がる。

 シルヴィアの前にリチャードが立ち、隣にはフィリップが並ぶ。背中にはルキアがおり、そこに並ぶはずだったユリアはいない。

 

 「カリスト。これは、お前がやったのか……?」

 

 震え声のリチャードの問いに、カリストは答えない。

 答えるだけの自我が残っていないのだが、それに真っ先に思い至り警告すべき立場のフィリップは「まだ間に合うかな……?」と希望的観測などしている。

 

 人一人殺している時点でどう考えても間に合わないのだが、その人一人の命の価値を軽く捉えているがゆえの甘い考えだ。

 

 「ぅ……ぁ……」

 

 言葉というより唸り声に近い音を出し、ふらりと幽鬼のような足取りで一歩、リチャードの方へと踏み出した。

 

 「待て、止まれ!」

 

 リチャードが抜刀し、切っ先を突き付ける。

 その警戒に反応してか、カリストの身体はぴたりと静止した。

 

 蒼白な顔でリチャードを見つめ、か細い声で「ルメール……?」と呟く。それは友人に剣を向けられたことへの悲哀や絶望にも見えたが、リチャードの剣に震えは無い。

 

 「カリスト。両手を頭の後ろに組んで伏せるんだ。今すぐに」

 

 魔術師を無力化するには心許ない指示だが、今は魔力制限具など持ち合わせていない。せめて目視による魔術照準を阻害すると考えれば妥当なところだ。

 

 「ルメール……サークリス様……」

 

 虚ろな目がフィリップたちを順番になぞる。

 やがて視線はフィリップの「いけるか……? いや、無理か……?」という視線と合い。

 

 「外神の尖兵……フィリップ・カーター……!」

 

 という叫びと共に膨れ上がった敵意で答えを示した。

 

 「下がって!」

 

 リチャードが叫び、自身もバックステップでカリストから距離を取る。

 なんの攻撃準備動作もしていないにもかかわらず、カリストの周囲には4つの水刃が浮かんでいた。

 

 「《エンチャント・フレイム》ッ!」

 

 リチャードは炎を纏わせた剣を駆使し、飛来する水刃全てを斬り払い蒸発させる。

 

 水刃は4つでフィリップたちも4人だが、狙いは全てフィリップの頸に集中していた。

 それを看破し、リチャードが叫ぶ。

 

 「逃げてください、カーターさん! 狙われています!」

 

 まぁそうだろうな、と思いつつ、フィリップは深々と溜息を吐いた。

 

 カリストはいまフィリップに向かって「外神の尖兵」と言った。外なる神の存在を知らず、唯一神がこの世に存在するただ一柱の神であると信じる彼らからは、ふつう飛んでこない言葉だ。

 それに、フィリップを知る外神にしてみれば、フィリップは最大神格の寵愛を受けるだけのただのヒト。尖兵にしようなどという考えも浮かばない矮小な存在だし、そもそも彼らはこんな辺境の小さな星を侵略しようとは考えない。

 

 つまり、カリストにそんな考えを吹き込んだのは、地球の尺度で物を考える旧神か旧支配者。

 その他もろもろの要素を加味して、まず間違いなくアイホートの雛を植え付けられている。

 

 アイホートが直接敵対すれば即座にヨグ=ソトースかシュブ=ニグラス、或いはナイアーラトテップが介入してくるだろう。

 フィリップにアイホートの知識を与えたということは、彼らはそれをフィリップにとっての脅威であると正確に認識しているということだ。このレベルでようやくか、と文句を付けたいところではあるが。

 

 さておき、アイホートはおそらく、それを知っているか警戒している。少なくともフィリップの背後に外神が存在することは気付いているのだろう。だから、フィリップに隔意を持った人間に雛を植え付けるなんて遠回りな方法で、フィリップを排除しようとしている。

 

 ということは、つまり。

 今のカリストは『外神の尖兵』を相手取ることを想定した量の雛を仕込まれている可能性が高い。

 

 なら、下がったり降伏勧告したりしている余裕はない。

 

 「《深淵の息(ブレス・オブ・ザ・ディープ)》!」

 

 最速で無力化し、最速で王都へ戻り、マザーかナイ神父に診せれば、或いは。

 

 何の前触れもなく、そして一切の躊躇なく殺傷性の高い魔術を行使した──フィリップの手札の中ではいちばん穏当な魔術なのだが──フィリップに驚きつつ、リチャードも剣を構える。

 動きの無いまま数秒が経ち──口の端から海水を零しながら、カリストが水刃を生成した。

 

 「馬鹿な、呼吸を──ッ!!」

 

 言い終える前に水刃が射出されるが、リチャードはそれを難なく斬り払う。

 

 呼吸不能どころか既に完全溺水状態のはずだが、苦悶の表情すら見受けられない。

 

 「《サンダー・スピア》!」

 

 驚愕のあまり硬直してしまったフィリップと、防御に回ったリチャードの隙を埋めるように、シルヴィアの攻撃魔術が飛ぶ。

 無詠唱でもないのに指を弾いており、ルキアが何とも言えない顔を向けていた。

 

 生成された雷の槍は4つ。

 両腕と両足を狙ってはいるが、4つも当たれば普通に心臓が止まるレベルの電流量だろう。

 

 落雷ではなく生成した雷の射出なため、速度は魔術の練度に依存する。使い込んでいるだけあって目視は困難な速度だが、カリストも一級の才を持つ魔術師だ。魔力障壁を生成し、全て防ぎ切る。

 

 「クソ! 恨め、カリスト!」

 

 リチャードが障壁の側面へと回り込み、剣を振るう。動きは見えているだろうが、地面を這うような歩法が速度と距離を誤認させる。防御は間に合わない。

 剣の鋭さ、リチャードの技量、付与された魔術全てが高度なものだからか、その斬撃はほとんど無音だった。

 

 カリストの右腕が宙を舞う。

 痛みを感じていないのか、顔は虚ろだ。血を吹き出すはずの肩口が静かなことに無意識に違和感を覚え、皆の視線が集まる。刹那──血でも肉でも骨でもない、真っ白な触手が無数に飛び出した。

 

 「ッ!?」

 

 リチャードが大きく後退し、フィリップたちの元まで戻る。

 

 肩から伸びた触手は空中で腕に絡みつくと、そのまま腕を引き戻し、聞くに堪えない不快な音を立てながら癒着させた。

 カリストは虚ろな顔のまま、右腕が独立したように蠕動する。まるで調子を確かめているかのような動作だが、その可動範囲と動きは人間のそれではない。

 

 くっついたばかりの腕を照準補助に使い、お返しとばかり、カリストが水刃を生成する。

 それは今までのものとは違い、4つを1つに纏めたような大きな一振りだった。

 

 「クソ!」

 

 リチャードは咄嗟に斬り払って蒸発させられるサイズではないと判断し、それを剣身に滑らせて逸らして凌いだ。

 

 フィリップが思わず声を漏らすほどの技巧だが、逸らした先が不味かった。

 

 手癖のままに上方へ逸らした水刃は天井を深々と切り裂き──みしり、と、嫌な音が響く。

 

 「ッ! サークリス様っ!」

 

 シルヴィアがルキアを呼び、()()()()()()突き飛ばす。

 

 思わぬ衝撃に何の抵抗もできず、シルヴィアの意図を正確に汲んで動いていたルキアに抱き留められる。

 

 その眼前で天井が崩落し、視界は立ち込める土煙で遮られた。

 

 



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62

 目を庇い、咳き込んで口に入った砂塵を追い出しながら、必死に状況を探る。

 フィリップの肩を使って呼吸器系を守っているらしいルキアの温もりは感じられるし、身体はどこも痛まない。崩落に巻き込まれることは避けられたらしいが。

 

 土煙が晴れてくると、眼前には瓦礫の積み重なった壁があった。抜け穴どころか、向こう側で激しく鳴り響いているはずの戦闘音すら漏れ聞こえない。厚さもだが、迷宮の天井という材質のせいだろう。

 

 「……くそ」

 

 思わず、幼稚な罵倒が漏れる。

 

 リチャードもシルヴィアも強いが、カリストはアイホートの雛によって強化されている。

 二対一の勝敗はフィリップの戦術眼では見通せないが、フィリップが彼らと分断されたことによって、アイホートが介入してくる可能性が生まれてしまった。そうなれば、もはやリチャードとシルヴィアに勝ち目はない。

 

 だが、ルキアの腕の中で後悔に浸るにはまだ早い。

 

 アイホートが介入してくると決まったわけではないし、それより早くフィリップが合流すれば、アイホートも外神の介入を恐れて手出しを控えるはず。

 ならば。

 

 「迂回路を探しましょう。一刻も早く」

 「……えぇ、分かったわ」

 

 決意の滲む声色に圧されてか、ルキアが半ば呆然としたように呟く。

 彼女の懐かしむような、眩しいものを見るように細められた双眸を見ていれば、「呆然と」ではなく「陶然と」と表現すべきなのは瞭然だ。

 

 あの森でルキアに向けた決意の表情を、彼女はしっかりと記憶していた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 リチャードは視界を遮る土煙を風属性を付与した剣で斬り払い、虚ろな顔のまま立ち尽くしているカリストを確認した。

 

 視線を固定したまま、ほんの僅かに注意を背後へと向ける。

 

 「アルカス様、ご無事ですか?」

 「えぇ、何とか」

 

 リチャードの斜め後方に位置取り、集中力を高めるように数度の深呼吸を繰り返すシルヴィア。

 瓦礫が掠ったのか、その右腕からは微かに流血している。

 

 「素晴らしい判断でした。カーターさんもサークリス様も、きっとご無事です」

 「ありがとう。でも、手荒だったわ。あとで謝らないと」

 「ははっ。きっと笑って許してくれますよ」

 

 シルヴィアの軽口にリチャードも笑顔を浮かべ、剣に纏わせた風の刃を解く。

 

 「そういう訳だ、カリスト。そこを通してくれるな?」

 

 親し気な口調も、だらりと下げた剣も、脱力した態度も、リチャードの見せる全てから敵意が失せる。

 

 カリストは虚ろな表情のまま、ゆっくりと片手を挙げ──4つの水刃を生成した。

 

 「だよな! 何があったのか知らないが!」

 

 連続ではなく全く同時に射出された水刃の宛先は、リチャードとシルヴィアで2つずつ。リチャードは火属性を付与した剣で斬り払い、シルヴィアは魔力障壁でそれを防ぐ。

 

 「寄生されてるのか? それとも、お前はもう死んでいて、気色の悪い中身が死体を操っているのか?」

 

 リチャードの問いに、カリストが答える気配は無い。

 ただ装置のように規則的に、4つの水刃を繰り返し撃ち込んでくる。

 

 かなりの速度だが、リチャードの技量であれば何とか斬り払えるし、シルヴィアの防御も間に合う。

 どちらが先に魔力切れになるか。そんな泥仕合を想定して動くべきなのだろう。だが、その仮定に従うには、まだ一つ重要な検証が欠けている。

 

 「死んだら恨んでくれていいぞ──ッ!」

 

 姿勢を下げ、倒れ込むように踏み込む。

 

 人間は相手の顔を基準に相手の位置と速度を測るが、この姿勢では顔がかなり前に出る。これが縦軸、距離を誤認させる。

 滑るような歩法はその応用。蛇のように身体を左右に揺らすことで、横軸にズレがあるように錯覚させる。本当に左右に移動しているのか、或いはそう見えるだけなのかを見極めるのは極めて難しい。

 

 『近付かれた』と思った相手が取る行動は大別して三つ。防御、回避、迎撃だ。その全てにおいて非常に重要な「間」──タイミングと距離を狂わせるのが、リチャードの使う歩法『拍奪』の神髄。

 

 防御しようと構えた相手の「型」を見て、それに応じた攻撃を選択することができる。

 回避しようと動いた相手に追いついてから攻撃することができる。

 迎撃しようとした相手の攻撃を透かし、その隙を突くことができる。

 

 カリストが選択したのは、後方への回避と水刃による迎撃。

 

 水刃は当たらない。リチャードが回避するまでもなく、その位置を誤認させられたカリストは正確に照準できていない。

 回避は早い。リチャードが剣を振りかぶったタイミングでの回避では、その分の距離を詰められて当たってしまう。

 

 「はぁッ!!」

 

 不要な力みを声を出すことで散らし、必要十分なだけの力を剣に込める。

 正確な角度で立てられた刃が肉を切り裂き、カリストの頭部と胴体が分かれる。

 

 しかし──いや、やはり、というべきか。

 

 カリストの胴体から噴き出たのは赤い血潮と虎落笛の如き音ではなく、白い触手と不快な湿った音だった。

 触手は蠢きながら伸び上がり、頭部を確保して引き戻す。ダメ元で触手も斬り付けてみたが、軟体のくせに刃が通らなかった。

 

 バックステップで距離を取り、青白い顔のシルヴィアの元まで下がる。

 

 「やっぱり、泥仕合どころか、戦闘にもなりませんね」

 「……そうみたいね。あれ、なんなのかしら?」

 

 リチャードとシルヴィアが苦笑を交わす。

 

 戦闘とは即ち、殺し合いだ。

 その関係性は、互いが互いを殺し得ることを前提に構築される。つまり、一方が不死身なら、それは殺し合いではなく一方的な殺しにしかならない。

 リチャードとシルヴィアにできる抵抗は、もはや自らの死期を遠ざけるだけの時間稼ぎくらいだ。

 

 だが。

 

 「カーターさんとサークリス様がダンジョンを出るまで、あとどのくらいでしょうか?」

 「迂回路次第だけど、ダンジョンの規模的に……そうね、一、二時間?」

 「良かった。それくらいなら耐えられますね」

 

 笑顔すら浮かべて言葉を交わす二人に、絶望の気配は無い。

 

 耳障りな音を立てながら首の癒着を完了したカリストは、談笑する二人に虚ろな目を向けた。

 

 「──死が、怖くないのか?」

 

 その一挙手一投足に注意を払っていなければ聞き落としてしまいそうな声量の問いに、リチャードは軽く笑って応える。

 

 「怖いさ。けど、それは死なない理由にはならないだろ?」

 

 その意を量りかねたのか、カリストからの返答は無い。

 リチャードは失望も露わに嘆息した。

 

 「分からない──分からなくなってしまったのか? お前だって、自分の命を天秤に乗せられるだけの信条があったはずだが」

 

 以前に、カリストはフィリップに決闘を申し込み、ルキアをすら敵に回した。その先に待つのが自分の死であると分かっていても、それを取り下げたりはせず、自らの信条に基づいた行動を貫き通した。

 結果としてフィリップが力の一端を示し、死は免れたが、抱いていた覚悟や決意に揺らぎは無かったはずだ。

 

 強さのみを判断基準とするのなら、敗北したカリストに価値は無い。だが、あの在り方は、リチャードや他のクラスメイトにもある種の羨望を抱かせるほど貫徹したものだった。

 短絡的だったとは思うが、あの場の誰より貴族的で、忠誠心に篤かったのはカリストだった。

 

 「お前は──」

 

 吐き捨て、剣を構えたリチャードに代わり、カリストが口を開く。

 気のせいでなければ、カリストの虚ろな瞳には僅かばかりの後悔が浮かんでいた。

 

 「お前たちは、何を秤に乗せたんだ?」

 

 リチャードとシルヴィアは顔を見合わせ、同時に答える。

 

 「信仰だよ」

 「信仰よ」

 

 続きを促すように口を閉じたカリストに応じ、二人が順番に言葉を紡ぐ。

 それは遺言のようでありながら、カリストに向けた説法のようでもあった。

 

 「無様に逃げ出して死ぬのと、カーター猊下とサークリス聖下──神の寵愛を特に受けるお二人を助けて死ぬの。どちらが唯一神様の覚えがいいかと考えれば、自然な選択だろ?」

 「サークリス聖下──ルキフェリア様なら、眼前の敵から逃げ出したり、仲間を見捨てたりしないわ。あの方はいつだって、美しい生き様を私たちに魅せてくださるもの」

 

 「アルカス様、やっぱり聖人信仰派だったんですね」「やっぱりって何!?」「バレバレでしたよ。魔術とか」なんて笑い合う二人からは、本当に死への恐怖や絶望を感じられない。

 それに羨望や嫉妬を抱くような人間性は、もはやカリストには残っていない。死は既にカリストの首元に刃を添え、それが離れ去ることは決してないと分かっていても。

 

 「そうか。では、私の神とお前たちの神、どちらがより強大な「神」と称するに相応しい存在か──その身を以て知り尽くすといい」

 

 憐れみを込めて、カリストが囁く。

 その背中で乾いた音が弾け、湿ったものが蠕動する音が続く。

 

 カリストが膝を突いて蹲る。

 痛みか、あるいは衝撃が原因かは分からない。だが腕や首を切断されても表情一つ変えなかったあたり、きっと痛みなど感じないはずだ。

 

 背中の肉が内側から破裂し、その傷口から湧いた触手が服を突き破ろうと蠢いているのが見える。その光景も、湿った蠕動音も、吐き気を催すほど気色が悪い。

 

 ぶちぶちと、服以外のものも引きちぎりながら、無数の触手が飛び出す。

 カリストの体内から出てきたはずだが、どう考えてもカリストの全身よりも触手の総体積が勝る。それらは複雑に絡み合い、やがてカリストの身長ほどもある一対の翼を形成した。

 

 真っ白な翼を生やした姿は、きっと遠目には天使か何かに見えることだろう。

 ずっと変わらない虚ろな表情を見て取れる距離まで近付けば、そんな高尚な存在でないことはすぐに分かるが。

 

 「惨く死ね。矮小な神を信じる者よ」

 

 触手で編まれた翼が広がる。ばさりという風を切る音よりも、湿った柔らかいもの同士がこすれ合う生物的な音の方が大きく、不愉快だ。

 

 リチャードの身体が地面すれすれまで沈み込み、シルヴィアが雷の槍を生成する。

 彼らは二人とも戦闘スタイルが攻撃に傾倒しており、受けに回るのは愚策になる。最も汎用的な防御手段である魔力障壁を含む、通常の魔術が苦手なリチャードは特にそうだ。

 

 攪乱の歩法『拍奪』は、それを補う攻勢防御でもある。故に、リチャードは攻めかかるしかない。

 

 「アルカス様、カバーをお願いします」

 「任せて。それが中衛の役目だもの」

 

 頼もしく言い切ったシルヴィアに、リチャードの口角が獰猛に吊り上がる。

 

 「──心強い!」

 

 不要な力みを叫んで散らし、動く。

 滑るような一歩目、ずらす二歩目。カリストの放った水刃が想定通り、リチャードを透かすように通り過ぎる。三歩目は愚直に距離を詰め、四歩目でもう一度横軸をずらす。

 

 「──ッ!!」

 

 カリストが焦ったように翼を振り上げ、抉るように突き出してくる。リチャードの接近する速度が想定以上に早かった──いや、早く感じたのだろう。

 翼型に織られた触手による刺突。その着弾点はリチャードの位置から一歩分斜め前だ。

 

 だが──

 

 「っと!」

 

 リチャードが大きく後退する。

 翼による攻撃は狙いこそ外れていたものの、攻撃範囲が水刃よりも広く、迂闊に攻められなかった。

 

 翼を編み上げる触手の間に隙間を作り、翼の表面積を数倍に膨らませている。強度は落ちるだろうが、あの触手は刃を通さない以上、デメリットにはならない。

 着弾地点の地面は大きく抉れており、人体に当たった場合の被害を容易に想像させる。

 

 「正解だ……」

 

 リチャードの動きを正確に予測できないのなら、大まかなアタリを付けるだけで当たるような攻撃をすればいい。

 水刃の線攻撃が駄目なら、触手による面攻撃を選択する。相手によって最適な攻撃方法を選択し実行できる、優れた魔術師としては普通のことだ。

 

 全く、羨ましい。

 こちらは魔術剣以外に殆ど適性が無いというのに。

 

 リチャードの羨望には構わず、カリストが両翼を引き絞る。

 湿った音に混じり、筋繊維が軋むぎちぎちという音も届く。おそらく、正面から受け止めるどころか逸らすことも難しい重い攻撃が来る。

 

 魔術師なら魔術で攻撃してこい、と言いたいところだが、今のカリストはもはや魔術師ではなく怪物だ。ならば、その乱雑ながら殺意に溢れた攻撃手段こそ相応しいというもの。

 

 「アルカス様、お任せしても?」

 「えぇ、勿論!」

 

 限界まで引き絞られた翼が解き放たれる。

 それはもはや触手で編まれた槍というより、視界を埋め尽くす真っ白な波と言った方が正確なほどだった。

 

 



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63

 意外にも、ルキアは健脚だった。

 全力疾走のフィリップの後ろを、いっそ優雅に息も切らせず付いてくる。

 

 それなら先に行けと言いたいところだが、アイホートが介入してくるのなら、いくらルキアが強力な魔術師だといっても荷が勝ちすぎる。彼女が先着することに意味は無い。

 抑止力となるのはフィリップであり、その背後にいる外神だ。

 

 「──退けッ!! 《萎縮(シューヴリング)》ッ!」

 

 行く手を阻む魔物を雑に殺し、全身を炭化させて頽れる死体を蹴飛ばして走る。

 

 迷宮型ダンジョンは罠も魔物も二次的な妨害で、入り組んだ通路それ自体が最大の進行妨害となる。

 ルキアが主となって罠や魔物を処理してくれるが、肝心の迂回路を探すのにもう十数分も走っている。リチャードとシルヴィアにしてみれば、雛を植え付けられた人間との──不死身の相手との殺し合いというだけでも絶望的なはず。そのうえ、アイホートが介入してくるかもしれないのだ。

 

 たかが十数分、などと軽視することはできない。

 

 「フィリップ、この辺りよ!」

 「やってください!」

 

 ルキアの合図で足を止める。

 彼女は指を一弾きして周囲を暗闇に染めあげると、生成した光球を壁に向けて解き放った。

 

 技量が許す限界まで破壊範囲を制限し、しかし迷宮の壁を貫通するだけの威力は残すという妙技を見せてくれた。

 

 フィリップたちが探していたのは、リチャードたちがいるはずの通路に隣接した箇所だ。

 マッピングした方眼紙を持っていたのはユリアだったが、ルキアの記憶力と空間把握能力はその補助を必要としなかった。

 

 ルキアは人一人がようやく通れるくらいの隙間を作ったつもりだったが、迷宮の壁は想定以上に脆かった。

 着弾点からひび割れが走り、人間三人分くらいの大穴へと崩れる。もうもうと立ち込める土煙の中に突っ込んでいくフィリップに慌てて、その背中に向かって風魔術を撃ち込んだ。

 

 恐るべきは先天の才か、積み上げた努力か。取り立てて得意というわけでもない属性の魔術を咄嗟に行使したにしては、その精密性は驚異的なものだった。

 

 最優先したのは舞い上がる砂塵を押さえつけ、壁際へと追いやるようなダウンウォッシュ。フィリップの前方には押し留めるような向かい風を配置し、先走りを抑える。

 

 援護を受け、フィリップの視界が開ける。

 

 目に飛び込んできたのは、鮮烈な赤色だった。

 

 「──カーター猊下!?」

 「……っ!?」

 

 全身を斑模様に赤く染め、子犬ほどの大きさの肉塊を膝に抱えて涙を流しているシルヴィアがいる。安堵と驚愕と、ほんの僅かに怒りも感じ取れる叫び声でフィリップを呼んだのは彼女だ。

 右腕にそこそこ大きな打撲擦過傷があるようだが、一見しただけでは分からないほど全身が血や肉片に塗れている。地面に座り込んでいるということは、既に戦闘が終結しているのか。

 

 愕然としたまま視界の両端にある肉塊に顔を向ける。

 フィリップの右側にはカリストの右半身が、左側には左半身が、鋭利な刃物で切断された触手と肉の断面を覗かせていた。

 

 「これ、は……」

 

 呆然と立ち尽くしたままのフィリップの下まで来て、同じものを目にしたルキアが呟く。血と臓物と肉とをぶちまけた惨状に、吐き気を堪えるように口を覆った。

 

 「ライウス──触手の怪物は、彼が倒してくれました。私を庇いながら、刺し違えて」

 

 シルヴィアが労うように、慈しむように、膝上の肉塊を撫でる。

 

 「治療は……可能、でしょうか」

 

 フィリップが問いかけた先はルキアだったが、答えたのはシルヴィアが先だった。

 

 「無理です。死者の蘇生には儀式による天使の降臨が不可欠──使徒である貴方様なら、ご存知でしょう?」

 「──僕は」

 「──でも」

 

 フィリップの言葉を遮り──いや、フィリップの言葉が、もはや聞こえていないのか。

 フィリップは口を噤み、耳を傾けた。

 

 「彼の遺体は、私が必ず持ち帰ります。きちんと埋葬して、彼に命を救われたことをご家族にお伝えして、それで…………」

 

 どさり、と。シルヴィアの身体が横倒しになる。

 腹に空いた大穴から零れ出た()()()()()()大切そうに抱き締めたまま、双眸に宿る愛おしむような光がゆっくりと失われていった。

 

 リチャードの全身は余すところなく全て、バラバラに引き裂かれてそこいらに散らばっている。肉は細分され、骨は砕かれ、内臓は挽き潰され、血と共にぶちまけられている。抱き締められる大きさの残骸など残っていなかった。

 

 きゅっと、ルキアが背中を掴んでくる。

 何を言えばいいのか。何というべき場面なのか。フィリップには分からない。

 

 顔を覆って表情を隠し、深々と息を吐く。

 

 あの森と同じだ。フィリップは守るべき相手を守れなかった。

 前回の原住黒山羊とは違い、今回のアイホートは完全にフィリップを目的として絡んできた。フィリップの存在が、彼らを殺したのだ。

 

 「はぁ…………」 

 

 それに、あの時とは違い、フィリップは彼らを知っている。

 リチャードはフィリップと同じで通常魔術の適性に乏しく、しかし「それでも」と努力して、付与魔術と剣術の双方を高度に極めた尊敬できる人だ。

 シルヴィアは「猊下」なんて呼んでくるから少し苦手だったが、フィリップにはない信仰心に溢れており、羨望に近いものを抱いていた。

 

 そう、思い込んでいた。

 

 自分自身も、シルヴィアも守れず死んでいったリチャード。

 狂い、自分の内臓をリチャードだと思い込んだまま死んだシルヴィア。

 

 彼らの死に触れて、残骸を見て、初めに抱く感想が「気持ち悪い」とは。我が事ながら驚きだ。

 

 「はぁ……」

 

 ずるり、背後で這いずるような音がする。ルキアが弾かれたように振り返り、魔術を照準するのが目を向けずとも感じられた。

 

 結局、リチャードは何もできずに死んでいったのか。

 それもまた人間らしい無意味さ、価値の無さだと、外神の智慧が嘲笑う。

 

 「あの時、貴方を殺しておけば──僕は、僕を嫌わずにいられたのに」

 

 吐き捨て、振り返る。

 斬られた触手を排出し、未だ生きている触手を蠢かせ絡ませながら、カリストの両半身が癒着しているところだった。

 

 背中から翼のように飛び出した触手の塊が身体を跳ね起こし、虚ろな顔をフィリップへ向ける。

 

 班員を殺された怒りも、殺されるのではないかという恐怖も無い。

 あるのは抱くべき怒りや悲しみの、その一片すら湧き起こらない自分への嫌悪と、それすら薄れつつあることへの諦めだ。

 

 「まいったな……」

 

 怒鳴りつけて、殴りかかりでもするのが正解なのだろう。

 だが一欠片の怒りも、ほんの数滴の悲しみも、憎悪も恐怖も、身体を突き動かす衝動の原動力になるような激しい感情が、何一つ湧き上がらない。

 

 思わず苦笑して頭を掻く。フィリップを庇うように立っているルキアの手を引き、立ち位置を入れ替える。

 

 「フィリップ・カーター……」

 

 無感動に名を呼ぶ、異形と化したカリストを見ても、湧き上がってくるのは眼前の矮小な存在に対する冷笑と嘲笑だけ。

 アイホートに利用されたことへの同情や憐憫すら浮かばない。

 

 「動かないで」

 

 律儀にもフィリップに誘導された位置から動かず、ルキアが魔術を照準する。尤も、ほんの数歩の差で照準精度を狂わせはしないだろうが。

 

 最強の魔術師が見せる敵意にしかし、カリストは嘲笑で応えた。

 

 「──貴女に、私は殺せません。サークリス様」

 

 自信たっぷりな台詞の内容に反して、表情は虚ろで、声色には覚えのある嘲笑だけが込められている。

 自分も、相手も、目に映る全てがくだらない。冷笑し嘲笑し、何より諦観に溺れ笑うしかなくなった者のそれ。

 

 モノが違えば──せめて、アイホートの雛に寄生されてさえいなければ、彼はフィリップと道を同じくしていたのかもしれない。

 そう考えると、彼は──カリストはとても幸運だ。彼の知る悍ましい世界は氷山の一角に過ぎない。真の絶望、真の恐怖、真の狂気。善良も邪悪も超越したところに存在する、ただ偉大なるモノを知らずに死ねるなんて。

 

 「貴女の最高火力『明けの明星』は確かに凄まじい威力ですが──私の全身を呑み込むだけの一撃を放てば、この迷宮も無事では済みません。貴女も、フィリップ・カーターも」

 

 カリストは誇るでもなく、淡々と語る。

 

 「そして『粛清の光』は、この地下空間では使えません。私は貴女たちをここから出すつもりも無い。手詰まりですよ」

 「あら、『粛清の光』が地下では使えないと、私が一度でもそう言ったかしら?」

 

 ルキアが片手を掲げると、カリストは即座に警戒姿勢をとった。

 より正確には、翼による刺突を準備した攻撃姿勢だ。『粛清の光』は光速ゆえの回避不能、性質ゆえの防御不能、そして追尾とマルチロックを兼ね備えた最高の格下殺し。

 

 故に、撃たれる前に殺す必要がある。

 

 「ブラフ──では、ないのでしょうね」

 

 焦っている様な口ぶりだが、表情は変わらず虚ろなまま変わらない。

 全く気色の悪いことだが、今はそんなことより。

 

 「待ってください」

 

 片腕を差し出し、ルキアを制止する。

 『粛清の光』は確かに強力な魔術だ。カリストを塩の柱に変えることなど造作も無いだろう。

 

 だが、アイホートの雛にも通用するかと言われれば微妙だ。最悪の場合、カリストの肉体という巣を失った無数の雛が、次の宿主を求めてフィリップやルキアに襲い掛かってくるかもしれない。

 やるなら一撃で全身を破壊し、雛も全滅させるだけの火力を用意しなければならないということだ。

 

 「……どういうおつもりで? 先ほどの後悔を、もうお忘れになったのですか?」

 

 カリストが嘲笑をこめて問いかけるが、フィリップはそれを完全に無視した。

 

 正直に言って、眼前敵の完全消滅は容易いことだ。

 それはルキアに頼ってもいいし、クトゥグアを使ってもいい。ヤマンソが出てきても結果は変わらないし、ヨグ=ソトースを当てにして攻撃を喰らうという方法でもいい。ナイアーラトテップやシュブ=ニグラスも、たぶん呼べば来るだろう。前者はちょっと怪しいが。

 

 その気になれば、フィリップはカリストをどうとでも殺せる。殺さない方が難しいくらいだ。

 

 ──だが、その気が起きない。

 

 班員を殺された程度では、逡巡や躊躇といった思考をぶっちぎるだけの激情が、どうしても湧き起こらない。

 

 別に、カリストを殺すことに躊躇いがあるわけではない。四肢を捩じ切り、臓物を抉り出し、代わりに瓦礫を埋めて海に捨てるような行為でも、「気持ち悪いなぁ」以外の感想を抱かずに実行できる。

 フィリップが嫌なのは、まさにそれだ。

 

 人を殺すのなら、些かなりとも理由があるべきだ。

 

 リチャードやシルヴィアは「殺さなければ殺される」という状況であれば、躊躇いなく賊の頸を刎ね雷を降らせることのできる人物だった。

 ルキアのように「敵だから」と簡単に割り切ってもいいし、衛士や騎士のように「国と民のため」でもいい。喧嘩を売られた、恨みがあった、むしゃくしゃしてやった。何でもいい。

 

 だが何の感動も無く殺すのは、そこにいるだけで人を殺し認知すらしない外神と何ら変わりない。

 そうなるのが嫌で、自分が既に「そう」だと突き付けられるのが嫌で、躊躇する。逡巡する。

 

 カリストは「敵」か? 否。否だ。

 

 フィリップたちに攻撃してきた。 ──それがどうした?

 今も敵意を向けている。 ──それがどうした?

 リチャードを、シルヴィアを、ユリアを殺した。 ──それが、どうしたというんだ。 

 

 カリストはフィリップに敵対している。だが、それはフィリップの敵であるということとイコールではない。

 旧支配者や旧神は外神に敵対しているが、外神は彼らを冷笑するだけで敵と見做していないのと同じだ。

 

 それを理解しているから、「敵を殺す」という最も簡単な理由付けができない。生かしておく価値がないから、という理由も思い付いたが、それでは全人類が対象になってしまう。

 

 「拘泥できる分、人間だと思うしかないか……」

 

 深々と、たかが10歳の子供が抱くにしては異常に淀んだ諦めを垣間見せる溜息に、カリストが興味を惹かれたように視線を向ける。

 対して、フィリップがカリストに向ける視線には一片の興味も含まれていなかった。

 

 「貴方は死にます。僕を殺そうと生かそうと関係なく、貴方に棲み付いた雛が殺す」

 

 カリストが口を開くが、言葉を発する前にフィリップが続ける。

 

 「貴方は何も分かってない。アイホートも同じです。外神が尖兵なんて小賢しいモノを用意すると、本気で思ってるのなら嘲笑に値します。こんな小さな星に攻め込む理由も価値も無い、人間を先触れに使う必要も無い。僕が彼らに重用されてると思ってるのなら、あまりに視座が低すぎる。外神を侮ってるのか、それとも人間を買い被ってるのかは知らないけど、改めた方がいい」

 

 口早に言い切ったフィリップの背中に、ルキアの心配そうな視線が刺さる。

 フィリップが語った内容の半分も理解できていないだろうが、それでいい。そうでなくては困る。

 

 腹の底に溜まった色々なものを溜息にして吐き出し、気分を晴らす。

 

 「……ただの八つ当たりです。忘れてください」

 

 ルキアは何も言わず、瞑目して頷いた。

 

 「──私は」

 

 カリストが何かを言いかけ、途中で何かに気付いたようにはっと口を閉じる。

 ルキアが吐き気を堪えるように口元に手を遣り、フィリップは諦めに満ちた顔で首を振る。

 

 カリストの腹の内側で何かが蠢いている。その勢いたるや、服越しにも分かるほどで──今にも、腹の肉を破りそうなほどだ。

 

 時間か、と。フィリップは自分の仮説が正しかったことを知った。

 雛の発育速度は餌の質に依存する。カリストが植え付けられたのは昨日かそこらだろうが、流石は一級の魔術師と言うべきか。

 

 思わず「下がれ」と手で示すが、後ろは崩落して道が潰れているし、そもそも迷宮の奥側だ。

 

 「──ッ!!」

 

 ルキアの手を取り、走り出す。

 カリストの横を通り抜けるが、触手の翼どころか既に全身から力が抜けている。内側で暴れ回っている雛の方がよほど元気に見えるくらいだ。

 

 うろ覚えの来た道を全力で駆け戻るフィリップとルキアの背後から、ぱぁん! と、水袋の破裂するような音が届いた。

 

 

 



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64

 背後から小さなものが群れて這い回るような不快な音が追ってくる。

 振り返らずとも、それが小指大の白い蜘蛛のような生物──アイホートの雛であると理解できた。尤も、蜘蛛との共通項は多眼である点と、多脚である点、あとは気色悪いという点くらいだが。

 

 「見ない方がいいですよ」

 「……ありがとう。そうするわ」

 

 背後に魔術を撃ち込もうとしていたルキアが、その照準を天井に変える。

 走りながら撃つと、ちょうどフィリップたちを追ってくる雛の群れに向かって崩落してくれる。

 

 一部を瓦礫で押し潰したところで全滅には程遠い。何度も何度も繰り返しながら息を切らせて攻略ルートを逆走するが、あまりにも効率が悪い。瓦礫で全滅など望むべくもなく、フィリップたちがダンジョンを出るのが先か、追い付かれるのが先かだ。

 

 追い付かれたらどうなるか、はっきりとは分からない。食われるのか、第二の巣として利用されるのか、はたまた彼らの雛──アイホートから見た孫世代が植え付けられるのか。どれもあり得そうな仮説だし、どれも普通に嫌だった。

 

 じりじりと群れとの距離が詰まり始めた頃、通路の先に光が見える。

 外は既に夕暮れ時なのか、暖かくも眼に痛い色の光が差し込んできている。それを背負って、迷宮へ入ってくる複数の人影が見えた。

 

 聞き覚えのある、ガチャガチャと金属のこすれ合う音が耳に入る。

 あれは、鎧の音だ。

 

 かなりの田舎に位置してはいるが、ここはれっきとしたダンジョンだ。冒険者が来ることに不思議はない。ないが、今は不味い。

 

 「来ちゃ駄目だ! 逃げて!」

 

 フィリップが叫ぶ前に、向こうもすごい勢いで走ってくる二人組と白煙──二人を追う雛の群れに気付いたようで、慌てて背を向けて出口へと向かった。

 

 「ダンジョンごと消し飛ばすわ! いいわね!?」

 

 ルキアが叫ぶが、さっきの警告ですっかり息切れだ。返事をする余裕も無い。

 

 何とかダンジョンを飛び出し、硬質な床から急に砂地になったことで足を取られてすっ転ぶ。振り返ろうと変な体勢になっていたのが悪かったが、顔からではなく尻もちをつくような姿勢でこけられたのは運が良かった。

 

 「衝撃に備えてッ!!」

 

 ルキアは走ってきた勢いのままに、土埃を蹴立てて反転する。

 夕暮れの光が周囲から消え失せ、深夜もかくやという闇に包まれる。唯一の光源はルキアの掲げた手に灯る光球のみ。

 

 その大きさは人間の頭部ほどもある。親指の爪ほどで黒山羊と森を穿ち抜く威力だ。あの大きさならば──

 

 「《明けの明星》ッ!!」

 

 光が音も余波も無く静かに撃ち出される。予想に違わず、ダンジョンも、雛の群れも、内部に置かれたままの8つの死体も、全て纏めて呑み込むだけの破壊が齎された。

 

 「……なんだよ、これ」

 

 かつてダンジョンだった場所にぽっかりと空いた大穴に、一人の冒険者がぽつりと呟いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 何処かの迷宮の最奥部。前人未踏領域であるそこには、一柱の神が棲み付いている。

 彼或いは彼女は世界中の迷宮と己の居城を繋ぐ力を持っており、見込んだ人間と自らの下僕に雛を植え付け、力を与える。

 

 神の名はアイホート。

 

 唯一神とは違い、信仰に依って存在の強度を左右されない、「神」と呼ぶべき強大な生物である。

 

 無数の赤い瞳が蠢く、白く膨れた水死体のような体躯。それを支えるにはあまりに頼りない小さく短い多脚。悍ましい外見とは裏腹に、彼の神は非常に温厚であった。

 

 『あーあ、時間切れか。子供たちもみんな焼かれちゃったし、強いね、あの子──ルキフェリアちゃん、だっけ?』

 

 自らの雛を植え付けた下僕が死に、解き放たれた雛たちも悉くが滅されてなお、激昂もせず淡々と、自らの居城に断りもなく入り込んだ侵入者に語り掛けるほどに。

 

 「強い? えぇ、まぁ、ヒトの尺度に照らせば、そうかもしれませんね」

 

 漆黒のカソックに痩躯を包み、胸元で金の十字架を揺らす侵入者が笑う。

 言外に「お前の尺度は人間並みか」という嘲笑が込められていることに、アイホートはしっかりと気が付いていた。

 ただの人間であればアイホートの怒りを買い、押し潰されてもおかしくない暴挙だ。だが、アイホートの多眼は節穴ではない。

 

 『君のお願いどおり、カリストくん以外には手を出さなかったよ。もういいかな? まだ300年くらいしか寝てなくて、すごく眠いんだ』

 「おや、それは不健康ですね。だからそんな気色の悪い外見なんですか?」

 『外見について、君にだけはどうこう言われたくないよ。貌無し(ナイアーラトテップ)

 

 ははは、と、明朗に笑う神父。その頭部には顔が無く、星空が広がっていた。

 

 『それにしても、君がヒト一個体を()()するなんて。本当に珍しいね。カリストくんは一体、何をしたの?』

 「────」

 

 神父は答えない。ぽっかりと空いた宇宙の顔から表情を読み感情を汲むのは難しいが、答えるのも嫌なほどの「何か」があったらしい。

 

 『……ま、いいけどね。ところで──』

 「ところで」

 

 神父の気配が一変する。今までの嘲笑のみで構成された軽薄で慇懃な態度は消え失せ、万物を冷笑する超越者のそれに切り替わった。

 

 「私は彼に雛を植え付けろとは言いましたが、フィリップくんに嗾けろとは一言も言っていません。そうですね?」

 

 暴力的な存在感が襲い掛かる。それは人間であれば蒸発してしまうほどのものだったが、アイホート──旧支配者にしてみれば、慣れはせずとも懐かしいものだ。

 

 『あぁ、あれは私の独断だよ? 私がただ君の言いなりになるなんて、そんな甘い幻想を抱いていたのならお笑い種だ。私が外神の手先にどういう反応を示すか、まさか分からなかったのかい?』

 

 アイホートがナイアーラトテップを嘲笑う。

 普段自分が向けているものをそのまま返され、神父はありもしない顔に笑顔を貼り付けた。

 

 「えぇ、分かりませんでした。まさか──そこまで馬鹿だったとは」

 

 ストレートな暴言にアイホートが無数の目を細めるが、神父はそれに構わず続ける。

 

 「まぁ、いいでしょう。おかげで、こちらも進捗の確認ができました。そのお礼を二つ、用意しています」

 

 一つ目、と、神父が一本指を立てると、その足元に一人の女性が現れた。

 足元と言っても跪いたりしているわけではなく、両手両足を縛られ、猿轡を噛まされて転がっている。視界を制限する拘束は無く、荘厳な地下聖堂、見るからに異形のアイホート、そしてヒトガタでありながら絶対に人間では無いと分かる神父を順繰りに見て、涙を流しながら固く目を閉じる。

 

 『なに、これ?』

 「貴方にぴったりの苗床ですよ。寿命を奪い、狂気を奪い、死を奪ってあります。何度でも雛を育てられる、再生可能な宿主です」

 

 アイホートは少しばかり興味を惹かれたのか、多眼の幾つかが女性へと向く。アイホートとしても、自分の下僕にした人間が時間経過で確実に死ぬという現状を儚んではいたのか。尤も、たかが人間が死ぬ程度では、雛の性質を変えるほどの情動は起こらないようだが。

 少しの観察を経て、視線はすぐに興味を失ったように神父へと戻された。

 

 『いらない。若くも美しくもないし、何より魔力が貧弱だもの。子供たちの食事にしては劣悪すぎるかな』

 

 確かに、と、神父は端的に頷く。

 年頃は中年、外見もそうだが信念も無く、平民なので当たり前だが体内環境も貴族のそれよりは数段劣る。魔力もそうだ。餌として最高級だったカリストとは比べ物にならない。

 

 もちろん、アイホート好みの女性も用意しようと思えば用意できたし、当初はそれを予定していた。だが急遽、彼女でなければならない理由が出来たのだ。アイホートに罰を下す理由も、つい先ほどアイホート自身が作ってしまった。

 

 「そう仰らずに」

 

 神父が笑い、アイホートの拒絶を耳にして安堵の表情を浮かべていた女性の顔が曇る。

 怒りと恐怖と絶望と、本来であればとっくに狂気に堕ちているレベルの負の感情が垣間見えた。

 

 「貴方にはもう一つ、お礼があると言ったでしょう?」

 

 再度、一本指を立てる。

 今度は何かが現れるといった顕著な変化は無く、しかし、アイホートの反応は顕著だった。

 

 全身がびくりと震え、無数の瞳が独立して、ぎょろぎょろと忙しなく同じ一点を見ることなく動き続ける。その異様に怯えた女性が思わずと言った風情で神父の側へと這いずる。

 

 神父はそれを蹴り飛ばそうと足を振るが、ぴかぴかに磨き上げられた黒い革靴を惜しんだのか、靴底を使って押しのけるに留めた。

 すると、女性を踏みつけていた右足に重い衝撃が加わる。「足をどけろ」という意図の感じられる攻撃は、当然ながら女性のものではなく、アイホートによるものだ。

 

 『──何を、した』

 

 全ての赤い目を苦し気に細め、アイホートが問いかける。

 神父は存在しない顔に笑顔を浮かべ、質問を返す。

 

 「どうかされましたか?」

 『ふざけるな。こんな状態、今までに一度だって……いや、どう考えても異常だろう。この、私が──』

 

 無数の赤い瞳の動きが一致する。半分は神父を、半分はその足元に転がる女性を、全く異なる感情を宿して注視していた。

 

 『ヒトを相手に、“愛おしい”と感じるなんて!!』

 

 女性が悲鳴を上げ、ナイアーラトテップの哄笑が最高潮に達する。

 アイホートは人間に自らの雛を植え付けるが、そこに性欲や愛情と言ったものは存在しない。落とし仔に最適な餌と住処を用意しているだけなので、当然といえば当然だが。

 

 ずるり、と。神父の干渉も無く、女性の身体がひとりでにアイホートの下へと引き摺られていく。

 

 『出て行ってくれないか、ナイアーラトテップ。私はこれから、彼女と愛を育むんだ』

 

 ぶち、と、女性を縛っていた全ての拘束が解かれる。

 見るからに異形で、しかも平常でない雰囲気のアイホートよりも、顔以外は人間に見える神父の方がマシだと判断したのか、その足元に縋り付く。

 

 「いや、嫌ッ! 助けて、助けてください! お願いします!」

 

 神父はゆっくりと足を持ち上げ──その速度で、ゆっくり、ゆっくりと、その音を聞かせ染み込ませるような緩慢な動作で、女性の頭部を踏み潰した。

 

 『ちょっと!?』

 「言ったでしょう。死は奪いました」

 

 神父が足を退けると、ぐちゃぐちゃに潰れていた頭部はひとりでに再生した。しかし痛みや音の記憶はあるのか、ぐったりとしたままだ。

 

 『わぁ、いいね。何度でも雛を育てられる』

 「次にフィリップくんに手を出したら、彼女に死を返します。いいですね?」

 『分かったよ。と言っても──今の私には外神の尖兵なんかより、彼女の方が大事かな』

 

 神父は「外神の尖兵」というワードに不快感を覚えたようだったが、何も言わずにその場を立ち去った。

 

 どうせ、アイホートが飽きる頃には──

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ある地方領主からの苦情が一件。

 冒険者組合からの問い合わせが一件。

 学院生の実家(貴族)からの問い合わせが多数。

 学院生の実家(平民)から連名での問い合わせが一部。

 

 このぐらいはまぁ、いい。

 

 サークリス公爵家からの問い合わせが一件。

 王宮からの問い合わせが一件。

 教皇庁からの問い合わせが一件。

 

 こっちは不味い。

 

 「まぁいい方」の対応は教員や事務員に任せられるとしても、「不味い方」の対応は魔術学院長であるヘレナが直々に対応せざるを得ない格がある。

 

 が。

 

 「やってられるかぁぁぁっ!!」

 

 学院長室に響き渡るヘレナの怒号。

 

 サークリス公爵家は「何があったの?」「うちの娘は大丈夫だったんだよね?」「でも何かあったらどうするつもりだったの?」「あとこのフィリップ何某は何者?」と訊いて来たが、ヘレナはそもそも現場にいたわけでもないし、万物を見通す目の持ち主でもない。第一、現場にはお宅の娘さんがいらっしゃったんですよね? その娘さんに直接お聞きしたらどうです? あと最強の聖人が死ぬような状況だったらヘレナが現場監督だったとしても死者が一人増えただけです。あとフィリップくんが何者かはヘレナが一番知りたい。

 

 王宮からは「えぇ~? また死人ですかぁ~? なんか不備とかあったんじゃないですかぁ~?」と訊かれたが、生徒を送るダンジョンは予め教員によって探索され厳密に難易度を設定し、クラスや定期考査の結果などを踏まえて確実にクリアできるよう振り分けた。勿論実戦だ。怪我をすることも死ぬこともあるし、それは仕方のないことだ。

 問題はルキアという最上級の魔術師が同伴しておきながら死者を出したという点にある。「ルキアを殺すつもりだったのか」という邪推が混じっているのだろう。

 

 「そんな! ワケ! ないでしょうがッ!」

 

 ヘレナは100年前の魔王大戦を生き延びた超ベテランの戦闘魔術師だ。対魔王とまでは言わずとも、対国家や対魔物において聖痕者がどれだけ有用で稀有な存在かを肌身で理解している。そんな経験があるのはヘレナくらいで、その彼女が同じ国の聖人を害するわけがない。

 

 公爵家からの手紙と王宮からの手紙を、他の手紙と一緒に纏め、魔術を行使して風化させる。残骸は開け放たれた窓から風に乗って流れていく。

 

 机上に残った手紙は一通。

 あらゆる公権力から隔絶したところにいるヘレナであっても無視できない、教皇庁からのもの。

 

 聖人であるヘレナに遠慮してか、文面が難解なほど迂遠な言い回しを多用しているのが逆に鬱陶しい。内容を要約すると──

 

 「サークリス聖下がダンジョンごと葬るしかなかったバケモノとかヤバくない? もしかして魔王が復活して、魔物が変異したとかですか? 最高の研究者であるマルケル聖下のご意見をお聞きしたいです」

 

 ──と言ったところか。

 

 ヘレナの返事はこうだ。

 「ヤバいよ」「知らん」「いや知らん」

 

 そもそも魔王が復活したかどうかは、教皇庁が真っ先に特定できるはずなのだ。ヘレナたち魔王征伐隊が100年前に死力を尽くして捕らえた魔王の預言者を、横から指令書一枚と引き換えにかっさらっていったこと、忘れたとは言わせない。魔王が復活したのならアイツが真っ先に「預言」とやらを伝えるはずだ。

 

 魔王が復活したとなれば世界が恐慌状態に陥ることも懸念されるから、秘匿するのは理に適っている。だがヘレナにまで「復活したか否か」を隠すのはやりすぎだ。

 

 ヘレナには百数十年積み重ねてきた知識があるが、それも研究対象であるはずのダンジョンが丸ごと消滅したとあれば活かしようがない。

 

 というか、そもそも。

 

 「現場にはお宅の秘蔵っ子がいたでしょうに……」

 

 フィリップ少年が何を目的として送り込まれたのかは分からない。もしかしたらヘレナが警戒すべきスパイかもしれないし、もしかしたらヘレナが守るべき単なる学徒かもしれない。

 

 もしスパイであるのなら、悪魔に遭遇したとはいえ王都の一角を吹っ飛ばすような目立つ真似はしなかっただろうし、『普通の魔術が使えない』なんてカバーを用意することも無いはずだが。

 むしろ、自分の力の一端を見せてまで王都の住民を守ったあたり、教皇庁関係者ではあるがただの善良な少年である可能性が高い。

 

 「まるで分からない……」

 

 魔王は復活したのか? 魔物の変異は起こっているのか? 教皇庁は何を考えている?

 分からない。分からないことは──未知は、詳らかにしてしまいたい。

 

 とはいえ。知識欲に溺れて良い場面ではない。取り敢えず早急にすべきことは──

 

 「夏休みの課題の確認かぁ……」

 

 教員の提出した、生徒たちに課す夏休み期間中の自主課題の草案。それが適切な質と量であるかを確認し、判を押す作業が待っていた。

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ4 『ダンジョン攻略試験』 バッドエンド

 技能成長:【現代魔術】+1  【ナビゲート】+1d6
 SAN値回復:なし

 特記:同行者『リチャード』『シルヴィア』『ユリア』 死亡


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夏休み
65


 Q,遅かったじゃないか…… 難産だったの?
 A,絵の練習してるから。

 Q,才能ないのに?
 A,才能がないから練習するんだよ!

 ────────

 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 ボーナスシナリオ『夏休み』 開始です。

 推奨技能はありません。


 「夏休みの時期」なんて言葉は、魔術学院の関係者くらいしか使わない。王都ではその期間のことを「建国祭の時期」と言うし、王都外では特に呼び名を付けるまでも無い一年の真ん中あたり、何かがある訳でもない時期だ。

 フィリップはどの呼び名も聞いたことがあるが、そのどれも使い慣れるほど使ったことが無い。今のフィリップの状況に最も即したものは──そのどれでも無く、「繁忙期」だった。

 

 「部屋の準備、終わりました!」

 「お疲れ! 次、買い出しよろしく!」

 「あ、はい! ……あっ」

 

 さも当然の流れ作業のように、流れるように言われ、流されてしまう。部屋の準備が終わったら昼休憩のはずだったのだが。

 元気よく了解を返してしまった手前、今から「やっぱりご飯食べてきます」とは言い辛い。空腹だったら話は別だが、まだまだ全然耐えられることだし。 

 

 厨房に必要なもののメモを貰いに行くと、やはり「え? 買い出し? 昼休みじゃないの?」と半笑いで──フィリップがスケジュールを失念していると思ったのだろうが──訊かれた。買い出しの後にすると言うと「まだお腹減ってないのか」と勝手に納得された。正解だが。

 

 タベールナは衛士団と提携していることもあり、普段から宿泊・食堂共に稼働率がかなり高い。そこに建国祭で訪れた王都外からの観光客や、祭りに合わせて休暇を取った三等地の民が「いつもよりちょっといい暮らし」を求めてやってくると、施設稼働率は100%、従業員稼働率は驚異の120%──つまり、勤務時間中に暇なタイミングが無く、さらには休憩時間が2割削れる──を叩き出す。

 普通にしんどかった。

 

 晴れて丁稚を卒業し、臨時手伝い扱いで1割増しの給料を貰うようになったフィリップだが、忙しさは1割増しどころではない。数週間の我慢と分かっていなければ、待遇改善を求めて直談判でもしていただろう。

 

 そんな益体の無いことを考えつつ、メモに書かれた品物を一つ一つ買い揃え、手持ち袋に入れていく。荷車は要らないだろうと高を括って出てきたが、重さはともかく嵩張るものが多い。ちょっと面倒だった。

 純粋な重さではなく重心の不安定さでふらふらしつつ、帰路に就く。

 

 「戻りました! 疲れたぁ……」

 

 厨房に入り、荷物を置いて座り込む。

 思った以上のスタミナを消費したが、今から昼休憩だと思えば何のことは無い。

 

 「あ、そっちにご飯置いてるよ」

 「ありがとうございます!」 

 

 料理人見習いから料理人補佐に昇進したという青年が指した先のテーブルに、従業員用の昼食がずらりと並んでいた。

 

 鼻歌交じりに少し小ぶりなフィリップ用の皿──大人一人前を完食できるほど健啖ではない──を取り、適当に厨房の空きスペースで食べていると、モニカがふらふらと厨房に入ってきた。

 

 「お疲れ、モニカ。今からお昼?」

 「お疲れ、フィリップ。そうよ、やっとご飯……」 

 

 寝坊の代償に朝食を普段の半分くらいしか食べられなかったらしく、モニカはすっかり疲弊していた。まだ半日残っているのだが、大丈夫だろうか。

 

 「お水ちょうだい……」

 「ん、はい」

 

 ピッチャーを渡すと、モニカが怪訝そうにそれを揺する。

 

 「氷しか入ってなくない? ……ほら」

 

 コップに向けて傾けるが、モニカの言う通り水は数滴しか出てこない。

 まぁ王都外と違って、井戸水を汲みに行く必要は無い。水道の蛇口を捻れば綺麗な水が出るし、煮沸すれば普通に飲める。それに、今のフィリップにはその一手間すら必要ない。

 

 「お水入れて……」

 「ん、いいよ。《ウォーター・ランス》」

 

 フィリップの詠唱に応じ、空中に水の槍が生成される。

 表面は水の張力によって滑らかになるはずなのだが、何故かぷるぷると波打っている。先端は鋭く尖るはずなのだが、これも今にも崩れそうに震えている。

 

 というか──

 

 ばしゃり、と。水の槍は音を立てて崩れ、その下にあったピッチャーに収まった。からん、と氷が揺れる音が妙に虚しい。

 

 「ありがとう」

 「どういたしまして」

 

 何が起こったのかを端的に言い表すのなら、「フィリップの魔術は失敗した」の一言で終わる。

 

 本来は水の槍を生成し射出する攻撃魔術のはずだが、水の槍を生成する時点で失敗、投射前に崩壊している。魔力と魔力制御能力と魔術式の演算能力が足りてないわね、と、ルキアが見ていたらそう言うであろう結果だ。ちなみに、それらは一般に魔術を行使する際に必要と言われる全要素である。

 

 飲み水の補充と言う目的は果たせた。起こった現象としては失敗かもしれないが、求める結果は出せたのだ。それでいいじゃないか。

 と、今でこそこんな風に「失敗だけど何か?」みたいなことを考えているが、当初は大盛り上がりだった。

 

 水の槍を生成しようとしてコップ一杯の水を用意し、拳大の火球を飛ばそうとして爪ほどの火種で蝋燭を灯す。強弱をぶっちぎりで超越した日常系魔術師になったのだ。

 こう言うと些か以上にしょうもなく感じるが、ゼロからイチになったのは本当に大きな進歩だ。今までは初級魔術を発動させることすらできなかったのだから。

 

 調子に乗って魔術を連発。悉く失敗し、魔力欠乏でぶっ倒れたのは最近のことだ。

 

 「フィリップ、ホントに魔術師になったんだ……」

 「え? うーん……魔術を使えるからって、イコール魔術師じゃないんだけどね」

 

 何ならもっとボロカスに貶されるべき無様な結果ではあるが、自虐が求められる場面でもないのでそう言うに留める。

 

 「才能があるだけいいじゃない。私なんて、入学許可さえ下りなかったのに」

 

 モニカはそう言うが、フィリップに入学許可が下りた──より正確には入学が義務付けられた──のは、現代魔術ではなく領域外魔術が原因だ。こちらは才能どころか寵愛で成立している魔術体系だし、何より火力過多。そう羨まれても困るのだが。

 

 「僕も落ちこぼれだし、教えてあげたりは出来ないよ?」

 「そうなの? ちゃんと勉強してる?」

 「してるよ!」

 

 何を失礼な、と声を上げるが、モニカは不思議そうに首を傾げる。

 

 「勉強してるのに落ちこぼれ? 魔術学院ってそんなに凄いの?」

 「僕を買ってくれるのは嬉しいけど──」

 「神父様に教わったフィリップよりすごいとか、ちょっと信じられない」

 

 苦笑を浮かべていたフィリップの顔から表情が抜け落ちる。

 恥ずかしい勘違いをしていたと照れる気持ちもあるが、それ以上に今はその人物について語りたくなかった。

 

 別に、ナイ神父に何をされたわけではない。むしろ最近は何事か忙しくしているようで、フィリップに絡みに来る時もマザー一人の場合が多い。

 だからこそ──話題に出すと影が立つような気がして、言葉の上で触れるのも避けていた。

 

 二度と絡んでくるんじゃねぇぞ、ぺっ。フィリップの内心を端的に表すのなら、そんな感じだ。

 

 もしビビり過ぎだとか、考え過ぎだと笑うような者が居れば──フィリップの現状を知って発狂しない精神性を褒め称えた上で──こう言おう。「盲目白痴の魔王に愛されて、無貌の君と千の仔孕みし森の黒山羊に目を付けられてから物を語れ」と。

 

 「そういえば、今日からだっけ? お友達の家に泊まりに行くのって」

 「うん。そろそろ迎えが来ると思うんだけど……」

 

 夏休みに入る直前、フィリップはルキアと一緒に王宮祭に行く約束をした。ついでだから一週間くらい泊まらない? というお誘いにも、特に何も考えず──宿がここまで忙しくなると知っていたら、少し躊躇っていたかもしれない──乗っかった。

 

 「ねぇ、そのお友達って、もしかしてあの人?」

 「……あの人って?」

 

 いつも通りの愉快そうなニヤケ面で訊いてくるモニカ。その質問の意味を咄嗟に理解できなかったのは、その対象──「あの人」が誰なのか、即座に判別できなかったからだ。

 一瞬「マザーのことだろうか」と思うも、話の流れ的にそれはおかしい。だがモニカと面識のある魔術学院生がいるのだろうかと考え、ようやく思い至る。

 

 「サークリス様のこと? 迎えに来てくれた」

 「そうそう、その人──え゛!? サークリス様って、あ、あのサークリス公爵家の? もしかして──」

 「あぁ、うん。そうだよ。光属性と闇属性の聖痕者」

 

 昼食を摂る手は止めず、淡々と語るフィリップ。

 モニカの反応は対照的で、興奮したように立ち上がった。蹴立てられた椅子ががたりと音を立てて倒れ、厨房にいる皆の目を引く。

 

 「なんで先に言わないのよ!」

 「同席してたわけでもないし、教える機会なんて無かったでしょ!?」

 

 先に、とは、魔術学院の使いとしてフィリップを迎えに来てくれた時のことだろうか。確かあの日は、モニカが応接室に通して、部屋にいたフィリップを呼びに来てくれたと記憶している。

 あるいは、友達の家に泊まりに行くから手伝えない期間がある、と話した時のことか。訊かれもしないことをわざわざ話すのもどうかと思うが。

 

 「そ、そうだけど! 聖人よ!? ご挨拶とか、こう、あるじゃない!」

 「……そうなの?」

 

 よく分からないが、聖人と言っても石をパンに変えたりとか、水をワインに変えたりはできない。海を割る……のは、もしかしたら可能かもしれないが、ルキアがやると高確率で海の水位がメートル単位で下がることになる。

 聖痕者は神に認められた最強の魔術師というだけで、つまり、人間の中で最も強いというだけのこと。

 

 強さに憧れる価値観の持ち主なら是非ともお近づきになりたい相手だろうが、モニカにそんな趣味があったとは。

 

 「そうよ! 魔術師の中の魔術師、世界で一番神に近いお方なのよ!? しかも、歴代6人目の二属性聖痕持ち!」

 「……なるほど、確かに」

 

 モニカの熱弁を聞いていると、なんだか「そうかもしれない」と思えてくる。

 ルキア本人が聖痕者であることを前面に押し出さない──フィリップ同様にそれに価値を感じていない──から忘れがちだが、彼女は世界最強の魔術師だ。しかも努力して成長するタイプの天才。今の彼女なら、魔術行使に制限の無い平地であれば、きっと黒山羊の劣等個体くらい単騎で撃破できるはず。

 

 フィリップや外神たちにしてみれば『だから何?』と一笑に付すようなことだが、ただの人間が挙げた戦果と考えるなら破格だ。

 

 もうちょっとルキアに対して敬意を持った方がいいのかもしれない──なんて、今更な事を考えていると、食堂担当の従業員がフィリップたちのいるテーブルに駆け足で近付いて来た。

 「厨房を走るんじゃねぇ! 危ねぇだろうが!」と副料理長が怒声を飛ばすが、彼はそれに軽く謝るだけだ。余程急いでいるのだろうと分かるが、何事だろうか。

 

 「あぁ、カーター君! よかった! お客様が来てるんだけど……」

 

 お客様なら、ありがたいことにここ数日ずっと来ている。今更何を言っているのか──なんて、浅い勘違いはしない。

 見るからに昼休み中のフィリップをわざわざ呼びに来るということは、宿の客ではなくフィリップ個人の客ということだろう。そしてこのタイミングで来る客といえば、心当たりは一つしかない。

 

 「分かりました。今はどちらに?」

 「外でお待ちだよ。その、なるべく早く頼むね」

 

 当たり前と言えば当たり前なことに念を押して業務に戻っていった彼の背中に怪訝そうな一瞥をくれ、言葉通り、足早に正面玄関へ向かう。

 誰が来ているのか、玄関には宿泊客が、正面の通りには通行人が野次馬になっている。

 

 妙に覚えのある光景だが、まさか。

 

 いちおう従業員としてここにいる以上「ちょっと失礼」と割り込むことは憚られるが、そんな必要も無く、人だかりが勝手に割れる。

 それはフィリップに対して道を空けたわけではなかったが、フィリップへの道を空ける行為ではあった。

 

 「フィリップ・カーター様とお見受けしましたが、間違いありませんか?」

 「え、はい…… あの、どちら様で?」

 

 人が割れ、フィリップの前まで道が出来る光景は見覚えのあるものだ。

 だが、フィリップの前で丁寧に腰を折る、長袖ロングスカートのワンピースに、エプロンとホワイトブリム──モノクロームな、ヴィクトリアスタイルのクラシカルなメイド服を纏った女性に見覚えはない。

 

 金髪に碧眼という王国人にありきたりな風貌だが、顔の造形はかなり整っている。マザーはともかくとして、ルキアの隣に並んでも見劣りしないほどだ。フィリップの人間に対する興味が薄れてきているとはいえ、一度見たら忘れないであろう美貌と言える。

 

 年は20歳前後に見えるが、公爵家の使用人であるのなら、年相応以上に整った作法にも納得できる。

 

 「アリア・シューヴェルトと申します。サークリス公爵家にて、ルキアお嬢様の側付きを拝命しております」

 

 淡々とそう言って、彼女はすっと道を空けるように横にずれる。

 宿の玄関先には、軍馬のように立派な馬二頭が牽く、絢爛豪華な馬車が停まっていた。

 

 「お乗りください。ルキアお嬢様がお待ちになられています」

 

 

 



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66

 夏休みに遊びに行く。その約束をした当時、フィリップもルキアも疲労困憊だった。

 

 期末実技試験としてダンジョンを攻略することになり、色々あって班員は全滅。ダンジョンは跡形もなく消滅した。

 当然ながら学校側から色々と訊かれたし、冒険者組合からも呼び出しがあり、当該地域を統治していた貴族からも呼び出された。ご丁寧に、フィリップとルキアの両方を別々に。

 

 「なんでこんなことしたの? テロ? 狙いは何? どこの所属?」

 

 フィリップが訊かれたことを要約すれば、そんな感じだ。

 外神の尖兵で、地球侵略の下見に来た──と、思い込んでいた蒙昧な愚物の干渉から逃げ回っただけなのだが。

 

 期末試験から帰ってきたのが、夏休み開始10日前。それから終業式前日までずっとあちこちへ呼び出されて事情聴取を受けていたので、気分転換によさそうなルキアの誘いは素直に嬉しかった。

 

 家の準備や建国祭の準備などで忙しいらしく、一週間くらいはかかると言っていた通り、迎えを寄越すという手紙が来たのは最近だ。

 なんとなく使用人が借馬車で来るようなイメージを持っていたのだが、それは全くの見当違いだった。

 

 あぁ、いや、確かに使用人は来たし、馬車もある。

 だが本人同乗のうえ、公爵家の家紋入り馬車で来るとは思わなかった。

 

 これでタベールナは公爵家の方がお出ましになるほどの宿だと伝わり、建国祭終了後も現在の稼働率が続くことだろう。大繁盛だ。従業員が過労死する前に増員してあげてくれ。

 

 アリアの手を借りて馬車に乗り込むと、言葉通り、ルキアが御者側の席に座って待っていた。

 

 「久しぶり、フィリップ。迎えに来たわよ」

 「お久しぶりです、サークリス様。まさかご自分で来られるとは」

 

 学院の制服に慣れつつあったところに、黒いゴシック調のカジュアルドレスは突き刺さる。私服なのだろうが、もっと別のものにしてほしいところだ。似合ってはいるが、その服自体にいいイメージが無い。

 無言で対面の座席を示され、会釈などしつつ素直に座る。ルキアの前を横切らないよう反対側の扉から乗り込んだアリアがルキアの隣に座り、数秒して馬車が動き出した。

 

 なんとなく車内を見回す。

 フィリップが伸びをしても届かない天井にまで精緻な装飾が施されており、対面に座ったルキアと足がぶつかることの無い広さがある。さらに、路面の状況が分からないほど揺れが少ない。魔術学院に行くときに乗った馬車より、さらに上のグレードのものだと、そういったことに疎いフィリップでもはっきりと分かるほどだ。

 

 「すごい馬車ですね」

 「そう? 気に入ってくれたのなら良かったわ」

 

 学院が用意したただの輓馬とは違い、このサイズの馬車を牽ける訓練された軍馬種の馬であれば、もしかしたらフィリップでも乗れたりするのだろうか。

 あとでちょっとお願いしてみよう。

 

 いいよね、乗馬。冒険譚では、誰にも乗りこなせない暴れ馬を手懐けるというのが傑物にありがちな逸話だ。

 少し前に魔術剣という少年心を擽る代物を目にしたからか、ここのところ神話より冒険譚を読む機会の方が多かった。おかげで妙に昂る。

 

 まぁフィリップの場合、恐怖が原因で暴れるタイプの馬はより一層怯えて使い物にならなくなり、反骨心が原因で暴れるタイプの馬はその闘争心すら萎えて使い物にならなくなるので、特に軍馬には近寄らせてはいけないのだが。

 

 「フィリップ、その……着く前に、一つ、言っておかなければならないことがあるのだけど」

 「あ、はい」

 

 なんとなく歯切れの悪い様子のルキアに、思わず背筋が伸びる。

 告白でもされそうな雰囲気、というよりは、懺悔──告解でもされそうな雰囲気だった。

 

 「お父様が、貴方に会いたいそうなの」

 

 沈黙。

 2秒、3秒と経過し、続く言葉が無いと確信できるまで、フィリップは一言も喋らなかった。

 

 「……えっと、僕もご挨拶くらいはするつもりだったので、問題ありませんけど」

 

 フィリップは軽く言うが、そんな程度ならルキアがこうまで重苦しい空気を纏うことは無いだろう。

 ルキアはフィリップの勘違いに気付き、首を横に振る。

 

 「お父様はサークリス公爵としての対面を求めているわ。「友達を連れて来た娘の父親」ではなく、ね」 

 

 ──なるほど、つまり。

 

 「貴方は平民だから、貴族の礼儀作法を求められたりはしないわ。でも、質問に対して虚偽を述べたりすることは許されない。それを利用して、貴方に聞きたいことがあると言っていたわ」

 

 つまりフィリップは、泊めてくれる友人の父親にではなく、アヴェロワーニュ王国最高位貴族にして現宰相閣下に挨拶する必要があるということか。

 しかも、ちょっと挨拶して終わり、という甘い未来予想図を描ける状況ではないらしい。

 

 「……何についてです?」

 

 心当たりは山ほどあるが、果たしてどれだろうか。

 変に藪を突きたくないという内心の透けて見える質問に、ルキアは苦笑もせずに答える。

 

 「全部ね」

 「……と、言うと?」

 「あの森で何があったのか。どうして私と仲が良いのか。それも決闘の介添人になるほど…… あと、あのダンジョンで何があったのか。貴方は何者で、何が目的なのか…… 私も色々と訊かれたわ」

 

 心当たり全部だった。

 不味いなぁ、と、思わず頭を抱える。一番不味いのは公爵に「敵」と判断され、王国から放逐されることだ。最上位貴族である彼にとって、国民一人を国から追放することなど造作もない。そうなってしまえば、快適な生活どころではない。

 次点は公爵が直接敵対し、フィリップを殺そうとした場合か。まさかルキアの眼前で殺そうとはしないだろうから、フィリップは彼女に実父の惨たらしい死を伝えることになる。これも普通に嫌だ。

 

 「どう答えたんです? あ、いえ……」

 「大丈夫。アリアは味方よ」

 

 口裏合わせじみたことを他人の前で口走った迂闊さに苦笑するが、ルキアは安心させるように微笑した。アリアは何も答えないが、表情一つ変えないあたり、本当なのだろう。

 それは安心できるが、ルキアの口から「味方」という言葉が出たことが怖い。それはつまり、公爵は「敵」だということか?

 

 「私に分かることは一通り。なるべく推測を省いて具体的な事実を伝えておいたけど…… 正直、私にも何が何だか分からないことの方が多いから」

 「あ、えっと、それは……」

 

 確かに、ルキアが何も聞いてこないのをいいことに、フィリップは何も説明していない。

 それは彼女が襲われた黒山羊についてもそうだし、習熟訓練に付き合って貰った領域外魔術についてもそうだし、あれだけの惨状を引き起こし後始末までして貰ったアイホートについてもそうだ。

 

 彼女には知る権利があると、フィリップだって思う。

 だが、知れば発狂してしまうかもしれない。本来は名前を知るだけで精神を蝕むような存在たちだ。彼女が既に知るシュブ=ニグラスとは比較にならないとしても。

 

 彼女には狂わずいて欲しい。何も知らず、自分が無知であることにすら気付かず、幸せに死んでほしい。

 だが、きっと。フィリップは彼女が狂い、狂気に溺れて死んだとしても、「あぁそう」程度の言葉しか出ない。彼女に抱いているこの敬意も憧れも拘泥も、何の感傷もなく全て失ってしまうのだろう。

 

 だからせめて、彼女が無事でいるうちは、それを守りたい。

 

 「すみません、話せません」

 

 言葉の上では端的に、しかし心底申し訳なさそうに言うフィリップに、ルキアは慌てて言葉を重ねた。

 

 「恨み言のつもりじゃないの。貴方が話せないと言うのなら聞かないし、探ったりもしないわ」

 「……そうしてくれると助かります」

 

 そうしてくれれば、フィリップは精神的に救われるし、ルキアはもっと直接的に生命と精神の危機から救われる。これまで何も聞いてこなかったということは、ルキアの言葉に嘘は無いだろう。彼女が自分から首を突っ込まないのなら、あとはフィリップがどれだけ気を配れるかだ。

 

 「話を戻すわね。お父様は特に一番最後──貴方が何者なのかを気にしているわ。素性、目的、貴方についてあらゆることを調べてる」

 

 それは素晴らしい。なら、秘密のひの字もない、田舎町から丁稚奉公に来たただの子供であることは分かっただろう。もう帰っていいだろうか。

 外神絡みのあれこれに手を伸ばしたのなら、こうしてフィリップを呼び出したりしないはずだ。自分の周囲を飛び回る羽虫に対して、ナイアーラトテップやシュブ=ニグラスが穏当な対応をするわけがない。調査員は全滅か、「関わるな」というメッセージ付きで返送されているだろう。

 

 「貴方のご実家が教皇庁とは何の関係もないことも、貴方がカルトに拉致されたことも、それがきっかけで教会の二人と親しくなったことも、全て知っているわ」

 「ん……?」

 

 それだけの情報があるのなら、フィリップにまつわる謎など皆無だろう。むしろ、何の変哲もない奉公に出てきた田舎者を、王都の堅牢な建物群を吹き飛ばす召喚術士に育て上げた、教会の二人の方がよっぽど怪しい。

 その二人に手を出して手痛いしっぺ返しを食らい、仕方なく関係者であるフィリップに矛先を向けた──というのは、少し考えにくい。ナイ神父やマザーが、フィリップに迷惑の掛かるような中途半端な対処をするとは思えないのだ。

 

 良くてメッセージ付きで返送。最悪──外神が用意する「最悪」など想像もつかないので、あくまでフィリップの考える「最悪」だが──ルキアを含めた関係者全員が発狂して死んでいた。

 

 「えっと、じゃあ何を聞くためです? 僕が魔術の素人で、枢機卿関係者でもないと分かっているのなら──」

 「そうなのよね…… お父様も、私の説明と家の者を使った調査で、納得していたはずなのだけど……」

 

 首を捻るルキアに、フィリップも思わず「えぇ……?」と困惑を漏らす。

 二人で首を傾げていると、ルキアの隣で「よろしいでしょうか」とアリアが手を挙げた。

 

 ルキアの出した許可に謝意を示して、彼女はルキアに目を向けた。

 

 「お嬢様、閣下はお嬢様に『例のカーター君を連れてきなさい。ルキアと交際するに相応しい人物かどうか、一度見ておきたい』と仰られていたかと思いますが」

 

 おそらく一字一句違わぬ再生なのだろうが、ルキアはそれを当然のように聞き、「それで?」と端的に聞き返した。

 

 「いえ、ですから、公爵閣下は、カーター様のお人柄をご覧になりたいのではないでしょうか。お食事の際など、いつもお嬢様がお話になるので、ご興味を抱かれたのかと」

 

 もしそうなら何とも微笑ましい──まるで娘に初めて彼氏ができた父親のような、どう接すべきか計りかねるような不器用さがある。

 だが、サークリス公爵といえば王国最高位の貴族だ。そんな甘っちょろい相手では無いだろう。呼びつける相手やルキアを萎縮させないよう、方便として適当に言ったのだろうと推察できる。

 

 「そんな、まさか──」

 「──いえ、有り得るわ」

 

 少し重くなってしまった車内の空気を晴らそうという心遣い、要はアリアの冗談だろうと笑顔を浮かべたフィリップだったが、続くルキアの言葉で愕然とする。

 何を馬鹿な、と一笑に付したいところだが、ルキアとサークリス公爵は家族だ。その人となりをよく知っている。少なくとも公爵の顔も知らないフィリップよりは、その内心を正確に推し量れるはずだ。

 

 となると、何だ。フィリップがこれから会って話すのは、フィリップを敵と見定めている──フィリップが殺しても仕方ない相手ではなく。

 カリストのように譲れない主義主張を持った相手でもなく。

 

 ただ娘を思う、一人の善良な父親だということか。

 

 

 



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67

 小綺麗な建物が整然と並ぶ二等地に、フィリップたちが乗ってきた馬車は華美過ぎて浮いていた。だが一等地では、この馬車も小道具に過ぎない。

 華美な邸宅。見目麗しき使用人たち。そして一等地の主役である貴族。あらゆる要素が二等地のアップグレード版と言える。

 

 一等地は王都内で最も物品・人材の質が高い場所だ。あらゆる先進技術が導入され、単なる邸宅の外壁が地方領主の砦レベルの頑健さを持つとか、持たないとか。単なる噂で、破城槌をぶち込んで検証したことは無いらしいが。

 

 中でも、一時間ほどかけて到着した公爵家別邸は、魔術学院の学生寮に負けず劣らずの──つまり、500人規模の収容力を持つ豪邸だった。

 派手と言うよりは、精緻な装飾を散りばめた「細かな豪華さ」を感じられる外観だが、その大きさと絢爛さは二等地の邸宅とは比べ物にならない。一等地の中でも特に素晴らしい建造物のはずだ。

 

 「お疲れ様でした、お嬢様、カーター様」

 

 先んじてアリアが降り、馬車を回り込んでフィリップたちの側の扉を開ける。

 ルキアだけでなくフィリップがタラップを降りる時も手を貸そうとしてくれたが、最終的にフィリップを補助したのはルキアだった。

 

 「ありがとうございます」

 「どういたしまして。そして、ようこそ。サークリス公爵家へ」

 

 ルキアは別邸だけど、と笑うが、王都の建築技術は王都外とは比較にならないほど高度なものだ。フィリップが焼き払った二等地の一画も、既に9割以上が再建しているらしい。10や20では足りない数の建物を焼き払ったはずだが、残骸すら残さず柱や基礎ごと焼却したのが良かったのだろうか。

 

 それはさておき、王都に存在する貴族の別邸は、各所領に存在する貴族の本邸よりも良質だ。土地面積はともかく、建築技術や基礎インフラが違う。

 一度王都暮らしを体験した貴族がその快適さに溺れ、二度と所領に帰ることは無かった──なんてケースもあるらしい。代官は涙目だっただろう。責任者不在の領地管理など、いくら金を積まれてもやりたくない。

 

 サークリス公爵はきちんと所領に身を置き、毎年夏休みと冬休みの時期──貴族的には、建国祭と新年挨拶の時期──に王都の別邸を訪れる、模範的な貴族らしい。

 以前にルキアからそんなことを聞いた記憶がある。

 

 ルキアに手を引かれ、アリアが音も立てずに開いた重厚そうな玄関の扉を通る。

 

 広い玄関ホールに、吹き抜けの高い天井。吊られたシャンデリアは燦然と輝き、足元の赤いカーペットの艶やかな毛足を際立たせている。

 フィリップが微かに期待していた、左右に整然と並んだ使用人による出迎えなどは無い。宿屋勤めとして、創作に出てくるアレが余程の人的・時間的余裕がないとできない──つまり、無駄な雇用をしているか、仕事を後回しにさせている──ということを理解していたからこそ、「貴族ならもしかしたら」という期待があったのだが。

 

 その代わりでは勿論無いだろうが、ホールには燕尾服姿の執事が一人、目立たないように立っていた。

 目立たないように、だ。いくら館の内装が豪華絢爛で、目を引く調度品などがあるとは言え、人間の目と脳は真っ先に人間を認識するように設計されている。それは石器時代から脈々と受け継がれてきた遺伝子によるもので、ヒトとして生まれたモノは訓練も無しに備えている、いわば本能だ。

 

 まして、彼は黒の燕尾服を──白を基調とした汚れ一つない壁紙に対しても、金糸の装飾が施された艶のある赤いカーペットに対しても浮き上がる、黒色を纏っている。

 

 その上で、彼はフィリップが「使用人はいないか」と探すまで気付かないほど、意識しなければ分からないほどの気配の薄さで、ずっとそこにいた。

 探すまで気付かない──探せばすぐに見つかるというのが、実は最も重要だ。

 

 客が何か申しつけようと探し求めた時にはすぐに気付けるが、逆に内装や装飾を観たい時には影のように目立たない。

 なんと──なんと素晴らしい技術か。実家もタベールナも、そこそこ名の知れた高品質な宿だ。だが、このレベルの人材は、ベテラン従業員が語り目指す理想形として──つまり、話の中でしか存在しなかった。

 

 「お帰りなさいませ、ルキアお嬢様」

 

 腰を折る敬礼。相手への尊重を感じさせつつも、自分の表情を隠さない絶妙な所作だ。

 フィリップも本気でやろうと思えばできるだろうが、その動作をすること自体に意識を奪われる。そういう意識の焦点は、微かな筋肉の強張りや表情の硬さ、ほんのわずかな視線の動きなどの、意識してどうこうできるものではない箇所から、意外と相手に気付かれるものだ。

 

 彼にそういった「ずれ」は無い。全く自然に、身体に染みついた癖のような動きで、完璧な礼を見せてくれた。

 フィリップが屋敷の威容に目を惹かれず、もう少しリラックスしていれば、称賛の口笛でも飛ばしていたかもしれない。

 

 「公爵家へようこそ、カーター様。お待ちしておりました」

 「あ、ありがとうございます。えっと、ハウス・スチュワードの方ですか……?」

 

 あれだけの立ち居振る舞いだ。彼が公爵家の家令──最上級使用人、全使用人統括者であると言われても信じられる。

 だが、フィリップは何となくこれが間違いであるような気もしていた。

 

 数いる使用人の中でも、家令は別格だ。

 主人の仕事を手伝ったり、財産の管理を任されたり、時には代官のように所領統治を任されることもあるという。常に主人の傍に控えているわけではない。

 

 だからこそ、客人の出迎えに使えるほど暇な人材ではないだろう。

 こうして玄関でルキアとフィリップの到着を待たせるくらいなら、傍に置いて仕事を手伝わせる方が余程賢い使い方だ。

 

 それに、彼はまだ20歳くらいに見える。最上級使用人になるには才覚ばかりでなく経験も必要だろうし、些か若すぎるように思える。

 

 果たして、彼は首を横に振った。

 

 「いえ。お言葉は大変嬉しく思いますが、私は単なる執事でございます」

 「なるほど。……なるほど」

 

 やっぱりか。というか、やっぱり「これ以上」がいるのか。

 とんでもないところに来てしまった。

 

 分かりやすい驚愕と感動を表情に出したフィリップに、ルキアは嬉しそうな笑顔を向けた。

 

 「気に入ってくれたかしら? 側付きにはメイドを用意してあるけど、もう一人くらいなら付けても支障は出ないわよ?」

 「え? いえ、あの……いえ、大丈夫です」

 

 「側付きとか要りません」と言いたいところだが、貴族の屋敷でのルールなどフィリップが知っているはずもない。

 

 この屋敷に比べれば数段以上格の落ちるタベールナでさえ、客の善意が従業員の邪魔になる場面がある。それは使用済みのシーツを畳んでおいたり、食べ終わった食器を積み重ねておくような、ほんの小さなことだ。使用済みかどうか確認したり、積み方を最適化したりする手間はほんの小さなものだが、数十人分にもなると大きなロスになる。

 

 フィリップが「こうしておくと楽かな?」と考えて行動したことも、全く考えずに行動したことも、一般常識のようなことですら、彼ら貴族の常識に照らせば非常識で、邪魔になるようなことかもしれない。

 

 客の善意に文句を付けるわけにもいかないし、彼らもフィリップたち同様「いや、気持ちはありがたいんだけどさ……」と、微妙な気持ちになるかもしれない。あの絶妙な気まずさを知っている身としては、知識のある人に付いて貰うのを固辞してまで、彼らのプロフェッショナルを邪魔したくはない。

 

 ついでに礼儀作法を見て盗もうという邪念もあるが。

 

 「そう? じゃあ、まずは部屋に案内するわね。一通りの物は揃えてあるけど、足りない物があったら遠慮なく言って頂戴」

 

 荷物は不要だと予め言われていたから予想はしていたものの、下着も含め衣服まで準備してくれているらしい。学院の制服以外できちんとした服を着たことの無い身としては、これもテンションが上がる。

 ルキアの先導に従い、5階建ての5階まで上る。現代の建築技術では地上5階が限界だと言われており、その言説に照らせば、この屋敷は最高の技術を用いて作られていることになる。

 

 ちなみに王城は例外だ。

 あれは山一つを丸ごと成形したと言われており、現代の技術では再現不可能なオーパーツでもある。

 

 「ここよ。まずは着替えて……そうね、30分したら呼びに来るわ」

 「あ、はい……」

 

 もう着替える──いや、当たり前か。

 仕事用の作業衣は客に見られても不快にさせない程度に小綺麗なものだが、公爵と対談するとなれば些か以上に格が劣る。

 

 着替えには10分もかからないと思うが、フォーマルな服は初めて着る。余分なくらいでちょうどいいだろう。

 

 厚く硬質な扉をノックする。自分の部屋だと言われているが、他人の家で、初めて入る部屋だ。つい、という奴である。

 

 フィリップが苦笑を浮かべるのとほぼ同時に、部屋の中から「はい」と返事がある。

 驚いたのは一瞬で、すぐに例の側付きの人だと分かった。

 

 「フィリップ・カーターです」

 

 名乗ると、まず扉が少しだけ開き、ゆっくりと大きく開く。

 ノブを掴んでいても身体を引かれて転ばないように、という配慮の見える作法だ。

 

 顔を見せたのは、フィリップの予想通りメイド服に身を包んだ女性だった。

 アリアと同年代くらい──20歳前後に見えるが、やはり年の近い者を配置してくれたのだろうか。

 

 「カーター様、お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」

 「……ありがとうございます」

 

 先導され、部屋に入る。

 基本的な構造は魔術学院の学生寮と変わらないようだ。正確にはVIPルームとでも言うべき最上階と、と言うべきだが。

 

 キングサイズのベッドと、庭の見える大きな窓。毛足の長いカーペットに、錬金術製の照明器具。

 部屋の内装だけで三等地に家が建ちそうだ。

 

 「……これは、すごい」

 

 クローゼットはビルトインのようだが、服はあそこだろうか。

 

 「すみません、服はそこですか?」

 「はい、普段はそちらのクローゼットに仕舞われています。ですが、本日のお召し物はこちらにご用意してあります」

 

 メイドがそっと静かな所作で、服一式を差し出す。

 少し嵩張るそれをこぼさないように受け取り、とりあえずベッドの上に置く。

 

 「ありがとうございます。……えっと、すみません、お名前をお聞きしても?」

 

 フィリップが尋ねると、すっと姿勢を正し、ふわりと腰を折った。

 正式な作法を崩したそれは、教科書通りの動きを100点として採点するのなら80点といったところだ。だが、礼儀作法とは正しさだけが全てではない。時や場面に応じては崩した方が即する場合もあるし、それは人によってもそうだ。

 

 淡々と機械じみて正確な所作の似合うアリアのような者もいれば、彼女のように柔らかに崩した方が映える者もいる。

 

 「申し遅れました。私はマルグリット・デュマ。どうぞメグとお呼びください。カーター様がご滞在の間、お仕えさせて頂きます」

 

 アリアと同様、メグの容姿も特筆すべきものだ。

 金髪と碧眼は王国人であればありふれたものだが、顔の造形や髪の質は人それぞれだ。突然変異的に生まれたであろう銀髪赤眼のルキアは、その髪と目を抜きにしても極まった容姿をしている。マザーやナイ神父ほどではないが、フィリップの目にも美しいと映るほど。

 

 アリアは殆ど無表情だったからか、どこか無機質と形容できる美しさだった。

 対してメグは、静かで儚げな微笑を湛えており、世の人が「深窓の令嬢」と言われて思い浮かべるような、静かで儚げな美しさを持っている。

 

 簡単に言えば、人形のような美しさと言われれば顔立ちが何となく想像できるのがアリア。

 メイド服姿の深窓の令嬢と言われれば容姿を想像できるのがメグだ。

 

 無理矢理に数値化した場合(APP)だと、アリアが17でメグが16と言ったところか。

 

 ちなみにルキアを一言で形容するのなら「絶世」。ナイ神父とマザーは……「発狂」? まぁ、それはいい。

 

 「上流階級の作法などには全く心得が無くて……えっと、色々とご迷惑をおかけします」

 

 これから約一週間、無様なところを見せるばかりか、その後始末までさせることになるかもしれない相手に、フィリップは深々と頭を下げた。

 




 るきあちゃ
 
【挿絵表示】


 練習の成果どこ……ここ……?


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68

 用意されていた服は貴族の装いとしては比較的カジュアルな、フリル付きシャツとジャケット、裾の緩い長ズボンだった。

 どう考えても着替えに30分もかからない服装だ。そして、平民の子供が公爵閣下に会うには不足な恰好でもある。

 

 着替える間は部屋の外に出ていてもらったメグを呼び、おかしなところは無いか見てもらう。

 彼女は「ふむ」「これは」「なるほど」など呟きつつ、フィリップを何周かして。

 

 「色が合いませんね」

 「……ですよね」

 

 白無地のシャツはともかく、黄土色のジャケットとズボンは微妙だった。

 いちおう王宮のドレス・コードに従い、平民階級であることを示す色にしたのだろうが、言葉を飾らずに言えばダサい。ちょっと笑えるくらい、ダサい。

 

 以前に大人が着ているのを見たことがあるが、その時は別にどうとも思わなかった。「着飾ってるけど、どこに行くんだろう」と、きちんと「着飾っている」と認識できていたくらいだ。

 だが今、自分がそれと似たような服を着てみて、あまりの似合わなさに半笑いだった。

 

 馬子にも衣裳とは言うが、運送業者が着飾っていたら普通に変だ。

 そんな感じの、不自然さが大部分を占める似合わなさだ。

 

 フィリップが首を捻っていると、メグが別の服を差し出してくれる。

 

 「こちらでは如何でしょうか」

 「黒、ですか。確かに……」

 

 黄土色よりは扱いやすかろう。

 

 ちなみに、平民階級であるフィリップが王宮内やそれに準ずるフォーマルな場で身に着けられる色は4種。

 ベースカラーである白と黒。身分階級に応じた色である黄土色。そしてワンポイントでプラス一色。ただし、最高位である王族の身分色である紫色だけは例外だ。

 

 紫色、特に特定の宝石や希少な貝、竜種の鱗などを原料とする錬金術製の染料を用いた特別な紫色は、王族と最高位貴族数人しか着用を許されないらしい。

 贋作──と言うと耳触りが悪いが、模造色とは一線を画す発色で、目の肥えたルキアですら美しいと思うレベルだとか。

 

 着られない色のことはさておき、黒のズボンとベストはそれなりに見られるモノだった。堅苦しさや大人っぽさのあるジャケットではなく、宿の作業衣と同じベストというのが良いのかもしれない。

 

 「すみません、僕が着替え始めてからどのくらい経ちましたか?」

 「およそ20分ほどかと」

 

 すっと、メグが壁を示す。

 

 「おぉ……」

 

 まさかあるとは思わなかったので探しもしなかったのだが、そこには機械式時計が掛かっていた。

 

 「時計があったんですね。気付きませんでした」

 「はい。館内全ての時計は午後9時以降を除き、午前6時より3時間ごとに時報が鳴る仕組みとなっております。勿論、お部屋の時計は時報を切ることも可能ですが」

 

 地元で時報と言えば日の入りを示す鐘だったのだが、ここでは正確な時間に基づいて機械が鳴らしてくれるらしい。

 学院のチャイムを彷彿とさせるが、流石に館内に響き渡るような大音量では無いだろう。

 

 「いえ、そのままで大丈夫です。それより、ちょっとトイレに行きたいんですけど」

 「お手洗いはそちらです。共用のものもございますが、使用人が使わせていただくこともありますので、基本的には個室のものをお使いになるのがよろしいかと」

 

 なんと、個室にトイレが付いているのか。

 となると、やはり。

 

 用を足し、メインルームに戻る前に、トイレの正面にあった扉を開けてみる。

 木籠と、扉。木ではなく石の床。その足元に敷かれたマット──脱衣所。ということは。

 

 「やっぱり、お風呂までついてる……」

 

 まるで魔術学院の寮、と言うべきか。或いは魔術学院の寮が貴族の屋敷みたいだと表現すべきなのか。

 恐らく後者なのだろうが、フィリップが体験した順番として、「学院の寮みたいだ」と感動するのは仕方のないことだった。

 

 これはすごいと感心していると、不意に背後の扉がノックされる。

 

 「カーター様。ルキアお嬢様がお見えですが」

 「あ、すぐ行きます」

 

 まさか風呂に入っていると思われたわけではないだろうが、すぐに通すのではなくフィリップの許可を取りに来たらしい。

 この部屋の借り主として、そのくらいの権利は認められるということだろうか。ただルキアがフィリップを尊重してくれているだけの可能性も大いにあるが。

 

 慌てて、しかし無作法にならないように脱衣所を出ると、メグはそこで待っていた。

 

 「部屋の外でお待ちです。こちらをどうぞ」

 

 言って、メグが差し出したのは緑色の石が嵌ったループタイだった。石の種類に詳しくないフィリップにはエメラルドもペリドットも似たような石なので、聞くだけ無駄だと黙って受け取る。

 それを首元に着けながら、足早に扉へ向かう。

 

 「すみません、お待たせしました」

 

 扉を開けると、ルキアも先ほどとは違う装いになっていた。

 黒ゴスは相変わらずだが、カジュアルドレスから楽そうなワンピースに変わっている。普段着、ということだろうか。

 

 似合ってはいるが、やはり刺さるものがある。やめて欲しいとまでは思わないが。

 

 「あら、ベストにしたのね。似合ってるわよ」

 

 ループタイの長さを合わせながら、ルキアはどこか満足げに言う。

 黒同士でお揃いだからだろうか。……違うか、流石に。

 

 「じゃあ、お父様の部屋に行きましょうか。こっちよ」

 

 ルキアの先導で歩き出すと、背後に二人のメイドが──ルキアの側付きであるアリアと、フィリップの側付きであるメグが付いてくる。

 

 タベールナの規模では一人の客に専属の従業員など用意できなかったが、一等地の高級宿なら珍しくはあるが、そういう宿もあるらしい。客付き……いや、部屋付きだったか? どっちでもいいが。

 そんな宿で働けるだけの技能は無いし、そんな宿に行くだけの稼ぎを得るのはちょっと現実的ではない。そしておそらく、そのレベルの宿も魔術学院の寮と大差なく、もはや感動できないのだろう。高級慣れとは怖いものである。

 

 「その子、元は剣士だったのよ」

 「え? どっちですか?」

 

 フィリップの視線の先を辿り、ルキアが揶揄うように言う。

 特にどちらか一方に意識を集中させていなかったフィリップは、意外な暴露に視線を二人の間で彷徨わせ、結局どちらのことか判別できなかった。

 

 二人とも華奢な体形だし、剣を振るどころか戦う姿も想像できない。外見と戦闘能力に何の関係も無いのは魔術師だけで、戦士はやはり筋力のある者や手足の長い者が強いはず。

 

 アリアもメグも腕や足はすらりと長いが、筋肉があるようには見えない。リチャードは指が太く、掌にはタコがあり、まさに剣士の手といった感じだったのだが──生憎、二人とも手袋をしていて、そういった特徴は確認できない。

 

 「アリアよ。『シュヴェールト』なんて、かっこいい二つ名も持ってるんだから」

 「……恐縮です」

 

 淡々と。恐縮どころか照れもせず、アリアは頭を下げる。

 

 「……それは、すごいですね」

 

 剣士。それも二つ名持ち。しかも『シュヴェールト()』? 姓のシューヴェルトのもじりなのだろうが……なにそれ、超かっこいい。魔術剣もそうだったが、最近は少年心が擽られることが多い。

 

 「いいですね、二つ名。サークリス様だって、『明けの明星』とか『粛清の魔女』とか、かっこいい二つ名持ってますし……」

 「そう? ありがとう」

 

 しみじみと言ったフィリップの少年心には同調しかねたのか、ルキアの礼には苦笑が含まれていた。

 

 「マルグリットも、普段はアリアと一緒に私の護衛をしているの。その子は──」

 「──あ、ルキアちゃん!」

 

 びくり、と。反射的に背筋を伸ばしたのは、呼ばれたわけでもないフィリップの方だった。

 

 普段からルキアのことを「サークリス様」と、姓プラス敬称で呼んでいるのは、何も彼女にそう言われたからではない。

 彼女の生き様や在り方に魅せられたから、というのが自然な理由。もう一つ、義務的に、そう呼ばれるのが正しいから──何なら、ルキフェリア・フォン・サークリス聖下と呼ばれるべき血筋と立場を持っているからというのがある。

 

 では、そんな相手を「ルキアちゃん」呼ばわりする者がいないのか、と言われれば。

 いる。しかも、フィリップがよく知る相手だ。

 

 表面的にはいち神官でありながら、ルキアをちゃん付けで呼びリチャードを驚愕させた──マザーだ。

 

 だが、まぁ。人の呼び方などそう数の多いものではない。

 他人であれば姓プラス敬称。気安い仲なら姓呼び捨て。仲のいい友人なら名前。名前にちゃん付けとなると、声に籠っているのが親しみであれば、年下の相手に呼び掛けているのだと何となく分かるだろう。

 

 フィリップが背筋を正す程度で──露骨な警戒や深いため息などを避けられたのは、その声に込められた感情が()()だったからだ。

 マザーであれば、ルキアに対して親愛の情が他人にも分かるほど込められた声など向けはしない。それはフィリップにもナイ神父にも、ヨグ=ソトースに対してもそうだ。

 

 それに、落ち着いて聞けば声の質が全く違うことにも気付ける。

 

 マザーではない。彼女がこんなところにいるはずがない。

 そう納得し安堵してから声の主を見遣る。願望通り、銀髪でも銀眼でもない、金髪に翠色の目をした女性が笑っていた。

 

 「お姉様。何か?」

 

 どこか面倒くさそうに、しかしいつぞや聞いた「何か?」とは違い、端折られたのは「何か御用ですか?」だと分かる声色だった。お姉様──姉君だと言うし、「何か文句でもあるんですか?」だったらフィリップが驚くところだ。

 

 「えぇ。お父様からの伝言よ。「来客が長引きそうだ。悪いがカーター君との対面を少し遅らせる」だって」

 

 鈴の鳴るような声を数段低くし、公爵の声真似などする女性。

 金髪翠眼年齢プラス版ルキア、とでも言うべき怜悧な顔立ちだが、ルキアがそうそう浮かべることのない親しげで朗らかな笑みを浮かべている。

 そのせいだろう。彼女が何者であるかを聞いたばかりだというのに、どうにも実感が湧かなかった。

 

 「分かったわ。ありがとうお姉様」

 「……」

 

 視線を向けられても言葉を発さなかったのは、日頃の癖だ。

 普通に友人の家に遊びに来ただけなら、「こんにちは」とか「お邪魔しています」とか、そういった挨拶くらいはする場面。

 

 だが、相手は公爵家の令嬢二人──貴族二人だ。いち平民でしかないフィリップが、二人の会話に水をさすことは許されない。

 

 客同士の会話に従業員が口を挟まないのは当然だが、日頃はその従業員側であるフィリップは、無意識に口を噤んで数歩下がっていた。

 

 「貴方がフィリップくんよね? ルキアちゃんから色々と聞いているわ。ようこそ公爵家へ」

 「はい。本日はサークリス様にお招きいただき、格式高き公爵家の敷居を跨ぐ栄誉を賜りました。えっと……賤しき身ゆえ作法が拙く、お目汚しになるかと思われますので──」

 

 声をかけられ、漸く口を開く許可が下りる。

 とはいえ、自由な会話を楽しむことはない。そんな間柄でもないし、そんな気安さが許される相手でもない。

 

 下がらせて頂きます、とか。上司を呼んでまいります、とか。そんな言葉が続くはずの定型文を途中まで口にして、失策を悟った。

 

 タベールナは二等地の宿だが、一応は王都に門を構える高級宿だ。一等地に泊まる金のない地方貴族などが利用する可能性も、高くはないがゼロでもない。だから、そういう場合に応じた対策も教えられていた。

 教えられては、いた。

 

 だがその定型文は、丁稚風情より経験も知識も豊富な正規の従業員を呼んでくるためのものだ。

 

 つまり。

 高位貴族と会話できるレベルの教養は、フィリップにはない。ルキアに招いて頂き云々のアドリブを噛まずに言えただけで、フィリップの実力からすれば褒められるべきとも言える。

 

 「あはは、いいよ。そんなに畏まらなくても。お姉ちゃんモードだからね」

 「はぁ……えっと……?」

 

 聞いたことの無い単語──いや、聞いたことのある単語同士の組み合わせではあったが、そんなIQの低そうな語感の言葉が飛んできたことに困惑し、困惑を露わにするフィリップ。

 あ、お姉ちゃんモードって言うのはね、と。解説に入ろうとした彼女を、ルキアが片手で制した。

 

 「黙って。自己紹介をする気はある?」

 「ふふふ──ない!」

 

 即答の否定。しかもドヤ顔の否定だった。

 

 なんだこいつ、と。

 フィリップの素直な表情筋が内心をそのまま表に出したのを見て、ルキアは深々と、自身の姉に向けてため息を吐いた。

 

 「ガブリエラ・フォン・サークリス。私の姉よ。宮廷魔術師で、お父様の後継者──次期公爵」

 「よろしくね、フィリップくん」

 

 朗らかに笑う彼女──ガブリエラからは、その肩書に相応しい威厳のようなものは感じられない。

 まぁ、尤も。ナイアーラトテップの神威さえ受け流す今のフィリップに、人間の放つ威圧感をはっきりと知覚できるような繊細さは残っていないのだが。

 

 「あ、えっと、よろしくお願いします……?」

 

 どんな態度が正解で、何を言うべき場面なのか。

 分からないが、まさか黙るわけにもいかず。苦し紛れに頭を下げると、ガブリエラはくすりと笑って──否、嗤って、言った。

 

 「きみ、もしかして、元は奴隷だったりするのかな?」

 

 



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69

 ふ、と。目の前が暗くなる。

 それは意識消失の比喩ではなく、物理的なもので──より正確には、魔術的なもので、現実のものだった。

 

 「──たったひとりの姉だもの。だから一度だけ、チャンスをあげる」

 

 廊下を暗闇に染め、そこに存在していた光の全てを右手に集めたルキアが、いっそ優し気にも聞こえるほど穏やかに言う。

 水をかけても消えず、しかし何に引火することも無く、そして既定のスイッチによってオン・オフを切り替えられるという錬金術製のランプ。廊下を照らす照明器具であった洒落た飾り付きのそれらが、()()()()()()()()()()()()()()()()という奇妙な状態になっているのを、目の端で捉える。

 

 「撤回して、謝罪して。そうしたら、褒めてあげる。この私の前で、私の客人を、私の友人を侮辱する度胸を」

 

 褒めるってブチ殺すって意味だっけ、と。フィリップが困惑するほどの、普段のルキアとはかけ離れた怒り具合だった。

 それこそ、カリストに喧嘩を売られた──フィリップにしてみれば、あれは単なる事実の羅列だったのだが──時か、それ以上の。聖なる証の刻まれた赤い双眸が、内に秘める魔力で微かに輝きを放つほどだ。

 

 本気度次第ではダンジョン一つを丸ごと焼却できる火力を照準されて、しかし。ガブリエラに恐れや怯えは無い。

 

 「その反応……ハズレかぁ。うーん、結構自信のある推理だったんだけど。あ、失礼なこと言ってごめんね、フィリップくん」

 

 あっけらかんと。ルキアに言われたからでも、魔術を照準されたからでもなく。あくまで、自分の推理が間違っていたから、謝った。

 言葉にせずともそれが分かる、いっそ明朗な態度だった。

 

 「いえ、次期公爵閣下からすれば、平民も奴隷も大差なく下賤でしょうから。ちなみに、どういう推理だったのかお聞きしても?」

 「フィリップ、それは──」

 

 ルキアが血でも吐きそうなほど辛そうに言葉を紡ぐ。

 フィリップを宥めようとしたのか、慰めようとしたのか、単にその言葉を否定しようとしたのかは分からない。言葉が全て形になる前に、朗らかな笑い声に遮られたからだ。

 

 「あははは! いや、そこまでは言わないよ? 平民は国家を構成する大切な臣民だけど、奴隷はあくまで財産。モノ扱いだからね」

 

 王国には奴隷なんていないけれど、と、彼女は補足する。

 

 明るく、しかし人を人と思わないようなガブリエラの発言に、フィリップは微妙な表情を浮かべた。

 わぁ、差別的。王も貴族も富豪も貧民も奴隷も、みな同じ、みな無意味、みな無価値じゃあないか、と。目クソ鼻クソを笑うというか、どんぐりの背比べというか。

 

 そんな内心を反映した顔を、彼女はぴっと指差した。

 

 「それ。その目が理由だよ。自分も含めたあらゆる全てに希望を抱いていない、諦めに満ちた目。奴隷に、よく表れる目。……幼い頃から奴隷として他人に遜り続けてきて、そんな年に見合わない礼儀作法を躾けられているのかな、ってね。心底からの敬意か、立場への阿りか、単なる礼儀か──それとも、ただの()()か。それぐらいは判別できるんだよ、私」

 

 それぐらいは、なんて言っているが、本当はもっと多くのことを見て取っているはずだ。

 フィリップの心中にある彼女への──貴族も含めた、人類への冷笑も。もしかしたら。

 

 「ま、間違えちゃったみたいだけどね! お父様はちゃんと調査したみたいだけど、私には何にも教えてくれないしさぁ。どう思う、ルキアちゃん?」

 「──話しかけないで」

 

 魔術の照準こそ解いたものの、ルキアの瞳に宿った剣呑な光は未だ消えていない。

 にもかかわらず、ガブリエラの表情は──いや、ずっと、か。ルキアが魔術を照準していても、怒りを露わにしていても、魔術を解除しても、拗ねたように顔を背けても。ずっと変わらず、朗らかな笑顔を浮かべている。

 

 「あの、サークリス様は……」

 

 言いかけて、この場にそう呼ばれるべき人間が二人居ることに気付く。

 

 「いえ、ガブリエラ様は、何が仰りたいのでしょう? 僕の目が不愉快だという意味なら──」

 「うん? いやいや、不愉快とは言ってないよ? ただ、君の目は不思議だって言ったの」

 

 不思議──奴隷ではないフィリップが、奴隷の目をしているのが不思議、ということか。

 別に絶望も諦めも奴隷の専売特許ではないし、むしろ奴隷は自由を求めて戦争を起こしたり、部族や宗教や慣習を大事にしたり、押し付けられた環境の中でも必死に生きているらしいが。

 

 いや、しかし、それは本で読んだ知識に過ぎない。

 実際に目にした奴隷は確かに死んだ目をしていた。……あのレベルだとすると、不愉快と言われても仕方ないけれど。

 

 「奴隷でもないのに、この世の最底辺を知ってる目ができる──()()()()()()目ではなく」

 

 真剣な口調で、しかし表情を変えることなく、彼女は笑い続ける。

 

 「いったいどこで、それほどの絶望を背負い込んだのかな? って、気になっただけだよ」

 

 背負い込んだと言うか、絶望の方から抱き着いて来た感じだが。それも両手両足どころか、無数の触手を使って。

 

 さておき、「どうして」背負い込んだかはともかく、「どこで」なら、答えるのもやぶさかではない。

 

 「以前に、カルトに攫われたことがあるんです。その時の扱いは、まぁ……人並み、ということは無かったと思います」

 

 あれは生贄にするためだったので、奴隷どころかナマモノ扱いだったのだが。

 薬漬けにされ、支配魔術をかけられ、邪神の供物にされかけた。何の因果か、本物の邪神との交信に接続し、挙句最大神格の目に留まる──白痴の魔王に「目」という器官や「認知」という機能は無いだろうし、比喩的な話だが──なんて、絶望では済まない経験だった。

 

 普通は発狂し、自死を選ぶまでもなく、存在の核が壊れてどろどろになっている。

 今もこうして無事でいる理由は──ちょっと分からないが、外神の誰かしらが何かしらの防御手段を講じたのだろう。たぶん。

 

 「あれは本当に──本当に、クソみたいな体験でした」

 

 あの一件が無ければ、フィリップは今も平和に丁稚奉公に勤しみ、宿屋の従業員としての技能を磨いていたのだろう。

 将来の夢とか、好きな女の子とか、そういうものも出来ていたかもしれない。

 

 モニカやセルジオと話すたび、彼らの無知と平穏な死を願うことなくいられただろう。

 ルキアやアリアのような美人を見た時に、無意識にマザーと比べるような失礼な真似をせず、ドキドキできたのだろう。

 衛士団の剣や鎧に憧れて、見せろ触らせろとはしゃぐこともできただろう。

 

 そんな「普通」を、全て奪われた。

 

 彼らのことを思い出すだけで、癖もしつけも抜け落ちて口汚くなるほど腹が立つ。あれから半年近く経つというのに、まだ。

 おかげでカルトに対する殺意は高まりっぱなしだ。()()()()()()()()()。苦しんで死ね。

 

 「っ……そう、みたいだね」

 

 初めて、ガブリエラが表情を揺らした。

 怯えは一片も無かったが、その笑顔には確かな驚愕が混ざる。

 

 「そんな目、人間嫌いのルキアちゃんでもしたことないよ」

 

 ルキアを指して「人間嫌い」という不適切さにくすりと笑いを漏らす。

 彼女のそれはフィリップのと同じで、人間に価値を見出していないがゆえの無関心だ。好きとか嫌いとか、そういった区別ではない。

 

 そっと、頭を下げる。

 

 「お耳汚し、失礼いたしました。やはり私の礼儀作法ではお二人を不快にさせてしまいそうなので、部屋に戻ります」

 

 勿論、狙ってやったわけではない。

 高まった殺意が獣性になって口から漏れただけで、そこに「こうすれば場を去れるか?」という打算は一切無かった。失言に気付いた時には冷や汗を流したくらいだ。

 

 だが、それを利用するくらいの強かさと冷静さを残せていたのは、やはり立場意識の欠如が理由として大きい。より正確には、平等意識が大きすぎるのだが。

 

 これ幸いと部屋に引っ込もうとしたフィリップだったが、それはガブリエラによって止められる。

 

 「あぁ、待ってフィリップくん。私はすぐに魔術学院に行かなくちゃだから、このままルキアちゃんと一緒にいてあげて?」

 「学院に? どうして?」

 

 ルキアが思わずと言った様子で問いかけるが、ガブリエラは「仕事の内容は漏らせませーん」と言いながら──言って、ではなく──足早に立ち去った。「すぐに」というのは、どうやら言葉通りだったらしい。

 おそらく、部屋を出て玄関に向かう途中でフィリップたちに遭遇し、そのまま話していたのだろう。別れの挨拶もなく、かなり焦った様子で去っていった。

 

 「…………」

 

 嵐のよう、と形容するには美しい女性だったが、立ち去った後の静けさはまさにそれだった。

 ルキアも、フィリップも、メイド二人も、一言も発さない時間があった。数秒から数十秒くらいだが、誰もが言葉を探しているのに見つからない、重い沈黙だった。

 

 「その、ごめんなさい。姉が失礼なことを言って……」

 「え? ……あ、いえ、気にしてませんよ」

 

 何か言われただろうか、と本気で考えたフィリップは、安心させるように笑って応える。

 平民も奴隷も貴族も、王族や聖人すら同列に扱える本物の平等主義者としては、あのくらいは暴言にもならない。

 

 「それより、公爵閣下はご多忙とのことでしたけど」

 「そうね。遅らせるって、どのくらいかかるのかしら。……アリア、ちょっと聞いてきて頂戴」

 

 アリアは畏まりました、と、綺麗な一礼を残して去っていく。

 他にも使用人はたくさんいるが、わざわざ側付きを離す必要はあったのだろうか。屋敷の中とはいえ、部外者の目の前で離れていくアリアもだが。

 

 「自分で呼んでおいて別の客を招き、挙句長引いたから遅らせるなんて、失礼よね。……フィリップ?」

 「あ、はい、なんですか?」

 

 ぼけーっと、去っていくアリアの背中を見るとは無しに見ていたフィリップは、ルキアの話をまるで聞いていなかった。

 失礼と言うなら立場的に下のフィリップが一番失礼なのだが、ルキアが眉根を寄せた原因はそれでは無かった。

 

 「あの子を気に入った?」

 

 アリアの背中は角を曲がって見えなくなっていたが、誰のことを指しているのかは分かる。

 気に入ったか気に入らないかで言えば、とても気に入っていた。なんせ二つ名持ちの剣士だ。魔術剣士ほどではないが、中々に少年心を擽ってくれる。

 

 尤も、フィリップの言う「気に入った」に大した意味は無い。

 気に入った相手が眼前で死にそうになっていれば助けようとするだろうが、既に死んでいたら「あぁ、そう」で済ませるだろう。そのくせ他人に侮辱されると腹を立てるという、他人の身命より自分の不快感の方が優先される逸脱者の感性が吐き出す「気に入った」はその程度だ。

 

 衛士たちやルキアのように眼前で人間性の輝きを魅せ、ようやくその程度になれる。そこまでされて、ようやくその程度の認識が出来る。

 そしておそらく、その程度の認識が、その程度の価値が、人間に見出せる限界なのだろう。

 

 だからアリアに対して言う「気に入った」は、かっこいい二つ名に「かっこいいじゃん」と思った分のものでしかなく。ルキアとアリアが並んでいて、どちらか殺せと言われればアリアを殺すのに躊躇いを覚えない程度のものなのだが。

 

 「……駄目よ、あの子は」

 「え? はぁ、まぁ、何かするつもりはありませんけど」

 

 ルキアの側付き──つまりは護衛に、何かをする理由も無い。

 彼女が敵対してくるのなら話は別だが、その時はルキア自身も敵対してくるだろう。「駄目よ」という言葉も、敵になってしまえば無効ということでいいはずだ。二人がフィリップの敵になるところは、二つの理由から全く想像できないのだが。

 

 「それより」と。半ば強引に話題を戻す。

 

 「それより──公爵閣下って、どんな人なんですか?」

 

 これから半ば尋問じみた会話をするであろう相手について、少しでも知っておきたいという意図は、どうやらきちんと伝わったらしい。

 ルキアは表情を引き締め、少し考えてから口を開く。

 

 「お父様? そうね…… 巷では「国王の懐刀にして快刀」とか、大層な称号で呼ばれることもあるけど……」

 

 ルキアは顎に手を遣り、最適な言葉を探している。漏れ聞こえてくる呟きに「愛妻家? いえ、恐妻家かしら」と聞こえたのは、彼女一流の冗談なのだろうか。

 

 「貴族としてなら、私に「美しく在れ」と求めるだけのことはある人物よ。傑物、と言い換えてもいいわ」

 「……おぉ」

 

 魔術的・肉体的な強さや外見の美しさならともかく、内面について──人間性について語られると、フィリップも期待せざるを得ない。

 このたった一言で、フィリップの中の優先順位はアリアより公爵の方が上になる。フィリップの対人認知などその程度だ。

 

 「それは、是非ともお会いしてみたいです! あ、いえ、急かすつもりではなく」

 

 アリアの二つ名を開示した時より激しい食いつき具合に、ルキアは困惑を微笑で隠した。

 



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70

 アリアが「一時間以内に終わらせる」という公爵の伝言を持ち帰ったことで、フィリップはルキアに連れられ、公爵家別邸を案内されていた。

 魔術学院の学生寮と比較しても見劣りしない敷地面積だ。案内、という言葉は過剰ではない。

 

 豪奢な食堂、整然とした厨房、広い浴室などを順番に回っていると、時間などすぐに経過する。

 フィリップも仕事によって時間感覚はそこそこ優れていると自負しているが、すぐそばに時計のある環境に慣れた本職には劣る。フィリップが「そろそろかな?」と思った頃には既にアリアはおらず、数分して「もう少しかかる」という伝言を持ち帰ってきた。

 

 二度の延長でルキアがピリピリし始めた頃、一行は応接間で軽食を摂ることにした。

 応接間一つがタベールナの食堂くらい広いのには笑ったが、出てきた料理はタベールナの副料理長──料理長兼主人であるセルジオは料理より酒の目利きに秀でているので、実質的には彼が最も腕利きだ──のものと遜色ない味だった。

 

 サンドイッチ程度では料理の腕や素材の格がそこまで反映されないのか、或いはタベールナの副料理長が貴族お抱えの料理人レベルの腕前なのか。どちらも普通にありそうだ。

 

 昼食から少し時間が空いていたこともあって、ぺろりと平らげたフィリップが紅茶を傾けつつルキアと駄弁っていると、応接間の扉がノックされる。

 ついうっかり立ち上がったフィリップだったが、その時には既にメグが扉の前にいた。ほんの数舜前まで、フィリップの背後に控えていたはずなのだが。流石は本職というべきか。

 

 すぐに招き入れるのではなく、相手と用件を確認して、一度扉を閉めて戻ってくる。

 ルキアに耳打ちするものと思われたが、彼女が口を寄せたのはフィリップの耳元だった。

 

 耳元で囁くと言うと微妙にいかがわしさを感じるが、メグのそれには吐息や声色の変化が一切含まれておらず、興奮できる要素は皆無だった。

 

 「ライウス伯爵がお見えです。カーター様にお会いしたいと」

 「……ライウス伯爵?」

 

 対人認知能力に問題のあるフィリップだが、記憶能力に問題があるわけではない。「記憶するまでもない相手」と認識される範囲が広すぎるだけだ。

 

 「カリスト・フォン・ライウス様の御父君ですよね?」

 

 メグとは違い声量を絞らなかったフィリップの疑問は、正面に座ったルキアにも聞こえていた。

 眉根を寄せるだけで何も言わないのは、あくまで彼女ではなくフィリップを訪ねて来た客だからか。ならばフィリップが対応を決めるしかないのだろうが、貴族と会話するだけの礼儀作法を持ち合わせないのはさっき痛感したばかりだ。

 

 「えっと……ここにお通ししても大丈夫ですか?」

 「えぇ、勿論」

 

 ルキアの許可を得て、フィリップが頷く。

 テーブルを挟んで並ぶ二人掛けの──肘掛を挟んで座面が二つあるというだけで、一面に二人は座れそうなサイズだが──ソファを、ルキアがぽんぽんと叩く。「横に座れ」という意味なのだろうが、ルキアが座っているのは上座側。迎え入れる相手が伯爵となると、ルキアはともかくフィリップがそちらに座るのは良くないと思われるが。

 

 とはいえ、フィリップの知識は薄い。ルキアが言うのなら間違いないだろうと、その隣に座る。

 「平民が私より上座に座るなど」と苛立つようなら、自分の判断に口を挟む無礼を口実に追い出そうとしているだけなのだが。

 

 「失礼いたします」

 

 一礼して入ってきたのは、白髪交じりの金髪を七三に分けた生真面目そうな男性だった。

 

 「ご歓談中のところ、申し訳ありません、聖下。しかし、カーター氏にはどうしても直接の謝罪を申し上げたく、お伺いさせていただきました」

 

 立ち上がろうとしたフィリップの袖を引いて止め、ルキアが座ったまま対面のソファを示す。

 また頭を下げてそれに従った伯爵に内心の読めない一瞥をくれ、ルキアはそっと身体を傾けた。

 

 「気負わなくていいわ。何があっても、私がなんとかするから」

 

 何も無くても伯爵を殺しそうな雰囲気すら漂わせているルキアに苦笑しつつ、フィリップは素直に頷いた。

 

 「ありがとうございます。……それで、えっと、何についての謝罪でしょうか、伯爵」

 「無論、不肖の息子──カリストの粗相についてです。先日の決闘騒動では、カーター氏だけでなく聖下にまでご迷惑をお掛けして、挙句敗北したというのに生きさらばえる無様をお見せしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」

 

 伯爵がしっかりと頭を下げる。

 その作法からは少なくともフィリップのことを「平民風情」と侮ってはいないように見えるが、そうなると一つ懸念が浮かぶ。

 

 「……その、伯爵は、僕の身分をご存知でしょうか。僕は──」

 「存じ上げています。いえ、つい先ほど、公爵閣下に教えて頂きました。カーター氏は教会関係者ではなく、いち平民であると」

 

 何を勝手に、と、ルキアが無言のまま微かに顔を顰める。対面のライウス伯爵にも、隣のフィリップにも気付かれないほど抑え込まれてはいたが、全てを内心に仕舞い込めない程度には苛立っているらしい。

 フィリップは決闘以降ずっとまとわりついていた誤解が解けそうなことに、内心でも表情でもほっとしていた。

 

 だがそうなると、伯爵の慇懃な態度が不可解だ。本来、伯爵級の貴族はフィリップごときいち平民と同じテーブルを挟んで会話したりしない。いや、平民の側が貴族の邸宅に出向くのが普通で、こうして物のついでとはいえ貴族の側が足を向けることが、既に彼らのルールからは逸脱している。

 

 「どうしてそこまで? 謝罪は、あの後すぐに頂きましたが」

 

 決闘騒動の直後に、フィリップだけでなくルキアにも謝罪の手紙は届いていた。

 二人とも命の危険があったのなら、手紙数枚で許そうとは思わなかっただろう。だがルキアはそもそも自分から首を突っ込んだうえ、100発先制のハンデがあっても欠伸混じりに圧勝できる隔絶がある。フィリップに関しては、ヨグ=ソトースという仮想敵相手に奮闘していたので、カリストが何かをしたという認識はさほど無い。むしろ、彼を含めたクラスメイト達を守るのに必死だった。

 

 「……謝罪すべきだと思った、それは本当です」

 

 恥じ入るように目を伏せ、伯爵が言う。

 その言葉から、何か別の目的があるのは明白だった。だが少なくとも、謝罪は単なる建前では無かったのだろう。だからこそ、それを口実にするような真似を恥じている。

 

 報復だろうか。もしそうなら、申し訳ないが、その願いは絶対に叶わない。フィリップの地位に関係なく、フィリップを守護するモノがそれを許さない。

 そんなフィリップの懸念は覆され、より面倒な「目的」が語られる。

 

 「教えて頂きたいのです。息子の──カリストの死について、詳しく」

 

 知らない方がいい、と、そう言い捨てて席を立つことは、彼の目を見た後ではできる気がしなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 フィリップはカリストの死に際を、原因となった「魔物」については一切の詳細が不明だとしたうえで、殆ど全てを正直に語った。

 カリストが寄生され、暴走し、自分の班員とフィリップたちの班を襲い、皆殺しにしたこと。フィリップとルキアが手を下す前に、寄生していた「魔物」によって凄惨な死を遂げたこと。孵化した「魔物」を殺すため、ダンジョンを死体諸共に消滅させたこと。

 

 全て冒険者組合や学院などで語った内容と同じで、伯爵もとっくに調べているはずだったが、又聞きでは印象も大きく変わるのだろう。フィリップが話終える頃には、ハンカチで目元を拭っていた。

 

 「……お話、ありがとうございました。本当に……息子が、最期までご迷惑をおかけして……」

 

 嗚咽混じりに、伯爵がもう一度頭を下げる。

 ダンジョンの一件に関しては、フィリップを外神の尖兵だと思い込んだアイホートの愚昧さが原因だ。カリストはいわば巻き込まれただけの立場であり、むしろフィリップが謝るべき立場なのだが。──と、フィリップは思い込んでいるが、あれはナイアーラトテップの憂さ晴らしなので、誰が一番悪いかと言われれば、ナイアーラトテップが悪い。

 

 「例の魔物に関しては、王宮の魔物研究者や書庫の膨大な資料を以てしても正体が分からない、Aクラス相当の魔物だと聞きました。カリスト様のせいでは無いと思います」

 

 見当違いの罪悪感に駆り立てられ、フィリップがそんな慰めを口にする。

 カリストの死にも死体にも、一片の哀悼すら捧げなかったフィリップがどの口で、という話ではあるのだが。

 

 「はは……耳の痛い話です」

 

 泣き笑いと言うには苦い笑いを浮かべた伯爵に首を傾げ、メグが耳元で「ライウス伯爵は王宮第二書庫の管理人をされています」と囁いてくれる。

 わぁ失言、と思う間もなく、「伯爵夫人は魔物研究局にお勤めです」と続き。

 

 「わぁ失言」

 

 と口にした。

 

 フィリップの反応やメグの動きから当てこすりではないと分かったのだろう、伯爵が泣き笑いに含まれる苦笑成分を減らす。

 

 「お気になさらず。私も妻も、子の仇を討つどころか、その正体すら掴めない無能です」

 

 泣き笑いの湿った声で、自嘲の言葉を口にする。

 しかし、声色には怒りや後悔こそ含まれていたものの、絶望や諦観は一片たりとも感じられなかった。

 

 「ですが、絶対に、その魔物は見つけます。発見し、特定し、その性質や弱点を詳らかにした上で、この世界から根絶します──絶滅、させます」

 

 憎悪はあったが、殺意は無かった。

 それは殺意や害意よりもっとさっぱりと、淡々としていた。「この作業を最終工程まで進める」という、揺るぎない決意が、代わりにあった。

 

 悲壮に満ちていながら、淀みも濁りも無い、澄んだ碧い目と視線が合う。

 

 「……っ」

 

 反射的に口元を押さえられたのは、本当に幸運だった。

 強く力を籠め、頬に爪を食い込ませて表情を保つ。力と痛みで制御しなければならないほど、吊り上がる口角と下がる目元を──笑顔を浮かべそうになる表情筋を、押さえるのが難しかった。

 

 両手に顔を伏せ、顔を完全に覆い隠す。

 ルキアが背中を擦ってくれるが、その気遣いは見当違いだ。

 

 だって、こんなにも──()()()()

 

 これほどの意志を感じたのは久し振りだ。

 高位悪魔から逃げそびれた少年を救うため、自分と仲間の命を擲ってみせた衛士たち。自ら決めた生き方に従い、ほんの数時間の付き合いしかなかった少年を救うため、自分とは異なる領域の生命体にすら挑みかかったルキア。

 

 彼ら彼女らにも匹敵する、強靭なる決意。

 

 あの時、クトゥグアという悪魔どころか星ごと焼き払えるカードを持っていた。あの時、フィリップはシュブ=ニグラスを召喚することができた。

 彼らの行いは、本質的には無意味なものだった。

 

 彼も、そうだ。

 

 アイホートを追えば、成果が出る時は発狂する時と同義となる。

 彼は無知ゆえに、その破滅にのみ至る道を走る。狂気と死に向かって全力疾走する。彼が「子の仇」であるアイホートを追い詰め、その雛と本体を根絶する可能性など、万に一つもない。

 

 そして、きっと。それは、彼がその足を止める理由にはならないのだろう。

 そういう目をしている。

 

 身に余る智慧どころか、心を蝕む絶望や、死に至るほどの恐怖も無く。ただ息子を奪われた親としての怒りや憎悪が、狂気的な──狂気に匹敵するほどの、根深く、重い決意を産み落とした。

 

 「……夏休みの学生にする話ではありませんでしたね。申し訳ありません。これ以上空気を壊さぬうちに、失礼させて頂きます」

 

 立ち上がった伯爵の握手に応え、別れの挨拶を交わしているあいだ、フィリップはずっと心ここにあらずといった状態だった。

 淡々と、染みついた礼儀作法に則り、貴族相手の許容ラインを少し下回るくらいの対応をする。ここにフィリップの内心が少しでも反映されれば、満面の笑みで、羨望と憧憬に溢れた立ち振る舞いになっていただろう。

 

 退室した伯爵を見送り、フィリップは脱力したようにソファへ崩れた。

 

 ──よかった、と。そんな呟きは、ルキアたちに聞こえただろうか。

 

 本当に良かった。あの時、カリストを殺していれば──きっと、彼はここまでの輝きを魅せてくれなかっただろう。或いはフィリップが彼の敵となり、彼の決意が「未知の魔物の根絶」から「いち平民の抹殺」などという小さなものに変わっていたかもしれない。そうなると、フィリップがここまで魅せられることも無く、淡々と副王やナイ神父に処理を任せていただろう。

 

 あの時、カリストを殺しておかなくて、本当に良かった。

 

 

 心を落ち着かせようと、残っていた紅茶に手を伸ばす。もう冷めているだろうと確認もせず傾け──

 

 「熱っ」

 

 火傷二歩手前くらいの温度を残していた紅茶を吹き出す寸前で押しとどめ、殆ど反射的に嚥下する。

 

 ちびちびと二口目を飲もうとした時、扉が開き、アリアが入ってきた。

 つい先ほどまでこの部屋に、ルキアの真後ろ、フィリップの斜め後ろにいたはずのアリアが。フィリップが気付く間もなく部屋を出て、どこかに行って、帰って来ていた。

 

 「ルキアお嬢様、カーター様」

 

 紅茶に息を吹きかけて冷ましていたフィリップも、それを微笑ましそうに見ていたルキアも、動きを止めてアリアに視線を注ぐ。

 

 「公爵閣下のご用意が整いました。執務室へどうぞ」

 

 



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71

 アリアが呼びに来たタイミングは、ほとんど完璧に近いものだった。

 もう少し早ければフィリップは興奮に水を差されて機嫌を損ね、もっと遅ければ興奮が静まり、緊張が戻って来ていた。

 

 だから彼女が人知れず──案外、気付かなかったのは半ばトリップしていたフィリップだけだったのかもしれないが──部屋を出たタイミングも、公爵の執務室に都合を確認しに行くのにかかった時間も、帰ってくるのに要した時間も、全て完璧だった。

 

 フィリップとルキアの会話がちょうど途切れていたタイミングということもあり、二人は何らもたつくことなくソファを立ち部屋を出た。至って正常に。

 

 だから──彼女に出会ってしまったのは、誰が悪いということもない、強いて言うのなら運の悪いことだった。

 

 「あぁ、サークリス聖下にカーター猊下、お会いできて光栄です!」

 

 ぱたぱたと──というよりは、どたどたという擬音の似合う、恰幅の良い女性が一人、廊下を走ってやってくる。

 誰だろう、と隣のルキアを見遣るが、ルキアも不愉快そうに、不審そうな目を向けている。公爵家の誰かではないらしい。

 

 年は40歳くらいだろうか。ルキアたちの母親世代だが、どう見てもルキアの母親ではない。

 

 身なりは盛られており──「整えられており」と言うには、服やアクセサリーの装飾が過剰だった──使用人や平民階級の者ではないと分かる。だが貴族と言うには、少しばかり醜い。

 学院にいる貴族はみんな制服だし、ルキアは美しさには一家言ある。つまりフィリップは、いわゆる一般的な「貴族」を知らないので、「貴族と言うには」なんて知った口を利ける立場では無いのだが。

 

 だから知っている範囲に照らして、知ったような口を利くと、ルキアからルキアを引いたような──つまり。貴族としては零点の美しさだった。ルキアが顔を顰めるのも無理はない。

 装飾華美は許せても装飾過多は許せない。美しいか美しくないかの差は大きいということだ。

 

 だからこの時点で、フィリップたちは適当な理由を付けて──いや、そんなことをせずとも、「公爵に呼ばれているから」と正当な理由を告げて、この場を立ち去ればよかったのだ。

 そうしなかったのは、フィリップの機嫌がすこぶる良く、それにつられて、ルキアも普段より幾分か寛大になっていたのが一つの原因だろう。

 

 「えっと、貴女は?」

 

 未だ治まっていなかった上機嫌を変換した曖昧な笑顔を浮かべて、フィリップがそう問いかける。

 女性はニコニコ笑ったまま、何も返さない。ルキアが不快感を露わにする寸前で、アリアが二人の背後で「ルメール伯爵夫人です」と囁いた。

 

 伯爵夫人程度が別邸とはいえ公爵家で取れる態度では無かったが、誰かがそれを指摘する前に、フィリップが「あ、リチャード様の?」と問い掛ける。

 

 我が意を得たりと笑顔を深め、伯爵夫人が口を開く。

 

 「えぇ、はい。この度は不肖の息子がご迷惑をおかけしたようで、大変申し訳ありません」

 

 先ほどのライウス伯爵とは違い、その謝罪の理由は全く不明だった。

 カリストは二人に決闘を吹っ掛け、雛に寄生されていたとはいえ二人を含む班員たちを襲った。謝罪の正当性はさておき、謝罪する理由としては納得がいく。

 

 だが、リチャードからその手の謝罪されるべき行為を受けたことは無い。フィリップを枢機卿の親族だと勘違いしていたからかもしれないが。

 むしろ、フィリップの方こそ「魔術剣を見せてくれ」とか、「剣を触らせてくれ」とか、色々と我儘を言ったくらいだ。

 

 「迷惑、ですか?」

 

 口を利くのも嫌、と顔に書いてあるルキアを横目に、フィリップが答える。

 公爵は彼女に何も教えなかったのか、未だにフィリップ=教会関係者説を信じているようだし、多少の失礼は大目に見てくれるだろう。

 

 「えぇ。恥ずかしながら、あれは一家でも出来の悪い子でして。聖下と猊下と同じ班になったと知っていれば、こんなことになる前に試験を──いえ、学院を辞めさせていたのですが」

 

 ルキアが片眉を上げ、フィリップが首を傾げる。

 話が見えない。こうなる前に辞めさせていた──フィリップと同じ班になれば、こうなると分かっていた?

 

 いや、有り得ない。

 

 こと外神・旧支配者絡みであれば全人類の中で最も詳しいフィリップは、アイホートの存在を確認したり、その干渉を跳ね除ける魔術など存在しないことを知っている。

 邪神──仮にも「神」であるアレに、人間の魔術は大した意味を持たない。その行動を読むなど、行動原理や性質をある程度知っているフィリップでも不可能だ。

 

 魔術や予測でないなら、未来視?

 

 神の言葉を預けられる預言者ならぬ、未来を予言する予言者の存在は、ある種の都市伝説として語られてはいる。だが、あれはあくまで御伽噺のはずだ。

 

 「すみません、仰る意味がよく分からないのですが」

 

 警戒心を抱き始めたフィリップには気付かず、伯爵夫人は上機嫌に語る。

 

 「お二人だけでなく、アルカス侯爵のご令嬢までお亡くなりになったとか? 別の班ではライウス伯爵のご子息や、他にも何人も。まぁそちらはさておくとしても、お二人ほどの魔術師が仲間を二人も失うなんて……息子が足を引っ張ったに違いありませんわ」

 

 魔術師としては平凡以下のフィリップはともかく、ルキアが自分の班員を守り切れなかったというのは、それほど──亡き息子を貶めてまで整合性を取らなければいけないほどのことなのだろうか。

 自分の判断基準に疑問があるフィリップだからこそ、反応に困る。

 

 その隙を突くように、伯爵夫人は言葉を重ねる。

 

 「そのお詫びと言ってはなんですけど、今度、是非うちの別荘に遊びにいらしてください。息子や娘にお二人の話をしたら、とても会いたがってしまって」

 

 息子の名前が何で、どんな魔術が得意で、娘は何という名前で、何が好きで、と。つらつらと話し続けられ、貴族社会に疎いフィリップも流石に「おや?」と思い始めた頃。ルキアが軽く溜息を吐き、夫人の言葉を遮る。

 そこそこの声量で話していた伯爵夫人だったが、そこは貴族。上位者のご機嫌伺いは慣れたものであるということか。

 

 「フィリップも私も、お父様に呼ばれているの。退いて貰えるかしら?」

 

 ルキアの言葉に応じるように、アリアがその前に立つ。

 「退かなければ退かせる」という意思表示に、夫人は慌てて廊下の隅に寄った。

 

 「それは、知らずのこととはいえ失礼いたしました。公爵閣下によろしくお伝えください」

 

 ぺこぺこと頭を下げながら立ち去る夫人の背中を見送り、ルキアは見せかけではなく心底からの溜息を吐いた。

 

 「はぁ…… 二度と敷居を跨がせないで」

 「畏まりました。警備に申し伝えます」

 

 結局、伯爵夫人が何を言いたいのかは判然としなかった。リチャードの死因や死に様を聞きに来たのかと思っていたが、そうではなかったし、むしろリチャードの弟や妹について語られた印象の方が大きい。

 うんざりした様子のルキアに聞くのは気が引けて、後ろに控えていたメグに近寄る。

 

 「あの、伯爵夫人が何を言いたかったのか、全く分からなかったんですけど……」

 

 メグは困ったように微笑して、まずは歩くように無言で促した。

 確かに、公爵に呼ばれてから少し時間が経っている。遅れても怒られたりはしないだろうが、遅れて良いことは無いはずだ。

 

 「そうですね…… 貴族社会に馴染みのないカーター様には、少し難しい言い回しだったかもしれません」

 

 言い回しがどうこうというより、殆ど脈絡が無かったのが理解に苦しんでいる大きな理由なのだが。脈絡を無視する言い回し、ということだろうか。

 言語能力が低いのではなく、わざとやっていた? 何のために?

 

 「要約すると、『ルキアお嬢様には次男を、カーター様には長女を宛がって、ルメール伯爵家に引き入れたい』と、言ったところでしょうか」

 「頭に『死んだ長男なんてどうでもいい』を付けるのを忘れていますよ、メグ」

 

 冗談っぽく言ったメグに対し、アリアはいつも通り淡々と、真顔で言う。キツい冗談なのだろうが、冗談を言う性格でもないように思える。

 となると、誇張抜きの要約なのだろうが──要はリチャードの件は話しかける口実で、何の脈絡もなかった弟妹の話の方が本題だったのか。

 

 無意味な死よりは有益な死の方が幾分かマシ、とは、何故か思えなかった。

 

 歩きながら、メグが続ける。

 

 「以前から、ルメール伯爵夫人とご長男、リチャード様の不仲は有名でした。いえ、正確には、伯爵家からリチャード様への迫害、というべきでしょうか」

 「迫害?」

 

 穏やかならぬ──家庭環境を言い表すのなら、普通は出るはずの無い単語に、フィリップが眉根を寄せる。

 

 「はい。魔術適性の低いリチャード様に家督を継がせたくないからと、学院を退学させようとしておられました」

 「え? そうだったんですか?」

 

 魔術学院は王国最高の教育機関だ。カリキュラムは魔術一辺倒ではなく、経済や法律といった王宮勤めに必要な科目を修めるコースや、冒険者には必須のサバイバル技術や対魔物戦闘をメインとするコースもある。

 卒業資格があれば王都での就職に困らないし、成績上位者には王宮や衛士団といったキャリアが約束されている。

 

 卒業などされてしまえば、家督を継がせないどころか逆に箔が付くというもの。

 

 「はい。ですが、学院長が学校理念を理由に拒否されまして。以来、半ば勘当状態だったとか」

 

 理念と言うと「魔術の実力によってのみ自らを誇示せよ」という奴だろうか。学校外におけるあらゆる権力の剥奪は、つまり、親から子への干渉を──特に、学習の機会を奪うような真似を許さない盾にもなる。

 有名無実だと嘆いていたが、なんだ。意外と機能しているではないか。

 

 「ご長男がお亡くなりになり、弟君を正式な後継者として立てられるようになったので、こうしてサークリス公爵家に繋がりを求めて来られたのかと」

 「なるほど……」

 

 聞かなければよかった、と、フィリップは久し振りに知識の追加を後悔した。

 こと智慧と啓蒙に関しては人並み以上にこだわりのあるフィリップが、だ。

 

 死んでしまった友人の憐れむべき過去を知って、その死をもう少し悼めばよかった──なんて、人間的な後悔をしたわけではない。フィリップの後悔の宛先は、あくまで「今」だった。

 

 「……着いたけど、準備はいい?」

 「……ちょっと待ってください」

 

 メグが語り終えたほんの数歩後。フィリップは公爵の執務室の扉の前に到着していた。

 到着、してしまった。こんな、愉快さの欠片もない話で直前の興奮を冷却して、冷や水どころか液体窒素をかけたような過冷却状態で、公爵と対面しなければならない。平常時のテンションをゼロとするのなら、公爵邸に来た時のテンションは10、ライウス伯爵と別れた直後は60から70はあった。今は──ゼロどころか、マイナスだ。

 

 帰りたい。

 タベールナにでもいいし、学生寮にでもいい。宛がわれた客室でも、別に構わない。

 

 とにかく、こんなテンションで──内心の苛立ちを表情に出さないように必死な状態で、フィリップに対してどんな態度で接してくるかも分からない相手と対面するのは得策ではない。

 

 苛立ちは思考の精度を落とし、判断速度を落とす。そうなると、思考に基づく行動よりも反射の方が優先される。

 これはフィリップに限らず、人間であれば避けようのない身体メカニズムだ。訓練次第では感情と思考を全く切り離せたり、或いは先天的に感情とは全く違う行動を取れたりもするのだが、フィリップにそんな才能は無く、訓練もしていない。

 

 快いから生かす、不快だから殺す、なんて、蛮族の王じみた暴挙に出るつもりはないけれど、それはあくまで理性の話。

 フィリップの獣性──あるいは本性は、独裁者の如き暴虐を厭わない。より正確には、それを暴虐であるとも感じない。眼前を飛ぶ羽虫を叩き落とすのと全く同じ反射で、放っておけばそのうち飛び去って行くであろう命を、不愉快だという理由だけで潰して殺す。

 

 咬みも刺しもしない、できない、無価値なものを、耳障りな羽音と視界を飛び回る邪魔さだけで殺す。

 「不愉快だから」という判断以前に、反射的にだ。

 

 「すぅ……ふぅ……」

 

 二度、三度と、深呼吸を繰り返す。

 緊張を解しているのだと、安穏とした勘違いをするような者は、ルキアを含めて誰も居なかった。

 

 故人を貶めることを指して、冒涜だ、ということがあるけれど。本物の「冒涜」を、冒涜という言葉が形を持ったような存在を知っている身としては、少々笑える表現だ。

 尤も、笑えるのはその表現と、その言葉を当て嵌めてしまう智慧の浅さであって、その行為自体に面白味は無い。

 

 死人を貶すな、なんて言うつもりは無い。

 人間に価値が無いのなら、その生にも同様に価値は無く──生の終着点である死にも、大した意味は無い。

 生と死が同じく無価値で、生者と死者を同一視できるフィリップに、そんなつもりはない。

 

 生死などどうでもいい、()()()()()。とは、少しだけ思うが、リチャードが生きてこの場に居て、フィリップの眼前で貶されたとしても、きっと激昂したりはしなかったはずだ。

 それほど仲がいいわけでもなかったし、その程度の相手に「怒って貰って」も、リチャードは別に喜ばないだろう。

 

 つまりフィリップの苛立ちは、伯爵夫人の言葉ではなく、興奮に水を差されたことによるもので──それを自覚してからは、テンションが平常に戻るのも早かった。

 

 「……よし、行きましょう」

 

 覚悟を──苛立ちに任せて誰も殺さないという覚悟だが──決めて言ったフィリップに、三人分の心配そうな視線が突き刺さった。

 

 

 



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72

 サークリス公爵の執務室は、公爵が一日で最も長い時間を過ごす部屋でありながら、装飾の度合いはフィリップが泊まる客間と同程度だった。

 華美でありながら過多ではない装飾に、まさかほっと安堵の息を吐く日が来るとは思わなかった。話し合いの空間に神経を逆撫でされては、冷静な対応どころではない。

 

 執務机は空席だったが、応接用の高級そうなソファには既に誰かが座っていた。

 

 艶のある金髪をオールバックに撫で付け、赤いベルベットのスーツに身を包んだ男性だ。

 誰か──など、推し量る必要も無いだろう。

 

 彼は持っていたカップとソーサーをテーブルに置き、立ち上がってフィリップたちに近付いてくる。

 

 「やぁ、待っていたよ、フィリップ・カーター君──と、そう出迎えていれば、格好もついたのだけどね。待たせてすまない、頑固な客と、面倒な客が来ていてね。アレクサンドル・フォン・サークリスだ。会えて嬉しいよ」

 「こちらこそ、お会いできて光栄です」

 

 優男然とした雰囲気に似合いの、落ち着いた声だ。冗談交じりの言葉につられるように、フィリップの苛立ちも僅かに解れる。

 

 握手を交わし、公爵の誘導に従ってソファに腰を下ろす。

 対面に公爵が、隣にはルキアが、背後には二人の従者が控え、なんだか包囲されたような気分になる。

 

 「気が立っているみたいだけど、何か粗相があったかな? そういえば、呼んでから来るまでに少し長い間があったけど」

 

 口調はにこやかなままに、しかしアリアとメグに向ける視線は険しく鋭い。

 

 「ルメール伯爵夫人に絡まれていたのよ」

 「……あぁ、なるほど」

 

 アリアやメグが何か言うより先に、ルキアが不愉快そうに言う。

 言外に「どうしてあんなのを招いたのか」と添えられていそうな、批判の色濃い視線付きだ。

 

 「ルメール伯爵夫人も、ライウス伯爵も、私が招いたのではなく向こうが勝手に訊ねてきたのだけれど……まぁ、それはいい。本題に入ろう」

 

 言い訳するようなことでも無いと判断したのか、公爵は咳払いを一つ挟み、空気を切り替えた。

 と言っても、露骨に覇気を纏ったり、視線がすっと据わったりと言った、目に見える変化は無い。あくまで「これから真面目な話をしますよ」というポーズだった。

 

 「お茶をお持ちしましょうか」

 

 既に空になっていた公爵のカップと、テーブル上のフィリップとルキアの前に何も置かれていない空間を見て、アリアがそう訊ねる。

 公爵は「いや」と軽く否定した。

 

 「いや、そんなに時間は取らせないよ」

 

 何の話か、まぁ恐らくフィリップ絡みの何かしらで問題があるのだろうな、と。身構えるフィリップとルキアを余所に、公爵は「ルキアは、昔から魔術の才能があってね。3歳で魔術を使ったかと思えば、5歳の終わりには聖痕を発現させてしまった──」と語り始めた。

 

 「……待って、何の話?」

 

 フィリップと全く同じ疑問を抱いたルキアが、思わずそれを出力する。

 公爵はその質問には「まぁ、黙って聞いてくれ」と宥めるような言葉を返し、続ける。

 

 「ルキアが初めて人を殺したのは6歳になったばかりの頃だ。神域魔術『粛清の光』で、大人の男を──しかも、荒事を専門とする闇ギルドの連中を、5人も塩の柱に変えた。6歳の──友人と遊び、師に学び、人格を形成する重要な時期のルキアにとって、人間は最早、腕の一振りで殺せるモノになってしまったんだ」

 「ちょっと、お父様、何を──」

 

 ルキアの言葉を片手で制し、公爵は冷静に続ける。

 

 「そんなルキアと、『気が合う』君は、一体何者なのだろう──と。私はとても気になった……という話さ」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 サークリス公爵家の長であるアレクサンドルにとって、ルキアは「甘やかしても良い」子供だった。

 

 長女であり、将来的にサークリス公爵家を継ぎ、王宮で重要な役職に就くことになる──その才覚が十分にあるガブリエラに対しては、常に先達としての姿を見せなければならない。

 王国を平和にし、大陸を平和にし、子や孫の世代に残そうという理想はある。だが、現実は見なくてはならない。

 

 王国内から犯罪者やカルトを根絶することは至難であり、他国の領土欲や魔物の繁殖を完全に制御することなど不可能だ。飢饉や嵐などの災害は、予測不可能なものの代名詞ですらある。

 故に、その不完全な王国を任せられるだけの、任せても潰れないだけの教育を施さなくてはならなかった。

 

 だがルキアは違う。血統的にはガブリエラのスペアだが、スペア用の一段落とした教育──家督相続で争いが起きないよう、長子が健在の間は末子の教育を比較的薄くする──など、簡単にマスターしてしまった。魔術に至っては、家の誰よりどころか、国の誰より優れた才を有していた。「世界の誰より」であったことに、そう驚きは無かった。

 

 それだけの才能が有るのなら自由にさせてやりたいと、そう思うのが親の情で──親の情は、貴族としての意識の前に屈服する。

 彼の親も、そのまた親もそうだったように、彼もまた、自らの子に使命を課す。

 

 貴族たれ。

 生まれながらの貴種として、常に気高く、美しく在れ。

 

 ガブリエラはそれを受け止めきれず、受け止めるため、「貴族モード」と「お姉ちゃんモード」を使い分け、負担を二分することにした。

 ルキアはそれを受け止め、物心ついて以来ずっと抱き締めて、抱え育てて、自らに「ゴシックであれ」と課して、背負って生きてきた。

 

 子供の生き方を決めるなど、親のすることではない──そんな自責を抱くような価値観は、彼には無い。

 親が持つべき情も、人として持っているべき道徳も捨て、自分と同等かそれ以上の「貴族」を作り上げる。それが国家運営機構である貴族に課せられた使命であり、貴族が貴族である理由であり、存在意義だ。

 親が情を押し殺し、子に使命を押し付ける。たった二人の我慢が、国民二世代1億弱を導き、生かすのだ。

 

 だから──親として相応しいか、など。そんな自問を、するべきではない。

 

 ルキアの価値観が歪んだことを喜んだ。命を数として認識することにストレスを感じない才能を後天的に、しかも6歳という人格形成期に身に付けるなど、まさしく望外だと。

 娘が人道を踏み外したことを悲しんだ。たった6歳の子が人を殺し、それに慣れ、命を数として認識してしまうことを悲しんだ。

 

 吐き気がするような大義と使命で、悲しみを飲み下した。

 飲み干してしまったから──彼は、アレクサンドル・フォン・サークリスは、父親であることを諦めた。

 

 甘やかしてはいけない子供にも、甘やかしていい子供にも、父の顔を見せることなど無くなった。

 代わりに、生まれついての貴種として目指すべき、悍ましいほどに理想的な「貴族」を見せつけた。彼の父がそうしたように。彼の祖父が、彼の父にそうしたように。

 

 見せろ、魅せろ、見せつけろと、自分に言い聞かせ続けた。

 そして見せて、魅せて、見せつけて。

 

 気付けば、二人の娘は、王国中──否、世界中が憧れる、美しく気高い貴族として成長していた。

 

 それは彼にとって、この上ない救いだった。

 自分の見せた理想に間違いはなく、自分は使命を全うできたのだと。答え合わせが正解だったどころか、満点の回答だったと褒められたようだった。おまえは正しく「貴族」であった、と。

 

 だが救いの先には何も無い。

 これまで通り、「サークリス公爵」として振る舞い続け、二人の娘に「貴族たれ」と求めるだけの「貴族」であり続けなければならない。

 

 飲み下した大義と使命の味にも慣れた頃、長女が魔術学院を首席で卒業し、妻と同じ宮廷魔術師になり。

 次女は魔術学院に入学し──野外訓練に訪れた先の森で、未知の魔物に襲われた。

 

 班員の全滅、仲間全員の死亡を、6マイナス5の単純な計算結果を伝えるように淡々と、義務的とすら感じるほど無感動に報告するルキア。その姿に満足感を覚えるべきだと判断し、それに準じた笑顔を貼り付け──「気の合う友人ができた」と、嬉しそうに話す娘に、そのマスクを剥ぎ取られた。

 

 ルキアと気が合う人物を、彼は一人だけ知っていた。

 公爵家と比肩するどころか、それを上回る重責を代々背負ってきた、この国の頂点──王家の長子、次期女王、第一王女殿下だ。

 

 彼女は──あれは、公爵程度では仰ぎ見ることしかできない、本物だ。ルキアと同じ。

 

 そのレベルの人物が、田舎町に? 何の冗談だと頭を抱えたい気分だったが、そんな無様は見せられない。

 淡々と、まるで娘に共感する親のように、貼り付け直した穏やかな微笑で「それは良かった」と返して──それから、公爵家の総力を挙げての調査が始まった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ──さて。

 「君は何者だ」と言われても、フィリップが持つ答えは「一般田舎育ち平民です」と「白痴の魔王の寵児です」の二つ。「提示できる答え」に絞れば、前者一つのみだ。

 

 とはいえ、そんな答えでは納得できないからこそ、彼はフィリップをこうして呼び出し、対面に座らせているのだろう。

 

 「君のことは調べた。名前、年齢、性別、出身、職業、魔術適性、エトセトラ…… 疑えるものは全て疑い、人と金の力で可能な範囲については全て調べた。君は──」

 

 すっと、フィリップに指を向ける。

 あくまで穏やかに、弾劾の雰囲気など一片も無く。

 

 「君は、平凡な人間だった。生まれついての貴種であり、正しく「貴族」であるルキアと気が合う可能性など、万に一つも無いような」

 

 尤もな話、当然の結論だと、フィリップは頷く。

 あの地下祭祀場で狂うまで──或いは狂えなくなるまで、フィリップとルキアに共通点など無かった。フィリップはただの丁稚、田舎から都会に奉公に出てきた、十把一絡げの子供だった。

 

 そして。

 今のフィリップと気が合う人間などいない。フィリップの価値観に──表出しているものではなく、深層意識にある本当の価値観に共感できるのは、ナイ神父やマザー──外神だけだ。

 唯一神では浅すぎる。旧支配者では弱すぎる。強すぎる外神が軽視と冷笑を以て寄り添い、漸く共感できる。そんな中途半端な存在が、今のフィリップだ。

 

 父親の言葉とフィリップの肯定に、ルキアは無言のまま顔を伏せる。

 

 「だがカルトによって拉致され──君の価値観は驚くべき変容を遂げた。君にもルキアと同じ──我々貴族と同じ、人命を数字として把握する才能が備わってしまった」

 

 一体何を見て、何をされたのか見当もつかないよ、と。公爵は困ったように笑う。

 想像もしなくていい。知らないのなら、知らないまま死んでいけ。それが幸せだと、知ってしまったフィリップとしては思うところなのだが、全く考えないと言うのも無理な話だろう。

 

 「だから──僕の価値観が歪んでいるから、サークリス様……ルキア様には近付くな、というお話でしょうか」

 

 親としては当然の心配、当然の排除だと思う。アイリーンだって、フィリップが友人だと言って殺人鬼を連れてきたら「それは駄目だ」と言うだろう。フィリップの本性を知れば、アガタやセルジオもモニカから遠ざけようとするはずだ。

 

 だから心底からの疑問ではなく、話題を逸らす目的でそんなことを訊ねたフィリップに、公爵は依然として穏やかな微笑を浮かべたまま、首を横に振る。

 

 「まさか。我々貴族が、君の価値観について口を出す権利は無いよ。むしろ私は、君のその才能を買っている」

 「はは……光栄な話です」

 

 よく分からない冗談だと、愛想笑いを浮かべる。フィリップの演技力では愛想どころか引き攣った笑いが限界なのだが。

 

 「君について調べた中で、最も興味深かったのはそれだ。君の精神性や価値観は、我々貴族としては非常に好ましい。そして、次点が──君の保護者役についてだ」

 

 公爵はさっきの話が本題だと、この話はあくまで次点で興味を引いただけの蛇足だという態度で──本題を提示した。

 



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73

 ナイアーラトテップの逆鱗がアザトースだとするなら、フィリップの逆鱗はナイ神父とマザーの二人だ。

 無貌の君に相対したときに白痴の魔王を罵倒すれば、苦痛と絶望に溺れて死ぬことになる。フィリップの前で二人の話をすれば、フィリップが物凄く嫌そうな顔をする。

 

 ……まあ、そもそも存在の格に大きな差がある。その反応に差が出るのは必然だろう。

 

 「……一応、確認させてください。僕の保護者と言うと、魔術学院に提出した書類に書かれている、投石教会の神父様で間違いありませんか?」

 

 フィリップ本人としては冷静に、それこそ公爵が浮かべている──この部屋に入ってからずっと変わらず浮かべ続けている、穏やかで紳士的な微笑を浮かべたつもりで、そう問いかける。

 尤もフィリップの非常に素直な表情筋は、内心の嫌悪感や拒絶感を表出させていたが。主人の不利益になるようなら、それは素直ではなく不忠と言うべきなのかもしれない。

 

 「うん、そうだよ。君の精神変容の原因がカルトだとすれば、君の魔術的素養の変質は彼らが原因だと、私はそう睨んでいるのだけれど……どうかな?」

 

 どうかな、と言われても。

 フィリップが変化した原因の全ては彼らにあるのだが──まぁ、それはいい。

 

 「魔術的素養の変質、と言うと?」

 「ふむ──」

 

 公爵は考えを整理するように、数瞬の沈黙を挟む。

 顎に手を遣って黙考する姿には、さて何を言われるのかとドキドキさせられるが、公爵はまず常識的なことから話し始めた。

 

 「王都内や近郊の人間は、田舎町の人間と比べて魔術適性が高い傾向にある。逆に言えば、君のような田舎生まれの人間は、ほぼ例外なく魔術適性が低い」

 

 こくこくと、フィリップは首肯する。

 魔術適性は血統に大きく影響される──殆ど血統で決まると言ってもいい。魔術学院の卒業生を囲い込んでいる王都とその近郊には優秀な魔術師が集まり、必然的に、そこで家族を形成するケースが大部分を占める。例外的に、冒険者になったり旅人になったりして王都を出る者もいるが、普通は王都の高度で快適な生活を手放したりしない。

 

 王都近郊には優秀な魔術師が築いた家庭があり、その子供も優秀な魔術師となり、またそこで家庭を築く。

 魔術師の血統が外部に流出しにくい以上、王都外で優秀な魔術師が生まれるケースは非常に稀──それこそ、遺伝子変異と同確率程度だ。先天的な遺伝子異常と考えるよりは、神父によって後天的に何かされたと考える方が自然なのかもしれない。

 

 だが、残念ながら──フィリップにとっては特に、非常に残念なのだが──魔術適性には、一切の変質は無い。

 フィリップの魔術的素養は一貫して一般田舎平民レベル、つまり魔術師になる可能性など万に一つもないレベルである。そんな魔術クソザコ一般田舎少年でも使える、現代魔術とは別系統の魔術──領域外魔術を教授したという意味では、公爵の推測は正しい。

 

 「そんな君が、錬金術製の強靭な建材で作られた王都の建造物を、街一画レベルで吹き飛ばすほどの強力な魔術を……正確には召喚術だったかな? まぁとにかく、そのレベルの魔術を行使できるというのは、普通なら考えられないことだ。加えて──」

 

 公爵は一度席を立ち、執務机の引き出しから書類を何枚か取り上げて、元の場所に座り直した。

 アリアとメグを使わない辺り、あまり余人に見せたくない内容なのだろうか。

 

 公爵がそれをフィリップに差し出すと、従者二人は──その気になれば完璧に気配も動きも隠せる技量があるのに、敢えて空気を動かすようにすっと下がり、顔を伏せた。「見ていませんよ」というポーズ……ではなく、本当に見るつもりは無いことを、明確に示したのだろう。

 残念ながら、これは習得しても一般宿でしかないタベールナでは使う機会は無さそうだ。

 

 溜息を一つ吐き、背後の従者から意識を切り離す。今は圧倒的な技量を持った接客のプロではなく、この重要らしい書類の方に目を向けなくては。

 

 「……人物調査書?」

 

 それは、以前に王都衛士団の団長が臣民管理局に問い合わせて入手したものと同じ、フィリップ、ナイ神父、マザー三名についての書類だった。

 フィリップの素性は相変わらず平凡なもので、ナイ神父とマザーのそれは教皇庁による一級閲覧制限がかけられている旨の注意書きだけがある。

 

 「こっちは……手紙、ですか? 私信のようですけど」

 「うん、まぁ、そう見えるように書いてあるからね。……ルキア」

 

 ずっとしょんぼりしていた訳ではなく、しかしずっと黙って話を聞いていたルキアが急に呼ばれ、「何か?」と言いたげな視線を向ける。

 公爵は片手でフィリップの持った手紙を示し、「意訳してあげなさい」と促した。

 

 頷き、「貸して」と差し出された手に、フィリップは素直に手紙を乗せた。

 

 「……教皇領ジェヘナに住む友達からの手紙、近況の報告や安否確認。……まぁ、定期的な便り、という感じよね」

 「そうですね。そう見えますけど…… 意訳ってことは、裏の意味があるんですよね?」

 

 当然の質問に我ながら間抜けなことを言ったと赤面するフィリップに、ルキアは苦笑も浮かべず端的に「そうね」と頷いた。

 

 「大前提として、この差出人の名前。『君の友ヨウェル』……ヨウェル書、あるいはヨベル書は教会指定の偽典だけど、もう一つ。この名前は、教皇庁が擁する秘匿組織の構成員がたまに使う偽名でもあるの。その存在を敢えて匂わせたいときに使うから、偽名と言うよりは符丁かしら」

 「……へぇ」

 

 そんなことを民間人であるフィリップに教えてもいいのだろうか、と、少し心配になる。

 知ってしまったな、では死んで貰おう──なんて展開になったら、死ぬのは彼らの方なのだが。ルキアや公爵にそのつもりが無くても、教皇庁が穏健とは限らない。

 

 「文中の注目すべき点は……そうね、この「君の探していた十字架だけど、私の家には無いようだ。どこか別のところに忘れたんじゃないか」という一文だけど」

 

 すっと、ルキアが公爵の首元を示す。

 金で縁取られた黒い十字架──光と闇の聖痕を与えられたルキアにちなんだものだろうか──が、そこで揺れている。

 

 「スペアではないよ。十字架は肌身離さず持っているし、失くしたことなんて一度もない」

 

 公爵の入れた注釈に頷き、ルキアは続ける。

 

 「十字架は文字通りの意味じゃなく、神官様とあの神父……貴方の保護者、お父様が調べていた二人のことね」

 「なるほど。……じゃあ、私の家には無いってことは、教皇庁に登録されていない偽神官……じゃ、ないですね。何でもないです」

 

 フィリップが口にしかけた推理は、いまフィリップが手にしている人物調査書の閲覧制限によって棄却される。教皇庁は確かに二人のことを把握しており、その素性を王国政府に秘匿している確たる証拠だ。

 それを本当に教皇庁が行っているのか、ナイ神父がそう見せているのか、或いは教皇庁はナイ神父によって掌握されているのか。どれも棄却できない辺り、本当に面倒くさい。

 

 「そうね。悪くない推理だけど、この場合は『忘れたんじゃないか』とあるから……『君の問い合わせた神官について、教皇庁が回答することは無い。彼らについては忘れた方が身のためだ』といったところかしら」

 「うん。まぁ、忘れろと言われて、はい分かりましたと従ってしまうような素直な人間は、宰相なんて豪華な椅子には座っていられないだろうね」

 

 公爵は愉快そうにそう言って笑い、フィリップが持つ書類を示した。

 繰れ、という意味だと捉え、ルキアが持っていた手紙から視線を外し、まだ目を通していない書類を探す。

 

 フィリップの人物調査書、ナイ神父の人物調査書、マザーの人物調査書、ナイ神父の──おや?

 

 「ナイ神父の書類が二枚ありますけど……あ、マザーのも」

 

 よく見れば、検閲済みの証に『一級閲覧制限 教皇庁』と端的に書かれただけの書類の他に、もう一セットの調査報告書がある。フィリップのものは無いが、ナイ神父とマザーのものはここ数か月の行動記録がびっしりと書き連ねられている。外神観察日記などフィリップでもやりたくないが、勇敢な調査員もいたものである。その人はただの神官だと思って行動していたのだろうが。

 

 「君のことと同様に、彼らについても調べた。風貌から察してはいたが、やはり異国人だね」

 「……え? そうなんですか?」

 

 まぁ、確かに。ナイ神父の浅黒い肌、黒い髪、黒い瞳は、王国人の特徴とは合致しない。マザーの銀髪と銀の瞳もそうだ。ルキアも銀髪だが、王国人は普通金髪だ。

 そんなことが気にならないようなぶっちぎりの美形だから──ではなく、それが単なる化身であると知っているから、フィリップはその外見や素性に大した意味を見出さなかったが、確かに、人間にはその背景や歴史が存在する。これは奴隷から国王まで分け隔てなく、絶対にだ。

 

 どこで生まれ、どう育ち、何を経験してきたのか。その歴史が、いまの「その人」を形成する。

 まさか時間という概念を超越した外宇宙から、その触角である化身を送り込んできた邪神であると知っていなければ、そこを知ろうとするのも当然だ。

 

 そして、狡猾無比なナイアーラトテップがそれを予測していない訳もなく。教皇庁所属の神官で、その故郷は王国外であると身元を偽装した──といったところだろうか。

 

 「あぁ。読んでみてくれれば分かるよ」

 「はぁ。…………え、なんですかコレ」

 

 フィリップの目を引いたのは、ほぼ全日分に出てくる『対象2(マザーのことだと先に書かれている)と会話。異国言語のため内容は不明。調査員体調不良により交代』という一文だ。一日や二日程度なら「おいおい体調管理くらいしてくれよ」と笑えるのだが、二人の会話を聞いた要員全員が例外なく体調不良を訴え、交代しているというのは異常だ。どう考えても、要員ではなく対象の側に何かしらの原因がある。

 

 「あぁ、多分、防諜系の魔術だと思うんだけど…… ルキアに聞いても、「言わない」の一言で済まされてしまうんだ」

 「……私が知っている魔術でも知らない魔術でも、教えれば神官様の不利益になるじゃない」

 

 この調子でね、取り付く島もない、と。公爵はそう困ったように笑う。

 せめて現場で魔術を見てみないことには、いくらルキアでもどうしようもないとは思うが──そもそも、たぶん彼らは防諜魔術など使っていない。

 

 調査員たちに害を及ぼしたのは、その異国言語──おそらくは邪悪言語と呼ばれる、彼らが奉仕種族やその他の彼らを信仰する神話生物と交信する時に使う言葉だ。クトゥグア召喚の呪文も、この言語体系に属する言葉で書かれている。

 確か「いあ くとぅぐあ」で「我らが信仰し信奉し心酔する、偉大で強大なクトゥグア万歳!」みたいな意味だった気がする。違ったかもしれない。そもそも文化や価値観の違う相手の言語を翻訳しようというのが間違っているのだが……まぁ、それはいい。

 

 要はルキアがどうこうできるものではなく、むしろ彼女にも害を与える可能性が大いにあるので、できれば避けて頂きたい。

 

 「……それで、結局」

 

 ここまで、ナイ神父とマザーの表面的な異常性を陳列されたわけだが。

 

 「結局、公爵は何が仰りたいのでしょう」

 

 フィリップの問いに、公爵はずっと変わらない笑みを浮かべて、端的に。

 

 「うん。彼らの正体を知っていたら、私に教えてくれないかな」

 「神官ですよ。ただの神官です」



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74

 「本当に?」botと「神官です」botの争いは、僅か3回のラリーで終了した。

 いい加減にしろと止めようとしたルキアに先んじるように、執務室の扉がノックされたからだ。

 

 よく考えたら「正体? ちょっと何言ってるか分かりませんね」という反応の方が良かったかもしれない。いや、かもしれないというか、絶対にそっちの方が良かった。

 正体を教えてくれ、なんて不自然極まる質問に、ドストレートに○○ですなんて自然な答えを返すのは、あまりにも不自然だ。

 

 「どういう意味ですか」と訊き返すとか、「本当に?」と訊き返されたら「違うんですか?」と返すとか、もっといい返事はいくらでも思い付く。後からなら。

 

 フィリップがそんな後悔には満たない反省をしているところに、メグが開けた扉から一人の女性が入ってくる。

 サークリス公爵より十歳ほど年下と思しき女性を、公爵はさっと立ち上がって迎える。

 

 「おかえり、早かったね」

 「早めたのよ。ルキアが友達を連れてくるなんて、初めてだもの…… あぁ、貴方がそうかしら?」

 

 ガブリエラによく似た風貌とその言葉から、彼女がルキアの母親なのだろうと推測は立つ。

 フィリップが挨拶しようと立ち上がるのとほぼ同時に、公爵はフィリップに対して女性を示しながら笑いかける。

 

 「妻のオリヴィアだ。ルキアは彼女似だと思うんだけど、どうかな」

 「よろしくね、フィリップくん」

 「フィリップ・カーターです。よろしくお願いします」

 

 握手を交わし終えると、彼女はフィリップが今まで座っていたソファを示し、自分は公爵の隣に座った。

 どさくさに紛れて退出すればよかった、と思ったのは、フィリップとルキアの両方だ。フィリップにとっては失言直後だし、ルキアにとってはそもそも公爵がフィリップを詰問するような──そんな素振りは見せていないが、和気藹々とした雑談という訳でもない以上、ルキアにとっては不愉快な詰問と大差無い──この対談に不満がある。

 

 「何の話をしてたの?」

 「うん? ルキアや私たちと同じ価値観を持つカーター君を買っているということと、例の神父と大修道女については、話し終えたよ」

 

 よかった、あれで一応は納得してくれた……いや、信じてはいないだろうが、納得したということでこの場を収めてくれるらしい。

 流石に娘の客人にいつまでも尋問じみたことはできないと、そう理性的に判断してくれたのか、或いはどうでもいいのか。フィリップとしては後者であってくれと、そしてできれば二度と彼らに関わらないでくれと願うところだ。

 

 あとでちゃんと釘を刺しておこう。ナイ神父とマザーに。

 

 「……ふぅん?」

 

 フィリップが心のメモ帳に重要事項を書き込んでいると、オリヴィアがつまらなさそうにそんな相槌を打つ。

 彼女は公爵の穏やかな微笑の仮面をじっくりと眺め、一言。

 

 「何を考えてるの?」

 

 と尋ねた。

 

 当然ながら何も考えていないわけは無く、むしろ貴族として、国家のほぼ最高位として、相応しい対応ですらあったと自信を持っていい話題ではあったけれど。

 けれど、だ。けれど公爵は、さっと顔を蒼褪めさせる。まるで約束したことを忘れていた時のように。

 

 「ねぇ、アレク? 言ったわよね? 普段は「サークリス公爵」としての姿を見せてるんだから、お友達を連れて来た時くらいは「アレクサンドル」として、父親として振る舞ったら? って。貴方は確か「そうするよ」って返した」

 「いや、えっと、その……うん」

 

 心なしか一回りほど縮んで見える公爵が、10歳年下の女性に責められているという光景だ。

 あっけにとられるフィリップと恥ずかしそうに縮こまるルキアの前で、夫婦の言い争い──否、一方的な詰問は加速する。

 

 「それに貴方、お茶も出してないじゃない?」

 「奥様、それは──」

 「アリアは具申した。けれどアレクが断った。どうせ「すぐに済むから」とでも言ったんでしょうけど。違って?」

 

 正解だった。

 「差し出口でした。お許しください」と頭を下げるアリアも、どこか気まずそうにしている。

 

 「娘の初めてのお友達に、お茶も出さず、挙句話す内容は彼と、彼の保護者に対する疑念? 父親としてどころか、貴族の歓待としても零点じゃない。相手は平民の子供なのよ?」

 「うっ、た、確かに。でもオリヴィア、彼はすごくしっかりしているよ。彼の個性を鑑みず、ただの10歳の子供に対して接するような態度は、逆に失礼なんじゃないかな?」

 「そうね。じゃあ訊くけれど、貴方の選択した話題は礼儀に適っていて? 彼に詰問するような真似はせず、ルキアの友人として饗応したの?」

 

 ぐぅ、と。公爵はおどけるように言って両手を挙げ、降参だと示す。

 

 「悪かったよ、カーター君。客人に対して些か以上に礼を失していた。ルキアも、君の友人との時間を奪って悪かったね」

 「いえ、大丈夫です」

 「……えぇ、構わないわ」

 

 ルキアは物言いたげだったが、フィリップが軽く返したのを見てそれに倣った。

 ここで変に言い募って親子喧嘩をするよりは、さっさとこの場を立ち去りたいという判断だろう。

 

 ひとまず和解した──元より気分を害してすらいなかったフィリップと、文句を後回しにしただけのルキアを含む集団に対して、和解という言葉が適切なのかはさておき──三人をぐるりと見回し、オリヴィアは満足そうに頷いた。

 そして、一言。

 

 「うん。じゃあ……ご飯にしましょうか!」

 

 くるっぽー、と。荘厳な屋敷の中枢である公爵の執務室には不似合いな、気の抜ける鳩時計の時報が響いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 特に何事もなく一夜を明かし、翌日。

 朝六時の時報で目を覚ました──一応言っておくと、機械時計の鐘の音だ。鳩時計が置いてあるのは公爵の執務室だけらしい──フィリップは、寝惚け眼を擦りながらベッドを出る。

 

 「おはようございます、カーター様」

 「おはようございます……」

 

 半ば眠ったままふらふらと洗面所へ向かい、顔を洗う。

 寝癖を適当に撫でつけて部屋に戻ると、微笑を浮かべたメグが服一式を持って待っていた。

 

 「本日は午前10時より、建国祭が開幕いたします。公爵閣下、奥様、ガブリエラお嬢様、ルキアお嬢様は、午前8時よりお出かけになられます」

 「あ、そうなんですね……え? じゃあ僕はどうすれば?」

 

 服を受け取ったフィリップが困惑を露わに問いかけると、メグは表情も変えずに答えてくれる。

 

 「午前11時ごろにお連れするよう申し付かっております。カーター様が開会式を見たいと仰られるようなら、早く来る分には構わないとも」

 「あー……貴族向けの式典とかがあるんですか?」

 「はい。上位貴族の方々と両陛下の謁見が執り行われます。式典、というほど大掛かりなものではありませんが」

 

 へぇ、と適当に相槌を打ち、そこで会話が終わる。

 

 「それではお着替えが済みましたら、食堂へお越しください」

 「あ、はい。分かりました」

 

 昨日と似たような配色ではあるが、少し動きやすい生地の服に着替え、言われた通りに部屋を出る。

 食堂には既にサークリス公爵、公爵夫人、ガブリエラ、ルキアが揃っており、それぞれの椅子の後ろには側付きと思しき執事・侍女が控えていた。

 

 ただの朝食の席のはずだが、妙に威圧感のある部屋だ。昨日の夕食時にはいなかったガブリエラがいるから、単純に人数が増えている。和気藹々とした食事の雰囲気ではないが、昨日の夕食は意外と会話が弾んだ。……いや、別に意外でも無いか。フィリップとルキアは毎日それなりに会話しながら食事しているし、家族ともなればフィリップより付き合いも長く、深い。

 

 「おはようございます」

 

 ルキアが真っ先に、他の面々も続いて挨拶を返してくれる。

 既に控えていたメグの引いた椅子に座り、料理が運ばれてくるのを待つ。

 

 「フィリップ。マルグリットから聞いていると思うけど、今日の午前中は別行動になるわ」

 「あ、はい。確か、式典みたいなものがあるって」

 

 首肯すると、ルキアも頷きを返す。

 

 「えぇ。だから、終わったら合流しましょう。その間は屋敷で待っていてもいいし、一人で建国祭を回っていてもいいわ」

 

 一人でと言ってもメグは付くわよ、と、公爵夫人が口を挟む。

 

 建国祭は一等地から三等地までどころか、王宮の一部すら開放される大イベントだ。とはいえ、一等地の住民、つまり貴族が二等地や三等地に降りて行ったり、逆に二等地や三等地に住む平民が一等地に行ったりするのはかなり珍しい。どちらの場合でも、トラブルが発生するのは目に見えているからだ。

 ごく稀に王都外から来た観光客が一等地まで足を延ばし、トラブルを起こして衛士沙汰になることもあるが。

 

 さておき、平民であるフィリップが一等地をふらふらするのなら、誰かの付き添いは欲しい。トラブルを避ける方法をよく知る人物の案内は、トラブルに対する最も賢い対処法である「遭遇しない」を容易にしてくれる。

 二等地まで戻ればフィリップ一人で行動することもできるが、その場合、合流時間までに戻ってくることは非常に難しい。祭りの最中は人でごった返すため、馬車の進行速度より人混みを掻き分けて歩いた方が早いレベルだ。

 

 「……じゃあ、二人で回っておきます。えっと、合流場所は?」

 「王宮の正門前でどうかしら? 一番迷いにくい場所だと思うのだけど」

 

 それはそうだけど、と、フィリップは苦笑しつつ頷いた。

 ガブリエラをはじめ、他の面々も同質の苦笑を浮かべている。

 

 確かに王宮の正門といえば一か所しかなく、そのうえ余人は接近しただけで近衛騎士に誰何され、立ち去るよう勧告される。混み合うようなことも、迷うようなことも無い、待ち合わせ場所としては中々良い要素の揃った場所だ。

 普段はルキアの側付きだというメグの顔が、近衛騎士にどれだけ認知されているかが重要になってくるが。

 

 「絶対にメグとはぐれちゃ駄目よ? その子は君の身分証も兼ねてるからね」

 

 公爵夫人の言葉に「気を付けます」と頷いたフィリップに合わせて、メグが「お任せください」と頭を下げる。

 ルキアを除くほぼ全員がフィリップではなくメグの反応を見て、安心したように頷いた。

 

 

 



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75

 祭りと言われてフィリップの脳裏に浮かぶのは、地元で行われていた収穫祭と──悍ましき宮殿で見た、眠りこける魔王の周りで踊り狂う蕃神たちの宴である。

 前者よりは遥かに大規模で、後者よりは遥かに小規模且つ健全な建国祭は、フィリップにとって大いに楽しめるものだった。

 

 出店も催し物も貴族向けの小洒落たものばかりではあったが、物珍しさにふらりと立ち寄って冷やかすことは許される。祭りとはそういう場所だ。

 

 休暇を取った貴族の使用人や、一等地に出店しているような高級商店の従業員などが主となる人混みは、多種多様な人の集まる二等地のそれと比べて少し疎らだ。フィリップの矮躯でもギリギリ押し通れる。

 手刀など切りつつ人混みを縫い、待ち合わせ場所の王城を目指す。ルキアは今頃王宮で式典に出ているのだろうが、フィリップは自由行動だ。

 

 限定開園しているというサーカステントに行ってもいいし、出店でおやつを買い食いしてもいい。錬金術製の手持ち花火を買って遊ぶと言うのもアリだ。自前の魔力で色とりどりの火花を作り出せる魔術師にとっては子供騙しのような遊具だが、フィリップは魔術師もどきで、子供だ。

 

 わいわいがやがや、和気藹々と、フィリップとメグは祭りを満喫する。より正確には、タイムキーパー役のメグを、物珍しさで自制心を失ったフィリップが連れ回していた。

 

 「メグ、あれ! あれは何ですか!? 羽翼と触手のある巨獣! 魔物ですか!?」

 「あれは象ですね」

 「像? じゃあ、あれがガーゴイルっていう奴ですか! 初めて見ました!」

 

 サーカス団のテント前で見世物をしていた象に向かって、でけぇすげぇと目を輝かせるフィリップ。メグは苦笑交じりに「いえ……あの……」と否定しようとするが、興奮状態のフィリップには届いていない。

 うるさいなぁこいつ、貴族の子供か、じゃあまぁ仕方ないか…… と。周囲から向けられるそんな視線にも、まるで気が付いていないようだ。

 

 「岩のような肌! 建物のような巨躯! 本の通り……あれ? でも翼は背中から生えてるって話だったような…… というか、触手が生えてるなんて描写あったかな」

 

 記憶違いか、或いは本の描写が間違っていたのかと大真面目に首を捻るフィリップに、メグは苦笑を失笑に変えた。

 くすくすと押さえた笑いを溢すメグには気付かず、フィリップは「神話生物より原生生物とか魔物の方が遭遇率高いんだから、そっちの知識が欲しかったよなぁ」などとぼやく。

 

 「ふふ……カーター様、あれは象という名前の生物です。魔物ではありません」

 「……あ、そうなんですか」

 

 言われてみれば確かに、魔物からは感じた魔力を一切感じない。尤も、それを根拠に魔物かどうかを判別できるほど、フィリップの魔力感知能力は高くないのだが。

 

 「羽翼に見えるのは耳で、触手に見えるのは鼻なんです」

 「えっ……」

 

 まぁタコやゲイザーにも触手はあるし、蝙蝠や翼竜なんかにも羽翼はあるしなぁ、と。納得しかけていたフィリップにとって、それは信じ難い事実だった。

 愕然と、鼻を器用に使ってお手玉をする象を見遣る。

 

 そんな様子も可笑しかったのか、メグはまたくすくすと笑った。

 

 「なんでも、半年ほど前に暗黒領で見つかった新種だそうですよ」

 「へぇ…… 開拓者が連れ帰ったんですか」

 

 暗黒領は大陸南部に広がる未開拓地域で、どの程度の広さがあって、何があって、何がいるのか、殆ど分かっていない人類未到領域だ。

 一応、最南端(と仮定されている)魔王城と、そこまでの最短(であると思われるほぼ直線のはずの)ルートは地図に載っているが、精度も信頼性もゼロに近い。

 

 開拓者が不定期に送られてはいるが、成果は芳しくない。こうして原生生物を連れ帰ってくることも稀だ。

 珍しいものを見られた。あとでルキアと一緒に戻ってこよう、と決めた時だった。

 

 「おい、見ろよ! 町中に魔物がいるぞ! すげぇな王都!」

 

 と、男の叫び声が耳に障る。

 

 祭りで人がごった返しているとはいえ、ここは一等地だ。参加者の大半は貴族の使用人か高級商店の従業員であり、酒が入った程度で立ち居振る舞いが崩れるような甘い教育は受けていないはず。

 そんな中で耳に障るほどの大声を上げた男は、異物感を伴って目立っていた。

 

 その言葉と、フィリップが田舎に居た時に寝間着にしていたような草臥れたシャツ、鞄一杯に詰め込まれた王都ガイドのパンフレット。どこをどう見ても、田舎から来た観光客──しかも、かなりマナーの悪いタイプの観光客だった。

 

 ツッコミどころは色々あるが、とりあえずパンフレットは一人一枚までだ。王都外では高級品の紙を無料配布しているからと、大量に持ち帰って売り捌こうとでもしているのだろうが。

 

 「羽目を外すのはいいが、迷惑にならないようになー!」

 

 先ほどの声を聞いたらしい衛士が声をかける。鞄の中身までは見えない距離だが、見つかったらしこたま怒られるだろう。

 

 こそこそと鞄を隠すように持ち、衛士から離れるようにこちらへ歩いてくる男。どう見ても不審なその態度を見逃すほど、王都衛士団は甘い組織ではない。

 確実に目を留めた衛士が、不審そうに怪訝そうに一歩、こちらへ近寄り──

 

 「ええい、黙って聞いておれば! 先ほどからの暴言全て、撤回して謝罪して貰おうか!」

 「何を! 貴様こそ、我が主人への中傷全て、撤回して頂こう!」

 

 無謀にも、或いは怒りで周囲の状況が全く見えていないのか、男が二人取っ組み合いを始めてしまった。衛士のほぼ真後ろで、だ。

 

 「……はい、落ち着こうねお二人さん」

 「部外者は引っ込んでいて貰おうか!」

 「左様! これは主の名誉に関わる問題だ!」

 

 基本的に温厚で我慢強い者の多い地域のはずだが、忠誠心に篤いのも特徴だ。酒が入った状態では、普段は聞き流せるような些細な失言も気になるのだろうか。何を言われたのかは知らないが。

 

 がやがやと、取っ組み合いに割って入った衛士も含めた三人の乱闘の周りに野次馬が集まる。

 衛士団の不定期検問などであまりいいイメージを持っていない者は使用人側を応援し、逆に衛士に助けられた経験や恩のある者は衛士を応援する、ストリートファイトっぽい見世物になりつつあった。ちなみに、フィリップは衛士を応援している。

 

 「……衛士団のファンなんですか?」

 「え? すみません、もう一度お願いします」

 

 自分の応援と周りの野次で聞き取れなかったが、メグが何か言ったことだけは判別できたフィリップがそう聞き返す。

 メグが苦笑しつつ繰り返そうと口を開くが、言葉を紡ぐ前に背後から声が掛けられる。

 

 「おぉ、すげぇ! 本物のメイドだ! なぁ、ちょっと──」

 

 ぐい、と。無造作に肩を掴まれたメグが、咄嗟にその手を払いのける。

 

 「……なんですか、貴方」

 

 メグが眉根を寄せたのは、男の不躾な態度だけが原因ではないだろう。

 先ほど騒いでいた観光客らしき男と同一人物のようだが、かなり酒臭い。少し距離のあるフィリップがえずきそうになるほどだ。

 

 「あぁ? なんだってなんだ、お前。メイドのくせに、口の利き方がなってねぇんじゃねぇのか?」

 

 その言葉で、うるさいなぁこいつら、と傍観していた周囲の人間の約半数が、ぴりぴりとした敵意を纏う。

 メイドは身分に劣る──というのは、よくある誤解だ。貴族に仕える従者の中で平民階級が占める割合は、実のところ半分ほどしかない。残りは貴族の次男次女といった家督相続権の低い者であり、そのどちらも高い教養と優れた技術を身に付けている。

 

 命の価値を能力によって定義するとしたら、高度なスキルを持つ高位貴族の従者は、そこいらの木っ端貴族などよりよほど高価である。

 そう自負するだけの研鑽を積み重ねてきた者だけが、あらゆる物品・あらゆる人材が最高級である一等地で働くことができる。

 

 その従者たちのど真ん中で、その従者たちを侮辱するような言葉を吐いた男は、翌日には身ぐるみを剥がされて路地裏に捨てられていてもおかしくないのだが──フィリップの予感した大乱闘は起こらず、むしろ野次馬たちは興味を失ったように、或いは気の毒そうに、衛士対従者二名のアンフェアマッチへと移りつつある乱闘へ視線を戻した。

 

 「ちょっと来い。ゴシュジンサマの代わりに教育してやるよ」

 

 メグの肢体に下卑た目を向け、にやにやと笑う男。

 フィリップとしては、彼女を連れていかれると非常に困るのだが──生憎、フィリップの対人攻撃能力は高すぎる。適当にボコってさようなら、なんて器用な真似は出来そうにないが、まぁ、()()()()()

 

 「《深淵の──」

 

 衆人環視の中で使っても問題なさそうな──問題の度合いが小さい方の魔術を選択し、詠唱を始めたフィリップを遮るように、メグがすっと手を翳す。

 

 「いいですね。どうぞ、こちらへ。カーター様、こちらでお待ちくださいね」

 「お、なんだよ、案外乗り気じゃねぇか」

 

 率先して路地裏へ誘導していくメグに愕然としつつ、その後を追おうとするフィリップ。動くなとは言われたが、ルキアの従者を放っておくわけにもいかない。人目に付かないところに行ってくれるのなら、どちらの魔術を使ってもいいし──いまメグを連れていかれるのは非常に困る、と。そんなことを考えながら一歩踏み出し。

 

 視界の端に漆黒と月光を捉え、止まる。

 

 「……っ」

 

 叶うなら殺してでも会いたくない相手の気配──いや、違う。邪神の気配、魔力感知能力に疎いフィリップでも分かる、たった一度とはいえ宮殿に集う彼らの本性を見たフィリップにだから分かる、覆い隠された存在感のようなものが、まるで感じられない。

 だが視界の端に、確かにカソックと銀髪が見えた。ならば一体、と焦点を合わせ、安堵と肩透かしの溜息を漏らす。どこまで有名になっているのか、彼らは。

 

 仮装して祭りを楽しんでいる参加者から視線を外し、フィリップは路地裏へ入っていったメグを追って駆け出した。

 

 



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76

 王宮で行われる式典に備え、正装して控室に集まっていた公爵一行は、何をするでもないこの時間を駄弁って過ごしていた。

 専らフィリップについてだった話題は、ふと彼の側付きになっているメグのことにシフトした。

 

 「そういえばルキアちゃん、メグを手放して良かったの?」

 

 問いかけたガブリエラに、ルキアは一瞬だけ目を向け、すぐに読んでいた本に目を落とした。

 

 「……えぇ、勿論」

 

 あれ? 無視? としょんぼりしたガブリエラを慰めるようなタイミングで、ルキアがそう端的に肯定する。

 

 「お姉様も知っての通り、マルグリットは私の護衛よ。フィリップの護衛に付けるなら、実力的に申し分ないわ」

 

 自身が世界最強だからか、強さにはシビアなルキアにしては珍しい称賛だ。

 だが、それはガブリエラを納得させるには不十分だった。というより、メグの強さを知るガブリエラが心配しているのは、「フィリップを守れるのか」という点ではない。

 

 「いや、そうじゃなくて。あの子、ルキアちゃんより手が早いじゃない?」

 「人聞きが悪いわね。私もあの子も、尊重すべき命とそうでない命の判断が人より少し早いだけよ」

 

 命の選別という、ともすれば非道徳的な言葉に過剰に反応する者は、この部屋にはいない。

 公爵が「普通、人は他人の命を選別したりしないのだけどね」と苦笑した程度だ。

 

 「それにしても、喧嘩っ早いアサシンというのは、質の悪い冗談のような存在だね」

 「二つ名持ちの暗殺者というだけで、もう冗談みたいなものだけどね」

 

 公爵と夫人がそう言って笑うが、笑い事ではない。

 

 「直接戦闘能力でアリアに並び、悪意を感じ取る察知能力なら上回るのよ? フィリップに付けるなら、あの子以外は有り得ないわ」

 「……過保護じゃないかい?」

 

 そのメグを雇い、ルキアの護衛として付けた公爵が言っても説得力はあまりないが、ルキアは「そうかもしれないわね」と肩を竦めた。

 

 「あんなに可愛くて、しかも『椿姫』なんて、可愛らしい二つ名なのに……そういえば、二つ名の由来って、やっぱりあの子の容姿からなの?」

 

 メグについて詳しくは知らない公爵夫人がそう問いかけると、ある程度の知識があるガブリエラが苦笑する。

 花のように可憐な暗殺者と言われれば、メグの容姿はまさにその通りなのだが、公爵が「いや、違うよ」と首を横に振った。

 

 「彼女は確かに、儚げで美しい女性ではあるけれど──そんな理由で二つ名が与えられたりはしないよ。彼女はあくまで、その技量によって二つ名を得ている」

 

 妻の前で他の女性を褒めた公爵に、娘二人からの冷たい視線が突き刺さる。

 言葉に相槌以上の意味が込められていないことを正確に汲み取っていた夫人は、返答に対して「ふぅん」と返し。

 

 「じゃあ、どうして『椿姫』なの?」

 

 夫人の質問に、ルキアはソファにゆったりと背を預け、一言。

 

 「勿論、その殺し方故によ」

 

 

 ◇

 

 

 

 誘いに乗ってどころか、自分から人気のない方へ向かってしまったメグを追ったフィリップは、タイムロスの原因となった仮装客に呪詛を送っていた。

 見知った相手を追いかけるのに、ほんの数秒のロスは問題にならない。だが、今は祭りの最中で、この近辺は衛士と酔っ払いの乱闘──衛士が二人の酔っぱらいを制圧し終えるまで、もはや秒読みの段階に入っているが──によって野次馬が集まっている。一度はぐれてしまえば、再合流は困難だ。

 

 人波を掻き分けて野次馬の群れを抜けると、少し遠くの路地裏に入っていく男の後ろ姿が見えた。

 

 わざと足音を立て、メグを呼びながら路地裏へ入り──鼻を突く異臭に立ち止まる。

 

 暗順応が始まったばかりの目では、暗い路地裏の石畳が何色かの判別にさえ時間を要する。だが、人間の目は()()()を認識しやすいように出来ている。敵や獲物が弱っていることを正確に確認し、仲間が傷付いたことをいち早く知るための本能として、その機能が備わっている。

 

 故に、路地裏を赤く染め上げるほどぶちまけられた血液を、フィリップの本能は正確に認識した。

 いや、たとえ目を閉じていても、その路地裏に異常が広がっていることは分かったはずだ。

 

 「うっ……」

 

 思わず、シャツの襟で口元を覆う。

 血液の鉄臭さだけでなく、糞尿の臭いまでもが鼻を突き、油断すれば吐き戻してしまいそうなほどだった。

 

 「あぁ──カーター様。表通りでお待ちくださいと、ちゃんと申し上げましたのに」

 

 陶然と、とろけるような声が耳朶を打つ。

 暗がりの奥からゆっくりと歩いてくるのは、この血河の中に在って靴底以外に一点の汚れも付けていない、クラシカルなメイド服の女性──メグだ。儚げな相貌は淫靡にも感じられるほど紅潮し、声色と同じく陶然とした笑顔を浮かべている。

 

 何をしているのか、いや、()()()()()()など、問うまでも無いだろう。

 暗闇に慣れ始めた目は、メグの背後に転がった首と胴体──綺麗に分かれたそれらと、その断面からだくだくと流れ出る血河を捉えている。

 

 転がった首の、下品な笑みに覚えがある。いや、覚えがあるも何も、いま正にフィリップが追いかけて来た男の顔なのだが。

 

 「……殺したんですか」

 

 疑問形ではなく、断定形で。

 頸を綺麗に寸断された死体にも、ぶちまけられた血液にも怯えることなく、「これの掃除をする人は大変だなぁ」と他人事を心配しながら言ったフィリップに、メグは陶然としたまま「はい」と肯定した。

 

 「ルキアお嬢様からお聞きになっていませんか? 私のこと……」

 「……いえ、特には。シューヴェルトさんと一緒にサークリス様の護衛に就いていたとは聞きましたけど」

 

 特に感情の動きを見せず、恍惚ととろけた表情のまま「そうですか」と適当な相槌が返される。

 表情からも言葉からも、メグの内心は全く類推できない。彼女がどうするつもりなのか──人を殺した現場を目撃した、彼女にとってはまず真っ先に処分すべき目撃者であるところのフィリップに対し、どう出るのか。フィリップはここで、それが推察できないことを危惧すべきなのだが、高位悪魔すら無価値と断じる視座の前に、人間の暗殺者が脅威として映る訳もなく。

 

 「臭いですね、ここ。とりあえず戻りませんか」

 

 半身を切って表通りを示したフィリップに面食らったような目を向けつつ、メグは素直に従った。

 

 未だ過剰なほどの興奮状態──薬物やアルコールの影響によってではなく、彼女の『頭部欠損性愛(アクロトモフィリア)』と『血液性愛(ヘマトフィリア)』による、あくまで内部要因による性的興奮──にありながら、メグは至って冷静に思考していた。

 内容は勿論、殺人行為を目撃した、通常であれば最優先処理対象になる少年(フィリップ)についてだ。

 

 暗殺者『椿姫』のマルグリットであった時分ならいざ知らず、今のメグは公爵家に仕えるメイドであり、ルキアからフィリップの護衛を任された身だ。口封じなど出来るはずもなく、したとしても、その後ルキアに粛清される。「されるだろう」なんて、甘い予測は立たない。される。確実に。

 忠誠心から言っても、保身から言っても、この場でフィリップを殺すという選択肢は無かった。

 

 足早に路地裏から離れながら、メグの誘導に従って露店を冷やかしたり、見世物に足を止めたり、不自然にならないように振る舞う。

 王城は三等地からでも遠目に分かる巨大建造物だ。到達するだけならメグが先導する必要も無く、フィリップが先を歩いていた。近付くにつれ周囲の喧騒が疎らになり、大声を出さずとも会話でき、かつ周囲に聞き耳を立てる者が居ないかを判別できる程度になる。

 

 「……あの、メグ?」

 

 先ほどのいっそ淫靡なほどの興奮はどこへやら、メグは背筋を正し、消沈した声で「はい、カーター様」と応じる。

 

 「あ、落ち着いたんですね」

 

 フィリップが言うと、メグは顔を赤らめて俯いた。

 後ろを振り返りもせず、王城の正門が閉じており、周囲には門兵以外が居ないことを確認しながら喋っているフィリップは、それに気付くことも無く言葉を続ける。

 

 「それで、さっきの話なんですけど」

 「……はい」

 

 どこか悲壮な覚悟すら伺わせる、重い受け答えが返される。

 それを不思議に思いつつ、足を止めたメグにつられてフィリップも立ち止まり、振り返る。

 

 「どこまで本当なんですか?」

 「──と、仰いますと?」

 

 こうなってしまっては、もう何を聞かれても正直に答えよう──そう決意していたメグだったが、意図を測りかねる質問にそう返す。

 フィリップは「え、いや……」と、数分前に話していた話題を混ぜ返すのを気まずく思いつつ、誤魔化すように笑顔を浮かべた。

 

 「さっきの象の話です。羽翼と触手が耳と鼻だっていうのは流石に冗談ですよね?」

 

 表情は誤魔化し笑いで、しかし本人としては至って真剣にそう質問したフィリップに、メグは辛うじて「……え?」と絞り出した。

 訊き返したわけではなく、質問に対し婉曲に「何を言っているんだ」と答えたわけでもなく、ただ困惑が口を突いて出ただけだったが、フィリップは二つ目の意味だと受け取った。

 

 「え? 本当なんですか?」

 

 先ほど同じ情報を得たとき──もしかして冗談なのかと半信半疑だったときよりも愕然と、瞠目し口元を覆うフィリップ。「嘘だろ……」なんて独り言も漏れ聞こえる。

 予想の斜め上を行く言葉に、メグは答えも忘れて問いを投げてしまう。

 

 「あ、あの、カーター様? 何もお聞きにならないんですか?」

 「……? 何の話ですか?」

 

 とぼけるようなことを口にしたフィリップに、メグはぐっと言葉を詰まらせる。フィリップが無かったこととして振る舞うのなら、ここはそれに乗るのが正解のはずだ。

 

 まぁ、とぼけるも何も、フィリップとしては虫が死んだ程度の話だ。衛士やルキアやライウス伯爵といった、フィリップに大きな感動を与えてくれた人が死ねば、多少なりとも心を動かされるだろう。アイリーンやオーガストといった家族が死ねば、報復くらいは考えるかもしれない。

 

 そのどちらにも属さないどうでもいい相手の死に、なにか特別な感情を抱けと言う方が難しい話だ。

 人間の死に何も見出さない以上、殺人行為や殺人者に対しても、特段の忌避感や嫌悪感は無い。返り血に塗れでもしていたら、汚いから離れてくれとは思うだろうが。

 

 フィリップはメグを慮っているようで、その実何も考えていない。

 そして、かつては暗殺者であり今は使用人である、人心や物事の機微に聡いメグはそれを正確に汲みとっていた。

 

 「い、いえ、なんでもありません」

 

 頭部欠損性愛(アクロトモフィリア)でありながら、しかし死体性愛(ネクロフィリア)ではないメグは、人の頭部が切断され、しかし未だ生命の残っている数瞬にしか興奮出来ない。

 およそ健常な人間とは言い難い性癖であり、それをしっかりと自覚しているメグは、その自分を上回る異常者を前にして()()していた。

 

 フィリップと初めて対面した時からずっと、彼は公爵が褒め、ルキアが認めるほどの人物であるとは思わなかった。

 立ち居振る舞いは平凡で、ルキアのような超級の魔術師にありがちな濃密な魔力も、公爵のような内面を完全に覆い隠す凪いだ気配も感じなかった。さすがに殺気を飛ばすような真似はしなかったが、たぶん気付かないだろうと思った。

 

 だが、確かに。こと人の生き死にに対する認識は、ルキアや公爵に勝るとも劣らず超越的なものだ。

 死体に対する忌避感、死に対する拒絶感、殺人者に対する嫌悪感が、まるで感じられない。眼前で虫が叩き潰されたのと同程度の感動しか、彼は抱いていない。

 

 なるほど、彼は確かにルキアや公爵と同じ、逸脱した感性の持ち主だ。良心や人間性とでも言うべき機能が、メグのように何かに置き換わっているのではなく、初めから備わっていない。

 

 「──人でなしですね、貴方は」

 

 フィリップには聞こえない声量で、しかし内心に留め切ることはできず、そう呟く。

 尤も、それを耳にしたところで、フィリップは嫌な顔一つせず、どころか気まずそうな笑顔すら浮かべて「そうですね」と肯定してしまうだろうが。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 フィリップの主観で言えば何事も無く、メグにしてみれば()()()()()()()()こそあれど、二人は無事にルキアとアリアに合流することができた。

 幸いにして、王城の門番はメグの顔を覚えていた。誰何されるどころか従者用待合室なる場所へ促され、フィリップたちの方が待ち合わせをしているからと断ったくらいだ。

 

 並んで歩くルキアに「何も無かった?」と訊かれたフィリップの、「えぇ、何事も無かったですよ」と答える口調にも淀みは無い。

 

 「そう、良かったわ。どこか、行きたいところは見つかった?」

 

 ルキアがすっと手を差し伸べる。

 あまりにも自然な仕草に、フィリップは特に何も考えず、応えるように手を乗せて繋ぐ。「お手」の芸をする犬のような反射に、アリアかメグのどちらか──十中八九メグだろうが──が押し殺した笑いを漏らした。

 

 「そうですね…… あ、サーカス! サーカスとかどうですか! さっきメグと話していたんですけど──」

 

 見世物になっていた、あの象とかいう名前の生物。あれが本当に──メグの冗談とか、あるいは勘違いではないかと、フィリップは未だに疑っていた。

 

 魔物とそれ以外の生物を見分ける方法は、簡単でメジャーなものが二つある。

 

 一つは、対象を殺すこと。

 魔物の身体を構成するのは物質ではなく、固体化した魔力だ。殺せば大気中に拡散し、死体は消滅する。つまり、死体が残るのが生物、死体が消えれば魔物、という判別法だ。

 

 もう一つは、対象の保有する魔力量を計測すること。

 魔物と生物の保有魔力は、人間で言う一般人と魔術師くらいの差がある。魔力感知能力に優れた魔術師であれば、魔物と生物を見分けることは容易い。尤も、一見して生物と見紛うような紛らわしい外見の魔物など、そう多くは無い。墓場に犬が出たとき、追い払ってもいい野良犬か、墓の番犬であるブラックドッグかを判別する必要がある程度だ。野良犬と間違えてブラックドッグを追い払おうと攻撃し、墓荒らしだと誤認された墓守が無惨に殺される事件もあるとか。

 

 さておき、大半の魔物は「魔物っぽい」外見をしている。わざわざ魔術師が観察しなくとも、一般人が見ただけで「あれはやばいな」と分かるような見た目だ。

 そしてあの「象」とやらは、控えめに言って「魔物っぽい」外見だった。

 

 最強の魔術師に判別して貰おうと、もと来た道を戻ろうとルキアの手を引き──逆にルキアに腕を引かれ、立ち止まる。

 

 「……待って? いま、なんて?」

 

 どうしたのかと振り返ったフィリップに、ルキアにしては珍しい曖昧な笑顔が向けられる。

 

 「え? えっと、サーカス団の見世物の象が──」

 「そうじゃなくて。いま「メグ」って、呼び捨てにしなかった?」

 「え、えっと……?」

 

 今というか、ずっとそうだ。

 初対面のときはどう呼ぶべきか迷っていたが、「メグさん」と呼んでみたところ「敬称は不要、敬語も不要」と言われてしまった。勿論、目上の人に対してざっくばらんに接することに慣れていないフィリップは、何度か言い募ったのだが、最終的に「プロとして客人に遜られるなど」という言葉に折れた。

 

 元丁稚として、相手の善意が職務の邪魔になることのもどかしさは身に染みて理解している。善意とは違うが、この場合も似たようなものだろう。

 フィリップもメグを困らせるのは本意ではない以上、無理強いすることはない。

 

 「ルキアお嬢様、私がお願いしたんです。カーター様はお客様ですから、使用人である私に遜られると私の方が困ってしまいます、と」

 「……そう」

 

 不機嫌そうな相槌を打ったルキアから、そっと離れようとしたフィリップだったが、手を繋いでいたことを思い出して諦めた。

 駄目か? 駄目だったのか、呼び捨て。変に拘ってメグのプロフェッショナルを邪魔してしまうより、フィリップが折れた方がいいと思ったのだが。

 

 無言のまま何事か考え込むように目を伏せてしまったルキアに、フィリップの「もしかして怒られる?」という視線が向けられる。

 幸いにして、その予想はすぐに覆された。

 

 「ねぇフィリップ、私のことも名前で呼んでみてくれない? 敬称も抜きで」

 

 にこやかに、上機嫌を装って言うルキア。アリアとメグがそっと二歩ほど下がったことに、フィリップは気付かなかった。彼女たちの洗練された所作は、まさにこの瞬間の為に磨き上げられたものではないかと思ってしまうほどだ。絶対に違うが。

 

 「え? えっと……」

 

 フィリップが誰かに遜る理由は、くせと社会適応の二つが大きい。

 昔から誰に対しても丁寧に接するよう躾けられてきたし、フィリップ自身も心掛けている。周りの大人もみんなそうだったから、それが普通のことでもあった。

 

 加えて、植え付けられた価値観に素直に従った立ち振る舞いをしていては、社会から爪弾きにされるどころの騒ぎではない。社会を、人類という総体を、爪弾くような気軽さで滅ぼしてしまいかねない。意識的に他人を尊重するのは、半ば必須事項でもあった。

 

 中でもルキアやヘレナといった相手は、貴族で、年上で、聖人だ。普通ならフィリップのような一般人が、こうして一対一で会話できるような人物ではない。

 その知識に基づけば、彼女を名前で呼ぶ──本来は「ルキフェリア・フォン・サークリス聖下」と呼ぶべきなのだが──というのは、あまり褒められた行為ではない気もする。

 

 しかし、その当人から「こうしろ」と言われたことを断るのとどちらが失礼なのかと訊かれれば、フィリップは明確な答えを返せない。

 ちらりとメグとアリアの顔色を窺うが、二人とも静かに目を伏せている。許している様子も、逆に咎めるような雰囲気も、何も感じ取れなかった。

 

 「怒られたら一緒に謝ってくださいね、ルキア」

 

 呼び方どうこうよりも遥かに失礼なことを自覚せず──しっかり考えれば分かるはずだが、たかが人間の呼称にそこまで考えを回さない──、フィリップはそう言って照れ笑いを浮かべた。年上の女性に馴れ馴れしく接することに気恥ずかしさを覚える程度の子供っぽさ、人間性と言うよりは人間臭さのようなものは、まだ残っているらしい。

 

 「──怒られないわよ。さぁ、行きましょう? サーカスだったかしら?」

 「はい! さっきメグが「象は生物だ」って教えてくれたんですけど、どうにも実感が湧かなくて……」

 

 ルキアは一転して上機嫌に、フィリップの手を引いて歩き出す。

 フィリップもフィリップで、なんだかルキアと仲良くなれたような気がして嬉しくはあった。あの森で出会ってから今日まで何度かトラブルはあったが、それでも彼女は人間性を翳らせることなく、しかもフィリップに友好的に接してくれている。仲良くなれるのなら、それに越したことは無い。

 

 「象? 象ってあの、鼻の長い?」

 「……鼻」

 

 どうやらメグの冗談と言う線は完全に消えたな、と。フィリップはおかしいのは自分の方だと認めざるを得ないようだった。

 

 



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77

 初日にちょっとしたイベントこそあったものの、一週間に亘る王宮祭は──王宮祭そのものが一大イベントなのだが──何事も無く、フィリップとルキアの子供心を大変に満たして最終日を迎えた。

 

 祭りの最終日と言えば、これで幕引きかという寂しさを紛らわせるように、ひときわ騒ぐものだ。この王宮祭もその例に漏れず、最終日に最大のイベントが予定されている。

 いや、王都全域を挙げてのお祭り騒ぎは、そのイベントのための前座に過ぎない。歴史書を紐解くまでも無く、王宮祭の開催を告げる掲示には「建国祭は当初、一日の御前試合のみであった。それを最大限盛り上げるため、時折日取りの調整が為され、今ではこうして一週間もの大規模催事になっている」と記されている。

 

 魔術や剣術に興味を持つ者にとって、御前試合は国内最高峰の技術を持った者たちが集まる、見逃せない催しだ。興味の無い者にとっては退屈だろうが、それでも上位5名による演舞は美しく見ごたえのあるものとして人気を博しているらしい。

 

 この一週間、ルキアはずっとフィリップと遊んでいた。御前試合に向けた訓練は不要だと言い切り──実際、彼女に必要なのは台本を読み暗記することくらいだった──フィリップも含めた家族全員がそれを信じた結果だ。

 信じないという選択肢は、彼女の実力を知っていれば存在しないのだが。

 

 今年の王宮祭も例年通りの展開を経て、5位が騎士団長、4位が衛士団長、3位にヘレナと決まっていく。

 

 そして、決勝戦。

 控室にフィリップを呼び出したルキアは、開口一番、

 

 「演技を辞めようと思うのだけれど、どうかしら?」

 

 ──と。

 サークリス一家と共に応援に来たフィリップが、返答どころか咄嗟には理解できない相談を持ち掛けた。

 

 「あー…… えっと、演技ですか?」

 「えぇ。これから私たちが演じる御前試合の決勝戦、あれに台本があるって、前に話したわよね? それを放棄しようと思うの」

 

 その話なら、フィリップもちゃんと覚えている。

 御前試合における例年の上位三名、ヘレナ、ルキア、そして火属性の聖痕者であるアヴェロワーニュ王国第一王女。彼女たちの魔術戦は、当然ながら上級魔術の撃ち合いどころでは済まない。以前の決闘でカリストが使おうとしたような一撃必殺級の大魔術が牽制打に使われ、『粛清の光』や『明けの明星』といった神域魔術ですら決定打とはなり得ず、それを正面から撃ち合うような決戦だ。

 

 会場となる王立闘技場の防護は万全だという話だが、防護魔術をかけた宮廷魔術師も建材を用意した宮廷錬金術師も、口を揃えて「聖痕者の魔術はちょっと無理です」と上奏する。

 故に、彼女たちの試合では、予め見映えを意識した台本が用意され、その通りに演じるよう求められる。御前試合という大層な名前ではあるが、要は演舞だ。

 

 確実に誰も死なず、確実に周囲に被害が出ず、そして魔術の強弱ではなく華美さを追求した、殺し合いとはかけ離れた安心感のある見世物。

 そこから台本を、安全な筋書きを放棄するということは、演舞は試合に、見世物は殺し合いに逆戻りするということ。

 

 「……王女殿下を暗殺するおつもりですか?」

 

 この場の全員が絶句するような質問を投げたのは、フィリップですら冗談かと思うような言葉を真顔のまま吐けるアリアだった。

 止めるつもりか、それとも協力するつもりか。どちらともつかない無表情で、淡々と尋ねる。

 

 「まさか。ステラにはきちんと説明するし、見映えを意識したまま殺せるほど弱い相手ではないわ」

 

 苦笑交じりの言葉に嘘は感じられない。公爵と夫人が胸を撫で下ろすのを横目に、フィリップは「では、何故?」と重ねて問う。

 ルキアはすぐには答えず、控室の机に置かれていた──放り出されていたわけではなく、机と冊子の四辺が平行になるよう丁寧に静置されている──台本を取り上げ、フィリップに手渡した。

 

 適当に繰ってみると、元々書かれていたであろう黒字の上からびっしりと、ルキアの筆跡の赤字が書き加えられている。修正案のように見えるが、一か所につき最低二度は修正が重ねられており、もはや原型は残っていないと一見しただけで分かるほどだ。

 

 「始めは台本を改変する方向で考えていたのだけれど、そもそも台本通りに演じていること自体が、多様性を狭める原因なんじゃないかって思ったの」

 「……なるほど?」

 

 そもそもその「多様性を狭める」が全く分からないのだが、彼女は何を厭うているのだろうか。

 これまでにも何度か、少なくとも「例年この順位だ」と言われる程度の回数は、その台本に従って演じてきたはずだ。ここにきて我慢が限界を迎えたとかだろうか。

 

 「えっと、どうして台本通りじゃダメなんですか?」

 「そ、そうだよ。これまで台本通りに演じて来たじゃないか」

 

 フィリップの質問に、公爵も重ねて問う。

 公爵夫人とメグは、何故か答えを聞いてすらいないというのに半笑いだった。苦笑……いや、呆れを含んだ、慈しむような微笑に見える。

 

 フィリップがそれを不思議に思うのとほぼ同時に、ルキアが覚悟を感じさせる口調で答える。

 

 「今年は特別。いつもみたいな見映え一辺倒ではない、強さと美しさを高度に兼ね備えた、最高の魔術を見せたいの」

 

 おお、流石、と。

 彼女の『美しさ』への拘り──ゴシックであれという彼女が自らに課した生き様を知るフィリップは、そんな感心の籠った眼差しを向ける。感心というには同族意識や羨望も混じっており、純粋どころかどろりと濁った視線に近いものだったが。

 

 「いいと思います」

 「え? いや、ちょっと待ってくれ」

 「えぇ、ちょっと落ち着いて?」

 

 肯定したフィリップに対して、公爵と夫人はやや否定的だ。無理もないと、フィリップですら知識の上では共感できる。

 聖痕者同士の戦闘は周囲への被害も予想されるが、何より本人が怪我をする──死傷する危険がある。ルキアは生半な相手では歯が立たないどころか、歯牙にもかけない振る舞いが許される絶対的強者。そしてそれは相手も同じだ。どちらが怪我をしても、どちらが死んでもおかしくない、人外領域での魔術戦になる。

 

 ……で、誰か死ぬかもしれない()()のこと、気にする必要があるのか?

 ルキアが確実に死にますとか、逆にルキアが確実に第一王女を殺して逆賊になりますという話なら、それは勿論止めるけれど──可能性があるというのなら、いまこの瞬間にアザトースが目覚め、世界が泡と消える可能性だってある。いちいち気にしていては何もできない。

 

 それに──

 

 「大丈夫でしょう。ルキアが魔術で失敗するところ、想像できますか?」

 

 あっけらかんと、いっそ楽天的に言い切ったフィリップに、一行はそれぞれ異なる視線を向ける。

 公爵と夫人は呆然と、メグは仮面のような微笑、アリアはいつもの無表情だ。そしてルキアは、

 

 「ありがとう、フィリップ。その信頼には絶対に応えるわ」

 

 と、その言葉に似合う、心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 

 「……そろそろ時間ね。行ってくるわ。皆も時間までには客席に戻っていて頂戴」

 

 その笑顔も引っ込めないうちに、彼女はさっさと席を立ち部屋を出て行ってしまった。側付きのアリアが公爵に一礼してそれに続く。

 壁に掛かった機械時計によると、確かに開演──いや、開幕の時間まで20分ほどしかない。控室から貴賓席まで数歩というわけではないし、トイレにも行っておきたい。フィリップたちも移動すべきだろう。

 

 「じゃあ、僕たちも行きましょう」

 「ちょ、ちょっと待ってくれカーター君。いま、ルキアのことを名前で呼ばなかったかい?」

 

 部屋を出て行こうとしたフィリップの腕を掴み、公爵がそう問いかける。

 あくまで疑問と驚きを表出させている公爵の後ろには、モニカがたまに浮かべるものと同質の愉悦と好奇心に満ちた笑顔の公爵夫人とガブリエラが見える。

 

 なんかデジャヴだなぁ、と、フィリップとメグは同時にそう思った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 『建国祭の目玉である御前試合も着々と進み、遂に最終戦です! 今年も例年通り、対戦カードは『明けの明星』ルキア・フォン・サークリス公爵令嬢対『恒星』ステラ・フォルティス・ソル=アブソルティア・レックス第一王女殿下! 世界最高、世界最強の魔術師同士の、華々しく美しい試合が期待されます! えー、実況は引き続き私、王立魔術研究会のニーナ・フォン・マルケルが、最終戦の解説はおばあちゃ……いえ、魔術学院学院長、ヘレナ・フォン・マルケル聖下が担当します!』

 『……よろしくお願いします』

 

 拡声器越しに、楽しげな声と、うんざりしたような聞き覚えのある声が届く。

 フィリップたちのいる貴賓席のちょうど下あたりが実況席だ。少し身を乗り出すと、客席に向かって楽しそうに手を振る20歳くらいの女性と、頬杖をつきながら救いようのない馬鹿を見る視線をその女性に向ける、魔術学院学院長にして風属性聖痕者、ヘレナの姿が見えた。

 

 『あのね、ニーナ。貴女のお祖母さまは私の姉、つまり私は伯祖母だから』

 『いまは私のお姉ちゃんでもありますけどね! こんなに面倒な関係性があるの、間違いなく私たちくらいですよ!』

 

 フィリップも含めた観客が困惑するような会話が拡声器越しに垂れ流されている。

 打てば響くと言うか、少なくとも深い思索を挟まず脊髄反射で会話しているような二人の掛け合いは、少しの待ち時間を潰すくらいの役割は果たしていた。

 

 『まぁ、転生者がそもそも私くらいでしょうし、ね。あんな複雑極まる魔術、もう一度やれと言われても不可能なくらい……』

 『──おっと、そろそろお時間となります! 選手のお二方の入場です! 皆様、拍手と共にお迎えください!』

 

 自慢っぽくなりかけたヘレナの言葉を遮るように、実況のニーナが声を張り上げる。

 客席から鳴り響く万雷の拍手を合図に、選手が闘技場へと姿を現した。

 

 貴賓席のフィリップから見て右側の入り口から、まずはルキアが進み出る。

 肌を露出しない黒いゴシック調のドレスを纏い、貴賓席に向けて優雅に一礼する姿はとても絵になる。客席を満たしていた拍手が一瞬止まり、息を呑む音や溜息の音が聞こえたほどだ。

 

 麗しき立礼に応えるように、フィリップと公爵家一行が拍手を再開する。それにつられて客席にも拍手の波が戻り始め──また止まる。

 今度はルキアの美貌や所作によるものではなく、彼女とは闘技場の中心を挟んで反対側、貴賓席から見て左側の入り口から姿を現したルキアの対戦相手。第一王女によるものだった。

 

 腰まで伸びるウェーブがかった金髪は陽光を反射して煌めき、ルキアにも負けず劣らず整った相貌には獰猛な笑顔が浮かんでいる。

 彼女が放つ気配に中てられた観衆は一切の動きを止め、ただ自然と首を垂れる。気配──威圧感というよりは、存在感だ。闘技場の客席を埋め尽くす幾千の観客に、彼女はその意識のほんの一片すら向けていない。威圧や威嚇は勿論、これほどの人間の視線や認識すら気にしていない。

 

 自分がどう見えるか、どう振る舞うべきか。何が、最も『美しい』のか。常にそれを気にしているルキアとは対照的に、彼女は自分一人で完結しているように見える。

 閉鎖的、というか──自我を構成する自意識の密度が高い。他人の干渉を跳ね除けるほど、あるいは他人を強烈に惹き付け、首を垂れさせ、傅かせるほど。

 

 「──」

 「──」

 

 客席からでは聞こえないが、二人は何事か会話を交わしている。

 都合のいいことに、二人が会話を終えるのと、第一王女の覇気に中てられて頭を下げていたニーナが復帰するのは同時だった。

 

 『あぅ……失礼いたしました、もう4年目なのに、慣れないなぁ…… じゃ、なくて! えっと、これより、御前試合決勝戦を開始いたします! 両者、構えて──始めっ!』

 

 



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78

 ルキアにとって、この御前試合というイベントは面白味のない退屈な時間だった。

 

 あらかじめ渡された台本を暗記し、その流れに沿って魔術を使うだけの十数分。人前に立つことに慣れていなければ緊張もしようが、「美しさ」に──他人の目があることを前提にしたような概念に固執してきた彼女にとって、視線など今更意識するまでも無いものだ。

 そのうえ、台本で指示される魔術は中級から上級。ルキアにとっては歩行にも等しい児戯未満だ。舞台上を衆人環視の下歩き回るにも等しい虚無感に苛まれる、苦痛ですらある時間だった。

 

 だが御前試合は300年前から脈々と受け継がれてきた恒例行事だ。彼女の世代だけでなく、かつての聖痕者も参加してきた格式と伝統を誇る。だから「面倒なので参加しません」というのは、通る通らないは別にして、あまり美しい行いでは無かった。そして参加するのなら、台本通りにきっちりと洗練された魔術を魅せつけなければならない。

 

 面倒くさいなぁ、という内心など一片も感じさせない演技を見せてきたルキアだ。彼女が「台本を破棄する」と運営に言ったときは勿論驚かれ、それなりに言い募られたのだが──「これは打診ではなく通達である」と断言したことで、すぐに静まった。対戦相手であるステラ第一王女が二つ返事で了承したのも大きな要因だろう。

 

 どこぞの三下魔術師が書いた──演武に造詣の深い宮廷魔術師数人が知恵を絞って書いた──台本に従うことそれ自体も、ルキアの美意識にそぐわない。

 だがそれ以上に、今年の御前試合では張り切るに足る理由がある。これまでの漫然とした、最低限の美しさを魅せてさっさと帰るような立ち振る舞いは見せられない。見せたくない。

 

 いや、正確には、「自分の力量を知っている相手に、手を抜いた無様な魔術を見せたくない」か。

 対戦相手のステラも、解説席にいるヘレナも、もちろん貴賓席にいる家族も彼女の力量は知っているが──彼女らにではなく。今年初めて建国祭に来て、今年初めて御前試合を見る──しかしルキアの本気を知っている、人間以上の存在をすら知っている少年に。

 

 生半な魔術師どころか、時折ルキアにすら冷笑を向けるフィリップだ。

 彼に認められるだけの力を付けようと日々努力はしているが、まだまだ遠い。あの悍ましいほどの神威を放つシュブ=ニグラス神の神官、マザーの足元にも及ぶまい。彼の保護者だという神父にも、悔しいが全く届かない。もっと強くならなくてはならないが──発展途上だからと手を抜いたり、台本通りに子供騙しの低級魔術を使っていては、彼に失望されてしまう。

 

 それは嫌だ。

 笑顔は威嚇だという話を聞いたことがあるけれど、あの森で見せた冷笑にはそれすら無かった。愛情も同調も、威嚇や韜晦も、眼前の存在に対して向けるには過分だと言わんばかりの、冷淡無比な蔑みだけがあった。もう一度、あの何の価値も見出していないような、嘲りすら混じった冷笑を向けられると考えただけで、背筋を刺すような恐怖が沸き上がる。

 

 今できる全力を揮う。

 今見せられる最上を魅せる。

 

 それが()()()()であるルキアに許された最善の選択肢であり、信仰するシュブ=ニグラス神と、その寵愛を受けるフィリップに向けるべき誠意だ。

 

 それに。どうするべきとか、どうすれば美意識に適うとか、そういう理屈を全く抜きにしても──フィリップには、一番美しい自分を見て欲しい。

 あの森やダンジョンでは少し情けないところを見せたから、せめてこの御前試合では気を張って、張り切って、“ルキア・フォン・サークリス”を魅せたい。

 

 その為になら、命だって懸けられる。

 

 ──嘘だ。

 命を懸けるとか、身命を賭すとか、そんな大それた大層な覚悟なんて抱いていない。

 

 覚悟も決意も無く、ただ命を懸け身命を賭し、心身を擲っている。

 命を懸けて実行する、ではなく。命がどうこうという思考すら浮かばない、一所懸命という言葉でも足りないほどの没頭具合。

 

 結果として死ぬならそれでもいい。無様を見せるよりずっといい。

 

 

 

 「──相変わらずの壊れ具合だな。いや、少し酷くなったか?」

 

 貴賓席に並ぶ家族や他の高位貴族、その上の階にある玉座に向けたように見える一礼。

 同じ女性から見ても魅了されそうな、彼女の美貌を引き立てる見事な所作だ。そこに確かな敬意が込められているのを見て、彼女──次期女王、アヴェロワーニュ王国王位継承権第一位、ステラ・フォルティス・ソル・アブソルティア・レックス第一王女は、怪訝そうに呟いた。

 

 ルキアが誰かに敬意を払うところなど、知り合って以来13年間で一度も見たことが無い。

 自分の両親にも、ステラの父である現国王にも、他国の聖痕者や教皇庁の司祭、唯一神の祭壇の御前ですら、心底からの敬意を見せたことなど一度も無い。ステラと同様、と頭に付くので、それを責めるつもりは無い。むしろ共感すらしていたのだが──だからこそ、その変化は不思議だった。

 

 「──あぁ、ステラ」

 

 ルキアが向き直り、薄く笑みを浮かべた。

 彼女たち聖痕者が有象無象に向ける冷笑ではなく、互いを殺し得る好敵手に、そして互いを深く理解している友人に対する笑顔だ。

 

 「久しぶり。私の提案がお気に召したようで良かったわ」

 「“脅し”と言うのだ。こちらに選択肢が無い“提案”のことはな」

 

 呆れたような台詞ではあったけれど、ステラが浮かべているのは呆れ笑いではなく好戦的で獰猛な笑顔だった。

 

 「お前だけが一方的に台本の流れと縛りを捨てれば、まぁ順当に私が死ぬ。故にお前に演技破棄の意志がある時点で、私が取れる戦略は“同調”の一択だ」

 「貴女も相変わらずね。相変わらずの──」

 

 ルキアが笑う。

 フィリップはおろか、家族ですら見たことが無いほど凄惨に──立場に於いても、力量に於いても自らと同格の相手にだけ向ける、不快感と親愛の入り混じった複雑な笑顔だった。

 

 「──美しさの欠片もない、気色悪いほどの合理主義」

 「お前こそ、まだ美しさなどという主観的で果ての無いものに拘っているのか?」

 

 二人が吐き捨てる。その応酬には紛れもない不快感が込められていたけれど、しかし敵意は一片たりとも含まれていなかった。

 むしろ互いへの尊重と、尊敬と、それに起因する口惜しさのようなものが多分に含まれていた。

 

 貴女はどうして、戦略的合理性(そんなもの)に拘るのか。

 お前はどうして、美しさ(そんなもの)に拘るのか。

 

 それが美意識に適わないことであれば、如何なる合理的手段も、たとえそれが意思決定点における戦略的最適解であったとしても選択しない。美しいか否か、それだけが意思決定の基準であり、行動規範。

 それが戦略的合理性に適うのなら、どんな汚い手でも使う。身を侵すような汚穢に浸り、敵と同胞の血と肉を啜り喰らい、最大の利益を得る。

 

 無疵か、無謬か。

 全く違うようでいて、その実双子のように似通った性質の二人は、その一点以外においては気の合う友人だった。

 

 他人に価値を感じない。腕の一振り、指の一弾きで死んでしまう人間に。

 社会に価値を感じない。どれだけ堅牢な制度を作り上げても、力によって瓦解してしまうような社会には。

 世界に価値を感じない。人間と人間社会、弱くて脆いこの世界は、もはやどうしようもないものだ。

 

 だが、これは万人と共有できる常識ではない。

 超越者の視座と言えばマシに聞こえるが、要は異常者の視座だ。語り合うことも、理解し合うことも望めない価値観だ。この大陸には2億人もの人がいて、人間以上の力と智慧を持つ悪魔や龍、精霊などを含めれば意思疎通ができる者はもっと多いのに──共通のロジックを用いて共通の認識を共に作り上げる関係構築の第一段階、会話が噛み合う者があまりにも少ない。

 

 同性で、年頃が近くて、地位が近くて、そして何より身近にいる。そんな好条件を併せ持った相手など、互いに一人しかいなかった。

 話が合う。価値観も合う。視座も同じで、魔術の才能や戦闘魔術師としての性能も同等。一緒に居ることも多かったし、一緒にいると楽しくもあった。

 

 けれど──だから殊更に、その一点の違いが許容できない。

 その一点さえ違えば、貴女は/お前は、本当に完璧な存在なのに。

 

 互いが互いの相違点である信念の強さを、自分の抱いているものと同等であると──何があっても揺るがない強固なものだと知っているから、矯正しようとは思わなかった。この決定的な差異を抱えたまま、ずっと一緒にいるのだろうと思っていた。

 だが、違った。違っている。前に会った時とは、ルキアの纏う雰囲気が明確に異なっている。

 

 「……何があった? 今回の申し出といい、今の立ち振る舞いといい、今までのお前とは全く違うものに思える」

 

 「美しさ」は、個々人の主観によって定義される、絶対性の無い概念だ。

 そこに正解は無く、不正解も無い。結論が存在しない代わりに、無限の過程だけがある。

 

 ルキアもそれは分かっているだろうが、彼女はそれを強固な自我によって──自分の信じる「美しさ」という明確な指標によって解決した。他人の目どころか、他人の存在すら意識外へ追い遣り、自分の価値観を絶対的なものにしていた。

 親、姉、友人(ステラ)、国王でさえ、彼女の価値観、在り方に影響することは無かった。

 

 それが、今はどうだ。これまで見せたことも無いような心底からの礼を見せ、これまで面倒そうにしつつも従っていた台本を破棄し、こうして戦意すら滾らせてこちらを見ている。

 

 「貴女らしからぬ質問ね。全ては最も美しい私を見せるため……当たり前でしょう?」

 「今まで通りのお前から出た言葉であれば、それで納得したのだがな」

 「嘘だと思う? なら、そうね……私に勝てたら、あの子に紹介してあげる」

 

 唇に指を当てて艶やかに笑うルキアの言葉を、ステラは「くだらん韜晦だ」と笑う。

 わずかに生まれた会話の隙を狙ったかのように、間の抜けた実況の声が割り込んだ。

 

 『あぅ……失礼いたしました、もう4年目なのに、慣れないなぁ…… じゃ、なくて! えっと、これより、御前試合決勝戦を開始いたします! 両者、構えて──始めっ!』

 

 ステラは口角を吊り上げ、獰猛な笑顔を浮かべる。

 

 誰を指して言っているのか、そもそもルキアを変容させるような人物が存在するのか、突っ込むべきところは色々とあるが──どうでもいい。

 彼女が気に留めた──彼女の気に障ったのは、ただ一点。

 

 「演技を辞め本気で戦うという条件で、この私に勝つつもりか? あまり舐めてくれるなよ、ルキフェリア!」

 

 勝てたら教える、などと。

 自分が勝つという前提の条件を提示されて、じゃあいいですと引き下がるほど甘くはないし、言葉の裏から嗅ぎ取れる挑発の香りに反応しないほど冷静でもない。

 

 酷薄に、獰猛に、笑顔を交わし合って──二人は全く同時に魔術を展開した。

 

 

 



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79

 『か、壁ぇ!? フィールドと客席を隔てるように、壁が──燃え上がる壁が現れました! なんですかこれ!』

 

 実況席で叫ぶニーナの言葉が、この王立闘技場に詰める5000人の観客の総意だった。

 

 突如として現れ、プレイヤーとオーディエンスを隔離するように聳え立つ、半透明の黒い壁──いや、壁と言うよりは箱だ。黒いガラスのような材質のそれは、ちょうど闘技場の頂点あたりで蓋がされている。

 フィールドと客席、プレイヤーとオーディエンスを分け隔てるオブジェクトではなく、プレイヤーを完全に隔離する結界のように思えた。

 

 『『黒耀聖堂』と『炎獄』? あの子たち、どこまで本気なの……?』

 『知っているんですか、おばあちゃ──いえ、解説のマルケル聖下』

 

 ヘレナが思わずといった風情で漏らした呟きを拡声器が捉え、直後に燃え上がる壁が大きく揺らぐ。

 自分の方に倒れてくるのではと感じた観客の何人かが短い悲鳴を上げるが、それもすぐに収まる。壁が倒壊どころか、より精緻に成形されていくのを見て、それは無いと──この魔術が完全に制御されているという安心感を得たからだろう。

 

 『……王女殿下の魔術は『炎獄』。概念型の空間隔離魔術よ……』

 

 声を震わせて、ヘレナはなんとか絞り出したという体でそう応える。

 

 壁が鳴動しながら成形されていく。薄いガラスのような質感のそれが震えながら、遥か頭上まで、しかも炎上しながら動く様は確かに悪寒を覚える光景だったが──成形が終わった頃には、戦々恐々と身構えていた者も含め、観客全員が感嘆の息を漏らすことになった。

 

 完成したのは、ガラス細工の大聖堂だった。

 黒い半透明の外壁越しに、精緻な装飾や絢爛豪華なシャンデリア、最奥部に据えられた何かの彫像が見て取れる。繊細な美しさを湛えた内装が、荘厳な威容を醸し出す外装が、紅蓮の炎に巻かれていた。

 

 燃え堕ちる硝子の教会。安直にタイトルを付けるならそんな感じの、美術品じみた空間が出来上がっていた。

 

 建物一つを丸ごと燃やすような炎だが、フィリップたちにも、そしてフィールド上、教会の内側で言葉を交わしているらしい二人にも、熱は届いていないらしい。

 

 『は、はは、はははははは──! すごい! すごいわ!』

 

 実況席から身を乗り出し、半狂乱の体でヘレナが叫ぶ。

 ニーナが慌てて「ちょ、国王陛下ご観覧の御前試合ですよ!?」と制止すること十数秒。ようやく落ち着き、端的に謝罪した。

 

 『失礼しました。それで……そう、サークリスさんの使った魔術のことだけど、あれも空間隔離魔術ね。こちらは重力子を凝縮させた半物質を用いる、半物理型。闇属性神域魔術『黒耀聖堂』──そのカスタム版です』

 

 ヘレナの言葉に、観客席からどよめきが起こる。

 「馬鹿な」「有り得ない」と騒ぐ者もいれば、「なんで?」「そんなに凄いの?」と首を傾げる者もいる。フィリップは後者だったが、サークリス公爵家の面々はどちらでもなく「あぁ、うん。まぁルキアだしね……」とどこか諦観にも似た感情を滲ませていた。

 

 『えっと、それってすごいんですか?』

 『はァ!? 貴女、それでよく宮廷魔術師に……あぁ、失礼。貴女、いまは実況役だったわね』

 

 そう。そして貴女は解説役だ。1人で興奮していないで、観客にも何が起こっているのか説明してくれ。

 フィリップも含む観客の何割かの、そんな声なき願いを聞き届けたわけでは無いだろうが、ヘレナは何回かの深呼吸を挟んで説明を始めた。

 

 『まず神域魔術というのは、本来は儀式による天使召喚と、その天使による補助を前提とした大規模魔術です。その魔術式は極めて難解で、上位存在の補助無しでは絶対に演算できないでしょう。我々聖痕者のような一握りの逸材でも、数学の公式を暗記するように、半ば脳死で使うのが限界でした』

 

 自身も含めて「一握りの逸材」と言い表すことに抵抗を感じつつ、ヘレナは一先ずそう言い切る。この場の誰も──フィリップすら、その言葉が自意識過剰であると笑いはしないのだが。

 彼女は間違いなく人類屈指の強者だ。そしてその彼女が我を忘れるほど、眼前の光景は異常だった。

 

 『それを彼女──サークリスさんは、改変して使っている。しかも部分的な削除などではなく、要素の大幅追加。……信じられない。彼女は実は天使でした、と言われた方がまだ信憑性があるわ』

 

 確かに、まるで天使のような美しさだと、観客から冗談交じりの同意が飛んだ。

 天使を見たことの無いフィリップは同意も否定もせず、続く言葉を待つ。

 

 『第一、重力子は星を形作る第五元素──エーテルに属する非物質。凝縮はともかく、成形なんて……』

 

 不可能だと続けたかったのだろうが、現に眼前で、その不可能が起こっている。

 

 『有り得ない……編集不可能と言われる神の組み上げた魔術式を、ここまで大幅に書き換えるなんて、そんなの』

 『……神の御業、ですか。でも、それなら──』

 

 その神域を侵す紅蓮の炎の主、ステラもまた、その領域に足を踏み入れているのではないか。

 そう口にしたいのに、ニーナの口から出るのは掠れた吐息ばかりだ。眼前の異常を正しく理解できるだけの魔術師は、サークリス公爵家のように慣れている一部の者を除いて、全員がそうなっていた。

 

 『い、いえ、待って。そもそも『炎獄』も『黒耀聖堂』も、内界の様子は外部から観測できないほど高次元の隔離だったはず。それに、内部は極高温か、超重力の生存不可空間…… まさか、嘘でしょ? これ、改変どころか、魔術理論を応用しただけの、完全オリジナルの神域魔術なんじゃ……!?』

 

 拡声器の存在を忘れ、口元を押さえて呟いたヘレナが、数瞬遅れで繰り返される自分の声にも気付かない没頭具合を見せる。

 彼女がそれを秘匿しようとした理由は、高位の魔術師であろう観客数名が卒倒したのを見れば、フィリップにでも分かることだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 その神秘的な質感の建材も相俟って、ルキアの作り出したバシリカ型教会の情景はまさに幻想的の一言に尽きた。

 黒い半透明の装飾品や壁は、その実、光すら通さない天体級の超質量を用いた空間断絶障壁。内部や外部に大破壊が齎されていないのは、その重力をルキアが完全に制御していることの証明だ。

 

 モデルでもあるのか、カーペットの模様や壁に彫られた彫刻は簡素ながら精緻なものだ。建材が普通なら、この王都に建っていても魔術によるものと気付かないほどに。

 最奥部、普通は聖女像かそれに類する聖人の像が静置される場所には、造形の崩れた四つ足の生き物の彫像が置かれていた。山羊か、犬か、タコやゲイザーといった触手ある生き物か、あるいは人間か。どれを形作ろうとしたのかは不明だが、それらの要素を見受けられるのに、そのどれにも似ていない。彼女に彫刻のセンスはないらしい──と、フィリップ以外はそう安堵することだろう。彼女にも苦手な分野はあるのだと。

 

 不気味までは行かず、精々が不細工止まりな像も含めて、その荘厳な教会は炎に巻かれている。

 もちろん、重力子は拡散しようと凝縮しようと燃焼することはない。自然六属性のうち火・水・土・風の四属性は相互に作用する同格だが、光と闇は第五元素に属する上位属性だ。原初の闇と最初の光、世界はそれから創られた。世界を包む大火であっても、光と闇だけは燃やせない。地上を埋める洪水も、世界を呑みこむ地割れも、万物を消し去る風化も、その二つにだけは干渉できない。

 

 だが、いま二人の周りで起きている現象は、厳密には燃焼ではない。そもそも炎が酸素を喰らっていれば、二人ともとっくに酸欠で倒れている規模と勢いだ。

 それに、二人の姿を隠すような無粋な煙は一条も上がっていない。

 

 「燃えている」という状態を空間に押し付け、それ以外のあらゆる改変を許さない隔離空間。

 酸素がなかろうと、燃えるものがなかろうと──熱すら発していなくとも、そこはとにかく「燃えている」。外部から内部へ侵入するものも、その逆も、あらゆる全てがあらゆる法則を無視して「燃え朽ちる」。

 

 光、闇、音、霊、魔力、重力。燃えるはずの無いものですら、その空間は燃やし尽くす。故の絶対隔離。

 

 「──『煉獄』。お前が“本気で”などと言うから、慌てて作ったのだが……不要だったか。それより、お前のこれは? さっきは『黒眩聖堂』とか詠唱していたが」

 「それであってるわ。重力子操作による空間隔離と、光操作による外部と内部の投影。……理論上、時間旅行も可能よ。机上の空論だけど」

 「ほう、あれか。 光が世界を形作るという……何だった? 普遍時理論だったか? 神を含めた全存在の観測が途絶えた場合と、光が停止した場合にのみ、時間が進行していることを証明できなくなる…… あぁ、観測構築論か。思い出した」

 

 自力で答えに辿り着いたステラに、ルキアは満足そうな笑みを浮かべる。

 無知な相手に一から教授することの楽しさも、つい最近フィリップに教えてもらったが──やはり、自分と同レベルの相手との会話も楽しい。ステラのような力量も知識も同格で、自分自身の成長にもつながる相手とは特に。

 

 「つまり時間を形成する要素は『光』だ。この聖堂を構成する重力子を使い、光を歪ませ、止めることで、内部の時間を停止させる。……時間()()ではなく時間()()か。なるほど。試してはいないのか?」

 「これを組み上げたのはついさっきよ? 検証してる時間も余裕も無かったわ。……ところで、貴女の『煉獄』だけど──これ、オリジナルの『炎獄』より火力が高いじゃない」

 「概念型の魔術に火力も何もあったものではないが……まぁ、言わんとしていることは分かる。なんせ、燃えるはずのない重力子すら焼き焦がす炎だからな」

 

 感服と共に頭を垂れたくなるような笑顔で──ルキアにしてみれば、ちょっと殴りたくなるようなドヤ顔で。ステラは燃え落ちるバシリカ型教会の内装を示し、笑う。

 

 「それにしても──本当に、全く、お前は変わらないな。お前の美的感覚には感動すら覚える。王女として豪華絢爛たる美も、閑古素朴たる美も嗜んできたが、その全てがこれには劣るだろうよ。だがな──」

 

 轟、と。

 教会を巻く炎が一段と激しく燃え盛る。ステラの胸に渦巻く複雑な感情を具現化したように。

 

 「お前の魔術には、何の戦略的合理性も無い。精巧な彫刻を壁に刻む手間があれば、その──」

 

 ステラが指したのは最奥部にある不格好な彫像だ。あれだけが、この幻想的な教会にはひどく不釣り合いな醜矮さを漂わせていた。

 

 「よく分からない彫像を作る余裕があれば、この投影機能に割く余力があれば、より堅牢な、あるいはより攻撃的な魔術にできただろう?」

 

 そりゃあね、と、ルキアは肩を竦めて肯定する。

 重力子はふつう、自然界における最も正常な形である球形に収束しようとする。天体の大半が球体なのはそのためだ。それを魔力で無理矢理に、しかもミリメートル単位の彫刻を再現する精度で成形している。負担はステラの『煉獄』どころではないはずだ。

 

 「こんな意味不明な規模の魔術、普通は5秒も維持すれば魔力欠乏と処理能力オーバーで昏倒している。……全く、お前は本当に天才だな」

 「流石、理解が早いわね」

 「褒めるな、上から目線が気に障る。それにしても……空間隔離魔術を設置型に改造するとは。考えたな」

 「加減する必要のない魔術なら、設置型にした方が魔力も演算能力も少なく済む、ってね。最近教わったことよ」

 

 上機嫌にそう言ったルキアに、ステラは興味深そうな視線を向ける。

 

 「例の“あの子”とやらにか?」

 

 ルキアは「えぇ」と言葉少なに肯定し、会話は終わりだと示すように攻撃魔術を照準する。

 これ以上の情報は先も言った通り、「勝てば教える」ということだろう。全く単純で──ステラ好みの明快さだ。

 

 「いいだろう。本気を出せるフィールドは整ったんだ。始めようか、我が美しき好敵手!」

 

 ステラが吠え、その周囲に人間大の火球が10個も浮かぶ。空気を揺らがせる熱が見て取れ、当たれば一撃で骨まで燃え尽きるだろうと窺えた。

 

 



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80

 「『煉獄』を維持しながらこの威力。流石ね、ステラ」

 

 10発の大火球を魔力障壁で受け止めたルキアは、そう言って薄く笑みを浮かべた。

 一撃でも当たれば死ねる威力だが、殺意も無ければ敵意も無い、号砲代わりの攻撃だ。空間隔離魔術という聖痕者の処理能力すら食い潰す大魔術と同時並行で、これだけの威力の魔術を、小手調べ代わりに撃ってくる。

 

 やはり、強い。

 

 本気で戦おうと言い出したのはルキアだが、実のところ、二人の戦績は五分五分より若干ルキアが負けている。

 

 魔力総量は互角。回復速度も互角。演算能力も互角。戦闘経験ではルキアが僅かに勝り、しかし天性の戦闘センスではステラが勝る。総じて、互角。

 ではどこで勝敗が決まるのか。フィジカルの性能が対等なら、決定的な差異を産むのはメンタル──性格だ。

 

 ルキアが美しさを重んじるのに対し、ステラは合理性を重んじる。

 それは日常生活に於いては単なる性格の不一致だが、戦場に於いては有利・不利を決定づけてしまう。

 

 美しさに拘った装飾華美な儀礼剣と、敵を殺すことを目的とした軍隊剣術。どちらが強いかという議論がされないのは、あまりにも明確なことだからだ。昼と夜のどちらが明るいか、炎と氷のどちらが冷たいか。そんな、いちいち考えるまでも無い当たり前のことだ。

 

 戦闘に際しても美しさに拘り、その上で世界最強の地位にいるルキアの才能には驚嘆するほかないが──彼女と同格の才能を持ち、戦闘センスでは上回り、その思考と判断が極端なほど戦闘に最適化されたステラが相手では分が悪い。『原初』の闇属性と『最初』の光属性という、火属性を含む自然四属性に対して有利な魔術に長けているから、辛うじて拮抗しているだけだ。

 

 勿論、殺そうと思えば、殺せる。

 『明けの明星』を撃ち込めば一撃だ。

 

 だが、それでは確実に殺してしまう。

 魔力障壁という手軽で堅牢な防護はあるが、あんなもの、ガラスのように砕けてしまう。

 

 町の一角、ダンジョン一つ、軍隊一個、城塞一つ、区別することなく貫き通す光の槍。神罰請願・代理執行権の行使である『粛清の光』とは全く違う、純エネルギー型、純粋な物理火力による攻撃。かつて神を裏切った天使の長が簒奪した、夜闇を割く星の光。

 

 単純なエネルギー量で言えば地殻変動や火山活動といった惑星最大級の熱量にも勝る、神話の一撃だ。

 

 以前にはダンジョン一つを跡形も無く吹き飛ばし、その一月ほど前には仮にも地球圏外生命体であるシュブ=ニグラスの落とし子を瀕死にまで追い込んだ、ルキアが最も信頼する魔術。

 撃てば殺せる、殺す以外の結果を齎さない必殺の魔術。殺し合いならぬ模擬戦で使っていい攻撃ではない。

 

 そしてステラもまた、同等の攻撃を持っているはずだ。

 一撃で相手を死に至らしめ、回避も防御も許さない絶対の一撃を。

 

 だからお互いに、先に撃った方が勝つ()()だけは使わないとして──それ以外の、「絶対に防げない攻撃」以外の、あらゆる致死性の魔術を使う。

 

 回避不可能な攻撃(当たれば死ぬ)防御不可能な攻撃(当たれば死ぬ)どちらも極めて困難な攻撃(当たれば死ぬ)

 目くらまし代わりのちょっとした魔術も、相手の心臓を狙った一撃も、相手の攻撃を潰すためのカウンターさえ、人一人を殺すのに十分な威力を秘めている。

 

 人間としては最上級の存在が放つ、同格の人間を殺すための攻撃。

 時に大胆に、時に繊細に、相手を殺せることを大前提に、幾多の魔術が積み上げられていく。

 

 ステラの放った火球は闇の帳によって狙いを妨げられ、ルキアの降らせた雷は陽炎が作り出した幻を撃つ。

 ガラスのカーペット上を溶岩が舐め、ルキアの足元で超重力によって押し固められ、ところどころに宝石の埋まった岩盤へと変わる。

 

 「──魅せてくれるじゃないか!」

 

 きぃん! と、ステラのヒールが甲高い音を立てる。

 カーペットも床の板材も、全ては凝縮された重力子だ。ヒールが刺さるはずもないが、と、耳障りな音に眉根を寄せたルキアは、泡立つ地面に瞠目した。

 

 天体内部級の重力で押し固めた溶岩が──今や宝石の混じる岩盤が、更なる熱で溶解し、泡立っている。

 ぼこぼこと、溶岩が泡立ち──超重力で無理矢理押し留めていた水分と空気が一斉に膨張し、爆発する。

 

 「──綺麗でしょう?」

 

 熱と爆風を魔力障壁で防ぎ、破片(フラグ)となった宝石を重力操作で空間に縫い留める。

 爆炎と聖堂を巻く煉獄の炎を受け、多種多様な光を空間へ投げかける無数の宝石。

 

 虹色の光を浴び、銀色の髪と紅い瞳を妖しく煌めかせ、その全身を飾るように浮かべた宝石の一つを取り上げる。

 掌大の原石を光に透かし、そっと口づけた。

 

 意図の不明な行動にステラが首を傾げ──無数に浮遊した宝石一つ一つが乱数的に瞬く。

 

 「ッ!!」

 

 咄嗟に展開した魔力障壁にレーザーが当たり、甲高い音を立てる。

 

 「視線誘導まで絵になるな、お前は!」

 

 大元のレーザーを反射させる鏡代わりに配置された宝石を爆破し、攻撃を止める。

 複雑なカッティングがされる前の原石とはいえ、構造の把握は極めて困難だ。どこにどう光を当てれば最小の減衰で狙った場所に反射するのかを正確に認識し、最適な位置で空間に固定するなど、人間業ではない。

 

 いや──だが、検証したとしたら、どうだ?

 手近な宝石を取り上げ、光に透かす動作。あれがただの次の攻撃を悟らせないための視線誘導ではなく、光の射出位置や方向を確認するための試行も兼ねていたとしたら。周囲に浮かべた宝石の煌めきに目を奪われ、艶めかしい口元に視線を誘導され、宝石ならぬ、砲石の向きや角度の微調整を誤魔化していたのなら──人間にも実行可能なトリックだ。ギリギリだが。

 

 「相変わらずの天才ぶりだ、惚れ惚れするよ」

 

 宝石屑の粉塵が立ち込めるなか、先程と同じように爆風を凌いだルキアが柔らかに笑う。

 照れ混じりの親愛が籠った笑顔は、この燃え落ちる黒い教会には不似合いだが──ルキアの風貌や装いのせいか、不思議なほどに映えて見えた。

 

 「あら、ありがとう。言われ慣れた称賛でも、貴女に言われると嬉しいわね」

 

 ルキアの手元で弄ばれる翠色の宝石──綺麗なオーバル・カットに加工されたグリーン・スピネルに目を留め、ステラは「冗談のような奴だ」と呆れ笑いを浮かべる。

 先程の攻撃に使った熱線。あれを使って加工したのだろうが、細工師泣かせの凄まじい精密さだった。

 

 その行為に意味が、合理性と戦略的優位性があるのかと問い質したいところだが、そんな気分でも無くなった。

 

 「……全く、興が削がれた。それに、そろそろお父様が止めに入る頃だぞ? 殆どノンストップで、相手を殺せる魔術だけを延々と撃ち合っていたんだ」

 「確かに。……なら、決着を付けましょうか」

 

 二人は少しの間、虚空に目を泳がせて考え込む。

 決着をつけると一口に言っても、まさか相手を殺してしまうわけにもいかないし──相手を確実に殺せる一撃以外では、やはり冗長な撃ち合いが続いてしまう。

 

 ではどうするか。

 一瞬で、かつ明快に勝敗が決まり、絶対の死ではなく抵抗可能な攻撃手段となると、彼女たちの手札を以てしてもそう多くは無い。

 

 「……これを使うか?」

 

 ステラはこつこつとヒールで床を叩きながら呟き、思索を続ける。

 その案を一通り検討して、ルキアは軽く頷いた。

 

 「いいんじゃないかしら。万が一の時にも、観客席に被害が及ぶことは無いでしょうし……それで行きましょうか。防ぎ切れたら、貴女の勝ちよ」

 

 観客席に、と言いつつ、ルキアが気にしているのは貴賓席だけだ。より正確に言うなら、貴賓席で無心の笑顔──魔術講義中によく見る顔、目に入る景色や耳に届く言葉が全く理解できない時に浮かべる、困惑を通り越して放心と無理解しか残っていないときの顔──を浮かべているフィリップ一人だけだ。

 

 だが、まぁ。そうは言っても、魔術をしくじって観客に怪我をさせるというのは、美しいとは言えないだろう。

 自分のミスでも、ステラが自分以上に強かったからという理由でも。

 

 だから観客席に向けた心配も、あながち言葉の上だけと言い切ることはできない。

 そんなルキアの心情を汲み取り、ステラは獰猛な笑顔を僅かに歪めた。

 

 「あぁ、全く、気になるじゃあないか。一体何が、誰が、どうやって、お前を変革したんだ? 我が美しき好敵手!」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 燃え盛る半透明の教会越しに──投影された映像越しに、フィリップは人間としては最上位に君臨する魔術師同士の戦闘を見ていた。

 

 ……見ては、いた。

 何が起こっているんだろう、これは。と、使うどころか理解すらできないレベルで高度な魔術の数々に、感心も困惑も通り越して、もはや放心していたのだけれど。

 

 眼下、解説席から聞こえる『今のはこれこれこういう魔術で、こういう狙いで』という説明は、もはや言葉ではなく音として処理されている。実況席からの『今のはすごい魔術ですね!』という感嘆には、辛うじて同意できているが、これはニーナの語彙というか、表現レベルが普段のフィリップに近しいところまで落ちているからだろう。

 

 攻撃、防御、攻撃、防御。起こっている現象としては、その繰り返しだ。いっそ単調にも感じられるほど、代わり映えのしない安定感がある。

 ルキアの攻撃は相手に防がれ、相手の攻撃はルキアが完全に防ぐ。これこそが台本通りの演武だと言われても信じられる。手に汗握る紙一重の攻防など、この十数分の間に一度も無かった。

 

 実力が拮抗した者同士の戦闘としてはありきたりな展開だったが、当人たちの実力は人類最高峰だ。攻撃に使われる魔術も、防御に使われる魔術も、フィリップが100年訓練しても使えないレベルのものばかり。見た目も華やかで、見ていて退屈することは無かった。

 「すごい」とか「かっこいい」とか、漠然とした感想の中に「強い」という感想が入らなかったのは今更言うまでもないが、それでも存分に楽しめる見世物だった。

 

 人外領域の攻防に空隙が生まれ、二人が何事か会話を交わしている。

 魔術の余波を遮断するためと思しきガラスの教会──もとい、二重に施された空間隔離魔術は音を遮ってはいるが、中の様子は鮮明に見える。何を話しているのかは流石に分からないが、戦っているかどうかは判別可能だ。

 

 ルキアが一瞬、こちらを見る。しかし手を振ろうかと思う間もなく、視線は対戦相手へと戻された。

 また少しの会話が交わされ──二人同時に手を掲げる。

 

 今度はどんな魔術を見せてくれるのかと、観客の約半数が期待に胸を膨らませ。

 今度はどんな非常識を見せつけられるのかと、残る半数が慄く。

 

 現代魔術に明るくないフィリップは前者、サークリス公爵一家を含め貴賓席にいる残りの観客は全員、後者だった。

 

 みしり、と。聞いたことも無いような、何かが軋む不快な音が響く。

 それが眼前の教会──炎に巻かれた黒いガラスの大聖堂からだとは、すぐには思い至らない。それはこの十数分の攻防で爆発や落雷を何度受けても一度も揺らがず、同格にして同質の魔術である炎に巻かれてもなおびくりともしない、ルキアの魔術への信頼あってこそだ。

 

 以前に聞いた世界の軋む音。

 シュブ=ニグラスの真体が降臨しようとしたとき、次元の違うモノを押し込められようとした三次元世界が上げた悲鳴。あれよりは幾分マシだが、それでもかなり恐怖を掻き立てる大音響だ。

 

 『な、なんですか、この音……!』

 

 実況席からニーナの慄く声が届く。

 観客ほぼ全員の感想を代弁したそれに、これまでと同じくヘレナが答える。

 

 『()()()()()()()のよ。サークリスさんの超質量の結界と、王女殿下の燃焼の概念が──天体級の攻撃力と、理論上の絶対防御がね』

 

 攻撃を捨てた見映え重視の術式かと思いきや、殺傷力のオン・オフ切り替え機能があるとは。

 

 内部に取り込んだ敵対者を押し潰す重力の塊と、それを焼き尽くさんと燃え盛る空間。

 火属性に対して有利な闇属性が、つまりルキアが有利である──とは、一概に言い切れない。単なる炎ならばいざ知らず、ステラが使っているのは概念の炎。燃えるものも燃えないものも、果ては観測できないものさえ燃やし尽くす、燃焼という現象の極致。

 

 光も闇も、エネルギーも重力も、あの炎に触れればたちどころに炎上してしまう。

 

 『だから、結果は──』

 

 ガラスの砕けるような音を立てて、黒く眩い教会が崩れる。

 全体が内側に向けて崩壊するような倒壊、普通では有り得ない物理法則を無視した建材の動きに目を引かれ、その内側にあった炎の幕に呑まれて消える。

 

 火の粉に混じり、光を発さず反射もしない真っ暗な粒子が微かに舞う。

 破片となった教会が炎に巻かれ、地面に落ちる前に燃え朽ちて消える。赤と黒、紅炎と漆黒が互いを引き立たせて煌めく、これが戦闘の残滓だと忘れてしまいそうなほど幻想的な光景だ。

 

 ぱち、ぱち、ぱち、と。ゆっくりとした拍手がフィールドから響く。

 つられるように観客数人が拍手するが、まだ誰も勝敗を明確に認識してはいなかった。

 

 フィールド上で拍手しているのはルキアだが、柔らかな微笑を浮かべて立っている彼女に対して、ステラは片膝を突いて息を荒らげている。

 ルキアの拍手が勝者への称賛なのか、敗者の健闘を讃えてのものか、それとも単なる煽りなのか判然としない。

 

 どっちの勝ちだ? サークリス様だろ、いやいや王女殿下だろ。観客の意見は概ね半々に分かれる。

 

 隔離魔術の衝突、拮抗の結果としては、ステラの概念の炎がルキアの超質量の崩落を燃やし尽くしたはずだ。

 

 だが、戦闘としては。

 ステラは膝を突いて大きな隙を晒しており、対するルキアは未だ健在で、ステラに止めを刺す余力を残しているように見える。勿論、そう見えるだけで、実際はどちらも演技──苦境を演じ油断を誘い、余裕を演じ優位性を確保しようとしている、という可能性もある。

 

 観客総員をルキアのファンとステラのファンに二分しての議論、もとい怒鳴り合いになりそうな雰囲気もあったが、すぐに静まる。 

 それはこの場の全員の意識を急速冷却し、正しい振る舞いを──起立し、貴賓席のさらに上、玉座に向けて頭を下げるという行為を思い出させる声によってだ。

 

 「それまで。これ以上の戦闘を余は認めぬ。最後の攻防の結果を以て、今年度の御前試合は我が娘ステラの勝利で幕引きとする。──異論はあるか」

 

 観客席では誰一人──貴賓席でサークリス一家に倣うように慌てて頭を下げたフィリップも含めて、誰一人として頭を上げない。それを肯定と見做し、彼、アヴェロワーニュ王国第67代国王、アウグストス2世は確認するように眼下を一瞥する。

 

 巨大な闘技場に詰めた数千の人間の中で、頭を上げているのは三人だけ。

 フィールド上の二人と、解説席のヘレナ。社会的地位に縛られない特権階級、聖痕者の三人だ。

 

 『ございません、陛下。最後の攻防に至るまでのあらゆる魔術、全ての戦闘は完全に拮抗しておりました。であれば、属性的不利をものともせず、サークリスさんの神域級の魔術を打ち破ってみせた王女殿下が、()()()()()()()()相応しいかと』

 

 拡声器越しに、ヘレナがそう肯定して頭を下げる。

 国王は首肯して受け止め、フィールド上へ視線を向けた。

 

 「我が娘よ、異論はあるか」

 「……いいえ、父上」

 「……ルキフェリア聖下、構いませんな?」

 「えぇ。元より、そのつもりでしたから」

 

 国王が伺いを立てるように問いかけ、ルキアは慇懃ながら適当に答える。

 

 え? と。思わず困惑を漏らして顔を上げそうになったフィリップの脇腹を、ガブリエラとアレクサンドルが両側から小突いて止める。

 おかげで「おふ」と変な息が零れたものの、数千人の中で一人だけ顔を上げるという最悪の目立ち方は避けられた。

 

 「あとで説明してあげるから」

 「お、お願いします……」

 

 痛みこそ無かったものの、気恥ずかしさでどもる。

 

 なんでルキアだけ扱いがちょっと丁寧なんだろう、という内心の疑問は顔に出ていたようで、ガブリエラの言葉には無駄が全くなかった。

 

 「では、御前試合の決着を以て、今年度の建国祭はこれにて閉幕とする」

 

 国王の宣言が終わっても誰も動かず、たっぷり十秒は頭を下げたまま硬直して、それからゆっくりと、誰からともなく頭を上げ動き始めた。

 

 祭りの名残を惜しむように。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 あるいは、演技を止めてなおも冗長だった、実力の拮抗した二人の魔術戦の比喩のように。

 

 「疲労困憊、といった感じね、ステラ?」

 「設置型空間隔離魔術なんて……馬鹿げた代物でもなければ……普通は……こうなるだろうッ……!」 

 

 ステラは呼吸を整えながら、ルキアの揶揄に応じる。

 

 設置型魔術は空間座標を魔術式に含む、高難易度の魔術だ。機雷のように仕掛けておいて、相手が効果圏内に入ったら自動起爆するように仕掛けておくとか、そう見せかけておいて実は任意起爆で、「ここは安全だ」と相手が油断したところを狙うとか──とにかく、直接攻撃よりも搦め手として使われることが多い。

 

 そして強いか弱いかという二元で論じるなら、弱い。

 

 魔力感知に長けた魔術師なら設置場所を看破でき、魔力操作が得意な魔術師なら支配して操作権を奪うことも可能。設置時点で魔術としては完結するため、任意起爆型の起動処理と解除を除き、設置後の調整──威力の調整や設置位置の変更など──は術者本人でも不可能。完全に布石や陽動目的の魔術系統だ。

 長所と言えば、設置時点で魔術としては完結するため、効果が発揮されている間であっても魔力を消費しないということくらい。それもルキアやステラのような、魔力総量と回復力の優れた魔術師にとっては、大した恩恵ではない。

 

 だが──空間隔離レベルの大魔術ともなれば話は別だ。

 本来は大儀式による天使降臨とその補助を前提とした神域級魔術は、難易度もさることながら、魔力消費もかなりのもの。というか、人類が単独で行使するには過ぎたものとすら言える。

 

 魔術式の演算と魔力の清算が一瞬で終わる──一瞬で終わること自体が目を剥くほどの才能なのだが、それはさておき──『粛清の光』や『明けの明星』とは違い、空間隔離魔術は継続発動型、あるいは常駐型と呼ばれる部類だ。

 術者は一秒以下で定期的に魔術式を更新し、演算し、術式維持に必要な魔力を消費しなければならない。

 

 いくらルキアやステラの魔力量や回復力が人間離れしていると言っても、普通は神域魔術と並行して上級魔術や最上級魔術を魔術戦レベルでポコポコ連射できるはずはない。

 ないのだが──

 

 「えぇ。貴女は私のことを天才だと言ってくれたけど、貴女こそ、その言葉に相応しい才能の持ち主よ」

 「黙ってろ天才……今は……息が……」

 

 未だ膝を突いている天才その1(ステラ)に、そっと手を差し伸べて助け起こす天才その2(ルキア)

 

 神域魔術を見映え重視のものに改造するどころか、設置型に改良するという離れ業で問題を解決した天才その2はまぁ、いいとして。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、天才その1。脳だけでなく魔力が循環する全身を酷使したことで極度の疲労を感じているようだが、驚いたことに、魔力欠乏一歩手前で止まっている。本当に人間か? と。ヘレナは解説席でそんな懐疑と驚愕の視線を向けていた。

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 ボーナスシナリオ『夏休み』 ノーマルエンド

 技能成長:なし
 SAN値回復:通常1d10+3のSAN値を回復する


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一年後学期
81



 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ5 『一年後学期(仮)』 開始です。

 推奨技能は【現代魔術】以外の戦闘系技能、【クトゥルフ神話】、【目星】【聞き耳】等の各種探索系技能です。
 注意:シナリオ進行中、持ち物、同行者等に制限がかかる場面があります。道具を前提とした戦闘技能は推奨されません。

 ◇

 例によってシナリオ名は仮称、今後もっといい名前を思い付いたら差し替えます。もちろん、展開は決まってるんだけどね。


 学期開始初日というのは、どうしてこうも気分が乗らないのだろうか。

 

 魔術学院の授業はそれなりに、ナイ神父の魔術講義やルキアとの予習が無ければ落ちこぼれルートまっしぐらな程度には難しいけれど──知識が増えることは心地よいし、何より魔術が使えるようになるというのは素晴らしい。

 

 ……まぁ、魔術を完全に使いこなせているかと言われれば、それはNOだ。だが当初の予定であるコップ一杯の水を生み出し、蝋燭に火を灯す日常系魔術師にはなれた。魔術失敗どころか不発だった頃を思えば大躍進である。

 

 成長していないわけではない。

 成長が実感できない訳でもない。

 

 では、何故?

 友人関係に問題があるわけでは……ない、だろう。そもそもフィリップが関係性を友人だと定義する相手はルキアくらいのものだし、大多数の学院生はフィリップのことを教皇庁関係者、枢機卿の親族だと思い込んでいて友人になるどころではない。権益目当てで取り入ろうとする者すらいないのは、隣にルキアがいるからだろう。

 

 遠巻きにされるのはあまり気分のいいものではないけれど、そもそもフィリップの余人に──人類に対する関心は薄い。もちろん視線が集中したらたじろぐし、全くの勘違いで畏れられることに抵抗はある。だがそれだけだ。彼らが何を思おうと、何を噂しようと、極論、生きていようと死んでいようと、どうだっていい。

 フィリップに対し何ら害を及ぼさないのであれば、完全に無関心でいられる。

 

 だから環境に問題があるわけではない、だろう。たぶん。

 前学期の終わりにクラスメイトが8人ほど死んだ程度のこと、もはや思い返すことも無い。

 

 授業が嫌、というわけではない。

 クラスや環境が嫌、というわけでもない。

 だがどうにも、気分が乗らない。言語化が難しいが、こう──なんだか嫌な予感がする、と言えばいいのか。

 

 教室に入ったら黒髪褐色の神父がいて「おはようございます、フィリップ君」と笑いかけてくるとか。或いは保健室に行ったらゴシック調の喪服姿の銀髪美人(ただし人外の美)が「大丈夫、フィリップくん?」と心配そうに見てくるとか。そんな嫌な想像さえ浮かぶ。

 

 「……よし」

 

 学院寮最上階、上位貴族や教会関係者向け個室に据えられた最高級のベッドから出たくない理由探しはそろそろ止めて、いい加減起きよう。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 顔を洗い、歯を磨き、寝癖を整え、制服に着替える。

 それでちょうど、朝食に向かうにはいい時間だ。魔術学院に通い始めたばかりの頃は無駄に早起きしていたが、今では行動も最適化されている。そのうち寝坊しそうで心配なくらいだ。

 

 モーニング・セットのトレイを受け取り、いつもの特等席に向かう。

 殆どの生徒が同タイミングで食事に訪れるため、食堂はいつも混み合っているが、あそこだけは絶対に空いている。なんせ天下の聖痕者、ルキフェリア・フォン・サークリス聖下の指定席だ。

 

 「あ、おはようございます。……え?」

 

 少しせり出した壁を曲った先の窓際の席。

 そこに掛け、フィリップと同じモーニング・セットの紅茶を優雅に傾けていた人影に挨拶し、目を瞠る。

 

 「あぁ、おはよう。ここは埋まっているぞ」

 

 興味なさげに、こちらには一瞥もくれずに返答する金髪の少女。

 見覚えがあるどころか、つい先日、御前試合で見た顔だった。

 

 「……え? えっと……」

 

 さて。

 フィリップは十把一絡げの平民、相手は()()()()であらせられるわけだが、ここはあらゆる社会的地位に基づく特権を捨て、魔術の実力によってのみ自身を誇示せよとする魔術学院。

 どう振る舞うのが正解なのか。フィリップは暫し考え。

 

 「……そうでしたか。失礼しました」

 

 一般通過少年になることにした。

 この窓際の席に来てみた一般生徒と、先客。それだけの関係性でいい。相手の素性に気付かなかった、気付けなかった物知らずの田舎少年という体で行く。

 

 トレイを持ったままUターンし、この場を去ろうと試み。

 

 「フィリップ、おはよう」

 

 と。

 少し遅れてやってきたルキアに退路を塞がれた。

 

 「お、おはようございます、ルキア」

 「……あら、ステラもいたの? おはよう。今期は学校なのね」

 

 フィリップの背中に手を添えてテーブルへと誘導しながら、自分はこの四人掛けテーブルの何処に──フィリップの隣とステラの隣、どちらに座ろうかと考えるルキア。

 フィリップとステラが初対面だということは、然して気にならないらしい。その立場の差など、頭を過ることすらないのだろう。

 

 「前期は公務で出席できなかったからな。公欠扱いとはいえ、後期は5日も休めば出席日数が足りなくなる」

 「ふふ、じゃあ、私のことを「ルキア先輩」って呼ぶ羽目にならないようにしないとね」

 「それは最悪だな。留年などという非効率的なことより嫌かもしれん」

 

 冗談など交わしつつ、ルキアはまずフィリップを座らせ、結局自分はその隣、ステラの正面に座った。

 

 「……友人か?」

 「えぇ。約束通り、紹介するわ。フィリップ、いい?」

 

 ルキアが「もしフィリップが嫌がるようなら、ステラを殺してでも約束を反故にしようかな」と、それなりに本気で考えていることなど想像もつかないフィリップは、NOという選択肢はないだろうと、目の前で冷めていく朝食に目を落としながら頷く。

 尤も、彼女の内心を正確に把握したところで、それはそれで頷くほかないのだが。

 

 「約束通り、か。つまり、此奴が例の?」

 「そうよ。フィリップ・カーター。同じクラスだから、話す機会はたくさんあると思うわ」

 

 怪訝そうに、そして値踏みするように、ステラの視線がフィリップの全身を舐める。

 

 「……そうか」

 

 ステラは端的にそう言って、快活そうな笑顔を浮かべた。

 

 「ルキアの友人なら、私の友人だ。よろしく、カーター」

 「え? あ、えっと……よろしくお願いします」

 

 取り敢えず丁寧に、差し伸べられた手を両手で握り返す。

 たぶん正式な礼儀作法に照らせば間違えているのだろうが、ステラもルキアもそんなことは気にしなかった。

 

 「じゃ、朝食にしましょうか。フィリップ、カーテンを開けてくれる? 温め直すから」

 「いや、不要だ」

 

 ステラが手を翳すと、冷めつつあった紅茶やトーストから湯気が立ち昇り、ベーコンはぱちりと肉汁を弾けさせる。

 いいなぁ、小を兼ねてくれる大って、と。羨むような視線を向けつつ、フィリップは朝食に手を付けた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 腹に一物あるどころか、どす黒い策謀と野望を人型に成形したような貴族連中に囲まれて育っただけあって、ステラの洞察力はかなりのものだった。

 顔を見ながら話せばかなりの確度で内心を推測できるし、明確な嘘ならほぼ確実に看破できる。サークリス公爵のように内心と態度を完全に切り離せる怪物や、ステラ自身のように感情より合理性を優先できる相手には意味のない特技だが、次期国家元首としては必須級の技能でもあった。

 

 培ってきたその目に狂いが無ければ、眼前の少年はあまりにも異常だった。

 

 公務で訪れた外国で見た奴隷にも似た、深い諦めを宿した瞳。だが奴隷とは違い、彼のそれは押し付けられたものではなく、自発的なもののように見て取れる。しかも奴隷が抱きがちな自由への渇望、束縛の外にある世界への憧れや嫉妬、憎悪といったものがまるでない。目に映る全て、眼前の自分(ステラ)にすら、何の価値も見出していないように思える。それでいて、ルキアに向ける視線には羨望や嫉妬、冷笑、慈愛と、かなり複雑な感情を滲ませている。

 

 なるほど確かに、そこいらで拾ってきた平民にしては些か以上に異質だ。

 あのルキアがただの平民に影響されて変質するはずはないと思っていたから、それは当然だ。そして──それだけのように見える。

 

 ルキアが魔術のインスピレーションを受けるような才能も、15年間貫いてきた生き様を多少なりとも変えるような要素も、何も見受けられない。

 彼はそもそも、何かを変えようとか、誰かに影響を与えようとか、そういった能動的な対人関係を構築するつもりはないだろう。彼を突き動かしているのは絶望と諦めに染まる前にあった、何かの残滓と惰性。あとはほんの僅かな拘りくらい。ルキアやステラと同じく生き方を決定づける程度には確立していて、しかし彼女たちとは違って表出しない小さなものだけ。

 

 勿論、そんな筈は無いだろう。

 

 まだ何か、あるはずだ。

 あのルキアが変化するだけの何かが、絶対に。

 

 それを見つければ、自分も変われるのだろうか。この停滞した強さの向こう側へと至り、絶対的な無謬存在──統治者として理想的な存在に近付けるのだろうか。

 



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82

 ステラはフィリップに探るような視線を送り、ルキアはそんなステラに怪訝そうな視線を向け、フィリップは周囲から突き刺さる視線に辟易しつつ前だけを見て歩いていた。

 向かう先はもちろん、1-Aの教室だ。

 

 教室棟は既に生徒たちで混み合っていたが、一行が通ると自然に道が開いた。とはいえ、快適な道のりというわけではない。

 

 「おい、あれ……ごにょごにょ」

 「サークリス様とカーターさん……と、王女殿下!? やっぱり、カーターさんって……ひそひそ」

 

 誰に見られても、どこに耳を澄ませても、聞こえてくるのはフィリップの「正体」に対する「やっぱりか」という納得と畏怖くらい。

 非常に居心地が悪いが、まぁ、変に絡んでこられるよりは多少マシだと思えば我慢できる。

 

 「……カーター猊下? どういうことだ?」

 「色々と勘違いが……」

 

 ここでステラに対し懇切丁寧に説明したら、もしかしたら学生たちも同時に説得できるのでは? と、フィリップの脳裏に名案が閃く。

 だが残念ながら、フィリップの言葉より、授業開始10分前であることを示す予鈴の方が早かった。

 

 わいわいがやがや、先ほどの静かな密談が嘘のように騒がしく教室へ戻っていく学生たちを見送り、深々と嘆息する。

 まぁ、どうせ説明したところで誤解は解けないのだろう。前学期に何度か試み、悉く失敗した苦い思い出を持つ身としては、そんな負け惜しみじみた諦めもあった。

 

 「あ、おはようございます。猊下、両聖下」

 「……おはようございます」

 

 教室の入り口近くに居たクラスメイトに挨拶だけを返したのは、そんな諦めの表れだった。

 

 着席し、しばらく駄弁っていると、教室前の扉が開き、ヘレナが入ってくる。

 

 「はーい、着席してー」

 

 ヘレナはぱちぱちと手を叩いて注目を集めながら、どこか楽しそうに教壇に立つ。

 

 「おはようございます。今日から新学期ですが、まずは伝達事項が二つあります。一つ目は、前学期の殆どを公務でご欠席だった第一王女殿下が、後期は通学されることになりました」

 

 ぱちぱちぱち、と、誰かが始めた拍手に全員が乗っかり、ステラも立ち上がって軽く手を挙げて応える。

 ルキアにも匹敵する美貌もあって絵になってはいたが、よく考えたら意味不明だった。困惑顔のヘレナとルキアも、流されるように拍手をしているフィリップも、たぶん一番初めに拍手を始めた生徒ですら、なんで拍手をしているのかは分かっていない。

 

 「えーっと……それから、もう一つ。アルナ先生の後任が決定しました。最低でもこれから半年間、来年度以降も担当して頂く生徒もいるでしょうから、失礼の無いように」

 

 数秒間の沈黙。

 ヘレナの淡々とした口調ゆえ、生徒たちの呑み込みが遅れていた。

 

 前学期の野外訓練で未知なる魔物に襲われ、1班のほぼ全員と同じく命を落とした前担任の後任。つまり。

 

 「新しい先生が来るってことですか!?」

 

 きちんと挙手し、しかし指名される前に口走った生徒の声色は、どちらかと言えば否定的な感情を宿していた。

 

 無理もない。今まで1-Aの担任代理として教鞭を取っていたのは、世界屈指の実力者であるヘレナだ。彼女が学院長を務めているからと、この魔術学院を志す者も多い。

 それが別の人間に変わるということは、確実に魔術師としてのレベルが下がるということだ。学年最高レベルの潜在能力を持つ生徒が集まるAクラスは、学習への意欲も相応に高い。素直に喜べない心情も理解できる。

 

 だがそれはそれとして、環境が新しくなることに、好奇心や新鮮さといったプラスの感情もあるらしい。

 生徒たちの大半は期待半分、落胆半分といった表情を浮かべている。何の感傷も無く「ふーん、そうなんだ」と現状を受け容れているのは、フィリップやルキアといった感性のズレている者だけだ。

 

 「えぇ、その通りです。……では、入ってください」

 

 教室前の扉に全生徒の──無感動であっても無関心ではないフィリップやルキアも含めて──視線が集中する。

 からからとキャスター音を立てながら扉が開き。

 

 「……え?」

 

 と、幾人かの生徒が思わず声を上げた。

 

 ぽてぽてとことこ、教壇に歩いてくる小さな子供。身長はフィリップと同じか、少し高いくらいしかない。

 目を引くのは、王国の人間ではないこと示す褐色の肌と、身体に遅れて靡く長い黒髪。そして、純粋な人間ではないことを示す腰から伸びる尻尾と、頭頂部付近でぴょこぴょこと動く猫耳。

 

 人懐っこい笑みを浮かべ、オニキスのような黒い双眸でクラスを見上げる、どう見ても十歳そこらの少女。

 

 誰? 何? 迷子?

 そんな囁きが起こらなかったのは、クラスの誰もが呼吸を忘れ、その姿に見入っていた──或いは、魅入られていたからだろう。それはフィリップも例外ではない。

 彼女の容姿は極めて整っており、庇護欲を掻き立てるあどけなさと、触れることを躊躇わせる精緻さ、清涼な活発さ、そして禁忌である小児性愛を催させる不思議な色気を孕んでいる。好みを度外視して美しさを数値化した場合、そのAPPは──21。人外の美だ。

 

 「こちらが、本日よりAクラスで教鞭を執って頂く、ナイ教授です。教授、自己紹介を」

 「はい! 今日から皆さんの先生になります、ナイです! 見ての通り獣人(ビーストマン)で姓がないので、気軽に「ナイ先生」とか「ナイ教授」って呼んでくださいね!」

 

 彼女、ナイ教授は明朗快活にそう言い、一礼してにっこりと笑う。

 幼子とはいえ人外の美を纏う彼女に数人がノックアウトされ、机に突っ伏した。

 

 ──さて。

 この状況を、教壇の上でニコニコ笑っているナイアーラトテップ(邪神)を、フィリップはどうすべきだろうか。

 

 ペンケースを開け、ペーパーナイフを取り出して投擲する? NOだ。そんな攻撃、邪神に通用するわけがない。

 

 では魔術──フィリップが習得している領域外魔術の中でも最大の火力を誇る、クトゥグアの召喚を以て焼き払う? NOだ。あの何のつもりか分からない幼子の化身を焼き殺したところで、ナイアーラトテップの化身は無数にある。次の化身が現れて、それで終わりだ。学院と生徒に甚大な被害を齎すだけの、意味のない一幕になる。

 

 いや、最悪の場合、ペーパーナイフの投擲も、『深淵の息』や『萎縮』といった貧弱な魔術も、あの化身を残酷かつ凄惨に殺す可能性がある。

 そしてフィリップは新任教師を惨たらしく殺した精神異常者として学院と王国から排斥され、人間らしい生活どころではなくなるのだ。

 

 そもそも、ナイアーラトテップがわざわざ学院に赴任してきたということは、フィリップの守護ないし強化計画に関わる理由があるはずだ。

 フィリップが何を言おうと、たとえ学院長や国王が何を言い募ろうと、あの邪神は全て無視し、自分の都合を押し通すだろう。盲目白痴の最大神格の意図なき命令と、矮小なる人間の都合、どちらを優先すべきかなど考えるまでもない。

 

 「先生にはホームルームのほか、一年次の魔術理論基礎、二年次の選択科目で錬金術を担当して頂きます。……何か、質問のある人は?」

 

 ヘレナの問いに、クラスメイトが一斉に手を挙げる。男子生徒の方が勢いがあったが、女子生徒も目の血走り具合では負けていなかった。

 

 「はわわ……、積極的なクラスです……! 先生も負けませんよー!」

 

 ふんすっ、と気合を入れ、座席表と照らして指名していくナイ教授。

 その小動物的な動きに、また数人が幸せそうな表情を浮かべたまま机へ倒れ込んだ。

 

 「……フィリップ?」

 

 クラスメイト達とは全く違う理由で、そして彼らの誰よりも早い段階から机に突っ伏していたフィリップの後頭部に、遠慮がちなルキアの声が届く。

 

 「……どうしたんだ? 体調でも悪いのか?」

 「……いえ、そういうわけでは」

 

 同じ三人掛け机のルキアを挟んで反対側、通路側にいるステラも、軽く机に凭れて怪訝そうに覗いてくる。

 勘違いで心配させるのは駄目だろうと生真面目に頭を上げたフィリップと、こちらを見ていたナイ教授の視線がぴたりと合った。

 

 彼女はにこりと微笑み──その双眸が一瞬、吐き気を催すような極彩色に輝く。

 

 「そういうアピールいいから、分かってるから……」

 

 帰ってくれ。

 フィリップはルキアやステラには見えないように、新担任である黒髪褐色ガチペドはわわ(嘲笑)系猫耳美少女教師、ナイアーラトテップの化身に向けて中指を立てた。

 

 

 ◇

 

 

 

 フィリップが編入した時よりも熱烈な質問攻め(歓迎)でホームルームを終えた1-Aの面々は、極めて話題性の高い新担任について意見を交わしていた。

 男子生徒の関心を総取りされた女子生徒まで、それも一人残らず全く否定的な感情無しに混ざっているのは、それに慣れているからか、或いはそれも仕方ないと受け容れるしかない隔絶を感じ取ったのか。きっとその両方だろう。

 

 フィリップはそれには混ざらず、教室を出たナイ教授の後を追っていた。

 と言ってもすぐに話しかけたり、背中から魔術を撃ち込んだりはしない。彼女が自分の研究室に引っ込むのを待ち、その後に続く。

 

 「……ナイ神父」

 

 授業の用意をしている小さな背中に声をかけると、ずっと気付いていただろうに、わざとらしく猫耳をぴくりと動かして振り返る。

 

 「おやー? フィリップくんじゃないですかぁ。どうしたんですかー?」

 

 ほわほわと気の抜けた声で応じて、彼女はくすくすと心底可笑しそうな──その実、嘲り以外のあらゆる感情を宿さない笑顔を浮かべた。

 

 「先生は、先生ですよぉ? 神父さまに見えるなら、目と頭のどちらかが──あぁ、いえ、頭の方はこれ以上無いくらい壊れてるのでー、きっとおめめがおかしいんですねー」

 「…………」

 

 ──驚いた。

 驚き具合で言えば、象が魔物や神話生物ではなく通常の動物だと知った時と同等だ。

 

 まさか自分に──諦めている、冷めていると自覚していたこの自分に、ここまでの殺意を呼び起こす人間性が残っていたなんて。あぁいや、これは獣性か。人間性未満の、動物的で原始的な機能か。

 

 「……落ち着け。うん、落ち着くんだ。こんなところでクトゥグアを呼べば、学院もルキアもただじゃ済まないぞ」

 

 自分に言い聞かせ、深呼吸を数度繰り返す。

 

 「ふぅ……。それで、ナイ神……ナイ教授。その話し方は死ぬほど不愉快なので、せめてナイ神父に変わってくれませんか?」

 「うーん? ──()()()()()()

 

 ぞる、と。擬音にすればそんな感じの、生物的に湿った耳障りな音を立てて、幼子の輪郭が崩れる。

 人体を模して織られていた触手が解け、無定形の肉の塊と円錐形の頭部を持つ『這い寄る混沌』と呼ばれる化身を象り、それからフィリップの見知った黒髪褐色に長身痩躯の男、ナイ神父の形状へと変化する。

 

 「……そんな手間を取らなくても、瞬きのうちに入れ替われるのでは?」

 「それは勿論、君に示すためですよ。今後、私のことを“神父”と呼べばこうなる、と」

 

 教師のことを「お母さん」と呼んでしまうハプニングは、別の人でやってくださいね、と。そう言って笑うナイ神父。

 どんな横暴だと喚き散らしたいところだが、泣き叫んだところでナイアーラトテップの意向が覆るわけでも無し。体力と気力の無駄だ。

 

 「ですが、まぁ、君に無用な不快感を抱かせるのは本意ではありません。誰あろうフィリップ君の望みであれば、君の前ではこの化身でいましょう」

 「じゃあ不快なので、この星から出て行ってくれませんか?」

 「ははは。その場合、君にも父王の宮殿まで来て頂くことになりますが。尺度の狂った地母神と引き篭もり副王では、君の教育はできませんからね」

 

 ぐぬぬ、と、フィリップは最悪の未来を提示されて押し黙る。

 

 この魔術学院は外神に干渉されず日常を過ごせる、フィリップにとって聖域のような場所だった。

 ふかふかのベッドも、美味しい食事も、難しいながら確かな手応えを感じる勉強も、息が詰まるような試験も、たった一人しかいない友人も、勿論大切な要素だけれど──何より、世界を遥かな視座から睥睨し冷笑し嘲笑する、悍ましき外神の気配がないことが、何よりも大切な条件だったのに。

 

 「なんで、来たんですか」

 「勿論、君を強くするためですよ。君が持つ手札は、未だクトゥグア召喚という頼りない一枚のみ。父王の命を全うしたなどとは口が裂けても言えない、惨憺たる有様です」

 

 ナイ神父はにっこりと笑い、続ける。

 

 「安心してください。マザー──シュブ=ニグラスは教会でお留守番です。それとも、彼女も来た方が良かったですか?」

 

 

 




 生徒1「せんせー、何歳なんですかー!?」
 ニャル「12歳です! みなさんの方がおにいさん、おねえさんですね!」(満面の笑み)

 生徒2「猫耳、触ってもいいですかー! 尻尾もー!」
 ニャル「だ、駄目ですよぉ! 耳と尻尾は敏感なのでー!」(ぷるぷる震えている)

 フィリップくん「……学院長、正気ですか?」
 ヘレナ「黒ロン褐色はわわ系猫耳美少女教師、ハァハァ(彼女は錬金術において素晴らしい才覚を有する研究者です。外見で人を判断するのは愚かなことですよ、カーターくん)」

 ※ここは小説じゃないので作中世界で実際にあった会話とかではないです。ありそうではあるけど。最後以外。最後のは完全にネタ。


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83

 ナイ神父──ではなく、ナイ教授の授業が始まってからはや一週間。

 その容姿と立ち振る舞い、そして分かりやすくテンポのいい授業で人気を集めている彼女の存在は、既に然して気にならなくなっている。

 

 と言うのも、彼女がフィリップに対して意外なほど干渉してこないからだ。フィリップ強化のために来たと言っていた割に、だ。教師の仕事が想定以上に忙しいのだろうか。もしそうならフィリップとしては非常に嬉しいのだが。

 

 いつも通りに起床し、いつも通りに食堂へ向かい、ルキアとステラと一緒に朝食を摂る。

 そんな日常の風景に、今日はいつもと違う点があった。

 

 それはフィリップの席に置かれた、丁寧にラッピングされた小さな小箱と、それに怪訝そうな視線を向けるフィリップが持った小包。

 そしていつもより早く来ていたルキアが開口一番に言った。

 

 「誕生日おめでとう、フィリップ」

 

 という言葉だ。

 

 「おめでとう、カーター。プレゼントの用意が追い付かなかったのは、私にそれを教えなかったルキアのせいということにしておいてくれ」

 

 ステラも少し申し訳なさそうに、そう言祝いでくれる。

 

 フィリップは取り敢えず

 

 「え? えっと……おめでとうございます?」

 

 と、新年の挨拶のようにそう返した。

 

 

 

 王国内の生活レベルは、王都の内外で大きな差が──それこそ、100年レベルの格差がある。

 

 例えば紙は、王都内では錬金術師が大量に生産し、鼻をかむとかトイレで尻を拭くとか、その程度のことに使うことも、それを一々気に留めないのも普通のことだ。

 対して、王都外では大変な貴重品だ。筆記事項は厚手の動物の皮に書き記し、必要なくなったら薄く削って再利用することが多い。樹皮を使う地域もあるらしいが、加工が楽な前者の方が普及している。

 

 生活基盤が異なれば、そこに住む人々の価値観や文化にもまた差異が生まれる。言語だけは辛うじて大陸共通語が普及しているが、文化の乖離は既に始まっている。この状態が300年も続けば、同じ王国内でも王都内語と王都外語に分かれるだろうというのが言語学者たちの定説だ。

 

 フィリップが直面し困惑していたのは、まさにその文化の違いだった。

 

 王都外において、誕生日と言えば教会に行って一年間を無事に過ごせたことを感謝し、また次の一年間も無事でいられるよう祈る日だ。

 と言っても特別な儀式などは無く、日曜ミサ程度の短い祈りを捧げるだけ。家庭によっては誕生日がある週の日曜日についでに行う程度。祝うという文化は無いし、プレゼントを贈る文化もない。

 

 おめでとう、と言われるのは、何かを成し遂げた時や、或いは新年を迎えた時など。

 誕生日が時節に属するものである以上、フィリップが咄嗟に「おめでとう」と返したのは、論理的な推理としては間違っていなかった。

 

 残念ながらルキアには困惑で、ステラには失笑で応えられてしまったが。

 

 「──なるほど。じゃあ、これも誕生日プレゼントなんでしょうか」

 

 ステラが笑いの発作に苛まれながらしてくれた説明に、フィリップはそんな相槌を打つ。

 

 今日渡すようにと添えて魔術学院に届いていたという小包は、宿屋タベールナからと送り状に書いてある。

 貴族どころか王族すら在籍する学院の寮に送られたこともあって、一度開封され爆発物や呪詛などが仕込まれていないか検閲された旨を記した札も付いている。それによれば、中身はノートらしい。

 

 「まぁ、そうだろうな。開けてみたらどうだ? 手紙くらい入っているだろう」

 「え? じゃあ部屋で開けますけど」

 

 自分宛の手紙をわざわざ他人の前で開けることも無いだろうと、フィリップは包みを横に置く。

 ステラも尤もだと笑い、次を促した。

 

 「なら、次はルキアからのプレゼントだな。それはここで開けるだろ? 渡した当人の前だしな」

 「……そういうものなんですか?」

 

 別にそういう決まりや文化があるわけではないが、ルキアは「喜んでくれるだろうか」という不安から、ステラは単に「中身は何だろう」という好奇心から、頷いて答える。

 

 「じゃあ、開けますね。……うわ!?」

 

 中から出てきたのは、黒く滑らかな布に包まれ、さらに箱と物品の間に真っ白な真綿を詰めて緩衝材にした何かだった。

 もうこの時点で、中身が大層高価なものだと分かる。

 

 「え、っと……宝石とかじゃないですよね?」

 「……」

 

 震え声の問いには、開けてみてのお楽しみ、と言葉にせずとも伝わる笑顔だけが返ってくる。

 

 嬉しいことに、或いは残念ながら、値段で言えば同サイズの宝石の方がまだ安価(マシ)なものが入っていた。

 

 「懐中時計、ですか、これ!?」

 

 懐中時計──機械式時計を小型化した掌サイズのそれは、基本的に市場が存在しない。

 小さく、かつ耐久性に優れ、そして何より正確な部品を作る錬金術師と、それを一分の狂いも無く組み上げる優れた技術を持つ職人が、王侯貴族などの命を受けて作る特注品。一つで豪邸が土地・内装・使用人付きで買えるとか、落っことしそうになった国王を職人がぶん殴ったが無罪放免になったとか、様々な都市伝説がある。

 

 銀色の金属製で、文字盤を保護するハンターケースには緑色の宝石が円形に12個も埋まっている。

 

 「えぇ。基本材質は白金だから、錆びたりはしないわ。装飾のグリーンスピネルもかなり硬い石だから、気にせず使ってね」

 「できませんよ! というか、貰えませんよ、こんな高価なもの! ……高価ですよね?」

 

 にっこりと笑って言うルキアに、フィリップは思わず声を荒らげ、ステラにも確認を取る。

 

 プレゼントの中身を見て唖然としていたステラも声をかけられて再起動し、神妙に頷いた。

 

 「あぁ、かなりな。……だがまぁ、お前の誕生日を祝う気持ちによるものだし、返礼を要するものでもない。返すなんてそれこそ失礼だ。大切にしろよ。それはそれとしてルキア、ちょっと来い」

 

 ルキアが発していた「余計なことを言えば撃つ」という圧に負けず──いや、ちょっと屈しかけていたが──そう言って、ステラはルキアを引っ張ってトイレに引っ込んだ。

 

 

 

 放置されたフィリップが放心していられたのは、ほんの十数秒だった。

 ふと、音の遠退くような感覚が訪れる。いつぞや味わった、防諜系の魔術の感覚だ。

 

 ルキアとステラが居なくなったタイミングを見計らったように──いや、実際に機会を窺っていたのだろう、ぽてぽてと歩いて来たナイ教授がフィリップの対面に座った。

 

 「フィリップくん、おはようございますー」

 「……おはようございます、ナイ教授」

 

 ほわほわした気の抜ける挨拶と共に、人外の美を纏った猫耳美少女がにっこりと笑いかけてくる。

 先ほどまで抱いていた嬉しさや喜び、驚愕などが全て吹き飛び、嫌悪感と少量の殺意に置き換わる。情緒が死にそうだった。

 

 「お誕生日ー、おめでとうございまーす」

 「……どうも」

 「あれあれ? 先生には「おめでとう」って返してくれないんですかー?」

 

 感情に占める殺意の量が倍増する。

 とはいえ、フィリップが彼女に勝てる確率はゼロだ。手元のフォークを眼窩に突き立てようと、『萎縮』や『深淵の息』を撃ち込もうと、たとえクトゥグアを召喚したとしても、片手であしらわれて「本当に君は脆弱ですね」と嘲笑されるだけ。化身を揺らがせられるかも怪しい。

 

 「……失礼しました。そういえば、君の前ではこちらの化身を象る約束でしたね」

 

 瞬き一つの後に、フィリップの眼前には黒髪褐色猫耳美少女ではなく、黒髪褐色長身痩躯の神父が立っていた。

 人物が変わり、姿勢まで変わっているという異常に、ふっと気が遠退く。別に驚いたとか怖くなったわけではなく、脳が非連続的な視界に混乱しただけだ。

 

 頭を振り、紅茶を一口飲んで心を落ち着かせる。

 

 きちんとした立礼を見せたナイ神父は、もう一度フィリップの対面に座り直した。

 

 「あぁ、今のは謝意を込めたサービスですよ。今後、他人の前で私を「ナイ神父」と呼べば──」

 「分かっています。注意しますよ。……それで、用件はなんです?」

 

 言葉を遮られたナイ神父は嫌な顔一つせず、どこからともなく一冊のノートを取り出した。

 黒い革で装丁されたそれには見覚えがある。

 

 「あ、それ……」

 「君のノートです。魔術学院では使うことが無いからと、荷物には入れていませんでしたが……まずは、これをお返ししましょう」

 

 ナイ神父が恭しく差し出したそれを受け取り、ぱらぱらとページを繰ってみる。

 フィリップの字で、覚えのある内容で、概ね記憶通りの消費量だ。フィリップがモニカ一家から贈られたもので間違いないだろう。

 

 「あぁ、勘違いされても困るので明言しておきますが、これも、今後私が行う指導も、君に対する誕生日プレゼントなどではありませんので」

 「……領域外魔術の訓練、再開するんですか? ここで?」

 

 誰も来ない微妙な立地の投石教会であればいざ知らず、ここは千人規模の魔術学院だ。

 在籍するのは最低限魔術の才アリと認められた、フィリップを数倍する素養を持った魔術師の卵と、数倍では足りない才と研鑽を積んだ本職の魔術師である教師。

 

 領域外魔術をポコポコ連射していれば、その異常性はそう遠くないうちに看破されるだろう。

 そして何より、ナイアーラトテップがフィリップに習得させようとしているのは、連射するどころか一撃で星を砕くような存在を、目にすればほぼ確実に発狂するような存在を呼び出し使役する召喚魔術。

 

 練習風景を見られたらアウト。練習中にちょっとした事故で外部へ流出させてもアウト。二等地の一画を吹き飛ばしたときのように間違った存在を呼び出したり、使役をトチってもアウト。

 

 「……不味くないですか?」

 「いいえ?」

 「いや、言い換えます。不味いです。仮に邪神を召喚したとして、僕が一発で使役できるとでも? この僕が。クトゥグア程度にさえ一週間、百回以上の試行を要した、この僕が!」

 「無能を言い訳に……というか、武器にして振りかざさないでください。大丈夫、練習場所は確保しましたし、物理的・魔術的な詮索を全て遮断することなど造作もありません」

 

 勢いで誤魔化そうとしたフィリップだったが、千なる無貌には通じなかった。

 なんとか上手いこと言い逃れられないかと頭を回してはいるが、それもすぐに止める。

 

 フィリップ強化計画はアザトースの命に従うことだと、ナイアーラトテップは言った。であれば、フィリップごとき人間風情の意見も都合も斟酌されることはないだろう。こうして事前に通告されていること自体、望外の尊重だ。

 

 「……分かりました。次は何を? 火の次は水? それとも風ですか? 土ってことはないでしょうけど」

 

 投げやりに言ったフィリップに、ナイ神父は浮かべていた嘲笑に愛玩の色を滲ませる。

 

 「おや、鋭いですね。流石は魔王の寵児。──次は風属性、召喚する対象はハスターです。 ……じゃあ放課後、研究室で待ってますね、フィリップくん!」

 

 最後にナイ教授へと姿を変えて快活に笑い、手など振りつつ立ち去っていく。

 不連続な視界に酔いそうになりながら、フィリップは朝から嫌なものを見たと表情を歪める。

 

 間もなくして帰ってきたルキアが、フィリップの不機嫌そうを通り越して殺意すら宿した顔を見て何を思うかは、もはや想像するまでも無いが──何も心配することはない。

 

 プレゼントが気に入らなかったのかと心を痛めるルキアを安心させるなら、フィリップはその贈り物を受け取り、彼女の言う通り普段使いすればいいだけなのだから。

 

 

 



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84

 11歳の誕生日を境に、つまり新学期開始から一週間足らずで、フィリップの安寧は破壊された。

 本当は新学期初日の時点で壊れていたものが顕在化したとも言えるが、表現は然して重要ではない。

 

 毎日、放課後にナイ教授の研究室──人間には不可能な方法で空間を拡張し、強化したという外観の三倍近いスペースを誇る特別製──に籠り、悍ましき邪神ハスターを讃える言葉を繰り返す日々。

 

 毎日だ。毎日毎日毎日、雨が降ろうが風が吹こうが屋内なので関係なく、魔術実習の授業で魔力欠乏一歩手前だろうが、基礎体力を付ける目的の体育の授業で全身筋肉痛だろうが、彼女は満面の笑みで「はわわ、失敗でしたねー。まぁ君の才能ではそんなものですよー。はい、もう一回」と繰り返す。

 

 ハスターを召喚したらまず真っ先にナイ教授(コイツ)をブチ殺してやる、と息巻いていても。

 「がーんばれ♡ がーんばれ♡」と、媚びるような甘ったるい声を上げるナイ教授に覚えた吐き気を我慢していても。

 「あれあれ? また失敗ですねぇ。でもでも、ヒトってそういうモノですよねぇ」と嘲笑ってくるナイ教授に同意しないよう、必死に心を無にしていても。

 

 変わらず、領域外魔術『ハスターの召喚/使役』は失敗する。

 完全なる不発か、ハスターの下僕たる神話生物ビヤーキーが現れるか。ちなみに現れたビヤーキーは数秒もせずにナイ教授が消し去る。帰還ではなく、フィリップでは知覚できない手段による抹消だ。

 

 呪文は合っているはずだ。ナイ教授が教えた呪文が間違っているとは考えにくいし、もし間違っていたらもう思いっきり嘲笑してやる。

 召喚対象への理解もあるはずだ。フィリップの持つ智慧は外神に授けられたもの。通常の人間であればとっくに発狂しているか自害している、精神汚染にも等しい膨大で悍ましい知識がある。

 

 何が不足しているのか、或いは何が過剰なのか。

 きっとナイ教授には分かっているのだろうが、それをフィリップに伝えるつもりは無いようだ。自分で気づくまで、或いは飽きるまでは、フィリップの試行錯誤を愉しむつもりか。

 

 もしそうだとしても、自ら悟り蒙を啓くことの重要性を知っているだけに、フィリップはそれを責められない。相手がナイ教授でなければ、そのスタンスに感謝すらしただろう。

 

 ナイ教授の教育方法は、フィリップの性質と環境、そして目的に非常に即している。まるでというか、真実、フィリップを教導するためだけに顕現した化身だ。

 

 フィリップに必要以上の嫌悪感を与えないよう、ナイ神父の姿で理論を教え込む。嘲笑も蔑視も愛玩も、この姿の時には最低限の──彼が抱いているもの、フィリップが心の底から共感できる程度のものしか混ざらない。

 

 フィリップに嫌悪感や憎悪、殺意といった集中を乱す感情を催させるため、実践時にはナイ教授の姿を象る。彼女から飛んでくるのは、フィリップを不快にさせるためだけの嘲りと煽りだ。人類や世界への冷笑が根幹にあるだけに、こちらも反駁し辛いのが厭らしい。

 

 「ほらほら、そんな甘々でよわよわな魔術構成だと、また暴走しちゃいますよぉ? 君の大事な糞袋ちゃんも、君の住まう社会も、みーんな壊れちゃいますよぉ? もう一回やりましょう! がんばれ♡ がんばれ♡」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 後学期の中間試験を数週間前に終え、生徒たちの気が抜ける時期。

 その昼休みともなれば、食堂は賑やかな活気に包まれる。

 

 食器の立てる音、生徒が話し、笑う声。陽気で、喧しく、しかし嫌いにはなれない騒々しさだ。

 

 そんな明るい食堂の片隅で、フィリップとその周囲の空間はどんよりと淀んでいた。

 

 「もうやだ……」

 

 瞳どころか身体の輪郭すら溶けているのかと思わせるほどぐったりと机に突っ伏し、口の端から弱気を垂れ流すフィリップ。

 

 ルキアもステラも、ヘレナに呼ばれて今は不在だ。

 だからこうして、癖もしつけも忘れて行儀の悪い姿勢で飯を食い、弱音を吐けているのだが──少し、寂しい。周りから聞こえる喧騒が、フィリップの孤独感を際立たせる。

 

 「辞めたい……」

 

 毎日の授業、魔術の実習、そしてナイ教授の放課後特別授業。

 フィリップが魔力欠乏一歩手前で済んでいるのは、この魔術学院の環境が魔術を学ぶ者にとって理想的だからだが、そろそろ限界だった。

 

 そもそも、フィリップの魔術適性は一般生の半分以下だ。魔力の総量も、回復能力も、魔力操作に必要な集中力も、全てが劣る。

 ルキアとの魔術訓練を中断して余力を作っても、そんなものは一週間で食い潰された。

 

 魔力欠乏から来る精神疲労。虚脱・憂鬱感。無気力。

 そして難しくなりつつある授業や実習による体力の低下。回復しきらない体力・精神力をじわじわと削りながら、一か月ほど耐えてきたが、もう無理だ。破綻する。

 

 「……辞めるとか逃げるとかできないのが一番つらい」

 

 フィリップ強化計画はナイアーラトテップが始めたことだが、その根幹にあるのはアザトースの意図なき命令だ。フィリップが何を言ったところで、途中で切り上げることはないだろう。

 唯一の例外は、フィリップがこの脆弱極まる肉体を捨て、ナイアーラトテップやシュブ=ニグラスが認める程度には強力な存在に変性した場合。フィリップが最悪と定義する状態になった場合だけだ。

 

 「それは嫌だ…… けどもう疲れた…… せめてナイ教授じゃなくてマザーがよかった……」

 

 と、そんな全自動弱音垂れ流し機になったフィリップを柱の影から見守る人物が二人。

 ヘレナに言われた用事を終え、遅れて食堂にやってきたルキアとステラだ。

 

 「フィリップ……」

 「……まぁ、あいつの魔術適性ならよく耐えた方だろう。魔力の大量消費と回復をあれだけ繰り返して、総量も回復能力も殆ど成長していない」

 

 ルキアは心配そうにフィリップを見つめ、ステラはそんなルキアを宥めつつ、フィリップの中で脈動する魔力を観察する。

 

 ステラはこの一か月、フィリップが授業終了後に「ナイ教授に呼ばれているので」と別れ、夕食の時に魔力をほぼ空にして合流するのを見ていた。

 普通はそんなルーチンを一週間も繰り返せば、魔力の総量や回復能力はそれなりに向上する。一か月も繰り返せば、目に見えて成長するはずだ。尤も、身体が保てばの話だが。

 

 そして、フィリップの成長は皆無だった。

 魔術的な素養が絶対的なまでに欠けている。あれでは本当に一般人と何ら変わりない。

 

 どういう理由があるのかは不明だが、そんなハードワークを続けられる精神力があるのかと思えば、こうして限界を迎え弱音を吐いている。

 

 本当に──ルキアは、あれの何に惹かれて傍に置いているのだろうか。

 ルキアに限って、洗脳されたとか、異性愛に目を曇らせたとかは無いだろうが。

 

 「なぁ、ルキア。お前は……」

 「──何、ステラ?」

 

 お前はあいつの何処を買っているのか。そう訊ねたとして、ルキアがどう返すかは予想できる。「自分の目で確かめろ」だ。

 答えの分かり切った質問をすると言うのもガラではないし、ステラは二つ目の疑問を口にする。

 

 「──気にならないか? 一般人並みの魔術適性しかないカーターが、どんな補習を受けているのか」

 

 ルキアは少しだけ眉根を寄せ、不快感を示す。

 

 「それ、好奇心? それとも遠回しにフィリップを馬鹿にしてるの?」

 「前者が四分の三、残りは義務感だ。劣等生に補習を付けるのは当然だが、過酷なだけで効果が出ないような補習を課す無能を雇っているのなら、王国第一王女として、学院長を糾弾せねばならん」

 「ほとんど好奇心じゃない。残りのそれは言い訳というのよ」

 

 呆れたように言って、ルキアはフィリップの伏せるテーブルの方へ歩き出した。

 ステラも後を追いながら、銀髪の揺れる背中に向かって続ける。

 

 「同年代の猫耳美少女と二人っきりのカーターがどんな反応をしているのか、お前は気にならないのか?」

 

 揶揄うような物言いに、ルキアは大きなため息を吐いた。

 足を止め、振り返ったその顔には色濃い苦悩が浮かんでいる。

 

 10年以上の長い付き合いがあって、それでも見たことも無いような表情に、ステラは驚きを隠せない。

 

 「気になるわよ、勿論。フィリップがあそこまで疲弊していて、私が何も思わないとでも? 何をしているのか知りたいし、できるなら手伝ってあげたいわよ。でも、私はナイ教授に関われない」

 「関われない? 何故だ?」

 「フィリップがそう言ったからよ。「彼女にはなるべく関わらず、絶対に彼女のことを探ろうとしないでほしい」って頭を下げたあの子を、私は絶対に裏切らない」

 

 自分の意志を押し殺していることが伝わってくる、血でも吐きそうな声で吐き捨てて、ルキアは足早に歩き去る。

 

 「言われたからやらない? ……不合理だろう、それは」

 

 ここまで来ると、「あのルキアが?」なんて言ってはいられない。

 彼女の変容はかなり異常な振れ方をしている。フィリップ・カーターに魔術的素養がないことは間違いないが──では、そのフィリップが露骨に警戒し、毎日のように二人で過ごしているナイ教授はどうだ?

 

 彼女が研究者をしていた帝国は王国よりも魔術の研究が盛んで、逆に錬金術の立場が低い。

 王国に於いては禁忌とされる死霊術や支配・洗脳系の魔術も肯定され、積極的な研究がされている。

 

 一度怪しく見えると、全ての要素が怪しく見えてくるものだ。弱冠10歳にしてヘレナにスカウトを受けるほどの研究者であるという事実も、彼女が洗脳のプロだとしたら話は変わってくる。

 

 フィリップも共謀しているのか、或いは彼も操られているのか。

 何にせよ、本腰を入れて観察する必要がある。

 

 

 



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85

 陽光が降り注ぎ、ぽかぽかと暖かな空気が満ちる校庭。木陰には清涼な風が吹き込み、木漏れ日が心地よい明るさを作り出してくれる。

 刈り揃えられた芝生の上に寝転がってみれば、昼食後の満腹感も相俟って、穏やかな微睡みに包まれること請け合いだ。最高に贅沢な、ルキアの膝枕付きであればなおのこと。

 

 その心休まるひと時で充填したエネルギーが、早くも枯渇しかけていた。

 

 「あれあれ? またビヤーキーですねぇ。ハスターとは比べ物にならない非神格、君との差も分からないくらいの低級存在ですぅ。はい、しっぱーい。もういっかーい!」

 

 ナイ教授がぱんぱんと空気を切り替えるように手を叩くと、聞くに堪えない音を立ててビヤーキーが消滅する。

 ちなみにビヤーキーは翼竜が産み落とした蜂のような外観で、突然変異した魔物と言い張れないこともない程度の気持ち悪さだ。肝の太い人間であれば、直視しても驚く程度で済むだろう。磁気を持った鳴き声という特殊な交信手段を持つらしいが、フィリップはまだ一度も聞いたことが無い。

 

 「……ビヤーキーがいれば……ハスターの招来は……成功しやすくなるのでは……?」

 

 息も絶え絶えに、重度の魔力欠乏から来る疲労・倦怠感に抗いながらそう言ってみる。

 

 「その話はこれで43回目ですねー。思考と記憶が覚束なくなってきましたかー? じゃあ、ラスト一回!」

 「…………はい」

 

 フィリップが魔力欠乏で死んだらどうするつもりなのだろうか、この邪神。

 いや、どうもしないというか、何なら願ったり叶ったりという状況か。そうなったらフィリップを外神として産み直せばいい。肉体は強靭になり、戦闘能力は向上し、魔術を仕込む必要も無くなる。

 

 それに、まぁ。

 本気で死にそうになったら、この状況を見ているであろうマザー──シュブ=ニグラスか、ヨグ=ソトースのどちらかが介入してくるだろう。たぶん。

 

 本当に、全く、嫌になる。

 どうしてハスター程度の存在に、ここまで骨を折らされているのか──

 

 「……ぶるぐとむ あい あい はすたあ」

 

 適当な構え、適当な詠唱。

 もはや単なる魔力の浪費になりそうだったその魔術行使は、しかし、構えていた右手から迸る暴風による大破壊に、ナイ教授本人とその部屋を盛大に巻き込むという、望外の結果を齎した。

 

 「──え?」

 

 元が人型であったことすら判別できない肉の塊になった、ナイ教授の矮躯。

 整然としていた錬金術工房は、今や竜巻が過ぎた後も斯くやという惨状だ。

 

 何が起こったのか。考えればすぐに分かることだが、残念ながら、今のフィリップに考えるだけの余力は無かった。

 

 「痛っ……」

 

 床材が捲れ、抉れ、吹き散らされ、瓦礫状になった床に倒れ伏せる。

 ここ一月ですっかり慣れてしまった限界の感覚に身を任せ、フィリップは自分の挙げた成果を認識する前に意識を失った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 翌日。

 ヘタクソな口笛を吹き、スキップなどしつつ廊下を行くフィリップという、とても珍しい──ここ最近は同じ道を死んだように歩いていた──ものを、生徒たちは遠巻きに見ていた。

 

 その後ろを悠々と歩いてついて行くステラの姿は、陽炎が光を歪曲させており、視認不可能になっている。

 尤も、彼女が魔力を秘匿しているとはいえ、元々の魔力が強大かつ膨大だ。多少なりとも魔力感知能力に秀でていれば、その位置はすぐに看破できる。気付かないのは一般人並の魔術適性しか無い──というか、魔術師か一般人かという区分では間違いなく一般人のフィリップだけだ。

 

 ナイ教授の研究室の扉をきちんとノックし、しかし返事を待たずに入る。

 普段は丁寧な物腰で、礼儀作法をよく躾けられていると感じさせるフィリップだが、ナイ教授相手には少し雑になるらしい。やはり親密な仲なのだろうかと、ステラはそんな予想を強くする。

 

 フィリップが入り、施錠した扉の前で耳を澄ます。

 微かにではあるが、中の会話が漏れていた。

 

 「こんにちは、フィリップくん。昨日は大成功でしたねぇ」

 

 媚びるような甘ったるい、しかし母性を擽る幼い声。ナイ教授のものだ。

 

 「こんにちは、ナイ神父。また忘れてますよ」

 

 ナイ教授と同じ名前の、しかし別の誰かに向けたフィリップの声。直後に耳障りな湿った音が続き、ステラは思わず扉の前から一歩退いた。

 

 ほんの一歩離れただけで、中の会話は全く聞き取れなくなる。

 無数の触手が這い回るような音が耳に残っている気がして、ステラは何度か耳を擦る。今のが何の音だったのかなんて想像するだけで吐きそうなほどだが──考えないわけにもいかない。

 

 もう一度扉に耳を寄せ──

 

 「では、取り敢えず、どうして昨日はあのような結果を産んだのか。まずはその理由から考察してみましょうか」

 

 ──耳触りの良い、知らない男の声がする。

 

 「え? は? 誰の声だ?」

 

 思わず扉に手を掛けるが、覗き窓のない引き戸はしっかりと施錠されており、漏れ聞こえる声以外の情報を与えてくれそうにない。

 音を立てない程度に動きを繊細かつ緩慢にするだけの理性が残っていたのは幸いだったが、そうしている間にも部屋の中では男の声と、少し幼い男の声が会話を続けている。

 

 視界を優先するか、もう一度聞き耳を立てるか。

 ステラはもう一度耳を寄せ、視界の確保は諦める。こちらから見えるということは、向こうからも見えるということだ。

 

 光の操作にはステラの追随すら許さない圧倒的なセンスを誇るルキアがいてくれれば、と思うも虚しい。

 

 「……といったところでしょうか。要は普段通りに物事を捉えていればよかったんです。……こんな風に!」

 

 年相応の悪戯っぽいハイテンションな声で、フィリップが勝ち誇ったように叫ぶ。

 直後に風の吹き荒れるような轟音が響き、一瞬で消える。

 

 「……なんだ? あいつ、魔術が使えたのか?」

 

 だが失敗したのかと、ステラは沈黙の降りた室内に神経を尖らせる。

 

 ちなみに、フィリップは昨日と同じように水平方向に伸びる竜巻のような大破壊を召喚したが、ナイ神父が呆れたような溜息一つで相殺しただけだ。

 勝ち誇ったような表情を浮かべていたフィリップは一転、強張った笑顔を。ナイ神父はいつも通りの嘲笑を浮かべている。

 

 「……昨日は君が昏倒したので伝え損ねていましたが、これは「失敗」ですよ、フィリップ君」

 「……そんな気はしていました」

 

 フィリップが行使している魔術は『ハスターの召喚』だ。竜巻の召喚や暴風の召喚ではない。断じて、こんな現代魔術の上級に区分されそうな()()()の魔術では、ない。

 

 「でもこれでよくないですか!? 人間一人が使う攻撃魔術として現実的な威力で、しかも直視しても問題ない外観! これこそ僕が求めていた魔術なんですが!」

 「でも、弱いじゃないですか」

 

 フィリップが指を突き付けて吠えるように言い募り、ナイ神父が淡々と切り捨てる。

 フィリップは無言で無表情で、しかし納得してしまっていた。

 

 「どういう判断基準なんだ? そりゃあ、部屋が壊れていない時点で相当弱い部類の魔術だろうが……」

 

 聞き耳を立てている人類最強(ステラ)も、自分基準ではそう判断するところだ。

 とはいえ、相手はほぼ一般人だ。風の発生か何か、細部は定かでは無いにしろ、魔術を発動させるだけでも相当な努力をしたのだろう。それだけで褒められるべきだし、それ以上を望むのは現実的ではない。

 

 「君は、今の攻撃が私ではなく旧支配者が相手だったとして、通用すると思いますか?」

 「……いいえ」

 

 旧支配者と言ってもピンキリだが、基本的に人類では太刀打ちできないと考えて良いだろう。今のような「人類にも再現可能なレベルの結果」である時点で、その魔術は大概の旧支配者には通用しないということだ。

 だからこそ、ナイ神父はフィリップに純粋な攻撃や防御の魔術ではなく、同等存在を召喚する魔術を教えている。

 

 「正解です。今のは──の先触れ、いえ、人間風に言い表すのなら、髪の毛の先端のようなものです」

 「……進歩はしていますね」

 「そうですね。程度で言えば、赤子が自力で寝返りを打てるようになった、くらいのものです。大躍進ですね」

 

 言葉の一部が、脳が理解を拒むように「音」として聞き流される。

 その不自然さに、ステラは幸いにも気付くことは無かった。

 

 ぱちぱちぱち、と、ナイ神父が心の籠った拍手を送る。

 籠っているのは嘲りだ。だが、どうしてか、深い敬意をも同時に感じさせる。

 

 少しのあいだ黙っていたフィリップが、妙案を閃いたというように指を弾く。

 

 「そうだ。これはこのままにして、別の魔術に切り替えましょう!」

 「駄目です。もう魔力欠乏に陥っているんですか? この程度で目的達成などと嘯いては、父王と、その寵児たる君に顔向けできません」

 「千の貌があるのに?」

 「…………」

 「……あの、星空の顔は酔いそうになるので止めてください」

 

 何の話をしているのかと困惑するステラを余所に、中では会話が──否、聞き取ろうとするだけで吐き気を催すような「音」と、それに応えるように一人で話すフィリップの声が続く。

 

 「テスト? またテストですか? つい2週間前に中間試験が……なんでもないです」

 

 「え? クリアすれば『ぁすとるの召喚』はこのままでいい? ……一応聞いておきますけど、クリアできない難易度とかではないですよね?」

 

 「明日ですか、分かりました。……あの、そろそろ顔を戻してくれませんか?」

 

 これ以上「音」を聞いていると本気で吐きそうだと、ステラは足早にその場を立ち去る。

 

 収穫はゼロに近い。

 会話の意味はあまり、いや全くと言っていいほど分からなかった。何かの符丁かとも思ったが、その手の暗号会話に特有の他者への警戒や、仄暗い謀略の気配がしなかった。あの二人には何かを秘匿するという意思は無かったように思える。

 つまり、言葉をそのまま受け取っていいということだが──それでも意味不明だった。

 

 唯一、彼らが洗脳系統の魔術師でないことは確認できたと言ってもいいが、それは新しく浮かんだ疑念が消えただけ。振り出しに戻っただけだ。

 

 明日のテストとやら。それを少し無理してでも見てみないことには、何も分からない。

 百聞は一見に如かずとはそういう意味ではないが、視覚から得られる情報は聴覚からのそれより何倍も多く、濃い。

 

 「ルキアに頼ってみるか……? いや、無理か」

 

 ルキアの頑なさはよく知っている。

 彼女が「やらない」と言ったのなら、それを覆すのはほぼ不可能だ。何より、覗き見は彼女の美意識にそぐわないだろう。

 

 「どうするか……」

 

 マスターキーの用意はしてあるが、と。

 ステラは指先に蝋燭大の小さな、しかし鉄すら蒸発させる極高温の炎を灯した。

 



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86

 闇パマンなので一週間ぐらいストック生産が止まります


 真っ白な壁と床、天井。

 灯りも窓もないのに昼間のように明るく、光源も定かでは無い薄い影が降りている。

 

 近付いてよく見れば、床と壁は石のタイルで舗装されている。天井もきっとそうだろう。

 

 だだっ広い長方形の部屋だ。短辺は15メートル強、長辺はそれより少し長い。

 片方の長辺の壁には金属製らしき扉があるが、それだけだ。窓も無ければ、絵画や彫刻と言った装飾もない、無機質で閉塞感のある部屋だ。

 

 部屋の中央には木製の丸テーブルが一つ。

 引き出しは無く、卓上には小さなポーチが置かれ、その横には小ぶりなナイフが突き立てられている。

 

 取り上げてみるとずしりと重く、よく研がれた刃にはフィリップの困り顔が反射していた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 「では予定通り、テストをしましょう」

 

 いつものようにナイ教授の研究室を訪れたフィリップを、ナイ神父はそう言って出迎えた。

 

 その予定自体はフィリップも勿論覚えていたけれど、細部については何も知らされていない。

 たとえばどんなテストなのか。合格の条件、失格の条件といった大前提から、禁止事項やテストの形式についても。まさか筆記試験では無いだろうと、特に事前の勉強などはしていないが……まずかっただろうか。

 

 「筆記試験ではありませんので、ご安心を」

 「まぁ、そうですよね」

 

 領域外魔術『ハスターの召喚』を使いこなすためのテスト──いや、使()()()()()()()()()()()と示すためのテストだ。

 出題者が人外の智慧を持つナイアーラトテップとはいえ、机に向かって答案用紙の空欄を埋めるような方法で、それが計れるとは思えない。

 

 「テストは実戦形式で行います。無論、神話生物や旧支配者と一対一で、なんて、面倒かつ無粋な方法ではありませんのでご安心を」

 「……それは、本当に安心できる情報ですね」

 

 神話生物はともかく、旧支配者でも上位の存在が相手だとしたら、出来損ないの『ハスターの毛先(仮称)』では全く歯が立たない。それを前提として、この魔術が「使える」と証明するのが本旨だ。

 要は切り札としてクトゥグアの招来を据えて、小手調べとして『毛先』を使うとか、とにかく「弱い魔術の存在価値」を示せばいい。……ということだろうか。

 

 正直なところ、ナイ神父が「テストに受かればいい」とか、妥協案を提示したこと自体がフィリップの予想の埒外だ。

 絶対にクリアできないとか、色々と捨てないとクリアできないとか、厭らしい裏があると予想すべきだろう。

 

 「で、具体的にはどういう?」

 「急きますね。まぁ、勿体ぶる必要もありませんが。テストは君に最低限度の問題解決能力があると示せばクリアです。そのハスターの毛先みたいな魔術が……なんです?」

 

 どうやらフィリップとナイ神父のネーミングセンスは似ているらしいが、それはフィリップにとってはあまり愉快ではない事実だった。

 「別に」と端的に言って、片手で続きを促す。

 

 「……その魔術が未完成でも問題ないと示しつつ、試験空間から脱出してください」

 「……はい?」

 

 脱出?

 指定目標の討伐などではなく?

 

 「これから君を異空間に閉じ込めます。あぁ、意識のみを隔離するので、副王の庇護は当てにしないように。攻撃されれば死にますよ」

 

 攻撃されたら死ぬ。

 それは、まぁ、当然といえば当然ではあるのだけれど──フィリップにとっては、この半年間、遠くにあった“当然”だ。

 

 論理が整っているどころか1=1ぐらいの正当性があるせいで理解が遅れるが、それは少し、いやかなり話が変わってくる。

 

 「ちょっと待ってください。それ、クトゥグアやハスターを召喚した場合、僕は普通に死ぬのでは?」

 「精神防護は万全なので、召喚が即、死と繋がるわけではないでしょうが……暴走、或いは攻撃範囲の指定ミスなどがあれば、普通に死ぬでしょうね」

 

 ……どういうつもりだろうか。

 フィリップをわざと殺し、外神として再創造する──というわけではないだろう。その疑いを数秒の思考で棄却できる程度には、フィリップはナイ神父のことを信用していた。より正確には、彼に対するストッパーであるシュブ=ニグラスとヨグ=ソトースを、だが。

 

 「……意外と冷静ですね。魔術の照準ぐらいは覚悟していましたが」 

 「覚悟とは、また大仰な」

 

 つまらなそうに言ったナイ神父に、フィリップは苦笑を向ける。

 フィリップが何をしようと、ナイ神父を傷付けることはない。本気の魔術を撃ち込んだとしても、だ。そんな相手に「覚悟」という言葉は、確かに大仰だった。

 

 「お察しの通り、君が異空間で死んだとしても、肉体に影響はありません。いわば精神世界、夢のような場所ですからね。……普通は強烈な死のイメージに身体が引っ張られて、錯死するんですが」

 「マザーの精神防護、ですね」

 「ご賢察です。肉体は死にはしませんし、死という全生命体にとって最も忌むべき状態を経験しても、発狂することはありません。……とはいえ、文字通り死ぬほど不快なはずです。後遺症こそ無いでしょうが、魔力欠乏の比ではない苦痛も感じます。お忘れなきように」

 

 あのナイアーラトテップが事前に忠告するあたり、本当に()()()()不快なのだろう。それこそ、フィリップが異空間で死ねば、ナイアーラトテップに何かしらの制裁が下るレベルで。でなければ忠告などしないだろうし。

 ヨグ=ソトースにぶん殴られ、シュブ=ニグラスに絞め殺されるナイアーラトテップはさぞかし見物だろうが……嫌がらせのために死ねるほど、フィリップは苦痛に慣れていない。

 

 「ということは、普通にクリアする分には死なない……少なくとも、確実に死ぬようなテストではない、って認識でいいんですよね?」

 「無論です。……それはテストではなく、処刑と言うんですよ」

 

 尤もだが、ナイアーラトテップはそういうことをする。

 フィリップに対してどうかは知らないが、幾つもの星、幾つもの生命や文明に対して、戯れに死を突き付けてきた邪神だ。言葉を額面通りに、手放しで信用していい相手ではない。

 

 「他に質問が無ければ、そろそろ始めましょうか」

 「……分かりました」

 

 フィリップの返答を受け、ナイ神父はそっとフィリップの頭に手を伸ばす。

 その手が聖水で濡れていれば洗礼にも見える、厳かで堂々とした動き。普段なら警戒して距離を取るフィリップも、概ね説明を受けていれば身構える程度だ。

 

 「では、ご健闘を」

 

 額に当てられた手が強い光を放つ。

 あまりの眩しさに、フィリップは驚きの声を漏らして後退した。

 

 「う、わ……!?」

 

 反射的に目を閉じてなおも目蓋が赤く透けるほど、強烈な光だった。朝日を直視したレベルの眩惑が残っている。

 目が覚めるような、と形容できる輝きだったのに──強烈な眠気が襲ってくる。足元が覚束ない。直立していられない。視界が揺らぎ、目蓋が落ちてくる。頭が、重い。

 

 目の前で抱き留める準備をしているナイ神父から離れたいのに、足が言うことを聞かない。せめて椅子の方に倒れ込もうと、わざとバランスを崩す。

 傾いでいく視界の端で、上から下に金色の波が流れるのを見る。顔を向け──暗くなっていく視界で、とても見たくないものを見た。

 

 「王女、殿下……?」

 

 苦しげな顔で倒れ伏す、ステラの姿を。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 そして、体感的には一瞬の後。

 魔力欠乏で失神したときのような、意識の不連続感と倦怠感を覚えながら、視界以外の感覚で横臥状態だと察する。

 

 反射的に目を開けてまず真っ先に目に入ったのは、ステラの苦しげな寝顔だった。

 

 「……最悪だ」

 

 手を伸ばせば届く距離に、ステラがフィリップと同じく横たわっている。

 ルキアと同じく「可愛い」というよりは「綺麗」というべき美貌だな、とか。ルキアとは違って明朗快活といった態度だけど、風貌自体はルキアと同じで冷たい美しさだな、とか。まぁでも、やっぱりマザーの方が綺麗だな、とか。健全な男子としてはそんな感じのことを考えるべき一瞬かもしれないが、先日誕生日を迎えたとはいえ、フィリップはまだ子供だ。

 

 そして、そんな舐めたことを考えている場合ではないことを、フィリップはしっかりと記憶していた。

 

 慌てて跳ね起きると、急な姿勢の変化で立ち眩みに襲われる。

 ふらつく足でステラを踏まないように壁際へ寄り、視界の回復を待つ。

 

 数秒の後、フィリップはようやく自分の現在位置を知る。

 ここは、真っ白な部屋だった。

 

 真っ白な壁と床、天井。

 灯りも窓もないのに昼間のように明るく、光源も定かでは無い薄い影が降りている。

 

 近付いてよく見れば、床と壁は石のタイルで舗装されている。天井もきっとそうだろう。

 

 だだっ広い長方形の部屋だ。短辺は15メートル強、長辺はそれより少し長い。

 片方の長辺の壁には金属製らしき扉があるが、それだけだ。窓も無ければ、絵画や彫刻と言った装飾もない、無機質で閉塞感のある部屋だ。

 

 部屋の中央には木製の丸テーブルが一つ。

 引き出しは無く、卓上には小さなポーチが置かれ、その横には小ぶりなナイフが突き立てられている。

 

 取り上げてみるとずしりと重く、よく研がれた刃にはフィリップの困り顔が反射していた。

 

 「……どうしよう?」

 

 ここがナイ神父の言っていた「脱出すべき試験空間」で間違いないだろう。

 だがステラはどうする? 彼女がどうしてここにいるのか──正確には、どうしてナイ教授の研究室を、あんな最悪のタイミングで訪ねてきたのか。

 

 いや、最悪のタイミングで最悪の場所に来てしまっただけなら、まだマシだ。

 

 彼女が巻き込まれること自体、ナイアーラトテップが仕組んでいるということも有り得る。

 このテストの目的は「ハスターの召喚が未完成でも問題ないと示す」こと。『クトゥグアの召喚』、『深淵の息(ブレスオブザディープ)』、『萎縮(シューヴリング)』、そして『ハスターの毛先(仮称)』だけで、現状、十分に自分の身を守れると示すことだ。

 

 これまでフィリップが直面した戦闘には、常に誰かが傍にいた。

 衛士、ルキア、クラスメイト、班員。彼らを殺さず、発狂もさせずという縛りが、常にフィリップには課せられていた。そして今後も、衛士やルキアを殺したり、発狂させたくはない。

 

 ()()()()()()を想定しているとしても、これはやりすぎだ。

 

 この精神空間での死や狂気は、現実の肉体にもフィードバックがあると、ナイ神父は言った。

 フィリップはともかく、ステラはここで死ねば現実でも死に、発狂すれば現実でも狂う。彼らがアフターケアをするなんて、甘い幻想は持てない。

 

 最悪だ。

 ()()()()()()()()()()なんて、本当に、最悪だった。

 

 

 



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87

 ステラがここにいることは、ナイ神父の狙い通りかもしれない。

 ここでテストを中断して戻ったとして、待っているのは「甘いですねぇ、フィリップくん。そういうところ、直した方がいいですよぉ。不合格です」と嘲笑してくるナイ教授かもしれない。

 

 フィリップが背負いがちな「枷」を想定してのものか、或いはフィリップがどこまで冷徹になれるかを測っているのか、それとも、この決断──最速の解決策を取ることが正解なのか。

 

 両手で掴んだナイフを自分の首元に突き付けて、フィリップは息を荒らげながら思考する。

 

 ナイ神父は、ここで死んでもフィリップの肉体は死なないと言った。

 でもたぶん、きっと、物凄く痛くて、苦しいのだろう。

 

 どう死ねば痛くない? 首の血管を切る? 喉にナイフを突き立てる? なんとなく、前者の方が痛みは少なそうだけれど──長引きそうに思える。

 大量出血して、痛くて寒くて苦しくて力が入らなくなって、それから「あぁ、痛くても早い方がよかったな」なんて、思いたくはない。

 

 夢の世界だから、何だと言うのか。首元の金属の冷たさと鋭さは、間違いなく本物だ。

 死なないから、何だと言うのか。文字通り死ぬほど痛くて苦しいのだろう? なら、死は温情ですらある。

 

 死にたくないとは思わない。だって、死なないから。

 ここは精神の世界。こうしてナイフを持ち、震えているフィリップは、魂とか精神とか呼ばれるもの。マザーが守っているものだ。だから、少なくともフィリップが死にたいと願うまでは、死なないはずだ。

 

 でも絶対に痛い。嫌だ。痛いのは嫌だ。苦しいのも嫌だ。

 

 思考が空転して、同じことを何度も考えている。

 痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。辛いのは嫌だ。怖くて涙が出てくる。けれど──フィリップはこれをやっても、死なない。きっと向こう一週間くらい寝込んで、「もう二度とやらない」とか悪態を吐いて、それで終わりだ。

 

 ここで死ねば現実でも死に、ここで狂えば現実でも狂うステラを、ここから逃がす一番安全で簡単な方法が自害(これ)なら。

 やるしかない。やるべきだ。──やる、はずだ。

 

 ジェイコブ、ヨハン、名も知らぬ衛士たちなら。確実に殺される戦力差を分かっていて、悪魔に挑みかかった。斬られ、焼かれ、命を天秤に掛けられ、しかし一歩も退かなかった彼らなら。

 ルキアもそうだ。神話生物の末裔と、第一世代のシュブ=ニグラスの落とし子。個体次第では今のフィリップにとってさえ脅威になるような存在を前にして、ほんの数時間前に会った怪しい子供を、自らを囮にしてまで逃がそうとした彼女なら。

 

 彼らなら。彼女なら。

 フィリップの憧れた「人間」なら、こうする、はずだ。

 

 なのに、手が動かない。

 喉を突こうとしても寸前で、首筋を撫でようとしても薄皮を一枚切って、刃が震えて、手が震えて止まる。

 

 誰も介入していない。誰も制止していない。

 フィリップの右手に力が籠ると、左手がそれを押し返す。

 

 ためらい傷のできた首筋にぴりぴりとした痛痒がある。

 それが致命傷の痛みをしっかりと想像させて、よりいっそう怖くなる。

 

 「ぅ、ぁ……」

 

 嗚咽が漏れる。涙が頬を伝い、床に滴る。

 

 彼らの何倍も恵まれた、甘い位置に立っているのに──死線なんて、見えてもいない場所なのに、一歩も踏み出せない。

 死ぬのが怖いなら、それは本能だと受け入れもしよう。でも死ぬなんて一片も思っていない。

 

 痛いのが怖い。苦しいのは嫌。そんな、彼らが克服した死への忌避と恐怖を何倍も、何十倍にも希釈したような甘い理由で、刃が止まる。

 

 「は、ははは……」

 

 泣くほど悲しいのに、笑えてくる。

 

 なんだ、意外と──自分で思っていた以上に、人間性が残ってるじゃないか。

 彼らの宝石や太陽のように輝かしいそれではなく、吐き捨てられた唾のような、それこそ唾棄すべき、どろどろに濁った自己保身が。

 

 「はははは……」

 

 なんと情けなく、惨めなことか。

 こんな、こんな無様なモノは──僕の憧れた「人間」じゃない!

 

 背中を反らせるように振りかぶる。

 ()()()()()()()()。そんなクソみたいな情けない人間性に拘る必要は無い。さっさと死んで、外神にでも何でもなってしまえ。

 

 「──ッ!!」

 

 刃を振り、喉元へ突き立て──

 

 「──止せッ!」

 

 耳に刺さるような怒声を聞き──ぞぷ、と。湿った音を立てて、刃が止まる。

 喉元から胸元へと温かい、赤い血が流れていく。

 

 痛みは全く無い。

 当然だ。刃はステラの右手を貫通しておきながら、フィリップの喉にはその先端を薄皮一枚分すら食い込ませず、僅かに触れて止まっていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 幸い、テーブル上のポーチには、これも攻略に役立てるためであろう、救急処置セット……のようなものが入っていた。

 内用錠剤型の鎮痛剤と、外用塗布型の化膿止め、あとはよく分からない錠剤が幾つか。精査している余裕はなかったから、とりあえず鎮痛剤だけを飲ませ、傷口には化膿止めを塗って、フィリップのシャツの袖を片方裂いて縛った。

 

 ハンカチは持っていたはずなのに、それも、ルキアに貰った懐中時計も、現実で持っていたものは何も無かった。着の身着のまま、といった感じだ。

 

 「……ふむ。いい手際だな」

 「……ありがとうございます」

 

 衛士たちが悪魔に負わされた傷は、もっと深く広範囲で、そのうえ火傷もしていた。掌を貫通するという大怪我の処置を落ち着いて、的確にできるだけの経験はある。

 だが掌を貫通する傷の処置としては、かなり甘い。本当なら縫合か、最低でも止血剤でパックしておきたいところだが、無いものねだりだ。あの時はその手の処置の殆どを魔術で置換できる治療術専門の衛士がいたから良かったが……これも、意味のない回想だ。

 

 夢の中の傷が現実に影響する可能性は有意にある。たとえば、こちらで欠損した部位は現実では機能不全に陥るとか、化膿した部位は現実では腐り落ちるとか、そんな危険性が。

 思い至ってしまった以上、無視は出来ない。不足だ、甘いと思いながら、できる最善を尽くすしかない。

 

 「……ごめんなさい」

 

 処置を終えて、フィリップは深く頭を下げる。

 フィリップは立って、ステラはテーブルに腰掛けているが、頭の位置はそう変わらない。

 

 深く、深く、首筋とうなじを晒すように。

 ステラがその気になれば、彼女の横に置かれている血まみれのナイフを取り、突き立てられるように。

 

 じっとりと首筋にかいた汗が、傷に染みて鋭く痛む。

 この何倍もの痛みに襲われているはずなのに、ステラは傷の原因であるフィリップを一度も責めていない。何のつもりで、何の思惑があって自害を試みたのかとすら、問われていない。

 

 「……っ」

 

 首筋に、ステラの指が這う。

 縊り殺されるのか、なんて勘違いを抱かせない、柔らかく気遣うような手つきだ。

 

 何条も刻まれた躊躇い傷に触れ、優しく繊細に、化膿止めの軟膏を塗り込んでいく。十分に塗りこめたと判断すると、彼女もブラウスの袖を切り裂き、気道を圧迫しないように巻き付けた。

 

 「……すまない、カーター。お前の苦悩はすべて、私のせいだ。私が好奇心に駆られて、お前の補習を覗いたりしなければ──」

 「……は?」

 

 ステラが言葉を終える前に、フィリップの口から驚愕と憤怒が漏れる。

 それを当然のことと受け止めようとしたステラだったが、フィリップの視線はステラには向いていなかった。その怒りの矛先も、だ。

 

 覗いていた──覗くことが出来た。

 それは、まぁ、そうなのだろう。彼女がここにいることと、その言葉に矛盾はない。嘘ではないだろう。

 

 問題なのは、彼女が()()()()()()()()という点だ。

 ナイアーラトテップの対諜報能力が人間に劣るとは考えられない。つまり、意図的に穴が空けられていたということ。

 

 別に、それ自体を責めるつもりはない。

 フィリップに対して「詮索の遮断は万全です」などと嘯いた件については、後で問い詰めるとして──フィリップやナイ神父のことを探ろうとする者が、勝手に狂って死んでいくような仕掛けだ。悪辣だとは思うけれど、それは因果応報と言うか、知るべきではないことを知った結果と言うか、それこそ「殺せば死ぬ」くらいの当然性がある。

 

 しかし、ナイアーラトテップは「ナイ教授」なる、生徒たちの興味や関心をこれでもかと引き付ける化身を象ってきた。

 それで探れば狂うような罠を仕掛けるのは、マッチポンプというか、ただのテロだ。しかも小火で野次馬を集めてから本命の大爆発を起こすタイプの、悪辣なやつ。

 

 「……殿下のせいではありません。たぶんですけど」

 

 テロと表現したのは、我ながら面白い言葉選びだった。

 

 確実に、なんてわざわざ言うまでもなく、ナイアーラトテップはこの状況を予測していた。

 フィリップが魔術の習得に難儀し、ゴネて、テストを実施するというところまで、赴任してきた時には見えていたはずだ。

 

 だから──()()()()()()()

 フィリップがテストを受ける時に、自分から勝手に巻き込まれに来てくれる人間がいれば、それで良かった。1人でも、複数人でも、男でも、女でも、生徒でも、教師でも。

 

 たぶん、最有力候補はいつも一緒にいるルキアだったのだろう。けれど彼女は、フィリップの言葉に従って一切の詮索をしないでいてくれた。

 彼女の無事を喜びたいところではあるけれど──そんな場合ではない。

 

 「いや、本当に私のせいなんだ。私は私の好奇心のせいで、この意識空間とやらに巻き込まれた」

 「……この空間について、僕と同じ情報を知っていると考えても?」

 「あぁ、懺悔させてくれ。私はお前とナイ教授……いや、ナイ神父との会話を聞いていた」

 

 フィリップはうっと言葉を詰まらせる。

 ナイ教授の話し方が不快だから、なんて理由でナイ神父の化身を指定したのは間違いだったかもしれない。

 

 「彼が何者なのか。どうして学院に居るのか。……それを問い詰めるつもりはない。そんな場合ではないからな」

 

 ステラは軽く笑いながらそう言って、テーブルから立ち上がる。

 

 フィリップもそれには同意するところだ。

 ここはナイアーラトテップが用意した試験空間。おそらくはフィリップに対処させるため、神話生物か、最低でも魔物くらいは配置しているはずだ。こうしてステラの怪我を処置する余裕があったのは幸運だが、のんびりしていい場所ではない。

 

 「そう、ですね。じゃあ……」

 

 改めてナイフに手を伸ばすと、ステラがテーブルからさっとナイフを取り上げる。

 

 「殿下?」

 

 この空間のことを知っているのなら、フィリップが一度死ねばすべて解決すると分かるはずなのに、どうして邪魔をするのか。

 先ほどは起き抜けで動転していたのかもしれないが、今はもう冷静だろうに。

 

 「カーター。お前が私を巻き込むまいとしてくれているのは分かる。そのために、泣くほど怖いのを我慢して、自分の喉を裂くつもりだったこともな」

 

 ステラはひらひらと、赤い血の滲む白いシャツが巻かれた右手を振り、揶揄うように笑う。

 だったら尚更、どうして邪魔をするのか。そう言いたげな怪訝な表情を浮かべたフィリップの双眸を、彼女は真剣な表情で見返した。

 

 「まずは、礼を言おう。ありがとう。私のために、それほどの決意をしてくれて。そしてその上で、確認させてくれ。お前が死んだ後、私がこの空間から脱出できる可能性は100パーセントか?」

 

 

 



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88

 フィリップが死んでも、ステラが無事に戻れる保証はない。

 

 フィリップの死が、この空間の終わりに直結するとして──ステラの意識が永遠に戻らない可能性は、確かにある。空間が終わるときに死んだことにされたり、見てはならないものを目にしてしまったり、そんな理由で無事では済まない可能性もある。

 フィリップの死が、この空間の終わりに直結()()()可能性だって、勿論あるのだ。何が配置されているのか、戦闘が主なのか、それ以外のギミックなどに対する対応能力まで見られる試験なのか、フィリップは知らない。そんな得体の知れない試験空間に、ステラだけが取り残される可能性がある。

 

 無事に戻れない場合が、この一瞬で三パターンも思い浮かぶ。

 全ての可能性が同等に有意だとして、無事に戻れる可能性は25パーセント。

 

 フィリップの死──最終的に死なないにしろ、死ぬほど不快な経験をする──が、全くの無駄に終わる可能性が75パーセントもある。

 

 危なかった。よくぞ止めてくれた。

 普段のフィリップならそう思い、安い頭を下げ軽い礼を口にするところだ。心が籠っていないわけではなく、籠める心に天地万物への蔑視と冷笑が染みついているという意味で、フィリップの礼や謝罪は軽い。

 

 しかし、今のフィリップにそんな余裕はなかった。

 

 「いや、泣いてるところから見てたなら、その時に止めてくださいよ!」

 

 然して親密なわけでもない、しかし他人というほど知らないわけでもない年上の女性に、そこそこ本気で泣いているところを見られたのだ。フィリップとしては穴があったら入りたいというか、照れ隠しに穴を掘るレベルで恥ずかしかった。

 

 「ははは! それは無理だ! 意識と視覚以外、まともに覚醒していなかったからな!」

 

 強制的で不自然な睡眠状態が、意識と肉体──ここにあるのは全て意識だから、ちょっと表現に困る──の覚醒タイミングにズレを生じさせ、金縛りのような状態になっていたのだという。

 おかげでフィリップは彼女が寝ていると思い込み、寝ているうちにことを済ませてしまおうとして、彼女にトラウマものの光景を見せるところだった。

 

 「うん。それと、その時に気付いたのだが……ここでは魔術が使えないらしいな」

 「……え?」

 

 もののついでのように、ステラが重大な情報を開示する。

 

 「あのな? 私も聖痕者──ルキアと同等の魔術師なんだぞ? 肉体が未覚醒でも意識があるなら魔術は使えるし、魔術が使えるなら、わざわざ怪我をしなくともナイフくらい弾き飛ばせる」

 

 ステラはモノを知らない子供に教え聞かせるように、ゆっくり丁寧に語る。

 

 金縛りの中、75パーセントの確率で無意味になる死に向かおうとしているフィリップを見つめ、魔術で止めようとして不発に終わり、羽を捥がれたような不安感に苛まれる。

 そりゃあ、勢い余ってナイフそのものを止めようとしてしまっても、おかしくはない。ただでさえ、意識の隔離という意味不明な状況に置かれて動揺しているだろうし。

 

 それに、フィリップだって半年近く魔術学院で勉強して、ルキアという人類最高峰の実力者とずっと一緒にいて、その教導まで受けている。ステラに最低限何ができるのかくらい、分かっているつもりだ。

 

 そこじゃない。

 

 この空間では魔術が使えないとしたら、フィリップの試験そのものが成立しないはずだ。

 丁稚時代の名残で同年代の子供より多少のタフネスがあるとはいえ、15歳のクラスメイト達とは比較にならない運動能力の差がある。基礎訓練レベルの体育の授業、たとえば2000メートル走などでも、いつもクラス最下位争いに参加している。

 

 ナイフという分かりやすい、誰にでも扱える物理攻撃武器があるにはあるけれど──それは握って、振れるというだけ。

 対処目標として配置されているであろう神話生物や魔物に対して、フィリップ自身の身命を守る技量さえない。ステラも守るなど、夢のまた夢だ。

 

 「《ウォーター・ランス》」

 

 モニカから『魔法の水差し(マジック・ピッチャー)』という有難い別名を貰った、水の槍を作り出す魔術。

 フィリップが日常系魔術として最もよく使う魔術は、しかし。練習を始めたばかりの頃のように、何も為さず、魔力すら消費せずに終わった。

 

 「……試すのは結構だが、攻撃魔術は止めてくれ。流石に驚く」

 「え? ……あ、す、すみません!」

 

 ステラにしてみれば、『ウォーター・ランス』は程度は低いながらもれっきとした攻撃魔術だ。

 ルキアは初級魔術など魔術戦では使わないと言いながら、彼女のそれは最低品質の標的人形に穴を空ける威力を持つ。ステラもきっとそうだろう。

 

 不発だと分かっていても、眼前で使われていい気はしない魔術だ。それが『水差し』だと知っているのは、この場ではフィリップだけなのだから。

 

 「いや、構わないさ。お前に攻撃の意志がないことは分かっていたしな。でも、今後は気を付けてくれ。特に外ではな」

 「……肝に銘じます」

 

 外──現実世界で同じことをすれば、最悪の場合、次期国家元首殺害未遂で処刑台送りになる可能性だってある。

 自分の無能をよく知っているとはいえ、あまりにも迂闊過ぎた。

 

 「うん。では、取り敢えず、ここを出る方法を探ろうか。一応聞いておくが、心当たりは?」

 「ありません」

 

 あったらカンニングどころの話ではないし、ナイアーラトテップはそれを許すほど間抜けではない。

 

 「だろうな。なら、まずは順当に──」

 

 ステラは振り返り、テーブルを挟んで部屋の反対側にある扉を示す。

 

 「あれだな」

 「あれですね」

 

 扉は金属製で、叩いてみても音が反響しない程度には重厚だった。

 光が反射しないよう微細な凹凸が彫られており、金庫室やシェルターなどに使われる錬金術製の高価なものだと、知識のあるステラには分かる。フィリップはせいぜい「このくらいなら人間でも作れそうだな」程度だ。

 そして二人とも、魔術無しでこの扉を破壊するのは不可能だという結論に至る。

 

 「……これ、向こう側で閂がかかってますね」

 「そうらしいな」

 

 こつこつと、ステラが扉の一部を示すように叩く。

 そこには指二本分程度の小さな穴が空いており、反対側に木の壁──おそらくは閂──が見えるようになっていた。施錠確認用の穴だろう。

 

 「王室が持つ別荘の倉庫の扉が、これと似たような造りだ。魔術が使えれば、閂を燃やすくらいわけないんだがな」

 

 ステラは自嘲気味に肩を竦め、扉に背を向ける。

 フィリップは蝶番を探して壁に目を這わせるも、向こう側にあるらしく見当たらなかった。

 

 「……なにしてるんですか?」

 

 フィリップが未練がましく扉を叩いたり、向こう側に聞き耳を立てたりしている間に、ステラは何もない白い壁に手を這わせながら、部屋をゆっくりと一周していた。

 

 「隠し扉か、それに類するものがないか、とな。手応えはナシだ」

 

 となると、と、ステラはテーブルの上に置きっぱなしだったポーチを取り上げ、中身を卓上にひっくり返す。

 

 「……僕も見ましたけど、全部薬でしたよ?」

 

 少なくとも、扉をブチ破れるような火薬の類は入っていなかったはずだ。

 名札に書かれた内容物の名前は半分以上が知らないものだったが、少なくとも全て小さな袋入りの錠剤か、小瓶に入ったペーストだった。見るからに救急処置キットか医薬品バッグといった風情なのに、包帯や止血剤が入っていないのは不親切だけれど──まぁ、内・外用両方の鎮痛剤と化膿止めがあれば、だいたい何とかなるというし。

 

 「…………」

 

 中身を検分していたステラがちょいちょいと手招きし、フィリップを呼ぶ。

 大人しく近寄って行ったフィリップに、彼女はテーブルに他の薬とは離して置かれた一つの錠剤袋を示した。袋に貼られた名札には『愚かな錬金術師』と書かれている。

 

 「……これは? もしかして、火薬ですか?」

 

 期待も露わに問いかけたフィリップに、ステラは神妙な顔つきで首を横に振った。

 

 「毒だ。世界最高に頭のいい馬鹿が作った、化学毒にして魔術毒。地球上のあらゆる存在を殺すというコンセプトで作られた、あらゆる毒を混ぜた複合毒」

 「……へぇ」

 

 それはすごいのだろうか、と。ステラとは違い、暗殺や毒についての知識に欠けるフィリップは、なんとなく頷く。

 ステラもステラで、普段ルキアと一緒にいるけどそういえばこいつは平民だったと思い至り、言葉を重ねる。

 

 「……解毒不可の、いろいろ苦しんで死ぬ毒だ。これも自害用かもしれんな」

 

 ヘビ毒、植物毒、昆虫毒、魚介毒、化学毒、魔術毒、錬金毒。ただのグループ分けで7種類もある毒物を、開発当時に発見されていたほぼ全種類混合して作った、アホの考えた毒。

 残念ながら、そのアホには、それを実現してしまうだけの知識と技量があった。

 

 完成したのは世界最強の自然毒である龍の血に次ぐ、世界最強の人工毒。

 色々混ぜすぎて、盛られた人間の死因に幅広い個人差が生まれるという、なんとも不思議な毒であり──暗殺向けの毒だ。

 

 そんな説明をするだけ無駄と切り捨てたステラの判断は、

 

 「おぉ……すごい」

 

 という気の抜けた相槌を打ったフィリップを見れば、正しかったと分かる。

 

 「絶対に飲むなよ」

 「いや、飲みませんよ」

 

 ここに来た瞬間ならともかく、今はそれが解決策ではないと知っている。

 いや、ここに来た瞬間でも、苦しんで死ぬ毒なんて絶対に呷らなかったとは思うけれど。ナイフで首を突くのに、あれだけ泣きながら躊躇ったのだ。確実に苦しむ服毒死しか選択肢が無かったら、ステラの為にそれを選んでいたかも怪しい。少なくとも今のフィリップはそう自己分析する。

 

 即答したフィリップに満足そうに頷き、ステラはぶちまけた薬を片付けた。

 

 「さて……行き詰ったな。あの隙間にナイフは通らないだろうし、閂を動かせない限り──どうした?」

 

 何事か思い付いたように──というよりは、大前提を今更思い出したように気まずそうな表情を浮かべたフィリップに、ステラは怪訝そうな目を向ける。

 

 まぁ、その、なんだ。

 試験空間──フィリップの状況対処・問題解決能力を見るためのテストなのだから、現代魔術の行使なんて端から想定されていないだろう。フィリップにとって、そしてナイアーラトテップにとって身近なのは、そちらではない。

 

 「殿下、体力に自信はありますか?」

 「……扉を破壊しよう、なんて言い出すなよ?」

 

 フィリップは「まさか」と笑う。冗談半分だったステラも軽く笑って応じるが、では何なのかと目で問うてくる。

 

 「この場所でも使える魔術に心当たりがあります。……失敗しても笑わないでくださいね」

 「……それは、どの程度の失敗かによるな」

 

 大爆発とかじゃないから安心して欲しい。

 領域外魔術──現代魔術とは全く別系統の、発動プロセスからして異なる魔術。

 

 クトゥグアでも、ハスターの毛先でも、扉を壊すくらい造作もない。

 とはいえ、それら高威力の魔術では高確率でステラにダメージがいく。特に、今の彼女は魔術が使えない。仮に大爆発を起こすような魔術が使えたとしても、その衝撃や熱から身を守る術を持たないのだ。

 

 「……《萎縮(シューヴリング)》」

 

 覗き穴に指を突っ込み、その先にある木製の閂に魔術を撃ち込む。

 扉そのものに撃たなかったのは、いつぞや標的人形に試した時のように変なガスが発生したら困るからだ。体育館とは違い、ここは密室なのだし。

 

 果たして、領域外魔術はきちんと発動した。

 

 「今のは魔術、なのか?」

 「はい。……ちょっと離れましょう」

 

 じゅうじゅうと、木材に強烈な脱水炭化が起こる音がする。

 独特の臭いが鼻を突く。口元を庇いながら、ステラにも下がるよう身振りで示した。

 

 「なるほど、通常の魔術ではないな」

 「……いやいやそんなわけ、ははは……」

 

 フィリップが何を言うまでも無く、魔術行使の際の魔力の動きを見てその結論を導き出したのだろう。魔力の動きから魔術式を予測するなんてことが、本当にできるのかは知らないけれど。

 だとしたら、彼女の前で召喚魔術を使うのは危険だ。クトゥグアにしろハスターにしろ、召喚術は彼らの居城と()()を魔術的な通路で繋ぎ合わせるという過程を含む。彼らが召喚に応じようと、応じるまいと、だ。

 

 「……欠陥テストもいいところだ」

 

 木の炭化する音が小さくなってきた扉に向かって、フィリップは苛立ちをぶつけるように体当たりした。

 

 



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89

 重厚な扉を閉めていた閂は、領域外魔術によって炭化してもなお、フィリップとステラの体当たり5回に耐える強靭さだった。

 ストレスのせいか、最近ちょっと痩せたフィリップ。女性的な魅力に富んだ、メリハリのある体つきのステラ。二人合わせて、筋肉質な大人一人分ぐらいの重量はあるはずだから、扉そのものの耐衝撃性も相当なものなのだろう。

 

 「……崩れましたね」

 「閂を炭化させ、衝撃で破砕か。賢いな」

 

 ステラが少し意外そうに言って、わしわしと犬にでもするように頭を撫でる。

 少し気恥しいが、機転を褒められるのは悪い気はしなかった。ただでさえここ最近はナイ教授という、フィリップを煽るためだけに顕現したような化身が傍にいたのだし。

 

 照れ隠しに「意外とこれで出られるかもしれませんね!」と、思ってもいない希望を口にして、扉に手を掛ける。

 もちろん、いつでも『萎縮』を撃てるように身構えて。

 

 「…………いや、え?」

 

 めちゃくちゃ重い。

 もちろん外観から「寮のドアの5倍ぐらい重そうだな」とは想像が付いていたけれど、5倍どころではない。実はまだ閂がかかっていて、ドアの覗き窓の部分だけ超ピンポイントで崩れたのではないかと思わせるほどだ。

 

 フィリップとステラの二人で力を合わせて押してようやく、扉が少しずつ動き始めた。

 金属同士が擦れる耳障りな音を我慢しながら、押し続けること数秒。フィリップの顔くらいの幅がある枠と扉の間に、向こう側が見える程度の隙間が開く。

 

 「待て」

 

 ステラの制止に、フィリップは即座に従った。

 ステラが止めなければ、フィリップが彼女を止めていただろう。危機意識の共有は完璧だった。

 

 「まずは様子見だ」

 

 こくこくと頷き、扉と枠の隙間に顔を近付ける。

 外はどうやら廊下らしく、似たようなタイル張りの床と壁が見える。灯りも窓もないのに明るく、フィリップたちの位置からはまた別の扉が見える。

 

 そして最も重要で、二人が最も警戒していた敵の気配は無い。姿も痕跡も、見える範囲には無い。

 どうやら出てもよさそうだ。

 

 「……出てみないことには、何も始まらんか。カーター、ポーチとナイフを」

 「あ、はい」

 

 テーブル上に置きっぱなしだった二つを取って戻る。

 フィリップには領域外魔術があるが、ステラは丸腰だ。戦闘を想定するなら、ナイフは彼女が持っておくべきだろう。

 

 「……どうぞ」

 

 渡し方にも儀礼的な作法があったはずだよなと考えるも、結局思い出せずに柄の方を向けて差し出す。

 ステラはそんな思索を読んだのか、くすりと笑って受け取った。

 

 「ありがとう。だがナイフがあっても、魔術の使えない私には、護身術の達人くらいの戦闘能力しかないからな。武力面での期待はしてくれるなよ」

 「達人って。自分で言っちゃうんですか?」

 

 少しだけ笑い合って、扉に向き直る。

 見える範囲に動くものは無かったが、最悪、敵性存在が扉の裏で待ち構えている可能性だってある状況だ。

 

 「私が扉側、カーターは反対側だ。人間がいた場合、警告は二回か、相手が三歩以上動くまでだ。近付かれる前に、相手が魔術を展開する前に撃て」

 「……了解です」

 

 こくこくと頷く。

 この手の魔術戦や遭遇戦に関する知識は殆ど無いし、ルキアやナイ神父に教わったことも無かったから有難いレクチャーだ。初級魔術では魔術戦なんてできないし、領域外魔術は撃った時点で勝ちだ。まぁ、撃たれてもヨグ=ソトースがどうにかするので、相手の死という意味ではフィリップの勝ちかもしれない。

 

 「行くぞ。せーの!」

 

 扉と枠の擦過が無かったからか、先ほどよりもスムーズに扉が開く。

 90度に開けた扉が背中を守ってくれる位置に飛び出し、ステラに言われた通り扉の表側を確認する。──何もいない。

 

 「よし、敵はいなさそうだが……油断するなよ。扉がある」

 

 フィリップたちがいたのは、廊下の端の部屋だった。

 部屋を出て左側はすぐ壁で、右側は20メートルほど先が突き当りだ。正面に一つ、その10メートルほど隣に一つ、その向かい、いま出てきた部屋の隣にも一つ、そして右側突き当りの壁に一つ。この部屋と合わせて合計5つの扉がある。

 

 

 

 三つの扉は高級そうな艶のある木製で、金属製のノブの下に鍵穴が見える。扉にはそれぞれ金属製のネームプレートが貼られており、正面は『書斎』、隣は『応接間』、はす向かいは『浴場』と、それぞれ読み取れる。

 突き当りの部屋だけは両開きの鉄扉でネームプレートは無く、閂と錠前で厳重に閉ざされている。おそらく、あそこが出口なのだろう

 

 フィリップの拳より大きな金属錠は、なんとも威圧感があるけれど──たかが金属の塊だ。ハスターの毛先、ナイアーラトテップの化身を肉塊にするレベルの攻撃力の前には、紙細工にも等しい。

 

 先ほどの単一空間とは違い、今は部屋と廊下、二つの空間がある。

 ステラからフィリップの様子が見えず、聞こえない位置に居て貰うことは可能だろう。

 

 「……さっきの魔術で、鍵も破壊できるか?」

 「それは分かりませんけど、もっと高威力の魔術があります。ドアごと吹っ飛ばしちゃいましょう」

 

 最奥の扉が出口だろうということは、言うまでも無く共有できている。

 爆発に近い影響があると話してステラには先ほどの部屋へ戻ってもらい、フィリップは最奥の扉の前まで進む。

 

 爆発から身を守るときの鉄則は幾つかあるが、耳を塞ぎ、目を押さえ、口を開けるというのは大前提だ。そして、それはフィリップの詠唱とそれに含まれる邪神の名前という毒からも、十分に守ってくれる。

 

 ステラが部屋に戻ったのを確認して、フィリップはとりあえず錠前に対して『萎縮』を撃ち込んでみる。

 予想通り、魔術は機能しなかった。

 

 なに、構わないとも。

 どうせこれから扉ごと吹き飛ばすのだから。

 

 「いあ いあ はすたあ はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい あい はすたあ」

 

 覚えのある感覚。こことあちらが魔術を通して繋がり、しかしそれだけで終わる不発の感覚だ。

 風属性の最大神格は招来されず、その力の末端だけが顕現する。最終的な現象は暴風の発生。横方向に伸びる竜巻の如き大破壊だ。

 

 魔術は大音響と共に錠前と閂のついた扉へ衝突し──ぱぁん、と。弾けるような音と共に、()()()()()砕け散る。

 床のタイルも他の扉も、余波で簡単に壊れそうなものにも、何の影響も与えていない。

 

 「……まぁ、うん。実はそんな気がしてた」

 

 負け惜しみ半分に呟いて、ステラのところへ戻る。

 フィリップの表情から大体の結果を察したらしく、フィリップが何を言うまでも無く「まぁ、そうだろうな」と納得したように頷いていた。

 

 「強力な一撃によってのみ解決する問題より、細やかな魔術の運用や機転が求められる場面の方が圧倒的に多い。……なかなかいいテストじゃないか」

 

 ナイアーラトテップがその辺りを妥協することはないだろうし、この分だとクトゥグア召喚による空間そのものの破壊も難しいだろう。

 そもそも意識を隔離した異空間なので、正当な出口以外からの脱出は不可能だと考えていいはずだ。

 

 「じゃあ、やっぱり、他の部屋を見るしかありませんね。鍵を探す、という方向でいいんでしょうか」

 「そうだろうな」

 

 方針を決めつつ、廊下へと戻る。

 開始地点と出口らしき最奥の扉を除き、選択肢は正面の書斎、隣の応接間、はす向かいの浴場の三つだ。

 

 「どこから──」

 「──静かに」

 

 ステラが唇に指を当て、ボディランゲージでも「静かに」と示す。

 フィリップは素直に従い、口を噤んで耳を澄ませる。

 

 ……どん、どん、と。微かに、そして断続的に、鈍く低い音がする。

 足音? いや、違う。これは──

 

 「……扉を、叩いている? 人がいる……と、思うか、カーター?」

 「……いいえ。居たとしても、敵対してくる可能性が高いです」

 

 スタート部屋の隣と、はす向かいの部屋の扉だ。内側から複数人が断続的に扉を叩いている。

 ノックなんて生易しいものではなく、木製の扉を破壊して、こちらへ出てこようとしていると分かる激しさだった。

 

 「──!!」

 「──!!」

 

 何事か、叫んでいる。

 

 助けを呼ばれているとか、この場の危険性を訴えてくれているとか。あとは本当に最悪の可能性として、ルキアや衛士たちといった、見捨てるわけにはいかない人がいるかもしれない。

 そう懸念し、フィリップはゆっくりと、二つの扉の真ん中あたりまで進む。

 

 「……おい、カーター」

 

 止めようと伸ばしたステラの手は、フィリップには届かず空を掴む。

 

 幸いにして、或いは残念ながら、ここにフィリップとステラ以外の人間はいないようだった。

 

 漏れ聞こえてくる「声」は大陸共通語ではない。

 しかしフィリップには、その言葉の意味が難なく理解できた。彼らは──怒っている。

 

 「排斥せよ」「擯斥せよ」「排除せよ」「駆逐せよ」。右側の部屋では、その繰り返しが聞こえてくる。

 「神の仇を誅殺せよ」「眠れる神に安寧を捧げよ」「我らが神に献身せよ」。左側の部屋から、怒鳴る声が聞こえてくる。

 

 左の部屋の住人の方が、まだなんとなく理性が残っていそうだけれど──どちらの部屋の住人とも、仲良くなれそうにない。

 部屋の中にいるのは、どちらも奉仕種族か、それに類する従属種族だろう。信仰対象までは分からないけれど、フィリップにここまで敵対的なら外神ではないだろう。旧支配者か旧神の手先か。

 

 「……敵ですね。幸い、扉は破壊できないみたいです。まずは音のしない部屋から探索しましょう。……殿下?」

 

 無視? と、ちょっとショックを受けながら振り返ったフィリップの視界に、ステラはいなかった。

 

 「……王女殿下?」

 

 嫌な予感を抱きながら、足早にスタート部屋に戻る。

 幸いにして、ステラが物言わぬ肉の塊になっている、なんてことはなかった。とはいえ、全く無事という訳ではない。

 

 「だ、大丈夫ですか!?」

 

 部屋の端に蹲り、どろどろと胃の内容物を吐き戻しているステラに駆け寄る。

 とりあえず背中を擦り、落ち着くのを待つ。

 

 吐いているのは昼食と胃液のようだ。血が混じっていたり、海水がとめどなく溢れていたりはしない。

 

 「……ありがとう。大丈夫だ」

 

 左手で口元を拭い、その手を虚空に向けて差し出す。数秒ほど硬直して、彼女は苛立ちも露わに舌打ちした。

 

 「そうだったな。ここでは魔術が」

 

 ぶちまけた吐瀉物も胃液の味が残る口内も、普段なら魔術でどうとでもできるのに、今はその不快感に耐えるしかない。

 

 「……すみません。そういう便利な魔術は使えなくて」

 「お前は何も悪くないだろう。謝るな」

 

 フィリップの頭に手を伸ばし、しかし触れる前に止める。

 右手には血の滲むシャツ、左手の袖では口元を拭った。どちらの手でも、頭を撫でて慰めるのは躊躇われる。

 

 「……それより、さっきのアレは何だ? お前は平気なのか、あの音?」

 「音? ……あぁ。体質かもしれませんね」

 

 彼女のいう「音」の指すものと、その正体に見当のついたフィリップは、ひとまずそう誤魔化す。

 

 二つの部屋から聞こえていた怒声──あれは邪悪言語だ。

 人間という劣等種族が使うことを想定していないというか、人間以上の発声能力と聴覚、知性を持つ存在が、神と交信するために造り出した言語体系。人間の口や舌では正確に発音できず、人間の耳や脳では理解できない。フィリップのような一部の例外を除いて、という但し書きは付くけれど。

 

 フィリップの下手な誤魔化しに、彼女は疲れたように笑った。

 

 「らしいな。どうやら、この空間は本格的にお前向きらしい」

 「そりゃあ、まぁ、僕のための試験で、そのための空間ですからね。その……やっぱり、殿下はこの部屋で休んでいてください。流れで一緒に探索してましたけど、これは僕のテストですから」

 

 ステラは自分がここにいるのは自分の所為だから、自分も脱出手段を探すべきだと考えているのかもしれない。

 それは主体的でいいことだとは思うけれど、この場に於ける積極性は美徳ではない。目を閉じて、耳を塞いで、部屋の隅で蹲っているだけで問題が解決する、数少ない場面が今だ。

 

 ステラはフィリップの言う通り別行動した場合の、メリットとデメリットをさっと思索する。

 

 この空間に於いて、ステラの戦力評価は大きく下がる。魔術が使えない現状、護身術──と、本人は呼んでいるけれど、これは近衛騎士団長に教わった軍隊格闘術だ。相手の武装が無手か通常の直剣なら、近衛騎士団中位程度の実力者までならボコボコにできる。

 魔物との戦闘になった場合、フィリップが魔術を撃つ時間稼ぎくらいはできるだろう。とはいえ、衛士団のような精鋭相手には手加減された上で優しく負かされる程度でしかない。相手が龍種のような圧倒的な力と体格を持つ場合は、気を引くくらいが関の山だ。

 

 しかし、自発的な魔術が使えないだけで、魔力を感じ取る感覚や、術式を読み取る視力は健在だ。

 今後、魔術的なトラップやギミックに遭遇した時にはフィリップより的確に対処できるだろう。内包する魔力が消えたわけではないから、大抵の魔術罠は耐性だけでレジストできる。

 

 探索・戦闘の両面において、ステラはそれなりに役に立つ。

 

 デメリットは──まるでステラを拒むかのようなギミックが、この空間には存在することだ。例えば先程の「音」のような。

 フィリップにアレに対する耐性があったから良かったものの、二人ともが体調不良、あるいは戦闘不能に陥る可能性だってあった。あの手の未知の、そしてステラの魔術耐性を貫通してくるようなギミックがある以上、ペア行動にはリスクがある。片方が無事なら助けを求められる状況でも、二人ともが喰らってはどうしようもない。

 

 メリットが2、リスクが1。

 もちろん、個数ではなく厳密な数値化をして判断するけれど──その上で。

 

 「……いや、一緒に行こう。それがこの場の合理的最適解だ」

 

 

 



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90

 ヒスイちほーでポケモン図鑑を作り始めたのでストック生産が遅れます

 止まりはしません。たぶん


 フィリップとしては、死亡リスクのあるステラは安全なところに居て欲しいというのが本音だ。

 とはいえ、じゃあスタート地点の白い部屋は安全なのか、と訊かれると、それには頷きかねるのも事実。この試験空間に安全な場所がある確証すら持てない。

 

 仕方なく、フィリップはステラを伴って、まずは『書斎』を探索することにした。

 

 ノブを回し、鍵がかかっていないことを確認する。

 体術には自信ありと自称するステラがドアを開け、フィリップは少し離れたところで魔術を構えて待機する。

 

 何が出てくるかは不明だし、この部屋はさっきも静かだったのだから何も出てこないでくれとは思うけれど、準備して警戒しておくに越したことは無い。

 ステラが三本指を立て、3カウントで開けると示す。フィリップも無言で頷いて了承を示し──

 

 「……ッ!」

 「……大丈夫みたいです」

 

 何も出てこないし、中には何もいないようだ。

 

 部屋の中はほんのりと薄暗く、廊下やスタート部屋のような無機質かつ光源の不明な白い光ではなく、壁に備え付けられた暖炉の暖かな色の炎で照らされている。

 足元には毛足の長い赤いカーペットが敷かれ、暖炉の前には安楽椅子が二つ、最奥には高級そうなデスクが置かれており、書斎と談話室の中間のようなレイアウトだ。

 

 しかし、二人はその空間と扉に書かれた『書斎』の文字を見比べて、首を傾げる。

 

 「……なんか」

 「違和感がある、か? そうだな。書斎と銘打っておきながら、本が一冊も無い」

 

 暖炉がある左手側の壁にも、机がある奥側の壁にも、本棚がある。右側の壁は一面が造り付けの本棚になってすらいるのに、そのどこにも本が無い。只の一冊もだ。

 空っぽの本棚が並んでいることも、誰もいない部屋で暖炉の火が燃え盛っていることも、もちろん異常ではあるのだけれど──何より、机の上に置かれたトレイが目を引く。

 

 トレイにはなみなみと水の入ったピッチャー、二つのコップ、そしてサンドイッチが二人分載っている。

 外ではおやつの時間なのだろうか。生憎、ルキアに貰った懐中時計は持ち込めていないので時刻は分からないけれど──いや、そんな場合ではなく。

 

 「……これ、食べてもいいと思いますか?」

 「……分からん。そして、分からない場合は食わないのが一番だろうな。取り敢えず、部屋を探ってみよう」

 

 全くその通りだと、フィリップは頷く。

 ナイアーラトテップがフィリップの状況対処能力を見るために課したこのテスト、何が課題として与えられるのかが全く分からないのが最難関だ。

 

 まだ温かいパンに挟まれた瑞々しい野菜や肉汁の輝く肉を見れば、少なくとも腐っていないのは一目瞭然だけれど、毒入りでないとは限らない。

 幸いにして、これまで毒を飲んだり飲まされたりしたことは無いけれど、似たようなものならある。見るもの全てを「美しい」と思わせる麻薬とか。

 

 「…………」

 

 嫌なことを思い出した。

 ちょっと水でも飲んで休憩──とは行かないだろう。見る限り、水は透明で、先ほどまで無かった結露が、ピッチャーの表面に付き始めている。これもサンドイッチと同じく、たった今用意されたもののようだ。

 

 だからこそ、怪しすぎる。

 

 「……あの、殿下。食べ物を作る現代魔術ってありますか?」

 「現代魔術?」

 

 ──おっと。口が滑った。

 え? そんな迂闊なことある? と言う次元で──口が、滑った。

 

 ここ最近、ずっと領域外魔術に触れていたからだろうか。魔術と一言で表した場合に、ぱっと浮かぶのがそちらになりつつある。

 世間で一般的な魔術とその埒外にある領域外魔術、ではなく、フィリップの使う魔術とフィリップが使えない便利で素敵な現代魔術、という脳内カテゴライズも確立してきた。

 

 おかげで、ステラには「何言ってるんだこいつ」という目線を頂いているけれど──さて、どうしようか。

 

 別に、ステラに怪しまれたり、フィリップの使う魔術と通常の魔術が全く違う系統のものだと露見するくらいなら問題はない。既に多少の嫌疑はかけられているし。

 問題になるのはそこではなく、現代魔術にまつわる「神が与えたもの」とかいう逸話だ。少なくとも人間世界に於いて、魔術はそういうものだと認識されている。

 

 では、そこで全く別系統の魔術を使うと露見すればどうなるか。

 悪魔とか魔女とか、その手のものだと疑われるくらいなら穏便に対処する自信があるけれど、「カルトか!」なんて言われた日には。

 

 「お前、妙な言葉を知ってるな? 確かに、一般普及している魔術を『現代魔術』、教会の儀式や降霊といった別体系魔術は『秘蹟』と呼び分けることはあるが──あぁ、そういえば、お前の師は神父だったか」

 「……まぁ、その、はい。で、どうなんです?」

 

 心の中で安堵に頽れながら、努めて冷静に問いかける。

 尤もフィリップの演技力では、ステラに違和感を抱かせないよう取り繕うなんて芸当は不可能だ。ステラが何の引っ掛かりも無く「だよな」と納得してくれたのは、彼女が空の本棚に何かありはしないかと真剣に目を走らせていて、いちいちフィリップの言葉を疑ったりしている余裕が無かったのが大きい。

 

 「そんな便利な魔術は無い。一説によると、パンとワインを作り出す秘蹟が存在するらしいが、少なくとも現代に使い手は残っていないはずだ」

 「……そうですよね」

 

 そして領域外魔術に便利な魔術などない。「パンを作り出す便利な魔術」ではなく、「便利な魔術」が存在しない。フィリップの知る限り、という非常に狭い範囲では。

 

 と、なると。このおやつセットはギミックか、ナイアーラトテップの権能によるもの。

 前者なら毒入りサンドとか、水じゃなく強酸性の劇物とか、その手の即死トラップの可能性もある。だが後者なら、たぶん普通の差し入れだ。ここが精神世界で、ここでの死が現実の肉体に影響を及ぼさないとはいえ、あのナイアーラトテップがフィリップに毒を盛るとも、ヨグ=ソトースがそれを黙認するとも思えない。

 

 「……おい、何やってる?」

 「いえ、水だけでも飲めないかな、と」

 

 水の臭いを嗅いでみたり、机に数滴垂らして反応を見たり、思い切って指先でちょっと触ってみたり。色々と試していると、ステラが訝しげに、そして心配そうに覗き込んでくる。

 

 「これ、たぶん無限に水が出てきますね」

 

 本物の『魔法の水差し(マジック・ピッチャー)』だ、と苦笑しながら言うと、ステラも呆れたように笑う。

 

 「それが水なのかどうか、判断が付かないだろう? 魔術的な罠ではないようだが、毒入りでないとは言い切れん」

 「……あの」

 「試すなよ? さっきも言ったが、お前が死んだ場合、私がここから無事に出られる可能性は高くない」

 「……はい」

 

 フィリップ一人なら、ある程度の確証が持てるまで実験して、最後は「たぶんいける!」とか根拠のない自信を持って飲み食いしていたところだけれど。でも今は、同じ空間にステラがいる。

 フィリップの死が彼女の死、或いは狂気に繋がる可能性がある以上、迂闊な行動は避けた方がいい。

 

 別に彼女が生きようと死のうとどうでもいいけれど──ナイアーラトテップの不始末の責任を負わされるのは、非常に不愉快だ。

 それに彼女はルキアの大切な友人だ。悲惨な死を遂げたと報告して、彼女を悲しませたくはない。

 

 「……本棚には何も無さそうだな。カーター、机はどうだ? 何かありそうか?」

 「ちょっと待ってください。えっと……引き出しがあります。開けますね」

 

 離れたところからでも魔術罠の有無を判別できるステラは目を凝らし、安全を確認したうえで「あぁ」と肯定する。

 フィリップはその少しのラグに「なんでちょっと悩んだんだろう」と首を傾げつつ、机の引き出しを開けた。

 

 よく手入れされているらしく、引き出しはとてもスムーズに動いた。

 中も塵一つなく綺麗に磨かれており、中には銀色の指輪と、赤銅色の鍵が入っていた。

 

 「なんですかね、これ。こっちは……たぶん、浴場か応接間の鍵で……いや、浴場の鍵ですね。書いてありました」

 

 キーホルダーなどは無く、一見して何の鍵かを判別するのは難しい。

 しかしよく目を凝らして見れば、持ち手の部分に小さく『浴場』と彫られていた。

 

 指輪の方は外側にも内側にも何も書いておらず、どころか装飾の一つもない簡素なものだ。

 地味だとか武骨だとか、その手の否定的な感想が浮かばないのは、よく磨かれており、暖炉の灯りを美しく反射させているからだろうか。

 

 「ん? カーター、指輪を貸してくれ」

 「いいですよ」

 

 手渡すと、彼女はそれをじっくりと検分してから左手の人差し指に嵌めた。

 そしてフィリップに意味ありげな視線を向け、その手を机に置かれたトレイに翳す。何が起こるのかと一連の動きを見ていたフィリップの期待は、数秒の後に彼女が手を下げたことで収束した。

 

 「……何ですか、その指輪?」

 「毒を検知する指輪だ。食べ物や飲み物に毒が入っていると、この指輪が黒く濁る。……尤も、これを掻い潜る魔術毒は何種かあるが」

 

 魔術毒はステラの魔術耐性によって無効化されるし、そもそもステラの目を掻い潜る魔術毒は存在しない。

 

 そのステラの目と、この指輪によると。

 

 「これらに毒は含まれていない。暖炉、食事、安楽椅子。……どうやら、ここは休憩所のような場所らしいな」

 

 なるほど、言われてみれば休憩所兼探索拠点として申し分ないレイアウトだった。

 

 「じゃあ、これは食べても平気なんですね。……実は、結構喉が渇いてて」

 「私もだ。まだ口の中に胃液の味が残ってる」

 

 手と口を漱ぐためだろう、コップ一杯分の水を持って部屋を出て行ったステラに多少の不安感を覚えつつ、フィリップは一人分のサンドイッチを持って安楽椅子に座った。

 暖炉の暖かさと安楽椅子の揺れが心地よい。……これ、満腹になったら寝るやつだ。

 

 「不味いなぁそれは。非常に不味い。……美味しいなこれ」

 

 こんなところでお昼寝している場合ではないし、そもそもここが安全かどうかも定かでは無い。

 直撃ではないとはいえハスターの毛先に耐える扉だ。中にいる神話生物がぶち破って襲ってくるとは思えないけれど、あれら以外の襲撃者がいる可能性は排除できない。

 

 ──と、真面目なことを考えつつ、サンドイッチを完食する。

 事前の想定通り、食べ終わったらなんだか眠くなってきた。

 

 「……正気か、こいつ」

 

 毒の入ったポーチとナイフを机の上に放り出して、安楽椅子に揺られて眠るフィリップに、部屋に戻ってきたステラは愕然と呟いた。

 

 



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91

 お腹いっぱいで暖かいので寝ます。

 まぁ、気持ちは分からなくもないし、確かにこの書斎は居心地がいい。ルキアの膝枕で昼寝しているフィリップを、羨ましく見ていたことも何度かある。彼の子供的な生活サイクルは知っていた。

 

 ルキア──本来ならルキフェリア・フォン・サークリス聖下と呼ばれるべき高位貴族にして聖人を気後れもせず「ルキア」と呼び、ステラのことも一片の敬意も籠らないあだ名のような調子で「王女殿下」と呼ぶ。その神経の図太さも、よく知っているつもりではあったけれど──まさか、この得体の知れない空間で昼寝とは。いや、外が具体的に何時なのかは分からないので、一概に昼寝と決めつけるのは良くないけれど、そこはどうでもいい。

 

 「……いや、得体の知れない空間だと思っているのは、私だけなのだったか」

 

 ステラが盗み聞いていたフィリップとナイ神父の会話は、とても親しげなものだった。

 ナイ神父の心中こそ読み取れなかったものの、フィリップに対する尊重と敬意は確かなものだと分かる。フィリップの方も、ルキアやステラには見せない、年長者に甘えるような態度だった。

 

 あの二人の間には、確かな信頼関係があるのだろう。

 想定していた仮説のような、共犯関係などではなく──むしろ家族や友人のような、温かみのある関係性が。

 

 ステラは吐瀉物を拭い、いま洗ってきた左手を暖炉に翳して乾かす。

 温かく、心地よい、慣れ親しんだ炎の気配だ。精神空間ということは、これも実際は炎ではなく、魔術的に作り出された幻影に近いものなのだろうけれど、それでも落ち着く。

 

 「……謎の場所に変な奴、か」

 

 先ほど毒が入っていないことを確認した水と軽食に、もう一度指輪と魔力感知の目を向ける。

 変化がないことを確認して、彼女もフィリップ同様に安楽椅子に腰かけた。

 

 「…………」

 

 フィリップを指して「怪しい奴」と評さなかったのは、ステラがフィリップに一定の信頼を置いている証だ。

 

 ステラがフィリップを信頼する理由は、十分ではないにしろ、確かにある。

 

 彼の恐怖と苦悩を見ていた。

 それを乗り越えてステラを救おうとした彼の意志と、その強さを、右手の傷が物語っている。あれはステラに見せるための演技などではなく、本当に自分の喉を貫く一撃だった。

 

 彼に対する諸々の疑念は全く晴れていないけれど、彼の善性だけは証明された。短絡的ではあったにしろ、彼は他人の為に痛みを背負える人間だ。ステラと同じく、幼少期から人間の悪意に触れて来たルキアが傍に置くのは、きっとそういうところに惹かれてなのだろう。

 

 そしてフィリップは賢人ではないが、馬鹿でもない。精度はまだまだ荒いにしても、年相応以上に落ち着いて思考できている。知識の偏りや価値観のずれを窺わせる場面もあるが、会話の論理が破綻するようなこともないし、共通認識の構築速度も速い。

 

 この試験空間とやらを脱出するという目的も一致している。

 協力者として、十分ではないが不足でも無いといったところだ。

 

 サンドイッチを食べ終え、水を飲み干し、ステラも目を閉じる。

 

 「──はぁ」

 

 嘆息する。

 今後の展開次第では、ステラはフィリップを殺さなくてはならない。その事実が、心に暗雲を立ち込めさせる。

 

 現状、ステラがフィリップを殺す理由はない。どころか、守る理由すらある。

 彼の死が試験の終了に直結するのは大前提だが、ではそれはこの空間の消滅と同義か? 否、それは現状では判断できない。フィリップだけが脱出し、ステラが孤立するというのが一番望ましくない状況だ。

 

 そして、今後の探索によってフィリップの死による空間消滅、そしてステラの帰還に確証が持てた場合──ステラはフィリップを殺す。

 

 合理性と戦略性に基づくのなら、ステラは間違いなくそうすべきなのだ。

 フィリップの挺身に、輝かしいまでの善性と人間性に惑わされず、冷徹に、冷酷に、彼を殺すべきだ。

 

 良心が咎めようと、とか。罪悪感に苛まれようと、とか。そんな但し書きは必要ない。普段のステラなら、まず間違いなく一片の躊躇も無く、寸分の後悔も無く実行する。

 それがあらゆる選択肢に優越する支配戦略だから。そんな理由で、彼の善性と人間性を踏みにじる。

 

 それを辛いと思う程度には、フィリップの見せた善性、人間性は輝かしいものではあったけれど──まぁ、惜しい程度だ。行動を決定づけるほどのものではない。

 

 

 嘆息して目を開けると、そこは先ほどまでいた暖炉の前では無くなっている。

 しかし、知らない場所ではない。よく見知った、馴染みのある我が家、王城。その一室だ。

 

 眼前には豪奢なベッドに横たわる老婆と、幼子──かつての自分がいる。

 

 「……またか。いい加減にしてくれ」

 

 これは夢だ。何度も、何度も、この十数年間何度も見てきた、過去の回想だ。

 誰が何と言って、何と答えて、何をするのか。それを完璧に覚えた観劇に等しい退屈で陰鬱な時間だ。──早く、覚めてくれ。

 

 ステラの願いに反して、夢の登場人物たちは台本に沿って動きはじめる。

 

 「ステラ、こちらへ」

 「……はい、おばあさま」

 

 ステラの祖母、前王妃が病床に臥せったのは、今から10年以上も前のことだ。ステラは当時4歳で、ステラの主観では腰ほどの高さのベッドから、漸く頭が出るくらいの背丈しかない。

 

 その低い位置にある頭を撫でながら、祖母が語り掛ける。

 

 「ステラ、今日はどんなお勉強をしたの?」

 「今日は、統治学と経済学、あと、歴史の授業もありました」

 「そう、頑張っているのね」

 

 祖母は柔らかに微笑み、幼いステラの頭を撫でる。

 眼前の自分はにこりともせず、「頑張るも何も、次期女王としては当然のことなのに、褒められているぞ?」と内心首を傾げていたことを思い出し、我が事ながら苦笑が浮かぶ。

 

 幼子の思考にいちいちケチをつけるのがナンセンスだと、勿論理解しているけれど──やはり自分のこととなると別だ。

 

 「じゃあステラ、問題。王国の統治体制は?」

 「専制君主制です、おばあさま。おとうさま……じゃなくて、国王が制定する法により国民を統治し、しかし国王の持つ権利の一切が法の制限を受けない形式です」

 「正解。よくできました」

 

 祖母が頷き、幼いステラも当然のことと頷きを返す。

 いまのステラは苦い笑いを浮かべるだけだ。賢しらぶったガキには──昔の自分には、羞恥心すら催す。

 

 「ステラは、この統治構造をどう思う?」

 「どう、とは?」

 

 質問の意図を測りかねたように反問したステラに、祖母は少し考えて言葉を重ねる。

 

 「統治の形として最善だと思う? 一人の人間が国全体の、王国で言えば6000万人もの人間の進む方向を決定づけてしまう。そんな形が、正解だと思う?」

 

 ──当時、王国は戦争の危機に瀕していた。

 より正確に言えば、内紛の危機に。前国王と確執のあった大公が軍を集結させ、現国王の武力排除を計画していた。数年後には王国が派兵し、ルキアやヘレナといった極大戦力によって完膚なきまでに壊滅させられるけれど──祖母が生きていた頃は、まだ戦争の気配と、それを引き起こした前国王への糾弾の声があった。

 

 祖母はそんな空気に中てられ、体調を崩し──問題の解決を見ることなく、この世を去った。

 

 別に、それに思う所があるわけではない。

 君主がベッドの上で死ねるのは、国が平和な証だ。寝台で家族に看取られて死んだ王の名前は暗記できても、断頭台や食卓、酒宴の席で死んだ為政者の名前は覚えきれない。

 

 まぁ、だから。

 眼前の自分と意見が一致するというのは、心に多少の波を立てるけれど。いま同じ質問をされても、ステラの答えは変わらない。

 

 「統治の形に拘る時点で、全て不正解でしょう」

 

 専制君主制も、立憲君主制も、議院内閣制も、法を持たない軍事国家も、信義を法代わりとする宗教国家も、差異はない。

 

 専制君主制は個人或いはごく少数の人間が意思決定権を持つため、意思決定が素早い。しかし、誤謬に気付きづらいという欠点もある。

 意思決定権を個人ではなく議会という総体に持たせる議院制は、誤謬を無くせるという触れ込みだけれど──意思決定の遅さという欠点があるくせに、意思決定が正しいとは限らない。人間という間違える存在の集合が、間違いを生まないわけがないのだから。

 

 統治の正しさに、政治体制は関係ない。統治体制で変わるのは意思決定の早さだけだ。

 

 ならば──

 

 「無謬存在による独裁。これが、政治体制における理論最適解です」

 

 その答えに、祖母はなんと答えたのだったか。それを見る前に、夢はいつもここで終わる。

 寝起き特有の倦怠感を覚えながら目を開け──一口には形容しがたい表情のフィリップと目が合う。

 

 「あー……えっと、とりあえず、おはようございます。殿下」

 「……あぁ、おはよう。人の寝顔を、そうまじまじと見るものではないぞ。……どうした?」

 「いえ、別に。何でもありません」

 

 この状況で昼寝とか正気か、と。自分のことは完全に棚上げして愕然としていたフィリップは、ステラの訝る視線を適当に躱す。

 

 「それより、そろそろ浴場に行ってみませんか? 確実に敵がいるので、殿下は──」

 「いや。万が一お前が敗北、或いは死亡した場合、魔術の使えない私一人が残ったところでどうしようもない。戦闘になるなら尚更、一緒に行くべきだ」

 

 鍵を示しつつそう言うと、ステラがそれを遮る。

 

 そりゃあ、単純に1対多が2対多になるのはありがたいけれど、フィリップにステラを守る力はない。

 より正確には、使える魔術全てが何かを守りながら戦うことを想定していない。対人攻撃魔術もあるにはあるが、外観と残虐性に問題がある。あとは極大火力のクトゥグア召喚。相手は死に、味方は狂う。バカの考えたラインナップだ。

 

 しかし、フィリップは今や、なんとなく現代魔術っぽい、少なくとも現代魔術と言い張れないこともない外観と威力の魔術を手に入れた。

 詠唱や接続プロセスにはステラ発狂のリスクがあるけれど、クトゥグア召喚のように確実に発狂するわけでもない。……たぶん。

 

 つまり、切りにくいだけで、切れない切り札というわけではないのだ。

 やっぱり大躍進だよなぁ、と。この場にナイ神父がいればまたぞろ「でも弱いじゃないですか?」と言われそうなことを考えつつ、ステラに予め警告しておく。

 

 「殿下、僕が「対爆防御」と叫んだら、目と耳を塞いでくださいね」

 「例の爆破魔術だな。分かった」

 

 流石の理解力だと感心しつつ、これは迂闊なことを言えないなと内心冷や汗をかく。

 ステラが耳を塞いで、フィリップが限界まで小声で詠唱すれば、まぁ聞こえはしないだろう。目を閉じていれば、術式に含まれるハスターの居城との接続プロセスを見て発狂することもない。破壊痕も現代魔術のものと見分けがつかないだろうし、こちらは見られても問題ない。それに、たぶん部屋自体、空間自体は傷付かないようになっている。好き勝手ぶっ放せるわけだ。

 

 「……よし、じゃあ行きましょうか。ナイフは──」

 「持った。私が前衛を張ろうか?」

 

 ふむ、と。フィリップは暫し考える。

 

 中に何がいるのかは不明だが、ステラが「音」と表現した邪悪言語、あれをフィリップが聞き取れたということは、比較的人間に近い器官を持つ存在だ。

 シュブ=ニグラスのように人間とはかけ離れた形状の存在が使う邪悪言語は、フィリップにすら「音」として捉えられる。意味は分かるが、発音は理解も再現もできない。

 

 つまり、中にいる神話生物は人型。少なくとも直視して即発狂するような外観ではないはずだ。

 

 魔術は使えなくとも戦闘能力のあるステラが前衛を張り、フィリップは後衛から領域外魔術で攻撃する。このツーマンセル方式は理に適った戦術と言える。

 しかし、中にいるのが人型個体()()とは限らない。

 

 「まずは部屋の外から、中に何がいるのか確認しましょう。大丈夫そうなら、前衛をお願いします」

 「分かった。……中に何がいるのか、当てがありそうな口ぶりだな?」

 「……いえ、最悪の想定がある程度ですよ」

 

 ホントに迂闊なこと言えないなぁ、と頭を掻きつつ、居心地の良い書斎を後にした。

 

 



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92

 廊下に出ると、既に先程の怒声や扉を叩く音は止んでおり、不穏な静けさが漂っていた。

 無機質で不思議な灯りに照らされた白い空間は、そこにいるだけで不安感を催させる。

 

 「……何してる?」

 「待ち伏せの確認です。ほぼ確実に、中にいるのは敵ですから」

 「私が確認しようか? 魔物の類なら、魔力の分布で位置を探知できる」

 

 ドアに耳を当てて中の様子を探るフィリップに、ステラは自分の目を示して提案する。

 

 中にいるのが何か分からない現状、あまり彼女の知覚を鋭敏にしたくはない。流石に見たら発狂するような旧支配者クラスの敵は配置されていないはずだし、人型の何かであるとは推察できている。あとは人型存在にプラスアルファで、ティンダロスの猟犬や駆り立てる恐怖といった、一見して異常だと分かる冒涜的存在がいるかどうかだ。

 

 一応、変な鳴き声とか、粘液っぽい音はしない。

 それに、確か最奥に向かって左側、つまり浴場の住人の方が比較的理性が残っていそうだった。

 

 感知即発狂は、たぶん無い。

 

 「……お願いします」

 「分かった」

 

 ステラの目に魔力が集中し、視力が強化される。

 しかし単純に物がよく見えるようになるとか、そういった変化はない。機能としては画面の拡大ではなく、チャンネルの変更だ。見る対象を、物質から魔力へと変更する。

 

 「……中には三人。魔物ではなく人間だな。魔力量から言って、全員三流魔術師といったところか。魔術展開、魔術罠は無い。先手は取れるだろう」

 「……なるほど、ありがとうございます」

 

 え? すごくない? と。フィリップは自分の耳から得られた量を数倍する情報に、思わずステラの方を見る。

 

 その動きにつられたか、ステラもフィリップの方を見て、一言。

 

 「三流と言っても、お前の倍以上の魔力量はあるぞ。油断するな」

 「……あ、はい」

 

 なるべく音を立てないように鍵を開け、扉を薄く開ける。

 

 「……本で溢れてますね」

 

 浴場は廊下やスタート部屋に似て、壁も床も天井も全面がタイル張りだった。光源の無い不思議な灯りは、廊下と比べてやや赤みがかっており、無機質さはやや緩和されている。

 中には書斎から持ち出されたものと思しき大量の本が散乱し、奥に据えられた浴槽に山と積まれ、そこから溢れて流れ出たように床にも散らばっている。かなり広い部屋の床が、ほとんど見えなくなるほどの量だ。

 

 壁面には大陸共通語と邪悪言語の入り混じった落書き──魔術式の試作や、フィリップでも理解できない絵や図形が所狭しと書かれている。書斎から持ち出したインクで、指を使って書いたものだろう。

 

 中にいるのは、ステラの言葉通り人間に見える存在が三体。ぼろぼろのローブを着て床に蹲り、一心不乱に本を読んでいる。

 

 動物的なのか、理性的なのか、判別しかねる有様だ。

 本を読んでいるのは知性が残っているからなのか、それとも智慧を得て狂う前の習慣に従っているだけの惰性か。

 

 どちらにしろ、ここに配置されている以上は敵だろう。

 全員殺すとして、最も安定した策は。

 

 「……これ、ここから『萎縮』を撃ち込んでいけばいいのでは?」

 

 それで一人殺す。

 ドアの耐久力は証明済みだし、彼らが出てこられなかったということは、内側から鍵を開ける手段はない。一人殺してドアを閉めて、警戒が解けるまで待ってもう一人殺す。これを繰り返していけば、無傷で全員殺せるだろう。時間はかかるけれど、それは安全と引き換えの必要経費と割り切れる。

 

 「相手の魔力抵抗に阻まれそうなものだがな。魔術師の体内を流れる魔力は、それ自体がある程度の対魔術防御機能を持つ。私やルキアなら、この距離からでも無視して貫ける程度の強度だが……」

 「僕の魔力じゃキツい、ですか」

 「少なくとも、もう少し近付かないとな」

 

 ステラはそう言った後、疲れたように苦笑する。

 

 「それにお前、鍵はまだ持っているのか?」

 「……え?」

 

 言われて初めて、ポケットに突っ込んだはずの鍵が消えていることに気が付いた。

 それに、ドアノブの下にあったはずの鍵穴も消えている。

 

 「少なくとも、それは試験の正答ではない、ということだろうな」

 

 そりゃあ、まぁ、確かに。自分でもどうかと思う作戦ではあったけれど──それを立案すること自体、読まれていたらしい。

 

 「勢いよく突入して、一番近い奴を殺す。相手が動揺するような素人なら二人目も欲張り、即座に戦闘態勢になるようなら態勢を立て直す。いいな?」

 「奇襲攻撃、ですか」

 

 先程の安全策ほどではないが、危険度は正面戦闘よりいくらかマシだ。

 

 「まずは数を減らす。あの程度の魔術師の攻撃は私には通じない。となると、相手は格闘戦を挑むしかないわけだが、白兵戦ではお前が弱く、私もそう強いわけではない。数で負けたら押し切られるぞ」

 

 戦闘は質と量のバランスが大事だと、ルキアも言っていた。バランスブレイカーである彼女が、そもそも天秤に乗っていないフィリップに、だ。二人とも半笑いで、半ば冗談交じりですらあったけれど。

 

 魔術展開はできずとも、内包した魔力が健在でその操作くらいはできるステラに、三流魔術師の攻撃魔術は通用しない。しかし、体格的に相手は全員大人の男だ。白兵戦では二人がやや不利。そもそも数的にも不利。メインアタッカーのフィリップの攻撃も、彼らには通じにくい。戦況的にはこちらがやや不利だ。

 

 せめて先制して数的不利を無くすとして──内部破壊型の『萎縮』、体内に展開する『深淵の息』は両方とも、現代魔術より幾分か魔力抵抗を無視できるにしても、確実に殺せる距離まで近付きたいところだ。

 

 「……なるほど。ちなみに、どのくらいまで近付いたら魔術耐性を貫通できますか?」

 「見る限り、10メートル圏内なら確実に貫通できる。油断するなとは言ったが、気負う必要もないぞ」

 

 10メートルなら、部屋に3歩も入れば一番近い個体が有効射程に入る。

 

 「行きましょう!」

 

 扉を動く範囲にあった本を押しのけるほど勢いよく開け放ち、浴場へと踏み込む。

 敵は奥に二人、手前に一人。全員が蹲るような姿勢で地面に置いた本を注視している。

 

 一歩。全ての個体が闖入者に驚き、身体を硬直させる。

 二歩。奥にいる二体のうちの片方がこちらを向く。だが、攻撃も防御もしてこない。驚きに目を見開いて、ただ愕然とこちらを見ているだけだ。

 

 三歩目。手前の個体が確殺圏内に入る。全個体、未だ戦闘態勢には入らず。──獲れる。

 

 「《萎縮(シューヴリング)》!」

 

 体内に焼けた鉄柱が生じたような、突発的で耐え難い苦痛に襲われた一体が身体を強張らせて悲鳴を上げる。仲間と、眼前に見えるフィリップとステラと、そして神に助けを乞う悲鳴は、身体が炭化していくにつれて断末魔へと変わる。

 普段のフィリップなら凄惨な死に様を無感動に見下ろすところだが、今回は事前に「欲張れ」と言われている。

 

 死体と言い表すことすら躊躇われる、人間大の炭の塊に一瞥もくれず、奥にいる二人の片方に狙いを定める。

 しかし、言われた通りのことをしていただけで、特に戦闘慣れしているわけでも、思考が最適化されているわけでもないフィリップは、彼らの言葉に動きを止めてしまった。

 

 「馬鹿な、領域外魔術だと!?」

 

 言葉──内容もだが、彼が口走ったのは人語、それも大陸共通語だった。

 人型存在、人間に見える神話生物ではなく、人間か? いや、ステラは確かにそう言っていたけれど──人間レベルの魔術能力を持つ神話生物だろうとばかり思っていた。

 

 アレが仮に人間だとして、「領域外魔術」とはっきりと口にしたのも気がかりだ。もし仮に領域外魔術を習得しているのなら、魔力量と戦闘能力の相関性が一気に薄れる。

 

 「《深淵の護り》!」

 

 疑問によって生じた隙に、片方が魔術を詠唱する。

 咄嗟にフィリップを庇う位置に立ったステラだったが、その耐魔力の効果を見ることは無かった。

 

 床面から水のヴェールが湧き出し、彼らを守るように聳える。

 直感的に、フィリップの魔術はこれ越しに撃てない、撃っても効果を発揮しないと分かる。ステラの目にもそう映るようで、彼女は「対魔術防御だな」と端的に告げた。

 

 攻撃を中止したフィリップに、残敵の片方が問いかける。

 

 「……貴様、先刻の暴風を生んだ術者か?」

 

 フィリップは答えず、ステラも無言を貫く。

 ステラは会話の必要性を認めず、フィリップは想定以上に理性を残しているらしい眼前の存在──完全に人間のように見えるモノに驚愕しているからだ。

 

 「答える気はない、か。ここが神の繭を奉る場所だと、知ってはいるようだな」

 

 人型存在が憎々しげにフィリップを睨み付ける。

 しかし、反撃はしてこないようだ。あの水のヴェールも他の領域外魔術同様、使い勝手は良くないらしい。魔力を大幅に食うのか、或いはあれ越しでは術者本人も魔術を使えないのか。

 

 彼らの敵意を完全に無視して、フィリップはとても感心していた。──すごい、凝ってるな。と。

 

 ここは精神空間、フィリップの意識を閉じ込めた試験のための空間だ。

 実在するどこかではなく、ナイアーラトテップが作り出した世界。実在するどこかを参考にしているかもしれないが、そこそのものではない。あくまで数十分前に作り出された、仮想の世界だ。

 

 敵の存在は確定していたけれど、まさかバックグラウンドまで設定されていたとは。

 

 まぁ、ナイアーラトテップの凝り性はさておき。

 

 「ヒトに見えるなぁ」

 「……お前、私の話を聞いていなかったのか? 魔物ではなく人だと言ったはずだが」

 

 フィリップとステラの会話を聞き取り、ローブの男二人がニヤリと笑う。

 その表情に込められた明確な嘲弄に、ステラが不快そうに眉をひそめ、フィリップも疑問と不快を綯交ぜにした微妙な表情になる。

 

 「ヒトだと? 貴様らの目にはそう見えるか。だが無理もない。我らは確かにヒトだった」

 

 人間()()()と過去形で自慢げに言って、男たちはローブを引き裂くように脱ぎ捨てた。

 

 「ッ……!?」

 

 フィリップが驚愕の声を押し殺し、ステラも無言ながら目を瞠る。

 

 素肌が剥き出しになった上半身には、魚の鱗のようなものがびっしりと生え揃い、てらてらと生物的な光沢を放っている。粗末な布製のズボンに覆われた下半身も、きっとそうなのだろう。

 首元には左右に三条ずつの切れ込み──エラのような器官が見て取れ、その周りも頬辺りまで鱗に覆われている。

 

 「馬鹿な、魚人(マーマン)だと!? いや、魔力は確かに……」

 

 ステラが自分の目を疑い、口走る。

 物質を見る目は眼前の存在を人と魚を掛け合わせたような魔物、魚人(マーマン)だと主張する。しかし、魔力を視る目は眼前の存在を間違いなく人間の魔術師だと断定している。

 

 彼女の言葉に、フィリップは答えられない。

 あれは──フィリップの智慧に無いものだ。

 

 かつて地球に飛来したクトゥルフを追い、信仰に殉ずるため自らも地球に堕ちたダゴンとハイドラ。彼らの末裔にして同族である深きものども(ディープワンズ)──では、ない。

 彼らにしては少し人間に近すぎるし、彼らとヒトの交配によって生まれた混ざりものと言うにも、まだ人の要素が強い。変態途中? いや、そもそも、彼らディープワンズであれば、ダゴンの手先として智慧にある。フィリップが正体を看破できない時点で、あれらではない。

 

 「魔物と一緒にされては困るな! 我々は『招かれたもの』! 真なるダゴン教団最後の生き残りであり、新たなる神に仕えるものだ!」

 

 色濃い疑問を浮かべたフィリップとステラに勝ち誇ったような嘲笑を向け、彼らは彼らをそう定義した。

 

 

 



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93

 別に、彼らが何であれ、フィリップの知ったことではないと思っていた。

 敵として配置されている何か。フィリップの戦闘能力を測る指標。そしておそらく、準備運動程度の労力を想定されているもの。

 

 彼らが魔術師だろうと、魔物だろうと、神話生物だろうと。元は人間であった何かであろうと、さっさと殺して先へ進む。

 その、つもりだった。

 

 「……カルトか」

 「……カーター?」

 

 心底からの憎悪を宿した呟きに、ステラが背中を押されたように一歩、前に出る。流石に敵を前にして振り返りはしないけれど、それは自制の結果だった。思わずフィリップを確認してしまいたくなるほど──本人かどうか訝しむほど、普段の彼とはかけ離れた声色だった。

 

 普段のフィリップは良く言えば物腰の丁寧な、悪く言えば慇懃無礼な子供といった風情だ。

 しかし、今のフィリップにそんな気配は無かった。取り繕った尊重や模倣した敬意は消え失せ、時折覗かせる冷笑と嘲笑が表出している。今まで表層にあった全てを押し流したのは、眼前の存在に対する悍ましいほどの嫌悪感と憎しみだった。

 

 とはいえ、フィリップは見てくれも戦闘力も子供だ。

 普段の彼を知るステラも驚きはしたものの、恐怖を感じたりはしない。フィリップの情報をその外見程度しか持ち合わせない、残る二体の「招かれたもの」も同様だ。

 

 「カルトだと? フン、領域外魔術を使う以上、多少の智慧はあるかと思ったが……買い被りだったか」

 

 嘲りも露わに、「招かれたもの」の片割れがそう吐き捨てる。

 

 フィリップはその感情と言葉を丸ごと無視して、ステラの肩を叩いた。

 

 「殿下、対爆防御を」

 

 乱戦の中、相手に隙が出来た瞬間に使うはずだった合図を、安穏と伝える。

 現状は敵と味方が同数で、相手は対魔術防御を展開中、そして正面から睨み合った拮抗状態だ。当然ながら、目と耳を塞いでいい状況ではない。

 

 「無理だろう!? 相手に隙が無い状態で」

 

 どんな判断だと、ステラが驚愕交じりに再考を促す。

 普段のフィリップなら、それもそうかと大人しく別な攻撃を選択するところだけれど──生憎と今のフィリップは、或いは本来のフィリップは、そんなにお利口ではない。

 

 「──そうですか。じゃあ別にいいですけど」

 

 フィリップの基本性質にはいろいろと問題がある。

 

 たとえば対人認知能力。

 親しい人。輝かしい人間性を持った人。有象無象。憎むべきカルト。この程度の認識、分類しかない。

 

 そしてプラスの印象であるはずの「親しい人」「輝かしい人間性を持った人」も、ニュートラルな「有象無象」も、マイナスの印象を持つ「カルト」も、自分自身すら、一様に無価値と断じる価値観がある。

 

 だから──まぁ、別にいいか、と。

 ステラが発狂しようと、ルキアがそれを悲しもうと、その咎をフィリップが背負うことになろうと──別に、どうでもいいじゃないか。そう、外神の視座から囁く自分がいる。

 

 眼前のステラに構わず、胸の奥で燃え上がる憎悪に任せて魔術を照準する。

 ステラが息を呑むのを無感動に一瞥して、興味はそれきりで尽きる。

 

 なのに──詠唱できない。息が詰まる。

 

 どす黒い憎悪と殺意に塗れた心の中、ほんの片隅に残った理性が制止している。

 それは獣性だ。人間的な理性とはかけ離れた拙劣なものだ。それに身を任せたくない。人間らしく在りたいと叫んでいる。何より──()()は絶対にそんなことをしない、と。その確信が、ステラを害する可能性のある邪悪な言葉を喉元に押し留めている。

 

 「……どうする?」

 「……すみません。先に隙を作りましょう」

 

 撃つのか、撃たないのか。敵を睨んだままそう問いかけたステラに、フィリップは一転して消沈した声で答える。

 魔術防御を貫通しうる魔術の気配に身を強張らせていた「招かれたもの」が、どうやら撃ってこないらしいと安堵していた。

 

 「は、ははは…… どうした、撃たないのか? そうだろうな。ここが何処かを知ったのなら、あのような魔術は最早──ッ!?」

 「──あぁ、やっぱりこれ越しじゃ駄目みたいです」

 

 方針が決まった以上話すことは無いと、無造作に撃ち込んだ『萎縮』が水のヴェールをどす黒く濁らせる。

 体感的に、もうあと2、3発も撃ち込めば無力化できそうだ。

 

 前触れも無く、まるで自分たちの言葉が通じていないかのような無感動さで魔術を撃たれ、「招かれたもの」が息を呑む。

 

 「損耗率は三割強といったところか。相手も魔術を使えないようだし、壊れる瞬間に気を付けろ」

 「了解です。──《萎縮》」

 

 じゃあもう一発は雑に撃っていいな、と。フィリップがほとんど何も考えずに撃ち込んだ魔術が水のヴェールを濁らせる。

 あと一発。どのタイミングで撃つべきかと思考した瞬間に、「招かれたもの」二体が同時に詠唱する。

 

 「《ヨグ=ソトースのこぶし》!!」

 

 次の瞬間には水がガラスのように砕け散り、「招かれたもの」の放った不可視の殴打が飛来する。

 

 そりゃあ、まぁ。あれは双方向の干渉を遮断する防御壁であり、フィリップたちと、「招かれたもの」たちの安全を保証してくれるものだった。

 それを壊そうとした以上、彼らも棒立ちでそれを見てはいないだろう。迎撃、反撃は予想しておくべきで──耐久値が残り一発になった時点で彼らの片方がそれを破壊し、残った方がフィリップより先に攻撃する。そんな連携を取ってくることも、勿論想定しておくべきだった。

 

 殺意に目が眩んでいたとはいえ、あまりにも迂闊だった──そんな反省をしている余裕も無いほど、フィリップの動揺は大きい。

 

 「なっ──!?」

 

 なんだその魔術。なんでその名前を知っている。

 心中に浮かんだ二つの疑問のどちらを口にしようとしたのか、フィリップ自身さえ分からない。声にする前に驚愕で息が詰まったのも大きな理由だが、何より、そんな問いを投げている場合ではないからだ。

 

 警戒度が跳ね上がる。

 カルト風情と侮るのも、人間風情と嘲るのも、無価値なモノと捉えるのも、全て過小評価だった。

 

 ヨグ=ソトース──外神の中でも最強に近い存在。その“こぶし”? 

 それは流石にフィリップでも危機感を覚えるというか、脅威だと判断できる。フィリップもハスターの毛先や、クトゥグア本人を召喚できるけれど──そんなものとは訳が違う。格が違う。次元が違う。

 

 クトゥグア、ヤマンソ、ハスター。フィリップがいま召喚できる邪神が、どれだけ頑張っても盾くらいにしかならない。盾として一発受け止められたら大金星、というレベルだ。

 

 以前にヨグ=ソトースの気配を感じたのは、ナイ神父の化身を解き血の舌と漆黒の身体を持つ化身となったナイアーラトテップを殴り潰したとき。ヤマンソの焼却からフィリップたちを守ってくれたこともある。三次元世界の崩壊に構わず真体にて顕現しようとしたシュブ=ニグラスを押し留めたときは、流石に肝が冷えた。

 

 彼──と、便宜上その代名詞を置くが──は顕現することもなく、世界としてそれを実行した。

 

 ナイアーラトテップを消し潰し、ヤマンソの攻撃を制御し、シュブ=ニグラスを追い返した。

 こぶし、パンチというからには、攻撃なのだろうが──少なくともナイアーラトテップを一撃で葬り去ることができる物理威力がある。フィリップなら余裕で100回死ねるだろう。

 

 「いあ──」 

 「──っと」

 

 フィリップが最悪の防御策を講じる寸前で、ステラが羽虫を厭う程度の気軽さで『ヨグ=ソトースのこぶし』を打ち払う。

 不可視の攻撃を寸分の狂いも無く、体内の膨大な魔力がもたらす魔術耐性に任せて、脱力した手の甲で。

 

 「馬鹿な!?」と、フィリップの内心を「招かれたもの」たちが代弁してくれた。

 

 「──圧縮空気の手応えではないな。力場の生成と衝突か」

 

 攻撃を払った右手をひらひらと振りながら、何でもないことのように言う。

 「招かれたもの」は依然として「馬鹿な」「有り得ない」と繰り返していたが、フィリップの疑問は氷解する。

 

 あの『ヨグ=ソトースのこぶし』なる魔術は、外神の副王ヨグ=ソトースとは何の関係もないものだ。

 いや、そもそも。ヨグ=ソトースを知っているのなら、「真なるダゴン教団」なんて面白い団体に所属したりしないだろう。フィリップの早とちり、彼らの無知を見抜けなかったフィリップのミスだ。

 

 普段のフィリップなら。カルトを前にして嫌悪感や殺意に支配された状態でさえなければ、気付けたかもしれない。外神であるヨグ=ソトースが召喚されたとしても、フィリップに敵対することは無いと思い出せたかもしれない。

 

 全く──我が事ながら恥ずかしい。

 これほど愚昧なカルト如きに、こうも振り回されるとは。

 

 「──っ! 殿下、対爆防御を!」

 「了解!」

 

 もう、いい。

 これ以上のお前たちの生存を、僕は望まない。

 

 お前たち(カルト)は死ね。なるべく惨たらしく、苦しんで。

 

 ステラが耳を塞いだのを確認し、今度こそはと魔術を照準する。

 

 「いあ いあ はすたあ はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ──」

 

 悶え、咳き込み、唸るように詠み唱える。

 ハスターの居城にして牢獄たる黒いハリ湖へと至る経路が繋がり、風属性の最大神格を讃える言葉と魔力を代償に、その存在をこの場へと招来する魔術。副作用である正気の喪失は、シュブ=ニグラスの守護によって踏み倒される。

 

 「招かれたもの」が慌てたように攻撃準備に入るが、フィリップの詠唱完了の方が早い。

 

 「あい あい はすたあ」

 

 召喚された暴風、横方向に伸びる竜巻が、かつて人間であった二体の神話生物へと襲い掛かった。

 

 



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94

 散らばっていた本が引き裂かれて生まれた紙片と、部屋そのものとは違って破壊耐性の無かった陶器の浴槽の破片。ピンク色の人肉と魚肉の合い挽きにそれらを混ぜ込んだ、全体的にピンク色の光沢を帯びた肉の塊。

 つい数秒前には熱烈なまでの憎悪を向けていたカルトの成れの果てに、フィリップは「気持ち悪いなぁ」という内心の透ける一瞥をくれ、すぐに興味を失って視線を逸らした。

 

 ブチ殺して、死体を蹴りつけ、踏みにじり、唾棄してやろう──と、殺す寸前までは考えていたのだけれど。そんな気分でも無くなる程度には、気分を害する死体だった。

 もっと綺麗に、かつ苦しんで死んでくれればよかったのに。

 

 ……いや、そんなことを考えている場合ではない。

 次の部屋、応接間の鍵はこの部屋のどこかにあるはずなのだ。カルトの誰かが持っていたというのが、一番ありそうな仮説であり、一番あってほしくない仮説だ。

 焼く前の混ぜ込みハンバーグみたいな肉塊と、それを作る余波でぼろぼろに崩れてしまった炭の塊。あれを検分するのは勘弁してほしい。

 

 「……殿下、終わりました」

 

 ぽんぽんと肩を叩いて戦闘終了を知らせると、ステラは軽く「あぁ」と応えて立ち上がった。

 少し注意して手足の震えや瞳孔などを観察してみたが、狂気や恐怖といった悪影響は見られない。詠唱も魔術も隠しおおせたようだ。

 

 「……派手にやったな」

 

 ステラは苦い笑いを浮かべ、直視に堪えない死に様を晒す残骸を示す。

 ルキアなら口元を押さえて不快感を露わにしているところだが、彼女よりスプラッタに耐性があるのだろうか。

 

 「もっとスマートに……いえ、クリーンにやるつもりだったんですけどね。鍵を探すのが億劫になりました」

 「ははは。まぁ、片方は私が──ッ!? おい、死体は!?」

 

 ステラの言葉に慌てて振り返るが、彼女の驚愕の通り、死体が三つとも跡形も無く消えている。彼らが自称の通り人外──魔物だったのなら、死体が消滅するのは摂理に従うことだ。だがステラの見立て通り人間なら、その死体が一瞬のうちに消えるのは異常事態だ。

 あのグロテスクな肉塊が魔術による幻影で、実はカルトは死んだふりをしているだけ、という線はない。幻影の類なら、ステラの目に留まるはずだ。死体が消えたのはこの空間の特異性によるもの、と考えるべきだろう。

 

 これで部屋が少しは綺麗になった──などと喜んでいる場合ではない。

 奴らが鍵を持っていて、それも同時に消えたとしたらどうしようもない。この時点で詰みだ。

 

 「火力過剰は失格……? いや、まさかね」

 

 過剰火力しか持っていないような現状で、そもそも対神格を想定して組まれたフィリップ強化計画で、そんな失格条件は無いだろう。

 ナイアーラトテップの要求水準程度に強くなった場合、対人攻撃なんて小規模なカードは握れないと考えてもいい。最低、神殺し。最高火力は──なんだろう。ちょっと想像が付かない。それこそ「ヨグ=ソトースのこぶし」とかだろうか。

 

 とにかく、火力過多はフィリップとナイアーラトテップにとっては共通認識であり、大前提だ。今更「もっとスマートに殺しましょうね」とか言われたら、「お前をスマートに殺すぞ」という意味を込めて中指を立てるしかない。

 

 「ダンジョンなら詰みの場面だが、ここは用意された空間なんだろう? 何処かに……埋もれてるんじゃないか?」

 「そうですね。この……本と紙片と陶器の破片に埋もれた部屋の、どこかに」

 

 死体が無くなった分、生理的な「汚さ」は軽減されたけれど。部屋の乱雑さという意味での「汚さ」は、むしろ悪化している。

 

 溜息を交わし、部屋を漁ること十数分。

 フィリップが薄々思っていた「もの探しに手間取らせるなんて嫌がらせ、ナイアーラトテップがするかなぁ?」という疑問は、本に埋もれていた鈍い金属光沢を放つ金庫を発見することで解消された。

 

 フィリップが両手で抱えられるくらいの大きさのそれは、タベールナの帳簿やらが入っているものに少し似ていた。

 財産を溜め込み守るためではなく、重要書類などを火事や水害などから守るためのものだ。

 

 「殿下、ナイフを貸してくれませんか?」

 「こじ開ける気か? 難しいと思うぞ」

 

 そう言いながら、ステラは一応ナイフを渡してくれる。残念ながら蓋はきっちりと閉まっており、刃をねじ込めるような隙間すらなかった。

 『萎縮』は金属には効かないし、ダイヤル式なら試しにフィリップの誕生日でも入れてみるところだが、鍵穴がある。

 

 「確かに、無理そうですね」

 

 こじ開けるのは諦め、中身は何だろうと振ってみると、紙束のようなものが擦れるばさばさという音がする。からからと小さく硬質なものが転がる音も聞こえ、中に鍵が入っているのではないかと推察できた。

 紙束はおそらく、この空間の攻略情報、ヒントのような何かだろう。最奥部に何がいるのかは現状不明だ。ナイアーラトテップは「試験は旧支配者と一対一で戦うような形式ではない」とは明言したけれど、「最終的に旧支配者を倒すような試験ではない」とは言っていない。

 

 最悪、最奥部には本当に「ヨグ=ソトースのこぶし」が待っていて、ステラは何も知らないまま死んだほうがまだマシ、ということだって有り得る。

 それを確認するためにも、この金庫は是非開けておきたい。というか、鍵が封入されているのなら、開けないと先に進めない。

 

 では鍵探し再開だが──鍵穴のサイズから考えて、部屋の鍵より二回りは小さいものだろう。難易度が上がっていた。

 

 「よいしょ、っと」

 

 中身が紙束とは言え、それ自体は鉄の箱だ。それなりの重量がある。

 緩慢な動作で床に置くと、からん、と硬質なものが床に転がった音がする。

 

 「っ!?」

 

 すわどこか壊したかと慌てるフィリップだが、どこも歪んでいたり、割れている感じはしない。

 何だったのかともう一度持ち上げると、金庫の下に見覚えのある鍵が落ちていた。

 

 「……あぁ、そういう?」

 

 取り上げてみると、やはり「応接室」と彫られている。金庫の裏に貼り付けられていたようだ。

 もの探しに手間取らせたりはしないと思っていたので、金庫と一緒に見つかるようになっていたのは予想通りだ。妙に見つけにくいところに貼っていたのは……やっぱり嫌がらせだろうか。試験の本旨を損なわないところでなら何をしてもいい、とか思っていそうだ。

 

 「殿下、ありました。応接室の鍵です」

 「よくやった。正直、部屋の半分も探していないが……かなり疲れた」

 

 確かにと笑い、フィリップも背中や腰を伸ばしながら立ち上がる。

 そのまま流れ作業のように次の部屋へ向かおうとして、その手をステラに掴まれた。

 

 「待て。さっきの「音」の出所がこの部屋では無かった以上、次の部屋ではほぼ確実に私が変調を来す。次も多人数相手なら、ドアを開けた瞬間に決めろ」

 「……なるほど」

 

 フィリップが出口らしき鉄扉を壊そうとしたとき、怒声は浴場と応接間の両方から聞こえていた。それが邪悪言語であることは、ステラの反応から間違いないと判断できる。

 だが実際に扉を開けてみれば、中に居たのは人間もどきが三体だけ。しかも彼らは人語、大陸共通語を話していた。と、なると──実際に邪悪言語を使っていたのは応接間の中にいる存在で、浴場からは普通に人語が聞こえていたのだろうか。

 

 「じゃあ、殿下は書斎で待っててくれませんか? 正直、他人を庇いながら戦えるほど強くないので」

 

 正確には悪影響が強すぎて、というべきだが、それは今はどうでもいい。

 ステラは少し考え、やはり首を横に振る。

 

 「いや。奇襲に失敗した場合でも、お前一人でどうとでも対処できるならそれでもいいが──」

 「……無理です」

 

 だろうな、と、フィリップの戦いぶりを見ていたステラは軽く頷く。

 殆ど棒立ち、魔術耐性に欠けるくせに魔力障壁の展開準備も無し。読み合いにも弱い。攻撃能力は高いのかもしれないが、総合的な戦闘力はかなり低いといえる。

 

 「最悪、私は嘔吐しながらでも魔術を防げる。だが意識が無くなれば魔力操作も何もあったものじゃない。私がゲロを吐いているうちに、失神する前にカタを付けてくれよ」

 「了解です。と言っても、僕には例の「音」がどれほどのものか分からないので、その「音」が聞こえたら教えてください」

 

 必要事項の確認を終え、二人は次の部屋へ向かった。

 「応接間」の扉も「浴場」のそれと同じく高級そうな木製で、金属のドアノブの下に鍵穴がある。

 

 「……人型の魔物だな。三体いる」

 

 当然のように「目」を向けてそう言ったステラに、フィリップが愕然とした目を向けた。 

 

 「なんだ? さっきも見ただろう? 魔力の質で対象を、その分布で形状と位置を把握できる」

 「いえ、それは知ってるんですけど……何ともないんですか?」

 

 ステラは「あぁ」と不思議そうに頷く。

 それは良かった。まぁ、フィリップの予想が正しければ、中にいるのは人の発声器官に似たものを持つ神話生物だ。肺-声帯-口という一連の構造が同じなら、少なくとも見るだけで正気を失うほどの異形ではないだろう。ステラが発狂しなかったことで、その予想は概ね裏付けられたと言っていい。

 

 とはいえ、迂闊だった。彼女の積極性なら、自分にできる最善を尽くそうと動くことは予想できた。これで中に一見して即発狂するような異形が配置されていたら目も当てられなかった。

 きちんと事前に警告しておくべきだったが、最奥、出口らしき鉄扉に挑む前に気付けて良かった。そのレベルの異形が配置されるとしたら、そこだ。クリア直前の最終局面で、フィリップの全火力をぶつけるような相手がいる可能性だってある。

 

 「殿下、その「目」は僕が言ったときだけ使うようにしてくれませんか? いえ最悪、あの鉄扉の向こうだけは覗かないでくれたらそれでいいんですけど」

 「出口か? さっき見たが、何も無かったぞ?」

 

 ……オーケー。さっきまでの推論も後悔も安堵も全部ナシだ。

 この空間に異形はいない。証明終了。

 

 「そ、そうですか。じゃあ何でもないです……」

 

 



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95

 ドアを開けた瞬間に『ハスターの毛先』を撃ち込む。言葉にすると簡単そうだが、これが意外と難しい。

 いや、ステラやルキアなら、もっと低級でもきちんとした魔術師なら、そう難しいことではない。ただフィリップにとっては別だ。伸ばした片腕か指先を照準補助に使い、長々とした詠唱を要するフィリップにとっては。

 

 しかも耳を塞いで目を閉じる必要のある同行者ではなく、フィリップ自身が扉を開ける必要がある。

 魔術の規模を考えるに、先程のように扉を薄く開けて撃ち込む、なんて小技は通用しないだろう。荒れ狂う暴風が盛大に扉を閉じた上で、扉の防護に魔術が破壊されて終わりだ。

 

 ステラにドアを開けて貰えば、フィリップは魔術行使に専念できる。しかし、その場合は魔術と詠唱がステラの精神を蝕むことになるだろう。

 彼女は初めから対爆防御姿勢を取り、フィリップが多少無理な姿勢で詠唱し、発射寸前でドアを開けるというのが安牌か。

 

 「……と、いう感じでどうでしょうか」

 「いいんじゃないか? 攻撃寸前まで鍵を閉めておけば、感付かれても対処できるだろうしな」

 

 なるほど、と適当な相槌を打ち、言われた通り鍵を差し込んだ状態で詠唱姿勢を取る。

 ステラが頷き、背を向けて耳を塞いだのを確認して、詠唱を開始する。

 

 「いあ いあ はすたあ はす──」

 

 ズドン! と。砲弾でも当たったような勢いで扉が叩かれ、握っている鍵が折れそうなほどの衝撃が伝わる。

 

 「うわっ!?」

 

 驚愕の声を漏らして飛び退いたフィリップの動きを察知し、ステラも何事かとナイフを構えた。

 なんとか鍵穴から引き抜いた赤銅色の鍵は、まだ消滅していない。驚きのあまり鍵を開けてしまった、ということはないようで一安心だ。

 

 どん、どん、と。扉が内側から断続的に叩かれている。

 覚えのある音、覚えのある状況に、ステラの安否を確認する。彼女もナイフを構えて警戒しながら、いつでも耳を塞げるようにと身構えている。

 

 どんどん、と。扉を叩く存在の数が増えたように、音の間隔が不規則になる。

 そして──

 

 「排斥せよ」

 「擯斥せよ」

 「排除せよ」

 「駆逐せよ」

 

 と、邪悪言語による大合唱が始まった。

 

 ステラが両耳を押さえ、「カーター!」と叫ぶ。

 フィリップも扉を叩く音と罵声に負けないように「分かっています!」と叫び返し、一先ず、ステラを書斎へと誘導する。

 

 その最中に、「いあ いあ くとぅるふ ふたぐん──」と、覚えのある名前を含む賛美が聞こえた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 「奇襲は失敗──いや、不可能らしいな。私と同じく、壁越しに魔力を感知できる相手だ」

 「……そうみたいですね」

 

 書斎の安楽椅子で身体を休めながら、ステラが語る。

 ステラの考察に頷きを返しながら、フィリップは心中では否定していた。

 

 おそらく、彼らが反応したのは魔力ではなく詠唱そのものだ。あのタイミングと、最後に聞こえた賛美を合わせて考えるに、中にいるのはハスターと敵対するクトゥルフの信奉者。

 余人には「音」としてしか聞き取れず、しかしフィリップが明瞭に聞き取れる程度の発声による邪悪言語を用いる存在。さらに準備運動として配置されていた「招かれたもの」という要素もある。

 

 これだけの情報があれば、この空間のコンセプト、そして配置されている神話生物にも大方の見当は付く。

 

 「応接間」の中にいるのは、十中八九、神話生物「深きものども」だ。

 さらに最悪の想定をするなら、ステラが「何もない」と言った鉄扉の向こうには、「何もないように見えるもの」がいる。──たとえば、ほぼ死んだような状態で深い眠りについている、死せるクトゥルフとか。

 

 ……いや、それでは「招かれたもの」が言っていた「新たなる神」という言葉と微妙に矛盾する。彼らはクトゥルフに従属するダゴンとハイドラを宗祖とするカルトだ。クトゥルフこそ神であるという認識のはずの彼らが、今更クトゥルフを指して「新たなる神」と表現するだろうか。「真なる神」ならまだしも。

 

 「……解決策は思い付きそうか?」

 「あ、いえ、えっと……」

 

 全然違うこと考えてました、とは言えず言葉を濁す。

 ステラの苦笑を見れば無意味な誤魔化しだと分かるが、幸い、彼女はそれを追求することは無かった。

 

 「思うに、この試験に於いて一方的な攻撃は認められていない。お前に要求されているのは、私やルキアのような問題そのものを消し去る火力ではなく、問題を解く技能だ」

 「それは……はい」

 

 それはナイ神父も言っていたことだ。

 フィリップが示すべきは、『ハスターの招来』が未完成でも問題ないということ。現状与えられた『萎縮』『深淵の息』そして『クトゥグアの招来』の三つの手札に加え、未完成品の『ハスターの毛先』だけでこの試験をクリアすることで、それは果たされる。

 

 「問題の内容を把握する前に問題用紙を焼き払う、単純にして最速の解は封じられている。あの部屋に入り、敵を確認し、最適な攻撃手段を選択するというプロセスは必須と考えていいだろう」

 「……そうですね」

 

 フィリップは一度無言で頷き、ステラが目を閉じていることに気付いて肯定を言葉にする。

 

 「すまないが、私は力になれそうにない。耳栓でもあるなら話は別なんだが……どうする? 耳を塞いだ私を、対魔術用の盾として使うか?」

 「それも一案ではありますね……」

 

 何も考えていないような口調で、水を飲みながら答えたフィリップに、ステラは思わず笑いを溢す。

 

 「正気か? 大概の魔術を弾く自信はあるが、物理攻撃には対処できないぞ?」

 「まぁ、そうですね。というか、試験のクリアに殿下の力を借りること自体、想定されていない可能性の方が高いので……」

 

 第一、彼女がここにいる理由すら明瞭ではないのだ。

 ナイアーラトテップが用意した枷だろうという当たりは付くが、彼女であることも想定済みなのか。或いはフィリップの推測通り、誰でもよかったのか。仮に最有力候補にルキアを置いていたのなら、彼女と同等の魔術師であるステラが巻き込まれてくれて助かったと言うべきだろうか。他の、彼女たちより弱い人間なら詰むという可能性もある。

 ただ巻き込まれただけという線は無い。ナイアーラトテップの防諜能力が人間に劣るわけがないのだから。

 

 「僕一人でもどうにかなる可能性が高い、はずなんですけど……」

 

 魔力障壁さえ展開できないフィリップは、一対多戦闘に向いていない。そもそも、魔術師という存在自体が直接戦闘に向いていないのだ。

 魔力障壁の強度は当然ながら、術者本人の魔力に依存する。ルキアのように黒山羊の攻撃を防ぎつつ攻撃しようと思うなら、当然、彼女と同等の性能を要求される。仮にフィリップが魔力障壁を展開できたところで、モニカの平手打ちを2,3発防ぐのが限界と言ったところだろう。

 

 「さっきの奴らと違って、意思疎通できるような相手でもなさそうだしな……どうした?」

 

 それだ! と言わんばかりに目を輝かせ、言葉も無くぱちりと弾いた指を向ける。

 

 「指を……いや、それより、アレは無理だろう? 魔物の鳴き声とかなら、法則性から意思を汲むという研究もされているが……あれはどう考え、て、も……」

 

 ステラの言葉が途切れ、黙考の姿勢になる。

 フィリップがそれに嫌な予感を覚えた頃には、彼女は信じられないものを見るような目でフィリップを見つめていた。

 

 「お前、あれが言葉に聞こえるのか?」

 「……はい」

 

 ステラが本当に正気を疑うような、警戒の籠った視線を向ける。

 安楽椅子に預けていた背中を起こし、いつでも立ち上がれるような前傾姿勢になった。

 

 「……カーター、169引く77は?」

 「へ? なん……えっと……92ですか?」

 

 なんで急にそんなことを、と訊く前に、いいから答えろと睨み付けられて慌てて答える。

 ステラは頷き、「次だ」と真剣な表情のまま続ける。

 

 「お前がルキアと出会ったのはいつ、どこでだ?」

 「えっと……ヴィーラムの町の近くにある森で、4カ月ほど前に」

 

 ステラはルキアに聞いていた情報と齟齬が無いことを確認し、頷く。

 

 「最後だ。人類には行使不能な“不可能魔術”とされる『転移魔術』が不可能である理由を述べろ」

 「うっ……それは……」

 

 フィリップが苦々しく表情を歪める。

 ステラが口にしたのは、二週間ほど前に行われた後期中間試験理論分野にて、フィリップを含む一年生の大半を苦しめた悪問だった。「難しすぎる」という意味で。

 

 「えー……っと……転移元、転移先、転移対象、それらの状態という六要素の情報は、人類の演算能力では処理しきれない量だから……と、書いたような記憶があります」

 「正答だったか?」

 「……いいえ」

 

 目を逸らしながら答えたフィリップに、ステラは呆れたように溜息を吐いた。

 

 「……まぁ、お前がお前であるということは分かった。それはそれとして、きちんと復習はしておけよ」

 「はい……。あの、今のは?」

 「精神分析の真似事だ。お前が正気である証明にはならないが、少なくとも私はお前を信じられる」

 

 フィリップはなるほどと頷くが、その表情は色濃い苦笑だった。現状、正気を疑われるべきはステラの方だ。尤も、この世で最も狂気に近く、そのくせ絶対に狂気に触れることが無いフィリップと比べるのはナンセンスだが。

 

 「じゃあ、試すだけ試してきます。ドア越しにも言葉は通じるみたいなので」

 「あぁ。結果如何に関わらず、一度報告してくれよ」

 

 ステラはまだ具合が悪いのか、ぐったりと安楽椅子に背中を預け直す。

 何かあったら大声で呼んでくださいね、と厳しいことを言って、フィリップは応接間へ向かった。

 

 

 



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96

 敵がいると明確に分かっている部屋の扉をノックするのは、よく考えたらとても間抜けな絵面だった。

 何やってるんだろう僕、という疑問を振り払うように、扉を叩く動作が多少雑になる。数分前に彼らがやっていたように、どんどん、と。

 

 実行者であるフィリップが「僕はいま何をしているんだ?」と考えるほどの暴挙だ。部屋の中からは困惑の空気が漂ってくる。え? これどういう状況? と言わんばかりだ。

 

 「……君たちに聞きたいことが──」

 

 ずどん! と、フィリップの言葉を遮るように、扉が内側から殴りつけられる。

 異種間コミュニケーション作戦──駄目そうだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 「だろうな……扉を叩く音がここまで聞こえた」

 

 駄目でした、と照れ混じりに報告したフィリップに、ステラは呆れたようにそう答えた。

 当たり前だろう、と突き放されなかっただけ有難い。

 

 「部屋に入るまで会話できないのか、そもそも会話できないのか、だな」

 「意思はありそうですけど……意思疎通する気が無いように思えました」

 

 そして、その理由にはもう見当が付いている。

 彼ら「深きものども(ディープワンズ)」が信奉するクトゥルフと、フィリップがその毛先じみたものを召喚しているハスターは敵対関係にある。召喚の過程でハスターを讃える言葉を唱えているフィリップは、彼らの目には邪教の徒に映るのだろう。対面していないので、目というか、耳だが。

 

 表現はさておき、対面すればその勘違いは解けるのだろうか。

 フィリップは自分自身を魔王の寵児だと認識できない。だがシュブ=ニグラスの落とし仔は「母の寵愛」を感じ取り、アイホートは「外神の尖兵」と評した。フィリップ自身には分からずとも、神話生物はフィリップに何かしらの特異性を感じ取る。流石に、フィリップを「魔王の寵児」と認識しているのは外神だけのようだが。

 

 相手の感知能力を仮定したまま動くのは危険だが、対面すれば相手の出方が変わる可能性はある。変わらなかったら全員殺す。

 まぁ、たぶん。態度が変わったところで味方にはならず、相手の警戒度が数段跳ね上がるだけだ。どうせ殺すことになる。会話の可否は情報を引き出せるかどうかの分岐点であって、戦闘に発展するか否かの分岐点ではない。

 

 「じゃあ予定通り、殺す方向で。殿下はどうします? ここに残りますか?」

 「……いや、部屋の前までは行こう。耳を塞いで待ってる」

 

 盾が必要な状況なら部屋を出ろ、ということだろう。頷き、一緒に書斎を出る。

 

 「一応言っておくが、魔術を撃たれてから下がるなよ? 敵の魔術展開……は見えないだろうから、照準か、最悪「嫌な感じがする」くらいでも下がっていい」

 「了解です。殿下も、何かあったら僕の傍まで来てくださいね」

 

 応接間の鍵を使い、三度目にして漸く鍵を開ける。

 

 応接間には赤く毛足の長いカーペットが敷かれ、やや大きめのローテーブルと、それを挟んで向かい合うように三人掛けのソファが置かれていたようだ。

 いたようだ、と過去形の推測でしかないのは、カーペットは所々が破れて白い床が見え、テーブルは折れ、ソファは座面が破れたものが打ち捨てるように転がっているからだ。

 

 豪奢で絢爛で、来客に財と権威を誇示するための空間だったはずだが、今や磯のような饐えた臭いの漂う廃墟でしかなかった。

 

 中に居たのは、魚と蛙を交配させたものを無理矢理に人型へ成形したような存在だった。

 

 横向きに飛び出た目玉と、黄ばんだ乱杭歯がずらりと並ぶ口の備わった頭部は、首を介さず直接肩に付いている。頬の後ろにはエラがあり、前傾姿勢で床を擦るほど長くだらしない腕と猫背に曲がった背中には、棘のあるヒレが生えていた。四本指しかない両手には水かきが、腰にはヒレを備えた太く強靭な尾が見て取れる。

 

 ──ダゴンとハイドラの末裔、神話生物「深きものども(ディープワンズ)」で間違いない。

 総数は三体。警戒するようにこちらを注視して待ち構えていた。

 

 「……」

 

 定石通りにまずは一体減らそう、と手近な個体に魔術を照準したフィリップに、その個体を含めた二体の「深きもの」が唸り声をあげて身を屈める。

 彼らの体長は約2メートル、泳ぐために発達した全身の筋肉から考えて、体重は120キロを超えるだろう。飛びかかられるだけでも大ダメージだが、彼らの攻撃手段はおそらく、手に備わった鋭い鍵爪によるもの。特に鍛えているわけでもないフィリップの肉など、触れるだけで切り裂けそうだ。

 

 魔術を撃てば片方は殺せる。だが残る一方の攻撃は止められない。

 フィリップに防御能力が無い以上、ここは照準のブレを許容してでも回避を優先するしかない。そう判断して足に力を籠め、飛び退く準備をした時だった。

 

 「──待て」

 

 唸るように、「深きもの」の一体──攻撃準備をしていなかった個体が制止する。

 その宛先がフィリップを含むこの場の全員であるのは、動きを止めた「深きもの」を見れば瞭然だった。

 

 その上で。

 

 「──《萎縮(シューヴリング)》」

 

 フィリップは魔術を行使し、手近な個体を炭化させて殺した。

 赦しを乞い、慈悲を乞い、介錯を乞う惨めで痛々しい死に様に、フィリップは死亡確認の無感動な一瞥だけを向けた。

 

 「──!」

 「待てと言った!」

 

 同胞を惨たらしく殺され、「深きもの」の一体が金属を擦るような耳障りな声で咆哮する。

 怒りのままに飛びかかろうとした個体をしかし、先程制止した個体が重ねて止めた。

 

 何か知らんがラッキー、もう一体殺せるな、と。好戦的な方を再照準するフィリップだったが、その射線を遮るように見覚えのある水のヴェールが出現する。

 撃ち込んだ魔術は案の定、それを黒く濁らせるだけに終わった。

 

 「……何者だ、貴様」

 

 冷静な方の個体がそう問いかけてくる。

 先程と同じく2対1、そして『深淵の護り』の耐久値は残り二発という状況だ。もう一発撃ち込んだらどうなるかを経験しているフィリップは止まるしかない。

 

 「我らが神の敵対者、邪悪の貴公子を信奉する者かと思ったが……違うな。貴様に信仰心は無い」

 

 フィリップは答えず、魔術の照準を続ける。

 

 「それに、この匂い。懐かしき星々の香りと、忌まわしき月の香り。シュブ=ニグラス、ナイアルラトホテップ……外なる神々の恩寵を受けた者か」

 

 フィリップが内心で抱いた驚愕と感心が、素直な表情筋によって出力される。

 魚面に人間の表情を読む機能があるとは驚きだが、彼はそれを汲み取って深く頷いた。

 

 「やはりな。こんな辺境の星に、貴様のような異常が現れようとはな。大いなるクトゥルー、我らが神も、それを予期してこの星へ来られたのか?」

 「……さぁね」

 

 それはフィリップの知ったことではないし、外神にとっても知る価値のないことだ。

 韜晦ではなく本心だと察し、冷静な「深きもの」が落胆したように首を振る。

 

 「知らぬのであれば、仕方ない。責めはせん。……時に貴様、ここが何処かは知っているのか?」

 「……いや、知らない。教えてくれると嬉しいな」

 

 揶揄うような口調で返すと、激昂していた方の「深きもの」が歯を食い縛り、ぎちぎちと威嚇音を鳴らす。

 対して冷静な方は穏やかに頷き、その魚顔を綻ばせた。

 

 「ここは我らが神たるクトゥルーの兵が眠る場所。かつてナイアルラトホテップによって現実と夢の狭間に封じられた、神の寝所だ」

 「へぇ、それは災難だったね。君たちの神に、アレの干渉を跳ね除けるような力は無いだろうし──と、いうか。シュブ=ニグラスやナイアーラトテップを知ってるのに、クトゥルフなんて矮小な神を信じてるの?」

 

 フィリップの嘲弄に彼らは不快感を覚えたようだったが、攻撃はしてこない。『深淵の護り』を解くか、その前に出て来てくれることを期待したのだが。

 彼らはむしろ落ち着いた様子で、逆にフィリップの疑問を嘲笑う。

 

 「フン。信仰する神の強さなどに、大した意味はない。重要なのは我らが捧げる信仰に対し、どれだけの見返りを与えてくださるか。そして幾星霜を経て受け継がれてきた信仰という一族の伝統を守ること。それだけよ」

 

 ヒュウ、と、感心を口笛で示す。

 

 「いいね。確かな認知と智慧を持った従属種族らしい答えだ。……で、どうするの? そのまま『深淵の護り』の奥に籠られると、ぶち抜けるような魔術を、僕は一つしか知らないのだけれど」

 

 厳密には二つだが、クトゥグアは無理だ。

 応接間は広々として豪奢ではあるが、それでもクトゥグアの巨大な化身が入る空間的余裕はない。今のフィリップは制御を誤れば焼け死ぬことになるし、その場合試験は不合格。ついでにステラの安全は保証されない。

 

 「ふむ……あの忌まわしき風の王を讃える魔術か。それも不愉快な話だな」

 

 本当に心底不愉快そうに言って、その個体が片手を掲げる。

 それが攻撃指令の前兆だと、フィリップだけでなく「深きもの」の片割れさえも思っていた。

 

 「兄の仇だ。殺してやるぞ、ガキ!」

 

 二人同時に突っ込んでくる様子はない。

 一体ずつなら『萎縮』で処理できる。あとは攻撃にフィリップの動体視力と反射神経が追い付くかだ。

 

 へぇ、さっき殺した炭塊は兄弟だったのか。という興味を振り払い、魔術の照準に集中する。

 

 こういう場合、対象の現在位置ではなく攻撃時に移動するであろう軌道を意識して照準するのだと、以前にルキアから教わったことがある。

 正直、魔術戦になった時点で負けが確定しているフィリップが身に付けるべき知識ではない、と心の底では思っていたけれど──なんだ。役に立つじゃないか。ありがとうルキア。

 

 ルキアが施した教導は、本来ならその成果を存分に発揮する場面だった。

 フィリップの動体視力は「深きもの」の突進を僅かに追いきれない。しかしその軌道予測と偏差照準によって、「深きもの」はフィリップの目前に到達する頃には内部組織の大半が炭化して死んでいる。

 

 そんな失敗に終わるはずの「深きもの」の攻撃は、しかし。そもそも実行されなかった。

 

 「──がァ!?」

 

 掲げた手は、唸り声を上げ、飛びかかる予備動作を取った個体の頭部に向けて振り下ろされた。

 鋭い鉤爪は同族の鱗をも引き裂き、どす黒く濁った血潮を吹き上がらせる。

 

 苦痛の悲鳴を数秒だけ漏らしほぼ即死した同族を労わるように見下ろして、残った「深きもの」は血に濡れた手を自らの頸部へ添える。

 

 「……分からないな。どういうつもり? 僕に殺される──ハスターに殺されるよりは、という判断?」

 

 フィリップの油断を誘う演技──いや、片割れの「深きもの」は本当に死んでいるので、捨て駒と表現すべきか──を警戒して、照準は外さない。しかし、それもポーズ以上の注力を伴ってはいなかった。

 

 質問に対して、「深きもの」は口角を歪める。

 それが嘲弄ではなく歓喜を示す笑顔だと、魚顔の感情表現を熟知しているわけではないフィリップにも分かる、明朗な声で答える。

 

 「ナイアルラトホテップは言った。『外なる神々に愛された者だけが、彼の眠りを解くであろう』と。遠回しに目覚めの時は来ないと言ったものとばかり思っていたが──そうでもなかったようだ」

 「だから──君たちの生存如何に関わらず、目的は果たされるから、自害すると?」

 

 「深きもの」が「左様だ」と頷く。

 そして思い出したように、壊れて打ち捨てられたローテーブルの残骸を示した。

 

 「以前に迷い込んだ冒険者どもを殺して奪った、何かの鍵がそこにある。大方、我らから奪った聖堂の鍵を金庫にでも収めたのだろうな」

 「……どうも。探す手間が省けたよ」

 「礼を言うのはこちらだ。貴様のお陰で、我らの使命は果たされる」

 

 朗らかにそう言って、「深きもの」は自分の頸を貫いた。

 

 



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97

 かつて「深きもの」だった炭の塊も、同士討ちと自害によって大量の血を溢れさせている死体も、この空間のルールに従ってじき消滅するはずだ。

 磯の香りと血の臭いが混ざり合った空気は鼻につく。さっさと鍵を回収しよう。

 

 ローテーブルの引き出しを漁ると、「深きもの」の言葉通り小さな鍵が見つかる。ポケットに収めて部屋を出ると、饐えた臭いが追い打ちをかけるように鼻を突いた。数刻前に嗅いだ覚えのある、胃液の臭い、吐瀉物の臭いだ。

 

 「殿下!? 大丈夫ですか!?」

 

 前回とは違ってスタート部屋までは戻らず、扉のすぐ傍で胃の内容物を吐き戻していたステラに駆け寄り、背中を擦る。

 大方、フィリップの戦闘を見守ってくれていたのだろう。事前の打ち合わせでは耳を塞いで待機しているとのことだったが、それでは咄嗟に介入できないと判断してのことか。だがたとえ耳を塞いでいたとしても、「深きものども」の威容ならぬ異容と、その死に様を見ていればこうもなる。

 

 「あぁ──大丈夫だ、気にするな」

 「いや、でも……」

 

 吐瀉物はそれなりの量だ。放置すれば脱水症状に陥る可能性もある。

 

 「書斎に戻りましょう。金庫の鍵はもう見つけましたから」

 

 肩を支えながら、まずはスタート部屋まで誘導する。どうせここには戻ってこないだろうし、ここには嘔吐の跡だけでなく血痕もある。汚すならここだ。

 まだえづきの収まらないステラを残し、書斎へピッチャーとコップを取りに走る。

 

 戻ってきたとき、ステラの吐瀉物には僅かながら血も混ざり始めていた。

 鼻を突く臭いと見覚えのあるモノに、思い出したくも無い光景を回想する。薄暗くて美しい地下祭祀場、時間も空間も超越して接続した宮殿、存在の核が崩壊して液状化した人間、美しく見えた異形たちの中でもなお悍ましく醜悪だった──

 

 「ぅぇ……」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 さっき食べたサンドイッチをほぼ全部吐き戻して、フィリップはすっかり空腹だった。

 内臓が悪いわけでもなく、精神に受けたダメージを肉体が分散したというわけでもなく、ただ吐瀉物の見た目と臭いに中てられて吐いただけなので、体調は万全なのだ。それに、ステラに胃薬を呑ませたついでに自分も呷っておいた。じき、この余韻も晴れるだろう。

 

 少しばかりの期待を抱いて書斎へ戻るが、サンドイッチは置かれていなかった。

 体感時間が正しければ、そろそろ夕食の時間のはずだが──まぁ、どうせあと一部屋というか、出口らしき鉄扉を開けてラスボスとの対面を残すだけだ。ステラの目を信じるなら何も配置されていない出口で、フィリップの想定通りでも死せるクトゥルフが眠っているだけ。ステラの目と耳を塞いで走り抜ければゴールだろう。

 

 安楽椅子で苦しげな寝息を立てるステラの様子を見るに、彼女の損耗具合はそう酷いものではないだろう。

 少なくとも精神的ダメージの肉体への分散は正常に行われ、精神の破綻や正気の喪失には至っていない。とはいえ、それは増水した川が堤防で堰き止められているようなものだ。異常か正常かでいえば間違いなく異常であり、破綻すれば不可逆の被害が予想される。

 

 「はぁ……」

 

 嘔吐後の不快感と空腹とで募らせた苛立ちを、溜息にして晴らす。

 ステラを起こさないようそっと書斎を出て浴場へ向かうと、フィリップは金庫を抱え上げ──鍵を開けて中身だけ持ち出せばいいと気付き、自嘲の笑いを溢しながら実行する。

 

 一応、罠に警戒しつつ開けてみると、中身はやや大ぶりな鍵と紙束だった。

 

 「……先人の手記、ね。凝りすぎ」

 

 さっきの「深きもの」といい、その言葉にあった先駆者の存在といい、この空間を織りなす背景の設定が過剰だ。ほんの数時間前に作られただけの、フィリップのための試験空間とは思えない。

 

 いや──違う。

 外なる神であるナイアーラトテップは、時間の流れの外にいる。フィリップが彼らに遭遇する以前からこの状況を知り、準備しておくことだって可能だ。

 この空間がほんの数時間前に作られたことを証明するのは不可能だ。対して、この空間が以前から存在していたという証拠は存在する。あの「招かれたもの」と「深きもの」、そしてこの手記という三つが。

 

 別に、この空間が過去に何人の犠牲者を生んでいるとか、実は何年も前から計画されていたとか、そういったことを気にしているわけではない。

 フィリップの知らない人間が何人死のうが何億人死のうがどうでもいいし、外神が時間の縛りを受けないことも知っている。

 

 ただ──この手記がナイアーラトテップの用意したヒントなのか、先人の書き残したものなのか。それはフィリップにとって、非常に重要なことだった。

 だって、信憑性がまるで違う。

 

 ナイアーラトテップがわざわざ用意したものなら、それは試験のクリアに直結する重要なヒントのはずだ。必要十分なだけの量が揃い、情報の正確性にも疑義がない。

 だがフィリップより先にこの空間を訪れた──十中八九、ナイアーラトテップが試験空間を試験するために用意した──人間の書き残したものだとしたら。人間の視座と人間の智慧によって書き記された情報に、前者ほどの信憑性はない。

 

 手記にはこの空間や配置されている神話生物について、それなりの情報が記されている。

 これが人間によるものだとして──

 

 「うわ、そういうことか……!」

 

 しまった、と、口元を覆った指の隙間から後悔の滲む呟きをこぼす。

 書斎から持ち出され、浴場に散乱していた大量の本。あれは手記の内容を精査するためにナイアーラトテップが配置した、辞書や参考資料のようなものか。

 

 残念ながら、書物の大半はさっきフィリップが『ハスターの毛先』で「招かれたもの」と一緒に攪拌した結果、死体と一緒に消滅したか、読解不可能なレベルでズタボロになっている。

 母数が多いだけに無事な本もまだまだあるが、それでも八割近い本が失われたはずだ。

 

 それに、本を漁って情報を精査している余裕はない。

 フィリップの空腹はともかく、ステラの精神的なダメージを鑑みれば、なるべく早くこの空間を出た方がいいはずだ。食堂で夕食を摂り、寮の温かなベッドで眠れば、少しは気も晴れるだろう。

 

 「……信じるしかない、か」

 

 手記の内容を真実だと仮定して、対策するしかない。

 フィリップはそう諦めて、手記と鍵だけを持って浴場を後にした。

 

 

 書斎へ戻ると、ステラはまだ安楽椅子で呻きのような寝息を立てて苦しんでいた。

 可哀そうだし、その苦しみが一刻も早く取り払われるよう行動するつもりだけれど、寝ているならラッキーだ。彼女を起こさないように気を払いつつ、隣の安楽椅子にぐったりと身を委ねる。

 

 ステラが寝ているうちに、ともすれば彼女にトドメを刺しかねない手記を読んでおきたい。

 所詮は人間が書いたもの。されど、この環境で書かれたものだ。正気を損なうとまでは行かずとも、精神に害を為す危険性はある。

 

 「……前も二人だったんだ」

 

 この空間のテスターとして送り込まれたであろう、冒険者の二人。それぞれが書き残した手記は、それぞれの個性が窺えるものだった。

 

 剣士だという男の書き残したものは、その殆どが実戦的な内容だ。

 「招かれたもの」と「深きもの」の行動パターン分析。弱点。その突き方。攻撃方法。その対策。彼が「後にここを訪れる誰か」に向けて遺したものは、その羅列だ。どう殺せばこちらの被害が最小か。それを突き詰めた、戦士というより狩人の考え方に近いもの。

 

 残念ながら剣を使うことを前提に書かれていて、フィリップが有用だと思えるアドバイスは無かった。これを読んだのがこの最終盤でなかったとしても、あまり有難くはなかっただろう。

 最後の数行に、同行者を案じる言葉と、両親と兄弟への感謝、そして「後にここを訪れる誰か」のためにナイフを置いていくという言葉が連なっていた。

 

 「……はは」

 

 机の上に置かれている、フィリップが自害に使おうとしたナイフを見遣る。

 彼は、あれの持ち主だったのだろう。先人が生きるために置いて行ってくれたものを、死ぬために使おうとしていたと考えれば、苦い笑いも浮かぶ。

 

 

 紙束を繰ると、もう一人の先駆者である魔術師の女が書き記した部分に差し掛かった。

 遺された手記の8割以上が彼女によるもので、その内容はこの空間と、ここに配置された神話生物に対する分析や考察だ。

 

 魚と人間を掛け合わせたような魔物である魚人(マーマン)か、或いはその変種かという思索は、フィリップにしてみれば無意味極まりない不正解だ。攻略の助けになるような情報は皆無といっていい。

 しかもページを繰るごとに、内容や文法から整合性が失われている。文字は乱雑に、表現は稚拙になっていき──ある一枚を境に、全く別物のような様相に変わる。

 

 文字には大陸共通語と邪悪言語が入り混じり、考察の正確性と、その根拠となる知識の量と深度が桁違いに増す。

 一部、フィリップでも読解不能な図式などを省いて流し読む。内容は鉄扉の奥、ゴール前にいる存在についてだ。どうやら書斎にあった本を読んだ──それこそゲロを吐きながら読んだのだろう、引用した書物やページ数まで、几帳面に書かれていた。

 

 これなら情報の信憑性は高い──とは、一概に言い切れないのが悲しいところだ。

 その本を探して正確な引用か、彼女の考察が適当かを判断できない以上、これは狂人の遺した走り書きだ。信用する方が愚か、何も読まずに暖炉へ投げ込むのが正解だ。

 

 これを読んでいるのが、フィリップ以外の人間であれば。

 

 フィリップに与えられた智慧は、視座はともかく、正確性では魔導書なんかの追随を許さないものだ。

 彼女が残した情報と考察の正誤を、フィリップは与えられた智慧のみによって判断できる。

 

 もちろん、智慧とて完全ではない。

 ダゴンの配下にして同族たる「深きものども」の知識はあっても、所詮は変異した人間でしかない「招かれたもの」の知識は無かった。フィリップに与えられている智慧は、あくまで外神の視座から見て、フィリップにとって危険だろうと判断される存在についてだ。

 

 フィリップが智慧と照らして判断できる──フィリップの智慧にあるという時点で、書き記されたものの危険度は推し量れる。

 

 最奥の鉄扉の向こう側。ゴール前の空間であり、ステラは「何もいない」と言った場所。

 あそこにいるのは──

 

 「ゾス星系よりのもの。……クトゥルフの同種か」

 

 これは不味い、非常に不味い、と。フィリップはこの試験における最難問に直面したことを理解し、苦い笑いを浮かべた。

 

 

 



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98

 ゾス星系よりのもの。

 名前の通り、ゾス星と呼ばれる星を含む領域に棲む、旧支配者の一種。フィリップが知る具体例は、海底で死んだように眠っているクトゥルフがそうだ。

 

 手記によると、この空間の主は、その中でも兵士個体と呼ばれる存在だ。

 簡単に言えば、クトゥルフの下位個体。

 

 テレパシーなどの意思伝達能力に長けたクトゥルフは、同族の中でも最高位にほど近い、支配者個体だ。人間になぞらえて言うなら、王侯貴族にあたる。

 対して、最奥部にいる兵士個体は、人間でいうところの騎士階級。存在の格で言えば、クトゥルフの四分の三くらいだ。

 

 余裕じゃん! いけるいける! と、楽観したいところではある。けれど残念ながら、フィリップに与えられた智慧はその役割をきちんと果たし、盛大に警鐘を鳴らしていた。

 

 王侯貴族と騎士。ルキアやステラのような例外を除き、直接戦闘能力に秀でているのはどちらか。考えるまでも無く後者であり、それは旧支配者であっても同じこと。より強いモノが戦う。至極当然の理屈だ。

 

 つまり。

 フィリップはこれから、戦闘能力に於いてはクトゥルフを上回る存在と相対することになる。

 

 そのレベルの相手だと、フィリップが切れる有効なカードはクトゥグア召喚の一枚に限定される。『萎縮』や『深淵の息』といった対人攻撃はもちろん、不完全な召喚であり上級魔術程度の威力しかない『ハスターの毛先』も通じないだろう。ステラを守りながら戦うなど、夢のまた夢だ。

 

 「…………」

 

 息を殺して、ステラを起こさないように書斎を出る。

 こうなったら、彼女が目を覚ます前にゴール前の空間を確認して、もしクトゥルフの兵がいれば撃滅しておくしかない。ほんの数分程度なら、ステラと別行動をとっても大丈夫なのは確認済みだ。

 

 眠っている、無防備な状態の彼女を放置するのは気が引けるけれど──邪神を見せるよりマシだろう。

 

 そう判断して、フィリップは独り、頑強そうな錠を開ける。

 鍵の動作するかちりという小さな音と手応えを感じ、薄く息を吐いた。瞬間、手中にあった鍵の感触と錠前の重みが消滅する。何が起こったのかと思考するより早く、眼前の景色が切り替わる。ほんの瞬き一つの後に、重厚な金属の扉は消え、真っ白な空間が広がっていた。

 

 「っ!?」

 

 不連続な視界に思考が止まり、乗り物酔いにも似た不快感が沸き上がる。

 

 タイル張りの白い床。

 窓も灯りもないのに昼間のように明るく、光源も定かでは無い薄い影が落ちている。前にも、後ろにも、あの頑強そうな扉は無い。フィリップが無意識のうちに部屋に入ったわけではなさそうだ。

 

 どさり、と。背後で重い物が落ちるような音を聞き、続いて痛みに呻く声がする。

 慌てて確認すると、少し先──ちょうど扉と書斎くらいの離れた場所で、ステラが打ったらしい尻を擦りながら身を起こしていた。

 

 「これは……どういう状況だ? 何があった?」

 「……出口を開けようとしたんですが、気付いたらここに」

 

 果ての無い白い空間は前後左右に広がっており、先ほどまでいた廊下とはまるで違った様相だ。

 部屋の広さはまるで無限で、壁らしきものは360度どこを見渡しても見受けられない。出口も同様に、だ。

 

 しかし、想定されていたゾス星系よりのもの、クトゥルフの兵はいないようだ。出口を探して何時間も彷徨い歩くことになりそうだが、そっちの方が何倍もマシである。フィリップ一人ならまだしも、こんな形でステラが強制参加させられたのであれば、尚更。

 

 「……なら、ここは出口の奥か? 敵も罠もなさそう、だ、が……」

 

 周囲に魔力感知の目を向けていたステラの声が尻すぼみに消える。

 どうしたのかと視線を向けると、彼女は呆然と天を仰いでいた。

 

 「……おい、アレは何だ」

 

 ステラの震え声に、フィリップは弾かれたように天を仰ぐ。

 

 視線の先──二人の頭上に、それはいた。

 いや、あった、と言うべきだろうか。それは未だ生命としてこの世に生まれ落ちていない、命になる以前のモノだ。

 

 透明な水の球体──繭の中で、黒ずんだピンク色をした内臓や、眼球のように見える真っ黒な球体、鋭い爪を持ち鱗に覆われた指などが、繭の中を満たす極彩色の原形質の中で蠢いている。

 完全に成形されておらず、接合もされていない各部位が、攪拌されながら次々と繭の下部へ沈み、フィリップたちに開陳されていく。手、腕、指、目、触手、羽翼、触手、触手、内臓、鱗に覆われたどこかの部位。一つ一つが笑えてくるほどに不格好で、それでいて吐きそうになるほど気色が悪い。

 

 ──まるで、眼前でゲロをこね回されているみたいだ。

 

 「ゾス星系よりのもの……の、幼体? いや、蛹態?」

 

 どちらでもいい。いま重要なのは、中身はどう見ても未完成だということだ。

 旧支配者や外神といった超越存在に特有の、死にたくなるほど圧倒的な存在感や、悍ましいまでの神威は感じない。アレは本当に、旧支配者になる前の物体でしかないのだろう。九死に一生、不幸中の幸いだ。

 

 「殿下、伏せて──うん?」

 

 今のうちにブチ殺して──否、ぶっ壊してしまおうと考え、ほぼ真上にアレがある状態で壊したとき、その後に訪れる大洪水を想像する。

 水の繭の内容量は定かでは無いが、遠目に見てもかなり大きい。少なくとも寮の大浴場の浴槽よりは大容量だろう。

 

 ゲロの海で溺死など、考え得る中でも最低級の死に様だ。いくらこの空間での死が現実の死ではないとしても、それはごめんだった。

 

 「いや、もうちょっと離れてからにしましょう。殿下……殿下?」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ステラが目を覚ましたのは、不意に訪れた浮遊感と、尻に感じた衝撃によってだ。

 暖炉の炎が投げかける暖かな色の光を薄っすらと感じて、安楽椅子に揺られて眠っていたはずなのに。気付けばこの空間で最初に居た部屋を何倍にも広げたような、壁の見えない空間にいる。

 

 「これは……どういう状況だ? 何があった?」

 

 思わず、そう呟く。放心している暇があったら思考するのがいつものスタンスだが、寝る前と起きた後で場所が違うというのは中々に衝撃的だ。

 狼狽えてばかりもいられないと分かってはいるが、思考が空転する。

 

 「出口を開けようとしたんですが、気付いたらここに」

 

 返事を聞いて、フィリップの存在に気付く。

 自分一人だけがこの状況に直面したわけではないと分かり、一先ずは安心だ。

 

 出口を開けようとしていた、と聞いて、「自分一人で出ようとしていたのか?」とは思わない。

 そんなことを考えるような人間ではないと、鎮痛剤の効果が切れ始めた右手が証明している。その信頼が思考を最適化し、フィリップへの疑いを挟まず、即座に現状の分析へと移ることができる。

 

 「なら、ここは出口の奥か?」

 

 口に出しておきながら、ステラはその疑問を検証しようとはしなかった。それはステラの知識では真偽の証明ができないことだし、これが試験であるのなら、フィリップも具体的な内容は知らないはずだ。

 ステラはいつも通り、自分がするべきこと、この場に於ける最適な行動を取る。

 

 視界を切り替え、魔力へとチャンネルを合わせる。

 魔物の潜伏、魔術罠の配置、魔術の展開。前後左右、360度にそれら危険因子が存在しないことを確認して、最後に上方を仰ぎ──()()を見た。

 

 魔術的干渉の大半を無効化するであろう、対魔術防護の水の繭。

 その中に蠢く、見たことも無い何か。

 

 「おい、アレは何だ……」

 

 まだ幼い頃、生物学の授業で教わった、蛾の蛹態。教授が眼前で解剖して見せてくれた繭の中身はドロドロの半液状組織であり、一部の組織以外は未完成だった。

 それ故に、ほんの少しの刺激で液状組織が破損し、羽化しなくなるという。あれにそっくりだ。

 

 手足が震える。視界が揺れる。呼吸が制御できない。

 身体の中で恐怖を反映する器官が全て、一斉に警鐘を鳴らしている。

 

 駄目だ。あれを羽化させては駄目だ。殺せ。

 駄目だ。ここにいては駄目だ。逃げろ。

 

 駄目だ──あれは、駄目だ。あれはこの世に存在してはならない、悍ましいほどに冒涜的なモノだ。

 壊れてしまう。人間が築き上げてきた文明が、社会が、歴史が、あの一個存在だけで簡単に崩れ去ってしまう。

 

 「……ゾス星系よりのもの」

 

 フィリップの呟きを聞き、如何なる状況でも最適な行動を取れるよう訓練してきたステラの脳が再起動する。

 ()()()()()()()()()()()()()()と命じる強靭な理性が、本能の制止を振り払う。問題解決における最優先課題は、今直面している問題が、どういう問題なのかを理解することだ。

 

 思考が回る。

 空転ではなく、この空間で蓄積してきた経験と知識を歯車として噛み合わせ、ぎちりぎちりと、何かをすり減らしながら。

 

 あれは何か。

 フィリップは「ゾス星系よりのもの」と言っていた。天文学もそれなりに学んだが、聞き覚えの無い単語だ。しかし、それを信じるのなら、あれは太陽系外から飛来した、いわゆる異星人の類だろう。

 

 どういう状態か。

 見るからに蛹態であり、能動的行動どころか自我の存在すら怪しい。そして蛹態とは、その生物が最も脆い状態である。強固な外殻を持っていても、内容物は脆弱かつ繊細なのだと教わった。

 

 どうすべきか。

 殺すべきだろう。羽化した後、あれがどういう状態の、どういう生態の、どういう生物になるのか見当が付かない。だが明確に、ステラでは敵わない相手だと察しが付く。

 

 殺せるのか。

 今のステラでは不可能だ。魔術を封じられた今のステラでは。もし魔術が使えれば、あの水の繭ごと内容物を蒸発させてやれるのだが。

 

 だが、それは必要条件ではない。

 あれを殺すのに、その全部を蒸発させる必要性は皆無だ。内容物をぐちゃぐちゃに──今以上にぐちゃぐちゃになるまで攪拌してやれば、それで事足りる。そしてフィリップの魔術は、まさにそういう性能だ。この試験を設計したナイ神父は、かなり正直な性根の持ち主らしい。

 

 「カーター、あれを殺すのに極端な破壊は必要ない! 中身がぐちゃぐちゃになるまでかき混ぜろ!」

 

 



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99

 ステラちゃんの血液ペロペロ


 どうやら狂気的なまでの恐怖によって釘付けにされていたわけではなく、黙考していたらしい。

 何度かの呼びかけに答えなかったステラに近付くと、彼女は何か確信があるような自信に満ちた声で叫ぶ。

 

 「カーター、あれを殺すのに極端な破壊は必要ない! 中身がぐちゃぐちゃになるまでかき混ぜろ!」

 

 言われて、フィリップも思い出す。

 あぁ、そういえば、蛹は振ると羽化しなくなるんだった。

 

 以前──フィリップがまだ実家にいた頃の話だ。

 よくオーガストと一緒に森へ行って、薪拾いのついでに虫取りをしていた。宿に蝶がいたら華やかになるぞ! とか、確かそんな思い付きで、ポケットいっぱいに幼虫やら蛹やらを詰め込んで帰ってきたことがある。当然ながらアイリーンにしこたま怒られたし、家に帰った時にはポケットの中は幼虫だったものでぐちゃぐちゃだった。

 

 ……いや、肝心なのはやんちゃの記憶でも怒られた記憶でもなく、その幼虫の内容物にまみれて、しかし外殻は無事だった蛹たちが一匹も羽化しなかった点だ。

 あとで狩人の父に聞いたところ、蛹は軽く振るくらいの刺激でも中身が死んでしまうという知識を得た。つまりフィリップとオーガストはポケットに死体を入れて持ち帰ってきたわけだが、まぁ、それはいいとして。

 

 「了解!」

 

 ()()なら、今のフィリップにでも十分に実現可能な攻撃だ。

 もう既にぐちゃぐちゃの蛹を、出来かけの部品が無くなるくらいぐちゃぐちゃにしてやる。

 

 「殿下、離れて、あと対爆防御を!」

 「分かった!」

 

 ステラの足音を聞きながら、フィリップは甘い達成感に浸っていた。

 このクソみたいな試験も漸く終わりだ。結局ここにいる理由が判然としなかったステラに助けられる場面もあり、そして彼女の精神を何とか守り切った。ナイアーラトテップの課した問題は全てクリアされ、『ハスターの招来』は『ハスターの毛先』として、意図的な失敗を使い勝手よく使うことができる。

 

 最後の関門に兵士個体のゾス星系よりのものなんて冗談じみたモノを置いておくあたり、かなり底意地の悪い仕様だったけれど──それだけに、こうも綺麗にクリアできると、ナイアーラトテップの鼻を明かしたようで気分が良い。

 

 「いあ いあ はすたあ はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ──」

 

 ハスターの毛先と、クトゥルフの兵。どちらが強いのか、フィリップに与えられた智慧では判然としない。

 存在の格ではハスターが圧倒的に上だが、フィリップが召喚する毛先じみたごく一部だけで、直接戦闘能力ではクトゥルフを上回る兵士個体のゾス星系よりのものに勝てるのか。なんとなく無理な気がする。

 

 だが。蛹態の今であれば。ちょーっとシャカシャカ振るだけで中身が死んでしまうような脆い状態なのであれば。サイズ次第では生身のフィリップでも殺せるだろう。

 

 「──あい あい はすたあ!」

 

 テストクリアだ。見たかナイアーラトテップ。このクソみたいな試験は無事に、お前の用意したよくわからん枷すら無事なままに、クリアしたぞ! ざまあみろ。

 ──と、フィリップが内心でそう哄笑するより早く、思考が止まる。

 

 召喚された暴風は蛹に届く寸前で停止し、水の繭に波紋を生むだけの結果しか出していない。

 水の表面に生じたそのさざ波すら、球体を半周ほどした場所で停止している。

 

 止まっている──この空間にある全てのもの、あらゆる存在が完全に静止している。まるで時間でも止まったように、というのが比喩でしか無く、時間が停止していないことは、背後でステラが頽れた音を聞いたことで証明される。

 

 「ぁ……あぁぁッ……!?」

 

 ステラの苦悶の声に振り返ると、自分の頭蓋を押し潰すような勢いで頭を抱え、地面を転がって悶え苦しんでいた。

 

 「殿下!? ……っ!?」

 

 慌てて駆け寄ろうとしたフィリップだったが、より早く、召喚した暴風がもっと大きな力によって吹き散らされ、その煽りを受けて転倒する。

 ごろごろと受け身も取れずに転がり、何がどうなったのか自分でも分からないまま意識が混濁する。辛うじて失神には至っていないが、視界がブレて、立ち上がるどころか上下の感覚すら怪しい。

 

 「────!!」

 

 遠近感が消え、こもったように聞こえる聴覚に、ステラの声にならない悲鳴が届いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 痛い、とは思わなかった。むしろ、五月蠅い、だろうか。

 頭蓋の内側に、声──言葉以上の解像度を持ったもの、言うなれば「意思」が直に届く。何語だとか、抑揚とか、速さとか、そういった情報がまるでないのに、相手の意思が完全に伝わった。

 

 それは人知の及ばぬ強大なものよりの示威であった。そして人知の外にある様々なものについての教導があった。人とは如何に脆く、か弱く、価値の無い生き物であるかを知らしめる啓蒙があった。遠く離れた海の底に沈む広大な都市と、そこに住まう異形たち、彼らに崇め奉られながら眠るモノの景色を見た。

 そして、自らに従えと、救済を提示していた。人知の及ばぬ強大なものに傅き、その恩寵を得ることこそ、この世界における最も賢い生き方であると示された。

 

 脳に意思が刻み込まれるような不快感に絶叫しながら、ステラの意識が、理性が、身体を構成する全ての細胞が、「それは違う」と叫んでいた。

 だって彼は、この世の何よりも悍ましい。力、金、地位、魔術、科学、神、物理法則。人間が信じるあらゆるものを冒涜するような存在への服従が、救済であるはずがない。

 

 それに、信仰とは極論、自身の思想により自分を救うことだ。

 強要された信仰に意味はないし、自分が信じられるのなら、それが神でも路傍の石でも大差はない。それが世界を覆すほど強大なものでも、神と言い表すのも烏滸がましいような存在でも、人間の小さな視野と浅い知識による合理性でも、何ら変わりない。

 

 だから──五月蠅い、黙っていろ。私に関わるな。

 

 頭蓋の内側に虫が這い回るような不快感を出力し続ける口ではなく、その意思を受け取っている精神で吐き捨てる。

 「偉大なるもの」とやらがその程度の抵抗で止まるとは思わなかったし、事実、意思の押しつけはしばらく続いた。しかし、ふと──どこか驚いたような唐突さで、干渉が止まる。

 

 驚きの宛先はか弱い抵抗を続けるちっぽけな人間ではなく、その隣に転がってきた少年だ。

 具体的に何がどうというわけではなく、ただフィリップがそこにいることに驚いているようで──それ以上、ステラに「意思」が届くことは無かった。

 

 喘鳴を漏らしながら、意思の残響を振り払うように頭を床に叩き付ける。

 せめて痛みが、この言い表しようのない不快感を取り払ってくれることを期待して。しかし二度目か三度目かで、頭と床の間に柔らかいクッションのようなものが差し込まれる。

 

 「痛った……頭割れますよ、それ。ここで死ぬのは不味いですって」

 

 床と頭突きに挟まれた手を擦りながら、ぐったりとしたままのフィリップが笑う。

 「ここでの死は現実での死」なんて、もう気にしてはいなかった。ここが非現実であるという意識すらなく、ただ不快感から逃げるために、死ぬかもしれないなんて一考もせず実行した。

 

 「あぁ……すまない。ありがとう」

 「いえ。それより、できるだけ離れてください。目と耳を塞いで、耐魔力を全開にして、全力で逃げてください」

 

 そう言いながら、フィリップは覚束ない足で立ち上がる。よろめきながら、ゆっくりと。

 

 「見て下さいよ、あれ。……あぁ、やっぱり見ないで。繭の中身が物凄い勢いで蠢いて──成長してるんです。貴女に語り掛けてた奴、あの蛹の親玉の手助けを受けて」

 

 フィリップの口元は苦笑の形に歪められ、目には深い自嘲の光が宿っていた。

 

 「僕はあいつとハスターの確執を知っていたのに。あいつの介入だって予測できたはずなのに」

 

 そう、懺悔するような弱々しい口調で言って──ふと、首を傾げた。

 

 「いや、でも……それはおかしい」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 フィリップはまた、与えられた智慧を十分に活かせなかったのかと思った。

 

 ハスターとクトゥルフの数千年、数万年にも及ぶ確執を知っていながら、ハスターの召喚という手札を切った。ハスターの居城に至る魔術的経路を繋げば、兵士個体を通じてクトゥルフにその気配を察知されてもおかしくないと、予想することはできたはずなのに。

 結局はそれに思い至らず、現実にそうなったあとで悔いている。

 

 だが、そもそも、フィリップの手中にあったカードは実質その一枚だけだ。

 

 クトゥグアを召喚すればクトゥルフの介入は避けられたが、確実にステラに害が及ぶ。それは焼死かもしれないし、狂死かもしれない。だからこのカードは切れない。

 『萎縮』と『深淵の息』は対人攻撃魔術だ。戦闘能力に長けた旧支配者相手では無意味だし、あの水の繭は対魔術防護になっている。このカードは切っても意味がない。魔力を浪費するだけだ。

 

 あとは何だ?

 パンチ? キック? 十数メートル上方の繭に届くわけがない。ナイフを投擲したって、猛毒の錠剤を投げつけたって、あの繭に阻まれる。

 

 水の繭を貫通して内部にダメージを与えられる攻撃は、ここでフィリップが有効に切れるカードは、『ハスターの召喚』だけだった。それを切ればクトゥルフが介入し、攻撃が無効化されゾス星系よりのものの羽化が加速する、諸刃の剣どころか自傷行為でしかないカードだった、それだけだ。

 

 ナイ神父は「クリアできない難易度ではない」と言っていたのに。

 

 「……騙された? いや……」

 

 違う。

 テストはこの上なく正常に機能している。ありがちな状況を──これまでフィリップが直面してきた状況を、正確に再現している。

 

 フィリップはいつだって、眼前の敵を殺すのに十分なだけの火力を持っていた。しかし、その火力を発揮すれば敵のみならず味方まで死ぬ、という状況が多い。過剰すぎる火力の弊害だ。

 今もそうだ。最大火力はステラの死か発狂、或いは両方を引き起こす実質的な使用不可状態。その上、次善策はクトゥルフ介入の引き金になる。

 

 なにもできない。

 いや、なにもできない場所に、自ら立っているだけだ。自らの両手に紙の枷を付け、「これを千切ってはいけない」と自分に言い聞かせているだけだ。

 

 その簡単に壊れてしまう枷を、今にも千切れてしまいそうなそれを、フィリップは「人間性」だと定義する。

 

 「それを捨てろと、そういうことか!」

 

 この試験の目的は、それだ。

 それこそ分かっていたはずだろう。ナイアーラトテップがアザトースの命令で動いているとき、少しでも妥協するなんてあり得ない。フィリップはこの時点で、確実に何か一歩、強くならなくてはいけないのだ。

 

 戦闘面で、ハスターの召喚を使いこなせるようになるか。

 精神面で、誰かを巻き込みたくないなんて甘い考えを捨てるか。

 

 どちらかの達成が、ナイアーラトテップの目標であり、この試験の目的だった。どちらかを達成すれば、この試験は即座にクリアされる。

 

 「……やられたな。一本取られたどころの話じゃない」

 

 鈍痛の残る頭を擦りながら、放心したように天を仰ぐ。その視線の先では水の繭に亀裂が入り、「ゾス星系よりのもの」──太陽圏外に棲む旧支配者が羽化しようとしていた。

 

 水の繭が裂け、ほぼ成体となった中身が姿を現す。羽化が完了するよりも先に攻撃したいところではあるが、蛹を守っていた、今や不要となった何万リットルもの海水が落下してくる。

 ほぼ真下にいたフィリップは血相を変えて走り出し、途中でステラを抱え、半ば引き摺るようにして距離を取る。この空間は無限にも思えるほど広い。莫大な量の水は床面へ薄く広がっていき、最後には足元を濡らす程度の水深にしかならないはずだ。だから溺死はしないだろうが、その前に水の重さに潰されて死ぬか、流される勢いで転倒して死ぬ。

 

 「殿下、逃げ──」

 「──鼻と耳を守れッ!」

 

 ステラの右手がフィリップの口元を守るように押し付けられ、強烈な血の臭いが鼻を突く。

 突然のことに動揺しながら、フィリップは彼女の言葉を忠実に守り、両手で耳を塞いだ。ただし──ステラの両耳を、だ。

 

 「ばっ!?」

 

 馬鹿か、とステラが叫ぶ間もなく、二人は大瀑布に呑み込まれた。

 

 

 




 tips:
 スタート部屋のテーブルの裏には「ひとりしねば みんなでられる」と書いてある。


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100

 ルキアは努めて普段通りに、冷静に、優雅に、廊下を歩いていた。

 感情の昂りに呼応して高まった魔力が暴風の如く吹き荒れ、魔力抵抗力の弱い生徒が当てられて失神する程度には普段通りでは無かったが、有象無象の反応に一々注意を払わないのはいつも通りだった。

 

 目指す先はナイ教授の研究室だ。

 いつものように補習に行ったフィリップも、きっとそれを覗き見に行ったステラも、そろそろ夕食だというのに帰ってこないからだ。ただ長引いているだけならいいが、妙な胸騒ぎがする。

 

 もし、フィリップやステラの身に何かあったら。そう考えるだけで身の毛がよだつ。

 

 「──失礼します」

 

 ノックもせず、フィリップの補習が始まった初日に特定していた研究室の扉を開ける。

 

 基本的に破綻者であるルキアは、特別な覚悟や決意無しに殺人を犯すことができる。だから今回も、特にナイ教授をどうこうしようという明確な意識は無く、しかし数ある中の一つとしてナイ教授の殺害という選択肢も視野に入れて、この部屋を訪れた。

 

 フィリップがそれを知っていれば血相を変えて止めに来るだろうが、生憎、彼はいま意識空間で莫大な量の海水に押し流されている最中だ。

 

 「おやおや? 珍しいお客さんですねー。どうしたんですかぁ?」

 「フィリップとステラを探しに──ッ!?」

 

 媚びるような声に苛立ちながら、ルキアとしては穏当に、その実、威圧感を与えるどころでは済まない魔力を撒き散らしながら部屋を見回す。

 整然とした錬金術の工房、そのソファにフィリップが、そのすぐ下の床にステラが寝かされていた。

 

 二人の苦し気な寝顔に、自発的な睡眠ではなく外的要因による昏睡ではないかという疑念が湧く。

 

 「貴女は──何を」

 

 普通は平民をソファに寝かせ、王女を床に寝かせはしないだろう。最低でも逆で、ベッドか何かを用意すべきだ。

 だから、眼前の少女は普通ではないのだろう。少なくともステラを、第一王女にして聖人を軽視し、平民の子供を重視する何かがあるのだろう。

 

 「二人を起こして」

 

 彼女としては穏当に、まずは言葉でそう伝える。

 

 「うーん……?」

 

 ナイ教授は小動物じみた仕草で小首を傾げ──

 

 「フィリップ君は、君に何も伝えていなかったのですね」

 

 背後で、扉に鍵のかかる音を聞く。

 ほんの一瞬、瞬きの後に、眼前には猫耳の少女ではなく、長身痩躯の男が立っていた。

 

 「っ!?」

 

 コンマ数秒前の記憶と視界の整合性が無い。

 不連続な視界に脳が混乱し、思考が凍結され、視界の分析にリソースを奪われる。

 

 無意識に魔術を照準しようとしたのは、彼女が磨き上げてきた戦闘センスゆえ。

 そして混乱した頭でそれを中止し、上がりかけた右手を制止できたのは、彼女の状況把握・判断能力が卓越している証だ。

 

 「貴方は……ナイ、神父?」

 

 ルキアが抱いた無自覚な恐れと畏れ、そして忌避感や嫌悪感が、彼女に一歩分の後退を強いる。

 

 ルキアはナイ神父に会うと、いつも()()だ。

 あの森でも、田舎町の宿屋で過ごした数日も、二等地の教会に行ったときも、今も。フィリップが傍にいないと、手足の震えが止まらなくなる。

 

 怖気を催す、虫唾が走る、肌が粟立つ、胃が縮む、筋肉が強張る。

 恐怖や拒絶感を反映するあらゆる器官、あらゆる組織が、眼前の存在を畏れよと強いてくる。

 

 ナイ神父は動けないルキアに「ご明察です」と笑いかける。明察も何も、姿形が一緒なのだから、嘲弄以外の何物でもなかった。

 とはいえ、ナイ教授の姿を象り、魔力の質どころか存在の格すら偽証していたナイアーラトテップを、ナイ神父とイコールで結ぶのは不可能だ。彼が本気で欺瞞すれば、あの宮殿に接続し、ナイアーラトテップ本体の気配を記憶しているフィリップでさえ騙される。

 

 「意外ですね。あのフィリップくんが、君をそこまで大切にしていたとは」

 

 ナイ神父はゆっくりと、革靴を鳴らしながらルキアの方へ歩いてくる。

 ルキアの本能は全力での逃走を促してくるが、彼女の理性がそれを黙らせる。それは染みついた美意識と、ナイ神父に対する「フィリップの保護者」という認識によるものだ。

 

 彼を前に美しさに拘泥できる徹底ぶりにはフィリップも舌を巻くだろう。

 

 だが、それだけだ。

 何も言えない。何もできない。何も考えられない。ただひたすらに、眼前の存在が恐ろしい。

 

 「彼の寵愛に免じて、私の忠誠を妨げようとしたことは不問にしましょう」

 

 耳孔を這い回るような、耳触りの良い、耳障りな声。

 

 耳に届いた言葉が脳で処理されず、単なる音として聞き流される。

 彼の一挙手一投足に気を配らなければ、いや、全神経を集中していたとしても、彼の一挙動で殺されるという確信があるのに。警戒も準備も許されず、必死に逃げ出したがる身体を押さえつけている。

 

 「もう少し早く来て下されば、彼女より強力で有力で有効な設計にできたのですが」

 

 ナイ神父の口角が、ルキアではない誰か、ここではないどこかを想像して吊り上がる。

 だがすぐに、彼は「いえ」と自分の案を自分で棄却した。

 

 「いえ、駄目ですね。君を捨てる選択を強いられたその時点で、彼はきっとパパとママに泣きつくでしょう。それでは試験になりません」

 

 ルキアが理解できないことを、彼女に理解させるつもりも無いことを、ナイ神父は嘲笑交じりに独り言ちる。

 

 「もういいですよ」

 

 興味が失せたというように、ナイ神父はルキアに背を向け、ひらひらと手を振る。

 背後で鍵の作動する音に続き、引き戸が独りでにゆっくりと、微かに開いた。出て行け、という意思を強く感じるが──()()()

 

 まだ、伝えるべきことが残っている。

 

 「──ナイ、神父」

 「……何でしょう?」

 

 恐怖に震え、しかし確固たる意志を滲ませる声に、ナイ神父はなんの感情も抱かずに応える。

 

 「貴方が、シュブ=ニグラス様に類する存在であることは、分かっています」

 

 ほんの数分の会話で刻み付けられた恐怖と、これから自分が犯そうとしている愚行を止めようとする本能が、息を詰まらせ、鼓動を加速させる。

 胸が苦しい。喉は懸命に息を吸っているのに、肺が機能を放棄しているようだ。心臓はこんなにも拍動しているのに、身体の芯から血の気が失せて冷えていく。まるで身体が「殺してでも止める」と言うように。

 

 あの森で聞いた世界を歪ませる音の記憶と、肌を舐める悍ましき気配の記憶が想起される。

 理性と記憶が、自分の愚かしさを突き付け、制止する。

 

 駄目だ。止めろ。

 それは──冒涜だ。信じる神、真なる神、シュブ=ニグラスに匹敵する、眼前のナニカの機嫌を損ねる行為だ。

 

 死ぬ。

 人間には想像もできないような方法で、あるいは人間の想像力が許す全ての方法で、とにかく確実に惨たらしく残酷に苦しんで死ぬ。

 

 

 ──()()()

 

 

 それは、口を噤む理由になるのか?

 それは、彼に向ける感情を裏切る理由になるのか?

 

 否。否だ。

 

 理性を感情でねじ伏せて、ルキアは断固たる決意を胸に灯す。

 

 「ですが、貴方がフィリップとステラを害するのなら、私は貴方を殺します。それが私には──人類には不可能なことであったとしても、絶対に」

 

 ルキアの宣言を受け、ナイ神父が振り返る。

 

 激怒すら覚悟していたルキアの予想に反して、その顔は変わらず嘲笑で固定されていた。

 快・不快のどちらにも振れていない、眼前の愚かで矮小な存在への嘲りしか見て取れない。

 

 いまの一幕は結局のところ、愚かな存在が愚かなことを言っただけの、山も谷もない場面だったのだ。

 フィリップがこの場にいれば大きな感銘を受けただろうが──彼の意識はここにない。

 

 ナイ神父はすっとルキアを指す。その双眸に宿る感情に、ルキアは覚えがあった。

 ほんの少しの懊悩。自分が敵対者を殺すときに抱く、「どうやったら汚れないか」を気にするときの目だ。敵を殺すこと、命を奪うことに何も感じず、ただ部屋や足元を汚すのが嫌だとだけ思っている目だった。

 

 殺す必要もないし、生かす必要もない。

 生きていても死んでいても変わらず意味がないから。だから──何の意味も無く、殺すことにした。そんな心中すら窺えた。

 

 「──っ」

 

 刺し違える覚悟を決めたルキアに対して、ナイ神父はその手を引っ込めた。どこか慌てたように、びくりと。

 そしてゆっくりと、深い敬意の滲む礼を見せる。その宛先はルキアではない誰か、何か、どこかだ。ただ、それは彼がフィリップに対して見せる嘲笑交じりの敬意そのものだった。

 

 「御意に」

 

 嘲弄と敬意の入り混じった声で何かに応え、ナイ神父はルキアへ笑いかけた。

 

 「行っていいですよ。彼らもじき、目を覚まします」

 

 

 



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101

 たとえば、高所から水に飛び込むとき。あるいは、ちょっとした湖くらいの水量が降ってくるような特殊環境下。そういう場合に守らなければいけない部位は、鼻と耳だと言われている。

 

 鼻と口は呼吸器に繋がっているが、口は閉じることができ、その力も強い。しかし鼻を自発的に閉じることはできず、鼻の奥にある骨が折れたりすると脳にまで影響が及ぶ。鼻から大量の水が流入し、脳や呼吸器を害さないよう、鼻をつまんだり、腕で覆ったりして守ることが重要だ。

 

 耳も、自発的に閉じることができない器官の一つだ。水が入って耳が遠くなるくらいなら即時の影響は無いが、耳の奥には平衡感覚を司る三半規管がある。これが壊れると、最悪、水面へ向かっているつもりで深部へ泳ぎ続けるようなことだって有り得る。岸へ上がった後も、まっすぐ立つことも難しいだろう。

 

 鼻だけ覆ったフィリップと、耳だけ覆ったステラ。

 最悪、フィリップは直立困難になり、ステラは溺水して、二人ともが戦闘不能になる可能性だってあった。

 

 「……無事だな?」

 「はい……」

 

 だから、まぁ。全身ずぶ濡れになった程度で済んだのは、とても幸運なことだった。その上、水に流されたおかげで「ゾス星系よりのもの」から大きく距離を取れている。

 濡れた髪をかき上げ、顔を拭う。水を吸った服がべったりと纏わりついて動き辛いが、幸い、フィリップは魔術型だ。行動の阻害と戦闘力の低下はイコールではない。

 

 「痛っ……」

 「大丈夫ですか? ……あぁ、傷が」

 

 ステラが右手を押さえて激しく顔を顰める。

 

 彼女の右手を貫通する傷は、化膿止めと包帯、あとは内用の鎮痛剤程度の処置しかしていない。海水に浸したりしたら、それはもう激痛が走ることだろう。もしかしたら鎮痛剤の効果が薄れてきているのかもしれない。

 もう試験は最終局面だろうが、だから我慢しろというのも酷だ。傷を付けた張本人としては、流石に心が痛む。

 

 鎮痛剤を取り出そうとポケットに手を入れ。反対側のポケットに手を入れ。嫌な予感を覚えつつ、一応ジャケットの内ポケットも確認して。そういえば書斎の机に置いてきたぞと思い至る。

 振り返っても無限に白い空間が広がるばかりだし、見えないほど遠くに扉があったとしてもそこまで逃げるのは不可能だ。

 

 「あの、例のポーチって持ち出せましたか?」

 「いや。寝て起きたらここに居たというか、ここに連れてこられた衝撃で起きたんだ」

 「そうですか……。とにかく、再出血しないように押さえて、できるだけ遠くに走ってください」

 

 事ここに至り、ステラの助力を当てにするわけにはいかない。というか、彼女が助力できることなど無いと考えていいだろう。いくらゾス星系よりのものが外神に比べてマイルドな外見だと言っても、直視すれば発狂するリスクがある。防御性能も、まさか人間の振るうナイフで殺せるほど弱くはないはずだ。

 クトゥルフ撃退の方法に「大型船舶による突撃」が挙がる辺り、「人間では倒せない」と断言できないのが面倒なところであり、フィリップの胸に灯る希望だ。

 

 もしかしたら、クトゥグアを使わずに勝てるかもしれない。

 

 「お前はどうするんだ? さっきの奴を一人で……なんだ?」

 「あっちを見ないで。向こうはソドムだと思って、振り返らずに走ってください」

 

 先程まで二人が居た方を振り返ろうとしたステラの肩を押さえ、止める。

 今やゾス星系よりのものはほぼ成体となり、天井からゆっくりと降りてくるところだった。

 

 「勝算があるんだな?」

 

 確信があるような問いに頷くと、ステラも頷きを返して走り出した。その足取りに迷いはなく、少なくとも一定以上の距離を開けるまで止まることは無いだろうと確信できる。

 

 「……流石」

 

 勝算なんてないし、彼女を騙せるほど嘘が上手いわけでもない。

 だがこの場で攻撃能力を持つのはフィリップだけで、そのフィリップはずっと「ステラがいては攻撃に支障が出る」と言外に示し続けていた。この最終局面であの異形を相手に、自分がいては邪魔になると悟ってくれたのだろう。

 クトゥグアはともかく、ハスターの毛先を使うことに憂いは無くなった。

 

 「あとは僕がお前を殺せるか、という話なんだけど」

 

 兵士個体のゾス星系よりのもの、クトゥルフの兵。直接戦闘能力ではクトゥルフを超え、星間航行に耐える肉体強度を持ち、対神格戦でも通用する魔術・物理攻撃能力を当たり前のように備えている。

 人間が一対一で戦うような存在ではない、というか、人類を単騎で殲滅できるかもしれない存在だ。

 

 重力を中和したような緩慢な落下を続けるクトゥルフの兵。長い腕に備わった翅のような形状の翼膜は、風を捉える飛行器官ではなく星間航行に使われるものだ。

 肥大した蛸のような頭部にはひげ状の触手が無数に蠢き、内臓が入っていないのではないかと思わせるほど細い胴体とは対照的だ。

 

 三対の青白い単眼は動かないが、フィリップは向けられた視線を鋭敏に感じ取った。

 

 「■■■■──」

 

 耳孔の内を無数の蛆虫が這い回ったような、耳障りで湿った音。それはゾス星系よりのものの発した音だと、与えられた智慧が教えてくれた。

 フィリップは苦笑し、呆れたように首を振る。

 

 「いや、訊ねたわけじゃないんだ。発声器官──というか、「口」にあたる器官がないことは知ってるから、その音はやめてくれ」

 

 「ゾス星系よりのもの」は、発声機能や口に該当する器官を持たない。

 彼らの思考は支配者個体がテレパシーによって読み取るし、彼らに食事の必要は無いからだ。彼らに意思疎通機能や摂食器官は不要であり、不要であるがゆえに備わっていない。

 

 人語を解さない旧支配者に何を言っても無駄だろうと、フィリップは踵を返す。

 そして脱兎のごとく全力で、ステラと「ゾス星系よりのもの」から離れるように走り出した。敵の気を引く挑発も兼ねた攻撃準備として、風属性の最大神格を讃える言葉を唱えながら。

 

 「ゾス星系よりのもの」がフィリップを即座に殺さなかったのは、逃げる下等生物を追って殺すような習性がないからだろう。

 あれの設計コンセプトは「兵士」。クトゥルフのような人間で言うところのお貴族様では敵わない敵対勢力に対する戦力であり、そのお貴族様が寝惚け眼で欠伸混じりに殺せるような劣等種を殺すようプログラムされていない。

 

 とはいえ、眼前でハスター──敵対存在を讃える言葉を唱えられては冷静でいられなかったのか、緩慢な動きで追跡を開始した。

 

 詠唱を終え、牽制になってくれと願いながら一撃を入れる。

 横方向に伸びる竜巻が「ゾス星系よりのもの」の胴体に突き刺さるが、暴風が晴れた後には傷一つない黒光りする体表が見えた。

 

 「これじゃ無理か……」

 

 見る限り、ダメージはなさそうだ。

 少しでもダメージがあるのなら魔力欠乏でぶっ倒れるまで撃ち込んでやるつもりだったけれど、ゼロはいくつかけてもゼロだ。あまり魔力を浪費すると、実質的に切れないだけの切り札が、本当に切れなくなってしまう。

 

 クトゥグアの破壊範囲は、フィリップの技量──魔術ではなく、「こうしてくれませんか?」という交渉の技術だが──を最大限に活かしても街一つ分はある。ステラと離れる方向に走っているとはいえ、正反対ではなく90度くらいだ。距離を稼ぐにはもう少し時間がいる。

 

 幸い、相手はそこまで本気で殺そうとしてこない。反撃を諦めて走ることに集中すれば、十分に──

 

 「ッ!?」

 

 眼下、真っ白な床に薄く水が張ることで鏡面のようになった足元に、真っ黒な影が映る。

 それはフィリップの頭上から真っすぐに振り下ろされる、極太の触腕による攻撃だった。本体は数十歩は後ろにいるのに、フィリップの十数歩先までを潰す、長い一撃。加減速による縦移動での回避は不可能だろう。

 

 「──!!」

 

 思い切って横向きに飛び込むと、一瞬前までフィリップがいた位置に触腕が直撃する。床面に張った水が大質量の激突で爆ぜ、飛び散った雫は礫のようにフィリップを打つ。

 小さな水滴とはいえかなり痛いが、死にはしない。ならば呻くのではなく、一刻も早く起き上がって走るべきだ。あのてらてらと黒光りして気色の悪い触手に押し潰され、最悪の目覚めを迎えたくないのなら。

 

 「は、はははは! おいおい、人間風情に避けられちゃって、大丈夫かゾス星系! そんなだから、いつまで経っても旧神如きを殲滅できないんだよ!」

 

 紙一重の回避で大量分泌されたアドレナリンの興奮作用に任せて、「ゾス星系よりのもの」を煽る。口調はともかく、言葉選びのセンスがナイ教授に似ていることを指摘する者はいなかった。

 

 フィリップが好む物語ならこの煽りを前口上に切り札を開陳するところだけれど、残念ながらフィリップは英雄や勇者ではない。煽り終えるどころか、その途中で踵を返し、再び全速力の逃走を開始した。

 その背後では人語を解さない「ゾス星系よりのもの」が触手を移動に適したもとの大きさまで戻し、追跡を再開する。

 

 攻撃、回避。攻撃、回避。

 「ゾス星系よりのもの」の全く本気ではない追跡と攻撃を、全身全霊で逃走し回避すること十数分。

 

 「ははは! はは……はぁ……はぁ……きっつ……」

 

 フィリップのスタミナが切れかけていた。

 やや前傾姿勢で顎を突き出しながら走るそのフォームは、典型的なスタミナ切れの兆候であり、持久走の授業でよく見られるものだった。

 

 その後ろを悠々と、「ゾス星系よりのもの」が浮遊してついてくる。

 攻撃間隔が初めより広くなっているのは、フィリップを煽っているのか、確実に仕留めるためにもっと弱らせようとしているのか。どちらにせよ、フィリップがまだ生きているのは「ゾス星系よりのもの」が依然として本気ではないからだ。

 

 「もう無理……もう、もうそろそろ……いいかな……」

 

 まぁ何となく、ステラがフィリップの1.5倍くらい健脚だとして。体感的にはいつもの授業と同じ2000メートルくらいは走ったから、二人の距離は3、4キロくらいか。

 フィリップの照準能力を鑑みた確殺圏内ではないにしろ、安全だと断言できる距離でもない。

 

 「も、もうちょっとだけ……」

 

 あと10歩。もうあと10歩。持久走の授業のように、ただそれだけを考えながら足を動かしていると、不意に前方に人影が現れる。その距離はおよそ100メートルといったところか。

 ちょうどフィリップの行く手を遮るような位置に、スタミナも限界を迎えたタイミングで現れた人影だ。友好的な存在である可能性より、フィリップに止めを刺す存在である可能性の方が高い。

 

 「はぁ……はぁ……。も、もう無理か……流石に……」

 

 度重なる緊急回避と狩り立てられながらの長距離走で、両足はガクガク、膝や腕はボロボロだ。所々流血も見られる。

 肉体的にも、根性も、そろそろ限界だった。

 

 現実へのフィードバックで幻肢痛ならぬ幻筋肉痛になったら笑えるなと内心で苦笑しながら立ち止まり、「ゾス星系よりのもの」を迎え撃つように相対して立ち止まる。

 膝に手を突いて肩で息をしながらでは格好は付かないが、「ゾス星系よりのもの」は警戒も露わに動きを止めた。

 

 警戒──そう、警戒だ。

 「ゾス星系よりのもの」に、人間如き劣等存在を狩り立てる設計思想はない。それは常に、クトゥルフ級の存在である支配個体の「ゾス星系よりのもの」が敵わない相手との戦闘を担う個体であるが故に。

 

 では人間、それもたかが11歳の子供が十分間も逃げ回れる相手なのかと言われれば、それは勿論NOだ。尤も、並の人間なら相対しただけで発狂しかねないが。

 さておき、フィリップがこうして2000メートルプラスアルファを完走できたのは、「ゾス星系よりのもの」が全く本気では無かったからだ。それはフィリップの想定通りだが、理由は違っていた。

 

 「ゾス星系よりのもの」が本気では無かった──全力でフィリップを殺しにかからなかったのは、フィリップに対して大きな警戒心を持っていたからだ。

 理由は言うまでもない。シュブ=ニグラスやナイアーラトテップの気配を漂わせ、敵対者であるハスターの居城へ接続する魔術を使う劣等存在を相手に、警戒しない方がおかしいだろう。

 

 「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ほまるはうと──」

 

 詠唱に従い、掲げた右手を中心に魔力が渦巻く。

 クトゥグアの居城たるみなみのうお座α星フォーマルハウトへ接続する「門」の役割を果たす魔法陣、クトゥグアを使役するための意思疎通術式、術者を最低限守護する魔法陣が順番に展開され、空中に幾何学的な模様を刻む。

 

 「──うがあ ぐああ なふるたぐん」

 

 照準対象は眼前の「ゾス星系よりのもの」と、背後の人影だ。なるべく破壊範囲を小さくするよう、強く念じておく。

 あとはヤマンソが出てこないよう、当ても無く祈るだけだ。この運任せの欠陥システムは、いつか何とかしなければ。

 

 「いあ──」

 

 まぁ、それも今はどうでもいいことだ。

 いま気にするべきは、眼前の劣等存在を焼却すること。それだけであり、それ以外を気にしている余裕はない。破壊範囲が広がれば広がるほど、この空間のどこかを走っているステラが焼き殺される可能性が高くなる。

 

 「Cthu──」

 「──カーター!」

 

 大破壊の引き金に指をかけていたフィリップの背中に、ステラの明朗な呼びかけが届いた。

 

 




 tips:『招かれたもの』
 クトゥルフの思念に共鳴し、遺伝子が変異した元人間。「深きもの」を現地調達しようと試みたものの、結局「深きもの」が人間と交配した方が良質な信者になるのでクトゥルフはこの計画を放棄した。
 人間の知性が残っており、魔物に近い「深きもの」を見下す傾向にある。

 肉体性能・魔術性能は人間並みだが、騎士レベルの肉体と魔術師レベルの魔力を併せ持つというのは、並の人間ではできないことである。


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102

 こんなところに居るはずのない、フィリップ渾身の逃走によって3キロ以上は離れたはずのステラがいる。彼女こそ先ほど見た、フィリップの行く手を遮る位置にいた人影の正体だ。それだけでも驚愕に値するが、彼女は朗らかに笑いながらこちらへ駆け寄ってくる。もはや意味不明だった。

 

 「な、何やってるんですか!? 早く離れてください!」

 

 慌てて魔術をキャンセルし、ステラの方へ走る。

 召喚直前だったクトゥグアを警戒してか、「ゾス星系よりのもの」の追撃は無かった。

 

 血相を変えて駆け寄ったフィリップに、ステラは困惑交じりの微笑を向ける。

 

 「無事でよかったよ、カーター。そんなに慌ててどうしたんだ?」

 「どうしたって、な、あ、えぇ!?」

 

 フィリップの後ろで三対の単眼をじっとこちらに向ける異形が、まさか目に入っていないのか。あの20メートルもの巨躯が? 有り得ない。

 だが現に、ステラは既に戦闘が終結したかのような温度感だし、正気を損なう外見の「ゾス星系よりのもの」を見ても何の反応もない。いや、見えていないような反応をしている、と言うべきか。

 

 視界のチャンネルを魔力に合わせているのだろうか。このだだっ広い戦闘用の無味乾燥な空間で魔術罠を警戒するのは、彼女らしいといえなくもない。だがそうだとしても、「深きものども」は見えたのだ。全くの同種ではなくとも近縁種である「ゾス星系よりのもの」だけが見えないとは考えにくい。

 

 見えていないなら好都合と思考停止して、彼女をもう一度走らせるべきだろうか。

 その場合、もう走れそうにないフィリップはこの場で十数分の耐久戦、遅滞戦闘を強いられることになる。魔力には多少の余裕があるが、体力はギリギリだ。現実的ではないし、実現性に乏しい。

 

 それに、3キロ以上は離れたはずの、スタート時点でほぼ直角に走り出したはずのステラがフィリップの正面から現れた理由も定かでは無いのだ。

 砂漠では円を描いて歩いてしまうというから、フィリップとステラの歩く方向の歪みが噛み合ったとかだろうか。或いは、空間が曲がっているのか。そもそも別行動できないようになっているのかもしれない。

 

 「っ!」

 

 背後で「ゾス星系よりのもの」が動く。

 これ以上の思考は無理のようだ。

 

 「殿下、とにかく反対側に走ってください!」

 「は? 何を言ってる?」

 

 打てば響くというか、この空間に於いてはフィリップの方が正確な判断を下せると考えていたステラが、ここに来て疑問を呈した。それだけでも面倒極まりないタイミングだと舌打ちの一つもしたくなるような状況だが、フィリップはその瞳の奥に、覚えのある光を見た。

 

 ここではないどこかを見据える焦点の合わない目は小刻みに揺れ動き、深い恐怖や強烈な動揺を反映している。指先や口元が微かに震え、身体は明確に恐怖しているのに──何も感じていないように振る舞おうとしている。

 

 彼女の双眸は「ゾス星系よりのもの」を確かに見ている。だが脳、精神がそれに耐えきれず、「そこに恐怖するようなものは何もない」という補完をしているのだ。

 

 激烈な恐怖に対して、その恐怖を払拭したいという思い、いや機能が、恐怖の根源を認識させないという方法でそれを実行しているのか。

 現実逃避は人間に備わっている基本的な機能だ。だから、それ自体に異常性はない。だが恐怖の対象を完全に認識できなくなるレベルとなると明らかに異常だ。人はそれを「狂気」と呼ぶ。

 

 「このっ……」

 

 このタイミングで!? などと悪態を吐いている余裕はない。

 「ゾス星系よりのもの」は既に片腕を振り上げ、攻撃体勢に入っている。ほんの数秒未満でそれは振り下ろされ、フィリップとステラを厚さ数センチの肉塊へ圧縮する。

 

 「──ッ!」

 

 ステラを押しのけ、その反動で自分も飛び退く。振り下ろされた腕に対して垂直に飛べば、まだ避けられる速度だ。

 まだ先程のクトゥグア召喚が効いている。召喚直前でキャンセルしたとはいえ、フォーマルハウトにて燃え盛る火属性の最大神格の気配は感じたはずだ。あれが出てくれば、存在の格に劣る兵士個体の「ゾス星系よりのもの」なんて一瞬で焼却されるから、警戒せざるを得ないはずだ。

 

 いつまで持つ? どの時点で、奴はフィリップがそれを召喚しないことに気付く? あいつにステラの価値を察するだけの知性はあるのか?

 

 「痛いじゃないか、カーター」

 

 ステラがへらへらと笑いながら立ち上がる。無事を喜びたいところだが、その態度で仮説はほぼ確定した。

 普段のステラなら、フィリップが急に突き飛ばした程度で飛び退いたりしない。体重的にも、体幹的にも、フィリップがフィジカルでどうこうするには年季が足りないのだ。それに、普段の彼女なら「何のつもりだ」と詰問してくる場面だろう。

 

 彼女は、或いは彼女の本能は、半ば自発的にあの攻撃を回避した。見えているから、目を逸らしているだけだから──致命的な攻撃を、身体が自動的に避けてくれた。

 見えているが、認識しようとしない。しかし見えているから避けられる。見えているのなら、フィリップが対爆防御姿勢を取れと言ったら従うだろうか。

 

 確証はない。

 見えている状態で最も合理的な判断は「近付かない」ことだろう。遠目に見えた時点で踵を返すのが正解のはずだし、普段のステラなら間違いなくそうする。走れというオーダーに疑問を呈したのは、「そこには何もいない」という認識の修正、或いは強迫観念によるものだろう。

 

 彼女の本能は「そこには何もいなくてはならない」と意識に対して強要している。

 そこに「ゾス星系よりのもの」がいると、彼女の正気が損なわれるからだ。だから必死に「いない」と思い込んでいる。──そう考えていいだろう。

 

 本能的な回避はできる。だが意識しての逃走はできない。逃走するということは、そこには「逃げなくてはいけない何か」がいることになるから。

 では、防御姿勢は?

 

 少し考えて、フィリップは苦笑と共に思考を放棄した。

 狂人の思考など、考えるだけ無駄だ。普段の彼女の思考には貫徹した合理性があったけれど、今は理性も本能も健常な状態にない。

 

 それに──どうせ狂っているのなら、その振れ幅は大した問題じゃあないだろう。そう、フィリップの中にある非人間的な部分が囁く。

 

 「命があるなら大黒字ってね」

 

 強盗に襲われたときの心得が出てくる時点で、状況は最悪に近い。

 だが、まぁ。元より──ヒトとは、そういう脆い生き物だ。簡単に狂い、簡単に死ぬ。ステラの正気を守れなかったのは残念だが、残念だね、程度の感傷だった。

 

 「殿下、対爆防御を」

 

 言うだけ言って、義務は果たしたとばかり、さっさと詠唱に移る。

 もはやフィリップにとってステラは守るべき対象ではなく、既に守れなかった過去の失敗として認識されていた。積極的に殺そうとまでは思わないけれど、既に狂っているのなら、少なくとも彼女の正気に気を配る必要は無い。そう判断する。

 

 「いあ いあ はすたあ はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい あい はすたあ」

 

 いつも通りの魔法陣が展開され、空中へ幾何学模様を投影する。

 そしていつも通りに、ハスターの毛先じみた存在の断片、吹き荒れる暴風が召喚される。「ゾス星系よりのもの」にとっては警戒に値するものの、致命傷には程遠い一撃。フィリップの魔力を浪費するだけの無意味な攻撃──そのはずだった。

 

 ぞる、と。聞き覚えの無い、生物的に湿った音を立てて、手元の『門』となる魔法陣から真っ黒な触手が飛び出す。

 全く予想外の光景にステラだけでなく、フィリップすら目を瞠る。

 

 真っ白な空間に、真っ黒な雲が立ち込める。

 爛れもせず、泡立ちもせず、しかしいつか見たような光を呑み込む色の雲だ。

 

 蠢きのたうつ黒い触手が複雑に絡み合い、無数の吸盤が並ぶ表面を擬態する蛸のような極彩色に変える。それはやがてヒトガタを象り、黒い身体と、それを覆う黄色い外套のように成形された。

 人型の顔に当たる場所には、クエスチョン・マークを3つ合わせたような奇妙な模様の仮面が貼り付いている。

 

 その威容ならぬ異容だけでなく、大小さまざまな無数の触手の一本一本、その末端部からでさえ、例の『毛先』を数十倍するほど膨大な、神威にも似た悍ましい気配が感じ取れる。

 

 触手で編まれた首が骨格を持たない動きでうねり、白い仮面がフィリップを見遣る。

 

 そしてフィリップが何か行動を起こすより早く、黄色の外套の裾が爆ぜ、中から無数の触手が噴き出す。それらは無尽蔵な波のように広がりながらフィリップとステラを巻き込み、潰す寸前の力で空中へと持ち上げた。

 すわ暴走か、試験失敗かと表情を歪めたフィリップの悲観に反して、それ以上の圧搾は無かった。どころか、フィリップの苦痛の呻きに反応して、触手の縛りが僅かに緩む。

 

 死の危険が遠ざかって漸く、フィリップは何が起こったのかを理解することが出来た。

 

 「……ハスター? なんで」

 

 なんでも何もない。彼こそはフィリップがこの二月、召喚しようと悪戦苦闘していた風属性の最大神格、ハスターそのものだ。

 まぁ、その二月の間、ずっとビヤーキーか「毛先」しか出てこなかったので、どうして今になって成功したのかという疑問は妥当ではある。

 

 「なんで、とは。随分な物言いじゃあないか? 魔王の寵児よ」

 「ッ!?」

 

 耳触りの良い、中性的で穏やかな声色。紡がれたのは流暢な大陸共通語だ。

 人のような形で、人の言葉を使い、人に合わせて顕現している──人に手を貸すときのハスターとして、それなりにメジャーな化身だ。黄衣の王。そう呼ばれる姿。

 

 「……だが分かるよ。君にしてみれば、私は招来を乞う幾度もの祈祷を悉く無視した悪神だ」

 「悪神とは、邪神の自称にしては平穏過ぎませんか?」

 

 両腕が触手で拘束されていなければきっと中指を立てていただろうと容易に窺わせる、苛立ちの透ける声で答える。

 

 「でもね、君にも問題はあるよ。君が使っていた祈祷文、あれは風属性の王を讃える言葉じゃあないか」

 「そうですけど……?」

 

 だから何、とでも言いたげなフィリップに、彼は思索するように首を傾げた。

 

 「ふむ。君にそれを教えたのは、ナイアーラトテップか、それとも父上かな」

 

 父という言葉から想像される良性の感情を全て捨て、代わりに汚水と泥を煮詰めたものを混ぜ込んだような声色だった。

 憤怒、嫉妬、羨望、憎悪などを無機質な仮面の奥から読み取り、フィリップは怪訝そうに表情を歪める。ハスターの父親に当たる存在に心当たりがないからだ。

 

 旧支配者はいわゆる邪神だが、その性質は信仰に拠って生まれた共同幻想ではなく、「神と呼ぶべき強力な生物」という方が正しい。つまり発生し、成長し、確立するという時系列が存在し、当然ながら発生源もある。

 たとえば、クトゥルフはゾス星系に定着した異星の生命の一個体だ。今もゾス星には大量の同族が犇めいていることだろう。

 

 だが、それはくくりとしては余りにも大枠だった。フィリップを「地球に棲む人間」と捉えるのと同等の大雑把さである。

 旧支配者ごときの発生源にいちいち気を配っていないのか、フィリップに与えられた智慧にそれ以上の情報はない。ハスターが黒いハリ湖を居城にしているとは知っていても、どのように生まれたのかは知らなかった。

 

 「父? 申し訳ないですけど、そんな知り合いはいませんね」

 

 ついでに言うと、脆弱な旧支配者に知り合いが欲しいとも思わないし、何なら外神にも欲しくはなかった。

 

 そんなフィリップの反応に、彼はフィリップたち同様に触手の大波によって捕えていた「ゾス星系よりのもの」を一息に握り潰した。苛立ちを紛らわす、八つ当たり程度の労力だった。

 絞り出された内容物が吹き上がり、雨のように降り注ぐと、周囲には得も言われぬ悪臭が漂った。どす黒い血液と青白い内臓が黄衣の表面を伝うさまは、見ているだけで吐き気を催すものだったけれど──それ以上に、自分もああなるのではという懸念が湧く光景だった。

 

 潰されるのではないか、ではなく。ゲロ以下の汚物に塗れるのではないか、という恐怖だ。

 幸いにして、フィリップの方には血が数滴飛んできただけで、それも服や髪には付着しなかった。

 

 「……そうかい。君に教えるまでもないと判断したのか、それとも認知の外なのかは定かでは無いけれど……魔王の寵児よ」

 

 唐突に降って湧いた悪臭にえづくフィリップに、ハスターは平坦なほど穏やかに抑えられた声で語り掛ける。

 

 「外なる神の副王、ヨグ=ソトースこそ我が父だ」

 

 




 tips:「ゾス星系よりのもの」
 太陽系外に位置する「ゾス星」に棲む旧支配者の総称。種族名。クトゥルフの同族。
 クトゥルフのようなテレパシー能力に長けた支配個体、戦闘に特化した兵士個体、劣等種である奉仕個体、支配個体が産み落とす星の落とし子などがいる。
 星間航行能力を持ち、真空や極高温・極低温環境下でも平然と活動できる。別に水棲ではない。


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103

 外神の特異性について今更何かを論じる必要はないだろう。彼らの本体はこの宇宙の外、時間という概念を超越した高次元にあり、時間による制限を受けない。

 彼らに発生源と発生物、親と子のような関係を見出すのは無意味だ。アザトースが産み落とした「真なる闇」からシュブ=ニグラスが、「無名の霧」からヨグ=ソトースが生まれた。そして真なる闇の発生以前にシュブ=ニグラスは存在しているし、無名の霧もまたヨグ=ソトースなのだ。

 

 人間の言語、文化、認知によって外神を規定することは不可能だといえる。

 

 しかし、例外も存在する。

 彼らの本体、本質はともかくとして、彼らは三次元存在の化身を象り、三次元世界に干渉している。三次元世界内部だけの話なら、人間の言語でもある程度は表現可能だ。

 

 たとえば、シュブ=ニグラスは千の仔孕みし森の黒山羊として信仰される、無数の落とし仔を絶え間なく産み落とす化身を持つ。

 この化身が産み落とした存在、シュブ=ニグラスの落とし仔は、当然ながら三次元存在だ。時間の軛に縛られ、外神とは比較にならない脆弱な存在である。中でもフィリップの実家近郊に漂着していた個体は、たぶん飛び切りの劣等個体だった。

 

 あいつはシュブ=ニグラスのことを「母」と呼び慕っていたけれど、シュブ=ニグラスの側は全く認知していなかった。もし知覚していたのなら、フィリップに敵対するという暴挙に対して、踏み潰すなどという簡単な処刑では済まなかっただろう。あれは本当に、フィリップに近付くための無造作な一歩で潰れて死んだ、道端の蟻を踏むのと変わりない無頓着さだった。

 

 外神は基本的に、三次元世界の全てを無価値と冷笑している。それは自らの化身も含まれるし、当然ながら自らの落とし仔も含まれる。

 シュブ=ニグラスはたとえ一星を統べるような個体の落とし仔でも、同じように無意識に踏み潰すことだろう。そして、存在の格ではシュブ=ニグラスをすら上回る外神の副王にとって、ハスターが如何ほどの存在なのか。

 

 フィリップに智慧を与えたのはシュブ=ニグラスだが、その中に「ハスターはヨグ=ソトースの落とし仔である」という知識はない。その時点で窺い知れるというものだった。

 

 「あー……えっと……」

 

 心の底でハスターを、この世の全てを無価値と冷笑するフィリップですら言い淀む。

 それは人間性の残滓が「親は子を愛するもの」だと、この場には不似合いな常識を囁いてくるからであり、フィリップが両親から今も注がれる愛情を思い出してのことだった。

 

 端的に言って、なんだか居た堪れなくなっていた。

 

 「そ、そうだったんですね!」

 

 なんで旧支配者を、人間とは比較にならないほど強大なモノを相手に、気を遣ってオーバーリアクションなんてしているんだろう。

 フィリップが自分で抱いた疑問によっていつもの放心と無理解を湛えた無心の笑顔を浮かべていると、ハスターは自嘲も露わに笑った。

 

 「はは。やっぱり知らなかったか。ではナイアーラトテップだね、その呪文を教えたのは」

 「……はい。あの、あれって何か不味いんですか?」

 

 おそるおそる訊ねたフィリップに対して、ハスターは勿体ぶることはなく淡々と答えた。

 

 「あれは邪悪言語ではあるけれど、意味や内容が地球圏に寄り過ぎているんだ。君に理解できて、発音できる限界なのかもしれないけれど、「無形なる風の王」なんて呼び掛けがこの私に対して適切だと思うかい?」

 

 確かに、とフィリップは彼が言わんとしていることを察し、思考する。

 

 宇宙は広大で、幾千万の星々の中にはこの星のように大気を持ち、「風」という概念を有するものもあるだろう。残念ながらどの星系のどの星がそうなのかという知識は、フィリップ個人の好奇心に反して与えられていない。旧支配者の名前や特性なんぞより、そういうロマンあることの方が知りたかったのだけれど。──さておき、宇宙の何割が星で、何割が空なのか。その星の何割に知的生命体が存在し、何割が「風」という概念を共有しているのか。

 

 ハスターは珍しくも化身を象って三次元世界に干渉したヨグ=ソトースの落とし仔らしい。であるなら、少なくとも「風」なんて限定的な概念の最上位者という称号は、彼を指し示すには余りにも不足していると言える。

 その権能の一部に風を司る力があり、彼を信仰するものもまた風の概念を知っていた。だから人類に伝わる時点では「風の王」とされていた……とかだろうか。

 

 なんだかそれっぽい仮説を立てられたぞとにんまりするフィリップに、彼は変わらず淡々と語る。

 

 「確かに、外神にしてみれば「風」という下位次元の概念と劣等存在である私とは、簡単に結びつくものだろうけどね」

 

 ゼロイコール、ゼロだ。と、フィリップにとっては簡単な言葉で説明してくれるハスター。

 外神にとって風の概念が持つ価値とハスターの持つ価値が等しくゼロだから、ハスターが風の王と称されることに何の違和感も持たない。いや、そもそも外神は、ハスターほどの──旧支配者の中でもトップクラスの存在であっても、然して気に留めていないのだけれど。

 

 「けれどね、君たちのような下等存在に詳しいモノもいる。戯れにヒトと交わるナイアーラトテップ、全なるものヨグ=ソトース──我が父上。そんな人間向けの呪文を知っているのは、彼らくらいだ」

 

 つまり、何だ。

 ()()()()()()()()()()()ということか?

 

 「少なくとも、私には届かなかった。精々が窓の外で手を振っているくらいの呼び掛けだ」

 「……ナイアーラトテップが、僕に嘘を教えたと?」

 

 複雑な感情を窺わせる声色の問いに、ハスターはやはり無感情に応じる。

 

 「言っただろう。人体に発声可能で、人間に理解可能な限界がそれだ。ナイアーラトテップではなく君のために教えるのだけど、奴は君に嘘を吐いてはいない。その呪文は事実、私を召喚するに足る魔術だ。──そうなった、と言うべきかな? 奴は呪文や君の身体に手を加えるのではなく、私の認識を変えるという方法でその呪文を“適切”にした」

 

 理解しかねたように首を傾げるフィリップ。理解力の無さに我ながら呆れるところだが、ハスターは嘲りや呆れを感じさせない平坦な声で説明を加える。

 

 「君に課せられた授業は、この試験を以て完成するということだよ。あの小窓じみた召喚陣の外、つまり君の傍にクトゥルフの──我が仇敵の気配を置くことで、私に窓の外へ意識を向けさせる。あとは、窓の外で手を振る君、魔王の寵児に気付いた私が、否応なく召喚に応じるというわけだ」

 「……なるほど」

 

 それは──まぁ、確かに、理屈としては間違いないように思える。

 フィリップが拘泥する脆弱な身体はそのままに、人体に詠唱可能な呪文を用いるために、ハスターの側が「呼ばれてるのか」と気付くよう仕向ける。そのためにクトゥルフの気配を用いるというのも、二者の関係性を知っていればいい方法だと分かる。

 

 ……で。こんな凝ったテストを用意する必要性はどこにある? 無関係な人間を巻き込む必要性は?

 あの教会でクトゥグア召喚の練習をしていたときのように防護を万全にした上で、ルルイエなりゾス星なりと接続すれば済んだ話だろう。わざわざこんな七面倒臭いステージ、テストを使う意味はないはずだ。

 

 「君がゴネたんだろう? これはこのままでいい、と」

 

 諭すような言葉だが、彼の口調は全くの無色と言っていい平坦さだった。

 

 「君の認識の甘さ、その魔術がどれだけ無意味か、その辺りのことを教え込むにはいい手だと思うけどね」

 「……左様で」

 「まぁ、なんでもいいけど。今後は君のその誤謬に塗れた宛先不詳の祈りでも顕現してあげるよ」

 

 えっ、とフィリップは言葉を詰まらせる。

 

 確かに今この場に於いては、ハスターがこうして召喚されてくれて助かった。あの貧弱な「毛先」のままでは、間違いなく「ゾス星系よりのもの」を倒せなかっただろう。

 だが利便性を考えるなら、「毛先」の方がどう考えても取り回しが良い。それが使えなくなるというのは困る。

 

 「父上の加護があって、私が必要とは思えないけれどね。……父上が個を明確に認知しているなんて、全く羨ましい限りだよ」

 「…………」

 

 ハスターの仮面はその奥を一切悟らせないが、その声には憎悪に近いほど膨大な嫉妬が含まれていた。

 堪らず視線を逸らすフィリップだが、彼の感情はすぐに立ち消えた。

 

 「まぁ、君は特別だからね。何せ“魔王の寵児”だ」

 「ははは……実感のない話ですけどね……。というか、取り敢えず下ろしてもらっても?」

 

 ここまでずっと触手に縛られて宙ぶらりんだったフィリップは地面に降りると、感覚の無くなりかけていた腕をぷらぷらと振る。もうしばらくすると強烈な痺れに襲われることだろう。

 二者間の距離と体格の差から、フィリップの首は遥か上方から見下ろしてくる仮面を、天気を見るときと大差ない角度で仰いでいた。

 

 「……君は、その異常性をどう考える?」

 「どう、とは? これが僕にとって幸運だとでも?」

 

 フィリップの浮かべた疑問と怒り以上に、ハスターの落胆と嘲笑は大きかった。

 彼は仮面を外し、その下に空いた伽藍洞を向ける。どちらにせよ全く無い表情から感情を窺い知ることは難しいが、フィリップには彼が残念そうにしているように見えた。

 

 「分からないかい? あのアザトース──盲目にして白痴であるはずの最大神格が、君を知覚し、認知し、思考し、指向し命令したんだよ? 眠りこけ、この世界を──君たちの言語体系では「世界」と訳すしかない、あらゆる全てを夢見る魔王が、()()()()()()()()()んだよ? これは私たち下位存在だけでなく、父上のような上位存在にとっても青天の霹靂だっただろう。君は──」

 

 ハスターがびくりと震え、言葉が途切れる。

 おそるおそるといった体で──その巨躯と暴力的な神威には似つかわしくない怯えを滲ませて、ゆっくりと視線を下げ、自分の身体を見下ろす。

 

 触手で編まれた身体とそれを覆う黄色の外套に、縦に一条、亀裂が走っていた。

 

 「……これ、言っちゃ駄目だった?」

 

 化身が破壊された程度で旧支配者が傷付くことはないはずだが、彼の声には色濃い苦痛が浮かんでいた。

 

 何が起こったのかと困惑するフィリップの耳に、聞き覚えのある、耳触りの良い耳障りな声が届く。

 

 「いえ、そのくらいはフィリップ君もご存知ですから。ただ、これ以上長話──いえ、無駄話をされると、彼が夕食を食べ損ねてしまいますので」

 

 フィリップが思わず耳を塞ぐほど凄絶に嫌な音を立てて、ハスターが亀裂を中心として左右に裂ける。

 タールのような血液が吹き上がり、雨のように降り注ぐ。シュブ=ニグラスの粘液とは違って人体を変異させるような有毒性はないと知ってはいるが、粘度の高い刺激臭の液体に塗れるのは不快極まりなかった。

 

 「お疲れさまでした、フィリップ君。試験は無事終了。ハスター召喚にも成功したようで、期待通りの成果ですよ」

 

 真っ二つに裂いたハスターの残骸を、いつもビヤーキーに対してするように跡形も無く消し去って嗤うナイ神父。彼はフィリップが気付かないうちに、すぐ正面に立って拍手をしていた。漆黒のカソックに身を包んだ長身にも、一定のリズムで繰り返される、敬意と嘲弄だけが籠った称賛の含まれない拍手にも、何の感情も湧かなかった。

 

 それは余りにも唐突だったというのもあるし、ナイアーラトテップの口から「期待」などという面白おかしい言葉が飛び出したからでもある。

 

 「期待? 人間に何の価値も見出していない貴方の口から出るには、些か不似合いな言葉ですね」

 「では「想定通り」と言い直しましょうか。君のお気に召す方をお選びください」

 

 純然たる嘲笑を向けられ、フィリップのこめかみに青筋が浮かぶ。この手の煽りを気にしてはいけないと分かってはいても、腹が立つのは止められない。

 

 だが、今なら。

 学院の中とも教会とも違い、確実に周囲に被害を及ぼさないこの空間の中でなら、フィリップは彼をぶっ飛ばす──もとい、焼却することができる。

 

 「ふんぐるい むぐる──っ」

 「おっと」

 

 クトゥグアを召喚しようとしたフィリップだったが、唇に人差し指を優しく押し当てられ、息が詰まる。

 無数の化身のうちの一つが焼き払われることに何の痛痒も感じないナイアーラトテップだ。普段ならそのストレス解消程度の意味しかない攻撃は甘んじて受け、直後に別な化身が煽りながら登場するところだが──彼にしては珍しく、事前に止めた。

 

 身長差からナイ神父が腰を折っているのが妙に腹立たしいが、それ以上に理由が気になる。

 

 「フィリップくん。君はまだ視野が狭いのですね。そろそろ視座に見合った視野を持たれては如何です?」

 「は? ……?」

 

 きょろきょろと周囲を見回すフィリップに嘲笑を向け、ナイ神父は軽やかに一歩、横に退く。

 彼の身体が隠していた位置に、呆然と立ち竦むステラの姿があった。

 

 「あぁ……」

 

 その姿を見るまで忘れていたが、まだ死んではいなかったのか。とはいえ心身の「心」が死んでいる。50パーセント死んでいるのなら、四捨五入すれば死人だろう。閾値が何割なのかは知らないが──

 

 「そういえば、試験は何点ぐらいだったんですか?」

 「勿論、100点満点ですよ。おめでとうございます」

 

 にっこりと、相手の性別に関わらず惚れさせてしまいそうな笑顔を浮かべるナイ神父。怪訝過ぎて笑えてくるほど胡散臭かった。

 

 試験が100点というか、満点であるはずがないのはフィリップ自身もよく分かっている。

 ステラに助けられた──彼女がいなければ失格になっていた場面はいくつかあったし、その彼女は半分死んだような状態で棒立ちだ。浴場に置いてあった書籍は殆ど吹き飛ばして使い物にならなくなったし、そのせいで「ゾス星系よりのもの」とは正面衝突を余儀なくされた。もしかしたら、あの本の中に対処法が記されたものがあったかもしれないのに。

 

 「どういう採点です? 同行者が発狂、ギミックは未解明、最終的には力押しでの解決。試験の本旨とは──あぁ」

 

 少し考えて正解に辿り着き、フィリップはうんざりしたように表情を歪めた。

 ナイ神父は口角を吊り上げ、「ご賢察ですね」と煽る。

 

 試験の主目的はフィリップが「ハスターの招来」を身に付けることだ。より正確には、フィリップが使う人間に詠唱可能な程度の──適当とは言い難い呪文を、度重なる試行とクトゥルフの気配によって、ハスターの側に認識させること。

 つまり、フィリップがハスターを召喚したその時点で、どれほど無様な道中でも、どれほど無益な結果でも、試験は100点なのだ。部分点の無い証明問題どころか、証明事項さえ書かれていれば満点が貰える証明問題みたいなもの。酷い問題だった。

 

 「──少なくとも貴様は、教師には向いていないな」

 「はは、確かに。……あれ? 殿下、正気に戻ったんですか?」

 

 驚きもせず、喜びもせず、ただ意外そうに声の主──ステラに問いかける。

 その態度は明確に、彼女が発狂していようと正気であろうと──たとえ死んでいようと構わない、どうでもいいと示していた。ただそんなこともあるのかと観察するような、一片の興味だけが向けられていた。

 

 演技力の無さ以上に、演技すべきであるという意識が欠けている。一国の王女の顰蹙を買うことも、誰かが発狂したり死んだりすることに対しても、何ら恐怖や忌避感を抱いていない。

 まるで、人命にさえ価値を感じていないかのように。

 

 その異常性を看破して、ステラは。

 

 「あぁ──分かるよ」

 

 と、力なく、しかし共感するように笑った。

 

 

 



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104

 フィリップが試験最後の問題に際した今、ステラは自分にできることは何もないと判断した。

 魔術という矛を奪われ、繭の中にいた巨大生物には対魔術防護など意味がないと分かる。フィリップの魔術が爆発なのか、それとも別の何かなのかは不明だが、どちらにせよステラがいては邪魔になるのは間違いないだろう。

 

 ならば彼女がするべきは、戦場が動いても巻き込まれない程度に距離を取ることだ。

 

 「痛っ……」

 

 フィリップに全てを任せ、ステラはただ真っすぐに走ることを選択する。

 運動によって早まった血流が右手の傷から溢れるのを押さえて止めながら、その痛みと、ゆっくりと血が失われていく感覚だけを強く意識して。

 

 敢えて苦痛に意識を向けなければ。苦痛で意識を埋め尽くしていなければ、今にも、あの悍ましい蛹と声なき「意思」を思い出してしまいそうだった。傷口を押さえる指を食い込ませ、絶叫するほどの痛みを鎮静剤代わりに、ただ走る。

 

 走って、走って、走って。3キロは走っただろうというところで、ふと強烈な眩暈がする。痛みを酷使しすぎたか、はたまた失血が閾値を超えたか。

 肩で息をして呼吸を整え、手を突いていたスカートの膝が血でべっとりと汚れた頃。視線を上げると、遠くに人影が見えた。

 

 ──いや。それは、どうして「人影だ」と思ったのか定かでは無いほど、人とはかけ離れた姿をしていた。

 

 顔と思しき場所には黒く輝く三対の単眼が並び、口があるべき場所には無数の触手が蠢いているだけだ。頭部は異常なほど肥大し、髪のようにも見える太い触手が生えている。蛸のように、あの頭部に内臓全てが入っているのかもしれない。そう思わせるほど、頭部に対して胴体が細い。胴体長だけで十数メートルはありそうだが、横幅は頭部の大きさよりなお細い。

 

 地面を擦りそうなほどだらりと垂れ下がった腕からは虫の羽のような翅膜が生え、両足は死んだ蛙のように萎びて縮んでいた。尾のような器官が地面と接しているが、引き摺られているだけだ。それは浮かんで移動していた。

 飛行できるほどの強靭さは腕の翅からは見受けられないし、羽ばたいている様子もない。滑空とも違う、気味の悪い動き方だ。

 

 見るからに異形だが、それ以上に、その存在感が気に障った。

 この世の全てを冒涜するような──嘲笑や冷笑とよく似ていて全く違う雰囲気だ。神威にも似た気配を漂わせているのが、理解不能さを加速させる。どう考えても神とはかけ離れた、むしろ神に敵対するような存在なのに。

 

 「……っ!?」

 

 その怪物の前を走る人影に気付く。それは今度こそ人間であり──知人のものだった。

 

 「カーター!? 何故……いや」

 

 どうしてここにいるのか。

 走る方向を間違えでもしたか。砂漠や森のような景色の変わらない空間では、まっすぐ歩いているつもりでも実は曲がっていて、最終的には円を描いて同じところに戻ってきてしまう、という話は聞いていた。

 

 そこまで知識を引き出して、思考を強制停止する。いま考えるべきは理由ではなく対策だ。逃げるのはその後でいい。

 顎を突き出してへろへろ走っているフィリップに、あれを殺すための弱点を伝える。そのためには見るしかない。通常より多くの情報を得られる、魔力を視る目で。

 

 無事でいられるだろうか。

 魔力は相手の情報を詳細に、かつ直接的に伝えてくれる。それはつまり、遠目に見るだけで気が狂いそうになるあれを、拡大鏡とピンセットでつぶさに観察するようなものだ。

 

 怖いという言葉では全く足りない忌避感はある。だが、それは行動を決定する要因にはならない。

 

 「それが最適解だ」

 

 ほんの一言で恐怖を拭い、視界のチャンネルを切り替える。

 

 その直後だった。

 不自然な角度の図形や奇妙な文字で構成された魔法陣が複数個、フィリップの掲げた右手を中心として展開される。

 

 魔力へ焦点を合わせた目はステラの意志に関係なく、自動的に視界内の全魔術要素を読み取り──それを知る。

 

 遥か星の彼方にて燃え盛るもの。恒星の如き熱量を秘め、炎そのものに崇め奉られるもの。その強大さと悍ましさ。この世界の広さと小ささを。

 

 

 

 駄目だ、と思った。

 それを知ったが最後、何もできなくなってしまう。今でさえ人間と社会は脆すぎるのに、その認識でさえ不足していると突き付けられてしまったら。何をやっても無意味だと、無駄だと分かってしまう。

 

 ぶつん、と。何かが途切れる音を聞く。処理容量をオーバーした情報の流入に耐え切れなくなった脳神経が千切れでもしたか。まさかこの失血状態で血管が切れはしないだろう。

 そんな現実逃避じみた思考と、瞬きの後。

 

 眼前にはフィリップの姿だけがあった。()()()()()()何かを掲げるようなポーズ、()()()()()何かを睨み付けるような表情なのは不思議だったが、無事でよかった。この見通しだけはいい空間で迷子になるとは思わなかったが、ルキアがよく手を繋いで歩いているのはそういう理由か。

 

 呼びかけながら駆け寄ると、フィリップは何故か血相を変えて離れろと叫ぶ。

 いつもならその理由を考え、その正当性と合理性を元に判断するところだが、今はそうしてはいけない気がした。

 

 フィリップが慌てふためきながら「逃げろ」と提言する。

 どうしてだろうか。逃げなくてはいけない理由は見当たらない。見当たってはいけない。

 

 最悪だと言いたげな顔で思考するフィリップに申し訳なく思いながら──何故? どうして申し訳なく思う必要がある? そこに何も無いのだから、おかしいのはあいつの方だ。

 

 思考が揺れる。

 数秒前の思考と現在の思考が噛み合わない。何が正しくて何が間違っているのか、何が合理的で何が不合理なのか判別できない。

 

 視界が揺らぐ。

 頭上から大質量が降ってくる──有り得ない。この場にはフィリップと自分の二人だけ、魔術の気配もない。居もしない何かが攻撃してくることなど、有り得ない。

 

 避けなくては。あんな気色の悪いものに潰されて死ぬなど、夢の世界でもお断りだ。何より、そんな死に様を体験して精神が無事なはずが──何を避ける? そこには、何も。

 

 「──っ」

 

 胸を強く押され、逃げたがっていた身体に弾みがつく。

 勢いのままにその場を飛び退いた直後、礫のような水飛沫が全身を打つ。水飛沫を感じる──避けている、生きている。生かされた。

 

 「……」

 

 ありがとう、助かった。胸の奥から沸き上がった謝意を声に出そうとして、一連の思考に疑問を覚える。

 何から押しのけてくれて、何を避けて、何に対する礼を言うのか。そこには何もいないというのに。

 

 「痛いじゃないか、カーター」

 

 普段なら理由を問い質すはずなのに、どうしてか、そうするのが憚られた。

 

 へらへらと笑って自分を誤魔化すと、フィリップがどこか諦めたような苦い笑いを浮かべた。普段の彼が見せる深い諦めではなく、グラスから零れた水や振り終えたサイコロを見るような、もっと自然なものだ。

 その反応を不思議に思った時には、彼は何かと相対するようにステラに背を向けて構えていた。

 

 「殿下、対爆防御を」

 

 フィリップが攻撃魔術を使うという警告を発する。チャンネルを魔力に合わせっぱなしだった視界から、フィリップの魔力情報がとめどなく流れ込んでくるが──どう考えても、爆発のような規模の大きい魔術を使う魔力消費ではない。

 何もいない場所へ攻撃魔術を撃つ不自然さ、不合理さから目を逸らし、普段なら目もくれないような僅かな好奇心で視線を固定する。

 

 「いあ いあ はすたあ はすたあ──」

 

 しかし、そんな好奇心も、詠唱のわずか数節を耳にしただけで吹き飛んだ。

 大陸共通語の発音ではないどころか、およそ人語とは思えない発音を喉から絞り出して唱えられる言葉は、いつも聞いているフィリップの声とは思えないほど不愉快だった。

 

 「……やめてくれ、カーター」

 

 その言葉がきちんと声に出ていたのか、自分でも判断が付かなかった。

 視界が霞み、耳が遠くなるような感覚がある。五感の全てが麻痺していくように思えるのに──どうして、その気色の悪い呪文だけが耳に障るのか。

 

 言葉が理解できない。全く、これっぽちも意味が分からないのに──それを理解してはいけないと分かる。

 

 「くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ──」

 

 あぁ、きっと、さっきの言葉は声になっていなかったのだろう。或いは、フィリップに聞き入れるつもりが無いだけなのかもしれない。

 彼の詠唱に淀みはなく、淡々と、意味不明ながら耳障りな言葉が並べられて。そして──

 

 「あい あい はすたあ」

 

 詠唱が終わり、見たことも無いような文字と記号で構成された魔法陣が投影される。

 半自動的にその魔術的情報を読み取ったステラは、その非凡なる才能で以て理解する。どの記号が魔術のどの要素を示し、文字がどのような意味を持つのかを。そして高い記憶力を活用し、浴場の壁にびっしりと描かれていた文字や記号と照応する。

 

 死せるクトゥルー。眠るルルイエ。黒きハリ湖。アルデバラン。黄衣の王ハスター。

 旧支配者。旧神。戦争。封印。邪神。兵士。

 

 視界と記憶から膨大な量の情報が流れ込み、軽い頭痛すら覚える。

 

 そして、その魔法陣から黒い触手が飛び出して──

 

 

 なるほど、と。軽く納得したことだけを覚えている。

 

 

 

 

 

 ──────

 

 

 知りたくなかった

 

 

 ──────

 

 

 

 

 気が付くと、目に映る何もかもが違っていた。

 

 足元を浸すどす黒く濁った海水は、数分前まで見ていた非現実的な光景が夢などではないという証明だ。フィリップの召喚したモノが果実でも絞るように握り潰して殺した残骸。

 内臓混じりの汚れた水も、右手から滴る血液も、この真っ白な空間も、全てが色褪せて見えた。

 

 自分の傷、自分の血。異常な空間、異常な存在。フィリップ、ステラ自身。この場に存在するあらゆる全てが、どうでもよく感じた。

 

 だって、そうだろう。

 クトゥルフ、クトゥグア、ハスター。この世にはあれほど強大なものが、一挙動で人間を──人類が築き上げてきた文明や社会を、そこに住む人間諸共に滅ぼしてしまえる存在が犇めいている。ステラやルキアもそれは同じだけれど、両者の間には圧倒的な格差があった。ステラもルキアも、あれらの前では塵芥に過ぎない。

 

 何をやっても意味がない。何をやっても、あれらの気まぐれで全てが終わる。人間の営み、人が出来るあらゆることは、彼らにとっては何の意味も無いことなのだと知ってしまった。

 

 胸に穴が空いたどころか、内臓が全部無くなったのではないかと思わせる喪失感がある。

 王国、王位、合理性、魔術。今まで大切にしてきたものに対する価値感覚が、例外なく全てゼロになっていた。

 

 人間に実行可能な魔術では──いや、きっと天使や唯一神でさえ、あれらには敵わない。

 

 あれらに対する最も合理的な戦略は、全てを諦めることだ。いや、そもそも人間はあれらと対等なプレイヤーではなく、戦略の盤上に乗ることもない無価値なものだ。

 

 あれほど強大なものの前では、人間社会における地位など何の意味も無い。

 

 人の国、国家、民族、文化。あらゆる全てが、彼らの機嫌次第で滅亡する。人間という劣等存在にできるのは、その様を狂いながら見つめることだけだ。

 

 だが──それでも、ルキアは特別だった。

 あんな悍ましいものがいて、穏やかな死は救済だとすら思えるような世界だと知らされても、彼女のことだけは無価値だと思えなかった。10年以上も共に育ってきた好敵手、唯一にして最愛の友人のことだけは、死んでも無価値だなんて思いたくなかった。

 

 そして、ステラは疑問に対する答えを得ていた。

 この空間に来る前に抱いていた、フィリップが見せる諦めや冷笑の理由についての疑問だ。

 

 これほどの存在を知っていれば、天地万物が矮小な取るに足らないものに思えてしまうだろう。それを召喚し使役できるとなれば、ルキアやステラ以上に価値観が破綻するのも当然だ。ルキアやステラに限らず、人間の地位や命になんて、毛ほどの価値も感じていないだろう。フィリップの人間性は完全に死んでいる。

 そこまで考えて、右手の痛みを思い出す。

 

 人間性が死んでいる、は言い過ぎだった。

 痛みへの忌避と恐怖を見ていた。それを乗り越えて他人の為に苦痛を背負える輝かしい人間性を、ステラは確かに知っていた。

 

 命の価値を正確に知っていて──誰の命であれ全くの無価値だと知っていてなお、あれだけの献身が出来るなんて。

 

 ──なんて、羨ましい。

 

 

 



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105

 「分かるよ」と、その一言がフィリップに与えた衝撃は、この空間に入ってから──否、あの地下祭祀場以来で最も大きなものだった。

 

 フィリップと縁遠い言葉には「正常」とか「狂気」とか色々とあるが、「共感」もその一つだ。

 価値観の壊れ切ったフィリップが誰かに共感することも、誰かに共感されることも、同じくらい有り得ない。人間は外神の視座に合わず、外神は人間性の残滓に合わないのだ。ルキアやステラは辛うじて価値観を同じくする場面もあるが、それでも二人は人間だ。ほぼ人外領域にいる魔術師とはいえ、外神の視座には程遠い。

 

 ルキアはシュブ=ニグラスに触れ、唯一神の弱さや世界の小ささを知った。だがそれ以上に、シュブ=ニグラスという外神に魅せられている。

 

 フィリップにとって、それは何も知らない状態より多少マシ、程度のものだ。

 信仰する先が蛆虫と区別が付かないような唯一神か、外神の中でも最強の一角であるシュブ=ニグラスかなど、大した差ではない。彼女は確かに強大で、フィリップにとってはある程度信頼できる保護者かもしれないが、この泡のような世界で、それが一体何の価値を生むと言うのか。

 

 明日世界が滅ぶとしても、今日が無くなるわけではない。今日世界が滅ぶとしても、積み上げてきた昨日が無くなるわけではない。

 だから、いつか世界が滅ぶとしても、何もかもが無意味だということにはならない。

 

 ──フィリップの愛読書だった冒険譚はそう語った。

 

 だが、アザトースの目覚めはそんなものではないのだ。

 明日が消える。今日が消える。昨日が消える。意味が消える。価値が消える。この世の全てが、この宇宙の外側に居る外神たちですら、夢のように──夢として消える。

 

 いや、そもそも。()()()()()()()()()()()()()()()。世界の全ては、アザトースの見る夢でしかないのだ。

 目に映る全ての物が、全ての人が、その生き様や成し遂げたことの全てが、ただの夢。

 

 だから、世界は泡のようなものだと、フィリップは思う。人間という劣等種だけでなく、旧支配者、果ては外神にすら価値を感じないのはそれが理由だ。

 そんな価値観を誰かと共有したいとは思わない。思わないが──誰とも価値観を共有できないというのは、人間の脆い精神には強すぎるストレスでもある。フィリップが孤独感を覚えた時には、決まってマザーの抱擁かナイ神父の嘲弄が気を紛らわせてくれていたが。

 

 さておき、そのフィリップに共感できるということは、この世界の本当の脆さを知っているということか。

 有り得ない。そんな人間が居るはずがないし、そんな人間がまともに口を利けるほど正気を保っていられるはずがない。まともな思考ができる時点で、フィリップのように狂気を剥奪されているとしか考えられない。

 

 「ナイ神父、もしかして同道者を作ろう計画とかやってます?」

 「この私が──君の特別性と唯一性を損なうと?」

 「うわぁ!?」

 

 仮面のような笑顔がいきなり星空に変わり、びっくり箱でも開けたように飛び上がるフィリップ。

 怖くはないし発狂もしないが、心臓に悪いのは確かだった。

 

 「じゃ、じゃあ、殿下に手を加えてはいないんですね?」

 

 早鐘を打つ心臓を胸の上から撫でて押さえながら、もう一度確認する。

 フィリップが孤独感を覚えていることに気付いて策を弄したとか、それでこの試験にステラを巻き込んだとかなら、ちょっと対応を考える必要があるが──言われてみれば、ナイアーラトテップのアザトースへの忠誠は本物だ。嘲笑も同時に向けているとはいえ。

 

 フィリップの複製品のようなものを、ナイアーラトテップが自発的に作ろうとするとは考えにくい。

 

 では何だ。

 考えられるのは──「ゾス星系よりのもの」とフィリップが召喚したハスター、召喚未遂だったクトゥグア辺りが原因で発狂したか。人間では理解できないほど強大なものを羅列され、自らとその世界の矮小さを知ってしまったか。

 

 フィリップにとっては今更というか、「うん、そうだね」くらいの事柄だが、普通はショックを受けるはずだ。彼女はいま、立っている地面が薄氷だったと知らされ、吸っている空気が近いうち枯渇すると知らされたような不安感と絶望を抱いているのだろう。

 

 「……ん?」

 

 いや、待て。

 確かステラは先ほど、「ゾス星系よりのもの」を目にした時点で一度狂っている。それがこうも早く復活するものだろうか。

 

 破損した精神が自然治癒することは珍しいが、有り得なくはない。しかしそれには長い時間と休養が必要なはずだ。こんな空間でこんな短時間でどうにかなるほど、狂気は甘いものではない。

 それに、彼女は「ゾス星系よりのもの」だけでなく、クトゥグア召喚の魔術やハスターの化身を目にしている。そのダメージは彼女の精神を2,3回殺して余りあるはずだ。

 

 彼女が示した共感も、狂気ゆえと考えれば辻褄が合う。自分で言っていて悲しくなることだが。

 

 「……ナイ神父、精神治療とかできますか?」

 

 何の期待もせずに訊いたフィリップに、ナイ神父は顔に浮かべた星空を引っ込め、代わりに甘いマスクで嘲笑を向けた。

 しかし彼が答える前に、ステラ本人が「いや」と遮る。

 

 「いや、不要だよ。記憶でも消せば元通りになるだろうが、私はそれを望まない。……望むべきではない」

 

 穏やかに返されたその答えに、フィリップは値踏みするような目を向けた。

 

 「何故です? その知識は異常な──知らない方がいいものですよ」

 「だろうな。それで? 私がそれを知らなければ、その事実が無くなるのか? 私たちの世界は、正常なものになるのか?」

 

 どこか諭すような言葉に、フィリップは思わず目を瞠る。

 それはフィリップが今の今まで、一度も外神たちに「僕の記憶を奪ってくれ」「元の状態へ戻してくれ」と願わなかった理由の一つだった。

 

 尤も、世界はその姿こそが正常であり、健常な人間はそれを知らないだけなのだけれど──今は、それは問題ではない。

 

 「……は」

 

 全くとんだ思い違いだったと、フィリップが失笑する。

 

 「はははは……」

 

 顔を押さえ身体を揺らして笑うフィリップに、ステラが困惑を、ナイ神父が変わらず嘲笑を向けるが、フィリップは構わず発作が収まるまで笑い続けた。

 

 そして、漸く笑い終えて息を整えた後。

 

 「なるほど」

 

 と、たった一言だけ答えた。

 ナイ神父とステラには、それだけで十分だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

  夢を見ていた。

 

 眼前には無数の触手を持つ何か──ナイアーラトテップ、シュブ=ニグラス、あるいはハスター。フィリップの知る触手の集合体の化身を象る邪神たちに似ていて、そのどれとも決定的に違うものがいる。

 それは言うなれば、触手のカリカチュアだった。

 

 神経を過敏にし精神を昂らせる麻薬の粘液を滴らせる触手が伸び、肌に触れる。

 それらは薬剤を塗りたくりながら、胸を撫で、背中を這い、腕に絡み、指の一本一本を舐める。股間から足の指先まで、首筋から頭頂部までを丹念に薬剤に浸した後、一連の責めはあくまで薬剤塗布作業でしかなかったと示すように、本気の凌辱を開始した。

 

 時には撫で、時には締め付け、時には引っ掻き、時には刺し貫きすらする。

 眼窩から後頭部へ、脇腹から肩へ、胸から背中へ触手が貫通して蠢いているのに、口から漏れるのは苦痛ではなく快楽の喘ぎだ。

 

 触手が動くと、身体も動く。

 触手が動くと、快楽の喘ぎが漏れる。

 

 無数の触手に責め苛まれ、快楽に喘ぎ悶えるクトゥルフの巨体を、夢の中のフィリップは何もするでもなく眺めていた。

 

 

 

 「──ッ!?」

 

 フィリップが飛び起きると、そこは整然と片づけられたナイ教授の研究室だった。

 身体が沈み込むような柔らかなソファに寝かされており、胸元までブランケットが掛けられている。ソファの足側にはナイ神父が立っており、フィリップに嘲りの籠った視線を向けていた。

 

 「おはようございます、フィリップくん。ご気分はいかがですか?」

 「……おはようございます。なんか、物凄く変な夢を見た気がするんですが」

 

 説明しようとすると思い出せない辺り、まぁ何となく嫌な夢、くらいの夢だったのだろうと一人で納得する。

 

 身体を90度回転させて立ち上がろうとすると、ローテーブルを挟んで反対側のソファでステラが身体を起こすところだった。

 

 「……殿下?」

 

 あの空間から出るときは入るときと同様、眩しい光と共に意識を奪われるくらいのイベントしかなかった。

 だがそれ以前の時点で、彼女の精神は甚大なダメージを負っている。ほんの少しの刺激で発狂する可能性もゼロではない。

 

 おそるおそる、安否を確認するように呼び掛けると、彼女は杞憂だと言わんばかりに苦笑した。

 

 「大丈夫だよ、カーター。右手が少し痛むがさっきほどじゃないし、気分も落ち着いている」

 「右手が? 後遺症とかですかね?」

 

 あちらで死ねば、そのイメージが現実の肉体をも殺す、という話だったはずだ。あちらの傷がこちらの肉体に影響を与える可能性はゼロではない。

 ナイ神父に目を遣ると、彼は「そうでしょうね」と笑って頷いた。「治してあげて?」という意図は伝わったはずだが、完全に無視されている。

 

 「……そいつを信頼しているのだな、お前は」

 「は?」

 

 可笑しそうに言ったステラに、フィリップは自分でも驚くほど冷たい声で返す。

 

 信頼? 誰が? 誰を?

 ナイアーラトテップ、千の貌を持つ邪神を信頼するなど愚の骨頂。その素性を知っていてなお近付くだけで愚者の烙印を押されるような相手だ。

 

 「……一応言っておきますけど、コレはさっきの奴らの何百倍もヤバい存在ですからね。無闇に近付かないように」

 「喩えが下手ですね、君は。ゼロは何億倍してもゼロでしょうに」

 

 嘲弄と揶揄の中間くらいの言葉を投げてくるナイ神父に「うるさいな」という目を向けると、ステラは「そういうところだよ」と笑った。

 

 「お前はルキアの前でも見せない素を、そいつの前では見せているだろう? さっきのテストでも、そいつの能力や思想を理解している風だった」

 「それは──」

 

 「()()()

 

 言い募ろうとしたフィリップも、揶揄うような笑顔を浮かべたステラも、ナイ神父のその一言で凍り付いた。ただの感嘆符、内容の無いただの一言が、二人の思考を完全に停止させる「圧」を持っていた。

 数秒の硬直から復帰した後、ステラは驚愕に目を瞠り、フィリップは訝しむような視線を向ける。

 

 「……なんですか?」

 

 フィリップの問いに、ナイ神父はにっこりと笑って自分の左胸の辺りをちょんちょんと示す。

 ポケットを確認しろ、というジェスチャーに見えた。

 

 「普通に言えばいいのに……」

 

 ぼやきながらジャケットの胸ポケットを確認するが、何も入っていない。何も入れた覚えがないので当然だが。

 

 「あっ!?」

 

 そういえば、内ポケットには懐中時計が入っている。

 試験空間に意識が隔離される直前、フィリップは椅子に倒れ込んだはずだが、起きた時にはソファに寝かされていた。

 

 倒れた拍子、或いは移動の過程で壊れました。なんて報告だったら、この場で焼き殺してやるところだったが──幸い、懐中時計は無事だった。じゃあさっきの「おっと」は何だったのだろうか。

 

 「……ん?」

 

 特に何も考えずにハンターケースを開けると、時計はもう間もなく7時を指すあたり──食堂のラストオーダー直前を示していた。

 

 「ま、不味い!? 殿下、ご飯食べに行きましょう!」

 「ははは……そうだな、急ごうか」

 

 ナイアーラトテップの試験は合格だったが、後学期はまだ中盤を少し過ぎたところ。明日も実技の授業はあるし、食事や睡眠を欠くことはできない。

 

 慌てふためきながら部屋を飛び出したフィリップの後を、ステラがゆっくりと追いかける。

 ステラが振り返るとナイ神父はおらず、幼気な笑顔のナイ教授が楽しげに手を振っていた。正面に向き直ると、廊下を爆走しようとしていたフィリップが、部屋の前で待っていたらしいルキアに確保されていた。

 

 「はははは……」

 

 驚きと心配と焦りを浮かべるフィリップ。慈愛と心配を二人ともに向けるルキア。絶望を共有し理解し合える相手と、この悍ましい世界でなお美しい好敵手。

 その二人だけが、ステラがこの悍ましい世界で生きていられる理由だった。

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ5 『一年後学期(仮題)』 トゥルーエンド

 技能成長:なし 

 特記事項:同行者『ステラ』が30のクトゥルフ神話技能、及び特性『フィリップ・カーターに対する共感』を取得。


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軍学校交流戦
106


 twitterアカウント作りました。(https://twitter.com/shio_pillar
 たぶん有益な情報は何も発信しません。tipsとかクソ短文が不定期に流れるか、沈黙か、だと思われます。
 更新が大幅に遅れる場合の言い訳用を想定しています


 ◇


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ6 『軍学校交流戦』 開始です

 推奨技能は領域外魔術を除く戦闘系技能です。特定期間中は戦闘外で戦闘系技能をロールでき、成長判定にボーナスがかかります。



 「ハスターの招来」習得からおよそ一か月。

 後学期も半分を過ぎると、一週間の半分は肌寒い日になる。王都近郊は一年を通して寒暖差が少ないとはいえ、制服の夏用ズボンを厚手の冬用に替えるか悩む頃合いだ。

 

 食堂は調理場の熱や生徒たちの体温でやや暑いくらいだったのに、教室棟へ向かう道中は風が冷たい。

 左右をルキアとステラに挟まれているから直撃ではないけれど、それでも少し冷える。

 

 くしゃみをすると、ステラに左手を取られた。

 彼女の体温が指先や掌を通じてじんわりと伝わり、身体の芯から温まるような感覚に包まれる。あぁ、これが理解者と触れ合う感覚なのかと、フィリップは彼らしくない感傷に浸る。

 

 直後、ルキアから答え合わせがあった。

 

 「体温の直接操作なんて、貴女らしくないんじゃない? ステラ」

 「最近覚えた芸なんだ。試したくなるものだろう?」

 

 ──不正解だった。

 美しい人間性を持ちフィリップにとっては憧れの対象であるルキアに手を握られても、或いは抱擁されても、大した感動を持たなかったのだ。フィリップが同族意識を持つ、つまり価値を感じない相手であるステラに手を握られた程度で、感動するわけがなかった。

 

 「絶世の」という形容が何の不足も無く似合う美少女二人に両手を取られて平然としているのは、フィリップの心にマザーが──人外の美が刻み付いているからだろう。恋を知る前に邪神の愛を知り、価値観や視座だけでなく美的感覚まで歪められていた。

 

 とはいえ、何の感情も抱かないわけではない。

 自分より背の高い、年上の人間二人に挟まれて手を繋いで歩くというのは、地元に居た頃によくあったことだ。父と母、兄と母、兄と父。手伝いをしていなかった時分は、宿泊客に遊んでもらったこともある。今や思い出すことも少なくなった、懐かしい思い出だった。

 

 ……最近では、ナイ神父と手を繋ぎたがるモニカの間に割って入るとか、マザーとナイ神父に挟まれるとか、嫌な思い出ばかりだが。

 

 「相手が魔術師だと耐性があるから、練習できなくて困ってたんだ」

 「耐性? 貴女の魔術強度を上回るような相手がいるの?」

 

 望郷の念に駆られているフィリップを挟んでの問いに、ステラはにっこりと笑った。

 フィリップでさえ不信感を覚えるその態度に思考を促され、ルキアは一瞬で答えに辿り着く。

 

 「待って? じゃあ一昨日辺りからやたらと私の身体に触れたり、抱き着いてきたりしたのは……」

 「“最悪を想定して訓練せよ”とは良く言ったものだな。お陰で秘匿能力も操作能力もこの通りだ」

 

 明朗快活に笑うステラに対して、ルキアは呆れと感心が綯い交ぜになったような複雑な表情を浮かべていた。

 

 「私の魔力感知を掻い潜ったことは素直に凄いと思うけれど……私とフィリップじゃ、耐性が違い過ぎるでしょう? この子の血が沸騰したらどうするつもりだったの?」

 「そこまでのミスはしないさ。なぁ、カーター?」

 

 同意を求められても困る。

 ステラの技量は人類最高であると胸元の聖痕が保証してくれるとはいえ、ルキアとフィリップでは何から何まで違う。身長や体重、血液量といった物理的要素もそうだし、魔力の量や質も段違いと言うか、格が違う。ルキアで積んだ経験がフィリップで活きるとは、ちょっと考えにくい。

 

 しかし、彼女はルキアに並ぶ天才だ。

 経験など無くとも、天性のセンスだけで問題を解決できるだろう。現に、彼女の魔術は完璧に成功している。寒さは消え、しかし暑くはない素晴らしい調整だ。

 

 「あははは……。まぁ、やり過ぎて発熱したりしたら、ちゃんと保健室まで運んでくださいね?」

 「その時は私とルキアが責任を持って看病するさ。ちゃんと医者に見せた後でな」

 

 そんな会話をしながら教室に入り、いつもの席へ座る。

 これまではフィリップが窓際でルキアが真ん中だったのが、あれ以来はフィリップが真ん中になっている。別にそれが嫌というわけではないけれど、難解な授業から逃避しようと景色に目を向けたとき、ほぼ確実に「仕方ないわね」みたいな慈愛に満ちた微笑のルキアによる解説が入るのだ。それでは逃避どころではない。

 

 しばらく駄弁っていると、教室前方の扉がからからと開き、ナイ教授がぽてぽてと入ってくる。

 ここ最近の彼女はフィリップが「ハスターの招来」を習得したことで満足していたのか、補習を課すことは無かった。それでもふとした瞬間に「糞袋を二つもお傍に置くのは感心しませんよぉ」とか、「もう少し見る目を養いましょうねー」とか、色々と五月蠅く言ってくる。

 

 「おはようございます、みなさん!」

 「おはようございます!!」

 

 クラスに向かって快活な挨拶を投げかけたナイ教授に、クラス全員が怒鳴り声寸前の声量で挨拶を返す。

 例外は「うるさいなぁ」とうんざりしたように顔を背けるフィリップと、フィリップの黙秘の甲斐なく「ナイ神父が化けている」と悟った二人だけだ。──正確にはナイ神父もナイ教授もナイアーラトテップの化身なので、『ナイ教授=ナイ神父』ではなく、『ナイ神父⊂ナイアーラトテップ⊃ナイ教授』と表記すべきだが、わざわざ詳細を教えて正気度を減らす必要は無いだろう。

 

 二人はナイ教授が担当するホームルームと魔術理論基礎の時間中、いつもより人一人分近くに寄ってくる──つまり、ほぼ密着してくる。

 それを見たナイ教授が極彩色の視線を送り、それに怯えた二人がいっそう身を寄せてくる負の連鎖だ。クラスメイトはナイ教授に視線を奪われているし、二人も他の授業でそんなことをしないので、今のところ問題にはなっていない。

 

 もしこれが歴史や神学といった退屈な授業だったのなら、二人の体温を感じながら心地よく眠ることになるだろう。

 そう予測される程度には眠気を呼ぶ温かさではあるが、その程度だ。抱き着いたり手を取ったりはしてこないので、板書もできる。

 

 何も連絡事項のない朝礼時間。ナイ教授が他愛のない話をして、クラスメイトが大袈裟に反応するだけの時間が過ぎていく。

 所定の時間、律儀に教室で話している必要も無いだろうに。さっさとどこかへ行ってくれ。

 

 そんなフィリップの願いを聞き届けたようなタイミングで、朝礼終了の鐘が鳴る。

 ナイ教授が手と尻尾を振りながら教室を出て、扉が完全に閉まってから、二人が何事もなかったかのようにすっと離れる。

 

 直後。

 

 「はわわ! 言い忘れたことがありましたぁ!」

 

 小さな歩幅で懸命に、しかし変わらずぽてぽてという擬音の付きそうな走り方でナイ教授が駆け戻ってきた。

 

 数秒前に離れた二人がびくりと震え、すっと近寄る。

 フィリップがそうだったように彼女たちもそのうち慣れるだろうが、あまりにもストレスなようなら、ナイ神父に関わる記憶だけでも処理してもらうべきかもしれない。

 

 その場合は事故に見せかけて排除してしまいそうなナイ神父ではなく、マザーを頼ることになるだろう。

 そういえば、ルキアはマザーを知っているけれど、ステラに人外の知人はいない。彼女も紹介すべきだろうか。……いや、彼女の方から言ってきたならともかく、フィリップがそれを勧めることはない。わざわざ残り少ない正気をすり減らさせる必要はないのだから。

 

 照れ隠しに取り留めのない話をするナイ教授と、それを真剣に──でれでれと締まりのない顔で聞くクラスメイトに辟易としながら、本題を待つ。

 

 「おっと、そうでした! 本題はですねー……」

 

 ナイ教授は少し言葉を溜め、クラス全員の関心を惹く。この場合の「全員」にはフィリップも含まれており、フィリップが窓の外に投げていた視線を戻したタイミングで言葉を続けた。

 

 「来週の月曜日から一週間、軍学校との交流戦があります! いえーい! ぱちぱちぱち」

 

 ハイテンションに拍手するナイ教授と、それに合わせるクラスメイトたち。

 一頻り拍手を終えたあとで、一人の生徒が手を挙げた。

 

 「せんせー、交流戦ってなんですかー?」

 

 「確かに」「なんだっけ」と、クラスの半数ほどが顔を見合わせて囁き合う。

 フィリップも聞き覚えの無い単語ではあるが、フィリップはそもそも入学前にカリキュラム関係の書類を読んでいない。何年次にどんな授業があるのかも知らなかった。

 

 生徒の質問に、ナイ教授は自慢げな表情で高らかに答える。

 

 「それはですね! 王都が擁するもう一つの学校、いずれ軍幹部となる士官候補生を養成する教育組織、軍学校と交流するプログラムなのです!」

 

 



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107

 王国では「軍隊」という言葉の含意が広い。

 

 まず真っ先に思い浮かぶのは、王城および各地の王家直轄地に配備される王国騎士団だろう。特に王城や宮殿などに詰め、王家の人間を護衛する役割を持つ近衛騎士団もここに含まれる。

 

 王都の住民には、騎士団より衛士団の方が身近な存在かもしれない。彼らは平時は王都内の治安維持を、戦時では王都防衛の最前線を任される、王国最強の武装組織だ。

 

 王都外では、その土地を管轄する領主が率いる領主軍が、魔物や他国の斥候などを警戒している。万が一他国と戦争になった場合は、まずは彼らが戦線を維持する役割を担う。その後、複数の領主軍を束ねた「王国軍」が派遣される。

 

 王都が擁する軍学校は、主に騎士団を志す人間が所属する教育組織だ。

 魔術の才に恵まれた人間は半強制的に魔術学院へ入学し、宮廷魔術師を筆頭とした魔術関連の職に就くのが殆どだ。逆に、魔術の才に恵まれず、しかし王都で暮らしたい人間や国の為に働きたいという志を持った人間は、軍学校の門を叩く。

 

 「……と、言ったところか。魔術学院同様、教育水準は極めて高い。主に教えるのが魔術か武術かと、あとは男女比が違うくらいか」

 

 クラスメイトたちがナイ教授の説明になっていない言葉に困惑していた傍ら。

 交流戦が何なのかを知らない以前に、まず軍学校とは何ぞやという段階のフィリップは、ステラからそんな教えを受けていた。

 

 フィリップに前提となる知識がインプットされたのを見計らい、ナイ教授が説明を加える。

 

 「来週一週間、王都近郊の演習場で合宿をすると考えてください。軍学校の生徒さんとペアを組んでの訓練、ペア同士での模擬戦、6人ずつグループを組んでの訓練、グループ同士での模擬戦が予定されています」

 

 フィリップは「へぇ」と興味をそそられた様子だが、ルキアは面倒そうにしていた。内容を知っていたらしいステラは、そんなルキアに呆れ笑いを向けている。

 

 「お前も従軍経験はあるんだから、交流戦の意義は分かるだろ?」

 「意義は分かるけれど、私や貴女が参加する意味は分からないわね」

 

 ステラは冷たく言い放ったルキアに苦笑を向け、その二人の間で困惑しているフィリップに気付く。

 「意義……?」「意味……?」「仲良くなるイベントではない……?」と、声に出さずとも顔に書いてあった。

 

 「カーター、魔術師の一番の強みは何だ?」

 「手札の多さですね!」

 「……射程の長さよ」

 

 即答したフィリップに苦笑しつつ、ルキアが正答する。

 確かに魔術師は一人で何通りもの攻撃法を持ち、戦闘のみならず日常生活や野営時などでも高い汎用性を持つ。それは騎士には無い強みの一つだが、問題は「一番の強み」だ。

 

 長射程攻撃こそ魔術の神髄だ。

 たとえば射程1の攻撃手段を100種類持っている魔術師と、射程2の攻撃手段を10種持つ魔術師。決闘のような特異な状況を除き、戦えば高確率で後者が勝つ。

 

 そんな魔術師が戦争に於いてどのような役割を持つかといえば、後方に配置され敵軍を遠距離から砲撃する以外にない。

 剣も槍も弓も可動大砲も届かない場所から、火球や岩塊や氷槍を降らせる魔術師は、戦況を左右する大きな要因だ。彼ら無しに戦争を始める国家はないし、場合によっては魔術師の質と数だけを見て降伏した歴史もある。

 

 「では弱みは? ……あぁ、私やルキアを基準に考えるなよ」

 「あ、はい。えっと……打たれ弱いこと、ですか?」

 

 今度はルキアが口を挟むことは無く、ステラも満足そうに頷く。

 

 「そうだ。基本的に、魔術師は剣術や槍術より魔術に重点を置いて鍛える。純粋に武術のみを鍛えた騎士と正面から戦って勝てる道理はない。身に付けられるのも精々がスケイル・アーマーまでだ」

 

 騎士が身に付けるフルプレート・アーマーは全重量が30キロにも及ぶ。訓練された兵士でもかなり体力を消耗する代物だ。当然ながら、基礎体力を付ける程度の授業しかない魔術学院生、延いては魔術師が身に付けて動けるものではない。

 ヘルムは視界を遮り魔術照準の妨げになるし、熱がこもると脳の働きに影響が出る。熱中症にでもなれば、魔術戦どころか自力での撤退も難しい。

 

 「だから魔術師が自分の射程から一方的に攻撃できるように、前衛が要る。戦争でその役割を担うのが騎士団だ」

 「学生の内から連携訓練をしておこう、ってことですか。……なるほど、じゃあ確かに、ルキアが行く意味はあんまりないですね。殿下もですけど」

 

 ルキアは最高位貴族、ステラに至っては次期女王だ。戦地に行くことなど無いだろう。

 そう考え、ふと引っ掛かりを覚える。

 

 「ん? でも、ルキアは従軍経験があるんでしたっけ?」

 「えぇ、あるわよ。と言っても、それこそ後方から何発か魔術を撃った程度だけれど」

 

 まぁそうだよねと納得したフィリップの耳元に口を寄せ、ステラがひそひそと囁く。

 

 「こんなことを言ってるが、こいつはその後方から『粛清の光』を一発、『明けの明星』を一発撃って、1万近い兵士を殺した『粛清の魔女』だぞ」

 「おー……」

 「別に誇るような戦果でも無いでしょう。一撃で敵軍中央、私と同数の敵を焼き払った『恒星』、『撃滅王女』に褒められるのは光栄だけれど」

 

 自慢するでなく、卑下するでもなく。ただ淡々と事実のみを述べる──一万もの人間を殺したと、何の感情も抱かずに言う二人。

 人が聞けば、大量殺人者に対する恐怖や忌避感、或いはそれだけの力に対する羨望や畏怖を持つことだろう。そんな一般の感性を、フィリップが持ち合わせるはずもないのだが。

 

 「こ、『恒星』に『撃滅王女』ですか。それはまた……」

 

 少年心を擽られたフィリップが、目をきらきらと輝かせてステラを見る。

 冒険譚を読みこんで育った少年の感性には共感しかねたのか、流石のステラも困惑の表情を浮かべていた。

 

 「あー……二つ名が気に入ったのか?」

 「はい! かっこいいですよね、二つ名って! 『明けの明星』とか『シュヴェールト』とか!」

 「ふむ……『椿姫』、『聖十字卿』辺りも好きそうだな」

 「かっ……かっこいい……!」

 

 フィリップの好む傾向を即座に割り出したあたり、ステラの観察力は一級品だった。そこ止まりで、共感は出来そうになかったが。

 

 「フィリップくーん? 私語は慎んでくださいねー?」

 「あ、はい……すみません」

 

 興奮しかけていたフィリップに冷や水を浴びせ、ついでにルキアとステラを委縮させきって、ナイ教授は満足そうに頷く。

 あれは多分、フィリップが楽しくなり始めた瞬間を見計らっていた。

 

 「……ごめんなさい、怒られちゃいました。あとで詳しく教えてください」

 

 ごにょごにょと二人に耳打ちして、ナイ教授に視線を戻す。

 彼女はそんなフィリップに多少不満そうな表情を向け、しかし何も言わずに説明を再開した。

 

 「軍学校の生徒さんたちは耐魔力、魔術耐性が低いですから、模擬戦では攻撃力の低い魔術を使ってくださいね。Aクラスの皆さんなら、初級魔術でも十分だと思います!」

 

 まぁ当然だよねと無言のうちに納得しかけたフィリップだが、すぐに自分はその範疇ではないと思い至る。

 フィリップが現状使えるのは初級魔術が数種類──使えるというか、「失敗なりに使い道がある」というだけだけれど。あとは対人用の領域外魔術が二種類と、召喚魔術が二種類。

 

 仮に軍学校生の振るう模擬剣が殺傷力5くらいだとして、失敗する初級魔術──日常魔術は0。対人攻撃魔術は50。召喚魔術は……1000ぐらいか? 

 

 カリストの一件もあり、フィリップはクラス内で「特殊な系統の魔術に特化した教育を受けた教会関係者」として認知されている。

 魔術実技の授業は教員だけでなくルキアとステラも補助に付き、模擬戦の授業ではルキアとステラが魔術戦についてレクチャーするという、もはや一人だけ別カリキュラムのような有様だ。そもそも召喚物の制御を身に付けるために入学したので、特別カリキュラムであることに違和感はないが。

 

 さておき、フィリップは現在に至るまで、まともに模擬戦をしたことがない。

 ダンジョンの魔物や道中で遭遇した奴隷商と戦ったことはあるけれど、あれは半ば虐殺というか、一方的な殺戮に近かった。最近では「ゾス星系よりのもの」、半年ほど前には悪魔が敵対してきたものの、戦闘以前に召喚物が勝手に殺した。そう考えると、戦闘経験すらほぼゼロだ。

 

 「ナイ教授、僕も参加なんでしょうか」

 「勿論ですよー」

 

 くだらない質問だと言いたげに、にこにこと笑いながら答えるナイ教授。

 これがナイ教授或いはナイ神父の立案したものなら「何人か殺してこいということか」と困惑するところだが、学院の決めたイベントで、ステラが言うには明確な意義のある課外授業だ。

 

 「というか、君は実技方面の単位が危ないので、出ておくに越したことはありませんよー。参加するだけで二単位が出るそうなのでー」

 「……ちょっと魅力的ですね」

 

 現在、後期の中間試験を終え期末試験の見え始める時期──進級を気にし始める頃合いだった。

 別に赤点を取ろうと留年しようと誰が死ぬわけでも無し、知ったことかと思う気持ちもある。しかし、今や魔術学院にはナイ教授という高ストレス源が現れ、フィリップにとっての聖域では無くなったのだ。ちゃんと三年で卒業し、せめてナイ神父にしか会わない環境にしておきたい。

 

 それに、万が一退学なんてことになれば、フィリップに貼られた『爆弾』のラベルが剥がれない。良くて今後一生、あの魔力吸収用のごつい腕輪と一緒に暮らすことになる。最悪、地下牢へ逆戻りだ。そんな非人間的な暮らしに嫌気が差した時点で、王都は壊滅するが。

 

 「体調不良になるご予定があれば、腕利きの神官さまをお呼びしますよー」

 「は? 体調を崩すかどうかなんて、人間には予想できないでしょう。予定を組むなんて尚更」

 

 クラスメイトの大半が理解した「ずる休みはさせないぞ」というジョーク──フィリップに対しては「マザーかもしれないぞ?」という二重の牽制になるはずだった──はしかし、仮病を使おうと考えない程度には真面目なフィリップの性格によって効果を発揮しなかった。

 

 「フィリップくんは来週までに何か一つでも、初級魔術を使えるようになりましょうねっ!」

 「……頑張ります」

 

 ルキアだけでなくステラまでもが──人類最高の魔術師二人が教導してくれているのだ。

 そろそろフィリップの隠れた才能が開花するとか、ここまで積み上げた努力が実を結ぶとか、そんな感じの何かしらで中級魔術くらい使えるようにならないだろうか。「ならない」と、その二人の人類最強は知っているわけだけれど。

 

 ともかく、そんな甘い希望を胸に、一週間頑張るぞと気合を入れる。どうにもならなかったら、模擬戦相手にはナイ教授を指名しよう。

 「先生と組みましょう」という奴だ。

 

 



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108

 週末をすべて魔術の訓練に充て、月曜日を迎えた。

 結論から言って、フィリップはなんと初級魔術を二つ、習得することができた。

 

 一つは『魔法の水差し(マジック・ピッチャー)』こと『ウォーター・ランス』。

 一つは『魔法の火種(マジック・ティンダー)』こと『ファイアー・ボール』。

 

 今までであれば魔術は失敗し、モニカの名付けた別称通りの効果しか齎さなかった。コップを満たし、蝋燭を灯す程度の効果しか。

 しかし、今は違う。フィリップは見事、コップ一杯分程度の水と、指先程度の炎を、射出できるようになったのだ!

 

 ステラは言う。「射程限界が10メートルそこら、射出速度は秒速5メートル程度、威力はパンチ以下。……あれだな、実戦時には石でも拾って投げた方がいい」と。

 ルキアは言う。「敵を殺すなら『深淵の息』と『萎縮』で十分なんだから、あんまり気にしないで」と。

 

 そして二人は口を揃える。「撃つだけ無駄だから、戦闘時には魔力を温存すべきだ」と。

 

 ──まぁ、確かに。シュブ=ニグラスとまでは行かずとも、クトゥグアやハスターといった切り札を使うのにも、魔力は必要だ。召喚魔術に必要な魔力量は、ハスターがクトゥグアの約1.5倍。これは強さではなく、魔術の洗練具合による差異だ。

 そしてコップ一杯分の水を10メートル飛ばすのに必要な魔力量は、ハスター召喚のおよそ倍である。

 

 「結局、模擬戦の対策はできませんでしたね……」

 

 かたかたと馬車に揺られながら、左隣に座ったルキアと、正面に座ったステラに話しかける。

 

 フィリップたちが乗っているのは6人乗りの小さなキャラバン型馬車で、他にもAクラスの生徒が3人いる。魔術学院は立場や血筋ではなく魔術の才のみで自らを誇れという校訓があるからか、こういったイベントでは高位貴族も平民も一様に安い馬車に押し込められる。ダンジョン試験の時もそうだった。

 安いと言っても、造りも輓馬も立派なものだ。フィリップが王都に来るときに使った乗合馬車なんかとは比べ物にならない。とはいえ、それでも尻は痛くなるが。

 

 「まぁ、模擬戦はつまり、実戦の為の訓練だ。その実戦で十分に戦えるなら、模擬戦は必要ないからな」

 「「敵を殺せる」だけですよ。敵「も」殺せると言い換えたっていい」

 

 ルキアは以前に話した王都の一角を焼き払うに至る召喚物の暴走事件を、ステラは自分の目で見てしまった召喚物を思い浮かべ、二人は苦笑と共に納得する。

 

 「まさか、模擬戦の相手が決まってたなんて……」

 「あぁ……ナイ教授は、たぶんわざと黙っていたな」

 

 フィリップの嘆息に、ステラが同調する。

 

 今回の交流戦、主催は魔術学院ではなく軍学校の方らしい。

 大枠だけでなく細部まできちんと詰めたプランを用意しているのは、教師陣としては高評価なのかもしれないけれど──「いつも通り、ルキアかステラと組んで適当にやり過ごそう」と考えていた不真面目な生徒にとっては迷惑な話だ。

 

 二人もそのつもりだったのか、先週の訓練ではとにかく「他人の目があるところで魔術を撃てるようにする」というのが最優先課題だった。尤も、彼女たちがフィリップを戦地に赴かせる気概で鍛えたとしても、フィリップの魔術は未だに実戦使用域に無いままだったろう。才能の壁はそれだけ高い。

 

 「まぁ、負けたところでペナルティがあるわけでもないので……対戦相手とペアの人には悪いですけど、さっさと降参すればいいですよね」

 

 そうだな、と軽く同意したステラとは違い、その案が美意識に適わなかったルキアは曖昧に笑うに留めた。

 とはいえ、それ以外に選択肢がないのも事実だ。まさか模擬戦で演習場全体を焼き払うわけにもいかないし、参加者全員を発狂させるわけにもいかない。決闘とは違う模擬戦だ、相手を殺すことも許されない。

 

 「最悪の場合はよくある訓練中の事故として処理するから、好きにしていいぞ」

 

 三人の会話を聞かないように、しかし三人の会話を妨げないように、必死に声量を調整して会話を続けていた他のクラスメイトたちの「ひゅっ」と息を呑む音が聞こえた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 しばらく雑談をしながら馬車に揺られていると、遠くの方から元気の良い声が聞こえる。

 それは一度ではなく、また一人でもない。複数人が連続して声を張り上げているようだ。注意深く聞くと、どうやら「おはようございます」と叫んでいるらしい。

 

 幌の付いた荷台から見えるのは後ろにいる馬車を牽く馬の──なんだか嫌そうに見える──顔と、御者席越しの前方だけ。前にいるのもAクラスが乗る同型の馬車で、二年生-一年生-三年生という並びの中央やや前あたりだ。その後部できょろきょろしているクラスメイトが見えるばかりだ。

 

 しかし、少しカーブを曲がると、途端に景色が切り替わる。

 端的に言って、そこにあったのは「壁」だった。王都では滅多に見ない、錬金術製でない純粋な石を建材にして作られた、灰色の城壁だ。上部にはツィンネが据えられ、回廊があることが分かる。

 

 「演習場って、もしかしてここですか? これ……砦、ですよね?」

 「あぁ。世にも珍しい正四角形の要塞として、それなりに有名だったんだぞ? 街道再編と防衛力の欠如が指摘されたことで廃棄され、今では軍学校の合宿所だが」

 

 「へぇ」と適当な相槌を打ち、視線を馬車の中に戻す。

 それから数分程度で、フィリップたちを乗せた馬車が砦の正門へ到着した。

 

 砦は四隅に円形の塔があり、それらを結ぶ四辺が回廊付きの城壁という造りだ。正門の対角線上にもひときわ大きな塔があり、そこが砦の中枢部なのだと分かる。

 

 正門は金属で補強された木製だが、手入れが行き届いていて、朽ちや錆びは一つも見受けられない。圧迫感のある外観の割に、小綺麗に整えられている。尤も、これで汚かったら刑務所か何かと見間違うこと請け合いだけれど。

 

 先ほどから聞こえていた声の正体は、扉の内側で車列を挟むように整列していた軍学校の生徒たちだった。

 誰かが馬車から降りるたび、一定数の生徒が「おはようございます!」と叫んでいる。魔術学院生、中でも軍学校と関わりの無い生徒や体育会系のノリについて行けない生徒が、時折びくりと驚いていた。

 

 「おはようございます!」

 「……おはようございます」

 

 フィリップが馬車を降り、座りっぱなしだったせいで痛む尻を擦っていると、近くに居た生徒が挨拶してくれる。

 大多数の魔術学院生が苦笑と会釈で済ませるなか、その声量につられて視線を合わせてしまったフィリップは挨拶を返すしかなかった。

 

 「……っと」

 

 思い出したように、というか事実、思い出して。フィリップは馬車の荷台へ右手を差し伸べる。

 

 タラップを降りる女性に対するエスコート──の、真似事だ。

 装飾華美なコーチ型馬車ではなくキャラバン型の荷馬車で、タラップも備え付けの出っ張った板でしかない簡素なものでは、以前にルキアがしてくれたような見栄えの良いものにはならなかった。

 

 先んじてルキアがその手を取り、軽やかに馬車を降りる。

 キャラバン型馬車が白馬の引く絢爛豪華なものに、だだっ広い砦の中庭が王城のエントランスに見えるほど、翻る銀髪がとても絵になっていた。

 

 「ありがとう」

 「えへへ、ルキアの真似ですけど。どういたしまして」

 

 ルキアは少し横に逸れ、フィリップの左手を握る。

 フィリップが続けてステラに手を伸ばすころ、整列していた軍学校の生徒たちがにわかに騒ぎ始めた。

 

 「さ、サークリス聖下!? ど、どうしてこのような……!?」

 「あれ、最低等級の馬車じゃないのか……?」

 「そんなことより、先輩たち呼んでこないと……!」

 

 あわわはわわと慌てふためく生徒たちを無視して、ステラがフィリップの手を取り、ふわりと着地する。

 

 「騒がしいが、トラブルか?」

 「えーっと……」

 

 そう思うのなら、彼女は安全が確認されるまで馬車の中で待っているべきだったのではないだろうか。……いや、違うか。幌付きの荷台にいては視界が狭くなる。世界最強の魔術を存分に振るい身の安全を確保するために、わざと姿を晒したのだろう。並大抵の魔術は素の耐性だけで無効化できるし、弓矢どころか破城槌が降ってきても、彼女たちの魔力障壁であれば防御可能だ。

 

 フィリップと同じ絶望を抱いていても、彼女の合理性に曇りはない。

 

 さておき、この喧騒に似たものには覚えがある。

 フィリップが丁稚をしていた頃に、買い出しやら伝達やらで外出したり、休日にモニカに連れられて投石教会へ行ったときのことだ。妙に騒がしい空間があると、そこには大体ナイ神父かマザーがいた。

 

 彼らを遠巻きに見つめる人々が見せる、美しいモノに惹かれ群がる人間の表情。

 いま軍学校の生徒たちが浮かべているのは、まさしくそれだった。

 

 「美形はいるだけでトラブルみたいなものというか、むしろ二人は慣れっこなのでは?」

 「「美形」とは、面白い言い回しだな」

 「……あはは」

 

 確かに、ルキアとステラを指して言うなら「美人」でいい。脳裏にナイ神父とマザーが浮かんでいたから、思わず男女問わず使える言葉が出た。

 

 「逆に、魔術学院の生徒が私たちに慣れていたからな。こういう反応は久し振りだよ」

 「そうね……誰もがフィリップくらい落ち着いていてくれると静かなのだけれど」

 

 誰もが美人を見たときに「マザーの方が綺麗だな」とか思うようになったら、人類は終わりだ。

 

 



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109

 他の生徒が軍学校生に案内されるなか、フィリップ一行は馬車を降りた位置で放置されていた。

 いや、他の生徒について行こうとすると「申し訳ありません、ここでお待ちください」と止められるので、放置とは少し違うか。無為な退屈に慣れていない子供や、最高級のもてなしを受けて然るべき立場の聖人でなくとも、それなりに気分を害する扱いだ。

 

 少年心を擽る厳めしい砦の内装や、遠くに見える模擬剣置き場、弓矢の練習場などを見て回りたいのだけれど──流石に、招かれた場所でふらふらするのは子供っぽすぎる。

 

 しばらくきょろきょろしていると、塔の一つから幾人かの生徒が姿を見せ、慌てた様子でこちらへ走ってくる。

 彼らは少し手前で歩調を緩め、制服の襟を正すと、二人の前で深々と頭を下げた。

 

 「ご無沙汰しております、ステラ・フォルティス・ソル=アブソルティア聖下。お初にお目にかかります、ルキア・フォン・サークリス聖下。この度は私の後輩が粗相をしてしまい、申し訳ございません。両聖下のお乗りになる馬車が見え次第、私どもを呼ぶよう申し付けていたのですが」

 

 代表して謝罪したのは、後から来た一人の少年だ。

 王国人としては一般的な金髪碧眼で、よく鍛えられた体つきをしている。軍学校の制服をきっちりと着ており、短めの髪は几帳面そうな七三分けに固められていた。

 

 彼は謝罪を終えると、流れるような所作で跪く。

 それから数秒遅れで、他の生徒たちも彼に倣った。

 

 「私、軍学校にて首席を戴いております、アルバート・フォン・マクスウェルと申します。この度は両聖下にお目見えする栄誉に与り、光栄に存じます」

 

 胸に手を当てた最敬礼に、フィリップは妙に見覚えがあった。

 しかし、いま触れられているのは「聖下」の二人のみ。フィリップは無関係でいられている。

 

 「覚えのある名だな。レオナルドの長子か」

 

 ステラの挙げた名前に、何故かフィリップも覚えがあった。

 聞き覚え──ではない。誰かの声と共に記憶されているのではなく、何かで読んだような気がする。

 

 フィリップが本格的な記憶の検索に入る前に、アルバートが答え合わせをしてくれた。

 

 「はっ。ご賢察の通り、王国近衛騎士団長レオナルド・フォン・マクスウェルは私の父にございます」

 

 それだ! と内心で指を弾くフィリップ。

 読んだのは衛士団の拘置所、フィリップの釈放と拘留代替措置の執行にまつわる書類の、作成者署名で見た名前だった。衛士団長にボコ……脅……言いくるめられた人だ。

 

 「ふむ。……それで、私たちはどうすればいいんだ?」

 「両聖下は女子用宿舎へ、お連れの方は男子用宿舎へ、荷物を置いて頂けますでしょうか。その後は、この中庭に再集合となります」

 

 アルバートは背後を見遣り、二人の女子生徒を指名する。

 

 「彼女たちに案内させます。お連れの方は私がご案内しましょう」

 「そうか。……後でな、カーター」

 「また後でね、フィリップ」

 

 恐縮した様子で先導する女子生徒と、未だ頭を上げない他の生徒たちが周りにいると、去っていく二人に手を振り返すフィリップは異様に目立っていた。

 二人が十分に離れたころ、軸のブレがない機械のような動きでアルバートが立ち上がり、他の生徒もその気配を感じて立ち上がる。

 

 「では、我々も参りましょう。……失礼、お名前をお聞きしておりませんでした」

 「フィリップ・カーターです」

 

 その名乗りに、アルバートを除く幾人かの生徒が表情を動かす。

 疑問、侮蔑、嫉妬、猜疑、嘲笑、憤怒。好意的なものは一つも無かった。

 

 「では、カーターさん。参りましょう」

 

 アルバートの先導に従って歩き始める。少し歩いて生徒たちの群れから離れた頃、彼は徐に「失礼ですが」と問いを投げた。

 

 「失礼ですが、御幾つですか? その……学院入学の規定年齢である14歳には、どうしても見えないもので」

 「今年11歳になりました。ちょっとトラブルがありまして」

 

 詳しく聞いてくれるなという言外の圧には気付いてくれたのか、アルバートは「そうでしたか」と相槌を打つに留めた。

 

 「交流戦と言うと模擬戦がメインのように感じられますが、主目的は物理前衛・魔術後衛ペア、および小隊規模での戦闘訓練です。体格・体力が劣る──失礼、他の生徒より未発達な年頃では、過酷なものになるでしょう。特別な配慮などはできませんが、限界だと感じたら早めに医務室へ行かれることをお勧めします」

 「あ、はい。ありがとうございます」

 

 宿舎──と言っても、砦外壁を構成する円形塔の一つだが──に入ると、既に中にいた生徒たちがぎょっとしたように姿勢を正し、アルバートに敬礼する。

 それにきっちりとした所作の返礼をしてから、彼は壁に貼られた一枚の紙を示した。

 

 「こちらが部屋割を書いた表になります。男子・平民用宿舎は原則二人部屋、カーターさんの部屋は……203号室、ペアはウォード・ウィレットですね」

 「男女だけじゃなくて、貴族と平民でも分かれてるんですね」

 「はい。自分の部屋がある宿舎以外に立ち入った場合は罰則が課せられますので、ご注意ください」

 

 罰則規定があるあたり、過去に試みた人間がいるのだろう。

 魔術学院でも年に一度は何も知らない新入生が先輩に焚き付けられ、思い人の部屋へ突撃する事案があるらしい。学生寮の入口や窓には学院長の設置型魔術が敷設されており、ルキアやステラのような同格でもない限り突破不可能なので、医務室に搬送されるらしいが。

 

 「では、失礼します」

 「案内、ありがとうございました」

 

 互いに頭を下げて、アルバートは外へ、フィリップは自分の部屋へ向かう。

 

 部屋は両サイドにベッドが並び、その真ん中に小さなテーブルがあるだけの簡素なものだ。居住空間としての快適性を追求した学院の寮とは違い、一日の終わりに帰ってきて寝るためだけの場所に思える。

 事実、風呂・トイレは共用だし、食事は食堂で取ることになっている。ここは本当に寝る場所でしかなかった。

 

 扉を開けて数歩も入ればベッドに当たる小さな部屋でありながら、掃除が行き届いていない。部屋の角には埃が溜まっているし、木製の壁や床にはささくれが目立つ。迂闊に触れば怪我をしてしまいそうだ。

 元宿屋の従業員としては、清掃担当者の怠慢を主人に報告したくなるところだけれど──ここには清掃担当も主人もいない。

 

 綺麗で快適な学院寮に慣れていたからか、ちょっと我慢ならない。

 幸い、同室のなんたらさんはまだ来ていないようだ。廊下に掃除用具入れがあったし、手早く済ませてしまおう。

 

 「地下牢より汚いってどういうことなの……うわ!?」

 

 足元をカサカサと虫が這い回り、咄嗟に踏み潰して殺す。

 虫の出ない学生寮やタベールナではやる機会のなかったことだが、田舎町では綺麗にしていても虫は出る。変に隠れられる前に殺すという癖が染みついていた。

 

 「ルキアと殿下、大丈夫なのかな……」

 

 ステラは王族であり、常に最高級の饗応を受ける身だ。そこに聖人という立場まで加わっているのだから、こんな暮らしは初体験だろう。ただ、彼女は常に合理的に動く。不愉快だからという理由だけで力を揮うことは無いだろう。

 問題はルキアだ。フィリップが「ここは人間の住む場所ではない」と感じたように、彼女は当然ながら「美しさの欠片も無い場所だ」と感じることだろう。

 

 女子・貴族用宿舎が今すぐ吹き飛んだとしても驚かない自信があった。

 

 部屋を出ると、同じ考えの人が何人か居て、道具入れに並んでいた。

 フィリップも並び、必要な道具を取って戻る。

 

 その数十秒の間に来ていたようで、部屋には人影があった。

 特に珍しくも無い金髪に碧眼の少年だ。フィリップより背は高いが、15歳だと考えれば平均くらいだろう。それなりに整った顔立ちは部屋の汚さによって困惑の表情に歪められていた。

 

 彼はこちらに気付くと、穏やかな微笑を浮かべる。

 

 「あ、初めまして。フィリップ・カーター君……だよね?」

 「はい。ウォード・ウィレットさんで間違いありませんか?」

 

 彼はにっこりと笑って頷き、まず自分の右手を見て、それから左手を差し出した。

 

 「おっと、ごめん、手が汚れてるんだ。握手はこっちで」

 「あ、はい。一週間よろしくお願いします」

 

 ウォードが撫でたらしく、テーブルに薄く積もっていた埃に跡が残っている。

 

 「汚いですよね、ここ。掃除するので、ちょっと出てて貰えますか?」

 「いやいや、手伝うよ」

 

 言うが早いか、ウォードは道具を幾つか取って掃除を始めた。その手つきに淀みはなく、問題なく任せられそうだ。

 

 黙々と作業を続けること数分。ウォードは沈黙が嫌いな性質なのか、耐えかねたように口を開く。

 

 「あの、カーター君。すごく失礼だとは思うんだけど、君、本当に14歳?」

 「いえ、11歳です。ちょっとトラブルがあって、半ば強制的に入学しました」

 「そ、そっか! そうなんだ……はは……」

 

 ルキアもステラも落ち着きのある性格だが、それ以上にダウナーな部分がある。

 だから何も話さず、何もせず、ただ一緒にいるだけの時間も珍しくはないし、その沈黙も嫌いではなかった。

 

 だがフィリップにとって、相手が「何か話したいけど何を話していいか分からない」と考えていることが明確な、居た堪れない沈黙は苦痛だった。

 

 「……あの、ウィレットさんは、何が得意とかってありますか? 剣術とか、槍術とか」

 「! 基本的な武器なら一通り扱えるよ! モーニングスターとかグレートソードとか、特殊過ぎるのは無理だけど」

 

 「へぇ」と簡単な相槌で済ませようとしたフィリップだが、それでは会話が続かないと言葉を重ねる。

 

 「……軍学校の人って、みんなそうなんですか?」

 「いや、殆どの人は剣術に傾倒するよ。僕みたいに槍も弓も、ってのは少数派かな。……よし、このくらいにして、中庭へ行こうか」

 

 ウォードの提案にフィリップも頷き、掃除用具を片付ける。

 彼の手際は想像以上に良く、普段から家事をしているのだろうと推察された。

 

 中庭では既に全生徒の半数ほどが集合しており、仲のいいグループ同士で集まったり、ペアと話したりと中々に賑やかだった。

 

 「カーター君、仲のいい子とかいたら、そっち行ってていいよ? 多分、整列まで時間あるし」

 「そうですか? じゃあ、ちょっと行ってきます」

 

 さっきから妙に人の群がる場所は見つけていた。問題は、彼女たちから一定の距離を空けて人の壁が出来ていることだ。普段から厳しい訓練を受けている軍学校の生徒がメインの人混みとなると、フィリップが突破できる可能性は低い。どうせさっきの掃除で汚れているし、近付かれていい気はしないだろう。

 

 話すのは食事時でいいやとさっぱり諦めたフィリップは、ずっと気になっていた模擬剣置き場に足を向けた。

 

 



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110

 模擬剣置き場は中庭の端に立てられた小さな木製の小屋で、中には本当に模擬剣しか置かれていない。ランタンなどの光源も無く、小さな窓と入り口から差し込む陽光だけが頼りの、薄暗い空間だった。

 

 置かれているのはスタンダードな片手用のショートソードと、両手持ちにも対応したロングソードのようだ。ソードラックに静置されているのではなく、大きな箱に山ほど詰め込まれている。あとは槍状のものが数本、ラックに懸かっているくらいか。

 ショートソードを持ってみて、これぐらいなら行けそうだぞとロングソードに手を伸ばす。

 

 「いや、キツいっしょ? 持つのと構えるの、構えるのと振るの、振ると戦うのじゃ全然違うからさ」

 

 ロングソードを持ち上げたところで、横からひょいと取り上げられた。

 

 「まずは軽めの剣にしときな? コレ、貸してあげる」

 

 そう言って小ぶりな剣の柄を差し出すのは、快活な笑顔を浮かべた茶髪の少女だった。人好きのする笑顔には屈託がなく、フィリップを馬鹿にしているような感じはしない。しないが──差し出された剣は、小ぶりという言葉ですら過大になるような、ナイフに近い代物だった。

 

 「あ、ありがとうございます……?」

 

 よく見てみると、それはナイフですらない。

 柄から伸びるのは四角錐状の針、或いは杭だった。先端こそ鋭利に尖っているが、刃部というものが存在しない。斬り付けるためではなく、刺し貫くための武器なのだろう。

 

 「ミゼリコルデーっていうんだよ。重装歩兵の脇下とか首元とかを狙う武器でね──」

 「マリー、またマイナーな武器を勧めているの?」

 

 呆れ笑いを滲ませる声に振り返ると、また別な女子生徒がこちらへ歩み寄ってきていた。

 背中まで伸びる金髪が特徴的な、翠色の目をした少女だ。金髪自体はそう珍しいわけではないが、日常的に激しい運動をする軍学校の生徒は大多数が短髪にしている。

 

 「ごめんなさい、この子のことは気にしないで。ソードブレイカーとかショーテルとか、珍しい武器を使いたがる子なの」

 「いやエーギル先輩、アタシはちゃんと使いこなしてるから」

 

 にっこりと笑顔を浮かべて抗議を無視し、エーギル先輩と呼ばれた金髪の少女はショートソードの模擬剣を取り上げる。軽く振って調子を確かめ、柄を向けて差し出してくれた。

 

 「まずは基本の武器で、基本の型を。貴方、魔術学院生……よね?」

 「はい。少しトラブルがあって、編入したんです。11歳です」

 

 誰かと話すたびにこの件を繰り返すのかと辟易としながら、自分より低い位置にあるフィリップの顔を見る、困惑したような視線に答える。

 彼女は納得したように頷き、「そうなんだ」と相槌を打った。

 

 「(わたくし)はソフィー。ソフィー・フォン・エーギル。軍学校の3年生よ、よろしくね」

 「……貴族様でしたか。そうとは知らず、ご無礼をお許しください」

 

 一瞬のラグを挟み、フィリップは身体に染みついた動きで頭を下げる。

 そして内心で喝采する。「危なかった。よく反応できたな、僕。偉すぎる」と。

 

 ここ最近は魔術学院にいて、誰かに話しかけられることは無かった。

 まぁ誰も好き好んで聖痕者にして最高位貴族であるルキアと、聖痕者にして王族であるステラに挟まれている、教会関係者どころか枢機卿の親族という疑いのある年下の編入生──死ぬほど怪しい子供に絡みたくはないだろう。

 

 おかげでルキアとステラに接するような気安い調子で「フィリップ・カーターです」なんて名乗り返すところだった。相手の家格次第ではそれでも許されるが、逆に言えば、相手の家格次第では失礼にあたる。

 

 フィリップの見せた貴族相手ではギリギリ及第点程度の礼に、ソフィーは優雅な返礼を見せた。

 

 「アタシはマリー・フォン・エーザー。軍学校の二年生だよ、よろしくね!」

 

 茶髪の少女、マリーがぴょんと跳ねるように一歩近寄り、自己紹介をしてくれる。

 フィリップは可能な限り丁寧に礼を返してから「フィリップ・カーターです」と名乗った。

 

 「フィリップくんは小柄……いや、まだ身体が出来てないから、こういう軽い武器の方がいいよ?」

 「本当に気にしないでいいからね、カーター君。この子は使い手が自分しかいないような武器を、「寂しいから」なんて理由で勧めてるだけだから」

 

 ソフィーは溜息交じりに言って、模擬剣置き場からショートソードを取り上げる。

 フィリップがぼーっと握りしめているだけのものと同型のそれを彼女が一回、二回と振るうと、ひゅん、ひゅんと小気味の良い大気を裂く音がする。

 

 「まずはこういう基本的な武器に習熟すべきだと思うわ。……まぁ、魔術師には必要のないことかもしれないけれど」

 「いえ……できれば、ちゃんと実戦的な剣術を身に付けたいので」

 

 フィリップが模擬剣置き場に──魔術師であれば全く興味を持たないか、或いは鼻で笑うような場所に興味を持ったのは、少年心を擽られたからという理由ばかりではない。

 交流戦という絶好の機会に、剣術でも槍術でも弓術でも、とにかくまともな攻撃手段を身に付けておきたかったのだ。

 

 相手を惨たらしく殺すでもなく、味方の精神を殺すでもなく、敵をふんわり優しく綺麗に殺す技術が欲しかった。

 

 フィリップが欠陥魔術師どころかほぼ一般人とは知らない二人は、好事家や酔狂人を見る目を向ける。魔術師が剣術を身に付けたってほとんど意味がないし、そんな時間があるなら魔術の研鑽をするほうが有意義というのは、非魔術師にも分かる理屈のようだ。

 

 「そうなんだ? ま、頑張ってね! ……っと、そろそろ集合だし、あっち戻ろっか」

 「そうですね。失礼します」

 

 フィリップは模擬剣を置いてぺこりと頭を下げ、その場を後にする。

 

 ウォードのところへ戻ると、彼も友人三人と話していた。

 頃合いを見計らって合流しようと、なんとなく耳を傾ける。どうやら宿舎について話しているらしい。

 

 「……で、ここに来た瞬間に思ったんだよ。「みすぼらしい」ってさ。カーペットの薄さとか、ソファの硬さとか、冗談だろ? って感じだったしさ」

 「あははは! 確かに!」

 「部屋がそもそも小さくないか? シャワールームも狭いし、士官用個室っていう割にはしょうもないよな?」

 

 けらけらと笑う彼らに、ウォードは曖昧な笑みを浮かべる。

 確かに宿舎の内装はとんでもなく汚かったが、貴族用の棟はどう考えても平民用の棟よりマシだ。こちらにはカーペットなんて敷いていなかったし、ソファも無い。それに、そもそも相部屋だ。

 

 「で、平民用の宿舎はどうだったんだよ、ウィレット。流石にいくらなんでも一人部屋だろ?」

 「いえ、相部屋です」

 

 硬い口調で言葉少なに答えたウォードを見て、フィリップはようやく気付く。これ、友達と話してるんじゃなくて、ただ絡まれてるだけだ、と。

 

 別に、ウォードとはそんなに仲がいいわけではない。

 これから一週間同じ部屋で過ごす間柄ではあるけれど、それだけだ。彼が貴族に絡まれていようと、それが日常的な虐めの一環であったとしても、フィリップが知ったことではない。こちらに累が及ぶと嫌だな、くらいの感想だった。

 

 彼らはけらけらと笑いながらウォードを揶揄う。

 困惑する生徒、あぁまたかと流す生徒、止めるかと友人と相談している生徒。そんな周囲に構わず、或いは普段より人が多い環境でテンションが上がっているのか、彼らの言葉には徐々に熱が籠り始めていた。

 

 しかし、彼らが揶揄いの範疇を超えた暴言を吐く前に、軍学校の教員らしき筋骨隆々の男性が「集合、整列!」と怒鳴る。

 訓練によって身体に染みついた癖は彼らにそれ以上一言も発させず、所定の列へと誘導した。

 

 少しの間を置いてウォードと合流すると、彼はけろりとして「合流できてよかった」と笑った。

 

 魔術学院生が何となく並ぼうとしていたのを、軍学校の生徒が誘導し、最終的に綺麗な複縦列隊形に並ぶ。軍学校生の左隣に魔術学院生という並びまで統一されている辺り、流石だという感想が浮かぶ。

 生徒たちが見上げる演説台に先程の教員が立ち、また怒鳴るような調子で声を張り上げた。

 

 「これより軍学校・魔術学院二校による合同訓練、及び交流戦プログラムを開始する! 諸君は既にペアと一緒にいるだろうが、現時点で合流できていない者は手を挙げろ!」

 

 何人かが手を挙げ、その挙げた手を頼りに合流したのを確認して、また男性教員が声を張り上げる。

 

 「諸君はこの一週間共に訓練し、そして模擬戦では共に戦う仲間、戦友だ! 互いに何が出来て、何が出来ないのか。何をやるべきで、何を頼るべきか。それを明確に理解し、実行しろ! 以上だ!」

 

 以上だ、と言われても。

 まだ何をしろとも、何をするなとも言われていない。

 

 魔術学院生だけでなく軍学校の生徒にも混乱が伝播していく。しかし囁き合いが喧騒に変わるより先に、演説台の上に新たな人物が立った。

 

 「静粛に願います」

 

 怒鳴り声どころか、張り上げてもいない落ち着いた声。その一言にはしかし、全生徒が口を噤み、壇上を見上げるほどの「圧」があった。

 フィリップもつられて視線を向けると、壇上に居たのは先ほど案内してくれた金髪七三分けの男子生徒だった。

 

 「軍学校三年、アルバート・フォン・マクスウェルです。今回の交流戦における訓練カリキュラムは、基本、()()()()となっています。皆さんはこの演習場内部、及び外周部半径2キロ範囲において、如何なる行動をしても構いません。ペアで走り込みをするも善し、互いに模擬戦をしてみるも善し、基礎的な魔術や剣術を教え合うも善し。最終日の模擬戦に向け、各自が思う全力を費やしてください。……質問はありますか?」

 「……別ペアと一緒に訓練する、というのもアリなんでしょうか? ペア同士での模擬戦なども?」

 

 誰かがしたその質問に、アルバートは「はい」と肯定を返す。

 

 「はい。ですが、あくまで魔術師と騎士の交流、および連携習熟が主目的であることを忘れないでください。同校生徒同士でつるむような無為な真似は避けるように」

 「分かりました……ありがとうございます」

 

 いつも通りルキアかステラに現代魔術を教えて貰う、というのはナシか。

 

 「他に質問は……無いようですね。食事、風呂等は事前に配布されたしおりを参照してください。では、解散」

 

 アルバートの指示に従い、生徒たちがまばらに動き出す。

 とりあえず自己紹介から始めるペアと移動するペアが主流だが、中には同校の友達と合流する者もいた。

 

 ウォードに目を遣ると、「どうしようか」と微笑が返ってくる。

 

 「うーん……取り敢えず、お互いの戦闘能力を確認しましょう。先に言っておくと、僕は模擬戦では役に立ちません」

 

 卑下するでなく、むしろ自慢するように堂々と言ったフィリップに、ウォードは微笑に困惑を混ぜた。

 

 



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111

 大前提として、フィリップの魔術適性は一般人並みだ。

 彼が攻撃魔術をバンバン撃って火力に貢献する戦闘魔術師や、味方の武器や防具に強化魔術を使って支援する付与術師、回復魔術で前線を支える回復術師などの所謂『魔術師』として活躍することはないだろう。それは世界最強の魔術師二人からのお墨付きである。

 

 フィリップが持つ手札、ナイアーラトテップが自己防衛のために持っておくべきと判断した手札は、極端なまでの攻勢防御だ。

 敵を殺す。味方も殺す。周囲一帯から自分以外が居なくなれば即ち安全である。そんな頭の悪い魔術が数種だけ。

 

 そして今後も、フィリップが中級以上の魔術を身に付けることはないだろう。ルキアは「死ぬまで死ぬほど努力すれば不可能ではない」と言っていたけれど、フィリップは何が何でも魔術を使いたいわけではない。

 現代魔術でも領域外魔術でも、とにかく手加減の利く攻撃手段が欲しいだけなのだ。

 

 たとえば──剣術とか。

 

 「……と、いう訳で、僕に剣術を教えて欲しいんです」

 

 スケイルメイルを着た木製の標的人形をグズグズに萎縮させてから言うと、どうにも脅しのように聞こえるな、と。フィリップは自分の言葉に苦笑する。

 ウォードはその防御不可にして残虐無比な魔術に顔を引き攣らせつつ、「いいよ」と頷いた。

 

 「握り方は……そう。で、こう構えて……振ってみて」

 「──っ!」

 

 ぶん、と、無様な音が鳴る。

 フィリップが浮かべた苦笑に、ウォードは不思議そうに首を傾げた。

 

 「どうかした?」

 「いえ……弱そうな音だな、と」

 

 ソフィーが鳴らしていたような鋭い風切り音とは比較にもならない、鈍い音だ。

 彼女は三年生で、少なくともフィリップの三倍以上の鍛錬を積んでいる。比較する方が失礼というものではあるけれど、あの綺麗な音が耳に残っていた。

 

 「まぁ、確かにね。振りも遅いし、制動も甘い。これからさ」

 

 ウォードと並んで素振りをしていると、フィリップを知らない軍学校生が奇異の目を、フィリップを知る魔術学院生が不審そうな目を向けてくる。

 剣術を修める必要のない魔術師が、或いはやんごとなき身分である枢機卿の親族が剣を振っていたら、確かに不審だ。中には「馬鹿にしてるのか」という険のこもった視線を向けてくる生徒もいたが、フィリップの年齢に気付くと途端に生温い視線に変わった。

 

 「……うん、型はそんな感じ。それで100回、素振りしてみよう」

 「はい!」

 

 フィリップは素振り100回という「それっぽい」メニューに興奮した返事をする。

 

 模擬剣は刃の付いていない剣、つまり鉄の棒だ。

 高価な錬金術製の武器ではなく、当然ながら魔物の素材を使った逸品でもない。見習い鍛冶が練習に打った純然たる金属の塊であり、握って振るだけでも体力を使う。

 

 剣をただ上から下に振り下ろすのではなく、真っ直ぐに振り下ろして止める。その動きがきちんと整った「素振り」として成立するのは、初めの20回くらいだろう。そこから段々と崩れていく。

 これはフィリップの体格や筋力がどうこうではなく、初めて剣を持ったら大概の人間はそうなるという話だ。ウォードもそうだった。

 

 経験から来る予想通り、フィリップの動きにブレが出始める。初めは他人しか分からない程度で、徐々に大きくなると自分で気付いて修正する。これも初心者にありがちな動きだ。

 

 「……終わりました!」

 「うん、じゃあ次の100回ね」

 「はい!」

 

 ウォードは自分も素振りをしながら、時折フィリップのフォームを直す。

 初めは子供のわがままを見る親のような目をしていたウォードや他の生徒も、素振りの回数が200、300と増えていくにつれ、自分の予想が外れていたことに気付いた。

 

 腕は震え、型はボロボロだが、音を上げていない。

 少なくとも伊達や酔狂ではなく、目的を持って剣を振っているのだと。

 

 魔術学院生は「奇特な人だ」と言わんばかりだったが、軍学校生の中には愉快そうに近寄ってくる者もいた。

 

 「ホントにやってんじゃん! あ、でもショートソードだ」

 「エーザー様……?」

 

 楽しげに手を振りながらやってきたのは、先刻模擬剣置き場で会った茶髪の少女、マリーだった。

 

 「マリーでいいよー、フィリップくん。アタシのミゼリコルデーは?」

 「あ、すみません。持ったままでした!」

 

 ベルトに挟んだままだった鉄杭──もとい、慈悲の一撃を下す剣、ミゼリコルデーを返そうとすると、マリーは「要らないの……?」と悲しそうな表情を浮かべる。

 それは小動物的な庇護欲を催させる仕草だったが、フィリップ相手には何の意味も無かった。

 

 「はい。たぶん使わないので」

 「そっかー……じゃあショーテルとかどう? 相手のガードをすり抜ける剣だよ!」

 

 いつから持っていたのか、マリーは鎌のように歪曲した剣を見せる。

 すり抜けるというより掻い潜ると言った方が正確だという感想は、今はどうでもいい。

 

 「いや、そういう変則的なのはちょっと……まずは基本からやろうと思ってるので」

 「えー、つまんなくない? ふつーの剣でふつーに素振りとかさー」

 

 口を尖らせ、不満ですと表情でも語るマリー。

 彼女の青い目がすっと据わったことに気付いたのはウォード一人だけだった。

 

 「やっぱこういうのは……実践あるのみっしょ!」

 

 言うが早いか、マリーは半円を描いて湾曲した奇妙な剣、ショーテルを振りかぶる。

 いや、正確に言うならフィリップには振りかぶった動作は見えなかった。気付いた時には既に攻撃は始まっていて、振りかぶるどころか振り下ろす段階にあったのだけれど、それはつまりコンマ数秒前には振りかぶる動作があったということだ。

 

 半円に歪曲した刃が迫る。

 陽光がきらりと反射するほど砥上げられた剣を、それを握る鍛えられた腕を、獰猛な笑顔と共に繰り出される攻撃を、フィリップは驚きと共に眺めていた。

 

 かつてはゴエティア、七十二柱の悪魔──魔王の親衛隊に属する高位悪魔の攻撃にすら、一片の怯えも見せなかったフィリップだ。今更人間の攻撃に恐れを抱いたりはしない。

 けれど人間の、人体の機能として、顔に向けて何かが勢いよく向かってくると驚く。

 

 恐れによるものではなく、驚きによって硬直したフィリップは動けない。

 剣が当たる。そう理解してもなお、恐れはない。剣など当たったところで、ヨグ=ソトースの守りを貫けはしない。だからあるのは焦りだけだ。これが当たると確定した瞬間に、彼女は発狂して死ぬ。

 

 周囲を巻き添えにしませんように、という宛てのない祈りは、幸いにして無駄になる。

 

 「──やり過ぎです、エーザー先輩」

 「へぇ……動けるね、アンタ」

 

 フィリップの首から数センチのところで剣を止めたのは、間に割って入ったウォードの模擬剣だった。

 ショーテルの柄に近い、歪曲していない場所を正確に捉えた防御。力任せに振り下ろし切れない位置だ。

 

 ウォードが向ける鋭い視線に、マリーは獰猛で好戦的な笑顔を浮かべる。

 

 「当てるつもりは無かったでしょうけど、彼は子供ですよ? あまり脅かすような真似は──」

 「あ、それは違うよ」

 

 マリーは剣を降ろし、ウォードの抗議を切り捨てる。一刀ならぬ、一言の下に。

 

 「私もフィリップくんは子供だから、こういう危ないオモチャに興味を持つのかなーって思ったの。それはアンタと一緒。でも、だからって適当に飽きるまで素振りさせときゃいっか、ってのは間違い。それで飽きなかったら? 飽きたとして、アンタの目の届かないところで誰かに模擬戦を挑んだり、真剣を持ったりしたら? それこそ危ないでしょ」

 

 彼女は怒るでなく、むしろ淡々とそう説明する。

 ウォードがうっと言葉を詰まらせたのは、フィリップを適当に飽きさせようとしていた、と本人の前で暴露されたからではないだろう。彼女の指摘には真実味がある。

 

 現に、ウォードが持っていた「100回そこらで萎えるだろうな」という予想は外れていた。

 

 「だから、「本物」を見せてあげるんだよ。剣はかっこいいけど所詮は殺傷道具、自分に振り下ろされるとこんなに怖い──ってさ。それも失敗したけどね」

 

 言葉の続きを、ウォードは首を傾げつつ、フィリップは特に何も考えずに待つ。

 マリーは照れ臭そうに笑いながら、少なくともフィリップにとっては笑い事ではない言葉を続ける。

 

 「いやー、びっくりした。見える速度にしてあげたとはいえ、あんな無感動に剣筋を見られると、こっちが怖くなっちゃうよ」

 「……もしかして、その歳で実戦経験があるのかい?」

 「だろうねー。それも多分、課外授業で遭遇するような甘い魔物じゃないっしょ? サークリス聖下がダンジョンごと消滅させたっていうヤバいのとか、王都に現れたっていう高位悪魔とか、そういう格が違う奴だろうね」

 

 正確無比というか、実はフィリップのことを知っているのではないかと聞きたくなるような考察だった。

 ウォードは信じられないものを見るような目で、マリーは楽しくて仕方ないといった興味に溢れた目で、フィリップを見つめる。

 

 フィリップが見せた落ち着きは、そういった特殊な相手と戦った果てに得られる悟りの一種に近いということだろうか。落ち着いているというか、ヨグ=ソトースをある程度は信頼しているというべきだけれど。

 

 「……どっちも、ですね」

 

 どうせ調べればわかることだと、フィリップは端的に答える。

 しかし、フィリップは考えておくべきだったのだ。フィリップが吹き飛ばしたのは二等地の中でも民家や商店の密集した居住区画であり、人死にが出なかったとはいえ、そこには住んでいた人々がいたことを。

 

 「君が──」

 

 困惑に染まった表情で、ウォードがゆっくりと、声の震えを懸命に抑えながら問いを投げる。

 

 「君が、衛士と一緒に戦ったっていう魔術師なのか? 二等地を……僕の家を吹き飛ばした?」

 

 



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112

 フィリップが悪魔諸共に焼き払った何十棟かの建物の中に、ウォードの実家もあったらしい。

 誰も死んでいないし、焼失した家財等は国が補填してくれるという話を聞いていなければ、フィリップでも多少の罪悪感を覚える告白だった。

 

 つまり、フィリップはウォードに対して何ら罪悪感を覚えることなく、ただ「怒られるかもしれないな」という懸念と、「怒られるのは嫌だな」という自己中心的な思考だけを持っていた。

 

 彼が自分の家にどれだけの愛着を持っていたのかは知らないし興味も無い。

 ただ「なんで家を巻き込んだんだ」とか、「誰か死んだらどうするつもりだったんだ」とか、その手の詰問は避けられないだろう。

 

 どう答えようか。

 フィリップの心中をそのまま吐露すると、「ヤマンソが勝手にやりました。僕とヨグ=ソトースは星を守ろうとしました」だ。召喚物への責任転嫁や無能を言い訳にするのは、あまり褒められた行いではないし、何より信じて貰えるはずがない。

 

 証明は、まぁ、できなくもないけれど。

 

 「あー……っと」

 

 張り詰めた空気を生んだ自覚はあるのか、マリーが晴らす言葉を探る。しかし何も思い浮かばなかったのか、彼女の声は尻すぼみに消えた。

 

 「どうなんだ、カーター君」

 「……えぇ、その通りです。僕の召喚物が二等地の一部を悪魔諸共に焼き払いました」

 

 誇るでもなく、悪びれもせず、ただ事実だけを報告するような調子でフィリップは告げる。

 あなたの家を焼いたことにも、あなたの家族を殺していたかもしれないことにも、何の罪悪感も抱いていませんよ、と。そう思っていることが丸わかりの淡々とした口調で、普段と変わらない表情では、謝られても全く信憑性は無かっただろう。そう考えると、このくらいの態度が正解なのかもしれない。

 

 ウォードはどう反応するだろうか。

 全く怒らないのは有り得ないとして、掴みかかってくるくらいか? それとも殴る? フィリップとヨグ=ソトースが許容できるのは、きっとそのくらいまでだ。彼が剣を振り上げたら、せめて僕の手で殺してあげよう。

 

 フィリップの心中に芽生えた的外れな善意と決意、敵意も悪意も無い無垢な殺意に気付くことなく、ウォードはフィリップの両肩を掴む。

 そして、一言。

 

 「すごいな!」

 

 と、叫んだ。

 

 「あの衛士団と一緒に戦ったのか!? ど、どんな感じだった!? やっぱり、すごく強かったのか!?」

 

 フィリップは詰め寄ったウォードを抑えるように、その実『萎縮』の照準補助に使うため、彼の胸に押し当てていた手を降ろす。

 ウォードの背後では、彼の肩を掴んで制止していたマリーが「えっ?」と声を上げて手を放した。

 

 もし彼が二人の警戒を解く演技をしているのだとしたら、騎士ではなく俳優に向いている。或いは暗殺者に。

 そう思えるほど、ウォードの瞳に宿る興奮の炎は熱く燃え盛っていた。

 

 「高位悪魔って聞いてたけど、どんな感じだったんだ? どんな感じっていうのはつまり、衛士はどういう風に戦ってたのかって意味で、と、とりあえず、今日の晩、いや食事時にでも詳しく聞かせてくれないかな。もちろん今すぐでもいいんだけど、流石に対価も無しにっていうのはアレだから、今からちゃんと剣を教えるよ。エーザー先輩にも協力して貰って、二人でね。いいですよね、エーザー先輩?」

 「……ごめん、アタシの名前しか聞き取れなかった。なんて?」

 

 引いた様子のマリーの問いには答えず、或いは聞き流して、ウォードは早口にまくしたてる。

 フィリップにも何を言っているのか分からない数分の羅列を止めたのは、嚥下仕損じたらしい彼自身の唾液だった。

 

 「げほっ!? かはっ、げほっ……」

 

 息切れするほど喋ったところに咳き込むのは辛そうだったけれど、フィリップとマリーはようやく止まったかと胸を撫で下ろす。正直、何を言っているのかまるで分らなかった。邪悪言語ですら理解できるフィリップが、だ。

 

 「あの、ウィレットさん……」

 「なんだい、フィリップくん」

 

 さりげなく距離を詰めてきた。

 

 「いや、フィリップさん」

 

 と、思ったら離れた。反復横跳びか。

 

 「衛士団、お好きなんですか?」

 「そうなんだよ!」

 

 即答だった。

 マリーが気味悪がってどこかへ行くほどの──「あ、呼ばれたから行くねー」と、フィリップには聞こえなかった声を聞くほどの、即答だった。

 

 「彼らは王国最強の軍隊でありながら、普段は王都の治安維持活動をしてるんだ。自警団とかと一緒にね。王城でふんぞり返ってる騎士団とは大違いだよ! 強さや地位を笠に着たりしないし、貴族と平民を区別なく扱うんだ。彼らが賄賂や恐喝に屈したことは一度も無いし、戦争ではいつだって最前線に出る。彼らこそ王国で最も誉れある人間だよ!」

 「そうですよね!」

 

 ウォードの言葉が言い終わるかどうかというタイミングでの、食い気味の肯定。

 この場、中庭の隅ではフィリップとウォード以外にも幾つかのペアが素振りをしている。だからその言葉が他の誰かのものである可能性は、無きにしも非ずといった程度には有意だった。

 

 では誰の言葉なのかと言われると、当然ながらフィリップのものだけれど。

 周りで素振りをしていた、今はヒートアップしているウォードに不審そうな目を向ける幾つかのペアが、急に大声を上げたフィリップにも同質の視線を向ける。特に、年相応以上に落ち着いた振る舞いしか知らない魔術学院の生徒などは、目をむいて驚いていた。

 

 「分かりますよ。彼らの人間性は素晴らしいの一言に尽きます!」

 「や、やっぱりそうか! 一緒に戦ったことがある人は流石だよ!」

 

 あれだけ語っていた割に肯定されるとは思わなかったのか、或いはそれだけ嬉しかったのか、ウォードが言葉を詰まらせる。

 

 そうだよなぁ、ルキアは嫌いみたいだったけど、衛士が好きな人は勿論いるよなぁ、と。思わぬ理解者の登場に、フィリップもうんうんと頷く。

 しかし、ウォードの言葉には一か所だけ、素直に頷けない部分があった。

 

 「でも、王国で最も輝かしい人間性を持つのが彼らかと言われると、それはちょっと微妙ですね」

 「……へぇ?」

 

 フィリップの脳裏に浮かんでいるのは、今もなお心に刻まれているルキアの雄姿と、ライウス伯爵の決意だ。彼らを抜きにして、美しい人間性について語ることはできない。

 彼ら無しに今のフィリップはない。人間性などという不確かで価値の無いものに拘泥する甘い性格を残し、人間という脆弱な存在を尊重していられるのは、彼らの魅せた輝きがあってこそだ。

 

 「ルキアやライウス伯爵を知らずに「王国いち」と断定するのは、視野が狭いとしか言えません」

 「伯爵? 貴族なんかが、衛士よりすごいって言うのかい?」

 

 ウォードの言葉に一片の侮蔑でも感じ取っていれば、彼はこの砂埃の舞う砦の中庭で溺死するか、脱水し萎縮した炭となって砂塵に混じるところだった。

 幸いにして、彼が抱いていたのは疑問と好奇心だけ──フィリップの気分を害するどころか、フィリップが好む感情だけだった。

 

 「こと人間性に関してなら、優劣を決められませんね。彼らは一様に素晴らしいです」

 「うーん……まぁ、貴族の中にもいい人はいるだろうけど、でも、衛士団は強いじゃないか。世襲制で国の重要な役職に就いてるだけの貴族なんかとは、ワケが違うよ。彼らは」

 

 強さを基準に物事を語ることを嫌う──そうなると外神の独壇場になるから──フィリップは顔を顰めつつ、「強さならルキアの勝ちでしょう」と反駁する。

 

 まさかこんな軽い調子でファーストネームを呼ぶ相手が、天下の聖痕者、最強の魔術師であるルキア・フォン・サークリスを指しているとは思わなかったのか、ウォードは「知らない人のことを言われても困るよ」と、本当に困った顔をする。

 

 「……じゃあ、こうしましょう。夕食のとき、ルキアに紹介します。ついでにライウス伯爵についても語ります。それが終わったら、衛士団について語り合いましょう」

 「それはいい! 是非そうしよう!」

 

 今度はウォードが食い気味に肯定する。

 衛士団の素晴らしさについての認識をある程度共有できているフィリップが、衛士団に匹敵するとまでいう相手に、それだけ強い興味を持っているのだろう。

 

 気付けば君子危うきに近寄らずとばかり、周囲からは人の気配が遠ざかっていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 合宿中の食事は三食全て、厨房のある中央塔で摂ることになっている。中央塔と言っても正方形の砦の中心、中庭のど真ん中に聳え立っているわけではなく、正門の対角線上にあるひときわ大きな塔がそれだ。

 流石は軍事施設というべきか、食堂は魔術学院生1000人弱を同時に収容できる規模だった。それと同等規模の食堂を備えている魔術学院は何なのかという疑問は、もしかしてフィリップくらいしか抱いていないのだろうか。

 

 ウォードと二人で人気のないところを探して歩く。

 生徒たちの喧騒を避けてというわけではなく、そういう場所に陣取っているはずのルキアと、きっと一緒にいるであろうステラを探しての彷徨だ。

 

 柱の影や部屋の角などが怪しいと踏んでうろうろしていると、「将官用談話室」というプレートの貼られた扉を見つけた。フィリップたちの部屋の扉とは全く違う、硬く重そうな高級木材が使われている。

 

 あやしい。

 食堂内をぐるりと回ってどこにもいなかったルキアとステラ(V I P 2人)がいるとしたら、たぶんここだ。扉の両脇には軍学校の生徒が二人、門番のように立っている。そのうち片方は特に目立つ金色の長髪で、すぐに人物を特定できた。模擬剣置き場で少し話したソフィーだ。

 

 「こんばんは、エーギル様」

 「あら、カーター君。さっきぶりね」

 

 ソフィーはフィリップの後ろで居心地悪そうにしているウォードに目を留めると、浮かべていた穏やかな微笑を困り顔に変えた。

 

 「しおりは読んでる? 原則、魔術学院生と軍学校生の食事時間は別にされているのだけれど」

 「先輩方にも何人か友達と一緒に食べてる人がいたので、「原則」なんだな、と思いまして。……駄目でしたか?」

 

 フィリップはこれでもルールにはこだわる方だ。

 

 ルールそのものや、ルールに従うことを重んじているわけではない。ただ単に「そうしないと爪弾きにされるかも」という懸念と、ルールを守らないという動物性が非人間的なもののように思えるからだ。そして、そんな捉え方をしているフィリップに、ルールの穴を突くことに対する罪悪感は一片も無い。

 

 「原則」と書いてあるんだから、「絶対」ではない。そんな考えで、ウォードを半ば無理矢理、魔術学院生の食事時間に連れ込んでいた。

 

 「駄目ではないわ。両校の生徒同士の交流を目的としたプログラムだから、仲良くなってくれる分には構わないのだけど……流石に、全生徒を収容できる規模ではないから」

 

 じゃあ俺も、じゃあ私も、とみんなが一緒に食事を摂ろうとするとパンクする。

 しかし一部の生徒だけが、となると、「ずるい」とか言い出す生徒もいるのだ。だから「原則禁止」になっている。

 

 「すみません。明日からはちゃんと別にします。……ところで、ここって何の部屋ですか?」

 「ふふ、そんな探るような聞き方をしなくてもいいのよ」

 

 フィリップはソフィーが笑った理由を図りかね、困惑の表情を浮かべる。

 彼女はその察しの悪さにくすりと笑ってから、答え合わせをしてくれた。

 

 「両聖下から言われているの。カーター君が来たら入れて、って」

 「流石……!」

 

 フィリップが二人を探して回ると予想していたのだろうか。

 そう考えると、なんだか甘えたがる子供のように思われている気がして妙に恥ずかしくなるけれど。おかげで「二人に確認を取ってくれ」なんて面倒なことを言わずに済んだと考えれば、照れもすぐに収まる。

 

 「じゃ、行きましょうか」

 

 扉を開けると、中は想定の倍以上は豪華な内装だった。

 

 まず第一に、広い。

 フィリップたちが泊まる平民用の部屋の4倍はありそうだ。

 

 内壁には磨き上げられた高級木材がふんだんに使われ、右手の壁は一面が絵画になっている。突き当りの壁には大きな窓があり、厚みのあるカーテンが掛かっていた。

 天井には小ぶりながらシャンデリアも吊られており、壁掛けの燭台と、夜の冷たい空気を遠ざける炎を灯す暖炉と共に、暖かい色の光を投げかけている。

 

 窓際に1セット、暖炉の近くに1セット、絵画の前に1セットのソファとローテーブルがあり、それらは統一された装飾からこの部屋に備え付けのものだと分かる。

 部屋の中央には4人掛けのダイニングテーブルが置かれ、セットの椅子と同様、部屋のアンティークより一段新しいモノに見える。これだけは後から搬入されたのだろう。

 

 それに掛けている二人──ルキアとステラのためだけに。

 

 

 



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113

 絢爛豪華と言うよりは、落ち着いたアンティーク調の装飾が各所に施された将官用談話室。

 その中央に据えられたダイニングテーブルで、ルキアとステラが向かい合って座っていた。

 

 「遅かったじゃないか、カーター。待ちくたびれたぞ」

 「待つのが嫌なら、先に食べればよかったじゃない」

 

 言葉の割には明朗に言うステラと、そんな彼女に呆れと揶揄を向けるルキア。

 彼女たちの前には一般生の食事より数段豪華なメニューが並んでおり、ワインクーラーに入ったボトルまで見える。

 

 「それだと寂しいじゃないか」

 「私は待つもの。寂しくないわよ」

 「私が、寂しいだろうが」

 

 ルキアはステラの言葉にくすりと笑って、その笑顔をフィリップの方に向け、隣の椅子を示す。

 フィリップがここに来ると確信していたように、そこには二人と同じメニューが並んでいた。ステラは「待っていた」と言っていたし、本当にフィリップがここに来ると予想していたようだ。

 

 「二人とも、なんでこんなところにいるんですか? 食堂を一周して探したんですけど」

 

 恨み言のようにも聞こえる言い訳に、ステラは罪悪感を覚えた様子もなく淡々と答える。

 

 「私が食事をするのに周りに人が沢山いる、なんて状況が許されると思うか?」

 「……それはまぁ、確かに」

 

 人払いして収容人数を減らすくらいなら別室で、ということか。

 彼女の立場と合理的な思考を理解していれば、すぐに思い付いたかもしれないけれど──残念ながら、フィリップにとって二人が高貴な立場であるというのは、ただ「そう知っている」だけの実感を伴わない事実でしかなかった。

 

 言われた通り、ルキアの隣に座ろうとする。

 しかし寸前で、食堂を一周してまで二人を探していた理由を思い出した。その用事があるからわざわざウォードを連れ込んで、夕食のトレーを取る前に二人を探したのに。

 

 「っと、そうでした。紹介したい人がいるんですけど、いいですか? ルキアに……いえ、ルキアを」

 

 後ろにいたウォードを示し──振り向くと、そこには閉じられた扉があるばかりだった。

 すぐそこで所在なさげに、しかし期待に胸を膨らませて佇んでいるとばかり思っていたのだけれど、何処に行ったのだろうか。

 

 「あれ?」

 「いや、あのな? 安全保障上の理由で別室にいるんだから、見知らぬ人間を入れられるわけないだろう?」

 

 そりゃあそうだと、フィリップは軽く納得する。

 

 「うーん……じゃあ、後にします。先に食べ始めててください」

 

 扉を開けると、ウォードは呆然としたまま左右の門番役の先輩と顔を見合わせていた。

 彼はフィリップに気付いてもなお、その表情のままこちらを見るだけで何も喋らない。

 

 「どうしたんですか? ルキアに紹介する、って言ったと思いますけど」

 「いやいやいやいやいやいや」

 

 ウォードが壊れた。

 今回に関してはフィリップは何もしていないのに──神格招来どころか、邪悪言語を口にしてすらいない。邪神の名前だって呼ばなかった。もしかしてフィリップの知覚外で神話生物にでも遭遇したのだろうか。

 

 「いや、今の……え? ルキ……え? だって……えぇ!?」

 

 人間は何をするまでも無く狂い、死ぬ、脆弱で矮小な生き物だとは知っているけれど。いざ目の前で見ると、「ここまでか」という失望にも似た感動がある。

 

 ウォードのことは残念だった。後始末はソフィーにでも任せて夕食にしよう。

 

 「いや、ちょ、ちょっと待って!?」

 

 踵を返したフィリップの腕を縋るように掴み、きちんと意味のある言葉を紡ぐウォードに、フィリップは発狂判定が早すぎたことを悟る。今のはただの混乱、狂気未満の健全なものだと。

 

 流石にいくら何でも、美人を見ただけで発狂はしないか。

 ルキアやステラの容姿は極めて整っているけれど、それでも人間の範疇だ。マザーやナイ神父、ナイ教授といった精神に毒になるほどの美ではない。

 

 少し人間を侮り過ぎたと自省するところだ。

 

 「今の、ルキア・フォン・サークリス聖下だよね!? 一緒にいたのは第一王女殿下でしょ!? どうなってるの!? というか君は何者なの!?」

 

 うんうんと頻りに頷く、ソフィーともう一人の門番役。

 確かに平民の子供が一緒にいるのはおかしい相手だけれど、では魔王の寵児が一緒に居て自然な相手かというとそうでもなく。というか「魔王の寵児」という肩書、或いは特性は「何者ですか」と訊かれて答えに使えるほど、普遍的に周知されているものではない。

 

 「まぁ、それはさておき」

 「さておけないよ! 僕は君にどう接するのが正解なの!? 君、本当はめちゃくちゃ良い血筋の人だったりしない!?」

 「めちゃくちゃ良い家柄の人間が、部屋に出た虫を踏み潰したり、自分で掃除したりすると思いますか?」

 

 自分ではいい返しだと思った説得を、ウォードは「分からないよ!」の一言で切り捨てた。

 そういう思考停止が説得を含む会話の天敵だと、彼は理解しているのだろうか。

 

 「僕、他人の言葉を聞かない人って嫌いなんですよね。同じ理性を持つ人間じゃない感じがして」

 「え、あ、ごめん……」

 

 フィリップが本気で抱いた嫌悪感に気付いたのか、ウォードのテンションと勢いが急降下する。

 しかし抱いた疑問は消えていないようだし、唐突な嫌悪の吐露で誤魔化されてもくれなかった。

 

 「えっと、僕の知り合いの貴族はしないだろうけど、君はいい人みたいだし、するのかも?」

 「いい人と言うならルキアも殿下もそうですけど、多分誰かに命じると思いますよ? それと、僕は貴族ではないです」

 

 フィリップの言葉のどこがそんなに異常なのか、ウォードは頭を抱えて悶絶する。

 答え合わせをしてくれたのは、一頻り悶えてからだった。

 

 「それだよ! ファーストネームで呼んでるから、同名の別人というか、君の友人なのかと思ったんだよ!」

 「友人ですけど……。まぁ、言いたいことは分かりました。それで、申し訳ないんですけど」

 

 フィリップがそれ以上言葉を紡ぐ前に、ウォードが両肩を掴んで止める。

 

 「いや、いい、分かった。元々ご飯は別々で食べるっていうルールだし、君は友達……と、食べてくれ。紹介もしなくていい。君の言葉を全面的に信じる」

 

 嘘だろうなあ、と。魔術学院生で似たような反応を経験しているフィリップは、そんな諦め交じりの予想を立てる。ちなみに正解だ。

 

 「あとでちゃんと話します。寝る前とかに」

 「いや、えっと……うん、お願いするよ」

 

 

 

 すぐに戻ってくるという確信があったからか、フィリップが戻ると、二人は食事を始めていた。

 気を遣わせないように、という気遣いを感じ、「お待たせしました」とだけ言って席に着く。

 

 卓上には色々なメニューが並んでいたが、どれも魔術学院の食堂で出るものより見栄えも味も劣っていた。

 王都最高級の食材と人材が集まる一等地の学校と、王都外の軍事施設では比べる方が失礼かもしれないけれど──どうにも、食が進まない。

 

 「なんか、あんまり美味しくない……いえ、学院の食堂の方が美味しいですね」

 「シェフ泣かせの評論だな……ほら」

 

 ステラはグラスの口元を拭い、フィリップに差し出す。

 中で揺れる紅玉色の液体は聞くまでもなく、ワインクーラーに入ったボトルの中身と同じだろう。アルコールで流し込め、ということか。

 

 「……うぇ」

 

 前に宿泊客から貰ったウィスキーでもなく、教会でたまに出てくるビールでもなく、見た目が一番ジュースっぽいワインなら飲めるのではないか。そう思っていたのは、どうやら間違いだったらしい。

 ぶどうジュースみたいな見た目のくせに、なんか妙に苦いというか渋いし、全然おいしくない。

 

 「無理しなくていいのよ」

 

 内心をそのまま反映した表情を浮かべたフィリップに苦笑したルキアが、グラスをひょいと取り上げる。

 そのまま口を付けるのを見たステラが「なんでお前がそれを飲むんだ。意味が分からん」と首を振り、卓上に置かれていたルキアのグラスを取って口を付けた。

 

 暗殺者が酒に毒を盛る理由と、ステラが食事中に人を遠ざける理由が分かったような気がした。

 

 「そういえば、カーター。今日は何処にいたんだ? 外に居なかったよな?」

 「あ、はい。いま剣を習ってて」

 

 交流戦の期間中、学生たちが行動できる範囲は砦内部と外部の周囲2キロ圏内だ。

 四方に砦の外壁がある中庭は剣や槍といった近距離武器の練習用、周囲に隔てるもののない外部を弓や魔術といった遠距離戦に割り振り、各ペアは練習したい事柄に合ったエリアへ移動することになっている。弓や魔術より圧倒的に射程の短い投擲の練習も外でやっているし、剣対魔術のクロスレンジの模擬戦は中庭でやっているので、かなりいい加減な区別だが。

 

 魔術に自信のあるペアは外で、魔術に自信の無いペアは中にいることが多いので、二人が外に居たのは納得できる。

 

 「剣を? ……あぁ」

 「いいんじゃない? ステラは実戦剣術の心得もあるし、学院に戻ってからも続けたら?」

 

 そうなんだ、という相槌程度の意味しか含めなかった視線を受けて、ステラは「構わないぞ」と頷いた。

 

 「じゃあ、戻ったらお願いします。この期間中にやっておくべきことってありますか?」

 「私も専門家じゃないし、すぐには思いつかないな。……基礎体力をつける、とかか?」

 

 それはちょっと、一朝一夕でどうにかなるものではない。

 

 



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114

 初日の夜。

 入浴を終えたフィリップを出迎えたのは、そわそわとせわしない様子のウォードと、気の滅入るようなみすぼらしい部屋だった。

 

 「……その、カーターくん。さっきの話なんだけど」

 「ルキアと殿下の話ですよね? 二人は学院のクラスメイトで、仲良くして貰ってるんです」

 

 恐る恐るといった風情で切り出したウォードに、フィリップは淡々と答える。

 仲良くなるに至る経緯を語るにしても、かなりの部分を改変する必要がある。カルトはともかく黒山羊については隠すほかないし、ステラと経験したあれこれについては全く話せない。なんせ開幕からナイアーラトテップによる意識隔離だ。

 

 僕と彼女たちの仲が良いのは普通のことですよ。何も怪しいところの無い、取るに足らないことですよ、と。

 そう聞こえるように、なるべく気軽に言ってみたのだけれど──ウォードの反応は芳しくない。

 

 「う、うん。そっか……。それで、僕は君のことをどう呼べばいいのかな。カーターくん、というのは流石に不味いよね?」

 

 不味い。

 いや、その呼び名がではなく、この流れが非常に不味い。

 

 このままではウォードもフィリップのことを貴族か枢機卿関係者かと疑い始めるだろう。いや、既に疑っていて、今夜の会話でそれを確定させるつもりだ。

 

 どうするか。

 別に、誰にどう思われようが知ったことではないし、ウォードとはこの一週間だけの付き合いだ。彼が隣のベッドで死んでいたとしても、大して気に留めないことだろう。腐敗さえしなければ。

 

 とはいえ、この一週間で基礎的な剣術を身に付けておきたいのは本心だ。

 彼の協力は惜しいし、何より同じ衛士団のファンである。

 

 ──同じ?

 

 「タベールナっていう宿屋、知ってますか?」

 「え? うん。……なんで?」

 

 なんで知っているのか。或いは、なんでそんな質問をするのか。彼の問いに含まれる疑問がどちらなのかは分からない。

 

 フィリップの質問は、半ば確認だった。フィリップが吹き飛ばした区画とタベールナはそう近いわけでもないし、かといって街の正反対というわけでもない。歩いて10分かそこらの距離だ。

 二等地に実家があるのなら、宿に泊まる機会はないはずだ。近所の宿について知っている可能性は低い。

 

 しかし、タベールナは衛士団と提携しており、宿泊部屋の何割かが常に衛士によって使われている。他にも幾つか提携宿はあり、衛士団のファンなら本部と詰所の次くらいには行ってみたい場所のはずだ。

 それに、タベールナは宿としてより食堂の人気の方が高い。それは副料理長が揮う一等地のレストラン級の腕前と、セルジオの酒に対する目利きによるもの。近隣住民が外食に来ることだってあった。

 

 フィリップが丁稚を始めた時期とウォードが軍学校に入った時期はだいたい同じだから、会ったことは無いけれど、フィリップが来る以前には利用したことがあるはず、という読みだ。

 

 「僕、そこで働いてたんですよ」

 「……え? ホントに?」

 「はい。今度の休みにでも行って貰えば分かりますけど、僕は本当にただの平民ですよ。女将と母は友人ですし、僕の素性についても保証してくれると思います」 

 

 ほんとかなぁ、と言いたげな視線を向けるウォード。

 

 フィリップは軽い嘆息を溢し、自分のベッドに腰掛けた。

 まぁ、こんな一要素だけで信じられるとは思っていない。ここは一つ、ルキアに学んだ手法を活かさせて貰おう。

 

 彼女と初めて出会った森で、あの夜にした──寝るまで駄弁るという、最悪のコミュニケーションを実行する。

 互いに思考も判断もボロボロになって、しかしテンションだけは高まり、妙に仲良くなれる、あれを。

 

 「僕の実家って──」

 

 詳細は省くが、フィリップはウォードの祖父が牧場を持っているという知識を得た。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 翌日の朝食の席で、自身の巧みな弁舌──自称、巧みな弁舌を自慢したフィリップに、ルキアとステラは呆れ笑いを浮かべる。

 たかだか一週間そこらの付き合いにしかならない他校の生徒にそれだけの熱意を費やし、三年間共に過ごす自校の生徒に対しては諦めているあたりのズレが、如何にもフィリップらしいと。

 

 「それでですね」

 「剣術を教わるという話なら、もう4回は聞いたぞ」

 「ウォードがちゃんと剣を教えてくれるんですよ! 楽しみで全然寝られませんでした!」

 

 それも聞いたわ、とルキアが笑う。

 フィリップの目元にはうっすらと隈ができており、その言葉が単なる誇張表現でないことを主張していた。

 

 ステラは先ほどから、フィリップがこれを言うたびに怪訝そうに首を傾げる。

 たぶん、フィリップが寝られなかった本当の理由──硬いうえに微妙に臭いベッド──を隠しているから、言葉に嘘や誤魔化しの気配を感じ取っているのだろう。自分の感覚や経験から嘘だとは分かっているのに、どこが嘘で、何のための嘘なのか分からない、と言ったところか。

 

 そして、寝不足のフィリップはそんな彼女の反応に気付いていない。

 どう考えてもフィリップの部屋の惨状を知らせてはいけないルキアはともかく、ステラがどういう反応をするのか。幸いにして、フィリップがそれを知ることは無かった。

 

 「カーター、そんな状態で剣なんて振れるのか? 怪我するぞ?」

 「あー……確かに……」

 

 フィリップはその懸念に素直に頷いた。

 目の渇きや筋力の低下といった寝不足特有の症状は自覚している。思考の回転も遅いし、何より同じ台詞を何度も繰り返すということは、記憶能力に問題があるということだ。何かを教わるコンディションではない。

 

 「あの……ここって昼寝とかできますか?」

 「あぁ。……いや、待て。午前中はそのままか? 食べ終えたら、一時間くらい仮眠してから行くといい」

 

 公務の中で似たような経験でもあるのか、ステラの言葉は単なる心配ではなく解決策の提示だった。彼女らしい台詞と指し示された柔らかそうなソファに、フィリップは何も考えずに「そうします」と頷く。

 

 「カップ一杯の紅茶を飲んでからの仮眠はいいぞ? 一時間ほどですっきり起きられるし、思考も冴える」

 「へぇ……じゃあ、毎晩八杯飲んで寝たら最適ってことですか」

 

 カップを傾けていたステラが失笑し、盛大に噎せる。

 咳き込む声に反応して、ソフィーともう一人の門番役の生徒が扉を開け放った。二人は腰に佩いた剣の柄に手を掛けている。

 

 「大丈夫ですか、王女殿下!?」

 「──大丈夫よ、下がりなさい」

 

 八割方寝ているのかと言いたくなる思考の帰結を見せたフィリップがツボだったのか、片手で顔を覆って震えているステラに代わり、ルキアが応じる。

 どうでもいい相手に対するときの冷たい口調に、二人がひゅっと息を呑む。

 

 二人が失礼いたしましたと頭を下げて退室するまで笑い続けていたステラは、発作が収まると、ぴっとソファの一つを指した。

 

 「寝ろ」

 

 

 

 部屋のベッドより談話室のソファの方が柔らかいという悲しい知識を得たフィリップは、朝食前より良いコンディションで中庭に立っていた。

 同じ境遇のはずのウォードが仮眠無しでも問題無さそうなのは、軍学校の過酷な環境に対応させる訓練が効果を発揮しているということか。事実、平民用宿舎に泊まっていてぐったりしているのは、睡眠に力を入れた寮に慣れた魔術学院生だけのようだ。

 

 「フィリップくん、準備はいい?」

 「あ、すみません、ウォード。大丈夫です」

 

 周囲を観察する余裕が出てきたフィリップの意識を、ウォードが声をかけて引き戻す。

 

 今日からは、飽きさせるための素振りなどとは違う本気の教導が始まるのだから。

 

 フィリップが手にした得物は、刃渡り60センチほどの両刃の直剣。一般的にはショートソードと呼ばれる、柄の短い片手持ち専用の剣──その刃を潰した模擬剣だ。

 ウォードが手にした得物は、刃渡り1メートルほどの両刃の直剣。こちらはロングソードと呼ばれる、柄が長く両手持ちにも対応した汎用性の高い剣だ。こちらも刃は潰されているが、どちらも当たれば重度の打撲から骨折に至る、鉄の塊である。

 

 二人は中庭の真ん中あたり──中庭は中心付近が模擬戦用、外周部が素振りなどの基礎訓練用になっている。周囲に危険が及ぶ弓や魔術は、砦の外に訓練スペースがある──で向かい合い、己の武器を構える。

 

 「僕を斬り殺すつもりで、本気で向かってきてね。僕は、そうだな……片手だけ、後退無しで捌くよ。一度戦えば、君に合った戦い方とか、やるべき練習を教えてあげられると思う」

 「よろしくお願いします!」

 

 フィリップに本で得た知識以外の武術の心得があれば、ウォードの言葉の異常性には一瞬で気付けただろう。

 しかしフィリップは「それっぽい」言葉に興奮し、威勢の良い返事をする。もしもウォードが詐欺師だったら、カモ獲得だとほくそ笑んでいたかもしれない。周囲の生徒はウォードの言葉を大言壮語として嘲笑っていたし、それに素直に返答したフィリップにも同質の視線を向けている。

 

 「うん、じゃあ、始めようか。かかっておいで」

 「はい!」

 

 返事をして、フィリップは身を屈める。深く、地を這う蛇のように。それは以前にリチャードが見せた、フィリップが明確に覚えている動きだ。

 

 「っ!」

 

 予備動作を見た瞬間に、ウォードの目が見開かれる。

 咄嗟にロングソードを両手で持つ防御の構えを取ろうとして、自分で言ったルールを思い出す。片手で、後退無し。それは剣を振ったことのない、体格でも劣る子供相手ではハンデにもならないような条件だけれど──あれの前では、自殺行為以上の効果はない。

 

 相手の相対距離・相対位置認識を狂わせる攪乱の歩法、『拍奪』。

 魔術剣士として名高いリチャード・フォン・ルメールや、軍学校内模擬戦大会にて三年間連続二位を取り続けているソフィー・フォン・エーギルの使う、速度重視の流派の技だ。

 

 どうしてそれを、11歳の子供が使うのか。

 あれはウォードどころか、軍学校首席アルバート・フォン・マクスウェルでさえ修得できなかった特殊に過ぎる技術だというのに。

 

 侮ったか。

 ウォードが片手でできる最大限隙の無い構えを取ると同時に、フィリップの足に籠った力が解放される。

 

 そして。

 

 「──うゎ」

 

 どしゃっ、と。盛大に砂埃を巻き上げて、フィリップが前のめりに転倒した。

 

 「……え?」

 「痛っ……めちゃくちゃ難しいなあ……なんでバランス取れるんだ、というか、こんな姿勢で走れるわけないだろ……」

 

 擦りむいた膝の傷をふーふーと吹いて砂を飛ばしながら、ぶつぶつと呟くフィリップ。

 そんな様子を見ていれば、彼が使い手でないことはすぐに分かった。ウォードは自分の勘違いと過剰反応に苦笑し、水筒を差し出す。

 

 「今の、『拍奪』……の真似だよね。どこで見たの?」

 「クラスメイトがこんな感じで走ってたので、真似してみたんですけど……想像より難しいですね」

 

 傷口を洗いながら、フィリップは照れ混じりの苦笑を浮かべる。

 失敗して当然というか、十中八九失敗するとは思っていた。だから苦笑の宛先は失敗そのものではなく、おまけで付いてきた膝の傷だ。

 

 「それに関しては、僕も教えられないな……。三年生に一人だけ、その流派を修めてる先輩がいるんだけど」

 「あ、いえ、やってみただけなので。基本的なことだけ教えてくれれば大丈夫です」

 「そう? じゃあ、もう一回。今度は普通にね」

 

 二人はもう一度、15メートルほど離れて向かい合う。

 フィリップはもう見様見真似の型は使わず、素直に剣を持って駆け出した。

 

 「ッ!」

 

 初撃──フィリップが生涯で初めて人を狙って剣を振った、正真正銘の初撃は、ウォードの左肩を狙う上段からの振り下ろしだった。

 昨日やった、ウォードが飽きるまでやらせようと思っていた、素振りに最も近い動き。フィリップが一番慣れていて、ウォードも一番慣れている動きだ。

 

 「いいよ、そんな感じ」

 

 剣同士がぶつかり合ったとは思えない軽い音、斬りかかられているとは思えない軽い言葉と共に、フィリップの剣が弾かれる。

 かなり加減してくれていることが分かる、反動をほとんど感じない防御だった。

 

 弾かれた剣に力を籠め、首元を狙って振り直す。

 しかし助走をつけての一撃を容易く弾いたウォードに、崩れた姿勢からの攻撃が通るはずもない。

 

 「いいよ、もっと打ってきて」

 

 半円を描くような受け流しは、フィリップが過剰なほどに込めた力を使い、剣を足元へ誘導する。

 そのまま峰を踏みつければ剣を奪えるし、剣に引っ張られて身体の流れたフィリップの姿勢では、脇腹や首ががら空きだ。そこを突くことも出来る。

 

 ウォードはどちらもせず、一歩だけ前に出た。

 

 その一歩分だけ、フィリップは剣を振り上げるための空間を削られた。

 剣は振り上げるより、重量を利用して振り下ろした方が威力が出る。それを分かっているフィリップは一歩下がりたいところだが、崩れた姿勢では移動にすら支障が出る。

 

 「お、いい手だけど……軽すぎるね」

 

 苦し紛れの体当たりは、ウォードに一歩分の後退すらさせられなかった。

 

 ぺちりと足首にウォードの模擬剣が当たる。

 痛み未満の感触になるよう手加減されていたが、これが実戦なら足首の腱が切断されていたことだろう。

 

 ぐいと襟首を引かれ、体術の技か何かで地面に投げられる。寝かされる、と言った方が正確なほどの柔らかさで。

 

 「……おぉ」

 

 武術の心得が無いフィリップですら一瞬で分かるほどふわふわに手加減されて、その上でボコボコに──完膚なきまでに負かされたフィリップがようやく絞り出したのは、そんな感嘆符だった。

 

 「いいね。流石に実戦経験者は違う。攻撃に躊躇いが無いし、僕の動きに一々怯えない。……ちょっと警戒心が薄すぎるけど」

 

 初心者がやりがちな、相手の剣を狙っての攻撃──相手を傷付けることを無意識に避けたり、相手の攻撃に怯えて動きが硬くなるようなことがない。

 相手を殺せるという大前提をクリアしていて、そのうえ自分が傷付くことを恐れない才能もある。恐怖の克服は戦士として大成する第一歩だが、既にそれを為している。

 

 これが実戦経験者かと一人で納得するウォードだが、不正解だ。

 フィリップは他人の命にも、それを傷付けたり奪ったりすることにも価値を見出していないだけだし、致死性の攻撃はヨグ=ソトースが防いでくれるという信頼があるから無防備なだけだ。

 

 戦闘に向いているというより、良識ある人間であることに向いていない。根本的に破綻者なのだ。

 

 「うん。これなら、戦闘訓練を繰り返すのが一番かな。もう一回やろうか」

 

 ウォードが構え、フィリップも立ち上がる。

 

 二人の打ち合い──というより、フィリップを地面に転がし続ける作業は、夕食時まで続いた。

 

 



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115

 交流戦三日目。

 

 今日も今日とて散々地面に転がされたあと、フィリップはふと疑問を抱いた。

 模擬剣を支えにして立ち上がり、構え直してからそれを出力する。

 

 「基本の型とか、そういうのって無いんですか? まずはこれ! みたいなの」

 「……と、言うと、面打ちとか胴薙ぎとか、そういう型?」

 

 剣術の知識がここ数日分の経験しかないフィリップは面打ちも胴薙ぎも知らないので、逆に首を傾げる。

 しかしウォードの言葉は質問ではなく相槌だったのか、フィリップからの回答を必要としなかった。その代わり彼は違う質問を投げかける。

 

 「じゃあ聞くけど、ここ何日かの訓練で、「この型が使えたら僕に勝てた」っていう場面はいくつあった?」

 「えっと……練習中の受け身と剣の振りと止めの精度が足りないなっていうのは何度も思いましたけど……」

 「振りと止めも、素振りみたいな練習通りにいく場面なんて無かったでしょ? こういうのは極論、相手を殺せて自分を守れるならどれだけ無様な剣筋でもいいんだよ」

 

 ウォードは軽く手招きして「かかってこい」と示す。

 

 フィリップは頷きを返して突撃し、首を狙って突きを繰り出した。

 決まれば模擬剣でも相手を殺せるかもしれない、急所狙いに全力の攻撃。それをウォードは苦笑交じりに受け流し、フィリップの鳩尾に膝を当てた。

 

 膝蹴りをしたわけでもなく、めり込ませたわけでもない。慎重に手加減して、フィリップの突進の勢いすら考慮して、本当に当てるだけに留めている。それだけでフィリップは敗北を理解できるからだ。

 

 「今の、どうやったら再現できると思う? 受け流しの練習と、体術の練習? それって模擬戦でもできるよね?」

 「……確かに、そうですね。こうやって模擬戦をするのが一番早い、ってことですか」

 

 フィリップが今やっているのは実戦未満の何かだけれど──繰り返していけば、徐々に動きが最適化されていくということだろうか。いつかウォードに本気を出させるくらいに。

 

 「基礎筋力や基礎体力は必要になるし、「型」は剣術以外では使わないような筋肉を鍛えるのに有用なんだけど……それも極論、模擬戦で身に付くよね?」

 「なるほど……」

 

 理解を示して頷くフィリップに満足感を覚えつつ、ウォードは内心で苦笑した。

 

 実戦的な剣技を身に付けるのに実戦せずにどうする、とは、かつてウォードの師匠が言っていたことだ。

 当時のウォードは「この変態クソ脳筋はそうかもしれないが、一般人は違うだろ」とか、色々と反対意見を持っていたけれど──結局、ウォード自身も型の稽古なんて殆ど無しで育ってきた。

 

 今は強くなった実感があるから同意できているだけで、鍛錬を始めたばかりのフィリップが意を同じくできるはずがない。口では理解を示していても、脳内では「型の練習は一人でやろう」とか考えているはずだ。

 やればいい。身に付けた型が役に立たないわけではないし、それが悪癖になるようなら実戦で矯正すればいいだけのことだ。

 

 「じゃあ、もう一回ね」

 

 フィリップは頷き、模擬剣を構える。

 しかしフィリップが動き出す前に、二人の間にぞろぞろと数人が割り込んできた。ただ歩いているといった風情で駄弁りながらではあるが、剣を構えた二人の間を気付かず通るような間抜けはいまい。

 

 彼らは嘲るような笑みを浮かべ、明確にフィリップの──否、ウォードの邪魔をしていた。

 

 「──おっと、ウィレット。もしかして剣を振ってたのか? 悪い、中庭でままごとをしてる馬鹿がいるのかと思ったよ」

 

 よく見てみると、彼らは初日にウォードに絡んでいた貴族三人組だった。彼らのペアである魔術学院生が三人いるはずだが、周囲にそれらしい生徒はいない。同校の仲間内でつるむな、という言葉を聞いていなかったのだろうか。

 

 「平民が平民のチビ相手に剣を教えて気持ち良くなってるのか? 滑稽だな」

 「……何か御用ですか、マクスウェル様。仰る通り、今は彼に剣を教えているところなのですが」

 

 聞き覚えのある名前に、フィリップは退屈そうに空を見ていた視線を戻す。

 マクスウェルといえば、初日にフィリップを宿舎の入り口まで案内してくれた軍学校首席、近衛騎士団長の長子だというアルバートと同じ姓だ。

 

 ウォードに絡んでいる少年の顔をよく見てみると、確かに面影があるような気もする。

 

 「お前なんかが他人に教えられるのか? まあ、平民のチビには似合いの先生かもしれないが」

 

 彼の言葉に追従するように、他の二人がけらけらと笑う。

 なんでもいいけど早く終わってくれないかな、と。フィリップが模擬剣を弄び始めた時だった。

 

 「おいチビ、名前は? ……おい、お前だよ」

 「っと、なんですか?」

 

 模擬剣の柄を縦にして掌に乗せ、立てた状態でバランスを取るという遊びをしていたフィリップは、剣を掴み直してからそう応じる。

 話しかけてきたのはマクスウェル何某ではなく、その取り巻きのような少年だ。それなりに身長が高いうえに肥満体形で、目の前に立つだけでかなりの圧迫感がある。

 

 片手間のようなフィリップの返答に、彼は不快そうに眉根を寄せた。

 

 「お前、名前は?」

 「フィリップ・カーターです」

 「やっぱり平民か。俺はアンドレ・フォン・ローム。ローム子爵家の長子だ」

 

 親指で自分を指すアンドレに、フィリップは剣を置いて頭を下げた。

 

 「失礼いたしました。貴族様とは知らず、ご無礼をお許しください」

 

 貴族相手ではギリギリ失礼になるくらいの礼儀作法で謝罪したフィリップに、アンドレだけでなく他の二人も興味を持ったように視線を向ける。

 

 なんだどうしたとこちらを威嚇しながら歩いてくる彼らは、貴族というよりはチンピラに見えた。

 

 フィリップがくすりと漏らした笑いに反応して、マクスウェルがその双眸に明確な怒りを滲ませる。

 ぐい、とフィリップの襟首を掴み──胸に押し当てられた手に、不思議そうな目を向けた。マクスウェルを押しのけるほどの力は、体格的に無いにしても──あまりにも力が籠っていない。何がしたいのか、と。

 

 「殺しちゃだめだ!」

 

 『萎縮』を知っているウォードが叫ぶ。

 彼はフィリップが伸ばした片手を照準補助に使うことと、人間を炭の塊に変える恐ろしい魔術を使うことを知っている。まさかフィリップが人を殺しても何とも思わない人でなしだとは思うまいが、フィリップが実戦経験者であり、躊躇なく人間を攻撃できることも理解しているだろう。

 

 故に、ウォードは()()()()()()制止した。

 

 「はぁ? 殺しはしないさ。いま誰を笑ったのか教えるだけだよ」

 

 嘲るように()()()()()()()答える。

 しかし、それで「今のは僕に言われたんじゃないな」と魔術を詠唱するほど、フィリップの空気を読む能力は低くない。自分を殴ろうとしている相手の前で無防備になるほど愚かでもないので、照準は外さないが。

 

 「俺はマルクだ。マルク・フォン・マクスウェル。知ってるか? マクスウェル家」

 「軍学校首席のマクスウェル様と同じ……近衛騎士団長のご親類ですか?」

 

 上から睨み付けてくるマルクの視線に、フィリップは物怖じすることなく、しかし睨み返すことも無く淡々と答える。殴られそうになったら殺そうかな、と、どう考えても自己防衛の域を出る過剰な報復をしようと考えながら。

 

 「そう、マクスウェル侯爵家が次男だ。そっちの細長いのがワトソン男爵家次男、ノーマン。何が可笑しかったのか知らないが、内に秘めとくべき相手だよ」

 

 マルクは凄むが、フィリップの表情は変わらない。

 それが気に障ったのか、マルクの手に力が籠る。それでもフィリップの態度は相変わらずの無感動で、そしていつでもマルクを殺せる状態だった。

 

 「マクスウェル様、相手は子供ですよ? 流石にやり過ぎです」

 

 ウォードが間に割って入り、マルクの手がフィリップの襟首から、フィリップの手がマルクの胸から離れる。

 

 「フィリップくんも、ちょっと掴まれたくらいで殺そうとするのはやり過ぎだ」

 

 離れてもなお魔術の照準を続けていたフィリップの前に立ち、ウォードは掲げた手をゆっくりと降ろさせる。

 

 フィリップはさっと思考し、ウォードの言葉の正当性を認めた。

 殴られる寸前ならともかく、今なら掴みかかってきても走って逃げられる。殺す必要は無くなった。まぁ殴られそうだからと言って全身を炭化させて殺すのも、どう考えてもやり過ぎなのだけれど……痛いのは嫌だし。

 

 「殺す? そのチビが、俺を? お前、冗談が──ッ!?」

 

 マルクが硬直し、慌てて跪く。

 他の二人だけでなくウォードも、気付けば周囲に居た全ての生徒が同じ方向を見て跪き、首を垂れていた。

 

 何事かと彼らの意識を辿ったフィリップの視線と、こちらに歩いてくるステラの視線がかち合い、フィリップの疑問は晴れる。

 

 「カーター、探したぞ」

 「あ、そろそろお昼ですか」

 

 懐中時計を取り出して確認すると、正午を過ぎ、もう間もなく昼食の時間だった。

 一等地の邸宅が家具付きで買えるという逸話を持つ高級品である懐中時計を目にして、何人かの生徒がごくりと生唾を飲んだ。同サイズの宝石でさえ、殺して奪いたくなるような値段が付くというのに、懐中時計の価値はそれを上回るのだ。

 

 幸いにして、懐中時計には市場が存在しない。

 基本的にオーダーメイドであるそれは、横流しや転売がまず不可能になっている。市場に出回った瞬間に出品者を辿られ、盗品や略奪品の場合は即座にバレるからだ。

 

 殺して奪いたいほどの価値があるのに、殺して奪ったとしても捌けない。懐中時計はそういう類の芸術品だった。

 

 「じゃあ、行きましょう。……そういえば、ルキアはどうしたんですか?」

 「エーザー……ペアと話してたが、そろそろ来るんじゃないか?」

 「あ、マリーとペアなんですね」

 

 覚えのある名前に反応したフィリップに、ステラは意外そうな表情を浮かべる。

 

 「知人か? まぁ、あれでもエーギルに次ぐ軍学校第三位の実力者だし──どうした?」

 

 前に「象は魔物ではない」と言われた時と同じ表情で、いやいやまさかそんなことがあるわけないよと首を振るフィリップ。

 軍学校生では極めて珍しい長髪のソフィーや、騎士団長の長子という如何にもな素性のアルバートは、「強いよ」と言われても納得できる。しかし、マリーは何と言うか──

 

 「変なお姉さん、って感じでしたけど」

 

 強い人、と言うよりは、変な武器を勧めてくる変な人、という感じだった。

 

 「あぁ、まぁ、確かにな。私もルキアとは長い付き合いだが、初対面であいつに二刀流を勧めた奴は初めて見たよ」

 「二刀流!?」

 

 とんでもなくかっこいいワードが出て来たぞと興奮するフィリップに、ステラは苦笑を浮かべる。

 

 「お前も知ってるかもしれないが、あいつが勧める武器は使い手が少ないものばかりでな。ルキアは確か、スウェプトヒルト・レイピアとマインゴーシュの二本だったか」

 「名前を言われても分かりませんけど、二刀流とかかっこいいじゃないですか!」

 

 剣を振るまでもなく、腕の一振り、指の一弾きで敵を殺せるルキアにとっては無用の長物かもしれないけれど──想像してみてほしい。

 漆黒のゴシックドレスを身に纏い、艶やかな銀髪を靡かせる二刀流の剣士を。まさに冒険譚の登場人物ではないか。

 

 ルキアは確か儀礼剣の心得はあるけれど、実戦剣術を身に付けてはいないはずだ。その必要が無いし、泥臭いし。

 だからたぶん、「嫌よ、そんなの」とか言って断ったのだろう。

 

 「説得しましょう! 今すぐに!」

 「いや、あいつは──」

 

 苦笑交じりにフィリップの言葉を否定しようとしたステラはしかし、最後まで言い切ることが出来なかった。

 

 「畏れながら申し上げます、ステラ・フォルティス・ソル・アブソルティア・レックス第一王女殿下!」

 

 跪いた姿勢のまま声を上げたのはマルクだ。

 

 王位継承者(レックス)の称号を付けて呼ばれ、ステラが眉をぴくりと動かす。

 それは公的な場、式典などでしか使われない称号だ。逆説的に、その名を呼ぶということは、この場が公的空間であるということを示す。宰相や騎士団長といった、ステラより立場が下の人物が彼女を諫めるときに使う、いわば諫言を上奏する際の定型文だった。

 

 「──ふぅ……」

 

 ステラは一度、二度と深呼吸を繰り返す。

 今にも撃発しそうな怒りを鎮めるように。

 

 事実、ステラは呆れると共に、怒っていた。

 空腹による苛立ちを抜きにしても、眼前の愚者の行いは目に余る。何を言いたいのかは知らないが、ステラの言葉を遮るなど宰相──ルキアの父、サークリス公爵ですら叱責を受ける暴挙だ。

 

 空気が切り替わったことを悟ったフィリップが、おどおどとステラとマルクを交互に見遣る。

 

 「殿下はいずれ王国を統べる、この国で最も貴き御方! 斯様な下賤の者と直接お言葉を交わされることなど、あってはなりません!」

 

 ステラが何も言わないのをいいことに、マルクが言葉を続ける。芝居がかった口調が記憶を刺激して鼻についた。

 

 彼の口調はともかく、言葉には一定の真実がある。確かに、本来は第一王女にして次期女王、国家の頂点にほど近い彼女とフィリップが対等に口を利けるはずはない。普通は対面すら許されず、正式な書状の提出という形でのみ意思の伝達ができる。最低でも、従者や補佐官などが間に立ち、双方の言葉を仲介するという形をとることだろう。

 

 しかし、彼女はあらゆる公的権力を超越したところにいる聖人だ。故に「そうすべき」振る舞いを無視できる。

 何より、その手の儀礼が一定の効果を持つ公的な場ならいざ知らず、私的な会話で彼女がそんな面倒くさい──非合理的なことをするはずもない。

 

 「貴様──」

 

 救いようのない馬鹿を見る目をしたステラに、フィリップは思わず目を瞠る。

 まだ二月ほどの付き合いしかないけれど、そんな顔は初めて見たし、彼女から殺意の気配を感じたのも初めてだ。

 

 「名は、何という?」

 「はっ。マルク・フォン・マクスウェル、近衛騎士団長レオナルドが次男であります。王女殿下」

 

 名を訊ねられたことが心底嬉しいというように、マルクは声を弾ませて答える。

 しかし、ステラの目はどうしようもなく冷え切っていた。

 

 「では、訊くが、マクスウェル。貴様は何の権利があって、私の行いを戒めた? 私人としての私の行いではなく、次期女王としての私の行いを諫める権利を、お前は何を根拠として主張する?」

 

 思いもよらぬ問いだったのだろう、マルクは言葉に詰まる。

 

 「私が友人とどう話そうと、お前には関係の無いことだ」

 

 ステラは追撃はせずそう吐き捨て、フィリップの手を引いてその場を立ち去った。

 後には冷え切った空気と、怒りと恥辱で顔を赤く染めたマルクが残される。ウォードは君子危うきに近寄らずとばかり、ステラとほぼ同時に姿を消していた。

 

 

 



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116

 ステラとフィリップが去ったあと、マルクは歯を食い縛って震えていた。

 それは自分の諫言を聞き入れなかったステラと、貴族である自分以上に王女と親密な様子のフィリップに対する二つの怒り、衆人環視の下で蔑ろにされた恥辱と、マルク自身も自覚できていない恐怖によるものだ。

 

 「なんなんだ、あのチビは!」

 

 怒鳴り声の宛先はフィリップのペアであるウォードだったが、彼は危険を察知して遁走した後だった。

 

 それを悟ったマルクは苛立ちを紛らわせるように、持っていた模擬剣を地面に叩き付ける。

 癇癪を起した子供のような振る舞いに、取り巻きの二人、アンドレとノーマンがおろおろと宥める。その甲斐もなく、周囲にはひそひそと囁く声が伝播し始めた。

 

 「あれって騎士団長の次男坊でしょ?」

 「えぇ? 粗暴すぎでしょ。礼節も全然なってなかったし」

 「所詮は成り上がり者の血よね……」

 

 ぎちり、と音が鳴るほどに奥歯を噛み締め、歯を剥き出しにして怒りを抑えるマルク。

 その有様も周囲の生徒が嘲る要素の一つになり、三人はそそくさと宿舎へ戻る。

 

 男子・貴族用宿舎の廊下に敷かれた柔らかなカーペットを踏み締めるように歩きながら、ぶつぶつと文句や恨み言を垂れ流す。その後ろをついて歩きながら、アンドレとノーマンは慰める言葉を懸命に探していた。

 フィリップをこき下ろしてみたり、マルクを褒めてみたり、ステラを心配してみたり、方向性を変えてみるも虚しい。

 

 「そ、そういえば、あの平民はなんで懐中時計なんて持ってたんだろうな!」

 

 ノーマンの試みた話題の転換は、アンドレには失策のように思えた。

 わざわざフィリップの話題にする必要なんてないし、もっと適当な昼飯のメニューや狭い部屋への愚痴で良かっただろうに。

 

 「あんなの、平民が持ってて良いモノじゃないだろ! なぁ?」

 

 もういい黙れ、とアンドレが口を塞ぐ前に、マルクが足を止める。

 すわ撃発かと身構えた二人の予想に反して、彼は一転して歩調を緩め、ゆっくりと歩き出した。

 

 「……確かに、あれは平民の手には余る代物だな」

 「なっ!? う、奪い取ろうとか言い出さないよな……?」

 

 ぼそりと呟いたマルクに、アンドレが恐る恐る問いかける。

 マルクとノーマンは顔を見合わせて笑い、その心配が杞憂だと示す。「そんな貴族らしからぬことはしない」というマルクの反論に、説得力はあまりなかった。

 

 「ここは貴族らしく、決闘で正式に所有権を賭ければいいじゃないか。何だったら、俺がやるしさ!」

 

 マルクが笑顔を見せたことで気が大きくなったのか、ノーマンがそんなことを言い出す。

 その案が実に貴族的なものだと思えたマルクは、機嫌良さそうに頷いた。決闘が王国法で認められた正当な権利であるということを知っているアンドレも、その言葉を否定することは無かった。むしろ、正当性があるなら大丈夫だと思考を停止してさえいる。

 

 「いいじゃないか。お前が勝ったら、懐中時計はお前のモノだぞ」

 「ほ、本当か!? よし、昼飯が終わったら早速挑みに行くよ! 二人は部屋で、俺が持ち帰る戦利品を楽しみにしててくれ!」

 

 ノーマンの剣術はそこそこだ。

 軍学校の中では平均から少し上くらいであり、当然ながら昨日今日初めて剣を持った子供相手に負けるはずはない。

 

 だが三人は忘れている。

 そもそもフィリップは剣士ではなく、どちらかと言えば魔術師であることを。

 

 そして誰も正式な決闘の経験など無く──フィリップが経験者であることを知らない。

 フィリップにとっての決闘が、ルキアやカリストといった正しく貴族であった者に教導された、真に己の全てを賭けて戦う殺し合いであるなどとは、想像もできていなかった。

 

 

 ◇

 

 

 

 中央塔、食堂、将官用談話室。

 ルキアとステラ、そしてフィリップの専用席となったそこで、三人は昼食を摂っていた。

 

 魔術学院の食堂より数段質の落ちたメニューではあるけれど、別に不味くはないし、栄養も取れる。美食家ではないフィリップはすぐに慣れた。

 

 今日の昼食はソースのかかったローストビーフとサラダ、パン、あとはボトルクーラーに入ったワインだ。

 今日も今日とて、フィリップのグラスには水が注がれている。

 

 「二人とも、全然酔いませんよね」

 「体質と慣れだろうな。魔力と内臓機能の相関性を研究中だが……」

 「関係ないんじゃない? お姉様はあまり飲めないし」

 

 優雅にワインを傾けながら、二人が応える。

 相関性があるならフィリップは全く飲めないということになるけれど、母アイリーンは地元屈指のうわばみでありながら非魔術師だ。たぶん関係ないだろう。尤も、相関性があるからといって万人がそれに当てはまるとは限らないのだが。

 

 「かっこいいですよね、ワインとか、ウイスキーとか。全然美味しくなかったですけど」

 「子供舌……いや、田舎の酒は濾過が甘いと聞いたことがある。交易品ではなく自家製のものだったんじゃないか?」

 

 酒に関する知識の薄いフィリップでは、濾過が甘いから美味しくないという理屈がピンとこない。

 ステラも別に酒に関する知識を仕込むつもりはないのか、それ以上は何も言わなかった。

 

 ステラの視線が談話室の壁際に設えられたキャビネットを舐め、呆れたように目を細める。

 

 「ここのコレクションは大人向けというか、老人向けだな。苦くてキツいのばかりだ」

 「いや、別に飲みたいわけじゃないので……」

 

 王都のものより硬いパンを水で流し込みながら、フィリップはそう苦笑した。

 

 「そういえばフィリップ、剣術の調子は──」

 「──そうでした! ルキア、魔術で剣を作れるってホントですか!?」

 

 ルキアの言葉に記憶を刺激され、思い出したことを勢いのままに出力するフィリップ。

 彼女は言葉を遮られても嫌な顔一つせず、フィリップの言葉の真意を探る。

 

 「『ライトセイバー』とか『ダークセイバー』みたいな、直接攻撃系魔術の話? それとも、光や重力子を直接操作して剣を作れるか、という話?」

 「直接操作は無理だろうな。重力子操作に要求される演算能力は馬鹿にならないし、光もそうだがエネルギー量が大きすぎる。ロングソードを作るまではいいが、成形限界以上のエネルギーが加わった瞬間に周囲が吹っ飛ぶ──つまり、振ったら大爆発するかもしれないし、当てたら確実に爆発する」

 

 フィリップは「欠陥品じゃないですか!」と笑おうとして、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。

 呼んだ瞬間に周囲を吹き飛ばし、ついでに他人の正気も吹き飛ばすような魔術を使う身としては、その程度の欠陥を笑えなかった。

 

 そんな内心を読み取り、ステラが「お前の召喚魔術よりは幾らか安全だな」と笑う。

 

 「それはそうですね。……それで、ルキア、もしよかったら……その魔術を見せて欲しいんですけど……」

 

 駄目かなあ、と、もじもじしながら上目遣いで見上げるフィリップに、ルキアは呆れたように苦笑した。

 

 「いいわよ。午後の訓練が始まったら、正門前に来て。流石にここでは、ね?」

 「あ、そうですよね。分かりました!」

 

 

 ──と、そんな話をしていたのに。

 

 事情を話すためにウォードを探していたら、例の三人組の細長い人、ノーマン・フォン・ロームに絡まれてしまった。

 

 ステラとフィリップでは血筋が釣り合わないとか、彼女に軽々しく話しかけるなとか、そもそも平民が魔術学院に通うこと自体がおかしいとか、懐中時計という高価なだけでなく芸術的価値も高い逸品を持っていていい人間ではないとか、そういうことを今も延々と羅列されている。

 

 昼食後ということもあるし、午後の陽気が心地よいというのもあるが、何より話がつまらない。眠気を堪えるのが大変だ。

 

 「──故の、決闘である!」

 「……僕の懐中時計と、殿下と話す権利を賭けて? あの、過去に邪神に会ったりしましたか?」

 

 この場にステラがいたら吹き出すこと請け合いの皮肉、「発狂しているのか」という遠回しな質問はしかし、ノーマンには伝わらなかった。

 

 「何を言っている? 受けない、などという選択肢は無いぞ? 貴族である私が、平民である貴様に突き付けた宣言なのだからな!」

 

 そんなルールだっけ? とフィリップはカリストに挑まれた時のことを想起し、首を傾げる。

 あの時は確か、フィリップの側に選択権があったはずなのだけれど……記憶違いだろうか、と。

 

 ちなみに、フィリップの疑問は正しい。

 王国法貴族章に明記された決闘の権利は、名誉の回復や主義の主張など、命懸けで為すべきことだと当人が判断した場合に認められ──相手には決闘を拒否する権利が、ちゃんとある。尤も、その場合は相手の主張を受け入れることになるので、相手の側も自分の主張を命に代えても通すべきだと判断した場合には、決闘が執行される。

 

 フィリップは思考する。

 この決闘を受けるべきか、拒否して相手の主張を認めるべきか。

 

 主張を認めるのなら、誕生日プレゼントの懐中時計は没収され、ステラと話すことはできなくなる。

 

 「物にも人にも、そこまで拘りがある方じゃないんですけど……殿下は僕の理解者ですし、これもルキアに貰った大切なモノですからね」

 

 それは命を懸けるほどのモノか、と言われると、正直首を傾げるところだ。

 ステラとの関係性も、ルキアに貰った懐中時計も、フィリップの命にも、同じく価値はない。

 

 だがそれらを奪われるくらいなら、眼前の人間を殺す。

 今この場で最も価値が低いのは、フィリップにとってどうでもいいモノであるノーマンだった。

 

 「決闘を受けます。期日はいつですか?」

 

 以前は確か、一週間くらいかかったのだったか。

 貴族なら相続権にまつわる手続きなどの身辺整理は必須だろうし、王宮に決闘を執行する旨の申請を提出し、立会人が派遣されてくるまでそれなりに時間がかかる。あれが最速だったのか、余裕をもってのスケジュールだったのかは分からないけれど……こんなことになるなら聞いておけばよかった。

 

 「は? そんなもの、今すぐに決まっているだろう!」

 「……ん?」

 

 なんかおかしいぞ、とフィリップは首を傾げる。

 

 王国は蛮族の国ではない。

 いくら貴族とはいえ、人を殺せば罪に問われる。決闘はその例外規定ではあるが、それ故に細かいルールが決まっているのだ。

 

 決闘の執行には事前の申請と王宮担当官による情報精査などが必須となっている。その手続きを事前に踏んでいたとなると、これは狂人が絡んできたのではなく、高度に組織化された計画的殺人だ。

 

 フィリップはまさか相手が貴族でありながら貴族法を知らず、「貴族は決闘を挑める」という知識だけで行動している馬鹿だとは思わない。

 より正確には、周囲に魔術学院で最高レベルの教育を受けた貴族と、ルキアという高位貴族でも例外に当てはまる天才、あとは幼少期から次期女王としての教育を受けてきたステラしかいなかったから、貴族にも馬鹿はいるという当たり前のことに思い至れない。

 

 加えて、フィリップは王国法に明るいわけではない。

 盗みは駄目とか殺しは駄目とか、そういう基本的な善悪観念は一般道徳として身に付いている──外神の視座に押し流されてしまったけれど──し、王国はそれで問題なく生きていける国だ。

 

 貴族に決闘を挑まれるというシチュエーションは普遍的なものではないし、フィリップもカリストの一件が最初で最後だと思っていた。

 だから、殊更に貴族法を勉強したりしなかったのだけれど、正直、失策だった。こんなことになるのなら、きちんと勉強しておくべきだった。

 

 立会人無し、拒否権無し、即時執行というどう考えても──論理的には異常なこれが、法的にどうなのか、フィリップでは判断できない。

 

 ──けれど、まぁ。

 

 ()()()()()()()()()

 フィリップが最も得意なことというか、特異に過ぎる手札で唯一許されたことだ。任せて欲しい。

 

 フィリップは眠気に侵された頭で単純な解を導き出し、頷いた。

 

 「分かりました。外でやりましょう。二キロ圏の端ギリギリ、誰も来ないようなところで」

 

 魔術師対剣士という圧倒的有利な状況にあって、一撃貰ってヨグ=ソトースが出てくる可能性を考慮している辺り、フィリップの自己評価は正確だった。

 

 



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117

 この砦唯一の出入り口である正門に向かうルートを、フィリップは無心で歩いていた。

 いや、無心で、という表現は正確ではないか。フィリップは殊更に意識するまでもなく人を殺せる。敵も味方も関係なく。だから、ただ決闘に際して抱くべき緊張や恐怖とは無縁というだけだ。

 

 フィリップの心中に何も浮かんでいないのは、ただ眠いからだ。

 午後の陽気、満腹感、心底つまらないノーマンの長話と、柄でもない法についての思考。立ったまま寝落ちしてしまいそうだった。

 

 「安心しろ、殺しはしない」

 「……はあ」

 

 何とかひねり出した返事が呼び水になり、零れそうになる欠伸を噛み殺す。

 決闘を挑んでおいて殺す気が無いなんてあり得ないし、盤外戦術、油断を誘う精神攻撃の類だろう。相手に殺す気があろうと無かろうと、フィリップには関係の無い話だった。

 

 ふらふらと正門を潜り──がし、と。首根っこを掴まれる。

 

 「こっちよ、フィリップ」

 「遅いぞ、カーター。自分で言いだしておいて」

 「……あぁ、ルキア、殿下。ちょっと待っててくださいね……」

 

 正門の外では、剣を作り出すという魔術を見せてくれ、と頼んでいたルキアとステラが待っていた。

 

 ぼーっとした顔のフィリップを猫のように捕まえたのは、呆れ顔をしたステラだ。

 

 「お、王女殿下、サークリス聖下!」

 

 慌てて跪いたノーマンに、二人は一切の意識を向けていなかった。

 フィリップは眠気にとろんと溶けた目で、まさか昼寝でもしていたのかと胡乱な目をするステラを見返す。

 

 「いまからちょっと、このひとをころしてくるので……」

 「はぁ? おい、寝言にしては不穏過ぎるぞ」

 

 フィリップの頬をむにむにと弄びながら、ステラが呆れ声で突っ込む。ルキアは何も言わないが、顔には色濃い苦笑が浮かんでいた。

 普段ならやめてくださいよと振り払うフィリップが、もにょもにょと意味の無い音を漏らしながらされるがままになっている辺り、たぶん本当に眠いのだろう。

 

 「遅刻の言い訳ぐらいしたらどうだー?」

 

 ステラが魔術を行使し、指先からスポイト一本分程度の水を噴出させる。その照準はフィリップの耳に合わせられていた。

 

 唐突に訪れた冷感に、フィリップの意識は急覚醒する。

 そして慌てて周囲の様子を確認し、くすくすと笑っているルキアと、少し怒った様子のステラに気付く。

 

 そういえばと思い返すまでもなく、フィリップが魔術を見せてくれと頼んだのは半時間ほど前の話だ。談話室から一緒に行こうというルキアの提案を、ウォードに一言断らないとと言って蹴ったそのフィリップが、こうして遅刻していては道理が通らない。

 

 ルキアは怒っていないようだけれど、それは彼女が寛大に過ぎるだけだ。

 普通はステラのように、「お前何してんの?」と突っ込みの一つもしたくなる状況だろう。

 

 「……すみません、言い訳してもよろしいでしょうか」

 

 首根っこを掴まれたまま、授業中のように手を挙げて発言を乞うフィリップ。

 「認めよう」と端的に頷いたステラに礼を言ってから、フィリップは全て正直に話すことにした。

 

 「この人に決闘を挑まれたので、終わってから合流しようと思っていました」

 

 トイレに寄ってから行くつもりでした、とでも言うような軽い調子で、人一人殺す算段を語る。

 しかし残念ながら、フィリップの殺人能力はともかく、移動能力はそこまで優れていない。二キロ先で戦って二キロ戻ってくるとなると、普通に歩いて一時間かかる道程だ。眠気に侵された頭で、5分もあれば終わるかな、なんて考えていたフィリップは気付いていないが。

 

 そして、突っ込みどころはそこではない。

 

 「決闘?」

 「……そいつとか?」

 

 ルキアとステラの目から、寝惚けて遅刻した友人に対する揶揄の色が抜け落ちる。

 残っているのは敵に向けられる冷酷な殺意だ。

 

 「何故もっと早く言わなかった? ここに来た当日には挑まれていたはずだが?」

 「え? いやいや、さっき言われたんですよ」

 

 そこで、と中庭の方を指すフィリップの言葉に嘘を感じなかったのか、ステラはフィリップを解放し、意味が分からんと首を振る。

 

 決闘に際して、貴族は必ず貴族院決闘管理局に届け出を出さなくてはならない。

 決闘が正しく行われているか、正当性のある決闘か、相続権の移行手続きは完了しているかなど、彼らが諸々の事項を精査するのに三日はかかる。それらの手続きが終了したあと、戦闘経験のある騎士か魔術師を立会人として手配するので、総じて一週間くらいはかかるはずだ。

 

 「どうして決闘を挑まれたの?」

 「あ、なんか懐かしい質問ですね。えーっと……」

 

 ルキアの質問に、フィリップは眠気に苛まれていた時分のことを懸命に思い出す。

 

 懐中時計に触れたあたりでルキアの顔から表情が抜け落ち、ステラについて触れたあたりで彼女の顔には呆れ交じりの苦笑が浮かぶ。

 事実だけを淡々と述べるフィリップの報告が終わると、我が意を得たりとばかりノーマンが立ち上がった。

 

 「左様です、両聖下。これは自らの分を弁えない卑俗な者に対する、我々青き血潮を流す者からの教育なのです!」

 

 ──沈黙。

 フィリップは「立っていいなら跪く必要は無かったのでは?」と礼節に疎いがゆえの考えを抱き、ステラは眼前の馬鹿とゴブリンのどちらが賢いのだろうかと本気で考え、ルキアは口をぽかんと開けて驚いていた。あのルキアが、だ。

 

 「……カーター、私を揶揄っているなら、バラすタイミングは今だぞ」

 「そうね。冗談は嫌いではないけれど……たとえ自虐でも、貴方が貶されるのは不快だわ」

 

 二人は一旦、眼前の馬鹿はとんでもない大根役者で、馬鹿を演じる精度が低い──ここまでの馬鹿がいてたまるかというほど大袈裟に演じてしまっているのだと思うことにしたらしい。

 フィリップが軍学校の生徒と仲良くなって、結託して二人を揶揄っているのだと思った方が、まだ真実味があった。

 

 しばらく待ってもフィリップが「バレましたか」とばつが悪そうに笑わないことで、二人の機嫌は急降下した。

 

 「……王国法では、貴族には決闘の権利が認められている。それは名誉回復の手段として、主義を主張する手段として、そして懲罰権の対象とならない統治領外の平民を教育する手段として」

 

 うんうん、とノーマンだけでなくフィリップも頷く。

 

 「その権利の行使には事前の申請と、決闘管理局による調査、公的立会人の同席が必須となっている。自慢ではないが、お父様もそれなりに合理的な御方でな、軍事にも医療にも外交にも使えんそんな部署に、有能な人材を回されることはない。申請から執行まで、およそ一週間かかる」

 

 うん? と二人は揃って首を傾げる。

 だが「知りませんでした」が許されるのは、王国法を学ぶ必要のないフィリップだけだ。

 

 「へぇ……じゃあ、今回のは正式な決闘じゃないってことですか」

 「より正確に言うのなら、決闘ではなくただの私闘だ。決闘ではないならこいつにお前を殺す権利はないし、お前は不当に身命を脅かされたとしてこいつを訴える権利がある。法的にはな」

 

 ステラがさらりと付け加えた「法的には」という言葉は、その法に則って訴え出る者より、その場でボコボコにする者が圧倒的に多いがゆえだ。

 これは法的にはグレーだったりするが、殺してしまえば「死人に口なし」というわけで、どうとでもなる。

 

 「ふ、ふん。そういうことだ。貴様は平民らしく分を弁えて、大人しくしておけ」

 

 そう吐き捨てたノーマンに、「え?」と、三人の声が重なる。

 彼はステラを含む三人が再起動するより早く、勝ち誇ったように「では両聖下、失礼いたします」と一礼して去っていった。

 

 ノーマンの脳内では、ステラの言葉は「法的には訴求可能だが、平民の訴えが貴族に届くことは無い」という意味に変換されたのだろう。真実は「ここで殺してもいいぞ」だったので、ほぼ真逆だった。

 

 「……凄いな。あのルキアが、我々聖痕者の中でも一二を争うほど手が早いと言われたルキアが、驚愕に忙しくて殺意を覚える暇もないほどの……馬鹿だ」

 「……不名誉な紹介ありがとう」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 剣を生成する魔術で立ち会う二人を見ていたら、ウォードと合流するのをすっかり忘れていた。

 事前に何も言わずにふらりといなくなったわけだし、せめて一言謝っておくべきだろうとウォードを探す。夕食を終えて部屋に戻れば会えるだろうけれど、こういうのは早めに謝っておいた方が後腐れが無い。

 

 夕食までまだ二時間くらいあるし、真面目なウォードのことだ。中庭の隅で素振りでもしているに違いない──と、思っていたのが一時間前の話。

 フィリップは未だ、ウォードに会えていなかった。

 

 もしかして二人とも互いを探して彷徨っている、一番駄目なパターンなのでは? という懸念すら浮かぶ。

 

 きょろきょろしながら彷徨っている生徒は、ペアと合流する食事の直後などでは珍しくない。しかし、流石に昼食から2時間も過ぎた時分とあっては目立つ。

 フィリップの容姿もあって「大丈夫?」とか「どうしたの?」と訊ねてくれる生徒は軍学校生の中には何人か居たけれど、「一緒に探そうか」と言い出す前にペアの魔術学院生がどこかへ連れて行ってしまう。群衆の中から人を探す以上、猫の手も借りたいところなのに。

 

 「お困りですか、カーターさん」

 

 どう見ても迷子な11歳の子供に対するにしては固い、淡々とした、しかし慇懃な口調で背後から声をかけられる。

 その特徴に当てはまる人物を、フィリップはきちんと記憶していた。

 

 「マクスウェル様」

 

 軍学校首席、アルバート・フォン・マクスウェル。短めの金髪を七三に分けた、几帳面そうな青年だ。

 

 「はい。実は、ペアとはぐれてしまいまして」

 「……確か、ウォード・ウィレットでしたね。お手伝いしましょうか」

 

 正直に言って、その提案は渡りに船だった。

 フィリップは視点が低いから年上の人間が沢山いるだけで探しづらいし、それはウォードがフィリップを探すときにも障害になる。フィリップの矮躯は人の影に埋もれやすいのだ。長身のアルバートはいい目になる。

 

 それに結局、人探しに役立つのは結局のところ、目の数と捜索範囲だ。人手が増えるのはそれだけでありがたい。

 

 「申し訳ありません、お願いします」

 「気にしないでください。見回りのついでですから」

 

 見回りなんてしているのか、という感想を呑み込み、代わりに礼を言って頭を下げる。見回りということは生徒の多い中庭がメインだろうし、フィリップは部屋に戻ってみて、居なかったら……外? それはちょっと勘弁してほしい。外周二キロはちょっと広すぎるし、魔術や矢が飛び交っている。絶対に人探しをしたくない空間だった。

 

 「……カーターさん。もう少しだけ、お時間を戴いてもよろしいでしょうか?」

 「構いませんけど……」

 

 苦々しい表情を浮かべたアルバートに呼び止められ、捜索を再開しようとしていたフィリップは足を止める。

 特に何かをやらかした覚えはないけれど、故意ではないとはいえ現在進行形でペアと別行動している身だ。怒られるかもしれないぞと警戒したフィリップに、アルバートは背筋を真っ直ぐに伸ばした形式通りの礼を見せた。腰の角度はぴったり30度なのではないだろうか。

 

 「私の弟が失礼をしたようで、大変申し訳ありません。家族として、先輩として、きちんと指導しておきますので、ご容赦ください」

 

 いきなり頭を下げられたフィリップが困惑するより早く、アルバートが意図を伝える。

 予期した説教ではなかったフィリップは安堵すると同時に、謝罪の理由についてさっと思考した。弟というと、午前に絡んできたマルクのことか。わざわざ謝罪しに来るくらいなら、彼がその場にいたら止めた筈だ。野次馬の誰かから聞いたのだろう。

 

 「いえ、貴族様の振る舞いですから」

 

 気にしていませんよ、と笑ったフィリップに、アルバートは首を横に振る。

 

 「我がマクスウェル家は、父の働きによって爵位の世襲権を得た新興の家です。奔放な振る舞いは避けるべきですし、何より、他人と接するのに相手を尊重しないのは不道徳でしょう」

 「……そうですね」

 

 相手を尊重するどころか、天地万物を冷笑する価値観を持つ身としては、非常に耳が痛い話だった。

 返答に要した不自然な間を誤魔化すついでに、フィリップは以前から気になっていた質問を差し込む。

 

 「だから、マクスウェル様は僕に対しても丁寧に接してくれるんですか」

 「カーターさんは当校の生徒ではありませんからね。後輩のように雑な対応はできませんよ」

 

 後輩に対してはもっとラフだ、と冗談交じりに言って、アルバートは「さて」と視線を中庭の方へ投げる。

 

 「そろそろ見回りに戻ります。ウィレットを見つけたら、そうですね……正門に向かうよう伝えておきます」

 「ありがとうございます、助かります」

 

 フィリップとアルバートは互いに一礼して、反対方向へ歩き出した。

 

 

 



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118

 ステラとルキアから逃げるように砦へと戻ったノーマンは、苛立ちを紛らわせるように爪を噛みながら歩いていた。その無様な姿にひそひそと言葉を交わす周囲の雑音が苛立ちを加速させる。

 

 「申請、申請だと!? 平民を教育するのに一々申請が必要など、この国はどうなってるんだ!」

 

 ステラが聞いていれば無礼討ちに焼却されそうな愚痴を声高に叫ぶ。

 こいつ正気か、という視線が何人かの生徒から向けられていることに、彼は気付いていない。

 

 「いや、待て、落ち着け。俺がやるべきことは、まず……」

 

 ぶつぶつと呟きながら男子・貴族用宿舎へ向かうノーマン。その気味の悪い様相に、近付いてどうしたのかと声をかける者はいなかった。知り合いだったとしても他人のふりをしたくなるほどだ、赤の他人は積極的に避けようとするだろう。

 

 「元はと言えば、あのチビが身の程も弁えず王女殿下に馴れ馴れしく……いや、だが殿下の行いに口を出すわけには……」

 

 ぎちり、爪を噛みながら思考する。

 大見得を切って出てきた手前、マルクとアンドレの所には戻りづらい。せめて何か、誇れる戦果でもあればいいのだが。

 

 たとえば──そう、あの平民の手には余る、見事な装飾の施された懐中時計とか。

 

 「そうだ。せめてそのくらいの罰は受けるべきだ……」

 

 懐中時計は市場が存在しないほどの貴重品だ。奪ったところで金に換えることはできない。

 しかし、欠点はそれしかないのだ。いつどこにいても現在時刻を把握できる道具は非常に魅力的だし、たとえ壊れてしまってもあの外観だ。美術品として手元に置いておく価値は十分にある。最悪、宝石だけ外して売ればいい。

 

 確か、以前に窃盗騒ぎを起こして訓戒処分──退学一歩手前の重罰を受けた生徒がいたはずだ。そいつにやらせよう。奴も平民だったはずだし、金貨何枚かを握らせれば思い通りに行くだろう。

 

 ノーマンは立ち止まり、中庭を見遣る。

 少し見回して目当ての人物を見つけ、口角を歪めた。

 

 「おい、貴様。ちょっとこっちへ来い!」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 部屋に戻って落胆し、悪足掻きに中庭を一周し、正門でウォードを見つけた時のフィリップの喜びようは、ペアがふらりと居なくなったウォードの怒りを鎮めるには十分なものだった。

 フィリップが真剣にウォードを探していたということが伝わったからだろう。事実、フィリップは本当に外周二キロを探し回るつもりでいた。

 

 「マクスウェル様に声を掛けられたときは、絶対に怒られると思ったんだけど……二人ともがお互いを探して、入れ違いになってたのかな」

 「そうみたいですね。合流できてよかったです」

 

 いやーよかったよかったと笑い合って。

 

 「で、何してたの?」

 「うっ……」

 

 まさか友達と遊んでいました──正確には魔術を見せて貰っていたのだが──とは言えず、しかし嘘も吐けずに言葉を詰まらせる。

 

 特に責めるつもりがあったわけではなく、単なる興味本位だったウォードは、視線を泳がせるフィリップの反応に首を傾げた。

 さっと思索して、ウォードの脳裏にフィリップの「友人」二人の姿が閃く。

 

 「あ、待って。今の無し」

 

 フィリップが「二人に誘われちゃって」とか答えた場合、ウォードの言葉を批判と捉えられると不味いことになる。フィリップは言葉尻を取って訴えるようなことはしないと信じられるが、他の貴族はそうではない。

 下手に掘り下げて王族・貴族批判になっても困る、とウォードは好奇心を飲み下した。

 

 「ちょっと身体を温めて、また模擬戦ね」

 

 少し移動してからショートソードの模擬剣を渡し、ウォードもロングソードの模擬剣を構える。

 肩慣らしに素振りを始めたウォードに倣ってフィリップも剣を構え、ウォーミングアップをこなす。

 

 午前に多少動いたからといって昼食後にいきなり模擬戦をすると、固まった関節が悲鳴を上げ、最悪外れることになる。脱臼はめちゃくちゃ痛いのだと、フィリップは身を以て学んだ。

 ウォードにやられた訳ではない。思いっきり振った剣の重みと慣性が、未発達な上に鍛えられていないフィリップの身体に襲い掛かったのだ。

 

 フィリップはちょっと泣いた。

 

 「……よし、じゃあ、始めようか」

 

 ウォードの言葉を合図に、基礎練習用のエリアに割り振られた中庭の隅から、模擬戦用に割り振られた真ん中の方へ移動する。

 

 「今回は僕が攻めるから、フィリップくんは守る練習をしてみよう。剣で防いでもいいし、距離を取って魔術を照準してもいいよ。……絶対撃たないでね?」

 「撃ちませんよ!」

 

 ウォードが構え、フィリップも応じるように構える。

 相手の一挙手一投足を見逃さないよう、じっと集中して──気付いた時には、ウォードはフィリップの真横にいて、ロングソードを振り上げていた。

 

 「ッ!?」

 

 漏れそうになる驚愕の声を押さえ込み、咄嗟にショートソードを掲げて盾にする。

 我ながら称賛したくなる速度の反応をしかし、ウォードは苦笑と共に切り捨てた。

 

 「それは駄目だね」

 

 ショートソードは本来、盾と併用する武器だ。むしろ、そのためにロングソードを小ぶりに改良したものこそがショートソードである。

 つまりショートソードは攻撃専用で、防御に使うことを想定されていない。特に、片手で柄を、もう片方の手で刃部を握って両手で相手の攻撃を受け止める、ロングソードのオーソドックスな防御の構えを使えないのが痛い。ショートソードでは短すぎて、力が込めにくいのだ。

 

 だから普通は、相手の攻撃を横から殴りつけるようにして逸らす。

 いまフィリップがやっているように、そしてウォードがダメ出しをしたように、相手の攻撃線上を遮るだけなど論外だ。勢いと重さと力でねじ伏せられる。

 

 ウォードは剣を振り切らず、フィリップの剣に当たった瞬間に止めた。

 剣の勢いと、それでは防げないということを体感して欲しかったからだ。

 

 フィリップの筋力はだいたい把握しているから、想定外にガードが弱くて顔を思いっきり殴りつけてしまった、なんてことにはならない──はずだった。

 

 結果から言って、フィリップが握ったショートソードは、柄を基点としたバネのように顔面へと襲い掛かった。

 ぱん、とか、こん、とか。そんな甘っちょろい音ではなく、ごすん、と重い音が脳天に響く。

 

 原因はフィリップの握り方と、手首の固定が甘かったことにある。

 ウォードのデモンストレーション程度の攻撃を受け止めきれず、勢いがそのまま流れてしまったのだ。

 

 「痛ったぁ!?」

 

 反射的にそう言ったはずだ。たぶん。

 実際に口から漏れて、ウォードが耳にしたのは声未満の音のような断末魔だったとしても。

 

 「ご、ごめん! 大丈夫!?」

 

 模擬剣は手からすっぽ抜け、両手で顔を押さえて蹲るフィリップ。

 

 「フィリップくん! フィリップく……気絶してる!?」

 

 想定以上のダメージを与えてしまったことに動揺するウォード。しかし彼は日頃から模擬剣で打ち合っている軍学校生だ。気絶したことも、させたこともある。

 慌てつつも的確に救護処置を施しつつ、近場に居た生徒を医務室へ走らせた。

 

 

 

 そんなこともあり、フィリップは医務室のベッドの上から真っ暗な窓の外を見て、三日目の午後を丸ごと無駄にしたことを知った。

 

 「おっ、おはよう。いや、こんばんは? 君にしては重傷だったね」

 「あ、ステファン先生。こんばんは」

 

 医務室の扉を開けて入ってきたのは、魔術学院学校医であるステファン・フォン・ボードだった。

 体育の授業三回につき一回は転ぶフィリップが、おそらく学院いち仲のいい教員である。そして、それはステファンにとってもそうだった。

 

 名前の通り貴族である彼女は、二つ名持ちの治療術師でもある。

 当然ながらそんな威圧感ある要素を併せ持つ相手がいては、医務室を利用し辛いというものだ。一年を通して、本当に緊急の場合以外は誰も来ない──いや、医務室なんぞには誰も来ない方が平和なのだけれど──寂しさを何年か味わっていたステファンだ。

 

 彼女は端的に言って、人との繋がりに飢えていた。

 

 紙で指を切ったとか、転んで膝を擦りむいたとか、なんか分からんけどお腹が痛いとか。そんな軽い症状で頻繁に医務室に来る、唯一の生徒と仲良くなるのは必然だった。

 

 「僕の顔、ちゃんと左右対称ですか?」

 「人間の顔はもともと左右対称じゃないよ……。顔の傷は軽い打撲だね。脳震盪の方はけっこうキツかったけど、そこは私の腕ってヤツ? 明日には完全に治ってるわ」

 

 フィリップの言葉に笑いつつ、ステファンは怪我の内容と度合いを語る。

 立て板に水に施した治療についての説明を終えると、彼女は「晩御飯、貰ってくるわね」と言って出て行った。

 

 ステファンが居なくなると、医務室は窓際の一番いいベッドを占領しているフィリップと、あとは空のベッドが三つだけの空虚な空間になる。

 窓から差し込む月光が白いシーツを照らし、夜と消毒液の匂いが漂う、得も言われぬ風情があった。

 

 「──はぁ」

 

 昼食からあまり運動せず、寝て過ごしたからだろうか。あまりお腹が減っていなかった。

 いま何時くらいなのだろうと、ベッド脇のラックに吊られたジャケットに手を伸ばす。しかし、その内ポケットには、確かにそこにあるはずの懐中時計が収まっていなかった。

 

 どこかに私物が分けて置かれているのかとベッドの脇を見てみるも、サイドテーブルには水差ししか乗っていない。引き出しは空だった。

 

 「……え?」

 

 ぽつりと漏れた不安の声は、完全に無意識のものだ。

 

 フィリップをここに寝かせるときに脱がせて、そのときに落としたのだろうか。落としそうになった王様がぶん殴られるレベルの代物らしいけれど、この場合、殴られるのはフィリップなのだろうか。それともステファンか、フィリップを運んでくれたであろうウォードなのか?

 

 「そんなことを考えてる場合じゃないぞ、っと」

 

 まだ少しふらつく足で立ち上がり、シーツを退けてみたり、ベッドの下を覗き込んでみたりするも虚しい。

 

 「ただいまー、って、まだ立っちゃ駄目よ!」

 

 夕食のトレーを持ったステファンが足で扉を開け、ベッドの下を覗き込んでいたフィリップに目を瞠る。

 今日の夕食はクリームシチューとパンらしい。あのパンは硬くて食べにくいけれど、ほかほかのシチューでふやかすのなら最高の組み合わせだ。──そんなことはどうでもよくて。

 

 「先生、僕の私物って持ってますか?」

 「ん? ジャケットならそこのラックよ」

 「……そう、ですか」

 

 頭が痛いせいか、いつもより思考の回転が遅い気がする。

 この頭痛は──ずっと気絶していたからか? それともまだ脳震盪の影響が残っているのか?

 

 まぁ、どちらでもいいか。

 

 「……何処に行くの? 今日は一応様子見ってことで、ここで寝てもらうわよ?」

 「……トイレです」

 

 ふらつく足で部屋を出ようとしたフィリップに、ステファンは怪訝そうな目を向ける。

 

 「待って。転ばないように、一緒に行くから──」

 

 フィリップの言葉を信用したのか、彼女はそう言って部屋の奥へ視線を向けた。ベッド脇のサイドテーブルに、両手を塞ぐ夕食のトレーを置くつもりだろう。

 ──彼女がトレーを置いて、フィリップの手を取る前に、ここを出なくては。

 

 時計を失くしたんですけど、探すのを手伝ってくれませんか? なんて、言えるはずもない。

 もしもそれがルキアの耳に入れば、きっと悲しむし、怒るだろう。それは嫌だった。

 

 「ッ!」

 「待ちなさい、カーター君!」

 

 フィリップはステファンの制止を無視して、医務室を勢いよく飛び出す。

 

 何かに突き動かされるように、普段の数倍は感情的に動くその様子は、脳震盪の症状そのものだ。

 治療魔術で神経や血管は正常に戻せても、一度分泌された神経伝達物質の分解にはそれなりに時間がかかる。だから一晩は安静にさせておきたかったのに──もしいま転倒や衝突で再び脳震盪を起こせば、重篤な後遺症を齎すセカンドインパクト症候群になる可能性もある。

 

 そうなると、流石のステファンも治療できるかは時間との勝負だ。

 

 「カーター君! 待って!」

 

 ステファンはトレーを置き、慌ててフィリップの後を追った。

 

 



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119

 砦の廊下の壁には等間隔で燭台が掛けられ、頼りなくも温かい色の明かりで石造りの床や壁を照らしていた。

 フィリップはそのうちの一本を苦労して拝借し、中庭から医務室までのルートを這うようにして戻っている。苦労して、と言うのは、燭台が少し高い位置にあったからだ。ふらつく足で背伸びするのは大変だった。

 

 石と木と、あとは接合材に申し訳程度の錬金素材が使われただけの建物は、この時期の夜の冷気をよく伝える。

 床についている手や膝が冷えていき、徐々に感覚が失われていくような錯覚すら覚える。

 

 「──はぁ」

 

 吐いた息が白く曇る。

 中庭に出たらもっと寒いのだろう。けれど、懐中時計があるとしたら中庭だ。フィリップがもんどりうって倒れた場所か、その近くか、或いはそこから医務室のある中央塔までの道のりにある。──捜索範囲はかなり広い。

 

 しばらく塔の廊下を這い回って成果を挙げられなかったフィリップは、中庭に繋がる扉の前で深呼吸をする。

 塔の奥に居た時より、息がもっと白くなっていた。

 

 思えば、医務室を出る時にジャケットを持ってくるべきだった。

 長袖でそれなりに良質な生地とはいえ、ワイシャツ一枚では堪える気温だ。床につく手と燭台を持つ手を頻繁に替えることで、手の感覚は守ることが出来た。けれどもう膝はキンキンに冷えているし、腋や背中からは変な汗が出てきた。

 

 鏡を見れば、唇が紫色に変色していることだろう。

 しかしジャケットを取りに戻れば、ほぼ確実にステファンに見つかる。そうなればあの学校医は職務に忠実に、フィリップをベッドの上に引き摺り戻すことだろう。

 

 抵抗しようと思えば、勿論可能だ。

 しかしそれは陸上で溺死させるか、人相も分からないような炭の塊に変えるかの二択。怪我の処置をしてくれて、フィリップの身を案じてくれる人間にするべき対処ではない。それは少し非人間的すぎる。

 

 このまま行くしかない。

 

 扉を開けると、燭台の一つも無い中庭が真っ暗に染まっていた。運の悪いことに、月も星も雲の中に消えている。

 手元の蝋燭が放つ頼りない灯りでは、ほんの数メートル先を照らすのが限界だ。訓練している時にはそこそこ広いとしか思わなかった、四方を城壁に囲まれた中庭が、今は無限に広がっているように思えた。

 

 ざり、と、両膝と片手を突いて。

 フィリップは気の遠くなるような捜索作業を開始した。

 

 普段は使われていない砦でも元は軍事施設だからか、地盤がしっかりしている。砂の層は薄く、すぐに硬い岩盤があるから、埋もれて見つからないということは無さそうだ。

 それが唯一の救いになるほど、過酷な作業だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 男子・貴族用宿舎に割り当てられた塔の、中庭を見下ろす位置の部屋。

 士官用個室の内装は、魔術学院生徒寮のフィリップの部屋と、この砦のフィリップの部屋の中間くらいに綺麗な──つまり、だいたい二等地の寂れた高級宿くらいのものだった。

 

 そこそこ柔らかなソファに腰掛けたノーマンは、カチャカチャと耳障りな金属音から気を逸らすように、眼下の中庭で揺らぐ小さな光点を眺める。

 

 彼は徐に懐から懐中時計を取り出すと、じっくりと鑑賞する。磨き上げられた白金製のハンターケースと、そこに刻まれた精緻な模様、12個の緑色の宝石が、暖炉に灯る暖かな色の炎を反射して煌めいていた。満足いくまで堪能してからハンターケースを開き、一言。

 

 「あのチビ、漸く気付いたらしいな」

 

 嘲笑が多分に含まれた言葉に反応して、断続的に鳴っていたカチャカチャという金属音が止まる。

 

 「なんか、申し訳ない気分ッスね」

 

 ぽつりと呟いたのは、部屋の中央に据えられたダイニングテーブルにずらりと並んだ料理を絶え間なく口に運んでいた、ぼさぼさ頭の少年だった。

 彼の名前はトニー・エドワード。エドワード孤児院というところで育った平民であり、以前に窃盗事件を起こして退学リーチ中の問題児だ。

 

 「時計を盗んだ張本人が、今更何を」

 「それもそうッスね。おかげで俺は美味い飯が食えてるワケだし」

 

 悪びれることなく笑い、またカチャカチャと食器を鳴らして食べ始めたトニー。

 一応は貴族として育ってきたノーマンにとって、そのマナーのかけらもない五月蠅い食べ方は苦痛ですらあった。

 

 「内ポケットに入っているものを、どうやって盗んだんだ?」

 

 特に興味も無いことを、食事を遮る目的で問いかける。

 しかしトニーはもはや食事を中断せず、口に物が入った状態で受け答え始めた。

 

 「なんかあいつ、頭を打ったとかで医務室送りになったんスよね。あとは医者がトイレ行った隙にパパっと。チョロい仕事ッスよ、あんなの」

 

 自分でも出来たんじゃないスか? と、口から物を溢しながら言い放ったトニーを見て、ノーマンは何も話しかけないことに決めた。

 

 懐中時計を鑑賞して、眼下の中庭で動く光点を眺めて悦に入る。

 たまに経過時間を確認して「何分も探してるぞ」「無駄なことを」と嘲笑っているだけで、時間はあっという間に過ぎていく。

 

 カチャカチャと食器の立てる不快な音も収まり、ワインを傾けたトニーが満足そうにゲップを溢し始めたころ。

 

 「……あのチビ、もう一時間以上も探してるぞ」

 

 嘲笑を堪えきれず、ノーマンが失笑する。

 アルコールでハイになっているのか、トニーもそれに同調して笑った。

 

 懐中時計はここにあるというのに、寒空の下を一時間も彷徨っているその無意味さは、実に平民に似合いの姿だと。

 価値の無い存在が、無意味な行為をしている。それを暖かな部屋から見下ろす快感は得も言われぬものだ。

 

 「そういや、お仲間に自慢したりしないんスか? ソレ」

 「いま自慢したら、決闘で手に入れたものではないとバレるかもしれんだろうが。万が一貴様のようなクズの手を借りたなどと知られては、ワトソン男爵家の名折れだ」

 「いやー……ま、そうッスかね。バレなきゃ何やってもいいってトコには同意ッス」

 

 何か言いたげだったトニーは自分の中で折り合いを付けたのか、言いかけた否定を肯定に変えた。

 

 その同調に気を良くしたノーマンは、自分もワイングラスを手に取る。

 眼下、未だに無意味で無価値な行為を続ける馬鹿を肴に、一杯やることにした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ふと、クトゥグアを呼ぼうと思った。

 恒星級の熱量であれば、夜の寒さも手足の震えもこの変な汗も、全部丸ごと解決できるじゃないか、と。

 

 いやしかし、そんなことをすれば懐中時計まで蒸発しかねない。何ならルキアも蒸発する可能性だってある。

 ここは大人しく、医務室にジャケットを取りに戻るべきか。

 

 折角中庭にいるのだから、ちょっと走ってみよう! というアイデアが出なかったのは、手元の明かりが移動した時の風で消えそうなほど頼りない蝋燭一本だったからだ。暗闇の中を走る訓練など受けていないフィリップでは、何も無いところで転ぶ可能性だってある。最悪、壁に激突して医務室へ逆戻りだ。

 

 「はぁ……」

 

 心なしか、吐息の白さが薄れてきたように思う。

 これから深夜に向けて気温は下がっていくはずだから、体温が低下して外気温との差が少なくなったのだろうか。それとも、単に夜の澄んだ空気のせいか。

 

 指先の感覚が無い。

 ズボンの膝がほつれ始めている。

 

 地面に触れているところから、どんどん体温が奪われていくようだ。

 

 「はぁ……」

 

 蝋燭の残りが心許なくなってきた。

 まだ『魔法の火種』こと『ファイアー・ボール』という光源はあるけれど、この頭痛と寒気の中でまともに発動させられる気はしなかった。それに、魔力欠乏は体温低下を加速させる。あまり魔術に頼りたくはない。

 

 いまどのくらい進んだだろう。

 中央塔から中庭の中心に向かって、蛇行しながら進んできたけれど──半分は過ぎただろうか。

 

 左手をついた場所に尖った石があって、小さな刺し傷ができた。

 土の傷と錆の傷は良く洗えという教えに従って、なけなしの魔力で『魔法の水差し』こと『ウォーター・ランス』を使う。体育の授業でよく転ぶフィリップに、ステファンがくれた教えだ。

 

 左手が燭台専用になると、右手がどんどん冷えていく。

 蝋燭の熱で温まった左手で握ったり、擦ったりしていると、血が付いて赤茶色に汚れた。パリパリに乾いて動かしづらくなるかとも思ったけれど、元々かじかんでいたから大した障害ではなかった。

 

 それから──それから、どのくらい経っただろう。体感的には普段の授業時間を全部合わせた、5時間くらいはあった。

 勿論そんな筈はないので、寒さがそう感じさせただけだろう。

 

 蝋燭が尽き、ふっと光源が消える。

 

 現在位置は確実に、中庭の真ん中を超えている。

 これ以上正門側に懐中時計があるとしたら、それはもう内ポケットから転げ落ちたというだけではない。誰かが思いっきり投擲したとか、そんな次元だ。

 

 捜索を続けるなら、塔に戻って蝋燭を取ってくる必要がある。

 しかし、未だにステファンに見つかっていないのが奇跡のような状態なのだ。脳震盪でぶっ倒れていた子供が、まさか真っ暗な中庭にいるとは思っていないから、塔の中を重点的に探しているとか、そんな理由だろう。

 

 ついでにジャケットも取りに戻りたいし、何なら置きっぱなしになっているであろうシチューも食べたい。

 手も足も冷え切っているのに、身体の震えが止まり始めた。まだ寒いとは感じているけれど、少しマシになったような感覚がある。11年という短い人生経験に於いて、こんなのは初めての体験だった。

 

 夜が深まるにつれて気温は下がっているのに。蝋燭も消えて、熱源は無くなったのに。

 なんで、ちょっと寒さが和らいでいるのか。

 

 決まっている。神経に異常をきたし始めたからだ。

 

 ──限界だ。

 

 「……ナイアーラトテップ」

 

 自力での捜索をすっぱりと諦めたフィリップは、ぼそり、呟くように呼び掛ける。

 何の音も前触れもなく、中庭に広がる闇から染み出すように、夜闇より黒いカソックに身を包んだナイ神父が姿を見せた。暗闇の中で、彼の捧げ持った燭台と、極彩色の双眸だけが輝いていた。

 

 「──如何されましたか、フィリップくん」

 

 ナイ神父が慇懃に一礼する。

 男女問わず魅了する甘いマスクには、確かな敬意の混じる嘲笑が浮かんでいた。

 

 「僕の時計を」

 

 止まらない頭痛は低体温で酷くなり、頭を内側から突き破りそうなほどだ。

 朦朧とする意識と頭痛、手や膝の痛み、そして脳震盪による感情の発露が、ナイアーラトテップに対するぞんざいな命令の原因だった。

 

 ナイ神父が口角を吊り上げる。

 それは彼我の存在の格差を弁えない劣等種に対する、明確な嘲弄だった。

 

 「この私に命じますか。この私が、従うとお思いですか? フィリップくん、それは傲慢と──」

 「()()()()()()()()()

 

 フィリップはもう一度、ナイアーラトテップの名を呼んだ。ナイ神父ではなく、ナイ教授でもなく、ナイアーラトテップ、と。

 

 ふ、と、ナイ神父の持っていた燭台の炎が消える。

 夜闇の中に極彩色の双眸だけが浮かび上がり、フィリップを睥睨する。吐き気を催す色の瞳に見つめられ、しかし、フィリップは無感動にそれを見つめ返す。こんな体験をするくらいなら、寒さと暗闇の中で這い回っていた先程の方がずっとマシだ──と、常人であれば、そう思うのだろう。

 

 残念ながら、フィリップにそんな正常性は残っていない。

 

 「魔王の寵児として、私に命じると?」

 

 ナイ神父の声の質が変わらない。いつもと変わらず、嘲弄に満ちた、耳触りの良い耳障りな声だ。

 フィリップは刻々と酷さを増す頭痛に眉根を寄せ、端的に答えた。

 

 「──()()()()()

 

 それはフィリップの人格から、人間性を極限まで削ぎ落した態度だった。

 この世の全てに価値を感じていない、この世の姿を知っている者の態度だ。フィリップ自身の身命も、必死に探した懐中時計も何もかもが些事。眼前の強大無比なる邪神、無貌の君、ナイアーラトテップでさえ泡沫に同じ。

 

 あらゆる全てがどうでもよく──故に、自らの感情があらゆる指針となる。

 理性ある人間の姿ではない。それは外神の在り方──特に、シュブ=ニグラスやナイアーラトテップといった、外神の中でもトップクラスの存在の在り方そのものだった。

 

 フィリップは自身が最も忌み嫌う、非人間的な思考と態度でいることに気付いていない。いや、もはや自分が何を考えているのかも判然としていなかった。

 

 そんなフィリップの姿に、ナイ神父は身体を震わせて笑う。

 それはいつも通りの敬意混じりの嘲笑でありながら、どこか歓喜をも孕んでいるように見えた。

 

 「──御意に」

 

 深々と、化身の構造が許す限り丁寧に腰を折り、跪くナイ神父。返答する声には妖しい艶があった。

 胸に手を当て、地に頭を付けたその姿を最後に見て、フィリップの意識は暗転した。

 

 

 



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120

 中庭を彷徨っていた蝋燭の明かりが消えたのを見て、ノーマンはワイングラスを置き、懐中時計のハンターケースを開けた。

 現在時刻は21時を少し回ったところ。フィリップが中庭に出てから、およそ三時間が経過していた。

 

 飽きもせず、眼下で動く光点を眺めて悦に入っていたノーマンの興奮が最高潮に達する。

 

 ノーマンに聖人二人の前で恥をかかせたチビの平民が、三時間も寒空の下で這い回っていた。ノーマンの手中にある、今やノーマンの物になった懐中時計を求めて。

 そう考えるだけで、最高に気分が良かった。

 

 「じゃあ、俺はそろそろ失礼するッス。ご馳走様でした」

 「あぁ」

 

 アルコールで顔を真っ赤に染めたトニーが、ふらふらとした足取りで出口に向かう。

 彼の挨拶におざなりに返したノーマンは、いつまで経っても扉の開閉音がしないことに気付き、フィリップが見えはしないかと中庭に向けていた視線を部屋の中に戻した。

 

 「おい、どうした? 帰らんのか?」

 「いや、なんか鍵かかってるんスけど」

 「はぁ? 開ければいいだろうが」

 

 士官用個室は兵卒用の相部屋とは違い、ドアに鍵が掛けられる。

 鍵と言っても、古い建物だ。ドアと枠を固定する小さな金属の閂が内側にあるだけで、外から施錠できるような仕組みはない。

 

 何を言っているのかと、ノーマンもドアへと向かい、閂を「ここだ」と示す。

 しかし、閂は開錠の位置にあった。

 

 「なに……?」

 「いや、そうなんスよ」

 

 二人で交互にドアノブを回すが、ドアはぴくりともしない。

 築年数があり、ガタつき始めていた木製のドアが、だ。まるで、見えない壁に挟み込まれでもしたように。

 

 誰かしら「うるさいぞ」と注意しに来る程度の強さでどんどんと扉を叩いてみるも、外からの反応はない。扉を破るつもりで蹴りつけてみても、何をしても動かなかった。

 

 「クソ、どうなってる!?」

 

 悪態を吐いたのはノーマンだけだ。トニーはアルコールで回転の鈍った頭で、状況の打開策を懸命に考えていた。

 二人が部屋の中へ視線を戻すと、部屋の中央に薄ら笑いを浮かべた神父が立っていた。

 

 王国人ではないことを示す、浅黒い肌に黒い髪、真っ黒な瞳。

 黒一色のカソックの胸元で揺れる十字架だけが金色で、ひときわ目立っていた。

 

 先ほどまで居なかった人間が突然現れたことで、声も出ないほど驚愕する二人。

 しかし不可解な状況と謎の人物はすぐに結び付き、ノーマンが詰め寄る。

 

 「だ、誰だおま……いや、あなたは!」

 

 神官相手では流石に横柄な態度は取りづらかったのか、ノーマンの勢いが弱い。トニーはそんなノーマンの背中に失望の視線を向けていた。

 

 「初めまして、私はナイ神父です。どうぞお見知り置きください」

 

 ナイ神父が慇懃に一礼する。

 その所作は彼が信仰に費やしてきた年月を感じさせる、見事に洗練されたものだった。トニーが思わず見惚れ、ノーマンが使用人として召し抱えたいと思うほどに。

 

 しかし、そんなことを考えている場合ではないと、ノーマンは理解していた。

 扉をロックしているのが彼の魔術によるものだとしたら、彼は敵である可能性が高い。少なくとも無条件でノーマンの味方をする相手では無いだろう。

 

 「な、何の用だ! どうやって入った!?」

 「後者の質問に答える意味はありませんが……前者は、むしろこちらからお話しようと思っていたところです」

 

 ナイ神父はゆっくりとノーマンに近付くと、その左胸を上から下に撫でた。手指の動きが舌のように艶めかしく、思わず背筋がぞくりと震える。

 

 力なんてほとんど籠っていなかったし、魔術的な何かをされた感覚も無かった。

 ナイ神父はただ無造作に歩み寄り、手を伸ばしただけだったのに、振り払うことも、後退りすることも出来なかった。

 

 手が離れてようやく、込み上げていた嘔吐感を唾液と共に飲み下すことが許される。

 

 「あッ……げほっ!? げほっ」

 

 呼吸まで止まっていたのかと、ノーマンは唾液の嚥下に失敗して咳き込みながら思う。

 

 なんだ。

 なんなのだ、こいつは。

 

 ノーマンが今までに出会った、同じ人間とは思えない存在感を放つ人物は4人。

 第一王女ステラ・フォルティス・ソル・アブソルティア。聖痕者ルキア・フォン・サークリス。軍学校首席アルバート・フォン・マクスウェル。軍学校次席ソフィー・フォン・エーギル。

 

 彼ら彼女らに匹敵するどころか、彼らを超える存在の「圧」があった。戦闘態勢どころか帯剣もせずに、聖痕者を超える? 有り得ない。

 

 どさり、背後で頽れる音を聞く。

 振り返るまでもなく、トニーが腰を抜かしたのだと分かった。

 

 「あ、あなたは……?」

 

 名前は聞いた。しかし、それは彼の素性を明かす手掛かりにはならない。

 一体何が、これほど暴力的な存在感を纏うことができるのか。もはや比喩ではなく、彼が自分と同じ人間だとは思わなかった。

 

 「あ、悪魔、なのか?」

 

 震え声の問いに、ナイ神父は口角を吊り上げた。

 

 「負債を取り立てに来た、という意味では、悪魔に近しいかもしれませんね」

 

 ナイ神父が手を開くと、そこには見覚えのある懐中時計が乗っていた。

 

 「あぁ……指紋で汚れていますね。皮脂もこんなに。汚らしい」

 

 ナイ神父はハンカチを取り出し、懐中時計の価値に見合った丁寧な所作で表面を拭う。ハンターケースを開き、その裏側や文字盤の隅々まで磨き上げたあと、暖炉の光に翳して汚れを確認する。

 自分の作業に満足したのか、彼はそれをカソックの懐に仕舞った。

 

 「そ、それは俺の──」

 「()()?」

 

 ナイ神父がノーマンの言葉を遮り、哄笑する。

 言葉を遮られたノーマンが抱いたのは、怒りや嫌悪感ではなく恐怖だった。それは盗みがバレたのだと悟ったことによる、弾劾や懲罰への恐怖と、自分でも理解していない本能的な恐怖の二種類が混在したものだ。

 

 「君のものではありませんよ。フィリップくんのものは、彼が自分の意思で手放すまで、何があろうと彼のものです。それがたとえ、犬の糞のような代物であっても、ね」

 

 ナイ神父の双眸は夜闇より暗い黒だったはずなのに、今や吐き気を催す極彩色に輝いていた。

 

 ノーマンは心の底から逃げ出したいと思ったし、トニーは腰を抜かした姿勢のまま悲鳴を上げそうになる喉を懸命に押さえていた。

 あと一歩で断崖だと思った。何かひとつでも彼の機嫌を損ねることをしたら、惨たらしい死を迎えるという直感を、二人は言葉も無く共有していた。

 

 息が詰まる、どころか、心臓すら止まっているような錯覚があった。

 手足の震えが止まらない。瞬きの回数が増え、鼻孔が膨らみ、発汗する。恐怖を反映するあらゆる器官が悲鳴を上げ、眼前の存在を畏れていた。

 

 「お、俺たちをこっ、殺すのか!?」

 

 そう叫んだのは、ノーマンの後ろで頽れていたトニーだ。

 

 ナイ神父はその問いに、少しだけ困ったように眉尻を下げた。

 

 「実は、フィリップくんには殺せとも、殺すなとも言われていないのです。より正確には、彼は君たちに対して一定以上の感情を持っていない。私のような従僕には、好きにしろというオーダーが最も負担になると、分かった上でのことでしょうけれどね。きっと」

 

 その嗜虐心すら心地よいと言いたげに、ナイ神父は恍惚とした笑みを浮かべる。

 

 言葉の意味を測りかねた二人は何も言わず、しかし恐怖の中に期待が生まれる。もしかしたら、まだ許されるのではないだろうか、と。

 

 「ゆ、許してくれ! 時計は返しただろう!?」

 「許すも何も、私は特に怒っていませんよ? フィリップくんの命に従い、時計を回収しに来ただけですので」

 

 穏やかな口調の言葉に、二人は安堵の息を漏らす。

 そして今後一切、フィリップに関わらないようにしようと心に決めた。どうしてこんなものを従えているのか、そもそもこれは何者で、フィリップ自体も何なのか。そういった細かい疑問も、全て飲み下すことにする。

 

 これで話は終わりだと思った二人の予想に反して、ナイ神父は言葉を続ける。

 

 「魔王の寵児に対する数々の無礼、狼藉は目に余りましたが……そのおかげで、()()フィリップくんを見ることが出来たと考えれば、功罪は相剋よりやや功が勝るほどでしょう」

 

 二人は、ありがとうございます、と一礼するナイ神父に瞠目する。

 良くて叱責、最悪は死すら覚悟していた二人には、その感謝は青天の霹靂だった。

 

 「では、お元気で」

 

 ナイ神父がにっこりと笑う。

 その直後、二人は扉が開いたことを直感した。何の魔術的感覚も持ち合わせない非魔術師である二人が、自分でもよく分からない何かの感覚で、「今なら扉が開く」という確信を持った。

 

 「ッ!」

 

 トニーが我先に扉へ突撃するのを、ノーマンは背中で感じていた。

 どういうわけか、ノーマンの直感は「絶対に振り向くな」と声高に主張していた。

 

 眼前の、神父の姿をした異常な何かから逃げ出したいのに。これから逃げ出せるのならなんだってするのに──いま振り向くことだけはしてはならないと、そう思った。

 

 ナイ神父は男女問わず魅了する甘いマスクに微笑を貼り付けたまま、硬直して動かないノーマンに首を傾げる。

 直後、トニーが扉を開き──

 

 「ひ、ああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!? ああぁぁぁぁぁ!!」

 

 言葉にもなっていない、悲鳴が聞こえ始めた。

 聞こえた、ではなく。聞こえ()()()、だ。悲鳴は一瞬ではなく、人間の肺活量を遥かに超えた長さで続く。ずっと、ずっと、ずっと──。裏返り、喉から絞り出すような声には、恐怖と嫌悪と悲哀と苦痛が混在していた。

 

 「あ、な、なんで、なんで!?」

 

 ノーマンは背後で何が起こっているのか確かめたいという、未知ゆえの恐怖に対する本能を懸命に押さえこんで問いかけた。宛先は不思議そうにノーマンを観察しているナイ神父だ。

 

 「こ、殺さないって言ったじゃないか!」

 

 背後で上がり続ける悲鳴に負けないよう、精一杯声を上げる。

 扉を開けた状態でこれだけの悲鳴が上がっているのに、誰も様子を見に来ないことが不自然だとは、何故か思わなかった。むしろ、それが当然だとすら思える。

 

 そのことに、今更ながら疑問を感じた。──振り向きたい。振り向いて、この疑問を晴らしたい。

 

 「怒ってはいない、と言っただけですよ。それより、君は意外と勘が良いですね」

 

 絶対に振り向いてはいけない。何故かは分からないけれど、振り向いたら終わりだ。それだけは確実に分かる。

 手足の震えが止まらない。振り向いて、今なおトニーが悲鳴を上げ続けている理由を、彼の身に何があったのかを知りたい。

 

 何が起こっているのか全く分からないことへの恐怖を、振り向くという簡単な動作一つで晴らしてしまいたい。

 

 振り向いてはいけない。振り向きたい。振り向いてはいけない。振り向きたい。

 

 首が自分の意思に反して、或いは自分の意思に従って、ゆっくりと回り始める。可動範囲が限界に達すると、肩が、腰が、足が動き始める。本能的に、両目を固く閉じていた。

 

 真後ろに向き直ると、トニーの悲鳴がより鮮明に聞こえた。

 耳を劈く声量を絶え間なく出し続けることなんて、人体の構造上不可能なはずなのに、悲鳴は一度も途切れていなかった。

 

 何が起こっているのか知りたい。

 目を開けたら終わる。

 

 目を開けてはいけない。

 落ち着いて姿勢を戻し、もう一度扉に背を向けて、ナイ神父が飽きるまでずっと耐え忍ぶ方がいい。よしんばナイ神父に殺されるとしても、いま目を開けるよりは絶対にマシだと確信できた。

 

 そう、分かっていたのに──ノーマンは恐怖に耐えかねて目を開けてしまった。

 

 「ひ──」

 

 自分の判断を心の底から後悔して、自分の本能を心の底から憎悪して、悲鳴を上げた。上げ始めた。

 

 ふ、と、暖炉の炎を含むあらゆる光源が一斉に消失する。

 暗闇に包まれた部屋の中に、吐き気を催す極彩色の双眸だけが浮かんでいた。

 

 

 



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121

 医務室のベッドの上で目覚めたフィリップは、真っ暗に染まった窓の外を見て、三日目の午後を丸ごと無駄にしたのだと思った。

 身体を起こし──かちゃり、と、耳に覚えのある嫌な音を聞いてしまった。神経を集中してみると、確かに右手首に懐かしい感触がある。

 

 左手を使ってシーツをめくると、右手には枷が付いていた。反対側はベッドの柵に繋がり、チェーンが伸びている。

 

 カルト、衛士団、カルト、そして今。

 フィリップ・カーター11歳、人生四度目の、拘束されて迎える目覚めだった。

 

 「──えっ? ……え?」

 

 何も考えずに引っ張ってみるも、きん、と鎖が伸び切る音が虚しく響くだけだ。外れる気配は一向に無いし、経験豊富なフィリップはそれを予想していた。

 

 どういう状況だろうか。

 確か、ウォードと模擬戦をしていて──ガードに失敗したところまでは覚えているのだけれど。

 

 気絶していたのだという推測は、まず正しいだろう。だが拘束の理由には見当が付かない。……数刻前に一度目覚めた時のことを、懐中時計を探して彷徨い這い回った数時間のことを丸ごと忘却しているフィリップには。

 

 きょろきょろと医務室を見回してみるも、人の姿は見当たらない。

 いま何時だろうかと、窓際のハンガーラックに懸かったジャケットを手繰り寄せ、内ポケットから懐中時計を取り出す。右手が繋がれていても、左手がギリギリ届く位置で良かった。

 

 現在時刻は3時。窓の外の暗さから言って、まず間違いなく深夜。

 

 「──は?」

 

 頭を打って気絶していた、という訳ではないのか。いや、気絶はしていたのだろうが、そこから普通の睡眠にシフトしているはずだ。12時間も気絶するようなダメージなら、もっと痛みとかがあるはずだし。

 そこまで考えて、それが分かったところで、手枷の理由には繋がらないと気付く。

 

 今やるべきは考察ではなく、脱出だ。

 

 いきなり拘束されると逃れたくなるのが本能だが、フィリップは経験も相俟って、その意識がかなり強い。

 まぁ、カルトの仕業なら待ってやってもいいけれど。なるべく大勢集まってから、苦しめて殺したいし。……しかし下手人が分からない以上、ここは逃げておくべきだろう。

 

 「──っ!」

 

 思いっきり腕を振り、鎖の破断を試みる。

 ぎん、と、鎖同士が擦れ合う不快な音が、フィリップには確かな手応えに感じられた。

 

 姿勢を変え、ベッドの柵に両足を掛ける。これで思いっきり背中を反らせば、腕より力の出る背筋と両脚を使って鎖を引っ張れるというわけだ。

 

 「せー、のッ!?」

 

 ぎん、と。またそんな金属音が鳴ると予想していたフィリップは、何が起こったのか分からないまま勢いよく後ろに倒れ込んだ。

 そう横幅があるわけではないベッドから転げ落ちる寸前で、右手首から伸びた鎖が張り詰めて止まる。

 

 いや、それはもはや鎖では無くなっていた。

 

 ──手だ。

 黒い服の袖から覗く浅黒い肌と艶めかしく細い指の特徴的な、ナイ神父の手だった。

 

 腕を辿っていくと、嘲笑を浮かべたナイ神父の顔があった。

 

 「おはようございます。フィリップくん」

 「……いま深夜の三時ですけどね」

 

 ナイ神父はひっくり返りそうになっているフィリップをワルツのように優雅な所作でベッドの上に引き戻し、フィリップの右手を離す。ナイ神父の指先が、フィリップの指先との別れを惜しむように舐めていった。

 

 「ご自分の右手を折りたかったのですか? お手伝いしましょうか」

 「そんなワケないでしょう。いきなり拘束されたので、逃げようとしてたんですよ」

 

 ナイ神父は、いきなり、という言葉一つでフィリップの状態を理解した。彼はフィリップの瞳を覗き込み、嘲笑の度合いを深める。

 

 「おや、覚えていませんか。君がどれだけ無様な姿を晒していたのか」

 「はぁ? …………え?」

 

 なんだろう、本当に分からないぞ、と。フィリップは取り敢えずズボンを確認した。

 大丈夫だった。おねしょ卒業から5年強、卒業取り消しは免れた。

 

 では何なのかとナイ神父の真っ黒な目を見返すと、彼はにっこりと笑う。

 

 「教えません。それより、まだ深夜ですからね。もう少しお休みになられては如何でしょう?」

 

 いかがでしょう、と提案しながら、ナイ神父はフィリップの両肩を支え、ベッドに押し倒す。完全に強制だった。

 12時間も寝たにも関わらず──と、本人は思い込んでいるが、気絶していた分を抜いた純粋な睡眠状態は、だいたい4時間くらい──まだ眠かったフィリップは、されるがままにベッドへ横たわった。

 

 ナイ神父は素直に従ったフィリップに口角を上げ、シーツをかける。

 そして自分の人差し指にキスをすると、その手をフィリップの額に当てた。

 

 「おやすみなさい、フィリップくん」

 

 耳元に顔を寄せ、艶やかな吐息混じりに囁かれる。

 耳障りな声は耳触りがいいけれど、それでもナイ神父は寝る前に囁かれたい人物では無かった。

 

 「そういうのは……マザーに……やらせ──」

 

 ただの演出じゃなくて魔術だ、と。フィリップはそう気付くと同時に眠りに落ちた。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 それから数刻。

 窓から差し込む朝日を受けて、今度こそ漸く気持ちのいい目覚めを迎えたフィリップは、大きく伸びをしようとして──右手に装着された手枷に気が付いた。

 

 「おはよう、カーター君」

 

 フィリップが再度の脱出を試みる前に、そう声がかかる。

 それは馴染みのある学校医、ステファンのものであり──どういうわけか、或いは当然ながら、明確な怒りを湛えていた。

 

 「おはようございます、ステファン先生。……あの、なんか怒ってます?」

 「んー?」

 

 彼女はにっこりと笑い、こつこつと靴音も高らかにフィリップのベッドへ歩み寄る。

 そして、一言。

 

 「勿論、めちゃくちゃ怒ってるわよ?」

 「な、なんでですか……?」

 

 今起きたばかりなのに理不尽ではないだろうか、と考えるフィリップ。もしかして寝坊とかだろうか。

 そもそもこの手枷はなんなのか。お世話になっている先生ではあるけれど、危害を加えてくるのならそれなりの対処はさせてもらう。具体的には殺す……というか、殺す以外の抵抗ができない。

 

 「覚えてないの? 昨晩やったこと」

 「──!」

 

 ナイ神父との会話を見られていたのかと、フィリップは内心の焦りをそのまま表情に出す。

 しかし、ステファンの追及は全く別のところに飛んできた。

 

 「脳震盪の失神から覚めたと思ったらベッドを飛び出して、シャツ一枚で寒空の下を徘徊。挙句、脳震盪の余韻と低体温症と極度の疲労でまた失神。……何を考えてるの?」

 「身に覚えが無さ過ぎるんですけど……」

 

 フィリップは自分が痛いことや苦しいことが嫌いだと知っている。その自分がそんな馬鹿なことをするとは思えなかった。

 ステファンが嘘を吐く理由も無いとは思うけれど──率直に言って、信憑性は五分といったところだ。

 

 「本当に? うーん、記憶障害かしら……」

 

 不安になるようなことをぽつりと呟いたステファンは、フィリップの額に手を当てる。次にフィリップの頭を挟むように両手を添え、最後に頭頂部に片手を置いた。

 

 何かの検査か治療だろうと推測できる一連の動作を、フィリップは抵抗せず受け入れる。

 しばらく考え込む様子を見せて、ステファンは最終的に親指を立てた。サムズアップだ。

 

 「健常です! あれだね、夜中に見た夢を朝になったら思い出せないのと同じ感じ」

 「えぇ……」

 

 ほんとかなぁ、と怪訝そうな目をするフィリップを、ステファンは不満そうに見返す。

 

 「なに? 私、これでも医術と治療魔術で王様から二つ名貰ってるんですけど」

 「いや、先生の実力じゃなくて……僕が徘徊してたって部分なんですけど」

 

 夜中に見た夢を思い出せないことは、確かにある。しかし夜中に起きてトイレに行ったのを忘れたことはない……はずだ。たぶん。忘れたことを覚えている、なんて矛盾したことは不可能なので、あまり声高には主張できないけれど。

 

 「あ、そこ? そこは客観的に証明できるよ。君を見つけたのはサークリス様だし、ここまで運んでくれたのはペアのウィレット君。低体温症の治療には第一王女殿下にも手伝って頂いたから、君を説得するには十分じゃないかな」

 

 それが本当なら、確かにフィリップは信用するしかない面子だった。

 しかし、ウォードはともかく、ルキアやステラを巻き込むだろうかという疑問はある。ステファンが貴族だという話は前に聞いたけれど、確か侯爵家の長女だったはず。家督を相続した侯爵本人だったとしても、ルキアやステラにあれこれ言えるのだろうか。

 

 「……じゃあ、後でお礼を言っておきますね」

 「うん、それがいいわ」

 

 ステファンはフィリップの疑心に気付かなかったのか、或いは本人から聞けばいいと思ったのか、首肯して笑う。

 そしてようやく、徘徊防止用だという手枷を外してくれた。

 

 「ありがとうございました」

 「はい。お大事に」

 

 ぺこりと頭を下げ、医務室を後にする。ステファンが手を振って見送ってくれた。

 

 さて──朝食まで一時間ある。

 まさか、まだみんな寝ている女子・貴族用の宿舎に突撃するわけにもいかないし。取り敢えず部屋に戻って、ウォードに話を聞こう。

 

 さっきはよくもぶん殴ってくれたじゃないか、ちょっと話しようや──という意味ではない。

 フィリップは安全でふんわりした剣士ごっこがしたいわけではなく、領域外魔術を使わず相手を制圧できる実戦剣術を身に付けたいのだ。傷を負うことくらい承知の上だし、ウォードを責めるつもりもない。責めるとしたら、むしろ「もっと本気でやってくれ」と詰る。

 

 男子・平民用宿舎になっている塔に続く回廊を抜け、自室へと入る。

 

 運が良ければウォードが起きているかと思ったけれど、今日の彼は遅起きだった。昨日はこのくらいに起きていたのに。

 

 フィリップが徘徊していたのが何時ごろなのか不明だから、ちょっと起こしづらい。

 もし1時とか2時とか、ナイ神父と話す直前くらいだったとしたら申し訳ないし。

 

 客観的にも主観的にもしっかり寝て、何ならこの部屋の硬いものより良質な医務室のベッドで寝て、すっかり元気になったフィリップだ。

 自分を医務室送りにした友人の睡眠時間を気に掛けるくらいの余裕はあった。

 

 ウォードが自発的に起きるまではそっとしておくとして、どう時間を潰そうか。模擬剣置き場は朝食後に鍵が開くから、素振りをするのは無理だ。中庭を走り込むというのも一案だけれど……そういえば、昨日は風呂に入っていないし、シャツも洗濯に出していない。先に済ませておこう。

 

 フィリップが大浴場を朝から独占するというプチ贅沢を堪能し、始める直前だった洗濯係の生徒に頭を下げて汚れ物を渡して帰ってくると、ウォードが目を覚まして支度をしていた。

 

 着替えの途中だったウォードは上裸で、良く鍛えられて引き締まった筋肉と、幾条かの剣で切られた傷痕が露出していた。既に完治しているそれは、師匠との稽古で負わされたものらしい。二日目の風呂で聞いた話だ。

 

 「おはようございます、ウォード」

 「っ!? びっくりした……フィリップくんか。おはよう」

 

 ウォードはシャツを着ると、フィリップに向き直った。そして深々と頭を下げる。きちんとした作法に照らせば見苦しい形だったけれど、ウォードの誠意がしっかりと籠った礼だ。

 

 「昨日はごめん。怪我をさせるつもりはなかったんだけど、力加減を間違えてしまった」 

 「いえ、気にしてません。というか、あれぐらいは覚悟の上ですから」

 

 サムズアップして答えたフィリップに、ウォードは安堵の息を吐く。

 その目元が軽く腫れていることに目敏く気付いたフィリップは、興味と揶揄と、少し重くなった空気を晴らそうと、それを指摘した。

 

 「あれ? もしかしてウォード、泣きました?」

 

 言葉に含まれる揶揄には気付いていたウォードだが、冗談で返すどころではなかった。

 

 「泣いたよ……大号泣したよ……」

 

 震え声の返答に、フィリップは思わず言葉に詰まる。

 この年の男子、しかも軍学校で訓練を積んでいる者をここまで怯えさせ、大号泣したとまで言わしめるモノはなんなのか。

 

 まさかとは思うが。

 

 「あ、あの、ナイ教授に何かされたんですか……?」

 

 フィリップの懸念を、ウォードは首を傾げることで払拭する。

 

 「ナイ教授? いや……君が倒れたあと、サークリス様にめちゃくちゃ怒られてね……第一王女殿下が止めて下さったんだけど、正直、死を覚悟したよ」

 

 ルキアに何をされたのか、その瞬間を思い出しただけで身震いするウォード。

 塩の柱に変えられそうになったとか、跡形もなく消し飛ばされそうになったとか、そんなところだろうか。

 

 「いや……あれは君に怪我をさせたことについて怒ってるというより、もっと……いや、なんでもない。とにかく、しこたま怒られたんだ。触れないでくれ」

 「あ、はい……」

 

 何を言いかけたのか非常に気になるところで言葉を切ったウォードは、それ以上何も聞いてくれるなと両手を挙げた。

 

 「そういえば、昨日の夜、僕が徘徊してたってホントですか?」

 「徘徊……ステファン先生は“脱走”って言ってたけどね。部屋に戻ってないかって、ここにも探しに来られたよ」

 

 彼女の話は本当だったのか、と、フィリップは我が事ながら頭を抱えた。

 全く覚えていないけれど、大変なご迷惑をおかけしたようで申し訳ない。フィリップはばつが悪そうに頭を下げた。

 

 「僕を運んでくれたって聞きました。ありがとうございます」

 「いや、脳震盪が奇行を誘発するのはたまにあることだし、それなら僕のせいだからね。当然のことだよ」

 

 徘徊だの脱走だの奇行だのと好き勝手に言われてはいるが、フィリップには本当に覚えが無い。客観的事実としては「ある」のかもしれないけれど、フィリップの主観では「ない」ことで責められるのは妙な気分だった。

 

 「……よし、この話は終わりにしましょう」

 「え、あ、うん……」

 

 「何をしてたの?」と訊こうとしていたウォードは機先を制され、歯切れ悪く頷いた。

 

 

 

 

 



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122

 朝食を摂りに将官用談話室へ向かう道中で、ルキアとステラに遭遇した。中央塔と男子用宿舎の塔をつなぐ回廊で、だ。

 フィリップが思わず「何やってるんですか?」と訊ねてしまったのも無理はない場所だ。周囲には男子生徒しかいない。

 

 その男子生徒を壁際に追いやって跪かせ、廊下のど真ん中を堂々と歩いてこられると、フィリップもその有象無象に混じるべきなのか真剣に悩む。

 

 二人はフィリップに気付くと、それぞれ異なる反応を見せた。

 ステラはいつも通りに「おはよう、カーター」と笑い、ルキアは無言のままゆっくりとこちらに歩いてくる。

 

 「ルキア? ──っ」

 

 彼女はぎゅっと、フィリップを抱き締めた。

 柔らかな胸の感触と、馴染みのある石鹸と紅茶と、その奥にある形容しがたい甘く蕩けるような香りを感じる。どうしたのだろう、と疑問を覚えたのと同時に、彼女の身体が微かに震えていることに気が付いた。

 

 フィリップはルキアらしからぬ行動に驚きつつ、震えの原因を探る。

 

 「どうしたんですか、ルキア? ……ナイ教授に、何かされたんですか?」

 

 身長的に、マザーがしてくれるようにルキアの頭を撫でるのは難しかった。代わりに背中を撫でると、フィリップの背中に回された腕の力が強くなった。

 豊かな胸に顔が押し付けられて、そのうえ強く抱きしめられるのは息苦しかったけれど、振り払ったり押しのけたりしてはいけない気がした。

 

 「ルキア?」

 

 名前を呼ぶも、ルキアは無言で抱擁を続ける。

 

 「昨日、お前の見舞いに行ったんだが、ちょうど脱走した後でな。ボード先生が「いま頭を打ったりしたら致命的だ」と脅すわ、お前は中庭のど真ん中でぶっ倒れてるわ、低体温症を発症してるわで、泣く寸前だったからな」

 

 ステラがしてくれた揶揄い半分の説明に、フィリップは一抹の罪悪感を覚える。

 しかしフィリップが身に覚えのないことについて軽い謝罪をする前に、ルキアの肩がぴくりと震えた。

 

 彼女はフィリップの髪に伏せていた顔を上げ、ステラに胡乱な目を向ける。

 そしてフィリップの背後に回り込むと、抱き締めたまま耳打ちした。ご丁寧に、ステラにもちゃんと聞こえるように。

 

 「妙に余裕ぶっているけれど、ステラも貴方の処置をしているとき、ずっと叫んでたのよ。「頼む! 頼む!」って」

 

 それは普段の彼女を知る者であれば、誰であれ瞠目するような情報だった。

 

 ステラはいつだって合理的だ。

 他人の体温を操る魔術──しかも低体温症の患者のそれを健常状態まで引き上げ、症状が落ち着くまで維持しなくてはならない──など、フィリップでは想像もできないほどの絶技だろう。当然ながらそれに見合った集中力を要求される場面で、起動詞でもない言葉を叫ぶ意味なんてない。

 

 あのステラがそんな無意味なことをしたなんて、口にしたのがルキアでなければ、無意味な嘘か下手な冗談だと切り捨てられてしまうだろう。

 

 「え? あの殿下がですか」

 「えぇ、あのステラが」

 

 驚愕に満ちた目をするフィリップと、揶揄い半分の生温かい目を向けるルキア。

 ステラは主にルキアの反応に対して、こめかみをひくつかせた。

 

 「それ以上揶揄うなら、私も“毅然とした対応”をするぞ。ルキフェリア?」

 

 ルキアは「あら怖い」と笑って、フィリップを放す。

 そしてフィリップの正面に移動すると、軽く身を屈めて視線を合わせた。左右で意匠の違う聖痕を宿した、赤い瞳に見透かされる。

 

 「……魔力に異常はないわね。身体は大丈夫? どこもおかしくない?」

 「はい。もう完璧です。……あ、殿下が治療してくれて、ルキアが僕を見つけてくれたって聞きました。ありがとうございます」

 

 ルキアとステラ一人ずつに頭を下げると、二人は異口同音に「気にするな」と言ってくれた。

 

 「何ともないなら、朝食にしよう」

 

 ステラが伸ばした手を取ると、もう片方の手をルキアに取られる。

 フィリップにしてみれば、そしてきっと二人としても、これは年少者に対する妥当な扱いなのだろうが──そう思われない可能性もある。

 

 今まで然して意識していなかった周囲の反応は、というと、「なにあいつ」という疑念や嫉妬が半数、残る半分は「ああまたか」という慣れたものだった。ちょうど軍学校生と魔術学院生で半々といったところか。

 

 交流戦も4日目に入った。

 この時点で軍学校生にフィリップの素性──「平民のフリをしている枢機卿の親族」という誤った素性が周知されていないということは、フィリップにとっては嬉しいことだった。

 

 しかし、それは裏を返せば、ペアの生徒に「なにあいつ」と訊ねられた魔術学院生が徹底的に「彼はただの平民です」と答えているということ。フィリップの素性を秘匿すべきであるという、「枢機卿の親族」に対する徹底した配慮がそこにあるということだった。

 

 このくらいなら、まぁいいか、と。

 フィリップは特に何も考えず、もはや魔術学院生の誤解は解けないほど深いという悲しい事実にも気付かず、安穏としたまま談話室へと向かった。

 

 現場を見ていた軍学校生たちに、魔術学院生が必死の誤魔化しと緘口令を試みる場面を、フィリップは見ることが出来なかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 他の生徒より数段豪勢な割に味はたいして変わらない悲しい朝食を食べていると、魔術学院に居た頃より二人の様子が目に入る。あまり食事に没頭できないから、注意が散漫になっているのだろう。

 

 二人は何故かそわそわして落ち着きがなく、時折アイコンタクトを交わしていた。

 フィリップが二人の挙動不審に気付いたことを悟ると、ステラが覚悟を決めるように大きく息を吐いた。

 

 「提案があるんだ」

 

 重々しい口調に、フィリップは思わず姿勢を正す。

 怒られるか、そうでなくとも苦言に類する何かが飛んできそうな雰囲気があった。

 

 無言で先を促したフィリップに、ステラは言い辛そうに続ける。

 

 「剣術を練習するのは止めにしないか?」 

 「……怪我をするから、ですか?」

 

 ステラの提案にYESともNOとも答えず、フィリップは逆に問いかける。

 彼女はフィリップと目を合わせようとせず、言葉少なに「そうだ」と首肯した。

 

 昨夜の一件──フィリップ自身には覚えのない徘徊、或いは脱走で、脳震盪の危険性、延いては剣術の危険性に気付いたのだろうか。

 仮にみんなの言うことが全て本当で、フィリップが脳震盪プラス低体温症で死にかけていたとして──本当なのだが──もし本当に死んでいたとしたら、それは確かに、フィリップの望むところではない。

 

 フィリップが死んだあとどうなるのかは全く不明だけれど、どうせ外神として産み直されるか、時間が巻き戻るか。大穴で、フィリップの意識が地獄や天国に移動するだけということもあり得るか。……とにかく、フィリップの死に大した意味はない。

 しかし、外神になってしまう可能性がある以上、死ぬことは避けたかった。

 

 でも、だからこそ、戦う技術は必要なのだ。

 

 現状、フィリップに許された攻撃は「敵を殺す」「敵と味方を殺す」の二種類だけ。これでは生け捕りや手加減など望むべくもない。

 敵を全員殺せば万事解決、という問題ばかりではない以上、手札が多いに越したことは無いのだ。敵を殺せるのと、敵を殺すことも出来るのとでは、汎用性に大きな差がある。

 

 そんな感じの内容をフィリップが滾々と説明する──もちろん外神云々は省いて──と、ステラは一度顔を伏せた。

 「仕方ないな」と言いたげに大きく嘆息した後、顔を上げ、フィリップの目を真正面から見据える。

 

 「なら、せめて私たちと一緒にやろう。お前のペアが何者かは知らんが、エーギルは名の知れた猛者だし、指導経験もある。この三日でエーザーの腕も把握した」

 「え? それは構いませんけど……ウォードにも聞いてみないと」

 

 船頭多くして船山に上るというし、先生役が増えるのはよろしくない気もする。

 特に、ウォードは実戦至上主義というか、模擬戦に拠る戦闘経験の積み重ねで筋力や技術を培うという考え方だ。少し話しただけの印象だが、ソフィーは基本を重視するタイプに思える。マリーは、まぁ、置いておいて──あまり相性がいいとは思えない。

 

 「道理だな。だから今頃、エーギルがお前のペアを説得しているだろう」

 「あ、そうなんです……ん?」

 

 いま打診されたのに? と首を傾げたフィリップは、自力で状況を把握することに成功した。

 

 これは所謂、予定調和という奴だ。

 フィリップの説得は大前提で、二人ともフィリップが頑なにNOと言い続けるとは思っていなかった。思えば初めに「止めよう」とハードなことを言って、後から「せめて一緒にやろう」とソフトなことを言うのは、典型的な交渉術だ。

 

 魔術の腕前ばかり見ていると忘れそうになる──そもそも身分制度に関心が無いのも一因だろう──が、片や王族、片や高位貴族だ。

 王侯貴族は本来、戦闘のプロではない。むしろ政治、外交において腕を揮う交渉のプロだ。何も考えていない子供一人を説得するくらい、造作も無いだろう。

 

 「……そんなに一緒にやりたかったんですか?」

 「当たり前だろう?」

 「当然よ」

 「……あ、そ、そうなんですか?」

 

 即答され、フィリップの方が言葉に詰まる。

 

 フィリップとしては、最終的に領域外魔術以外の有用な攻撃手段になるのなら、誰に教わってもいい。元々、この交流戦期間が終わったらステラに教えてもらうつもりだったのだから。

 そのステラが「止めよう」なんて言い出した時点で、何か裏があると疑うことも出来たのか。今更気付いても遅いけれど。

 

 と、いうか。気付いていたところで、フィリップに断るという選択肢は無かっただろう。

 軍学校で二番目に強いというソフィー、三番目に強いというマリーの二人が指導してくれるというのだから。

 

 だからフィリップの言葉は非難ではなく、ただの揶揄、冗談だったのだが。

 

 「別に、四六時中お前と一緒にいたいってワケじゃないぞ? ただ、昨日みたいに見ていないところで怪我をされるのは怖いし、交流戦が終わったら私が教えるんだから、今からどんなものか見ておきたいというだけだ」

 「私は、フィリップと一緒にいたいからだけど……対魔術師戦の基本くらいなら、教えてあげられると思うわ」

 

 いや、ルキア相手に剣で挑むとなると、基本どころか極意の域だろう。

 黒山羊の一撃を弾くような魔力障壁を人間が振る剣で切り裂けるわけがないし、フィリップがどうこうできるはずもない。

 

 「お、お手柔らかにお願いします……」

 

 ルキアはともかく、ウォード、ソフィー、マリーと系統の違う先生役が揃っている中から、ステラが誰を最も合理的と判断して支持するのかは、そこそこ興味を惹かれる命題だった。

 

 

 

 



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123

 砦外部の人気が少ないところで、フィリップとウォードはルキア・マリーのペアと、ステラ・ソフィーのペアと合流した。

 事前に話を通していたからか、ウォードは萎縮しつつも文句は言わず、フィリップの指導を開始する。

 

 意外にも、ソフィーとマリー、そしてルキアとステラも、ウォードの実践至上主義的な指導方法に文句を言わなかった。

 むしろ彼女たちが首を傾げたのは、ウォードの過剰すぎる加減についてだ。

 

 勿論、いくら模擬剣に刃が付いていないとはいえ、本質的には鉄の塊だ。思いっきりぶん殴れば人間の頭蓋骨を破砕することくらいできる。

 だから全く加減しないということは無いにしても、肌の表面を撫でるだけのような斬撃、触れるだけのような打撃、寝かせるだけのような投げ技では、とても実戦とは言い難い。そんなゲロ甘だから、ちょっと本気で攻撃したら気絶しちゃうんだよ、とはマリーの言葉だ。

 

 どのくらい加減するのがいいのか、完璧に把握していたのはソフィーだけだった。

 つまり、ウォードの甘さを指摘していたマリーもかなり加減が下手だった。彼女は少し力を籠めすぎて、フィリップの肋骨二本に罅を入れた。フィリップはちょっと泣いた。

 

 ヒビまでなら治療魔術でどうにかなるから、ギリギリセーフ。これは治療してくれたステファンの言葉である。彼女がいなければ王都へ搬送されているところだった。

 

 ウォードの一件を経てもなお変わらなかったフィリップはしかし、マリーの一件で攻撃だけでなく防御にも気を遣い始めた。より正確には、防御の重要性を再確認した。

 死なないからいいや、ではないのだ。むしろ非致死的な攻撃こそ最優先して防ぐべき。ただ痛いだけの攻撃こそ、フィリップにとって最大の脅威である。

 

 戦闘に於いて重要な要素である死への恐怖──とまでは行かずとも、痛みへの忌避感を覚えたフィリップは、少しだけ立ち回りが上手くなった。

 「敵を殺す」という目的一辺倒だった動きに、「敵の攻撃を回避するか防御する」という警戒が加わったのだ。動きの直線性が薄れ、相手にとって読みづらい──比較的、だが──動きになる。

 

 攻撃しかしてこない相手より、こちらの攻撃に対して警戒しながら立ち回る相手の方が厄介と言うのは、剣術初心者のフィリップにも分かる理屈だ。

 もしかして、それを教えるために、わざと怪我をさせたのだろうか。

 

 ……そうだとしても、いつかやり返そうと模擬剣を握る手の力は抜けなかったが。めちゃくちゃ痛かったし。

 

 「力み過ぎよ、もっと脱力して」

 「あ、はい……」

 

 いまソフィーに教わっているのは、リチャードが使っていた、地面を這う蛇のようにも、低空を飛ぶ燕のように見える奇妙な歩法だ。

 初めてソフィーと模擬戦をしたとき、彼女がちょっとしたお茶目で披露した──フィリップは面白いほど一瞬で彼女を見失った──攪乱の歩法『拍奪』である。

 

 「それで、こう走るの」

 「こう……無理では?」

 

 いまフィリップの顔があるのは、普段はフィリップの腰がある高さだ。こんな姿勢で走れるわけがない──のだが、なんでリチャードやソフィーは出来るのだろうか。

 

 「お、出来た」

 

 少し離れたところで、達成感の欠片も無い感嘆符が呟かれる。

 声の主は天才その1こと、我らが王国の第一王女殿下、ステラである。

 

 「エーギル、ちょっと見ててくれ。カーターも。……こうだろ?」

 「え、そ、そうですわ……」

 「なんで出来るんですか……?」

 「天才じゃん……」

 「えぇ……?」

 「天才だものね……」

 

 横軸・縦軸をずらしながら数メートルほど走って見せるステラ。相対位置感覚を狂わせるその歩法は、紛れもなくソフィーやリチャードと同じものだった。

 

 指南役のソフィーも、盛大にずっこけ続けているフィリップも、別流派だからという理由で指南を断ったマリーも、以前に試して諦めたウォードも、この場の誰より付き合いが長いルキアも、全員が驚愕していた。というか、むしろドン引きしていた。

 

 「交流戦が終わったら私がカーターに教えるんだから、このくらいはな」

 

 全員の疑問とは少しずれた答えを返すステラ。

 

 いや、確かに頼もしいのだけれど、彼女の習得速度と比べられそうでちょっと嫌だった。フィリップが出来ないことに対して「私は5秒で出来たぞ」とか言われたら、流石のフィリップでもちょっと落ち込む。

 

 「しかし、かなり感覚的な技術だな。コツを教えてやりたいところだが、言葉にするのは難しい」

 

 そりゃあそうだと、ソフィーは胸を撫で下ろす。

 これでも一応、流派の中で最奥にある技なのだ。習得者はおそらく、王国全体で100人かそこら。師匠が本拠地としている帝国を合わせても1000人に満たないはず。そうホイホイ習得され伝授されては、ソフィーの立つ瀬がないというものだ。

 

 「ステラ、貴女、支配魔術が使えたわよね?」

 「ルキフェリア……お前に“天才だ”と言われたのが、本当に嬉しいよ」

 

 ちょいちょいと手招きするステラに、フィリップは思わず顔を引き攣らせた。

 

 彼女たちが何を言いたいのかは、まぁ、概ね分かった。

 魔術に疎いソフィーたちは分かっていないのか首を傾げているけれど、これは、あれだ。「身体で覚える」という奴だ。

 

 フィリップに初級魔術を教えるとき、彼女たちがよく使う手法がある。

 初めはルキアが使っていて、ステラが「人間砲台は違法だぞ」と笑いながら真似し始めた──教育上は有用だと判断したらしい──他の術者が魔術発動に必要な演算を行い、魔力と発動だけを本人が受け持つという技術だ。フィリップに魔術行使の感覚を掴ませるのにもってこいらしい。

 

 あれの有用性は、魔術適性が一般人並みのフィリップが、初級魔術を使えるようになったことから見て間違いない。そして、身体で覚えることの重要性も。

 

 だが、ちょっと、ちょっと待って欲しい。

 支配魔術を受けたことはあるけれど、まだ二回だけだし、その両方ともクソみたいな体験だった。流石にちょっと気が引けるというか、できれば避けたいというか。

 

 「あの、それはちょっと無しにしませんか?」

 「おいおいカーター、これが最も合理的な解だぞ? 私やエーギルが実演して教えるより、ずっと身に付く。ダイレクトにな」

 

 そう言われると、まぁ、確かにそれはそうかもしれないけれど。

 

 「…………オーケー。やります」

 

 フィリップが諸手を挙げて降参し、少ししょんぼりした様子でステラの下に向かうのを、軍学校生の三人は興味深そうに見ていた。

 

 「あの、支配魔術って違法なんじゃ……」

 「まぁ、一般人ならそうだな」

 

 聖痕者は違う、とでも言いたいのだろうか。

 聖痕者だろうが王族だろうが、平民だろうが奴隷だろうが何ら変わりないということを、彼女は知っているはずなのだが……それは本質的な話か。今は法律上の話だし、関係ないのか?

 

 現実逃避にそんな思考をしていても、ステラの決定は覆らない。それが最適であるとフィリップにも分かるほど明快な解なのだから。

 

 フィリップは溜息を吐き、覚悟を決めて目を閉じた。

 

 「それじゃ、行くぞ? 《ドミネイト》」

 

 カルトの時より、黒山羊の時より、幾らかマシではあったけれど──鎖が絡みつくような不快感がある。

 

 それを我慢して、不随意に動く身体の感覚に全神経を研ぎ澄ます。ステラが思い描いた通りに、フィリップの肉体はリチャードやソフィーにも並ぶ洗練された動きを見せる。

 一連の動作を終えたあとも残る違和感は、経験からすると昼食くらいまで続くはずだ。

 

 「身体で覚えることの有用性は、そりゃあ、ルキアに魔術を教わった身ですからね? 分かってますけど」

 

 足やら腰やらの関節を回したり、腕や背中を動かしたりして違和感を払おうと試みながら、フィリップはぶつくさと文句を垂れる。

 普段なら誰かの教えに対して注文をつけることはしないけれど、流石に支配魔術は別だ。これには全く、一つも、これっぽちもいい思い出が無い。

 

 「もしこれで出来なかったら──」

 「出来るまで繰り返してやるから安心しろ。魔力は回復した」

 

 フィリップの言葉を遮って、「いいからやってみろ」と手で示すステラ。

 そうじゃないんだよなぁ、とか。回復速度が異常すぎるだろ、とか。いろいろ言いたいことはあるけれど──教えて貰っている身だ。文句を付けるのは出来ないことが確定してからにしよう。

 

 「…………あ、出来た」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 これは凄い、革命だ。

 これさえあれば痛い思いをする練習など要らず、剣術をマスターできる。……と、思っていたのはフィリップだけだった。

 

 軍学校生は「なんだこのクソチート」とは思っていたかもしれないが、その無意味さも同時に理解していた。

 これが効果を発揮するのは、歩法などの「取り敢えず身に付けるだけで雑に強い」技術だけ。特定の動きに沿えるだけでは、とても「戦える」とは言えない。それに、無理矢理に身に付けた筈の『拍奪』も、成功率はかなり低い。まともに走れたのは被術直後だけで、反復練習して身体に染みつかせる必要があった。

 

 基礎筋力は貧弱、戦闘経験は薄く、剣筋に理は──「殺す」という原始的なものだけはあるが──皆無。

 フィリップはただの雑魚から、ちょっと動きの変な雑魚になっただけである。

 

 一応、剣の振り方や止め方もインプットしてみたものの、こちらは身体操作の精度より単純な筋力が要求される技術だ。大して意味は無かった。

 

 支配魔術でどうにかなるのは身体の動かし方、或いは技のコツのような部分だけで、戦闘経験や筋力は一切向上しない。

 と、なると、やはり実戦形式での訓練こそが最も効率的であるらしい。

 

 「……結局、ここに帰結しましたね」

 「そうだね……受け身も教わったら?」

 

 ウォードに投げ飛ばされてごろごろと転がったあと、フィリップが溢した呟きにウォードが応える。

 

 「受け身も反復して慣れるのが一番らしいです。殿下が言ってました」

 「確かに、その通りかも」

 

 ウォードはそこで会話を切り上げ、剣を構えて突進してくる。

 体重差は1.5倍以上、速度も考えるとフィリップの全体重を軽々と吹き飛ばす威力だろう。ガードは不可能だ。

 

 敢えて前に出て、『拍奪』を使う。何時間も支配魔術と反復練習を繰り返した甲斐あって、集中していればまともに走れるくらいには習熟していた。

 横軸をずらし──ずらし切る前に、ウォードの剣が突き出される。狙いは鳩尾か、肩か、或いは頭部か。

 

 自分から距離を詰めてしまった分、回避は間に合わない。しかし、ウォードの加速も不十分だ。まだ受け流せる威力のはず。

 上手く決まればウォードの腕が剣ごとフィリップの剣側に流れ、身体もそれに続くはずだ。そこを勢いのままに切れば、綺麗に一本取れる。

 

 タイミングを合わせて、ショートソードを円を描くように振る。

 しかし、二つの剣が金属音を立てるその寸前で、ウォードの剣が手の中でくるりと回転し、逆手持ちに変わった。

 

 打ち払うべき剣身が無くなり、受け流しが透かされる。

 

 そしてそのまま、無防備になった鳩尾に柄頭がめり込んだ。

 

 「──ぶッ」

 

 口から何かが出た。

 ゲロではない何かだ。呼気と涎の混合物だろうか。

 

 「……ごめん、大丈夫?」

 「大丈夫です……」

 

 散々地面をのたうち回ったあと、ウォードの心配に応じる。

 どう見ても大丈夫では無かったが、観戦している四人は誰も何も言わなかった。その代わり、一連の流れを講評する。

 

 「攻性防御としての使い方は、そんな感じよ」

 「……でも、動き始めまでが遅いし、判断も甘いね。今のは後退しながら前にずらして、ウィレットくんにスカさせれば良かったんだよ」

 

 ソフィーが褒め、マリーが指摘する。

 フィリップはふむふむと頷きながらそれを聞き、吸収していく。とはいえ、「こうすべき」というのが理解できても、実際に出来るかどうかは別問題なのだ。

 

 「そうね。……まずは反射神経を鍛えるのが妥当なところかしら」

 

 ソフィーの言葉は、それは勿論その通りなのだけれど──反射速度も模擬戦で鍛えられる要素なのだ。だから──

 

 「もう一回──」

 「よし、カーター。こっちへ来い。ルキア、『サンダー・スピア』だ」

 「……それだと私、雷速までしか出せないわよ?」

 「雷が雷速を超えてたまるか。いいんだよそれで──待て、初級魔術だぞ? 雷速なんて出るワケないだろ」

 

 だから、模擬戦でいいのだけれど。

 

 ルキアが魔術を撃って、フィリップがそれを避けることで反射速度を高める訓練? 普通に無理だろう。第一、人間の反射速度は雷を避けられるほど早くないはずだ。

 普段は光をメインに扱っているから忘れている──雷を「遅い」と思っているのかもしれないけれど、雷は光の3分の1の速さがある。音速よりずっと速い。

 

 「今度見せてあげるわ。今は……このくらいかしら」

 

 電流が槍を形作り、ルキアの指向に従って砦の外壁に向けてフィリップでもギリギリ目で追える程度の速度で飛翔する。

 衝突と同時に放電して消え、石の壁にほんのりと焦げ跡を残していた。

 

 「……当たっても死にませんよね?」

 「勿論。威力はもっと加減するもの」

 

 それなら、まぁいいか、と軽く納得したフィリップ。完全に二人のスパルタ指導に慣れきっていた。

 

 



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124

 昼食を終えた四日目の午後。

 先ほどと同じ砦外部の人気が少ないところで再集合した一行は、揃ってルキアの魔術をひたすら避けるという練習をしていた。フィリップだけでなく、ソフィーも、マリーも、ウォードもだ。

 

 この訓練の有効性は、フィリップの回避精度が目に見えて上がったことで証明された。

 もともと攻撃に対する怯えが無く、攻撃を注視することで生じる視野狭窄も無かったフィリップだ。攻撃を見切る目だけでなく、その精度まで鍛えられたのは大きい。『拍奪』も合わせると、もう立派な回避盾だ。

 

 肉体の脆弱性は変わっていないので、一撃喰らったら終わりだが。

 

 ともかく、これはいいぞと軍学校生が「自分もやりたい」と言い始めたのが発端だ。

 ルキアの魔術は徐々に速度を上げていき、時折、ステラが火球を撃ってくることもある。温度を抑えているとは言っていたが、紫電一色の視界にいきなり赤い炎が混じると、それだけで集中力が途切れてしまうフィリップには良い障害だった。

 

 しばらく高速で飛翔する魔術に目を慣らしたあと、模擬戦に移る。わざわざ中庭まで戻るのは非効率的ということで、場所は変わらない。

 

 ウォードはしばらく練習したいとのことだったので、相手はマリーだ。

 彼女は金属製の鞭を束ねたような剣、ウルミと呼ばれる武器を持っていた。あれもちゃんと模擬剣なのだろうか。

 

 「それ、ちゃんと当たっても痛いで済みますか?」

 「ん? やだなぁ、ちゃんと刃は殺してあるよ」

 

 マリーは安心させるように笑顔を浮かべて言うが、鉄の鞭なんて表面をちょっと粗く削るだけで刃みたいなものだ。当たれば皮膚を削り肉を削ぐだろう。

 

 「うーん……まぁ、そのぐらいならステファン先生が治してくれるか……」

 

 篤い信頼を見せ、ショートソードを構える。

 フィリップの見立て通りなら、この頼りない鉄の棒では、あのウルミの攻撃を防ぐことはできない。絡め捕られるか、防御した場所を基点に曲がって襲ってくる。

 

 つまり、回避の練習専用というわけだ。有難いが、もう少し痛く無さそうな武器にしてほしかった。

 

 マリーがそれを片手でくるくると回すと、ひゅんひゅんと鋭く空気を裂く音がする。時折、鉄の鞭同士が擦れ合って火花が散っていた。

 あれは痛い。絶対に痛い。

 

 「始めるよー?」

 「……はい」

 

 フィリップの戦績は現在、常勝不敗──ならぬ、常敗不勝である。フィリップの剣がウォードやソフィー、マリーに触れたことは一度もない。

 

 「──ッ!」

 

 どうせ負けるなら、せめて体術で負かされたい。あんなので殴られたら普通に泣く。

 そう思ったフィリップは、即座に距離を詰めることを選択する。マリーは鞭を縦回転させているから、一撃目は振り下ろしが来る。つまり、ずらすべきは横軸。

 

 「良い判断じゃん?」

 

 マリーはそう言って笑い、ウルミを持った右手を左肩の後ろまで振りかぶる。右の肩甲骨あたりがフィリップにも見えるほどの大振りを可能にしているのは、彼女の身体の柔らかさと、鞭のような特殊な武器を使う前提で鍛えられた無駄のない筋肉だ。

 身体が柔らかいと、こういう──直前で攻撃の方向を変える、なんてこともできる。

 

 「でも横だよー、っと!」

 

 ご丁寧に──フィリップに避けさせるのが目的だからだろう──マリーはそう言い終えてから腕を振り始めた。

 

 腰が回り、肩甲骨が動き、肩が動き、腕が振られ、手首がしなる。

 腰から先が全て鞭の一部になったような、滑らかで隙の無い挙動。長ければ長いほど先端部分の速度が増す鞭という武器を、武器自体を伸ばすのではなく身体を鞭に見立てることで実質的に延長して強化するような振り方だ。

 

 水平に薙いでくるか、斜めに振り下ろしてくるのか。

 どちらにせよ、横方向に位置を誤魔化している意味は無くなった。

 

 慌てて歩法を切り替え、ずらす方向を縦軸に変える。

 流石に振りかぶった状態から攻撃方向を変えては来ないだろう、というフィリップの予想は正しかった。しかし、それは「避けられる」ということではない。

 

 「──っ!」

 

 マリーが腕を振り終えるより早く、視界の端で銀色が煌めく。

 ウルミの先端部分が柄に先んじて動き、フィリップの頬を張る寸前だった。

 

 ぐい、と剣を持った右腕が引かれる。

 それは間一髪、掲げたショートソードがウルミを防ぎ、鉄の鞭に絡め捕られたことを示していた。

 

 咄嗟に剣を手放し、拳を握り込む。

 フィリップの筋力、体重、体勢、どれを取っても貧弱な、何の意味も無いパンチになることが確定していた。

 

 「超至近距離は向いてないんだよねー」

 

 鞭という武器を熟知しているわけではないフィリップにも、それは何となく分かる。

 だからこうして愚直に距離を詰めたのだ。

 

 さぁ、ほら。さっさと投げ飛ばしてくれ。

 

 「けど」

 

 たん、とマリーの靴が鳴る。

 彼女は全身の運動だけで、その場で二回転していた。

 

 一回転目は、言うなれば助走。先ほど鞭を振り回していた動作の代わりだ。

 

 そして、二回転目は──攻撃。

 

 回転に追従していたウルミが唐突に、おそらくマリーの手の動きによって広がり、フィリップの右側から湾曲した壁のようになって襲い掛かる。

 ショートソードはさっき防御に使って絡め捕られ、少し後ろに転がっている。他に盾に使えるものは──何もない。

 

 致し方ない。顔に当たるより幾らかマシだ。

 そう覚悟を決めて、頭を抱えて身体を強張らせた。

 

 「え!? ちょっ!?」

 

 フィリップの回避を大前提に動いていたマリーは、そのフィリップが早々に回避を諦めたことで慌てふためく。

 しかし振り終えた鞭は柄の動きを止めたとしても、加速が乗った鞭部までは止まらない。

 

 やばい、また怪我をさせてしまう。

 マリーが抱いたそんな懸念はソフィーとウォードにも伝播し、二人が息を呑む。回避を放棄したフィリップの動きのみならず、ほんの数瞬の硬直が命取りになるような攻撃まで、二人にはしっかりと見えていた。

 

 ぎゃり、と。フィリップに当たる少し手前で火花が散る。

 それはルキアの展開した魔力障壁による防御であり、戦闘中止の合図だった。

 

 「……まぁ、50点ってところだな」

 

 たぶん100点満点で、ステラがそう採点しながら歩いてくる。

 基本的に戦闘に関しては辛口な彼女にしては、これはそこそこの高得点だ。

 

 「判断の早さは発達途上だが、悪くない。最後も攻撃を見て、防御を選択することは出来ていたしな。……無意味な防御だったが、盾や魔力障壁があれば防げただろう」

 

 うんうんとフィリップだけでなく、観戦していた全員が頷く。

 確かにフィリップには鉄の鞭が見えていたし、防御姿勢も間に合っていた。攻撃が鞭であれ剣であれ意味の無い防御ではあったけれど、だ。

 

 しかし、盾を持った状態で『拍奪』の歩法を使えるかどうかは未知数だし、フィリップの魔力量や魔術適性では魔力障壁など望むべくもない。

 

 「回避が前提ということを忘れるな。もう一度だ」

 「はい。……すみません、その前にトイレ行ってきます」

 「模擬剣、預かろうか?」

 

 お礼を言って模擬剣をウォードに渡し、足早に砦に戻る。

 正門を入って右に曲がり、しばらく進んで平民用宿舎に入り、廊下をちょっと歩いた先が最寄りのトイレである。普通に遠いし不便だった。

 

 用を足して戻ろうとすると、中庭をうろうろしていたアンドレと目が合った。

 特に何か用があるわけでもなかったので、そのまま進行方向に視線を戻す。しかし、彼はどたどたとこちらに駆け寄ってくると、フィリップの前に立ちはだかった。

 

 「お、おい、待て、フィリップ・カーター。」

 「……何でしょう」

 

 うわ、呼び止められちゃったよ、という内心の辟易が透ける返答に、アンドレは不快そうに顔を引き攣らせる。

 しかし特段何か文句を付けることも無く、用件だけを端的に告げた。

 

 「ノーマンを見なかったか。ノーマン・フォン・ワトソンだ」

 「昨日のお昼過ぎに話して……それ以来は見てないですね」

 

 フィリップとしても長話をしたい相手では無いので、そう端的に答える。

 尋ねてきたのがアルバートなら、以前の恩返しを申し出たところだけれど、アンドレ相手にそこまでの親切心を抱くことは無かった。

 

 「じゃあ、僕はこれで」

 「あいつはお前と! ──お前と、決闘をしたはずだ」

 

 背中に叫ばれ、振り返る。

 彼の目には深い猜疑と正義感が宿り、フィリップを糾弾せんとしていた。

 

 「お前があいつを殺したんじゃないのか!?」

 

 その言葉を聞いて、フィリップはいま自分がどんな顔をしているのか、自分でも分からなくなった。

 確かに決闘は挑まれたし、殺すつもりだったけれど、実行する前にルキアとステラに捕まったのだ。捕まえられたのは待ち合わせに遅刻したフィリップだったが。

 

 フィリップは誰も殺していないし、そもそも殺そうとしてきたのは向こうの方だ。もしフィリップが彼を殺していたとしても、こんな風に責める視線を向けられる謂われは無い。

 

 第一──人間なんて、殺そうとするまでもなく死ぬ脆い生き物だ。その生死に然したる意味はないだろうに。

 

 「いえ、違います」

 「し、信じられるか!」

 

 フィリップの返答に、アンドレは間髪を容れずに叫ぶ。

 いや、まぁ、確かに。フィリップが決闘の相手を殺さないなんて奇跡のようなことかもしれないけれど、これでも一応、決闘相手の生還率は100パーセントなのだ。母数1という何の判定にも使えない根拠だが。

 

 「いや、前だって……。そういえば、ペアの人はどうしたんですか? 一緒に居るところを見てませんけど」

 

 もしクラスメイトなら、フィリップが決闘相手を殺さなかった──正確には殺す前に決着が宣言されたのだけれど──ことを証言して貰おうと考えて、ふと疑問を抱いた。

 

 魔術学院生の大部分は学年やクラスの垣根なく、フィリップのことを「教会関係者」として認識している。

 この交流戦のシステム的に、彼らにも魔術学院生のペアが居るはずであり、彼らがフィリップに難癖をつけた時点で血相を変えて止めそうなものだが。

 

 「ふ、ふん。クジ運が無くてな。我々のペアもお前と同じ平民だったから、顔合わせの瞬間に別行動を言い渡してやった」

 

 それは確かに運の悪いことだと頷く。ただし魔術学院生の方が、だ。

 交流戦は毎年あるイベントではないらしいし、貴重な機会を無駄にしてしまうことになって残念だろう。

 

 「名前は分かりますか?」

 「……何故そんなことを知りたがる? 一々覚えていないが、確か二年生の男子だった」

 

 上級生か。

 あの決闘を見ていたのはクラスメイトと、名も知らぬ公式立会人のおじさんだけだ。部外者がフィリップの決闘について耳にするとしたら、たぶん「フィリップが未知の魔術を使って相手を半殺しにした」とか、そんな感じだろう。あまり吹聴されたい情報では無かった。

 

 「僕が誰かを殺すような人間では無いと、僕のクラスメイトは証言してくれるでしょう。ルキアや殿下も、たぶん……」

 

 いや、どうだろう。自分で言っておきながら、それはちょっと怪しい。

 クラスメイト達はカリストが地上で溺水し窒息の苦しみを味わったことを知っているし、ルキアやステラはフィリップのことをより深く知っている。特にステラは、フィリップが人間を殺すことに忌避感を覚えないどころか、人の生死に何ら意味を感じないことを知っている。

 

 「フィリップ・カーターは殺人を犯すような人間か?」と聞かれたら、実際にどう答えるかはさておき、内心では「はい」と即答するはずだ。

 

 そりゃあフィリップだって、何の理由も無く他人を害するような非人間的なことはしたくないけれど、「したくない」だけだ。できないわけではないし、その後の法的追及やら捕縛執行やら何やらも全て無視できるというか、人類諸共に焼却できる。

 

 「し、調べれば分かることだぞ! お前が昨日、どこにいたのか。これだけの人がいるんだからな!」

 「昨日は……だいたいずっと、ルキア達かウォードと一緒でしたね。あと……あっ」

 

 そういえば、昨日はフィリップ自身すら自分の潔白を証明できない空白の時間がある。

 みんなが言うには中庭で昏倒していたらしいけれど、それがノーマンを殺したあとのことではないと、フィリップには断言できない。

 

 内心の疑念がそのまま表情と言葉に出てしまい、アンドレが眦を吊り上げる。

 

 「な、なんだ!? やはりお前が殺したのか!?」

 「いえ、それは無いと思うんですけど……。部屋とか、見に行きましたか?」

 「当たり前だ! 部屋にも中庭にも食堂にも医務室にも、この砦中、どこを探してもいないから、お前に聞いているんだ!」

 

 フィリップが何をしていたのか、ナイ神父は知っている様な口ぶりだったけれど……待て、ナイ神父だと?

 昨夜、ナイ神父はここで何をしていたのだろう。脱走していたフィリップを煽りに来たようにも思える。しかしそれなら、煽るための化身であるナイ教授でいいはずだ。彼女は1-A担任として同行しているから、他人に見られても問題ないのだし。

 

 部屋に死体が無く、また現時点で誰かが死体を見つけたと騒ぎになっていない時点で、フィリップの手にかかったとは考えにくい。

 フィリップの殺人能力はそれなりに高いけれど、死体を残さず殺すのなら召喚魔術を使うことになる。誰にも気付かれずに実行するのは不可能だ。

 

 しかし、ナイアーラトテップなら話は別だ。フィリップも知らないような完全殺人の方法を幾千通りも持っているに違いない。

 

 ……なんて、邪推が過ぎるか。

 ナイアーラトテップは何の意味もなく、ただ気紛れに種族を一つ滅ぼし星を砕くようなゴミクズだけれど、アザトースには忠実だ。フィリップの守護をしているうちは、意味もなくフィリップの周囲を引っ掻き回すことはしない……と、思う。たぶん。

 

 フィリップがナイ教授にそれなり以上の悪感情を抱いていることは分かっているだろうし、昨夜は病み上がりのフィリップに配慮してくれたのだろう。

 

 「いえ、申し訳ありませんけど、本当に知りませんね。……一応、ルキアや殿下にも聞いてみましょうか?」

 「いや、それは……。待て、お前いま、サークリス聖下を呼び捨てにしたか?」

 

 先ほどとは全く別の理由で、アンドレの視線が鋭くなる。

 なんでこいつはこう面倒くさいんだ、と。フィリップは思わず頭を抱えた。

 

 それからしばらくアンドレの質問責めは続き、フィリップはこの場を逃れるのに「ルキアとステラを待たせているから」と、虎の威を借りる羽目になった。

 



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125

 ルキアとステラを待たせるという不敬を働いたフィリップを叱責し、速やかに二人の下へ送り出した──事実とは異なるものの、アンドレは自分の行いをそう解釈していた──あと、マルクの部屋に戻る。

 「いたか?」という問いに、アンドレは重々しく首を振って答える。

 

 「いない。あの平民も知らないと言っていた。決闘は挑まれたが戦わなかったと」

 「そうか……。まさかノーマンの奴、逃げ出したのか?」

 

 軍学校も魔術学院も、国家の中枢となる騎士や魔術師を養成する学校である以上、それなりに過酷な訓練がある。

 野外訓練などでは例年数人単位で死者が出るし、軍学校のカリキュラムである長距離行軍演習は十数人単位の退学希望者と数人の死者を出す最悪のイベントだ。中には途中で脱走する者もいるほどに。

 

 尤も、最近の軍学校教師陣は近衛騎士団のOBが多く、血統主義的な人間が半分以上を占めている。過酷な訓練であっても貴族は優遇され、退学者も総数は大幅に減り、内訳は平民ばかりになりつつあった。

 それに、この交流戦はとても過酷とは言い難いどころか、普段の基礎訓練の方が何倍もキツいような代物だ。まぁ、その基礎訓練でさえ真面目にやっている、やらされているのは平民階級の生徒くらいのものだが。

 

 「分からない。一応、あとで教師の誰かに聞いてみるか」

 「そうだな。そうするか」

 

 一先ず情報を──「何も分からなかった」という情報を共有したアンドレは、なんとなく部屋に居辛くなり、担任の先生を探して彷徨することにした。

 

 しばらく中庭を彷徨って目当ての人物を見つけられず、ダメ元で中央塔へ行くと、食堂で教員たちがワイン片手に駄弁っていた。

 耳障りな大声で話している様と、その赤らんだ顔ぶれに魔術学院の教師が一人もいないところを見ると、我が校の教師ながら情けなくなる。

 

 「すみません、マークス先生。ちょっとよろしいですか」

 「へぁ? あぁ、えっと、ローム君ね。どうしたの?」

 

 なんだよめんどくせぇなとでも言いたげに、去年赴任してきたばかりだという若い男性教師がこちらを見遣る。

 

 「ノーマン……いえ、ワトソンを見ませんでしたか?」

 「え? あー、帰ったよ。今朝」

 「帰った? 何故です?」

 

 どうせ成果は無いだろうと期待もしていなかった相手から、まさか答えが返ってくるとは。そんな驚きも忘れるほどに、思いもよらない言葉だった。

 すぐに理由を問うと、彼はゲップを一つ零してから答える。

 

 「身内に不幸があったんだってさ。王都から神父様がいらっしゃって、同じ馬車で所領まで即行だよ」

 「そ、そうだったんですか……。分かりました」

 

 どんなザマでも「教師」であるからか、アンドレは彼の言葉を素直に信用した。

 まぁ、今日の早朝に「ワトソン男爵家に大禍あり。至急戻られよ」という伝言を持ち、顔を黒い布で覆い隠した葬儀業者を連れた、長身痩躯の神父が訊ねて来たことは事実だ。ひどく憔悴した様子のノーマンを心配した魔術学院の教諭──見てくれは猫耳と尻尾の特徴的な可憐な少女だったが──が付き添って、彼らが来たのと同じ馬車で所領に戻ったことも、また。

 

 「あ、ローム君ちょっと待って。魔術学院生に絡んでるらしいけど、くれぐれも他校の生徒と問題を起こさないように」

 「……留意します」

 

 彼の声色は酒精に浸っていたが、一抹の真剣さを孕んでいた。

 しかし残念ながら、そんな叱責未満の注意を真に受けるような性格なら、アンドレはここまで奔放に育っていない。適当に返事をして立ち去ろうと一礼する。

 

 「待て、ローム。これは注意じゃなく忠告だ。ちゃんと聞け」

 

 別の教員がアンドレの背中に声を掛けるが、彼は溜息とともに振り返る。

 誰が飲んだくれの話をまともに聞くものかと、うんざりした様子の顔に書いてあった。

 

 「今朝来られた神父様がな、こう言ってたんだ。「フィリップくんはお元気ですか?」ってな。フィリップなんて王国じゃ珍しくもない、街中で叫べば2、3人は確実に振り向くような名前だと言ったら、ご丁寧に「魔術学院1-Aのフィリップ・カーターだ」と指名されたよ。わざわざ言ってくるあたり、たぶんただの知り合いとか、半端な関係性じゃあない」

 

 何が言いたいのかという目を向けるアンドレに、他の先生が嘆息を隠しながら言葉を重ねる。

 

 「……貴族は平民に優越する。それはそうだが、何事にも例外はある。くれぐれも、王国貴族全体が教会や神官様に──延いては、教皇庁に睨まれるようなことは避けてくれよ」

 

 その言葉と、聞く時間を使ってようやく理解に至ったアンドレは、ひゅっと息を呑んだ。

 つまりフィリップは有象無象の平民ではなく、少なくとも神官と親密な関係にあり──チクられると非常に不味い。

 

 「し、失礼します!」

 

 アンドレは顔を蒼白にして食堂を飛び出し、男子・貴族用宿舎に駆け戻る。しかし、すぐにはマルクの部屋に戻らなかった。

 この数日の間に、アンドレはフィリップに好印象を持たれるような行いを何一つしていない。いや、むしろ悪印象を与えてきたと言ってもいいだろう。直接的に絡んだのはマルクとノーマンで、自分は何もしていないとはいえ。

 

 「ど、どうする? どうすべきだ? カーターなんぞどうでもいいが、教皇庁の顰蹙を買うのは不味い。不味すぎる……」

 

 アンドレは頭を抱えて思考し続ける。

 過回転を続けた脳はやがて、一つの解を導き出した。

 

 それは最速にして──最も拙い策。

 

 「──殺すか?」

 

 数秒の間が開く。

 それは自分の言葉を再考しての空隙ではなく、自分の口から出た言葉に衝撃を受けたからだ。

 

 硬直から解放され、アンドレは噴き出した。

 

 「ははは……有り得ないな。それこそ最悪の愚策だ」

 

 石床の上に敷かれた薄いカーペットを蹴立てて歩きながら、また考える。考えて、考えて、考えて──そして、最良と思われる解を導き出す。

 

 「いや、待てよ? 俺は何もしていないし、このまま何事もなく交流戦を終えればいいんじゃないのか?」

 

 その考えが素晴らしいものに思えたアンドレは、ぱちりと指を弾く。

 

 確かに、変に擦り寄ったり機嫌を取ったりすると、却って相手の機嫌を損なう可能性はある。フィリップがどういうタイプなのかアンドレは知らないし、基本的に対人認知能力に問題のあるフィリップの認知強度は、概ね接触回数で決まる。要は、コンタクトの回数が多いほど、フィリップの中でその人物の存在が確立していくのだ。尤も、認知されることと、人間として尊重されることはイコールではないのだが。

 

 とにかく、このままフィリップに会わず、これ以上何も悪印象を与えなければ、交流戦終了後にはアンドレのことをすっぱりと忘れている可能性はある。アンドレにはそう思えたし、それは事実でもあった。

 だから、あながち悪い策というわけでもない。ない、はずなのだが──先程の狼狽はどこへやら、軽い足取りでマルクの部屋に戻る背中を見ると、どうにも、そうは思えなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 交流戦5日目も変わらず模擬戦と基礎的な筋力トレーニングに充て、交流戦6日目を迎えた。

 

 朝食も終えていない起き抜けの学生たちは軍学校・魔術学院の区別なく、全員がここに来たばかりの頃と同じように整列し、演説台の上に視線を注いでいた。

 声量だけがやたら大きくて内容の薄い男性教師の怒鳴り声を少し聞いたあと、またアルバートから詳細を伝えられる。

 

 「交流戦も残すところ二日となり、本日よりペア同士による2対2の模擬戦が、明日には6対6のグループ戦が執り行われます。各ペアは中庭五か所、砦外周部二十四か所の、所定の試合スペースに集合してください。ペアごとの対戦相手、対戦エリアは表にまとめ、宿舎と食堂、正門、中央塔入り口、演説台下に掲示しています。各自、行動開始時刻前に確認しておいてください」

 

 以上です、と締めくくり、アルバートが演壇を降りる。

 「この程度の伝達事項なら初めからしおりとかに書いとけよ」という愚痴は、主に魔術学院生の中から上がっていた。

 

 ぞろぞろと中央塔の食堂へ、或いはそれぞれの宿舎へと向かう生徒たち。中には演説台の下にある立て看板や、正門の方へ向かう者も居たが、少数派だった。

 

 フィリップも欠伸を溢しながら食堂のいつもの談話室へ向かう。

 道中で対戦相手を確認してみると、なんとびっくり、ペア戦の対戦相手はあのマルク・フォン・マクスウェルのペアだった。ちなみにグループ戦の班はステラと一緒だ。これだけの人間がいて、数少ない友人と同じ班になるのは凄まじい幸運というか、正直「抽選で決まる」というしおりの文言を疑いたくなる結果だ。

 

 ……いや、いち平民が王女殿下と同じ班になっているあたり、本当に公正な抽選なのかもしれない。ステラの介入という線も捨てきれないけれど、彼女がそんな無意味なことをするとも考えにくかった。

 

 「……おはよう、カーターくん。昨日は大丈夫だった?」

 「おはようございます、エーギル様。怪我はしていないので、大丈夫です」

 

 談話室の門番役を務めているソフィーと、そんな挨拶を交わす。

 一昨日に引き続き、昨日も模擬戦の相手をしてくれた彼女の攻撃は、当たるとかなり痛く、しかし怪我はしない絶妙なものだ。加減が過剰になりやすく痛みも薄いウォードや、痛いを通り越して怪我に至ることもあるマリーとやるより安心感がある相手として、フィリップはよく練習相手になって貰っていた。

 

 「そう。……あ、対戦表はもう見た? 殿下と私のペアの対戦相手、サークリス様とマリーなの」

 「え? そうなんですか?」

 

 抽選が公正なものである確率が下がったような気がする。

 流石に聖痕者二人が別だと、当たった2ペアが瞬殺されて訓練にならないから、そこだけは特例とかだろうか。

 

 「えぇ。今から楽しみだわ。世界最強の魔術師同士の戦いをこの目で見られるなんて」

 「御前試合とか、行かないんですね」

 

 フィリップの意外そうな言葉に、ソフィーは苦い笑いを浮かべた。

 

 「今年は途中で怪我をしたの。順位も19位で止まっちゃうし、観戦もできなかったし、最悪よ。今年の両聖下は凄かったんでしょう?」

 

 凄かった。

 それはもう、フィリップが理解できない程度には。

 

 まさかあそこまでの「本気」を出すことは無いはずだから、ソフィーにこの話をするのは酷だろう。

 

 「そ、そうですね。えっと、二人とももう中ですか?」

 「えぇ。引き留めちゃってごめんなさい」

 

 話を終わらせようというフィリップの内心を正確に読み取り、ソフィーは軽く苦笑して扉を開けた。

 

 談話室では、ルキアとステラがいつものようにフィリップを待っていた。

 二人と挨拶を交わしつつ、ルキアの隣に座る。

 

 「エーギル様に聞いたんですけど、二人が対戦するんですね。どこでやるんですか?」

 「A区画、正門のすぐ側よ。フィリップはL区画──砦を挟んで反対側だから、お互いに見に行くのは無理そうね」

 

 模擬戦のエリアは砦内部、中庭に第一から第五の五区画。砦をぐるりと囲うようにAからXの二十四区画がある。フィリップとルキア達の指定場所はほぼ正反対、時計で言う所の12時と6時の辺りになっていた。

 

 砦は正門しかなく──ステラが言うには裏側には補給用の大規模な地下通路があったらしいけれど──直線で通ることができない以上、合流するには砦をぐるりと迂回するしかない。

 お互いがお互いの模擬戦を見に行くのは無理そうだった。

 

 「剣で戦おうかと思ってたんですけど、止めた方がいいですかね?」

 

 フィリップに指南してくれているのは、今やウォード一人だけではない。

 矮躯をカバーするための歩法を教えてくれたソフィー、武器の扱いについてはソフィーをも上回るマリー、状況判断や戦闘のいろはを教えてくれたのはルキアとステラだし、その全員が戦闘訓練に付き合ってくれた。

 

 何とも豪華な師匠たちだけれど、その全員が口を揃えて言うことがある。

 それは、フィリップは「弱い」ということだ。

 

 攻撃が軽い。判断が遅い。判断の精度が悪い。攻撃が遅い。防御が薄い。回避が荒い。言葉や指摘は多岐にわたるものの、それらは全て「弱い」という単語に置き換えられる。ウォードがいるとはいえ、彼自身も戦闘に参加する。誰も見ていないところで不慣れな剣を使うのは避けた方が良さそうか。

 

 元々魔術の才能が無いと外神や聖痕者に太鼓判を押され、体格や体力で劣ることも自覚していたフィリップだ。剣術の才能が無いからと言って、今更プライドが傷付いたりはしない。というか、そもそも傷付くような大層なプライドが無い。

 それに、才能はステラの支配魔術式トレーニングがある程度カバーしてくれたのだ。あとはフィリップの努力次第と分かっているから、指摘の全てを素直に受け止められる。

 

 「そうだな、やめておけ」という返答を予期していたフィリップだったが、ステラは「別にいいんじゃないか?」という軽い肯定を返した。

 

 「今回の模擬戦は一定以上の攻撃──魔術であれば上級以上、剣や槍では頭部を狙った攻撃は禁止だしな。ただ……相手が相手だ。この前みたいに、重い怪我をして欲しくはない」

 「相手?」

 「……相手も学生だし、加減を間違えることはあるものね」

 「あ、そうですね。それは確かに」

 

 ウォードやマリーが重傷一歩手前の傷を負わせてくる──つまり、フィリップの防御をブチ抜くような威力の攻撃をしてくることは、たまにあった。

 

 ウォードとマルクのどちらが強いのかは判然としていないけれど、マリーは校内三位の実力者であり、ウォードたちより一年先輩だ。まず間違いなく二人より強いだろう。

 そのマリーが加減を誤り、結果として肋骨二本に罅を入れられた身としては、「相手もまだ学生だ」という意見には同意するところだ。

 

 フィリップの脳震盪および深夜徘徊事件が記憶に新しいルキアが補足して漸く思い至る程度の、浅い同意だが。基本的にフィリップの脅威判定能力は低く、自分が人間ごときに傷付けられるとは思っていなかった。というか、人間が自分と対等な「敵」になるという認識が無い。

 

 だからマルクに絡まれたことを覚えているステラの「因縁のある相手だから」という警告は意味を為さず、それを知らないルキアの言葉で納得していた。

 

 聖痕者の中でも一二を争うほど手が早いとされるルキアの前で意図を説明するわけにもいかず、ステラは曖昧に笑って場を流した。

 

 「フィリップは見るからに痛そうな攻撃しか防ごうとしないから、すぐに介入して守れる誰かの監督が欲しいわね。……学院長って、来てたかしら?」

 「初日にはいたが、もう帰ったな。引率ではなく視察だったし、他にも仕事は山ほどある。……区画あたり15組前後の試合があって、制限時間が10分だから……私たちの試合が最初で、カーターが最後になれば、普通に間に合うんじゃないか?」

 

 普通に間に合うどころか、たぶん合流してからだいぶ暇な時間がある。

 尤も、指定された制限時間は「どれだけ泥沼でも10分経ったら終わってね」というルールであり、降参や早期決着などの場合はもっと早く終わる。しかし、それでも終わった組が捌けて次の試合ペアが準備する時間も考えると、やっぱり砦を迂回してくる時間はありそうだ。

 

 「ってことは、マリーとエーギル様も来てくれるんですよね?」

 

 つまり、師匠たちに成長したところを見せるチャンスである。

 残念ながら肋骨の恨みは終ぞ晴らせなかったけれど、まぁ、それは今すぐでなくてもいい。

 

 「そうだな。何かあったらすぐに対処できるようにするから、ちゃんと順番を最後にするんだぞ?」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ──と、そんな会話をしていたのが、つい一時間ほど前。

 フィリップとウォードは砦の裏手に据えられた指定場所、L区画で繰り広げられる謎の争いを眺めていた。

 

 争いの主題は、フィリップの「僕たちのペアは最後がいいです。ルキアと殿下が見に来てくれる予定なので」という発言についてだ。しかし、争っているのはフィリップとウォードではない。

 争いの原因になったのはフィリップではあるものの、実際に争っているのは他の魔術学院生と、そのペアだった軍学校生だ。

 

 フィリップのことを良く思っていない軍学校生は「NO」と言い、フィリップに──枢機卿の親族にして聖痕者の覚えが良い相手に逆らうのは不味いと判断した魔術学院生は「YES」と言って、意見が割れている。そもそもフィリップと二人の関係性を知らない生徒もおり、軍学校生の約半数が「なんだその意味不明な嘘」という反応だった。二人と仲睦まじく話す様子を見ている者ばかりではないらしい。

 

 「だから! 彼は本当に特別なんですってば!」

 「だから! 何がどう特別なのかを言えってば!」

 

 自分は平民だというフィリップの主張に反しないように、言葉を選びながら話している魔術学院生を見るたびに、フィリップの心はどんどん曇っていく。

 具体的には、もう何番手でもいいかな、という気分になっていたし、最初の師匠であるウォードがいればいいや、という妥協もあった。

 

 「そもそもさぁ、平民がなにか意見しようってのがもう間違ってるんだよね。喋るなとは言わないけど、俺たちの決定に従ってくれればそれでいいから」

 「いや、だからカーターさんは──すみません、何でもないです」

 「……まぁ、うん、はい。もう何番目でもいいです」

 

 要は、怪我さえしなければいいのだ。

 回避重視で立ち回って、やばいと思ったら魔術──は、流石に不味いか。まさか対戦相手を殺してしまうわけにもいかないし。ステラは「そういう事故はよくある」と言っていたけれど、自分がその実例になりたくはなかった。

 

 なんやかんやと話し合い、フィリップたちの試合は三番目になった。

 ステラはともかく、ルキアは「試合をさっさと終わらせよう」とは考えないはずだ。流れに沿ってわざと負けるとか、そういうのは嫌がるだろう。なんせ、この前の御前試合では台本を破棄したくらいである。

 

 「どうするの? やっぱり、すぐ降参にする?」

 「うーん……」

 

 フィリップは既に、殺傷性が極めて高い魔術しか使えないとウォードに伝えている。

 彼の質問はそれを思い出してのことで、フィリップは「はい」と即答するだろうとすら思っていたが、フィリップは何故か悩みだした。

 

 「向こうの魔術師は戦意が薄いから、こっちに魔術師がいなくても戦えるとは思うけど……。まぁ、いいか。怪我しそうになったら、僕が止めに入るよ」

 

 ウォードの言葉に、フィリップは軽く首を傾げた。

 ここ数日はフィリップも剣を使って戦う練習をしていたが、戦闘中に他人を気にする余裕なんてない。自分の身を守り、眼前の敵に攻撃するだけで脳の処理容量が限界だ。

 

 誰かを守りながら戦うとか、前線を意識して歩調を合わせるとか、そういう本職の騎士みたいな動きは夢のまた夢である。

 それを実行すると事もなげに言ったウォードは、実はめちゃくちゃ強かったりするのだろうか。

 

 フィリップが何となくそう問いかけると、ウォードは軽く笑った。

 

 「師匠が変態的に強くてね。鍛えられてるから」

 「へぇ……」

 

 そういえば後輩に指導した経験なんてない一年生のはずなのに、妙に教え方に癖があった。あれも軍学校で教わった通りのやり方ではなく、その師匠の教育方針なのだろう。

 

 「誰に教わったんですか?」

 「それは──」

 「答えられない、だろ? お前みたいな貧乏人が、まともな師に教われるワケないもんな?」

 

 ウォードが答える前に、ふらりと現れたマルクが言葉を遮る。

 その少し後ろには、彼のペアらしき魔術学院生が「自分は無関係です」と主張するように、涙目で諸手を挙げていた。その視線の先は絡まれていたウォードではなく、フィリップだったが。

 

 「遅いぞ、マクスウェル」

 「まだ始まってないでしょう? 遅刻のように言われるのは心外ですね」

 

 軍学校の先輩らしき生徒にぞんざいに応じ、マルクはウォードに向けて一歩、詰め寄った。

 

 「またお前と戦えて嬉しいよ。前は型も理もない田舎剣術に惑わされたが、今回はそうはいかないぞ」

 

 お前如き劣等に二度も負けるはずがない、と。マルクはそう言って、ウォードの足元に唾を吐いて立ち去った。と言っても、少し離れたところにいた友人と合流しただけだが。その気になれば背中から刺せる距離で──比喩的表現の方が穏当なのは冗談じみているが──油断しきっていた。

 

 喧嘩を売ったように思えたのだが、気のせいだろうか。ウォードがその喧嘩を買って、殴り掛かってくるとは微塵も考えていないように思える。

 まぁウォードは売られた喧嘩は全て買うチンピラではないが、それでも余裕を見せ過ぎだろう。

 

 「……前に何かあったんですか?」

 

 フィリップ相手には、身分に劣る格下だからという理由だけで絡んできたのだろう。しかしマルクがウォードに絡むのには、それとはまた別種の理由があるようだった。

 

 「……まぁね」

 

 そう端的に答えたウォードだったが、フィリップが自分から視線を外さないのを見て、端的に過ぎると感じたようだ。

 ウォードは軽く嘆息して、もう一度口を開いた。

 

 



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126

 今年の春、フィリップがまだ地元に居た頃の話だ。

 魔術学院と軍学校では入学式を終え、多くの新入生が学校生活に胸を躍らせていた。

 

 近衛騎士団団長の次男であり、また軍学校首席の弟でもあるマルクは、早くも学年首席の最有力候補として注目されていた。

 その剣の腕や軍略の才を見たいという声がクラス内外を問わず上がっていて、戦術盤やチェス、模擬戦による対戦や剣術指導などを乞われることも少なくなかった。

 

 そして──三週間もすれば、学年のほぼ全員が、抱いていた期待や羨望を捨てる羽目になった。

 端的に言って、マルクに才能が無かったのだ。

 

 初めのうちこそ「対戦しよう」とチェス盤を持ってくる者や、「力を見せてくれ」と模擬戦を持ち掛けてくる者に辟易とし、面倒くさがっていたマルクも、その全員が「や、やっぱり強いな」と声を震わせて、二度と挑みかかってこないと気分が良くなる。家柄と学校首席である兄に配慮してのお世辞や八百長だとは疑いすらしていなかった。

 

 そうして、マルクは「自分は強い」と思い込んでしまった。

 気紛れに格下の貴族に指導を持ち掛けたり、平民に模擬戦を挑んで甚振ってみたり、その行動は段々とエスカレートしていく。

 

 そしてある日、同じクラスでまだ戦ったことの無い生徒がいることに気が付いた。

 その生徒は授業で習うような基本の型ですら、教員から「妙な癖があるね」と言われるザマの、いつも一人でいるパッとしない奴だった。

 

 別に、そいつの孤独を解いてやろうとか、慰めてやろうと思ったワケではない。ただそこにいて、目に入ったから対戦相手に選んだだけだ。適当にボコって終わりにするつもりだった。

 その方針を転換したのは、そいつが「ごめん、名前を聞いてもいいかな? 僕はウォード・ウィレット。よろしくね」とか言い放ったからだ。

 

 マルクにとって、その肥大した自尊心にとって、自分を知らないなど許せないことだった。

 だから、完膚なきまでにボコボコにして、自分の存在をその身体に痛みと傷で以て教え込んでやろうとして──手も足も出ずに負けた。それはもう、見ている側が驚くほどの、マルクの弱さを知っていてもなお「早すぎる」と思わせるほどの圧倒的な技量差だった。

 

 筋力はほぼ互角。体格はマルクが勝る。しかし技量が隔絶していて、ウォードは驚愕を通り越して困惑した。どうして実力の隔絶した自分に模擬戦なんて挑んできたのかと、真剣に考え込みさえした。

 

 彼我の実力差を見極められない相手が誰彼構わず模擬戦を挑んでいる、という正解には、残念ながら辿り着けず、誤解を導き出す。

 そして、ウォードはその誤解を突き付けてしまった。

 

 「あ、指導して欲しいとかそういう話? 見映えの悪い実戦剣術でよければ教えてあげるけど」

 

 そこで他のクラスメイト達が慌ててウォードを連れ出し、相手が何者かを説明した。

 ウォードは顔を蒼白にして慌てて謝罪したものの、マルクがそれを受け容れることはなく、以来、ずっと絡まれている。

 

 

 

 そんな昔話をウォードから聞いて、フィリップはとりあえず。

 

 「ウォードより弱いからといって、僕より弱いとは限らないわけですけど、僕でも勝てると思いますか?」

 

 と、剣で戦うにあたって最も重要な質問をした。

 

 ウォードは少し考えてから、「いい勝負かな」と曖昧に答えた。

 

 「正直に言うと、僕にも分からない。ただ、君が20回に1回くらいできる、エーギル様が褒めるレベルの『拍奪』を完璧に使いこなせたら余裕だろうね」

 「……難しいですね」

 「うん。だから、勝率は五分五分だね」

 

 なるほど、とフィリップは頷く。

 現状、フィリップの直接戦闘能力はその大部分を攪乱の歩法に依存している。いまの体格や体力では軍学校生相手に打ち合えず、防御することも、防御を崩すことも叶わないから、徹底的に相手に隙を作って戦う必要があるのだ。

 

 逆に言えば、マルクはそんな雑魚といい勝負をしてしまうレベルということである。ウォードや他の生徒にしてみれば、弱く、戦う意味の無い相手かもしれないが──フィリップにとってはいい対戦相手になるだろう。

 

 「僕の目から見ても、君の動きは脅威だ。でも、使いどころや使い方の精度はエーギル先輩に大きく劣るし、そもそも攻撃や防御が軽い。歩法は攻撃や防御の基盤ではあるけれど、君にはその基盤しかないんだ。監督者や保護者のいないところで戦っちゃだめだよ」

 「それは大丈夫です」

 

 即答し、ぴっと親指を立ててみせるフィリップ。その姿にその場しのぎの韜晦や嘘の気配を感じなかったウォードは、安心したように頷いた。

 フィリップはまだまだ危なっかしい剣術初心者といった力量だが、それをしっかりと自覚している。どこかの誰かのように、無暗に模擬戦を挑んだり、自分の力量を過信して死ぬような最悪の事態は避けられるだろう。

 

 そう安堵したウォードには悪いが、フィリップにとってその条件は気にする必要のないことだ。

 この世界のどこにいても、この世界の外側にいる彼らの目は届く。保護者が──監視者が居ない状態なんて、まず有り得ないのだから。

 

 「っと、一回戦が終わったね。そろそろウォーミングアップをしようか」

 「はい!」

 

 元気よく返事をして準備運動を始めたフィリップと、それを注意深く見守りながら自分も身体を動かすウォード。

 せかせかと動き回る二人を、マルクは心底蔑んだように見つめていた。

 

 「何をヘラヘラと。……しかし、まぁ、10分後には吠え面をかいている連中か。今くらいは楽しませてやらないとな」

 

 自信たっぷりに自分の勝利を語るマルクに、周囲の生徒は同調の笑みを浮かべて侮蔑を覆い隠した。

 

 一年生はともかく、しっかりと訓練を積んできた上級生は「何言ってるんだこいつ」と言いたげな目を向ける。彼らの目には、ウォードとマルクの間にある隔絶した実力差が見えていた。

 

 周囲の向ける侮蔑や疑問が見えていないかのように、マルクはいま最も重要な人物を探していた。

 マルクのペアに割り振られた不運な魔術学院生。少し離れたところで頭を抱えている男子生徒だ。何がそんなに怖いのか知らないが、顔を蒼白にして俯いている。

 

 「おい、お前……名前は何だった? まぁどうでもいいが、お前は手を出すなよ」

 「言われなくても、カーターさんに盾突いたりしませんよ。……貴方が近衛騎士団長の次男だってのは聞きましたけど、次男で良かったです」

 

 彼が言葉の裏から滲ませる「お前が跡取りだったら王国は終わりだ」という意図を汲んだのは、マルク以外の人間だけだった。誰も眉尻を吊り上げることはなく、むしろ同調というか、共感から浮かんだ笑みを必死に覆い隠していた。中にはぷるぷると震えるほど懸命に失笑を堪えている者もいる。

 

 マルクが周囲の反応や皮肉に気付かなかったのは、彼が態度の端々から覗かせる、フィリップ・カーターへの恐怖が原因だ。マルクはそれに気付き、彼にしては珍しく疑問を覚えた。

 

 「あの平民にだと? 奴は何者なんだ?」

 「はっ。彼はただの平民ですよ。彼がそう言っている以上、ね」

 

 彼は嘲弄と諦観を滲ませる落ち込んだ口調で答えて、これ以上何も話すことは無いと顔を伏せた。

 幾人かの軍学校生が自分のペアに顔を向けたり、その生徒に質問を重ねたりしてみたものの、魔術学院生は示し合わせたように口を噤んで語らない。

 

 マルクは不愉快そうに鼻を鳴らし、「奴が何者であれ、俺の敵ではない」と聞こえよがしに言う。

 しかし、その言葉に同調する者は誰もおらず、軍学校生たちは顔を寄せてひそひそと意見を交換していた。「なにかおかしいぞ」「そういえばあのチビ、第一王女殿下とサークリス聖下と一緒に居た奴じゃないのか」と、徐々にフィリップの望まない「答え」へと近づいていく。

 

 「……なぁ、もしかして──」

 「彼は、ただの、平民です。彼は自分のことをそう言っていました。……これ以上、俺から言うことはありません」

 

 「可能性」に思い至った生徒がひそひそと問いかけるが、マルクのペアを含め、魔術学院生の誰に尋ねてもそんな韜晦を返されるばかりだ。

 しかし、それは答えを隠すための本気の韜晦ではなく、あくまで「自分は何も言っていない」というポーズでしかなかった。

 

 その超消極的かつ迂遠な肯定を受けて、軍学校生の大半は胸中に芽生えた疑いに対して半信半疑ではあったものの、少なくともフィリップが魔術学院で一定の尊重を受ける存在らしいとは気付いたようだ。残念ながら、その「大半」にマルクは含まれていなかったが。

 

 何人かの軍学校生がフィリップに直接聞こうと動いて、ペアの魔術学院生に止められる。

 中には平民が貴族を止めるようなペアもあったが、それが逆に考察を裏付けることになった。無礼だと叱責され、貴族の機嫌を損なうかもしれないというのに、誰もそれを恐れて口を噤まなかった。

 

 つまり、少なくとも木っ端貴族の機嫌より、フィリップの機嫌を損なうほうが不味いということだ。

 

 魔術学院生の判断理由を推察し、フィリップに蔑んだ目を向けていた軍学校生の顔色が目に見えて悪くなる。

 フィリップの素性。王族ということは無いにしても、高位貴族の隠し子とかは十分にあり得る可能性だし、他国の貴族という線もある。直接の嘲弄をしていない生徒が大半だが、マルクは明確に喧嘩を売った。ここでマルクの同類だと思われるのは避けなくては。

 

 「二回戦が終わったか。では、行ってくる」

 

 肩を聳やかして立ち上がったマルクに、応援の声は一つも飛ばなかった。

 それを「自分の勝ちに確証があるから」だと無邪気に信じて、マルクは上機嫌に試合エリアに張られたロープを跨いだ。

 

 マルクの対面、ちょうど20メートル向こうで、フィリップとウォードも試合エリアに入る。

 いま気付いたが、これでは二対一の構図だ。薄汚れた血の劣等が何人いようと、関係のない話ではあるが。向こうに数的有利があれば、大敗に際して無様な言い訳はしないだろう。

 

 「以前の敗北は──あれは、お前の剣筋があまりに無様で驚いただけだ。初見殺しとしては有用かもしれんが、二度目は無いぞ、ウィレット」

 

 マルクは奇妙な構えを取るフィリップと、表情だけは一人前に、油断なくこちらを見据えるウォードを睨み付ける。

 過去の敗北は理由付け、正当化による現実逃避こそできたものの、敗北という事実そのものは消えていない。それを拭い去る雪辱こそ、マルクが待ち望んでいたものだった。

 

 「貴様如き劣等が、俺の前に立つんじゃない!」

 

 右手に持ったロングソードの模擬剣を突き付け、左手は腰の後ろに置く。

 それは典型的な儀式剣術の構えであり──もっと見栄えを追求した、演武や劇などで見られる構えだった。

 

 



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127

 ロングソードを右手一本で把握し、その切っ先を相手に向ける。

 左手は軽く握って腰の後ろに置く。

 左足を下げて右足を出し、半身を切る。

 

 突き攻撃が主体だと素人目にも看破できる特徴的な構えは、フィリップやウォードといった平民層には親しみが無く、逆に貴族層には見覚えのあるものだ。

 

 宴会や祝祭などで見られる、特別な装飾の施された飾剣を用いた剣舞。儀礼剣術とも呼ばれるそれでは、ああいった構えが一般的だ。

 儀礼剣は見映えを重視したものであり、派手な衣装と舞踏に最適化した重さの剣が使われる。それは勇壮でありながら華やかで、その動きは演劇──特に、英雄譚などに取り入れられた。

 

 パーティーや観劇などに触れる機会の多い貴族の何人かは、マルクの珍しい構えの正体に気付いただろう。失笑とまでは行かず、しかし明確に苦笑して首を傾げている。

 

 ウォードはその構えを前にして、あまりの隙の多さに罠を疑う。

 フィリップはその構えを前にして、片手縛りのウォードに散々あしらわれたことを思い出した。

 

 「本当に50パーセントは勝てるんですよね?」と聞きたいところだけれど、まさかそういうわけにもいかない。

 

 四辺20メートルのロープに囲まれた簡素なものだが、ここは戦場だ。相手がルキアなら、こんな甘い考えを抱いた瞬間に見透かされて、次の瞬間には眼前を雷の槍が通り過ぎる。相手がステラだったとしても、雷の槍が炎の槍に変わるだけだろう。ソフィーやマリーが相手でも、そこそこ痛い教訓を得ることになるはずだ。

 

 思考を切り替え、マルクに相対する。彼我の距離は10メートル強といったところ。足元は相変わらず砂が薄くて岩盤が近い、蹴りやすい地面だ。距離を詰めようと思えば、一瞬で詰められる。

 

 「お前が前衛なのか、チビ」

 

 嘲笑を浮かべたマルクが話しかけてくるが、フィリップは一言も答えない。

 戦闘中に会話をしていいのは隙を作るときだけだとソフィーが言っていたし、マリーの会話に釣られてボコボコにされたこともある。あの時はちょうどぐらぐらしていた奥歯が抜けて、これで全部の歯が永久歯に生え変わったぞと……いや、そんなことはどうでもよくて。

 

 「その妙ちくりんな構えが何のつもりかは知らないが、怪我をする前に引っ込め。俺はウィレットとやりたいんだ」

 

 彼は構えを解き、左手でぴっと中指を立てた。

 

 「退いてろよ、劣等」

 

 その態度に何人かの軍学校生が「口、悪すぎだろ」と笑う。対して魔術学院生と軍学校生の大半は「こいつ正気か」と言いたげに、幾人かは「止めとけって」と制止していた。

 

 ウォードが顔を顰め──フィリップは一歩、踏み込んだ。

 

 会話の内容はどうでもいいし、もともと隙を作るための意味が無い音の羅列だ。いま重要なのは言葉の内容ではなく、マルクが剣を降ろして隙だらけだということ。

 『拍奪』を使って相対位置を後ろに誤魔化しながら、全速力で動く。いつもなら頭から肩を狙った振り下ろしをするところだが、今日は頭部狙いは禁止のルールがある。

 

 こういうとき、ウォードなら鳩尾を狙った突きを選ぶ。マリーはもっと厭らしく、大腿部や腋を狙うこともあるかもしれない。いちばん基本に忠実で、それでいて最も戦い方の変則的なソフィーは、いまのフィリップ以上の速度で背後を取ってから襲い掛かるだろう。

 ウォードのように的確な攻撃を選択するだけの経験がなく、マリーやソフィーのような技量もないフィリップでは、どれを再現しても中途半端に終わってしまう。それは悲観的予測ではなく、歴然とした実力差だ。あの三人なら、初撃で戦闘を終わらせられる。

 

 結局、フィリップは胴を横薙ぎにする牽制を選択した。

 致命打にも、致命打に繋がる布石にもならない攻撃は、マルクの見せる大きな隙がフィリップを釣り出す餌であることを警戒してのものだ。

 

 警戒。そう、警戒だ。

 この一週間の訓練で、フィリップは他者の攻撃を警戒するという技能を身に付けていた。或いは、その生得的であるはずの機能を取り戻していた、というべきだろうか。

 

 相手の攻撃、相手そのものに価値を見出さない破綻した視座はそのままだが、「攻撃は避けなくてはいけない」という当たり前のことを思い出した。それは痛みへの忌避感もそうだが、「攻撃を避ける練習」を何度も繰り返したことが大きい。反復による定着の重要性が証明されたわけだ。

 

 相手の動きを警戒するのも、回避行動の一環だ。それこそが回避の第一段階とも言える。

 

 相手の視線、足の動き、身体の向き、手の位置。それら全てを観察し──多くの師に鍛えられたフィリップの目は、一つの結論を導き出す。

 

 ──余裕で当たる。

 

 いや、それはあまりにも余裕過ぎる。隙が大きいとか脇が甘いとかそんな次元ではなく、どこに打ち込んでも当たるビジョンが見えた。

 

 ソフィー、マリー、ウォード。近接戦闘に長けた彼らが隙を見せるときは、一つか二つだ。そこに誘導してカウンターを差し込むために、敢えて隙を作っている。

 ルキアとステラは、そもそもカウンターを狙う必要も無いので隙なんてない。どこに打ち込んだって魔力障壁で弾かれる。

 

 どう打ち込んだところで結局は防がれる相手とばかり練習していたフィリップにとって、どこに打ち込んでも当たりそうな相手は怪しさ満点だった。罠にしか見えない。

 

 このまま攻撃するか。それとも、一度退くべきか。

 今から攻撃部位を変えるような時間も技量も無く、与えられた選択肢はその二つだけだ。

 

 フィリップが選択したのは、攻撃。

 当初の狙い通り、模擬剣をマルクの脇腹目掛けて一閃し──ぎゃり、と。肉を打つ音ではなく、金属同士の擦れる音が響き渡った。

 

 「っ!? ウォード!?」

 

 いつもの癖で距離を取りながら、思わず叫ぶ。

 

 フィリップの攻撃を止めたのは、フィリップ以上の速度で二人の間に移動したウォードだった。

 

 ウォードがマルクを庇い、フィリップの攻撃を防いだように見える構図だが、どういうつもりなのだろうか。

 これが実際の戦場なら、まあ、そういうこともあるだろう。買収されたとか脅されているとかで、仲間が裏切るような物語を何冊か読んだことがある。あるいは、初めから仲間では無かったとか。

 

 だが、これはあくまで模擬戦だ。裏切りを持ち掛けるような理由、勝利した場合に莫大なメリットがあるわけではない。

 

 「ど、どういうつもりだ、ウィレット!?」

 

 フィリップが距離を取り終えた頃、漸く現状を理解したらしいマルクが叫ぶ。ということはつまり、裏切りはマルクの差し金ではないのだろう。

 

 慌てて距離を取ろうとして足をもつれさせながら、ロングソードを振り回して牽制するマルク。その姿は誰が見ても無様なものだったが、誰一人として笑わなかった。

 

 笑うと悪いからとか、彼の家に遠慮してとか、そういう理由ではない。

 フィリップたちの周囲で観戦していた生徒は、フィリップとウォードの動きに目を瞠って、驚愕するのに忙しかったのだ。

 

 「おい、なんだ今の動き」

 「エーギル先輩の技か?」

 「ウィレットの動き、見えたか?」

 「いや、全く。気付いたらそこで、ガードしてた……」

 

 ひそひそと囁き合う生徒の声を受け、しかし全く耳に入っていないように、ウォードは遠くに見える地平線に向けて嘆息した。長く、重いそれは、心底からの後悔を宿しているように思われた。

 

 「……ウォード?」

 

 フィリップが声を掛けると、ウォードは片手で頭を押さえた。

 ゆっくりとフィリップに向けた双眸には、深い悔いが見える。

 

 「フィリップくん、ごめん」

 

 裏切るメリットなんて、この模擬戦にはないはずだ。勝とうが負けようが、参加するだけで二単位が出る、交流戦というカリキュラムの締めくくりでしかない。

 

 フィリップは取り敢えずウォードを暫定的に敵だと判じ、ショートソードをだらりと下げる。そして、魔術の照準補助に使う左手を挙げるか、それとも両手を挙げて降参するかを一瞬だけ検討した。今のフィリップの実力では逆立ちしたって敵わない相手だ。剣で戦うなんて甘いことは言っていられない。

 思考が一瞬だったのは、すぐに結論を出したからではない。結論が出るより早く、ウォードが不可解な行動の理由を説明してくれたからだ。それは、フィリップを納得させるには十分な理由だった。

 

 「加減してって言うの、忘れてた。今の力加減だと、まず間違いなく肋骨を折ってたよ」

 「……あっ、はい。気を付けます。すみませんでした、マクスウェル様」

 

 フィリップは素直にぺこりと頭を下げ、謝罪する。

 肋骨は罅が入っただけでもめちゃくちゃ痛かったし、何より、骨折に至るレベルの攻撃は「一定以上」だろう。普通にルール違反だった。

 

 「ほ、骨を折るだと? 馬鹿いうなウィレット。このチビにそんな力が──」

 「あるんですよ、マクスウェル様」

 

 半笑いのマルクの言葉を、ウォードが端的に切り捨てる。

 

 この一週間、フィリップは徹底して全力で剣を振ってきた。そうしないと成長しないという意識はあったし、指導役は全員がそれを容易くいなす実力を持っていたからだ。

 

 練習を重ねるうちにフォームは自然と最適化されていくものだが、周りには軍学校でもトップクラスの実力者がいて、ついでに言うとコツを掴ませるだけなら最強の指導法である支配魔術まであったのだ。身体の動かし方だけは、この一週間で半分近く完成されている。

 

 腕や肩の筋肉だけでなく、腹筋や背筋、腰と脚の筋肉、そして体重を使って振り抜く模擬剣は、人間の骨を砕くのに十分な威力を持つ。独特な歩法ながら速度は十分に出せるから、それも威力にプラスされる。

 逆に、振り抜けない状況──たとえば鍔競り合いなどには弱いし、防御は相変わらず貧弱なままなので、筋力不足は未だ課題として残っているのだが。

 

 「小さい体に細い腕ではありますが、フィリップくんは身に付けた技術の下、躊躇いなく剣を振れる剣士です。舐めていると怪我をすることになりますよ」

 

 ウォードは淡々と、それでいてしっかりとした口調で警告する。

 ともすれば「師匠に認められた」と喜んでしまいそうな言葉だが、フィリップの顔に浮かんだのは歓喜の笑みではなく苦笑いだった。

 

 ウォードにはこの一週間ずっと模擬戦形式の指導を受けて来たが、たった一度も剣を当てられたことがない。有効打を与えたことが無いという意味ではなく、本当に掠りもしていないのだ。

 そんな相手に認められるのは、そりゃあ、光栄なのかもしれないけれど、どうにも実感が沸かない。上から目線に感じるというより、我が事ながらその言葉が真実だと思えない。

 

 「今の半分ぐらいの力で行こう。仕切り直しだ」

 「了解です」

 

 フィリップが元の位置に戻って構え直すまで、周囲ではひそひそと囁き合う声が続いていた。

 内容は概ね、フィリップが見せた年齢や矮躯に見合わない技術と、ウォードの実力に対してだ。

 

 軍学校の中でもアルバートやソフィーは卓越した技術を持つ猛者として知られていたが、ウォードの見せた動きは彼らにも引けを取らない。全く無名の一年生が身に付けているにしては異常とすら言えるほど見事なもの。

 

 そのウォードには劣るものの、フィリップの歩法も軍学校第二位として名高いソフィー・フォン・エーギルの技術であり、かつては軍学校首席のアルバート・フォン・マクスウェルすら習得を断念したほどの絶技。

 

 軍学校生が憧れ、嫉妬し、賞賛するには十分なものだった。

 

 周囲の生徒の関心を買い、感心されているのが自分ではなくフィリップとウォードであることに不満を感じつつ、マルクはロングソードを構え直す。

 

 「言うじゃないか。ならその技術とやら、存分に見せて貰おうか?」

 

 マルクがそう言って、ウォードだけでなくフィリップをも睨み付ける。

 どうやら彼の短期記憶からは、フィリップに肋骨を折られる一歩手前だったことはすっぽりと抜け落ちているらしい。或いは「構えていなかったからノーカン」とか考えているのかもしれないが。

 

 

 



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128

 戦闘態勢になったマルクの全体像を把握し、その動きを観察する。

 構えは突き主体のように思えるものの、持っている模擬剣はロングソード──それなりに重量のある斬撃主体の武器だ。

 

 レイピアやエストックのような刺突攻撃を主体にした武器は、それを前提とした設計になっている。重心が手元寄りにあって、突き出す動作や引き戻す動作に最適化されているのだ。それらの武器で繰り出される刺突は、ルキアの雷槍で目を慣らしていなければ視認すら難しい高速になる。

 

 マリーの技量と彼女が自分用に弄った武器あってこそだとは思うが、警戒はしておくべきだろう。刃は無くても、鳩尾に入るとしばらく息が出来なくなる。

 

 あとは……特に、警戒すべき点が見当たらない。

 脇腹、太腿、首、腹、背中、腰。みんなに教わったありとあらゆる急所がガラ空きだ。攻撃の予備動作も無いし、初手で一本取れそうに見える。

 

 刺突は縦軸点攻撃だ。適当に横軸を誤魔化しながら距離を詰めれば余裕だろう──と、今までのフィリップならそう軽んじて突っ込んでいたところだ。

 しかし、今のフィリップには経験がある。縦回転させていたウルミを、全身を鞭の一部に見立てるような動きで横薙ぎにしてきたマリーと戦った経験が。

 

 見かけで予測する攻撃方向なんて、全然あてにならない。フィリップはそう理解している。

 

 「……どうした、怖気づいたか?」

 

 姿勢を下げることもせず、ショートソードを構えただけのフィリップを、マルクが嘲笑を浮かべて挑発する。

 

 挑発するということは、フィリップに攻撃してきて欲しいということだろうか。防御が主体の戦い方なのだとしたら、防御能力に問題のあるフィリップとは相性がいい。

 

 フィリップは数秒ほど、無言のうちに思考する。

 カウンターを狙われているのだと仮定して、どの急所にある隙が餌で、どの急所は本物の隙なのだろうか。或いは、全て餌と言う可能性もあるにはあるけれど、そんな危険な釣りはマリーほどの実力があってもしない。どこを狙ってくるか分からない状態ではカウンターの精度が大きく落ちるからだ。彼女たちは一様に餌となる隙を見せ、相手を誘導してカウンターを差し込んでくる。

 

 普通に考えるなら、フィリップが一番狙いやすい右の脇腹か腰の後ろ、或いは太腿。この辺りが餌なのだろう。

 立って走るなら簡単に届く位置にある心臓や肺も、極端なほど低姿勢になる『拍奪』の歩法を使っていると、少し伸び上がる必要がある。ウォードはその一瞬のラグを突いてくるし、ソフィーは攻撃を待ったうえで防御を差し込むほど挙動が速い。

 

 結局、フィリップは素直に太腿を狙うことにした。

 一番狙いやすい位置だし、これが真剣なら最低でも移動阻害、当たり所次第では致命傷になる急所でもあるからだ。

 

 決定した直後、姿勢を落とす。

 一度『拍奪』を見せている以上、初見殺しとしての性能には期待できないが、それでも攻性防御としては依然有用だし、これ無しのフィリップはただの雑魚だ。使わないという選択肢はない。

 

 横軸を誤魔化しながら、マルクの足元へ滑り込む。

 よく鍛えられた太腿を目掛けて模擬剣を振り抜き──ぎぃん、と、重い金属音と共に、剣を把握した右手に強烈な衝撃が走る。

 

 「甘い!」

 

 反作用に抗わず、反動を逃がす。まるでマリーの持っていたタワーシールドを殴り付けた時のような、剣対剣ではそう感じない硬さだった。

 フィリップの模擬剣とマルクの足の間には、ロングソードの模擬剣が差し込まれている。想定以上の防御強度の理由は、ほんの僅かに地面にめり込ませた先端部分だろう。フィリップは地面を殴り付けたようなものだ。

 

 反動に任せて、風に吹かれる布のような動きで距離を取る。

 『拍奪』とはまた違った技術だが、これもソフィーがオリジナルで、ステラの目コピーと支配魔術による転写の産物だ。

 

 「気色の悪い動きだな」

 

 マルクは嘲るように言って、ロングソードを構え直す。

 

 お世辞にも実戦的とは言えない構えではあるものの、咄嗟に逆手に持ち替えて地面に突き立てて防御していたことから、反応速度や機転はそう悪くないように思える。フィリップが餌に掛かっただけかもしれないが。

 

 フィリップはもう一度踏み込み、今度は側面から腰の後ろを狙う。

 

 「遅いな!」

 

 勝ち誇ったように叫んだマルクの刺突が、右側に回り込もうとするフィリップの顔面に突き刺さり──まるで幽霊のように透ける。

 マルクは予期した手応えが無いどころか、全く無傷のフィリップが背中側で剣を構えていることに驚いているようだが、再起動もそれなりに早かった。

 

 ロングソードを引き戻し、左肩の後ろまで振りかぶる。

 ほぼ確実に薙ぎ払いが予想される予備動作だが、流石にそれよりはフィリップの攻撃が早い。

 

 ショートソードの模擬剣が振り抜かれ──鈍い音を立てて、腰の上あたりにめり込んだ。

 マルクが苦痛に呻きながらめちゃくちゃに剣を振り回し、フィリップを遠ざける。それを先ほどと同じ動きで躱したフィリップは、右手に持った模擬剣を感慨深く見つめた。

 

 武器で人間を殴ったのは生まれて初めてだけれど──思ったより柔らかく、それでいて奥の方に芯がある。

 それが気持ち悪いとか、逆に快感だったとか、そういう感想は無かった。ただ、自分の振った剣が他人に当たるという、剣を振っていれば当たり前のことを初めて経験したからだ。やっと当てられた、と、半ば感動してさえいた。

 

 これまで超のつく格上ばかり相手にしていて、自分の攻撃が当たったことなんて一度も無かったのだ。まぐれ当たりどころかかすり傷さえ付けられず、一方的にボコボコにされ続けていれば、仕方ないこと……と、擁護できるだろうか。訓練中であれば、ウォードも褒めてくれたかもしれない。だが、いまは模擬戦の途中であり──ちょっと当たった程度の一撃は、一本判定にはならない。

 

 「この──劣等がッ!!」

 

 怒りに塗れた叫び声をあげ、マルクが突撃してくる。

 大上段に振りかぶったロングソードの狙いは、頭部でないとしたら肩だろう。激昂したマルクに「ルールを守る」という意識が残っていればの話だが。

 

 ウォードはそんな懸念を抱くが、動かない。動く必要が無い。

 ウォードを筆頭に、ソフィー、マリー、そして世界最強の魔術師が二人(ルキアとステラ)。フィリップを鍛えていた全員が、出来得る限りの技術と経験を詰め込んだのだ。全く才能の無い雑魚、それも痛みや怒りで思考と身体操作の精度がガタ落ちしている状態の攻撃など、当たるはずがない。

 

 否──そんな攻撃に当たるような、甘い鍛え方をしていない。

 徹頭徹尾、模擬戦による実践指導と、初級とはいえ魔術の雨を避け続けるという冗談のような訓練を課してきた。軍学校生どころか、ウォードでさえやったことが無いような訓練方法だ。

 

 肉体を痛めつけるでなく、精神を鍛えるでもなく、しかし確実に技量を鍛える訓練。

 これだけの人材が揃っていなければできない方法だ。

 

 「羨ましい限りだよ、本当に」

 

 ぽつり、ウォードは呟く。

 その視線の先では、フィリップが『拍奪』を使ってマルクの攻撃を透かしていた。

 

 あれは並の人間では使いこなすどころか、修得すらできない高等技術だ。かつてはウォードも修得しようと試みて、無理だと悟った。ウォードの師匠が言うには、あれの修得には訓練以上に才能が必要らしい。

 

 フィリップの才能は如何ほどのものかと言われると、まぁ人並みよりちょっと上程度だろう。

 ソフィーのような卓越した剣術の才や、マリーのような武芸百般の才はない。しかし攻撃に対する躊躇いや防御に際しての恐怖──延いては殺人に対する忌避感が無いのは、間違いなく大きな才能だ。

 

 何より、環境が素晴らしい。

 ルキアは多少過保護なところはあるものの、強さに対してはどこまでもシビアだ。フィリップの肉体的・魔術的な強さに対しても、言葉を選ぶことはあっても嘘は言わない。なるべくフィリップに苦労をさせたくないからだろうが、訓練方法の最適化に余念がないのもいいところだ。

 

 いや、それで言えばステラの方がその意識が強い。

 彼女は常に練習方法を更新する。より質の良いもの、より効率的なもの、よりフィリップに適したものを採択し更新し続けるその姿は、ウォードの師匠にも通じるところがある。

 

 変態クソ脳筋と合理性の化身が似通った振る舞いをするのは冗談じみているが、突き詰めた筋肉は最適解を選択し得るとでもいうのだろうか。

 

 「クソ! ちょこまかと!」

 

 マルクが怒鳴り、剣を振る。

 だが当たらない。当たるわけがない。

 

 『拍奪』を使う者に、“狙った攻撃”は絶対に当たらないというのは、剣士の共通認識だ。

 彼らに攻撃を当てたければ、狙いもクソもない広範囲面攻撃か、その移動経路を予測して“置いた”攻撃に当たらせるしかない。がむしゃらに剣を振ったって、狙いすました一撃を放ったって、見えている場所にはいないのだから。

 

 ──介入の必要は無さそうだ、と。ウォードは困ったように笑った。

 あとは、なるべく早く二人が来てくれることを祈るだけだ。フィリップの戦闘に安定感があるのなら、怖いのは二人が間に合わないこと──二人の機嫌を損ねることだけである。

 

 ロープの外で担当の生徒が持っている砂時計を見ると、既に四分の三ほどの砂が下に落ちていた。

 まずい。非常に不味い。未だに周囲の生徒にどよめきや跪く動きが見えないあたりが、もう本当に不味い。ほぼ確実に間に合わないだろう。

 

 ウォードは「怒られるに違いない」と内心だけでなく身体が震え始めていた。

 フィリップが彼の思考を読み取れたら、「二人とも理不尽な人じゃないですよ」と、その思考を正してくれたかもしれない。少し離れたところでマルクの剣を躱し、時には攻撃を当て鈍い音を立てている、戦闘に没頭しているフィリップに、そんな期待はできそうにないが。

 

 



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129

 攻撃が来て、それを避けて。こっちが攻撃して、それが当たって。また攻撃が来て、それを避けて。

 そんな動作を繰り返して、何分が経っただろう。さっきちらりと視線を投げた砂時計は、四分の一くらいしか砂が残っていなかった。つまり経過時間は──何分だ? 駄目だ、思考が空転している。

 

 避けて、打って、避けて、打って。

 半ば自動的に動く身体に、フィリップは「手加減しろ」とだけ言い聞かせる。ショートソードはロングソードに比べて軽いとはいえ、人間の骨を折るには十分な硬さと重さを持っている。

 

 攻撃が来る。

 大振りの横薙ぎだ。焦りと怒りを宿した顔、硬く強張った肩、隆起した腕の筋肉、固まった肘関節、柄を握りしめて白くなった指。ダメダメだ、全くなっていない。ウォードもソフィーもマリーも、そんなガチガチに固い動きをしたことは無い。

 

 避けるまでもなく、模擬剣の先端がフィリップの少し前を素通りする。

 その軌道、剣身、鈍く潰された刃までがはっきりと見える。遅い。遅すぎる。こんなの、二十本同時に飛んで来たって避けられる。

 

 ──いや、そもそも、マルクはフィリップを目掛けて剣を振っているつもりで、その周辺にしか狙いを定められていない。『拍奪』の歩法で動いている限り、殊更に攻撃を避けようとする必要も無く、勝手に外れる。

 

 「──はは」

 

 楽しい。

 

 相手の攻撃は当たらず、こちらの攻撃は当たる。一方的に攻撃しているという優越感。

 今まで誰にも当てられなかった攻撃が当たるという達成感。

 目の前を剣が通り抜け、掻い潜って疾走する爽快感。

 

 呼吸が浅く、早くなる。ドーパミンとアドレナリンで溺死しそうだ。

 

 楽しい。楽しい。楽しい。

 

 剣を振るごとに、剣が眼前を通り過ぎるごとに、地面を踏み締めるごとに、一挙手一投足のたびに、血沸き肉躍る。

 

 刃を殺した剣で、相手を傷付けずに戦っている──ある種のスポーツだから?

 そうかもしれないし、もしかしたら本物の殺し合いでも同じように笑うかもしれない。

 

 「──ははは!」

 

 でも、そんなのはどうだっていいじゃないか。人間の命に然したる価値は無い。模擬戦(フォールド)命懸けの戦闘(オールイン)も、何ら変わりないんだ。

 

 野原を駆けまわるような、或いは捕えた虫の翅を捥いで遊ぶ子供のような、無邪気な笑いを溢すフィリップ。

 その表情と奇妙な動きは、相対しているマルクだけでなく、観戦者たちにも怖気を催させるものだった。ウォードを始めとする、心底楽しそうだった訓練風景を見ていた者は例外だ。そしてフィリップに限らず、誰かの教導をよく観察したことのある人間であれば、もうそろそろかと予想が付く。

 

 強度の高い集中状態と負荷の大きい運動は神経を高ぶらせ、ハイにさせることがある。衝動的な笑いの発作に襲われることも、体質や体調などに左右されるが、稀にある。

 

 笑う、延いては息を吐くという動作は、筋肉の硬直を緩和する。過分な力を排し、最適なだけの力を籠めるのは、運動に於いて重要な技術だ。

 しかし、呼吸はある程度は制御できるが、笑うという動作は違う。今のフィリップのように、湧き上がる衝動のままに笑っているような状態では特に。

 

 「──はぁ……はぁ……はは」

 

 フィリップの変調に真っ先に気付いたのは、当然ながらフィリップ自身だった。

 

 大腿部をはじめとした両脚のほぼ全体と、剣を握った右手、空の左手──四肢に微かながら震えがある。

 気付けば息が上がっており、脇腹には鈍痛があった。

 

 端的に言って、フィリップはバテ始めていた。

 

 『拍奪』は技術としては歩法だが、その体力消費は歩行の比ではない。流石に全力疾走ほどではないものの、ジョギングペースよりは格段に負荷が大きく、会話などで呼吸を無駄に使ってしまうとすぐに限界が来る。笑って、息を無駄遣いすればこの様だ。

 

 「はぁ……はぁ……」

 

 疲れを自覚したからか、先ほどまで胸の裡で沸き立っていた血潮は鳴りを潜め、今や鈍重な疲労感だけが残っていた。

 

 いつの間にか顎まで流れていた汗を拭い、砂時計を見遣る。

 視線の先では、ちょうど最後の砂が落ちたところだった。

 

 「終了! 次、四番目のグループ!」

 

 砂時計の傍にいた生徒が叫び、まばらな拍手が起こる。

 

 フィリップは興奮の残滓と激しい運動によって早鐘を打つ心臓を撫で付け、ショートソードを持った右手をだらりと下げる。さっきまで軽々と振り回していた模擬剣が、いやに重く感じられた。

 深呼吸の一つでもしたいところだが、荒くなった呼吸が未だ戻っていない。

 

 見るとは無しに、先ほどまで剣を交えていたマルクの方に視線を投げ──眼前で、マルクがロングソードを振り上げていた。

 

 「え?」

 

 怒りで真っ赤に染まった顔と、憎悪にも近い光を湛えた双眸が見て取れる。その大上段には、鈍い光を纏う鉄の塊。

 この十分間一方的に殴られ続けたことや、それを衆目に晒されたことによる、怒りや恥辱を滲ませる表情を浮かべたマルクの耳に、「終了」という言葉は聞こえていないようだった。

 

 「──ッ!」

 

 ぎぃん、と、重い金属音と火花を上げ、振り下ろされた剣が弾かれる。

 防御したのは当然ながらフィリップではなく、二人の間に滑り込んだウォードだ。フィリップは不意の攻撃に晒されて防御や回避をすっぽりと忘れ、魔術を照準していた。何なら「ブレス・オブ」くらいまで詠唱している。

 

 痛みへの忌避感も、「避けなくてはいけない」という刷り込みも、この一週間で培ったもの。フィリップの本質である外神の視座──眼前の存在は自分を傷付ける敵足り得ず、その命にも、その命を奪うという行為にも何ら価値は無いという認識の強さには敵わない。こういった咄嗟の場面で表出するのは、より強い方だ。

 

 「マクスウェル様、試合終了ですよ!?」 

 「どけ、ウィレット! そいつは俺を馬鹿にして笑いやがったんだぞ! ブチ殺してやる!」

 

 その言葉だけで、マルクを突き動かす怒りの原因は分かった。

 要はフィリップがハイになって笑っていたのは、少なくともあの一方的に攻撃している場面では失敗だったということだ。単なる興奮のそれを、彼は嘲弄と受け取ってしまったのだろう。

 

 尤も、フィリップの心中にはいつだって眼前へ──目に映る全て、この悍ましく、それでいて泡沫のような世界への冷笑が渦巻いているのだけれど。

 

 言葉だけでなく本気の殺意を窺わせるように、マルクはもう一度剣を振り下ろす。

 ウォードはそれを正面から受け止め、ぎりぎりと音を立てて鍔競り合いながら、顔を少しだけ後ろに向ける。

 

 「撃たないでよ、フィリップ君!?」

 「えっと、殺さないかもしれませんけど……?」

 

 領域外魔術『深淵の息』の致死率は100パーセントではない。カリストはこれを喰らってもちゃんと生きていた。

 肺を海水で満たされた人間の──重度の窒息状態に陥った人間の致死率は、たぶん物凄く高いだろうけれど、内臓を含めた全身が炭化するよりはマシなはずだ。『萎縮』(こっち)は確実に死ぬ。

 

 「落ち着いてください! フィリップ君はちょっとハイになってただけですから! よくあることでしょう!?」

 

 マルクの怒りが込められた乱撃を危なげなく躱し、弾き、受け流しながら、制止の言葉を叫ぶウォード。

 周囲では攻撃範囲の短いロングソードに対して強気に出られる長柄武器、主に槍を使う生徒と、盾を持った生徒が、マルク制圧の為に動き始めていた。

 

 「黙れ! 殺すぞ!」

 「…………」

 

 殆ど意味の無い言葉を怒鳴り、全く通じない攻撃未満の棒振りを続けるマルクに、ウォードは交流戦初日にフィリップが言ったことを思い出した。フィリップの言葉を聞かなかった自分に言われた、「同じ理性を持つ人間とは思えない」という言葉だ。

 軋むほどに歯を食い縛り、蟀谷の血管が浮き出るほど怒り狂った様子は、まさしく獣だ。

 

 「おい、マクスウェル!? うわっ!?」

 

 背後から羽交い絞めにして制止しようとした上級生が、マルクがめちゃくちゃに振り回すロングソードを間一髪で避ける。

 

 「やめろ、マクスウェル!」

 

 その生徒もロングソードを構え、ウォードと挟み込む位置に陣取る。その周囲は他の軍学校生によって包囲されており、その外では魔術学院生たちがどうすべきかと慌てていた。何人かは先生を呼びに走っていて、何人かは魔術を照準している。

 

 たぶん、彼らの魔術は拘束用のものだろう。マルクを殺すことなく、的確に動きを制限するような、フィリップでは100年かかっても修得できないような魔術だ。

 

 「邪魔をするな! 俺を誰だと思っている? マクスウェル侯爵家次男、マルク・フォン・マクスウェルだぞ!」

 

 唾を飛ばしながらの恫喝に、学生たちが怯む。

 マルクに、ではなく、その言葉に含まれたマクスウェル侯爵家──近衛騎士団長が当主を務める家の名前に、だ。

 

 状況を考えれば、ここでマルクを止めるために多少の怪我をさせたところで、そう責められることは無いだろう。良識を弁えた大人が叱りつけるべきはどちらなのか、子供にだって分かる。しかし、普段のマルクの振る舞いや、軍学校教師陣に一定数いる血統主義思想に染まった輩の振る舞いを思い返すと、一抹の不安が過る。

 

 果たして近衛騎士団長、レオナルド・フォン・マクスウェル卿は、良識を備えた人物なのだろうか、と。

 

 「お前も退け、ウィレット。でないと──!」

 「いえ──ですから──まずは──落ち着いてください」

 

 ウォードは背後からひしひしと感じるフィリップの視線、そこに込められた無邪気で純粋な殺意に冷や汗を流しつつ、マルクの攻撃を捌き続ける。笑うだけでバテたフィリップとは違い、ウォードは言葉の合間に防御を挟んでいて、基礎体力の大切さが窺えた。

 

 いや、そもそもフィリップとウォードでは技量が段違いだ。

 一見して防戦一方なウォードはしかし、このまま30分以上は凌ぎ切ることができるし、今すぐにマルクを制圧することもできた。ただ残念ながら、それでは角が立つ身分であり、それを理解する頭もある。ウォードにできるのは、この場を丸く収める人物が現れるのを待つことだけだ。

 

 マルクを殴り倒せる平民では駄目だ。マルクを殺せる平民はもっと駄目だ。マルクを制圧したとしても問題にならないのは侯爵級の家格を持つ貴族か、同等の領地や貢献度を誇る辺境伯、伯爵位までだ。それより家格が下の貴族は、万が一にも近衛騎士団長に睨まれてはいけない。

 

 では、それより上の人物ではどうだろう。

 たとえば──火属性の聖痕者にして、既に次期女王として指名されている第一王女などは。

 

 「おっと、もう始まっているのか? 早いな」

 

 ステラの意外そうな声を聞いて振り返るフィリップ。その数メートル先では、もはや周囲のことなどまるで見えていないほどに怒り狂った男が、自分を殺すと息巻いて、鉄の棒を振り回してさえいるのだが。危機管理能力が死んでいるのか、危機認識能力が死んでいるのか。その両方だろう。

 

 「おいおい、こっちを見てる場合じゃ……ん? 待て、どういう状況だ?」

 

 フィールド上に四人以上いることに疑問を覚えたステラが、近場にいた生徒に尋ねる。近場に居ると言っても、5歩以上離れたところで跪いているのだが。

 

 「えっ!? は、え、あ、えと、その」

 「……過剰攻撃か? それとも時間を忘れているのか?」

 

 聖人にしてほぼ最高位権力者に話しかけられ、しどろもどろになった生徒に頼らず、自分の観察眼と推理力である程度の仮説を立てるステラ。

 

 「後者です。あと、ごめんなさい。順番を最後にするの、忘れてました」

 「……構わないさ」

 

 フィリップの言葉に含まれた「嘘」──忘れていたのではなく、出来なかったのだということを正確に読み取り、ステラは軽く頷いた。

 

 「殿下! そのような無礼者をお傍に置くのはおやめください! そのクソガキは私を愚弄したのですよ!?」

 「お前!? 王女殿下に直接提言するな! 馬鹿か!?」

 

 マルクを止めようとしていた上級生の一人が血相を変え、その口を塞ぐ。これ以上は日和っていられないと再起動した他の生徒が続き、マルクの姿はフィリップから見えなくなった。

 

 「愚弄、愚弄ね……」

 

 ですよ!? とか言われても、いま来たばかりのステラは何も知らないのだが。それでも、たぶん100パーセントの冤罪ではないのだろうな、と、ステラは軽く苦笑する。

 彼女にとっても、そして彼女と価値観をある程度共有するフィリップにとっても、この世界の全ては悲観すべき脆いもの。心の奥底には紛う事無き冷笑と嘲笑が渦巻いている。今更人間一人を尊重するなど、そちらの方が難しい。

 

 「剣と魔術だけじゃなく、演技の練習もしような、カーター」

 

 必要性をひしひしと感じていたことを指摘され、フィリップは素直に頷くほかに無い。

 

 言葉を完全に無視されたマルクは深い憎悪を滾らせた視線をフィリップに向け、しかし、口を始めとしてあらゆる抵抗を封じられているがゆえに、何もせずに連行されていった。

 

 



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130

 マルクがどこかに──おそらくは先生のところに連れていかれた後で、ルキアとマリー、そしてソフィーが合流した。

 今の今まで気付かなかったが、そういえば、どうしてステラ一人だけしか居なかったのだろうか。ルキアとマリーはペアなので、片方が用事か何かで遅れたら必然的にもう片方も遅れる、というのは想像が付くけれど。

 

 「一足遅かったな。もう終わったぞ」

 「本当に? 随分と早くない?」

 

 早いです、ごめんなさい。面倒になっちゃいました。

 フィリップがそう謝罪する前に、ステラが「まぁな」と軽く応じる。ルキアの意識をフィリップから自分に移したうえで、彼女は「遅かったな。どうなった?」と問いかけた。

 

 「どうした?」ではなく「どうなった?」という質問に違和感を覚えたフィリップが視線を向けると、ルキアは呆れたような溜息を吐いた。その宛先は、彼女の少し後ろで恐縮したように身を縮めているマリーだ。

 

 「マリーの完敗だったわ。しかも五連続……。模擬戦をしてたらマリーがハイになっちゃって、ソフィーに五本先取勝負を持ち掛けたの。ウルミと蛇腹剣、ソードブレイカーとバックラーで歩法対策は完璧です! って言うから、審判役をしたのだけれど」

 

 フィリップが頭上に浮かべた疑問符に気付き、ルキアが補足してくれる。

 それはフィリップにとってはただの説明だったが、マリーにとっては手痛い攻撃になっていた。

 

 「うぅ……。行けると思ったのに……」

 「……まぁ、有利そうな武器ですけど。どんな風に負けたんですか?」

 

 フィリップが重ねて問うと、マリーは完全に項垂れてしまった。

 別に追撃のつもりはなく、むしろフィリップの視点から見ても脅威になりそうなラインナップだったから、後学の為に聞いておきたかっただけなのだが。

 

 金属の鞭を数本束ねたような武器、ウルミは、普通に振った剣を数倍する速度で襲ってくる。それに、使い手次第では『拍奪』対策として最も有効な面攻撃も可能だ。

 蛇腹剣と戦ったことは無いものの、イメージとしてはウルミに近い。ただ、あれは紐状の芯に複数段の刃を付けるという構造上、通常の金属では耐久性に問題があり、錬金術製の高価なものしか無かったはずだ。当然ながら、練習用の刃を殺したモデルなんて無いだろう。……真剣でやっていたのだろうか。

 

 まぁ、それはさておき、攻撃面は問題ないように思える。

 そして、取り回しに特化した「受け流す盾」であるバックラーに、相手の剣を拘束し破壊するソードブレイカー。完全に対ソフィー用の装備一式だ。『拍奪』を極めれば、これだけ準備した相手にすら勝てるというのか。

 

 「エーギル先輩、『拍奪』抜きで思いっきり距離詰めて、パワー勝負にしてきた……」

 「うわ……」

 

 なんて大人気ないんだ、と、フィリップは相手の技術に対して完全な対策を立てた上で負けたマリーと、対策の上を行く策を見せるのではなく、対策を力で踏み潰したソフィーの両方に胡乱な目を向ける。

 

 ステラはそんなフィリップの心中を読み、軽く苦笑した。

 

 「大人げない、とか思ってるな? カーター。だが、戦闘とはそういうものだ。特化した技術は特化した対策に、そして特化した対策は想定外に弱い」

 「それは、そうかもしれませんけど……」

 

 理屈の上では、分かる。

 フィリップだって、それで十分な相手には『深淵の息』を、効かない相手には『萎縮』を、それでも不足なら召喚魔術を使うといったように、相手や状況に応じて戦術を変える。それは戦闘に限った話ではなく、肉を切るのにナイフを使い、スープを飲むのにスプーンを使うような、至極当たり前のことだ。

 

 それでも、どうにも引っかかる。

 「ソフィーほどの技量があるなら力押しをしなくても勝てる」という勝手な期待があったからだろうか。

 

 「……フィリップ、魔術師の強みは戦術の多彩さだって言っていたでしょう? 剣士も同じよ」

 「あぁ……なるほど?」

 

 それは、確かにその通りだ。

 剣術で戦うと言っても、基礎体力が無く技も持たないフィリップは、『拍奪』を使って攪乱するくらいしか戦法が無い。対して、その歩法と、その歩法を用いた戦術を教えてくれたソフィーは、他にも様々な技術や戦術を持っている。

 

 相手や状況に応じて使い分けるなんて、考えるまでもなく当たり前のこと。そんなのは分かっている。分かっているのに、胸の裡にわだかまるモノがある。

 

 これは──

 

 「──羨ましい?」

 「……はい」

 

 嫉妬、か。

 

 ルキアに問われて初めて自覚した感情だったけれど、自覚してしまえば納得は早かった。

 

 自分には出来ないことをしたソフィーが、ただ羨ましい。でも、どうしてソフィーにだけそう感じるのだろう。

 フィリップには出来ない、フィリップ以上の技術を持つというのなら、それこそルキアやステラが──フィリップを何倍したって届かない魔術の才能を持った人が傍にいるのに。

 

 「いい感じだね、フィリップくん。アタシから見ても分かる、強くなるタイプだ」

 

 そっと近付いて来たマリーが笑う。言葉は優しげなものだったが、その笑顔は競争相手を見つけた獣のように獰猛だった。

 

 「エーギル先輩相手に嫉妬とは、将来有望だね」

 「どういう意味ですか?」

 

 フィリップは怪訝そうに訊き返す。

 その言葉の意味を理解していないのは、六人中フィリップただ一人だけだった。

 

 「対抗心、競争心は原動力として非常に強い、という話だな」

 「嫉妬(それ)を種火にできるか、燻ぶらせ続けるかは君次第だけどね。でも、フィリップくんには才能があるよ。ショートソードは、まぁ、それなりだけど……全く怯えないし、攻撃にも躊躇が無いし。なんて言うのかな、戦闘の才能というか……()()()()()?」

 

 殺戮、と。その物騒な言葉に反応して眉根を寄せたのは、ソフィー一人だけだった。

 同質の才能を持つルキアとステラはともかく、ウォードまでもが「あぁ、確かに」と頷く。話の中心であるフィリップの「そうかも」という顔が、この中で一番薄い反応だった。

 

 「一方的で、無感動で、機械的で、残酷な戦い──と言うか、『“死”の押し付け』ができるって。そんな気がするんだ。それこそ、聖痕者みたいな」

 

 買い被り──ではない。

 こと残虐性に関して言えば、フィリップの魔術はきっと世界屈指だろう。その破壊範囲もまた。

 

 ルキアとステラが二人して「分かってるな」という頷きを返し、ソフィーが怪訝そうな目を向ける。しかし誰かが言葉を発する前に、マリーが先を続けた。

 

 「いやぁ……でもなぁ……」

 

 マリーは腕を組み、むむむと唸る。

 目に見える「考え込んでいます」というポーズに、ソフィーが「なにが?」と問いかけた。

 

 「フィリップくん、絶対ショートソードが適性武器じゃないんですよねー。何が良いと思います?」

 

 また始まったぞと、ソフィーが深々と溜息を吐く。

 しかし、呆れたような反応を返したのはそんなソフィーと、無言ながら苦笑しているウォードだけだった。

 

 近衛騎士団では二種の直剣と盾、或いは槍と盾の組み合わせしか支給装備が無い。故に、軍学校ではその三種類の武器をメインに扱っている。弓矢ですら、戦争に於いては魔術に劣る無用物扱いだ。

 しかし、フィリップは別に軍に入るつもりは無い。衛士団に入れるのなら、ちょっと入ってみたい気もするけれど──そんな成績は望むべくもない。実技が壊滅的なので、理論分野をルキアとステラに教わってギリギリAクラス残留が許される程度だ。

 

 ……それはさておき、フィリップに必要な技術は、「騎士に必要な技術」とは違う。

 汎用性に優れたロングソード、盾と相性のいいショートソード、集団戦でこそ真価を発揮する槍、魔術師の壁となるための盾。フィリップに必要不可欠な武器は、この中にはない。フィリップに必要なのは、領域外魔術ではない、という条件だけだ。

 

 「ショートソードは軽くて短いけど、それでも走り回るのには向いてないし、距離も詰めなくちゃいけないし、微妙なんだよね」

 

 うんうん、とフィリップは頷く。

 ショートソードやロングソードは汎用性が高く、腰を据えて盾を構えるような防御重視の戦闘スタイルでも、『拍奪』のような機動力重視の戦闘スタイルにも適応できる。しかし、適性かと言われるとそうではない。ただ走り回るだけなら、もっと軽い短剣などが望ましいだろう。

 

 だが短剣ほどリーチが短くなると、今度は接近するリスクが生まれる。

 体格が未発達で、掴まれたり鍔競り合いになったりした時点でほぼ負け確定の現状では、接近し過ぎるのは避けたいところだ。

 

 「ショートソードくらいの重量で、リーチは何ならもっと欲しい。かといって走るのに邪魔になるのは駄目……」

 

 ぶつぶつと呟きながら思考するマリー。

 変な──いや、珍しい武器についての造詣が深い彼女ですら唸ってしまうほど、フィリップの現状は特異なものらしい。

 

 「……投げナイフとか、どう? 小型で、リーチもあるわ」

 「いや、弾切れする武器とか論外ですよ? 弓とか、矢が無くなったら細い棒ですからね」

 

 ソフィーの言葉を端的に切り捨てるマリー。確かに、投げナイフなんて狙いが狂えば殺してしまうような武器を使うくらいなら、大人しく『萎縮』の部位限定照準を覚える方がいいに決まってる。

 

 「加減の利く武器がいいわ。殺すだけなら魔術でいいもの」

 「そうですよね」

 

 フィリップより先にルキアがそう言うと、マリーは納得と悩みの混じった頷きを返す。

 

 「フィリップくんは、さ。たぶん騎士の誇りとか、男の矜持とか、ぜーんぶ無視して遠距離から毒ナイフを投げるタイプなんだけどね」

 

 褒められている気はしない言葉に、ルキアが眉根を寄せる。逆に、ステラは失笑していた。

 戦い方に拘れるほど手札の無いフィリップとしても、人間性には拘れても誇りにまでは拘りの無い人非人としても、「バレたか」と笑いこそすれ、怒る場面ではない。

 

 「ふふふ……的確な推察だな、カーター?」

 「毒ナイフというか、まぁ……はい」

 

 けらけらと笑う二人を見てか、ルキアは内心の不満を出力するのは止めることにして、続きを促す。

 

 「だから、プライドとか抜きに考えて良いとは思うんだけど……打ち合わず、走れて、リーチがあって、加減の利く武器でしょ? 基本的に、手からの距離と威力調整ってトレードオフだから」

 

 短剣のように攻撃箇所から手元が近いほど、威力の加減はしやすい。逆に槍のような手元から刃部が遠い武器は、威力の加減がし辛い。手元を離れる投げナイフは論外だ。

 その法則に照らせば、調整の利く武器はリーチが短いということになる。しかし、リーチが短い武器は体格の未発達なフィリップには向かない。

 

 「蛇腹剣は一案なんだけど、アタシでも扱い辛い武器だし……正直、あげるには高すぎるんよ……」

 

 「これ一本でフルプレートメイルが3着は買える」と言って笑うマリーの手には、真っ黒に塗られたロングソードのようなものが握られていた。

 

 「いえ、あの、「くれ」とは言ってないんですけど。……強いんですか? 蛇腹剣って」

 

 フィリップの興味深そうな視線に気付くと、彼女はニヤリと笑って手を振った。「離れろ」という意図を汲み、フィリップを含む全員が距離を置く。

 

 マリーは5人が十分な距離を開けたことを確認すると、一回、二回と剣を振る。

 ひゅん、ひゅん、と空気を裂くような小気味のいい音は、剣をブレ無く真っ直ぐに振れている証拠らしい。フィリップは未だに素振り100回中20回くらいしか鳴らせない音だ。

 

 「行くよー?」

 

 かちり、と、微かな金属音が耳に届く。

 マリーが剣を一閃し──じゃららら、と鎖の音を立てて、剣身が伸びた。

 

 「おぉ」

 

 地面にだらりと垂れ下がる、等間隔に剣の一部が付いた鎖。蛇腹剣とは言うものの、要はそれだけの、初見殺しに特化した玩具だ。

 フィリップが漏らした小さな感嘆符が、5人の中で最も大きな感想であり、感動だった。中でも先程それを力技でねじ伏せたソフィーの感動が一際小さい。

 

 マリーはそんな外野の反応に構わず、地面にだらしなく垂れた剣身の伸びる柄を握り直し、全身を使って大きく振るう。

 今度は鎖の音は最小限で、擬音にすれば「ちゃり」くらいのものだった。しかし、視覚的には先程の数倍は派手だ。頭上で振った手の動きに追従し、三メートルほどに伸びた剣が彼女の周りを二周する。迂闊に近付きたくはない外見だが、スカスカだ。

 

 フィリップの技量では難しいが、ウォードやソフィーならその隙間を通す攻撃も可能だろう。フィリップがそう分析したことを見抜いたマリーは、口角を吊り上げて腕の動きを変える。

 

 垂直に伸ばした腕の先で、全てのパーツが一列に並ぶ。一見すると、剣身が三倍近くに伸びた長剣のようだ。

 

 そして、彼女はそれを()()()()振り下ろした。

 そのまま、だ。性質的に剣ではなく鞭に近い、空中で剣を一列にするだけでも笑ってしまうような技術が必要なそれを、各部位の相対位置が変わらないように振り抜くとは。人間離れした器用さだ。

 

 しかも、振り下ろされた剣は、その切っ先をフィリップに突き付けて静止した。

 

 「……え?」

 

 思っていたより硬いのだろうか、と、フィリップは突き付けられた剣の先端を無造作につまむ。砥ぎ上げられた刃部に触れないようにはしているものの、マリーが一片でも悪意を持てば首を貫ける位置で、一片の警戒心も無く、好奇心だけで動いていた。

 

 「危ないわよ?」と、見かねたルキアが手を取って遠ざける。

 フィリップは素直に「そうですね」と手を放すが、内心は驚きでいっぱいだった。

 

 硬かった。それも、フィリップが持っているショートソード──鍛えられた鉄の板くらいの剛性だ。

 

 「面白い武器でしょ?」

 

 そう言って自慢げに笑うマリー。彼女は剣を軽く振るだけでロングソードの形へと戻す。

 彼女に差し出されるがまま、フィリップはロングソード状に戻った蛇腹剣を握る。重さは意外にも、ロングソードと同じくらいのようだ。内部構造の分、もっと重いと予想していたのだけれど。

 

 「そこの金具を回してみて。足元に気を付けてね」

 「これですか? 足……おぉ」

 

 鍔のあたりにある金具を弄ると、じゃららら、と音を立てて剣身が垂れ下がる。

 他の四人も興味深そうに近付いて、剣の構造をまじまじと観察し始めた。

 

 「ここ、鉄線じゃなくて鎖なんですね。鎖の縄みたいになってる」

 

 ウォードが言った通り、分裂した剣の各部を繋ぐのは、チェインメイルのそれよりもっと細い、ネックレスのチェーンと同等か尚細いような微細な鎖を幾重にも編んだ、鎖のロープだ。おそらくは錬金術製の金属で、鉄とは違う独特の光沢がある。

 

 「噛み合わせて固めたんですか?」

 「そうだよー。フィリップくん、ちょっと貸したげて」

 

 ウォードは蛇腹剣を受け取ると、刃を持って柄を捻ったり、刃部を引っ張ってみたりして弄り回す。

 そして剣を見て、マリーを見て、マリーを二度見した。

 

 「本気で言ってます? ならあんなの、殆ど曲芸じゃないですか。フィリップ君に限らず素人に渡せる武器じゃない」

 「いや、だから流石にこれはあげないって。使いこなせたら強いとは思うけど……」

 「いえ、待って。そもそも『拍奪』を使うなら──」

 

 顔を突き合わせ、議論モードに入ってしまった武器戦闘の専門家たち。

 魔術の専門家二人と一般人は、だらだらと駄弁りながら結論が出るのを待っていた。

 

 



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131

 交流戦六日目、夜。

 マルクは入学して以来──否、或いは生まれて初めてかもしれない、大人3人以上から同時に怒られる体験をした。

 

 多忙で殆ど家に居なかった父と母に叱られた回数も片手で収まるほどだし、使用人はマルクに何も言わなかった。初めから何も言わなかったのか、言っても無駄だと悟ったからなのかは、然したる問題ではない。

 いま重要なのは、マルクには一方的な説教を受ける機会が無く、またその性格ゆえに、ストレス耐性が著しく低いということだ。

 

 彼は数時間に及ぶ説教と、それが原因で夕食を食べ損ねたことで、非常に機嫌が悪かった。フィリップに殴られた箇所が微かながら確かな痛みを訴えるのも、大きな要因だろう。

 肩を怒らせて貴族用宿舎に帰ってきたあとも、部屋に戻って明日の撤収準備をしているときも、ベッドに入ってからも、ずっと激しい苛立ちを抱えていた。

 

 「クソ!」

 

 どん、と自分が横たわるベッドを殴り付ける。

 柔らかなマットレスはその衝撃を柔らかく受け止めるが、その感触すら腹立たしく思えた。

 

 「なんで俺が怒られて、あいつはお咎めなしなんだ! おかしいだろうが!」

 

 マルクの煮立った頭の中で、フィリップの嘲るような笑顔がリフレインする。

 貴族である自分以上にルキアやステラと仲良さそうにしているのも、大変気に食わないが──それ以上に、自分を一方的に、それも笑いながら殴り回したことが何より許せない。

 

 許せない。腹立たしい。認められない。

 あんなチビの、それも血統に劣る屑が、自分より強いなどと。断じて。

 

 空っぽの胃がくうくうと哀しく鳴いて微かに痛むごとに、苛立ちが段々と増してくる。

 

 「……ッ!」

 

 何度目かのベッドへの殴打は、ストレス解消の一助にもならなかった。

 

 マルクはシーツを蹴立てて立ち上がり、靴を履く。

 つい先ほどパッキングしたばかりのトランクを乱雑に開け、短剣を取り出す。両刃のそれはダガーと呼ばれる形状のもので、サバイバルツールではなく純粋な武器としての用途を想定されている。サバイバルナイフより薄く、鋭利ではあるが、耐久性に欠けるという性質を持っていた。

 

 マルクがそれを持っているのは、単に護身用としてだった。貴族・平民を問わず、この程度の武器なら誰が携帯していてもおかしくない。尤も、今マルクが手にしている物のように、柄や鞘の各部に彫刻や宝石の装飾がある代物は稀だろうけれど。

 

 彼はそれを鞘から抜き放つと、今まで自分が寝ていたベッドに向かって振り下ろす。

 鏡面のように砥ぎ上げられた刃は薄布を易々と裂き、内側から灰色の綿を引き摺り出す。何度も、何度も、罵倒未満の咆哮と共に繰り返し、暴力衝動の対象はベッドから枕に、カーテンに、木の壁に移る。

 

 深夜に差し掛かった時間帯にそんなことをしていれば、周囲の部屋から総出で怒鳴り込まれそうなものだが、その気配は無かった。

 そのことを不思議に思えるほど今のマルクは冷静ではないが、もしかしたら、石と木の壁が音を遮っているのか、或いはマルクの家名に遠慮しているのかもしれない。

 

 部屋をあらかた破壊して、肩で息をしていてもなお、マルクの苛立ちは収まらない。いや、むしろ悪化していると言ってもいい。

 無形の憎悪は、今や破壊衝動として顕出している。それがモノからヒトに向くのに、そう時間はかからなかった。

 

 「……殺すか」

 

 ぼそり、自分で呟いた言葉が、自分の脳を犯す。

 自分で吐いた一言が、じわりじわりと自分の思考をそれ一色に染め上げていく。

 

 マルクはダガーナイフを握り締め、部屋を出る。先ほどの荒ぶりが嘘のように、しかし獣性はそのままであることを示すように、可能な限りひっそりと。

 

 等間隔に燭台の並ぶ廊下を進み、平民用の宿舎に入る。

 足元にカーペットは無く石が剥き出しで、しかもなんだか砂っぽいざらりとした感触がある。

 

 こんなところで寝泊まりしているゴミクズに負けたのかと思うと、ナイフを握る手に力が籠る。燭台の明かりを反射して妖しく光る短剣と、夜の冷気が、辛うじて冷静さを保たせていた。

 

 うろうろと徘徊し、部屋割りの書かれた表を見つける。

 フィリップ・カーターとウォード・ウィレットの名前を見るだけで血管が千切れそうだが、おかげで部屋の場所は分かった。苛立ち紛れに部屋割り表を斬り付けて、部屋に向かう。

 

 確か、昼はサボり防止、夜は悪戯や脱走防止で巡回している二年・三年生チームがいるという話だったのだが、幸いにして、マルクが誰かと遭遇することは無かった。

 神の思し召し、という奴か。神は言っているのだ。あのクソ野郎をブチ殺せと。

 

 マルクはそう思い、身体の力を僅かに抜く。

 そうだ、これは復讐などではなく、神に導かれた正当な行為だ。そう思うと、激情がマスクしていた一片の良心すら消え失せる。

 

 ぶつぶつと呪詛を呟きながら階段を昇り、二人が居る203号室に向かう。

 鍵もかからないような扉を開けて中に入ると、中には暖炉も燭台も無く、窓から差し込む微かな星と月の明かりだけが頼りだった。

 

 入って左側のベッドでは、フィリップが口を半開きにしたアホ面で寝息を立てている。

 右側のベッドにはウォードがいたはずだが、シーツが丁寧にめくられた状態で空いている。トイレにでも行ったのだろうか。

 

 まぁ、いないならそれでいい。

 邪魔をするならウォードもブチ殺すが、いま殺したいのはフィリップだけだ。いないのなら、邪魔をしないのならそれでいい。

 

 マルクは足早にフィリップの傍に近寄ると、仰向けに晒されている胸元に狙いを定めた。

 筋肉の無い、骨格すら発達途中の薄い胸元だ。先ほどの暴走で多少の疵があるとはいえ、よく研がれたダガーナイフはその皮を、肉を、心臓を、容易く貫くことだろう。

 

 振り上げたナイフは躊躇の無い心情を表すように、一瞬の停滞も無く、淀みの無い動作で振り下ろされる。

 狙いは過たず、フィリップの心臓へと吸い込まれ──ぞぷ、と、肉を裂く柔らかな感触が返ってきた。

 

 

 

 ──ぼこ、と、ナイフの突き刺さった箇所が泡立つ。

 はじめ、マルクはそれを心臓から溢れ出た血液だと思った。暗い部屋の中で、手元がはっきりとは見えなかったからだ。

 

 ぼこ、ぼこ、ぼこ。

 繰り返し、ナイフに微かな振動が伝わる。手元の肌感覚だけでなく、何かが泡立ち弾ける音を耳でも捉えた。

 

 ぼこりごぼりと泡立つ音は、すぐに怖気を催すような悍ましい音に変わる。

 思わずナイフから手を放して後退ったマルクは、音の発生源であるフィリップの胸元、傷から血が溢れているはずの箇所に目を遣り──()()を見た。

 

 蠢き泡立つ極彩色の力場。マルクはそれが自分であることを、およそ知識や理性とはかけ離れた動物的本能によって理解した。

 

 それはマルクであり、フィリップであり、ウォードだった。

 それは人間であり、非人間であり、脊椎動物であり、無脊椎動物であり、動物であり植物だった。

 それは貴方で、私で、彼で、あれで、これで、あそこで、ここで、過去で、現在で、未来だった。

 

 彼はそこにいるのに、そこには何も存在せず、全てがそこに在った。そこは全ての原点であり、彼は全ての原型であり、また天地万物そのものであり、そして世界の終わりだった。

 小さく埃っぽい部屋になど到底収まるはずのない、無限大のスケール。それでいて、大きさと言う概念を持ち合わせないもの。

 

 「あ」と。マルクは理解の声を上げた。それの虹色の表面と無限に広がる奥行きから、マルクは全てを理解していた。

 

 口から出た筈の声は、虹色の泡だった。

 泡の中には誰のものともつかない唇があって、マルクに向かって嘲笑を投げかける。

 

 「ああ」と。マルクは絶望の声、虹色の泡を溢す。

 その中には特徴の無い目が一つだけあって、嘲弄の形に細められた。

 

 フィリップの胸元から湧き出て増殖した無数の泡は、怖気を催す、地球はおろか太陽系において知られざるものの囀りや呟きに似た音を立てながら、負の時間をかけて部屋中を覆い尽くした。絶対的な正の時間、不可逆のそれしか知らない人間の脳では理解できない現象を前に、マルクはただ茫然としていた。逃走、抵抗、反逆、あらゆる自発的行為に繋がる自我が崩壊していく。

 

 虹色の泡に覆われた部屋の中では、東西南北、上下左右、その他のありとあらゆる絶対性と相対性の座標が消え失せる。

 そこは、そこではなく、しかしそこを含む、ありとあらゆる場所だった。

 

 ぶちり、何かの千切れる音を聞く。

 許容量を超える情景と情報を流し込まれた脳の神経が次々に破断し、過熱した脳の血管が千切れた音か。

 

 そして──

 

 

 

 部屋の扉が開いた。

 

 寝惚け眼でトイレから帰ってきたウォードは、シーツを肌蹴る豪快な寝相で、口を半開きにして寝息を立てているフィリップを見遣る。いつもの半分くらいしか開いていない目で。

 

 「仕方ないな」と、或いは「またか」と言いたげに鼻を鳴らしてシーツをかけ直すと、自分のベッドに潜り込んで、すぐに寝息を立て始めた。

 

 

 



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132

 魔術学院・軍学校交流戦、最終日。

 硬いパンと美味くも不味くもない料理に慣れてきたフィリップは、この談話室で摂る最後の食事を楽しんでいた。

 

 今日は午前中にグループ戦があって、終わり次第、王都へ帰還する。

 つまり、今日であの硬くてちょっと臭いベッドとはお別れだ。今夜には愛しの学院寮のベッドで眠ることができる。柔らかく、それでいて適度な弾力があり、臭くも無ければ黒ずんでもいない、快適なベッドで。

 

 この一週間で最も、そして唯一フィリップを煩わせたのは、睡眠の質だ。

 定期的に談話室のソファで仮眠を摂っていなければ、フィリップの未成熟な体力ではダウンしていた可能性もある。野外訓練やダンジョン攻略のように「そういうもの」と覚悟していれば耐えられるが、流石に不意討ち気味の今回はキツかった。

 

 食事を終えると、フィリップはいつものようにソファに向かう。

 今日で終わりとはいえ、まだ模擬戦は残っている。集団戦でフィリップが役立つことは全くないので、完全に場内観戦みたいな立ち位置が予想されるが、それはそれ。馬車移動もあるし、体調は万全にしておきたい。

 

 「じゃあ、今日もちょっと寝ますね。時間になったら起こしてください」

 「えぇ、おやすみ」

 

 二人に生温かい目を向けられながら横になったフィリップは、数分ほどで浅い寝息を立て始める。

 フィリップが完全に寝入ってから、ステラは机上に頬杖をついてグラスを傾けた。あまり褒められた作法ではないから、子供の前ではやらなかったのだろう。美しくない所作にルキアも眉を顰めるが、それは慣れたもの。無視してワインを呷る。

 

 「今日で終わり、か。正直、今日からが本当に、心の底から面倒くさい部分なんだが」

 

 ぐったりとテーブルに突っ伏しかけて、ルキアが柳眉を逆立てたのを見て止める。流石にこれ以上は口か手が出そうだ。

 

 「……騎士団の再編でもするの?」

 「そう、正解だよルキフェリア。お前は天才だな」

 

 あぁ面倒だと顔を覆って嘆きながら揶揄うステラ。

 軽口を叩く余裕はあるようだが、予想される作業内容は冗談も言えないほど過酷なものだった。

 

 現状、王国騎士団は腐敗の温床だ。関係組織である軍学校の状態から分かるように、血統主義が横行し、規則通りに能力・適性・実績に応じた人員配置がされていない。

 貴族であるというだけで自動的に昇進し、逆に平民であるという理由だけでその機会を奪われる。その組織形態は平民出身者への迫害や、職務不履行・怠慢などの呼び水になっていた。

 

 このままでは不味いと、先々代王の頃には既に言われていたらしいが、組織再編にかかるコストを厭い、先送りにされてきた。

 ステラとしても、現状維持のデメリットが改革のコストを下回る限り、見逃してやるつもりだった。

 

 実態を把握してから改革か維持かを決定しようと、組織各部に親衛隊員を諜報員として潜り込ませた。そしてこの交流戦で、自分の目でも確認して──脳である彼女は、手足である親衛隊と同じ結論を下した。

 

 改革すべきだ。

 このままでは、ステラの世代かその次の世代で致命傷を負うことになる。

 

 「頭の痛い話だよ、全く」

 「意外ね。国家に思い入れがあるなんて」

 

 その気になれば国どころか国土を焼き払うだけの力が、自分と同等の力があって、未だに人間の集合体でしかない「国」に愛着を持てるのかと、ルキアは興味と共に訊ねる。

 

 ステラは初め意図を測りかねたような視線を向け、数瞬の後に軽く笑った。

 

 「はは。感性の違いだろうな。私にとっても、国家や社会は残酷なまでに脆く、儚いものだが──それでも、王国は我が手足、血肉にも等しい。同じく価値が無いとしても、腐り落ちるのは我慢ならないものだろう?」

 「…………」

 

 ルキアは理解しかねたのか、表情だけで「そう」と流す。

 ステラも言葉通り、端から理解されるとは思っておらず、肩を竦めるだけだ。これは王家に生まれ、生まれて以来ずっと国家の頂点に立つべき者として育てられた人間にしか分からない感覚だろう。国家──文化、国土、国民、王国に属する全てが、自分を構成する要素のように思えるというのは。

 

 「サークリス公爵と私と、文官連中が100人単位で駆り出されるだろうな。衛士団には諸侯の牽制も任せることになる。私が即位する前で良かった、と思うことにするよ」

 「ふぅん……。それ、何年くらいかかるの? 戦争になったら不味くない?」

 

 グラスに入ったワインを眺めながら、然して興味も無さそうに言うルキア。

 彼女は戦場のど真ん中に立たされても、次の瞬間には自分以外が塩の柱に変わっているような特級の魔術師だ。戦争という単語に然程の忌避感は無い。

 

 「不味いな。その場合は衛士団と、私と、お前が対処することになる」

 「私が? ……まぁ、構わないけれど」

 

 二人にとって、戦争で厭うべきは移動くらいだ。

 戦場まで行けば、指の一弾き、腕の一振りで大抵の相手は片付く。万が一、教皇庁と帝国にいる他の聖痕者が出張ってきた場合でも、ステラ、ルキア、ヘレナの三人を擁する王国が有利だ。数の暴力で磨り潰せる。

 

 ただ、前線まで馬車でえっちらおっちら向かう道中と、帰りの道程が面倒臭い。戦闘は五分そこら、掃討しようとしても十数分で終わるのに、どうして何日もかけて移動しなくてはならないのか。どうせ死ぬんだから勝手に死ねと、数年前には思った記憶がある。

 

 「最悪のケースは、カーターの参戦だ。そうなる前に終息させる必要がある。分かるだろ?」

 「……えぇ、勿論」

 

 思い思いの“冒涜”を想起し、身震いする。

 ルキアはシュブ=ニグラス、ステラはハスターとクトゥグア。存在の格差は大きかったが、人類から見れば、一挙動で絶滅させられるという点で大差は無い。

 

 フィリップの参戦はイコール、冒涜的存在による虐殺だ。

 それだけならまだいい。虐殺を引き起こすという点では、ルキアやステラも同じだ。本当の最悪は、戦争と言う人類の悪性の煮凝りを前に、フィリップが人類を見限ること。

 

 遥かな視座から、同族同士の殺し合いはどう映るのだろうか。二人には──いや、きっとフィリップにも分からない。

 人間が蟻の縄張り争いに興味を持たないように、フィリップもまたそうだろうか。或いは、眼下、群れる蟻を戯れに踏みつけるだろうか。

 

 ただ一つ言えるのは、フィリップと、彼を取り巻く超常的存在をどれか一つでも戦場に投入してしまえば、地表は洪水によって洗い流される。蟻も、その巣も、みな一様に沈む。

 

 「まぁ、そもそも戦争にならないよう、なったとしても問題ないよう、騎士団を作り直すわけなんだがな」

 「そうね。頑張って、ステラ」

 

 ルキアにしては珍しく、本気でステラを励ましたのだけれど、彼女はワインを呷って嘆息する。

 

 「お父様以前の王族が頑張っておくべきだったんだよ、本当は」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 一時間ほど後。

 中庭には全生徒が集合していた。言うまでもなくグループ戦のためだが、彼らの大半は困惑気味だった。彼らはこの一週間で個人・ペアでの練習しかしてこなかった、一般的な生徒たちだ。

 

 ごく一部の例外、自分たちでグループを作り、多対多戦の練習をしていた生徒たちは「待ってました」とばかり、そのノウハウを同じグループに共有している。

 

 また、本当にごく僅かな──二千人近い生徒がいて、たった九人しかいない例外中の例外もいる。

 聖痕者、ルキア・フォン・サークリス、或いはステラ・フォルティス・ソル・アブソルティアと同じグループになった、幸運な生徒たちだ。彼らは罷り間違っても礼を失した行いをしないよう、自身の一挙手一投足に気を払うのに忙しかった。

 

 そして、仮眠を摂ってすっきりした顔のフィリップが一人。

 フィリップはステラと同じチームであり、今回は魔術師としての参加だ。つまり、一発も魔術を撃ってはならず、また撃つ必要も無い。

 

 対戦相手はルキアの率いるチームらしいが、だからどうしたという話だ。ルキアはステラが押さえてくれるし、こちらの前衛には我らが師匠ウォードとソフィーがいる。向こうにはマリーがいるが、あの二人を突破してフィリップのところまでは来ないだろう。流石に。来ないよね?

 

 「お、フィリップくん、お疲れ。戦闘中のアタシの動き、よーく見ててねー」

 「あ、はい……」

 

 ぱたぱたと手を振りながら自陣に向かうマリー。その右手には見覚えのある金属の鞭、ウルミが握られていた。

 

 「……まさか、突破してくるつもりか? 初級限定とはいえ私の魔術と、エーギルの守りを」

 「ウォードが止めてくれるでしょう。たぶん」

 

 互いのペアに篤い信頼を見せる二人。

 件の二人はというと、ソフィーは実力に対する正当な評価を当然のものとして受け止め、ウォードはプレッシャーだと苦笑いしていた。

 

 「A区画、グループ1とグループ2、準備ー! B区画、グループ3、4! C区画──」

 

 てっきり「グループ戦を開始します!」みたいな音頭があるのかと思っていたけれど、どうやら違うらしい。生徒たちが割り振られた場所にぞろぞろと移動して、監督役らしい生徒の合図で始めるようだ。

 

 「僕らは最後でしたっけ」

 「あぁ。終わったグループから順番に王都へ帰還するんだし、最初が良かったな」

 「確かに」

 

 けらけらと笑って雑談を続けていると、しばらくしてフィリップたちの番になる。

 案内に従って、昨日の模擬戦用より数倍は広い試合用フィールドに入る。軍学校生が前に、魔術学院生が後ろに並び、自然と二列横隊の陣形になった。

 

 「フィリップくん、見ててよー?」

 

 遠くの方で、マリーが大声と共に手を振っている。

 ウルミはフィリップの使う『拍奪』の天敵のような武器だし、その戦闘スタイルを学ばせようという思惑だろうか。本当に意図がそれだけなら頭の上がらない話だが、彼女は「使い手が少ないのは寂しいから」という理由でマイナー武器を他人に勧めることがある。もしかしたら、フィリップにウルミの凄さを見せつけて勧誘するつもりかもしれない。

 

 まぁ、何にせよ、彼女の動きを見ておくのは後のことを考えても有用だ。有難く見学しよう。

 

 「それでは、両チーム用意──え? か、開始!」

 

 係の生徒が戸惑いを見せたことに気付いたのは、戦闘に備えて極限まで集中している生徒以外──つまり、傍観者気分のフィリップだけだった。

 

 前衛の生徒たちが喊声を上げ、突撃を開始する。その後方では炎の矢や氷の槍が展開されており、数秒もせずにこちらの前衛へ届くだろう。

 対抗するように、こちらの魔術師も攻撃魔術を準備する。防御魔術を準備しているのはステラ一人だが、まぁ、十分だろう。

 

 「まだ撃つな! 合図を待て!」

 

 ステラの号令に従い、魔術学院生たちが照準状態を保つ。

 待機を命じたステラはと言うと、訝し気な視線を50メートル向こうの敵後衛へ走らせていた。

 

 相手の魔術は全て、自軍前衛どころか相手が撃った直後にはステラの防御魔術によって無効化されている。軍学校生へのダメージどころか、プレッシャーすら皆無だろう。

 聖痕者一人の防御で、通常の魔術師五人の攻撃は凌げる。つまり、こちらの攻撃もルキア一人で捌かれてしまうということだ。

 

 ステラはその防御を崩す策を用意するために、まずはルキアの位置を確認しようとしていた。

 

 「どうしたんですか?」

 「ルキアが居ない」

 

 そう言われてフィリップも目を向けるが、確かに、遠目にも特徴的な綺麗な銀髪は見当たらない。だが前衛で土埃を立てる集団の中にいるとは考えにくいし、あとは──

 

 「光を操作して透明化しているのでは?」

 「それで闇討ちか? あのルキフェリアが?」

 

 ステラは、いやフィリップも、ルキアの行動原理をよく知っている。

 彼女はそれが勝利への最適解でも、たとえ唯一の勝機や生存への道筋でも、美しくないことは絶対にしない。闇討ち、騙し討ちが彼女の美意識に適うとは思えないが、しかし、二人はルキアが透明化できることを知っている。

 

 この状況では、彼女は「それは避けられない方が弱い(悪い)」みたいなシビアなことを言って、普通に透明化背後アタックをしてくる可能性が拭いきれない。

 

 「闇討ちと言うか、僕らの警戒不足だって言われるのでは?」

 「……だな」

 

 ステラは納得するが早いか、視界を物理次元から魔力次元へと切り替える。

 しかし、フィリップが、そしてステラ本人が予期した成果は上げられなかった。

 

 「なんだ? ヴェール……いや、ブラインドか」

 

 視界を埋め尽くすのは、周囲にいる魔術師や前衛を張る軍学校生の魔力やその情報ではなく、目を焼くほど輝かしいルキアの魔力ただ一つ。

 いくらルキアの魔力量が膨大とはいえ、ただ立っているだけで空間全域を埋め尽くすほどではない。

 

 それは意図的に放出、発散されたものであり、明確な魔術師対策だった。魔力視による透明化看破対策と言ってもいい。

 

 「駄目だ、見えない。警戒しろ」

 「了解です」

 

 魔力を視る目を持たないフィリップには看破のしようもないが、なんとなく戦場に目を向ける。

 

 2,30メートル向こうでは前衛同士がぶつかり合い、砂埃や火花を散らして拮抗している。

 大抵の生徒がロングソード一本か、円盾とロングソード或いはショートソードを装備している中で、一人だけ鉄の鞭を振り回しているマリーが目立っていた。

 

 そして──不意に、フィリップたちと前線の真ん中くらいの位置に人影が現れる。

 よく目を凝らして見るまでもなく、その麗しい立ち姿と風になびく綺麗な銀髪から、容易に人物を特定できた。しかし、フィリップとステラは戸惑う。

 

 その人影が、両手に剣を持っていたからだ。

 

 「あれ、ルキアですよね? なんか剣持ってません?」

 「……お望みの二刀流だぞ。もっと喜んだらどうだ?」

 

 あのルキアが剣で武装? 有り得ない。

 そんな野蛮な攻撃は彼女の美意識に適わないだろうし、そもそも彼女に実戦剣術の心得は無いはずだ。無理をして無様を晒すような真似は、彼女が最も嫌うところではなかろうか。

 

 「……? なんか、呼ばれてますね」

 「呼ばれてるな、カーター」

 

 十メートルほど向こうで、ルキアが手招きをしている。

 彼女の右手には飾り付きハンドガードのレイピア──スウェプトヒルト・レイピアが、左手には大きめのハンドガードが付いた幅広の短剣──マンゴーシュが握られており、陽光を浴びて微かに煌めいていた。

 

 普段のステラなら一瞬のラグも無く、姿を確認した時点で魔術をぶっ放しているところだ。

 ルキアがどうこうではなく、単に防衛線を突破してきた敵兵への最適な対処として。

 

 しかし、彼女の中でルキアとフィリップは例外だ。

 ゲームの盤上に乗ることが無い、彼女が人生(ゲーム)を続ける理由そのもの。意志決定に彼女たちが絡むだけで、戦略的合理性に翳りが生まれる。

 

 命の懸かった戦場ではないし、ルキアもフィリップと遊びたいのだろう。

 ステラはそんな甘いことを考えて、何もしなかった。

 

 「……! 行ってきます!」

 

 剣で戦おう、という意図を汲んだフィリップが駆け出す。

 心底嬉しそうな声色に苦笑しつつ、ステラは脳裏を擽る小さな違和感に思考を戻した。

 

 おかしい。

 ルキアが修めているのは儀礼剣術、つまりは演武や剣舞のような芸術分野に属する系統の技術だ。勿論、剣を扱うだけあって基本的な歩法や剣の振り方は身に付いているだろうが、それでも実戦に堪え得る技量ではないはずだ。

 

 その先入観を持っていなければ、今の彼女の振る舞いと記憶にある彼女の仕草の相違を感じていなければ、気付かずスルーしてしまいそうなほど微かな違和感がある。

 それは剣を持って佇むルキアの指や、爪先、髪の動き、足の運びや腕の振りのような僅かなもの。付き合いの長いステラでさえ即座に「ここが違う」と看破できないほど細かいものだった。

 

 「……出過ぎるなよ、カーター!」

 「オーケーです!」

 

 向こうを向いているのに満面の笑みだと分かる声で応じて走っていくフィリップに、ステラ以外の魔術学院生も「仕方ないな」と言いたげな苦笑を溢した。



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133

 最前線から10メートルほど手前で佇むルキアの下に駆け寄る途中で、フィリップは軽やかに動かしていた足を急停止させた。

 それはフィリップ自身の変調や、ルキアの動きによるものではない。動きがあったのは10メートル先、軍学校生たちが剣と盾をぶつけ合っている前線だ。

 

 軽やかに3メートルほど飛び上がった人影が、銀色の煌めきを纏って前線を抜ける。

 着地したのはこちら側であり、手にした特徴的な武器からすぐに人物を特定できた。

 

 「ありがとうございます、聖下! 行くよ、フィリップくん!」

 「えっ、は!?」

 

 気付けば眼前に立っていたはずのルキアの姿が掻き消え、マリーが右腕と、右手に持ったウルミを尾に引いた彗星のように突っ込んで来る。

 

 「なるほど、幻影か」

 「なる──ッ!」

 

 口笛など吹いて感心を示したステラに、フィリップは何と言おうとしたのか。たぶん「なるほどとか言ってる場合じゃないですよ!」とか、その辺りだろうが、フィリップは文句を垂れている場合ではないと即座に理解した。

 

 マリーの目が完全に据わっているというか、キマっていた。

 あれは手加減とか考えていない、本気でフィリップの肌を削ぎ肉を抉り取ろうとしている者の目だ。

 

 フィリップは一先ず後衛の方に駆け戻ろうとして、眼前に展開された魔力障壁に激突した。

 

 「痛っ!? ちょ、殿下!?」

 「師匠は最終テストをご所望のようだ。遊んで来い」

 「は!? ──ッ!!」

 

 ステラはどこか楽しそうにひらひらと手を振っていたが、対『拍奪』武器と言ってもいいようなウルミを相手にしたくはなかった。

 

 振り向いた時には、既にマリーが右腕を振り始めていた。

 抗議している余裕はないぞと飛び退いたフィリップの目に銀色の閃きが届き、一瞬だけ遅れて大気を裂く音と小さな破裂音が続く。鞭に特有の超音速攻撃だった。

 

 「うわぁっ!?」

 

 フィリップが避けた攻撃は地面に当たり、甲高い音と共に砂塵を巻き上げる。

 一息つく間も無く、反動で浮き上がったウルミは、地面すれすれを蛇のような動きで這いながらフィリップの足首を狙う。

 

 いや、「狙う」という表現は不適切か。

 マリーはただ走りながらウルミを引き戻しただけで、横波を打つ動きになったのは狙ってのことではない。その先端がそこそこの勢いでフィリップの足首を打ったことも、彼女にとっては意図せぬ結果だった。

 

 ばちん! と、金属の鞭が肉を打つ音が響き、コンマ5秒後にフィリップが声にならない悲鳴を上げる。

 

 「え、ご、ごめん! 当てるつもりは無かったんだけど!」

 

 足首を押さえて悶絶するフィリップの下へ、あわあわと慌てながら駆け寄るマリー。

 

 一度フィリップの肋骨にヒビを入れ半泣きに追い込んだことのある彼女としては、踝が折れていないか気になるところだろう。フィリップがキレるとかルキアがキレるとかいう問題ではなく、彼女は意図せず怪我させてしまうことに抵抗感がある、一般的で善良な人間だ。

 

 「だ、大丈夫です……」

 

 ぴょこぴょこと片足を庇いながら立ち上がったフィリップの足首を検分して、マリーは「折れてる感じはしないね」と安堵の息を漏らす。

 

 「ごめんね? ホントに当てる気は無かったんだよ?」

 「じゃあ何しに来たんですか……?」

 

 フィリップが問いかけると、マリーは我が意を得たりと笑って、持っていたウルミを差し出した。

 

 「これ、使ってみない? たぶんいい感じに合うと思うんだけど」

 「似合い……ますか?」

 「いや、似合うとは言ってないよ? 戦闘スタイルに“合う”って言ったの。アタシの動きは見ててくれた? あんな感じで動けばいいから」

 

 さも簡単なことのように軽く言ったマリーに、フィリップは胡乱な目を向ける。

 見るも何も、こちらの前衛役が壁になっていてほとんど見えなかったし、そもそも見ただけで技術を模倣するような才能はフィリップには無い。しかも鞭、それも金属製かつ複数本を束ねた特殊極まる武器操作なんて、流石のステラでも一度や二度見たぐらいでは無理だろう。

 

 「まぁ、なんとなくは。ちょっと貸してください」

 「うん、行くよ?」

 「は?」

 

 投げ渡されたウルミを掴んだ時には、マリーはバックステップを踏んで距離を取っていた。

 腰の後ろに佩いた鞘から抜き放たれたロングソードは黒一色で、聞き覚えのある金属音の後にだらりと垂れ下がる。──蛇腹剣だ。

 

 ……あれは確か、真剣だったような。

 

 「ちょ、ちょっと待ってください? 戦うんですか?」

 「いつも通り──ね!」

 

 ちゃり、と、微かに鎖の擦れ合う音を立て、蛇腹剣が動き出す。

 マリーの全身を使った動きは、彼女の身長をそのまま鞭の長さにプラスして威力や速度を増す。刃無しのウルミや普通の鞭でも、骨くらい折れるのではないだろうか。

 

 よく研がれた刃を持つ剣節部でも、表面が鑢のように削られているチェーンを編んだ関節部分でも、当たれば痛いでは済まない。

 

 「──ッ!」

 

 待ってください、とか、その手の制止には聞く耳を持たないだろう。

 いや、もしかしたら普通に聞き入れてくれるのかもしれないし、もしそうならとても失礼な話ではあるけれど、少なくとも対峙したフィリップにはそう思えた。

 

 取り敢えず全力で距離を取ったフィリップは、次はどうしようと必死で頭を回転させる。

 

 ウルミの射程は約2メートル。蛇腹剣の射程は約3メートルだ。

 戦闘は間合い、射程の長さだという通説に従えば、ただでさえ技量で負けているフィリップは、さらに1メートル分の不利を背負っていることになる。

 

 一方的に切り刻まれるのが嫌なら距離を詰めるしかないが、彼女の周囲を蜷局を巻く蛇のように旋回している蛇腹剣を掻い潜るのは不可能だ。

 

 「……オーケー、行きます!」

 

 一か八か、ショートソードを左手に持ち替えてマリーの真似をしてみると、これが意外と違和感が無い。

 元々はショートソードを持った右腕は完全に攻撃用で、疾走中のバランスを取るのは空の左腕に依存していた。しかしウルミを持った右腕を背後に流すと、動物の尾のようにバランスを取ることが出来る。スタビライザーが一つから二つになったようなもので、安定感が増したような気がする。

 

 「えっ!?」

 「いいね!」

 

 自分でやっておいて愕然とするフィリップと、心底楽しそうに笑うマリー。

 既に決着の兆しが見え始めて来た前線ではソフィーが「まぁ妥当ですね」と言いたげに頷き、敵後衛にルキアが姿を見せたことで攻撃を開始していたステラも「そうだろうな」と片眉を上げる程度の反応だった。

 

 『拍奪』は技量や個人の癖にもよるが、極端な低姿勢で地面すれすれを蛇のように走る。重心がかなり前傾するその状態でバランスを取るのは難しいが、背後に尾のようなバランサーが付けば多少はマシになるということだ。二人はそれを良く理解していた。

 

 理論的にはともかく、諦め半分にやってみて、出来てしまったフィリップは思考を停止して距離を詰める。

 

 「んー……まぁ、今は正解かな。ホントは退かなきゃダメだよ?」

 

 こちらは模擬剣、向こうは真剣。こちらは似非魔術師、向こうは本物の剣士。

 どう考えても距離を詰めてはいけない状況だが、これは訓練だ。マリーの言葉を胸に刻んで、しかし頷いたり笑ったり余計な反応はせずに攻撃に移る。

 

 マリーの動きに合わせて周囲を旋回する蛇腹剣だが、隙は多い。

 『拍奪』の低姿勢から狙いやすいのは足元だが──跳躍で躱されるか? いや、跳躍状態では動きに大きな制限がかかる。カウンターが来るとしても、その場で二回転して横薙ぎが二回、身体操作でベクトルを変えて縦振り一回が限界だろう。

 

 いける。ビジョンが見えた。

 足元狙い、マリー跳躍、カウンター(横薙ぎ)、下がって回避、追撃(縦振り)、『拍奪』の横ずらしで回避しつつ距離を詰める。あとは着地の瞬間を狩って、一本だ。

 

 「いけるッ!」

 

 フィリップは脳裏に閃いた未来予想図に従い、キルレンジに入った瞬間に攻撃を振る。フィリップが振り抜いたウルミはマリーのものより遅く、ブレていて、破裂音を伴わない。

 マリーは一瞬だけ「踏み止めてもいいかな」と考えて、しかし「真似されて怪我されても困るな」と考え直す。最終的に、彼女はフィリップの想定通りに跳躍して回避した。

 

 ただ──フィリップの予想とは違い、彼女は跳躍時に体の軸を90度捻っていた。

 空中で横たわり、縦に3回転。蛇腹剣を振り回していたから予備動作ゼロではないにしても、助走無しと考えると十分に異常だ。しかも、かなり高い。1.5メートルくらい跳んでいるのではなかろうか。

 

 そして縦回転ということは、攻撃は縦振りだ。

 横振りが来る前提で相対位置を前に誤魔化しながら後ろに下がっていては、普通に当てられてしまう。

 

 ロングソード状に戻した蛇腹剣を持ったマリーが回る。

 一回転目、まだだ。二回転目、まだだ。三回転目──来る。ちゃり、と、聞き慣れてきた金属音と共に、ロングソードが三倍の長さに伸び、しなやかさを得る。

 

 ウルミや蛇腹剣の強みは、その柔らかさだ。

 盾で受けるならともかく、剣で受けるとそこを基軸に曲がって襲ってくる。代償としてウルミ本体も防御性能が皆無なのだが──フィリップの左手には、この一週間ずっと使ってきたショートソードがある。

 

 蛇腹剣全部がそうなのかは知らないが、マリーの剣は関節部が鎖を編んだ紐で出来ていて、噛み合わせて挙動を変えられる。普通の状態では柔らかく、噛み合わせると固くなる。鞭と剣の性質を使い分けられる優れものだ。

 

 マリーが剣を固めている方に賭けて、ショートソードで打ち払う。

 果たして、左手に重く硬質な反動があり、フィリップの頭の代わりにすぐ横の地面に深々と剣が突き刺さった。

 

 「あっぶな……!」

 

 ちゃり、と、また微かな金属音が鳴る。

 フィリップは咄嗟に関節部を踏みつけてウルミを振るが、フィリップの脚力より、マリーの全身を使った動きの方が強い。足を掬われてよろめき、ウルミは狙いを外した地面を叩くに終わった。

 

 「今の良かったね! ラスト一本行くよ!」

 

 気付けば前線での衝突は、ソフィーを押さえていたマリーが抜けたことで決着間近だ。

 前線の崩壊したチームが負けという大前提に基づけば、フィリップたちの勝ちである。これが実戦になると魔術師が抵抗したりして、また色々と変わってくるのだろうが。

 

 「次は防いじゃダメだよ!」

 

 何度かの予備動作のあと、剣で言う袈裟斬りの動きで柄が振られる。少し遅れて剣身が動くが、その先端部は柄を振る速さの数倍にもなる。防ぎたくても防げないのが正直なところだ。

 

 素直に『拍奪』を使いつつ横に避けるも、マリーの視線はズレることなくフィリップを追ってくる。次の瞬間には蛇腹剣も追いかけてくるだろう。

 現代魔術、『ファイアー・ボール』辺りがちゃんと拳大の火球を飛ばしてくれたら、目くらましの効果は期待できたのだけれど……蝋燭大の炎ではちょっと心許ない。

 

 フィリップは大人しく砂を使うことにして、地面の表面を撫でるようにウルミを振るう。

 

 「お、流石!」

 

 なにが「流石」なのかは分からないが、その戦術はマリーのお気に召したようだ。碌なことではないと思うので、深くは聞かない。

 

 振り抜いたウルミを手放し、マリーの顔を目掛けて投擲する。

 当たるだけでもかなり痛いだろうし、絡みつけば最高だ。そして本命の攻撃は、左手から持ち替えたショートソードの一撃。

 

 回避か、迎撃か。どちらにせよ隙は出来るだろうし、そこに突っ込むしか道は無い。

 

 手を離れたウルミは柄が重いからか、不規則に回転しながら飛んでいく。

 マリーの周囲を守る蛇腹剣の螺旋をすり抜ける軌道になったのは、フィリップの制球力を考えると偶々だ。

 

 果たして、マリーは蛇腹剣でウルミを打ち払った。

 武器を手放したフィリップの狙いを悟ったのか、或いは全力で距離を詰めたフィリップの動きに気付いたのか、蛇腹剣をロングソード状に戻す。

 

 流石に純粋な剣対剣で勝てるわけもないので、さっき投げたウルミが欲しくなる。

 

 「……うん、お疲れ。結構良くなってきたね」

 「……ありがとうございます」

 

 取り上げられたショートソードを首元に突き付けた状態で褒められて、苦い笑いを浮かべるフィリップ。

 しかし自分でも手応えがあったからか、すぐに笑顔に含まれる苦みの成分を薄めた。

 

 「じゃあコレ、あげるね!」

 

 マリーはフィリップが投擲したウルミを差し出して、心底楽しそうに笑い返す。

 ドマイナー武器使用者が少なくて寂しいから布教するという彼女の目的は、フィリップがそれを受け取ったことで、マリー史上初めて達成された。



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134

 グループ戦終了から十数分後。

 息を整えた魔術学院生たちは、軍学校生より一足早く砦を立つ手筈のため、ぞろぞろと移動していた。軍学校生はこれから砦の清掃作業らしく、うんざりした様子のウォードたちとは既に挨拶を済ませてある。

 

 正門の外には未だ十数台の馬車が残っており、王都方面には車列がずらりと伸びていた。

 

 「お疲れ様、フィリップ。動けるようになってきたわね」

 「えへへ、そうですか? ……あ、そうだ、さっきの幻影? は何だったんですか? 釣り餌?」

 「──失礼いたします、両聖下。少し、お時間を頂けますか」

 

 グループ戦も終えてあとは帰るだけ、荷物も既に積み終えたし、じゃあ馬車に乗って昼寝でもしようか。

 フィリップたちが纏っていたそんな弛緩した空気、帰宅ムードは、背後からかけられた余人に緊張を強いるような「圧」のある声にも揺るがなかった。

 

 「マクスウェルか。どうした?」

 

 三人の中で最も身分が低いのはフィリップだが、一般の平民と侯爵家の跡取り、しかも近衛騎士団長の息子では差があり過ぎて対応し辛い。フィリップが身に付けた作法は、あくまで地方貴族を前に失礼なくベテラン従業員を呼ぶためのものだ。

 

 アルバートと家格が近しいのはルキアだが、基本的に他人に対する興味の薄い彼女はコミュニケーション能力に多少の問題がある。話す価値の無い相手だと思った相手には、それこそ一片の興味も向けないという問題が。

 それに、彼女は血統的身分を超越した聖痕者だ。その地位は、国王クラスの権力者にすら頭を垂れさせる。

 

 呼び止められるでも何でも、一番対応すべきではないのはステラだ。彼女は王国の中で国王、王妃に次いで高い地位を持つ。本来なら直接会話できるのは宰相など一部の高位貴族だけであり、余人は家臣を間に置いて言葉を上奏することしか許されない。

 

 ただ、ここにいるのは“魔術学院生”のステラだ。

 “王国第一王女”の地位、“次期女王”の責務、“聖痕者”の特権。その全てが、彼女が“魔術学院生”であるうちは効力を失う。それが魔術学院の基本理念だ。

 

 誰に声を掛けても、誰が声を掛けてもいい。少なくともルールの上では。

 ルールを用いて国民を支配する、ルールを作り使う側の人間である彼女は、それをよく理解していた。

 

 だから、三人の中で最も対応しやすい彼女が返答する。

 ステラから見て、フィリップとルキアはどちらも対人能力に不安があった。

 

 「はい。まずは今回の交流戦に参加して頂いたことについて、お礼を申し上げたく存じます。この度は私どもの催しに参加して頂き、ありがとうございました」

 「……あぁ。私としても収穫のあるイベントだったよ」

 「恐悦至極に存じます、聖下。それで、その……」

 

 アルバートがちらりと投げた視線の先は、会話の邪魔にならないよう黙って姿勢を正していたフィリップだった。

 彼の意図を汲んだステラは軽く首を傾げ、しかし何も言わずにルキアを伴って少し離れた。

 

 「ありがとうございます、聖下。……お久しぶりです、カーターさん」

 「あ、はい、お久しぶりです……。えっと、僕、何かしましたか?」

 

 具体的に何かをした自覚は無いものの、基本的な視座がズレていることは分かっているフィリップは、説教か弾劾かと身構える。

 

 「いえ、カーターさん。私はむしろ、貴方に謝罪するためにここにいます。より正確には、平民用宿舎に宿泊された皆さんに」

 「え? あー……確かに、かなり汚かったですね」

 「はい。教師陣と業者が清掃したと聞いていたのですが、まさか棟の半分にしか手を付けていなかったとは」

 

 怒りと不甲斐なさを滲ませる表情を、頭を下げて隠すアルバート。

 その所作には彼が言う一般的な礼儀以上のものは無く、フィリップの──勘違いされた──立場や、背後にいるルキアやステラに配慮した訳では無さそうだ。言葉通り、フィリップ以外の生徒にもこうして謝っているのだろうか。

 

 「我々にとっても青天の霹靂だった、という言葉が免罪符にならないことは分かっています。しかし事実として、軍学校側に隔意が無かったことは理解して頂きたい」

 「あ、はい、それは勿論」

 

 ウォードもマリーもソフィーも、みんないい人たちだ。

 フィリップのことを子供だと軽んじることなく、しかし子供だからと案じてくれた。ウォードなんて、初めは剣術を教えることも渋ったくらいだ。しかもフィリップにそうと気付かれないように。

 

 残念ながら、その三人くらいとしかお近づきにはなれなかったけれど。

 何ならまともに会話したのだって、その三人とアルバートくらいだ。

 

 「そういえば、先日はありがとうございました。あの後、ちゃんとウォードと合流出来ました」

 「良かったです。彼は強かったでしょう」

 

 ウォードをよく知っているような口ぶりのアルバートに、フィリップは軽く首を傾げつつも頷く。彼の動きは洗練されていたし、教え方は独特だが身に付きやすい。いい剣士、いい先生だった。

 

 マリーやソフィーも含めた軍学校生の反応的には、もっと「知られざる達人」みたいな感じなのかと思っていたけれど、意外と知られているのだろうか。

 

 「ウォードのこと、ご存知なんですね。あ、じゃあ師匠について教えてくれませんか?」

 「あぁ、いえ。身のこなしや立ち振る舞いから推察しただけですので。彼個人と親交はありません。彼の師についても、申し訳ありませんが」

 

 そうでしたかと、フィリップは残念そうに頷く。

 まぁこれは単なる好奇心で、それ以上──師事しようとか、そういう意図は無かったから、別に構わない。

 

 「では、私は他の生徒に謝罪してきますので、失礼いたします」

 「あ、はい。さようなら」

 

 握手を交わすと、アルバートは足早に立ち去る。向かう先は、また別の魔術学院生だ。

 

 フィリップも馬車の傍で待つルキアとステラの下へ戻ろうと踵を返す。

 ちゃり、と、マリーがご丁寧にも腰に佩く用のベルトと一緒にくれたウルミが音を立て、フィリップに小さな気紛れを起こさせた。

 

 「マクスウェル様!」

 

 呼び止める声に振り向いたアルバートに気を遣わせないよう、なるべく端的になるよう言葉を探る。

 一瞬の思考の後、フィリップはそこそこ最適な言葉を導き出した。

 

 「有意義な一週間でした!」

 

 フィリップはぺこりと頭を下げ、今度こそ馬車に乗り込む。

 

 アルバートは少しだけ瞠目すると、微かな笑みを浮かべた。

 何も言わず、ただ整った所作の一礼をフィリップの背に向ける。数秒して顔を上げた時には、真面目で厳格な軍学校首席の表情に戻っていた。

 

 フィリップたちは帰路につき、アルバートは仕事に戻る。

 同じ王都にありながら、こんなイベントでも無ければ会うことも珍しい二つの学校の生徒たち。彼らの交流は、斯くして平和裏に終わる。

 

 リップサービスを抜きにしても有意義な、収穫の多い一週間だった。

 フィリップは馬車の揺れに眠気を催しながら、腰に吊ったウルミを撫でる。その心中に渦巻く興奮は、まさに真新しい玩具を手に入れた子供のそれだった。

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ6 『軍学校交流戦』 ノーマルエンド

 技能成長:【剣術(直剣)】+20 【拍奪の歩法】+25 【鞭術(ウルミ)】+5
      【回避】+10 

 SAN値回復:通常1d6、或いは戦闘技術に対する自信として妥当な量を回復する

 特記:フィリップ・カーター臨死によりヨグ=ソトースが介入。世界の連続性が消失。正常性が一定値減少
    ヨグ=ソトースが介入するような事案は発生しなかった。特記事項なし。


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冒涜の禁書
135


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ7 『冒涜の禁書』 開始です。

 推奨技能は【クトゥルフ神話】または【オカルト】、【図書館】、【ナビゲート】、【目星】【追跡】【隠れる】のいずれか、各種戦闘系技能です。


 魔術学院・軍学校交流戦から約三カ月。

 たった一週間しかなかった一瞬のイベントより少し長い程度、九日しか無かった冬期休暇を終えた魔術学院生たちは、専門化しつつある勉強に疲れ始めていた。

 

 いつものように、1-Aの教室の窓側最後列の机には、無理解の笑顔を浮かべたフィリップがいる。その両脇には、未だ僅かに恐れを見せて身体を寄せる、ルキアとステラの二人も。畏れの対象は言うまでもなく、教壇に立つ黒髪褐色猫耳美少女教師、ナイ教授だ。

 

 彼女の担当科目は魔術理論基礎。今はその授業中だった。

 

 直感的に、常人で言う走行や跳躍のような感覚で魔術を使う魔術学院生にとって、「魔術とは何か」を体系立て論理的に講義する魔術理論の授業は、逆に難解だ。

 走るときに「いま動いてるのは腓腹筋とヒラメ筋と大腿筋で、特に半腱様筋と半膜様筋が~」なんて考えている者は、そういないだろう。

 

 直感と理論のすれ違いも魔術理論の授業のウケが悪い理由の一つだが、何より、その内容が問題だ。

 現在、現代魔術理論分野に於いて、「これは間違いない」と言える理論は三つほど。あとは「理論無き事実」と「実証無き仮説」だ。

 

 たとえば「魔術は魔術式の演算によって行使される」というテーマ。これは純然たる事実であり、また、魔術式の改編や新規作成などによって実証もされている。魔術式を介さない魔術──文章記述、絵画などのイメージでは魔術を使えないという実験もされた。

 だから、教えるのはこれだけでいい。

 

 では「魔術師にはそれぞれ魔術適性がある」というテーマ。これは事実ではあるが、実証はされていない。なんとなく「そうだよね」と思われているだけだ。

 

 そして、このテーマに関する仮説の数は10個を超える。いや、有名な仮説に埋もれたり、或いは過去に反証されたものも含めるともっと多いだろう。ただ、いま「そうではないか」と言われている、未検証の仮説が10個だ。

 

 「生得的なもの、血統的に決まっているもの」という主流の仮説や、「何を食べて何時間眠るかなど、身体を構成する要素が魔力を変質させる」という次点の説。「生まれる時に神によって決められる」という宗教的なもの。魔術学院では、その全てについて教えられる。

 

 全てだ。

 10個の仮説があるなら10個。100個なら100個だ。当然ながら、それらすべてに「○○の仮説」と名前が付いている。

 

 未だ立証されておらず、しかも有意性が同等程度あるのだ。仕方ない、覚えるしかない。

 例年の魔術学院生の大半は──一部の記憶力に自信のある生徒を除いて──そう諦め交じりに詰め込んできた。

 

 フィリップも、記憶力に難があるわけではない。覚えようとして覚えられないことは無いだろう。

 難があるのは記憶力ではない。

 

 ──知識だ。

 

 「……この話、ジェームズ・フォン・オイラー卿の“血統遺伝的魔力構成要素と魔力中の性質決定因子仮説”が正しいらしいですよ。ナイ神父が言ってました」

 

 フィリップは大体の話に対して、「正解」を知っている。

 それはナイ神父あるいはナイ教授による個人授業の成果だが、授業への集中度を損なうという副作用もあった。

 

 どこを見ているのか判然としない虚ろな目で何となく黒板を見つめ、そこに並んだ幾つもの「まだ立証されていない」仮説の数々の答えを呟くフィリップ。

 ここ最近の授業ではお決まりの光景に、右隣のステラがいつものように苦笑する。

 

 「立証すれば勲章モノだな。小金が欲しくなったら、その方法についても聞いてみるといい」

 「現代魔術体系について詳しくなる必要は無い、らしいです。僕は召喚魔術以外に適性が無いので」

 

 何なら召喚魔術にも適性は無いのだけれど。

 さておき、ナイ神父の言葉通り「地球の魔術体系に」と言わなかった自分を、まずは褒めよう。よく口を滑らせなかった。

 

 「ほう? ナイ神父にしてはマイルドな言い回しだな。“人間如きの”とは言われなかったのか」

 「……まぁ、はい」

 

 虚無の彼方から帰ってきたフィリップがステラとひそひそと話していると、左の脇腹を小突かれる。左隣に座っているルキアに目を遣ると、彼女はちょんと前を指した。

 

 「ナイ教授が見てるわよ」

 「…………」

 

 彼女の言葉通り、正面に向き直るとニコニコ笑顔のナイ教授と目が合う。

 頭頂付近では猫耳がぴこぴこと動き、背中では毛艶のいい黒いしっぽがゆらゆらと揺れていた。

 

 「はーい、おかえりなさいフィリップくん。キミも帰ってきたことですしー、少し期末試験の話をしましょうねー」

 

 学生であれば聞き捨てならない、特に実技分野が壊滅的で、進級を理論分野に頼り切っているフィリップとしては絶対に聞き逃せない情報の予感に、ペンのインクを確認する。

 あからさまな態度の変わりように、ナイ教授はフィリップにだけ分かるような嘲笑を浮かべた。

 

 フィリップが微かに眉根を寄せたことで満足したのか、追撃は無く、話題が移る。

 

 「後期の期末試験は一年生の総復習であると同時にー、二年生への第一歩となりますー。一年生で学んだことはいわば“常識”ですけれどー、二年生はもっと専門的なお勉強をするので、今回の試験はその入り口くらいの難易度にしますねー」

 

 間延びした媚びるような声にも慣れつつあるフィリップは、「具体的に何が出るのか、早く教えてくれ」という視線を向ける。

 ナイ教授は「せっかちさんですねぇ」と笑ってから、望む情報を提示してくれた。

 

 「二年生では錬金術や召喚術、治療術などの選択科目があるのでー、現代魔術との相違点について論述して貰おうと思っていますー」

 

 ナイ教授の言葉に、クラスの殆どが首を傾げる。フィリップもその中の一人だ。

 だって聞く限り、そう難しそうには思えない。強いて言うのなら、フィリップは入学時から召喚術を選択することが決定しているので、他二つはどうでもいいのにな、という面倒くささはあるけれど。

 

 しかし、ごく一部の成績上位常連の生徒は「それはちょっと」と苦し気に顔を歪めている。全く無反応なのはルキアとステラくらいだ。

 

 「それって難しいんですか?」

 「ん? まぁ、相違点の列挙くらいなら教科書を読めば分かるが、“何故”を問われると難しいな。と言うか、これは現代魔術理論の授業なんだから、当然ながら現代魔術の理論に基づいて説明させられるだろう」

 「そうね。そして異なる二つの体系について説明する以上、一方だけを知っている状態では無意味なの。つまり、きちんと得点するためには、それぞれの分野の基本的な理論くらいは知っておかないといけないわ」

 

 なるほど確かに、とフィリップは頷く。

 しかし、手元には現代魔術の教科書しかない。二年次以降の選択科目の教科書は、当然ながら選択決定してからの購入だ。

 

 「じゃあ、放課後は図書館に行かないとですね」

 「そうだな。今日の練習は止めておくか?」

 「いやいや、やりますよ、勿論! あ、いえ、殿下がいいならですけど」

 

 妙な遠慮を見せたフィリップに、ステラは軽く眉根を寄せる。

 その表情にポーズ以上の意味は無く、特に気分を害していないことは、彼女の揶揄うような声色で分かった。

 

 「おっと。錬金術も召喚術も治療術も使えないが、理論の勉強だけはしていたんだ。次期女王を舐めてくれるなよ」

 「おぉ! じゃあ僕とルキアに教えてくださいね!」

 

 「次期女王を舐めるな」なんて、常人が言われたら恐縮して竦み上がってしまうような言葉にも動じず、フィリップは「先生役がいた!」と喜ぶ。

 そんな反応を当然のように受け止めて、ステラは「構わないぞ」と笑った。

 

 そして、そんな私語をナイ教授が見逃すはずもなく。

 

 「フィリップくーん? まだ授業中ですよぉ? 試験までまだ一月くらいありますけどー、気を引き締めてくださいねぇ?」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 放課後。

 ナイ教授からのちょっとした説教を受けたフィリップは、いつものように体育館を借りていた。

 

 流石にいつぞやのように終日貸し切りとは行かず、幾つかのクラブに話を付けて、授業終了から45分だけだ。ちなみに、話は驚くほど簡単に片付いた。

 「いいですか?」「いいですよ」。要約するとこんな感じの、殆ど即決だ。顔も知らないカーター元枢機卿の威光が轟いていて、フィリップとしては非常に複雑な気分だった。

 

 さておき、この45分の殆どは魔術──ではなく、直接戦闘の練習に宛がわれる。

 フィリップの右手に握られているのはショートソードの模擬剣ではなく、マリーからの貰い物。金属の鞭を四つ、同じ柄から伸ばした奇妙な武器、ウルミだ。本物のそれとは違い、彼女に貰ったこれは刃の無い練習用だが、とはいえ、当たるとかなり痛い。

 

 「──ッ!」

 

 『拍奪』を使って相対位置を誤魔化しつつ、鋭く息を吐きながら本気でウルミを振るうフィリップ。

 まだ若干のぎこちなさは残るものの、肩甲骨や腰を使った、全身を鞭の一部に拡張するような動き──マリーの動きを模倣している。

 

 狙う先はステラの首元だ。

 

 人体の急所を狙った攻撃を、フィリップは何の躊躇もなく実行する。

 それはステラへの信頼ゆえだと、自分ではそう思っている。根幹にあるのは、眼前の生命への無関心かもしれないけれど。

 

 彼女は信頼に応え、ショートソードの斬撃なんかより数倍は早い鞭の攻撃を容易く弾く。振り抜いたウルミは魔力障壁に当たって、フィリップの手に微かな衝撃を返すだけだ。

 

 「遅い! もっと身体を使うんだ! ずらしも甘いぞ!」

 

 ずどん、と、フィリップの足元に小さな火球が着弾する。足に微かな振動が伝わるほどの威力は、きちんとフィリップに対する警告になっていた。「当たると痛いぞ」と。

 

 相対位置を誤魔化していたはずなのに、なんて驚きには、ずっと前に慣れてしまった。走り続け、攻撃を続ける。

 縦振り、横振り、横振り。身体を大きく使って、本命の一撃──!?

 

 「痛ったぁ!?」

 

 何をどうミスしたのか、振ったウルミの先端付近がスナップして、フィリップの太腿に命中した。

 

 今までの練習で何回かやらかした経験ではあるものの、刃が無いとはいえ、鞭はそもそも刃が無くても十分に武器になる。より正確に言えば、拷問器具に。肌を裂き、肉を打つ痛みは屈強な騎士でさえ悶絶するほどだとか。

 耐性が付けられないタイプの痛み、という奴らしい。

 

 当然ながら、フィリップは命中箇所を押さえてごろごろと転がる羽目になった。

 

 「大丈夫か? ……もう時間だし、図書館より先に保健室に行こうか」

 「そ、そうします……。あ、大丈夫ですよ、一人で行けます」

 

 肩を貸そうとしてくれたステラに笑いかけて、一人で立ち上がるフィリップ。

 ウルミが命中した太腿の後ろにはぴりぴりと鋭い痛みが残っているし、何なら今までの事故よりクリーンヒットだったのか、痛みが強い。

 

 足はプルプル震えているし、涙目だし、声にもハリが無い。普通に強がりだった。

 

 「ルキアが先に行って、資料を探してくれてるはずなので、そっちに行ってあげてください」

 「……ちょっと歩いてみろ」

 

 ぴょこぴょことウルミの直撃した左足を庇いながら、しかし問題なく歩いて見せたフィリップに満足したのか、ステラは仕方なさそうに頷いた。

 

 「分かった。途中で辛くなったら、手近な人を頼るんだぞ?」

 「……はい」

 

 初めて子供をお使いに送り出す親みたい、という感想は、少し失礼な気がして呑み込んだ。

 

 「くぉぉぉぉ……」

 

 フィリップは奇声を上げて痛みを堪えながら、医務室までの廊下を歩く。

 

 命中部を押さえた手に、じんわりと湿気が伝わってくる。それは徐々に水分量を増していて、出血と、手に付着した赤い液体を見ることなく確信させた。

 

 最悪だ。痛い。これまでしたミスの中で一番痛い。

 しかしまぁ、肋骨にヒビが入った時よりはマシだし、学校医のステファンはその肋骨だってたちどころに治してくれた。こんな切り傷くらい、なんてことないはず。

 

 「ステファン先生! ……あれ?」

 

 必死に辿り着いた医務室の扉を開け放つも、部屋の中に人影は無かった。

 そういえば扉に張り紙があったような気がするぞ、と扉を確認してみると、『講義中 実験棟第3教室』と掲示されていた。

 

 「嘘だろ……勘弁してよ……」

 

 実験棟に行くには、この教室棟を出て中庭を横切るのが最短ルートだ。

 最短ルートと言っても中庭はルキアとステラが魔術を撃ち合える程度には広いし、管弦楽部やらオペラ研究会やら絵画部やら、芝生の上で過ごしたい生徒たちでそれなりに混んでいる。半泣きで通りたい道では無かった。

 

 しかし、フィリップが諦めと共にマザーを呼ぶ前に、救いの手が差し伸べられる。

 それは背後から投げかけられた、優しくも凛とした声だった。

 

 「……おや、お困りかな? 怪我したのかい? 私で良ければ手当てしようか?」

 

 振り返ったフィリップは少し視線を上げ、声の主を確認する。

 

 そこに立っていたのは、肩ほどに伸ばした金髪を揺らす少年だった。

 やや女性的寄りの中性的な、可愛げのある顔立ちながら、青い双眸は確固たる自信と凛々しさに満ちて鋭い。しかし、微笑の形に歪むと、慈愛に満ちた柔和なものに変わる。

 

 女性にしては長身なステラよりまだ頭一つ分は高い身長には、制服のズボンに包まれたすらりと長い脚が大きく貢献している。

 

 「2-Fのレオンハルトだ。ボード先生の弟子でね、治療の腕には期待してくれ給え」

 「は、はぁ、どうも……」

 

 顔に似合ってやや高めの通りのよい声に、芝居がかった立ち振る舞い。演劇に出てくる貴公子然とした所作で握手を求められ、フィリップは思わず握手を返す。

 

 「キミは……あぁ、キミが噂のカーター君だね。聞いているよ、前枢機卿の親族だとか?」

 「それは根も葉もない噂と言うか、真っ赤な嘘、悲しき勘違いですね」

 「うん、キミがそう主張しているという話も聞いているよ。さておき、怪我の手当てをしよう」

 

 レオンハルトに誘導され──まるでダンスのエスコートのような仕草だった──、診察用の椅子に座る。

 左太腿の裏側に当たったので、椅子には尻の右半分くらいしか乗っていない。

 

 「さて、患部を見せてくれるかい?」

 

 消毒薬の瓶とガーゼを用意しながら言われて、少し思考する。

 今履いているズボンは冬用の厚手生地で、太腿が完全に見えるくらい捲り上げるのが難しい。無理ではないかもしれないけれど、傷口付近が圧迫されて泣くことになるかもしれない。

 

 「はい。……よいしょっと」

 

 ベルトを外し、傷口と擦れないように気を付けつつズボンを脱ぐ。

 自分でも命中箇所を見るのは初めてだが、手についた血が示す通り、結構派手に切れて出血していた。

 

 「ここです。……ん? どうしたんですか?」

 

 レオンハルトに視線を向けると、彼は気まずそうな表情を浮かべていた。

 普通に黒い無地のパンツなのだけれど、なんか変だろうか。まさか医者の弟子をしていて、傷を見るのが嫌だというわけではないだろうし。

 

 「あぁ、いや……今は恥ずかしくないのかもしれないけれど、異性の前では下着を見せない方がいいよ」

 

 いきなり常識を説かれ、フィリップは少しむっとする。

 恥ずかしいとか以前に、それは一般的なマナーの範疇だろう。そのくらいは、未だ二次性徴を迎えていないフィリップにも分かる。或いは、人間的な常識に加えて外神の視座を持つフィリップにも。

 

 「あ、はい。一応、ルキアとか殿下の前で着替えないようにはしていますけど」

 「なら……いや、まぁ、いいさ。医者の前で恥じらいを持たない姿勢は、こちらとしても楽でいい」

 

 彼は微かな呆れを滲ませて何やら呟きながら、それでも手際よく処置を終える。

 ほんの数十秒程度で太腿の傷は消毒され、ガーゼを当てられ、包帯を巻かれていた。以前にフィリップが衛士にやったような、拙い応急処置とはまるで別物である。

 

 「ありがとうございました」

 「どういたしまして。少しでもキミの痛みを取り払えたのなら、この上ない喜びだよ」

 

 キザな人だなぁ、と、フィリップは軽く引く。

 握手を交わして立ち去ろうとすると、ちょうど帰ってきたステファンが外から扉を開いた。

 

 「ふぅ、疲れた……。あら、カーター君。こんにちは。今日はどうしたの?」

 「あ、こんにちは、ステファン先生。またウルミで怪我したんですけど、レオンハルト先輩が処置してくれました」

 

 背後で道具を片付けている彼を示して言うと、ステファンは「そうだったの」と安堵と納得を見せる。

 

 「ご苦労さま、フレデリカ」

 「いえ、私は医学的な処置しかしていませんから。先生が帰ってきたことだし、治療魔術をかけて貰うかい?」

 

 ステラの、そしてフィリップの方針として、ある程度は怪我や痛みに慣れておいた方がいいというものがある。流石に動きに支障が出るレベルなら魔術に頼るところだが──実戦で走れなくなったら、その瞬間に剣を捨てて魔術にシフトするから──このくらいなら、いい“慣らし”になるはずだ。

 

 だから、別に、それはいいのだけれど。

 今ちょっと、聞き逃せない会話だったような。

 

 「フレデリカ?」

 「ん? 貴女、自己紹介はしていないの?」

 

 フィリップの呟きに、ステファンが首を傾げる。

 レオンハルトと名乗り、フレデリカと呼ばれた、彼或いは彼女は、「そうだったかな? では改めて」と芝居がかった所作で腰を折る。

 

 「フレデリカ・フォン・レオンハルトだ。レオンハルト侯爵家()()だよ。よろしく、カーター君」

 

 レオンハルトはフレデリカで、彼は、正しくは彼女だった。

 気障で中性的な美少年は、正しくは美少女だった。

 

 

 どう答えたら失礼では無いだろうか。まさか「女性だったんですか!?」なんて、女性に向かって言えるはずもない。

 

 「…………なるほど」

 

 動揺のあまり、普通に名前を名乗り返すという単純な答えを見失い、十秒近くも言葉を探して、フィリップはなんとかそう絞り出した。

 

 

 



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136

 国立魔術学院大図書館といえば、この世に存在するあらゆる書物を写本し蔵書していると言われるほど、蔵書数の多いことで有名だ。

 一般文芸から歴史書、兵法書に錬金術のレシピ本、歌劇の台本から魔術書まで、公的に出版されたあらゆる書物が納められている。

 

 その数は500万冊を超えると言われ、司書や学院長ですら、もはや何が何処にあるのかを正確に把握することは不可能だ。

 

 そんな本棚の森のなか、テーブルとベンチの置かれた読書・学習スペースに、ルキアとステラ、そしてフィリップがいた。

 

 意外にも、日常的に図書館を使っているのは、この三人のなかではフィリップ1人だけだった。

 面白い物語を求めて本棚の森を彷徨う彼の姿は、図書館通いが日課の生徒たちに、よく目撃されている。何なら、その中の何人かはフィリップの嗜好も知っているのではないだろうか。

 

 彼らの前には召喚術関連の書籍や参考書が広がっており、彼らの目的が読書ではなく勉強だと示していた。

 

 「意外だな。お前の召喚術の知識は、どうやら学院のテストくらいなら簡単にパスできるものだ」

 「意外は言い過ぎ……でも、ないかもね」

 

 ステラとルキアが出す問題に完璧に答えて見せたフィリップは、どんなもんだと胸を張る。一応、召喚術についてはナイ神父からレクチャーされているのだ。ナイ神父が教えた「人間に使えるレベルの召喚魔術」は、当然ながら人間レベルの能力を元にした理論に基づいている。

 つまり細部は違えども、基礎の部分はだいたい同じで理解しやすい。

 

 「まぁ、一応は召喚魔術師ってことになってるので!」

 「“一応”な」

 「“一応”ね」

 

 自慢げなフィリップに、クトゥグアとハスターを知るステラ、黒山羊の一件を覚えているルキアが苦い笑いを溢す。

 

 まぁ、フィリップが実際に何を召喚して使役するかなんて、期末試験では関係の無いことだ。

 重要なのは、その理論をある程度は理解していること。現代魔術と比較して論述できることだ。この分なら問題なく、8割以上は取れるだろう。

 

 「じゃあ、次は錬金術についてだが……お前たち、どの程度は知っている? 卑金属から貴金属を作り出す、なんて学問じゃないことは分かっているよな?」

 「そのくらいはね」

 「え? 違うんですか?」

 

 当然だと答えたルキアのすぐ後に、フィリップが小さな驚愕を見せる。

 ステラは「確認してよかった」と笑い、基礎的なレクチャーから始めることにした。

 

 「錬金術の基本的な考えに、四大元素説、というものがある。これは現代魔術にも見られる考えだが、カーター、分かるか?」

 「火、水、土、風の四つですよね」

 

 実技が駄目なので理論分野で単位を取ってきたフィリップだ。この辺りの現代魔術の基礎は、流石に覚えている。

 

 「そう。錬金術に於いて、これらの区分は物質のカテゴライズではなく、本質的同一視、或いは根源同一視になっている。……つまり、この世界には、本質的にはその四つの物質しかない、という説だな」

 「な、なるほど?」

 

 フィリップが頭上に浮かべたクエスチョン・マークに気付いて補足してくれたのはいいが、それでもまだ分からない。

 いやだって、いまこの空間にだって、本の革表紙、紙、羊皮紙、ペン、インク、木製のテーブルとベンチ、エトセトラ。四つなんかでは収まらない数の物がある。

 

 「紙は土と風の元素から成り、インクは水と土、この金属のペンは土、人体は四元素全てを持つ。つまり元素とは、物を形作るモノなんだ」

 「あー……なんとなくは分かりました。人間を腕とか内臓とか血液とかに分解していくと、最終的には四つの元素になるってことですか?」

 「う、ん……概ねその通り、か? 喩えがちょっとアレだが、要は物質を作る最小単位にして、最も根源的な単位が四大元素だな」

 

 うんうんと頷くフィリップ。

 三人の中では明確に知識の少ないフィリップが理解したのなら問題ないだろうと、ステラは話を次に進めようとする。しかし、それにルキアが待ったをかけた。

 

 「待って? その、私は錬金術には詳しくないから、的外れかもしれないのだけれど……」

 

 ここに研究者がいたら思わず息を呑みそうな前置きをして、ルキアが問いかける。

 

 「世界は第五元素──現代魔術で言う、光属性と闇属性から出来たはずよね? なら、四大元素は第五元素から出来ているのではないの?」

 「あぁ、それな。私も前に気になったんだが、宮廷錬金術師の先生が言うには……どうした?」

 

 ぼけーっとステラの説明を聞いていたフィリップは、いきなり尋ねられて面食らう。

 「何がですか?」と訊き返すと、ステラはちょんちょんと口元を示した。何かついているだろうかと手を這わせて漸く、フィリップは自分が笑っていたことを知った。

 

 何のことは無い。

 この世界の起源や在り方について考える、ということが可笑しかったのだ。

 

 その研究をしている全ての学者にとっては、それこそ命を懸けるようなテーマかもしれないけれど──フィリップにとって、智慧持つ者にとっては考えるまでもないことだ。

 

 この世界に起源はない。

 全ては始まりも終わりも、時間の流れすらも無い「外側」でアザトースが見る夢。そしてこの世界の起源、現在、終末はすべてヨグ=ソトースそのもの。

 

 その「正解」は、人間の論理では理解できないものだ。考えるだけ無駄とも言える。

 

 しかし、だ。

 人類が発生してから数万年、哲学者や科学者は、ずっとそれについて考えてきたはずだ。天文学者は宙を見上げ、地質学者は大地を見つめてきたはずだ。

 

 それが今まで、旧神や旧支配者、外神の存在に気付かなかったのか?

 たかだかカルト、劣等種たる人類の中でも正道を外れた殊更な劣等、智慧も浅ければ人間性も劣悪なゴミクズが、その存在に気付くというのに?

 

 「……カーター? 大丈夫か?」

 「フィリップ? 体調が悪いの?」

 

 嘲りの混じる笑みを浮かべていたかと思えば、今度は愕然と、不安感すら滲ませる表情になったフィリップ。

 そんな百面相を見せられたら、ルキアで無くとも「どうしたの」と聞きたくもなるだろう。

 

 「いえ……そういえば錬金術って、ナイ教授の専門分野だったな、と」

 「そういえば、そうだったな……。またえげつない難問が出てきそうだ」

 

 ナイ教授が後学期中間試験で出した最終問題、所謂「挑戦問題」というヤツは、正答率13パーセント。

 つまり全15人のAクラスで、ルキアとステラの二人しか正解しなかったほどの難題だった。その後からだろうか、「ナイ教授は俺たちにこんなに期待してくれているんだ!」と、クラスメイト達が勉強に熱を上げ始めたのは。

 

 そんな記憶があったから、二人は苦い笑いを溢して誤魔化されてくれた。

 

 「ですよね。僕、ちょっと錬金術の本とか探してみます」

 「いいんじゃないか。まぁ、明日からだが」

 

 ステラの言葉に応じるように、夕食時を示す鐘の音が響いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 翌日、王宮に用があるというルキアとステラとは別行動で、フィリップは一人図書館に来ていた。

 それ自体は珍しくもないことだが、いまフィリップがいるのは冒険譚の区画ではなく、学術書の棚だった。背表紙のタイトルを見るだけで頭がくらくらするような、難解な本に囲まれている。

 

 いつもと違う行動を取ったことが切っ掛けなのか、フィリップは珍しい相手と遭遇することになった。

 

 「おや、昨日ぶりだね、カーター君。足は大丈夫かい?」

 「レオンハルト先輩? はい、お陰様で」

 

 よく通る声を、場所に合わせた小声に絞って話しかけてきたのは、昨日フィリップの手当てをしてくれたフレデリカだ。

 相変わらずのパンツスタイルで貴公子然とした立ち振る舞いで、本当に、とんでもない美少年と間違えそうになる。

 

 「精神病理学に興味があるのかい? 年に見合わず、というのは失礼かな」

 「え? いえ、いまは錬金術の本を探しているんですけど」

 

 テスト対策で、と説明するフィリップの話を相槌を打ちながら聞いて、フレデリカは「あははは」と明朗に笑った。

 

 「それなら、一つ前の棚までが錬金術関連の本だよ。お偉い先生方の書いた本は、確かにどれも難解なタイトルだ。迷ってしまう気持ちは分かるけれどね」

 「あ、そうなんですか。ありがとうございます」

 「うん。勉強、頑張って」

 

 ──と、そんな会話をした次の日。

 借りていた冒険譚を返して、また新しい本を借りようと本棚を漁っていたフィリップは、児童文学の書棚を真剣に検分するフレデリカを見つけた。

 

 長身を屈めた窮屈そうな姿勢で、しかし真剣な眼差しで背表紙に指を這わせ、一冊の本を取り出す。

 彼女が選んだのは、フィリップの愛読書である竜騎士の話だった。

 

 思わず「あ」と漏れた声に、フレデリカは耳聡く気付いた。

 

 「ん? おや、カーター君。よく会うね。もしかして、これを読もうとしていたのかい?」

 「いえ、大丈夫ですよ。でも、僕が何回も読んだ、好きな本だったので」

 

 その日はその本について少し話して、すぐに別れた。

 

 ──また次の日。

 勉強に使った本を三人で分担して片付けていると、フレデリカに遭遇した。

 

 彼女はフィリップに気付くといつものように快活に挨拶をして、フィリップの持っていた本に目を留めた。

 

 「その本、もう読み終わったんだよね? 貸して貰えるかい?」

 「勿論構いませんけど、これ、だいぶ簡単なヤツですよ?」

 

 知識ゼロのフィリップに対する入門用として、司書の先生が選んでくれた本だ。字が大きく情報も大雑把で、ステラに言わせれば専門性はゼロらしい。

 そんな本でも階段の一段目として有用で、フィリップは基礎的な単語などを覚えられたので、何も文句は無いが。

 

 「先輩、二年生でしたよね。選択科目は何を?」

 「錬金術だけれど……内容より、その本自体が目的なんだ」

 

 本を手渡すと、彼女は言葉通り内容に目を通していないような速度でページをめくる。

 より正確には、既に目的のページを定めて、そのページを探しているだけのようだ。

 

 フレデリカは目的のページを見つけると、ポケットからメモとペンを取り出す。

 本を片手で持ったままでは書き辛そうだったので、フィリップは本を彼女に見えやすいように持ってあげた。

 

 「ありがとう、助かるよ。……よし、と。これはもう仕舞っていいのかな?」

 「はい、お願いします。……あの、何やってるんですか? 昨日も一昨日も会いましたけど」

 

 それ以前に、彼女を見かけたことはない。

 ないはず、とぼかすには、彼女の容姿は印象的に過ぎる。流石にルキアやステラほどの、人類最高峰の美貌ではないけれど、一度でも会えば忘れない。

 

 「あぁ、えっと……ふむ」

 

 フレデリカは少し考えると、ズボンのポケットから一通の封筒を取り出した。

 ……人のファッションスタイルにケチを付けるわけではないけれど、彼女はスカートを履かないのだろうか。流石にそれなら、男性と間違うこともないのに。

 

 「先日、祖父から手紙が届いたんだ。内容は──この通り、意味不明だったのだけれどね」

 「……うわ、なんですかこれ」

 

 手紙には、良く分からない数字が羅列されていた。

 

 「“102,ps-211,436,1”……? なんですか、これ?」

 「そこまでで一つの区切りだよ。二つ目は“203,alc-1551,243,86”となる。全部で4つだ」

 

 数字に一応の規則性はあるようだけれど、肝心の意味が分からない。

 フィリップは軽く首を傾げ──周りを囲む数々の本、その背表紙に貼られたラベルに目を留めた。

 

 魔術学院図書館では、蔵書の背表紙に管理番号のラベルが貼られる。

 そうすることで、貸し出しや整理の時にわざわざタイトルを用いる必要が無くなるからだ。管理番号はカテゴリ名-書籍番号となり、複数の同じ蔵書がある場合は、その後に通し番号が付く。

 

 いまは錬金術関連の書棚にいるから、周りの本には「alc」のカテゴリ名が振られている。

 

 「本とページ……ですか? その前の数字は書棚番号? 最後のは……何番目の文字か、ですか?」

 「あぁ、少し……いや、私もそう思って、ここに来てみたのだけれど……正直、外れのような気がしているよ」

 

 フレデリカが「少し単純だけれど」と言おうとして止めたのは、自分と同じ意見をフィリップも述べたからだろう。

 

 彼女はフィリップに、先ほど書いていたメモを見せる。

 そこにはまた、数字だけが記されていた。

 

 “2-13-4-3”

 

 今度は、少なくとも本の名前とページではなさそうだ。というか、暗号を解いたらまた暗号とは、何とも厳重なことだ。

 

 「あの……お爺さんって、何者なんですか?」

 

 フィリップも祖父母とはたまに手紙を交わすけれど、こんな暗号文が届いたことは無い。というか、大概の家庭では無いだろう。

 そもそも暗号を使うということは、誰にも盗み見られてはいけない強い理由があるはずだ。そう、たとえば、彼女の祖父は王家の秘密を知ってしまい、国の雇った暗殺者に追われている……とか。流石に小説の読み過ぎだろうか。

 

 「考古学者だよ。昔、よくこんな風に宝探しごっこをして遊んだんだ。昔の日記でも見つけて、懐かしくなったんじゃないかな」

 「あはは、なるほど。楽しそうですね」

 

 宝探しごっこなら、フィリップにも幼少期の記憶がある。

 川で拾ってきた綺麗な石とか、森で見つけた蛇の抜け殻とか、珍しいものを隠して探す遊びだ。……本職の狩人である父の隠匿能力が高すぎて、オーガストと二人がかりでも全然見つけられなかったのだけれど。

 

 自分の記憶と照らして笑ったフィリップに、フレデリカは「そうでもないんだ」と首を振る。

 

 「私の探しているものは、古い宝石や金貨というわけではないんだ」

 

 フレデリカはフィリップを脅すように、いや、事実脅そうとして低く作った声で言う。

 彼女は極めつけに、封筒からもう一枚の手紙を取り出して見せた。

 

 そこにはたった一言の走り書きがある。

 

 

 ──探せ。神を冒涜する書物を。

 

 

 

 



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137

 神を冒涜する書物。

 善良な一般市民にとっても、そしてその範疇には微妙に収まらないフィリップにとっても、それなり以上に不穏な単語だった。

 

 普通の人間であれば、神を冒涜するなんて畏れ多い、罰当たりだ、教会にバレたら破門される。そんな恐怖から、フレデリカとは距離を置こうとするだろう。或いは、手近な教会に密告するかもしれない。

 

 だがフィリップは逆だ。神を冒涜する書物──人類圏外産の魔導書にしか思えないそれを探すために、探して焼くために、フレデリカに近付かなくてはならない。

 

 「まぁ、これも何かの暗号なのだろうけれどね。昔は宝石と称した新しい髪飾りや、虹の刃と称したガラスのペーパーナイフなんかが“宝物”だったよ」 

 「……なんか面白そうですね! 僕も一緒にやっていいですか?」

 

 なるべく馬鹿っぽく、何も考えず面白そうなアトラクションに飛びつく子供の言葉に聞こえるように、フィリップは言う。

 フレデリカの言葉通りなら、それでいい。だがもしも違ったら、その時は。

 

 「おや、“冒涜”が怖くないのかい? 言葉の意味が意味が分からない、というわけでは無いだろう?」

 「神官様に怒られるのはイヤですけど……バレなきゃ大丈夫ですよ!」

 

 揶揄うフレデリカに対して、フィリップは楽観的に笑う。今度は本心から言っていたし、何ならバレた所でナイ神父かマザーか、或いはルキアやステラに助けを求めればいいだけの話。まあ最悪の場合は、ハスターかクトゥグアに頼ることになるが。

 

 「あはは、私と同じ考えだね。うーん……まぁ、こういうのは頭の数が大事だし、お願いしようかな」

 「あ、じゃあ……いや、なんでもないです」

 

 じゃあルキアとステラも誘っていいですか、と。自分の何倍も頭のいい相手を頼ろうとして、止める。

 

 確かに暗号解読に於いて、というか、頭の回転ならあの二人は校内トップクラスどころか世界屈指だろうけれど、暗号の解読はただの過程だ。それ自体が目的ではない。

 いまの目的は、「神を冒涜する書物」。推定、人類圏外産の魔導書である。

 

 ルキアにも、ステラにも、見せたいものではない。二人にはもうこれ以上、何も知らずに生きていて欲しいから。

 

 「できればもうあと二、三人、信用できる協力者が欲しいところだけれど……口の数は、少ない方がいいか。「冒涜」は流石に不穏だ」

 「そ、そうですね! 二人で頑張りましょう!」

 

 危うい方向に流れかけたが、なんとかなった。

 となると、次は。

 

 「じゃあ早速だけど、この「2-13-4-3」、或いは「21,343」という数字だけど、どう思う?」

 「……安直に考えるなら、その2万……幾つでしたっけ。ちょっとメモしていいですか。……どうも。その2万1343冊目の本、とかじゃないですか?」

 

 自分で言っておいてなんだが、仮にそうだとしたらほぼ詰んでいる。

 この魔術学院大図書館は、王宮図書館に次いで古く、また蔵書数が多い。その数は500万冊を超えるというが、中には1000年以上前の本、博物館に静置されておくべきような本まであるのだ。2万冊目となると、相応に古い。

 

 一年で一万冊を納入すると考えて、およそ490年前の本か?

 

 「最近納入された本はリストになって掲示されますけど、昔の本は……」

 「学院は記録を残しているだろうけれど、見せてくれるかな? 一応、訊いてみるかい?」

 

 それも一つの手ではあるが、そもそも、彼女のお爺さんだって400歳超えってことは無いだろう。60歳から70歳が精々か。彼も魔術学院生だったのだとしても、それも数十年前程度の話。どの本が何冊目に納入されたかなんて覚えているのか?

 ……いや、一つ目の暗号は管理番号を使ったものだった。驚異的な記憶力があるのは間違いない。

 

 「そうですね。司書先生に聞いてみましょう」

 「そうだね。行こう」

 

 フレデリカはフィリップの腰に手を添え、もう片方の手で先を示す。

 フィリップがドレスで着飾った女性なら、そのまま舞台に上がっても客席を沸かせられるだろう。それほどに流麗な所作であり、彼女の貴公子然とした容姿を際立たせていた。

 

 なんだろう、この感覚。

 恋に落ちるとか、そういう感じではない。……と、思う。容姿だけで好きになるなら、とうにルキアとステラに惚れているだろう。それに、マザーの人外の美貌を知った後では、人間の範疇、それもルキアたちのような人類最高には届かない容姿に心揺れることはない。

 

 恋とか愛とか、そういう感情ではなく。もっと、こう──()()()()()()()()と言うか。

 

 ドキドキするし、かっこいいと思うし、憧れもする。

 でもそこ止まりだ。依然としてその存在に価値を感じないままだし、心の奥底には冷笑や嘲笑が渦巻いたままだ。彼女を殺すかルキアを殺すかと言われたら、フレデリカを殺すことに躊躇いは無い。

 

 早鐘を打つ心臓を怪訝に思いながら、彼女のエスコートに身を任せること十数秒。

 本棚の森が絢爛なダンスホールに見え始める前に、行く手を遮る人影が現れる。

 

 「フィリップ、何してるの? 早く夕食に行きましょう?」

 「これは、サークリス聖下」

 

 怪訝そうな表情を浮かべたルキアが、通路でフィリップを待っていた。

 彼女の誰何するような視線を受けて、フレデリカが一歩前に出る。

 

 「お会いできて光栄です。お美しい貴女を、いつも遠目に拝しておりました」

 

 右手を胸に当て上体を45度傾ける綺麗な立礼を受け、ルキアが軽くスカートに触れて一礼を返した。あの傍若無人を地で行くような、「フィリップとステラ以外はどうでもいいわ」と全身で語っているルキアが、だ。

 

 フレデリカは流れるような所作でルキアの足元に跪き、彼女が差し伸べた手に口づけようとして。

 

 「……ちょっと?」

 「はい? ……あぁ、申し訳ありません。私ではなく彼に御用でしたね」

 

 その寸前で止められた。

 さっと立ち上がって道を空けるフレデリカに、ルキアはどこか感心したような目を向ける。

 

 フレデリカが挨拶をしてからのルキアの動きは、完全に癖だった。

 簡易ながら立礼を返し、手の甲へのキスを許す。同格である公爵位から一つ下である侯爵位までの相手への対応として正解だったが、ここは魔術学院。身分階級は効力を失うという建前があるし、そもそも、ルキアはそんな動きをするつもりは無かった。有象無象は無視するのがいつもの彼女だ。

 

 公爵家次女として教え込まれて染みついた、普段は表に出さない礼儀作法が思わず表出するほどの()()()

 ルキアが一瞬だけでも「ここはダンスホールか、はたまたパーティー会場か」と誤認するレベルの()()()

 

 フレデリカ・フォン・レオンハルト──凄まじかった。

 

 ルキアの目がもう少し悪ければ、彼女は少し感心して、それで話は終わっていた。

 だが生憎と、彼女の目もステラと同じく、物理次元だけを見るものではない。

 

 「……貴女」

 

 言葉を切ったルキアが何を言おうとしたのか、フィリップには分かる。

 「貴女、女の子なの?」だろう。魔力は単なる視界より、多くの情報を与えてくれる。

 

 「カーター君、司書先生には私から聞いておくから、また明日話そう。おやすみ」

 「あ、はい。おやすみなさい、レオンハルト先輩」

 

 フレデリカに促され、ルキアの傍へ駆け寄る。

 これ以上ここにいると、話題は確実に「知り合いなのか」から「何をしていたのか」にシフトする。それはルキアを巻き込みたくないフィリップにとっても、これ以上()()()を増やしたくないフレデリカにとっても、望ましい展開ではなかった。

 

 ルキアが口先で適当に誤魔化せる相手かどうかは、仲のいいフィリップも、貴族であるフレデリカもよく分かる。

 いや、「フィリップが言うのなら」と誤魔化されてくれる可能性はあるけれど──根が善良なフィリップの、失くしたくない良心が痛む。

 

 「行きましょう、ルキア。殿下も待ってるでしょうし」

 

 フレデリカを真似てエスコートしてみるも、ルキアの方が身長が高くて様にならなかった。

 

 まあ何となく、思い付きでやっただけだし。そんな言い訳を心中で呟くも虚しい。

 

 いつも通りに手を繋いで歩きながら、頭一つ分は高いところにあるルキアの顔をこっそりと仰ぐ。

 もうあと20、いや30センチほど伸びたら、少しはマシな絵になるはずだ。

 

 



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138

 翌日の昼休み。

 フィリップは普段、午後の授業が始まるまで、ルキアとステラと一緒に中庭の芝生に座って駄弁るか、ルキアの膝を借りて昼寝をするかという贅沢な昼休みを過ごす。

 

 しかし、今日は特別だった。

 フィリップは早々に昼食を終えると、用事があると言って教室棟へ戻り、二年生の教室へ向かう。

 

 道中で幾人もの上級生とすれ違うが、そもそも特例入学──と言うと聞こえが良すぎるか。実態は拘留措置なのだし──であり、規定年齢を4年も満たしていないフィリップは同級生でさえ年上だ。今更畏縮することはない。

 むしろ、フィリップの()()を知る生徒たちの方が萎縮して、道を空けるほどだ。

 

 「すみません、レオンハルト先輩! ちょっといいですか!」

 

 喧騒に満ちた2-Fの教室の入り口で声を張り上げると、友人と談笑していたフレデリカがこちらに気付く。

 友達に一言断る様子も、こちらに歩いてくる姿も、舞台演劇のように洗練されていた。彼女の周りにキラキラした花の幻まで見える。

 

 「こんにちは、カーター君。訪ねて来てくれて嬉しいよ。授業まであと二十分くらいはあるし、座って話すかい?」

 「あー……いえ、昨日のことを聞きに来ただけなので。司書先生にお爺さんのことを聞いたんですよね?」

 

 フレデリカは半身を切って教室の中を示すが、中からは「何だアイツ」と言いたげな視線が飛んできている。視線の主には近くの生徒が耳打ちして、すぐに「あれが例の!」と言わんばかりに瞠目するので、あまり入りたい空間では無かった。

 

 苦笑と共に断ったフィリップに「そうかい?」と首を傾げ、しかしそれ以上言葉を重ねることはなく、フレデリカも廊下に出る。

 

 「放課後に会いに行こうと思っていたから、ちょうど良かったよ。祖父は先月、学院生時代に師事していた学院長を頼り、図書館の利用許可を得ていたらしい。それから司書先生だけど、今日の放課後までに記録を探しておいてくれるそうだよ」

 「良かった。進展しそうですね」

 「あぁ、そうだね。放課後に、一緒に聞きに行こうか」

 

 本当に良かった。「教えられないことになってるんです」とか言われなくて。

 “神を冒涜する書物”が真実、人類圏外産の魔導書であるという確証は、まだない。その状態で司書の眉間に魔術照準を向け、「いいから見せろ」と脅すような真似はしたくなかった。

 

 「はい。……あ、あと、一つ目の暗号に使われた本のタイトルって分かりますか? これも何かのヒントになってるかもしれません」

 「あぁ、一応メモは取ってあるけれど……はい、これだよ」

 

 フレデリカが見せてくれたメモを自分の手帳に書き写し、じっくりと眺める。

一冊目は精神病理学の本、タイトルは「歩様と姿勢による興奮の操作」。二冊目は錬金術の本、タイトルは「薔薇医学会とエリクサー」。三冊目は児童書、タイトルは「異形の竜と放浪騎士」。四冊目は医学の本、タイトルは「死体の反応」。

 

 ……何の共通点も見当たらない。考え過ぎだろうか。

 

 「……ありがとうございました。放課後まで、ちょっと考えてみます」

 「おや、もう行ってしまうのかい? それは、放課後が待ち遠しくなるね」

 

 壁に肩を預けながら、いたずらっぽく笑うフレデリカ。

 女臭さを感じさせないというか、むしろそこいらの男が平伏するほど()()()()()仕草に、廊下のそこかしこから男女の呻き声が上がった。ちなみに、フィリップもその中の一人である。

 

 なんだろう、新感覚だ。

 正直、顔立ちだけならルキアやステラの方が綺麗だし、彼女たちですらマザーには負ける。フィリップの中で最も美しい女性はマザーだったし、彼女を知る者は全員が異口同音にそう言うだろう。

 

 マザーに抱き締められると色んな意味でドキドキするし、母神としての性質からか、どこか懐かしさのある温かい安心感を覚える。ついでに言うと、外神シュブ=ニグラスに対する忌避感や嫌悪感も同時に感じるので、あれも中々に名状し難い感覚だが。

 

 さておき、フィリップは別に美人に慣れていないわけではない。いや、何なら慣れているどころか、その美しさが人間の範疇であるなら無反応ですらある。

 そんなフィリップが心動かされるというのは、中々に珍しく、興味深いことだった。

 

 「先輩の話し方とか振る舞いとか、舞台はい……女優さんみたいでカッコいいですよね」

 「褒めてくれている、のだよね? ありがとう、嬉しいよ」

 

 快活に笑うフレデリカだが、照れたような気配はない。この程度の賛辞は受け慣れているということだろう。

 

 「じゃあ、僕はそろそろ教室に戻りますね。また放課後に、図書館で」

 「あぁ、また後でね」

 

 軽く手を振ってフィリップと別れたフレデリカが教室に戻ると、先ほどまで話していたクラスメイト達がわらわらと寄ってくる。

 

 「さっきの子、例の教皇庁の? あんなに気安く話して大丈夫なの、フレデリカ?」

 「あぁ、勿論。彼本人は、丁寧ながら気さくでいい人だったよ」

 「へぇ、そうなんだ? 何の話してたの?」

 「うん? そうだね……内緒の話かな」

 

 質問した女子生徒の耳元に顔を寄せ、囁いて答えるフレデリカ。

 女子生徒はうっと胸を押さえて蹲り、()()()()()()()黄色い悲鳴がクラス内のそこかしこから上がった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 1-Aの教室に帰ってきたフィリップは、いつもの席で談笑していたルキアとステラのところに戻る。

 隣同士に座っていた二人はフィリップに気付くと、身体をずらして真ん中を空けてくれた。

 

 「おかえり、フィリップ。次の授業、魔術理論基礎に変更らしいわよ」

 「さ──そうですか。ありがとうございます」

 

 フィリップが「最悪だ」と言おうとしたことに気付いた二人は、同調混じりの苦い笑いを浮かべる。最近の魔術理論基礎はフィリップにとって難解になりつつあるし、何より担当教諭がナイ教授だ。フィリップの中では神学と歴史──1-A内通称、広域睡眠魔術──の二つに次いで嫌いな科目だった。

 

 「何処に行ってたんだ? 図書館か?」

 「いえ。ちょっと二年生の先輩と話すことがあって」

 

 あまり“神を冒涜する書物”については触れたくないフィリップが端的に答えると、ステラは何故か眉根を寄せた。

 不思議な反応の理由に心当たりのないフィリップが質問する前に、逆にステラが質問するという形で答えを教えてくれる。

 

 「またトラブルか? まだ殺してないだろうな? 何組の、なんていう奴だ? 揉めた理由は?」

 「いや、あの、トラブルは起こしてないです……」

 

 むしろトラブルを未然に防ごうとしているのだけれど、この言われようは何なのか。

 思い当たる節が山ほどあるので、フィリップとしては何も反論が無い。

 

 「……そうか。疑って悪かったよ、カーター」

 

 フィリップの言葉に嘘が無いことは分かったのか、ステラが肩を竦めて軽く詫びる。

 彼女の疑いに一定以上の正当性が認められることは、ルキアの苦笑が証明していた。

 

 「いえ。……殿下、お詫びだと思って何も聞かずに教えて欲しいんですけど、この本、読んだことありますか?」

 

 殆どノータイムで罪悪感に付け込むような──ステラの疑いは誰にとっても、勿論ステラ本人にとっても正当なものだったので、そこまでの罪悪感は無いが──ことを言い出したフィリップ。罪悪感を覚えるべきはむしろ彼の方ではなかろうか。

 

 日常生活ならいざ知らず、フィリップの中でこれは邪神案件、フィリップの暮らす人類社会に甚大な影響を及ぼす可能性のある問題だ。

 あまり悠長なことは言っていられない。もしも人類圏外産の魔導書がカルトの手に渡ったりしたら、その時は──いや、これは意味の無い仮定か。カルトはカルトであるというだけで焼却する理由になる。魔導書を持っているかどうかなんて関係なかった。

 

 「この四つか? ……どれも無いな」

 「私にも見せて? ……「異形の竜と放浪騎士」は読んだけれど、他は無いわね。これは何のリストなの?」

 

 フィリップが机に広げた手帳を左右から覗き込んで、二人が答える。

 「何も訊くな」と言われたのはステラだけだったからか、或いはこのくらいの質問なら問題ないと判断したのか、フィリップの目を見て問いかけるルキア。

 

 さて、どこまで話したものか。まさか“神を冒涜する書物”を探しています、なんて馬鹿正直に言えるはずもない。──いや、言いたくない。

 二人にはこれ以上、こちら側に──人道の外に、踏み出して欲しくない。百害あって一利なしという言葉ですら不足するような逸脱をするのは、フィリップ一人で十分だ。

 

 「今ちょっと、宝探しをしてて」

 「宝探し?」

 

 かくかくしかじかと、フィリップはフレデリカのことも含めて概要を話す。勿論“神を冒涜する書物”のことは伏せて、要約すると概ね「知り合いの先輩がお爺さんと遊んでいるので、それに混ぜて貰っている」といった感じに。

 

 「なるほど。……それと、この本に何の関係があるんだ?」

 「本の何処かに、隠し場所に繋がる秘密の暗号があるとか?」

 

 ステラが首を傾げ、ルキアが正解を言い当てる。その差は恐らく、子供向けの冒険譚を読んだことがあるかどうかだ。

 公爵家に連なるとはいえ次女であり、家督相続権の弱いルキアは、次期女王としての教育や公務で忙しいステラに比べて余暇が多い。……はずだ。普通は魔術学院に通って、放課後にはフィリップやルキアと遊んで、休日にはたまにお出掛けしたりしていて、完全に普通の学生のような過ごし方をする余裕なんてないはずなのだが。ちょっと有能過ぎて怖い。

 

 さておき、嗜好として冒険譚を読むフィリップと、彼に勧められて読んでみたことのあるルキアは、その記憶を頼りにある程度の推測が出来る。逆に、フィリップが「きっと忙しいよね」と児童書を勧めたことの無いステラは、冒険譚における典型例を知らない。

 

 「はい。ページと文字数の指定があって、この数字が出てくるんですけど、これの意味が分からなくて」

 「数字を抜いてカウントするとか、単語数でカウントするとかは試したの?」

 

 ルキアの指摘に「なるほど」と指を弾くフィリップ。確かに、この2,13,4,3という意味の分からない数字の羅列よりは、四つの単語で一文を作る方が意味を持たせやすい。

 手帳の隅にメモを取るフィリップと、他の可能性を検討するルキアに、ステラが「手慣れてるな、お前たち……」と苦笑する。

 

 「暗号、か。……私は暗号解読におけるセオリーを全く知らないんだが──」

 

 核心を突いてきそうな人が、核心を突いてきそうなことを言い出すと、期待と不安が同時に湧き上がる。その人の能力をよく知っていれば、尚更だ。

 

 いまタイトルを見たばかりの本で、内容を知らないはずのステラがそんな前置きを口にして、フィリップも思わず「まさか」と固唾を呑んだ。

 

 「グリッド座標じゃないのか? 本のタイトルの冠詞を抜いた頭文字からの安直な連想だし、グリッド座標にしては一字多いが、前に演劇で見た物語では、宝探しには地図が──どうした?」

 

 「なるほど」と頷いているルキアではなく、呆然とステラを見つめるフィリップに、彼女の怪訝そうな視線が返される。

 「どうした」と訊きたいのはフィリップの方だが、それよりもまず。

 

 「グリッド座標って何ですか……?」

 

 その耳慣れない単語についての疑問を解決した方がよさそうだ。

 

 

 



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139

 およそ300年か、400年くらい前の話だ。

 

 今も用いられる○○から西へ何キロ、という相対的な位置把握では、正確性や認識の速度に問題があるとされ、かつて王国全土地図を1キロ四方の方眼(グリッド)で区画し、絶対性のある座標を用いようという計画があった。

 それが、グリッド座標だ。

 

 しかし、計画そのものの有用性は当時の王や文官も認めるところではあったものの、測量技術的に方眼紙レベルで精密な地図など書けるはずもないし、何より当時は王国・帝国・聖王国の三国による領土戦争の真っ最中。昨日は王国領だったところが、今日には帝国領に変わり、明日には聖王国領になっているような時代だった。

 

 戦争では地属性の聖痕者が山脈を生み出し、砂漠を作る。水属性の聖痕者が川を生み、湖を作る。風属性の聖痕者は都市を風化させ、火と光は焼き払う。

 

 端的に言って、地図がさほど重要ではなくなるレベルの戦争だった。

 

 それから幾らかの月日が流れ、平和になり、王国は王都を築いて技術の隔離と独占を始めた。その性質上、王都は一定以上に拡大しない。

 ここでなら使えるのではないか、と、王都内を800メートル四方のグリッドに区画し、絶対性のある座標を用いようという計画がなされた。同心円状に一等地、二等地、三等地の区画を持つ半径10キロの巨大円形都市を、さらに25×25の方眼で区画するのだ。

 

 ……そして、なんとなく「町の整備に使えるんじゃね?」くらいの、ふんわりした意図で進められていた計画は、当時の王の小さな疑問によって終結した。

 

 王、曰く。「この数字による座標の制定は、何の意味があるのだ?」

 

 王に、その計画を止めようという意図はなかった。

 王に、その計画を進めようという意図はなかった。

 

 ただ、王は心中の疑問を呈しただけだ。これは何に使うのだろうと。

 

 一人の文官が答えた。

 「王よ。荷物や手紙を届ける手助けになります」と。

 

 王は首を傾げた。

 手紙や荷物はお互いの居所が分かっている相手に預けるのが普通だし、稀に運送業者を頼ることがあっても、彼らは「どこに何があって誰がいるのか」という情報を商売道具の一つにしている。グリッド座標を制定して周知して、「これは助かるぞ!」と民が喜ぶ姿が、どうにも想像できなかった。むしろ、今の王のように「なにこれ」と首を傾げるのではないだろうか。

 

 また一人の文官が答えた。

 「王よ。どの座標に誰が住んでいるのかという情報、仮に“住所”としましょう。その“住所”を以て、民を管理することができます」と。

 

 王は首を傾げた。

 王国の民は臣民管理局によって、ほぼ全員が出生時に登記されている。これは王都外の人間も例外ではない。

 そして王国が最優先して管理すべき王都の民、魔術的素養が高くなる傾向にある彼らは、特に厳重に管理されている。成長や老化で変質することの無い魔力を計測して記録している以上、本人確認と管理という意味ではこれ以上の精度は無いだろう。

 

 一人の文官が答えた。

 「王よ。その意味を確かめるために、まずは実験的導入をされては如何か」と。

 

 王は頷いた。

 

 

 ステラが読んだ百年以上前の謁見記録は、ここで終わっている。

 これ以降の執政記録にグリッド座標計画の話題が挙がらず、そして現代に於いてグリッド座標が定着していないということは、つまり、そういうことである。

 

 「まぁ、あれだな。よくある「微妙だった政策」という奴だよ。当時の資料や試作地図なんかは、図書館にあるんじゃないか?」

 「なるほど。……じゃあこの「2,13,4,3」っていう座標を探せばいいんですね」

 

 フィリップの出した答えが100点中50点くらいのものだったからか、ステラはどこか呆れたような笑いを溢す。

 

 「いいや、グリッドは25かける25だと言っただろう? グリッド座標は二組の数字なんだ。頭の2は二等地を示すものだとしても、最後の3は余計だ。おそらく、私の推理は間違いだろう」

 「そうですか? すごくそれっぽい推理ですけど……放課後にレオンハルト先輩に話してみるくらいは、してもいいですか?」

 

 ステラは宝探しには左程の興味が無いのか、「好きにしろ」と適当に手を振る。

 しかし、フィリップの出した名前に心当たりがあり、動きを止めた。

 

 「待て、レオンハルトと言ったか? もしかして、フレデリカ・フォン・レオンハルトか?」

 「あ、はい。もしかして、殿下のお知り合いですか?」

 

 何と言うか、少し意外だ。

 ルキアがステラ以外の人間に興味や関心を向けないように、ステラもまたそうだと思っていたから。

 

 「殿下、ルキア以外にも興味があったんですね。意外です」

 「そういうお前は私に対する興味が薄いな? お前やルキアと違って、人脈は広いぞ?」

 

 揶揄うような笑みを浮かべたステラに、フィリップは「あはは、すみません」と笑いながら謝る。

 だが冗談交じりだったとはいえ、意外なのは本当だ。ステラが人脈を作っておくだけの価値を見出しているのか、或いは気にしていなくても耳に入るほどの有名人なのか。

 

 フレデリカはまるで舞台俳優、いや女優のような人だ。有名になっていても不思議は無い。むしろ、あのレベルで存在感のある人を今の今まで、もう一年ほども見落としていたフィリップがおかしいのではないだろうか。魔術学院の生徒数は相当なものだと、言い訳しておこう。

 

 「……まぁいい。フレデリカ・フォン・レオンハルトは錬金術分野における最年少博士号取得者だ。ついでに言うと、医学分野では歴代二位。国内の全分野総合でも歴代五位だか六位だかの、所謂天才という奴だよ」

 「あら、貴女がそう評するということは、相当ね」

 

 他人の話題はどうでもよさそうにメモを見ていたルキアが、ステラの言葉につられて顔を上げる。

 フィリップが知る中で、ステラが「天才」と評するのは彼女だけだった。つまり、ルキアと同等の才能──魔術の才では及ばずとも、錬金術に於いては世界最高峰の才能を持っているということだろうか。

 

 「そうだな。肩書に見合った──いや、能力に見合った肩書を持つ学者だよ。先日、レオンハルトがある錬金術製道具の試作機と設計図を、お父様に献上した。何のだと思う?」

 

 去年はまだ地元に居たフィリップは首を傾げ、王都に居た筈のルキアも首を傾げる。彼女は完全に、興味の無い対象には時間を費やさないタイプだ。

 二人が正解を知らないことを確認して、ステラは先を続ける。演出の為に妙な間を空けないところは、彼女の美点だろう。

 

 「魔力隔離装置だよ。古龍の心臓を使った逸品で……王城の宝物庫にあった、一個しか無かったサンプルを使った、失敗作ならその首を刎ねるような代物でな……」

 

 ステラは思い出すだけで頭が痛いというように眉間を押さえる。

 

 「あの馬鹿、「研究に使うので」とサンプルの持ち出しを申請してきたから許可してやれば、三日後には「出来ました」と頭くらいの大きさの機械を持って来たんだぞ? しかも二言目には「これから本番なのでもう一個下さい」と来た」

 「えぇ……?」

 

 古龍の心臓、という言葉は、フィリップが珍しく知っているものの一つだ。

 冒険譚の中でも超のつく希少品として扱われるそれは、死してなお拍動し無限の魔力を生み出す素材であり、500歳以上1000歳以下の古龍と呼ばれるドラゴンからしか採取できない。

 

 ちなみに、帝国が実験的導入を開始しているドラゴン()()()騎乗生物、飛竜(ワイバーン)とドラゴンは全くの別物だ。

 

 ワイバーンは肉の身体を持ち、老化し、死ねば骸を晒す生き物。

 

 対して、ドラゴンは魔力で構成された肉体を持ち、老化はせず、しかし成長はする不思議な魔物だ。その寿命は1000年を優に超え、その肉体的・魔術的機能は年月と共に良性の変化しかしない。他の生物のように、筋肉や内臓機能、五感の衰え──老化という機能を持たないのだ。

 加えて、極めて優れた体躯、身体能力、魔術能力を備え、100歳から500歳の成龍ともなると、その戦闘能力は勇者や聖痕者を凌ぐこともあるとか。

 

 つまり、古龍とは概ね聖痕者に匹敵するレベルの存在。その心臓ともなれば、高価では済まない価値だろう。

 

 「魔力隔離って、まさか空間から魔力を完全に取り除くってこと?」

 「いや、完全に中性の魔力で空間を埋め尽くす、飽和型だな。というか、真空型は理論上不可能だろう」

 

 魔術師、非魔術師を問わず、人間は常にごく微量の魔力を発散している。

 それは呼吸や心拍のような、いわゆる生理現象の一つだ。魔力感知能力に長けた魔術師であれば、この微細な発散を感じ取ることも出来る。

 

 発散量は当然ながら内包する魔力量によって上下し、フィリップが一日に発散する量がコップ一杯分くらいだとしたら、ルキアやステラはプール一杯分くらいはある。並の魔術師でも、バスタブ一つ分くらいはあるはずだ。

 

 つまり、人間がいる空間には、その場にいる人間の発散した魔力が充満しているということだ。

 たとえばこの教室内なら、空間中の魔力の99パーセントがルキアとステラの魔力になっている。

 

 それらを誰かの魔力で押し流すのは、簡単だ。適当に魔力をばら撒けばいい。

 しかし、誰のものでもない、何の性質も持たない魔力で埋め尽くすのは不可能だ。誰がやっても、その人物の魔力が残るのだから。

 

 別に空間中に魔力があって困る場面は、日常生活や魔術戦の範疇では、無い。

 しかし、魔力を扱う精密な実験の場面などでは、「誰がいたか」「どんな魔術に適した魔力か」「その日のコンディション」のような情報までもが空間情報化して組み込まれてしまう。誰かが魔力で押し流してそれを避けるにしても、誰かの魔力が影響することは避けられない。

 

 「魔力隔離装置も、まあ学術的には物凄い発明なんだが……古龍の心臓に見合う価値があるかと言われると、肯定しかねる」

 

 常に誰かの魔力がそこに、そこかしこにある。

 そんなのは、人類誕生以来から当たり前のことだ。それが嫌なら全人類を殺すしかない。

 

 だから、「全く無極性の中性魔力で空間を埋め尽くす」ことは、すごい。とてもすごいのだが──それを完璧に活用できるほど、人類のレベルは高くなかった。

 

 「すまない。愚痴になった。まあ研究以外のことならマトモな人間だし、家柄も素行も問題ない。適当に遊んでもらえ」

 

 どうでもよさそうに言ったステラにフィリップが頷く──その前に、ステラが言葉を重ねる。

 

 「と言いたいところだが、戦闘訓練と試験勉強が優先だ」

 「も、勿論覚えてますよ」

 「目が泳いでるわよ。……明日は私もステラも王城に行かなくちゃいけないから、宝探しは明日にしたら? ちょうど土曜日だし」

 

 呆れたように笑ったルキアの提案に、ステラも「そうだな」と頷く。

 二人とも厳しい先生だし、本人たちの能力が著しく高いせいで「なんで分からないのか分からない」状態になることもあるが、その才能故に、休暇の必要性を良く分かっている。

 

 とはいえ、宝探しそれ自体はフィリップ発案のレクリエーションでもなければ、主導権があるわけでもない。

 フィリップはあくまで「人類圏外産の魔導書だったら焼かなきゃ」という勝手な使命感の下、フレデリカにくっついているだけの部外者だ。

 

 「うーん、僕も一緒にやらせて貰ってるだけなので……まあ、言うだけ言ってみます」

 

 フィリップが答えたタイミングでからからと教室の扉が開き、ナイ教授が入ってくる。

 

 「お伝えしていた通り、授業変更ですよー。教科書を忘れた人はー、今のうちに寮まで取りに行ってくださいねー。フィリップくん」

 

 名指しで警告され、そういえばそうだったと慌てて席を立つフィリップ。

 授業開始まであと五分。走ってもギリギリ駄目そうだった。



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140

 「先輩、すごい人だったんですね」

 「……ありがとう。褒めてくれるのは嬉しいけれど、唐突だね?」

 

 ステラから聞いた話を思い出したフィリップは、図書館でフレデリカに合流すると、そんな称賛を口にした。

 それはステラに「試験勉強が優先だ」と言われてから、約3時間後のことだ。戦闘訓練を終えたあと、「明日にしようと言ってくる」と言って二人と別れ、フレデリカを探し出して今に至る。

 

 フィリップはこれでも約束は守る方だ。約束そのものではなく、約束を守るべきだと感じる社会性や人間性を守りたいからという、些か異質な理由ではあるけれど。

 

 さておき、たとえ今日中に暗号を解読できたとしても、フィリップはきちんと「探すのは明日にしてくれ」と頭を下げるつもりでいる。

 フレデリカ一人で「神を冒涜する書物」を手に入れたとして、それが本当に人類圏外産の魔導書だったら困るからだ。

 

 「昨日、殿下に教えて貰ったんです。錬金術と医学でドクトルの称号をお持ちだとか」

 「博識なお友達だね。魔術の才能が無い代わりに、その二つには向いていたというだけの話さ。9割の才能、1割の努力だよ」

 

 なんでもないことのように言って肩を竦めるフレデリカ。

 フィリップも別に彼女を褒めること自体が目的ではないので、「そんなことないですよ」と言葉を重ねたりはしない。

 

 「それで先輩、例の暗号のことなんですけど」

 「あぁ、うん。キミと一緒に知りたいと思って、まだ聞いていないんだ。今から行こうか」

 

 フレデリカにエスコートされ、本棚の間を歩く。

 

 「はい。殿下に聞いてみたんですけど、グリッド座標じゃないかって言われました。……あ、勿論、細部は伏せましたよ?」

 「うん? あぁ、いや、確かに「神への冒涜」なんて聞こえの悪いことを吹聴したくはないけれど、何かの比喩か暗号だろうし、そんなに気にしなくても構わないよ? 何なら、そのお友達も一緒にどうだい?」

 

 フレデリカの気軽な誘いに、フィリップは首を振って否定する。

 

 フレデリカはたぶん「ちょっとお高い土産物」くらいの宝物を想定しているのだろうが、フィリップの中にある最悪の想定は「読めば発狂する魔導書」だ。

 ルキアもステラも「宝探しごっこ」には左程の興味を持たなかったようで、フィリップとしては大いに安心しているのだ。わざわざ誘って危険に引き入れる必要は無い。

 

 「いえ、二人ともお忙しいらしくて」

 「おや、そうなのか。なら、二人で探そう。……そのグリッド座標? というのは?」

 「簡単に言うと、昔の地図ですね。ここに資料があるらしいので、もしお爺さんがそれを借りてたら──」

 

 フィリップは言葉を切り、代わりに指を弾く。

 

 「なるほど。仮説を立て、検証する。セオリー通りの動きだね」

 「先輩、物語とか読むんですね」

 

 聞き覚えのあるワードに、フィリップが反応する。

 

 仮説と検証。

 フィリップが以前に地元近くの森で実践した思考法は、前に読んだ本に載っていた定石だ。もしかして同じ本を読んだのだろうかと、ちょっとした親近感を覚えたフィリップに、フレデリカは首を傾げる。

 

 「いや、そうでもないけれど……どうしてだい?」

 「え、でも今の台詞って」

 

 不思議そうに首を傾げるフレデリカと、鏡写しになるフィリップ。

 少し考えて、フレデリカは「もしかして」と正解に辿り着いた。

 

 「もしかして、「仮説と検証」に引っ掛かったのかな? これは昔の研究者が残した、有名な言葉だよ」

 「あ、そうなんですね」

 

 と、そんな話をしていると、司書の先生が書き物をしている受付に到着した。

 

 「こんにちは、司書先生」

 「あぁ、レオンハルトさん。これ、お爺さんが借りた本のリストよ」

 「ありがとうございます」

 

 予め話が通っていたからか、やり取りは非常にスムーズだった。

 

 リストには管理番号と書棚番号しか書いていないが、並んでいる五つの本のうち、四つには見覚えがある。……ちゃんと覚えているのはフレデリカだけで、フィリップは「これだっけ」と首を傾げていたが。

 

 「閉架図書──普通に並んでいる本より一ランク上の管理がされている本がある。his-155、c-45。先生、これは?」

 「ん、ちょっと待ってて」

 

 司書の先生は番号をメモすると、受付を出てどこかに行く。

 「待ってて」と言われた二人が期待と緊張から雑談もそこそこに待つこと数分。彼女は書類の束を持って戻ってきた。

 

 「はい、c-45のhis-155。ラベルは、えーっと……『第6版試作王都グリッド地図』」

 

 司書の示したラベルを見て、顔を見合わせるフィリップとフレデリカ。

 フィリップは「ほらね?」と言わんばかりの自慢げな表情で、フレデリカはまさかといった表情だ。二人の表情の差は、仮説への信頼性の差だろう。

 

 「持ち出しは可能だけど、期限は一週間だから注意してね。他にご用は?」

 「いえ、ありません。ありがとうございました」

 

 二人は一先ず地図を見ようと、浮かれた歩調で閲覧スペースに向かう。

 机に広々と地図を広げ、フィリップは取り敢えず自分の知っている場所を探してみる。

 

 「お、投石教会だ。ということはここがタベールナで、衛士団の詰所がここ。意外と立地は変わってないんですね」

 「王都内の区画は一定以上変わらないよう、法規制が敷かれているからね。グリッドは縦と横の数字一組、始めの“2”は二等地を指すとして、13-4は……聖果教会? という場所らしいね」

 

 やはり、学院の外か。

 そうなると、今日はこれ以上の捜索続行は不可能だ。

 

 ステラに言われたこともあるが、そもそも平日は校外へ出られない規則になっている。外出届を出せばその限りではないが、今はもう17時前だ。今日の受付時間を過ぎている。フィリップが言うまでもなく、探索は明日に持ち越しだ。

 

 「行くのは明日にしようか。キミはどうかな?」

 「あ、はい。そうしましょう。朝の……10時くらいに、正門でいいですか?」

 「あぁ。それじゃ、また明日ね」

 

 

 ◇

 

 

 

 王都、一等地、魔術学院近辺。

 正門が見える位置の一軒家、その二階から、出入りする人間をじっと見つめる人影があった。

 

 窓から差し込む夕日を吸うような真っ黒なローブ──どこかカソックにも似たデザインの衣装に身を包んだ彼は、フードの奥から鋭く眇められた双眸を覗かせる。

 

 「どうですか、シメオン。彼女は」

 「出てきませんね、テネウ。あの程度の暗号に、そう何日もかからないでしょうし、やはり一段階しか無かったのでは?」

 

 部屋にいるのは、窓辺に居る男と、もう一人。テネウと呼ばれた女性だ。彼女も同じく、カソックに似たローブを着ている。

 

 「いいえ。私はジョン・フォン・レオンハルトという男を知っています。彼は自ら知恵の守護者を名乗り、これまでに幾つもの検閲対象論文──神を貶めるような内容の発表をしてきました。私たちの目を、手を、掻い潜って」

 

 どこか気だるげなシメオンに、テネウの言葉は冷たい。

 いや、ただ冷たいというよりは、自分の言葉に自信があり過ぎて、断定の色が強いのだ。それこそ、他人の言葉を跳ね除けるほどに。

 

 「……では、魔術学院内で完結するという線は? レオンハルトが魔術学院に在籍していたのは何十年も前のことですが、改築されていない場所なら──」

 「それも有り得ません。彼は背信者ですが、馬鹿ではない。常に最先端の設備に更新し続ける学院が、数年もすれば全く様変わりすることなど、当然のように予測していたでしょう」

 

 シメオンの知らない相手のことだ。そう言われると、そうなのかと納得する他にない。

 彼は「では」と、彼女の言葉に合わせて思考し直す。

 

 「つまり、彼女は校外に出てくると?」

 「そうです。そうでなければ、この任務は失敗ですね」

 

 断定口調で言うテネウに、シメオンも今度ばかりは頷く。

 

 魔術学院には聖人が──彼ら、教会に属する者としては、信仰の対象にすらなる存在がいる。それも、三人。

 侵入を試みる場合に最も気にしなくてはならないのは、風属性聖痕者にして魔術学院学院長、ヘレナ・フォン・マルケルだ。彼女の展開した結界魔術を欺くこと、或いは破壊することなど、信仰篤き彼らには出来なかった。

 

 だから、待つしかない。

 背信者の孫、わざわざ彼の手紙を渡しまでした、『冒涜の書物』への道しるべ。それに辿り着いたら、それと一緒に焼くことになる彼女を。

 

 「マルケル聖下以外にも、サークリス聖下と、ステラ聖下がいらっしゃいます。かの方々には絶対に、何があっても、ご迷惑にならないよう留意してください」

 「分かっていますよ。……?」

 

 二人ははたと動きを止め、全くの同時に自分の首筋に触れる。

 彼らは二人とも、神に仇為す背信者を処断してきた処刑人──歴戦の戦闘員だ。その経験が、首元に添えられた刃が離れたような、死神の去った感覚を伝えていた。

 

 「……テネウ。拠点を移しましょう。今すぐに」

 

 長距離魔術の照準か、或いは弓矢による狙撃の気配とアタリを付けたシメオンが、焦りも露わに言う。

 さっとカーテンを閉めて窓際から離れ、素早く動く彼に対して、テネウはソファに座り込み、何か考え込んでいた。

 

 「テネウ? ここは、いえ、私たちは何者かに捕捉されています! 早く移動しないと!」

 「いいえ──いいえ、シメオン。動いてはいけません」

 

 何を言っているのかとシメオンが問う前に、テネウはフードを取り、部屋の床に跪いた。両手を胸の前で組み、首を垂れるその姿勢は、紛れもなく祈りを捧げる時のもの。

 焦りと困惑と恐怖が綯い交ぜになった顔のシメオンに、彼女は「真似をしろ」と目線だけで命じた。

 

 彼女の方が命令系統の上位にいるのか、シメオンは「なんなんだ」と悪態を吐きながらも従う。

 

 「父たる神、子たる聖人、力たる聖霊の御名において誓います。私、教皇庁外務局諜報課“使徒”テネウは、かの方々に敵意、害意を持つ者ではありません。お望みとあらば、その足元に首を垂れ、自らと我が子の胸元に短剣を突き立てましょう」

 「……私、“使徒”シメオンは、かの方々に害意を持ちません。父祖たる唯一神、その子たる聖人、彼らの力たる聖霊に誓います」

 

 何に、誰に宛てた祈りなのか。いや、この文面は祈りではなく、懺悔や命乞いにも等しい。

 シメオンが心中に抱いたそんな疑問を見透かして、テネウは声を震わせる。自信に満ちた態度だった彼女が、今は礼拝の時のように小さく見えた。

 

 「私たちは見られて──いえ、見定められています。サークリス聖下の護衛の方に、ね」

 「聖下の?」

 

 信仰すべき聖人の名を挙げられ、シメオンは既に完璧に近かった礼拝の姿勢をより一層引き締める。

 

 彼らの真摯な告解、或いは命乞いは、実に二十分にも及んだ。

 

 

 

 “使徒”の二人が監視拠点としていた民家の屋根では、一人のメイドがスカートの膝をはたいていた。膝をついて中の話を聞いていたからだろう、砂埃で汚れている。

 

 彼女は身嗜みを整えると、にっこりと笑って振り返り、誰も居ない、居るはずもない別の家の屋根に向かって口を開いた。

 

 「公爵様のご命令は、ルキアお嬢様の敵なら殺せ、ですので、監視はお任せいたしますね?」 

 

 一秒、二秒、沈黙が続く。

 そしてゆっくりと、どこか諦めたような緩慢な動きで、屋根の向こうから二つの人影が立ち上がった。

 

 「オーケーだ。後のことは、我々が引き継ぐ」

 

 二人は軽量化され、関節部などに厚手の布を噛ませて擦過音を消した甲冑と、フルフェイスヘルムで全身を固めていた。

 鎧には共通の意匠があり、共通の組織──王都衛士団に所属していることが分かる。

 

 腰の後ろに短剣を装備し、明確に武装した彼らに相対して、無手のメイドは身構えず、気負わず、柔らかな微笑さえ浮かべている。

 

 「では、ごきげんよう」

 

 彼女はスカートに触れて一礼すると、軽やかに屋根から身を翻し、路地裏に消えた。

 

 衛士たちは顔を見合わせ、同時に肩を竦める。

 

 「監視だとさ。なんで俺らの任務内容まで知ってるのやら」

 「推理だろ。“使徒”相手に俺らじゃあ分が悪いしな。ガチの戦闘役ならいざ知らず、俺たちは斥候だ」

 「戦闘担当の隠形は蜂並みだぞ? つまりマイナスだ。一瞬でバレて逃げられるのがオチだろ。お相手が何もしないなら、俺たちも適当に日向ぼっこしてりゃいいんだ。愚痴るなよ」

 

 二人はのそのそと身体を伏せると、国内で諜報活動をしている暫定敵、“使徒”の二人を監視する作業に戻った。

 

 



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141

 翌日、土曜日。朝。

 いつも通りにルキアとステラと一緒に朝食を摂った後は、珍しく三人ともが別行動だ。フィリップはしばらくゆっくりして準備を整えて、フレデリカと合流して二等地へ。ルキアは一等地の公爵家別邸に寄ってから王宮へ。ステラは王宮に直行だそうだ。

 

 まぁフィリップは準備と言っても、ルキアのように二人の美しいメイドが迎えに来たり、ステラのように何十人もの親衛隊が馬車までの花道を作っていたりはしない身だ。適当に財布と手帳くらいかなと見繕った荷物を持って、身嗜みを整えたら正門に行くだけだ。勿論、自分の足で。一足先に出た二人は迎えの馬車があったが、フィリップとフレデリカは徒歩か、校外で貸し馬車を使うしかない。

 

 いや、学院も馬車の貸し出しはやっているけれど。けれど、フィリップに、そして意外なことにフレデリカにも、御者の経験はなかった。白馬の王子様といった風情だったのに。

 

 だからこうして、二人は魔術学院から二等地までのんびりと歩いていた。

 魔術学院の校則によると、休日の外出は夜九時までに帰寮しなくてはならないことになっている。帰路に2時間使うと考えると、今が11時半くらいだから、捜索に使える時間は8時間。

 

 二等地はそこそこ広いとはいえ、建物や道のレイアウトはきっちりと整理されて歩きやすい。これならもし暗号がリレー形式でも、今日中にあと何か所かは回れるだろう。

 

 「二等地までは少し遠いけれど、キミが一緒で良かったよ。一時間の道程もほんの数秒に感じられるからね」

 「分かります。誰かと喋ってると、時間が過ぎるのって早いですよね」

 

 フレデリカはせっかく写してきた地図を見ることも無く、フィリップとあれこれ駄弁りながら歩く。

 

 フィリップの方も「神学や歴史の授業中は別だな」とか、益体の無いことを考えながら漫然と歩いていた。あれはルキア達と喋らない方が時間が経つのが早いレアケースである。

 

 一定のリズムで黒板を鳴らすチョークの音、最前列の生徒と個人的に喋っているのかと勘違いしそうな教師の声量、低い声質。あれはまるで一年生で最も優秀な生徒を集めたはずのAクラスでさえ、半数以上が寝落ちする高威力広範囲型睡眠魔術だ。ルキアとステラだけは絶対に眠らない辺り、本当に魔術なのではないだろうか。

 

 まあ、それはさておき。

 

 「先輩、二等地に詳しいんですか?」

 「レオンハルト侯爵家の別邸は、勿論、一等地にあるよ。でも祖父は、父に家督を譲ってからは、二等地に買った家で暮らしているんだ。「先代がいるとやりにくいだろう」って」

 

 お陰でよく二等地で遊んだものさ、と笑うフレデリカ。

 聞く限りではいい人そうだが、彼女の笑顔には苦笑の成分が濃く含まれていた。

 

 それに気付いたフィリップの不思議そうな表情を見て、フレデリカは「えっと」と言葉を練る。

 

 「お父様は一等地の別邸に住んで、そこの管理をしてくれないかって言っていたのだけれどね。研究時間を削るのがどうしても嫌だったらしいよ」

 「なるほど。頻繁に王都外に出るなら、二等地に住んでいた方が楽ですしね」

 

 王都は中心に聳える王城から外縁の防壁まで約10キロの巨大円形都市だ。

 一等地と二等地、二等地と三等地の間には水路があり、三等地から二等地は8つの、二等地から一等地は4つの跳ね橋で繋がっている。三等地の外周には高さ5メートルほどのカーテンウォールがあり、四方の門だけでなく上部の回廊にも衛士が常駐している。

 

 跳ね橋と門は直線ではなく、約20度ほどずれている。王都を出るのに要する道のりは、単純に10キロの直線ではない。

 もし衛士団の不定期検問などで時間を取られてしまうと、最悪、王都から出るのに3時間かかるなんてことも有り得る。

 

 3時間のずれは大ごとだ。行き先次第では出発を取りやめることだってあるのだから。

 

 「でも、時間を削るのが嫌なほど研究が好きなのに、先輩とは遊んでくれるなんて、いいお爺さんじゃないですか」

 「あぁ。愛されていると、自信を持って言えるよ」

 

 照れつつも嬉しそうに、祖父への信頼を語るフレデリカ。よほど楽しい幼少期を過ごしたようだ。

 

 そうなると、フィリップの懸念は単なる杞憂に終わりそうだ。

 愛する孫娘に「神を冒涜する書物」なんて代物を──大陸全土で強い信仰を持つ一神教に背くような本も、人類圏外産の魔導書も──探させるとは考えにくい。

 

 まぁ、それならそれでいいというか、それこそがフィリップの望む終わり方だ。叶うなら、邪神とは二度と関わりたくないし。

 

 「先輩、「神を冒涜する書物」って何だと思いますか?」

 「そうだね……例えば、日曜のミサを忘れてしまうほど面白い本、とか?」

 

 なるほど。ガラスのペーパーナイフを「虹の刃」なんて称する人なら、そういう表現をするかもしれない。何なら、この文字の羅列だって何かの符丁、全く違う意味になる暗号という可能性だってある。

 

 一等地とは違って絢爛な装飾は無い、しかし錬金術製の建材が使われた綺麗な建物の並ぶ二等地を歩きながら、とりとめのない話をする二人。

 

 さらに十数分ほど歩いて、漸く目的の教会に到着した。

 

 聖果教会は二等地の中で五指に入る大きな教会で、大通りを彩る石造りのロマネスク型建築だ。

 日曜ミサには何十人もの人が集まり、平日でも礼拝に来る信徒は十人を決して下らないという。投石教会とは規模も立地もまるで違う教会だ。

 

 木製ながら大きく重厚な玄関ドアを開けると、その建築様式に特有の薄暗いホールがある。

 ドアから最奥部の聖女像まで一直線に伸びるカーペットの左右には、信者用の長椅子が投石教会の倍以上の数も並んでいる。壁や柱に施された教会に特有の宗教的な彫刻が、ステンドグラスの光を浴びて荘厳な雰囲気を引き立てていた。

 

 明るくはなく、むしろ薄暗い空間ながら、荘厳な温かさを纏う場所だ。

 土曜日の昼間だというのに、或いはだからこそ、信徒用の椅子に数人、聖女像の祭壇前に数人の信者がいる。

 

 地元の小さな教会と、あとは邪神が二柱いる投石教会しか知らないフィリップは、初めて訪れた大聖堂の威容に視線を彷徨わせる。目を瞠る、とか、気圧される、ではない辺りがフィリップらしい。

 

 「大きな建物ですね……」

 「そうだね。でも、もっとこう、「厳かな空気ですね」とか「神聖な雰囲気ですね」とか、そういう感想が出るべき場面だよ」

 

 呆れ交じりの苦笑を浮かべたフレデリカに照れ笑いを返していると、奥から白髪頭の老神父がゆっくりと歩いてくる。彼は温和な笑顔を浮かべていたが、その所作には信仰に捧げた時間と信念の深さが表れており、言い知れぬ存在感のようなものを感じさせた。

 

 「こんにちは。礼拝であれば、どうぞ奥へお進みください。それ以外の御用であれば、私がお伺いします」

 「こんにちは、神父様。」

 

 フレデリカに続いて挨拶を返したフィリップは、ふらふらと祭壇に向かう。──ふりをして、周囲をじっくりと観察していた。

 書物というからには、本や書類、羊皮紙のスクロールといった形状のはずだが、そういったものは見受けられない。祭壇の上には聖典が置いてあるが、まさかアレでは無いだろうし。

 

 自然な振る舞いをしていると自分では思っているフィリップの背中に、フレデリカの苦笑が向けられる。客観的に見ると、フィリップは明らかに挙動不審だった。

 

 老神父は穏やかに、子供に向けるに相応しい笑みを浮かべて話しかける。

 

 「何かお探しですか。トイレならあの扉の向こうですよ」

 「あ、いえ……書斎とか、本が置いてある場所ってありますか?」

 

 フィリップの質問に、彼は感心したように頷く。

 

 「えぇ勿論。聖典だけでなく、歴史の本や絵本もありますよ。ここは神様の家、皆に開かれた家ですからね」

 

 神父の案内に従って、壁の一面に様々な本が収められた本棚のある部屋に通される。

 彼の言葉通り、児童書から教科書、学術書から聖典まで幅広い層の本があるようだ。

 

 何かあるとしたらここか、あとは神官の居住区だが、そこは関係者以外立ち入り禁止だ。フレデリカの祖父もそちらには入れないはずだし、まずはここを探すべきだろう。

 

 「読書が好きなんて、小さいのに感心な弟さんですね」

 「あー……ははは。はい、私の自慢ですよ」

 

 説明に時間を取られるのを嫌ったのか、フレデリカは老神父の誤解を解かなかった。

 どうぞ寛いでください、と言って立ち去った神父の背ににこやかな会釈を送り、フレデリカの表情がすっと冷える。

 

 「カーター君。見て分かると思うけれど、壁一面の本棚を埋める量の本を、全て確認するのは時間を食い過ぎる。「3」のつく本か「3」にまつわる本を探そう」

 「あっ! 暗号にあった最後の「3」ですね!」

 

 なるほどこれが天才かと頷きながら本棚の左端に向かうフィリップ。

 フレデリカにしてみれば当然の発想だったので、彼女は「何に感心されたのだろう」と首を傾げつつ本棚の右端に向かう。

 

 小さな部屋ではあるが、壁一面を埋める量の本だ。

 背表紙を見て「3」と絡みそうなタイトルか、或いはナンバリングが「3」の本を探すのにもひと手間かかる。

 

 フレデリカは20分ほどかけて、本棚の右半分から「3」のつく本を選び出し、その全てにざっと目を通した。

 

 「……ふぅ。駄目だね、手掛かりになりそうな本は無かった。印の類も無いよ」

 

 取った本を元通りの場所に仕舞いながら、落胆と徒労感を見せるフレデリカ。しかし、フィリップからの返事はない。

 

 フレデリカが目を向けると、フィリップはまだ本棚の4分の1ほどしか進んでいないような場所の本を取って読んでいた。まあ字を追うペースにはかなり個人差があるからな、と納得しかけたフレデリカだったが、フィリップが持っている本の表紙には「3」が関係していなかった。タイトルは「図解 教会のひみつ」。子供用の、教会の構造や神官の仕事について書かれた絵本のようだ。もう一冊脇に抱えているようだが、そちらのタイトルは見えない。

 

 「カーター君? ちゃんと探してるかい?」

 

 まぁ、所詮は身内の遊びだ。

 フィリップが真面目に探さなかったからといって、フレデリカが怒ることはない。しかし捜索に対して意欲的だったフィリップが、ここに来て本の誘惑に負けているのは面白かった。

 

 そんな内心を反映した揶揄、文字上だけで咎める言葉を耳にして、フィリップが視線を上げる。

 

 「……カーター君?」

 

 フィリップの目は、子供向け絵本を読んでいるとは思えないほど鋭く、真剣なものだった。

 手にした本と表情のギャップに思わず半笑いで呼び掛けたフレデリカを、フィリップは「ちょっと見てください」と逆に呼ぶ。

 

 「教会の地下にはクリプトという聖遺物保管室があるらしいんですけど……ちょっと持っててください」

 「あ、あぁ、構わないよ」 

 

 フレデリカが受け取った絵本には教会の構造を簡略化して描かれており、地下部分にはキラキラしたクエスチョン・マークのある部屋が描かれていた。天使をデフォルメしたキャラクターが「これは大陸の教会、全てにあるんだ!」と注釈を入れている。

 

 「それで、こっちの本なんですけど」

 

 フィリップが脇に挟んでいた本を開き、目的のページを探す。

 一瞬だけフレデリカに見せた表紙には、「残留聖性を利用した楔型広域結界構築魔術」とある。

 

 「聖性云々は極めて宗教的な仮説未満の妄言らしいので無視してください。殿下が言うにはですけど。見てほしいのは……ここです」

 

 難解な魔術理論や魔術式の書かれた本をぱらぱらとめくり、目当てのページを向ける。

 そこには大陸にあるほぼ全ての教会の名前と地名、そして保管されている聖遺物の名称が表になって記されていた。

 

 「アヴェロワーニュ王国、王都、聖果教会。保管聖遺物、『聖典原書分頁第三章』。……「3」か」

 

 顎に手を遣り、微かに口角を上げて、確かな手応えに頷くフレデリカ。

 驚き方までかっこいいなこの人、と苦笑しつつ、フィリップは手早く本を片付ける。

 

 「神父様に、見せて貰えるかどうか聞いてみましょう」

 「あぁ!」

 

 ──と、これは正解に違いないと喜び勇んで老神父を探しに行く二人だったが、そもそも聖典は信仰の導であり、信仰の歴史であり、信仰の具現だ。冒涜とは正反対にあると言えるだろう。

 それが「神を冒涜する書物」であるとは考えにくい。有り得るとしても、精々が第三の暗号、中継地点といったところだ。そう言う意味での「3」なのだとしたら、何番目まであるのかと今から膝が痛むような気がする。

 

 正解か、不正解か。

 二人はホールにいた神父を見つけるまでの間、その二択で考えていた。しかし、神父の答えはそれ以前のものだった。

 

 「申し訳ありません。聖遺物には月に一度の大祭儀の日にしか拝謁できない決まりなのです。来週の日曜日が大ミサですから、是非その時にまたお越しください」

 

 二人のことを熱心な信者だとでも思ったのか、彼はにこにこと笑って、しかし明確な拒絶を口にする。

 そこをなんとかなりませんか、と言い募るフレデリカの声を聞き流しながら、フィリップは考える。

 

 殺すか?

 

 “宝物”が人類圏外産の魔導書であり、フィリップの住む人間社会を汚染する可能性があるものだと確定しているのなら、それも致し方ないことだ。たかだか人間一人、それも今さっき会ったばかりの他人、残り十数年生きられるかどうかという老人だ。直接殺したところで残念だとも思わないし、骨の一片まで炭化させて、暖炉にでも放り込んでおけば、すぐには露見しないはず。

 

 だが確定ではないのだ。“宝物”はフィリップの懸念するようなものではなく、単なる「祖父から孫娘への贈り物」である可能性の方が高い。

 そんなものの為に人を殺すのは、流石に非人間的だ。殺すか、なんて考えている時点で大概だが。

 

 「……聖典の第三章って、どんな内容なんですか?」

 

 自分自身に苦笑しながら、フィリップは宛先も無く問いかける。

 こんなのは大陸に住んでいれば自然と覚えるような、所謂一般教養の類だ。神父なら確実に答えられるし、貴族の子女もそうだ。フィリップぐらいの年なら、まぁ知らない子もいるかな、くらいのものである。

 

 「第三章は原罪の章。悪魔に唆され神の言葉に背いた罪人と、咎人をすら愛する神の慈悲深さを描いた章です。話に出てくる蛇は魔王サタンと同一視されることもありますね」

 

 老神父の答えに、フレデリカは頷く。

 

 「知恵の果実を食べ恥を知りながらも自らの罪を認めず、男は女に、女は蛇に責任を押し付ける。恥知らずにも全知たる神の御前で。そういう皮肉に満ちた章ですね」

 「そういう解釈もされますね。他にも知恵の実、或いは楽園の果実はリンゴやイチジク、レモンといった──」

 

 聞きようによっては聖典批判とも取れるフレデリカの言葉にも、老神父は温和な微笑のままに頷きを返す。

 

 そのまま聖典談議が続くのかと思われたが、しかし、フィリップの口から「帰りませんか?」という空気を読まない言葉が飛び出る前に、フレデリカが指を弾く。

 

 「……そうだ」

 

 老神父は、ぱちりという乾いた音に驚いたようだったが、言葉を遮られたことに対して怒ってはいないようだった。

 

 「何か掴めましたか。では、お行きなさい。貴方たちに神のご加護がありますように」

 

 神父の言葉に目を瞠る二人。彼はフィリップたちが何かを求めてここに来たことに気付いていたようだ。

 邪神の気配はしないので、これも年の功、なのだろうか。

 

 「ありがとうございます、神父様!」

 

 胸に手を当てた優雅な一礼を見せるフレデリカと、「神の加護」という何らおかしいところのない言葉に引っかかるフィリップ。

 二人は老神父と握手を交わし、聖果教会を後にした。

 

 荘厳なホールを抜け、神聖な雰囲気のある玄関アーチをくぐるまでは、フレデリカは場所に見合った風格を湛えて歩いていた。しかし教会の敷地から出るや否や、彼女は目的地の定まった確固たる足取りで駆け出す。

 

 「どうしたんですか、突然?」

 「“楽園の果実”だ!」

 

 フィリップより足も長ければ年も上で基礎体力も違うフレデリカに必死について行きながら訊ねるも、彼女は要領を得ない答えだけを返す。

 それは何なのか。さっきの話に出た知恵の実のことなら、それがどうしたのか。もしかして、「それ」に心当たりがあるのか? なら世紀のというか、人類史上最大の発見とも言える。

 

 「ついてきて、カーター君!」

 「は、はい!」

 

 考えるのは後回しだ。でないとフレデリカの健脚に置いて行かれる。

 フィリップは慌てて視線を前に固定し、足をもつれさせないように集中することにした。

 

 

 

 



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142

 数分ほど走った末にフレデリカが足を止めたのは、二等地の大通りに面した酒場の前だった。冒険者や一般市民に人気の大衆酒場ではなく、少し高級志向の洒落た店だ。

 

 「はぁ、はぁ……な、なんですか、ここ」

 「酒場『楽園の果実』。祖父の好きな店でね」

 

 フィリップの息切れも収まらないうちに、フレデリカは『準備中』と札のかかった扉を無遠慮に開け、店内に入っていく。

 その自信に満ちた足取りは、ここに手がかりがあるという確信を感じさせるものだ。フィリップは一瞬だけ考え、その後を追う。

 

 店内には幾つかのテーブルとカウンター席があるが、テーブル席の椅子は卓上にひっくり返して載っているし、床にはバケツとモップが置いてある。見るからに掃除中だ。

 

 カウンターの中には店主らしき壮年の男性がおり、明らかに開店前であるにも関わらず入ってきた子供二人に唖然としていた。

 

 「見て分かると思うが、準備中だ。それとも何かのトラブルなら、悪いが……ん? 君は確か、レオンハルト侯爵の」

 「先代、ジョン・フォン・レオンハルトの孫娘、フレデリカです。以前に祖父と一緒に、こちらにお邪魔したこともあります」

 

 フレデリカが一礼すると、彼は「あぁ」と納得したように頷いた。

 

 「彼に似て無遠慮、いや豪胆だ。……ほら、これを受け取りに来たんだろう? 店を開けてる時間に来て欲しかったがね」

 

 彼はカウンターの下から一通の封筒を取り出すと、卓上をフレデリカのところまで滑らせる。

 フレデリカはそれなりのスピードで滑ってきた封筒を上から押さえて受け止めると、やはりそうかと口角を上げた。

 

 「祖父から、ですね? 私が来たら渡してくれと頼まれましたか」

 「そうだ。……あぁ、彼に言っておいてくれ。私の店は酒場で、運送屋じゃあないってな」

 

 店主の言葉に笑って手を振り、フレデリカは用は済んだとばかりドアに向かう。

 ほんの一分前に入ったばかりで、フィリップの息が漸く落ち着いてきたところなのに。戦闘訓練でかなり体力はついてきたとはいえ、やはり成長期前後では大きな差がある。

 

 「待て、坊主」

 「はい?」

 

 今度は走り出す前に目的地を聞くぞ、と対策を立てたフィリップだったが、店を出る間に店主に呼び止められる。もしかして「開店前に入ってくるんじゃねぇ馬鹿が」と怒られるのだろうかという懸念は、幸いにして杞憂に終わった。

 

 店主は冬場だというのに汗をかいて、肩で息をしていたフィリップを見かねたのか、コップ一杯の水を出してくれた。

 

 「飲んでいけ。冬場でも水分補給は大切だ」

 「え? あ、ありがとうございます」

 

 フィリップは水を呷り、もう一度頭を下げてからフレデリカを追って店を飛び出す。その背中に、はしゃぐ子供に向けるに相応しい微笑ましそうな一瞥をくれて、店主は掃除に戻った。

 

 ──その、十数秒後だ。

 もう一度ドアベルが鳴り、店の入り口に二人の人影が立つ。フィリップとフレデリカの学生コンビではなく、真っ黒な修道服風のローブを着た男女だ。

 

 「神官様か? 見ての通り開店前でな。日が沈んでからもう一度──」

 「今の二人とどういう関係だ?」

 

 男の方に言葉を遮られ、店主が不機嫌そうに眉根を寄せる。

 どんな関係だと問い詰められるような深い関係ではないし、そもそもお前らは誰で、どうしてそんな質問をするのか。彼の脳内でそんな疑問が次々と浮かぶが、それを投げかけることはしなかった。

 

 「お前らと同じ、準備中の札も読めない馬鹿な奴だよ。準備中だって分かったら出て行っただけ、お前らよりマシだったがな」

 

 冬場とはいえ真っ黒なローブで全身を包み、目深にフードまで被った二人組は明らかに怪しい。

 店主はカウンターの下で護身用の短剣に手を伸ばすが、しかし、彼の手が柄に触れるより先に、二人組が動く。男は片手を向けて魔術を詠唱し、女は後ろ手に扉の鍵を閉める。

 

 一連の動きはあまりにも早く、荒事慣れはしていても戦闘のプロではない酒場の店主には反応することもできないほどだった。

 

 「正直に答えろ。《ドミネイト》」

 

 男の行使した支配魔術を受け、店主の口が不随意に動きはじめる。

 

 「お……女の子は、知り合いの孫娘だ。お爺さんから……手紙を預かったんで……渡した。男の子の方は……知らない……」

 「そうか。情報に感謝する」

 「っは! はぁ……はぁ……」

 

 魔術を解除されて息を荒げる店主の答えは、彼らにとって望んだものでは無かったのだろう。男は落胆の溜息を溢し、女の方も首を振っている。

 

 「行きましょう、テネウ。奴らを追わなくては」

 「……はぁ。そうですね」

 

 男──“使徒”シメオンの言葉に、女──“使徒”テネウは目を見開く。少しの絶句のあと、彼女は深々と溜息を吐いた。

 

 シメオンは鍵を開け、先程フィリップたちが向かった方へ駆け出す。その足取りに迷いはなく、未だ店内に残っているテネウは、少し遅れてもすぐに追いつくという信頼が窺えた。

 

 「申し訳ありません。あれでも珍しい支配魔術の使い手なので、現場では重宝するのです」

 

 喉を痛めたのかしきりに首元を擦っている店主に、テネウは深々と頭を下げる。

 丁寧な仕草で、丁寧な言葉遣いではあったが、彼女の言葉は背筋を刺すほどに冷え切っていた。

 

 殺される。

 そう確信した店主はしかし、カウンター下の短剣に手を伸ばそうとは思わなかった。いや、思えなかった。抵抗は無意味だと、フードの奥から僅かに覗く冷酷な光を湛えた双眸が物語っていたからだ。

 

 「このような場でポロリと名前を明かし、口封じもせずに立ち去る間抜けではありますが、まぁ、口を封じるくらいは私にも出来ますから」

 「ま、待て。誰にも話さないと約束する。だから──」

 「それを信じられるほど、人のことを知らないわけではありませんので」

 

 テネウは右手を掲げ、その中に氷の槍を作り出す。その突端は、人の喉笛を引き裂くのに十分な鋭利さを持っているように見えた。

 

 「主よ、我が罪業を見届け給え」

 

 彼女はそう呟き、胸元から十字架を取り出して握り締める。

 ただの十字架ではない。銀色に輝くそれは末端が尖り、縁が鋭く研ぎ上げられた、十字に交差した小さな剣だ。

 

 握り締めた左掌には突端が刺さり、刃が深々と食い込む。

 指の間から滴り落ちる血の雫は如何にも痛々しく、肉を裂く湿った音に混じり、骨と刃が擦れる、きり、という音までもが聞こえて、店主すら呆然とそれを眺めていた。

 

 そして。

 空気を裂いて撃ち出された氷の槍が、店主の頭蓋を貫通し、背後にあった酒の並んだ壁棚に突き刺さった。

 

 幾つかの酒瓶が直撃を喰らって粉々になり、幾つかは倒れ、床に落ちて砕ける。

 壁棚に倒れた酒瓶から流れる酒を左手で受けながら、テネウは床に広がる酒だまりに血が混じるのを眺める。

 

 この血、この痛みは、罰だ。

 人を殺めた罰ではない。この殺人が神の意に沿うものなのかと疑問を抱いたことへの罰、そして神に問い、神がこの殺人を過ちとして止めるかどうかを試したことへの罰だ。

 

 神を試すこと勿れ。ただ信じよ。

 それが一神教の教えだ。

 

 だが彼女たち使徒は、必要とあらば教義に背き信徒でも殺す。

 その都度、その行いが正しいものかを神へと問うているのだ。それは教義に背く上での必要行為であり、自身が必要悪であることを確認する絶対不可欠な行為だった。

 

 今回、神は御止めにならなかった。何の邪魔も入らず、何の抵抗も無く、殺せた。神は御認めになったのだ。

 

 何も憂うことはない。

 テネウは左手に包帯を巻いて止血すると、フードを確認してから店を出る。

 

 店主の死体が衛士に発見されるのは、その少し後のことだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 フィリップが店を出ると、フレデリカは少し離れたところで手紙を開けていた。

 よかった、流石にフィリップを置いて駆け出すほど没頭していないようだ。

 

 「次の場所でも書いてありましたか?」

 

 手紙そのものが目的の品だという可能性もあるにはあるけれど、その文面を半笑い、いや苦笑いと共に追っているフレデリカの表情を見るに、確率は低そうだ。

 

 「多分、そうだね」

 「見てもいいですか? ……え?」

 

 覗き込むと、手紙には三行の文章が書かれているだけだった。

 内容はこうだ。

 

 『問1。ベックベルの仮説に反証として挙げられる実験のうち、錬金素材にΣa因子を含むものは幾つか』

 『問2。中級風属性中和剤の素材数を最低限に収める場合、それは幾つか』

 『問1の答え-問2の答え』

 

 「……テスト問題?」

 「ふふふ……。あぁ、そう見えるね。けれど、これはかなりの初級問題だよ。錬金術に携わる者なら、どちらも指折り数えるだけで答えられる問題さ」

 

 フレデリカは本当に簡単そうに笑って、鞄からグリッド地図の写しを取り出す。

 えーっと、と脳内に浮かぶ答えと地図のマス目を数えながら、彼女は地図の一点に記しを付ける。フィリップもそれを覗き込み、一つの確信を得た。

 

 「あ、次がゴールです。間違いないです」

 「え? どうしてだい?」

 

 何かを諦めたように投げやりな、しかし絶対的な確信を窺わせる声で言った、言い捨てたフィリップに、フレデリカは怪訝そうに笑う。フィリップの冗談だとでも思ったのだろうが、違う。

 次がゴールだ。たとえフレデリカのお爺さんがそれを想定していないとしても、次がゴールだと言ったらそうなのだ。

 

 フレデリカがマークした位置には、覚えがある。

 二等地、聖果教会から一等地を挟んで南西方向。懐かしの宿屋タベールナ近辺にある、微妙な立地の教会。

 

 ナイ神父とマザー。ナイアーラトテップとシュブ=ニグラスが拠点とする、神の家。

 

 ──投石教会が、次の目的地だった。

 

 

 



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143

 フィリップたちは二等地のあちこちに設置された観光用パンフレットの地図を使い、聖果教会から投石教会を目指していた。

 地図上では、二つの教会は一等地を挟んで反対側。直線距離でも10キロ近くある。実際に移動するとなると、たぶん3時間コースだ。

 

 流石にそれは不味いということで、お貴族様(フレデリカ)のお財布から、御者付きの貸し馬車を使っている。

 

 「キミ、動物に苦手意識でもあるのかい?」

 「え? いえ、特には。どうしてですか?」

 「さっき、この馬車を引いている輓馬が、キミのことを避けたように見えたんだ。動物は人間の感情に聡いからね、キミの苦手意識を感じ取ったのかと思ったんだよ」

 「あー……あははは……」

 

 それは多分邪神たちの気配、月と星々の香りなるものに反応しているだけです。とは言えない。

 適当に誤魔化そうというフィリップの笑いに、フレデリカは怪訝そうに首を傾げたものの、特に追及はしてこなかった。

 

 馬車に揺られながらの雑談の傍ら、地図を眺めていた彼女は、いいことを思い付いたと指を弾く。

 

 「カーター君。少し、寄り道しないかい?」

 「構いませんけど、どちらにですか?」

 

 フレデリカは答える前ににっこりと笑い、御者に馬車を停めさせた。

 

 「すぐそこだよ。私の祖父の家がある」

 

 大通りで馬車を降りて数分も歩くと、閑静な住宅街になった。

 フレデリカは遠目に見えてきた一つの家を、「あれが祖父の家だよ」と示す。侯爵といえば大公のような特殊事例を除いた序列二番目の高位貴族だが、その貴族の住まいとしてはかなり小さな家だ。いや、二等地の一軒家なので、王都外にあったなら最高級レベルの建築物なのだが。

 

 「答えを聞くなんて無粋な真似をするつもりはないけれど、折角近くまで来たんだ。顔くらい見せて行こうと思ってね」

 「……いいですね。僕もお会いしてみたいです。……一緒に遊ばせて貰っている身ですし」

 

 言い訳がましく付け足したフィリップの言葉は、完全な嘘だ。

 フィリップは「お爺さんが発狂していたら確定だな」とか考えていた。“神を冒涜する書物”が人類圏外産の魔導書だと確定した後は、フレデリカを速やかに説得し、彼女の祖父を投石教会に連行、尋問して魔導書のありかを聞き出したのち、焼却しようと考えている。焼くのは魔導書と、彼女の祖父。場合によってはフレデリカにも死んで貰う。死んだ方がマシな状況、死が救済となる状況になったらの話だが。

 

 「律儀なんだね。そういうところ、素敵だよ」

 「え、あ、どうも……」

 

 フレデリカの急襲に、フィリップは思わず口ごもる。

 どう言えばいいのだろうか。女性的魅力に心動かされた、という感じではなく、むしろその逆のような。

 

 どきどきしているフィリップを余所に、フレデリカは久々に訪れる祖父の家に向かい、歩調を速めた。徐々にフィリップと離れていくことにも気付いていないようだし、本当に祖父のことが好きなのだろう。

 結局、ドアの前に着いたのはフィリップより20秒も早かった。

 

 「すまない、カーター君。つい気が急いてしまった」

 「いえ、構いません。ノッカーは鳴らしましたか?」

 「いや、鍵は持っているから、このまま入ろう。お爺様を驚かせようじゃないか」

 

 ぱちりとウインクするフレデリカ。普段は凛として堂々とした彼女の子供っぽい一面に、フィリップは思わずくすりと笑いを溢した。

 

 「怒られても知りませんよ?」

 「おや、酷いな。キミも共犯だろう?」

 

 けらけらと笑い合いながら鍵を開け、ドアノブに手を掛ける。

 そっと、なるべく音を立てないようにノブを捻り、扉を引き──

 

 「うっ!?」

 「カーター君、離れるんだ!」

 

 激烈な異臭が鼻を突く。

 えづき、口元を覆ったフィリップを、フレデリカが襟元を掴んで乱暴に遠ざける。

 

 血の匂い。臓物の匂い。腐臭──死の臭い。

 森を歩いていたとしてもそう嗅ぐことのない、友人の家を訪ねて嗅ぐことになるなど思いもしない悪臭に、二人の胃は強烈に痙攣する。医学に精通したフレデリカにも、この不意討ちは効いた。

 

 「もっと離れて!」

 「待って──おぇ……」

 

 その場に嘔吐しそうになり、膝から力の抜けたフィリップの襟首を掴み、強引に引き離すフレデリカ。その強制的な揺れと首元への圧迫感が、胃の痙攣に止めを刺した。

 彼女は慌てて手を放して背中を擦ってくれるが、何かに中てられて吐くのには慣れている。

 

 「先輩、これ、この臭いって」

 「……あ、あぁ、嫌な臭いだね。何かの薬品だと思うから、近付かない方がいい」

 

 フィリップの歳を気にしてだろう、フレデリカは懸命に涙をこらえながら、警告に相応しい声を取り繕って言う。

 

 だが、そんな気遣いは無用だ。

 フィリップは半年前にダンジョンで同じ臭気に中てられて、吐いて、その発生源まで見たことがある。今更人間の死体に恐怖心を抱いたりはしない。まぁ、()()への忌避感はあるけれど。

 

 「あ……えっと」

 

 でも、それはフィリップが異常だからだ。

 フレデリカは知識もあるし、頭の回転も速い。この家の中に何があるのか、どういう状態なのか、フィリップ以上にはっきりと分かっていることだろう。そんな彼女への気遣いはあるべきだ。

 

 「……先輩、涙が出てます。催涙効果のある薬品ですか?」

 「あ、あぁ……そうかも……しれないね……」

 

 遂に堪えきれなくなり、嗚咽を漏らすフレデリカにハンカチを渡す。

 彼女は暫くそれで目元を拭っていたが、やがて心を決めたような顔になった。渡したハンカチを口元に巻き、シャツの袖を捲ると、自然と閉じた扉のノブをもう一度握る。

 

 「カーター君はここで待っていて。吐き気が治まったら、衛士を呼んできてくれると嬉しい。絶対に中には入らないで」

 「……はい」

 

 フレデリカは扉をギリギリまで狭く開けて入っていくが、その隙間から漏れてくる臭気だけで吐き気がぶり返す。

 フィリップが再び、けぷけぷとろとろと道端に胃の内容物を垂れ流しはじめた、その途端のことだった。

 

 「君も家の中に入って貰えるか」

 

 内容のわりに落ち着いて、苛立ちや不快感の籠らない声ではあったが、言葉は明確にフィリップを誘導していた。

 

 道端でゲロゲロやっていればそりゃあ不快だろうと、フィリップは息を整えながら声の方を見遣る。

 声の主は、周囲に漂う死臭や胃液の臭いなどより何倍も、何十倍も、フィリップの神経を逆撫でするような装いだった。

 

 真っ黒なローブ姿。

 頭の先から足元までを黒一色に覆い尽くすその服は、どこか神官服にも似たデザインだ。宗教的でありながら、その素性を秘匿するような服装には覚えがある。

 

 あの地下祭祀場にいたゴミクズ共と同じだ。あの試験空間にいた人間モドキと同じだ。

 

 ──いや、いや、落ち着け。

 見た目が不快だなんて理由で人を殺すのはいけない。それは非人間的なことだ。

 

 「す、すみません。でも吐き気の原因が家の中なので──」

 「ここ、静かな場所だろう? 騒ぎは困るんだ」

 「は、はぁ……。じゃあ、僕はこれで……」

 

 可笑しな言い回しだと首を傾げつつ、微かな痛みを訴える腹部を擦り、立ち上がった。

 

 パンフレットを確認し、衛士団の詰所に足を向ける。

 家に入るのではなく衛士を呼んで来いと、フレデリカはそう言っていた。これ以上吐くのも嫌だし言いつけ通りにしようと思ったのも束の間、身体に鎖が巻き付くような、嫌な感覚に襲われた。

 

 これも覚えのある不快感だ。いや、こちらに関しては吐き気以上に慣れていると言っていい。

 ステラとの戦闘訓練で散々喰らって──もとい、お世話になっている便利系魔術(禁術)。支配魔術の感覚だ。

 

 「家に入れ、と言ったはずだ。《ドミネイト》」

 「な、ぁ……!?」

 

 そんなに道端でゲロを吐くのが許せないのか、なんて、甘い勘違いはしない。

 もともと服装だけでカルトを連想していたのだ。あの地下祭祀場で喰らったものと同じ魔術を受けて、そんな悠長な思考をしている余裕は消え失せた。

 

 殺す。

 なるべく苦しめて、殺す。

 

 ──と、そう内心で息巻くものの、フィリップの魔力抵抗では支配魔術にレジストできない。

 ぎちりぎちりと軋むほどに奥歯を噛み締めて、しかし命令に忠実に、腐臭の充満した家の扉に手を掛ける。

 

 ほんのわずかに隙間が空いただけで漏れだしてくる腐臭に耐えながら、自動的に動く身体が家の中へ踏み入る。その少し後ろには、攻撃魔術を照準した黒ローブの男が付いて来ていた。

 扉を開けた瞬間から聞こえていたフレデリカの泣き声は、廊下を一歩進むごとに大きくなる。

 

 「二つ目の扉に入れ。吐くんじゃないぞ、汚れが()()()

 

 憎悪も殺意も無視して、主ではなく敵対者に従順なフィリップの身体が扉をくぐる。

 瞬間、部屋の内装より先に目に入る、赤、黒、赤、黒。鼻を突く腐臭、鉄臭、異臭──死臭。蠅の羽音が耳に障り、心を掻きむしるようなフレデリカの泣き声を少しだけ掻き消した。

 

 フレデリカはどうやら別室──時折吐き戻す音も聞こえてくるから、トイレにいるようだ。

 

 リビングにはソファや暖炉、飾り棚などがあり、家の主が研究の中で集めたのだろう、歴史の本で見たような太古の調度品が飾られている。

 

 床には赤紫色の──赤紫色だったカーペットが敷かれ、本が散乱し、その上から糞尿と、吐瀉物と、血と、臓物と、人体の何かが散らばっていた。

 靴の下で、ぐちょりと湿った感触がある。

 

 部屋の中央にはアンティーク調の椅子が置かれ、誰かが座っている。

 フレデリカではない。彼女の祖父だろう。

 

 顔が無い。──鈍い刃物で削ぎ落されている。

 両手足の指が無い。──ちょうどそのくらいの肉片が、椅子の周りに落ちている。

 腕と足が腐っている。──傷が化膿したというわけではなく、魔術か薬品による拷問のせいだろう。

 腹が無い。──肋骨が見えるほど大きく切り開かれた腹部には肺と心臓くらいしか残っておらず、他の内容物は床にぶちまけられて蛆の餌になっていた。

 

 ──彼女は、これを見たのか。

 今のフィリップですら残酷だと思うほどの、およそ人の所業ではない凄惨な拷問を受けた、彼女の祖父の残骸を。それはまた随分と惨いことをする。女性でなくてもトイレで吐き戻したくなるだろう。

 

 フィリップに感じられるのは、そこまでだ。

 フレデリカの為に怒り、彼女の悲哀に共感し、正義感や道徳心で男を責めるような人間性は残っていない。

 

 フィリップの心中を埋め尽くすのは、自分自身の憎悪と殺意だけだ。それもこの男個人に対するものではなく、カルトという記号に対する希薄なもの。

 

 ほんの少しだけ、罪悪感がある。

 この男がフレデリカのお爺さんを殺したのは確定だろう。フレデリカは心をぐちゃぐちゃにされて、泣きながらトイレで吐いている。なら──この男を殺すのは、フレデリカであるべきではないのか?

 

 フィリップが、カルトは死ねと条件反射的に、害虫を踏み潰すような気軽さで殺すべきではない。

 フレデリカが、家族を殺された憎悪と殺意をぶちまけて、彼女の感情で殺すべきなのではないだろうか。

 

 「お前たちが“神を冒涜する書物”を探していることは知っている。在りかを言えば、そうはならないぞ」

 

 そう、とは、拷問の末に殺されたフレデリカの祖父の死に様を指しているのだろう。それは人間らしさ、人らしい生と死に拘る相手には特に有効な脅しかもしれないが、フィリップには効かない。

 フィリップは自分の口が勝手に動かないことを確認して、ほっと一息つく。支配魔術が解けているのなら、人間の脅し──脅威ではない存在の脅迫なんて、音の羅列だ。

 

 ステラが言っていた。

 支配魔術が一度に命令できるのは、連続性のある動作だけだと。「現れたモノを讃える」「母なる神を讃える」「術者の動きを再現する」などだ。

 

 その限定性のわりに、消費魔力はとんでもなく多いとも言っていた。並の魔術師なら連続で3回、宮廷魔術師のようなトップクラスでも連続10回以下だそうだ。しかも、行使には特殊な適性が必要で、ルキアですら支配魔術は使えないのだとか。

 

 男は質問に答えろという命令を乗せた支配魔術を使っていない。

 それは恐らく、詠唱に必要な量の魔力が残っていないか、詠唱すると魔術戦に支障が出る程度の残量しかないからだ。

 

 家に入り、この部屋に入ったことで目的達成と見做したのか、支配魔術の効果は解けている。依然として後頭部には攻撃魔術が照準されているが、脅威ではない。

 

 とはいえ、相手に隙が無いのも事実だ。さて、どうするか。

 

 「僕たちも探している途中なので、言いたくても言えません。……次の暗号は、二等地の──」

 

 ……男の脅し文句は、フィリップには効いていない。これは本当だ。さっき受けた支配魔術も、部屋に入った時点で効果が終了している。

 

 ただそれはそれとして、フィリップには自分から教えるに足る理由があった。言うまでも無く、このカルトがなるべく惨たらしく、苦しんで死ぬことを望んでいるからだ。

 

 投石教会にはナイ神父とマザーが──今のフィリップでさえ手に負えない最強格の邪神が二柱もいる。彼らがフィリップの希望に沿って動くかどうかは未知数だが、外敵を見逃すことはないだろう。

 

 心の中で中指を立てたフィリップが投石教会の名を出そうとした、その寸前だった。

 

 「言っちゃ駄目だ!」

 

 いつの間にトイレから出ていたのか、リビングの前にいたフレデリカが叫ぶ。

 大声で制止されたフィリップが口を噤むと、男は深々と溜息を吐き、左手でフレデリカにも魔術照準を向ける。

 

 そしてその時点で、フレデリカの攻撃は既に終わっていた。

 

 「ッ!?」

 

 がくん、と、男の膝から力が抜ける。

 突然のことにも関わらず、男が浮かべているのは驚愕ではなく苦々しい表情で、一瞬で攻撃の正体に見当が付いたのだと分かった。

 

 「対魔物鎮静ガス──シュヴァイグナハト……か……」

 「……博識な外道も居たものだ」

 

 どさりと頽れた男に憎悪の籠った一瞥をくれ、しかし、フレデリカは何もせずにフィリップの下へ駆け寄る。そして震える手で一本の試験管を取り出すと、何が起こったのか分からず立ち尽くすフィリップに差し出した。

 

 「さぁ、解毒剤だよ。ごめんね、一定以上の魔力を持つ相手には覿面に──あれ?」

 「……大丈夫です」

 

 ピンピンしているフィリップとぐったりと斃れ伏した男を交互に見遣る、困惑も露わなフレデリカに手を振る。

 

 錬金術製対魔物鎮静ガス、シュヴァイグナハト。

 睡眠効果のある薬草を主原料とするそれは、主に王都外の村で魔物避けに使われる。保有魔力が特定の範囲内にある対象に効果を発揮し、概ね下は下級魔物のゴブリン、上は中級魔物のメタルファーウルフまでである。

 

 つまり、スライムなどの弱い魔物と、ドラゴンなどの強い魔物には効かない。

 

 フレデリカは一人で「流石Aクラスだね!」などと納得しているが、それは違う。

 保有魔力が特定の範囲内にないという意味ではその通りだが、はみ出る方向は上ではなく、下だ。

 

 「僕、一般人並みの魔力量しかないので」

 

 これに関しては世界最高の魔術師二人からのお墨付きだ。

 「一定以上の魔力を持つ相手を害する」ガスになんて、影響を受けるはずが無かった。

 

 

 

 



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144

 ほぼ自虐の説明もそこそこに、フィリップは「さて」と気持ちを切り替えて、倒れ伏した男を見遣る。

 

 ステラではないが、合理的に考えるなら、いま殺しておくべきだ。

 この男は、どういう訳か“神を冒涜する書物”について知っていた。カルトがそれを求めることに違和感はないが、どうやって知ったのかには多少の疑問が浮かぶ。

 

 まぁ、それは単なる好奇心だ。いま重要なのは、こいつが人を拷問し、殺してでもそれを手に入れようとしていること。フィリップとフレデリカの前に、敵として立っていることだ。もう寝ているが。

 

 今なら抵抗も受けず、何なら領域外魔術を使うまでも無く殺すことが出来る。

 

 「先輩、こいつ──」

 「……先を急ごう、カーター君」

 「今のうちに……え? 続けるんですか?」

 

 フレデリカの発した意外な言葉に、フィリップは思わず聞き返す。

 「衛士を呼んできて」とか「魔術学院に帰ろう」とかなら、従うかは別にしても納得はできる。だがまさか、祖父を殺された彼女が率先して進もうとするなんて。

 

 「……あぁ、すまない。気が回らなかったよ。一先ずは衛士団の詰所に寄ろうか。神を冒涜する書物はその後、私一人で探すよ」

 「あ、いえ、そうじゃなくて」

 

 この状況でフィリップの心配をする余裕があるのは頼もしいが、些か異常とも言える。

 その双眸に狂気の色が混ざってはいないかと観察するような視線を投げたフィリップに、彼女は誤魔化すような笑顔を返す。

 

 「私なら大丈夫だよ。むしろ──」

 

 フレデリカが言葉を言い終える前に、玄関のドアノッカーが硬質に響く。

 こんこんこんと三度鳴っただけのそれは日常にありふれた音のはずなのに、二人は同時に、そして明確に「不味い」と感じた。

 

 このタイミングでの来客。

 いや、もちろんご近所さんとか手紙の配達とかかもしれないけれど、どうしてか直感的に感じたのだ。開けてはならない。ドアの前には敵がいる、と。

 

 「先輩」

 「あぁ、話は後だ。裏口から出よう」

 

 迅速な、そして齟齬の無い意思疎通を終えた二人は裏口を飛び出す。

 フィリップは最後に「殺すべきかな?」と男を一瞥したが、結局止めた。理由は単純かつ感情的なもので、昏睡状態のまま死ぬなんて甘い死に方は、カルトの最期には相応しくないと思ったからだ。もっと苦しんで死ね、と、そういうことである。

 

 家と家の隙間を通り抜け、裏路地を走る。目指す先は、一先ずは人通りの多い大通りだ。

 

 路地と比べて明るく、休日ということもあって活気のある大通りまで出た二人は、大きく深呼吸する。

 全力疾走は一分そこらだったけれど、腐臭漂う家から出てきたのだ。ただの町中の空気でさえ美味しく感じる。

 

 しばらく息を整えて、二人は通常のペースで歩き始めた。

 

 「はぁ、はぁ……二人目も昏倒してくれてると嬉しいんですけどね」

 「そうだね。でも、あれは即効性重視で持続性は薄いんだ。十分もすれば目が覚めてしまうよ」

 「そうなんですか。なら、今のうちに投石教会に逃げましょう」

 

 フィリップの言葉は、ナイ神父が聞けば嘲笑を、マザーが聞けば愛玩の冷笑を浮かべるものだ。

 投石教会に逃げるという言葉の裏には、「あそこは安全だ」という強固な認識がある。ナイ神父とマザー──ナイアーラトテップとシュブ=ニグラスへの信頼が、その認識の根幹だ。フィリップは「そんなことはない」と言うだろうが。

 

 「あぁ、いや……どうだろう。ここから離れることには大賛成なのだけれど……」

 「え? さっきの暗号は投石教会を指していたのでは?」

 

 真剣に悩んでいる様子のフレデリカに、フィリップは首を傾げる。

 投石教会がゴールなのか、それともただの経由地点なのかは不明だけれど、先に進むのなら次はそこのはずだ。

 

 「それは、そうなのだけれど。……さっきの男、あれは多分、“使徒”と呼ばれる教皇庁の秘密組織の一員だ」

 「…………え?」

 

 なにそれ、とか。何でそう思うの、とか。秘密組織なのに何で知ってるの、とか。色々と思い浮かんだ疑問の出力が間に合わず、たっぷり五秒は絶句してから、たった一文字を捻り出したフィリップ。

 

 言葉不足に過ぎる疑問文にしかし、フレデリカはそこに込められたすべての疑問をしっかりと汲み取っていた。

 

 「一神教の教えに対する重篤な違反──たとえば棄教や冒涜のような大罪を犯した者を秘密裏に殺す、教皇庁の刃。枢機卿の指先。大陸中でカルトを拷問して殺している、なんて噂もあるよ」

 「へぇ、それはまた」

 

 カルト殺し、それも苦しめて殺す集団とは。それは何とも、フィリップ好みの性質だ。残念ながら、フィリップも討伐の対象になりそうだが。

 

 フィリップがまともな人間だったのなら、仲間にしてくれと頼んでいたかもしれないけれど、その場合はそもそもカルトに対する憎悪が無い状態だ。カルト狩りに対するモチベーションも無い。どうあっても仲良くできそうにない相手だ。

 

 ……いや、今はフィリップの個人的感想なんてどうでもよくて。

 

 重要なのは、そのカルト狩りがフレデリカの祖父を殺したこと。そして、フィリップとフレデリカをも敵視しているらしいことだ。

 

 「つまり、僕たちもカルトだと思われてるってことですか? 先輩のお爺さんも?」

 「あぁ。そして恐らく、“神を冒涜する書物”は……()()だ」

 

 重々しく言ったフレデリカに、フィリップは頭を抱える。

 

 教皇庁が「神を冒涜する書物」と定義したからといって、それが人類圏外産の魔導書だという証拠にはならない。単なるカルトの教典だとか、聖典に対する批判文だとか、率先して焼く必要も無いような紙切れである可能性の方が高いくらいだ。

 

 だが依然としてゼロではない。それが人間社会を汚染する智慧を記した本物の禁書である可能性は、決してゼロではないのだ。

 

 フィリップがそれを探し続ける理由は、未だ消えていない。

 事前に危惧していた「神官に怒られる」なんて甘いレベルではなく、教皇庁の秘密組織まで出張ってくる事態になってはいるが、投石教会まで逃げればフィリップの勝ちだ。

 

 問題は──

 

 「カーター君。キミは学院に戻るべきだ。衛士団の詰所に行って、事情を話して護衛して貰うといい」

 

 善意と道徳心でフィリップを遠ざけようとする、フレデリカへの対処だ。

 “宝物”を独占しようとか、意地悪してやろうとか、そんな邪念が一切籠らない、純然たる配慮なのは分かる。フィリップが教皇庁に睨まれたり、破門されることの無いようにと、心配してくれているのは分かる。

 

 だが、何故フィリップだけなのだ。

 

 「先輩こそ、学院に帰ってください。僕は最悪の場合でもルキアと殿下に頼れますけど、先輩には何の後ろ盾も無いでしょう?」

 

 奴はフレデリカのことを知っていたが、フィリップのことは知らなかった。単なる連れだと、そしてすぐに殺す相手だからと、名前さえ訊かなかったほど興味を持っていなかった。

 

 いま狙われているのは「神を冒涜する書物」であり、それを見つけられるフレデリカだ。

 

 奴らが彼女がそれを見つける前に殺すのか、見つけた後で諸共に焼くつもりなのかは不明だが、フィリップとしてはどちらも御免だ。……もし“宝物”が人類圏外産の魔導書で、読んだ彼女が発狂した場合は別だが。後始末をしてくれるというのなら、任せることに抵抗はない。

 

 まぁ、それはさておき。

 フレデリカを帰したあと、彼女抜きで暗号を解読できるかという問題は残るものの、それも最悪、ナイ神父に頼れば一瞬で解決する。

 

 さてどうやって説得するかとフィリップの脳細胞が過熱し始めた、その直後だった。

 

 「見つけましたよ、お二方」

 

 首筋に刃が触れたような、底冷えのする声。

 休日の大通りの賑わいを縫って、二人の耳を刺すような女の声だった。

 

 慌てて振り向いた二人の前に、先程の男と、同じく黒いローブを着た女の二人組が立っている。

 

 「……お、驚いたな。薬剤に耐性があるのか」

 

 フレデリカは声と身体を震わせながら、フィリップを庇うような位置に立とうと動く。しかし、彼女は医学的な意味で人の生死に触れてきたのかもしれないが、戦闘に、次の瞬間には自分が死んでいるかもしれないという状況には不慣れだ。

 

 恐怖に塗れた緩慢な動き。逃げ場を探したいのに、敵に焦点が合い続けるせいで彷徨い続ける視線。一刻も早くこの場から逃げ出したいのに、震えて思い通りにならない手足。

 

 何ともまぁ、無様なことだ。普段の貴公子然とした──演劇の登場人物のような立ち振る舞いはどこへやら、これでは普通の人間だ。

 

 けれど、まぁ──()()に立たれると、どうにも弱い。

 被って見えるのだ。フィリップを守って死地に赴いた衛士たちに、あの美しい人間性を見せてくれたルキアに。

 

 時と共に薄れつつあった憧れが、強烈に想起される。

 こんな時、彼らなら、彼女ならと、そう考えさせられる。──いや、考えるまでもない。

 

 「……先輩、下がってください」

 

 ベルトに巻いていたウルミを抜き放ち、威嚇を兼ねて調子を確かめるために振るう。ひゅん、ぱしん、と鋭い音の連続に、道行く人が何事かと顔を向け──迷惑な子供だと顔を顰めて歩き去る。

 

 「鉄鞭、いや、ウルミか。妙な武器を使うな」

 「僕の体格で敵を殺すなら、これで首を叩き折るのが早いですからね。それに、体力も使わなくていい」

 

 言葉と行動の二つによる威嚇は、フィリップらしからぬ行為だ。

 威嚇というのは、圧倒的格下に向けるには不似合いな行為だから。狼は兎相手に唸ったりしないし、ドラゴンはゴブリン相手に翼を広げたりしない。人間だって害虫相手に威嚇したりせず、速やかに踏み潰す。

 

 普段のフィリップだってそうする。

 人間も、悪魔も、旧支配者も、外神の落とし仔も、一様に無価値なものだ。わざわざ「殺すぞ」なんて恫喝をしたり、どう殺すかを話して恐怖を煽る必要はない。

 

 今のフィリップの彼らしからぬ言動の裏には、ウルミを用いた近接戦闘能力に対する不信感があった。

 要は、殺し切れる自信が無かったのだ。あわよくば退いてくれないかな、なんて期待さえ抱いている。

 

 「おじさん達がカルトじゃないなら、僕も苦しめて殺す理由はありません。ただ──」

 「だが、俺たちはカルトを殺す。たとえ貴様のような子供でも」

 

 ──この腹立たしい勘違いさえ解けるなら、今の殺意の希薄な状況を維持できるのだけれど。

 

 「一応、言葉にして訂正しておきます。僕たちはカルトではありません。僕たちはただ、彼女のお爺さんの土産物──おじさんの所為で形見になってしまった本を探しているだけです」

 

 まぁ、これで、人間的道徳への義理立ては済んだだろう。次に僕をカルトだと言ったら殺そう。

 

 離れたところを飛ぶ羽虫を見るような目で二人を見つめながら、後ろ手にフレデリカに向けて手を振る。「下がれ」と受け取れるボディランゲージには、正確には「逃げろ」という意図を籠めていたのだけれど、フレデリカは数歩だけ下がって動きを止めた。

 

 フィリップからは見えないが、彼女も彼女で複数の試験管を、いつでも投擲できる姿勢で構えている。その手足は戦闘と殺人、そして死の恐怖によって震えていたが、双眸に灯る憎悪の炎を原動力に、この場から逃げようとはしていなかった。

 

 「言いたいことはそれだけか?」

 

 眼前の二人が同時に右手を上げ、フィリップに魔術の照準を合わせる。

 殺気を感じ取れるほど武道に精通しているわけでも、人間に脅威を感じるわけでもないフィリップには分からないことだが、二人は本気でフィリップを──11歳の子供を殺すつもりだった。

 

 別に、それが不道徳だなんて怒るつもりはない。女子供も関係なく殺すという点ではフィリップだって同じだし、何ならフィリップは殺すという目的も無しに、巻き込んだという自覚すら無しに人を殺すかもしれない。邪悪さで言えばフィリップの方が上だ。

 

 男の安い恫喝──最後通牒に肩を竦め、無言のうちに「話すことはない」と返す。

 

 「レオンハルトは殺さないように。訊くべきことが残っています」

 「分かっています」

 

 二人の魔力が掌に収束し、雷の槍と氷の槍を形作る。

 無詠唱ではあったが、大きさと形状から見て初級魔術の『サンダー・スピア』と『アイス・スピア』だ。非魔術師の子供を殺すには十分かもしれないが──

 

 「では死──何ッ!?」

 

 ──こっちは、同じ魔術を光属性最強の魔術師に撃たれて鍛えられたんだ。止まって見えるとまでは言わないが、余裕で避けられる。

 

 「ふッ──!!」

 

 雷の槍を避けて振り抜いたウルミは、予備動作無しにしては十分な速度で男の顔面を襲う。

 

 獲った、とは思わない。

 ルキアなら魔力障壁を展開して難なく防ぐだろうし、ステラならおまけでカウンターまで飛んでくる。彼女は一人でそれが出来て、今の相手は二人組だ。同じことをしてくる可能性は十分にある。

 

 左手を少し動かし、女の方を照準しておく。

 

 ひゅん、と鋭い風切り音と──魔力障壁に衝突する擦過音。やはり防がれた。

 

 魔力障壁を展開したのは、どうやら女の方だ。

 男の方は大きくバックステップして距離を取っていた。さっきは支配魔術まで使っていたのだし、魔力残量が心許ないのだろう。

 

 だがしっかりと、フィリップの攻撃を見切っている。……流石に、ウルミ一本では厳しい相手か。

 

 「……どうやら、貴方を侮っていたようです」

 

 苦々しい口調で、女が言う。

 言葉は全く足りていないが、それはフィリップへの称賛と、自分たちの観察眼への落胆を表すものだ。

 

 「子供とはいえ、飛び級で魔術学院に入学するだけの才覚はあるようですね」

 

 相手二人の纏う空気が一変する。

 フィリップにも感じられたということは、それは戦意や殺気と言った抽象的なものではなく、活性化した魔力によるものだ。

 

 次は、初級魔術では済まない。そう確信できた。

 

 

 

 



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145

 道の片隅とはいえ休日の大通りでウルミを振り回し、魔術を撃っていれば、誰かしらが止めに入ってくる。

 それは道行く大人や、近くのお店の人や、棒を持った自警団のおじさんだ。この場面を目撃している人が何人か近寄ってきて、一様に息を呑んで止まる。

 

 数か月程度とはいえ聖痕者に鍛えられた──最強の魔術師に武器戦闘を教わったナンセンスはさておき──フィリップと、教皇庁の秘密組織構成員の戦闘だ。その周囲数メートルは、一般人が軽々に踏み入ってよい領域ではない。そう悟らせるだけの気迫が両者から迸り、制止となっていた。

 

 だから──フィリップと“使徒”の二人の間にある、五メートル程度の空間。

 そこに悠々と踏み入ってきた二人の男は、この場にあっては明確な異分子だった。

 

 「そこまでだ、“使徒”のお二人さん」

 「早急に選んでくれ。退くか、逃げるか、撤退するか」

 

 二人は共によく鍛えられた長身で、長袖に長ズボンというラフな格好をしている。長剣を握っていなければ、ただのガタイのいいお兄さんといった風情だ。

 彼らは揃ってフィリップたちに背を向け、庇うように立っている。

 

 口調は軽く、剣もだらりと下げたまま。鋭く研ぎ上げられたロングソード以外からは、まるで威圧感を感じない。

 だというのに、使徒の二人は警戒も露わに数歩下がる。

 

 「……教皇庁と王宮で話がついているはずですが」

 

 言い訳とも牽制とも取れる女の言葉に、乱入した男の片方が「そうだな」と軽く応じた。

 そんな情報を知っていて、教皇庁の特殊部隊が警戒するレベルの剣士となると、その所属はかなり絞られる。騎士団か、衛士団か。

 

 どちらにせよ、王国に仕える公人だ。

 その立場で教皇庁の人間に盾突くのは、実際のところかなり不味い行いだったりする。

 

 「では、王国は教皇庁との取り決めを無視すると?」

 

 女の言葉に、周囲の空気が一気に冷える。

 教皇庁──延いては教皇が破門を宣言した者は、たとえ国王でも生死不問の重罪人扱いだ。そして、それは()も例外ではない。

 

 もしも王国そのものが破門されてしまえば、大陸に存在する他の国、聖王国と帝国は総力を挙げて王国を征伐することだろう。その時は軍対軍の戦闘ではなく、一般人も──老若男女を問わず掃討する、絶滅戦争となる。

 

 フィリップのような信仰も薄く、国際社会にも詳しくない人間は「そんなことになるの?」と訊きたくなる言説だが……なる。

 

 一神教は単なる宗教ではなく、大陸の全国家、全国民が共通して持つ道徳心のベースだ。

 人を殺してはいけません。物を盗んではいけません。約束は守りましょう。嘘を吐くのはいけないことです。そんな当たり前のルールすら、一神教の聖典に基づいて教えられている。

 

 国際条約はおろか、戦争だって一神教に基づくルールの下に行われるのだ。

 

 では、「彼らは一神教を信じていない」と宣言された者は、信者からどう見えるのか。

 簡単だ。「彼らは同じ道徳心を持つ人間ではない」と、そう見える。

 

 そんな相手と交渉が出来るか? 無理だ。

 そんな相手と和平が結べるか? 無理だ。

 

 同じ道徳心を共有できない、共通の認識を確立できない相手なんて、同じ人間ではない。そんな相手と握手をするなんて怖すぎる。

 

 そんな思いがあるからこそ、自分たちがそこに落ちるのは絶対に嫌だと、誰もが思っていた。

 

 乱入した男たちがどう答えるのか。

 恐怖混じりに、周囲の人々は固唾を呑んで成り行きを見守る。

 

 「王国? 何を言ってる? 俺たちは王国人だが、国とは何の関係もないぞ?」

 

 男はそう言って、揶揄うような笑みを浮かべる。

 片割れも笑ってはいたが、それは相棒への呆れ笑いだ。

 

 「思わせぶりなことを言うなよ。皆に迷惑をかける気か?」

 「おっと、そうだったな。そうしないために衛士団を辞めたんだった」

 

 二人は大仰に肩を竦め、両手を挙げて笑い合う。

 剣を持ってはいるものの、どう見ても戦闘態勢ではない。

 

 しかしその存在感と衛士団という名前は、“使徒”の二人に後退を強いる。

 

 「衛士団だと? 貴様ら──」

 「いやいや、違うって。俺たちは衛士団を辞めたの。今はただの一般市民。王宮なり衛士団本部なりに問い合わせてくれたっていいぜ」

 

 ぎちり、と、“使徒”の男が悔しさのあまり歯を食いしばる音がする。

 

 “使徒”とて教皇庁が擁する特殊部隊であり、その職務にはカルトの殲滅などの戦闘も含まれる。だが、王都衛士団は王国が擁する最強の武装組織だ。

 

 ──戦えば、負ける。

 

 「退きましょう、テネウ」

 「……えぇ」

 

 名前を呼ぶなという指摘も忘れ、テネウが魔術で閃光を放つ。

 元衛士の二人は閃光が消えたのとほぼ同時に、近くの民家の屋根に向かって合図を送る。周りの人は閃光をもろに受けるか、何が起こったんだと周囲を見回していて気付かないが、そこには共通の意匠がある鎧を着た衛士が潜んでいた。

 彼らは合図を受けると、閃光と共に姿を消した二人を捕捉し続けているのか、迷うことなく屋根から屋根へと飛び移って姿を消した。

 

 「……ふぅ。怪我はないかい、カーター君──あれ?」

 

 フィリップとフレデリカを助けてくれた元衛士団だという彼は、振り返った先にいるはずの子供たちの姿が何処にもないことに気付く。

 

 「さっきの男の子なら、アンタらが来たすぐ後ぐらいに、女の子連れて逃げてったよ」

 「え、あ、そうですか……」

 

 元衛士団の二人は、別にいいけど締まらねぇなぁ、と笑い合う。

 

 「ま、これで恩は返せたな」

 「あぁ。あの子には俺らの隊の全員が救われたんだ。“使徒”相手に大嘘こくぐらい、やってやるさ」

 

 嘘。──そう、嘘だ。

 彼らはかつて悪魔との闘いに敗れたところを救ってくれた少年のため、衛士団を辞めて()()()()()

 

 最悪の場合に備えて辞表を提出してはいるものの、それは未だ受理されておらず、団長の机に山積された未処理書類の山に埋もれている。尤も、万が一の場合には速やかに、提出日に受理されたことになるのだけれど──そうはならないだろう。

 

 なんでも、王都内での教皇庁暗躍という重大事に対して、衛士団長──現在、騎士団解体に伴って近衛騎士団長は一時的に全権を剥奪されているため、衛士団長が軍事部門のトップとなっている──は、対教皇庁におけるジョーカーの使用を宰相へ提言したのだとか。

 ジョーカーとはつまり、王国にいらっしゃる三人の聖人、聖痕者たちのことである。

 

 今日は折よく彼女たちを王城へ招聘し、教皇庁側の使者と来年度の催事について打ち合わせをすることになっている。そこで厳重な抗議をして数日もすれば、彼らには王都から撤収せよとの命令が下るはずだ。

 

 そうならなかったら、まぁ、その時はその時だ。恩人に報いて組織を去るっていうのも、中々に洒落たことだろう。

 

 

 

 ……そんな甘いことを考えている彼らには悪いが、現在、王城ではステラとルキアが「教皇庁の狙いは暫定カルトのフレデリカ・フォン・レオンハルト? 馬鹿が。彼女の頭脳は王国の財産だぞ」「待って? フィリップが一緒に出掛けている子よ」「あいつは本当に……!」と、ひそやかな会話を繰り広げていた。

 

 密やかに声を殺していたのは、二人はいま王城の中でも3番目に高等な応接会議室にいて、教皇庁の使者と従者が対面に、そして上座には国王と宰相がいるからだ。ついでに言うと、ヘレナも二人と並んで座っている。

 

 王都二等地にて教皇庁暗躍の報が飛び込んだ会議室では、議題を一先ず置いての現状把握が選択された。

 

 その後、色々と情報を集めた教皇庁の使者は、状況を淡々と説明する。

 

 「現在、“使徒”は準軍事級規模の作戦行動中のようです。目標は推定カルトのレオンハルト、およびその同行者一名。アプローチは見つけ次第殺す(サーチアンドデストロイ)。いつも通りのカルト狩りですな」

 

 彼の口調には淀みが無く、自分たちは正しいことをしているのだという絶対的な自負が感じられる。

 

 「あいつがカルト? はっ、有り得んな」

 「えぇ。私の友人を侮辱するのも、攻撃するのも、度し難いことだわ」

 

 しかし、或いは当然ながら、彼女たちは教皇庁の使者に対して冷酷無比な視線と、それに見合った声を向けた。

 

 「もしも、あいつを殺してみろ──」

 「もしあの子に何かあったら──」

 

 落ち着けと宥めるヘレナと、国王と、宰相を無視して、二人は声を揃える。

 

 「──教皇領をソドムに変えてやる」

 

 ソドム──かつて大罪を犯し、神の使いに反逆し、遂には唯一神自らが裁定を下し、四大天使が一たるガブリエルによって滅ぼされた最悪の町。

 天上より降り注ぐ焼けた硫黄が街並みを焼却し、罪人は塩の柱に変えられ、終ぞ人の住める場所ではなくなった災厄の地。

 

 一神教における罪と罰の象徴の名を出され、教皇庁の使者が怯む。或いは聖人二人の怒りに触れてかもしれないが。

 

 「す、速やかに、当該部隊の撤収を枢機卿に進言させて頂きます!」

 

 使者が合図をすると、彼の背後にいた従者が慌ただしく部屋を飛び出していく。

 しかし、それでは遅いと、“使徒”の戦闘能力と手の早さを知るステラは眉根を寄せた。とはいえ、現状、ただの使者でしかない彼に確約できるのはその辺りが限界だというのも分かる。

 

 「……親衛隊から何人か回して探させろ。金髪に青い瞳、10歳くらいの子供だ。顔立ちは平凡。身長はこのくらいで……そう、今朝私と話していた子供だ。あとは……ウルミを持っている」

 「懐中時計もね。……マルグリット、貴女も行きなさい」

 

 二人はそれぞれの従者に命じ、自分たちも探しに行こうと目配せをして席を立つ。

 しかし、流石にそれには待ったがかけられた。

 

 「待つのだ、ステラ。聖下も、お待ちください」

 「お待ちください、殿下。ルキアも、少し落ち着いて」

 

 声を上げたのは、部屋の上座に据えられた玉座に坐す現国王、アウグストゥス2世。そしてその横に控える宰相、アレクサンドル・フォン・サークリス。単純な社会的序列に照らせば、この会議室の中で最も偉い人と、二番目に偉い人である。

 

 「我らは仮にも使者を迎えた立場。身勝手に場を辞すことは許さぬ」

 「はい。それに使者殿の目的は、あくまで来年度の大洗礼の儀についての打ち合わせです。本来の目的を、どうか思い出して頂きたい」

 

 二人の言葉に、ステラは一瞬だけ悩み、渋々といった様子で腰を下ろす。

 しかし、ルキアはそんな友人と一瞬だけ視線を交わしたあと、不満そうに父である宰相と恐縮しきった様子の使者を順に見るだけで、座り直そうとしない。

 

 「私の友人を殺そうとしている相手の都合で、私の友人を殺そうとしている相手の話を聞かなくてはならないの? 冗談でしょう?」

 

 苦笑どころか嘲笑すら混じった言葉に、宰相が呆れたような溜息を、ステラが押し殺した失笑を溢す。国王だけが、一連の会話を満足げに聞いていた。尤も、彼の鉄面皮はそれを他人に悟らせはしないのだが。

 

 ステラは一頻り笑った後、父である国王に向けて、第一王女としての立場から慇懃に話しかける。

 

 「確かに、相手は勘違いとはいえ無辜の民をカルト扱いし、殺そうとしている罪人です。斯様に愚劣な輩の言葉に耳を貸すことは、王国の将来を思えばこそ避けるべきかと存じます。陛下」

 「口を慎むのだ。教皇庁と王宮はカルトの裁定権譲渡に関する約定を交わしている。彼らの行為には何ら犯罪性は無い」

 

 言葉の内容こそ叱責であったものの、国王の語調は穏やかだ。

 そのことに疑問を感じた後は、教皇庁の使者が状況を把握するのも早かった。

 

 一連の会話は全て予定調和、この対談を望む方向に誘導する筋書きだ。具体的には、王が二人を諫めてから。

 

 国王と宰相、つまり王国陣営は教皇庁に対して一定の尊重を図った。ステラも第一王女の立場から、一度はそれに従う。

 しかしルキア──貴族でありながら当主ではなく、その行いが王国中枢の行いとは直結しない立場の彼女は従わない。あくまで一個人として、友人に害を為そうとする者を糾弾した。

 

 そしてステラもまた聖人──神罰執行請願・代理執行権保有者として、“使徒”の過ちを弾劾する。直接ではなく、王への進言という形で間接的に。

 

 このままでは不味いと思ったのか、或いは一刻も早く対談を終わらせたかったのか。教皇庁の使者は、ここまで無言を貫いていたもう一人の聖痕者、魔術学院長ヘレナ・フォン・マルケルに水を向ける。

 

 「ま、マルケル聖下は、どうお考えですか?」

 「私は特に何も。カーター君がカルトではないというのは、私たちの主観的意見ですから」

 

 ヘレナはそう言って、柔らかな笑顔を浮かべる。しかしそれは、全く以て赦しの微笑などでは無かった。

 

 「ところで教皇庁は、私の教え子二人がカルトであるという客観的かつ具体的な、当人が言い逃れ出来ないような決定的証拠をお持ちなのですよね?」

 「そ、それは……」

 

 答えられない。

 そもそも今回の使者来訪の目的は「教皇庁の王国内における準軍事的作戦行動についての説明」ではなく、「来年度の催事についての打ち合わせ」だ。事が問題になった時点で情報を集め、報告を受けているとはいえ、作戦にGOサインを出したのは彼ではないし、責任の所在も彼ではない。

 

 彼は“使徒”の作戦入りを知ってはいたが、その詳細についてはまるで知らなかった。彼の提示できる答えはYESでもNOでも「お答えできません」でもなく。

 

 「ぞ、存じ上げていません……」

 

 知りません、という、悲しいものだ。

 

 心底申し訳なさそうに答えた彼に、ヘレナは今度こそ赦しの微笑を浮かべる。

 

 「では、本件について明確な回答のできる方を寄越してください。それまで、私たちは教皇庁における催事への参加を見送らせて頂きます」

 「す、速やかに帰領し、対応させて頂きます!」

 

 慌ただしく会議室を飛び出していった使者を見送ると、全員の視線が国王に集中する。

 

 王は溜息を吐くと、仕方ないなと言わんばかりに口角を上げた。

 

 「使者が帰ってしまったのでは仕方ない。今日はこれで解散とする。余は所用がある故、挨拶は要らぬ。速やかに退席せよ」

 

 その言葉を待っていたと、ルキアとステラが会議室を飛び出していく。

 どれだけ急いでいても、椅子を蹴立てたり、扉を荒く開閉したりはしない辺り、何とも育ちの良いことである。

 

 「よろしいのですか、陛下?」

 「……ふふ、構わないとも」

 

 部屋に残ったサークリス公爵も、王も、共に穏やかな笑みを浮かべている。

 

 それは、まぁ、仕方のないことだろう。彼らは共に王国の中枢であり、私情を捨てるべき公人ではあるが──娘を持つ父親なのだから。

 

 「あのステラが、サークリス聖下以外の友達を持って、あれだけ大切に思っているのだぞ? 娘の成長ぶりには驚いてばかりだが、今回はただ喜んでやれそうで嬉しいではないか。貴様もそうだろう?」

 「えぇ、無論です。昨年の夏に会いましたが、いい子でしたよ」

 「ほう? ステラは“仲の良いクラスメイトが出来た”程度のことしか言わんからな。どれ、少し話してくれ」

 

 御意に、と笑うサークリス公爵。

 この時点で国王の知る情報は、「ステラがルキア以外に特別な友人を作った」程度である。「()()()()()()()()()()()ならば、家柄も十分だ」とも。

 

 当然ながらその考えは公爵によって徐々に正され、彼は最終的にこう叫ぶ。

 

 「4歳下の平民の男だと!? それは、なんだ……その、会わねばならんな」

 

 

 

 

 



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146

 第三者の介入にこれ幸いと逃げ出したフィリップとフレデリカは、幸運にもフィリップの良く知る大通りに出られた。

 ここまで来れば、後は勝手知ったる道。夜中にベッドを抜け出して走ったことさえある道だ。道沿いの店も、そこで働く人も、そこの客すら顔見知りだったりする。

 

 「こっちです! あともう少し! あ、こんにちは! お久しぶりです! いま物凄く急いでるので失礼します!」

 

 奴ら──“使徒”とかいう連中は、追ってくるだろうか。いや、十中八九、追ってくるだろう。

 

 一瞬しか見えなかったが、乱入した二人はどちらも剣士のようだった。腕に覚えはあるのだろうし、交戦距離なら彼らが有利かもしれないが、相手は魔力障壁をウルミの一撃に間に合わせて展開する、高度に訓練された戦闘魔術師だ。しかも、防ぎ切るだけの強度もあった。

 

 腕利きの剣士相手でも撤退くらい容易だろうし、最悪、剣士の方が返り討ちに遭っているかもしれない。その場合は何処の誰かは知らないが、首を突っ込んだ自分を恨んでくれ。

 

 「良かった! 今日は空いてますね!」

 

 住宅地の片隅にある小さな道は、いつぞやと違って行列で埋まってはいなかった。

 もし「並びなさいよ!」とか言われた所為で追手に捕まったら、間抜け過ぎて笑ってしまう。

 

 「ここかい? 思っていたより普通の教会だね」

 「あぁ、はい。名前はちょっと変ですけど、教会自体は普通ですよ」

 

 教会自体は。

 

 「無事に辿り着けましたね……。もう大丈夫です」

 

 たぶん。

 事情を話せば、二柱の外神に保護された状態で魔術学院まで戻れるはずだ。何なら既に事情を知っていても可笑しくないし、ナイ神父に「あぁ、あの連中ならもう片付けましたよ」とか言われる可能性だってある。

 

 いや……本当に大丈夫か?

 ナイ神父はともかく、マザーは「貴女がフィリップくんを巻き込んだのよね? そう。蜂は仲間を呼んで襲うというけれど、その類かしら」とか言って、彼女諸共に攻撃するかもしれない。

 

 「その、本当に大丈夫だと思うかい? カーター君」

 「な、何がですか!?」

 

 タイミングの良すぎる質問に、思わず声が裏返る。

 まさか声に出ていただろうかと口を隠したフィリップに、彼女は不思議そうにぎこちない笑顔を向ける。どうやら杞憂だったようだ。

 

 とはいえフレデリカの顔に浮かんだ不安は本物で、フィリップが考えていた冗談のような危険性──冗談じみているのは言葉の上だけで、外神を知ってしまうと全く笑えない──に触発されたという感じではない。彼女は彼女の思考に基づいて、何か懸念を抱いたようだ。

 

 「“使徒”は教皇庁の部隊だよ? 教会は如何なる政治的干渉も受けないという建前だけれど、それでも教皇庁が統括する組織、施設だ。“使徒”から私たちを匿ってくれるかどうか、信用しきれない」

 

 なるほど、とフィリップは頷く。

 フィリップだって、ここが単なる教会であったのなら、そこの神官とどれだけ懇意であったとしても、避難先には選ばないはずだ。たとえそこが次なる目的地であったとしても、正面から入ることはせず、裏口からこっそり侵入するとか、とにかく人目につかないようにしただろう。

 

 でも、ここは大丈夫だ。

 彼らはフィリップの命令を何でも聞いてくれて、望む未来へ連れて行ってくれるデウス・エクス・マキナではないが、フィリップの味方であることだけは確実だ。

 

 「大丈夫ですよ。信じてください」

 

 言って、よく手入れのされた玄関扉を開ける。

 

 さっき訪ねた聖果教会とは違い、投石教会は小規模なバシリカ型教会だ。

 多くの人が訪れ活気ある教会というわけではなく、さりとて誰も来ない寂れた教会というわけでもない。閑散としていながらも、確かにここを訪れ祈りを捧げた人々の残り香のようなものが感じられる、身近で居心地のいい教会と言った風情がある。

 

 扉を開けるとすぐに回廊があり、最奥の顔の無い聖女像まで伸びている。

 聖女像の前に据えられた祭壇に向かって祈りを捧げていた神父は、扉の開く音に反応してゆっくりと立ち上がり、その緩慢な動作のままに振り返った。

 

 「やぁ、フィリップくん。お久しぶりですね」

 

 

 

 ようこそ投石教会へ。そう言って慇懃に一礼する、長身痩躯の神父。

 先ほど会った聖果教会の老神父とは違い、まだ年若い。二十代だろう。だというのに、その所作は彼より、いや、これまでに見たどんな神官や騎士よりも洗練されて美しかった。一礼して、顔を上げて、微笑を浮かべてこちらに歩いてくる。その一歩ごと、一挙動ごとが、老成という表現が不足するほどの歳月と研鑽を感じさせる。

 

 浅黒い肌と漆黒の髪、同色の双眸は、王国人ではないことを明らかに示している。

 この世のものとは思えないほどに整った顔立ち。すらりと長い手足。光を呑むような漆黒のカソックに、胸元で揺れる金色の十字架。

 

 ──完成している。

 

 フレデリカ・フォン・レオンハルトは、そう思った。

 

 フレデリカですら憧れる美しさの化身、ルキアにも劣らない──有り得ないことだが、単純な容姿の美しさだけなら勝っているとすら思える。そのうえ、フレデリカが見たどんな演劇より所作の一つ一つが洗練されている。

 彼の容姿、振る舞い、雰囲気。その全てに一片の粗もなく、ほんの少しの改善点も見つからず、見ているだけで放心してしまうような趣がある。目に入る全ての要素、彼を構成する全ての要素が、フレデリカの心を強烈に揺さぶっていた。

 

 「あ、あの!」

 

 声が上ずる。鼓動が高鳴る。顔が熱い。

 

 「どうされましたか? お祈りなら、どうぞ奥へ。それ以外でしたら、私がお伺いします」

 

 低く、それでいて穏やかな声は、とても耳触りが良い。

 こちらを萎縮させないようにという心遣いの窺える少し深めの微笑からは、彼の優しい性格が読み取れる。

 

 あぁ、私はいま、とても見てはいられない顔になっているだろう。

 そう自覚したフレデリカはしかし、赤らんだ頬を冷ますことも、早鐘を打つ心臓を抑えることもできず、ただただ茫然と彼を見つめていた。

 

 「ナイ神父、マザーはどちらに?」

 「おや、恋しいですか」

 「笑えない冗談ですね。姿が見えなかったので、気になっただけです」

 「先程、君の……いえ、モニカちゃんが来て、一緒に出掛けました。服飾店辺りに居ると思いますよ」

 

 二人の会話も、フィリップの愕然とした顔も、その後の慌てふためく様も、見ているのに、聞こえているのに、何も感じられない。視覚と聴覚で情報が終わって、理解や感情に繋がらない。

 

 「モニカと!? きょ、今日が初めてだったりしませんよね?」

 「ご安心を。今では休日のルーティン、週に一度のお出かけは日常ですよ」

 「そ、そうですか。それなら、まぁ……」

 「君の帰還には気付いているでしょうし、そろそろ帰ってくる頃合いでしょう」

 

 二人の会話が一段落するまでの時間を放心に費やして、フレデリカは漸く、多少の理性を取り戻す。

 

 彼女が落ち着きを取り戻して真っ先にしたことは、軽く咳払いして喉の調子を確かめることだった。その一挙動は図らずも、絶対安全圏に入ったことで気の抜けたフィリップに、いま置かれている状況を思い出させる効果があった。

 

 「あ、先に紹介するべきでしたね。先輩、こちらは投石教会のナイ神父です。ナイ神父、魔術学院の先輩、フレデリカ・フォン・レオンハルトさんです」

 

 フィリップの仲立ちに従って挨拶を交わす二人。フレデリカにしては珍しくガチガチに緊張していて、自然体のナイ神父と対照的だった。

 

 普段の凛とした彼女を良く知るフィリップだが、驚きはない。なんせ、相手はナイ神父──ナイアーラトテップの化身だ。その身に纏う美は同性でさえ魅了する人外のもの。鏡を見れば人類最高の美貌がいつでもそこにあるルキアだって、マザーの容姿には瞠目する。……ナイ神父に対しては、どうやら恐怖の方が勝るようだけれど。

 

 フレデリカは訥々と、二人の置かれた状況を語る。

 「神を冒涜する書物」を探していたこと。初めは単なる土産物だと思っていたそれは、どうやら“使徒”が狙う本物らしいこと。祖父が殺され、自分たちも追われていること。ここには単に避難してきたわけではなく、次の暗号か、或いは「神を冒涜する書物」そのものがあること。

 

 教会の安全性に不信感を持っていた彼女と同一人物とは思えないほど、正直に、詳らかに語り終えて漸く、フィリップの向ける生温かい視線に気が付いた。

 

 「……彼は信用できると思ったんだ」

 「……そうですか」

 

 別に責めてはいない。貴公子然として、そこらの男が霞むほどカッコいい彼女の、珍しい一面が見られたのだ。喜びこそすれ、怒ることはない。

 

 フィリップとフレデリカの会話が一段落するまで待っていたのか、少し空いた言葉の空隙に、ナイ神父が蛇のように滑り込んでくる。

 普段は何とも思わないことだが、今は、そして()()については、割り込んででも教えてほしかったことを、自然な調子で告げた。

 

 「“使徒”というと、彼らのことですね?」

 

 ナイ神父が挨拶と変わらない穏やかな調子で示した先の玄関扉が、ゆっくりと開いていく。ちょうど日の差し込む時間帯で逆光だったが、カソックにも似たローブのシルエットははっきりと判別できた。

 

 間違いない。さっきの二人だ。もう追い付いたのか。

 そう身構えるべき場面ではあったが、フィリップも、フレデリカも、およそ警戒と呼ぶべき動作を何一つとして取らなかった。ウルミも抜かない、魔術照準もしない、錬金術製道具も構えない。ただそこに立って、ナイ神父を見ているだけだ。

 

 「……我々は教皇庁外務局諜報課、“使徒”だ。そこの二人には暫定カルトの容疑がかかっている。こちらに引き渡して貰おう」

 

 神父といえば一神教でもそれなりに高位の神官のはず。王都で教会一つを任されるほどの相手ともなれば、尚更。

 ナイ神父個人がどうこうではなく、神父を相手に居丈高に命令できるということは、“使徒”は教会内部ではそれなり以上の権力と知名度を持っているということだろう。

 

 だから

 

 「お断りします」

 

 と、ナイ神父が彼らの命令を端的に切り捨てたことは、青天の霹靂だったに違いない。

 その衝撃には眼前の神父の顔をまじまじと見つめ、どこのどいつだと確認させる程度の効果はあった。

 

 そして、使徒の二人は同時に膝を折った。

 頽れたという意味ではない。ローブを翻し、フードを取って跪いたのだ。

 

 「失礼いたしました、()()()()。まさか、王都の教会にいらっしゃるとは」

 「使徒テネウ。そして使徒シメオン。まずは、任務に忠実な貴方達を労いましょう」

 

 怪訝そうな視線を向けるフィリップに一瞬だけ嘲笑を向け、すぐに聖職者らしい微笑に切り替えたナイ神父は、使徒二人の頭に触れる。

 洗礼を授けるような仕草を受け容れた二人に、彼は穏やかに、迷える子羊を導く聖人のように語り掛ける。

 

 「此度の任務はそれそのものが間違っています。レオンハルト教授は確かに幾度となく神を貶めるような研究を発表してきましたが、それでも、家族を思い遣る心を持った人でした。たった一人の孫娘に研究を託すような悪人ではありませんでしたよ」

 「……はい、神父様」

 

 ここを訪れた瞬間とは打って変わり、しおらしくなった二人が異口同音に答える。

 

 「フィリップくんは、私が特に大切にしている子です。魔術だけでなく、私しか知らないようなことも教えています。そんな彼が、カルトであると思いますか?」

 「……いいえ、神父様」

 

 二人は深々と、反省を示すように項垂れる。

 ナイ神父は、その頭をまるで幼子にするようにぽんぽんと撫でて立ち上がった。

 

 「撤収を。後のことは私に任せて、貴方達は後詰めの部隊を引かせてください。それと、もし今後また何らかの勘違いでフィリップくんが襲われたら──」

 

 そんなに離れていないはずなのに、ナイ神父の言葉の最後が聞き取れなかった。

 跪いて頭に手を当てた状態で話していたことまで聞こえる距離なのに。口は動いていたし、何より使徒の二人が顔を蒼褪めさせている。何か言ったのは間違いないはずだが。

 

 「か、畏まりました」

 「直ちに命を実行します」

 

 言って、二人は淀みの無い動作で立ち上がり、ナイ神父に一礼する。そしてフィリップとフレデリカの方にも深々と謝意の籠った礼をしたあと、たったいま入ってきた玄関扉に向かった。

 

 「……暗示とかですか? 洗脳?」

 「いえ、純然たる地位と権力です」

 

 フィリップはひそひそと問いかけるが、彼の目は依然として光を呑むような漆黒で、極彩色に輝いていたりはしない。尤も、彼が権能を使う時に瞳が輝くのは単なる演出で、その気になれば無挙動で世界だって滅ぼせるのだが。

 

 どちらがより悪辣なのかと考えたくなることを、にっこり笑って言うナイ神父。

 この場凌ぎの認識改竄ではなく、本当に彼らより高位の神官の地位を持つ化身らしい。

 

 「あぁ、君には話していませんでしたね。私は教皇庁外務局諜報課長“使徒”第一席、聖ペトロの名を戴く、彼らの指揮官です」

 

 ナイ神父は堂々とそう言って、フィリップに感情の読めない微笑を向ける。

 そんな、と、驚愕の声を漏らしたのはフレデリカだけだ。フィリップは「ふーん」と興味も無さそうに適当な相槌を打つ。

 

 それも当然だろう。

 ナイアーラトテップの化身に付随する情報なんて、ヤツの気分次第で書き換わる。普通の人間の歴史──どこで生まれ、何をして育ったのかという情報が石に刻むものだとしたら、化身のそれは黒板にチョークで書いたような、加筆も削除も訂正も自由の薄っぺらいものだ。

 

 「それで──」

 

 どぐちゃっ、と。無理に擬音にすればそんな感じの、柔らかいものが何かにぶつかって潰れたような、大きな湿った音が耳に障る。思わず言葉を切ったフィリップは、身を竦ませたフレデリカと共に音源の方──ついさっき、“使徒”の二人が出て行ったばかりの玄関扉の方を見た。正確には、その奥、見通せもしない外側を見ようとして。

 

 こつ、こつ、と、硬質な靴音が微かに聞こえて、玄関扉が開く。

 

 一瞬の逆光は不自然に赤みがかっていて、向こう側の惨状を否応なく想起させる。そして一瞬の後に、闇を切り出した色の喪服に身を包み、顔をヴェールで覆い隠した女性が姿を見せた。

 

 「……マザー」

 

 熱に浮かされたように、或いは自然に、フィリップの足が動く。

 フィリップにとっては業腹なことかもしれないが、足早になっていることにすら気付かず彼女の下に向かう様は、久々に母親に会った子供の仕草そのものだった。

 

 「フィリップくん。久しぶりね」

 

 しばらくの間されるがままに愛玩されたフィリップは、多幸感と眠気に覆われた頭を振りながらフレデリカのところに戻る。しかし、戻ってきた時には、既に二人の間で話がかなり進んでいた。

 よく観察するとフレデリカの目が腫れていて、ナイ神父の胸元が微かに濡れていることが分かるが、睡魔と戦うフィリップにそんな余裕は無かった。

 

 尤も、フィリップが万全の状態だったとしても、死した祖父と、使徒が撤退したことで最早叶わぬ復讐を思って泣く彼女を見て「ああそうだった」と、失くした人間性を想って悲しむだけだが。

 

 「──なるほど、クリプトの聖遺物ですか。確かに、この教会にもありますよ」

 「それを見せて頂けますか? 或いは、どういうものかを教えていただきたいのですが」

 

 いまどういう話をしているのだろうと黙って聞いていた──殆ど頭が回っていないのも理由の一つだが──フィリップに、ナイ神父が確認するような一瞥をくれる。

 

 フィリップが答え代わりにこくこくと頷くと、ナイ神父は仮面のような微笑をフレデリカに向けた。

 

 「フィリップくんのためとあらば、是非もありません。ご案内しましょう」

 

 どうぞこちらへ、と先導して歩き出したナイ神父に続きながら、後ろを歩くフィリップと、そのさらに後ろを歩くマザーを順番に見るフレデリカ。彼女の視線を受けたフィリップは「なんですか?」と首を傾げるが、この状況でなんですかも何もあったものではない。

 

 「キミのためならとか、お二人の反応とか、……そもそもサークリス聖下の対応とか、キミって本当は」

 「違います」

 

 何を言われるのか分かったフィリップは、彼女の言葉を食い気味に否定した。

 

 

 



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147

 投石教会の地下には、フィリップも行ったことが無かった。

 聖堂の奥、居住区の一室にある階段を降りた先は、幾つかの鍵付き鉄格子扉のある、無骨で厳重な警備のされた地下通路だった。石が剥き出しでひんやりとした通路の先には、幅3メートルほどの小さな部屋が一つだけ。光源となるのは幾つかのランタンだけで、薄暗いというか、普通に暗い。

 

 中には幾つかの書類が収められた書棚があり、部屋の中心には展示用のようなガラスケースに収まった錫杖が横たわっていた。

 

 「第九代教皇が大洗礼の儀で用いた錫杖です。今から数百年前のものですね」

 「なるほど。うーん……」

 「ふーん……」

 

 グリッド地図とクリプト内にあった幾つかの書類を睨み付けながら唸るフレデリカと、退屈そうに錫杖を眺めるフィリップ。金や宝石が所々に使われた、絢爛豪華とは言えずとも決して地味ではない逸品はしかし、少年心には刺さらなかったようだ。

 

 マザーはあまりに暇そうなフィリップを見かねたのか、退屈しのぎに書棚を見ていた彼を背中から抱き締め、耳元で囁く。

 

 「フィリップくんは魔導書を探しているのよね? そんな面倒なことをしなくても、言ってくれたらなんでも用意してあげるわよ? ナイアーラトテップが狂人に書かせた魔導書も、ハイパーボリアの魔術師が残した手記も、セラエノ図書館にある石碑も、ヨグ=ソトースの写身だって」

 「……どれも要りません」

 

 特に最初のやつと、最後のやつ。内容次第だが、今のフィリップでさえ持て余しそうだ。というか、フィリップとフレデリカは魔導書や神を冒涜する書物が欲しいわけではなく、彼女の祖父が遺したものを探しているだけに過ぎない。

 

 それに──

 

 「貴女がくれた智慧があれば、そんなものは不要でしょう?」

 「フィリップくん……!」

 

 何も考えずに、正確にはここ最近味わっていなかったせいで耐性の薄れていたマザーの抱擁、本能的幸福感と理性的嫌悪感を混在させ、更には単純な温かさと柔らかさといい匂いで脳を蕩けさせるそれによって、何も考えられなくなっていたフィリップは、本心をぽろりと溢す。

 

 感極まったように抱き締める力を強めるマザーと、強烈な多幸感と眠気に抗いきれなくなってきたフィリップ。

 ナイ神父はそんな二人に明確な嘲笑を向ける。

 

 フィリップにとっての人類圏外産の魔導書は、答えを知っているパズルのようなものだ。

 そこに記された知識、特に著者たちが秘奥や禁忌とする邪神たちの名前や性質なんかは、読むまでも無く知っている。むしろ領域外魔術習得という副産物の方がありがたいくらいだ。

 

 ──なんて、そんな()()()をしてしまうのは、フィリップに与えられた視座が高すぎるが故だろう。

 如何に人外のものが書き記した魔導書、或いは人類以外のものについて書き記した魔導書とはいえ、邪神の名前や性質に主眼を置いた代物はそう多くない。魔導書の中で最も多いのは、神格以下の神話生物──たとえばハスターの眷属であるビヤーキーや、クトゥグアの配下である炎の精といった、フィリップが脅威とも思わないような存在について書かれた、カルト間、或いは人外生命体間で出回る「危険存在リスト」のような代物だ。

 

 フィリップが「まぁそのレベルが出てきたら諦めて神格招来を使おう」と考えるレベルの神話生物たちだが、それらを一応は人類が独力で対処できる存在にまで貶められる。魔導書には、そういう便利な知識が詰まっているものもあるのだが。

 

 まぁ、フィリップが自分から「欲しい」と言ったところで、そんな()()()()()を教えるつもりは、ナイアーラトテップにはないのだけれど。

 

 「あの、ナイ神父はどう思われますか?」

 

 フレデリカが頬を赤らめながら、たった一歩分だけ距離を詰める。

 その勇気ある一歩は、結果としてナイ神父に嘲笑を浮かべさせるだけの効果はあった。ただしその宛先は、慌ててマザーの抱擁から抜け出し、頭を振って眠気を追い払いながら、フレデリカとナイ神父の間に割り込もうとするフィリップだったが。

 

 「な、何か分かったんですか?」

 「え? あ、あぁ。ここの資料によると、第九代教皇イナウディトゥム1世は破戒妻帯者で、第十六代教皇の父親でもあったらしい。その錫杖が使われたのは大洗礼の儀が定着し始めたばかりの頃で、第六回目のことだそうだよ。……ぱっと抜き出せる数字は、このくらいなんだ」

 「数字が三つ、組み合わせは六通りですか。いま……三時くらいなので、六ケ所も回れませんよ」

 

 午後七時くらいには帰路についておきたいから、残り探索時間は四時間くらいだ。移動時間も考えると、残り二か所と言ったところか。

 まぁ、今日中に回り切れなくても、明日はまだ日曜日だ。“使徒”がいなくなったのなら焦る必要もないだろう。

 

 「そうだね。今日はあと二つくらいにして……また、今度にしようか。奴らが追ってくることは、もう無いのだし」 

 「そうですね」

 

 と、今後の予定を立てた二人に、「少しよろしいですか」とナイ神父が口を挟む。

 

 彼はフレデリカが向ける熱の籠った視線を完全に無視し、フィリップの向ける胡乱な視線に嘲笑を返してから言葉を続ける。

 

 「私が思うに、君たちの推理には無駄が多いです」

 「無駄、ですか?」

 

 間違っている、とか、惜しい、とかではなく、無駄が多い?

 ナイアーラトテップのことだ。暗号の解き方も答えも、“宝物”の在りかも、その正体さえ知っていても不思議はない。だから、そう言われたこと自体に不思議は無いが──内容は、少し不思議だった。

 

 「……どうしてそう思うのか、と聞く前に、もう一つ質問があります。僕たちの探している“宝物”が何なのか、どこにあるのか。それを聞いたら、答えてくれますか?」

 

 フレデリカが“神を冒涜する書物”を探していると聞いた時点で、ナイ教授に聞こうと思わなかったと言えば嘘になる。

 

 それは人類圏外産の魔導書ではないのか。

 彼女の祖父は発狂してはいないか。

 これは──ナイアーラトテップ(おまえ)の差し金か。と。

 

 しかし、ナイアーラトテップがフィリップに対して試練を課すときは、必ず事前の通告がある。一部分だけしか教えてくれないこともあるが、悪魔の時は「狙われるから自衛能力を身に付けろ」と、ステラが巻き込まれた試験空間の時は「対応力を見る試験をします」と、説明があった。

 

 ならば今回のこれは、少なくともナイアーラトテップの絡まない事件──迷宮で遭遇したアイホートの雛のような──だと、そう判断した。

 

 では手伝ってくれるかというと、それも怪しい。

 基本的に、彼ら二柱の行動基準はフィリップを守ることにある。脆弱極まる人間の身であるフィリップを、白痴の魔王の意図なき命令によって守護する。それが、彼らが宇宙の中でも辺境にあるこの星に化身を送り込んだ理由だ。

 

 フィリップが現代魔術実技で赤点を取りそうになっていても、靴紐を踏んで昼食の乗ったトレーをひっくり返しそうになっていても、体育の授業で数人を巻き込むレベルの大転倒をしても、何ら介入は無かった。交流戦の時だって、脱臼、骨亀裂、脳震盪と小さくない怪我をしてきたが、ナイ神父は寝ているフィリップを煽りに来ただけだ。

 

 根本的に、彼らはフィリップの護衛であって、配下ではない。

 フィリップの望みを叶える便利要員ではなく、融通の利かない敵対存在迎撃装置だ。しかもおそらく、迎撃対象になるのは最低でも旧支配者クラスから。

 

 「おや。君はパズルが解けないからと、親に泣きつくタイプの子供でしたか?」

 

 ナイ神父の嘲笑と返答は、予想に違わないものだった。

 

 「聞いてみただけです。それで、無駄とは? わざわざ言ったからには、ヒントくらいはくれるんですよね?」

 

 ただの煽りとか意地悪ではないだろう。そう確信を持てる程度には、フィリップはナイアーラトテップという存在を信頼している。

 

 「えぇ、勿論です。まずは出題者の意図を考えてください。レオンハルト氏は、どうして暗号を使い、その隠し場所を秘匿したのか」

 「それは……“使徒”に追われていたから、ですか。初めはレクリエーションかと思っていましたけど」

 

 フィリップの答えに、フレデリカも頷く。

 彼女の祖父の死体と、カルト狩りの“使徒”の存在を知るまでは、二人はずっと遊びの一環だと思っていた。フレデリカは「昔こうやって遊んだな」と懐古に浸っていたし、多少の懸念を抱いていたフィリップも、心の何処かでは「お土産なんだろうな」という甘い考えを持っていた。

 

 しかし、事ここに至り、そんな悠長なことは言っていられない。

 「それ」は少なくとも、教皇庁がカルト狩りの部隊を派遣し、人一人を拷問して殺し、子供二人を殺すほどの何かだ。

 

 カルト由来の何かか。或いは。

 

 「では次に、妥当性を考えましょう。教皇庁に追われていることを知った彼は宝物を隠し、暗号を遺しました。教皇庁に追われている彼が、果たして、教会にそれを隠すと思いますか?」

 「確かに……いや、そもそも」

 

 そもそも、教皇庁が手出しを控える魔術学院構内から、フレデリカを出させるだろうか。そこに居れば、風属性聖痕者である学院長の結界魔術と、他二人に迷惑をかけるかもしれないという懸念が、彼らの足を止めるはずだ。

 わざわざフレデリカを校外に出し、危険に晒すような隠し場所、暗号を用意するとは考えにくい。

 

 「はい。本来、この暗号は魔術学院内に居ながら完結する、させられるように組まれているはずです。しかし、君が解き損ねた場合、或いは君以外の誰かが解こうと試みた場合のために、安全弁を組み込んだ遠回りルートも用意されている。君たちはそちらを通って、ここまで来たというワケですね」

 「無駄の多い、遠回りルート……。安全弁というのは、私の顔を知っている酒場の店主のことですね」

 

 信頼のおける知人に「孫娘が来たら渡してくれ」と手紙を託すのは、悪い手ではないだろう。

 

 ただ、相手はカルト狩りのプロだ。

 カルトを庇う奴は、イコール、カルトだ。そう見做して全員殺す。手紙は殺した後で探せばいい。少なくともフィリップならそう考えて行動するし、“使徒”のあの感じを見るに、彼らも同じだ。

 

 「……あの人、殺されてないといいですけどね」

 

 コップ一杯の水を貰った程度の恩だし、もう顔も思い出せない程度の関心しか無いが──それでも、善人がポコポコ死ぬのは気分が悪い。

 

 誰にも聞こえないように呟いたつもりのフィリップに、ナイ神父の嘲笑が向けられる。

 それに目敏く気付いた次の瞬間には店主の末路にも察しが付くが、特に何の感情も湧いてこなかった。

 

 これはよくないぞと頭を抱えるフィリップと、それを愛おしそうに背後から抱き締めるマザーを置いて、ナイ神父とフレデリカの会話は続く。

 

 「地図があれば、魔術学院の中にいても隠し場所に見当が付く、ということですか?」

 「微妙に違いますね。正確には、この暗号自体が遠回りです」

 「暗号自体が? 暗号を解かなくてもよいと?」

 「えぇ、そうです。少し考えれば──おっと、フィリップ君! お昼寝なら上の階でしてくださいね?」

 

 ナイ神父が一割増に張り上げた声が地下空間に木霊して、立ったまま、マザーに抱き締められた状態でうたた寝しそうになっていたフィリップを飛び起きさせる。

 

 「……一度、上に戻りましょうか。ここは暗いですからね」

 

 

 

 



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148

 邪神総選挙なるものがあるらしいですね!


 投石教会のホールに戻ってきた四人は、思い思いの行動をしていた。

 一番能動的だったのはマザーで、彼女は一番受動的だった──というか半分寝ていた──フィリップを抱きかかえるように長椅子に座り、愛玩を続けている。フィリップはされるがままだ。

 

 ナイ神父は少し外すと言って奥に戻ったし、フレデリカは地下からずっと地図を睨み付けて何事か考え込んでいる。

 

 教会という場に相応しい、静かな時間が流れ──

 

 「分かった!」

 

 と、フレデリカの叫びが、その静寂を切り裂いた。

 

 「うわ!?」

 

 いくらマザーの胸に抱かれていても、隣の椅子で叫ばれたら流石に起きる。

 突然の大声に反応したフィリップが飛び起きたことにも気付かない様子で、フレデリカはグリッド地図と、観光用の現在の地図を見比べながら思考を巡らせている。漏れ聞こえる呟きに疑問はなく、「なるほど」「だったら」「そうか」と、一人納得する声ばかりだ。

 

 「どうしたんですか、先輩?」

 

 マザーが不満そうに、不穏な目を向けるのを宥めつつ、フレデリカが睨み付ける地図を横から覗き込む。

 

 グリッド地図上の投石教会や聖果教会にはマル印が付けられ、幾つかの直線がそれらを結ぶように引かれている。蜘蛛の巣状というには、少しばかり線が少ない。

 

 「次の場所が分かったんですか?」

 「あぁ! いや、もしかしたら、ゴールまで分かったかもしれない! これを見てくれるかい?」

 

 フレデリカは腰を上げると、長椅子の上に地図を広げ、自分は床の上に膝を突く。

 これなら確かに書き込みしやすいだろうし、フィリップにも見易いが、貴族の令嬢としては無作法な気がする。フィリップは貴族ではないので判断が付かないが、ルキアがやっているところが想像できないので、たぶん駄目なのではないだろうか。

 

 と、そんな益体の無いことを考えているうちに、フレデリカは地図上に大きな三角形を一つ、書き終えていた。

 

 「これは……今までに行った場所ですか。聖果教会と酒場、投石教会」

 

 フィリップは三角形の各頂点をなぞりながら、フレデリカの、この三角形の、そして暗号の意図を懸命に考える。

 しかし、何も思い付かない。十数秒ほど考えて、先を促すようにフレデリカを見遣った。

 

 「あぁ。ここからは、結論ありきの推理とも呼べないような……証明未満の何かになってしまうのだけれど」

 

 彼女はそう前置きしてから説明を続ける。

 

 「この暗号は、私が隠し場所を見つけられなかった場合の補助的な役割を持つ遠回りルートだと、彼は言っていた。だから多分、ゴールはここだ」

 

 フレデリカは地図の中心辺りにマル印を書き込む。

 そこはフィリップもよく知っている場所──というか、魔術学院だ。

 

 まぁ、ナイ神父に指摘されてから薄々そんな気はしていた。この暗号がレクリエーションではなく教皇庁の追手を躱すためのものだった以上、フレデリカ以外の誰にも解けないような代物にするか、安全な魔術学院内で完結するように仕組むだろう。少なくとも、隠し場所まで延々と王都内を歩かせるような真似はしないはずだ。

 

 フィリップが同じ立場にあったとしたら──魔術学院の中に隠すか、投石教会に隠す。その判断基準は勿論、秘匿性と安全性だ。

 

 ……いや、でも。

 

 「でも、魔術学院の中に隠すくらいなら、先輩に直接渡せば良かったんじゃないですか?」

 「そうだね。()()()()()()()()()、だけど」

 

 そこまで言われて漸く、フィリップも思い至る。

 「神を冒涜する書物」を隠したのは、彼女の祖父とは限らない。彼はその存在に気付いただけかもしれないし、発見した直後に教皇庁に捕捉されてフレデリカと接触できない状況だったと考えれば、盗み見られても問題の無い暗号文で手紙を送るのも納得がいく。

 

 流石に「魔術学院のどこそこにカルト本がある」なんて文面の手紙を出したら、教皇庁もそれを理由に魔術学院へ捜査協力を依頼できるだろうし。

 

 ……持ち歩くだけで精神が腐り果てるような代物だから、みたいな理由ではないことを祈っておこう。宛ても無いが。

 

 「それで、聖果教会と酒場「楽園の果実」、そして投石教会は、魔術学院を中心とした円周上にある」

 

 フレデリカは器用にもフリーハンドで、地図上に綺麗な真円を書き加える。

 

 その円周上には、今までに訪れた三つの場所以外にも、さらに二つの場所に印が付いている。

 

 「こっちは、候補にあった9-16ですね。……こっちは、どうして?」

 「うん。その二つを導き出すのが、結論ありきで推理未満の帰結でね」

 

 彼女は苦笑しつつ、さらに地図に書き込みを加える。地図の上下を反転させ、5つの点を規則的に結ぶ線を引く。

 

 「五芒星……いえ、逆五芒星ですか」

 

 通常の五芒星は、魔法陣を介するような儀式系魔術で用いられる記号だ。ここ数百年の魔術師は、魔術式によって魔術を行使する現代魔術を主に扱っているから、魔法陣を目にするのは召喚術や儀式魔術といった特殊な魔術を使う時くらいだが。

 

 そして逆五芒星は、それ以上に珍しいものだ。

 こちらは千年以上前、ソロモン王が悪魔を従えるのに使ったとか使わなかったとか、歴史にありがちな曖昧な話、いわゆる「諸説」の一つとして語られている。百年ほど前までは絶対禁忌の印だったとか、そのまた百年前には悪魔祓いの紋章だったとか、割といい加減で意味の移り変わりが激しいシンボルだ。

 

 現代に於いては、サタニズム、魔王崇拝、反唯一神的な信仰のシンボルとされている。

 

 「中央に隠し場所が、各頂点には見つけ出すためのヒントがあるのでは、と考えているのだけれど……どう思う?」

 「筋は通っているように思えますけど……」

 

 フレデリカ自身も言っていたように、少し強引だと思わなくもない。

 

 とはいえ、もう追手はいないのだ。

 “神を冒涜する書物”とそれを探す者を焼くために派遣された教皇庁の尖兵は、ナイ神父によって帰され──たぶん、マザーによって土に還された。いや、土に還るなんてありきたりな死ではないかもしれないが、まぁ、それはどうでもいいとして。

 

 焦る必要はない。

 今日はもう学院に戻って、家に連絡して、明日はお爺さんのお葬式やら何やらで忙しくなるだろうし……来週にでも、また探しに行けばいい。何なら、明日はフィリップ一人で探しに来ればいい。その方が、万が一の対処も簡単だし。

 

 「どっちの場所も帰り道じゃないですし、今度にしましょうか。帰りましょう、先輩」

 「え、もうそんな時間かい?」

 

 フィリップにしては珍しくフレデリカの心情を慮った言葉に、しかし、彼女は的を外した答えを返した。

 

 眉根を寄せて首を傾げ、露骨に「何言ってるんだ」と言外に示したフィリップに、フレデリカは不思議そうに首を傾げる。そしてしばらく考え込んだ後に、「あぁ」と納得したように手を打った。

 

 「私のことを心配してくれていたのか。あはは、ありがとう、カーター君。でも、大丈夫だよ。さっき、一週間分くらいは泣いたからね」

 

 苦笑交じりのウインクからは、強がっている様子は感じない。

 いやしかし、そんなはずはないだろう。肉親が、それも愛されているとあれだけ綺麗に言い切るような関係性の家族を、ああも無惨に殺されたのだから。宝探しなんて放り出して、家族と一緒に泣くのが普通だ。

 

 「だから、ほら、ちょうど折良く、残りの場所が二つ。今日中に回れそうな場所も二つだったよね。今日のうちにヒントを揃えて、明日にはクライマックスを迎えようじゃないか」

 「……分かりました」

 

 覚えがあるなぁこの感じ、と、フィリップの脳内に合理性の化け物(理解者)の姿がちらつく。

 

 「でも先輩、一つだけ聞かせてください。どうしてそこまで“神を冒涜する書物”なんかを探そうとするんですか?」

 

 お爺さんの形見、或いは遺言にも等しいものだから。そんな感傷的な理由ではないことは、彼女の態度を見れば明らかだ。悲しんではいるようだが、囚われてはいない。

 

 フィリップが懸念する可能性は一つ。

 

 ──狂気だ。

 

 フレデリカの悲痛な叫びを、あの血と臓物と腐敗の臭いと共に覚えている。あの光景が彼女の精神を破壊していたとしても、何ら不思議はない。

 狂気が時に異常な物への執着心を呼び起こすことを、フィリップは感覚的に知っている。

 

 論理的思考能力は残っているようだが、それは表面的なものかもしれない。彼女の精神が壊れているのだとしたら──

 

 「えぇ、いいわよ。フィリップくん」

 「……どっちの話ですか」

 

 一瞬だけ投げた視線に反応して、マザーが甘く蕩けるような声色で囁く。

 フィリップは何も口に出していないが、心中に浮かんでいたのは「マザーが治してくれるだろうか」という疑問と「殺してあげよう」「その場合はマザーに死体の処理を頼むことになるな」という殺意無き決意の二つ。

 

 果たして、両極端な二つのどちらを肯定したのだろうか。

 

 ひそひそと会話する二人を不思議そうに見ながら、フレデリカは「えっと」と言葉を練ってから話し始めた。

 

 「カーター君。キミは、“神を冒涜する書物”──教皇庁が狙うほどの代物とは、何だと思う?」

 「え? そりゃあ、カルト絡みの本とかじゃないですか? 邪神を賛美するような本とか」

 

 フィリップの答えは、邪神が真後ろにいなくても思い付くようなありきたりなものだ。フレデリカも「そうかもしれないね」と頷いている。

 

 「先輩はそうは思わないってことですよね? いえ……先輩は、()()を何だと思って探しているんですか?」

 

 フィリップの問いに、フレデリカは微かに口角を上げる。

 彼女の目が狂気的な輝きを帯びたことに、フィリップは気付いていた。しかし即座に発狂していると断定しなかった──否、出来なかったのは、彼女の目の奥には確かな理性の光が灯っていたからだ。

 

 狂気的理性? 或いは──理性的狂気?

 狂気じみた強度の理性だとしたら、それは称賛に値する。理性じみた整然さを有する狂気なら──。

 

 密かに片手を動かし、フレデリカの胸元に視線を投げる。

 すらりとしたスレンダーな肢体──ではなく、その奥、肋骨という脆弱な守りにつつまれた臓器を見透かすように。フィリップの目は好色なものではなく、領域外魔術によって脱水炭化させる宛先、的を見る目だ。冷酷さすらなく、同心円を描いた紙を見るような視線。

 

 「私は──」

 

 カルト狩りをしていた使徒の二人より尚、機械的で感情の籠らない視線に、フレデリカは気付かない。

 

 「私は、それが、新たな法則であることを望んでいる。……そうであれと、願っている」

 「……法則、ですか?」

 

 予想外の言葉に、フィリップはオウム返しに聞き返す。マザーはフレデリカに興味を失くして、しかし真剣な表情のフィリップの邪魔をしないように長椅子に座り直した。回し車の中を走るハムスターを見るような愛玩の視線を、フィリップは努めて無視した。

 

 フレデリカの目はフィリップとは正反対に、複数の感情がどろどろに入り混じる激情の坩堝だ。

 希望と絶望、悲哀と憎悪、期待と諦観、そして──そのどれよりも深く大きな、好奇心。

 

 「神とは何か。この世界を作り出した者だ。そしてこの世に遍く無数の法則こそは、世界を“斯く在れかし”と定義し創造した神の意思だ。それを書き記した数式こそは、神の言葉に他ならない。……帝国の天才、故サー・アルベルト=フリードリヒ・ユークリッドの言葉だよ」

 

 私の名前も彼にあやかっているんだ、と誇らしげに言うフレデリカ。

 奇跡学者ユークリッドといえば、フィリップも歴史の授業で聞いたことのある大天才だ。ソロモン王より数百年後の時代に生き、魔術を魔術式によって体系化した現代魔術の父にして、稀代の数学者。

 

 ここ授業でやったところだ! と閃く程度には有名な名前が挙がったものの、言葉の内容にはいまいちピンと来ない。つまりどういうことかと眉根を寄せて首を傾げたフィリップに、フレデリカは言葉を続ける。

 

 「私はこう願う。“神を冒涜する書物”とは、即ち──“神の意思”、既存の法則に反する、或いはそれを覆すような法則であれと」

 

 そこまで聞いても、フィリップの脳裏に閃くものは無い。法則と聞いて想起される記憶は大半が最近の現代魔術基礎、理論分野の授業で聞いたような話。あとはちらほらと、後学期期末試験対策で勉強した召喚術や錬金術に関する単語が浮かんでは消える。

 

 「えっと……つまり、錬金術関係の、何か新しい発見であると?」

 「そうであるとも言えるし、違うとも言える。カーター君、この世で最も強固で、最も普遍的で、最大の禁忌でありながら最も神聖な法則とは、何だと思う?」

 「え? えっと……」

 

 フィリップは浮かんだ疑問を棚上げし、素直に頭を回転させる。

 こういう「何言ってるんだ」と訊き返したくなるような質問が飛んできても、素直に思考を巡らせられるのは、フィリップの美点の一つだろう。

 

 数秒の黙考を経て、フィリップはぱちりと小気味よい音を立てて指を弾く。すぐに他人の真似をするこういうところは、未だ子供だという証拠なのだろうか。或いはフレデリカから感染(うつ)ったか。

 

 「“死”ですね」

 「そう。神は私たちに“死”をお与えになった。楽園の果実の一つ、生命の実は、アダムとイブには与えられなかった。だから彼らは失楽園の後に老いて死んだ。人間は死ぬ。全ての生あるものは死ぬ。神は、我らをそうお創りになった」

 

 フィリップは無言のまま頷き、先を促す。

 特に同意の言葉を述べなかったのは、「人は死ぬ」という不変にして普遍の法則の中に、まだ自分が含まれているだろうかという疑問と不安があったからだ。

 

 「カーター君は、死者蘇生の奇跡──大儀式による天使降臨を要する秘蹟系統魔術『リザレクション』を知っているかい?」

 「授業で習いました。ルキアや殿下でも使えないような、膨大な処理能力を要求される魔術だとか」

 

 二人とも「いつか覚える」と意気込んでいたが、まぁ、それはどうでもいいとして。

 

 頷いたフィリップに、フレデリカは苦々しく首を横に振る。

 

 「あれは、ただの伝説だよ。錬金術、治療術、現代魔術、死霊術、医学、薬学。その全ての歴史に於いて、死者蘇生魔術『リザレクション』が行使された記録は無い。アレが載っているのは、聖典の中だけだ」

 「……なるほど」

 

 死者の蘇生──聖典の通りであるのなら一度や二度ではないそれを、数々の分野の学者たちが放っておくはずがない。聴取、検分、診察、或いは解剖すら辞さない超特異検体だろう。一神教が神秘を理由に秘匿したのだとしても、その旨を書き残すはずだ。

 

 しかし、蘇生者に関する学術的情報は一切無い。あるのは幾つかの宗教的逸話だけだ。

 

 「“死”は、絶対だ」

 

 フレデリカに強く断言され、フィリップも漸く閃く。

 

 「つまり、先輩が覆したい法則……いえ、“神を冒涜する”法則というのは」

 「君の考えている通りだよ。死者の蘇生──神の奇跡を、人の技術に貶める。そんな法則であることを願っている」

 

 

 



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149

 「おやつですよ、フィリップくん」

 

 と、ナイ神父が銀盆に載ったフルーツサンドを持って来たのは、一体どういうつもりなのだろうか。

 

 つい数十秒前まで大真面目な話をしていたはずなのに、「美味しそうですね」とふらふら寄っていくフィリップは……まぁ、普段通りか。フィリップがここでクトゥグア召喚や基本的な魔術理論を教わっていた時には、脳の糖分補給と称して、ナイ神父が買ってきた──手作りの品はフィリップが頑として食べないから──おやつを食べていた。

 

 「レオンハルト先輩も如何ですか? ナイ神父の舌は確かですよ」

 

 意外にも、ナイ神父という化身は人間の味覚を完璧に、しかもかなり高機能に再現しているようで、これまで買ってきたおやつにハズレは無かった。

 

 口の周りに生クリームを付けて、皿に一つ残ったフルーツサンドを指すフィリップ。その安穏とした何も考えていないような態度と口ぶりに気が抜けたのか、フレデリカは苦笑と共に大きく溜息を吐き、やがて諦めたような笑顔でフルーツサンドを取った。

 

 口に入れてまず驚くのは、挟まっている果実の瑞々しさだ。甘い生クリームに覆い尽くされない、甘酸っぱい果汁が口の中に溢れてくる。それに、ぱっと見て取れた柑橘系の何かとイチゴだけではなく他にも種類があるようだが、そのどれもが互いに調和し、引き立て合い、それでいて主張し過ぎない程度に個々の存在感がある。

 

 さぞかし名のある菓子店になる逸品なのだろう。もしかして、一等地まで買いに出たのだろうか。

 

 思えば、朝から何も食べていないし、昼間には散々ゲロを吐いた。使徒に追われて走っていたから忘れていたが、空腹というスパイスも効いている。

 

 喉もカラカラだったから、一緒に出されたオレンジジュースもありがたい。こちらも溶けると薄まってしまう氷ではなく魔術によって冷やされていて、最後まで美味しくなるよう配慮されている。

 

 「美味しいです。あの、差支えなければ、どこの店のものかお聞きしても?」

 「何を隠そう、私の手作り──というのは冗談ですからご安心を。これは一等地の『ドゥールセバン』という菓子店で買ったものですよ」

 

 片膝を突いて口に指を突っ込みかけていたフィリップは、笑えない冗談だと憤慨しながら立ち上がる。自分が何を食べたのか分からないとなると、流石のフィリップもビビる。

 

 「……それで、先輩。もし“神を冒涜する書物”が死の法則を覆す法則……死者蘇生に関する知識だったとしたら、やっぱり?」

 「あぁ。私はそれで、祖父を生き返らせる。……分かってはいるんだ。人は、いや、生あるものは死ぬ。死ななくてはいけない。それが自然界におけるルールだということくらい」

 

 自分自身に言い聞かせるフレデリカに、フィリップは真面目な顔で──口の端に生クリームを付けて──頷き、言葉の続きを引き取った。

 

 「けれど、人の理から外れた死は惨い。せめて肉親くらいは、寿命か病気か、せめて事故で……人の理の中で死んでほしい。そうですよね?」

 「……そう、だね。いや、違う。私は……祖父──お爺ちゃんには、人間らしく()()()いてほしい」

 

 何が違うのだろうと思ったフィリップだが、口や態度には出さない。

 今優先すべきは彼女の思考や思想ではなく、“神を冒涜する書物”だ。

 

 「なら、行きましょう。今日中にあと二か所、回ってしまうんですよね」

 「あぁ。……お世話になりました、神父様。また後日、お礼に伺います」

 

 え? 本気ですか? それは止めた方が。いえなんでもないです。と、フレデリカの挨拶に難色を示しながら、後に続くフィリップ。

 その背中に、ナイ神父が慇懃な一礼を送り、マザーが少し寂しそうに手を振る。

 

 「行ってらっしゃいませ、フィリップくん。道中お気をつけて」

 「……行ってきます」

 「またね、フィリップくん」

 「はい。また……春休みはタベールナに戻る予定なので、その時に」

 

 妙な含みのありそうなナイ神父の言葉に不信感を抱きつつ、マザーに手を振り返す。

 玄関扉を開けると、そこは真っ赤に染まっていた──なんてことはなく、いつも通りの、小綺麗に整えられた花壇と小道だ。

 

 「大通りまで出たら、馬車を借りよう。まずは……こっちの方が近いから、先にこっちに行こうか」

 「了解です。そこは……えーっと?」

 

 グリッド地図に描かれた逆五芒星の頂点の一つを指差し、今後の行動方針を語るフレデリカ。

 観光用パンフレットの地図と見比べるフィリップに先んじて、フレデリカが答えをくれる。

 

 「図書館だね。以前は……魔術学院に入学する前は、よく通っていたよ」

 「へぇ、じゃあ、難しい本がいっぱいあるんですね」

 

 フレデリカはあまり物語は読まないと言っていたし、学術書の類が多くあるのだろう。

 そんなフィリップの予想通り、彼女は軽く首肯する。

 

 「そうだね。確か、二等地で一番古くて大きい図書館だったはずだよ」

 

 二人は通りがかった貸し馬車を使い、二十分ほどかけて図書館に着く。

 

 外観は少し大きめの屋敷といった感じだが、中に入ると、意外に感じる程度には多くの本棚と蔵書が出迎えてくれた。とはいえ、流石に国内最高と謳われる魔術学院の図書館ほどではない。1時間もあれば、全ての本のタイトルを確認できるだろう。

 

 しばらく本棚を物色しながら歩き回ってみたものの、「これは」と思うような本は見当たらなかった。

 

 「……ここじゃなかったか、順番を間違えたのでは?」

 「うーん……そうかもしれないね……」

 

 と、他の場所を探すべきかという方向に話が進みかけた時だった。

 二人を引き留めるように、貸し出しカウンターに座っていたおじさんが声をかけてくる。

 

 「レオンハルトの嬢ちゃん? 久しぶり!」

 「あぁ、司書さん。ご無沙汰しています」

 

 大きくなったねぇ、などと話し始めた司書に、フレデリカは困ったように応じる。

 

 「すみません、急いでいるので、話はまたの機会に」

 「おっと、それはすまん。……あ! でもちょっと待っててくれな!」

 

 フィリップはがさごそとカウンター下を漁り出した司書には興味を失い、カウンターの近くに置かれていた新着図書の棚から児童書を取って読み始めた。もう少しかかるだろうな、という考えは外れていなかったが、司書が何を取り出すのかくらいは見ておくべきだろう。

 何故なら、彼が取り出したのは一冊の本だったからだ。それが魔導書ではないことを確認する一瞥くらいはするべきだ。

 

 「これ、レオンハルト侯爵……じゃなくて、前侯爵が予約してた奴ね。君に渡せばいいんだったよね?」

 「祖父が? あ、いえ、はい。確かに」

 「あいよ。貸し出し期限は今日から二週間だからね」

 

 表紙にも背表紙にもタイトルの書かれていない、革装丁の古めかしい本だ。ぱっと見ではそのくらいの情報しか得られないはずだが、フレデリカはどこか落胆にも近い表情を浮かべていた。

 前見返しの部分は白紙で、次のページに漸くタイトルが書いてある。タイトルは『錬金術原論』。筆者は錬金術の祖ゾシモス。数百年では足りないほど古い時代の学者だ。

 

 フレデリカは細かい文字がびっしりと書かれたページをぱらぱらと繰り、つまらなそうな表情を浮かべる。

 

 「何かヒントはありましたか?」

 「いや、どうだろう。私はこの本を何十回と読んだし、主要な章の内容はほぼ暗記しているけれど……ん?」

  

 速読にしてもまだ早いペースでページをめくっていたフレデリカがふと手を止め、少し戻る。

 そして記憶と照らし合わせるように視線を彷徨わせ、後ろ見返しを開く。

 

 「いや……気のせい? 思い違いかな? ……司書さん、これと同じ版の本はありますか?」

 「え? いや、どうだろうなぁ……棚になければ、ないんじゃないか?」

 

 何か分かったのだろうかと、フィリップは期待も露わに児童書を棚に戻し、フレデリカの傍に近寄る。

 

 しかしフレデリカは答えず、「だ、そうだ。先に棚を探しに行こう」とフィリップを誘導する。一日ずっと一緒にいれば腰に手を添えるエスコートにも慣れるかと思っていたが、全然そんなことは無いらしい。ドキドキしながら、フィリップはきちんと言葉にして問う。

 

 「その本に何か仕掛けがあったんですよね? 次の場所の座標ですか?」

 「いや、そういうわけではない……と思う。多分だけれどね」

 

 多分、という曖昧な言葉のはずなのに、フレデリカは確信があるように自信満々だ。それが普段通りの振る舞いなのか、本当に確証があるのかは分からないが。

 

 「あった、これだ。カーター君、何版か確認してくれるかい?」

 「あ、はい」

 

 先ほどカウンターで受け取ったものと同じ本を本棚から取り上げ、そのままフィリップに渡す。

 渡されたフィリップは素直に裏表紙から開き、最後のページを確認した。

 

 「55版です」

 「よし、同じだ。じゃあ次は26ページの3行目を読んでみて」

 

 なんなんだと思いつつも朗読すると、フレデリカは頻りに頷き、じゃあ次ねと先に進める。

 

 「102ページの11行目は、なんて書いてる?」

 「そこは……」

 

 フィリップが答えると、フレデリカは喜びと呆れが混ざったような苦笑を浮かべて首を振る。

 

 「最後だ。302ページ、24行目」

 「『故にマクロコスモスは多層次元由来の剛性を持ち、最下層の物質界と第二層の魔力界からの影響を』……あの、なんですか、これ?」

 「いいから、続けて?」

 「はぁ。……『影響を受けない。秘匿された上位領域へ干渉するには、大前提としてミクロコスモスを──』……ここまでが24行目ですけど、続けますか?」

 「いや、そこまでで大丈夫だよ。ありがとう」

 

 お礼を言われたフィリップだが、その表情は疑問一色だ。

 

 ここまでの暗号とは違って、フィリップには何が起こっているのか全く分からない。しかも、フレデリカは納得と疑問を綯交ぜにしたような微妙な表情だ。ここまで説明も無しにやらせるなら、せめて何か掴んでくれ。

 

 「あの……先輩? 何か、いえ、何が分かったんですか?」

 

 フィリップが問いかけると、フレデリカは「ここを見てくれ」と本の一部、先程フィリップが読んだ一節を指す。

 

 『故にマクロコスモスは多層次元由来の剛性を持ち、最下層の物質界と第二層の魔力界からの影響を受けない。隔離された上位領域へ干渉するには、大前提としてミクロコスモスを──』

 

 「ここが違うんだ。分かるよね?」

 「え? いえ、全然……」

 

 錬金術に関しては素人と言うか、こと外神関係以外には疎いフィリップが、勉強を始めたばかりの錬金術について知っていることは非常に少ない。フレデリカの示した一節が基礎なのか発展なのかも分からないレベルだ。違うよね、とか言われても、分かるはずがない。

 

 それはフレデリカも承知のはずだが、彼女は「ここだよ? よく見て」と同じ場所を指すばかりだ。

 

 フィリップは言われるがままにもう一度フレデリカの持っている本を凝視して、「そう言われてもなぁ」と自分の持っている本のページに目を落とし──ようやく気付いた。

 

 単語が違う。

 フィリップの持っている本では『秘匿された』となっている部分が、フレデリカの持っている本では『隔離された』となっている。

 

 え? そういう「違い」? と怪訝そうな顔になったフィリップに、フレデリカは真面目な顔で頷きを返す。

 

 「誤植ではないよ。30番台以降の版は手書きによる複写ではなく、錬金術による複製だ。誤植なんて起こりようがない。それで……そう、26ページのここも、102ページのここも違う。もしかしたら他にもあるかもしれないけど……まぁ、それは寮に戻ってからじっくり探そう」

 「今のところは『隔離』と『秘匿』、『過去』と『歴史』、そして『叛逆』と『冒涜』ですか」

 

 それらを含む文章が似たような意味になる単語同士ではあるものの、明確に違う単語に書き換えられている。

 

 これは流石に、フレデリカのように同じ本を何十回と読み込んで、殆ど暗記しているような状態の人間でなければ気付けないだろう。

 

 「私の記憶が正しければ、君の持っている方、そっちが本物だ。私が持っているこちらは、祖父が書き換えたものだろう」

 「書き換えた部分を繋げると意味のある文章になるとか、何かのキーワードとか……でしょうか」

 「だろうね。今日中に終わるかな……」

 

 そこそこ分厚い本を二冊見比べながら呟くフレデリカに、フィリップはどうでしょうねと苦笑する。彼女は速読できるようだが、単語の一つ一つ、一字一句を確認しながらでは限界もあるだろう。

 

 二人は貸し出しの手続きをして、図書館を出る。

 その時に司書に「同じ本を二つ借りるのかい? なんでまた?」と訊かれていたが、彼は勝手に「あぁ、そっちの子が読むのか」と納得していた。というのは、どうでもいい話か。

 

 

 



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150

 図書館の次の目的地、今日一日の大冒険の終着点は、フレデリカが子供の頃に遊んだという広場らしい。

 これまでの場所は全て室内、それも誰かに守られた場所だったが、最後の最後にオープンな場所だと、本当にここで合っているのだろうかと不安になってしまう。

 

 広場は一面に芝生が敷かれ、よく手入れされて色鮮やかだ。踏み心地もいい。

 植栽もきちんと剪定されていて、冬に咲く幾つかの花が彩を添えている。特に遊具などは無いが、縦横100メートル近い広大な緑地だ。走り回る子供たちと、木陰で見守る親たちで賑わっていた。

 

 じき夕焼けが始まる時刻とあって、ちらほらと「帰るぞー!」と子供を呼ぶ声も聞こえてくる。二等地第三公園という何とも無機質な名前の書かれた看板も、この空間にあっては、なんだかよいモノのように感じられるから不思議だ。

 

 「広い公園ですねー……」

 

 ちょうど中央の辺りに何かの石碑が見える。それ以外は、本当にだだっ広いだけの場所だ。

 

 「見るからに怪しいって感じではないですけど、見に行きますか」

 「そうだね。あ、ちょっと? ……あははは」

 

 取り敢えず石碑を見てみようと方針を確認するや否や、芝生の上を駆け出したフィリップ。

 子供の、或いは男の子の本能なのかな、と、フレデリカは公園の中で遊んでいる子供たち──中にはフィリップと同年代くらいの子もいる──と、先を走るフィリップの背を見比べて笑う。実際、フィリップが走り出したのは全くの無意識と言うか、目の前に広がる綺麗な芝生を見たら身体が勝手に動いていたので、本能というのはあながち間違いではない。

 

 呆れつつも小走りで後を追うフレデリカより一足先に石碑に着いたフィリップは、2メートル以上はある大きな石を見上げ、洒落た字体で彫り込まれた碑文を読む。

 

 『神が第一にお創りになったもの。それは愛である』

 

 「……ん?」

 

 なんだか含蓄のありそうな、しかし知識とは一致しない言葉に、フィリップは首を傾げて記憶を確かめる。

 

 確か、一神教の聖典では、世界創造は「光」から始まったはずだ。熱心な信者では無かったフィリップだが、田舎にいた頃はミサにも出ていたし、聖典だって何度も読んだ。第一章第一節、創世の話くらいは、流石に覚えている。

 

 神は初めに「光あれ」と言われた。神は光と闇を分け隔て、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。

 ……確か、そんな感じの文だったはずだ。

 

 「先輩、これって間違えてませんか?」

 

 少し遅れて石碑のところまで来たフレデリカに問いかけると、彼女は「あぁ」と納得と苦笑の混じった表情になる。

 

 「あぁ、うん。「神は光を始めに作ったのでは」ってことだよね? これは聖典からの引用じゃなくて、詩人の言葉だよ。神の威光と至高の智、それらにも先んずる始原の愛──二年生になったら、授業で読むことになると思うよ」

 

 フィリップは「へぇ」と適当な相槌を打ち、もう一度石碑を見上げる。石は火山岩系の何かで、彫りこみは昔ながらの工具、その上から錬金術製の耐風化剤か何かでコーティングした、至って普通の石碑だ。文字は装飾されているものの、大陸共通語で書かれている。邪悪言語ではない。

 

 「これは関係無さそうですね」

 「昔からあるものだしね。手分けして、公園の中を探してみよう」

 

 フレデリカの提案に頷き、フィリップは取り敢えず広場をぐるりと取り囲む植え込みの中を探すことにした。

 

 蜂とかいたらどうしようと一瞬だけ心配になったが、今は冬だ。蜂が活動するような時期ではない。木のうろとか、根の近くの穴にだけ気を払えば十分だろう。

 

 文字通り草の根を分けて手がかりを探すこと十数分。

 低木を搔き分け、他と比べて土の柔らかいところを見つければ掘り返し、木に登って鳥の巣を覗き込んだりしていると、見るからに不自然に積まれた石を見つけた。その下の地面は、つい最近掘り返されたように柔らかく湿っている。

 

 これは怪しいを通り越してここに違いないと断定して掘り返したフィリップは、馬車に轢かれて潰れた小動物の死骸を見つけた。

 

 「くっさ! 全然違うじゃん!」

 

 冬場だが、土の下というのは意外と温かい。腐敗し始めていた死骸から立ち上る強烈な臭気に、フィリップは慌てて植え込みから飛び出した。

 

 「うぇえ……また吐きそう」

 

 生クリームとフルーツの味を飲み下しつつ、時間を確認しようと内ポケットに手を伸ばす。しかし、自分の手が泥まみれになっていることを思い出したフィリップは、まず周囲を見回して水道を探す。

 

 危なかった。

 白銀の──白金製の──懐中時計を汚すことにならなくて、本当に良かった。

 

 「職人さんとルキアに助走付きで殴られちゃうし……」

 

 きちんと手を洗ってから時間を確認すると、1時間弱も経っていた。

 穴なんか掘ってるからだぞと自嘲しつつ石碑のところに戻ると、フレデリカもこちらに歩いてくるのが見えた。

 

 「先輩。どうでしたか?」

 「残念ながら、手応えナシだ。そういうキミは……あー……穴でも掘っていたのかい?」

 

 フィリップの服にくっついた植物の種──トゲトゲしたやつとか、ネバネバしたやつ──をつまんで取り除きながら、泥に汚れた身なりに苦笑するフレデリカ。これまでの傾向から言って、穴を掘って地面に埋めるような隠し方はしないと思うのだが……フィリップには伝え忘れていたというか、気付いているだろうと無意識に思っていた。

 

 「はい。怪しげなところは片っ端から」

 

 徒労感を滲ませるフィリップに成果を問うのも憚られて、フレデリカは「そうなんだ。お疲れ様」と労うに留めた。

 

 さて、時刻は五時を過ぎ、空は夕暮れを迎え、公園にいた家族連れも殆どが帰ってしまった。残る数名も帰り支度をしている。フィリップたちもそろそろ手掛かりを見つけないと、大通りはともかく、広場なんて光源の無い場所で何かを探すのは困難だ。

 

 「……?」

 

 どうして断定形で考えたのだろうと、フィリップはいやに経験則的だった自分自身の思考に首を捻る。

 

 そりゃあ勿論、寒空の下で在りもしない懐中時計を探し回ったことがあるからだが、その時のことは忘れているのでどうしようもない。

 

 「まぁ、いいや。先輩、お店が閉まる前に、明かりを買ってきてくれませんか? ランタンとか」

 「光源ならあるけど、火の方がいいかな? 寒いかい?」

 「いえ、それは大丈夫ですけど……先輩、光属性魔術が得意なんですか?」

 

 フィリップの質問に、フレデリカは指を一本立てて「まぁ見てて」と言いたげに口角を上げる。

 ぱちりとウインクを飛ばしてフィリップをどきどきさせた後、鞄から二本の試験管を取り出すと、中身を見せるようにフィリップの目線の高さに掲げた。片方は灰色の粉が、もう片方には水のように見える透明な液体が入っている。

 

 恐らく錬金術製の何かなのだろうな、とアタリを付けたフィリップは、何が起こるのだろうと──まぁ十中八九、粉か水のどちらかが光るのだろうが──じっと見つめる。しかし、フレデリカはその視線を遮るように手を挙げた。

 

 「あまり見つめ過ぎると危ないよ」

 

 え、なにそれ怖い。光量が大きすぎて失明するとかだろうか。

 

 言われるがままに視線を逸らした先で、公園の外にいた女性と目が合った。なんとなく会釈してみるも、ふっと視線を逸らされた。

 かなり身なりの良い恰好をしていたし、もしかしたら貴族かもしれないので、致し方無い反応と言えるか。こちらは見るからに平民の子供。しかも泥だらけだ。視界に入れるのも嫌だという貴族も、中にはいるだろう。

 

 まぁ子供の教育にはよくない振る舞いだけど、と、なんとなく彼女の姿を目で追っていると、彼女は少し前を歩いていた別の女性に声を掛け、フィリップの方を指差した。その女性も示された通りにこちらを見て、フィリップと視線が合う。

 

 見てあの子、泥だらけで汚らしいわプークスクス……といった、嘲笑の気配は感じない。

 

 初めに目が合った女性がこちらに向かって手を振るが、その目はフィリップを見ていない。その後ろにいるフレデリカでもないようだ。

 視線の先を追って振り返ると、公園の反対側でも別の女性が手を振っていた。

 

 何だろう、と一瞬だけ考えて、すぐに雷の如き閃きが走った。

 

 そういえば。

 そういえば、ナイ神父は使徒の二人に「後詰めの部隊を退かせるように」と命じていた。しかし彼らは教会を出た直後にマザーと鉢合わせ、恐らく「邪魔だなぁ」ぐらいの温度感で跡形もなく叩き潰されてしまった。

 

 つまり──教皇庁のカルト狩りは、まだ続いている。

 

 マザーが帰ってきた時には「ナイアーラトテップのことだし、何とかなっているのだろう」と気にも留めていなかったが、まさか。

 

 「先輩、こっちへ!」

 「あ、ちょっと? カーター君?」

 

 試験管から試験管へ液体を注ごうとしていたフレデリカの手を強引に掴み、人の居ない方へ引っ張る。弾みで取り落とした試験管が地面で砕け、内容物が混じり合って光り輝いているが、気にする余裕は無い。

 

 一対一なら何とかなるが、フィリップの対多戦闘能力は高くない、いや、低いと言い切っていいレベルだ。

 いや勿論、自分に影響が出ない場所からなら、一国どころか一星さえ滅ぼすことは出来るけれど。でも数人とか数十人を一網打尽にするような、手軽で便利な火力は持ち合わせていない。

 

 「追われてます! ほら後ろ!」 

 

 振り返った先では、三人の女性が何事か叫びながら追って来ている。よくよく聞けば「カーター様」とか「レオンハルト様」とか呼ぶ声を聞き取れるのだが、生憎、全力疾走している二人にそんな余裕は無かった。

 

 「しつこい、というか足速いな!」

 

 追手は三人とも、とんでもない健脚だ。

 元々かなりの距離があって、フィリップたちも全力で走っているのに、もう二、三十メートルあたりまで詰められている。

 

 「《萎縮(シューヴリング)》!!」

 「なっ!? ……あれ?」

 

 何かしら攻撃魔術を撃たれたことには気づいたらしく、三人は足を止めて身構える。しかし何も飛んでこないし、何も起こらない。

 

 本気で殺すつもりで撃った領域外魔術は、距離減衰と魔力耐性で何の効果も無く終わっていた。やはり一般の魔術師相手なら有効射程は十メートルそこらか。

 

 で、たぶんきっとおそらく、あの運動神経なら十メートルぐらい一瞬で詰めてくる。間違いない。だってマリーもソフィーもウォードもそうだったから。「まぁまだ遠いな」なんて思ってると、次の瞬間には腕を取られて投げ飛ばされることになるのだ。

 

 「魔力抵抗でレジストした?」

 「直接干渉系の魔術?」

 

 後ろから聞こえてくる戸惑いの声を無視して走り続け──目指していた公園の出口から、また別の女性が入ってきた。その目はフィリップを確実に捉えており、言われるまでもなく追手の一味だと判断出来た。

 

 「《萎縮》! ……まだ遠いか!」

 「カーター君、足を止めちゃ駄目だ!」

 「分かってます!」

 

 魔術の不発を確認するや、進路を90度転換して再び走り始める。

 しかし、そちらからも別の女性がこちらを目掛けて走ってきていた。

 

 「カーター君! 後ろからも! ……駄目だ」

 

 あぁ、駄目だ。完全に囲まれた。

 二人は足を止め、せめてもの抵抗に、フィリップは魔術照準に使う片手を伸ばし、フレデリカは何本かの試験管を取り出して構える。息を荒らげていては威圧感も無いだろうが、少しは脅威度が上がるだろう。

 

 フィリップの魔術を警戒してか、一定距離以上踏み込んでこないが──どうすべきだ? 腹を括ってウルミを抜くべきか? しかしこれを持って走るとなると『拍奪』を使うことになるが、あれは長距離走向きの技術ではない。学院まで戻らなければいけないことを考えると、使いたくはない。

 

 ないが──出し惜しんで負けたら、ナイ神父にしこたま煽られそうだ。全力を出した上で負けても煽られそうだが。

 

 「先輩、さっきのガスってまだありますか?」

 「あぁ、あるし、いつでも使えるよ。ただ、ここまで開けた屋外だと効果は薄いだろうね」

 

 対魔物鎮静ガス、シュヴァイグナハトは、元々は森で使うことを想定されたものだ。空気中での残留性はかなり高いが、それでも風が吹けば散ってしまう。森林のような風を遮るものが多い環境でこそ真価を発揮するものだ。逆に、この広場ではすぐに拡散してしまうだろう。

 

 「クソ……」

 

 フィリップらしからぬ稚拙な罵倒の宛先は、遠くの方で「まだ帰りたくない」「もっと遊ぶ」と駄々をこねる、二組の親子だ。「困りましたねぇ」「すみませんねぇうちの子が」なんてにこやかに笑い合う親たちも、友達とバイバイしたくないと喚く子供も、心底邪魔だけれど──殺したくない。

 

 クトゥグアもハスターも、一先ず保留だ。時間を稼ごう。

 

 「僕たちはカルトじゃありません! 投石教会のナイ神父が証明してくれます!」

 

 そう叫びながらウルミを抜き放ち、フレデリカと背中合わせに立つ。

 

 「僕の正面に居る人を殺して包囲を突破します。行き詰ったら、あー……広範囲爆撃魔術を使うので、その場に伏せて目と耳を守ってくださいね」

 「分かった」

 

 ひそひそと囁き合っていると、包囲網から一人の女性が進み出る。ちょうどフィリップとフレデリカの真横にいた人だったので、二人は少し首を曲げる程度で彼女を視界に収められた。

 

 「フィリップ・カーター様とお見受けします! 相違ございませんでしょうか!」

 「……ん?」

 

 彼女は声を張り上げ、同時に諸手を挙げて争う気はないと示していた。

 武器戦闘を主とする騎士の降参はそのポーズで間違いないのだが、魔術師だと武器を持っていないことは何の意思表示にもならないので、フレデリカの警戒は依然として解けない。フィリップは初めから警戒なんてしていないので、遠くでじゃれ合っている親子の方をちらちらと確認している。

 

 「貴女たちは? “使徒”ではないとお見受けしますが」

 

 話している隙に距離を詰められはしないかと、四方に油断なく視線を向けるフィリップに代わって、フレデリカが問いかける。

 

 「違います。我々は第一王女殿下直属の護衛部隊、『親衛隊』に属する者です。殿下の命により、カーター様の身柄を保護させて頂きます」

 

 フィリップとフレデリカは視線を交わし、「信用できるか」と目だけで会話する。

 

 「信用できない! 使徒が聖下の名を借りるとも思えないが、それは貴女たちの身元を証明するわけではない!」

 

 フレデリカが鋭く叫ぶと、相手は「道理ですね」と頷く。

 そして徐に自分の首元に手を伸ばすと、ネックレスのチェーンを手繰り、胸元から十字架を取り出した。

 

 「そ、それは!」

 

 その十字架は、普通とは少し違っていた。

 白銀の枠に、真紅に輝く宝石が嵌っている。それだけでも絢爛で異質だが、何より、形状が違う。

 

 大きな十字の周りに小さな十字が四つ並んだ──ナイ神父が見れば「エルサレム十字ですね」と誰にも分からない注釈をくれるだろう──それは、ステラの胸元に輝く聖痕を模したものだ。

 

 「知っているんですか、先輩」

 「あぁ。あれは紛れもなく、第一王女殿下の身辺警護を任された精鋭騎士の徽章だよ」

 

 なるほど、登城したことのあるフレデリカは見覚えがあるもののようだ。言われてみれば、フィリップも今朝、ステラの出迎えに来た人たちが身に付けていたのを見たような気がする。

 

 ……で、それは何の証明になるのだ?

 

 「偽造したのかも」

 「い、いや、宝石を十字に加工するのはとても難しいんだ。あれは高度な錬金術による代物に見えるし、宮廷錬金術師並みの腕前が必要だよ」

 「なら本物を殺して奪ったとか」

 

 フィリップの言は、八割方ただの言いがかりだった。というのも、フィリップは相手の素性をそこまで気にしていない。フィリップが見ているのは初めからずっと、遠くの方で井戸端会議をしている親子連れだ。喚き疲れて眠った子供を背負って、今は親同士が駄弁っていた。

 

 もうそろそろいいかなぁ、と。フィリップの気が変わり始めた。

 

 



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151

 流石は第一王女の身辺警護を任される騎士、と褒めるべきだろう。

 フィリップの保護を命じられ、その保護対象を取り囲んでいた彼女たち5人は全員が、フィリップの纏う雰囲気が変化したことに気が付いた。

 

 殺気は無い。敵意も無い。当たり前だ。

 眼下で群れる蟻を踏み潰すのに殺意は要らない。耳元を飛ぶ羽虫を払うのに敵意など湧かない。あるのはただの反射と無関心と、手の中に握り込んだ大切な何かを失うことへの、或いは靴底が汚れるかもしれないという程度の、小さな恐怖と忌避感。

 

 そんな僅かな感情の揺らぎから攻撃が来ると判断できたのは、流石の一言に尽きる。

 

 「先輩、伏せて──」

 

 と、フィリップが色々と諦めようとした、その時だった。

 

 「お待ちください、カーター様」

 

 聞き覚えのある声で制止され、フィリップはフレデリカや他の女性たちと同じように、弾かれたように声の方向に視線を向ける。

 

 この期に及んでまだ敵が増える、と懸念したわけではない。

 フィリップは声の主が誰なのかきちんと覚えていたし、その素性も分かっていた。

 

 視線の先で、どこか呆れたような微笑を浮かべて佇む、静かで儚げな雰囲気の女性。彼女はモノクロームのクラシカルなメイド服を身に付けており、スカートを軽く持ち上げてカーテシーをする。その所作は教科書通りから少し崩れていたが、それが却って彼女に似合っていた。

 

 「覚えておいででしょうか。私は──」

 「メグ? どうしてここに?」

 

 言葉を遮って質問を投げる無作法にも微笑を崩さない彼女は、マルグリット・デュマ。サークリス公爵家のメイドであり、ルキアの護衛。そしてフィリップは知らないことだが、二つ名持ちの暗殺者でもある。

 

 「ルキアお嬢様より仰せつかり、お迎えに上がりました。彼女たちも同様に、ステラ第一王女殿下の命を受けた者たちですから、どうぞご安心を」

 

 右手にウルミを持ち、左手を魔術照準の補助に使うため伸ばした状態の、完全に戦闘態勢のフィリップを見て、くすくすと悪戯っぽく笑うメグ。その屈託のない笑顔を見れば、包囲されたこの状況に危険が無いことは容易く信じられた。

 

 敵ではないのなら殺す必要はない。彼女たちも、向こうの方で「あの人たちは何をしているのだろう」と今更ながら不思議そうな視線を向けてくる家族連れも。

 

 そのことに微かな安堵を抱き、フィリップは溜息を吐く。

 身の危険を感じていなかったフィリップでさえこの反応なのだ。死ぬかもしれないという恐怖を抱き続けていたフレデリカの反応はもっと大きかった。

 

 「た、助かった……?」

 

 その場に頽れるような勢いでへたり込み、天を仰いで安堵を口にする。神への感謝や祈りが出てもおかしくない場面だったが、彼女は一言も神に向けて語り掛けなかった。

 

 「じき、ルキアお嬢様と第一王女殿下がこちらに──」

 「第一王女殿下とサークリス聖下が、ですね」

 「いらっしゃる──何か?」

 

 フレデリカの肩を叩いたり、「僕の勘違いでしたね」と笑いかけたり、弛緩した空気を漂わせていたフィリップとフレデリカの前で、緊迫した空気が流れ始めた。

 

 え? なんで? 味方同士なんじゃないの?

 そんな困惑の透ける視線を両者の間で彷徨わせるフィリップ。フレデリカはそんな光景で漸く安心感を得たのか、小さく笑いを溢していた。

 

 「仮にもサークリス公爵家の侍女ともあろうお方が、こんな基本的な言葉遣いも身に付けておられないとは。こういった場合、身分序列の高い方の名前を先に挙げるのが礼儀でしてよ」

 「あら、我が主人であらせられるルキアお嬢様のご友人にして、第一王女殿下のご学友でもあり、此度は保護するよう命じられたカーター様を、このような大人数で取り囲むばかりか敵と誤認されるような振る舞いまでしていた方が、“礼儀”という単語をご存知だなんて」

 

 二人はにこやかに、同じ命を受けた者同士、知己に対する笑顔で会話する。しかし二人を取り巻く空気は、どうしようもなく険悪に張り詰めていた。

 

 しかし一触即発という雰囲気ではない。

 

 親衛隊の人はあくまで常識と良識を備えた善人であり、王女の傍に仕えるだけあって精神力は強靭に鍛え上げられている。二つ名持ちの暗殺者という冗談じみた相手を前にしても、恐れから先制攻撃を仕掛けることはない。敵対者であれば容赦なく切り伏せるだけの苛烈さもまた持ち合わせているが、同時にそれを抑え込む理性も持っていた。

 

 対するメグだが、彼女は破綻者だ。相手を殺そうと考えるより早く手が動くことだってある。しかし、彼女だって馬鹿ではない。主であるルキアの友人の配下を殺すことが、主人の不利益になるということは十分に理解していた。普段なら単純かつ明快な「全員殺せば完全犯罪」を実行するところだが、フィリップだけは殺せない。それはルキアの逆鱗に触れる行為だ。

 

 貼り付けた笑顔で、声を掛けることも躊躇わせるような空気を漂わせていた二人は、何かに気付いたようにはっとする。そして全く同時に、服を翻すほどの勢いで公園の入り口に向かって跪いた。

 

 フィリップもつられて視線を向けると、外の通りに一台の馬車が止まっているのが見えた。ここからでも絢爛豪華な装飾と、軍馬のように立派な二頭の輓馬、そして馬車の上ではためく王国の紋章が見て取れる。

 

 妙に見覚えがあると言うか、今朝に見たような気がする。

 フィリップが記憶を辿るまでもなく、馬車の中から現れたのは、四人の鎧騎士を護衛として引き連れたステラと、アリアを背後に従えるルキアだった。

 

 「王女殿下に、サークリス聖下」

 

 フレデリカも慌てて姿勢を正し、跪く。

 そんな彼女に一瞥をくれた二人は、まっすぐにフィリップの下まで歩み寄ってきた。

 

 「無事だな、カーター」

 「フィリップ、大丈夫? 怪我はない?」

 

 ステラは確認作業のように淡々とした口調で、ルキアは声色だけでなく表情までも心配そうに、フィリップの無事を確かめる。

 

 「泥だらけだが……何故ウルミを抜いてる? 何かあったのか?」

 

 フィリップに尋ねるステラの声色は硬く、その視線は親衛隊の全員に鋭く投げかけられる。手荒な真似はしなかっただろうなと、声に出さずとも問い詰められているのが分からない者は、親衛隊の中にはいない。

 

 「いえ、我々が着いた時には、既に」

 「……フィリップ、本当?」

 「あ、はい。本当です。僕の方が勝手に勘違いして、攻撃しそうになったぐらいで。お仕事を邪魔してしまって、すみませんでした」

 

 ぺこりと頭を下げ、軽い謝罪をするフィリップ。彼女たちも、先ほどまで公園に居た家族連れも殺しかけていたのだが、罪悪感はまるで無かった。それは謝罪の理由からも分かるだろう。

 いや、たとえ彼女たちを殺していたとしても、フィリップが罪悪感を抱くことはない。あったとしても、叩き潰した蚊が血を吸わないオスだった、くらいの「無駄なことをしたな」という感傷の方が大きいはずだ。

 

 主人の会話を妨げぬよう、跪いた姿勢のまま気配を消していた彼女たちは、苦笑交じりに「いえ」と首を振る。

 

 「焦るあまり、気が立っていた私たちの無作法が原因です。申し訳ございませんでした、殿下、カーター様」

 

 謝るのはこちらです、と言いたいところだが、このままでは話が進まない。

 フィリップはウルミを仕舞い、二人に向き直る。

 

 「ところでお二人とも、状況は分かってるってことですよね?」

 「あぁ。お前を狙っていた連中──教皇庁の“使徒”だが、既に外交ルートを通じて撤収させた。もう大丈夫だ」

 「えぇ。一先ずは安全よ」

 

 同じことを言っているようで、妙にニュアンスの違う二人の言葉に、三人ともが首を傾げる。

 そしてまずステラが、すぐにルキアが、互いの意図に気が付いた。

 

 ステラは、この話はここで終わりだと、使徒が撤収したことで状況は終了だと思っている。

 対するルキアは、この後のことまで考えている。即ち、報復である。今後も戦闘が続くと考えているから、「一先ずは」なんて但し書きが付いていたのだ。

 

 「……カーター、追手を殺したか?」

 「はい。あ、いえ、僕じゃなくてマザー──あー……説明がすごく難しいんですけど、僕の味方の神官様が」

 

 マザーの名を出した途端に、ルキアが制止するような目を向ける。だが名前を出す前ならともかく、口にした後ではもう遅い。

 

 しまった。ここは大人しくナイ神父が殺したと言っておけばよかった。

 そう考えるも、後の祭りだ。

 

 「味方の神官? よく分からんが……死体はどうした? いつ、どこで、どう殺した?」

 「あー……えーっと……2時間くらい前に投石教会で。死体はナイ神父が処理したと思います。どう……は不明ですね。僕も先輩も直接見てたわけじゃないので」

 

 ステラも良く知る人外の名前を挙げられ、彼女は「あいつか」と頭を抱える。

 

 現状、ステラがナイ神父について知っていることは非常に少ないが、それでもハスター以上の化け物であることと、その気になれば何だって出来ることは知っている。ステラだって、死体を骨も残さず焼き尽くすことは可能なのだ。ナイ神父は灰の一つも証拠を残さず、完璧な隠滅をしていることだろう。

 

 それは非常に面倒だ。

 いや、フィリップを殺そうとしていた相手だ。殺すのは確定していたし、たとえ無傷で捕えていても、然るべき手続きの後に処刑していた。それはいいのだが、死体が無いことと、死に様を知らないことは問題だ。

 

 王国側としては、今回の一件を完全に把握しておきたい。

 誰が、何をして、どういう末路を迎えたのか。死者は何人で、誰が誰を殺して、王国の損害は最終的にどの程度なのか。

 

 教皇庁を徹底的に糾弾すべきか、或いはほどほどにしておくべきなのか。

 

 報復すべきか。否か。それすらも、状況が分からないことには判断しかねる。

 報復なんて過剰なくらいでちょうどいい、一発殴り返しておこう。王国側としてはそう考えてのことも、状況が分からなければ過剰攻撃どころか一方的追撃だった、なんてことも有り得る。

 

 「そもそも、どうしてお前たちがカルトだと言われていたのか。それも分からない状況ではな……。とにかく、二人とも馬車に乗れ。色々と聞かせて貰うぞ」

 「……フィリップが疲れていないなら、だけどね」

 

 さらりと釘を刺したルキアに、ステラは仕方ないかと言いたげな溜息を返した。

 

 

 



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152

 

 馬車の中でフィリップとフレデリカに事情聴取を行ったステラは、翌日、肩を怒らせて再び王城へと向かった。彼女の立場なら、或いは帰宅したと言うべきなのかもしれないが、彼女自身が「ちょっと王城に行ってくる」と言っていた。

 「何しに行くんですか?」とは聞けない空気だったのだが、それは余人であればの話。ルキアが聞いたところ、「政治」とだけ返された。

 

 一般人かどうかという疑問は解けないものの、貴族か一般人かという二元では間違いなく一般人に分類されるフィリップには、縁の遠い話である。ステラも第一王女、次期国王として、実働の部分には然して関わらないはずだ。調査・報告・対外交渉・書類作成などの実務は文官が担当する。

 

 ……普段なら。

 国内外の問題は、普段ならどれだけ大事でも宰相が指揮を執り、最高責任者となって事に当たる。王は大まかな指針を決めるくらいだ。

 

 ただ今回ばかりは別だ。

 ステラはフレデリカの頭脳を高く評価していたし、数少ない──こんなことを言うと不敬かもしれないが──友人を殺されかけたとあって、「強い遺憾の意を表明する」つもりだった。具体的には、今回の作戦にGOサインを出した枢機卿の首一つで勘弁してやろうと言ったところか。

 

 塩漬けの首を送ってくるならそれで善し。断られたら、今回の一件を国内だけでなく諸外国にも公表する。そうなれば今後の活動がさぞかしやり辛くなるだろう。誰だって冤罪で処刑されたくはないのだから。

 

 こんな強気の対応が出来るのは、聖痕者──一神教のトップである教皇以上の宗教的権威であるステラくらいのものだ。ヘレナにも出来るかもしれないが、彼女が持つ人脈や情報網は侯爵レベルのものでしかない。速度と強度を考えると、一国を使えるステラが勝る。

 

 

 そんなわけで王城に向かったステラとは違い、フィリップとルキア、そしてフレデリカは、日曜日らしくのんびりと過ごしていた。

 

 昼食を終えた昼下がり。

 フィリップはこの時期でも陽気の暖かな時間帯に、中庭の芝生に寝転がって、夏よりも遠くに見える青空と流れる雲を眺めていた。

 

 「……暇なんですけど。やっぱり今からでも探しに行っていいですか?」

 「駄目よ。ステラに言われたでしょう? 今日一日は外出禁止」

 

 フィリップがぼやくと、すかさずルキアが釘を刺す。

 

 彼女はごろごろと芝生の上を転がるフィリップから少し離れた木陰に座り、幹に背を預けて本を読んでいた。何のことはない、魔術学院生なら普通にやるようなことのはずなのに、ルキアがやると有名な絵画のように美しく映える。黒いゴシック調のワンピースという休日の装いや、そよ風に揺れる銀色の髪が木漏れ日を受けて輝く様などは、フィリップもマザーを想起するほどだ。

 

 さておき、ステラはフィリップだけでなくフレデリカにも今日一日の校外外出の禁止を言い渡していた。その理由は勿論、安全の確保にある。

 

 現在、“使徒”の活動は停止している──と、断言することは難しいのだ。

 王国と教皇庁を結ぶ長距離交信手段は幾つかあるが、最も速く、最も信頼出来るのは、特定の魔力に反応して開封される錬金術製の特殊な封蝋で綴じた手紙を、召喚術師が使役するスティンガーイーグルという魔物に運ばせる手法だ。

 

 この魔物は地上での戦闘能力は低いものの、飛行能力が極めて高い。単純な巡航速度でドラゴンに次ぎ、サイズで下回るため回避性能ではドラゴンを超える。戦闘能力では比べるべくも無いが、たとえドラゴンに襲われても逃げ切れるかもしれないというのが高評価の理由だ。

 

 この方法であれば、馬を常足で駆って教皇庁に向かうと二か月かかるところを、なんと一日足らずで手紙を届けることができる。

 

 ……が、しかし。つまりそれは意思の伝達だけに一日近く要するということでもある。

 昨日の昼頃に使者がルキアとステラの名前を出し、王都に居た部隊は撤収させただろう。しかし、その時点でこちらに向かっていた後続部隊が存在しないとは限らない。そのような後詰めが居た場合は、今頃は彼らに向かって作戦中止の報が届けられている最中だ。

 

 昨日ステラは「もう大丈夫」だと言ったし、事実としてその時点では安全だったのだが、今はその限りではないということだ。

 

 「ここには学院長の結界魔術もあるし、私もいるから、手出しはしてこないわ」

 「……まぁ、そうかもしれませんけど」

 

 面倒な話だと思う。

 ……そうだ。一神教から破門されてしまったら人間らしい生活を送れなくなるというのなら、先に一神教の方を滅ぼしてしまえばいいのではないだろうか。……いや、駄目か。宗教団体としての一神教を潰した──教皇庁の関係者を全員殺したとしても、大陸の人々に根付いた信仰心までは消え去らない。むしろ、滅ぼされたジェヘナが神格化してより面倒なことになりそうだ。

 

 信仰心を一神教から別の物にすり替えて──駄目だ。すり替える先が一つしか思い浮かばないし、そんな世界になるくらいなら死んだ方がマシだ。

 

 「フィリップ?」

 

 想像するだに悍ましい未来を思い描いて勝手に瞳を濁らせていたフィリップは、ルキアの声で現実に引き戻される。

 フィリップの異変に気付いたのかとも思えるタイミングだったが、彼女の視線はフィリップではなく、中庭を通る渡り廊下に向いていた。

 

 「さっきから呼ばれているけれど、気付いた上で無視しているの?」

 「え?」

 

 慌てて上体を起こすと、渡り廊下からこちらに向かって手を振る人影が見えた。日向に居るフィリップからは光の加減で見えづらいが、眉目秀麗な男子生徒のように──あ、いや、違う。フレデリカだ。

 よくよく耳を澄ませば、無作法にならない程度に声を張って「カーターくーん」と呼んでいるのも聞こえる。

 

 「全然気付きませんでした。ありがとうございます、ルキア。ちょっと行ってきますね」

 

 軽快に駆け出したフィリップの後に、ルキアもゆっくりと続く。

 

 フレデリカはフィリップが挨拶をするが早いか、その両肩をしっかりと掴み、双眸を興奮と好奇心に爛々と輝かせて叫ぶ。

 

 「分かったよ、カーター君! 隠し場所も、見つけ方も!」

 「……本当ですか?」

 

 周りが見えていないのではと危惧させるほど興奮しているフレデリカに落ち着けと手振りで示しながら、フィリップは周囲を確認しつつ問いかける。

 学院の中に教皇庁が侵入してこないのは確定だとしても、他の生徒だっているし、“神を冒涜する”なんてワードは大声で周知させたいものではない。

 

 「それは何処に? やっぱり学院の中だったんですか?」

 「あぁ、予想通りにね!」

 

 言葉遣いや立ち振る舞いは、いつものフレデリカ──演劇に登場する貴公子のような、堂々として麗しいものだ。しかし、青い瞳の奥には憎悪と希望、そして狂気的な好奇心と探求心が見て取れる。

 祖父を殺されたことへの憎悪。蘇生が叶うかもしれない希望。そして、死者の蘇生という新しい法則・技術に繋がる発見を願う気持ちが、彼女を突き動かすモチベーションだ。

 

 彼女の祖父が書き換えた『錬金術原論』をオリジナルと比較し、相違点からヒントを探し出す作業は終わったのだろうか。あの厚みと重みはまるきり鈍器だったのだが。それに、あの公園では結局、何も見つけることは出来なかったはずだ。今日は校外に出ていないはずだし、昨日の時点で見つけていた訳でもなさそうだが。

 

 「何処──」

 「禁書庫だよ! 魔術学院大図書館の中央に聳える門から続く隔離空間!」

 

 一歩踏み出しながら食い気味に答えたフレデリカに気圧されつつ、フィリップはもう一度手振りで落ち着けと示す。今度はフィリップの目線より高い位置にある肩を少し強めに押さえつけたからか、彼女は踏み出した一歩分、後ろに下がった。

 

 「あの、先輩? あそこって確か、一般生徒は立ち入り禁止なんじゃ」

 「うん。だから、これから学院長に許可を貰いに行ってくる。先に図書館で待ってて!」

 

 言うが早いか、フレデリカは校舎に向かって颯爽と駆け出してしまった。後には今一つ状況を理解できていないフィリップがぽつんと一人残される。

 少し遅れてルキアが来た頃には、フレデリカの後ろ姿は曲がり角を曲がって見えなくなっていた。

 

 「何だったの?」

 「例の本が、図書館の禁書庫にあるらしくて。入る許可を貰いに行ったみたいです。僕は先に図書館で待っててくれと」

 

 ルキアも昨日何があったかの説明は馬車の中で聞いている。

 フィリップとフレデリカが探していた物が土産物などではなく、教皇庁が子供を殺して奪うレベルの代物であることも、説明するまでもなく理解していた。

 

 フィリップとしては、彼女が「探すのは止めて」とか、或いは「手伝うわ」とか言い出すのではないかと心配だったのだが、彼女も、そしてステラも、フィリップの行為に口を出すことはしなかった。

 もしかしたら“神を冒涜する書物”というワードから、フィリップと同じものを連想していたのかもしれない。それに対処できるのはフィリップだけだと知っているから、口を出したくても出せなかったのだろうか。

 

 彼女は「そう」と静かに頷き、一瞬だけ考え込むように視線を流す。結論はすぐに出た。

 

 「なら、私は本でも読んでいるわ。手伝えることがあったら言ってね?」

 「あ、はい。その時はお願いします」

 

 一緒に図書館に向かった後は、ルキアは「ここにいるから、終わったら、もしくは必要になったら声を掛けて」と読書スペースに向かった。フィリップは図書館の中央にある、巨大な鉄扉──高さ6メートルもの大きさを誇り、それを支える枠を持たない異質な物体、禁書庫への門の傍でフレデリカを待つ。

 

 相変わらず、どうやって自立しているのか不思議なものだ。見てくれは厚さ20センチほどの鉄の板なのだが、何かに支えられたり、吊られたりしているわけでもないのに、重厚感すら湛えて聳え立っている。

 表面には炎や龍、悪魔などの彫刻が彫り込まれ、禍々しい印象を受ける。上の方には「神威と至高の智が我を創り、我が前に創られしものは無い」と彫られているのだが、あれは聖典か何かからの引用なのだろうか。

 

 折よく、ここは図書館だ。探せば聖典なんて十冊単位で置いてあるだろうし、フレデリカが来るまでの暇つぶしに調べてみよう。

 

 司書に聖典は何処かと聞いてみると、なんと聖典専用の本棚があるらしい。同じ版の本が140冊以上も並んでいるのを見ると、流石に引き攣った笑いが浮かぶ。

 

 しばらく聖典の文字列を追っていると、場所に配慮して控えめに抑えた声で呼ばれた。

 

 「カーター君、お待たせ」

 「レオンハルト先輩」

 

 学院長に禁書庫へのアクセス権を貰いに行った彼女は、目に見えて落ち込んで帰ってきた。聞くまでもなく分かるが、

 

 「駄目だ、と言われてしまったよ……。そこは元より、人目に触れさせるべきではないモノを封じた場所だから、そこにあるのなら、そこに閉じ込めたままにしておけとね」

 「ははは……それはまた、正論ですね」

 

 フレデリカが声真似をして言ったヘレナの言葉は、何ら間違っていない。パンドラの箱は閉じたままでいるべきだと、フィリップだって思う。或いは、カルトの儀式の所為でこんなことになってしまったフィリップだからこそ、か。

 

 そして、既に変質してしまった以上、フィリップは人間基準の正しさなんぞには拘泥しない。縛り付けるというのなら、その枷を砕いて自分の価値観を押し付ける。

 どんな手を使ってでも押し通るし、それが人類圏外産の、フィリップの住まう人間社会を穢す魔導書なら、幾百万の罪なき書物諸共にでも焼き尽くす。

 

 「門をブチ破るとか、出来ないんですか?」

 「それは不可能だろうね。禁書庫の門は何百年も前に、天使降臨の儀式を介して作られた人の手にあらざるもの(クリエイテッド)だ。人間の作るあらゆるもの、人間の使うあらゆる魔術の干渉を跳ね除ける力を持っている」

 

 フィリップはここで、じゃあナイ教授でも呼んでくるか、と短絡的な思考はしない。

 予想が付くのだ。フィリップの言葉を聞いたナイ教授が「学院長がそう仰ったのならぁ、いち教師でしかない私にはどうしようもないですねぇ。でもでも、フィリップくんがどうしてもって言うならぁ」と、うざったいほどに媚びた声で煽り散らかしてくると。

 

 まぁ、最終手段の一つとして頭の片隅には置いておくが。

 

 「カーター君、サークリス聖下と仲がいいんだよね? 彼女は確か禁書庫へのアクセス権を持っていたはずだから、頼んでみてくれないかな?」

 

 ダメもとで言ってみた、という表情のフレデリカと同じく、フィリップもそれは一案だと思う。

 

 だが、果たして禁書庫を開けるだけでルキアの気が済むだろうか。

 彼女は意外と面倒見がいいし、責任感も強い。フィリップが助けを求めたのなら、自分が発狂するリスクがあっても──いや、確実に死ぬと分かっていても、その身を投げ出すだろう。

 

 そんな美しい人間性を知って、惹かれたからこそ、フィリップはいまここにいる。

 彼女を筆頭とした美しい人々を守るために、“神を冒涜する書物”を探している。

 

 フィリップがステラと同じくらい強ければ、ルキアに門を開けて貰ったあと、魔術を使って強制的にでも彼女を遠ざけることができるのだろう。

 だがフィリップにそんな力はない。フィリップに出来ることは──

 

 

 



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153

 フィリップ・カーター。

 外なる神々の王にしてこの世全てを夢見る盲目白痴の邪神アザトースの寵愛を受ける、矮小な人間。ナイアーラトテップ、シュブ=ニグラス、ヨグ=ソトースという外神の中でも屈指の強大な神々に守護される稀有な存在であり、全く価値の無い泡沫の一部。

 

 魔術の才は無く、剣術の才も薄い。

 世界最強の魔術師であり唯一神に認められた聖人でもある、ルキアやステラと仲良くなれた幸運な少年と言えなくも無いが、有害無比なる最大神格に見初められた不運が全てを打ち消す。どころか、マイナス無限大だ。

 

 何もできない。

 彼は、そういう存在だ。何もできない、何の価値もない、強大無比なる外神が、邪悪の権化たる旧支配者が、身勝手な正義を振り翳す旧神が何をするまでもなく死んでしまう。怪我で、病気で、あまつさえ寿命などという時限自滅機構も備わっている。

 

 この泡沫にも等しい夢の世界で、殊更に価値の無い劣等種。

 

 そんなフィリップが、自信を持って出来ること。それは──

 

 「ルキフェリア・フォン・サークリス聖下。大変なお手間とは存じますが、禁書庫への門を開けて頂けますでしょうか。大変申し訳ございませんが、その後は私どもの方で対応させて頂きますので、中にはお入りにならないようお願い申し上げます。利用するような真似は大変失礼とは存じますが、何卒ご協力をお願い申し上げます」

 

 ──丁寧な対応である。

 

 これでも五歳の時から実家の宿を手伝ってきて、去年の春には王都の、それも二等地の宿で丁稚奉公をしていたのだ。

 貴族の基準に照らせば不適格かもしれないが、言葉遣いや所作は丁寧にと幼いころから躾けられてきたし、周りの大人もみんなそうだった。

 

 サークリス公爵家の使用人たちのような、洗練された技術には程遠いけれど。それでも、相手を不快にすることなく頼みごとをするくらいは造作もない。

 

 勝った。フィリップはそう確信する。

 誰にと訊かれるとフィリップ自身も答えかねるのだが、強いて言うならルキアにだろうか。

 

 フィリップは自信に満ちた表情を接客用の笑顔で覆い隠し、綺麗な角度で下げていた頭をゆっくりと上げる。

 

 ルキアは機嫌良さそうに笑っているか、最悪でも「仕方ないわね」と言いたげな苦笑を浮かべているだろうというフィリップの予想はしかし、甘すぎるものだった。

 

 「……なに、それ」

 

 彼女はそこが痛くて堪らないように胸元を抑え、怜悧な容貌を苦痛と悲哀に歪めていた。開いた口に言葉が詰まり、窒息したように、嗚咽を漏らさぬように唇を噛み締めて閉じられる。

 

 赤い双眸は一瞬だけ微かに潤んでいたが、他人の前で泣き顔を晒すなんて無様を、ルキアの美意識は許さない。たった一度の瞬きで涙の気配を覆い隠したルキアは、さらに一度の深呼吸で感情を完璧に制御した。

 

 フィリップが何か言うより早く──フィリップが自分の失策に気付くより早く。

 

 「……誰かに、何か言われたの?」

 

 完璧な淑女然とした落ち着いた微笑を向けられ、フィリップは見間違いかと首を傾げる。

 

 しかし、のんびりと自分の言動を振り返っている暇は無かった。彼女の言葉は疑問文で、フィリップはまだそれに答えていない。

 

 「いえ、特にそういうわけでは。……あの、もしかしてご不快でしたか?」

 

 恐る恐るといった風情で尋ねたフィリップに、ルキアは少し考え込む。

 頭の回転がフィリップの数倍は速いだろう彼女が即答しかねるというだけで、殆ど答えのようなものだ。

 

 「いいえ、大丈夫よ。他人行儀に少し驚いただけ」

 

 彼女の笑顔に曇りは無く、本当に不快感を抱いているようには見えない。

 しかし「彼女がそう言うのならそうなのだろう」と安直に納得することは、ルキアの悲痛に歪んだ表情を一瞬でも目にしたあとでは、出来るはずがなかった。

 

 「あの……すみませんでした」

 「気にしないで。でも二度としないでね」

 

 先ほどまでの自信に満ちた態度はどこへやら、すっかり萎縮して謝るフィリップに、ルキアはにこやかに、しかし確固たる意志を滲ませる声色で赦しを与える。

 魔王の寵児だなんだと言われ、外神全ての寵愛と庇護を約束されていて、人間らしい精神性を半ば捨て去ったとはいえ──ルキアを傷付けるのは望むところではないし、何より。

 

 「今の、すごく失礼でしたよね」

 

 ルキアはフィリップのことを良く知っている。

 フィリップの価値観も概ねは、特に、人間社会の身分制度に価値を感じないということには気付いているはずだ。もしかしたら、フィリップがルキアを同等どころか格下ですらなく、何の価値も無いと冷笑していることすら分かっているかもしれない。

 

 そんな彼女に向かって慇懃に話しかけたら、どう思われるか。

 

 フィリップは似たようなモデルを知っているというか、何なら日頃は逆の立場に置かれている。

 

 「今の僕、すごくナイ神父みたいで……最悪でした」

 

 ナイ神父はまるきり今のフィリップのよう──いや、今のフィリップこそが、まるきりナイ神父のようだったと表現すべきか。

 

 嘲笑われている。ルキアがそう受け取っても不思議はない。

 「自分がされて嫌なことは、他人にしてはいけません」。両親にそう教わってきた善良な少年としては、今のは怒られる、怒られるべき行為だった。

 

 フィリップは自分の所業を思い返して頭を抱え、「精神汚染されてるんじゃないのか」と本人としては大真面目に絶対に有り得ない可能性を検討している。

 当然ながらルキアの心に重大なダメージを負わせたのは、そんなことではないのだが。

 

 「言ったでしょう? 気にしないで。いつも通りの貴方で居てくれたら、それでいいから」

 「……はい。それで、その……改めて、お願いがあるんですけど」

 

 いつも通りでいろと言われても、たった今傷付けて、怒られた相手に物を頼むことがどれだけ図々しいかを考えると、どうしても声が沈んでしまう。

 

 その程度の人間性──年相応の繊細さは残していた。

 

 「禁書庫の門を開ければいいのよね? でも、私は中には入ってはいけない」

 「……その通りです」

 

 他人の口から言われると、本当に図々しい頼みだと改めて実感する。

 だがしかし、この条件を譲るわけにはいかない。

 

 自分を入れるなら開けてもいいという条件を付けられたら、交渉能力に欠けるフィリップはどうしようもない。その場合は大人しく引き下がり、ナイ教授に頭を下げる。多少の煽りは甘んじて受けよう。

 

 そう覚悟したフィリップだが、ルキアは「いいわよ」と軽く肯定する。

 フィリップは目を輝かせるが、しかし、彼女の言葉はそれだけでは終わらず、「けれど」と続いた。

 

 「いいわよ。けれど、一つだけ聞かせて。……その、こんなことを聞くのは、凄く怖いのだけれど」

 

 ルキアは一度言葉を切り、心底からの恐怖を告白するように、大きく深呼吸してから先を続ける。

 

 「私に隔意が──私のことが嫌いになったから、じゃないわよね?」

 

 血でも吐きそうな様子での問いに、フィリップは思わず瞠目する。

 彼女がここまで動揺するというか、心情を曝け出すのは珍しい。以前にこのレベルの動揺を見たのは、軍学校との交流戦の最中、ある一夜に、フィリップが脳震盪と低体温症で倒れていた──らしい──時か。

 

 あの時フィリップは四分の一くらい死んでいたらしいけれど、今回は全くの無傷だ。これほど動揺するようなことなのか?

 

 第一──

 

 「当たり前じゃないですか。僕がルキアを嫌いになるなんて、あるわけないでしょう」

 

 そんなことは有り得ない。

 ルキアを安心させよう、なんて配慮が頭から抜け落ち、それこそ「何を言っているんだ」と冷笑するような色が声に混じってしまうほど。

 

 より正確に言えば、フィリップが殊更に誰かを嫌うなんてこと自体が有り得ない。

 フィリップの人──他人という意味もあるが、何より生物種としてのヒト──に対する感情は、殆ど無だ。悪感情という意味ではなく、何のウェイトもない完全なる中立(ニュートラル)

 

 価値の無いものに、それ以上追加で何かを感じることがない。泡は、泡だ。

 

 まあ勿論、例外はある。

 カルトは嫌い、いや大嫌いだが──これも「カルト」という記号に対するもので、カルトに所属する個人に然したる興味はない。

 

 そしてマイナス方向、「嫌い」という属性の中での例外があるように、「好き」というプラス方向での例外もある。

 

 ルキアは、その例外の最たるものだ。彼女も、衛士たちも、ライウス伯爵も、フィリップがヒトという劣等種を完全に見限らずにいられる理由だから。

 彼女が居なければ。彼女があの森で、フィリップの目蓋に焼き付くほど美しく、魂を焼き焦がすほどに鮮烈な人間性を魅せていなければ。今のフィリップは存在しない。

 

 ルキアも、ステラも、下手をすれば王都の住民全てが、「まあいいか」と全てを投げ出したフィリップの軽挙妄動で死んでいた。

 

 そんなフィリップの思考、外神の視座と人間の思考が混じり合ったロジックなど知るはずもなく、ルキアは「でも」と言い募る。

 

 いや、言い募ろうとした。

 

 「でも──……いえ、なんでもないわ。気にしないで」

 

 ルキアは完璧な笑顔を浮かべ、自分の言葉を撤回する。

 これ以上の質問は美意識に反するし、フィリップを困らせてしまう。そんなルキアの考えこそ読み取れなかったものの、不自然な間はフィリップに思考を促すのには十分だった。

 

 フィリップはルキアのお陰で、今ここにいる。──だがそれにしては、フィリップの態度は、彼女への尊重を欠いていたのではないか?

 そう自覚してしまうと、人間性の残滓は当然の権利として騒ぎ立てる。このままではよくない、謝って、改善すべきだと。

 

 「……ごめんなさい。僕は少し、ルキアに甘え過ぎていたみたいです」

 「そんなこと──」

 

 またしても悲哀に満ちた声で言い募ろうとしたルキアに一本指を立て、話はまだ終わっていないと示す。

 直後、今の所作もなんだかナイ神父みたいだったぞと自省したのは、今は関係の無い話だ。

 

 「いえ、そうなんです。僕は、ルキアが何も聞かないでいてくれることに甘え切っていました」

 

 彼女はあの森でのことも、それ以降のことも、フィリップが話したがらない──話したくないという態度を見せるだけでも──ことは、尋ねようとも、調べようともしなかった。フィリップの望む通りに。

 それは彼女の生得的気質(ロリータ)が大きく寄与しているのだが、それでも、知りたいという思いはあったはずだ。ロリータの一要素である盲目的愛情と服従は、好奇心を掻き消すわけではない。

 

 どうして何も語ってくれないのか。どうして何も教えてくれないのか。そんな不満を抱く権利が、彼女にはある。

 

 今回の一件だって、そうだ。

 普通は“使徒”が介入したと確定した時点で手を引くだろう。ではフィリップはどうしてそうしないのか。どうしてそこまで“神を冒涜する書物”を探し求めるのか。それはもしかして、シュブ=ニグラスにまつわるものではないのか。そういうことを、訊きたかったはずだ。

 

 「でも、ごめんなさい。シュブ=ニグラスのことも、ダンジョンにいた奴のことも、ナイ神父のことも、殿下とのことも、何も話せないんです。話したくないんです。僕は、ルキアに──貴女に、幸せに死んでほしいから」

 

 フィリップは深々と頭を下げ、滔々と語る。今度は打算も何もかも抜きにして、心の底からの謝意を込めて。

 

 「僕は今回の一件、“神を冒涜する書物”が人間の正気を損なうような代物ではないかと思って動いています。ルキアには間違ってもそれを読んで欲しくないし、発狂した貴女を殺すような真似もしたくないんです。だからお願いです。身勝手な僕の甘えを受け容れて、何も知らずに、ただ僕に守られてくれませんか?」

 

 それは辛うじて懇願の体を為してはいたが、もはや説得では無かった。

 それは、ただの我儘だ。しかも真摯で一生懸命な声色で語っているくせに、()()()()()()()()()。無自覚な嘘であるだけ、なお性質が悪い。

 

 フィリップは彼女を守るために動いていた。それは本当だ。

 彼女を、ステラを、衛士を、その他少数のフィリップが守りたいと思う人々と、フィリップが住まう社会を汚染させないために、“神を冒涜する書物”を探していた。

 

 ルキアを殺したくない。これもまぁ、概ね本当だ。

 フィリップの精神はもはや死者を悼む機能を失っているが、まだ生きている命──ただし美しい人間性の持ち主に限る──を守ろうという思いはある。死んだらそれまでだが。

 

 だが、しかし。

 フィリップは確かに喜んだのだ。彼女がシュブ=ニグラスの名を読み解き、その存在の強大さを知り、その蒙が啓かれたことを。彼女が人道を踏み外す、その確かなる第一歩目を。

 

 その歓喜と称賛がある限り、フィリップの言葉は突き詰めてしまえば欺瞞だった。

 

 誰が言い出したのか「巧妙な嘘とは樽一杯の真実の中に一滴だけ潜ませるもの」という言説があるが、今のフィリップはこれを悍ましいほど自然に、無意識に実行していた。いや、結果としてそうなっただけだが。

 

 無自覚な嘘は厄介だ。自分はそれを真実だと思っているのだから、嘘という言葉すら不正確か。

 公爵家次女として教育を受け、権謀術数渦巻く社交界にも慣れたルキアですら、それを見抜くには知識が要る。普遍的な真実と合致するか否かという、照合を要する。相手の内心を高い確度で推察できるステラでさえそうだ。

 

 「ルキアに隔意なんてありません。僕は貴女が好きで、守りたいから言っているんです」

 

 フィリップの言う「好き」に、異性愛や性愛の要素は無い。

 とはいえ全く意味の無い虚言というわけでもない。むしろ、含まれる要素だけで言えば、そこいらの学院生が口にする異性愛と性愛だけの「好き」よりも余程多い。

 

 羨望。嫉妬。憧憬。尊敬。冷笑。嘲笑。優越感と劣等感。そして期待と諦観。

 そんな多様な感情を坩堝で融かし合わせたような、複雑で、面倒で、どうでもいい情動。

 

 それがフィリップの言う、フィリップ自身も無自覚な「好き」の正体だ。

 

 そんなことはある程度の価値観を共有するルキアは百も承知のはずだが、彼女が微動だにしない硬直から再起動したのは、たっぷり十秒は経ったあとのことだった。

 尋常ならざる思考速度を持つルキアだ。その彼女の十数秒もの沈黙の間に何の思考も無ければいいが、もし平時の速度で思考していたとしたら、その密度は常人に換算して何分間の黙考に当たるのだろう。

 

 フィリップがそのことに気付いていれば、恐る恐るといった風情で声を掛けていただろうが──生憎、フィリップは前述の通り、今の台詞に然したる思い入れはない。必殺の一撃を放っておきながら、「どんな反論が来るのだろう」と身構えてさえいた。

 

 さておき。

 ルキアは十数秒の思考──正確には十秒の放心と数秒の思考だが──によって、漸くフィリップの精神状態と、「好き」という言葉の軽さを思い出した。

 

 そうなれば、後は何ら詰まるところのない流れだ。

 元よりフィリップの行動に口を挟むつもりなどなく、ただ「フィリップに隔意を持たれてはいないだろうか」という一点のみが気掛かりだったルキアだ。その心配が晴れた今、これ以上無粋に、不細工に、うだうだと言い募ることはない。

 

 「……分かったわ。禁書庫の門を開けてあげる。その後は外で待っているから、助けが必要になったら呼んで頂戴」

 

 自分に任せろと胸を張って言うルキアに、フィリップは笑顔で頷きを返す。

 

 「じゃあ行きましょう。先輩が待ってます」

 

 一時はどうなることかと思ったけれど、よかった、何とかなった。

 そう気が抜けそうになるところだが、むしろここからが本番だ。フィリップは自分の頬をぺちぺちと叩いて気合を入れ直し、本棚の森越しにでも見える禁書庫の門へと戻る。

 

 少し後ろを歩いていたルキアは、ふと思い出したように「そういえば」と声を上げた。

 

 「そういえば、フィリップ。あまり「好き」って言葉を軽々に使わない方がいいわよ」

 「え? あ、はい」

 

 ルキアの言葉を受け、なんでだろうと考えたフィリップは、一つの結論を弾き出す。

 しかし、絶対的に人間とは相容れない外神の視座の持ち主にして、人外の美を魅せつけられた、未だ恋を知らない年頃の少年。そんなフィリップが他人の心を、特に女心と恋心なんて普通の人でも図りかねるようなものを、推察できるはずがない。

 

 結論から言って、フィリップの答えは全く的外れなものどころか、追撃ですらあった。

 

 「軽々にってことは無いですけどね。ルキアくらいにしか言いませんし」

 

 またも硬直したルキアを余所に、フィリップは考える。

 あと自信を持って「好きだ」と言えるのは、衛士団と、ステラと、ライウス伯爵と……勿論、家族と、モニカ一家くらいか。もう少し多い方が、やはり人間としては健常なのだろうか。

 

 

 

 



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154

 想定より少し時間がかかったものの、無事協力してくれることとなったルキアを中心に、フィリップとフレデリカは禁書庫への入り口である禍々しく巨大な門の前に立っていた。

 

 「中に入ると無数の本棚があるけれど、それらは全てダミーよ。本を取り出した瞬間に神域級攻撃魔術が起動する仕組みになっているから、絶対に触らないで」

 

 神域級攻撃魔術といえば、ルキアの『明けの明星』がそうだ。

 人類の最高到達点にして、通常は天使降臨とその補助を必要とする人外領域の攻撃。ダンジョン一つを丸ごと消滅させる火力すら有するもの。そのトラップともなると、流石のルキアも警告してくれるレベルか。

 

 随分と悪辣な仕掛けだと笑いつつ、二人はルキアの言葉の続きを待つ。

 そんな仕掛けがあるにもかかわらず「処刑室」ではなく「禁書庫」と呼ばれているということは、その中から本を取り出す手順があるはずだ。

 

 「中に入って左手側二番目の通路を進むと、二番目の本棚に『禁書目録』という本があるわ。場所は確か……下段の端だったかしら。それが、いわば禁書庫の司書ね。中は白紙で、本の名前か、本にまつわるキーワードを書けば、禁書庫は自動的に切り替わるわ」

 「切り替わる、ですか?」

 

 不思議な言い回しに首を傾げたフレデリカに、ルキアは珍しく鷹揚に頷く。

 

 「禁書庫は隔離空間ではあるけれど、具体性を持った実在の場所ではなく、異空間──天国や地獄のような、「地続きではないどこか」よ」

 「……なるほど、つまり、別の世界がまた別の世界に変わるということですか?」

 「えぇ。体感的には自分が移動したように感じられるし、そういう認識でも構わないけれどね」

 

 どちらにせよ、人類では再現不可能な魔術だ。

 転移もさることながら、空間一つの創造となるとまさしく神の御業。似たようなものがナイ教授の研究室を外観以上に広く頑丈にするためだけに行使されているし、何なら全く別の隔離空間でテストまでさせられたが、まぁそれはそれとして。

 

 「書き込むのにインクは要らないわ。指に魔力を纏わせて、なぞるだけ」

 

 ルキアの説明に顔を強張らせたフィリップだが、ややあって危ないところだったと胸を撫で下ろす。

 その視線の先では、フレデリカが「なるほど」と言いながら自分の指先に魔力を纏わせ、空中に無意味な筆跡を残している。これが簡単そうに見えて、フィリップの魔力操作能力ではかなり難しい芸当だ。魔力操作の練習の一環でたまにやるが、成功率は20パーセントくらいしかない。

 

 「何か質問は? ……無いなら、門を開けるわよ」

 

 二人が頷くのを確認して、ルキアはそっと門に手を当てる。

 そしてフィリップでも気付くほどの勢いで大量の魔力を流し込むと、蝶番どころか枠さえ無い、ただ立っているだけの『門』が、ゆっくりと開き始める。

 

 しかし一瞬の後には、二人の目の前には閉じられたままの荘厳な門が戻っていた。

 

 「え?」「な、何が……?」と困惑する二人を余所に、ルキアは門に手を当てた姿勢のまま魔力を流し続けている。そのまま何でもないことのように、一言。

 

 「幻影よ。私が開けたのに私がここに残っていたら、司書に怪しまれるでしょう?」

 

 なるほどと納得する二人だが、特に何の魔術行使も無くフィリップが気付く量の魔力を使い、その上でさらに魔術行使を完璧に秘匿した幻影魔術。ついでに言うと無詠唱で、対象となる物体もこれだけ大きいとなると、同時に実行するのは困難を極める。

 

 せめて門ではなく自分の方を隠せば難易度は多少下がるものの、それでは万が一の際にフィリップがルキアを見つけられず、問題解決が遅れてしまう可能性がある。

 

 「私は……そこで本を読んでいるから、問題が起こったらここまで戻ってくることを最優先にして」

 「ありがとうございます。何から何まで」

 

 深々と頭を下げたフレデリカに、ルキアは鷹揚に手を振る。

 鷹揚に、というところがミソだ。普段の彼女なら、もっとどうでも良さそうにするか、一瞥すらくれずに流す。

 

 まだ上機嫌が続いているようだが、何かいいことでもあったのだろうか。と、フィリップは大真面目に考えるが、今はそれよりも。

 

 「行きましょう、先輩。あまり悠長にしてると、ルキアの欺瞞がバレるかもしれません」

 

 魔術それ自体を見抜けるのはステラやヘレナといった同格だけかもしれないが、目の前にある普段通りの門はあくまで幻影。触れられないし、何の抵抗もなく通り抜けられる。つまり見るだけならともかく、手を伸ばせば一発でバレるということだ。

 

 「そうだね。行こうか」

 

 フレデリカがルキアに一礼し、先に禁書庫の中に入る。

 そのすぐ後にフィリップも続き──幻影の門を潜ると、至極色のカーペットが敷かれた大回廊と、両側に壁の如く聳え、どこまでも続く巨大な本棚が目に飛び込んできた。横を見ても、前を見ても、どこまでも続く通路と本棚が見える。

 

 図書館ではなく書庫という名前の通り、見渡す限り本棚だけだ。読書スペースや貸し出しカウンターの類は見当たらない。

 だからだろうか。先ほどまでいた図書館に感じる穏やかな温かさをまるで感じない、閉塞感と薄ら寒さだけの場所だ。

 

 ふらふらと吸い寄せられるように本棚へ近付いたフィリップは、好奇心のままに背表紙を眺めるが、どの本にも興味はそそられない。『死霊術原論』とか『不老魔術の論理破綻と対策』とか難しそうなタイトルばかりで、全然面白そうじゃなかった。

 

 「カーター君? そっちは右だよ?」

 「あ、すみません! ……流石に左右は分かりますよ」

 

 訝しそうなフレデリカの下まで小走りに向かい、そのまま並んで左側二つ目の通路に移動する。

 ルキアに言われた通りの場所には、確かに『禁書目録』というタイトルの本があった。

 

 もしトラップが発動したらどうしようと──二人の魔術的素養では成す術もなく死ぬしかないのだが──多少ビビりながら本を取り出したフレデリカは、一番初めのページを開く。しかしそれなりの分厚さがあって書きにくいことが判明したので、片手でも持ちやすくページも開きやすい真ん中の辺りを開き直した。

 

 深呼吸を一つ挟み、フレデリカは『神を冒涜する書物』と書き込む。

 

 魔力によって書かれた文字は本の中へと吸い込まれ──入れ替わるように、黒いインクで書かれた文字が、透明人間が書き込んだように現れた。

 白紙の中に一行、『該当蔵書が複数の書庫に存在します。条件の追加が必要です』と。

 

 その文字は読むのに十分な時間の後に、紙の中に沈むように消えていく。再検索しろということだろう。

 

 フレデリカは納得したように片眉を上げて頷き、『神を冒涜する書物』の他に、『歴史・秘匿・冒涜』と書き加えた。

 

 そしてもう一度、魔力で書いた文字が吸い込まれ、代わりに文字が書き込まれる。

 

 『該当書架:1件 ……“大罪書庫”』

 『自動防衛プログラム・コクマーを起動中……』

 『自動防衛プログラム・コクマーより天国への申請:座天使降臨・閲覧者排除』

 『天国より解答:エラー。プログラム名“コクマー”該当なし』

 

 「……?」

 「どうしたんですか?」

 

 眉根を寄せて首を傾げるフレデリカと、身長差から背伸びをして彼女の持つ本を覗くフィリップの前で、本は独りでに文字を出力し続ける。無機質に、無感動に、淡々と。

 

 『座天使長ラジエルより解答:ディレクトリ名“大罪書庫”およびプログラム名“コクマー”の申請を承認』

 『“大罪書庫”閲覧希望者確認……2名』

 『座天使長ラジエルより天国への申請:降臨実行・理由秘匿』

 『天国より解答:申請を承認』

 『天国より通告:天使降臨・個体名“【座天使長】ラジエル”』

 

 『座天使長ラジエルより通告:』

 

 ……『断罪執行』

 

 「っ!?」

 「伏せて!」

 

 身構えたフィリップと、そのフィリップを柔らかなカーペット上へ押し倒したフレデリカ。

 その違いは、現状認識と脅威判定の正確さ──或いは価値観の相違だ。

 

 どのような敵が出てこようと最終的には問題にならないし、大抵の相手なら「殺せばいいのだろう?」と最速にして最も稚拙な解決策を取れるフィリップ。ここ最近の戦闘訓練で「身構える」ことくらいは覚えたものの、根本的な価値観は変わらない。

 

 対してフレデリカは魔術戦だけでなく、戦闘経験が浅い。

 もちろん魔術学院に籍を置く以上、魔術戦の訓練は授業や試験で受けているだろうが、彼女のクラスは2-F。Aクラスから魔術適性が高い順に割り振られるので、Fクラスは落ちこぼれだ。戦闘能力も相応に低い。

 

 目を閉じていても目蓋を白く染め上げるほどの光が閃き──一瞬の後に、目に映る景色は一変していた。

 

 黒紫のカーペットも、聳えるような本棚も、そこに収められた無数と言える量の本も、何も無い。

 あるのは真っ白な地面と、真っ白な空。遠くに見える白い地平線。

 

 妙に覚えのある光景だが、ナイアーラトテップが作った場所とは違い、足元が妙に柔らかく、白い霞のようなものもかかっている。

 喩えるなら、雲の上にでもいるような感じだ。

 

 「……ここは?」

 

 二人とも床に伏せていたはずなのに、気付けばそこに立っていた。

 視界どころか姿勢さえ不連続で、頭がくらくらするような感覚がある。酔ったのか、それとも混乱か。薄くぼやける視界を、頭を振って取り戻す。

 

 「うぇ……先輩、無事……ですね。よかった」

 

 クリアになった視界の隅で動くものを見つけ、視線を向けると、フレデリカが頭を振りながら立ち上がるところだった。

 

 「あぁ……カーター君も、無事だね」

 「はい」

 

 正直、「無事」と一口に言いたくない程度には気分が悪いが、一時的なものだろう。

 視界は戻ったし、立って歩ける。なら、今はのんびり横になるのではなく、ここを出る方法を探すのが優先だ。

 

 「先輩、ここは……出口はあるんでしょうか」

 

 見渡す限り、白い靄と白い床、白い天井だ。

 あまり長くここにいると雪眼炎にでもなりそうなほど、無機質な白さが目に刺さる。

 

 大方、件の座天使長ラジエルとやらに閉じ込められたか、或いはそのラジエルと戦う──ラジエルが二人を殺すための処刑場か。そのどちらかだろう。どちらにせよ、出口の存在は望み薄だ。

 

 出所は分からないが、かち、かち、と硬質なものが触れ合うような音が、短い間隔で断続的に聞こえてくる。

 もしかして時間制限でもあるのだろうかと、一先ず現在時刻を確認する。時間が止まっているようなこともなく、針の進みが不自然に早かったり、遅かったりもしない。

 

 「ラジエルを探して殺した方が早そうですけど……そもそも天使って死ぬんですか?」

 

 命があるなら死ぬ、精神があるなら発狂すると決めつけるのは早計だ。

 フィリップ自身が例外ということもあって、これに関しては断言できる。勿論、不死の存在を殺す手段なんて幾らでもあるし、外神が干渉するのなら権能でどうとでもできる。特に恐れる必要はない。

 

 ただし、恐れる必要がないだけだ。最低でも邪神招来を使わないとどうにもならない相手、今のフィリップが単身で立ち向かうことはできない相手だといえる。

 

 「先輩……レオンハルト先輩?」

 

 え? 無視ですか? と、ちょっと悲しくなりながら振り返ったフィリップだが、フレデリカはそれどころではない状態だった。

 

 両腕で守るように自分の身体を抱き締め、しゃがみ込んで震えている。先ほどからかちかちと聞こえていたのは、歯の根が合わなくなった彼女が原因だ。

 顔は蒼白で、呼吸も荒い。しかし目だけは、震え、瞬きながらも、遠くの一点を見つめて動かない。

 

 「どうしたんですか? あっちに何か……?」

 

 フィリップもつられて視線を向けると──見るからに「見てはいけないものを見た」といった風情のフレデリカがそこにいるのに、全く無警戒に同じ方向を見るのは流石としか言えない──顔を判別できない程度の離れたところに、悠然と立つ人影が見えた。

 

 遠目に分かる情報は少ないが、若い男のようだ。

 白いバスローブ……いや、ドレスだろうか。ゆったりとした服を着ていることくらいしか判別できない。

 

 「……?」

 

 見る限り、フレデリカが言葉も出ないほど怯えるような相手には見えない。

 フィリップが分からないような部分──例えば、服が錬金術製のとんでもない代物だとか、魔力の質がとんでもなく高いとかだろうか。

 

 まぁ、何でもいい。

 いまこのタイミングで姿を見せたということは、十中八九、座天使長ラジエルの使いか何かだろう。なんとか交渉できたりしないか、試す価値はある。

 

 「すみません! 座天使長ラジエルの御遣いとお見受けします! えーっと……単刀直入に申し上げて、交渉がしたいのですが!」 

 

 高々と挙げた手を大きく振り、声を張り上げながら堂々と歩いていくフィリップは、友達と待ち合わせでもしていたような気軽な足取りだ。その背中に、フレデリカが正気を疑うような視線を向けていることなど気付きもしない。

 

 「す、すごい。これだけの神威を浴びて、何も動じていないなんて……」

 

 歯の根も合わないほどに震えながら、フレデリカは独り言ちる。

 彼女の目には、肌には、外界を知覚するありとあらゆる感覚器官には、フィリップを興味深そうに睥睨する人影が、とても強大で恐ろしく、そして何より神聖なものとして捉えられていた。

 

 それもそのはず、というか、それが正常だ。

 何故なら。

 

 「訂正しよう。私こそが、座天使長ラジエルだ」

 

 座天使──天使の階級の中で上から三番目の高位天使たち。

 その長であるラジエルは、人間では仰ぎ見ることしかできない高次存在であり、首を垂れるべき神聖なものだ。目の前に立っているだけで、彼の存在から迸る神威が強烈なまでに肌を打ち、目を焼き、脳を犯す。

 

 そんな相手を前にして、フィリップは「へぇ」と軽い相槌を打ち、一言。

 

 「へぇ。意外と人間みたいなんですね、天使って」

 

 

 

 



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155

 天使。

 神が遣わす伝令使にして、悪魔との戦争における兵士。人の行く末を見守り導く守護者たちであり、同時に人を罰し断罪する処刑執行者でもある。

 

 その姿は性別を持たぬがゆえに万人を魅了する美しさであり、手を触れることすら畏れ多い荘厳さと神聖さを持つ。階級に応じて数の増える純白の翼を持ち、頭上には輝ける光輪を冠する。

 

 ……と、フィリップは今までそう聞いていたのだけれど、目の前のラジエルを名乗る人物は、知識とはそぐわない平凡な外見だ。

 顔の造形は整っているように見えるものの、ナイ神父やマザーとは比較にもならないし、好みの問題か、或いは変に中性的だからか、ルキアやステラの方が綺麗だと思う。

 

 「えーっと……天使と言うと、もっとこう、羽があって、光の輪っかを被っていて、それで……煌びやかな感じなのでは?」

 

 確か聖典には天使のことを「星」と形容する一節もあったはずだ。もう少し敬虔な信徒なら、どの章のどの節かまで覚えているのだろうが、それはフィリップに求めることではない。

 

 フィリップが内心で抱いていた「本当に天使なのか?」という疑問を見透かしたように、ラジエルは重々しく首を振る。

 その所作にはフィリップにも分かるほどの重厚な威厳があったが、若々しく中性的な容姿ということもあって、似合っていないなという身も蓋もない感想が浮かんだ。

 

 「嘆かわしい。目に見えるものでしか神の威光を感じられぬ、即物的で、信じる心のない者よ」

 「はぁ、すみません……」

 

 会釈程度に頭を下げつつ、内心では「だって神威とか感じないし」としょんぼり──怒られたから──するフィリップだが、背後でがたがた震えているフレデリカのことを考えれば、一瞬で答えに辿り着けるだろう。

 

 眼前のラジエルから、神威は確かに放たれている。

 常人であれば気絶しかねないほどの、超越存在としての存在感と、神格に連なるものの気配だ。

 

 ……それで、まぁ、その、残念ながらというべきか。

 神格と言っても、唯一神は精々が旧神中位程度の劣等存在。フィリップの召喚するクトゥグアやハスターは歯牙にもかけない、外神なら洟も引っかけないような相手だ。こうしてフィリップという現地の生態系の中でもそれなりに下位の存在を護衛するという状況でもなければ、認知すらしなかっただろう。

 

 そして相手の悪いことに、フィリップは過去、アザトースの宮殿に接続している。

 この世の中心にあり、この世全ての宮殿よりも絢爛で、この世全ての砦よりも堅牢で、この世全ての聖堂より荘厳な場所。そこで歌い奏で踊り狂う蕃神たちを見て、その神威を浴びたのだ。

 

 普段から傍にいる、ナイアーラトテップとシュブ=ニグラスだけではない。

 真なる闇。無名の霧。音そのもの。腐敗と死の概念。美しいもの。輝いているもの。生きているもの。死んでいるもの。どっちつかずなものたち。それらを覆い隠すもの。それらを暴くもの。名前も無い歌い手と、踊り子、奏者たち。

 

 フィリップに与えられた外なる神々の知識、幾百幾千では足りない彼らの名前と照らし合わせて、その場にいなかったのはたったの一柱だけ。

 

 外神最強の一角である副王ヨグ=ソトースに謁見し、あまつさえ──あの美しい世界の中でさえ醜悪だった、盲目白痴の魔王アザトースにも拝謁したのだ。

 

 今更、旧神中位程度の存在どころか、その配下の放つ神威に気付けと? 無理に決まっているだろう。一光年を測る定規では一ミリは測れない。

 

 「宣告する。汝らはこれより処断される。しかし、安心してよい。煉獄にて改心し審判の刻限に至りて信仰心が有らば、汝の魂は救済され、その後千年の安息が約束される」

 「どうしてですか? 僕たちは天使に断罪されるような行いは、何一つしていませんでした」

 

 少なくともさっきは、ルキアに教わった通りの手順で本を探していただけだ。

 そりゃあ、それ以前の行いについての問題は自覚しているし、そもそも存在自体が神への冒涜みたいなフィリップだ。「自分は善良で敬虔な信徒である」なんて口が裂けても言えないけれど。

 

 「全知全能である神が、罪なき者を冤罪で裁くんですか?」

 

 フィリップの問い掛けに冷笑が混じったことに目敏く気付き、ラジエルが心底不愉快そうに眉根を寄せる。

 

 「忠告しよう。汝、神を試すこと勿れ。そして答え、詫びよう。今回の処断に我が父は関与しておられない。汝らの処断は我が契約に拠るものである」

 「契約……?」

 

 天使も悪魔同様、魔術師が召喚魔術によって使役することは可能らしいが……それも天使級から大天使級、つまり天使の階級で最下位か下から二番目の位までだ。悪魔で言うゴエティア72柱の悪魔のように、座天使・智天使・熾天使といった上位階級天使は人間では使役不可能なはず。

 

 「誰と、どんな契約をしたのかは知りませんけど、僕たちはただ──」

 「教えよう。私に与えられた命令は、この先、大罪書庫に入ろうと試みるあらゆる者を排除すること。それが仮令、聖人に愛される子であろうとも」

 

 フィリップは顔を引き攣らせ、思わず漏れそうになった舌打ちをぐっと堪えた。

 相手が天使であるのなら、ルキアとステラの威を借りてどうにかならないものかと思っていたのだけれど、先に無理だと明言されてしまった。

 

 こうなると、フィリップの弁舌では天使を煙に巻くことなど出来ないので、言葉による交渉という選択肢は消える。

 じゃあ、まあ、後は。

 

 「なら、武力交渉しかないわけなんですが……天使って死ぬんですか?」

 「問いを返そう。私の答えは、汝の行動を変え得るのか?」

 

 そりゃあ勿論。

 死ぬなら多少の様子見としてウルミと領域外魔術からスタートするし、死なないのなら諦めて初手から召喚魔術をぶっ放す。……おっと、そういえばフレデリカが居たか。

 

 「先輩! 僕が肩を叩くまで、その場に伏せて耳を塞いでてくれますか! あと目も閉じててください!」

 

 フレデリカが少し遠くにいて、さらには恐怖で固まっているようなので、少し大きめに声を張り上げる。彼女が緩慢な動作で言われた通りにするのを見て「これでヨシ」と頷いてなどいるが、果たして本当に大丈夫なのだろうか。

 

 そんな緊張感の無い様子のフィリップに、ラジエルは不思議そうに、そして微かな不快感を滲ませて問いを投げる。

 

 「問おう。汝は何故、私を恐れない。何故、父の神威を畏れない」

 「……僕、そういうのには鈍感みたいで」

 

 へらりと笑うフィリップと、不愉快そうなラジエルは一瞬とも数秒とも感じられる時間だけ見つめ合い──フィリップが先んじて動いた。

 

 身体が地面と水平になるほど極端な前傾姿勢を取り、同時にベルトに手を添える。

 そこに巻かれたウルミを抜き放つと同時に足に力を籠め、地面すれすれを飛ぶ燕のようにも、地上を滑る蛇のようにも感じられる動きで突撃を敢行。

 

 攪乱の歩法『拍奪』によって相対位置認識を前と右に欺瞞しながら、やや曲線を描く軌道で走る。これはステラに教わった、対魔術師用の動きだ。

 

 相手が無手だからと安直に考えてのことだったが、残念ながら、ラジエルは右手を空へと伸ばし、

 

 「炎剣よ在れ」

 

 と唱え、炎で形作られた長剣を握った。紅蓮に輝くそれはフィリップの目にも美しく映るが、それ以上に、十メートル以上離れていても、肌や目がぴりぴりと危険を訴えかけてくるほどの熱を感じる。触れれば骨まで焼けそうだ。

 

 便利なことで、と悪態の一つも吐きたいところだが、話した分だけ呼吸を無駄に使うことになる。

 

 対剣士用の直線軌道に切り替えるまでもなく距離を詰め終え、ウルミと炎剣の間合いにそれぞれが入り──フィリップの予想を数倍する速度で炎剣が振られ、轟々と音を立てて大気を焼き切りながら、フィリップのやや右側の空間を空振った。

 

 一応は両目で位置を認識しているらしく、『拍奪』の相対位置欺瞞が機能している。

 それは朗報だが、それ以上に。

 

 「あっつ!?」

 

 フィリップより人一人分は離れたところを通っただけの炎剣が、右半身に強烈な熱波をぶつけていった。辛うじて火傷にはなっていないようだが、慌てて距離を取った後でも感覚が残っている。

 

 やばい。

 これはやばい。触るどころか、その近くに数分もいれば炙り焼きになりそうだ。

 

 フィリップに熱中症やその他の高温環境下で起こる身体異常に関する知識は無かったが、本能的に危険を感じるほど熱い。

 

 「《ウォーター・ランス》」

 

 自分の頭上で『魔法の水差し』を使い、頭から水を被っておく。焼け石に水だろうが、体感的には多少マシになるはずだと信じて。

 

 攻撃魔術を詠唱しておきながら、しかし魔術戦に於いては何の役にも立たない初級魔術を選んだことに首を傾げていたラジエルは、フィリップの熱対策を見て納得したように頷く。

 そして自分の右頬を撫で、一言。

 

 「称賛しよう。今の動き、今の技は素晴らしいものだ」

 「そりゃどうも。あんな苦し紛れの攻撃に当たってくれてありがとう、と付け加えるべきですか?」

 

 煽るように言うフィリップだが、その表情は苦々しい。

 

 炎剣が放つ甚大な熱から逃げながら振った、いわば回避のついでのような攻撃だったが、ラジエルには躱されなかった。

 

 いや、より正確には、フィリップの見た限り攻撃は見切られてさえいなかった。

 ルキアやステラ、或いは昨日の使徒もそうだが、攻撃に対して完璧な防御ができる手合いでも、攻撃に対して何らかの反応を示す。警戒の眼差しを向けるとか、無感動な一瞥をくれるとか、とにかく「攻撃を認識する」という行為があるのだ。

 

 しかし、さっきのラジエルにその気配は無かった。奴は完全にフィリップを攻撃することだけに注力して、フィリップの攻撃には全く無頓着だった。

 

 「……なるほどね」

 

 どうして、と考える前に、似たような手合いを思い出す。

 それはクトゥグア召喚やハスター召喚の練習をしていた時のナイアーラトテップと、普段のフィリップ自身だ。

 

 その化身を幾度となくクトゥグアに焼き払われ、ハスターの毛先という風属性上級魔術にも匹敵するものを向けられて、ただの一度もフィリップを注意しないどころか、一貫して嘲笑を向けていたナイ神父とナイ教授。

 悪魔や黒山羊、アイホートの眷属と戦闘してきて、その攻撃に対しては一貫して無関心だったフィリップ。

 

 その振る舞いの根幹にあるのは、相手が自分を傷付けることなど出来ないという絶対的な自信だ。──フィリップのそれはヨグ=ソトースへの信頼感によるものだが。

 

 「銀の武器か、魔力付与のされた武器でしか傷付かないとか、そういう感じか。吸血鬼みたいな」

 「肯定し、教授しよう。我々天使は、悪魔の手になる武器か、一定以上の魔力を付与された武器でなければ傷を負わない」

 

 何でもないことのように、しかし微かな自信を滲ませて言うラジエルに、フィリップは顔を引き攣らせて舌打ちを漏らす。

 

 フィリップが持ち合わせる武器は、この何の変哲もない鉄製のウルミだけだ。当然ながら付与魔術の心得なんて無いし、恐らくは付与したところで「一定以上」にはならない。

 

 元々手加減のために貰って練習していたウルミだが、こうなると何の役にも立たない。精々が相手の顔を殴りつけて視線を逸らさせるくらいだが、悲しいことに、『拍奪』は相手が狙い澄ました攻撃に対してこそ真価を発揮する。何も見えていない状態で適当に振った攻撃の方が、却って当たりやすい──事故りやすいのだ。

 

 「便利なことで。……《萎縮(シューヴリング)》!」

 「光盾よ在れ。……?」

 

 では魔術ならどうか。

 その判断は、ラジエルが対応したところを見るに、間違ってはいないようだ。不意討ち気味の攻撃にもラグ無く対応してくる辺り、それなり以上に戦闘慣れしているらしい。

 

 ラジエルは今度は左手を振り、下腕部に光のラウンドシールドを作り出して構えた。

 それは恐らく魔術を跳ね返すような効果があったのだろうが、直接干渉魔術である『萎縮』には無意味な対策だ。……尤も、フィリップの放った『萎縮』それ自体も、ラジエルの魔力抵抗によって弾かれてしまい、何の効果も齎さなかったのだが。

 

 「……レジストしたか。『シューヴリング』なる魔術に聞き覚えは無いが、ふむ。覚えておこう。天国に戻り次第、セファーに尋ねなければならないと」

 

 独り言ちるラジエルまでの距離は、およそ10メートル。ステラが言う、一般の魔術師の魔力抵抗なら貫通できる距離だ。

 この距離で無効化されるとなると、やはり人間以上の魔力抵抗力を有していると見て間違いないだろう。恐らくは、どれだけ近付いても関係なくレジストされる。それに何より、あの炎剣が熱すぎて近寄りたくなかった。

 

 「質問しよう。抵抗は終わりか。であれば、提言しよう。そこで跪き首を差し出せば、苦痛なき処断を約束すると」

 

 物理攻撃も、魔術攻撃も、フィリップはそのどちらでも、ラジエルに有効打を与えられる水準に達していない。

 

 言うまで無く、それは詰みを意味する。

 相手は自分を殺せて、自分は相手を殺せない。そんな状況で戦闘を続けるのは愚かの極みだし、そもそもそれは戦闘ではなく、一方的な殺害だ。

 

 いや──最初から、か。

 ラジエルには、フィリップが、眼前の人間が自分を殺し得ないと分かっていただろう。

 

 だからこそ、これだけ無意味な抵抗を許していたのだ。せめてもの情けに、だろうか。或いは、矮小な存在の無意味な行為を嘲笑っていたのかもしれないが。

 

 「手向けを与えよう。最期に、私の真の姿を見て逝くといい」

 

 

 

 

 

 

 



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156

 天使の真の姿。

 それは天使が神の御前に並ぶときと、悪魔の軍勢と戦うときだけに見せるものであり、全力の解放と同義であった。

 

 人間風情に、それも戦闘能力に欠ける子供相手には過剰に過ぎるそれは、ラジエルの言葉通り、手向けという意味が大きい。

 

 「再度、称賛しよう。汝の技、見事であった」

 

 ラジエルの背中から四枚の翼が生え出で、頭上には幾何学的に組み合わされた複数層の光輪が冠される。その体躯は5メートルほどにまで巨大化し、それよりも更に大きい炎の輪が二つ、身体を守るように交差していた。中性的な若者といった感じだった顔は、もやがかかったように見えづらくなっていた。

 右手には炎の剣が、左腕には光の盾が、それぞれ装備されている。

 

 身に纏う純白の衣よりなおも白く輝く翼も、一時として同じ形にはならない幾何学模様の光輪も、確かにイメージ通りではあるけれど……やはり、神威は感じない。

 

 「故に、我が全力を以て葬送する。内密の契約故、周囲の情報を無制限に記録するセファーは置いて来たが、この炎剣であれば苦痛なく処断できよう」

 

 背が高くなったからか、妙に聞き取りづらい──声にすら神威が乗り、空気どころか魔力をさえ揺らしている──言葉に、そうだろうな、とフィリップは苦笑する。

 今までの普通の長剣サイズでさえ、近くにいるだけで熱かったのだ。五メートルの巨人が持つサイズともなれば、十メートル離れていても熱気に肌を打たれ、息苦しいほどだ。

 

 「すみません、向こう五分ぐらいでいいので、彼女の視界をマスクできたりしませんか?」

 「ほう。……三度、称賛しよう。自らの死を前にしてさえ、女性への配慮を忘れぬとは。汝は不信心な輩ではあるが、善良でもあるようだ。その在り様に免じて、《スリープ》《シールド・エリア》」

 「ありがとうございます」

 

 フレデリカはずっと伏せて──いや、頭を抱えて蹲っているから要らぬ心配かもしれないが、万が一ということもある。

 いやあ本当にすみませんねははは、と空虚な笑いを向けるフィリップに、ラジエルは怪訝そうな声を上げる。

 

 「ふむ。問おう。汝は未だ生を諦めていないように見受けられるが、私に抗する術があるのか。であれば、提言する。全てを出し切ってから逝くとよい」

 「ありがとうございます、そうします」

 

 フィリップは的外れな言葉と笑うことはせず、浮かんだ嘲笑を頭を下げて隠す。

 

 自分が絶対的強者であると信じて疑わない者ほど驕り、足を掬い易い。相手を油断させ、その隙を逃さず攻撃するのが弱者の戦い方だ。

 

 以前に読んだ冒険譚で、強大な敵と戦う勇者が言った言葉だ。いや、仲間の賢者に言われた言葉だったか?

 まぁ、とにかく、フィリップはそれを思い出して実行していた。

 

 ラジエルは現れてからずっと、フィリップは自分には勝てないと確信して、子供と遊ぶときのような取り繕った真剣さを漂わせていた。要は、フィリップは適当にあしらわれていたということだ。嘲笑われていたというよりは、上位存在が下位の存在に対して向ける冷笑──大人が子供に向ける愛着混じりのそれが近いか。

 

 それに、ラジエルの言う「契約」による処断──本来は善人を守護し、悪人を罰する存在である天使の職務に反する行為であるからか、罪悪感のようなものも感じられる。ラジエルが妙に優しいのはそれが原因だろう。

 

 であるならば、甘えさせてもらおう。

 そして、申し訳ないが、遠慮はしない。その代わり殺しもしないから許してくれ。

 

 「いあ いあ はすたあ はすたあ──」

 

 かつて軍学校生のマリー・フォン・エーザーは、フィリップを指して「騎士の誇りも男の矜持も全て無視して遠距離から毒ナイフを投げるタイプ」だと言ったが、それは紛れもない事実だった。

 

 親か教師のように優しく「全力を出しなさい」と言った相手に召喚魔術を使うのもそうだが、フィリップのそれは旧支配者最強の一角であり、ヨグ=ソトースの落とし仔であるハスターの招来だ。過剰火力も甚だしいというか、もっとこう、手心と言うか、相手への敬意と言うか、色々と思い出してほしいところだ。

 

 「と、問う。なんだ、その魔術は……?」

 「くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ──」

 

 震え声のラジエルを無視して、フィリップは淡々と詠唱を続ける。

 それが終わったら最期だと、ラジエルはそれだけは理解した。

 

 それだけで済んだのは、ラジエルという天使の性質に依るところが大きい。天使は一般的に全知であるとされ──諸説あるが──自分の知らない事象に直面すると、酷く狼狽する傾向にある。元は高位の天使であり、欲や罪を知り天国より追放された存在である、魔物ではない本物の悪魔などもそうだったように。

 

 しかし、座天使長ラジエルは数少ない例外の一つだ。

 それの持つ神秘の本『セファー・ラジエル』は、周囲の情報を無制限に記録する情報収集装置であると同時に、ラジエルの記憶や知識を保管し補完する、いわば外付け記憶装置でもあった。

 

 その存在ゆえにラジエル本体は、自分が全知ではないと確信した上で、自分は全知になれると確信している。

 知らないこと、知らないものは、セファーを読めば全て載っているのだから。

 

 だからこそ、ラジエルの恐怖は未知のものに対してではなく、それそのものに対しての恐怖であり、正しい恐怖だった。

 

 尤も、正しいからこそより強烈に精神を蝕む、抱くべきではない、抱いた時点で半ば詰みとすら言える恐怖でもあるのだが。

 

 「や、やめ──」

 

 言葉による制止と同時に炎剣を振り上げ、強制的に黙らせようとするのは正解だ。

 相手を見限ったフィリップを止めるなら、その半ば死んでいる心を動かすだけの価値を示すか、殺すしかない。

 

 だが遅い。

 ラジエルの持つ炎剣は、触れるより先に肉を焼き焦がすような熱を持っているが、それでも──それを振り下ろすよりは、フィリップが残りの三節を口にする方が早い。

 

 「あい あい はすたあ」

 

 風属性の王を讃える言葉は、本来は「風属性の王」などというちゃちな存在ではないハスターにとっては、己を呼ぶ祝詞としては不適格なものだろう。

 

 だが、ハスターはもう、知っている。

 その誤謬に満ちた愚かな祝詞を使う者が、その路傍の石のような存在格に応じた無視していい存在などでは、決してないことを。

 

 いつも照準補助をしている癖で突き出した右手の先で、幾何学的な模様と図形、そして見るだけで気分を害し、読み解けば精神を蝕む邪悪な文字で構成された魔法陣が展開される。

 そこから滲み出るように立ち込める、光を呑む色の雲がラジエルの炎剣を掻き消した。

 

 驚愕の声を漏らしそうになるラジエルだが、それは口を突く頃には苦痛の呻きに変わっていた。

 暗黒の雲から耳障りな音と共に飛び出した、のたうち蠢く黒い触手が複雑に絡み合いながら伸び、ラジエルの喉元を締め上げたからだ。

 

 詠唱終了からほんの1秒か2秒しか経っていないというのに、ラジエルは触手によって首を絞められ、足をばたつかせて藻掻ている。五メートルの体躯と翼を持つ天使が、醜くも、無様にも。

 

 当然ながら、現れる触手はその一束だけではない。

 先を見通せない漆黒の雲からは、それより黒い触手の濁流が絶え間なく続き、手のような形を、顔のような形を、胴のような形を、外套のような形を象っていく。その表面を擬態する蛸のような極彩色に変え、最後には黄色い外套と、それに覆われた黒い身体、そしてクエスチョン・マークを三つ合わせたような模様の描かれた白い仮面をつけた、ラジエルと同サイズ程度のヒトガタになった。

 

 無数の触手の集合体である首が骨格を持たない動きでうねり、仮面で隠された伽藍洞の顔がフィリップを見下ろす。

 

 その威容ならぬ異容だけでなく、大小さまざまな無数の触手の一本一本、その末端部からでさえ、神威にも似た悍ましい気配が感じ取れる。

 視界に入れるだけで──否、同じ空間にいるだけでも精神を蝕みかねないほどの、圧倒的な存在感。

 

 それをもろに浴びて、フィリップは思う。

 「うんうん、神威ってこういうのだよね」と。

 

 「……召喚時の命令は、敵の撃退だったと記憶しているのだけれどね、魔王の寵児よ。私を羽虫と見比べて、辱め、貶め、嘲ることが目的だったのかい?」

 

 いつぞやと同じく大陸共通語で、ハスターは至って真剣な様子で問いかける。

 召喚時に「敵排除」という意識を強く持っていたし、召喚物と召喚者はある程度、意思や意識を共有する──当然ながらハスター側の意識も伝わってくるので、フィリップのような特異体質か、人類最高峰に屈強な精神の持ち主でも無ければ一瞬で発狂する──仕組みになっているから、そうではないと分かるはずだ。

 

 だからこれは、所謂軽口、冗談なのだろう。

 おいおい旧支配者に冗談を言われてしまったぞと、正気を失ったカルトでさえ正気を疑うような状況に苦笑する。

 

 「それで」と、ハスターは仕切り直すように言いながら、持ち上げていたラジエルを適当に放る。

 まだ殺してはいなかったのか、ラジエルは地べた──なのかは不明だが、とにかく白い雲のような床を転がりながら苦痛の声を上げた。

 

 「それで、魔王の寵児よ。私が倒すべき敵は、一体どこにいるのかな。まさかとは思うけれど、こちらを見ている外神どもや、尖鋭時空の大君主を排除しろとは言わないでくれよ?」

 

 何を言っているのだろうと、フィリップは二つの点に首を傾げる。

 

 まず第一に、ハスターは三次元存在だ。外神とは存在の格が違う。戦って勝てるかどうかという以前の問題、言うなれば、冒険譚に描かれた勇者──文字の羅列は、本物のドラゴンを倒せるかというレベルだ。

 言うまでもなく、不可能。戦いにすらならない。戦局が一方的とかそういう意味ではなく、本当に、「戦闘が発生しない」という意味で。

 

 だから外神を相手取るのにハスターなんて呼ばないし、そもそも外神はフィリップの味方だ。ヨグ=ソトースにも匹敵する存在である尖鋭時空の大君主、外神陣営には属さないミゼーアがこちらを見ているというのは、フィリップをしてぞっとさせる話だが……それも、「怖い夢」程度のものでしかない。

 

 で、第二に。

 

 「いま投げ捨てた天使が、僕の意図していた「敵」なんですけど」

 

 地面に転がった状態から、無様にも四肢を使って起き上がろうとしているラジエルを一瞥したハスターは、ふむ、と小さく頷く。

 そして生物的に湿った不快な音を立てながら身体を動かし、フィリップの顔を覗き込む。

 

 胴体が横方向に90度以上も曲がりくねる骨格の無い動きは、逆にそれがヒトガタであることを意識させる。尤も、フィリップにとっては「だから何」という話ではあるが。

 

 「正直、意外だよ。君はもう少し、繊細な性格だと思っていた」

 

 言いたいことは分かる。

 さっき、ハスターは天使を指して「羽虫」と言った。それは恐らく何の比喩でもなく、本当にただの大きな羽虫とでも思っているのだろう。

 

 羽虫を払うのに旧支配者を使うなど、過剰攻撃にもほどがある。

 それは、フィリップだってその通りだと思うけれど──残念ながら、フィリップの持つ手札ではこれが最も破壊半径の小さい有効打だ。

 

 「いいよ。いいとも。羽虫の駆除でも、火の番でも、畑仕事でも、好きに使えばいいさ。私のような劣等存在に、君の命令を拒む資格は無いのだから」

 

 自嘲するような言葉を、しかし一貫した無感動な態度で言うハスター。

 彼にとってもフィリップにとっても、ここにいるのは泡沫の中でも塵芥の如き下等存在だけ。殊更に否定しようという気も起こらない。

 

 軽く肩を竦めたフィリップの視界の端で赤い炎が吹き上がり、強烈に目を惹く。

 それは立ち上がったラジエルが再び顕現させて構えた、あの巨大な炎の剣だ。

 

 「排除……する」

 

 翼を使わず四肢の力で起き上がったラジエルは、その末端を震わせながらも気丈に戦闘態勢を取る。

 

 右手には炎剣、左腕には光盾。そしてフィリップの知らない魔術を行使して、自身の周囲に6本の光の剣を作り出した。

 

 「貴様らのような邪悪な存在は、人類にとって害でしかない! 故に、ここで排除する!」

 

 その顔は霞がかったように見えないが、フィリップには強靭な決意の漲った鋭い双眸と、死の覚悟に強張った表情が見えた気がした。

 

 或いは、狂気に溺れて見るに堪えない、単なる絶望の表情かもしれないが。

 

 

 

 

 



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157

 旧支配者屈指の存在であるハスターと、天使の九つある階級の中で第三位である座天使の長ラジエル。

 人の似姿を象るという点で一致し、それ以外の全てが異なる両者の戦闘は、フィリップが意外に感じる程度には長引いていた。

 

 時間にして、およそ三十秒といったところか。

 

 たったの三十秒、と、これまでのフィリップなら軽んじていた数字だが、近接戦闘の心得がある今なら分かる。

 

 一対一の殺し合いで三十秒。それも圧倒的格上相手にと考えると、これは異常と言っても差し支えない長時間だ。偉業と評しても過言ではない。

 

 フィリップが本気の──当然ながら殺すつもりという意味では無い──ステラを相手に耐久出来るのは、およそ二秒。これは彼女が威力の弱い初級魔術を更に回避可能な速度に抑え、当たっても痛いで済む威力に抑え、それを視界を埋め尽くすほどの超高密度に多重展開し、射出するのに要する時間である。

 

 つまり、両者に存在の格差がある場合、弱者は何もできずに負けるのだ。それも一瞬で。

 

 フィリップには相手の狙いをずらす歩法『拍奪』が、ラジエルには高高度へ逃避するための翼があるが、そんなものは関係ない。一つや二つの武器なんて、大波のように圧倒的な力の前には成す術無く押し流される。

 そう思っていたのだが。

 

 「……ハスター、手を抜いているんですか?」

 

 戦闘開始から三十秒。

 ラジエルはその姿が指で摘まめるほどの上空へと飛び上がり、超遠距離から攻撃魔術を雨のように降らせるという戦術を取っている。飛行魔術が人類には再現できない不可能魔術の一つに数えられる以上、これはルキアやステラでも真似のできない戦法だ。

 

 対して、ハスターは触腕を使って魔術を打ち払うばかりで、殆ど反撃をしない。偶に腕を伸ばしてラジエルを突き刺そうと試みているが、如何せん距離があるから、危なげなく避けられてしまうばかりだ。

 

 言葉の上では召喚魔術による使役だが、両者の関係性は殆ど対等だ。

 フィリップは呼んだだけ、ハスターは来ただけ。邪神相手に命令を強制するような魔力も意志力も、フィリップにはない。

 

 だからハスターがフィリップの命令に対して真剣ではないのだと、そう思ったのだが、ハスターは生物的に湿った音を立てながら身体を捩じり伸ばして、頭部を真後ろに向ける。

 顔や目を使って外界を認識しているわけではないということは、その状態でもラジエルの魔術を防御していることから推察できた。

 

 フィリップの視線の高さまで伸びてきた頭部には、そこが頭部だと分かりやすく示すためだけの仮面が付いている。

 その下もどうせ伽藍洞で、表情というものはない。

 

 だから感情は声色から推察するしかないのだが、ハスターはずっと一貫して無機質な声だ。

 

 しかし、今回もまたそうだろうと予期していたフィリップの想像は、あまり良くない意味で裏切られる。

 

 「魔王の寵児よ。君は少し、視座が高すぎる」

 

 そう諫めるハスターの声からは、呆れのような感情が汲み取れた。

 

 「あの程度の存在を敵と認識できないのは分かる。この程度の攻撃に危機感を抱かないのも分かる。私とアレを比べて、私の絶対優位を確信してくれたことは嬉しい。……だが、些か無頓着に過ぎる」

 

 何が言いたいのかと首を傾げたフィリップに促されるまでもなく、ハスターは続ける。

 

 「私が神威や権能を解放すれば、一瞬で片付く。それは君の予想、いや知識通りだけれどね……その先を考えるべきだよ。私が存在欺瞞を解除して本気になれば、この羽虫やクトゥルフの眷属が、飛行するポリプや宇宙昆虫のコロニー星を爆破した時のように、後から後からうじゃうじゃと……」

 「気分を害するような喩えは止めてくださいよ。……じゃあ、殺そうともしてないってことですか?」

 「そうとも、君が望んだとおりに、ね」

 

 ハスターの言に謝意を籠めて頷く。

 フィリップは確かに、ラジエルを何が何でも殺そうとは思っていなかった。むしろ、ハスターが殺す寸前で止めようとすら思っていたくらいだ。この善良なる劣等存在を、「邪魔だから」の一言で払い殺したくはない。

 

 「それに、私がここを離れて攻撃に出れば、君はともかく、その少女がどうなるか」

 「……あぁ! それは確かに!」

 

 視座が高すぎる、無頓着。なるほどそれは確かにと、フィリップも納得せざるを得ない指摘だ。

 

 天使の攻撃には脅威も価値も感じないし、それは外神の視座を持つ者としては正常なことだろう。だが、それはそれとして、天使の攻撃は確かに人間一人を殺すには十分な威力なのだ。

 誰かを背中に庇っているときに忘れて良いことではないが……一緒に居るのがルキアやステラならまた違った、というのは読みが甘いだろうか。

 

 「魔術で昏睡し、防護魔術を掛けられてはいるようだが、私が本気で戦えば硝子も同然だよ。それとも、君が肉の壁にでもなってみるかい?」

 「そんなことしたって、僕ごと死ぬのが関の山でしょう? どうにかなりませんか?」

 

 簡単に言ってくれるね、と嘆息するハスター。

 フィリップは「天使如き鎧袖一触だろう」と考えているし、実際、ハスターが権能の全てを解放すれば一瞬で片が付く。

 

 ただ、その後が問題だ。

 ハスターの存在に気が付いた唯一神は天使の軍勢を以て排除しようと動くだろうし、何より問題なのはクトゥルフだ。まさかフィリップを殺そうとはしてこないだろうが、ハスターとクトゥルフの抗争が始まるだけで、人間社会は容易く崩壊する。

 

 人間社会を害する魔導書かもしれないモノを探しに来て、人間社会崩壊の引き金を引いていては本末転倒だ。

 

 「存在欺瞞? は、そのままで。天使は……」

 「先に言っておくが、あれは疲労もしなければ魔力枯渇も無い。加えて空を飛ばれては、権能を封じた私には厄介な相手だよ。負けは無いが、勝ちも遠い」

 

 天使の攻撃は悉くハスターの触腕に弾き落とされているし、仮面の付いた頭部に直撃したとしても全く無傷だろう。だから、最終的にハスターが敗北するということは無い。

 しかし同時に、ハスターの攻撃も届かないのだ。これで殺せないし、殺されもしない。完全な膠着状態だ。

 

 「幸いにして、あれはもう半分狂っていて、勝てない相手から逃げるという判断が出来ない。撤退して天国へ情報を持ち帰るという選択はしないだろうさ」

 「なるほど、それは……それ、ホントに幸いですか?」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 数百年前のことだ。

 かつて、一人の聖痕者が禁書庫内部に秘密の空間を作り、“神を冒涜する書物”を隠した。

 

 その際に番人として頼ったのは、学院の規律や禁書庫のギミックなどではなく、「知恵と知識の番人」として信仰される天使ラジエルだった。

 

 ラジエルはその性質から、その内容如何に関わらず知識を守ってくれる。

 それがカルトの聖典であれ、禁忌にして神聖不可侵たる死者蘇生を可能とするものであれ、人外の書き記した魔導書であれ。

 

 そして、相手が誰であってもだ。

 カルトだろうと聖人だろうと、知識を、本を焼く意図を持った者は誰であれ阻む。仮令、それが父なる神であったとしても。

 

 年若いだけの悪人だった学生を殺した。正義感に燃える善良な研究者を殺した。カルトに唆された哀れな学生を殺した。悪魔に魅入られた教師を殺した。教師に化けた悪魔も、中にあるものに気付いた天使(なかま)も、殺した。

 神の命による神罰執行ではないから、地獄ではなく煉獄での猶予刑とし、来る審判の日に信仰心が有るなら神の国へ迎えられるよう取り計らうくらいの配慮はしたが、それでも、善悪の区別なく人を殺した。それは天使としてあるまじき行為だったが、躊躇はとうの昔に捨て去った。

 

 ありとあらゆる知識を、ありとあらゆるものから守る。

 それがラジエルの機能であり、行動基準だからだ。正しく「学ぶ」こと以外に知識を使おうとする者に、それらを明け渡すことはない。焚書しようとする者など、以ての外だ。

 

 だから──

 

 「私は許容しない! 汝、本を焼くという蛮行を犯さんとする者、邪悪なる異形を使役する者よ! 汝の所業は、決して許されるものではない!」

 

 ラジエルは叫び、何十度目かになる光の剣を投射する魔術を行使する。

 翼の周囲に展開された六本の剣は、その全てが上級魔術の中でも最上位に近い威力と追尾性能を持つ、対人戦闘であれば切り札となるものだ。それを同時に六つも行使できるのは、人間の中では聖痕者と呼ばれる最上位の存在だけだろう。

 

 彗星のように光の尾を残し、目視不可能な速度で飛翔する光の剣。

 全く無音で、予備動作も余波も無いそれを、異形の触手は苦も無く打ち払う。

 

 だが、相手は防御している。

 防御するということは、当たればダメージはあるということ。そしてダメージがあるのなら、いつかは斃せる。

 

 無尽蔵の魔力を持つ天使は、どれだけ魔術を撃ったところで魔力欠乏にはならない。長期戦になった時点で勝ちは確定だ。

 

 ラジエルとてそれは承知の上だが、もうこれ以上、あれと同じ空間に居たくない。

 その一心で、生み出した光の剣を撃ち出すのではなく周囲に漂わせ、炎の剣を構える。

 

 「その悍ましい怪物諸共、汝の罪を処断する!」

 

 ラジエルは空間を震わせるような気迫と共に、六つの光の剣にも勝る圧倒的な速度を以て突撃を敢行した。

 

 光の剣が、純白の翼から迸る神威が、幾何学的な美しさを持つ光輪が、そして燃え盛る炎剣が、それぞれ色合いの異なる光跡を描く。

 

 光を束ね、真っ白な彗星と化したラジエルの一撃は、城壁をさえ水面のように打ち破る。かつて街一つを炎の剣で焼却した四大天使が一、ガブリエルの攻撃にすら匹敵する威力だ。

 ゴエティア72柱の悪魔であろうと、500年を生きた古龍であろうと、回避以外の選択肢を与えない一撃だと自負できる。

 

 そして──

 

 

 

 ◇

 

 

 

 血迷ったのかと怪訝そうに眉根を寄せるフィリップの眼前で、ぱし、と。

 ハスターの触腕が子供の球遊びのような気楽さで、落下する一条の星を捕えていた。

 

 「……幸いだったろう? 理性を残していれば、ここまで愚かな突撃はしてくれなかったはずだ」

 

 手足も胴体も首もどす黒い触手で雁字搦めにされ、それでもなお暴れて藻掻くラジエルだが、ハスターの触腕はびくともしない。

 炎剣は消え、光の剣も消え、炎に巻かれた車輪は砕け散り、魔力も封じられたのか物理的抵抗の気配しか見せない天使は、さながら蜘蛛の巣にかかった蝶だ。

 

 であるなら、後はゆっくりと()()を溶かされ、じわじわと死に至るだけだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 何が起こった?

 ラジエルは意識すら置き去りにするような超加速・超速度の突撃を防御され、白く染まった思考の中で、ただその疑問だけを延々とリフレインしていた。

 

 何十回もの問いに、答えが返されることは一度もない。

 

 だが、明白だ。

 城塞であろうと崩すはずの一撃は、皮革製のボールのように無造作に受け止められた。誤解の余地はなく、思考を巡らせるまでもなく、厳然にして明快なる答えは、たったそれだけ。

 

 十秒近い思考を経て漸くその結論に辿り着いたラジエルは、改めて眼前の異形に目を凝らす。視界に収めるだけで不愉快極まる、悍ましい外見のそれに。

 

 天使という高次の存在ということもあり、また武闘派というわけではないラジエルには、ハスターを視界に入れた時に起こる身体の異常は未知のものだ。

 たとえば、手足の震え。たとえば、悪寒。たとえば、呼吸の加速。

 

 それら様々な身体の部位が必死に叫ぶ声を、ラジエルは聞くことができない。なんせ、初めてのことだ。

 

 ──本能が恐怖と絶望の叫びを上げるなど。

 

 見ては駄目だ。聞いては駄目だ。触れては駄目だ。考えては駄目だ。感じては駄目だ。

 駄目だ。駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ──眼前の存在を認識しては、駄目だ。

 

 目を閉じて、耳を塞いで、思考を止めろ。 

 

 でなければ、(ラジエル)という存在の根幹を成すものが、どろどろに溶けて、溶け出して、流れ出て、ぐちゃぐちゃの残骸になってしまう。

 

 絶叫する本能に気付かないまま、ラジエルは自分を捕まえたハスターの威容ならぬ異容を観察する。

 そりゃあ、そうだ。未知の敵に相対するのなら、まず観察と分析から入るのは鉄則と言える。そういう意味では遅すぎると言ってもいいが、残念ながら、その合理的で理性的な判断は間違いでしかない。

 

 この場に於ける最適解は、ラジエルに相対した時のフレデリカのように、頭を抱えて蹲ることだ。

 勿論、ハスターは清廉にして高潔たる騎士道の徒というわけではない。無防備だからと言って攻撃を躊躇ったりしないし、何のつもりかと問いかけるほど天使に関心を持ってもいない。だからこそ、ほんの一瞬で、何も見ることなく、何も知ることなく、幸せに死ねる。

 

 それを選ばなかった時点で、ラジエルの末路はたった一つだ。

 

 目を凝らすごとに、膨大な情報が頭に流れ込んでくる。

 ()()の魔力を感じるごとに、目で感じる以上の威圧感と神威が押し付けられる。

 一秒考えるごとに、積もり積もったそれらの情報が整理され、理解へと向かっていく。

 

 そして、ほんの十数秒の後。

 ラジエルは、ふと理解した。

 

 あぁ、眼前のこれは神なのだと。

 であるなら、全ては根底から覆る。

 

 この世は全て、神がお創りになられ、神のご意思によって存在している。

 光が昼で、闇が夜。上が天で、下が地。全てのものは天より降り、神の似姿たる人々は地上に、神の使いたる天使は天上に生きる。善き行いをせよ、悪しきは罰せよ。相応しき罰以外を与えてはならない。

 

 神がそう定められたすべてのことが、今ある世界の全てである。

 そう信じていた──いや、信じるという言葉すら不正確なほど、純然たる知識として「知っていた」のに。

 

 違った。

 今まで信じていたもの、今まで知っていたこと、今までやってきたことの全てが否定される。いや、否定という言葉すら生温い。肯定も否定も善も悪も、判断基準となる何もかもが崩れ去る。

 

 今立っている地面はどうだ? 背中にある翼は? 与えられた智慧は?

 神がお創りになられたもの、神がお与えになったものは、果たして本当にそうなのか?

 

 自分のルーツ。世界のルーツ。

 過去と現在と、神のみぞ知るという未来。

 

 これが神であるのなら父たる神は存在せず被造物である自分もまた存在しない? 神がお創りになられた世界とは欺瞞であり本当は眼前の神たるものの如く悍ましい?

 

 過去は嘘で、現在は虚構で、未来なんて在りもしない?

 

 神は、神が、神の、神、神、神神神神神カミ────?

 

 ばつん、と、意識がブラックアウトする。

 それはラジエルにとってはこの上ない幸いであり、フィリップにとっては羨望の的。そしてこの場に於いては面倒極まる、精神の死だった。

 

 

 




 あぁ、なんて──羨ましい。
         ──フィリップ・カーターの独白


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158

 精神とは擦り減るものだと、慣用句や熟語などから、なんとなくそう捉えられる。

 その表現に則るなら、宝石のようなものだとイメージして欲しい。

 

 容姿や種族という多様な違いを持った人それぞれの肉体という器に収められた、人によって異なる宝石。

 

 それは月光のように澄んでいたり、陽光のように輝いていたり、どす黒く濁っていたり、深い傷があったり、千差万別だ。

 

 磨けば光る。汚せば濁る。

 ルキアのように、大きく傷ついてなお美しいものもある。ステラのように、傷付いたことを窺わせない強靭なものもある。だが大抵の場合、減ったものは戻らないし、砕けたら終わりだ。

 

 邪神という強烈に精神を蝕む存在に相対して、その宝石は深く傷つき摩耗する。

 元の形を大きく損なえば狂気となり、砕けてしまえば石を収める宝石箱(にくたい)の価値すら失われる。宝石箱はただの箱に、肉の器はただの肉塊になる。それが正気度が底をついた状態、廃人化、精神の死だ。

 

 しかし、そんな状態のものでも利用価値はある。正確には、利用する方法がある、と言うべきか。

 フィリップのように、人間性の残滓を他のものに溶かして固めた、精神的な人間モドキとして再利用してもよい。或いは──全く別のモノを容れてもいい。

 

 「私が憑依し、操作する。それで君を目的地へ転送すれば、お役御免かな? 魔王の寵児よ」

 「はい。それで──うわっ!?」

 

 フィリップが首肯した次の瞬間には、ハスターの巨躯が支えを失ったように崩れ落ちる。

 複雑に絡み合った触手の集合体はその全てが力を失い、軟体のあるがままに地面へぶちまけられ、広がっていく。身長五メートル近い人型を織りなしていた大量の触手が濁流となって襲い掛かり、フィリップは成す術もなく押し流された。

 

 幸いにして、転倒した先にも触手があって打撲には至らなかったし、フィリップの上を流れていく触手もそう多くない。重いが、潰れもしないし溺れもしない程度だ。

 

 もごもごと藻掻くこと数秒、ぴくりとも動かなくなった触手だまりから抜け出したフィリップは、足元のそれを踏み潰しながら元居た場所に戻る。

 そう遠くまで流されてもいないし、ラジエルの巨躯はいい目印になる。だだっ広い真っ白な空間でも迷うはずがなかった。

 

 フィリップの体重程度ではぐにゃりと潰れる程度だったハスターの触手だが、触手の津波それ自体に押し潰されたものからは黒い液体が滲み出し、じわじわと地面に染みこんでいる。

 

 それを避けながら、フィリップは吊るされた姿勢のままぐったりと空中に浮かんでいるラジエルに向けて話しかける。

 

 「次からは事前に言ってください。……ハスター? これ、中身はハスターなんですよね?」

 

 憑依すると言っていたし、そのはずだ。

 もし違ったらハスターを呼び直して、どういうことだと問い詰めなくてはならない。まさか羽虫と侮った存在の、廃人と化した抜け殻の乗っ取りに失敗したのかと。

 

 訝るフィリップの視線に反応したようなタイミングで、ラジエルの巨躯がびくりと震える。

 

 「ッ!? びっくりしたぁ……」

 

 死んでいると思っていた蝉が急に暴れ出した時の驚き方で飛び上がったフィリップは、ウルミも魔術も構えていなかった。

 ラジエルの身体からハスターのものと同質の神威を感じたから──ではなく、単に無警戒なだけだ。

 

 「驚かせないでくださ……い……え?」

 

 はらり、純白の羽が一枚、手元に落ちてくる。

 一枚、また一枚と増えていくそれは雪のようで美しくもあったが、少し視線を上げると、そこにあるのは冬の高く澄んだ空のように気持ちの良いものではなく、枯れ木だった。

 

 いや、違う。

 一瞬だけ枯れ木と誤認したそれは、骨だ。

 

 輝かしいほどに色艶の良かった、ラジエルの背中に生えた四枚の翼。それらに綺麗に生え揃っていた純白の羽が次々に抜け落ち、舞い落ちていた。

 今やげっそりと痩せ衰えた二対の翼は、肉や皮までもがどろりと溶けて滴り、代わりのように背中側から無数の触手に覆われていく。

 

 翼が枯れ終わるのを待つまでもなく、手の、足の、身体の、顔の肉が削げ落ちていき、触手が代わりとなって纏い埋める。

 

 やがて全身の肉が腐り落ち、触手によって代替されると、その表面は擬態する蛸のような極彩色に波打ち、人肌へと外見を変えた。

 

 見るも悍ましいその変態を見届けたフィリップは、口元を苦々しく歪めて首を振る。

 気色悪すぎる、もっと見た目をどうにかできないのか──そう文句を付けたいところだが、たぶん無駄だろう。そう諦めて嘆息すれば、催しかけていた吐き気も収まった。

 

 「……あぁ、驚いた」

 「こっちの台詞ですよ。何ですか今の……って、訊くまでもないですね」

 

 驚いた、と呟いたのは、中性的ながら若い男性のように聞こえるラジエルの声だった。

 しかし、そこにはラジエルがずっと滲ませていた慈愛や尊重の気配がなく、徹底した無感動と、人類への冷笑が微かに透けて見えていた。

 

 ハスターだ。

 肉体を再構築した触手を見れば一目瞭然だが、確かにハスターが憑依している。

 

 「そう、憑依だよ。ただ、私の……何と言えばいいのか、疑似精神の圧力に肉体が耐え切れなかったようだね。お陰で慌てて肉体を再構築する羽目になった」

 「……それで、僕を転送させられそうですか? えっと……“大罪書庫”ってところに行きたいんですけど」

 「分かっているよ、任せて。そちらの少女も一緒にだね?」

 

 やはり、ハスターはフィリップの希望をかなり正確に汲んでくれるようだ。

 こう言うと少し失礼かもしれないが、多分、フィリップと価値観が近しいのだろう。片や外神の父を持つ旧支配者、片や外神に守られる人間──上位存在を知る劣等種という点で、二人の立場は共通している。

 

 ラジエルの肉体となったハスターは片手を挙げ、掌をフィリップに向ける。

 天使の装いもあって洗礼や祝福、或いは宣告のように神聖な儀式の一幕にも見える動作だが、触手の翼がその印象を台無しにしていた。

 

 「……それは、私以外には抱かない方がいい感想だね。もし感情のままに動くような手合いなら、確実に君を殺そうとするだろうから」

 

 フィリップがこっそりと抱いた共感に気付いたハスターは、呆れたように警告する。

 軽く頷いたフィリップの反応を見ようともせず、ハスターは無関心に魔術を行使し、フィリップとフレデリカを転送した。

 

 「さて、唯一神とやらに向けて欺瞞もしておかなければ。魔王の寵児に恨まれるなんて御免被る」

 

 ハスターは誰にともなく、或いはこの場を見ているものたちに宛てた言い訳のように、面倒くさそうに呟いた。

 

 

 

 

 遠退いていた意識と真っ白に染まっていた視界が戻ったとき、フィリップとフレデリカは小さな書斎にいた。

 

 目に入るのは暖炉と、書き物机と、壁の一面を埋める本棚だ。

 机の奥には真っ白な世界を切り取る窓があり、赤いカーテンに縁取られている。五歩も歩けば壁に当たるような小さな部屋で、暖炉の炎と天井に吊られた燭台という限られた光源のみでも十分に明るい。

 

 時折ぱちぱちと薪の爆ぜる音を立てる暖炉には、オレンジ色の炎がゆらゆらと揺れている。

 暖かな色の光に照らされた書き物机は、フィリップが見ても分かる高級な木材製だ。黒くて、硬くて、重そうな逸品だ。机上には羽ペンとインクの他には何も載っていない。

 

 そして、壁の一つを埋める形で据えられた本棚には、本や巻物だけでなく、石板や木片といった古めかしい代物も飾られている。整然と並べられているのではなく、額縁やスタンドを使って飾られているのだ。

 

 そのレイアウトもあって、蔵書数はそう多くない。

 七段の棚が四つも並んでいるというのに、展示品の数は100を下回るだろう。

 

 「ここは……? さっきの、あの天使は?」

 「あ、先輩。ご無事で何よりです」

 

 魔術によって眠らされていたはずのフレデリカだが、気付けば部屋の真ん中でフィリップの隣に立っていた。

 

 不連続な視界に酔ったか、はたまた昏睡魔術の余韻か、フレデリカは頭を振りながら問いかける。

 フィリップがでっち上げた「天使と話をして目的地に送ってもらった」という嘘は彼女の耳を滑っていったようで、しばらく無言で考え込んで記憶を漁る。

 

 そして最後の記憶、天使の出現とその暴力的な神威を思い出したらしく、蒼褪めた顔を勢いよくフィリップに向けた。

 

 「か、カーター君! 無事でよかった! あんなにも強大な存在感を放つ天使に立ち向かうなんて驚いたよ! ほんの少ししか理解できなかったけれど、戦っていたのは分かったよ。すごいね!」

 「……まあ、はい」

 「それで、その天使は? まさか倒した、なんてことは……」

 「ないですよ。手も足も出なかったので、説得しました。その結果がここです」

 

 自分で言っていて悲しい話だが、手も足も出なかったのは事実だ。

 フィリップの場合はそれでも別なものを出せるので、全くの無抵抗でやられるという意味ではないのだが、魔術もウルミも全く歯が立たなかった。

 

 フレデリカも知識としては天使の強さを知っており、更にはその存在感を肌で感じたからか、フィリップの「勝利」という仮説よりは「説得」という話の方が受け入れられたのだろう。そうなんだ、と軽く頷く。

 

 「じゃあ、ここが……これ、この本や石板が?」

 「大罪書庫……“神を冒涜する書物”が収められた場所、だと思います」

 

 ふらふらと本棚に向かうフレデリカの腕を、フィリップは間一髪捕まえることができた。

 

 「待ってください。僕が先に安全を確認します」

 「え? あ、あぁ、じゃあ、お願いするよ」

 

 フィリップは1年生だが学年最高のAクラス、フレデリカは2年生だが学年下位のFクラス。魔術適性では比べ物にならない──と、一般的にはそう判断されるからか、フレデリカは素直に一歩、本棚から下がる。また天使が出て来ては堪らないとでも思ったのだろう。

 

 安全を確認すると言っても、フィリップに魔術罠や物理的な仕掛けを見抜く目は無いし、発動したそれに対処する術も持ち合わせていない。

 だが、そもそもフィリップが気にしているのはそんなものではない。フィリップの懸念はこの宝探しが始まってから徹頭徹尾、ただ一つだけだ。

 

 本や石板、粘土板や巻物を無作為に幾つか取り出し、中身を確認する。

 

 邪悪言語ではない。

 邪神の名前も……ない。知らない固有名詞は幾つもあるが、フィリップに与えられた智慧に合致するものはない。

 

 少なくとも読んだ瞬間に発狂するような、人外が残した魔導書ではなさそうだ。

 

 「……大丈夫みたいです」

 「それは良かった。じゃあ早速、と、その前に。……ありがとう、カーター君。キミがいなければ、私はここまで来られなかった」

 

 フレデリカは感慨深くそう言って、きっちりと一礼する。

 胸に手を当てる立礼は彼女がよく見せるものだが、これまでに見たどの所作よりも感情が込められていた。

 

 フィリップも達成感や安堵に浸りたいところだが、その表情は暗い。

 安堵や解放感、そして期待に満ちた顔で本棚に向かったフレデリカも、内容を確認するごとに表情を曇らせていく。

 

 二人は黙々と本棚に飾られた品々を検分し、互いが確認したものも重ねて調べた。二時間以上をかけて、何度も何度も、繰り返し、見落としは無いか、変わったところは無いかと淡い期待を胸に。

 

 そして遂に、フレデリカは大きく嘆息して、言った。

 

 「──違ったか」

 

 ……そう、違った。

 ここにあるのは間違いなく人類の記した、人類の歴史、人類の知識だ。人間の精神を汚染するような人類圏外の智慧でも、神の御業とされる死者蘇生について書かれたものでもない。

 

 「……そうですね」

 

 フィリップが手にした石板は、フレデリカによると数百年前のものらしい。

 そこに描かれているのは山のような形の神殿とそれを拝む人々の絵だ。注釈のように、フィリップも知らない唯一神以外の神の名前が書かれている。

 

 フレデリカが読んでいる巻物は王国が数百年前に使っていた秘密文書で、国内に存在していたカルト教団を教皇庁が殲滅した旨が記されている。

 

 他にも、色々なものがあった。

 王都外の一部地域に暮らす狩猟民族が動物の皮に記した、森と動物を神格化したものについての教典。山と雲を神格化して信仰するカルト教団についての記録。北部地域で神として祀られていた強大な狼の木彫り像。粘土をこねて焼いた女性を模した像。かつて存在した国が信仰していた異教について記された粘土板。太陽を乗せた戦車の絵画。

 

 自然信仰。アニミズム。女性信仰。

 唯一神こそ唯一にして絶対の神と定義する一神教とは教えを異にする、かつて存在した異教の歴史だ。

 

 「……神を冒涜する、か。なるほど、面白い言い回しだ」

 

 フレデリカは言葉とは裏腹に、怒りすら湛えた口調で呟く。

 

 ここにあるのは、史料だ。

 それはつまり、文化と歴史を全く異にする、異教があったという証明に他ならない。

 

 「人間は集団を形成する動物だが、群体知性ではない。むしろ多様性に富んだ種族と言っていいだろう。……異なる神、異なる信仰が生まれ、根付き、栄えていたなんて、然して驚くべきことじゃない」

 

 フレデリカはフィリップに、或いは自分自身に言い聞かせるように独り言ちる。

 読んでいた巻物を、そっと元の場所に戻しながら。

 

 彼女の手は本棚を滑り、一冊の本を取り上げる。

 革表紙に綴じられた現代風のものではなく、中身も表紙も羊皮紙製の粗末なものだ。

 

 「ここにあるのは、その異教を、異文化を焼き、そこに生きた人々を虐殺して回った教皇庁の罪業の記録だ。唯一神の神託、天使の降臨まであったらしい」

 

 吐き捨てるように言ったフレデリカにつられ、フィリップも真面目な顔で考え込む。

 

 唯一神が人間の信仰心に寄生している共同幻想──信仰心ありきの存在である以上、ある程度の力を得た時点で他の宗教を駆逐し始めるのは納得がいく。異文化を絶滅させ一神教へと吸収すればするほど、自分の力が強まるのだから。カルト狩り、異教狩りは治安維持という側面を抜きにしても大きな利のある行為だといえる。

 

 だからこそ──その利己的な虐殺行為には納得できない。

 そりゃあ、カルトを根絶してくれるというのなら手伝いすら申し出たいくらいだけれど、見る限り、ここに収められた異教はカルトらしくない。

 

 王国には王都と王都外で生活水準の乖離があり、文化にも差がある。誕生日の贈り物なんかは代表例だ。

 これは、これらは、言うなればその程度の違いでしかないのに。

 

 誰も傷付けていない。

 何も損なっていない。

 

 生きている土地に根差した文化を築き、育て、その中で命を生み、文化を繋ぐ。人間という種が当たり前にしている「生存」をしていただけなのに。

 

 よくもまあこの本たちを指して、冒涜的だ、なんて言えたものだ。

 厚顔というか、傲慢というか、腹立たしいを通り越して滑稽ですらある。そして酷く人間的で、矮小だ。

 

 「人の生んだ神だから、当然か」

 

 唯一神もまた、人々の信仰が生んだ神だ。

 神としか形容できない強大な力を持って生まれ、結果として信仰されるに至った旧支配者や外なる神とは、在り方が根本的に違う。

 

 だからこそ、信仰を奪うという人間的な行為に及んだのだろう。自分が強くなるために、或いは自分が淘汰されることを恐れて。

 

 「唯一神って、意外と……」

 「あぁ、分かるよ。唯一絶対だからといって……いや、唯一絶対であるからこそ、他の信仰を、他の信条を否定するなんて許されない。一神教だって分派があるくせに」

 

 フィリップは呆れたように、小さく呟く。

 共感を示すフレデリカの声にも、かなりの怒りが籠っていた。

 

 しかし、フレデリカのそんな反応に、フィリップは首を傾げる。フィリップが呑み込んだ言葉は「矮小(かわいい)ですね」だったので、全く的外れな共感だった。

 

 

 

 



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159

 結局、大罪書庫の本は全てそのままにしてきた。

 焼くことも、持ち出して公開することもせず、あるがままに置いて出た。

 

 あれは焼く必要のないものだったし、一神教の在り方を後世に知らしめるという意味でも残しておくべきものだ。かといって一神教全盛と言っていい現代では公開したところで握り潰されるか、「よくあるカルト狩り」として片付けられてしまうだろう。

 

 フレデリカが文書を公開すると言い出すのではないかとヒヤヒヤしていたが、彼女はそれが死者蘇生の術法ではないと分かった時点で、あの部屋にあった「神を冒涜する書物」に対する興味の殆どを失っていた。

 中身の検分を終えるのも、部屋を出ようと言ったのも、彼女の方が早かったくらいだ。

 

 小さな書斎のような異空間“大罪書庫”の扉は、そのまま禁書庫の出口へと繋がっていた。

 一瞬のホワイトアウトを挟むと、眼前には見覚えのある魔術学院大図書館の景色が広がっている。フィリップたちが帰ってきたことに気付き、すぐ側で透明化して待っていたルキアが姿を現した。

 

 「フィリップ、お帰りなさい。探し物は見つかった?」

 「……はい。僕の思っていた物じゃなくて良かったです」

 

 事前に懸念を──杞憂だったわけだが──伝えていたからか、ルキアもフィリップと同じかそれ以上に緊張していたようだ。

 フィリップの報告に大きく安堵の息を吐き、やがてにっこりと笑う。

 

 「えぇ、本当に良かったわ。じき夕食だし、行きましょう」

 「あ、もうそんな時間ですか」

 

 いや、呆けたことを言った。

 禁書庫の中は時間の流れが遅い、なんてご都合主義的な仕掛けは無かったのだ。その上でラジエルと戦い、大罪書庫の中身をじっくりと検分していたのだから、そのくらいの時間は経っていて当然だ。

 

 時間を意識してみれば、忘れていた空腹も思い出す。

 食堂へ行って軽食でもねだろうかと思ったが、今はそれよりも大事なことがあった。

 

 「先輩、大丈夫ですか? その……残念です。死者の、お爺さんの蘇生が叶わなくて」

 「あぁ……うん、大丈夫だよ。ありがとう、心配してくれて」

 

 にこやかな笑顔を浮かべ、安心させるように頷くフレデリカだが、声色にはいつもの覇気がない。

 

 無理もない。

 彼女にとって“神を冒涜する書物”は祖父の命そのものと言ってもいい『希望』だったのだ。或いは、祖父が真に死亡するまでの猶予期間と言い換えてもいい。

 

 それが死者蘇生の術法であったのなら、王国最高峰の錬金術師である彼女は、何としてでも実現してみせただろう。

 しかし、違った時点で、彼女の祖父は『死んだ』。今度こそ何の希望も無く、絶対に。

 

 「実は、所領にいる父には、まだ報告していないんだ。祖父のことも、使徒のことも。……でも、もう逃げてはいられないみたいだ。王宮へ行ってくるよ」

 

 なんで王宮? と首を傾げたフィリップに、ルキアが注釈を囁いてくれる。

 王宮には召喚術師を集めた機密文書輸送を専門とする部署があり、召喚した飛行型魔物を使った速達ができるそうだ。

 

 気の利いた慰めの言葉が思いつかず、そうですか、とだけ返して頷く。

 大方の事情を聞いているルキアも彼女の心中を察してか、無言だ。フレデリカを慰めることも、フィリップに話しかけることもしない。

 

 「最後にもう一度、二人にお礼を。ありがとうございました、聖下。御身のお力添え失くして、この探求が終わりを迎えることは無かったでしょう。そして、カーター君も。さっきも言ったけれど、キミがいなければ、私はここまで辿り着けなかったよ。祖父の死体を前に心折れ、使徒に殺されていた。キミは私の命の恩人だ。本当にありがとう」

 

 フレデリカは跪き、頭を下げる。

 いつもの気取ったような──貴族的を通り越して演劇じみた所作の立礼ではなく、ルキアに対して向けるべき、正しい礼儀作法に則った礼だ。フィリップ相手には過剰なものだが、フレデリカに恥や嫌悪の気配は無い。心の底からの謝意を感じられる、綺麗な所作だった。

 

 「じゃあ、またね。何か力になれることがあったら、恩返しをさせてくれると嬉しいな」

 

 普段のように颯爽と、とは行かず、フレデリカは重い足取りで図書館を後にする。

 その背に掛ける言葉を何も思い付かない自分の頭に苦笑が浮かび、それを拭うように思考を回す。

 

 使徒の探していた、フレデリカの祖父が見つけた“神を冒涜する書物”は、唯一神と教皇庁による文化侵略と虐殺の記録だった。或いは、「神による神殺し」、「神」を冒涜してきた歴史とも言える。

 

 唯一神の、一神教の正当性に疑義を唱える“冒涜”か。

 唯一神による、他の「神」に対する“冒涜”か。

 

 彼女の祖父がどちらの意味でそう表現したのかは、今となっては分からず仕舞いだ。

 

 「中身、何だったのか聞いてもいい?」

 

 控えめに尋ねるルキアに、フィリップは一先ず首肯する。

 人類圏外産の魔導書では無かった以上、ルキアに話して困ることなど何もない。

 

 あの部屋にあったのは、そう。

 

 「唯一神は卑小(かわいい)ね、って感じの展示品がたくさん並んだ、プチ博物館みたいな感じでしたよ。石板とか粘土像とかがあって、結構面白かったです」

 「かわいい……? どんな像なの?」

 「え? えっと……像自体がかわいいというわけではないんですけどね?」

 

 ルキアも一部とはいえフィリップと似た価値観を持つ身だ。きっと理解してくれるだろうが、そもそもどう説明したものだろうか。

 なるべく楽しんでもらえる説明をしようと頭を回転させ始めたタイミングで、夕食時を知らせる鐘が鳴る。

 

 呼応するように鳴き声を上げた腹の虫を宥めるように胃の辺りを撫で、照れ笑いを浮かべたフィリップは、ルキアに向かってそっと手を差し伸べた。

 

 「ご飯を食べながら話しましょうか。端的に言うと、部屋にあったのは教皇庁の虐殺の歴史なんですけど」

 「……それ、本当に食事中に話してもいい話題なの?」

 

 突っ込みながらフィリップの手を取るルキアは、言葉とは裏腹に楽しそうに笑っていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 教皇庁第一尖塔『天主楼』。

 教皇と枢機卿が公的な会議を執り行う大議事堂や、洗礼儀式を行う祭儀場などを有する、教皇領内で最も高い建物だ。

 

 その一室、懺悔室や告解室と揶揄される小さな応接室は、教皇や枢機卿が秘密の会話をするときの定番スポットだった。塔の中でもかなり高い階にあり、この部屋に入れるというだけで身分の高さを証明する。

 

 現在、その部屋はとある三人の密談に使われていた。

 彼らが揃って身に付ける緋色の聖職者服は、大陸で199人しかいない最高位司祭──枢機卿の証だ。

 

 

 一人は王国に対してとりわけ友好的な「王国派」の、フランシス・カスパール枢機卿。199人の枢機卿の中で最高齢となる77歳でありながら、いつ見てもきっちりと伸びた背筋や、綺麗なオールバックに撫でつけられた総白髪は、老い以上に威厳を感じさせる。

 

 一人は帝国に対して肩入れする傾向の「帝国派」の、ジョセフ・ライカード枢機卿。41歳と平均年齢が50歳を超える枢機卿の中ではかなり若い構成員であり、その事実は彼の自尊心を肥え太らせてきたが、最近では年には勝てないと自分の下腹を見ながら思うようになった。昔は六つに割れていたのだが、今や見る影もない。

 

 一人は他国に対して徹底して中立的な「中立派」の、アンジェリカ・ロウ枢機卿。52歳という年齢は枢機卿として平均的であり特筆すべきことは無いが、この中では紅一点となる女性枢機卿だ。見てくれは恰幅の良いおばさんといった風情だが、過去には「使徒」に所属しテネウの名を戴いていたほどの実力者だ。

 

 ソファーに掛けローテーブルを囲う彼らは、みな一様に司祭や枢機卿としての仕事の他に、もう一つ重要な役割を持っていた。

 それは、教皇領に於いて有り得ない職務──武力の一切を保有しないと明言している教皇庁の、軍事部門責任者という役目だ。

 

 カルト狩りの「使徒」。

 

 彼らが統括する軍事部門唯一の戦闘部隊であるその組織は、少なくとも公式には存在していない。

 しかし、これまでにもカルトを殺し、異端者を殺し、世界を平和に保ってきた。幾度となく、何て言葉では不足なほど、毎日毎日毎日毎日、延々と、永遠に。

 

 だからこそ、彼らがこうして一室に集まるというのは、次代の教皇を選定する大会議であるコンクラーヴェの日と、大洗礼の儀──四年に一度、国家の代表を通して国民すべてに祝福を与える大儀式の日を除いては、大変に珍しいことだった。

 

 そんな暇があったら、大陸中で、今この時にもどこかで遂行されている使徒の作戦を管理し、場合によっては直接指揮をしたい。

 近しい者をカルトに殺されたという過去を共通して持つ彼らにとって、軍事部門統括という立場は単なるお飾りではなく、天職なのだから。

 

 人間を十人単位で殺したという報告を常日頃から涼しい顔で、或いは復讐の昏い笑みと共に受けている彼らが顔を蒼白にして話し合っていたのは、王国より届いた一通の手紙についてだ。

 

 手紙を読んでから部屋を呑んでいた重苦しい沈黙を、額に汗を光らせたジョセフが破る。

 

 「もう一度お聞きしますが、ほ、本当に命令は下しておられんのだね?」

 「そ、そう言ったでしょう。だからこそ、我々が集まるほど厄介な事態なのです」

 

 問いかけたジョセフも、答えたアンジェリカも、声が震えている。

 最年長であるフランシスに至っては、声すら出せずに頷くだけだ。

 

 無理もない。

 手紙の送り主は大陸最高位の宗教的権威と言える彼らより、更に上の“宗教的象徴”とすら言える存在。人よりも神に近しい者。聖痕者、アヴェロワーニュ王国第一王女ステラ・フォルティス・ソル・アブソルティア。手紙には、ご丁寧にも王位継承者(レックス)の称号まで添えて署名されている。

 

 それだけなら気合の入った公文書というだけだが、内容が不味すぎた。

 内容は概ね「今回の使徒の作戦は極めて不合理なものであり、強い遺憾の意を表明する」といったところだ。あとはお決まりの「誠意と良識ある対応を求める」という定型文だが、それだけで、彼らが項垂れるには十分だ。

 

 現代の国家間協議に於いて、謝罪と言えば責任者の首である。馘首という意味ではなく、断頭台送りという意味だ。

 あとは首級を塩漬けにして、それを携えた使者が謝罪に赴いて一件落着。そういう文化が出来上がっている。

 

 勿論、彼らとて信仰に生き、信仰に殉じる覚悟を持った聖職者だ。

 自ら下した命令が誤っており、罪なき信徒を傷付けてしまったのなら、死して煉獄を彷徨い、罪を雪ぐことに躊躇いは無い。

 

 だから彼らが焦っているのは死を望まれていることではなく、誰が死ぬべきなのかが全く不明という点だ。

 

 「我々の命令なく使徒が動くなど、有り得るのか……?」

 「部隊指揮官のナイ司祭からも、我らに諫言が上がっておりましたな。頭越しの命令は指揮系統を混乱させると。何のことかと思っていたが、まさか……」

 

 呆然と呟くジョセフに、フランシスも取り繕った穏やかな笑みと共に応える。

 そして三人は同時に、深々と嘆息した。

 

 「天使の介入、或いは神託による御下知があったのだと考えるべきでしょうな」

 「またですか。いと高き方々には本当に困らされる」

 

 また、というジョセフの言葉通り、人に化けた天使や唯一神の神託が降り、“使徒”のメンバーが「命令していない命令」を受けて動くということは、過去に何度かあった。

 教皇庁の把握していないカルトや異端者を知らせてくれるのは有難いし、なにより有益なので受け入れてきたが……今回は別だ。このままでは、罪なき者が罪を背負わされ、死ぬことになる。

 

 いやそもそもそれ以前に、これまでに彼らが介入した時は、事後報告ながらも天使からの通告はあった。しかし、今回は何の音沙汰もない。

 まさか、命令を下した天使が()()()()()()()()なんてことは有り得ないし、もしかして──

 

 「天使ではなく、悪魔が介入したのでは?」

 

 フランシスの推論に、二人は一定の信憑性を感じる。

 

 「まさか、あのゴエティアの悪魔が?」

 「ふむ。聞くところによると、王都には強力なアトラクター──悪魔を魅了する体質の子供がいるらしいではないか。その子供を狙ったのでは?」

 

 ジョセフは本当に「ただ思い出したから言ってみた」といった軽い調子だったが、アンジェリカは瞠目するほどの衝撃を受けていた。

 思わずと言った勢いで立ち上がると、何かを思い出すように自分の額をとんとんと小突く。そして、脳内を駆け巡っていた既知感の正体に思い至ると、無作法にも構わず大声で叫ぶ。

 

 「そ、そうです! ステラ聖下の手紙にあるこの名前、どこかで目にしたと思ったら! 去年の悪魔騒動の折、ナイ司祭が保護したというアトラクターの子供ではありませんか!?」

 「なんだと!? で、では、今回の一件は悪魔によるものだと!?」

 

 聞きようによっては、彼らの推論は責任転嫁──悪魔に罪をなすり付け、死を免れようとしているだけにも思える。

 

 しかし彼らにとって、その事実を認めることは死よりも辛いことだ。

 使徒は教皇庁──一神教の総本山である彼らの擁する、一神教を守るための特殊部隊。それが一神教の大敵である悪魔などに、いいように扱われたなど。

 

 「こ、このことは……いや、聖下に隠し立てなど、罪を重ねる行為か」

 「左様。聖下にはこの旨、包み隠さずご説明せねばならん。説明には私が……否、全員で赴くべきか」

 「無論です。ステラ聖下にお会いできる機会……もとい、誠意ある対応をお見せしなくてはなりませんからね」

 

 ぽろりと煩悩を漏らしたアンジェリカに、二人の冷たい視線が突き刺さった。

 

 

 

 

 





 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ7 『冒涜の禁書』 グッドエンド

 技能成長:【図書館】+1d4 【ナビゲート】+1d4 【考古学】+1d4

 特記事項:なし





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Talking Woods
160


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ8 『Talking Woods』 開始です。

 必須技能は各種戦闘技能です。
 また、【サバイバル(森林)】等の森歩きに適した技能、【伝承(精霊)】等の知識系技能の取得が推奨されます。


 王都内での“使徒”暗躍事件から数か月。

 特筆すべき事件は何もない平和な時間を過ごした後、無事に期末試験をパスしたフィリップは、二年生になった。

 

 事前に配布されたクラス発表のプリントによると、クラスは2-A。教室も変わって、1-Aより一つ上の階だ。

 実技はボロボロ、筆記はなんとかクリアという無様な成績ながら、何とかAクラス残留を許されていた。

 

 ちなみに、昨年度筆記トップ実技2位のルキア、筆記2位実技トップのステラの両名も当然のようにAクラスのままだ。今年も同じクラスなのは、素直に嬉しい。

 

 新学期初登校日の今日は、新生活への不安と、それを数倍する期待に胸を躍らせた新入生たちの騒ぐ声が、そこかしこから聞こえている。

 陽光に輝く白亜の校舎、色鮮やかな芝生の敷かれた広い中庭、王都屈指のクオリティを誇る食堂の料理。目に映る全てが感動の的なのだろう。

 

 それからもちろん。

 

 「ねぇ見て! あれ、光属性聖痕者のサークリス聖下よ!」

 「うわ、すげぇ美人……」

 「いやいや、お隣のステラ第一王女殿下も負けてないって! お二人とも、世界最強の魔術師で、しかもあんなにお綺麗なんて……」

 「神は二物をお与えになるんだな……」

 

 人類最高の魔術師であり、人類最高の美貌の持ち主でもある二人。憧れの先輩、綺麗な上級生のことも忘れてはならない。

 

 寮から食堂に向かう渡り廊下を歩いていると、花道のようにできた人だかりから聞こえる二人への賛美で、三人は会話すらままならないほどだ。

 

 時折漏れ聞こえてくる「真ん中の小さい子は……え? あれ誰?」という声は努めて無視した。

 新一年生は、当然ながら後輩ではあるが──現時点で十四歳、今年十五歳になる。つまりフィリップより三つは年上だ。まあフィリップは学年の垣根が無いクラブ活動や委員会といった組織には所属していないし、後輩と絡むことは無いだろう。

 

 数か月前に共に死線を潜り抜け、今でも顔を合わせれば話す仲のフレデリカという例外はいるが、フィリップの交友関係は狭い。

 

 「新入生を睨むのはやめろ、ルキフェリア。魔力で威圧するのも駄目だ。カーターが「チビ」で「魔力が貧弱」なのは事実だろう」

 

 フィリップの左隣を歩くステラは新入生が囁き交わした陰口を引用して、呆れ交じりに笑う。

 

 相手は勿論、フィリップを挟んで歩くルキアだ。

 彼女は敢えて聞こえるような声量で陰口を叩いた失礼な後輩に、光さえ凍てつかせるような絶対零度の視線を向けていた。

 

 「そうですよ、ルキア。それで失禁とかする人がいたら、掃除する人が……あぁ、遅かった」

 

 食事を終えてから教室に向かう道中も、似たようなものだった。

 

 教室棟の二階──二年生のフロアに上がってしまえば、周りの声はがらりと変わる。

 ルキアとステラの美貌や膨大な魔力への賛美や憧れは慣れによって鳴りを潜め、ならば代わりにと挨拶が飛んでくる。

 

 「サークリス聖下、おはようございます!」

 「第一王女殿下、本日もご機嫌麗しく存じます!」

 「おはようございます、カーターさん!」

 

 この手の扱いには慣れているルキアとステラは適当に手を挙げて応じるが、未だ慣れない、そもそもこんな扱いをされること自体が不当であるフィリップは、苦笑交じりに会釈して挨拶を返していた。ごくごく低確率で混入する「猊下」という呼び方にだけは、鋭く訂正を入れていたが。

 

 教室に入ると、見知った顔の幾人かが一礼する。

 クラスメイトに対する所作としては些か以上に丁寧だが、彼らは去年からこんな感じだった。

 

 いつも通りに応じて教室を横切り、去年と同じ窓側最後列の席に並んで座る。

 進級したからと言って、即座に何かが変わるわけではない。フィリップはいつも通りにルキアとステラと駄弁って時間を過ごす。

 

 昨年度、()()()()()によって落命した人数分、下位クラスから成績上位順に繰り上がった者がいたらしく、彼らが三人に挨拶しに来たり、元々同じクラスだった者まで「今年も同じクラスになれて嬉しいです」と挨拶しに来たりといったイベントはあったが、そのくらいだ。

 

 その後も他愛のない話をしていると、教室前側の扉がからからと開く。

 そして──

 

 「はーい、皆さん着席してくださいねー。ホームルームを始めますよー」

 

 媚びるような間延びした声を聞いて──歓声が爆発した。

 

 黒髪黒目猫耳ガチペド嘲笑系女教師、ナイ教授。

 ある程度の予想はしていたが、本年度もAクラスの担任らしい。

 

 ナイ教授は、ぽてぽてとことこと教壇に向かい、こほんと小さく咳払いをして話し始める。

 

 去年もAクラスだった生徒は、既に脳をやられているのか、だらしなく蕩けた顔で傾注している。逆に昨年度はBクラスだった生徒たちは、自分の幸運を噛み締めるような表情で、しかし瞳孔を異常なほどに拡張してナイ教授に注目していた。

 

 ある程度慣れてきたのか、ルキアとステラは去年のように身体を寄せることなく話を聞いている。

 フィリップだけが、「やっぱりか」と不幸を呪うような重い溜息を吐いていた。

 

 「まず初めにぃ、大事なことをお話ししておきますねー。この魔術学院は、一定以上の魔術適性が認められた者しか入学できませんよねー? ですからぁ、毎年いるんですよねぇー。入学できた自分はすごい、エリートだ、とかぁ、身の程も弁えない自尊心や根拠のない自信に駆られてぇ、問題を起こしちゃう子ー」

 

 毎年と言っても、彼女が赴任してきたのは去年の後学期からのはずだが、そこに突っ込む生徒はいなかった。

 大多数の生徒は気付かないか、気付いても「職員会議で言われたんだろうな」と勝手に納得する。フィリップだけが「時間の外側から見たのかな」と正解に当たりを付けていた。

 

 「絡まれたりするかもしれませんけどぉ、無闇に模擬戦をしたりせず、教師を呼ぶなどの大人の対応をしてくださいねー。皆さんは先輩、彼らより一つ大人なんですからー」

 

 「ね? フィリップくん」と最後に名指しで念を押すナイ教授。隣でステラがクスクスと笑いを堪えていた。

 

 編入早々にカリストに決闘を申し込まれ、軍学校との交流戦では……名前は何だったか、ちょっと太った人とのっぽの人に絡まれたが、フィリップが望んで喧嘩を売られたわけではない。

 それに「大人の対応」と言われても、この学院に正規ルートで入学した新入生は確実にフィリップより高い魔術適性を持っている。適当にあしらうなんて無理な話だ。

 

 「じゃあ次にー、選択科目についての資料をお配りしますねー」

 

 前から後ろに回された資料は全部で五枚。

 一枚目は選択科目というシステムそのものの説明で、残りは全四科目の詳細だ。

 

 「二年次の選択科目は四つに分かれますー。召喚術とー、治療魔術とー、付与魔術とー、先生の担当する錬金術です!」

 

 わぁー、と自分で歓声を上げながら拍手するナイ教授に、教室中が続く。

 ほんの数瞬で万雷の喝采となったそれは、驚いたように硬直し、照れ笑いを浮かべたナイ教授の愛らしさによって一瞬の心停止を経験した生徒たちが自主的に止めた。

 

 その波に乗れない、乗るつもりもないフィリップたち三人は、黙って資料に目を通している。

 

 見る限り、どれもこれも楽しそうだ。

 まぁナイ教授が担当するという錬金術は省くとして……魔術だけでなく医学的処置についても勉強するという治療魔術が向いているのではないだろうか。

 

 最近厳しさを増しているステラとの戦闘訓練で生傷の絶えないフィリップは、保健室まで行くの面倒くさいんだよなあ、とか舐めたことを考えている。勿論、自分の怪我を自分で処置できるのは素晴らしいことなのだが──

 

 「あ、フィリップくんは特例編入なので、召喚術で確定ですよー」

 

 ナイ教授の言う通り、フィリップは召喚物を暴走させ二等地を吹き飛ばした過去がある。

 この魔術学院にいるのは、拘留の代替措置であると同時に、召喚物の制御を学ぶため──召喚物を制御できない召喚術師、即ち爆弾にも匹敵する危険物というレッテルを剥がすためだ。

 

 「そうでした……」

 

 当たり前のことを忘れていたフィリップに、両サイドから生温かい視線が向けられる。

 

 一限、二限とほぼガイダンスで授業を終え、昼休み。

 いつもの特等席で昼食を摂りつつ、そういえばと選択科目の話題が出た。

 

 「そういえば、二人はどうするんですか? 選択科目。僕は強制的に召喚術ですけど」

 

 フィリップの問いに、二人はさっと思案する。

 

 「私も召喚術ね。フィリップと一緒に……という理由も勿論あるけれど、適性外の魔術も試してみたいから」

 「同じく。だが理由は逆だな。私はこの中だと召喚術にしか適性が無い」

 「そうなんですか?」

 

 意外そうなフィリップに、二人は明らかな苦笑を浮かべる。

 全属性全系統に秀でた万能な魔力の持ち主など存在しない。魔力は本人の体質や気質に大きく影響される以上、遍く全てに適性がある人間がいるとしたら、それは「個」が極めて希薄な人形のような者だ。

 

 ──と、一年生のうちに習ったはずなのだが。

 

 「えぇ。私は光属性と闇属性なら誰にも負けないけれど、火属性ではステラに勝てないし、支配魔術なんかの適性も無いわ」

 「まぁ、お前は個人で完結している人間だからな。他人を支配し隷属させる、他者と契約し使役する、そういった気質が無いんだろう」

 

 ステラの言に、フィリップもなるほど確かにと納得する。ステラが──次期女王たる彼女が、支配魔術に適性を持っているのも納得だ。

 

 魔術理論に基づけば、魔力中の適性因子数が気質に影響している、と言うべきなのだろうか。この辺りはフィリップの頭では理解できない。

 

 「ところでフィリップ、普通の召喚術を使ったことはあるの?」

 「……いえ、一度も。使えるかどうかも不明です」

 

 フィリップの学院生活二年目は──いや、二年目も、中々に厳しいものになりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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161

 春休み明け、進級初日の放課後。

 級友との再会や新たな友人との交流で食堂や中庭の賑わう時分に、体育館では激しい戦闘が繰り広げられていた。

 

 戦っているのは二人の魔術学院生。

 一見すると片方が攻め、片方は防戦に徹している趨勢の明らかな戦いだ。

 

 攻撃側は地面を滑る蛇か低空を舞う燕のような印象を受ける極端な前傾姿勢で疾走し、手にした金属製の鞭のような武器を振り回している。どう見ても魔術師の戦闘スタイルではないが、動きには淀みが無く、武器を振るう手にも躊躇いが無い。

 

 防御側は二層の魔力障壁による対策と、同時に複数展開される中級魔術によるカウンターが主体のようだ。こちらは純魔術師然として、その場に立ったまま移動していない。

 

 ──言うまでもなく、フィリップとステラだ。

 そして模擬戦の趨勢は、明らかにステラが有利だった。

 

 フィリップがウルミを振るうと、その先端は大気を裂き炸裂音と共にステラへと襲い掛かる。音速をも超える一瞬の攻撃だが、しかし、届かなければ意味がない。

 

 ぎゃりぎゃりぎゃり! と、耳に刺さるような擦過音を上げながら、魔力障壁の表面にウルミが擦れ、火花を散らして滑っていく。

 

 春休み中にマリーから届いたそれは、今まで使っていた物とは違う本物だ。

 全長4メートルの金属鞭を4本束ね、表面を荒く削り、更に先端部の細さは他の半分程度になっている。より長くなることで先端部の速さが増し、細くなったことで切れ味が高まり、更には鞭の表面を削ったことで獲物の肉を鋸のように切り裂き、ヤスリのように抉り取る。

 

 ステラから現状を聞いたのだという彼女の手紙にはこうあった。

 

 『王女殿下から聞いたよ、カーター君、ウルミの扱いがだいぶ上手くなったんだってね! ということで、これは一人前になったお祝い! お金は返さなくていいしお礼も要らないけど、誰かほかの人にウルミの良さを伝えたげて! 任せたよ、伝道師くん!』

 

 ──いや、誰が伝道師か。フィリップが布教できる宗教なんてロクなものじゃないし、ウルミの伝道師なんてニッチなものにもなりたくない。

 

 でも、

 

 『追伸 皆伝レベルになったら、今度は蛇腹剣を教えてあげるね!』

 

 と書いてあったので、頑張ろうとは思う。あれはとてもカッコ良かった。

 

 「集中しろ、カーター! 当たったら医務室送りだぞ!」

 「ッ!」

 

 はい! と返事をして気を引き締めたいところだが、そんな余裕は無い。

 ステラの言葉通り、彼女の攻撃は以前とは違い中級攻撃魔術。魔力抵抗力の高い魔術師相手でも有意なダメージの見込める、正真正銘の「攻撃」だ。当たれば熱いでは済まない。

 

 弾かれたウルミを二、三回空振りして形を整える。

 今までの二メートルそこらのものなら要らない一手間だが、今やウルミの長さは四メートルで、その表面はヤスリのように削られている。下手に扱えば、武器どころか自らの身体を磔にする茨の枷となる。

 

 本当なら振りやすい形にまでしてしまいたいが、走るのに支障がない程度に繕って、すぐに移動を再開する。

 

 相手の相対位置認識を狂わせる『拍奪』の歩法は、その性質上、移動していなければ効果を発揮しない。

 

 「残り一分」

 

 離れたところで観戦していたルキアからタイムキープの声が上がる。

 

 それを聞く余裕はフィリップには無かったが、ステラは口角を吊り上げた。

 

 模擬戦一セットの制限時間は二分。

 つまりフィリップは、全然本気ではないステラ相手に一分間、耐久出来る程度には強くなっているということだ。春休みというブランク明けで、更には武器を新調したばかりというコンディションで。

 

 強くなっている。

 勿論、以前までと比較してというだけの話だが──それでも、軍学校で真ん中辺りの成績は取れるだろう。

 

 ソフィーやウォードなんかの実力者相手ではどうにもならないだろうし、ルキアやステラが相手なら二秒と持つまいが、それでも、確かに努力が実り始めている。

 

 「ふ──ッ!」

 

 力みを散らすための呼気から一瞬のラグも無くウルミが振るわれる。

 

 触れれば肉を抉り裂くそれを、躊躇いも無く顔面に向けてくるのは、女性として思う所が無いわけではないけれど──戦場に在って性差など有り得ない。目の前にいるのは男でも女でも、それ以前に「敵」なのだから。戦意を奪うなら顔を、命を奪うなら首を、戦闘能力を奪うなら脚を狙う。教えた通りの動き、ステラとしては好ましい、戦術的で合理的な動きだ。

 

 ぎゃりぎゃりぎゃり! と、眼前で火花が散る。

 防御用に展開した魔力障壁の損耗は、ほんの数パーセント。常人の魔力障壁だったとしても切り裂くには至らないだろう。

 

 「もっと身体を使って振るんだ。鞭が伸びたからといって、身体操作を疎かにするな」

 

 攻撃を防がれて後退したフィリップから返事は無いが、なるほどと表情が強張っている。それで十分だ。

 

 姿勢とウルミの形を整え、再度の攻撃が来る。

 迎撃に放った魔術は回避の素振りも無く素通りしていく。まぁ、そうだろう。ステラは人類最強の魔術師だが、人間だ。相手の位置を目で見て確認して、脳で把握している以上、それらの感覚を誤魔化す『拍奪』の歩法は変わらず効果を発揮する。

 

 では、一段階、レベルを上げよう。

 

 「()()()()、カーター」

 「? ──ッ!?」

 

 フィリップは意味の分からない指示に疑問を覚え──眼前に迫った火球を間一髪で回避した。

 耐火繊維の制服が炎に晒され、ちりちりと音を立てる。

 

 危なかった。

 避けなければ顔面直撃コースだった。

 

 位置認識欺瞞に失敗した? それとも見切られた? 適当に撃ったわけではないだろうが、何故?

 

 後方で爆発した火球の勢いに背中を押されて走りながら、全身の筋肉に血流が優先されて回りの悪い頭で考える。

 

 相手の位置を目で見て確認するなら、たとえ天使が相手でも欺瞞効果は発揮される。

 

 つまり、ステラはいまフィリップの位置を目で見ずに認識していたということだ。

 

 どうやって?

 魔力感知? それとも熱源探知? いや、もっと高度な魔術によるものかもしれない。例えば、相手の動きを予測するなんかすごいフィールドとか。そんなのがあるのかは知らないけれど──

 

 「考えるのは良い。だが考えることに気を取られ過ぎるな」

 

 ステラは口だけでなく、手も使って注意する。

 向けた指先に小さな炎を灯し、矢のような速度で撃ち出した。

 

 空気を焼きながら飛来する炎の礫。

 フィリップの知らない魔術だ。少なくとも「ファイアー・ボール」なんて可愛らしいものではないだろう。だって、その炎は青白い。

 

 見たことの無い色の炎に気を取られ、その狙いがフィリップの顔面にぴったりと合わされていることに気を取られ、その理由について考えて。気付いた時には、フィリップは負けていた。

 

 ぽん、と、小さな可愛らしい音を立てて、青い炎が爆ぜて消える。

 その奥、見慣れない攻撃に隠すように、本命の火球が三個。既に撃ち出され、フィリップに命中する軌道で飛翔していた。

 

 「しっ!?」

 

 視線誘導か。

 そう叫ぶことも出来ず、フィリップは死んだ。

 

 「今のは死んでたな。ここまでだ」

 「一分と四十五秒。惜しかったわね、フィリップ」

 

 頭部、心臓、腰。

 ステラの火球は、フィリップの急所を消し炭にして撃ち抜いていた。──ルキアが寸前で展開した魔力障壁が無ければ。

 

 「あと十五秒ですか! きっつい……!」

 

 フィリップは地面にぺたりと座り込んで息を荒げる。

 ルキアが差し出してくれたタオルで汗を拭いながら、脳内で一連の動きを回想し反省点を洗い出す。

 

 やはり、一番大きいのは。

 

 「気を取られ過ぎましたね……。なんで僕の正確な位置が分かったんですか?」

 

 ステラの照準の正確性が、いきなり跳ね上がったこと。

 まだ避けられる速度の魔術しか使われていない以上、集中していれば対処できたことだが、思考にリソースを費やしてしまったのは敗因の一つだ。

 

 「あぁ、アレか。……お前は分かるか、ルキフェリア?」

 「自分の魔力で空間を埋め尽くして、自分の魔力ではない部分を照準したんでしょう? 見ていれば分かるわよ」

 

 揶揄うように水を向けたステラに、ルキアは馬鹿にするなと言いたげに目を細める。

 

 へーそんなことが出来るのか、と感心したいところだが。

 

 「殿下? それって中級レベルの戦闘魔術師でも出来るんですか?」

 「いや、私たちと同等──とまでは言わないが、私たちの半分くらいの魔力量と制御能力が無いと無理な芸当だな。宮廷魔術師なら出来る、と言ったところか」

 「レベル違いじゃないですか! 今は中級魔術師レベルって話でしょ!?」

 

 ステラとの模擬戦は、幾つかの段階(レベル)に分かれて進行してきた。

 二分以上の耐久、或いは魔力障壁の破壊が段階進行の条件だ。

 

 まずレベル1、低級戦闘魔術師相当。

 一般に魔術師と呼ばれる水準の、最低値からやや上程度の魔術・魔力障壁を再現。フィリップは突破に二月を要した。

 

 次にレベル2、中級戦闘魔術師相当。

 戦闘魔術師の平均的水準を再現。フィリップは未だ突破できていない。つまり、今日もステラはこのレベルを保っているはずだった。

 

 ここから先はフィリップが未だ到達していないレベルだ。

 レベル3、上級戦闘魔術師相当。レベル4、宮廷魔術師相当。レベル5、宮廷魔術師筆頭相当。レベル6、ステラ(遊び)。レベル7、ステラ(本気)。

 

 つまり今のは、レベル2のフリをしたレベル4だったということだ。

 今のフィリップはまぁ概ねレベル1.5くらいなので、勝てるわけがなかった。

 

 「ははは、すまん。興が乗ってな」

 「楽しそうね……」

 

 けらけらと笑うステラに、ルキアは呆れたような目を向ける。

 

 まぁな、と軽く応じた後、ステラはすっと表情を切り替えてフィリップを見下ろした。真剣な光を湛えた青い瞳に見つめられたフィリップは、真面目な話の雰囲気に背筋を正す。

 

 「他にも、『拍奪』を看破する技術は幾つかある。今のは魔力に物を言わせた力押しだがな。他にも、そもそもお前を走らせない方法もある。例えば──」

 

 ステラはそこで言葉を切ると、すっと腕を伸ばす。

 

 「《ヴォルカニック・マイン》。……さぁ、カーター。ちょっと壁まで走ってみろ」

 「嫌に決まってるじゃないですか!? 殺す気ですか!?」

 

 設置型魔術『ヴォルカニック・マイン』。

 敷設箇所に接近すると溶岩が噴き出す、反応起動型攻撃魔術だ。当然ながら手加減の利く代物ではないし、フィリップの魔力抵抗力では一瞬と保たず消し炭になるだろう。

 

 以前にそれを使っていたクラスメイトの顔も声も名前も思い出せないけれど、「いい火加減だなぁ」と羨ましく思ったことは記憶していた。

 

 「そう。お前はこの一言で走れなくなる。お前には私が()()()使()()()()()()ことが分からないからだ」

 「……え?」

 

 ブラフだったのか。

 戦闘中の、脳に回る血流が足りていない短絡的なフィリップでは気付けそうもない。平常時でさえ、魔力感知能力が一般人並み──皆無なのだから。

 

 「もっと意地の悪い奴だと、ブラフだと思わせておいて、自分のすぐ正面や真後ろ、後は視野ギリギリの斜め後方辺りに設置する。お前のような敏捷型の剣士が狙いそうな場所にな」

 

 うへぇ、とフィリップは苦い笑いを溢す。

 それをされると、フィリップは多分馬鹿正直に引っ掛かって死ぬ。

 

 「まぁ、それは上級戦闘魔術師レベルだな。そして誰が相手であっても、走り回って二分耐える。これが目標なのは、二分もあれば、お前の切り札が十分に切れるからだ。だが逆に言えば、走り回れなくなった時点でお前の負けだ。長々とした詠唱をする暇もなく消し炭にされる」

 「……ですね」

 

 ステラはフィリップの弱点を、弱さを淡々と突き付けていくが、フィリップはそこまで落ち込んでいなかった。

 

 彼女が総評で褒める日は、模擬戦でボコボコにされた日。総評で指摘する日は、模擬戦で善戦した日だからだ。

 落ち込まないように、調子に乗らないようにという心遣いなのだろうが、自分の弱さを理解しているフィリップにはあまり意味のない配慮だ。

 

 誰と比べても自分が弱いと知っているから。

 誰であれ強さに価値がないと知っているから。

 

 もう既に。とうの昔に。あの地下祭祀場で、何もかもを諦めているから。

 

 自分の弱さを嘆いたりしない。自分の強さを過信したりしない。

 

 それこそが、フィリップの「強さ」だった。

 

 

 

 

 



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162

 新年度が始まって数日。

 二年生は選択科目の体験授業や説明会を終え、書類を提出し、一部科目については抽選となり、遂に選択科目の授業が始まった。

 

 教室棟の、一つ上の階。

 普段の教室より一回りか二回りほど大きい特別講義室に、AクラスとBクラスの召喚術選択者が集められていた。

 

 やはり召喚術は不人気で、他クラスと合同でも教室一つを埋められていない。

 

 Bクラスの生徒がひそひそと囁く噂話の的になりながら、フィリップと、ルキアとステラも席に着く。いつも通りの、窓側最後尾だ。

 

 しばらく関係の無い話をして時間を潰していると、からからと扉が開き、担当の先生が入ってくる。

 体験授業の時にも見た、アダムズ・フォン・ローレンス先生。御年65歳の大ベテラン教師だ。老紳士というより、身なりの良いお爺ちゃんである。

 

 「着席してくださいねー。……はい、おはようございます」

 

 ゆったりとした喋り方は老いを感じさせるが、それ以上に「もう引退させてやれよ」と思わせる。

 聞くところによると、他人に教導可能なレベルの召喚術師を見つけられないヘレナが、無理を言って教職を続けて貰っているのだとか。

 

 そんな噂を知っているからか、挨拶を返す生徒たちの声にも隠し切れない気遣いが滲んでいた。

 

 「召喚術担当のローレンスです。えー……まず、ガイダンス用の資料をお配りします」

 

 ローレンスの緩慢な説明を聞き流しながら、ぺらぺらと資料を繰る。

 書いてある内容も、話す内容も、フィリップがナイ神父から教わった内容と殆ど同じだ。

 

 「えー、まず、召喚術とは……」

 

 召喚術とは、文字通り誰か、或いは何かを召喚する魔術だ。

 

 「大別して、えー……、二種に……」

 

 大別して二種に分けられる。

 一つは、事前に契約した対象を召喚する事前契約型。一つは、召喚対象との契約までも術式に組み込んだ直接契約型。

 

 召喚対象と予め接触できる、例えば獣や魔物などを使役する場合は前者を。天使や悪魔と言った召喚術ありきでしか接触できない対象の場合は後者を使う。

 当然ながら難易度も大きく違い、前者は現代魔術で言う所の初級から中級程度、後者は上級に位置する。

 

 「えー、本講義では、事前契約モデルについて扱います。来週の月曜日から木曜日にかけて、ローレンス伯爵領の森へ行き、えー……、適当な生き物、魔物等と契約することになります」

 

 ……は?

 

 え? いきなり?

 それはちょっと──

 

 「ま、待ってください先生! 遠出の準備も出来ていませんし、そもそも契約術式も教わっていません!」

 

 誰かの指摘に、教室中がうんうんと一斉に頷く。

 フィリップも当然、その内の一人だ。

 

 「えー……はい。えー……ですので、本日と次回の講義で、えー……契約の方法を覚えて貰います。テキストを出してください」

 

 おいおいマジかよ初回からガッツリ授業か。そんな辟易した空気が教室に漂うが、フィリップはそれどころではない。

 

 ぺらぺらとテキストをめくり、契約とタイトルの打たれた章を開く。

 

 フィリップの魔術適性はほぼゼロ。

 ずっとルキアとステラに教わってはいるものの、初級魔術も満足に使えないザマだ。もし契約が中級魔術レベルの術式によるものだった場合、この時点で詰みだ。

 

 召喚術の単位を落とすこと。それはフィリップの場合、即時留年か、或いは退学と地下牢送りを意味する。

 フィリップの入学が拘留の代替措置である以上、召喚術の授業は自由選択科目ではなく刑罰、或いは爆弾の無力化だ。これをクリアしない限り、フィリップに貼られた「いつ爆発するとも知れない危険物」というラベルは剥がれない。

 

 まぁ、その割には、夏休みやら春休みには魔力制限の腕輪無しで自由に外出できていたけれど。もしかして、入学した時点で……いやいや、気を抜くのは良くない。ただでさえ、現代魔術の単位はギリギリなのだ。これ以上単位を落とすと、それこそ留年の危機である。

 

 「えー……、契約には、自分の血を使います」

 

 のんびりと話すローレンスの声を一応は耳に入れつつ、ほぼ同じ内容の書かれた資料プリントとテキストの文字を追う。

 

 契約に使うのは術者の血液。より正確には流れたばかりの血液が多分に含む、術者の魔力。

 魔力そのものを使わないのは、より物質的で生物的なものを媒介にした方が、生物や魔物のような生命体には受容しやすいからだ。

 

 魔力は「存在」で、血液は「情報」。

 人間を含めたあらゆる知性は、存在そのものを理解できない。存在とはどういうものか、それを記述した情報を通す必要がある。……「存在」であるヨグ=ソトースという例外はいるが。

 

 ともかく。

 血液という「情報」を通じて、契約対象に術者の「存在」を教え込む。血液は相手の体内に入ればそれでいいから、飲ませても、注射しても、垂らしてもいい。皮膚吸収は時間がかかるうえに不確実なので、普通は経口摂取らしいが。

 

 「医務室のボード先生に言えば、専用の容器に採血してくれますので、えー……、当日までに準備しておくように。それから、えー……召喚術は、召喚にも契約にも魔法陣を用いますので、えー……」

 

 当然ながら、野生の獣や理性無き魔物に、「小瓶に入った新鮮な血はいかが?」なんて尋ねられるはずもない。相手が肉食なら差し出した腕ごと噛み千切られるのがオチだ。

 

 だから、契約は相手を魔法陣の中に捕えてから行う。

 単なる捕縛であれば現代魔術の『パラライズ・ミスト』や『スリープ・ミスト』、『バインド』なんかで事は足りるが、魔法陣には意思疎通を可能とする効果がある。

 

 大雑把な「動け」「止まれ」程度の単純な意思しか伝えられないが、獣風情にはそれで十分。

 「血を飲め」「契約しろ」。伝える意思はたったこれだけで、これだけ伝えてしまえば、あとは契約した後にどうとでもできるのだから。

 

 「えー……、契約は、高度な知性を持つ相手とのみ可能で、また、えー……」

 

 契約は高度な知性を持つ相手、生物なら最低でも犬猫、魔物ならゴブリンくらいの知力が要る。

 つまり昆虫やギガントビートルなどの昆虫型魔物、スライムやスケルトンといった知性無き魔物、あとは植物なんかも対象外になる。

 

 また、術者は自身以上の魔力を持つ相手とは契約できない。

 これは単純な質と量の話で、仮に「ドラゴン以上の魔力を持つが全く操作できない」という特異体質者が居たら、その術者はドラゴンと契約できる。逆に「操作能力では天使を凌ぐが、魔力の質と量はゴブリン並み」という特異体質だと、契約できるのはゴブリンまでだ。

 

 「……僕の魔力ってどのぐらいですか?」

 「……犬猫以下ということは無いから安心しろ」

 

 ひそひそと訊ねたフィリップに、ステラが同じくひそひそと返す。

 会話の内容を聞いてフィリップの魔力量を視ていたルキアは、

 

 「でも、魔物との契約は望み薄ね。現地の生き物次第だけれど、狼なんかがいいんじゃないかしら」

 

 と、『魔物使いフィリップ・カーター』に至る可能性を切り捨てた。

 どうやらフィリップに許されるのは『動物使い』……召喚術師というよりは、サーカスの一員までらしい。

 

 ま、まぁ、複雑な魔術的手段を必要とせず、かつフィリップでも使役可能な存在がいるというのは朗報だ。少なくとも詰みは消えた。

 

 「戦闘力なら熊とかも良さそうですよね」

 「熊か。いや、うーむ……」

 

 確かに、熊は強い。

 種類や成長の度合いにもよるが、その毛皮は量産品の直剣や弓矢くらいなら軽く弾き、太く鋭い爪と強靭な腕力による爪撃は人体を容易く両断するという。

 

 だが、如何せん。

 

 「お前の戦闘スタイルと微妙に噛み合わないだろう? 前衛を任せるなら『萎縮』なんかを誤射しないよう、なるべく視界を遮らず、かつお前の『拍奪』に付いてこられる敏捷性が欲しい。熊は素早いが、体格も大きいから、微妙だな」

 「盾にするなら一案だけれど……」

 

 いや、使い捨てはちょっと。とルキアの案に首を振る。

 別に心が痛むというわけではない、というか、この程度で痛むような部分はとっくに腐り落ちているので、「それはちょっと非人間的じゃないか」という思考に基づく冷静な判断だが。

 

 「素早くて、視界を遮らず、前衛を任せられる戦闘能力。なるほど、狼ですか」

 「……ふむ、的確だな。あとは梟や鷲なんかも良さそうだが」

 「……偶然よ」

 

 流石と言いたげに頷いたステラから、ルキアはふいと視線を外す。

 照れ隠しに窓の外を眺めるような仕草だが、フィリップにも分かる不自然さがある。ステラには褒められ慣れているだろうし、彼女はこういう場合「まあね」とか「当然よ」と、明確な事実を告げられた時のような無感動さだった。

 

 まぁ、そういう日もあるか。と、一瞬で興味を失い、テキストに視線を戻すフィリップ。

 しかし、ステラはその後も数秒ほど考え続け、

 

 「ふふ……」

 

 と、揶揄うような笑いを溢した。

 

 「ルキフェリア、お前──カーターがそれと一緒に遊んでいるところを想像して、それで狼を例に挙げたな? 戦闘のことなんて、何も考えていなかっただろう?」

 

 ルキアは何も答えず、一瞥もくれなかったが、耳は赤く染まっていた。

 肌が白くて綺麗だから、血の巡りが良く分かる。そんな益体の無いことも考えつつ、フィリップは触発されて狼のことを考える。

 

 もふもふ。

 そう、それは魅惑の──もふもふ!

 

 「いいですね! お父さ──いえ、父が狩人なので、猟犬には馴染みがありますし」

 

 父が貴族の森番として召し抱えられてからは、もう長いこと触っていないが、冬毛のもこもこもふもふ具合は素晴らしかった記憶がある。もう何年も前の、朧げな記憶だが。

 

 名前を呼ぶと尻尾を振りながら寄ってくるのも、その時に爪がちっちっちっと軽やかな音を立てるのも、走り回った後に心底楽しそうに笑う──舌を出して体温調節をしているだけらしいけれど──のも、とにかく仕草の全てが可愛くて仕方がなかった。

 

 なるほど、狼。厳密には猟犬とも少し違うが、ちょっと大きな犬みたいなものだろう?

 なるほど、なるほど素晴らしい。もふもふとは素晴らしいものだ。

 

 「僕、狼を探そうと思います」

 「……いや、待て、狼という案自体には賛成だし、一緒に遊ぶことも否定はしないが、お前も戦闘能力を度外視していないか?」

 

 この上なく真剣な表情だったはずなのだが、どうしてバレたのだろうか。

 

 

 

 



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163

 その日はちょうど最終時限が体育で、ルキアとステラは体育館に来るのが遅れていた。

 着替えが長引いているのか、寮に戻ってシャワーまでしているのか。どちらでもいいし、フィリップが退屈することはない。

 

 二人が来たらすぐに始められるよう、準備運動をして身体をほぐしたり、素振りをして感覚を整えたり、事前準備を済ませてしまおう。

 

 ルーチン化された動きで筋肉や関節の緊張を取り除き、可動範囲を最大限まで高める。血行を改善すると酸素の循環効率も上がり、バテにくくなる効果もあるのだとか。

 

 まぁ、理論はどうでもいい。

 フィリップが準備運動を欠かさずやるのは、ウォードに「脱臼しにくくなるよ!」と言われたからだ。

 

 痛みを教訓とした入念な準備運動を終え、鞄からウルミとベルトを取り出す。

 今までの短く、刃も無いモデルならベルトの上に巻いておけば良かったのだが、この本物──名前を付けるべきだろうか──ではそうはいかない。そもそも腰に巻けない長さと太さだし、最悪、抜くときに自分で自分の腰を削ぎ落して戦闘不能になる。

 

 だから同封されていた専用のベルトには、携行用の部品が付いていた。巻いたウルミを佩くための金具と、脚を保護する防具だ。

 

 まずベルトを付け、防具と金具を装着し、細心の注意を払って巻いたウルミを佩く。

 

 問題はここからだ。

 まだ戦闘形にも入っていない、移動する時のスタイルになっただけだが、ここからがもう難しい。

 

 戦闘準備完了までには三工程ある。

 

 まずは武器を抜く(ドロウ)

 抜くときにグリップ以外を握ると、粗く削られた鉄の鞭が掌や指を傷付ける。

 

 次に、ウルミを何度か空振って、振りやすいように整形(フォーメーション)

 ここでしくじると、敵に向かって振ったウルミが自分に襲い掛かることもある。

 

 そして疾走準備(スタンス)

 独特の姿勢を取る『拍奪』と、全長四メートルという長大なウルミは絶妙に噛み合わせが悪い。少しでも姿勢が狂えばスピードも欺瞞精度も落ちてしまうし、攻撃が自傷に変わる確率も跳ね上がる。

 

 「──ふぅ」

 

 両手を挙げた降伏の姿勢から、真上にコインを爪弾く。

 りぃん、と綺麗に澄んだ音を立てているが、森で拾ったよくわからない謎のコインだ。王国で使われている硬貨ではない。

 

 研ぎ澄まされた感覚が、頭より高く飛んでいくコインを把握して──消える。

 

 一部の剣士は、“気配”で自身の周囲数メートル圏内を完全に把握し、死角を潰すことが出来るという。

 しかし今のフィリップでは、周囲数十センチの物体すら認識できない。おおまかにこの辺かな、という当たりは付くけれど、そんな大雑把なものは戦闘中には使えない。必要なのは数センチ単位の精密さだ。

 

 認知圏を出たコインが戻ってきて──きん、と、微かな音を立てて落ちる。

 

 「──!」

 

 コインが落ちた音。

 その微かな金属音は、直剣が抜かれる鞘の音だ。

 

 一瞬の後には剣が構えられ、最も直線的で最速の攻撃、突きが来る。ウォードなら、そうする。

 

 だからフィリップが選ぶべきは、横移動。位置認識欺瞞は横向き、移動する方とは逆側だ。

 

 ウルミのグリップに手を添え、留め具を外す。

 抜き(ドロウ)整形し(フォーメーション)──予備動作は恙なく進む。

 

 しかし、

 

 「わぁ、ホントだー!」

 

 と、そんな気の抜ける声が、フィリップの集中を搔き乱した。

 

 制御し損ない、暴れる蛇のようにのたうつウルミを何とか取り押さえる。

 

 幸いにして怪我はしなかったが、何事だ?

 授業終了直後の一時間は、ステラが正式な手続きを踏んで体育館を借りている。クラブ活動は、その後からの利用になっているはずだが。

 

 怪訝な視線を向けるフィリップには構わず、何人かの女子生徒がわらわらと体育館に入ってくる。

 闘技場のようなレイアウトだから、猛獣と剣闘士のように見える──ことはない。どちらかと言えば、鞭を持ったフィリップはサーカスの猛獣使いで、女子生徒たちは壇上に呼ばれた客のようだ。

 

 「放課後に変な武器を振り回してる先輩がいるって噂、ホントなんですねー」

 

 ずかずかと無造作に、グループの先頭を歩く女子生徒が近付いてくる。

 

 フィリップは一先ずウルミを握ったまま、怪訝そうな目を向ける。

 わざとらしく首を傾げ、まだ時間ではないはずだがと眉根を寄せてみるも、相手は気にした素振りも無い。

 

 「クラブの人ですか? 時間はまだのはずですけど」

 

 いい感じに、仮想敵の動きまで想像できるほど集中できていたのに。と邪魔されたことへの苛立ちは、内心だけに留め切れていない。

 

 険の籠った声に動じず、女子生徒は上機嫌な足取りでフィリップの前に立つ。

 

 最近少し背が伸びたフィリップより、まだ頭一つ分は高い視点から見下ろして、彼女は薄く紅を引いた口元を嘲笑の形に歪めた。

 

 「ここ、魔術学院ですよね? どうして武器なんて振ってるんですかぁ?」

 

 神経を逆撫でするような甲高い声のバックグラウンドに、彼女以外の生徒が交わす囁きや、くすくすとこれ見よがしな嘲笑が流れる。

 

 普通なら眉を顰めるようなその振る舞いに、フィリップは小さく首を傾げた。

 

 ──そもそも、彼女は誰なのだろう、と。

 

 ナイアーラトテップや他の外神の気配は無い。いや、そもそも神威そのものを感じない。

 だから彼女は、少なくとも神格に連なるものではないはずだ。

 

 「えっと……どちら様ですか?」

 

 フィリップの問いに、彼女は内心を満たす自信を表すように胸を張る。

 

 「セシル・クラインって言います。1-Aに首席として入学した者です」

 「……はぁ、それは、おめでとうございます?」

 

 これまでいたコミュニティ──家族、実家の宿、奉公先、そして魔術学院でも、最年少だったフィリップは基本的に目下の立場にあった。

 

 誰かの先輩になることもあったが、相手は十以上年上なんてことが当たり前で、年下としての振る舞いしかしてこなかった。

 だからこういう時、先輩としてどういう言葉をかけたらいいのか、全く分からない。

 

 さて困ったぞ、これで正解だろうかと頭を悩ませるフィリップだが、残念。

 セシルがただ魔術学院入学に浮かれて誰かれ構わず話しかけている、ちょっと頭の弱い明朗な少女であれば、それでも良かっただろう。しかし、彼女の性質はもっと陰湿だった。

 

 「その私から言わせて貰うとぉ、武器なんて野蛮なモノ、この学院には合わないと思うんですよねー」

 

 ……そうだろうか? そんなことは無いと思うけれど。

 学年首位どころか世界屈指の魔術師二人は、それぞれ儀礼剣術と実戦剣術の心得があるし、フィリップが使う『拍奪』だって、元はAクラスだった生徒の見様見真似で始まったものだ。教わったのは軍学校生のソフィーと、それを一時間足らずで習得したステラの支配魔術に、だが。

 

 「先輩、何組の人なんですかぁ? って言うか、先輩ですよね?」

 「一応、二年生ではありますけど……特例編入なので、年は11です。クラスは2-Aです」

 

 同じAクラス同士、仲良くしようね。とか、こっちだってAクラスなんだが? とか、そんな擦り寄りや威圧を含まない、淡々とした受け答え。機械的だと気分を害することはあっても、それ以上の感情を催させない態度のはずだ。対酔っ払い・対クレーマー用のマニュアル通りの。

 

 しかし、セシルは不愉快そうに眉根を寄せる。

 

 「へぇ、Aクラス。それって、私よりも強いってコトですかぁ?」

 

 自分の強さに自信があるのだろう、彼女の声は剣呑で、返答次第では攻撃も辞さないと言わんばかりの圧がある。

 

 感情に呼応して高まった魔力は、じわりじわりと空気を侵していく。

 それを感じ取る能力はフィリップには無いが、逆に、彼女たちにはフィリップの内側にある貧弱な魔力が読み取れているのだろう。

 

 ひそひそ、くすくす、隠しもしない囁きと嘲笑を交わす女子生徒たちを背に、セシルはにっこりと笑った。

 

 その意味は勿論、威嚇だ。

 すり寄りや、冗談の気配は少しも無い、己の不機嫌さを表層に押し出す張り詰めた笑顔を浮かべて、彼女は。

 

 「先輩、模擬戦をしませんか?」

 

 そう、端的に宣戦した。

 

 



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164

 唐突に、見知らぬ後輩から模擬戦をしようと言われたフィリップの気持ちを簡潔に述べよ。

 そんな問題があったとしたら、模範解答はこうだ。

 

 「別にいいですよ」

 

 何の気負いもなく頷いたフィリップに、セシルの眦が吊り上がり、背後の囁き声が勢いを増す。

 「なにあのへんてこな武器」「勝てると思ってるの」「野蛮なのよ」と、そんな声を聞いて、フィリップは大体の事情を察した。

 

 どうやら、彼女たちはフィリップが武器を振り回していることが気に食わないらしい。

 

 魔術という手軽で強力で、何より見た目も美しい武器があるのに──それを学ぶための最高の場所に、才能を認められて入学したというのに、その中で不細工にも武器を振り回している奴がいる。 

 新入生の中で最も高い魔術適性を認められた、彼女たち新1-A生には、それが我慢ならないのだろう。

 

 この魔術学院の品位を損なうような──そこで学ぶ自分たちの価値をも否定するような、無粋で無様な上級生の存在が。その相手が同じAクラスともなれば、もはや直接的な侮辱にすら思えるのかもしれない。

 

 だからといって、新学期開始から一週間も経たないうちに喧嘩を売りに来るとは。

 これがナイ教授の言っていた、「問題を起こしちゃう子」というヤツか。

 

 「僕は魔術無し、そちらは魔術のみ、ってことですよね」

 「えぇ、そうです!」

 

 なら、仕方ない。

 こちらも言われた通り「大人の対応」をしよう。『萎縮』も『深淵の息』も邪神招来も抜きで、相手の望み通りウルミ一本で勝負してあげようじゃないか。

 

 決闘ではなく模擬戦なら、「私が勝ったらその武器を貰いますからね!」みたいな条件を付けられても、適当に踏み倒せばいい。

 

 「勝敗は……クラインさん、でしたっけ。貴女の障壁一枚目が割れたらでいいですか?」

 「はぁ? 魔力障壁に一枚目も何も無いでしょ?」

 

 くすくす、と、フィリップの無知を嘲笑う声が生徒たちから上がる。

 

 はて? と首を傾げるフィリップの脳内には、魔力障壁を二枚同時に展開するステラの姿が浮かんでいた。

 

 彼女はフィリップとの模擬戦のとき、自分をすっぽりと覆う繭のような障壁を常時展開し、その上でレベルに応じた硬度の障壁を任意に展開していたのだが。実はあれは魔力障壁ではない別の魔術なのだろうか。

 

 「もしかして先輩、魔力障壁が使えないんですかぁ? だから武器を使ってるとかぁ?」

 

 ひそひそ、くすくす、囁き嘲る声が広がる。

 その中から、「教えてあげなよ、セシル」と揶揄うような声が上がった。

 

 「あ、いえ、結構です。授業で習ったので」

 

 その範囲は一年生の現代魔術基礎で習う。

 実技は赤点だったが、理論はそれなりに高得点だった。

 

 魔術師にとって魔力障壁の展開は、呼吸のようなものだという。

 出来て当たり前、というのもそうだが、攻撃を受け止める時には息を止めたときや、蝋燭を吹き消すときのような負荷があるらしい。強力な攻撃を受けた時には、投げ飛ばされて肺から息が抜けるような、強烈な圧迫感もあるのだとか。

 

 そのため、魔力障壁の常時展開は息を止め続けたり吐き続けたりするような、人体の構造上不可能なことらしい。

 

 ……ここまでが、教科書に載っていた話。

 

 「流石に、刃の付いたウルミ相手に素肌を晒すのは怖いからな。本気の魔力障壁を展開しておこう。ルキアの魔術でも防げるから、遠慮なく打ち込んでこい」

 「それを割れってことですか? 普通に無理ですけど」

 「フェイルセーフという奴だよ。もう一枚、レベルに応じた障壁を張る。お前が割るのはこっちだ」

 

 ……これが、先日ステラと交わした会話。

 

 相反する二つの知識を同時に想起して、フィリップはぽつりと呟く。

 

 「……殿下には肺が二つあるのか」

 

 人間の肺は普通は一対二つだ。だからそれを言うなら二対四つ──いや、突っ込みどころはそこではなく、そんなことはどうでもよくて。

 

 「何言ってるんですか? いいから、早くやりましょうよぉ」

 

 急かすような言葉から、模擬戦とはいえ戦闘行為への緊張感は見受けられない。

 慣れているのだろう。戦闘慣れか、或いは──殺し慣れているか。

 

 どちらでもいい。

 模擬戦なら勝敗に然したる意味は無いし、殺し合いなら、フィリップの負け()は外神の介入を意味する。フィリップが“最終的に”負けることは無い。

 

 「先に一撃入れた方の勝ちってことでいいですかぁ?」

 「いいですよ」

 

 もう一度、肩や腰を回して準備運動をしながら、適当に答える。

 セシルは不機嫌そうに数歩ほど離れ、10メートルの距離を空けた。

 

 この勝負、フィリップは殆ど何をしてもいい、楽なものだ。

 魔術無しなんて非魔術師のフィリップには当たり前の条件だし、いくら凶悪になった本物のウルミとはいえ殺傷力──いや、()()()はかなり低い。

 

 首狙いのクリーンヒットなら一撃で殺し切れるかもしれないが、そのくらいだ。

 顔に当たろうが胸に当たろうが足に当たろうが、とんでもなく痛いだけ。肉が削げて大量に血が出るだろうが、それだけだ。死にはしない。

 

 まだ扱いに慣れきっていないフィリップが自傷する可能性があることのほうが、よっぽど大きな問題だ。

 

 「じゃ、行きますよ」

 

 投げっぱなしだったコインを拾い上げ、爪弾く。

 

 フィリップはその直後に『拍奪』の疾走態勢を取り、セシルは照準補助に右手を掲げた。

 

 倒れそうなほどの前傾姿勢は見るからに異様で、「なにそれ」「変なの」と笑い声が上がる。

 きん、と小さな金属音。コインの落ちる音、直剣の鞘走り。

 

 意識が一気に加速する。

 視野も視座もそのままに、認知圏だけが狭窄していく、超集中の感覚だ。

 

 目の前にいるのは「的」になった。

 セシル・クラインという会ったばかりの個人ではなく、記憶にあるウォードの影でもなく、目下超えるべきレベル2のステラでもなく、その全てを内包した「的」のカリカチュア。木でできた人形、紙に書かれた同心円、濡らした巻き藁に並ぶ、なんでもない標的。

 

 狙うべきは、首以外のあらゆる場所。

 

 倒れそうなほど極端な前傾姿勢から、足に込めた力を爆発させる。

 

 彼我の距離は10メートル。

 セシルが選び、フィリップは気にも留めなかった、魔術戦の距離だ。

 

 ウルミの射程は4メートル。

 六歩以上は詰めなくてはならないが、直進しようものなら格好の的。多少の蛇行も、この距離では大した攪乱にはならない。

 

 それは承知の上だが──

 

 「真っ直ぐなんて、舐めすぎですよ、先輩! 《ウォーター・ランス》!」

 

 セシルの周囲に浮かぶ水の槍は、合計六つ。

 フィリップが六人いても全員が成功するとは限らないので、彼女の魔術適性は単純に考えるとフィリップ六人分以上か。

 

 直線的な動きで突っ込んでくるフィリップを笑いながら、セシルは六つの水槍を射出し──その全てが、フィリップを透過したように素通りする。

 

 「……えっ?」

 

 セシルが小さく、驚愕の声を漏らす。

 

 動揺による硬直。

 それ以前に、初級魔術如きに詠唱を要し、照準補助に手を使う。

 

 ──お粗末だ。

 もしかして、Aクラスというのは嘘なのか? 昨年度のAクラストップ層(ルキアやステラ)と比べて、動きがヌル過ぎる。

 

 まさか?

 

 「──ッ!」

 

 フィリップは血流不足になり始めた脳を回し、大真面目な思考の果てに一つの結論を導き出す。

 

 これは、罠だ。

 昨日、ステラが思い出させてくれた、設置型魔術。反応起動攻撃!

 

 わざとらしく詠唱して見せた初級魔術は視線の誘導で、本命はそれ以前に無詠唱で仕込んでいたに違いない。

 

 どこだ。

 分からない。フィリップにそれを見抜く目は無い。

 

 ステラは何と言っていた?

 設置型魔術を伏せるとしたら──まずい。この位置は、正面は、ステラの言っていた敷設位置そのものだ。

 

 真っ直ぐ進めば、あと三、いや二歩でウルミの射程に入るのに。

 

 「──っと」

 

 危ない。

 ここで欲張るのは良くない。

 

 冷静さを欠いた強欲な動きなんて、ルキアにもステラにもウォードにもソフィーにもマリーにも、誰にも通らない。誰一人、そんな甘えは許してくれない。

 

 急制動し、二歩下がる。

 動きの意味が分からなかった女生徒たちが「え?」「何してるの?」と嘲笑交じりに疑問の声を上げている。

 

 真横に三歩──ずらした通りに、フィリップの後ろを水槍が通り過ぎる。

 

 「はぁ!? 今のは当たったでしょ!」

 

 セシルが驚きと、何故か不満の滲む声を上げる。

 

 意味不明だ。

 当たっていないのだから、「当たったはず」なんて推論は立たない。当たる確証が覆されたのなら、そこには必ず「当たらない理由」がある。探すべきはそちらだ。

 

 ステラを相手に「普通は当たるだろうな。私には当たらんが」と、冒険譚のラスボスも苦笑いするような理由で幾度となく予想を覆されてきたフィリップとしては、理由探しすら生温いと感じてしまうが。本当に探すべきなのは、それを突破する方法だ。無かったら? その時は逃げるか、邪神招来をぶっ放す。

 

 セシルの直線上から外れ、今度こそ最短ルートを突っ走る。

 

 彼我の距離が埋まっていく。

 あと6メートル。5.4メートル。4.8メートル。あと一歩──届いた。

 

 「──ッ!」

 

 鋭い呼気で力みを散らす。

 

 ウルミを振り抜いた時には、当たる確証はあった。しかし、獲ったという確証はない。

 言うまでもなく魔術師には、魔力障壁という素早く手軽で堅牢な防御手段があるからだ。

 

 まさかルキアの障壁のように、破城槌にも耐えるような強度は無いだろうが──フィリップのウルミには何発耐える? 

 

 フィリップの動きに反応して、セシルは自身の左側を魔力障壁で守る。

 それはいい。ウルミは何処まで行っても鞭の延長であり、右手で振り下ろすモーションでは右側からの攻撃しかできない。守るべき範囲は半身よりも少ない。

 

 だが、なんだ?

 彼女の魔力障壁は見るからにルキアやステラのそれとは違っていて、一見して分かるほど薄く、脆そうだ。

 

 魔力障壁の展開は息を吐くようなもの。

 より小さな範囲に限定すれば、その強度(勢い)は増すはずなのに。

 

 そこまで考えた時には、振り抜いたウルミの先端が音をも超える速さで唸りを上げていた。

 ひゅん、と風を切る音に、乾いた破裂音が混じる。

 

 間違いなく会心の一撃。

 

 「ひっ」

 

 ぱぁん! と、陶器を落としたような破砕音は、魔力障壁の割れた音だ。

 

 先んじるように聞こえたのは、まさか悲鳴か?

 そりゃあ、間近で鞭の破裂音を聞くのは、フィリップ自身でさえ怖いけれど──分かっていたことだろう? フィリップが素振りをしている途中でやってきて、しかも模擬戦を挑んだのは彼女の方だ。

 

 攻撃で流れた身体の勢いを利用して走り抜け、もんどりうって倒れたセシルの真横につく。

 

 実戦ならもう一撃か、『萎縮』を撃ち込んで終わりだろう。

 

 「僕の勝ち……ですよね?」

 

 やられたフリ……では、ないだろう。

 

 体育館の地面にはぽつぽつと、少量ながら確かに血が滴り落ちている。

 これで「ぬかったな、カーター!」とどこぞの第一王女のように跳ね起きて一撃、なんてコトをされても、先に一撃入れている以上フィリップの勝ちだ。

 

 あの不意討ちはやり過ぎだとルキアに叱られていたけれど……いや、そんなことはどうでもよくて。

 

 「クラインさん?」

 

 攻撃が命中した顔を押さえ、倒れた姿勢のままふるふると震えているセシルの顔を覗き込む。

 

 予想外の決着による衝撃から立ち直った女生徒たちが「セシルちゃん!?」「大丈夫!?」と口々に心配しながら近寄ってきた。

 

 「──う」

 

 呻き声が上がる。

 鞭は単なる打撃ではなく、むしろ斬撃に近い攻撃だ。顔面にクリーンヒットしたからと言って、脳震盪で失神するような衝撃力は無いはずだが。

 

 どうしたのだろうと、フィリップも含めた全員が見守る中、彼女は顔を上げて。

 

 「うわぁぁぁぁぁん! 痛い、痛い痛い痛いぃぃぃぃ!」

 

 と、大絶叫、大号泣を始めた。

 

 左耳の上から顎のあたりまでを切り裂く傷跡からはだくだくと流血し、確かに痛そうではあるが、ちゃんと先端部の刃が当たっている。

 これが中間部のヤスリじみた部分なら、もっと凄惨で痛々しい傷になっているはずだ。

 

 いや、どちらにしても痛いのは痛い。

 どちらの経験もあるフィリップは、実体験からそう共感できる。

 

 泣くほどかと聞かれれば、一瞬のラグも無く頷く。そのレベルで痛い。

 

 幸いにしてと言うべきか、学校医のステファンなら十秒で治せる傷だ。泣き喚き、フィリップへの罵倒まで投げるセシルを宥めながら、女子生徒の一人にその旨を教える。

 

 話しかけた生徒は正気を疑うような目をしていたが、何も言わずに情報を受け取ってくれた。

 あとは彼女たちが、セシルを医務室へ連れて行ってくれるだろう。

 

 これにて一件落着。

 ──と、そうはいかなかった。

 

 「クラインさん、いる? 先生が呼んでたけど……って、どうしたの!?」

 

 体育館の入り口からひょっこりと顔を覗かせた男子生徒が、流血しながら号泣するセシルを見て、慌てふためきながら駆け寄ってくる。彼女たちのクラスメイトだろうか。

 

 見た限り傷はそう深くないし、会話に支障は無いだろう。

 他にも一部始終を見ていた女性生徒が何人もいるし、説明は任せて良さそうだ。

 

 口々に話す女生徒たちの勢いに押されているような男子に一瞥を呉れ、フィリップは完全に興味を失う。彼はどこかで見たような顔だと思ったのだが、気のせいだろう。

 

 ウルミを巻いて束ね、一人反省会などしていたフィリップだが、事態はまだ収束していない。

 

 「貴方は──」

 

 ぐい、と肩を掴まれ、強制的に振り向かされる。

 

 目の前にいるのは男子生徒だ。

 フィリップより頭三つは高い位置から見下ろされ、思わず顎が上がる。一年生の中でもかなり背が高い方のはずだ。

 

 正義感に燃える青い双眸と視線が合う。

 彼はフィリップの肩を引いた手を、自分の耳の横まで上げる。……いや、拳を振り上げ、腕の筋肉を弓弦の如く引き絞っている!?

 

 脚が、腰が、胴が、肩が、全員の筋肉が力を溜めるバネのように固まっているのが分かる。

 

 「それでも男かッ!!」

 

 どっ、と鈍い音。

 解き放たれた拳は狙い過たず左の頬を打ち抜き、フィリップはもんどりうって転がった。

 

 

 

 

 



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165

 ぶん殴られて吹き飛んだフィリップは、追撃が無いことを確認して、ゆっくりと立ち上がる。

 

 顔の左側が痛い。

 あと、口の中が血の味だ。舌で頬の内側をまさぐると、ぴりっとした痛みが走り、傷の感触がある。歯が折れたわけではなく、歯で口内が傷付いただけか。

 

 「痛ったぁ……」

 

 頬の外側がじんじんと熱く、内側が鋭く痛い。

 良いパンチだ。フィリップの矮躯を軽く吹っ飛ばす、衝撃力のある打撃だ。

 

 こんなのは、マリーが手加減し損ねた時以来だ。

 だが、まぁ、あの時は訓練だった。フィリップは怪我の一つ二つ覚悟の上だったから、肋骨にヒビを入れられても「いつか覚えてろ」と向上心に変えられた。

 

 今は違う。

 今のは純然たる不意討ち、ただの攻撃だ。

 

 「女性の顔に傷を付けるとは、それでも男ですか、貴方は!」

 「……ほぁ()?」

 

 再度、糾弾が飛ぶ。

 今度は男子生徒だけでなく、女子生徒やセシルまで「そうよ」「酷い」と口々に。

 

 口内の傷を舌で舐めていたから変な声が出たが、意図は伝わったようだ。

 

 「こんな大きな傷を付けて、跡が残ったらどうするつもりなんですか! この事は、教師に報告させて貰います!」

 「はぁ……ステファン先生の腕なら、十秒で治りますよ、そんな傷。跡も痛みも綺麗さっぱり」

 

 経験に基づくフィリップのアドバイスは、これで二度目だ。

 しかし、先程それを伝えた女生徒は「そういう問題じゃない!」と叫んだ男子生徒に続いて「そうよ!」と同調していた。

 

 意味不明だ。

 

 「じゃあどういう問題なんです? というか、僕は今の不意討ちの方を問題にしたいんですが」

 

 本当にどういうつもりなのかと問い詰めたい。

 いや、正直に言うと、今すぐにでもブチ殺したい。

 

 ──僕は、痛いのは嫌いなんだ。

 

 痛みで短絡的になった思考は、人間性を著しく欠いたものになる。

 外神の側に振れたもの、というわけではない。獣性に満ちて感情的というだけだ。

 

 これは、よくない。

 

 このまま激情に任せて、眼前の不愉快なゴミを焼却するのは簡単だ。

 

 だが、些か非人間的すぎる。

 それは獣の振る舞いであり、理性ある人間の在り方ではない。

 

 「まずは……うん。まずは、言葉を交わそう。人がましく在るために」

 

 ゆらり、幽鬼の如く上がった右手に、ゆっくりと言い聞かせる。

 

 開かれていた手を握り、下ろす。

 

 「もう一度訊きます。どういう了見で、僕の顔面に拳をブチ込んだんですか?」

 

 言葉が荒れている。

 痛みと怒りで、脳内がぐちゃぐちゃになっているからだ。態度を取り繕うための余裕はすべて、人間性の励起に費やされていた。

 

 「何故という問いには、既に答えています。貴方が女性の顔を傷付けるという、正義に悖る行いをしたからです」

 「……意味が分からないな。これは僕の頭が悪いのか、それとも()()が人語モドキを話しているのか?」

 

 くそ、本当にいいパンチだ。頭がくらくらする。

 出血は口の中と頬の内出血、あとは吹っ飛んだ時にできた擦り傷だけ。失血ではない。……脳震盪か。どおりで懐かしい感覚だ。

 

 自分が何を話しているのかすら覚束なくなってきた。

 

 気絶する前に殺し──いや、いや、駄目だ。それはさっきも否定した、非人間的な行為だ。

 

 今やるべきは……会話。そう、会話だ。

 とにかく口を動かせ、音を出せ。でないと、本当にぶっ倒れかねない。

 

 「なら男の顔面をぶん殴るのは正義なのか? 違うと思うんだけど、外神()の価値観はイカレてるから、自信持てないんだよね」

 

 腫れ始めた頬を擦りながら、ぶつぶつと呟くフィリップ。

 独り言だったのだが、男子生徒は問いかけと受け取ったようだ。

 

 「いえ。ですからその事も含めて教師に報告し、相応しい罰を受けるつもりです。貴方が退学になるのなら、僕もまたそうなるべきだと思います」

 

 その場凌ぎの出任せ──では、ないだろう。

 彼の青い双眸には、一貫した意思の光がある。

 

 善性、か。

 あぁ、全く──美しい。

 

 だが的外れだ。

 

 「模擬戦だよ? 基本的なルール通り急所は避けたし、致命的な魔術だって使ってない。そもそも一撃先制のルールは彼女が決めた。これで僕が殴られるなら、現代魔術担当の教師は撲殺されてる」

 

 不意に見せつけられた善性に心を打たれ、フィリップの胸中に燃えていた苛立ちが勢いを弱める。

 

 軽口も交えた返答に、しかし。

 

 「……模擬戦? 失礼ですが、彼女らは「武器を振っていた貴方に話しかけたら攻撃された」と言っていましたが」

 「──は?」

 

 疑念も露わな視線が向けられる。

 即座に嘘だと弾劾してこないのは、彼も女生徒たちが口々に言った断片的な情報を繋ぎ合わせただけの、又聞きにも劣る確度の情報しか無いからか。

 

 まだ泣いているセシルの声が、きんきんと耳に障る。

 そのノイズとパンチの衝撃で思考が鈍い。

 

 なんだ、いま、どういう状況なんだ?

 

 「ふむ。……少し失礼します」

 

 フィリップの顔に浮かんだ困惑の表情から、大方の事情を察したようだ。

 彼は敵意を収め、一礼してフィリップの前を辞す。つかつかと女生徒たちの方に歩いていくと、数分ほど何事か言い争っていた。

 

 その数分、フィリップは微動だにせず立ちっぱなしだ。

 誰に命じられたわけでもなく、強いて言うのなら人体に備わった危機回避の本能が、「いま無防備になるのは不味い」と全身の筋肉や神経に叫び続け、戦闘態勢を維持させていた。

 

 ややあって、男子生徒が「ふざけるな!」と叫んで言い争いを中断し、こちらに戻ってくる。

 

 その顔は怒りに歪んでいたが、宛先がフィリップでないことは目を見れば分かった。

 

 どうやら、正確な情報を得たらしい。

 これで穏便に済みそうだと、ほんの少しだけ肩の力を抜いた、その矢先。

 

 「大変! 失礼いたしました!」

 

 彼はフィリップの前に跪き、深く頭を下げた。

 

 勢いのあまり、膝がとても痛そうな音を立てていたが、気にした様子は無い。

 

 「今回の一件、私には──いえ、私たちの誰にも、貴方を責める権利など無かったようです。それなのに、私は彼女らの言葉を鵜呑みにして、狼藉を重ねて……本当に申し訳ありません! 教師への報告も、その鞭……ウルミ、でしたか、それを用いての打擲も、お好きになさってください」

 

 ずきずき、ずきずき、殴られた頬が疼く。

 

 きんきん、きんきん、泣き声が耳に障る。

 

 がんがん、がんがん、脳が震える。

 

 視界が曇る。

 あぁ、もう。全く、本当に、クソ良いパンチだ。こんなにじわじわ効いてくるのは、ウォードの加減を間違えたボディーブロー以来かもしれない。

 

 意識が明滅する。

 でも失神の気配は無い。

 

 明瞭な時には、眼前の男子生徒の顔立ちが、やっぱり誰かに似ている様な気がしている。

 不明瞭な時には、目の前には合計六つの「的」があった。木人形や紙に書かれた同心円と同じ、何の感想も抱かせないただの「的」が。

 

 「あぁ──そう」

 

 左手で持っていたウルミを、利き手の右に持ち替えて蜷局を解く。

 二度、三度と空振りして整形(フォーメーション)する動きの中で、音速を超えた先端部が破裂音を鳴らした。

 

 「別に、罰を下そうってワケじゃないよ。ただ、そう……()()()()()、だよね?」

 

 子供の喧嘩のような理屈を──事実、子供の喧嘩なのだが、両者の戦闘能力は年相応以上だ──持ち出して、フィリップは数歩ほど下がる。

 

 跪き、首を垂れた彼との距離は3.5メートル。

 ウルミが最も高威力になる、フィリップの理想的な攻撃距離だ。

 

 端的に言って、というか。

 言うまでもなく、フィリップはブチ切れていた。あくまで冷静に、神格招来をぶっ放さない程度に、ではあるが。

 

 非を認めて謝ったのだから許すべき。

 そんな意見には、フィリップも一定の真理を認める。人間は言葉によって罪を雪げる、類稀なる生き物なのだから。その人がましさは大切にすべきだろう。

 

 ただ──

 殴られたら殴り返すなんて、考えるまでもなく当たり前のことだ。

 

 「や、やり過ぎよ!」

 「そうよ! 男なら武器なんて使うんじゃないわよ!」

 

 野次が飛んでくる。

 言うまでもなく、先程から何もしていないのに口だけは挟む謎の女子生徒たちからだ。

 

 謎の、とは身元の話ではなく、その思考形態に係る言葉だ。

 

 「知性の低い魔物だって武器を使う。使わないのは純然たる獣くらいだ。お前たちは「男」がゴブリンにも劣る低能だと思っているのかもしれないけれど、知性ある人である以上──」

 「うるさい!」

 「意味わかんないこと言わないでよ!」

 「彼に何かしたら、先生に言ってやるから!」

 

 残念ながら、彼に何もしなくてもフィリップは職員室に行き、事の次第を報告する。まあ、まずは医務室だが。

 

 頬の痛みもそうだが、頭痛が酷くなってきた。

 少し横になりたい。

 

 「目を閉じて、歯を食いしばれ」

 

 狙うは顔面。

 フィリップが殴られたのと同じ左の頬だ。

 

 口の中まで貫通するような大怪我になるかもしれないが、なに、ステファン先生の腕なら数分で治る。多分だが。

 

 足首、股関節、腰関節、背骨、肩を動かして構える。

 全ての柔軟性を以て、4メートルのウルミを5メートル弱にまで延長する。体そのものを鞭として扱う身体操作は、マリーもやっていた基礎的な鞭術だ。

 

 弓弦の如く引き絞られた筋肉は、しかし。

 

 「すまん、待たせた……カーター!? 何してる!?」

 「待たせてごめんなさい……フィリップ!?」

 

 背後で上がった驚愕の声によって、解き放たれることは無くなった。

 

 「せ、聖下!?」

 「うそ、なんでここに!?」

 「ここここれってどうすればいいの!? 跪くべき!? このままでいいのかな!?」

 

 にわかに騒がしさを増す女生徒たちや、跪いた姿勢を崩さない男子生徒には構わず、ステラは無造作にフィリップに近付く。ルキアは無作法にならない程度の小走りで、ステラに先んじてフィリップの下へ駆け寄った。

 

 ルキアはウルミを握り締めた右手を取り、守るように肩を抱く。

 彼女の胸に背中を預けて漸く、フィリップは完全に力を抜いて戦闘態勢を解いた。 

 

 は、と、思わず笑ってしまう。

 依然として頬も口内も頭も痛いのに──ただ抱き締められただけで、敵意も怒りも霧散してしまった自分自身に。

 

 「フィリップ、一体何が──え?」

 「どうし──ふふっ」

 

 左頬の腫れたフィリップが顔を向けると、ルキアは感情の抜け落ちた疑問の声を、ステラはファニーフェイスに向けるに相応しい失笑を漏らす。

 

 「どうしたの、その怪我……いいえ、()()にやられたの?」

 「喧嘩でもしたのか? それにしては、この状況は異様だが」

 

 顔から流血して泣き喚いている女生徒と、それを囲う女生徒たち。

 跪いた男子生徒。それを今まさに打擲しようとしていたフィリップ。客観的に見ると、なるほど、確かに異常事態だ。

 

 「えー……っと」

 

 かくかくしかじかと、一部始終を話す。

 

 二人が来るまでの間、先に身体を動かしていて。

 よくわからない流れで模擬戦をすることになって。

 よくわからないまま勝って。

 

 「ウルミが直撃したので、当然のように泣き出した、と。私は喰らったことは無いが、お前も未だに慣れない痛みだし、無理もないか」

 

 ハンカチで止血しているセシルを見ながら、ステラは苦い笑いを浮かべる。

 

 「躊躇なく女子の顔面を鞭打つのは、本当にお前らしいな、カーター」

 「……そんな感じのロジックで、そこの人に殴り飛ばされて、まあ大体、今に至るって感じです」

 

 

 



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166

 魔術というのは便利なもので、傷そのものを癒す治療魔術に適性が無くとも、応急処置が出来る。

 

 ハンカチが一枚あれば、フィリップにだって濡らして患部を冷やすくらいは可能だ。

 動揺から立ち直ってもなおフィリップを抱き締めたままのルキアは、片手でハンカチそのものを凍らせて頬に優しく当ててくれた。

 

 「大丈夫?」

 「はい。ありがとうございます」

 

 依然として口の中に溢れてくる血と涎を、ねばつきに苦労しながら嚥下して、お礼を言う。

 

 ハンカチを受け取ろうと手を伸ばすが、ルキアは手を放そうとしなかった。

 ルキアの手に自分の手を重ねているだけというのも不毛に思えて、だらりと垂らしたままだったウルミを仕舞う。

 

 「概ね理解した。……まぁ、なんだ。実は私たちも去年、何人かに喧嘩を売られた。如何な魔術学院とはいえ人間の集合だ、馬鹿が出るのは仕方ない」

 

 初耳だ。

 というか、この二人に──世界最強の証を双眸と胸元に輝かせる二人に、喧嘩を売るレベルの馬鹿が存在するとは。

 

 旧支配者が外神に喧嘩を売るようなものじゃないのか、それは。

 

 「だが、まだ理解できないことが一つある。何故カーターを──こいつを殴った? 模擬戦外での不意討ちは、カーターが同じことをしたという勘違いによるものだとしても、そもそもの動機が分からない」

 

 何も考えていなかったのだとしたら、話は終わりだ。

 ステラも、ルキアも、フィリップも、眼前の馬鹿に対する興味を一片も残さず失う。

 

 「新学期早々だ。そっちの女子に惚れている、などといった甘い理由ではないだろう?」

 「で、殿下? ……いえ、やっぱりいいです」

 

 確かに、彼らは入学してから数日程度の仲のはずだ。

 この短期間で恋に落ちるとしたら一目惚れ、外見に惹かれてだろうが……いや、よそう。フィリップの美的感覚は壊れている、マザーによって壊されている。ルキアもステラも、鏡を見れば人類最高の美貌がそこにあるから、程度の差はあれズレているはずだ。

 

 ほら、あれぐらいの顔でも、世間一般では可愛いのかもしれない。そういうことにしておいた方が、みんな幸せだ。

 

 「はい、聖下。そのような理由では、断じて」

 

 だろうな、とステラは当然のように頷く。

 そんな理由だったらフィリップの痛みと我慢の意味まで薄れるので、それは朗報だ。

 

 「邪魔をされたと、ただそれだけの理由で女性を傷付ける者に対して、今は亡き我が最愛の兄であれば、きっとこうすると思い……短絡的に行動してしまいました。そちらの……カーターさん、には、謝罪の言葉もありません」

 

 フィリップの目を真っ直ぐに見据え、それから深々と頭を下げる。

 深い謝意の込められた正式な作法での謝罪に、ステラは一先ず溜飲を下げたようだが、しかし。

 

 「最期に名前を……あぁ、家名だけで結構よ。教えてくれるかしら」

 

 全員纏めて塩の柱に変えようとしているルキアを、何よりも優先して止めなければ。

 

 しかし訊くのは家名だけって、それは一族郎党根絶やしにするからでは……?

 

 「……神が私を罰するべきだと思し召すのであれば、是非もありません。どうぞ、私に裁きの光を降らせてください」

 

 きゃあきゃあと騒ぐセシルたちとは違い、彼は覚悟を決めていた。

 ……いや、それも少し違う気がする。彼のそれは、死の覚悟などというフィリップがどうあっても抱けないものではなく、むしろ、フィリップがずっと抱えている渇望に近いような──?

 

 「我が家名はルメール。国王陛下より伯爵位を戴いておきながら、無様を晒し続ける家系でございます」

 

 聞き覚えのある名前に、思考が誘導される。

 観察から回想へ、見たことの分析から記憶の走査へ。

 

 「ルメール?」

 

 人間の脳とはすごいもので、一度覚えたものは忘却の彼方にあっても引き戻せる。

 それは視覚や、嗅覚や、聴覚による刺激で強く補助される。口に出す、というのも、いい方法だ。

 

 ほんの一回オウム返しに呟いただけで、フィリップの脳は記憶の奥底から該当人物のフルネームと、多少のエピソード記憶を引き出した。

 

 「リチャード・フォン・ルメール様のご係累ですか? 昨年の夏に亡くなられた」

 「──っ!」

 

 フィリップの推理は正解だと、弾かれたように顔を上げた彼の反応を見ればすぐに分かった。

 

 ルキアも一応、凄惨な死を遂げたクラスメイトのことは覚えていたのか、魔術の照準を止める。

 元班員に免じてというより、フィリップが興味を惹かれたからという理由の方が大きそうだったが、彼女の判断基準や価値基準に口を出せるほど大層な人間でもないので、それはさておくとして。

 

 「ご存知でしたか。私はその不肖の弟、ジェームズ・フォン・ルメールと申します」

 

 フィリップがもう一度左頬の手に触れると、ルキアは少しだけ躊躇ったあと、ハンカチを預けてそっと離れた。背中に感じていた体温が遠ざかり、ほんの僅かな寂寥感を覚える。

 

 ジェームズに近付いていくフィリップとは反対に数歩だけ下がった彼女に、ステラがひそひそと耳打ちをする。

 

 「カーターと仲が良かったのか?」

 「……まぁね。あの子、魔術剣とか好きでしょう?」

 「なるほど、それで」

 

 そんな二人の会話を余所に、フィリップはジェームズの前に片膝を突く。

 跪くという訳ではなく、ただ視線を合わせただけだ。

 

 「フィリップ・カーターです。貴方のお兄さんが亡くなった一件では、同じグループでした」

 「……貴方が、あの」

 

 あの、の後に何が続くのか、とても怖い。聞きたくないほどに。

 そんな内心を汲んでくれたのか、ジェームズは先を続けることはせず、は、と浅く笑った。

 

 その態度にルキアが柳眉を逆立てるが、呆れたような笑いの宛先はフィリップではなく、彼自身だった。

 

 「失礼しました。貴方を笑ったわけではなく、その……実家から「カーター猊下とサークリス聖下とお近づきになるように」と言われているもので」

 「なるほど、笑っちゃうぐらいの大失敗ですね」

 

 けらけらと笑うフィリップにつられて、ジェームズも苦笑の中に微かな同調の笑いを浮かべる。

 

 なんとなく和やかに話が進みそうになっているが、ルキアはともかく、ステラはそれを許さない。

 

 「ところでルメール。信賞必罰という言葉を知っているか? まあ概ね“褒賞も報償も、感情に左右されず厳正な判断をすべき”という意味だ」

 「その言葉も、恥も、知っているつもりです、聖下。如何様にも罰をお与えください」

 

 フィリップが何か言う前に、ジェームズが先んじて頭を下げる。

 彼の態度はずっと一貫して、善性に満ちていた。非を認め、罰を受け容れるところもそうだ。

 

 だからステラの言葉は、懐かしい記憶に絆されてなあなあに済ませようとしたフィリップと、感情のままに苛烈な罰を下しそうだったルキアの二人に向けたものだろう。

 

 「勘違いするな。私たちは何もしない。学校側に報告して、それで話は終わりだよ」

 

 もう行け、と、ステラは適当に手を振って全員を追い出した。

 

 「さて。……医務室、行くか?」

 「……はい」

 

 

 

 



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167

 後日、教室まで謝罪に来た後輩たちを、ルキアが模擬戦でボコボコにして鼻っ柱をへし折るという一幕こそあったものの、大過なく出立当日を迎えた。

 行き先はローレンス伯爵領にある森。目的は言うまでもなく、召喚術の校外授業、契約対象の確保だ。

 

 「えー……、では、出発します。配布した資料は、えー……、森に入るまでに読んでおくように」

 

 AクラスとBクラスで分かれてキャラバン型馬車に乗り、二台の小さな車列で街道を行く。

 

 かたかたと揺られながらの旅路にはある程度慣れてきたけれど、お尻は痛い。

 右隣に座ったルキアの顔を盗み見ると、涼しい顔だ。では左隣のステラはというと、やはり平然としている。

 

 貴族や王族の方が、フィリップよりいい暮らしをしているはずなのだけれど……何故だ。普通はそういう人の方が、耐性が低いのではないのか?

 

 せめて気を紛らわせようと、資料を取り出して開く。

 しかし、文字列を追い始めるよりも、黒いレースの手袋に包まれた細い手指が視界を遮る方が早かった。

 

 「交流戦の時、酔っていたでしょう? あれから医者に聞いたのだけれど、本を読んだりするのは良くないらしいわ」

 「そうなんですか」

 

 頷きを返し、改めてルキアの装いに目を向ける。

 

 今回、生徒たちは私服だ。

 勿論、移動用とは別に、森歩きに適した動きやすい服装を持ってくることが推奨されている。

 

 ルキアはいつも通り、真っ黒なゴシック調のワンピースだ。半袖だが、肘の上までをレースの手袋が覆っていて、露出は殆ど無い。勿論、森歩き用には別の服を持ってきているだろう。

 

 ステラはパンツスタイルで、ズボンとジャケットはそのまま森に入っても目立ちそうな深紅だ。尤も、陽光を受けて煌めく長い金髪だけで、十分な存在感があるが。

 

 間に挟まったフィリップは、特筆すべき所の無い白い半袖シャツと黒の半ズボンだ。当然ながら森歩き用に長袖と長ズボンも持ってきている。

 

 「お洒落な手袋ですね」

 「ありがとう。日除けは光の操作でどうとでもなるから、ただの神官様の真似だけれど」

 「……よくお似合いですよ」

 

 喉から絞り出すような声で褒められて、しかし嘘の気配を認められず、ルキアは困惑したような表情を浮かべる。

 

 仕方ないだろう。

 事実としてとてもよく似合っているし、ゴシック系のファッションはルキアの魅力を最大限に引き出すベストチョイスと言ってもいいが、それだけにマザーを強く思い出す。

 

 ルキアにはなるべく、()()()()には来て欲しくないのだが。

 

 「目的地はローレンス伯爵領、ガーテンの森。ゴブリンやスライム程度の低級魔物と、野兎やイノシシ、狼といった通常の獣が生息している」

 「……貴女は酔わないの?」

 「あぁ。帝国に行ったときは、式典やらの概要は全て馬車の中で確認していたからな」

 

 フィリップの資料を自分の膝上に移動させ、二人にも聞こえるように読み上げたステラに苦笑する。

 しかしまあ、宿についてから読むよりは、前々から情報を持っていた方がいいだろう。今から何かを買い足すとか、物質的な準備は難しいが、心の準備はできる。

 

 「現地の生物ってそれだけですか? というか──」

 「黒山羊とか、いないわよね?」

 

 流石はルキア。危機意識の共有は完璧だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ガーテンの森は、発生から数百年の時を経た極相林だ。

 その植生は複数の階層を形成し、地面から順に、根層、蘚苔層、草本層、低木層、亜高木層、高木層、林冠を成す。

 

 ただし、これは物質界──物理的存在の世界における話だ。

 この大陸のありとあらゆる森林には、もう一つ、森林を語る上で外せない階層がある。

 

 それは高度、縦軸による区別ではなく、当然ながら横軸でもない。

 強いて言うのなら、()()

 

 物理次元と魔力次元の境界にある、裏層樹界(りそうじゅかい)

 

 その様相は概ね物質界(表層)の森林と同じだが、地面には無限の花々が咲き乱れ、世界を虹色に染め上げている。木々にはツリーハウスや()()を利用した住居があった。

 

 そこで暮らすのは、森の守護者であるドライアド。

 見目麗しく、神聖で、陰険な精霊たちだ。

 

 森林外縁部にほど近い一本のイチョウの木に、彼女は住んでいた。

 

 「シルヴァちゃん、起きて。もう朝よ。お友達と遊びに行くんでしょう?」

 

 そのイチョウを存在の根源として発生したドライアドの老婦人が呼び掛ける。

 樹齢200年を超える彼女は、自身の個体名すら忘却して久しい。ただこの森には樹齢100年を超えるイチョウが他に無かったから、それでも問題にはならなかった。

 

 「んぅ……。おはよう、いちょうのおばあちゃん」

 

 老婦人の声に反応して、枝葉のベッドから体を起こす影がある。

 シルヴァと呼ばれた彼女は、人間にして5,6歳くらいの矮躯だ。発生から1~2年のドライアドはみなこのくらいの容姿で、下草ごろの齢と呼ばれる。

 

 「いってきます」

 「はい、行ってらっしゃい。気を付けてね」

 

 寝起きに特有のふらふらとした足取りで玄関に向かう。

 

 朝食、というか、食事の必要はない。ドライアドは木から生まれる精霊であり、木そのものでもある。

 根から水分や養分を吸い上げ、陽光を利用して栄養素を生成する樹木は、半自動的に生命力を補充する。つまりドライアドたちは、日中は常に食事をしているようなものだ。

 

 ツリーハウスを出たシルヴァは、40メートル眼下の花畑に向けて身を投げる。

 

 人間なら脚から落ちても無事では済まない高さだが、物理的な肉体を持たない精霊に落下ダメージなんてものはない。

 

 ぽす、と軽い音を立てて着地したシルヴァは、足元で花びらを舞い散らせながら広場に向かう。

 広場と言っても、裏層樹界はあくまで自然林だ。人工のものではなく、偶然にも木々が生えなかっただけの場所である。

 

 広場では既にシルヴァと同じような下草ごろのドライアドたちが談笑しており、その中の一人がシルヴァに気付き、口元を歪めた。

 頭に鮮やかな赤い花飾りを()()()、この場の誰よりも華やかな雰囲気を纏っている彼女の名はアザレア。誰一人として醜い者のいないドライアドの中でも、特筆して美しい外見を誇る個体だ。

 

 「よし、宿無しも来たわね! 今日は何して遊ぶ?」

 「鬼ごっこ! ……は、昨日やったから、かくれんぼ!」

 

 楽しそうにぴょんぴょんと跳ねながら、白い花飾りを生やした少女、シレネーが主張する。

 その意見を一考して、アザレアは「駄目ね」と否定した。

 

 「かくれんぼは一昨日やったもの。コリアリア、貴女は何かしたいことある?」

 「じゃあ、かくれんぼと鬼ごっこを足して、かくれ鬼! 見つかってもタッチされるまでは逃げられるの!」

 「なにそれ、楽しそう! やろうやろう!」

 

 紫色の花冠を生やした少女、コリアリアの提案に、シレネーがまた飛び跳ねる。

 アザレアも笑っているし、決まりだろう。

 

 「じゃあ、かくれ鬼ね! 宿無しが鬼! 百数えるのよ!」

 「わかった! しるば、おに!」

 

 ふんす、と鼻息荒くやる気を見せるシルヴァ。

 10を10回数え終わると、もう周りには誰もいない。

 

 シルヴァはもう一度ふんす、とやる気を鼻から排出して、適当な方向へ駆け出した。

 

 木が密集したドライアドの集落へ向かうと、頭上のツリーハウスや集会場からひそひそ声が降ってくる。

 

 「根無し」

 「出来損ない」

 「宿無し」

 「生まれ損ない」

 

 シルヴァは侮蔑と嘲笑の声や視線に晒されながら、無感動にただ走る。

 

 だって、言葉の意味が分からない。

 生まれた時(最初の記憶)からそうだった。

 

 シルヴァに与えられた知識は“シルヴァ(なまえ?)”だけで、言語も、文法も、常識も、何一つとして持ち合わせていなかった。

 

 聞き覚えた言葉で「どんないみ?」と聞いたことはある。

 しかし、イチョウの老婦人が涙しながら教えてくれた「酷い言葉」「差別」「あなたは何も悪くない」という言葉の意味すら、シルヴァには理解できなかった。

 

 しばらく走っていると、綺麗な赤い花飾りが目に留まった。

 

 アザレアだ。

 彼女は母親と何事か話していて、シルヴァには気が付いていない。

 

 これは鬼ごっこだから、えっと。

 

 「あざれあ、みっけ!」

 

 足元の花畑を蹴散らしながら、短い脚で懸命に走る。

 

 シルヴァの声に気付いた一家がこちらを見て。

 

 「っ! うちの子に近付くな、出来損ない! 劣等が感染(うつ)ったらどうするのよ!」

 

 アザレアの母親が、かなりの力でシルヴァを突き飛ばす。

 何の前触れもない暴力に、シルヴァの矮躯は無惨にも数メートルほど転がった。

 

 しかし痛みはないのか、転がった先では呻くことも無く起き上がり、隙を見て走り出していたアザレアを追いかけた。

 

 その無感情な動きが、ドライアドたちの嫌悪感を強くする。

 

 しかし、シルヴァにとってはそれが普通だった。

 みんなは発生した時から、ずっとこうだ。他の個体にはしないことを、シルヴァだけにしている。でも、それが平常だった。

 

 だから悲しくない。みんなは転んだ時に痛がるけれど、シルヴァには「痛い」という感覚が分からない。

 「友達」に聞いてみたこともあるけれど、みんなは「出来損ないだから」としか教えてくれなかった。

 

 見失ってしまったアザレアを探していると、遠くに小さな石造りの祠が見えた。

 祠はシルヴァの矮躯より少し大きいくらいの規模だが、それを囲うように生えた四つの樹木によって、サイズ以上の存在感を漂わせていた。

 

 「あ」

 

 しまった、とシルヴァは立ち止まり、周囲を見回す。

 

 ここは、入ってはいけない場所だ。

 森の奥深くにある、封印の祠。人だけでなく精霊や獣すらも迷わせる位置に根を張り、包囲や距離の認識を狂わせる角度で枝葉を伸ばした、守護者の樹木が守る場所。

 

 シルヴァだけでなく、守護役である四人のドライアド以外は誰も近付けないはずの禁域。

 

 「止まりなさい、生まれ損ない。それ以上近付いたら、今度こそ殺すわよ」

 

 聞き覚えのある声の、聞き覚えのある警告。

 でも意味は分からない。ここに入ってはいけないこと、入ったら「ばーん」されることは知っている。けれど「殺す」「死なせる」という言葉の意味は、何度説明されても理解できなかった。

 

 声は木々の間を反響して、その発生源を悟らせない。

 だが、声の主が誰なのかは知っていた。

 

 「ごめんなさい、とねりこ。しるば、まよった」

 「あのねぇ、ここは“辿り着かないよう迷わせる”樹木の結界に守られてるのよ? そんな言い訳が何度も何度も通じるわけないでしょ?」

 

 祠を囲う四本の守護樹の一つ、セイヨウトネリコの影から、一人のドライアドが姿を見せる。

 人間でいう15,6歳の女性に近しい外見の彼女は、細長い葉でできた冠を生え出でさせた、低木の齢に一般的な容姿だ。発生から20年かそこらだろう。しかし、その魔力は森林屈指。本気になれば領主軍だって相手取れると豪語する。

 

 「それが通じちゃうのが彼女なんだよ、トネリコ。人の心を読めない“出来損ない”だけど……いや、だからこそ、かな? 人や獣を惑わせる木々の結界を通り抜けられる」

 「はぁ? なにそれ言い訳? 結界の構築はあんたの役目でしょ、ホーソン」

 

 守護樹の一つ、サンザシの幹に最中を預けた低木の齢のドライアドが、気取った口調でトネリコを宥める。

 いつからいたのか、という疑問は不適当だ。樹木そのものでもある彼女たちは、いつだってそこにいる。

 

 「耳の痛い話だなあ。だから──《ルート・ランス》」

 

 ドッ! と鈍い衝突音。

 音源はシルヴァの白く柔らかな腹部を貫かんと地中から伸びた、木の根の槍だ。花畑を突き破り、色とりどりの花弁を舞い散らせ、次には鮮血をぶちまけようとする殺意の塊。

 

 体重二十キロにも満たない矮躯を5メートル以上も放り上げる威力は、その先端が鋭く尖っていなくても殺人級。呻く間もなく貫かれて絶命するのが常であり、不運にも物質界(表側)でこの場に辿り着いた人間の辿る末路だった。

 

 しかし、シルヴァは飛んでいる。

 防御も出来ず吹き飛ばされているのだが、それは根の槍が貫通せず、威力が運動量として消費されていることを示す。

 

 放物線を描いて落下し、ごろごろと転がったシルヴァは、何の痛痒も感じていないように起き上がった。

 

 「ばーん、おわった? あざれあ、みた?」

 「相変わらず、耐魔力も無いのにどうやって耐えてるんだか。君の友達……のアザレアなら、結界に誘導されて集落の方に戻ったよ」

 「ん! ありがと、ほーそん」

 

 花びらを散らせながら短い足で走り去るシルヴァを、二人は追撃せずに見送る。

 

 本音を言うのなら、殺してしまいたい。

 シルヴァは植物を存在の根幹として生まれ落ちるドライアドの中で、唯一“宿”である発生源を持たない個体だ。

 

 ドライアドが持つ、森に入った人間の心を読むという力も無い。これでは森の管理者としても失格だ。その外見から同族であることが分かるだけに、能力で劣るからと殺してしまうわけにもいかないだけ。

 

 不要なもの。

 劣ったもの。

 淘汰されるべきもの。

 出来損ない。

 

 それがシルヴァの評価であり、状態だった。

 

 「もしあいつが封印を破ったりしたら、甘い結界作ったあんたのせいだから」

 「酷いなぁ。この結界は非魔力依存の特別製だよ? 噂の聖痕者だって迷わせる、この上ない傑作……なんだけどなぁ」

 

 聖痕者、というワードに、トネリコは美貌を苦々しく歪める。

 ホーソンも同じ表情だ。

 

 「この前来た、『事前調査隊』とかいう人間の思ってたこと、覚えてる?」

 「勿論。一週間後……つまり今日、聖痕者が二人もこの森に来る予定らしいね」

 

 トネリコは頷き、真剣な表情で祠を睨む。

 

 「聖痕者なら、あの中に封印されている奴も倒せないかしら」

 「っ! それは……どうだろう。試すにしても、私たちだけじゃ判断できないな。おーい、ジュニファー、ポプルスー! ちょっと出て来てくれないかー」

 

 

 

 

 

 

 



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168

 丸一日かけてローレンス伯爵領についた魔術学院生たちは、まずは伯爵家が所有する館で一泊した。

 いくら事前調査のされた森とはいえ、それなりに深く、弱いとはいえ獣や魔物がいる。気候の変化なども考慮すると、体調を万全にしておくに越したことはない。

 

 今日は朝から森へ行き、契約する相手を探す予定だ。

 宿泊した館の玄関ホールに集合した生徒たちは、出発を今か今かと待っていた。

 

 「はい、えー……、事前に配布した資料の通り、えー……ガーテンの森には」

 

 ローレンス先生は資料に書かれた、森の生態系を説明する。

 

 野兎やリスなどの小動物、狼やイノシシなどの注意すべき中型生物、蛇の目撃例は少数で毒蛇はいないと思われる。

 蜂の活動時期はまだ先のため、木のうろや地面の穴に注意すること。

 

 生息している魔物はおそらく五種。

 ゴブリン、オーク、ジャイアントスパイダー、キラービー、アルラウネ。

 

 生物であれば、森の中で最も強く、最も契約難易度が高いのは狼。高い知性を持つのもそうだが、何より群れるのが問題だ。一匹と契約している間に群れに襲われると予想される。

 

 魔物は、まぁ、高速で飛び回るキラービーが多少難しいくらいか。

 ゴブリンとオークは群れるが、誤差だ。知性が低く、狼のように群れで連携してこない。ただ複数体同時というだけなら、AクラスとBクラスの生徒が後れを取る相手では無い。

 

 特筆すべきは、男子生徒が狙う対象の一極集中だ。

 それは勿論、強く、賢く、忠実で、もふもふなもふもふ……狼。ではなく、唯一の中型魔物であるアルラウネだ。

 

 他の小型魔物と比べて一線を画すほど強いわけではない。

 アルラウネは大きな植物の魔物で、美しい花を付ける。その花の中には、万人を魅了する美貌と妖艶な肉体を持った女性の形をした、()()()()()があるのだ。

 

 つまり、えっちなお姉さんの魔物ということである。

 

 えっちなお姉さんと契約して使役する。

 何とも思春期男子の心と股間をくすぐる、妄想の捗るワードだ。

 

 男子生徒が「資料ならもう十回読んだ」「準備は万端だから早くしろ」と騒ぐのも無理はない。

 

 ちなみにだが、魔物との姦淫は一神教の定めるソドミーという罪に抵触する。バレたら一発で処刑だ。

 

 「えー……では、行動を開始してください。問題が生じたら先生を呼びに来ることと、えー……、日没までには帰ってくるように」

 

 その言葉を待っていた! と、ほぼ全ての男子生徒は目を輝かせて館を飛び出した。

 

 男子サイテー、と冷めた視線を送る女子生徒は、その後をうんざりしたように続く。あまり遅れていくと、性欲(ロマン)のままに森を駆け抜ける馬鹿どもの所為で、女子人気の高い梟や兎が隠れてしまいそうだ。

 

 ()()全ての男子ということは、例外もいる。

 たとえば「いやアルラウネよりキラービーの方が強くね?」と冷静な判断をした者。はたまた「女子の前で性欲剥き出しにするのはちょっと」と最低限の見栄を持っていた者。或いは、

 

 「……僕も魔物を召喚したかったなぁ」

 

 両隣に立つ世界最強の魔術師たちに「魔力量から言って、魔物とは契約できない」とお墨付きを貰った、悲しき生徒とか。

 

 「………………」

 「カーター……」

 「え、なんですかその顔。何か変なこと言いましたか?」

 

 ルキアとステラが名状しがたい、しかし物言いたげなことだけは分かる表情を浮かべていることに気付いたフィリップは、そう訊ねつつ、自分の言葉を回想する。

 そして一つの結論を導き出し──それは正解だった。だったが。

 

 「あ、いや、魔物とセックスしたいワケじゃないですよ」

 

 致命的なまでにデリカシーが欠けていた。

 

 恐るべきは宿屋従業員の精神力と言うべきか、「大変申し訳ありませんが、夜分に大声を上げるのは他のお客様のご迷惑になりますので、ご配慮のほどをよろしくお願いいたします」とか、「〇号室のお客さん、泥酔した女の子連れ込んでましたよ。衛士団呼びます?」とか、「このシーツ処分で。血まで付いてるんで」とか、色々と経験してきた結果だ。

 

 年下の、二次性徴もまだの子供から飛び出したとは思えない冷静な言葉に、二人は顔を赤らめるを通り越して苦笑していた。

 

 「僕はソドミストじゃないので。するなら普通の──」

 

 女の子と、と言おうとして、脳裏に閃くのはマザーの姿。

 

 ない。

 それは、それだけはない。そもそも彼女は人間じゃない。

 

 あんなのはソドミーどころの話じゃないし、それなら魔物とやった方がマシだ。少なくとも人外化のリスクは無いし。

 

 「こほん。二人とも、僕の召喚物がどんなものか、概ねは知ってるでしょう? ああいうのは嫌だって話ですよ」

 「……そう」

 「……そうか。でも、次は言葉を選ぼうな」

 

 

 

 なんだか気まずい空気のまま、館を出ればすぐそこに見えるガーテンの森に向かう。

 

 森はそれなりに鬱蒼としているが、地元の森も似たような感じだった。

 現地の植生や生き物の気性は違ってくるだろうが、環境だけなら慣れたものだ。ルキアも未経験ではない。

 

 ただ──

 

 「黒山羊が出てきたら、まず森を出る。その後、貴女の『恒星』と私の『明けの明星』で森を消し飛ばす。いいわね、ステラ?」

 「最悪の場合は僕が召喚術を使います。二人は無理だと思ったら僕を呼んで、或いは僕が不味いと思ったら指示するので、全力で逃げてください。耳を塞いで、可能なら目も塞いで」

 

 その経験が、二人に警戒を強いる。

 

 成長を続けている今のルキアなら、去年に遭遇した程度の劣等個体は葬れる。単純な戦闘能力だけで考えるなら、ステラにも可能だろう。

 

 だが人類領域外の生命体は、多かれ少なかれ見る者の正気を損なう。

 既に一度見て耐性を持っているルキアはともかく、ステラの精神は限界が近いはずだ。言っていて悲しい話だが、フィリップに共感できるくらいなのだから。

 

 もうこれ以上、彼女の精神に負荷を掛けたくはない。

 

 「分かった。いや、正直、何を警戒しているのかは今一つ分からんが、概要の当たりくらいは付く。魔力視も無しだな?」

 「そうです。……じゃあ、行きましょう」

 

 森に入り、フィリップはまず手近な木の幹に触れる。

 今回は薪拾いでも果実摘みでもないが、迷子防止に木の幹を傷付ける。こういう場合でも、森への感謝を忘れてはいけない。特にフィリップは地元の人間ではないから、ドライアドたちは容赦なく意地悪をしてくるだろう。

 

 礼儀正しい来訪者への歓迎か、風も無いのに林冠部の木の葉が揺れた。

 

 森に入るなり立ち止まったフィリップに、ルキアとステラは怪訝そうな目を向ける。

 

 「何をしているの?」

 「え? 森に入るときって、ドライアドに挨拶……しないんですか? 王都の人は」

 

 また文化の違いか、と苦笑するフィリップだが、それは少し違う。

 確かに王都と王都外での文明レベルの差は激しく、同一国内ながら文化にも違いが出始めている。だが、これは言うなれば都会と田舎の差だ。

 

 「いや、そもそも森に行かないからな。勝手が分からん」

 

 それは確かに、とフィリップは思わず笑う。

 王都に来てから森に入ったことなんて一度も無い。精々が公園の隅にある藪だ。

 

 「でも、ちゃんと長袖に長ズボンで来たんですね。靴も、ちゃんと動きやすいもので」

 「ルキアに色々と教わってな」

 

 なるほど、と視線を向けると、ルキアもきちんとヒールの高くない歩き易そうな靴だ。以前はヒール付きブーツのせいで足首を怪我していたし、教訓を活かしている。

 

 「なるほど。では、改めて──」

 

 表情を引き締める。

 

 そうとも。ここからは真面目な話だ。

 たとえ黒山羊が出てこようと、ハスターがあれだけ幅広い視座を持っていると分かった今、フィリップは安心して手札を切れる。だから、その懸念はもう置いておいて。

 

 「狼を探しましょう! 全力で! それ以外の魔物は無視して! 襲ってくるなら殺して! もふもふをもふもふするために!」 

 

 昔飼っていた、というか、今も家族の一員ではあるが気軽には会えない距離にいる、父の猟犬。

 そのもふもふ──もとい、毛並みや仕草の虜になっているフィリップは、もはやどこに出しても恥ずかしくない犬派の鑑だった。

 

 汝、もふもふをモフるべし。かくて汝、心の安寧を得るであろう。

 

 狼ということは、猟犬よりもサイズが大きいのだろう。

 つまりもふもふ度合いもまた大きい。ならば、その精神安定作用はルキアの膝枕より、いや、マザーの抱擁よりも素晴らしいに違いない!

 

 あぁ、早く、早く出て来てくれ。

 そのもふもふした姿を見せてくれ。

 

 そして契約しよう。

 こちらが差し出せる魔力(モノ)は貧相だが、僕だって多くは求めない。

 

 戦えなんて言わない。ただ、モフらせてくれたらそれでいい。

 

 ──と、そんな興奮状態で、出てくる魔物を片端からウルミで撫で斬りにしながら──アルラウネだけは開花する前にルキアとステラが吹き飛ばしていた──、森を進むこと、約二時間。

 

 「待て、一旦止まろう。これは明らかにおかしい」

 

 いつになく好調なフィリップに向けていた苦笑を完全に引っ込めて、真剣な表情でステラが号令をかける。

 警戒も露わな双眸を見るまでもなく、二人とも警戒姿勢でそれに従う。彼女はいつだって合理的で、いつだって正しい。そう知っているから。

 

 「魔物にしか遭遇しないのはどういうことだ? 確か、この森の食物連鎖の頂点は狼と梟のはずだな?」

 

 そのはずだ。

 基本的に狼は群れで狩りをするから、自分たちより大きなジャイアントスパイダーでも恐れることなく狩り殺す。空を飛ぶキラービーとは互いに不可侵のようだが、そちらは動きの鈍る夜間に梟によって捕食される。

 

 だから、この森で最も傲慢に振る舞い、跳梁し、闊歩しているのは彼らであると思っていたのだが……歩けど歩けど、出会うのは低位の魔物ばかり。

 

 「例の、黒山羊とやらの仕業か?」

 「いや、あんなのがいたら魔物だって殺されてると……あっ」

 

 「あっ」ではない。

 フィリップは散々──少なくとも平常時に数回、致命的な状況で一回、それを認識しているのだ。しかも“致命的な状況”の方は、まさしくこんな森の中で、だった。

 

 覚えては、いた。

 だが、完全に意識の外だった。

 

 「どうしたの? 何か問題?」

 「いえ、狼に遭わない理由が分かりました」

 

 しょんぼりと肩を落とし、そういえばそうじゃんと独り言ちるフィリップに、ステラは眉根を寄せる。

 危機的状況であるのなら、まず真っ先に情報を共有すべきだ。そして危機的状況でないのなら、警戒を解くために情報を共有すべきである。もしフィリップが自分の家臣なら、即座に叱責している態度だった。

 

 しかし、ステラはすぐに表情を苦笑に変え、頭を振って苛立ちを払う。力み過ぎ、緊張し過ぎだと自嘲しながら。

 

 フィリップは確かにトラブルメーカーだが、誘発する問題全てが邪神絡みという訳ではない。

 怖がるのも警戒するのも、まずは問題の全容を把握してからだ。

 

 無言で先を促すと、フィリップはばつが悪そうに頬を掻いて、苦い笑いを浮かべた。

 

 「僕の臭いです。ルキアは知ってるでしょうけど、僕は動物には好かれない……いえ、嫌がられる臭いを纏っているみたいで」

 「……愛しき、いえ、星と月の香り、だったかしら?」

 

 別に、“愛しき母の芳香”でも間違ってはいないと思う。ちょっと黒山羊の視点に寄っているが。

 

 正確には、傍にいるシュブ=ニグラスとナイアーラトテップの気配の残滓、残り香のようなものだろう。よく訓練された軍馬でも、鼻先に回るだけで「おいおい勘弁してくれよクッセェな」と言いたげに嘶いて顔を背ける、酷い臭いのようだ。

 

 狼と馬のどちらが臭いに敏感なのか、フィリップは知らない。

 なんとなく草食動物(被捕食者)の方が感覚は鋭そうだけれど、などと考えているが、不正解だ。

 

 概ね、馬は人間の千倍の嗅覚を持つとされるが、狼は人間の一億倍もの嗅覚を誇る。馬と狼を比しても、その差は十万倍。

 馬にとっては「鼻先に立つのは止めてくれ」ぐらいの悪臭に感じる気配でも、狼にとっては「風上に立つのは止めてくれ」とか、下手をすれば「森に入るのは止めてくれ」ぐらいの強烈なものかもしれない。

 

 事実として、狼を含むほぼ全ての野生動物は、フィリップから遠ざかるように森の中を移動し、一緒に行動しているルキアとステラ以外の学院生は早々に狙った獣と契約できていた。まぁ、恐慌状態に近い荒れ方で、多少の苦労はしたようだが。

 

 「まぁ、その、はい。邪神に関係する……気配みたいなものが、動物には嗅ぎ分けられるみたいで。馬なんかにも嫌われますし」

 

 にわかには信じ難い言説に、ステラは確認するような視線をルキアに向け──こくり、と神妙な頷きが返される。

 

 「なるほど。……よし、別行動しよう」

 「……それが最適解なの?」

 

 ルキアは難色を示すが、フィリップは頷く。

 それが最短最速の最適解だろう。

 

 ここの魔物はかなり弱い。

 フィリップには肉の身体を持つ相手を一撃で死に至らしめる『萎縮』があるし、刃付きのウルミは人間サイズの大型動物ならともかく、ゴブリン程度なら首の肉の70パーセントを一撃で削ぎ落し、撥ね飛ばすことだってできる。

 

 今のところ神話生物の気配は無いし──フィリップを除いて──ルキアとステラが後れを取るような相手はいないだろう。

 

 「そうだ。私とルキアがペアで、カーターがソロ。カーターが“臭い”で追い立てた狼を私たちが捕獲しておけば、カーター自身も契約できるだろ?」

 「……あ、そういう分け方ですか。てっきり三人別々だと思ったんですけど……それが良さそうですね」

 

 一人ずつでも人類最強なのだ。

 二人一緒なら、大抵の人外にも勝利できよう。発狂しなければの話だが。

 

 「不味いと思ったら信号魔術を打ち上げる。赤は“森を出ろ”、黄色は“要救助”、黒なら“即時召喚”だ。覚えたか?」

 「赤が逃げる、黄色が集合、黒は諦め。オーケーです」

 

 これは王国の狼煙や信号魔術による交信では一般的な区分だ。

 赤は撤退、黄色は救援要請、黒は被害甚大。魔術学院生はともかく、教員なら確実に知っている。打ち上げた時点で館から大人がすっ飛んできて、生徒たちを誘導してくれるだろう。

 

 ただ──ステラのように「被害甚大か。では少数の死兵を出し、状況を把握せよ」と、冷酷な判断をできるとは限らない。「みんなで助けに行くぞ!」という判断をされたら最悪なのだが……その場合は、非合理的な判断と、不運を呪って貰おう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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169

 フィリップ一人とルキア、ステラの二人に分かれて行動し始めてから、およそ三十分。

 

 「……賑やかだな」

 「……そうね。飼い慣らされた馬より野生動物の方が感覚が鋭いのは、当たり前と言えば当たり前だけれど」

 

 ルキアとステラは、大移動してきたと思しきリスや野兎を、既に何十匹と見つけていた。

 

 小動物とはいえ、移動すれば音がする。

 木々の枝葉が不自然に動き、擦れ、小さな爪が樹皮や土を掻く音だ。一匹だけなら聞き取ることも難しいようなその音が、何十と重なって森を騒がせていた。

 

 賑やか、と言っていいだろう。森の静けさは木々や枝葉が音を吸い、遠くへ伝播させないが故だ。音の只中にあると、それなりに五月蠅い。 

 恐慌状態だったのか、足元に突撃してきたイノシシを消し炭に変え、光の杭で縫い留めたことも一度や二度ではない。

 

 「でも狼はいないわね。夜行性なのかしら?」

 「かもな。或いは、もう少し奥の方に逃げているのか」

 

 騒がしいが、おかげでルキアに恐怖は無い。

 あの森に広がっていた冒涜と死の香り、何者をも、音ですら逃がさないように大口を開けた闇の気配は、ここにはない。

 

 それに、ステラがいる。

 戦闘センスでは自分をも超える、同格の魔術師が一緒だ。もう一度あの黒山羊が出て来ても、どうにかできるだけの力も付けた。今度は勝って見せる。

 

 フィリップも、同じ森の中にいる。

 もう二度と無様は見せない。シュブ=ニグラス神にも、神官様にも胸を張って「フィリップを守ったのだ」と言えるような、美しい戦いを魅せるのだ。

 

 「居ないに越したことはないのだけれどね。……黒山羊の話よ」

 「あぁ、例の。どういう奴なんだ?」

 

 ──と、のんびりとした時間を過ごしていた二人とは違い、フィリップは。

 

 「詰んだかもしれない」

 

 腰から下を泥沼に浸し、それはそれは言い表しようもないほどに爽やかな諦観の笑みを浮かべて放心していた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 その日も、シルヴァはイチョウの老婦人の声で目を覚ました。

 

 「シルヴァちゃん、もう朝よ。おはよう」

 「ん、おはよう、いちょうのおばあちゃん」

 

 いつものように挨拶をして、いつものようにツリーハウスを出る。

 飛び降りて、花畑を駆け、いつもの広場で“友達”と合流する。

 

 「今日は宿無しが二番ね! あ、シレネー! おっそーい!」

 「わぁ、二人とも早いねー! でも三番ー!」

 

 少し待ってコリアリアも揃うと、いつものように「今日は何して遊ぶ会議」が始まった。

 シルヴァを延々と走り回らせる?(鬼ごっこ?) 他のドラ()イアドに()怒られる()シルヴァを()遠くから()眺める?() シルヴァに犬の真似をさせる?(おままごと?)

 

 いやいや、今日はもっと過激な気分だ。久しぶりに、あれをやろう。

 

 「今日は的当て! 宿無しが的ね!」

 「ん! しるば、まと!」

 

 楽しそうに返事をして駆け出したシルヴァを追って、三人も駆け出す。

 

 「《シード・バレット》!」

 「《エア・バレット》!」

 「《ブルーム・カッター》!」

 

 硬い種の弾雨を、圧縮空気の弾丸を、舞い散る花弁の刃を避けながら、きゃあきゃあと楽しそうに笑うシルヴァ。

 運動性能は丸きり子供のそれだ。だが、的そのものが矮躯では、思うように当たらない。何より、当たったところで何の痛痒も無いように、けろりとして──むしろ楽しそうにはしゃいで走り続ける。

 

 シルヴァを追う子供たちも、楽しそうに笑っている。

 それは何とも陽気で奔放で無邪気な、親たち大人の見様見真似だった。

 

 「楽しいね! 宿無し!」

 「ん! しるば、たのしい!」

 

 曇りない笑顔のアザレアの言葉に、シルヴァも全く同じ満面の笑みを浮かべて答える。

 

 攻撃を受けて、攻撃を避けて、攻撃を受けて、ただ走り続ける。

 それがこの的当てという遊びの中で、「的」であるシルヴァに与えられた役割なのだから。

 

 集落の大人たちは魔術を撃ちながら走り回る子供たちを迷惑そうに見ていたが、その標的を見ても「あぁまたか」と仕方なさそうに苦笑するだけだ。

 

 止めようともしない、いやそれ以前に、止めるべき行為であるという認識が無い。

 

 だって、あれは出来損ないだ。

 どうして存在しているのかも分からない奇妙で不気味な存在で、人間の心すら読めない欠陥品だ。自分たちと同じドライアドだという認識すらない。いや、この裏層樹界にいるということは、ドライアドではあるのだろうけれど。

 

 だが、ドライアドは木々から生まれる、木々そのものの精霊だ。

 本体である木を持たない宿無し(シルヴァ)は、人間で言えば親も肉体(からだ)も無い子供。()()()()()()()()()()()()()だった。

 

 他者と違う、大多数ではないということは、迫害の種になる。

 絶対的に自分たちとは違う存在だという確信を根に、恐怖という枝葉が伸び、忌避感という花が咲き、排斥と迫害という実を結ぶ。

 

 それを自覚している者は多くない。

 自覚さえしていない者が、本能的な異物への恐怖感から石を投げる。

 

 石を投げてみて、痛がれば、或いは打ち殺されてしまったら、その時には悲しもう。「こんなつもりじゃなかった」とか、そんな言い訳を自分と他人に並べ立て、共有して、忘れ去ってしまえる。そんな甘い考えは、すぐに捨てさせられた。

 

 精霊は発生からの年月が力に比例する。

 もちろん例外はあるが、ドライアドは大多数の精霊の例に漏れず、そういう種だった。

 

 シルヴァの発生は、ほんの2年前。

 ある時、何の前触れもなく、何の依り代も楔も母体もなく、ただ唐突に発生した。

 

 昨日もシルヴァを攻撃したホーソンは、発生から25年。他にも発生から30年以上150年以下の大人たちの攻撃を受けて、シルヴァの肌には傷一つ付かなかった。

 

 シルヴァが異物と認められた、決定的な瞬間だった。

 

 「こら、宿無し! あんた、また入ってきたの!?」

 「ん!? ごめんなさい、とねりこ。わざとじゃない」

 

 痛くも痒くもない攻撃を避け、受け、また避けながら走っていると、呆れたような怒声が耳に刺さった。

 

 いつの間にか禁域に入っていたようで、斜め前方には例の祠と、それを守る四本の守護樹が見える。

 振り返っても誰もいない。何の痛痒も無い攻撃だから、それが止んだことにも気付けなかったようだ。

 

 「あー、もう! ねぇ、ホーソン! なんか柵とか作れないわけ!? この根無しが二度と入ってこれないような、ちゃんとしたやつ!」

 「それだと、枝葉の結界の効果が薄れるよ。柵なんてこれ見よがしな目印だし、「この奥に何かありますよ」って言っているようなものだ」

 「とねりこ、まえもおなじこといってた」

 

 あぁん!? と高い声で恫喝しながら、肩を怒らせたトネリコが姿を見せる。

 守護樹であるセイヨウトネリコ(本体)の傍で、祠を守るような位置に立った彼女は、苛立ちを抑えるように深呼吸した。

 

 感情を抑えるなんて珍しい、とホーソンは片眉を上げ、

 

 「さっさと出て行きなさい。《ランドスライド》!」

 

 ドッッッ! と、凄まじい轟音と共に花畑を捲り上げ、シルヴァの矮躯を吹き飛ばしたトネリコの魔術に苦笑した。

 

 裏層樹界で何をしようと、表層の物理世界に影響は無い。

 どころか、ほんの数秒で物理世界と同じ形に修復される。腐葉土や柔らかな土の層どころか下層の粘土質までもが見えるほどに抉れた地面は元通りに均され、その表面を色とりどりの花々が覆う。

 

 数十メートルは吹き飛び、木々の間に姿を消したシルヴァだが、数分もすると軽快に走って帰ってきた。

 当然のように無傷なのは、もはや驚く要素ではない。

 

 シルヴァには純粋な運動量でしか影響を与えられないことは、初めの一年で理解した。

 ドライアドの非力さでは、殴る蹴るの暴力に意味がないのは予想できた。種族的に耐性のある水属性、土属性、風属性の魔術にも難なく耐えた。種族的弱点である火属性にも、特に痛痒を感じていないようだった。

 

 ただ、体重の軽さだけはどうしようもないのだろう。

 攻撃が重ければ重いほど、その矮躯は軽々と宙を舞う。その後に何事も無かったかのように立ち上がる様が、より一層の異物感を催させるのだ。

 

 「こりありあ、みた?」

 「……見てないわよ」

 

 それを聞くために戻ってきたのだろう。

 さっさと失せろとばかりに、トネリコは簡潔に答える。そもそもこの結界は、シルヴァ以外の誰にも破られたことはないのだ。もうこれ以上、それもたかだか下草の齢、発生から10年以下の幼体に破られてたまるか。

 

 「しれねーは?」

 「……見てない」

 「あざれあは?」

 「あのねぇ! あんた以外の誰が! 今までここに来たことがあんのよ! 考えてモノ言いなさいよ!」

 

 うがー! と手を挙げて威嚇するトネリコ。

 シルヴァは楽しそうにきゃあきゃあと笑いながら駆け回る。

 

 「あー、キレそう!」

 「さっきキレてたけどね。土属性上級魔術まで使って……」

 

 あぁん!? と、またトネリコの威嚇が飛ぶ。おっと失礼、と肩を竦めるホーソンの表情は揶揄うような微笑だ。

 トネリコが怒り、ホーソンが受け流す、いつもの光景だが──今日ばかりは、そんな日常風景を再演している暇はない。

 

 「二人とも、最終確認するわよ。こっちに来なさい」

 「今日は聖痕者様がいらっしゃる日なのですから、いい加減に結論を出しませんと。……あぁ、もう学生たちが森に入ってきましたね」

 

 新たに姿を見せた二人の守護者たちも揃って、四人のドライアドは同じ方向に目を向ける。侵入者のやってきた方向だ。

 

 目を凝らすまでもない。

 人間という乱雑で整然とした思考を持つ生物の、あらゆる感情、あらゆる計画、あらゆる記憶に深層意識。その全てがドライアドには手に取るように分かる。

 

 まだ眠い、帰りたいといった表層的な感情に混じる、数滴の性欲。

 魔物に向けられたそれに、彼女たちは一斉に嫌悪感を露わにした。

 

 「気色の悪いソドミストが……いえ、ソドミーという認識さえないの? なんて愚劣な……」

 

 ごく一部の生徒の深層意識までも仔細に読み取って、ドライアドたちは嘲笑う。

 本当に人間は救いようのない生き物だと。だが、まあ、それだけだ。森を穢し侵す意図を持った人間は一人もいない。

 

 ならば、ドライアドは森の管理者として、彼らに厳罰を課す必要はない。

 

 「そこの根無し、集落に戻りなさい。私たちは今から大事な話をするあーーーーーーーーーーーぁ?」

 「ん! しるば、もどる! ……じゅにふぁー? どうしたのー?」

 

 変化は一瞬で訪れた。

 シルヴァに向かってシッシッと手を払っていた守護者の一人が、虚空を見つめたまま意味の無い音を垂れ流すだけの木偶になった。

 

 糸の切れた操り人形のように頽れたのは、ポプルスとホーソンの二人。

 

 残る一人、トネリコの反応が最も過激で、最も不可解だった。

 起こった現象は、擬音にするならたった一言。

 

 ()()()()

 

 トネリコは一言も発さず、ただ恐怖と絶望に染まった顔を最期に浮かべて、どろどろの残骸になって溶け崩れた。

 

 「……ん?」

 

 理解不能だった。

 ただでさえ知識が不足しているシルヴァにとって、眼前で繰り広げられた異常事態は、どれ一つとっても理解できない現象の羅列だった。

 

 よく分からないけれど、ただ「戻れ」と言われたことは覚えていたから、シルヴァは素直に集落の方へと足を向けた。

 

 集落に広がっていた光景も、また理解できないものだった。

 

 上級攻撃魔術を撃ち合う(殺し合う)ドライアドたち。

 木々は炎に巻かれ、雷に裂かれ、土礫に穿たれ、瞬く間に表層の姿に修復され、また燃え落ちる。

 

 ツリーハウスの床から垂れ下がる死骸(もの)、地面に打ち捨てられた死骸(もの)、どろどろに溶けた死骸(もの)

 意味の分からない言葉を羅列する残骸(もの)、歌い踊り暴れ狂う残骸(もの)、目に入る全てを攻撃する残骸(もの)

 

 「あははは! 宿無しだぁ! あなたもいっしょに遊びましょう? 今日はキャッチボール!」

 

 真っ赤な花飾りのドライアドが、楽しそうにぴょんぴょんと跳ねながらボールを投げてくる。

 

 反射的に受け止めたボールにも、赤い花飾り。

 赤い液体を滴らせる断面。苦痛に歪んだ表情を浮かべる、見覚えのある貌。

 

 「あざれあ……?」

 

 白い花飾りを鮮血で染め上げて、シレネーは大きく手を振って笑う。

 さあ、ボールを投げっこしましょ? と、明るい声を上げる顔のパーツは、甚大な恐怖で濁りきった双眸以外、朗らかな笑顔のかたちだった。

 

 これは、おかしい。

 シルヴァでも分かる、明確な異常。

 

 何がおかしいのか、何が起こっているのか、何が原因なのか。それは全く分からないが、少なくともシルヴァが経験したことの無い非日常であることだけは確かだった。

 

 「おばあちゃん……!」

 

 脳裏を過ったのは、ただ一人のやさしいひと。

 萎れ枯れ始めた花畑の感触に嫌悪感を抱きながら、シルヴァは全速力でイチョウの木へ戻る。

 

 40メートルもの高さを一息に跳躍してツリーハウスに駆け込むと、いつも通りの穏やかな笑顔が出迎えてくれた。

 

 「あらお帰り、シルヴァちゃん。集落の方が騒がしいみたいだけど、何があったのか知ってる?」

 

 あぁ、良かった。と、シルヴァはほっと息を吐いてへたり込む。

 

 イチョウの老婦人はあらあらと慈しむように、労わるように笑い、抱擁するように手を伸ばす。

 

 「無事に帰って来てくれてよかったわ」

 

 ひょい、と軽く抱き上げられる。

 自分を抱き締める腕の暖かさに、シルヴァは自分でも理由が分からないまま泣きそうになって。

 

 「あなたは私が殺さなくちゃいけないんだもの」

 

 首を絞めるように片手で喉を掴まれて、ずどん! と、壁が揺れるほどの勢いでツリーハウスの床に叩き付けられた。

 

 

 

 

 

 



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170

 人間に比べて非力と呼ばれる精霊種でも、200年生きたドライアドともなれば、筋力もそれなりに成長する。

 老婦人の外見からは想像もつかないが、少なくとも常日頃から剣や槍を振る騎士を上回るだけの握力があった。

 

 その手に喉元を掴まれて、シルヴァには一片の痛痒も無い。

 骨をも砕く握力は肉を僅かに撓ませるだけ。気道と血管への圧迫は肉の身体を持たない精霊には無意味。精霊を傷付ける鉄の籠手や属性付与(エンチャント)でもされていれば、話は別だったかもしれないが。

 

 だがそんなことには気付かないように、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、イチョウの老婦人は圧搾を続ける。

 

 「おばあちゃん……?」

 

 シルヴァは不思議そうな声を上げるが、老婦人は穏やかな笑顔のまま、

 

 「私ね、思ったのよ」

 

 と、脈絡のない話を始めた。

 

 「どうしてかは思い出せないのだけど、ふと思ったの。殺さなくちゃ、って。誰を、どうやって、いつ、どこで殺せばいいのかも分からなかったけど、とにかく殺さなくちゃいけないことだけは分かったわ。それでね、ずっとシルヴァちゃんを待ってたのよ」

 「ころす……?」

 

 分からない。

 シルヴァには「殺す」という言葉が指す行為、その目的である「死ぬ」という現象、そして老婦人がその行為に及ぶ理由の全てが分からない。

 

 けれど──彼女だけは、何があってもシルヴァ(じぶん)を攻撃しないという無意識下の、無条件の信頼は裏切られた。

 

 そのことが無性に()()()()()

 

 「あはは!」

 

 反射的に溢れかけた涙を堪え、いつものように笑顔を浮かべる。

 

 だって、シルヴァは知っている(教わった)

 この胸を刺すような感情は、自然と涙が零れてしまうような情動は、今すぐにこの場から逃げ出して、泣き叫びたくなるような衝動は、『楽しい』という感情なのだと。『楽しい』ときは、笑うものなのだと。

 

 友達と遊んでいるときも、大人たちに突き飛ばされたときも、みんながシルヴァを「出来損ない」と呼んで蔑むときも、シルヴァはずっと()()()()()

 

 「あははは!」

 

 笑う。

 楽しいときは笑うのが普通なはずだから。

 

 ドライアドはみんなおかしくなって、この森でただ一人優しかった人もおかしくなって、みんなが向けるような嘲笑(てきい)の籠った目を向けて、シルヴァを攻撃している。

 

 なんて、なんて()()()

 

 「だから、ね? シルヴァちゃん。死──」

 

 ばしゃり、と。

 何の前触れもなく、イチョウの老婦人が液状化して床に広がる。

 

 持ち上げられていたシルヴァはどさりと床に落ちて、眼前に──否、裏層樹界全域に広がる異常事態について考えることもなく、ただ茫然と放心していた。

 

 

 

 

 シルヴァが泣きながら笑っていたとき、祠の傍では斃れ伏していた一人のドライアド──ホーソンが意識を取り戻し、懸命に地面を這いずって移動していた。

 

 周囲にはもう、誰も残っていない。代わりに汚い水たまりが三つ、あるだけだ。

 集落も同様だ。殺し合いをしていたものも、理性を失くしていたものも、既に死んでいたもの以外の全てが、どろどろの残骸になってぶちまけられた。

 

 ホーソンが生き残ったのは奇跡──では、ない。

 これはただの順番だ。

 

 誰から殺すか。そういう順番ではない。

 そもそもこれは、誰かの悪意によって故意に作られた地獄ではない。

 

 ドライアドたちに備わった、森に入った者の思考や深層意識、そして記憶を読むという機能。

 これは呼吸や心臓の鼓動に近いものだ。耳を塞ごうと目を閉じようと、森へ入った誰かの情報は自動的に流れ込んでくる。

 

 ただ、「どの情報から読み解くか」には個人差がある。

 読みやすい直近の記憶から、最も行動に繋がりやすい思考から、思考の根幹となる深層意識から、最も強烈に焼き付いている記憶から。ドライアド個々人の性格や論理によって、まちまちだ。

 

 だから、()()が森に一歩立ち入った、その瞬間に。

 

 ──ドライアドの全滅は確定していた。

 

 ホーソンは直近の記憶から読むタイプで、その情報を読み解いたとき()()にも失神したから、まだ生きているだけだ。

 

 こうして這いずっている間にも、ドライアドという精霊種の機能は全自動で情報を解読していく。

 思考を、表層意識を、無意識を、なるべくゆっくりと時間をかけて覗いていく。

 

 並んだ扉を一つずつ開けていくような奇妙な感覚だ。

 一繋がりの部屋の中には醜悪な怪物がいて、その尾が、身体が、爪が、だんだんと露わになっていく。怪物の(アギト)へ繋がる扉を開けたその時が、ホーソンの死期だ。

 

 その前に、まだやるべきことがある。

 

 数百年前に祠へと封じられた、封印の宝珠。

 その中に閉じ込められた化け物を、決してこの森に解き放ってはならない。

 

 ドライアドが全滅すれば、守護樹が持つ神秘性は半分以下まで落ちるだろう。

 

 その前に──!

 

 「砕く──!」

 

 ホーソンは全身全霊を懸けて、自身の本体であるサンザシの木に命令を下した。

 

 「《セイクリッド・ブランチ・スピア》!」

 

 サンザシの枝が急成長する。

 それは裏層樹界ではなく、物理世界(表層)での話だ。この祠も宝珠も、そして守護樹も結界も、全ては表層にあるものの投影に過ぎない。

 

 だが正確な投影だ。こちらからでも、的と砲台の位置は把握できる。ならば、あとは撃ち抜くだけ!

 サンザシの枝は聖別され、宝珠を貫き砕く槍と化す。そして人間の頭蓋をも貫通するような速度で伸び──こん、と、宝珠の表面を突いて、終わった。

 

 「はっ──」

 

 駄目だったと笑う。

 やはり、と頭に付けてもいい、予想された結果だ。

 

 この宝珠は中に封じたものの強大さ故に、ドライアドでは手の出しようがないほどに硬い。だからこそ、封じた怪物を殺すのに、聖痕者の手を借りようとしたのだが……もう、遅いか。

 

 最後の扉、怪物の顎に通じる終着点に至る。

 

 不気味な地下祭祀場(記憶)悍ましいカルトの儀式(きおく)脳を犯す外見の異形たち(キオク)。そして。

 

 ばしゃり、と。

 数万本の木々を擁し、それと同じ数のドライアドが生きていた裏層樹界。その最後の一人だったホーソンも存在の核が破壊され、どろどろに崩れた。

 

 ほんの数分。

 ()()が森を訪れてから十分経ったかどうかという短時間で、ドライアドは全滅した。

 

 一人の例外も無く。

 

 当然だ。

 外神に与えられた邪悪な知識だけなら。つい最近見た旧支配者の威容ならぬ異容だけなら。地下祭祀場で見た外神の姿だけなら。まだ、幸運の介在する余地はあったかもしれない。

 

 だが、彼の存在の前では、運の要素は存在し得ない。

 それは神そのものでありながら、神の否定そのもの。赦しも罰も与えない、盲目白痴の最大神格。

 

 幸運も、たとえ奇跡であったとしても、等しく冒涜するもの。

 唯一絶対の存在を前に救いなど、奇跡でさえ在り得ない。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 気が付くと、シルヴァは物理界(表層)にいた。

 

 周囲は見覚えのある──具体的にどこかは分からないが──木々に囲まれているが、地面だけは、苔むした岩と柔らかい土の混じった緑色だ。裏層樹界の色とりどりの花畑とは比較にもならない地味な色で、けれどどこか愛おしさも覚える色合いだった。

 

 目の前にはやや大きめの泉がある。

 以前に一度だけ物理界(こっち)に来たことがあるが、その時に──勝手なことをするなと怒られる中で──聞いた名前は。

 

 「みずかがみ……」

 

 水鏡。

 魔術ではなく純然たる現象であるそれは、森の表層と裏層樹界を繋ぐ門の役割を持っている。

 

 底が見えるほど綺麗に澄んだ泉でありながら、その実、底の無い通路。すぐ近くのようにも、ずっと深くにも見える泉の底は、裏層樹界の水面だ。

 

 その、はずだったのだが。

 

 「……ぇ?」

 

 濁っていく。

 透明という言葉が不足に感じるほど澄み切った水が、瞬く間に淀み、濁り、穢れた泥へと変化して、最後には粘った泥に満たされた沼へと変貌した。

 

 「……ぅ」

 

 シルヴァに自分の意思で水鏡を通った記憶はない。

 その主観と目の前の光景から、何となく想像は付いた。

 

 ドライアドの全滅を以て、裏層樹界は完全に消滅したのだ。その入り口は潰れ、中にはもう誰もいない。ドライアドはもう、誰も残っていない。

 

 つまり、本当に、ドライアドだけでなく世界にとってすら、シルヴァはみんなとおなじ(同族)では無かったのだろう。

 

 あぁ、それはなんて──()()()ことだろうか。

 

 「うぅ……」

 

 楽しいなら笑わなくては。

 そうしないと、みんなが怖がってしまうから。

 

 みんな──なんて、もういないのか。誰も、残っていないのか。

 

 シルヴァにとって、あの楽園じみた花の世界は、その末路にも等しい地獄ではあったけれど──それでも、たった一人、大切な、やさしいひとのいる世界だったのに。

 

 嗚咽が漏れそうになった、その瞬間だった。

 

 たったったっ、と軽快な足音が、木々の間を縫って届く。

 無警戒に──警戒するということを知らないシルヴァは、ただ反射のように音のした方に顔を向けた。

 

 足音は徐々に、かなりの速度で近付いてきている。

 逃げもせず、隠れもせず、ただ漫然とそれを聞いていたシルヴァの前に現れたのは。

 

 「──ッ!」

 

 地面を滑る蛇のようにも、低空を舞う燕のようにも見える不思議な姿勢で、長い鉄の鞭を尾のように引いて走る、金髪の少年だった。

 

 背後に蜘蛛型の魔物を引き連れた彼は、シルヴァに気付かないままその前を横切り、跳躍する。

 踏み切る力と、身体操作、そして体重移動を用いた全力の姿勢制御によって空中で回転し、手にした鉄鞭を振るう。

 

 音速を超えた先端部は空気すら裂く刃と化し、少年に飛びかかった蜘蛛を見事に両断する。

 

 そして少年はそのまま、

 

 「──わぷっ!?」

 

 綺麗に両足を揃えて、沼の真ん中辺りに突き刺さった。

 

 

 

 

 

 

 



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171

 あとがき さしえ すてらちゃ がんばった(筆跡はここで途絶えている)


 沼といってもまちまちだが、泥の密度次第では人間の方が比重が軽く、沈まないこともあるという。

 フィリップが腰まで浸かったこの沼もそうなのか、或いは圧迫感と生温さだけが伝わってくる足は底に付いているのか、とにかくこれ以上沼に呑まれることは無さそうだ。

 

 「……やばい」

 

 しかし、安心はできない。

 そういう場合は溺死ではなく、死ぬまで放置されて衰弱死か餓死するのだ。

 

 とりあえず歩いて岸まで──無理だ。泥が重すぎて、腰から下はびくともしない。

 適当な木にウルミを引っかけて、身体の方を引っ張る──無理だ。普通の鞭ならともかく、革製鞭(ウィップ)と比べて柔軟性に欠ける鉄製鞭(ウルミ)にそんな器用な真似は出来ない。いやマリーなら出来るのかもしれないけれど、フィリップには無理だ。

 

 これは──

 

 「詰んだかもしれない」

 

 着地の衝撃で泥の跳ねた顔で、これまでになく爽やかな笑顔を浮かべるフィリップ。

 

 森は広く、また土や木々の枝葉が音を吸う。

 大声で叫んでも、ルキアやステラ、先行した他の生徒たちが気付く可能性は低い。

 

 残る選択肢は二つ。

 

 一つ、諦めて衰弱死する。

 これは、ない。こんなところで、こんな惨めな死に方をしたら、()()()ナイアーラトテップにどれだけ煽られるか。

 

 一つ、やっぱり自力での脱出は諦めて、ハスターを呼ぶ。

 これしか、ない。名状しがたきもの、邪悪の貴公子、ヨグ=ソトースの落とし仔には本当に、大変申し訳ないが、羽虫駆除の次は泥掻きをお願いしたい。

 

 幸い、周りは高い木々に囲われていて、ルキアや他の生徒の目に留まる心配は殆ど無い。

 

 誰もいないよね? と最終確認をする。

 誰かいれば魔術でちょちょいと助けてくれるはずだが、フィリップは「誰もいないでくれよ」と願っていた。もう完全にハスターを呼ぶ気満々である。

 

 しかし、フィリップの期待に反して、沼の畔には人影があった。

 

 「っ! いつの間に……!? いや、君、は……?」

 

 いつからそこにいたのか。いったいどういう存在なのか。そんな疑問の籠った目のフィリップと同じくらい怪訝そうな顔で、こちらを見ているモノがいる。

 

 一見すると、5歳かそこらの子供だ。

 地面にぺたりと座り込んだ小さな体は、胸元と腰周りだけを緑色のセパレートで隠したような、どう見ても森歩き向きではない格好だ。

 

 木の葉のように鮮やかな緑色の髪には目を引かれるが、異質な髪色はマザーとルキアで見慣れている。髪を飾る枝葉で編まれた冠も、森遊びの一環としては理解できる。

 

 だから単なる五歳児ではないことを、一見した時の印象を否定する要素は、そんなことではない。

 

 手足が、異質だった。

 初めはブーツと手袋かと誤認したそれは、爪先から膝の下までを覆う木の根と枝葉、指先から肘の辺りまでを覆う鮮やかな苔と小さな花だ。

 

 「──っ」

 

 人外だ。

 これが何者なのかは全く分からないが、人外であることは確実だ。

 

 魔物、なのだろうか。

 もしそうなら、走れない現状では後手に回った時点で致命的かもしれない。

 

 外神の智慧の中に該当するものが無い時点で、警戒の度合いは大きく下がるが──それでも、今のフィリップは普段以上に脆弱だ。なんせ動けないのだから。

 

 「……しるば」

 「……え?」

 

 なんとなく、『萎縮』も『深淵の息』も効かない気がして攻撃できずにいたフィリップは、その声の主を即座には判別できなかった。

 

 きょろきょろと無防備に周りを見渡して、誰もいないことを確認する。

 そしてもう一度、沼のすぐ側で座り込んだモノに目を向けると。

 

 「しるば」

 「……シルバ?」

 

 鳴き声……いや、独自の言語、だろうか。邪悪言語でないことは確かだと思うのだが。

 大陸共通語だとしたら、固有名詞……?

 

 「ううん、しるば」

 

 違う、と言いたげに首を振って繰り返され、フィリップは首を傾げる。

 

 「シルバー?」

 

 銀、或いは銀食器のことか?

 こんな森の奥でお目にかかれるものではないと思うが、それを寄越せば助けてやるとかそういう話? フィリップに交渉能力は無いから、妙な条件が付くぐらいならハスターを呼ぶのだが。

 

 「んーん! しるば!」

 

 ちょっと怒ったように首を振って、同じ言葉が繰り返される。

 

 一体何なんだ、と考えること数秒。フィリップの脳裏に模範解答が閃く。

 

 「それは君の名前? それとも僕への命令?」

 

 分からないなら、訊けばいい。

 森の中で遭遇したよくわからない相手──明確に自分とは違う種族の相手にどういうアプローチをするかは、そう選択肢の多いことではない。

 

 友好的か、敵対的か。

 

 友好的に接するのなら、安直に挨拶や自己紹介から入るだろう。

 敵対的なら、やはり「動くな」とか「武器を捨てろ」とか、その手の警告からだ。

 

 「ん! なまえ、しるば!」

 「しるば……シルバー……? あ、シルヴァ?」

 

 舌足らずな発音のせいで、彼女の意図している名前が微妙に伝わりづらい。

 なんとなく人名っぽく聞こえるよう、勝手に補正してみると、幼児──シルヴァはにっこりと笑って頷いた。

 

 「僕はフィリップ。フィリップ・カーター。人間だよ。君は……魔物、なの?」

 

 自分で聞いておきながら、違う、という確信めいた直感があった。

 その直感は裏切られることなく、シルヴァは「ううん」と首を横に振る。しかし、続く言葉は何処か自信なさげで、聞いているこちらまで不安になるようなか細い声だった。

 

 「ううん。しるばは……どらいあど」

 「ドライアド!? へぇ、人前に姿は見せないって聞いてたけど……。いや、それより、助けてくれない?」

 

 どこか落ち込んだような態度のシルヴァには引っかかりを覚え、敢えておどけて見せる。

 軽い口調を取り繕うまでもなく、足から沼に突き刺さった状況は半分ギャグなのだが……致死の可能性があると、流石にちょっと笑えない。

 

 「たすける? ふぃりっぷ、あぶない?」

 「うん。だから、僕を沼から引き上げて欲しいんだ。魔術でどうにか……方法は任せるよ」

 

 どんな魔術が最適なのか分からず、人間より魔力の扱いに長ける精霊だというシルヴァに丸投げする。

 

 なんで? とか言われたらどうしようという懸念はあったが、シルヴァは「わかった!」と大きな声で返事をくれた。

 

 そして、そのまま、無造作にこちらへ歩き出す。

 慌てたのはフィリップだ。沼の水面は、地表によく擬態する。足元も見ずに踏み出したらフィリップのようにドボンと──?

 

 「え?」

 

 沈まない?

 

 シルヴァはどう見ても泥の場所を、ひたひたと湿った足音を立てながら歩いてくる。

 木の根や枝葉の這う小さな足は、ほんの僅かにすら水面に沈んでいない。体重が軽いから、という理由では納得できない、不思議な光景だった。

 

 困惑するフィリップのすぐ傍ら、フィリップの腰までを呑み込む深さの場所に来ても、シルヴァは変わらず水面に立っていた。

 

 「……すごいね、ドライアドって」

 「……えへへ」

 

 シルヴァはフィリップの困惑交じりの賛辞に嬉しそうに笑うと、脇の下に手を入れてきた。

 もしやと思う暇もなく、とんでもない力が上向きにかかる。

 

 「待っ──!?」

 

 そのままイモを引っこ抜くような形で、ずぼ、と引き抜かれ、担がれたまま沼の外へ運ばれる。

 当然ながら脇や肩関節は凄まじく痛かったが、折れてはいないようだ。

 

 こちらを気遣うようにゆっくりと、壊れ物を扱うような丁寧さで地面に降ろされるのは悪い気はしないが、もう遅いよと言いたくはなる。

 

 だが、

 

 「ありがとう。本当に助かったよ」

 

 咎める必要も意味も無い。

 シルヴァがいなければ、またぞろハスターに「君の視座は」云々と小言を貰うところだった。

 

 それきりシルヴァへの興味を失ったフィリップの次の関心は、表面にべったりと泥を付け、たっぷりと水を吸ったズボンだ。

 取り敢えず脱いで、水気を絞って泥を払えばいいだろうか。

 

 欲を言うのなら、川か泉で洗いたいのだが……この森は完全に初見で、全く土地勘が無い。そこまで考えて、フィリップは現地人とも言える存在のことを思い出した。

 

 「ねぇシルヴァ。近くに川とか無いかな? 泉とか」

 「んー……みずかがみ……きたないの、だめ?」

 「そうだね。綺麗な方がいいかな」

 

 沼を指して言った「みずかがみ」という単語は気になったが、それ以上にびしょびしょになったズボンとパンツが不愉快すぎる。今は知識欲より、服と体を清潔にしたい。

 

 「んー……、ん! かわ、ある! こっち!」

 「連れてってくれるの? ありがとう。悪いね、色々と」

 

 フィリップの手を引いてくれる、苔のような、或いは微細な葉のような緑に覆われた手は、小さくてふわふわしていた。

 思わず握り締めて満喫──いや、どういう素材なのかを検分したいという欲求に駆られるが、ぐっと我慢だ。

 

 シルヴァは楽しそうに、軽やかな駆け足でぐいぐい進む。

 歩幅は小さいが、足場の悪さをものともしていないので、フィリップもそれなりの早足でないと転びそうになる。

 

 しばらく歩いたのち、シルヴァが、

 

 「ここ!」

 

 と示したのは、指一本程度の深さと一歩分程度の幅しかない、本当に小さな川だった。

 

 顔を近付けてよく見てみると、なるほど確かに綺麗な水で、流れもそれなりに速く淀みも無い。飲んでも大丈夫かどうかまでは不明だが、服を洗うだけなら十分だろう。

 もう少し水量が多い方が……というのは、無いものねだりか。

 

 ズボンを脱ぎ、水気を絞る。

 表面の泥を叩き落として、ズボンを振って、小川に浸けて洗い流す。何度か繰り返すうちに、履いていても砂粒で怪我をすることはない程度に綺麗になった。

 

 「よし、と。……ホントにありがとね、シルヴァ。お礼をしたいところだけど……ドライアドって何を貰ったら嬉しいの? 魔力とか?」

 「え、いらない……。しるば、まりょくつかえない」

 「そうなの? 精霊は人間以上に魔術に長けてるって聞いてたんだけど」

 

 まあフィリップの魔力なんて、ルキアやステラが海のようなものだとしたら、この小さな川みたいなものだ。何ならコップ一杯の水ぐらいかもしれない。貰って嬉しいお手頃サイズにも少し足りないという点を考えると、コップの四分の一くらいか? 

 

 自嘲はほどほどにして、何かできることはないかと考える。

 

 シルヴァは命の恩人──とまではいかないが、フィリップを助けてくれたことには変わりない。それに、ドライアドに会うなんて初めてのことで、少しばかりテンションがおかしい。

 

 精霊は基本的に、人間の前に姿を見せない。理由は知らないが、人間のことを見下しているのだろうというのが通説だ。

 フィリップもこれまでに会ったことはないが、その存在は冒険譚や御伽噺の中ではポピュラーだ。森の管理者ドライアド、泉に住まうウンディーネ、エトセトラ。勇者に手を貸し、悪人を罰する超常的存在の話を、何度も何度も読んできた。

 

 だからだろうか。

 予期せず有名人に会ったような焦りと興奮で、頭がマトモに働かない。

 

 人間代表として恥ずかしくない対応をしなければ! などと考えている。

 

 「うーん……。えっと、ご両親はどこ? ドライアドの生態に詳しくないから、変な質問だったらごめんね」

 「……しるば、おやいない。あざれあたちにはいたけど、みんないなくなった」

 「……えーっと?」

 

 舌足らずな言葉という理由を差し引いても、今一つ内容を理解しかねた。

 

 彼女の親は事故か何かで死んでしまったのだろうという推論は立つが、「みんないなくなった」? みんなって誰だ?

 他のドライアドのことだとしたら、そりゃあもうとんでもない大事件だから……他のドライアドにも親はいない、とか? ドライアドは一定の年齢になると消滅する性質がある、とかだろうか。

 

 精霊はみんな若く見目麗しい女性の姿だというし、異質な身体を加味しても可愛らしい容姿のシルヴァを見れば、その言説は真実だと分かる。

 

 だが、ドライアドは樹木の精霊だ。

 木は成長し、老い、枯れる。龍種のように「成長しかしない」存在でもなければ、天使や神格のような「生まれたままの姿である」存在でもない。

 

 「ま、まさか老いて美しくなくなったドライアドは、仲間の手によって殺されるとか……?」

 「……? ころされるって、なに?」

 

 ……違うみたいだ。

 シルヴァの反応は少し不思議だが、冒険譚や御伽噺で培われた「美しい妖精たち」の幻想が崩れなかったのは喜ばしい。

 

 「いや、気にしないで。えっと、他のドライアドは何処にいるの? 君一人ってことはないよね?」

 

 森には木々の数だけドライアドがいると聞いた。

 夜には眠り、昼に活動する彼女たちは、ちょうど今頃には最も活発になるはずなのだが。

 

 「……? だから、みんないなくなった。みんな……あざれあも、しれねーも、こりありあも、いちょうのおばあちゃんも、みんな。どろどろ、べちゃって。……あはは!」

 「っ!?」

 

 場違いに明るく、朗らかな笑い声に、フィリップは思わずびくりと身体を強張らせる。

 どう考えても笑うところでは無かったし、何より、シルヴァの表情は今にも泣き出しそうなほどの悲哀に歪んでいる。

 

 「……ど、どうしたの? ドライアド的には、笑うところだった……?」

 

 人間とドライアドでは感情表現の方法が違う、のだろうか。或いは「どろどろ、べちゃ」で「いなくなる」のは、ドライアド的には楽しい、喜ばしいこととか?

 

 「えっと、違ったら申し訳ないんだけど、君以外のドライアドは、その……全員、死んだの?」

 「……う、」

 

 しまった、と。フィリップは自分の失言を、考えの足りなさを痛烈に自覚した。

 

 シルヴァの目に溜まっていた涙は限界を迎え、頬を伝って地面へと滴る。

 嗚咽は押し殺した泣き声に変わり、やがては押し殺すこともできない激情の発露となった。

 

 「ご、ごめん! 泣かせるつもりは──」

 

 無かった、と言い切ることは出来なかった。

 

 ただしフィリップの心情云々ではなく、物理的理由からだ。

 

 「──!!」

 

 泣き叫びながら抱き着いてきた──飛びついてきたシルヴァの頭が、枝葉で編まれた冠ごと鳩尾に突き刺さった。

 

 呼気が漏れて、息が吸えない。

 しかし──自分の胸に縋り付いて泣きじゃくる小さな女の子を払いのけることは、いくらフィリップでも出来なかった。

 

 

 

 




 やっぱイラストは……難しいね()

 こっちがルキアちゃんと遊んでる()ときのステラちゃん。獰猛に見えるように頑張りました(こなみ)
 
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 こっちがルキアちゃんと一緒にフィリップくんに勉強教えてるとき。やさしいおねえさんに見えるように頑張りました(こなみ)
 
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 もう無理だ。
 ファンアートください(他力本願) 


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172

 ホントにFA貰っちゃった(狂喜乱舞)
 
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 こちらのイラストはふくちゃさん(@hukutya1018)に頂きました。ありがとうございます!


 シルヴァはフィリップに抱き着いたまま泣きじゃくり、ドライアドたちに起こったことを話してくれた。

 

 森の裏側(裏層樹界)に住んでいた時のこと。宿無し、出来損ないと呼ばれていたこと。仲良く遊んで「楽しい」を教えてくれた友達のこと。全てが一瞬で崩壊した、ついさっきのこと。優しかったおばあさんのこと。その変貌と最期。

 

 泣き疲れて眠ったシルヴァを抱き締め、岩の上に腰を下ろしたフィリップは、さわさわと風に揺れる林冠を見上げて想う。

 

 「……別に、死んで良かったんじゃない?」

 

 いや、別にドライアドたちに思うところは無いが、聞く限りではこんな小さな子をイジメるクソ野郎──女郎か?──の集まりだ。ついでに言うと物語で読んできた「美しく気高い精霊」のイメージがぐちゃぐちゃに潰れたのも辛い。期待があった分、落差が生んだダメージも大きいのだ。

 

 「いや──」

 

 そんなことはどうでもいい。

 元々、人間が10人死のうが1億人死のうが誤差と断じる価値観を持つフィリップだ。見ず知らずの精霊が1000人単位で死んだからといって、特別な感傷は無い。

 

 問題はその死に様だ。

 身体がどろどろに溶けて死んだ。……何とも不可解で、それ以上に嫌な記憶を想起させるワードだった。

 

 フィリップはその死に様を齎す、死因までをも知っている。

 

 存在核の崩壊。

 盲目白痴の最大神格、アザトースに拝謁した者が至る終着点。圧倒的な存在の格差が「存在」という概念や形而上学に属するものを揺らし、押し潰し、破壊する。

 

 攻撃ではない。

 人間の側が勝手に潰れるだけの、単なる現象だ。故に、そこに慈悲は無く、例外も有り得ない。

 

 だからこそ不可解だ。

 

 アザトースに拝謁したのなら、発狂なんてしない。あのカルトたちのように、一瞬のラグも無く同時に液状化して死ぬ。

 シルヴァの語ったように、ドライアドたちが殺し合い、その他の様々な狂気に落ちたということは、少なくとも()()()()()()()()()相手と繋がったのだろう。

 

 存在格の破壊は、そう難しいことではない。フィリップには無理だが、時間の外側にいる上位次元存在、外神だけの専売特許という訳でもない。

 存在の核にアクセスすることが出来る相手、程度で言えば旧支配者上位──ハスターなど──なら、そういう攻撃も出来るだろう。

 

 だから相手の下限は、ハスター程度。

 そして上限だが、ヨグ=ソトースでさえ一見しただけで存在核を崩壊させることはない。それは証明済みだ。

 

 ハスター以上、ヨグ=ソトース以下。

 そのレベルの相手が降臨したのなら、いくらフィリップでも一瞬で気付く。いや、フィリップだからこそ、と言うべきか。

 

 邪神はいない。少なくとも今この瞬間には。

 ドライアドは降臨ではなく、交信を試みたと考えるべきだろう。

 

 そして自ら呼び掛けたナニカの逆鱗に触れ、根絶された。シルヴァが生き残った幸運も併せて考えると、幸運を見逃す程度の本気度だったのだろう。

 

 「──ふぅ」

 

 思考を終え、息を吐く。安堵の息だ。

 

 ここに邪神はいない。

 ルキアも、ステラも、安全だ。フィリップにとっての最優先事項は達成された。

 

 では次の問題だが──

 

 「……どうしよう、この子」

 

 フィリップの腕に身体を預け、目元を腫らして眠りこける、小さなドライアド。

 その身の上を聞いた後では、流石のフィリップも「じゃあ僕はこれで。頑張って生きてね」と放り出すことは出来なかった。

 

 それは非人間的だという思考が少しも無かったと言えば嘘になる。

 だがそれ以上に、彼女を放っておけないという気持ちと、邪神被害の生還者である彼女に対する同情があった。

 

 契約。

 その単語が頭を過る。

 

 ポケットには事前に準備した血液瓶がある。だがおそらく、フィリップの魔力量では精霊相手に契約は結べない。

 

 ルキアとステラに頼るのは最後の手段だ。

 彼女を助けたいのはフィリップの我儘なのだから、ここはフィリップが負債を背負うべきだろう。具体的には、連れ帰ってナイ教授に智慧を借りる。しこたま煽られるだろうが必要経費だ。

 

 「よし──ッ!?」

 

 覚悟を決めて、腰を下ろしていた岩から立ち上がった、その瞬間だった。

 

 身体が横向きに潰れた。

 まず目が押し込まれて視界が白くぼやける。次に舌が喉奥に向かって押し込まれ、同時に肺も圧迫されて息が詰まる。内臓に負荷がかかり、吐き気が込み上げてくる。全身の肉が圧搾されて血が噴き出しそうだ。脳が押されて、思考が、途切れ──

 

 「──、ァ」

 「うぎゅ……」

 

 シルヴァを抱き締める腕に力が籠り、声が漏れる。

 目を覚ましたシルヴァは不思議そうにこちらを見上げていて、苦しげな様子はない。

 

 よかった、と安堵の息を吐きたいところだが、それどころではない。

 そもそも呼吸ができていない。

 

 森の奥から殺到し、鳥や虫たちを一斉に飛び立たせた不可視の圧力は、実時間にしてほんの1秒か2秒で、数十秒もの体感時間を錯覚させる強烈なものだった。

 

 「は、ァ──はぁ、はぁ……」

 

 シルヴァを地面に立たせ、フィリップは勢いよく片膝を突いて息を荒げる。

 

 今のは、神威──では、ない。

 神格に特有の気配なら、フィリップはこの上ないほどに特上の味を知っている。希薄(マズ)すぎて感じられないことはあっても、知覚した神威を誤認することはない。

 

 「ふぃりっぷ、だいじょうぶ?」

 「はぁ、はぁ……うん、大丈夫。今の、分かった?」

 

 問いに、シルヴァは「うん」と大きく頷く。

 

 「いまの、まりょく。まじゅつになるまえの、じゅんすいなまりょく」

 「……なるほど、どうりで」

 

 通りで、似た感覚に覚えがあったはずだ。

 

 今のは、ルキアが怒ったときに感じるプレッシャーによく似ていた。

 フィリップは幸いにして、今のところ、彼女に怒りを向けられたことはないが、隣で感じたことは何度かある。

 

 その記憶に照らすと、

 

 「ルキア以上の魔力量? 冗談キツいな……」

 

 本当に神威が無かったのか、希薄過ぎて感じ取れなかったのか、定かでは無くなってくる。人間でないことは確かだろうが。

 

 苦い笑いを浮かべたフィリップの耳に、ばん、と爆発音が届く。

 音を頼りに空を見上げると、かなり遠くの空に林冠越しにも眩い赤い光が灯っていた。

 

 魔術による信号弾。ステラのものだろう。

 赤は確か──即時撤退。

 

 「シルヴァ、森を出よう。なるべく早い方がいいんだけど、ルート分かる?」

 「ん!」

 

 フィリップはまだ気分が悪いが、シルヴァはけろりとしている。

 大方、魔術耐性や魔力抵抗力のような、フィリップには無いといっていい力が原因だろう。

 

 先導役がいるのなら、方位磁石片手にうろうろする必要はない。さっさと森を抜けて、ルキアとステラと合流しよう。

 

 相手が何なのかは判然としていないが、邪神やそれに連なるものではないのなら、フィリップが無理をする必要はないのだから。

 

 「こっち!」

 

 さっきのように手を引かれて、足場の悪い森をひた走る。

 

 隆起した木の根を飛び越え、尖った葉のついた枝をくぐり抜け、泥濘を突っ切ろうとするシルヴァに引かれてスキー気分を味わい、獣道を有難く使わせて貰う。

 そして、ふと、その音に気が付いた。

 

 たたん、たたたん、たたん、と、明らかに人間ではない足音だ。

 背後から凄まじい勢いで近付いてくるそれは、どうやらフィリップたちを狙っているらしい。

 

 「ふぃりっぷ、てき、くる!」

 「みたいだね!」

 

 脳裏に浮かんだ、このまま走って逃げ切れるか、という疑問を笑い飛ばす。

 相手は四足獣、くぐもった足音からすると肉球のあるヤツだ。音感覚に自信は無いが、まだそれなりの距離があるような気もする。

 

 足音を軽減する肉球ありきで、この距離でこの速度、そしてこの足音の大きさ。

 

 直感だが、狼の大きさではないだろう。中型の熊か?

 

 「シルヴァ! 開けたところに行こう! ここじゃ戦い辛い!」 

 「ひらけた?」

 「あー……木が少なくて広い場所!」

 「わかった!」

 

 元気なお返事に続き、ぐい、と手を引いて方向転換。

 つんのめるようにして後を追うと、希望通り、いやそれ以上の広場があった。

 

 足場は柔らかく踏み締めにくい土ではなく、岩の上に薄く土が乗っただけの、ほぼ岩盤だ。地表を覆うコケも乾いたタイプのものが多く、ぬるりと滑る心配はない。

 

 何が出ても、とはいかないが、多少強い魔物くらいなら十分に戦える地形といえる。

 

 「来る──!」

 「……くる!」

 

 足音一つが、たん、ではなく、どん、と響いて聞こえるほど近付いている。

 

 シルヴァに下がるように手振りで示し、ウルミを抜く。左手は魔術照準用に、足音の方へ向けておく。

 

 鬼が出るか蛇が出るか。

 四足歩行の獣だとしたら熊だろう。魔物の知識は無いが、大型狼のダイアウルフやムーンウルフなんかだと、群れのボスは熊サイズだと何かで読んだ。

 

 魔術耐性の低い獣でありますように、と宛ても無く祈り──遂に、追手がその姿を見せた。

 

 フィリップたちが立ち止まったことに気付いたか、疾走を止めゆっくりと木立の中から進み出る、四足歩行の魔物。

 

 「──?」

 

 一見しただけでは、それがどんな魔物なのか分からなかった。

 

 全身を影のような靄に覆われ、シルエットの全容が判然としない。

 それでいて、相手が自分をどうやって殺すのかを見せつけるためか、太くしなやかな四肢と尖鋭な爪、唸り声を上げる強靭な顎と鋭い牙だけは見て取れた。

 

 狼にしては大きく、熊にしては小さいどっちつかずなサイズ。だが人間一人を押し倒すには十分な重量があるだろう。

 

 「…………」

 

 剥き出しの牙と真っ赤な双眸から目が離せない。

 少しでも余所見をすれば、喉元を食い千切られる確信がある。──神格招来の呪文をのんびり唱えている暇は無さそうだ。

 

 「しゃどううるふ」

 「シャドウウルフ? ……そんなの、この森にいるの? ──っと!」

 

 跳びかかってこようとしたシャドウウルフを、ウルミを叩き付けて牽制する。

 直撃せずとも、音速を超え衝撃波を起こす先端部分は脅威に映るのだろう、影に覆われた狼は獣らしく、半身を切るような下がり方をした。

 

 地面を打ったウルミは土を跳ね飛ばし、岩肌に擦れて火花を散らす。

 

 意外と魔物に詳しいらしいシルヴァは、フィリップの問いに首を振り、

 

 「ちがう、もりのまものじゃない。きゅうけつきのけんぞく」

 

 と、帰りたくなるような情報(コト)を口にした。

 

 

 

 

 



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173

 恐怖には種類がある。

 

 一つは理性的恐怖。

 たとえばナイフを突きつけられたとき、その攻撃による痛みや死を想像して恐怖する。刃物に対する知識、怪我や痛みの記憶といった個人の経験に基づく恐怖だ。

 

 一つは本能的恐怖。

 たとえば蜂の羽音、蛇の威嚇音に対する恐怖感が当てはまる。これは人体が持つ遺伝的恐怖心であり、人間であるのなら例外なく備わっている。

 

 狼の威嚇──正確には四足歩行獣の唸り声へと、暗闇に浮かぶ一対の光源への警戒も、遺伝子に記述され脈々と受け継がれてきた本能的恐怖心の一種だ。

 

 生物学的には人間であるフィリップの身体も、シャドウウルフを前にして硬直を強いられる。

 

 頭では分かっている。

 その爪で引き裂かれ、その牙を突き立てられようと、フィリップが死ぬことはない。フィリップを容易く殺せる力と鋭利さがあるからこそ。

 

 外神の視座は、眼前で唸る猛獣を脅威とも思っていない。

 

 だが──身体が強張る。

 フィリップの意志や認識に関係なく、フィリップの身体を構成する細胞が、遺伝子が、その機能に従って恐怖したような反応を返している。

 

 これは反射だ。

 眩しいから目を瞑る、熱いものを触れば手を引っ込める。そういう類の、訓練を積み重ねなければどうにもならないモノだ。

 

 「──ふぅ」

 

 ウルミを振って整形する動作で、深呼吸を誤魔化す。

 

 眼前で唸りを上げるシャドウウルフは、狼の名を冠するが獣ではない。

 生存本能を持たず、代わりに殺人衝動を備えた、人類の不倶戴天の敵。魔物だ。

 

 だからフィリップの「臭い」にも反応しないし──フィリップの甘い動きを、見逃すことも無い。

 

 シャドウウルフの身体が、影に隠れていても分かるほどに膨れ上がり、

 

 「■■■■■■──!!」

 

 咆哮。

 

 地面を揺るがすような雄叫びは、単なる「声」ではない。

 恐怖や威圧、恐慌の効果を持った、音を媒介にした精神攻撃だ。しかも、フィリップが息を吸う瞬間を狙って差し込んできた。

 

 人間は恐怖してしまうと、反射的に息が詰まる。

 だというのに、満足に息を吸えていない無防備な状態でも、恐怖した身体は徒に酸素を食い潰す。

 

 そうなってしまえば最後だ。

 息が足りないのに、息が吸えない。過呼吸にすらなっているのに、酸素が吸収されない。そんな弱々しい、戦闘態勢に入れていない無防備な身体を押し倒し、喉笛を食い破る。

 

 武術などであれば基本にして神髄である、呼吸の理解と調和。

 それを理合いを持たない、人ならざるものが行使する。

 

 この──戦闘本能!

 人間を殺すことを存在理由とする魔物に備わった、“知性無き最適戦略”こそが、魔物が畏れられる理由だ。

 

 だが。

 

 「──えい」

 

 軽い掛け声と、見合わぬ破裂音。

 一瞬と過たず、ずぱぁん! と水袋を切り裂くような音が続いた。

 

 「いやー、危なかった」

 「あぶなかった!」

 

 威圧は、駄目だ。

 敵となれば一瞬の躊躇もなく首を刎ねられる、害ある音無効、精神汚染無効のフィリップ相手では、悪手以外の何物でもなかった。

 

 魔物らしく消滅していく死体には一瞥もくれず、フィリップは「嫌だなぁ、でも確認しないわけにはいかないしなぁ」と明記された顔をシルヴァに向ける。

 

 「今の、吸血鬼の眷属って言った? この森って吸血鬼いるの?」

 「……わかんない」

 「えぇ……? 眷属がいるなら大元の吸血鬼もいるんじゃないの?」

 

 本当に頼りない声の返答に、フィリップも困り顔になる。

 

 吸血鬼と言えば、最上位種の真祖はゴエティアの悪魔にも並ぶ力を持つ、魔王勢力の超大物。

 まず前提として不老。魔力攻撃と銀武器以外の攻撃を無効化し、優れた身体能力と膨大な魔力を持つ上位のアンデッド。日光下では能力が半減し、月光下では倍増する。身体を無数の動物や霧に変化させたり、血を吸った分だけ力が強まったりすると言われている。目を合わせただけで相手を金縛りにする、なんて話もある。

 

 要は、とてもつよいアンデッド──神の敵対種だ。

 

 このレベルの相手を見落とすようなら、ドライアドは“森の管理者”なんて言われていないだろう。

 

 シルヴァはこの森のドライアド。フィリップより現地の生態系に詳しいはずだ。

 その彼女が知らないというのなら、今この森に来た、とかか? 馬鹿げた話だが、それなら先程の圧力にすら感じた魔力にも説明が付く。

 

 「もりのおくにふういんあった。それ、かも……?」

 「封印? 嫌な単語がポンポン出てくるなぁ……」

 

 それが原因だとしたら、封印が解けた可能性が高い。

 

 いや……封印? 封印というのは、少しおかしい。

 吸血鬼は不老だ。外的要因によって殺さなければ、永遠に存在し続ける。そんな存在が、人類に敵対しているのだ。

 

 だからこそ、人間はこれまでの歴史の中で、吸血鬼の情報を集め、対抗手段を模索してきた。

 吸血鬼の耐性や特性は厄介だが、既にパターンは出来ている。

 

 簡単な話だ。

 日光下、つまり昼間に、銀武器で武装した騎士と、遠距離攻撃の可能な魔術師、銀の鏃を使う弓兵などを使い、数の力で押し潰せばいい。教会の秘蹟には霧化や動物化を阻害する結界儀式があり、それは一般人のフィリップも知っているレベルで周知されている。

 

 聖別された油に、聖なる火を灯して焼却してもよい。

 

 魔を払う木、サンザシやトネリコの木から作った杭を心臓に突き刺してもよい。

 

 吸血鬼は強い。

 強いが故に、吸血鬼殺しのパターンは完成されている。

 

 その吸血鬼を、わざわざ封印したということは。

 

 「その吸血鬼、滅茶苦茶強いんじゃないの? ルキア以上の魔力みたいだし……」

 

 銀武器を使った正面戦闘、遠距離からの魔術砲撃、投石機による聖油壷爆撃辺りの定石が、全て効かなかったということだろう?

 いや、吸血鬼なら効くはずだから、それをやる前に対処部隊が壊滅したのか。どちらにせよ化け物だ。

 

 「シルヴァ、森を出るまでどのくらい?」

 

 そんな相手と戦うなら、ウルミとか魔術とか舐めたコトを言っている余裕は無い。

 

 森を出てルキアとステラが安全な位置にいることを確認し、そのままクトゥグアで焼却するか、シルヴァを預けてハスターと一緒に直接倒しに行く。これが最適解だ。

 

 「まっすぐなら、そんなに。でもほこらがあるから、ちょっとまわりみちする」

 「祠? ……封印と関係ある?」

 「ん!」

 

 良いお返事で。

 

 フィリップは腕を組み、思考を回転させる。

 のんびりしている余裕は無いだろうから、黙考できるのは精々一分そこらだ。一刻も早く結論を出さなくては。

 

 選択肢は二つ。

 

 一つ、祠の方へ行き吸血鬼を探す。

 一つ、祠から離れるように逃げる。

 

 前者の場合、確実に戦闘になるだろう。

 吸血鬼を前に邪神招来の長ったらしい呪文を詠唱できる確証がない以上、ハスターは事前に呼んでおくことになる。となると、シルヴァとは別行動が望ましいが──ルキアやステラに預けるならともかく、置いていくのは心苦しいし、彼女の方が襲われたら元も子もない。

 

 後者は、逃げ切れるのなら最高の解だ。

 ルキアやステラと合流すればどうにかなる可能性が高いし、あの二人が敵わない絶望的状況でも、シルヴァを預けて三人で逃げて貰えばいい。あとはハスターなりクトゥグアなりが何とかする。

 

 だが、逃げ切れる確証はない。

 さっきのシャドウウルフは獲物を前にして威嚇するアホで助かったが、眷属はあの一匹だけでは無いだろう。次もそんな個体とは限らないし、複数体で来られたらひとたまりもない。

 

 「ふぃりっぷ?」

 

 険しい顔で黙り込んでいたフィリップを心配するように、ぽてぽてと近寄ってきたシルヴァ。

 翠玉のような瞳に上目遣いで見つめられ、服の裾を小さな手できゅっと掴まれても、フィリップの心に動揺はない。

 

 だが──彼女は、フィリップと似ている。

 

 同族が邪神との交信を試み──暫定だが──、今までいたコミュニティが全滅してしまったシルヴァ。

 カルトの儀式によって外神たちに拝謁し、人間社会から精神的に隔絶してしまったフィリップ。

 

 程度の差はあるが、同じ被害者だ。

 少なくともフィリップはそう思って、彼女を抱き締めた。

 

 「ふぃりっぷ……?」

 「大丈夫。僕が、君を守るから」

 

 いつか言われたように、いつかのようにそう言って、フィリップは選択した。

 

 「森を出よう。吸血鬼はその後で何とかする」

 

 そうと決まれば早速移動だ! と立ち上がった、その瞬間だった。

 

 「あら、森を出られるのは困っちゃうわね。アナタ、とっても良い匂いがするもの」

 

 木立の間を縫って、舐るような、粘着質な声が届く。

 弾かれたように目を向けるが、声の主は見当たらない。隠れているのか、声だけを飛ばす魔術でもあるのか。

 

 「不思議な匂いだわ。アタシたちの棲む夜の匂いを、何倍にも濃くしたような芳香よ? お星さまやお月さまに香りがあるなら、きっとそんな匂いなのでしょうね」

 

 ひ、と小さく悲鳴を漏らし、シルヴァがぴったりと身を寄せてくる。

 フィリップには分からないが、声の主──吸血鬼の気配を感じ取ったのだろう。

 

 「そっちの子は……妙に覚えのある匂いだけど、どこかで会った──はずないわね。100歳超えには見えないもの」

 

 くすくすと独り笑う声の主。

 

 「──って、ちょっとぉ!?」

 

 を、完全に無視して、フィリップは声とは反対方向に駆け出した。

 

 

 

 

 



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174

 かたかたと震えて縮こまったシルヴァを抱えて──血肉の代わりに枯れ葉でも入っているのかと思うほど軽かった──、出来得る限りの速度で森を駆ける。

 

 相手の姿を見てもいないのに逃げるというのは、フィリップらしからぬ弱腰だ。

 だがシルヴァが怯え切ってしまい、戦うことも逃げることもできない現状では、邪神召喚も切りづらい。

 

 「シルヴァ、道を教えて! どっちが最短!?」

 

 ポケットのコンパスを取り出す暇も惜しんで叫ぶも、シルヴァは答えを返してくれない。

 彼女の口から漏れるのは「あいつ」「かえってきた」「なんでわすれてた」という恐怖と自戒の羅列ばかりだ。強烈な恐怖による一時的狂気という可能性もある。

 

 「シルヴァ! しっかりして! シルヴァ!」

 「ふぃりっぷ……ここは……?」

 

 懸命な呼びかけが功を奏したか、虚ろだった双眸に自我の光が戻る。

 

 よかった、と漏らすだけの息も、その暇も無かった。

 小脇に抱えられたままきょろきょろと周囲を見回したシルヴァは、何故か瞠目して、

 

 「とまって!」

 

 と、いま最も避けるべき行為を提言した。

 論外すぎて、何メートルか走るまで何を言われたのか理解できなかったほどだ。

 

 どうする?

 彼女はこの森についてフィリップより遥かに詳しく、吸血鬼に対する知識もある。

 

 だが、今の今まで放心していたのだ。

 正常な判断能力が残っているとは断言できない。

 

 ざりざりざり、と土を削る急制動。

 一瞬だけ迷って、フィリップは彼女を信じることにした。

 

 「ここ──こっち、だめ! けっかいのなか!」

 「結界!? どんな!?」

 

 二度と出られないとかだったらどうしよう。そんな悲観が脳裏を過る。

 いや、まぁ、もし本当にそんな結界だったら()()()()でも壊して脱出するけれど。

 

 「まいごにする! ほこらのほう、ちかづいてる!」

 「な、なんでそんな結界があるんだ!? 普通は逆──いや、来た道を戻ればいい!?」

 「ん!」

 

 普通は「辿り着けないように迷わせる」ものではないのかと突っ込みたいところだが、製作者はシルヴァではないだろうし、時間の浪費にしかならない。

 

 今やるべきことは吸血鬼からの逃走ただ一つだけ、足を動かすことだけだ。

 

 シルヴァの案内に従って走ること数分。

 フィリップは視界の端に、とても嫌なものを見た。

 

 木々の合間からほんの僅かに見えた──木々の合間から、ほんの僅かにしか見えなかったのに、一瞬で()()だと分かる形状(フォルム)

 

 人間の目が、脳が、真っ先に認識するようになっているカタチ。

 

 ヒトガタ。

 夜闇より暗い漆黒の髪を靡かせ、黒曜石のように仕立ての良いスーツを纏ったもの。病的に蒼褪めた肌は、死体が起き上がったような印象を与える。

 

 それは石造りの小さな祠のようなモノを横倒しにして、その上に腰掛けて自分の爪を眺めていた。

 

 「あら?」

 

 ヤツの興味が移ろう。

 鋭利に尖った自分の爪から、数十メートル離れたところを走る子供へと。木々の合間からほんの一瞬だけ、互いを視認できる瞬間がもう一度訪れる。

 

 その瞬間、血のように赤い双眸と視線が、合って──

 

 「──あ」

 

 心臓が止まった。

 

 脈拍も、呼吸も、体温の変化も、流れる汗も、走っていた慣性すら消失したような不自然な挙動で、フィリップ・カーターという存在のあらゆる動きが停止した。

 風が吹けども髪は靡かず、片足を上げた不自然な走行途中の姿勢でもよろめきすらしない。

 

 「ふぃりっぷ!? ふぃりっぷ!!」

 

 シルヴァの悲鳴じみた警告にも、身体を揺すられても、微動だにしない。

 

 「あらあら、自分から来てくれるなんて。さっきの言葉はアタシを焦らすための、ウ・ソ?」

 

 ヒトガタがゆらり、と幽鬼の動きで腰を上げる。

 何のために、何て言うまでも無い。こちらに近付いて、その人間とは思えないほどに発達した犬歯を喉元へと突き立て、血を啜るためだろう。

 

 「ふぃりっぷ!」

 

 鼓膜も停止した状態では、抱きかかえたシルヴァが何を言っているのかも分からない。

 腕の中で暴れていることだけは分かる──あぁ、ということは触覚だけは生きているのか? だったら、血を吸われるのはとても痛そうだ。

 

 目も動かせない。

 どころか、焦点すら合わせられない。

 

 ゆっくりと近づいてくる人影は徐々にぼやけて、輪郭だけが何となくわかるような状態になって、やがて肌感覚で分かるほどに近付かれた。

 シルヴァはすっかり怯え切って、暴れるのもやめてフィリップの身体に縋り付いている。

 

 「──」

 

 声も出せない。

 当然だ。息を吸うことも吐くこともできないのだから。

 

 だが、苦しくはない。

 全身の細胞の酸素交換さえ停止している。

 

 異常に発達した犬歯を備えた口が開かれ、フィリップの喉元へと迫る。

 

 しかし──

 

 「あはっ」

 

 歯を突き立てる湿った音の代わりに、軽い笑い声が漏れた。

 百年ぶりの食事を前にした飢えの吐息、獣じみた呼気に、知性と愉悦の色が混じる。

 

 食欲と獣性を示すような涎を嚥下して、そいつの鼻がすん、と鳴る。

 

 「アナタ、本当にいい匂いだわ。アタシの飼ってる猫ちゃんのよう」

 

 フィリップに聞こえていれば「それホントにいい匂いか?」と訊き返したくなるようなことを言って、軽やかなステップで離れていく。

 

 肌感覚とぼやけた視界でそれを感じ取り──ふと、全身の活動が再開された。

 

 「う、わ──!?」

 

 心拍、呼吸、そして慣性さえもが一気に戻り、つんのめって地面を転がる。

 巻き添えになったシルヴァには本当に申し訳ないが、頭は庇ったので許してほしいところだ。

 

 受け身を取って立ち上がり、反射的に伸ばしそうになった手を制御してウルミを抜く。

 

 些末な抵抗の予兆には一瞥もくれず、ヤツは上機嫌に尻を振って歩いている。

 

 こちらに背を向けているが、獲れるか、と考えたのは一瞬だけ。すぐに無理だと思い直す。

 

 「今の──」

 「こうそくのまがん。みられたらとまる……とめられる」

 

 あの“拘束の魔眼”がこちらに向けられた瞬間、『拍奪』も、恐らくはウルミの動きさえも停止する。

 

 「はは……すごいな」

 

 思わず、乾いた笑いさえ零れた。

 今のは「目を合わせたら金縛りに遭う」なんていう伝承が可愛らしく思える、必殺の能力だ。

 

 心拍や呼吸どころか、流れ落ちる汗、直前の動きの慣性さえ停止させる凍結。

 完全停止の中でも思考を巡らせることができたのは、思考が肉体よりも精神の次元に近しいどっちつかずなものだからか? 

 

 もしそうなら、あれは肉体──否、物理次元に属するもの全てを縫い留める、空間操作にも匹敵する権能。これに比べれば、不老能力なんて添え物もいいところ、ハンバーグに付いてくるニンジンみたいなものだ。

 

 「こっちへいらっしゃい。少しお話しましょ?」

 「……この子を」

 「ダメよ。アナタにできるのは従うことだけ。分かるわよね?」

 

 ドスの利いた声で制され、続けて甘い猫撫で声で誘われる。

 

 苦い笑いが浮かぶ。

 ヤツの言葉は、脅しでも何でもない事実だ。

 

 シルヴァを逃がそうとしても、今すぐに神格を呼ぼうとしても、ちょっと魔力を込めて一瞥するだけでフィリップは停止す(とま)る。

 

 自分の足で歩かせるのは、停止したフィリップを運ぶ一手間を嫌っているだけに過ぎない。

 

 「……くそ」

 

 厄介な相手だ。

 勝ち目がない、とさえ思う。

 

 吸血鬼は血を吸うことで、相手を吸血鬼に変えることができるという。そして変化させられた吸血鬼は、親となった相手に絶対の忠誠を植え付けられ、永遠の命を懸ける忠実な僕になってしまうのだとか。

 

 勿論、精神汚染効果はシュブ=ニグラスの守りが防いでくれるだろう。

 だが肉体変容は別だ。もし吸血鬼なんかになってしまったら、人間社会から爪弾きにされるどころの話ではない。人類の敵扱いだ。

 

 何より、不老不死の強靭な肉体(現在比)を手に入れて、人間性が残る保証がない。

 

 「適当に座って頂戴? 隣でもいいわよ?」

 

 打ち捨てるように倒された祠に腰掛け、一刀の下に切り裂かれたような綺麗な断面の倒木と、その切り株を示される。

 

 「しゅごじゅが……」

 

 シルヴァの呟きは、守護樹、だろうか。

 トネリコ、サンザシ、ビャクシン、ポプラ。どれも吸血鬼に効く杭を作るための素材と言われる、退魔の木だ。無惨に伐られ、倒されている。

 

 手近だったトネリコの切り株に腰を下ろす。勿論、すぐに動けるように浅く。

 

 「さて──」

 

 尻を基点にして180度回転し、吸血鬼がこちらを向く。

 ここで初めて、その姿をはっきりと視認し──思考が止まった。

 

 魔眼ではない。

 ロワイヤル・スタイルに整えられた口ひげと、大きく開けたシャツから覗く、分厚い胸板と豊かな胸毛の所為だ。

 

 そいつはどう見ても、艶やかな長い黒髪の──おじさんだった。しかも顔の造形自体はかなり整っている、ダンディなオジサマだ。

 

 ……いや、まあ、確かに、「女性にしては低い声だな」とは思ったのだが。

 

 「なぁに? 随分とアツい視線をくれるじゃない」

 「……おと、こ、なん……です、よね?」

 「フフ……どう見える?」

 「えぇぇえぇ……?」

 

 わかんない。めのまえのものがわかんない。

 声が恐怖で震えるなんて、生まれて初めてのことかもしれなかった。

 

 フィリップ・カーター11歳。

 人生初の、オカマとの遭遇だった。

 

 「でぃあぼろす……」

 「あら? やっぱり何処かで会ったかしら? でも、それは昔の名前よ。今はディアボリカって呼んで頂戴?」

 

 シルヴァの呟きも、それに応えるディアボリカの言葉も、まるで頭に入ってこなかった。

 

 「アナタどう見ても発生から2、3年ってトコロだけど、なんでアタシを知ってるのかしら? ここに封印されたのは、もう百年も前の話なのに……」 

 「しってた……ううん、おもいだした? わかんない」

 「ふうん……ま、いいわ。今はそれより、アナタのことが気になるわ。お名前は?」

 

 フィリップに視線が向く。

 魔眼はオン・オフの切り替えができるようだが、魔術を照準されているに等しい状況だ。油断はできない。

 

 いや、というかそれ以上に、油断以前に、頭が真面(マトモ)に働いていない。

 

 「……フィリップ・カーターです。ミス……ター? こほん。吸血鬼ディアボリカ」

 

 敬称は男性系でいいのか? それとも女性形か? という至極どうでもいい逡巡を、敬称を付けないことで解決する。

 

 「あら、高貴な感じのいいお名前ね。青い血じゃないのよね?」

 

 仲良くお喋りという間柄でもないし、首肯するに留める。

 それでも会話が成立したことが嬉しかったのか、ディアボリカはその顔を喜色に染めた。

 

 しかし、続くディアボリカの言葉は、友好的とは言い難い剣呑なものだ。

 

 「勘違いされないように言っておくと、アタシはあと数分でアナタを殺すわ。聞きたいことを聞いたら、すぐにでも。あぁ、勿論、抵抗の機会くらいあげるわよ?」

 「……そうでしょうね」

 

 知っていたと口先で言いながら、フィリップは少し安心していた。

 血を吸って配下にされると、最悪の場合は人間性の完全な喪失に繋がるので、シルヴァの正気を天秤に乗せてでも抵抗する所存だったのだが──殺されるのなら、どうとでもなる。具体的にはヨグ=ソトースの庇護を信じて命を捨てる。

 

 「素直で良い子ね。百年ぶりの食事で喉がカラカラじゃなかったら、配下にしてたかも」

 「結構です。……質問に答える代わりに、この子を逃がしてくれませんか?」

 「ダメよ。アタシ、その子のことは知らないはずなのに、妙に引っ掛かるのよ」

 

 ち、と舌打ちを漏らす。

 まぁダメ元で聞いただけだし、というのは完全な負け惜しみだ。

 

 「森の外にはとんでもなく面倒なのもいるみたいだし、これ以上、たとえ若い精霊一匹でも敵を増やしたくないの」

 

 ディアボリカはフィリップから視線を外し、斜め後ろの辺りを眺める。

 恐らく、その先には魔術学院生たちが──ルキアとステラがいるのだろう。

 

 「アナタのお友達ね? 魔術学院生……アタシの眷属ちゃんたちにしてみれば餌同然の小粒だけど、聖痕者が居るわね。しかも、片方は光と闇のデュアル。たった百年で、とんでもない時代になったものね」

 

 やだやだ、と首を振る。

 しかし人類最強の魔術師二人の存在を感知しておきながら、その表情に焦りや翳りはない。

 

 勝てるのか? と、疑問が浮かぶ。

 フィリップが、ではない。

 

 「聖痕者が助けに来ると信じて時間を稼ごうとしてるんでしょうけど、無駄よ。アタシの眷属が100匹単位でお友達を襲ってるんだもの。そっちを守るのに手一杯でしょうし……ココ、内側からは出られなくて、外側からは入れないようになってるもの。ね、ドライアドちゃん?」

 「……う、ぁ」

 

 水を向けられても、シルヴァは怯えて頭を抱え──? いや、違う。この仕草は、単に怯えているというより。

 

 「シルヴァ? 大丈夫? シルヴァ?」

 「ぃ、ぅ……だいじょうぶ」

 

 頭が痛いのか。

 さっきの転倒で打った──わけではないだろう。そうならないよう、きちんと庇った。

 

 隣に座ったシルヴァの肩を抱き、頭を確認するが流血している様子はない。

 

 「あらあら、じゃあ、手早く本題を済ませちゃいましょうか」

 

 こつ、と硬い靴音。

 ディアボリカが打ち捨てられた祠から腰を上げ、こちらに近付いてくる第一歩目の音だ。

 

 ほんの数歩で距離が埋まる。

 動けば()()()()()と理解していたから、フィリップはそれを受け容れるしかない。

 

 香水の匂いが鼻を突くほどの距離になり、冷たい吐息の漏れる口元が首筋へと伸びる。また、すん、と獣の鼻が鳴った。

 

 「間違いないわ、この香り。夜の匂いを何倍にも濃くした、アタシの一番好きな匂い。そう──()()()と同じ、ね」

 

 ディアボリカの影が伸びる。

 不自然な角度に、不自然な大きさで、不自然な濃さの影は、吸血鬼が眷属を召喚するための門であり、眷属たちが眠る異空間でもある。

 

 そして──ぞる、と、聞くに堪えない音を立てながら、()()が姿を現した。

 

 

 

 



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175

 緑色を基調としたグラデーションの触手。アラベスク模様と金色の一本線に彩られ、側部には宝石のような小さな煌めきを並べた、絢爛とも言える外観。

 鮮やかで派手な色合いのそれが織り合わされ、四足歩行の獣のような形状(フォルム)を象る様は、まるで抽象絵画がキャンバスを飛び出したようにも思える。

 

 地面に四つ足を付き、背中を反らせて伸びをする。

 まるで猫──いや、事実、それは猫だった。

 

 「土星の猫……!?」

 

 土星に住む、猫のような生き物。

 神格ではなく、神格に連なるモノでもない。地球に猫が棲んでいるように、土星にも猫が棲んでいる。ただそれだけのこと。それだけのもの。

 

 だが、フィリップの智慧にある。

 それはつまり、触手で編まれた前足で触手で編まれた顔を洗っている、この醜悪な猫は、シュブ=ニグラスの視座から見てもフィリップを殺し得るということ。

 

 そんなものを呼び出した張本人、吸血鬼ディアボリカは、「あら博識。ホントに配下に欲しいわ」などと悔やんでいる。

 

 「前にお空から降って来てね、拾ったのよ。血を分けて眷属にしたの」

 「……へぇ」

 「不思議な見た目だけど、すっごく強いの。今のアタシの、んー……半分くらい?」

 

 はは、と、乾いた笑いが漏れる。

 

 ふざけた性格(キャラクター)だが、ディアボリカは本当に強い。

 百年間も封印されていて、力の源である血液は枯渇しているはずだ。そして今は昼間──木漏れ日とはいえ間違いなく陽が射している、日光下。吸血鬼の力は半減しているはず。

 

 それで土星猫の倍。

 

 土星猫は非神格だが、惑星間航行能力を持ち、星々の放つ電磁波や重力をいなしながらふらふらと彷徨する、気ままな猫だ。

 宇宙空間という絶対死──真空、極低温、極高温、その他無数の死因が散らばる地獄で、猫のような振る舞いを可能にするだけの強度がある。

 

 好奇心のままに星を訪れ、格下を狩って糧にする。時には残虐な方法で弄び、退屈を紛らわすことさえある。

 神格や自分より強いモノに遭えば、一目散に逃げるだろう。だがそれは、戦力を見定める観察眼と、素早い判断能力と逃げ足を有するということだ。

 

 宇宙の猫。

 宇宙空間で自由気ままな猫のように振る舞うだけの強さを持つモノ。

 

 興味無さげに毛繕い──触手だが──をしていたそれが、ぎょろり、と、骨格を持たない動きで首を向ける。

 

 「──っ」

 

 視線が合う。

 ハスターのような「便宜上の顔」ではなく、生物的な機能の備わった頭部の、バロック風の装飾に彩られた眼球と。

 

 こちらを観察する、四つ足の大型動物。

 先程のシャドウウルフよりさらに大きい、フィリップよりも体格に優れたネコ科の獣。

 

 フィリップの身体が、刻み込まれた本能によって硬直する。

 

 しかし──恐怖の度合いで言えば、相手の方が大きかったようだ。

 

 ぴょーん、と、蛇か胡瓜を見つけた猫の動きで飛び跳ね、大きく距離を取る土星猫。

 予備動作ゼロでほぼ垂直に5メートル以上跳躍する身体能力は驚異的であり、脅威だ。襲われたらひとたまりも無いだろう。

 

 「ど、どうしたの!?」

 

 ディアボリカが驚愕の声を漏らす。

 土星猫はそれには応えず、フィリップをじっと見つめる。

 

 ややあって、一歩、肉球とは似ても似つかないのに外観の形状だけは猫に近い足を、フィリップに向けて踏み出した。

 

 「……ふぃりっぷ」

 「大丈夫、大丈夫だよ」

 

 シルヴァを右側に座らせたのは失敗だった、と、腰の右側に佩いたウルミを思う。

 彼女の肩を抱いていた右手をそっと放し、ゆっくりと立ち上がりながら、ディアボリカを刺激しないように緩慢な動作でグリップへ伸ばす。

 

 ──駄目だ、間に合わない。

 ウルミを抜くより、土星猫がフィリップの足元に来る方が早い。

 

 かといって、焦って動きを速めれば、あの拘束の魔眼が飛んでくる。

 

 緑色の醜悪な猫は、ゆっくりとフィリップの周りを一周し──

 

 「──」

 

 きーん、と、人間の可聴域ギリギリの鳴き声を上げながら、ぽてりと横たわった。

 

 「……は?」

 「……あら」

 

 胴体をフィリップの足にこすりつけながら、ごろごろと転がる土星の猫。

 きーん、きーん、と続く超音波といい、もしかして、

 

 「あらあらあら甘えちゃって! 可愛いわね!」

 「……えぇぇえ……?」

 

 何故か嬉しそうなディアボリカの言葉に、フィリップの混乱が限界を突破する。

 

 「……お前ね、僕は一応、お前のご主人様に敵対してるんだぞー?」

 

 闘争の空気でも無くなって、うねうねと足元で蠢く触手の塊を撫でる。

 ふわふわもふもふ──というより、ぬめぬめむちむちうごうご、という感じだ。触っていて気持ちのいいものではないが……ちょっとクセになりそうな感触ではあった。

 

 「……ふむ」

 

 生温かい触手の隙間に手を突っ込み、奥の方を撫でてやると、土星猫は気持ちよさそうに身を捩る。

 

 「ふむふむ……」

 

 なるほど、これは確かに、触っていて楽しいモノではある。というか、むしろ無限に触っていられる。

 好きなところを触ってやると「あーそこそこ」と言いたげに身を捩るのも、違うところだと「そこは別に……」と萎れるのも、どちらも可愛い。

 

 触手の表面はぬるりとしているが、粘液が分泌されているわけでも無し、触って手が汚れることはない。

 外観は好みの分かれるところだろうが、あの醜悪な黒山羊より可愛げがあるし、見ただけで発狂する邪神などとは比べ物にならない。

 

 「うーん……この子の玩具(オモチャ)にしようと思っていたのだけど……懐いちゃったわね」

 

 フィリップと戯れている土星猫を見て、ディアボリカは予想外だと呟く。

 

 そして、はっとしたように顔を上げ、フィリップ斜め後方の辺りに遠い目を向けた。

 

 「アタシの眷属たちが……そう、今代の聖痕者は一味違うってワケね。……なら、行きなさい、猫ちゃん。あの二人を始末するのよ」

 

 きーん、と超音波。

 土星猫は動かない。いや、動けない。

 

 「やだ、気紛れ! でもそこが可愛い!」

 

 ディアボリカは楽しそうに笑っているが、気紛れなどではない。

 土星猫が動かないのは、フィリップが押さえつけているからだ。

 

 フィリップの腕力は決して強いとは言えない。

 ウルミは筋力以上に身体の柔軟性が大切だと言われ、無駄な筋肉は付けない訓練をしている。同年代の子供と比べれば強いだろうが、それでもクラスで腕相撲大会をすればビリ確定だろう。体重も、体格に見合ってかなり軽い。

 

 それでも、土星猫は動けない。

 惑星間航行で染み付いた星々の匂いを漂わせる自分とはワケが違う、神格の寵愛(けはい)を纏うフィリップが、「動くな」と言外に命じているのだ。

 

 天秤に載っているのは、ディアボリカとフィリップの言葉ではない。

 ディアボリカの言葉と、ナイアーラトテップやシュブ=ニグラスといった外神の気配だ。針は振り切れ、行動は固定される。

 

 「……」

 

 一瞬だけ、「血を飲ませたらどうなるのだろう」という疑問が浮かんだ。

 このくらいの外見なら、気色の悪い魔物と言い張れないこともないのではないだろうか、と。

 

 ただ、契約には魔力量の制限がある。

 フィリップと土星猫の魔力量を比較して、フィリップが勝っているとは考えにくい。

 

 「もう、仕方ないわね。先にアタシの準備運動を済ませちゃおうかしら」

 「……はぁ」

 「あら、気が利く子ね。ホントに欲しくなっちゃうわ」

 

 ちらりと向けられた視線に嘆息し、立ち上がってウルミを構える。

 

 ディアボリカの言葉通り、ヤツにとってフィリップは何ら障害になり得ない。準備運動の相手になるかどうかはやってみないと分からないが、それ以上の脅威にはなれないだろう。

 

 腕の一振りで片が付く羽虫より、さらに格下。

 一瞥するだけで動きが止まり、あとはどうとでも料理できる俎上の魚。向かい合ってウルミを構えていて、自由なように見えるけれど、実情は生け簀に飼われた食材だ。

 

 ここまでずっと考えてきたが、答えは出ない。

 あの拘束の魔眼に見咎められず、神格招来の呪文を詠唱完了できる方法。フィリップがこの場を無傷で乗り切るビジョンが全く見えない。

 

 「そのウルミ。鉄と錬金金属の合金ね? 対アンデッドでもそれなりの効果はあるでしょうけど……」

 

 打ってこい、というように手招きされ、蒼褪めた首筋に向けて躊躇なく一閃する。

 

 直撃の寸前に先端部が音速を超え、破裂音を鳴らす。

 人間相手なら頸動脈や気道を削ぎ取る会心の一撃はしかし、小さな蚯蚓腫れすら残さない無駄打ちに終わった。

 

 「躊躇ないわね。あぁ、ホント残念……アナタ一人分の血も惜しい状況じゃなかったら、連れ帰って娘婿にしたいくらい」

 「ははは……」

 

 ディアボリカは終始一貫してフィリップのことを気に入っている様子だが、フィリップを見逃すことは無いだろう。

 

 漆黒の双眸には、ステラによく似た、冷酷で厳密な計算の光がある。

 フィリップを心底気に入っていても、聖痕者二人と対峙する可能性や、これから魔王領である暗黒大陸まで南下する道程を考えれば、絶対的に血液が足りないはずだ。それこそ、フィリップの小さな体に収まった、ほんの三リットル程度の血液すら惜しいほどに。

 

 それでも即座に吸血してこないのは、「いつでも殺せる」という確信と、

 

 「じゃ、準備運動に付き合って頂戴。《エンチャント・シルバー》」

 

 百年間もの封印生活で鈍った戦闘勘を取り戻す、()()くらいにはなるだろう、という期待によるもの。

 

 フィリップの手にしたウルミが魔力の輝きを帯び、銀属性が付与される。

 

 どうして、なんて考えるまでもない。

 ヤツにとって、素のフィリップは準備運動にもならないというだけのこと。

 

 フィリップの手が離れ、退屈そうに、或いは寄り添うように足元で丸まっていた土星猫が、戦闘の気配を察して立ち上がる。

 

 「そこで見てなさい」

 「たとえ僕が死んだ後でも、僕の友達に手を出したら……」

 

 分かるね? と、軽く首を傾げて見せると、土星猫は飛び上がって、そのまま森の奥へ消えてしまった。

 

 ディアボリカにしてみれば命令に反する、フィリップにとっても想像以上に過敏な反応に、二人はその後ろ姿を揃って見送る。

 

 「フフフ……あぁ、もう、ホント、ここでアナタに会っちゃったこと、堪らなく悔しいわ」

 「僕だってそうですよ。吸血鬼になんて、死ぬまで会いたくなかったです」

 

 笑って、ウルミを構え直す。指示するまでもなく、シルヴァは少し離れた木の陰に隠れた。 

 

 戦闘開始だが、さて──どうするか。

 

 

 

 

 

 

 

 



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176

 ステラの打ち上げた、赤い魔術信号弾。

 王国内では『即時撤退』の意味を設定されたそれは、二人だけでなく、森の中にいた全ての魔術学院生に対する眷属獣襲撃を理由とするものだった。

 

 意味の分かる者は即座に従い、意味の分からない者も状況を判断して自主的に森を出ようと動く。

 既に大半の生徒が森に入った目的──召喚魔術用の契約を終えて帰る途中だったこともあり、信号弾の打ち上げから十数分で、ほぼ全ての生徒が森の外で合流できた。

 

 森を出たら追ってこない。

 無邪気にそう信じていた生徒はごく少数だったが、彼らの抱いていた幻想、「森を出れば安全だ」という思い込みだけは真実だった。

 

 「いいか! 絶対に無差別攻撃はするな! 単体攻撃を主にしろ! 範囲攻撃を使う時は敵集団を確認し、生徒がいないことを確定させてからだ! 森に火を付けることも禁じる!」

 「はっ!」

 

 騒ぎを聞きつけてやってきたローレンス伯爵の騎士数名と魔術師数名、そして魔術学院生たちに、ステラの鋭い命令が飛ぶ。

 

 現在、未帰還の生徒は四名。

 その中にはフィリップも含まれている。

 

 彼らが屋敷の無い側から脱出している、或いは既に森の中で死んでいるという確証が得られるまで、森から出てくるモノを適当に薙ぎ払うわけにはいかなかった。

 

 普段のステラなら、大多数の安全のため、自ら進んで範囲攻撃を使っていただろう。それがこの場に於ける戦略解だ。

 しかしフィリップが死ぬ可能性を考慮すると、彼女の合理性にも翳りが生じる。

 

 「ステラ、私だけでも──」

 「駄目だ。入れ違いになると最悪だし、吸血鬼の魔力量はお前以上だ。カーターを守りながら戦うことになったら、一人では勝てんだろう」

 

 フィリップとルキアは、ステラにとって盤外の存在だ。

 直面した状況をゲームのように数値化して分析し、求める結果()に繋がる選択肢(戦略)を選ぶ彼女が、数値化さえできないもの。ゲームの盤上ではなく、その埒外にある存在。

 

 だから、何を措いても二人を守る。

 たとえこの場の生徒全員が死ぬことになろうとも。

 

 「ステラ!」

 「何度も言わせるな、ルキフェリア! 私を出し抜こうとしてみろ、その足を消し飛ばすぞ!」

 「──、っ」

 

 余裕が無い。

 既にフィリップが死んでいるかもしれないと、心の片隅に疑念が生じるだけで、精神の均衡が崩れそうだ。

 

 そんなステラの必死さが伝わったか、ルキアは息を呑み、ややあって深く頷いた。

 

 「分かったわ。フィリップを助けに行く……ここを片付けて、ステラと一緒に」

 「……それでいい。それが最適解だ」

 

 次々と森から飛び出してくるシャドウウルフや、同じく影に覆われた巨大な蝙蝠や蛇を、ルキアとステラの魔術が次々と屠っていく。

 しかし、そのペースは遅い。範囲攻撃を禁止していては、いくら二人でも最速より一歩か二歩、劣る。

 

 「な、なんで魔術が!?」 

 「弾かれてる!? まさか、耐性で!?」

 

 魔術学院生の一人と、ローレンス伯爵麾下の魔術師が驚愕の声を上げる。

 

 影に覆われた魔物、吸血鬼の眷属が持つ、予想外の魔術耐性。

 一般の魔術学院生の中級攻撃魔術を容易く弾き、本職の魔術師の攻撃すら軽減する強度だ。彼らの攻撃を完全に無効化できるルキアとステラほどではないが、こうも数が多いと脅威度が跳ね上がる。

 

 数には数で対抗したいところだが、こちらはそもそも数的不利で、しかも有効打を与えられる魔術師の数はさらに少ない。

 質で対抗しようにも、範囲攻撃では逃げ出してきた生徒を巻き込んでしまう可能性がある。

 

 ならば、

 

 「誰か! 誘引系の魔術を使える者はいるか!」

 「はい! 駆除作業の時に使う、広範囲型の『インデュース』が使えます!」

 「自分は戦闘用の『デコイ』が!」

 「善し! 全員集合! 誘引魔術、発動準備! ──今ッ!」

 

 森の外にいた全ての生徒が集合したタイミングで、ステラの指示が飛ぶ。

 

 一瞬の後、複数の誘引魔術が飛ぶ。

 それは森へ向かって漂う不可知の臭気のようなもので、範囲内の魔物は術者への強烈な敵意に支配され、攻撃の対象を固定する。

 

 既に森の外にいた影の獣たちも、森の中に潜んでいたものも、効果範囲内にいた百以上の魔物が咆哮する。

 

 魔物に備わった戦闘本能を強制的に励起され、自分のものではない殺意に支配された彼らはまさしく獣。“お前を殺す”という意思だけが込められた雄叫びは、脆弱な生物の本能を屈服させる。

 

 「どどどどどうするんですか!? 私、これ使いながら他の魔術使えませんけど!!」

 「範囲攻撃だと耐性に弾かれます!」

 

 自然と円形に集まった学院生や騎士たちに向かって、半円状に突進する魔物の群れ。

 波状攻撃などとは決して呼べない、個と個と個の、連携無き一斉突撃。

 

 影が波となって襲ってくる、では足りない。波打つ壁だ。

 そこに対岸への逃避路、活路は無い。呑み込まれたら最期、引き裂かれ、食い千切られ、飲み啜られ、嚥下され、跡形も残さず消え失せる蝗害(しんわ)の具現。

 

 それを、

 

 「《撃滅の槌》」

 

 聖人が、薙ぐ。

 

 ステラの魔術(もとめ)に応じて執行される神罰は、天上より降り注ぐ血の色の雹と焼けた硫黄。

 神話に於いては世界から罪人を一掃する黙示録における第一の裁きとも、罪業に塗れた都市を焼却したとも言われる、神聖にして不可避の局所天候変化。

 

 風の影響も受けず、効果範囲を完璧に制御されたそれは、森から飛び出してくる魔物を片端から灰に変える。

 燃え尽きたようにも見えるが、そこに燃焼のプロセスは無い。文字通り雨霰と降り注ぐ血の色の雹と焼けた硫黄に触れた瞬間に、『粛清の光』と同じく灰の塊に変換される。相手が炎に完全な耐性を有していようと、相手が炎そのものであろうとだ。

 

 魔術そのものは無音。

 降り注ぐ硫黄は汚染された地面を焼き浄化するが、ここは罪業都市ではない。地面に落ちた雹や硫黄は幻影のように、或いは粉雪のように消える。

 

 断末魔を上げる間もなく灰へと変わる魔物たちもまた無音。

 

 しかし──

 

 

 本来は対都市攻撃級の効果範囲を極限まで制限する超絶技巧は、些か過剰だった。

 森から出てくる者を傷付けないように、万が一にも森が効果範囲に入らないようにという恐れにも似た配慮が、群れの一部を取り逃していた。元より、生徒たちを包囲する群れを、生徒たちを巻き込まずに一網打尽にするなど無理な話だ。

 

 

 「■■■■■■──!!」

 

 残党の上げる咆哮は、徹頭徹尾、己の敵対心と血への欲求に塗れたものだ。

 仲間を殺された復讐心など、独立した個の集合でしかないヤツらは持ち合わせない。

 

 魂を震わせる憎悪の発露を前に、ステラは依然、獰猛に笑っていた。

 

 「そのままでいいわよ」

 「任せる!」

 

 残党を一掃するのは容易い。効果範囲の制限を止めれば、辺り一帯は罪なき者のみが生き残る焦土(らくえん)になる。

 

 だが、その必要はない。

 ステラと魔物では、ステラの方が存在格が上なのだ。だから──

 

 ()()()()()()

 

 「《グラビティ・スフィア》《ゼログラビティ》」

 

 闇属性の中でも高度な技術である重力操作系統の魔術。

 上級に位置するものを二種同時に発動したのは、言うまでもなくルキアだ。

 

 一つは真球。グラビティ・スフィア。

 魔物の群れの中心部、その上空に生成された漆黒の球体。凄まじい重量を持つそれは、周囲のモノを自らに向けて落下させる空間の孔(ブラックホール)

 

 一つは半球。ゼログラビティ。

 一か所に集まった生徒たちを守るような半透明のドームは、外部から内部への重力影響を緩和する。完全にゼロにすれば、星の巡りによって相手を吹っ飛ばすことになってしまうそれを、ジャンプの高さがちょっと上がる程度に、『グラビティ・スフィア』に向けて引っ張られるような気がする程度に制御していた。

 

 森から出てきた魔物が十数歩進み、上空の球体へ吸い込まれていく。

 そこは群れの中心であり、同時に、ステラの展開した裁きの只中だった。

 

 勝手に落ちて、勝手に灰と消えていく魔物の群れは、程なくして頭打ちとなった。

 

 「……終わりか」

 

 眼前に吹き荒れていた終末を、腕の一振りで霧散させる。

 

 ほんの数分の展開とはいえ、ただぶっ放すのではなく綿密な制御を要したそれは、ステラの膨大な魔力の二割を食い潰していた。

 

 「各員、周囲を警戒! 負傷者は下がれ! ……ルキア、五分後に森へ入る。準備しておけ」

 「了解」

 

 ルキアは「五分?」とは聞かなかった。

 本当なら今すぐにでもフィリップを探しに行きたいところだが、ステラが「五分後」というのなら、それは吸血鬼と対峙するのに必要な回復時間なのだろう。それも限界まで切り詰めた、吸血鬼相手には死闘を演じることになるであろう、ギリギリの。

 

 フィリップなら大丈夫だ。

 恐ろしい邪神を従え、強大無比なるシュブ=ニグラス神の寵愛を受ける彼なら、ルキアよりちょっと強い程度の相手に遅れは取るまい。

 

 そう信じて祈りながら、そう信じて祈ることしかできない現状を、己自身を強く呪った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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177

 どうするか。

 現状、ディアボリカを殺せるビジョンは全く見えない。

 

 いや、フィリップも有効打になり得るカードは数枚ほど握っている。

 

 クトゥグアとハスター(神格招来)の二枚は、一星の支配者にもなれないような劣等種相手には十分な火力を誇る。クトゥグアに関しては些か過剰の感も否めないし、また何かの手違いでヤマンソが出てくるのではという懸念もあるが、眼前の吸血鬼を殺し切れないことは無いだろう。

 

 だが、その行使には長々とした詠唱を要する。

 精神を犯す毒である邪神の名前が含まれた呪文は、天使や悪魔にすら恐怖を与える。ディアボリカも何かしらの脅威を感じ、拘束の魔眼で止めてくるはずだ。

 

 小声でこっそりと、という案も浮かぶが、そもそも魔術行使に伴う魔力の動きを感知した時点で拘束(たいさく)される。

 

 もう一枚。

 ご丁寧にも自分から銀属性を付与し、吸血鬼にも有効打を与えられるようにしてくれたウルミだ。

 

 これは完全に見せ札で、ディアボリカもこれが自分を殺し得るとは思っていないだろう。いや、そもそも──

 

 「吸血鬼は不死身だって聞いたことがあるんですけど、そうなんですか?」

 

 世間話のような調子、というには険の籠った声での問い。

 そもそも殺せるのか、という命題は、これから殺し合いをする上では最低限クリアすべき問題だった。

 

 ディアボリカは気分を害した様子も無く、「えぇ」と軽く頷いた。

 

 「えぇ、そうよ。アタシたちは血液──人間一人分の血液が、そのまま一つの命のストックになるの。十人食えば十回死ねる、百人飲み干せば百回死ねるってワケね」

 「……つまり今の、渇き切ったあなたなら、一回殺せば終わりってことですよね?」

 

 ディアボリカは今度の問いには頷かず、しかしロワイヤル・スタイルの口髭に縁取られた口元を獰猛な笑みの形に歪めた。

 剥き出しにされる長い犬歯。長年の飢えに耐えてきたそれは、もうすぐ血にありつけると喜ぶように、鋭利な輝きを纏っていた。

 

 「やれるものなら、ね」

 「……」

 

 これが英雄譚の類なら、上等だ、とか格好いいことを言って突撃する場面だ。

 しかし、これは現実で、残念ながらフィリップの戦闘能力は英雄には遠く及ばない。

 

 フィリップは自身の切り札──本当に握っているのかさえ分からない、最強の鬼札を想起する。

 

 外神の副王、ヨグ=ソトースの庇護。

 ナイアーラトテップの興味(悪意)から、シュブ=ニグラスの愛情(軽挙)から、ヤマンソの本気(暴走)から、フィリップを守ってくれた世界そのもの。

 

 外神最強の一角であり、ナイアーラトテップやシュブ=ニグラスでさえ副王の前には一歩劣る。

 彼の庇護を超える守りなど、この世界に、否、この世界の外側を加味しても存在しないと断言できるほどだ。

 

 しかし、その介入基準は判然としない。

 たとえば、去年の交流戦の折。フィリップはウォードの攻撃を防御し損ねて、重度の脳震盪に陥った。どうしてあの時は守ってくれなかったのか。

 

 先日の、ジェームズ・フォン・ルメールに殴られた時もそうだ。

 視界内とはいえ非戦闘態勢時の不意討ち。しかも軽傷とはいえ怪我をする程度には痛打だった。あの時もガードくらいはしてほしかったのだが。

 

 外神の判断基準を計ろうとするのは愚かなことだが、同じ視座を持つフィリップなら話は別だ。

 納得できるかどうかはさておくとしても、理解くらいはできるはず。

 

 ──と、一度もそう考えなかったといえば嘘になる。だが、フィリップはそれは無理だと分かっていた。

 

 フィリップと外神では、思考の形態が違う。

 

 人間の思考は不可逆的な時間の流れ、原因と結果の序列を論理の根幹に据えている。

 しかし、外神は時間の外側にいる。ヨグ=ソトースなど、時間と空間そのものと言っていい存在だ。言うなれば彼らには、「原因と結果」という概念が無い。

 

 価値観を共有できても、思考までは一致しない。人間同士がそうであるように、共通認識があれば、固有の意識もあるのだ。

 

 だから──フィリップには分からない。

 ヨグ=ソトースの攻性防御、ナイアーラトテップを握り潰した時のような、世界そのものが敵対者を滅する絶対防御の発動条件が。

 

 神格相手にしか発動しないかもしれない。

 致死状況でしか発動しないかもしれない。

 

 或いは──一度死ぬまで、発動しないかもしれない。

 

 フィリップにその意識は無いが、ナイアーラトテップの酔狂、シュブ=ニグラスの愛情、ヤマンソの暴走によって、フィリップは一度ずつ死んでいるなんてコトも有り得る。

 

 一度死んだフィリップを確認して、「このままでは死ぬので止めようね」と時間を巻き戻して注意した、その結果があれらの完璧な介入かもしれないのだ。

 非致死の攻撃を素通りさせ、致死状況だけは完璧に防いできたヨグ=ソトースの“完璧性”。それがフィリップの死によって裏打ちされたものだとしたら──

 

 「面白くない話だけど、僕が死なないことに変わりはない」

 

 言い切り、ウルミを空振って整形(フォーメーション)する。

 

 一回死んでいようが、三回死んでいようが、どうでもいい。

 ()()()()人間の身体のまま生きていれば、それでいい。

 

 疾走準備(スタンス)を完了する。

 

 胸が地面に付きそうなほどの極端な前傾姿勢に、ディアボリカは不思議そうにしつつ、好奇心と愉快を混ぜた笑みを浮かべる。

 

 「あら、想像以上に期待できそう。楽しませて頂戴──ね!」

 

 ディアボリカが吼える。

 大きく広げた両腕の指揮に従い、展開される数十の火球(がっき)

 

 ただそこにあるだけで空間中の魔力を食い潰し、轟々と燃え盛る、原始的で野蛮な音の羅列。

 

 本来は単純な恐怖だけでなく、畏怖や崇拝、温かさや懐かしさを思い起こさせるはずの(あか)は、薄ら寒い青色に穢されていた。

 

 「血が減るのは困るから、手加減してあげるわ。尤も、魔力を焼く炎は怪我をしないだけで、痛みはタダの火傷とはワケが違うわよ? さぁ、踊りなさい! 《ソウルフレア》!」

 

 フィリップの知らない魔術。

 走り出し、酸素供給が遅延し始めた脳では、折角の解説も理解できない。

 

 だが、問題ない。

 幸いにして、ディアボリカの十以上ある魔術は、その全てが狙い澄まされた狙撃の精度。

 

 ──『拍奪』を相手に、狙った攻撃は絶対に当たらない。

 

 「あら?」

 

 透過したように外れた必中のはずの攻撃に、ディアボリカが小さく驚く。

 二発目、三発目と続く弾雨はいずれもフィリップを透けて通り、地面を撃って消えた。

 

 斜め前方に位置取り、攻撃姿勢に入る。

 

 狙いは一撃必殺の可能な首一択──では、ない。

 

 この状況で最も狙うべきではない箇所。

 戦闘能力でも、命でもなく、戦意を奪うための標的。顔面だ。

 

 単なる準備運動でしかなく、端から戦意など一片も持っていないディアボリカ相手では無意味な一撃になる。

 

 知識がある者なら、「無意味なことを」と嘲る一手。

 戦闘経験豊富な者なら、「何かの布石か」と勘繰る一手。

 

 そしてフィリップにとっては、起死回生の一手だったのだが──

 

 「ふふっ」

 

 嘲笑、ではない。

 ディアボリカが上げたのは感心の声。

 

 ぎゃりぎゃりぎゃり! と火花を散らす魔力障壁は、漆黒の双眸を切り裂かんとしていたウルミを、その数センチ手前で防ぎ切っていた。

 

 「クソ……!」

 

 攻撃で流れた身体の勢いを利用して再加速し、カウンターの火球をやり過ごす。

 

 「アナタ、他人を殺すことに全く躊躇しないのに、あんまり戦闘には慣れてないのね? 面白いわ!」

 

 今のはフィリップにとって、考え抜かれた最善手だった。

 先の一撃、素のウルミが効かないことを確認する時に首を狙ったことで、ディアボリカは「躊躇なく殺しに来る相手だ」と分かったはず。

 

 その上で、実戦では顔を狙うという不意討ち。

 “拘束の魔眼”を封じるための、眼球一点狙い。

 

 決まりさえすれば、その時点で神格招来を切れたかもしれないのに。

 

 攻撃を見切られた? ウルミの、音速を超える先端部の動きを?

 

 いや──

 

 「()()()。それだけよ」

 「ご丁寧に!」

 

 どうも、まで言い切る余裕は無い。

 

 魔力を焼くという蒼炎は撃った端から補充され、フィリップは走り続けなければ一瞬で撃ち抜かれる。

 

 ここから先は、予想さえしたくなかった最悪の展開。

 

 現状を打破する最適の一手を考える暇はない。

 木の陰に隠れたシルヴァの方に流れ弾が行かないよう、細心の注意を払いながら、スタミナが続く限り走り、無意味な攻撃を繰り返す数分間。

 

 その後にはスタミナ切れか、ディアボリカが準備運動を終えて、限界が来る。

 

 「狙いの正確さには自信あったんだけど、鈍っちゃったのかしら? そ・れ・と・も、アナタの技術(テク)?」

 「……」

 

 答えない。いや、答えている暇がない。

 蒼炎の弾雨は準備運動に相応しく、多少の間を置いて撃ち出されているが、一発ごとのラグは1秒以下だ。

 

 避けるまでも無く外れるその照準先を意識しながら、銀属性の付与されたウルミを振るう。

 

 人間、いや獣相手ですら威嚇になる破裂音も、吸血鬼相手ではこけおどしにもならない。音速を超える先端は軌道を見切られ、より遅い部分は見てから回避される。

 

 無尽蔵にも感じられる魔力。

 圧倒的な身体性能と戦闘経験。

 

 そして。

 

 「あぁ、なるほど。ホントはそこにいるの」

 

 小さな呟きを皮切りに、照準の精度が跳ね上がる。

 

 歩法による位置認識欺瞞が機能していないのではない。相手が視覚以外でフィリップの位置を認識し始めたからだ。

 

 予想はしていた。

 相手がルキアを上回る魔力量を持っているのなら、ステラと同様のことを、自分の魔力で空間を埋め尽くし、唯一他人の魔力がある部分を狙うという手段を取ってくることは、当然のように予想できた。

 

 「面白い走り方ね。顔の位置で……獣相手には通じないでしょうけど、対人戦なら有効でしょうね」

 

 思わず舌打ちを漏らす。

 ほんの数分で『拍奪』の仕組みまで解析するとは。

 

 この──観察眼!

 人間より上位の生物でありながら、人間の子供相手にも観察を欠かさない周到さ!

 

 それこそが自分の強みだと理解して、フィリップから片時も視線を外さない。

 フィリップが魔眼を警戒している──魔眼さえなければディアボリカを殺し得る“何か”を持っていると、そこまで読み切っているのか?

 

 だとしても、状況は“最悪”で頭打ちだ。

 ディアボリカがこちらの切り札を警戒していようと、フィリップ本人の自力だけを見切って底を知った気になっていようと、フィリップにはあの魔眼を、ほんの一瞥を乗り越える手段がない。

 

 どうするか、と、何十度目かになる思考を再開する。

 しかし、走り通しで血流も酸素も足りない脳が何十度目かの「打つ手なし」という結論を弾き出す前に、ディアボリカの攻勢が止まった。

 

 どういうつもりだ、とは思わない。これは元々、互いの力が拮抗して生まれた戦闘ではなく、ヤツがこちらを一方的に利用しているだけに過ぎない。

 戦闘の終了──準備運動の完了が一方的なものになるのも当然だ。

 

 「──ふぅ。魔力操作のカンはだいぶ取り戻したわ。ありがとね、フィリップくん」

 「はぁ、はぁ……なら、僕を殺しますか?」

 

 息を整えることに全力を尽くす。

 ディアボリカの答えがYESだろうとNOだろうと、もう一幕演じなければいけないのは確実だ。

 

 YES(殺す)というのなら是非も無い。

 だが、答えはきっとNO(まだ)だ。

 

 理由は言うまでもない。

 フィリップがディアボリカと同等の性能を持っていたとしても、ルキアやステラと戦うのなら()()する。

 

 「いいえ、まだよ。次は白兵戦の練習に付き合って頂戴?」

 

 まあそうだろうな、と苦笑が浮かぶ。

 フィリップだって、あの二人と魔術戦オンリーで戦おうとは思わない。

 

 ディアボリカが展開していた火球が消え、代わりに同色の炎を両の拳に纏う。

 轟々と音を立てながら空間中の魔力を喰らう、非物理の火炎。

 

 明らかに低い位置で両拳を構えるスタンスは、幾らでも再生できる頭部ではなく血液循環を司る心臓を守る、吸血鬼の戦闘スタイルに適したものか。

 

 死線を超えた先の死線、地獄の第二ラウンド、開始だ。

 

 

 

 

 

 



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178

 たん、と軽い踏み切り音を残して、ディアボリカの姿が掻き消える。

 

 それを認識した瞬間、思考するまでもなく身体が動いた。

 半自動的に選択された行動は“回避”。片腕で顔を守りながら、全身を投げ出すように地面へ伏せる。

 

 直後、轟、と、フィリップの頭があった位置を背後から穿ち抜く業火の拳。

 

 ほんの一足でフィリップの背後に回り込んだディアボリカの一撃だった。しかし、それは明確にフィリップを殺すためというより、自分の肉体性能と、その衰えを確認するための動きだ。

 無様に転がることでしか回避できなかった、そもそもディアボリカの動きを見切れなかったフィリップへの追撃が無いことが、それを証明している。

 

 「うーん、やっぱり遅くなってるわね」

 「ち──」

 

 握ったり開いたりしている自分の手を見ながら呟くディアボリカに、舌打ちを漏らしつつウルミを振るう。

 都合四つの斬撃をしかし、ディアボリカは一歩で5メートル以上も後退して回避する。

 

 デタラメな肉体性能だ。

 今のフィリップが見切れないということは、少なくともステラの放つ初級魔術より速いということになる。

 

 それを実現する力が攻撃に転用された、その威力を味わう羽目にはなりたくないものだ。

 

 「──ッ!」

 

 姿勢を下げ、再度の攪乱走行を試みる。

 相手が本気なら、あの魔力照準法を使われて終わりだろうが──これはあくまでも準備運動。純粋な肉体性能だけで攻撃してくるはずだ。

 

 その予測、或いは願望は、幸運にも的中した。

 

 フィリップが欺瞞した通り、一人分後ろを拳が通り過ぎる。ディアボリカからは、自分の拳がフィリップを通り抜けたように見えただろう。

 トリックが分かっていても、眼球と脳は錯覚を起こす。それが正常な機能だからだ。

 

 しかし、その攻撃に驚いたのはフィリップも同じ。

 五メートルの距離を一瞬で詰めてくるどころか、拳を振り抜いた後で漸く姿が見えたほどの高速移動。暫定的にだが、ソフィーと同等の白兵戦能力と言える。それ以上という可能性もあるが、どちらにせよ勝てない。

 

 驚愕が自動化された身体操作を鈍らせ、攻撃の精度が落ちる。

 ディアボリカは迎撃にしては一瞬遅いウルミをスウェイで躱し、また五メートルの距離を空ける。

 

 フィリップの攻撃が一歩届かず、ディアボリカもまた一歩で詰められる距離だ。

 

 間合いが違い過ぎる。

 四メートルという長大な攻撃距離を誇るウルミですら、一歩の踏み込みを要する。通常の直剣であれば数歩以上を進まなければ、当たるかどうか以前に、攻撃を振ることも出来はしない。

 

 不利だ、と思う。

 そもそもフィリップは、別に白兵戦に長けているというワケではないのだ。なんせ、武器による防御ができないのだから。

 

 防御とは文字通り相手の攻撃を受け止めるだけではなく、弾き、受け流し、打ち払う、広義の意味での「防御」だ。

 剣術の流派の大半は、防御を前提に戦術を構築する。フィリップの使う『拍奪』を編み出した流派にだって、防御の術法は数多い。

 

 防御ありきの白兵戦で、防御縛り。

 それだけ聞くと、我ながら自殺志願者じみているが──火属性聖痕者(えらいひと)は言いました。

 

 「当たったら死ぬのなら、当たらなければいい」

 

 なるほど確かに! と、当時は思っていたし、今でも人間相手ならそれでいいのだが。

 

 ──相手が悪すぎる。

 

 フィリップの戦術は、概ね三通り。

 

 魔術師相手には中近距離を『拍奪』で走り回って攪乱し、ウルミでズタボロにする。

 剣士相手には近付かず、領域外魔術で攻撃。

 どちらにせよ勝てない相手には神格招来。

 

 ステラとの模擬戦で『二分間の耐久』という条件が付いているのは、神格招来を詠唱する時間を作れるか、という部分がチェックされているからだ。

 

 魔術が通用せず、ウルミを見切ってくるような──たとえばステラのような──相手と敵対した時にでも、生還できるように。それが、あの二分間に込められた意味だ。

 

 だが、ほんの一瞥で心臓の鼓動すら停止させるような相手は、流石に想定していない。

 

 “拘束の魔眼”。

 目を向けるだけで相手を完全に硬直させる、アレさえ無ければ、神格招来でどうとでもなるのに──!!

 

 「うーん……?」

 

 ディアボリカが両拳の炎を消し、顎に手を遣って考え込む。

 

 銀武器を持った相手を前にして、だが、舐めすぎとも油断し過ぎとも思わない。その傲慢は実力に裏打ちされている。

 

 しかし、それでも──隙には違いない!

 

 「おっとと」

 

 振り抜いたウルミを、ディアボリカはまた数メートルの後退で躱す。

 もはやこちらを見てもいない、腕を組んで虚空を見上げた黙考の姿勢。

 

 その首に、鉄茨の鞭が絡み付いた。

 こちらを舐め切って、いや、正確に過ぎる戦力分析に基づいて、最低限の回避しか行わなかったディアボリカに、ウルミだけが追従していたのだ。

 

 「あら」

 

 フィリップが意図的に手放したウルミは、スイングの遠心力を回転に変えて飛翔するボーラとなった。

 

 ボーラとは、両端に重りの付いた投擲武器で、獲物の翼や足を絡め捕る捕獲猟具だ。毛皮や羽毛を傷付けない特性は有用だが、投擲武器である以上、命中精度や射程距離は練度に大きく依存する。

 

 しかし、今のフィリップにはどちらも必要ない。

 彼我の距離は五メートル。ウルミが二回転分も飛べば十分に当たる距離であり、相手は黙考の最中でステップの直後、回避運動も間に合っていない。

 

 そして──

 

 再び全力の疾走。

 回転の勢いを残し、振り回されているウルミのグリップを掴み直し──思いっきり引きながら走る。

 

 表面を荒く削られ、棘さえ立った鉄の鞭は、柔らかい肉によく絡む。

 首を二周した鉄の茨は、首の肉を噛んだまま引っ張られ、糸を引き出す糸巻きのように回転を強いる。

 

 頸動脈や気管を削ぎ落しながら頸椎を折る、血と肉の削れる湿った音と小枝の折れるような乾いた音。

 

 フィリップが予期し、期待した生命(いのち)を刻む音は、最悪なことに。

 

 ──ぎゃりぎゃりぎゃり! と、火花の散る硬質な音に、取って代わられた。

 

 「ッ!? は──」

 

 話が違う。

 そう叫びたかった。

 

 今のは完全な密着状態、魔力障壁よりもさらに内側に潜り込んだ攻撃だったはず。

 

 つまり、今のは──

 

 「あー、そういえば。アタシの血って、格下の攻撃をある程度無効化するのよ。アタシ以外の血が全く残ってない時だけの、それこそ何百年に一度あるかないかの、追い詰められたときの最終防壁みたいな?」

 

 ──純粋な外皮による耐久!

 

 「そっか、アタシ自身の魔術でも、付与魔術程度だと突破できないのね」

 

 賢くなっちゃったわ、などと笑う、典雅な顔立ちの紳士。

 フィリップにしてみれば、全く笑い事ではないのだが──その特性は既知のものだ。

 

 存在の格というものがある。

 生物に限らず、この世全ての存在には、それぞれの格がある。普通に生活していても、たとえ命を懸けた殺し合いの最中でも、多少の格差は問題にはならない。

 

 しかし、両者間の格差が甚大である場合──戦闘は発生しない。

 格下の攻撃は通用せず、格上は攻撃未満の挙動が格下にとっての致死となる。

 

 たとえば去年に遭遇した、座天使長ラジエル。あれがちょうど、フィリップとハスターと中間くらいで、それぞれの存在格が隔絶している良い例だ。

 

 フィリップはラジエルに大きく劣り、その攻撃が全く通じなかった。

 そしてラジエルもまたハスターには大きく劣る存在格であり、軽くあしらわれていた。

 

 隔絶が大きければ、目にしただけで存在の核が崩壊することだってある。

 

 ディアボリカの存在格は宇宙規模で見れば下の下だろうが、フィリップと比べると、攻撃を無効化する程度には上位らしい。

 せめてきちんとした銀武器か、耐性を貫通できるような魔術があれば話は違ったのだろうが。

 

 詰んでいる。

 いや、まぁ、ずっと詰んではいたのだが──いよいよ本格的に、神格招来以外の手札が尽きた。

 

 一応はウルミを構えたまま、しかし動きを止めたフィリップを、ディアボリカは顎に手を遣って観察する。

 

 「勝敗は決した、というか、始めから戦闘になんてなっていないことは分かっているのよね? アタシがその気になれば、アナタを止められることも知っている。……なのに、そんな目ができるのね。不思議だわ」

 「はっ。諦めに濁った目ですか? 奴隷みたいな目って言われたこともありますけど」

 

 冗談のような言葉に、ディアボリカはくすりとも笑わない。

 双眸には冷徹な観察と計算の光だけが湛えられ、フィリップを即座に殺すべきかという思考さえ透けて見える。

 

 「いいえ、違うわ。むしろ逆、諦めてなんていないでしょう? この期に及んでもなお、アタシのことを“脅威”として見てる。貴方の前に顕現した死の化身ではなく、打倒すべき敵としてね」

 

 フィリップは何も答えないが、苦笑にも見える不敵な笑みを浮かべていては、答えているも同然だった。

 

 「ふむ。……アタシが思うに、アナタの目的は二つ。一つは、そのドライアドちゃんを守ること。もう一つは時間を稼ぐこと。……聖痕者ならアタシに勝てるという予想は正解よ」

 

 顎に手を遣り、考えを纏めながら話すディアボリカ。

 その推論は正解だった。

 

 フィリップでは勝てない。

 それが確定した時点で、自力での勝利はすっぱりと諦めている。

 

 先ほどからルキアとステラをしきりに気にしているディアボリカだ。二人を明確な脅威として認識していることは間違いない。

 

 なら、頼ればいい。

 過去に『騎士の誇りとか、男の矜持とか、ぜーんぶ無視して遠距離から毒ナイフを投げるタイプ』と言われ、先日は女子生徒の顔面にウルミの一撃を喰らわせたフィリップだ。ルキアとステラで勝てる相手で、二人の正気を損なわない相手なら、女性の背中に隠れることにも躊躇いは無い。

 

 「でも、アナタはそれを諦めかけている。今やっと森に入った二人がここに来るまで、見積もり30分ってところかしら? 迷いの結界は焼き払うなりできるでしょうけど、アナタを助けに来るのなら取れない戦術よね?」

 

 その通りだ。

 結界に関するシルヴァとディアボリカの言葉は矛盾しているが、恐らく、ディアボリカが正しい。

 

 この封印の祠に近付かせない、そして封印の祠から外には出さないように迷わせる木々の結界。

 認識を狂わせる位置に植わった木々の、方向感覚を狂わせる方向に伸びた枝葉。非魔術的なものであれば、ルキアとステラでも気付かないままに迷ってしまう。

 

 「それを分かった上で、アナタはまだ諦めていない。アナタ……手札を二枚、残しているわね? 一つはアタシを殺すもの。アナタが能動的に使う必要があって、アタシの魔眼に阻まれるもの。……もう一つはカウンター。アタシの攻撃に、アタシの強さに怯えが無いのは、防ぐ手立てがあるからでしょう?」

 

 は、と、乾いた笑いが漏れる。

 見抜かれていた──いや、だからこそ、体格も魔力も貧弱なフィリップを、準備運動の相手に選んだのだろう。

 

 そしてフィリップの表情は、

 

 「夜空に、星々に由来する何かでしょう? あの猫ちゃんと同じ、この星に在らざるものの力。違う?」

 

 その言葉を聞いて今度こそ、この上なく苦々しく歪められた。

 

 ディアボリカの言葉が正解だったから、ではない。

 ディアボリカの声色に、はっきりとした警戒の色を感じ取ったからだ。

 

 「……まぁ、分かりますよね。流石に」

 「……」

 

 努めて平然と聞こえるように応じたフィリップを、ディアボリカの目は見ていない。

 漆黒の双眸は魔力を帯びて淡く輝き、フィリップの魔力の動き、血液の流れ、筋肉の強張りさえ見通していた。

 

 フィリップという個人は、ディアボリカにとって見るべきものではなくなった。

 今見るべきは、眼前の人間がどう動くのか。ヒトの形をして、ヒトの動きをするそれが、どのような手札を隠しているのか。

 

 もはや準備運動を終えたヤツは、こちらを殺すことを、フィリップに鬼札を切る間を与えず、無傷で、一方的に殺すことだけを考えている。

 

 冷酷で、何より精密無比な殺人機械を彷彿とさせる。

 人間の血を啜る上位捕食者(吸血鬼)のくせに、油断なく隙を窺う様はまるきり被捕食者(弱者)の側。フィリップと同じ側に立っているようだ。

 

 強者でありながら弱者のように振る舞う存在。

 フィリップのような本物の弱者が足を掬えない、最高に厄介な相手だ。

 

 「……でも、アタシには選択肢がない。ここでアナタを吸い殺さないと、聖痕者からは逃げ切れない。……詰んでいるわね、お互いに」

 

 冗談めかした声と共に、深紅に染まった双眸が向けられた。

 

 

 

 

 

 



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179

 眼前で繰り広げられるフィリップとディアボリカの戦闘。或いは両者が“準備運動”という名目の下に互いを観察し合う光景を前にして、シルヴァの脳裏には全く別な景色が投影されていた。

 

 シルヴァ(自分)と相対した吸血鬼ディアボロスは、長く艶やかな髪を手櫛で梳き、降り注ぐ血の雨を恍惚と浴びている。

 

 

 覚えのある場所。

 覚えのある状況。

 

 記憶。走馬灯。

 

 或いは──白昼夢。

 

 

 森の木々は枝葉を切り落とされ、ディアボロスの望む形に作り替えられてしまった。

 

 その形状とは槍か精肉用の吊り鉤。

 目的は言うまでも無く、ローレンス伯爵領から攫ってきた、百人では足りない血液袋の設置だ。森のそこかしこに、人間の死骸が早贄にされていた。

 

 「一度やってみたかったのよ、コレ。直吸いじゃなくて、浴びるように飲むっていうの」

 

 けらけらと、好奇心が満たされたことに悦楽を感じながら哄笑する、猟奇殺人鬼──否、吸血鬼。

 しかし、その愉悦はすぐに消沈した。

 

 「うーん、でも、あんまり意味は無かったわね。命は増えないし、服は鉄臭くなっちゃうし、骨折り損だわ」

 

 疲れたような口ぶりだが、既に100人以上の血を吸っていたディアボロスにとって、ローレンス伯爵領の衛兵など大した敵では無かった。

 後から後から湧いてくる雑兵を片手間に吸い殺し、時にはただ殺し、殺すまでも無く適当に薙ぎ払い、眷属に喰わせた。歩いている時に腕を振るような、ごく自然なことだ。

 

 面倒だったのは、そこそこ大きな町に住むそこそこの数の人間から、処女と童貞だけを選別して連れてきたことだ。

 

 処女と童貞に限定したのは、その血液が他と比べて美味だから。

 わざわざ少し離れた森まで運んできた──魔術で杭を生やし、街中で楽しむという選択肢を取らなかったのは、獲物の中に多い子供の、親が乱入してくるのを嫌ったからだ。

 

 命のストックを幾つか使うほどの大魔術、複数人での転移魔術を使うほど、気合を入れた()()だったのだが。

 

 「ま、分かってたコトだけど、想像よりも気持ちよくなかったわね」

 

 あーあ、とつまらなさそうに嘆息する。

 

 この実験結果は、分かり切っていたことだ。

 血液とは「情報」であり媒介だ。命そのものではない。

 

 対象から流れ出た血には「命の情報」がごく少量しか含まれておらず、それを何リットル飲んだところで「命」という存在の理解と掌握には至らない。根本的に、必要不可欠な情報が欠落していると言うべきか。

 

 吸血鬼にとって、自己強化(食事)となる吸血行為──命のストックを増やすためには、相手の体内に流れている新鮮な血液、命という存在の記述が欠落していないものを介する必要があった。

 

 その大前提を、100年以上も生きているディアボロスが知らないはずがない。

 

 だから今回の暴食に、大した意味は無かった。

 いつも食べている食材の、一風変わった味変を耳にして、試してみたけど微妙だった。ディアボロスにとってはたったそれだけの、ローレンス伯爵領の住民にとっては地獄のような一幕。

 

 暗黒領の城を出る前の、「あ、そうだ」という唐突な思い付きによって引き起こされた地獄は、同じくらい唐突に現れた救世主によって幕引きとなった。

 

 「そこまでです。吸血鬼ディアボロス」

 

 自分のものでは無いような、冷たく澄んだ冬空のような声。

 伸ばされた腕はすらりと長く、成熟した女性のもの──幼児の外見であるシルヴァのものとは思えない。しかし、主観視点では間違いなく、自分の肩から伸びている。

 

 はてこれは、と思う暇も無く、記憶の再生は続く。

 

 「あら、ドライアド? いつの間に……」

 

 ディアボロスの目がこちらを向き、どうでも良さそうに逸らされる。

 

 「血の無い精霊に興味はないの。殺さないでおいてあげるから、失せ──」

 

 ぞぱ、と、鳥肌の立つような湿った音。

 どちゃり、と重く濡れたものが落ちる音に、ぼたぼたと多量の液体が零れる音が続いた。

 

 「──あら、手が早いのね」

 

 ディアボロスの右腕は、見事な筋肉も太い骨も関係なく、足元から伸びた木の根の槍によって切断されていた。

 

 肘から先を失くした右腕からは、鮮やかな色の血液がとめどなく溢れ続けている。その量と勢いは明らかに人間離れしており、魔術的にか物理的にか、とにかく非人間的な身体をしていることが分かる。

 極めつけは、その血の滝を突き破って生えた右腕だ。単純な傷の修復ではなく、欠損部位そのものの再生。治療魔術では再現不可能な規模の治癒だ。

 

 「今の、魔術じゃないわね。いえ、そもそもアナタ、魔力をほんの一滴も持ってない。……ホントに生きもの?」

 

 たとえ上位の精霊であっても難なく勝利できる存在格を持つディアボロスが、明確に警戒の視線を向ける。

 

 当然だ。

 魔力とは時に生きる意思とも呼ばれる、生命体の根幹に属するモノ。この世のありとあらゆる生き物は、必ず魔力を持っている。ヒトも、犬猫も、鳥類や爬虫類、魚類、植物もまた。

 

 そして精霊は肉体そのものが魔力で構成された存在だ。

 

 だというのに、視界のチャンネルを魔力に切り替えた瞬間、眼前からそいつの存在が掻き消える。

 

 有り得ない。

 そんなことは有り得ないし、そんな存在は在り得ない。

 

 何かのトリックを疑うべき状況だが、ディアボロスは自分の観察眼に、その正確さに自信を持っていた。自分の目を掻い潜る技量の魔術師は存在しない、と。

 そしてそれは思い上がりではなく、厳然たる事実だ。聖痕者にも匹敵する精度の魔力視は、相手の一挙手一投足を見逃すことなく捉える。

 

 存在しているはずがない存在、少なくとも魔力的には()()()()()()()()()を前に、ディアボロスは自身の周囲に十数個の火球を展開した。

 

 目に痛いオレンジ色の炎は、ただそこにあるだけで空気を喰らって轟々と啼く。

 その姿は、声は、あらゆる生命体の本能に恐怖として刻み込まれている。相手が樹木の精霊ドライアド、或いはそれに類似した何かであるのなら、尚更のはず。そう予想してのことだろう。

 

 撃ち出された複数の火球は狙い過たずシルヴァの顔面に突き刺さり──しかし、痛みはない。

 

 即死。──否、全くの、無傷故に。

 

 一片の痛痒も無く、一切の負傷も無く、水風船でもぶつけられたように、シルヴァはそこに立っていた。

  

 「あら、凄い。今のはアタシでも火傷する威力なのに」

 「この森に住まう全てのドライアドが、お前の排除を願いました。故に私──森の代理人(ヴィカリウス・シルヴァ)が、その望みを叶えます」

 

 噛み合わない言葉は、会話するつもりはないという意思表示のつもりだった。

 

 しかし、その傲慢──次の瞬間には殺している相手との会話など不要、という戦力評価に基づく判断は、続くディアボロスの言葉によって覆される。

 

 「ヴィカリウス。なるほど、アナタがそうなのね」

 

 驚愕に見開かれた目に、ディアボロスの可笑しそうな顔が映る。

 

 「なあに、その顔? アタシ、これでも博識な方なのよ。この星に宿るモノ、アナタたち概念存在のことも、知識としては知っているわ。本で読んだ程度のものだけどね」

 「驚きました。私の同種が表舞台に出たのは千年以上も前のこと。当代に知識が伝わっているとは」

 「古い文書の写本の、そのまた写本を手に入れただけよ。アナタたちがどういう存在なのか、そのくらいしか知らないわ」

 

 感心したような──大人が子供に向けるような、圧倒的な知識量の差から来る冷笑にも似た言葉を、ディアボロスは謙遜と共に受け取る。

 しかし、でもね、と言葉は続く。

 

 「でもね、それだけで十分。アナタは森。森そのもの。だから対人攻撃なんかじゃ傷付かない。無敵性の理由だけ知っていれば、それで十分なのよ」

 

 ディアボロスの、自信に満ちた声。

 知識に裏打ちされた確信のある、強い声だ。

 

 獰猛に笑うディアボロスに対して、シルヴァは首を傾げ。

 

 「意味不明です。お前は森を──“森という概念”を、この星から消し去れはしないでしょう?」

 

 そう、道理を口にした。

 

 ヴィカリウス。

 この星の触角であり細胞である彼女たち“代理人”というシステムは、その概念に根差している。

 

 例えば森の代理人、ヴィカリウス・シルヴァ。

 彼女は森そのもの。()()()()の攻撃でなければ傷一つ付かず、たとえその個体を滅しても、この星に森という概念がある限り再発生する。火山から流れ出る溶岩に洗われた土地が、数百年の時をかけて森林へと戻るように。

 

 数千万年もの昔、恐竜を絶滅させるほどの気候変動からさえ立ち直った“森林”という概念は、この星の表層の一つ。環境そのもの。

 

 一個存在がどうこうできる存在格ではない。

 

 ──だが。

 

 「えぇ、勿論。でも、アナタという一個体くらいなら話は別でしょう? ヴィカリウスという概念存在の、その化身にして触角、顕現した表層であるアナタ一人なら!」

 

 勝ち誇ったように叫び、ディアボロスは再生したばかりの右腕を天に掲げる。

 

 「対都市級魔術──《ヘルフレア》!」

 

 天を突く右手の延長線上、遥か上空に、どす黒い色の火球が生まれる。

 その規模(サイズ)は極大。家一つどころではなく、城一つを呑み込むほどのもの。もはや大きな火球ではなく、極小規模の恒星とすら言える。

 

 落下すればこの森の半分を即座に焼却し、残る半分も数分で延焼、一時間もあれば焼け野原にするだろう。

 そして黒く穢れた炎は、魔術が解けるまで永遠に燃え続ける。

 

 小さな森なら一撃で燃やし尽くすことも可能な攻撃は、十分に『対森林級』の域。

 明確に自分を殺し得る攻撃を前に、シルヴァは依然、首を傾げる。

 

 「確かに、私という一個体なら殺せるでしょう。ですが、森は溶岩流の中からさえ立ち直ります。百年後、二百年後には、新たな『私』が再生する。その私を殺す意味が理解できません」

 

 両者間には、絶対に超えられない隔絶があった。

 

 そもそもシルヴァは『死』を知らない。

 知識として「生命の終焉を死と呼称する」とは知っているが、それだけだ。

 

 この星の表層に「森」と呼べる存在が出現し始めた、約()()()前。ヴィカリウス・シルヴァの発生もその時期だ。

 それから、生命の整理を数回も経験した。気候変動。隕石誘引と落下。氷河期。この星が自ら生み出した生命を自ら整理する、数千万年に一度の大掃除。星の表層として認められた『森林(シルヴァ)』は、それを幾度となく乗り越えてきた。

 

 無論、森林とてそこに在り続けるものではない。

 火災や洪水、地震、豪雪、火山活動。その他の星の活動によっても、或いは人類やそれ以前の星の覇者の手によっても、その領域を著しく失うことはあった。

 

 だがそれでも、現に、明白な事実として。森林という概念は滅んでいない。

 

 「不滅」。

 星に根差し、数億年もの時を存在してきたシルヴァには、その言葉が相応しい。

 

 対するディアボロスは吸血鬼であり不老不死。とはいえ、発生から二百年かそこらの若輩者。

 そして何より、()()()()()()()()()。文字通り、歴史と規模が違い過ぎるのだ。

 

 だから、

 

 「だから、アタシの勝ちなのよ」

 

 シルヴァが負ける。

 

 

 

 

 



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180

 単純な話だ。

 ディアボロスは「殺されたら死ぬ。だから何としてでも眼前敵を殺害する」。そう、強く意識している。

 

 対して、シルヴァには敵意が無い。殺意が無い。

 ()()シルヴァが「殺された」としても、百年もすれば次のシルヴァが発生する。本質的な「死」を持ち合わせないシルヴァは、殺し合いという舞台には上がらない。上がることができない。

 

 それ故に、決定的に食い違う。

 

 この森に住まうドライアドたちは、このガーテンの森の破壊を恐れている。故に、ディアボロスを殺してほしい。

 この森を訪れたディアボロスは、この場からの撤退を画策している。故に、眼前の敵(ヴィカリウス・シルヴァ)を殺す必要がある。

 

 それは、「今」の話だ。

 森と共に生きるドライアドも、不老不死の吸血鬼も、所詮は100年単位の存在でしかない。

 

 対するシルヴァは、数億年規模の存在。

 眼前の吸血鬼を敵として認識することも、今すぐに殺さなくてはならないという意識を持つこともない。持つことができない。

 

 今回敗北しても、100年後にまた。もう一度負けても、200年後にまた。

 自分の命が、自分という個体が、そして森という総体と概念が流転することを知っているシルヴァは、そう考えてしまう。

 

 だから、「今」の殺し合いにおいては、ディアボロスが勝つ。

 

 ──()()の介入さえ無ければ、の話だが。

 

 「お、お待ちください、森の代理人よ。我らは今の、この森の救済を願い、貴方様を召喚したのです。どうか、どうかあの吸血鬼を滅してください」

 

 シルヴァから少し離れた木の根元に、一人のドライアドが姿を現す。

 発生から100年と言ったところだろう、成熟した女性の容姿を持った彼女は、その場に平伏して頭を地面に擦り付けていた。

 

 召喚されたその場にいたドライアドの気配を記憶していたシルヴァは、「そうだった」と口の中で転がす。

 

 しかし、納得と、実行の可否は別問題だ。

 

 「無理よ」

 

 と、シルヴァではなくディアボロスが答える。

 

 「今からアタシを殺したところで、この魔術は制御を失い、暴走して森を焼くわ。だから──アタシを見逃してくれるわね、ヴィカリウス」

 

 ディアボロスはガーテンの森諸共にシルヴァを焼き殺し、この森を去ることもできる。

 しかし、ヴィカリウス・シルヴァの戦闘能力が未知数である以上、初見で一対一は避けておきたい。

 

 だからこその、人質。

 自分を殺せば森は焼けるが、見逃すのなら魔術は撃たない。そういう取引だ。

 

 ディアボロスが彼女の立場なら、受ける。いや受けざるを得ない条件だが──

 

 「いえ。貴方をその魔術ごと封印すれば、それで片の付くことです」

 「……無理よ。アナタには魔力が一滴も無い。封印魔術なんて高等な代物、使えるはずがないわ」

 

 ディアボロスの観察眼は正確だ。

 ドライアドや自分と比するまでもなく、シルヴァの魔力量がゼロであることを見抜き、どんな魔術であれ行使できないことを確信している。

 

 だが、それは誤りだ。

 確かにヴィカリウス・シルヴァは魔力を持たず、魔術を使うことができない。先ほどディアボロスの右腕を切断した木の根の槍も、「森そのもの」としてガーテンの森へ下した命令の結果であって、魔術による攻撃ではない。

 

 しかし、

 

 「この身体を形作る星の力を魔力へ変換し、最上級封印魔術『セイクリッド・シール・スフィア』を発動します。貴方の血液(いのち)のストックは、見たところヒト数千人分程度ですか。貴方自身の魔術が貴方自身を食い潰すのに、何年かかるでしょうね」

 

 脅しのような言葉。

 だが脅迫しようという意思は感じられない。当たり前だ。シルヴァが口にしたのは脅迫ではなく、ただの予定に過ぎない。

 

 ディアボロスの抵抗も、ドライアドの都合も何一つとして考慮していない、別次元からの物言いだ。

 

 「お、お待ちください。それでは、貴方様の肉体は……?」

 「? 崩壊しますが?」

 

 ドライアドが恐る恐るといった風情で投げた問いに、シルヴァは淡々と返す。

 このシルヴァは、言うなれば一つの森林。対森林級の攻撃でなければ傷を負わず、消滅しても数百年で元通りになる。

 

 だから「死」に対しての恐れもなければ、肉体の崩壊が「死」であるという意識も無い。精々が長い眠りくらいだ。

 

 「そ、そんな……何か、他の方法は無いのですか?」

 「いいえ、これが唯一の手段です。封印後、宝珠(スフィア)は魔除けの木に守らせ、誰の血も触れさせないように。再発生後、完全に破壊します」

 

 交渉の決裂を悟った時点で転移魔術を用意していたディアボロスだが、発動しなかった。

 ヴィカリウス・シルヴァの機能にして権能、森林の完全支配による空間固定、転移の阻害だろう。

 

 忌々しそうに歪められた笑顔でシルヴァを見つめ、やがて深々と嘆息する。

 シルヴァほどではないにしても、そこそこの年月を生きた吸血鬼にとって、死は遥か遠くにあるものだったのだが。

 

 「年貢の納め時、という奴ね。分かったわ。冥途の土産に聞いておきたいのだけど、ヴィカリウスなんて大物が、どうしてこんな片田舎の森にいるのかしら?」

 「私は比較的、生き物に寄り添った存在ですから。ドライアドの中に、過去の私が授けた、私を呼び出す術法を知る者が居たのでしょう」

 「そ、その通りです」

 

 翠玉のような目を向けられ、ドライアドが推論を肯定する。

 

 彼女以上の年齢のドライアド全員の全魔力(いのち)と引き換えの大魔術によって召喚したヴィカリウス・シルヴァが、それをさも簡単なことのように口にしたのは引っ掛かるが……ドライアドは救って貰う側だ。変なことを言って機嫌を損ねられても困る。

 

 尤も、シルヴァに「機嫌を損ねる」という機能があるのかは不明だが。

 

 それに、

 

 「ドライアドとヴィカリウスは全くの別物だっていうのに、献身的なのね?」

 

 命懸けで救ってくれるというのなら、これ以上望むことは何もない。

 

 「貴方様の献身に、我らはその生涯を以て報います」

 

 ドライアドがもう一度頭を下げる。

 敵対者と召喚者、二人の意味不明な言葉に首を傾げ──ヴィカリウス・シルヴァは自らの肉体と引き換えに、最上級魔術『ヘルフレア』諸共、吸血鬼ディアボロスを封印した。

 

 

 ◇

 

 

 「あ、うぁ……」

 

 頭痛がする。

 頭どころか背骨まで砕かれるような激痛と、身体の奥底から沸き上がるような全能感。

 

 自分のものではない記憶。

 夢を見るという機能を持ち合わせず、この二年間は一度も夢を見なかったシルヴァには初めての体験だが、それは他人になる夢に近しい感覚だった。

 

 異なる価値観を持つ他人。

 異なる知識、異なる視座、異なる時代の、異なる力を持った別のモノ。

 

 「ああ、ぁ……」

 

 憑依や追体験にも似た感覚共有と不完全な理解が身体の内側から沸き上がり、乗り物酔いのような眩暈と頭痛に襲われる。

 

 「ああぁぁぁぁあ!!」

 

 身体が()()()

 輪郭にノイズが走り、シルヴァという小さなドライアドの外見と、100年前の成長した身体が蜃気楼のように重なる。

 

 再発生したシルヴァの身体に、100年前の星の力が流入した結果生じたバグのようなものだ。

 じきに星の側が不具合に気付き、今のシルヴァに応じたエネルギー量に調整されるだろう。100年前の記憶は失われ、発生から二年の「今」に応じた知識と力しか持たない、森の幼体に戻されてしまう。

 

 ──その前に、やるべきことがある。

 

 「──止まりなさい、ディアボロス……!」

 

 フィリップの肉体を魔眼の力で縫い留め、首筋に牙を突き立てようと近付くディアボリカ。

 その幽鬼の如き足取りが、たった一言で止まる。

 

 警戒ではない。

 不遜にも自分に命令調で口を利く、小さなドライアドに対する嘲笑が理由だ。

 

 徹頭徹尾、フィリップの切り札だけを警戒しているディアボリカは、もはやシルヴァの方へ一瞥も呉れない。

 視線は完全に硬直した状態のフィリップを油断なく見据え、首筋と、魔力の流れを交互に確認している。

 

 生存本能が訴える飢餓感と、戦闘本能が訴える恐怖。

 

 今すぐにでもこいつの血を吸い尽くして飢えを癒したい。

 しかし、こいつの切り札だけは絶対に食らってはいけない気がする。

 

 魔眼で拘束してはいるが、では果たして切り札は無力化出来ているのだろうか。出来ていなかったとして、それは能動的に使う必要があるのか、それとも自動的に発動するのか。

 

 そういった懸念や警戒が、ディアボリカの視線を固定する。

 

 それはフィリップを相手にするなら正解かもしれないが──この場に於いては悪手だった。

 

 「木の陰に隠れてなくていいの? この子だって、アナタを守るために戦っていたのよ?」

 「私を守る理由も必要性も……彼にはありません。ヒトに守られなければ存続できないほど……森林は脆弱ではない」

 「あらあら、守り甲斐の……何ですって?」

 

 一瞬の思考停止を挟み、聞き捨てならない言葉が、そのロジックが脳内を埋め尽くす。

 聞き覚えのある声色。聞き覚えのある論理。そして──いつぞやと同じく、全く感じ取れない気配。

 

 「まさか」

 

 フィリップに固定されていた視線が逸れる。

 月と星々の気配、夜に棲むディアボリカをして自身より深いと感じる闇の香りを上回る脅威判定。

 

 それは知識から来る推測ではなく、自身の経験に基づくものだ。

 

 木の陰から姿を現すのは、ドライアドの幼児ではなく、若い女性の姿をしたモノ。華奢な身体でありながら手足や腰回りには色香も感じられ、機械的なまでの無表情さえ彫刻じみた美しさを湛えている。

 頭痛を堪えるように歪められたその表情を見れば、老若男女問わず「どうにかしてあげたい」と庇護欲をそそられることだろう。 

 

 だというのに、ディアボリカが抱く感想は一つだけ。

 

 ──怖い。

 

 数百年の昔、皇帝より『魂滅卿』の称号を賜った魔術師としての視力と知識が。

 数百年の間、吸血鬼ディアボロスとして培った生命力を見抜く血への渇望が。

 

 眼前のそれは、()()()()()()()と囁いてくる。

 

 そして、ディアボリカはそれを知っている。

 百年前に遭遇し、ほんの数分だけ対峙した、星の表層。この星に住み、この星というモノを常に感じ、それでいて存在規格(スケール)の格差ゆえに『星そのもの』を意識できないディアボリカでは認識さえ難しいモノ。

 

 「ヴィカリウス……!」

 

 100年もの間、自分を封印した仇敵。

 それがどうして、100年前に魔力へ変換したはずの身体で、当時と同じ姿のままで、ここにいる──!?

 

 「くッ……!」

 

 ディアボリカが苦渋の決断だと傍目にも分かる苦々しい表情で、フィリップに向けて手を伸ばす。

 未知の恐怖より既知の脅威を重く見て、血液の補充を優先することにしたのだろう。

 

 拘束の魔眼で動きを止められたフィリップに、胸倉へ伸びる手を回避することはできない。

 そのまま抱き寄せ、子供の薄い皮膚に、柔らかな肉に、健康的な血管に、生々しく涎に濡れた犬歯を突き立てる。血を啜り、血を介して命を飲み干す。

 

 今すぐにでも命と魔力を補充しなければ、ヴィカリウスという大物を相手取ることはできない。そう知っているからこその即決だ。

 

 しかし、幽鬼の動きで伸ばされた手がフィリップに届く前に、大顎が二人を分断する。

 

 上顎は枝葉。

 下顎は根。

 

 一本ではなく複数。

 一撃ではなく波状。

 

 槍の鋭さと弩の速度を以て同時に襲い掛かる連携攻撃は魔術ではなく、人が拳を握り腕を振るのと同じ単なる機能。

 魔術ではないが故に耐性による防護が通じず、存在格差ゆえにディアボリカの血の力も通じない。

 

 風に揺れる梢のような、さわさわという心地の良い音。

 それこそが、身体を食い千切らんと迫る森の顎の咬合音。死神の足音。アイアンメイデンの軋みであると、ディアボリカは気付かない。

 

 「──!!」

 

 だから、ディアボリカが都合四対の大顎の全てを回避できたのは、最後までフィリップに向けていた警戒が理由だ。

 

 ほんの少し、フィリップが笑ったような気がした。

 勿論、心筋さえ停止させる魔眼に、フィリップは抵抗できていない。だからそれは、木々の枝葉が不自然に動いたことによる光の調子、ただの錯覚だったのだが──一足10メートルものバックステップは、図らずもシルヴァの不意討ちを躱す結果となった。

 

 「っと、これは本格的に不味いわね……」

 

 魔力は殆ど空で、対森林級大規模魔術を撃つような余力はない。

 時間経過でじわじわと回復してはいるし、人間一人、精霊一匹を殺すくらい造作も無いが──ヴィカリウス・システムを相手取るのは無謀に過ぎる。

 

 特に、相手は森の代理人。ヴィカリウス・シルヴァ。

 森の中で戦うのは、比喩抜きに相手の掌中だ。刺し返す一撃を持たない今の状態では、握り潰される他に未来はない。

 

 戦闘し打破する──不可能だ。

 では取るべき選択肢は逃走の一択だが──それも難しい。

 

 最低でも森を出るまではヴィカリウスの攻撃は止まないだろうし、致死級攻撃一発で本当に死んでしまう程度の現状では、逃走中に聖痕者に遭遇すれば致命的だ。いや、各国の宮廷魔術師程度でも、もしかしたら。

 

 ディアボリカは諦めたように首を振る。

 

 「──っと!」

 

 その動作と同時に魔眼が解除され、フィリップが直前の動作の慣性──バックステップの動きに引かれて体勢を崩した。

 いきなり現れた女性──100年前の姿になったシルヴァ──に気を取られて、直前まで自分が何をしようとしていたのかを失念していたからだ。

 

 危うげな動きに、シルヴァが慮るように視線を向ける。

 ディアボリカから、視線を外す。

 

 その隙を見逃すほど、ディアボリカは甘くも無ければ油断してもいなかった。

 

 拳を握り、地面を陥没させるほどの踏み込みを初動として突撃する。

 

 逃げなかったのは、森の中にいる限り捕捉されるという確証があったからだ。

 だが、逃げなくてはいけない。そのためには──シルヴァの注意を、ディアボリカから逸らす必要がある。ディアボリカに構っている暇が無いような状況を作ればいい。

 

 たとえば、死なない程度の大怪我をした少年を介抱しなくてはいけない状況、とか。

 

 

 

 



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181

 誤字報告モードで読んでる兄貴姉貴たち、いつも誤字報告ありがとうございます!
 今回は挿絵があるから、後書きも見てくれよな!


 尻もちを搗くような姿勢で倒れ込みながら、フィリップは必死に頭を回転させていた。

 拘束の魔眼による停止中は聴覚を完全に奪われ、視覚も制限された状態ではあるが、それでも外界の知覚は出来ていた。

 

 シルヴァが居たはずの場所からドライアドのような姿の女性が現れたこと、ディアボリカが彼女に対して明確な警戒を向けていたこと、どうやら彼女は味方らしいこと。ここまでは理解できたが、唐突に自由を取り戻した動揺で、眼前の攻撃への対応が一手、遅れた。

 

 「危ない!」

 「──脆いわよ!」

 

 ルキアやステラの初級魔術を上回る、フィリップでは見切ることのできない速度の移動と攻撃。単純な拳打(パンチ)だが、シルヴァが展開した岩盤の盾を粉砕する威力があった。

 

 厚さ30センチの岩盤を落としたプリンのようにバラバラにした拳は、そこで勢いの大半を失う。

 しかし、拳は、腕は、もう一つある。

 

 即座に握り込まれ、岩盤を打った反動すら利用して打ち込まれる第二の拳打。

 助走が無い分威力には劣るそれの照準は、フィリップの鳩尾──ではなく、空中に散らばる岩盤の破片。

 

 テーブルサイズから人間の頭部大にまで砕かれたそれを、さらに人間の指先サイズまで破砕すると同時に、フィリップに向けて撃ち込む。

 ナイアーラトテップなら破片手榴弾(フラグ・グレネード)散弾銃(ショットガン)を喩えに挙げるような、殺傷力の高い攻撃だ。

 

 しかし、ディアボリカに殺す意思はない。

 死にそうなほどの大怪我をしてくれれば、それでいい。シルヴァを足止めするための贄とする。

 

 破砕音というよりは破裂音と言うべき、乾いた甲高い音。

 岩の破片は礫となってフィリップの全身を打ち、穿ち、傷付ける。人体の柔らかい部分であれば貫通さえしかねない高速の破片を無数に浴びて──

 

 「あつッ──!!」

 

 左腕から幾条もの出血。岩の礫が抉り飛ばした肉と噴き上がる血潮は如何にも痛々しいが、しかし。

 フィリップが負った怪我は、たったそれだけ。

 

 拳打による瓦礫の射出、散弾攻撃。

 そんな大雑把な攻撃でさえ、ディアボリカの動きは精緻を極めていた。

 

 胴体の正中線上(バイタルゾーン)や頭部を避け、しかし大腿部や脇腹と言った大量出血を引き起こす箇所を狙って撃ち出された礫の数々は、しかし、()()()()()()

 

 身体が勝手に動いた、とでも言えばいいのだろうか。

 

 ディアボリカという明確な強敵相手にも全く怯まない精神性。

 しかし、明確な強敵だという認知はある。故の警戒と準備。

 ルキアとステラとの訓練で培われた回避能力と、その刷り込み。

 

 身体の自由を取り戻し、眼前の攻撃を知覚した瞬間、フィリップの身体は意識より早く、拍奪の歩法で回避行動を取っていた。

 

 「ちッ──!」

 

 外したことを認識したディアボリカが舌打ちを漏らし、三度、拳を握るが──流石に、それは許されない。

 

 「──ッ!」

 

 二度目の追撃が来る前に、ディアボリカの足元が突発な地滑りを起こして裏返る。

 如何な吸血鬼とはいえ肉の身体を持ち、物理法則に縛られる身だ。足を掬われる前に跳躍して距離を空ける。

 

 「まぁっずいわね、これ」

 

 ディアボリカがこの十数分で一番の苦々しい表情を浮かべる。

 そしてフィリップも同様に、ここ一年で一番か二番の苦痛に歪んだ表情を浮かべていた。

 

 「痛っ……あ、ァ……」

 

 戦闘でアドレナリンがドバドバ出ていたはずなのに、それでも泣きそうなほど痛い。

 

 左腕の被弾箇所は、4つ。

 その全てが腕を貫通し、肉を抉り飛ばしている。うち一つは骨まで見える深さだ。ウルミの練習中にミスした時とは比較にならない、腕が動かないレベルの大怪我。

 

 だくだくと流れ出る血は一向に止まる気配が無く、数分で行動不能、そのまま放置すれば失血死も有り得るだろう。

 

 シルヴァがどうとか言っている場合ではない。

 ルキアとステラを巻き込む可能性が最も低い、ハスター召喚を切るべきだが──無理だ。フィリップの決意云々ではなく、ディアボリカの“拘束の魔眼”が邪魔すぎる。

 

 相手はまだ「フィリップには何か切り札がある」程度の認識だろうが、迂闊なことをして警戒度を上げれば、もう二度と魔眼を解くことは無いだろう。いや、今度は最優先で殺しに来るかもしれない。

 ディアボリカの動きを確実に止めた状態でなければ、ダメ元で詠唱する気にもならなかった。

 

 「……貴女は──」

 「シルヴァと同一の存在です、フィリップ。怪我は平気ですか?」

 「いえ、全然……! 学院に戻れば……ステファン先生がどうにかしてくれるでしょうけど……応急処置をしないと……帰る前に死ぬでしょうね……」

 

 死ぬだろう、と喘鳴すら交えて言っておきながら、フィリップは自分が死ぬとは思っていない。

 いや、正確には、“最終的に”死ぬとは思っていない、か。

 

 だが外神として新生する可能性がある以上──ルキアやステラ、衛士団やライウス伯爵に対して抱いている尊敬や拘泥を、人間性への憧れを、人間への拘りを捨て去ってしまう可能性がある以上、どんな形であれ「死」は避けたい。

 

 「シルヴァと同じ……ドライアド、さん? お名前──いえ、治療魔術とか……使えますか……?」

 

 お名前はなんて言うんですか? とか、のんびりしたコトを聞いている場合ではない。

 フィリップの血液(いのち)は一秒ごとにコンマ数パーセントずつ減っている。あと何分の戦闘に耐えられるのか、フィリップ自身さえ明確には分からない。

 

 幸いにもと言うべきか、左腕の痛みは引き始めた。

 じわじわと痛むが、被弾直後の焼けるような痛みはない。失血で神経機能がマヒしたのか、或いは脳の方に影響が出始めたのか。

 

 しかし、どれだけ荒く呼吸しても息が苦しいのは問題だ。思った以上に出血が酷いらしい。

 

 一番大きな傷口を押さえてはいるが、如何せん傷が複数個所あり、しかも大きく深い。精々が死に至るまでの時間を、ほんの少し伸ばす程度だろう。

 脆い身体は人間性を維持する必要条件だが、ほんの少しだけ恨めしい。

 

 「……動脈が傷付いたのね。良かった、最低限の目標は達成ね」

 「──逃がしませんよ」

 

 安堵の息を吐き、踵を返したディアボリカ。

 木立の間に消えたその背中を追うシルヴァだが、ほんの数歩で足を止める。

 

 「アナタは知らないでしょうけど、動脈の傷付いた人間は数分から十数分で致命的に出血するわ。その子、あと十分そこらで帰ってこられなくなるわよ」

 「っ……!」

 

 安否を問うような視線が向けられる。

 振り返った肩越しのそれは、ディアボリカの言葉の真偽を問うものだ。

 

 フィリップが嘘だと言えば、彼女はディアボリカを追うだろう。

 そしてフィリップが助けを求めたら、彼女はきっと立ち止まってくれる。フィリップを助けに、戻って来てくれる。

 

 それは──不要だ。

 

 「僕は……大丈夫、だから!」

 

 ウルミを捨て、ベルトを外す。

 右手と口を使って、肩と脇を思いっきり締め上げる。

 

 間接止血法。

 血管損傷部から心臓までのルートを圧迫し、血流を止めることで傷口からの流血を防ぐ方法だ。

 

 しかし、これはステファン曰く、医者以外がやるべきではない手法だ。

 血管の圧迫は専門知識無しでは不十分になりやすく、また圧迫が緩んだ場合は勢い良く再出血する可能性が高い。その上、不適切な圧迫だと却って血管や組織を傷付け、最悪の場合は腕そのものが壊死することもあるのだとか。

 

 だが、まぁ。

 

 ()()()()()()()、どうということはない。

 ステファンには無理でも、シュブ=ニグラスやナイアーラトテップなら容易く生やせるだろう。肉体全部が人外化するのは嫌だが、腕の一本くらいなら許容しよう。

 

 今はそれよりも──

 

 「あいつを追って、殺せ!」

 

 あの、クソ野郎を、ブチ殺す。

 

 必要とあらばハスターでも、クトゥグアでも、ナイアーラトテップだって呼んでやる。

 何なら、この森林諸共にでも──!!

 

 「──ッ!」

 

 がちん、と硬質な音。

 開きかけていた口を閉じ、世界を呪う言葉を噛み砕いた歯の音だ。

 

 痛みが募るごとに高まる憎悪を、世界を砕く呪詛を、冒涜を顕現させる命令を、邪神を歓喜させる咆哮を飲み下す。

 

 駄目だ。

 ここにはルキアとステラがいる。ディアボリカの言葉通りなら、二人とも森の中だ。彼女たちを巻き込む可能性がある報復はできない。一時の獣性に身を任せて二人を喪えば、きっと、そのまま雪崩のように人間性を失う。

 

 その自制が、フィリップに残された最後の余力だった。

 

 ふっと意識が遠退き、木の幹に身体を預けてずるずると頽れる。

 

 シルヴァはフィリップが叫んだ直後には駆け出していった。足音なんかも聞こえないし、ルキアやステラが来るまでにはもう暫くの時間があるだろう。

 この場にはフィリップ一人、邪神を呼ぶこともできるが──眠い。立ち上がるどころか、呪文を唱える気力さえ湧かないほどの強烈な眠気が襲ってくる。

 

 左腕の出血はかなり緩やかになっていて、じき止まるだろうと予想が付く。

 

 その安堵が緊張の糸の最後の一本を切り、フィリップの意識は闇の帳に覆われた。

 

 

 ◇

 

 

 木々の間を人外の速度で走りながら、ディアボリカは小さく舌打ちを漏らした。

 

 背後、いや全方位からかかるプレッシャーが一向に緩まないことに気付いたからだ。

 ヴィカリウス・システムがヒト風情を救うという御伽噺のような展開に期待した自分が愚かだと言えばその通りなのだが、ヴィカリウスの中でもシルヴァは特異な個体だ。

 

 森林という生命に寄り添うモノだからか、ドライアド程度に召喚の術を教え、あまつさえその請願を聞き入れて動く。

 ならば幼気な少年を救うため、100年前と同じように星のエネルギーを魔力に変換し、高度な治療魔術を使ってくれたら良かったのだが──こちらを追ってきた。あの子供を見捨てて。

 

 いや、あの子供がそう願ったのか。

 自分の命を救うのではなく、敵を殺すことを優先してくれと。そうだとしたら、

 

 「狂気的ね……」

 

 10かそこらの子供が抱くには強すぎる意思だろう。

 

 さわさわと木立の揺れる音。

 殺気どころか敵意を感じることさえ難しい、耳に心地の良い音だ。涼やかで、心が落ち着く静かな音。ちょっと軽食、ちょっと昼寝をするには最高のバックグラウンド・ミュージックだが。

 

 「ッ!」

 

 それが頭上から殺到する無数の槍、枝葉で編まれたギロチンの落ちる音だと、ディアボリカは直感的に理解し、身を投げ出すように回避行動を取っていた。

 

 ぞふ、と柔らかな音と共に深々と土に刺さる断頭の刃。

 続けざまに四度、攻撃と回避を繰り返す。

 

 「──最悪」

 

 振り返ってもシルヴァの姿はない。

 あれは全盛状態なら森の全域が認知圏内だが、今は星の力が1パーセントかそこら、回収した100年前の残滓を加えても10パーセント程度のはずだ。

 

 しかし、その知覚能力は視覚依存ではないらしい。森の中にいるのなら、皮膚感覚が数十メートル拡張されたような超認識を見せるだろう。

 

 視界外まで逃げ、木々で射線を切ってなお、相手の掌中。

 不利という言葉が可愛らしく思えるが──まぁ、なに。相手は一個概念、森という概念の化身だ。戦況不利程度に収まっている今こそが好機。

 

 足元から突き出される木の根の槍を、頭上や視野外から飛来する枝葉の投槍を、地滑りを起こして裏返る足場を、鋼の硬度を以てしなる蔦植物の鞭を、人外の身体能力で回避する。

 直接戦闘能力には自信のあるディアボリカだが、この敵は“敵意”や“殺意”を持たないただの環境。

 

 自然淘汰。環境による排除。

 ()()()()()()()()()()()。そんな傲岸不遜なる暴虐が許されるだけの格差が、生命と環境の間にはある。

 

 だが、ディアボリカにも矜持がある。

 数百年の昔、吸血鬼として非生命の道、夜の世界に踏み入った時から。いや、もっと以前からの──強者としての矜持が!

 

 「()()()()()……それがアタシの思う“強さ”。どれだけ無様でも、最後に生きている者が強いのよ。だから……アナタの星の力が枯れるまで、鬼ごっこを続けましょうか!」

 

 ディアボリカの負け筋は二つ。

 一つはシルヴァの攻撃によって致命傷を負うこと。血液(いのち)のストックがあれば致命傷も即座に癒えるが、血液の枯渇した今、致命傷を負うことはそのまま死を意味する。

 

 もう一つは聖痕者との遭遇だが──尋常ではない魔力規模だ。ディアボリカの感知能力なら大まかな位置は把握できるし、そもそもこの広大な森で偶発的に遭遇する確率は低い。離れるように動けばまず出会わないだろう。

 

 そしてディアボリカの勝ち筋は一つ。

 森の外へ逃げることだ。

 

 全盛期のヴィカリウス・シルヴァであれば、森そのものを拡張することもできる。かつては地上のほぼ全域を埋め尽くし、従来の原生種を根絶さえした植物種の繁殖力は、“侵略力”と言い換えても差し支えの無いものだ。

 それだけの力を持つ存在の掌中に在って、ディアボリカが今なお健在であることこそ、ヴィカリウスが全盛状態ではないことの証。

 

 おそらく、あのドライアドの幼体のような状態が、この時代におけるヴィカリウス・シルヴァ本来の姿だ。

 発生直後の森林と同じ、小さな火事や一発の落雷で全滅してしまうような、小さく弱いもの。

 

 100年前に魔力に変換した星の力を再吸収して漸く、ディアボリカが逃走を選ぶ程度。しかも、攻撃の手は徐々に緩んでいる。

 人間なら魔力切れだろうと推察できるが、ヴィカリウスは魔力を持たない。エネルギー源である星の力は、それこそ無尽蔵だが──

 

 「星の力は無尽蔵ではあっても、無制限ではないのでしょう?」

 

 出力には制限がある。

 

 星の力が無限に湧き出る井戸のようなものだとしたら、ヴィカリウス・シルヴァは器だ。

 100年前の全盛状態であれば、それこそ井戸を水源ごと持ち上げてひっくり返すような出鱈目な出力が許されていた。今も100年前の残滓と併せて風呂桶程度の出力規模はあるようだが、それもじわじわと縮小している。放っておけば、現代の存在格に応じた手桶レベルにまで出力限界が落ちるだろう。

 

 それまで逃げ切れば森の支配や木々への命令権を失くし、ディアボリカを殺し得る攻撃能力も失うはず。

 

 それに──

 

 「100年前の力の残滓は脅威だけど、それを使い切ったら、本当にあの子を救えなくなるわよ?」

 

 じき分水嶺だ。

 シルヴァにとっても、ディアボリカにとっても。

 

 

 

 

 

 

 

 





 で、これがFAに触発されて描きたくなっちゃったから描いたルキアちゃん。

 
【挿絵表示】


 膝枕です。視点はフィリップくんかステラちゃんです。その二人以外には向けないような表情を描きたくなったんだぁ。
 カッコイイルキアちゃんはみんなFAでお腹いっぱいでしょ? あれほんとすごいよね(語彙) FAに殴られたよ。


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182

 森の外に溢れ出た眷属一掃から十五分。

 ルキアとステラはぴったり五分の休憩を終え、再び森の中に足を踏み入れていた。

 

 あれだけの数の魔物が大挙して通った後だというのに、森の様相は殆ど変わっていない。狩人などの森に詳しい人間が見れば、魔物の突撃が残した痕跡を100は見つけられるのだろうが、素人目には先程と変わらない静かな森だ。

 強いて言うのなら、通常の獣や虫の気配がかなり少なくなっている。あの大暴走から隠れるため、木々の高いところや、地面の穴、藪の中などに身を潜めているのだろう。

 

 地図とコンパスを確認しながら先を進むステラ。

 その視線は両手の道具だけでなく、周囲と、少し後ろを付いてくるルキアにも時折向けられる。

 

 「重くないか?」

 「大丈夫よ、ありがとう」

 

 ルキアが両手で抱えるようにして持っているのは、学校医のステファンが用意してくれた医療用バッグだ。中身は鎮痛剤や化膿止めなどの薬と、外科手術キット一式。課外授業に際して複数個用意してくれたうちの一セットを拝借してきた。

 ルキアもステラも治療魔術は使えないが、フィリップがウルミの練習を始めてからは応急処置の機会も増えた。ステファンに多少の教導も受けているし、小規模な刀傷くらいなら縫合もできる。

 

 もしフィリップが怪我をしていても、自分で手当てをさせるような──手当てをぼさっと見ているだけという無様は晒さない。

 

 「それより、フィリップを見つけるのは難しくない? やっぱり、覚悟を決めて魔力視を使うべきじゃないかしら」

 「発狂したいなら好きにしろ、と言えたら格好の付くところだが……私はお前に発狂して欲しくない。だから止めろ」

 

 そうよね、とルキアも頷く。

 

 もしフィリップがハスターを召喚していたら。

 もしフィリップの傍にシュブ=ニグラスが居たら。

 

 二人の懸念する事案は異なっていたが、起こり得る結末は同じだ。

 物理的な視界より多くの情報を伝える魔力視は、神格にただ相対するより精神的ダメージが大きい。恐怖は狂気に、狂気は精神の破壊に、それぞれ押し上げられる。

 

 災害現場では、大切な人を助ける以前に、まず自分自身を助けるべき。

 そういう格言が王国にはあるが、今はそういう状況だ。

 

 フィリップのことは心配だし、この身を擲ってでも救うつもりはあるが──それ以前に狂死していては話にもならない。

 

 「だが、如何せん手がかりが少ないな。カーターと別れたところから虱潰しなんて、それこそ日が暮れるような作業になるぞ」

 「私も貴女も、トラッキングなんてできない、し、ね……」

 

 ルキアの言葉に、ステラが「それだ」と言わんばかりに指を弾く。ルキア自身も、自分自身の言葉に触発されて閃きを得ていた。

 

 「《サモン》!」

 「《サモン》」

 

 二人の詠唱に応じて、指向した地面に魔法陣が浮かび上がる。

 その中から飛び出す四足の獣。

 

 隆起した四肢の筋肉、しなやかな背中、強く地面を噛む爪が目に留まる。

 厚い毛皮は、ここよりもっと北の地域から流れ着いた種であることを示していた。

 

 90センチ近い体高、グレーと白の入り混じる毛色、金色の双眸。

 

 フィリップが愛してやまない、探し求めた一対の(もふもふ)

 

 ほんの数十分前までこの森の頂点捕食者であった二匹の狼、アルファ個体と呼ばれる群れの中で最強のオスと最強のメスだった二匹は、今や二人の使役下にあった。

 不埒にも縄張りに侵入した愚かなニンゲンを群れで取り囲んだところ、ステラの膨大な魔力による威圧に怯えて逃げ出し、ルキアの麻痺電流によって捕獲され、今に至る。強者に従うのが狼の群れの自然な姿だ。契約に際して然したる抵抗は無かった。

 

 「狼の嗅覚なら、フィリップのいる方角くらいは分かるはずよね?」

 「そう願うよ。さて……どっちには()()()()()()?」

 

 ステラの投げた問いの真意を測りかね、ルキアが小さく首を傾げる。

 フィリップの匂いのついた何かを嗅がせて、追跡するのだとばかり思っていたのだが……思えば、そんな都合のいいモノは持っていない。

 

 ステラの問い、大陸共通語を理解したように──契約に拠る魔術的な繋がりを介して、言葉ではなく意思を理解している──ステラと契約したオスの狼が顔を上げる。

 すんすんと空気の匂いを嗅ぎ分け、やがて一方向に向けて唸り声を上げ始めた。

 

 「なるほど、こっちか」

 「……あぁ、フィリップの“臭い”?」

 「そういうことだ。獣に襲われる心配も無いし、便利な体質だな?」 

 

 説明を受けるまでもなく、少しの思索でルキアも正解に辿り着く。

 

 フィリップの纏う、動物レベルの嗅覚にしか判別できないような微弱な臭い。邪神の気配の残り香とでもいうべきそれは、野生動物にとっては近寄ることも嫌な悪臭らしい。

 それを逆に利用する。

 

 「え? そっち行くんですか?」と言いたげな嫌そうな顔で付いてくる狼たちを従えて、二人は導を見つけた者の確かな足取りで森を進み始めた。

 

 そのまま歩くこと数分。

 原生の魔物や恐慌状態の獣の襲撃を腕の一振りで排除していた二人は、ふと足を止めた。

 

 「……なぁ、ルキア」

 「……えぇ」

 

 世界最強の魔術師二人が感じ取ったのは、ほんの少しの違和感。

 魔術を照準されたわけでもなく、敵意が向けられたわけでもない。ただ直感的に「なにか変だ」と感じただけ。

 

 その何の根拠も無い「嫌な予感」に、素直に、即座に従う。

 足を止め、使役していた狼を魔術的な異空間へ送還した。

 

 周りの景色に変わりはない。

 代り映えのしない木々の並び、時折感じる動物の気配、虫の羽音。人間という森に紛れ込んだ異物から離れるもの、観察するもの、様々だ。

 

 「──あ」

 

 その、中に。

 一つ、異質なものがいた。

 

 木の陰からじっとこちらを見つめる、一対の双眸。

 バロック調の装飾が付いた目は嘲笑の形に歪められ、触手で編まれた首が骨格を持たない動きで傾げられる。

 

 ステラもルキアの声に釣られるように視線を向け、それに気付いた。

 二人に気付かれたことを理解して、嘲りの色を深くした双眸の持ち主が動く。

 

 藪の中から姿を現したのは、明確な異常だった。

 

 それは一見すると、緑色の四足獣だ。

 食肉目の動きで一歩ずつ、藪の中から姿を現す。その全容が露わになるまでもなく、異様が目に付く。

 

 緑色を基調としたグラデーションの触手に編まれた体躯は、骨格と関節に従った動きをしない。水の入った袋のように、どこからでも折れ曲がり駆動する四肢は、それでいて肉食獣に特有の力強さを感じさせる。

 

 ──違う、と、そう感じた。

 これは間違いなく、二人の知るどの生物とも違う。この星に生きるあらゆる生物、あらゆる魔物、あらゆる存在とは根源(ルーツ)からして違うモノ。

 

 ルキアとステラが生きる世界とは、絶対に相容れないモノだと。

 

 アラベスク模様と金色の一本線に彩られ、側部には宝石のような小さな煌めきを並べた外観は、絢爛とすら形容できる派手なもの。

 だというのに、それは森の中に溶け込んで、ルキアとステラの目を以てしても発見することは困難だった。

 

 それは自分から存在感を発し、二人に自分自身を知覚させたのだ。

 

 「──」

 

 何故かと考え、結論が出る前に、きーん、と超音波じみた甲高い音が耳を刺す。

 それが眼前の存在が上げた鳴き声であると理解した瞬間、ルキアとステラは強烈な寒気に襲われた。

 

 今のは、嘲笑だ。

 

 フィリップが時折見せる自分も含めた全てに向ける冷笑とは違う。むしろ、ナイ教授が授業中なんかに一瞬だけ見せる、生徒たちに向けた嘲笑が近い。

 圧倒的な視座から見下され、その無価値と無意味を嘲笑われているような不快感と薄ら寒さが湧き上がる。

 

 高い感受性が仇となり、二人は全く同時に、人生最大の恐怖をリフレインする。

 

 魔術学院の一室で、ナイ教授と相対したときのこと。

 どことも分からない真っ白な空間で、邪神を引き裂いた神父のこと。

 

 フィリップを守護し、フィリップに仕え、それでいてフィリップも含めた遍く全てを嘲笑するモノ。

 シュブ=ニグラスと、ハスターと、同質のモノ。二人が知る彼或いは彼女の情報はたったそれだけだが、それだけで十分だ。

 

 遥かな視座から降る嘲笑は、二人のトラウマにも近しい恐怖の記憶を励起した。

 

 恐怖に際して、人間が取る行動は大別して二つ。

 

 一つは逃避。

 一つは排除。

 

 自分が逃げるか、相手を退かせるか。受動と能動。客体と主体。防衛的と攻撃的。

 どのような反応をするかには、状況と、何よりも本人の気質が大きく影響する。

  

 「──っ」

 

 思わず口を突いて漏れそうになった弱音(なまえ)を、ルキアの美意識が飲み下す。

 

 「……二歩下がり、一歩右へズレろ」

 

 恐慌状態に陥りそうなほどの動揺を、ステラの合理性が脇へ置く。

 即座に従ったルキアは、抱えていた医療用バッグを傍らに置いた。ルキアはステラの指示したそこが、二人で連携する時の最適な戦闘配置だと瞬時に見抜いていた。

 

 「殺すぞ」

 「えぇ。そして先に──フィリップのところに行くわよ」

 

 今更言うまでも無く、ルキアも、ステラも、敵は殺すタイプの気質だった。

 

 ぞわり、と、触手の獣──土星猫の触手が逆立つ。まるきり威嚇する猫のような仕草だ。

 

 「出し惜しむな。吸血鬼戦は忘れて、いま生き延びることだけを考えろ」

 「当然よ。……あの時みたいな無様は、二度と晒さないわ」

 

 ステラには分からない決意を口にして、ルキアは自身の周囲に四つの光球を浮かべる。

 闇の帳を降ろすほどに周囲の光を集め、エネルギーに変換して撃ち出す光の槍──神域級魔術『明けの明星』。それが、四つ。

 

 一つ一つは指先ほどの大きさで、ダンジョンを吹き飛ばした時のような広域破壊は起こらないだろう。

 だが、そのサイズでも森そのものを貫くだけの貫通力と、黒山羊の身体を焼き切る火力はある。一年前の時点で、森の中からヴィーラムの町を貫くだけの威力があったのだ。

 

 「──」

 

 きーん、と、土星猫が鳴く。

 今度のそれは嘲笑ではなく、愉悦を多分に含んでいた。

 

 その挑発を皮切りに、ルキアの魔術が解放される。

 光の速度で撃ち出された純エネルギーの槍は、回避も防御も許さない絶対攻撃。無限の再生力を持つシュブ=ニグラスの落とし仔であろうと、劣等個体なら十分に殺し切れる。

 

 地球の重力すら振り切り宇宙空間へ伸びるそれを、

 

 「──」

 

 土星の猫は、笑いながら回避した。

 四条の光線の間を縫うように、狭い路地をすり抜ける猫の動きで。

 

 その動きを、攻撃の無意味さを知らしめるためだけの無意味な動きを見て、ルキアとステラは確信した。

 

 ──勝てる。

 

 動きが見えたということは、土星猫の動作それ自体は光速を超えていない。

 一連の回避は光の槍そのものを避けたわけではなく、進路上のあらゆる全てを貫く直線攻撃の照準を見切り、それを避けただけだ。どこに撃たれるのかが分かっていれば、攻撃の速度を上回って動かなくても回避できるのだから。

 

 照準しない広範囲攻撃を使ってもいいし、そもそも回避できないように手を打ってもいい。

 ビジョンは見えた。そして、それを実現するだけの手札は十分にある。

 

 「私が檻を」

 「私が槍か」

 

 一言で意思の疎通を終え、跳びかかってくる土星の猫を無感動に見つめる二人。

 

 シュブ=ニグラスに比べれば。

 ハスターに比べれば。

 ナイアーラトテップに比べれば。

 

 ──こんな程度の相手、恐れるに足りない。

 

 「《ハイグラビティ》」

 

 土星猫を縫い留めるのは、ルキアの魔術によって局所的に増大した地球の重力だ。

 相手を直接照準しないから狙いを読まれることもなく、相手が想定以上の魔術耐性を持っていたとしても防御されない。

 

 未知の相手を拘束するには良い手だが──しかし、土星猫相手には悪手だ。

 

 土星の猫は宇宙に生きる猫。

 星々の狭間を、荒れ狂う磁場と()()()の間を泳ぎ、自由気ままに生きるモノ。

 

 重力をいなす術は、生得的に備わっている。

 

 ぬるり、と。

 掴み損なったウナギのような、或いは掬い上げた指の間をすり抜ける水のような動きで、全身を引きつける星の力を受け流す。

 

 触手で編まれた顔が、バロック調の装飾に縁取られた双眸が歪む。

 自身を強いと過信して対応を誤った愚かな獲物に向けるに相応しい、深い嘲笑の形に。

 

 

 

 

 

 



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183

 土星猫の口元が開き、喉奥からひときわ鋭い触手──口吻が伸びる。

 ルキアの真っ白な喉元を狙い、矢のような速度で撃ち出されたそれは、

 

 「……?」

 

 羽虫でも払うような調子で手を振ったルキアの魔力障壁に、いとも容易く弾かれた。

 

 ぱん、と小さな音は、防御の堅牢さに対して攻撃があまりにも軽いことを示している。

 土星猫の双眸が驚愕に歪み、ルキアとステラの目は無機質なほどに動かない。

 

 心中に驚きはある。

 今の攻撃は、単純な物理威力だけならフィリップのウルミにも劣る。見るからに異形の怪物といった風情の土星猫から飛び出すにしては、あまりに低次元だ。

 

 とはいえ、それが全力なのか、様子見なのか、或いはブラフなのか不明である以上、油断はできない。

 

 「交代ね」

 「だな。槍は任せる」

 

 重力の檻が完全に無効化されたのは想定内だ。

 より正確に言うのなら、ルキアもステラも「何が起こってもおかしくない」という気持ちで土星猫と対峙していた。

 

 だから先制攻撃に使った最大火力である“明けの明星”が回避されても、重力による拘束が効果を発揮しなくても、ルキアに動揺は無かった。

 

 「《ステイク》」

 

 自分の真横をすり抜けていった土星猫に、ステラの魔術が向けられる。

 火属性上級拘束魔術『フレイムプリズン』の改変。相手が動けば焼ける炎の檻ではなく、相手を害することに主眼をおいたそれは、ごく小規模な火災旋風だ。

 

 その場から動かず、延焼もせず、しかし内部に捕えたものを執拗なまでに焼き殺す。

 

 杭に繋がれた罪人を処断する『焚刑』の名を冠した、檻というには攻撃的に過ぎる魔術。

 空気を喰らいながら燃え盛る炎は、その内側に向けて強力に吸気する。中でどれだけ足掻こうと、外に出るのは困難だ。加えて1000度にまで上る超高温の炎の壁は、触れるまでも無く肉を焼く。

 

 しかし、土星猫とて惑星間航行能力を持つ外来種だ。

 マイナス200度を下回る極低温真空環境への適応能力と、恒星の放つ熱や紫外線への対策は備えている。

 

 土星猫の“敵”は、宇宙空間という絶対死の環境と、一部の神話生物、あとは邪神くらいだ。

 今更ヒト風情に負けることなど有り得ない。

 

 そう、過信した。

 

 「──」

 

 炎の檻の無意味さを嗤い、一息で突破する。

 その眼前に灯る、蛍の群れ。

 

 ルキアの展開した無数の光球を視認し、その照準を読み解く。

 

 「──」

 

 甘い狙いだ。

 自分とその周囲3メートルを埋め尽くす攻撃。点の攻撃では照準を読まれるからと、対策したつもりなのだろうが──そんなもの、4メートル跳んで躱せばいい。

 

 跳びかかった状態、足場の無い空中では避けられないとでも思っているのだろうが、足場なんてない宇宙を泳ぐ土星猫だ。空気があるのなら、それを蹴ることは造作も無い。

 

 ルキアの魔術照準から逸れるように、5メートル上方へ飛び上がる。

 足元を照らす光は──意味の無い、ただの光。エネルギー変換もされていない、木々の表面を焼くことも無い、少し遠くまで照らせるだけのサーチライト。

 

 「──?」

 

 なんのつもりだろう、と首を傾げた直後。

 

 「《炎獄》」

 

 “燃焼”を押し付けられた。

 

 普通、人型──より正確には眼窩が正面を向いて備わった頭蓋骨を持つ生物は、横長の視界を持つ。

 地球の環境では、ヒトの天敵となり得るのは狼や熊といった中型から大型の地上生物が多い。平地を歩く中で、なるべく広範囲を警戒できるようにという進化の結果だ。狩りの対象になる動物も、動きは早いが横にしか移動しないものが多かった。

 

 だからヒトの目は、横移動を追いやすく、縦移動と高さの移動を認識しづらい性質がある。

 さらに、直上5メートルものジャンプという意表を突く大移動。

 

 目で追えるはずがない。

 つまり──動きを読まれていた。いや、誘導されたのだ。

 

 その先に待ち受けていたのは、ステラの展開した空間隔離魔術。

 直径3メートルほどの火球に見えるが、実態は炎の風船だ。中は空洞になっている。

 

 当然、無害ではない。

 王宮祭の御前試合で見せたカスタム版の「煉獄」とは違う、攻撃能力を捨てていない原典通りの魔術だ。

 

 中から外に出ようとする全てのものに「燃えている」という状態を押し付けるそれは、物質だけでなく音や光などの燃えないものさえ燃やし尽くす。

 

 並大抵の相手なら囚われるだけで跡形も残さず、それこそ燃え残りの灰さえ焼却する魔術だが、しかし、土星の猫は依然として存在していた。

 

 健在ではない。

 その身体を織る無数の触手は炎に蝕まれ、土星猫は人間の可聴域を超えた絶叫を上げている。

 

 脆弱と侮った人間に。

 嘲笑交じりに嬲り殺し、その死体を弄ぶだけの劣等種に。

 

 無様な悲鳴を上げさせられている。

 

 その事に怒りを感じた時には、ルキアは処刑の準備を終えていた。

 

 「放していいわよ」

 

 ぱっと魔術が掻き消え、土星猫が解放される。

 概念の炎とせめぎ合うほどの再生能力は、魔術が解けた瞬間に全身を完全に修復した。

 

 ほんの数秒間の拘束だったはずだが、気付けば周囲には闇の帳が下りている。

 しかし、いつの間に夜になったのだろうという疑問を抱くような余裕は、もはや持ち合わせていない。

 

 「──!」

 

 きぃぃぃん、と、明確な威嚇音を発する土星猫。嘲弄は消え失せ、殺意だけが残った声だ。

 

 その全周を、小さな光球の輪が取り囲んでいた。一条につき親指大の光球が三十個。それが三つ、軸をずらして廻る様は、土星猫を中心とした惑星儀のようにも見える。

 

 その全てが、エネルギー変換された光だ。

 神域級攻撃魔術『明けの明星』の改変。一発の威力に制限をかけ、成層圏まで貫くような射程も捨て、代わりに同時展開数だけを追求したもの。その魔力消費量は極めて大きく、設置型魔術に書き換えてようやく詠唱できるほどだ。

 

 設置型魔術は使い勝手が悪い。

 設置場所を看破されたり、魔力操作によって制御権を奪われたりするからだ。

 

 だが、動かない相手を処刑するだけなら。

 相手が拘束されていて、絶対に回避できないような状況になっているのなら。

 

 周囲の光を自動的に収束させ、予め決められた方向に機械的に撃ち出すだけの魔術でも、十分に殺せる。

 

 「《エクスキューショナー》──起動」

 

 収束し、エネルギー化された光が杭のように撃ち込まれる。

 全周九十本の杭は土星猫の全身をプリンのように抵抗なく貫き、その膨大なエネルギーが空気を焼き切って爆発する。

 

 光で編まれたアイアンメイデンと機雷。

 そんな物騒な形容がぴたりと宛てはまる魔術だ。

 

 「──!」

 

 人間の耳には聞こえない、しかし肌を震わせるような断末魔を上げて──全身を一瞬で蒸発させるほどの極大エネルギーを浴びて、断末魔を上げる余裕があるのは凄まじいの一言に尽きるが──土星の猫は跡形もなく消滅した。

 

 「……倒したの?」

 「……分からん。透明化、瞬間移動、無敵、何でもありだと思っておけ」

 

 聖痕者二人の鋭い視線が周囲を警戒する。

 魔力視を使いたいところだが、何かのはずみで少し遠くを見てしまって、そこに邪神が居たら終わりだ。視界のチャンネルは物理次元に合わせておくしかない。

 

 ならば、と魔力を撒いて空間を埋め尽くし、空間をマッピングする。

 

 ──いない。

 魔力的に透過できる相手なら、という懸念は残るが、いま手に入る情報から推察するに。

 

 「倒したか」

 「そう願うわ。警戒しながら進みましょう」

 「……そうだな」

 

 正直に言うと、二人ともその場にへたり込んで、泥のように眠ってしまいたかった。

 先の戦闘それ自体は準備運動程度だ。今からお互いに殺しあえと言われても十分に対応できる程度の余力はある。

 

 だが如何せん、精神的な負担の大きい戦闘だった。

 二人でやる模擬戦とはまた違った、嫌な緊張感。とびきり気色の悪い魔物と言った外見の土星猫が、次の瞬間には「ぱかっ」と割れて、中から一目で正気を損なうような本物の怪物が現れるかもしれない。そんな荒唐無稽な懸念さえ笑い飛ばせない状況だった。

 

 しかし、本番はこれからだ。

 このだだっ広い森の中から、「こっちには行きたくないです」と唸る狼だけを道標に、フィリップを探し出す。場合によっては吸血鬼と戦うことになるだろう。

 

 「少し休憩する?」

 「……いや、想定外の接敵だったが、折角スマートに終わったんだ。すぐに動こう。今の奴が群れないとも限らないしな」

 「……ぞっとする仮説ね」

 

 二人はもう一度狼を召喚し、方向を確認してから歩き出す。

 

 しかし、フィリップがいるのは迷いの結界──魔術的な要素を持たない、木々の配置や枝葉の向きなどで認識を狂わせる、物理的な結界の中だ。

 魔力視を使わずにその中を進めば、迷った挙句に元居た場所に帰ってくることになる。

 

 二人がフィリップと合流するには、もうしばらく時間がかかりそうだった。

 

 

 

 



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184

 対森林級魔術を撃てるほどの魔力が回復していないディアボリカは、せめてもの抵抗に森に火を放ちながら逃走を続けていた。

 生木を燃やす高温の炎でさえ、シルヴァが存在格を強化した木には弾かれる。一度ついた火も、不可解な方法で消えてしまう。内から外へ逃がさないよう迷わせる木々の結界をぶち抜く以上の効果はない。

 

 しかし、その堅牢無比な防御とは裏腹に、攻撃の手は徐々に緩み始めていた。

 上下から咬むように伸びる枝葉の大顎は、頭上から降る断頭の刃一つに減り、攻撃の間隔も数秒程度だが長くなった。

 

 断続的に頭上から繰り出される攻撃を避けながらでも、ディアボリカの走る速度は人外のもの。その健脚によって追跡を振り切りつつある──なんて、甘い見通しは立たない。

 

 森の中にいる限り、ヴィカリウス・シルヴァの掌中だ。

 そう考えて損はないだろう。

 

 だから、この緩みは──

 

 「星の力に制限がかかり始めた──いえ、100年前の余力が尽き始めたみたいね?」

 

 ディアボリカの勝利を告げる喇叭の音だ。

 

 まだまだ余力はあるだろうし、断片程度の星の力でもディアボリカには脅威だ。攻撃それ自体は単調で、作業のように避けられるものの、当たれば一撃で首を刎ねられるだろう。

 油断はできないが──もうあと一押しで、完全に止まるはず。

 

 「魔力の変換効率から見るに、そろそろ限界でしょう? あの子の治療に使う分、残しておかなくていいの?」

 

 善意めかした言葉に、一瞬の空隙が返される。

 ディアボリカでなければ気付かないようなほんの一瞬だけ、攻撃の間隔が空く。それはシルヴァが初めて見せた、人間的な動揺だった。

 

 「貴方の切り札──星の力を魔力に変換するアレ、そんなに都合のいいモノでもないでしょう? 余力全ての一括変換しかできないようだし、変換効率もすごく悪い。100年前のアナタが何年級の存在だったのかは知らないけど、500年くらいは蓄積していたでしょう? その全部で、アタシ程度を100年封印するのがやっと。ドライアドの守護樹の補助があって、漸く100年よ?」 

 

 ディアボリカは強力な吸血鬼だ。

 封印されていた期間を抜いても300年強の存在歴があり、魔術や白兵戦の技術を磨いてきた戦士であると同時に、この世の理を解き明かさんと願う研究者でもある。

 

 だが、そんなものは、星の表層の前では経歴とも呼べない。

 星の表層、ヴィカリウス・システムが脅威と判じる要素を、ディアボリカは何一つ持ち合わせていない。

 

 そんな雑魚を、100年封印する程度。

 それはまるで勇者の所業──人間風情と同等でしかない。

 

 その弱さの理由を、ディアボリカは理解していた。

 

 「結局、アナタは上位者でしかないのよ。星の力を魔力に換えて、アタシたちと同じ技術を使ってみても、あまりにも拙い。大人が赤子の真似をしているような痛々しさがあるだけよ」

 

 ディアボリカは笑う。

 嘲笑や冷笑ではなく、むしろ共感するような表情と声色には、自虐の気配も含まれていた。

 

 「吸血鬼が人に混ざれないように、人が家畜に混ざれないように。上位者は劣等種とは混ざれないものなの。分かるでしょう?」

 

 ヴィカリウス・システムは星の表層。星の一部。

 この星に於いて、最上位の存在格を持つモノだ。それそのものに生命は無く、故に死という状態へ変化しない、本物の不滅。一度以上の生命整理を乗り越えた概念の化身は、星の排除機能を上回った経験を持つ。

 

 これに比べれば、唯一神もディアボリカもフィリップも、等しく塵に同じ。

 そんなものが、塵の真似事を上手くやれるわけがない。

 

 「そんなアナタが──いえ、物を知らず、記憶も失っていた“現在(いま)”のアナタが守りたいと思った子を、救うべきではないの? 上位者として劣等種を救うでも、あの子に庇われた恩を返すでも、理由は好きに付ければいいわ」

 

 寄り添うような言葉は、完全な詐術というわけではない。

 それはディアボリカが吸血鬼になってから数年で悟ってしまった、悲しい道理だ。

 

 「……アタシは不死身よ? アナタが100年後に力を取り戻したら、また殺しに来たらいいじゃない」

 

 たかが100年。

 ディアボリカとシルヴァの存在歴には大きな隔絶があるし、「たかが」という言葉に含まれる軽視の桁も全く違うが、100年というスケールが些事であるのは同じだ。

 

 その命乞い、或いは再会の約束に。

 

 「…………」

 

 ガーテンの森は沈黙を──普段と変わらない静かな空気を返した。

 

 「……はぁ」

 

 助かった、と、ディアボリカは心の底から安堵する。

 

 今のヴィカリウス・シルヴァは戦闘能力的には脅威ではない。

 だが数分程度でも時間を稼がれると、聖痕者と遭遇する可能性が刻々と高まる。あんな──森の外にいてもはっきりと分かるような突然変異と二対一なんて、全盛期でも御免だ。

 

 足早に森を立ち去るその背中を、顔のない蝙蝠が見つめていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ディアボリカの討伐を先延ばしにしたシルヴァは、木の幹に背を預けてぐったりとしたフィリップの横に跪いていた。

 生命活動の有無や傷の具合などを検分する手つきは拙く、不慣れというより、見様見真似といった風情だ。

 

 血がだくだくと流れて止まりそうになかった左手の傷からは、じわじわと染み出す程度の流血が残る程度。フィリップが肩に巻いていたベルトが理由なのだろう。

 

 しかし、肌はディアボリカにも負けず劣らず蒼褪めていて、眠っているのに呼吸が著しく速い。

 額や首筋には滝のように汗をかいているのに、体温はすぐ側にいても感じられないほど低下している。

 

 死に瀕しているのだろうと、死を知らないシルヴァにもなんとなく分かる。

 森の中で死んでいく生き物は数多くいるし、人間もそうだ。森が戦場になったこともある。

 

 しかしドライアドとは違い、ヴィカリウス・シルヴァに森に入った者の心を読む機能は無い。

 発生からたかだか100万年の種族の心を読む必要など無いからだ。

 

 だから、シルヴァは応急手当の方法や治療魔術を、その外観程度しか知らない。

 そして──それだけで十分だった。

 

 「これが今代の私の望みです。フィリップ。ドライアドとあなたの望みは、また100年後にでも」

 

 フィリップの頭を撫でるシルヴァの表情は、優し気な言葉とは裏腹に無感動だ。

 ここでフィリップを助けても、80年もすれば老いて死ぬだろう。だからフィリップを助けることそれ自体に然したる意味はなく──100年前の残滓ではなく、今代のヴィカリウス・シルヴァ、2年前に再発生したばかりのシルヴァが「助けたい」と思ったから助ける。ただそれだけだ。

 

 理由など要らない。

 道理も、利益も必要ない。

 

 ただ感情のままに動く。

 それが許されるのが上位者だ。

 

 「《セイクリッド・ヒール》」

 

 かつて森の中で致命傷を負った勇者に、仲間の神官が使った最高位の治療魔術。

 記憶の中にあるそれを再現した時点で、シルヴァが持つ100年前の余力は完全に消費された。

 

 目を刺すような輝きと共にシルヴァの身体が光の粒子に変わる。

 その輝きは風に乗ったような動きでフィリップの左腕を包み込み、失った血液諸共に傷を修復する。

 

 後に残されたのは静かな寝息を立てるフィリップと、

 

 「……ぇ?」

 

 何が起こったのか分からないという顔で立ち竦む、元の幼児の姿に戻ったシルヴァだけだった。

 

 「……」

 

 シルヴァはきょろきょろと周囲を見回すが、ディアボリカの姿はない。

 その気配の一片も感じられないことを確認して、ぽてぽてとフィリップの隣に座った。始めは左側に座ろうとしたのだが、血で染まった地面を嫌って右側に移る。

 

 そしてそのまま、二人は揃って寝息を立て始めた。

 

 

 

 

 



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185

 生涯四度目となる森での目覚めも最悪なものだった。

 きっかけとなったのは左腕の痛みで、左腕の血が丸々無くなった状態で縛っていたベルトが、魔術によって完全回復した血流を堰き止めてぎちぎちと軋んでいた。いや、軋んでいるのは血管や身体の組織の方かも知れないが。

 

 「い、痛い痛い!? なんで!?」

 

 ぼろぼろに破れて血で染まった服は傷が存在したことを物語っているが、その下に見える肌には傷一つない。

 ただ、脇の部分で血流が止まっている所為で、緑色の血管が浮いていた。肌もなんだか青紫色に変色しているような気がする。

 

 慌てて肩に巻いていたベルトを外すと、左腕がじんわりと熱くなる。もうしばらくしたら、とんでもない痺れに襲われることだろう。

 右手を動かした弾みで、右腕に頭を預けるようにして眠っていたシルヴァが体勢を崩し、膝枕の形に収まった。

 

 「何が……?」

 

 眠りに落ちる以前のことを想起する。

 確か、ディアボリカと戦っていて、ドライアドらしき謎の女性が現れて、それで──そう、ディアボリカの動きが変わったのだ。

 

 警戒の宛先がフィリップの切り札からその女性に変わり、フィリップを捕えて血を吸うための戦闘から、この場から逃げ出すためのような動きに変わった。100年ぶりの食事だったフィリップを囮に使ったくらいだ。

 

 「あの人は……?」

 

 フィリップの太腿に頭を預け、すぅすぅと寝息を立てるシルヴァの頭を撫でながら、きょろきょろと辺りを見回す。

 焼け焦げた跡や蹴立てられた土といった戦闘の痕跡はあるが、ドライアドらしき女性が使った木々を操作する魔術の形跡は無く、周りの木は在るべき姿に戻っていた。

 

 夢を見ていたわけではないだろう。

 左腕に纏わりついた血に濡れた服も、触覚が無いくせに痺れだけは律儀に伝えてくる左手も、その証拠だ。

 

 ディアボリカもいないし、あの女性もいない。

 逃げたディアボリカを追って行ったのだろうが──ちゃんと殺せただろうか。この腕の痛みの分、きっちりとお返ししたいのだが。

 

 「シルヴァ? ちゃんと寝てる?」

 「…………」

 

 返事の代わりに、落ち着いた寝息が返される。

 ならばよし、とほくそ笑み、ハスター召喚の呪文を唱えようと右手を伸ばして息を吸った、その直後。

 

 「──っ!」

 

 たったった、と、明らかに人間の足音が耳に届いた。

 たたん、たたん、と獣の足音も微かに混じっているが、追われているという感じはしない。むしろ並走しているような感じだ。

 

 ディアボリカと土星の猫が戻ってきたのなら、今すぐにハスターを召喚しなければならないが──よくよく聞くと、足音が多い。

 人間の足音が二つ、獣の足音は──狩人ではないのでは判然としないが、一つではないように思う。

 

 もしかして猟犬を連れた地元の狩人──森から出てこないフィリップを探すための捜索隊だろうか。

 ディアボリカは準備運動を始める前、ルキアとステラが眷属に対処したようなことを言っていたし、救助隊なんかが組織されていても可笑しくない。

 

 「はぁ……」

 

 ルキアとステラを巻き込む可能性の低いハスターなら、と思っていたが、知らない人がいるなら──それも、森の何処に人がいるのか分からない状況では、ハスターでも駄目だ。

 

 「おーい! 誰かいるんですかー! おーい!」

 

 それなら、と気持ちを切り替え、助けを求めることにする。

 シルヴァが起きれば森を出る案内に困ることは無いが、できれば鎮痛剤が欲しい。左腕の怪我は治っているが、切り落としてしまいたいほど痺れが酷かった。

 

 もう二度と間接止血はしないぞ、と決意を固めたフィリップの耳に、予想外の声が届く。

 

 「フィリップ!? 大丈夫!? 何処にいるの!?」

 「カーター! もう一度──いや、魔力視を使ってもいいか!? それだけ教えてくれ!」

 

 真っ先に安否を問うてくれるルキアに安心感を覚えつつ、最短最速を突き詰めたステラの言葉に「流石」と呟く。

 

 「大丈夫です! 僕も二人も安全なはずです!」

 

 微妙に確信を持てないのは、逃げた土星猫の行き先が不明だからだ。

 アレは獲物に気付かれないよう数日間も観察して、その後で嬲り殺すという悪辣な習性を持っている。まだ近辺に潜んでいるかもしれないが……存在格はさておき、嗅覚と生存本能はフィリップも認めるところだ。フィリップを獲物と認めるような愚物では無いだろう。

 

 「……見つけた! すぐに向かう!」

 「急がなくてもいいですよー!」

 

 フィリップの空気の読めない言葉は完全に無視された。

 微かだった足音がはっきりと聞こえ始めたのは、こちらへ近付き始めたからだろう。

 

 今や打ち捨てられた祠──ディアボリカを封印していた場所に近付けないための木々の結界は、ドライアドの全滅と戦闘によるレイアウト変化、そして聖痕者二人の魔力視によって無力化された。

 

 しばらくして、まずステラが、すぐに続いてルキアが、木々の合間から姿を見せた。

 

 「カーター、無事で、いや、怪我を──、は?」

 「フィリップ! 良かった、無事──、っ! その腕──、え?」

 

 二人の言葉を止めたのは、地面にぶちまけられた血と、同じもので染まった左腕の服が原因だろう。

 見るからに大怪我だし、赤の面積は出血が継続しているのなら致命的だと素人目にも分かるほどだ。

 

 加えて、木の幹に背を預けて座ったフィリップと、その傍に捨てられたウルミがいい感じに悲壮感を演出している。死に体に見えても可笑しくない。

 

 「大丈夫です。もう治ってますから」

 

 痺れに覆われた手を酷使して、言葉通りの状態だと示すように軽く振って見せる。

 

 しかし、その動作は二人に多少の安堵を齎すだけで、緊張を解くまでには至らなかった。

 そもそも二人が硬直し、じりじりと戦闘態勢に移行しつつある原因は、フィリップの血塗れの左手と地面が原因ではないからだ。

 

 「カーター、()()は何だ……?」

 「…………」

 

 ステラが無造作にも見える足取りで一歩、こちらへ踏み出す。

 その隣でルキアが二歩、左へズレる。フィリップはその動きで漸く、一見無警戒なステラの動きが、こちらに警戒させないような足運びによるもの──戦闘態勢なのだと理解した。

 

 「ど、どれのことですか? 腕のことなら、治ってますよ?」

 「違う。お前の膝で寝ている、それだ。お前の言葉を疑うわけではないが、本当に無害なんだな?」

 

 フィリップは何を言われているのか分からないという内心の透ける愛想笑いを浮かべて、自分の足に目を落とす。

 当然ながら何の異常も無い。シルヴァがむにゃむにゃと寝言未満の音を発しながら、気持ちよさそうに眠っているだけだ。

 

 「この子ですか? この子はシルヴァ……えっと、ドライアドです」

 「……カーター、動けるのならそれを置いて、こっちに来るんだ。今すぐに」

 

 フィリップの言葉に嘘の気配を認められず──ルキアとステラを守るための嘘ではなく、心の底から「彼女はドライアドだ」と思っていることを確認して、ステラが有無を言わせぬ口調で命じる。

 

 二人は魔力視を使ってフィリップを見つけ、その周囲に魔物や吸血鬼がいないことを確認していた。

 フィリップは間違いなく、魔力のチャンネルに於いては一人だった。ドライアドどころか、獣一匹傍にはいないはずだったのだ。

 

 そのフィリップの膝に頭を預け、すうすうと寝息を立てる「何か」。

 精霊(ドライアド)ではない。精霊種はその肉体が全て魔力で構成されており、魔力視に引っかからないはずはない。

 

 フィリップが使役する邪神や、先程の醜悪な猫に類するモノ。

 ステラはそうアタリを付け、警戒も露わな表情でフィリップを手招く。ルキアも同じく、フィリップの太腿に頬ずりなどして気持ちよさそうに眠るシルヴァを観察していた。

 

 「それ、って。いや、殿下? この子は別に──」

 

 困惑交じりに、安心させるように笑おうと試みた果ての下手糞な作り笑いで声を掛ける。

 

 じわりじわりと空気を黒く染めていくような、敵意とも恐怖ともつかない「圧」のようなものが、ルキアとステラの二人から滲み出ていた。

 その威圧感に気付いた訳ではないだろうが、眠っていたシルヴァがむくりと体を起こした。

 

 前触れの無い覚醒に多少面食らうフィリップだが、二人の反応はもっと苛烈だった。

 

 「カーター! そいつは精霊じゃない! 早く離れろ!」

 「信じて、フィリップ。貴方の傍にいるそれは、魔力的には存在していない、有り得ない存在なの」

 

 二人の視界に映る明確な異常は、全盛期のディアボリカですら警戒するほどのもの。

 戦闘センスはさておき、戦闘経験ではディアボリカに劣る二人だ。恐慌状態になっていないだけ、異常事態への耐性が付いていると評価できるだろう。

 

 むにむにと意味のない声を漏らしながら目をこすり、欠伸など漏らす幼女。

 どう見ても無害だし、そんなシルヴァに魔術を照準している二人はどうかしている、と思うのが普通なのだろうか。それとも、人並み外れた魔術の才を持つ二人が言うのなら、と従うべきか。

 

 フィリップはそのどちらでもなく、

 

 「そ、そうなんですか? いえ、でも大丈夫ですよ。この子は敵じゃありませんから」

 

 二人の言葉を信じた上で、自分の意見を通す。

 

 身体を起こしたシルヴァを庇うように立ち、右手で「落ち着け」と示す。

 

 ルキアもステラも、庇う位置のフィリップを迂回する軌道で攻撃するくらい造作もないだろう。だからこれは、フィリップの身を挺した盾ではなく、ただの意思表示だ。

 

 「二人がどこまで知っているのか分かりませんけど、敵は吸血鬼です。この子はこの森に棲んでいたドライアド……っぽい何か、なんでしたっけ? とにかく、この子は敵じゃありませ──」

 

 根拠の提示さえない、主観の繰り返し。

 幼少期から交渉のいろはを叩き込まれてきた貴種二人には、不快感すら催させる拙い言葉だ。

 

 それを言い切る前に、寝惚け眼のシルヴァが左手を握った。

 つい先ほどまで血流が著しく滞っていて、今なお凄まじい痺れに包まれている左手を。

 

 「うわぁぁぁぁあ!? シルヴァ、待って! 左手に触らないで! いま物凄く痺れてるから!」

 「え、ご、ごめん、ふぃりっぷ」

 

 フィリップはひんひんと情けない声を上げ、左脇の下辺りを押さえる。自分で触るのも嫌なのだが、ついつい手が伸びてしまう故の妥協案だ。

 

 突然の大声にシルヴァだけでなくルキアとステラもぎょっとしていたが、似たような反応に覚えのある──授業中に腕を枕にして居眠りした後とか──二人は、状況が読めずに困惑していると言った方が正しい。

 

 「いや、大丈夫。すぐ……いや、しばらくしたら治るから……」

 「……ねぇ、フィリップ。いまどういう状況なの?」

 「……そうだな。まずは現状を説明してくれ。何があった?」

 

 二人の問いに、フィリップは何から話そうかと考えて──ふと、自分の身に起こったことを詳らかに話せることに、その幸福に気が付いた。

 

 は、と、自嘲混じりの笑いを溢す。

 小さな失笑は湧き上がる幸福感と悲哀と愉悦を食らい、馬鹿笑いにまで大きくなった。

 

 十数秒は続いた笑いの発作を、三人は困惑と共に観察する。

 

 「ふぃりっぷ、たのしい?」

 「あぁ──あははは……うん。すごく楽しいよ」

 

 目の端に浮かんだ涙を拭い、満面の笑みを向けるフィリップ。

 

 「聞かせましょう、僕の武勇伝を! 存分に! 特に何もしてませんけどね!」

 

 冗談交じりに言うフィリップの表情は、これまでに見たことが無いような、心の底から楽しそうな笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ8 『Talking Woods』 トゥルーエンド

 技能成長:【拍奪の歩法】+1D10+5 【回避】+1D6 【鞭術(ウルミ)】+1D6+6 【応急手当】+1D4

 SAN値回復:通常1D6のSAN値を回復する

 




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王城へ行こう!
186


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 ボーナスシナリオ『王城へ行こう!』 開始です

 推奨技能はありません


 ローレンス伯爵領への吸血鬼襲撃事件から、一週間が経った。

 

 一人の死者も出さずに帰還した生徒たちには、10日の療養期間が与えられていた。魔力は三日もあれば回復するが、心の休息と、あとは吸血鬼に関する情報収集、事情聴取に協力した報酬だと思えば妥当だ。

 

 まぁ召喚術選択者に限った話ではなく、校外授業期間明けの、カリキュラム通りの休暇なのだが。

 

 それはさておき、直接対峙したフィリップの報告は、魔物研究局の人にもたいそう喜ばれたらしい。

 

 普通は恐怖や動揺で観察どころではなく、何なら生還することが珍しい強大な魔物ということもあって、報告の絶対数が少ないのだとか。その点、フィリップの報告は客観的かつ戦闘能力に関する情報が詳細で、性格に関して推察(プロファイリング)できる程度には会話量が多い。

 

 ローレンス伯爵領の魔術師や衛兵より価値のある報告を上げたフィリップは、いま、校庭の芝生を駆けまわっていた。少年らしく、無邪気に、何の訓練でも無い、愉快な疾走だ。

 

 「きゃー! あははは! ふぃりっぷ、がんばれー!」

 「いやいやいや無理! 普通に無理だから! あははは!」

 

 本当に楽しそうに声援など飛ばすシルヴァは、狼の背に乗って風になっていた。

 フィリップはその背中を追って走る。

 

 ちなみに、狼の瞬間最大走行速度は時速5~60キロメートル。

 これは馬が全速力を出してギリギリ振り切れる程度であり、フィリップ、というか、魔術的強化を施していない人間なんぞ、一瞬で置き去りにする速さだ。

 

 しかも狼──ステラの使役下になったそれは、群れの中で最強のアルファ個体。

 恵まれた体格と、高い知性、膨大なスタミナを備え、更にはフィリップに怯え切って本気を出している。

 

 シルヴァに本物の鬼ごっこを教えていたら、いつの間にか無理ゲーが始まっていた。

 

 「……平和だな」

 「平和ね……」

 

 少し離れた木陰で二人を見守りながら、のんびりと言葉を交わすルキアとステラ。

 ルキアの隣で身体を丸めて眠っている狼は、飼い主の徹底した躾によってフィリップの臭いに怯えなくなっていた。

 

 「ああしていると、ただの子供なんだがな……」

 「……どっちの話? フィリップ? それともシルヴァ?」

 「後者だよ。こう言ってはなんだが、カーターを“ただの子供”と見るには、色々と知り過ぎた」

 「……シルヴァの方こそ、“ただの子供”には程遠いけれどね」

 

 ステラが草臥れたように言うと、ルキアは同調も否定もせずに応じる。

 そして二人は同時に、数日前の記憶を想起し始めた。

 

 

 ◇

 

 

 ローレンス伯爵領から帰ってきたフィリップは、その足で投石教会に向かった。

 別にマザーの抱擁が恋しくなったとか、ナイ神父の嘲弄が懐かしくなったわけではない。主観記憶では間違いなくズタズタになった左手が、気が付けば治っていた不思議──不気味とも言える現象が怖かったからだ。

 

 邪神が怖くないのに不思議体験は無理なのかと言われると苦笑も浮かぶが、肉体の変質──人外化が原因でないとは言い切れない。

 そんな懸念があっては、ステファンのところに駆け込むのは躊躇われた。一番ありそうな仮説が「ヨグ=ソトース介入による局所的時間逆行現象」なのだし、怖がり過ぎくらいが丁度いい。

 

 それに、身体の無事の確認の他に、もう一つ目的がある。

 

 シルヴァだ。

 

 フィリップは彼女の保護を、召喚物として契約することで果たそうとしていた。

 ルキアとステラに「それは魔力を持たない異常存在だ」と言われた時も、「じゃあ魔力の貧弱な僕でも契約できるのでは?」と、むしろ憂いが晴れてウキウキしていたのだが。

 

 「まさか、僕どころか二人の血でも契約できないなんて……」

 「召喚術は植物や鉱物──魔力や知性を持たない物体とは契約できない。知性は……最低限あるように見えるが、魔力が無いのではな」

 

 シルヴァは一般人代表のフィリップどころか、人類最強の二人でも契約できなかった。

 人類では使役出来ない存在なのか、或いは契約術式に不適合な──植物や鉱物に近しいモノなのか。それは不明だが、とにかくこのまま──誰の召喚物でもない謎の存在のままでは魔術学院に入れないからと、ナイ神父の智慧を借りに来たわけだ。

 

 「じゃ、二人はここで待っててくださいね。場合によってはアレな方法でアレコレするので」

 

 投石教会の玄関で、フィリップはさも当然のように二人に言う。

 要領を得ない言葉に顔を見合わせたルキアとステラは、鏡写しのように苦笑を浮かべた。

 

 「お前な……まぁいい、分かった。行ってこい」

 「あとで神官様にご挨拶させてね」

 「……はい。シルヴァ、起きて」

 

 馬車の揺れで眠ってしまい、背負っていたシルヴァを肩越しに見遣る。

 すうすうと静かに漏れていた寝息が乱れ、翠玉色の双眸が開かれた。

 

 「んぅ……おはよう、ふぃりっぷ」

 「うん、おはよう、シルヴァ。体調はどう? 変わらない?」

 「ん……ねむい」

 「あはは、そっか。それは大変だ」

 

 軽く笑いながら、フィリップは薄く安堵の息を吐く。

 シルヴァがドライアドではないとしても、その近縁種であることは間違いないはずだ。生まれ育った森から出て、遠く離れることで、何かしらの問題が生じるのではという懸念があったのだけれど──馬車の中でも注意深く観察していたし、王都に戻っても何も不調を来さないのなら平気だろう。

 

 玄関扉を開けると、最奥で聖女像を眺めていたナイ神父がこちらに気付き、にっこりと笑った。

 意外と人見知りなのか、シルヴァはフィリップの背中にしがみつく力を強くする。

 

 「やぁ、フィリップ君。お久しぶりですね」

 「……どうも」

 

 聖女像に向かって跪くでもなく、祈りを捧げるでもなく、美術館の展示品を眺めるように顎に手を遣っていたナイ神父。

 その険しい視線に違和感を覚えたフィリップは、何をしていたのかと視線で問う。

 

 ナイ神父はその意図を正確に汲み、その上で無視した。

 

 「面白いモノをお連れですね。星の表層、ヴィカリウス・システムの幼体ですか」

 「……はい?」

 

 何の話だろうと振り返るが、背後には誰もいない。

 その動作だけでフィリップの認識をある程度理解して、ナイ神父は口元を嘲笑の形に歪める。

 

 「君が背負っているその子ですよ。……どうやら彼女自身も、自分が何者かを理解していない様子ですね。ふむ。……ではまず、ヴィカリウス・システムについてご説明しましょう。お掛け下さい」

 「え、あ、はい……」

 

 言われるがまま信者用の長椅子に掛け、隣に座ったシルヴァと一緒に、数分程度の短い説明を受ける。

 ナイ神父の説明は立て板に水だったが、フィリップは途中で慌てたように片手を突き出して遮った。

 

 無作法に気分を害した様子も無く、ナイ神父は「どうしました?」と微笑する。

 

 「……全然分かりませんでした。ちょ、ちょっと待っててください」

 

 フィリップはぱたぱたと駆け出し、ややあってルキアとステラの手を引いて戻ってきた。

 二人とも、特にステラは著しく嫌そうな顔をしている。玄関を開けた時からナイ神父の嘲笑が見えていれば、無理もない反応だが。

 

 ルキアとステラを座らせ、ナイ神父を別の椅子に座らせ、その隣にフィリップも座る。教会の中を興味深そうに歩いていたシルヴァは、フィリップが座るととことこと戻ってきて、膝の上に陣取った。

 

 「よし、もう一回お願いします」

 「……魔術に関連した説明というわけでは無かったのですが、まぁいいでしょう。ではもう一度初めから、その子の正体についてお話しします」

 「……カーター、本当に危険は無いんだな?」

 「あ、はい。聞いた限りでは。さっきも言いましたけど、僕が一度聞いて、邪神絡みじゃないことは確認済みです」

 

 それならまぁ、と聞く体勢になったステラに嘲笑の色濃い一瞥を呉れ、ナイ神父はフィリップにしたのと同じ説明を繰り返す。

 二回目ということもあって、フィリップもそれなりに理解できた。

 

 曰く、ヴィカリウス・システムは星の表層であり星の機能。その存在理由や行動基準に明確なものはなく、“ただそこに在る”モノ。

 海、雨、大気、地面、山脈、砂漠、森林、河川、エトセトラ。この星の表層である生命の集合や非生命が具現化した概念の化身であり、その存在歴は数億年規模。生命でないが故に死を知らず、その概念が星の表層に存在する限り、ヴィカリウスもまた存在し続ける。

 

 数千万年周期で訪れる環境の大規模変化、生命整理を乗り越えたものだけがその階梯に在る。

 

 シルヴァはその中の一個体、森の代理人、ヴィカリウス・シルヴァ。

 今はその幼体だが、いずれは「森そのもの」のような振る舞いを見せる人外なのだという。子供のような振る舞いも時と共に成長し、やがてはヴィカリウス・システムに特有の超越した視座と価値観に染まるのだとか。

 

 「つまり、イス種族や盲目のもの、ロイガーやツァールといった──」

 「!?」

 

 ぱちん、と乾いた音を立てて、ナイ神父の言葉が途切れる。

 先程とは違う説明をしようとした、人類圏外の知識を開帳しようとしたナイ神父の口元を、フィリップが勢いよく押さえた音だ。

 

 「いきなり何を言い出すんですか……!」

 「ははは、ちょっとしたお茶目ですよ」

 

 ちゅ、と小さなリップ音が鳴り、フィリップは嫌そうに手を離した。ついでにその手をナイ神父のカソックで拭いておく。

 

 ルキアとステラを慮って目を向けると、二人はフィリップを安心させるように頷きかけた。

 ナイ神父の発音が絶妙だったからか、或いはある程度の耐性があるのか、二人とも邪神の名前に対する拒否反応を起こしていないようだ。それが邪神の名前であるということも、フィリップの反応から推察しただけかもしれない。

 

 「要は、君たちヒトという種族よりも遥かな昔から存在する……環境の擬人化、とでも言いましょうか。存在の格で言えば、一部の旧支配者を上回るでしょうね」

 

 ふむふむ、と頷くフィリップ。

 逆に、ルキアとステラは今一つ理解できていないようだ。

 

 「旧支配者云々は無視してください。こっちの話──()()()()()()なので」

 「……分かったわ」

 「そういう話は私たちのいないところでやってくれ? それは兎も角、ヴィカリウス・システム……ヴィカリウス・シルヴァか。使役契約できるのか?」

 

 使役契約という単語に、ナイ神父の形の良い眉がぴくりと震える。

 明確に不快を示す形に歪められた両眉と双眸に、通路を挟んで反対側の長椅子に座っているルキアとステラが、いつでも立ち上がれるように足に力を込めた。

 

 「使役契約?」

 

 ナイ神父が厭わしそうに吐き捨てる。

 その宛先は言うまでも無く、フィリップの膝上で退屈そうに足を揺らしているシルヴァだった。

 

 

 

 



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187

 

 ナイ神父の機嫌が急降下したことに一切動じず、フィリップはこくりと首肯する。

 

 「はい。この子……シルヴァを傍に置いておくには、召喚物として契約する必要があるみたいで。王都の入り口で衛士団の人に言われたんです」

 「…………」

 

 ナイ神父は心の底から不愉快だと言いたげな視線をシルヴァに向けるが、シルヴァは極彩色の双眸を不思議そうに見返すだけで、大きな反応を見せない。

 

 「君のお傍に、これを? 何故です?」

 「何故って……当時はドライアドの子供だと思ってたので、同族が全滅した森に独り残すわけにもいかないと思って」

 「その義務感は間違いだったわけですから、もはや使役契約など必要ないのでは?」

 

 ナイ神父の言説には、フィリップもなるほどと頷くところだ。

 星の表層、ヴィカリウス・システムの一個体を()()()()なんて、人の身には余る。第一、シルヴァの方がそれを必要としないだろう。

 

 膝の上で退屈そうにしていたシルヴァに視線を落とすと、シルヴァもちょうど、こちらを見上げていた。

 

 感情の読めない翠玉色の双眸に、薄く不安の影が差す。

 

 「しるば、いらない?」

 「んん……」

 

 悲壮感を催させる──否、シルヴァの抱いた悲壮感が強烈に伝わる声で問われ、呻き声を上げるフィリップ。

 そんな彼を安心させるように、シルヴァはにっこりと笑った。

 

 「わかってる。しるば、たたかえないし、こころもよめない。だからみんな、しるばのこといらないっていってた。うまれそこないだって」

 「んんんん…………」

 

 ヘタクソな笑顔だと、フィリップだけでなくルキアとステラも表情を悲痛に歪める。ナイ神父だけが一貫して不愉快そうにしているが、そのどれも、フィリップの視界には映らない。

 

 「……シルヴァ、一昨日言ったこと、覚えてる? 僕が君を守るって、言ったでしょ?」

 「……ん、おぼえてる」

 「あれはまだ継続だよ。君がそれを望まない限り……いや、君がそれを望んでも、僕は君を捨てたりしない。それが言葉に対する責任だよ」

 

 シルヴァの頭を撫でながら、フィリップは言い聞かせるようにゆっくりと、優しく語る。

 心地よさそうに目を細め、安心したように体重を預けたシルヴァを、フィリップは背中からしっかりと抱き締めた。

 

 「戦えなくていい。君に戦わせるつもりはないから。心なんて読めなくていい。僕たちには言葉があるから。だから君に望むのは一つだけ。一緒にいよう? いつか君が大きくなって、強くなって、僕たち人間に何の価値も感じなくなって、一緒に居ることにも飽きてしまったら……その時には、好きなように生きていけばいいからさ」

 

 ほんの少しの羨望を滲ませながらも最後まで言い切り、シルヴァの髪に顔を埋めるように抱き締める力を強くする。

 

 フィリップの言葉は、いずれフィリップ自身がそうなるかもしれない未来の話であり、フィリップのそれは半ば強制されている。

 シルヴァのように「元々そういうものだった」のではなく「そうなるように歪められた」結果が今だ。そしていつか、心の奥底から表層まで、全部が外神に染まってしまう。そうなったらきっと、こんなところには居られない。

 

 だから、

 

 「でも多分、その時には僕も一緒だよ。君は戻って、僕は狂って──いや、狂うことも出来ずに、君と同じかそれ以上のところに行く。だから──うん。シルヴァと僕は、ずっと一緒だ」

 

 いつかフィリップがこの星(シルヴァ)を壊す、その時まで。

 

 

 ──と、なんだか美談のような空気だが、実態はそんなに良いものではない。

 

 まず大前提として、フィリップはシルヴァを召喚物として使役する契約を結ぼうとしている。

 上下関係が、とか、使役だなんて奴隷のよう、とか、そういう論旨ではない。ただ、フィリップは元々、狼と──父の猟犬に似たものと契約するつもりでいた。

 

 フィリップの言う「使役契約」は、言うなればペット感覚なのだ。

 

 「守る」という言葉も、最後まで責任を持つという覚悟も、犬猫に対するそれと何ら変わらない。たとえ相手が、星の表層であったとしても──外神の視座にしてみれば、それこそ犬猫も同然だ。ただし軍用犬のような脅威ではなく、片手で縊り殺せる愛玩種だが。

 

 フィリップがシルヴァに感じているのは、一方的で身勝手な共感の他は、たかだか一個惑星の表層の、その一つに過ぎない矮小なモノへの冷笑と嘲笑。愛玩。それくらいだ。

 ルキアに感じる羨望や愛着とも、ステラに対する共感や依存とも違う、どこまでも超越的で自己中心的な感情だけ。

 

 シルヴァを戦力にするつもりはない。

 だって、そもそも戦力だなんて思えない。たかだか一星の触角程度、星を焼くような火力を、戯れに星を砕く邪悪の貴公子を知る身では、強いとは思えない。

 

 シルヴァには何も期待していない。

 彼女がフィリップに何かしてくれるとか、何かの役に立つとか、そんな打算は一切無い。

 

 彼女の外見がフィリップより年下の女の子で、置かれた境遇を可哀そうだと思って、庇護欲をそそられたから。

 ただそれだけの理由だ。ただそれだけの感傷が、フィリップの行動の指針だった。

 

 それを、その破綻と傲慢を、ナイ神父は笑う。

 嘲笑と、冷笑と、もう一つ。子供の成長を言祝ぐような、喜悦を混ぜて。

 

 「……そういうことであれば、仕方ありませんね。情操教育にも良さそうですし」

 

 一転して上機嫌になったナイ神父に首を傾げつつ、案内に従って教会の奥に進む。

 ルキアとステラはここで待つようにと、ナイ神父に言われていた。

 

 「学院のカリキュラムは把握しています。契約の確立、召喚と送還ができれば召喚術の単位は取れますから、盛り込む機能はこれだけで。隷属術式は必要ありませんね?」

 「はい、十分です」

 

 空室の一つに入り、ナイ神父がこつこつと靴を鳴らすと、フローリングの床に複雑な魔法陣が描かれる。

 魔法陣は一見すると黒いインクで描かれたように見えるが、フィリップはその粘性のある液体が、とある神格の血液だと分かった。

 

 「……最上級契約、ですか」

 「君の肉体は人間ですからね。これ以下の術式ですと、最悪、君の肉体が花火のように飛び散ります」

 

 なにそれこわい、と苦笑して──フィリップとシルヴァは繋がった。

 

 その後は、然したるイベントは無かった。

 まるで見てきたように詳細な、フィリップが停止していた間と気絶していた間に起こった諸々、シルヴァの献身がフィリップの命を繋いだことを説明されて、フィリップがちょっと安心したくらいか。

 

 

 

 ◇

 

 

 回想を終えたルキアとステラは、ほぼ同時に溜息を吐いた。

 その宛先は、遠く、星の表層であるシルヴァと鬼ごっこに興じながら楽しそうに笑うフィリップだ。

 

 「……楽しそう、いや嬉しそうだな、ルキア?」

 「そういう貴女は難しい顔ね? 何かあったの?」

 

 まぁな、と応じて、ステラはもう一度深々と嘆息する。

 その表情はいつになく重く、オフの時の明朗快活なお姉さんといった風情は無い。ルキアと戦っている時の獰猛さもなりを潜め、国を憂う王族の顔になっていた。

 

 「実は昨日、お父様がカーターに興味を持ったというか……王城に呼ぶように言われてな」

 「そうなの? でも、そんなに心配しなくても平気よ? あの子の礼儀作法は王宮レベルには程遠いけれど、最低限のものは身に付けているわ。王様に「楽に話していい」って言われるまで、「無礼なことをするから話せない」の一点張りを貫き通すくらいの図太さもあるしね」

 「いや、無礼討ちを心配しているわけじゃない。問題はお父様が何を求めているのか分からないことだよ。訊いても答えてくれないし、内心を読めるほど表情の制御が甘い人でもないしな」

 

 公爵家の一員とはいえ、次期当主ではないルキアは家格に対する意識が薄い。勿論、公爵家の名に恥じぬよう、そして何よりも自分自身の美意識に沿うよう、美しい振る舞いを心掛けてはいるが。

 

 身分制度の埒外に君臨する聖痕者だから。シュブ=ニグラスという超越存在を知っているから。

 理由はいくつもあるが、とにかく、ルキアは自分とフィリップの間に然程の壁を感じていない。フィリップの方が壁を感じていないことも大きな要因だろう。

 

 しかし、ステラは違う。

 ステラも同じく聖痕者だが、彼女は王位継承権第一位、次期女王だ。自分の格は即ち、王国の格だと理解している。

 

 だから心の内ではともかく、フィリップのことを友人以上に扱ったことも、語ったこともないつもりだ。

 父との食事の席でも「ルキアの他にも友達が出来た」くらいの言及しかしていない。昨年度の終わりにあった使徒暗躍事件の時は取り乱したが、あれも友人を害された者の反応としては普通だったはずだ。

 

 互いが互いの精神の均衡を図る楔になっている、不健全に過ぎる関係だとはバレていないはずなのだが。

 

 「王様の呼び出しって、招待?」

 「いや、非公式な謁見……召喚だな。客人待遇だとは思うが、拒否権は無い」

 「そう。私も行っても?」

 「好きにしろ。たとえ近衛騎士が全員揃っていても、お前の歩みを止められはしないさ」

 

 軽々に話している二人だが、非公式でも王城への召喚となれば一大事だ。

 少なくとも、去年の夏休みの、公爵との対談とはわけが違う。あれはあくまで「ルキアの家に遊びに来たので、公爵にも挨拶した」程度の、言ってしまえば「ついで」のようなものだった。

 

 今回は完全に、国王との謁見が目的になっている。

 ちょっと世間話をして解散、では済まないだろう。問題は国王がそこまでする理由──フィリップに抱いた興味の理由が分からないことだ。

 

 「私も同席するし、悪いようにはしないが……不安は募るよ。……それより、どうして嬉しそうだったんだ? カーターは楽しそうだが、それに釣られたという感じではなかったぞ?」

 「……まあね」

 

 ルキアは赤い双眸に柔らかな光を湛え、どこか陶然としたように微笑する。

 同性であり、鏡を見れば同等の美貌がそこにある身でさえ見惚れてしまうような表情に、ステラは思わず息を呑んだ。

 

 「フィリップに初めて会った時のこと、話したでしょう? あの時のフィリップは、本当に……美しかったわ。その後のダンジョンでも、同じ輝きを魅せてくれた。……あの子、この世界に価値を感じていないでしょう?」

 「……そう見える瞬間は、ままあるな」

 「だから、あの綺麗な心も摩耗して、失くしてしまうんじゃないかって心配だったの。勿論、そうなってもフィリップを嫌ったりはしないけれど……でも、フィリップは“シルヴァを守る”って言ったでしょう?」

 「あぁ……なるほど。精神性──人間性、という奴か。お前が惚れたあいつのままで、嬉しかったのか?」

 

 惚れた、という言葉に訝るような視線を向けたルキアだが、ステラの言葉に恋愛的な意味がないことを察して、穏やかに頷く。

 

 「あの時のフィリップは──いえ、今のフィリップも、本当に素敵よ。あれだけのものを知っていて、それでも誰かを守ろうとする、そう思える心は本当に美しいわ」

 「……あぁ、本当にそう思うよ。全く以て、羨ましい話だ」

 

 幸せそうに語るルキアから視線を外し、遠くで走っているフィリップを見遣る。

 狼の体力と走力に歯が立たず、顎を突き出してバテているが、本当に楽しそうに笑っていた。

 

 ステラもフィリップとある程度の価値観を共有し、過去には守られた経験もある。

 だからこそ、フィリップとルキアの精神性には一定の羨望を抱く。そしてそれは、フィリップがルキアに向ける視線にも、一定量含まれる感情だった。

 

 「……なるほど、羨望、か」

 

 フィリップがルキアに向ける複雑多数の感情の一端を深く理解して、ステラは深く頷く。

 そして、

 

 「あの時のかっこいいフィリップがまた見られて嬉しい! と──おい、待て、分かった、揶揄って悪かった。だが照れ隠しにしてもそれは少し──!」

 

 ルキアのハンドサインに従い、狼が唸り声を上げてステラに跳びかかった。

 

 

 

 

 



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188

 「最悪だ……。お気に入りの服だったのに……」

 

 陽の光のように麗しい金色の髪と、赤いジャンパースカートを乱れさせ、所々に銀色の毛を付けたステラがぼやく。

 ルキアが意図的にじゃれつかせた狼の体重と筋力は、肉体的には人間の女性の域を出ないステラをもみくちゃにするには十分だった。

 

 「犬の毛は洗濯しても残るんだぞ? 掃除担当の侍女は「逆にやる気が出る」と笑っていたが、洗濯担当の負担を思うと胸が痛い」

 「嘘ね。まだ一週間くらいだけど、貴女の服に毛が付いているところなんて見たこと無いもの」

 「……目敏いな」

 

 ちり、と小さな音と共に、周囲にタンパク質の焼ける香ばしい匂いが漂う。

 

 呆れたように笑ったステラの緻密極まる制御の魔術が、自分の髪や服に着いた狼の毛だけをピンポイントで焼却していた。

 

 「……顔を洗ってくる」

 

 それでもべろべろと舐められて涎塗れの顔だけはどうしようもなかったのか、ステラは億劫そうに立ち上がって化粧室に向かった。涎そのものは指の一弾きで蒸発させられても、顔を洗ってリフレッシュしたいと思うのは当然だ。

 ルキアも留飲は下げたのか、ひらひらと手を振って見送る。

 

 二年生は休暇中、他学年は授業中で、フィリップとシルヴァのはしゃぐ声が聞こえない場所は静閑だった。廊下にも、トイレの中にも、一人もいない。誰ともすれ違わない。ともすれば、この世界にはルキアとフィリップだけ──中庭に戻ったら二人も消えていて、ステラ一人だけなのではと不安になりそうな静けさだ。

 

 だというのに、顔を洗って鏡を見ると、斜め後ろに顔を伏せて立っている若い女性の姿があった。

 

 唐突に視界に飛び込んだ人間。

 視界に映っているのに、集中しなければ感じられないほど希薄な気配。

 

 トイレの洗面所という如何にもな場所で遭遇すれば、絶叫しかねない異常事態だが、その女性は目と顔を伏せ、手には真っ白なタオルを捧げ持っていた。よくよく見れば、彼女が身に付けているのはモノクロームの、オーソドックスなメイド服である。

 

 「ご苦労」

 

 さも当然のようにタオルを受け取り、顔を拭うステラ。

 これが王宮の中なら、顔を拭く作業すら任せていただろう。そんな信頼の窺える無造作な所作だった。

 

 「……それで、用件は? タオルを持ってきただけではないだろう?」

 「はい、殿下。国王陛下より言伝を申し付かっております」

 「内容は?」

 「はっ、略式にて失礼いたします。国王陛下は「本日夕刻6時頃より、玉座の間に於いて謁見を執り行う」と仰せです」

 

 言い終えると、メイドはどこからともなくブラシを取り出し、ステラの髪を整え始めた。

 されるがままに任せながら、顎に手を遣ったステラは「今日か」と口の中で愚痴る。背後に立ったメイドには鏡に映る悩まし気な表情が見えていたが、何も言わずに手を動かす。

 

 やがて作業を終えると、一礼して消えた。

 ──消滅したのではないことは、ステラの魔力感知能力が捉えた一連の動きから分かる。彼女は一礼すると、流麗な所作で化粧室の扉を開けて出て行った。現在位置は外の廊下で、玄関方面に向かって歩いている。

 

 ただ、人間の認知を掻い潜るような──主人の意識に留まらないような、万が一にも邪魔をしないための動きというだけ。

 

 「メイドというよりアサシンに向いている……いや、アサシンがメイドに向いているのだったか」

 

 ルキアの側付きを思い出し、独り言ちる。

 

 気分を切り替えるように溜息を一つ吐き出して、ステラも化粧室を出て校庭に戻る。

 

 使役下の狼に思念を通じて命令を送ると、「助けてくれ」と言いたげな思念が返ってきた。魔力経路を辿って大まかな位置を特定すると、どうやら命令通りこちらに向かって来ていたが。

 

 「ははは! シルヴァが乗った分、走りにくいんだ! 良いぞシルヴァ! そのもふもふ、大人しく僕にもふもふさせて貰おうか!」

 「もふもふ!」

 

 標的をシルヴァからふりふりと揺れる尻尾や全身を包む白銀の毛皮に変えたフィリップが、その後ろを追っていた。

 背中に乗ったシルヴァが狙われているだけで、怯え切って全力疾走していた狼だ。直接狙われていることに直感的に気付いてしまえば、冷静さを失って駆け回るのも無理のないことだ。

 

 「……ストップだ、カーター」

 

 ステラは指の一弾きで狼を送還する。

 今の今まで乗っていた狼が魔術的異空間に収納され、慣性に従って飛んできたシルヴァをキャッチ。そっと地面に降ろす。5,6歳の少女といった体格だが、血肉の代わりに枯れ葉でも詰まったような、異常な軽さだった。

 

 「ナイスキャッチです、殿下」

 「ないすきゃっち。ありがと、すてら」

 「気にするな。それより、カーター。お前に大事な話がある」

 

 いつもフィリップやルキアに向ける明朗な笑顔ではなく、威厳ある次期女王の顔になったステラ。

 これは真面目な話だぞと背筋を伸ばしたフィリップと、真似をして気を付けの姿勢をとるシルヴァ。真面目な表情を作っていたフィリップが、それを見て口角を緩めていた。

 

 かわいいなぁ、とか言いながら、若葉色の髪を撫でる。完全に「真面目な話」の空気では無くなっていた。

 

 「……あ、すみません。大事な話ですよね!」

 「いやいや、その意気だぞ、カーター」

 

 きりりと表情を引き締め直したフィリップとは反対に、ステラは穏やかに口元を綻ばせる。

 はて、と首を傾げたフィリップの抱いた疑問は、

 

 「今から王城に来て貰う。悪いがお父様──じゃない、国王陛下の召喚命令だ。他のどんな用事よりも優先されると考えてくれ」

 「……はい?」

 

 予想だにしなかった単語の羅列によって吹き飛ばされた。

 

 王城? 国王? 召喚?

 どれもこれも、フィリップのような平民──それも田舎から出てきて一年そこらの、11歳の子供とは縁のない言葉だ。……いや、召喚は「する側」なら身近だが。

 

 言葉が耳から入って、空っぽの頭蓋の中をバウンドして、反対の耳から出て行ったような錯覚すらあった。

 片手で足りる数の単語の意味を理解するのに、数秒の思考を要する。

 

 なんて? と聞き返したいところだが、それよりも聞くべきは。

 

 「なん、で、です、か……?」

 

 その理由だ。

 

 いや、色々と心当たりはある。

 特に王都の一角を吹っ飛ばしたことと、ステラを()()()()に引きずり込んだことは、王様にとってはそりゃあもう一大事だろう。

 

 フィリップには親心なんて知りようも無いが、フィリップだって、知らないところでルキアが発狂していたら、その理由ぐらいは突き止めようとするはずだ。我が事ながら自信を持てないのは辛いところだが。

 

 とにかく、王様がフィリップとの対面を望む理由は確かにあるし、見当も付く。

 だが如何せん数が多いのだ。王国領内のダンジョン一個を丸ごと消し飛ばしたのはルキアだが、同行者はフィリップ以外全滅。使徒暗躍の標的にもなったし、先日は吸血鬼と遭遇して生還。撃退ではなくディアボリカ自身の意思による撤退という報告だが、それでも大金星と言っていい異常事態だ。

 

 どれだ?

 どれが王様の目に留まった? どれが理由で怒られる? 用意していくべき言い訳はどれだ?

 

 「不明だ。訊いても教えてくれなかった」

 「いやあの、僕、謁見どころか登城経験すら無い……無いんですけど。あとご存知でしょうけど、礼儀作法も王様に会えるレベルじゃないですよ?」

 

 なんとか断るか、せめて時間だけでも稼ごうとしたフィリップだが、不自然なタイミングで言い淀む。

 その脳裏には、かつて訪れた地獄──この世のあらゆる神殿よりも荘厳で、あらゆる城より豪奢な、宇宙の中心にあり無限大の広さを持つ魔王の宮殿が思い浮かんでいた。

 

 あそこを訪れた、あの悍ましい場所と繋がった経験から言うと、人間の作った城なんて、砂場の山みたいなものだ。

 人間の王だって、かつて拝謁した盲目白痴の魔王と比べれば、女王アリを喩えに挙げてもまだ過剰だ。

 

 ただ、それはそれとして。

 

 「怒られるんだ……そうに決まってる……やだなぁ……」

 

 フィリップは自分の精神性を理解している。

 外神の価値観にある唯一絶対の基準は「自分自身」だ。特に、感情の占める割合はとても大きい。

 

 損も、得も、全ては泡沫。

 あらゆる全てに価値が無いが故に、自らの感情に対してどこまでも正直。

 

 ナイアーラトテップがアザトースの意図なき命令に従うのも、シュブ=ニグラスがフィリップの機嫌を優先するのも、全ては感情に任せた振る舞いだ。

 それが許されるだけの暴力を、存在の格を備えているからこそ度し難いというものだが、フィリップの心の奥底には、同じものが植え付けられている。

 

 仮定の話だが、緊張で頭が真っ白になって、外神の精神が表出したら──フィリップは恐らく、()()

 

 衛兵に止められようが、近衛騎士に剣を突き付けられようが、王様が立ちはだかろうが、あらゆる障害を薙ぎ払い、学生寮のベッドに辿り着く。そして布団をかぶって寝る。

 邪魔するものは誰であれ、何であれ、あらゆる手段を以て排除する。ハスターも、クトゥグアも、ナイアーラトテップも、シュブ=ニグラスも、ヨグ=ソトースでさえ、そのための手駒にするだろう。

 

 感情を理性で制御してこその人間だと、それこそが人間らしい在り方だと信じているからこそ、そうはなりたくない。

 何より、

 

 「冗談じゃないぞ……寝覚めが悪いどころの話じゃない……」

 

 起きたら王国が滅んでました、とか、悪夢にも程がある。

 

 女王アリ(国王陛下)との謁見で緊張するかどうかは別として、怒られるのがほぼ確定している状態で、他人の親になど会いたくはなかった。

 

 どうしよう。

 いっそ謁見の前に殺してしまおうか。……いや、それは本末転倒に過ぎる。

 

 「いや、怒っているという感じでは無かったが……確定ではない。まぁ、問題になりそうだったら、私がお父様を止めるさ」

 「うぅ……頼りにしてます……」

 

 

 

 

 

 



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189

 複数の塔と複数の別棟、別館を擁するアヴェロワーニュ王国王城は、大陸で二番目に大きな建築物だとされている。

 白亜の城は遠目にも絢爛で、近くで見ると外壁にさえ精緻な装飾が施されている。その外観は派手なばかりではなく重厚な威厳も湛え、畏敬の念を呼び起こす。

 

 外から見るだけでも十分に観光として楽しめる美術品であるだけでなく、300余年前には悪魔の大軍勢の襲撃を退けた防衛拠点であり、現代に於ける国家の中枢でもある。

 

 外観、内装、歴史、堅牢さ、そして内包する機能まで含めて、王国最高の建築物。

 

 衛士に守られた正門を通り、親衛隊に守られた玄関を通り、使用人の並ぶ廊下を通り、見事な手際の侍女に接待され、礼服に着替えさせられた。

 その全てを上の空のまま通過してしまったフィリップは、控室のソファで一人、思考に耽る。

 

 「あれが理由で怒られたらこう言い訳して……あっちが理由だったら「僕のせいじゃない」の一点張りで……あとは……」

 

 自覚のある、そして記憶にある数々の「やらかし」に、一つ一つ言い訳を考えて記憶する。

 交渉のプロともいえる国王に、数分で考えた言い逃れが通じるのかは甚だ疑問だが、というか通じないに決まっているが、フィリップ本人としては大真面目だ。

 

 その集中たるや、控室の中に待機していた侍女が何度声を掛けても気付かないほど。

 彼女は困ったように眉を下げて、フィリップの肩をぽんぽんと叩いた。

 

 「あの、カーター様?」

 「うわぁ!? はい! なんですか!?」

 

 流石は王城に勤める侍女、と言うべきだろう。

 大袈裟に飛び上がったフィリップに面食らっていたのは一瞬で、瞬きの後には身体の硬直も下げかけた片足も完璧に修正され、洗練された所作の一礼を見せた。

 

 「ルキア・フォン・サークリス様がお越しです。お通ししてもよろしいでしょうか」

 「え? あ、はい、お願いします」

 

 フィリップが多少の落ち着きを取り戻したタイミングを見計らい、扉が開かれる。

 少し冷たく聞こえるほど淡々と「ありがとう」と告げて部屋に入ったルキアは、フィリップを見るや否や、何とも言えない顔で硬直した。

 

 「どうも。あ、ルキアも正装で……白ゴス、だと……!?」

 

 喉の奥から絞り出されたフィリップの衝撃に、ルキアは照れ臭そうに微笑する。

 

 白ゴスと言っても、ファッショナブルなものではなく、ドレスやグローブの形状はむしろ伝統的なイブニングドレスだ。

 首筋から胸と背中にかけてを露出する代価のように、スカート丈は床を微かに撫でるほど長いデコルテ。肘上までを完全に覆うオペラグローブ。毛足の長いカーペットを意に介さぬ歩き姿からは想像もつかないが、それなりに高いヒール付きの靴がちらりと見えた。

 

 完全に舞踏会の華といった風情のルキアだが、フィリップが白ゴスと表したように、きっちりとした正装というわけではない。

 ローブ・デコルテが露出するはずの肩回りは、シースルーレース素材が覆っている。ドレスの腰回りや手袋にも、同じようなゴシック・ファッションに特有のレースがあしらわれていた。

 

 「よくお似合いです!」

 「ありがとう、フィリップ。本当に嬉しいわ」

 

 薄いレース越しにもくっきりとした鎖骨のラインや窮屈そうな胸の谷間だけでなく、少し腕を上げて貰えば腋の下も見える。普段はダウンかハーフアップの銀髪も、正礼装に相応しいシニョンで、真っ白なうなじが眩しい。

 男子垂涎と言っていい、整然とした中にも女性らしい艶やかさの香り立つ姿を前に、しかし、フィリップの関心は細部ではなく全体で──失礼極まりないことに、中身(ルキア)ではなくドレスの方にあった。

 

 銀髪には黒ゴスこそ至高だと思っていたけれど、白ゴスも意外に合うんだな。今度マザーに着て貰おう……いや、できれば会いたくはないのだけれど、もし何かの用事で仕方なく会ったらそのついでに。

 

 そんな誰にとも無い言い訳混じりの思考に浸っている間に、ルキアがてきぱきと侍女に命じてフィリップの身支度を少しだけ弄る。

 ほんの少しだけ髪型を変え、ネクタイをループタイに変えただけだが、一見しただけで面白いちんちくりんではなくなった。今までのフィリップは恐らく、街中を歩いていたら道行く人々が顔を逸らして失笑を堪える──本人に気を遣うレベルの惨憺たる有様だった。

 

 ダサいを通り越して面白い、面白いを通り越して可哀想。

 フィリップをそんな状態に作り上げた侍女を相手に、ルキアは怒りの視線──ではなく、労うような目を向けた。

 

 フィリップの身形は、男性が国王と謁見するのに相応しいものを、できる限り崩したものに整えられていた。

 貴族の子息子女であっても、謁見できるのは15歳からと決まっている。11歳というまだ幼い年齢の子供を相手に、侍女たちはよく頑張った方だ。

 

 そもそも燕尾服のサイズが最小なのにぶかぶかだし、体格に対してネクタイが大きいし、何なら靴は女性用のローファーだった。男性用では合うサイズが無かったのだろう。本当によく頑張っていた。

 

 「くっ……こんなことなら、一月、いえ二月は遅らせれば良かったわ」

 

 そうしたらオーダーメイドで完璧なスーツを仕立てたのに、などと口内で口惜しさを噛み締めるルキアだが、フィリップは「そんなに変かなぁ?」と鏡を見て首を傾げている。正式礼装どころか、お洒落にも疎いフィリップの感性など当てになるはずも無いのだが。

 

 そうこうしていると、侍女が再びの来客を告げる。

 

 「カーター様、サークリス様、第一王女殿下がお越しになられています。お通ししてもよろしいでしょうか」

 「……あ、はい。お願いします」

 

 ルキアがいるのだから彼女が対応権を握っているのだろうと黙っていたフィリップだが、ここはフィリップに宛がわれた控室だ。その権利はフィリップにしかない。それを視線で教えてくれたルキアに目礼を返しつつ、流れるような所作で扉に向かった侍女の動きに、今更ながら目を瞠る。

 

 「うわぁ……!」

 

 動きに淀みがない、なんてレベルじゃない。

 澄み切った川の流れはよく観察しなければ分からないように、どう考えても動いているのに、その動きに注意していなければ気付けないほど気配の消し方が上手い。

 

 あの動き──いや、あの技術。

 同じことができれば、ディアボリカのような強敵を前にしても、邪神招来の呪文を詠唱できるのだろうか。

 

 別に、ディアボリカに恨みがあるわけでは無い。

 当時は「この左腕の痛み、忘れることはないぞ……!」とか思っていたのだが、王都に帰ってきて、美味しいご飯を食べてふかふかのベッドで寝たら忘れた。

 

 「カーター、ルキア、準備は……あー、それで完了、か?」

 「これで完了よ。……何か文句でも?」

 「……いや、いい。カーター、最終確認だ。私が言った二つのルール、覚えているな?」

 

 指を二本立てたステラに、フィリップは「勿論です」と親指を立てて返す。

 

 「関係性は「友人」の一点張りで通す、質問には嘘でもいいから常識的で当たり障りのない答えを返す、ですよね!」

 「そう。正直、私たちの関係性は……“理解者”なんて、お前とルキア以外には理解できないだろうしな。そしてこちらの方が重要だが、お父様も私と同様ある程度は嘘を見抜ける。下手に嘘と本音を混ぜたら、その精度は二次関数的に跳ね上がるぞ」

 

 うんうんと頷いて危険性を共有しているルキアとは違い、フィリップは今一つ理解できていない。

 幸いと言うか的確と評価すべきか、これらの対策は、そもそもフィリップの理解力や演技力を端から考慮していない。言われたことを実行するだけでいいのだから、フィリップとしても気楽で良かった。

 

 「じゃあ、行こうか。ルキア、万一の時はフォローを頼む」

 「えぇ、任せて」

 

 女性二人にエスコートされる形で、等間隔で調度品の飾られた広い廊下を進む。

 少し先を進むステラの背中を見て、ふと思い返すことがあった。

 

 さっき、ステラが部屋に入ってきて……ルールを確認して……それきりだ。おっとっと、これは不味い。マナー違反だ。

 

 「そのドレス、よくお似合いですよ、殿下」

 「ん? あぁ、ありがとう」

 

 ルキアと同じデコルテ型のドレスだが、ルキアのドレスのような規定から外れたデザインではなく、伝統と格式に則った、背中や肩回りが大きく露出したローブ・デコルテだ。

 

 深紅の生地で織られたそれは一着で目の飛び出るような金額だろうが、それも所詮は額縁に過ぎない。

 その中に収められたステラこそが主役であり、まさしく芸術品の如き美しさだ。

 

 赤いドレスは白い肌や、くっきりとした鎖骨と深い胸の谷間、その中間部辺りにある聖痕を艶やかに縁取る。

 

 金色の髪はルキアと同じく夜会巻きに纏められていたが、カールが掛けられて豪華な感じに飾られていた。これはこれでお洒落だし、明朗快活なところのあるステラにはよく似合う。

 

 が、それはそれとして、着飾った女性に対するマナーとして褒めただけのフィリップは、それ以上何も言わずに歩を進める。

 それに違和感を覚えたのは、宮廷行事や外交の一環で外国のパーティーなどにも参加した経験の多いステラだ。普通こういう時は、どこがどう素敵で、と具体例を幾つか挙げるのが通例だった。

 

 「……? ……あぁ」

 「……ステラ?」

 「いや、なんでもない」

 

 ルキアもそういう場所、そういう作法には慣れていたはずなので、一拍置いて「そういえばこいつは平民だったな」と納得したステラより、初めから「お似合いです」の一言だけで十分に満足していたルキアの方がズレている。まぁ彼女の場合、美しいことが大前提であり、その価値基準は自分の中にしかない。他人から向けられる「綺麗」という言葉に、然程の価値を見出していないという理由もあるだろう。

 

 一行は少しだけ歩いて、すぐに豪奢な両開きの扉──門と表現しても差し支えの無いような、大きな扉の前で止まった。

 扉とその周囲の壁には彫刻が施され、一部には宝石すら埋まっている。

 

 この先が謁見の間であると、言われずとも分かる威圧感──フィリップの頭には「お金かかってそう」という幼稚な感想しか浮かんでいないが──がある。

 

 「さて、着いたぞ。……カーター、準備は?」

 「……どうですか?」

 

 両手を広げてくるりと回るフィリップ。

 その服装や髪形に乱れが無いことを確認して、ルキアが即座に、ステラが少し遅れて頷く。

 

 「大丈夫、素敵よ」

 「……あぁ、まぁ、うん、そうだな」

 

 激甘採点のルキアと、何とも言えない表情のステラ。

 二人の顔を交互に見て少し悩んだあと、フィリップは結局、ぴっと親指を立てた。

 

 「大丈夫ですね、行きましょう!」

 

 本当に大丈夫なのかなぁ、と、扉の傍に控えている二人の鎧騎士も含めた全員が心を一つにした。

 

 

 

 

 

 

 



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190

 

 高い天井ぎりぎりまで聳える荘厳な門を、その横に控えていた鎧騎士の一人がノックする。

 飾られた鎧の置物だと思っていたフィリップが、まさかの動きにびっくりして肩を跳ねさせていた。

 

 「第一王女ステラ・フォルティス・ソル・アブソルティア・レックス殿下、聖痕者ルキフェリア・フォン・サークリス聖下、学生フィリップ・カーター、以上三名のご到着です!」

 

 その口上と同時に、この重そうな扉がずもももっと開くのだろうな、とイメージしていたフィリップの予想は、扉の奥から微かに聞こえた「お待ちください」という返事によって覆される。

 

 「少し待つぞ。……そういう決まりなんだ。誰が始めたのかは知らないが、この『間』は王の準備時間で、相手に対する尊重を示すとされている」

 

 めんどくせ、と明記された顔で、帰っていいだろうか、と、どう考えても駄目なことを考え始めたフィリップに、ステラが注釈をくれる。

 偉い人の考えることはよく分からないが、そういうものだと言われてしまうと、フィリップとしても何も言えない。フィリップはあくまで招かれた側、(ゲスト)だ。(ホスト)の趣向に逆らうのは無粋なことだということぐらい、教えられずとも分かる。

 

 ややあって「お入りください」と扉の向こうから聞こえると、二人の鎧騎士は頷きを交わし、格式ばった動きで門の中心に立つ。

 こちらに一礼し、きびきびと──というよりはきっちりと、と表現すべき所作で門の方へ向き直った。

 

 「第一王女ステラ・フォルティス・ソル・アブソルティア・レックス殿下、聖痕者ルキフェリア・フォン・サークリス聖下、学生フィリップ・カーター、以上三名のご入来です!」

 

 ずん、と空気の震えるような重い音を立てて、二人の騎士が巨大な門を開ける。

 部屋の中からシャンデリアが放ち壁の装飾で複雑に反射した眩い光が溢れ出し、フィリップは思わず目を細めた。

 

 ある吟遊詩人曰く、絢爛とは、その部屋を表すために作られた言葉である。

 白亜の壁には精緻な彫刻と純金の彫金細工が全面に施され、天井の絵画には無数の宝石が散りばめられている。一か所でも切り取れば、それを飾るための美術館が建つような、美しく、そして歴史あるそれらは、しかし、所詮は鏡だ。

 

 それらを飾り、見せることが目的ではなく、天井に吊られた黄金のシャンデリアが降らせる光を反射させ、部屋の隅々までを照らすための照明装置に過ぎない。

 

 この部屋の主役は、部屋の中央辺りから最奥に向けて伸びる長い階段の最上、床から3メートルは高いところに据えられた玉座と、そこに坐す国王。それ以外には有り得ないのだから。

 

 「……」

 

 事前に言われた通り、フィリップは部屋に入った瞬間に跪く。

 ルキアはその数歩前で立ったまま、ステラはさらに奥へ進み、十数人の鎧騎士が跪いて並ぶ階段を上る。

 

 「ご機嫌麗しく存じます、殿下。今宵もお美しいお姿が見られて光栄です」

 「貴様も壮健そうだな、サークリス宰相」

 「はっ、お陰様で、元気にやらせていただいております」

 

 ルキアの父、アレクサンドル・フォン・サークリスがいるのは、玉座へ続く階段の、最上段から三つ下だ。

 ステラはそこを通り過ぎ、玉座から一つ下の段で止まった。宰相との間にある一段は、ステラ以外の王族が立つ場所となっている。

 

 「フィリップ・カーター君だね。顔を上げなさい」

 

 若々しい中に、鳥肌の立つような重圧を孕んだ声。

 言葉一つで他人を屈服させ、従属させるような威圧感がある。

 

 聞き覚えの無い声で名前を呼ばれ、普通に頭を上げそうになったフィリップだが──頭が、上がらない。

 首が、肩が、背中が、上から押さえつけられるように、地下から見えないロープか何かで引っ張られているように、重い。

 

 これが王の覇気──では、ない。

 

 「あ、もう一回」

 

 フィリップの呟きに応じるように、ふっと重圧が消える。

 ステラに予め教わっていた、「頭を上げろ、と言われても、もう一度言われるまでは頭を上げては駄目だぞ」という教えを破りかけたフィリップに対する、ルキアの無言のフォローだった。

 

 「……ふむ。さぁ、頭を上げて、顔を見せてくれ」

 「……?」

 

 言われるがまま素直に顔を上げると、何故かルキアとステラが怪訝そうに眉根を寄せ、首を傾げていた。

 フィリップは二人の表情に疑問を覚えるが、まさか「どうしたんですか?」と訊くわけにもいかず、質問を後回しにして階段の上を見上げる。

 

 玉座に掛けていたのは、アレクサンドルと年頃の近い、30~40歳の男だ。

 なんとなく、白髪頭に長いひげを蓄えた恰幅の良い老人を想像していた──フィリップがよく読む冒険譚の国王がそんな感じだから──から、思わず瞠目する。

 

 その反応にも慣れたと言わんばかりの余裕の笑顔を見せ、国王は玉座にゆったりと背を預けた。

 

 「想像より若くて驚いたかな? まぁ、国王という言葉から連想される威厳は、この(なり)からは感じられないだろうし、無理もない」

 「……」

 

 フィリップは答えず、無言のまま青い瞳を見つめ返す。

 確かに、国王の艶やかな金色の髪は短く整えられており、威厳というよりは快活な印象を強く受ける。しかし、その表情や仕草の一つ一つが、細部に至るまで完璧に練り上げられている。たとえ頭に戴いた冠が無かったとしても、たとえ豪奢な衣装に身を包んでいなくとも、国王以外の誰かや影武者と間違うことは無いだろう。

 

 「ふむ。善く教えているな、ステラ」

 「……えぇ、まぁ」

 

 ステラの端的な答えから何を読み解いたのか、国王は「そうか」と笑い、フィリップに視線を戻した。

 

 「カーター君。直答を許そう。楽に話してくれ」

 「……はい、陛下」

 

 素直に答えたフィリップに、満足そうな頷きが返される。

 しかし、ルキアとステラは再び眉根を寄せ、怪訝そうな目を向けていた。その宛先はフィリップではなく、上機嫌そうな国王と、内心の読めない微笑の仮面を被った宰相だ。

 

 「ステラは君のことをあまり話さなくてね。実のところ、私が君について知っていることはとても少ないんだ。まずは自己紹介をしようか」

 「…………あ、はい。えっと、フィリップ・カーターです。歳は11で、えーっと……読書が趣味です。冒険譚とか英雄譚とかをよく読みますけど、陛下は物語とか、お読みになりますか?」

 「うん、いい趣味だ。私は……最近は読まないけれど、子供の頃はよく読んでいたよ。“十の王冠”とか“エイリーエス”とか」

 「おぉ、古典ですね! “十の王冠”は四年くらい前に、お弟子さんが書いたっていう正当続編が出てましたよ。“小さな角”っていうタイトルで……あれは良かったです」

 

 ネタバレはしませんけど、と一人で内容を思い返し、いやぁ良かったなぁ、などと頷くフィリップ。

 自国の王の前で、宰相と、親衛騎士と、第一王女と公爵令嬢の前なのだが、そんなことは気にもならないらしい。

 

 どの感性から来るどんな予想で「緊張したらどうしよう」と考えていたのか、フィリップ自身すら分からないほどの落ち着きぶりだった。

 

 「ははは、そうなのか。時間があれば読んでみるよ。……ステラともこんな話を?」

 「そうですね。殿下はお忙しいでしょうから、押し付けたりはしないことにしてるんですけど……お勧めはしてます。最近だと、“異形の竜と放浪騎士”とか。……読みましたか?」

 「ちょうど途中だ。白騎士と問答している場面の……“見てくれが醜かろうと、内面が醜悪だろうと、重要なのは何を為して何を残すか”……の辺りまで読んだぞ」

 「あー……名場面ですね」

 

 普段通りに会話してけらけらと笑うフィリップに、鎧騎士の何人かが宇宙人を見るような目を向ける。

 目元はフルフェイスヘルムに遮られて見えないはずだが、籠められた感情を鋭敏に感じ取ったルキアが不愉快そうに片眉を上げていた。

 

 「そうか。娘と仲良くしてくれているようで、嬉しいよ。ところで──」

 

 ところで、と、何か重要なことを言おうとした国王だったが、その言葉は謁見の間の外から上がった大声によって遮られる。

 謁見の間に続く門を守る鎧騎士の片割れが上げた、新たな来訪者を伝える口上だ。

 

 「教皇庁枢機卿、フランシス・カスパール卿、ジョセフ・ライカード卿、アンジェリカ・ロウ卿、以上三名のご到着です!」

 「……お待ちください」

 

 フィリップの斜め後ろから上がった返答の声は、気配を完全に遮断していた侍女のもの。直立不動の姿勢で立っていただけなのに、フィリップが思わず肩を跳ねさせるほどの潜伏技術だった。

 

 国王の威厳たっぷりな頷きを受け、侍女は「お入りください」と扉向こうに答える。

 

 これにはルキアとステラだけでなく、フィリップも眉根を寄せる。

 いや、フィリップは怪訝そうにしているだけだが、ルキアとステラは訝しむを通り越して不快そうだった。

 

 王が通したということは、突然の来訪ではなく事前に取り決められていたことなのだろう。

 だが、ここは三等地の宿ではなく、天下の王城だ。貴族はともかく、実務担当の文官、特に外交方面の役人の能力は極めて高く、ダブルブッキングなど起ころうはずも無い。

 

 だからこれは、仕組まれたことだ。

 

 そう気付いた時には口上が述べられて謁見の間の門扉が開き、跪いた三人の姿が見えていた。

 

 「……父上。何かの手違いであれば、カーターは一度出直して、まずは枢機卿の方々の謁見を終えられては?」

 「それには及ばぬ。これは枢機卿の方々がこそ、望まれたことである」

 

 フィリップに向ける「やさしいおじさん」の演技──ちなみにサークリス公爵の真似──は、ステラに対しては消え失せる。

 双眸の光に温和さは無くなり、冷たく徹底した計算の色だけが宿る。表情も同じくだ。

 

 どちらが本当の彼なのかなど、言うまでもない。

 

 フィリップに向けたあらゆる全ては、彼への軽視を示すもの。

 国王としての振る舞いを見せる必要もその価値も無い、ただの子供に対する態度だった。

 

 そこまで理解したルキアは、現状が望まぬ方へ転がっていることにも気が付いた。

 

 国王の狙いは定かでは無いが、彼らは昨年、非公式戦闘員である“使徒”を使ってフィリップを殺そうとした連中だ。フィリップが確実に武装していないこの場に来た時点で、その目的は推し量れる。

 

 武力で敵わぬのなら政治で、ということだろう。

 

 「……」

 

 ちり、と、ルキアの感情に呼応して高まった魔力が紫電を散らす。

 

 させない。

 そうは、させない。

 

 少なくともルキアの目の前で、フィリップが傷付けられ、拐かされることなど、断じて許さない。

 

 

 相手に武力交渉の気が無いとしても、こちらを害するつもりなら、その手段が何かなど知ったことではない。

 

 政治が、外交が、国家が、人間社会が、どうして無価値に映るのか。

 その理由の一片だけでも教えてやるまでのこと。

 

 「ステラ、今のうちに旗幟を鮮明にして。国王に、彼らに、フィリップを害する意図があったのなら、貴女はどうするの?」

 

 ルキアの言葉は、問いかけであると同時に宣言でもあった。

 剣呑な光の灯る双眸は口以上に雄弁に、ルキア自身はフィリップの側に付くと語っている。

 

 「私は──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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191

 ルキアの問いを受け、ステラは一瞬の逡巡も無く口を開く。

 

 「私はカーターに罪過が無い限り、そちら側に付くさ。……父上、子供だから、平民だからと軽視するのは理解できますが、私の友人に対する態度ではないでしょう。そして、国王陛下。陛下が罪なき者を不当に扱い、あまつさえ他国に売り渡そうと言うのであれば、私が真の王道を示すことになります」

 

 ステラの声は、静かに落ち着いたものだった。

 しかし言い切った直後に、がちゃがちゃと喧しい金属音が耳に障る。

 

 それは彼女の“真の王道を示す”という言葉──自分が玉座に就く、クーデターを起こすという意味の言葉に動揺した、騎士たちの鎧が擦れる音だ。

 彼らは国王直属の親衛隊であり、今この瞬間まで全くの無音だったことから分かるように、姿勢制御と身体操作の精度が桁外れに高い。その彼らが思わず音を立てて動いてしまうほどの、衝撃力のある言葉だった。

 

 お前を殺す。

 そう言われたに等しい国王だが、その口元は不敵に歪む。

 

 「早まるな。彼らも余も、カーターをカルトだとは思っていない。そして余の王道に、無辜の民を守らぬという不正義が立ち入ることもまた、ない。……()()()

 

 ぞわり、と、ステラの全身が総毛立つような威圧感が迸る。

 それは紛れもなく王の覇気であり、自らの王道を疑う不遜な者への叱責であり誇示だった。

 

 ステラはそれを受け止め、安心したように微笑する。

 

 そう。

 そうだ。

 

 アヴェロワーニュ王国第67代国王、アウグストゥス2世は──ステラの父親は、そういう人物だ。

 場合によっては親殺しすら許容する合理性が、これまで一度もクーデターを立案しなかった傑物だ。自分以上にこの国を治められると、そう仰ぐ器の持ち主だ。

 

 「……失礼いたしました、陛下。……そういう訳だ、ルキア。旗幟を分ける必要も無いらしい」

 「どうかしら。少なくとも私は、フィリップを殺そうとした勢力には一片の信頼も置けないわね。……フィリップ、こっちにいらっしゃい」

 

 ルキアが差し伸べた手を、少しの逡巡の後に取る。

 なんだかフランクな人とはいえ、一応は国王陛下の御前であるわけだし……という思考には、フィリップの生真面目な性格がよく出ていた。

 

 部屋を入ってすぐのところに跪いていたフィリップが横に捌けたことで、三人の枢機卿が謁見の間に入る。

 彼らはフィリップがいた場所とルキアがいた場所の、ちょうど真ん中の辺りで立ち止まり、また跪いた。

 

 「本日はこのような場を設けて頂き、感謝の言葉もありません。国王陛下、第一王女殿下、宰相閣下には最上の感謝を申し上げます」

 

 口火を切ったのは、三人の中で最も高齢の白髪の老紳士、フランシスだ。

 

 「うむ。……聞け、フィリップ・カーター」

 「はい、なんでしょう、陛下」

 

 先ほどまでとは違う、王威の籠った声。

 それに応えるのは先ほどまでと同じ、のほほんとした声と微妙な敬語だ。

 

 国王は表情をピクリとも動かさず、淡々と続ける。

 

 「此度の謁見は彼らが企図したもの。余は場所を貸しただけに過ぎぬ。……彼らとは確執もあろうが、此処こそは王国で最も安全な場所だ。奇襲、謀殺に怯えることなく、安心して言葉を交わすがよい」

 

 王の御前──近衛騎士の選りすぐりである親衛隊が守護する場だ。

 フィリップのウルミも当然のように没収されているが、それは枢機卿である彼らも同じで、入念にボディチェックされている。フランシスの持つ杖も、仕込み杖(ソードケーン)ではないことが確認済みだ。

 

 そして、二人の聖痕者がいる。

 彼女たちの目を掻い潜って魔術攻撃を放つのは至難であり、命中させるとなると不可能に近い。ルキアがちょっと移動するだけで、彼女の魔術耐性が攻撃を掻き消すだろう。

 

 「えっと……はい、ありがとうございます。陛下」

 「うむ。貴卿らも、立って話をするとよい。言うまでも無いが、余は貴卿らの会話には口を挟まぬ」

 「……ありがとうございます、陛下」

 

 フランシスが代表して礼を言うと、三人はすっと芯のあるような所作で立ち上がる。そしてフィリップの方に向き直ると、それぞれ質の異なる目を向けた。

 

 白髪の老人フランシスは、感情の読めないにこやかな目を。

 中年太りの男ジョセフは、実験動物を観察するような冷たい目を。

 恰幅の良い中年女アンジェリカは、ルキアに憧れの目を向けたあと、フィリップには嫉妬の目を。

 

 三者三様、性格の一端を窺わせる視線の集中に、フィリップは困ったように愛想笑いを浮かべた。

 

 「枢機卿……? えっと、何の御用でしょう? ルキアの言っていた通りなら、貴方たちは僕を殺そうと……あ、去年の“使徒”の件ですか?」

 

 殺される前に殺した方がいいのだろうか、と物騒なことを考えていたフィリップだが、その閃きが反射的殺意を上書きする。

 

 “使徒”の部隊指揮官はコードネーム・ペトロ──投石教会のナイ神父だ。

 彼がフィリップの抹殺を命じていない以上、その頭越しの命令があったことは明白であり、それは使徒が素直に従う相手からのものだ。たとえば一神教勢力に於いて199人しかいない最高位司祭、枢機卿とか。

 

 「はい。この度はその謝罪を申し上げたく、このような場を設けて頂きました」

 

 フランシスの肯定を受け、フィリップは口元に手を遣って考え込む。

 

 さて──この場合における、最も()()()()対応とは何だろうか、と。

 

 相手は暫定敵、自分を殺せと命令したかもしれない相手だ。

 間違った情報に基づいたものでも、何かの手違いでも、フレデリカのついでのようなものであっても、使徒の攻撃に晒されたことは明白な事実。

 

 しかし、フィリップ個人としては、割とどうでもいいというのが本音だ。

 

 感情と意志は違う。

 一つの感情を長く持ち続けることは出来ても、一つの意志を持ち続けるのは困難だ。

 

 憎悪は、感情だ。

 これに起因する殺意であれば、憎悪の炎が燃え続ける限り、殺意の熱が冷めることはない。

 

 しかし、殺意それ自体は意志に過ぎない。

 突発的に高まった殺意は、時間の経過と共に冷めていく。

 

 一週間前に味わった激痛の記憶すら、美味しいご飯とふかふかのベッドで癒える、鋼のメンタルを持ったフィリップだ。

 数か月も前の殺意が、今まで持続しているわけが無かった。

 

 ……しかし、普通は殺されそうになったら、恐怖や忌避感、怒りや憎悪といった強い感情を抱くだろう。フィリップにはそれが無いから、「何カ月も前のことだしなぁ」なんて甘い思考が出来るだけだ。

 

 だから、

 

 「いえ、気にしていませんから」

 

 というフィリップの答えは、ステラが苦々しく表情を歪めるほどの()()であり、同時に、望まれた答えでもあった。

 

 「王様の前だし、『萎縮』とか『深淵の息』も止めた方がいいよね」という思考に基づく、本人としては大真面目に考えた末の「常識的な対応」だったし、その答え自体は社交辞令的に間違ったものではない。

 だが、国王も、枢機卿も、嘘をある程度は見分けられる。心の底から本気で「気にしていない」のだとバレてしまえば、それは十分に異常として映る。

 

 国王はフィリップが──ステラが入れ知恵した相手がどう答えるのかを予測し、その真偽から人となりを測るつもりで、このような場を用意したのだろう。

 遅ればせながらその事に気が付いたステラは、それ故に表情を歪めたのだ。 

 

 ステラがちらりと盗み見た父親の表情は涼やかで、内心の一切を窺わせない。

 

 「は? いえ、しかし……いえ、何でもありません。では、次はライカード卿から」

 「うむ。貴様──んん、ゴホン。貴方の体質について、二、三、訊きたいことがある。ご自身がアトラクターであることは知って──んん、ご存知か?」

 

 普段は尊大な物言いのジョセフだが、眦を吊り上げたルキアの前ではそうもいかないらしい。

 質問を理解し損ねて、フィリップは首を傾げる。咳払いと訂正を幾つか挟んだからではなく、質問の最も重要な部分であろう単語に聞き覚えが無かったからだ。

 

 「アトラクター、って何ですか?」

 「……ふむ。ナイ神父からは何も聞いていないか?」

 「……?」

 

 眉根を寄せて首を傾げたフィリップの反応は明確な肯定だったが、ジョセフはむしろ満足そうに頷いた。

 彼がここに来たのは謝罪するためだけではなく、それについて説明するためでもある。ナイ神父が説明を終えていては、ここに来た意味も半減だ。

 

 「アト──」

 「悪魔を惹き付ける体質のことよ。美しい容姿や肉体、良質な魔力、善良な精神性、堕落しにくい魂。他にもいろいろな理由があるとされているけれど、とにかく、悪魔に好かれやすい人というのが一定数存在するの。フィリップは……違うんじゃないかしら」

 「……聞く限り、ルキアはまるきりアトラクターですね」

 

 例に挙がった四つの条件をすべてクリアしているし。

 いや堕落しにくい魂かどうかは知らないが、発狂しにくい強靭さを持っているのは間違いない。だからこそフィリップも彼女に惹かれる訳だが、とそこまで考えて、フィリップの脳裏を一つの閃きが貫く。

 

 「ルキアがアトラクターだとしたら、僕は悪魔なのでは?」

 

 そんな冗談のような、本人としてはそこそこ真面目な思考から導き出された言葉は、ほぼ全員に冗談として受け取られた。

 唯一、言葉の宛先だったルキアだけは、一瞬の硬直と一瞬の思考──彼女の思考速度ゆえに、常人の熟考に匹敵する思考密度だったが──を挟み、ややあってにっこりと嬉しそうに笑った。

 

 「……ふふっ。もしも貴方が悪魔なら、アトラクターになるのも悪くないわね。けれど、私はアトラクターではないわ。この条件はあくまで仮説、必須条件でも無ければ、確定条件でもないの」

 「へぇ……」

 「……カーター、それは冗談が過ぎる。彼らは仮にも一神教の中枢だ、言葉には気を付けてくれ」

 

 ステラの注意は、完全に「立場上、一応言っておく」程度のものだ。

 吹き出さないためなのか、くつくつと喉を鳴らして笑っていれば、フィリップでも分かる。

 

 「あ、そうですね、すみません。でも、悪魔だって言われる方が、カルトだって言われるよりは幾らかマシですよ」

 

 少なくとも衝動的にブチ殺したくはならないし、“魔王の寵児”は字面だけ見ると大悪魔っぽい。

 

 自分の思考に自分で可笑しくなり、にやりと笑うフィリップ。

 その笑顔をどう解釈したのか、ジョセフだけでなく他の二人も慄いたように踏鞴を踏んで下がった。

 

 「う、む。その一件では本当に申し訳なかった。それでその、だな……え? アトラクターではない? 聖下、一体何を根拠に──」

 「根拠なんて無いけれど、それはそちらも同じでしょう? アトラクターという属性自体、「おそらく個人的な性質であり、同質の人間が複数存在する」程度の認識だったと記憶しているのだけれど」

 

 ルキアの「フィリップはアトラクターではない」という言葉は、正確には「アトラクターであろうとなかろうと関係ない」と言うべきだ。

 

 事実として、フィリップはアトラクターなのかもしれない。

 昨年の春には悪魔に襲われたというし、そうであることを否定する根拠はないのだ。

 

 しかし、フィリップはシュブ=ニグラス神によって守護されている。

 悪魔を惹き付ける体質であろうとなかろうと、それが影響するような事態になることは──悪魔に契約を持ち掛けられたり、死後に魂を奪われたり、そういう不利益を被ることは無いだろう。

 

 「それに、フィリップは私が守るもの。たとえ悪魔の軍勢が押し寄せてきたとしても、この子だけは、確実にね」

 「私のことも忘れるなよー?」

 「貴女は自衛すればいいじゃない」

 「私も! カーターを守ると言っているんだ!」

 

 分かった分かったと適当に手を振るルキアと、二人の掛け合いを楽しそうに見てけらけらと笑うフィリップ。

 悪魔に狙われるということは、彼らにとって怯えるほどの事案ではない。そう、言葉にするまでも無く明確に示す振る舞い──ただの日常風景なのだが──を見せられて、フランシスは深々と頷く。

 

 「う、ううむ……左様、ですか? しかしですな、その……いえ、何でもありません」

 

 言い募ろうとしたジョセフだが、彼にとってフィリップの重要度はさほど高くない。

 アトラクターという悪魔に狙われやすい体質の者に対して、「教皇領に来ないか」と誘うつもりがあった程度には真摯だが、教皇領の守りが聖痕者二人の守りを上回る堅牢さだとは嘯けなかった。

 

 「では最後に、私から」

 

 三人の枢機卿の最後の一人、アンジェリカが挙手した。

 彼女はまるで授業中の学生のような態度に口角を歪めるフィリップには気付かず、ルキアとステラに向けて話しかける。

 

 「両聖下にご提案があります。本年度の大洗礼の儀ですが、カーター氏にも参加して頂くというのは如何でしょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 



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192

 大洗礼の儀は、フィリップですら知っている一神教の一大イベントだ。

 四年に一度、各国の代表者が教皇庁へ赴き、199人の枢機卿と教皇による洗礼儀式を受ける。代表者を通じて、全ての国民に唯一神の祝福を授けるという儀式だ。

 

 当日だけでなく、その二週間前から一週間後あたりまでは、教皇領全体がお祭りムードに盛り上がる。各国の吟遊詩人や大道芸人といった個人パフォーマーから大規模なサーカス団や劇団なんかも出張公演に訪れ、三国を同時に旅行するようなカクテル感も味わえるのだとか。

 

 三国と教皇庁合同で開催される、超大規模夏祭り。

 直接参加する各国代表以外にとっては、そんな感じの楽しいイベントだ。

 

 フィリップも一度は行ってみたいと思っていたのだが、そもそも言われるまでも無く、今年の大洗礼の儀には参加する予定だ。

 個人的にとか、ルキアとステラについていくとか、そういう話ではない。

 

 「今年の修学旅行、それでしたよね? 往復合計50日、滞在一週間でしたっけ」

 「えぇ、そうね。……でも、魔術学院生は外観の予定でしょう? そうじゃなくて、内観──儀式が行われる大聖堂の中に入って、ってことじゃないかしら」

 「仰る通りです、聖下。王国代表としてご参加いただくお二人と同じ席、とはいきませんが、関係者席をご用意させて頂きますので」

 「え゛? いやそれはちょっと……」

 

 大洗礼の儀に参加できるのは、教皇庁から招待された者だけだ。

 招待状が送られるのは、各国首脳部、聖痕者とその係累、枢機卿の係累。あとは教皇庁の活動に対する()()()()()をした者。要は寄付金や物資援助などで便宜を図れば、招待状は買えるということだ。

 

 ただ、その水準となる寄付金額は年々増加しており、招待状ではなく教皇領に家を買う方がよっぽど安いとか言われている。

 

 フィリップがそんなお金を持っているはずもないので、用意してくれるのは有難いのだが──関係者席となると、学院に蔓延る風説がいよいよ真実味を帯びてくる。既に手遅れである感は否めないのだが。

 

 「僕はみんなと同じ、外からで十分ですよ。正直、そういう真面目な場って苦手なので」

 「いえ、ですが内観と外観では洗礼の効果も大きく異なりますよ? アトラクターであろうとなかろうと悪魔に関わってしまった以上、お祓いの意味でも参加されては如何ですか? 元々四年に一度の行事、今回を逃せばそんな機会がいつ巡ってくるとも──」

 「それはそうだが、カーターにはこれ以上教皇庁と関わりたくない理由があるんだ。こいつは学院で……枢機卿の親族ではないかと疑われていてな」

 

 は? と、アンジェリカは声に出さずとも口の動きと表情で、フィリップに「何故」と問いかける。

 隣にいるルキアにもそれは見えており、不愉快そうに眉根を寄せていた。

 

 勝手に関係者を名乗られた枢機卿の方こそ不愉快だろうが、「なんてことを!」と怒る前に理由を尋ねられる程度には分別を残しているようで、フィリップとしても一安心だ。

 なんせ、これは謁見の前に懸念していた「怒られ事案」のうちの一つ。既に言い訳は考えてあるのだ。

 

 「まず、僕の保護者がナイ神父であること。ナイ神父とマザーと親密であること。聖痕者であるルキアと殿下と仲がいいこと。あと、何代か前の枢機卿にカーター氏が居たんですよね? その名前繋がりで。あと、ナイ神父に教わった魔術が特殊であること。エトセトラ。状況証拠の充実っぷりは、僕の言葉巧みかつ根気強い説得も、まるで歯が立たないほどですよ!」

 

 本当に迷惑しています、という口調で──ここに関しては演技の必要は無かった。なんせ、お陰様で友達と呼べる人間がこの場の二人しかいないのだから──言い切る。

 フィリップの苦労を感じ取ったのか、アンジェリカだけでなくフランシスとジョセフ、宰相までもが苦笑していた。

 

 「お、多いですね……。なるほど、そういうことであれば致し方ありません。我々が勘違いを助長してはいけませんものね」

 「ご理解いただけて何よりです」

 

 肩を竦めたフィリップの返事を最後に、微妙な沈黙が下りる。

 それ自体に意味のあるものではなく、さりとて黙考が生んだものでもなく、誰も何も話さない、話すことが無いだけの痛々しい静けさが通り過ぎた。

 

 「……ロウ卿、ライカード卿、まだ何かありますかな? ……では、私共はこれにて下がらせて頂きます。陛下、本日はありがとうございました」

 「うむ。この後は大洗礼の儀についてのすり合わせだが、貴卿らも参加していくかね?」

 「いえ、そちらは担当者に一任してありますので。……では、失礼いたします」

 

 そそくさと、と言うには丁寧な、深い礼儀作法と敬意を滲ませる一礼を見せてから退室する、三人の枢機卿。

 その後を、フィリップも何食わぬ顔で追う。

 

 「では、僕もこれで。お会いできて光栄でした、国王陛下」

 「……待て」

 

 こちらは本当にそそくさと、これ幸いと帰ろうとしたフィリップを、国王自らが引き留める。

 初対面の時点から直接声を掛けるという特別扱いに加えて、この一言だ。この場に他の貴族が居れば大きなどよめきが上がっただろうが、ここには直属の親衛隊だけ。彼らも一度犯した失態を再演することはなく、跪いた姿勢を無心のまま固定していた。

 

 「……そう急くことはない。もう少し、世間話をしようではないか。……っと、こちらの方が話しやすいかな?」

 

 フィリップという一個人ではなく民草という記号、或いは個人記録の書類を見るような目は、瞬き一つで「やさしいおじさん」に相応しい柔和な光を湛える。

 腰掛けた玉座と絢爛豪華な部屋にも負けない、王の名に相応しい威圧感もなりを潜めた。

 

 フィリップとしてはどちらでも大して変わらないというか、()()()()()()()()()で話しやすさは変わらないだろうと、呆れと諦めを滲ませてもう一度跪く。

 

 「どちらでも構いません、陛下」

 「そうかい? じゃあ、このままにしようかな。カーター君も、立ってくれて構わないよ」

 

 横目でちらりとルキアを窺うと、小さく頷きが返される。

 もう一度の催促を待つ必要はないらしい。

 

 「はい、陛下。……それで、お話とは?」

 

 帰りたかったなぁ、と明記された顔のフィリップに、国王は心底愉快だと言いたげに口角を吊り上げる。

 フィリップは隠しているつもりなのだろうが、この場の全員が高位貴族か王族だ。余裕でバレていた。

 

 「本当に、何でもいいよ。そうだな、例えば……将来の夢とか、聞かせてくれるかい?」

 

 またしても子供に向ける軽視の窺える質問に、ルキアとステラが眉根を寄せ──いや、ルキアだけが眉根を寄せている。ステラは重々しく嘆息し、小さく首を振っていた。

 

 フィリップも薄々は「子供扱いされてるな」と気付き始めていたが、事実としてというか、年齢的には子供なので苛立ちはしない。精神性も一部を除いては──いや、()()()()()()子供のそれだと、十分に自覚している。自覚できているだけ、そこいらの子供よりは大人だが。

 

 「将来の夢、ですか? 特にこれといったものは無いんですけど──」

 

 考える。

 将来の夢なんて、ここ最近は意識することも無かった。

 

 もっと幼いころ、冒険譚に出てくるような騎士や勇者に憧れたことはあった。ある日突然、途轍もない力を持った魔剣を手に入れて、ドラゴンを打ち倒すような英雄になれたらと考えたこともあった。

 少し大きくなって実家を手伝うようになると、ぼんやりと「実家を継ぐか、自分の宿を持つのかな」と考えるようになった。

 

 今は──将来のことなんて、考えたくても考えられない。

 この泡のような世界に、未来なんてあるのか? 一秒後には割れて弾けて消えているかもしれない、泡沫の世界に?

 

 未来なんて考えるだけ無駄だ。

 将来なんて訪れるかも分からない。

 

 そう知っているから、先のことを考える気にもならなかった。

 

 しかし聞かれたからには、何かしら──常識的で当たり障りのないことを答える必要がある。

 

 ……僕が望む未来か。

 そう、口の中で転がす。

 

 フィリップが望むことなんて、それこそ普通で常識的なことだ。

 ルキアと、ステラと、家族と、衛士たちと、ライウス伯爵と、モニカたち。あとは、この世の全ての善良な人々が、平穏な死を迎えること。

 

 病死でもいい。事故死でもいい。でも叶うなら寿命で。

 人の尊厳を残して、人として、そして叶うなら幸せに死んでほしい。

 

 ──そのためになら、自分の時間も自分の命も、自分の生涯だって捧げられる。死後に外なる神として新生するのだとしても、人としての一生を彼ら彼女らの為に使うことに、躊躇いは無い。

 

 「──衛士になりたいです。大切な人を、守れるような人に」

 

 気付けば、その“夢”が、自分でも意識していなかった願望が、口を突いて出ていた。

 

 

 

 

 

 

 



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193

 大切な人たちを守る人になりたい。そんな決意が。

 彼らのような素晴らしい人間でありたい。そんな羨望が。

 

 自己犠牲と自己中心性、対極にある二つの感情が、同じ答えを導き出した。

 

 衛士になりたい。

 それは王都の子供、特に多くの男の子が抱く夢だ。騎士より身近で、冒険者より強いから。鎧がかっこいいから。優しくしてもらったから。そんなよくある理由で、よくある夢。

 

 常人が聞けばそれだけで、微笑ましい話で終わる、ありふれた将来展望。

 しかし彼らの目は、その根本にある決意と感情の強さを見て取る。

 

 不特定の遍く誰か、ではなく、明確なごく一部の誰かを守るために。

 ……面接の答えとしては不正解だが、人間的には花丸だった。

 

 みんなを守る、なんて耳触りの良い言葉を吐く輩を、国王は絶対に信じない。

 それは国王自身がかつて夢見て諦め、個人で一国を滅ぼし得る極大戦力であるステラでさえ不可能と断じる夢物語だ。この二人で無理なら、誰にも無理だ。

 

 だが、大切な人を守る、という望みは。

 それは根源的で、もっと言えば義務的な願いだ。人間であれば自然と抱く感情と言える。しかし、それを照れも臆面もなく、そして確固たる決意を持って口にできるのは、ほんの一握りの人間だけだろう。

 

 「……いい夢だ」

 

 国王の口からぽろりと漏れた本音は、ステラと宰相以外には聞こえなかった。

 独り言とはいえ、それを引き出したフィリップ本人さえ、ほとんど無意識に口を突いた自分の言葉に驚いて、国王の顔色を窺うどころではない。

 

 「……ははは、想像以上に脳を焼かれてる。自覚以上に、って言うべきなのかな」

 

 フィリップは顔を覆って自嘲の笑みを隠す。

 誰かを守る。それが即座に衛士と結びつく程度には、彼らの存在はフィリップの中で大きいらしいと、今更なことを考えながら。

 

 何かに感じ入ったように沈黙していた国王が我に返るまでの一瞬、沈黙の帳が下りた。

 彼はその沈黙も意図したものだと思わせる、堂々たる所作で頷く。そして、すぐに「やさしいおじさん」の仮面を被り直した。

 

 「そうか、とてもいい夢だね。けれど……残念ながら君の成績だと、衛士団の入団資格を満たさない。だから──」

 「なら──あ、失礼しました。どうぞ」

 「……いや、いいんだ。何を言おうとしたのか、聞かせてくれるかい?」

 

 図らずも国王の言葉を遮る形で声が被ってしまい、流石のフィリップも慌てる。

 これは事前に言われていた「やってはいけないこと」のうちの一つだが、それ故にやらかした場合の対策も教えられている。ギリギリセーフ、と言ったところだ。

 

 「なら、魔術学院を卒業した後、まずは冒険者になろうかと。確か衛士団の入団資格は、魔術学院と軍学校の成績上位卒業生か、Aランク以上の冒険者であること、でしたよね?」

 「……険しい道だよ。魔術学院を成績上位で卒業する方が、まだ簡単だ。冒険者は時に命懸けだからね」

 「え? あ、はい。……え?」

 

 忠告とも取れる言葉に、フィリップは首を傾げる。

 その反応には、国王だけでなくルキア達も同じ反応だった。国王の言葉は簡潔な事実だ、理解に苦しむ場所は無いはずだと。

 

 不思議なことを言うものだと、フィリップは困ったように笑い、返す。

 

 「生涯を掛けて守ろうって言うのに、命懸けっていうのは今更では? ……あ、でも、僕の命なんて軽いモノですからね。命懸けっていう言葉自体が、そもそも軽い」

 

 へらっと笑ったフィリップ。

 わざわざ声に出さなかった言葉の後ろには、「まぁ僕の命に限らず、遍く全てに価値が無いわけですが」という嘲笑が隠れている。

 

 「……そんなことはないさ。君に限らず、命が軽い人間なんていないよ」

 「……あ! そ、そうですね!」

 

 ぽろっと零れた本音は、よくよく考えると常識外れもいいところだった。

 その事に遅ればせながら気付いたフィリップは、慌てて上ずった声で国王の言葉を肯定する。

 

 「うん。……フィリップ君は──」

 

 国王のフィリップに対する呼び方が、さりげなく苗字から名前に変わる。

 当然ながら全員が気付いていたが、フィリップも含めて誰も口を挟まない。そもそも口を挟める立場にいるのはルキアとステラくらいなのだが。

 

 「──王宮勤めとか、興味あるかい?」

 「……父上?」

 

 その言葉に、ルキアとステラがぴくりと反応する。

 王宮に勤めるのは貴族ばかりではなく、平民階級でも優秀な者であれば登用される。だから平民が王宮に勤めること自体は珍しいことではないのだが、文官として王宮に勤めることは、平民が貴族に成り上がるための数少ない道筋の一つだ。あとは騎士団に入って騎士爵位を得るか、何か特別な貢献をするか、と言ったところか。

 

 つまり国王の言葉は、単なる職場への誘いではなく、間接的な()()()()()()だった。

 

 王国は専制君主制であり、国王は法を作る側、その行動は法の制約を何一つとして受けない。

 やろうと思えばこの場で今すぐに「キミ、今から貴族ね」と強引に決め、そのように国家を動かすこともできる。

 

 勿論そんなことをすれば他の貴族から追及を受けるし、最悪の場合は他国から「彼の国の王は馬鹿だ」という烙印を押され、王国全体の品位を損なうことになる。

 

 だから、その誘いは穏便なもので──だからこそ、本気度の窺えるものだった。

 

 「王宮ですか? いえ、そういうキッチリしたところは、僕にはちょっと合わなさそうと言うか……はっ! いえ、えっと……お言葉は光栄至極に存じますが、私の才と学では力不足かと思います」

 

 普通に答えかけて、寸前で“当たり障りのない答え”のことを思い出す。

 少し考えて捻り出した返事は社交辞令として問題ない水準だったが、もう既に本音が半分くらい漏れていては手遅れだろう。

 

 苦笑いを浮かべたステラとは裏腹に、謁見の間には国王の愉快そうな笑い声が木霊する。

 

 「はははは、今更そんなに畏まらなくてもいいさ。うん、仕事選びは適性もそうだけど、肌に合うかが重要……だったね、レオナルド?」

 「仰る通りです、陛下。私などの言葉を覚えていて下さり、恐悦至極に存じます」

 

 階段に並んだ鎧騎士の中で、最上段にいる騎士が跪いたまま答える。

 長らく仕えてきた彼にとって「やさしいおじさんモード」の国王は初めて見る意外な一面だったが、そんな感情はおくびにも出さない冷静な返事だった。

 

 「衛士団の入団時年齢は……25歳以下だったか。うーむ……少し遅いな」

 

 今度の呟きは宰相だけには聞こえたらしく、彼の首がぐりん!と勢いよく、ほぼ直角に回る。

 

 「陛下?」

 「悪魔討伐の功は二等地焼失の罪と相殺にしてしまった。吸血鬼撃退も、ローレンス伯爵領外に被害があった以上、召し上げるほどの功とは呼べぬか。ふむ……」

 

 国王は玉座にゆったりと背を預け、しかし見下ろすのではなく顎を引いて正面からフィリップを見つめる。

 その口元に浮かぶ薄い笑みは、宰相やステラにとっては馴染み深いもの。観察と計算から導き出された能力への期待──相手を高く買っている時にしか見せないものだ。

 

 フィリップが聞きとれない独白に首を傾げたのを見て、国王は温和な笑顔の仮面を貼り付ける。

 

 「では、君が冒険者として活躍することを祈っているよ。フィリップ君」

 「……ありがとうございます。陛下」

 「うん。……今日は泊っていくかい?」

 

 色々な疑問を呑み込んで頭を下げる。

 国王の問いに、フィリップは多少の疑問を覚えつつも素直に懐中時計を確認した。

 

 じき六時半といったところだ。

 この部屋に窓は無く空の色を見ることはできないが、そろそろ日も落ちる頃合いだろう。

 

 だからその問い自体は理解できるものだったが、王城と魔術学院はそれなりに近い場所にある。徒歩10分かそこら──王城の門から学院の門まで10分。王城から出るのに15分、学院の門から学生寮まで5分以上かかるが──の距離だし、わざわざ外泊するほどでもないだろう。

 休暇中なので外泊届の提出は必須ではないが、寮に帰れるなら普通に帰って普通に寝たい。

 

 「いえ、お言葉は有難いのですが、えーっと……」

 

 この場合の当たり障りのない常識的な断り方って、どんなのだろう。

 そんな今更なことを考えて口籠ったフィリップだが、これは無理も無いだろう。こんな状況はステラさえ予想しておらず、何もアドバイスできていない。

 

 「父上──」

 「国王陛下──いえ、何でもありません」

 

 ステラとルキアがほぼ同時に声を上げ、一瞬の目配せの後にルキアが発言を取り消す。

 軽く肩を竦めたステラは国王の方へ向き直り、

 

 「カーターは明日、補習です。今日は帰って勉強しませんと」

 

 と、フィリップが真顔になるような情報を開示した。

 

 当然ながらフィリップ本人が知らない時点で嘘なのだが、実はフィリップには前科がある。

 現代魔術実践分野の補習日を一週間も勘違いして、ナイ教授にしこたま煽られた挙句、補習時間倍増というペナルティまで喰らった前科が。問答無用で落第にされなかっただけ有難い話だが。

 

 フィリップは嘘だろ、と愕然とステラを見つめる。

 ステラは国王の目をじっと見つめて逸らさず、目元だけで「困ったものです」と言いたげな苦笑を作る。

 

 「……あぁ、魔術適性が偏っているのだったか。休暇中に補習とは、マルケル侯爵は相変わらずだな。……そういうことであれば仕方ない、君には是非とも三年で卒業して、なるべく早く功績を挙げて欲しいからね」

 「? あ、いえ、はい、ありがとうございます」

 

 頭を下げたフィリップに、国王は鷹揚に頷く。

 ステラは誰にも気付かれぬよう、そっと安堵の息を溢した。

 

 「では、本日の謁見はここまでにしよう。退室して……あぁ、挨拶はいいよ。また会おう」

 「……御前、失礼致します、国王陛下。お会いできて光栄でした」

 

 最後にぺこりと頭を下げて振り返ると、侍女の合図に従って謁見の間の門が開かれる。

 

 「では父上、私もこれで」

 「……御前失礼いたします、国王陛下」

 

 軽い会釈を残して階段を降りたステラに続き、ルキアもカーテシーをして踵を返す。

 三人が退室すると謁見の間の門扉は閉じられ、二人の鎧騎士はその両端で直立不動の姿勢に戻った。

 

 「…………」

 

 フィリップは真顔のまま黙り込み、動かない。

 

 それだけ緊張していたのなら一泊しなくて正解だと、ルキアとステラはその背中にそっと手を添える。

 背中に感じる体温に、フィリップはぎぎぎ、と軋むような動きで首を回し、少し高いところにあるステラの目を見る。

 

 「あした、ほしゅう……?」

 

 シルヴァも苦笑するような片言の震え声に、二人は思わず失笑した。

 

 「くっ、あははは! そんな顔をするな、嘘だよ。明日は一等地にでも遊びに行こうか」 

 「ふふふ……えぇ、良いアイディアね。……今日はお疲れ様、フィリップ。着替えて、帰りましょう?」

 

 軽く背中を押され、控室に誘導されながら、心の底から安堵の息を吐く。

 

 「良かったぁ……。予習無しで現代魔術の補習とか、ナイ教授に煽られ過ぎて憤死しますよ」

 

 けらけらと笑いながら遠ざかっていく背中を見送り、二人の鎧騎士は静かに顔を見合わせる。

 親衛隊として謁見の間を守る仕事に就き、謁見を終えて出てきた者の今にも倒れそうに憔悴した姿や、疲労困憊といった様子の貴族たちを見てきた彼らにとって、笑いながら去っていく子供は異常に映った。

 

 「……何歳に見える?」

 「……10歳ぐらいか? 学院入学は15だが、そうは見えないな」

 「……分かってない、ってことはないよな?」

 「そりゃないな。むしろ、マルケル聖下みたいな“二周目”じゃないか?」

 「それこそ無いだろ。サークリス聖下ですら「彼女以外には無理」と断じる超絶技巧だぞ」

 

 ひそひそと続いた会話は、扉の奥から聞こえた、かつん、という微かな音によって急停止した。

 謁見の間に控える侍女──実はかなりの高位貴族の令嬢──からの、無言の警告だった。

 

 

 

 

 

 



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194

 フィリップたちが退出した謁見の間で、国王アウグストゥス2世と宰相アレクサンドル・フォン・サークリスは同質の笑みを浮かべていた。

 その宛先は言うまでも無く、わざわざ謁見を取り付け、枢機卿の思惑に乗ってまで本性を見ようとした、一人の少年だ。

 

 「……なんだ、あれは」

 

 声だけを聞くと、呆れか、恐怖を窺わせる言葉。

 しかし、国王の顔に浮かぶのは獰猛な笑顔だ。ステラがルキアと対峙する時に浮かべるものと同等か、それ以上の威圧感がある。

 

 親衛隊の中で一番若く、新しく入ったばかりの騎士──と言っても旧近衛騎士団では屈指の強者だった──が、思わず鎧の擦れる音を立ててしまうほどだ。

 

 「アレク。貴様、あんなモノを隠していたのか」

 「いえ、隠してなど。ただ……王族よりは貴族向きの才能でしょう?」

 

 国王がくつくつと喉を鳴らして笑い、二人の会話はそこで終わる。

 しかし、二人に最も近い場所にいた親衛隊の長、元近衛騎士団長であるレオナルド・フォン・マクスウェルが口を挟む。彼はこの謁見の間に於いて数少ない、王と直接言葉を交わすことができる人間の一人だ。

 

 「陛下、差し支えなければお聞かせください。先程の少年は、一体? ……ああも真っ直ぐに“衛士団に入りたい”などと言う子が、そう悪いことなどありましょうか?」

 「マクスウェル卿、それではまるで“貴族は悪だ”と言っているように聞こえるよ?」

 「……いえ、そういうつもりは」

 

 苦笑交じりの冗談を飛ばす宰相だが、レオナルドの声は固い。フルフェイスヘルムで覆われた表情は見えないが、きっと真顔だろうと窺わせる。

 

 「……まぁ、否定はしないさ。私たちの精神性は、善悪の区分では悪に近い。……領民に重税を課し私腹を肥やすような低俗なモノの方が、悪性の度合いは低いだろうね」

 「うむ、マクスウェルよ、貴様は正しい。余も、宰相も、我が手足たる貴族たちも、国家運営機構として正しく在る者は、みな悪だ。……聖典に“善であるものではなく、善であろうとするものをこそ善良と呼ぶ”という一節があるが、我々はその真逆。人命を数字として把握し、時には一切の躊躇なく切り捨てる。そういう“悪”であることを許容し、自らそう在ろうとする者は、邪悪と呼ばれるべきだろう」

 

 国王の言葉は自嘲のようだったが、その笑みや声色に嘲る色は一切無い。

 自分の生き方に、配下の貴族や宮廷に仕える臣下の生き様に、確固たる誇りと自負を抱いているからだ。

 

 悪である──それがどうした、と、地獄の番人にさえ中指を立てよう。

 それが国を守るために必要なことだと言うのなら、唯一神に唾を吐くことも辞さない。

 

 「あの少年──カーター君でしたか。彼も貴族と同じ、人間を数としか思っていない異常者だと?」

 「言うではないか。だが、その通り……いや、少し違うな。聖痕者のような一部の存在は、その力ゆえ人間に価値を見出さない。あれも同じだろう」

 「えぇ。私たちよりルキアに近しい、人間の価値を数値化して……その数字がゼロに固定されているような状態でしょう」

 

 国王と宰相の考察は正しい。

 より正確に言うのなら、自分自身も、人間以外も、この世界そのものにすら価値を感じていないのだが。

 

 「カルトに誘拐されたのだったな。子供っぽい一面は残しているように見えたが、無傷では居られなかったか。痛ましい話だ」

 「えぇ、全く、陛下のお言葉の通りです」

 

 頷き合う二人だが、レオナルドは今一つ判然としない。

 

 「貴族に必須の──人間を数字として扱うことにストレスを感じない才能、でしたか。それを備えているから、彼を買われているのですか?」

 「それもある。昨今は貴族であるというだけで平民を見下し、貴族を一方的に優遇するような法や制度の具申が後を絶たぬ。自治権を与えた所領では、既に施行されている地方もあるだろう。……だからこそ、彼のような貴族も平民も関係なく、平等に数値化できる人間は貴重なのだ」

 

 なるほど、と頷いたレオナルドに、宰相が続ける。

 

 「それに、この謁見の間で、国王陛下と、枢機卿と、君たち親衛隊を前にして──」

 「ご自分をお忘れです、宰相閣下」

 「ん? いや、私は前に会っているからね。それで……そう、この状況で、ほんの一片も動揺しない胆力。あれも素晴らしい」

 

 うむ、と国王も重々しく頷いて同意を示す。

 そう言われると確かに、レオナルドがこれまでに見てきた謁見者は全員、ほぼ例外なく緊張と恐怖で憔悴しきったような振る舞いで、立てと言われても立てないような状態の者もいた。15歳を迎えた貴族の子息でさえ、そんな無様を晒す空間がここだ。

 

 しかし、あの少年はどうか。

 失礼の無いように、おかしなことを言わないようにという配慮は透けて見えたし、レオナルドにも分かるほど演技慣れしていない。だというのに、この荘厳な場所に対して覚えるべき威圧感や圧迫感といったものの心理的影響を、まるで感じられないような自然な振る舞いを見せていた。

 

 「なるほど。貴族向きの才能に、貴族向きの胆力ですか。閣下のお気に召すのも納得です」

 「ん? いや、私はフィリップ君のそういうところを()()しているけれど、気に入ったのはまた別のところだよ。陛下も同じではありませんか?」

 「そうなのですか?」

 

 宰相と親衛隊長の二人から目を向けられ、国王は薄い笑みを浮かべる。

 

 「……うむ。()()なのだよ、あれはな」

 

 その一言に宰相は頷き、ややあってレオナルドも理解したと頷いた。

 

 「悪でありながら善良であろうとする。なるほど、それは……」

 

 レオナルドは理解を示すだけでなく、感心と、僅かながら尊敬さえ滲ませて何度も頷く。

 

 国王が引用した聖典の一節。

 “善であるものではなく、善であろうとするものをこそ善良と呼ぶ”。

 

 フィリップの精神性は善悪の区分では間違いなく悪と呼ばれる、不道徳なものだ。人の命は価値に換えられない。数字として扱うなど言語道断のはずだ。

 しかし、それでも大切な人を守ろうとする心は、これもまた間違いなく善良と言えるもの。

 

 善であるが故に善を行うものよりも、悪でありながら善であろうとするものこそ、真に尊いものだ。

 

 ──それに、まぁ、個人的な意見だが、衛士団が好きな者に悪い奴はいないと思う。

 

 「彼は……正直に言うと、()()()()よ。他人に価値を感じない精神性でありながら、大切な人の為に命を懸けられる。……少し観察すれば分かるけれど、あれは心の底からの言葉だ。飾り気も誇張も無く、自分の言葉に自分自身すら驚く深層心理の発露だった。……マクスウェル卿、君は路傍の石のために死ねるかい?」

 「それが陛下のご意思であれば──あ、いえ、しかし、これでは忠誠に殉じているだけですか」

 

 宰相はこくりと頷き、国王も重々しい威厳のある所作で首肯する。

 レオナルドが自分で気付いた通り、それでは比較になっていない。路傍の石のため、床の塵屑のため、自分が価値を感じないもののために命を擲つことなど、普通は出来ない。騎士などは例外的に、忠誠心が無為な死を許容させることもあるが、その場合、天秤に乗っているのは忠誠心だ。価値の無いものを乗せて、そちらに比重を傾けているわけではない。

 

 それは──それは、異常だ。

 そんなことは有り得ないと、ありえないことの辻褄を合わせようと、レオナルドは思考を回す。

 

 「ですが幼いとはいえ、彼とて男です。お美しい両聖下のために死ぬのは、それこそ本望と──」

 

 惚れた女の為なら。

 それはレオナルドとて許容する死の理由だ。妻の為になら死んでもいいと、心から思っている。

 

 愛妻家で有名な宰相──アレクサンドル・フォン・サークリスも、きっとそうだ。国王は定かでは無いが、理解はしてくれる。

 そう思っての言葉だが、しかし、言い終わる前に遮られた。

 

 「いや、彼に恋愛感情は無かった。というより、他に好きな女性が居るようだね。……業腹だが、ルキアを見るとき、その姿を通して他の誰かを見ているような時がある。稀にだけれどね」

 

 私の娘を上回る美人など、と言いたげに語気を荒らげる──常人には気付けない程度の変化だが──宰相に、国王はじっとりとした半眼を向ける。

 また始まったぞ、という倦厭と、何を言っているんだこいつはと言いたげに胡乱な──こちらもこちらで、余の娘を超える美人など、と思っている──ものの入り混じる視線だった。

 

 「うむ。……だからこそ、凄まじい。家族でも無し、惚れてもいない女を、そうまで大切にできるものか?」

 「なるほど、それは確かに……」

 

 人によるだろうとは思う。

 しかし少なくともレオナルドには出来ないことだ。

 

 そもそもあの二人に特別視されて、親しくして、それでも惚れない精神力が、既に凄まじい。

 

 「聖人のような……聖典に記された聖人のような、無償の献身ができる少年、ということですか」

 

 深く感心して頷くレオナルドに、国王と宰相は顔を見合わせる。

 そう言えなくも無い精神性であることは、確かに間違いないのだが──決定的に、そうではないと言い切れる部分がある。国王と宰相は、それに気が付いていた。

 

 「違うな。あれは確かに、己の定めた“大切な人”の為なら、何であれ捨てるだろう。ただし、それは本当に“何であれ”だ。見ず知らずの他人も、知人程度の関係の者も、仲の良い友人でも。一人でも、十人でも。その大切な者以外の全てを殺さなければならなくなったら、躊躇いも無く虐殺に踏み切る」

 

 国王の言葉は滅茶苦茶とも、言いがかりとも言えるものに思えた。その声や言葉には推測や冗談、誇張の気配がまるでないから、尚更に。

 

 だって、そんなことは有り得ない。

 レオナルドとて軍人だ。王国民100人のため、10000人の敵を殺せと言われれば、許容する。しかし2人の王国民のため、その他の全員を殺せと言われれば、実現可否以前に心理的な拒否感が動きを止めるだろう。

 

 「そんな──」

 「それがいい。それこそが、私たちが彼を気に入った最たる理由だよ」

 

 鎧ががちゃりと音を立てるのにも気付かないほど慄いて、レオナルドが跪いたまま上体を起こす。

 しかし言い募る言葉は口を突く前に、興奮気味の宰相に遮られた。

 

 それがいい?

 

 馬鹿な、という内心を喉元で押し留め、嚥下する。

 いくら貴族でも、そこまでの破綻は許されない。彼らの特権は王国の維持のため、王国に生きる全ての民のためにある。その彼らを虐殺するなど、どんな条件や場合だろうと許されることはない。

 

 それは貴族向きの才能などではなく、ただの精神異常者だ。

 

 そう言いたかったが、国王が深く頷いたことで不可能となった。

 

 「うむ。……娘を預ける男には、そのくらいの覚悟が無くてはな」

 「えぇ、全くです。この世全てを敵に回しても守り通す、くらいのことは言って貰わなくてはと思っていましたが……まさか言葉にするまでも無く、態度だけで示されるとは」

 

 うんうんと頷き合う、王国のトップ二人。

 もうヤダこの人たち、という親衛隊員たちの顔は、フルフェイスヘルムで完全に隠されていた。

 

 「その、お二人は彼を、将来的な婿養子としてお考えなのですか?」

 

 そうだけど、と宰相は当然のように頷き、国王も同じく首肯する。

 国王は「譲れよ」と言いたげに宰相を一瞥し、宰相はそれをにっこり笑って黙殺していた。

 

 「いえ、あの、彼は平民ですよ?」

 

 レオナルドが思わず口走った内容は、親衛隊と、扉の傍に控えている侍女も含めた謁見の間の総意だった。

 ステラは聖痕者という地位を抜きにしても、次期女王という国家のほぼ最高位にいる。ルキアですら公爵家次女だ。単なる平民であれば、直接言葉を交わすことすらないだろう。

 

 そんな女性の婿候補がいち平民というのは、どう考えてもおかしい。

 

 そういう意図の言葉。

 その言葉自体は、宰相も、国王にも否定できない事実だ。

 

 しかし──

 

 「今は、な。そのうち貴族になるだろう。なって貰わねば困る」

 

 血筋がどうの、立場がどうのという問題であれば、そんなのは制度上のものに過ぎない。

 制度を作る側にしてみれば、書類何枚かで突破できる緩い関門だ。

 

 「そ、そこまでして、彼を? 何故です? 確かに善良で、貴族向きの才能と胆力があるというのは素晴らしいことです。個人的には衛士団を志すという点も高評価ですが……お二人が取り合うほどですか?」

 「いや、そうではない。()()欲しいわけではないのだ」

 「陛下のお言葉通りだよ、マクスウェル卿。私も、()()欲しいわけじゃない」

 

 二人の言葉は、完全な嘘という訳ではない。

 フィリップの異常性とも言うべき才覚を評価しているのは事実だし、その異常な状態でありながら善性を保っているところには人間的な憧れすら抱いている。

 

 しかし、二人がフィリップに期待を寄せる最大の理由は、実のところ、フィリップ個人にはないのだ。

 

 「あのルキアが──」

 「あのステラが──」

 

 二人の言葉が重なり、宰相が無言で頭を下げ先を譲る。

 

 「お互いしか眼中に無かった二人が、初めて作った“大切な友人”だ。厚く遇したくなるのが親心というものだろう?」

 

 そうなのか? と、優秀な一人息子を持つレオナルドは、共感できない自分に不甲斐なさを覚えつつ、軍学校首席という立場で如才なく人脈を築いている息子に感謝した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 ボーナスシナリオ『王城へ行こう!』 ノーマルエンド

 技能成長:なし
 SAN値回復:なし
 特記事項:領域外魔術《ヴィカリウス・シルヴァの召喚/送還》を取得。
      特殊NPC『【ヴィカリウス・システムの幼体】シルヴァ』とのコネクションが確立。


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修学旅行
195


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ9 『修学旅行』 開始です。

 必須技能は各種戦闘系技能、【クトゥルフ神話】です。
 推奨技能は【応急手当】【医学】【薬学】です。

 ルート分岐:人間性値が一定以上の場合。一部行動に制限がかかる、シナリオルートAが選択されます。
 人間性値を確認……閾値以上です。シナリオルートAが選択されました。


 フィリップたち魔術学院二年生は、二十五日間もの馬車の旅に耐え、遂に聖国の一個都市、教皇領ジェヘナへと辿り着いた。

 名目上の目的は、修学旅行として四日後に執り行われる大洗礼の儀を間近で体験することだが──生徒たちの主目的は、一週間に亘って開催されるお祭り騒ぎに参加することだ。

 

 教皇領は既にお祭りムードで、古めかしい石造りの建物は色とりどりの旗に飾られ、石畳にはまだ新しい紙吹雪の跡がある。

 そこかしこで出店の屋台や見世物の舞台が置かれ、街並みなんて目に入らないほどだ。

 

 「あれ! ふぃりっぷ、あれなに!?」

 「わかんない! わかんないけど後で行ってみよう!」

 

 車列の前の方から、長旅の疲れを感じさせない楽しげな声がする。

 もうじき夕刻だというのに、幾人かがつられたように歓声を上げた。

 

 車列が止まる前から興奮気味の生徒たちだが、無理もない。

 教皇領と言っても、その実態は中規模都市が一つだけだ。しかし祭りの規模は、その全域が総力を挙げた分ではまだまだ足りない。

 

 観光客だけでなく、商人、劇団やサーカス団、吟遊詩人や大道芸人などが大陸中からやってくるのだ。

 祭りのイベント自体もごった煮で、明日には王国の牛追い祭り、明後日には聖国のワイン祭り、一週間後には帝国の火祭りを模したイベントがあるそうだ。

 

 四年に一度、全ての国家を、代表者を通じて一斉に祝福する大儀式。

 その空気を盛り上げるように、教皇領が全域を挙げて、異文化交流を促してくれる。そんなお祭りだ。

 

 フィリップたち魔術学院二年生は、馬車を降りると、足早に宿に向かう。

 長旅の疲れを癒すため、そして祭りを楽しむのに邪魔になる荷物を置くためだ。

 

 宿は学院の手配した高級宿で、殆どの生徒は二人部屋だ。

 しかしなんと、Aクラス生には特別に個室が与えられていた。──宿の部屋数的な問題と、宿を分けたくない学院側の都合なのではと言われているが。

 

 窓の外はすぐ大通りで、建ち並ぶ石造りの建物や石畳は落ち着きがあり、歴史を感じさせ、郷愁や栄枯盛衰の念を催させる。

 が、そんなことはどうでもよくて。いま重要なのは、眼下、特設で並べられた屋台の列や、そこかしこで芸を披露するパフォーマー、そして祭りを楽しむ人々の喧騒だ。

 

 「ふぃりっぷ、なんか、なんかすごいのいる!」

 「うわあああ何アレ!? ペガサス!? ほ、本物!?」

 

 領内でも有数の高級宿、その五階建ての五階という一番いい部屋の窓から身を乗り出して叫ぶフィリップとシルヴァ。

 普段ならかなり場違いだが、この時ばかりはそうでもない。なんせ、大陸中から貴族や富裕層が集まる二週間だ。そこかしこの窓から子供が身を乗り出し、部屋の中にいる親に「早く行こう」とせがんでいた。

 

 「はやく、はやく! るきあとすてら、よびにいこ!」

 「そう──っ、いや、駄目だよ。女子用の宿舎には入れないことになってるから。フロントで止められちゃうよ」

 

 フィリップの言葉は、学院側から再三の警告があったものだ。

 

 ちなみに、どういうわけか逆も然り()()()()

 修学旅行のしおり(原題ママ)には『男子生徒の女子宿舎への立ち入りは如何なる理由があろうと全面的に禁止』とだけ書かれており、逆のパターンを想定すらしていない。

 

 高級宿だけあって壁は厚そうだが、王都と比べると建築技術も製材技術もまだまだ未発達だ。

 なので夜に五月蠅くなるようなことがあれば、フィリップも客の一人として宿側に訴え出るつもりでいる。まぁ従業員の練度を見る限り、客から苦情が出る前に対処してくれそうだったが。

 

 「二人が呼びに来てくれることになってるから、それまで待ってよう」

 「ん……わかった」

 

 フィリップは大人しく頷いたシルヴァの頭を撫で、「賢いね」と褒める。

 心地よさそうに細められた翠玉のような瞳から、窓の外へと視線を移し──差し込む陽光が断続的に遮られ、目を瞠る。

 

 空を舞う複数の影。

 陽光を反射して煌めく金属の輝きに目を奪われた。

 

 眼下、観光客から歓声が上がる。

 

 「帝国の代表団だ!」

 「じゃあこれが、あの騎竜魔導士たちか!」

 「先頭が聖下なのかしら! おーい!」

 

 帝国の擁する水属性聖痕者が率いる、翼竜に騎乗した魔術師の部隊。

 長射程高火力に高い機動力と展開力を付与した強力な軍隊だ。聖人の軍事利用は国の内外から批判を集めたが、彼女は軍人になった後で聖痕を与えられていたため、そのまま勤務しているらしい。

 

 麾下の部隊も精強を極め、地上戦では王国の擁する王都衛士団に軍配が上がれど、騎乗しての空対地戦では殲滅戦になると豪語している。

 

 「……竜騎士かぁ」

 

 ドラゴンライダーと言えば、もうとんでもなくカッコよく聞こえるけれど、彼らが乗っているのは翼竜、或いはワイバーンと呼ばれる魔物だ。ドラゴンではない。

 

 「惜しいなぁ……すごく惜しい」

 

 折角、ルキアやステラと同じく世界最強の座に君臨する魔術師なのだ。

 ドラゴンの一匹や二匹、支配下に置いて欲しい。そして物語に出てくるような、本物のドラゴンライダーの姿を見せてほしいところだ。

 

 そんな身勝手な希望を抱いていたフィリップは、背後からの声に飛び上がった。

 

 「──ドラゴンは個体次第では旧神相当の力を持ちます。今の彼女たちでは不可能ですよ」

 

 耳触りの良い、耳障りな声。

 嘲笑と敬意を同時に感じさせる、聞き覚えのある声の主は、言うまでも無くナイ神父だ。

 

 彼は王都に勤める神官ではあるが、教皇庁からの出向だ。少なくとも書類の上ではそういうことになっている。

 それに目を付けたのは、魔術学院の女性教員たちだ。生徒たちの案内や深みのある学習のため、同伴することを願い出たらしい。ナイ神父もちょうど教皇庁に戻るつもりだったとかで、快く了承して今に至る。

 

 ……だから、まぁ、フィリップの泊まる宿を把握していることまでは分かる。

 部屋まで把握するな。そして入ってくるな。しかも断りもなく。

 

 そんな内心の透ける一瞥を華麗にスルーして、ナイ神父は明確な嘲笑を浮かべた。

 

 「お望みとあらば、シャンタク鳥をご用意しますよ? 君に相応しい……とは言えませんが、翼竜風情よりは幾らかマシでしょう」

 「宮殿直通便ですか? 絶対嫌ですよ。……何の用ですか?」

 

 ナイ神父は書類上、フィリップの保護者ということになっている。

 だから個人的に接触してくることに違和感は無いが、用があるなら2-Aの引率であるナイ教授が来ればいいはずだ。わざわざ目立つ方の化身で訪ねてくる必要はない。

 

 「えぇ、まぁ、少しご忠告に」

 「ナイアーラトテップの忠言ですか。……それはまた」

 

 聞いても聞かなくても、従っても従わなくても、どっちみち破滅しそうなワードだった。

 

 とはいえ、聞いて無視するのと聞かないのとでは、得られる情報に差がある。

 啓蒙や知識の追加に関しては一家言あり、何を言われても発狂しない確証もあるフィリップとしては、ここは聞いておくしかない。

 

 首を傾げて先を促すと、ナイ神父は一瞬だけ口角を吊り上げ、すぐに嘲笑のマスクを被り直す。

 

 「この一週間、教皇庁での仕事で、君のことを見ている時間が著しく減ります。最低限の護衛は務める所存ですが、雑事のご用命はお控えくださいね」

 「え? 願ったり叶ったりなんですが。もう全然仕事を優先してください。どうぞ、今すぐに。人間風情に顎で使われるナイアーラトテップをこの目で見れないのは残念ですけど」

 

 とにかく出て行けと部屋の扉を指すフィリップ。

 流石に25日もの間、同じ馬車で揺られていればヘイトも溜まるというものだ。ルキアとステラは徐々に慣れていたが──第5回2-A馬車内ポーカー大会でフィリップの所持金を半分に削ったこと、決して忘れはしない。たとえその後、お小遣いとして3倍の金額を支給されていてもだ。

 

 「畏まりました。……あぁ、そうそう、君のお気に入りの糞袋ちゃんたちが外でお待ちですよ」

 「あ、そうなんですか。ありがとうございます……いや、先に言って欲しかったですけど」

 

 深い敬意の見える一礼を残し、部屋を出たナイ神父に続く。

 部屋の鍵をフロントに預けて宿を出ると、言葉通り、ルキアとステラが待っていた。

 

 「お待たせしました。……あ、着替えて来たんですか?」

 

 二人とも、馬車を降りた時とは別の服に変わっていた。

 

 ルキアはいつも通り黒いゴシック調のワンピースだ。半袖だが、レースのグローブが肘上までをぴったりと覆っていて肌の露出が極端に少ない。しかし、厚ぼったい印象は受けない。それなりに厚い生地のはずだが、それでも女性的魅力に富んだ身体の起伏を隠しきれていないのが大きな要因だろう。それでいて下品にはならず、プロポーションの純粋な美しさをよく魅せていた。

 

 ステラは動き易そうなパンツスタイルで、上は真っ白なシャツと深紅のジャケットだ。僅かに胸の谷間が見える程度に開けられたシャツは、きめ細かな肌やくっきりとした鎖骨ではなく、赤く輝く聖痕を見せるためだろう。ステラは以前にそれを指して、人だかりが一瞬で割れる最強の通行証だと笑っていた。

 

 「二人ともお綺麗です。僕も着替えるべきだったかもしれませんね」

 

 フィリップはというと、制服だ。

 しかもジャケットを脱いで、シャツ一枚である。遊びに行くことしか考えていなかった。

 

 「ありがとう、フィリップ」

 「ありがとう。夕食はそこのレストランだから、後でジャケットだけ取りに戻ればいいさ」

 

 サムズアップなどしつつ、二人を褒める。

 フィリップの言葉は単純なマナーによるものだったし、二人にとっては聞き慣れた賛辞だ。軽い礼以上の反応は無かった。

 

 ステラが示したのは、今日の夕食場所になっている高級レストランだ。

 昼食は概ね自由行動時間中だが、朝食と夕食はクラスで揃って食べることになっている。なんとも贅沢なことに、日替わりで別の場所、別のメニューだそうだ。

 

 フィリップが「でも王都の方が美味しいんだろうな」と失礼なことを考えていると、その右手をぐいと引かれる。

 視線を落とすまでも無く、小さく柔らかい手はシルヴァのものだ。

 

 「ふぃりっぷ、あれなに?」

 「ん? どれ?」

 

 幼い妹に対するように、腰をかがめて優しい口調で問いかけるフィリップ。

 その背中には、ルキアとステラから同質の優しげな視線が向けられていた。

 

 シルヴァが指した先では人だかりが割れ、馬に乗った一団が一列になって道を進んでいた。

 

 「セレファイス聖国の代表団だな。ここを通るみたいだから、少し道を空けようか」

 

 ステラに手を引かれて道のわきに避け、一団が通り過ぎるのを待つ。

 徐々に近付いてきてその全容が明らかになると、そこかしこから感動の溜息や歓声が聞こえた。

 

 「先頭にいるの、聖十字卿じゃないか!」

 「聖国の騎士王様よ!」

 「黄金の騎士! 聖騎士の王だ!」

 

 先頭を進んでくるのは、鎧を纏った騎士だ。

 夕暮れの陽光を浴びて輝く、黄金のフルプレート・メイル。金属の上から装飾用の金属板を鋳付けたようなそれは、絢爛でありながら重厚で、堅牢に見えた。

 

 全身金色なんて、馬鹿げている。

 戦場に在っては目立つことこの上ないし、目に痛い。それに、周囲から漏れ聞こえてくる話によると、単なる金メッキではなく純金らしい。

 

 馬鹿だ。そう思いたい。

 純金なんて、精製するだけで莫大なコストがかかる。それを鋳溶かして固めた所で、硬度も強度もたかが知れている。恐らくだが、フィリップのウルミでも十分に傷付くだろう。しかも同量の鉄より重いとくれば、防具に加工するなんて考える方がどうかしている。

 

 だから、馬鹿だ、と、そう思いたい。

 そう思いたいのに、思えない。

 

 だって──フィリップは()()を知っている。

 顔どころか肌の一部すら見えないのに。体格すら馬上で、遠目で、殆ど判別できないのに一瞬で分かった。

 

 直接の面識はない。

 だが、その気配は、その素性は、ずっと前から知っていた。

 

 「あれ、マイノグーラじゃん」

 

 一年と少し前の、あの悍ましき大宮殿に唯一居なかった外神の名前。

 忌々しくというよりは不思議そうに呟いたフィリップは、その異常性をはっきりと理解できるが故に、異常な現状への理解が追い付いていなかった。

 

 

 

 

 

 



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196

 マイノグーラは、外なる神の一柱だ。

 しかし、その在り方は極めて奇妙といえる。

 

 彼或いは彼女は、人間の魂を好んで食べるのだ。

 

 ──邪神らしい悍ましい嗜好といえば、その通りだ。

 だが、外神と人間では存在の格差が大きすぎる。人間が蜂の幼虫やイナゴなんかを食べているのとは違う。それは言うなれば人間が()()()()を食っているようなもの。存在の次元からして違うはずなのだ。

 

 植え付けられた智慧を参照して首を捻っていたフィリップを、ルキアとステラが不思議そうに見遣る。

 シルヴァは何かを直感的に悟ったのか、或いは何も考えていないのか、黄金の騎士をぼんやりと眺めていた。

 

 「金の鎧は非合理的だが、あれは飾りだよ。攻撃も防御も、腰に佩いた魔剣インドラハートが全て担う」

 「……殿下は、あれが戦うところを見たことが?」

 「昔、模擬戦をな。殺す気でなければ勝ち切れない相手だが……どうした?」

 

 嘘だろ、と笑い飛ばしたいところだが、そうもいかない。

 その当時は本当にただの人間で、どこかのタイミングで成り代わった可能性だって否定できない。

 

 しかしマイノグーラの擬態──人間のように見える化身を形作り、神威を隠すその精度は、ナイアーラトテップにも比肩する。

 あらゆる外神の情報を持ち、その神威を身を以て記憶しているフィリップが、十数メートル圏内で目視して、漸く判別できるレベルだ。神威を直接受けて記憶したわけでは無いからという理由もあるだろう。

 

 ずっと──フィリップが生まれる前からこの星に居ついていたとしても不思議はない。

 

 「……いえ、何でもないです。何でもないんですけど、あれに魔力視は使わないでくださいね」

 「……分かったわ」

 「もうちょっと理由を隠してくれ……」

 

 ルキアは警戒も露わに、ステラは呆れを滲ませて、威風堂々と進む金色の鎧騎士を見遣る。

 その視線が刺さったのか、或いはもっと以前から気付いていたのか。恐らく後者だろうが、陽光じみて輝かしいフルフェイスヘルムがこちらを向いた。

 

 ルキアとステラには、神威が感じられないのだろう。二人とも恐怖ではなく、困惑しているように見える。

 無理もない。膨大すぎて分からないのではなく、フィリップですら気付けないほど抑え込まれているのだから。

 

 だがフィリップには分かる。こちらを向いたヘルムの、ごく細いスリットの奥──吐き気を催す極彩色の双眸と目が合ったような錯覚すらあった。

 

 「僕の敵ではないはずなので、安心してください」

 

 マイノグーラとて外神だ。

 アザトースの命によって守護されているフィリップに敵対することはない──()()だ。

 

 断言できないこともまた、マイノグーラの特異性の一つだ。

 あれは外神の中で唯一、アザトースの命令に忠実ではない存在だった。必ず従わないわけではなく、気紛れに従うこともあるのが逆に厄介といえる。

 

 要は、

 

 「こんな──宇宙の片隅のド辺境惑星(こんなところ)で何やってるんだろ」

 

 顕現目的が判然としない。それが最悪の問題だった。

 

 ただ、まぁ、あれでも外神だ。

 フィリップに敵対することの愚かしさと無意味さは、誰に警告されるまでも無く知っているだろう。

 

 フィリップの守護という命題を最短最速で解決しにくる──強制的な外神化という手段を取ってくる可能性は排除できないが、その時は恥も外聞もなくヨグ=ソトースに助けを求めるつもりだ。間に合わなかったら? その時は助けを求める必要も無くなるので問題はない。

 

 フィリップと目を合わせたマイノグーラは、片手を挙げて合図した。

 麾下の騎士団──全員が純粋な人間に見える──は一糸乱れぬ動きで馬を止め、鎧の重みを感じさせない軽々とした動きで馬から降りる。

 

 最後に黄金の騎士、マイノグーラ本人も馬を降りると、ずん、と重々しい音が響いた。

 純金の鎧なんて馬鹿なモノを着ているからだぞと口角を上げたのはフィリップだけで、周囲からは感心の声と歓声、そして僅かに疑問の声が上がる。

 

 「なんで馬を降りたんだ? 聖国の代表団が泊まるって宿はもっと奥だろ?」

 

 その疑問は周囲に伝播していき、ややあって終息した。

 黄金の騎士が見据えて歩く先には、一国の王ですら無視できない存在──聖痕者が居たからだ。

 

 馬上に乗ったままその前を通ることすら不敬と感じて馬を降り、手綱を引いて進むことにしたのだろう。ギャラリーはそう納得した。

 

 そんな彼らの予想通りに、金色の鎧騎士、聖騎士の王はルキアとステラの前で立ち止まり、跪いた。

 否、マイノグーラが跪いたのは確かにルキアとステラの前だったが、それは偶々でしかない。偶々、二人が近くに居ただけのこと。膝を突き、頭を下げる敬意の表示、その宛先は言うまでも無く、

 

 「──まずは、貴方の御前で兜を取らない無礼をお許しください。我らが寵愛の御子よ」

 

 フィリップだった。

 

 フルフェイスヘルムでくぐもった声は聞き取りづらいが、どうやら化身は女性体らしい。それも年若い──マザーと同じくらいの、妙齢の女性ではないかと窺わせる、艶やかな色気のある声だった。

 

 言葉の内容はかなり際どいものだったが、聖痕者は唯一神に認められた者だ。

 “寵愛の御子”という表現は些か詩的に過ぎるが、間違いではない。現に、周囲からはルキアとステラに向けたものとして認識されている。

 

 ただ、ルキアもステラも、そしてフィリップも、そんな勘違いはしていなかった。

 

 フィリップが頷いて合図を送ると、その意図を正確に汲んだ二人が対応する。

 しかしその立ち位置は変わらず、跪いた騎士と二人の聖人の間には、顔を強張らせた少年が庇うように立っていた。

 

 「『聖十字卿』、レイアール・バルドル……。相変わらず目に痛い格好だな」

 「ご無沙汰しております、ステラ聖下。耐魔力に秀でたこの鎧は、私の生命線にして正装です。お見苦しいとは存じますが、お目こぼしのほどを」

 

 フィリップがちらりと視線を向けると、ステラは僅かに頷く。

 以前に会った時と性格や対応が変わった様子はない、ということだろう。

 

 「サークリス聖下、以前にお会いした時よりも一層、お美しくなられましたね。特にその銀の髪に、漆黒の衣装はとてもよくお似合いです。同性の身ながら見惚れてしまいました」

 「……貴女は相変わらずね」

 「お陰様で、我がセレファイス聖国一同、変わらず壮健にございます」

 

 つい、と黄金の兜が動き、フィリップの方を向く。

 細いスリット越しでは目元が見えないのでなんとなくだが、視線はどこか陶然としているような気がした。

 

 「……わぁー、きしさまだぁー」

 

 テンションの上がった子供の演技──シルヴァ以上に抑揚の死に切った棒読みだったが──などしつつ、跪いた鎧騎士と視線を合わせるように膝を突く。

 腰に佩いた、純金の鎧と同色で絢爛でありながら、妙に禍々しい意匠の直剣が妙に目に付いた。

 

 そして、

 

 「漸くお会い出来ましたね、我らが愛し子よ。シュブ=ニグラスとは仲良くやっているようですね」

 「……あれ、なんですか?」

 

 歓喜を囁くマイノグーラ──レイアールを無視して、脳裏に浮かんだ無数の疑問も捨て置いて、その後ろで佇む見事な軍馬を指した。

 

 重厚な馬鎧を纏い、更に純金の鎧を着た騎士を乗せてもびくともしない、強靭な筋肉の隆起が見て取れる。なるほど名馬なのだろうが──()()

 少し遠くで待機している馬たちは、騎士に手綱を持たれて漸く落ち着いている有様なのに、こいつは全く動かない。

 

 月と星々の香り、動物が逃げ出す臭いを振りまいているらしいフィリップを前にして、だ。

 そして、フィリップの人間レベルの嗅覚でもギリギリ判別できる程度に、奇妙な臭いを漂わせている。

 

 埃と腐敗、恐怖と忌避、病と死の混ざった──死体安置所の臭いだ。

 

 馬のように見える。

 人間の目と脳、知覚能力と認識能力では、それは馬のようにしか見えない。

 

 だが、絶対に違う。

 フィリップに与えられた、シュブ=ニグラスの与えた智慧は、それがフィリップを殺し得るモノだと警鐘を鳴らしている。

 

 「特に名前はありませんが、私の孫にあたるモノです。お気に召したのであれば、どうぞ──」

 「要りません」

 

 食い気味の即答。

 この星どころか、()()()()に存在するだけでも異常なモノに乗るとか、冗談ではない。

 

 「はぁ……まぁいいや。最優先で聞きたいことは一つだけです」

 

 ひそひそと言葉を交わす謎の子供が怪しまれ始める前に立ちたければ、質問はあと一つが限界だろう。

 聞きたいことも、聞くべきことも、既に決まっている。

 

 「貴女は僕の敵なのか。いま重要なのは、その一点です」

 

 味方なら、それでいい。

 敵だというのなら、それまでだ。

 

 ぎちり、何かの軋む音がする。

 周りの人々はどこかの家が鳴ったのか、もしや地震かと身構えていたが、違う。

 

 この場に於いて、その音を知っているのはフィリップとルキアの二人だけ。

 それが何なのかを完全に理解しているのはフィリップ一人。

 

 世界の軋む音──三次元世界には収まらない何かが、外側から押し入ろうとしている音だった。

 

 外なる神の一柱たるマイノグーラであろうと決して無視できない、破滅の足音は。

 

 「まさか。私とて外なる神の一柱。貴方を愛するモノの一つです」

 

 その答えに満足したように、消えた。

 

 安堵の息はフィリップのものか、ルキアのものか。或いはレイアールのものかもしれない。

 無知であればただの音でも、智慧があるのなら恐怖と絶望は避けられず、狂気と自死を強烈に想起させるものだ。

 

 「……これ以上の長話は要らぬ誤解を生みそうですね。今夜にでも、迎えを寄越します」

 

 何事も無かったようにそう言って、鎧の重みを感じさせない動きで立ち上がる。

 一礼して立ち去った黄金の騎士に、鎧騎士の一団が続く。

 

 その背中を見送るフィリップに、ステラだけが怪訝そうな目を向けた。

 あの輝かしい騎士がフィリップの警戒する相手──邪神だとは思えないのだろう。知人だというから尚更だ。むしろ一片の疑いすら向けてこないルキアの方が異質と言える。

 

 「……あれが居なくなったら、人間社会が崩壊したりしますか?」

 

 フィリップは小さく指を差して、ぼそりと呟くように尋ねる。

 その仕草に嫌なものを──本気度のようなものを感じて、ステラは思わず瞠目した。

 

 「それは、まぁな。あれでも二十年以上もの間、セレファイス聖国を統治している為政者だ。武力面でも、魔王復活に対する先陣として期待されているほどだぞ」

 

 そりゃあそうだろう。

 外神にとって魔王復活なんて些事も些事、くしゃみの拍子に飛んでいくような相手だ。魔王勢力から人間を守ってくれるというのは有難い話だが、何か裏があるとしか思えなかった。

 

 「そうですよね。……まぁ、アレは僕が何とかします。二人は何も心配しないで、一週間遊び尽くしましょう!」

 

 気付いた時には、シルヴァは50メートルも向こうの出店を覗き込んでいた。

 人混みの中に埋もれて目視出来ないが、魔術的な繋がりのあるフィリップには分かる。

 

 契約上の主であるフィリップの悩みもなんのその、自由気ままにお祭りを楽しもうとしているシルヴァこそが、この場に於ける正しい姿の体現者だ。

 

 「……分かった。まずはシルヴァを回収しようか」

 「フィリップが悩みを忘れられるように、目一杯、楽しみましょうね」

 

 幸いにして、二人はそこまで大きな恐怖心を持っていない。

 マイノグーラの化身、聖十字卿レイアール・バルドルからは、神威が感じられないからだろう。彼女たちに恐怖を与えているのはフィリップの言葉だけで、その恐怖は理性的なものだ。他の感情や忘却、単なる慣れなどで簡単に克服できる。

 

 二人の手を引いてシルヴァを呼びながら、フィリップは思う。

 

 外神連合軍を以てマイノグーラを排除したら、二人はこの修学旅行を心から楽しめるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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197

 修学旅行一日目、夜。

 ──二十五日間の旅程を含めると、当然ながら二十五日目ということになるのだけれど、イベントらしいイベントといえば全15回にも亘る第二学年全員による馬車対抗ポーカー大会くらいしか無かったので、そこはもう省いて。

 

 フィリップは夕食と風呂を終え、宿部屋のベッドでシルヴァと戯れていた。

 風呂は大浴場と個室の家族風呂があったが、シルヴァが一緒に入ると主張したので、今日は個室だ。

 

 今は自分の髪を拭き終えて、シルヴァの髪を梳いているところだった。

 膝に乗せても重みを感じない存在感の希薄さと反するように、彼女の髪は綺麗な若草色で、枝葉で織られた冠が良く似合う。装身具ではなく身体の一部で取り外しのできないこれは、頭を洗うのにも髪を拭くのにも髪を梳かすのにも邪魔だった。

 

 ドライアドもヴィカリウス・システムも老廃物の代謝が起こらないので、風呂に入る必要性は薄いのだが、本人曰く、気持ちいいから入りたいのだそうで。

 ステラがいれば髪に付着した水分だけをピンポイントで蒸発させられるのではと、何度も何度も何度も思うが、寮でも宿でも、風呂上がりの時間帯に「ちょっと髪を乾かして欲しいんですけど」と訪ねるほど不躾にはなれない。

 

 顔の前でさわさわと揺れる、色艶の良い葉。

 広葉樹の何かだとは思うのだが、木の種類までは分からない。それをちょんちょんと弄りながら、ふと頭に浮かんだ質問を口から垂れ流した。

 

 「シルヴァの髪飾りの葉ってさ、生え変わったりしないの? 部屋に落ちてるところとか、見たことないけど」

 「え、わかんない。……ちぎってみる?」

 

 無頓着に言ったシルヴァに、さしものフィリップも苦笑を浮かべる。

 枝葉の冠は、フィリップから見ても精緻なものだ。また生えてくる確証も無いのに損なおうとは思わない──のだが、ぷち、と小さな音がした。

 

 「いや──え? 千切っちゃったの!? ……あ、一瞬で生えてきた。へぇ、こうなるんだ……」

 

 フィリップは明らかに植物の生長速度とはかけ離れた超速再生を見せた葉を、指先でぴろぴろと弄ぶ。

 

 シルヴァは千切った葉をどうするか悩み、最終的に口元に運んだ。

 むしゃむしゃと咀嚼し、こくりと小さく喉を鳴らして嚥下したシルヴァに、フィリップは再び好奇心が刺激される。

 

 「美味しい?」

 「んー……むみ」

 「無味かぁ。……そりゃそっかぁ」

 

 シルヴァに味覚が存在しないことは、契約したその日の夜に判明している。

 そもそも食事・消化・排泄という概念を持たない彼女は、食欲というものを持っていない。ヴィカリウス・システムには星の力が自動的に充填される。

 

 フィリップが馬鹿なことを聞いたと自嘲の笑みを浮かべていると、扉が三度、ノックされた。

 扉の外からは宿の従業員らしき男の声で、「カーター様、ご在室でしょうか」と聞こえる。

 

 返事をして扉を開けると、宿の制服を着たベルマンが立っていた。

 

 「お客様がお見えです。聖国騎士団長レイアール・バルドル様の使いで来られたと仰せでした」

 「あぁ。ありがとうございます。自分で対応しますね」

 「畏まりました。一階にて、お待ちいただいております。……では、失礼いたします」

 

 高級宿では、宿の人間が来客に対応してくれる。

 貴族が泊まるような部屋にありがちな、招かれざる客への警戒だ。今回は事前に言われていたことなので、そのサービスは断る。

 

 「行くよシルヴァ。戻って」

 「ん、わかった」

 

 ごろごろとベッドに転がっていたシルヴァの姿が掻き消える。

 魔術的な異空間への送還と、任意のタイミングでの召喚。フィリップとシルヴァが結んだ契約ではそれだけしかできないが、それだけで十分だ。

 

 一階に降りると、鎧姿の騎士が直立不動の姿勢で待っていた。

 

 「フィリップ・カーター氏ですね! 聖十字卿がお待ちです! ご案内いたします!」

 

 フルフェイスヘルム越しにもよく通る声は小気味よかったが、大浴場から部屋に戻る途中の生徒が散見されるところでそんなことを叫んだら、またぞろ「やっぱり猊下は猊下なんだよ」と誤解が加速して──

 

 「おいあれ、カーターさんだ」

 「聖十字卿って、聖国の騎士王バルドル? ……あぁ、そういう」

 「まぁ、カーターさんだし、そういうこともあるよな」

 

 ──もはや加速する余地も無いほどのトップスピードだった。

 

 残念ながら、フィリップが常人の範疇にないということは確定しているのだ。彼らの中では。

 

 止めとなったのは、実はシルヴァだったりする。

 魔力視の精度に自信のある生徒はシルヴァという「存在していない存在」を従えていることに、魔術解析に自信のある生徒は「召喚術とは違う召喚の魔術」を見て、疑いを確信に変えていた。

 

 「あれ? なんだか普通の反応だぞ?」と、ちょっと嬉しくなっているフィリップは全く気付いていないが。

 

 世間話などしつつ、通りを幾つか移った宿に入る。

 案内された部屋の扉をノックすると、夕方に聞いた涼やかな声が返ってきた。

 

 「どうぞ」

 

 挨拶も無く扉を開けたフィリップに、案内役の騎士がぎょっとする。彼に対しては丁寧に対応していたからだろう。

 やっぱり子供なんだなぁと独りで納得した彼は、室内でも鎧姿で、兜さえ取らずに直立不動の騎士王には驚きもせず、一礼して立ち去った。

 

 フィリップの部屋と似たようなレイアウトのスイートルーム。

 閉め切られた窓からは月光の入りようもなく、燭台に灯る炎が穏やかに部屋を照らしていた。

 

 「我らが寵児よ。あぁ──貴方と化身を通じてお会いできること、心よりお待ち申し上げておりました」

 

 部屋に二人きりになると、レイアールが兜を脱ぐ。

 その下には、ナイ神父と同じ浅黒い肌と漆黒の髪が隠れていた。容姿も特筆すべきもので、ナイ神父を女性にして細部を整えるとこんな感じになるだろうと思わせる、彼の姉か妹のような出で立ちだ。

 

 部屋を照らす蝋燭が放つオレンジ色の明かりを受けて、尚も昏い漆黒の髪。兜に押し込められていた背中まである長さのそれがふわりと揺れ、フィリップの知らない花の香りが漂った。

 

 薄い笑みを浮かべた唇に嘲笑の色は無く、むしろマザーと同じ愛玩の気配が濃い。

 やけにゆっくりと近付いてくるのは、彼女が一歩進んだ分だけ自分が後ろに下がっているからだと、背中に当たる壁の感触で理解した。

 

 血のように赤い舌が、艶めかしく唇を舐める。

 ()()()()()()()舌なめずりだ。誰が獲物なのかは言うまでもない。

 

 「あぁ──なんて可愛らしい。私たちと同じ視座を、知識を持ちながら、こんなにも脆弱な肉の器に、こんなにも矮小な魂を容れて満足しているなんて。それを自ら願う心の在り方──人間性、だったかしら。貴方が持っているはずがないもの、その模倣と自己暗示。あぁ、あぁ──その小さな魂、()()()()()()()()()!」

 

 レイアールの手が伸びる。

 顔や首元は上気して赤く染まり、吐き気を催す極彩色の双眸には蕩けたように潤んでいた。

 

 襲われる──否、喰われる。

 そう確信して身体が強張った時には、レイアールの両手が消えていた。

 

 フィリップとレイアールは同時に異常を察知し、レイアールだけが飛び退く。フィリップもそうしたい気分だったが、背後には高級宿の分厚い壁がある。

 

 一瞬遅れて、べちゃりと重く湿ったものが毛足の長いカーペットに落ちる。

 見るまでも無く、黄金の鎧に包まれたレイアールの両腕──純金と肉体とがぐちゃぐちゃに攪拌された、その残骸だった。

 

 「──、ぁ」 

 

 さわさわと髪を揺らす、夜の匂いの風。

 窓は閉じられていたはずなのに、と視線を向けると、壁に空いた大穴に気が付く。

 

 高級宿に相応しい分厚い石造りの外壁が、音も立てないほど無抵抗に抉り抜かれていた。

 

 その外、街路樹に停まった一羽のカラスが、どこか不愉快そうにレイアールを見つめていた。

 

 ぼたぼたと血を──人間のものと見分けがつかない、目に痛い赤だった──流す両腕を、鎧ごと一瞬で再生させて、レイアールは淫蕩な笑顔を浮かべた。

 

 「ahhh……Shub-Niggurath……■■■■、■■■■■■■■■……」

 

 陶然と、人間の喉からは決して出ることの無い音で、愛しげに語りかける。

 そんなレイアールに、黒い触手で編まれた醜悪なカラスが小首を傾げた。

 

 「分からないの? この可愛らしい我らが寵児の、とろとろに蕩けた魂の香りが。人間では有り得ない悪性と善性の同居、罪も赦しも生も死も愛も憎悪も宿さない無垢。雑味のない純粋さは赤子の魂でしか有り得ないけれど、この子はそれに最も近い」

 

 レイアールはまた一歩、こちらに歩み寄る動きを見せる。

 一瞬の後、フィリップがその一歩目を知覚した時には、彼女は蛇のように滑り込んで、フィリップを背中から抱き締めていた。

 

 フィリップの知らない花のような香りに、若い女の体温に、背中に押し当てられた豊かな胸と絡まり合った足の感触に、フィリップの全身に鳥肌が立った。

 

 なるほど、と納得に落ちる。

 心の奥底から沸き上がって、脳を蕩けさせ、背筋を焼き、心臓を燃やし尽くすようなこの衝動こそが、性欲というものか。

 

 未だ身体が未発達で、生殖行為に及ぶことのできない状態のフィリップをさえ、性的に興奮させている。

 マイノグーラにはそういう権能があると、フィリップは知識として知っている。だから逆説的に「これが性欲というものなのか」と、自覚と共に納得していた。

 

 だが──()()()()()()

 

 火傷しそうなほどに熱く、男を興奮させるように芳しい吐息が首筋を撫でる。

 血のように赤い唇が耳元に寄せられ、しなやかな四肢が蛇のように絡み付く。

 

 男を誘い、獣性を励起する言葉を囁く口元に、

 

 「……やめてください」

 

 フィリップの拳が突き刺さった。

 

 鼻と上唇の辺りを穿つ裏拳は、レイアールに一片のダメージも与えていないだろう。

 だが自分の歯がフィリップの拳を傷付けないよう仰け反った時点で、フィリップ(人質)から少しでも離れた時点で、その命運は決まっていた。

 

 壁に空いた大穴の外で、触手のカラスが輪郭を崩す。

 フィリップが簡単に抱えられる程度の大きさだったそれは、質量保存の法則に唾を吐いて、フィリップが両手を広げたよりさらに大きな壁の穴を埋め尽くす、触手の大波と化した。

 

 一瞬より短い時間でレイアールを打ち据え、フィリップから引き剥がし、金属の鎧と柔らかな女の肉と人間と変わりない中身を攪拌する。

 ちょっと気持ちよさそうに喘いでいたのは聞かなかったことにして、フィリップは深々と溜息を吐いた。

 

 「はぁ……」

 

 机に置かれていた水差しとコップを取り、勝手に注いで勝手に呷る。

 強烈で独特な匂いのある液体が喉を通り過ぎ、胃に落ちていく感覚は、執拗に、そして愉しそうに攻撃を重ねる触手と、同じく愉しそうに喘ぐ金属と肉の混合物という常人であれば卒倒必至の光景から気を逸らしてくれた。

 

 「うぇ、お酒じゃんこれ……」

 

 胃の中からじんわりと、全身が温かくなっていく感覚は不思議だ。しかし口から鼻に抜ける独特の匂いは、あまり好きなものではなかった。

 お腹から上がってきた熱が耳元を通り過ぎ、頭の中で反響する。

 

 なるほどこれが“酔う”という感覚なのかと、ぼんやりと思った。

 

 何か口直しが欲しいところだが、部屋の主はその行いをシュブ=ニグラスに見咎められ、折檻されている最中だ。

 全く、いつまで遊んでいるのか。邪神の化身と、化身のそのまた使い魔の戯れを見るために、就寝時間ぎりぎりに宿を出てきたわけじゃないのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 



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198

 修学旅行二日目、朝。

 

 いつの間にか部屋のベッドで眠っていたフィリップが、朝になって必死に思い出した記憶によると。

 

 結局、マイノグーラは、何か特別な理由があってここにいるわけではないらしい。

 彼女は千年前辺りから地球に滞在し、良質な人間の魂を見繕ってはつまみ食いをするという、人類視点では恐ろしく迷惑なことをしていたのだとか。聖国の騎士王レイアール・バルドルという化身を象ったのは、今のマイブームが戦士の魂だから。ここに来たのは、その化身が持っている立場上の理由──つまり、マイノグーラではなくレイアールとしての行動だと語っていた。

 

 記憶の中のレイアールは、歓喜と恐縮と敬意が綯い交ぜになったような表情で跪き、過剰なほど丁寧に説明していたが……何故だろうか。触手のカラスも、今朝は恐る恐るといった風情で甘えるように寄り添ってきたし、何かあったのか?

 

 「……まぁ、いいか」

 

 フィリップとしては、マイノグーラが、人間には想像もつかないような悍ましい理由でここにいるのでなければ、何でもいい。

 フィリップとルキアとステラが修学旅行を満喫できれば。その後も人類社会を覆すようなことをしなければ、それでいい。

 

 「今日の朝ごはんはどこだったかな、と……」

 

 修学旅行のしおりをぱらぱらとめくり、載っていた簡易地図を見ながら部屋を出る。

 

 廊下や階段には同じような行動をしている学院生が散見され、その中にクラスメイトを見つけたフィリップは、これ幸いと後ろをついて行くことにした。

 

 一階に降りるとナイ教授が立っていて、名簿片手にAクラス生の健康確認をしていた。他のクラスもそれぞれの担任が同じことをしている。

 

 「おはようございまーす。お名前と健康状態を教えてくださいねー、フィリップくん」

 「なんで名前まで……? フィリップ・カーター、えっと、普通に健康です」

 

 そうですかぁ、と、ナイ教授は猫耳をぴこぴこ動かしながら名簿に何事か書き入れた。

 そのまま生徒たちの流れに沿って進もうとしたフィリップだが、袖口をきゅっと掴まれる。あざとい仕草だが、もう単純に触らないでほしいという感想しか浮かばない。

 

 「……なんですか?」

 「昨日のことをお聞きしておこうかなーって。昨日の夜はどうでしたかぁ?」

 「昨日? ……あ、そうだ! マイノグーラがいるなら先に教えておいてくださいよ! すごくびっくりしたんですから!」

 

 フィリップの苦言に、ナイ教授は仮面のような嘲笑を顔に貼り付け、適当な謝罪を述べた。

 憮然としたフィリップを適当にあしらい、朝食会場へ追い遣る。なんなんだと思わなくもないが、いつも通りのナイアーラトテップといえばその通りだったので、フィリップは素直に従った。

 

 朝食の会場は宿からほど近いところにある野外テラスで、木製のチェアセットが朝日を浴びている。

 既に幾つかのテーブルにはクラスメイトがまばらに座っていて、後から来た友達に手を振っていた。

 

 「えーっと……?」

 

 大体が4人掛けか3人掛けのテーブル同士は、それなりに離れている。これなら、二人も別室に行く必要は無いだろう。

 二人の隔離は主にステラの持つ次期女王という肩書に起因する、暗殺への警戒が理由だ。

 

 ワインのアルコールは警戒心を緩ませるし、一々錬金術製の指輪や魔力視で毒を確認するのが面倒だから、大人数で食事する時には他人から少し離れた所に陣取っているのだ。

 このレイアウトなら、誰かが近付いてくるだけで不自然に目立つ。トイレとも厨房とも違う場所に陣取ればいいだろうが……三人席である必要もある。

 

 大人しく、二人が来て座りたい場所を決めるのを待った方がいい。

 

 変に座って席を埋めてしまうと、他の生徒に気を遣わせてしまうだろう。

 後からルキアとステラが来て退くことになるのだとしたら、それはかなり心苦しい。

 

 懐中時計を見ながら二人を待っていると、数分もせずに現れた。

 今日予定されているイベントに備えて、二人とも動き易そうなパンツスタイルだ。相変わらず黒を基調としたルキアと、赤を基調としたステラの対比は目に付きやすい。勿論、一番目を惹くのは二人の容姿なのだが。

 

 口々に挨拶するクラスメイトたちに軽く手を挙げて応じながらやってきた二人は、フィリップを神妙な面持ちで観察する。

 

 「……? あの、おはようございます、二人とも。何か変ですか?」

 

 フィリップは動きやすい素材の長ズボンと半袖のシャツで、もう完全に一般観光客といった風情だ。

 大通りで石を投げれば、4割くらいの確率で似たような服装の人間に当たるだろう。少し庶民的と言うか、安物の服ではあるが、今日のイベントはそれぐらいでちょうどいいはずだ。

 

 首を傾げたフィリップに、二人はどこか安堵したように息を吐いて、まずは挨拶を返す。

 そして、

 

 「例の、騎士王バルドルとの対談は恙なく終わったようだな」

 

 フィリップは二人が安堵してくれたことにこそ、安堵した。

 

 「はい。彼女は敵ではありませんでしたし、何か……惨たらしい計画があってここにいるわけではないです。ただ聖国の代表として訪問しただけらしいので、安心してください」

 

 ルキアとステラはフィリップの身を案じていたようだが、それは杞憂だ。

 基本的に、知識量とフィリップに敵対する確率は反比例する。外神マイノグーラともなれば、フィリップの前に敵として立つことの愚かしさは十分に理解しているはずだ。

 

 安心させるように笑ったフィリップは、さて、と手を叩いて空気を切り替える。

 

 「で、どこに座りますか?」

 「三人席があれば、それが一番なんだが……」

 「……あのテーブルが三人掛けね。行きましょう」

 

 しばらく待ってクラス全員が揃うと、近くのレストランから朝食が運ばれてくる。

 ステラが指輪と魔力視で毒を確認してから食器を取り、そこからはいつも通り雑談しながらの朝食風景だった。

 

 

 

 食後の紅茶を嗜む──セットメニューの一つとしてあるので、習慣が無い生徒も含めた全員が飲んでいる──一行の下に、ぽてぽてとナイ教授がやってくる。

 彼女も生徒たちと同じものを、同じ場所で食べていたはずだが、いつの間にか居なくなって、いつの間にか戻って来ていた。

 

 「はーい、みなさん、注目してくださいねー」

 

 ぺちぺちと手を叩いてAクラス生の注意を引くナイ教授。

 その容姿と仕草は道行く一般人の目も強烈に惹いていたが、彼らは面倒を嫌ったナイアーラトテップの権能によって、強制的に興味を失わされて立ち去っていく。

 

 「本日のメインイベントはー、正午からの牛追い祭りですよー。まだ4時間くらいあると思いますけどー、きちんと準備して集合してくださいねー」

 

 はーい、と良い返事が一斉に上がる。

 なんだこいつらと言いたげなのはフィリップだけだ。

 

 「それまでは自由時間なのでー、存分に準備してくださいねー。あ、フィリップくんは二つ向こうの通りの武器屋で、革製の鞭を購入されることをお勧めしますよー」

 「ウィップ? なんでまた?」

 

 ナイ教授がフィリップだけを名指しするのはいつものことだが、今回のアドバイスは釈然としない。

 金属製の鞭を四つ束ねたような特殊武器、ウルミを使うフィリップは、鞭術に適した身体の鍛え方をしている。筋力より柔軟性、強靭さより可動域、パワーより精度を重視している。それなりに技量もついてきたし、普段から四本の鞭を制御しているのだ。ウィップだって十分に扱える。

 

 ただ、当然のことながら攻撃性能は落ちるだろう。

 表面を荒く削った金属鞭は、鞭の打ち裂くような攻撃に加えて、ノコギリやヤスリのような荒い傷を残す。

 

 単純な殺傷能力で考えるならダウングレードだ。

 尤も、外神の視座からすれば誤差みたいなものだが……狙いが分からない。

 

 ぺらぺらとしおりをめくり、予定されているイベントを確認するが、正午から『牛追い祭り』。終了予定時刻は午後三時ごろ。あとは午後六時ごろの夕食まで自由時間だ。

 非殺傷攻撃を要求される場面には想像がつかない。

 

 「はーい、フィリップくんのような勘違いさんがいるかもしれないので、ここで説明しておきますねー」

 

 ちょっと煽られたフィリップは不機嫌そうに紅茶を啜り、ナイ教授の言葉の続きを待つ。

 

 「牛追い祭りは『牛を追うお祭り』ではなく、『牛()追うお祭り』ですよー」

 

 

 

 

 

 

 



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199

 牛追い祭りは、人間が牛を追い立てるのではなく、牛が人間を追い立てる祭りだ。

 数百年前の聖人が巨大な暴れ牛を傷付けることなく宥め、牛の有り余った体力で畑を耕し、大きな恵みを齎したことに由来する。

 

 聖国で行われる闘牛──雄牛同士を戦わせる見世物──の今年度チャンピオンとなった精強な牛を聖別したあと、街中に解き放つらしい。

 

 祭りの参加者は腰に赤いパレオのような布を付け、牛を誘導して逃げ続ける。

 制限時間は一時間で、その間、聖なる牛に対する直接攻撃はその一切が禁止される。自衛目的の魔力障壁は使ってもいいらしいが、闘牛の突撃を防げるような強度は、それこそ聖痕者や宮廷魔術師クラスの強者にしかない。

 

 だから一応、直接攻撃ではない魔術──《フィアーオーラ》のような恐怖感を煽る魔術や、逆に《デコイ》のような挑発誘導系の魔術、あとは自己強化補助魔術《アジリティ》による回避、《ウォークライ》による恐怖心克服などは全面的に許されている。

 

 ……それでも、闘牛から一時間も逃げるのは不可能ではなかろうか。

 パレオを巻いた参加者は、当然ながら店や宿などの建物には入れない。しかも牛は一頭だけでなく、参加者の数に応じて増えるのだとか。闘牛チャンピオンから、第二位、第三位と順に。

 

 一時間後には聖国の魔術師団が沈静化の魔術を用いて牛を処理するらしいが、果たして何人が無傷でいられるのか。

 

 「ウィップは牛を誘導するための道具なのでー、持ち込む人も多いですよー。その他も大声による威嚇などは全面的に認められているのでー、頑張ってくださいねー」

 

 なるほどそれでかと納得したフィリップは、次の瞬間にはナイ神父じみて嘲りの色濃い笑顔を浮かべた。

 

 馬鹿め、邪神のくせに──いや邪神だからこそ、自分の臭いに気が付いていない。

 人間だって自分の臭いに気を払うのは他人を気にするときだが、奴らは基本的に自分の世界で完結している存在。フィリップにべったりと付着した残り香、動物のような鼻が利く相手には強烈な忌避感を与える邪神(じぶん)の気配に、まるで気が付いていない。

 

 牛を追う側だろうが追われる側だろうが、相手が動物ならフィリップの勝ちだ。

 目的が捕獲とかになると、また話は別なのだけれど……闘牛がなんだ。こちとら軍馬ですら怯えて嘶き、乗馬は絶望的と言われている身だ。狼の群れすら追い立てる悪臭を以て、牛追い祭りを文字通りのものに変えてくれるわ。

 

 「……いや、怒られるかな」

 

 強制的に恐怖心を掻き立てる『フィアーオーラ』が緊急回避用の魔術として認められているのだし、大丈夫だとは思うけれど。

 何よりフィリップの矮躯が空を高々と舞うようなことになれば、流石のヨグ=ソトースも脅威判定を下すだろう。牛一頭のために教皇領を吹き飛ばすのは、流石のフィリップも望むところでは無い。

 

 「シルヴァはどうする? 参加してみる?」

 

 フィリップが虚空に話しかけると、足元に魔法陣が展開され、5,6歳ほどの体格の女児がぬるりと現れる。言うまでも無くフィリップと契約したヴィカリウス・シルヴァの幼体、シルヴァだ。周囲にはドライアドの子供と説明していたが、既にクラスの約半数が、それがドライアドなどではないことに気が付いている。

 

 フィリップはびくりと震えたクラスメイトたちに「あ、驚かせてしまいましたか。すみません」とズレた謝罪をする。

 シルヴァはそんな周囲の様子には興味が無いようで、一瞥もせずに、ぽすりとフィリップの膝に収まった。

 

 「んー……ふぃりっぷがやるなら、やる」

 「僕は強制参加というか、クラス単位での参加だからね。じゃあ一緒に牛を追い回そうか」

 

 

 

 ──と、話していたのが三時間ほど前のこと。

 牛追い祭りに参加するAクラス生や一般参加者は、総勢500人程度になった。

 

 合わせるように雄牛の数も追加され、六頭の闘牛が用意された。鉄製のケージに入った彼らは台車のようなもので運ばれて、配置につく。

 どの牛も冗談のように隆起した筋肉と、心のうちに燃え上がる熱い闘志を窺わせる鋭い眼光を持っていた。鼻息は荒く、既に意気込みは十分といった風情だ。

 

 スタート地点は、参加者から200メートルほど離れている。

 だが人間が走り始めると同時にケージが解放されるため、油断すれば距離的猶予は一瞬で消えると思っていい。

 

 まぁ、フィリップには関係の無い話だが。

 

 『今年も始まります、牛追い祭り! 今回の参加者には聖痕者がお二人もいらっしゃるということで、逃走圏内の建物からは多くのギャラリーが歓声を上げています!』

 

 どこかから、錬金術か魔術かによって拡大された実況の声が響く。

 

 高を括ってポケットに手を突っ込み、壁際で観戦するような姿勢になっていたフィリップは、遠くで牛たちに魔術が掛けられるのを不思議そうに眺めていた。

 肩車されているシルヴァも──参加規程が10歳以上だったので赤い腰布は貰えなかった──、何をしているのだろうと首を傾げている。

 

 少し離れたところにいたルキアとステラが何事か叫んでいるが、沿道の歓声や参加者の叫ぶ挑発で上手く聞き取れない。

 

 実況の言葉が続く。

 

 『今年の牛は一味違うぞ! 前回の『フィアーオーラ』連発で闘争心が萎えてしまった事案を教訓に、凶暴化の魔術『バーサーク』が掛けられます! こいつは中々に厳しい戦いになりそうです!』

 

 ──え?

 いや、それはちょっと不味いのではないだろうか。

 

 理性を失った獣が恐怖心を呼び起こす臭いに相対した時、逃走を選ぶとは考えにくい。選ぶとしたら、むしろ闘争だろう。

 

 『闘牛に用いられる牛は、ブラックバッファローという種類で、体長は小さいものでも2.5メートル、体高は最大2メートルにもなります。体重は約1000キロですが、侮るなかれ! 馬と同等の健脚を持っていますよ! ──さぁ、準備が整ったようです!』

 

 何か手間取っていたのだろうが、それを感じさせない実況の語り口調。

 そんなところに感心している暇は無かった。

 

 『唸り声を上げる猛獣たちの檻が、今! ──解放されました!』

 

 どっ! と、遠くで地響きのような音が上がり、土煙が立ち昇る。

 沿道の建物からは歓声が上がり、参加者たちも挑発するように腰布を振り、叫びながら走り始める。中にはわざと遅れて胆力を誇示する者もいた。

 

 フィリップはというと、

 

 「逃げろ、カーター!」

 「フィリップ、走って!」

 

 二人の声に導かれるまでもなく、全力疾走を開始していた。

 

 やばい。

 これはやばい。

 なんというか、慢心が過ぎた。

 

 いやしかし、まさか闘牛をさらに凶暴化させるなんてことが、誰に想像できようか。

 

 「シルヴァ、ちゃんと掴まって!」

 「ん! わかった!」

 

 肩と頭に微かな圧力が加わる。

 こんな程度で振り落とされないのかと心配になるが、シルヴァには殆ど体重が無い。この程度の固定でも落っこちたりはしないだろう。

 

 問題は、刻一刻と背後から迫りくる牛たちだ。

 脇道に入っていったグループを追っていった個体を差し引いても、フィリップたちの方に三頭来ている。来ているというか、突撃している。

 

 「──、っ!」

 

 凶暴化しているとはいえ所詮は獣。

 『萎縮』なり『深淵の息』なりで十分に対処可能だが、攻撃してはいけないルールがある。

 

 あぁ──だから、か。

 だから、牛追い鞭(ブルウィップ)を持っておけと言われたのか。あの特徴的な音で驚かせて誘導するとか、鼻面を叩いて叱り付けるとか、絵本で見たことがある。

 

 そうだ。凶暴化した牛を宥めるのは聖人の専売特許じゃない。物語に描かれた吟遊詩人は歌と楽器で、英雄は素手で、そして冒険家は鞭を使って事を収めていたじゃないか。

 

 「慢心したな、カーター」

 「あれは流石に油断し過ぎよ。イベントだから走るくらいで済んでいるけれど、実戦だったら死んでいるわ」

 

 合流したルキアとステラが並走しながら、両サイドから責めてくる。

 フィリップの身を案じ浅慮を諫めるルキアとは違って、ステラは完全に揶揄っていたが。

 

 「まさか凶暴化とはな! あの状態の獣は厄介だぞ? どうする、カーター?」

 「そうね。フィリップの言う“臭い”に気付いている様子もないし、一時間走り続けるのも非現実的だものね」

 「楽しそうですね二人とも! 僕はもう結構全力で走ってるんですが!」

 

 全力疾走のフィリップに何の苦も無く並走し、あまつさえ揶揄うように笑っている二人を見て、フィリップが吼える。

 しかし、その表情は楽しそうな、そして嬉しそうな笑顔だった。

 

 これでいい。

 マイノグーラに限らず、邪神の気配なんて無い場所に二人が居てくれる。

 

 それでいい──それがいい。

 

 「ふぃりっぷ、これ、おにごっこ?」

 

 頭にしがみついていたシルヴァが、背後の牛を指しながら訊ねる。

 フィリップの、いや周囲全体の興奮と熱気に中てられたのだろう、彼女も楽しそうな笑顔だった。

 

 「え? あぁ、うん! そんな感じ! 捕まる前に吹っ飛ばされると思うけどね!」

 

 少なくとも全力疾走する雄牛の『タッチ』は、フィリップを打ちあげるのに十分な威力のはずだ。最近少し身長が伸びて、体重も40キロそこそこまで増えたとはいえ。

 

 「じゃあしるばもはしる!」

 「──え? ちょっ!?」

 

 止める間もなく飛び降りたシルヴァは、その小さな歩幅のせいですぐに三人から遅れる。

 三人より後ろには疎らにしか人がいないから即座に見失いはしないが、時間の問題だろう。

 

 何も問題はない。

 

 「危なくなったら戻りなよ!」

 「わかったー!」

 

 シルヴァは召喚契約で生成された魔術的な異空間に、彼女自身の意志で自由に出入りできる。

 それに、あれでもヴィカリウス・シルヴァの幼体だ。雄牛の突進が対森林級攻撃にはどうやっても届かない以上、彼女が傷付くことはない。

 

 ……ただ、突進のエネルギーはその矮躯を軽々と吹き飛ばすだろうが。

 

 あぁ、耳を澄ますまでも無く、背後から──やけに高い場所から、楽しそうにはしゃぐ声が聞こえる。

 周囲のどよめきも一瞬で、楽しそうな笑顔を見て「防御系の魔術を使ったのだろう」と勘違いして納得し、すぐに元通りの歓声になる。

 

 さて──硬い蹄が石畳を打つ音が、どんどん近付いて来ている。

 シルヴァが一頭を連れて遊びに行き、もう一頭は別な参加者を追っていった。

 

 残る一頭は、フィリップをしっかりとマークしていた。

 

 フィリップには概念的強度も防御魔術も魔力障壁も無いが──

 

 「かかって来いよ獣畜生……! お前も両目と脳でモノを見てるんだろう……!?」

 

 ──対抗策は、ある。

 

 ヤケクソ気味に啖呵を切り、独特の疾走態勢を取って向かい合うフィリップ。

 

 牛追い祭りでは稀にいる、聖人ではなく英雄のロールプレイに、観客がより一層の歓声を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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200

 もう200話ですって。
 ……もう200話!? あばばば……(発狂)

 ここまで書けたこと、これからも書いていきたいと思えること、本当に嬉しく思います。
 ラヴクラフト御大、後続の作家様方、そして読者の皆様のおかげです。本当にありがとうございます。

 推せるうちに推してください。


 意外と、と言うべきか。

 いや、当然、と評価すべきだろう。

 

 フィリップ対雄牛という理不尽なカードの対戦は、しかし、5分間も続いていた。

 

 腰に巻いていた赤いパレオのような布を取り、鞭のように振り回すフィリップは、身に付けた攪乱の歩法『拍奪』を最大限に使い、雄牛の突進を躱し続けている。

 息を荒らげているのは雄牛だけで、フィリップはまだまだ余裕の表情だ。不敵な笑みさえ浮かべている。

 

 ステラの再現した中級程度の戦闘魔術師の魔術攻撃を躱し、先月には強力な吸血鬼とも対峙した経験があるのだ。

 地響きすら起こす重い突撃は、鈍重でしかない。

 

 紙一重とか間一髪とか、そんな形容が全く当てはまらない、軽々とした回避を見せる。

 それでも、自分を狙って突き出された硬い角と、すぐ後を通過する分厚い筋肉の塊は、その直撃が人体に齎す痛打を容易に想像させた。

 

 だが、恐れは無い。

 恐れる必要が無い。恐れるという機能が正常に働いていないことを度外視しても、だ。

 

 「いいぞー!」

 「もっと布を振れーっ!」

 「すごーい!」

 「かっこいいー!」

 「もう一頭連れて来い! もう二頭でもいいぞーっ!」

 

 声援を送るのは、沿道の建物から眺める観客だけではない。フィリップが牛を引き付けてしまったことで手持無沙汰になった参加者たちが、遠巻きになってギャラリーを形成していた。

 周囲の歓声を遠くに聞いたフィリップが呆れたように口角を上げ、それを見たギャラリーが一層盛り上がる。

 

 余裕の笑みに見えたのだろう。

 フィリップとしては、スタミナの総量で絶対に負けている相手との対面遅滞戦闘、攻撃制限、回避失敗は即敗北というヘビーな状況を、さらに一対多にして欲しくはないところだが。

 

 いつの間にかルキアとステラまでギャラリーに混ざり、応援とも歓声ともつかない声を上げている。流石に危なくなったら魔力障壁でカバーしてくれるとは思うが、もう一頭来たらあっちに丸投げしようと思う程度には安全圏にいた。

 

 視界の端にそんな二人が写り、すぐにフェードアウトする。

 当然だ。暴れ狂う雄牛を前に、足を止めている余裕は無い。全力機動ではないにしろ、そこそこ真面目に走り続ける必要はあった。

 

 右手に持った赤い布を一瞥し、決め手に欠けるなぁ、なんて考えた自分の思考に苦笑する。

 

 殺傷ではなく制圧のための武器として用意したウルミがあれば、たぶん何とかなる。

 だが、これは戦闘ではなくイベント、お祭りだ。楽しむことと、楽しませることが本懐。

 

 だから──

 

 「おまえがわたしを戦士と認めたように、わたしもおまえを認めよう。だから神よ、月よ、星々よ、わたしたちの決闘を聖別されよ! 何人も犯せぬ白百合のように!」

 

 赤い布を剣のように突き付け、声高に叫んだフィリップの口上に、観客の一部で興奮と歓声が爆発する。趣味を同じくする者たちなのだろうと、それを受けるフィリップ自身も口角が上がった。

 

 フィリップが引用したのは古典に分類される英雄譚『エイリーエス』の一節だ。

 理性無き怪物と言われていた双頭の人食い雄牛を対等な好敵手と認め、一騎討ちをするシーンの台詞なので、咄嗟に出てきたことに思わずニヤついてしまう。

 

 あぁ、これはいい。

 万一の場合にはルキアとステラがカバーしてくれるという信頼感、ヨグ=ソトースの庇護という絶対無敵にして被害規模不明の防護が発動するようなことにはならないという安心感──本当に心の底から『自分も周りも安全だ』と思える日が来るとは思わなかった。

 

 敵が弱い。正確には敵ですら無いのだけれど。

 味方が強い。正確には二人ともギャラリーになっていたけれど。

 

 そして何より──フィリップ自身が強くなっている。凶暴化した雄牛程度なら、問題なく相手取れるほどに!

 

 あぁ、なんて、なんて楽しい──!

 

 フィリップの笑顔が内心を反映した、獰猛なものに変わる。

 対面した獣と同じような、獣性に満ちて野蛮な笑顔だ。普段の温和なものとも、子供っぽいものとも、時折見せる嘲笑と冷笑と諦観を綯交ぜにした複雑なものとも違う。

 

 楽しいと、ただ笑う。

 感情を理性で制御するのが人間だとすれば、「人間らしい」振る舞いとは呼べないかもしれない。だが、それは「人間臭い」笑顔だった。

 

 ルキアは嬉しそうに口元を緩め、ステラはどこか羨ましがるように眩しそうに目を細めて、暴れ牛を相手に大立ち回りを演じるフィリップを見つめていた。

 

 フィリップが手癖で整形(フォーメーション)するように振った赤い布の動きに誘われて、雄牛が何度目かになる突撃姿勢を取った。

 

 蒸気のような鼻息。荒い呼吸が全身の筋肉を稼働させる大量の酸素を供給する。

 こちらの目を見据えて放さない、闘志に満ちた双眸が残光を曳いた。

 

 腕ほどもある立派な角が下がり、照準される。

 そこに刻まれた無数の傷跡は、自分と同格の相手をねじ伏せてきた証、勲章だ。眼前のひ弱な人間などに、本来は向けられるものではない。

 

 ざり、ざり、と前掻きをする雄牛。

 自分よりも巨大で、強靭で、堅牢な、鉄のような筋肉の塊。先端部には一メートルの衝角付きだ。

 

 単純な体格差が本能を刺激し、恐怖も無いのに身体が強張る。

 

 その緊張も、無責任に楽しそうなのにどこか心配そうな声援も、目の前の本能的殺意の塊も、何もかもが愛おしい。

 近くで見ているルキアとステラを、どこかで見ているであろうマザーを、あとで語り聞かせるであろうシルヴァを、楽しませたいと思っている自分自身に笑ってしまう。

 

 その一呼吸を見逃さない、先天的戦闘能力の塊。

 観察力、体格、体力、武器。その全てを持ち合わせた怪物が、動いた。

 

 石畳を蹴る一歩目。──まだだ。

 二歩目と同時に頭が下がる。──まだだ。

 打ち上げ体勢に入った三歩目も、まだ早い。まだ耐えられる。

 

 加速した意識の中、観客を楽しませるためだけに行動を遅らせ、間一髪の回避を演出しようとしている自分を客観視する。

 

 これは慢心か? ──そうだろう。

 これは油断か? ──そうだろう。

 

 では、これは愚行か? ──否。

 

 観察が、智慧が、経験が、信頼が、それは違うと否定を叫ぶ。

 

 敵の動きは見えている。

 この程度の相手は脅威ではない。

 もっと速くて強い吸血鬼を知っている。

 背後にはルキアとステラ、周囲にはヨグ=ソトース。

 

 ほら、大丈夫だ。

 

 「──ッ!」

 

 息を呑んだのか、息を吐いたのか。

 そもそも今のは、誰の呼気なのか。フィリップ自身も、周囲の観客も、誰も分からないほどシンクロした。

 

 全力行使した『拍奪』の歩法が、雄牛がフィリップに直撃し、そのまますり抜けたように錯覚させる。

 惑わされなかったのは、見慣れつつあるルキアとステラくらいだろう。

 

 一瞬の静寂。

 フィリップの靴音と雄牛の蹄音、二つの荒い吐息だけが世界の全てになって、そして。

 

 『うおおおぉぉぉぉぉッ!!!!』

 

 歓声が、爆発した。

 

 「何だ今の、すっげぇ!」

 「当たっちゃったかと思った!」

 「すごいすごい! まだ子供なのに!」

 「あ、あれぐらい俺にもできるし?」

 「いや無理だろ! ブラックバッファローだぞ!?」

 「かっこいい! ぼくも、ぼくもやりたい!」

 

 頭上、建物の窓から覗く観客と、地上階から見物している観客、そして参加者が遠巻きになって作ったコース上のギャラリーが口々に賞賛する。

 フィリップはそれに応じるように手を振りながら、しかし、未だ闘志の衰えない黒い雄牛からは視線を外さない。

 

 後ろ脚を軸にして回るような挙動で、90度ずつ転進する雄牛。その機動力は、体格に見合わぬほど高い。

 

 だが──ディアボリカよりは遅い。

 

 もはや盛り上がりは絶頂にある。これ以上、妙な演出を入れる必要はないだろう。

 それなら余裕だと、フィリップはまた高を括った。

 

 盛り上がりは最高潮だったはずの観客から、もう一段階大きな歓声が上がる。

 

 「もう一頭来たぞ!」

 「頑張れ英雄! 双頭の雄牛だ!」

 

 

 ──いや、それは無理。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 結局、傷付いた英雄は二人の美しい聖人によって救われた。

 具体的に言うと、その場での攪乱から逃走に切り替えたフィリップがバテ切ったところを、ルキアとステラが魔力障壁で保護した。

 

 珍しい歩法を身に付けたエンターテイナーの少年と、雄牛の突撃を難なく受け止める堅牢な魔術障壁を使い、更には舞台女優より秀麗な容姿の少女たちに、沿道からは惜しみない拍手と喝采が贈られた。

 

 ちなみに、シルヴァは「なかよくなった。しるばのけんぞく」とか言いながら、自分の突進に自信を失くして意気消沈した様子の雄牛に乗って帰ってきた。

 それを見て爆笑していたフィリップたち──ルキアですら、口元を覆って肩を震わせていた──は、しばらくして、波のように襲い掛かった羞恥心に悶えることになる。

 

 フィリップたちというか、主にフィリップ一人だが。

 祭りの熱気に中てられたとはいえ、あんな舞台俳優みたいなことをするつもりは、少なくともスタート前には全くなかったのに。

 

 じわじわと募っていた羞恥心が爆発したのは、夕食のときだ。

 

 AクラスとBクラスの生徒の夕食会場として指定された、海鮮料理の有名なレストラン。

 店内に入った瞬間に、店員の一部と、生徒の一部にさざ波のような密談が伝播する。

 

 もはや内容を聞きたいとも思わなかったフィリップは、深々とした溜息で黙らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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201

 夕食を終えたあと、フィリップは美味な食事の後とは思えない鬱々とした表情で夜道を歩いていた。

 

 クラスメイトやBクラスの生徒たちは、祭りでテンションが上がり、普段の様子とはかけ離れた奇行に走った年下の子供を、殊更に揶揄うような真似はしなかった。何人かは共感性羞恥を起こして悶えていたが。

 

 ただ、レストランの従業員は別だった。

 彼ら彼女らはフィリップの素性──枢機卿関係者ではという間違った推測──を知らないからか、無遠慮だった。

 

 勿論、悪意があるわけではない。

 クラスメイトに比べて体格の劣るフィリップが、自分の二倍から三倍のサイズを持ち、体重比では二十五倍もの相手に立ち向かったことを、素直に称賛している。

 

 それに、フィリップの台詞の引用元である古典英雄譚『エイリーエス』は、一家に一冊はある類の作品ではない。

 教会の書斎や図書館に行けば置いてあるだろうから、それをわざわざ読みに行く程度には読書家なのだろうと分かる。

 

 それだけの情報しか持ち合わせない彼らは、フィリップのことを、運動神経が良く勇敢で読書家な理想的学徒のように思っていた。

 

 不慣れな、そして不相応な称賛に晒されてぐったりと肩を落とし、石畳を見つめて宿への帰路をただ歩く。

 

 貴族の子息子女が多く在籍していることもあり、夕食後に異性を宿まで送るという行為は禁止されていた。

 中には「知ったことか」とばかり、学院が取った宿とは()()宿()に並んで入っていくカップルもいたが、3分から10分でナイ教授につまみ出されていた。あれは多分、「さぁ始めるぞ」というタイミングで──いや、そんなことはどうでもよくて。

 

 一応、宿の前まで送り届けるくらいは許される。

 が、初日の夜に、それはもうはちゃめちゃに怒られた──フィリップ()宿まで送ったルキアとステラを見咎められて、()()()()()()怒られた──経験から、それは自重していた。

 

 ナイ教授の説教なんて怖くもなんともないが、「公爵令嬢と第一王女の身辺にー、醜聞を垂れ流したいのなら構いませんよー」と言われてしまっては、フィリップが同道を断る口調にも熱が籠る。

 二人のことを思えばこその言葉だと、二人とも理解してくれたが、夜道には十分に気を付けるよう念押しされてしまった。

 

 夜道とはいえ大通りだ。

 道沿いの屋台も疎らにだが営業中だし、飲食店や宿なんかはここからが稼ぎ時だ。まだまだ活気に溢れていて、襲われるような気配は微塵も無い。ただ、まぁ、本当に襲われたら巻き添えが多そうだが。

 

 ふらふらと屋台を覗いたり、見世物を眺めたりしていると、道行く人に声を掛けられた。

 

 「……お、昼間の少年じゃないか! 楽しませて貰った礼だ、これやるよ!」

 「え? あ、牛追い祭りの! これも持って行って! いいものを見せてくれたお礼よ!」

 「昼間の子か! うちの串焼き肉も持ってきな!」

 「お兄ちゃん、かっこよかった!」

 「そうねぇ。じゃあこれ、お兄ちゃんにあげて?」

 「うん!」

 「お、いいね! じゃ、おじさんはこの本をあげよう。読書家なんだろ?」

 

 よく分からない屋台のお菓子、店売りの装飾品、タレの滴る熱々の串焼き肉、称賛の言葉、エトセトラ。

 腕一杯に贈り物を乗せられて、フィリップは嬉しさ三割、照れと羞恥が七割を占める微妙な笑顔でお礼の言葉を返す。

 

 宿までの道程を半分ほど進んだところで、「これ以上積まれると前が見えなくなります」と断る羽目になったのは完全に予想外だった。

 

 「重いし嵩張るなぁ……あっ」

 

 山の中から、球状の何か──フィリップが見たことの無い北方特産の果物──がころころと落ちる。

 受け止めるべく咄嗟に突き出した足は、地面との激突と破砕を見事に防ぎ。

 

 「うわ……」

 

 そのまま小さな路地へ蹴り込む結果となった。

 

 「…………」

 

 プレゼントの山を抱えたまま、呆然と立ち尽くすフィリップ。

 正直に言うと、腕一杯のこれらを全部ぶちまけて、そのまま宿に帰って寝たいところだ。枕に顔を埋めて、羞恥心の赴くまま叫んで発散したい。

 

 だが──貰い物を、他人の厚意を粗末にするのは憚られる。

 正確には、それは非人間的ではないだろうかという思考が、感情に任せた行動を制限していた。

 

 「はぁ……」

 

 心の底から面倒くさいと言いたげな嘆息を溢し、とぼとぼと路地裏に入る。

 何とか無事だった黄色い果実を取ろうと手を──伸ばせない。身体を傾けてもギリギリ届かない。足で……はちょっと自信が無い。

 

 「ごめん、シルヴァ。その果物、拾ってくれない?」

 「──ん、わかった」

 

 フィリップの声に応じて、足元からシルヴァがぬるりと現れる。

 彼女は果物に付いていた砂埃をちょっと払ってから贈り物の山に戻し、それから不思議そうに路地の奥を見つめた。

 

 ちょいちょいと肘の辺りを引かれ、フィリップは慌てる。

 

 「ちょっとシルヴァ、また落としちゃうって」

 「……ふぃりっぷ、あれ、なに?」

 「あれ? ……どれ?」

 

 路地の奥は暗く、数メートル先は真っ暗闇だ。

 

 ──いや、しかし、それはおかしい。

 

 そう土地勘のある場所ではないが、フィリップの空間把握力と記憶力が正しければ、この路地は二つの大通りを繋ぐもの。未だ煌々と明かりの灯る二つの大通りを、だ。

 

 振り返るまでも無く、フィリップの背後からは光が差し込んでいる。

 なのに、ほんの十歩奥が見えない。そのさらに奥にあるはずの、大通りからの光が見えない。

 

 そこに、何かがある。

 光を遮る何か。光を反射しない何か。

 

 壁? いや、それなら壁が見えるはずだ。

 

 不審に思ったフィリップは、しかし、全くの無警戒に路地の奥へ進む。

 一歩、二歩、三歩と近付いても、その正体には見当が付かない。やがて()()の目前に立って、フィリップは漸く理解した。

 

 「これ、物じゃない。()()()()──視界を遮るような魔術だ」

 

 中に何があるのか、或いは何かが居るのか、それも分からない。

 外部から内部に到達する光を完全に遮断しているらしく、ほんの薄っすらとも中が透けないようになっていた。おそらく別の魔術によって、音も消されている。

 

 その明確な異常を前に、フィリップはニヨニヨと下世話な笑みを浮かべた。

 

 祭り。

 夜。

 路地裏。

 目隠し。

 

 あーはいはい、しょうがないなぁ、黙って立ち去ってあげよう。そう思わせる要素しかない。

 こちとら宿屋の息子で、王都の宿で丁稚奉公までしていた身だ。祭りの日に若い男女が部屋を取るなんて普通だったし、客の苦情を受けて注意しに行ったこともある。

 

 「入っちゃ駄目だよ、シルヴァ。帰ろう──あっ」

 

 フィリップの服を掴んだままのシルヴァを促すように腕を動かすと、弾みでまたプレゼントの一つが落っこちた。

 何が落ちたのかは分からなかったが、少しバウンドして──闇の中に吸い込まれていった。

 

 「……嘘だろ」

 

 喉から絞り出したような声は、フィリップにしては珍しく絶望の色を含んで嗄れていた。

 

 邪魔をするつもりは無かったのだが……貰い物だしなぁ、と覚悟を決めて、そっと足を踏み入れる。「ひろう?」と聞いてくれたシルヴァには悪いが、この中の光景を見せるには少し早い。……いや、彼女に年齢や性の概念なんて有って無いようなものだけれど。

 

 「すみません……すぐ出て行きます」

 

 闇のヴェールを潜った瞬間、世界が切り替わる。

 そこは何の変哲もない路地裏だ。建物の裏口と、扉の横の燭台。近くには生ごみを入れるための大きな壺──コンポスターがある。

 

 石畳をオレンジ色に照らす蝋燭の光がゆらゆらと揺れて、小道の真ん中に横たわるモノの影を歪に伸ばした。

 

 「──っ、は?」

 

 ぐったりと横たわる細長いもの。

 片側は二又に分かれていて、もう片側からは布のような何かが垂れている。金糸──燭台の明かりを受けて煌めく、金色の髪。

 

 その周りに、じわりじわりと染み出すように広がる、赤。

 

 最優先された視覚情報が認識された次の瞬間には、嗅覚が異常を訴える。

 

 鼻を突く異臭。

 眼前の──人間のように見えるものの、人間にしてはいやに細長いものが垂れ流す、鉄と臓物と吐瀉物と糞尿とその他の組織液が混ざりあった、強烈な死臭とは違う。

 

 フィリップの嗅いだことの無い、嗅いだことが無いのに知っている臭いだ。

 地上に在るべきではないモノ、地上に在る全てのものを喩えに挙げられない、異常な臭い。

 

 刺激臭や淀みの臭いといった複数のベクトルの悪臭が混ざり合った、言うなれば、()()()()()()

 

 ほとんど無意識に、抱えていた贈り物を道端に流すように置く。中には食べ物やコップ入りの飲み物もあったが、そんなことを気にしている場合では無かった。

 

 「シルヴァ、戻って」

 「……ん、わかった」

 

 魔術的な異空間にシルヴァを送還したフィリップは、警戒も露わな足取りで倒れ伏した女性に近付く。

 

 「……だよね」

 

 死んでいた。

 手足と胴体を圧搾したように引き延ばされて、口と股間と複数の割裂部位から中身を垂れ流して、完膚なきまでに死んでいた。

 

 路地裏で人が死んでいる。

 それは、まぁ、いい。フィリップの知らない人だ。知らないところで死んでいたからといって、特に感情は動かない。精々が、無惨な死体に対する忌避感──汚れた肉の塊に対する、衛生観念的な、「気持ち悪いなぁ」という感想が浮かぶ程度だ。

 

 だが、これは。

 

 この、何かに呑み込まれたような死に様と、鼻を突く悪臭は知っている。

 覚えがあるわけでは無い。ただ──与えられた智慧の中に、フィリップを殺し得る明確な脅威として載っている。

 

 ずり、と、何かを引き摺るような音がした。

 

 弾かれたように距離を取り、音のした方を注視する。フィリップがすっぽりと入りそうな、大きなコンポスターの陰だ。

 

 ずり、ずり、と這いずる何かが、その陰から姿を見せる。

 

 直径一メートルほどの、少し潰れた球体だ。

 一見すると、スライムのようだ。粘つく原形質の塊、潰れた球状の粘液。

 

 だが、そんな勘違いはできないだろう。

 たとえそれを見たのが、既にその正体を知っているフィリップでなくとも。

 

 オレンジ色の炎に照らされて、なおも暗いその表面は、僅かに光を反射して泡のような玉虫色に蠢く。さながらコールタールでできたアメーバだ。

 一本、二本、と生えた触手の数は時折減少し、その形を一瞬たりとも固定しない。

 

 表面に無数の線が走り、ぱっくりと開く。

 その奥で、ぎょろり、と線の数だけ緑色の眼球が生え出で、無感動な光を湛えてフィリップを見つめた。

 

 さらに複数の亀裂が入り、嘲笑の形に歪められた、黄色い乱杭歯の並んだ口になる。

 

 無機質な無数の目と、嘲笑する無数の口、不特定数の触手を持った怪物の、悪臭を放つ口から。

 

 「──テケリ・リ」

 

 邪悪言語、ではない。

 それは意図や意味を持たない、単純な音の羅列。いわば鳴き声に過ぎないが、神経を逆撫でするような苛立たしいものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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202

 明確な異形を前にしたフィリップは、自分の頬をぺちぺちと叩く。

 正気を保つため、ではない。確かに、精神の弱い人間なら一発で発狂するような、この世のどんな生き物でもあれと比べれば美しい黄金比に見えるような、およそこの世ならざる外見だが、フィリップの精神もまたそうだ。

 

 フィリップの心中の、およそ二割を警戒が埋める。

 そう──()()()()()だ。

 

 「……ショゴス? なんでここに?」

 

 眼前の異形、ショゴスは、見ての通り人間を殺す能力を持っている。

 フィリップとショゴスの間に転がった変死体は、あれに呑み込まれて押し潰され、その後に吐き出されたものだ。

 

 シュブ=ニグラスから見てもフィリップを殺すには十分な脅威だから、智慧の中に与えられている。

 

 だが、()()()

 本来のショゴスは、最小でも直径4メートル。それ以上に肥大することはできるが、それ以下に圧縮はできない。

 

 だからこれは、分裂体か、或いはよく似た別種──下級の(レッサー)ショゴスとでもいうべきモノだ。

 

 この闇の帳を始めとした防諜魔術は、このショゴスの仕業と見て間違いない。

 狩りのため、餌に助けを呼ばれないための措置だろう。ショゴスが人間を食うのか否か、フィリップは知らないのだが、そう予測は立てられる。

 

 「テケリ・リ! テケリ・リ!」

 

 フィリップを威嚇するように鳴き声を上げ、触手を三つ、高々と掲げる。まるで自分の身体を大きく見せるカマキリのように。

 

 「──はっ」

 

 自分でも驚くほど、冷たい声で笑う。嘲笑う。

 

 威嚇? 敵対するつもりなのか?

 では、脅威判定を少し()()()必要がある。

 

 「ウボ=サスラの模造品の、その出来損ないの、更に下等種が──っと」

 

 ぺち、と、また自分の頬を叩く。今度は少し強めに。

 

 これだ。

 この、智慧から来る軽視が、とても良くない。

 

 外神の視座からすると、眼前のこれは思わず笑ってしまうような劣等存在だ。

 おかげでフィリップの心中には、軽蔑や嘲笑といった軽視が渦巻き、八割を占める。

 

 だが、明確に人間を殺せるのだ。

 それはフィリップも例外ではない。シュブ=ニグラスの智慧にも、そう警告されている。

 

 警戒すべきなのに、知識がその邪魔をする。

 

 ただでさえ、ウルミ無し、街のど真ん中という不味い状況なのに。

 

 「──《萎縮(シューヴリング)》」

 

 ダメ元で撃ってみた魔術も、案の定効果を発揮しない。

 なんとなくだが、効かないのではなく魔力の差でレジストされたような感覚があった。

 

 ちらりと後ろ、逃走経路を確認する。

 あの闇のヴェールの効果は、視覚と、恐らくは嗅覚と聴覚の遮断。物理的な壁の役割は無いはずだ。外から中に入れても、出ることはできないというケースも想定されるが──その時は腹を括るしかない。

 

 いや──しかし、ショゴスは基本的に自発的な行動をしない。

 造られた奉仕種族であるこれらは、他者の命令に従うことを至上としている。中には自律行動する変異種もいるらしいが、その見分け方をフィリップは知らない。

 

 だからこの状況は、人間を憎んでいるような種族が「人を襲え」と命令した結果かもしれない。

 

 たとえそうだとしても、この町には何の思い入れも無いし、見ず知らずの人間が一人死のうが一億人死のうが、どうでもいいことだ。

 

 だが、今は違う。

 昨日も含めて一週間、この町にはルキアとステラが滞在するのだ。

 

 あの二人なら対面戦闘では余裕で勝てるだろうが、寝込みを襲われたら……いや、なんか設置型の魔術とかで勝手に殺されそうなビジョンがあるが、それでも、この醜悪な怪物を、万が一にでも二人の目に晒したくなかった。

 

 二人には、この修学旅行を心から楽しんでほしいのだ。

 そのために、昼間は恥ずかしい小芝居までしたのだから。身を焦がすような羞恥心を無駄にしないためにも、ここで殺しておきたい。

 

 「とはいえ、殺す手段が無い……」

 

 街中で邪神を召喚するのはやめようと、一年前に学習した。

 しかしウルミが無く、持っていたとしてもスライム状のショゴスには効果が薄い。魔術もこの様だ。

 

 「うーん……」

 

 ぺちぺちと頬を叩き、「踏み潰せばいい」「腕の一振りすら勿体ない」と囁く外神の智慧を抑える。

 

 ショゴスは見ての通り、粘性を増したスライムのような状態だ。

 その性質は変幻自在。眼球や口腔、牙、触手などを自在に生成できる。

 

 斬撃、射撃などはその粘液や原形質の身体に最低限のダメージしか与えられず、熱や電撃にも耐性を持つ。

 

 耐性と言っても無敵ではなく、精々が半減程度だ。

 ルキアやステラのような超火力の前には屈服するだろうが、フィリップではそれを用意できない。最近身に付けた初級魔術『サンダー・スピア』は、電流量も電圧も静電気の域を出ない出来損ないで、ステラには冬場のドアノブを投げたほうがマシだと言われたし。

 

 動かないフィリップの観察を終え、ショゴスが動く。

 

 三本の触手が交差するように繰り出され、フィリップの首を絡め捕るように動く。

 鞭のように打たれるだけでもかなり痛いだろうが、捕まったら最後だ。その頼りなく細い触手の見た目からは想像もつかない筋力で引き摺り込まれ、呑み込まれる。その後は、地面に転がっている死体と同じ命運を辿るだろう。

 

 だから、喰らうのは一案だ。

 少なくとも眼前敵の完全消滅は約束される。

 

 だが、ヨグ=ソトース顕現時の被害規模が判然としない以上、街中では駄目だ。

 

 『拍奪』の歩法を使いながら後退するが、触手はフィリップの位置を正確に認識して追尾してくる。

 多眼、或いは脳の構造が全く違うことが原因だろう、相対位置欺瞞が機能していない。

 

 「ち──」

 

 舌打ちを溢し、全力のバックステップで距離を稼ぐ。

 眼前を素通りしていく触手が空気を切り裂き、悪臭を放つ粘液を飛び散らせる。それが付着した石畳や建物の壁に変化が無いあたり、強酸性だったりはしないようだ。

 

 どうするか。

 殴る蹴るが有効なダメージを見込めるほどの格闘能力は無いし、辺りに武器になりそうなものはない。

 

 「武器が要る──!」

 

 何か、何かないか。

 路地裏の片隅に投げ捨てるように置いた、プレゼントの中に、何か使えるものは無かったか?

 

 串焼き肉の串? 駄目だ、あれは安価な木製の串で、武器にするにはとんでもない技量が要求される。

 

 唯一神の力が籠った魔除けのお守り(アミュレット)? 馬鹿か、祈りで敵が殺せるなら世界は平和になっている。

 

 よく分からない果実やお菓子? 美味しく頂かれて終わりだろう。

 

 何か、何かないのか。

 欲を言うなら鞭状の何かがいいけれど、贅沢は言っていられない。フィリップでも使える、オーソドックスな武器ならなんでもいい!

 

 「テケリ・リ──!」

 「──クソ」 

 

 立て続けに繰り出される触手の攻撃を、狭い路地裏の、更に狭い闇のカーテンに覆われた範囲で懸命に躱す。

 

 攻撃それ自体は見切れる速さだが、手数が多い。

 回避一回の難易度は昼間の雄牛よりも簡単だが、その数を自在に増減させる触手全てを躱し切るのはそれなりに困難だ。ディアボリカのパンチほどではないが、ステラの演じる初級戦闘魔術師の攻撃よりは厄介といえる。

 

 執拗に頭部ばかりを狙う単調な攻撃に慣れ始めた頃だった。

 軽いスウェイで躱せる、ヌルい攻撃が来る。粘液がかかることを嫌ってバックステップを踏み、少し過剰に距離を取り、

 

 「──、ッ!」

 

 伸びた触手が、フィリップの動きを追跡した。

 

 悪臭を放つタールでできたような触手が変形し、縁の鋭いスプーンのような湾曲した板状に成形される。

 棘のあるモーニングスターにも、鋭利な剣にも、鑢のようなウルミにもなれるはずのショゴスが選択するには、奇妙な形状だ。

 

 だが、その攻撃が生む傷口は容易に想像がつく。

 被弾箇所は、フィリップのウルミより綺麗に()()()()()()()

 

 狙いは目元。

 眼球と、おそらく脳までをプリンのように掬い取る致死攻撃。

 

 少し低い独特の風切り音を鳴らしながら、驚愕に見開かれ、油断したと苦々しく細められたフィリップの目を奪う。

 

 その刹那、視界が真っ白に染まり──ドッッ! と、ただひたすらに耳を劈く轟音に包まれた。

 肌を打ち肉を焼くような爆音は、通常であれば人間の意識を一瞬で刈り取る音響攻撃にすらなり得るもの。しかし、フィリップの耳に入るのはそれ以下に抑えられた音だけだ。

 

 ホワイトアウトした視界がじわじわと戻り、そこで漸く、フィリップは自分の目が無事であることに気が付いた。

 そして、足元に落ちている切り飛ばされた触手がタール状に戻っていくことより、触手を切り飛ばされ全身を焼かれたショゴスが苦悶していることよりも先に、目の前に突き刺さった金色の剣に目を奪われる。

 

 黄金に輝く抜身の直剣。

 刀身の柄側半分が二又に分かれ、柄には独特ながら絢爛な装飾が刻まれている。その豪奢ながらどこか禍々しい印象も受ける柄の飾りを、妙に覚えていた。──フィリップの知らない金剛杵という祭具を持った手の骨のような飾りは、あの黄金の騎士が佩いていたものだ。

 

 銘は確か、魔剣インドラハート。

 

 石畳に深々と突き刺さったそれは、ばちばちと紫電を散らし、オゾンの臭いと煙を立ち昇らせていた。

 

 雷撃のように降ってきた、雷を纏う直剣。

 しかし見上げても闇の帳があるばかりで、星の一つも見えはしない。

 

 「──テケリ・リ」

 「っ!」

 

 苦痛に満ちた鳴き声に、意識が観察から戦闘に切り替わる。

 

 雷鳴と共に飛来し、雷光を迸らせる煌びやかな魔剣。

 その装飾華美な柄に躊躇うことなく手を伸ばし──石畳を豆腐のように切り裂きながら抜き放つ。

 

 瞬間、

 

 「──、あ」

 

 神の憎悪が、神経を通じて脳を焼いた。

 

 腕が痛い。

 神の骨を礎とした雷撃の具現、邪龍を征伐した輝かしき功績の証にして力の象徴を握る、神の右腕。外宇宙より飛来した邪神に嘲笑と共に引き千切られ、持っていた武器諸共に奪われた、失った腕が痛む。

 

 この痛みは、フィリップ自身のものではない。

 追体験、或いは単純な記憶の再生とイメージの押し付けだ。

 

 死した神が、死していながら憎悪と未練を遺した果て。

 低俗なモノを守るために、同等に低俗で扱いやすい武器を求めた邪神への復讐だけを希い、今に至る。

 

 守るべきモノを守るため投擲されたそれは、自らを手にした“邪神の宝物”を、その憎悪を以て狂死させる。

 

 神の怒り。

 神の未練。

 

 神の──呪い。

 

 右腕を引き千切られた痛みを、その憎悪を、神威と共に流し込む。人間の精神など一瞬で消滅するほどの呪詛だ。

 

 それを、

 

 「──ッ!」

 

 それを、丸ごと全部、綺麗さっぱり、何事も無かったように無視して、眼前のショゴスを切り伏せる。

 

 黒いタールの身体に見事な断面を生み出した剣は、次の瞬間には真っ白な雷撃を放ち、二つに分かれた塊を跡形も残さず蒸発させた。耳を劈く雷鳴が轟き全身の肌が震えるが、害のあるレベルの音は心地よい音に変換され、意識消失などは起こらない。

 

 むしろ、気にするべきは耳ではなく鼻だった。

 鼻を突くような、どこか生臭いオゾンの臭いが立ち込めて、フィリップは思わず顔の周りを扇ぎながら後退する。

 

 「うぉぉ、くさい……」

 

 ずしりと重たい金色のロングソードを地面に突き刺し、電流のせいかちょっとぴりぴりする右腕をぷらぷらと振った。

 

 「いたたた……いや痛いというか、むしろ熱い……」

 

 たった今命を救われたことをさて置いて、金色の剣に恨みがましい視線を向ける。

 じんわりと手が痺れるような感覚を払うように、掌を握ったり開いたりしながら、ただ待つ。

 

 よくよく見ると何かを掴む腕の骨のような意匠のあるこの剣の銘を、フィリップは知っていた。その持ち主──この状況を見ていて、手助けをする理由は十分にある者のことも、また。

 

 「ありがとうございます、助かりました。でもそれはそれとして凄く臭いので、早く回収してくれませんか──マイノグーラ?」

 

 呼びかけに応じるように、闇のヴェールを通り抜けて姿を現す黄金の騎士。

 相変わらずヘルムまで被った完全武装で肌が少しも見えていないが、その身に纏う神威は間違えようがない。

 

 無惨に転がったままの死体のことなど忘れ果て、薄暗い路地裏には不似合いな、マイノグーラ──聖騎士の王レイアール・バルドルの絢爛な出で立ちを笑う。

 

 「派手ですね、ホントに。月明りも無いのに眩しいですよ」

 

 けらけらと笑うフィリップに、マイノグーラはにっこりと──兜のせいで表情は全く見えないのだが──笑い返して、言った。

 

 「その臭い、空気が毒に変わってる臭いですから、速く離れた方がよろしいかと」

 

 慌てて距離を取ろうとしたフィリップは、ぐちゃぐちゃに潰れた女性の死体に躓いて転んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 



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203

 教皇領滞在三日目の朝。

 昨日とは違うレストランで朝食を摂っていたフィリップは、大きな欠伸を溢した。その腰には防具付きのベルトが巻かれ、右側の金具には蜷局のように巻かれたウルミが固定されている。

 

 顔を伏せてはいたものの、行儀の悪い美しくない所作に、ルキアが僅かに眉根を寄せる。

 ステラはワイングラスを揺らしながら意外そうな目を向けた。

 

 「枕が変わると寝られないタイプだったか?」

 「……あぁ、いえ、昨日ちょっと夜更かししちゃって」

 

 昨夜はショゴスを処理したあと、その足で、マイノグーラを伴ってナイ神父の部屋に行ったのだ。

 

 

 ◇

 

 

 マイノグーラ──聖国王レイアール・バルドルの案内で教皇庁内に入り、宿舎の一室に通される。宗教施設ということで身構えていたのだが、何の変哲もない中流階級向けの宿屋と言った風情の建物だ。

 一応はフィリップと関係の無い組織の敷地内ということもあって大人しくして、すれ違う修道服姿の人々にはにこやかな会釈などしていたフィリップだが、部屋のソファで寛いでいたナイ神父を見た瞬間に愛想笑いが消える。

 

 「ナイ神父、質問があります」

 「おや、フィリップ君。こんばんは、良い夜ですね」

 

 ずかずかと部屋の中に入り込むと、ナイ神父は気分を害した様子も無く立ち上がって一礼した。

 ナイ神父はフィリップが自分のすぐ前にまで近付くと、その長身故に生まれた見下すような身長差に嘲笑を浮かべ、すぐに跪いた。

 

 「良い夜? へぇ、千の貌があっても目は付いてないんですか。それとも無数の節穴が空いてるだけなのかな」

 

 両掌を上に向けて無理解のジェスチャーをするフィリップ。

 マイノグーラは無言のままドアの傍に立ち、成り行きを見守っている。

 

 「質問は二つです。まず一つ目、なんでマイノグーラのことを僕に教えなかったんですか?」

 「聞かれなかったので。今朝だって、ナイ教授にそれを訊ねようとは思わなかったのでしょう? それに、君に必要な知識はマザーに与えられているでしょう? どの外神がどの世界のどの時間に干渉していて何をしているかなどという雑事を知ることが、君に必要でしょうか?」

 

 言い返そうと吸った息は、少しの間肺に滞留して、やがて溜息として吐き出された。

 反論に変換したくてもできない程度には、ナイ神父の言葉は的を射ている。

 

 確かに、フィリップとしては誰が何処で何をしていようが、基本的にはどうでもいい。

 たとえ強大無比な邪神であっても、本質的にはフィリップと何ら変わりない、無価値な泡沫だ。

 

 フィリップに敵対するのなら話は別、ということもない。それならそれでいいし、泡の一つがその他多くから逸れたところで、何ら感情を乱すことはない。

 

 「……なるほど、それは確かに。それにマイノグーラは外神の中でもはぐれ者ですからね。千なる無貌、僕の保護者を自称する貴方でも、その行動を把握できないのは仕方ありません。貴方の無能を責めはしませんよ」

 

 跪いたおかげで叩きやすい位置にあるナイ神父の肩を、慰めるようにぽんぽんと叩く。

 星空の仮面を被ったナイ神父が、恐縮です、と呻いた。それを見たマイノグーラは肩を震わせて失笑を堪えており、黄金の鎧がかたかたと音を鳴らしていた。

 

 しばらくマイノグーラとナイアーラトテップが水面下で情報戦を繰り広げることが確定した訳だが、まぁ、それはさておき。

 

 「で、次、二つ目。これが本題でここに来ました。……さっき、ショゴスに遭遇しました。下級個体みたいでしたけど」

 「古のものの従僕ですか。下級個体というと、フィリップ君でも殺せる程度……では、無かったようですが」

 

 どういうことだと視線だけで問い詰めるフィリップの目を、元の甘いマスクに戻ったナイ神父の、嘲笑に満ちた双眸が見返す。

 レイアールに助けられたことを揶揄され、フィリップは僅かに眉根を寄せた。

 

 「うるさいですよ。……で、なんですか、アレ。ショゴスは適切な魔術を使えば誰にでも──邪神にも人間にも使役できるらしいですけど」

 

 暗に「お前の手勢か」と訊ねているわけではない。額面通りの問いだ。

 フィリップはナイ神父のことを、ナイアーラトテップのことをよく知っている。ナイアーラトテップがアザトースの命に背き、フィリップに敵対することは有り得ない。

 

 だが、それはそれとして。

 誰かがフィリップに嗾けたショゴスを、「面白そうだから」と見逃すくらいのことはするだろう。その方がフィリップの成長に繋がるからとか、そんな詭弁でシュブ=ニグラスとヨグ=ソトースを丸め込んで。

 

 「えぇ、そうですね。ですが、ショゴスには特定の主を持たない個体もいます。隷属魔術の枷を壊すだけの智慧と力を得たショゴス・ロードと呼ばれるものが有名ですが、主が死亡して野生化した野良ショゴスなんてモノもいますよ」

 「……野良、ショゴス?」

 

 その歪な単語を聞いた瞬間、フィリップの脳裏に冒涜的な光景が閃く。

 

 道路の片隅、路地の奥、馬車の下、人間の意識が希薄になるありとあらゆる場所で生活を営む、無数のショゴス。

 無数の眼球を持つ玉虫色の粘体が、顔を洗う猫のような仕草で触手を蠢かせる。子供が戯れに餌をやり、時には共に遊び、時には八百屋から盗んだ野菜を無数の口に咥えて逃げ、棒を持った店主に追いかけられる。日常風景の一部として、正気を損なう見た目の怪物が混じる、フィリップが最も望まない光景だった。

 

 「……フィリップ君?」

 「──はっ! あ、いえ、なんでもないです。……そうか、野良ショゴスか……王都には居なかったけど、教皇領には棲み付いてるのか……」

 

 駆除するか? いやしかし、相手が犬猫でも街一つから野良犬や野良猫を駆逐するのは難しい。一朝一夕ではどうにもならないだろう。やるなら町ごとだ。

 

 「君のお気に入りの糞袋ちゃんたちを守りたいのであれば、明日からは武装されては如何です?」

 「ですね……」

 

 正直、この町に対する思い入れは全く無い。一昨日来たばかりなので当たり前だが。

 そこに住んでいる人にも、これっぽちも愛着が湧かない。それこそ、路地裏の道端に打ち捨てたままにしてきたプレゼントの山のように。

 

 「それにしても、ショゴスって意外な習性があるんですね」

 「……ほう?」

 

 フィリップは路地裏の変死体と十数分前の戦闘で得た情報と、智慧にあるショゴスの情報を比較して、微かな笑みを浮かべた。

 

 「人間の目を執拗に狙うのって、食べるためですかね? マザーも流石に嗜好までは把握してないみたいで、智慧には無かったんですけど」

 

 圧搾されて死んでいた女性は、検分したところ目元を抉り取られていた。

 

 野良ショゴスごときの偏食傾向を知る必要はないと判断したのだろう、ナイ神父は分かりやすい嘲笑の仮面を被るだけで、何も答えなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 「それで、寝惚けてウルミを持ってきたのか?」

 「あー……実はそうなんです」

 

 えへへ、と誤魔化すように笑ったフィリップの嘘を、ステラは当然のように看破しているわけだが、そろそろ一年の付き合いだ。こういう、目的の分からない嘘を追及しても良いことはないと理解していた。

 

 「……そうか」

 

 ルキアのような盲目的信頼ではなく、むしろどこか諦めたような納得に、フィリップの方が首を傾げる。

 しかしフィリップの方こそ、突っ込まれていいことは何もない。昨日の努力が無駄になるだけだ。

 

 三人の雑談はやや急いたようなテンポで話題を変え、服装のことにシフトする。

 

 「……二人とも、今日は制服なんですね」

 「えぇ。動きやすさは問わず汚れてもいい服、という指定だもの」

 「一応は戦闘にも耐え得る設計だからな。異端審問官のエプロンなんかには負けるが、それなりに汚れが落ちやすい繊維で編まれている」

 

 異端審問官のエプロンの素材なんてよく知っているな、と思ったが、素直に口にするとステラを侮ったと思われるような気がして、「へぇ」と軽く流す。

 

 特別な嗜好がない故に服のレパートリーがそれなりに豊富なステラはともかく、服の趣味が偏っているルキアは、本当に制服が唯一の『汚れてもいい服』なのだろう。

 しかしステラまでもが制服を選んでいるということは、それが最適解だということか。

 

 「でも、制服のシャツって白じゃないですか。万が一汚れが落ちなかったりしたら最悪ですよ?」

 「あー……まぁ、汚れの理由と度合い次第では学院側が支給してくれるから、心配することはないと思うぞ?」

 

 フィリップも一応は在学生のはずなのだが、知らない制度だった。

 そんなアナウンスメントがあっただろうかと首を傾げて記憶を走査するが、悲しいことに、思い当たる節が全くない。

 

 「そうなんですか……。……?」

 

 王国に帰ったら入学時の書類を読み返そうかな、と柄にもなく真面目なことを考えていると、レストランの外が俄かに騒がしくなる。

 

 死体の処理はレイアールに──正確には彼女が発見したという体で、その配下の騎士に──任せたし、それ絡みではないだろう。

 まさか野良ショゴスの襲撃かと一瞬だけ思ったが、そもそも教皇領で狂人が続出していない辺り、個体数は極端に少ないと思われる。あの一匹だけが迷い込んでいた、なんてことも有り得るか。

 

 反射的にウルミに伸びかけた手を、苦労して制御する。

 二人に警戒心を悟られてはいけない。これはあくまで寝惚けた結果であり、他意はないのだと示さなければ。

 

 外から漏れ聞こえる喧騒に耳を澄ますと、どうやら、

 

 「枢機卿だ……! しかも、こんなにたくさん……?」

 「あぁ、三人も……」

 「聖下にご挨拶に来たんじゃない? それか……」

 「しーっ! それは秘密だろ!?」

 

 ……どうやらフィリップに配慮してくれているらしいが、まぁ、そこは置いておくとして。

 三人の枢機卿が、ルキアとステラを訪ねて来たらしい。朝食の席だということは分かっているはずだが、そんなに急ぎの用事なのだろうか。

 

 警戒ではなく不思議そうな表情になったフィリップを一瞥し、ステラが指を弾いてウェイターを呼ぶ。

  

 「外を見て来てくれ。枢機卿の用件が私達なら呼び止められるだろうが、食事が終わるまで待つよう伝えろ」

 「か、畏まりました、聖下」

 

 ステラが命じたのは初老頃のベテランの給仕だったが、恐縮して応じる様子は見習いと何ら変わりない。

 流石は王族と言うべきか、或いは聖痕者という立場のせいだろうか。

 

 ややあって戻ってきた店員は、

 

 「枢機卿の方々は両聖下にご挨拶したいと仰せでしたが、お言葉通り、お待ちいただくようお伝えして参りました」

 

 と報告して、どこか慌てたように奥へ引っ込んだ。

 ステラが給仕を一人に固定するよう命じ、食事の前に指輪と目で毒を確認していた──彼女にとってはいつものことだが、店にとっては暗殺を警戒されるなど初めてだ──からか、妙な緊張が店員の間に広がっていた。

 

 「……挨拶か。明後日の儀式のことで、何か話でもあるのか?」

 「さぁ? ……フィリップ、そんなに焦って食べなくていいわよ。朝食中に来た相手が無作法なだけだから」

 

 

 

 



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204

 十数分後。

 食事を終えたフィリップたちの前に、三人の枢機卿が並んでいた。

 

 店員に「枢機卿を通して構わない」と言った直後の対面でなくても、彼らを一目見て「枢機卿だ」と判別できただろう。

 それは彼らの服装が、赤い法衣だったからだ。複数位階に分かれた聖職者の中で、最高位に位置する枢機卿のみが身に付けることを許される、独特な緋色。カーディナル・レッドと呼ばれる色だ。

 

 三人に見覚えは無いが、どの人物も、もう忘れることは無いだろうと思わせる強烈な出で立ちだった。

 

 具体的に言うと──一人は挨拶だというのに仮面を被り、一人は血の滲む包帯で片眼を保護して、一人は頭から流血していた。

 

 「ご無沙汰しております、両聖下。直接お会いするのは四年ぶりですが、益々お美しく、そして強くなられたようで、喜ばしい限りです」

 

 顔の右半分を白い仮面で覆った男が穏やかに一礼する。

 彼が一番、何というか、見ていられる異常さだった。真っ白で飾り気のない仮面はお洒落のアイテムではなく、純粋に顔を隠すことが目的なのだろうが、却って浮世離れしたような雰囲気がある。

 

 露出している顔の左半分は温和な老人といった風情なのが、無機質な仮面と対照的だった。

 

 「コルテス卿。貴方もお元気そうだ」

 

 ごく自然に挨拶を返したステラに、フィリップの尊敬したような眼差しが向けられる。

 だが、場合によっては他国の貴族──当然ながら、これといって特徴の無い──を、一夜で数十人覚えるようなこともある。こんな覚えやすいビジュアルの人間を覚えているからと感心されても、却って侮られているようなものだ。

 

 苦笑交じりの一瞥を呉れたステラと同じことを思ったらしく、ルキアも同質の苦笑をフィリップに向ける。

 

 二人の視線の先、この高級レストランという場にも、魔術学院生の一団の中でも、何よりルキアとステラと同じテーブルには不似合いな少年に、三人の視線が集中する。三人とは言うまでもなく、フィリップと面識のない枢機卿だ。

 

 「こちらの少年は? 聖下……いえ、殿下と同席されているということは、もしや──?」

 

 彼は“使徒”の一件もフィリップのことも知らないのだろう、驚いたような表情で、しかし鋭く観察するような目を向ける。

 他の二人も僅かに身構えたように空気が強張るが、ステラの呆れ笑いで弛緩した。

 

 「ただの友人だ。高位貴族でもなければ、他国の王族でもない」

 「そ、そうですか。コホン。私はヴィルフォード・コルテス、枢機卿です」

 

 柔らかな仕草で右手を差し出され、フィリップは素直に立ち上がってその手を握る。

 

 「フィリップ・カーターです。お会いできて光栄です、枢機卿猊下」

 「……はい。貴方と出会えたことに感謝を」

 

 ヴィルフォードは内心の困惑を微笑で隠し、頭を下げる。

 普通は手指の甲に額を当てるかキスをするものだが、握手でも無作法では無いからだ。聖職者と会うことに慣れていないのだろうと、一人で納得した。

 

 さりげなく椅子を引いたフィリップだが、彼は小さく手を振って断る。

 

 フィリップが「じゃあ」と座り直したのを見て、ステラが言葉を続けた。

 

 「どういう用件だ? そちらの二人は初対面だが、本当に挨拶だけではないだろう?」

 「はい。実は、本日のイベントの件で、予めお伝えしておきたいことがあるそうで。私は紹介役に過ぎません。……改めて、二人を紹介させて頂きますね」

 

 指し示す手の動きを指揮棒のように、二人の異容の枢機卿が一糸乱れぬ動きで一歩、進み出る。

 

 「こちらがオスカー・ペルー枢機卿──」

 

 左目に血の滲む包帯を当てた偉丈夫が一礼する。

 聖職者と言うよりは騎士、騎士と言うよりは山賊と言うべきような、無闇矢鱈に鍛えた筋肉が法衣を盛り上げている。単純な筋肉の量で言えばディアボリカを上回る肉達磨ぶりだが、あまり強そうだという印象は受けない。

 

 ここ最近の訓練と実戦で、フィリップにも戦力評価の眼が、観察眼が身に付いた──わけではなく、単純に価値観が狂っているだけだ。

 筋肉の断面積で言えばフィリップの倍以上、身長も1.5倍近くあるはずだ。対面白兵戦闘でフィリップが勝てる確率は著しく低い。

 

 「こちらがジョン・トリス枢機卿です」

 

 頭から流血している、やせぎすの男が一礼する。

 その頭には鉄茨の冠が食い込んでおり、流血の原因は火を見るよりも明らかだった。

 

 彼は、なんだこれ、と目を瞠るフィリップの視線には気付いたようだったが、説明する気は無いようで、ルキアとステラの中間あたりに視線を固定していた。

 

 「ステラ聖下は、本日のイベント──ワイン祭りの知識がおありでしたね。サークリス聖下は、詳細についてご存知ですか?」

 「いえ、大まかにしか知らないわ。確か、商品レベルに満たないワインを処分するのでしょう?」

 

 もはや見慣れた余所行きの──と言うよりは、むしろ彼女の本質に近い冷たい声のルキアに、フィリップが一瞥を呉れる。

 

 はい、と頷いたのはオスカーだ。ヴィルフォードは本当に紹介役のようで、一歩下がっていた。

 

 「はい。そのワインを聖別して皆に配り、そこから更に皆で分かち合うという祭りですな。聖国のご老公と王国の魔──失礼、マルケル聖下の到着は明日ですから、お二人とノア聖下を、皆こぞって狙うでしょうな!」

 

 がはは、と見た目通りの豪快な笑い声をあげるオスカー。

 狙う、という言葉の不穏さに反応したのはルキアとフィリップと、なぜか祭りの内容を知っているはずのジョンだった。

 

 「ペルー卿。まだ聖下は参加されると決まったわけではない。この祭りの文化的意味は、承知しているが──」

 「固い! 頭が固いぞ、トリス卿! 我々の面子などより、聖下に祭りを楽しんでいただくことこそ、最優先すべきことだろう!」

 

 オスカーの声は体格に見合って大きい。

 フィリップは一瞬だけ眉根を寄せたが、ルキアは一瞬では済まなかった。

 

 しかしルキアが何か言う前に、ヴィルフォードが咳払いをして二人に注意を促す。

 流石は枢機卿と言うべきか、ヒートアップしかけていた二人も一瞬で鎮静化して、真面目腐った顔を取り繕った。

 

 「失礼。ワイン祭りは、端的に申し上げるのなら、さしずめ「ワインをぶっかけ合う祭り」、ですかな。ワインを通じて神の祝福を分け合い、聖なる酒を文字通り浴びるほど飲むというもので、ワシのような下戸には楽しくとも翌日が辛い!」

 

 また豪快に笑うオスカーに、フィリップは愕然とした目を向けた。

 

 下戸? 下戸と言うと、「酒が飲めない」という意味の、あの下戸か? この身形で? この容姿、この振る舞いで?

 率直に言って、酒樽を抱えて洞窟にでもいれば、盗賊の頭だと言っても誰も疑わないような、この威容で? これだけ身体が大きいなら、肝臓もそれなりに大きいはずなのに?

 

 フィリップがオスカーを頭の先から爪先まで疑うように見ている傍らで、ルキアとステラへの説明が続く。

 

 「今日一日──正確には午後三時ごろまで、街中をワインが飛び交います。一度に浴びせて良い量はグラス一杯までと決まっていますが──聖痕者ともなると、みな挙ってワインをかけようとするでしょう」

 

 ヴィルフォードの補足説明で漸くイメージが付いたのか、ルキアはステラと顔を見合わせて、微かに眉根を顰めて首を振る。

 

 「聖痕者がある種の偶像になっているのは分かるが……そうなると有難迷惑だな」

 

 学院側が推奨した「汚れてもいい服装」は、精々がワインの染みがついてもいい服、程度のものだと思っていた。

 だが、四方八方からワインを浴びせられるとなると、話は別だ。

 

 「確か、最終的には町中がワインの川になるのだろ? 踝くらいまでが浸ると聞いたことがある」

 「おお、流石は王女殿下! かなりマイナーな祭りだというのに。博識でいらっしゃる!」 

 

 二人は同時に嘆息して気持ちを落ち着けると、対策について論じ始めた。

 

 「……貴女、ワインに引火する前に蒸発させられるでしょう? 私の分も任せていいかしら?」

 「お前だって、重力操作でどうとでもなるだろう?」

 「それ、貴女とフィリップも地面の染みになるわよ。私に抱き着くくらい密着していれば別だけど……」

 「歩けない、か。なら濡れていろ」

 「濡れるくらい構わないわよ。でも、濡れるだけで済むの? 大量のアルコールを浴びる訳でしょう? 酔って吐くなんて絶対に嫌よ」

 

 急性アルコール中毒で吐くなんてステラでも嫌だが、美意識の高いルキアはもっと嫌だろう。

 それが理解できるだけに、ステラも「そりゃあそうだ」と頷くしかない。

 

 とはいえ、折角の旅行だ。別行動というのも勿体ないし、誰も望まない。

 

 ワインは魔力障壁で防げるが、常時展開はルキアたち聖痕者でも五分が限界だ。

 五分もあれば大体の敵は殺せる二人だが、まさか何の罪も無い人々を鏖殺するわけにはいかないし、他の手段が必要だ。或いは、諦めてワイン漬けになるか。

 

 「──聖下、その件でお話が」

 

 仕方ないかとステラが嘆息しかけたとき、ジョンが頭を下げて言う。

 茨の冠は日常的に付けているのだろう、彼の頭部は創傷と治癒を繰り返して、一部の線上が歪に変形していた。

 

 頭を下げたことでそれに気付いたフィリップが眉根を寄せ、ルキアがより大きく顔を顰めた。

 彼女は殺人行為に対する忌避感は無いと言っていいが、その高すぎる殺人能力故に、グロテスクなものに対する耐性が低い。

 

 「あの──いえ、なんでもないです」

 

 鉄茨の冠を指して「何ですか、それ」と訊こうとしたフィリップだが、机の下でステラに足を踏まれて止める。

 ここで変に指摘するよりも、さっさと話させて退席して貰った方がいい、という判断だろう。

 

 ジョンはフィリップに一瞬だけ、深い憎悪を滲ませる視線を向ける。

 本当に刹那の間だけ。頭の傷を視界に入れないよう一瞥も呉れないルキアはともかく、ステラの観察眼を潜り抜けるほどの一瞬だ。すぐに言葉を紡いだことで、その感情は誰にも悟られなかった。

 

 「──本日のワイン祭り、聖下には参加を見送って頂きたいのです」

 「まぁ、そうだな。皮膚から摂取される毒もいくつかあるし、私は参加しないつもりだ。するとしても、防御策は万全に講じる」

 

 あ、そっか、とフィリップは小さく呟く。

 

 ステラが食事の席をクラスメイトからすら離すのは、暗殺──毒物に対する、最も簡単な対抗策だからだ。

 勿論、魔術毒には魔力視、通常の毒には錬金術製の毒検知の指輪という発見手段はあるが、そもそも混入されないためには、誰も近付けない方が早い。

 

 そのステラが、誰とも知らぬ相手が浴びせるワインを、無防備に受けるはずがない。飲む必要すら無いような強力な毒だったら、口を閉じていても死に至る。

 

 「なんと! それでは祭りの楽しさも半減ですぞ!? 今日くらいは何も身構えず、民草とお戯れになっては如何か。我らが領民に、御身を傷付けようなどと言う不信心な輩は居りませぬ」

 「なりません、聖下。そもそも御尊体を穢すことなど、いくら聖酒とはいえど許されることではない」

 

 二人の会話を聞いて、フィリップにも漸く合点がいく。

 要は二人は、ルキアとステラを祭りの中でどう扱うかを決めかねているのだ。

 

 不敬だから参加して頂くべきではないという考えのジョンと、むしろ魔術を制限して盛大にワインに濡れてこそ楽しんでいただけるという考えのオスカー。

 

 どちらも善意の意見なのだろうが、ステラの答えは決まっていた。

 

 「分かった。参加は見送ろう」

 

 それでいいな? と声に出さずとも伝わる視線を向けられて、ルキアは当然のように頷く──かに思えた。

 しかしルキアは、不思議そうに首を傾げる。それは少なくとも肯定や同意とは取れないボディランゲージだ。

 

 二人の意思疎通は常に完璧であり、二人の意見が交差するのはルキアの美意識とステラの合理性が対立した時くらいだ。フィリップはずっとそう思っていたし、そういう場面を何度か見たのだが、今日は珍しく関係の無いところで意見が噛み合わない。祭りの参加不参加なんて、どうでもいいことだろうに。

 

 「そうしたら? 私はフィリップと参加してくるわ」

 

 ルキアのその言葉を聞いたとき、フィリップとステラはほぼ同時にお互いの顔を見て、ほぼ同時に同質の笑みを浮かべた。

 苦笑ではなく、納得と、それを忘れていた自分に対する呆れの笑みだ。

 

 あぁ、そういえばルキアはそういう性格だった、と。

 基本的に群れることを嫌い孤高を愛するゴシック。根本的に、別行動や単独行動に対する寂寥感や不安が無いのだろう。

 

 そして、

 

 「あ、じゃあ、そうしましょうか。殿下とは終わってから合流すればいいですしね」

 

 他者への共感能力が絶望的に欠如しているという点では、フィリップも同じだった。

 理解者であるステラと別行動するのはフィリップにとっても寂しいことだが、彼女が正気で生きているのならそれでいいと、常人からすると絶対的最低限の望みしか持っていないフィリップは素直に頷く。

 

 ステラが暗殺されるところは正直想像がつかないが、彼女が死んだあとのことも、別の意味で想像がつかない。

 理解者を喪ったフィリップは、果たして怒ることができるのだろうか。それすら定かでは無いし、確かめたいとは……今は思わない。

 

 「はぁ……少し待て」

 

 ステラは彼女個人の感情と、その半量程度の配慮から、虚空を見つめて思索に耽る。

 

 じわじわと全身を締め付けるような圧迫感が彼女から漏れ、枢機卿は誰一人として動けない。

 魔力由来であるそれはルキアをして僅かに眉根を寄せるほどのものであり、フィリップがウェイターに水のおかわりを要求する程度のものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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205

 結局、ステラもフィリップとルキアと一緒に、ワイン祭りに参加することになった。

 

 当然ながら、ステラが暗殺のリスクを許容した訳ではない。

 彼女は朝食を摂ったその椅子に座ったまま、ほんの数分で解決策を()()したのだ。

 

 店を出ると、既に祭りが始まっていて、そこかしこから「祝福あれ!」という声が聞こえてくる。祝詞というよりは、ワインを浴びせる時の決まり文句のようなものだろう。

 

 道行く人々は服、或いは頭からワインを被って、身体の何処かを赤紫色に染めていた。

 酔いが回っている者もちらほら見受けられて、そういう人は顔や手がそもそも薄赤く染まっていて、表情にもしまりがない。

 

 道端にはワイングラスの並んだテーブルと、ワインがなみなみと入った樽が一定間隔に置かれている。

 あれが所謂「聖酒」、神の祝福の代わりになるワインなのだろう。

 

 「祝福あれ!」

 

 ほんの十数分前に始まったはずだが、既にべろんべろんに酔って足元すら覚束ない様子のおじさんが、乱痴気騒ぎを呆然と見つめるフィリップたちに向かってワイングラスを振りかぶる。

 その内容液、芳しいブドウの香りを漂わせるワインが、フィリップとルキア、そしてステラに振りまかれ──魔力障壁に弾かれて、ルキアとフィリップには一滴もかからない。

 

 そしてステラに向かって飛んだワインは、その全てが彼女に触れる寸前で蒸発して消えた。

 

 ステラが数分で開発した、設置型付与魔術『アクセラレート・メイル』。

 彼女に触れる液体は、その寸前で分子運動を著しく加速拡散され、気化する。他の参加者への影響を最大限に排除した、このためだけに開発した魔術だ。

 

 「祝福あれぃ! わはははは!」

 

 聖痕者二人の冷たい視線にも気付かないほど酔っていたおじさんは、愉快そうに笑いながら別の人に祝福を分けに行った。

 

 「……あの、ルキア? 僕らはかかってもいいというか、むしろ濡れに行くのがお祭りの本懐では?」

 「…………」

 「いや、無理にとは言いませんよ? ルキアが楽しめるのが一番ですから。行こう、シルヴァ!」

 

 複雑そうな表情になってしまったルキアに苦笑しつつ、フィリップは召喚したシルヴァと一緒に街中へ駆け出した。

 

 その数秒後に急ブレーキして踵を返したフィリップは、ポケットから懐中時計を取り出してルキアに渡す。

 

 「すみません、水没が怖いので預かっててくれませんか?」

 「……えぇ、いいわよ」

 

 ルキアはかつて自分が贈った白銀の懐中時計を、愛おしそうに胸に抱く。

 白金製の彫刻が施されたハンターケースも、そこに嵌ったグリーンスピネルも、よく手入れされて輝いている。それでいて目を凝らすと手入れに使った布の跡が僅かに見えて、普段から使っていることと、大切にされていることがよく分かった。

 

 少し遠くで、道行く人とワインの浴びせ合いに興じ始めたフィリップを、ルキアとステラは同質の感情を滲ませて眺める。

 

 そこかしこから「祝福あれ!」という掛け声が聞こえ、徐々に空気が酒気を帯びてくる頃には、石畳を赤紫色の液体が薄く覆い始めていた。陽光を反射してきらきらと光る様は、赤紫の鏡のようだ。

 二人が立っているレストランの玄関口は数段高くなっているから靴は汚れないが、フィリップとシルヴァはワインを浴びた頭や胸は勿論、ズボンの脛あたりまでびしょ濡れだ。その不快感も気にせず騒いでいるのを見ると、参加してよかったと感慨が湧く。

 

 フィリップはまだ11歳だ。

 子供はああして、無邪気に笑っているのが一番いい。それが自然な、あるべき姿だ。

 

 だから、世界の全てを蔑むような嘲笑も、遥かな視座から見下ろす冷笑も、自分自身すら無価値と断じる諦観も、この一時だけは忘れて欲しい。

 

 何もかも忘れて、ただ楽しんでほしい。

 

 そのためになら、ステラは──

 

 

 ぱしゃぱしゃと足元のワインを蹴立てながら、頭からワインに濡れたフィリップがグラスを持って駆け寄ってくる。

 その顔は微かに赤らんでおり、同時に悪戯心に満ちた笑顔を浮かべていた。

 

 「るきあとでんかにも、しゅくふくです!」

 

 呂律も怪しく口上を告げて、手にしたワインを振りかける。

 

 ステラは呆れたような笑顔で、ただ立っている。

 当然だ。避ける必要どころか、目を瞑る必要さえ無い。ステラに触れる液体は、その寸前で気化して消えるのだから。

 

 フィリップが祭りを楽しむために、フィリップと祭りを楽しむために。

 そのためになら、魔術の一つくらい作ってみせる。

 

 

 そして──フィリップが楽しむためになら、その魔術を無効化する術式くらい、作ってみせるのがルキアだ。

 

 

 「わぷっ!?」

 

 無防備な顔面にワインを浴びせられ、それでも目を瞑るのが間に合うあたり、やはりステラの反射神経は一級品だ。

 しかし、それでも反射が限界だ。愛すべき悪戯な友人に掌握された設置型魔術を、その一瞬で再展開することは出来なかった。

 

 慌てたような声を上げるステラは珍しいが、ほろ酔いの域を少しばかり超えているフィリップは、上機嫌にワインを汲みに行く。

 ステラは顔から垂れてきたワインを親指で拭って舐め、愉悦に満ちた獰猛な笑みを浮かべた。ワインに濡れた髪をかきあげると、翻る金糸のような髪と紅い雫が陽光に煌めく。

 

 「ルキフェリア……!」

 「あら、設置型魔術の脆弱性なんて、貴女には説くまでも無いと思っていたけれど──きゃっ!?」

 

 ルキアの勝ち誇ったような顔がワインで濡れて、可愛らしい悲鳴が上がる。

 ワインを掛けたのはフィリップではなく、一緒に遊んでいたシルヴァだ。

 

 「ふぃりっぷはへたくそ。るきあだけぬれてなかった。しるばのほうがうまい」

 「うまさをきそうものじゃないよ! ……かおがじゅってん、からだがごてんね」

 「まとあて! しるば、なげるほうははじめて!」

 「さきにひゃくてんとったほうがかちね。よーいどん!」

 

 ……一応、フィリップはワインを口に入れてはいない。

 あまり美味しくないことは軍学校交流戦の時に知っているし、好き好んで飲もうとは思わないからだ。

 

 しかし、街中で大樽数個分ものワインをぶちまけて、それを掛け合って遊んでいるのだ。

 空気中には気化した大量のアルコールが充満し、噎せ返るようなブドウとアルコールの臭いで満ちている。ただ呼吸をしているだけで酒精が体内へ取り込まれてしまうような状態だった。一応屋外ではあるし、十数分に一度は風属性魔術で換気されるという話なのだが。

 

 『グラスはひとりひとつまで』と、赤字でデカデカと書かれた看板が見えていないのか、両手にワイングラスを持ったフィリップとシルヴァが構える。

 的役は言うまでも無く、ルキアとステラだ。

 

 二人はにっこりと笑って、

 

 「いい度胸じゃないか、カーター。髪の一本に至るまでブドウの臭いに染めてやる」

 「じゃあシルヴァ、貴女は私と遊びましょうか。その髪飾りからブドウが生えるまで、ね」

 

 過剰報復の開始を宣言した。

 

 しかし、その二人も味方同士という訳ではない。

 ルキアはステラの魔術を妨害するし、ステラもルキアの魔術を妨害する。旅程上、今年の建国祭の御前試合に出られるかどうか不明な二人の本気の小競り合いは、こんなところで行われていた。

 

 楽しい悲鳴を上げながら逃げ出したシルヴァとフィリップを追って、二人も靴を赤く濡らす。

 

 年相応の楽しそうな笑顔を浮かべた二人の姿は、フィリップ以外の者にはとても新鮮に映り、後に『美しき魔の誘い』という、二人を題材にした絵画が描かれるのだが、それはどうでもいい話だ。おまけ程度にフィリップも描かれているとしても。

 

 

 

 

 結果として。

 日頃から毎日二食──朝食は紅茶派だから──ワインを常飲している大ザル二人がほろ酔いレベルとはいえ酔っ払い、フィリップは寝落ち、シルヴァだけが踝まである深さのワインの川にぷかぷかと浮かんで遊んでいるという状況になった。

 

 ルキアとステラが参加していることに気付いた一般参加者たちは、枢機卿の言葉通り挙って二人を狙った。……ステラは全て防御していたが。

 その大量のワインから蒸発した大量のアルコールが、三人をここまで追い込んだ原因だった。

 

 ルキアは少し高いところに据えられたベンチに腰掛け、寝息を立てるフィリップを膝の上に抱いていた。

 その顔は酒精ゆえか、普段の透けるような白さの中に赤みが差しており、吐息の熱さも相俟って尋常ならざる色香がある。幼気な少年を背中から抱き締めているという状況にも、倒錯的な艶やかさがあった。天頂に至った陽の光を浴びて煌めく銀色の髪が、まるで現実の光景ではないかのように神秘的だ。

 

 その隣では、酔って気持ちよくなったステラが、きちんと購入した商品レベルのワインをグラスに注いで優雅に傾けている。背もたれではなくルキアの肩に背中を預けており、ルキアもそれを拒んではいない。

 

 非常に絵になる光景だ──二人とも頭の先から爪先まで、ワインの赤い色とブドウとアルコールの臭いに塗れていなければ。

 

 「ん……」

 

 フィリップが呻き、すぐに目を覚ます。

 「おはよう、フィリップ」というルキアの呼びかけを、しかし、フィリップは珍しく完全に無視した。

 

 それどころではないからだ。

 

 「あ……」

 

 やや乱暴に腕を振り解いて立ち上がったフィリップの背中に、名残惜しそうな声と手が伸びる。

 それに罪悪感を覚えている余裕すら、今のフィリップには無かった。

 

 「おぼぼぼぼぼ……」

 

 近場の植栽に顔を突っ込んで胃の内容物をどろどろとぶちまけるフィリップを見て、ルキアは慌てて駆け寄り、ステラはけらけらと笑いながら水を用意する。今の今までワインが入っていたボトルだが。

 

 一頻り嘔吐して満足したのか、フィリップはすっきりした表情で口元を拭い、爽やかな笑顔を浮かべた。

 

 「吐いたらお腹空きましたね。いま何時ですか?」

 

 ……どうやら、まだ酔っているらしい。

 

 「フィリップ、こっちに来て?」

 「ん? いいですよー。あれ、でもルキアが三人いますけど、どのルキアですか……?」

 

 陶然としたような蕩けた声で呼ばれ、ふらふらと従うフィリップ。

 ルキアは足元が覚束ないフィリップの手を引いて、先程と同じ体勢でベンチに座った。

 

 また寝入ったフィリップの首筋に顔を埋めて、ルキアは腕の中にある温もりを逃がすまいと強く抱きしめる。甘えるようにも、甘やかすようにも、守るようにも思える仕草だ。

 

 新しいボトルを買いに行っていたステラは帰ってくると、それを見てけらけらと笑いながら、またルキアに背中を預けて手酌を始める。

 

 フィリップが目を覚ました後も、ルキアは酔いが醒めるまで甘え続け、ステラはフィリップに止められるまで無限に飲み続けていたのだが……それを詳らかに語る必要は無いだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 



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206

 一足先に着替えを終えたフィリップは、未だ酒精が残りぼんやりと霞んだ頭で、大通りをふらふらと彷徨っていた。

 明確な目的があるわけではなく、ただの時間潰しだ。

 

 ルキアとステラはシャワーまでしてくると言っていたし、特にルキアの恥じらいようは、平静を取り繕っていても、抜けるように白い肌が耳まで赤く染まるほどだった。再起動にはもう少し時間がかかるだろう。

 

 実はフィリップも、完璧に平常とは言えない状態だ。

 

 飲んでもいないのに胃がむかむかするし、意識にもやがかかったように判然としない。さっきなんて、シルヴァと一緒にルキアとステラについて行って、女子用宿舎の大浴場に行くところだった。五歩と進まないうちにステラが気付いてくれたが。

 それに、足取りは辛うじて元通りだが、まだ気を抜くとふらふらする。

 

 「吐き気が無いのが救いだ……うぇっ。……なんか上がってきた……」

 

 口元を押さえ、お腹を擦りながら道を歩く。

 聖国の魔術師部隊によって清掃された大通りに、ワインの川が流れた痕跡は残っていない。僅かに香るブドウの臭いにもアルコールの気は薄く、息をしているだけで酔うことは無いだろう。

 

 ちらほら見受けられる酔っ払いの姿が、あの乱痴気騒ぎが白昼夢ではないことの証明だった。

 

 「ぼ、坊ちゃん、大丈夫かい? 水持ってこようか?」

 「あ、ありがとうございます。いただきます……」

 

 大通りに面したレストランの店員が、見かねたように声を掛ける。

 コップ一杯の水を呷り、お礼を言って、彷徨を再開する。店員は危なっかしい足取りを心配そうに見ていたが、何も言わずに店に戻った。この町に暮らしていると、四年に一度は見る光景だった。

 

 あっちへふらふら、こっちへふらふら、フィリップは大通りを練り歩く。

 屋台で買った串焼き肉を道行く他人とシェアしたり、他人同士の会話に唐突に入り込んだりと、やっていることは完全に酔っ払いだ。

 

 「……う」

 

 歩いたせいで胃が揺れたのか、また吐き気が込み上げてくる。

 慌てて路地裏に駆け込んで吐き戻すと、かなり気分が楽になった。……たぶん、これも一時的なものだろうが。

 

 「あー……頭いたい……」

 

 吐瀉物と涎と鼻水と涙と冷や汗と、顔から出るモノの大半が出た顔を、魔法の水差しこと『ウォーター・ランス』で濯ぐ。

 昼前だというのに薄暗い路地裏でこんなことをしていると、妙な虚しさが湧き起こった。

 

 ふらふら、ふらふらと路地裏を歩いていると、当然のようにすれ違う人とぶつかった。

 かなり体格差があり、どん、という重い衝撃が内臓と頭を揺らす。吐いた直後でなければ危なかった。

 

 「あ、すみません……」

 

 へへへ、と誤魔化すように笑って立ち去ろうとするフィリップだが、その肩をぐい、と掴まれる。

 

 「おい、待てよ。なんだその謝り方は、えぇ?」

 

 運の悪いことに、相手は四人連れで──全員がフィリップと同じように、かなり強めに酔っていた。

 フィリップより何倍も濃いアルコールの臭いを纏い、呼気が噎せ返るほど酒臭い。

 

 「誠意見せろよ、誠意をよぉ」

 「そうだぞー。こういう時は、金で解決すんのが一番だぞー?」

 

 けらけらと笑う男達に、フィリップはへらへらした笑顔を返す。

 

 「えー? お金とか持ってないですよー。手持ちはこれくらいでー」

 

 何を考えているのか、いや何も考えられていないのだが、フィリップは素直に財布を取り出して中身を数える。

 悲しいかな、中には昼食代しか入っていない。酔っ払いの男の財布の方が、三倍は重かった。

 

 しかし、ジャケットの前を開けて財布を取り出した時に、見えてはいけないものが見えてしまったようだ。

 

 「あぁ? まだなんか持ってんじゃねぇかよ」

 

 手が伸びる──懐中時計を留めた、銀色の鎖に。

 

 フィリップの目が見開かれる。

 

 「──()()()

 

 制止の声に勢いはない。

 そこに含まれているのは、純粋な意思だけだ。威圧も恫喝も懇願も無い、ただ単純な意思の提示。

 

 ぱし、と乾いた音を立てて、男の手を振り払う。

 鞭を振るときの身体操作を使った動きは、フィリップより体格に優れた男の手を、いとも簡単に払いのけた。

 

 「痛ってぇな、クソガキが……!」

 

 再度、男の手が伸びる。

 物欲ではなく怒りに駆られたその宛先は、フィリップの懐ではなく首元だった。

 

 「暴力はいけませんって教わらなかったのかぁ? あぁ?」

 

 男はフィリップの胸倉を掴み上げ、首を傾げる。

 その胸元に、フィリップの手が力なく押し当てられていたからだ。押しのけようとする力がまるで籠っていない。単なるポーズにさえ見える。

 

 ──そして、

 

 「──流石に駄目か。非人間的だよね」

 

 死を宣告する死神の腕が、ゆっくりと降りた。

 

 「あぁ? 何言って──うっ!?」

 

 しかし、それは男の無事を意味しない。

 フィリップが酔いの回った頭で懸命に出した結論は「殺すのは駄目」という簡潔なもの。

 

 躊躇なく振り抜かれた拳──人差し指の第二関節と親指の爪を揃えて突き出した変則的な拳が、男の左目を打ち抜いた。

 

 「あ、っぁぁぁぁぁ! 目、目がぁ!?」

 

 汚れた右手をズボンで拭い、ウルミを抜き放つ。

 狭い路地裏では振りにくいが、それでも鋭い風切り音に、先端部が音速を超えたことを示す炸裂音が混じる。

 

 「ぶっ殺──うあっ!?」

 

 ぞぱんっ! と、鳥肌の立つような聞くに堪えない音を立てて、男の胸元に一条の傷が刻まれる。

 傷は浅い。だが、ノコギリや鑢で抉り取ったような汚い傷口だ。痛みと出血量は刀傷の比ではない。

 

 しかしアルコールが痛覚を麻痺させているらしく、強烈な怒りを湛えた左目がフィリップを睨みつける。

 

 「殺せ!」

 

 号令に戸惑いつつ、連れの男達が武器を抜く。

 と言っても、街中で携帯できる程度の短剣が精々だ。魔術師が居るようには見えないし、適当に下がりながら『萎縮』を撃っていればそれで終わる。殺すなら、の話だが。

 

 「うーん……どうしよう。ウルミは結構、威圧感……「攻撃されたくない感」のある武器だと思うんだけど」

 

 ひゅん、ぱん、ひゅん、ぱん、と手癖で弄ぶウルミが鳴り、石壁や石畳に擦れて金属音と火花を散らす。

 それは男たちに最初の一歩を踏みこませない威嚇としては十分だったが、一発や二発喰らってでもフィリップを殺すという覚悟を決めた突撃の前には無力だ。

 

 相手が冷静になる前に──たとえば、一人を肉壁にして突っ込んでくるとか、そういう打開策を思い付く前に状況を収めたいところだが。

 

 「うーん……《深淵の息(ブレスオブザディープ)》」

 

 一言の警告も無く手を伸ばしたフィリップの指向する先で、男の一人が喉を押さえて苦悶する。

 肺の中を海水で満たされ、その重さと溺水の苦痛に膝を折った。

 

 「なっ!? ま、魔術師か!?」

 「くそ! この野郎──ごぼっ!?」

 「な、なんだ!? どうしたんだ!?」

 

 四人のうち二人が地上で溺れ始め、残された二人に明確な怯えが生じる。

 構えた短剣はフィリップと自分との距離を少しでも空けようと突き出され、下半身は逃げたくて仕方がないというように腰が引けている。

 

 フィリップはそんな彼らに、安心させるように笑いかけた。

 

 「大丈夫、まだ死んでませんから。肺の中にある海水を抜いて、蘇生法をすれば助かります。ホントですよ? 実証済みです」

 

 こうやって、といつぞやの見様見真似で、悶える力さえ無くなった男の身体を転がす。

 ぐったりと脱力した身体は、70キロの水袋だ。フィリップの力では片手間には行かず、渾身の力を籠める必要があった。

 

 結果、

 

 「おぶ、うぇぇ……」

 

 また吐いた。しかも、倒れた男の上に。

 

 「あぁぁぁ……クソ。絶対お酒飲まない……」

 

 口元を拭い、どろどろに汚れた男から汚らしそうに距離を取る。

 どういう状況だ? いまのうちにやっちまうか? と視線だけで会話していた二人の男に、フィリップはどろりと濁った目を向けた。

 

 「友達じゃないの? 助けてあげなよ。僕はもう行くから……」

 「あ、あぁ……」

 「こ、殺さないのか……?」

 

 溺水はこの世の地獄だという者もいるほど、耐え難い苦しみを齎すという。

 それを一方的に押し付けておきながら、しかし、フィリップには一片の殺意も無かった。止めを刺すという思考すら無い。

 

 今のは、跳んできた羽虫を払っただけだ。

 払いのけて地に落ちた羽虫を、殊更に踏み躙って殺す必要はない。殺すことが目的ではなく、不愉快な羽音を立てなくなればそれでいいのだから。

 

 フィリップは間抜けな質問をした男に侮蔑の籠った一瞥を呉れ、踵を返す。

 

 その、直後だった。

 

 「テケリ・リ──!」

 

 聞き捨てならない、鳴き声がした。 

 

 

 

 

 



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207

 この星のどんな生物にも似ておらず、それでいて全ての生物の鳴き声を掛け合わせたようにも聞こえる、不愉快な耳触りの音。

 特徴的なその鳴き声に反応したのはフィリップが最初だったが、振り返ったのは男の方が早かった。

 

 「あ? なんの──ひっ!?」

 「な、なんだ、なんだこれ!?」

 

 男達の後ろに、いつの間にか忍び寄っていた一体のショゴス。

 直径一メートルほどのタールの塊に、無数の眼球と触手を生やした醜悪な怪物。

 

 悲鳴を上げて後退る男達ほどではないが、フィリップも苦々しく表情を歪める。

 

 下級ショゴス──或いは、野良ショゴス。

 やはり、あの一匹だけでは無かったのか。

 

 「スライムの変種だよ。友達を連れて逃げて」

 

 仕舞ったウルミをもう一度抜き放ち、整形(フォーメーション)しながら路地の奥に戻る。

 親切心から誤魔化したフィリップの言葉はしかし、男達には届かなかったようだ。

 

 「お、お前、目ん玉腐ってんのか!? こんなのがスライムなワケねぇだろ!?」

 「てか、こいつら連れて逃げる時間、お前が稼げよ! お前がこいつらを──、ぁ」

 

 すごいな、と感心したフィリップの前で、二人の男が目元を抉り取られて頽れる。

 蟀谷の辺りから目と脳の一部をプリンのように掬い取ったスプーン状の触手は、無数に空いた口の一つに運ばれた。

 

 そりゃあ、ショゴスの前で戦闘態勢にもならず、へっぴり腰で叫んでいれば死ぬだろう。よくもまぁそんな愚行ができるものだと感心するフィリップの前で、ショゴスは溺水で倒れた二人の男の眼球も奪い、また別の口に入れた。

 

 「やっぱり目が好物なのか。なんかごめんね、一個潰しちゃって」

 

 逃げも隠れも、怯えすらせず、あまつさえ謝罪などするフィリップを、ショゴスの無数の眼が無機質に見つめる。

 

 「僕としては、君が自分の目を抉って自分で食べるという方法をお勧めするんだけど──ところで、君は僕の臭いが気にならないの? 本能的に嫌な臭いだと思うんだけど。……被造物である君たちに、本能と知性の区別があるのかは知らないけどね?」

 

 野良猫に話しかける無邪気さで、異形の怪物に話しかけるフィリップ。

 日常と非日常、正常と異常が同居するその光景は、見る者に言い知れぬ拒否感と嫌悪感を抱かせる醜悪な絵画のようだ。

 

 「テケリ・リ──?」

 「うんうん、てけりり、てけりり。……ははは、何言ってるのか全然分かんないや。というか臭いな、やっぱり」

 

 鳴き真似をして笑うフィリップは、確認するように周囲を見回す。

 いつの間にか、あの視覚と聴覚を遮断する闇の帳が降りていた。路地裏とはいえ子供がゲロを吐いていても誰も気に留めなかったあたり、もしかするとかなり前からかもしれない。

 

 「さて、僕も殺す? 自分で言うのも恥ずかしい話だけど、僕は結構戦える方だよ? まぁ、子供にしては、っていう但し書きは要るけどね? 無益な殺生はしたくないし、ルキアと殿下の前に出てこないって約束するなら、見逃してあげるけど」

 

 ずぞぞ、と汚い音を立てて、ショゴスの身体から触手が生える。

 都合八本の触手は全て、その先端が鋭いスプーンのように変形していた。

 

 「……はぁ」

 

 明確な敵対の意思表示に、フィリップは深々と嘆息する。

 もう少し酔いが残っていれば楽しめたのかもしれないが、今のフィリップにあるのは嘔吐後の不快感と頭痛だけだ。

 

 野良猫を虐めて殺す趣味のないフィリップとしては、野良ショゴスも同じく積極的な殺害対象にはならない。

 ただ、ルキアやステラの目を汚すのなら話は別だし──飛び回る羽虫を叩き殺すことに、躊躇を覚える精神性でもない。

 

 「身の程も知らない劣等存在が──っと」

 

 ぺちりと自分の頬を叩き、外神の智慧を黙らせる。

 戦うのなら、この過剰ともいえる軽視は危険だ。

 

 「《ウォーター・ランス》」

 

 なけなしの魔力で『魔法の水差し』を使い、頭から冷水を浴びる。

 

 夏前でも過ごしやすい気候の教皇領では、心地よさより涼しさが強くなるが、酔いで火照った体にはちょうどいい。

 脳と一緒に意識も急速に冷却されて、そんな安穏とした感想を持った自分に苦笑した。

 

 野良猫だって、蹴飛ばせば反撃してくる。

 ショゴスの攻撃力は見ての通り、野良猫以上だ。

 

 もう、のんびりと構えている暇は無い。

 

 深呼吸しながら全身を伸ばし、腰と肩甲骨を特に意識して柔らかくほぐす。肩から肘、手首と順に関節と筋肉の調子を確かめて、ウルミを整形し──低く構える。

 

 直後、ショゴスが先んじて動いた。

 

 「──!」

 

 怪鳥の如き鳴き声を上げて、触手の一つがフィリップの顔面を狙って繰り出される。

 スプーン状に湾曲した先端部が上げる独特な風切り音を、二つ聞いた。

 

 「お、」

 

 もう一本。

 一本目が動いた直後に、僅かなラグを挟んで攻撃に参加した触手があった。

 

 単独での時間差攻撃という意表を突く技に、フィリップはどこか感心したような声を上げる。

 フィリップにとっても、外神の視座から見ても、その攻撃は全くの予想外だった。しかし──それは「ショゴスが使ってくるとは思わなかった」という意味でしかない。

 

 一人で何十何百という攻撃を同時に展開し、厭らしい時間差を付けたり、『拍奪』封じの魔力照準をしてきたりする指導役が、フィリップにはいるのだ。

 彼女の魔術に比べたら、二本の触手なんて少なすぎる。

 

 「──っと」

 

 半液体ゆえの不規則な軌道の攻撃、そして自由自在に変形する特性を鑑みて、大袈裟なほどに距離を取って回避する。

 その回避行動を助走代わりにウルミを振るい──粘体の表面を削ぎ落す。

 

 水袋を打ったような手応えが金属鞭を通して右手に伝わる。

 真っ黒なタールが路地の壁に飛び散り、薄暗い闇の帳の中で玉虫色に反射していた。

 

 「────!!」

 

 痛みがあるのか、ショゴスが身悶えて僅かに後退する。

 粘液で形作られた眼球と口の幾つかが、ノコギリかヤスリに抉られたように荒くグロテスクな傷に覆われていた。

 

 「……正直、意外だな」

 

 フィリップはぽつりと、独り言ちる。

 胸にちくりと小骨が刺さったような感覚──小さな罪悪感がある。言葉の宛先はそれだ。

 

 まさか、殺人行為には一片の躊躇も罪悪感も覚えないというのに、野良ショゴスを直接殺すことには、僅か程度ながら良心の呵責があるなんて。

 

 心の片隅に残った人間性の残滓が原因なのか、外神の精神性と融合した果てなのかは不明だが、我が心ながらなんとも不思議な有り様だ。

 

 「小さな命を尊ぶ精神……いや、矮小な存在を愛玩する精神、なのかな。マザーやレイアール卿と同じ」

 

 フィリップは苦笑を浮かべてショゴスを見遣る。

 

 あらゆる悪臭を煮詰めたような玉虫色の悪臭を放つ、タールの塊。

 殺傷能力に秀でた形の触手と、無機質な光を湛える無数の眼球。

 

 この星の上に、フィリップと、ルキアやステラと同じ星の上に存在していることが度し難いような、醜悪な粘体。

 

 だが──

 

 「この町でひっそり暮らしてるだけなら、殺さずに済んだのに」

 

 フィリップが知らないところで、知らない人を殺して、その目玉を食っているだけの野良ショゴスなら、生かしておいてもいい。

 少なくとも、草の根を分けて探し出し、たとえ便所の中で震えていても引き摺り出して殺す──と、カルトに対するような深い憎悪は無い。

 

 ただ、飛んでくる火の粉は払うし、不快な羽虫も払う。火の粉の向かう先がフィリップではなくルキアやステラでも、同じことだ。

 

 「でも、君がショゴスの成り損ない程度の存在格で良かったよ。本物だったら、僕もウルミで戦おうなんて思わないし……多分、ナイ神父もマザーも、何かしらの干渉はしてくるはずだしね」

 

 本物のショゴスは、それこそ外神の視座から見て「フィリップを殺すに能う」と判断される怪物だ。

 野生化していたら「伝説の魔物」みたいな扱いになって、その存在が周知され、最大限の警戒が敷かれていてもおかしくない。

 

 戦闘能力だけなら、ルキアやステラ、ディアボリカなんかの方がよっぽど強い。だが、邪神でもないのに一見しただけで即発狂のリスクがあるのは十分に脅威だ。

 

 のんびりとそんなことを考えていたフィリップの前で、ショゴスの傷付いた箇所が再生される。

 修復速度はかなりのものだが、その光景は逆再生ではなく治癒の早回しと言うべきもので、負傷そのものは明確にダメージを与えているのではないかと思われた。

 

 「急所の概念は無さそうだし、一撃必殺は見込めない。かといって、再生力が尽きるまでちまちま削っていくと日が暮れる。……お昼ご飯がまだなんだよね」

 

 もう二、三発打擲して、上下関係を教え込んだら見逃してあげてもいいかな、と。そんな逃避交じりの甘い考えを苦労して捨て、ウルミを構え直す。

 

 ひゅん、ひゅん、と、ウルミと触手が互いを牽制するような風切り音を交わして──今度はフィリップが、先んじて動いた。

 

 「──ッ!」

 

 鋭い呼気で力みを散らし、筋力ではなく柔軟性を使ってウルミを振るう。

 一対一の白兵戦だが、相手は目と脳の構造が全く違う異形。攪乱の歩法『拍奪』はその効果を十全に発揮しない。

 

 そのハンデを加味して、

 

 「酔い覚ましには丁度いい!」

 

 路傍の石を蹴飛ばすように簡易だと嗤い、ショゴスの表面に無数の傷を刻み付ける。触手とウルミが乱れ舞う様は、さながら舞踏のようだ。

 ただし、似ても似つかないはずなのにどこか血液を想起させる黒い粘液の迸る、死の舞踏だが。

 

 

 

 

 

 



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208

 意外にも、フィリップの肝機能は悪くないらしい。

 あれだけ吐いて、頭痛もあって、足元も呂律も怪しかったのが嘘のように、すっきりとした顔で路地裏を後にする。下級ショゴスとの戦闘が、本当に酔い覚ましになっていた。

 

 ショゴスを殺したことで闇の帳──勝手にそう呼んでいる、視覚と聴覚と嗅覚を妨害する防諜系魔術──も晴れた。もうじき目元を抉られた変死体が見つかって大騒ぎになるだろうから、その前にここを離れなければ面倒なことになりそうだ。

 

 ルキアとステラは着替えを終えていて、フィリップの泊まる宿屋の前で待っていた。

 いつも通りのゴシックワンピースと、ジャケット無しのパンツスタイルの二人は、学院生だけでなく道行く人々──特に男性──の視線を独り占めしていたが、声を掛けられたりはしていない。

 

 それはステラの胸元に輝く聖痕と、かったるそうな顔──僅かな苛立ちも滲ませる、誰かを長時間待っているような雰囲気が原因の大部分を占めているだろう。

 残りの二割くらいは、「例の少年を待っているのだろうな」という正しい予測、或いは「カーターさん、早く来てくれ……」という宛先不詳の懇願だった。

 

 周囲に怒りのオーラを発散しているステラを見た瞬間、フィリップは反射的に露店の陰に隠れていた。

 店主のおじさんが「かくれんぼでもしてるのか?」と、一人で納得して、そのまま自然にお客さんに対応してくれるのがありがたい。

 

 「……そうだよね。待ってなきゃダメだよね、普通」

 

 よしんば遊びに行くとしても、二人が帰ってきたら分かる位置にいるべきだった。

 

 天を仰ぎ──天頂から少し傾いだ太陽が目に刺さる。

 心なしか「早く行け」と怒られたような気がした。

 

 諦めて屋台の陰から出て、小走りで二人の下に向かう。

 

 「す、すみません、二人とも──」

 「──なぁ、いつまで怒っているんだ、ルキア? いい加減に機嫌を直せ」

 「…………」

 

 フィリップはステラの言葉を聞いた瞬間、たん、と弾かれたように飛び退いて、また屋台の陰に隠れた。

 

 ──怒っている? あのルキアが?

 

 まずい。それは非常に不味い。

 今までフィリップに対して諫言はしても、怒りを向けることは無かったルキアを、遂に怒らせてしまったのか。

 

 脳裏に浮かぶ、カリストや彼女の姉に『明けの明星』の照準が向けられていた光景。

 もし、あれがフィリップに向いて──撃ち出されたら、フィリップには避ける手立ても防ぐ方法も無い。あるのは確立した死の結果だけだ。

 

 怒られるのは嫌だが、()()()()死ぬのは同じぐらい嫌だ。ここは少し観察して、的確な謝罪を──いや、これ以上待たせるのは得策ではない。一刻も早く謝罪するべきだろう。

 

 覚悟を決めて二人の下に駆け寄り、その勢いのまま頭を下げた。

 

 「お待たせしました! 勝手にうろうろしてごめんなさい!」

 

 いきなり現れていきなり頭を下げたフィリップに、二人の肩がびくりと震える。

 恐る恐る頭を上げると、二人は怒っているというより、むしろ困惑しているように見えた。

 

 フィリップが小さく首を傾げると、二人も同じく首を傾げる。

 

 「……まだ酔ってるのか?」

 「え? いえ、もう大丈夫だと思いますけど……怒ってないんですか?」

 

 フィリップの問いに、二人は顔を見合わせ、ややあって失笑するように破顔した。

 

 「いいえ、怒っていないわ。安心して」

 「酔っ払いに待ち合わせが出来るなんて、端から期待していない──冗談だ。本当に怒ってないから、心配するな」

 「でも、さっき……」

 

 ごにょごにょと言葉を濁したフィリップに、ルキアは不本意そうに眉根を寄せ、ステラは揶揄うような笑みを浮かべる。

 

 「聞いていたのか? あれは──ルキアが怒っていたのは、お前に対してではないよ」

 「……どこから見ていたの?」

 「え? えっと、ついさっき……殿下が「いつまで怒ってるんだ」って」

 

 フィリップの答えを聞いて、ルキアはどこか安心したように溜息を吐いた。

 ルキアとステラは思案するように視線を交わし、言葉も無く意見を交わす。ややあって結論を出したのか、ルキアが微かに首を傾げて言葉を──説明役を譲った。

 

 「さっき、トリス枢機卿が来てな。私達がワイン塗れになっていたことを聞いて、わざわざ苦言を持って来たんだ」

 「へぇ……それは災難でしたね」

 

 適当な相槌を打ち、言葉の先を待つ。

 頭に無数の生傷と瘡蓋を持つ彼と話すこと自体、ルキアは嫌がるだろうが、彼女は行動に苦言を呈された程度で何分間も怒り続けるような性格ではない。

 

 切り替えが早いのではなく、基本的に他人の言葉に影響されないからだ。

 確固たる自我と美意識だけが彼女の行動基準であり、誰かの言葉や指図には一片の尊重も無い。誰かの苦言も諫言も、ルキアにとっては虫の囀りと同じ。彼女の意識を揺るがしたり、思考や行動に影響を与えたりしない、ただの音。

 

 だから、ルキアが「文句を言われた」と怒るのは、ちょっと考えにくい。

 そりゃあ生き様に一家言ある彼女にとって、自分の行動に口を挟まれるのは不愉快だろうけれど、鳴き声の煩い虫を相手に長々と怒っているとは思えなかった。

 

 フィリップの予想に違わず、ステラの言葉は続く。

 

 「あぁ。その内容がまた問題でな……奴は『どこの馬の骨とも知らぬ平民の小僧が聖下と共に在り、あまつさえその身を汚すなど。聖酒とはいえ云々』と、大層ご立腹だったよ」

 「……?」

 

 もしかして僕のことですか、と自分を指差したフィリップに、ステラは当然と頷く。

 まぁそうだよねとフィリップも頷くが、内心ではルキアに対する同情が渦巻いていた。

 

 めんどくさいよね狂信者って、()()()()、と。

 

 「……フィリップがこの手の言葉で傷付かないのは分かっているけれど、それでも貴方を悪し様に言われるのは不快だわ」

 「あはは……。流石に、枢機卿に魔術を撃つわけにはいきませんしね」

 

 普段のルキアを知るフィリップが照れ隠しに言うと、ステラが全くだと言いたげに深々と頷く。

 

 「あぁ。止めるのは苦労したぞ? 『明けの明星』なんて、撃ってからでは私でも防げないからな」

 「撃とうとしたんですね……」

 

 ステラの口調に冗談っぽいものを感じ取り、フィリップも同調するようにけらけらと笑う。

 

 その様子を楽しそうに見ていたルキアが、ふと眉根を寄せた。

 数秒前までの怒りは無かったが、代わりに僅かな怯えと心配の色が見て取れて、気付いたステラも同じく眉根を寄せる。

 

 「フィリップ、脇腹のところ、どうしたの?」

 「え? ……あ、ジャケットが」

 

 フィリップも言われて漸く気付いたが、ジャケットの裾がぱっくりと裂けていた。

 恐らくなんて枕詞が必要ないレベルで確実に、先程のショゴスとの戦闘が原因だろう。フィリップ自身は無傷なのだが、ジャケットが翻ったときに切り裂かれたようだ。

 

 「……どこかに引っ掛けたんだと思います。帰ったら縫わないとですね」

 「……怪我はない?」

 「はい。僕自身は、全然大丈夫です」

 

 ぺろりとシャツをめくりあげて、傷一つないお腹を見せる。少々はしたないというか、紳士的とは言い難い所作ではあるが、その大胆な行為は二人の視覚に確かな安心感を与えた。

 フィリップの嘘には二人とも気付いたようだが、フィリップ自身が無傷ということもあり、放っておいてくれるようだ。フィリップの『隠し事』に心当たりがあるからだろう。

 

 「……傷といえば、トリス卿の頭のあれ、何だったんですか?」

 

 頭から流血していたジョン・トリス枢機卿の、創傷の原因。頭の肉に痛々しく突き刺さる鉄茨の冠のことだ。

 初めて見たその瞬間に聞こうとしたら、ステラに「今は止せ」と言いたげに制止されたのだった。フィリップがもう少し被虐性癖に詳しければ、そういうものかと一人で納得し、誤解を抱いたままだっただろう。

 

 話題にするのも嫌だと言いたげに顔を歪めたルキアに苦笑しつつ、ステラが軽く思案する。

 

 「そうだな、どこから説明すればいいか……苦行、或いは苦行浄心という言葉は知っているか?」

 

 ふるふると首を振って否定したフィリップに、ステラはそうだろうなと頷いた。

 ステラ自身は聖痕者という立場で、また国家代表として一神教に接し、次期女王として受けた教育の中でも一神教について深く学んでいる。それでも、この苦行を行う“苦行者”の存在は数えるほどしか知らないし、書籍などでもかなりマイナーな信仰の形として扱われていた。

 

 フィリップが「知ってますよ」と頷いていたら、むしろステラの方が驚き、困惑するところだ。

 

 「苦行とは、自らの精神や肉体を痛めつけ、時に極限状態へ追い込むこと。苦行浄心とは、苦行の結果として精神の内から悪性を消し去り、死後に天国へ行くためのプロセスや行為そのもののことを言う。……正直、猟奇的だと思うが、過去に苦行を行った聖人がいるんだ。その思想を受け継いでいるんだろうな、彼のような苦行者は」

 「へぇ……変わった信仰ですね」

 

 もともと熱心な信者という訳ではなく、更に一年半ほど前から信仰心というものが全く無くなったフィリップには、全く理解できない信仰の形だった。

 

 カルトが邪神に対して、生命維持に必要な重要臓器、或いはもっと直接的に「死」「命」「血」「苦痛」などを捧げることがあるのは知っている。

 尤も、彼らはその痛みや死を自分自身ではなく、無関係な他者から供出させる生贄という形を取ることが多いのだが──トリス枢機卿がそうじゃなくて良かった。

 

 もしそうだったら、フィリップは「カルトと同じ町で眠るだなんて冗談じゃない」と吐き捨てて、彼を殺していただろう。

 どんな手を使ってでも──何が立ちはだかろうとも。

 

 フィリップはそう自己分析するし、それは正しい。そして、フィリップにはその在り方を否定するつもりさえない。

 カルトは殺す。たとえ非人間的な行為に手を染めることになろうと、人間性を喪おうと、カルトの絶滅は決定事項だ。

 

 「……そんなことより、何か食べに行かないか? 夕食まで、まだもう少しあるぞ」

 

 フィリップの瞳がどろりと濁ったことに目敏く気付いたステラが、内心の狼狽を完全に覆い隠した、いつも通りの声でそう提案する。

 

 その気遣いは、フィリップに気遣いを悟らせず、しかし意識を引き戻すという最高の結果になった。

 

 「いいですね! じゃあちょっとお金取ってきます!」

 

 旅行先で財布に最低限の金額しか入れないのは、何もフィリップに限ったことではない。

 スリや、単純に落としたりする可能性を考えて、財布を分けたり食事代しか入れなかったりするのは、庶民としては普通のことだ。

 

 しかし、それは富豪──というか最高位貴族と王族──にとっては異文化だった。

 財布に入る程度の金額なら盗まれても懐は痛まないし、そもそもスれる距離まで近付けない。近付いたとしても、二人の警戒をすり抜けることはできない。もし仮にそれを突破できるのなら、ちゃちなスリなんか止めて、どこぞの国の諜報機関にでも属した方が何倍も稼げる。

 

 宿に戻ったフィリップは、ややあって財布を弄びながら帰ってきた。

 二十五日間のポーカー大会でそこそこ稼いだ──四分の三くらいはナイ神父からのお小遣いだが──フィリップは、旅行中目一杯遊べるだけの金額を確保している。

 

 そもそも学院生活で金を使う場面が全くと言っていいほど無く、丁稚の頃の給料も、長期休暇で手伝いに行ったときの給料も、殆ど手つかずで残っている状態だ。修学旅行という一大イベントで、ぱーっと散財できる程度にはリッチといえる。

 

 フィリップの財布も、普段と比べて2割増しで重いのだが、

 

 「……? なんか、薄くないか?」

 「フィリップ、ちょっと財布を貸してくれない? ……」

 

 フィリップが「いいですよ」と無頓着に渡した財布を覗き、ルキアとステラは思わずといった風情で顔を見合わせ、財布を二度見する。

 

 「…………」

 「……え? な、なにしてるんですか……?」

 

 徐に自分の財布を取り出したステラが、その中から何枚かの金貨をフィリップの財布に移す。総額にして、フィリップの丁稚時代の給料二か月分ほど。

 

 「え? ……え?」

 

 基本的に人間が自分の敵になるという意識が低く、財布に少額しか入れないのもスリへの警戒というより慣習に従っているだけの部分が大きいフィリップだが、お金の大切さは知っている。

 ルキアとステラ相手なら財布を渡すことに抵抗はないし、盗まれるかもという警戒が心の片隅にも浮かばないくらい信頼していた。

 

 だが、その逆が起こるとは想定もしていなかった。

 

 「あのあのあのあの、な、なにしてるんですか……? なんで無言で金貨を入れるんですか……? ルキアもなんで止めないんですか……?」

 

 怖い、と。

 フィリップは初めて、ルキアとステラに対して、そんな印象を抱いた。

 

 

 

 

 

 



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209

 修学旅行三日目、夕刻。

 ワイン祭りの余韻も消え、修学旅行に来ていた魔術学院生たちは、夕暮れの街並みをそれぞれのクラスに応じた夕食会場へ向かっていた。

 

 フィリップたちAクラス生は、肉料理の有名なレストランだ。

 肉か魚かで言うと断然肉派の──というかフィリップのいた田舎では川魚くらいしか食卓に並ばないので、量を取るなら肉一択だった──フィリップも、期待に胸を躍らせながら歩いていた。

 

 その少し後ろを、ルキアとステラがひそひそと話しながら歩いている。

 

 「流石に唐突過ぎたか……?」

 「いえ、そもそも本人の目の前でやるべきでは無かったわ。フィリップにも失礼だし、善意は隠してこそ美しいものよ」

 「それは確かにそうなんだが……流石に、な?」

 「言いたいことは分かるわ。……フィリップが一等地で買い物をしない理由が分かったわね」

 

 結局、フィリップは財布に詰め込まれた金貨を全て返却した。

 金銭問題の行きつく果ては殺し合いだと教わってきたのもそうだが、そもそも金に困っていないからだ。タベールナの賃金条件は二等地内では普通レベルだが、それは当然、二等地で生きていくには十分な金額ということである。一等地は物価も高ければ賃金も高く、二人はそれを基準にして判断し、あんな暴挙に及んだのだろう。

 

 ちなみに、教皇領の物価は三等地よりさらに安い。王国の中規模都市と同じか少し高いくらいで、フィリップの手持ちでも十分に遊べる。

 

 「あ、ここですね!」

 

 しばらく歩いて、フィリップたちは目的のレストランに到着した。

 修学旅行のしおりと見比べて間違いないことを確認して店内に入ると、既に何人かのクラスメイトが席に座っていた。

 

 一般的な石造りの外観からは想像し難い、綺麗な内装だ。

 床一面に敷かれた深紅の絨毯といい、高い天井に吊られた小ぶりながら精緻な装飾のシャンデリアといい、王都の二等地でも十分に高級レストランとして通用するレイアウトだ。店そのものも広々としている。

 

 ドアベルの音に反応したウェイトレスが目を見開き、ややあってこちらに歩いてくる。恐らく、ルキアとステラに見惚れていたのだろう。二人の容姿は、同性を魅了するほどに極まったものだ。

 

 「い、いらっしゃいませ、聖下。座席数の都合で、奥にご案内するよう申し付かっております」

 「……あぁ」

 

 四人掛けか二人掛けのテーブルしか無く、そもそも高級志向の店ということもあって、ホールの収容人数がギリギリなのだろう。三人だけ浮かせることができないから、いっそのこと別室に分けることにしたらしい。ステラとしてもその方が安心できるし、他人の喧騒を嫌うルキアも、むしろ嬉しいくらいだろう。フィリップはどちらでもいいので、大人しく従う。

 

 通された個室は、怪しい会合にでも使われていそうな雰囲気だった。

 広々とした中に四人掛けのテーブルだけがぽつんと据えられ、締め切られた窓の代わりに豪奢なシャンデリアが光源として機能している。深紅のカーペットや少しくすんだ白の壁紙のおかげで明るいが、廊下を少し進んできただけあって、ホールの話し声が全く聞こえない。

 

 壁に飾られた絵画や、シャンデリアの意匠は同じなのだが、同じ店内とは思えないほどの静けさ。

 独立した異空間に迷い込んでしまったような感覚が、妙な雰囲気の原因だろう。

 

 「シェフが挨拶に参りますので、少々お待ちください」

 

 ウェイトレスが一礼して出て行ったあと、フィリップはそっとドアを開けて外を確認した。

 勿論、虚空が広がっていたりはしない。いま歩いて来た、何の変哲もないただの廊下だ。

 

 「どうしたの?」

 「いえ……トイレはどこかなーって」

 

 流石に「なんだか怖くなって」とは言い難く、要らぬ心配をさせてしまいそうだったので、そう誤魔化す。ちなみに100パーセントの嘘ではなく、膀胱がじりじりと限界に近付いていた。

 

 「さっきあっただろう……出て右だ」

 「そうでしたっけ? ちょ、ちょっと行ってきます……おっと」

 

 扉を開けると、ちょうどノックしようとしていたシェフとかち合った。

 思わず仰け反った二人は、照れ笑いを交わしながら道を譲り、最終的にフィリップが先に部屋を出た。

 

 用を足して部屋に戻ると、瞬間、鼻が無くなった。

 

 「──ぇぁ?」

 

 そんなはずはない。

 思わず手を遣ると、確かに顔の真ん中あたりに、いつも通りの感触がある。ぷにぷにと鼻をつまむと、その感触が指と鼻の両方から伝わった。

 

 直後、

 

 「──!?」

 

 鼻が無くなったと錯覚してしまうほどの強烈な臭気が、鼻の奥から目頭までを貫いた。

 

 一瞬、いや一呼吸の間、脳がバグを起こすほどの刺激臭。

 思わず口元を覆い、後退るように部屋を出る。

 

 これは──何だ?

 ただ臭いだけではない。いや、そもそもフィリップ自身は、この空気中に漂う臭気をそこまで臭いと感じていない。

 

 しかし脳の片隅で、じりじりと燻るように燃え続ける嫌悪の炎がある。

 外神の智慧──シュブ=ニグラスに与えられた知識が脳を犯し、この臭いから全力で距離を取れと警告していた。

 

 ほんの僅かに、春のそよ風よりも微弱な、意識を集中しなければ分からないほど貧弱な神威が肌に触れる。

 

 フィリップは頭を振り、懸命に意識を保った。

 神威。そう、神威だ。フィリップが感じられるレベルの神威となると、天使程度では有り得ない。最低でも旧支配者に連なる何かが、この部屋に存在するということだ。

 

 失神も、呆然も、一瞬の自失も許されない。

 ルキアを、ステラを、守りたいのなら。

 

 「──ッ!」

 

 目に刺さるような臭い──錯覚だ。

 涙と嘔吐を強いる臭い──錯覚だ。

 軽蔑と嘲笑、憤怒と憎悪を催す臭い──錯覚だ。

 

 フィリップにとって、これは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 「──ッ!」

 

 ぱん、と乾いた甲高い音。そして遅れて、ガラスの砕ける特有の音が、高価な絨毯と厚い壁に反響した。

 

 「フィリップ……?」

 

 真っ白な手を赤く腫らし、叩かれた手を握って呆然とするルキア。フィリップは今にもグラスに口を付けそうになっていた彼女の手の中から、ワイングラスを叩き落としていた。

 ステラは何が起こったのか分からないというように、ぶちまけられたワインがカーペットに吸われ、グラスの破片が取り残されていく光景と、肩で息をする険しい表情のフィリップを交互に見ていた。

 

 「飲みましたか?」

 

 説明は後だと、フィリップは最優先事項を確認する。

 ルキアかステラ、どちらかが頷いた瞬間に、この場で喉奥に指を突っ込むか、腹に一発入れて吐かせるつもりだった。

 

 幸い、フィリップが非紳士的という言葉の極致じみた暴挙に及ぶ必要はなく、二人とも首を横に振ってくれた。

 

 「──、ふぅ……良かった……」

 

 フィリップはワインに触らないでくださいね、と言いながら床にへたりこむ。瞬間的な緊張と弛緩が、足と腰から立つだけの力すら奪っていた。

 

 「あ、ご、ごめんなさい、ルキア。痛かったですよね」

 

 テーブルを掴んで立ち上がり、自分の席に置かれていたグラスの氷水でハンカチを濡らし、そっと手に当てる。

 ルキアのように魔術で出来たら格好の付くところなのだが、フィリップにできるのは常温の水をぶちまけることくらいだ。

 

 「……大丈夫よ、ありがとう。少し驚いたけど、痛くはないわ」

 「本当にごめんなさい。ルキアを叩くつもりは無くて、グラスを狙ったんですけど……」

 

 フィリップはハンカチを渡すと、自分の席に疲労困憊といった風情で深々と座り込み、グラスに残っていた氷水を一気飲みした。

 ガリガリと音を立てて氷を噛み砕く行儀の悪い所作に、ルキアが困惑と不快が綯い交ぜになったような複雑な表情を浮かべ、ステラは真剣な表情で嚥下を待っていた。

 

 ややあって氷を呑み込んだフィリップは、催促するような二人の視線を正面から受け止めて、深く頷く。

 ステラが口に出すまでも無く、二人が説明を求めているのは自明で、二人にはその権利がある。

 

 「……結論から言うと、このワインは──」

 

 フィリップは僅かに言い淀み、最適な言葉を探して続ける。

 

 「毒、です」

 

 先程から外神の智慧が、何があっても飲まないようにと大音量の警鐘を鳴らしている、一見すると何の変哲もない赤ワイン。

 

 これは、サイメイギの隷属ワインと呼ばれる劇物だった。フィリップには分かる──そして恐らく、専門の設備を用いて検査すれば、人類独力では不可能な手段によって製造されたものだと判明するだろう。フレデリカくらいの才能があれば、()()()()()()()分かるかもしれない。かなり危険な行為だが。

 

 さておき、サイメイギの隷属ワインとは、「飲む支配魔術」とでも言うべき特殊な葡萄酒だ。

 

 外神の智慧によるとサイメイギは巨大な白い眼球に無数の触手が生えたような姿の邪神、旧支配者で、この星のどこかの地下深くに封印されているらしい。

 その眼球は絶えず黄白色の粘液を垂れ流しており、口にした人間に様々な効果を与える。

 

 たとえば「死」。まぁ、涙とは本質的には血液だ。神の血なんて人間には猛毒なので、これは驚くに値しない。

 たとえば「支配」。口にした者を、死した後にすらサイメイギの意志に従う奴隷、生ける屍に変えてしまう。

 他にも「変質」「治癒」「延命」「強化」「脆弱化」「腐敗」、エトセトラ。列挙するとキリがない。

 

 そんな劇物を原料の一部として醸造され、効果を「サイメイギへの隷属」に固定したものが、フィリップのぶちまけた『サイメイギの隷属ワイン』だ。

 

 ──と、そんな説明をしたとして、ルキアとステラは理解してくれるだろうか。理解したとして、発狂しないでいられるだろうか。

 

 「……信じられないのは分かります。殿下の指輪でも魔力視でも、毒は見つからなかったんですよね?」

 

 真面目腐った顔で当たり前のことを確認しながら、フィリップは必死に思考を回す。

 

 どう説明すれば二人は納得するだろうか。

 二人の精神に傷を付けることなく、このワインが持つ異常性を説明するには、どうすればいいのか。

 

 「待て。その前にやることがある」

 

 ステラの言葉に思考を遮られた直後、こんこんこん、と控えめなノックの音がドアの向こうから聞こえた。

 

 「失礼いたします」

 

 聞き覚えのある声──先程のウェイトレスの声だ。

 ステラは確か、暗殺警戒のため料理を運ぶウェイターは一人に固定すると言っていた。

 

 つまり、このサイメイギの隷属ワインを持ってきたのは、彼女だ。

 

 ほんの少しだけ軋みながら、高級感のある厚い扉が開く──。

 

 

 

 

 




 フィリップくんがグラスを叩いた衝撃で飛散したワインがルキステどっちかの口に入り、慌てふためいたフィリップくんが『毒蛇に咬まれた時は毒を吸い出すんやったな……せや!』と濃厚ディープキスをかます案もありました。

 飲み込まないように首を絞めながらの首絞めディープキスに発展するのでは? というモノも含めた複数の理由からボツになりました。決議にかかった時間は5秒以下です。


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210

 フィリップが、ウェイトレスは敵ではないかという懸念を抱いた時には、既に事は終わっていた。

 ウルミに右手を伸ばし、もう片方の手は躊躇いつつも魔術照準の為に伸ばされる。その視線の先では、料理を運ぶワゴンに手を掛けた姿勢で硬直するウェイトレスの姿があった。

 

 ワゴンに載っているのは、よく磨かれた銀色のクロッシュが被せられた皿だ。そこからは神威は感じられず、外神の智慧も沈黙している。

 

 フィリップが頷いて合図すると、ステラが人差し指をくい、と手招くように動かす。

 指先に不可視の糸でも付いているように、ウェイトレスが静かな所作でワゴンを押して部屋に入り、扉を閉めた。

 

 ステラは指を払うように、少しの勢いを付けて壁を指す。

 ウェイトレスがまた導かれるように従い、壁を向いて両手を付き、足を広げた被制圧姿勢になった。

 

 扉が開いた瞬間に詠唱された、ステラの支配魔術。

 必要以上に傷付けることもなく、かといって抵抗の余地を残すことも無い、最上級の制圧手段だった。小を兼ねる大の極致と言える。

 

 「ボディチェックしますね」

 「……私がやるわ」

 「殿下だけじゃなくて、二人を狙ってたかもしれないんですよ? ルキアは座っててください」

 

 立ち上がりかけたルキアを、フィリップは少し強めに制止する。

 普段から暗殺を警戒しているのは一国の王族であるステラだけだが、こと宗教絡みになると、ルキアもステラと同等の重要人物だ。

 

 女性に対するものではない乱暴な手つきで、しかし、汚物に触れるような嫌悪感を滲ませながら、暗器の類を隠し持っていないことを確認する。

 ──クリアだ。服の下にあるのは華奢な身体で、ステゴロで聖痕者を殴り殺せるような怪物というわけでもない。

 

 しかし、このウェイトレス。サイメイギの隷属ワインなんてものを持ち出す時点で、どこかのカルトと繋がりがあることは確実だ。唯一神に認められた聖人を憎悪するような──たとえば、サイメイギこそが唯一絶対の神である、みたいな教義があっても何ら不思議ではない。

 

 フィリップの右手、ウルミの柄を握る手に力が籠る。

 まだベルトの金具に吊ったままだが、抜くべきだろうか。この個室は広いとはいえ、四メートルのウルミを振り回すには手狭だ。

 

 痛めつけるだけなら、素手でもできる。

 

 フィリップはすっと息を吸い、ウェイトレスの後頭部に手を伸ばす。

 このまま顔面を壁に叩き付けて、原型が無くなるまで叩き潰して、その後で『深淵の息』で殺す。そのくらいの無駄な痛みと苦しみを以て殺すべきだ、カルトは。

 

 フィリップが不穏な空気──かつてナイアーラトテップの試験空間で感じた、カルトに対する深い憎悪を滲ませたことに気付き、慌てて立ち上がったステラがその肩を掴む。

 まだ、このウェイトレスがカルトだと決まったわけでは無いし、何より、彼女に悪意があったのかすら判然としていないのだから。

 

 「カーター、少し落ち着け。ワインを選ぶのはウェイトレスではなくシェフかソムリエだし、ワインセラーに偶々混入していたという可能性もゼロではない」

 「……っ、あ、そ、そうですね!」

 

 フィリップはぺちぺちと頬を叩き、意識を切り替える。

 衝動的にブチ殺すのは一瞬だが、それだと情報が手に入らない。

 

 情報は大切だ。

 だって、もしもこの町にカルトが潜伏しているのなら──一人殺して満足するなんて、愚の骨頂だ。殺せるカルトを見逃すなど有り得ない。

 

 「質問に正直に答えろ。《ドミネイト》」

 

 膨大な魔力を消費する支配魔術の多重詠唱を涼しい顔で行い、ステラは椅子に座り直した。

 フィリップは少し悩み、右手をウルミの柄に添え、左手を空けてウェイトレスの近くに立っていることにする。ステラの支配魔術が破られるとは思えないが、万が一、たとえばカルトの応援なんかが来た場合に、即座に殺せるようにだ。

 

 「このワインを用意したのはお前か?」

 

 ボトルクーラーに入ったボトルを示したステラが問う。

 

 「……いいえ、聖下。私は指示されたものを運ぶ、給仕に過ぎません」

 「このワインが毒だと知っていたか?」

 「!? いいえ。ただ、特別なものだとは聞いていました」

 

 支配魔術が操作するのは、あくまで肉体だ。その精神までもが支配されるわけではない。

 思考はクリアなまま、身体を這い戒める鎖の命じるままに、身体だけが勝手に動くのだ。内心の驚きが言葉を止めても、次の瞬間には強制的に答えさせられる。

 

 ……驚きがある。

 このウェイトレスは自分が毒を運んできたと知って、明確に驚いている。そしてフィリップが見る限り、その表情には驚愕ばかりではなく、大きな恐怖も見て取れた。「大変なことをしてしまった」という、自責から来る恐怖だろう。悪事が露見した恐怖なら、驚きはないはずだ。

 本当は即座に跪いて謝りたいところだろうが、支配魔術がそれを許さない。

 

 「誰に聞いた?」

 「……し、知りません。枢機卿の使いだという神父様がいらっしゃって、聖下には特別なワインをお出しするようにと、そちらを」

 

 神父と聞いて、フィリップだけでなくルキアとステラもぴくりと眉を震わせる。

 しかし、どこか納得したような苦々しい表情を浮かべたのは、ルキアとステラだけだ。フィリップはむしろ疑問が深まったというように、口元に手を遣って首を傾げた。

 

 「ナイ神父か?」

 「……名前は存じ上げていません」

 「どんな風体だった?」

 「……背が高くて、とても顔立ちの整った方でした。神様の作った芸術品でも、あそこまで精巧にはできないと思うほど」

 

 ウェイトレスの答えを聞き、ルキアとステラが同時にフィリップを見る。

 しかしフィリップは、完全に答えを見失ったと言いたげな困惑に染まった表情で、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 

 ウェイトレスの背中を真っ直ぐに見られるよう椅子をずらし、口元を隠すような形でテーブルに頬杖を突く。

 

 「ナイ神父のこと……よね?」

 

 目に見えて黙考しているフィリップを妨げることが嫌なのか、ルキアが控えめにそう問いかける。

 フィリップは「おそらくは」と適当に返事をして思考を続ける。

 

 ナイ神父──ナイアーラトテップなら、サイメイギの隷属ワインなんて珍しい代物の入手は容易だろう。

 ただ、それをこの場で出す理由が分からない。

 

 フィリップに飲ませようとしたわけでは無いだろう。

 フィリップが昼間に呑んでもいないのに散々ゲロを吐いて、酒なんて二度と飲まないと心に決めたことは知っているはずだ。それ以前から、酒の味が好きではないことも。

 

 ここでワインを出したって、フィリップが飲むはずがない。そもそも外神の智慧があれだけ激しく警鐘を鳴らすものだ。たとえフィリップが無類の酒好きでも口を付けたりしない。

 

 なら、狙いはルキアとステラか?

 確かにナイアーラトテップは、二人がフィリップの傍にいることを快く思っていない節がある。理由は不明だが。

 

 しかし、それならこんな不確実な方法を取る必要はないだろう。

 目的が殺害ではなく旧支配者への隷属というのも意味不明だ。まだるっこしい。

 

 凶器に毒を使うのは、直接殺すのが難しかったり、犯人を特定されると困ったり、何かしらの理由があるからだろう。

 ナイアーラトテップにはそれがない。ナイアーラトテップにしてみれば、人間は()()()()()()()()()()狂って死ぬ脆弱な生き物だ。殺すのに策を弄する必要も無ければ、殺して責められることも無い。

 

 責めるとしたらフィリップだが、だったら、こんな一瞬でフィリップに露見し、しかも阻止できるような甘い仕掛けにはしないだろう。

 業腹な話だが、ナイアーラトテップが本気で計画したら、今のフィリップでは二人を守れない。

 

 逆説的に、フィリップが阻止できた時点で、計画したのはナイアーラトテップではないと言える。

 

 「ナイアー──ナイ神父の計画じゃありませんね。実行役、或いはただのお使い程度の関与でしょう」

 

 ナイ神父は一昨日、「教皇庁の仕事がある」と言っていた。

 あれが「一介の神父として在り、ナイアーラトテップとしては動かない」という意味だったとしたら──サイメイギの隷属ワインの匂いを嗅いで悶絶するフィリップを見るために、人間の使い走りくらいやるだろう。

 

 「……ちょっとナイ教授と話してきます。ウェイトレスさんの処遇はお任せしますけど、カルトかどうかは確認してくださいね。カルトだったら縛っておいてください」

 

 足早に、しかし慌てた様子はなく部屋を出て行ったフィリップを見送り、ルキアとステラは顔を見合わせる。

 

 「……どう思う?」

 「このワインが本当に毒かってこと? 私は信じるけれど……そのウェイトレスにでも飲ませてみたら?」

 「一案だな」

 

 ルキアがフィリップの言葉を無条件で信じるのは、彼女の生得的気質(ロリータ)故だ。自身の価値観への絶対的信頼、決めた相手への盲目的愛情と服従。

 フィリップが毒だというのなら、彼女にとって、それはなんであれ“毒”だ。たとえステラの持つ毒検知の指輪に反応が無く、魔術毒を見極める魔力視に反応が無かったとしても。

 

 しかし、ステラは違う。

 毒だと言われたものを「そんなわけがない」と飲み干すほど馬鹿ではないが、これまで築いてきた指輪と自分の目への信頼を、即座に捨て去るほど短絡的でもない。

 

 ナイ神父が齎したものだと言われると、「本当に毒なのかな」と思ってしまう部分もあるが──それを確かめる前にこのウェイトレスを罰することは、不合理だ。罪には罰を、しかし罪なき者には罰を与えてはならない。そんなことは言うまでもない道理だ。

 

 だから、飲ませてみるのは一案だ。

 

 もしも本当に毒物なら、たとえ飲まなかったとしても二人の前に出した罪は、重い。王族暗殺未遂なんて、裁判にかけるまでも無く処刑だ。自ら用意した毒を自らが呷るというのも、歴史的には珍しくない処刑方法だった。

 そしてフィリップの勘違いで、これがただのワインなら、彼女はただワインを飲んだだけで済む。職務中の飲酒は、まぁ、叱責されるだろうが。

 

 真面目に考えだしたステラに、言い出しっぺのルキアが眉根を寄せる。

 

 「……冗談よ? そんな醜悪な処刑は好みじゃないわ」

 「死ぬと決まったわけじゃない。それに、どうせ何かしらの罰は下るぞ? いくら神父から渡されたものでも──待て。お前、毒見はしたか?」

 

 ステラの問いに、支配魔術の効力下にあるウェイトレスは頷く。

 

 「……は、はい。一口……」

 

 ステラはルキアと顔を見合わせ、判断しかねると首を振った。

 

 毒は、量だ。

 有名な致死毒であるフグ毒やトリカブト毒などがごく微量であれば薬に利用されるように、致死量に満たない毒は、毒として機能しない。

 

 暗殺に使われる致死毒は、その閾値が著しく小さいもの、つまりごく少量で殺せる毒が多い。

 しかし逆に、グラス一杯飲ませて漸く死に至るような致死量の多い毒だとしたら、それが混ざったワインを少量を飲むだけの毒見では発見できない。ついでに言うと、遅効毒の可能性もある。

 

 そういう毒に対抗するため、錬金術師が毒検知の指輪を作り出したのだ。加えて、ステラには自前の目もある。化学的毒物も魔術的毒物も、完璧に検知できる──はずだった。

 

 いまこの場に、このワインが毒であると証明できる者は、一人もいない。逆も然りだ。

 毒であると証明する要素も、毒ではないと証明する要素も、どちらも決定的なものが欠けている。

 

 だが、試す方法はある。

 単純な話だ。それなりの量を飲ませ、それなりの時間見てみればいい。

 

 「私、貴女のそういうところとは本当に合わないわ。フィリップの言葉を信じないからって怒るつもりは無いけれど、どうせ飲まないのに実験する必要があるの?」

 「お前の美意識に背くか? ……私だって、カーターが悪戯でこんなことを言ったと思ってるわけじゃない。だがこのウェイトレスを裁くには、状況を確定させる必要がある。罪なき者に罰を与えるべきではない」

 「……試せばいいじゃない。私達には、それができるわ」

 

 ルキアが片手を挙げ──ちり、と肌を刺すような威圧感が迸る。

 神罰請願・代理執行権の行使、神域級魔術『粛清の光』を以て、罪業の有無を調べればいい。

 

 罪があるのなら、塩の柱に変わる。

 罪なき者であれば、何も起こらない。

 

 単純で、分かりやすい検査方法だ。

 しかし、ステラはその最短最速の解を否定する。

 

 「唯一神より与えられた力をそんなことに使うなど」という論旨ではない。そういう言説は確かにあるが、ステラの合理性はむしろ許容する。

 彼女の合理性が否定するのは、

 

 「過去に犯した罪で、今の問題を裁く気か? ルキア、私はこいつを殺したいわけじゃない。こいつが具体的にどれだけの罪を犯したのか、それを知りたいんだ」

 

 

 

 

 

 



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211

 フィリップがレストランのホールに戻ると、ナイ教授は隅の方にある四人席の一つで、顔を蕩けさせながらステーキを頬張っていた。

 普通、こういう場面で教師と同じ席になった生徒は不運に感じると思うのだが、相席している生徒はみんな心の底から幸福だと言いたげな表情だ。そもそも友達同士だけでも下手な会話が憚られる場所だから、という理由だけではないだろう。

 

 周囲から多少の視線を感じつつナイ教授の元へ行くと、フィリップが声を掛ける前に彼女の方が反応した。

 

 「あれれ、フィリップくんじゃないですかー。どうかしましたかぁ?」

 「えぇ、まぁ、ちょっとナイ神父の件でお話が」

 「良いですよー。場所を変えますかー?」

 

 フィリップは頷き、先導するように歩き出す。

 ルキアとステラを残して店を出るのは何となく不安だったので、向かう先は男性用トイレだ。小便器がいくつも並ぶ広々とした空間は綺麗に磨き上げられ、実際に使われている便所ではなく便器の展示場にも思えるほどだった。

 

 先んじて入ったフィリップの後ろで、ナイ教授は扉の前でもじもじしている。

 

 「あのあの、フィリップくん。いくらなんでも、ここはちょっと先生は──」

 「ナイ神父、幾つか質問があります。一つ目は──」

 

 ナイ神父、という呼び方に反応して、ナイ教授の輪郭が崩れる。

 蠢きのたうつ漆黒の触手の集合体になり、顔の無い円錐状の頭を持つ三本足のヒトガタになり、最終的に長身痩躯の神父の姿へと変貌した。

 

 常人であれば発狂か、最低でも甚大な恐怖を催す光景を前に、フィリップは顔を顰める。ホントに気持ち悪いなぁ、と。

 しかしナイ神父の姿になったのは狙い通りだ。内心の嘲笑を抑え、ただ煽ることをメインにした化身はフィリップの神経を逆撫でする。真面目な話をするのなら、やはり慇懃無礼でもこちらの化身の方がまだマシだ。

 

 「一つ目は、あのワインのことです。サイメイギの隷属ワイン。あれを僕の食卓に並べるなんて、どういうつもりですか?」

 「……確かに、インテリアとしては不細工でしたね。申し訳ありません。挽回のチャンスを頂けるなら、今度こそは君のお眼鏡に適う代物をご用意させて頂きます」

 

 ナイ神父は便所にも拘わらず素早く跪き、深々と頭を下げる。

 その所作には本気の自責や謝意、敬意といった感情が読み取れて、フィリップはむしろ困惑した。この謝罪はおそらく、ポーズではない本気のものだ。

 

 「インテリア……まぁ、僕が飲まないことは分かってたでしょうけど」

 「はい。業腹な話ですが、副王の庇護は絶対です。私が本気で飲ませようとしていたら、私は存在していません」

 

 にっこりと笑顔で、しかしその下に隠されたものが空気を穢すようにじわじわと漏れだすほどの激情を抱えて、ナイ神父はそう語る。

 

 「業腹? なんでちょっと敵側視点なんですか」

 「敵だなんて滅相も無い。ただ、私は──」

 

 ナイ神父は鋭く否定すると、蛇のような動きで立ち上がり、フィリップの腰と後頭部に手を回す。抱き締めるように──或いは、身長差のせいで顎の上がったフィリップにキスするように。

 

 「私は、貴方の一番で在りたい。貴方を最も守り、貴方に最も貢献し、貴方の最上の従僕で在りたい。ただ、それだけなのです」

 

 陶然と蕩けるような、耳触りの良い、耳障りな声が耳朶を打つ。

 脳を融かし、脊髄を融かし、血と肉を沸き立たせ、とろとろに溶け出しそうになる──ところなのだろう。常人であれば。

 

 フィリップは慌ててその手を払う。

 

 「今の今までトイレの床に突いてた手で触らないでくださいよ汚いなぁ!」

 「汚れていませんのに……むしろ、私に触れた細菌の方が死滅しますのに……」

 

 どこか傷付いたようにも見えるナイ神父が、水道でざばざばと手を洗う。

 彼の言う通り、実際に汚れは付いていないのだろうが、なんとなく汚い気がする。そういえばと思い出して、フィリップもナイ神父の隣で手を洗った。

 

 「……?」

 「さっき、カルトかもしれない人をベタベタ触っちゃったので……」

 「あぁ、あのウェイトレスですか。あれは潔白ですよ。そこに居たので利用しただけです」

 

 さらりと言われ、フィリップは無言でナイ神父の漆黒の瞳を見つめる。

 だが、まぁ、それならそれでいい。カルトが居ないのなら一安心だ。

 

 「そうですか。……で、二つ目の質問ですけど、何が目的であんなことを? ルキアと殿下が狙いってわけじゃないでしょうけど」

 「いえ、今回の私はフィクサーではなくエグゼキューター、計画者ではなく手駒の一つですので。私の意志は──ほんの少ししか介在しません」

 「……どうせ愉悦とか娯楽とかでしょう」

 

 うんざりした顔で断定したフィリップに、ナイ神父は「ご賢察の通りです」と拍手する。敬意と歓喜と、その百倍は濃い嘲笑の込められた所作だった。

 

 「止めろと言ったら止めてくれますか?」

 「いいえ?」

 「ですよね。じゃあ止めるので、フィクサーを教えてください」

 「駄目です」

 「えぇ……じゃあ、その目的──」

 

 ほぼ即答で拒絶するナイ神父に負けず食い下がるフィリップだが、その口元に人差し指を押し当てられ、黙らされる。

 ナイ神父は妙な色気のある所作で、その人差し指にキスをするように、「静かに」というジェスチャーを作った。

 

 「ahh……フィリップくん……」

 

 熱っぽい溜息。

 尋常ならざる感情を含んだそれに、フィリップはつい怪訝そうに眉根を寄せて、言葉の続きを待ってしまった。

 

 「君は私のことを、おねだりすればなんでも叶えてくれる優しいお母さんとでもお思いですか? 聞けばなんでも教えてくれて、君の機嫌を最優先にするとでも? そういう外神が居ることは否定しませんが、誰もがそうであるとは思わないことです」

 

 ナイ神父の言葉には、普段とは少し違った感情が込められていた。

 本来は相反するはずの嘲笑と敬意。これはいつもの通りだが、そこには深い失望が混ざっていた。

 

 ナイアーラトテップがフィリップに失望するなんて──ナイアーラトテップが人間に失望するなんて、有り得ない。

 失望は、期待が無ければ発生し得ない情動だ。人間に対して一片の期待も寄せない、寄せるはずがないナイアーラトテップが、どうして人間に失望できようか。

 

 フィリップは思わず目を瞠り、直感を疑う。

 しかし瞬き一つの後には視線の先には誰もおらず、少し視線を下げたところに、ナイ教授の内心の読めない仮面のような笑顔があった。

 

 話は終わり、ということだろう。

 

 唐突と言えば唐突で、まだ何も訊いていないに等しい段階で切り上げられたフィリップは不満そうだが、呼び止めても聞かないことは分かったので、大人しく部屋に戻ることにした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 個室に戻ると、ルキアとステラが何事か言い争っていた。

 二人とも声を荒らげたりはしていないが、その双眸は互いの目に固定され、不機嫌そうな光を湛えている。

 

 フィリップが帰ってきたことに気付くと、二人はやや無感動にも聞こえる内心の起伏を抑えつけた声で話しかけた。

 

 「おかえり、フィリップ。どうだった?」

 「こっちは収穫無しだ。この女はカルトではないし、支配魔術の痕跡も無ければ、暗殺の訓練を受けたこともない、ただの給仕だった」

 

 ステラの言葉にこくこくと頷き、フィリップもナイ神父との会話をかいつまんで説明する。

 

 まず、ナイ神父が動いているが、フィクサーが存在すること。おそらく邪神ではなく、本当にただの人間だ。初日に言っていた「教皇庁の仕事云々」というのは、これを指しているのだろう。

 次に、ナイ神父は味方としては使えないこと。直接的な敵対はしないようだが、フィリップの手駒になる気は無さそうだった。

 そして、未だ被制圧姿勢で固定されたままのウェイトレスは、ただ利用されただけであること。

 

 ウェイトレスの無罪を聞いたあと、ステラは真面目な顔で何事か考え込み、フィリップの方が首を傾げた。

 

 「あの、解放していいですよ? カルトじゃないなら殺す必要も無いですし」 

 「ん、あぁ、そうじゃないんだ。素性や上位者の介入を判断から外すと、こいつは本当に“ただ毒見を失敗しただけ”という理由で、私の前に毒を出したことになるだろ? こういう場合、普通は死刑なんだが……今回はカーターが気付いて事無きを得たとはいえ、だぞ? ……だが、こういう時の処刑方法は決まっていてな」

 

 ステラはぴっと、ワインの瓶を示す。

 エチケットに記された内容はステラも良く知る北方特産の高級ワインのそれだが、中身は全く違うもの。フィリップが顔色を変えるほどの毒だという。

 

 自国民では無くとも──いや、自国の民ではないからこそ、処刑は速やかに行う必要がある。

 聖国に、教皇領に、何より王国に対して「ヘマをした毒見役を処刑した。この話はこれでおしまい」と示さなければ、王国中枢部から「聖国に謀略の兆しあり」と判断されると、それはもう面倒なことになる。ただでさえ、近衛騎士団を解体して再編している途中だというのに。

 

 これは個人のミス。一人殺して終わりの、簡単な話で済ませなければならない。

 特にフィリップにしか判別できない、人類圏外産の毒物。この情報が流出することだけは、何としても避けなくてはならない。少なくとも持ち帰り、分析し、製法か中和剤を特定するまでは。

 

 「それ、飲んでも死にませんよ?」

 「……なに? 致死毒ではないのか?」

 

 ステラに問われ、そういえば説明していなかったとフィリップは思案する。

 どう説明すればいいのか、そう考えているところに、このウェイトレスがやってきたのだ。

 

 「そうですね、簡単に言うと、飲む支配魔術みたいなものです。ただ、縛るのは肉体ではなく精神と魂で、あー……とある邪神に、死後も含めた永遠の忠誠を誓わせる。そんな毒です」

 

 具体的には精神支配、アンデッド化、異形化による身体強化、と聞くだに悍ましい薬効を並べると、ウェイトレスに向けられる二人の視線が鋭さを増す。

 ウェイトレスはずっと顔面蒼白で、二人の纏う剣呑な空気に気付いた様子はない。二人の交わす議論を──殺すか否か、ではなく、どうやって殺すかという殺害を前提にした議論を間近で聞いて、すっかり怯え切っているようだ。

 

 「ふむ。……よし、今のは聞かなかったことにしよう。いいな?」

 「……まぁ、そうね。……フィリップ、王国法の中で一番重い罪って、何か分かる?」

 

 なんでだろう、と首を傾げたフィリップに、ルキアが問う。フィリップは怪訝そうな顔をきょとんとした表情に変え、また首を傾げた。

 

 「え? 安直に王族暗殺とかじゃないんですか? あ、あと、親書偽造と貨幣偽造もめちゃくちゃ重罪になるって聞いたことがあります」

 「そうね。でも最上じゃないわ。確かに王族暗殺は未遂でも死刑になる重罪だけれど、その上──王位の簒奪は族滅、主要家族の処刑と、親族の処刑もしくは国外追放が原則ね」

 

 ちなみに専制君主制を取っている王国では法は王族に対しては効果を持たないので、ステラを始めとした王族がクーデターを起こしても、王族が全滅したりはしない。

 

 フィリップはふむふむと頷き、言葉の先を待つ。

 

 「特に、魔術や依存性薬物、麻薬を使った傀儡化は国家への影響が甚大だから、減刑の余地が殆ど無くなるの。原則という言葉が冷酷な意味を帯びるほど淡々と、確実に粛清されるわ」

 「へぇー。……あ、なるほど、それでですか。そりゃあ、人死には少ない方が良いですからね」

 

 フィリップは笑う。

 けらけらと──何もしなくても死んでしまいそうなほど怯え、既に死んでいるのではと思わせるほど血の気の失せたウェイトレスが……ナイアーラトテップに利用されただけの一般人が殺されそうになっている前で、愉快そうに。

 

 人の死を前に無感動であるのはまだしも、それを笑うのは如何なものかと諫めようとしたルキアが口を開き──、

 

 「……あ」

 

 ぽつりと、ウェイトレスの口から声が漏れる。

 それを意識の端で知覚したルキアは思わず目を瞠り、ステラが驚愕と動揺で肩を強張らせた。

 

 「え? すみません、なんて──」

 「馬鹿か、カーター、近付くな! ()()()()()()()()()()!」

 

 ふらふらと近付いて行ったフィリップに、ステラの鋭い警告が飛ぶ。

 必要な情報と指示を的確に投げるのは流石の合理性だが、しかし、動揺からだろう、一歩遅かった。

 

 

 



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212

 ぎちぎちと、筋繊維と肉が圧搾されて軋む音を聞くのは、これで二度目だった。

 肩口を自分で縛った時とは違う、他人の、リミッターの外れた人間の握力で首を絞められ、一瞬で意識が明滅する。

 

 「……あ。いあ いあ さいめいぎ あぐる うがあ なふるたぐん あい さいめいぎ いあ いあ」

 

 ウェイトレスの虚ろに開いた口から、意思の籠らない音の羅列が垂れ流される。人間の喉から出る音で何とか再現した、不格好な讃美歌だ。

 フィリップが暴れているおかげでルキアとステラには聞こえていないだろうが、フィリップには彼女の状態がはっきりと理解できた。

 

 ()()は、もう死んでいる。肉体的にも、精神的にも。

 あのウェイトレスと同じ部分は外見だけだ。人の形をしているものの、人の肉と同じ原理で動いていないし、人の精神と同じ論理は通じない。

 

 サイメイギの隷属ワインによって、彼の神の永遠の従者になっていた。

 

 「フィリップ!? ──ッ!」

 

 ルキアが慌てて腕を振り、その軌道上に数十の小さな光球を浮かばせる。

 周囲の暗転が起こらないということは、光収束・エネルギー変換投射魔術『明けの明星』ではない。あれは弾道制御を完全に捨てなければ行使できない直線破壊魔術だ。

 

 光球は残光を曳く光の弾丸となって撃ち出され、フィリップを避けるように鋭く曲がってウェイトレスの胴体を穿つ。

 数十の魔術全てが完璧な誘導の果てに命中し、指先ほどの穴を幾つも開け、内容液を溢す。

 

 「レジストされたというより、急に対象が切り替わったような感覚だったが……これも効かないのか」

 

 ステラが指を弾いたのを合図に、ウェイトレスの両肩に炎の輪が燃え盛る。

 肩から先に伝わる脳の命令や筋肉の動きを、神経や筋肉そのものを燃やし尽くすことで遮断する、苛烈無比な制圧魔術だ。

 

 しかし、フィリップの首を絞める力は変わらず一定だ。

 フィリップが苦し紛れに突いた片目が潰れ、掴んで千切るように引いた喉が潰れ、打ち下ろし気味の縦拳が鼻と人中を砕いて、それでも止まらない。

 

 痛みを感じるという機能さえ無くなっている。

 フィリップを殺すことも、彼女自身の意志ではなく、彼女が口にしたワインに命じられるまま、操り人形のように従っているだけ。もう、止めようがないのだ。

 

 「ぁ、がっ……」

 

 フィリップの喉から、意味の無い苦悶の音が漏れる。

 自発的な発声ですらないそれはむしろ、ルキアとステラに多大な動揺を齎した。

 

 フィリップは相手を殺すための攻撃を諦め、自己防衛に戦術を切り替える。

 自分の首に食い込んだ小指を掴み、折る。小指は最も非力だと思われがちだが、実は物を握るときに最も重要になる。特に剣を握るときに小指を怪我していると、その実力は半減レベルで下がるとウォードが言っていた。だから掴み合いになったら小指を折るんだよ、とはマリーの言だ。

 

 小枝を折るような軽い音を立て──それでも、握力は変わらず一定だ。

 フィリップより人体の構造に詳しいステラが、表情を苦々しく歪めた。

 

 「腕を落とせ」

 「っ! 了解よ」

 

 また胴体を、今度は主要臓器に狙いを定めて撃ち抜こうとしていたルキアが、その一言で照準を変更する。

 フィリップを避けるように部屋の中をジグザグに走った光の弾丸が、ウェイトレスだったものの両腕を穿ち、飛ばした。

 

 「が、かはっ、げほげほっ……クソ。《萎縮(シューヴリング)》!」

 

 本体から切り離され、流石に力を失った両腕を掴んで投げ捨てたフィリップは、失くした両腕から夥しく出血しているウェイトレスだったものに即死魔術を飛ばす。

 有機物を脱水炭化させる凶悪な攻撃魔術はしかし、なんの効果も齎さずに終わった。

 

 「カーター、下がれ! そいつはもう人間の域を出ている!」

 「フィリップ、こっちへ! 私の後ろに!」

 

 ルキアとステラが魔術を照準しながら叫ぶが、フィリップの耳に入るのは不明瞭なノイズだった。

 何の術理も無い握力任せの首絞めだったが、リミッターの外れた人間の力で扼撃され、脳に回る血流が滞り、聴覚や思考に一時的な障害が起こっている。

 

 「フィリップ!」

 「馬鹿か、不用意に動くな! 相手の正体も分からないんだぞ!」

 

 咳き込み、ふらふらと覚束ない足元で立っているだけで動こうとしないフィリップに、ルキアが駆け寄ろうとしてステラに止められる。

 

 「あー……げほっ、げほっ」

 

 フィリップは頭を振り、咳き込む。

 首を絞められて反射的に滲んだ涙のせいで視界が霞む。思考はクリアだが、回転速度が著しく遅い。

 

 よろよろとよろめきながら後退したフィリップをルキアが抱き止め、幽鬼の足取りでそれを追ったウェイトレスの成れの果ては、

 

 「《ステイク》」

 

 ステラの放ったごく小規模な火災旋風に呑み込まれた。

 強烈に吸気する火災旋風に巻き込まれたカーテンやカーペットが、一瞬で灰になって消える。石造りの内壁で照り返した炎がフィリップへと舌を伸ばし、間一髪でルキアの魔力障壁が防いだ。

 

 轟々と燃え盛る焚刑の炎は、罪人の絶叫すら掻き消す高火力だ。

 本来は『フレイムプリズン』という上級高速魔術だったものを攻撃型に改良した、ステラのオリジナル。人間一人を殺すには十分と自負するだけの火力がある。

 

 ──しかし、

 

 「……冗談だろう?」

 

 魔術の効果時間が終わり、焼けて脆くなった骨に僅かな肉の燃えカスが付いただけになった残骸が、幽鬼の足取りで一歩を踏み出す。

 火刑に処された罪人の骸が未だ動いているような凄惨な光景に、ステラが思わず呆然と呟いた。

 

 身体を動かす筋肉なんて、とうに焼け付いて炭になっているのに。

 水分が蒸発した眼球は焼けて崩れ、ぽっかりと空いた眼窩が、ルキアとステラを睨み付けて、ゆっくりとこちらに向かって来ていた。

 

 かつては同じ人間であったものの、その形状しか残さない異常なモノが一歩を踏み出すごとに、ルキアとステラの中に強烈な嫌悪感が沸き上がる。自分と同じ形をしていたものの無残な姿は、自分もそうなる光景を強烈に想起させるからだ。

 

 「──ア」

 

 肺も気管も完全に焼け付いているはずの口から、憎悪に塗れた声が漏れる。

 炎が空気を食うシュウシュウという音と、薪代わりの肉が爆ぜるパチパチという音に混じるのは、邪神を讃える言葉だ。

 

 「イア イア──ア」

 

 ざく、と炭の砕ける音を立てて、焼けた死骸の顎が崩れる。

 フィリップ渾身の拳──ではなく、椅子が、その破壊の原因だった。

 

 重く硬い高級な木材が使われ、精緻な装飾の施された椅子を掴み、半ば投げ飛ばすように振り回して殴り付ける。

 水分を失って軽くなった骸は壁まで吹っ飛んで、背中と顔がボロボロと崩れた。

 

 その光景もまた、甚大な不快感を催させるものだったが、フィリップは気にも留めず、椅子を引き摺って近付き。

 

 ざく、と、椅子を振り下ろして、炭の塊を砕いた。

 ざく、ざく、ざく、と、硬い地面を耕すような調子で、何度も何度も椅子を振り下ろし、人間の残骸を粉微塵にする。

 

 その欠片がぴくりとも動かなくなるまで、入念に、丁寧に。この醜悪なものが、フィリップの大切なものを穢さぬように。

 

 「……」

 

 その間、フィリップはずっと無言だった。

 低俗すぎて愛玩の念すら湧くショゴスとは違い、サイメイギはちょうどいい位置だ。

 

 ちょうど──かける言葉も浮かばない、その必要性すら感じない劣等存在だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 多少の物音なら遮断する高級レストランの個室の壁は、今や概念の炎に巻かれて隔絶された隔離空間の壁になっていた。

 音も、光も、当然ながら魔術や矢などの攻撃も完全に遮断する、空間隔離魔術『煉獄』。フィリップが炭の塊を破砕する騒々しくも身の毛のよだつ音を、食事中であろう生徒たちに聞かせないための──様子を見に来させないための配慮だ。

 

 ことを終えたフィリップの顔が、疲れ切っているのにアドレナリンで冴え切った、どこか空虚にも見えるものであることに、ルキアとステラは安堵した。

 今までに見たことが無いような表情だが、それ故に、今までに見たことが無い苛烈な破砕行為を終えた後の顔として、簡単に納得できるものだったからだ。

 

 「ふぅ……」

 

 ごと、と、乱暴に扱っても壊れない硬く高級な木材で組まれた椅子を置いて、フィリップはふらふらとそこに座った。

 

 両手が、両足が、許容限界付近の筋力を引き出すためのアドレナリンに溺れ、ぷるぷると震えていた。

 ウルミという筋力ではなく身体の柔軟性と技量で振るう武器を使っているフィリップに、重いアンティークの椅子を何度も何度も振り回すような筋肉は無い。脳内物質様々、火事場の馬鹿力万歳である。

 

 「すみません、お水とってください。……どうも。……あわわわ」

 

 恐怖も無く、動揺も無く、ただ逼迫した必要性に駆られて分泌された神経物質が分解されきっておらず、ぷるぷる震える手がグラスの水を溢す。或いは純粋な筋肉の疲労も原因の一つかもしれない。

 

 手伝おうとしてくれたルキアを照れ混じりに制して水を飲み、ほっと一息ついた。

 

 「……二人とも、大丈夫ですか?」

 

 怪我はないか、恐怖や混乱といった狂気に繋がる精神負荷は許容範囲内か、どうやら遅効性らしいサイメイギの隷属ワインを飲んでいないか。様々な不安を内包した簡潔な問いに、ルキアとステラは互いに顔を見合わせた後、しっかりと頷く。

 

 「えぇ、平気よ」

 「むしろお前の方こそ大丈夫か? 腕がぷるぷるしているが……鍛え方を偏らせ過ぎたか?」

 

 フィリップを安心させようという気遣いの滲むステラの軽口にニヤリと笑ったフィリップは、「そんなことないですよ」と腕を曲げて上腕二頭筋を隆起させ、力こぶを作る。いや、作ろうとするが、完全に筋肉量が不足していた。

 少しだけ弛緩した空気の中、ルキアが恐る恐るといった風情で囁く。

 

 「……今のが、『死後も含めた永遠の忠誠』ということ?」

 「はい。それで……そんなことより、もっと大事な問題があります。だいじで、おおごとな問題があります」

 

 フィリップの言葉に、二人は一瞬も考えることなく頷く。

 このショッキングな出来事の直後でもそれなりに冷静なルキアとステラは、言われるまでも無くその“問題”に思い当たっていた。

 

 「このワインを持っていくよう、ナイ神父に指示した人物。及びその狙いは何か、ということだな」

 

 邪神が──このワインの製造元、というより原産元であるサイメイギが、直接企図したものではない。

 それはフィリップには確信を持って言えることで、ルキアとステラは神の思し召しならば出来ることなど無く、考えるだけ無駄なことだった。

 

 「このウェイトレスは、ナイ神父が「枢機卿の使いで来た」と言っていましたよね。加えて今のナイ神父は、完全に教皇庁に属する一人の神官として動いています。と、なると──」

 

 フィリップは誰の真似か、ぱちりと指を弾いてある一方を指す。

 その先にあるのは部屋の壁だが、その更に遠くには教皇庁がある。大陸一高価な教会、枢機卿たちの宮殿が。

 

 「容疑者は200人ですね。……200人かぁ。全員殺しませんか?」

 

 暫定的に敵対者をサイメイギ信仰のカルトと仮定しているフィリップは、とりあえず冗談半分に、そう提案してみる。

 カルトだと確定していれば実行に移しかねないという危惧は、ルキアとステラだけでなくフィリップ自身も自覚していた。

 

 

 

 

 

 



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213

 フィリップの挙げた200人という数字は、199人の枢機卿と1人の教皇を足し合わせた数だ。

 

 ところで、一般に『彼が教皇だ』とされている人物が、実は教皇ではないかもしれないというのは周知の事実だ。

 これも暗殺対策の一環なのだろうが、本物の教皇はただの枢機卿のふりをして199人の中に潜み、枢機卿の一人が教皇の影武者をしているのだという。なお、教皇が“本物”である可能性もあるが、投票式で決定される教皇とは違い影武者役はサイコロで決めるため、その確率は200分の1、0.5パーセントとなる。

 

 教皇が単なるシンボルではなく、儀式の実行役などの実務面で役割を持っているからこその対策だろう。

 

 暫定カルトのフィクサーを殺すために200人の枢機卿を皆殺しにすると、どこかで教皇まで殺してしまうことになる。

 そうなると、教皇庁のみならず一神教全体が大荒れするのは想像に難くない。その後に訪れるのは、派閥争いによる大量のセクト派生とカルトの活発化。フィリップにとっては望ましからぬ展開だった。

 

 珍しく自分の思考だけでそれに思い至ったフィリップは、

 

 「いえ、駄目ですね」

 

 と自分の提案を取り下げた。

 

 理由は他にもある。

 

 今までだって、カルトを殺すという理由でも、善良な他人を巻き込むことは避けてきた。ここでそれを捨てるのは将来の大破滅に繋がる。

 この思想の終着点は、「カルトを生じる可能性のある世界は滅ぼすべき」だ。人類がどうの、地球がどうの、宇宙がどうのではなく、三次元世界そのものの否定。外神たちのいる上位次元への逃避──フィリップ自身の外神化。フィリップの人類レベルでしかない脳が導き出すことのできる、最悪の結末。

 

 これは、これだけは避けるべきだ。

 

 カルトは殺す。なるべく惨たらしく。

 だが、そこに他人が巻き込まれるのは極力避けるべきだ。少なくとも何も知らない人々を纏めて吹き飛ばすのではなく、警告くらいはすべきだろう。

 

 特に、相手はカルトと確定したわけではない現状では。

 相手はカルト()()()だけだ。それでも殺すには十分だが、本物のカルトに対するほどの激情はない。

 

 「一先ず、犯人捜し……いや、その前に、この毒ワインが他にも無いか確かめるべきですね。明日は一日自由行動ですし、教皇庁のワインセラーにでも行ってみます。二人は──」

 「一緒に行くわ」

 「あぁ。またさっきのウェイトレスみたいな……邪神の奴隷が現れても、カーター一人では対処できないだろう? それに、捜索なら私たちの目や感知力は使えるぞ?」

 

 二人は宿で待っててください、と言われると思ったのだろう、二人が異口同音に同行を申し出る。フィリップは「二人はどうしますか?」と聞こうとしていたので、図らずも意を汲んだ答えのような形だった。

 

 「了解です。例のワインの原産元の邪神は……あー、なるべく見て欲しくないんですけど、最悪の場合はルキアの『明けの明星』が十分に通じる相手です。発狂のリスクも物理的な強さも……殿下はご存知の以前のアレより低いですね」

 

 以前のあれとは、フィリップが召喚したハスターではなく、ナイアーラトテップのテストで敵役として配置されていたクトゥルフの兵、ゾス星系よりのものの兵士個体のことだ。

 ルキアにもなにか安心させるようなことを言ってあげたいが、彼女の知る邪神はシュブ=ニグラスのみ。あれと比べて弱いなんて、何の安心材料にもならない。

 

 「教皇庁にはマイ──レイアール卿の伝手で入れると思いますけど、もしかして二人は顔パスだったりしますか?」

 

 サムズアップなどする頼もしい二人に、フィリップは一手間省けたぞとニヤリと笑う。

 

 「あとは、そうですね……ワインを焼くことになっても殿下が、ワインセラーが暗くてもルキアが居るので……何か要るものありますか? あ! これ持って行って犯人に飲ませましょう! 無限に殺せますよ!」

 「お前はカルト相手だと人が変わったように残酷になるな……」

 

 まだ瓶に半分以上残っているサイメイギの隷属ワインを取り上げ、「くっさ!」とけらけら笑うフィリップに、ステラは苦い笑いを浮かべる。

 フィリップの反応とステラの言葉で二人の認識を確認して、ルキアは軽く首を傾げた。

 

 「カルト? 枢機卿が犯人なのでしょう? カルトというより、その邪神を利用しているだけじゃないの?」

 「唯一神を信仰している奴が、私達を狙うか? ……いや、カーターを狙ったという線は捨てきれないが」

 

 ナイ神父の意図が介在しないのであれば、ワインの──悪意の宛先がフィリップであったとしても、何ら不思議はない。既に幾度も「聖下のお傍にこんな奴が」みたいな言説に晒されているのだし。

 教皇領に来てからだって、嫉妬の籠った視線を受けたことは何度もある。このお祭りムードと先日の牛追い祭りでの活躍もあって、実害に発展する気配は全くと言っていいほど無かったが。

 

 真面目な顔になった二人に、フィリップは何の話だろうとワインに栓をして真面目な顔を作る。が、その悲しげな視線は戦闘のどさくさで倒れたキッチンワゴンからこぼれた、スープとパンに向けられていた。床面は『煉獄』の万物を燃やす概念の炎に巻かれておらず、零れたスープをパンが吸ってふやけていた。

 

 「──いや、しかし、カーターがこういう反応をするからには、何かカルトだと仮定する根拠があるんじゃないか?」

 「……そうなの、フィリップ?」

 

 お腹減ったなぁ、とぼんやり考えていたフィリップは、名前を呼ばれて視線を上げる。

 「なんですか?」と問い返すと、話を聞いていなかったのかと呆れた視線を頂いた。

 

 「そもそも敵はカルトなのか? それとも、単に邪神の力を使っている一神教徒か?」

 「さぁ? その辺りも含めて明日調べるつもりですけど……そもそもその二つって何が違うんですか?」

 「え? いや、信仰の所在が違うだろう? 邪神を信仰しているのがカルト……だと思っていたんだが。お前は“カルト”をどう定義しているんだ?」

 

 ステラの問いに、沈黙が返される。

 

 沈黙。

 黙考──ではない。

 

 それは驚愕から来る思考停止、衝撃のあまり空白化した意識の発露だった。

 

 言われて初めて、フィリップは自分の中に“これがカルトだ”という確固たる基準が無いことに気が付いた。

 

 「……フィリップ?」

 「どうした? そんなに悩むようなことか?」

 

 ルキアとステラの困惑の声が、耳の上を滑っていく。

 

 カルトとは何か。

 一神教の定義に則るのなら、“正統派および公認分派以外を信仰する者”だ。

 

 だが、フィリップにとって信仰の所在は然したる問題ではない。

 「一神教徒ではないから殺そう」なんて思ったことは一度も無いし、それだとシュブ=ニグラスを信仰するルキアも、無信仰のステラも対象になる。フィリップ自身もだ。

 

 では“邪神の力を利用している者”という定義はというと、これも違う。

 これもフィリップ自身が含まれるし、その所業が人類社会を汚染しないのなら、そしてフィリップとその近辺に害が及ばないのなら好きにすればいいと思っている。

 

 “群れた邪神信仰者”? “犯罪行為を行う宗教集団”? “宗教的理由によって他者を害する者”?

 どれも正しそうではあるが、そのどれにもピンと来ない。

 

 おそらく、フィリップは明確な基準を以てカルトを認定していない。これまでも、今この時も。

 

 だから、強いて言うのなら、

 

 「僕がカルトだと思ったら、でしょうか」

 

 それが答えだ。

 

 自分の価値判断が全て。

 自分が嫌いなら悪であり、滅ぼすべき対象になる。

 

 何とも傲慢で、自己中心的な思考だ。同じロジックで動く人間が居たら、フィリップは指を差して嘲笑うだろう。非人間的だ、と。

 

 いや、そもそもこんなものは論理(ロジック)ではない。ただの感情だ。

 事実、フィリップがカルトを狩るのは感情のため、徹頭徹尾、自己満足だ。誰かのためなどと嘯くつもりは毛頭ない。

 

 フィリップが後生大事に抱いている人間性の残滓──それが未だ完全であった最後の瞬間まで抱いていた、甚大な恐怖心。そして砕け散ったあと、最初に抱いた膨大な憎悪。

 一年を超えてなお持続する、根深い感情。フィリップの行動原理は、それだけだ。勿論、ルキアやステラを害するというのならそれも殺す理由の一つになるが、根幹にあるのはエゴだった。

 

 それを悪であると断じることは簡単だ。

 だが、無意味だ。邪神の所業の善悪を問うなど、不毛極まる。

 

 人が蟻を踏み潰したことに気付かず歩き去るように、人を殺したことに気付かず、ただ在るもの。それが邪神の、フィリップに与えられた外神の視座が囁く、超越存在の在り方だ。

 「敵だから」「嫌いだから」なんて理由付けをしている分、まだマシというか、人間寄りの在り方だといえる。

 

 「危険な考え方だな」

 「そうかもですね」

 

 ステラの危惧に返された適当な肯定の裏には、何も無い。

 フィリップは本心からその通りだと思っていたし、その通りであるという認識以上の、何か特別な意識は無かった。それは悪だという意識も、非人間的ではないかという懸念も、その思想が孕む危うさへの危惧も、何も無い。ただ、1+1の計算結果が2であることを告げられたような、無感動の同意だけだ。

 

 「少なくとも今回の相手は“カルトっぽい”ですからね。どうせなら200人全員が──いえ、この薄汚れた町全体が、カルトに染まっていてくれると楽でいいんですけど」

 

 一人は殺せる。五人は厳しい。そして街一つは余裕という、相変わらず火力調節の利かない爆弾の身としては、敵は中途半端より膨大である方がいい。その方が、何も気にせずぶっ放すだけで済む。

 

 「小を兼ねない大は大変ね?」

 「全くです。ルキアが羨ましいですよ」

 

 けらけらと笑うフィリップに、ルキアも薄く笑顔を浮かべる。

 自分の都合で人を殺すことに一切の抵抗が無い傲慢二人組に、呆れ笑いを浮かべたステラが小さく溜息を吐く。

 

 「いや、敵は少ない方がいいぞ? カーターだって、カルトが居ないに越したことはないだろう?」

 

 フィリップはまたけらけらと笑って「そうですね」と肯定する。

 そして、にっこりと、楽しい未来を夢想するような笑顔を浮かべた。

 

 「じゃあ、ゼロにしましょう。この町からカルトを絶滅させます。……手伝って下さい」

 

 何人いるのかもわからない、その正体も狙いも分からない状態で吐くには、大言とも言える言葉だが──覆すことはない。

 ナイ神父風に言うのなら、これは、フィリップの意志に基づく決定事項だった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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214

 翌日、修学旅行四日目。

 町全体が明日に執り行われる大洗礼の儀に備えて祭りを自粛し、静かに信仰心を磨いているからか、通りの出店や人通りは昨日の半分くらいだ。それでもまだまだ騒がしく楽し気だったが、フィリップたちは通りを足早に抜け、教皇庁の門前に立っていた。

 

 教皇庁は教会と要塞を綯交ぜにしたような外観で、神聖さより先に堅牢さを感じる。

 有事の際には魔術師を並べ砲撃させるための凹凸──鋸壁のついた回廊を持つ外壁の奥には広大な中庭があり、そのさらに奥に、幾つもの尖塔を持つ宮殿が聳える。それこそが、教皇と枢機卿の居城にして、一神教の中枢、そして四年に一度の大洗礼の儀を執り行う世界最大の教会でもある、教皇庁だ。

 

 門前とは言ったが、門らしき門はない。城壁と呼んで差し支えない外壁に、本来備わっているべき鉄の門は取り外されている。門というよりアーチ、あるいは正面開口部といった風情だ。

 

 歴史を感じる石造りのアーチをくぐり、綺麗な石畳の敷かれた中庭に一歩を踏み出した瞬間、ぱたぱたと修道服姿の男女が左右から二人ずつ、慌ただしく駆け寄ってきた。

 

 「よ、ようこそ御出で下さいました、サークリス聖下、ステラ聖下。本日はどのような──」

 「いや、構うな。こいつが教皇庁の中を見たいと言い出してな。ちょっとした観光だ」

 

 ステラは呆れ笑いでフィリップを示し、フィリップはへへへと照れ笑いを浮かべる。

 一応は門番役なのか、彼らは困ったように顔を見合わせるが、その中の一人はフィリップを知っていた。

 

 「あ、あなた、一昨日も来られませんでしたか? レイアール卿とご一緒に」

 「あー……そうです。あの時はナイ神父に用があって」

 

 フィリップの言葉に顔を見合わせた修道士たちは、最終的に「教会の関係者か」という結論に至り、「どうぞごゆっくり」と離れていった。

 いよいよ本格的に勘違いが広まりつつあると嘆くべきか、これに関しては100パーセントの勘違いではないので仕方ないと諦めるべきか、じっくり数秒ほど考えたフィリップは、愛想笑いで見送った。

 

 「……枢機卿関係者にして聖国王関係者、神父と親しい何某か。どんどん誤解が積み重なっていくな?」

 「微妙に根拠があるだけに、根も葉もないわけじゃないのが辛いところね」

 「全くです……」

 

 愚痴っぽいことを言って笑ったりなどしつつ、三人は教皇庁の中をぐるりと回る。

 怪しいところが無いかという確認と、ワインセラーに直行するという怪しい動きをしないため、怪しまれないための二重の意味があった。

 

 これが意外にも楽しく、城塞建築的な部分はフィリップの少年心を十分に満たしてくれた。壮麗な宮殿といった風情の内装ながら、ふとした時に無骨な狭間──弓矢や魔術で攻撃するため、壁に開けられた小さなスリット状の小窓──なんかが目に入ると、テンションが上がる。

 

 たとえ横から、

 

 「……こんな厚さの壁、簡単に貫通するわよね?」

 「というか、魔術防護が全く施されていないからな。壁向こうの人間を直接照準できるぞ」

 

 と、重厚な石造りの壁を、ぺらぺらの障子紙に見せるような会話が聞こえてきても、だ。

 

 「さて、そろそろ十分だろう。ワインセラーの場所は分かるか?」

 「え? ……あっ」

 「だろうな。ゴシック様式でアンリ・ルーベルのデザインだから……傾向的にはあの辺りが厨房で、その地下がワインセラーだが」

 

 ステラは外観から推察される大雑把な構造の見取り図と間取りを脳内で再現し、数百年前の建築の巨匠の手になる他の作品と照らして推測する。その指先は、ちょうど窓から見える辺りを示していた。

 なんかカッコいい推理方法だなと、ステラが不意に見せた教養に、フィリップは思わず目を瞠る。

 

 取り敢えず向かってみると、ビンゴ。ちょうど彼女の示した場所が厨房で、近くにはワインセラーに繋がっていると思しき地下に続く跳ね扉もあった。

 時間帯ゆえか、広い厨房には誰もいなかった。調理器具の数がかなり多く、きちんと置かれていても雑多で、無人なのに喧しいような不思議な感じだ。もうしばらくすれば、昼食の準備をする修道士や料理人たちがぞろぞろとやって来るだろう。

 

 「え、すご……こんなこと出来るんですか?」

 「えぇ、本当に驚いたわ。ルーベルのゴシック建築なんて、デザインレベルで関わったものを含めるなら百を超えるわよ?」

 「だからこそ、傾向から推測できるんじゃないか」

 

 何を言っているんだと言いたげなステラに、ルキアとフィリップは顔を見合わせて苦笑する。

 現存する100以上のゴシック建築の間取りを把握し、その建築家のデザイン傾向を割り出せと言われても、フィリップは勿論のこと、ルキアでも無理だ。

 

 「よく覚えていたわね、そんなの。建築学に興味があったの?」

 「いや、戦術だな。この手の要塞型教会を実戦利用された場合の対処法についてとか、子供の頃から勉強していたんだ」

 「へぇ……すごいですね、殿下。流石です」

 

 フィリップにしては珍しい冷笑や嘲笑の籠らない本気の称賛に、褒められ慣れているステラが瞠目する。一瞬だけだが。

 

 「まぁな。ほら、ルキアも褒めてくれていいんだぞ?」

 「はいはい、後でね。先にワインセラーを確認するわよ」

 

 ステラの照れ隠しに目敏く気付いたルキアは、「仕方ないわね」と言いたげな溜息と共に乗ってあげることにして、地下に続く跳ね扉についていた錠前を破壊した。

 指先大の光の弾丸が閂の部分を無音で貫く。錠前も鎖もそれなりに使い込まれており、跳ね戸も油が差されていてスムーズに動く。ワインセラーには人がよく出入りするのだろう。

 

 「ここに何も無ければ、枢機卿の居住区を漁るしかないな」

 「200人分ですか……。ともかく、誰もいないうちに確認しちゃいましょう」

 

 跳ね戸を開け、石段を降りていくと、錬金術製のランプがあった。火を使わず高温にもならない、そこそこ値の張る逸品だ。

 

 明かりを灯すと、壁一面の棚と整然と並んだワイン瓶がぼんやりと照らされる。

 ランプの薄明りをガラスが反射して、中の液体がきらきらと輝いていた。

 

 ステラがワイン瓶の一つを取り上げ、貼られたラベルをさらりと流し読む。

 

 「……これは昨日と同じ銘柄のものだな。指輪に反応は無いが……どうだ、カーター?」

 「多分、普通のワインです。開けてみないと断定はできませんが」

 

 流石に開ける訳にはいかず、ステラは持っていた瓶をそっと棚に戻した。

 

 特筆して狭くも無ければ広くも無い部屋をぐるりと一周したルキアは、顎に手を遣って首を傾げる。

 

 「棚に空きが無いわね。昨日ここから出したとして、そんなにすぐに補充するものなの?」

 「……私に聞くな」

 

 ルキアもステラも、実家ではほぼ毎日ワインを飲んでいた。個人の嗜好ではなく、上流階級の家庭では、夕食にはワインが合わせられることが多い。

 とはいえ、二人は自分でワインをセラーから出し、自分で補充していたわけではない。そういうのは使用人の仕事だ。

 

 二人の視線が元宿屋の丁稚であるフィリップに向くが、タベールナは食堂が近隣住民の外食場所として人気になるような大衆宿だ。「酒のチョイスが巧い」と評判だったが、それは主人であるセルジオの目利きと、仕入れを取り仕切る彼の手腕に拠るところが大きい。

 

 つまり、おそらく消費ペースが教皇庁とは違い、しかもフィリップは仕入れのタイミングや量を知らないということである。

 

 「いや、僕も分からないです。でも空きが無いってことは、今朝辺りに補充したんじゃないですか? 昨日の夜には、あのワイン以外も、ここの食堂で出されたでしょうし」

 「そうだな。まぁ、ここに無いのなら一安心だ。いつの間にか教皇庁が邪神の奴隷に乗っ取られていた、なんて、笑えない話だしな」

 「全くね。その安心感だけでも大収穫だわ」

 

 三人は一先ずの安堵を胸に、ワインセラーを後にする。

 破壊した錠前は鎖ごと跡形も無く蒸発させておいた。運が良ければ、開錠後に紛失したのではと勘違いしてくれるだろう。

 

 「さて……そうなると、枢機卿の部屋を百と九十九個、検分しないといけないわけですが……」

 

 中庭に設えられたベンチに座ったフィリップたちは、改めて確認した膨大な作業量に憂鬱な溜息を吐いた。

 

 考えただけで倦厭が募る作業工程だが、やるしかない。

 だが、フィリップのモチベーション以外にも一つ、重要かつ前提的な問題があった。

 

 「警備、そして部屋に残っている枢機卿と傍仕えをどうするか、だな。一応、明日の儀式中には殆ど人がいなくなると思うが……」

 「儀式は式典を合わせても二時間くらい。移動時間を抜いても、一部屋当たり100秒程度で調べ終える必要があるわね」

 「魔力視も無しでは非現実的な数字だな。私達は儀式に出ないといけないから、カーター一人での捜索になるが……出来そうか?」

 

 ステラの問いに、フィリップは草臥れたように首を振って否定する。

 いや、レイアール卿ことマイノグーラを動員すればどうとでもなるだろうが、あれもナイ神父の言う「おねだりすればなんでも叶えてくれる優しいお母さん」ではない。フィリップが頼んだからと言って、無数の化身を貸してくれるかどうかは怪しいところだ。それに、そもそもフィリップは、外神の手を借りることをあまり善しとしない。

 

 「せめて、容疑者を絞り込めたらいいんですけど」

 「私たちを狙ったのか、お前を狙ったのかも分からない状態では、流石に推理材料が少なすぎるな。むしろ、そいつが手駒にしているナイ神父をよく知っている、カーターにこそ考えてほしい。奴が恭順するとしたら、どんな手合いだ?」

 

 大真面目な顔で問いかけるステラに、フィリップは思わずくすりと笑いを溢す。

 

 「ナイ神父が誰かに恭順するなんて、有り得ませんよ。あれは単純に、この状況が面白そうだから乗っかっているだけです。面白そう、という点で考えると……僕狙い、でしょうか」

 「貴方に害意を持つ枢機卿なんて……いえ、“使徒”の一件で、王国中枢部に「使徒の上役である」と顔と名前を明かしてしまった三人は、恨みを持っていてもおかしくないわね」

 「あと、昨日訪ねて来たトリス枢機卿だな。……私たちを穢したのと同じワインで、という趣向かもしれない」

 

 なるほど、と頷きながら、フィリップは懐疑的だった。

 聖痕者への信仰心から来るフィリップへの嫉妬が理由だとしたら、その報復手段に邪神の力を使うとは考えにくい。信仰心の為に殺人を許容するのだとしたら、相当に強い信仰心を持っているはずだ。なら、他の神の力を使おうなどとはしないはず。

 

 或いは手段は手段と割り切れる、信仰心を脇に置くだけの柔軟性があるのかもしれないが。

 

 「となると、容疑者は四人ですか。このくらいなら儀式中に──?」

 

 視界の端で、中庭の片隅にある小さな別棟から出て来た、修道服姿の人物が目に付いた。別棟というか、本棟と比べると小屋でしかない。

 彼──おそらく男性──は夏前だというのにフードをすっぽりと被り、古びた金属扉を閂と鎖でがっちりと施錠すると、人目を避けるようにそそくさと本棟へ入っていった。

 

 どう見ても怪しい動きだったが、よく見ると、周りの修道士たちは誰も彼もそんな感じで忙しなく動いている。彼も人目を避けるように、というより、ただ忙しいだけなのだろう。なんせ、明日は四年に一度の大儀式の日、仕事や準備が山積みのはずだ。

 

 「殿下、あの建物って何ですか?」

 「いや、私も別に何から何まで知っているわけじゃないんだが……あぁ、あそこは旧地下墓地(カタコンベ)の入り口だな」

 「へぇ……」

 

 疑問が解消され、特にそれ以上の興味が無かったフィリップの気の無い返事で、会話が途切れる。

 そのまま何となくベンチを立ち、石造りで歴史を感じる教皇庁の中でもひときわ古びた別棟に近付き、所々に錆の浮いた金属扉を撫でた。

 

 瞬間、

 

 「──テケリ・リ」

 

 厚い扉の奥から、くぐもった耳障りな鳴き声が届いた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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215

 聞きたくなかった──少なくともルキアとステラが一緒に居る時には聞きたくなかった鳴き声に、フィリップは思わず扉を見つめる。その見通せもしない奥を見るように。

 そして俯いて、ここから出て来た修道士が去って行った方を見て、扉を二度見した。

 

 「……え?」

 

 ごんごんごん、と金属扉をノックするが、もう鳴き声は聞こえない。

 聞き違いか。いや聞き違いであってくれと、心の底から望むところなのだが──たとえ聞き違いでも、確認しないわけにはいかない。

 

 「はぁ……」

 

 見るからに挙動不審なフィリップを慮って近付いてくるルキアとステラに、どう言い訳しようかと考える。

 フィリップは今からここを開けて貰い、かつ二人には入るなと失礼なことを言う必要があった。ド丁寧作戦は、却って失礼になるという失敗経験があるし……と知恵を絞り、最終的には諦めた。

 

 ──言い逃れとか無理だ、適当にぼかして、正直に言おう。

 

 「どうしたの、フィリップ?」

 「何か見つけたのか?」

 

 二人は振り返ったフィリップの表情を見て、すぐに善からぬことだと悟る。

 

 「……例の邪神か?」

 「……地下墓地を吹き飛ばす?」

 「どちらもNOです。……でも、二人には見せたくない、敵です。僕が倒してくるので、ここを開けて貰えませんか? その後は、ここで待っててください」

 

 フィリップの言葉に頷いたのはルキアだけで、ステラは変わらず心配そうな表情で、フィリップの目をじっと見つめる。

 

 「大丈夫なのか? その……お前が昨日戦った相手なら、『拍奪』の効かない相手じゃないのか? それに、ここは開けたらすぐに階段だと思うが、狭い階段では『拍奪』を使えないだろ?」

 

 的確な推理を披露するステラに思わず苦笑する。

 昨日戦った、ということは、ワイン祭が終わった後のことだろう。切り裂かれたジャケットを見られたのは失策だった。そんな小さなことで、ここまで高精度な推察ができる──そういう才媛だと、十分に知っていたはずなのだが。

 

 「はい、大丈夫です。昨日だって、無傷だったじゃないですか」

 「……分かった。だが、危険だと思ったらすぐに私たちを呼ぶんだぞ?」

 「ははは」

 

 ステラとしては真剣な言葉を、フィリップは肯定も否定もせず、ただ笑う。

 

 失礼なことだが、仕方のないことでもあった。

 だって──()()()()()()()なんて状況は、フィリップには我が事ながら想像がつかない。

 

 たとえ外神が──たとえばマイノグーラ辺りが敵対してきたとしても、フィリップには幾千万の外神が付いている。憑いているといっていいレベルで一方的かつ傍迷惑な話だが。

 それにナイアーラトテップも言っていた通り、極論、ヨグ=ソトースが居る時点で絶対安全と言えるのだ。たぶん、きっと、そのはずだ。

 

 あぁ、でも、サイメイギの隷属ワインが津波のように襲い掛かってくるとしたら、それは少し危険だ。

 フィリップがそれを飲んだ場合にどうなるのかは知らないが、昨日の外神の智慧は、それはもう大音量の警鐘を鳴らしていた。「それは君を殺せますよ」なんて次元ではなく「全力で避けろ、距離を取れ、死んでも飲むな」ぐらいの。危機管理意識や生存欲の死につつあるフィリップが、「あ、これはホントに危険なんだな」と思うほどの、全力の警告だった。

 

 脅威度の低い順に並べると、ショゴス<ハスター<サイメイギの隷属ワインという順だ。旧支配者とはいえヨグ=ソトースの落とし仔であるハスターより上の脅威度とは、何とも不思議な脅威判定だが、知識と意志を持つハスターはフィリップに敵対しないからだろう。

 それでも、フィリップには精神汚染が効かないはずなので、ただの汚物混入ワインでしかないと思うのだが。

 

 「じゃあ、開けてください」

 「……分かった」

 

 フィリップの抱いた自嘲には気付いたはずで、フィリップがステラの言葉に是とも否とも答えていないことも分かっただろうが、ステラは物言いたげな表情で頷いた。

 

 掌大の頑丈そうな錠前が一瞬で溶解し、そのまま気体金属になって霧散する。ほんの僅かに熱気を感じ、風と共に消えた。

 

 三人は頷きを交わし、フィリップが扉に手を掛ける。

 ここはワインセラーと違って日常的な出入りが無いのだろう、重い金属扉が錆に軋みながら開く。その奥にぽっかりと空いた闇の大口に、フィリップだけが何の躊躇も無く足を踏み入れた。

 

 地下に続く階段に足を踏み入れると、瞬間、埃と淀みの匂いが纏わりついた。

 扉を開けただけでは分からなかった、地下墓地という鬱屈した場所に相応しい気配がある。大陸北部に位置する教皇領は湿気が少なく、地下空間も苔むしてじめじめしているわけではなく、むしろ乾燥した埃と砂塵に塗れていた。

 

 「けほっ……」

 

 息を殺して降りていこうと決めていたにもかかわらず、地上から僅かに吹き込んだ風で舞い上がった埃を吸い、咳き込んでしまう。

 瞬間、階段の下から、ぞわぞわぞわっ! と、無数の何かが一斉に蠢くような気配がした。

 

 階段の下は真っ暗で、一歩進むごとに足元が判然としなくなる。階段は粗雑な石造りで、表面の研磨加工さえ行われなかった古い時代のものだ。ごつごつしていて歩きにくい。油断すると転倒して、そのまま闇の大口へころころ転がって、ショゴスに喰われてジ・エンドだ。

 

 「ルキア! 下まで照らせませんか!」

 「魔力視を使っていいなら確実だけど、駄目なのよね? なら──《ノンアテニュエーション》」

 

 ルキアの魔術行使の直後、入り口から差し込む光が急激に強くなる。

 差し込む光の量や明るさ自体は一定だが、距離と反射による減衰率が著しく低下し、より遠くまで照らせるサーチライトのようになっていた。

 

 階段は少し降りると直角の曲がり角があり、その先はここからでは見えない。しかし凹凸の激しい石壁に当たっても光量を減衰させない光が、その先までを照らしてくれているのは分かった。

 フィリップは安心して階段を降り、ウルミのグリップに手を掛けながら曲がり角を左折。

 

 そして──目が、合った。

 無数に瞬く、緑色の目。双眸という言葉が不適切になる、幾つもの眼球。

 

 「テケリ・リ」

 

 黄色い乱杭歯の並んだ口が嘲笑の形に歪められ、聞くに堪えない耳障りな鳴き声を漏らす。

 

 「テケリ・リ」

 

 幾つもの眼球がこちらを見据え、無機質な殺意の籠った視線が全身を貫く。無感動で、無感情で、機械的な殺意──所詮は被造物、命令に従う意思無き傀儡に相応しい、不細工な在り方だ。外神の視座が、そう嘲笑う。

 

 「テケリ・リ」

 

 眼前に聳えるのは、それらを備えたタールの壁。

 漆黒の粘体はルキアの魔術によって地下にまで届けられた陽光を浴び、その表面を玉虫色に蠢かせる。

 

 「テケリ・リ」

 

 否、それは壁ではなく。

 

 『テケリ・リ──!』

 

 直径1メートルほどの粘体の塊、本来は直径4メートルを下回らないショゴスの下級個体が、無数に積み重なって出来た()()だった。

 

 粘体の壁から無数の触手が生え出でて、槍や、剣や、茨の鞭に成形される。

 外敵排除──否、侵入者排除に適した形状だ。

 

 外神の視座が囁く嘲笑、身の程を弁えない劣等種に対する軽蔑を表す形に歪められた口元を、頬を叩いて引き締め直す。

 

 「1、2、3……全部で20体ぐらいかな? もうちょっと多いか」

 

 ぱっと見で20体。下級ショゴスが20体集まっている。

 一体でも十分に人間を殺し得る、一体でもフィリップのジャケットの裾くらいには触手の届くモノが、20体だ。

 

 その程度、誤差──な、わけがない!

 

 ぱちん! と乾いた音を立てて、フィリップはそこそこ本気で自分の頬を叩いた。

 下級ショゴスの一体だろうが一兆体だろうが腕の一振りすら要さず殺し尽くせる外神の視座が囁く慢心を、痛みで以て黙らせる。

 

 心の中で喧しく哄笑するモノが沈黙すると、その直後には人間的な──現実的な判断能力が帰ってくる。瞬間、

 

 「あ、これは無理だ」

 

 フィリップは即座に踵を返し、走りにくい石段を全力で駆け上がった。

 ぞぞぞぞ! と凄まじい音が背後から聞こえ、雪崩れ落ちたショゴスの壁が、そのまま津波のように追って来ているのが否応なく理解できる。

 

 そう長いわけでもない階段を降りて、すぐに駆け上がってきたフィリップに、地上で待っているルキアとステラが身構える。

 

 「見るな!!」

 「っ!」

 

 フィリップの鋭い警告に、二人は反射的な速度で目を瞑る。

 フィリップから見て右側にいたルキアが右手を、左側にいたステラが左手を伸ばした。

 

 「フィリップ!」

 「手を取れ!」

 

 フィリップが二つの手を掴むと同時に、ルキアとステラはフィリップを挟み、ワルツでも踊っているような所作で半身を切る。

 二人が二人ともフィリップを抱き止めようとしていたせいで、図らずも抱き合うルキアとステラの間にフィリップが挟まるような形になった。

 

 ルキアとステラは肌感覚で自分たちの可笑しな状態に気付き、口角を上げる。しかし、視線を交わして笑い合うような余裕は無い。

 

 「敵の大きさ、数、対処!」

 「え、えっと、小さい、沢山、殲滅!」

 

 地下から這いずり階段を上ってくる、沢山のショゴスが立てる聞くに堪えない音を聞いた所為だろう。ステラは焦ったように、最低限の単語で質問する。フィリップにも彼女の焦りが伝播し、元々持っていた自分自身の焦りと合わさって、端的なのに噛む寸前の答えだった。

 

 だが、十分だ。

 必要な情報は揃っている。

 

 互いの腰に回された──ついで程度にフィリップの腰を経由している──方とは逆の手が、階段の下に照準される。

 ほんの数秒見ただけの景色だが、二人の空間把握力と記憶力であれば、魔術式に代入する空間情報変数はこの上なく精密なものだ。

 

 「《アンプリファイレーザー》!」

 「《インシネレーションファイア》!」

 

 ルキアの詠唱が齎したものは、一筋の光だ。

 それは雲間から射す天使の階のような神聖さは無く、あの『明けの明星』のように派手な大破壊も齎さない、指先ほどの光の筋に過ぎない。

 

 しかし、敵の正体を知らないルキアが選んだというだけで、その殺傷性の高さは窺い知れる。

 

 上級攻撃魔術『アンプリファイレーザー』は、閉所最強と名高い魔術だ。

 ただの直線、或いは屋外で使っても、ただ貫通破壊力のある光線に過ぎない。しかし、反射する毎に数パーセントずつ威力が上がるという特殊な性質を持つそれは、横幅三メートル程度の階段という閉鎖空間では瞬時に膨大な威力へと成長し、光の反射する軌道上を破壊し尽くした。

 

 対して、ステラの魔術『インシネレーションファイア』が齎したものは、静謐さの欠片も無い蹂躙だ。

 拡散性や延焼能力を極限まで削り、温度の一極に特化した炎は、限界射程5メートル、限界拡散2メートルという超の付く局所攻撃だ。しかし、その温度は1500度にも上る。

 

 1500度──基礎温度が、1500度だ。石造りの閉所はそのまま窯か、火葬炉へと変貌した。

 石造りの地下階段を融かしながら、炎の勢いとその温度は反射増幅されていく。

 

 殆ど無音のルキアの魔術に一瞬遅れて、炎が空気を喰らう轟々という音が熱気と共に肌を打つ。

 そして数秒の後には、全くの無音に戻り──空気の無くなった地下空間へ、外の空気が強烈に流れ込んだ。

 

 「……終わったな?」

 「……はい、完璧です」

 

 ルキアとステラは火を消したばかりのオーブンそのものといった風情の階段への転落を避けるため、お互いを抱く手に力を込めて、一歩下がった。

 

 二人に挟まれたフィリップが圧迫され、んむ、と呻く。

 ステラの方が引く力が強かったため、フィリップはルキアの方を向いて挟まれている。つまり身長的に、目の前にはルキアの真っ白な首筋とくっきりとした鎖骨があり、少し視線を下げると厚手のワンピースに包まれた豊かな胸が、フィリップの胸元で押し潰されているという状態だ。背中はステラが同じく。

 

 石鹸と紅茶と、その奥にある形容しがたい甘く蕩けるような香りを感じながら、身体の前後を柔らかに包まれているという状態だが──フィリップの関心は、二人の目元にあった。

 

 苦労して振り返って確認すると、二人とも、しっかりと目を閉じている。

 恐怖に震えていたり、突発的で理由の分からない行動に出るような気配は無い。──セーフ、だろう。

 

 「ふぅ……流石です。助かりました!」

 「おいおいおい馬鹿か、大火傷するぞ!?」

 

 これで大丈夫だな、と地下に戻ろうとしたフィリップの腕を、ステラが間一髪のところで捕まえる。

 石階段はところどころ溶けて冷え固まり、変形している。局所的にガラス化さえしているところに踏み込めば、或いは大火傷では済まないかもしれなかった。

 

 

 

 

 



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216

 一行は夕刻まで、中庭から地下墓地への入り口を見張っていた。使用直後の石窯そのものといった空間に入るわけにはいかないからだ。

 

 ステラにかかれば熱操作による排熱も可能だったが、あの黒いローブの人物が様子を見に来たりはしないか、あわよくばその場で捕まえられないかという狙いがある。

 

 途中でサンドイッチやらジュースやらおやつやらを買いに行って、一緒のベンチで食べていたので、傍目にはピクニック気分の仲良しトリオにでも見えていたはずだ。少なくとも、ルキアとステラの演技は完璧で、フィリップまで「見張りのこと忘れてないよね?」と心配になるほどだった。

 

 たっぷりと時間を空けてオーブン、もとい地下階段の熱を冷ました一行は、遂に地下墓地へと踏み込むことに決めた。

 

 当初の予定ではフィリップ一人で行くつもりだったのだが、フィリップ一人では対処できないモノが出てくることが半ば確定したので、ルキアとステラも一緒に。

 フィリップは「そういう怪物が出るからこそ入ってほしくない」と言い募ったのだが、ステラが「さっきみたいに、手を繋いで目を瞑って全域攻撃すればいいだろ?」と、頭が良いのか悪いのかよく分からない解決策を提示したことで押し切られた。

 

 さっきみたいに地下墓地を石焼窯にされると、魔術耐性のないフィリップは普通に死ぬのだが。

 

 だが、まあ、ここがショゴスの巣なのだとしたら、流石に放置はできないというか、これを潰せばフィリップの懸案事項が一つ減るわけだ。

 討ち漏らしの確認と、もしあるのなら、発生理由まで確認しておきたい。野良ショゴスの定着が土地的なものではなく、王都にも発生しうる問題ではないという確証が欲しい。或いは、王都で生じる可能性を減らす方法を知るために。

 

 「あ、ここ融けてます。足元気をつけてください」

 「ありがとう、フィリップ」

 「殿下、ちょっとこっちに。壁に当たりますよ」

 「おっと、ありがとう」

 

 目を閉じた二人に挟まれて手を繋ぎ、よちよちと階段を降りていく。ルキアが光球──ただの光源魔術──を浮かべて明るさを確保してくれていた。

 

 地下墓地というからには墓石が並んでじめじめしている、おどろおどろしい場所なのだろうと思っていたのだが、単なる石造りの小部屋だった。縦横五メートルほどの狭い空間には、左右の壁に二つずつ、埋めるような形で石の棺が安置されているだけだ。

 先程の魔術のせいで仄かに暖かいが、土地柄もあって湿気は無い。苔むしていたり、石の床を虫が這っていたりもしない。炎が直接当たらなかったからだろう、綺麗なものだ。

 

 「……あれ、行き止まりですよ? 棺が四つあるだけです」

 「地下墓地ってそういうものよ? 何を想像して……いえ、貴方の推測では、何があるはずだったの?」

 

 ルキアに問われ、フィリップが何となく想像していた『地下墓地』ではなく、何となく想像していた『野良ショゴスのねぐら』に思考の焦点を当てる。

 

 ショゴスは被造生物であり、基本的には自発的な思考力と生殖能力を持たない。

 しかし変異種であれば、生殖細胞や思考能力を獲得する個体もいるだろう。ショゴスの細胞はあらゆる細胞の原型である外神ウボ=サスラを模倣したもの、あらゆる細胞に置換することができる万能細胞──を、目標として作られたものだ。未完成だが。

 

 通常の生物──たとえば野良犬程度の知性を持っていると仮定すると、ここは20匹規模の巣にしては綺麗すぎる。

 もっとこう、死体が転がっていたりとか──それこそ、偏食家の野良ショゴスのことだ、眼球だけ抉って食べ残された死体が放置されて腐敗していたりとか、そういう状況が想定されていた。

 

 ショゴスの増殖形態は知らないが、自己分裂か無性生殖か、有性生殖でも卵生か胎生かだろう。流石に何もないところからポンと現れたり、砂埃や石くれから生まれたりはしないはずだ。

 しかしここには、増殖行為や食事といった、存在の痕跡が殆ど無い。這いずった跡は僅かにあるが、積もっていたであろう、痕跡をはっきりと残してくれる砂埃は、先程の攻撃の余波で吹き散らされている。

 

 「……もっと雑多なところかと」

 「そう。……? ステラ、あそこの角、分かる?」

 「……あぁ、何かあるな。カーター、右奥の隅だ」

 

 緊迫した様子の無い二人の声に導かれ、言われた通りの場所に目を向ける。

 特にこれといって何かがあるわけでは無く、長い年月を重ねて汚れた石の壁があるだけだ。

 

 「設置型魔術が伏せられている。魔力は極めて微弱だ。攻撃系の術式ではないな」

 

 目を閉じていても、流石の魔力感知能力だ。目を開けているフィリップが気付かないのはいつものことだが。

 

 「低級の幻影ね。術式を見てみないと分からないけれど、この魔力規模なら鏡くらいにしかならないわ。……フィリップ、私の手を左奥に向けてくれる?」

 「あ、はい。えっと……この辺ですね」

 

 フィリップは少し立ち位置を変え、繋いでいる方の手を言われた通りに伸ばす。

 ルキアもステラも、フィリップが現代魔術ではない魔術を扱うことは知っているから、直接術式を解読するのを避けたのだろう。フィリップが何を言うまでも無くその判断ができる辺り、本当に頼もしい同行者だ。

 

 「この辺りかしら?」

 「もうちょっと奥ですね。……その辺りです。……あぁ、本当に鏡ですね」

 

 ルキアが光源として浮かべていた光球を操作し、左奥の隅に浮かべる。

 するとどういうわけか、右奥の隅が同じようにぼんやりと明るくなった。光の当たり方は、明らかに左側の壁と同じだ。

 

 右側の隅に、左側の壁が鏡写しに投影されている。正確には右側の壁のすぐ前に、左側の壁を映す鏡面があると言うべきか。そちらの方が魔力消費が少なく済む。

 

 「うーん……? ちょ、ちょっと待ってくださいね?」

 

 魔術──それもルキアとステラが何の違和感も無く受け入れている辺り、現代魔術なのだろう。

 野良ショゴスの巣に、人間の魔術がある。先ほどここに入った修道士が何事も無く出て来たのは、その鏡の裏にショゴスたちが隠れていたからだ。

 

 人間がショゴスを秘匿している──人間がショゴスを利用している。そうなると、かなり話が変わってくる。

 

 いや、話が変わるというより、話が()()()と言うべきか。

 ショゴスの使役はかつてショゴスを創造した旧支配者『古のもの』の専売特許ではなく、適切な術式や智慧があれば人間にも可能だ。連日遭遇した下級ショゴスは野良なんかではなく、誰かに使役されていたとしても矛盾はない。

 

 しかし、ナイアーラトテップは──いや、待て。ナイアーラトテップは「それは野良ショゴスです」とは断定していなかったような気がする。もはや記憶が定かでは無いが、確か「野良ショゴスなんてものもいますよ」みたいな言い方ではなかったか?

 

 嵌められた。

 ナイ神父はあの時点で、既にフィクサーの側に付いていたのだ。或いはフィリップが関わったことで面白くなると判断して、フィクサーの側に付くことを決めたか。

 

 とにかく、この町にいるのは野良ショゴスではなく、誰かに使役された下級ショゴスだ。

 町人を襲っていた理由は不明だが、もしかしたら使役が完全ではないのかもしれない。

 

 「フィリップ、待って。手を放さないで」

 「あ、すみません」

 

 思考に没頭するあまり、二人の手を放して、腕を組んで歩き回りかけていた。手を放す前にルキアが気付いてくれたが、フィリップは今、二人の目の代わりでもある。周囲の警戒には最大限のリソースを費やすべきだ。

 それは分かっているのだが、かといってこの場所を調べないという選択肢は無い。

 

 「ルキア、あの魔術を無効化できますか? 殿下、照準を」

 「分かったわ。ステラ、準備はいい?」

 「あぁ。カーター、攻撃の号令は任せる」

 

 二人とも魔術の位置は把握していたから、フィリップが手を動かして照準先を教える必要はない。

 フィリップとステラに分かり易いようにだろう、ルキアが指を弾いて設置型魔術を掌握し、破壊する。

 

 「……扉?」

 

 鏡が隠していたのは、木製の扉だった。

 複数の板材を並べて釘で固定しただけの、粗末で薄っぺらいものだ。フィリップが本気で体当たりするだけで、十分に壊せそうなほど。

 

 「部屋でもあるんでしょうか。葬儀場みたいな?」

 「いや、地下墓地にそんなものがあるとは思えないが……目を開けてもいいか?」

 「え? うーん……魔力視は無しですよ?」

 「あぁ」

 

 ステラは扉を一瞥すると、フィリップの手を放して右側の壁に歩み寄る。

 ルキアも目を開けていたが、こちらはフィリップから離れず、手を放すつもりもないようだ。

 

 石壁に手を這わせていたステラは、ややあってフィリップの方に向き直り、軽く頷いた。

 

 「この先に空間があるが、魔力を持ったモノはいない。……まぁ、邪神やそれに類するモノがいる可能性はあるが、少なくとも人間はいないな」

 「魔力視無しでも分かるんですか? すごいですね」

 「魔力視無しだから、これが限界なんだ。魔術トラップは無いが、機械式トラップがある可能性は捨てきれない。十分に警戒するんだぞ?」

 

 フィリップはぴっと親指を立てて「任せろ」というボディランゲージをするが、ルキアとステラは心配そうな目を向けていた。

 

 「じゃ、ちょっと様子を見てきます。二人はここで待っててください。あ、不安なら目の代わりにシルヴァを置いて行きますけど」

 「いや、カーターの目以上に頼りにならないだろ、それは?」

 「……まぁ、脅威判定が怪しそうなのは確かね」

 

 酷い言われようだと苦笑したフィリップはルキアの手を放し、木扉の方へ歩く。

 近付くとよく分かるが、明らかに周囲の石壁よりも新しいものだ。流石に昨日今日作ったものではなさそうだが、この埃っぽい石室のように数百年モノというわけでもない。

 

 ここまで伝播してきたステラの魔術の余熱で少し焦げている扉を開くと、人一人分の狭いトンネルが数歩ほど続き、奥には縦横五メートルほどの空洞があった。

 

 空洞とは言ったものの、その四隅や四辺はきっちりと整備され木枠が嵌り、完全に人の手が入った小部屋だ。

 部屋に入ってすぐのところにあった錬金術製の特殊ランタンに火を着けると、その全容がぼんやりと照らされる。

 

 石畳ではなく魔術と工事技術によって平面に均された床に、直径三メートルほどの魔法陣が描かれていた。

 白いチョークか滑石で描かれているそれは、現代魔術のものではなく、明らかに領域外魔術のものだ。フィリップの知っている邪悪言語の文字や忌まわしい意味を持つシンボルなどが散見される。

 

 「……本物か」 

 

 フィリップの声から温度が消える。

 これはショゴスの製作と使役に使われる魔法陣であり、間違いなく人類圏外産の術法によるもの──カルトの仕業と断定するに十分な証拠だ。

 

 カルトと同じ町に三日も泊まっていたと考えるだけでも吐き気がするが、それ以上に、憎悪にも近いほど激烈な怒りを催すことがある。

 

 「あのクソ、本当にカルトを庇ったのか?」

 

 ナイ神父──ナイアーラトテップ。

 ショゴスの件は、まぁ、許そう。あれはフィリップが勝手に勘違いしただけとも言えるし、ナイアーラトテップが直接的に嘘を吐いたわけではない。

 

 だが、その結果としてカルトの存在をフィリップに知らせなかったのであれば、フィリップにとっては明確な不利益だ。

 

 昨日は「カルトかもしれないな」ぐらいだったから気に留めなかったが、ここまで()()()相手なら、フィリップの中での優先度──敵対度が跳ね上がる。

 

 もはや暫定カルトなんて甘い認識はできない。

 どこの誰かは知らないが、そいつはカルトだ。

 

 「すぅ……ふぅ……落ち着け、僕」

 

 理性的に考えるのなら、ナイアーラトテップがフィリップを裏切ることなど有り得ない。たとえ愉悦や刹那的快楽のためであっても、あれが個人的衝動でアザトースへの忠誠を違えることはない。だろう、という推測をする必要が無いほどに絶対的なことだ、それは。

 

 だが、現に、ナイアーラトテップの行動の所為で、フィリップはカルトを殺し損ねている。

 殺せるはずのカルトを殺し損ねて、三日も同じ町に寝泊まりしていたのだ。

 

 そう考えるだけで、思わず吐息に熱が籠る。獣性を多分に含み、殺意さえ孕んだ熱い吐息を溢し、怒りのあまり握った拳が震える。

 

 どっ、という鈍い音は、フィリップが石壁を殴り付けた音だ。

 八つ当たりして発散しなければ、今ここにナイ神父を呼びつけて蹴り殺してしまいそうだった。

 

 「…………」

 

 フィリップは魔法陣を無造作に踏み越え、部屋の奥にこじんまりと置かれていた小さな書き物机に向かう。

 机の傍には小さな棚があり、幾つかのワインボトルが並んでいた。

 

 「……サイメイギのワインか」

 

 具体的にどの効能に特化したものかは不明だが、感じる神威は間違いなくサイメイギのそれだ。正確には、サイメイギの隷属ワインに感じたものだが。

 

 「ふぅ……」

 

 八つ当たりに蹴り倒そうかと思ったが、内容液がかかっても困るので止めておく。

 

 机上に置かれていた錬金術製のランタンに明かりを灯し、机に置きっぱなしだった一枚の羊皮紙を取り上げる。置いていたというより、挟んでいた手帳か何かから抜け落ちたのに気付かず忘れて行ったように、適当な感じだった。

 

 「遺書?」

 

 古くなってよれた羊皮紙に掠れたインクで書かれていたのは、今わの際に書き残した、愛の言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 



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217

 最愛の夫へ。

 

 元“使徒”として、遺書を書くのには慣れていましたが、やはりブランクがあると忘れてしまいますね。何を書けばいいのか分からなくなってしまいました。でも、今までに焼いた数百通を読み返したとしても、貴方に宛てる手紙は書けませんね。私は信仰に殉じる戦士ではなく、貴方の妻として、言葉を遺したいですから。……あぁ、安心してください、ニノにはきちんと『最愛の娘へ』で始まる手紙を書いていますよ。

 

 貴方に初めて会ったのは、帝国の山中でしたね。

 カルトに捕まった貴方が簀巻きにされて吊るされて、それでも聖句を唱え続けているのを見た時には、笑うより先に感心が来てしまいました。あの時、既に精神的に瀕死だった貴方の処分を、終了から修道院送りにするようペトロ隊長に進言したのは私……というのは、喧嘩の度に言っていましたね。では最後なので、その理由をお話しましょうか。

 

 正直に言うと、私はあの時、信仰心を失いかけていました。

 何度も、何年も、カルトを追いかけ殺し、逃がした一人さえ追いかけて殺す作業の日々を続けているうちに、疑心が芽生えたのです。この汚らしく残酷な世界は、本当に神が創り給うたのか──この悍ましく穢れた世界を作ったものがいるとして、本当にそれは気高き正義である神なのだろうか、と。

 

 赤く染まった世界が、だんだん黒く濁っていくような日々でした。

 そんな中で見た貴方は、私が理想とする信仰者そのものでした。疑わず、考えず、想わず、ただ信じる、狂気的な信仰。盲信、狂信と呼ばれるほどに深い信仰心を、貴方は持っていたのです。

 

 私はそれを見て、こう思ったのです。

 

 ──あぁ、なんて勿体ない。

 

 貴方の信仰は完成していた。

 それなのに、それはカルトに誘拐されたことと、これから訪れる死への恐怖からの逃避でしかなかった。

 

 貴方には素質がある。深く、強く、美しい信仰を抱ける素質があるのに、貴方はそれを狂気として発現させてしまった。

 私はそれを疎み、妬み、悔やみました。そして修道院に送り、正気を取り戻すまで貴方の下に通うことに決めたのです。そこから先は……貴方には語るまでもありませんね。

 

 貴方は信仰を極め、枢機卿の位にまで上り詰めた。当時の私をさえ顎で使うことができる、偉い人です。

 

 そんな貴方が、いま、信仰を疑っていることは分かっています。

 私もニノも、貴方に負けないくらい神様を信じていたのに、どうして病に侵されてしまったのか。どうして、神は救ってくださらないのか。そんな疑問を持ってしまっているのでしょう。

 

 でも、よく考えてください。

 

 私が死ぬのは、病のためです。

 病に侵されていながら、娘のために薬草を採りに行ってしまうような、あの頃と変わらない愚かしさのためです。

 

 神に問うことも、神に縋る権利も、私にはありません。そういうのは、“使徒”だったころに飽きるほどやりました。

 でも、いいえ、だからこそ、私は一足先に行って、聖人様方と交渉してきましょう。

 

 ──私の捧げた信仰と、私が救った貴方が、これから先にも捧げ続ける信仰。それは、信心深い私たちの娘を救うには十分でしょう、と。

 

 あぁ、ついでに、隊長に名前をお貸し下さった聖ペトロ、私に名前をお貸し下さった聖エイレーネのサインを貰いましょう。もっと沢山の聖人様方にもお会いして、握手して貰ったりなんかして。あぁ、考えただけで胸が弾みます。

 なので、貴方はもうしばらく──いえ、まだまだ来なくていいですからね。来ても忙しくって、相手してあげませんから。

 

 ニノのことは任せてください。あの子の病は、私が何とかします。

 だから、その後のことはお任せします。あの子と一緒に、助け合って生きてください。

 

 最後に、心の全てをこめて。

 

 ──愛しています。

 

             ──愛をこめて、エイレーネより。

 

 

 ◇

 

 

 

 古い羊皮紙に綴られた、一人の女性の最期の言葉、想い。

 それを読み終えて、フィリップは大きく嘆息した。

 

 カルトと一口に言っても、穢れた信仰を抱くには様々なバックボーンがあるのだなぁと感慨深くなった──わけではない。カルトがカルトになる理由など、フィリップにとってはどうでもいいことだ

 

 しかし、複雑な思いはあった。

 

 まず、「結局その夫の名前はなんなんだ」という疑問と、すぐそこに答えがあるのに手が届かないもどかしさ。

 

 そして、「娘も死んでいてくれるといいなぁ」という願いと、「それは非人間的な思考ではないか」という自責にも近い自問。

 フィリップは結局のところカルトを「カルト」という記号でしか捉えられず、「エイレーネの夫でニノの父親だった誰か」は、フィリップの中で意味ある個人にはなれないのだ。

 

 だから、誰かが「生きて」と願った誰かの死を、こうもあっさりと願うことができる。

 願わくば、カルトの子孫が残らぬように。願わくば、フィリップの手間が一つ省けるように、と。

 

 そして最後に、「これをそいつの目の前で焼いて、燃えカスに唾でも吐きかけたら、この胸に蟠る溜飲も下がるだろうか」という、遺書を読む前に抱いていた怒りの残滓。

 

 そう。

 そうだ。結局、ここでショゴスを製作していた人間が、サイメイギの隷属ワインを持っていくようナイ神父に命じた人間と同じで間違いない。

 

 だとしたら、それはこの上なくフィリップの逆鱗に触れる行為だ。

 

 「僕をおちょくるのは、いい。あのワインの件も許そう。カルティックなだけ、邪神の力を使ってるだけの雑魚に加担するのも、許容しよう。でも──」

 

 こつ、こつ、と硬質な音が石壁に吸われて消えていく。

 一定のテンポで床を叩く靴の爪先が、フィリップの苛立ちを示していた。

 

 「──カルトの手駒に成り下がったのなら、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 フィリップにしては珍しく、本気の激情を孕んだ低い怒声。

 普段の、ナイ教授の煽りに対して浮かべる苛立ちや、痛みに応じて抱く反射的な殺意とは全く違う、本物の怒りだ。

 

 冷笑も無く、嘲笑も無く、心の根幹に刻まれた諦観さえ消え失せる激情。

 怒りは短い狂気であるとはよく言ったもので、フィリップの抱いた憤怒は心の内を埋め尽くしていた。そこには何も残っていない。人間性への拘りも、衛士やルキアに対して抱いていた憧れも、ステラに対して抱いていた共感も、シルヴァに対して抱いていた愛玩の念も、何も無い。

 

 残っているのは剥き出しの本性だけ。

 自分以外の全てが些事。故に、自らの感情のみを行動指針として憚らない、傍若無人な外神の視座だけだった。

 

 フィリップの独り言──否、叱責に怯えたように、目の前の空間が揺らぐ。

 ほんの一瞬と経たず、その空間にはナイ神父の長身が現れていた。

 

 長身痩躯に汚れ一つないカソックを纏った彼は、現れるが早いか、膝を折って跪く。彼の声は、恐怖にも似た感情を孕んで震えていた。

 

 「フィリップくん、どうか──」

 「…………」

 

 深々と下げられたナイ神父の頭を、フィリップは何の躊躇も無く踏みつける。

 足蹴にされたナイ神父は何の抵抗もせずずるずると姿勢を崩し、五体投地した。フィリップは数秒ほど足に力を込めていたが、ふと思い出したように足を退けると、靴の裏を床面で擦った。犬の糞を踏んだあと、汚物をこそぎ落とすように。

 

 踏みつけられたことよりもそちらの方が悲しいのか、それを見たナイ神父は星空の仮面を被り、跪いた姿勢に戻る。

 

 「──どうか、弁解させてください。魔王の寵児よ」

 「…………」

 

 脳が過熱するほどの激情に耐えかねて、フィリップは排熱するかのように深呼吸を繰り返す。

 十秒、二十秒と時間が過ぎていくごとに、じわじわと感情の波が引いていく。

 

 怒りという感情を励起する神経物質は、6秒ほどでその効果を失う。

 いくらフィリップの精神性が人間の埒外とはいえ、脳の構造は人間のままだ。脳を、脊髄を、心臓を焼き、血液を沸騰させるかのような激情でさえ、6秒以上は持続しない。短い狂気とまで言われる憤怒は、絶対に超えられない閾値で止まっていた。

 

 そして、

 

 「──フィリップ、大丈夫?」

 「──なぁ、カーター。さっきから誰と喋ってるんだ?」

 

 ほんの僅かに空いた感情の空隙に、二人の心配そうな声が滑り込む。

 

 瞬間、フィリップは弾かれたように部屋の入口を確認し、扉が閉じていることに安堵した。

 一度でも思考らしい思考をしたからか、意識が急速に冷却されていく。心の内にあった激情の炎はすっかり消え果て、唸りを上げていた獣性も鳴りを潜めた。

 

 「……大丈夫です! あー……先に出ててくれますか? 例のワインとか色々見つけたので、処分してから行きます!」

 

 100パーセントの嘘ではない言い訳に、ルキアとステラは困惑の気配を漂わせつつも了承してくれて、足音が遠ざかっていく。

 フィリップが二人を遠ざけようとした以上、二人が立ち去る振りをして聞き耳を立てることは無いだろう。ルキアの美意識も理由の一つだが、二人とも自殺願望はないはずだ。

 

 二人の足音を聞いていたフィリップは、靴音が完全に聞こえなくなってからナイ神父に向き直る。

 依然として星空の仮面を被った彼は、跪いた姿勢をピクリとも動かさず、発言の許しを待っていた。

 

 「……で、弁解でしたか? いいですよ、聞きましょう。一方的に決めつけて話を聞かないのは、言葉を持つヒトの在るべき姿じゃないですしね」

 

 自分に言い聞かせるように言ったフィリップに、ナイ神父は星空の顔を上げる。

 見ているだけで酔いそうになる無限の奥行を持つ顔からは、どこか落胆にも近い物悲しさを感じ取れた。勿論、表情なんて欠片も無いので、纏う空気からの何となくの推察だが。

 

 「……ありがとうございます。では、結論から。……フィリップくん、君は()()()()彼をカルトだとは認識しません。私の行動が許せないことのように感じるのは、今の、ほんの一時だけです」

 「それが──いえ、失礼。続けて下さい」 

 

 それがどうした、と口走りそうになり、自分の頬をマッサージするようにこねる。

 フィリップが()()()()どう判断するかなんて、()()フィリップには全く関係の無いことだ。いま不快なら、将来的に不快ではなくなるとしても、「不快だ」と叫ぶことに矛盾はない。

 

 だが、それはあくまでフィリップの視点から見た話だ。

 ナイアーラトテップに限らず時間の外側にいる外神に、そのロジックは適用されない。

 

 仕方ないか、と、フィリップは人間的な思考に基づき、外神の思考を肯定する。

 

 「フィリップくん。私は君を裏切りません。私は君が本気で望まないことはしません。私は君の従僕であり、使者であり、奴隷であり、手先です。主に向かって中指を立てる手などありましょうか」

 「……主を裏切る奴隷の話は、何冊か読みましたけどね。まぁ、いいでしょう。ヨグ=ソトースが介入していない時点で──貴方がまだ存在している時点で、究極的には敵対していないということは分かります。僕が()()()()どういう判断をするのかは、未来の僕次第ですけど……今は、見逃しましょう」

 

 行け、と顎をしゃくるが、ナイ神父は動かない。

 ナイ神父は、まだ何かあるのかと片眉を上げたフィリップが右手に持ったままの、古い羊皮紙を指差した。

 

 「それを頂いてもよろしいですか? フィクサーに“忘れ物を取って来てくれ”と頼まれまして」

 「図太いというか、ホントに愉悦の為なら何でもやりますね……」

 

 フィリップは素直に遺書を手渡す。

 そこそこきっちりとお礼を言って立ち去るナイ神父の背中を一瞥して、部屋の隅にある書き物机に向き直った。

 

 机には引き出しが二つあることは分かっていたが、遺書を読んでもなお収まらないナイアーラトテップに対する怒りが爆発して、検分どころでは無かったのだ。

 

 引き出しを開けると、中には古びたパピルスが一枚、巻かれた状態で入っていた。もう片方の引き出しは空っぽだった。

 

 「……ホントにカルトじゃないんだろうな……?」

 

 そのパピルスは、明らかに人類圏外産のものだった。

 びっしりと綴られた文字は全て邪悪言語で、とある邪神を召喚する方法について書かれていた。

 

 「眼球、魔力、寿命ねぇ……ということは、んっ、開かない……!」

 

 棚からワインの一本を取り上げ、コルクに手を掛けたフィリップだが、流石に素手で空くほど緩くはない。

 諦めて、というかどうせ最後にはそうするつもりだったので、壁に投げつけて瓶を砕いた。数瞬遅れて、ふわりとワインの匂いが鼻をくすぐる。隷属効果のあるワインではないからか、智慧の鳴らす警鐘は小さなものだ。

 

 「……やっぱり、延命ワインか。これも、これも、これもか」

 

 ぱりん、ぱりん、と、地下空間にガラスの割れる音が連続する。

 やがて全てのワイン瓶を砕き終えたフィリップは、部屋の入り口に戻って『魔法の火種』こと初級攻撃魔術『ファイアー・ボール』を詠唱する。その照準先は床に広がっていくワインではなく、パピルスだ。

 

 その紙片自体に異常性があるのか、灯された炎は毒々しい緑色だった。

 フィリップは僅かに苦笑して、ちりちりと焦げながら炎に侵されていく魔導書の断片を、ワインの海に投げ入れる。

 

 そしてそれきり、振り返ることなく地下墓地を後にした。

 

 魔導書が灯した炎はワインの液面だけでなく、石の床も、壁も、天井をも這って広がっていく。

 地下室の僅かな空気を食い尽くし、燃えないはずのワインも、パピルスも、魔法陣も、地下墓地にあった全ての痕跡を炎が舐めて、呑み込んだ。

 

 

 

 



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218

 翌日、修学旅行五日目。

 朝食を終えたフィリップはすぐにルキアとステラに連れられて、教皇庁本棟の一室を訪れていた。

 

 ルキアとステラの控室になっている部屋はとても広く、装飾もかなり豪奢だった。

 柔らかく沈み込むようなソファセットに腰掛けているのはフィリップとステラだけで、ルキアは遅れて到着した公爵家の家臣団と一緒に着替え中だ。儀式に備えて、特別な衣装を用意したらしい。ステラは既に着替えを終えていて、フリル飾りのついた深紅のドレス姿だった。

 

 ソファの後ろには、五つの十字架を組み合わせたような特徴的な意匠の甲冑を着込んだ騎士が二人、直立不動の姿勢で立っている。

 彼女たちはステラの親衛隊。去年、フィリップが間違って殺しかけた人だ。

 

 「もう頭の整理は付いていると思うが、もう少し待て。ルキアが来てから、一緒に聞く」

 「はい。……昨日はすみませんでした。ちょっと色々あって」

 「いや、別に構わないさ。お前の気遣いは感じられたし、ルキアも怒ってはいなかったよ」

 

 昨日はフィリップの精神状態が正常ではなく、地下墓地を出たすぐ後に解散したのだ。

 あそこに何があったのかを語るにも、フィリップの推理を披露するにも、一睡して気分を落ち着ける必要があった。一晩経っても未だにナイ神父──ナイアーラトテップのことは疑っていたが、正常な思考を妨げるほどの激情は無くなっている。

 

 「二人が発狂しないためなら、怒られるくらい安いですよ。……そういえば殿下、そのドレス、よくお似合いですよ。裾のところの炎みたいなフリフリとか、カッコいいですね」

 「あぁ、ありがとう。……ただ、こういう場合に“カッコいい”は不適切だな」

 「なるほど。気を付けます」

 

 フィリップとて馬鹿ではないので、ルキアやステラと仲良くしている限り、なんだかんだでこういう社交辞令的作法のスキルが必要になることは察していた。

 公爵家からは休暇の度に「うちに来ないか?」というお誘いが来るし、ついこの前謁見したばかりの国王からもステラを通じて「また会おう」と伝言があった。角を立てずに断るスキルを持たないフィリップとしては、貴族相手ではギリギリ不足する礼儀作法を、及第点まで何とか持ち上げるしかない。

 

 手始めに、ステラの「似合っている、以外に一言添えるのが普通だな」という言葉を実践してみたのだが、少し外したらしい。

 

 「ルキアにはどんな言葉をかけるべきですか?」

 「……いや、流石に私でも、服を見る前から模範解答は分からないぞ……?」

 

 と、そんな話をしていると、徐に控室の扉が開いた。

 ノックも無く開けるということは、この部屋の現在の主人であるルキアかステラのどちらかでしか有り得ないのだが、ステラはフィリップの前に座っている。

 

 必然的に、ルキアが帰ってきたという推測が成立するのだが──振り返ったフィリップの目に映ったのは、少しばかり懐かしい顔だった。

 

 「あれ、メグ? ……あ、シューヴェルトさんもいる」

 

 両開きの扉を開け、閉じないよう押さえて控えている二人のメイドは、公爵家の使用人でルキアの側付きでもある、アリアとメグの二人だった。

 アリアは手前側の扉を開けたあと後頭部しか見えないが、奥側の扉を押さえているメグは、フィリップに挨拶代わりのウインクをくれた。

 

 ステラが親衛隊を傍仕えに呼んだように、ルキアも自分の側付きを呼んだのだろう。

 

 ルキアはというと、二人が開いた扉を悠然と通り過ぎて部屋に入ってくる。

 その肢体を包む衣裳は、フィリップがこれまでに見たことのない、ある種の異質さを孕んだものだった。

 

 「あ、お帰りなさい、ルキ、ア……」

 

 フィリップは思わず、言葉を失った。

 

 ──純黒。

 かつて見た新月から降り注ぐ一条の闇、黒い光という物理的に有り得ないそれを再現したような、闇夜にも浮くような黒。

 

 その中に、幾つもの白銀が輝く。

 単純な銀色ではなく、複雑な白の混じった──月光の色だ。

 

 フリルの付いた長袖に、フリルをふんだんに使ったティアードデザインのバッスルスカート。

 足の前面を露出するドレスに合わせた黒いレースのストッキングと、それを止めるガーターベルトが裾からほんの僅かに覗いた。

 

 片側に流された銀色の髪にはレース生地のヴェールが掛けられて、人類史に残る美貌を薄く覆い隠していた。

 色味が違えばウェディングドレスのようにも見えるだろうが、黒と銀色のドレス姿では、100人中50人は喪服のようだと思うだろう。

 

 ゴシックドレスと言うにはフリルやレースといった装飾が過剰で、些か少女趣味に寄っている。大人びた苦さの中に確かな甘みの混じる、ザッハトルテのような装いだ。

 

 だが、それでも。

 

 「わぁ…………」

 

 フィリップがこれまでに見たルキアの服の中で一番、彼女に似合っていると感じた。

 

 「四年に一度の大舞台だし、フィリップも居るから張り切ってみたの。……どうかしら?」

 「……すごく、お似合いです。マザーみたいで……うっ」

 

 こっ、と、脛に硬質で鋭い衝撃が走る。

 ステラのハイヒールパンプスの鋭い爪先は、加減されていても十分に痛かった。

 

 思わず前屈みになったフィリップの耳元に、ステラが顔を寄せて囁く。

 

 「他人を引き合いに出すのは零点だし、あのルキアだぞ? あいつの“美しさ”の基準はあいつの中にしかない。今のは誉め言葉の範疇に入らないだろう。というか、引き合いに出すのが修道女っていうのはどうなんだ……?」

 「た、確かに。いやでも殿下もマザーに会った後なら同じ感想になりますよ」

 「そうなのか……? いやそれでもだな……」

 

 ひそひそと言葉を交わす二人に不審そうな目を向けながらも、ルキアは「ありがとう」と柔らかく笑った。

 その笑顔に屈託は無く、フィリップよりルキアとの付き合いが長いはずのステラが困惑する。

 

 「フィリップに褒められるだけでも嬉しいけれど、その言葉は格別ね。かなり意識したデザインだから、気付いてくれて嬉しいわ」

 

 フィリップは「そうですよね」と軽く笑っているが、ステラにとっては意外なことだ。 

 彼女の中にある美意識、美しさの基準は徹頭徹尾彼女自身の中にしか無く、他の何かや誰かを基準にすることなど無いと思っていた。

 

 「驚いたな。お前が自分以上に美しいものを見つけるとは」

 「えぇ、そうね。貴女も……私の次くらいには綺麗だけれど」

 「なぁ、カーター。こういう微妙に否定し辛い事実を突き付ける行為は罪に問うべきだよな?」

 

 冗談を多分に含んだ苦笑を浮かべるステラに、フィリップとルキアは顔を見合わせる。

 

 「え? いや、否定すればいいじゃないですか。素の顔立ちは殿下もルキアと同じくらい美人ですよ」

 「そうね。貴女はドレスコードに合わせてるだけだもの……。もう少しお洒落したら、すごく絵になるわよ」

 「それが示威行為になる場面ならいくらでも粧し込むが、これがあるうちは不要だろう」

 

 ステラはとんとんと、自分の鎖骨の中央からやや下あたりに輝く聖痕を叩いて示す。

 ルキアはステラらしいと笑って、ステラの隣に座った。その後ろ、ステラの親衛隊員である二人の鎧騎士の隣に、アリアとメグが並ぶ。

 

 ステラが空気を切り替えるように、ぱちりと手を叩いた。

 

 「さて、真面目な話をしようか。カーター、昨日、何を見て何を知った? 黒幕のアタリは付いたのか?」

 「はい、概ねは。昨日の地下室で得た情報から推察するに、犯人は既婚者です。奥さんと娘が居て、奥さんとは死別しています。名前は確か……アイリーンじゃなくて、えーっと……?」

 「カーター、お前……」

 

 あれ? と、半笑いで明後日の方向に視線を泳がせるフィリップに、ステラは真剣に頭を抱えた。

 

 枢機卿に限らず一神教の司祭には未婚者が圧倒的に多いから、既婚者という情報だけでもかなり絞り込める。

 流石に夫人の名前から個人を特定できるほど、枢機卿のプライバシーは安くないが──それでも大きな手掛かりだし、何より人名を忘れるのは普通に心配になる。

 

 「し、仕方ないじゃないですか! 遺書をちらっと流し読んだだけなんですから、故人の名前なんて一々覚えてませんって!」

 

 心なしかステラだけでなく側付きの人たちにまで「大丈夫かこいつ」と言いたげに見られている気がして、フィリップはそう言い募る。

 しかしその弁解で、本当にそんな目を向けられてしまった。例外はルキアとメグと、呆れ顔のステラだ。アリアは巧妙に隠していたし、ステラの親衛隊の二人はフルフェイスヘルムを付けているのだが、纏う空気で察せられた。

 

 「……その遺書は持ち出してないのか? あれだけ派手に地下墓地を燃やして、今更侵入に気付かれるかも、なんて考えていないだろう?」

 「はい、ナイ神父に持っていかれちゃって。……あ、エイレーネです! たぶん……」

 

 正気を疑うような視線が、ほんとかなぁ、と言いたげに心配そうなものに変わる。

 だがどっちみち、誰も「どの枢機卿の奥さんが何という名前か」なんて把握していない。死別して久しいのなら尚更だ。

 

 ステラはソファに背中を深く預け、背もたれ越しに親衛隊員に尋ねる。

 

 「配偶者と死別した枢機卿なんていたか?」

 「はい、4人います。王国が把握している限りでは、ですが」

 

 原則として聖職者の姦淫を禁じている一神教の最高位司祭である枢機卿は、恋愛沙汰を死ぬまで隠し通す例も少なくない。中には王国の諜報網を掻い潜る者もいるし、王国側としても、露見したところで大したスキャンダルにもならないような他人の恋路に興味はないので、積極的に情報を集めてはいなかった。

 

 「個人的に、あの……片目を怪我していた人、誰でしたっけ? あの人が怪しいと思います。あと、あの仮面を付けてた人」

 「目を怪我していたのはペルー卿だな。オスカー・ペルー枢機卿。仮面の方はヴィルフォード・コルテス枢機卿だ。……どちらも既婚者ではないはずだが、何故そう思う? 」

 

 フィリップはちらりと側付きの四人に目を遣ると、尻の位置をずらして前屈みになる。

 明らかに内緒話をする姿勢に、ルキアとステラも同じようにして顔を突き合わせた。

 

 「地下室に魔導書の写しがありました。内容はある邪神の召喚儀式の方法について。それには召喚者の寿命を200年分と、召喚者の物を含めた複数個の眼球を捧げる必要があります」

 

 フィリップは一度言葉を切り、二人の顔を観察するようにじっと見つめる。

 幸いにしてと言うべきか、或いは不幸にもと嘆くべきか、二人はもうこの程度の情報では怖がることすらしないらしい。普通は邪神の召喚というワードと悍ましい条件で怯えるところだと思うのだが。

 

 まぁ、フィリップの思う「普通」が正しい保証はないので、有難く話を進めることにする。

 

 「ペルー卿の方は、安直に片目を怪我していたからです。コルテス卿は……当然、人間の寿命は200年も無いので、延命する必要がありますよね。例の支配するワインのバージョン違いに、“延命”の効果を持ったワインがあるんですが……これは副作用で、急速かつ歪な老化を引き起こすんです。火傷の痕を隠すための仮面って言い張ってるだけで、実際は歪んだ老化を隠してるんじゃないかな、と」

 

 フィリップが開示した情報を基に、ルキアとステラも思考を回す。

 とはいえ把握している情報量に差があり、フィリップが二人を守るために意図的に隠している情報もあるだろうと考えられるため、二人にできるのはフィリップの推理の整合性を確認することくらいだ。

 

 そして、それで十分だった。

 

 「……ねぇアリア、ペルー枢機卿って、前は眼帯じゃなかった?」

 「はい、ルキアお嬢様。彼の目は古傷で稀に出血することがあり、その際は包帯を巻いて止血していると聞き及んでおります」

 「コルテス卿の顔も、本当に火傷だぞ? 注意深く見れば、仮面の端──耳元や顎のあたりから傷跡が見える」

 

 二人は真剣な顔のままフィリップに視線を戻し、「他には無いか」と目線だけで問うてくる。

 

 だが残念ながら、フィリップの答えはNOだ。

 せめて相手がカルトであると確定していたのなら、200人全員殺してハッピーエンドなのだが、ナイアーラトテップにあんなことを言われた昨日の今日では、強引な解決手段も取り辛かった。

 

 「……どうする、カーター。昨日あれだけ派手にやったんだ、相手も警戒するだろうし、何より動きを活発にすると思うぞ?」

 「そうなんですよね……。相手の狙いも分からないし、相手の正体も分からないし──」

 「──待って? 狙いは邪神の召喚じゃないの?」

 

 ルキアの疑問と同じものをステラも持っていたようで、同じく問いかけるように細められた目を向ける。

 二人に見つめられたフィリップは思考を回し、最終的に照れ混じりに苦笑した。

 

 これは知識不足ゆえの致し方ない考え違いではなく、考えが足りないゆえのシンプルなミスだ。

 

 「その可能性はありますね」

 

 邪神を召喚することそのものが目的になっている可能性は、確かにある。

 むしろフィリップのように、明確に「あれをやらせよう」という意図を持って、一個の手段として邪神を召喚する者の方が稀なはずだ。

 

 しかし、それは楽観なような気もする。なんせ、

 

 「でも、ナイ神父が加担してるぐらいですからね。それなりに踏み込んできてると思います。“邪神を召喚すること”そのものを目的にするような蒙昧では無いかと」

 「……うん、ちょっと言い方がアレだが、言わんとしていることは分かった。なら、目的に心当たりは無いか? その邪神について教えてくれとは言わないが……その邪神を呼ぶ理由が分かれば、黒幕の正体にも繋がるだろ?」

 

 ステラの問いに、フィリップは理解を示して頷く。

 しかし、それは中々に難しいオーダーだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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219

 邪神を召喚する目的が分かれば、人物を特定する手掛かりになる。

 理屈は分かるが、難しいと言わざるを得ない。

 

 フィリップは黒幕が呼ぼうとしている邪神を知っているが、率直に言って、そいつは雑魚だ。

 旧支配者の中でも中位から下位の存在格で、ハスターやクトゥグアがいれば余裕で殺せる。ただ、シュブ=ニグラスの智慧によると、サイメイギの延命ワインより確実で副作用の少ない寿命延長や、サイメイギにも可能な『治癒』『延命』『強化』といった恩恵を、より強力に与えてくれるらしい。

 

 ……まぁ、なんというか、

 

 「長生きしたいとか傷や病気を治したいとか強くなりたいとか、そういう理由で呼ぶならいい塩梅ですね」

 「新年ミサか。……ああ、いや、本当に効果があるんだったな」

 

 思わずといった体で突っ込んだステラが、苦笑いを浮かべて首を振る。

 確かに即物的で、自分の力ではどうしようもなく、なんとなく神頼みしそうな願い事ランキングを上から並べたみたいなラインナップだった。

 

 「流石に個人を絞り込むには、普遍的すぎる目的ね。……というか、そんな願いをかなえてくれるような、真っ当な邪神がいるのね」

 「そりゃあ、恩恵も無いモノを無意味に信仰する人ばかりじゃありませんからね。大漁とか豊作とかを叶えてくれるのも、居るには居ますよ。……いや、そんな話はどうでもいいんです」

 

 フィリップはちらりと顔を上げ、直立不動の姿勢を崩さない従者たちを見遣る。

 誰も聞き耳を立てていないことを、誰も恐怖に震えていたりしないことで確認して、また話を続ける。

 

 「傷を治す、とかだったら、ペルー卿とコルテス卿はやっぱり候補じゃないですか? 婚姻関係を公にしないで結婚してたとか」

 「……その仮説は棄却できないな」

 

 ステラは一度顔を上げ、壁に掛けられた機械式時計を一瞥した。

 儀式まであと1時間だが、ルキアとステラは着替え以外にも色々と準備がある。そろそろ控室を出て、儀式会場の大聖堂に向かわなければならない時間だった。

 

 「時間がないな。……時間と言えば、その邪神召喚の準備は、どのくらい進んでいると思う?」

 「不明です。既に延命ワインは飲んでいると思いますし、寿命はいつでも捧げられる状態でしょうね。ただ、眼球の方は……大っぴらに集めるわけにはいきませんし……」

 

 あの地下室にあったショゴス創造の魔法陣を見るに、路地裏のショゴスが野良ではなく、黒幕に召喚されたものであることは確実だ。

 使役下にあるのか()()()たのかは不明だったが、眼球を執拗に狙っていた辺り、“素材集め”だったことが分かる。つまり、完全に支配下に置かれていたはずだ。

 

 ……いや、そうなると。

 

 「あのワイン、二人じゃなくて僕狙いだったかもしれませんね。何回か眼球集めを邪魔したので」

 「あぁ、一昨日とかか……。変死体が見つかったという報告は聞いていないが、妨害は完璧なのか?」

 「どうでしょう。昨日今日始めたってわけでもないでしょうし、大詰めレベルの可能性はあります。……まぁ最悪、邪神を呼ばれても僕がどうにかできますけど」

 

 どうにかするというか、殴って追い返すか殴り殺すかの二択だが。

 

 「……どんな相手が召喚されるかは分かっているんだよな? なら、予め対処できないか? 例えば……そいつを先に殺しておくとか」

 「……いいアイディアですね」

 

 召喚儀式を妨害するのではなく、そもそも不発するように、呼ばれるものを殺しておく。

 何処かに存在するものを呼び出す以上有効な対策だし、流石ステラというべき柔軟かつ効果的な発想だ。

 

 そして、実行可否で言うのなら、可能な作戦だ。

 ハスターやクトゥグアでは厳しいが、シュブ=ニグラスやナイアーラトテップなら単騎で旧支配者を根絶できる。尤も、そんな邪神大戦争みたいな状況になって、この小さな星が無事である可能性は決して高くないのだが。

 

 とは言え、流石にアグレッシブすぎる。

 旧支配者もハスターのような頭のいい手合いばかりではない。いつぞやのアイホートのように、フィリップのことを『外神の尖兵』、外宇宙から宇宙を侵略しに来るための足掛かりのような存在だと誤解して、襲い掛かってくる可能性もある。

 

 フィリップがこうしてのんびり旅行なんか出来ているのは、フィリップが積極的に動いておらず、ナイアーラトテップとシュブ=ニグラスという脅威が抑止力として十分に機能しているからだ。

 もしフィリップが積極的に旧支配者に喧嘩を売り始めて、その脅威判定が外神の二柱の抑止的効果を上回ったら──そこから先は戦争だ。より正確には、フィリップがいつ襲われるか分からない状況に陥り、ナイアーラトテップとシュブ=ニグラスとヨグ=ソトースが、襲い来る邪神たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ……。

 

 ……あんまり問題ないように思えるが、それでも星の一つや二つ、簡単に破壊されるだろう。たとえばクトゥグアが敵対するだけで、一個恒星が敵に回ったようなものだ。

 

 「出来ますけど……先制攻撃は別の敵を刺激しそうです」

 「あぁ、それは確かにそうだな」

 「……」

 

 対国家戦略で似たようなケースを想定して、ステラが頷く。

 ルキアはフィリップがそれを厭う理由──一貫してルキアとステラを慮っていることに気付いて、悲喜交々が綯い交ぜになった複雑な表情を伏せて隠した。

 

 「でも、黒幕が分かれば、儀式の前にそっちを殺せます。枢機卿を殺すので、それなりに問題にはなるでしょうけど……レイアール卿とかナイ神父とか、使えるモノはありますから、大丈夫です」

 「それも、そいつがカルトである証拠を見つければ正当性は保証できるさ。……時間だな。枢機卿もそろそろスタンバイに入るはずだ。カーター、私達も行かなくてはならないが……何か、手伝えることはあるか? 全員は無理だが、ペルー卿とコルテス卿の足止めぐらいなら──」

 「足止め? 冗談でしょう? ワインの狙いが僕だったか二人だったかも分からないのに、僕のいないところで無闇に接触しないでください」

 

 立ち上がりかけたステラの腕を掴み、フィリップは強く制止する。

 

 フィリップが傍にいる時なら、最悪、邪神を召喚されても対処できる。

 その邪神の賢さ次第だが、フィリップが何も召喚しなくても勝手に帰っていくかもしれない。

 

 だが相手は所詮、人間以上の超越存在だ。人の顔や関係性なんてちまちましたことに気を払いはしないだろう。フィリップと仲がいい相手、なんて認知はしないはずだ。

 

 虫は、虫だ。

 それはフィリップも同じだが、フィリップの場合は甲冑を着た騎士が全周警戒した博物館のド真ん中に、特殊ケースと抜剣状態の警備兵で守られて展示され、その博物館がある町全体が厳戒態勢にあるみたいな、もう否応なく意識せざるを得ない付加価値がある。

 

 「何かあったら、僕か……レイアール卿に、僕の名前を出して助けを求めて下さい。レイアール卿の方が近くにいるかもしれませんけど、優先順位は僕の方が上で、どうしても僕のところまで行けそうにない場合だけ、彼女に」

 「……分かった。前に言った信号弾のルールは覚えているか? 今回は赤が“カーターの方へ逃げる”、黄色が“助けて欲しい”、黒が“撤退不能”だ。何かあったらそれで合図する」

 「……了解です。あ、ルキア、今回の相手は『明けの明星』も通じない……というか、人類ではどうにもならない存在規模です。攻撃より、自分の身を守ることを優先してくださいね」

 「分かったわ」

 

 フィリップと頷きを交わし、ルキアとステラはソファを立って部屋を出る。そのすぐ後に従者たちも続いた。 

 扉の外で二人を見送ったフィリップは、さて、と気合を入れるように息を吐いた。

 

 そして、一言。

 

 「何してるんですか? もう行っちゃいますけど」

 

 一人だけ残ったメイドに向かって、廊下の角でこちらに小さく手を振るルキアを示す。

 

 「ルキアお嬢様からお聞きになっていませんか? カーター様のお手伝いをするよう、申し付かっているのですが」

 

 青い目を細めて静かに微笑する、儚げな深窓の令嬢といった風情のメイド。

 以前にフィリップが公爵家にお邪魔したとき、ルキアが側付きに貸してくれたマルグリット・デュマだ。

 

 「……そ、そうですか。それは有難い話ですけど、何をするかは聞いてますか?」

 「はい。枢機卿の私室に侵入し、カルトである証拠を探すのですよね? 個人が特定できているのなら、証拠を偽造すれば楽なのですけれど」

 「……そうですね」

 

 フィリップはこっそりと、ルキアに向けて嘆息した。彼女は一体何を考えているのだろうか、と。

 

 確かに、物探しは目と手の量が物を言うことが多い。一人増えるだけで手間は半減だ。

 しかし、今回は迂闊に人目に見せたくない物であることが予想されている。たとえば魔導書の写しや、解読に使ったノートなど。最悪の場合、サイメイギの涙や人間の眼球といった直接的な物品を目にするかもしれない。

 

 手を増やすのは楽だが、目を増やすわけにはいかない。

 特に彼女──メグはルキアのメイドだ。「発狂したので処分しておきました」と報告するのは憚られた。

 

 そんなフィリップの懸念に気付いたように、メグは安心させるような微笑を浮かべる。

 

 「私は道案内と、開錠、見張り、そして万が一の場合は邪魔者の排除を申し付かっております。カーター様が部屋の中で何をされているのかは、決して見ないように、とも」

 「……そうですか。それは……有難いですけど」

 

 先程と同じ返事をして、フィリップはメグを観察するように、頭の先から爪先までを視線で舐める。

 

 肩より長い金髪を揺らし、嫋やかに笑うメグは、全く強そうには見えない。

 道案内はともかく、開錠や、邪魔者の排除なんて可能なのだろうか。そんな疑いが脳裏を過る。ルキアのことを信用していないわけでは無いのだが、それならアリアの方が適任ではないだろうか。

 

 去年の夏休みには分からなかったことだが、あのアリア・シューヴェルトというメイド、とんでもなく強い。

 二つ名持ちの剣士という情報は、『シュヴェールト()』という二つ名に対する少年心の爆発を齎すだけで、特に強さに対する評価にはならなかった。

 

 だが、あの長い髪は。

 ルキアと同じく背中の辺りまで伸ばされた長い金髪は、その強さを存分に誇示していた。

 

 髪の長い戦士は、概ね強いのだ。軍学校次席ソフィー・フォン・エーギル然り、あの吸血鬼ディアボリカ然り。

 

 髪が長ければ掴まれるリスクも増えるし、動きの邪魔になる。視界を遮ったりしたら最悪だ。

 長髪で、かつ場数を踏んで生き残っている戦士と言うだけで、そのリスクを回避するだけの身体操作精度を持ち合わせることの証明に他ならない。

 

 「メグ、戦えるんですか?」  

 「……えっ? あ、はい。お任せください、カーター様」

 

 心配するような目を向けるフィリップに、メグは困惑を思わず表出させてしまった。

 

 メグ──暗殺者『椿姫』の殺人能力は折り紙付きだ。

 一般人どころか訓練された軍人でも、その死の瞬間を知覚させずに殺すことができる。相手がルキアでも、タネが割れていなければ1000回に1回くらいはその首に届くだろう。

 

 その片鱗を、フィリップに見せたこともある──正確には、迂闊にも見られてしまったのだが。

 しかしフィリップは、その時のことを覚えていないようだ。まぁフィリップにとっては、他人が道端の蟻を踏みつけたようなもので、覚えておく方が難しいイベントだった。

 

 「これは自慢ですけれど、王女殿下さえいなければ、誰にも気付かれずに謁見の間で国王陛下の首を落とすことだって出来ますよ」

 「……そうですか」

 

 それは凄いことなのだろう。

 だが、フィリップと一緒に行動する上で求められるのは、殺人能力ではない。

 

 相手取るのは人間ではなく、怪物だ。

 たとえば人体の急所を知り尽くし、秘孔を突いて頭を爆散させるような殺人技巧を持っていたとしても、それはショゴスには通用しないだろう。

 

 求められるのは愚直なまでの火力。

 人体の急所など関係なく、ぶん殴るだけで肉を飛ばし骨を砕くような馬鹿力でもあれば、ショゴスを蹴り殺すことは可能だ。

 

 そして汎用性。

 ただ力が強いだけではなく、ドアノブを殴って鍵だけを壊すような技術が無ければ、探索には向かない。

 

 馬鹿げた火力と無限にも思える汎用性を持っているルキアとステラはフィリップにとって、有用性でも同行者として有難かった。

 

 しかし、フィリップは分かっていない。

 メグは本当に、謁見の間にいる国王の首を狙える暗殺者であり──隠形を始めとした、謁見の間に辿り着くまでに必要になるあらゆる技能が、非常に高いレベルで備わっている。

 

 フィリップは今日、真に探索向きの技能とはどういうことかを知ることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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220

 メグは暗殺者時代に身に付けた技能を遺憾なく発揮し、フィリップの探索に絶大な貢献をしてくれた。

 

 たとえば、教皇庁本棟居住区に僅かに残った修道士──のふりをした、警備役の“使徒”の誘導。

 たとえば、設置型魔術による自動警戒システムの探知と回避。

 そもそも、仮想敵である二人の部屋は何処なのかという案内。

 

 そして何より、この城塞と宮殿を足し合わせたような絢爛で無骨な内装の、ブチ破るにはとても苦労しそうな鍵付き扉の開錠。

 

 彼女が居なければ、フィリップは枢機卿の部屋に入るどころか、廊下を歩いている使徒に捕まって牢屋に入っていただろう。或いはその使徒が鬼籍に入っただけかもしれないが。

 

 「こちらが、ヴィルフォード・コルテス枢機卿の私室です。罠の確認も致しましょうか?」

 

 これだけの能力を疑われたことへの不満を微塵も感じさせず、定食にスープを付けるかと訊ねるような調子で尋ねるメグ。

 機械式だろうと魔術罠だろうと見抜く自信があるのだろうが、今回はあまり他人の手を借りるわけにはいかない。フィリップが首を振って断ると、彼女は扉の側に控えた。

 

 「では、こちらでお待ちしております。巡回は誘導を優先し、次善策として排除に切り替えるという方針でよろしいでしょうか?」

 「はい、お願いします。……ところで、さっきからどうやって誘導したり、鍵を開けたりしてるんですか? 普通に立ってるようにしか見えないんですけど」

 「秘密です」

 

 ついで程度の質問だからメグは冗談めかしたウインクなどしているが、フィリップが本気で問い質しても同じようにあしらわれるだろう。

 それが分かったので、「そうですか」としか答えようがない。

 

 だが実に不思議だ。

 

 メグはずっと、フィリップを先導するように斜め前を歩いていた。

 時折曲がり角に差し掛かると、立ち止まりも先を確認もせず、一定のペースで歩きながら「見張りが居ます。誘導するので、このままのルートで行きましょう」と言って──数秒後に少し遠くで物音がして、見張りが確認に向かう。

 

 複数人いる場合には残された一人が数秒間だけ重度の酩酊状態に陥り、眩暈を起こしているうちにその前を通り抜けたこともある。

 

 魔術行使の気配は無かった。

 フィリップの感じられる範囲ではという但し書きは付くが、主観情報を抜きにしても見張り役の“使徒”は本職の戦闘魔術師だ。彼らが気付かないということは、魔術ではないのだろう。

 

 ……ルキア経由で頼めば教えて貰えないだろうか。魔術に依存しない技術なら、ステラの支配魔術による強制模倣があるフィリップにも覚えられるかもしれないし。

 

 「……行ってきます」

 

 あとで頼んでみようと決めて、コルテス枢機卿の部屋に入る。

 扉を開けて左側はすぐに壁で、右側に長方形の宮殿建築の内装が続く絢爛な部屋が広がっていた。

 

 正面の長辺の壁には木枠の窓が三つ並び、通路側の壁には風景画が二つ掛かっている。最奥の壁には本棚が据えられ分厚い本が所狭しと並び、その前に重厚な存在感のある執務机が置かれていた。

 本棚の横には、寝室に繋がると思しき扉がある。

 

 「シルヴァ。……これと同じ字が書かれた本を探して。机に無かったら本棚って順番で」

 「──ん、わかった」

 

 フィリップは召喚したシルヴァに紙片を渡すと、自分は奥の寝室に向かう。

 

 紙自体はフィリップが普段使っている王都製のノートで、特に魔術的な要素は無い。錬金術製の紙は王都外では高く売れるが、それ以上の付加価値の無いものだ。

 しかし、そこにはフィリップが考え得る限りのヒントが書かれている。

 

 邪神の名前、その生態詳細、更には地下室にあった魔導書断片に記されていた召喚の方法を、邪悪言語と大陸共通語で書いてある。

 シルヴァの識字能力は元々ゼロで、最近は簡単な文字くらいなら書けるようになってきたが、それでもまだ暗記した文章と長文を照らし合わせるような能力は身に付いていない。だから間違い探し方式というか、同じ単語や文字の羅列を探すという方法が必要だった。

 

 「僕は奥の部屋を見てくるから、何かあったら呼んでね」

 「んー」

 

 ごそごそと机の引き出しを漁りながらの生返事に、フィリップは頼もしいことだと肩を竦める。

 対森林級以下の攻撃を完全に無効化し、更には狂気という状態を持ち合わせないシルヴァは、こういう場面では有用なパートナー──の、はずなのだが、やっぱりちょっと心配だった。

 

 しかし、ここでシルヴァと一緒に本棚を漁るよりは、先に寝室を確認してからの方が良いだろう。

 今いるのはコルテス枢機卿の部屋だが、ここが外れだったらペルー枢機卿の部屋に行って、そこも外れだったら既婚者の部屋を片端から探していく羽目になる。儀式終了まで三時間といったところだろう。あまり時間は無い。

 

 「頼んだよ、シルヴァ」

 

 フィリップは軽く手を振って、奥の部屋に続く扉を開けた。

 

 

 ◇

 

 

 モノクロームなメイド服を纏ったメグの、儚く、しかし一本筋の通った立ち姿は、豪奢な宮殿の景色によく溶け込んでいた。

 

 「…………」

 

 彼女は僅かに目を伏せ、部屋の中で行われていることから意識を逸らすよう努力する。

 ルキアの命令は二つ。一つはフィリップの命令に従い、助けること。一つはフィリップの行動を探らないことだ。

 

 しかし、その思考までは制限されていないメグは、部屋の中で何やらゴソゴソと物音を立てている、主人が殊更に大切にしている少年のことを考える。

 

 メグがフィリップに貸し出されるのは二度目だったが、フィリップはメグのことをほとんど覚えていなかった。

 初めての時に、目の前で人を殺した現場を見ているはずなのに──メグが戦えることは、十分に知っているはずなのに、あんな質問をするくらいだ。

 

 そんなフィリップに「流石」と感じてしまう辺り、メグのフィリップに対する理解は深いと言えよう。

 

 ルキアが、ステラが、サークリス公爵が目を付けるだけのことはあると思わせる、常軌を逸した精神性の持ち主。

 そのフィリップがカルト狩りに精を出しているというのはルキアから聞いていたが、まさか枢機卿の部屋に忍び込むほど()()()()だったとは思わなかった。

 

 メグなら、「カルト()かな?」と思った時には四分の三くらい殺している。わざわざ証拠を掴んで確定させるなんて甘いことはしないし、証拠が必要なら殺してから探すか、捏造する。

 

 「……あら、運の良いことですね」

 

 十歩は離れた曲がり角の先から、こちらに近付いてくる巡回が居る。

 毛足の長いカーペットに足音を吸われ、一人だけで誰かと話しているわけでもない男の存在を、メグの指先は鋭敏に感じ取っていた。

 

 その現在位置は、周囲の何かを使った誘導ができない絶妙な場所だった。

 基本的には何かを動かして物音を立てるのだが、前に誘導するとこちらに来てしまうし、後ろに誘導すると別の巡回にまで聞こえてしまう。

 

 まあ、そういう時もある。

 そういう時は、運が無かったと思って貰おう。

 

 彼の不運が故に──メグは幸運にも、自分の趣味を満たせるのだ。

 

 「……? おいお前、こちらを向け」

 

 曲がり角から姿を見せた神父服の男は、胸元に銀色の十字架を下げていた。その各先端は鋭く研ぎ上げられており、まるきり交差した刃だ。

 

 彼はいやに内装とマッチした出で立ちのメグに戸惑い、誰何する。

 教皇庁の内部にメイドがいるのは、普通に考えれば有り得ない。彼ら聖職者は神に奉仕する側であり、自らが奉仕されてはならないという思想を持っている。一応、側付きのような小間使いはいるが、それも聖職者であり、弟子や徒弟といった立場の者たちだ。

 

 今日に限っては、有り得ない存在という訳ではない。

 大洗礼の儀という四年に一度の大儀式に参加しようと、大陸中から貴族や富豪が集まっているのだ。メイドや執事を見せびらかすかのように引き連れた勘違い成金野郎も、何人か見た。

 

 だが、それでも、ここに──枢機卿の居住区にいるのは、流石におかしい。

 迷い込んだにしては、コルテス枢機卿の扉の前で動いていないし、誰何に対して動揺した気配が微塵もない。

 

 儚げに目を伏せた美貌がゆっくりと動き、正面を向く。

 瞬間、

 

 「──ッ!!」

 

 男の知識が、その全身を硬直させた。

 

 必要とあらば無制限の殺人が許可されている“使徒”の中でも、絶対に敵対してはいけないとされる人物はいる。

 たとえば聖痕者や、王族、皇族などは、教義的・政治的な理由から、そのリストに載っている。

 

 そしてもう一つ──()()()()()()。犬死にするだけだから、カルトでもないのなら不要に絡むな、という人物もいる。たとえば、王国の衛士団や、帝国の騎竜魔導士なんかがそうだ。

 

 彼女は、その中の一人。

 あまりに有名すぎて人相書きが出回って、それでもなお()()に差し障りの無かった異常なる暗殺者。

 

 マルグリット・デュマ。

 

 どれほど重武装の相手でも、どれだけ警備の厳重な相手でも、断頭の一撃以外の外傷を与えず美しく殺す。

 その技量、容姿、99パーセント超という驚異の完遂率、そして何よりその殺し方を讃えて、付いた二つ名は『椿姫』。

 

 「……さ、サークリス聖下の配下になったと聞いていたが、ここで何をしている? ここは枢機卿の居住区だ。許可なく立ち入ることは──」

 「──あぁ、やっぱり、少し鋭すぎました。教皇庁でのお仕事なんて数年ぶりですから、気が入り過ぎたみたいです」

 

 男の警告に、メグは何ら繋がりの無い言葉を返す。

 いや、それは返事ではなく、単なる独白だ。言葉の宛先に居るのは自分自身であり、目の前で手を背中に回し、今にも隠した短剣を抜きそうな男ではない。

 

 メグの独白は続く。

 

 「こんなミスは何年ぶりでしょう。以前は確か、まだ私がカーター様と同じくらいだった頃ですね。速く、鋭く、正確に。その三つを極めるあまり、気持ちよくなりすぎてしまって……でもまさか、()()()()()()()()()()()()()()()が、御伽噺の外にもいるなんて、思いもよりませんでした」

 

 男は短剣を抜き、バックハンドに構える。

 

 「動くな。サークリス聖下の配下を殺すわけにはいかないが、控室で待機して貰う。儀式が終わったら、聖下には厳重な抗議を──っ!」

 

 ぱちん、と、メグが指を弾く。

 小気味の良い乾いた音それ自体に意味は無いが、それは魔術師が略式詠唱──指を弾く、手を挙げるなどの動作を詠唱代わりの自分への合図にして魔術を行使する、完全無詠唱の一段階前の技術──によく使う動作だ。

 

 男は魔術を警戒すべく、軽くバックステップを踏み、

 

 ──()()()、と、視界が揺れた。

 

 「……は?」

 

 不可解だった。

 

 バックステップする身体に取り残された頭がぐらりと傾いで、視点がゆっくりと下がって、回る。

 壁にかかった見慣れた絵画、絢爛な中に無骨さの混じる装飾、恍惚とした表情のメイド、赤いカーペットの敷かれた床。ぐるぐると色々なものが目に映り、最後に、頭に重い衝撃が加わった。

 

 顔に感じる触感も、三半規管も、目に映る景色も、自分は今横たわっていると主張している。

 なのに、それ以外の部位──首から下から、一切の情報が伝達されない。まるで、首を斬り落とされてしまったように。

 

 「……あ、っ」

 

 不随意に揺れた視界が僅かに上を向き、鮮血を吹き上げながら頽れる、首の無い男の身体が見えた。

 噴水のように噴き出た血液が雨の雫となって男の顔を打ち、思考が空転する。

 

 回って、回って、回って。

 最後の最後まで思考は空回りして、何が起こったのかを理解しないまま、男の意識は闇に呑まれて、消えた。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 鮮やかに赤く、ただの水とは違う粘度を持った液体が吹き上がる。

 肩から上を失くし、脱力して頽れ、心臓の痙攣に合わせて首元から血を流し続ける胴体を、メグはずっと熱っぽく見つめていた。唇が薄く開いて艶やかな笑みの形に歪み、熱く蕩けた吐息が漏れる。

 

 嫋やかな手指が、すっと死体に向けて伸び──

 

 背後で、ばたん! と、華やかな宮殿にも、厳めしい城塞にも似つかわしくない、作法の欠片も無い慌ただしい所作で扉が開く。

 メグは慌てた様子もなく手を引っ込めると、すっと姿勢を正して頭を下げた。

 

 「あぁ、メグ! 今すぐ──うわ……」

 

 フィリップは廊下の反対側──先程までメグが立っていた位置──を見てから、メグと死体の方を向く。

 何事か慌てていたようだが、嫌悪と苦笑の混じった微妙な表情で硬直した。無造作に転がった顔面と、心臓の鼓動が完全に止まり、ゆっくりとろとろと血を流している断面の覗く骸を見てしまえば無理もない。

 

 だが、大きめの虫が潰れて死んでいるのを見つけたような調子なのは、メグをして「流石」と思わせる反応だった。

 

 「汚いなぁ……。うわ、もう壁にまで血が……って、いや、そんなことはどうでもよくて!」

 「はい、どうなさいましたか、カーター様?」

 

 目の前で人が一人死んでいるわけだが、そんなことはどうでもいいと切り捨てたフィリップは、ぴっと廊下の反対側を指差した。

 

 「コルテス枢機卿がビンゴです。今すぐルキア達に警告を!」

 

 

 

 

 



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221

 結局、ルキアとステラは普通に儀式を終えて、控室に戻ってきた。

 メグが警告に向かった時には──フィリップも一緒に行ったのだが、警備に止められて会場の教会ホールに入れなかった──、コルテス枢機卿はナイ神父に警告され、その場を去っていたらしい。

 

 ナイ神父に警告されたというのは、ステラによる推測だ。

 客観的事実としては、ナイ神父がコルテス枢機卿の耳元で何事か囁いたあと、儀式の最中だというのに二人でどこかに消えただけだ。だが、まあ、十中八九、その推測で正解だろう。

 

 とんとんとんとん、と、くぐもった音が忙しなく鳴り続ける。

 フィリップの苛立ちが、ソファの肘掛けを指で叩くという形で発散されている音だ。

 

 もう片方の手は頬杖に使われ、その双眸は暗く鋭く、虚空を睨み付けていた。

 

 「……あのクソ、これで僕が認識を改めなかったら、本当に──」

 

 フィリップの口から延々と漏れ続ける呪詛に、対面のソファに座ったルキアが萎縮して、ステラは呆れ顔を浮かべていた。

 

 「……カーター、少し落ち着け。さっきからルキアが怯えっぱなしだ」

 

 ステラに諫められ、フィリップは深い憎悪を湛えた視線をそのままスライドさせ、ルキアを見遣る。

 人でも殺しそうな視線を受けたルキアがびくりと怯えたように肩を強張らせたのを見て、フィリップは深々と嘆息した。

 

 その宛先はルキアではなく、自分自身だ。

 苛立ち一つ制御できない自分に──ナイ神父曰く、最終的には萎えるらしい苛立ちのために、ルキアを怖がらせてしまう愚かしさに。

 

 「すみません。それで、えっと……どこまで話しましたっけ?」

 「……大丈夫よ。少し怖かっただけ。……コルテス卿はナイ神父と共に行方を眩ませて、消息不明──というところまでは話したわよね?」

 「はい。……二人がそれを見逃してくれて良かったです。皮肉でも嫌味でもなく、ナイ神父の邪魔をしたら、二人とも死んでいましたから」

 

 フィリップの言葉に、ルキアとステラは軽く頷いて同意を示す。

 むしろ二人の後ろに控える四人の従者たちの方が、フィリップに正気を疑うような目を向けていた。確かに、聖職者が聖痕者を殺すなど、普通に考えるなら有り得ないことだ。その可能性など考えるだけ馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばされてしまうような。

 

 「彼は早急に──本当は今すぐにでも、儀式に取り掛かりたいはずです。僕の手札……()()()()()をどこまで聞いているかは不明ですけど、何か知っているならショ──眼球集めを一時中断するはずなので、何も知らない線が濃厚ですね」

 「……或いは、お前を無視できる公算があるか、無視せざるを得ないほど切羽詰まっているかだな」

 

 ステラの補足に頷きを返し、フィリップは大真面目な顔を作った。

 真剣な話し合いの最中に真剣な表情になるのは当たり前だが、今までは人の生死がかかった状況でさえ冷笑を滲ませていたフィリップだ。それが憤怒と憎悪を露わに、嘲笑も冷笑も取り払った真剣そのものといった表情を浮かべていると、流石のルキアとステラも気圧される。

 

 これまでとは状況が違う。そう理解できるが故に。

 

 「それで、二人にお願いがあるんですけど……」

 

 フィリップは一本指を立て、声のトーンを少し下げる。

 軽く身を乗り出した二人に、フィリップは「必要不可欠なことですよ」と言わんばかりに大真面目な顔で言った。

 

 「──今夜は、一緒にいて欲しいんです」

 

 ……沈黙があった。

 ルキアは何を言われたのか分からないというように目を瞬かせ、ステラは僅かに眉根を寄せて、二人は何も言わずに固まっていた。

 

 一秒、二秒、三秒と、機械式時計の秒針が時を刻む、かちかちと乾いた音が等間隔に鳴る。

 

 ややあって、ステラが背もたれに体重を預け、ソファが軽く軋んだ。

 直後、しゃりん、と涼やかな音が耳朶を打つ。

 

 何の音だろうと目を遣ったフィリップの視線の先で、ステラの親衛騎士二人が抜剣していた。

 

 「──殿下、これは流石に冗談の域を出ています。処断のご許可を」

 「……え? なんか変なこと言いましたか?」

 

 本職の中でも最精鋭の騎士が放つ威圧感を丸ごと無視し、フィリップは冷静に自分の発言を振り返る。

 

 ややあって、フィリップはぱちりと指を弾いた。

 

 「あ! いや、二人とセッ──二人を抱きたいって意味じゃないですよ? 文字通りの意味です」

 「──うん、言葉を選べるようにはなったみたいだが、もうちょっと表現を考えような?」

 

 以前の教訓を活かし切れていない、ほぼ直接的な弁解は、ステラに対しては効果的だった。

 ステラは硬直と思考停止から立ち直ると、いつかのように赤面を通り越して苦い笑いを浮かべていた。苦笑と言うには、苦み成分が多い。

 

 対して、ルキアは白磁の肌を耳まで赤く染めて俯いていた。

 硬直からは回復していたが、まだまだ正常な思考状態には戻っていない。

 

 「抱く、は駄目ですか? ……一夜を共にする、とか?」

 「うん、まぁその辺りが穏当な……まぁ、それはいい。お前たち、剣を納めろ」

 

 二人の鎧騎士は、ステラの指示に一切言い募ることなく従った。

 腰に佩いた鞘に剣を納めると、ソファの後ろで直立不動の姿勢に戻る。怒られてやーんの、と指を差して揶揄ったメグが、アリアに脇腹を小突かれた。

 

 「……失礼いたしました。私の早とちりでご不快にさせたこと、お詫び申し上げます」

 「いえ、大丈夫ですよ。殿下の貞操を狙う不埒な輩みたいなコトを言ったのは僕ですから」

 

 フィリップはけらけらと笑っているが、全く笑い事ではない。

 

 ステラの、第一王女の貞操は国家の財産であると同時に、極めて重要で価値の高い外交資源だ。

 その処女性には、比喩抜きで傾城傾国の価値がある。

 

 彼女の価値を単純化して数えたとき、ただでさえ「人類最強の魔術師」「聖人」「大陸西部の覇権国家の第一王女」「人類最高峰の美少女」という属性が並んでいるわけだが。

 これはまあ概ね、100点中の500点、釣り合いの取れる男性が居なくて結婚相手が見つからないレベルの高嶺の花だ。まあ、今年16歳のステラが、未だに婚約者がいない──王族は20で結婚するのが通例だ──理由は、むしろ国王の方にあるというのが定説だが。

 

 さておき、そこに「処女」という属性が加わると、外交市場における価値は無限に高まる。

 

 逆に言うと、その処女を徒に散らせた者は、不敬云々を抜きにしても大罪だ。

 罷り間違っても冗談で「貴女を抱きたい」だなんて言った日には、その日がその者の命日になるだろう。冗談でなくても同じだが。

 

 フィリップも、立場だけで考えるならこの場で斬首されている。

 その首がまだ胴体と泣き別れになっていないのは、フィリップにとっても、世界にとっても幸運なことだった。

 

 「私たちを守るための案なんだよな? 一緒に居れば、カーターのことも守れるし、そう悪いアイディアじゃない」

 「……そうね。同じ部屋で寝るだけなら……うーん、でも……」

 

 漸く再起動したルキアが、今度は真剣な顔で黙考の姿勢になってしまった。

 フィリップは苦笑しつつ、「違いますよ」と否定し──かちゃり、と、鎧の動く音がした。

 

 いや、違う。

 違うというのは「一緒の部屋で寝るだけ」という部分ではなく、そもそもの大前提だ。

 

 また抜剣されては面倒だと、フィリップは慌てて言葉を重ねる。

 

 「いや、えっと、そうじゃなくて。二人で一緒の部屋にいて、二人で自衛して欲しいんです。可能ならメグたちも一緒に。ルキアと殿下の二人なら、大概の相手は倒せるでしょう? 僕は女子用の宿には入れませんし……コルテス枢機卿が動くとしたら、たぶん今夜ですから」

 

 フィリップは淡々と、そう告げる。

 世間話の延長線上のような調子だったが、ルキアとステラにとっては青天の霹靂だ。

 

 ステラの苦笑が引っ込み、ルキアの耳元に残っていた朱色が引く。

 

 「確かか? なら……いや、私達では足手纏いか?」

 「…………」

 

 ステラが「だったら一緒に居るべきだ」と主張したかったのか、或いは「一緒に探す」と言いたかったのかは不明だが、彼女は“分”というものを弁えていた。

 ルキアも同じく手伝うと言いかけて、すぐに口を閉じている。フィリップの助けになるのなら発狂のリスクも許容する彼女だが、邪魔になるのは本意ではない。

 

 むしろステラの問いに頷いたフィリップを見て眉根を寄せたのは、また四人の従者たちだった。

 

 「カーター様? ルキアお嬢様の強さをお忘れですか? 女性を守ろうという気概は大変麗しいものですけれど──」

 「殿下、やはり彼は不敬です。御身をこうも軽んじるなど、王国の民どころか知性ある人間とは──」

 

 メグと親衛騎士の二人の言葉を、その主人たちが片手を挙げて制止する。

 能面のような無表情のルキアと、仕方ないかと言いたげな苦笑を浮かべたステラが対照的だった。

 

 「マルグリット。貴女にはフィリップを手伝うよう命じたけれど、諫言を許した覚えはないわ。控えなさい」

 「口が過ぎるぞ。私に自分の親衛騎士の品性を疑わせる気か、アンナ?」

 

 叱責を受け、従者二人が口を揃えて「差し出口でした」と謝罪する。残る二人が同僚の不手際を詫びて、彼女らはそれきり口を開かなかった。

 

 「カーターの特異性については、後で説明する。今は……そうだな、対カルトの専門家とでも思っておけ」

 「微妙に嬉しくない称号ですね。カルトを全員殺したら自然消滅しますけど」

 「そうなったら、“カルトを絶滅させた者”という称号に変わるだけよ」

 「あ、それは欲しいですね。是非とも」

 「お前が欲しいのは“カルトが全滅した”という事実だろう? ……いや、それより、探す当てはあるのか? 教皇領は王都よりは狭いが、腐っても中規模都市だ。単純に広いし、建物の数も相当なものだぞ」

 

 ルキアかステラがいれば、魔力視を使える。

 コルテス枢機卿の魔力パターンを記憶していないので、魔術行使の痕跡を探し、現代魔術ではないものを見つけるというハイリスクな方法にはなるが。

 

 それでも、二人のうちどちらかがいれば確実なはずだ。

 ステラはそう考えていたが、彼女が自分で言った通り、フィリップは専門家だ。

 

 「儀式の方法と概要は概ね掴みましたし、召喚される邪神のこともよく知っています。大丈夫ですよ。殿下はルキアと一緒に、自分の身を守ることを最優先にしてください」

 

 今夜──そう、コルテス枢機卿はきっと、今夜動く。

 

 連日の眼球集めの妨害に加え、ショゴス生産拠点らしき地下墓地の破壊は、彼に儀式決行を急がせるはずだ。

 本当なら今すぐにでも邪神を召喚したいところだろうが──そいつを召喚する時には、闇が集まり光が遠ざかる。視覚的には、真っ黒な球体が現れるわけだ。昼間どころか夕暮れでも目立つ。

 

 目立つだけならまだいいが、いまこの町にはルキアとステラ、ついでに言うと帝国の聖痕者とレイアール卿がいる。

 これがどういうことかと言うと、彼女たちは個人でありながら対都市爆撃ができる超火力を保有している。つまり、空に浮かぶ真っ黒な球体なんてこれ見よがしな不審物は、爆撃用のマーカーになりかねないのだ。

 

 せめて夜、欲を言うのなら月が雲間に隠れ、夜闇が濃くなった瞬間や、月が沈んだ後がいい。

 フィリップならそうするし、知識があるなら誰だってそうするだろう。

 

 そして彼は、明確に“智慧のある”相手だ。

 

 フィリップが地下室で燃やしたパピルス。あれは後に『無名祭祀書』と呼ばれる魔導書の原本──その写しだ。

 邪悪言語で記されたそれの解読に使われた手書きのノートが、彼の寝室から見つかった。その最後に使われたページには、パピルスの内容が大陸共通語に完全翻訳されていた。

 

 彼は魔導書に呑まれた狂人ではなく、フィリップのように智慧を植え付けられた狂人でもない。

 自分の意思と知識と思考に基づき、魔導書を解読し理解した領域外魔術師(メイガス)だ。

 

 これが、どうやったら『カルトではない』という認識になるのか、フィリップは今から楽しみだった。

 

 「あ、シルヴァを貸しましょうか? いざという時は目の代わりになってくれますよ。しかもかわいい。目の保養にもなります」

 

 内心でどろりと流動した重質な憎悪を隠すために、これ以上ルキアを怯えさせないように、フィリップはそんな冗談を口にした。

 

 

 

 

 

 

 



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222

 いつも感想・評価等ありがとうございます。
 お陰様でなんとかポケモンの沼から這い上がれました。ぽけもんたのちい


 修学旅行五日目、夜。

 フィリップは教皇領内の小さな教会を訪れ、その鐘楼に隠れ潜んでいた。

 

 教皇庁にほど近い場所にあるこの教会はそれなりに大きく、尖塔の頂上付近に設えられた鐘は、昔ながらの手動式だ。人が三人ばかり入るだけの空間と、登るための梯子があった。

 立地も良く、街の中央付近にあるから、教皇庁の陰になっている場所以外は広く見渡すことができる。最適な監視場所だ。

 

 明後日に満月を迎える真円に近い形の月が光を注ぎ、本を読むくらいなら支障はない。こうも暇だと、何か持ってくればよかったと後悔する。

 

 「ふぅ……流石に、ちょっと冷えるなぁ……」

 

 大陸北部に位置するだけあって熱帯夜とは無縁なこの町は、日が沈むと気温が下がる。

 流石に息が白く染まるほどではないが、半袖半ズボンでは肌寒い。こういう時にステラが居てくれると、深部体温を操作して温めてくれるのだが、無いものねだりだ。彼女の随行を断ったのはフィリップ自身なのだから。

 

 ストレッチや腕立て伏せなどして気を紛らわせていると、ふと月光が翳った。

 夜空に浮かぶ淡紫の雲が、白銀の月を呑む。雲間から僅かに覗く星の光と、眼下、幾つかの建物から頼りなく漏れる人工の明かりだけが光源になる。

 

 フィリップは狭い鐘楼の中で、足回りのストレッチを始めた。

 

 ──そろそろだ。

 フィリップがコルテス枢機卿と同じことを目論んでいたのなら、このタイミングで始める。

 

 ここで始めないのなら、フィリップが街を離れる数日後まで待つつもりか、地下に潜ったかだが、そのどちらも少し考えにくい。

 それだと、フィリップの彼に対するイメージが「カルト」から変化しないのだ。ナイアーラトテップの言動を鑑みるに、今日か──最大でも明後日までには、何かしらのイベントがあるはずだ。

 

 それに、フィリップは昨日コルテス枢機卿の寝室から、彼の日記も見つけている。

 万が一誰かに見られた時のことを想定してだろう、直接的なことは何も書かれていなかったが、「計画はもうじき成就する」とか、「ナイ神父が味方であるうちに事を終えなくては」とか、待ち遠しさと焦りの感情が読み取れる文は多々あった。

 

 なら、先延ばしにはしないはずだ。

 

 特に、フィリップの対邪神性能を知らないのなら、「邪神を召喚してしまえば勝ち」だと考えるだろう。

 まあ実際、召喚物をルキアとステラが運悪く見てしまえば、その時点でフィリップの負けだ。そういう意味では「召喚したら勝ち」と言えなくも無いが、その場合はこちらも切り札で盤面返しをさせてもらう。

 

 「……来たな」

 

 遥か上空に、ぽっかりと闇の大穴が空く。

 光無き漆黒の月にも、夜空が陥没した天の奈落にも思われる外観だが、あれは空中に存在する光という光全てが()()を避け、闇の球体に見えているだけだ。穴でも無ければ物質でもなく、その闇の中には何もない。……今のところは。

 

 あれは儀式が始まった合図のようなものだ。

 もうあと十分もすれば邪神が召喚され、闇のヴェールが取り払われる。そして、その悍ましい姿が衆目に晒されるというわけだ。

 

 町のど真ん中でそんなものを呼び出すなんてどういうつもりなのか──と、フィリップに非難する権利はないだろう。あんなのよりもっと被害規模の大きいものを呼び出したことのある身のフィリップには。

 

 だから黙って、さっさと黙らせに行こう。

 フィリップは自嘲の笑みを噛み殺し、鐘楼から身を乗り出して、闇の球体の直下を探る。

 

 「……あの教会か」

 

 教皇領にも教会は点在している。

 フィリップは「教皇庁なんてドでかい教会があれば不要では?」と思ってしまうが、流石に平時のミサ程度で総本山の大聖堂を開放していては、特別感も薄れるというものだ。それに、宗教権威的な意味を除いても、教皇庁の大聖堂は歴史的にも重要な文化財だ。警備コストを考えると、やはり普段から開放しておくのは割に合わない。

 

 そういうわけで教皇領にも他の都市と同様に、所々に町人たちの利用する教会が点在しているわけだ。フィリップが監視塔代わりに使っている教会も、その内の一つだった。

 

 フィリップはするすると梯子を下り、階段を駆け下りて教会を飛び出す。

 

 普通に走ってはギリギリ間に合わない距離だが、足の確保は済んでいた。

 フィリップは教会に向けて走りながら必死に息を入れ、渾身の意志を込めて叫ぶ。

 

 「来い、カルンウェナン!」

 

 直後、雲間から僅かに漏れる月明りで足元に淡く在っただけのフィリップの影が、急激に濃くなり、前後に大きく広がる。

 波を割って浮上する潜水艦のように首を突き出し、やがてその全身を地上に晒し、四本の足で力強く地面を駆けるのは、黄金の鎧を纏った駿馬だ。

 

 フィリップを真下から掬い上げるようにその背に乗せ、教会への道を疾駆する。

 フィリップと純金の馬鎧の重さをまるで感じさせず、この世のどんな軍馬や競走馬よりも速く、そして堂々たる姿だ。隆起し熱を持った大量の筋肉、その拍動が、鞍を通してすらフィリップに伝わる。

 

 聖国の騎士王レイアール・バルドルの所有する、この世ならざる──否、この時間に在らざるべき怪馬。名をカルンウェナン。

 絶対に乗りたくなかったのだが、これに乗るか、邪神を召喚されてルキアとステラが発狂するかの二択だったら、流石に乗る方を選ぶ。死体安置所のような臭いは鼻に付くが、まぁ、仕方ない。

 

 ティンダロスの交雑種、馬のようにしか見えない怪物は、フィリップを乗せてひた走る。

 これが人生初乗馬──馬ではないが──になるフィリップの、鞍にべったり尻を付けて、鐙にはただ足を通しただけの、馬にとっては余分荷重でしかない乗馬姿勢をものともせず。

 

 フィリップが10分かけて走破できるかという距離を一分以下で走り抜けた化け物は、満足そうに嘶きを上げると、夜の闇に溶けるように消えた。金色の馬鎧を着ているというのに。

 

 「お疲れ様。レイアール卿によろしくね。あ、剣も貸してほしかったって言っといて」

 

 虚空に向かって見送るように手を振る。

 流石に今回は「やっぱり助けて」とルキアとステラに泣きつくわけにはいかない以上、準備は万全にしてあった。いや、しておこうとした。

 

 レイアール卿に「武器と移動手段が欲しいな」とおねだりしてみたところ、「馬であれば、喜んで。しかし剣は……」と、要求の半分だけが聞き入れられ、今に至る。

 あれはどうせ、「剣まで貸したら一瞬かつ端的に解決して面白くないじゃん」みたいな理由だ。

 

 まあ、周囲の空気を毒に変える──激烈な放電によってオゾンを発生させる──剣なんて、持っているだけで危ないし。というのは、完全に酸っぱいブドウ的な負け惜しみか。

 

 「さて」

 

 フィリップは右手をウルミのグリップに添え、教会の扉を蹴り開ける。

 とんでもなく無礼で行儀の悪いことだが、神の天罰は無いだろう。フィリップに天罰を下すぐらいなら、まずは──

 

 「……、……。…………」

 

 祭壇の真正面でぶつぶつと呪文を唱え、邪神召喚の儀式をしている、仮面の男を裁くべきだ。

 

 

 ◇

 

 

 その教会は、投石教会より幾らか大きい中規模のバシリカ型教会だった。

 玄関から最奥の聖女像と祭壇に向かって伸びる赤いカーペットが敷かれた回廊があり、その左右には信徒用の椅子が並んでいる。後ろ半分は長椅子で、前半分は一人掛けの椅子だ。

 

 本来は長椅子と同じく整然と並んでいるはずの一人掛けの椅子は、今は乱雑に左右に押しのけられて、魔法陣を描く場所に使われていた。カーペットも途中で無くなっており、魔術で焼いたように端の部分が焦げていた。

 

 教会の中には淀みの臭いや刺激臭などが複雑に混じり合った悪臭が漂っており、石柱の影や二階の回廊、梁の上などから、耳障りな鳴き声が漏れ聞こえてくる。

 二十どころではない、五十を超える下級ショゴスが、この神聖であるはずの空間に潜んでいた。

 

 フィリップはそれに気付いていながら物怖じせず、むしろ堂々と、赤いカーペットの上を歩く。

 回廊を半分ほど進んだところで、仮面の男が一心不乱に唱えていた呪文を止め、魔法陣から顔を上げてこちらを向いた。

 

 言うまでもなく、顔の左半分だけを晒した男は、ヴィルフォード・コルテス枢機卿だ。

 

 「……意外だな。君が一人で来るとは思わなかった」

 「……」

 

 先日に会った時とは違う、全く無感情に機械的な声で、ヴィルフォードが言う。

 

 その言葉に──言葉を紡いだことそれ自体に、フィリップは無言で首を傾げた。

 

 彼は今まで、邪神召喚の儀式をしていたはずだ。その証拠である天に浮かぶ闇の球体を確認して、それを頼りにここへ来たのだから間違いない。

 しかし今は、儀式を中断してフィリップと話している。

 

 邪神召喚は普通、フィリップが普段やっているほど生温い魔術ではない。

 魔法陣の描画、代償の用意と支払い、儀式行使と讃美歌の詠唱。どれ一つ欠けてもいけない。特に最後──招来の呪文は、途中で一旦やめる、なんて生温いことはできない。一旦やめたら、最初からやり直しだ。

 

 フィリップが来たから止めた──では、不合理だ。

 フィリップが来たからこそ急ぎ、フィリップに邪神を差し向けて殺すくらいのことをしてくるかと思ったのだが。

 

 「姉二人は連れて来なくて良かったのか? それとも自らの力量を過信し、騎士道精神でも催したか?」

 

 冷たい嘲りと深い憎悪を滲ませる侮蔑に、フィリップは目を瞬かせる。

 ややあって「姉」がルキアとステラを指しているのだと気付き、「あぁ」と納得したように頷いた。

 

 「ルキアと殿下が居たところで、あれが出てきたら成す術無く発狂して終わりだからね。まあ、二人が居れば、お前を殺すのに五秒も掛からないだろうけれど」

 

 あれ、というところで頭上を指す。

 勿論梁の上に潜んでいるショゴスではなく、上空に浮かぶ闇の繭、そこに現れる邪神のことだ。

 

 暫定カルト相手というだけあって──本当なら「カルトと言葉を交わす舌は持ってない。苦しんで死ね」と戦端を開いていたところだが──、フィリップの態度にいつもの取り繕った敬意は無い。

 あるのは心底からの冷笑と嘲笑、そして僅かな好奇心だ。本当に、これをカルトではないと認識するのだろうかと。水槽に飼っているザリガニが青くなるか、程度の、無益なものだが。

 

 「だろうな。だからこそ、君が一人で来てくれて良かった。お陰で私は、邪魔者を排除してからゆっくりと儀式に臨める! やれ、ショゴスたち!」

 「……へぇ? ショゴスの名前は知ってるのか」

 

 石柱の陰から次々と姿を現す、直径一メートルほどの黒い粘体の塊。下級ショゴス。

 二階の回廊や梁の上からも、続々と落下しては、べちゃりと聞き汚い音を立てて半分ほど潰れ、反発するように元の形に戻る。

 

 フィリップはショゴスの雨の只中に立ちながら、どこか感心したように呟いた。

 

 「私としては、君がそれを知っていることこそ驚きだがね」

 

 君のような子供が、と侮りの気配を見せるヴィルフォード。

 

 フィリップは言葉を以ては答えず、ただ、は、と鼻で笑った。──嘲笑った。

 

 

 

 

 

 



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223

 「……殺せ」

 

 ヴィルフォードの命令に従い、無数と表現できる数のショゴスが全周から襲い掛かってくる。

 

 蠢き這いずるような動き方のショゴスは健脚とは言えないが、それでも一度捕まれば、あとは単純に数の暴力で轢き潰されることは想像に難くない。

 

 こういう敵が圧倒的な大多数である場合、選択肢は二つだ。

 一つは、ルキアやステラのような、フィリップであればハスターやクトゥグアのような圧倒的火力を以て、量を質で駆逐する。

 

 これは中々に脳筋的というか、単純ゆえに能力の求められる解決策だが、もう一つの選択肢も似たようなものだ。

 

 単純に、フィリップの目標はヴィルフォードで、ショゴスはその道中にある障害に過ぎない。

 ではどうするか。一つ目の選択肢は「退ける」というものだった。二つ目は、「避ける」しかないだろう。

 

 「よ、っと!」

 

 フィリップは眼前で触手を振り上げ、威嚇などしていたショゴスを踏みつけにして、第一歩目とする。

 そして全力で拍奪の歩法を使い、相対位置を後方に欺瞞しながらヴィルフォードに突撃した。

 

 フィリップの勝利条件は、ショゴスの全滅ではない。

 儀式行使・邪神降臨の阻止──ルキアとステラの正気を守ることだ。

 

 本当は邪神の気配なんて感じさせず、この世界の儚さも醜さも忘れて修学旅行を楽しんで欲しかったのだけれど。まあ、事ここに至れば是非もない。

 

 ショゴスの攻撃は避けるだけに留め、反撃は考えない。

 どうせ、召喚の魔法陣を汚されるわけにはいかないから、ヴィルフォードから一定の範囲内には入らないよう命令しているはずだ。ある程度走ればすぐに安全圏がある。むしろ足を止めて迎撃したり、出口へ下がったりした方が、物量に負ける可能性が高い。

 

 避けて、避けて、避けて、ひたすらに走る。

 

 フィリップの戦術は最適解らしく、ヴィルフォードが顔の片側を歪めてこちらを睨む。

 仮面に覆われていない方の目が、ウルミを整形しながら突っ込んでくるフィリップを捉え──嘲笑の形に歪んだ。

 

 「──遅い!」

 

 魔力障壁の展開が十分に間に合う、子供の走る速度だ。ヴィルフォードはそう嘲笑う。

 

 そりゃあ、そうだろう。

 ()()()()()()()のが、拍奪の歩法だ。

 

 「──ばーか」

 

 相対位置の欺瞞は、相対速度の欺瞞でもある。

 相対位置を前に誤魔化せば実際より速く見えるし、後ろに誤魔化せば遅く見える。相手のカウンター攻撃を早まらせたり、遅らせたりする時に使うと効果的だ──このように。

 

 「っ!?」

 

 フィリップは攻撃の直前で、敢えて位置認識欺瞞を止めた。

 ヴィルフォードには二歩か三歩分の距離が全くの無挙動で詰まったように見えて、思わず息を呑む。

 

 ステラならカウンターか魔力障壁の展開が十分に間に合うだろうが、彼の戦闘センスはその域に無い。

 フィリップのウルミが振り抜かれ、風切り音に炸裂音が混じる。

 

 しかし、「獲った」と言いたげにほくそ笑んだフィリップの確信は、ぎゃりぎゃりぎゃり! と、金属が擦れ火花を散らす音によって覆された。

 右手に握ったウルミを通じ、ヴィルフォードの首元からいやに硬質な感触が跳ね返ってきて、フィリップは何とも言えない表情を浮かべて独り言ちる。

 

 「……僕の相手はこんなのばっかりだ」

 

 急制動するのではなくそのまま横を通り抜け、あわよくば魔法陣を足で消そうとしたのだが、魔法陣は魔術か薬品で石の床に焼き付けてあった。

 

 「……助かったぞ、ナイ神父」

 「……あのクソ」

 

 大方、予め防護魔術を掛けておいたとか、そんなところだろう。

 

 「ナーク=ティトの障壁と言ったか。私の身を守る不可視の鎧と同じものが、この教会を守っている。入り口以外からのあらゆる侵入と脱出は拒まれ、聖痕者の爆撃にも耐えると言っていたぞ」

 

 自慢げな台詞ながら、感情を殆ど滲ませない機械のような口調で言ったヴィルフォードに、フィリップは舌打ちを隠さない。

 ナーク=ティトの障壁。知らない魔術だが、打ち込んだ感触からすると、魔力障壁のような規定量のダメージを肩代わりする装甲ではない。むしろ、一定以下の攻撃を完全に無効化する減衰フィールドのようなものだ。

 

 聖痕者の爆撃に耐えるということは、聖痕者の爆撃以下の威力の攻撃は何十発撃ち込んでも無意味ということだ。フィリップのウルミでは一生かけても貫通しないだろう。

 

 だが、まあ、それはこちらにとっても好都合なわけで。

 

 「それは内側からも、ちょっとやそっとじゃ壊れないって認識でいいんだよね?」

 「君がここを生きて出ることは無い。それは保証しよう」

 「あーあ、守れない保証なんてしたら悪魔に魂を取られちゃうよ?」

 

 フィリップはにっこりと笑い、ヴィルフォードはにこりともせず、フィリップの濁った青い双眸を見返す。

 

 そして、

 

 「殺せ、ショゴス!」

 

 再びの命令。

 魔法陣が多少の汚れでは消えない以上、たとえ魔法陣の上で迎撃の構えを見せても、ヴィルフォードは容赦なくショゴスを突撃させるだろう。

 

 もう一度強行突破したところで、ヴィルフォードは実質的な無敵状態だ。その首を獲れないのなら意味はない。

 終わりだ。

 

 ──ナイアーラトテップに与えた猶予期間は、これで終わりだ。

 

 「まず手始めにお前を殺す。なるべく苦しめて、この世に生まれて来たことが間違いだったと教え込んでから殺す。次にお前の娘を殺す。いるのならその夫や子供もだ。そうしたら、お前は悲しんで苦しんでくれるだろ?」

 「……悪逆だな。そして非道だ」

 「非人道的であることは認めるよ。でも悪逆という謗りは微妙だね。これは殿下が気付かせてくれたことだけれど、僕はお前たちカルトに対する行為に、善悪の観念を持ち込まない。好悪で動く。僕はお前たちが嫌いだ。だから殺す。苦しめて殺す。カルトと共に眠り、カルトと共に日を浴びることはできない」

 

 フィリップは心底からの憎悪と、軽蔑と、殺意を以て吐き捨てた。 

 その手が幽鬼の如き動きで上がり、ヴィルフォードと、ショゴスの群れを照準する。

 

 自慢げに「教会は守られている」なんて語っていたが、それはフィリップにとっても好都合なことだ。

 おかげで、心置きなく鬼札が切れる。

 

 「いあ いあ はすたあ──」

 

 フィリップの詠唱に、ヴィルフォードが目を見開く。

 仮面に隠れて片方しか見えない灰色の瞳の奥に、驚愕と、恐怖と、畏怖と、納得があった。

 

 「くふあやく──は?」

 

 徐に両手を挙げたヴィルフォードに、フィリップは目を瞬かせる。

 それはどこからどう見ても降伏を示すポーズであり、万国共通のボディランゲージだ。

 

 普段なら、カルトは降伏しようと抵抗しようと関係なく薙ぎ払うところだが──フィリップはどうにも、身内に甘いところがあった。

 ちょっとだけ、気になってしまったのだ。「もしかして、ここで殺すのは性急なのかな? もう少し何か話してみると印象が変わるのかな?」と。

 

 「……ホントにこれで最後だぞ。……降伏するつもりなら、まずはショゴスを下げろ」

 「分かった。……下がれ」

 

 ヴィルフォードの命令に従って、無数のショゴスが一斉に動きを止める。そして一瞬のラグを挟み、ずるずると這いずる音を立てて、石柱の陰や壁を伝って二階の回廊などに戻っていった。

 

 かかったな馬鹿め! と不意討ちしてくるかと思ったのだが、そんな気配はない。

 

 「……今の言葉は、ナイ神父から聞いていた。君がその三節を口にしたら、どれだけ優勢でも武力交渉は諦めろと」

 「あっそう。それで? だったらどうする? 僕を説得してみるかい? 私はカルトじゃありません、なんて言葉を、僕が信じるとでも?」

 

 嘲笑も露わなフィリップに、ヴィルフォードは首を振って否定する。

 

 「私は、私をカルトだとも、カルトではないとも思わない。私は、私だ。故に、私は君に、私の目的を話そう。そして賛同……いや、少しでも理解して貰えないか、試すことにする」

 「僕がそれを素直に聞く義理は無いんだけど……まぁ、いいよ。聞かせて?」

 

 フィリップは手近にあった椅子を掴んで引き寄せると、どっかりと腰を下ろした。

 ウルミも巻いて腰に吊り、完全に非戦闘態勢だ。いま襲われたらかなり危ういが、戦闘を意識していなければ人間を敵と見做せないフィリップだ。警戒心など端から持ち合わせていない。

 

 何の期待も無く、ただナイアーラトテップの言葉が真実なのかという好奇心で動いていたフィリップは、しかし。

 

 「君は──神を、必要だと思うか?」

 

 ヴィルフォードのその言葉で、思考というものを思い出した。

 

 必要論による神の存在追及。いや──存在批判。

 なるほど、面白い言説だ。

 

 旧支配者や外神は、独立した存在の核を持つ、言うなれば「神と呼ぶべき強大な生物」だ。非生物とか概念とかもいるが、それはさておき。

 対して、唯一神や旧神の一部は、信仰に拠って生まれた存在。人々の信仰と集合無意識が作り上げた、言うなれば「想像され創造された被造の神」。

 

 一神教に於いては創世神とされ、この世全ての父であるとされる唯一神も、人々の信仰に拠って在るものだ。外なる神は、これを寄生虫や蛆虫と呼んで嘲笑うが、全くその通りの在り方だ。

 

 神は天にいまし、なべて世は事も無し。

 ──とはよく言ったもので、唯一神が人間社会に干渉することは殆ど無い。精々が人類最強の魔術師を認めることと、魔王復活に際して勇者に祝福を与えるくらいだ。個々人の祈りに応え、救いを齎すことはない。厳格公正なる、機械のような神だ。

 

 そして、利が無いのなら──害もまた、無いのなら。

 それは、存在しないのと同じだ。

 

 ならば、自らが想像した被造の神を、不要と切り捨てることも許されるのではないだろうか。

 

 これは面白い話が出来そうだと、フィリップは重心を背もたれから外し、膝の上で組んだ手に移した。

 

 「……続けて?」

 

 フィリップが促すと、ヴィルフォードは頷いて先を続ける。

 

 「私は、神が必要だとは思わない。妻の遺書は読んだようだが、娘は彼女が逝った三日後に、その後を追ってしまった。二人とも何ら恥じることのない善人であり、敬虔な信徒だった。……そんな二人でさえ救わぬ神なら、居なくても構わないだろう?」

 「……ふむ」

 

 フィリップは「そうかも」とか考えているが、ヴィルフォードの言葉は正論ではない。

 自分の主観と大多数の総意を混同し、他者の思想を自身の必要論で侵害している。そもそも実益を求めて信仰するのなら、信仰とは「何かを信じる」こと自体に意味がある。たとえば辛い現実に直面した時、信じるものがあれば、それに縋って乗り越えられる。たとえば死した後に楽園が待っていると信じていれば、死別は悲しみばかりではなくなる。

 

 この場にステラが居れば、「必要論で語るのなら、道徳心や常識の根幹に神を据えている以上、唯一神の存在は必要不可欠だ。より正確には、神の存在が信じられていることそのものが必要だ」と語るだろう。

 

 「神は何もしない。敬虔な信徒を導き救うこともなく、悪逆なる背信者を罰することもない。……見ろ、これを」

 

 ヴィルフォードは顔の右半分を覆う仮面を外し、素肌を晒す。

 そこにあったのは火傷の痕と、明らかに自然の傷ではない裂傷があった。頬の辺りを斜めに裂いた傷の奥には、明らかに骨とは違うすべすべした乳白色の膜があり、眼球のようにも見えるそこから、黄白色の粘液が涙のように垂れていた。

 

 顔の変形はそればかりではなく、明らかに顔の半分だけにシミやシワが増え、骨格まで歪んだように変形している。

 サイメイギの延命ワインの副作用、歪んだ老化だ。生きたいがあまり邪法に縋り、正常さを失った姿には、フィリップでなくとも深い嫌悪と軽蔑を抱くことだろう。

 

 「これほどまでに悍ましく、醜く変わり果てた司祭にすら、神は何の罰も下さない。……馬鹿げているだろう?」

 

 ヴィルフォードは仮面をつけ直し、顔の半分だけでフィリップを見据えた。

 

 そして、宣言する。

 醜い姿に成り果ててまで追い求めた、彼の目的を。

 

 「故に私は神を殺す。君に手伝えとは言わない。ただ、邪魔をしないでいてくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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224

 神を殺す。

 邪神と交信して恩恵を受けて、そこで満足しているカルトなんかより、よほどぶっ飛んだ目的だ。

 

 フィリップは自覚していないが、口角を吊り上げて先を促す。

 

 「どうやって?」

 

 唯一神は、信仰に拠って生まれた神だ。

 その性質は“限定的不滅”。その存在格を形成するだけの信仰が人々の間にある限り、何度でも復活する。

 

 だから唯一神を殺すには、全人類の根絶が最短にして最速の解だ。

 或いは唯一神を大勢の人間の前に引き摺り出して、復活という単語が頭に残らないほど徹底的に殺し、その様を全人類に語り広めさせ、深層意識に「神は死んだ」と刷り込むか。

 

 ヴィルフォードは両手を広げて、ショゴスを示す。

 

 「分からないのか? 君にも智慧があるのだろう? この見るに堪えない醜悪な怪物たち、冒涜存在の主を、知っているのだろう?」

 

 フィリップは口角を緩めたまま──眉根を寄せ、首を傾げた。

 

 ()()()()()()()()

 

 いや、そりゃあ、ショゴスを作り出した旧支配者、かつて地球の覇者であった『古きもの』のことは外神の智慧にはあるし、知っているといえば知っているけれど、それと神を殺す手段がどう繋がるのかが分からない。

 もしかしたら発狂していて、思考の論理性が崩れているのかもしれないが、それにしてはこれまでの会話が整然としている。

 

 フィリップは一先ず頷くに留め、続きを促す。

 

 「ならば分かるはずだ。私の思惑が。考えるまでもなく。この悍ましく、しかし強大な力を持つ邪神サイメイギの父──」

 

 この、と言うところで、ヴィルフォードはこつりと仮面を叩いて示した。

 フィリップは「強大?」と半笑いで首を傾げたが、突っ込むのは後にして、言葉の先を待つ。

 

 「邪神シアエガ! 即ち、冒涜の王の降臨を以て、唯一神を撃滅するのだ!」

 

 邪神──旧支配者、シアエガ。

 巨大な緑色の目玉に無数の触手を生やしたような姿の邪神。サイメイギの父であり母体。

 

 その権能はヒトにとって都合が良く、封印されているシアエガを、多数のカルトが利用している。

 たとえば、心身双方の傷の治癒。たとえば、延命。たとえば、身体強化。

 

 しかしその存在格は、ヒトでは何の抵抗も出来ない程度には強大だ。

 

 その力で、唯一神を殺す。

 可能か不可能かで語るのなら、一応は可能だろう。

 

 シアエガは旧支配者の中では下位に当たるが、それでも全人類の根絶くらいはできる。

 

 そして──フィリップの頭にあったのは、そんな真面目な思考では無かった。

 

 「……ぷっ」

 

 静謐な教会の中にも、化け物が犇めく空間にも相応しくない、軽い音が漏れる。

 それが何なのか、ヴィルフォードは理解できなかったが、すぐに否応なく理解した。

 

 「くっ……ふふ、ふふふふ……あはははは! あっはははは! ははははは!」

 

 失笑──それに続き、手を叩いて爆笑する。

 フィリップの心中に後から後から沸き上がる感情はそれだけでは収まらず、腹を抱え、椅子から転げ落ち、シアエガを召喚する魔法陣の描かれた石床を叩いて笑った。

 

 抱腹絶倒。

 まさにそう表現できる感情の発露だった。

 

 「はは、あははは、あっははははは! ふぅ、ふぅ……く、ふふふ……あはははは!」

 

 フィリップは思考が吹っ飛ぶほど可笑しかったが、ヴィルフォードはそうではない。

 「何が可笑しい!?」といきり立ち、腕を振って怒りを露わにしていた。

 

 しばらく腹を抱えて、床を叩いて笑っていたフィリップは、笑いの発作が治まるとゆっくりと立ち上がり、また椅子に座り直す。

 しかしヴィルフォードの顔を見た途端、また思い出し笑いの波に飲まれて、更に暫く笑った。

 

 ややあって落ち着きを取り戻したフィリップは、もはや息も絶え絶えだった。

 

 「はぁ、はぁ、んふふふっ……。なるほど、なるほど。そういうことか、ナイアーラトテップ」

 「──はい。ご賢察の通りです、フィリップ君」

 

 ぱち、ぱち、と、ゆっくりとした拍手の音と共に返事が聞こえて、ヴィルフォードが声のした方を仰ぎ見る。

 心の底から愉快そうな表情を浮かべたナイ神父が、二階のギャラリーに立ってこちらを見下ろしながら、深い敬意と嘲りを同時に感じさせる拍手を送っていた。

 

 「カルトじゃなくて道化師か。……うん、こんなに笑ったのは、()()()以来初めてだよ。素晴らしい余興だ」

 

 フィリップは上機嫌に独り言ちる。

 

 「ナイ神父、これはどういうことだ!? 彼はなんだ!?」

 

 状況がまるで分からないと書かれた顔で、ヴィルフォードがナイ神父に向かって怒鳴る。

 対して、ナイ神父はフィリップの感情が感染したように上機嫌な笑みを浮かべた。

 

 「見たままですよ、コルテス卿。貴方は──」

 「──蒙昧に過ぎる」

 

 ナイ神父の言葉を、フィリップが奪う。

 自分の言葉を遮られたことにすら歓喜を催すのか、ナイ神父は感激したように胸に手を当てて一礼した。

 

 ぱち、ぱち、と拍手が起こり、それはやがて万雷の喝采に変わった。

 

 勿論、この教会には誰もいない。

 ナイ神父が拍手しているのは分かるが、それでも一人だけだ。教会全体を埋め尽くし、ヴィルフォードが僅かに頭痛すら感じるほどの大喝采にはどう足掻いても足りない。

 

 それなのに、拍手が聞こえる。歓声が聞こえる。

 ヴィルフォードは思わず後退るが、拍手の音は背後からも、頭上からも、足元からも聞こえる。まるで、世界そのものが何かを称賛しているように。

 

 フィリップには聞こえていないのか、笑い過ぎて痛む頬の筋肉を揉んでニヤニヤしているだけだ。

 

 だが、幻覚ではない。

 絶対に錯覚や脳の誤作動などではないと、ヴィルフォードの本能が断言している。

 

 それが一層の恐怖を掻き立てて、ヴィルフォードの足から力が抜けた。

 尻もちを搗き、這うように下がる。何の思考も無くただ本能だけで、フィリップから距離を取ろうとしていた。

 

 「──一つ、教授(レクチャー)しましょう。一年以上ぶりに大笑いさせて貰ったお礼です」

 

 ヴィルフォードが力の入らない手足を必死に動かして稼いだ距離を、フィリップは軽々と踏み潰して近付く。

 思わずショゴスに命令を下しフィリップを排除しようとしたヴィルフォードだが、気付けば五十以上も居たショゴスの気配は一つ残らず消え失せていた。

 

 「この一幕は特別なもの。舞台に生半な脇役がしゃしゃり出るのは無粋でしょう?」

 

 ナイ神父は誰にも聞こえない声量で、そう呟いた。

 

 「ふふふふふ……」

 

 フィリップは思い出し笑いを溢しながら、後退る気力さえ消え失せたヴィルフォードの前にしゃがみ込む。

 ややあって笑いの発作が治まると、半笑いの口元のまま、深い嘲笑の透ける一瞥を呉れた。

 

 無限に湧き上がる愉快さの波に混じり、心の奥底から突き上がってきた言葉を、丁寧に飲み下す。元あった場所、心の奥底にしっかりと仕舞い込んで封をした。

 決して口外しまいと嚥下した言葉の代わりに、一つの智慧を授ける。

 

 「“冒涜の王”の名が相応しいのは、この世でただ一柱。アザトースだけです」

 

 フィリップの言葉が終わった瞬間、ヴィルフォードは世界から音が消えたような錯覚を味わった。

 

 ……錯覚だ。

 まだ思い出し笑いの発作に苛まれているフィリップが漏らす、喉を鳴らす音は聞こえた。

 

 ならば何故、と考えて、あの世界全体が揺れるような大喝采が消えていることに気が付く。

 代わりに降りた沈黙の帳からは、落胆と、失望と、呆れと、嘲笑と、ほんの僅かな期待と──恐怖してしまうほどの嘆きが感じ取れた。

 

 それはまるで、舞台劇のクライマックスで、主役が台詞を間違えたような。

 

 「えっ……?」

 

 ヴィルフォードの口から、か細い、怯えた声が漏れる。

 フィリップの言葉の意味も、そこに含まれる最悪の名前も、なにも理解することはなく、錯覚から来る絶大な恐怖に溺れていた。

 

 ふっと意識が遠退き、ここではないどこか、今ではないいつかの景色が無数に、一瞬のうちに脳裏に閃く。

 それが走馬灯と呼ばれる現象だと、ヴィルフォードはいやに客観的に理解していた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 ヴィルフォード・コルテスという男が信仰の道を進み始めたのは、10歳の頃だった。

 修道院に入って数年を過ごし、神学校に入って神父になった。

 

 そこから先は、教皇庁が下す辞令に従って、国境すら越えて様々な街の教会に勤めた。

 王国に行ったこともある。帝国に行ったこともある。王都に行ったときには、快適すぎてここから出たくないとさえ思った。

 

 あれは、王都勤務という幸運に恵まれた数年後のことだったはずだ。

 良好な勤務態度、篤く深い信仰心が認められて、教皇庁で枢機卿の徒弟となることが決まった。喜び勇んで教皇庁に向かう馬車に乗り──野盗の襲撃を受けた。そして命からがら逃げ出した先の森で、カルトに捕まったのだ。

 

 この世の地獄だと思った。

 

 そこには何も無かった。

 会話。道徳観念。信仰。祈り。論理。自我。そういった人間がましいものが、何も無かった。

 

 そこには全てがあった。

 罵倒。尊厳破壊。冒涜。拷問。狂気。姦淫。そういった避けるべきものの、全てがあった。

 

 顔の火傷を負ったのも、この時だ。

 

 ヴィルフォードは何も見ないように固く目を瞑り、聖句を唱え続けた。

 自分を失わないように──自分を失った結果として。

 

 そこから助け出された時のことは、ほとんど覚えていない。

 だが──修道院でも変わらず自失状態だった自分が、まともな思考を取り戻せたのは、間違いなく彼女のお陰だった。

 

 幾度となく自分の元へ通い、語り掛けて、深淵の底に埋まっていた精神を引き上げてくれたエイレーネ。

 精神が幾らか安定した後は、信仰について語り合ったり、他愛のない話をした。

 

 他者との交流の甲斐あって仕事に復帰したヴィルフォードは、枢機卿の徒弟になって──そこで、彼女と再会した。

 

 そこから先は早かったが、苦労もあった。

 大前提として、聖職者の姦淫は忌避されている。恋愛絶対禁止というわけではないが、慣習的に結婚する司祭はとても少ない。

 

 枢機卿を目指していたヴィルフォードのことを慮って、エイレーネは婚姻関係を周囲にひた隠そうと言った。

 幸いにして、元秘匿部隊の彼女の情報統制能力は、ささやかながら結婚式を挙げられるほどだった。

 

 それから少し経って、娘が生まれた。

 かつての聖人の名を頂戴して“ニノ”と名付けた彼女は、両親をよく見て育ち、敬虔な信徒になった。毎日の祈りを欠かさず、神の教えに従って善良に生きていた。

 

 ヴィルフォードは枢機卿になり、妻と娘に豊かな生活と、一緒に居る時間も多くなった。

 ──思えば、ここが幸せの絶頂期だったのかもしれない。

 

 ニノが10歳になった頃だった。

 “眠り病”と呼ばれる流行り病に、ニノとエイレーネが侵されてしまった。

 

 奇跡的にヴィルフォード自身は無事だったが、二人は日に日に覚醒時間が短くなっていく。

 確立した治療法はなく、半ば迷信的に「効く」とされた薬草を、同じ病に侵されて運動機能が著しく低下しているエイレーネが取りに行ったこともあった。あの時はヴィルフォードも、珍しく本気で怒ったものだ。

 

 エイレーネは笑っていて、ニノも呆れつつも笑顔で。

 森の魔物を物ともせずに採ってきた薬草をヴィルフォードが煎じて、二人がそれを飲んで。みんなで神様にお祈りを捧げて。

 

 その翌日にエイレーネが死んだ。

 ニノは母親の死を大層悲しみ、それでも祈りを忘れない美しい心を持っていた。

 

 そのニノも、三日後に死んだ。

 

 

 ──神は、二人を救わなかった。

 

 ──神は、誰も救わなかった。

 

 

 二人の祈り、ヴィルフォードの祈り、数多の人々の祈りに見向きもしなかった。

 

 ──ならば、そんな神は必要ない。

 

 神を殺す。

 そう決めたヴィルフォードは、カルティズムについて研究し始めた。……思えば、これも狂気だったのかもしれない。

 

 聖国近辺だけでなく、あらゆる地方のカルトについて調べていくうちに、当然のように“使徒”に捕捉された。

 しかしどういうわけか、部隊指揮官であるペトロ、或いはナイ神父と呼ばれる男は、それを他の枢機卿や部隊内部で共有しなかった。その理由は終ぞ明かされなかったが、彼の紹介で、ヴィルフォードはある男と引き合わされ、邪神の知識を手に入れた。

 

 “啓蒙宣教師会”なる組織──男は「組織ではなく、同じ思想を持つ個人の集団」と言っていたが──に属した彼は、魔導書の断片だというパピルスを快く譲ってくれた。

 

 

 それから、三十年が経った。

 パピルスの内容の解読それ自体にナイ神父の協力が得られなかった──手伝ってくれとは頼んだのだが、そこだけは手を貸せないと頑として断られた──のは手痛かったが、彼はそれ以外のあらゆる協力を惜しまなかった。

 

 邪神降臨は、彼の協力無くしては不可能だっただろう。

 200年の寿命なんて持ち合わせていないし、人間はそこらを歩いてはいるが、ヴィルフォードは眼球を奪うような戦闘能力を持っていない。女子供ならまだしもだが、それを手に掛けるのは躊躇われた。

 

 ナイ神父の手を借りて、寿命を延ばすワインや、眼球集めに適した怪物を使役する方法なんかを教わった。

 

 儀式の方法について、魔法陣の描き方や召喚の呪文、具体的に必要な寿命の量や眼球の個数なども完璧に読み解いたのは、つい最近のことだ。

 

 それから本格的に動き出して──聖痕者がこの町を訪れた。

 勿論、それはスケジュールとして把握していたし、彼女らがこの町にいる間は、万全を期して息を潜めるつもりだった。

 

 だが、ショゴスの制御が甘かった。

 ヤツらはそれまでに命じていた眼球集めを忠実に実行して、不運なことに、聖痕者の連れの少年を襲った。しかも最悪なことに、その少年は黄金の騎士王レイアール・バルドルとも親しいようだった。

 

 このまま息を潜めるか、その少年を殺して闇に葬るか。

 一先ず、レイアール卿が会議中で助けに行くことはできない時間を狙って、もう一度ショゴスに襲わせた。──駄目だと分かった。

 

 駄目だ。

 この少年を放置するのは得策ではない。

 

 直接戦闘能力自体は、亡き妻に数段劣ることが、素人のヴィルフォードにも分かった。

 しかし、彼もまたヴィルフォードと同じくカルトの知識を持ち、ナイ神父が警戒するほどの領域外魔術師(メイガス)だという。

 

 ならば、とサイメイギの延命ワインのバリエーション違い、サイメイギの隷属ワインをナイ神父に用意させ、食事の席に出すよう仕向けた。子供がワインを飲むかは不明だったが、本人が飲むならそれでよし。同行している聖痕者二人が飲めば、あとは彼女たちがやってくれるだろう。

 

 聖痕者二人と、謎の少年。不安要素を同時に取り除ける、一石二鳥の策だった──そのはずだった。

 

 彼の知識量と感覚は、人間の域から突出している。

 ナイ神父の報告によると、彼はサイメイギの隷属ワインに気付いたばかりか、邪神の永遠の従者に成り果てたウェイトレスを自分の手で殺したという。

 

 次の日には、ショゴスの生産とワインの保管、解読作業に使っていた地下墓地が襲撃された。

 

 おかしい。

 これはどう考えてもおかしい。

 

 こんな──たった数日で、三十年もの月日をかけた計画が、こうも揺らぐというのか?

 

 もはや一刻の猶予もない。

 じっと息を潜めるだけでは、彼の目を掻い潜ることはできないだろう。魔導書を解読する時に使った何冊ものノートや、儀式の方法を記したメモなんかを保管していた私室に侵入されたと聞いた時に、その推測は確信に変わった。

 

 やるしかない。

 

 神を殺したければ、自分が殺される前にやるしかない。

 

 

 

 



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225

 

 ヴィルフォードの意識は、世界の全てから滲み漂うような落胆の気配が完全に消え去ると同時に、現在の、この場所に戻ってきた。

 それは幸運なことではなく、自分の記憶の中で溺死していた方がまだマシだと思える恐怖が再起される。

 

 「な、あに、ななに、何が……何が起こって……?」

 

 フィリップは「何を間違ったらシアエガを“冒涜の王”だなんて思えるの?」と半笑いで首を傾げていたが、ややあって無理もないことかと苦笑を浮かべて首を振った。

 

 「あぁ、そうか。……もう一つ教えてあげます。貴方が恨んでいる、貴方が疎んじている、貴方が唯一絶対のものだと思っている“神”ですが……それは虫みたいなものです」

 「──は?」

 

 何を言われているのか分からないと、ヴィルフォードは恐怖さえ吹き飛ぶ無理解の表情で、ぽかんと口を開けてフィリップを見つめる。

 

 「そもそも、“神”を作り出したのは、僕たち人類です。一神教が信仰する“神”は、僕たち人類の意識の超深層、共有された無意識に存在する共同幻想です。一般的に“神”と言った時に想像されるものが強固に固定された結果顕現した、空想の産物。空想上の、ではなくね」

 「な、なにを言って──神は存在しないとでも? 神は天使を遣わし、勇者を選び、聖痕者を認める。彼らの存在が、神の存在証明だ! そんな馬鹿げた話が──」

 「あー、違います。そうじゃなくて……『神がいて信仰がある』わけじゃなくて、『信仰があって神が生まれた』んですよ。まぁ、これは旧神程度なら珍しくもない発生過程らしいですけど」

 

 ヴィルフォードは「有り得ない」と繰り返す。

 

 「我々は神の似姿だ! 神が先に在らなくては、理屈が通らない!」

 「それは教会が勝手に言ってるだけでしょう? 吐き気のする話ですけど、僕たちの遺伝子構造はショゴスの中にあったもの──僕たちの遠いご先祖様は、どこかでショゴスと混ざってるんですよ」

 

 「神が裁きを下した、神罰の跡があるだろう! 大洪水の跡も、ソドムとゴモラの跡地だってある!」

 「聖痕者レベルで強力な魔術師がいれば出来そうですけどね。まぁ、本当に唯一神の仕業かもしれませんけど、そもそも僕は『神が居ない』なんて言ってませんよ。『神は僕らが生み出した』と言ってるんです」

 

 「神はこの世界を作った! この世界が存在するより先に、我々人類が存在したというのか?」

 「──本当にそうなら、どれだけ幸福だったことか」

 

 淡々と答えていたフィリップの声色に、苦悩と諦観が混じる。

 その色濃い感情に気圧されたように、ヴィルフォードは口元を震わせ、焦点の合わない目を揺らす。

 

 「そ、そんなこと……聖典には載っていない」

 

 は、と。フィリップは薄ら笑いを浮かべた。

 

 ヴィルフォードは結局、神を信じているのだ。尊ぼうと、憎んでいようと。

 神の強大さを信じているが故に、その思考が絶対的に信仰に根差したものになっている。

 

 唯一神の絶対性。

 それが大前提にあるから、唯一神に対抗できるシアエガが、『冒涜の王』なんて分不相応に強大なものに見えるのだろう。

 

 「……ちなみに、シアエガが唯一神を殺せるのは本当ですよ。あれは信仰から生まれた、信仰ありきでしか存在できない唯一神とは違って、『神と形容するしかない強大な生物』です。モノがいて、信仰されるに至る、きちんとした因と果を持ってる神格ですね」

 「あ、え、あ……? ……な、なら私は、妻は、ニノは、何を信じて……?」

 「え? そりゃ、神でしょう? 自分たちが信じられるものを作り出して、自分たちで信じてたんですから、何らおかしいところはないですよ。……「縋れるものなら神でも路傍の石でも怪しげな壺でも何でもいい。信じていれば救われる」……これ言ったの、誰だっけ? 殿下かな? 僕じゃないと思うんだけど……ん? どうしたんですか?」

 

 フィリップが記憶を掘り起こしている前で、ヴィルフォードは顔を蒼白にして震えていた。

 その両腕は自分を守るように肩を抱き、恐ろしいものを見る目でフィリップを見ている。

 

 フィリップの語る内容も、それを語るフィリップそのものも、ヴィルフォードにとっては恐怖の対象でしか無かった。

 

 「ち、違う。違う、違う違う違うちがうちがうちがう違う! それは、そんなものは信仰ではない! 私たちは、遥かな高みより授かった教えに従って生きてきた! それが、わた、私達の妄想だと!?」

 「え? いや、だから、神は本当に居るんですよ? 居るけど……うーん、説明が難しいな。あ、“白百合の決闘”って分かりますか?」

 「……は? え、エイリーエスの第三幕、白百合の英雄のクライマックス……あれのことか?」

 

 そう、とフィリップはぱちりと指を弾く。その小さな音にさえ、ヴィルフォードはびくりと肩を震わせた。

 

 「エイリーエスは昔の人の作り話ですけど、その一ワードだけで、誰が何をした話なのか、僕と貴方は共有できますよね? こんな感じ──」

 「──フィリップ君。惜しいですが、少し違います。それは“知識の共有”ですね。文字や絵画による知識や空想の共有と継承。これは地球上では人間程度の知性を持った生物にしか見られない、文化的遺伝子によるものです。ミームとも呼ばれるこれは、人間の営みの表層部分ですから、神を生み出す共有無意識とはまた別のものですよ。その表側、と言えば概ね正解ですが」

 

 ナイ神父の説明に、ヴィルフォードではなくフィリップが目を白黒させる。

 ヴィルフォードはむしろ、枢機卿という地位に相応しい教養から、ナイ神父の言葉を理解してしまった。

 

 「では、私は、私達は……妄想の中に生きていたのか。私の悲嘆も、私の怒りも、私の憎悪も、全ては空想に宛てた空想の範疇でしかなかったのか」 

 「……ははっ」

 

 呆然と呟いたヴィルフォードに、フィリップは心の底から愉快そうな笑顔を浮かべた。

 その表情から、冷笑と慈愛と諦観と同情を見て取り、ヴィルフォードは嘔吐した。 

 

 そしてフィリップから這いずってまで距離を取り、いつの間にか隣に立っていたナイ神父の足に縋り付いた。

 

 「な、ナイ神父。助け──」

 

 助けて。

 ヴィルフォードは最期に、そう神父に縋り。

 

 その神父が振り抜いた黒い革靴が、鳩尾から上を消し飛ばした。

 

 ばしゃん! と水をぶちまける音に、からからと砕けた仮面の転がる音が混じる。

 残された胴体は、いやにゆっくりと傾いで、倒れ伏した。

 

 ひときわ大きな仮面の破片が、突然の暴行に唖然とするフィリップの足元に転がった。

 

 「……え? なんで殺したんですか?」

 「おや、不思議な質問をしますね。出番を終えた役者は、舞台を去るものでしょう?」

 

 さも当然のように言ったナイ神父に、フィリップは「そうかもしれないけど」と不満顔だ。

 あれだけ殺したがっていた暫定カルトの死、ルキアとステラの正気を損なう可能性のある輩の排除を、もっと喜ぶべきなのだろうが──フィリップにとって、彼はもはや暫定カルトではなく、「面白い奴」くらいの認識だった。

 

 素晴らしい一幕を見せてくれた道化師に、おひねりの一つも投げたい気分だったのだが。

 

 「それにね、フィリップ君。この私の眼前で“冒涜の王”を僭称し、あまつさえシアエガ風情にその名を宛てるなど、不敬不遜も甚だしい。私の行動理由くらい、語るまでもなくお分かりかと存じますが? 分かり切ったことを訊くのは賢明とは言えませんよ」

 「ぐっ……確かに、今の質問は考えが足りませんでした……でもそういう正論が一番人を傷付けるんですよ! 殿下もそういうの良くないって言ってたし!」

 「はははは」

 

 何を笑っているんだと拳を握るフィリップだが、すぐに力なく拳を降ろして立ち上がる。

 ナイ神父の白兵戦能力を見たばかりだから──ではなく、殴りかかろうと、殴り殺そうと、大した意味がないことを知っているからだ。

 

 「はぁ……まぁ、いいや。後処理はお任せしても?」

 「えぇ、勿論。子供はもう寝る時間ですからね。宿にお戻りください」

 

 いちいち煽らないと喋れないのかと突っ込みたかったが、眠気が徐々に募っているのも事実だった。

 

 フィリップは適当に手を振り、教会を後にする。

 

 翌日の修学旅行六日目は、枢機卿一名を含む十数人の変死体が見つかったという事件のせいで、町全域に戒厳令が敷かれた。

 町人たちが戦々恐々とする中、教皇庁と聖国騎士団は威信をかけて調査に臨み、その日の夕刻に凶悪なカルトを捕縛・処刑し、教皇領に蔓延した恐怖は完璧に拭い去られた。

 

 

 

 

 

 

 



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226

 修学旅行六日目。

 戒厳令の敷かれた街では流石に遊びようが無く、修学旅行に来ていた魔術学院生たちは、ある生徒が主催したクラス対抗ポーカー大会で暇を潰していた。

 

 予めクラス内で代表者を決める選抜テーブルを行ったのだが、なんと、フィリップも代表者に選ばれている。

 他クラスも含めた殆どの代表者が表情の読み合いやカードゲームに慣れている貴族であることを考えると、中々に珍しい。

 

 Aクラス代表には化け物がいる。

 

 超高精度かつ高速の確率計算と、完璧な表情制御、そして深い洞察力を併せ持ったステラ。

 そのステラと並ぶ能力を持つが、今一歩勝ち切れないことのあるルキア。

 

 そしてルキアの敗因、ポーカーフェイスには程遠く、他人の気が散るレベルで顔に出るフィリップ。またの名を運だけのカス。

 ジョーカー入りなら三回に一回はジョーカーを引くし、そもそもエースを引きまくるのでキッカー勝負にめっぽう強い。あと、やたらフラッシュを出す。

 

 どう考えても降りるべき手札で、「ブラフ張ったら降りてくれないかなぁ」と明記された顔で、ステラ相手に勝負を仕掛けて、リバーでフラッシュを揃えて勝つ場面も何度かあった。

 ステラは苦笑していたが、周りからは「クソラック」「なんかやってるだろ」「ディーラー変えろ」と言われたい放題だった。勿論、聞こえよがしにではなく、仲間内でひっそりとだったが。

 

 凶悪犯罪者の出現報告を受けての戒厳令も、そこいらの地方領主軍なんぞよりは余程強力な武力集団である魔術学院生たちには、恐怖の対象ではない。

 宿屋近くのレストランを貸し切って──流石に貴族が集まると羽振りが良い──、そこそこの額の賞金まで用意されたレクリエーションは大盛り上がりを見せ、Aクラスの勝利で終わった。

 

 夕刻ごろに決着した後、フィリップは部屋で一人、自分に割り振られた分の賞金をじっと眺めていた。

 テーブルの上にちんまりと乗った、片手ではギリギリ収まらない程度の金貨の山。フィリップが丁稚を続けていても、たぶん一年では稼げなかっただろう額だ。

 

 「……よし、カジノに行こう」

 

 どうやら僕にはポーカーの才能があるらしい。

 運だけのカス、もといフィリップは、そう自惚れていた。

 

 まぁ、この先何年あるかも分からない人生における不運を、王都に上ってきたその日に使い切ったといっても過言ではない。今更カードゲームに幸運が割り振られたところで、収支はマイナスなのだが。

 

 しかし、手持ちがあると欲が出るのもまた人間というもので、これは人類が農耕を始めた二万年以上前に身に付いた本能的習性だ。抗おうともしていないフィリップは、金貨の小山を巾着袋に入れ、ふらふらと宿を出た。その少し後ろを、実体化したシルヴァがぽてぽてと付いてくる。

 

 「……ふぃりっぷ、おかねない?」

 「いや、別に困るほど貧乏ってわけじゃないよ。学院が衣食住を保証してくれるうちは、丁稚時代の給料に手を付けなくていいからね。ただ、さ……蛇腹剣が欲しいんだよね」

 

 蛇腹剣はマリー曰く、一振りでフルプレートメイルが三着は買える、超のつく高級品らしい。

 ただでさえ無償で技術指導をしてもらって、その上ウルミまで貰ったのだ。蛇腹剣を教えてくれるというのなら、せめて自分の武器くらいは自分で買い揃えたい。

 

 「じゃばらけん? ……よわそう」

 「……まぁ、斬撃が対森林級攻撃になるようなのは、たぶんレイアール卿ぐらいだしね」

 

 ぽつりと呟いたシルヴァに、フィリップは苦笑と共に応じる。

 実際、剣術なんて本質的には人間が鉄棒を振り回しているだけで、相手が旧支配者中位以上になると「絶対に」と頭に付けてもいいレベルで通用しないだろうが。

 

 だが、それはそれとして。

 

 「でもカッコいいんだよ? 蛇腹剣。ウルミの上位互換みたいな感じで」

 「ふーん……あ、るきあとすてら」

 「うわ、興味無さそう。……お、ホントだ」

 

 通りの向こうからやってくるルキアとステラに、まずシルヴァが、続いてフィリップも手を振る。

 一応、戒厳令下──ほぼ外出禁止状態にあるはずなのだが、二人とも道のど真ん中を堂々と歩いている。まぁ誰に見咎められたところで、「犯罪者が居るから危ないですよ」なんて言われるはずが無いのだが。なんせ、人類最強の二人だ。

 

 「どこか行くの? これからフィリップの部屋に遊びに行こうと思っていたのだけれど」

 「そうなんですか? じゃあそうしましょう。暇だし、元手も出来たので、カジノにでも行こうかと思ってたんですけど」

 

 フィリップがそう言うと、ルキアは苦笑を、ステラは実力を勘違いした運だけのカスに向けるに相応しい正気を疑うような目を向けた。

 

 流石に、カジノのディーラーは本職だ。

 学生が手遊びにシャッフルしただけのデッキとは、カードの混ざり方のランダム性が格別だろう。三回連続でエースを引いたり、やたらとフラッシュを出すような半端な切り方はしないはずだ。

 

 そうなると、表情筋の鍛え方も、観察眼も、何より勝負所さえ理解していないフィリップは良いカモでしかない。

 ボコボコにされて手持ちをゼロにして帰ってくるだけならまだしも、借金を背負われると面倒だ。

 

 ステラはそう考え、フィリップが出て来た宿を示す。

 

 「カーター、トランプは持ってたよな?」

 「はい、ありますよ。王都製のよく切れるやつ」

 「ふふっ。カードスローイングの練習は止めたの?」

 「ルキアの魔力障壁じゃなくても抜けないってことに気付いたんですよ……」

 

 ポーカーにも飽きたフィリップが片手間に練習していた、ヘタクソなカード投げを揶揄われて、フィリップも思わず苦笑する。

 首を狙えば……とか思っていたのだが、どう考えても魔術の方が弾速で勝るし、ウルミの方が破壊力がある。余興ぐらいにしか使えないだろう。

 

 「どうします? 二人も一緒にカジノに行きますか? それとも、何か別のことします?」

 

 宿の前で言うと妙にいかがわしさのある台詞だが、誰もそこには気付かず、ステラが宿を示していた親指を自分に向ける。

 

 「ポーカーのセオリーを教えてやる。カジノにはその後で行け」

 「……ついでに、ポーカーフェイスの練習もしましょうか」

 

 やったぁ、などと喜んでいるフィリップに、ステラは「ん?」と訝るように首を傾げた。

 そして一瞬の思索の後、フィリップの部屋を訪れた本来の理由を思い出す。

 

 「いや、待て、その前に本題だ。昨日の夜のこと、いまどういう状況なのか、詳しく聞かせて貰うぞ」

 「……あれ? 言ってませんでしたっけ? もう全部解決しましたって」

 「それは聞いたが……流石に端的すぎる。それが開示できる限界だというのなら、私もこれ以上は求めないが……」

 

 困ったような顔のステラに、フィリップも同質の感情を表出させる。

 確かに、何も知らないというのはそれだけで不安になる。それは分かるが、何があったのかを詳らかに語ることはできないし、叶うなら何も知らずにいて欲しい。

 

 だが──それは、フィリップのエゴだろう。

 初めから何も教えないのは不誠実で、せめて「何は教えても良くて、何は駄目なのか」を考えて選別するくらいの手間と労力は費やすべきだ。

 

 それがルキアとステラに対する、最低限の誠意のはずだ。

 

 「……嘘とぼかしと誤魔化しだらけの説明になっちゃいますけど、それでも良ければ」

 「私たちのための嘘でしょう? それを責めたりしないし、疑ったりもしないわ」

 

 ルキアの言葉に励まされると同時に、仄かな罪悪感も抱いたフィリップは、こくこくと浅く何度も頷いて、宿の入り口に手を差し伸べる。

 

 「……ありがとうございます。終わったら、ポーカー教えて下さいね」

 「……えぇ、勿論」

 「あぁ、約束だ」

 

 ルキアとステラは、フィリップの背中に手を添えて、一緒に宿に入る。

 誰かに見られていたら多少問題になったかもしれないが、戒厳令下の街に、その光景を見る者はいなかった。

 

 ──そしてステラに戦術を、ルキアに表情の制御を教わったフィリップは、その夜にカジノに繰り出した。

 

 

 ◇

 

 

 翌日、修学旅行最終日。

 今日が、教皇領で遊ぶ最後の日だ。明日の朝にはここを出て、王国への復路、30日近い馬車の旅が始まる。

 

 フィリップたちは寝起き故か、或いは昨日半日をほぼ軟禁状態で過ごした故か、妙に覇気のない顔で朝食を摂っていた。昨日の鬱憤を晴らすように、人の量と喧騒の音量をひときわ大きくしている窓の外とは大違いである。

 

 「ふぁ……」

 

 食事中だというのに大口を開けて欠伸を溢したフィリップが、ルキアの物言いたげな顔を見て、もにょもにょと口を動かす。

 

 「寝不足か?」

 「んふふふ……見てくださいコレ」

 

 フィリップは財布を開け、黒いコインを取り出す。

 いや、それはコインのように見えるが、かなり安い金属が使われている。どの国の硬貨でもないし、物的価値はそう高くないだろう。

 

 ルキアもステラも見覚えの無いそれは、フィリップの戦利品だ。

 昨日半日、ルキアとステラに教わった表情読解と確率論、そして自前の運を使って、カジノで爆勝ちした証である。

 

 その換金額、脅威のゼロ。

 漆黒のチップは出禁の証。

 

 お客様が最強ですこれ以上はやめてください破産してしまいます二度と来るんじゃねぇぞバーカ。そんな感じの文言が彫られた、勲章だった。

 

 「これが渡された時点で所持チップを全額換金して、出禁になっちゃう最強の証です」

 

 これを聖痕と名付けましょうとか失礼なことを言っていたフィリップは、聖痕者二人の苦笑に気付いていない。

 フィリップにしてみれば、唯一神の認める、人類の集合無意識が認める最強の証なんて、卑金属のコイン一枚くらいの価値しかないのかもしれないが。

 

 「で、最終換金額は幾らだったんだ? というか、なんで出禁になった? 勝ちすぎたのか?」

 「概ねそんな感じです。僕の隣に座った人が、二人と同じ聖痕者だったんですけど──」

 「──ん?」

 「えっ……?」

 

 驚きと困惑を見せる二人に、フィリップは「僕もびっくりしましたよ」と軽く応じて、そのまま先を続ける。

 

 「その人も僕と同じくらいのチップ量で、その人がそのテーブルの平均ぐらいだったので、最終的には……元手の三倍ぐらいですね。二人分吸い上げて飛ばした(負かした)ので」

 「聖痕者って、帝国のノアでしょう? すごいじゃない」

 「出禁になって良かったかもしれないな。あいつは意外と負けず嫌いだから、夜通し付き合わされる可能性もあったぞ」

 

 ルキアとステラはそう言って笑うが、フィリップが料理に目を落した隙に、顔を突き合わせてひそひそと言葉を交わす。

 

 「あの付け焼刃レベルの技術でアルシェに勝ったのか? どんな豪運だ? 借金だけはしないようにと送り出したから、大勝ちして帰ってきただけでも驚きだが」

 「フィリップが何かの拍子に私たちの名前を出して動揺を……いえ、それだと出禁にはならないでしょうし、本当に運だけで勝ったのかも」

 「そんなバカな……いや、でも可能性はあるか……? カーターはもうフラッシュが当たり前になってきて「またか」とか「まぁこんなものか」みたいな顔になるからな……表情が読み切れない」

 

 ちなみに正解だ。

 

 帝国の水属性聖痕者ノア・アルシェは、その極めて高い戦闘能力に紐づいた観察力と分析力を遺憾なく発揮し、フィリップのくせを見抜いた。

 フィリップは──かなり強いハンドでも、とても有利なフロップでも、「まぁ、いいんじゃない?」ぐらいの反応をする。むしろ弱いハンドの方が「お、殿下に習った“弱い手”だ」と、むしろラッキーみたいな反応をする。

 

 これを、実際とは逆の表情をすることでハンドを隠しているのだと見たノアは、「うわっ!?」と思わず声を上げたフィリップを見て、とても弱いハンドが来たのだと推察した。フロップにスペードの10とQがある時点で、警戒できていれば、と、彼女は後にそう語る。

 バカスカとフラッシュを出し、時折ストレートフラッシュやフォーオブアカインドまで出していたフィリップに一矢報いるチャンスと、ターンで大賭けしたフィリップにコール。

 

 結果、スペードのAとKを握っていたフィリップは、リバーでスペードのJを引いた。

 スペードのロイヤルストレートフラッシュ。ギャラリーは馬鹿の考えた展開だと爆笑し、ディーラーとフィリップはイカサマを疑われ別室に連行され、ノアは運だけのカスがと絶叫した。

 

 お祭り騒ぎになったホールの裏側で、フィリップは取り調べを受けることになった。

 勿論イカサマもディーラーとグルだという証拠も見つからなかったものの、流石に不自然だと言われ。斯くして、フィリップは出禁になった。

 

 フィリップが顔を上げる数瞬前に、二人はすっと姿勢を正して、これぞポーカーフェイスと言うべき内心の読めない微笑を浮かべる。

 

 「ルーレットでもやれば、無限に稼げるんじゃないか? ポーカーと違ってミスが無いからな」

 「その代わり、ある程度腕の立つディーラーは狙ったところに球を落とせるけれどね。マルグリットにも出来た筈よ」

 「流石。あの人なんでも出来ますよね。一昨日もお世話になりましたし」

 「基本的に器用なのよ」

 

 三人はぼちぼちと朝食を食べ終え、食後の紅茶に手を付ける。

 間延びして安穏とした、しかし全く苦痛ではない静かで平和な沈黙があった。

 

 ややあって、ティーカップを置いたフィリップが机上に置いていた修学旅行のしおりをぱらぱらとめくる。

 

 「今日は自由行動ですね。どうしますか?」

 「昨日みたいに、部屋で過ごしてもいいけれど……折角だから、何かお祭りを見に行きましょうか」

 「いいんじゃないか。何か面白そうなのはあるか、カーター?」

 

 水を向けられたフィリップはしばし紙面を眺めて、一つのページを二人に向ける。

 

 「これとかどうですか? “火跳び祭り”! 殿下がいれば無敵ですよ!」

 「……いや、祭りの趣旨が違うんじゃないか……?」

 

 

 

 

 

 

 



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227

 火祭り、或いは炎跳びの祭事は、帝国にルーツを持つ土着の祭りだ。

 この大洗礼の儀に合わせて教皇領で行われるものは、それを少し改変したものになっている。オリジナルは燃え盛る庭火の上で一時間もの間裸足で踊り続けるという、神事というより拷問に近いものなので、改変無くしては参加者もいないだろうが。

 

 朝食を終えてその会場を訪れたフィリップたちは、『夕刻より開始』という看板を見て、時間を潰してから出直した。

 

 祭りの会場は教皇領内にある小さな広場で、木々に囲まれた、芝も敷いていない質素なレイアウトだ。

 夕焼けの赤に照らされた公園には幾つもの篝火が置かれ、その周りを取り囲んで踊る人々がいた。

 

 楽しそうに顔を綻ばせた人たちの中から、手を繋いだ一組の男女が飛び出す。

 二人とも靴を脱いでおり、男性はズボンを膝までめくり、女性はスカートを片手でたくし上げていた。

 

 「行くよ!」

 「待って、怖い!」

 「大丈夫、僕が付いてる!」

 

 広場の隅で吟遊詩人がかき鳴らす音楽に合わせて軽快なステップを踏む二人は、地面で煌々と燃え、夕焼けより赤い光を振りまく篝火に足を延ばして。

 

 「ぁあっつ!?」

 「あっ、あっつ! 全然熱いじゃん! 全然大丈夫じゃないじゃん!」

 

 飛び跳ねるようにして、その炎から逃げた。

 華々しいエントリーから一転、滑稽ですらある退場に、周りの人々はどっと笑い声を上げる。

 

 周りの人は見慣れているのか、手早く水属性魔術を使って火傷の治療をしている。ごろごろと転がって呻いている二人を見て、フィリップは思わずステラの袖を引いた。

 

 「めちゃくちゃ熱そうでしたけど、あれ何度ぐらいなんですか?」

 「そこそこの規模の焚火だからな……1000度くらいじゃないか?」

 「せっ……!? え? 火傷しますよね?」

 「まぁ、するな。1000度あれば銀が溶ける」

 

 あっけらかんと言ったステラに、フィリップは自分の足を見る。

 何の変哲もない学校指定の革靴に包まれているのは、当然ながら肉の足だ。間違っても銀製ではないし、銀でも溶けるらしい。

 

 「え、無理なんですけど。帰りませんか?」

 

 共感能力が残っているのか、単純に想像力か、自分の足をフーフーと吹いている──魔術で十分に冷えているはずなのだが、気持ちの問題だろうか──二人を見て、流石のフィリップもビビったらしい。

 痛みに対する耐性はウルミの練習中の事故を重ねてかなり強くなっているはずなのだが、その代わり恐怖心までもが強くなっているとでもいうのだろうか。

 

 「ふふっ。──なに、大丈夫だ」

 

 ステラは柔らかに笑い、フィリップの手を取って駆け出す。

 走りながら器用に靴を脱ぎ、片手でソックスも脱いだステラを見て、フィリップも腹を括ってそれに倣う。ルキアは二人の靴と靴下を揃えて置き直し、何とも形容しがたい表情で二人を見つめていた。

 

 新たな炎跳びの挑戦者の登場に、焚火を囲む人々から歓声が上がった。

 

 一瞬の後に、男が、女が、若者が、老人が、誰もが息を呑む。

 走るというより踊ると表現した方が正確な、飛び散る火の粉より軽やかな足取りに。篝火と夕焼けの赤を反射して煌めく、揺らめく炎より絢爛な金色の髪に。そして、炎に触れたように強烈に胸を焼く、太陽のように眩しい笑顔を浮かべる美貌に、目を焼かれて。

 

 肖像画でも見たか、或いは儀式の場で目にしたのか、誰かが悲鳴のように叫んだ。

 

 「王女殿下!? ……と、オトコォ!?」

 

 ステラに手を引かれて炎に飛び込んだフィリップは、ステラに殆ど抱き着くようにして薪を踏む足にかかる体重を減らす。

 何人もの挑戦者たちによって踏まれた薪は地面に広がっていたが、それでも太い木はしっかりと燃えている。肉を焼くくらいなら支障はないだろう。

 

 足から駆け上がってくるであろう、文字通り燃える熱さと肉の焦げる痛みに目を瞑った。

 

 「あつ! あつ、あつ……く、ない?」

 

 反射的に叫んだ感覚は、しかし、錯覚以下の「予想的反射」でしか無かった。

 薪を踏む感覚のある足裏も、揺らぐ炎に撫でられている脚も、熱くもなければ痛くもない。

 

 「カーターが自分で言ったことだろう? “私がいれば無敵だ”」

 「……流石」

 

 悪戯っぽくウインクするステラに、フィリップは呆れたような感嘆を漏らした。

 ステラに預けていた体重を自分の足に戻しても、薪のごつごつした感覚はしっかりとあるが、熱さは全く伝わってこない。

 

 ステラはフィリップの手を引き、腰に手を添えて動きを誘導(エスコート)する。

 

 二人はぱちぱちと爆ぜる薪の上で寄り添い、優雅なワルツに軽やかなジルバを混ぜたステップを踏む。

 ステップはゆっくりと、相手を慮りながらも、炎が隔離した薪のステージ、自分と相手の二人だけの空間に酔いしれるように陶然と。ターンは軽快に、祭りという時間を、喧騒と歓声にまみれた空間に埋没し、全身でそれを愉しむように軽妙に。

 

 しばらく踊っていた二人は、ふと我に返って、どちらからともなく笑い合いながら炎の外に出た。

 

 「これ、“飛び越える”お祭りでしょ? その上で踊るのは違うんじゃないですか?」

 「ふふふ……あぁ、確かに。でも、楽しかっただろ?」

 「はい。それは確かに。次はルキアも──ルキア? どうしたんですか?」

 

 フィリップはルキアに手を伸ばして誘うが、そのルキアの顔色が優れないのを見て、心配そうにその手を背中に添えた。

 

 「大丈夫ですか? 体調が悪いなら、すぐに宿に戻りましょう。ごめんなさい、僕、全然気付かなくて……」

 「……ありがとう。でも大丈夫よ、少し休めば収まるわ」

 「いや、でも──」

 「──いや、ルキアが言うならそうなんだろう。無理をして潰れるなんて無様を許容できるほど、ルキアの美意識は安くないよ」

 

 確信を持ったステラの言葉に、ルキアは口元に薄く笑みを浮かべる。その通りだと言いたげに。

 しかし目元は変わらず辛そうで、二人は一先ずルキアの肩を抱くようにして支えながら、人混みから離れた木陰に移動した。

 

 ルキアは自分の言葉通り、木の幹に凭れて腰を下ろす頃には多少顔色が戻っていた。元々血色が薄く、抜けるように白い肌をしているから、回復したように見えるだけかもしれないが。

 

 「……ありがとう。でも、もう平気だから。二人で──」

 

 二人で遊んできて、と言いかけたルキアを、フィリップは唇に人差し指を添えて黙らせる。そして「またナイ神父みたいなことしちゃった」とプチ反省した。

 

 「──すみません、殿下、ちょっと飲み物買ってきてくれませんか?」

 「分かった。……この私に使い走りをさせるんだ、ルキアのことは任せたぞ」

 「あ、確かにそれはちょっと駄目な気がするので僕が行きます。殿下? でんかー? 行っちゃった……」

 

 なんか偉い人に怒られそうですね、などと言いながら、フィリップもルキアの隣に座る。

 西日の当たらない木陰は少し冷えるが、互いの体温があれば十分に快適な場所だった。

 

 ルキアはフィリップが触れた自分の唇を指でなぞり、ぎゅっと目を瞑って全ての感情を封殺した。

 その所為でフィリップの軽口は聞いていなかったのだろう、彼女はくすりとも笑わず、申し訳なさそうに眉尻を下げる。

 

 「……ごめんなさい、フィリップ。私──」

 「──怖かった、ですか?」

 

 確信があるように言ったフィリップの言葉は、完璧な正解だった。

 

 心中を見透かされたルキアは目を瞠る。

 驚愕を向けられるフィリップは当然のように平然として、ルキアの方を見てすらいない。僅かに首を回して、火祭りに興じる人々と、燃え盛る焚火を眩しそうに見つめていた。

 

 「分かりますよ。炎を囲んで歌い踊る……あの森で見たものに、少し似てますからね」

 「……焚火は平気なのよ。歌も、舞踏も。人混みは好きじゃないけど、怖くは無かった。でも……合わさると駄目なのかも。さっきは広場を見るだけで、あの森の景色が──フィリップが生贄にされそうになっている光景が蘇ってきて、凄く怖くなったの」

 

 少し離れたら大丈夫なのか、一瞬のフラッシュバックでしかないのか、今のルキアは弱ってはいるが、先程のように怯えのあまり血色を失ったりはしていない。

 

 フィリップはその恐怖が慢性的なものではないことに安堵しつつ、ルキアの肩を力強く掴む。

 ルキアの赤い双眸が驚きに揺れるが、フィリップはそれを真っ直ぐに見つめ返した。

 

 恐怖心は、癒えることもあるが──育つことも、同じくらいある。

 今はこの限定的状況で一瞬のフラッシュバックで済んでいるが、恐怖が育てば、いずれ歌に、踊りに、炎に、人に、段階的に恐怖を感じる範囲が広がっていく。それに勿論、その前に恐怖心に負けて、精神が壊れる可能性もある。

 

 それは駄目だ。

 フィリップのように狂気という状態になり得ず、恐怖心が敵愾心に変わり、その排除に対して偏執的になるくらいなら構わない。だが、狂気に堕ちるのも、日常生活に支障が出るのも駄目だ。もっと欲を言うのなら、ルキアにはこの手の恐怖とは無縁でいて欲しい。

 

 だから考える。

 ルキアの恐怖を晴らすにはどうすればいいのか。どんな言葉が、どんな態度が、どんな行動が最適なのか。

 

 フィリップは絶望に対しては敏感だ。なんせ、鏡を覗けばそこにある。

 だが、恐怖に対するアンテナは折れているといっていい。それが成長し、絶望、或いは狂気という実を結ぶまで気付かない可能性もあった。

 

 フィリップはそれを自覚している。

 だからこそ今、その芽を摘んでおきたい。

 

 「……ルキアは、強いですよ。あの時は僕のことを殆ど知らなかったのに、足を痛めて立つのもやっとだったのに、凄惨な死に様を目の前で見せつけられたのに──我先に逃げ出していて当然の状況だったのに、僕を助けてくれたじゃないですか。それに、もう一度あの時と同じ状況になったとしても、ダンジョン一つを吹き飛ばせる今のルキアなら、何も怖くありません。あの黒山羊だって余裕です」

 

 フィリップは慎重に言葉を選ぶ。

 ここで嘘を交えて、それがバレたら、ルキアは何も言わずにそれを“信じて”、自我を強固に封じてしまうだろう。そうなったら、フィリップは爆発の瞬間まで気付けない。

 

 「……えぇ、そうよね。あの時の私は美意識を理由に貴方の前に立ったわ。今の私は“フィリップを守る”ことだけを考えて行動できるから、精神的な意味でも、あの時より強い。自惚れかもしれないけれど、本当にそう思うわ」

 「いえ、本当にそうですよ。誰かの為に命を懸けられる精神性は、とても強くて美しいものだと思います。……こっち、来てください」

 

 フィリップはルキアの手を引いて立ち上がって木蔭から出ると、ずんずんと祭りの中心部へ向かって行く。

 その後ろを手を引かれてついて行くルキアの表情は、困惑が半分、恐怖が半分をやや下回り、残り少しは納得と覚悟だ。

 

 そして、先導するフィリップも覚悟を決めている。

 強引な荒療治でルキアに嫌われる覚悟──ではない。そりゃあ仲良くできるに越したことはないが、フィリップにとってルキアとの関係性は、ルキアの精神性以上に大切ではない。

 

 ルキアが恐怖に打ち克ち、狂気を遠ざけ、美しい人間性を保っていてくれるのなら、フィリップのことを嫌っていようと構わない。敵対されると少し困るが。

 

 フィリップの覚悟は「ここで壊す」こと。

 このままじわじわと恐怖に溺れ、狂気の沼で溺死するような苦しみを味わわせるくらいなら、ここで綺麗に壊し切ったほうがまだマシだ。そう信じて、荒療治に臨む。

 

 当然ながら、壊すことが目的ではない。

 ただ、治すための行為が原因となって壊れる可能性を許容した。それだけのことだが、難しいことでもある。

 

 美しい宝石に付いた傷を誤魔化すために、全体を削る。行為としてはそれに近しい。手元が狂えば宝石の価値が損なわれてしまう、その可能性を飲み下すだけの価値が、その宝石にはあるのだ。

 

 炎を囲み、歌い、踊る人々の間を、手を繋いですり抜ける。

 フィリップには特別な意味の無い行動だが、ルキアにとってはフラッシュバックの呼び水だ。フィリップはルキアの手を握る力を強くする。僅かに痛みさえ与えるほど。その痛みで、少しでも気が紛れることを意図してだ。

 

 ルキアがぎゅっと、フィリップと同じくらい強く手を握り返す。

 しかしそれはフィリップを止めるためではなく、むしろ自分を鼓舞するのに必要な力みだった。

 

 フィリップはルキアの手を放し、二人三脚のように腰に手を回して横並びになる。

 

 「……跳びますよ!」

 「──ッ!」

 

 たたん、と足音が連続する。

 フィリップのものと、ルキアのものだ。

 

 踏み切ったあと、ほんの一瞬だけ革の靴越しにも足裏に熱が伝わり、すぐに硬い地面の感触を取り戻す。

 

 観客の歌う声、楽器の音、踊る靴音に混じり、ぱちぱちと薪の爆ぜる音と、炎が空気を食べる音が耳朶を打った。

 

 「靴を履いてても、ちょっとだけ熱かったですね」

 「……えぇ、そうね」

 

 フィリップは軽く笑い、ルキアの正面に立つ。

 

 「ルキア、こっちを──僕の目を見てください」

 

 内心を覆い隠すような微笑を浮かべたルキアの頬を両手で挟み、赤い双眸を、そこに灯る左右の目で非対称の聖痕を、その奥を見通す。

 羞恥と動揺に震えていた瞳は、フィリップの淀んだ青い瞳に射抜かれて、諦めたように焦点を固定した。

 

 絶望と狂気の色は無い。

 だが、恐怖は僅かに残っているように見える。

 

 「…………」

 「──あの、すみません。ちょっといいですか、そちらの男性の方」

 

 結局僕には壊すことしかできないからな、と自虐的な思考に浸り、自嘲の笑みを浮かべるフィリップの肩を、見知らぬ女性がトントンと叩く。

 

 今取り込み中なんだけど、と言いたげに眉根を寄せたフィリップとルキアは同時にそちらを向き、女性は主にルキアが放つプレッシャーに負けて「ひゅっ」と息を呑んだ。

 

 「な、何でもないです! お邪魔しました!」

 「何でもないわけないでしょう。どうしてフィリップに声を掛けたのか、教えて貰えるかしら?」

 

 女性は懸命に逃げようとしていたが、「足が動かない!?」と半泣きになって、すぐに諦めた。

 諦めるのは正解だ。ルキアの重力魔術から逃れるには、もはや全てを話して、彼女の許しを得るしかない。

 

 「その……火祭りで男女が一緒に跳ぶのは、“将来を誓う”という意味がありまして……。連続して別の女性二人と、しかもそのうえ、両聖下と跳ぶなんてどういうつもりなのかなー、とか、思ったりなんかしちゃいまして……」

 

 フィリップは一瞬だけ口元に酷薄な嘲笑を浮かべ、すぐに苦笑いで誤魔化す。

 土着の祭りの、その模倣でしかないイベントに、何か特別な意味を見出す方が難しい。その辺りの価値観を同じくするルキアも、呆れ顔で首を振っていた。

 

 「どういうつもり、ってどういうことですか? 僕は誰に何を言われようと、ルキアと殿下を守ります。これからもずっと……それこそ、“死が二人を分かつまで”」

 

 女性への意趣返しのつもりでフィリップが挙げた慣用句は、婚礼の儀式で新郎新婦が述べる誓いの言葉の一節だ。

 そして同時に、「きっとルキアの死を悲しむことは出来ないのだろう」と、正確な自己分析をしているフィリップ自身への、痛烈な皮肉であり自虐だった。

 

 しかし、ただフィリップが自傷しただけではない。

 その言葉に含まれた「ずっと一緒にいる」という断定的意志は、ルキアの恐怖心を拭い去った。

 

 ルキアのフラッシュバックが喚起していた恐怖心の原因は、実のところ「過去の恐怖体験」や「過去の記憶」ではない。

 それはむしろ、過去の記憶を呼び水として引き起こされた、未来への恐怖。「フィリップを失うこと」への恐怖だ。脳裏に閃く光景は、その状況を過去の記憶から想像したものに過ぎない。

 

 だから、過去の記憶を跳び越えることに意味は無く──明るい未来を語ることこそ、恐怖の払拭に最適だった。

 簡単に言うと、いまルキアのカウンセリングに必要だったのは、過去の話ではなく、未来の話。ルキア自身の話ではなく、フィリップの話だったということだ。

 

 「戻ったぞ。カウンセリングは終わったか?」

 「折角ですし、殿下と二人で一緒に跳んでおきますか」

 「……ん?」

 

 律儀に三人分の飲み物を買ってきたステラの手を取り、もう片方の手でルキアの手を握る。

 

 焚火に向かって駆け出したフィリップに、元の調子を取り戻したルキアが素直に続く。いまひとつ状況を理解していないステラも、手を握られていてはどうしようもない。呆れたように笑って、手を引かれるがままに任せる。

 

 三人は歌い踊る人々の合間を縫って、手を繋いで炎を跳び越えた。

 

 

 

 

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ9 『修学旅行』 Aエンド

 技能成長:【目星】+1d6 【拍奪の歩法】 +1d6 【回避】 +1d6+3

 特記事項:なし


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吸血鬼の花婿
228


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ10 『吸血鬼の花婿』 開始です。

 必須技能はありません。
 推奨技能は各種戦闘系技能です。


 修学旅行の楽しさも忘れるほど長い旅路を終えた魔術学院二年生たちは、馬車に揺られ、街道沿いの宿に泊まり、旅程が狂えば野営さえする日々に別れを告げた。そして、快適な王都での暮らしの有難みを再確認して、卒業後にわざわざ所領に戻ろうとか、田舎に帰ろうという気を失くすのだ。

 ……まぁ、王国の囲い込み政策はさておき。

 

 二十日以上のクソかったるい旅程をこなした生徒たちだが、たった二日の休暇の後に授業が再開される。──それが、今日だった。

 

 フィリップはいつも通りの時間に目を覚まし、五階建て学生寮の五階、最上級個室の窓を開けて、朝の空気を肺一杯に吸い込む。そして、重苦しい溜息として吐き出した。

 

 「はぁ……」

 

 ──正直、意外だった。

 

 フィリップは自分のことを、そこそこ真面目な方だと自認している。そしてそれは、概ね正しい。

 フィリップは「やれ」と言われたことは、可能な限り全力でやってきた。学校の課題もルキアやステラに言われる訓練内容も、ナイ神父に言われたクトゥグア召喚やハスター召喚の魔術の練習も、以前は宿の仕事もそうだ。

 

 そこに大した意味や理由はない。言われたから、従っていただけだ。だからこそ「真面目」と表現できる。

 

 だが、今日に限っては。

 昨日も一昨日もたっぷり寝て、学食の美味い飯を食って、十分に英気を回復させたはずなのだが──かったるい。率直に言って、職員室にショゴスでも湧くか、或いは教室にカルトが乱入してくるイベントでも起こって、授業が休みになればいいのにと思う。

 

 まさか自分の中に、こんな不真面目な思考が眠っていたとは。フィリップはそう、意外感と共に自覚した。

 

 「ずるいなぁ、二人とも」

 

 脱いだ寝間着をポイポイと乱雑に放り、制服に着替えながら愚痴る。

 

 ルキアとステラは、昨日から王城に呼ばれていて、明日まで学院には来ない。

 今年度の建国祭がそろそろだし、その話し合いだとステラが言っていた。今回は流石に、空間隔離魔術のような過剰なパフォーマンスはやめてくれと、長々と迂遠かつ丁重に陳情されるのだろうとも。

 

 「夏休みが無いのが一番つらいよ……はぁ……」

 

 その悲しい事実を口にすると、自分の言葉が耳に届いて悲しさが倍増した。

 長期休暇が無いのは、別にいい。こう言っては何だが、タベールナで臨時手伝いをするより、学生寮に居た方が快適なのだし。

 

 だが──認めるのは本当に、心の底から業腹なことだが、自覚してしまった以上は目を背ける訳にもいかない、むしろ対策すべき事実として。……マザーに会いたい。

 何故かここ最近は、特にそう思うようになった。何かの錯覚なのか、或いは本当に陥落してしまったのかは不明だが。

 

 「呼び出すわけにもいかないしなぁ……」

 

 フィリップはとぼとぼと部屋を出て、僅かに項垂れたまま食堂に入る。

 いつもルキアとステラが一緒に居て、楽しそうにしているフィリップだ。一人でしょぼくれていると、周囲の目を惹く。とはいえ、流石に“猊下”相手に絡みに行くような果敢な生徒はいないし、フィリップのことをよく知らない下級生たちは、夏休みで学院にいない。

 

 モソモソと退屈そうに飯を食い、またとぼとぼと教室に入る。

 クラスメイト達の挨拶にも覇気がなく、返すフィリップの声にも張りが無かった。「猊下」と呼ばれても、「ゲイカジャナイ」と、イントネーションの狂ったツッコミを入れて素通りだ。

 

 ぐったりと机に突っ伏して、90分おきに入れ替わる講師の、変わらずつまらない話を聞き流す。

 

 「神学と歴史と生物学が続くの、スケジュールのミスでしょ……」

 

 聞く気さえ起きない内容の講義と、教科書の内容を羅列するだけの絶望的に単調な講義と、ゆったりとした低音の声と一定のリズムを刻むチョークの音が耐性貫通の睡眠魔術と称される講義だ。

 

 眠くないはずなのに、目蓋がゆっくりと落ちてくる。

 つまらない。かったるい。

 

 いつもみたいに、二人とマルバツゲームでもしていれば気も紛れるのだが──あぁ、本当に。

 

 「なんかトラブル起きないかな。学校が半分吹き飛ぶとか」

 

 基本的には平穏を望むフィリップの口から、彼らしからぬ不穏な言葉が漏れる。

 勿論、気怠い眠気に誘発されただけで、本心ではない。いくらルキアもステラも学院にいないとはいえ、生活圏を侵されるのは気分のいいものではない。

 

 そして──その願いを聞き届けたかのようなタイミングで、ガラスの割れる音が高らかに響いた。

 甲高い破砕音が耳に障り、フィリップだけでなくクラスメイト達も、一定のテンポを崩さず淡々と講義をしていた教員も、みんなが肩を竦めた。

 

 音の発生源は一つ隣の教室らしく、男女混声の悲鳴が一瞬だけ耳を刺し、すぐに消える。

 おそらく窓ガラスに何かが衝突して割れたのだろうが、妙に違和感があった。錬金術製のガラスは薄く美しいが、鳥がぶつかった程度では割れないはず──とか、ガラスの強度に対する疑問ではない。

 

 ──悲鳴が短すぎる。

 

 驚いた時に咄嗟に出る悲鳴が「きゃー」「うわー」だとしたら、今の声は「きゃ」「うわ」くらいだった。しかもほぼ全員の声が、全くの同時に立ち消えた。悲鳴を噛み殺す練習でもしているのかと思うほど、一斉にだ。

 

 まるで、悲鳴を出し切る間もなく、全員が殺されたようだ。

 

 「……様子を見てきます。皆さんは──ん? どうしました?」

 「せ、先生、駄目です……」

 

 教壇を降り扉に向かった講師の腕を、最前列に座っていた生徒が掴んで引き留めていた。

 その顔は蒼白で、身体も僅かに震えている。怪訝そうに眉根を寄せたフィリップがクラス内を見回すと、似たような状態で震えている生徒が何人もいた。

 

 フィリップは前の席に座っていた女子生徒の肩をちょんちょんとつつき、「みんな、どうしたんですか?」と聞いてみるが、彼女も何が起こっているのか把握していないらしく「すみません、私にも……」と恐縮していた。状況の把握に個人差があるということは、知識の差か、或いは知覚力の差だろう。

 

 恐らく、魔力視などの聴覚以外の手段で壁を見通した生徒たちが、恐怖に身を竦ませているのだ。フィリップは、もしや邪神案件か、そこまでは言わずともショゴスなどの人類領域外存在、神話生物の襲撃かと身構える。

 

 そんなことをしていると、教室前方の扉が開いた。からからと軽いキャスター音に視線が誘導された。

 クラス全員の視線が注がれる入り口から、こつ、こつ、と硬いブーツの音が響く。

 

 ゆっくりと、いっそ優雅な歩調を崩さず、堂々と教室に入ってくる人影に、フィリップは見覚えがあった。

 

 背中まで伸ばされた、滑らかで豊かな黒髪。

 大きく広げられたシャツから覗く、分厚い胸板と豊かな胸毛。

 髪と同じく、夜闇のように黒い双眸。

 ロワイヤル・スタイルに整えられた口髭。

 

 「はぁい、フィリップ君。お久しぶりね」

 

 親し気に手など振ってくる、不自然に甲高く調整された低い声の主。

 

 「でっっっっっ!?」

 

 知り合いかと驚愕に満ちた目を向けてくるクラスメイトも、何が起こっているのか分からないと明記された顔の教員も、廊下から聞こえる慌ただしい足音も、何もかも意識外に吹っ飛ぶ衝撃が、フィリップの言語野を狂わせる。

 

 にこやかな笑顔を浮かべた、筋骨隆々とした典雅な顔立ちの男──

 

 「出たぁ!?」

 

 ──吸血鬼、ディアボリカ。

 以前にフィリップの左腕をズタズタに潰し、100年前の力の何割かを取り戻していた森の代理人(ヴィカリウス・シルヴァ)の追跡を振り切った……男?

 

 フィリップは椅子を蹴立てるように立ち上がり、右腰に佩いたウルミに手を伸ばす。

 何をしに来たのかは不明だが、この魔術学院の全周は風属性聖痕者ヘレナの敷いた結界魔術によって守られている。それを突破してきた時点で、それなりの目的があるはずだ。王都に来たついでに顔見知りに挨拶、というわけではないだろう。

 

 「あら、なぁにその反応。化け物でも見たような顔しちゃって」

 「化け物じゃないですか!! なんで王都に!?」

 

 ガタタッ、と椅子を蹴る音が連続し、生徒たちが一斉に席を立ち魔術を照準する。

 何人かはフィリップを庇う位置に移動しようとしたが、ディアボリカの魔力に中てられて一歩さえ動けた者はいなかった。

 

 「あら、前に言ったでしょう? アナタを殺さずに済むのなら、連れ帰って娘婿にしたい、って。アナタが無事だったみたいだから、迎えに来たのよ?」

 「……! ……? ……!?」

 

 言ってた! という回想。

 本気だったのか、という懐疑と呆れ。

 そして、何言ってるんだこいつ、という膨大な疑問が脳内を埋める。

 

 声にならない声さえ出ず、ただ「ちょっと待て」と両手でジェスチャーしながら、空転する思考を回し続けることしか出来なかった。

 

 「じゃ、アタシのお城にご招待ー」

 

 ディアボリカの漆黒の双眸が血の色に輝き、フィリップのほぼ全てが停止する。ウルミを抜こうとした右手だけでなく、滴り落ちる冷や汗も、心臓の動きさえ。

 

 「はいはい退いて頂戴ね。無駄な抵抗をしないなら、アタシだって何もしないから」

 「うわッ!?」

 

 生徒の一人が放った攻撃魔術が、ディアボリカの裏拳で弾かれて術者を襲った。

 ほとんどの生徒が、ディアボリカの放つルキアやステラにも匹敵する、或いは超越する魔力に恐れをなして腰が引けていることを考えると、彼は勇敢だった。とはいえ蛮勇の類だが。

 

 ディアボリカは悠々と教室内を進み、ぴくりとも動けないフィリップの、凍り付いた身体をひょいと担ぐ。

 

 「よいしょっと。それじゃ──おっとと、流石にバレちゃったか」

 

 窓を開けて飛び降りる姿勢になっていたディアボリカが、王城に向けて手を掲げる。

 手を振るようなものではなく、王城の一室とディアボリカの心臓を繋ぐ一直線を、自分の腕で遮るような形だ。

 

 ──直後、その腕に無数の斬撃線が入り、右腕は肘から千切れ飛んだ。

 

 特定の魔力に反応して起動する遅効魔術の投射。

 設置型魔術の設置座標変数を常に更新し続けるような、馬鹿げた演算能力が必要な魔術だ。ディアボリカも、ルキアやステラも、「やれ」と言われて出来るような芸当ではない。

 

 「これって声は聞こえてるのかしら? いや、たぶん魔力感知だけね。よいしょ、ほーら、アナタのかわいい大事な生徒よー? 撃っていいのかしらー?」

 

 一瞬で再生した右手をプラプラと振りながら、ディアボリカは気楽そうに呟く。

 

 ──返事は無い。だが、それ以上の攻撃も無かった。

 

 「相変わらず甘いのね。転生しても変わってない」

 

 ディアボリカは独り言ちて、窓枠から跳んだ。

 否──飛んだ。

 

 ドッッ! と凄まじい音を立て、窓枠を蹴り砕き、余波で上下階と左右の部屋のガラスを割りまくった結果は、跳躍ではなく飛翔だった。

 

 砲弾もかくやという速度で遠ざかっていく二人を、Aクラスだけでなく、何事かと窓際に集まった生徒たちが見送っていた。

 

 

 

 



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229

 その日、ルキアとステラは王城の一室で、かったるそうに窓の外を眺めていた。

 高級なソファに沈むように身体を預けた彼女たちの対面には、ローテーブルを挟んで、ヘレナと、他四人の宮廷魔術師と宮廷錬金術師が座っている。

 

 彼女たちは先ほどから、端的に換言すれば「今年こそは台本通りに演じてくれ」というだけのことを、長々とクソ丁寧に羅列している。呆れ顔のヘレナはともかく、媚びるような目の彼らには、ルキアは一片の尊重も抱かなかった。ステラも「ルキアが本気になるのなら、私も本気を出さなくては一瞬で死ぬからな」と、彼らの言葉を肯定も否定もしない。

 

 結局のところ、二人の判断基準に他人の言葉は介在しない。

 ルキアは「フィリップが楽しめるものを」と考えて、ステラはそれを看破して「どうせ本気を出すことになるのだろう」と獰猛に笑う。

 

 とはいえ、目の前で神域級魔術をポコポコ撃たれるのは、魔術に精通したものほど強いストレスになる。彼女たちに限って事故など起こすまいが、絶対に自分の手が届かない遥かな高みを見せつけられるのは、精神衛生に良くない。それに何より、あの空間隔離魔術は「理論的には理解できる」のに、「目の前の魔術式は理解できない」という、それこそ精神を蝕むような代物だった。

 

 さてどう説得したものかと困り顔を浮かべていたヘレナが、ばっと弾かれたように振り返る。

 愕然とした視線を窓の外に向けるヘレナにつられて、ルキアとステラも怪訝そうに同じ方向を見て──同じく、愕然と目を見開いた。宮廷魔術師たちも慌てて席を立ち、窓に駆け寄って学院の方を見つめる。

 

 「ディアボロス……!」

 

 ヘレナは彼女自身が展開した結界魔術が、邪悪なる何者かによって突破されたことを知覚した。

 それだけでなく、彼女は100年以上前に矛を交えたことのある強大なアンデッドの魔力パターンを記憶し、その高い魔力感知能力と併せて、襲撃者を特定していた。

 

 思わず口走った名前に、ルキアとステラが反応する。

 

 「それ、あの森の? どうして王都に?」

 「……学院長、そいつは今どこに?」

 

 ソファを立ち、開け放った窓から身を乗り出しているヘレナの背中に、ルキアとステラが問いかける。

 ルキアは答えが返るより先に部屋の扉を開け、外で待機していた従者の片割れに「学院に走って。フィリップの安全確保を最優先に」と命じた。

 

 「そりゃあ、王都への攻撃が目的でしょう? ……学院の校舎棟に入ったようね。……王城ならともかく、どうして校舎に?」

 

 ヘレナは一先ず片手を挙げて、結界魔術の再構築に取り掛かる。

 もしこれが魔王軍の襲撃の、その嚆矢なのだとしたら、後に続くであろう部隊を遮断するためだ。しかし、そんな気配は今のところ無い。

 

 「まさか単騎駆け? 舐められたものね……」

 

 ほんの十数秒で防護結界の再構築を終えたヘレナは、自動追尾型の攻撃魔術を展開する。視覚ではなく魔力感知に頼った、浮遊機雷のような魔術だ。決定力は無いが、牽制には十分だろう。

 

 「見つけた!」

 

 遠く、窓枠に足を掛けて今にも飛び降りそうな、長い黒髪の男が見える。

 顔立ちや表情は分からない距離だが、逞しい体格と羨ましいほど艶やかな黒髪は、記憶にあるディアボロスの特徴と一致する。

 

 「《回帰──、っ!」

 「……何故撃たない? 対邪悪・対罪人用の粛清術式なら、アンデッドは一撃──っ、人質か」

 

 遠目でよく見えないが、人間大の何かを担いでいるのは分かる。

 

 ルキアもステラも、同学年の生徒が人質に取られたくらいでは止まらないが──ヘレナは違う。彼女にとって生徒は、何が何でも守らなければいけない庇護対象だ。ここでステラが代わりに撃とうとしても、ヘレナはステラを妨害するだろう。

 

 そんな無駄なことをしている暇は無いのだが、ヘレナにも意地と責任がある。

 大多数の生徒を守るためであったとしても、人質に取られた一人を犠牲に敵を殺すことは許容できない。最後の最後まで、誰もが無事に救われる方法を模索する義務がある。

 

 その弱さを、ステラは許容しない。

 撃つべきだ。そうは思うが──ヘレナと撃ち合いになってしまうと、それこそ神域級魔術による殺し合いに発展する。

 

 「ルキア、学院に戻るぞ。カーターが誰も発狂させていないことを祈ろう」

 「……そうね。現状、人質に一番無頓着なのはあの子だもの」

 

 フィリップと因縁のある吸血鬼──フィリップにしてみれば、片腕をボロボロにされた憎い相手だ。

 人質なんぞ知ったことか、お前は死ねとばかり、既に邪神を召喚している可能性も無いではない。流石に、クラスメイトを避難させるくらいの時間は待てると思うが──自惚れを抜きにしても、フィリップはルキアとステラ以外に然したる価値を感じていない。憎悪を優先する可能性は十分にある。

 

 そんなステラの懸念とは裏腹に、フィリップはディアボリカに対して、然程の憎悪を抱いていない。というより、怪我から一週間ほどで、その感情を忘却していた。だから変に会話などして、魔眼を喰らって拉致されるのだが──今のルキアとステラは、そんなことは露と知らない。

 

 

 

 数十分後、窓の全損した教室に入った二人は、誰もいないことを確認して寮に向かう。まあ流石に、ガラスの破片が散乱した教室で授業が続いているとは思わなかったが、念のためだ。

 

 寮母に断りを入れて階段を上ると、暗い廊下の突き当り、部屋の前に小さな人影があった。

 鍵を失くして締め出されたフィリップが膝を抱えてしょぼくれているように見えた二人は、苦笑しながら近づいていく。しかし、数歩も歩けば違うことは分かった。

 

 二人の足音に気付いて顔を上げたのは、若葉色の髪の少女──人間どころか生物でさえない、フィリップの使い魔。シルヴァだ。

 

 「……何してる、シルヴァ?」

 

 ステラの怪訝そうに笑いながらの問いには答えず、シルヴァはぽてぽてと二人に駆け寄って、ルキアの腰のあたりに抱き着いた。

 不思議な反応に、ルキアとステラは眉根を寄せた顔を見合わせる。

 

 「……どうしたの? フィリップは部屋?」

 「……締め出されたのか?」

 

 ステラはシルヴァの肩を軽く叩いて、フィリップの部屋の扉をノックする。

 

 しかし、返事は無い。当然だ、フィリップはもう、ディアボリカに連れ去られているのだから。

 

 ルキアはシルヴァの肩が震えていることに気付くと、自らもまた何かを悟ったように、ピクリと肩を震わせた。

 

 「……ねぇ、シルヴァ。フィリップはどこ? ……お願い、教えて」

 

 腰に抱き着いていたシルヴァを引き剥がしたルキアは、涙腺が決壊寸前のぐちゃぐちゃなシルヴァの顔を見て、脳裏に過った最悪の可能性に目を瞑る。

 言語化しなければ、声に出さなければ、その可能性から目を背けられていただろう。しかし、そんな無意味な現実逃避を、ステラが許すことは無い。

 

 「──死んだのか?」

 「──っ!」

 

 耐え難い恐怖から、ルキアのシルヴァを抱く腕に力が籠る。

 頼むから首を横に振ってくれと、ルキアだけだなく、ステラまでもが、宛ても無く祈っていた。

 

 ルキアの服に顔を埋めたまま、えぐえぐと嗚咽を漏らしていたシルヴァは、果たして首を横に振る。

 

 「……まだいきてる。でも、しるばはおいてかれた」

 

 魔術的契約によって繋がっているシルヴァには、フィリップの生死が把握できる。

 その彼女のお墨付きにルキアとステラがほっと安堵の息を吐いたのも束の間、シルヴァは声を上げて泣き出した。

 

 フィリップはディアボリカが離陸する直前にシルヴァを召喚していた。シルヴァの防御力はともかく、攻撃力の低さを知っているフィリップは、当然ながら助けを求めて召喚したわけではない。ただ、とにかくシルヴァを学院に残すことだけを考えていた。

 シルヴァはその気になれば、自分の意思でフィリップの元へ──正確にはフィリップとシルヴァを繋ぐ魔術的な異空間へ戻ることができる。当然ながら、シルヴァは何度もそれを試みたのだが、しかし今は、フィリップの意思によって、シルヴァの送還が封じられていた。

 

 捨てられた。

 シルヴァはそう、錯覚していた。

 

 自らの置かれた状況を説明し終えたシルヴァの肩を、ステラが力強く掴む。

 

 彼女には確信があった。

 フィリップはシルヴァを捨てたわけでもなければ、生を諦めてシルヴァを遺したわけでもない。それどころか、誘拐される直前で、ほぼ最適の解を選んでいる。

 

 ──追跡の手がかりを残すという、最適の解を。

 

 「──いや、違う。お前は導だ、シルヴァ。カーターの位置は分かるな?」

 「ん……あっちのほう」

 「お前の感覚を頼りに、私達が救出に向かう。そのために、あいつはお前を残していったんだよ」

 

 シルヴァにはフィリップの現在位置が分かる。そしてフィリップにも、シルヴァの現在位置が分かる。

 謎の吸血鬼に誘拐されたフィリップを追いかけることも、フィリップが救助までの大まかな時間を把握することもできるのだ。

 

 「……救助隊を編成したいところだが、近衛騎士団は再編中か……」

 

 ステラは先々代からの負債がこんなところで、と歯噛みする。

 ルキア──公爵家も大規模な軍隊を保有しているが、それらの大半は所領の警護中だ。王都にまで連れて来てはいないし、手勢と言えるのは使用人と、最低限の身辺護衛だけだ。

 

 今すぐに、自分一人でも助けに行くつもりだったルキアだが、ステラが「数」を必要だと考えているのを見て思いとどまる。

 

 「……何人必要?」

 「カーターの行き先次第だな。……シルヴァ、具体的な距離は分かるか?」

 「すごくはやい。あと、すごくとおい。しるばのもりよりとおい……むきははんたいだけど」

 

 シルヴァの森というと、彼女が以前に住んでいたガーテンの森──ローレンス伯爵領のことだろう。

 王都から伯爵領までおよそ60キロ。馬車で半日かかる距離だ。

 

 「まだ、どんどんはなれてる」

 「朗報だな。カーターを即座に殺すつもりは無いらしい」

 「でも、かなりの距離よ? 街道沿いなら替えの馬も宿もあるでしょうけど、道を逸れるなら野営も視野に入るわ」

 

 ステラは思考の合間に相槌を打ち、ややあって、シルヴァが指していた方──フィリップが連れ去られた方角とは逆を指し示した。

 

 「私たちは敵を知らなすぎる。その目的も、行動基準も、強さも、何も知らない。知識が必要だ。……一度、王城に戻ろう。学院長に話を聞きたい」

 

 ルキアは悠長なことを、とは言わず、逸る気持ちを抑えて頷いた。

 

 「シルヴァ。カーターは何か言っていたか? 敵と何か話したりとか、行き先や、目的について。なんでもいい、何かないか?」

 

 真剣な表情で思考しながら問いかけるステラに、シルヴァも同じく真剣な顔を真似しながら答える。

 

 「ん! むすめむこにするっていってた! ……むすめむこってなに?」

 

 以前に取り逃がした獲物を喰いに来たか、或いはシルヴァの排除か、はたまた使役契約の奪取でも目論んでいるのか。ルキアとステラに対する人質なのだとしたら、業腹だが効果的だ……などと考えていたステラの思考が、一瞬で吹っ飛んだ。 

 

 ルキアもルキアで、肩透かしされた困惑が赤い双眸の奥で揺れているし、聞き間違い──シルヴァとルキア二人の──ではないかと疑っているのが表情から分かる。

 

 「……娘婿? 冗談か隠語だろう、流石に……」

 「わかんない。でも、でぃあぼりかはそういってた。ふぃりっぷも」

 

 ほんの少しだけ緊張感の薄れたルキアとステラは、困惑に染まった顔を見合わせる。

 しかし一先ず、フィリップが即座に殺されることはないと見ていいはずだ。……言葉通りの意味であるのなら、だが。

 

 「まぁ、邪神への貢物とか、そういう目的じゃないのなら……猶予はある、か?」

 「殺されはしないんじゃないかしら。フィリップが何処の誰とも知れない吸血鬼に婿入りするなんて、私は嫌だけれど」

 「……だな。早く助けに行こう。あいつが吸血鬼にされる前に」

 

 

 

 



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230

 フィリップが身体の自由を取り戻したのは、街道沿いの荒涼とした野原に生えた、小ぶりな木の下でのことだった。

 学院を出てから、一時間くらいは飛んでいただろうか。色々と平常ではない状態の体感時間にどこまで信用が置けるのか、自分でも分からない。

 

 きょろきょろと周囲を見回して、はてここは何処なのだろうと呆然とするフィリップに、木陰に座ったディアボリカは上機嫌に笑いかけた。

 木漏れ日を浴びた典雅な顔立ちの紳士は、嫌気が差すほど絵になっている。

 

 「……あら、意外と落ち着いてるのね。いえ、意外じゃなくて流石って言うべきかしら? アナタのそういうトコロを見込んだわけだしね」

 「いや、動揺で人が殺せるなら100人ぐらい死んでる程度には動揺してますよ。手始めにお前」

 

 そう言って中指を立てるフィリップだが、殺し合いを始める前口上という訳では無かった。

 威嚇でさえない。というより、今のフィリップには、威嚇するだけの武器が無い。ウルミはあるが、効かないことはあの森で体験している。

 

 そして、あの森でディアボリカが終始警戒していたフィリップの“切り札”──邪神召喚もまた、完璧に封じられていた。

 拘束の魔眼によってではない。あの時はフィリップがそれを警戒するあまり、切り札を切れなかっただけだが、今はディアボリカの視線がこちらに向いていなくても、一切の魔術を使えない状態にあった。

 

 「あら怖い。なら、その首輪を外したら殺されちゃうのかしら?」

 「試させてあげますよ、これを外してくれるならね」

 

 フィリップの首には、黒い革のチョーカーが巻かれていた。ベルト式ではなく鍵穴の付いた金具で留められており、ディアボリカは小さな鍵を手元で弄んでいる。

 

 魔力制限の腕輪を付けた経験のあるフィリップには、これが同じ効果を持つものだと、説明されるまでも無く感覚的に理解できた。

 

 「……どこですか、ここ」

 「別に、何処ってほど名のある場所じゃないわ。王都から100と2、30キロ離れたところよ」

 「…………」

 

 あっけらかんと言ったディアボリカに、フィリップは思わず頭を抱える。

 120キロなんて、遠すぎてもうピンと来ないくらいの距離だ。歩いてみようとは思わないし、かといってハスターを呼んで「乗せてって?」というのは、道中で何万と被害を出してしまいそうで流石に怖い。

 

 耐えていればルキアとステラが助けに来てくれるとは思うのだが、それも確証の無い話ではある。

 

 「……こんなド田舎に住んでるんですか、娘さんは」

 

 見渡す限りの野原で、少し遠くには森も見える。街道の先には小さな村もあるようだが、見た限り家が20棟くらいしかない。

 

 フィリップの生まれ育ったヴィーラムの街も自他共に認める田舎町だったが、この辺りはそれ以上だ。王都近郊の“田舎”と、正真正銘の“田舎”は全く違うらしい。

 さておき、吸血鬼が住んでいるにしては、流石に人気が無さ過ぎる。誰か失踪したら、村人全員が気付くだろう。まぁ、村の全てが吸血鬼の支配下という可能性も無いではないが。

 

 そんなことを考えていたフィリップに、ディアボリカは黒い目をきょとんと丸くする。

 

 「いや、違うわよ? ちょっと休憩してるだけ。私達のお城はまだ先よ?」

 「お城に住んでるんですか? それは何とも贅沢な……どの辺にあるんですか?」

 「んー……そうねぇ……ここからあと1000キロは無い……くらい?」

 「せん……?」

 

 120キロでさえピンと来なかったというのに、さらに桁が上がった。

 

 千キロってどのくらいだろうと、フィリップは頭の中で計算を始める。

 長距離行軍用の軍馬が、まぁ概ね時速7キロくらいで、日の出から日の入りまでの12時間、移動できるとする。

 

 「ふむ、一年生で習ったレベルの算術……。で、えーっと?」

 

 一日で移動できる距離が概ね84キロ。地形や天候、魔物や野盗との遭遇といった不確定要素を完全に排除して、真っ平らな道を一定速度で進むという馬鹿げた想定に基づく概算だが。

 王都からディアボリカの城まで1100キロだと仮定すると、14日目にようやく到着といった塩梅か。

 

 「二週間か……」

 

 フィリップは独り言ちて、痛みを堪えるように頭を抱えた。

 街道の整備されていた王都から教皇領までの道程でさえ30日近くかかったのだ。王都から1000キロも離れれば、まず間違いなく人類未踏領域──魔王の領地、暗黒領に入る。そこには馬宿どころか、街道だって無いだろう。馬の行軍速度は低下するし、馬車が付いているなら尚更だ。

 

 ──ディアボリカ相手ならルキアとステラが頼れるからと、追跡の手掛かりにシルヴァを置いて来たのだが、無意味だったかもしれない。

 

 それだけ人々の営み──人間社会から遠い場所なら、もう何をしても良いだろう。

 ハスターどころか、クトゥグアを召喚したって怒られないはずだ。いや、化身次第だが、街一個レベルの火力程度なら、どうぞご自由にと解放できる。

 

 何より、ルキアとステラが絶対に巻き込まれないというのが素晴らしい。

 フィリップは、危害が加えられそうになったら、なるべく致命傷になるように行動すればいい。そうしたら、ヨグ=ソトースの庇護が発動するはずだ。ちょうどいい機会だし、どういうものなのか確認しておきたい。

 

 何ならナイアーラトテップとシュブ=ニグラスも召喚できるだろう。

 ナイアーラトテップは修学旅行で良いものを見せてくれたし、シュブ=ニグラスには最近会えていないから、この機会に褒賞と埋め合わせと言う形で、少しだけなら暴れても良い事にしようか。勿論、三次元世界に影響が出ない範疇でという条件は付くけれど。

 

 ……まぁ、これは所謂、捕らぬ狸の皮算用というやつで、何にせよ首輪を外すのが最優先だ。

 触った感触からすると革製のようだが、爪が立つような気配がまるでない。防具などに使われる錬金術製の特殊皮革だろうか。専用の鍵で開けるか、規定以上の魔力を流し込んで壊すか、とびきり鋭い刃物で切除するしか外す方法は無いだろう。

 

 「あら、助けを期待するのなんて今のうちだけよ? 娘の顔を見たら、すーぐオチちゃうから」

 「ははは」

 

 「二週間耐えれば助けが来る」という意味の呟きではなく、むしろ「二週間以内なら何をしてもいいのか」という、ある種の解放感に満ちた呟きだったのだが、ディアボリカは前者と受け取ったらしい。まぁ、フィリップの現状は「何をしてもいい」というより「何もできない」と言った方がいい有様なので、仕方のないことだ。

 

 それにしても、続く言葉も全く以て無知蒙昧と言わざるを得ない。

 フィリップは人外の美に魅入られていることを自覚しているし、それは概ね事実だ。フィリップに「美人だ」と思わせたいのなら、最低でも人類最高レベルの美貌を用意する必要がある。より確実を期するのなら、人類以上の美が欲しいところだ。

 

 「まぁ、それはさておき。そもそも娘さんは「お婿さんを連れてくるわよん」って言われて、「分かったわよん」って言ったんですか?」

 「アタシも娘も「わよん」なんて言わないけど……ま、まぁ、いいわ。えぇ、やっぱり花婿としては、認められるかどうかは気になるところよね」

 「はぁ? 娘さんが馬鹿な親のとばっちりで死ぬ哀れな存在なのか、馬鹿な親から生まれたせいで馬鹿に育った悲しい馬鹿なのか、殺す前にそれくらいは知っておこうっていう優しさですよ」

 

 フィリップはまた中指を立てて吐き捨てる。

 身体の自由を取り戻してからずっと普段のフィリップらしからぬ乱暴な言動を繰り返しているのは、意図的なものだ。

 

 あわよくば、激昂したディアボリカがフィリップを殺そうとしてくれないかなと──ヨグ=ソトースの庇護が発動しないかな、と、そう期待してのことだ。魔力制限の首環を付けられてしまった以上、召喚魔術は使えない。フィリップに残された武器は、もうその一つだけだった。

 

 そして、ディアボリカはそれを察していた。

 

 「アナタの狙いは分かってるし、アタシは少なくとも自分では、アナタに対して十分に警戒してると思ってる。だから、そんな柄にもないことは辞めたら? 疲れるだけよ?」

 「……はぁ」

 

 フィリップの表情から、わざとらしい嘲笑が抜け落ちる。代わりに普段通りの諦観が貼り付いた顔で、フィリップはすとんと腰を下ろした。

 

 抵抗の意思を失くしたフィリップに、ディアボリカは満足そうに頷く。それでいい、と言わんばかりに。

 しかし、フィリップの抵抗は無意味だったわけではない。フィリップにとってはマイナスの意味があった。

 

 「今のではっきりしたわ。アナタの切り札、死と引き換えなんでしょう? それでいて死を恐れてはいないみたいだし……蘇生と、何か強力な攻撃ってところかしら」

 

 ディアボリカの正確な推察に、フィリップは思わず舌打ちを溢す。

 あの森での一件と今回のフィリップの態度で、ほぼ完璧に分析されていた。「蘇生」ではなく「防御」のはずだが、未だ一度も発動していない以上、フィリップにもその辺りの正確な情報は分からない。

 

 「ま、そんなところです。……仕方ない。助けが来るまでは大人しくしてますよ」

 

 嘘である。

 フィリップは隙を見てどうにか首輪を外そうとしているし、魔力制限が外れたら隙を見て邪神を召喚する気でいる。城ごと吸血鬼親子を吹き飛ばすつもりだった。

 

 「……そういえば、吸血鬼って不老不死なんですよね? 子供が出来たって、赤ちゃんの状態から老いない──全く成長しないのでは?」

 「あら、学校で習ってないの? そもそも純粋な吸血鬼同士では子供は出来ないわよ。……さて、そろそろ移動を再開しましょうか」

 「え、ちょ、まだ質問が──」

 

 言い募ろうとしたフィリップに拘束の魔眼が向けられ、鼓動無き彫像と化したフィリップは荷物のように担ぎ上げられる。

 そして、また時速120キロの旅路へと拐かされた。

 

 

 

 

 



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231

 「仮にも娘婿として攫ってるなら、義理の息子候補の言葉にはちゃんと耳を傾けるべきだと思うんですよね。質問にはちゃんと答えるとか、いやそもそも、家族にしようって相手を強引に誘拐する時点でもう色々と狂ってるんですよ。頭おかしいんですか?」

 

 一時間後、また休憩と称して着陸したディアボリカに、フィリップはそう食って掛かった。今度は演技も裏の狙いも無い、100パーセント苛立ちの発露だ。

 前回は荒涼とした草原だったのだが、今度は鬱蒼とした森の中で、初めてディアボリカに遭遇した時のことを思い出す。

 

 「言葉ってのは、人間が人間がましく在るために必要な要素なんですよ。僕は前から「それぐらい言わなくても分かれよ」みたいな態度の客が嫌いだったし、今となっては言葉も扱えない猿みたいなヤツを同じ人間だとは思いたくありませんね! そんなクソ野郎と家族になるぐらいなら大陸半分消し飛ばすわバーカ!」

 「ヤダもう、ごめんってば、そんなに怒らないでよ。そこまで怖かった? 上空5000メートル、時速120キロの体験」

 「怖かった!! 寒いし息苦しいし風圧で舌が喉に引っ付いて息も出来なくなるし目も開けられないし! めちゃくちゃ怖かった!!」

 

 フィリップが中指を立てながらぷりぷりと怒っている理由は、ディアボリカが飛翔中に『拘束の魔眼』を解除したことにある。何かの手違いとかではなく、ちょっとした冗談で。

 ほんの十数秒間だけのことだったが、氷点下10度の低温に晒され、かつ時速120キロで飛んでいた。つまり体感温度はマイナス30度辺りまで低下する。そういった特殊環境下でも体内・体表の変化をほぼ完全に凍結する『拘束の魔眼』は、何とも便利な防護服だと、フィリップは身を以て体験したわけだ。

 

 「意外だわ。アナタにもちゃんと怖いものはあるのね」

 「はぁ? そりゃ、勿論ありますよ」

 

 フィリップの精神性は人間の域に無いといっていいが、それでも恐怖と無縁ではない。さっきだって小便をちびるかと思ったくらいだ。

 本能的恐怖は人体の基本的機能として備わっているし、他にも痛みや、人間性を失うことへの恐怖や忌避感はある。

 

 「いいわね。完璧な男より、ちょっと弱みのある男の方が、女は心惹かれるのよ?」

 「……そういえば、なんで僕を娘婿に? 娘さんとは面識もないと思うんですけど、さっき言ってた「吸血鬼同士では子供は出来ない」って話ですか?」

 「それもあるわ。大体の吸血鬼は子供なんて作らず、眷属という形で種を増殖させる。アタシみたいに子供を作るのは特殊な例ね」

 

 特に驚くべきところではないはずだが、フィリップは片眉を上げ、意外そうな表情を作った。

 

 「あ、ディアボリカの子供もそうなんですか。てっきり(つが)いナシで増えたのかと」

 「アタシのこと、七面鳥か何かだと思ってるの……?」

 「人間ではないのは確かですよね」

 

 フィリップが言うと、ディアボリカは「言うじゃない……!」と楽しそうな笑顔で指を弾き、その人差し指をフィリップに向けた。

 

 「そ。アタシは人間を辞めたのよ。その理由に娘とか、奥さんが絡んでくるんだけど……そうね、この話は、次の休憩の時に聞かせてあげるわ。そろそろ行くわよ!」

 「え、待って、そういう微妙に気になる切り方は──」

 

 フィリップは拘束の魔眼を以下省略。また荷物のように抱えられ、ピクリとも動けないまま超高速の旅路に連れ出された。

 

 ディアボリカも同じ冗談を繰り返すことは無く、今度は何のアクシデントも起こらないまま120キロを移動し、また休憩と相成った。

 何処に向かっているのかは判然としないが、今度は荒野のど真ん中だ。遠くには岩肌の露わな峻厳な山脈が見える。

 

 この“休憩”だが、フィリップは完全に拘束されていて、疲労物質の分泌さえされない──尤も、精神的な疲弊はあるが──以上、ディアボリカの魔力回復時間なのだろう。

 

 ちなみに、魔力や魔術による人類単独での飛翔は、人間では再現できない「不可能魔術」の一つだと言われている。

 理論上、ルキアは重力を操作することで行きたい方向に「引かれる」ことで、疑似的に空を飛ぶことはできる。風属性聖痕者のヘレナも、風を操作して意図した方向に「吹き飛ばされる」ことは可能だ。

 

 だが、そこには何か間接的な媒介を必要としている。ルキアなら重力、ヘレナなら風、大気だ。

 しかし吸血鬼の種族特性である単独での飛翔には、そういった媒介が必要ない。何かを操作した結果として「飛ぶ」のではなく、本当に自分の意思と魔力によって「飛ぶ」ことが可能なのだ。不老といい、銀武器と魔力攻撃以外の無効化といい、種族として強すぎるのではないだろうか。

 

 「……で?」

 「で? って?」

 「人間を辞めた理由の話ですよ!」

 「あぁ、それね。うーん、どこから話したものか……アナタ、エルフって知ってる?」

 

 やや唐突な話題の転換にも思える問いに、フィリップは僅かに戸惑いながらこくこくと頷く。

 エルフと言えば、言わずと知れた長命種の代表格だ。王国領には殆どいないらしいが、帝国の一部地域、あとは暗黒領の森の中に住んでいて、高い魔力と、強い縄張り意識を持っているという。

 

 ほぼ不老不死と言ってもいいほどに寿命が長く、大抵のエルフは10代後半から20代前半の若々しい容姿をしている。その特異性から、魔物ではないかという意見もあるくらいだが、殺せば死体が残るので魔物とはカテゴライズされない。

 

 その容姿は極めて優れており、老若男女問わず例外なく美男美女揃い。そして男は筋肉がありながらも細く引き締まった、女はしなやかな筋肉を持ちながらセクシュアルな起伏に富んだ、蠱惑的な肉体を持っているのだという。

 

 魔術センスと優れた容姿、美しい肢体などから、冒険譚や英雄譚で語られることの多い種族だ。それでいて、その強い縄張り意識から、人間との交流が極めて少ない。

 フィリップも以前は「一度は会ってみたい種族ランキング」の最上位に置いていた種族だが、同じく上位にいたドライアドの理想と現実の落差に打ちのめされて、ランキングそのものが消滅した。

 

 そんなエルフがヴァンパイアにどう絡んでくるのだろうと、フィリップは目線で先を促した。

 フィリップの目の奥に興味の輝きを見つけたディアボリカは、少しだけ上機嫌に続きを語る。

 

 「アタシはね、エルフと恋をしたの。……知ってる? 当時の人間はね、60年かそこらが寿命の限界だったのよ。対して、エルフの寿命は1000とも2000とも言われてる……身分違いの恋ってヤツよね、これも」

 

 フィリップは同意も否定もせず、ただ相槌を打つ。

 その反応を気にした素振りも無く、ディアボリカは過去の回想に埋没していった。

 

 「アタシと彼女は、互いに惹かれあって、恋仲になった。でも当然、そこには大きな寿命の隔たりがある。……アタシたちは二人とも臆病で、傲慢で、救いようのない愚者だったけれど──それでも、お互いを心から愛していたわ。彼女は聖なるものであることを、アタシは人間であることを諦めて、一緒になったのよ」

 「……寿命の為に人間性を捨てるとは、人間の風上にも置けない奴だったんですね。今では生物学上ですらヒトじゃないわけですけど」

 「辛辣ね!? ここは「愛の為に人であることを辞めるなんて、ロマンティック!」って感動するところよ!?」

 

 わあわあと騒ぐディアボリカに、フィリップは呆れたような笑みを溢す。

 

 確かに、ロマンティックがどうかはさておくとしても、愛情──もっと言えば、他人の為に人間性を捨てられるその精神性には、不本意だが敬意を抱くところだ。

 

 フィリップは他人を愛することが出来るかと聞かれると、NOと即答できる。そして、その答えは正しい。

 そもそも、何かを心の底から大切だと思うことが難しいのだ。遍く全てが例外なく泡沫であり、そこには一片の価値も無い。男も、女も、老人も、子供も、自分の親や兄弟でさえ。

 

 勿論、衛士団や、ルキアやステラのことは大切だと思っている。

 しかし、これも自覚していることであり、正解だが、「人間性を捨てるか、彼らを殺すか」という決断を迫られたとき、フィリップは人間性を捨てられない。

 

 ディアボリカとフィリップでは、人間性に感じる価値の大きさが全く違うのだとは分かっている。

 それでも、フィリップには出来ないことをやったディアボリカは、素直に凄いと思った。真似は出来ないし、したくもないが。

 

 「……ん? ま、待ってください? じゃあ娘さんは……」

 「あ、気付いた? そうよ、ほぼ不老のほぼ不死、エルフの長命と吸血鬼の不死性を併せ持った、ハーフエルフ・ハーフヴァンプよ」

 「かっっっっ」

 

 フィリップは顔を覆い、天を仰いだ。

 指の隙間から、押し殺し切れない感動が漏れる。

 

 「かっこいい……なんだそれ……」

 

 ハーフエルフは、とても貴重な存在だ。

 エルフは人間によく似た外見だが、数百年生きることから分かる通り、生物種としては全くの別物だ。当然ながら、遺伝子の構造も異なる。

 

 しかし、遺伝子やゲノムなんてものは、言ってしまえば蛋白質でしかない。

 体内で生成される遺伝子情報を書き換え、異種交配を可能にする薬というものは、エルフの薬師には経験則的な秘伝の調合として語り継がれていた。つまり、理論上はハーフエルフ・ハーフヒューマンは存在し得るということだ。

 

 英雄譚では仲間の一人として、優れた術者であるハーフエルフや、狩りの達人であるエルフなどがよく描かれる。

 しかしそれは、あくまでも半人だ。ハーフエルフといえば、残り半分が人間なのが常だった。

 

 それを覆す──半吸血鬼という特殊個体。

 

 会ってみたい。是非ともお近づきになりたい。なんか握手とかしてもらいたい。

 

 「興味湧いた?」

 「ま、まぁ、ちょっとだけ?」

 

 素直には答えないフィリップに、ディアボリカは駄目押しとばかり、フィリップの食いつきの理由を正確に分析した、止めの一手を放った。

 

 「あの子、魔剣使いよ」

 「会ってみたいです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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232

 「ならぬ」

 

 ステラが国王にフィリップ救出部隊の編制と指揮をステラ自身が取り仕切る旨を伝えたとき、王はそう返答した。

 王もフィリップを気に入っていると思っていたステラは「何故」と食って掛かるが、彼の瞳は愚かな娘に向けるに相応しい、失望に満ちて冷たいものだった。

 

 国王の居室、絢爛無比な謁見の間とは違い、過ごしやすい落ち着いたインテリアの揃った部屋で、二人はソファに腰掛けて、ローテーブル越しに睨み合う。ステラの左右にはルキアとヘレナも座っていたが、二人とも口を挟まず、二人の口論を黙って見ていた。

 

 「先刻の襲撃の件は、王都内でも一部の者しか知らぬこと。そして学院と、一等地の一部で事を見ていた者には緘口令が敷かれた」 

 「……当然のことです」

 

 王都の警備は完璧だ。

 住民はそう信じているし、衛士団にはそう豪語するだけの実力がある。人間の軍隊が相手であれば、彼らの守りを抜いて王城へ迫ることは叶わないだろう。

 

 ただし、そこには例外もある。

 たとえば龍種。たとえばゴエティアの悪魔。たとえばディアボリカのような上位吸血鬼。彼らの守りを突破できる強大な戦力が、この世には確かに存在する。特に空を飛べる相手は、地を歩く人間にはどうしようもない。

 

 その例外の存在を、わざわざ住民に教えて怖がらせる必要はない。だが──

 

 「そこでお前が「吸血鬼追撃と人質救出のための部隊」を率いて王都を発つのか? 或いは王都外にて集合し、そこから発つか? どちらにせよ、緘口令などすぐに効力を失う。その時、民の間に蔓延するであろう、吸血鬼に襲撃された恐怖を拭うことが出来るのは誰だ? この王都を守ると宣言し、民に信じさせられるのは誰だ? お前と、お前が連れて行こうとしている二人の聖痕者を措いて他にはいまい?」

 

 猿に二次方程式の解の公式を教える馬鹿を見るような目で、国王は淡々と語った。

 

 「ステラ、王族であるのなら、最大多数の幸福を優先しろ。100の他人を救うため、99の友人を見捨てろ。お前はそう生きてきたはずだ」

 

 ステラは隣に座ったルキアが、ちらりと自分に一瞥を呉れたのを、目の端で捉えた。

 その視線に込められた意味を正確に汲み取り、ステラはふっと口元を緩める。

 

 ここでステラが言い負かされても、ルキアには関係ない。いや、ステラが言い負かされたら、その時点で関係なくなると言うべきか。

 

 ルキアは傲慢だが、馬鹿ではない。

 シルヴァが言う「すごいとおい」場所まで、馬を駆り、たった一人で向かうのは、いくら何でも無謀だ。野営や長距離行軍に関する知識が不足している彼女一人では、最悪の場合、行き倒れる可能性もある。

 

 だから、叶うのなら、そういった知識を持った供回りを連れて行こうとしているのだ。

 

 だが同時に、フィリップの命が懸かっているとなれば、どんな馬鹿でもやるだろう。

 ステラは知らないことだが、かつてはナイアーラトテップの化身であるナイ神父に、正面から啖呵を切ったこともあるくらいだ。行き倒れる覚悟で、単身、ディアボリカを追跡するくらいのことはやる。

 

 勿論、そうなればアリアとメグは付き従うはずだ。しかし野営や長距離行軍の知識においては、やはり本職の軍人に軍配が上がる。

 ステラの親衛騎士か、欲を言うのなら衛士団を数人ばかり動員したい。それと万が一に備え、学校医であり二つ名持ちの治療術師であるステファンも。そうなれば道中も、フィリップの救出に際した戦闘を見据えても、万全の態勢と言えるだろう。

 

 本当なら、どうにかしてこの辺りの条件を呑むよう、交渉すべきなのだろう。普段のステラなら、そうしているところだ。

 だが──そんな親子の会話を楽しんでいる暇も、余裕も、今のステラには無い。

 

 「なら学院長を置いて行きます。手勢も私の親衛騎士だけで結構。出国さえ認めて頂ければ、それで十分」

 

 恐らく何かしらの因縁があったのだろう、一番やる気に溢れていたヘレナが、えっ、と情けない声を上げた。

 しかし、誰も気に留めない。

 

 「ふむ、暗黒領へ踏み込むには戦力不足だとは思わんか?」

 

 仮にも一国の王女であり、更には最大戦力でもあるステラは、軽率に他国へ入国することはできない。

 今回は王国から暗黒領へ出るだけだが、それでも、王国法どころか人間の理屈が通らない場所へ出るわけだ。本当なら100人規模の護衛を付けるところだし、普段ならステラの麾下にも幾つかの近衛騎士団の大隊があった。

 

 しかし、今は近衛騎士団そのものが存在しない。組織再編の真っ最中だ。親衛隊はごく少数だし、練度はともかく頭数が足りない。

 

 だが──端から、戦力は足りているのだ。ルキアとステラが居れば十分に事足りる。

 

 「……陛下、何を目論んでおられるのです?」

 

 ──そんなことは、国王とて承知のはずだ。なのに何故、こんなにも長々と無駄話をしているのか。

 

 ステラがその疑問を抱いたとき、部屋の扉がノックされた。

 扉の側に控えていた部屋付きのメイドが来客の用件を聞き、国王の耳元で囁くと、国王は上機嫌に「よろしい、素晴らしい手際だと伝えてくれ」とメイド伝てに褒めた。

 

 「食料と医療物資、野営用の設備を載せた馬車が用意できた。それから長距離行軍用の軍馬が六頭。馬は使い潰しても構わない。何としても、無辜の国民が吸血鬼に吸い殺される前に、或いはその眷属とされる前に助け出すのだ!」

 「……えっ?」

 

 どういう状況なのか呑み込めず、ステラが彼女らしからぬ素っ頓狂な声を上げる。国王の命令に返事をするという当たり前のことすら、頭の中から吹っ飛んでいた。

 

 流石はステラと言うべきだろう、彼女の思考が停止していたのはほんの一瞬で、思考を取り戻した直後には、もう全てを理解していた。

 

 「陛下──父上、こんな時に冗談はお止めください。お気遣いには感謝しますが……ルキアの、この不機嫌そうな顔をご覧になっては?」

 

 まぁ、国王がここで「よし行け」と即答していても、ちょっと渋るフリをして時間を稼いでいても、どうせ馬車や物資の準備をする時間は待たなければいけなかったわけだ。

 そう考えると、準備時間をイライラしながら過ごすよりは、目の前の堅物をどう説得するかと考えていた方が、精神衛生には良いのかもしれない。人間というのは不思議なもので、思考に耽っている状態と、何もしていない状態では、体感時間に差があるのだ。

 

 それに、待たされてイライラした状態で慌ただしく出発するより、「何なんだあのクソ親父」と思いながらでもスムーズに出発した方が、その後の焦りも緩和される。

 

 馬を全力で走らせればすぐに着くような距離ではないのだ。

 むしろ馬の調子を気遣いながら、ゆっくりとでも、確実に歩を進めることが要求される長距離になる。──これは過去にディアボリカと一戦交えたことのある、ヘレナの言だ。彼女は魔王戦役の際に作った暗黒領の概略地図──を、記憶を頼りに描き起こした地図を持ってきていた。

 

 「……分かったわ、留守番は引き受けます。その代わり、貴女たち二人と、カーター君──私の生徒は全員無事に帰ってくること。いいですね?」

 「無論だ。それより、この地図の信憑性はどんなものなんだ?」

 「100年前の地図だから、そこそこよ。でも、ディアボロス──今はディアボリカでしたね。奴の居城は暗黒領のやや北部、王都の南方約1000キロ辺りにあったわ。カーター君の召喚物の意見も鑑みると、ヤツが向かったのはそこでほぼ確定でしょうね」

 

 ルキアとステラは目を合わせて頷きを交わす。

 そしてほぼ同時に立ち上がり、国王に向けてきっちりとした立礼を見せた。カーテシーでは無かったのは、二人ともドレスではなく、乗馬服だからだ。

 

 「御前失礼します、陛下。逼迫した状況ゆえ、これにて」

 「では行って参ります、父上。……あぁ、カーターはどうやら吸血鬼の娘婿として連れ去られたようなので、命の危険は無いと思われます。そこはご安心を」

 

 一連の、いわば悪戯の仕返しとばかり、ステラはそんな一言で茶目っ気を見せる。

 しかし相手は国王だ。「それは朗報だ」と威厳たっぷりに頷くだけで、ステラは不発かと肩を竦めて部屋を出た。

 

 国王は柔らかなソファに沈むように背を預け、薄く透明な窓ガラス越しに、青く晴れ渡る空を見上げた。

 

 「……娘婿……?」

 

 如何な国王と言えど、予想外の単語だったらしい。

 困惑に満ちた呟きは、彼と部屋付きのメイドの心の内に仕舞われて、誰にも明かされることは無かった。

 

 



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233

 総計8時間に及ぶ快速空の旅を終えたフィリップは、空中で停止したディアボリカに担がれた状態で、身体の自由を取り戻した。

 

 「うわ、高い……」

 

 人間が恐怖を感じる高さは、およそ11メートル以上だと言われている。魔術学院の寮が、概ねそのくらいの高さだ。

 しかし今は、もう何百メートルあるのか分からないほどの上空にいる。怖いか怖くないかで言うと勿論怖いのだが、高すぎて現実感が無い。学生寮何百棟分なのか、何千棟分なのかも判然としないくらいだ。

 

 「あそこにお城があるのが見える? あれがアタシたちの居城、これからアナタが住むところよ」

 「あー……はい、摘まめそうな大きさですけど」

 

 遠目にも重厚な存在感を放っている、分厚い石の塊のような建物が見える。

 それは王国で言う王城のような王の威厳を誇示するための、所謂「お城」というよりは、敵の侵攻に対する防御陣地となる軍事拠点、「城塞」と表現すべき威容だった。

 

 砂塵混じりの風が吹く荒野の真ん中に傲然と聳え立つ城の周りには、何も無い。それがフィリップには少し不思議だった。

 王都のような城下町は、何もその庇護を求めて集まる民草のためにあるわけではないはずだ。城単体では補完出来ない食料や日用品などを生産する拠点として、そして有事の際は防壁として使える街の存在は、城の側にもメリットがある。

 

 あれでは完全に、防衛線の一部として建てられた砦そのものといった風情だ。

 日常的な居住地ではなく、短期から中期の籠城戦、或いは長期戦であれば後方からの補給を前提としている。──いや、そう考えると、荒野のど真ん中に城を立てるのは戦術的に不味いのではないだろうか。包囲されやすそうだし、包囲されると補給が遮断される。籠城戦には不向きな立地だ。

 

 「ま、この高さじゃあね。それじゃ、降りるわよ!」

 「待って、ゆっくり、ゆっくりですよ!」

 

 ディアボリカはぱちりとウインクして、魔力による飛翔をカット。重力に引かれた自由落下を始めた。

 初めは固く目を瞑っていたフィリップだが、結局、好奇心に負けて目を開けた。

 

 「──うわぁ……」

 

 顔に、胸に、足に、腕に、指先に、下から吹き付ける風が心地良い。

 遥か遠くに空の青と地表の砂色が混ざり合った曖昧な地平線が湾曲して見えると、あぁこの星は丸いのだと実感する。右手と左手でこの星を抱き締められるような錯覚すらあった。

 

 ディアボリカが手を放し、姿勢の制御でフィリップから離れていく。

 フィリップもその動きを真似て、目の渇きを嫌って仰向けになった。

 

 下界の砂塵も届かない青く澄んだ空が視界一杯に広がり、陽光をやや暑いほど熱烈に浴びる。四肢をだらりと広げたまま、このまま無限に落ちてしまいたい衝動に駆られた。

 

 勿論、そんなことをすればただでは済まない。

 未だ何百メートルも下にある地面に激突したフィリップの身体は、木から落ちた石榴より無惨に、かつての形状も分からないほどバラバラに弾けることだろう。

 

 すーっと水中を泳ぐような動きで近寄ってきたディアボリカが、楽しそうに口を開く。

 

 「──! ──!」

 「──なんですか!? 何も聞こえません!!」

 

 だが、流石に時速200キロで落ちている最中だ。耳元で吹きすさぶ風の音に掻き消されて、何も聞こえない。

 

 「良い景色でしょって言ったの!」

 「あぁ、はい! ですね!」

 

 フィリップは叫ぶだけでは伝わるかどうか分からなかったので、親指を立てて答える。

 

 見渡す限りの荒野だが、何百メートルもの高さから見下ろすと、特別感のあるものに見える。遠くに見える岩のようなお城が段々と大きくなってきて、指先くらいだったものが、親指くらいに見えた。

 複数のタレットを備えた高い城壁に囲まれた、数多くの狭間を備えた城塞だ。

 

 流石にこの距離では人の気配など感じようも無いが、きっと魔術学院より収容人数は多いはずだ。

 

 バルコニーの辺りで光が複雑に瞬く。王都外では珍しい、ガラスを使った建築物なのだろうか。

 フィリップは何かの反射だろうと、特に気に留めることなく目を細め──隣にいたディアボリカが、剣のように巨大な鏃を持つ、槍のごとき大矢に貫かれた。血で編まれたそれは、目に痛いほど赤い。

 

 「ごっ──!?」

 「──、は?」

 

 ディアボリカが野太い声を上げて、空中姿勢をめちゃくちゃに乱して吹き飛んでいく。吹きすさぶ風に血の匂いが混じり、鼻の奥にツンと染みた。

 

 死んだか?

 だとしたら──フィリップも死ぬ。

 

 刻々と迫ってくる地面に叩き付けられるのは確定だ。平時ならハスターを召喚して乗せて貰えば済む話だが、今は魔力制限の首環が付いている。フィリップにできることは、何も無い。

 

 「──なんだ!?」

 

 別に、この世に未練なんて無い──とか、カッコいいことを言えたらいいのだが、残念ながら未練はある。

 そもそもこんな荒れ果てた土地にまで足を運んだ──運ばれてきたのは、偏にハーフエルフ・ハーフヴァンプの魔剣使いという、それはもう少年心を擽る、とびきりカッコいい御方を見てみたい一心でだ。

 

 握手とかして貰うまで。サインとかして貰うまで。欲を言うなら稽古とか付けて貰うまで、死ぬわけにはいかなかった。

 

 フィリップにしては珍しく、明確な戦意を以て攻撃者を探す。

 しかし、未だ地上までは何百メートルもある。いくら無人の荒野とはいえ、人間大のものを探すのは難しい。それに気のせいでなければ、あの矢は城の方から飛んできた。ディアボリカの居城だという、城の方からだ。

 

 「どうなってるんですか、ディアボリカ!!」

 

 フィリップは重力に引かれて落下しながら、残り数分となった命を浪費するように、そんな苛立ちを叫ぶ。

 そのまま落ちて、落ちて、落ちて──地面に直撃した、のだろうか。潰れるというより、むしろ浮いたような不思議な感覚に包まれて──

 

 「──ギリギリセーフッ!」

 「いやほんとにギリギリでしたよ!? ちょっと死んだかと思いましたからね!?」

 「仰向けで正解だったわね! うつ伏せだったら、迫る地面を見て錯死してたかも!」

 

 ──ディアボリカが激突直前でキャッチして、水平飛行に切り替えて九死に一生を得た。

 

 フィリップは不平不満と罵詈雑言を並べたい衝動に抗い、いま最も気にするべきことだけを問いかける。それが出来る程度にはフィリップの思考は戦闘に慣れていたし、ディアボリカの飛行速度も抑えられていた。

 

 「今の、お城から撃ってきましたよね? やっぱり離反ですか?」

 「いえ、離反──やっぱりって何? アタシ、そんなに暴君に見える?」

 

 ディアボリカはそう言って典雅な顔立ちを冗談っぽい笑みに綻ばせるが、フィリップは「何を今更」と言いたげに眉根を寄せた。

 

 「そりゃまぁ、学校に突撃して子供を攫いそうな程度には」

 「あら、吸血鬼が人間の都合を気にするなんて、そんなの有り得ないでしょう?」

 

 フィリップの言葉に、今度はディアボリカが「何を当たり前のことを」と眉根を寄せる。何か言い返したいところだが、フィリップはむしろ「確かに」と納得して半笑いだった。

 

 ディアボリカは満足そうに頷き、城の前で急上昇して城壁を跳び越える。

 内臓を圧迫する強烈なGは一瞬で終わり、巨大で堅牢そうな正面玄関の門前にふわりと着地した。

 

 「到着! ようこそ、麗しの我が家へ」

 

 木と鉄で出来た重そうな扉を片手で軽々と開けたディアボリカは、もう片方の手を誘うようにその奥に向ける。

 素直に「お邪魔します」などと言いつつ門を潜ると、当然だが視界は一変する。その当然のことに意外感を覚えてしまうほど、石造りの古城の中は清潔に保たれていた。

 

 エントランスホールの突き当りには大きな両階段があり、上階から扉の前まで深紅のカーペットが敷かれている。高い天井からは絢爛なシャンデリアが吊られて、ホールに複雑な明かりを投げかけていた。壁や柱には石英などの建材がふんだんに使われており、石造りの無骨な外観からは想像もつかない豪奢な内装だった。

 

 吸血鬼の居城と言うから薄暗くてじめじめして、蜘蛛の巣が張っているようなものを想像していたのだが。

 

 「──おかえりなさいませ、先代様」

 

 ほえー、と気の抜けた感嘆を垂れ流していたフィリップのすぐ隣で、明朗な声がする。

 視界に入っていないどころか、人の気配さえ感じていなかったフィリップはびくりと肩を震わせて目を向けるが、そこに居たのはモノクロームのクラシカルなメイド服を着た少女だった。

 

 「ただいま、ルーシェ。さっきの矢はアナタの?」

 「はい。ご主人様に、帰ってくるたび最低一度は撃墜せよと申し付かっておりますので」

 

 くすんだ金色の長い髪を揺らして、ルーシェは悪びれもせずににっこりと笑う。ディアボリカも承知の上なのか、一片の苛立ちも見せない。

 

 「そちらのお客様が、例の?」

 「そうよ。あの子のお婿さん候補。フィリップ・カーター君です、よろしくしてあげて?」

 

 ディアボリカに片手で示され、フィリップは曖昧な笑顔を浮かべてメイドに会釈を送る。使用人相手──それも、ルキアやステラのような友人の使用人ではなく、ほぼ敵に近い他人の使用人相手に、どこまでの礼儀を尽くすのが最適なのか分からなかったからだ。

 

 それに、助けが来るのならそれまでの、来ないのならフィリップがどうにか首輪を外すまでの付き合いだ。

 

 そんなフィリップの内心も知らず、ルーシェは人好きのする明るい笑顔を浮かべた。

 

 「わぁ! じゃあ“旦那様”ですね! 私はルーシェ。このお城の侍従長をしています! よろしくお願いします!」

 

 明朗で活発そうな言葉とは裏腹に、ロングスカートを持ち上げるカーテシーの動きは高度に洗練されたものだ。老成されている、と表現しても差し支えない、ナイ神父の所作にも匹敵する動きだった。

 メグは握手を嫌がったのだが、ルーシェはむしろ嬉しそうにフィリップの手を握り、感触を確かめるように柔らかく振る。

 

 「剣をお使いになるんですか? それなら、ご主人様とお話が弾むことかと存じます!」

 

 手のマメなんかから推察したのだろう、ルーシェは嬉しそうに笑う。

 右腰に吊っているウルミが目に入らないのか、この特異な外見の物体を武器とは認められなかったか。或いは、最近ロングソードの練習を始めたことを、僅かな体軸や筋肉の疲労具合で見抜いたか。……流石に、最後の仮説は非現実的だが。

 

 「それに、ご主人様と先代様によく似た匂いが──」

 「さ、行きましょう。早速だけど、娘に会わせてあげる。心の準備はいい?」

 

 呟きほどの小さなルーシェの声を遮り、ディアボリカがフィリップの背を押して促す。フィリップは胸を高鳴らせる期待で、嫌な心当たりのあるルーシェの呟きどころではなかった。

 

 「……ペンとインク、あと色紙が欲しいです」

 「……豪胆と言うか、最早図太いわね、アナタ……」

 

 ルーシェが「ご用意いたします」と律儀に一礼して立ち去ったあとで、ディアボリカが呆れ交じりに笑う。

 しかしフィリップにしてみれば、相手は初対面どころか顔も名前も性格も、何も知らない吸血鬼だ。かつて左手をぐちゃぐちゃにされた仇敵に拉致されて「お婿さんになるのよ」とか言われても、一ミリも実感が湧かない。

 

 だからフィリップの心中を埋める期待は、「ハーフエルフ・ハーフヴァンプの魔剣使い」に対するものだ。

 そのとびきりカッコいい、少年心を擽ってやまない存在に対する憧憬だけが、フィリップが全くの無抵抗にここまで来た理由なのだから。

 

 厚い絨毯の敷かれた両階段を上り、同じカーペットの続く廊下を進む。やがて王城の謁見の間を彷彿とさせる、大きな両扉の前に辿り着いた。

 

 「はい、到着。じゃ、開けるわよ? ──ただいま、ミナ! 貴女のお婿さんを連れて来たわ──うぉっ!?」 

 

 重そうな扉を、今度はハイテンションに勢いよく開け放ったディアボリカは、その心臓目掛けて飛来した血で編まれた槍を、野太い声と共に掴んで止めた。

 ディアボリカの両手をズタズタに引き裂き、屈強な体躯を靴底を擦りながら後退させて漸く防ぎ止められた一撃は、躱したり弾いたりといった生半な防御を許さないだけの威力があった。

 

 吸血鬼は首を刎ねても血液(いのち)のストックがある限り一瞬で再生するが、その血液は大部分が心臓にプールされている。つまり心臓を破壊されると、ストックの半分以上を一度に失うのだ。

 人体なら即死の急所だが、吸血鬼にとっても甚大なダメージを負う急所。そこを周りの肉ごと抉り飛ばすような一撃には、深い殺意が滲んでいた。

 

 「……?」

 

 フィリップは何が起こっているのかと、ディアボリカが開けた扉の奥を見遣る。

 

 扉の奥は、王城と同じく、ホールと玉座の据えられた階段のある謁見の間だ。

 流石に部屋の装飾は王城より数段劣る。しかし広々としていて、磨かれた大理石のような美しくも落ち着きのある建材が使われた内装は、宝石の輝きが目に痛いほどだった王城よりもフィリップの好みには合っていた。

 

 その最奥、玉座の辺りで、深紅の光が閃く。

 それは血液で編まれた紅玉色の槍が、シャンデリアの明かりを複雑に反射したものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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234

 「…………」

 

 深紅の槍がその穂先をこちらに向けていることに気付いたフィリップは、ぴょんと跳ねるように一歩、右へ避ける。

 瞬間、そのすぐ傍を突風が走り抜け、背後でディアボリカが呻いた。振り向くと、壁に背を付けたディアボリカは後退して勢いを殺すことも出来ず、その剛腕が誇る膂力と再生力任せに強引に、追撃の槍を防御していた。

 

 「ちょっとぉ!? なんで避けるの!? 庇ってくれていいんだけど!?」

 「不死身の怪物を庇うほど死に急いでないので。それより、早く魔剣使いさんを紹介して欲しいんですけど」

 「アナタねぇ……。はぁ、まぁいいわ。アタシは玉座の間には──というか、あの子と同じ部屋には入れないから、アナタだけ入って?」

 

 フィリップはその不思議な物言いに首を傾げつつ、「吸血鬼は招かれないと家や部屋には入れない」という逸話を思い出して納得した。

 だが魔術学院に突入してきたことから分かるように、その言説は吸血鬼出没に怯えた民衆を抑えるために流布された方便が、そのまま定説になってしまったものだ。単純に、ディアボリカが部屋に入ろうとすると攻撃されるだけだった。

 

 仕方なく一人で玉座の間に入ったフィリップは、期待を滲ませて玉座を見上げる。

 

 「──わぁ……」

 

 フィリップの口から、思わずといった風情の感嘆が漏れる。

 玉座に座っていたのは、外見上は20代前半くらいの女性だ。彼女はフィリップをして“綺麗だ”と思わせるほど──マザーにも匹敵するのではないかと思わせるほど、整った顔立ちをしていた。エルフの血統なのだろう、人間離れした、というか、文字通り人間以上の美だ。

 

 長い前髪が右目を隠しているが、露わな左目はルキアの双眸よりなお赤い鮮血の色だ。吸血鬼に特有の病的なほど白い肌に良く映える。

 ディアボリカとは違い、長い手足はすらりと嫋やかな曲線を描いている。しかし彼の子供だと言われて素直に納得できるのは、夜闇より濃い漆黒の長髪が大きな理由だ。

 

 女性的魅力に富んだ起伏の激しい身体は、黒いコルセット・ドレスに包まれている。何となくルキアが好きそうなデザインにも思えるが、やや露出が激しい。

 

 「……人間? ……はぁ。やっぱり100年も封印されていると、頭がおかしくなるのね」

 

 落ち着いたを通り越してダウナーな、涼やかな声。

 深々とした嘆息の宛先は、部屋の外でこちらを窺っているディアボリカだろう。

 

 「貴様が“鶏と再婚する”と言い出したら、本気で貴様を殺すわ。そうなる前に、誰かに常識を教わることね」

 

 吸血鬼にとって、人間は餌だ。

 元は人間のディアボリカでさえ「吸血鬼が人間を尊重するなど有り得ない」という思考なのだから、半分さえ人間ではない彼女にとって、「花婿」が人間というのは可笑しなことだった。

 

 「いやいや、アタシは至って正常で、至って真面目よ? こちらはフィリップ・カーター君。フィリップ君、アナタの前にいるのがアタシの娘、ウィルヘルミナよ。親しみを込めて、ミナって呼んであげて?」

 

 フィリップの後ろ、部屋に入るギリギリのところから、ディアボリカが口を挟む。

 ミナはディアボリカに鬱陶しそうな一瞥を呉れたものの攻撃はせず、フィリップに不思議そうな視線を向けた。

 

 「……動く人間を見るのは久し振りね。それに、私を見ても逃げないし、攻撃もしないのは初めてよ」

 

 人懐っこい野良猫を見るようなミナの目に、フィリップは仄かな懐かしさを覚えた。

 人間以上の視座から来る愛玩と、人間以上の美貌。芸術品のように整っていながら、匂い立つような色気のある肢体。

 

 否応なく、マザーを想起させる。

 理性ともっと大切な何かを纏めて蕩かすような、特有の存在感こそないものの、フィリップの思考を鈍らせるには十分だ。

 

 「……? 近くに」

 「……はい」

 「もっと、私の前まで」

 

 ダウナーながら、女帝のように有無を言わせぬ冷酷な威厳のある声に、フィリップは素直に従う。

 制止するメイドをミナが片手で止め、フィリップは玉座へ至る階段を上り、文字通りミナの前に立った。国王に対して玉座の間の入り口から「御前」なんて言っていたことが可笑しくなる、超至近距離だ。

 

 フィリップに悪意があったのなら、ウルミが十分に届く程度の距離。フィリップが最低限の作法の知識から残していた距離を、立ち上がったミナはほんの数歩で詰めた。

 

 最近また身長が伸びて、とうとう150センチになったフィリップだが、ルキアとステラには負けている。

 その二人より背が高いのがフレデリカだが、ミナは更に上背がある。厚底でヒールも高いブーツの分を含めてだが、180センチ以上あるのではないだろうか。

 

 フィリップは本能的に、自分より大きな生物に気圧される。人間ではないと理解しているから、余計にそう感じるのだろう。

 

 ミナは少しの間不思議そうに首を傾げ、やがて覆いかぶさるように腰を折り、フィリップの首筋に顔を寄せた。眼前で重力に引かれた形の良い大きな胸が煽情的に揺れるが、そんなことより、首筋の真横で漏れる熱い吐息が怖かった。

 

 鮮やかに赤い唇から、異様に発達した犬歯が覗く。

 皮膚を裂き、肉を貫き、血管を破り、血を啜るための、真っ白な牙だ。

 

 ──喰われる。

 

 そう感じたフィリップは反射的に手を伸ばすが、その掌がミナの鳩尾を捉える前に──ゼロ距離の『萎縮』を、魔力制限の首環のせいで撃てもしない魔術を準備する前に、上腕を掴まれて阻止された。

 

 すん、とミナの形の良い鼻が微かな音を立て、フィリップの臭いを嗅ぐ。

 

 僕は今何をされているのだろうかと困惑するフィリップを余所に、音は続く。

 すんすん、すんすんすん。すー、はー。ぺろ。

 

 「ぺろ!? ねぇ待って、ホントに食べられそうなんですけど! ディアボリカ!? これは完全に狩りを終えた狩人とか、初めて生きた豚を見た子供みたいな反応では!?」

 「……んー? まぁ、吸血鬼と人間って、本来はそういう関係だしね。でも大丈夫よ、多分」

 

 フィリップは暴れて藻掻こうとするが、両腕をがっしりと掴まれ、足の間に脚を入れられて、更に首筋に刃物じみて鋭利な牙がある状況だ。白い細腕からは想像もつかない腕力で押さえつけられていなくても、迂闊に動くべきではない。

 

 「不思議な匂い。私の好きな夜の匂い、月の匂いがする。……あと、童貞の血の香りも」

 

 しばらくフィリップの臭いを嗅いでいたミナは、一段落付けて上体を起こした。

 解放された手で首筋に触れたフィリップは「そういえば魔力制限されてるじゃん」と遅ればせながら思い出す。

 

 「……きみ、幾つ?」

 「……11歳です。もうすぐ12歳ですけど」

 「私が怖くないの?」

 「いや滅茶苦茶怖かったですよ。食べられる……吸い殺されるかと思いました」

 

 フィリップが即答すると、髪に隠れていない左目が悲しそうに揺れた。

 

 だが怖かったのは事実だ。

 フィリップが吸血されたあと、吸血鬼になるのか、吸い殺されてヨグ=ソトースの庇護が発動するのか、それは今でも不明だが、吸血鬼化するだけでも大問題だ。なんせ、フィリップは脆弱な身体があってこそ、自分が人間であることを忘れず、人間性の大切さを忘れずにいられるのだから。

 

 あと、牙が普通に痛そうだった。

 

 「そう。ごめんね? 私はきみを食べないけれど、それでも怖いかしら?」

 「いえ、それなら別に。……ところでウィルヘルミナさんは、魔剣使いなんですよね? 見せてくれませんか!?」

 

 ほんの数秒前まで感じていた本能的恐怖を忘れ、フィリップは好奇心と憧憬に満ちた目でお願いする。

 そこには話題を変えようという心遣いや、これで手打ちだという譲歩の気配は一片も無く、ミナはぱちぱちと目を瞬かせた。

 

 「……それは、構わないけれど」

 

 困惑も露わなミナに、いつからそこに居たのか、側にいたルーシェが耳打ちする。

 漏れ聞こえた「性別と年齢に関係する種族的習性」という言葉の意味は判然としなかったが、ミナは「なるほど」と頷いていた。

 

 「ん……そう、分かったわ」

 

 じゃあ、と期待に目を輝かせたフィリップだが、ミナは剣らしきものを持っていない。はて、と思った次の瞬間には、彼女の両の手中にそれぞれ一振りの長剣が握られていた。

 

 「──ッ!」

 

 フィリップにも分かるほど強烈に魔力を放つ、二振りの剣。

 

 右手の剣は、切っ先の無いエクスキューショナーソード。白銀色の刃の根元には『美徳』と彫られ、峰の部分には精緻な装飾が刻まれている。

 左手の剣は、頑丈そうな幅広のロングソード。黒鉄色の刃の根元には『悪徳』と彫られ、それ以外に目立った装飾は無い。

 

 それぞれ儀礼と実戦を体現したような代物だが、どちらも刃は砥ぎ上げられて、内包した魔力で淡く輝いている。触れれば斬れる名刀のみが持つ、得も言われぬ凄味のようなものが感じられた。

 

 ──魔剣。それは高度な錬金術や、神域級の付与魔術、或いは魔物の素材などによって造られることで、永続的な魔力付与を施された剣のことだ。

 フィリップの一般人並みの魔力感知能力でも、この剣に秘められた膨大な魔力は察するに余りある。魔剣の中でもトップクラスの代物に違いない。

 

 「かっこいい……! あ、あと、あの、握手してくれませんか!」

 「……? それは、何故?」

 

 心の底から何を言っているのか分からないと言いたげに眉尻を下げたミナに、またルーシェが何事か囁く。今度は何を言ったのかフィリップには聞こえなかったが、ミナはまた「なるほど」と納得していた。

 

 「──決めた」

 

 ミナは二振りの魔剣を霧のように消し去り、フィリップの伸ばした右手を握る。

 フィリップが「ハーフエルフ・ハーフヴァンプの魔剣使い」という御伽噺でも早々出てこない、ロマン盛り盛りのキャラクターと握手できたことに感動したのも束の間。

 

 「──うぁ」

 

 ミナはフィリップの腕を引いて抱き寄せ、覆いかぶさるように抱擁した。頭頂部に押し当てられた顔から、また微かにすんすんと臭いを嗅ぐ音がする。

 すー、はー、とミナが大きく深呼吸してフィリップの臭いを嗅ぐたびに豊かな胸が上下して、既に半分以上埋もれているフィリップの顔が更に圧迫された。彼女の身体は柔らかくはあるものの、体温が病的に低い。

 

 フィリップは自分の臭いを嗅がれるという状況に、困惑と羞恥を同時に感じていた。しかし「放してくれ」と暴れる前に、鼻をくすぐるミナの匂いの中に、妙に懐かしいものがあることに気付いて、全身から力が抜ける。

 

 石鹸の匂い、香油らしき花のような香りと、甘く蕩けるような不思議な匂い。

 そして──冷たい冬の夜に降り注ぐ月光の香り。妙に覚えのある、そして妙に落ち着く──マザーとよく似た匂いだ。

 

 脳に僅かに残った理性が、「何故」と思考を回す。

 ミナからは神威を感じないし、吸血鬼がシュブ=ニグラスに列するものだという智慧もない。

 

 その思考が生んだ硬直と、ミナの抱擁をどう捉えたのかが一瞬で分かるような笑顔を浮かべたディアボリカが、「うんうん、狙い通りね!」と笑っていた。

 

 しかし、少し考えれば分かることだろう。

 ミナの価値観に於いて、人間とは餌か、良くて家畜だ。世の中には人が木と結婚する文化も存在するが、吸血鬼に家畜と結婚する文化は無い。

 

 だからミナの抱擁に、フィリップを異性として認めたという意味は一片も無く、むしろその対極にあるような行為だった。

 

 「──この子を飼う。……ペットにするわ」

 

 宣言された愛玩の意思に、フィリップも、ディアボリカも、周囲のメイドたちさえ困惑を露わにする。

 

 「……はい?」

 

 絞り出すような疑問の表明は、誰の声だろうか。

 落ち着いてから訊けば、フィリップも、ディアボリカも、メイドたちも、あれは自分の声だったと言うことだろう。

 

 

 

 

 

 

 




 いつも通りの低クオリティなので注意事項は以下省略。
 ミナちゃそです。作中における想定は概ねAPP19~20ぐらい。なのでコレの倍ぐらい美人ですね(かなしい画力)

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235

 「あ、あのねミナ。その子は一応、アナタのお婿さんに──」

 

 なんとか困惑から立ち直ったディアボリカが、説得するようなゆっくりとした口調で話しかける。直後、また心臓を狙って射出された血の槍の防御に手一杯になって、説得どころではなくなった。

 

 「……あ、あの、ペットってどういうことですか?」

 「? 人間も犬や猫を飼うでしょう? それと同じで、吸血鬼も人間を飼うのよ」

 

 いよいよ本格的に状況が理解を超えてきた。いや、そもそもディアボリカが「娘婿にするから」と学院に突入してきた時点で、もう状況は理解の埒外にあったのだ。ここまで来た理由の半分は首輪を付けられて仕方なく、あとの半分は「ハーフエルフ・ハーフヴァンプの魔剣使いに会いたい」というミーハー根性だ。

 

 フィリップは相手が吸血鬼だろうと人間だろうと誰かと結婚する気はないし、そもそも王国法では結婚が認められるのは15歳からである。いや、暗黒領で吸血鬼を相手に、王国法も何もあったものではないが。

 

 「私は初めてで勝手が分からないけど……ルーシェ、この子の世話を任せるわ。貴様も元は人間なのだし、私より詳しいでしょう?」

 「あ、はい、畏まりました! 元人間と言っても、もう100年近く前のことですけどね!」

 

 流石は侍従長というべきか、或いは外見にそぐわぬ年の功か、混乱から立ち直ったルーシェが快活に笑う。見ているフィリップもつられて苦笑いを浮かべるような、楽しそうな笑顔だったが、ミナは相変わらず気怠そうな無表情だった。

 ミナはその表情に似合いの、清涼感がありながらダウナーな声で、「お部屋のご用意をいたしますね!」と駆け出したルーシェを引き留めた。

 

 「待ちなさい。部屋は必要ないわ」

 「……いや、要りますけど。庭先に繋ぐとかだったら怒りますよ」

 

 何を言い出すのかと、フィリップは引き続きの困惑した表情で反駁する。

 これで牢屋とか、或いは犬小屋とかに押し込められたら、魔力制限の首環を壊すしかない。大怪我を覚悟して、この鑢のようなウルミで削ってだ。

 

 いくら英雄譚の登場人物じみた相手でも、この一点は譲れない。

 人間性は、人間的環境によってのみ保証される。衣食足りて礼節を知るとは言うが、フィリップが最低限の衣食住を失えば、擦り減るのは人間性だ。ただでさえ外神の視座が侵食してきて、今やハスターを小間使いのように考える節まである状態だ。これ以上人間性(ブレーキ)が擦り減ると、コースアウトの可能性も見えてくる。

 

 そんな懸念から牽制したフィリップだが、ミナは怪訝そうに眉尻を下げてフィリップを見つめる。

 

 「人間を飼っている種族を見たことがないの? 普通は飼い主と同じ部屋に置くものでしょう」

 

 「おまえ教会で読み書き教わってないの?」みたいな口調で言われても、人外のローカルルールなんて知らない。……フィリップの実家にいた猟犬は基本的に外飼いだったが、世の中には愛玩用の室内犬も存在すると聞く。その系譜なのだろうか。

 

 まぁ、「人間を飼う」という字面から想像される、人間加工食肉工場に併設された飼育場、或いは牧場のようなところに送られ、栄養状態から繁殖までを管理されるようなことにはならなさそうだ。それだけでも多少は安心できる。

 

 「な、なるほど。……ちょっとディアボリカと話してきます」

 「……あまり長話をしないように。きみにはなるべく、アレと仲良くして欲しくないから」

 「あ、それは大丈夫です」

 

 フィリップはぱたぱたと足早に階段を降り、そのまま玉座の間を出る。

 

 部屋の中に居たメイドたちが気を利かせて扉を閉めてくれて、フィリップは廊下でディアボリカと二人きりになった。

 

 「……お、お嫁さんを放置して義父さんのところに来るなんて、イケない子ね」

 「声が震えてますよ。……質問があります」

 

 フィリップは扉から離れるよう、ディアボリカを強めに押す。軽く押したくらいでは、屈強なディアボリカは「押されている」と認識してくれなかった。

 

 フィリップにとって最優先で聞くべきことは、あの匂いだ。

 ミナに感じた、形容しがたくも芳しい香り。あれがマザーの匂いなのか、それともよく似ただけの匂いなのか。それを確かめないことには、まともな思考が出来そうにない。

 

 「一つ目は、彼女の匂いについて──黙って聞け。真面目な話です──」

 

 多少の変態性を感じさせるワードチョイスに茶々を入れようとしたディアボリカを鋭く制し、フィリップは淡々と語る。

 

 「──貴方は以前、僕に“月と星々の香りがする”と言いましたよね。それについて詳しく教えて下さい」

 「詳しく、ねぇ? 前にどこまで話したか忘れちゃったけど、アナタのそれは、アタシたち夜に棲むモノの気配によく似ているわ。夜の複雑な匂いに織り込まれた、月や星の気配(ひかり)。その根源である月や星々に匂いがあるのなら、アナタの纏う神秘的な匂いが()()だと思わせる、アタシたちより何倍も何十倍も、何百倍も濃い、濃すぎるあまり別物に思える夜の匂いよ」

 

 フィリップは適当な相槌を打ちながら、常人の域を出ない脳を必死に回す。

 

 「土星の猫と僕の匂い、それと吸血鬼の匂いは同じものですか?」

 「ん? うーん……同じ匂いで濃淡に差があるだけかと言われると、ちょっと自信無いわね。アナタより濃い臭いだけど雑味が多いのがあの猫ちゃん、アナタの匂いをとびきり薄めたらアタシたち、って感じかしら? うーん、匂いの感覚を言語化するのって難しいわね」

 「……そうですね」

 

 そういえば、何かの香草と糞便は同じ臭いで、濃淡の差だという話を聞いたことがある。全く別なものが同系統の臭いを発することは珍しくないのかもしれない。

 

 土星猫は星間航行の果てにこの星に辿り着いたわけだし、本当に月や星の光をダイレクトに浴びて来たのだから、「月と星の匂い」に一番近いのはアレの臭いだ。

 

 吸血鬼は月光下で能力が倍増するという特性を持っているから、月の光と親和性のある身体構造をしているとかだろう。正直、彼らに関しては智慧も知識も持ち合わせていないので、考えるだけ無駄だ。智慧に無いのなら地球外の存在に由来するものではないと、思考停止して受け容れよう。

 

 そして、フィリップが纏う邪神の気配。ナイアーラトテップとシュブ=ニグラスの残り香。

 フィリップ自身では自分の臭いなど分からないが、マザーの匂いだと思うと「まぁ確かにみんな好きな匂いかもしれないな」と納得してしまう辺り、手遅れ感は否めない。みんなと言っても、今のところ好意的な反応をしているのは吸血鬼だけなのだが。

 

 「野生動物なんかには嫌われる臭いなんですけどね」

 「あら、そうなの? 獣避け要らずね」

 「まぁ、そうですね。野外試験や修学旅行の道中でも、獣の襲撃を受けたことは無かったです。……馬にも乗れないし、もふもふをもふもふすることも出来ないんですけど」

 

 ──そういえば、もふもふで思い出したが。

 

 「そうだ、二つ目の質問です。ペットって何ですか? いや別に、婿入りしたくて来たわけじゃないんですけど、もうちょっとマシな待遇があるでしょう。客人とか、ゲストとか」

 「それ殆ど同じよね? うーん……あれは正直、アタシも想定外と言うか……。い、いやでも、大丈夫よ! 今はペット枠だけど、一緒に居られるんだもの。ここからアナタの男らしいところとか、カッコイイところを見せて、印象を変えていけばいいの!」

 

 微妙に尤もらしいことを言っているように聞こえるが、フィリップのディアボリカに向ける視線は冷たい。

 

 「種族差とか初対面とかそもそも拉致られたとか色々置いておくとしても、「愛玩動物と結婚しよう!」なんて考える狂人とは結婚したくないんですが。そもそも価値観が違い過ぎる」

 「あー……、まぁ、あの子はアタシとも違う、生まれついての(ナチュラルボーン)マンイーターだから。でも、アナタはそういうのに寛容でしょう? 現に、「ペットにする」なんて言われても、全然怒って無かったし。……一応教えておいてあげるけど、いくら相手から見て人間が愛玩動物程度に過ぎないとしても、普通は怒って嫌がるところよ、あれ」

 

 なるほど、次があったら気を付けます、というフィリップの返事は、また普通とはズレたものだった。

 人間以上の存在に慣れ、人間も彼らも等しく泡に同じという思考に慣れているからか、今更「劣等種」扱いをされたところで、然したる不快感は無い。非人間的な扱いを受けるならともかく、衣食住が保証されて、何より()()()()()()()()()()()人間的で尊重された扱いだというのなら、甘んじて受ける。

 

 郷に入っては郷に従えの精神というか、自分の価値観が絶対的におかしなものである自覚から来る、異なる価値観への異常なまでの寛容さ。これもある意味では、フィリップに特有の異常性だ。

 

 「……所詮は怪物の、人外のやることだからと思って聞かなかったんですけど、それが僕を選んだ理由ですか? 人食いの化け物とでも家族になれると?」

 「それもあるわ。それにアナタ、あの子のこと好きでしょ?」

 

 揶揄い交じりではなく、大真面目に訊いていることが分かる顔のディアボリカに、フィリップは薄い苦笑いを返す。

 

 あくまで主観的な記憶だが、初恋の記憶さえ無いフィリップだ。そして初恋を経験しないまま価値観が狂い、人間どころか邪神相手でさえ対等な存在として見られなくなった。或いは、真に対等な存在として見てしまう、と言うべきか。

 だから恋愛的な意味で誰かを好きになるという感覚が、どんなものなのか分からないフィリップは、ディアボリカの質問に「そう」とも「そうではない」とも答えられなかった。

 

 否定もできないのは、フィリップの彼女に対する感情や認識の中に、肯定的なものがあるからだ。

 

 「綺麗な人だとは思いますよ。僕が知ってる中でも二番目です」

 「あら、駄目よ。そこは嘘でも“君が一番だよ”って言ってあげなきゃ。今は良いけど、あの子の前ではちゃんとしなさい?」

 

 不満そうな顔のディアボリカに、フィリップも同じ表情を返す。

 フィリップの女性経験はゼロだし、マザーのせいで性癖と美的感覚が歪み切っているので「恋愛における常識」なんて知らないのだが、一般常識で考えるなら不誠実な気がする。

 

 「嘘でもですか?」

 「そうよ。他の女がいると知っていても、自分といる時には自分を一番にしてくれる──女はね、そういう男の方が好きなのよ。馬鹿正直に「君は二番目だよ」って言われて「あぁ私は二番目なんだ」って寂しい思いをしながら過ごす時間より、「今だけは自分が一番なんだ」って思いながら過ごす時間の方が幸せでしょ? その幸福感を与えるのは、男として最低限の義務だと思わない?」

 

 フィリップは一応は既婚者の言うことだからと、助言をきちんと最後まで聞く。そして最後の質問には、

 

 「……なんで貴方が女性代表みたいな顔でモノを語ってるんだろうな、とは思います」

 

 と、答えにならない言葉を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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236

 そろそろ戻りなさい、と会話を切り上げたディアボリカは、フィリップを半ば強引に玉座の間に戻した。

 文句はまだまだあったが必要な質問は一通りしたかと大人しく従ったフィリップを、眠たそうにメイドと話しながら待っていたミナは、話し終わるのを手持無沙汰に待っていたフィリップに気付くと、手招きして呼び寄せ、膝上に乗せる。

 

 「夕食の話をしていたのだけれど、何か好みは? ……確か、共食いはしないのよね?」

 

 フィリップの脇下から手を回して鎖骨の辺りを撫でながら、ミナは気怠そうに問いかける。

 もしやミナの人間に対する理解は、フィリップの牛や豚に対する知識と同程度かと苦笑しつつ、首を振って否定した。

 

 「しません。なんか病気になるって聞いたことありますし、そもそも人肉って美味しいんですか?」

 「血も肉も個体差が大きいわ。私は血と、たまに心臓を食べるくらいだけど……」

 

 と、そんな話をしていると、近くにいたメイドが話に混ざってくる。

 もはや二人の関係性は主人と客人ではなく、主人がペットと話している──いわば、半ば独り語りのようなものだったからだろう。

 

 「美味しいですよ。筋肉質な男は噛み応えがありますし、逆に年若い少女は蕩けるような口触りで」

 「そうそう。老いてくると筋っぽくなって、血も苦くなるのよねー。もう毒なんじゃないのってくらい」

 「わかります! あ、ちなみに処女や童貞の血が好まれるのは、血液の混交が無くて味が純粋だからなんですよ。たまーに、奇跡のブレンドみたいな、混ざった結果滅茶苦茶美味しくなる組み合わせがあったりするんですけど」

 「あー、あれな? あればっかりは“牧場”で実験しようにも、個体の消費が激しいからな。折角ウメー血のバージンばっか攫ってきたのに、失敗すりゃ一気に二体も血が濁って味が落ちるだけ。無駄なことに浪費するぐれーなら、そのまま売りに出すわな?」

 

 おいおいマジかこいつらその人間の前でなんて話をしやがる──と、怒るか怖がるところなのだろうが、フィリップは「フーン」と興味無さげだ。と言うか、本当に興味がない。

 

 フィリップは今のところ吸血鬼になる予定は無いし、人肉や血を口にするつもりもない。その食感や生産情勢について聞かされても、どうでもいいというのが本音だ。隣家のランチの献立ぐらいどうでもいい。

 

 ただ、人間を食料として売り買いする市場があるような発言は気に留まった。

 

 「売る? 吸血鬼って人身売買とかするんですか?」

 「あ、はい。あー……お気に障りましたか? だったらごめんなさい」

 「いえ、ちょっと意外で。手頃な村を襲って調達してくるのかと」

 

 手をわきわきさせて「がおー」とでも言いそうな身振りをするフィリップに、メイドたちはくすくすと笑った。

 

 「そんな、蛮族じゃないんですから」

 「そういうのは狩人の役目、もっと下位の吸血鬼がやるべき仕事です。ミナさまのような高貴な御方に相応しいことではありません」

 「吸血鬼にも身分階級があるんですか。ウィルヘルミナさんはどのくらい偉いんですか? 公爵ぐらい?」

 

 背後から首筋に顔を埋めてすーはーやっているダウナーな美人は、果たしてどのくらいのモノなのか。

 この城といいメイドの言葉といい、貴族階級であることは間違いないだろう。貴族と言われて真っ先に思い浮かぶのが最上位の公爵なのは自然なことなのか、或いは身近な誰かの影響だろうか。

 

 というかいい加減に恥ずかしさも限界なので、そろそろ止めて欲しいのだが。

 

 「ぶぶー、ハズレでーす。正解は──」

 「ねえホントにくすぐったいんですけど! そろそろ止めてくれませんか!?」

 

 背後から抱き締めていたミナの手を振り解いて立ち上がったフィリップは、ミナが顔を埋めていた辺りを頻りに撫でる。

 自分から立ち上がっておいて、彼女の低いながら確かに存在する体温や、仄かに感じられる夜の香りを名残惜しく感じてしまった自分を戒めるように、乱暴に。

 

 「あ……。……仕方ない、今は諦めるわ。無理矢理従わせるのも可哀想だし」

 「……思ったより素直ですね。手荒にしてすみませんでした」

 

 羞恥心が鎮まったあと、代わりのように湧き上がった罪悪感に駆られたフィリップは、気付けばそんな謝罪を口にしていた。

 

 まさか謝られるとは思わなかったのだろう、ミナは目を丸くして、やがて柔和に微笑した。

 

 「今のが“手荒”なの? ……くす、可愛いわね」 

 「あー……えへへ」

 

 揶揄い半分、愛玩半分の視線が、ミナだけでなく周囲のメイドからも寄せられる。

 

 それが不快ではなく、むしろ心地よいと感じている自分自身を自覚することなく、フィリップは照れ笑いを溢した。

 

 どうやらフィリップは、この扱いに弱いらしい。人間より上位の存在からの()()()()()と、愛玩に。

 確実にマザーのせいだろう。彼女の存在に対して抱く懐かしさや安心感、人間では有り得ない美貌への憧れなどの感情は、いつだってマザーから向けられる冷笑や愛玩と共に在った。刷り込みとか条件付けとか吊り橋効果とか色々と論理的な理由は付けられるが、端的に言うのなら、性癖が捻じ曲げられていた。

 

 フィリップが今抱いている心地良さがマザーを思い出してのものなのか、ミナに対して抱いているものなのかも判然としない。尤も、フィリップはそんな疑問を抱いてさえいないのだが。

 

 「夕食まで時間もあるし、少し遊びましょうか。元気も有り余ってるみたいだし」

 「……まぁ、肉体的には何もしてない一日でしたからね」

 

 今日は退屈な授業で舟を漕いで、あとは疲労物質の分泌さえ停止する最強の魔眼で拘束されて運ばれただけだ。もう夕刻、いつもはルキアとステラとの戦闘訓練が終わろうかという頃合いだが、殆ど運動していない。突然の拉致による動揺やら心労やらは大きかったが。特に8時間の身動きできない飛行時間とか。

 

 「何して遊ぶんですか? 運の絡むカードゲームなら自信ありますよ、僕」

 

 こう見えてカジノ一個出禁になってるんで、と自慢げに言うフィリップ。そんなことを勝負の前に言ってしまう辺り、本当かなぁ、と疑わしげな──というには生温かい視線がメイドたちから向けられた。

 

 しかし問題ない。

 フィリップのカードゲームの強さは八割が運だ。残りの二割は、中途半端に身に付けたヘッタクソなポーカーフェイスを、相手が深読みしてドツボに嵌って自滅するというトラップ性能。相手が警戒していようとノーガードだろうと、全てはデッキトップが解決する。正確にはバーンカードを抜いた上から二枚目だが。 

 

 「そう? なら、夕食後に見せて貰うわ。今は身体を動かしましょう」

 「いいですよ。あ、折角ですし──っ!?」

 

 奇跡だった。

 

 お城全域でかくれんぼしませんか、と、少年心に溢れた平和な提案をしようとしていたフィリップが、ちょうど目線の位置を薙ぐロングソードの一閃を回避できたのは、奇跡と呼んで差し支えないことだった。

 

 幸運の為せる業ではない。

 攻撃の予備動作に反応できたのは積み重ねた訓練と刷り込みのおかげで、ミナの魔剣が当たらなかったのは咄嗟に『拍奪』を使いながら後ろに下がって回避したからだ。

 

 これまでに積み重ねてきた訓練や戦闘経験による、実力での回避。

 だから正確には、フィリップが実力を発揮できたのは奇跡だ、というべきかもしれない。あれだけ油断して気が緩み切っていたら、攻撃を無感動に見つめるだけという反応でもおかしくなかった。

 

 「え、ちょっ──!?」

 

 追撃は無い。

 ミナは両手に魔剣を持ったまま、フィリップが慌てて階段を降りるのをただ待っていた。眼下、フィリップがウルミを抜き放つのを、愉快そうに見つめながら。

 

 「人間はこうやって遊ぶのよね? 原始的で野蛮だけれど、それだけに分かり易くていいわ」

 「……遊びで真剣を使うことはないですね。戦闘訓練ならまだしもですけど」

 「そうなの? 何年か前に来た冒険者は、「遊ぼう」って言って斬りかかってきたけれど……個体差なのかしら」

 

 それはどうだろうと、フィリップは苦笑しつつ首を傾げた。

 実力に差がある相手との戦闘は、それこそ子供と遊ぶような様相を呈することがある。ルキアやステラとフィリップが相対すると、概ねそんな感じになるだろう。マリーやソフィー、ウォードも、フィリップとの模擬戦闘は遊び感覚で対処できたはずだ。事実、マリーには何度か「遊んであげるよ」と煽られた。

 

 冒険譚でも、強敵を前に「さぁ、遊ぼうか!」と獰猛に啖呵を切る主人公は何人かいる。その真似や系譜かもしれない。

 

 ミナがどのくらい強いのかは不明だが、ディアボリカと同じくらいだとしたら、そんな相手に煽りでも啖呵でも「遊ぼう」なんて言えるのは素直に凄いと思う。だが、おかげでミナが妙な認識をしている。人間は遊びで真剣を振り回すような、命知らずな種族ではない。……フィリップは例外だ。ウルミなんて特殊な武器は、練習用の模擬モデルが売っていない。

 

 「いやー……どうでしょうね。ちなみにその人は殺したんですか?」

 

 フィリップはカッコつけてただけでしょ、と益体の無いことは言わず、話を進める。

 

 「えぇ。私の城に遊びに来た愚昧な人間を生かして帰す理由もないし、殺してくれと頼まれたから、ね」

 「え? 拷問とかしたんですか?」

 「いいえ? 二時間くらい遊んでいたら、泣きながら懇願してきたのよ。もう分かった、殺してくれ、って」

 

 ──不穏な気配だ。吸血鬼の居城に突撃してきて、城主に向かって「遊ぼう」なんて言い放つタフガイを殺してくれと泣かせる行為は、やっぱり拷問くらいしか思い浮かばない。

 

 たとえば徹底して致命傷を与えず、手足だけを執拗に狙って攻撃したとか。両手両足を斬り飛ばしたあと火属性魔術で出血を止めて、蛆虫みたいにしたとか。

 

 「でも安心して? きみのことは殺したりしないわ」

 

 それは場合によっては本当に詰む可能性があるので、「殺せ」と言ったら殺して欲しい。

 ミナに対して、マザーに対する感情を希釈したような複雑な想いを寄せてしまったせいで、今のところ「全部壊して脱出しよう」という意思は下火だ。だが四肢損傷くらい吸血鬼化すれば一瞬で治るからと手荒なことをされては、ヨグ=ソトースの庇護に頼る前に、フィリップ自身が外神化することを選ぶかもしれない。

 

 「……先にルールを決めましょう。あと、あとで一般的な人間の遊びを教えます」

 「他にやりたい遊びがあるなら、言っていいのよ? きみが──ペットがやりたくないことをやらせるのは、飼い主失格だものね」

 

 魔剣を仕舞いかけたミナに、フィリップはとんでもないと口角を吊り上げる。

 

 「魔剣使いに稽古を付けて貰えるなんて、貴重な経験ですからね。有難く胸をお借りします」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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237

 一時間後。

 フィリップは晩餐の席に着き、魂の抜けたような顔で装飾華美な天井を見上げていた。

 

 十数メートルあろうかという長いテーブルには真っ白なクロスが掛けられ、最奥の上座にはミナが座っている。フィリップは次席──ではなく、ミナの真隣にいた。次席よりも主人に近く、それでいて正式な席次ではどの順位にも当てはまらない位置。まさにペット的な位置だ。

 

 首を痛めそうな角度で呆然と虚空を見つめるフィリップを、ミナは食前酒を片手に愛でていた。

 

 「私に負けたのが悔しい?」

 「……いえ。むしろ逆です。ミナがカッコ良すぎて……なんですかアレ。カッコ良すぎる……」

 

 普段から特筆して語彙が豊富というわけではないフィリップだが、ここまで酷くはない。言語野に支障が出るほどのものを見たのだ。

 フィリップはミナと模擬戦をするとき、折角なのでと、城の備品のロングソードを使った。流石に使い慣れていないだけあって『拍奪』の精度はガタ落ちだったが、普段通りのパフォーマンスでも簡単に負けただろう。

 

 まだ出会って数時間の付き合いだが、ミナはかなりダウナーなところがある。ルキアやステラのような他人への無関心から来るものではない、生来の気質だろう。

 そのせいか表情の動きが少なく、彼女の顔に浮かぶのは、怜悧な相貌に似合いの冷酷に見下すような表情か、ぞっと背筋の粟立つような妖艶な笑みの二つが主だ。特に、後者が不味かった。

 

 髪に隠れて片方しか見えていないのに、十分すぎるほど愛玩の念を伝える、鮮やかな血の色をした目。形の良い唇が薄く弧を描き、絶対的隔絶の向こう岸からの冷笑が浮かぶ口元。

 口の端から覗く鋭い牙を度外視してしまうほど、表情を形作る要素がマザーのそれと共通していた。

 

 そんなミナが持つ、二振りの魔剣。

 

 左手のロングソード『悪徳』は、その飾り気のない外見を裏切るように、戦闘状態に入った瞬間に黒紫の瘴気を纏い始めた。

 フィリップが触れても吸い込んでも特に影響は無かったものの、舞台劇で使われる演出用の小道具ではあるまいし、顕在化していない効果があるか、或いは魔剣の内包する魔力が濃密すぎて、溢れ出た余波さえ可視化しているのだろう。

 

 右手のエクスキューショナーソード『美徳』は、白銀だった刀身を戦闘開始と同時に陽光の色に輝かせた。その光が『悪徳』の放つ瘴気に触れると、反発するようにバチバチと火花が散っていて、その煌めきがミナを彩り飾り立てていたのを克明に覚えている。

 

 とても強力な邪悪特攻性能を持っているらしく、励起状態では柄でも素手で触れると火傷するからと、ミナは魔術で作り出した漆黒のガントレットで右手を保護していた。

 

 「右手だけガントレット、聖属性の魔剣と闇属性の魔剣の二刀流、しかも……」

 

 しかも見掛け倒しではなく、ちゃんと強かった。

 フィリップの体感に果たしてどれほどの信憑性があるのかは疑問だが、ウォードとソフィーとマリーを三人同時に相手取るより、彼女の片腕の方が手強かったように思う。

 

 彼女の動きは、基本的には緩慢だ。

 彼我の距離が縮まるさまを見せつけるように一歩ずつ、いっそ優雅に歩いてきて──あのディアボリカと同等のトップスピードで攻撃が来る。

 

 振られた剣が見えないのは当然として、「留め」の精度が凄まじい。

 何度も打ち合う中で一度だけ剣の腹を叩いて防御したのだが、間違えて城の柱を叩いたのかと思うくらい、強靭な『軸』が通っていた。横合いを殴られても剣身に一分のブレも生まない、凄まじい精度の身体操作。ミナ自身の筋力に剣の重さと速度を上乗せしただけの慣性を、微塵も感じさせない完璧な制動。マリーやウォードのように手元が狂ってフィリップを殴るようなことは一度も無かった。

 

 真っ直ぐ振って、しっかり止める。

 ウォードが教えてくれた基本中の基本であり、ウルミという身体操作が主軸になる武器を使うフィリップは、特にその重要性を理解している。

 

 端的に言えば「すごく速くてパワーがあって」「緩急の差が激しくて」「精度が凄まじい」。強いならそんなの当たり前だろと、少し前のフィリップのような白兵戦に慣れていない者ならそう言うだろう、何の特別感もない要素。だが、これを突き詰めれば最強だ。

 

 特別な何かが生む意外性、たとえばウルミのような変則的な動きの武器や、『拍奪』のように異質な攻勢防御は、初見殺しの性能は高い。対策を知らない相手なら、一方的に勝ち切れるポテンシャルもある。だが、交流戦でマリーがそうしたように、対策を取られたら途端に弱い。

 

 あの時、ソフィーはどうしたか。

 『拍奪』を使わず、純粋なフィジカル勝負に持ち込んだ。──それが正解なのだ。

 

 相手より力が強くて、動きが速くて、狙いが正確なら勝てる。ただそれだけの、子供でも分かる理屈を突き詰めて、体現してしまったのがミナだ。

 パワーとスピードは生まれ持ったものだろう。だが、それを制御する身体操作は、才能だけではどうにもならない。気の遠くなるような研鑽を積み重ねてきたのだと、今のフィリップは言われるまでもなく理解できた。

 

 『拍奪』も一瞬で看破されたし、魔力照準法という対策も知っていた。単純に強いだけでなく、戦闘経験も豊富なのだろう。

 

 「カッコ良すぎる……」

 

 語彙の無い賛辞では響かないのか、「かっこいい」という女性向きではない言葉が気に入らないのか、或いは人間の言葉程度、虫の囀りと同価値にしか捉えていないのか。ミナは表情を変えず、魂が抜けたように天を仰ぐフィリップを愛でていた。

 

 目で愉しむだけでは我慢できなくなったミナは、フィリップの頬や首筋、唇や鎖骨を愛撫する。彼女の病的に低い体温と、それとは関係なく背筋の凍るような妖しい色気のある手指の動きに、フィリップは思わずごくりと喉を鳴らした。

 

 そんな無為な時間を暫く過ごすと、やがてキッチンカートを押したメイドがやってきて、テーブルの上に()()()と食事を置いた。

 

 「──、は?」

 

 目が、合った。

 

 魔術か何かで全身が麻痺して動けず、目だけを忙しなくきょろきょろと動かしていた、一糸纏わぬ姿の年若い少女。まだフィリップと同じか、少し年上くらいだろう。

 

 顔をこちらに向けて仰向けになった、その青い瞳がフィリップを捉え、縋るように、訴えかけるように潤む。

 

 ──食事。

 

 そう、そうだ、そうだった。

 吸血鬼の主食は、人間の血液だ。そんなことは言われるまでもない常識であり、更に彼女たちは、その肉まで喰らうと言っていた。

 

 フィリップは暫し呆然と“ミナの食事”と見つめ合う。

 端正な顔立ちだが表情筋は麻痺しており、時折不随意の痙攣を見せるだけだ。しかし目の奥の光は、内心の恐怖とほんの僅かな希望を雄弁に語っていた。

 

 卓上に横たえられた少女の裸体に眉を顰めたフィリップは、不機嫌そうにミナを見遣る。

 

 「……そのままですか?」

 「えぇ。生きた人間の血でないと、命のストックは増えないわ。……もしかして、食欲が失せた? 人間は同族意識が低いと思っていたけれど、これも個体差なのかしら」

 

 別に、ミナが人間の血を吸おうが肉を引き裂いて喰らおうが、今更怖くなったりはしない。ただ、「あぁそういえばそうだった」と、端的な納得に落ちただけだ。

 

 フィリップが眉根を寄せた理由は、彼女の食事のメニューや嗜好ではない。

 ただ、幼少の頃から「テーブルに乗ってはいけません」「卓上は清潔にしましょう」と教わってきたから、裸の人間を乗せることに抵抗がある。

 

 「そのままですか?」という指摘は、クロスの上にもう一枚シーツを乗せるとか、皿代わりに木の板でも乗せるべきではないか、という意図だ。

 

 潔癖というには程度が低い。ちょっとした文化や習慣の違いに適応できていないだけだろう。

 

 この城の主人は彼女なのだし、フィリップが人間社会のマナーをひけらかして注意するのは、それこそマナーに反している。

 郷に入っては郷に従え。この世で最も疑わしいのは、フィリップ自身の価値観だ。自分にそう言い聞かせたフィリップは、へらりと笑って話を逸らす。

 

 「いや、人間は結構、同族意識の強い方だと思いますよ? どこか遠くの街で人間を襲ったと又聞きしただけの化け物を、心の底から恐怖するような種族ですからね」

 「そう? でも、食糧庫の人間は「自分は嫌だ」「あっちの奴にしろ」って、そんな命乞いばかりよ?」

 「…………いやいや、見ず知らずの人の為に、自分の命を投げ出すような人もいますから」

 

 フィリップの反駁に勢いがない。ちょっとダメージがあった。

 

 人間も捨てたものじゃないよと自分に言い聞かせ、水を飲んで気分を落ち着ける。

 ちなみにこの城は地下水脈の上にあるらしく、井戸から汲むだけで良く冷えた水が飲める。城の上層には大きな水のタンクがあり、魔術で生成された水が貯まっている。そこから各部屋に配管が張り巡らされているから、水道の蛇口を捻って出てくる水はこれだ。

 

 機嫌を損ねたように見えるフィリップを揶揄うように、ミナが軽く身を傾ける。

 

 「……きみはどうするのかしら? 同族を喰らおうとする怪物を前に、勇敢にも立ち上がる?」

 「……勝ち目があるとは思えませんけど、彼らならそうするでしょうね」

 

 恐らく、正面戦闘で衛士団がミナに勝つ確率は、フィリップがミナに勝つ確率とそう変わらないだろう。フィリップと衛士団では強さに大きく差があるのに、だ。

 もちろんフィリップは衛士団の強さを正確には知らないが、ミナはそもそも人間以上の存在、怪物だ。人間に優越するように出来ている。人間を喰うように出来ている。両者の関係性は決して対等ではなく、通常は捕食者と獲物、友好的でも飼い主とペットだ。

 

 ──()()()()、だ。

 

 だが、「それでも」と立ち上がり、善良な人々を守護せんと剣を構えるのが、魔術を構えるのが彼ら、彼女らだ。

 その輝かしい人間性こそフィリップが憧れ、羨み、妬むもの。フィリップが今もこうして人間でいることに拘っている、最大の理由だ。

 

 「きみはどうするの、と聞いたのだけれど」

 「僕の友人を喰おうとするのなら、貴女を止めるでしょうね。貴女を殺したくはないので、いきなり攻撃したりはしませんけど」

 

 さらりと答えるフィリップだが、この言葉に嘘はない。

 ルキアを始めとしたフィリップの大切な人を喰わなくてはミナが死ぬ、という状況になれば、フィリップは躊躇なくミナに「じゃあ死ね」と言う。

 

 傍目には懐いているように見えるし、事実フィリップはミナに懐いているのだが、それはそれだ。結局のところ、フィリップの判断基準の最上位は、自分の感情だった。

 

 だから、ルキアや、それこそ家族のような大切な人でもないのなら、彼女が何千人殺そうが何億人喰らおうが知ったことでは無かった。

 

 「あら。なら、この子は吸い殺してもいいの? きみの知り合いではない人間なら、食べてもいいの?」

 「いいの、というか、吸血鬼にとっての食事が人間だというのなら、僕にそれをどうこう言う資格はありませんよ。ミナに飢え死にしろなんて言うつもりはありませんし、食の嗜好は人それぞれですからね」

 

 そういえば王都に来てすぐ、タベールナの厨房でトマトを見つけて、それはもう混乱したものだ。

 王都外でトマトは毒があるとか悪魔の作った果実だとか言われて観賞用にさえならなかったのに、王都ではサラダにスープにパスタにと引っ張りだこの食材だった。これはおかしいと、仕事を抜け出して投石教会まで確認に行ったのだったか。「常識が改変されてるが、お前らの仕業か」と詰め寄ったときのナイ神父の顔は、今思い出しても腹が立つ。

 王都では十数年前にトマトに毒が無いこと、栄養価が高いことが知られていたのだ。

 

 人類間でも、生活圏と文化の差で食生活は大きく変わる。

 それが異種族なら、尚更だ。

 

 嫌いなものを無理にでも食えと押し付けるなら、フィリップも抵抗する。

 だが、他人がフィリップの嫌いなもの、食べないものを美味そうに食べているからといって、食べるのを止めろとは言わない。フィリップは酒が嫌いだが、ルキアやステラは美味しそうに飲んでいるし、それに不快感を感じることは無い。

 

 これはただ、それだけの話だ。

 

 「ごめんね。僕はどうやら、美人に弱いらしい」

 

 フィリップはそう、無感動に宣告する。その声に眼前で失われようとしている、自らが見捨てた命への謝意や罪悪感は一片も無い。あるのは自嘲と、ちょっとした揶揄だ。

 テーブルに横たわっていた少女の瞳が、見覚えのある色に濁っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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238

 夕食を終えたフィリップは、そこそこ普段通りの生活が出来そうなことに驚いていた。

 学生寮の大浴場とまではいかずとも広々とした浴場には、なみなみとお湯の張られた泳げるくらい大きな浴槽があった。シャワーも、蛇口を捻れば熱いお湯が出てくる。上下水道の整備された、外と比べて100年以上は文明が進んでいると言われる王都と同等の設備だ。

 

 「……助けが来たら怒られそうなぐらい快適じゃん……」

 

 フィリップは城の上層にあるバルコニーで、満天の星と、暈のかかった満月を見上げて独り言ちた。

 ふかふかのバスローブに身を包み、ほかほかと湯上りの体温を発散しながら、周囲に明かりの無い荒野で澄み渡った夜空を見上げる。何とも贅沢な夜の一幕だ。

 

 誰かが助けに来てくれるのかは分からないが、王都からここまで快適な道中ではないだろう。

 王都に侵入した吸血鬼の討伐と拉致された子供の救助という名目で、衛士団や、或いはルキアやステラが遠征してきたら、どんな顔をして会えばいいのか分からない。

 

 ここまで来るのは快適な旅路ではないだろうに、救助目標であるフィリップは、討伐対象である吸血鬼の居城でぬくぬくと過ごしているのだ。ペットらしく首輪を付けられているとはいえ、フィリップがこの状況を受け容れている以上、それは免罪符にはなり得ない。

 

 シルヴァの位置はあまりに遠く、魔術契約を通じても正確な位置は分からない。具体的に何キロとか今どの辺りとか詳しいことはともかく、王都を出たかどうかは把握しておきたかったのだが。でないと言い訳を考える必要があるかどうかも分からない。

 

 「…………」

 

 時間の経過で暈が晴れ、はっきりと見えるようになった満月を見上げ、嘆息する。

 

 考えてもどうにもならないことは、考えないでいい。もしもルキアやステラが、或いは衛士団が来たら、大人しく不興を買って怒られよう。そう決めて、あとは無心で月を見ていた。

 

 「──月が好きなの?」

 

 不意に背後から投げかけられた質問に、フィリップは殆ど無意識に「えぇ」と答えていた。

 平時なら「月に対して好き嫌いとかありますか? ずっとそこに在るものなのに」とか可愛げのない面倒な答えを返していたかもしれないが、無意識に漏れた答えこそが真実だ。

 

 フィリップは月が好きだ。

 ぼーっと月を見ているだけで何時間でも過ごせる。

 

 月光の、落ち着くのに、妙に胸を高鳴らせる不思議な色合いが好きだ。夜の冷たく澄んだ空気に形容しがたい気配を混ぜ、“夜”という言葉に深みを持たせる月が好きだ。黒とは言い切れない宙の色と調和して、それでも絶対的な存在感を放つ、夜空に浮かぶ鏡にも、夜空に空いた穴にも見える月が好きだ。

 

 ──そんなことを思うようになったのは、あの夜からだろう。

 

 「──私もよ。……これは吸血鬼も人間も同じなのね」

 「……そうですね」

 

 人間の嗅覚では判別できないはずの、月光の匂いがふわりと鼻を擽る。

 一瞬遅れて、フィリップの隣にミナが立った。夜風に揺らぐ闇色の髪は、フィリップと同じ石鹸を使ったはずなのに、フィリップとは違う花のような香りがした。ルキアやステラと同じで、メイドに香油を塗らせる習慣があるのだろう。

 

 「……まだ寝ないの?」

 「……僕はそろそろ寝るつもりですよ。ミナは──ミナも寝るんですか?」

 

 振り向くと、ミナはどう見ても寝間着といった風情の、肌が透けるようなベビードールを着ていた。月光に透ける薄い生地が、煽情的な起伏の激しい肢体を、傷も染みもない真っ白な肌を辛うじて隠している。

 

 「吸血鬼は朝に寝て、夜に起きるものだとばかり思ってました」

 「普通はそうよ。でも、昼間に来客があることが多いから、ここ何十年かはずっと昼夜逆転の生活ね」

 

 フィリップにしてみれば正常な生活サイクルを「昼夜逆転」と言われると、どうにも不思議な感じがした。

 だが悪い気分ではない。ミナが人間ではないモノ、人間以上のモノであることを意識するたびに、むしろ彼女に惹かれるような不思議な感覚さえある。

 

 バルコニーはミナの私室にあったもので、ガラス張りの掃き出し窓を潜ると、すぐに彼女のベッドが見えた。フィリップは部屋に入ってすぐ「吸血鬼って棺桶で寝ないんですね」と訊ねて、「不思議な迷信が流れているのね」と人類全体が小馬鹿にされていた。

 

 滑るようにするりとシーツの隙間に潜り込むミナを、フィリップは胡乱な目で見つめる。部屋の中にある寝具は、この豪奢な天蓋付きベッドだけだ。

 

 「……で、僕のベッドはどこですか? 床に寝ろとか言いませんよね?」

 「……?」

 

 ミナはフィリップと同じく胡乱な目をして、自分の隣をぽんぽんと叩く。

 ……いや、まぁ、薄々そんな気はしていたし、クイーンサイズのベッドは二人が並んで寝るには十分な大きさだが。

 

 眠気もあって色々と諦めたフィリップは、もぞもぞとミナの隣に横たわる。見た目通りに高級なベッドは、驚いたことに学生寮のものと同じくらい寝心地が良かった。

 

 「……もっとこっちに来て」

 

 既に手が触れ合うくらいの距離にいたミナが寝返りを打ち、こちらを向く。

 来て、と言いながら強制的に抱き寄せられたフィリップは、半ばシーツに埋もれるような形になる。目の前で、大きく形の良い胸が腕とベッドに挟まれて、淫靡に形を変えていた。

 

 駄目押しのように頭を抱かれ、胸の中に抱き締められる。

 一呼吸ごとに、石鹸やと香油と、吸血鬼に特有らしい夜と月光の香りが鼻腔を満たし、脳を溶かした。

 

 眠気と酩酊感にも似た陶酔で目元をとろりと溶かしたフィリップ。ミナはその頭を愛おしそうに撫でながら、首筋に顔を埋めて、薄く深く息を吸った。

 

 フィリップは「一応ね」と誰にともなく言い訳して、ミナにバレないよう慎重にバスローブの中のパンツを引っ張り、自分の股間を確認する。……変化、無し。

 絶世どころか人類以上の美人と同衾して、更に抱き締められているというこの状況で、反応なし。聞きかじりの知識だが、これはかなり不味い状態らしい。いわゆる不能という奴ではなかろうか。

 

 今のところ()()()()()()があるわけでも、ましてや子供を作る予定があるわけでもないフィリップだが、なんとなく物悲しい気分になって、不貞腐れるように目を瞑った。

 

 「吸血鬼の城で夜を迎えて、こんなに無防備なんて、被捕食者としての自覚はあるのかしら?」

 「……」

 

 揶揄うようなミナの言葉を、フィリップは寝たふりをして黙秘した。

 フィリップは勿論、自分が、人間という種族が、彼女の前では例外なく餌でしかないことを知っている。だが、今のフィリップには能動的に状況を動かすだけの力も手段も無いのだ。吸血されたら、或いは殺されるようなことになったら状況は一変するが、今はまだ、何もできない。いつも通りに。

 

 「……きみは、本当にいい匂いね。童貞の血の匂いには食欲をそそられるけれど──夜の匂い、月の匂い、星々の匂いは、それ以上に吸血鬼(私たち)を惹き付ける。夜に棲む私たちより濃い匂いを纏う人間……アレも、偶には善いコトをする」

 

 ディアボリカ──実の父親であるはずの相手をアレ呼ばわりするのは、やはり100年間の封印による離別が原因なのだろうか。

 

 そんな真面目な思考も、マザーによく似た匂いと柔らかさに包まれていては、頭に浮かんだ端から溶けて消える。

 月と星々の香り、涼やかな夜の匂いが意識をも蕩けさせて、フィリップは吸血鬼の腕の中で眠りに落ちた。

 

 

 

 ──翌朝。

 

 フィリップは下半身に嫌な感触を覚えて目を覚ました。おいおいまさか嘘だろ勘弁してくれよ何年ぶりだと、宛てもなく祈るような気持ちでシーツをめくり──怪訝そうに眉根を寄せた。

 あるはずの痕跡がない。体を覆うシーツも、マットレスに敷かれたシーツも、バスローブも、汚れ一つなく真っ白だ。しかし、下着は妙にごわついている。

 

 はてさてこはいかにと顔を顰め、もぞもぞとベッドから這い出たフィリップは、バスローブを開けて下着を脱ぐ。

 そして自分がいま脱いだ下着を覗き込むという、なんとも感想を述べ難い行為に及び──

 

 「──、ッ!」

 

 フィリップは下着を掲げて天を仰ぎ、歓喜を示すように拳を握った。パンツを握ったまま。

 

 ありがとう保健体育の授業。男女別室でルキアとステラがいないから退屈なハズレ科目扱いしてごめん。フィリップは王都の方角を向いて頭を下げた。パンツを掲げたまま。

 

 フィリップは下着を汚したものの正体、そしてその現象を知っていた。しかし知識としてで、これが初めての経験だ。

 ──端的に言うと、フィリップは夢精していた。そしてこれが精通だった。

 

 「──ぁははは!」

 

 まだ眠っているミナを起こさないように小声で、しかし興奮を抑えきれずに歓喜の笑いを溢す。脱いだパンツを頭上で振り回しながら。

 

 ──分かっている。人間一個体の肉体的成長が持つ意味は、価値は、遍く全てと同じくゼロだ。

 しかしそれでも、あの思い出すだけでも吐き気を催す光景に打ちのめされて、この世界の本当の姿を知って、この世界が持つ(持たない)重みを知って。自死さえ選べない絶望を味わって──死ねないから生きてきただけの自分が、明確に、そして健常に成長していることが嬉しかった。

 

 特に精通(これ)は、自分が未だ人間であることの、分かり易い証左だ。

 

 あれだけの経験をして、こんなザマになって、それでも未だ、人間であり続けている。その難しさが誰よりも分かるが故に、こんな、男なら誰もが経験する生理現象(精通)一つが、途方もなく嬉しい。

 

 ……バスローブの前を全開にした半裸姿で、自分の下着を頭上でぶんぶん回している様は、人間と言うより知恵の無い猿だが。寝起きで頭が回っていないし、これでも部屋をスキップしながら回遊していないだけ理性が残っていると弁解しても、誰も信じないだろう。

 

 しばらくパンツを振り回していたフィリップは、やがて目下の問題に気が付いた。

 

 この町も集落も何もない荒野のど真ん中に聳える城塞には、なにも綿密なプランに基づいて旅行に来たわけでは無い。当然ながら着替えの用意なんて無いし、この下着だって、フィリップが風呂に入っている間にメイドが洗濯して乾かしておいてくれたものだ。

 普通は何時間か乾かしておくところを数分に短縮できる魔術とは、やはり便利なものだと再認識したのだが──フィリップ一人では、この下着を洗って乾かすには時間がかかる。

 

 学生寮どころか自分の実家でさえノーパンで過ごしたことなど無いというのに、ここは他人の城だ。しかもフィリップ用の個室は無い。

 

 さてどうするか、取り敢えず顔でも洗って考えようと、部屋の扉に目を遣り──困り顔のルーシェと目が合った。

 部屋付きの夜番なのか、或いは着替えを持ってきたのか。どちらでもいいが、いつからいたのだろう。

 

 「…………」

 「…………」

 

 両者、沈黙。

 

 フィリップは指に引っ掛けたパンツを延々と回しながら弁解の言葉を探しているし、ルーシェは半裸でパンツをぶん回している変態をどう遇するべきかと真剣に悩んでいた。

 

 そして両者の意見は、「ミナが起きる前に片を付けよう」という点で一致した。その為にはまず。

 

 「一旦部屋を出ませんか?」

 「……まずはバスローブの前を閉じられては如何でしょう?」

 

 

 

 

 



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239

 クリスマスプレゼントおくれーっ!!


 フィリップがルーシェの立場だったら、半裸でパンツを振り回している猿の言葉になんか耳を貸さない。時間の無駄だし、獣と会話できるメルヘンを信じるのが許される年頃は終わった。いや、まだ12歳になっていないのでギリギリセーフか? 

 

 どちらにせよ、獣と同等に堕ちるつもりはない。言葉を交わすこともなく、人のふりをして服など着ている珍しい猿に嘲笑を向け、その顔のまま殺すだろう。

 

 そう考えると、ルーシェはとても寛大な性格をしているようだ。ここは彼女の懐の深さに甘えつつ、フィリップの置かれている状況を説明して理解を得るべきだろう。自分の行動を冷静かつ客観的に振り返ってみると、いま生きているだけで奇跡みたいな醜態だった。

 

 ルーシェがどうこうではなく、半裸で自分のパンツを振り回しているところを異性に見られたら、羞恥のあまり憤死している。寝惚けていて、相手が人間ならざる化け物で、そして自分も相手も本質的には泡に同じと知っていたから、舌を噛まずに済んでいた。

 

 「……あの、旦那様。先程のあれは一体? 私も今どきの流行には疎いのですが、ご主人様のお部屋で踊るには、些か破廉恥……いえ、品のない振付けかと存じますけれど」

 

 昨日の明朗快活といった立ち振る舞いは何処へやら、ルーシェは困り果てた顔と声で諫言した。

 寝惚けていたという言い訳が通らないぐらい、仰る通りだ。

 

 フィリップは一切の言い訳を諦めて、ありのままを話す。

 性別も精神状態もまるで違うルーシェがどういう反応をするのかは全く未知数で不安だったが、彼女は意外にも「そうでしたか!」と納得して笑ってくれた。

 

 「でしたら、下着はお預かり致します。ご主人様がお目覚めになる前に済ませますね!」

 

 ぱちりとウインクして悪戯っぽく微笑んだルーシェは、「急ぎませんと」などと言いつつ、慌ただしく走り去る。

 幸いにして、その彼女とフィリップのパンツが返ってくる前にミナが目を覚ますという事態にはならず、フィリップのペット生活二日目はギリギリ平穏に始まった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ミナの城にある“食料”は、大部分が吸血鬼用──つまり、地下牢に拘束されている人間だ。

 

 つまり彼ら用のものであれば、僅かに人間用の食事もあるということなのだが、これが意外と良質なものだった。いや、普段王都で最上級の食事をしているフィリップからすると、それは料理とは呼べないような代物なのだが。

 

 食料に与えられる食事は、概ね、パン、肉、野菜、果実の四種のワンプレートだ。

 

 肉の加熱は基本的にはミディアムレアで、“調理”と言うより寄生虫を殺すことだけを目的にした“処理”だが、少なくとも体調を崩すことは無いように配慮されている。人間社会で食用として売られている肉ではなく、暗黒領に生息するよく分からない生物の肉と内臓という点に目を瞑れば、特筆すべきところは無い。

 

 野菜と果実は調理せず、生のままで出てくる。加熱すると栄養価が下がるから──正確には、件の人間牧場で繰り返された餌と血質の相関性を確かめる実験の結果として、生食させた方が美味い血が採れるからだ。

 

 それが硬かったりふやけていたりするパンと一緒に、見映えなんて知ったことかと言わんばかりの豪快な盛り付けで出てくる。

 

 要素だけを見ればそこそこ食べられそうな気もするが、皿に乗った──ぶちまけられたものは、良くて残飯、悪く言えば生ごみかゲロだ。家畜の血液を良質な状態にするためだけの飼料。それが吸血鬼にとっての「人間用の食事」だった。

 

 流石に同じものをフィリップ──城主の配偶者(仮定)、或いは城主のペット(暫定)に出すのは憚られたのだろう。フィリップの食卓に並んだものは、野兎のソテーと野菜のスープ、そして一番マシな状態のものを選んだのだろうパンと果実だった。ルーシェは「外の荒野で獲ってきました!」と自慢げだったし、料理人も「自信作です」と胸を張っていた。

 

 わざわざ近くの町まで出向いてスパイスを買って来てくれたらしく、少し濃い味付けだが、十分に王都でも通用する出来栄えだ。

 野菜と果実は飼料の流用らしいが、これも不味くは無い。取り立てて美味しいとは言えないが、文句を付けるほどのものではない。

 

 パンは例外だ。王都で金を出してこれが出てきたら、人によってはパン屋を一、二発殴るレベルの代物だった。

 

 「──ごちそうさまでした。……ミナ、食休みしたら、また模擬戦をお願いしたいんですけど」

 「……構わないわよ。それにしても、きみは本当に人懐っこいわね」

 

 ミナは懐いたペットを可愛がるように、というか、そのままの意図でフィリップの頭を撫でる。フィリップも満更でもなさそうにされるがままになっている光景は、傍目にも安穏とした空気を醸し出している。──ミナの前のテーブル上に置かれた、枯れ木のような死骸を視界に入れなければ。

 

 フィリップと並んで朝食を摂っていたミナのメニューは、フィリップと同い年くらいの少年だ。彼も昨夜の少女と同様にフィリップに助けを求めるような視線を向けていたのだが、フィリップは困ったような笑顔で受け流した。

 

 「人間はもっと吸血鬼を恐れるものだと思っていたわ。……ルーシェ、ロングソードを中庭に運んでおいて」

 「畏まりました! あ、旦那様! 色紙のご用意ができましたよ!」

 「昨日言ったばかりなのに、早いですね? 剣と一緒に持ってきてくれますか?」

 「はい! 準備しておきますね!」

 

 色紙? と不思議そうに首を傾げたミナだったが、すぐに興味を失って席を立った。

 人間の習性とか習慣とか、そういう煩わしいものに関わる「世話」は、すべてルーシェに一任してある。ミナはこの弱々しく可愛らしい、いい匂いのする生き物を、ただ愛でていればいいのだ。

 

 

 食事を終えたフィリップは、一旦ミナと別行動をする。

 

 「吸血鬼は便利だなぁ……うごご……」

 

 お腹を擦りながら足早に歩く姿は、この城にあっては極めて珍しいものだ。魔術学院の寮なら、この時間には同じく神に祈りを捧げながらトイレに籠る生徒がちらほら居るのだが。

 

 昨日のうちに教わったトイレを目指しながら、フィリップは不便な人の身を呪い、食事は必要でも排泄は必要ない吸血鬼の便利さを羨む。

 ルーシェたち下位吸血鬼はその限りではないらしいが、ミナのような上位吸血鬼は、どれだけ血を飲んでもどれだけ肉を喰らっても排泄しなくていいらしい。なんでも、消化吸収効率が80パーセントを超え、残りは熱か魔力に直接変換して発散するのだとか。だからミナは普段は病的に体温が低いが、食後一時間くらいは少しだけ温かい。

 

 トイレを済ませて、では改めて中庭に向かおう──と、そこで漸く、フィリップは中庭への道を知らないことに気が付いた。

 

 まぁ食堂まで戻れば誰かメイドがいるだろうし、案内して貰えばいいか。そんな風に考えて来た道を戻ると、案の定、食堂には一つの人影があった。

 しかし、メイドではない。彼は長いテーブルの一番下座側の席に座り、卓上に転がった人間の首筋に吸い付いていた。

 

 「……あら、フィリップ君。おはよう。昨日はよく眠れた?」

 「……おはようございます。一人でご飯とは、寝坊ですか、ディアボリカ?」

 

 フィリップに気付いたディアボリカは、体積を三分の一ほどに減らした死骸から口を放す。──失血量はどう考えても致死水準のはずだが、彼女はまだビクビクと痙攣を繰り返していた。

 “よく眠れたか”という問いに誘導されて先程の醜態を思い出したフィリップは、その質問を丸ごと無視した。

 

 特に意味の無い挨拶の延長だったディアボリカは無視されたことにも気付かず、肩を竦めて「昨日言ったでしょ。アタシはあの子と同じ部屋に入れないの」と答えて、目の前の死骸にかぶり付いた。

 

 「そうでしたね。……食べ終わったら、中庭に連れて行って欲しいんですけど、何か急ぎの用事とかありますか?」

 「……目の前で人を喰ってる化け物に道案内を頼むの? アナタ、本当に面白いわね。連れて来て良かったわ。……ごちそうさま、行きましょうか」

 

 枯れ木のようになった死骸を魔術一発で骨も残さず焼却して、ディアボリカはすっと軸の通った所作で立ち上がる。ナプキンで口を拭うところなどは、傍目にも紳士然としていた。相変わらずシャツの前が全開なことを除けばだが。

 

 二人は時折すれ違うメイドに頭を下げられるのを景色のように無視しながら、静かな城の中を歩く。

 

 「……一晩明けたわけだけど、あの子とはどう? 上手くやれてる?」

 「ペット扱いに不満が無いかという意味ならイエス。花婿として妥当な扱いを受けているかという意味ならノーです。彼女は吸血鬼で、僕は人間。この条件が覆らない限り、この現状は覆りませんよ」

 「そうよねぇ。アタシも一晩考えて推察してみたんだけど、アナタ、ミナが“怪物”だから懐いてるだけでしょ。人間と吸血鬼、下位と上位の関係性が絶対的だから、この状況を諦めて適応している──ってワケでもなさそうなのが、アナタの怖いところよねぇ」

 

 やれやれと肩を竦めておどけるディアボリカに、フィリップは感心したような目を向けた。

 ディアボリカの考察は、フィリップの自己分析と殆ど同じだった。

 

 フィリップは化け物が好きだ。

 いつからそうなのかは分からないが、どうせあの夜からだろうと自分では考えている。

 

 具体的にどうして、と言われるとフィリップは黙秘権を行使するし、自分でも確証は持っていないが──マザーと同じだからだ。

 相手が自分のことをどうとも思っていないから気楽だ、とか、自分より強い相手に守られているのは安心感がある、とか、そういう理由を並べ立てることはできるが、本質的には代償行為に過ぎない。或いは拡大か。

 

 「アナタ、ミナがアナタを異性として好きになったら、その瞬間に冷めるでしょ。なんて言うんだっけそういうの……蛙化現象? ちょっと違う? まぁなんでもいいけど、それだと困るのよ。アナタたちには、心から愛し合って貰わないと」

 「……別に、僕じゃなくてもいいでしょう。彼女はハーフヴァンプですし、それこそ相手は純粋な吸血鬼でもいいのでは?」

 

 ディアボリカは、フィリップが吸血鬼を殺し得る──少なくともフィリップ自身がそう信頼する切り札を持っていることは知っているはずだ。

 それなのに、わざわざ王都まで出向いて、わざわざフィリップ個人を狙って、わざわざ“人間を恋愛対象にさせよう”なんて馬鹿げた計画を練っている。

 

 少し前のフィリップなら、とっくのとうに城を吹き飛ばして帰っているところだ。……まぁ、首輪がある限り、そんなことは逆立ちしたって出来やしないのだが。

 

 その無為なリスクを許容するくらいなら、それこそ彼女の同族である他の吸血鬼や、エルフなんかでも良いだろう。その方が肉体的にも魔術的にも、フィリップの何倍も強い。

 

 それに──ディアボリカの分析は正しい。

 フィリップはミナが化け物だから懐いているだけで、彼女の“怪物性”とでもいうべき価値観が失われたら、ただの美人だ。そして、ただの美人に「綺麗だな」と思う以上の感想を持つことはない。

 

 だからディアボリカは、フィリップとミナ、二人の意識を変える気でいる。

 フィリップの問いには、どうしてそんな面倒くさいことを、という意図も含まれていた。一番面倒くさいのはディアボリカではなく、誘拐されてきたフィリップなのだし。

 

 「それが駄目なのよ。魔王軍内部の政治的な話でね、アタシたちの一族は結婚するなら魔王領域外の相手じゃないと駄目なの」

 「し──いや」

 

 事情とか知ったことじゃないんですけど、と言いかけて、止める。

 それを言うべきだったのは昨日、学院で連れ去られる前のことだ。ここまで連れてこられた以上、理由を知る権利も文句を言う権利もあるだろうが、知ったことかと跳ね除けるには遅すぎる。

 

 「じゃあエルフは? エルフは魔王領域外の種族でしょう?」

 「それはそうだけど、アタシってほら、数百年前にエルフの首都を焼いたから。もう顔も合わせづらくって」

 「し──は? 何ですかその話、詳しく」

 

 フィリップはまた「知ったことじゃないんですけど」と言いかけて、猛烈に興味を引く内容の言い訳に食いついた。

 

 しかし、残念。時間切れだった。

 

 「アタシの奥さん絡みの話よ。──はい、この扉の先が中庭。アタシはまた撃たれたくないから、ここまでね。……あ、あの子を通じて他の誰かを見るの、そろそろ止めないとぶん殴るわよ?」

 「無理矢理拉致してきて更にぶん殴られたら、僕は首を斬り落としてでもこの首輪を取りますよ」

 

 ──まぁ、以前の戦闘を思い出すに、一発殴られるだけで肩から上が無くなりそうだが。

 

 

 

 

 



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240

 中庭でミナと合流してから一時間。

 二人は「今からそこ掃除するんだけどなぁ」と言いたげなメイドに配慮して、模擬戦のフィールドをエントランスホールに移していた。自分の配下であっても無関心なミナではなく、フィリップが率先して動いた形だ。

 

 しばらく模擬戦を続けていた二人だが、フィリップの疲労度合いを見て、小休止となった。

 

 「──ルーシェ、水を」

 「はい! こちらに!」

 

 ぱたぱたと軽快に、しかし捧げ持った盆上のピッチャーに入った水の揺れは最小限に抑えた妙技で、吸血鬼の侍従長が駆け寄ってくる。

 

 コップに注いで差し出してくれた水を有難く飲み干して、フィリップは大きく息を吐く。汗でぺたっとした髪を、ミナの手が柔らかに梳いた。

 

 「楽しかった?」

 「はい! ……ミナは僕みたいな雑魚相手で退屈でしょうけど、付き合ってくれてありがとうございます!」

 「確かに血の沸くような興奮は無いけれど、可愛いペットと遊ぶのは楽しいわ。だから気にしないで」

 

 チャンバラごっこでもしていたような口ぶりだが、二人の得物は片や真剣のロングソード、片や二振りの魔剣だ。確実に死なないミナと恐らく死なないフィリップのペアでも、中々にスリリングな光景だったのだが、やはり当人たちには遊び感覚らしい。

 

 二人がしばらく雑談に興じていると、何処からともなく鈴の音が聞こえてきた。

 ちりちりん、と軽く涼やかな、目覚ましにもならないような音だ。

 

 ややあって慌ただしくエントランスに降りてきたメイドが、ミナの耳元で何事か囁く。フィリップの髪を手櫛で弄びながらそれを聞いたミナは、退屈そうな溜息を溢した。

 

 「5人? そう。剣士が居たら残して、連れて来て。居なかったらいつも通りに」

 

 どこか不愉快そうにも見えるミナの表情とその言葉で、フィリップにも大体の状況は掴めた。

 おそらく、城の監視塔からこちらに向かってくる人影を見つけたのだろう。昨日空から見た限りだが、この周囲はまっさらで平坦な荒野だ。多少の起伏はあるものの、姿を隠しながら近づいてこられるような遮蔽物は無かった。

 

 一瞬だけ「僕を助けに来た誰かかもしれない」と思ったフィリップだが、流石に早すぎると否定した。想定では二週間、理論上の最速でも一週間はかかる距離だし、他人だろう。

 

 「聖痕者じゃないですよね?」

 「は? いえ、違います。見た限り、王国の冒険者パーティーですね。聖痕者のような特級の魔力反応は感じません」

 

 一応聞いてみたものの、やはりメイドは「何言ってんだこいつ」と言いたげに片眉を上げてから答えてくれた。

 

 「通行人ですか? それとも襲撃?」

 「後者です。旦那様も、あの鈴の音には留意されるようお願いします。あれが遠方に敵発見の合図ですので」

 

 なるほど、と適当に相槌を打つフィリップ。

 あんな、目覚ましどころか昼寝の睡眠導入に使えそうな心地のいい音が? とでも突っ込むところなのだろうが、フィリップは()()()()()が最適だと分かっていた。

 

 この城に仕えるメイドは、ミナ曰く100人。誰でもいつでも好きに使っていいわよ、とは言われたものの、メイドたちの反応は大別して三種。「旦那様派」「ペットちゃん派」「謎の人間派」。概ね3:6:1くらいの比率で、一応は“先代様”らしいディアボリカの影響力が垣間見える。

 

 つまりこの城には、102人の吸血鬼──人間とは隔絶した上位種、人間を餌として喰らうバケモノが詰まっている。

 近くを通るだけでも戦々恐々、旅の無事を神様に祈りながら、息と足音を殺して走り抜けなくてはならない類の、反人類領域だ。

 

 「攻めて来た、ってことですか? その──たった5人で?」

 

 フィリップは怪訝そうにを通り越して、小馬鹿にしたような半笑いで尋ねる。そんな分かり切ったことを訊くフィリップこそ小馬鹿にされそうなものだが、当然のことを再確認してしまうほどの異常事態だ。

 

 大前提として、ここは()なのだ。

 高く聳える頑丈な胸壁、取り付くものを許さないタレット、城の壁から全周を睨む目のような狭間。木と鉄のシンプルな城門は、その簡単な造り故に頑丈だ。組み合わされた木と鉄、フィリップの胴より太い閂は、丸太を持って突撃を繰り返しでもしなければまず開かない。外敵を退け主を守る機構を備えているから、城なのだ。

 

 その防御拠点を正面から攻め落とすのは、基本的には不可能だ。

 過去の戦争において、城攻めが成功した例は五十以下とされている。そのうちの半分以上が聖痕者の手によるものなので、戦術的に見るべきは残りのごく少数。

 

 それらは往々にして、大多数による包囲耐久戦だった。城から出る者、城に向かう者の全てを捕縛して補給を遮断する。同時に、長期に亘って攻撃を繰り返すことで、備蓄されている医療物資や食料などを破壊または消費させる。最終的には飢餓状態に陥った城側が降伏するか、衰弱したところを叩き潰す。

 圧倒的物量と、包囲側だけが物資を補給できるという状態を利用した長期耐久戦。それが城攻めにおけるセオリーであり、基本的には「極めて攻めにくい」造りになっている城を、それでも落とすための苦肉の策だ。

 

 ──で。

 

 この城には吸血鬼が102人いる。

 吸血鬼と人間のキルレシオを全く考慮しなくても、数量比で1:20だ。戦争は兵士の質が同じなら数量比が3:1で優勢、6:1で勝利がほぼ確定すると言われているが、包囲戦には10倍の戦力が必要とされる。

 質の戦力を無視しても、絶対的に数の戦力が足りていない。

 

 「然して珍しくもないわ。監視塔からの狙撃が必中射程3キロくらいだから、それ以上近付かれることは稀だけれど」

 

 まだ少し汗ばんでいるフィリップの首筋に顔を埋め、薄く深く匂いを吸っているミナが答えをくれる。

 残念でも無ければ当然というか、「まぁそうなるな」以外の感想が浮かばないくらい当たり前の結果だ。ディアボリカを一度は撃墜するほどの魔術師がいるのなら、聖痕者でもない人間が遮蔽も無い荒野を進んでくるのは不可能だろう。

 

 「剣士を残すというのは? 確か、食料は専門の牧場から買ってるんですよね?」

 「えぇ。味に拘るなら、牧場産の血が一番よ。……勘違いしているみたいだけれど、取って食うつもりは無いわ。きみに──私が戦うところを見せてあげようと思って」

 

 悪戯っぽく微笑した──抱き締められているフィリップには見えないが──ミナの言葉に、フィリップは思わず腕の中で振り返り、彼女の細い腰を抱き返すほどの歓喜を味わった。

 

 「ホントですか!?」

 「えぇ。普段ならそんな面倒事、メイドに任せてしまうのだけれど。今日は特別よ?」

 「やった! あ、ちゃんと見えるように動いてくださいね! あ、あと、できれば魔剣の力も見せて欲しいです! モヤモヤと光が出るだけの剣じゃないですよね、アレ? 僕相手で使ったら確実に殺しちゃうとか、そういう類の──あ、でも、ミナに代償がある呪いの剣とかだったら、無理しなくて大丈夫ですよ」

 「特に代償は無いから大丈夫よ。……仕方ないわね」

 

 仕方ないと言いながら満更でもなさそう──なんて可愛らしいことはなく、本当にかったるそうに言うミナだが、一応はフィリップの要望を叶えてくれるらしい。

 

 フィリップはウキウキしながら両階段を半分だけ上り、二階に続く踊り場に腰を下ろす。

 少し後をルーシェが続き、いつでもフィリップを庇えるよう数個下の段で立ち止まった。

 

 待つこと数分。

 重いだけでなく堅固な城門が軋みを上げながら開く音に続いて、硬質な靴音が二つ。そして、ガチャガチャと耳障りな金属同士の擦れ合う音がする。

 

 来客──吸血鬼の城を堕とすべく武装し、進撃してきた冒険者! 戦略家でもない学生が歴史の授業で半分寝ながら聞く「城攻めは難しい」という常識も知らない愚者か、はたまた、その難事を乗り越えるに能う強者か。

 

 フィリップの期待が最高潮に達し──すとーん、と、そんな音を聞いた。幻聴だ。落ちたのは何だろう。期待かもしれないし、テンションかもしれないし、落胆というぐらいだから内臓かもしれない。或いは、肩透かしを食らった両肩かもしれない。

 

 ガチャガチャと鎧の擦れ合う音を立てながら城に入ってきたのは、二人のメイドだ。彼女たちはファイヤーマンズキャリーの状態で、鎧を着た男と、魔術師らしきローブ姿の女を運んで帰ってきた。担がれた二人はぐったりしていて、抵抗の意思が全く見えない。

 

 どさりと乱雑に地面に落とされても無反応なのは、完全に心が死んでいるか、魔術で昏睡か麻痺状態にされているのだろう。

 

 ──どうやら、愚者の方だったらしい。

 

 「ご主人様。ご命令通り、剣士を連れて参りました。魔術師の女は処女で、匂いからすると銀の血かと思い、現場の判断で捕獲いたしました」

 「拾いものね──と、言いたいところだけれど、拘束もしていないのはわざと?」

 

 わざとも何も、彼らは完全に行動不能、死に体だ。魔術か物理かは知らないが、もう一歩も動けそうにない。ミナは本当に人間を知らないのだな、と思った直後──フィリップは自分の見立てこそ甘かったことを知る。

 

 跳ねるように起き上がった二人の冒険者は、取り上げられてもいなかった武装に手を伸ばし、勢いのままミナに襲い掛かる。

 見開かれ血走った目に憎悪を宿し、剣士の男は自らの身長ほどもあるツーハンドソードを振り上げ、魔術師の女は補助具である杖を構えた。

 

 「……」

 

 もうあとほんの一瞬で、ミナの首が斬り飛ばされ、攻撃魔術が火を噴く。

 そう予期させる光景を、フィリップはただ無感動に見ていた。一応は飼い主であるミナが、一応は自分に対して友好的でありフィリップ自身も好意によく似た感情を持っているミナが攻撃されていても、何ら感情が動かない。

 

 メイドたちも全く無反応だ。

 彼女たちは一応、種族特性として持ち合わせている“麻痺の魔眼”で拘束したとき、魔術師の女が上級耐性付与魔術『ハイ・レジスト』によって魔眼に抵抗していたことには気付いていた。

 

 剣士の方は気絶していたし、魔術師の女一人がどうこうできるほど、吸血鬼メイドはヤワではない。だから殊更に拘束はしなかったし、何より、人間風情が主人に敵う訳がない──そんな絶対的信頼の生んだ、甘い判断だった。

 

 

 

 

 

 

 



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241

 時間は少し巻き戻り、フィリップがミナと剣を交わして戯れていた頃。

 Aクラス冒険者パーティー『閃天の星』は、全員が揃いの面を付けたように、悲壮感に満ちた顔を並べて歩いていた。

 

 辺りは一帯、見渡す限りの荒野。時折砂塵が吹き上がり、服にざらざらとした痕跡を残していく。

 

 暗黒領への侵入は、どの国に於いても決して推奨されない。

 殊更禁止などしなくとも、地図作成や動植物の観察、そして魔王の軍勢や魔物の動向調査を担う開拓者たちを除いて、自ら「行きたい」という者はいない。

 

 曰く、暗黒領の土壌は穢れ、人類領域の作物は決して育たない。

 曰く、空気が毒になっていて、人間が急に倒れて死ぬ。

 曰く、野営前には6人だったパーティーが、朝になると3人になっている。

 曰く、曰く、曰く──単なる空想から脚色された事実まで、様々な“曰く”が付いている土地だ。

 

 人類圏では有り得ないことが、暗黒領では当たり前に起こる。

 人類にとっては最上級魔術による御業も、魔王軍にとっては雑兵の手慰み。

 

 暗黒領に踏み入ったが最後、一歩進むごとに生存率が1パーセントずつ減っていく。

 

 人類にとってはどれだけ言葉を重ねても足りない忌地。

 そこに神の加護は無く、魔王の加護が溢れている。人は弱り、魔物は力を増す。エトセトラ。

 

 どこまでが本当で、どこからが嘘なのか。それは定かでは無いが──彼ら『閃天の星』にとって、暗黒領への侵入は、世で言われるほどの難事では無かった。

 

 王国南部では名の知れた精鋭であり、そう遠くないうちに王都衛士団からスカウトされるだろうと目されている彼らは、既に暗黒領に侵入した実績を持っている。

 

 それも一度や二度ではない。

 境界近辺2キロ圏の地図製作5回。植物採集3回。動物観察3回。魔物調査および討伐2回。──都合13回もの侵入・生還実績を誇る冒険者パーティーは、大陸全土を見てもかなり上位に食い込むだろう。

 

 その根底には仲間との連携もそうだが、何よりパーティーメンバー個々人の洗練された技術がある。

 

 戦士ミンタカ。全身鎧で2メートルもの巨躯を覆い、大盾とメイスで武装した彼は、まさしく鉄壁。

 剣士ヨハネス。ミンタカには劣るが190センチ越えの長身を器用に使い、ツーハンドソードという大味な武器を繊細に使いこなす。

 弓兵ハダル。女性の身で弓力30キロ近い強弓を携え、腰に佩いた長剣による白兵戦もこなすオールラウンダー。

 魔術師イングリット。杖の補助を要するものの、最上級魔術数種を切り札に持つ才媛。

 魔術師ニコラウス。上級魔術二種を同時展開できる稀有な才を持ち、魔術学院在籍時はBクラスに所属。

 

 才能を集め、研鑽を積み、連携を重ねた精鋭チームだ。

 

 当然、彼らは愚かではない。

 自分たちに何が出来て、何が出来ないのか。何をしたら死んで、何をしたら生き残れるのか。その手の死線を潜り抜ける技術と知恵は、十年近い冒険者生活でしっかりと身に付いている。

 

 ……では何故、彼らは今にも死にそうな顔で──既に誰かが死んだように悲壮な顔つきで、吸血鬼の居城を目指して歩いているのか。

 

 それは、

 

 「……妹が無事だといいな、イングリット」

 

 沈黙を嫌うくせに空気の読めない剣士ヨハネスの言葉が、端的に表していた。

 

 「無事よ。……無事に決まってる。くそったれの“牧場主”の言うことなんて、信じちゃ駄目だから──ねッ!」

 「いってぇ!? なんで蹴ったハダル!?」

 「なんで蹴られたか分からんからだ……」

 

 ヨハネスの尻を蹴り上げたハダルと、ブーツの爪先がめり込んだ尻をさするヨハネスが、互いに額を突き合わせて睨み合う。ハダルに肩を抱かれたイングリットはそんな二人を見て、蒼褪めた顔を僅かに綻ばせた。

 

 やれやれと肩を竦めるニコラウスだが、その口元は同じく笑みの形だ。ヨハネスはただの善意で、それも本気でああ言ったのだろうが、お陰で先ほどまでの鬱屈とした空気は吹き飛んでしまった。

 

 「こいつ……鉄板ブーツでケツを蹴るなと何度言えば……」 

 

 心なしか涙声のヨハネスがぼやくと、イングリットがくくっと喉を鳴らして笑った。

 

 弛緩した空気が流れ、そのままじわじわと緊張が解けていく。

 だが、ここは暗黒領、人類未踏破領域だ。彼らとて気を抜けば、どんな代償を支払う羽目になるか分からない。それも境界から百キロ以上離れた、彼らでさえ初めて足を踏み入れる深部だ。──尤も、暗黒領全域で見れば浅瀬なのだが。

 

 緊張と弛緩のバランスが崩れ始め、戦闘に適さないレベルまで集中が削げ落ちる、その直前だった。

 

 「……お前たち、そろそろ城が見える頃だ。気を引き締めろ」

 

 先頭を歩いていた戦士ミンタカの言葉に、彼らは口々に応じる。そしてスイッチを入れたように集中し、コートでも着込むように濃密な殺気を纏った。

 

 人間の精神は、100パーセントの緊張状態では最高のパフォーマンスを発揮できない。しかし同時に、100パーセントの弛緩状態でも駄目だ。重要なのはバランス。ほどよくリラックスした集中状態が最高だとされる。

 

 ミンタカが声を掛けたのは、ちょうどその閾値のタイミング。最高のメンタルコントロールだった。

 立っているだけで威圧感のある巨漢で、武器も鎧ごと相手を撲殺するメイスという豪快なものだが、彼は人一倍繊細で、パーティーメンバーのことをよく見ていた。

 

 このタイミングも、偶然ではなく意図してのものだ。

 

 パーティーメンバーを上手く纏める力と、誰よりも前線に立って仲間を守る戦闘スタイルから、彼はパーティーメンバーからの信頼を集め、リーダーに据えられていた。

 

 「イングリット、最終確認だ。お前の妹を助けたら、何よりも逃げることを優先する。彼女がどれだけ残酷な目に遭わされていても、報復より撤退が優先だ。ここまではいいな?」

 「……えぇ」

 

 ミンタカの言葉に、イングリットは覚悟を決めた目で頷く。

 

 ──吸血鬼に攫われた彼女の妹を追って、人間牧場に潜入したのが四日前のこと。“牧場主”と呼ばれていた個体を尋問して吐かせたところ、彼女は既に“千夜城”と呼ばれる吸血鬼の居城へ()()された後だった。

 

 “千夜城”がどこにあるのかは、すぐに調べが付いた。と言っても、大まかな方向と距離だけだが、それだけ分かれば十分だ。問題だったのは、道中ではなく現地。

 

 そこには、吸血鬼の中で最も“正しい”吸血鬼が居るという。

 正しい──正当な、ではない。正統な、だ。

 

 そして100人以上のレッサーヴァンプを配下として従え、城の警備に当たらせているという。

 下級の(レッサー)ヴァンプとは言うものの、その戦闘力は人間を遥かに上回る。目を合わせたものを麻痺させる魔眼、摂取した血液量で総量の増える命、飛翔能力、エトセトラ。人間には無い、様々な異能を持っている。

 

 勿論、彼らとて人類最強を目指せるだけの才能を有するAクラス冒険者だ。一対一なら負けないし、五人で連携できれば八体くらいまで相手取れる。

 

 ……だが、相手は100体だ。殲滅など望むべくもない。

 

 可能なら誰にも気付かれず、こっそりと忍び込んで、こっそりと出て行くべきだ。

 たとえそれが、まだたった13歳の可愛い妹を攫った憎むべき相手でも。たとえ──

 

 「たとえ妹が殺されていても、報復戦には移行しない。骸の回収も諦めて、即座に離脱する。約束だぞ」

 「……分かってる」

 

 何度も言われ、何度も自分に言い聞かせた“条件”を、イングリットはもう一度自分の心に刷り込んでいく。

 

 「……よし。そろそろ城が見える。少し早いかもしれないが、陣形を縦列に──」

 「──っ、盾ッ!」

 

 一番最初に気付いたのは、弓兵であるハダルだった。

 

 遥か地平線、陽炎に揺らぐ黄土色のぼんやりした線上に、昇る月のようにゆっくりと城が見えてきた。

 まずは上部から、黒い屋根の尖塔が見えて、鋸壁を備えたタレットが見えて──微かに、何かが光った。ハダルが叫んだのは、その光を視認した直後だ。

 

 ミンタカは自分の胴より大きい鋼の板──錬金素材と鋼板を合わせた大盾を構える。ハダルの警告の意味を理解するより先に、身体に刷り込まれた動作が反射として実行された。

 

 弓兵として鍛えられたハダルの目と直感。そしてミンタカが何十何百何千と繰り返した訓練が齎した、彼らに可能な最高速度の防御。

 それにほんの一瞬だけ遅れて、

 

 「ぐぅッ──!?」

 

 大盾がぶち破られ、腕が千切れ飛ぶような衝撃と、意識が遠退くほどの反響音に襲われた。

 

 「狙撃よ! 城から! ミンタカ!?」

 「無事だ!」

 

 ミンタカは警告、情報、心配と極めて合理的な順番で声を上げたハダルに、盾を据えた左腕を擦りながら答える。

 飛翔体は盾に僅かな傷を付けて、湾曲した表面の形状に沿うように何処かへ飛んでいった。

 

 筋肉は少し怪しいが、盾本体も、腕の骨も、内臓にも大きなダメージはない。

 それだけ確認して、目と腹を据えて、陽炎に揺れる城を睨み付けた。丹田に力を入れて、地面をしっかりと踏み締める。

 

 続く二発目は、ミンタカにも見えた。

 

 「おォ──ッ!」

 

 雄叫びと共に大盾を振るい、飛来した大矢を弾き飛ばす。

 槍ほどもある大きさの血で編まれた矢は、とんでもない威力だ。まともに受け続ければ、あと10発かそこらで腕の筋肉が致命的なダメージを負う。腕で受けきれなくなれば肩を使う必要があるが、そうなると今度は内臓が危ない。内臓にまでダメージが及べば、そこまでだ。

 

 だが、それだけの威力があるということは、逆に()()()易いということでもある。

 

 「ニコラウス!」

 「《ブラストウォール》!」

 

 ニコラウスの魔術が、一行の前に横殴りの突風を吹き荒れさせる。

 巻き上げられる砂塵が礫のような威力になる横殴りの風に煽られて、三射目と四射目はあらぬ方向へと吹き飛ばされた。

 

 「タイミングはいつも通り、弾いた(パリング)直後! 馬鹿げた弾速だが、却って色々考えずに済む!」

 

 何度となく遠距離攻撃をしてくる魔物や人間と戦い、更には仲間内で模擬戦の訓練をしてきた彼らにとって、対遠距離戦は目新しいものではないし、対策も確立している。四キロ向こうからの狙撃に対して、精々が50メートル間隔の相手に対する戦術を取らされている時点で、かなり劣勢であることは間違いないのだが。

 

 ミンタカを先頭に、巨漢の陰に隠れるような縦列陣形を形成した彼らは、一歩ずつ着実に()退()する。ここは一旦退却して、相手が「撤退した」と思い込んで緊張が緩むタイミングを狙って再度進撃すべきだ。

 

 その判断は正しい。

 だが、悲しいかな。先程から数発、散発的に飛来する砲撃は、ただの点検射──いわゆる弾着確認だった。弾速だけを重視して、矢の重量は極限まで軽くしてある。相手がどんな防御をして、次にどんな行動をして、どう撃てば効果的なのか。情報を集めるための、ただの確認作業。そこにはまだ、ほんの一滴の殺意も込められていない。

 

 そして、ここからは違う。

 

 次弾・効力射。

 弾丸である血の大矢は、ロングソードに近い約1.5キロの重量を持つ。そして監視塔から放たれた矢は、約四キロ先の地平からほんの十数秒で着弾する超高速。

 

 質量に速度の二乗を掛け合わせて二で割った威力は、勿論、距離によって刻々と減衰していく。だが──城壁にすら深々と突き刺さり、ともすれば貫通さえしかねない馬鹿げた威力だ。人間が携行可能な程度の盾で、鎧で、決して防ぎ切れるものではない。

 

 「──、ぁ」

 

 気付けたのは、弓兵であるハダル一人。

 その彼女も「ただ気付いた」だけで、警告も、回避も、防御も出来ず、ただ自らの死を悟って小さく声を漏らすことしか出来なかった。

 

 着弾した音は、誰にも聞こえなかった。

 

 直撃したミンタカは盾の上半分と上半身を吹き飛ばされ、すぐ後ろにいたハダルも下半身しか残っていない。三番目にいたニコラウスと四番目にいたヨハネスは串焼き肉のように腹の真ん中を貫通した大矢に繋がれ、地面に転がって呻いている。最後尾にいたイングリットは、着弾の衝撃で吹っ飛ぶように転倒して意識を失っていた。

 

 錬金金属と鋼板の盾。フルプレートメイルとチェーンメイルで武装した筋骨隆々の大男。革鎧で武装した女。魔力を帯びて金属板程度の防御力を付与されたローブと大の男。そして軽鎧で武装した筋肉質な男。

 これだけのモノをブチ抜いて、一部は吹き飛ばしさえしたのは、たった一発の魔術だ。

 

 がらん、と空虚な音を立てて、立ったままだったミンタカの下半身が崩れ落ちる。その音で、ハダルの下半身が頽れる音は掻き消された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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242

 ニコラウスとヨハネス、そしてほんの十数秒で気絶から回復したイングリットは、きーん、と甲高い耳鳴りに混じって、何か大きな物が飛んでくるような重い風切り音を聞いた。

 

 「ぐ、ぉ……ッ!」

 「《ブラスト──げぼっ」

 

 ヨハネスは呻きながら短剣を取り出し、血の大矢を二人の間で切断しようと試みる。

 その間、ニコラウスは血反吐を吐きながら魔術行使を試みる。絶えず喉を逆流する血液が、思考を乱す激痛が、詠唱と演算を著しく妨害していた。

 

 だが、やるしかない。余裕が無い。

 

 さっきの点検射は、少なくとも四発はあった。つまり──射手は四人いると考えられる。

 一人が四発撃ったのかもしれないが、この状況で楽観的な思考をすべきではない。追撃があると考えて動くべきだが、二人即死、二人瀕死、残る一人も戦闘困難な状態だ。脳震盪で、まっすぐ立つことも難しい。

 

 「《ブラストウォール》!」

 

 何度目かの試行で、漸く魔術が完成する。

 

 吹き荒れる暴風の幕は軌道を捻じ曲げる防壁としての役割を果たし、続く二射目を完璧に防御するだろう。二発目があれば、だが。

 

 「……撃ってこない、のか?」

 「なら好都合だ。イングリット、治療を──、っ!」

 

 とさ、と、軽い音を立てて、一行の近くに二つの人影が現れた。

 たったいま空から舞い降りたとでもいうように、翻るスカートを押さえている、モノクロームなメイド服を纏った二人の女性。荒野のど真ん中で目にするには、流石に不似合いな恰好だ──血のように赤い瞳と口元から覗く牙に目を瞑れば、そう笑い飛ばすことも出来ただろう。

 

 「きゅう、けつき……!」

 

 未だ脳震盪の影響は残っているだろうに、憎悪の力だけで身体を起こしたイングリットが二人のメイドを睨み付ける。

 だが、吸血鬼二人の目に、彼女は映っていなかった。

 

 「……加減はしたと言っていましたが、剣士が死にかけでは疑わしいですね」

 「あー、そうな。アイツにはペットちゃんに触んなって言っとかないと。頭撫でようとして首がポロンしたら、ご主人様の逆鱗ナデナデするみてぇなモンだし」

 

 メイドたちは軽口を叩きながら、大矢に繋がれたニコラウスとヨハネスに歩み寄る。

 その足取りは完全に無造作で無警戒で、ニコラウスが魔術を照準していることにも、ヨハネスが短剣を持っていることにも、全く注意を払っていない。

 

 「てか、あれじゃね? むしろ一人ヤってから「あ、やべ、()えー」って魔術推進カットした感じじゃね?」

 「……そうですね。これだと、あの子の頭を捥いでから「あ、やべ」と慌てふためくことになりそうです」

 

 安穏と、しかしペットの少年にしてみれば冗談では済まない不穏な会話に興じているメイド二人。

 血と肉骨粉と金属片の撒き散らされた惨状を退屈そうに眺める個体と、ブーツの踵で血の大矢を踏み砕き、ヨハネスとニコラウスの()()()を絶った個体。

 

 ばきん、と鉱石が砕けるような音を立てて、砥上げられた短剣でさえ歯が立たない魔術の矢が砕け折れた。

 

 ──瞬間。

 

 「魔杖メモライザー、起動! 記憶式展開(ビフォアキャスト・ロード)──魔術式三、五、六、七番の(No.3, 5, 6, 7)事前詠唱を解放(アクチュアライズ)!」

 

 イングリットの切り札である魔杖、ダンジョン産のオーパーツが起動した。

 詠唱と魔力注入に反応して、杖の先端に飾られた宝石が煌々と輝く。

 

 その効果はシンプルで、予め詠唱して封入した魔術を演算無しに発動できるというもの。本来は同時詠唱できないような高等魔術を並列して使ったり、或いは負傷や疲労で集中力を欠いた状態でも即座に発動できるのが強みだ。しかも消費魔力が通常詠唱と変わらないという優れもの。

 

 封入した魔術は使い切りとか、封入した魔術師の魔力でないと発動できないとか、九つまでしか封入できないとか、色々と制約はあるが、中々のインチキツールである。

 

 他にも利点はある。この便利グッズは、ミナの魔剣『美徳』と『悪徳』のような世界に一つだけの(ワンオフ)品とは違い、ダンジョンから同型品が多数出土している点だ。それなりに高難易度のダンジョンからしか出土しないが、冒険者用のマーケットでは半年に一本くらいが売りに出されている。入手難度が低いのは道具として優れた点だろう。

 

 何より素晴らしいのは、大っぴらに詠唱しても相手に情報が伝わらないことだ。

 そもそも魔術戦における詠唱は「今からこういう攻撃をします!」という宣言になってしまう、特大のデメリットだ。だから高位の魔術師は中級程度までなら無詠唱を習得するし、それが難しい上級魔術でも、指を弾くとか爪先を鳴らすとか、単一動作による代理詠唱を身体に刷り込んでおく。

 

 しかし、このオーパーツの起動詞から分かるのは「何個の魔術が起動するか」だけで「どういう魔術が起動するか」までは分からない。

 隙の大きい自己強化系の魔術を使う場合でも、相手を睨み付けて杖の先を向けていれば「攻撃魔術か!?」と警戒させて防御姿勢を取らせ、隙を相殺できる。

 

 「ビフォアキャストですか。面倒な……」

 

 ミナの侍従だけあって、その手の器物に対する警戒心を刷り込まれていたメイドたちは、眉根を寄せてイングリットに向き直る。

 

 だが、そのオーパーツの特性は既知のものだ。

 本人が詠唱できる魔術だけしか飛んでこないことと、イングリットの魔力総量から言って、この圧倒的劣勢をひっくり返すような魔術──神域級魔術が飛んでくることは無いと断言できる。

 

 おそらく、二人を牽制する魔術が一発。あとは逃走用か、倒れている二人への支援魔術。治療魔術を使えるかどうかは不明だが、使えるならそれも確定だろう。

 そう踏んだメイドたちは、一先ず身を守るための魔力障壁を全力展開する。

 

 吸血鬼は強みも多いが、同じくらい弱みも多い。特に光属性魔術の効きっぷりは、ナメクジに塩をかけたようなものだ。

 

 杖に飾られた宝石の輝きが最高潮に達し、四つの魔術が全くの同時に発動する。

 

 一つは、メイドたちの予想通り、攻撃だった。

 万が一にも剣士の男を巻き込まないようにと広く展開した魔力障壁を容易く貫通し、脇腹をごっそりと炭化させて吹き飛ばした雷の槍──上級攻撃魔術『ライトニング・ピアース』。

 

 「ふむ。悪くない戦術ですね」

 

 残る三つは、予想通り仲間への支援魔術。

 魔術師の男へ飛ぶ魔術威力上昇バフ『ハイ・マジック』。魔力が低い剣士の男を補助するための、異常耐性を底上げする『ハイ・レジスト』。大怪我をした二人をそれでも戦わせる、生き残らせるための痛覚軽減・戦意高揚バフ『ウォークライ』。

 

 恐らくは不意の遭遇戦に備えてのものだろう。互いにちまちま支援魔術を積んでいる暇がない緊迫した状況、どちらが先に必殺の一撃を当てられるかという状況で、ほんの一手で満遍なく仲間を強化できるように支援魔術を装填してあった。その想定、用意周到さには素直に称賛の念が浮かぶ。

 

 だが、吸血鬼相手では分が悪い。

 

 「ですがこの威力では、心臓に当たっても、削れるストックは半分か五分の三といったところでしょう。戦闘魔術師より支援系の方が向いていますよ」

 

 特に深い意味のない、死に逝くものに対する挨拶程度の戯言。その一言を告げる間に、抉り飛ばされた脇腹は傷一つない真っ白な肌へと戻っていた。

 

 すぐ殺そうが、一言述べてから殺そうが大差ないと判断しての、ほんの戯れ。

 

 ──それは、

 

 「お目が高い。イングリットは俺たちの、最高のバッファーだよ!」

 「慧眼は褒めてやる。ここで死ね!」

 

 パーティーメンバーの二人にとっては、至極当たり前のことで。

 

 これまでにも何度も助けられた、イングリットのすごいところで。

 

 彼らにとっての、反撃の鏑矢だった。

 

 「……困ります」

 

 腹のど真ん中に血の大矢を半分ずつ刺したままの男二人が、弾かれたように立ち上がって攻撃する。

 

 ヨハネスはツーハンドソードを振りかぶり、ニコラウスは槍のような横渦の竜巻を三つ並べる。

 剣は首を、槍は心臓を狙って走る。どちらも人体どころか、普通サイズの樹木なら簡単に斬り飛ばし、穿ち抜く威力だ。当然、嫋やかなメイドの柔肌など、硝子細工のように破壊するだろう。

 

 「剣士の貴方は、殺さずに連れてくるよう申し付かっておりますので」

 

 メイドの赤い瞳が、より一層紅く輝く。

 

 直後。

 

 「──ぐ、うッ……!?」

 

 傍目にも分かる隆起した筋肉を備え、立ち姿だけで大木のような力強さを感じさせるヨハネスが、死に掛けの蝶のように頼りなく揺れた。ふらふらと後退して、剣を支えにして立つのがやっとのような無様を晒す。

 

 「まひの……まがん、か……」

 

 ニコラウスが忌々しそうに呟く。

 吸血鬼の魔眼に対する対抗策を、彼らは誰一人として持ち合わせていなかった。見ればイングリットも、よろよろと足元が覚束なくなっている。

 

 ゴルゴーン、ゲイザー、吸血鬼、他にも魔眼を持つ魔物は数多く、人類の側もある程度の情報は把握している。 

 

 一般的に魔眼は、視覚を媒介とした魔術投射能力であると言われているが、これは部分的に不正解だ。

 まず、媒介としているのは“視覚”ではなく“視線”。より正確には“見る”という行為そのもの。そして、その本質は秘蹟や領域外魔術のような「現代魔術に属さない魔術」である、「呪詛」と呼ばれる魔術体系のものであること。

 

 呪詛とは、現代魔術のような具体的な攻撃や防御、支援に使うことはできない、用途や使用条件がかなり限定された魔術だ。一説によると、死霊術はこの魔術体系を祖に持つとされる。

 

 たとえば、指を差すことで相手を攻撃する。たとえば、目を合わせることで相手を支配する。たとえば、名前を呼ぶことで相手を不幸にする。

 

 大陸の一部地域や暗黒領では未だに現役であるそれらの中には、“見る”だけで相手に影響を及ぼす呪詛も存在する。数百年前の聖痕者が解析した結果、一致率は95パーセントを超えた。

 それが魔眼のルーツなのか、或いは模倣品なのかは未だに不明だが、とにかく魔眼は呪詛の一種であると判明したわけだ。

 

 呪詛は魔術と違い、汎用的な防御方法が存在しない。

 先の血の大矢を放つ魔術であれば、盾による防御もできるし、突風の壁を作る《ブラストウォール》で逸らすこともできた。

 

 だが呪詛は、攻撃自体が術者の行動によって完結する。

 “見る”呪詛であれば見た時点で、“呼ぶ”呪詛であれば呼んだ時点で、被術者と目が合おうが合うまいが、呼ばれたことに気付こうが気付くまいが、呪詛は完成し効果は発揮される。

 

 対抗策は、“見る”呪詛であればより強力な呪詛を込めて“見返す”。或いは見られる前に鏡などに身を隠すくらいしか防ぎようが無い。

 

 だが。

 対抗──()()は無理でも、()()くらいなら、呪詛使いでなくても、呪詛のことを知らなくてもできる。

 

 簡単な話。

 呪詛とて魔術の一体系に過ぎない。地球圏外産の領域外魔術でさえ、術者が貧弱なら被術者の魔力抵抗で弾かれるのだ。地球産の呪詛が、そのルールを逸脱することは無い。

 

 彼ら三人には、Aクラス冒険者であるイングリットの状態異常耐性強化上級魔術『ハイ・レジスト』が掛かっている。

 いくら吸血鬼の魔眼とはいえ、それに特化した魔術による抵抗を貫通することはできない。

 

 彼らの衰弱は、少なくとも麻痺に関しては演技だった。

 だが──支援魔術『ウォークライ』は、あくまで鎮痛と高揚の効果しか持たない。傷の治療も、失血の緩和も、臓器の修復も出来ないのでは、腹に大穴の空いたヨハネスとニコラウスはすぐに限界を迎える。

 

 先の一撃。

 麻痺の魔眼が『ハイ・レジスト』に弾かれるまでの一瞬の効果時間で邪魔された、あの一撃が、彼らに出来る最後の抵抗だった。

 

 「……」

 「ちょっとタンマ。こいつアレじゃね? 銀の血じゃね?」

 「すん……ふむ、確かに。ご主人様に献上しましょうか」

 

 蓮っ葉な言葉遣いのメイドは「よっこいせ」などと言いながらイングリットを軽々と抱き上げると、ヨハネスを担ぎ上げようとした片割れのメイドを「ちょいちょい」と焦ったように止めた。

 

 「そいつ、治療しないと死ぬぞ? そっちのやつみたいに」

 「あぁ、そうでしたね」

 

 気絶したヨハネスの傷口に手を突っ込んで大矢の破片を抉り出したメイドは、自分の手首を爪で深々と切り裂くと、溢れ出した血を傷口に掛ける。

 吸血鬼の生き血が持つ治癒効果は絶大だ。本人にとっては命のストックにすらなるそれは、他人に対しても万能薬じみた効能がある。たとえ死の間際でも、死んでいないのなら辺獄行きをキャンセルできる優れもの。

 

 「では帰還しましょう。ご主人様がお待ちかねです」

 

 二人のメイドはそれぞれ一人ずつ人間を抱え、城に向かって飛翔する。

 

 気を失ったヨハネスとは違い、イングリットは一部始終を見て、聞いていた。

 生命力と被弾位置の差で、ヨハネスよりニコラウスが先に死ぬことも分かっていた。数分か、十分か、数十分かは分からないが、二人とも死ぬことは確定していた。

 

 もしかしたらニコラウスはまだ生きていて、この二人の吸血鬼のどちらかを倒し、どちらかを瀕死にしてその血を注げば、ニコラウスもけろりと治って起き上がるかもしれない。

 

 そんな理想的な案も浮かぶが──無理だ。

 ここにいるのは、吸血鬼二人()()()()。未だあの城から、恐るべき威力の射手がこちらを見ている。

 

 あの狙撃と吸血鬼二人を同時に相手取って、ヨハネスとイングリットの二人ではどう考えても勝ち切れない。それに──元々、吸血鬼を殺すことは主目的ではないのだ。

 

 最優先目標は、イングリットの妹を奪還すること。そのためには城に侵入しなくてはならない。

 

 だから彼女らが城まで連れて行ってくれるというのであれば、大人しく従おう。

 

 仲間三人の復讐を遂げる、その機会までは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 読者の皆様には1年間大変お世話になり、心より感謝しております。お陰様で今年も大変楽しんで執筆することが出来ました。

 来年も本年同様のご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。


 いつも感想・高評価ありがとうございます! よいお年を!


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243

 明けましておめでとうございます! 今年も本作と作者志生野柱をよろしくお願いいたします!


 ミナの首筋を目掛けて繰り出された横薙ぎの一閃は、右手の魔剣『美徳』によって、簡単に防ぎ止められた。

 

 大の男、それも全身をくまなく鍛えて無駄を削ぎ落した、剣を振るために最適化された戦闘機械のような男が全身を使って振ったツーハンドソードが。

 

 「──化け物が」

 

 剣士の男ヨハネスの呟きに、フィリップは深く同意する。

 ミナは腕を下げたまま、手首の動きでエクスキューショナーソードの切っ先を上げただけだ。フィリップが喰らえば吹っ飛ぶような剛撃を、手首だけで受け止めたということになる。

 

 「支援魔術の時間くらい待つわ。あの子を楽しませるための余興だもの」

 

 気だるげに、そして何の気負いもなく言うミナ。声には微かに嘆息さえ混じっている。

 二振りの魔剣のうち、起動しているのはロングソード『悪徳』だけ。黒紫の靄は出ているが、エクスキューショナーソード『美徳』は陽光のような輝きを放っていないし、ミナもガントレットを付けていない。全く本気ではない証拠だ。

 

 傲慢、或いは挑発とも取れる言葉に、ヨハネスは舌打ちを漏らして剣を引いた。

 腹は立つ。殺意も湧く。自分を侮る怪物に対するものと、自分を喰らう怪物から逃げるための二種類の殺意だ。

 

 だが、駄目だ。今の一合、たった一太刀で理解した。

 この相手は──眼前の怪物は、獣性に曇った業前で勝てるような、生温い使い手ではない。

 

 人間以上の膂力。人間以上の視力。人間以上の速度。そしておそらく──人間以上の、才能と研鑽(技量)を持っている。

 

 「……イングリット、頼む」

 「任せて。《ハイ・レジスト》《ハイ・ストレングス》《ハイ・アジリティ》《ウォー──、っ!」

 

 イングリットが途中で大きくふらつき、魔術の詠唱が止まる。

 それが盛れるだけのバフを盛り終えた完遂によるものではなく、彼女自身に何かアクシデントがあったことは傍目にも明白だった。

 

 「魔力切れ?」

 

 不思議そうに、或いは失望したように呟くミナ。

 それなら、もう待つ必要はない。支援魔術の無いヨハネスも、魔力の切れたイングリット(魔術師)も、もはやミナのサンドバッグにもなり得ない。ペットのためのレクリエーションにも使えない、ただのゴミ。

 

 女の方は銀の血(高級品)だが、男の方は本当に不必要だ。わざわざメイドにゴミを拾いに行かせたのかと思うと、無為すぎて笑えてくる。

 

 だが、イングリットとてAクラスの冒険者だ。

 生命力を代用した詠唱もできるし、魔術師らしく、もっとクレバーなやり方も修得している。

 

 イングリットが慌てたように杖を構える。二節の詠唱の後に杖の先端に飾られた宝石が光を放つと、イングリットはまた支援魔術の詠唱を再開した。

 

 「──『フェーズトランジション』? 随分と準備がいいのね」

 

 ミナは血のように赤い目を感心したように細めて、オーパーツに封じられていた魔術を一目で看破した。

 

 生命力を魔力に変換する魔術『フェーズトランジション』。

 威力が落ち、効率も悪く、更には継戦能力が低下する代用詠唱が、それを挟むと幾らかマシになる程度の、攻撃でもなければ防御でもない魔術。長期戦を想定するなら使えると便利だが、使った分だけ継戦能力が落ちるため、むしろ超長期戦では使えないキワモノ。

 

 そんなものを記憶詠唱(ビフォアキャスト)しておく辺り、それなりの戦闘経験があるのだろうと推測できる。

 その後に積まれた『ウォークライ』『エンチャント・シルバー』はオーソドックスなバフだが、武器の耐久度を上げる『デュラビリティ』も使っていたのも高得点だ。

 

 剣は、意外と折れやすい。

 それを知っているのか、或いは、剣を剣で切り飛ばすような化け物と戦ったことがあるのか。たとえばミナのような。

 

 「……準備は終わりね? なら、ちゃんと遊んで頂戴。あの子と──私を、ちゃんと楽しませて?」

 

 ミナの声色には、言い知れぬ艶があった。

 魔性だ、と、階段の上で観戦するフィリップと、剣を構えて対峙するヨハネスの心情が一致する。

 

 男を誘惑して堕落させる、妖艶な化生だと、フィリップは思った。

 

 人と同じ姿で、人と同じ武器と技を使うくせに、人とは全く違う行動基準を持った魔物だと、ヨハネスは思った。

 

 「は──ッ!!」

 

 戦意か、恐怖か、或いは“後手に回ったら死ぬ”という直感か、ヨハネスが先んじて動く。

 フィリップが目を瞠るほどの速度──仮想敵として空想している想定上のウォードどころか、記憶にあるソフィーやマリーの全速より、なお速い。踏み込みも、肩甲骨と肩を回して繰り出される、突きのような軌道の斬撃も、フィリップがこれまでに()()()中では最速だ。

 

 だが、見える。

 見えてしまう。

 

 ディアボリカやミナのような、動体視力をぶっちぎる速度ではない。

 

 人類であるがゆえの限界か? 或いは20代後半くらいに見える男の、まだ浅い蓄積から来る限界か? どちらでもいいが──そこ止まりなら、吸血鬼には決して勝てない。

 

 「うっ!?」

 

 ヨハネスが苦悶の声を漏らし、攻撃を中止して下がる。

 ミナの持つエクスキューショナーソード『美徳』の刃を持たない先端部分が、ヨハネスの顎を下から突き上げるように押さえていた。

 

 「一回、二回……」

 

 揶揄うようなカウントと共に、ミナの左手が蛇のように動き、ロングソード『悪徳』の刃がヨハネスの内腿を撫でる。

 大腿動脈を傷付けるような深さではない。浅く、しかし痛みだけは与えるように、きちんと血が出る深さで。

 

 「イングリット!」

 「《ライトニング・ピアース》!」

 

 体勢を崩したヨハネスをカバーする形で、貫通力に長けた雷撃が飛ぶ。

 魔術で生み出された雷そのものは雷速に至るが、無詠唱でないのなら発動には一秒弱を要する。ミナが魔力障壁を展開して防いだのは、フィリップにも予測できる当然の結果だった。

 

 「……」

 

 ミナは『美徳』の切っ先を向けて照準し、血の槍を生み出して空中に浮かべる。

 即座に魔力障壁を展開して防御の構えを取るべき状況だが、しかし、イングリットは不敵な笑みを浮かべてミナの目を見据えた。

 

 フィリップにとっては意外な行動。だが、イングリットにとっては当然の行動だった。

 

 当然、防御など必要ない。

 ヨハネス(前衛)が健在で、彼が間合いの中に敵を捉えているのだから。

 

 「──俺だけ見てろよ、色女」

 

 血の槍を切り飛ばしたヨハネスが、バックステップを踏みながらニヤリと笑う。

 好戦的で獰猛な、歯を剥くような笑顔に、ミナは不快そうに眉根を寄せた。

 

 「……それ、吸血鬼(私たち)はあまりいい意味では使わないのだけど?」

 「おう、人類(俺たち)もそうだぜ、クソビッチ。無駄に色気振りまきやがって、人間が化け物に欲情するかっつーの」

 

 中指を立てて挑発するヨハネスに、ミナはむしろ「何言ってるんだこいつ」と言いたげな小馬鹿にしたような嘲笑を浮かべた。

 

 「イングリット! 加速をもう二段階、頼む!」

 「了解! 《レッサー・アジリティ》《アジリティ》」

 

 通常、補助魔術は一人に対して、同じものを同時に掛けることはできない。だが、同系の魔術でも程度が違うものを重ね掛けすることは可能だ。

 

 二度、三度と素振りされるツーハンドソードは、もはやフィリップでは見えないほど加速した。

 ヨハネスの筋繊維も悲鳴を上げているが、ここで無理をしなければ、二人そろって死ぬだけだ。ここが正念場、全身全霊を賭すべき場面。

 

 「()っ……オーケー、この塩梅か。よし……」

 

 たった数回の素振りで筋肉にかかる負担の閾値を見つけ出したヨハネスは、速度を八割ほどにまで落とす。それでも十分に速く、フィリップには視認できない領域に留まっていた。

 

 ツーハンドソードが正眼に構えられる。

 刃渡り150センチ、身幅10センチもの威容を誇るツーハンドソードは、大振りで豪快な武器だ。術理どころか刃が無くても振り回すだけで十分に脅威になる、長大な鉄塊。

 

 多少乱雑に扱っても壊れない。たとえ一部が刃毀れしたとしても、全体の殺傷力に影響は無い。

 鋭利さを以て切り裂くよりも、その重量で叩き切る──()()()()方が向いている。テクニック最重視のウルミとは対極にあるような、パワー型の武器。

 

 だが、ヨハネスの動きには、むしろ刃の薄いサーベルなどを扱うような、繊細で緻密な技術があった。特に肩甲骨や腰回りの動きなどは、ウルミ使いのフィリップの目から見ても羨ましいほど柔らかい。

 

 単純に上から下へ振り下ろすのではなく、むしろ前から後ろに突いて引くような軌道の斬撃。横から見ると、円ではなく楕円形の動きで、ツーハンドソードが振るわれる。

 自傷行為になるギリギリまで速度を上げた、ヨハネス自身が笑ってしまうほど速い一撃。

 

 それを、

 

 「三回……四回……」

 

 悠々と、いっそ優雅な動きで、踏み越える。

 

 ミナの動きは、フィリップがギリギリ目で追える程度の速度だ。何をしたのかも分かった。

 一呼吸、ヨハネスの剣が前に出て振り戻されるまでの間に左脇を抜け、ついでにロングソード『悪徳』で、また体表だけを撫でていった。上腕の内側と背中側の軽鎧の隙間──上腕動脈と、腎臓の位置。どちらも急所だ。カウントは、「何回殺せた」という意味なのだろうか。

 

 「……すごい」

 

 フィリップは思わず呟く。

 その心中には、大きな驚愕と称賛、そして僅かな敬意までもがあった。

 

 ミナの動きは柔らかく、淀みがない。ワルツでも踊っているように優雅な所作だ。

 だが、遅くない。全く、これっぽちも、遅いと感じない。

 

 異常だった。

 脳が壊れたのか、目がおかしくなったのか、感性に異常を来したのか。目以外はとっくのとうにイカレているフィリップが、柄にもなくそんなことを考えてしまう矛盾。

 

 目で追えないトップスピードには決して至らないのに、傍目には悠然と歩いているようにさえ見えるのに、絶対的に「速い」。

 フィリップの“拍奪”のような特殊技術の為せる業ではない。それは純然たる出力限界の差だ。フィリップには伝わらない喩えだが、自転車の時速30キロと、戦闘機の時速30キロでは、同じ速度でも意味が違うという話。

 

 「ッ──!?」

 

 ヨハネスが慌てたように足を切り返し、振り向きざまに攻撃する。

 先程の一撃よりも荒く、繊細さに欠ける動きだが、無理もない。ヨハネスの後ろに回ったということは、後衛のイングリットが無防備になったということだ。前衛としては、まずヘイトを買って、次に立ち位置を交換する必要がある。

 

 焦りからかやや大振りになったツーハンドソードを、「悪徳」が下から掬い上げていなす。ミナ自身はその下を掻い潜り、またカウントと共に足首と膝裏を浅く斬った。アキレス腱と、膝窩動脈の位置。またしても急所だ。

 

 「クソッ!?」

 

 痛みか、屈辱か。罵声を吐いたヨハネスがバックステップを踏んで距離を取る。

 

 傍から見ているフィリップにも分かるほど“遊ばれている”。

 彼我の存在格差を受け容れて、その冷笑を心地良いとさえ感じているフィリップが、「あれは不愉快だろうな」と共感できるほどに、ミナの表情は冷笑と揶揄に塗れている。

 

 ──児戯。

 そんな言葉を、ミナ以外の全員が脳裏に浮かべる。

 

 これはもう、子供の遊びだ。

 ただし捕えた羽虫の肢を捥いで殺すような、残酷なものだが。

 

 いつでも殺せる。

 その「いつでも」はミナが飽きた時なのだろう。そう思っていたフィリップだが、ミナはふわりと舞うような動きでバックステップを踏み、フィリップの座る階段の下まで下がった。

 

 「さぁ、きみの待ち望んだ魔剣の開帳よ。あれぐらいの技量なら、まぁ、ギリギリ使ってあげてもいいわ」

 

 さっきから使ってたじゃん、とは思わない。

 『悪徳』も『美徳』も、ただモヤモヤが出て光るだけの武器でないことは明白だ。その真の力が露わになるというのなら、瞬きの間すら惜しいくらいだ。余計な事を考えている暇は無かった。

 

 「よく見ていなさい」

 

 ミナの右腕に漆黒のガントレットが装着される。

 魔力によって作り出されたそれは、魔剣『美徳』の邪悪特攻がミナ自身を傷付けないようにするための防具だ。

 

 魔剣が、ミナが、その性能の何割かを解放する姿。

 間違いなく遊びの範疇ではあるが、決して純度100%の遊びではない証。

 

 白銀の断頭剣が光を放つ。

 陽光のように明るくはあるが、夏の日差しのように苛烈で、心の安らぐような温かさは無い。邪悪なるものを払い除けはするが、善良なるものを守ることは無い、徹底的に攻撃的な光。

 

 「──、ぁ?」

 

 カチャカチャと、金属同士の触れ合う音がする。音源は言うまでもなくヨハネスの軽鎧だ。

 本気の一端を見せた吸血鬼に、魔剣に怯えた──そんなはずはない。彼とて歴戦の冒険者、剣士であり、決死の覚悟でこの城に来たはずなのだから。

 

 だが、彼の四肢は明確に怯え、震えている。ミナはまだ剣を構えてもいなければ、彼に近付いてもいないというのに。

 

 身体の末端が震え、歯の根が合わなくなり、急激に喉が渇いていく。

 全身の細胞が過呼吸状態に陥り、息を吸っても吸ってもいつまでも息苦しい。鼻腔が膨らみ、目が揺れて焦点が合わなくなる。汗腺が開き、冷や汗が顎から滴り落ちた。

 

 「ヨハネス、どうしたの?」

 

 カチャカチャと喧しく震える仲間を心配するイングリット。

 

 ヨハネスはねばついた唾液を喉に詰まらせながら嚥下して、

 

 「お、おれ、俺は……()()()()()

 

 そう、絶望を呟いた。

 

 「な、なに? 何をされたの? 魔剣の力?」

 

 イングリットは慌てながら、頭の片隅で懐かしさのようなものも感じていた。

 ヨハネスは強いが、初めからずっと強かったわけではない。駆け出しの頃はゾンビやスケルトンにビビり散らかしていたし、腕の骨が見えるような大怪我をしたときには「もう死ぬ、死んじゃう!」と泣き喚いていたものだ。

 

 あれはまだ、ヨハネスが13歳くらいの頃だったか。

 

 今やヨハネスもイングリットもAクラス冒険者。今年で23歳だ。

 その彼が、冒険者になりたてのガキのように怯えて膝を笑わせながら、譫言のように自分の死を語っている。

 

 魔剣による恐怖の喚起──魔術『フィアーオーラ』のような能力なのだろうと推察したイングリットだが、違う。

 

 「……これに引っ掛かる程度なら、魔眼を使うまでもないわね」

 

 ミナは薄く嘲笑し、無造作に──それでも優雅な足取りだが──一歩、ヨハネスに歩み寄る。

 一歩ずつ、一歩ずつ、高いヒールの音を鳴らしながら、悠然と。

 

 「……、っ」

 

 ヨハネスは動けない。

 だが鎧の鳴る音が途切れないということは、あの『拘束の魔眼』を使われていないのは確実だ。あれは身体の震えどころか、心臓の動きさえ停止する。

 

 ミナはそのままヨハネスの前に立ち、断頭剣を振りかぶる。

 

 「ヨハ──」

 

 何かの魔術を使おうとしたイングリットが不自然な挙動で停止する。

 身体の動きに遅れる長い髪さえ靡いた形で止まるそれを、フィリップは身を以て知っていた。

 

 そして剣が振るわれ──反射的に防御に掲げたツーハンドソードごと、断頭剣はその名の通りの働きを示した。

 

 ぼとりと鈍い音を立てて頭が落ちると、力の抜けた手からツーハンドソードが落ちる。

 刃渡り150センチもの長大な金属の塊は、全くの無傷だった。

 

 

 



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244

 死体を片付けるようメイドに言いつけたミナは、階段に座ったままだったフィリップの横に座ると、フィリップをひょいと膝に乗せた。

 汗一つかいていないのは、吸血鬼の特性なのか、或いは汗をかくほどの運動ではなかったのか。いつも通りの、落ち着くようでもあり、動悸が激しくなるようでもあるミナの匂いと柔らかさに包まれる。

 

 「楽しめたかしら?」

 「……勿論です。さっきの魔剣の力は防御貫通……いえ、防御無視ですか?」

 

 フィリップの問いに、ミナは薄く笑みを浮かべると、フィリップの髪を梳くように頭を撫でた。

 

 「そう、正解よ。魔剣『美徳』──邪悪なるものの首を狙った攻撃は、如何なる防御も許さず、その頭を落とす。他にも色々と機能はあるし、便利な武器でしょう?」

 「便利……まぁ、そうですね」

 

 ぼんやりと同調するフィリップだが、「便利」の一言で片づけて良い性能ではない。

 

 相手の攻撃に対して取れる手段は、防ぐ、避ける、カウンターの三種類。フィリップの『拍奪』はこれらのタイミングを狂わせるから強いのだが、それでも盾や鎧や魔力障壁といった、タイミングも何もなくガチガチに固めただけの防御には意味がない。

 

 対して、魔剣『美徳』は“防ぐ”という選択肢を取った時点で詰む。

 そしてミナの速さなら、回避もカウンターも間に合わないだろう。亀のように防御を固めて硬くなるしかないのに、盾も鎧もすり抜けて攻撃されるのだ。

 

 強いと言うか、悪辣だ。これでは対処のしようがない。

 

 少し考えてそこに思い至ったフィリップは、続けて彼女の発言にある矛盾点にも気付く。

 “邪悪なるものを攻撃した場合のみ”防御無効。……ということは、あの冒険者は、実は邪悪なナニカだったのか? 人間に化けた魔物とか、或いはいつぞや遭遇したような人型の悪魔とか。

 

 メイドたちが掃除している血痕を一瞥して首を傾げたフィリップ。その内心を、ミナは完璧に見抜いていた。

 

 「それは魔剣『悪徳』の性能ね。攻撃対象の聖性を奪う、ただそれだけの剣だけど……それ以上に、頑丈で鋭いところが気に入ってるわ」

 「へぇ……。あー……だから執拗に斬り付けてたんですか。生かさず殺さず……いや、十分に邪悪寄りになるまで生かすために」

 

 戦術以上に悪辣な所業だが、フィリップを楽しませるための行為だし、何よりフィリップ自身がそれを楽しんでいたのでノーコメントとする。

 

 「魔剣って言うから、もっと派手なものだと思ってました。斬撃が飛んだりとか、ビームが出たりとか」

 「ふふっ。ビームはともかく、斬撃を飛ばすのに魔剣なんて要らないでしょう?」

 

 ミナは可笑しそうにくすくすと笑う。

 フィリップもつられて笑いかけて、すっと真顔になった。

 

 「え? できるんですか? 斬撃、飛ばせるんですか? どうやって?」

 

 驚愕と、懐疑と、僅かに期待も滲ませて問う。

 斬撃──剣による攻撃とは、要は鋭利に成形された金属によって圧力を集中して破壊しているわけだ。その圧力は当然ながら刃部に生じ、そこから離れることはない。

 

 斬撃が飛ぶなんて、物理的に有り得ないのだ。

 剣を振った勢いで圧縮空気の刃を作るとか、音速を大幅に超える速度を出して衝撃波を飛ばすとか、手からすっぽ抜けた剣が相手に直撃するとか、そういう理屈なら理解できるが。

 

 或いは──

 

 「あ、もしかして、そういう魔術があるんですか?」

 

 それなら納得がいく、と推理するフィリップだが、ミナは不愉快そうに眉根を寄せた。

 

 「きみは……はぁ」

 

 ミナは大きく嘆息すると、不機嫌そうに立ち上がって、階段を上って行ってしまった。

 残されたフィリップは暫し呆然として、困り顔のルーシェと顔を見合わせる。

 

 「……え? なんかおかしなこと言いましたか、僕? な、なにか失礼なことをしちゃったんでしょうか」 

 「うーん……メイドの立場からはお答えし辛いのですが……今のはご主人様の早合点ですね。あ、で、でも大丈夫です! 私がご主人様にご説明しますから!」

 

 フィリップを安心させるように明るく笑いかけたルーシェは、ミナの後を追ってぱたぱたと──そんな擬音が似合う走り方なのに、足音が殆どしないのは流石の一言に尽きる──走り去ってしまった。

 むしろ僕の方に説明をくれ、と伸ばした手は虚しく空を切り、がっくりと肩を落とす。

 

 その肩を、メイドの一人が慰めるようにポンポンと叩いた。

 

 「話は聞かせて貰ったぜ、ペットちゃん。さっきのはオメーが悪いんだが……ま、人間の基準じゃ無理もない話だから、メイド長のゴセツメーとやらを待ってりゃいいんだよ」

 「……僕の何処が悪かったんでしょうか」

 「ん? そりゃオメー、「斬撃を飛ばせるか」なんて、ご主人様にしてみりゃ「オイ、ちょっとジャンプしてみろよ」みたいな質問だかんな」

 

 ……そんなカツアゲみたいな質問だったのか、と愕然とするフィリップだが、メイド自身も「ちょっとニュアンス違ったな?」と首を傾げていた。

 

 「……や、文字通りの意味な? ご主人様にとって斬撃を飛ばすことなんて、そのぐらいのコトなんだよ。「ジャンプ出来るか」とか「走れるか」とか、そういう当たり前の、質問の意図が読めねー類の、馬鹿にされてると感じるような質問なんだよ」

 「…………」

 「……いや、疑いすぎじゃね? 目だけで疑いの強さが分かるって相当よ?」

 

 じっとりと深い疑いの透ける目を向けるフィリップの顔をもちもちと弄ぶメイド。その手をぺちりと払い除けたのは、フィリップではなく片割れのメイドだった。今の今まで一人で死体を処理していた彼女は、心なしか蟀谷に青筋を立てている。

 

 フィリップの怒られセンサーに大きな反応がある。

 これは自分ではなく他人が怒られる時のやつ……具体的には、モニカのサボりが女将にバレた時と同等の反応だ。早めに退散しないと、とばっちりを喰らう可能性が高い。

 

 「掃除を手伝わずにペットと遊んでいるとはいい御身分ですね? 御手隙でしたら、あれを食糧庫まで運んでいただけますか? あぁ、ついでに食糧庫内の清掃もお願いします」

 「……ウス」

 「それから君も──、おや、逃げ足の速いことで」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 イングリットにかけられた拘束の魔眼の効果は、城の地下にある食糧庫──或いは地下牢──の一室に放り込まれた数分後に解けた。

 ぺたぺたと自分の身体をまさぐり、隠し武器や脱出用のワイヤーソウの類が取り上げられていることと、魔力制限の首環が付けられていることを確認する。それから漸く、現状の把握を開始した。

 

 イングリットが収容されたのは、一般的な石造りの独房だ。

 鉄格子の嵌った前面以外の全てが石のタイルで舗装されており、中にはトイレ用の穴と、地下水が出てくる水道とシャワー、毛布が二枚だけ。灯りは独房の外、廊下の天井に吊られたランタンだけだ。

 

 目のピントを合わせる毛様体筋まで固定され視覚も十全では無かったものの、大まかにルートは把握している。三半規管が動かなかったせいで前後感覚も曖昧だったが、城の玄関までは戻れるはず。

 

 「──悪くない状況よ。落ち着け、私」

 

 防具代わりのローブを奪われ、肌着姿で狭い独房の中を歩き回って考える。

 

 状況は、そう悲観するほど最悪ではない。

 どの道、この食糧庫までは来なくてはならなかったのだ。妹が居るとしたら、必ずここだ。

 

 目に見える範囲だと、向かいの独房と、その両隣。全てにイングリットより若い少年少女が収容されているが、皆知らない顔だ。

 本来は頼りがいのある年上の姿を認めた彼らは、それぞれ色味の違う双眸に一瞬だけ期待感を滲ませる。しかし、すぐに諦めに濁った。

 

 「……貴女、ここに来てどのくらい?」

 

 手始めに正面にいた少女に話しかけるが、返事は無い。

 妹を探さなくてはならない、そして一刻も早く脱出しなくてはならないという焦りから声を荒らげようとしたイングリットは、直前で怒声を呑み込む。

 

 しかし王国人にありふれた青い瞳には、依然として大きな怒りの揺らぎがあった。

 その宛先は同じ境遇の子供ではなく、その首に付けられた金属製の首環──緘口の首環だ。魔力制限の首環が一定値以上の魔力発散を禁じるように、これは一定音量以上の発声を禁じるものだ。

 

 だが、声が出せないだけなら、まだ意思疎通はできる。

 

 「イエスなら頷いて、ノーなら首を振って。分からない時は首を傾げて。いい?」

 

 そう言われた少女は、諦めに濁った目のままこくりと頷いた。

 従っても従わなくても、あらゆる全てがどうでもいいから、気紛れに従うことにしたのだろう。

 

 「ここにコルネリアって女の子はいる? 私と同じ色の金髪で、目も同じ青色。歳は、貴女と同じくらい」

 

 少女は首を傾げる。

 分かっていたことだ。この地下牢は造りからして、向いとはす向かいの三つの部屋しか見えないようになっている。声を出して会話することもできないのなら、囚人間での情報の遣り取りは、簡単な名前の交換でさえ為されない。

 

 「……4日くらい前に、ここに連れて来られた子がいなかった?」

 

 今度は頷きが返される。

 だが──それが妹だと決めつけるのは早計だと、イングリットは正確に理解していた。

 

 高い知性を持つ高位の吸血鬼は、人間を一度で吸い殺すことはない。

 グラス一杯分、多くてもボトル一本に満たない量を吸い上げて飢えを満たしたあと、血液が回復するまで放置する。要は人間そのものを餌にするのではなく、人間を餌の生産場にしているということだ。

 

 この手の吸血鬼は、良質な血の人間をペットとして飼育して、気が向いた時に吸血する携帯食料のような扱いをすることもあるという。

 

 だが“牧場主”曰く、この城の人間の消費速度は異常だ。

 この100年で10万人以上の人間を消費している。平均して一日に三人──一般的な吸血鬼が一月に一人くらいの消費間隔であることを考えると、その異常性が際立つ。

 

 何より恐ろしいのは、吸血鬼は喰らった人間の数だけその命を増すことだ。この城の吸血鬼が持つ命の総数は、10万を超えていることになる。

 

 ──いや、戦って勝てないことは端から織り込み済みだ。今更怯えることは無い。敗北して捕虜になることも、頼りになるリーダーが想定していてくれた。

 

 「……大丈夫。そのうち私の仲間が助けに来てくれるわ。その時は貴女たちも一緒に脱出しましょう」

 「……」

 

 イングリットの言葉は、本来なら彼らに歓喜を齎す内容のはずだ。

 しかし、少女は慌てたように首を横に振り、強い否定の意を示す。どうしてと考えて、イングリットは遅ればせながら自分の失策を悟った。

 

 少女がちらりと視線を投げた方から、小さな靴音が聞こえたからだ。石の床でも最小の音しか立てない足運びで近付いて来たのは、さっき戦ったのとは別のメイドだった。この食糧庫の番人──或いは看守のような役目を持っているのだろう。

 

 彼女は無言でイングリットの独房を覗き込むと、口の前で人差し指を立てた。

 万国共通、そしておそらく人間と吸血鬼の間でも共通している「静かに」というジェスチャーに、イングリットは従うことしか出来ない。

 

 「……分かったわよ」

 

 と言いつつ、瞬き信号や空気文字や口パクで意思の疎通を試みるイングリットだったが、少女の側に受け取る意思がなく、無意味に終わった。

 

 殺されるか、尋問でもされるかと覚悟したイングリットだが、吸血鬼は明確に脱走を企てているイングリットに何もしなかった。──まぁ、そうだろう。それだけの存在格差があるし、人間を格下と侮る手合いだからこそ、人間の側に反撃のチャンスがあるのだから。

 

 奴らはきっと、城の中に侵入者が居るなんてこれっぽちも考えていない。

 

 Aクラス冒険者パーティー『閃天の星』、六人目の仲間──潜入と破壊工作に長けた盗賊、アトリア。

 魔力視を誤魔化す魔術『スケープゴート』や気配を遮断する『デッドサイレンス』を駆使する彼女の隠密スキルは、相手次第では目の前を素通りしてもバレないほど。

 

 他の五人とは別ルートで城に侵入した彼女が居る限り、イングリットは──『閃天の星』は、まだ負けていない。

 

 決意の炎を瞳の内に宿した直後、金属扉が軋む音と、複数の靴音が聞こえた。

 新しく地下に降りて来た何者かは、看守役のメイドと何事か話すと、そのままこちらに歩いてくる。 

 

 死を告げる天使の足音にしては軽い。

 そういう技術を持たないイングリットに体重の推測は出来ないし、そういう意味ではなく。纏う雰囲気と言うか、むしろ殺気を纏っていないというべきか。“殺気”のようなものが感じられないのだ。

 

 戦場に向かう兵士とも、ギロチンに向かう処刑人とも違う──()()()のような空気。

 

 果たして、独房をぴょこりと覗き込んだのは、青い瞳の──吸血鬼ではない──少年だった。

 

 「……あ、いた」

 「……君は、玄関ホールにいた……、っ!」

 

 妹と年頃の近い少年が独房を覗き込み、小さく声を漏らす。

 その安穏とした表情につられて気が緩みそうになるが、その隣からひょっこりと、麻袋のような物を担いだ濃い顔の紳士が覗き込めば、弛緩した空気も一瞬で吹き飛んだ。

 

 「あ、う、うそ、嘘……!」

 

 イングリットは目を見開き、震えながら後退る。

 恐怖と絶望でうまく機能しない足がもつれて、石の床に尻もちを搗く。その痛みさえ麻痺するほどの感情の波が嘔気になって湧き上がって、口元を押さえた。

 

 「アトリア……!」

 

 大柄な男吸血鬼──ディアボリカが肩に抱えていたのは、麻袋ではなく、ぐったりと脱力した人間だった。それも知らない顔ではない。イングリットたち『閃天の星』最後の一人、盗賊の少女アトリアだ。

 

 「やっぱりお知り合いでしたか。よかった。ミナの部屋に行こうとしたら、ばったり会ったんです」

 「殺されかけてたけどね……? ま、そんな無頓着なところが気に入ったんだけど」

 

 イングリットには分からない話をする二人。

 言葉は通じる。意味も通じる。だが──違う。何か、重要で、決定的なものが違っている。その差異故に、イングリットと独房の外の二人では、会話が噛み合うはずがなかった。

 

 フィリップとディアボリカは和気藹々と、ボケとツッコミのような会話の応酬をして、やがてふと思い出したようにイングリットに向き直る。

 

 「折角なので、隣の独房(へや)に入れておきますね!」

 

 善意がましく言ってにっこりと笑ったフィリップ。その顔に悪意や嘲弄と言った負の気配は微塵もなく、友達同士仲良くできるように、という的外れな気遣いが透けて見えた。

 

 「助けてくれ」と言う気にもならない、言うだけ無駄だと心底から知らしめる、透徹した異常性がある。

 彼にとってこの場に於ける最大の善行は()()であり、その他の選択肢は──たとえば、吸血鬼ではなく人間の味方をするという、人間にとって当然の選択肢が欠落している。

 

 人間だから。或いは、吸血鬼に囚われているから。そんな理由づけさえ必要とせず、「なんとなく善さそうなこと」をしているだけの、偽善的利己主義者。

 

 善悪の二元で語るなら、間違いなく悪に属するもの。

 自らの行いの善悪を省みず感情のままに動く、無邪気で無頓着なる醜悪。

 

 「あ、隣より向かいの方が話しやすいですか? ……まぁ、私語自由ってワケでもなさそうですし、どっちでも大差ないですかね」

 

 彼はそう言って、にこやかに立ち去る。

 吸血鬼の男はその背中に意味深な視線を向けると、アトリアをイングリットの隣の独房に入れて後に続いた。

 

 後には気を失った女と、希望を失った女が一人。

 

 それぞれ今日の昼食と、夕食になる。

 それは良い、善いことだ。絶望に浸る時間が少なく済むのだから。死を覚悟して死ねることも、死を望んだ日の内に死ねることも、すべて善いことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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245

 「……で、話を戻すわよ、フィリップ君」

 「クソ、有耶無耶に出来なかったか……」

 

 地下牢を出るや否や、牽制打を放ったディアボリカ。フィリップはうんざりしたように天井を仰いだ。

 

 フィリップがミナに謝りに行こうとしたら、ふらりと現れたディアボリカにお説教を喰らったのだ。その途中で例の冒険者に襲撃され、色々あって今に至る。

 

 「さっきも言ったけど、アナタ、ミナに戦わせて自分は後ろで見てたんですって? それがまず減点よ。オトコノコなんだから、ちゃんと女性を守らなくちゃ駄目!」

 「さっきも聞きました」

 

 戦わせたというか、戦っているところを見せて貰うのが主目的だったのだが、たぶん論点はそこではないのだろう。

 

 フィリップは辟易とした表情を苦労して制御して頷く。

 さっきは「僕よりミナの方が何倍も強いのにですか?」と返したのだが、

 

 「女の子に向かって“強い”とか“カッコいい”は禁止! 女はいつだって、“綺麗”と“可愛い”を求めてるんだから! ……あ、でも、軽率で安っぽいのは駄目よ? ちゃんと心の底からの言葉じゃないと、すぐ分かるんだから。分かった?」

 

 と、追加で怒られたので、もう何も言わない。

 

 「……で、さっきも言いましたけど、ミナを怒らせちゃったので、相談に乗ってくれませんか?」

 

 さっきは火に油を注ぐことになった台詞を繰り返されて、むしろ気が削がれたディアボリカは、溜息と共に「で、何をしたの?」とアドバイスする姿勢を見せてくれた。

 ちょうどこれを言った辺りで、何処からともなく現れた斥候職らしき冒険者に襲われたのだったか。いくら奇襲とはいえ、ディアボリカの視界に入った時点で負けが確定していた。

 

 フィリップが事情を説明すると、ディアボリカは顎に手を遣って首を傾げる。

 状況が分からない──というわけではない。ただ、ディアボリカから見たミナは、そんな些細なことで怒るほど狭量でもなければ、血気盛んな性格でもなかった。

 

 「それは怒ってるんじゃないと思うけど……あ、でも、すぐに後を追わなかったのは減点! そういうときは「これは時間を置いた方が落ち着いて話せるな」っていう冷静さが、女の子には冷たく見えるのよ?」

 「その女性代表みたいな物言いはホントに止めて欲しいんですけど。シンプルに鬱陶しいです」

 「それも駄目に決まってるでしょ!? 女性を女性扱いしないなんて論外よ!!」

 「うる──あぁぁぁっ!」

 

 うるせぇ殺すぞ! とでも怒鳴れたらストレスの発散になったのだろうが、残念。年上相手に本気で中指を突き立てられるほど、フィリップの育ちは悪くなかった。直前で「下品だし良くないよね」なんて思ってしまう辺り、幼少期からのしつけというモノは、中々に強く根付いている。

 

 そしてそれを「知ったことか」と無視するには、フィリップは賢し過ぎた。

 

 くどくどうだうだと、十分ほどの有難いお説教を終えたディアボリカは、フィリップをくるりと180度回転させて、背中を押す。

 

 「──とにかく、まずはミナに謝りに行きなさい。……いえ、多分怒ってはいないと思うから、ちゃんと話をするの。いいわね?」

 「……はい」

 

 元々そのつもりだったのにお前が引き留めたんだよクソったれ、とは言わず、フィリップは素直に頷いた。

 

 ミナの部屋に行くと、扉の前に一人のメイドが立っていた。

 一応の礼儀として入っていいかと訊ねると、ミナは書庫に居ると言われてそちらに向かう。

 

 案内された書庫は、その名に相応しい出で立ちだった。

 

 木製の大きな本棚が整然と並び、その一つ一つに分厚い本が所狭しと詰め込まれている。

 部屋自体はそう広くないが、学院の図書館に並んでいるような基礎の魔導書や参考書、娯楽書の類が全く無い分、『純度』はこちらの方が上だろう。勿論、学院の禁書庫を含めると、その評価も覆るが。

 

 本棚の合間を縫って歩くと、すぐにミナを見つけた。

 並ぶ本の背表紙に艶めかしい指を這わせ、愁いを帯びた表情で本棚の間を進む彼女は、傍目にも怒りを湛えている様子は無い。おっかなびっくり近付いていくフィリップに気付くと、不思議そうにしながらもにこりと柔らかに微笑むほどだ。

 

 「本を探しているの? そんなの、メイドにやらせればいいのよ?」

 「……ミナだってそうでしょう? 何をお探しで?」

 

 冗談めかして使用人風に言うと、ミナはくすりと笑ってフィリップを手招き、背中側から抱きすくめた。背中に大きな反発力を感じるが、そのクッションは柔らかに潰れて受け容れてくれて、正面から埋もれた時とは別種の心地好さがある。はらりと揺れて頬を擽る黒髪が、ミナの酔いそうになる匂いを鼻先に届けた。

 ミナはそれから何をするわけでもなく、ただフィリップの首筋に顔を寄せて、そのまま会話を続ける。

 

 「まずはペットについて。それから、私たち吸血鬼について書かれた本を探していたのだけれど──見当たらないわ。きみに、私達のことを手っ取り早く説明できればと思ったのだけれど」

 「……怒ってないですか?」

 「怒る? どうして? 何か悪いことをしたの?」

 

 フィリップの頭や胸を撫でる手つきにも、穏やかを通り越してダウナーな声にも、冗談や怒りの気配は感じられない。本当にディアボリカの言う通り、怒っていないらしい。

 

 「いえ、さっき失礼なことを言っちゃったみたいで……。斬撃を飛ばせるかっていうの、ミナにとっては不愉快な質問だったんですよね? ごめんなさい」

 「あぁ、それのこと。不快……というのは少し違うわ。きみの無知に呆れはしたけれど、元より人間とは無知なものだもの。呆れはしたけれど、怒りも、失望もしないわ。教える手間を疎む気持ちはあるけれど……」

 

 ミナはフィリップの首筋に顔を埋め、深々と呼吸を繰り返す。

 フィリップを抱き締める片腕に籠る力が増して、背中に当たる柔らかな膨らみの存在感が大きくなった。

 

 「可愛いペットのためだもの。メイド任せというのも、愛が足りないものね」

 

 その後フィリップとミナは吸血鬼に関する基礎的な書物を探したが、結局見つからず、ミナが直々に教えてくれることになった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 “千城城”滞在二日目夕刻。

 フィリップ・カーター誘拐から約36時間──王都から約240キロ地点。

 

 フィリップ・カーター救助隊の六名は、出発以来二度目の大休止を取っていた。

 人数の内訳は、救助隊がルキアとその従者二人、ステラとその親衛騎士二人の六名。プラス、案内役の謎の使い魔(シルヴァ)

 

 鎧騎士が二人いるとはいえ、傍目には少女二人とメイドが二人、あとは子供だ。しかも全員が顔・身体共に極上ときていれば、不埒な輩が近寄ってくるのも無理はない。やや大ぶりな幌付きのキャラバン型馬車に荷物──殆ど医療物資と食料なのだが──を満載しているとなれば、尚更だ。

 

 だが相手が悪かった。

 ここに居たのがルキアだけなら適当に魔術をぶっ放して先を急いでいたかもしれないが、馬・人間共に限界が近いことを正確に理解できる人材がいて、しかも指揮官は合理性の塊だ。

 

 ベースキャンプ付き補給物資(とうぞく)が自分からフラフラ近寄ってきたのだから、見逃すはずがない。

 

 二名焼死、三名斬撃による失血死、二名断頭死、不定数粛清死(塩の柱)

 

 中には「銀髪赤眼の女魔術師」に正しく怯える者もいたが、視覚頼りで脅威判定を下している時点で遅い。ルキアの射程は視界。必中を念頭に置かないのなら、『明けの明星』は重力を振り切って宇宙空間にまで届くのだ。その姿を視認した時点で、死神は隣に立っている。

 

 ほんの数秒で野党団を全滅させた一行は、その拠点らしき森の一角に腰を落ち着けていた。

 

 「それなりの規模で助かったな。水、食料、設営済みの焚火とベースキャンプまで譲って貰えた」

 

 正確には案内してもらっただけだが。

 斥候役を半殺しにして案内させて、拠点に居た全員を殺して奪ったわけなので、旅人や商人から金品を巻き上げて、場合によっては殺すこともある程度の野盗よりよほど残虐だった。

 

 しかも水も食料も、自分たちで持ってきたものを使っている。実質的には焚火しか利用していない。

 

 「……野盗の寝床を使うの? 私だけ馬車で寝ていいかしら?」

 「寝袋だけ出せばいいだろう? 焚火の近くの方が温かいし、虫除けにもなるぞ?」

 

 木蔭に隠すように置かれていた宝箱を検めながら適当に言うステラだが、言葉の内容は相変わらず正しい。確かに馬車の中で寝るよりは、寝具を出して焚火の側で寝た方がいいだろう。

 

 メイドに命じて用意させるルキアの隣で、ステラはずっと宝箱の中身をゴソゴソやっていた。

 盗賊を皆殺しにして盗品を漁るのは王女どころか、そこらの冒険者よりアウトローだし、王宮暮らしと最高の教育で培われた審美眼は盗品の目利きなんぞに使われるべきではない。

 

 「ふむ、碌なものがないな。見ろルキフェリア、この「僕は宝石です」と言いたげな顔をしたガラス玉を。「私は黄金です」と言いたげな顔の黄鉄を」

 

 大ぶりな宝石のあしらわれた金のネックレス──という体で作られた粗悪品を指に引っ掛けて弄びながら、可笑しそうに口元を吊り上げるステラ。

 

 愉し気な彼女とは裏腹に、ルキアは真剣な、悲壮感すら漂う顔で焚火を見つめていた。冗談にも無言が返され、ステラはつまらなそうにネックレスを宝箱に投げ入れた。

 

 ルキアは炎と月の明かりで地図を睨みながら、王都から今まで走ってきた道筋を指で辿り、深々と嘆息する。

 

 大まかに記された吸血鬼の居城まで、進捗はおよそ五分の一。休息時間を極限まで削って、まだ、たったそれだけ。

 

 フィリップの状況は全く不明だが、吸血鬼の花婿になっている程度なら、まだいい。

 吸血鬼は邪悪に属するもの、神罰請願・代理執行権の対象だ。魔術一発で殺せる相手からフィリップを奪還するくらい、造作もない。

 

 だが吸血され、吸血鬼になっていたら最悪だ。

 ルキアもステラもフィリップが人外になったくらいで接し方を変えたりしないと自負しているが、フィリップの側はそうではない。彼の人間性は、人間の身体あってのもの。自分が人間であるという自認あってのものだ。それが失われてしまえば、フィリップの在り方は大きく損なわれる。

 

 それは嫌だ、とルキアは身震いする。

 もしもフィリップが人類の敵になっていたら──ルキアはどうするだろうか。

 

 フィリップの側に付く? いや、ルキアはそれでいいかもしれないが、吸血鬼にとって人間は食料だ。協力者や仲間どころか、その日のおやつになるのが精々だろう。

 なら、フィリップと敵対する? ありえない。フィリップ単体ならともかく、彼を守護する邪神と戦っても勝ち目はないし、シュブ=ニグラス神に弓を引くような行為は信仰上の理由からも許容できない。何より、単純に嫌だ。

 

 一秒休憩するごとに、フィリップの救助が一秒遅れる。

 もし人外化していたら、価値観の変異が一秒進む。

 

 そう考えるだけで、居ても立っても居られないのに──今日はこれ以上進めない。そのもどかしさが、苛立ちを募らせる。

 

 「……不機嫌だな。とはいえ寝不足は私もだし、今日はそろそろ──」

 「今日は──いえ、なんでもないわ。おやすみなさい、ステラ」

 「……あぁ。明日は日の出の後に出発だ。眠れないようなら魔術を使ってでも寝るんだぞ」

 

 今日はもっと進めたはず。

 そう言い募ろうとしたルキアだが、やめた。寝具の用意を終えたメイドを一言労って、モゾモゾと寝袋に潜り込む。

 

 本職の軍人が「無理」だと言って、この救助隊の指揮官であるステラが「休む」と命じた以上、指揮権も無ければ知見も持たないルキアが言い募るのは不細工だ。

 

 睡眠が不足すれば悲観的な考えばかり浮かぶようになるし、集中力や並列思考力──魔術師の戦闘力に直結する能力も低下する。あの森に居た吸血鬼相手だとしたら、万全の状態で対峙したい。

 

 そんな理由を並べて、心中の恐怖から目を背ける自分を直視しないように、目を閉じた。

 

 

 

 

 



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246

 冒険者襲撃の翌々日。

 相変わらずミナに愛玩される日々を過ごしていたフィリップは、耳障りなベルの音で跳ね起きた。

 

 例の接近者警報の鈴の音が「ちりちりん」くらいだとしたら、朝の微睡を吹き飛ばすそれは「じりりり!」と表現できる、目覚ましのような音だった。

 

 窓のカーテンの隙間から差し込む朝日は、まだ長い影を部屋の壁に投げかけている。もぞもぞとヘッドボードに手を伸ばして懐中時計を取り上げると、まだ朝の六時前だ。

 

 「……ミナ、なんですかこの音」

 

 隣で眠っていたミナを揺り起こすまでもなく、彼女も不愉快そうに呻きながら上体を起こす。

 ミナがメイドに身支度をさせる間に状況を把握しようと窓に近付いたフィリップは、地平線が土の色に霞んでいることに気が付いた。

 

 「……砂嵐?」

 

 耳障りな鐘の音も消え、普段の静寂を取り戻した部屋に、フィリップの呟きが吸われて消える。

 しかし吸血鬼の聴覚は誰に聞かせるためでもない独白をきちんと拾い、「いいえ、違うわ」と答えてくれた。

 

 「確かに巻き上げられた砂塵ではあるけれど、気候によるものではないわね。軍勢の行進──幾千幾万の蹄が巻き上げる、戦火の靴跡よ」

 「軍勢? あれが全部……ですか?」

 

 半信半疑で、もう一度窓の外に視線を向ける。

 煙る地平線──よく見るとその少し手前に、土を蹴立てる“何か”が蠢いていることは分かった。

 

 だが、軍勢? ドールかクトーニアンの群れだと言われた方が、まだ納得できる土煙の上がり方だ。あれが人間の軍勢だとしたら、100人や200人では到底足りない規模だろう。一万? 二万? 或いはもっと? 対吸血鬼用の武装をしているのなら、本当に攻城戦も可能な数だ。それも、大幅に優勢で。

 

 「そうよ。あまり窓には近付かないで。狙撃されても守ってあげるけれど、そもそも撃たれない方がいいでしょう?」

 

 ミナの言う通りに、フィリップは素早く窓際から離れる。

 あの軍勢の中に監視塔にいる吸血鬼と同等の狙撃性能を持った魔術師が居れば、もう射程圏内だ。

 

 「どこの国の軍隊ですか? 王国……にしては早すぎますし」

 

 王国がフィリップ救出に動いたにしては、到着が早すぎる。かといって他の国が攻めて来たのだとしたら、大山脈を超えてきたか、暗黒領内を迂回してきたか、王国領内を通ってきたかの三択だ。

 

 大山脈は標高10000メートルもの雄峰を擁し、大陸を東西に分断する超長大な山脈だ。街道を通らずに軍隊が越えられるようなルートは、未だに開拓されていない。

 

 暗黒領内の迂回なんて、それこそ自殺行為だ。どの国の軍略家でも、そんな選択肢は取らない。

 

 大山脈を街道沿いに通過して王国領内を通るルートはあるが、あんな大軍勢の通行を許可する国があるとは思えない。ステラは自分の目が届く範囲なら許可しそうだが。

 

 一番現実的な説が二つ目の迂回案な時点で、目の目の光景がかなり非現実的なものに見えてくる。

 

 しかし──それらが人間ではないのなら、話は別だ。

 

 「悪魔の軍隊よ。大方、三十年前の雪辱戦でも仕掛けに来たのでしょうね」

 

 ミナはいつものように気だるげに言う。

 窓の外、遥か遠くで、人外の咆哮が聞こえた気がした。

 

 

 

 ◇

 

 

  

 千夜城を取り囲むのは、その大半が中位悪魔と呼ばれる魔物だった。

 

 強い魔物ではない。

 魔術師数名と生贄を要する儀式行使によって、人間が使役することも可能だ。筋力・魔力・耐久力を平均的なレベルで備えているが、特化して鍛えた人間には敵わない。戦士職の衛士には筋力で、魔術職の衛士には魔力で劣る程度だ。

 

 ただし、寿命を持たない点では人間より優れている。儀式行使によって実質無尽蔵に召喚できるという性質を、不死身と表現してもいいだろう。

 

 本物の吸血鬼と比べると流石に見劣りするものの、下位吸血鬼ならキルレシオは1:10程度にまでなる。つまり、下位吸血鬼一体を殺すのに、中位悪魔が10体いればどうにかなる。

 

 それが──およそ30万。

 城の全周を包囲する、単純計算で三万の下位吸血鬼に相当する数的戦力だ。

 

 盾を構え、槍を携え、鎧を纏う悪魔の軍勢。

 その全てが錬金金属に付与魔術を重ねた、衛士団の本気装備と同等のもの。

 

 この膨大な戦力は、しかし、ほんの一部に過ぎない。()()()()()だ。より後方一キロ辺り、城からの砲撃が届くか届かないかの距離には、食料や武器を乗せた馬車や、平地戦用の戦車などが控えている。

 

 悪魔たちは牙を剥き出し、唾を飛ばして哄笑する。

 この圧倒的な戦力を前に、石壁の奥に逃げ籠り、震えて眠ることになる無様な蝙蝠の姿を想像して。それを嘲笑い、嬲り、犯し、喰らい、踏み潰す様を夢想して。

 

 げらげらと下品に笑いながら、武装を鳴らして行軍する。

 地平線上、陽炎に揺れていた城がはっきりと見えて──何かがきらきらと瞬いた。城を眩く照らすほどの輝きは遠目にも美しく、その綺麗なものを穢すことを思うと、悪魔たちの哄笑は一段と勢いを増した。

 

 行軍の速度が増す。

 このまま一息に荒野を駆け抜け、城壁を砕き、吸血鬼を鏖殺する。悦楽に耽る未来だけを想像して進む彼らは、まさしく波濤。石を投げ入れようと、壁で堰き止めようと、飛沫を立てるのが関の山。大波の流れを止めることは出来ない。

 

 ──同等の大波を以てしなければ。

 

 城に瞬く無数の煌めきは、その全てが膨大な魔力の発散による発射炎(マズルフラッシュ)

 一つの狭間から毎秒二発の間隔で撃ち出された大矢は、全周で1000発を超える。一発当たりの破壊範囲は、弾道上の全て。

 

 音速を超えて飛来した槍のような大矢は、隣で馬鹿笑いしていた同胞を殺す光景を見せたあと、一瞬だけ遅れて爆音を鳴らす。すぐ側の死に驚いた直後には、自分の胴体も吹き飛んでいるような攻撃密度。

 

 鮮やかに赤い血の大矢が織りなす、血の大波。

 血で作られ、血を撒き散らし、悪魔の波を血の一色に染め上げて呑み込む激浪。

 

 悪意と嘲弄は、怒涛を以て反転する。

 

 吸血鬼は、化け物だ。

 鍛えた人間程度の存在が群れたところで、どうにもならない。

 

 一枚の岩のように厳然と立つ、吸血鬼の古城。その円周約二キロに円を描くように、赤いインクがぶちまけられた荒野。

 

 弾幕の余波が蹴りたてた砂塵の中にたった一人、悠然と──或いは傲然と、立っているモノがいた。

 

 「──我が軍勢をこうも容易く蹴散らすか。流石は、我が仇敵の配下。その居城を守る手立ては十全か」

 

 三メートルを超える背丈のヒトガタは、どす黒い赤の甲冑に包まれている。

 異常に発達した人間でないことは、勇壮な鬣を蓄えた獅子の頭を見れば一目瞭然だ。

 

 獅子の頭を持った騎士。その双眸は特徴的な金色で、愉快そうな独白に際しては口が動いていなかった。

 

 高位悪魔──ゴエティア72柱の悪魔と呼ばれる、中位悪魔なんぞとはワケが違う、本物の上位種。千年もの存在歴を持ち、唯一神に敵対する魔王の配下だ。

 

 「()い。好いぞ。そうでなくてはな」

 

 口を開けることなく呵々大笑したかと思えば、ナイフのような鋭い牙の並ぶ口がにたりと裂ける。そして。

 

 「我が不死の病に侵されし従僕たちよ、病と治癒を統べるマルバスの名の下に命じる。我が呪詛に従い、進軍せよ」

 

 ──ぞる、と、耳障りな音がする。

 音は一つではなく、無数だ。あまりにも多すぎて、却って一つに聞こえるほど。

 

 ぞる、ずる、べちゃり。そんな湿った音が無数に連続して──()()が起き上がった。ぶちまけられた血が、臓物が、骨粉が、逆再生のように元の形に戻っていく。

 

 ものの十秒ほどで完全に復元した悪魔の軍勢は、死んでも生き返るという全能感に浸りながら、より大きく、より傲慢に哄笑しながら進軍を再開した。

 

 「いま征くぞ、我が恥辱の根源。忌まわしき好敵手よ──!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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247

 千夜城の防衛戦績は、現在のところ、無敗。

 ただし百戦錬磨というわけではなく、極端に少ない母数を一つも取りこぼしていないだけの、「幸運」と言われてしまえば反論し難い戦績だ。少なくとも統計的には有意とは言えない。

 

 そもそも防衛戦に縺れ込むことが稀なのだ。大抵の相手は──それこそ十数万の大軍勢でさえ、周囲三キロの必中射程圏に入れば、ほんの数秒で壊滅する。

 襲撃回数こそ無数にあるが、城壁に取り付かれ、攻城戦を展開された回数は片手で収まるほどだ。築城から数百年。原初の吸血鬼が立てた巌の如き城塞は、その全てを撃退している。

 

 最初は悪魔。次は吸血鬼(同胞)。最も苦戦した天使と人間の連合軍。そして三十余年前に最初とは違う悪魔が襲ってきた。

 

 此度の襲撃は、三十年前にミナが切り捨てた悪魔と同一個体によるもの。

 それだけの月日をかけて地獄から舞い戻った敗者の、雪辱のための戦争だ。

 

 前回は、あの恐るべき魔剣『美徳』の初見殺し性能に負けたが、今回はそうはいかない。

 

 自らを武人と認めるマルバスにとって、剣技ではなく、()に負けたことは許せないことだ。あの年若い吸血鬼の、才気に満ちた鮮烈な剣技は素晴らしい。だが、それを引き出せずに負けたことは心の底から口惜しい。

 

 戦闘ではなく、闘いを。

 武器の性能ではなく、身に付けた技量のみを以て身命を削り合う、無為なれど心躍る闘争を。

 

 求めるのはただそれだけ。

 勝敗などはどうでもいい。三十余年前、ほんの僅かに垣間見せた恐ろしいまでの才能と、正面から対峙したい。

 

 「──我が数千年の研鑽か、貴様の飢餓じみて苛烈な才能か。確かめ合おうではないか!」

 

 千夜城のエントランスホールで、獅子頭の鎧騎士が高らかに宣戦する。

 愚鈍な中位悪魔とは違い、マルバス単騎であればあの程度の弾幕は突破可能だった。

 

 未だ城の見張り塔では無為な掃射が続き、荒野では死ねども死なぬ、死ぬことを許されない最悪の病に侵された悪魔が蘇り続けている。

 撃ち、殺し、起き上がり、撃ち、殺し、起き上がる。射撃手の魔力が尽きるのが先か、軍勢が城壁に辿り着くのが先かは不明だが、この無為な戦闘は悪魔軍の勝利が確定している。

 

 だが、そんなことはどうでもいい。

 あれはいわば交渉材料。自分を殺さない限り、あの軍勢がこの城を滅茶苦茶に蹂躙するという条件提示だ。

 

 マルバスはミナのことをよく知っている。

 あれも自分の配下には無頓着な性質だが、自分の寝床が踏み荒らされても「善し」と頷くほどではない。いや、そもそも、あれは外敵を見逃すほど甘い女ではない。

 

 ──果たして、エントランスホールに冷たい声と、同じく硬質な靴音が響いた。

 

 「──五月蠅いわね。日も昇り切らないうちに騒ぎ立てる無礼な輩を、客として招くことはないわ」

 

 こつり、こつり、と緩慢な動きで両階段を降りてくる、黒髪の吸血鬼。

 その赤い瞳がちらりとマルバスを一瞥し──がん! と、重い鉄を落したような音が鳴り響いた。それも一つではなく、瞬間的に連続して複数回。

 

 「挨拶も無しか! だが素晴らしい、それでこそよ!」

 

 ミナの放った都合四本の血の大槍を一息に打ち払い、マルバスが牙を剥き出しにして笑う。

 しかし、その愉快そうで、何より嬉しそうな笑顔は一瞬で曇った。

 

 「貴様……なんだ、それは」

 

 口を閉じたマルバスが、猛獣の双眸を眇めて問う。

 口元には牙が剥き出しになり、見るからに不機嫌な獣と言った風情だ。

 

 問いの宛先は言うまでもなくミナだが、()()という言葉が指すのは別のもの。

 

 ミナが肩を抱くように従える、未だ幼年の域を出ない人間──フィリップだ。

 

 かつての傲岸で不遜で、何より孤高で冷酷といった表情は見る影もなく緩み、傍らの人間に愛玩するような目を向けている。マルバスの中にあったミナのイメージがガラガラと音を立てて崩れ、一緒に足元まで崩れ去るような錯覚さえあった。

 

 「ペットを飼い始めたのよ、最近だけれど……もう可愛くて仕方がないわ。貴様の、あの気色の悪い劣等種どもとは大違いよ」

 

 ミナはフィリップを胸に埋めるように抱擁し、「ねぇ?」と同意を求める。

 “気色の悪い劣等種”というのが軍勢を構成する中位悪魔のことだと分かったフィリップは、流石にあれと同じは困ると苦笑した。

 

 そんな安穏とした会話も気に障るのか、マルバスは吐き捨てるように言う。

 

 「……鈍ったな、我が敵手よ。あれからまだたった三十年だろうに」

 「たった三十年前の敗北を忘れた貴様ほどではないわ。以前は確か、一撃で首を刎ねたと記憶しているのだけれど……まさか、また来るなんて。耄碌したの?」

 

 二人の応酬をなんとなく聞いていたフィリップは、二人の声に敵意らしきものが見当たらないことに気が付いた。

 敵同士の会話と言うよりは、ちょっと仲の悪いクラスメイトとの会話くらいのものだ。敵意も無ければ、当然、殺意も無い。

 

 ミナも初めに槍を撃った限りで会話の虚を突いて斬りかかるようなことをしないし、獅子顔の悪魔(マルバス)も、背中に二振りの大剣を携えてはいるものの、抜く素振りは無い。

 

 もしかして口喧嘩程度で終わるのだろうかと、そんな淡い期待すら抱いてしまうが──それはフィリップだからだろう。城の全周を十数万の軍勢に包囲されたら、普通は怯え切って立つこともままならない。城や戦力に自信があるとしても、敵の首魁を前にすれば、敵意か恐怖のどちらかは抱く。

 

 ミナに抱かれていてそれどころではないといった様子でもなく、ただ単純に、身の丈三メートルの獅子頭の騎士という異形にも、城を包囲する悪魔の群れにも、何ら感情が動いていないだけだった。

 

 「……以前のように、我の首を取れば進軍を止めようと思っていたが……止めだ。気が変わった」

 

 マルバスは大仰に手を振り、何かの魔術を使う。

 展開された魔法陣を読み解くような力を持たないフィリップは首を傾げるが、ミナは不愉快そうに眉根を寄せた。

 

 「我が軍勢に狂騒の病を撒いた。もはや我が死のうと、四十万の総軍は貴様らを蹂躙するまで止まることは無い」

 「…………」

 

 脅迫の色は無く、淡々と事実だけを告げるマルバス。

 

 状況は分かっても意図の分からないミナは首を傾げ、どちらも分からないフィリップは「とにかくこいつを殺せばいいのでは?」と筋肉思考をしていた。

 

 確かに、指揮官(マルバス)が死んでも侵攻が止まらないからといって、それはマルバスを見逃す理由にはならない。

 敵なのだから、殺せる時に殺しておけばいい。それはその通りなのだが──四十万の総軍は、吸血鬼メイドたちの手にも、ミナの手にも余る数だ。いや、ミナなら勝ち切れるだろうが、一人一秒でも五日がかりの大仕事になる。

 

 ミナとて破綻者だ。敵を殺すのに躊躇は無いし、配下のメイドが何人死のうと、たとえ全滅しようと心は痛まない。

 ただ、メイドが全滅してしまうと、再生産は一朝一夕ではない。それに何より、城の修繕と掃除を担う者が居なくなってしまう。それが何より面倒だが──まぁ、面倒なだけだ。

 

 「我はこの三十余年、雪辱を誓って研鑽を重ねた。貴様に勝つ、それだけを一心に考え続けた。……だというのに、その為体。失望したぞ」

 「……? 不思議な物言いをするわね。貴様、私の好敵手にでもなったつもりなの? 貴様に期待される謂われも、失望される筋合いも無いのだけれど」

 

 ……沈黙があった。

 

 言いたいことを言い終えたミナはフィリップを抱き寄せて撫で回している。この空間で幸せそうなのは、彼女一人だけだった。

 

 マルバスは拳を握り締めて、鎧が擦れてガチャガチャ鳴るほど小刻みに震えている。怒りか羞恥かは不明だが、ポジティブな感情でないことは確実だろう。

 なんせ、フィリップが共感性羞恥で居た堪れなくなっているほどだ。居た堪れなさすぎて、思わず助け舟さえ出してしまう。

 

 「……あー、ミナ? あれとは知り合いなんですよね?」

 「三十年前の大襲撃のときに斬り殺した悪魔ね。魔王の配下、ゴエティア72柱の悪魔で、名前は確か……マルバスだったかしら」

 

 良かった、知り合いではあるらしい。

 一先ずそう安堵したフィリップだが、マルバスとミナの経験の記憶が同じなら、相互認識の齟齬が与えるダメージはより大きくなるというものだ。ライバルだと思って、三十年もその相手に勝つために修行してきたのに「あぁ、そういえば居たねそんなの」みたいな反応をされたら、憤慨もひとしおだろう。

 

 マルバスは牙を剥き出しにして、獣じみた唸り声を漏らす。

 

 「三十年前の貴様は、美しいほどに冷酷だった。あの在り方は我らが首領、魔王陛下を彷彿とさせた。……それが、なんだ、そのザマは」

 

 唸り声を上げながら同時に言葉を発する高位悪魔。魔術的な力が働いているのか、どちらもはっきりと聞き取れる。

 恐ろしいのは、その二つから全く同じ感情──憎悪や殺意と言った負の感情が大量に混ざり合った、強烈なまでの“排除”の意思を感じることだ。

 

 「──、っ」

 

 肉食獣の双眸に睨まれて、フィリップは思わず息を呑む。

 

 死ぬ、とは思わない。

 三メートルを超す体格、隆起した筋肉、見事な甲冑、鋭利な牙と巨大な双剣。どれも驚異的だが──脅威ではない。そんな程度のものに脅威を感じるほど、健常な精神はしていない。

 

 だが、肉体は健常だ。

 血肉が、骨の髄が、ありとあらゆる細胞が──遺伝子が刻み付けた本能が、巨大な肉食獣を恐れよと叫んでいる。弱者を屈服させるような眼光を、自分を噛み砕くさまを想起させる鋭い牙を、勇壮で威厳のある鬣を、畏れよと叫んでいる。

 

 ──死ぬ、とは思わない。だって全く、これっぽちも脅威ではない。

 

 けれど。

 

 ──喰われる。精神性ではどうしようもない、身体の正常な機能として、そう怯えてしまった。

 

 「──惰弱な」

 

 フィリップの身体が抱いた恐怖を見透かして、マルバスは不愉快そうに吐き捨てた。

 獣は発達した嗅覚によって相手の感情を把握することができるらしいが、マルバスは人間を惑わし、弄ぶ悪魔だ。獣よりも直接的に、僅かな表情の変化や仕草なんかで内心を読み取れるのだろう。

 

 そして、それはミナも同じだった。

 

 「──私の居城に軍勢を差し向け、赦しも無く踏み入り、剰えペットを怖がらせるなんて……死にたいのなら、余所で勝手に、独りで死んで頂けないかしら?」

 

 フィリップの怯えを感じ取り、ミナの腕に力が籠る。

 マルバスと同じかそれ以上の不快感を双眸に湛えて、階段の上から不届きな侵入者を睥睨する。

 

 荘厳な古城の内装も相俟って、美女と野獣のファンタジーロマンスの一幕のようにも見えるが──その実は、獣と狩人と言ったところだろう。

 

 ミナがフィリップから離れ、階段を二つだけ降りる。

 フィリップを庇う位置。そして、吸血鬼の超常的な身体能力で以て踏み込んだとき、一撃で悪魔の首を落とせる位置だ。

 

 「──戦意の鋭さや善し。だが……無粋だ。守るための戦意など、あまりに無粋。かつての貴様の、あの戦うための戦意を穢すに等しい!」

 

 だん、と響きを上げて、マルバスが両手を突く。

 まさしく四足獣、本物の獅子のような姿勢だ。ぎぎぎ、と鎧が軋むほどの筋肉の隆起は、力の蓄積が爆発寸前であることを示していた。

 

 ()()

 

 フィリップは戦闘経験や観察力ではなく、本能で悟る。

 

 果たして、獲物に跳びかかる獅子の動きで跳躍したマルバスは、その一挙動で十数メートルの距離を一息に詰めた。

 空中で背中に手を回し、刃渡り二メートル近い極大の双剣を抜き放つ。やや湾曲した曲刀にも見えるが、曲刀より厚く太いそれは、むしろ刃先の曲がった包丁か鉈だ。

 

 抜刀という、両足を付いていても軸のブレる行為を跳躍中に行っているのに、隙の一つも見当たらない。フィリップがロングソードに触れ始めたのは最近だが、羨ましいほどの技量が見て取れた。

 

 その技量──殺傷能力の宛先は、感心したように目を瞠っているフィリップだ。

 ミナが眉根を寄せるのに数瞬遅れで気付いたフィリップは、獅子頭の悪魔を無感動に見返した。

 

 身体は動かない。

 自分に向かって跳びかかってくる大型肉食獣を前にして、全身の細胞が凍り付いている。不随意に──僅かな冷笑さえ浮かべているフィリップの意識とは関係なく。

 

 「此奴を殺せば、貴様の冴えも多少は戻るであろうよ!」

 「愚昧な……」

 

 甲高く澄んだ剣戟の音が()()、エントランスホールに木霊する。

 

 二刀を持つマルバスとミナは、二人共に()()()振り抜いた姿勢で一瞬だけ視線を交わした。

 

 マルバスが繰り出した攻撃は、都合四回。

 左手が僅かに早い──コンマ一秒以下のズレだが──交差する斬り下ろし。そして手首を返した交差する逆袈裟。

 

 刃物の大きさと込められた腕力を加味すれば、一発でフィリップを挽肉に出来る威力だろう。それが一呼吸の内に──音が全て重なるほどの一瞬で、四回。

 

 巨体に見合わぬスピードもそうだが、動きの精度が凄まじい。

 動きそのものは見えなかったフィリップだが、あの音は知っている。高い技量を持った者同士の剣戟が奏でる、特有の音。刃同士が最も切れる角度でぶつかり合い、肉を割き骨を断つのに十分な力が込められている証だ。

 

 マルバスはバックステップを踏み、階段の下まで戻る。あの巨躯では、身軽なミナに頭上を取られた状態で戦い続けるのは厳しいと判断したのだろう。

 迂闊に追いかければフィリップを殺されるという確信があるからか、ミナは追撃に血の槍の魔術を選んだ。

 

 「守る動き、守る戦意。……つまらぬ。我と貴様の闘争は、そうではないだろう!?」

 

 マルバスが吼える。

 

 ディアボリカが受け止めるのに両手を使う血の槍を、マルバスは右手の剣だけで捌いた。それも一本や二本ではなく、六本の連続掃射だ。

 

 「私と貴様との間に、そう大層な関係性は無いでしょう? 私は三十年前に貴様を殺した、貴様は三十年前に私に負けた。それで終わりよ」

 「終わりではない! 我の闘志が、熱病のように心を浮かせる衝動が燃え続ける限り、我が闘争は終わらぬ!」

 

 獰猛な笑顔──失礼かもしれないが、ルキアと戦っているときのステラによく似た笑顔で、マルバスが宣言する。

 あの二人の関係性と違うのは、ルキアのように満更でもなさそうな可愛げのある表情を、ミナが一切浮かべていないところだ。彼女は徹頭徹尾、冷徹を通り越して気怠そうな顔だった。

 

 「面倒な……そうね、この子と同じくらい可愛くおねだりしたら、一戦くらい付き合ってあげるけれど」

 

 ミナの艶めかしく赤い唇が嘲笑の形に裂け、異常に発達した犬歯が覗いた。

 

 婉曲ではあるが曲解のしようがない拒絶を、マルバスは忌々しそうに受け止める。

 だが受け容れたわけでは無い。深い嘆きと悲しみを湛えた視線は、未練がましくミナに縋り付いていた。

 

 獣の双眸が僅かに動き、フィリップを忌々しそうに眇める。

 そして──牙を剥き出しにしていた口元に浮かんだ凄惨な笑みを、フィリップとミナは見逃さなかった。

 

 「では、こうしよう──!」

 

 マルバスは左手の剣を窓の外に差し向けると、また何かの魔術を使う。

 攻撃ではなく、先程の狂化のような軍勢を変化させる系統の魔術であることは分かる。

 

 フィリップに向けた攻撃ではない。あの剣の切っ先が向けられていたとしても、フィリップ自身に何ら影響がないことは、直感的に理解できた。

 

 それなのに、同じくらいの直感で理解した。

 

 ──今の魔術は、不味い。

 

 直感が──精神ではなく肉体が怖気を催し、この場からの逃走を強く推奨してくる。

 獣の咆哮のような、本能的な忌避感を覚えさせる魔術? ──否。これはもっと、どうしようもなく恐ろしいものだ。

 

 「我が軍勢に病を撒いた。人肉を喰らうまで決して癒えぬ、アバドーンの如き飢餓の病だ」

 

 食人病、とでも言えばいいのか。

 人間を食べるように調教された獣より、なお恐ろしいものが城の外を這いまわっている。それも、十数万と言う大群で。

 

 手が震える。

 足が竦む。

 焦点が合わない。

 

 なのに──フィリップの心は至って平穏だった。むしろ、恐怖した反応を続けている自分の身体の不随意性の方が、よっぽど怖い。

 

 フィリップの肉体と精神のズレには気付かず、マルバスに対して怯えていると勘違いしたミナは、フィリップを安心させるように抱き寄せた。

 

 その甘さ──これまでなら不快感を催していただろう光景に、マルバスはもう眉根を寄せたりしなかった。

 

 「我が軍勢は其奴が死ぬまで決して止まらぬ。守るための戦意など無駄なものの所為で、貴様は配下と城を失うのだ!」

 

 

 

 

 

 

 



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248

 盛大に啖呵を切ったマルバスは、本気だった。

 本気で、本気のミナと戦うことを優先して──本気で、フィリップを殺すことを優先した。待ち望んだミナとの立ち合いを先送りにして、城から撤退したのがその証拠だ。

 

 ミナはフィリップに私室から出ないよう言い含めて、状況把握のために城で一番高い監視塔へ行った。

 

 「……暇ですね」

 「……左様ですか。では、二度寝などされては如何でしょう。もう日も昇りましたが」

 

 ミナの寝室には、部屋付きのようなメイドが一人と、あとはフィリップだけだった。

 ような、というのは、当然、ただの部屋番、留守番が目的とは思えないからだ。

 

 「あんなのを見た後ですからね。流石に目が冴えて……というか、普通に起きる時間なので、目が覚めてるんですよね」

 

 へらりと笑うフィリップだが、その笑顔は固い。

 このメイドは十中八九、フィリップに対する監視役か、或いは処理役だ。

 

 ミナが最終的にどういう判断を下すかはともかく、彼女には二つの選択肢がある。

 

 一つはメイドを捨てること。

 フィリップ一人を守るために、百人のメイドで十数万──後衛も含めると四十万の軍勢と戦うことだ。だが相手は不死身で、こちらの魔力は有限。吸血鬼は血液を媒介に魔術を使えるが、それでも継戦能力は有限だ。しかも悪魔とは違い、吸血鬼には飢餓、或いは吸血衝動が存在する。飢餓状態では理性も含めた様々な能力が低下するため、戦闘にも支障を来す。

 

 つまり、何時間か、何日か、何週間かは不明だが、どこかで負けることが確定しているのがこちらのルート。

 

 もう一つは、フィリップを捨てることだ。

 マルバスの目的がミナとの戦闘からフィリップの排除に切り替わった──少なくとも外見上は──以上、「誰が」殺すかは然したる問題ではない。

 

 マルバスは「病と治癒」を司る悪魔だ。フィリップを殺すために撒いた「不死」と「狂乱」、そして「食人」の病も、目的を達成すれば癒すだろう。

 

 そうなれば、あとは作業だ。

 監視塔からの槍の掃射を以てすれば、四十万の軍勢でも一時間以下で片が付く。

 

 ──100の犠牲か、1の犠牲か。

 そんな単純な話なら、1の犠牲を許容する人間は少なからず居るだろう。

 

 問題はここからだ。

 

 一年以内に死ぬ老人100人と、生まれたばかりの赤子1人なら、優先すべきはどちらか。この手の条件が付いてくると、意見が割れ始める。

 100人の見知らぬ他人と、1人の友人なら? 100人の友人と、1人の恋人なら? この手の「命の価値」が数ではなく質で決まる質問の答えは、回答者の価値基準次第で大きく変わる。

 

 では──100人の配下と、1匹の愛玩動物(ペット)なら?

 

 戦力(合理)的に考えるなら、優先すべきは100人の配下だ。

 年月(心情)から言っても、100人の配下が優先されるはずだ。

 

 部屋に帰ってきたミナにいきなり殺される可能性もあるし、最悪、顔も見ずに、このメイドに命令を下してハイおしまいなんて可能性もある。

 

 「……やだなぁ、それは」

 

 ミナのことは、それなりに好きだ。できるなら守りたい。

 ルキアや衛士たちのように、フィリップ自身の人間性のために守りたいのではなく、ただ単純に、特別な理由もない感情的な理由で。()()()()()()()()、死んでほしくない。

 

 ごく自然に「自分を殺す=相手が死ぬ」という狂った因果を想定している異常性にも気付かず、フィリップは独り言ちる。

 

 「この辺全部吹っ飛んだら、僕は助けが来るまでどうやって過ごせばいいんだ……? いやそもそも、誰か助けに来てくれるのか……?」

 

 ミナ相手に戦って勝てる気はしない。それも全く。

 ルキアやステラを仮想敵としても「一発撃たれたら負け」くらいの話なのに、ミナは「見られたら負け」だ。しかも同等のスペックを持つ吸血鬼がもう一人いるし、何ならそいつはフィリップの脅威度をある程度理解している。

 

 「……おっ?」

 「──どうかされましたか?」

 「あっ、いえ……なんでもないです」

 

 思わず口を突いてしまった意外そうな声に、メイドは当然のように反応する。

 ヘタクソな誤魔化し笑いを浮かべたフィリップは、これまた不自然な動きで窓際に寄った。

 

 ──シルヴァの位置が、かなり移動している。

 

 具体的に何キロとまでは分からないが、確実に王都よりこちら側に近付いている。まだまだ遠いが、遠すぎて分からなかった初日とはかなり違う。こちらに来ている──フィリップの方に、確かに近付いている。

 

 「……はは」

 

 フィリップの体感という頼りない推測だが、道程はもうそろそろ半分といったところ。フィリップが拉致されてから四日。初日に王都を出てこの位置なら、とんでもない速度だ。馬に乗っているのだろうが、普通の馬車の比ではない。

 シルヴァは死なないし、森の中を自由自在に走り回れるほど健脚だ。だから「一人で走って来ている」という可能性を排除できないのが少し怖いが──それも極小の可能性だ。

 

 ルキアがいるはずだ。ステラがいるはずだ。もしかしたら衛士団にまで話が通っているかもしれない。

 

 「……うん。初めから諦めてちゃ、流石にカッコ悪いよね」

 

 彼らが着いたときに、抗いもせずに諦めて、全てを投げ出していたら──僕はきっと、恥ずかしくて顔も見られない。そんなのは嫌だ。

 

 フィリップはそう思い直して、自分の頬をぺちぺちと叩く。

 もしもミナが敵対したとしても、諦めず、最後まで抗って見せよう。その結果、負けることが確定していたとしても──なに、相手は()()吸血鬼だ。フィリップが負けたからと言って、星が吹き飛んだり、宇宙が崩壊したりはしない。

 

 ゆったり、のんびり、やれるだけのことをやればいい。最悪、あと四日か五日逃げ回ればいいのだから、気楽に行こう。

 

 最優先事項は勿論、対抗手段の確保。つまり、魔力制限の首環を外すことだ。

 

 「うーん……」

 

 相変わらず爪も立たない高級品っぷりだが、きちんとした刃物であれば通りそうな気がする。

 或いは、細いワイヤーのようなもので削り切るか。ウルミでもできなくは無いだろうが、高確率で首が削げるので最終手段だ。そもそもウルミは初日に没収されて、今は武器庫に保管されているらしい。

 

 フィリップはちらりとドアの側に控える吸血鬼メイドを見遣る。

 

 彼女の身体能力なら首輪を引き千切ることも可能だろうが、「これを千切ってくれませんか?」なんて馬鹿正直に言って従うはずもない。

 攻撃を誘発して、どうにか首輪に当てる──これなら断られることはないだろう。そんな技量を持っていないという点が、実行に係る大きな障害だが。

 

 「…………」

 

 インテリアとして飾られている装飾の見事な長剣は……駄目だ。持ち上げた瞬間にメイドが止めに来るだろうし、最悪その場で殺される。

 寝室には書き物机の一つもないし、小刀どころかペーパーナイフもない。魔力強化も無しに、自前の筋力と爪の鋭さだけで骨を断つような種族だけあって、道具への依存度が低いらしい。

 

 フィリップがションボリしていると、寝室のドアが徐に開いた。

 この部屋の扉をノック無しで開けるのは、この城の中でも一人しかいない。部屋の主であり、この城の主であるミナだ。

 

 ──時間切れか。

 

 僅かな諦め交じりに見ると、ルーシェを伴って帰ってきたミナと目が合った。

 

 「……」

 「……どうしたの?」

 

 相変わらずの愛玩に満ちた視線が向けられるが、フィリップは彼女の一挙手一投足を見逃さないように警戒していた。

 

 ミナは抜剣していないし、そもそも戦意を持っていないように見える。

 だが、吸血鬼にとって人間は餌だ。ミナにとって、フィリップは戦意を持って対峙すべき敵ではない。このまま何の感情も無く、腕の一振りで殺しに来ても不思議はない。

 

 「……方針は決まりましたか、ミナ?」

 

 壁に飾られたロングソードの方へ、なるべく不自然に見えないよう、散歩するような歩調で向かう。

 

 「方針?」

 「えぇ。方針です」

 

 全く無警戒のミナは、フィリップの不審な動きをただ見ていた。

 フィリップはこれ幸いと剣を取り上げると、ゴテゴテと装飾の付いた鞘から、美しく磨き上げられた白銀の刀身を抜き放つ。

 

 しゃりん、と澄んだ鞘走りの音にも、フィリップが武器を手にしたことにも、部屋の中にいる三人の吸血鬼は誰一人として反応しなかった。

 

 舐められているわけではない。それが正常なのだ。

 フィリップ(人間)が剣を手にしたところで、小型犬が棒切れを咥えたくらいのもの。警戒させるどころか、愛玩の念を少し強める始末だ。

 

 フィリップはまだ構えない。

 ミナ相手に、吸血鬼相手に、剣を構えた程度で威圧にはならないし、何より──ミナに剣を向けるのは、少し気が咎める。

 

 「僕を殺して配下を守るか、僕を殺さずに配下を死地に立たせるか。決まりましたか?」

 

 だが、その逡巡も断ち切らなくてはならない。

 ミナがフィリップを殺すと言ったら、その時には。

 

 フィリップは知らず、口の中に湧いた粘度の高い唾液を苦労して呑み込む。それで漸く、柄にもなく緊張していると自覚した。

 

 「キミを殺す? ……あぁ、そういうこと」

 

 フィリップの質問の意味を理解したミナは、口元を隠してくすくすと笑う。

 上品な仕草なのに、柔らかに細められた目元からは下等種への冷笑と愛玩が透けている。それを見て、フィリップの剣を握る右手に力が籠った。

 

 ──心地よい、なんて、思っている場合ではない。

 

 「剣を置いてください、旦那様」

 

 普段の溌剌とした様子の失せた困り顔で、ルーシェが乞う。

 彼女とて吸血鬼のはずだが、そこに下等種への軽視や上位種としての命令の気配はなく、むしろフィリップへの一定の尊重が見て取れた。

 

 「ご主人様に敵対なさるおつもりですか?」

 「ははは、まさか。()()()()()()()()()なんて、有り得ませんよ」

 

 明朗に笑ったフィリップの言葉に嘘はない。

 

 人間は吸血鬼の敵足り得ない──フィリップは、ミナの敵には成り得ない。

 

 ミナがフィリップを殺そうとするのなら、フィリップも抵抗する。何秒保つかは分からないが、出来る限りの抵抗をする。これはただ、それだけの話だ。

 

 「……こうして話している間にも、メイドたちの魔力は刻々と減っている。なのに相手は不死身で、マルバスは僕が死ぬまで進軍を続ける。……ミナ、僕を殺しますか?」

 

 フィリップはゆっくりと剣を上げ、その刃を自分の首筋に添える。

 傍目には、吸血鬼と人間の戦力差を知っていて、戦っても無駄だと知っているから、諦めて自決しようとしているようにも見える。

 

 だが、違う。

 フィリップは最後の最後まで抵抗すると決めたのだ。

 

 狙いは頸動脈ではなく、魔力制限の首環。

 多少の怪我は覚悟してでも、反撃の刃を手に入れる。でなければ、全力で抵抗したと胸を張ることもできない。

 

 首輪に添えた刃に力を籠め──直後、心臓が止まった。

 

 ──身体が動かない。

 心臓も、横隔膜も、血流も、細胞の呼吸さえ完全に停止している。血の色に輝くミナの左目、拘束の魔眼の効果だ。

 

 「……、……。……」

 

 ミナが何事か言って、こちらに歩いてくる。

 焦点の固定された視界の中、ミナの姿がぼやける。無造作なのに優雅な歩き姿は、輪郭がはっきりしていなくても美しかった。

 

 鼓膜の振動が停止した無音の世界の中、ミナは悠然と部屋を横切り、フィリップの前に立つ。

 

 フィリップの切り札を警戒していたディアボリカなら、まだ何とかなるかもしれない。

 だがミナは──人間を、フィリップを、正しく軽視しているミナは、何の躊躇も無く心臓を抉り首を刎ねるだろう。

 

 ミナの手がゆっくりと、フィリップの頸に伸びた。

 

 

 

 

 

 



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249

 フィリップの首元で、ぱき、と小枝の折れるような音がした。

 首の骨を折られたのかと錯覚しそうな小さな音は、骨ではなく、剣の折れた音だ。

 

 「──、ッ!」

 

 音が聞こえた──拘束の魔眼が解けたことを認識した瞬間、フィリップは大きくバックステップを踏む。いや、踏もうとした。

 

 「っ、ぁ……」

 

 気付いた時には、フィリップはミナの胸に抱かれていた。

 普段より強い力が込められた抱擁を、豊かな胸が柔らかに潰れて受け容れる。心臓を跳ね上げるような感触を味わいながら、逆に鼓動が落ち着くような匂いに鼻腔を侵され、脳がぐちゃぐちゃに掻き回されたように混乱した。

 

 「──大丈夫」

 

 落ち着いたを通り越してダウナーな声が耳朶を打ち、意識が揺らぐ。

 一呼吸ごとに脳が痺れ、全身が蕩けるように重くなって、落ちるような、沈むような、むしろ浮いているような不思議な感覚に包まれる。ふと気づくと、フィリップもミナを抱き返していた。

 

 からん、と、手から零れ落ちた剣の柄が、床の上で硬い音を鳴らした。

 

 「──大丈夫よ。メイドは大事な家財だけれど、キミはもっと大切な家族(ペット)だもの。キミを犠牲にしたりなんて、絶対にしないわ」

 「ぅあ……」

 

 慈愛に満ちた囁き声が、耳孔を浸して脳を犯す。

 膝から力が抜けて、腹の奥がぐっと熱くなった。

 

 ミナの体温は病的に低いのに、撫でられたところが熱を持って、身体の奥へ染み込んでいくようだ。血管を焼き、骨髄を溶かし、奥へ、奥へ、脳を、脊髄を、心臓を、身体の全部を溶かすように。

 

 息を吸うだけで悪影響なのに、加速した心臓の鼓動が息を荒げてしまう。

 

 膝から完全に力が抜けて、ミナの抱擁に全ての体重を預けていることに、フィリップは最早気が付いていない。

 

 「ぁ──」

 

 首筋に熱い吐息がかかる。

 ミナの艶めかしく赤い唇が裂け、異常に発達した犬歯が覗いていた。

 

 血管を貫くための白い牙が、ゆっくりと首筋に突き立てられる。鋭利な先端が薄い皮膚を裂き、柔らかな肉を貫き、芳しい血の流れる血管を破る。

 

 その寸前で、フィリップはどうにか()()()()()

 

 ──それは、それだけは、不味い。

 

 「──、っ!」

 

 どん、とミナを突き飛ばすように押しのける。

 体幹が違い過ぎてフィリップの方が反発で押されていたが、抱擁から逃れることは出来た。

 

 ふらふらと距離を取るフィリップに、ミナは不思議そうに首を傾げた。

 

 「……嫌だった?」

 「……はい。吸血鬼になるのは嫌です」

 

 フィリップは僅かに逡巡して、結局、素直に答えた。

 吸血鬼──化け物を相手に「「お前にはなりたくない」って言うのは酷いかな……」なんて気を遣えるのは、どちらかと言えば美徳だろう。尤も、吸血鬼の側にとっては、無用な気遣いなのだが。

 

 「吸血鬼にするつもりは無かったのだけれど……。吸血には種類がある、って、前に話したでしょう?」

 「あ、はい。そうだったんですね……ごめんなさい」

 

 吸血鬼の吸血行為は、三種類あるらしい。

 一つは命の吸収。一つは繁殖。この二つは文字通りの生命か、或いは人間としての生を奪う行為だ。

 

 もう一つ、失血が致命的なものになる前に吸血を止めると、命は増えず、相手が吸血鬼にもならないらしい。人間でいうところの駄菓子を食べるようなもので、栄養(意味)度外視の嗜好品的な楽しみ方だそうだ。

 

 「構わないわ。とろとろで眠そうな顔、可愛かったわよ」

 

 ミナはフィリップを抱き締めて頭頂部にキスを落とし、今度はすぐに離れた。

 

 「さて……少し、真面目な話をしましょう。今の状況は理解しているのよね?」

 「……はい、勿論」

 

 普段通り気怠そうな声色のミナと、未だ微妙に平静ではないものの、特に怯えた様子のないフィリップ。

 一部始終を黙って見ていたルーシェが、本当に分かっているのかと聞きたくなるほど平然としている二人だが、状況はかなり不味い。

 

 城の全周を包囲し、埋め尽くす数十万の軍勢。

 前線部隊であるそれらの後方、城からの狙撃が届かない地平線の向こうには、更に倍以上の後衛兵站部隊が控えている。

 

 こちらは完全に包囲されており、戦闘員は100名。ミナとディアボリカを足しても102名だ。

 種族的に傷が自動で治癒されるだけあって医療品要らずの吸血鬼だが、食料は必要だ。人間一人から一日に取れる血液は精々500ミリリットル程度。下位吸血鬼なら、それだけ吸えば三日から一週間は飢餓状態にならずに済む。

 

 ちなみに吸血鬼における“飢餓状態”とは人間のそれより酷く、人間同様の心身両面の衰弱だけでなく、攻撃性の極端な上昇や、理性喪失などの症状が極端に現れる。

 

 一応、食糧庫にはメイドたちが飢えない程度のストックがあるが、最低限飢餓状態にならないというだけだ。

 ここから先、戦闘の途中で命のストックを減らすこともあるだろうが、その補充は叶わない。相手は無尽蔵の不死身だというのに。

 

 「業腹な話だけれど、メイドたちと不死身の軍勢では分が悪いわ。私の配下は強いけれど、勝ち目はないと言っていい」 

 「……まぁ、そうですよね。相手は“負けない”わけですから」

 

 ふんふんと頷くフィリップだが、脳裏に引っ掛かるものが幾つかある。

 

 「あの……これを外して貰えませんか? 多分ですけど、どうにかなると思います」

 

 一つは、召喚魔術(これ)

 フィリップも無数の肉塊が原型を取り戻して軍勢になるところは見たが、あれは恐らく、ぶちまけられた血肉が残っていなければ機能しないタイプの蘇生だ。だったら、クトゥグアで灰も残さず焼き払えばいい。ハスターで魂を攻撃するというのも一案だが、不死身になった中位悪魔()()()で召喚すると、そろそろいい加減、怒られそうでちょっと怖い。

 

 ……まぁ、クトゥグア召喚はヤマンソがしゃしゃり出てくる危険性があるので、これもこれで怖いのだが。どちらにしても、十数万の悪魔をほんの数秒で葬り去ることが可能だろう。

 

 フィリップは「多分」「と思います」なんてあやふやなことを言っておきながらも、戦闘ではなく蹂躙を想定し、戦意ではなく嗜虐心に満ちた顔には酷薄な笑みを浮かべている。

 しかし、自信と言うには不健全なものを滲ませるフィリップに、ミナは眉根を寄せて首を振った。

 

 「人間がどうかは知らないけれど、私はペットを戦わせたりしないわ。それに──これは私たちに売られた喧嘩よ。買うのは面倒だけれど、その面倒を二度と起こさせないように買い叩いて、完膚なきまでに叩き潰しておかなくっちゃ」

 

 フィリップが防御面では疑似的に無敵のシルヴァを戦わせない理由と同じ理屈を出され、思わず納得してしまった自分に苦笑する。

 ほんの少しだけ照れも混じった笑みを誤魔化すように、わざとらしい真顔を作った。

 

 「……ミナの魔剣以外で、何か勝ち筋が?」

 

 ミナの魔剣『美徳』は、強力な邪悪特攻性能を持っている。

 あの魔剣なら、悪魔に再生させず殺し切ることも出来るだろう。だがメイドたちには、不死身の悪魔たちを殺す方法がない。これではジリ貧だ。

 

 「……あ、空を飛んで逃げるのはどうですか?」

 「……私の話を聞いていたの? 逃げるのも、他人の手を借りるのも駄目よ」

 「あ、そっか……」

 

 となると、フィリップが想定していたもう一つの案も駄目だ。

 

 もう一つも、召喚魔術と似たり寄ったりの他力本願。

 今この時もこちらに向かって移動を続けているシルヴァが、ルキアかステラを連れていることに期待する。聖痕者が居れば、あとは神罰請願・代理執行権の行使によって、幾万もの邪悪な存在を腕の一振りで粛清し、撃滅すればいいだけだ。

 

 流石にあと四日も待っていられるかどうかは不明なので、吸血鬼の誰かがフィリップを抱えて飛んでいき、フィリップが事情を説明。その後聖痕者を連れて帰ってくるという形になるだろう。

 シルヴァの現在位置は大まかにしか分からないが、王都からここまで八時間で飛んだディアボリカなら、それ以下で往復できるはずなのだが。

 

 ……まぁ、とはいえ、どうせあと四日もすれば、勝手に来て勝手に滅ぼしてくれるだろう。その時には吸血鬼は殺さないようにお願いして……いや、ステラが先手必勝アタックをする前に、どうにかして伝えなくては。

 

 「キミだけは逃がそうとも思ったのだけれど、対空砲火が想定以上に強くて。下手に撃墜されるリスクを負うより、城の中に居た方が安全だと思うわ」

 「それは良かった。僕だけ逃がされても困りますし、ミナを置いて逃げるなんて嫌ですからね」

 

 ペットらしく忠犬精神に目覚めたわけでは無く、かといってリップサービスなんて器用なことが出来るはずもないフィリップの言葉は、純粋な本心だった。

 そこに理由は無く、合理もない。ただ「嫌」だから「やりたくない」だけ。ミナを見捨てるのはなんか嫌だな、という感情だけで、逃げるという最良の選択肢を捨てる。

 

 どうせ死なないので、そう大きな意味のない決断だが。

 

 「……いい子ね」

 「んっ……そ、それより! 勝ち筋の話ですよ! 絶対に負けない不死身の軍勢相手に、どうやって勝つんですか?」

 

 愛おしそうに頭を撫でられて照れ臭くなったフィリップは、誤魔化すように声のボリュームを上げる。

 

 「勝ち筋は無いけれど……メイドが命を消耗しない限り、負け筋も無いわ。つまり、城内に入られない限り、私達が負けることは無い」

 

 ミナの言葉は概ね正しい。

 確かにメイドたちは持ち回りで砲撃すれば、魔力を回復させるだけのサイクルは組める。だから近接戦で命のストックを削りながら戦うような状況にさえならなければ、相当な期間の継戦が可能だ。

 

 だが監視塔から撃ち下ろしている以上、城壁に取り付かれると弾幕の密度は急激に低下する。城壁上の回廊やタレットから攻撃すればいいのだが、そうなると白兵戦まで秒読みだ。

 城壁を使った攻防にまで発展してしまえば、メイドの消耗は一気に加速する。いや、そこから本当に()()が始まるというべきか。

 

 ()()()()()、負け筋は無い。

 だが、それはもう見えているのだ。

 

 それを分かっていないのかと眉根を寄せたフィリップに、ミナは薄く苦笑いを浮かべた。

 

 「なんて……補給も援軍も無い籠城戦なんて、軍師が居たら笑われてしまうわね」

 

 口元は苦笑いではあるものの、ミナの赤い瞳に諦めの色は無い。

 そこにあるのは相変わらずの気だるげな気配と、フィリップが思わずため息を漏らしてしまうほどに()()()、下等種への嘲笑。

 

 フィリップにとっては見慣れたそれに、思わず余計なことを口走ってしまう。

 

 「大丈夫です。あの軍勢は、あと四日か五日くらいで完全に崩壊しますから」

 「あら、どうして?」

 

 理由を問われてから「しまった」と思ったフィリップだが、今更「特に理由はありません」は通じないだろうし、ミナにとってもメリットのあることだ。ここは素直に話しておくべきだろうと思い直す。

 

 「確定ではないんですけど、あと五日くらいで、ここに聖痕者が来ると思います」

 

 流石のミナも一撃で自分を殺し得る存在は無視できなかったのか、ぴくりと眉を動かす。

 しかし最終的に形作られた表情は、警戒と言うより、むしろ疑問に満ちたものだった。

 

 「どうして分かるの?」

 「あ、いえ、確証はないんです。僕の使い魔がこっちに来てるから、多分一緒だろうと思っただけで」

 

 ルキアかステラか、或いは他の誰かが助けてくれることを期待してシルヴァを置いて来たのだが、「誰かが来てくれる」という確証があったわけでは無い。それは今でもそうだ。流石にシルヴァ一人ではないはずだが、それだって裏付けが取れた事実ではなく、「流石に違うだろう」という推論だ。

 

 聖痕者──ルキアかステラのどちらかが来てくれる可能性は、五分といったところだろう。「邪神の力でどうとでもなるでしょ」と正しく判断して、完全に放任されている可能性も消して低くないのが怖いところだが。

 

 「キミが呼んだの?」

 「僕が呼んだというか、ディアボリカが僕を拉致する時に無茶した結果というか……。魔術も無しに助けは呼べないでしょう?」

 

 フィリップが自分の首元に巻かれた黒い枷を爪弾いてみせると、ミナは「そうね」と端的に納得した。

 

 「あの男。本当に殺してしまおうかしら。聖痕者なんて、私達の天敵じゃない」

 「いえ、聖痕者とは交渉できると思います。二人とも、僕ごとミナをぶっ飛ばすようなことはしない……はずですし、多分。……流石にしませんよね?」

 「私に訊かれても困るのだけれど……」

 

 ミナは困り顔でくすりと笑う。

 大人が子供に向けるものの何倍もの軽視と冷笑が籠った微笑に、フィリップは得も言われぬ居心地の()()を感じて、また声のボリュームを上げた。

 

 「とにかく! それが僕たちの勝ち筋です。四日か、五日か、それだけ耐えていれば、対悪魔最強の援軍が来ると信じましょう」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 四日から五日の耐久という方針に決めたミナは、フィリップを置いて部屋を出ると、大きく嘆息した。

 

 「場合によっては聖痕者を殺さなくてはいけないのね。……悪魔なんかより、ずっと骨が折れそう」

 「聖人殺し! 先代様の始祖殺しにも匹敵する、大偉業ですね!」

 

 気負いも恐怖もなく、普段通りの気怠そうな声。

 ぱちりと手を叩いて応じるルーシェの声にも恐れの色は無く、いつも通りに朗らかな笑顔だ。

 

 人類における対邪悪最強の切り札、腕の一振りで数十万の悪魔を葬り去る、魔王軍にとっての災厄。唯一神陣営における救世主。

 

 その存在を聞かされてなお、ミナの心中は平穏に薙いでいた。

 

 「難行と言うのよ。未だ達成できていない偉業はね」

 

 しかし、流石に楽な戦いとは行かない。

 自分の力量と、想定される相手の能力を比較して判断したミナは、自分以上に気負いのない、何ならもう勝った気でいるメイドに苦笑した。

 

 

 

 

 

 



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250

 

 “千夜城”滞在五日目朝。

 フィリップ・カーター拉致から、約94時間。

 

 暗黒領に突入した救助隊一行は、人類未踏破領域であるそこを、ただひたすらに馬に乗って駆け抜けていた。鬱蒼とした森の中を、林冠から僅かに覗く太陽と、()()が切り拓いた街道のような獣道を頼りに。

 

 魔王の領域に対する恐れなどなく。未知の領域に心を躍らせることもなく。

 

 ルキアは前を向いて、無心を取り繕って手綱を握る。

 乗馬姿勢は正しく、馬に負担を掛けないように体重を消して。しかし馬の負担など省みない、目的地に着いた途端に脚が壊れて死んでしまっても構わないとでも言うような、限界ギリギリのハイペースだ。その足取りを見れば、馬を気遣うような姿勢も「なるべく長持ちするように」と道具を大切にするようなものに感じてしまう。

 

 救助が一秒遅れるごとに、一秒分、フィリップが人間で無くなっていく。そんな強迫観念に憑りつかれたルキアが最適なペース配分を見失うのは、この遠征が始まってから何度も見た光景だった。

 

 「──ルキフェリア! ペースを上げ過ぎだ!」

 「──、っ! ごめんなさい……」

 

 ステラの叱咤に目を瞠ったルキアは、ステラたち他の救助隊がかなり後方にいることに気付き、ペースを落とす。

 ゆっくりと距離が詰まると、ステラとメイドたちはルキアを、親衛騎士の二人は馬の様子を注意深く観察した。ルキアが過剰に怯えている様子も、馬がバテている様子も無いことを認め、互いに頷きを交わして安堵する。

 

 「何度も言ったが、旅程は馬を使い潰すギリギリで立てている。これ以上のペースを出せば、確実にどこかで大きくロスする羽目になるぞ」

 「……えぇ。ごめんなさい」

 

 余裕が無いのはステラも同じで、声と表情の制御がいつもより格段に甘い。内心の焦りも、苛立ちも、ルキアには透けて見えた。

 

 しおらしく謝ったルキアは、馬を一行の後方まで下げる。

 後ろには殿を譲らないアリアがいるが、この位置なら抜け駆けする前に誰かが止められる。既に何度も「そこに居ろ」とステラに言われて、「嫌だ」と突っぱねて来たのだが、無意識に先行していたとあっては流石に観念したらしい。

 

 「……すてら、あっちがちかみち」

 「了解だ」

 

 舌足らずな案内と共に枝分かれした道を指差すのは、森に入った途端、森の全容や植生から馬の通れる幅の道までを完璧に把握し、ナビ役になっていたシルヴァだ。

 ステラと二人乗りだが、体重が軽いので馬の負担はステラ一人とそう変わらないだろう。

 

 シルヴァの案内で小道に入って、しばらく走った時だった。

 

 「──っ!」

 「お嬢様!?」

 「っ! 全体停止!」

 

 ルキアが唐突に手綱を手繰り、馬を止める。

 よく訓練された軍馬はいきなりの指示にも動じず、「あ、止まるんですね」と素直に減速する。慌てたのは少し後ろを走っていたアリアとその馬だ。

 

 追突寸前で躱したアリアの手綱捌きに称賛が贈られることもなく、後方の異常に気が付いたステラが行軍停止を命じる。

 

 何かあったのか、まさか馬に限界が来たのかと緊張感が高まるが、ルキアは馬ではなく、腰を回して背後の森をじっと見つめていた。

 

 「……敵か?」

 

 シルヴァを抱いていた片手を放し、ルキアと同じ方を鋭く睨み付けるステラ。

 肉眼では深い木立の中を見通すことはできないというのに、迂闊に魔力視に切り替えない辺り、よく警戒できている。

 

 親衛騎士の一人がステラの前に、もう一人が後ろを警戒するように位置を変え、剣の柄に手を掛ける。アリアとメグも同様にルキアを守る位置に動くが、二人とも目に見える戦闘態勢にはならなかった。

 

 五人の間に広がる緊張感を無視して、ルキアはひらりと舞うように馬を降りた。

 彼女はあろうことか、馬を置いてもと来た道を駆け戻っていく。

 

 「ルキア!?」

 「お嬢様、お待ちください!」

 

 ステラとアリアが慌てて馬を駆るが、間に合わない。ルキアは行く手を阻むように生えた低木を魔術で吹き飛ばし、木立の中に踏み入ってしまった。

 

 「あの馬鹿──」

 「……すてら、まってて」

 

 苛立ちを露わに後を追おうとしたステラだが、その前にシルヴァが馬を降りる。

 颯爽と飛び降りたルキアとは違い「ぽてっ」という擬音の付きそうな降り方でちょっと不安になるが、流石に森を走るのは慣れたものだ。木立の合間をぴょんぴょんと跳ねるように走り抜けて、あっという間に見えなくなった。

 

 シルヴァが追い付いたとき、ルキアは木立の中で、呆然と立ち尽くしていた。

 ここがどこか分からない。どうしてここに居るのか分からない。そんな疑問と僅かな恐怖で瞳を揺らしながら、それでも全周に魔力を撒いて警戒している。

 

 さわさわ、さわさわ、梢が揺れる。

 がさがさ、がさがさ、低木が騒ぐ。

 

 何かが居る。

 林冠を飛び回っているのか、地表を駆けまわっているのか、それとも動いていないのか。全く分からないが、何かが居る。それだけは漠然と分かる。

 

 それが何なのかは分からない。

 木立の深い鬱蒼とした森の中では、人間の目では認識できるものに限界がある。飛び回り、跳ね回り、駆け回る“何か”よりも、大きく動く木の枝葉に視線が釣られるからだ。

 

 普段なら魔力視を使うところだが、ルキアの直感が「絶対に知ってはいけない」と囁いていた。

 正しい直感なのか、ただ怯えすぎているだけなのか。フィリップが誘拐されてナーバスになっているだけの気もするし、フィリップの良く知る“人類領域外の存在”というやつかもしれない。

 

 魔力視は使わず、木立の間にじっと目を凝らして──ふと、揺れる金髪に目を惹かれた。

 

 「あっ──」

 

 自分でも驚くほど、か細い声が漏れる。

 親と離れて寂しがる子供のような、頼りなくて、情けない声だ。

 

 金色の髪が楽し気に揺れて、木々の間を跳ねまわる。

 それは時折、ルキアを誘うように森の奥を示していた。

 

 「待って……お願い」

 

 分かっている。

 それが探し求めている人物でないことも、彼がここにはいないことも──()()は、きっと人間でさえないことも。

 

 それなのに手が伸びる。足が向かう。

 木立の合間、枝葉の隙間、低木の下、林冠の上、森の中のあらゆるところから、くすくすと楽しそうな笑い声が聞こえる。それにつられて、自分もそちらへ行きたいと──彼のところへ行きたいと、そう思ってしまう。

 

 駆け回る後ろ髪に手を伸ばし、追いかける一歩を踏み出して──

 

 「──るきあ」

 「っ!?」

 

 ──舌足らずなのに、明らかに不機嫌だと分かる声に止められた。

 

 瞬間、ざわざわざわ! と、無数の何かが蠢き去って行くような気配があった。大量の虫が這いまわったような音に、背筋と足元がぞっと冷える。

 

 「シルヴァ……」

 「よりみちしないで。ふぃりっぷはまだ、ずっとむこう」

 

 シルヴァは翠玉色の目に不機嫌そうな光を湛えてルキアを睨み、ルキアが行こうとしていたのとは全く違う方向を指差す。

 

 「いま、そこにフィリップが居て……いえ、こんな森の中に居るはずがないのは分かっているのだけれど、でも、絶対に“居る”気がしたの。……ごめんなさい、意味不明よね」

 「んーん。もりにはそういうの、たまにいるから。みみずとかおおかみとか、くろやぎとかきりにはちかづいちゃだめ」

 

 シルヴァはまだ不機嫌そうだったが、その宛先が自分ではなく、たったいま自分を惑わせた「そういうの」だと気付いて小さく安堵した。

 それと同時に「黒山羊」と言う単語に、心臓が縮み上がる。あれは人生最大の恐怖のうちの一つにして、今のルキアを形作る大きな体験の一つだ。思い出すだけで背筋が凍るし、足が震える。

 

 思えば、今の行動は迂闊に過ぎた。

 森と言えば、あの黒山羊もそうだし、最近では触手で編まれた異形の猫とも遭遇した忌み地だ。一人でふらふらと入っていくなんて、正気の沙汰ではない。

 

 「……気を付けるわ」

 「ん。もどろ、るきあ?」

 

 シルヴァに手を引かれてもと来た道を戻りながら、ルキアはフィリップよりもまだ低い位置にあるシルヴァの後頭部をじっと見つめる。

 

 シルヴァ──ヴィカリウス・システムの幼体。

 ナイ神父曰く、星の表層。明確な目的や機能を持たない“ただ在るだけ”のモノ。環境、気候、現象、概念の化身。

 

 確立した“正気”を持たないが故に“狂気”という状態も持ち得ず──それ故に、フィリップが自分の最も近くに置いている、人類以上の存在。

 

 その思考や価値観は今一つ理解しきれていないが、フィリップが連れ去られたときに取り乱していた辺り、感情が全く無いわけではないはずだ。そう思ったルキアは、自分でも気づかないうちに問いかけていた。

 

 「貴女は──怖くは、無いの? フィリップが連れ去られたこともそうだけれど……フィリップが変わってしまうかもしれないこと」

 

 口を突いた自分の言葉に、ルキアは我が事ながら愕然とする。

 抱いた恐怖を他人に吐露して、あろうことか共感を得ようとするなんて、自分らしくもない。普段なら「忘れて」と取り下げるところだが、フィリップのペットが相手だからか、答えを待ってしまう。

 

 シルヴァがルキアの複雑な気持ちに気付くことなはなく、前を向いたままのんびりした様子で考える。

 

 「ん? んー……べつに。すてられたとおもってこわかったけど、ちがったし。それに……ふぃりっぷはかわれないし」

 「……えっ?」

 

 ルキアはまたしても、彼女らしからぬ呆けた声を上げる。

 でも、いま、何か。

 

 ──ものすごく、救われないことを聞いたような。

 

 「ん?」

 「変われない? 変わらない、じゃなくて?」

 

 足は止めず、しかし僅かに声を震わせての問いに、シルヴァも同じく歩きながら適当に答える。

 

 「ん……? じゃあ、かわらない」

 

 何が違うんだろうとでも言いたげに言葉を変えたシルヴァに、ルキアは薄く嘆息した。

 こういうのも「買い被り過ぎた」と言うのだろうか。シルヴァの防御力や存在格は人間以上だが、知能レベルは外見通りだ。その言葉に、何か大きく深い意味を求めるのはナンセンスかもしれない。

 

 「それより、るきあはもっとおちつけ。こわがってあせってるから、あんなのにだまされる」

 「うっ……そうね、返す言葉もないわ……」

 

 少し歩いて──ルキアの体感以上に森の奥にいたようだ──もといた小道に戻った二人は、ステラから多少の説教をされて、すぐに出発した。

 

 この一件以降、ルキアが過剰に先行することは無くなった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 千夜城、居住区最上階にあるミナの私室。そのバルコニーから外を眺めて、フィリップは独り言ちる。

 

 「──暇だ」

 

 遠くに見える無数の悪魔は、隊列なんて知ったことではないとばかりにぐちゃぐちゃな動きをしている。盾はともかく、魔術防御を展開しながら進めば多少はマシになるだろうに、馬鹿正直に歩いているから砲撃で押し留められているのだ。

 

 面白いのは、昼夜問わず進攻を続けているくせに、フィリップが寝ていた夜の間に前線が上がった気配が全く無いことだ。

 悪魔(あちら)は睡眠不要で吸血鬼(こちら)は眠るのにもかかわらず。ローテーションで眠らず残ったメイドの能力が、陽光が消えて倍増しているからだろう。

 

 監視塔や城のそこかしこに開いた狭間からの魔術砲撃は、悪魔の軍勢を一定数纏めて肉塊に変える。

 一発を免れた一部分が僅かに進み、次の一撃で地面にぶちまけられた血肉の染みになる。その一発の間に再生した悪魔たちが一歩を進み、次の瞬間には上半身が吹き飛んで頽れる。

 

 そんな繰り返しを続けながら、前線はじわじわと上がってくる。

 

 時折聞こえる爆発音と、ばらばらばら、という雨のような音は、大きな岩が空中で爆ぜて、破片が散らばる音だ。

 悪魔軍の後衛部隊が放つ超長距離重量物投射儀式魔術、簡単に言えばとんでもなく射程の長いカタパルト魔術を、吸血鬼メイドが爆破魔術で迎撃し、城壁に被害が出ないレベルにまで破砕している。降り注ぐ破片は、流石に生身で当たれば大怪我をするだろうが、硬い城壁を崩す蟻の穴には成り得ない。

 

 城から絶え間なく掃射される血の大矢。荒野にぶちまけられる、どす黒い赤。気色の悪い逆再生と、理性の無い哄笑。

 飛来する岩塊が爆ぜ、肉を裂くような破片がばら撒かれる。

 

 そんな景色を眺めながら、フィリップはまた、独り言ちる。

 

 「暇だ……」

 

 十数万の悪魔の軍勢。迎え撃つは百の吸血鬼。

 それなりに面白そうな状況なのだが──一晩寝ても状況が変わっていないとは思わなかった。空気を切り裂いて飛翔する無数の大矢は見応え十分だが、そろそろ飽きてきた。

 

 書庫で本を読もうにも、何やら難しそうな魔術書ばかりで手が動かない。

 朝食は食べたし、昼食には少し早い。二度寝する気分でもないし、主人不在のベッドで勝手に寝るのも気が引ける。

 

 本当はミナと遊びたいところなのだが、彼女は陣頭指揮ということで、城で一番高い監視塔に籠りきりだ。

 

 とぼとぼと部屋を出ようとすると、扉の側に控えていたルーシェに物言いたげな顔でじっと見つめられる。

 

 「……出ちゃ駄目ですか?」

 「いえ……ご主人様は「出すな」とは仰せになっていませんから。ですが旦那様の安全のためにも、あまり迂闊な行動は避けられた方がよろしいかと存じます」

 

 ルーシェの言葉に一定以上の道理を認めたフィリップは、困ったように頬を掻く。

 城内を歩くくらいなら危険はないはずだが、万が一ということもある。城内に潜入している悪魔が居たり、或いは岩塊の魔術を撃墜し損ねて直撃したりすれば、()()()一瞬で死んでしまうだろう。

 

 しかし暇なのだ。

 本を読んでいれば無限に暇を潰せるフィリップだが、代わり映えのしない景色を延々と眺めていられるほどの落ち着きは無い。

 

 ──と、お互いに困り顔を浮かべた時。

 

 「話は聞かせて貰ったわ! これは絶好の機会よ、フィリップ君!」

 

 ばたん! と勢いよく部屋の扉が開け放たれ、濃い顔の紳士が期待に満ち満ちた表情で入ってくる。

 あと一歩ドアに近い位置に立っていたら、ドアが思いっきりフィリップの顔面を殴り付けていたところだ。顔を扇ぐ風圧に、フィリップは肩を跳ね上げて飛び退いた。

 

 「うわびっくりした! ノックしましょうよ!」

 「あら、失礼。ちょっと気が急き過ぎちゃったわ」

 

 部屋に入るところからやり直そうとするディアボリカを引き留め、何をしに来たのかと問う。するとディアボリカは、何故か心底嬉しそうな、そしてこれから祭りに出掛ける子供のような期待に満ちた笑顔を浮かべた。

 

 「大チャンスよ、フィリップ君! こんな大襲撃はミナは()()()だから、ここで活躍すれば、あの子の見る目もガラッと変わるわよ!」

 「えっと……何の話ですか?」

 

 間抜けにも心の底から問いかけたフィリップに、ディアボリカはむっと眉根を寄せる。

 

 「だから、ミナとアナタの関係性の話よ! このままミナのペットに甘んじるつもり?」

 「いや、助けが来たら帰りますけど。というか、ミナは三十年前に……あぁ」

 

 そういえば三十年前には、ディアボリカはまだ封印されていたのだったか。というか、封印された百年前の時点で、ミナは幾つくらいだったのだろう。

 

 「え、なぁにその反応? フィリップ君、何か知ってるの?」

 「まぁ多少は。ところでミナって何歳なんですか?」

 「あら、ちょっとはミナに興味が出てきた? うーん……女性に年の話はご法度なんだけど、夫婦なら知っておくべきよね。うん。あの子は今年で105歳よ。肉体年齢は、人間で言うと二十代前半ってところね。エルフの血が勝つのか、吸血鬼の因子が勝つのかはまだ分からないけど、どちらにしても向こう500年くらいは老いが現れることはないわ」

 

 宇宙誕生以前から存在しているモノとか、そもそも時間の流れの外にいるようなモノを知っているフィリップだが、100歳以上と言われると流石にピンと来ない。地元で一番長生きだった近所のおじいちゃんが、確か70と2か3才くらいだったはずだ。

 

 ふーん、と気のない相槌を打って、とんでもないことに気が付いた。

 

 「……は!? 105歳!? え、じゃあ、ミナが5歳の時に封印されちゃったんですか!?」

 「…………そうなのよ」

 

 それが不味いことだとは分かるらしく、ディアボリカはがっくりと肩を落として答える。

 その気落ちぶりたるや、岩のような筋肉が萎れて見えるほどだ。

 

 「お母さん……奥さんは?」

 「アタシが封印された後、アタシを探しに出て死んだらしいわ……」

 

 フィリップが思わず「うわぁ……」と顔にも声にも出してしまうと、ディアボリカはより一層重い空気を纏った。

 

 「えーっと……あ、そういえば、なんで封印されたんですか?」

 「人間の町まで遊びに行って、その近くの森で実験してたら……ヴィカリウス・システムを嗾けられて」

 「遊びに行って帰ってこなかった、と?」

 「そ、その言い方には悪意とか語弊とか色々とあるけど、……概ねその通りね」

 

 非難の意は込めたものの、悪意と曲解を混ぜた覚えのないフィリップは、「ははは……」と乾いた笑いを漏らす。

 図星を突かれて狼狽える時の反応は、どうやら人間と吸血鬼で差異は無いらしい。

 

 「で、帰ってきたと思ったら、下等種族と結婚させようとかしてくる狂人になってたと。……僕なら家族のよしみで介錯してあげますけど、ミナはそこまで優しくないんですかね」

 「アナタのそれも純粋な優しさとは言えないわよ!?」

 

 大袈裟に怯えてみせるディアボリカ。

 言われてみると、日常生活に支障が出ない類の狂気や破綻で殺すのは、少しばかり過剰かもしれない。ミナは同じ部屋に入らせないくらいで済ませているし、それも家族愛という奴なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 



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251

 「とにかく! いや、ともかく!」

 

 ディアボリカは少し大きな声を出して、話題を強引に引き戻す。

 

 「この戦争でいいトコ見せて、ミナの心をぐっと掴むのよ!」

 「……。……?」

 

 まさかこいつ、自分で付けた首輪のことも忘れるくらい頭がおかしくなったのか? 

 そんな内心の透ける、胡乱で不愉快そうなフィリップの一瞥に、ディアボリカは口元をしょんぼりと歪めた。

 

 「あ、あのね? 女の子はこういう一大事に、一緒に居て、一緒に悩んでくれる男が好きなのよ?」

 「……前から訊こうと思ってたんですけど、どうして僕をミナの花婿にしようなんて思ったんですか?」

 

 聞いても居ないことを語り出したディアボリカに「“女の子”を主語にして物を語るな」と何度目かになる突っ込みを入れるのも億劫になり、フィリップは自分の疑問を一方的に投げる。

 過去の大失敗から話題が逸らせるなら何でもよかったのか、ディアボリカは気を悪くした様子も無く、少し考え込む様子を見せた。

 

 どんな素っ頓狂な理由が飛んでくるのか、少し怖い。これで論理性がぐちゃぐちゃだったり、因果の壊れた理由を述べたら、その時は本格的に彼を狂人と認める必要がある。いや、今でもかなり疑ってはいるが、認知がより決定的なものになると言うべきか。

 

 「お前は頭がおかしいのか?」という疑問が、「お前は頭がおかしいな」という断定に変わる、といえば的確だろう。

 

 果たして、ディアボリカは。

 

 「うーん……色々あるけど、一番はやっぱり“匂い”ね。月の匂い、星の匂い、アタシたち夜の住人よりも濃密な夜闇の香り。アタシたちの心を擽り、血を滾らせ、骨を焼くような冷たくて甘い香り。それに惹かれない吸血鬼は居ないと思うわ」

 「え、なんか変態くさ……」

 

 すすす、と距離を取るフィリップに、ディアボリカは慌てて「待って、今のが一番って言うのはナシ!」と両手を振った。

 一番だろうが二番だろうが、匂い──外神の気配を理由にしている時点で、フィリップとしてはなるべくお近づきになりたくないのだが。

 

 「ほ、ホントの一番は、アナタが“人間”ってところよ!」

 

 苦し紛れなのか、本心なのか。心を読む術も、表情からの推察もできないフィリップには判らない。

 ──けれど、それが本心だったら、少し嬉しい理由だった。

 

 無言で先を促すフィリップに、ディアボリカは「ホントは何の話をしに来たんだったかしら……」と首を捻りながらも、素直に語る。

 

 「アタシも、元は人間なのよ。だから、ミナの結婚相手も人間がいいとは前々から思ってたの。でも流石に、人間にとっては恐怖の対象でしかない吸血鬼を、何の偏見も無く愛せる人間なんていないし……と、思ってたところで、アナタを見つけたのよ! このアタシを相手に平然と言葉を交わすだけじゃない、躊躇なく命を奪える精神性も、ヴィカリウス・システムに慈愛を向ける優しさも、アタシにとっては百点満点だったのよ」

 

 人間性──或いは、非人間性、と言うべきか。

 人食いの化け物を相手にしても怯えないどころか、その居城に拉致されてもなお取り乱さない精神性。

 

 魔術を封じられ、武器を奪われ、麻痺の魔眼と拘束の魔眼に囲まれている。人間にとっては猛獣の檻の中か、俎板の上にも等しい。戦うとか諦めるとか、そんな思考の挟まる余地もない、絶対の死地だ。

 

 その只中にあって、退屈さすら覚える認識の齟齬。価値観の歪み。

 それはディアボリカにとっては素晴らしく、そして同じものは二つと有り得ないであろう、輝かしいまでの美点に映った。

 

 だが、フィリップにとっては違う。

 

 確かにこれはフィリップ特有の個性かもしれないが、自分が望んでこうなったわけではないし、美点だとも思わない。

 顔がコンプレックスの人間に「君はブスだが、そこがいい」と言って、素直に褒められたと受け取る人間は半数以下だろう。フィリップも大多数に漏れず、欠点を褒められても褒められた気がしないタイプだった。

 

 「……そうですか。じゃあ、僕はミナのところに行くので」

 

 不愉快そうに片眉を上げたフィリップは、話は終わりだと片手を振って部屋を出る。

 少し期待していたぶん落胆も大きかったフィリップの顔には、「怒っています」と眉根の皺で明記されていた。

 

 ルーシェは何も言わずに少し後を追い、ディアボリカはその後にあわあわと続く。 

 

 「ま、待って待って。何しに行くの? 一応言っておくけど、「暇だから遊んでー」なんてのはナシよ?」

 「そこまで子供に見えますか。……まぁ、暇潰し目的なのは否定しませんけど」

 「暇潰し? ……あぁ、そういうコト。それなら止めないけど、馬鹿正直に言っちゃ駄目よ? こういう時はさっきも言った通り、「一緒にいたいから」とか、「二人で戦おう」とか、そういう言葉を女の子は求めて──あ、ちょっとぉ!?」

 

 フィリップはこれ以上ディアボリカの言葉に耳を貸すことなく、足早にミナのところへと向かう。

 全く本当に、ステラの言う通りだと内心で笑いながら。

 

 ──ああいう否定し辛い事実を突きつける行為は、何かしらの罪に問われるべきだ。

 

 

 監視塔の長い螺旋階段を昇り終えると、ミナは何人かのメイドと共に、退屈そうに荒野を眺めていた。

 声を掛けたフィリップをいつものように抱擁するが、撫でる手つきが心ここにあらずと言った様子で、まさか戦局が思わしくないのかと不安に駆られる。

 

 だが見る限り、前線の進み具合は想定の範囲内だ。

 城壁の出っ張りやタレットの屋根を指標代わりにした、大雑把な見方だが。

 

 「ミナ、不味い状況ですか?」

 「……えぇ」

 

 声に覇気がないのはいつものことだが、心なしか普段より更に落ち込んだように聞こえる。

 フィリップは思わず、肩に回された手を握るが──

 

 「──退屈過ぎるわ。あんなの、私が出れば1時間もかからずに掃討できるのに」

 

 ──色々なものが落っこちた。主に透かされた肩とか。

 

 いや、まぁ、言わんとしていることは分かる。

 ミナの魔剣『美徳』が持つ邪悪特攻能力がルキアの『粛清の光』と同質の即死なら、ミナ自身の戦闘能力も併せて、あんな軍勢は何の障害にもならない。

 

 ただ、ミナが出撃するのはメイドの矜持にも、戦争の作法にも抵触するらしい。総大将が城を出るのは逃げる時と処刑される時だけなのだとか。

 だからこうして、高い塔で面白味の欠片も無い殺戮の景色を眺めているのだが──そりゃあ暇だろう。フィリップにも分かる。

 

 ディアボリカは彼女のどこを見て「一緒に戦います」という言葉を求めていると思ったのだろうか。というかそもそも、彼女はペットが戦うことを許容しない、フィリップと同じ部類の飼い主だ。フィリップにミナと同等の戦闘能力があったとしても、ペットという立ち位置でいる限り、「ミナの為に戦う」という主張を呑むことはないだろう。

 

 「実は同じことを言いに来たんです。僕も部屋でただ待ってるのは暇で……なんか、玩具(おもちゃ)とかありませんか? 弓矢とか……バリスタとか」

 「剣だけじゃなくて弓にも興味があるの? 好奇心が旺盛なのは良い事だけれど、人間の寿命や才能で多くに手を出すと大成しないわよ?」

 「前から触ってみたかったことは否定しませんけど、ホントにただの暇潰しですよ。的もたくさんあるし、ちょうどいいかなって」

 

 的とは言うまでもなく、十数万の悪魔だ。

 だが戦意はないし、ミナや城を守ろうという気概もない。

 

 「ホントはミナと遊びたいんですけど、邪魔はしたくないので。一人で遊べる遊び道具が欲しいなって思うんですけど……駄目ですか?」

 

 殊勝なのか舐めているのか判別しかねるフィリップの言葉を、ミナは適当に考えて、適当に肯定した。

 

 「バリスタならタレットにあったはずよ。……怪我をしないように気を付けて」

 「やった! ありがとうございます、ミナ!」

 

 ぱたぱたと駆け出したフィリップ。その後を、「畏まりました」とミナに向かって一礼したルーシェが続く。ミナの「怪我しないように」という言葉は、フィリップではなくルーシェに対する監督命令だった。

 

 流石に城壁のタレットは危ないということで、ミナのいる監視塔からほど近い、城の本棟に据えられたタレットに入る。

 中は居住区とは違って簡素な石造りのままで、窓は無く、代わりに魔術砲撃用の縦長の狭間と、バリスタを撃つための横長のスリットが空いている。壁際には横倒しにした大弓のような防衛兵器、バリスタが設置されており、近くには弾丸である専用の大矢が詰まった箱が幾つも詰まれていた。

 

 大矢はフィリップの腕よりなお太く、貫き手のように厚ぼったい鏃が付いていた。腕が一本、丸ごと飛んでいくようなものだ。当たればとんでもない威力なのだろうが、当たるかどうかがまず怪しい。ぼてっとしたフォルムは怖さよりひょうきんさを感じて、剣や槍や矢のような、一見して分かる「殺す機能」が見て取れない。

 そんな規格(サイズ)の弾丸を(ハジ)くのは、フィリップの身長と同じくらい大きな弓だ。

 

 「こちらはハンドル式ですので、この取っ手を掴んで回すと引き絞れます。弓を引き絞ったら、ここに矢をセットしてください」 

 「……う、ぃ、お、重い……!」

 

 片手では回せない重さのハンドルをキリキリと回し、見るからに固そうな錬金金属の棒を、同じく錬金金属の弦でしならせる。

 ルーシェの説明に従って大矢をセット。すると意外にも、このずんぐりむっくりした砲弾は鋭利な殺意を纏って見えた。

 

 「ここが照星、ここが照門です。ここに立って、こことここを合わせるように見てください」

 「ふむふむ……」

 「概ね800メートルから1キロ程度が正照準ですので……今はまだ、狙った相手を撃てるような状況ではありませんね」

 

 可笑しそうに顔を綻ばせるルーシェに、フィリップはそうなのかと遠くに見える悪魔の群れを眺める。

 

 「一応、三十度くらい仰角を付けるとあの位置でも届くかもしれませんけど……狙えませんし、当たっても効くかどうか……」

 「あ、それは大丈夫です。あいつらを倒そうなんて思ってないので」

 

 フィリップは何の気負いもなく、言われた通りにバリスタを上向きに修正してから、足元にあったペダルを踏んだ。直感的に理解したとおり、それはクロスボウで言う引き金(トリガー)、ハンドルの力で引き絞られた弦を解放するリリースペダルだった。

 

 ばん! と爆発音にも思える音を立てて、金属の弦と弓が、溜めに溜めた力の全てを解き放つ。盛大に鳴ったのは弓の部分ではなく、その運動と威力を受け止めた土台部分。バリスタ全体が均等に負荷を受けて分散している。

 

 撃ち放たれた砲弾は、その形状からは想像もできないほど真っ直ぐに、空へ向かって落ちるように飛んでいく。

 手元では見えない速度だったが、あっという間に数百メートルを駆け抜けた後では、陽光を反射してよく見えた。

 

 大袈裟に仰角を付けただけあって、砲弾は緩やかな放物線を描いて、悪魔の軍勢のやや手前くらいで見えなくなる。多分、もうあと数度の仰角で届くだろう。

 砲弾は片手ではずっしり来る程度には重く、放物線状に落下しているとはいえ、最高到達高度は100メートルではまだまだ足りない。当たれば頭蓋骨くらい、簡単に粉砕する威力のはずだ。

 

 ……まぁ、そんなことはどうでもよくて。

 

 「おぉぉぉ! すっごいですね! 発射の反動でバリスタ本体まで震えてる! ははは、かっこいい!」

 

 フィリップはきこきことハンドルを回し、また弦を引き絞る。そしてまた、ちょっと強めに踏まないと動かないトリガーを踏みつけた。

 

 ばん。きこきこ。ばん。きこきこ。ばん。きこきこ。

 何度か繰り返しているうちに正しい角度を見つけ出して、砲弾は遂に悪魔の軍勢の中に消えていく。

 

 「お、届い……た! 多分!」

 「おめでとうございます! 届いていましたよ!」

 

 遮るものの無い荒野とはいえ、流石に遠すぎて当たったかどうかは分からない。腕ほどもある砲弾ですら、光の反射が無ければ見失ってしまう距離だ。

 

 しかし、それはあくまで人間の肉眼なら、という話。

 人間以上の肉体性能を持つ吸血鬼の目は、3キロ先で悪魔の頭部が弾け飛ぶさまを視認していた。

 

 どうやら観測手(スポッター)はいるらしいが、フィリップは敵軍を威圧する射手(シューター)としてここにいるわけではない。スナイパーなら弾着確認も弾道計算もスポッターに任せてしまえばいいのだが、これはあくまで暇潰し。最優先目標は敵軍打破ではなく、享楽だ。

 

 これでは、あまり面白くない。

 だが流石に狙って撃てる距離に近付けろとは言えないし、と考えたフィリップは、ある道具の存在を思い出した。

 

 「望遠鏡とか無いですか?」

 

 望遠鏡。錬金術製の極めて薄いガラスを組み合わせて作るそれは、懐中時計ほどではないものの、珍しく高価な品として知られている。フィリップは未だに実物を見たことがないくらいだ。

 

 いくらミナの居城が豪勢なものとはいえ、肉体そのものが十分な基礎スペックを持つ吸血鬼がそんな余分なものを持っているのだろうか。

 自分で言っておいて「まぁ、無いか」くらいのつもりでいたフィリップだが、意外にもルーシェはぱちりと手を叩いてにっこりと笑った。

 

 「うーん……あっ、倉庫で見た覚えがあります! いまお持ちしますね!」

 

 ぱたぱたと慌ただしくも軽快にタレットを出て行く侍女長。元気溌剌といった振る舞いだが、所作の一つ一つは極めて洗練されていて、一等地の宿や貴族の邸宅でも重用されることは間違いない。流石はミナが一番最初に作ったという配下だ。

 

 「……ちゃんとした作法を教わるチャンス? いや、流石に戦争の邪魔はしちゃ駄目か……」

 

 そもそも所作の類は一朝一夕でどうにかなるものではないし、と誰にともなく言い訳して、フィリップはまたバリスタをぶっ放し始めた。

 

 

 

 



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252

 千夜城滞在六日目。悪魔襲撃から二日。

 フィリップは昨日に引き続き、タレットに籠って飽きもせずバリスタをぶっ放していた。ミナには「それ、楽しいの?」と怪訝そうな目で見られたが。

 

 ところでバリスタ、バリスタと言っていたが、どうやらこれはフィリップの知る、王都の防壁上に並んでいる一般的なバリスタとは違うものらしい。

 

 相違点は、概ね二つ。

 砲弾に魔力を込めると着弾時に爆発すること。直線ではなく曲射弾道を前提としており、直撃を狙う武器ではないこと。

 

 ナイアーラトテップがいれば「迫撃砲みたいなものですね」とフィリップには分らない注釈をくれるだろう性能だ。防衛兵器としても、攻城兵器としても、十分以上の破壊力がある。

 

 だが、フィリップが首輪を破ってなけなしの魔力を封入する必要はないだろう。

 城のそこかしこから乱れ飛ぶ、横殴りの赤い雨──血で編まれた大矢の弾幕を見れば、誰だってそう判断する。

 

 そんな風に思っていたのは、軍勢襲来から三日目の正午辺りまでだった。

 

 「──流石に、進んできましたね」

 

 弾幕──点攻撃の羅列による面制圧攻撃には、一点を攻撃してから別な一点を攻撃するまでに、多少のラグがある。

 普段なら「だからどうした」程度の時間差。同胞の死を横目に一歩を踏み出せば、その瞬間に絶命の一撃が飛来する弾速と密度。だが──死ぬまでに一歩を踏み出せるのなら、不死身の軍隊は、その一歩を何度でも積み重ねられる。

 

 一歩進んで、下半身が千切れ飛ぶ。一歩進んで、上半身が千切れ飛ぶ。一歩進んで、死んで、一歩進んで、死んで、一歩進んで、死んで。

 地獄の悪鬼は理性を失い、痛みを感じず、脊髄を焼く飢えに苦しみながら哄笑する。そして遂に、二千メートルもの距離を踏破した。

 

 城壁まで、あと千メートル。

 いや、城からの砲撃が城壁の影に遮られてしまうことを考えると、正確にはそれより数十メートルほど少ないか。

 

 城壁に取り付かれたら、こちらも城からの砲撃ではなく城壁上からの防衛戦に移らなければならない。

 だが白兵戦は一方的な掃射とは違い、致死のリスクが大きくなる。命のストックが補充出来ない現状では、そこから先は本当の消耗戦だ。本物の不死身と疑似的な不死身による、一方的なリソースの破壊。

 

 「……ルーシェ、砲弾に魔力を入れてくれませんか。僕にはコレがあるので」

 

 フィリップはバリスタの傾きを調整し、遂に有効射程圏に入った悪魔に照準を合わせる。

 顎を上げて首輪を示したフィリップに、ルーシェは「畏まりました」と呆れ笑いで従う。フィリップの口元は、遂にバリスタの本気が見られることを喜んで、愉悦の形に歪んでいた。

 

 「どうぞ、旦那様。充填完了です! あ、絶対に落とさないでくださいね!」

 「えっ、手元から落としただけで爆発するんですか? き、気を付けます……」

 

 フィリップは僅かに声を震わせて、慎重な手つきで矢弾をセットする。

 手が滑って死んじゃいました、なんて死に様は流石に嫌だ。主にナイアーラトテップが大爆笑しそうだから。

 

 なんて怯えているが、バリスタで撃ち出すのだから耐衝撃性は相当なものだし、それなりの勢いで先端部分から落下しないと爆発はしない。ルーシェはちょっと揶揄ってみただけだった。

 

 「よいしょっと」

 

 タイミングを見計らってペダルを踏むと、ばん、とこれまで通りの作動音と共に砲弾が飛び出す。

 昨日持ってきてくれた望遠鏡を覗き、陽光を浴びてきらきらと輝く矢弾を追いかける。緩やかな放物線を描いて、10秒弱の滞空時間の後に悪魔の群れの中に消え──直後、赤黒い血飛沫が炸裂した。

 

 砲弾は熱を伴って爆発するのではなく、籠められた魔力をほぼ全て衝撃に変換していた。

 炎や閃光といった派手さは全くない、ただ周囲の物体を殴打する空気の振動。もう少し威力が弱ければ音響榴弾とでも表現できただろうが、内臓をぐちゃぐちゃに攪拌し、肉を千切り飛ばす威力は非殺傷目的では有り得ない。

 

 「うわ、思ったよりグロテスクだなぁ……」

 

 爆炎や煙といったカーテンがない分、悪魔の内容物が弾け出るところを望遠鏡の丸く拡大された視界の中で鮮明に見てしまう。

 グロテスクとは言ってもどす黒い赤とピンクと、たまに白が混ざる程度だ。色と光の原色からは作られない色が混ざっていたり、黒い光を放っていたりはしないが、それでも見ていて気持ちのいいものではなかった。

 

 ──とはいえ、見ていられないほどではないし、「あんな酷いことをしてしまった」と嘆き悲しむ精神性でもないので、ルーシェに次弾を要求するのだが。

 

 きこきこばんばんと、バリスタで遊ぶフィリップ。

 一発ごとに数十の悪魔が千切れ飛んでいるものの、全体で見れば小指の爪みたいな損傷率だ。それもすぐに復元され、馬鹿笑いしながら進軍を再開する。

 

 横殴りの赤い雨。

 断続的に飛ぶ錫色の衝撃殺傷(インパルス)榴弾(HE)

 

 血の大矢に貫かれ、その余波で吹き飛び、蘇る。

 不可視の衝撃に殴られ、内容物を弾けさせ、蘇る。

 

 痛みは病に蝕まれ、死は病に貪られ、ただ飢えによってのみ生の実感を得た悪魔の群れが、無意味な反抗を嗤いながら歩を進める。

 

 その不愉快な笑い声が、飽和していた聴覚に新たな刺激として鮮明に届いた。

 

 血の大矢が打ち出される衝撃音と、バリスタの反動音にはもう慣れた。

 

 超音速の魔術が空気を裂く音は、弾幕が濃密すぎてもはや分からない。

 

 断続的な雨音は、そういえば敵軍後衛の投石が砕かれ、降り注いでいる音なのだったか。

 

 「ギャハハハハ──!」

 「──うるさいな」

 

 彼我の距離は、未だ800メートル以上はあるはずだ。

 それなのに、笑い声が耳に障る。これはフィリップの心が抱いた不快感ではなく、身体が抱いた拒絶感だ。

 

 あれらは全て、フィリップを喰らうことを目的にしているもの。飢えた肉食獣とほぼ同義だ。食欲に満ちた視線がタレットの隙間を縫って、フィリップの骨肉を舐めるように思われた。

 

 ぷらぷらと手を振り、手を握ったり開いたりして反応を確認する。怖くないのに恐怖する身体、不随意な本能的反射が、どうにも鬱陶しい。

 自分の身体に不愉快そうな目を向けていたフィリップは、ややあって「ま、これも人間の証拠だよね」と和解した。自分の身体といがみ合ったって何も良いことは無いし、たまに硬くなる下半身のアレとか、たまに甲高く裏返る声なんかと同じ、仕方のないことだと受け容れよう。

 

 ──でないと、勢い余って人間の身体を捨ててしまう。

 

 「僕の何処が美味しそうに見えるのやら。ねぇルーシェ?」

 「え? あー……あははは」

 

 妙に歯切れの悪いルーシェに、フィリップは「そういえば吸血鬼も人間を食うんだった」と思い出した。

 

 「……そういえば、処女や童貞が好まれるのは、血液の純度が高いからなんですよね? じゃあ瀉血で血を綺麗にすればいいんじゃないですか?」

 「旦那様……もしかして結構な田舎のご出身ですか? 瀉血治療に病気を治したり、血を綺麗にしたりする効果は無いって、何年か前に結論付けられていましたよ?」

 「え、そうなんですか? ……あ、だからかぁ」

 

 瀉血とは、簡単に言うと血を抜く医療行為だ。一般的には万能とされ、発熱、腹痛、嘔吐、下痢、関節痛から目のかゆみにまで、腕を切って血を抜けば治るとされていた。

 フィリップも興味はあったのだが、田舎の医者が「最先端治療で知見が足りないから」という理由で導入しなかった瀉血は、王都でも見られなかったのだ。てっきり錬金術による製剤技術がより優れていて、血を抜くより効果的だからという理由だと思っていたのだが。

 

 「ルーシェ、意外と人間社会のことに詳しいですね?」

 「はい! 定期的に王都や帝都、教皇領などを視察していますので!」

 

 すごいでしょ、とばかり胸を張る吸血鬼メイド。王都衛士団や帝国の騎竜魔導士に吸血鬼だと露見せず情報収集できたのは、確かに凄い。

 とはいえ一応は人間サイドであるフィリップは、自分の生活圏に知らず知らずのうちに化け物が入り込んでいたと聞かされて頬をひくつかせているが。

 

 そんな取り留めのない雑談に興じながら、バリスタを撃ち続けること数時間。

 タレットの狭間から差し込む陽光がオレンジ色に染まり始め、西日で少し暑いと感じた頃だった。

 

 「──旦那様、至急、ご主人様の下へお戻りください」

 

 ルーシェの深刻そうな声色に、着弾確認に覗いていた望遠鏡から目を離す。

 最後に見た悪魔の軍勢は、城壁から200メートルほどにまで接近していた。

 

 「東側の弾幕が突破されました。敵先陣、城壁に対して雲梯と攻城塔を掛けようとしています」

 

 雲梯とは城壁を登るための、台車に乗った可動式はしごだ。攻城塔はそれを防御するためのやぐらで、頂上付近にはバリスタや弓兵を配置して、城壁からの攻撃を妨害する役割がある。

 

 どちらも、あの軍勢の全員が百回以上は確実に死ぬような弾幕の中、ここまで持って来られたとは思えない、かなり大がかりな代物だ。

 おそらく魔術による生成品だろう。つまり何度壊しても、魔力がある限り再生産されるということ。

 

 不死身の軍隊に、ほぼ無尽蔵の攻城兵器。断続的に飛来する敵軍後衛からの投石も、城壁上に展開するのならかなり邪魔だ。

 

 「……流石に厳しいですね」

 

 シルヴァが到着するまで、おそらくあと二日か三日といったところ。ルキアかステラのどちらかが居る前提で当てにしているが、このままではそもそも間に合わない。

 

 「事前の作戦に従い、我々は城壁上での攻防戦に入ります。これ以降、ご主人様は玉座の間でお待ちになられますので、旦那様はそちらへ」

 「待つ?」

 

 聞き返したフィリップに、ルーシェは重々しく頷いた。

 

 「はい。ことここに至らば、城主は玉座で、自らの首を刎ねる者を待ち続けるのが戦の作法ですから」

 

 

 

 

 



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253

 ──夜が来た。

 太陽が地平線に消え、朱暮れの空が藍に染まる。

 

 未だ月の昇らない闇夜。

 しかし、それでも吸血鬼にとってはホームフィールドだ。

 

 吸血鬼の能力は陽光下で半減し、月光下では倍増する。つまり、日が沈み、月が無い今この状態こそがフラットなもの。

 

 “もっとも正統な吸血鬼”ミナの配下、彼女が血を吸い吸血鬼化させた下位吸血鬼は、100年を生き1000人の血を吸った上位吸血鬼(ほんもの)にすら匹敵する。陽光さえ消えれば、魔物の一万や十万、たとえ不死身でも恐れるに足りない。

 

 「──私の配下なら、夜の間に死ぬことはないでしょう」

 

 玉座に腰掛け、膝の上にフィリップを乗せたミナは、片手で頬杖を突き、片手でフィリップを軽く抱擁しながら呟く。

 いつも通りのダウナーな声に込められた感情は、信頼ではなく倦怠だった。

 

 「私の目算が正しければ、メイドの消耗が始まるまで11時間。城壁が突破されて、城内に悪魔が侵入するまで6時間。私のところに悪魔が雪崩れ込んでくるまで3時間。夜の間はメイドの消耗が止まることを考えると、プラス10時間だから……30時間くらいは退屈ね」

 「……今夜を抜いて一日と一夜越せば、援軍が来るはずです。なんとか持ち堪えられそうですね」

 

 ミナの胸に背中を預けたフィリップが言うと、彼女はフィリップを抱きすくめて、首筋に顔を埋めた。

 

 「持ち堪える、ね。私が出れば、殲滅だって可能なのよ? 私が出るのも援軍に頼るのも、そう変わらないと思うのだけれど……」

 「“戦の作法”なんでしょう? 僕には分かりませんけど、そういうものだって聞きましたよ」

 「メイドの矜持というのもあるでしょうね。雑兵風情と主人を戦わせるわけにはいかない、って張り切っているのよ」

 

 ミナは面倒くさそうに嘆息する。

 溜息にしては妙に冷たい吐息が首筋にかかり、フィリップは思わず身じろぎした。

 

 「じゃあ、ミナは敵の総大将……誰でしたっけ、あの……マルバスって悪魔が出てくるまでは戦わないってことですね。ディアボリカは……邪悪特攻が無いなら、あんまり意味は無いですか?」

 「……さぁ? 跡形も残さず消し飛ばせば再生しないのなら、アレでも十分に悪魔の軍勢を殲滅できるでしょうけど」

 

 そうだとしてもアレの手は借りない、と、ミナはフィリップを抱く手に力を籠めることで答えた。

 

 「ミナは……やっぱり、ディアボリカのことが許せませんか?」

 

 もしそうなら、フィリップは出来る限り仲直りに尽力するつもりだ。

 ディアボリカのことはどうでもいいが、ミナも怒りに囚われ続けるのは辛いだろうし、家族は仲良くすべきだという場違いな道徳心もある。人間と吸血鬼で「家族」の在り方は全く違うかもしれないなんてことは、全く考慮していなかった。

 

 神妙に問いかけるフィリップだが、ミナは何故か不思議そうに小首を傾げた。

 

 「……何の話? アレに何かされたの?」

 「え? いや、ミナが五歳の時に封印されて、100年ぶりに帰ってきたかと思えば、いきなり人間を連れて来て結婚相手だと言い張ってる……から、怒ってるんじゃ?」

 

 問いに対して、ミナはほんの少しだけ黙考してから口を開く。

 一瞬の沈黙は怒りを鎮めるためのものではなく、単純に、フィリップの抱いている大きな誤解を、どうやって解きほぐすかと考えていた時間だ。

 

 「きみは100年前に会ったきり、声も顔も覚えていない相手のことを親だと思える? 大切にできる?」

 「いや、僕はまだ11歳なので……。比較になるかは分かりませんけど、僕もお父さ──父と長く会っていないんです。父は貴族の森番に召し抱えられて家に居なくて、僕自身も田舎を出ちゃったので。でも、ちゃんと家族のことは愛していますよ」

 

 ──多分。

 

 最後にそう付け加えるのが正解なのだが、それはしない。

 自分で自分の心を抉ったって何の得にもならないし、ミナだってそんなことを言われても困るだろう。そもそも何が愛で何が恋なのかも分からないのだし、家族に対する「死ぬなら正常(しあわせ)に死んでくれ」という思いを“愛”と表現しても差し支えないはずだ。

 

 「それは親だという認識があるからだと思うけれど……。顔も声も知らない、男か女かもはっきりしないようなモノが、ある日突然「アタシはアナタのお父さんなの」なんて言って家に棲み付いたらどう思う? 古参のメイドはそれを肯定して、魔力や血の質感からすると真実だけれど、主観の記憶に於いては赤の他人。そんな相手を、親だと認められる?」

 「……無理ですね」

 

 認識は意外と、主観と感情に影響される。

 フィリップが抱いているカルトへの憎悪も、フィリップの──外神の価値観からすると、本来は有り得ないものだ。

 

 善良な誰かを自らの目的の為に贄とする行為も、人類領域を汚染する邪神に祈ることも、外神の視座からするとどうでもいいこと。

 人間は死ぬものなのだから、そこには正常も異常も、幸福も不幸もない。ただの「死」だ。だから誰が誰を殺そうが、誰が何を信じようが、遍く全ては泡に同じ。特別な対応を取るべき相手では無い。

 

 ──それはそれとして、僕が嫌いなのでカルトは絶滅しろ。

 

 主観なんてそんなものだ。

 そこに貫徹した論理や道理がある方が稀で、普通は「自分がどう思うか」が最上の判断基準になる。

 

 ミナの場合は、「ディアボリカは因果上の発生源であり、血の繋がった親である」という事実が、「いきなり現れた不愉快な他人」という主観に負けたのだろう。

 

 「でしょう? 私はアレを信用していないし、父親面をされるのも不愉快だけれど……それだけよ。別に、アレに対して怒っているわけではないわ。ただ、古参のメイドたちに義理立てしただけ」

 「あー……なるほど」

 

 これはもう、親子喧嘩とか仲直りとか、そういう次元には無い話だ。

 そう確信したフィリップは、心の中で十字を切った。

 

 ミナは怒っていない。怒っていないから、許しようが無い。

 二人の関係性は喧嘩した親子ではなく、唐突に現れた親を名乗る他人。修復するような関係性が端から存在せず、ゼロから作り直すしかないのだ。

 

 そして、ミナは興味のない他人に労力を費やすことを嫌う。可愛いペットと仲良くなるためなら魔剣も使うが、親を名乗る不審者──一応、因果関係的には発生源である──と仲良くなるために使うエネルギーはない。

 

 詰んでいる。

 二人の関係性は、これ以上先に進みようが無い。

 

 色々と諦めたフィリップが黙ると、ミナが「そういえば」と何かを思い出した。

 

 「メイドで思い出したのだけれど、きみ、私やメイドに敬語で話すでしょう? あれは止めましょう。メイドに心労を負わせているみたいだし、私ときみは家族なんだから、もっと砕けた話し方でいいのよ?」

 「……正直、そのうち言われるかなとは思ってました」

 

 サークリス公爵家のメグにも言われたことだが、関係性が主人に紐づく相手──例えば主人の友人や客人などに遜られるのは、使用人としてはよろしくないことらしい。

 フィリップなんかは一般人であり元宿屋の丁稚ということで「丁寧で悪いことは無いだろ」と思ってしまうのだが、それ以上に相手のプロフェッショナルを邪魔することが心苦しい。メグに対しては言われた通りに砕けた対応をしているのだが、やはり、ここでもそうなのか。

 

 「気を付けます──じゃなくて、気を付けるよ、ミナ」

 「やりにくいなら無理はしないで? きみが自然体で、楽にしていられるのが一番だから」

 「メイドはともかく、ミナは……」

 

 フィリップが他人に遜るのは癖みたいなものだが、家族や年下相手には普通に話す。モニカも年上なのだが、あのお転婆娘は例外ということで。モニカのサボりが原因で仕事が増えたことや、顔も見たくない相手のいる投石教会まで引っ張られたことや、ナイ神父と出かけるからという理由で──ナイ神父の監視の為に──休日を潰されたことを恨んでいるとか、そういうわけではない。

 

 まぁモニカのことはさておき、ミナは気配(におい)がマザーと被るのだ。ミナ個人がどうこうではなく、マザーの存在を感じて、勝手に敬語が出る可能性はある。

 

 ──思えば、初めはマザーに対しても「癖だから」「人前で嫌悪感が出ないように」という理由で遜っていたのに、もう完全に心を許してしまっている。そう考えると、なんだか遠くまで来たなあと意識が遠退く気分だ。

 

 だって、相手はシュブ=ニグラスだ。

 外神の中でもトップクラスの存在格を誇る、ナイアーラトテップ以上の怪物。自らの感情のみを行動指針として憚らず、それを貫き通すことが出来る超常存在。フィリップへの愛玩の念だけで、三次元世界すら壊すような化け物である。

 

 ……全然まったく、これっぽちも嬉しくない適応だ。早急にどうにかしたい。

 ミナとマザーを同一視するのも良くないのかもしれないが、逆に、ミナにはフランクに、マザーには丁寧に接することで、シュブ=ニグラスに対して本来持っているべき隔意を取り戻せるかもしれない。

 

 そんな打算も頭の片隅に浮かんだが、フィリップは最終的に「いや」と首を振って余計な思考を振り払った。

 

 「いや、なんでもない。ミナがそうして欲しいなら、そうするよ」

 「──ありがとう、フィル」

 

 強く抱きしめながらの言葉に、思わず息が詰まった。

 蕩けそうに柔らかな声色もそうだが、家族以外が使うことのない愛称で呼ばれて、恥ずかしいやらこそばゆいやらで、照れ笑いが抑えられない。

 

 何か反撃したいところだが、フィリップはもう「ミナ」と愛称で呼んでいるし、そもそも彼女は名前を呼ばれた程度で照れるような初心さは持ち合わせていないだろう。

 

 それに──まぁ、なんだ。

 この、上位者に愛玩される下等種という立ち位置は、存外に心地好い。相手が化け物だから──明確に人間に優越する存在だからだろう。

 

 それもまたマザーによる悪影響なのだが、フィリップはそこには思い至らず、夕食までの時間を穏やかな雑談に費やした。

 

 

 

 

 

 



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254

 夜が明ける。

 月が没すれば吸血鬼が無敵の時間は終わり、日が昇れば不死身の軍勢を前にじりじりと押され始めた。

 

 吸血鬼メイドたちの戦い方は、徹底した遅滞戦闘だ。城壁の上と下で、雲梯や攻城塔を使って登ってこようとする悪魔を片端から撃墜して、ついでに下に居る大勢の悪魔も殺しておく。

 

 一応、魔力を大きく消費する最上級魔術を使えば、悪魔を塵一つ残さず焼却し、再生させないことはできる。だが十数万の──前線部隊総数で見れば三十万もの大軍勢のうち、一匹や二匹を消滅させたところで焼け石に水だ。それでいてメイドの方は継戦能力を5パーセント近く失うのだから、割に合わない。

 

 ついでに言うと、中位悪魔は儀式魔術によって何体でも召喚できるので、後衛部隊から補充されることも十分に有り得る。

 

 故に、眼前敵一体の完全消滅ではなく、敵複数体の足止めを優先する。

 血の大矢を撃ち出す上級魔術は吸血鬼にとってパンチのようなもので、最もオーソドックスで、それなりに魔力の消耗が少ない。それでいて十分な火力と攻撃範囲を誇り、直線上の悪魔を纏めて吹き飛ばすことが可能だ。

 

 これによる足止めは、概ね30秒といったところ。

 半身を吹き飛ばして再生完了まで30秒とはとんでもないことだが、吸血鬼は3秒以下で完治することを考えると、相対的には遅い。だが、相手は遅い分、無尽蔵だ。これは血液(いのち)のストックが無くなれば蘇生も打ち止めになる吸血鬼にはない、不死の病の強みだろう。

 

 魔術一発で20の悪魔を殺せるとして、一発当たりで稼げる時間が30秒。20体の悪魔を殺したからと言って、単純に600秒を稼いだことにはならないのが残念なところだ。

 

 さておき、魔術一発分の魔力を回復するのに、フラットな状態で15秒ほど。月光下では10秒以下にまで短縮されるが、日光下では30秒以上になる。勿論、魔力総量自体は百発以上の連射に耐えられるが、それでも目減りが始まってしまう以上、日光下ではジリ貧だった。

 

 フィリップは朝から城壁の上をちょろちょろと走り回り、一進一退と言えなくもない戦局を観察していた。

 

 城壁の下、20メートル以上の眼下では、無数にも思える悪魔が犇めき合い、城壁と同族に挟まれて潰れる悪魔すら見える。

 城壁の上には、80人もの吸血鬼メイドがほぼ等間隔で並び、血の大矢をはじめとした多種多様な魔術で防衛を続けている。

 

 中でも効果が高いのは、燃焼温度の高い錬金油を撒いたあと魔術で火を着けるという、かなり原始的で物理的な攻撃だ。錬金油のストックは少ないが、そこそこ長時間燃え続けるうえ、魔力消費が少ない。魔力回復までの時間稼ぎには丁度いい攻撃になっていた。

 

 逆に「これは駄目だ」となったのは、魔術で生成した溶岩を垂れ流すという攻撃だ。これは相手の魔術で冷やされると岩になり、その分だけ相手が登りやすくなってしまった。

 

 フィリップも「壁の前に穴を掘ってから溶岩を流すのはどうですか?」と、そこそこ真面目に提案してみたのだが、一瞬で却下された。

 堀を作ることを想定していない城壁に後付けすると、地盤が緩んで自重を支えきれなくなった城壁が倒壊する危険があるらしい。かといって堀を浅くすると、それはそれで効果が薄いのだとか。

 

 「旦那様! 城壁はもはや安全ではありません! どうか、城内へお戻りください!」 

 「大丈夫! タレットからバリスタを撃つだけだから!」

 

 鋸壁のついた回廊を這うように移動している──激戦区のタレットに向かっているフィリップを、ルーシェが懸命に制止する。

 だが、フィリップの足は止まらない。

 

 見る限り、吸血鬼メイドはみんな城壁上からの攻撃で手一杯で、タレットが機能している様子はない。

 城壁に取り付く攻城塔や雲梯を横方向から攻撃できるのがタレットの強みなのに、これでは宝の持ち腐れである。──吸血鬼に言わせれば、バリスタより魔術を撃った方が速いし、視界の狭まるタレットに入ることこそ無駄なのだが。

 

 「──ん?」

 

 城壁の上を攻撃に注意しながら這っていたフィリップはふと地上を見下ろして、()()に気が付いた。

 

 「──、っ」

 

 眼下──見渡せる範囲の全ての悪魔が、フィリップの方を見上げていた。

 幾体かの悪魔と目が合い、飢餓と狂気に濁った瞳に嫌悪感を抱く。それと同時に、無数の肉食獣に囲まれていることを認識した肉体が、ぴりぴりと悲し気な警告を発した。

 

 少し離れたところでは悪魔が雲梯から飛び降り、下に居た同胞と一緒に潰れ落ちた。

 少し近くでは、攻城塔の中に居た悪魔が壁を突き破って飛び出し、また落ちて潰れた。

 

 気色悪い、と表情を歪めたフィリップが動くと、それに合わせて悪魔の群れも一斉に動く。以前に授業で見た、磁石に引かれる砂鉄を彷彿とさせる、雑然としているはずなのに規則的な動きだ。

 

 硬直した手指や脚をぷらぷらと振って解しながら、フィリップは良い事を思い付いたぞと口元を歪める。

 

 「──んふっ」

 「え? あ、ちょっと、旦那様!?」

 

 顔を上げたまま走ってみるとあら不思議、悪魔の群れが波のように動き、どんくさい個体を踏み潰し、雲梯が倒れ、攻城塔が崩壊するのにも構わずフィリップを追った。

 

 これで検証は終了だ。

 作戦(おもいつき)を実行に移そう。

 

 病によって理性を失った悪魔は、脳を焼く飢餓感に突き動かされてフィリップを追う。

 フィリップが城の中に居るのなら、城壁を登り、或いは壊し、城の何処かに居るフィリップを探し出そうとする。城門には初めからその方角に居た悪魔しかおらず、城壁の脆弱な部分を狙うという基本的な考えさえしない。

 

 そしてフィリップが城壁の上に──目に見える場所にいるのなら、当然のように手を伸ばす。魔術を撃ってこないのは、殺すためではなく食うためにフィリップを求めているからだろう。

 悪魔はみな一様にフィリップへ手を伸ばし、跳びかかる。その先に同族が居れば踏み台にして、その先にメイドの魔術が待ち受けていようと気にすることなく。

 

 では、フィリップが城壁の上を走り回るとどうなるか。

 当然、フィリップを目にした悪魔は一斉にその姿を追いかけ──戦線は崩壊する。雲梯は倒れ、攻城塔は崩れ、同胞を踏み潰し、同族に踏み潰される。死から蘇る頃には、フィリップは視界の外まで走り抜けているだろう。

 

 「──あははは! 狂気なんてそう都合のいいものじゃないんだよバーカ!」

 

 眼下、理性無き飢餓の徒を嘲笑いながら、哄笑と共に疾走する。

 『拍奪』の不安定な姿勢でもそれなりの速度を出せるよう訓練を続けているから、今や短距離走ならクラスメイトにも引けを取らない健脚である。

 

 ざわざわざわ、とさざめく悪魔の群れ。

 ぶちぶちぐちゃ、と鳴る愚かしさの証。

 

 狂気は、そう便利なものではない。

 理性を失った相手は何度死のうと、死の恐怖も致死の苦痛も蘇生の悍ましさにも気付くことなく、ただ愚直に前に進む。

 

 だが、それだけだ。

 マトモな思考を失った軍勢は、軍と呼ぶには稚拙に過ぎる獣の群れ。

 

 肉食獣を恐れる本能が身体を止めるが、愚者を嘲笑う精神(こころ)が口角を上げ、緊張を解す。

 

 全周400メートルを超える長大な城壁の上をぐるりと一周して元居た場所に戻ってくる頃には、後ろを走っていたルーシェも、この馬鹿げた作戦の有用性に気が付いたようだ。とはいえ制止は続き、「馬鹿なことは止めろ」という内容が「危険なことは止めろ」という趣旨に変わっただけだったが。

 

 「いやはや……ペットちゃんが走り回るだけで、こんなに攪乱できるとは。もう一周してくんない?」

 「へへへ。いいよ、任せて」

 

 一部始終を見ていたメイドの言葉に、フィリップはニヤリと笑い返す。

 

 あまりのんびり走ると一点に悪魔が集中してしまい、積み重なった死体を踏んで登ってくるかもしれないということで、そこそこのペースで走り抜ける。

 

 フィリップを見失った悪魔はまた愚直な城壁攻めに戻るようで、殆どデメリットが無いのが素晴らしい。

 ただ──流石に一周400メートルを何度も繰り返すのは体力的に厳しく、マラソンペースをやや上回る速度を出し続けなければいけないこともあって、4周と半分くらいで力尽きて膝を突いた。

 

 「ふぅ……はぁ、はぁ……ふぅ……もう無理……」

 

 鋸壁に全身を隠せば悪魔の追尾が切れることを利用して、壁にもたれかかって肩で息をするフィリップ。

 ルーシェはそんな情けない姿に「そろそろお止めになっては……?」と相変わらず制止の言葉を投げる。フィリップと同じペースで走りながら、時折飛んでくる悪魔の攻撃を防いだり弾いたりしていた彼女はというと、フィリップとは違って汗一つかいていないし、息も全く乱れていない。

 

 吸血鬼は便利だなぁ、なんてつい羨んでしまうところだが、それならそれでやりようはあるというもの。

 

 「ルーシェ、僕を背負って走ってくれない?」

 「ダメです! これ以上、旦那様を危険に晒すわけにはいきません!」

 

 にこやかに、しかし大真面目なフィリップの提案を、吸血鬼の侍従長は即座に却下する。

 そりゃあ、まぁ、主人の夫であるのなら、こんな最前線に出てくるのを許しただけでも大失態だろう。本当は殴ってでも連れ帰りたいところだろうが、それはそれでメイドの矜持に反するらしい。

 

 しかしルーシェにとっては「ご主人様の旦那様」であっても、他のメイドたちにとっては「ペットちゃん」なので、城壁の上を哄笑しながら駆け回る子供に向けられる視線は「困った子だなぁ」という生温かいものが多かった。一応、戦線維持に一役買っているので、ルーシェ以外に止めようとするメイドはいない。

 

 はひはひと息を荒げて這っていると、先程のメイドがいた辺りまで戻ってきた。

 

 「──あれ? ペットちゃん、もしかして限界?」

 「うん、疲れた……。ねぇ、僕を背負って走ってくれない?」

 「え? ははは! 面白いコト考えるな! オッケー!」

 

 あっ、とルーシェが声を漏らした時には、フィリップはひょいと肩車されていた。

 

 「よーし、出発! ドラゴンライダーならぬ、ヴァンプライダーって感じだな!」

 「うーん、言葉の上ではカッコ良さそう! よし、出発!」

 

 二十代そこそこのメイド服を着たお姉さんに肩車され、城壁の上をぐるぐるぐるぐると駆け回るカッコ悪さからは目を背けて、フィリップは無理矢理にテンションを上げる。せめておんぶだったら搬送状態と言えなくもないのだが、肩車になると完全に子供が遊んでいる絵面だ。

 

 フィリップは普段の倍は高い視点から、全力疾走より少し早いくらいの速度を体感する。

 

 「うわー、馬鹿、爆釣じゃん! このまま夜まで時間稼ごうぜ!」

 「いいね! 夜はみんな最強だし、これで無敵だ!」

 

 フィリップはカウボーイ気取りの若者よろしく腕を振りながら、メイドはこの馬鹿げた作戦の意外な有用性に笑いながら。二人ともノリノリで走り始め──

 

 「──はい、ストップ」

 

 目の前に現れた靄がヒトガタを象り、不機嫌そうな顔のミナになった。

 

 衝突にはまだ余裕があったものの、メイドは慌てて急ブレーキをかける。当然ながら肩車という不安定な状態だったフィリップは慣性に従って前方向に振られるのだが、そのままカッ飛んでいくことはない。流石にそれは、メイドが足をしっかりと掴んでくれて阻止された。

 

 ──だが、それはフィリップの無事を意味しない。

 あわあわとバランスを取ったときに、メイドの後頭部で股間を強打していた。

 

 「うっ……」

 

 声というか、もう断末魔と言っても過言ではないぐらい鈍い声。

 

 ルーシェもミナも肩車してくれていたメイドも女性だからか、肩車から降りるや否や蹲ってしまったフィリップには、同情ではなく懐疑的な視線が向けられた。まぁ向けられる視線に籠った感情が「何やってるんだろう」でも「うわ、今のは痛いよね」でも、痛みが軽減されることはないので、どちらでもいいのだが。

 

 「……大丈夫かー?」

 「だ、だいじょうぶれす……」

 

 ぷるぷる震えながらも立ち上がったフィリップだが、向けられる視線は「何やってんだこいつ」という無情なものだ。ミナは多分、男は股間に急所があることを知らないのではないだろうか。金的攻撃をする隙があるなら、普通に首を斬って殺しそうだし。

 

 「何をしていたの? ──私の目には、その子を餌にして悪魔を釣っていたように見えたのだけれど」

 「流石ご主人様、慧眼──ひぃっ!?」

 

 ずどん、とメイドの足元に血の大槍が突き刺さった。

 冷徹な怒気を孕んだ赤い瞳に睨まれて、フィリップとメイドは抱き合ってあわあわと震える。そんなことはされないと分かっているのだが、下手なことを言えば、石と錬金素材で作られた頑健な城壁に突き立つそれが、今度は頭に突き刺さるような気がする。

 

 「……ねぇルーシェ。私は貴様に、全てのメイドに、「ペットを餌にしてでも時間を稼げ」なんて命じたかしら?」

 「い、いいえ、ご主人様。ご命令は「身命を賭してでも彼を守れ」でした……」

 

 ルーシェは震え声ながら返答できていたが、片割れのメイドはぶんぶんと首を振って首肯することしかできていない。

 

 「そうよね。それなのにフィル(ペット)のやんちゃを止めるならまだしも、助長していたのはどういう了見なの?」

 「い、いえ、その──」

 

 二人のメイドは主人の怒気に当てられて、まともな応答もままならない。

 

 だが誰が悪いのかというと、間違いなくフィリップが悪い。

 言い出しっぺがフィリップというのもそうだが、彼女たちは全員、吸血鬼──不死身の化け物だ。どこまでが「人間にとっても安全」で、どこからが「人間には危険」なのか、その判断基準を体感として持っていない。

 

 フィリップがタレットに籠もって震えながらバリスタを撃っていたならいざ知らず、楽しげに城壁を駆け回っていたら「あ、大丈夫なのかな?」と思ってしまうのも無理はない。

 

 ミナの怒りも、フィリップが危険に晒されたことではなく、フィリップを餌にしていたこと、時間稼ぎに利用していたことによるものだ。

 

 「あ、ご、ごめん、ミナ。二人じゃなくて、僕の発案なんだ。二人は僕が巻き込んだだけで──」

 「そうなの? だとしても、きみを餌にしていたことに変わりはないんじゃなくて?」

 「それは……その通りなんだけど」

 

 なんとか言い逃れ出来ないかと試みるも虚しい。

 まぁそもそも、大真面目に戦争しているメイドたちの傍を物見遊山気分でウロチョロしているべきではないので、叱られて城内に連れ戻されるのは仕方のないことだ。

 

 だが──たとえ遊び気分でも、自分の存在が有用であるのなら、ここにいたい。

 

 不機嫌そうなミナを説き伏せる言葉を無言のうちに模索するが、何も見つからない。

 そもそも彼女は、フィリップ同様ペットの戦力化と実戦投入を拒むタイプの飼い主。「ミナの役に立ちたいから」とか「メイドを助けようと思って」とか、そういう論旨ならまず受け入れてはくれないだろう。

 

 「それでも、二人を怒らないで欲しいんだ。悪いのは僕だし──」

 

 ミナの柳眉がぴくりと震える。

 怒られの気配には敏感なフィリップはつい口を噤み、一瞬の沈黙が戦場の騒音の中に現れた。

 

 「──悪いのは僕だし、僕のせいで二人が怒られるのは気分が良くないし」

 

 それでも言い切る辺り、フィリップも大概である。

 

 「……ペットちゃん、将来は大物になるな」

 「……。」

 

 ぽつりと呟いたメイドの脛に、ルーシェの爪先がめり込んだ。

 

 

 

 

 



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255

 城内に戻れ、嫌だ、戻れ、嫌だと、不毛な応酬が続く。

 ミナとルーシェと、追加でメイドが数人ばかり、呆れ声で説得を続けている。しかし、フィリップはじりじりと動いて包囲網を抜けようと、あわよくばもうあと二、三周してやろうと目論んでいた。

 

 「あのね、フィル──、っ!」

 

 ペットの浅はかな考えを見透かして嘆息するミナが、吐いた息をそのまま吸うような勢いで息を呑む。ミナだけでなく、メイドたちも一斉に同じ方を──壁の外を見て、遥か遠くを睨み付けた。

 

 虚空? 否。地平線を煙らせる悪魔の後衛部隊。その最奥でふんぞり返った、獅子顔の大悪魔。

 空間を埋め尽くすように到達したその権能が、それを使うタイミングが、心の底から鬱陶しい。

 

 「──え?」

 

 戦場がしん、と静まり返った。

 

 雨音と錯覚する断続的な投石と破砕の音が、ちょうど聞こえないタイミングだった。聴覚が「それが普通だ」と慣れてしまうほど絶え間なく聞こえていた、悪魔の哄笑が止んでいる。城壁を登ろうとする足音が、攻城塔の装甲が擦れる音が、十数万の軍勢が踏み鳴らす地鳴りが、消えている。

 

 「──、あ」

 

 覗き込んだ眼下、20メートルの下界と目が合う。目が合う。目が、合う。

 何十、何百、何千? 視界に映る悪魔の総数は不明だが、その全ての悪魔がフィリップを見つめて、飢餓に濁った双眸のまま、口を哄笑の形に引き裂いた。

 

 「──ミツケタ!」

 「肉、人ノ肉ダ!」

 「血ダ、骨ダ、内臓ダ!」

 「喰エ、喰ラエ、貪リツクセ!」

 

 高らかな哄笑が、食欲と、蹂躙の意思を強烈に伝える。

 悪魔が喰うのは魂なのに、物質的な肉体を欲しがっているのは“食人”の病による飢餓が原因だ。

 

 それは、分かる。

 だが、どうしたことだ。奴らはいやに、そして唐突に、理性的だ。食欲に満ちた低俗な光だが、無数の双眸には一つの欠けも無く理性の輝きが見て取れる。

 

 「そう……対策というわけ」

 「はい。旦那様の策──いえ、旦那様の存在が効果的すぎるあまり、“狂乱”の病を解かざるを得なくなったのでしょう」

 

 通じ合う主人と侍従長。

 その会話が発端となり、城壁上には苦々しい空気が蔓延していく。

 

 理性の無い獣の群れでも数十万となれば脅威だし、不死身となれば、ミナやディアボリカのような特級の存在でなければ絶望して膝を屈するほどの代物だ。

 それが今や、理性を取り戻し、「軍」として統率を取り戻しつつある。

 

 フィリップが暴走していた時でさえ困ったように笑っていたルーシェが苦々しく表情を歪め、ミナが眉根を寄せるほどの、状況の悪化だった。

 

 

 

 だが、これはマルバスにとっても苦渋の決断だ。

 

 そもそも悪魔は、前言を翻すことに大きな代償を伴う。

 種族的に嘘を吐けない悪魔が、自らの意思に関係なく、行動の結果として()()()()()()()()()場合でさえ、自動的なペナルティが課せられる。それは小さなものでも各種身体・魔術能力の低下やデバフを引き起こし、大きなものになると地獄への強制送還や、魂の消滅さえあり得る。

 

 この「大きなもの」とは大言や、或いは他者への影響が大きなものという意味ではない。

 約束、契約、約定、言葉は何でもいいが、ただの言葉とは違う大きな意味を持つ言葉だ。たとえば「お前を殺す」と息巻いて失敗してもペナルティは軽いが、魔術師と「敵対者を殺す」という契約を結んで失敗した場合、ペナルティは甚大なものになる。

 

 マルバスにとって、三日前のあれは大きな意思を込めた“宣言”だった。それを逆用されたことによる戦術的判断とはいえ、自らの意思で翻したことで、マルバスの戦闘能力は筋力・魔力・耐久力などが1割ほど衰えてしまう。

 

 後衛陣地の最奥、玉座に掛けたマルバスは苦悶の表情を浮かべ──しかし、すぐに喜悦を混ぜ獰猛に牙を剥く。

 

 「チェック──」

 

 城主(キング)を取るまであと一手。その確信の込められた呟きが、中位悪魔の軍勢に伝播する。

 

 歓喜の哄笑、祝勝の雄叫びが後衛陣地に蔓延し──誰かが、一歩を踏み出した。

 それを見た誰かが、またそれにつられて、やがては後衛陣地の全体が、波のように進軍する。

 

 歩兵が、砲兵が、戦車兵が、戦車を牽く四足歩行の悪鬼が、地滑りのような勢いで城を目指して突貫する。

 

 今だ──今しかない。今こそが好機と、全体が叫ぶ。

 日は未だ頂点に向かう途中。吸血鬼の能力が倍増するまで6時間、吸血鬼の能力がさらに倍になるまで2時間。そこまで耐久されてしまえば、些か冗長だ。また11時間ほど、日が昇るまで死に続けなくてはならない。

 

 なればこそ、今だ。今、奴らを殺し尽くしてしまえばいい。

 

 軍勢の主は命令も無く動き始めた手勢に顔を顰めたが、すぐに上機嫌に口元を緩める。

 

 あんな雑兵、ミナの前では木っ端に等しい。

 だが、あれだけの数だ。配下の下級吸血鬼と、あのよく分からないペットくらいなら殺し尽くせるだろう。

 

 そうなればようやく、本気のミナと戦える。

 

 「あと一日といったところか。思えば、束の間であったな」 

 

 三十年もの恥と研鑽。

 それが、こうもあっさりと雪がれることになろうとは。

 

 ならばせめて、その終幕くらいは楽しみたいものだ。

 

 「あぁ、まこと、待ち遠しい」

 

 

 

 不穏に煙りはじめた地平線を、城壁上の吸血鬼たちは忌々しそうに睨み付ける。

 それが“正解”だと──吸血鬼メイドと脆弱なペットを殺し尽くすための最適解であると、誰もが言われるまでもなく理解できた。

 

 本来なら、攻城戦は一朝一夕ではない。

 戦力の追加投入はもっと後期、それこそ籠城戦にまで発展し、防衛側の備蓄食料が底をつく辺りで取るべき戦略だ。

 

 だが、不死身の軍隊と、リソースが枯渇すれば死ぬ疑似的な不死身の軍隊との戦争であれば、このタイミングでも拙速ではない。ここから──吸血鬼の消耗が始まる瞬間から、圧倒的大多数によって押し潰すというのは、ミナの目から見ても良い一手だった。

 

 「城壁、中庭、城内の三段階に防衛線を布陣します。……ご主人様は玉座の間へお戻りください」

 

 ルーシェの進言に、ミナだけでなくフィリップも頷く。

 狂人を煽るだけならまだしも、本気の戦闘になればフィリップは足手纏いだ。状況が変わった今、まだ遊びたいとゴネるのは、我儘の域を出たただの“邪魔”。それはフィリップとて望むことではない。

 

 大人しく従う二人に背を向けて、メイドたちは漸くまともに動き始めた()を睥睨する。

 

 見下ろせば必ず誰かと目が合う数の、よく統率された武装集団。

 荒野にいるのなら血の大矢の弾幕で一掃もできるが、城壁の真下に陣取られてしまうと難しい。そして、これまでには見せなかった動きを──痛みを嫌い、魔術による防壁や魔力障壁といった小賢しい防御を始めている。

 

 勿論、魔力総量も魔術出力も、中位悪魔と下位吸血鬼では大きく差がある。名前からすると悪魔の方が強そうだが、吸血鬼の魔術は悪魔の障壁など紙のように貫くだろう。

 

 だが、紙も十枚、百枚と重なれば、いずれは槍の一突きさえ防ぎ得る。

 これまでは一発で百の悪魔を殺せていたものが、99か、98か、或いはもっと少なくなり、継戦能力が間接的に低下するということだ。

 

 「──少し、計算が狂いますね」

 

 ルーシェは他のメイドに悟られぬよう、ひっそりと嘆息する。

 この物量でこの動きをする相手なら、一日持つかどうか。──率直に言って、心許ない猶予だ。

 

 聖痕者が来るまでの正確な時間は不明だし、来るかどうかも怪しいところ。来たとしても、吸血鬼と悪魔が潰し合うのをじっくりと見物して、残った方を美味しく頂く算段だって立てられるだろう。

 

 「それでも、自らが死する前に主人を戦場に立たせるなどメイドの名折れ。この身に流れる血液(いのち)が尽きるまで、戦うのみです」

 

 がんばるぞ、とばかり両手を握り締める、明朗快活な侍従長。

 

 どこか場違いな安穏とした空気を纏うことができるのは、彼女もやはり化け物だということなのだろう。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 千夜城滞在七日目、昼。

 フィリップ・カーター拉致から、約144時間。

 

 ルキアたち救助隊一行は深い森を抜け、峻険な渓谷を川の流れに沿って駆けていた。

 

 周囲に魔物の気配がなく、そのうえ清らかな流れと耳触りの良いせせらぎを感じながらの道程とは、まるでピクニックにでも来たようだ。

 谷風は冷たく、吸い込む息が肺をすっとクリアにしてくれるような感覚がある。顔を上げれば、山の頂上を飾る万年雪が陽光に煌めいた。

 

 「昔を思い出すな、ルキフェリア」

 「……そうね。正直、かなり心が落ち着いたわ」

 

 幼少期に王家直轄領の別荘へ遊びに行ったときのことを、二人は同時に回想していた。

 あの時はまだ、二人とも聖痕を発現させていなくて、殺した人数も片手で足りるくらいで、世界の美しさを前に素直に感動できたのだったか。

 

 雄大な自然の景色。それらを形作った数百年、或いは数千年もの長大な歴史の結果を、腕の一振りで台無しに出来るような存在になるとは思っていなかった。そして、何より──当時の二人は、無邪気にも神と魔王がこの世の頂点存在だと信じていた。ルキアはともかく、ステラでさえ、信仰心は無くとも“信じて”いたのだ。

 

 それが今や……いや、その価値観が崩れ去ったのは、つい最近のことだ。

 まだほんの、一年かそこらしか経っていない。

 

 「──思えば、遠くまで来たな」

 「……そうね。貴女が一人の友人の為に暗黒領に踏み入るなんて、当時の貴女に聞かせたら鼻で笑うでしょうね」

 「お前がそれを言うのか?」

 

 ステラもそうだが、ルキアだって当時から他人との関わりが薄かった。友人だってステラくらいのものだったし、アリアとメグという信頼の置ける腹心にも出会っていなかった頃だ。

 

 「変わったと言えば、ルキア。例の神官様を頼らなかったのは何故だ? カーターの知り合いで、回復魔術に長けた才媛と聞いているが」

 

 出発直前のことだ。

 ルキアは最後の最後まで、マザーに付いて来て貰うかどうかで悩んでいた。

 

 王宮から王都外へ出る途中に投石教会に寄り、事情を話すのは大した手間ではない。女性一人くらいなら馬車に乗せれば追加の馬も要らないし、アリアかメグかどちらかを置いていくだけの価値があるとも思っている。

 

 マザーはおそらく、強い。

 彼女に対して魔力視を使ったことは無いし、フィリップが嫌そうな顔をするから、彼の目がないところで会ったことさえ無いくらいだ。だが、高い戦闘センスを持つルキアには、正面に立っただけで分かる。

 

 ──彼女は化け物だ。

 

 人を殺したことなど一度もない。いや、人間を殺そうと考えたことさえ、一度もない。

 そんな温和な空気を纏っているくせに、目に宿る光はフィリップやルキア自身と同じもの。人の命に何の価値も見出さず、目の前の他人が泡にでも見えているような、冷徹で、何の感情も持っていないフラットな心が透けて見える。

 

 ルキアのように「殺し慣れた」結果ではない。

 あれはフィリップと同じ、「殺す」という意識を持ち合わせていない破綻者の目だ。

 

 あんな目ができるモノが、弱いはずがない。

 フィリップが一定以上の信頼を置くという点からも、それは間違いないだろう。

 

 神官であるのなら、対邪悪に特化した秘蹟の類を修得しているはず。吸血鬼と事を構えるなら、戦力としても、治療要員としても優れた存在になってくれることは間違いない。

 

 だが、そういう理屈を抜きにして、ルキアは心情の部分でマザーの力を借りることを善しとしなかった。

 

 「神官様に泣きつくということは、シュ──私の信じる神に、我が身の無力を懺悔するに等しいわ。……勿論、フィリップの生死が懸かっていて、私ではどうにもできないのなら、この身を賭してでも助力を乞うつもりだけれど」

 「そこまでの危機ではない、か。確かに、“娘婿”だからな。一週間経ってまだ生きている辺り、あながち嘘ではないのかもしれない」

 

 フィリップの生存はシルヴァが保証してくれている。

 殺すことが目的なら学院に侵入した時点で達成できただろうし、一週間もの間生かしていたということは、少なくとも殺すために拉致したわけではない。その身柄に価値がある状態だと考えて間違いないだろう。

 

 血液サーバーや、最悪、人肉サーバー代わりにされている可能性も全く無いわけではないが、そんな状態をフィリップが許容するとは思えない。何の躊躇いも無く邪神を召喚し、天地万物を薙ぎ払ってでも脱出するはずだ。

 

 「……案外、本当に結婚して──ルキフェリア、冗談なんだから笑ってくれないと困るぞ?」

 「笑えない冗談だもの」

 

 次言ったらひっぱたくわよ、と、口ではなく目で語るルキア。

 平手打ちぐらいなら許容できる程度にはちょっとした嗜虐心を催すステラだったが、ルキアの右手にある騎馬鞭が怖い。

 

 ステラは手綱を操ってルキアの一閃圏内から逸れつつ、話を戻す。

 

 「まぁ確かに、永住するつもりなら、シルヴァを戻しているだろうしな。何より、あいつは人類領域外に長くいると、それだけで……なんというか、“正常性”のようなものを失う。それはあいつが最も忌避していることだし、放っておいても勝手に帰ってくるとは思うが」

 「帰ってこようとはするでしょうね。けれど、成功するかは別よ」

 

 フィリップには甘いが、戦闘能力評価に関しては訓練中でもシビアなルキアらしく、冷たく断言する。

 まさか想定外の好待遇に絆されて、脱出するという考えを──首輪や魔眼で完璧に封じられているとはいえ──端から持っていないとは、誰も想像できなかった。

 

 

 

 

 

 

 



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256

 千夜城滞在、八日目、朝。

 昨日の日没時点で、吸血鬼の消耗は許容限界に達していた。

 

 城壁の一部では回廊上にまで登られ、白兵戦が始まっていた。城門はあと二発の破城槌衝突で破壊されるところまで損耗しているし、城壁に掛けられる攻城塔や雲梯も、これまでとは違い防備の手薄な場所を狙ってきて厭らしい。

 

 何より面倒なのが、後方から進軍してくる後衛部隊の処理のため、メイドの約3割を城内の監視塔に戻し、弾幕要員に当てなければならなかったことだ。でなければ城壁は圧倒的物量差によって陥落する。

 

 だが、これも破滅の先延ばしに過ぎない。

 怒涛じみた悪魔の大群に押し流されて潰えるか、じわじわと消耗して、弱いものから順に溺れていくか。

 

 より端的に言えば、楽な道か、辛い道か。

 どちらも同じ結末()に繋がる、大差のない分岐。

 

 その二択を迫られて、吸血鬼メイドたちは誰一人欠けることなく、揃って後者を選択した。即ち、出来得る限りの抗戦を、徹底した遅滞を、真綿で首を締められるような、緩やかで冗長な死を。

 

 忠誠心なのか、自尊心なのか。

 メイドの矜持というものを何処に分類すればいいのか、フィリップにもミナにも、きっとメイドたちですら分からない。

 

 ミナはその拘りを冷たく無感動に受け入れ、言われるがままに戦場には出ず。

 フィリップはその拘りゆえに死に行くメイドたちに、尊敬と憐憫が混ざったような複雑な目を向けるものの、「部外者だし」と止めはせず。

 

 彼女たちは望んだとおり、昼夜を問わずその命を擦り減らしている。

 フィリップとミナがベッドに入った後も、二人が鬱陶しそうに耳を塞いでいることなど知りもせず、延々と剣戟と砲撃の音を捧げ続けていた。

 

 夜の間に吹き荒れた、赤い暴虐の嵐。

 後衛部隊を牛歩に堕とし、前衛の悪魔を蘇生する端から殺し尽くす横殴りの赤い雨は、日の出と共に終わりを迎える。

 

 そして夜が明け──遂に、メイドの側に()()が出た。

 幾度もの負傷や死を経て遂に血液(いのち)の全量を使い果たし、頽れたきり起き上がらない女を、悪魔たちは笑いながら引き裂いて喰らう。千切った肉を食い、零れた血を啜り、内臓を浴びて死体を犯す。

 

 フィリップが一人で朝食を終えた時に、メイドが報告した死者数は4。

 しかし二人が玉座の間に着いた時に報告された死者数は6になっていた。

 

 ほんの十分かそこらで、二人死んでいる。

 この消耗が速いのか遅いのか、フィリップには分からない。フィリップを膝に抱いて玉座に掛けるミナも相変わらず退屈そうで、焦りも、悲しみも感じ取れなかった。

 

 「──ねぇ、ミナ。外を見たいんだけど、部屋に戻ってもいい?」

 「そうね……確かに退屈だし、私も戻ろうかしら」

 

 ミナは欠伸を溢しながら、フィリップと共に私室に戻る。戦の作法とやらはどうしたのか。

 

 道中、窓から見える景色は血風が吹き荒れ、傷を負っても一瞬で再生するメイド吸血鬼が、じわじわと再生する悪魔を何度も何度も殺し続けるという地獄絵図だった。

 

 醜いものには耐性のあるフィリップが、思わず眉根を寄せる光景。

 ミナにとっては自分の配下が今まさに傷付き、斃れていく様のはずだが、彼女は眠そうな表情のまま窓の外に一瞥を呉れて、退屈そうに城内に視線を戻す。

 

 「……悲しくないの? 配下──自分のメイドが死んじゃって」

 「悲しいわよ、勿論」

 

 言葉通り当然だという声色のミナだが、実際のところ、彼女の悲哀はかなり軽いものだ。

 精々が、お気に入りの家具が壊れてしまったくらいのもの。また買い直せばいいだけだし、代用が効かないものでもないが、愛着分の落胆はあった。

 

 「でも、ミナ自身が戦ったりはしないの? ミナが出れば、メイドの無駄死にも避けられたでしょ?」

 「でしょうね。でも、あの子たちを言い伏せるのも、戦うのも、どちらも面倒だもの」

 

 考えるだけで倦厭が募るとでも言いたげに、ミナは深く長い溜息を吐く。

 メイドの再生産は面倒だが、メイドを死なせないために戦うのも、戦うためにメイドたちを説得するのも面倒だ。今度は“矜持”なんて面倒なものに拘らない、素直なメイドを集めよう。

 

 透けて見えたそんな内心に、フィリップは何ら異を唱えなかった。

 メイドはミナの所有物であって、フィリップが守りたい、守るべきものではない。所有者であるミナが「要らない」と言ったのなら、彼女が手ずから殺そうと、見殺しにしようと、フィリップが口を挟む筋合いはないからだ。

 

 適当な相槌を打ったきり、メイドの身命に興味は無いとばかり何も言わなくなったフィリップ。

 その視線は窓の外、確定した死を先延ばしにするためだけに戦い続けるメイドたちに向けられていたが、特に拗ねていたり、気分を害していたりはしない。

 

 「……感心ね。でも、あの子たちの戦い方は不死を前提にしたものだから、真似をしたら大怪我するわよ」 

 

 真剣に眇められた青い双眸は、血の矢の魔術とナイフのような爪を使って戦うメイドたちの、戦う様に興味深く向けられている。

 傷付き、斃れるメイドに「あ、死んだ」と小さな落胆を滲ませて、それきり興味を失って別のメイドを見遣る。悲哀ではなく、落胆と、僅かな苛立ちを滲ませる目は、食事中に食器を落としてしまった時のようで、ミナが赤い双眸に浮かべる感情と全く同質のものだった。

 

 「うん。それはそうだけど、可動部位と範囲は人体と同じだし、全く参考にならないわけでもないでしょ?」

 「それはきみ次第ね。観察眼を養うのは大切だけれど、全く違う戦闘スタイルを自分の戦い方に落とし込めるかどうかは、才能と蓄積が物を言うから」

 

 才能はともかく、研鑽の蓄積だけなら、フィリップの置かれた状況は最高と言っていい。

 

 フィリップは不敵に笑って、ミナの私室へ戻った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ミナの私室からバルコニーに出ると、城壁上で繰り広げられる凄惨な殺し合いが目に付いた。

 

 ──いや、殺し合いという表現は的確ではない。

 

 吸血鬼メイドたちが悪魔に負わされた傷は、一瞬のうちに癒える。対して悪魔は吸血鬼メイドの攻撃によって、肉塊と呼ぶのも烏滸がましい残骸へと成れ果てる。

 しかし、吸血鬼の不死は限定的不死。血液(いのち)のストックを使い切れば、その時点で無くなる不死性だ。対して悪魔のそれは無尽蔵。

 

 互いが互いを殺し得る状況にないこれは、一方的な殺戮だった。

 

 悪魔の持つ槍がメイド服諸共に柔肌を切り裂き、内容物を噴き溢させる。

 黄色い土を背景に、ぱっと赤が華やいだ。

 

 「……」

 

 嫌なものを見たとばかり眉根を寄せたフィリップは、足早に室内へ戻ると、そのまま部屋を横切って扉に向かう。

 

 「フィル? 何処に行くの?」

 「え、食後のトイレ。付いてこないでよ?」

 

 前科のあるミナに釘を刺す。

 目の前とまでは言わずとも、見ている前でヒトガタのものが、顔を合わせて言葉を交わしたこともあるメイドが殺されたというのに、フィリップの胃腸は元気に活動していた。緊張状態で活性化する交感神経が働くどころか、リラックス状態で活性化し、消化を促す副交感神経が活発らしい。

 

 フィリップの背をじっと見つめるミナには気付かないまま、フィリップはお腹を押さえて呻きながら部屋を出た。

 

 

 用を足してすっきりしたフィリップは、トイレを出るや踏鞴を踏んで下がることを強いられた。

 扉を開けたすぐ前に、にっこり笑顔のルーシェが立っていたからだ。満面の笑みだが、蟀谷には青筋が浮いている。

 

 「……え? なんですか?」

 

 何か悪いことをしただろうか、と本気で考えるフィリップ。ミナに言われた「敬語禁止」のルールも忘れている。

 

 そんな安穏とした様子が、撃発に至る火花になった。

 

 「なんですか、ではありません! 今の状況をよくお考え下さい! この城内も、今や安全とは言い切れないのですよ!? それなのにお一人でふらふらと! 御身に何かあったら、ご主人様がどれだけ悲しまれることか!」

 「ん? あぁ、それは確かに。すみませんでした」

 

 フィリップは本当に分かっているのかと聞きたくなるような調子で、ぺこりと頭を下げる。当然、フィリップは自分が危険だなんて思っていないのだが。

 

 のほほんとした返事に、ルーシェは大きく嘆息する。

 肝が太いというか、危機感がないというか。とはいえこの図太さが無いと、ミナや吸血鬼に懐くことも無かっただろうと考えると、一概に欠点とも言い切れないところだ。

 

 「いえ、謝って頂くほどでは……はぁ。もういいですから、玉座の間にお戻りください」

 「ミナは私室ですよ?」

 

 知らないの? と、揶揄抜き純度100パーセントの善意で言うと、ルーシェの蟀谷の青筋が再発した。

 

 「えぇ、はい、存じ上げています。それが戦の作法ですからと玉座でお待ちくださるようお願い申し上げましたのに。指揮官の位置が分からなくなった時は本当にどうしようかと思いました」

 「あ、はい……」

 

 ルーシェはそれ以上うだうだと小言を重ねる気はないようで、フィリップの少し前を先導するように歩く。

 

 向かっているのは、ミナの私室らしい。

 ここから少し遠い玉座の間に直行するのではないということは──それだけ状況が逼迫しているのだろう。

 

 これ以上ルーシェが戦線を離れられず、ミナにフィリップを預けて戦線復帰しなければ不味い。そんな状況に成り果ててしまっているのだろう。

 

 「……まだ遠いな」

 

 自分の内にあるシルヴァとの繋がりを手繰り、彼我の距離を感じ取る。

 初日どころか、四日前と比べてもずっと近くにいるようだが──それでも、一時間足らずで来られるような距離ではない。最低でも四、五時間はかかるだろう。今が九時過ぎだから、ルキアかステラが居たとしても、到着は正午を過ぎてからになる。

 

 ──無理だ。間に合わない。

 

 吸血鬼はきっと、ここで全滅する。

 

 「ルーシェ、……?」

 

 フィリップが何を言おうとしたのかは、分からずじまいだった。

 それはきっと、フィリップ自身にも。

 

 苦々しく眇められた双眸の向いた先、窓の外、城壁で戦うメイドたちの更に奥──地平線と城壁の間くらいに、絶対に見逃せないものがある。

 それを見た瞬間に、フィリップの感情が一色に染まるものが。

 

 「旦那様?」

 

 途切れた言葉に振り返ったルーシェは、深い憎悪を宿した双眸を見開き、窓ガラスに手を当てて外を見つめるフィリップの姿があった。

 ガラスや鏡に手を突くことを、これまで一度もしなかったフィリップが。

 

 「どう──」

 「──あれは、」

 

 フィリップはルーシェの方を向くこともせず、深い激情を抑え込んでいることが窺える震えた声で問いかける。

 

 「あれ、なんですか? ……僕の目には、人間に見えるんです。ここからだと遠くて、よく見えなくて……黒い服を着た人間が、いっぱい群れているように見えるんです」

 

 遠目には蟻の群れ。

 だが規模感と動きから人間状の何かに思われるそれは、一見すると。

 

 「──カルトの群れに見える」

 

 苦々しく言い切ったフィリップに、ルーシェは同じ方を見て、軽く頷いた。

 

 「えぇ、そうですね。恐らく、悪魔崇拝者か魔王崇拝者の集団でしょう」

 

 ……そうか。

 まぁ、そういうことなら仕方ない。

 

 「ルーシェ、今すぐ僕のウルミを取って来てください。僕はミナのところに居ますから」

 

 吐き捨てるように命じて、ルーシェを追い越してミナの私室へ向かうフィリップ。

 その豹変にルーシェは目を白黒させて、あわあわと後を追いかける。

 

 「お、お待ちください! 旦那様、いまどういう状況なのか──」

 「ルーシェこそ、状況を考えてよ。僕たちは襲撃されて、今にも悪魔が城の中に入って来るかもしれないんでしょ? なら、僕も使い慣れた武器の一つぐらい持っているべきだ」

 

 不機嫌に──傲慢に吐き捨てるフィリップに、ルーシェは不覚にも気圧される。

 吸血鬼が、人間に、気迫で負ける。普通に考えるなら有り得ないことだが、ルーシェとて元は人間だ。肉体に引っ張られて精神性が変容したとはいえ、そんな変質は、フィリップから見れば可愛らしく矮小だ。

 

 気迫、精神のぶつけ合いなら、フィリップ相手に勝つことは不可能だった。

 

 とはいえ、相手も人食いの怪物。

 人間は餌でしかなく、一瞬気圧されたからと言って、それは服従を意味しない。

 

 「ぇ、あ……だ、ダメです! 私が離れたら、旦那様が無防備になるじゃないですか! ご主人様のお部屋に着いたら、その後で持ってきますから!」

 「……そうだね。じゃあ、そうしよう」

 

 フィリップは「ありがとう、ルーシェ」なんて言って笑う。嬉しそうな、安心したような笑顔だ。一見すれば、敵に囲まれた状況で武器を手にする安心感から笑ったようにも見える。

 だが、フィリップの心中に、安心感は一滴も無い。

 

 あるのは純粋で、しかし無垢とは絶対に言えない嗜虐心だけ。

 フィリップがウルミを欲しているのは、自己防衛ではなく拷問のため──カルトを、なるべく痛めつけて苦しめて殺すためだった。

 

 だが流石に、遠目にも結構な数のカルトをウルミ一本で片付けるのは無理だ。

 

 だから、次は。

 

 「首輪を外してもらわなくちゃ……」

 

 シルヴァが来るまで、まだまだかかる。

 

 なら──このだだっ広い荒野には、フィリップが守るべきものは何もない。

 これはいい。最高の状況だ。何とも素晴らしい。

 

 邪神召喚が切り放題。

 ならどれだけ遊んでも、どれだけ弄んでも構わないだろう。ウルミも、『深淵の息』も、『萎縮』も、そのためのような性能なのだから。

 

 「カルト狩りだ──!」

 

 一体いつぶりだ?

 修学旅行の時は、結局、あの──誰だったか、名前は忘れたが、枢機卿のおじさんをカルトとは認定しなかったし、殺しもしなかった。

 

 となると──ステラと一緒に遭遇した、ナイアーラトテップの用意したクトゥルフの兵を信仰していた奴ら以来か。実に一年ぶりと言ったところ。

 

 「会いたかったよ。ずっと、ずっとね」

 

 フィリップは満面の笑みを浮かべて廊下を歩く。

 その足取りはスキップでもしそうなくらいに軽快で、声には淫蕩に耽るような艶がある。しかし、その根源にあるのは情欲ではなく、憎悪の炎。身をも焦がすが、世界も焼く甚大な熱が籠っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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257

 ミナの私室に戻ると、部屋の主はバルコニーで外を眺めていた。

 欄干に腕を預けて凭れかかる後ろ姿は、装い次第では彼女の脚線美がよく強調されることだろう。だが残念ながら、漆黒のドレスのゆったりとしたスカートがヴェールとしての役割を十全に果たしている。

 

 完全に背中を向けたミナの表情は窺い知れない。

 配下の死を悼んでいるわけではないことは、ここ何日かの付き合いから推察できるのだが。

 

 「ミナ、ちょっと真面目な──」

 

 真面目な話をしましょう、なんて舐めたことを言おうとしたフィリップだが、部屋の中ほどで足が止まる。

 フィリップの声に振り返ったミナの双眸が、いやに冷たい赤だった。

 

 既にルーシェは地下の武器庫に行ってしまった。言いつけ通り、フィリップのウルミを取りに。

 

 ぴり、と、首筋に焦れる感覚。

 手足の先が凍り付いて、思った通りに動かない。視界がぼんやりとぼやけて、どこに焦点が合っているのか、自分でも分からなくなった。窓の外から聞こえる戦火、剣戟と砲撃と哄笑の音は、遠退いたように薄くなる。

 

 「……?」

 

 覚えのある感覚だ。

 肉体の怯えに精神が共調できない時の、本能と理性の主張が食い違っている時の感覚。

 

 刃物を向けられた時ではなく、肉食獣に相対したときに感じる、本能的恐怖。

 フィリップ本人は知らず、感じず、気にも留めない脅威を、フィリップの身体が正しく恐れている。

 

 フィリップが厭い、「これも人間である証拠」と半ば無理矢理に自分(こころ)を納得させて和解した、身体の機能。人間が──人類が、発生以来脈々と受け継いできた、経験の蓄積、歴史の継承。遺伝子によって付与された、生存のための基本機能。

 

 それは決して──少なくとも人体を持っているのなら、人体で生きていたいのなら、嘲笑っていいものではない。

 

 だが、フィリップの精神は、身体の鳴らした警鐘を、文字通り全身全霊の悲鳴を黙殺する。

 何がそんなに怖いのか。ここには恐れるべきものなんて、何も無いと。

 

 そしてフィリップの主観もまた、騒ぐ細胞に首を傾げる。

 とはいえそれも無理からぬことだ。今やこの城は、肉食動物に四方八方を囲まれた檻にも等しい。堅牢な守りはじわじわと噛み砕かれ、その牙が自分に届く寸前とあっては、“餌”である人間の身が恐怖するのは当然なのだから。

 

 だから麻痺して、気付かない。

 

 ミナの赤い瞳、その奥にある縦長の瞳孔が、普段を数倍して開いていることに。

 

 こつり、こつり、硬質なヒールを鳴らして、吸血鬼が一歩ずつ近づいてくる。部屋に入ると、靴音は毛足の長いカーペットに吸われてしまった。

 

 ミナは無言だ。

 恐怖で麻痺しかかった、くぐもった音の中でもなお、その無言が薄ら寒い。

 

 「──ミナ?」

 

 どうしたんだろう──心配する精神(こころ)が、一歩前にと命じる。

 ここから逃げろ──恐怖する本能(からだ)が、一歩後ろにと命じる。

 

 結果として、フィリップは一歩も動かなかった。

 

 ──いや。

 

 動けなかった。

 

 「ミナ……?」

 

 白く、細い腕がするりと伸びて、嫋やかな指先が肩を這う。

 いつものように抱き寄せて愛玩する動きとは、ほんの少しだけ何かが違う所作。込められた力が強いのもそうだが、何より、赤い瞳が見ているのはフィリップではないという点が、決定的な違いだった。

 

 「あ──」

 

 艶めかしく赤い唇が裂け、真っ白な牙が覗く。

 

 それで、漸く。

 フィリップは、彼我の立場を思い出した。

 

 彼女は捕食者。自分は食料。たとえ表面上は飼い主とペットいう関係性でも、生物種が変わらなければ、その原始的な関係を捨て去ることはできないのだと。

 

 ──喰われる。

 そう確信する。

 

 どうして今になって、とか。そういえばミナが人を喰っているところを、悪魔が襲ってきて以来見ていない、とか。吸血鬼には飢餓状態というものがあるのだった、とか。そんなことを考える余裕もないくらい、鮮烈に、強烈に、体感した。

 

 心は変わらず、動かない。

 人食いの化け物を相手に怯えるほど、怯えられるほど、可愛らしい精神をしていない。

 

 だが、身体は別だ。

 狼の唸り声程度でも喧しく警告する本能は、しっかりと恐怖したような反応を起こす。

 

 フィリップが「邪魔」と切り捨てる不随意のそれは、しかし──無体な主を、しっかりと救っていた。

 

 「あ、っ──!!」

 

 掴んだ肩が強張り、視線を交わした双眸が震えるのを見たミナが、愕然としたように目を見開く。ぱっと、フィリップから手を放した。

 

 彼女はふらふらと、顔を押さえながらよろめいて下がる。

 それはただ眩暈がしたような動きではなく、明確に自分がフィリップから遠ざかるためのものだった。

 

 「ミナ!?」

 「ま、って、来ないで……ッ!」

 

 これは明らかにおかしい。飢餓状態なのか、或いは別の異常なのかは分からないが、普通でないことだけははっきりと分かる。

 

 心配そうに駆け寄るフィリップに向けられたミナの双眸が、血よりも赤く輝いた。

 

 「──っ、これ……ッ!?」

 

 全身が硬直する。

 だが──“拘束の魔眼”ではない。前に、ミナの方に進むことが出来ないだけで、それ以外の動きには全く支障がない。声も出せるし、手も足も動く。

 

 ならば、とミナのところへ行こうとすると、途端に身体が動かなくなる。

 拘束の魔眼よりも拘束の程度は低い。手足の硬直は外部からの強制というより、むしろ壁を殴ろうとした時につい力を緩めてしまうような、リミッターが働いた感覚だ。

 

 「ミナ!」

 

 何かの魔眼。

 それが分かった時点で、抵抗は諦める。魔眼とて魔術の一系統だ。魔力の貧弱なフィリップにレジスト出来るものではない。

 

 「飢餓状態なの? 何か、僕に出来ることは?」

 

 両手を広げ、危害を加える気はないと身振りで示す。尤も危害なんて加えようもないので、フリ以上の意味は無いが。

 

 「近寄らないで……私も、きみに近付かないから……ッ!」

 

 顔を覆う指の隙間から、異常に瞳孔の開いた爬虫類のような目がフィリップを射抜く。

 制止の言葉は単なる音の羅列ではなく、魔眼を介した命令だった。

 

 「うっ……またこれか……」

 

 フィリップは直感的に、その魔眼が支配魔術のような何かだとは理解できた。伊達に支配魔術を食らいなれていない──というわけではなく、その感覚はむしろ、例の本能と理性の乖離によく似ていたからだ。心はミナに近づきたいのに、体が勝手にブレーキを掛ける、そんな感覚がある。

 

 身体の強制操作ではなく、特定の行動を制限するような力か。

 

 「逃げて、お願い……聖痕者が来るまで、私から、逃げて……!」

 

 フィリップは血を吐くような懇願に、両足を踏ん張って立ち向かう。が、今度の声に強制力はない。

 あの魔眼は支配魔術同様、同時に二つ以上の命令を課すことはできないようだ。

 

 「……僕を、食べそうになるから?」

 

 射貫くような、見透かすようなフィリップの視線に、ミナは顔を覆ったまま重々しく首肯する。その小さな動きから、血でも吐きそうな苦悩が伝わる。

 

 吸血鬼に特有の飢餓状態。

 人間やその他の動物にも見られる攻撃性や捕食衝動の増加は、こと吸血鬼に於いては桁違いの倍率だ。自制心を容易に振り切り、筋力のリミッターが外れ、何より、他の動物とは違い、肉体スペックが全く低下していなくても飢餓状態に陥るというのが恐ろしい。

 

 飢えて弱った獣はただでさえ恐ろしいが、そんな生易しいものではないのだ。

 ただでさえ高い筋力や魔力、戦闘センスなどが衰えないまま、無数の命と数々の種族特性を駆使して襲い掛かる怪物になる。

 

 「今はまだ大丈夫なんだよね? 地下の食料は……もう無くなったんだっけ」

 

 フィリップはミナの言葉をさらりと無視して、顎に手を遣って思索を巡らせながらベッドに掛ける。

 

 地下の食糧庫は空になった。

 ミナの食事を抜いて、その全量をメイドの魔力補給に費やしてなお、この切羽詰まった現状だ。ミナが誰か一人分でも食い尽くしていたら、救援到着には絶対に間に合わなかっただろう。だから判断としては正解だが、それでミナ自身が飢餓状態に陥っていれば世話は無い。

 

 「死なない程度になら、僕の血を吸ってもいいよ?」

 「……それは、駄目よ。私はきみを、怖がらせたく、ない、から……」

 

 ぎち、と、歯を食いしばる音が、五歩以上離れていても届く。

 顔を覆った指の隙間から覗く赤い左目は、フィリップがシャツを引いて露出させた首筋に釘付けだった。

 

 飢餓感で赤黒く染まったミナの視界の中で、少し日焼けした白い肌が鮮やかに映えて。

 

 「……いいよ?」

 

 そんな柔らかな赦しに、気付けば、ミナはフィリップを組み敷いていた。

 フィリップがベッドに座っていて良かった。きっとカーペットの敷かれた床でも、石が剥き出しの場所でも、気にする余裕は無かったから。

 

 「あ、ぅ……ぁ……っ!」

 

 紅い唇が裂け、意味の籠らない音が漏れる。

 剥き出しになる犬歯は牙のように鋭く、“捕食”という言葉が持つ重みを、遍く生物が持つ根源的な恐怖を、食物連鎖という自然の摂理を強くイメージさせる。

 

 その突端はペン先のようで、画鋲が刺さるどころではない痛みと傷を予期した心も怯える。

 

 体と心。恐怖と忌避感。その両方を、確信が踏み潰す。

 

 ──まぁ、結局、死ねはしないのだろう。と。

 

 飢餓状態のミナが、わざわざ吸血鬼化させる吸血をするとは思えない。

 フィリップの言葉通りに死なない程度に抑えられるか、自制心が千切れて吸い尽くすかの二択だろう。なら、フィリップが恐れることは何も──痛み以外には──無い。

 

 ミナが恐れているような、フィリップがミナを恐怖する理由など、何も無いのだ。

 

 それに、今は気分がいい。

 ずっとずっと待ち望んでた、誰もいないところで思う存分にカルト狩りができる機会なのだから。

 

 「我慢……は、ちゃんと死なない程度にしてほしいけど。でも……いいよ、ミナ」

 

 赦しか、(いざな)いか。

 穏やかな声が、遂にミナの理性を砕いた。

 

 突き刺さる牙。

 溢れ出る血液。

 

 ただ怪我で流血した時とは全く違う、出血して血が失われていくのに、むしろ何かに満たされるような不思議な感覚に包まれる。

 

 それも一瞬。ミナの真っ白な喉が、こく、こく、と二回動いただけの僅かな時間だった。

 

 「……ありがとう、フィル」

 「もういいの?」

 「えぇ、飢餓状態を脱するだけなら十分よ。本当にありがとう」

 

 ミナは慎重に、しかし怯えたように急いた動きでフィリップから離れる。

 確かに捕食衝動は無いようだが、辛そうに目を伏せたかと思えばフィリップを窺うように盗み見たりと、いつもより明らかに落ち着きがない。

 

 フィリップはベッドから身体を起こして、「意外と痛くなかったな」なんて僅かに血の滲む傷口を擦っていて、そんなミナの様子に気付く様子は無かった。傷口があるのは首ではなく、肩と首の中間、肩井の辺りだった。大きな血管のある首筋より、この辺りの方が血を吸いやすいらしい。

 

 さて、と、空気を切り替えるように手を叩き、全身の調子を確かめるフィリップ。

 その脳内は、もはや“カルト狩り”の一色だった。

 

 「じゃあ、ミナ。首輪(これ)、外してくれますか?」

 「っ……!」

 

 捨てられた子犬のように頼りない顔で、ミナが一歩、下がる。マルバスの連撃を受け止めても揺るがなかった足元は、殴られたようによろめいていた。

 

 「……何故、なんて、聞くまでもないわよね」

 

 弱々しい問い。

 胸元で握られた右手の僅かな震えが、見ている者の心を痛ませる。

 

 そんなミナに、フィリップはにっこりと笑いかけて。

 

 「勿論だよ」

 

 即答する。

 フィリップが浮かべた満面の笑みは、目を伏せてしまったミナには届かなかった。

 

 「私が──」

 「──カルト狩りだ」

 「……えっ?」

 

 彼女らしくもなくきょとんとした目で見つめてくるミナに、フィリップはしかつめらしく頷く。

 「うん、分かるよ」なんて言っているが、何も分かっていないのは傍目にも明らかだった。

 

 「ペットには戦わせないって方針は知ってるし、僕もそういう飼い主だから理解してるよ。でも、これは、カルト狩りだけは別なんだ。ミナの為とか、メイドたちの為とか、時間を稼ぐためじゃない。僕が僕であるために──僕が、絶対に、他の何を措いてでもやらなくちゃいけない、やりたいことなんだ。……お願いだから、邪魔はしないでほしいな」

 

 邪魔するならミナでも殺す。これは絶対の条件だ。

 ただそこにいる守るべき相手が、結果として邪魔になってしまうのは仕方ない。それならフィリップも、そちらを優先する。ルキアも、ステラも、他の誰でも、フィリップが守るべき他人を守る。

 

 だが、故意に邪魔をするなら、そんなやつは要らない。

 ステラでも、ナイアーラトテップでも、ミナでも、誰であってもだ。

 

 どんな反論が飛んできて、どう言い伏せるべきか。

 言い負かされても諦めるという選択肢は無いので、どうにか理屈を捏ね回して、嘘を吐いてでも首輪を外してもらうしかないのだが。

 

 睨み付けるように返事を待つフィリップを見ることなく、ミナは目を伏せたまま問いかける。

 

 「怖くないの?」

 「ん? 死なないし吸血鬼にもならないなら、怖がる理由は無いでしょ?」

 「そう、だけど……でも、さっきの私は──」

 

 血を吸うのは、吸血鬼として当然のことだ。

 フィリップの血を吸うことそれ自体には、ミナも一切の抵抗感を持っていない。

 

 だがミナにとって、飢餓衝動に呑まれた吸血鬼は獣と同じだ。

 人間にしてみれば獣どころではない恐怖の権化だろうが、吸血鬼にとっても、会話の成立しない狂人に等しい。そんなザマに成り果てた自分が怖くないなどと、ミナは嘯けない。自分自身でさえ、自分が怖いのだから。

 

 だから、そんな姿を見せたくなかった。

 狂気にも等しい捕食衝動に駆られてペットの首筋に牙を立てるなど、飼い主失格もいいところだ。

 

 怖がられてしまう、怖がらせてしまう──嫌われてしまう。

 

 吸血鬼が人間の敵だなんてことは、ミナも重々承知している。

 だがそれでも、ペットに嫌われることだけは、「そういうもの」「仕方のないこと」と受け入れることは出来なかった。 

 

 「今みたいなのは駄菓子を摘まむようなもの、って、ルーシェに教わったけど。でも正直、食べられてるって感じはしなかったんだよね」

 

 血を吸われる直前までは「痛そうだなぁ」なんて思って嫌だったが、痛みが無いなら、いつものハグとあまり変わらない。匂いを嗅がれるくすぐったさと恥ずかしさが無い分、いつもより心地好いくらいだ。

 

 「愛情表現だと思えば、拒否感もないよ」

 「愛情……表現? 本当に?」

 

 ミナの告解を終えた罪人のように沈痛な表情に、僅かな晴れ間が戻る。

 司祭に神の赦しを告げられてなお、自分自身の罪を許せない。そんな、後悔と絶望、諦観と希望が綯い交ぜになった表情だ。

 

 フィリップは軽く、何でもないことだと笑う。

 

 「怖くなんてないよ、ミナ。痛いのは嫌だったけど、痛みも無かったし。ミナにぎゅってされるの、結構好きだし。ほら、ぎゅー」

 

 普段のフィリップらしからぬ甘えた仕草は、ミナの唾液──正確には吸血鬼が吸血時に分泌する、酩酊感と痛覚麻酔を齎す特殊な唾液が原因だ。

 

 母親に甘える子供のように抱き着いたフィリップを、ミナは強く、それでいて深い慈愛を感じさせる手付きで抱きしめ返した。

 

 「フィル。もう一回、いい? 今度はちゃんと、愛情をいっぱい込めるから」

 「ん……いいよ」

 

 フィリップはもう、「死なない程度に」なんて、無粋な注意をしなかった。

 

 ミナがそっと首筋を撫でると、許容量以上の魔力が流し込まれた首輪が朽ちるように崩れる。

 ぱらぱらと床に零れた残骸には目もくれず、その下にあった首筋にゆっくりと唇を押し当て、舐めるように口を開いて、牙を立てた。

 

 血管の奥から血を吸い上げる感触と、腕の中で蕩けたように身を預ける矮小な生き物の体温と柔らかさに、赤い双眸がうっとりと閉じた。

 

 

 ◇

 

 

 少し日焼けした白い肌に、鮮やかに赤い雫が滲む。

 鍛え足りない柔らかな肉に、ぶつりと犬歯が突き刺さる感触。

 

 泉のように湧く血潮を啜り、舌の上で転がして、喉にそっと流し込む。

 命の情報を含まない、けれど吸血鬼にとっては甘露な、無意味でも無価値ではない味。フィリップは鉄の味だと言うし、ミナもそのノートは分かるが、それより深い部分には、もっと複雑な味わいがある。

 

 ミナは熱に蕩けた瞳で、ぼんやりとした感傷に浸る。

 熱い血に惑わされたような、熱い吐息が唇を割った。

 

 ──殺さない吸血なんて久し振り。

 

 100年前からずっと、血液(いのち)を無駄にしたことはない。城を維持するのに必要な配下を作ったきりだ。

 そんな余裕も、そんな傲慢も、許されることは無かったから。

 

 両親が遺した数人のメイドは、ミナが一人前になるまで、ずっと鬼だった。

 始祖の系譜に相応しい、エルフの王族に相応しい、気品と礼節を兼ね備えた所作を仕込まれた。剣術も、魔術も、始祖の遺した無数の書物を紐解いて教え込まれた。自分たちが出来ないことまで、ミナになら出来ると押し付けられた。

 

 強くなれ。

 強くなれ。

 強くなれ。

 

 力が強ければ強い。魔術が強ければ強い。速さが速ければ強い。技が(うま)ければ強い。命が多ければ強い。

 

 単純(シンプル)な強さこそ、最も打倒されにくい強さである。

 そんな信念の下に、修行の日々を繰り返した。

 

 敵も殺した。

 ある時は荒野の一角に縄張りを持つダークエルフを殺し回り、ある時は魔王領の奥地で上位の魔物を狩って回り、ある時は帝国に住まう王龍に師事して、天使狩りさえやってのけた。

 

 報復に訪れた天使と悪魔の大軍勢を返り討ちにして、ミナの強さは完成された。

 気付いた時には、“最も正統な吸血鬼”に相応しい強さを身に付けていたのだ。

 

 まだずっと弱かった頃──怖い死が、すぐ傍らに立っていた頃からの習慣で、死から逃げるために残さず食べ続けていた血液(いのち)の数は、10万を超えた。一撃必殺の剣を持つ熾天使相手に、一撃も喰らわず勝利できる力と技と速さを備えた。単純な魔力の質と量では、聖痕者にも引けを取らないだろう。

 

 そして──その先には、何も無かった。

 100人の配下は家具のようなもので、愛着はあるが愛情はない。ミナの心は、死への恐怖を失い、強さへの渇望を失い、虚ろな空になっていた。

 

 そんな折、父親を名乗り、どうやら本当に父親らしい何者かがやってきた。

 自分のテリトリーを好き勝手に侵し、我が物顔で闊歩するのが煩わしく不愉快で、けれど帰還を喜んで落涙する古参のメイドたちに別な涙を流させるのも忍びなくて──結局、自分に関わらないならどうでもよくて、それを条件に城へ置いた。

 

 しかし、そんな条件は知ったことかとばかり、ディアボリカという同族はあれやこれやと絡んでくる。

 小言と称賛が多かった。魔王軍の一翼を統べる者として云々、最も正統な吸血鬼として云々、理知的で気品ある女性として云々、エルフの王族の血を引く者として云々。ここはよくない、それは素晴らしい、あれはだめで、ここはすごい。

 

 それは一般的な、親としてあるべき姿なのかもしれないけれど──そもそもお前は誰なのか、という話で。ミナにとっては、口煩かった昔のメイドが帰ってきたようで、ただ只管に不愉快だった。

 

 結婚相手を連れてくる、なんて言って城を出て行った日には、柄にもなくメイドに「狂人の類なの?」なんて聞いてしまった。「普段通りですよ」と答えられて、いよいよ殺すべきかと頭を悩ませたが──拾ってきたペットに免じて、許してやろうと思う。

 いや、許すというか、そんな暇があるならペットと遊ぶ。

 

 ペットはいい。

 空虚な心に、穏やかな熱が染み渡るようだ。

 

 愛玩、愛着、愛情。

 何と言い表すのが正解なのかは分からないが、そんなことはどうでもいい。

 

 自分によく懐いて、矮小で可愛らしい、何よりいい匂いのする下等生物を可愛がることに、それ以上の難しい思考は必要ない。

 

 殺さない吸血は久し振り。

 愛情を伝えるための吸血なんて、初めてだ。

 

 「──、ぁ」

 

 小さく漏れた理解の声に、胸に埋もれていたフィリップが不思議そうに顔を上げる。

 血を吸い出される快と不快の入り混じる感覚に、困惑で揺れる青い双眸が可愛らしい。

 

 ミナは柔らかに破顔して、またフィリップの首筋に顔を埋めた。

 血の匂いの奥に広がる、深い夜闇と、月と、星々の匂いを肺一杯に吸い込む。

 

 この匂いも好きだが、何より──フィリップを抱き締めていることそのものが心地よい。

 吸血鬼(ミナ)とは違う、生きた血の巡る熱い体温。小さく弱々しい体躯。弱者、被捕食者でありながら、怯えも敵意も無く見上げてくる青い瞳。何もかもが愛おしく、空虚な心が満たされていく。

 

 結局のところ、ミナはずっと寂しかったのだ。

 たった五歳の少女が両親を失って抱いた、巨大な恐怖心。魔王領に犇めく多種多様な死因への恐れ。それが強さによって取り払われたあと、心には大きな空隙が残った。

 

 それを埋めたのは、100のメイド(家財)でも、100年ぶりに再会した父親(たにん)でもなく、どこぞで拾ってきたペットだった。これはただそれだけの、よくある話だ。

 

 

 

 

 



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258

 フィリップとミナが穏やかな──とは一口に言い難い時間を過ごしているうちに、戦況は大きく変わった。

 ウルミを持ってきてくれたルーシェの報告によると、メイドの損耗率は五割を超えたらしい。これは単純に命のストックを使い果たした人数が50人を超えたということであり、損耗した総ストック量を考えると、七割か八割になるだろう。

 

 劣勢だ。場合によっては、とっくに降伏していてもおかしくない。

 

 ミナが出撃するか、フィリップが邪神を召喚すれば避けられた損害だが、二人ともそれはしなかった。

 

 ミナは、単純に面倒だからだ。

 出撃して戦うのも面倒だ。だがそれ以上に、「配下が戦えなくなるまで城主は動いてはいけない」とか「籠城戦では城主は玉座で待っているべき」とか、面倒な“戦の作法”とやらに拘るメイドたちを説得するのが面倒だから。

 

 だからメイドを、配下を、見殺しにする。

 “最も正統な吸血鬼”であるミナにとって、たとえ自分で作り出した配下でも、下位吸血鬼は良くて家具のような認識だ。勿体なさや悲しさはあるが、それは“面倒くさい”という感情を超えるものではなかった。

 

 尤も、そんな認識だからこそ、ミナは100年もの間、溺れるような孤独感に浸り続ける事になったのだが。

 

 フィリップに関しては、そもそも悪魔を“敵”と認識できていない。

 一度はフィリップを地下牢にぶち込んだ──フィリップがヤマンソを制御し損ねたせいだが──ゴエティアの悪魔ならともかく、中位悪魔ごときを敵と認識して、“戦う”という選択をするには、些か視座が高すぎる。

 

 メイドを殺そうが、フィリップを喰おうとしていようが、外神の視座が敵と認めるには存在の格が低すぎる。

 武器を持ってフィリップの前に立ち、それを振り翳してなお、フィリップはあれらを敵とは認識しないだろう。訓練の甲斐あって攻撃を避けようとはするだろうし、痛いのは嫌なので殺すが、では「自分を殺し得る敵か」と言われると、フィリップは首を傾げてしまう。

 

 だから、まぁ。

 

 メイドが何人死のうが、もはやどうでも良かった。

 シルヴァが来るまで──おそらく居るであろう、ルキアかステラが来るまで三時間といったところ。ここまで持ち堪えてくれたことは素直に称賛するし、感謝だってしている。……でも、それだけだ。

 

 戦の作法。メイドの矜持。そういう理由で死に行く彼女たちを、止めず、悼まず、悲しまない。

 フィリップも、ミナも、結局は自分の感情を最優先するタイプの破綻者だった。

 

 二人は部屋を出ると、それぞれ別の方向に足を向けた。フィリップは一人で、ミナにはルーシェが付いている。

 人間に造詣の深いメイド長はフィリップを心配そうに見ていたが、主人であるミナが認めた以上、フィリップの出撃を止めることはできない。

 

 「じゃ、僕はカルトで遊んでくるね。繰り返しになるけど、僕は城のあっち側に居るけど、絶対にそっちを見ちゃ駄目だよ。見たら死ぬし、死ななかったら僕がミナを殺すことになる。そのぐらいの気持ちで、絶対に、何があっても見ないで。いいね?」

 「えぇ。こちらも繰り返すけれど、私もそろそろ飽きが苦痛の域になったから、この前の彼奴──マルバスを殺しに行くから。きみのことを見たくても見られない場所になるし、心配しないで」

 

 フィリップは右腰にウルミを吊り、首輪も外した戦闘態勢だ。

 まだまだ弱いとか、誤差とか言ってはいけない。そういう否定し辛い事実を突きつける行為は、そのうち何かしらの罪になる。

 

 フィリップとミナは互いに笑顔を交わす。──フィリップはこれから訪れる享楽の時間に思いを馳せた満面の笑みで、ミナはそんなペットを穏やかに愛玩してではあるが。

 

 「じゃ、行ってきます。あ、聖痕者に遭遇したら、魔術を撃たれる前に僕の名前を出して、「合流するまで魔力視禁止です」って伝えてくれない? 多分、それでミナのことを敵だとは──即座に殺すべき相手だとは思わないと思うから」

 「分かったわ。じゃあ、気を付けてね」

 

 フィリップは明朗に手など振りながら、カルトが居た方の出口に向かう。

 出口と言っても本棟からの出口で、城外ではなく中庭に出られるだけだ。城壁から外に出たければ、正門を通るか、高さ20メートル近い城壁を超えるしかない。

 

 フィリップが選ぶのは勿論、最短ルート。

 城壁上でハスターを召喚し、カルトのいるところまで運んでもらう──わけでは無く、降ろしてもらって、あとは悪魔を薙ぎ払って道を作ってもらうだけだ。でないと、カルトが発狂して楽しみが減ってしまう。

 

 「ふんふんふー、ふ?」

 

 鼻歌混じりに城内を歩いていると、目の前に()()がいた。

 

 赤く濁った液体に塗れた、フィリップ二人分ぐらいはある大きなニシキヘビに見える。

 まばらに生えた白っぽい鱗が陽の光を反射して、きらきらと輝いていた。

 

 金色の髪。

 お腹のこぶ。

 棘のついた尻尾。

 

 ぐちゃぐちゃと、生臭い咀嚼音が耳に障る。

 

 それは、よく見ると。

 

 「うわ……」

 

 事切れたメイドの腹を捌き、中身を食い散らかしている悪魔だった。

 城の外からガラスを突き破って入って来たのだろう、きらきら光っていたのは、全身をデコレーションしたガラスの破片だ。

 

 フィリップは眉根を寄せ、さっと思考を巡らせる。

 

 全力で走れば、ぶん殴れる距離まで近付くことはできるはずだ。

 三流魔術師相手なら、概ね10メートルくらいで「萎縮」が魔術耐性を貫通できる。だが中位悪魔の耐性は未知数だし、最悪、ゼロ距離でも効かない可能性がある。そうなると自殺行為だ──死ぬことは無いだろうし、比喩表現だが。

 

 フィリップが次の一手を決めかねていると、一心不乱に女の肉を貪っていた悪魔の、鼻梁の無い鼻腔だけの鼻がピクリと動いた。

 

 「人肉ノ臭イ……腐ッタ魂ノ臭イ……?」

 「誰の魂が腐ってるって? なに、喧嘩? いいよ、買うよ、喧嘩とかしたことないけど」

 

 カルト狩りでテンションが上がり、更にミナの吸血による酩酊感が微妙に抜けきっておらず、しゅっしゅっとシャドーボクシングなどするフィリップ。

 殴り合いの喧嘩をしたことがないのは事実だが、その戦闘能力は中級戦闘魔術師を再現したステラ相手に二分弱耐久出来るほどだ。たとえ悪魔が相手でも、一方的に殺されたりはしない。

 

 フィリップの声に反応した悪魔が頭を上げると、口元からだらだらと血と涎の混合液が垂れる。そこで死んでいるメイド吸血鬼の血だろう。

 

 「と思ったんだけど、やっぱり止めよう。時間がもったいない」

 

 今のフィリップの最優先事項は、カルトを殺し尽くすこと。次点で、それらをなるべく苦しませることだ。否定し辛い事実を突きつけて来た名も無き中位悪魔を、ウルミでズタズタにして殺すことではない。

 

 それに──

 

 「──そもそも、そのウルミじゃ悪魔には大して効かないわよ。ちゃんと付与魔術で魔力武器化させるか、祝福して聖属性を付与しないと」

 

 ずどん! と、クローゼットでも倒れたような重い音が響き、割れていた窓から悪魔が吹っ飛んで中庭に落ちた。

 悪魔が動くより早く、どころか、フィリップの動体視力をぶっちぎる速度で割り込んだ、ディアボリカのサッカーボールキック。その一撃による音だと、眼前に立つ広い背中を見て、フィリップは漸く理解した。

 

 「……足みっけ」

 「え、なに……?」

 

 謝礼を期待しての行為ではないものの、礼より先に足呼ばわりされたディアボリカが困惑を露わにする。

 ほろ酔い気分の抜けきらないフィリップは上機嫌にディアボリカに歩み寄ると、バンザイするように両手を挙げた。

 

 「さぁ、僕をカルトのところまで連れてってください。いつぞやのように、びゅーんと!」

 「あぁ、足ってそういう……。カルトって、あっちにいる悪魔崇拝者たちのことよね? それはいいけど……そ・の・ま・え・に!」

 

 ぴし、とフィリップの眼前に指を突き付けるディアボリカ。

 鋭い爪の先端が眉間に向けられ、フィリップは踏鞴を踏んで下がった。

 

 「なんですか? 時間が惜しいので、手短にお願いしますね」

 「アナタねぇ……ま、いいわ。さっき、ミナから粗方のことは聞いたのだけど、あの子に血を吸わせたってホント?」

 

 ミナから? と怪訝そうなフィリップ。

 確かに普段のミナの対応を見ていれば「よく会話が成立したな」と驚くのも無理はないが、今のミナはそれだけ上機嫌だった。

 

 「ホントですけど。ミナが飢餓状態になりかかってたので、血をあげたんですよ」

 

 なんでもないことのように言うフィリップだが、人間にとって吸血は大きな忌避感を催す行為だ。

 人間同士でもさることながら、相手が吸血鬼ともなればそれはもう食事だ。それも一切の解釈の余地を残さない、一方的な捕食。

 

 組み敷かれて喰われることに快楽を見出す性質には見えなかったのだが、なんて、ディアボリカは邪推する。

 

 「カルトが居るんだから、そっちに向かわせれば一石二鳥じゃないの?」

 「はぁ? カルトは僕が殺すんです。なるべく惨たらしくね。ミナが僕以上に残酷に、苦しめて殺せるなら譲っても良かったんですけど」

 

 青い瞳をどろりと溶かし、フィリップは傲慢にも思える答えを返す。

 だが、これが偽らざる本音だ。この条件が達成されないのなら──フィリップが楽しめないのなら、たとえヨグ=ソトースにだって譲りはしない。フィリップ自身もそのものであり、カルトもまた彼の者であるという話は置いておいて。

 

 「アナタ、カルト相手だと性格変わるわね……? そんなに嫌いなのに、ミナのことを優先したの? どうやら、ちゃんと夫としての自覚が身に付いて来たみたいね!」

 「……まだ言ってたんですか、それ。僕もミナも、もう忘れてましたよ」

 「あら、そんなに馴染んだのね! いいじゃない、いいじゃない!」

 

 ディアボリカの勘違いを無言で受け流し、曖昧に笑う。

 ミナのことを優先した、というか。カルト狩りの最中に余計なことを考えたくなかっただけなのだが。

 

 フィリップがカルト狩りに優先することがあるとしたら、それは人間性だけだ。

 

 「じゃ、いいわよ、行きましょっか! あそこまでで良いのよね? 助勢は必要かしら?」

 「ディアボリカが僕以上にカルトを苦しめて殺せるなら、そして僕の邪魔をしないなら、首を突っ込んでも良いですよ」

 

 狂死することになりますけれど、とは、フィリップは敢えて口にしなかった。

 ディアボリカがフィリップの邪魔になって、或いはただそこにいただけで発狂したとしても、蒸発したとしても、知ったことじゃあないのだから。

 

 「アナタ、ちょっとカルトのこと嫌い過ぎじゃない? 親でも殺されたの?」

 「ま、そんな感じです。言っておきますけど、邪魔はしないでくださいね。()()()

 

 きちんと言葉にして、語気を強めて警告しておく。

 とはいえ、こんなものは建前、免罪符を事前に用意しただけだ。

 

 カルト狩りを邪魔されたら、きっと次の瞬間にはそいつもカルトだと認定している。だがフィリップは別に、数多くの人間を苦しめて殺したいというわけではないのだ。カルトなんて少ない方がいいに決まっているし、手間も少ない方がいい。ただ、カルトを苦しませるための手間は惜しまないというだけで。

 

 「あら、いい気迫じゃない。なら、アタシは……ミナに言われた通り、お城でお留守番してるわね……」

 「はは……。じゃあ、お願いします」

 「了解よ。アナタの切り札が見られると思っていいのかしら?」

 

 楽しそうなディアボリカに、フィリップは曖昧に笑うに留めた。

 

 

 

 

 

 



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259

 荒野の只中に降り立つと、フィリップは大きく深呼吸した。

 埃っぽい空気にはもう慣れたが、これからを思うと、口に入る砂塵の味も気にならないほどだ。

 

 ぺっと砂を吐き出すと、ここまで運んでくれたディアボリカが苦笑いして、城の方へ飛び去って行った。

 

 眼前には三十人そこらのカルトたち。

 黒い服を着て、砂塵除けのフードとマスクで人相も分からない、男か女かも判然としないヒトガタだ。

 

 彼らはいきなりやってきたフィリップに怪訝そうにしつつ警戒していたが、ややあって、一人が一団から離れて進み出た。

 

 「何者だ。吸血鬼ではないようだが、あの城で飼われていた食料か?」

 

 飼われていた、という表現に、フィリップは微かに口角を上げる。

 警戒も露わに10メートル近く離れていて、お互いの表情は分からない。ただ声からすると、代表者は間違いなく男だった。若くは無いが、そう老いてもいないだろう。

 

 フィリップは酷薄な笑顔のまま、軽く頷いた。

 

 「そんなところだよ。お前たちは、見たままカルトってことでいいんだよね? 悪魔崇拝者ということは、信仰心から悪魔の軍勢に加担して、吸血鬼の城を攻めに来たのかな」

 「違う、我々はカルトなどではない。祈りに対して対価を与えて下さる彼らを崇めることは、何ら異常ではない当然の──ごぼっ……!?」

 

 男の首元がじわりと濡れ、ひどく水気を含んだ咳が漏れる。

 突如として重くなった体をくの字に曲げて苦しむ男に、困り顔のフィリップが左手を指向していた。

 

 ざわざわとカルトの一団が騒がしくなり、何が起こったのかと戸惑う声が聞こえた。

 

 「《深淵の息(ブレスオブザディープ)》──。……お前たちの自己認識なんてどうでもいいんだ。でも、質問に対する答えとしては、まぁ悪くなかったよ。テストなら零点だけどね。僕も似たようなミスしたことあるよ、問題文をよく読まなくってさ、条件に該当するものはどれかって選択式の問題で、条件に該当する答えを思い付く限り羅列しちゃって。先生は温情で一点だけくれたんだけど」

 

 あの時は、ルキアも困り顔と苦笑いが綯い交ぜになったような顔で「問題文をよく読んで」なんてフィードバックをくれたのだったか。そんなことを思い出して、けらけらと笑うフィリップ。

 

 斃れ伏し、砂を引っ掻いて悶え苦しむ男に、軽快で明朗な笑顔のまま散歩するような調子で近付いていく。

 

 「ま、待て、それ以上こっちへ来るな!」

 「いきなり攻撃してきやがって、ブチ殺すぞ!」

 

 地上で溺水している仲間を庇う位置に、二人のカルトが移動する。

 片方は無手でこちらを押し留めるような手振りをして、もう片方は短剣を抜いて構えている。

 

 よくよく見れば、無手の男も片手だけは背中に回していた。何か──たとえば短剣や、投擲用のナイフなどを持っている可能性は高い。

 

 「──ははっ」

 

 武装した大の男の恫喝に、フィリップはまた軽く笑う。

 吐息には陶酔したような熱と、言い知れぬ艶のようなものがあった。

 

 「いいね。じゃあ、僕はお前たちを嬲り殺そう。クソッタレのカルト共が、お前たち汚物の塊が、生まれてきたことを後悔して、苦しみ悶えながら死ねるように、出来る限りのことをしよう」

 「粋がるな、クソガキが!」

 

 ざっ、と砂埃を蹴立てて、短剣を構えていた男が走り出す。

 それとほぼ同時に、フィリップもまたウルミを抜き放って整形していた。

 

 短剣を胸元で構えて走る男の動きを、カウンター狙いのフィリップはじっと観察する。

 初撃は速度に優れ、また回避や防御の難しい突きである可能性が、普通は高い。ウォード、マリー、ソフィー、ステラまでもが、その攻撃の優秀さを知る大抵の者が、そう選択する。

 

 とはいえ戦闘慣れした者同士の戦いに於いて、セオリー通りの攻撃は大きな隙になる可能性があるし、実力次第では致命的だ。

 

 どう来るか。

 大振りなものが来たら躱せるけれど、突きだったら困るから早めに“拍奪”で走って……とプランを立てていると、脳裏に微かな引っ掛かりがあった。

 

 違和感、とまでは行かない。

 だが、男が小さくサイドステップを踏んだ気がするのが、妙に気にかかった。

 

 フィリップの魔術攻撃を警戒しての回避行動? いや、それにしては動きが小さすぎる。

 

 「んー……? あぁ、なるほど」

 

 鞭を持ったフィリップは動かないか、牽制主体の防御をするように見えたのだろう。

 確かにそれなら──

 

 「──シッ!」

 

 ──飛び道具はクリティカルだ。

 

 無手だった男が、鋭い呼気と共に投げナイフを投擲する。

 柄が薄く鍔の無いそれは、空気を裂く音すら立てず喉笛を穿つ無音の一撃。

 

 前衛の男の一歩は、その動作を自分の身体で覆い隠すためのものだ。

 

 黒と白で塗り分けられた刃は、意外にも周囲の風景に溶け込んで視認性が悪いうえに、認識していても遠近感が掴みにくい。盾でもあるならともかく、剣で打ち払うのは至難の業だろう。投げる瞬間を見ていなければ、死因に気付かないまま死ぬかもしれない。

 

 だが──狙って投げる点攻撃だ。 

 そんなもの、拍奪使いに当たるわけがない。

 

 倒れ込む前傾姿勢から蛇のように動き、向かってくる男へさらに距離を詰める。

 銀色の尾を靡かせて走るフィリップに、第二、第三のナイフが飛来して、全てが透けて荒野に消えた。

 

 「すり抜けただと!?」

 

 特殊な歩法で相対位置認識を狂わされた男が、化け物でも見るような目でフィリップの虚像を追う。その目はフィリップの意図した通り、フィリップより少し後ろに向けられている。

 

 驚愕の声が漏れた直後、大きな苦悶の声が上がった。

 

 「うあぁぁっ!? あ、足が!?」

 

 全長四メートルのウルミは、その大部分がノコギリとヤスリの合いの子のように毛羽立った金属だ。その傷口は必然、刃物で切り裂くよりずっと凄惨に抉れたものになる。

 

 両足のアキレス腱を削ぎ落された男がごろごろと転がって呻き──声の代わりに、口から夥しい量の海水を吐き出して暴れ始めた。

 

 「──《深淵の息(ブレスオブザディープ)》。……よいしょ、っと!」

 

 どっ、と鈍い音を立てて、フィリップの爪先が男の鳩尾にめり込む。

 口から出る海水の勢いが一瞬だけ増して、すぐに元通りになった。

 

 溺水は地獄の苦しみだ。

 息を吸っても吐いても──いや、肺が海水で埋まった以上、もはや息を吸うことも吐くことも出来ず、重い身体を引き摺ってのたうち回ることしか出来ない。

 

 苦悶に満ちた目が許しを請うように見上げ、充足感と嗜虐心に満ちた青い視線とかち合った。

 

 牽制のように飛んできたナイフを避けると、それで打ち止めだったのか、男は後ろにいた仲間に怒声を飛ばす。

 

 「クソ! おい、お前ら! ぼーっとしてないで、魔術でもナイフでも石でもなんでもいい、あいつを殺せ!」

 「え、困るんだけど。流石にそれは多勢に無勢というか、そういえばお前たち、さっきは100人ぐらいいたよね? 残りは?」

 

 指示通りに投石紐や魔術の準備をするカルトたち。その総数は2~30人といったところで、どう見ても城から見た群れの半数以下だ。

 

 「答える義理は無い! 撃てッ!」

 

 男の怒号に一瞬遅れて、投石や攻撃魔術が飛んでくる。

 投石に使われる石は、正真正銘ただの石だ。たったいまそこで拾った、荒野のそこら辺に落ちていた、ただの石だ。しかし侮るなかれ、投石紐の回転力を用いて撃ち出された石は金属鎧を凹ませ、人間の頭蓋骨すら砕く。

 

 ──まあ、狙っている時点で無意味な攻撃なのだが。

 

 「──っと。あ、まだ後ろにいっぱいいるじゃん。あれもお仲間のカルトだよね? ……うわ、危なっ!?」

 

 たまたま狙いを逸れた魔術に当たりそうになり、少し慌てつつ“拍奪”の位置認識欺瞞を全開にする。

 流石に細かい数は分からないものの、城から見た通り、カルトは100人以上いるようだ。ここにいるのは前衛部隊、或いは戦闘要員だけなのだろう。

 

 「うーん……欲を言うと、もうちょっと遊びたかったんだけどな……」

 

 フィリップは困り顔でぽりぽりと頭を掻いて、一言。

 

 「ま、そういうことならしょうがない。鬱憤はまだまだ晴らし足りないけれど──お前たちはここで、灰に伏せるがいい」

 

 辺りは見渡す限りの荒野で、シルヴァはまだ5キロ以上も離れている。

 なら、何も。もはや何も、気にすることはない。

 

 「同胞の仇だ、攻撃の手を緩めるな! 無知と傲慢を悔いるのは奴の方だと、このクソガキに教育してやれ!」

 

 砂埃を蹴立てて縦横無尽に走り回るフィリップ。

 動体視力を振り切る速さには全く届かないはずなのに、なぜか攻撃が当たらない。仲間の無能に苛立ちを募らせる男だが、自分の投げナイフも無為に浪費したので罵倒は出来ない。

 

 飛んでくる魔術は初級か中級、偶にフィリップの攻撃魔術のようなへなちょこまで混ざっている。

 この分ならもう少し遊んでも良さそうだが、流石に弾幕の密度が数十人分だ。走り続けなければ当たってしまうし、それでは甚振るどころではない。

 

 仕舞いだ。

 

 「──ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ほまるはうと うがあ ぐああ なふるたぐん」

 

 滅びを宣告する預言者のように、いつも照準補助をしている癖で左手を突き付ける。

 

 選択された魔術は使い勝手に優れ使い慣れたハスターの召喚ではなく、クトゥグアの召喚。

 運が悪ければ制御の効かないヤマンソが出てくることも、ハスターでも100人以上のカルトを一瞬で掃討することなど容易いことも、フィリップはきちんと知っている。

 

 その上でリスキーな魔術を選択した理由は、ナイアーラトテップが笑ってしまうほどくだらない。

 

 ──ただ、()()()()()()()()のだ。

 

 たくさんのカルトを一網打尽に、意志ある恒星で焼き払う。

 蒸発するのか、炭化するのか、それとも意外と焼死の苦痛を味わってくれるのか。

 

 それに、フィリップがあれ以来初めて遭遇したカルト、黒山羊の末裔によるシュブ=ニグラス信仰のカルトは、クトゥグアで焼くつもりだったのだ。それがルキアが居て、マザーが来て、カルト狩りは出来ずじまいだった。

 

 これはその、リベンジ代わりだ。

 

 「いあ──くとぅぐあ」

 

 詠唱に従い、邪悪言語と歪な記号で構成された魔法陣が展開され、手元を離れて加速度的に大きさを増しながら、蒼穹へと昇っていく。

 魔法陣に繋がる魔術的召喚経路の先は、みなみのうお座α星、フォーマルハウト。

 

 しかし──妙に覚えのある手応えに、フィリップは口元を忌々しそうに歪めた。

 

 

 ◇

 

 

 

 歓喜の声が上がる。

 意志を持った恒星が、その配下である炎の精が、いつぞやのゴミ掃除とは比較にならない“意志の力”に喝采しながら化身を象る。

 

 クトゥグアはフィリップの片手にすっぽりと収まるサイズの、小さな小さな熱の塊に。炎の精はサッカーボール大の火球になる。

 しかし、地球の大気圏内であれば、熱塊は周囲の空気を一瞬のうちに食い尽くし、家一棟を優に上回るサイズの特大の火球へ変貌するだろう。

 

 星を焼かず、召喚者を焼かず、しかし使役者の命令を遂行するのには十分な能力を──焼却力を備えた化身だ。

 

 いざ征かんと召喚経路へ進み──いつぞやのように、傲慢な意思が届く。声を持たず、ただ意志だけが直接意識へ届けられたそれは、過去に何度も聞いたもの。来るか来ないかはクトゥグアにも分からず、意思の主もまた気紛れに乱入してくるだけのはずだが、こと()が相手ではかなりの高確率だ。

 

 特に、圧倒的上位者としての自覚に満ちた命令を課されていたのなら。

 

 ──退け、と、再びの意思(こえ)

 

 戦っても100パーセント勝ち目のないクトゥグアとしては、悔しくはあるが引き下がるしかない。

 クトゥグアの出力──熱量は、()()()恒星。対してヤマンソが三次元世界で象る化身の出力は、超新星爆発にも匹敵する。──そして当然、ヤマンソは外神だ。本体は三次元世界には収まらず、真体が顕現すれば世界の方が耐えきれずに崩壊する。

 

 戦うとか、比較するとか、そういう次元には無い両者。

 言うなればクトゥグアは文字列で、ヤマンソは筆者や読者のようなものだ。

 

 だが──嘲笑が届く。

 それはクトゥグアでも、ヤマンソでもなく、召喚経路の先からのもの。

 

 ──退け、だと? 違う、退くのはお前だ。

 

 クトゥグアが、炎の精たちが、ヤマンソが、思わず身を竦める──誰一人として“身”なんて持っていないので、擬人的な表現だが──、強靭な、そして傲慢な意思。

 

 ──僕が欲しいのはカルト狩りの手駒だ。自分の意志で勝手に動く、手駒の本懐に殉じないお前じゃあない。

 

 以前の経験から、ヤマンソの傍若無人さ、そして過剰に過ぎる破壊能力を知る召喚者の判断は正しい。

 ヤマンソの火力がちょうどいい塩梅になるとしたら、それは星か、星系を焼くときくらいだろう。

 

 嘲笑うように、決定的な意思が告げられる。

 

 『■■■(退け)、Yomagn'tho』

 

 外なる神に対するには、あまりにも尊大で、傲慢に過ぎる意思に、クトゥグアは歓喜しつつも慌てふためく。

 それはいくら最大神格の寵愛を受けるとはいえ、ただの下等存在が露わにしていいものではないと。

 

 ヤマンソは、クトゥグアですら手に負えない暴君だ。

 これまでにも幾度となくクトゥグアの召喚に勝手に介入して、ヤマンソ出現に慌てて召喚をキャンセルした使役者を、逆恨みで星ごと焼くような場面を何度も見て来た。ガス星も、地殻を持った星も、時には一個星系すら、その甚大な熱量で焼却してきた。

 

 道理など知らぬ、意味など知らぬ、ただ自分の感情のみを最優先する暴虐の王。そんな振る舞いが許容され、感情をこそ唯一の行動指針にするような化け物が外神だ。

 

 確かに、盲目にして白痴、この世全てを夢見て眠りこける魔王の寵愛を受けるというのは、異常であり特別なことだ。

 だが、たったそれだけを理由に外神を従えられると考えるのは、それは傲慢である以上に愚かなことだろうに。

 

 クトゥグアはヤマンソの激発を予期して、配下の炎の精たちを下がらせる。

 

 そして──ふっと、ヤマンソが頭を下げたような気配が伝わった。

 深く、ゆっくりと、折り目正しく。胸に手を当て片足を引いた立礼のような、深い敬意と尊重の滲む所作が想起される。御意に、なんて返事まで聞こえてきそうだ。

 

 クトゥグアは驚愕を隠しきれないが、騒ぎ立てる配下を一喝して鎮める。

 

 ──有り得ない。

 盲目白痴の最大神格が寵愛を授けた人間を、確かに外神たちは害さないだろう。

 

 旧支配者や旧神から守るというのも、理解はできる。

 絶対に敵わない仇敵に一矢報いるため、鬱憤を晴らすため、彼らが大切にする脆弱なものを壊そうとする愚昧は、神格であろうと存在するだろう。

 

 だが、そこ止まりのはずだ。

 

 外神に対する命令権? そんなものはないはずだ。

 外神が人間の命令に従う? そんなことは有り得ないはずだ。

 

 いや、ナイアーラトテップ辺りは愉悦の為になら何でもするだろうし、魔王の寵愛だけを理由に従属するかもしれないが、ヤマンソはそういう手合いではない。現に、昨年には『僕に従え』という彼の意志を、嘲笑うかのように無視していたではないか。

 

 有り得ない。──有り得ないものは、()()

 怖い、恐ろしい、理解できない。なのに──どうしてか、従ってしまいたくなる。

 

 クトゥグアは心中を埋める無数の感情を消し去って、配下を引き連れて召喚経路を通った。

 今度こそは、魔王の寵児の役に立つべく。

 

 

 ◇

 

 

 

 荒野の空に、極小の恒星が顕現する。

 ただそこにあるだけで辺りの空気を食い潰し、身体が浮き上がるほど強烈に吸気する極大火球。地面がじりじりと溶けていく膨大な熱が絶え間なく放射され、近くにいたカルトの一部が一瞬のうちに蒸発して消えた。

 

 虚空に浮かぶ紅蓮の球体。付き従うように浮遊する小さな火球。

 

 外見上は、たったそれだけの異常。──フィリップからは、そう見える。だが、それを城壁上から見ていたディアボリカには、全く違うものが見えていた。

 

 蠢きのたうち回る炎には無数の眼と口が開き、嘲笑の形に歪んでいる。

 ただ木やガスが燃えるだけでは有り得ない色と熱の炎は、物理法則に逆らった動きで舌を伸ばす。

 

 視力を魔力で強化していたことが仇になった。

 普通に見ていたら、遠くに浮かぶオレンジ色の球だったのに。ぼんやりと浮かぶ、指先ほどの小さな光点だったのに。──何も知ることなく、実はフィリップが最上級魔術にも匹敵する攻撃が出来た、なんて勘違いをできたかもしれないのに。

 

 なんだ、あれは。

 そう思った時には、ディアボリカは視界のチャンネルを物理次元から魔力次元へ切り替えていた。長年の魔術師生活と積み重ねた戦闘経験で培った、自信を持って正解と言える判断。ただ見るより圧倒的に情報を集められる視界へのシフトは、しかし、それ故に致命的だった。

 

 「──、えぁ?」

 

 ふっと視界が傾ぎ、縦に180度回転する。

 堅牢な石の壁が上から下へと流れていって──意識を失って城壁から落ちたディアボリカは、悪魔の群れの中に呑み込まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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260

 ディアボリカに抱えられて城壁を飛び越したフィリップとは違い、ミナは城主らしく堂々と、正門から出撃する。フィリップとはちょうど、城を挟んで反対側だ。

 

 太陽はもうじき頂点に至る、吸血鬼の力が最も弱まる時間帯。

 昼型に生活習慣を補正しているとはいえ、種族特性としての弱体化は免れないミナが、最も戦うべきではない時間。

 

 千夜城はもはや、築城以来の不可侵領域ではなくなった。

 そこかしこにメイドの血痕と悪魔の残骸が散らばり、今この瞬間にも知性劣悪な中位悪魔によって蹂躙されている。

 

 潔癖なところのあるミナは、それで城に対する執着心を完全に失った。

 

 「──石まで斬ると、埃が舞うわね」

 

 面倒くさそうに呟いて、左手に魔剣『悪徳』を握る。

 彼女の利き手は右だが、厚さ80センチそこそこの木材なんて、鉄板で補強されていても紙みたいなものだ。

 

 結局、最後の最後まで打ち破られることなく城を守り続けた巨大な門は、内側から、城主によって斬り捨てられた。今や残ったメイドは数名程度、掃除と整備が終わるまでは住めそうもなく、守り続ける価値もないと。

 

 「──ギャハハハ!!」

 

 当然のように雪崩れ込んでくる、無数の中位悪魔。

 

 諦めたか、最後の足掻きか。

 ミナの行いを不可解に感じながらも、悪魔たちは哄笑と共に襲い掛かり──第一陣、十数体の悪魔が灰の塊になって崩れ去った。

 

 ミナの右手には、振り切られた魔剣『美徳』。

 数瞬遅れて、第二陣の悪魔が衝撃波によって上半身と下半身を千切り分けられた。

 

 「グギ──!?」

 「──はぁ」 

 

 赤い双眸は眠そうに伏せられ、気だるげな溜息が艶やかな唇を割る。

 

 つい、ペットのいる東側に飛びそうになって、邪念を払うように首を振った。

 フィリップの“お願い”は二つ。フィリップの方に行かないことと、そちらを見ないこと。理由は多分、フィリップがトイレや風呂に一人で入りたがる理由と同じだろう。

 

 人間(ペット)にとって「カルト狩り」が羞恥心を伴う、しかし生理的に必要な行為だというのなら、ミナ(飼い主)はそれを尊重すべきだ。

 

 「面倒だわ……本当に」

 

 開け放たれた門から雪崩れ込む悪魔を切り捨てながら、ミナは淡々と歩を進める。

 

 靴は血溜まりを歩くためのハイヒール。

 グリップに優れているとはとても言えない不安定な足元で、最低でも一刀十殺の大立ち回りを演じながら。

 

 十の悪魔が灰に還り、倍以上の悪魔が吹き飛んで、再生する。

 

 「ギャ──」

 「ギギ──!?」

 「ガアッ──!?」

 

 品の無い断末魔は途切れることなく、灰に還る同胞への手向けに。

 

 「あぁ──面倒くさい」

 

 首を断つことに特化したエクスキューショナーソードは、処刑道具であって戦闘用の武器ではない。切っ先が無い形状、頸椎を割るためだけの厚い刃、上から下に振り下ろすためだけのフロントヘビーな重心。何もかもが、戦うことを想定していない。

 

 だというのに、ミナの歩みに淀みは無く、傷の一つも、汗の一滴も無いまま、孤軍侵攻が続く。

 

 城門を潜ると、悪魔は前だけでなく横からも、押し潰す量と勢いで殺到する。

 そのまま門外に押し寄せる、渦中に在っては無限にも思われる軍勢を切り伏せて進むかに思われたミナは、しかし、はたと足を止めて天を仰いだ。

 

 「──飽きたわね」

 

 かったるそうに呟くミナに、四方八方から悪魔の槍と爪と魔術とが繰り出され──消える。

 

 「ギャ──!?」

 

 苦悶に満ちた悲鳴(こえ)が、遥か上から降り注ぐ。

 一つや二つ、十や百ではまだ足りない数の不協和音(大合唱)

 

 ミナの行く道を飾り立てる、赤い彼岸花畑。

 

 乱立する穂先には赤い花。

 血で編まれた棘の花弁。臓腑(たね)(みつ)をこぼす醜い果実。高さ五メートルにまで突き揚げられた犠牲者たちは、甘い悲鳴(かおり)で仲間を呼ぶ。

 

 地中から生え出でた数万本の槍衾、或いは血杭柱の森を、悠々と歩く細身の長身。

 夜闇より濃い黒の髪は、血に濡れてなお重い黒。白い肌に(あか)が映える。同じ色の瞳は愉悦に輝き、より(あか)い舌が艶めかしく唇を這う。

 

 「不味い血。あとで口直ししなくちゃ」

 

 蘇生しても蘇生しても、腹の底から爆発するように生える血の棘が、杭に捧げられた悪魔を殺し続ける。

 血は雨となって降り注ぎ、杭を伝って地面を染める。荒野の硬い岩盤は見かけ以上に水を吸わず、地表に薄く血溜まりが張った。

 

 赤い鏡の大地に、数万の赤い花畑。

 新鮮な血と臓物の匂いが立ち込める死と病に満ちた空間を、両手に魔剣を携えた吸血鬼が闊歩する。血の大華と杭の森が織りなす複雑な影を浴びながら。悠々と、淡々と。

 

 ややあって杭の森を踏破したミナの前には、もはや中位悪魔などという雑兵は残っていなかった。

 

 ミナに対峙する影は一つ。

 身の丈三メートル、筋骨隆々の体躯を金属鎧で覆った、獅子頭の異形。ゴエティアの72柱の悪魔に列席する、正真正銘の怪物。悪魔マルバス。

 

 既に両手に鉈か包丁のような大刀が握られており、臨戦態勢であることが窺えた。

 

 「……これほどの力があって、何故戦わなかった? 何故、配下を徒に死なせた?」

 

 マルバスは口を開かない高位悪魔に特有の話し方で問いかける。

 その声に責める色は無く、単純に疑問を解消するための質問だった。

 

 ほんの一挙動──たった一度の魔術行使で、数万の悪魔を戦闘不能状態に追い込むことが出来るのなら、メイドの犠牲は、或いはゼロにまで抑え込めたかもしれないのに。

 

 勿論、マルバスとしては、そんな戦意こそ興醒めだ。

 誰かを守るための戦いなど、ミナには相応しくない。だから戦わなかった選択は正解だと思うし、有難くもある。だがそれはそれとして、気にはなった。

 

 ミナは退屈な質問だと言いたげに嘆息して。

 

 「──そんなの、面倒だからに決まっているでしょう?」

 

 ──端的に、吐き捨てた。

 

 ミナにとって、見渡す限り赤い景色を作り出した大殺戮は、程度で言えば地団太程度の労力のはずだ。

 魔力総量の数パーセント、二回か三回の呼吸で完全回復するような消費でしかないのに、それすら厭わしい。

 

 暴虐だ。

 自ら作り出した配下をそんな理由で切り捨てるのは、あまりにも横柄で傲慢な行いではないか。何より、そんな相手に尽くしたメイドたちが可哀想だ──そんな批判は、ミナ相手には意味がない。

 

 「それでこそだ。最も正統な吸血鬼──吸血鬼の始祖たる“龍呪公(ドラクル)”の因子を継ぐ者よ! その傲慢、その怠惰、その感情こそが、貴様に最も相応しい!」

 

 数百年の昔、ある男が龍を殺した。

 しかし龍は今際の際に、男に呪いをかけた。

 

 “同族の血を喰らわねば生きられぬ、この世で最も醜い生き物と成れ果てろ”

 

 呪いを受けた男は、生きながらえるため、身を焦がすような飢餓から逃れるため、同族を喰らい続ける。

 その果てに魔王の軍門に下り、“龍呪公(ドラクル)”の名を受けて、魔王軍内部に自らの勢力を確立した。

 

 そして200余年の昔、今はディアボリカと名乗る男が、不死を得て愛する女と永劫結ばれるためだけに、彼を殺した。血を啜り、心臓を喰らい、龍の呪いごと、吸血鬼の始祖の力を取り込んだ。

 

 その系譜、たった一人の後継者こそミナだ。

 

 「吸血鬼ウィルヘルミナ。我が好敵手よ。我を殺し平穏を手に入れるため──我を殺すために剣を取れ! 戦うために戦おう! 殺すために殺し合おうぞ!」

 

 マルバスが咆哮し、殆ど無挙動で突撃する。

 

 ヒトガタとはいえ異形の存在。

 一歩目からほぼ最高速度に達する踏み込みは、三メートルを超す巨躯を視界から消すほどの速度だ。

 

 フィリップの胴ほどもある剛腕が振るう対の大剣、或いは歪曲した包丁は、ミナの全身より大きい特大の業物。鉄塊なら700キロを超えるサイズのそれは、悪魔の鍛造()った特殊鋼でも500キロ以上の重さがある。

 二本同時、地面と平行に振り抜かれたそれらは暴風を巻き上げ、重さだけで一トン以上の威力を発揮する。

 

 ──それを、

 

 「──っ!」

 

 ミナの、利き腕でもない左手のロングソードが防ぎ止めた。

 

 動きだけは軽々と。

 しかし銅鑼のような轟音と無数の火花を散らし、荒野の、砂のすぐ下にある岩盤をヒールで削りながら。弾くでもなく、受け流すでもなく、正面から受け止めたミナに、マルバスは獅子の顔を獰猛に歪めた。

 

 「重かろう! いつぞやは貴様が一撃で首を刎ね、味わえなかった技と力だ! 存分に楽しめ!」

 「面倒な……」

 

 弾かれた反動を利用して引き戻された双剣は、両斜めから挟み込む挙動で振り下ろされる。

 以前に見た、両袈裟と両逆袈裟の連撃か。

 

 四度弾いた音が一つに重なるほどの超高速・超精度の技は、ミナにとっては既知のもの。模倣であるマルバスのものだけでなく、その原典(オリジナル)も。

 

 「これぞ彼の王龍、剣師龍ヘラクレスより盗み見取った妙技、墜衝天(ついしょうてん)よ!」

 「伝承目的でもないのに技に名前を付けるのも、声高に叫ぶのも良くないわよ。彼に教わらなかったの?」

 

 薄ら寒いほど耳を劈く轟音と共に、都合一トンの金属塊が弾かれる。

 以前には二振りの魔剣を使っていたミナは、今は利き手でさえない左手の『悪徳』一本で完全に防御していた。

 

 空いた右手は、体勢を崩したマルバスの首元に向かう。その右腕は漆黒のガントレットに包まれており、掌中では魔剣『美徳』が夏の日差しのように苛烈な光を放っていた。

 

 30年前には防ごうとして、それ故に次の瞬間には絶命してしまったマルバスは、大きくバックステップを踏んで後退する。

 剣を弾かれて揺らいでいた姿勢だったが、人外の脚力は5メートルもの距離を一歩で離した。

 

 「盗み見取ったと言ったであろう。あのような暴龍に師事など、命が幾つあっても足りぬわ!」

 「……それは、その通りね」

 

 ミナは肩を竦め、苦笑と共に肯定する。

 王龍は1000年以上を生きた龍種。中でも剣師龍ヘラクレスは戦闘行為全般に強い興味を持ち、投擲術、弓術、そして剣術と、闘争に技術や術理の概念を持ち込んだヒトを真似て、剣術に傾倒した稀有な個体だ。

 

 たとえミナでも、戦えばほぼ確実に負ける。

 10000戦して、1、2回勝ち、3、4回引き分けるのが精々だ。

 

 「ところで、彼の戦いを一度でも見たのなら、そんな甘い距離の取り方は出来ないと思うのだけれど」

 「何? ──ッ、馬鹿な!?」

 

 マルバスの纏う見事な鎧、どす黒い赤色の甲冑が、その胸元をぱっくりと開けていた。

 鎧が最も分厚い部分、急所を守るための傾斜がついた部分が、横一文字に綺麗な断面を晒している。

 

 だが、マルバスは先の一撃を確かに回避したはずだ。

 彼我の距離は五メートル以上あり、剣が届く間合いではない。ミナが魔術を使った気配も無かった。斬られていないのに切れている──これでは、まるで理屈が通らない。

 

 「馬鹿は貴様よ。いえ、無知と言った方が正確かしら」

 

 ミナは踏み込むことなく左手のロングソードを振るう。

 ただの素振りにしては些か以上に鋭い一閃だが、距離を詰めていない状況では何の意味もない行為だ。

 

 そのはずなのに、ぱっと赤い雫が舞う。

 切り裂かれた鎧の下、全く同じ場所に深々とした傷が現れる。マルバスは思わぬ痛みに呻きつつ、両の双剣を防御するように交差して構えた。

 

 「ぐぅッ……!? 魔術ではないな!?」

 「えぇ、そうね。というより、私は今、魔術が使えない状態だもの。()()()()()()、ね」

 

 ミナの言葉に、マルバスは目を細める。

 それは自分の状態を見透かされて驚嘆したのではなく、言葉の意味が分からずに訝しむような反応だ。

 

 「何を……? っ、これは!?」

 

 マルバスは剣の片方を地面に突き立て、片手をミナに向かって突き出す。

 何かの攻撃魔術でも使おうとしたのだろうが、何も起こらないので「待て」というジェスチャーにも見える。

 

 「魔力制限、いや……魔眼か! 制限系呪詛の相互制約による強化──契約の魔眼だな!」

 「あら、無知と言ったのは撤回しなくてはいけないかしら?」

 

 嘲笑を浮かべるミナに、マルバスは牙を剥き出しにして歯噛みする。

 

 契約の魔眼は、吸血鬼が種族的に持つ『麻痺の魔眼』や、その完全上位互換である『拘束の魔眼』とは決定的に違う特別製だ。

 

 通常、魔術契約には特殊インクによる魔法陣の敷設や、血液を媒介とした契約経路の開通などが必要となる。代表的な例としては、召喚使役の契約がそうだ。他にも、国家間での条約締結、商人同士の大規模な連合などでは魔術契約が使われる。

 

 魔術契約がただの契約と違うところは、その破りにくさにある。

 条件を違えることに強力な忌避感を催させたり、条件が破られた場合に重大なペナルティを課したりと方法は様々だが、最上級のものは支配魔術のように行動を物理的に制限できる。

 

 ミナの魔眼は、その最上位契約の一方的な押し付けだ。

 ただし、支配魔術のようになんでも出来るわけではない。

 

 まず条件として、相手に付加する条件と概ね等価になる代償が必要だ。

 たとえば先刻の、フィリップの行動を制限した時には、『自分がフィリップに近付かない』ことを条件に、『フィリップは自分に近付けない』ようにした。

 

 今もそうだ。

 マルバスの逃走を防ぐため、ミナは自身の魔術行使を代償に、マルバスの魔術行使を封じている。

 

 ただの一瞥のみを予兆とした、ほぼ回避不能、抵抗不能の行動制限。

 自分の何が封じられて、相手の何が封じられているのか。それさえ簡単には分からない、凶悪な能力だ。マルバスのような魔力の強大な相手には難しいが、対象の抵抗力次第では、ミナの十万以上の命のうち一つを代償に、相手の命を奪うことだって出来る。

 

 何より強力なのは、魔術契約を一方的に押し付けられて、そして一方的に破棄できるということだ。

 

 言葉で相手を支配する悪魔が、思わず驚嘆するほどの異能。だが──

 

 「だが、無駄だ! 魔術が封じられたとて、我にはこの剣が、牙が、爪がある!」

 

 元より逃走と言う選択肢を持ち合わせないマルバスは、突き立てていた剣を抜き突撃する。

 その気になれば物理攻撃を封じることも出来るミナだが、そんなことはせず、むしろ口元を薄く歪めた。

 

 「けれど技が足りないわね。だから……そうね、ハンデをあげる。私は今──()()()()()()。そういう契約を、自分自身に課しているわ」

 

 血より紅い唇から、凄絶な嗜虐心が滲む。

 戦闘に──特に剣対剣の至近戦で、ある一方に背を向け続けなければいけないというのは、ハンデと言うにも過剰な不利条件だ。回り込まれるだけでほぼ死に体になる。

 

 相手がそれを知らないならまだしも、ミナは自分から明かしてしまった。

 マルバスの紳士さには期待できないだろう。「では私は西を向かぬようにしましょう」だなんて、そんな対等性を保とうとする性格ではない。むしろ──

 

 「傲慢だな。その余裕、引き剥がしてくれるわ!」

 

 そんな隙があっては自分を倒すことなど出来はしないと、そう証明しようとするだろう。

 

 ナイフのような牙を剥き出し、勇壮な鬣を靡かせたマルバスが吼えた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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261

 荒野の片隅、森との境界線にほど近い場所に、激しい剣戟の音が鳴り響く。

 大柄な二人の鎧騎士が切り結ぶ情景を思わせる音響だが、実際の光景は、女が一人素振りをしているだけだ。尤も、その動きは人間の動体視力を軽く振り切る速度なのだが。

 

 無造作に剣を振るうミナと相対する、双剣を交差して防御姿勢を取るマルバス。彼我の距離は依然として10メートル近く開いたままで、二人が踏み込んで突かなければ剣同士が触れ合うことも無い間合いだ。

 

 それなのに、剣戟の音が高らかに響く。

 剣を振るミナが、マルバスの遠距離攻撃を撃ち落としている……というわけではない。防御しているのは、見ての通りマルバスの方だ。

 

 「ぐぅ……ッ!」

 

 マルバスが苦し気に呻く。

 交差した剣を持つ腕が痺れるような衝撃が、ミナの素振りに一瞬遅れで襲ってくる。

 

 ミナの「今は魔術が使えない」という言葉を信じるなら、これは付与魔術すら介在しない純粋な技術ということになる。或いは魔剣に備わった能力かもしれないが、魔剣が起動している様子は無い。

 

 剣が速すぎて衝撃波が飛んでいるという手応えでもない。

 空気の壁がぶつかってくるような鈍い衝撃ではなく、一本の線のような──まさしく“斬撃”が飛んでくるような、そんな感覚だ。

 

 「先の一撃の正体はこれか! 飛ぶ斬撃……! 何と言う技だ?」

 

 興奮も露わに尋ねるマルバスに、ミナは不思議そうに首を傾げる。

 キャッチボールでもするような調子で動かしたままの腕に遅れて、相も変わらず衝撃が続く。

 

 「技なんて使っていないわ。斬撃を飛ばすなんて、基本的な技術でしょうに」

 

 誇るでもなく、嘲るでもなく、面倒そうに淡々と答えるミナ。

 倦怠感すら感じる表情に、マルバスは獰猛な笑みを浮かべる。

 

 斬撃が飛ぶ。

 魔術も無しに、そんなことは有り得ない。

 

 だが──

 

 「足に力を籠めれば立ち上がれるけれど、力の籠め方を変えれば跳べるし、走れるでしょう。それと同じで、ただ振るんじゃなくて、飛ばすように振ればいいだけよ」

 

 これは技ならぬ、単なる技術だと謂う。

 

 何とも素晴らしい。

 吸血鬼の腕力、速度、そして何よりミナの研鑽あっての技巧だろう。並の剣士なら絶対に修得できないか、秘奥義に属するような技。

 

 それがあくまで、跳ぶ、走る、投げる、振る。そんな、ただの身体操作の枠にある。

 

 「ただの一閃、ただ腕を揮うだけで秘奥に至るか! 凄まじいな!」

 

 マルバスが吼え、攻勢に転じる。

 この距離を保ったままでは、疲労のない吸血鬼は無限に斬撃を飛ばし続けるだろう。魔剣の鋭さであれば悪魔の鍛造したマルバスの双剣でさえいつかは削り斬られるだろうし、月が昇れば勝ち目が消える。

 

 であれば、ここは距離を詰めるしかない。

 至近距離では小回りの利くミナの方が有利だ。だがリーチ差による有利不利は飛ぶ斬撃によって相殺される以上、距離を取れば嬲り殺しにされるだけ。せめて戦いを成立させたいのなら、マルバスはミナに近付くしかない。

 

 東を背にして回り込む隙なんて、何処にもない。

 だからこそ自分の弱点を、不利どころではない条件を開示したのだろう。ミナにはそれだけの実力があると、マルバスの方が技量に於いて下であると、認めざるを得ない。

 

 だが──それがどうした。

 

 交差していた剣を揃えるように持ち替え、盾にして突撃する。

 同じだけ下がるという選択も出来たミナだが、斬撃飛ばしを止めて左手のロングソードを構え、迎え撃つ姿勢を見せた。

 

 身長180センチを超えるミナは、それ相応に体重もある。スタイルが良いから尚更だ。

 それでも、マルバスの突撃を受け切れる重さではない。なんせ二本の大刀だけで一トンを超えるのだから。常識的に考えて、剣同士が衝突した瞬間に吹っ飛ぶはずだ。

 

 しかし、ミナは先の一撃を受け止めている。

 これもまた、ミナの身体操作精度の高さを窺わせる現象だ。

 

 ぎゃりぎゃりぎゃり! と目を焼くような火花を散らしながら、二本の大刀とロングソードが激突する。

 片足を下げたミナのドレスが、風圧で華やかに翻った。

 

 血溜まりを歩くための高いヒール。その下で削れる岩盤へと、激突の衝撃がほぼ完全に受け流されている。

 

 マルバスの助走10メートルの突撃に対して、ミナが動いたのは20センチほど。

 ヒールと剣から散る火花こそ派手だが、ミナの表情は涼し気なものだ。

 

 「まだだ──ッ!」

 

 マルバスは両手に殆ど反動が無かったことに薄ら寒さを感じつつ、剣を引き戻す勢いを利用して一回転する。そして勢いのままに、バックブローのように斬撃を繰り出した。

 

 ミナの姿勢は防御によって左側に傾いでいる。対してマルバスの攻撃は右側から。

 防御は難しいだろう。回避するとしたら左側に抜けるしかないが、それならそのまま追えばいい。

 

 この連撃であれば、致命傷ではないにしても、傷の一つくらいは負わせられるはず。マルバスはそう、自分の動きに確かな手応えを感じる。

 

 しかし──瞠目する。

 バックブローの動きで振り返ったマルバスの眼前には、白銀に煌めくエクスキューショナーソードの刃があった。

 

 「──ッ!!」

 

 咄嗟に片足を脱力し、無理矢理に姿勢を崩して断頭の一撃を躱す。

 無理矢理に振り抜いた二本の大刀だが、崩れた姿勢で碌に威力の出なかった攻撃はロングソード一本で簡単に防ぎ止められた。

 

 「く、ッ!」

 

 脱力した足をそのまま振り上げ、身体を横倒しにして空中で回転する。2メートル近い位置から振り下ろすように、甲冑に包まれた太い脚がミナの頭蓋へ叩き込まれた。

 

 姿勢を戻す隙を作るための回転蹴り。

 マルバス自身が笑ってしまうほど苦し紛れのそれは、羽虫を払うような手軽さで振られたロングソードでいなされた。

 

 しかし、ミナの攻撃──防御からのカウンターに空隙が生まれただけで十分だ。

 跳躍した勢いのままに距離を取り、しっかりと両の足を地面に付ける。当然のように飛んできた斬撃は、交差した双剣で受け止めた。

 

 びりびりと腕が痺れるような衝撃に、歯を食いしばって耐え忍ぶ。業腹でもあり、称賛の念に堪えなくもあることだが、マルバス自身の蹴りよりミナの飛ぶ斬撃の方が重い。

 

 「オォ──ッ!!」

 

 獅子頭の悪魔は雄叫びと共に、再びの突撃を敢行する。

 至近戦闘でも技量に於いて負けていることは、マルバスとて先の一瞬で分かっている。だが、離れた状態では何もできないのだ。

 

 踏み込む力のあまり、硬い岩盤が砕けて陥没し、突撃の勢いで四方へ飛散する。

 巻き上がった砂煙をも拭き散らす突撃に対して、ミナは半身を切り、カウンターを狙うように左手のロングソードを正眼に構えた。

 

 人間の動体視力など一瞬で振り切る速度で移動しながら、マルバスはミナの攻撃を予測する。

 マルバス自身の構えからして、ミナの選択肢はそう多くない。交差した双剣は、その一本だけでミナの体躯を上回る壁だ。足元と両脇、あとは視界確保のために開けた頭部。この四つにしか隙は無い。

 

 いや、敢えてこの四つの隙を作り、攻撃を誘導しているのだ。当然、カウンターに対するカウンターも用意している。

 

 ミナが選んだのは──オーソドックスな右から左への切り払いだ。剣を振る前から、左手を胸に寄せて構えた時点で分かる。

 ならば、とマルバスは左手の大刀を逆手に持ち替えて左半身の防御を固めながら、右手でミナの無防備な背中を狙う。

 

 手首を返して突きが飛んでくる可能性はあるが、それも意識していれば右手の剣で打ち払える。最も警戒すべきはエクスキューショナーソードによる頸への攻撃だが、あの構えから繰り出すのは無理があるだろう。

 

 果たして、ミナは素直にマルバスの左半身を狙って剣を振る。腕の力ではなく足と腰の回転を利用した一閃は、マルバスの左手へ強烈な衝撃を齎し──

 

 「ごッ──!?」

 

 鎧の腹が陥没する。

 厚さ五センチの特殊金属の鎧が、鋭い一点に膨大な圧力が加えられたようにべコリと凹み、その下にある分厚い腹筋を通して内臓へ衝撃が伝わる。

 

 なんだ? と、マルバスは思わずミナの動きへの集中を切らし、思考に耽ってしまう。

 ミナの左手は横一文字の斬撃を繰り出し、大刀によって防ぎ止められている。右手は半身の向こうで、突きを繰り出せるはずがない。

 

 なのに──肉を千切り骨を砕くような、腹を殴られたのに背骨が軋む威力が押し付けられている。

 

 思わずと言った風情で踏鞴を踏んで下がるマルバスに、ミナの追撃が襲い掛かる。

 わざわざ構え直してから、腕を開いて左から右への横薙ぎだ。

 

 左手のロングソードを胸の前で立てる仕草は、騎士の礼にも似ている。しかし、そこに込められた意志──挑発が露わになっていれば、礼儀や忠節を見て取ることは不可能だった。

 

 左腕を左から右に振るという人体の構造上力が加えにくい動きをしているのも、明らかな挑発だろう。そんなことをしなくても、先程のように腕を開く動きで切りつけるか、突きを繰り返した方が速いし、強い。

 

 だが、そのぬるい動きのお陰で防御が間に合った。

 ──間に合った、はずだった。

 

 「くッ──ぐおっ!? なんだ!?」

 

 マルバスは防御とは反対側の脇腹を切り裂かれ、つい先ほど突かれた部分と全く同じ場所を突かれ、鮮やかな血を噴きこぼす。

 

 魔術ではない。剣による攻撃の味だ。

 だが、そんなことは有り得ない。

 

 ミナの動きは、人間の動体視力では追えない速度。だがマルバスの目にはしっかりと見えている。それは確実だ。ミナは確実に、剣を一度しか振っていない。

 ならば、これは?

 

 「な、なんだ、これは……!!」

 

 動揺も露わに吼えるマルバス。

 苦し紛れに剣を振ると、ミナは口元を歪めて後退した。

 

 ──今の笑みは、おそらく。

 

 「殺せた、か……!」

 

 今の隙は決定的なものだったのだろう。

 マルバスが自分の動きを意識できなかったほんの一瞬は、ミナにとってはマルバスの首を落とすのに十分な時間だった。だが、何かの理由で見逃した。そういう意味の、嘲笑なのだろう。

 

 それを受けて──マルバスは笑う。呵々と、牙を剥き出しに大口を開けて大笑する。

 

 「凄まじい、素晴らしいぞ! 貴様の技量、貴様の剣筋、貴様の戦闘能力は、全てに於いて我を超えている!」

 「あら、今更気付いたの? もしそうなら、貴様の目はとんでもない節穴ね」

 

 眠そうなミナの言葉を待たず、マルバスは三度、突撃する。

 迎え撃つミナは正面から切り結ぶのを嫌い、暴風を巻き起こすような大刀の連撃を後退しながら受け流した。

 

 力でも速さでも、ミナはマルバスに勝っている。

 だが、単純な重さで大きく──十倍以上も負けている。きちんと構えていれば受け止めるのは造作もない重さだが、何かの拍子で吹っ飛ばされることもある重さの差。

 

 そんなものと正面衝突するのは、時間と労力の無駄だ。

 別に吹っ飛ばされても死にはしないが、吹っ飛ばされた分、戻ってくる手間がかかる。

 

 壁のような大刀と比較すると、ミナの魔剣は針のように頼りない。

 しかし一撃ごとに撓んで揺れ、銅鑼のような音を鳴らしているのはマルバスの双剣だ。

 

 「流石は“人の手にあらざるもの(クリエイテッド)”の魔剣。岩をも砕く我が剣が折れてしまいそうだ。確か、熾天使殺しの逸品だったな」

 

 言葉と共に、五十を超える連撃が叩き込まれる。

 その全てを少しずつ後退しながら防ぎ、受け流し、時にはカウンターを叩き込んで鎧を砕くミナ。彼女はマルバスの言葉に応じることは無く、音速を超える攻撃を退屈そうに見るだけだった。

 

 フィリップがここにいたとして、聞こえる剣戟の音は精々が十合程度だろう。

 音を置き去りにした打ち合いは、常人の介入はおろか、ただ見ることさえ許されない領域にあった。

 

 数秒の攻防の後にひときわ大きな銅鑼のような音が鳴り響き、マルバスが鎧の右胸を大きく陥没させて下がる。突きを食らったような瑕だが、ミナは両手の剣を振り抜いた姿勢であり、マルバスにも両の切り払いを防ぎ切った確信があった。

 

 「先の攻撃と同じ……これは、魔術ではないな。だが常識の範疇にあるものでもない。貴様は確かに、()()()()()()()()()()()()()()

 

 ミナは森の奥に一瞬だけ一瞥を呉れ、肩を竦めて頷いた。 

 

 「そうよ。これが私の奥義、剣師龍ヘラクレスの編み出した、剣術の──いえ、物理現象の極致。()()()()()()()()剣技」

 

 マルバスは言葉の意味を測りかね、攻撃の手が止まる。

 普段ならそんな隙を見逃すはずがないミナだが、彼女は斬りかかることなく、眠たそうに言葉を続けた。

 

 「師曰く──起こり得ることは、起こそうと思えば実現できる。これはその理屈の実行。“振ろうと思えば振れた、けれど振らなかった剣”を“振ったことにして斬撃を実現する”」

 

 咄嗟に理解できなかったマルバスは、つい無言のままに聞き入ってしまった。

 ミナはその()()()()()に口元を歪めつつ、言葉を続ける。

 

 「できることはできる。できないことはできない。これはその、1=1という道理の極点にして特異点」

 

 “振っていない”から“斬れない”と言う道理を、“振れた”のだから“斬れる”と言う理屈で塗り潰す。術理の上では、そういう剣技。

 

 それが事実なのか、現実を歪めるほどのイメージ力による代物なのか、はたまたその想像力が剣速を自分の認知すら振り切るレベルに押し上げているのか。それは誰にも、ミナにも分からない。

 

 ただ厳然たる事実(けっか)として、ミナは一刀の下に三つの斬撃を繰り出すことが出来た。

 

 「過去の改変だと!? それは、神でさえ禁忌とする最悪の──」

 「何も変えてなんていないわ。過去も、現在も。だって、事実として“剣は振られている”のだもの。貴様が斬られることに、因果の狂いは何一つとしてないでしょう?」

 

 フィリップがここにいれば、理解不能のあまり無我の笑顔になる理屈だ。

 

 それは、余りに強すぎる。

 剣同士での立ち会いに限らず、戦闘は常に選択肢の取捨が連続する。

 

 相手の構え、相手の行動、こちらの構え、互いの立ち位置、一手前の動きと一手先の予測、事前情報。そういった様々な要因を加味して複雑に思考し、お互いに選び出された行動選択肢の中から、更に相手の行動を読んで採択する。

 

 その戦闘に於いて、「選ばなかった選択肢」の結果を具現化させるというのは、反則と言ってもいい。

 それがたとえ「剣をどう振るか」という選択肢にのみ適用可能な術理で、「防御しながら攻撃する」ことはできないとしても。

 

 ミナはまた、ちらりと森に一瞥を呉れて──残念そうに頭を振る。

 

 「あら、止まったわね。なら……はぁ、仕方ない。私が止めを刺しましょう。チェックメイトよ」

 「何を言っている? 我はまだまだ──」

 

 不愉快そうに構えるマルバスだが、ミナはもう魔剣を構えてさえいなかった。

 両腕をだらりと垂らして、心底面倒くさいと言いたげに深々と嘆息する。

 

 「こちらに近付いてくるアレに、まさか気が付かないの? なら、やはり貴様の目は節穴ね」

 

 ミナの視界、物理ではなく魔力にチャンネルを合わせたそこには、こちらに向かってくる強大な魔力の塊が見えていた。

 

 しかもミナ自身にも匹敵する特大にして特上の質をも持ち合わせたそれは、一つではなく、二つ。

 タイミングから言って、まず間違いなくフィリップの言っていた聖痕者だろう。ミナとて戦えば無事では済まない、対邪悪性能に於いてはミナの持つ魔剣さえ上回る怪物だ。

 

 先ほどまで馬を走らせて近付いていたのに、今は何故か立ち止まっているが。再び進み始めれば、ものの数分でミナのところに到着するだろう。そうなればミナも危ういが、それより弱いマルバスは確実に死ぬ。

 

 「技を語るなんて、信の置ける弟子か、これから死に逝く相手にだけよ。この意味は──分かるでしょう?」

 

 血よりも艶やかな赤の唇が嘲笑の形に裂け、異常に発達した犬歯が覗く。

 マルバスはまだ戦えるつもりでいるようだが、ミナがその気になった時点で、このマッチアップは成立しなくなる。

 

 肉体性能は互角でも、技量と、武器の性能が段違いなのだから。

 

 「フィルがカルト狩りをしている間の暇潰しにはなったし、褒美をやりましょう」

 

 マルバスは武器に頼らない戦いをしたいと望んでいるようだが、ミナにとって、これはあくまで暇潰し。

 その幕引きに魔剣の力を使うことに、何ら心理的抵抗は無い。

 

 白銀のエクスキューショナーソードを眼前に立て、規定量の魔力を流して起動する。

 

 「血を啜りて輝くは魔の理。無傷無血こそ聖の理。なれど邪なるものに救いは無く、父の御名において断罪するのみ」

 

 刀身が輝く。

 放つ光は夏の日差しのように苛烈で、右手を保護するガントレットが微かに軋んだ。

 

 マルバスは三十年前の死因である以上に、知識として知っているその光に怯える。

 

 「その剣──まさか、熾天使ミカエルの断罪()か!? なるほど、それ故の断頭能力、それ故の邪悪特攻! 熾天使を殺して奪い取ったな!」

 

 光が収束し、更に伸びる。

 天を突く光の柱は、ルキアの『粛清の光』より幾らか細く、しかしよく似た神々しさを纏っていた。

 

 しかし、温かみは感じない。

 氷の煌めき、刃の輝き。鏡の反射より無機質で、背筋の寒くなるような気配の光は、その全てが断頭の刃。

 

 「垂頸落とせ──魔剣「美徳」」

 

 詠唱が終わり、魔剣が真の姿を取り戻す。

 

 それは最早エクスキューショナーソードではなく、天を突く一筋の光だ。

 ミナの邪悪属性に寄った魔力で編まれたガントレットが、炉に突っ込んだようにきいきいと軋む。

 

 超長射程の処刑剣。

 邪悪なるものに一切の防御を許さない聖なる刃を、回避をも許さない長さへ延長する。

 

 その規模ゆえに扱いも難しいが、一刀にて三つの斬線を刻むミナの技量であれば何ら障害にはならない。

 

 マルバスは屹立する“死”を前に声を震わせ、自分でも知らぬ間に一歩下がる。よろめくように──逃げるように。

 

 「な、何故だ? なぜ今になって、この力を解放した? 我との闘争に飽いたとでも──」

 「そうよ。ペットと遊んでいた方が、まだ幾らか楽しめたわ」

 

 冷たく突き放すミナに、マルバスは聞こえるほど強く奥歯を噛み締める。

 

 「今度は──」

 「今度なんて無いわ。完全開放した『美徳』は、死しても地獄に還るだけの悪魔をも消滅させる。()()()()()は、ここで終わり」

 

 貴様との、とは言わない。

 これはミナとマルバスの関係性ではなく、マルバスが一方的に絡んできただけなのだから。メイドを殺され、城を穢されたが、そんなことはどうでもいい。

 

 「……無念」

 

 肉食獣の双眸が悔し気に閉ざされ──ミナの右手が霞む。そしてマルバスの首を、乱立した血の槍諸共に斬り飛ばした。

 

 無数の彼岸花が花を落とし、耳障りに喧しい音を立てる。

 何体かの悪魔が悶えながら戒めを逃れるが、次の瞬間には新たに生えた血の槍に貫かれて磔にされた。

 

 吹き荒れた風が夜闇のような黒髪とドレスを荒らして、ミナは不愉快そうに眉根を寄せる。

 

 最後の最後に呪詛を撒いたマルバスの往生際の悪さは、この数日の無駄な時間を思い返させる無為なもの。或いはマルバス自身の意志とは関係ないものだったのかもしれないが、どちらにせよ、病気に罹らない吸血鬼には無意味なものだった。

 

 「さて……ここからが本番ね。少しは言葉を交わせるだけの、知性と品格のある人間だと良いのだけれど」

 

 フィリップを助けに来たのか、はたまたディアボリカを討伐しに来たのか。

 後者であってくれないかなぁ、と、ミナは億劫そうな溜息を溢した。

 

 

 

 

 

 

 



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262

 木立の隙間から僅かに荒野の見える森の中を、ルキアたち一行は馬を限界まで酷使して駆け抜けていた。

 人の手によるものではなく、さりとて獣が通るだけでは有り得ない拓かれ方をした道が、六頭の馬と一台の馬車が蹴立てる砂塵で煙る。林冠は然程深くないが、巻き上げた砂埃の所為で辺りは薄暗い。

 

 どういうわけか中位悪魔が木立の中から襲ってくるという事件が散発的に起こっていて、ルキアとステラが馬車の前後を、その周囲を従者たちが守るという陣形を敷いて警戒態勢だった。

 

 「……どう思う、ルキア。先刻からの悪魔の襲撃、私達への妨害という感じではないが、かといって自然のものでもないだろう」

 「可能性は二つでしょう? フィリップが原因のトラブルか、フィリップが巻き込まれているトラブルか」

 

 淡々と冗談みたいなことを言うルキアに、ステラはけらけらと笑う。

 だが確かに、中位悪魔は何者かに召喚されなければ存在しない魔物だ。フィリップに近付いたタイミングで出てきた以上、無関係ということは考えにくい。かといって聖痕者の邪魔には絶対的に不向きな相手だし、頻度も、一回に出てくる量も足りない。質も量も、ルキアとステラ相手には戦力にカウントできるようなレベルでは無かった。

 

 「そうだな。吸血鬼を取り合って、悪魔とカーターが争っていたりしたら面白いんだが」

 「笑えないわ、全く。……シルヴァ、フィリップの位置は具体的に分かる?」

 

 ステラの前に座っていたシルヴァに問うと、彼女はこくこくと頷いて前方を指差す。

 

 「わかる! あと……このもり、よっつぶんぐらい!」

 「……あぁ、うん。確かに具体的だが、実数値で欲しかったな」

 

 ステラは森に入ってからの体感時間から、まぁ概ね8キロぐらいだろうか、なんて概算する。これが概ね正解な辺り、彼女の空間把握能力はやはり非凡だ。

 

 「アンナ、地図を。城までの距離は?」

 「はっ。……概ね6キロほどかと」

 

 馬車を操っていた親衛騎士に尋ねると、少しの計算時間を経て答えが返ってくる。

 彼女が見ていたのは古い地図ではなく、それと今回の旅路で新たに書いた測距地図を合わせた、古い地図の正確さを増したものだ。こんなものが出来ただけで、既に攫われた子供を助けるという任務が失敗しても褒められるレベルの代物である。

 

 「流石に体感がズレたか? いや、カーターが逃げ出しているという可能性もあるな……。ルキア、念のため、魔力視は無しで行こう」

 「えぇ、そうね」

 

 と、そんな話をした時だった。

 

 遥か遠くの上空に、強烈な魔力を放つ魔法陣が描かれる。遠目には殆ど見えない、ともすれば昼間に輝く明星か何かと見逃してしまうような、小さな小さな光点だ。

 しかし、それが人類領域外の文字と記号で描かれた召喚と使役の魔法陣であると、ステラは経験として知っていた。そしてその身の毛がよだつような気配も、書き込まれた情報も、出てくるものの情報も、以前に一度読み解いている。

 

 魔力を視ていれば、一瞬のうちに情報を読み取って発狂していただろう。

 一度目は奇跡的に()()()()()()()が、二度目があると無邪気に信じる気にはなれない。

 

 「──っ! ちょっと、ステラ!?」 

 

 ステラが唐突にばら撒いた魔力に、魔力感知能力のずば抜けたルキアがたまらず手綱を操って馬を止める。魔力は無色無臭で音も出ないが、それを感覚的に把握できる魔術師にとって、今のステラは閃光音響弾(フラッシュバン)にも等しい。魔力視を使っていれば、一時的な視力喪失か失神も有り得る。

 

 「全員伏せろ! 正面の空を見るな!」

 

 ステラの指示に最速で従ったのは、親衛騎士ではなくアリアだった。

 彼女はルキアの馬に飛びつくようにしてルキアを降ろし、地面に伏せさせた主人の上に覆い被さりながら周囲に視線を走らせる。次に親衛騎士たちが、最後にメグが動くが、メグに関しては伏せるというより超前傾姿勢といった感じで伏せてはいなかった。

 

 ルキアもステラに対抗するかのように魔力を発散し、周囲の状況を探る。

 周辺に悪魔の気配はないが──森を出たところに強大な反応が二つある。魔力視無しには詳細は分からないが、どちらも邪悪属性に寄っていることは分かった。

 

 「カーターが召喚魔術を使っている! 吸血鬼の城から脱出したのかもしれない!」

 「私たちが来たことに気付いて……? いえ、でも、それならシルヴァのいる位置に向かって来る筈じゃない?」

 

 確立した自我や精神を持たないが故に発狂もしないシルヴァだけが、地面に伏せる一行を面倒そうに見ていた。

 

 「ふぃりっぷはまだあっち。こっちにはきてない。……はやくいこ?」

 「……念のために聞いておきたいんだが、あの“星”はどうなってる?」

 「ん? あそんでる。……ふぃりっぷ、たぶんかるとであそんでる……」

 

 なにやってんだあいつ、とでも言いたげに嘆息するシルヴァ。そんな暇があるなら自分を戻せとでも思っているのだろうが、フィリップにとっての優先度はカルト狩りの方が上だったし、今の彼はシルヴァや、居るであろうと予想していたルキアかステラのことを完全に忘却している。

 

 そういえばあの時も一度は私を捨て置いたな、と、ステラは回顧して苦笑した。

 

 カルトが出たなら、まぁ、しょうがない。

 カルト狩りの邪魔をしようとした──フィリップを牢か何かに繋いでおこうとした吸血鬼が狂死させられていたとしても、ステラは驚かない自信があった。

 

 「……ん、みえなくなった。もうおきていいから、はやくいこ」

 

 じれったそうに足踏みしながら言うシルヴァに手を引かれ、ステラも立ち上がって服に付いた砂を払う。

 

 「……多少、不味いな」

 「そうね。あの吸血鬼の魔力……魔力視無しでは油断できない相手だわ」

 

 魔力視など無くとも肌で分かる、強大で、良質で、膨大な魔力。

 質も量もルキアやステラに引けを取らない、或いは優越するほどの化け物だ。あの森にいた個体とは別物のようだが、それが何より恐ろしい。

 

 距離次第だが、一対一なら先手を取った方が勝つ。

 二対一の今なら、ルキアが守り、ステラが殺す。或いはその逆で連携すれば、動体視力を振り切る速度で動く怪物でも下せよう。

 

 そして二対二になれば、戦局の予想は誰にもできない。

 流石に神罰請願・代理執行権の行使である最強の邪悪特攻攻撃『粛清の光』や『撃滅の槌』を撃てたのなら勝ちが確定するが、そこまで甘い相手ではないだろう。出の早い上級魔術レベルで応戦し続けるしかない状況に追いやられてしまえば、一発、二発当たったところで、無数の命で踏み越えられてチェックメイトだ。

 

 「カーターの居場所や状況を聞き出そうなんて色気を出すのは、相手がいきなり襲い掛かってくるような馬鹿じゃないと判明してからだぞ。いいな?」

 「分かっているわ──、っ!?」

 

 突如として明るく照らされる森の中。

 先頃から煙っていた砂埃が晴れたとか、太陽を遮っていた林冠部が風で揺らいだとか、そんなちゃちな変わり方ではない。今が昼なら、これまでは夜。それほどまでの光量増加に、全員が思わず目元を庇う。

 

 「何事だ!? いや、とにかく殿下をお守りしろ!」

 「この光……天使でも降臨されたのでしょうか?」

 

 未だ明順応すらままならないはずだが、ルキアとステラを庇うように動く従者たち。

 

 明らかに自然のものでは有り得ない光の柱を森の外に見て、メグが安穏と呟いた。

 天使降臨は最奥や秘儀に分類される魔術だが、人類に不可能なことではない。それに召喚魔術に分類される以上、術者を殺せば天使も還る。──人間を殺せばいいのなら、メグにとっては何ら恐れることではない。

 

 だが、違う。

 これはそんな()()()()ものではないと、ルキアとステラは直感的に感じ取っていた。

 

 何故なら、天を穿つ光の柱からは、二人が使う魔術とよく似た気配がある。

 断罪権の行使。対邪悪の極致にして、神聖の顕現。二人が吸血鬼に対して、無数の命を持ち人間を食らうバケモノに対して、警戒はしても恐れはしない理由の最たるもの。

 

 「驚いたな……あれは、神罰に類するものだ。あの吸血鬼、それを何かから奪い取ったな……!」

 

 ステラは視線を鋭く眇め、見通せもしない森の外を睨み付ける。対するルキアは、「もうここから『明けの明星』を撃っては駄目かしら」とか物騒なことを考えていた。

 

 殺すだけなら最適解かもしれないが、二人の目的はあくまでフィリップの奪還だ。

 フィリップがいまどういう状況に置かれているのか、そのくらいは聞き出す必要がある。主に、ルキアとステラの安全のために。

 

 吸血鬼を殺して助けに行って、フィリップが吸血鬼に対して隷属状態などにあった場合、カルト相手に暴れ散らかしている邪神の矛先がこちらに向くことになるだろう。その前に、吸血鬼を脅すなり拷問するなり痛めつけるなりして、隷属を解かせる必要があった。

 

 「……本当に、話の通じる相手だといいんだが」

 

 とはいえ相手は人食いの化け物。餌である人間と会話するような奇特な性格であることを祈るのは、ステラとしては甚だ不本意なことだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 森を出ると地獄だった。

 穢れを払う神聖な光輝は嘘のように、赤の鏡面と彼岸花畑が広がる。磔られた悪魔の数は一万や二万では利かないだろう。

 

 その大殺戮の下手人であろう女吸血鬼は、武器も持たず、かといって魔術照準もせず、顎に手を遣って値踏みと警戒の綯い交ぜになった目で一行を──いや、ルキアとステラの二人だけを観察していた。

 

 「……貴様らが、あの子の言う『助けに来た聖痕者』ということで間違いないのよね?」

 

 先に口を開いたのは、眠たそうなミナだった。

 ルキアとステラは一瞬だけ目配せをして、ステラが「そうだろうな」と軽く応じる。

 

 「そう。フィルから言伝てがあるわ。『合流するまで魔力視禁止です』だそうよ」

 「……フィル?」

 

 不愉快げに眉根を寄せたルキアに、ミナも怪訝そうに似通った表情を作る。

 

 「なに? 人違いだというのなら、早く立ち去ってほしいのだけれど」

 「……私たちが助けに来たのはフィリップ・カーターという子供だ。身長はこのくらいで、金髪に青い目。ディアボリカという吸血鬼が拉致した。心当たりは?」

 

 放っておけば魔術照準さえしかねないルキアを片手で抑えながら、ステラはあくまで淡々と問いを投げる。

 フィル、という愛称が家族間で使われるものだと知っているのは、以前にフィリップの実家の宿に泊まったことのあるルキアだけだった。勿論、フィリップという名前は一般的なものだし、愛称も奇抜なものではない。ステラが訊いたのは念のためだ。

 

 ミナは億劫そうに肩を竦め、軽く応じる。

 

 「私のペットに間違いなさそうね。それで……どうするの? 私を殺して、あの子を奪う?」

 「ペット……? 婿だと聞いていたが?」

 「……それ、人間の間では流行りのジョークなの? それとも、貴様がアレと同じで狂っているだけなのかしら」

 

 ステラとミナはお互いに、どうにも話が噛み合わないぞと首を傾げる。ミナの方は、やや疑念が濃いが。

 ともかく、ステラはフィリップの伝言とその内容から、彼がミナに対して一定の信を置いているらしいと察した。フィリップの狙い通りに。

 

 ルキアはずっと不快そうに眉根を寄せているが、口を挟むことも、魔術照準もせずにじっと耐えている。しかし付き合いの長いステラには分かるが、ルキアも大概直情的というか、地雷を踏んだ時の手が出る速度はかなり早い。聖痕者の中でも一二を争うとまで言われているくらいだ。

 

 今もフィリップをペット呼ばわりしたミナを塩の柱に変えたくてうずうずしているだろう。

 

 不快そうなのはミナも同じだ。

 と言っても彼女はステラの言葉に不快感を覚えたわけでは無く、度し難いまでの無理解と、気色の悪い発想に対して気分を害しているだけだが。

 

 「人間は豚や鶏を食うのでしょう? 貴様は、その家畜と結婚するの?」

 「……なるほど、そういう価値観か」

 

 ステラは悠然と立ったまま、軽く理解を示す。

 ミナとの距離が100メートルくらいあれば「良かったな」なんて言ってルキアを揶揄うところだが、流石にそこまで緊張を緩めることはできない。

 

 「私たちはあいつを連れて帰るためにここに来た。より直接的な言い方をするのなら、あいつを奪い返しに来た」

 「……ペットは家族よ。奪い返すと言われて、はいどうぞと返すわけがないでしょう?」

 

 ステラの青と、ミナの赤。二人の視線が正面からぶつかり合い、従者たちが火花すら幻視する気迫が迸る。

 

 魔術照準は無い。剣も抜いていない。

 だが、一触即発の気配だけは肌を刺すほどに纏わりついて、空間に満ちていく。

 

 「カーターは今、何処にいる?」

 「城の東側、向こう側よ。今はカルト狩りの最中でしょうね」

 

 まさか覗きに行こうとはするまいな、と、ミナは度し難い変態を見るような目で二人を牽制する。

 

 「この悪魔の群れは? そのカルトが召喚した……という数ではないな。それに、お前とも敵対しているのか?」

 「逆ね。悪魔が湧けば崇拝者も湧く、それだけのこと。私に敵対していたゴエティアの悪魔が喚び出したものよ」

 

 どうでも良さそうに言うミナ。数十万という数を前に無頓着なのは、むしろステラとしては共感できるポイントだった。ただ、それを放置しているのはいただけない。この群れの中をフィリップが突っ切ってくるには、それこそ邪神の力を借りるしかないだろうから。

 

 「……ルキフェリア、カーターの帰り道を作ってやれ。シルヴァ、位置は?」

 「かわってない……」

 

 なんで変わってないんだよと言いたげに不機嫌そうな声だが、今はその方がありがたい。

 

 「ここから城までだけでいい。掃討しろ」

 「了解よ。──《粛清の光》」

 

 城までの空間を埋める赤い彼岸花畑も、城に集る黒い群れも、その全てを天から降り注ぐ極光が撫でていく。

 荒野の悪魔たちも、城に入った悪魔も──まだ生き残っていたかもしれないメイド吸血鬼たちも、区別することなく裁く、神罰の光。後に残るのは、無数にも思える塩の柱だけだ。

 

 配下と居城をも呑み込む神罰の具現を、ミナは感心したように見るだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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263

 そういえば、と、フィリップはふと我に返った。

 

 「そういえば、僕はどうやって帰ればいいんだ? 城まで歩くの? しまったなぁ……」

 

 んむむ、と伸びなどしながら、遠くに聳える吸血鬼の古城を見遣る。

 流石に地平線に霞むような距離ではないが、ちょっとそこまで、というほど近くも無い。2~3キロくらいだろうか。

 

 シルヴァが概ね城を挟んで反対くらいの場所にいることを感じ取り、さらに憂鬱な気分になる。救助隊と合流するには、更に追加で2~3キロだ。合計すると、やっぱり地平線くらいまで歩かなくてはならないことになった。

 

 「憂鬱……だッ!」

 

 どっ、と鈍い音を立てて、足元に転がっていたサッカーボール大の炭塊を蹴り飛ばす。

 それはクトゥグアがフィリップのオーダー通り、じっくりことこと煮詰めるように、即死しないように焼き殺したカルトの頭部だった。

 

 ぱき、と表面の炭が砕けて、中から煮凝りのようになった血がぼとぼとと零れた。

 

 「歩くと一時間くらいかなぁ……。ディアボリカー! 聞こえてたら迎えに来てくれませんかー! ……駄目かぁ。ま、聞こえる距離にいたらクトゥグアに焼き殺されてるんだけど」

 

 くく、と喉を鳴らして笑うフィリップ。

 既にクトゥグアは帰還しているが、その周囲には破壊の痕跡が──フィリップが命じた、凄惨な“死の押し付け”の結果が広がっていた。

 

 散乱する焼死体。

 なるべく長く苦しんで死ぬように火力を調整させた結果、じわじわと肉を焼かれて自由が利かなくなっていく身体で、それでも藻掻いて暴れ続けたカルトの死体がそこら中に散らばっている。

 

 ただただのたうち回っていた者、地面を転がるという基本的な対処をしていた者、仲間の血で火を消そうとした者、みな区別なく苦悶の表情を焦げ付かせて死んでいる。

 

 中には腹を破って体内に炎の精を投げ込まれ、内側から焼かれて死んだ骸もある。

 

 立ち込める、どこか香ばしくもあるタンパク質の焼ける臭い。

 牛の肉を誤って焦がしてしまったときのような、少しだけ不快感を催す臭いだ。

 

 鼻に付くが、それ以上に胸が躍るのは、散らばる炭塊がカルトであると知っているからだろう。

 

 「あーあ、仕方ない。歩こう!」

 

 近場にいる悪魔とクトゥグアを見た悪魔は即座に焼き殺してよいというオーダーに従って、辺りは一掃されている。だが残念ながら、城の方にはまだまだ悪魔の群れが蠢いていた。

 

 ……もういいだろうか。

 シルヴァもそこに居るし、生き残ったメイドたちがどうなろうと、フィリップがここで過ごすことはもうないのだから──もう、無視していいだろうか。

 

 メイドたちの正気や命を無視して、ハスターを召喚して道を作ってもいいだろうか。

 

 「……駄目か、流石に」

 

 フィリップは少なくとも、何人かのメイドには直接お世話になった。

 人間用の料理を作ってくれた子もそうだし、ルーシェだってそうだ。単純に回数で考えても、ここで一回我慢するくらいの恩義はあるだろう。

 

 とはいえ、じゃあどうすればいいの、という話で。

 フィリップは手近にあった炭塊を踏みつけ、強めの霜柱を踏んだ時のような気持ちのいい音を楽しみながら考える。

 

 「迂回ってのも現実的じゃないしなぁ……」

 

 城の周りに群がる数十万の悪魔は、遠目にも分かる規模感だ。

 その探知圏内を通らないように迂回するとなると、流石にちょっと遠回り過ぎる。だいたい9~10キロくらいになるのではなかろうか。歩くとなると2,3時間はかかる。いや、歩けない距離ではないのだが、如何せん面倒くさい。

 

 「こうなると吸血鬼が羨ましいな。空を飛べるだけで、デメリットとか気にならないぐらい便利だし」

 

 八つ当たり気味に蹴り飛ばした炭塊が粉々に砕け散る。

 中には()があるはずなのだが、超高温に晒されて脆くなっていたようだ。ちなみに100近い炭塊のうち、幾つかは焼死する前に『深淵の息』を撃ち込まれている。迂闊に蹴り壊すと一定確率で沸騰した海水が溢れてくるのだった。

 

 「……はぁ」

 

 フィリップは深々と嘆息して、とぼとぼと城への帰路を歩き始めた。

 こうなってはもう、いつものように場当たり的に対処していくしかないと覚悟を決めて。まずはウルミで、次は『萎縮』で突破を試みて、どうにもならなくなったら助けを呼べばいい。吸血鬼メイドが残っていればそれでよし、誰も助けに来なければ、その時はハスターの出番だ。

 

 しかし、少し歩いたところで状況が一変した。

 

 「うっ……!?」

 

 唐突に視界が白む。病的な症状ではなく、外部要因による幻惑だ。

 

 その要因とは天から(くだ)る一条の光。

 今まさにフィリップが目指して歩いていた城と、取り囲む悪魔を輝きで照らす極光。天使の階のような自然現象では有り得ない、一条の光が意思を持ったように悪魔の軍勢を撫でていく。

 

 どす黒い群れが、光の過ぎた後には真っ白な塊に変わる。

 遠目には起きている現象が判然としないが、フィリップには見覚えのある光景だった。

 

 元気を取り戻したフィリップは、ぱたぱたと荒野を駆ける。ややあって悪魔の軍勢が居た場所まで戻ってくると、そこにあるのは視界を埋める、無数の塩の柱だった。

 

 「塩の柱……ルキアの『粛清の光』か。来てくれたんだ、ルキア」

 

 肩の力が抜けるような安堵感と、思わずにやけてしまうような照れくささが湧き上がってきて、フィリップは胸の浮くような衝動を塩の柱を殴り付けて発散する。

 雪だるまのような感触を予想して無頓着に振るった拳は、岩のような硬さにびりびりと痺れた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 悪魔に殺された吸血鬼メイドたちの死体は塵となって消え、生き残っていたメイドも塩の柱と成り果てた無人の城を通り過ぎる。

 それからしばらく歩くと、遠目に複数の人影が見えた。

 

 二人は金属鎧を纏って人相が分からないが、二人はモノクロームなメイド服だ。そして、夜闇のような黒髪を靡かせる長身の女性と、陽光を受けて煌めく綺麗な銀髪と、陽光そのもののように輝く金色の髪も見える。

 

 「殿下まで!? ……これは、怒られるのでは?」

 

 ここは王都から約1000キロ離れた、暗黒領の只中だ。流石に王女様が軽々に出てきていい場所ではないだろう。

 

 怒られの気配がする。それも、そこそこ大きめのやつ。

 思わずUターンして古城に帰りたくなるが、既にひときわ小さな人影がぴょんぴょんと飛び跳ねて、それで気付いたルキアがこちらへ駆け出していた。

 

 ルキアもそこそこ健脚だが、流石に凹凸の激しい森の中を駆け回り、暴れ牛を乗りこなす運動能力を持つシルヴァには敵わない。フィリップのところに真っ先に辿り着いたのは、顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしたシルヴァだった。

 

 「シルヴァ、ごめ──う゛ッ!?」

 

 すっ飛んできたシルヴァはその勢いを一切殺すことなく、ドストレートにフィリップの鳩尾へダイブした。

 ごり、と、頭の葉飾りと額が急所へめり込み、呼吸がぐっと詰まる。

 

 「うごご……し、シルヴァ……」

 

 声にならない声をあげながら泣きじゃくるシルヴァを抱き締めて、そのままずるずると頽れる。

 フィリップも呼吸困難で何も言えなかったが、縋り付く小さな体を手放しはしなかった。

 

 呼吸を整えたフィリップは片足を伸ばして座り直すと、シルヴァを自分の膝上に抱きあげて、しっかりとした抱擁を交わす。

 

 「ごめんね、シルヴァ。寂しかった……よね、そりゃ、こんなに泣いてるんだし。でも、シルヴァが居なかったら、誰も僕の場所が分からなかったから。ルキアと殿下が来てくれた……ここに辿り着けたのは、シルヴァのお陰だよ。ありがとう」

 「……そんなことない。がくいんちょうもここのことしってた」

 「……え? そうなの……?」

 

 我ながら冴えた手掛かりの残し方だと思ったのだが、全然そんなことは無かったらしい。どころか徒にシルヴァを悲しませただけだと知って、フィリップは思わず顔を引き攣らせた。

 

 い、いや、まぁ、常にフィリップのいる方角が分かるコンパスになったと思えば、やっぱり意味はあったはずだ。たぶん。フィリップの生存も分かるし……そんなのは誰も心配していなかったかもしれないが。

 

 「……ばか」

 「う……ごめんなさい」

 「こわかった。さみしかった」

 「……ごめんなさい」

 「にどとしないで」

 「はい……」

 

 鼻声で幼稚な罵倒を繰り返すシルヴァを抱き締めて、その都度「はい」と「ごめんなさい」を律儀に繰り返していると、息を荒げたルキアが追い付いた。

 

 本気で走っていたことを窺わせる乱れた髪は砂埃なんかで汚れていたが、それでも風に靡いて美しく煌めいている。

 白い肌を伝う汗も、上気した頬も、激しく上下する華奢な肩や豊かな胸も、何もかもが自分の為、自分の所為だと思うと、感謝の念以上に罪悪感が募る。

 

 「……フィリップ、無事?」

 「……はい。来てくれてありがとうございます、ルキア」

 

 肩で息をするルキアは、一見するといつも通りに落ち着いているように見える。

 良かった、なんて言う声にも湿っぽさは無く、嬉しさと安堵で胸が温かくなったフィリップは、彼女の抱擁を穏やかに受け入れた。

 

 まぁ、フィリップが()()であること自体は、ルキアだって確信していただろう。

 彼女はシュブ=ニグラスの真体を、その余波だけとはいえ知っている。アレに守護されるフィリップに万が一があるだなんて、むしろ想像する方が難しいのではないだろうか。

 

 なんて、フィリップは甘いことを考える。

 

 だが──ルキアはフィリップのために、1000キロの道程をたった8日で駆け抜けてきたのだ。

 乗馬という全身を酷使する状態を一日中、出来得る限り休息の時間を削って、馬と自分を限界まで酷使して駆けつけたのだ。心配も、悲哀も、とうに振り切れている。

 

 そんなルキアがフィリップを抱き締めて、その首筋にある牙の痕に気付いたらどうなるか。

 

 「フィリップ、この傷……まさか」

 

 目の前にある傷跡に指を這わせたルキアが、フィリップの目を見つめる。

 吸血鬼は往々にして瞳が赤くなるが、ディアボリカのような例外もいる。手遅れだった──そう勘違いしたのだろう、ルキアの双眸に深い悲哀を示す雫が溜まり、透き通るような赤い瞳が見覚えのある濁りを帯びていく。

 

 「え? あ、い、いや、違います! 大丈夫です! 血は吸われましたけど、吸血鬼にはされてませんから!」

 「……本当に?」

 

 フィリップがこくこくと激しく頷くと、ルキアの瞳に光が戻り、その代わりのように限界を迎えた涙が頬を伝った。

 

 「良かった……本当に……貴方が、無事で……」

 

 耳朶を打つ、すすり泣き。

 フィリップやステラといった友人といる時の声とも、他人に対する興味関心の一切籠らない冷たい声とも違う、弱々しくも熱の籠った声。震えて頼りない、心を抉るような声だ。

 

 ……痛い。

 首に回された震える腕が、耳元で囁く涙に湿った声が、ミナとは違う熱く火照った身体が、何もかもが突き刺さる。

 

 これほどの慈愛を向けてくれる人に、これほどの心労を負わせて。その間、自分はのんびりとペット生活を満喫していたのだと思うと、心が痛すぎて抱き締め返すこともできなかった。

 

 「す、すみませんでした……」

 

 えぐえぐとしゃくりあげているシルヴァと俯いて泣き顔を隠すルキアから離れて、へなへなと土下座の姿勢に移行する。

 突然の謝罪に目を瞬かせるルキアと、そんなのはいいから早く戻せとばかりに異空間へ戻っていくシルヴァ。流石にこの距離では、フィリップ程度の魔力操作では遮断も効かないらしい。

 

 「え、っと……頭をあげて? 貴方は吸血鬼に拉致されただけなのだから、謝る必要なんてないでしょう?」

 「それはそうなんですけど……この一週間、僕は結構楽しんでいたので……助けに来てくれて本当に嬉しいんですけど、なんか申し訳なくて」

 

 ルキアは今一つ状況を分かっていないからだろう、「楽しんで? ふふっ、フィリップらしいわね」なんて笑っている。だがアトラクション的に楽しかったわけではなく、本当に、助けが来ないならシルヴァを呼び戻して住もうかと考えるくらい楽しんでいたし、何なら「ルキアと殿下がミナを殺しませんように」なんて考えてさえいた。

 

 不道徳というか、不誠実というか、むしろ彼女たちには不愉快とさえ言えるのではないだろうか。

 

 モニョモニョと要領を得ない呟きを溢すフィリップに首を傾げつつ、ルキアは手を引いてフィリップを立たせた。

 

 「さぁ、帰りましょう。あの吸血鬼はペットとか訳の分からないことを言っていたけれど、もしかして発狂させたの?」

 「いや、むしろそっちが正常で、娘婿とか言ってる奴の方が狂ってるんです……」

 

 そう言えばディアボリカを見なかったけど、もしかして塩の柱になったのだろうか、と遅ればせながら思い返す。まぁそうだとしても、フィリップは勿論ミナだって「あ、そう」くらいの反応だとは思うが。

 

 手を繋いだままステラのところに戻ると、彼女はミナと睨み合っていた。

 いや、ステラとミナは悠然と立っているだけなのだが、ステラの背後にいる4人の従者たちのうち3人が明らかに臨戦態勢で構えているから、殺伐として見える。

 

 「……カーター、無事だな。こっちへ」

 「来てくれてありがとうございます、殿下」

 

 ミナの横を通り過ぎてトコトコとステラの傍へ行くと、腰を抱いて引き寄せられた。

 ステラにしては乱雑な動きに面食らうフィリップの頭に唇を寄せた彼女は、感情を抑えた、しかし有無を言わせぬ口調で語る。

 

 「帰るぞ、カーター。……この薄氷のような世界で、それでも他人の為に苦痛や恐怖を背負えるお前は、私にとっては希望なんだ。だから──何処にも行くな」

 

 腰から肩に移された手に籠る力は、喪失感の分だけ強くなった安堵感を映しているように思えて、フィリップもステラの腰を抱き返す。

 彼女にとってのフィリップが、フィリップにとってのルキアや衛士団と同じだというのなら、フィリップが居なくなった時の喪失感は想像に容易かった。

 

 万感の思いが込められたことが分かる苦しそうな声と、微かに震える腕。ルキアほど分かり易い感情の表出は無かったものの、フィリップに罪悪感と、それ以上の、歓喜に近い得も言われぬ感情を抱かせるのには十分だった。

 

 「……はい、殿下」

 「……あぁ」

 

 フィリップはお礼を言いたくて、謝りたくて、頭と胸がいっぱいになって、ステラを抱き返しながらそれだけ返した。ステラも、それだけで十分だった。

 

 ステラは一度だけフィリップの髪に頬ずりをして、抱いていた手を放す。

 そしてその手を前に回すと、フィリップをミナから庇うように後ろへ下げた。

 

 今にも魔術をぶっ放しそうな剣呑な空気を纏うステラに、フィリップはその宛先であるミナとステラを交互に見ることしかできない。

 

 「……感動の再会といった風情だけれど、その子は私のペットなのよ。さっきも言ったけれど、「連れて帰る」と言われて、「はいそうですか」と受け入れるわけがないでしょう?」

 

 最近はどうにも馬鹿に遭う。

 そんな愚痴の聞こえてきそうな嘆息を溢して、ミナは二振りの魔剣を手中に顕現させた。

 

 「吸血鬼が聖痕者(わたしたち)と戦うつもりか? それは自信過剰だぞ」

 「貴様こそ、この距離で私に勝てるつもりなの? それこそ慢心というものよ」

 

 ()()に漆黒のロングソードを、()()に白銀のエクスキューショナーソードを持ったミナは、いつものように退屈そうな立ち姿だ。しかし、その赤い双眸はステラだけでなく、ルキアと、四人の従者の全員を広く視野に捉えている。

 

 「……あー……っと」

 

 フィリップが「いや帰ります」と言えば丸く収まる空気ではない。ミナにはフィリップの意思に関係なく自分の手元に留めておこうとする気迫がある。

 かといって、フィリップに帰らないという選択肢はない。

 

 ……いや、帰らないという選択肢は確かに無いのだが、しかしそれはそれとして、フィリップはここでミナに手を振って別れを告げるのは嫌だった。

 

 特別な理由や重大な意味は無い。ただなんとなく、感情的に嫌なだけだ。

 だが──フィリップにとって、感情は行動の指針として十分だった。

 

 「……ミナも一緒に来ませんか?」

 

 気付けば口を突いていた言葉に、ミナも含めた全員が怪訝そうにフィリップを見遣る。

 

 「……カーター様、それはただの綺麗な女性ではなくて、吸血鬼ですよ?」

 

 何言ってんのお前、とは直接言わないものの、そう思っていることが透ける仮面のような笑顔で言うのは、従者たちの中で唯一目に見える戦闘態勢ではなかったメグだ。

 

 言外の意図には気付いたフィリップだが、そこ止まりで、「何か問題があるのだろうか」なんて考えている辺り、意思の疎通率は半分以下といったところ。

 

 「ん? はい、そうですよ? ……あ、来てくれてありがとうございます、メグ」

 

 安穏とお礼など口にするフィリップに、メグは困ったように笑うだけだった。

 

 「ミナが一緒に来てくれるなら、それで解決ですよね? 僕は人間社会に復帰できて、ミナも一緒で、ルキアと殿下はミナと無駄な殺し合いをしなくていい。これが最適解ってやつですよね、殿下」

 「……吸血鬼が人間社会に適応できるなら、な」

 

 ほぼ全員が苦笑いを浮かべる中、唯一ステラだけが大真面目な顔で返してくれる。

 吸血鬼──食人の化け物が自分の生活圏に入ってくることと、ここでミナと殺し合うことを天秤にかけて、感情を含めず判断するとそうなるのだろう。ステラがそれだけの脅威判定を下すのは、やはりミナの間合いの中だからか。

 

 だが、そんなことは有り得ないと誰もが知っている。

 

 吸血鬼が人間社会に混ざった例は、過去にいくつか存在する。

 小さな集落、中規模の村、そこそこの規模の城塞都市。異なる強さの吸血鬼が、個々の格に応じた人間の集団に混ざって暮らしていたのだ。──その全てに於いて、吸血鬼は集団の長であり、人間は餌として、或いは奴隷として飼われているだけだった。

 

 吸血鬼は化け物だ。

 人間と混ざっても、人間に呑まれることは無い。むしろ人間の側を支配して、性質を塗り替えてしまう。

 

 ルキアも含めたステラ以外の誰もが重々しく頭を振り、フィリップの案を否定する。

 

 その中には、ミナ本人も混ざっていた。

 

 「それは……駄目よ。私はこれでも魔王軍の一翼、吸血鬼陣営の支配者だもの。城はともかく、おいそれと暗黒領を出ることはできないわ」

 

 初耳の情報に、フィリップは「そうなの?」と目を瞬かせる。

 特に興味も無いので意識していなかったが、そういえば以前に魔王軍が云々という話は聞いたような気がする。頭の片隅にぼんやりとした既知感があった。

 

 じゃあ魔王を殺さないといけないのかな? なんて不穏なことを考え出したフィリップだが、声に出す前に、別な声がどこからともなく降り注いだ。

 

 「──あら、アタシの所領に無断で入り込むのみならず、そんな僭称までするなんて。アナタ、命知らずにも程があるわよ?」

 

 妙に聞き覚えのある、叶うならもう二度と聞きたくなかった声に、フィリップは思わず天を仰いで──逆光の中、空中に立つ人影を見た。

 

 

 

 

 



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264

 逆光を背負うヒトガタは、遠目にも背が高く、長い髪を靡かせていることが見て取れた。

 その条件で、更に宙に浮いているとなれば、ぱっと思い当たる相手は一人しかいない。

 

 「ディアボリカ……?」

 

 塩の柱に変わったはずでは? なんて首を傾げるフィリップ。

 しかし、あの惨状では死体の確認も出来なかった。だからまぁ、そういうこともあるだろう。

 

 「んん? 名前を間違えたのか人違いなのか、判断に困るわね。……まぁいいわ、アタシはディアボロスよ。よろしくね、いい匂いのする人間くん」

 

 ゆっくりと降り立ち、地に足を付ける人影。逆光の晴れたその姿は、疑う余地なくディアボリカ本人だった。

 長い黒髪に、ロワイヤル・スタイルに整えられた口髭。大きく開けたシャツから覗く、豊かな胸毛と見事な胸筋。これほどに濃い条件の揃った吸血鬼がディアボリカ以外にいたら、フィリップとしてはミナとメイドの方が異端なのではないかと──統計的には2:100くらいで、圧倒的にディアボリカの方が異端なのだが──思ってしまう。

 

 いまいち意図の判然としないことを言うディアボリカに、フィリップは心底面倒くさいと言いたげな引き攣った苦笑を浮かべる。

 ミナは変わらず退屈そうに立っているだけだが、ルキアとステラは魔術をぶっ放す5秒前といった風情だ。なんせ、フィリップを拉致した張本人のお出ましなのだから。

 

 「名前をころころ変えるの止めてくれませんか? 面倒くさいので」

 「ん、んん? 信用されてないわね? アタシ、そんなにその人に似てるのかしら?」

 

 フィリップはカルト狩りと、ルキアとステラが来てくれたこと、再会できたことに対する歓喜の余韻を損なわれて、苛立ちも露わに石くれを蹴った。

 

 「あのですね、ディアボリカみたいなのがそうホイホイ出てくるなら、吸血鬼はもっと別方向に怖がられてますよ。いいから、用件を言ってください」

 「いや、あのね? うーん……まぁいいわ。先に本題から済ませましょうか。……そっちの綺麗なアナタ、吸血鬼よね?」

 

 ぱちりと弾いた指の向いた先は、胡乱な顔でディアボリカを見ていたミナだ。

 自分の娘に対するにはあまりにもおかしな物言いに、問われた本人だけでなくフィリップも首を傾げる。ルキアとステラも「例の変な吸血鬼よね?」「娘婿の“娘”は此奴じゃないのか?」と囁き合っていた。

 

 「それもとんでもなく上位の──“始祖”の直系にある者だとお見受けするけれど、それでもアタシの所領で、このアタシを騙るなんて、流石に命知らずが過ぎるんじゃない?」

 

 ディアボリカは不快感も露わに語るが、その内容はいまいち判然としない。いや、何を言われているのかは分かるのだが、それをミナに向けると道理が通らなくなる。

 

 ミナは底冷えのするような声で「は?」と困惑を露わにしているし、フィリップに至っては「遂に狂っちゃったか」と半笑いで諦めていた。

 

 「魔王軍が一翼、吸血鬼陣営の棟梁として、その無礼は見逃せないわ。城の中も外も塩の柱まみれだし、この落とし前は付けさせたいところだけれど……アタシも、聖痕者二人と始祖の系譜を同時に相手取るほど馬鹿じゃあないの。今すぐここから立ち去るのなら、一度だけは見逃してあげるわ」

 

 勝てないのなら何で絡んできたんだと訝しんでから「そういえば狂人だった」と苦笑するフィリップ。だが、そんな甘い反応をしているのは彼だけだ。ルキアとステラはお互いの邪魔にならないよう、そっと距離を取る。それが二人にとって最適な連携距離だと、とうに戦闘態勢だった従者たちには分かった。

 

 ディアボリカには、ミナとルキアとステラを同時に相手取って、誰か一人は確実に殺すだけの自信があるのだ。

 彼本人も無事では済まないだろうし、聖痕者が片方でも残れば神罰が下されることは間違いない。だが、ミナたちも絶対に無傷では居られない。今は、そういう状況だった。

 

 「……貴様が何を言っているのか分からないのだけれど、つまり、吸血鬼陣営の統括者として返り咲く、ということでいいのかしら? 私の責務は終わりだと?」

 

 言葉を交わすのも嫌だと言いたげなミナが尋ねると、ディアボリカは不愉快そうに眉根を寄せる。

 

 「随分な物言いじゃない? アナタ、自分が吸血鬼の長だと本気で思っている狂人みたいよ?」

 

 ディアボリカの言葉にミナは大きく嘆息すると、ちらりとフィリップを一瞥した。

 抱き締めて吸おうとでも思ったのだろうが、流石に聖痕者と、どう見ても錯乱しているディアボリカの前で無防備な姿を晒すわけにはいかない。ディアボリカにとってはミナと聖痕者の三人が、ミナにとっては聖痕者とディアボリカの三人が、そしてルキアとステラには吸血鬼の二人が脅威に映る。

 

 蚊帳の外にいるのは、只人であり、高位吸血鬼たちは敵と認識することもない従者たちと、基本的に相手が何者でも敵とは認識できないフィリップ。

 それでも主人を庇い守るため、主人の敵を滅ぼすために構える従者たちとは違って、フィリップは完全に無防備だった。

 

 「そりゃ、狂人から見た健常者は狂人でしょうよ。……でも、今まではこんなにあからさまじゃ無かったような……? もしかしてディアボリカ、僕の召喚物を見たんですか?」 

 

 だったらしょうがない、と笑うフィリップ。

 ルキアとステラは納得と共に警戒度を跳ね上げ、従者たちとミナが不思議そうに首を傾げた。

 

 「論理的整合性の喪失……いや、記憶の欠落かな? ディアボロスって、確か100年前に名乗ってた名前じゃなかった? ねぇシルヴァ……シルヴァ? ねぇ、出てきて……嫌? あ、そう……」

 

 放置していたら拗ねてしまったペットに苦笑して、フィリップはディアボリカ──否、ディアボロスに向き直る。

 

 「そういえば聞いてなかったんですけど、奥さんのお名前ってなんて言うんですか?」

 「なに、アナタ? さっきから……」

 

 聖痕者でもない、碌な魔力も持たない人の身で絡んでくるフィリップに、ディアボロスは怪訝そうな表情を浮かべる。

 人食いの化け物にこうも馴れ馴れしく話しかける被食者なんて、怪しいことこの上ないので無理もないが。

 

 ディアボロスは「馬鹿の集まりか」とでも言いたげに溜息をついて、よく分からない子供を追っ払うためにぞんざいに答える。いや、答えようとした。

 

 「アタシに奥さんなんて……え? でも、アタシは彼女と一緒にいるために人間を辞めて……彼女? 彼女って誰? いえ、確かにアタシは彼女を愛して……でも、だれ、誰? アタシは彼女と、あの子と、ずっと一緒に──」

 

 思考が空転する。

 意味記憶と感情記憶の整合性が合わない。

 

 いや、そんな生易しい齟齬ではなく。

 

 「その聖痕……光と闇のデュアル? そんな話、聞いたことが……。それに、火属性だって男のはずでしょう? なに、これ、アタシは、アナタたちは……」

 

 慄いて退がるディアボロス。

 典雅な顔立ちは苦悶に歪み、脂汗を流しながら荒い呼吸を繰り返す。

 

 ディアボロスは何か、絶対的に重大な欠落があると自覚している。それなのに──それが何なのか思い出せない。欠落したものが重大なのか、欠落していることこそが重大なのか、それさえ判然としない。

 

 何か。何が? 

 

 妻? 家族? 吸血鬼になった理由? それとも吸血鬼としての責務? 或いは聖痕者との関係性? それは以前の? それとも今の? まさか、この妙にいい匂いのする少年について? 

 

 何だ。分からない。

 何を忘れているのか。何かを忘れているのか?

 

 全く分からない。なのに──どうしてか、絶対に忘れてはいけないことだという確信がある。

 

 それを思うだけで、心臓が潰れるような罪悪感と、吐き戻しそうなほどの苦悩が脳髄を焼く。

 

 「──、っ!」

 

 ディアボリカは逃げるように踏鞴を踏んで下がると、ふわりと空へ舞い上がり、何も言わずに城の方へと飛び去ってしまった。

 

 後に残された一行は、状況が分からずただ顔を見合わせるしかない。だが、まぁ、とりあえず。

 

 「……これで、ミナも一緒に来られますね」

 「……そういうことになるのかしら?」

 

 なるのかなぁ? なんて、フィリップとミナは揃って首を傾げた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 その日の夜は、荒野に面した森を抜けて渓谷に差し掛かる辺りで野営することになった。

 本当はもう少し王都に向けて進むことも出来たのだが、綺麗な小川があって水の確保には困らず、地面にも尖った石が少なくてちょうどいいとの理由らしい。

 

 フィリップは藍色の空に浮かぶ微妙に膨らんだ半月を見上げながら、じわじわと襲ってくる睡魔に抗う。

 

 その頭頂部には、大きめのタンコブが出来ていた。

 先刻──「吸血鬼が人間と共存できる訳がありません!」と声を大にして主張した親衛騎士の人に、いやいやそんなことないよと、この一週間のペット生活の快適さを根拠として語ったのだ。そして当然のように、アリアが脳天炸裂チョップを落として今に至る。

 

 従者としてあるまじき暴挙……と、特にそういうわけではない。

 彼女はフィリップと同じ平民だし、家格の上では同格だ。そこに公爵家の使用人という立場を加えるとあら不思議、フィリップが逆立ちしてハンドスプリングしても届かない差が生まれる。

 

 そして家格云々を抜きにして、超の付く強行軍で助けに来た相手が悠々自適なペット生活を満喫していたとなれば、手も出るだろう。苦笑で済ませてくれたルキアとステラに感謝すべきだ。

 

 「……あの、殿下、足が」

 「静かにしろ。ルキアが起きる」

 「しびび……はい……」

 

 フィリップはしょんぼりと俯く。

 その視線の先、少し開いて正座した右足にはルキアが、左足にはステラが頭を預けて横になっている。二人はマットの上で寝袋に包まっていて、頭以外は快適そうだ。対するフィリップは地面に直座りで、もう足が冷たいのか痺れているのか分からなくなっていた。

 

 ルキアはフィリップの腰に手を回して抱き着くように眠っていて、易々と抜け出せそうにない。

 

 「……まぁ、うん。僕が悪いんだけど……いや、僕が悪いか……? 拉致されたのは僕のせいじゃないし、助けが来るまで楽しんでたのは……まぁ、気分は良くないだろうし、僕だって罪悪感はあるけど……怒る筋合いじゃなくない? 八つ当たりでしょこんなの」

 

 ぶつぶつと文句を垂れながら、フィリップはまた月を見上げる。満月でも半月でもない形だが、それでも、独特の光が妙に心に染み入った。

 

 「そう言うな。……いや、まぁ、シューヴェルトのは八つ当たりかもしれないが、ルキアのこれは違うよ」

 

 ステラは芋虫のような寝袋からもぞもぞと手を出し、フィリップの頬を手の甲で擽るように撫でる。

 眠気からか普段より緩んだ表情のステラに、フィリップもつられるように相好を崩した。

 

 「私もルキアも、甘え方を知らないからな。こんな風に、罰ということにでもしないと膝枕の一つもねだれない。……辛かったら、足を延ばしても良いんだぞ?」

 「……いえ、それだと高さが足りませんから。二人が寝違えちゃいますよ」

 

 足を動かしやすいようにと頭を浮かせたステラを、髪を撫でるように膝上へ戻す。

 律儀なのか、或いはそれだけ罪悪感が大きいのか、それともただの照れ隠しか。フィリップの見せた過剰な覚悟に、ステラは王女らしい静かな所作でくすりと笑う。

 

 「流石に、このまま夜を明かすつもりはないぞ? ……だが、まぁ、それなら限界まで甘えさせてもらおうか」

 「ご随意に。殿下」

 

 芝居がかった返答にもう一度笑って、穏やかに目を閉じるステラ。

 フィリップは彼女の金糸のような髪を手櫛で梳いて弄びながら、また月を眺め始めた。

 

 ずっと気を張っていたのだろうステラは、そのうちすぅすぅと安らかな寝息を立て始めてしまう。ちらりと親衛騎士の人を窺うが、しーらね、とばかり目を逸らされた。……ホントにこの体勢で夜を越すことになったらどうしよう、なんて心配が脳裏を過ぎる。

 

 ミナはさっきからフィリップの真後ろに陣取って、何かの魔法陣を描いている。

 ルキアとステラが言うには「人間の街で過ごすなら絶対に必要なこと」らしいのだが、フィリップには理解できない魔術式と記号の羅列だった。

 

 「ねぇミナ──」

 「──ちょっと静かにして。これ、かなり高度な魔術だから」

 「……はーい」

 

 振り返ったフィリップの動きに反応してか、或いは声が五月蠅かったのか、今度はルキアがぴくりと震えて、ゆっくりと顔を上げた。

 

 「ぁ……ごめんなさい、フィリップ。本当に寝てしまうつもりは無かったのだけれど……結構いいものね、膝枕って」

 「なら良かったです。僕もルキアの膝枕、大好きですよ」

 「昼休みにはいつも寝ているものね。……今度から私もやって貰おうかしら」

 

 ルキアはまだ目が覚め切っていないのか、フィリップの腰に手を回したままモゾモゾと喋る。

 

 「その場合は殿下に……いや待てよ? 三人とも横になって、それぞれの足を枕にすれば同時に膝枕ができるのでは?」

 「……何かの儀式みたいだけれどね」

 「ははっ、それは確かに……」

 

 ステラを起こさないように、声を殺して笑い合う。

 一頻り笑って、ルキアは上目遣いにフィリップを見上げた。

 

 「……ねぇ、フィリップ。貴方はアレのこと、どう思っているの?」 

 「ミナのことですか? どう、って言われると難しいですけど……一緒にいられる限りは一緒にいようかな、って感じです」

 

 フィリップがミナに対して抱いている感情は、本当にそれだけだ。

 ディアボリカほどどうでもいいわけではないが、ルキアやステラほど大切でもない。発狂しないよう取り計らうくらいのことはするが、それを最優先にはしない。死なないように考えるが、他に優先すべきことは山ほどある。そんな感じだ。

 

 「ルキアはミナのこと、怖いですか? 人食いの化け物であることには間違いないわけですけど」

 「いいえ、特には。フィリップのことを害さないのなら、貴方が傍に置くことを拒絶もしないわ。……でも、少し妬けてしまうわね」

 

 私よりも仲良く見えて、と、照れと苦笑の綯い交ぜになった笑顔を見せるルキア。

 

 まぁ確かに、ルキアには敬語だが、ミナとは普通に喋っている。

 敬語自体は社会への適応として必要だし、これ以上『猊下疑惑』が深まるのも避けたいので、フィリップも止めるつもりは無いし、ルキアも何も言ってこない。

 

 だが、ミナとルキアでは絶対的にルキアの方に重きを置いているつもりだ。

 二人のうちどちらかを殺さなければならなくなったら、何の躊躇も無くミナを捨てるだろう。

 

 それはステラでもそうだし、衛士団でもそうだし、ライウス卿でもそうだ。フィリップが尊敬できる美しい人間性を持った人か、フィリップが大切にできる人なら、誰だってミナに優先される。

 

 「……ふむ」

 

 「ルキアが一番だよ」なんて言葉が、一瞬だけ脳裏に過る。

 ディアボリカに言われた通りに一番に扱うべきなのかな、なんて、見当違いな生真面目さが生んだ思考だ。

 

 だが、確かあれには「その子といる時は」という条件があったはず。今はステラもミナも一緒にいるし、全員に「君が一番だよ」なんて言っていたら、背中どころか全身を滅多刺しにされて死ぬことになる。いや、多分死なないのだが、慣用句として。

 

 それに、フィリップは別に、ルキアに異性として好かれたいわけではないのだ。彼女が幸せでいてくれるなら、幸せに死んでくれるのなら、それでいい。

 

 それだけでいい、のだが……それを知っていて貰いたいという欲も、少しだけある。

 だって、ミナ相手に嫉妬するなんて、それこそ不毛だ。意味がない。

 

 「……その嫉妬が異性愛によるものだとしたら、的外れだし不快だわ」

 

 本当に心底気色悪いと言いたげに呟くミナ。

 フィリップとルキアは揃って首を捻り、魔法陣を描いているミナに顔を向けた。

 

 「貴様が私をどう見ようと勝手だし、熱心な一神教徒と思われても困るのだけれど……気色の悪いソドミストだと思われるのは御免よ」

 

 フィリップとミナの関係性は、飼い主とペット──人間と化け物、上位者と劣等種だ。

 

 “上位者は劣等種には混ざれない”。

 かつてディアボリカが自分以上の化け物(ヴィカリウス・シルヴァ)に言ったことだが、この言葉は正鵠を射ている。化け物は、化け物でしか在れない。 

 

 ミナがフィリップを異性として愛することはないのだ。絶対に。

 

 「それに、私はペットを去勢したり、恋愛を禁じたりするつもりはないから。ちゃんと面倒を見られるのなら、繁殖も許すわ」

 「繁殖って……」

 

 フィリップ以上に直球な言い方に、ルキアは恥じらいを通り越して苦笑する。

 まるで家畜に対するような物言いだが──それこそが、吸血鬼の人間に対する把握、吸血鬼の価値観だ。

 

 「私の傍に居るのなら、どこの雑種と番おうと構わないわ。……いえ、折角だし、“私からきみを守れるくらい”なんて条件を付けるのはどうかしら?」

 

 作業がひと段落着いたのか、ミナはフィリップを背後から抱きすくめるようにして首筋に顔を埋める。

 

 挑発的な光を湛えた赤い双眸を向けられて、ルキアはにっこりと笑って。

 

 「上等じゃない。起きてステラ、この吸血鬼を二、三十回殺すわよ」

 「あら、私の命の1パーセントにも満たないわね」

 「……五月蠅い。寝ている人を起こしてはいけませんと教わらなかったのか、お前たち」

 

 気持ちよく微睡んでいたところを叩き起こされたステラも交えて、深夜テンションで上級魔術の撃ち合いが始まるのだった。

 

 しかし殺意はない。

 彼女たちの間には、フィリップという特別(異常)を中心とした、そして楔とした、不思議な絆のようなものがあった。破綻者たちの、破綻した価値観による、歪な関係性が。

 

 

 

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ10 グッドエンド

 技能成長:特になし。 もしくは使用した戦闘技能と『直剣』に妥当な量の成長を与える。

 特記事項:最終シーン登場キャラクター全て(吸血鬼ウィルヘルミナを除く)に状態異常【悪魔の呪詛】を付与。


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Dragon Slayer
265


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ11 『Dragon Slayer』 開始です

 必須技能は各種戦闘系技能です。
 推奨技能は【クトゥルフ神話】、【医学】【薬学】などの病気に対する【知識】を拡張する技能、【伝承(龍)】、【他言語(エルフ語)】です。

Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird.


 魔術学院生が吸血鬼に拉致された事件から、一カ月が経った。

 夏の盛りは過ぎたものの暑い日が続くなか、今日は珍しく昼間でも長袖が要るような肌寒さだった。

 

 王都二等地の住宅街の片隅、絶妙にアクセスの悪いところに建った小さなバシリカ型教会『投石教会』。その中はいつにも増して閑散としており、翳り気味の陽光がステンドグラスを抜けて、神秘的な色を聖堂へ投げかけていた。

 

 「…………」

 

 普段は一人の神父と一人の修道女が勤めているはずのそこには、人影は一つだけ。

 たった一人、信徒用の長椅子に座り、苛立ちも露わに肘掛けをこつこつと叩くフィリップだけだった。

 

 隣に置かれた冒険譚の本には中ほどに栞が残されていたが、その表紙に一瞥を呉れると、興味無さげに教会の奥へ繋がる扉へと視線を戻す。

 

 教会の中は相変わらず小綺麗で、古い建物ながらよく手入れされていることが窺える。

 祭壇に置かれた花や燭台の蝋燭もきちんと取り替えられているし、近所の人に聞いても、超絶美形の二人組はいつも居ると当然のように返される。

 

 だが──この一週間、フィリップが来ると、絶対に伽藍洞だ。

 参拝者が入ったすぐ後に入っても、ミサが開かれているはずの日曜の朝に行ってみても、絶対に誰もいない。今だって平日の昼間なのに、全く無人だ。一般人も、ナイ神父も、マザーもいない。

 

 「……ふぃりっぷ、かえろ?」

 「……うん、そうだね」

 

 苛立ちも露わなフィリップに、するりと現れたシルヴァが控えめに声をかける。

 怯えているのか退屈したのか分からない幼女と、つい苛立ってしまった自分自身に苦笑して席を立った。

 

 教会を出て少し歩き、大通りに戻ると、豪奢なキャリッジ型馬車が待っていた。扉と屋根にはためく旗印に象られているのは、王国最高位の貴族、サークリス公爵家の家紋だ。

 御者らしき平服の男と燕尾服を着た如何にもな執事風の男の二人が、フィリップを見て深々と一礼する。その所作からは深い教養と長きに亘って染み付かせた作法が見て取れて、感嘆に瞠目してしまう。

 

 「お帰りなさいませ。屋敷へ戻られますか、カーター様」

 「……はい」

 

 扉を開けタラップを登る時には手まで貸してくれるという至れり尽くせりのエスコートをする執事。この一週間ほどでフィリップも慣れてきたとはいえ、やはり染み付いた平民根性から気後れする。

 

 慣性や揺れを殆ど感じさせない滑らかな動きで走り出した馬車は、平時では危険走行として衛士に止められてしまうような速度で二等地を駆け抜ける。「危ないなぁ」と眉をひそめる歩行者も、彼らの目当てになるような出店の類も、普段の半分以下しか見当たらない。

 

 ──寂しい。

 

 静かだと思う以上に、そんな感傷が胸に刺さる。

 二等地は住民の大半が貴族階級の一等地とは違って、普通の平民と裕福な平民が大半だ。無為に騒がしいのは嫌いでも、無駄に賑やかなのはむしろ好み。昼間には井戸端会議が邪魔すぎて、店に入るのも一苦労。だったらいっそ混ざってしまえ。そんな住民性のある土地だったのに、今は殆ど人出がない。

 

 モニカと一緒に駄菓子を買いに行った店も、厨房の遣いで食材や道具を買いに行った店も、よく家族連れが遊んでいる公園も。どこもかしこも、閑散としている。

 

 水路にかかる跳ね橋を渡って一等地に入ると、静寂は痛いほどに増した。

 全くと言っていいほどに人気のない大通りは、いくら貴族の多い土地であり、品位ある沈黙を美徳とする一等地でも異様な光景だ。

 

 窓から見える種類の様々な店の扉には『準備中』の札が例外なく並び、雨戸の閉まった店も数多い。

 

 フィリップの故郷である田舎町より、何倍も、何十倍も人口のある街のはずなのに──それより何倍も、何十倍も寂寥感がある。

 

 しばらく馬車に揺られていると、馬車はここ数日で馴染みつつある大きな館に入った。

 

 以前にも泊まったことのある、サークリス公爵家の王都別邸。

 大きさや絢爛ぶりでは二等地の建物とは比べものにならない素晴らしいものだが、派手一辺倒ではなく、むしろ細やかな部分にこそ注力した『精緻な美しさ』に傾倒した装飾がちりばめられている。

 

 「……到着です。お疲れさまでした、カーター様」

 「……ありがとうございました」

 

 執事の手を借りて馬車を降りると、フィリップは案内を待たずにつかつかと玄関へ向かう。

 ドアの両隣に立った二人の鎧騎士はフィリップを見下ろして顔を確認すると、ガチャリと鎧を鳴らして敬礼の姿勢を取った。

 

 「お帰りなさいませ、カーター様」

 「……お邪魔します」

 

 ぺこりと一礼を返して館に入り、玄関で待っていてくれた侍女の供回りは断って勝手知ったるといった風情で中を歩く。

 

 やがてフィリップは、どうにも近寄り難い部屋の前で止まった。

 近寄り難いといっても、入り組んだ場所にあったり、正気を損なう霧が漏れ出ていたりするわけではない。ただ、ドアの前にアリアが立っているだけだ。──メイド服姿でありながら、鞘に納められた直剣を床に突いて、仁王立ちで。

 

 髪の長い戦士が弱いわけがないというのは、ソフィーとディアボリカという二つの例で学んでいる。マリーでさえ短髪にしていたのだから、背中まで伸ばすのは相当な自信が無いと出来ないことだろう。

 

 彼女は部屋に入ろうとするフィリップを、片手でそっと、しかし譲歩の余地はないとはっきりと感じさせる動きで止めた。

 

 「申し訳ございません、カーター様。お嬢様はつい先ほど、お休みになられました」

 「あ、そうですか。……じゃあ、また明日にでも出直します。お邪魔しました」

 

 すれ違う使用人たちに別れを告げ、時に惜しまれつつ館を出る。学院まで送るとの申し出は、有難く思いつつ断った。

 

 フィリップが公爵邸を出たその足で向かったのは、王都の中央に聳える白亜の王城だ。

 堅牢そうな金属製の城門の両隣に立つ鎧騎士に「フィリップ・カーターです」と告げると、顔をじろじろと確認され、「あぁ、そういえば」と言わんばかりに指を弾いて、その後はすんなり通された。

 

 顔パスとまでは言わずとも、名前パスで城門を通れるようになってしまったのは、ここ一週間ほど──ミナの城から帰ってきて、ほんの1日か2日くらいのことだ。……別に、ミナが恐れられているというわけではないのだが。

 

 とはいえ流石に国王と王族の居城であり政治の中枢、王国の歴史と財の集積地にして知恵と文化の発信所。一人でふらふらと歩き回るような真似は許されず、メイドの案内に従って一室へ通される。一部の道中は目隠しすらされる徹底ぶりだ。

 

 目隠し──頭からすっぽりと被せられた麻袋を取ると、目の前には苦笑を浮かべたステラがいた。

 

 「……何度見ても間抜けなものだな」

 「ですね……今度からカッコイイ仮面とかにして貰えるように言ってみますか? 仮面騎士とかファントムジオペラみたいなの」

 「いや、顔を隠すのが主目的じゃないだろう?」

 

 いつものように明るく笑うステラだが、彼女はベッドの上で上体を起こしただけの姿勢で、大きなクッションに背中を預けている。服装も仕立ての良いパジャマの上からガウンを羽織っただけで、見るからに寝起きだ。

 

 見慣れつつある広い部屋にはベッドくらいしかないが、扉と窓の傍には鎧を持ち帯剣した騎士がいる。

 王女の寝室に剣を持ち込めるあたり、相当な信頼と能力のある者たちなのだろう。

 

 案内役のメイドが持ってきてくれたスツールに腰を下ろすと、ちょうど視線の高さが同じくらいになった。

 

 「……殿下は、今日はどのくらい起きているんですか?」

 「お前が来る三十分くらい前に起きたばかりだよ。昨日までの傾向から言って、今日はまだ三時間くらい起きていられるんじゃないか?」

 「良かった。実はさっきルキアの家に行ったんですけど、ちょうど寝ちゃってて」

 

 フィリップはゴソゴソとズボンのポケットを漁り、懐中時計を取り出してハンターケースを開く。

 時刻は15時を少し過ぎたところ。ちょうどステラが眠る頃に学院へ戻れば、食堂のラストオーダー前には帰り着けるだろう。

 

 「お前は本当に何ともないんだな。……正常にお前を羨むのは、これが二度目かな」

 「何ともないですね……やっぱり、魔術師としての適性が高ければ高いほど発症率が上がるんじゃないですか?」

 

 発症率、という言葉が示す通り。いま、王都は──否、大陸全土は、とある流行感染症に蝕まれている。

 

 名を“眠り病”。

 三十余年前にも流行ったその病気は、記録上三度目の大流行となる、漸く詳細が判明しつつある段階の未知なる病だ。

 

 初期症状として疲労や倦怠感が現れ、本格化すると、極度の過眠と身体機能の著しい低下、衰弱を発症する。徐々に覚醒時間が減少していき、最終的には昏睡し、死亡する。

 その致死率は本格化から四日以上経って症状の改善が見られない場合──自然治癒の見込みがない場合、ほぼ100パーセントだ。過眠による身体機能の低下や脱水、栄養失調などで死ぬのではなく、ある日突然、心筋の衰弱が閾値を超えて心臓が止まる。

 

 死に至るまでの期間は人によってまちまちで、四日で死んだ例もあれば、帝国には三十年前から昏睡し続けている患者も未だに存在するらしい。

 

 どういうわけか魔術師に多く感染者が存在することから、医療の未発達な田舎よりも、むしろ魔術師の多い王都やその近郊で被害が拡大している。

 特にフィリップの周りでは顕著で、ルキアやステラをはじめ、クラスメイトの3分の2が病欠。無事(?)学級閉鎖と相成った。フィリップが平日の昼間から投石教会に行ったり、友達の見舞いに行っているのはそれが理由だ。

 

 「今日も投石教会に行ってみたんですけど、やっぱり居ませんでした。ナイ神父はともかく、マザーの治療魔術ならどうにかなると思うんですけど」

 「……昨日、まだ発症していない宮廷魔術師たちが天使降臨による超高位治療魔術を試したが、効かなかった。曰く、病的症状の緩和自体には成功したが、根治できないが故に、またすぐに症状が現れてしまうらしい」

 

 フィリップの言葉をやんわりと否定するステラだが、フィリップの方がむしろ曖昧に笑って誤魔化す。

 天使降臨による大魔術でも治癒できなかったのは驚きだが、マザーとの格差が大きすぎて殆ど無関係な情報だった。

 

 「普通の病気じゃあないんでしょうね。もしも原因が地球圏外の存在によるものだったら、僕がどうにかしますけど……正直、そんな気配はないんですよね」

 

 病的な衰弱を齎す神格と言えば、ぱっと思いつくのは旧支配者ハスターリクだ。

 これは別名“病の王”とも呼ばれる存在で、様々な病気を変質させたり、強化したりすることができる。ちなみにフィリップが呼び出す旧支配者ハスターとは、よく似た名前の別人だ。全く関係ないはず。

 

 ……それにしても、「病の王」とは面白い権能を持った神だ。

 病気なんて、人間や地球産の生物のように複雑な身体構造を持った生命体にしか効果がないだろうし、そもそも「健康状態」という概念を持ち合わせない神話生物が大多数だ。魔物だって大半は病気にならないし、天使や吸血鬼のように存在格が上がれば尚更だ。

 

 そういう手合いにも感染し発症するような病気を作り出せるのがハスターリクなのだろうが……殴り殺した方が早い。ハスターのように、クトゥグアのように。

 病を操るなんて権能は、彼らのような戦闘能力を持たない証だ。フィリップだって殴り合いの強さが全てとは言わないが、殴られただけで負けるような神格には嘲笑を禁じ得ない。

 

 と、それはさておき、ルキアやステラを含む感染者からは、神威や残穢のようなものは全く感じない。フィリップがとうとう旧支配者の神威さえ感じられなくなったのでなければ、邪神の干渉は無いとみていいだろう。

 

 「どうだろうな。いま、ボード先生が原因や治療法を──」

 

 探っているが、と、ステラが言いかけた時だった。

 ばたん! と騒々しく扉が開け放たれる。王城の居住区という最上の静謐と品位が求められる場所には似つかわしくない騒音に、ステラは病人とは思えない反応速度で魔術を照準し、扉の側に控えていた二人の鎧騎士が抜剣して振り返った。

 

 「何者だッ!?」

 「止まれ! ここを何処だと心得るか!」

 「王女殿下の居室でしょ、知ってるから退きなさい!」

 

 騎士の声はフルフェイスヘルムでくぐもってはいたものの、明らかに女性だ。それにぞんざいに応じたのも、聞き覚えのある女性の声だった。

 

 「殿下! 大朗報です! 私共は遂に、つ・い・にっ! 大陸を蝕む“眠り病”の原因と対策を解明いたしましたわ!」

 「せ、先生! 興奮し過ぎです! 叩っ切られますよ!?」

 

 部屋の入り口でわちゃわちゃしている、二人の女性。

 フィリップはそのどちらとも面識があった。

 

 叫んでいるのは学校医のステファン・フォン・ボード。それを引き留めながら、向けられた剣の見た目で分かる鋭利さに顔を引き攣らせているのは、以前に一緒に宝探しをしたフレデリカ・フォン・レオンハルトだ。

 

 「ステファン先生と、レオンハルト先輩? 何してるんですか……?」

 「ノック無しで入っていいとは言ったが……まぁいい。お前たち、剣を引け。先生、詳しく聞かせて頂けますか」

 

 叱責もなく本題に入る辺り流石だなぁ、なんて、フィリップは不遜にも感心してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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266

 「殿下! 眠り病の原因と治療法が判明いたしました!」

 

 徹夜でもしていたのか、ステファンはいつになくハイテンションでステラのベッドへ近寄ると、身を乗り出して繰り返した。

 

 その無礼を咎めるべきか、或いは王女の命だけでなく、大陸に住まう多くの人々を救うであろう発見を褒め称えるべきかと悩む騎士やメイドたち。特にそういう立場にないフィリップは、純粋に「おぉ!」と目を輝かせていた。

 

 「それは聞きました。詳細を教えて頂ければ、必要な物品の確保と国内への周知普及は王宮で行います」

 

 教員と生徒という意識か、それとも医者と患者という意識なのかは不明だが、ステラはフィリップやルキアに対するのとは違う丁寧な物腰で問いかける。

 しかし、その内容は普段の彼女と同じく、冗長さを好まないものだ。

 

 「流石に話が早い……と、言いたいところですが、その必要はございません! というのも、この“眠り病”は、病気ではないのです!」

 「……というと?」

 

 そんなバカな、とは言わず、先を促すステラ。

 フィリップは「何言ってんだこいつ」と言いたげに怪訝そうな顔だったが、流石にステラの会話に口を挟むほど礼儀を知らないわけではないし、邪魔をしたいわけでもないので口にチャック。

 

 「はい。結論から申し上げますと、“呪詛”の一種です」

 「呪詛? だが、あれは……いや、続けてください」

 

 ステラは自分の所感や考察は後回しに、まずは専門家の意見を聞くことにする。 

 

 「えぇ、えぇ、分かります。殿下はこう仰りたいのでしょう。『呪詛なんて現代魔術と比べれば威力も耐性貫通力も発動速度も低次元な、秘匿性と陰気臭さだけが売りの前時代の産物だ』と」

 

 呪詛に親でも殺されたのかと言いたくなるボロクソ具合だが、ステファンの言葉に間違いはない。

 

 呪詛とは、魔眼のような一部例外を除いて、現代魔術の下位互換といえる。

 まず大前提として、汎用性に欠ける。フィリップが使える二種類の領域外魔術といい勝負の、他者を害することしか頭にないような系統の魔術だ。

 

 そしてステファンの言う通り、殆どのパラメーターで現代魔術に負ける。単純な破壊力だけでなく、耐性貫通力や発動速度でも初級攻撃魔術にも届かないようなものばかり。唯一の取り柄である秘匿性も、訓練した魔術師の魔力操作精度であれば十分に匹敵するだろう。

 

 文献などでそれを知っているステラも、ステファンの言葉に苦笑しつつ頷く。

 だが、だからこそ、ステラには大きな疑問があった。

 

 「……概ねその通りです。ついでに言うと、私の魔術耐性を貫通するような呪詛が存在するとは思えませんね」

 

 呪詛の貫通力はかなり弱い。

 最上級の呪詛である魔眼──それも最上級の魔力を持つミナの『拘束の魔眼』でさえ、ルキアやステラには通じないほどだ。

 

 そこいらの魔術師がどれだけ研鑽を重ねても、現代魔術で二人の耐性を突破することさえ困難な以上、魔術系統的に貫通能力の低い呪詛ではどうしようもないだろう。

 

 「そうですね……私もその部分は謎なのですけれど、恐らく、高位の悪魔などがその命と引き換えに行使したのではないでしょうか。殿下は次期女王として王国民からだけでなく、大陸中からの期待と信頼を集める御方。そして魔王陣営にとっては最大の脅威である聖痕者でもあられます。狙われる理由としては十分かと」

 「私個人を狙った呪詛なのですか? ですが……」

 

 それにしては、被害範囲が広すぎる。

 帝国や聖国でも同様の被害が広がっているという噂が、然して情報通というわけでもないフィリップの耳にも届くくらいだ。

 

 大陸全土、何千万人という被害を出すなんて、現代魔術でも不可能な破壊範囲だろう。というか、広いし多いしでピンと来ない。

 

 「不明です。ですが、王国南部での蔓延、その発生源は間違いなく殿下か、或いはサークリス聖下のどちらかであると思われます」

 「……ほう? それはまた、随分と不穏当な仮説だな?」

 

 ステラの目がすっと不快げに細められる。

 パジャマ姿で、ベッドから出てもいないというのに、たったそれだけの仕草で、ステファンとフレデリカは背筋が凍り付くような威圧感に襲われた。

 

 ステファンは慌てて手を振り、足りなかった言葉を補足する。

 

 「誤解なきよう、殿下。私は殿下が呪詛を放ったとは申しておりません。この呪詛は感染性なのです、殿下。その経路は“魔力”。感染者の魔力が汚染され、魔力感受性の高い人間に感染(うつ)るのです」

 「あぁ……なるほど」

 「なに納得してるんですか。……いや、まぁ、確かに魔力感知能力には自信ありませんけど」

 

 ステラはフィリップの方を見て、安堵したような、そして揶揄うような微妙な笑みを浮かべた。

 

 とはいえ、流石にルキアが本気で魔力を撒けば気付くし、高位の魔術を使う時の余波も察知できる。魔力感知能力が全く無いわけではないのだが……その程度では足りないということだろう。いや、足りなくて良かったのだが、どうにも釈然としないものがある。

 

 「では、治療法とは解呪ですか?」

 「いいえ、殿下。呪詛について書かれた書物はそう多くありませんが、そのどれもが、解呪には「どのようにして掛けられた呪いか」を知る必要があると語っております。魔眼のような“見る”呪詛であれば、隠れる、見返す、鏡写しにするなどがありますが……この呪詛はそれが不明です。解呪は難しいかと」

 「確かに。先生の考察通り、死と引き換えの呪詛であれば解きようもない。……では、どのように?」

 

 ステラの問いに、ステファンは自慢げにフレデリカを示す。

 フレデリカは人間の頭より少し大きい箱のようなものを持っていて、ゴテゴテと露出したパイプや歯車の類から、明らかに何かの器具だとは分かる。だが、ステファンが両手できらきらと誇らしげに示しているのは、装置ではなくフレデリカ本人のようだった。

 

 そういえばフレデリカはステファンの弟子として医学を学んでいるのだったか、なんて、フィリップは遅ればせながら思い出す。

 

 少しだけ照れ笑いを浮かべたフレデリカは、コホンと小さく咳払いをして、両手で重そうに抱えた箱をベッドサイドのテーブルに置いた。

 

 「殿下、こちらを」

 「これは……例の魔力中和装置か。……気の長い話になりそうだな」

 

 フィリップにはよくわからない装置に見覚えがあったステラは、その用途から、ステファンの言う『治療』に一瞬で思い至ったようだった。

 病気や医学については詳しくないステラだが、魔術への知識は流石に目を瞠るものがある。

 

 「どういうことですか?」とは聞けずにいたフィリップだが、ステラは居心地の悪そうな成績不良児に気付き、微笑と共に補足をくれた。

 

 「無極性の魔力を身体に取り込み、汚染された魔力を洗い流すのだろう? 悪いものを食べた時に大量の水を飲んで吐き戻すような感じだ」

 「ふーん……薬とか瀉血でぱぱっと治らないんですね」

 

 フィリップが何の気に無しの相槌のつもりで呟いた言葉で、ぴしりと空気が凍り付いた。

 絶対零度の空気を放っているのはステラではなく、にっこり笑顔のステファンだ。

 

 「カーターくーん? 私の前で()()()()を出さないでくれるかしらー?」

 「え? ど、どれですか?」

 「血を出させる例のアレだよ。ソレの無意味さを周知したりとか、無秩序な流行──横行を止めたのは先生なんだ」

 「そ、そうなんですね。で、えーっと……じゃあ、殿下はもう治るってことですか?」

 

 空気を変えようという意図もあって楽観的な質問をしてみるが、フレデリカは重々しく頭を振って否定した。

 

 「いや、殿下は流石に一呼吸で生成される魔力量が桁違いだからね。スイッチオンしてはい完治、とは行かないよ。でも、間違いなく快方に向かうはずだ」

 

 アイコンタクトが交わされる。

 その中にはフィリップも含まれていたが、フィリップは「なんだか真面目な雰囲気だぞ?」ときょろきょろしているだけだった。

 

 だが真面目な空気にもなる。

 これから行われるのはただの実験ではなく、王族の治療なのだ。実験室ではいつものようにポチポチしていた装置の起動スイッチも、人命が懸かっているとなれば異様に重い。

 

 「よし、やってくれ」 

 「はい。では、スイッチオン、と。……どうです──ッ!?」

 

 ぶーん、と重い駆動音が鳴ったかというその直後、ステラが弾かれたように手を伸ばし、スイッチを叩いた。

 彼女だけに分かる何かが間に合ったのだろう、ゆっくりと安堵の息を漏らす。

 

 反対に慌てたのはフレデリカとステファンだ。

 何があったのか、まさか症状が悪化したりはしていないかと、口々にステラの身を案じる。

 

 わちゃわちゃと魔術的な検査をしようとする二人に苦笑しつつ、ステラは「大丈夫だ」と慌てる二人と、固唾を呑んで見ていたフィリップを落ち着かせるように手を振った。 

 

 「無極性の魔力を浴びて分かったが、確かに私の魔力は汚染されている。だが……無極性ではダメだ。私の魔力と呪詛で、逆に装置まで汚染しかかった」

 「魔力が強すぎるんだ……! いえ、ですが殿下、それでは無極性ではなく、強力な浄化の魔力であれば」

 

 フレデリカは驚愕と感嘆が綯い交ぜになった、尊敬すら滲む目でステラを見る。

 

 問題点から即座に代案が浮かぶのは、それだけその装置に対する理解が深い証だろう。流石は開発者といったところだ。

 

 「それなら、恐らくは……9割以上の確率で、上手く行くと思う。今の感覚では、だが」

 「でしたら問題ありません! 実は、以前に魔力浄化装置の設計図を描き起こしたことがあります! 必要な素材さえあれば即座に錬金・組み立て可能です! あっ、殿下はもう御存知でしたね! そうです、この魔力中和装置をグレードアップさせ、古龍の心臓を直列使用するエンハンスドトランジションシステムを基幹に、龍血による魔力の完全浄化と、龍血が持つ凄まじい毒性を逆用するアンチディドナイザーを並列稼働させた完全無毒化機構を組み込んだ──」

 

 怒涛の専門用語(謎ワード)の殺到に物理的な圧力すら感じて踏鞴を踏むフィリップ。

 

 フレデリカの語り口調は立て板に水というべき滑らかさだったが、水というよりはむしろ薬品──意味が分からないという点では、不透明な泥水と言ってもいいかもしれない。尤も、たぶん意味が分かっていないのはフィリップだけなのだが。

 

 「──待て」

 

 苦笑と共に制止するステラ。

 しかしそれは、無理解の笑顔を浮かべて放心している友人に気遣ってというわけではなかった。

 

 普段のステラなら、困ったように笑いながらでも「説明は後でいいから、早くその装置を作ってくれ」と、きちんとした優先順位に基づいて指示を出していただろう。

 

 だが──ステラは、その実行を阻む重大な問題を知っていた。

 

 「古龍の心臓は、お前がこの魔力中和装置に使ったものが最後の、そして唯一のサンプルだ」

 

 ……えっ? なんて、間抜けな声を上げたのは誰だったのだろうか。

 フィリップかもしれないし、フレデリカかもしれない。もしかしたらステファンかもしれない。

 

 だがフィリップも含めた全員が、“希望”という温かさが急激に失われる、すぐ側にあった焚火が消えてしまったような錯覚を味わった。

 

 「……ついでに言うと、龍血なんて希少で危険な代物も無い」

 

 根幹部分の不足、超重要な素材の欠落。

 それも──古龍の心臓と血液という、超の付く希少素材。どう考えても一朝一夕では手に入らないという予感しかない物品の羅列に、フィリップとステラは顔を見合わせて、二人揃って草臥れたような溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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267

 フレデリカたちがステラの部屋にやって来てから、ほんの十数分後。

 フレデリカとステファンだけでなく、病人であるステラまでもが、城内でも特に秘匿性が高いと言われる特別な会議場に集まっていた。

 

 特筆して豪華というわけではない部屋だが、それでも王城の一室。フィリップが「壁紙やカーペット(コレ)をちょっと汚すだけでとんでもなく怒られそうだな」なんて怖くなってしまう内装だ。陽光の差し込む窓には、これまた高そうな生地のカーテンがかかっている。

 

 学院の教室より一回り小さいくらいの部屋には、錚々たる顔ぶれが揃っていた。

 

 「では、始めようか。もう一度確認するが、ボード卿、古龍の心臓と血があれば、王女殿下と私の娘の病は確実に癒えるのだね?」

 

 口火を切ったのは、赤いベルベットのスーツに身を包み、金髪をオールバックに撫でつけた紳士。フィリップとも面識のある、アレクサンドル・フォン・サークリス。王国の宰相にして、最高位貴族の一人だ。彼が控えるように立つのは、部屋の最も上座に据えられた玉座の斜め後ろ。

 

 そして玉座というからには、そこに掛けるのは一人しかいない。

 金色の髪を快活そうに短く切り揃えた中年の紳士、アヴェロワーニュ王国第67代国王、アウグストス二世だ。

 

 国王の隣には、少しだけ見映えの劣る玉座に、次期女王として既に指名されたステラが座っている。

 

 国王から見て右側に居並ぶのは、近衛騎士団長にして国王の親衛隊隊長でもある英傑レオナルド・フォン・マクスウェルを筆頭に、二人の親衛騎士と、二人の宮廷魔術師。

 ステラから見て左側に居並ぶのは、衛士団長と、彼が選んだ最精鋭の衛士が二人。そして王国最高の治療術師と名高いステファンと、その弟子であり、魔力隔離装置という理論上のものでしかなかった器具を開発した若き天才フレデリカ。

 

 本当に、錚々たる面子だ。

 ただ一人──帰っていいかなぁ、なんて、どう考えても駄目なことを考えているフィリップを除いては。しかもフィリップはステラの斜め後ろに立っており、国王と宰相の位置関係とほぼ同じだ。

 

 「はい、宰相閣下。理屈の上では間違いありません」

 

 理屈の上では、という微妙に確実性の無い言葉に、武官の六人が眉根を寄せる。

 反対に国王と宰相、そして高位魔術師たちは、迂闊に断言しない真摯さに小さく頷いていた。

 

 フィリップはというと、ちょっと小腹が空いたなぁ、とお腹を擦っていて、完全に我関せずといった風情だ。ここに居ろと言われたから居るけど、話に参加するつもりは無いし、参加できるだけの教養も品格もないので、置物に徹します。でも帰れるなら帰りたいです。顔にそう書いてあった。

 

 「……では、その入手方法について議論しよう。諸君らの知恵と経験は、きっと陛下と私の助けになってくれると信じているよ」

 

 宰相はあくまでもにこやかに、決定を下すのは自分と国王であり、ここにいる全員はアドバイザーに過ぎないと言外に告げる。

 その苛烈にも思える自信と、相反するような穏やかな笑みには、フィリップでさえ手を貸そうと思ってしまう強烈な求心力があった。

 

 ……とはいえ、流石に。

 

 「……古龍の心臓。確か宝物庫にあったものは、龍同士の争いで死んだ個体の死骸を運よく腐敗前に発見したのでしたか」

 「うーむ……急を要することですからなぁ。まさか、また幸運を願って座して待つわけにもいきますまいが」

 

 龍は、この星で最も完成された、最強の生物だ。

 いや、身体は魔力で構成されているから、学術定義的には「魔物」と呼ぶべきなのかもしれない。しかし、死んだあとに消滅するかどうかはまちまちで、死体から剥離した部位は確実に消えないという特異な性質がある。

 

 逆に、老化はしないが成長はする、つまり絶対に良性の変化しかしないのは、生物では有り得ない性質だ。

 

 生物なのか、魔物なのか。それすら判然としない、ただひたすらに強大な生き物。

 十数メートルにもなる体高、数十メートルもの体長、数十トンの体重。それらを支える強靭な四肢と、それを浮かせるほどの羽ばたきを可能とする大翼。そして良質で膨大な魔力と、人間以上の魔術能力。

 

 全身を覆う鱗はこの世の全ての金属に勝る硬さを持ち、剣も槍も通さないばかりか、熱や雷撃への耐性まであるという。

 

 あと、ついでにブレス攻撃を持つ。……英雄譚などでは、『口から炎を吐く。これが龍の最大の武器だ!』なんて描かれ方をするが、こんなのはオマケだ。

 

 デカくて、重くて、硬い。

 生物が個として持つ防御要因は多々あれど、この三つが揃っていればほぼ無敵だ。あとは『速い』と『見えない』と『毒を持つ』辺りが、生物界ではポピュラーな自己防衛手段だが……龍は『見えない』以外の全てを兼ね備えている。

 

 「王国領内には現在、5体以上の古龍が生息しているが……縄張りを離れた個体や、他の龍と戦闘状態にある個体の報告は上がっていない。前回のような幸運に期待するのは無理があるだろう。……他国に働きかけてみるのはどうだ? 完成した機材の貸与で、見返りとしては十分だと思うが」

 「交渉は宰相閣下にお任せできるでしょうな。で、どこの国が古龍の心臓を持っているので? そんな代物を持っているという話は聞いたことはありませんが」

 

 騎士の一人が挙げた案は、フィリップからするとそんなに悪くなさそうなものだった。

 古龍の心臓を持っているのなら、王国がそれを加工して“眠り病”の治療器具を作る。あとはそれを貸与か贈与かすれば、その技術解析も含めて見返りは十分だろう。

 

 だが、誰もそれを持っていないのであれば、交渉以前の問題だ。

 

 「うーむ……」

 「何かで代用できないのですか、レオンハルト女史?」

 

 多分無理なのだろうが、ダメ元で聞いてみよう。そんな空気さえ滲ませて尋ねた衛士に、フレデリカはやはり頭を振る。

 

 「……逆にお聞きしますが、龍の心臓に匹敵する無極性魔力生成機能を持ったもの、そして龍血に並ぶ浄化作用──いえ、他の一切の毒を駆逐するほどの毒性を持ったものをご存知ですか?」

 「なるほど、それは確かに……」

 

 装置のパーツとして求められる必須条件があまりにも限定的すぎて、替えが効かない。

 それはきっと設計のミスなどではなく、装置の目的上、どうしようもないことなのだろう。フィリップのそんな予想は、

 

 「設計段階から考え直し、或いは別の方法を考えるというのは……」

 「どれだけの猶予があるか分からないが、そうするしかないのでは?」

 

 と囁き合う騎士たちに、フレデリカが「無理に決まってるだろ……」と言いたげに重々しい溜息を吐いたから思い至ったことだ。

 

 フィリップも真面目な空気に流されるように、大真面目に思考を回す。

 そして、ふと、最も簡単な解決策が出ていないことに思い至った。

 

 「いや……殺して奪えばいいのでは?」

 

 ステラに宛てたフィリップの呟きは、皆が黙考して静まり返った会議室に、いやに大きく響いた。

 国王とステラを除くほぼ全員に正気を疑うような目で見られ居心地の悪さを感じるが、それはフィリップを黙らせるだけの圧力を伴ってはいない。

 

 「龍が何処に居るかは分かってるんですよね?」

 「まぁ、火山みたいなものだからな。どの国も、自国内に棲む龍の動向は調査している」

 

 参加者の何人かが「所詮は子供か」と言いたげに頭を振る中、ステラは端的に答えてくれる。

 

 フィリップにとって重要なのは、自分が他人からどう思われているかではなく、情報だ。

 そして、フィリップが求めていた答えが提示された以上、この会議に意味は無くなった。

 

 殺せばいいのだ。

 

 人間は食うために家畜を殺し、時に遊戯、快楽の為に殺す。それと同じだ。

 相手がドラゴンだからと言って、その利己心を捨てる必要はないだろう。病に伏せる幾千の人々のため──フィリップ自身の人間性を補強してくれる、ルキアとステラのために、龍を殺そう。その死体を辱めよう。

 

 「なら、殺して奪えばいいでしょう。首を刎ねて血を奪い、死体を腑分けて心臓を奪う。これが戦略的合理性に基づく最適解ってやつですよね、殿下?」

 

 自信たっぷりを通り越して、間違いなど有り得ないと言わんばかりに淡々と語るフィリップ。

 しかし、周囲から向けられるのは、呆れたような溜息と、物を知らぬ馬鹿に対する嘲笑と、身の程を弁えない愚者に対する嘆きだ。

 

 ステラはフィリップの召喚物を思い出して苦笑しつつ、一先ず一般論で答える。

 

 「それは取り得ない選択肢、存在しない解なんだよ、カーター。たとえ私とルキアが健在でも、古龍相手では勝ち目が薄い。五分といったところだ。そんな私達は、ヘレナを除くこの国の全ての戦力を同時に相手取って殲滅できる。分かるか?」

 「勝てないってことですか? ……でも、衛士団なら」

 

 難しい……だろうか。

 龍と悪魔のどっちが強いのかは知らないが、衛士団は技量と連携を以てゴエティア72柱の悪魔が一、エリゴスと拮抗していた。

 

 龍が相手でも、武装と人数次第では善戦できるのではなかろうか。

 まぁ龍の強さどころか、悪魔の強さだって正確には知らないフィリップの、適当な目算なのだが。

 

 どうなんですか? と、面識のある衛士団長に目を向けると、彼と、その向かいに座っていた近衛騎士団長が答えてくれる。

 

 「確かに衛士団であれば実現可能でしょう」

 「少年の期待を裏切るのは心苦しいが、無理だ」

 

 全く同時で、しかも声量も同じくらいだった。

 そのせいで何を言っているのか殆ど判別不能なレベルだ。

 

 「……すみません、もう一回、一人ずつ喋ってくれませんか?」

 

 フィリップの苦笑交じりの言葉に、衛士団長が肩を竦めて先を譲った。

 騎士団長は会釈程度に一礼を返し、きちんとフィリップに向き直ってから先を続ける。より正確には、ステラに対して正対したのだが。

 

 「可能だろうと言いました。彼らはこの国の最高戦力、いえ、人類最高の戦士たちです。所属する魔術師たちも、半ば研究職である宮廷魔術師たちとは違い、実戦能力に特化した戦闘魔術師ばかり。たとえ古龍相手でも、最高装備であれば、必ずや目的を果たせるでしょう」

 「……無理だと言ったんだ。親衛隊長殿は、以前に王都に迷い込んできた龍を先代が撃退したから「できる」なんて言ってるんだろうが……前のあれは100歳そこらの成龍で、しかも()()先代だぞ? 俺たちと比較されても困る」

 

 ちょっと揶揄ってやろうとか、この機会に謀殺してやろうとか、そんな邪念の一切籠らない澄んだ瞳を──冒険譚の英雄に憧れる少年のような目をしている騎士団長。

 その信頼と憧憬の籠った声と言葉に、衛士団長はうんざりしたように嘆息した。

 

 「……はっきり言おうか。衛士団が向かったところで、徒死するのが関の山だ。国の為であれば部下に死ねと命じるのが俺の役目だが、それでも、犬死に、無駄死にを命じることだけは絶対に無い」

 

 たとえ貴女の命令でも。

 そんな内心を窺わせる、強い意志を持った目がステラに向けられる。

 

 対して、ステラは挑戦的に口角を吊り上げた。

 この私が、そんな非合理的な命令を下すわけがない。──衛士団長の決意にも劣らない、そんな強固な自負が窺える。

 

 フィリップはそんな二人を交互に見て、何を思ったのかうんうんと頷くと。

 

 「じゃ、僕が行きますね」

 

 ──と、軽率に、楽天的に、能天気にも聞こえるような声で、端的に言った。

 

 「殿下とルキアを死なせたくないっていうのは勿論ですけど……僕にとっては衛士団の皆さんも、同じくらい尊敬している人たちなので。皆さんに死んでほしくありません」

 

 沈黙の帳が降りる。

 

 フィリップの言は提案ではなく意思表示であり、忠告はともかく、否定を受け容れるつもりは無かった。つまり、「○○だから無理だよ」と言われたら、理由の部分が持つ情報は有難く頂いて、「無理だよ」という部分は丸ごと無視するつもりだった。

 

 しかし、誰も、何も言わない。

 「できるわけねぇだろ」という嘲笑も、「物を知らないガキが」という呆れも、「なんでこいつ部屋に入れたの?」という嘆きも、何も飛んでこない。

 

 瞠目する騎士団長の、ほう、という溜息。

 拳を握り締めた衛士たちが奥歯や唇を噛み締める、ぎち、という軋み。

 

 その二つは、連続する乾いた快音──国王の拍手の音に掻き消されて、フィリップが認識することは無かった。

 

 国王はいつかのように「やさしいおじさん」の仮面を被り、振り返って肩越しにフィリップを見遣る。

 

 「……その覚悟は素晴らしい。だが、君の召喚物は確か、王都の一角を焼き払うようなものだったね? それが龍に通用したとして、血や心臓を損なわずに持ち帰ることはできるのかい?」

 「いいえ……陛下」

 

 険しく眉根を寄せたステラのアイコンタクトを受けるも、口の制御が間に合わずに言葉が滑り出てしまう。

 しかしステラの視線の意味は「別の召喚物があります、なんて余計なことを言うな」だったので、クトゥグアには無理だろうなぁ、なんて直感的な思考をしているフィリップ相手には無用な心配だった。

 

 結果として、フィリップは少し動揺したものの、国王相手に嘘を吐くことは免れた。

 

 クトゥグアには、熱塊や火球といった化身を持ち、権能が熱と炎に特化した邪神には、繊細さを求めてはいけない。

 だがクトゥグアには無理でも、ハスターなら話は別だ。あれだけ人間のことを理解していて、()()の器用なハスターなら、龍の血を奪い心臓を抉るような外科手術だって可能だろう。

 

 使い走りにさせようとか考えたら流石にバレて怒られるかなぁ、なんて、フィリップは遠くを見る目で考える。

 

 表面上──議事録があれば、文面上ではフィリップの愚かな提案が国王によって却下されたという形で、今日のところはお開きの流れになった。

 

 「ふむ……よい。此度は一度、解散とする。この部屋にいる者は、妙案があれば深夜であろうと余の部屋を訪ねることを許す」

 

 国王が率先して部屋を出て、宰相がその後に、他の参加者がさらに後にぞろぞろと続く。

 

 去り際に衛士団長がフィリップに意味深な一瞥を呉れたが、フィリップは照れたようにはにかんで笑い、ぺこりと一礼を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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268

 王宮にて“眠り病”の治療法が提唱され、しかしそれに係る難題に直面した、その日の夜。

 フィリップは彼らしからぬ不良行為──夜中の寮外脱走に及んでいた。それも「遠い親戚が例の病で倒れたので、会いに行かなくてはならない」と嘘を吐いて、王都外まで馬車まで出して貰って。

 

 乗合馬車の停留所まで送ってもらい、既に夜中の11時を回っているということもあって「次の便が来るまで一緒に待とうか?」と言ってくれた御者を丁重に返す。

 馬車のランタンが見えなくなるまで待ってから、フィリップは大きく伸びをして、王都とも馬車が来る方向とも違う、何も無い平野の方へ足を向けた。

 

 「……さて、と」

 

 フィリップは平地の只中に立つと、辺りをぼんやりとだが確かに照らしてくれる月と星に感謝しつつ、いつも照準補助に使っている癖で左手を突き出した。

 

 一応、前後左右を確認して、自分の影を覗いて、改めて正面を見据える。

 

 「いあ いあ はすたあ」

 

 淡々と──授業で習った公式を暗記しているときのような、無機質な声で紡がれる、風属性の王を讃える祝詞。

 

 「はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ──」

 

 只人であれば、精々がハスターの配下である異形の怪物、ビヤーキーを召喚する程度の魔術。運が良ければ、ハスターの毛先じみた竜巻を召喚することもあるかもしれない。

 

 だが、そこ止まりだ。

 この呪文は根本的に間違っている。風属性の王などという称号は、ハスターに宛てるには余りにも不足だ。そんな祝詞を、ハスターは自分自身への賛美とは受け取らない。受け取れない。認識さえできない。

 

 それが、魔王の寵児たるフィリップの詠うものでなければ。

 

 「──あい あい はすたあ」

 

 詠唱が終わり、魔法陣が──展開、されない。

 

 フィリップは徐々に慣れつつあった召喚に際した手応えが全くないことに気付き、掌を見つめてぎゅっぱぎゅっぱと両手を開閉する。

 

 首を傾げ、もう一度試す。

 だが、結果は同じだ。何も、起こらない。

 

 いつぞやのようにビヤーキーが出てくることも、ハスターの毛先のような横殴りの竜巻が出てくることも無い。

 

 何も起こらない、何も出てこないタイプの召喚ミス。

 それはハスターではなく、クトゥグア召喚の練習をしていた時に頻発していたものだ。

 

 フィリップにとってハスター召喚は切り札としてそこそこ有用で、そこそこ使い辛い面倒なカードだが……それでも、爪牙としては十分に鋭利だった。

 

 その一本が失われてしまったのは、少し痛い。タイミングを考えると痛みも倍増だ。

 もしもハスターが死んでいるのであれば、旧支配者の中でもトップクラスの存在格を持つ彼の神格を殺し得る何者かが、同じ宇宙の中で暴れているということになる。

 

 果たして、その原因は──

 

 「目的意識の過剰ですよ。フィリップくん」

 

 耳触りの良い、耳障りな声がする。

 

 弾かれたように振り返るフィリップだが、目に入るのは遠くに光る王都の明かりと、星と月に照らされるだだっ広い平原だけ。

 相手は邪神だ。そういうこともあるだろうと、納得できないことはないが──ことナイアーラトテップに関しては、フィリップに語り掛けるのに顔を見せないなんてことは無いだろう。

 

 ……まぁ、ナイアーラトテップの顔なんて、あってないようなものなのだけれど。

 

 「……あぁ、そこか」

 

 きょろきょろと周囲を見回して、漸くナイアーラトテップを見つける。

 

 星々の消えた漆黒の夜空に、赤く燃える三つの月。

 見下ろされるのはあまり気分のいいものではないが、神父姿の化身でも、どうせ見上げる体格差だ。猫耳教師の化身はフィリップが見下ろす形になるが、アレは話しているだけで不快なので、首が疲れるくらいは我慢しよう。

 

 今はそれより、召喚術の失敗の方が大きな問題だ。

 

 フィリップは足を投げ出して草原に座り、それこそ月を見上げるような格好で目を合わせる。

 

 「目的意識の、過剰? 不足とか、具体性の欠如とかじゃなくてですか?」

 「はい。加えて、使役しようという意思も足りません」

 

 何処からともなく聞こえる声に、フィリップは意味を解せず首を傾げる。

 

 意思なら十分にあるつもりだ。

 目的意識だって、過不足なく、端的に持っている。

 

 今までだって、ハスターは何度も召喚して使役してきた。今更「そのやり方ではダメだ」なんて言われても分からないし、何よりこの呪文と方法はナイアーラトテップに教わったものだ。

 それが違うというのなら、問題があるのはフィリップではなくナイアーラトテップの方だろう。

 

 「君の状態では無理からぬことですが、邪神を甘く見過ぎです。人間程度の魔力や意志力で使役できると思うのは、それは慢心や傲慢ではなく単なる愚考ですよ」

 

 三つの月が哄笑に揺れる。

 フィリップが好きな白銀とも黄金ともつかない美しい色の失せた、下品な赤を鬱陶しそうに一瞥して嘆息する。

 

 ハスターが使えないのなら、まぁ、それでいい。

 この一週間、フィリップから逃げ続けていた保護者の片割れが、漸く姿を見せたのだ。

 

 「そんなことはどうでもいいので、古龍の血と心臓を取って来てくれませんか? というか、“眠り病”をどうにかして欲しいんですけど」

 「駄目です」

 

 即答され、思わず目を瞠る。

 そりゃあフィリップだってナイアーラトテップが唯々諾々と従うとまでは思っていなかったが、なんだかんだと小言を垂れて嘲りながらも、最後にはフィリップの意を汲んでくれると予想していたのだが。

 

 赤く燃える三つの月からは、何の感情も読み取れない。

 だがただの意地悪や揶揄ではないだろう。何か、ナイアーラトテップの中では譲れないものがあるはずだ。

 

 「そんな目をしても、駄目なものは駄目ですよ、フィリップくん。私もそうですが──大抵の邪神は、君の()()なんて聞き入れるつもりはありませんし、聞きたくもありません」

 

 また解せないことを言われて、フィリップは眉根を寄せる。

 そんなことをした覚えはないし、言われるまでもなく、邪神に乞い願うことに何の意味も無いと知っている。彼らは人間の嘆願なんぞには、虫の鳴き声程度の価値も見出さないだろう。

 

 今までだって、旧支配者、外神問わず、邪神に何かを乞うたことなど一度もない。

 

 「懇願なんて──」

 「していない。それはそうでしょう。君は事実として、それを口に出していない。ですが、魔術経路で繋がった邪神には、君の精神の根底までお見通しです。フィリップくん、分からないようであれば明言して差し上げましょうか──」

 「うわっ!?」

 

 突如として目の前に現れたナイ神父に、フィリップは手が滑って後ろ向きに倒れ込む。

 ナイ神父は素早く屈みこむと片膝を突き、フィリップの首に手を回して支えた。

 

 月光の下、口付けでもするような体勢で、鼻先にナイ神父の甘いマスクがあって──フィリップは思わず額をナイ神父の鼻に叩き付けた。

 

 おっと、と笑って、全くノーダメージのナイ神父が離れる。彼はいつものように一本芯の通った直立姿勢に戻ると、手を差し伸べてフィリップを立ち上がらせた。

 

 「友達を助けて、なんて懇願は──そんな甘い心は、お捨てになられては如何です?」

 

 色濃い嘲笑を浮かべたナイ神父に言われて、フィリップはもう「懇願なんてしていない」とは言えなかった。

 

 だって、心当たりがある。

 これまで邪神を召喚したときに、邪神に何か()()()()()なんて考えたことは無かったのだ。あったのは目的意識。邪神はその手駒に過ぎなかった。

 

 だが今に限っては、心の底では縋っていたのかもしれない。

 確固たる自覚は無い。だが──心を砕いた諦観も、破片にこびりついた嘲笑も、圧倒的な視座が齎す全能感もなく、ただただ友達を助けたい一心だった。

 

 どうかルキアとステラを助けてくれと、無意識のうちに願っていたのかもしれない。

 

 「……二人を、見捨てろと? いや、まさかそれを狙って?」

 「いえ、まさか。君が友人を大切にしようと、人間性の残滓を大切にしようと、路傍で拾った犬の糞を大切にしようと、君が自ら捨てない限り、私達が無理に奪うことはありません。不満は、ありますけれど」

 

 極小の可能性だが、無いとは言い切れない。そんな懸念を滲ませての問いを、ナイ神父は即座に否定する。

 僅かながら不快感と苛立ちを感じさせるのは、本当に的外れな問いで、その答えが心底からのものだからだろう。

 

 「……不満だから、僕の命令には従えないと?」

 

 問いを重ねるフィリップに、ナイ神父は呆れたように嘆息した。

 

 「いいえ、それは違います。心の底からの命令ではないから、従えないのです」

 「はぁ? 僕は本気で──」

 「本気なのは目的意識だけでしょう? それではダメです。それだけでは“命令”と“懇願”を区別できません」

 

 それは、分かる。

 だが理解はできるが、納得は出来ない。

 

 邪神は──神様は、仰ぎ見るべき存在だ。

 たとえそれがフィリップと同じ泡沫に過ぎないとしても、できることの幅が違い過ぎるのだから。

 

 フィリップにできないことも、彼らには簡単だ。

 フィリップに救えないものも、彼らになら救える。

 

 そんな彼らに、乞うのではなく命じる。

 戦闘状態でアドレナリンが出ているとか、我を忘れるような激情に駆られているとかなら簡単だ。平常心でも、殊更に邪神に崇敬の念を抱かないどころか、本質的には全く同じだと知っているから、外神の視座から命令を下すことはできるだろう。

 

 だが、今は──どうしても難しい。

 

 とす、と、フィリップの弱々しい拳がナイ神父の胸を打った。

 

 「……僕をどうしたいんだ、お前は」

 「君を変容させようだなんて、大それたことは考えていませんよ。ただ、君が君で在ればよいのです。私も私で在るだけです」

 

 ナイ神父はにっこりと、迷える子羊を導く慈悲に溢れた微笑を浮かべる。

 

 「……ヨグ=ソトースは?」

 

 シュブ=ニグラスは? とは訊ねない。

 彼女のフィリップに対するスタンスは愛玩だ。決して隷従ではない。ナイアーラトテップのように、フィリップの従僕で在りたいなどとは欠片ほども思っていないだろう。

 

 まぁ、ナイアーラトテップのように「懇願では従えませんね」なんて面倒なことは言わないはずだ。それだけでも少しはマシだが──結局はあれも外神だ。その最優先行動基準は、感情。

 

 やりたいから、やる。

 やりたくないから、やらない。

 

 ……それでいい。今更外神の、超越者の在り方を否定するつもりはない。その意味もないのだから。

 

 「自明なことを訊ねるのも、あまり賢い行いとは言えませんが──まぁいいでしょう。彼は全てです。ここにおらず、ここにいて、ここそのものです。彼が君を庇護しない時など、ひと時も在り得ませんよ」

 「……十分だ」

 

 強がるように言ったフィリップは、王都へと踵を返す。

 ナイ神父はその背中に、深い敬意と嘲弄の籠った立礼を捧げた。

 

 「老婆心ながらご忠告を。龍はこの星で生まれた中で最も強力な生命です。一神教の聖典に於いては魔王の化身とも描かれますが、あれはよく本質を見ている。1000年を生きた王龍ともなれば、個体次第では旧神に匹敵する存在格──一個神話体系の長にも成り得ましょう。努々、油断などされませぬよう」

 

 

 

 

 

 



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269

 翌朝。

 宿屋タベールナで一夜を明かしたフィリップは、学院に戻ると真っ先に図書館へ向かった。

 

 何か調べ物があるというわけではない。()()がそこに居ると、分かっていたからだ。

 

 「おはよう、ミナ。ちょっと話があるんだけど、いい?」

 「おはよう、フィル。勿論構わないわよ、おいで」

 

 読書用のソファに掛けて何かの本を読んでいたミナは、本をサイドテーブルに置いてぽんぽんと自分の膝を示す。フィリップはちょっとだけ悩んでから従った。

 

 膝上に座ったフィリップを抱き締めたミナは、片手で器用にフィリップのシャツを開けさせると、露出した首筋に顔を埋めた。繰り返される深呼吸がくすぐったくてびくりと震えた身体を、人外の膂力と卓越した身体操作技術で痛みも無く押さえつける。

 

 「……いい?」

 「ん? うん、いいよ」

 「ありがとう、フィル」

 

 蕩けるような熱を帯びた吐息が首筋に触れ、直後に一瞬の鋭い痛みが走る。その後は、傷口から侵入して神経を犯し、脳を侵す酩酊感と多幸感が感覚の全てを支配した。

 

 二日に一回。こく、こく、と、透けるように白い喉が二回動くだけの、僅かな時間の食事。

 ミナが空腹を感じないような頻度で、フィリップの健康に影響がない量の血を与える。これはミナの飢餓状態への配慮や食事を摂るという当然の権利の確保ばかりではなく、フィリップが衛士団との間に交わした契約によるものでもあった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 フィリップが暗黒領から王都に戻って来たのは、拉致されてから一月近く経過した日の夜だった。

 王都の城壁に掲げられた炬火を頼りに、最後の数キロを夜闇の中で走り切ってしまおう。そうしたらもう、二等地の宿でも取って寝ればいい。それくらい、ミナを抜いた全員が疲弊していた。

 

 その時はまだ分からなかったことだが、ルキアとステラは旅疲れだけでなく“眠り病”の初期症状もあった。

 疲労感、倦怠感、重い眠気。そういうものを振り切るように馬を歩かせていると、興味本位で御者をやっていたミナが馬車を止めた。輓馬の扱いに不慣れなミナの制動はお世辞にも静かとは言えず、馬車の中で眠っていたフィリップは盛大に転がって御者席に衝突した。

 

 「うっ!? な、なんですか、事故ですか!?」

 

 寝惚け眼で馬車を出ると、一行は王都へ続く街道のど真ん中で停まっている。

 月は出ていなかったが、星と、遠くに輝く王都の明かりでぼんやりと照らされた平原には、フィリップたちの他には誰もいない。まぁ、既に日没から2時間以上経っているので、まともな旅人なら野営の準備を終えている頃合いなのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

 

 「包囲されかかっている……いま、完全に包囲されたわ。こういうときは殺してもいいのよね?」 

 「ど、どこの、どれ、誰……?」

 

 正面遠くに王都、左右遠くには小さな森、後ろはずっと平原を抜ける街道で、その先は小高い丘になっている。どこにも人影なんて見当たらないし、隠れる場所だってありはしない。

 

 だから──隠れてなんて、いない。

 

 「魔力を視るか、人間以上に夜目が利くかでないと見破れないほどの隠形。夜限定でしょうけれど、それは私には無い技術ね……研鑽に敬意を」

 

 乾いた小気味の良い音が夜闇を裂く。

 たった数回の拍手は、しかし、化け物が人間に向けるには十分なものだった。

 

 フィリップも懸命に目を凝らすと、黒塗りの鎧を着た人影が見つかった。何のことは無い、ちょうどミナの背中で見えない位置に居ただけだ。……尤も、フィリップに見えたのはその一人だけで、ミナの言う『包囲』は全く分からないのだが。

 

 「衛士団長か。出迎えご苦労」

 「お帰りなさいませ、王女殿下。サークリス聖下も。攫われた少年も無事のようで何よりです」

 

 馬を降りることなく声をかけるステラに、全身鎧を着た騎士が無骨な立礼を返す。ナイ神父やフレデリカのような洗練された所作ではなく、どちらかといえば不器用そうな動きだ。

 

 彼は頭を上げると、腰に佩いていた直剣を鞘から抜き放った。

 剣は金属光沢ではない怪しい輝きを纏っており、明らかに通常の武器ではないことが窺えた。

 

 「……では、()ろうか、吸血鬼(ヴァンパイア)

 「……馬車から出ないで、フィル。アレ、50年前の私と同じくらいには強いわ。包囲している兵士も、アレの5割か6割くらいには精強ね」

 

 それに、少々不味い武器を持っている。ミナは内心で感心したように笑っていた。

 

 素材段階で一度、加工直後に一度、実戦投入されてから二度くらいだろうか。多重に聖別儀式をかけられた錬金金属製の武器に、更に多重の付与魔術が掛けられている。あれではまるで、人造の魔剣だ。それも対アンデッドに特化している。

 あれで腕でも落とされたら、失う血液(ストック)の量は通常の三倍近くにもなるだろう。

 

 そこいらのAクラス冒険者なんかの比ではない。かつて対峙した熾天使ほどではないが、その配下くらいには苦戦しそうな相手だ。

 万全を期すなら、『契約の魔眼』で直接攻撃を縛り、魔術戦で一方的に殺してしまうのがいいだろう。

 

 ──だが、まぁ、そこまでするほどの相手ではない。

 

 ミナは右手に黒い長剣を、左手に白銀の断頭剣を何処からともなく取り出すと、御者席を華麗に飛び降りた。

 血だまりを歩くためのハイヒールでふらつきもせず着地し、愉快と不快がちょうど半々で混ざったような笑顔を浮かべる。

 

 「そちらは三十人と一人。全員同時で、私が魔術を縛って、魔眼を縛って……そうね、ここから一歩も動かないという条件なら、眠気覚ましにはなりそうね」

 「上等だ。聖下と一緒なら易々と王都に入れるとでも、愚かにも思ったのだろうが……残念だったな。人質を奪還すれば聖下も自由に戦える。お前の負けは、すぐ側にあるぞ!」

 

 人質と聞いて、フィリップは漸く状況を理解した。

 状況を知らない衛士団には、ミナが人質を使ってルキアとステラを脅し、今度は二人を利用して王都に入ろうとしているように見えるのだろう。

 

 「ミナこそ、馬車に戻ってください」

 

 フィリップは慌ててミナの後を追うと、その脇をすり抜けて二人の間を遮る。

 衛士団長はフィリップの顔を覚えていたのか、かちゃりと鎧を鳴らして驚いていた。

 

 「……む? カーター少年か? ……また、君か」

 「えぇ、まぁ。一先ず、二人とも落ち着いてください。衛士団長、彼女は王都を攻めに来たわけじゃありません。剣を降ろして……そう、どうも。ミナも、魔剣を仕舞って。衛士団は僕にとって、ルキアや殿下と同じくらい大切だ。もし自衛以上のことをしたり、彼らを“喰う”ようなことがあれば……僕は、自分がどういう反応をするのか、僕自身でさえ分からない。ミナを殺したくないし、嫌いになりたくもないんだ。だから……うん、そう、それでいい、ありがとう」

 

 説得の甲斐あってか、二人は戦闘態勢を解く。

 しかしフィリップには見えないものの衛士団長の目には色濃い警戒の光が宿り、ミナは彼の立ち方や手足の置き方からそれを見抜いて薄ら笑いを浮かべている。未だ一触即発の空気は晴れていない。

 

 フィリップはそれを衛士団長が剣を鞘に納めず、ミナが魔剣を霧にして消さないことから感じ取っていた。

 

 「……君の言葉は信じたいが、根拠が薄い。人質に取られて、無理矢理言わされているという感じではないが……吸血鬼に町が乗っ取られたり、滅ぼされたりした話は幾つもある。君が魅了されて──」

 「それは無い」

 「それは無いわ」

 「……そうですか。お二人がそう仰るのであれば、魅了の魔術は使われていないのでありましょうな」

 

 二人同時に食い気味に否定するルキアとステラに面食らって気圧されつつ、衛士団長は続ける。

 

 「あとは彼がソドミストであるとか、或いはカルト──いや、それは無いか。失礼、王都を守るためあらゆる可能性を考えろと、方々から言われているのですが……私はどうにも無学非才でして。考えついた可能性も、よく考えると破綻していたりするのです」

 

 衛士団長は笑いながらヘルムを叩く。

 こんこん、と小気味の良い音が鳴って、フィリップは思わずくすりと笑ってしまった。その小さな笑みで安堵の息を溢した三人に、彼は全く気付いていない。

 

 「うーむ……カーター少年。君の言葉は信じたいし、聖下のお言葉も信じるべきなのでしょうが……それは紛れもなく吸血鬼であり、それも見たところ相当に高位で、相当に()()()いる。化け物であること、人を食うことに疑う余地はなく、それ自身もまた、その在り方に疑いを持っていない。人間とは絶対に相容れないモノです」

 

 ルキアとステラ、ミナとフィリップが顔を見合わせ、「そりゃそうだ」と肩を竦めた。

 

 フィリップも含めて、誰もミナが「化け物ではない」なんて主張する気はない。

 上位者は劣等種とは交われないし、交わる気が無いものをこそ化け物というのだ。化け物は化け物でしか在れないし、その在り方を否定することも無い。

 

 その上で。

 

 「衛士団長。貴方の懸念は、ミナ──彼女が王都を支配しないか、人間を喰わないか、という二つですよね。一つ目については……彼女の気質を知る僕からすると杞憂なんですけど、一応対策のようなものはありますよ」

 

 自分の感情を、自分のやりたいことを最優先にする。

 勿論、フィリップは衛士団が好きだ。だから彼らがどうしても、それこそ命を懸けてミナを排除するというのであれば、彼らを殺して我を通すような真似はしない。

 

 だが説得は試みる。

 衛士団の任務は、優先度がその身命や人間性には一段劣る。

 

 「二つ目は、僕が血液を提供するってことになってて──」

 「……カーター、下がれ。私が話す」

 

 このままフィリップに話を続けさせていても埒が明かないと思ったのだろう、ステラが馬を操って衛士団長の下へ進む。

 二人は二言、三言だけ交わすと、衛士団長が一歩、道の端へ避けた。

 

 「一先ず、中へ。詳しい話は詰所でしようか、少年」

 

 と、まあ多少の邪魔はありつつも、無事に王都へ辿り着いた。ちなみに最後まで、包囲しているという三十人の衛士たちは見つけられなかった。

 

 しかし詰所へ入った後も、すぐには警戒を解かれなかった。

 ルキアとステラがいたからだろう、通されたのはいつぞやと同じ応接室だったが、部屋の外には武装し抜剣した衛士たちが待機しており、唯一代表として応接室に入った衛士団長も、決して剣を手放しはしなかった。

 

 とはいえ、交渉に当たったのはルキアとステラ、そして以前は吸血鬼陣営の統括者だったミナだ。三人の弁舌によって衛士団長を説き伏せ、幾つかの条件付きでミナの王都滞在が許可された。

 

 まず一つ目。

 大前提として、王都の人間を殺さないこと。ただし、自衛する場合と、フィリップを守る場合を除いて。フィリップが前者の例外指定を、ミナが後者を要求したことで、衛士団長はある程度は緊張を解いてくれた。

 

 二つ目は、フィリップがミナの吸血衝動を制御すること。

 初めは「人の血を吸わせないこと」と言われたのだが、何かの冗談だと思って笑い飛ばしてしまった。それでは二週間程度で王都が滅ぶか、ミナと聖痕者たちが殺し合った余波で崩壊する。それはフィリップが血を提供すれば避けられる悲劇だ。

 

 そして最後に、三つ目の条件。

 ミナに怪しい動きがあった場合、すぐに衛士団に知らせること。フィリップが魅了されていなくても、単純に欺かれているだけかもしれないし、ミナが心変わりするかもしれない。そういう時に自分一人で対処しようとせず、戦える者を、悪意を見破ることに長けた者を頼ることだ。

 

 この三つの条件を呑むことと、ミナがルキアとステラの手を借りて組み上げた例の魔術の存在を以て、衛士団はミナが王都で暮らすことを許容した。

 

 

 

 

 

 

 



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270

 食事を終えたミナは、フィリップを膝上に抱いて首筋に顔を埋めたままだった。

 静かな吐息と、普段より少しだけ温かいが病的に低い体温、背中で押し潰れた柔らかな双丘の感触がくすぐったい。吸血による酩酊感もあって、まだ朝だというのに微睡に落ちてしまいそうだ。

 

 フィリップは固く目を瞑って頭を振り、なんとか眠気を遠ざける。

 

 「……それで、ミナ、本題なんだけど」

 「……なあに、フィル? 剣の訓練? それとも一緒に本を読む?」

 

 囁くような二つの誘いは、フィリップが暇なときにせがんだことだ。

 どちらも魅力的だと揺らぎそうになる意識に我が事ながら苦笑して、頭を振って否定する。

 

 吸血後の酩酊感には、まだまだ慣れそうにない。

 ルキアやステラは吸血行為だけでなく、この状態のフィリップにもあまり近付きたがらない。へろへろの状態が無様で見るに堪えないのか、或いは記憶がないだけで粗相をしたことがあるのかは定かではないが、ちょっと寂しいので早めに慣れたいところだ。

 

 さておき、今は本題だ。 

 フィリップは落ち着こうと深呼吸して──ミナの匂いで鼻腔を満たされて、思わず意識が吹っ飛びかけた。結局、いつものようにぺちぺちと自分の頬を叩いて、真面目な意識を呼び戻す。

 

 咳払いを挟んで真面目な空気を作り、しかつめらしく本題を口にする。

 

 「龍を殺したいんだけど、手伝ってくれない?」

 「……龍を? 何故?」

 

 流石のミナも、いや、龍の強さをその身で知っているミナは絶対に聞き流せず、抱き締める腕の力を強めて故を問う。

 

 フィリップはかくかくしかじかと、昨日王城で行われた話し合いの内容と、大前提となる呪詛への対策、魔力浄化装置の根幹を成すものが古龍の心臓と血であることを説明した。

 

 「え……? あ、いえ、何でもないわ」

 

 解呪法はともかく、まさか呪詛が原因だということも分からなかったのかと、ミナはフィリップに見えない位置で顔を顰める。

 とはいえ今更そんなことを言っても意味がないし、ミナが呆れているのはフィリップに対してではなく──フィリップの魔術適性が皆無なのは見ただけで分かるから──ルキアやステラ、国の中枢だという魔術師たちに対してだ。

 

 所詮は人類と納得することも出来るが、如何せん、王都の暮らしは荒野の古城より幾らか快適だ。

 これほどの文明を築き上げた魔術師たちに、戦闘魔術特化のミナは敬意さえ抱いている。だが……感染性呪詛という、呪詛が持つステルス性を捨てた代物に気付けないとなると、評価を下方修正せざるを得ない。

 

 「古龍……。まぁ、600歳くらいの個体なら、何とかなるかもしれないわね」

 

 ミナの声から少しだけ落胆を感じたのが気になったフィリップだが、それ以上に訊いておくべきことがあった。

 

 「古龍って、結構強いの? ドラゴンの区分については概ね分かってるんだけど……」

 

 龍は100歳以下の仔龍、500歳以下の成龍、1000歳以下の古龍、それ以上の王龍に区別される。

 龍という種が老化せず、成長しかしないということは、年を経るごとに強くなっていくのだろうが……先代衛士団長は単独で成龍を撃退したらしい。

 

 と、なると、成龍までは人間がどうこうできる次元のようだ。

 まぁフィリップ個人は戦闘能力で言えば人間の中では真ん中辺りかちょっと下くらいなので、上澄みであろう衛士団長とでは、あまり意味の無い比較だが。そもそも相手が空を飛んでいるだけで勝ち目が無くなる。

 

 そんな安穏としたことを考えているフィリップを諫めるように、ミナは一瞬の思考も挟まず即答する。

 

 「強いわね。フィル、自分より大きくて、出力が高くて、硬い相手と戦ったことはある?」 

 「出力……筋力とか魔力とか速度とか、そういうの全部ってことだよね? ディアボリカとミナを抜いて……あ、座天使長ラジエル! 戦ったのはほんの数分で、本人は「武器が悪い」みたいなことを言ってくれたけど、手も足も出なかったよ」

 

 フィリップは自嘲の笑みを浮かべながら、何でもないことのように語る。

 

 しかし座天使といえば、九つある天使の階級の中でも上から三番目だ。

 その長と戦ったとなれば、並の人間なら人生最大の武勇伝になるだろう。勝てなくても、子供のごっこ遊びのようにいなされたとしても。

 

 とはいえ、ここに居るのは外神の価値観を持ち、死が遥か遠くにあるフィリップと、かつて熾天使を斬り伏せたミナだけだ。返って来た反応は「ふぅん」という微妙に興味無さげなものだった。

 

 「……座天使なら、ちょうどいいわね。戦闘技術を無視して出力だけで語るなら、古龍もそのくらいよ」

 

 歳によって誤差はあるけれど、と補足するミナだが、本当に“誤差”だろう。

 なんせ座天使相手でも、フィリップに勝ち目はないのだから。それより多少弱かろうが、それより強かろうが、差異の多寡に大きな意味は無い。

 

 ……というか、座天使と同等の出力ということは、最上級攻撃魔術をポンポン連射してくるかもしれないということか?

 普段なら「だから何?」程度の攻撃だし、邪神にとっては小雨にも満たない抵抗だが、フィリップ相手では十分な壁になる。死ぬことは無いとしても、血を奪い心臓を抉るには邪魔だろう。

 

 「とはいえ、変化しないものである天使とは違って、龍は成長するものだし……何より、龍は天使よりも大きくて、硬いのよ。それに、神聖でもなければ邪悪でもないの。だから業腹だけど、私の魔剣も龍に対してはただの刃物ね」

 「あー……そういえば、そもそも鱗があるから剣が通らないのか」

 

 龍の鱗は、この世のどんな金属よりも硬いという。

 

 ウルミでは解体できないから何処かで剣を買わなくちゃ。なんて思っていたが、それどころではない。

 存在格ガード──と、フィリップが勝手に呼んでいる、彼我の存在格差による干渉無効化現象──を持っているかどうかは定かではないが、それもあるなら防御は二重だ。ウルミ一本と『深淵の息』だけではどうしようもない。

 

 ちなみに『萎縮』はまだ部位指定照準を修得していないので、心臓を壊す可能性があるから使えない。そもそも効かないとは思うが、念の為だ。

 

 「やっぱり僕一人だけじゃ厳しそうだし、手伝ってくれない?」

 

 厳しいというか、ほぼ不可能だ。

 死ぬことは無いと分かっていても、攻撃手段がないのではどうしようもない。

 

 ヨグ=ソトースの守りが「相手の首を刎ねて心臓を抉り出す」ような都合の良い攻性防御であると、無邪気に信じることはできない。いや、むしろ相手を跡形もなく吹き飛ばすとか、何なら世界が丸ごと吹っ飛んでフィリップは外神として新生するとか、加減を知らない可能性の方が高そうだ。

 

 となると、フィリップは死なないが、致死級攻撃を受けてはいけないということになる。目的は龍殺しではなく、あくまでその素材回収なのだから。

 

 フィリップには無理だ。

 誰か、少なくともフィリップ以上には強力な、欲を言うならミナくらいに強い助っ人が要る。

 

 ルキアとステラは論外だ。

 今はまだ一日に3~6時間ほど起きていられるが、いつ昏睡状態に陥るかも分からない二人を連れて行って、守り切れる自信は無い。

 

 衛士団も駄目だ。

 彼らを死なせないために、フィリップは今こうして知恵を絞っているのだから。

 

 冒険者に依頼を出すというのは、流石にちょっと現実的ではない。

 フィリップとて龍殺しが英雄譚に描かれるほどの難行であることは知っているし、依頼を出したところで「じゃあ俺が」と達成されることはないだろうと予想もつく。

 

 あと思い当たるのは、聖国の騎士王レイアール・バルドル。或いは魂喰らいの邪神マイノグーラ。

 彼女なら龍殺しくらい容易いだろうが、あれもナイ神父同様、フィリップの命令に唯々諾々と従うタイプではない。マザーが居てくれればと思う心はあるが、フィリップの前に姿を見せない時点で、彼女もナイ神父らと同じ考えなのだろう。

 

 「そうね……駄目」

 「……それは、どうして?」

 

 やはり龍と戦うのはミナでも怖いのだろうか。

 だとしたら無理強いは出来ないが、移動だけでもお願いできないだろうか。そんな甘いことを考えるフィリップだが、ミナの考えていることはそれ以上に甘かった。

 

 ミナは肩を竦めると、サイドテーブルに置かれた本を取り、フィリップの膝上であるページを開いた。

 彼女が先程まで読んでいた本のタイトルは、『ペットのしつけ』。彼女が開いた頁には『おねだりに応えすぎるのは良くありません。我慢を覚えさせるのも飼い主の務めです』と書いてあった。

 

 「……な、なるほど?」

 

 ──つまり、ミナの拒否に大きな意味は無い。

 

 「……危なくなったら、私を()()()もいいけれど、まずは自分でやってみて?」 

 「はーい……。……あ、ミナ、本を読むならお勧めが山ほどあるよ!」

 

 フィリップはぴょんとミナの膝から降り、手を引いて本棚の間を歩き始めた。あれとかこれとか、と、次々と冒険譚や児童書をミナの手に乗せていく様子からは、怒りや落胆は全く感じ取れなかった。むしろミナに好きな本を勧めることを楽しんでさえいるようだ。

 

 本で読んだからやってみる。ミナの拒絶はそれだけの理由だし、それ以上の何もない。

 

 そして、フィリップにもまた、それを厭う理由は無い。

 フィリップだって、自分の感情で動いている。「ルキアとステラを助けたい」という理由は、字面だけ見ると利他的で献身的な、聖人のような動機に思えるが──フィリップは自分が二人を助ける理由は、フィリップ自身の人間性のためであると自覚している。

 

 ミナが好奇心を理由に協力を拒否したからと言って、それを殊更に不道徳だとか、非情だとか詰ることは無かった。

 

 そもそも、フィリップは自分が死なないという確証を持った上で龍殺しに挑もうとしている。ルキアとステラは、もっと大勢の罹患者たちは、いつ昏睡して目覚めなくなり、いつ衰弱死するかも分からないというのに。

 

 覚悟も無ければ、恐怖も無い。

 ただ自分の感情に従って動き、その結果として誰かを生かし、殺すことがあったとしても、他人の命には興味を持たない。

 

 フィリップとミナは、結局のところそういう類の破綻者で、同類だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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271

 王都一等地、衛士団本部。

 本部とは名に冠するものの、建物の規模や装飾は一等地に並ぶには貧相で、二等地や三等地の詰所をそのままサイズアップしたような無骨なものだった。

 

 王宮で話し合いが行われた翌朝、衛士たちの中でも指折りの実力者たちが集められたのは、その衛士団本部。

 “眠り病”の大流行によって蔓延した死への恐怖から王都内の治安が多少なりとも悪化している現状では、時間も人員も余っているとは言い難い。それを押しての大規模招集に、集められた衛士たちも戸惑いを隠せないでいた。

 

 朝日も昇り終えた八時ごろ。

 本部の大講堂に集まった衛士たちは、同僚たちと招集理由について囁きを交わしていた。

 

 遂に大規模な暴動でも起きたか。はたまた“眠り病”の原因が分かったのか。或いはまたぞろ王都に潜伏している悪魔やカルトでも見つかったか。

 部屋の中にいるだけで首の後ろが焦げ付くような熱を持った戦意が、広い講堂の中に充満していく。

 

 一段高くなった壇上に立っていた衛士団長は、召集の掛かった衛士全員が揃ったことを確認すると、手を叩いて注目を集めた。

 

 「団員各位、傾注」

 

 多数の人間が一斉に踵を揃え、ざっ、と波打つような音がする。

 ほんの一瞬前まで部屋を埋めていた喧騒は、然して大きくもない一声で完全に消え失せた。

 

 「今回、我々に与えられた任務は、古龍の血液及び心臓の回収だ。検体の保管要員兼医療要員として、外部顧問のフレデリカ・フォン・レオンハルト殿が同行してくださる。期限は約二週間だが、早ければ早いほどいい。目的地は王都より北方約600キロ地点、ティーファバルト大森林の奥地だ。移動時間は約5日を想定している。第一種装備の着用許可が出た。各自、出発までにフィッティングを済ませるように。以上だ、質問は?」

 

 衛士団長が立て板に水に語り終えたあと、しばらく誰もが無言だった。

 

 自分たちの棟梁の顔を見て、隣にいる同僚(戦友)の顔を見て、天を仰いで、頭を掻いて、首を捻って、思い思いの方法で何とか無理矢理に思考を巡らせて。それでも、何度思い直してみても、やっぱり「死ね」以外の意味が汲み取れない命令に、衛士たちは揃いも揃って首を傾げた。

 

 「団長、遂に脳ミソまで筋肉になっちまったのか?」

 「そりゃ元々だろ。とはいえ、今度のは度が過ぎてるが……」

 

 ひそひそでは済まない声量で悪口が伝播していくが、彼らに悪意はない。呆れたような声ではあったが、彼らはみんな、上官のそういうところが気に入っていた。

 

 それに、命令の内容が荒唐無稽すぎて現実感が無い。

 何かの冗談か、遠征訓練用の命令書の「訓練用」という部分を読み落としているかのどちらかだろうと、誰もが苦笑と共にそう思っていた。

 

 だが、その疑念はすぐに払拭される。手を挙げて質問した一人の衛士によって。

 

 「団長、その命令は何処から?」

 「王宮──いや、国王陛下からだ。大陸全土に蔓延する“眠り病”の治療器具に、古龍の心臓と血液が必要となる。我々の目的はその確保だ」

 

 衛士団長は昨日の話し合いの内容をかいつまんで説明すると、再びの沈黙が講堂を支配した。

 命令の意味を理解して、それが何の冗談や間違いでもないと理解して、衛士たちの顔から一切の笑みが消える。呆れ笑いも、苦笑いも、全て。

 

 「……いや、無理でしょう」

 「確かに」

 「そうだ」

 「無駄死にもいいとこだぞ」

 

 誰かがぽつりと呟いたのをきっかけに、波のように否定の言葉が伝播していく。

 

 無理だ。勝てるはずがない。

 衛士たちは自分の実力をよく知り、その力に自信を持った精強な兵士たちだが、だからこそ、龍殺しの難しさを分かっていた。

 

 経験は無い。だが知識だけで、無理だと分かる。

 

 「……団長、アンタだって龍の強さは知ってるはずだ。先代でさえ、成龍とは互角以下、撃退するのがやっとだったんだぞ。俺たちだけで古龍を殺すなんて不可能だ」

 

 古株の衛士の言葉に、他の古参の衛士たちも口々に同意する。

 

 「全くだ。……王都を守るための壁、時間稼ぎだって謂うなら、まぁ、ギリギリ許せる。俺たちの死で、一秒でも王都の奴らが逃げる時間が稼げるってんなら、その一秒の為に死ねる。だが……これは違うだろ? これは、挑んで、死んで、それで終わりだ。これは犬死に、無駄死にだ」

 

 若手の衛士の言葉に、そうだ、そうだと、同意の言葉が次々に挙がる。

 衛士団長の翻意を促すというよりは、目的の無いただの意思表示。故にこそ、衛士団長には全く届かなかった。

 

 「馬鹿か、お前ら。陛下の命令とあらば徒死するのが兵士だ。指揮官に命じられたら犬死にの結果が見えていても従うのが兵士だ。それが嫌なら(アタマ)を獲るか、代案を出すかだが……お前らの中に、古龍の心臓無しで“眠り病”を治療できるって学者サマはおられるか?」

 

 軍紀に基づく道理を語る衛士団長。

 兵士としての心構えを叩き込まれている衛士たちは、その言葉に効果的な反論を見つけられずに黙りこくる。

 

 確かにそうだと、頭の中の冷静な部分は納得してしまったのだ。

 

 王の命は絶対である。

 そんなことは言われるまでもない大前提、基本的な道徳の領域だ。人のものは盗んではいけませんとか、人を殺すのはいけないことですとか、そんな次元の話だ。

 

 しかし、それでも──当たり前のことだが、無駄死には嫌だ。

 守るべきものを守って死ぬために、守りたいものを死ぬ気で守るために衛士団に入ったのだ。その結末(徒死)だけは受け入れられない。

 

 そんな衛士たちの想いを知ってか知らずか、衛士団長はポリポリと頭を掻いて、どこか照れたように語る。

 

 「それに、まぁ、なんだ。……俺は、あのクソガキの為なら死んでもいいと思ってる。……カーター少年、覚えてるか」

 

 脈絡なく挙げられた名前に、衛士たちに困惑のささやきが伝播する。

 しかし全く知らない名前というわけではなく、むしろ直接の面識があるか、そうでなくとも報告書で一度は読んだことがあるはずの名前だ。

 

 「フィリップ君?」

 「あぁ、ジェイコブの班が助けられたっていう」

 「あ、前にタベールナで働いてた子か! 何度か喋ったことあるけど、衛士団に懐いてくれててかわいいよな!」

 「ゴエティアの悪魔を吹っ飛ばした子だろ? ……二等地と一緒に」

 

 一部の衛士たちが顔を綻ばせると、行動内の空気が少しだけ弛緩する。

 中には「魔術学院で楽しくやれてるかな」なんて、親戚のおじさんみたいな心配をしている者もいた。 

 

 衛士団長は言葉を続ける。

 

 「話し合いの場にはあの子もいた。両聖下と仲がいいそうだ。……あの子がな、言うんだよ。“僕が行きます”ってさ。友達を助けるのは僕だ、ってのは、あぁ、そりゃあ、とんでもなく高尚な意思だよなぁ。そう思って聞いてりゃ、あのクソガキ、二言目には“衛士団の皆さんを死なせたくありません”って言うんだぜ?」

 

 呆れたように笑う衛士団長だが、衛士たちは誰一人として笑顔を浮かべてはいなかった。

 むしろ、どこか落ち込んだような顔で俯いている者が大半だ。中には眉根を寄せ、口を引き結んだ険しい顔の者もいる。

 

 衛士団長は自虐的な笑みを浮かべて、また言葉を紡ぐ。

 

 「俺たちゃあ、あの子を守れなかった。クソッタレのカルトからも、あの悪魔からも。この前は、吸血鬼に攫われたそうだ。この王都で。いま医務室やら実家やらでぶっ倒れて寝込んでる、ウチの魔術師連中が対空監視してたはずの、この王都でだ」

 

 かつかつと衛士団長の靴が床を打つ音に、ぎちりと軋むような音が幾つも混ざる。衛士たちが握り締めた拳と、噛み締めた奥歯の音だ。

 

 「“無事なんだから良いだろ”なんて、砂糖菓子みたいに甘いこと言う奴はいねぇよなァ? お前たちが味わうべきは、噛み締めた唇から滴る血の味と、頭擦り付けた地面の泥の味だ」

 

 衛士たちは誰も、何も言わない。

 行きたくないとも、死にたくないとも、無駄死には御免だとも、もはや口に出来なかった。先程まで当然の権利のように叫んでいた言葉の全てが、恥の鞭となって彼らを打ち据えていた。

 

 「なぁ、何やってんだ、お前ら。世界で一番つえー軍隊、世界最高の兵士が、また助けてもらうのか? 病に倒れた仲間を、自分の家族を、次の主君となられる王女殿下を、人類の宝である聖下を、どうか助けて下さいって、あの子に縋り付くのか? ここで膝折って手ェ組んでお祈りして待ってるのか? ……それこそ、冗談だろ?」

 

 また笑うかに思われた衛士団長は、険しく眉根を寄せてにこりともしていなかった。

 

 「俺たちには義務がある。今度こそ俺たちが、この町で苦しんでる民を救う義務がある。──俺たちが守るべきで、守れなくて、守って貰った、あの小生意気なクソガキを、死んでも守り通す義務がある!」

 

 一瞬の空隙。

 衛士団長が息継ぎの為に意図せずして空いた、一瞬の沈黙。

 

 そこに、小さく囁くような会話が混ざった。

 

 「フィリップ君が戦うなら……あの子の召喚術があれば、古龍を殺せるのか?」

 「どうだろうな。でも、もしそうなら、彼の壁になるのは無駄死にじゃない。それを試して……たとえ無理でも、あの子だけは絶対に生きて返す。それが俺たちのやるべきことだろ」

 

 フィリップとは直接の面識はない二人の会話。

 ただ、守るべき王都の民を守れなかった。それなのに、戦友を助けられた。彼らとフィリップの関係性は、たったそれだけ。

 

 フィリップの召喚術が古龍相手に通用するかは分からない。そもそも、学院の授業を通して制御できるようになっているかどうかも分からない。

 

 だが、それでも──彼が行くというのなら、最低でも、彼を生きて返さなければならない。その確信だけが、胸に煌々と燃えていた。

 

 衛士団長は獰猛な笑顔を浮かべ、「死ね」と告げる。

 

 「……そうだ。死ね、お前ら。義務と名誉のために。守れなかった子を今度こそ守るって義務を果たすために、あの子に救われてばかりのクソカスの吹き溜まりじゃねぇってことを声高に叫ぶために死に征け! ……お前たちが、あの子の憧れる“王都衛士団”であるのなら」

 

 団長の言葉に、講堂に集まった全ての衛士が一斉に敬礼を返す。

 それは形式に倣ったものではなく、心の底からの、命令受諾の意思が籠った──任務完遂の決意に満ちたものだった。

 

 もう誰も、この先にある“死”が犬死であるなどとは思っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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272

 フィリップが仕方なく、衛士団が義務と名誉の為に決意を固めた、その日の夕刻。昨日と同じメンバーが、昨日と同じ王宮の一室に集められていた。

 

 フィリップの立ち位置は、昨日と同じくステラの後ろだ。昨日と違うのは、右手の宮廷魔術師と親衛騎士の並びの最前列、衛士団長の向かいとなる位置に座っているのが、騎士団長ではなくルキアだということ。たまたま彼女の見舞いに行って駄弁っている途中で呼ばれたため、一緒に来たのだった。

 移動の道中で、大体の事情は話してある。

 

 「……不満そうだな、ルキフェリア」

 「……そんなつもりは無いわ。眠たいからそう見えるだけよ」

 

 いつも通りの澄まし顔のルキアに、ステラが苦笑と共に呼び掛ける。

 応じるルキアは眉一つ動かさなかったし、フィリップや他の誰から見ても、ルキアの表情に不満の色は無かった。

 

 しかし最も付き合いが長く、親密さはともかく理解度では誰にも負けないと自負するステラに言わせれば、顔に明記されている。

 

 ……大方、フィリップが龍狩りなんて危険なことをするのに抵抗があるのだろう。

 しかし、それが自分やステラの為で、何よりフィリップ自身が言い出したことだから反対はできない。いや、反対するのは美しくないとでも思って我慢していると言ったところか。

 

 フィリップは邪神に守護されているとはいえ、相手は古龍だ。吸血鬼の方がまだマシな、正真正銘の怪物。この星の覇者。

 何かあるかもしれない。死に至らなくても、大怪我をするかもしれない。そんな心配が心の内に渦巻いているはずだ。

 

 ついこの前にフィリップが吸血鬼に拉致されて、多大な心労を負ったばかり。更には病気で心も体も弱っている。……傍に居て欲しいという心は、ステラにも理解できる。

 

 ──だが。

 

 「龍殺しは、成し遂げればそれだけで英雄と称えられる難行だ。あの召喚術を使えるカーター以外に、安心して任せられる者はいない。……それに、私は、命を任せるならこいつがいい。もし失敗しても、それならと受け入れられるだろう」

 

 合理と感情が、弱い心を押し流す。

 ステラにとってはそれが当たり前のことだし、そういう風に生きてきて、そう生きていくと決めた道だ。弱い心も、甘えも、計算の下に切り捨てる。

 

 たとえルキアの言葉でも、フィリップが行くというのなら止めさせはしない。それが戦略的最適解であるが故に。

 そんな決意を滲ませるステラの鋭い視線に、ルキアは絶対零度の視線で応えた。

 

 「私もそうよ。それで、その自己満足のためにフィリップを危険に晒すの? ……ふぅ。ごめんなさい、忘れて。横槍を入れるつもりは無いから」

 

 ルキアは溜息と共に、部屋の中を氷河に堕とすかのような怒気を霧散させる。

 世界最強の魔術師二人の睨み合いに、衛士と親衛騎士という最高峰の戦士たちが思わず身を竦ませ、宮廷魔術師たちは白目を剥いていたが、それもどうにか終わりを迎えた。

 

 「……聖下、娘が失礼を致しました」

 「殿下、娘の暴走をお許しください」

 

 国王と宰相が、それぞれルキアとステラに頭を下げる。

 ステラが片手で、ルキアが目礼で応じた。

 

 それでも何となく張り詰めた空気の中、フィリップが斜め前に座るステラの肩をぽんぽんと叩く。

 

 「……殿下、失敗前提みたいな言い方するの止めませんか? 龍殺しに三日、往復で十日なら、何とか二週間以内に間に合う計算なんですけど。ねぇ先生?」

 「え? あ、そ、そうね。今のお二人の症状から見て、昏睡状態に陥るまでそのくらいの猶予はあるはずよ」

 

 水を向けられたステファンが慌てつつ応じると、フィリップは「ほらね?」と言いたげにステラを見遣る。

 ステラが何も言わずに肩を竦めると、国王が小さく、宰相が口元を隠しつつも明朗に笑った。

 

 「はははは……豪胆というか、鈍感というか……君は、ルキアや第一王女殿下の“友達”なんだね。本当に」

 「え、はい、そうですけど……」

 

 楽しげに笑う宰相につられたか、フィリップの「何言ってるんだこの人」と言わんばかりの怪訝そうな顔が可笑しかったのか、大人たちに笑いが伝播していく。それで剣呑な空気は完全に吹き飛んだ。

 

 ステラはこほんと咳払いを一つ挟み、空気が弛緩する前に引き締める。

 これからするのは、それこそ王国の進退に関わるような大切な話だ。険悪な雰囲気である必要はないが、空気が緩み切ってしまうのは問題だった。

 

 「では、本題だ。昨日、カーターが一人で龍殺しに行くと言って、馬や食料の手配を王宮と公爵家で進めていたが、これは中止だ」

 「……はい?」

 

 淡々と、物凄いことを言い出したステラに、フィリップは思いっきり眉根を寄せて聞き返す。

 龍狩りの中止は、即ちステラ自身の死を意味する。それとも何か、魔力浄化装置の代わりになる代物でも見つかったのか。

 

 戸惑うフィリップに、ステラはにやりと意味ありげな笑みを向ける。

 

 「フィリップ・カーター単独での遠征は中止。衛士団による古龍討伐作戦への編入とする」

 「良かったじゃない。貴方、衛士団のこと──」

 

 ルキアもステラと同質の、子供に向けるような慈愛と揶揄を多分に含んだ微笑を浮かべる。

 フィリップは満面の笑みを浮かべて、もしかしたら飛び跳ねたりするのではないだろうかという懸念を抱きつつも期待していた二人だが、しかし。

 

 「──反対です」

 「……何?」

 

 フィリップはむしろ、眉を顰めて頭を振った。

 

 確かに、衛士団と一緒に戦えるなんて光栄なことだとは思う。彼らに憧れる者として、またとない機会を喜ぶ心もある。

 だが──今でなければ。相手が古龍でさえなければ。例えばショゴスくらいの、フィリップのウルミでもエンチャントがあればどうにか戦えるような低俗な相手であれば、喜んで轡を並べただろう。

 

 いや、召喚術が正常に扱えたなら、邪神が相手でも「僕が彼らを守るんだ!」なんて、無邪気に拳を握っていたかもしれない。

 

 でも、今は駄目だ。

 今のフィリップに、戦う力は殆ど無い。

 

 龍という特級の生物を前に、フィリップの本能はきっと全霊で生命の危機を叫ぶだろう。

 神経物質が大放出され、筋肉が硬直し、思考が過回転する。その中でも絶対に冷静な精神を使って邪神を召喚すれば、きっと、心の内にある“懇願”とやらも消え失せるはずだ。きちんとした外神の視座から、呼び掛けられるはずだ。

 

 だが賭けなのだ、これは。

 もしも邪神が従わなければ、フィリップの中に惰弱ありと認められたら、フィリップは生身で龍と対峙することになる。

 

 そうなったら、今度こそヨグ=ソトースの庇護を頼るほかない。ヤマンソを制御した時のように、龍の心臓と血液だけは残してくれることを信じて。フィリップの死を阻んでくれることを──外神への新生を以て守護と見做すような、大雑把な把握ではないことを信じて。

 

 そんな大博打に、衛士たちの命を賭けさせられるわけがない。

 

 「僕の召喚術は不安定で、今はまともに召喚することも出来ません。原因は分かっているので、行けば……戦闘状態で余計なことを考える暇が無くなれば、召喚は出来ると思いますが確証はありません。そんな賭けに彼らを巻き込みたくありませんし、僕の召喚物は周囲への影響がとても大きいので……殿下もルキアもご存知でしょう?」

 

 そうだな、なんて頷くステラに、フィリップは眉根を寄せたまま続ける。

 

 「衛士団の皆さんを死なせたくないから、一人で行こうとしてるんですよ? 僕が自分の手で……ではなくても、僕の召喚物のせいで殺すようなことになったら、本末転倒です」

 「……だ、そうだ。今回の命令は衛士団長の意見具申と自薦によるものだが、反論はあるか?」

 

 水を向けられた衛士団長は、はっきりと頷いた。

 すっと立ち上がった姿はしゃんと背筋が伸びていて、町民に親しまれる衛士ではなく、規律に支配された兵士の側面を強く感じさせる。

 

 「……はい、王女殿下。我々が赴くのは、まさにその彼の為であります。確かに、彼の召喚術の巻き添えで死ぬことは避けたいですが……失敗する可能性があるのなら、尚の事、同行すべきでしょう」

 

 彼は「暴走はともかく、失敗の可能性もあるとは知りませんでしたが」と苦笑する。

 しかしフィリップが「それなら」と言い募る前に苦笑を引っ込めて、真剣な表情でフィリップと目を合わせた。

 

 覚悟を決めた戦士が醸し出す、悲壮感とよく似た、しかし勇気と決意によって決定的な差異を持った覇気が迸る。

 

 「召喚術が成功したのなら、脆弱な術者を狙われた時に対処するため。失敗したのなら、何を措いても彼を生還させるため。我々は彼に同行したいと考えております」

 

 言葉を終えた衛士団長は、国王とステラに一礼して着席する。

 

 「……失敗することも考えての結論らしいが、どうだ、カーター?」

 「どうだって……いや、殿下──」

 

 貴女は何も分かっていないと言いたげに言い募ろうとするフィリップだが、しかし、ステラのものではない声によって言葉を遮られる。

 

 「──フィリップ君。君は、一つ勘違いをしているようだね」

 「……父上?」

 「君の召喚術は凄まじい破壊力だ。最上級攻撃魔術にも匹敵する。……だが、召喚物の制御が甘く、不安定だという。──そんな君と、我が国が擁する最高の兵士たち。どちらの言葉が重いと思う?」

 

 「やさしいおじさん」の仮面を被ってはいたものの、明らかに叱責の色を孕んだ言葉に、ステラが怪訝そうに声を上げた。

 しかし国王は娘を片手で制して、穏やかな微笑のまま続ける。

 

 疑問形ではあったものの、明らかに回答を求められていないし、そもそも誤解のしようがない。

 

 フィリップか、衛士か。

 12歳の子供か、王国最強の兵士たちか。

 

 そんな二択なら、誰もが迷うことなく後者を選ぶ。

 

 「君はステラやサークリス聖下の友達だが、それだけだ。王族の決めた命令に逆らうことはできない。そして私は国王として、父として、次期女王である娘が助かる可能性、作戦が成功する可能性が最も高くなる人員を派遣する」

 

 身分の格差を強く意識させるような──ともすれば三人の関係性に亀裂を入れかねない発言に、ルキアが柳眉を逆立てる。

 父親である宰相が小さく首を振っていなければ──いや、その意味ありげな微笑に気を取られていなければ、ルキアが何か言う方が、フィリップが言葉を紡ぐより早かっただろう。

 

 「つまり、決定事項と?」

 「その通りだ。作戦の中枢はあくまで衛士団、その武力だ。君の召喚術は撤退さえままならない壊滅状態に陥った場合にのみ使用を許可する」

 

 口調こそ硬いものの、国王の表情は柔らかな微笑だ。有無を言わさぬ雰囲気のようなものはない。或いは、フィリップが感じ取れないだけかもしれないが。

 

 「……」

 「……私も陛下に賛成だ。カーター、以前に私が言ったことは覚えているな? ほんの少しでも、お前の人間性が失われる可能性は許容できない」

 

 判断を仰ぐようにステラを窺うフィリップに、少しの思考の後で深い頷きが返される。

 

 ステラがそれでいいというのなら──フィリップが知る中で最も正しい判断をするであろう彼女がそういうのなら、フィリップにも否やは無かった。

 

 「……はい、殿下。……僕も、衛士団と一緒に戦えるのは素直に嬉しいですからね。よろしくお願いします、衛士団長」

 

 小さく肩を竦めて一礼したフィリップに、衛士団長はいつか見たように豪快に笑った。

 

 「ははは! うむ、よろしくな、少年!」

 

 

 

 

 

 

 



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273

 話し合いの裏で遠征の準備は恙なく進んでおり、出発まで一時間となった夕刻。

 ステラとは「行ってきます」なんて笑って別れたフィリップは、沈痛な面持ちで公爵家別邸の一室にいた。ルキアの寝室だ。

 

 普段は外にアリアが立ち、中にはメグが控える重防御の部屋に、今はフィリップとルキアの二人きりだった。

 

 いや、意識があるという条件を付けると、フィリップだけか。

 

 ルキアは寝間着に着替えさせられて、ベッドに横たわっている。既に意識は眠りの奥底へと落ち、フィリップが手を握った程度では目覚めそうになかった。

 

 ルキアが倒れたのは、つい先ほど。フィリップと一緒に公爵邸まで馬車で帰ってきて、ちょうど降りたタイミングだった。

 “眠り病”の流行当初には王都のあちこちでちらほらと見られた、発作的な睡眠。昏睡ではないし、唇を噛むとか頬を叩くとか、その程度の外部刺激で起きることもある。

 

 ただ──目の前でルキアの身体が揺らぎ、銀色の髪を遅れさせながら倒れていく光景は、物凄く心臓に悪かった。

 

 フィリップにとって“眠り病”の存在を示すのは、タイミングが悪いと従者や使用人から告げられる「お休みになられています」という言葉と、会えない寂寥感だけだった。

 しかし目の前で人が、それもルキアが突然倒れるところを見ると、強烈な実感が湧いてきて恐怖してしまったのだ。

 

 人間は弱く、脆い。

 倒れた拍子に頭を打っただけでも、十分に致死の可能性がある。二度と目覚めぬ昏睡を齎す病に侵されているのだと思うと、血の気が引くような心配が募る。脆弱な劣等種への自虐的嘲笑以上に。

 

 この世界が泡のようなものだとは知っている。

 人間一人の命なんて、その中でも殊に儚い泡沫だ。

 

 でも、それでも──ルキアには生きていてほしい。

 幸せな無知の中で死んでくれと、今までは思っていた。それだけでいいと思っていた。

 

 でも駄目だ。それでは足りない。

 もっとずっと長生きして、素敵な旦那さんを見つけて、元気いっぱいな子供を作って、子供が大きくなるのを見届けて、孫とか、もしかしたら曾孫と一緒に遊べるくらいに健康に過ごして。それで──ちゃんと、本当の意味で幸せに死んで欲しい。

 

 フィリップは知らずルキアの手を握り締め、そう祈りながら額に当てていた。

 

 宛先も無い祈りは、ほんの一瞬で終わる。

 

 ……もう、行かなくては。

 衛士団はよく訓練された正規の軍隊だ。フィリップが荷物を用意するのと同じかそれ以上のペースで準備しているかもしれない。

 

 「……絶対。絶対に、龍の心臓と血を取ってきます」

 

 眠りから体温の下がった手を放し、そっとシーツの中に仕舞う。

 もっと大切なことが、もっと沢山のことが言いたかったのに、結局、口から出たのはそんな飾り気のない言葉だけだった。

 

 せめて胸の内で蟠って燻ぶる、言葉にならない思いを込めて、遠征が成功するように祈っておく。宛先は、まぁ、ルキア本人でいいだろう。聖人も神も同じ泡だ、大差はない。

 ──いや、ここはルキアの無事をステラに、ステラの無事をルキアに祈れば、祈りの流転で無敵なのではないだろうか。気持ちの上では。

 

 「……ふふっ。行ってきます、ルキア。帰ってきたら、この最強理論の話もしましょう。土産話も、きっと沢山あります」

 

 自分で自分の馬鹿みたいな考えに笑ったフィリップは、安らかな寝顔を崩さぬよう、顔にかかる銀糸のような髪を撫でるように整える。そしてルキアの寝室を出て、そのまま公爵邸を後にした。

 

 

 ◇

 

 

 その足で衛士団と合流したいところだったが、フィリップにはまだやるべきことがあった。

 王都に巣食う──フィリップが連れて来た吸血鬼の、食料問題の解決だ。

 

 ミナが食事抜きで耐えられるのは、大体三日くらい。

 フィリップが二週間くらい留守にすることを考えると、もう全然足りないというか、帰ってきたら王都が滅んでいてもおかしくない。流石のミナも二週間そこらで大規模都市一個を食い尽くすほど大食いではないが、「やっぱり人食いの化け物じゃないか! 退治しろ!」と、町人有志で構成される自警団や、王都防衛に残った衛士団、貴族の私兵などが襲い掛かるだろう。

 あとは、食後の微睡を邪魔されたミナが不機嫌そうに魔剣を抜いて、一掃だ。

 

 ルキアもステラもヘレナも病に侵されている今、彼女を止められる者は誰もいない。

 ミナに支配欲や自己顕示欲のような面倒な欲求が無いのが救いだった。

 

 「しかしミナが見つからない……」

 

 どうせここだろうと学院の図書館を訪れたフィリップだが、彼女がいつも座っている辺りには居なかった。

 

 一応、その気になればフィリップの下へ強制的に呼び出すことも出来るのだが──フィリップは馬鹿だが経験からは学習できる。水浴び中とかだったら、ミナはともかくルキアとステラに滾々とお説教されるのでやめておく。あの死ぬほどいたたまれない空気は二度と御免だ。

 それに、ここは図書館だ。水気は厳禁である。

 

 「……ん?」

 

 いつもの癖で本棚の間を回遊していると、そのコース上に見慣れた後ろ姿を発見する。

 夜闇より深い色の長い黒髪と、その間から先端が覗く特徴的な形の耳。学院の図書館には不釣り合いなコルセットドレスと、血溜まりを歩くためのハイヒール。ふと本棚に目を留めた横顔には、ぞっと背筋が凍るような人外の美が宿る。

 

 「あぁ、ミナ。……この辺りに居るの、珍しいね」

 

 軽く手を振りながら本棚の間を歩くフィリップ。このコースは、図書館に来た時はいつも通る道──児童書の並んだエリアだった。

 ミナはフィリップの声に振り返ると、柔らかに微笑する。

 

 「フィル。どうしたの? 今日が出発じゃなかったかしら?」

 「うん、そうだよ。だから……はい、これ」

 

 フィリップは肩に掛けていた鞄を外すと、取り落とさないようしっかりと掴んで渡す。

 鞄が揺れると微かに、からん、と澄んだ音がした。

 

 「これは?」

 「お弁当だよ。ステファン先生に、特殊な瓶に僕の血を入れて貰ったんだ。これで二週間分だから、ちゃんと配分して飲んでね。開けたらすぐに飲み切らないと劣化するんだって」

 

 ミナが受け取った肩掛け鞄を開けると、中には確かに、赤い液体の入った小瓶が並んでいる。一瓶あたり、ちょうどミナの二口分といったところだ。

 

 「確かに二週間くらい持ちそうだけれど、きみは大丈夫なの? 結構な量なのに、体調を崩したりしてない?」

 「うん、大丈夫。失血しないよう、先に先生に薬を貰ったから。……あ、味が変わってたらごめんね? 二週間だけ我慢して」

 

 フィリップの言葉に軽く眉を顰めたミナは、瓶を一つ取り出して鼻先に滑らせる。しかし中の血液が空気に触れないよう完璧に密封されているから、匂いは全く感じれらなかった。

 

 「……まぁ、いいわ。行ってらっしゃい。どうにもならない場面になったら、私を呼びなさい」

 「いいの? ありがとう。じゃあ、龍を殺したら心臓と血だけ持って帰って貰うかも。ミナも飛べるんでしょ?」

 「それは「どうにもならない」の範疇に無いわね。……間に合わないとなったら、呼んでいいわよ」

 

 苦笑するミナに「行ってきます」と手を振って、フィリップは図書館を出る。

 

 広い学院の敷地を横切って正門を潜ると、既に準備を完了したらしい衛士団の迎えが来ていた。

 元々人気の少ない一等地の道の真ん中に、二頭の立派な軍馬と、一人の鎧騎士がいる。いや、騎士爵位を持った「本物」ではないのだが、錬金素材と付与魔術によって淡い燐光を纏う全身金属鎧(フルプレートメイル)にフルフェイスヘルム、そして腰に佩いた長剣という要素は、まさしく英雄譚に登場する騎士の姿だ。

 

 「お待ちしていました、特別協力者のフィリップ・カーター殿ですね。衛士団遠征隊は既に、王都門外で待機しています。すぐに合流しましょう」

 「はい、了解です……あの、すみません、どこかでお会いしましたか?」

 

 フルフェイスヘルムでくぐもった声だが、妙に聞き覚えがある。

 もしかして以前に世話になったうちの誰かか、タベールナに泊まっていた誰かだろうか。そんな予想と期待を込めた問いに、衛士は快活に笑ってヘルムを取った。

 

 「……あぁ。久しぶりだね、フィリップ君」

 「ジェイコブさん! お久しぶりです!」

 

 ヘルムの下から出て来たのは、フィリップがよく覚えている強面だった。王国人にありきたりな金髪碧眼だが、片眉に傷跡がある。

 

 握手を交わして再会を喜ぶフィリップに、相変わらず子供に泣かれているらしいジェイコブは嬉しそうだった。

 

 「今回の遠征には俺の班も参加するんだ。知った顔もあると思うから、後で話しかけてやってくれ。みんな、君にお礼を言いたがってたからね」

 「そうなんですね! え? でも、お礼なら前に……」

 

 悪魔討伐や応急処置による人命救助に関するお礼なら、彼らの治療が終わったあとすぐに貰った。

 快気祝いのパーティーに、部外者のフィリップまで呼ばれたくらいだ。

 

 もう一年以上前のことだし、これ以上の礼は必要ない。少しの照れも交えてそう伝えようとすると、ジェイコブはそうじゃなくて、とはにかみながら否定する。

 

 「今回のことさ。団長から聞いたよ、俺たちを死なせないために戦おうとしてくれたんだろ?」

 「あー……まぁ、その、はい。衛士団を舐めてるわけじゃないんですけど、やっぱりドラゴンは厳しいかなって」

 

 組んだ手指をもじもじと動かすフィリップは、もしかしたら衛士団を不快にさせてしまったのではないかと危惧していた。

 彼らは軍学校の成績上位卒業生と元Aクラス冒険者のみで構成される、王国最強の兵士たちだ。いくらなんでも、12歳の子供に舐められていては面子が立たないだろう。

 

 しかし、ジェイコブはあっけらかんと肯定した。

 

 「あぁ、厳しいね。ドラゴン相手で勝てそうなのは、先代の団長くらいだ。その人も今は隠居してるし、勝ち目は薄いよ」

 「……だったら」

 「だったら逃げろ、なんて言わないでくれよ? 俺たちは──って、この話は後にしよう! 他の皆が待ってる!」

 

 言いかけたフィリップを遮るジェイコブだが、自分の言葉も教会の鐘によって遮られる。時報であるそれは、出発予定時刻まで間もないことを示していた。

 

 もう夕刻、じき日没だ。

 月明りがあるうちは進む旅程だが、ここで遅れるのは得策ではない。

 

 ジェイコブは慌てて軍馬に駆け寄り、鎧姿にも拘わらず軽快な動きでひらりと跨る。

 彼の相棒は「待たせやがって」と言わんばかりに勇壮な嘶きを上げ、今にも駆け出しそうだ。

 

 「さ、急いで、フィリップ君! 遅れたら腕立て伏せかもしれない!」

 「え、罰則!? それは嫌ですね!」

 

 フィリップも慌ててもう一頭の軍馬に駆け寄り──「嘘だよね……? 乗らないよね……?」とでも言いたげな、つぶらな瞳の訴えを無視した。

 

 そして駆け出す、二頭の軍馬。

 

 その駆ける姿は、鼻先にニンジンを吊るされた馬、ではない。むしろその逆、背中にぴったりと肉食獣が張り付いたような状態で、馬のストレスはとんでもないだろう。

 明らかに平常ではない、恐怖でペース配分と正しい走行姿勢を忘れた馬を、ジェイコブの手も借りながらなんとか宥めすかして王都を駆ける。

 

 あと五日耐えてくれるといいのだが、最悪、どこかの駅で別の馬に換える必要があるかもしれない。

 訓練されていない、軍馬でもないただの馬や輓馬では、長距離の団体行軍には不向きだろうが仕方ない。馬を何頭使い潰してでも、必ず二週間以内に龍の心臓と血を持ち帰らなくてはならないのだから。

 

 王都を駆け抜け正門を潜ると、街道から逸れた場所に鎧を着た一団が待機していた。

 

 「遅れて申し訳ありません! 特別協力者をお連れしました!」

 

 半ば怒鳴るような大声で報告したジェイコブに、一団がじろりと睨め付けるような一瞥を寄越す。

 ヘルムを付けていない者は誰も彼も強面──というか、厳しい訓練と豊富な戦闘経験によって贅肉を削ぎ落され、戦闘に慣れた者が持つ特有の空気を放っていて、なんとなく近寄り難い。すみません間違えました! と回れ右したくなるような威圧感さえあった。

 

 そんな彼らは、ジェイコブが連れたフィリップに目を留めると、意外にも相好を崩した。

 

 「お、フィリップ君じゃないか! 久しぶりだね!」

 「やっと来たか! 俺のこと覚えて……ないよな! あとで自己紹介するわ!」

 「君がカーター君か! 色々と聞いてるぜ! 今回はよろしくな!」

 「あ、あの、えっと……」

 

 フィリップを馬から引きずり下ろしそうな勢いで寄ってきた男達に、思わずあわあわと慌ててしまう。フィリップを取り囲む衛士たちの中にはヨハンもいたが、ヘルムのせいで分からなかった。

 

 胴上げさえ始まりそうなちょっとしたお祭り騒ぎとは別に、遠征準備の最終確認をしている衛士たちもいる。その中には、特殊な機材の取り扱いや運搬方法について摺り合わせているフレデリカの姿もあった。

 

 「各員整列!」

 

 フルフェイスヘルム越しにも耳が痛くなるほどの声量で、首筋が焦れるような覇気のある声が轟く。フィリップがよちよちと拙い手つきで馬から降りる頃には、衛士たちは全員が彼の後ろに整列していた。

 

 派手な鎧の男がヘルムを取ると、やはり衛士団長だった。

 彼はニカッと歯を見せて、粗野ながら快活そうな笑顔を浮かべる。その双眸には、闘いに赴く戦士が纏う、覚悟と勇気に満ちた輝きが宿っていた。

 

 「衛士団の精鋭50名、それからもう一人の外部協力者、フレデリカ・フォン・レオンハルト殿だ。我々一同、君を歓迎する。……よろしくな、カーター少年!」

 

 ざっ、と音を立てて、衛士たちが一斉に敬礼する。その統率の取れた動きと厳格な規律を感じさせる立ち姿に、思わずほうと溜息が漏れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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274

 衛士団との旅程は実にスムーズで、その代償のように過酷だった。

 休憩時間と睡眠時間を極限まで削り、王都北方約600キロ地点に広がるティーファバルト森林までを5日以内に駆け抜ける。

 

 フィリップは人生二度目の乗馬──初回がレイアール卿の愛馬、いや馬に見えるだけの神話生物、ティンダロスの交雑種であったことを加味すると、これが初の乗馬となる。到着する頃には当然、極度に疲弊していた。

 

 王都出発から五日。正確には四日と半日ほどかけて到着した時には、ようやく朝日が昇り始めるという時間帯だった。

 

 「ここを前線基地とする! 斥候兵、古龍の詳細位置と周辺地理を探れ! 他はベースキャンプの設営と水源確保、食料調達! 終わったら速やかに体力を回復しろ!」

 

 団長の指示に従い、衛士たちが作業に取り掛かる。

 その動きは強行軍の直後とは思えないほどきびきびとしていて、フィリップのテント設営まで手伝って貰ったくらいだ。野外訓練やら何やらで慣れているから迷惑はかけないぞ、なんて思っていたのだが、流石に本職の動きは素早く正確だった。

 

 フィリップも何か手伝おうとうろうろしていると、シャツの裾をちょいちょいと引かれる。

 もはや慣れ親しんだ感触に振り返ると、やはりシルヴァが、翠玉色の瞳を輝かせて森の方を指していた。

 

 「ふぃりっぷ、もりみにいこ!」

 「え? いいけど……行って何するの?」

 「ん? みるだけ」

 「あ、そう……」

 

 こんなにのんびりしていていいのだろうかという思い半分、せめて神話生物がいないかどうかの確認くらいはしようという使命感半分に、楽しそうに駆け出したシルヴァに続く。

 森に入る前に祈りを捧げているところを、何人かの衛士たちが感心したように見ていた。シルヴァは「何やってんだよ早くしろよ」と言いたげなジト目だったが。

 

 ティーファバルト森林は典型的な極相林で、背の高い木々が深い影を作り出し、その傘の下に少し小さめの木が並んでいる。

 フィリップの背丈を完全に覆い隠すほどの藪なんかもあり、所々に獣道も見て取れる。近場に集落は無いはずだが、木の幾つかに迷子防止用のような傷跡があった。

 

 傷跡は妙に複雑な模様だったが、かなり古いもののように見て取れる。邪悪言語に類するものではなさそうだし、昔にこの辺りで野営した旅人の手慰みか何かだろう。

 

 「まあまあふるいもり。ななひゃくねんぐらい」 

 「ピンと来ない規模だなぁ……」

 

 きょろきょろと周りを見回してみるも、特に長い年月を経た証のようなものは見受けられない。地元の森よりちょっと深いかな? くらいのものだ。

 ……いやしかし、言われてみれば木々の樹皮に皺が多く、なんとなくお年寄りっぽい、威厳のようなものも感じ取れる気がする。

 

 「ふむ、これが700年の存在格。古龍と同じくらいか……」

 「そのきはよんじゅっさいぐらい。ぜんぜんわかぞう」

 「……あ、そう。じゃあ何も分かんないや」

 

 フィリップは照れ笑いなど溢しつつ、何か役に立つものや情報は無いかと、注意深く辺りを探ってみる。

 やはり、ぱっと目に付くのは自然に折れた枝や、獣の通過やマーキングで剥がれた樹皮といった薪類だろうか。それとも、キイチゴっぽい果実とか、よく分からないヤシっぽい木の実などの食料の方がいいのか。キノコは駄目だろう、フィリップにはこの森に生えているキノコの知識がない。

 

 ここは無難に薪でも拾っておこうと、良さげな枝や樹皮をポケットに詰め込んでいくフィリップ。シルヴァは高めの木にするすると登って、枝から枝へと跳んで遊んでいた。

 

 「……いいかんじのもり。よけいなものがすんでない。こっちらへんにはりゅうがいるから」

 「黒山羊とか、ショゴスとかはいない?」

 「いない。ちょっとむこ──う?」

 「落っ──!?」

 

 集めた落ち葉くらいの体重しかないシルヴァは細い枝の上でも折ることなく駆け回れたが、足を滑らせてしまえばどうしようもない。

 かなりの高さから落ちてきたシルヴァに、フィリップは血相を変えて落下地点へ駆け寄る。拾い集めた薪を無造作に投げ捨てて構えた直後、落ちて来たシルヴァの矮躯が、ぽすりと異常に軽い手応えと共に腕の中に納まった。

 

 「び、びっくりした……」

 「しるばも。こんなたかさからおちたくらいのしょうげきで、もりはきずつかない」

 「あ、そっか。つい咄嗟に……」

 

 照れ笑いを溢すフィリップに気を遣ってか、シルヴァは「でもありがと」と笑った。

 

 散らばってしまった薪を二人で拾い集めていると、遠くからフィリップを呼ぶ声がする。

 ベースキャンプへ戻ると、斥候に出ていた衛士が帰ってきて、情報共有や作戦立案をしているところだった。

 

 誰が自分を呼んだのだろうときょろきょろしていると、衛士たちが集まっているのとは別のところからジェイコブがやって来た。

 

 「あぁ、フィリップ君、ここに居たんだ! それは……薪か、ありがとう、助かるよ!」

 

 フィリップがポケットと両手いっぱいに持ってきた薪を、ジェイコブは片脇にひょいと抱えて受け取ってくれた。流石に体格が違うなぁなんて憧れの視線には気付かず、余った手で集まっている衛士たちの方を示す。

 

 「あれはもう見たかい? 偵察に行った奴らが、龍の鱗を拾って来たんだ」

 「ドラゴンスケイル!? まだです、見てきます! 行こうシルヴァ!」

 

 物語などでは英雄の鎧を織る材料の一つとして有名な希少素材に、フィリップのテンションが跳ね上がる。

 シルヴァも妙に見覚えのある興奮した様子のフィリップにつられたか、笑いながらその後に続いた。

 

 フィリップが来たことに気付いた衛士たちは、ぞろぞろと道を開けて、件の龍の鱗を見せてくれる。

 

 それは一見すると茶色っぽくて、掌より少し大きいくらいの落ち葉に見えた。

 大きさは三十センチ弱といったところか。鱗を持った衛士がもう片方の手に持っているナイフと同じくらいで、光が反射しないよう加工された金属と似た質感がある。外傷は無いし、生え変わりか何かで自然に抜け落ちたものだろう。

 

 「お、フィリップ君。持ってみるかい?」

 「いいんですか? じゃあ是非……おぉ、軽い!」

 

 サバイバルナイフどころか、食器のナイフよりもなお軽い。厚さは一センチくらいだが──物凄く硬い。端を持ってみても撓んだりしないし、真ん中に力を込めてみても曲がる気配はない。

 

 冒険譚で描かれる想像通りの質感に、歓喜と共に不安も湧いた。

 物語などに於いても、前情報でも、龍の鱗はどんな剣よりも硬く強靭だと言われている。こんなもので全身を覆っているのなら、フィリップやシルヴァとは別種の、物理的な無敵状態だろう。

 

 「これ、剣で傷付けられるんですか?」

 「そう。その実験を、これからやるところだったんだ。……よし、行くぞ」

 

 衛士は鱗を地面に置き、剣を抜く。

 付与魔術や最高級の錬金金属を使った武具は淡い燐光を放つものだが、斥候である彼の剣は、その輝きを消すような魔術も施されていた。濃紺の刃は夜闇の中で浮かないようにという配慮だろうが、更に上から緑や茶色のペンキが塗られている。森林用の迷彩だろう。

 

 「……これで通らなかったら、団長の剣で試すか」

 「縁起でもないこと言うなよ。その時は俺たち全員、木の棒持って突撃するのと変わらないってことだぜ?」

 

 衛士たちが固唾を呑んで見守る中、剣の切っ先が突き立てられ──ざく、と地面に突き立つ音がした。

 

 「……おっ?」

 「なんか、意外と……」

 「()けたな……」

 

 持ち上げられた剣には、串焼き肉のように鱗が刺さっていた。そーっと引っ張ると、刃部に沿って鱗がすっと切れていく。

 

 「……これ、行けるんじゃないか?」

 「あぁ、行ける、行けるぞ!」

 

 にわかに高まった成功の可能性──生還ではなく、本当に衛士団の力で龍を殺せるかもしれないという現実に、衛士たちが色めき立つ。

 

 両手を天に突き揚げて吼えている衛士もいて、なんだなんだと他の衛士たちも寄ってくる。そして当然のように、彼らも歓喜の咆哮を上げる一団に加わった。

 

 「……すごいや、流石だ」 

 

 剣が通る。

 いま判明している良い要素は、たったそれだけだ。

 

 相手は十数メートルの体躯と数十トンの重さを持つ、動く家だ。飛んで攻撃してくることも考えると、飛ぶ攻城塔とも言える。

 

 そんな相手に斬撃が通用するといっても、だから何、という話だろう。こちらにいる魔術師は治療術師が大半で、攻撃魔術による火力支援は見込めない。それなのに──刃が通るなら勝てると言い切る、その練度と自信には称賛の念を禁じ得ない。

 

 「よし……! 団長に報告して、詳しい作戦を練ろう! これなら、フィリップ君を危険に晒さずに済むかもしれない!」

 

 そこから先は早かった。

 フィリップも衛士たちと一緒になって、自分が最大限戦局を把握できる位置に配置されるよう出来る限りの弁舌を振るい、なんとか陣形中段の辺りを勝ち取った。フィリップの直掩──万一の場合にはフィリップを担いで逃げる役──には、馴染みの深いジェイコブとヨハンが指名された。

 

 そして日没を待ち、夜襲を決行する。

 月と星の明かりはあるものの、森の中は木立さえ見えないほどに暗くなる。夜目を鍛えていないフィリップには、錬金術製の特殊な目薬が支給された。

 

 薄緑色の視界の中、隆起した木の根や深い藪を物ともせずに進む衛士たちの背中を懸命に追いかける。

 夜行性の獣、特に蛇や狼なんかに警戒するよう言われたが、歩く獣避けことフィリップが居るので問題なかった。伊達にこの四日で馬を三度も乗り換えていない。

 

 そして──森の奥深く、巨大な生物が寝床にして拓けた場所、ギャップへと辿り着く。そこには巨大な龍が眠っていた。

 

 全身を錆色の鱗で覆った、四足歩行の巨大獣。

 身体を丸めて眠る様子は遠目には可愛らしいが、距離が近付くにつれて、二等地の一般家屋二棟と同じかそれ以上の大きさを実感する。その威容に、周囲に並ぶ木々の幹より数倍は太い四肢に──自分の何十倍も大きく強い生き物に、全身が不随意に硬直する。

 

 背中の翼は畳まれていてもなお存在感があり、広げれば龍自身の全長にも匹敵する大きさだろう。四肢を飾る爪や長い尾に生え並ぶ鋭い棘は、フィリップの背丈にも並ぶ巨大な剣だ。

 

 腕の一閃、尾の一振りで人間は死ぬ。

 両断、串刺し、圧壊。そんな殺意に満ちた死に方をするだろうに、龍にとっては歩くだけとか、或いはなんとなく尻尾を振っただけかもしれない。

 

 「……フィリップ君、大丈夫か?」

 「怖いならもう少し下がっても良いぞ?」

 「っ、あ……はい、大丈夫です」

 

 フィリップの後ろを歩いていたヨハンが先に、その声で前を歩いていたジェイコブがその声で、フィリップの怯えに気付く。尤も、怯えているのは身体だけで、精神の方はむしろ英雄譚の登場キャラクターに会えたと興奮しているのだが。

 

 もう少し進むと、ジェイコブのさらに前を進んでいた衛士が握り拳を頭の横に掲げた。「止まれ」の合図だ。

 衛士たちは即座に木の幹や藪の陰に身を隠し、そっと龍の様子を窺う。

 

 「──、?」

 

 眠っていた龍が唸り声を上げ、閉ざされていた目蓋と瞬膜が開き、縦長の瞳孔が周囲を睥睨する。ゆっくりと鎌首をもたげると、頭蓋の両側面に付いた双眸は真後ろ以外のほぼ全周を観察できる。さながら監視塔だ。

 

 木々の陰に身を潜める衛士たちは、息を殺してピクリとも動かない。

 龍は、この星の頂点捕食者だ。防衛本能はあるだろうが、外敵から身を守るという習慣は無いはず。物音や気配で目を覚ましたからといって、警戒のために飛び立つようなことは無いはずだ。というより、そう願うほかに無い。

 

 作戦はこうだ。

 まず衛士の中で一撃の威力に長けた衛士団長ともう一人が、龍の翼を落とす。次にタンクが展開して龍の気を引きつつ、弓兵が目を狙う。翼を捥いで目を潰せば、あとは囲んで殴るだけ。

 

 シンプルイズベスト。結局は囲んで殴り殺すのが手っ取り早い。筋肉は全てを解決する。

 そんな感じの作戦には苦笑も多かったが、飛ばれたら終わりで、敵と認識され排除行動を取られても終わりなのだ。拙速こそが唯一の活路だった。

 

 「っ、団長が動いた! 作戦開始だ!」

 

 ジェイコブの言葉に、フィリップは懸命に夜闇を見通そうと目を凝らす。薬の影響で薄緑色の視界の中、龍の爪ほどの人影が二つ、駆け出していくのが見えた。

 

 

 

 

 




 最近やってないからクレクレしていいか?
 感想・高評価よろしくお願いします! 既にしてくれた方はありがとうございます!

 あとカクヨムでギフトくれた方、カクヨムの機能に不慣れすぎてどこでお礼すればいいのか分からないので、またサイト外でになりますが、ありがとうございます! 


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275

 衛士団長にとって、龍は憧れの存在だった。

 フィリップのように、英雄譚の名悪役としてではない。彼にとっての龍とは、強大な敵であり、超えるべき壁だ。

 

 師であり、自分より強いと認める先代衛士団長でさえ、撃退するのがやっとだった龍。その強さへの畏怖は、乗り越えたいという渇望を生み、自己研鑽へのモチベーションになった。

 退職したらどこかの龍を殺しに行こうと密かに計画しているほど、憧れは強い。それは兵士を辞めたら死にに行くということなのだから。

 

 「……っ」

 

 衛士団長は真っ暗な森を、鍛えた夜目を頼りに疾駆する。

 ちらりと横に一瞥を呉れると、一撃の威力に於いては自分にも並ぶと信頼する部下の姿が見えた。

 

 「行くぞ──龍を、堕とす!」

 

 速力を全開に。動きの流れに淀みを作らず、助走の勢いと体重の全てを、剣の物打ちへ収束させる。

 腕には最低限の力だけ。剣を握る手指にさえ、把握に必要な分だけを込める。剣を振り下ろすのは腕力ではなく、全身の骨と筋肉の連動によって。

 

 刃を立て、翼の付け根に狙いを合わせる。

 肩甲骨を回し、体の軸と体重の移動を以て剣を振り下ろした。

 

 ──直後。

 ぎち、と。未だかつてない、不可思議な手応えを覚える。

 

 「何ッ!?」

 「──!?」

 

 驚愕の声を漏らし、咄嗟に龍の翼を踏みつけて後ろ向きに跳躍する。視界の端で、全く同じ感触を得た衛士が、全く同じ判断をしているのが見えた。

 

 それはいい。

 問題は足元。衛士団長たちと同じように、驚愕に目を見開いている古龍だ。

 

 彼にしてみれば、自分を傷付けることはできないにしろ、掌大の虫が跳びかかってきたに等しい状況だ。怯えはしないだろうが、戸惑いは大きいだろう。──斯様に脆弱な生き物が、何故態々襲い掛かってきたのか、と。

 

 そして、龍は往々にして気性の荒い生き物だ。外敵に対して情けをかけることは滅多にないし──そもそも、眠りを妨げられた動物がどういう反応をするかなんて、龍に限ったことではない。

 

 「──!!!!」

 

 耳を劈く咆哮が上がる。

 木々を、大地を、大気を震わせる大音響に、フィリップと衛士たちは思わず耳を塞いで身体を固くする。

 

 単なる音ばかりではなく、巨大獣の咆哮は本能に強く働きかけて恐怖を煽る。身体が強張り、手足が震え、目が逃げ場を求めて焦点を彷徨わせる。

 

 しかし、本能に叫ばれるままに恐怖に浸る者は一人もいない。

 この場に居るのは一名を除き歴戦の兵士だ。本能を噛み砕き、恐怖心を飲み下し、身体を思いのままに制御する訓練を積んでいる。残り一名であるフィリップについては、もう語る必要はないだろう。

 

 「うわ、うるさ……。もしかして失敗?」

 「そのようだ。鱗を()けなかったのか?」

 

 フィリップの独り言に、ヨハンが律儀に返してくれる。

 拾ってきた鱗は抜け落ちて古くなったもので、いま生えているものはそれより頑丈かもしれない。その可能性は、衛士たちも考えていた。だが、或いは──鱗だけでなく、翼膜や、目でさえも傷付けられない、物理的ではない防御かもしれない。

 

 「……もしかしたら、鱗以外にも通らないかもしれません」

 

 ぱちん、と小さな音を聞き、ジェイコブが振り返る。

 それはフィリップがウルミの留め具を外した、ボタンの鳴った音だった。

 

 「フィリップく──っ!?」

 「な──ッ!? 拍奪だと!?」

 

 制止しようと伸ばしたジェイコブの手がフィリップをすり抜け、ヨハンが驚愕の声を漏らす。

 今ここに居る衛士は、龍狩りに選出された精鋭たちだ。その中でさえ、使える者は五指で足りるような希少な技術。物理型のジェイコブとヨハンは、魔力照準法という完全な対策を取ることが出来ないうえ、鍛え上げ体に染み付かせた間合いの感覚が仇になる。

 

 ウルミを抜いて尾のように引きながら走り出したフィリップの動きは、衛士たちにとって完全に予想の外にあった。

 加えて、龍の咆哮によって意識を塗り潰され、戦意によって意識喪失に抵抗した直後とあっては、その意表を突いた動きを止められる者は──フィリップを傷付けないという条件下では、居なかった。

 

 極端な前傾姿勢では地形に関わらず走りづらいが、森の中は格別だった。転ばないように細心の注意を払いながらも、木立の間を駆け抜け、一気に龍へと肉薄する。

 

 錆色の龍は飛び掛かってきた虫たちが明確な敵意を持っていることを理解して、矮小な愚物に向けるに相応しい侮蔑の籠った目をしていた。

 

 「少年!? 何をやって──総員、カーター少年を援護しろ!」

 「違う! 撤退の準備をしてください!」

 

 走るのにも考えるのにも必要な、貴重な酸素を使って叫ぶ。

 

 龍は虫の群れの中でも一際小さな個体が鳴いているのに気を取られ、衛士団長を狙って振り下ろした腕が微妙に逸れた。

 それだけでも一息を無駄にした価値があるというものだが、龍に意識を向けられたのは不味かった。

 

 すん、と龍の鼻が動き、フィリップの臭いを嗅ぐ。

 動物にとっては耐え難い悪臭だが、吸血鬼にとっては身近でありながら強烈に惹かれる匂い。これは人間が太陽の温かさを好むようなものだろう。

 

 では、龍にとってはどうなのか。

 月と星々の匂い、夜の香りは、この時間帯であれば夜空の下に満ちている。

 

 龍の瞳孔がすっと細められ、虫の群れの中から明確にフィリップを捉える。黄金色の視線に射抜かれて、フィリップは即座に直感した。

 

 ──これは、不味い。

 

 龍の双眸には、好意的な感情が何一つ見受けられない。

 爬虫類の目から人間的な情動を感じ取れというのがそもそも無理難題だが、フィリップは感性が豊かな方だと自分では思っている。なんせ、触手の集合体が人型を編んだだけのハスターや、ナイ神父の星空の顔からもなんとなくの感情を読み取れるのだから。

 

 そのフィリップの直感によると、龍の瞳に込められた感情は、分かり易いまでの嫌悪だった。しかも厄介なことに、嫌悪感以上のものは見て取れない──つまり、嫌悪感に理由がないようだった。

 

 それは困る。とても困る。

 「臭いから嫌い。嫌いだから死ね」という単純で直情的な行動を、フィリップは責められない。というか、責めるつもりもない。フィリップだって、「カルトは嫌い。嫌いだから死ね」と感情論で人を殺す。

 

 だから、まぁ、龍の行動は仕方のないものだ。なのだが──それはつまり、説得の余地がないということで。

 

 「──!!!!」

 

 再びの咆哮と共に、臥せっていた龍が身体を起こす。

 四足歩行の巨大なトカゲに翼が生えた程度で星の覇者とは片腹痛い。そう嘲笑う外神の視座を、頬を叩いて黙らせる。

 

 地面を踏み締める四肢と剣のような爪は森の柔らかな土にめり込んでいて、下敷きになったらそこで終わりだろう。高価な素材故に多少の防刃性能を持つ魔術学院の制服だが、あの大剣じみた爪の一閃をも防いでくれるとは思えない。牙を剥き出しにする強靭な顎は、人間の骨など容易に噛み砕く。

 

 目の前に居るのは、全身凶器の怪物だ。

 教皇領で遭遇した下級ショゴスなんかとは比べ物にならない、打ち倒せば英雄と称えられるもの──英雄ならざる身では抗えないもの。

 

 「──ッ!!」

 

 鋭い呼気で力みを散らし、龍の視線を掻い潜るように動きながらウルミを振るう。

 ぎゃりぎゃりぎゃり! と火花を飛ばしながら腕に返ってくるのは、やはり覚えのある感覚だった。

 

 鱗に当たって硬度負けしているわけではない。ウルミを削り衛士団長の一撃を止めたのは、鉄と錬金金属の合金よりも硬いドラゴンスケイルではなく、()()だ。

 

 彼我の存在の格に大きく差がある場合、下位は上位を傷付けられない。魔術は掻き消され、武器は滑り、衝撃は打ち消される。

 たとえばフィリップと座天使長ラジエル。たとえばフィリップとディアボリカの本体──ストックの無い状態の、純粋なディアボリカ。たとえば座天使長ラジエルと旧支配者ハスター。

 

 上位と下位、優等と劣等を分け隔てる絶対の隔絶。このルールがある限り、下剋上は起こり得ない。いや、ジャイアントキリングを許さないものこそが、本物の上位種なのだ。

 

 「ミナ──いや」

 

 古龍の存在格がどの程度なのか分からない以上、ミナを呼ぶのは迂闊だ。犠牲者が一人増えるだけかもしれない。

 かと言って、周りに何人もの衛士が居る状況で邪神を召喚するなんて選択肢は、フィリップは端から放棄している。

 

 「何をやってるんだ、死にたいのか!?」

 

 龍が前足を振り上げる。その落下地点からフィリップを担ぎ出した衛士団長が怒声を上げた。

 直後、鉤爪が大地を打ち据え、地響きと共に土煙を立てる。

 

 「団長、撤退しましょう! あれは人間ではどうにもならない!」

 「いや、それは違う!」

 「──っ、は!?」

 

 即答で否定され、頭の中が真っ白になる。

 違う? 違うってなんだ? 今の防御は存在格ガードではないということか? 確かに、フィリップの魔術感知力では防御系の魔術を使われても察知することはできないが、魔力障壁なら叩き慣れているし、存在格の隔絶に攻撃を防がれた経験も、そこいらの冒険者よりはずっと豊富なはずだ。今のは間違いなく、存在格の隔絶による攻撃無効化現象の手応えだ。

 

 困惑するフィリップに、衛士団長は反駁を叫ぶ。

 

 「龍を倒した人間は存在する! その前例がある以上、戦って勝てないのは人間だからではなく、武具の性能や、技の研鑽が足りていないだけだ!」

 「それは……え? いや、確かにそうか……」

 

 龍殺しは、一応、物語の中だけの空想というわけではない。

 大陸には点々と龍を殺した英雄の伝説が存在するし、龍殺しに使われたオーパーツや魔剣の類も有名なものがある。何より、吸血鬼の始祖は王龍を殺し、その呪いを受けて吸血鬼になったという話だ。

 

 龍の中で最上位の存在歴を持ち、最も格の高い王龍を殺せるのだ。存在歴の蓄積がその半分程度の古龍が倒せないわけがない。

 

 知識と思考の上では、そう納得できる。

 だが明確に、この目と手が、これまでの経験が、どうにもならないと語っている。

 

 「だが撤退の案には賛成だ! 確かに、この装備ではどうにもならん! ──総員、一時撤退!」

 「──っ! 団長、後ろ!」

 

 衛士の誰かが発した警告に、フィリップと団長は揃って振り返り──夜空を遮る、錆色の天蓋を見た。

 直後、脇腹に鈍い衝撃を受け、右半身に鈍痛が走る。フィリップを抱えて走っていた衛士団長が余分な重りを投げ捨てたのだと、すぐには理解できなかった。

 

 「うっ!? 団長──、は?」

 

 痛みに呻いたフィリップは、信じられないものを見る目で自分を投げた男を見つめる。

 言うまでもなく、衛士団長はフィリップを見捨てて自分だけ逃げたわけではない。フィリップが投げられたのは、龍の一撃──或いは、ただの一歩──の外だった。

 

 その一手の所為で逃げ遅れた衛士団長に、数十トンの体重を誇る龍の四肢、その一本が襲い掛かる。全体重ではないとはいえ、巨大な落石、家屋の倒壊にも匹敵する威力だろう。それを。

 

 「う、おォォァァ──ッ!!」

 

 雄叫びと共に振り抜かれた剣が、淡い残光を曳いて受け流した。

 

 衛士たちも引くとか、フィリップが呆然とするとか、そんな程度の話ではない。重機のアームを止めるような馬鹿げた力と技がある。

 

 単純な腕力だけでは不可能。かといって、身体操術だけでもどうにもならない。その二つを高度に併せ持ち、何より「できる」と信じて実行したことが凄まじい。

 

 しかし、龍は止まらない。手を置こうとしたら滑ったくらいで、攻撃の意思が萎えることは無い。今は、妙に悪臭を放つ虫けらを駆除する方が優先だった。

 

 「少年、今のうちに──何ッ!?」

 「僕狙い!? 勘弁──」

 

 龍はもう一度腕を振り上げ、勢いのままに振り下ろす。

 その宛先は自分がヘイトを買ったと思っていた衛士団長ではなく、慌てて立ち上がったフィリップだった。一応は目と脳で対象の位置を認識しているらしく、“拍奪”の相対位置認識欺瞞は効いているようだが、それ以上に狙いが大雑把だ。虫を払うような動作では、攻撃をしっかりと見ながら走り回るフィリップを捉え切れない。

 

 「……ほう、怯えが無いか。素晴らしい──あ、いや、そんな場合ではなかった!」

 

 顎に手を遣ってうんうんと頷く衛士団長だが、フィリップの歳不相応な胆力に感心している場合ではない。

 

 龍がフィリップを執拗に狙っている以上、撤退は極めて困難だ。何か、大きな隙を作る必要がある。たとえば──目くらましのような。

 

 『──助けが必要かな? じゃ、爺、よろしくね!』

 『……ご命令とあらば。では──《フリッカーフラッシュ》』

 

 衛士たちも龍も見下ろす、高い梢のすぐ下で言葉が交わされる。その言語は大陸共通語ではなく、たとえフィリップや衛士たちの耳に届いていたとしても、意味を理解できる者はいなかった。

 

 直後、行使された魔術によって、目を閉じていても目蓋の裏が白く染まるほどの眩い光が森を埋める。

 

 それは特に熱や破壊を伴ってはいなかったが、それでも高速で明滅する閃光は強烈な幻惑を齎す。人によっては失神さえ有り得るだろう、嫌な刺激だ。フィリップは特筆して目や脳が弱いわけではないのだが──タイミングが悪かった。

 

 「うわぁっ……!? 待っ──」

 

 フィリップらしからぬ、頼りなく弱々しい声が漏れる。

 

 目蓋を閉じていても強烈な光の明滅は、どこか一点を光源としたものではなく、空間そのものを光で埋め尽くしているらしい。

 下を向いても、全く光が衰えない。腕で顔を隠して、漸く少しだけマシになった──そう思ったのは、意識を失いかけているからだった。

 

 「少年!? どうした!?」

 「団長、彼の目を守ってください! 暗視の眼薬が!」

 「なに、そうか!」

 

 通常時よりも光の受容能力が高まっている今、目晦ましの魔術は普段を数倍して効果的だった。

 

 ゆっくりと身体が傾いでいく感覚はあったが、視界は相変わらず真っ白だ。瞼を閉じている感覚はあるのに、目を開けても変わらない白さで脳が混乱する。そして──意識が真っ黒に塗り潰された。

 

 

 

 

 

 



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276

 目が覚めると、翠玉色の瞳と目が合った。

 むすっとした顔のシルヴァは、どうやらのんびりと眠っていたらしいフィリップにご立腹のようだ。枕代わりに膝を貸してくれているが、叩き落とされる前に起きた方が良いだろう。

 

 「おはよう、シルヴァ。今──んっ?」

 

 いま何時ぐらい? と、いつもは枕元に置いている懐中時計を探しつつ窓の外を見て、漸く気が付いた。

 

 ──知らない場所だ。

 少し硬めのベッドに、木が剥き出しの床や壁。天井に吊るされた明かりは見たことがないタイプのランタンで、中に石が入っている。窓に硝子は嵌っておらず、フィリップの故郷と同じ木の雨戸が付いただけのものだ。雨戸は開いていて、朝日が部屋の中を照らしている。

 

 少し遠くには二人用のダイニングテーブルがあり、その奥には扉が見える。足元にマットが敷いてあるから、玄関だろう。

 

 「え? どこここ……?」

 

 野営用のテントという感じではないが、ティーファバルト大森林の近くに集落は無かったはずだ。かといって、学院の寮ではない。フィリップの実家でも無ければ、タベールナの一室でもない。

 

 ログハウスのようだし、狩人が使う山小屋だろうか。玄関扉の近くに父が持っていたのと同じ弓置きがあるが、弓も矢筒も置かれていない。家の主は出掛けているらしい。

 もぞもぞとベッドから這い出ると、木を張っただけの床が、きい、と微かに軋んだ。一先ず現在位置を確認しようと窓の外を覗いて、強烈な違和感に襲われた。

 

 窓のすぐそばに、太い木の幹がある。……そういうこともあるだろう。山小屋なのだとしたら、近くに木があったってなにも不思議はない。

 見上げるとすぐ梢があって、その向こうには見渡す限りの青空がある。……まぁ、低木が一本だけ生えているのだとしたら、そういう景色になるだろう。

 

 見下ろしても、地面が無い。……そういうことも、あるのか? 確かに鳥や龍、天使や吸血鬼は重力の軛から解放されているから、家が飛んでいてもおかしくはない……のか?

 

 いや、この際だ。存在可能性の是非はさておいて、脱出方法を考えるべきだろう。

 家が宙に浮いているとして、高さはちょうど森の梢ぐらい。飛び降りるのは危険でも、木の幹を伝って降りられるかもしれない。

 

 「いや、待てよ? これが噂のツリーハウスという奴では?」

 

 眠気を払って冷静に考えてみれば、家が浮いているのではなく、木の上部に引っ掛かっている可能性の方が高い。

 ツリーハウス。実物を見たことは無いが、本で読んだとき「秘密基地っぽくてかっこいいじゃん」と思った記憶がある。

 

 思い切って窓から身を乗り出してみると、何のことは無い。二十メートルくらい下には草本や苔で鮮やかに色づいた地面があるし、家は二本の太い枝の根元で支えられていた。

 

 「えるふのしゅうらく。てぃーふぁばるとのひがしがわ。どらごんのはんたいがわ。ふぃりっぷ、おぼえてない?」

 「覚え……てないなぁ。えっと、確か……そうだ、龍狩りの途中で、凄い光が……エルフ?」

 

 記憶の走査が、冒険譚で馴染み深い、しかし実生活に於いては早々聞くことのない名前で中断される。

 

 「そ、えるふ。ふぃりっぷがたおれたからって、ちりょうしてくれた」

 「え? なんで? ……確かエルフって、凄く排他的な種族じゃなかった?」

 「ん? んー……そんなかんじ。あのこたいがとくしゅなだけ、たぶん」

 

 誰の事だろうと首を傾げたのも束の間、フィリップはとても重要なことに気が付いた。──尿意だ。そして、この部屋には玄関らしきもの以外に扉がない。

 

 「シルヴァ、トイレがどこか知らない?」

 「わかんない」

 「う、それは困った……」

 

 とりあえず玄関を開けてみると、想像以上に開放的な光景が広がっていた。

 

 並び聳える木々の半分ほどに、梢のすぐ下の辺りにツリーハウスが立てられている。ツリーハウス同士は丸太を組んだ回廊で繋がり、木漏れ日を浴びた朝露で輝いていた。吹き抜けていく涼し気な森の風は、少しだけ葉っぱの匂いがする。

 

 そよ風は肌に涼しく、木漏れ日は温かい。眼下の下草や苔も朝露で煌めいていて、ただ見慣れないばかりではなく、率直に美しい。

 心なしか、木漏れ日も緑に色づいて見えた。

 

 「す、すっごーい! なにこれ! え、すごいすごい! すごいねシルヴァ!」

 「ん? べつにふつう」

 

 シルヴァの気の無い返事は、興奮しきったフィリップには聞こえていなかった。

 

 何ならシルヴァのいた裏層樹界の方が、地面が色とりどりの花畑だっただけに幻想的で美しかった。まぁシルヴァも美しいから素晴らしいという評価はしないし、フィリップも「なんかアスレチックみたいで楽しそう。後で走り回ろう」とか考えているのだが。

 

 いやむしろ今走ろう。そんな衝動に呑み込まれる前に、足元からどこか嬉しそうな声がした。

 

 「おーい、フィリップくーん! もう大丈夫なのかー!」

 「ヨハンさん、おはようございます! もう大丈夫ですー!」

 

 丸太の回廊に手を突いて地面を覗き込みながら、二十メートルの眼下に向かって大きく叫ぶ。腹に力を入れたからか、尿意がちょっと増した。

 

 「……トイレ何処ですかー!」

 「あっちの木蔭だー! その木の裏に梯子があるー!」

 「ありがとうございまーす!」

 

 用を足して戻ってくると、ヨハンは衛士団長と、見たことのない二人のエルフと一緒だった。見たことのあるエルフなんて居ないので、エルフである時点で確実に初対面……のはずが、長身の美青年と痩身の老人の二人組は、フィリップを見るや嬉しそうに笑って話しかけてきた。

 ただ──残念ながら、大陸共通語ではない全く別の言葉だったので、何を言っているのか全く分からなかった。

 

 「あー……えっと?」

 

 にこにこと笑う、長い金髪をポニーテールに括ったエルフ。シルエット自体は二腕二足のヒトガタだが、細長い耳が特徴的で、何より人間以上の美貌(APP19)に目を惹かれる。艶やかな金髪に翠玉色の瞳がよく映えて、目が合うだけで視線を外せなくなりそうだ。とはいえ、それは別に魅了されるという意味ではなく、単純に「良い顔だなぁ」という感想を抱いただけなのだが。

 

 外見年齢はルキアやステラと同じくらいだが、エルフは長命で有名な種族だ。外見通りの年齢ではないだろう。その寿命は1000とも2000とも言われているが、如何せん人間との交流がゼロに近く、詳しいことが全く分かっていない。

 

 どちら様ですか? と明記された顔で愛想笑いを浮かべるフィリップに、ヨハンが紹介をくれる。

 

 「こちらが我々をお招き下さった、エレナ様だ。こちらのご老人は御付きのリックさん。……彼女はエルフのお姫様らしいから、粗相のないようにね」

 「へぇ、お姫様」

 

 言われてみれば女性に見える……というのは、流石に失礼な感想か。

 いやしかし、人外の美貌はどうにも人間の目と脳では完璧に理解しきれないのだ。なんというか、美しいことは分かるが、そこに性的魅力を感じない。「美人」ではなく「綺麗」という評価がしっくりくる。尤も、それはフィリップだけかもしれないが。

 

 「フィリップ・カーターです……って、通じないのか。えっと、皆さんはどうやって意思疎通を?」

 「私は人語を話せます。貴方」

 「あ、そうなんですね。えっと……リックさん」

 

 彼の言葉には多少の違和感があるが、ちょっと聞いただけのエルフ語と大陸共通語では全く違うようだし仕方ない。

 発音から文法まで、理屈も論理整合性も、何から何まで違う全くの別言語である邪悪言語を知る身だ。異言語話者に対する驚きは無かった。

 

 「私達の魔術が貴方を攻撃してしまった。ごめんなさい」

 

 リック翁は言葉を切り、エレナに対してエルフ語で何事か話す。恐らく、自分の会話を要約したのだろう。

 

 エレナは呆れと揶揄いの混ざった悪戯っぽい笑みを浮かべて、フィリップと視線を合わせるように腰を折る。彼女はその笑顔が似合う楽しそうな口調で何事か話しかけてくれたが、残念ながら何を言っているのかさっぱりだ。

 

 フィリップが困ったように曖昧な笑顔を浮かべて佇んでいると、服の裾がちょいちょいと引かれる。

 

 「……ほかのえるふはみんなをいれるのにはんたいした。でもえれなとりっくがむりやりつれてきた。……って」

 「……シルヴァ、エルフ語が分かるの?」

 「もりでつかわれることばなら。むしのこえも、けもののこえも。……このほしのものじゃないことばも」

 

 この星のものではない言語──人外の種族、地球圏外の生命が邪神と交信するために作り出した、邪悪言語のことだろう。神話生物には人間の発生と繁栄以前からこの星に棲んでいるものもいるし、そういったものが森の中で生活していたのなら、その言葉を森が聞き覚えることもあるかもしれない。

 

 まぁ、森の中にいる場合に限って知性が跳ね上がるこの幼女は、森という概念の化身だ。その事実を前に、「そんなことあるか?」なんて考える方が無駄。そういうものと受け入れるのが賢い行いだ。

 

 「……すごいね」

 

 シルヴァに正気と狂気が無くて良かったと心の底から安堵しつつ、なんとかそう絞り出す。

 

 リック翁はにこにこしながら、うんうんと頷いていた。

 

 「その子はドライアドですか? エルフの住む森のドライアドは、私達の言葉を話せます」

 「このもりのどらいあどは……んーん、なんでもない」

 

 この森のドライアドは、既に全滅している。

 森に一歩踏み入っただけでその森の全情報を把握できるシルヴァには、この森に住む一つの種が消えたことが、手に取るように分かっていた。今頃は裏層樹界とこの表層を繋ぐ水鏡も濁り、沼のようになっていることだろう。

 

 ただ、まぁ、だからどうしたという話だ。

 ヴィカリウス・シルヴァとドライアドは全くの別種だし、特に思い入れも無い相手だ。狂死か、発狂して仲間内で殺し合ったか、はたまた液状化したのかは知らないが、シルヴァにとってもフィリップにとってもどうでもいいことだ。特に教える必要もないだろう。

 

 「それで……えっと、どうして僕たちを連れて来たんですか? 反対っていうのは……エルフは人間を嫌うって話は聞いたことありますけど」

 「きらってはいない。ひととさるがちがうように、えるふとひともちがうだけ」

 

 フィリップの問いに答えたエレナの言葉を、シルヴァが訳してくれる。

 エレナに対してはリックが訳し、フィリップ達に対してはシルヴァが訳すという構図が出来ていた。

 

 「りゅうはきけん、とてもつよい。ちかづいていくばかがいたからみにいった。やっぱりまけそうだったからたすけた」

 「そうなんですね。ご親切にありがとうございます」

 

 ぺこりと頭を下げるフィリップに、二人のエルフはまたにっこりと笑う。短く何事か言ったのは、「気にしないで」とかだろう。

 

 会話がひと段落したのを見計らって、衛士団長がフィリップの首に腕を回して肩を組んだ。

 

 「それだけではないぞ、少年。ここにはなんと、龍殺しの魔剣があるらしい!」

 「魔剣! ホントですか!?」

 「しかも、場合によっては譲ってくれるそうだ! 希望が見えて来たな!」

 

 ミナの魔剣のような変則的な性能の魔剣を渡されても困るところだが、龍殺しの逸話があるなら、少なくとも存在格ガードを貫通するのは間違いないだろう。光明が見えた。その魔剣があれば、今度こそ龍を倒せるかもしれない。

 勿論、成龍を殺したから「龍殺し」と謂われているだけで、古龍相手には通じない可能性もあるが……その場合はフィリップの単騎駆けが始まる。

 

 しかしそれ以前に、聞き流せない言葉が混じっていた。

 

 「ですね! ……場合によっては?」

 

 妙な条件を付けられるくらいなら、エルフを皆殺しにして魔剣を奪うというのも一つの手になるのだが。

 

 龍の討伐がワントライで終わるなんて甘い予想はしていないし、旅程上はまだあと二日の猶予がある。その範囲で済む条件だといいなぁ、なんて、フィリップがその双眸に悪意無き殺意を宿す前に、衛士団長が重々しく頷いた。

 

 「うむ……。どうやら魔剣はいま、封印状態にあるらしい。それを手にすることが出来れば、という条件だ」

 

 封印。なるほど、それはなんとも「らしい」話だ。

 エルフ側が何かしらの交渉のつもりで提示した条件ではなく、魔剣入手に係る物理的な制約なら、駄々をこねたってどうにもならない。

 

 しかし……そうなると、今度は太っ腹すぎるような気もする。

 龍殺しの魔剣なんて、大陸全土にあるもの全てが両手の指で数えられるような希少極まる品だ。恐らくは人の手にあらざるもの(クリエイテッド)。封印を解けばなんて、ただ同然で渡していいものではない。

 

 それほどに、封印とやらが強固なのだろう。

 選ばれた者しか抜けない台座に嵌っているとか、自らに打ち克つ試練が課せられるとか、それこそ龍が守っているとか。

 

 「なるほど。もう見ましたか? 試しましたか? 見に行きましょう! すぐ行きましょう!」

 

 それはとても──心躍る。

 

 

 

 

 

 

 

 



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277

 朝食を終えたフィリップは、魔剣を見に行こうという衛士団長と数人の衛士たちにくっついて行動していた。

 

 エレナとリックの先導で森の中を歩いていると、ツリーハウスやそれらを繋ぐ回廊上から、幾つもの訝し気な視線が降ってくる。フィリップは彼らの顔を見返して「美形が多いなぁ」なんて安穏と感嘆していた。

 彼らの目に宿るのは大きな隔意と、ほんの少しの好奇心だ。敵意や嫌悪感のようなものは感じられない。

 

 人にとっての猿。

 エレナが言っていた──正確にはエルフ語を訳してくれたシルヴァが言ったのだが──とおり、排除すべき余所者ではなく、完全な別種という認識なのだろう。人間だって、人里に迷い込んだ猿は、何か悪さをするまでは「そのうち出ていくだろ」と傍観する。今はそういう段階のようだ。

 

 ツリーハウスの無い純粋な森、エルフの集落の外に出てからしばらく歩いていると、木の幹に妙に見覚えのある模様があった。邪悪言語の意匠ではなく、この森を訪れてすぐに、木に彫られているのを見たものだった。

 

 「あれはエルフの使う記号です。ここから先は危険という意味です」

 「……なるほど、それで龍の住んでいる方にもあったんですね」

 「若いエルフが度胸試しに彫りに行ったのだと思います。それは愚かなことです。死の危険がある」

 

 ぬぼーっと模様を見ながら歩いていたフィリップの視線に気付き、リック翁が説明をくれる。

 

 「まぁ、魔剣でも無ければ倒せないような相手ですからね。ルキアか殿下でもいれば、純エネルギー系の大火力で押し切れるかもしれませんけど」

 

 存在格の隔絶は、上位存在に対する下位存在の干渉が無効化されるという現象だ。これ自体は、龍や邪神が意識して展開している防御ではなく、リンゴが地面に落ちるようなただの法則。だが、そこには明確な抜け道が存在する。

 

 下位存在による直接の干渉──つまり、殴る蹴る、剣で切る、魔術を撃つなどの攻撃は無効化される。ここには弓矢や爆発物による間接攻撃も含まれる。

 

 しかし、下位存在が何かをして、その結果として生じた現象は存在格ガードには阻まれないのだ。

 たとえば地下空間で魔術を撃って、天井が崩落したとする。天井を崩落させるような威力の魔術は無効化されるが、降り注ぐ岩盤や瓦礫の衝突ではダメージが発生するということだ。……まぁ、存在格ガードを持つような手合いが、瓦礫くらいで傷付くのかという疑問はさておき。

 

 ルキアの『明けの明星』は、光をエネルギー化して撃ち出す極大火力だ。

 万物を貫く光の槍は、魔術攻撃である以上、存在格ガードに阻まれる。しかし、その膨大なエネルギーによって焼き切られた空気が大爆発する、その爆風や衝撃によるダメージは見込めるだろう。

 

 「そうだな。だから言っただろう? 決して人間に倒せない相手ではないと」

 「まぁ、そうですね。……言われてみれば、吸血鬼の始祖は王龍を殺したって言われてますし、ちょっと怖がり過ぎました」

 

 てへへと照れ笑いなど溢すフィリップ。

 衛士団長は「そのくらい慎重な方がいいらしいぞ!」なんて笑顔を返したが、ヨハンも含め一緒に居た衛士たちは全員が頬を引き攣らせていた。ドラゴン相手に怯えすぎも何も無いというか、この二人、まさか脳筋仲間なのではないだろうか、と。

 

 「ふぃ、フィリップ君? 一応聞きたいんだけど、“あっちの攻撃に当たらず、こっちの攻撃を当て続ければ勝てる”とか思ってないよね?」

 「え、なんですかその無限のスタミナを前提にしたようなロジック。それに頷くのってミナぐらいですよ」

 

 自分の肉体が如何に脆弱で貧相かを知る身としては、その論理は夢のまた夢だ。検討の机上にも乗らないような、空想論。それが出来るなら拍奪とウルミで無双している。

 

 フィリップの答えを聞いた衛士はほっと安堵の息を吐いて、今度は自分たちの棟梁に胡乱な目を向けた。

 

 「良かった。ちなみに団長、アンタはフィリップ君みたいな召喚術は使えないワケだけど、なんで龍に勝てると思ったワケ?」

 「ん? そりゃあ、龍も生き物だからな!」

 

 至極当然のように、1+1は2だとでもいうかのように、団長は言い切る。

 その稚拙とも言えないような論理に、フィリップは「えぇ……?」と困惑も露わに呟き、衛士たちは苦笑したり頭を振ったりして呆れを露わにしていた。

 

 「む? 何か変か?」

 「変というか……」

 

 いや、変だ。

 間違いなく変なのだが、流石に面と向かって「はい」とは答えられず、フィリップは曖昧に笑う。

 

 その反応で答えを察した衛士団長は、歩きながら真面目な顔を作り一本指を立てて語り出した。

 

 「少年、よく考えてくれ。お前たちもだ。いいか? ……龍は、生き物だ。心臓があり、脳がある。骨格と筋肉の連動によって体を動かし、血管が身体中に血液を巡らせている。あの巨大な体躯は一個の存在だが、それは一枚の岩のようなものではない。生体組織の集合、無数のパーツの集まりだ。そこには必ず、連結部分や構造の薄い部分、重要臓器──所謂、急所がある。であるのなら、そこを突けば殺せるだろう」

 

 沈黙──ではない。衛士団長の言葉をエレナに訳しているリック翁の声だけが、森の静かな空気を震わせる。それも終わると、今度こそ完璧な沈黙に包まれた。

 衛士たちも、リック翁も、エレナまでもが、呆然と苦笑の綯い交ぜになったような微妙な表情を浮かべている。

 

 例外は二人。

 一人は張本人であり「完璧な理論だろう」と胸を張っている衛士団長。もう一人は、「そうかも……!」なんて、蒙が啓いたような顔で呟いているフィリップだ。

 

 「まぁ、今はその急所をブチ抜くだけの武器が無いって話なんだがな! あっはっは!」

 「それは確かに……」

 

 フィリップは少しだけ意気消沈して呟く。

 しかし、人の手にあらざるもの(クリエイテッド)の魔剣なら、もしかしたら存在格で人間に勝る龍を殺し得るかもしれない。魔剣の入手、封印の突破は不可欠だ。

 

 これは必要事項だ。ロマンとか好奇心とか、そういう動機ではない。断じて。

 

 また少し歩くと、木に刻まれる危険を知らせる模様の頻度が高くなってくる。

 

 ややあって、一行が案内されたのはそこそこのサイズの洞穴だった。

 断崖にぽっかりと空いた空洞の中は、日の光も差し込まないほどに深くて暗い。熊でも出てきそうな感じだ。崖の周りには例の危険地帯を示す模様が無数に刻まれ、それだけでおどろおどろしい雰囲気がある。

 

 「……おぉ、それっぽい!」

 

 どちらかと言えば金銀財宝を抱えた龍が住んでいそうな洞窟だが、魔剣が封じられていても違和感はない。

 

 無警戒にとことこと洞窟に踏み入るフィリップ。その後を衛士たちが慌てて追いかけるが、一行はすぐに踵を返して洞窟を出ることになった。

 

 「滅茶苦茶深いですね。松明とかランタンとか、光源が無いとどうにもならないです」

 「そうだな。リック殿、この辺りの木を使っても?」

 「次の間伐で切る予定の木であれば。あれと、あれと……あぁ、あれは松です。脂が良く燃える」

 

 リックが示した木の枝や樹液を使い、衛士たちがてきぱきと人数分の松明を用意する。

 資材提供のお礼にと、団長が間伐予定の木を剣の一閃で切り倒していた。……居合の一撃で切った木は、フィリップが抱き着いても手が届かないくらい幹が太かったのだが。馬鹿げた切れ味の剣に、冗談のような技量だった。

 

 松明を持ってもう一度洞窟に入ると、森に面している部分はほんの入り口で、中は地下深くへ続いているようだった。

 鍾乳石の垂れ下がる悪路を、あちこちぶつけたり滑ったりしながら進んでいく。

 

 鍾乳洞の壁には古い傷があって、リック翁によると順路を示す矢印のようなものらしい。先人が残した目印に従って、松明の明かりを頼りに暗い洞窟を踏破する。

 

 十数分が一時間にも思える疲労を強いる悪路を抜けた先には、狭苦しい洞窟を踏破した報酬どころか、むしろここに入った報酬が欲しくなるような気色の悪い光景が広がっていた。

 

 ぬらぬらと湿った岩肌が松明の頼りなく揺れる明かりを反射して、光源の強さ以上に広い範囲が照らされる。

 しかし、決して遠くまでを見通すことはできない。それは頭上に、足元に、そこらじゅうに張り巡らされた、灰白色のねばつく帯のせいだ。

 

 それらは時折、明らかにフィリップたちの動き以外の何かに反応して揺れる。風の無い地下空間でありながら。

 

 「うわ……なんだこれ」

 「これが今や、魔剣の封印です。魔剣を安置していたここは、元は広い地下湖でした」

 

 地下湖と言われて少し進んでみると、すぐ先は大きなドームになっていた。地下大空洞、とでも言えばいいのか。フィリップたちがいるのはその最上部にほど近い突出部で、何十メートルもの断崖の下には、僅かに水面が見える。

 しかし、その暗い水なんて目に入らないほど、ドームの中は巨大な蜘蛛の巣で覆われていた。いや、蜘蛛の巣のようだというのは直感的なもので、実態としては無数に折り重なって張り巡らされた、灰白色の帯なのだが。

 

 「これは、ある時からここに住み着いた、悍ましい魔物のせいです。剣や魔術では断ち切ることのできない蜘蛛糸を張り巡らせる、謎の魔物が居るのです」

 「魔物……?」

 

 フィリップは背筋がぞくりと冷えて、身震いしながら呟いた。

 

 「はい。唯一、あの魔剣だけが蜘蛛糸を斬ることが出来ました。しかし、その魔物を退治しようとした集落一の猛者が魔物によって倒されてしまい……今は、あそこに」

 

 リック翁が示す先は、蜘蛛糸に満ちたドームの下だ。

 蜘蛛の巣の隙間に目を凝らすと、地下湖の真ん中に浮かぶ小島──というか、小さな岩に、明らかに松明の反射ではない燐光を見つけた。

 

 「うむ……本当に切れない。剣が食い込みすらしないな」

 「いつの間に試したんですか!? 剣がくっついて取れなくなったらどうするんですか! それ一張羅なんですよ!?」

 

 衛士団長とヨハンがコントのような掛け合いをしているが、あまり笑えない。衛士団長の一撃は直径60センチを超える巨木をも両断する威力だ。それこそ、武器次第では龍の翼を落とせると信頼されるほど。

 

 それが通らないとなると、蜘蛛の巣を切り拓いていくのは無理だろう。

 

 「……降りる道などは?」

 「この壁沿いの階段だけです」

 

 頼むからあってくれ。そう祈るような調子で尋ねる衛士に、リック翁は残念そうに答える。

 

 確かに彼の言葉通り、ドームの壁からせり出すような形で、下へと続く階段はある。

 しかし、元はきちんと石を掘って作られたであろう階段は、今や白い石灰に覆われてデコボコで、そのうえ蜘蛛の巣が何十何百と壁から伸びていては、落ちずに下まで行けるか自信がなくなる。

 

 それに、もっと大きな問題もある。

 

 「……こんなサイズの蜘蛛の巣って、ジャイアントスパイダーどころの騒ぎじゃないぞ? もっと大きい……ケツだけで何メートルもありそうだ」

 

 蜘蛛の巣を織りなす糸は、その一本毎がフィリップの胴ほどもある太さだ。ならばこれを排出した蜘蛛本体は、体長が十メートルを超えていても不思議はない。

 

 衛士の言葉に、リック翁は重々しく頷く。

 

 「その通りです。どれほど恐ろしいものを見たのか、それを倒さんと踏み入った若者が最期に遺した言葉は、“体の中に蜘蛛がいる”でした。憑りつかれたように同じ譫言を繰り返しながら、自分の身体を掻き毟り、引き裂いて死んだのです」

 「それは……痛ましいですな」

 「ですから、貴方たちが魔剣を手に出来れば、お譲りします。無理だと思うのなら、諦めるべきですが」

 

 衛士たちの勇気や決意を問うような言葉に、彼らは仲間同士で顔を見合わせる。

 彼らの目に怯えの色は無かったものの、そもそもどうやって魔剣のある所まで行くのか、どんな魔物がいるのか──どれほど恐ろしいことをされたら、そんな死に様になるのか。そういうことを考えていた。

 

 未知の、しかしきっと悍ましいだろう攻撃方法に思いを馳せるのは、恐怖ばかりではなく、その攻略法を探るためだ。

 

 しかし、フィリップは重々しく頭を振り、もと来た洞穴を示す。

 目に見えない細い蜘蛛糸が首筋や耳の辺りに絡んだようで、さっきからむずがゆくて仕方がないが、だからシャワーを浴びるために出たいわけではない。

 

 「ここを出ましょう、早く、一刻も早く。もう、そいつがこっちに来てる」

 

 声が震える。その原因は戦意か、戦慄か。

 布団を叩くようなくぐもった足音が、明らかに二足や四足ではない連続性を持って聞こえてくる。

 

 それは蜘蛛の巣に汚染された地下ドームの方から聞こえてくるが、何層にも折り重なった蜘蛛糸が音を吸って、音源の位置が特定できない。もう近いのか、まだ遠くにいるのか分からない。ただ──段々と音が大きくなっていることだけは分かった。

 

 不味い、と、フィリップは苦々しく表情を歪める。

 だって──さっきから、シュブ=ニグラスに与えられた智慧が、警鐘を鳴らしている。

 

 「少年の言う通りだ、何か来るぞ! 総員、戦闘態勢!」

 

 団長の号令に従い、衛士たちがヘルムのシェードを下ろして抜剣する。

 だが、そんなことをしたって意味は無い。相手は──旧支配者に連なるものだ。即ち、地球圏外より飛来した、人類領域外の神話生物。

 

 次元を超越する糸を幾つもの異空間へと張り巡らせ、異次元と異次元を繋ぎ合わせる広大な巣を張る蜘蛛神の落とし仔。名を、「アトラク=ナクアの娘」という。

 

 地下空洞を埋め尽くす蜘蛛の巣が剣で切れないのも当然だ。

 これはアトラク=ナクアの次元超越糸。かの神格とその娘たちしか使えない、異次元を渡る繋ぎ糸。物理的手段では絶対に干渉できない、他の次元を跨ぐもの。

 

 ……ならばこの糸を斬ってみせたという魔剣は、まさか次元断を可能とする超級の存在か。

 

 「……龍は、殺せるだろうな」

 

 龍の身を守る存在格の壁は、この世界に厳然と存在する法則(ルール)。それと同様、次元超越糸が物理的干渉を跳ね除けるのも、ルールに基づく現象だ。この糸を斬れるのなら、存在格の壁も突破できるだろう。

 

 だが、今はそれ以前の問題がある。

 言うまでもなく、アトラク=ナクアの娘がこちらに向かってきていることだ。

 

 「フィリップ君、エレナ様とリック殿を安全な所へ!」

 「違う、それは貴方達が──、っ!」

 

 ヨハンが叫んだ指示は、何かと衛士たちの前に出ようとするフィリップを遠ざけるための方便もあった。

 ただ「逃げろ」と言うだけでは従わないだろうという思いが半分、フィリップが逃げた後も罪悪感や自己嫌悪を持たないようにという思いが半分くらいだ。

 

 そんなヨハンの心遣いも、逃げろと叫ぶフィリップの悲痛な声も、ほんの一瞬で無駄になった。

 

 ドームを埋め尽くす多重多層の蜘蛛の巣から、一つの影が突出する。

 それは一行の前に八つの肢で着地すると、ゆっくりと顔を上げた。

 

 でっぷりと太った腹には、身の毛がよだつような腫瘍が幾つも浮かび上がっている。

 太い毛がまばらに生えているのは、蜘蛛というより、それを知らない子供が粘土を捏ねて作ったような有様だ。

 

 八つの目が不規則に並ぶ頭には、剣先のような毒牙が一対。油面のように極彩色の毒液が松明の明かりを反射して、てらてらと不気味に光っている。

 八つの肢は節目で曲がり、岩の地面と硬質な音を立ててぶつかり合っていた。

 

 蜘蛛とは、よく言ったものだ。

 全長にして5メートルか6メートル。通常の蜘蛛では有り得ないサイズだ。妙に細長い脚や首の動きは、八肢異形のヒトガタが蜘蛛の物真似をしているようにも見える。

 

 結局、それは何かと言われると、やっぱり蜘蛛に見えるとしか言いようがない。

 

 きいきいと軋みを上げる大顎が明らかに嘲笑の形に歪められ、揶揄うように首を傾げると、衛士たちの背筋に真冬の冷たさが吹き込んだ。

 

 

 

 

 



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278

 ちりちりと首筋を焦がすような焦燥感は、脳内でけたたましく鳴らされる警鐘によるものだ。

 

 アトラク=ナクアの娘。

 旧支配者アトラク=ナクアに連なる非神格の神話生物であり、特筆すべき戦闘能力は持っていない。だが、それは彼女が戦闘用に作られた眷属ではないからだ。

 

 彼女の目的、延いては彼女を作ったアトラク=ナクアの目的は、多次元に亘る巨大な──距離の概念を超越しているので、大きいという表現は不適切かもしれないが──巣を作ること。大目標、「どうして巣を作るのか」までは分からないが、アトラク=ナクアの娘が作られたのが巣作りのためであることは間違いない。

 

 要は、彼女は戦闘員ではなく作業員なのだ。……尤も、だから人間を殺すに足りないとか、そういうわけではないのだが。 

 

 「な……なんだ、この魔物……?」

 「分からん……見たことがない。……少年、早く二人を洞窟の外へ!」

 

 フィリップたちが通って来た洞穴は人間一人か二人分くらいの幅で、高さは衛士たちが屈まなければ通れないくらいだ。蜘蛛の巨体が通れるはずはないので、このドームから出れば安全だろう。

 

 ぎちぎちぎち、と牙が鳴る。

 自身の爪先のような剣を構え、子供を逃がそうとする劣等種に、異形の蜘蛛が嘲笑を向ける。フィリップの纏う外神の気配には気付いていないのか、気付いた上で、彼らが滅多に干渉しないことを知っているのか。

 

 けたけたけた、と牙が鳴る。

 威嚇とは間違えようのない明確な嘲笑に衛士たちが困惑し、フィリップの中にある外神の視座が蜘蛛と全く同じ感情を励起させる。即ち、自らを過信する劣等種への軽蔑と嘲笑を。

 

 衛士たちは怯えながらも剣を握り締め、フィリップたちの前に立っている。

 中には手や足が震えてカタカタと鎧が擦れ合う音を立てたり、松明を取り落としてしまう者もいる。身体に染み付かせた戦闘姿勢だけは思考が吹っ飛んでも維持しているが、不要な力が加わっていたり、必要な力が抜けていたりして、とても強そうには見えない。

 

 だが──フィリップの心を、強烈に打つ。

 まただ。また、彼らに守られてしまう。また、彼らに無為な危険を背負わせてしまう。フィリップを守る意味なんて、これっぽちも無いというのに。

 

 邪神を呼ぶか? 一瞬だけ、そう考える。

 だが駄目だ。それでは意味がない。彼らの正気を守るためにフィリップが召喚術を使うのは、虫歯治療のために首を刎ねるようなものだ。

 

 だからこそ、もたもたしてはいられない。

 フィリップは邪魔だ。ここに残っている限り、彼らもまた撤退できない。

 

 「……僕はあれを知っています! 今の武装では勝てない! 皆も撤退を!」

 「了解だ! 総員撤退戦用意! 少年たちの後に続け!」

 

 フィリップは衛士たちから視線を切り、エレナとリックの様子を窺う。

 エレナは大丈夫そうだ。翠玉色の双眸は恐怖に見開かれ、手足は無様に震えているが、子供(フィリップ)に気遣って笑顔を取り繕うくらいの余裕はある。

 

 問題はリック翁だ。

 彼はフィリップには分からないエルフ語をぶつぶつと呟きながら、何かの儀式のように両手で印を結んだり、十字を切ったりしている。これが狂気なのか、或いはエルフが恐怖に直面した時のルーティンようなものなのか判断がつかない。

 

 「リックさん、早く逃げましょう! リックさん……重っ!?」

 

 フィリップの呼びかけに答えないリックは、杭でも打ち込んだようにその場に直立して、ずっと何か儀式めいたことをしている。異変に気付いた衛士たちが「何してるんだ!」と急かすが、フィリップが押せども引けども一歩も動いてくれない。

 

 『どいて、私が運ぶ!』

 「エルフ語は──んっ!?」

 

 エレナが焦れったそうにフィリップの前に割って入る。何と言われたのかは分からなかったフィリップだが、聞き返すまでも無かった。

 

 ずどん! と重い音がして、リックの身体がくの字に折れ曲がる。

 音源はリックの腹を打ち据えた、エレナの真っ白な拳だ。一撃で意識を刈り取ったパンチは、たぶん純粋な腕力ではなく何かの魔術を併用しているのだろうが、それでもおよそ人体から聞こえて良いものではない重低音を伴っていた。

 

 エレナはだらりと脱力したリックの身体を軽々と肩に担ぎ、洞穴の方を指して何事か言う。まぁこの場面で言うことなんて、「急ごう!」とか「行くよ!」のどちらかだろう。フィリップはエレナを押して先に行かせ、その後に続く。

 

 「団長、撤退します!」

 「行け! お前たちもだ! 殿の俺を早く逃げさせろ! 行け、行け、行け!」

 

 団長が吼え、衛士たちが焦りつつも規律の取れた動きで洞穴へ向かう。

 最後尾に残って蜘蛛から目を離さない団長を、けたけたけた、と嘲笑うアトラク=ナクアの娘。

 

 その剣のような肢の一本が振り上げられ、衛士団長の頭蓋へ振り下ろされる。

 鈍重そうな巨体だが、蜘蛛の巣から出て来た時の異様な俊敏さを覚えていた団長は、巨木すら一刀の下に両断する居合で以て応じた。

 

 近くで見ると、不規則に並んだ単眼やぬめりで光った毒牙は心底気持ち悪いが、その「生っぽさ」がむしろ、衛士団長には救いだ。生体組織の複合体である生物なら、絶対に急所がある。生命を司る部分に繋がる、損なえば致命傷となる部分が。

 

 なら、そこを突いて殺せばいい。いつもの通りに。

 

 「──、っ!?」

 

 驚愕の声を呑み込む。

 

 ぎゃり、と、蜘蛛の外骨格が火花を散らしながら剣の上を滑っていく。

 手応えは想像以上に軽いが、外皮の硬さは想定を上回った。手に返る感覚は、龍を斬りつけた時と殆ど同じだった。

 

 衛士団長は驚愕の表情に好戦的で獰猛な笑みを混ぜるが、どんな攻撃なら通用するのか確かめようとするような馬鹿野郎には、得てしてストッパーが付いているものだ。

 

 「団長! 撤退してください!」

 「おっと、そうだった! ここで死ぬのは不味いな!」

 

 衛士団長はすっぱりと諦めて踵を返し、洞穴へ駆け込む。

 

 蜘蛛は追う素振りを見せず、ぎちぎちと毒牙を鳴らして嘲笑い、幾重にも重なったベッドシーツの中へ帰っていく。狭い穴の中へは追って行けないことを理解しているのか、或いは、そもそも追い返すことが目的なのか。どちらにしても、衛士たちの敗走という構図だった。

 

 

 ◇

 

 

 往路より幾らかスタミナ消費の激しい洞窟の中を通り、森へ出ると、衛士たちはどっかりと緑の地面に座り込んでしまった。緊張の糸が途切れたか、四つん這いになって吐き戻している者もいる。

 

 昏倒させたリックを担いだエレナを先頭に、手ぶらのフィリップと鎧姿の衛士たちが続くという順番で洞窟を進んでいたのだが、フィリップのせいで全体的に最高速の半分ぐらいのペースだった。フィリップも必死に足を動かして悪路を進み続け、今は芝生の上でぶっ倒れて荒い息を溢している。

 

 「参ったな……あれでは魔剣を譲ってもらうどころじゃないぞ」

 「だな……。そういや、リックさんは大丈夫……まだぶっ倒れてるのか」

 

 リック翁はぐったりと地面に寝かされていて、困り顔のエレナが隣に座って揺り起こそうと試みている。どれだけいいパンチだったのか、彼はうんうんと寝苦しそうに唸っていた。

 

 芝生が冷たくて気持ちいいなぁ、と、現実逃避気味に眠気を覚えていたフィリップだが、流石に睡魔に身を任せてはいられない。衛士団長とヨハンが寄ってきて、両サイドにどっかりと座り込んだ。

 

 「フィリップ君、大丈夫か?」

 「あぁ……はい……ぜんぜんだいじょぶれす……」

 

 流石にこのまま喋るのは失礼かな、と身体を起こすと、ヨハンに顔を覗き込まれた。

 特に顔にコンプレックスはないものの、まじまじと見つめられるとなんだか照れてしまう。が、照れている場合ではなかった。

 

 「少年、さっきの魔物を知ってると言ったな? あれについて教えてくれないか?」

 「団長、流石に急ぎ過ぎです。俺たちがビビるような奴ですよ? 中には森にいた、こーんな小さなクモにビビっちまう奴まで出た。いくらフィリップ君が事前にあれを知っていたとしても、落ち着く時間が必要です」

 

 ヨハンは小指を立てて蜘蛛の小ささを示しているが、本職の戦士の利き手で、鎧手甲まで付いている。まぁ不意に出てきたらビックリするよね、ぐらいのサイズ感だった。

 

 「大丈夫です、ヨハンさん。心配してくれてありがとうございます。……えっと、あれは──」

 

 つい「僕は知ってます」なんて口走ってしまったが、流石にちょっと焦り過ぎたかもしれない。

 人間では勝てないとか言ったが、フィリップが同じ空間に居て神威を感じなかった程度の弱い相手だ。もしかしたら人間でも勝てるかもしれないが……衛士のように心身を鍛えていても恐怖症を引き起こすようだ。「じゃあもうワントライしてみよう」と再突入されては堪ったものではない。

 

 しかし、衛士団長は多少なりとも剣を交わしてしまった。これでは大袈裟なことを言って遠ざけようとしても、すぐにバレてしまうだろう。さて、どう説明したものか。

 

 「……僕も詳しいことは分からないんですけど、ああいうモノがいるってマザーに教わったんです。人間では勝てないから、見かけたらすぐに逃げなさい、って」

 「む、そうなのか……。弱点などは聞いていないか?」

 「勝てない相手に弱点も何も無いでしょう? 巣に近付かなければ、積極的に襲ってくることは無いと思いますし──」

 

 フィリップは我知らず、言い淀む。

 

 ──襲ってくることは無いから、なんだ?

 魔剣を諦めて、何か別の方法を探すのか? 龍殺しに使えるのはあと二日、今日を抜けば明日一日しかない。それでどんな妙案が出るというのか。

 

 それ以前に……エルフの森の地下にアレがいることを知って、それを無視して立ち去るのか? 龍から撤退するのを手伝って貰って、宿を借りて、朝食を頂いて、剰え龍殺しの魔剣などという特級の宝物を譲ってくれると言った彼らを、危険に晒し続けるのか?

 

 アトラク=ナクアの娘は、自然発生するものではない。

 人間やその他の動物がアトラク=ナクアによって洗脳されて、変容したものだ。あの個体も、この辺りの森に住んでいる動物か──或いは、エルフが変異させられたものだろう。

 

 そして、あれは戦闘員ではなく作業員だ。多次元に亘る巨大な巣を、延々と作り続けている。その作業効率を高めたいときにどうするかなんて、人間でも神話生物でも変わらないだろう。即ち、人員の補充だ。

 

 あの個体は地下空洞から出られない。

 だが、アトラク=ナクアがテレパシーか何かでエルフに交信を試みて洗脳し、自らそちらへ向かうよう誘導することは可能だ。彼らは今この時も、その危険に晒されている。

 

 「……っ」

 

 ──どうでもいいとは、吐き捨てられない。

 だって、衛士たちならそうするはずだ。至上命令である龍殺しの達成に、一宿一飯と、命一回分の恩義を返すという個人的な義理まで果たせる最高の機会。それを前に、どんな理由で背を向けられる?

 

 「カーター少年。君は……善人だな」

 

 眩しいものを見たように目を細めた衛士団長が、いつもの豪快さが鳴りを潜めた優し気な口調で呟く。

 

 彼にも、ヨハンにも、フィリップの心が衛士たちとエルフの間で揺れている──どちらも守りたいが、どちらか守ればどちらかを危険に晒すという、トロッコ問題的なジレンマに陥っていることが分かった。

 それは誰かを守りたいという、優しい欲が無ければ起こり得ない葛藤だ。衛士たちも余程の新参でなければ、どこかで一度は経験したことのある苦痛だ。

 

 「分かるぞ、少年。俺も昔、魔物に襲われた村を助けに行って、そうなった。何処の誰とも知らない子供か、当時一兵卒だった俺の指導役の上官か、どちらかしか助けられない。そんな状況だった──」

 

 遠くを見るような目で虚空を見つめる衛士団長に、特別な意図は全く無かった。ただ過去の情景を脳裏に描いて追憶しているだけなのだが、演出としても十分に機能していて、フィリップとヨハンが顔を上げる。

 二人が意識を向けた直後だった。ぱん! と破裂音が鳴り、フィリップの両頬に乾いた痛みが走った。衛士団長がフィリップの頬を両手で挟むように張り、意識と視線を強制的に自分へ向けさせた音だ。

 

 「むぎゅ!?」と、間抜けな声が意図せず漏れた。

 

 「──だから、あの時の彼と同じことをしよう」

 

 衛士団長は柔らかに目を細めて笑うと、すぐに表情を引き締め、軍人としての規律と威厳に満ちた顔を作る。

 

 「君は今、俺の指揮下にある! だから俺の命令には、絶対に従わなくてはならない! 分かるな!」

 「は、はい!」

 

 至近距離の会話には不適切なほどの大声と張りに、フィリップは思わず背筋を正して返してしまう。

 威圧感に呑まれたとか、大声に怯えたわけではない。ただ、怒られの気配に反応してしまうのは癖のようなものだ。

 

 衛士団長は威勢のいい返事に、その意気や善しと口角を吊り上げる。

 

 「よし! ならば、持てる情報の全てをくれ!」

 「は……え? そ、それは──」

 

 勢い、「はい!」なんて答えそうになって、慌てて口を噤む。

 

 それは駄目だ。

 それはつまり、衛士団があの蜘蛛と戦うということ──一度見ただけで蜘蛛恐怖症を発症してしまうような悍ましき化け物に、もう一度対面させるということだ。衛士団長は一度目は無事だったが、二度目もそうとは限らない。今度こそ致命的な狂気を発現させる可能性もある。

 

 それは駄目だ。それは、フィリップの憧れる美しい人間性を曇らせる行為だ。延いては、フィリップ自身の人間性の喪失にも繋がる。

 彼らのようになりたいと憧れてこそ、フィリップは未だに人間で在れているのだから。

 

 言い淀んだフィリップの、動揺で揺れた青い瞳を、衛士団長の強い意志の籠った双眸が縫い留める。

 

 「そうだ! 俺が行く! 俺を見捨てろ!」

 「……っ」

 

 びりびりと肌が痺れるような、強靭な意思が迸る。

 フィリップはその決意を前に、勇気を前に、何も言えない。

 

 黙ってうつむいたフィリップをフォローするように、ヨハンが衛士団長の手をフィリップの頬から退かす。

 

 「団長、龍を殺すには団長がいないと──」

 「ヨハン、お前は妙に頭の回らん時があるな。分からんか? ()()()()()()()()()()()、必要なのはこれだけだ。そうだろ?」

 

 その論理で「確かに」と頷くのは、衛士団長と、以前にその役職に就いていた者の、二人の脳筋たちだけだろう。或いは平常時のフィリップも、「殺せばいいのだろう?」と乗っかるかもしれないが。

 

 「カーター少年、君に決定権はない。君は命令に従わなくてはならないんだ。分かるな?」

 

 フィリップに罪悪感を与えまいとする意図がはっきりと分かる、言葉を選んでいることが丸わかりの不器用な優しさ。それが今のフィリップには、とても痛かった。

 

 「ぅ、あ……、っ!」

 「泣くな、少年。君に選択肢は無いんだ。君は何も選んでいない。君は何も悪くないんだ」

 

 涙は止まらない。嗚咽もだ。

 否定のしようもなく、他人の前で無様に泣いている。

 

 だがそれは、衛士団長を死なせてしまうことに対してではない。

 

 これほどの決意を見せる、これほどの善人を──欺くことの罪悪感で、泣いているのだ。

 

 

 

 



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279





 結局、フィリップはアトラク=ナクアの娘に関する情報を開示した。といっても、その発生源であるアトラク=ナクアや旧支配者については触れず、「巨大な巣を張るために行動している」と誤魔化したが。

 

 習性や戦闘能力については、出来る限り詳細に話した。

 とは言っても、情報ソースが外神の智慧だ。あんな程度の劣等種と「戦い」をしたことがないから、攻撃方法や防御強度なんかは全くの未知数だし、フィリップが夕暮れまで長々と語った内容の殆どは憶測だった。

 

 大量の無意味な情報と、確度の低い推測。脳を埋め尽くすとまでは行かずとも、思考のノイズにはなる膨大なゴミ。

 衛士団長をただ見捨てるなんてできない。絶対に何か役立つ情報を提供する! そんな懸命な顔をして、何時間も同じ内容を繰り返したり、延々と推測を語ったり、無能な働き者のように情報を垂れ流した。その中には、一片の嘘を混ぜてある。

 

 ──あの蜘蛛は夜行性です。昼間であれば動きが鈍るかも。

 

 衛士団長はそれを聞いて、当然のように翌日早朝の襲撃案を立てた。

 仕方がない。明日が龍殺しに使える最終日だ、明後日には帰路につかなくては二週間のタイムリミットを超過してしまう。

 

 だから……フィリップが行くなら、今夜しかない。

 天井に吊られていたランタンを外して光源を確保し、右腰にウルミを吊って準備はほぼ完了だ。あとは──腰にくっついて泣きべそをかいているシルヴァを剥がすか、異空間へ送還すれば完璧と言える。

 

 「……ふぃりっぷ、ほんとにおこってない?」

 「怒ってないよ。そういうものだっていうなら、それは仕方のないことだし、怒らないって」

 

 一時間ほど前、衛士団への情報開示を終えたあとから、シルヴァはずっとこの調子だった。

 この森には「余計なものは棲んでいない」と言ったのに、アトラク=ナクアの娘が巣まで作っていたのだ。あれも森に住まうものなのかとフィリップは呆れ交じりに思っていたのだが、シルヴァは違うと言った。

 

 曰く、洞窟や地下空間は森の範疇外で、把握できなかったのだという。分かっていたら警告していたとも。

 

 ……正直、「どうして教えてくれなかったんだ」とは思った。だがそれは、衛士たちにあんなものを見せてしまったこと──あの異形の蜘蛛を一人で、彼らに何も見せないようスマートに殺すことが出来ない、自分の無力さの八つ当たりだ。

 勿論、あれが人間以上の存在であることは分かっている。智慧も、あれは人間を殺すに能う存在だと警告している。

 

 だが、心の内には確かな嘲笑があるのだ。旧支配者の手先などという下等種への嘲笑もそうだが、何より、自分への嘲笑が。

 あんな程度の劣等種さえ殺せない、いや、「殺す」「戦う」というステージにすら上がれないこの身は、何と脆弱なのかと。外神なら、あんなのとは「戦闘」をしない。指の一弾きや一瞥どころか、認知することすら必要とせず、ただ同じ空間に居るだけで相手は勝手に死ぬというのに。

 

 そうなりたいわけではない。いや、死んでもなりたくないが、比較と嘲笑は止まらなかった。

 

 その苛立ちをシルヴァへの八つ当たりで発散するのは、絶対にあってはならないことだ。そう自制するだけの理性は、まだきちんと残っている。

 

 「前に言ったでしょ? シルヴァにはあれしろこれしろって命令するつもりはないって。シルヴァは僕と、いたいだけ一緒にいてくれたらそれでいいんだ」

 「ん……」

 

 若葉色の髪を撫でると、シルヴァは心地よさそうに目を細めた。もう一度上目遣いでフィリップの窺うが、その表情に怒りの色を認められず、安心したように自分から異空間へ還って行った。

 

 「さて……僕も行くか」

 

 なんとなく準備運動をしつつ、ランタンとウルミと、水筒も持ってツリーハウスを出る。朝方の洞窟行では持って行かず、衛士たちの水を分けて貰うことになった経験からの学習だ。

 

 それなりに深い森の中ということもあり、日が沈むと一気に暗くなる。ツリーハウス同士を結ぶ丸太を組んだ回廊には炬火があるが、洞窟方面の森は黒々とした闇間を覗かせている。ランタンの明かりは集落から見えないよう、自分の身体で隠して歩かないといけないだろう。でないと、一瞬でバレて連れ戻される。

 

 ──と、フィリップが珍しく賢い推察をした時だった。

 

 「一人で行くの?」

 「──、っ!?」

 

 不意に背後からかけられた声に、びくりと肩が跳ねる。

 ぎぎぎ、と軋むような動きで振り返ると、悪戯っぽい笑みを浮かべたエレナが金色の髪を揺らして立っていた。

 

 「今から洞窟に行くんでしょ? 一人で」

 「え? い、いや、何のこと……あれ? いま、共通語で喋りましたか?」

 

 エレナはエルフ語しか話せなかったはずなのに、フィリップは今、彼女の言葉が難なく理解できた。

 フィリップが突如としてバイリンガルになった──邪悪言語を含めるとトライリンガルだが──のだとしたら、帰ってルキアとステラに自慢するところだが、残念ながらそうではなく、エレナが大陸共通語で話しているだけだった。

 

 「うん。あの洞窟から出てから、頭が凄く冴えてるの。人間の言葉も、爺やに読み書きとか文法は教わってたけど、いつ使うんだーって授業を適当に聞いてたのに。……気が付いたら、衛士たちが何を言っているのか理解できてた。……なんでかな?」

 「え? な、なんででしょうね……?」

 

 フィリップは韜晦ではなく、心の底からの疑問を込めて返す。

 

 あの洞窟が知性を上げるパワースポットだった、とかなら、フィリップや衛士たちにも同様の症状が表れていなければおかしい。或いはエルフだけに効果があるのかもしれないが、ダンジョンならともかくただの洞窟にそんなギミックは無いだろう。アトラク=ナクアの巣網にも、そんな効果はない。

 

 となると、やはり狂気の類か。

 多言語理解とは、何とも便利な狂気で羨ましい。まぁ、狂えるというだけで羨ましいのだが……なんて、フィリップは見当はずれな羨望を抱く。

 

 人間は基本的に、肉体と精神が互いに影響するように出来ている。身体の状態が不健康であれば精神も不健康になり、精神が不安定になると体にも影響が出る。前者は風邪の時に妙に人恋しくなる現象、後者は狂気による記憶障害や言語障害などが代表的な例だろう。

 

 エレナが発症した狂気は脳活動の過剰化だ。

 甚大な恐怖と危機感が脳の働きを限界まで活発化させ、超集中(ゾーン)に近い身体作用を引き起こすことは、狂気ではなくとも稀にある。つまり彼女の狂気は、珍しく本能にやや近い働きをしている。

 

 今までは読み書きが多少できる程度だった言語が、少なくとも日常会話レベルで使いこなせるようになるほどの過回転。聞き流していた授業の記憶を忘却の彼方から引き摺り出し、強制的に定着させているようだ。

 

 それだけなら、フィリップがそれを知っても羨ましがるだけなのだが──狂気が、そう便利なものであるはずがない。

 人間の脳は一日の消費エネルギーの3割近くを占める超重要臓器だ。睡眠中にも記憶の整理や定着などの活動をしており、脳が働いていない時は殆ど無いとまで言える。

 

 そんな脳が過剰活動するとどうなるか。

 他言語理解や完全記憶は素晴らしい才能だし、それを疑似的に再現しているのは凄いことだ。だが、決してそれだけではない。

 

 この状態でもう一度アトラク=ナクアの娘に遭遇すれば、脳が認識し理解する情報の量は前回とは比較にならないほど多くなる。今度こそ、精神が完全に破壊されるかもしれない。

 それに、この状態が続くのも良くない。頭痛、眼痛、熱発などの副反応に始まり、長く続けば脳細胞の破壊や血管破裂などを引き起こす可能性もある。その結果は昏睡か、植物状態か、死かだ。

 

 そんなことは露知らず、フィリップは「なんか分かんないけど言葉が通じてラッキー」くらいの認識で、能天気に話を続ける。──尤も、能天気なのはエレナの状態に関しては、だ。もしかして引き留めようとか、衛士団にチクろうとか考えてないよね? 殺さなきゃダメかな? とか、内心では戦々恐々としているし、何ならちょっと身構えている。

 

 「鞭を右に吊ってるから右利きだよね? でも、ボクを排除するのには左手を使おうとしてる。あなた、魔術師だったんだ?」

 「……排除だなんて、僕はそんな──僕?」

 「ん? 何か変だった? これでも一応、人語で書かれた本を読めるくらいには……あぁ、人称変化が変なのかな。ボク、あの範囲は苦手でさ。ワタシ、オレ、ジブン、ワタクシ、コチラとか、なんでこんなに多いの? エルフ語なんて『私』の一種類だけだよ?」

 「いや、僕に聞かれても困るんですけど……変ってことはないですよ。ちょっと……珍しくはありますけど」

 

 フィリップが初対面で男性だと思ったフレデリカでも、一人称は「私」だった。エレナの顔立ちはフレデリカ以上に整っているが、かと言って取り立てて中性的というわけでもない。むしろ、どこかミナに似ているとすら思う女性的な魅力に富んだ顔の造りなのだが……流石に、人間以上の美貌を前にすると、脳が不具合を起こす。エレナを初めて見た時も、美しいという情報だけが先走って、性別にまで目が回らなかった。

 

 じゃあどうやって性別を判断するんだと言われると、じっくり見るか、身体を見るかなのだが──失礼な話、エレナの身体はミナとはだいぶ違った。フィリップが知る女性の中でも一、二を争うグラマラスな肢体の持ち主であるミナとは比べるべくもなく、胸が薄い。何ならフィリップと同じぐらいの起伏の無さである。

 すらりと長い手足や嫋やかな手指、健康的に引き締まった腰のくびれなどは、勿論魅力的なのだが──異性の身体の何処が魅力かなんて、フィリップは知らない。性差についても、概ね「胸があってモノが無いんでしょ?」ぐらいの認識だった。

 

 かといって、「それは変だよ! でも男っぽいから似合うね!」なんて馬鹿正直に言うほど愚かでもないフィリップは、曖昧に笑って話を流す。頭の片隅には、ディアボリカに言われた「女性を女性扱いしないなんて論外よ!」という叱責が引っ掛かっていた。

 

 「そ、それで……エレナさん……様?」

 「どっちでもいいよ。敬称の種類も、王様に使う『陛下』が区別されてるぐらいで、基本的には一種類だし」

 「そうですか。じゃあエレナさんはその……僕を止めに来たんですよね?」

 

 それは困るなぁ、なんて、フィリップは自分の手札の少なさを恨む。

 衛士団と、それに一応、エルフたちも助けるために行こうというのだ。邪魔をされたからと言って、まさか殺してしまうわけにもいかない。

 

 しかし、エレナは軽く首を傾げて疑問を露わにすると、軽く頭を振って否定した。

 

 「ううん、違うよ? ボクはこれでもお姫様だからね。居住区の近くにあんな化け物がいるなら、もっと多くの被害が出る前に対処しなくっちゃ! というわけで、あなたについて行こうかなーって」

 

 楽し気に言うエレナに、フィリップは沈黙を返す。意識して黙ったわけではなく、絶句しただけだ。

 

 余りにも──面倒くさい。

 便利な症状とはいえ狂気を発症するほどの恐怖に直面して、それでも臣下の民のため戦いに赴くというのは、何とも美しい在り方だ。

 

 だが、率直に言って邪魔だ。

 アトラク=ナクアの娘に単騎で勝てるならそれでいいのだが、それなら先の邂逅で片を付けているだろう。となると「フィリップを手伝う」みたいなスタンスのはずだが、当のフィリップ本人は賭けに出るつもりだ。即ち、本能の警告と外神の視座による嘲笑に浸り、眼前敵への集中を以て邪神を召喚する。できなければ、その時はヨグ=ソトース頼りだ。

 

 何の関係もない他人でも、善人であるのなら殺したくはないし、無知であるのならそのままでいるべきだと思う。

 その想いがあるからこそ、賭けに出るのに──賭けの場にすら、重石が来る? それは邪魔以外の何物でもない。

 

 「……お勧めはしません。まず、どうして僕に? 明日の早朝に、衛士団と一緒に行けばいいじゃないですか」

 「え? だって、あなたが一番弱そうだし。あの人たちはボクより強いけど、あなたは……一人だと死んじゃいそうだもん」

 

 揶揄の気配もなく無邪気にそう言われ、フィリップは胡乱な目を向ける。

 エレナだって、手や足に筋肉が付いているようには見えないし、簡素なシャツとズボン姿では防御も薄いだろう。少なくとも近接戦闘型には見えないが、フィリップのことを魔術師だと勘違いした時点で、もう確実に魔術師ではない。なんせフィリップの魔術適性は一般人並みと、世界最強から太鼓判を押されているのだから。

 

 「そういうエレナさんは戦えるんですか?」

 「ん? うーん……、えいっ!」

 

 可愛らしい掛け声と共に、エレナの右腕が霞む。

 直後、ほんの僅かな破砕音と共に、近くにあった木の幹が巨獣に食いつかれたように抉れ飛んだ。

 

 人間の頭部も、或いは岩でさえ砕きそうな一撃に、フィリップは絶句を通り越して苦笑する。ミナも大概化け物というか、彼女は正真正銘の化け物なのだが、エレナの出鱈目ぶりも中々だと。

 

 「見ての通り、パンチとキックには自信あるよ!」

 

 むん、と腕を曲げて上腕二頭筋を誇示するエレナだが、力こぶは出来ていない。

 エルフと人間では筋繊維一本ごとの出力が違うのだろうが、それにしても冗談みたいな威力のパンチだ。衛士でも強化系の魔術無しであんなのは打てない。

 

 「……ちなみに、運動神経に自信のほどは?」

 「そっちはまぁまぁかな。この木ぐらいの高さなら、ギリギリ一回のジャンプで届くかも?」

 

 フィリップたちがいる回廊の高さは、およそ地上二十メートル。むしろどこかの枝を経由しての二段ジャンプの方が難易度が高そうだが、それ以前の問題だ。

 

 素晴らしい運動性能だ。

 戦闘能力はさておき、これなら、やれることが増えたかもしれない。

 

 「よし、完璧です。僕の捨て身アタックよりいいプランを思い付きました」

 「ホント? じゃあ、ついて行っても──捨て身アタック!? 駄目だよ!?」

 

 冗談だとでも思ったのだろうが、笑顔も混ぜつつ突っ込んでくれるエレナ。その妙な居心地の良さに、フィリップは軽く笑った。

 

 

 

 

 

 

 



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280

 洞窟を抜けて例の地下空洞に入ると、フィリップは後ろにいたエレナに合図をして歩を止める。

 ……想像より簡単に入れた。衛士が見張りに立っていたりとか、エレナを陰から守っている護衛に止められるとか、色々と邪魔が入ることも覚悟していたのだが。

 

 「エレナさん、ホントにお姫様なんですか?」

 「え? そうだけど……。もしかして、あなたまで「似つかわしくない~」とか言うつもり? やめてよねー、真実は最も鋭い剣となるんだから」

 

 エレナはぷりぷりと怒りながら、手近にあった鍾乳石を革の靴で蹴り砕いた。

 エルフの慣用句なのか、或いはただの比喩なのかは分からないが、言わんとしていることは分かる。分かるが、それが事実だと認めてもいいのだろうか。

 

 「ま、お父様たちもあと800年くらいは現役だろうし、いいんだよー、『放蕩王女』でさー」

 「な、なるほど……?」

 

 800年と言われても、全然ピンと来ない。というか、800年前なんて王国が建つより前だ。前身の国は……なんだったか。歴史の授業は半分以上寝ているので全く記憶にない。

 

 それはともかくとして。

 

 「でも、民の為に戦うのは素晴らしいことだと思います。特に、相手があんなのだっていうのに、それでも戦おうなんて普通は思えません。僕の知り合いのお姫様は──」

 

 いやどうだろう、とフィリップは口籠る。

 ステラなら案外「それが戦略的最適解だ」とか言って先陣を切りそうではある。それに確か、彼女は先の内戦で陣頭指揮を執って、自身も一万の敵兵を屠った戦争経験者だ。自分が前線に立つことを厭わないという点では、エレナと同じと言える。

 

 ステラは徹底した計算と合理に基づいた最適解であるのなら、血と臓物の散らばる泥の道にも踏み入る天性の為政者だ。国家の利益になるのなら何億でも虐殺するし、その咎を罪とも思わないような。

 エレナは逆に、「死なせたくない」という思いだけで自身の死のリスクを許容できる、感情型。フィリップたちを古龍から助けた時のように、誰に反対されようと、助けるべきだと信じたのなら助ける。

 

 どちらが正しい、どちらが良いという話ではない。

 いや──どちらもまた、為政者としては正しい姿だ。

 

 「いえ、彼女とはちょっと違うかもしれませんけど、でも、その在り方も国を担うに相応しいものだと思います。いい女王様になれますよ、きっと」

 

 無知な一般平民の意見で恐縮ですけど、なんて笑うフィリップ。

 心根が超越者であるフィリップの意見はそこそこ支配者寄りの視点だし、何よりとんでもなく上から目線で語っているのだが──それだけに、妙な説得力があった。

 

 フィリップの立ち居振る舞いは、それこそ無知な一般平民のものだ。気品も無ければ優雅さも無い、ただの子供の意見。なのに、どうしてか無視できない。普段のエレナなら、ちょっと嬉しくなってお礼を言って、それで終わりなのに──今は、その言葉が重く感じる。

 

 それは過回転状態の脳が普段を数倍する観察や推理を齎しているからなのだが、この場の誰も知らないことだった。

 

 「……ありがとう、フィリップ……さん?」

 「はい? あぁ、敬称は一種類しか無いって……いいですよ、呼び捨てで。年上ですよね?」

 「たぶん? ボクはまだ95歳なんだけど──」

 「……僕は12歳です」

 

 赤ちゃんみたいなものじゃん!? と驚かれたが、それを言うならエレナはおばあちゃんみたいなものである。まあ長命種だけあって、見てくれはルキアやステラと殆ど変わらない、人間で言えば15,6歳の少女なのだが……いや、よそう。そもそも女性に対して年齢の話をした時点で、ディアボリカに言われた禁を破っている。エレナの機嫌を損ねないうちに、さっさと本題に移ってしまおう。

 

 こほんと咳払いを一つ挟み、弛緩した空気を切り替える。

 

 「エレナさん、作戦は覚えてますよね。まず第一段階の関門をクリアできているか確認しましょう」

 「そうだね。じゃあ……えいっ」

 

 エレナは徐に手を伸ばし、壁面にべったりと付いた太い白い帯──アトラク=ナクアの娘が展開した巣の端、次元超越糸に触れる。ポニーテールを解いた長い髪を持って、その先端で擽るように。

 

 「……うん、くっつかない。第一段階はクリアだね」

 「良かった。洞窟を潜って髪を切りに来ただけなんて、笑い話にもなりませんからね」

 

 髪を束ね直すエレナと笑い合う。

 

 第一段階は、蜘蛛糸の粘性が無いことでクリア。

 では第二段階だが、これはほぼクリアされている。ここで要求されるものは、蜘蛛糸の強度。人間一人が乗ってもびくともしないような、その上を走って行けるような剛性。

 

 「ふんっ……! うん、ボクの体重ぐらいなら大丈夫そうだね。びくともしないや」

 

 膝を折って蜘蛛糸からぶら下がったエレナは懸垂までしているが、壁からドームへ伸びる帯は撓みすらしない。

 

 これなら大丈夫そうだ。

 まあ衛士団長の一撃を受けて無傷だったので、これはただの確認だが。なんならフィリップが乗ってシルヴァが乗って、ついでジェイコブとヨハンが乗っても大丈夫だろう。

 

 「……うわっ!?」

 

 と思いきや、フィリップがエレナの真似をしてぶら下がった瞬間、ぶちぶち、と悲惨な音を立てて極太の帯が千切れた。

 

 慌てて折っていた膝を伸ばして着地するフィリップとエレナは、お互いに顔を見合わせる。

 

 「……ホントに大丈夫だと思う?」

 「……一人分の体重なら大丈夫でしたよね?」

 

 そうだけど、と不安そうなエレナ。

 だが不安なのはフィリップも同じだ。

 

 次元超越糸は、単一次元の存在では壊せない。なんせ、ここではない別の世界にまで跨る物体だ。……そのはずなのだが、レース生地のような手応えと共に裂けてしまった。

 

 外神の知識に間違いがあるのか、或いは──フィリップが知らない間に人間を辞めていたのか。どちらにしても困るので、取り敢えずここを出たらシルヴァに「僕って人間?」と馬鹿げた質問をして、帰ったら投石教会に寄らなければ。

 

 そのどちらでもない特別な理由があることを祈りつつ、三つ目の確認事項に移る。

 

 「……どうですか?」

 

 向こう側まで200か300メートルはありそうな大きなドーム、その中を埋め尽くすような多重多層の蜘蛛の巣を、隙間から見通そうと目を凝らしているエレナ。

 フィリップの問いかけにも気付かないほど集中して観察すること、およそ5分。

 

 「うん。ルートはある。ただ……坂道みたいな感じだね。行きは楽だけど帰りはキツい。往復で……10分」

 「10分……」

 

 率直に言って、重い。

 フィリップの継戦能力は、中級の戦闘魔術師を相手に二分の耐久が限界──いや、ギリギリ二分に満たない。ロングソードなんか触り出したから身体操作に狂いでも出たか、半年前からずっと足踏みしているというのに。

 

 いや、そもそも人間は10分間も全力の戦闘機動を維持できる身体設計をしていない。

 短距離走レベルの運動負荷なら、継続限界は3分といったところだ。

 

 運動能力が格上のアトラク=ナクアの娘を相手に十分の耐久戦闘など、自殺行為に他ならない。

 

 「限界まで走って10分だよ。あれと似たようなのが他にもいたら、撒けるかもしれないけど、もっとかかる」

 「そう、ですね……。でもやるしかない。代替案が無い以上、これが最適解ってことになります」

 

 ──とはいえ。自殺行為というのは、死の危険性があってこそ成立する言葉だ。

 自分で自分の首を絞めるならともかく、それに似た無意味かつ勝ち目のない戦闘行為では、フィリップが死に至ることはない。……たぶん。

 

 「やるしかない……。うん、そうだね。あなたのミスでも、ボクのミスでも、二人ともが死ぬ。お互いに命を懸けて、預けて、命よりも大切なものを勝ち取ろう」

 

 フィリップは僅かに目を瞠り、表情を引き締めて頷いた。

 フィリップの命の軽さはともかく、対比のように大切にしている衛士たちやルキアたちのことを、全く語っていないのに推察された。脳の過剰回転に気付いていないフィリップは、流石はお姫様だなぁなんて感心する。その感動も、湧き上がる戦意の前にすぐに鎮火した。

 

 「はい。……じゃあ、まずは──、っ!」

 

 フィリップは頷きを返し、ドームへせり出した開口部の縁ギリギリまで進み、両足を開いてしっかりと地面を踏み締める。

 そして徐にウルミを抜くと、数回空振って整形(フォーメーション)してから、蜘蛛の巣に向かって叩き付けた。

 

 独特の風切り音と破裂音に続き、剛性のある表面を金属鞭が火花を散らして滑っていく。

 

 「うわ、()った……。それ、自然の金属じゃないでしょ? なのに擦ると削れるなんて、ただの蜘蛛の魔物じゃないね、やっぱり」

 「ですね。……よし、釣れた」

 

 フィリップが糸を一本引き千切ったからか、様子見に徹していたらしいアトラク=ナクアの娘が動く。

 未だ姿は見えないが、例の布団を叩くようにくぐもった、不規則に連続する足音が聞こえていた。

 

 「エレナさん。もし万が一、僕が大掛かりな魔術を使おうとしていると感じたら、すぐにその場に伏せて、目と耳を庇ってくださいね」

 「切り札ってことだね、分かった。……来たね。じゃあ、陽動は任せたよ」

 「任されても困るんですけど、了解です。10分は死ぬ気で耐えて見せますよ」

 

 とん、とフィストバンプを交わす。

 そしてエレナは、飛び出してきた巨大な異形の蜘蛛とすれ違うように巨大な巣の中へと身を躍らせた。

 

 ききき、と不思議そうに牙を軋ませる蜘蛛だが、彼女の後を追う様子はない。不規則に並んだ八つの単眼は無機質な光を湛えているが、明らかにフィリップを観察していた。

 

 フィリップはその目を見つめ返すと、意地悪そうに口元を歪める。

 そして、喉の奥から絞り出すように、咳き込むように発音した。

 

 「──■■■、Atlach-Nacha」

 

 かつてマザーが口走った、およそ人間の口から出ることは無い冒涜的な罵倒。

 アトラク=ナクアを最大限に誹謗し中傷し嘲笑する言葉は、アトラク=ナクアの娘にとっては自らの神を嘲るに等しい。それこそまさに、冒涜だ。

 

 ぎちぎちぎち、と牙が鳴る。

 今度のそれは、明確な威嚇であり、怒りの発露だった。

 

 「……お前も大概劣等だね。僕相手に威嚇なんて、随分と無駄なことをする」

 

 腰と肩甲骨と肩関節、ウルミを振るうのに必要な個所を柔らかく解しながら、のんびりと話しかける。拍奪なんて走り続けなければ機能しない技術に防御を依存するフィリップは、戦闘機動の持続時間が特に少ない。それこそ3分とか4分とかだろう。

 

 だから、なるべく時間を稼ぎたかったのだが──神を愚弄された信徒がどういう反応をするのか。フィリップはそこを甘く見過ぎていた。

 挑発になればラッキー? エレナの方に行かなければそれでいい?

 

 とんでもない。

 アトラク=ナクアの娘は、ぎちぎちぎち、と牙を鳴らし、かつかつと足を踏み鳴らして宣言する。

 

 ()()()()、と。

 

 

 

 

 

 

 

 



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281

 パルクールのような動きで無数の蜘蛛糸を掻い潜り、踏み、跳び越えて走りながら、エレナは懸命に目の前の障害物に集中する。

 背後から僅かに聞こえる剣戟の音と、見えなくなってしまった目的地──地下湖の小島に安置された龍殺しの魔剣──は、どうしようもなく集中力を削ぐ。

 

 だが、今は一歩でも早く、一秒でも早く、この無数の帯が複雑に絡まり合った灰白色の迷路を抜けなくてはならない。

 

 その現状で、脳の過回転はむしろ邪魔だった。

 目の前の地形に集中したい、身体を動かすことに集中したいのに、余分な思考が混ざってしまう。予め見繕ったルートを、予め想定した動きで通り抜ける、それだけでいいのに──フィリップが心配だ。魔剣が気になる。もしも失敗したらと不安になってしまう。

 

 直線距離では150か160メートルくらいだろうが、流石に何重にも重なった蜘蛛の巣に遮られていては、真っ直ぐに向かうことなど出来ない。行きに三分、帰りに七分。どう頑張っても、これ以上にタイムを縮めるのは不可能だった。

 

 跳んで、走って、潜り抜けて、また走って。考え得る限り、出来る限りの最短経路を、最速で駆け抜けて。最後の最後には50メートル下の水面に飛び降りて、少し泳ぐ。

 

 「う、あー……結構響いたなぁ……」

 

 人間なら即死も有り得る衝撃だが、エレナは腰を擦るくらいで、どこか折った様子も無い。フィリップが見ていれば冗談だろと瞠目するところだが、今はとても忙しいし、そもそも蜘蛛の巣でフィリップがいる高台の様子は見えない。

 

 ぷるぷると頭を振って髪の水気を雑に飛ばし、エレナは岩の台座に突き立てられた魔剣に向き直る。

 

 魔剣──その名に相応しく、どこか禍々しい気配を放つ、濃紺色のロングソード。

 鉄や銀などの金属ではなく宝石を思わせる透明感のある素材で作られたそれは、長い闘争の歴史の中で傷付き、所々刃毀れしている。だというのに、その存在感、威圧感には一片の曇りもない。

 

 「……これが、魔剣──」

 

 形状自体はオーソドックスな長剣だが、一目で通常の存在でないことは分かる。これなら、きっとあの蜘蛛にも、フィリップたちが倒そうとしている龍にも届くだろう。そう思わせる、神秘的な気配を纏っている。

 

 見惚れかけていたエレナは、ぱんと自分の両頬を張って気を引き締め直す。

 そして、静かに輝きを放つ宝石のような柄へと手を伸ばし──指先が触れた瞬間、物凄い力で後ろ向きに引っ張られて水に落ちた。

 

 「わぷっ!? ──、っ!?」

 

 蜘蛛がもう一匹いたのか、フィリップが陽動として機能しなかったか、或いは──。

 幾つもの想像したくもない可能性がぐるぐると脳内を駆け回るが、それも一瞬だ。水面から顔を出して下手人を認めるまでの、ほんの一瞬。

 

 そして、エレナの目に映ったのは、異形ならざる──つまり、ごく平凡なヒトガタだった。

 二足二腕で、胴体と顔がある。革鎧を身に付けた戦士然とした出で立ちで、細く長い耳の形が特徴的だ。

 

 『エルフ……なの?』

 『そうだ。これでもかつては英雄と呼ばれた。或いは勇者とも』

 

 剣の傍らに立つ人影は悠然としている。

 敵意も害意も感じられない──どころか、生気さえ感じられない。よくよく目を凝らしてみれば、薄く向こう側が透けて見えた。

 

 『わお。もしかして、幽霊ってやつ? ゴースト系の魔物じゃない、本物の残留思念体?』

 『似たようなものだ。魔剣を取ろうとする者を見極めるため、俺はここに残った。その意思や在り方を見て、魔剣を託すに相応しいかどうかを』

 

 人影の顔立ちは靄が掛かったように判然としないが、声で分かる。彼は今、とても仏頂面で──苛立っている。

 

 『そして貴公は、失格だ。故に、この剣は取らせん』

 『なんで!? ボクはこれでも、皆の為に剣を取りに来たんだ! この森に誓って、私利私欲の為じゃない!』

 

 今もあの足場の悪い高台で戦い続けているフィリップを思うと一分一秒が惜しいのに、どうして邪魔をするのか。エレナは人影以上の苛立ちを孕んだ声をぶつける。

 

 『知っている。だが、そこには人間も含まれるだろう。人間は……敵だ。我らの首都を焼き、同胞を討ち、王女を拐かした!』

 

 びり、と首筋が震える。

 人影は幻で、その声はエレナにだけ聞こえる幻聴なのに、総毛立つような威圧感が迸る。

 

 それは声に含まれた憎悪や慚愧、恐怖や悲哀によるものだけではない。

 

 ──そんなこと、知らない。

 苛立ち混じりに「早く退いてよ!」なんて言おうとしていたエレナは、自分の知らない情報の提示に口籠った。

 

 『……え?』

 『遷都のきっかけになった出来事だ。遷都以降に生まれた貴公や、首都から遠いこの森の民が知る由もない。いや……或いは、貴公の笑顔を曇らせぬよう、敢えて教えていないのかもしれんが』

 

 そんなはずはない、とは言えなかった。

 だって、心当たりがある。父も母も、人間との交流なんて全く無いはずなのに、妙に人間について詳しい。しかし人間について教えてと言っても「本を読め」と言われるばかりで、その本には生物的なことが多少書かれているだけ。ではこの目で確かめようとすれば、今度は血相を変えて止められて、理不尽に怒られたこともある。

 

 その理由が、まさか、人間の蛮行によるものだとは思いもしなかったが。

 

 『先の首都は滅ぼされ、王女は攫われた。他ならぬ人間の手によってだ。故に私は、人間を助けようとする貴公を嘲り、諫め、そして認めん。立ち去れ』

 

 人影は言い切り、かつての相棒である魔剣を撫でる。言うべきことは言い切ったとでも示すように、その顔はもはやエレナのことを見ていなかった。

 

 しかし、エレナも「はいわかりました」と従うほど素直な性格をしていない。

 人間との間にある確執については、正直、知らなかった。祖父である先王や叔母に当たる先王女とは会ったこともないが、同族として、その死を悼む心はある。その死の理由を、どうしてエルフの首都が焼かれたのかを知りたいと思う心はある。

 

 だが、そんなのは全部後回しでいい。

 いま重要なのは、魔剣を手に入れてあの蜘蛛を倒すこと。それ以外は、すべて些事だ。

 

 『あなたの言っていることは分かった。嘘って感じもしないし、きっとホントのことなんだろうね』

 

 エレナはもう一度小島に上がると、髪の水気を振り落として拳を構えた。

 顎と頸動脈付近を守る、少し広めのファイティングポーズ。片足を引いて半身になった立ち姿は、やけに様になっている。

 

 応じるように、半透明の人影は安置された魔剣の柄へと手を伸ばす。

 

 『……止せ。押し通るというのなら、斬り伏せる。自分で言うのは照れ臭いが、俺はこれでもエルフ随一の使い手だった』

 

 そうだろうな、とエレナは心の内で頷いた。

 こうして相対しているだけでも、首筋がちりちりと焦げ付くような威圧感が伝わってくる。これまでにも狼の群れや身の丈を越すような大蛇、或いはもっと敵意に満ちた魔物とも戦った経験のあるエレナだが、彼女史上最強の敵だという確信がある。

 

 それでも──そんなのは、洞窟に入る前から覚悟していたことだ。

 自分より強い敵。魔剣に頼らなくては倒せない敵。そんな相手と戦うために、そんな相手から民を守るために、この暗くてじめじめした、エルフの夜目が無ければ殆ど何も見えないような洞窟を死地とする覚悟を決めたのだ。

 

 『あっそ。自分で言うのもなんだけど、ボクはこれでも──素手で熊だって倒せるんだよ』

 『……エルフの王女というのは、お転婆娘に育つ宿命でもあるのか?』

 

 相変わらず人影の顔は靄がかかって判然としないが、過去を懐かしむような呆れ笑いを浮かべている気がした。

 

 しかし、空気は全く弛緩しない。

 人影は無造作に手を伸ばし、突き立っていた宝石の如き長剣を抜き放つ。りぃん、という澄んだ音が、ドームを埋め尽くすような蜘蛛糸に吸われて半端に消えた。

 

 『魔剣ヴォイドキャリア。触れれば斬れる、無刃の剣。如何なる防御、如何なる隔絶も無に帰す』

 『カッコいい名前だね。なんとなくだけど、フィリップが好きそうだ──!!』

 

 相手は長剣。こちらは徒手。

 間合いで劣る以上、後手に回るのは絶対的に不利と考えて愚直に距離を詰める。

 

 動くのは後足から。初動を悟らせないため顔の位置を変えずに間合いを詰める技術は、フィリップの『拍奪』と通じる点のあるもの。相手が目と脳で相対位置を認識しているのなら、初見ではほぼ確実に見破れない“近付かない接近法”。

 

 だが。

 

 『──っ!』

 『それは、以前に見た』

 

 咄嗟に膝を抜いて身体を倒すと、一瞬前まで頭のあった位置を魔剣が突き抜ける。

 動きに遅れた髪が一房、はらりと切れ散った。髪が引っ張られる感覚が全く無い、完全な無抵抗の切断。

 

 『触れれば斬れるだって? 冗談──!』

 

 抜いた足を無理矢理に回し、バックステップで距離を取る。

 

 達人が鍛ち、達人が研いだ剣なら、触れただけで肌を裂く鋭さを実現することはできる。勿論、素材にも左右されるが。

 だが、今のはそんな次元の話ではなかった。触れた部分が綺麗に無くなって、その結果として切れたように見えるだけの──刃物による切断、薄い一点に圧力を集中することで圧し裂く一般的な斬撃とは、まるで違うものだ。

 

 エレナは両手を軽く振って、構えを正した。

 適当にボコって奪い取る。そんな気概では、跡形遺さず斬り伏せられる。いや──死力を尽くして戦っても、きっと五分にも満たない。

 

 『悪いけど、ボクも本気でここに来た。あなたの信念、殴り倒させて貰うよ』

 『……上等。戦意の鈍りは刃の鈍り。冴えぬ刃はガラクタよ』

 

 言って、消し斬る魔剣が正眼に構えられる。

 霞の向こうにある顔が、獰猛な笑顔の形に歪んだ気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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282

 アトラク=ナクアの娘は、拍奪使いの天敵といえる性能をしていた。

 八つの単眼は極端なほどの空間把握能力を持ち、相対位置認識が何をしても狂わない。フィリップが真後ろに回り込んでも、『拍奪』を使っていても、蜘蛛が天井にくっついていても、攻撃はフィリップのいる位置を正確に狙ってくる。

 

 そうなると、フィリップに残された手段は回避のみ。

 それも拍奪頼りの透かしではなく、素直に距離を取って躱す他にない。

 

 しかしアトラク=ナクアの娘は図体に見合わず俊敏で、フィリップは既に幾度となく壁際へ追い詰められてはギリギリのところで致死の一撃を躱している。

 戦闘開始から2分。たったそれだけの時間しか経っていないというのに、フィリップはもう息が上がり、肩で息をしている有様だった。

 

 「あぁ……クソ」

 

 フィリップは目の上に流れた汗を拭い、その隙を突いて振り下ろされた剣のような肢の一撃を慌てて躱す。

 

 アトラク=ナクアの娘。次元超越糸を使い、異世界にまで亘る広大な巣を作るための奴隷。

 以前に試験空間で遭遇したゾス星系よりのもの、戦闘員であったクトゥルフの兵とは違う、ただの土木作業員に過ぎない手勢。だが、フィリップより大きく、重く、硬く、速い。それだけで、生物としては一段上だ。

 

 戦闘技術ではフィリップが上でも、戦闘能力で負けている。

 人間に優越する化け物──生得的機能のみで、技能に勝る。人間が戦うために開発し、磨き上げ、伝承してきた技術が、ただ身体が強いだけという理由で敗北する。

 

 ぎちぎちぎち、と蜘蛛が嗤う。

 それは以前にエルフの戦士を殺した時、戦闘技術を踏み潰して殺した経験から学習した、愉悦の感情を孕んだものだった。

 

 フィリップが身に付けた拍奪の技術は、()()にとっても未知のもの。それを、ただ変異しただけで超越する快感。上位者に服従し強者へと転じた、その力の発露。心地よい、小気味よい、これは何とも素晴らしい。

 蜘蛛はけたけたけた、と嗤いながら、小さな戦士の顔が恐怖に歪むさまを見て──首を傾げる。

 

 「困るなぁ……ホントに邪魔だ」

 

 ぺちぺちと自分の頬を叩くフィリップ。まるで眠気を覚まそうとするかのように、頬を張って頭を振っている。

 何のつもりなのかと蜘蛛は首を傾げ、青い瞳に宿る、嘲笑の光を見た。

 

 「恐怖が無いのは便利だけど、蔑視は行き過ぎだ。回避が一手遅れる」

 

 フィリップはぽつりとぼやく。

 その心中に渦巻くのは、10分間の耐久戦という難事に際しているのに、心の奥底でずっと嗤っている外神の視座への呆れだ。

 

 「攻撃が来る」「だから避けよう」。回避行動は普通これだけの思考、いや反射で済む。

 しかしフィリップは「このクソ劣等は何をやっているんだ」「踏み潰すのも勿体ない、勝手に死ね」「いや当たったら死ぬのは僕の方だぞ」「避けなくちゃ」と、攻撃を認識してから二フレームの邪魔が入る。

 

 「まぁ、とはいえ──神威も無いような劣等種。シュブ=ニグラスの視点からじゃ、警戒するなんて無理な話か」

 

 何事か独り言ちているフィリップの言葉を解せず、しかし表情や視線に込められたどうしようもなく深い侮蔑の意を感じ、アトラク=ナクアの娘が動く。

 

 選択された攻撃は、依然変わらず前足による振り下ろし。

 というより、アトラク=ナクアの娘に攻撃のバリエーションは無い。何の格闘技術も身に付けていない人間がパンチとキックと頭突きくらいしかできないように、戦闘技術を持たない蜘蛛にはそれくらいしかない。あとは毒牙か糸かだが、命中精度に最も長けたのは、やはり肢だ。

 

 しかし、フィリップのステップバックで躱される。タップダンスのようにテンポよく連撃を加えても、ダンスパートナーのように理解しきった動きで避けられる。

 

 「しかも、攻撃が単調だ。早いし重いけど、ビビらなければ余裕で見切れる。……10分、耐えてやるさ」

 

 フィリップはウルミも仕舞い、完全に回避に専念している。

 その動きこそ単調で、普段の拍奪を使った奇妙ながら素早く複雑な動きは見る影もない。だが、今必要なのは特殊な技術ではなく、正確無比な攻撃を同等以上に正確に躱すステップワークと、超長期戦に耐えるスタミナだけだ。

 

 それだけで、この程度の相手には十分──そう、慢心した。

 

 「──?」

 

 蜘蛛の動きが変わる。

 前向きに生えた二本の肢で押さえつけるような動きだったのが、むしろフィリップから距離を取るように後退し始めた。

 

 フィリップは右腰のウルミに手を遣り、蜘蛛の動きを慎重に観察する。

 エレナの方に、ヤツのホームグラウンドである蜘蛛の巣の中に行かれたら、殆ど詰みだ。フィリップには幾重にも重なり合った多重多層の蜘蛛の巣、灰白色の帯で織られた立体迷路を通り抜けるような身体能力は無い。いや、それ以前に、この次元超越糸は、何故かフィリップが触ると千切れてしまう。あの中に飛び込んだが最後、何十メートルも下の湖に衝突してジ・エンドだ。

 

 「逃げる気か? 人間風情から、アトラク=ナクアの娘であるお前が。まあ劣等種らしい無様さだ。お前の主人によく似ている」

 

 ……何がだろう、と自分でも思う。

 旧支配者アトラク=ナクアに会ったことは無いし、頭に入っている知識は全て外神の視座から見たものだ。基本的な情報の他には、侮蔑と嘲笑ぐらいしかない。

 

 つまり、無様と嗤うだけの情報が無いのだ。

 彼女が何をして、どうなって、何が起こったのか。そういう生きた情報は、外神に対してのものしかない。たとえばシュブ=ニグラスが見ていた、ナイアーラトテップが住処にしていた森から焼け出されたこととか。

 

 しかし──アトラク=ナクアの娘は、釣れた。

 先刻、フィリップが邪悪言語でアトラク=ナクアを罵倒した時のように、明確に怒りを湛えた鈍重な動きでフィリップに正対する。ぎちぎちぎち、と鳴る牙は、疑いの余地なく威嚇音だ。

 

 「で、どうする? 逃げる? いいよ、逃げなよ。逃げてゴシュジンタマに泣き付くといい。この星にいるんだろ? 呼べよ、僕から、人間風情から逃げ出して、おかーさんたすけてーって──」

 

 ──正直、煽るのが気持ちよくなり始めていた。心の中に渦巻く嘲笑を鎮めてお行儀よくしているのは疲れるが、心のままに言葉を紡ぐのは楽でいい。特に台詞を考えることも無く、外神の視座から見下ろして、思い付いた言葉をただ羅列するだけで良かった。

 

 だが、やり過ぎた。

 蜘蛛は人語を解さない。だが音に乗せられた侮辱の意思は伝わった。

 

 再びの主神への冒涜に、アトラク=ナクアの娘の激昂は頂点に達した。

 

 「──っ、と!」

 

 フラメンコのようなハイテンポの肢捌き。貫き、押し付け、潰し、打ち払い、掴み取る。

 今までの動きを倍速か、三倍速にしたような超ハイテンポの連撃を、フィリップはギリギリのところで躱し続ける。速いだけで動きの精度や単調さに変わりがないのが救いだが、このままでは10分持たずにスタミナが切れる。

 

 みちみちみち、とこれまでにない音が届く。

 何か特殊な攻撃が来る、と身構えたフィリップ。その視界が灰白色に染まる。

 

 「糸──!」

 

 サソリのような動きででっぷりと太った腹を持ち上げた蜘蛛は、その先端部から白い帯のような極太の糸を、フィリップの顔面を目掛けて噴射していた。

 

 次元超越糸ではない。

 それはアトラク=ナクアの娘にも分からない理由で、何か特別な現象によって、フィリップが触れると千切れてしまう。何より、それは大切な、主人へ捧げる巣の材料だ。人間一匹の、劣等種一つを殺すのに使っていいものではない。

 

 その忠誠心故に、彼女が放ったのは、ただの粘性を持った白い帯。精々が大量の糊か餅に等しいもの。

 だからこそ、フィリップを殺すには十分だ。掌サイズの餅ですら窒息死を引き起こすのだから、その奔流ともなれば危険性は言うに及ばない。

 

 「うっ──!?」

 

 ステップなんて甘いことは言っていられず、硬い岩の地面に身を投げて直撃圏外へ逃れる。しかし、いつもの癖で身体に遅れた右手──普段はウルミを尾のようにして走るため、背中側にだらりと流している──が、糸に絡めとられた。その射出の勢いに引かれて壁まで吹っ飛ぶ。

 

 「が、はっ……!」

 

 ごつごつした岩肌に強かに背中を打ち付け、肺から空気が絞り出される。磔にされた右腕は押しても引いても取れる気配はなく、まるで鉄が接着剤になっているようだ。

 

 ぎちぎちぎち、と牙を鳴らしながら、アトラク=ナクアの娘がゆっくりと追ってくる。

 フィリップを捕らえたことに対する歓喜や嘲笑は最早無く、冷徹な殺意だけが八つの単眼に宿っていた。

 

 フィリップは少し慌てつつ、腕の拘束より自分の状態を優先して確認していく。

 特に重要なのは背骨だ。引っ張られていた右手が最初にぶつかったから、受け身もどきになって衝撃は緩和された。だが体育館の砂敷の地面より硬い岩壁だ、不安は募る。腰関節、股関節、膝、爪先と順に感覚を確認し、ほっと安堵の息を吐く。

 

 そして蜘蛛の動きをじっと観察して、覚悟を決めた。

 右手を肩甲骨から動かし、かなり無理な姿勢で顔を右手の前に持ってくる。まるで、なるべく被弾面積を減らして逃れようとするかのように。

 

 蜘蛛が止まり、前足を振り上げる。

 嘲笑も遊び心も含まない、フィリップとは違う()()()()()()が迸り──人間の頭蓋骨を確実に粉砕せしめる威力の一撃が振り下ろされた。

 

 この距離で蜘蛛の本気の攻撃を躱すには、相手の動き出しと同時に動かなければ間に合わない。だが、フィリップは動かない。

 普段とは逆に、訓練によって体に染み付かせた反射的回避を、外神の精神を以て制御する。躱さなくては大激痛に襲われるという本能の警告を、嘲笑と共に棄却する。

 

 「はぁ──、っ」

 

 深呼吸し、脳と目へ最大限に酸素を回す。

 

 剣のような肢先が、動体視力を振り切るギリギリの速度で襲い来る。

 フィリップはその突端をスローモーションで観察しながら、灰色に染まっていく視界を他人事のように認識していた。

 

 直撃まで2メートル。

 まだだ。今避けても間に合わない。今動いたら、軌道を修正されて致命傷を負う。

 

 直撃まで1メートル。

 まだだ。もう動くには遅すぎて、これから避けたって意味がない。今動いても、修正が間に合ってしまう。

 

 直撃まで50センチ。

 ここだ。このタイミング、奴の前足にスピードが付いて、自分の制御下を離れた今しかない。

 

 フィリップを殺した。蜘蛛がそう確信した直後の隙を突いて、その場に落ちるように膝を抜く。

 

 ずどん! と重い衝撃が壁を震わせ、砕かれた壁がもうもうと土煙を立てる。──アトラク=ナクアの娘が首を傾げた。

 頭蓋を砕き、脳漿をぶちまける感触は知っている。だが、今はそれが無かった。

 

 「……自縄自縛作戦は失敗か、まぁ蜘蛛ってそういうものだけど、あれってなんでなの?」

 

 蜘蛛自身の攻撃で岩壁ごとバラバラになった糸の戒めから逃れ、土煙に紛れて距離を取ったフィリップは、右手をプラプラさせながらぼやいた。

 岩壁に強く縛られていた右腕には少し痺れがあるが、脱臼や骨折はしていない。全くの無事と言っていいだろう。

 

 蜘蛛は八つの肢をもぞもぞと動かし、フィリップの方に向き直る。八つの目は相変わらず無機質な殺意だけを湛えていて、攻撃を躱されたことへの驚きなどは見て取れない。

 

 「ま、いいや。次善って感じだし」

 

 本当はアトラク=ナクアの娘を奴自身の糸で壁に縛り付けたかった。これが最善の結果だ。ちなみに最悪の場合は壁が壊れず二人ともが同じ糸で拘束されて、フィリップは為す術無く毒牙に刺されていた。

 それでも死なないという確信があったからこその賭けだったが、何とか無事にヨグ=ソトース頼りにはならずに済んだ。

 

 腕もちゃんと付いているし、フィリップが避けやすいいい感じの距離が開いた。その上、相手の弾速も把握できたとなれば、さっきよりも不利が小さくなっている。

 

 「全然余裕で耐えれそうだな。残り何分だか知らないけどね」

 

 やーい雑魚、と中指を立てたフィリップに、またアトラク=ナクアの娘が襲い掛かった。

 

 エレナの指定した10分間のうち、既に8分が経過していた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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283

 フィリップくんを虐める部分を書くと筆が進む。どうして……?


 エレナは剣対素手という不利な戦いの中にあって、一番の関心事は自分の内にあった。

 

 頭が痛い。

 きりきりと刺すようでもあり、がんがんと響くようでもあり、ぼうっと焼け付いたようでもある。とにかく、頭が痛い。

 

 目が痛い。

 眼球そのものも、その奥から伸びる視神経も、その奥にある脳も、何もかもが鈍い痛みを発している。視界が霞むようなことがないのが、唯一の救いだ。

 

 耳鳴りがする。

 耳というより意識そのものが、重く低い音を絶え間なく垂れ流している。バランス感覚に支障が出ていれば、戦闘どころではなかっただろう。

 

 『あぁ──頭が痛い』

 

 ぼやきながら拳を振るう。

 自分の動きも、幽霊の動きも、水の中みたいに鈍重に見える。すっとろくて、まるで見てはいられない。

 

 幽霊には殴るべき実体がなかったが、エレナの拳は魔力によって強化され、単純な物理攻撃のみならず魔術攻撃としての属性も持っている。パンチの一発ごとに、半透明の人影に有意なダメージを与えていた。

 

 しかし、エレナが一方的に有利というわけではない。

 元より不利な戦いだ。相手は間合いに優れた得物を持ち、森の外を知らないエレナより何十倍も経験に富んだ戦士。エレナが格闘に天賦の才を持ち、その得意距離を離されないよう食らいついているから、辛うじて拮抗している。

 

 ──いや、脳が過剰回転し、思考や認識の速度と精度が跳ね上がった今でなければ、それさえも許されず斬られている。

 

 『頭が──痛い』

 

 剣を振るう手を打ち、腕を打ち、絶対に相手の思惑通りに剣を振らせない。

 そう立ち回っていれば死ぬことは無いが、敵を殺すことも不可能だ。

 

 そもそも、エレナには殺し合いの経験がない。

 正確には、人間やエルフを殺した経験はない、と言うべきか。知性無き獣や魔物との戦闘経験は、豊富だと無い胸を張るほどではないが、かと言って自衛できないほどでもない。

 

 だからエレナは、自分の弱点をよく知っていた。

 

 ──パンチでは殺せない。

 

 勿論、エレナのパンチは強烈だ。生木を抉り飛ばし、身体能力に優れたエルフの意識を一撃で刈り取る威力がある。

 相手が生きた人間やエルフであれば、鎧の上から胸を叩いて心臓を止め、第一から第三頸椎の辺りを狙えば運動機能を永続的に奪うことも可能だ。

 

 だが相手は臓器や神経系を持ち合わせない幽霊。胸を吹っ飛ばそうが頭を吹っ飛ばそうが、霞のように元通りになってしまう。

 

 パンチで幽霊は倒せない。

 魔力を纏わせてダメージを与えられても、相手の回復力はきっと無限だ。対してこちらは、スタミナには余裕があるとはいえ時間が無い。

 

 倒れ込むように全体重を乗せ、右腕を鎌か鞭のようにしならせて打ち込む。拳は狙いを過つことなく人影の首筋を捉えたが、幽霊はけろりとして剣を上段へ振りかぶる。

 

 『目が──痛い』

 

 その動きも、振り下ろされる一撃も、何もかもがスットロくて見ていられない。

 剣を握る手にスナップを効かせた裏拳を打ち込み、剣の軌道を変えて凌ぐ。ついでに顎と人中にも裏拳を入れてやったのに、まるで効いている気がしない。

 

 脳も無ければ骨格も無い、やりにくい相手だ。

 

 対策は──一つ、思い付いているものがある。

 

 あの剣だ。

 触れたものを圧力によって切断するのではなく、不明な現象によって消失させ、結果的に切断する不可思議な魔剣。あの無刃の剣なら、実体も急所も持たない幽霊を削り殺すことも出来るかもしれない。

 

 ただ当然ながら、その剣は幽霊の手中にある。

 脳の加速込みで技量は拮抗しているが、経験と武装の差でエレナが不利な状況だ。距離を詰め続けなくてはならない以上、蹴りすら出せない有様。

 

 その状態で剣を奪うというのは、少し現実的ではない。

 相手が生きていれば、目潰しや喉突きで動きを止めれば或いはといったところだが。

 

 そんなことを考えて、エレナはふっと口元を緩めた。

 ──あの衛士団長という人間、馬鹿だが、闘いの本質をよく理解していたらしい。

 

 生き物なら急所がある。急所があるならそこを突けば勝てる。

 以前には脳ミソの代わりに筋肉が詰まっているのかと苦笑した理論だが、こうして急所を持たない相手と戦って、その言葉の正しさに気が付いた。

 

 殺し合いは、互いに殺せてこそだ。片方が不死身なら、残る片方がどれだけ食らいついても、どれだけ有利に事を運んでいても意味がない。勝ち目がない。

 

 『耳の痛い話──だッ!』

 

 ぼやきつつも勝ち筋に手を伸ばすため、足払いをかける。姿勢が崩れれば或いはと思っての一手だったが、完全に無駄だった。

 相手は幽霊だ。二腕二足のヒトガタではあるが、両の足で地面を踏み、体重を支えているわけではない。踝を蹴り砕くような強引な足払いによって、二本の足は下半分が霞のように消えた。

 

 その状態で、剣を逆手に持った突き下ろしが来る。

 体重も体幹も持ち合わせない幽霊だが、武器が武器だ。攻撃それ自体に威力が無くても、触れれば斬れる。

 

 『ッ──! あっぶな!』

 

 足元狙いは失策らしい。

 エレナは身軽な身体に見合わない重い蹴りを突き上げ、幽霊の鳩尾辺りに大穴を開ける。その隙に立ち上がって適正な距離を空け、また構えを取った。

 

 経過時間は、体感で何十分にもなっている。だが実際には、フィリップと別れてから五、六分といったところだろう。それでも約束の時間をオーバーすることは確定だ。想定上、復路には7分を要する。あとはどれだけ早く、眼前の幽霊から魔剣を奪うか。

 

 お互いに構えて隙を探っていると、幽霊がだらりと剣を下げた。

 見るからに誘いという動きをされて、エレナは咄嗟に動けなかった。

 

 半透明の人影は呆れたように肩を竦め、嘆息したように見えた。相変わらず表情は見えないが、声には呆れ笑いのような気配があった。

 

 『……頑固だな』

 『こっちの台詞だよ。というか勇者さまのくせに、ゴーストで不死身とかズルくない!?』

 

 非難するようなセリフだが、エレナに嫌悪感は無い。

 戦いとはそういうもの。ズルかろうが何だろうが、強いものが正義だ。エレナだって格闘戦では目も喉も突くし、相手が男なら金的も狙う。

 

 幽霊はゆらゆらと輪郭を揺らがせた。笑っているのだろう。

 

 『ズルはお互い様だろう、王女。思考速度と身体操作にズレが出ているぞ、ドーピングでもしたか?』

 『そりゃ薬の調合はエルフの得意分野だけど、ここにはナイショで来てるからね。薬を貰う口実も無かったから、今は素面だよ』

 『そうは見えないがな。……そら、鼻から血が出ているぞ』

 

 エレナは前手を下げないように後ろ手で鼻の下を拭い、悠然と立つ人影から視線を切らないように手を運ぶ。

 言葉通り、指が赤く汚れていた。

 

 鼻を打たれた記憶はない。外傷ではなく、先刻からの頭痛や眼痛に端を発する内的理由によるものだろう。病気か、毒か、もっと別の何かか。

 

 『──どうでもいい。あなたをぶっ飛ばして、魔剣を貰う。あの子たちを助けて、皆を助ける』

 『その意気や善し。心根も善良だ、我が剣を託すに値する。戦意と心情、その二つは合格としよう』

 

 幽霊は傲慢に、尊大に、しかし教師のような慈愛を滲ませて言う。

 エレナは口元を苦々しく歪め、答えに想像のつく質問をした。

 

 『……残りは?』

 

 幽霊は剣を構え直して、答える。果たして、エレナの想像通りの解を。

 

 『強さだ──!』

 

 幽霊の動きが変わる。

 これまでの、優れた技量は見えつつも本気ではないような虚ろさが消え、明らかな戦意を纏う。霞の身体から呪いを思わせる瘴気が吹き上がり、宝石のような魔剣へと吸われているようだ。

 

 『我が愛剣の本気本領、手向けとなるか、手本とするかは貴公次第だ。では行くぞ──』

 

 ふっと、エルフの勇士が放っていた威圧感が消える。

 それは戦意や敵意が無くなったことによる精神的なものではなく、もっと物理的な理由だった。

 

 ──剣が、無い。

 その間合いを食い潰すことを念頭に置いて立ち回っていたエレナは、その刀身の長さを感覚的に把握している。隠す、投げるなどの動作をすればすぐに分かるし、剣や手の動きには特に注意を払っていた。

 

 なのに、瞬きほどの隙も与えなかったはずなのに、気が付くと剣が消えていた。

 

 『無刃にて無尽を断つ──魔剣ヴォイドキャリア』

 

 幽霊が空の手を掲げ、振り下ろす。

 両手は剣を握るような形で揃えられていたが、手の内には明らかに何も無い。腕の軌道は袈裟斬りのそれだが、剣が無ければ大仰に胴体を開けただけの隙でしかない。

 

 エレナは一瞬だけ逡巡すると、岩肌を踏み締めて飛び退いた。

 

 『ほう、避けるか。何故避けた?』

 『剣が消えたんじゃなくて、見えなくなったんじゃないかと思ったんだけど……』

 

 どぱっ、と、エレナの左鎖骨から右の脇腹に掛けて一条の斬線が入り、鮮血が噴き出す。

 苦し気に顔を歪めて片膝を突くが、翠玉色の双眸に宿る戦意に衰えはない。

 

 未だ色濃い戦意を滲ませる表情を見て、幽霊はゆらゆらと輪郭を揺らがせた。笑っているのか、そうではないのか、微妙に判断がつかない。

 

 『違うと?』

 『違うね。間合いは完全に把握してた。剣が見えなくなると同時に伸びたとか、そんな小賢しいトリックでもないんでしょ? 私はいま、何にも斬られなかった……けれど、斬られた。“なにもない”に斬られたんだ』

 

 確信を持って言い切ったエレナに、幽霊は今度こそ声に出して笑う。相変わらず表情は見えないが、どこか嬉しそうに。

 

 『素晴らしい、正解だ。魔剣ヴォイドキャリアは無刃の剣。刃無くして尽くを断つ、無尽の刃』

 『刀身の消失、間合いの伸長……いや、ただ単純に“斬った”という現象だけを押し付けるってわけ。確かに強いけど、避けられないわけじゃない』

 

 エレナは傷を押さえ、痛みに顔を顰めながらも、しっかりと立ち上がる。

 傷は広く肩口から脇腹までを裂いていて派手に出血しているが、深さはそれほどでもない。内臓や骨どころか、筋組織も殆ど無事だった。 

 

 『左様。俺は貴公の鎖骨を裂き、心臓と肺を破る気で斬った。この剣の弱点はそこにある』

 『間合いは無限じゃないし、狙いも付けなくちゃいけない。そして、剣閃の軌道は自分で振らないといけない。……あなたの技量があってこそ活きる武器だ』

 

 エレナの言葉は単に褒めたわけではなく、むしろそれだけの技量を持った──間合いが変わるどころか重さも無くなる変則的な武器を扱い熟す勇者が、敵として自分の前に立っていることへの愚痴だ。

 

 応じるように、或いは謙遜のように、愚痴が返される。

 

 『その上、魔力の消耗も著しい。身体の全てが魔力で編まれた今の俺は、あと一撃で消滅する』

 『へぇ? なら、それも避けたらボクの勝ちってことでいいのかな?』

 

 顔には靄が掛かっているが、幽霊が挑戦的に唇を吊り上げたような気がした。

 

 『上等。では征くぞ──我が秘奥義を以て、貴公の戦技を見極めよう。これこそは無尽無想の対極、想像力の究極。可能性にて不可能を塗り潰す、道理の極点にして特異点──想極の太刀』

 

 顔の横で剣を立てる八相に構えられた腕を見て、エレナはガードを解いて回避に専念した。

 目や頭の痛みは限界に達し、視界は既にモノクロだ。本当は今すぐにぶっ倒れてしまいたい。だが──まだまだ駄目だ。この一撃を躱して魔剣を手に入れても、むしろここからが本番。まだまだ休んではいられない。

 

 相手の構えから予測される攻撃は、概ね三種。

 上段からの斬り下ろし、左右両方の斬り込みだ。

 

 その場にいるのは悪手。詰め切るか、退くかがベスト。そう判断した矢先、構えが切り替わる。

 

 剣こそ持っていないものの、顔の横で左の手首が返され、左右の手の前後関係が逆転する。剣があれば切っ先がこちらに突き付けられる、霞構えのような状態だ。

 

 左の斬り込みが消え、代わりに突きの可能性が生まれた。そう認識した直後、幽霊が身体が霞むほどの超速度で動く。

 

 選択された攻撃は突き。

 最も早く、最も間合いに優れ、攻撃それ自体も速い最善手。だが、それ故に予測の通りだ。エレナはそれを予期していた。

 

 モノクロの視界の中、幽霊がスローモーションで剣を突き出す。

 エレナも自分にできる最高速、利き足である右足に力を込めて左側に飛ぼうとして──強烈な悪寒に襲われる。

 

 何がどうというわけではない。

 ただ猛烈に嫌な予感がする。そっちに動くのは不味いと、自分でも分からない何かが叫んでいる。

 

 最速の安定解か。それを捨てるか。

 エレナは刹那以下の時間で判断し、右足に込めた力を抜いた。

 

 極限まで脱力して膝を抜き、右側へと転がる。

 次には繋がらない、咄嗟に立ち上がって構えた頃には二回は死んでいるだろう動きだったが、追撃は無かった。

 

 『──素晴らしい直感と反応だ。全く本当に、エルフの王女というのは、どうしてこうも。クククッ……はははは! 全く、全くという奴だ! はははは!』

 

 幽霊は身体を揺らして笑い、手の内にどこからともなく濃紺色の剣を取り出した。宝石のような半透明の輝きを持つ、あの魔剣だ。

 

 その剣が無造作にエレナの足元へ転がる。

 あまりにもな扱いだが、エレナは抗議しなかった。エルフの形をしていたはずの幽霊は、もはやその形状を保ってはいられず、煙か霞のような有様になっていた。剣は投げ捨てられたのではなく、把握していられずに手から抜けたのだ。

 

 『持って行け。貴公の魔力量では真の力は使えんだろうが、その状態でも鋭利さは折り紙付きだ。龍が相手でも、その存在を引き摺り下ろせるだろう』

 

 エレナは剣を拾い上げると、もうほとんど消えかかっている人影に一礼して、湖へと飛び込んだ。降りて来た蜘蛛の巣は何十メートルも頭上で、幾らエルフの身体能力でも足場無しでは届かない高さだ。せめてその高さまでは、正規の順路である壁面沿いの階段を使うしかない。

 

 幽霊はその後ろ姿に柔らかく微笑むと、風に吹かれた煙のように消えた。

 

 

 

 

 

 

 



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284

 アトラク=ナクアの娘は強いのか弱いのか、フィリップは10分以上のマタドールを経てもなお判断が付かなかった。

 

 ウルミは効かない。拍奪の歩法にも惑わされない。

 しかしフィリップはもうスタミナが切れ、酸素を求めて顎が上がり始めているのに、10分以上も耐久している。中級戦闘魔術師を再現したステラには、二分と持たないというのに。

 

 危ない場面は幾つもあった。だが、フィリップはまだまだ煽って走って避けている。まだ生きている。

 

 だが、それはアトラク=ナクアの娘に対して、フィリップが強いとか有利だとかいうわけではない。

 フィリップと異形の蜘蛛の間には依然として体重や力、速度や動体視力などの性能差があるし、何より相手は存在の格が一段上だ。人間風情とは「戦い」をしない、するまでもない化け物。

 

 10分耐久出来ただけで奇跡だ。

 

 「はぁ……はぁ……いま何分経ったんだ……?」

 

 肩で息をして、顎を濡らす滝のような汗を拭いながら、フィリップはぼやく。

 攻撃は間断なく繰り返されるわけではなく、むしろ蜘蛛が様子見をしたりフィリップが挑発したりするインターバルがあるだけに、運動負荷が高くなっている。

 

 ウルミも仕舞って回避に専念しているのに、それでもスタミナが限界だ。

 エレナはまだなのか。もしかして蜘蛛がもう一匹いて、巣の中で食われているのではないか。はたまた巣に絡めとられて動けなくなっているのでは。そんな心配が頭を過っていたのも、もう遠い過去のようだ。今や他人の心配をしている余裕も無いほどに疲労が蓄積されている。

 

 「もう無理だ、限界……ハスターを呼ぼう。いやホントに」

 

 喘ぐように酸素を求めながら、フィリップは諦観を口にする。

 しかし一向に詠唱を始めようとしないのは、邪神が来ないかもしれないという懸念からではなく、エレナはまだ生きているかもしれないという希望があるからだ。

 

 彼女は善人だ。

 フィリップが何を措いても守るべき相手ではないが、かといって軽々に見捨てていい相手でもない。今のフィリップが衛士たちだとしたら、彼女は王都に来たばかりのフィリップだ。

 

 何の縁も無い、ただのちょっとした顔見知り。そんな相手のために、衛士たちは命を懸けた。

 ならフィリップだって、もうちょっとだけ頑張るべきだ。今日会ったばかりのエレナの為に。

 

 蜘蛛がぎちぎちと牙を鳴らし、八つの単眼でフィリップを観察する。

 こつ、と硬質な音。剣のような肢の一つが、一歩前に。

 

 フィリップはその動きを、酸欠で朦朧とし始めた意識で緩慢に認識した。

 

 直後。

 

 「──ッ!?」

 

 いい加減に飽きた。

 とでも言いたげに、蜘蛛の動きが変わる。

 

 突進が速い。今までの足で踏みつけたり突いたりすることを前提にした動きではなく、顔面から衝突しに来るような──毒牙による攻撃のための急接近だ。

 

 蜘蛛の狩りには種類があるが、アトラク=ナクアの娘はいま、むしろ人間や狼のような手法を使っていた。

 即ち、スタミナに物を言わせた長期戦。獲物が弱るまで追いかけ回し、楽に仕留められると判断したら毒牙で止めを刺す。

 

 毒牙は当然ながら、頭部(急所)のすぐ下にある。

 それを外敵に近付けるのは大きな危険を伴うが故に、獲物が反撃の気力を失くすまでじわじわと追い詰め、じっくりと殺す。生存本能なのか、戦闘本能なのか、とにかくそういう習性があった。

 

 フィリップはその突進を躱せない。

 蜘蛛はそう判断したから全力で突撃したし、その観察眼に狂いはなかった。

 

 人間の肉は柔らかく、骨でさえ体長5メートルにもなる大蜘蛛にしてみれば小枝に等しい。

 踏み貫き、潰し砕き、牙を突き立てて毒を流し込む。剣のような牙が刺さるだけで一回死ねる。毒による筋肉と臓器の麻痺で二回死ぬ。流し込まれる毒の量に耐えかねた身体が破裂して三回死ねる。

 

 死を押し付けることはできずとも、弱った相手なら過剰なほどに殺し尽くせる。アトラク=ナクアの娘とはそういう手合い、そういう種類の怪物だった。

 

 「やば──」

 

 踏鞴を踏んで下がるフィリップ。バックステップとはとても呼べない、足のもつれた無様な後退だ。

 毒で死ぬとか絶対苦しいじゃん最悪だ後で此奴だけは絶対に殺そう。頭の中で一息に決めるが、その予定は覆る。

 

 「──フィリップ!!」

 

 絶叫だった。

 焦りを多分に含んだ声に一瞬遅れて、りぃん、と澄んだ音を聞く。

 

 いつからそこに居たのか、フィリップが痛みを予期して固く閉じていた目を開けた時には、エレナが目の前で肩で息をしていた。

 

 「エレナ、さん……」

 

 フィリップが呟いた一瞬の後に、エレナの奥で行儀よく佇んでいたアトラク=ナクアの娘が縦に二分割される。一瞬だけ痙攣した蜘蛛は、四つずつに分かれた足の全てを折り、ずん、と重い音と共に沈んだ。

 内容液を噴き出して頽れる巨体を確認したのはフィリップだけで、エレナは虚ろな目でフィリップをじっと見つめている。その手には濃紺色の宝石でできたような長剣が握られており、フィリップは深々と安堵の息を吐いた。

 

 「良かった。ギリギリセーフって感じです」

 「……あぁ……うん。間に合って、良かっ──」

 

 どちゃっ、と嫌な音を立てて、エレナの身体が地面へ倒れ伏せる。

 フィリップが慌てて抱き起こすと、エレナは両方の鼻の穴からだくだくと血を流して昏倒していた。息はあるようだが、原因不明の出血がとても怖い。

 

 「あわわわわ……!」

 

 鼻が折れているとか、ぶつけたという感じではない。それは主にエレナにとっての朗報だった。思わぬ負傷で気が動転したフィリップは、とにかく止血しなきゃ! と鼻をつまんだからだ。これで鼻骨が折れていれば、エレナはとんでもない痛みで飛び起きる羽目になっただろう。

 

 フィリップはしばらく鼻を押さえて血が止まったことを確認すると、エレナを担ぎ上げた。いや、担ごうとした。

 

 「っと、これは……」

 

 魔剣の一撃による傷に気付く。

 地下湖を泳いだことで一度は血が洗い流されていたが、また再出血して服に滲み始めていた。

 

 傷自体はフィリップでも処置できそうな浅さだが、如何せん広範囲だし、何より医療品の手持ちがない。

 

 「い、急がなきゃ……!」

 

 フィリップは焦るが、長身のエレナを背負うには身長が足りないし、かといってファイヤーマンズキャリーも体格的に現実的ではない。

 フィリップが上半身を背負い、後ろに伸びた足はシルヴァが持ち上げるという変則飛行機スタイルまで試して、結局は担架持ちに落ち着いた。フィリップが脇下を抱え、シルヴァが足を肩で持つといい感じに地面と平行になる。

 

 「よし……! これで……これで洞窟を登るのかぁ……」

 

 勾配が45度を超えるような場所は流石に無かったものの、それでも鍾乳洞だ。地面はなんだかぬるぬるツルツルしているし、天井から鍾乳石が垂れ下がるようなところも、水に浸かった階段のようなところもある。骨が折れそうだが──誰かを呼んで戻ってくるのは時間がかかり過ぎる。

 エレナがどうして倒れたのか、どうして鼻血を出したのかが分からない以上、医者に見せるまでに時間を掛けたくない。

 

 「行くよ、シルヴァ」

 「ん、まかせて」

 

 声を合わせてエレナを持ち上げ、魔剣をエレナの上に乗せる。

 

 つるっと滑って剣が落ちても、シルヴァがキャッチするだろう。

 次元断だろうが何だろうが、剣で切られた程度で森は傷付かない。

 

 そしてフィリップには、他人の心配をしている余裕は無かった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 フィリップたちが地上に出ると、洞窟の外には松明を持った衛士たちが10人ばかり、鎧も剣もフル装備で集まっていた。その中には衛士団長の姿もあった。

 

 篝火も焚かれていて、夜も更けた頃合いとは思えないほどに明るかったが、フィリップは人の気配にも気付かないほど疲弊していた。

 森の柔らかい土の上にどっかりと寝転がると、抱きかかえていたエレナの身体がずっしりと乗っかる。しかしそれを退ける気力も無いほどで、酸素を求めて喘いでいた。シルヴァがぺしぺしと地面を叩くと、土が盛り上がって柔らかい枕になった。

 

 何処かへ走り去っていくシルヴァと大の字に転がっているフィリップを交互に見る衛士たちの目は、状況を呑み込めずに困惑の色に染まっている。

 

 「……フィリップ君? 何してるんだ?」

 「はぁ……ふぅ……はぁ……え? ……あっ」

 

 頭の横に膝を突いてフィリップの顔を覗き込んだのは、ヘルムを外したジェイコブだ。

 怪訝そうな目がフィリップと、その上に乗って眠っているエレナ、更にその上に乗った濃紺の宝石剣を順番に見て、最終的には天を仰いだ。

 

 「……衛生兵! 来てくれ!」

 

 フィリップは所々に擦り傷や打撲があったし、エレナは浅いとはいえ肩から脇腹にかけて袈裟斬りにされている上に昏倒している。

 何はともあれ安否の確認が最優先だと治療をしていると、シルヴァがエルフの薬師と唯一人語を解せるリックを連れて戻って来た。

 

 フィリップはリックの無事を喜ぶ余裕もなく、水をガブガブと飲んでいる。既に飲み干してしまった自分の水筒ではなく、衛士に貰ったものだ。

 

 リックは昏倒しているエレナを見ると、顔を蒼白にして駆け寄った。

 

 「こ、これは一体……!? 衛士さん、エレナ様は我々が手当てします。霊樹の館へ運んでください」

 「あ、あぁ、分かった。案内を頼めるか?」

 「勿論です。こちらへ」

 

 エレナが担架に乗せられ、運ばれていく。

 魔剣も一緒に持って行かれたが、フィリップはアドレナリンが切れて睡魔に襲われており、気にする余裕は無かった。

 

 うつらうつら舟を漕いでいると、ひょいと衛士に担ぎ上げられた。顔はヘルムを被っていて見えないが、鎧が違うから衛士団長ではない。

 

 「何やってるんだ?」

 「ベッドに入れるんだよ。ここで夜を明かさせるわけにはいかないだろ?」

 

 もう一人の衛士が「そりゃそうか」と答えたのを聞いて、フィリップの意識は完全に暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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285

 翌日。

 フィリップは目覚めて雑事を終えたあと、すぐに何人かのエルフに連れられて、森で一番古いという木の前に立っていた。

 

 直径10メートルにもなる超のつく巨大樹は、根元の方に見事な装飾の門があって、そこから魔術的な異空間に繋がっているのだという。中にはエルフの王様と王妃様が住んでいるらしい。

 

 フィリップの後ろには衛士たちが控えていて、頭上の木の枝や近くの回廊上からは多くのエルフたちが興味深そうに見ている。だがここは言うなれば玉座の間にあたる場所だ。誰も一言も発さない。

 のんびりと私語をしているのは、今一つ状況が呑み込めていないフィリップと、そもそも身分制度というものを理解していないシルヴァだけだった。

 

 でっかい木だなぁ、と風情も何も無い感想を抱いていることが丸わかりの顔で大樹を見上げるフィリップ。シルヴァはその隣で暇そうにしている。

 

 「さんぜんねんぐらいのそんざいかく。このもりにあったきじゃない」

 「え? どういうこと?」

 「くうかんてんいでもってきた。もとはえるふのしゅとにあったやつ」

 

 事もなげに言うシルヴァに、フィリップは首を傾げる。

 

 「空間転移? それって不可能魔術じゃないの?」

 

 学院のテストでは不可能であることを大前提として、「どうして不可能なのか」が問われた。空間転移魔術が実現不可能だというのは、そのくらいの常識だ。神域級魔術をアレンジするほどの魔術師であるルキアもステラも、それは不可能だと口を揃える。

 しかし、シルヴァは何の気負いもなく続けた。

 

 「にんげんにはむり。でもしるばはできる。いまはむりだけど」

 「へぇ……昔のシルヴァが持って来たってこと? すごいね」

 

 と、そんな話をしていると、大樹の根元にある門がゆっくりと開き、輝かしい光が溢れ出た。

 

 二つの人影が後光を背負いながらゆっくりと現れ、厳かな立ち姿を見せる。やがて門が閉じて光が収まると、エレナと、ニ十歳そこそこに見えるエルフが立っていた。

 エレナはすっかり回復したようで、健康的な白い肌には血色が戻り、フィリップに向かってにこにこと手を振っている。フィリップも手を振り返すと、背後から咳払いが聞こえて来たので慌てて止めた。

 

 『余はエルフの王、エイブラハム2世である。これより魔剣下賜の典儀を執り行う』

 

 低く威厳のある声で紡がれた言葉を、シルヴァがフィリップに、リック翁が全体に訳してくれる。

 普通に「はいどうぞ」では済まないのだろうか、なんて甘いことを考えているフィリップだが、人の手にあらざるもの(クリエイテッド)の魔剣は国宝級の物品だ。ダンジョンなどから出土する「よく分からないが、たぶん現代の技術では再現できない物品」であるオーパーツとは一線を画す性能を持っている。

 

 エルフの勇者──人類における“勇者”、聖痕者と同じく唯一神に選ばれた者とは別物だが──が使っていた魔剣ともなれば、付加価値も相当だろう。それをくれるというだけでも有難い話だ。

 

 『勇者殿の遺言に従い、魔剣は抜き放った者に与えられる。しかし、その当人であるエレナの進言により、このような形となった』

 

 王の言葉に、エルフの間に疑問が伝播していく。

 魔剣を抜いたのがエレナであるのなら、その所有権は当然、エレナにあるべきだ。それを手放すべき理由なんてないはずだ、と。

 

 衛士たちは、とにかく何があったのか後で詳しく聞かなくては、と全員が心を一つにしていた。

 

 エルフ王は喧騒を片手で鎮めると、厳かに言葉を続ける。

 

 『彼はエレナが魔剣を抜くための試練に挑む間、あの恐ろしい蜘蛛の巣を張った魔物と戦っていたそうだ。彼の活躍無くして魔剣の入手は叶わなかった、彼こそが立役者なのだと言う。我らの足元で蠢いていた恐ろしい魔物は、エレナと、彼の手によって打ち倒されたのだ! 故に余はその功績を讃え、褒美としてエルフの至宝である魔剣を下賜する!』

 

 エルフたちの囁きから、理由についての疑問の気配は消える。

 しかし未だに色濃く残るのは、「それは過剰ではないか」という疑問だ。とはいえ、それも大きなものではない。

 

 エルフたちにとって地下の魔物は恐ろしくはあったものの、地上に出てこないから脅威度は低かった。それを倒したから国宝をあげる、と言われても、今一つピンと来ない。魔剣の価値すら判然としていないから、誰も彼も「お、おう、そうなんだ」くらいの反応だ。

 

 魔剣を持ったエレナがフィリップの前に進み出ると、フィリップはちらりと後ろを確認して、慌てたように跪いた。衛士たちが頻りに手を下に向けて、「落ち着け」とか「伏せろ」と言いそうなジェスチャーをしていたからだ。

 

 エレナはフィリップの前まで来ると、軽く身を屈めてひそひそと話す。

 

 「昨日はごめんね。すごく頭が痛くて倒れちゃったんだ。あなたが外まで運んでくれたんでしょ? ありがとね」

 「……いえ。昨日は言いそびれちゃいましたけど、僕の方こそありがとうございました。お陰で衛士団の皆さんに負担をかけることも無かったですし……エレナさんは大丈夫でしたか?」

 「うん。頭痛はもう治ったよ。昨日みたいな頭の冴えも無くなっちゃったけど……人間の言葉は覚えてるし、昨日何があったのかも、全部」

 

 思い出したように心配を向けたフィリップに、エレナは苦笑することもなくにこやかに頷く。

 

 フィリップは安心して頷きを返し、顔を伏せて両手を上げる拝領の姿勢を取った。

 エレナも応じるように厳かな立ち姿を見せ、真剣な表情で言葉を紡ぐ。

 

 『私はエルフの王女として、民草を守るために戦うと言った。彼はその私の在り方を正しいと言い、命を懸けて助力してくれた。……そして彼はいま、友人を助けるためにこの剣を必要としている。であれば、我らがこの剣を差し出すことに、何の不合理があろうか!』

 

 朝の森を満たす空気のような清涼で心地の良い声が、木々の間を吹き抜ける。

 その説明を受けて漸く状況を理解し始めたエルフたちは、誰からともなく拍手を始めた。そこに衛士たちも加わり、やがて万雷の喝采に変わった。

 

 衛士たちは感心していたり、呆れていたり、苦笑したりしていたが、負の感情を抱いている者は誰もいなかった。それでこそ、という称賛を込めた心の底からの拍手はフィリップにも伝わり、照れて赤くなっていた。

 

 「どうぞ、フィリップ。この魔剣はあなたのものだよ」 

 「お、おぉ……! ありがとうございます!」

 

 フィリップはずっしりと重い魔剣を恭しく受け取ると、興奮も露わに立ち上がった。

 すごいすごいとはしゃぎながら素振りしたり、シャドーしたり、完全に新しい玩具を手に入れた子供のような熱狂ぶりだ。しかし、フィリップは「ふむ」と一息つくと、とことこと衛士団長の目まで歩き、魔剣の柄を差し向けた。

 

 「じゃ、はい」

 「ん? 貸してくれるのか?」

 「はい? 団長が使うんじゃないんですか?」

 

 何言ってんだこいつ、と言いたげに目を細めるフィリップだが、周囲からの同質の視線は全てフィリップに向けられていた。

 

 「いいのか? 魔剣を手に入れたのは君なのに」

 「え……? 僕が持つんですか? 有り得ないでしょ」

 

 フィリップは内心で小馬鹿にしたのがバレないよう、細心の注意を払って言う。

 一応、ステラやミナから長剣の使い方や戦い方を教わってはいる。とはいえ本職の戦士には遠く及ばないし、装甲に劣るフィリップを守る盾である『拍奪』の精度も落ちる。

 

 そりゃあ、魔剣使いという称号に憧れはあるが、ここには魔剣を手に入れるためだけに来たわけではない。

 大目標は龍殺し。魔剣入手は手段に過ぎない。

 

 そして魔剣を持つべきは誰かと言えば、初撃を担当する衛士団長以外には有り得ない。彼が翼を落とさなければ、何も始まらないのだから。

 

 こんなのは最適解とも呼べない、ただの一択だ。ステラが居たら衛士団長が怒られているだろう。

 

 「最優先は龍を殺すこと──心臓を抉り、血を奪い、ルキアと殿下を助けることです。その為には龍が逃げないよう、翼を捥がなくちゃいけない。魔剣が最も必要なのは()()だ」

 

 欲を言うなら、衛士全員に魔剣を持たせたい。だが唯一のそれを何処に配備するかといえば、彼しか有り得ない。

 

 フィリップが差し出した魔剣の柄を、衛士団長は少しの逡巡の後、しっかりと握り締めて受け取った。

 

 「任せてくれ。他の何に換えても、君と、君の友人を助けよう」

 「衛士団の皆さんもね。全員で帰って、全員助けて、大団円(ハッピーエンド)。龍殺しの英雄譚みたいな結末を迎えましょう」

 

 団長はフィリップの肩を掴み、しっかりと頷く。

 

 「あぁ、約束だ。君の決意には応える、応えさせてくれ」

 「……行きましょう。今日中に龍を殺さないと」

 

 少しの照れ隠しも交えて促すと、団長は背後の衛士たちを振り返った。

 

 「あぁ。行くぞ、お前たち! 今度こそ、奴を打ち倒す!」

 

 応! と威勢の良い答えが返され、フィリップも一段と気合を入れる。

 今度こそ龍を殺す。誰も欠けることなく、誰も見捨てることなく、と。

 

 フィリップが決意の炎を瞳の内に燃やしていると、ぽんと肩に手が乗せられる。どこか有無を言わせぬ威圧感のあるそれに振り返ると、にっこりと笑ったヨハンと目が合った。

 

 「それはそれとしてフィリップ君、昨日の件について詳しい話を聞かせて貰おうか? なに、移動時間があるから、余裕を持って話してくれていいんだぞ?」

 「……はい」

 

 道中、下手したらエルフと人間の種族間戦争にまで発展していたかもしれないとか、最悪二人とも死んでいたかもしれないと叱られたが、フィリップの「以後気を付けます」という言葉は口先だけだった。

 

 だって、そんなのはどうでもいい。

 エルフと人間が戦争をして何万、何億と死のうが、フィリップの知ったことじゃない。フィリップにとっての最優先はルキアとステラ、そして衛士たちだ。同じ状況になれば、何度でも同じことをする。

 

 誰に咎めれられようと、フィリップの最上位判断基準は、いつだって自分の感情だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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286

 数時間後。 

 太陽が直上に位置する頃に、フィリップたちは龍のいた場所の近くまで戻って来た。

 

 出立に際してはエルフたちに手を振って見送られたり、「手伝うよ」と申し出てくれた腕自慢たちを何とか説得してエルフの集落に残してきたりとイベントはあったが、結局は衛士たちとフィリップ、そして最後方待機のフレデリカで事に当たる。

 

 今回は夜を待つ余裕もなく、偵察兵が龍の所在を確認した後、すぐに攻撃開始となった。

 

 ただ、ここで一つ問題がある。

 前回は夜だったから、フィリップの臭い──所謂『月と星々の匂い』が、ある程度は誤魔化されていた。しかし今は昼日中、森に入ればたちまち獣が騒ぎ出し、龍もたちどころに気付くだろう。そうなれば衛士団長による一撃が奇襲ではなくなり、命中率が著しく下がる。

 

 とはいえこの問題を共有すると、出てくる案は「フィリップを残して衛士たちだけで行こう!」というものだろう。そうなるとどうせ「このままフィリップは森の外に置いておいて、俺たちが壊走するまでは待機させようぜ!」となり、ポコポコ死んでいくに違いない。

 

 フィリップは衛士たちを信頼している。

 何かしらの口実があれば、なるべくフィリップを戦いから遠ざけようとするだろうと信頼している。フィリップが危険に晒されるか自分が死ぬかなら笑って後者を選ぶと信頼している。

 

 そして、彼らはその信頼に応えるだろう。だから嫌なのだ。

 

 何も言わないまま、衛士たちと一緒に森に入り、息を殺して龍へと近付いていく。

 木立の隙間からちらりと見えた錆色の古龍は伏せていたが、頻りに首を上げては空気の匂いを嗅いでいた。即座にフィリップの位置を特定できない辺り、狼ほどの嗅覚は持っていないようだが、やはり警戒されている。

 

 「僕が囮に──」

 「駄目だ。言っておくけど、二度目は無いよ」

 

 昨日と同じくフィリップの前を歩くジェイコブが振り返らずに言う。彼はフィリップの拍奪突撃を止められなかったこと、その結果としてフィリップが死にかけた──フィリップ自身にそんな認識はないのだが──ことを、酷く悔やんでいた。

 

 「君が前に出ていいのは、団長から召喚術使用の許可が出た時だけだ。いいね?」

 「はーい……」

 

 間延びした返事はどう聞いても本気ではなく、「隙を突いて前に出よう」と考えていることが丸わかりだった。

 しかし衛士たちとて歴戦の戦士。フィリップの『拍奪』は両目と脳で相対位置を認識するなら効果を発揮するが、あくまで歩法だ。移動していなければ発動しない以上、警戒した衛士が前後を囲んでいてはすり抜けるのは難しかった。

 

 しかし、幸運にも──或いは不幸にも、フィリップが衛士たちを出し抜く必要は無くなった。

 

 「────!!」

 

 龍が吼える。

 森の木々を揺り倒し、天上の雲さえ千切りそうな大音響に、フィリップも含め全員が耳を塞いで身体を硬直させた。

 

 恐怖や怯懦は訓練によって抑制されても、音ばかりはどうにもならない。いや、防がなければ聴覚に悪影響が出る。だからそれは仕方のないことだが、明確な隙だった。

 

 木立の合間を縫い、黄金色の龍眼と青い双眸がかち合う。

 それが虐殺開始の合図であり、陣形瓦解の発端だった。

 

 一度取り逃してしまった害虫を再発見した時の反応で、龍が身体を起こす。叩き潰すとか、踏み潰すとか、そんな甘いことは最早言わない。

 

 咆哮と共に、龍の周囲に無数の剣が浮かぶ。

 それはかつて龍に挑み破れた勇者たちの遺品と、その身に受けた魔術を模倣し魔力で編んだ剣の混合だ。耐魔力では物質の剣が、盾や鎧には魔力の剣がよく通り、一筋縄の防御を許さない。

 

 「総員散開、木の陰を信じるな!」

 

 団長が叫び、疾駆する。

 寄らば大樹の陰、と──そういう意味ではないのだが──手近な木の幹に身を寄せたフィリップを、ヨハンが地面に引き摺り倒す。直後、木々を容易く粉砕する横殴りの雨が通り過ぎて、フィリップたちは大鋸屑を浴びた。

 

 「こりゃ更地になるな!」

 「俺たちがそれまで耐えれたらな!」

 

 近くで衛士たちが怒鳴るように会話している。

 フィリップは大きめの破片から頭を庇って伏せたまま、地面を伝う幾つもの足音を聞いた。

 

 何十、何百、何千と撃ち出される剣の雨は、並ぶ木々を粉砕しながら延々と続く。その中を、何人もの衛士たちが掻い潜りながら突撃を敢行していた。

 

 鬨の声は破砕音に掻き消されるが、時折、剣戟の音が聞こえる。まさか龍の攻撃を撃ち落としている者がいるのか。

 

 衛士たちは線上に並んだように横一列に並んで進む。突出や遅れがあった場合に調整していることから、それは偶然ではなく故意だと分かる。

 

 だが、どうして?

 そんなことをすれば、龍が横薙ぎの攻撃をした瞬間に全滅してしまう。

 

 現に今、錆色の龍は鎌首をもたげて敵の位置を確認して、剣を自分の周囲ではなく頭上に展開した。

 

 敵を炙り出す掃射は終わり、仕留めに来る。

 頭上から眼下へ、脳天から股間へ貫く一撃によって、標本のように森の大地へ縫い留めるつもりだ。

 

 そして──そんなことは、衛士たちも重々承知だった。

 

 「今だッ!」

 「跳べッ!」

 

 衛士のほぼ全員が一斉にバックステップを踏み、大きく下がる。

 それによって串刺しは免れたものの、龍の射程を脱するには全く足りない。フィリップが思わず左手を伸ばし、ジェイコブに止められる。見ると、彼はニヤリと笑って頭を振った。まぁ見てろ、とでも言いたげに。

 

 直後、フィリップたちが居る方とは90度ズレた、龍の真横から飛び出してくる人影があった。一人ではなく、龍を挟み込むように二つ。

 

 錆色の龍は素早く顔を上げ、右方をじろりと睨み付ける。

 左方の人影が持つのは通常の──と言っても、王国が持てる技術の粋を集めた逸品なのだが──剣だが、右方の人影は濃紺色の輝きを放つ魔剣を持っている。どう考えても警戒すべきはそちらだ。フィリップだってそう思う。

 

 左方の人物が、少しだけ意匠の華美な鎧を着ていなければの話だが。

 

 彼らは木の幹を踏み台に、龍の背中ほどの高さまで跳躍した。

 

 「団長ッ!」

 「任せろ!!」

 

 右方の衛士が渾身の力を籠め、魔剣を投擲する。

 或いは龍の攻撃のように木の幹すら貫きかねない速さのそれは、龍がひょいと首を下げて回避する。そんな見え透いた攻撃に当たるか、とでも言いたげだが──今のは、パスだ。

 

 「おォォァァ──ッ!!」

 

 龍の攻撃と見紛う速度で飛来した剣を掴み取り、その勢いを丹田へ集めて力へと転換する。

 獣じみた咆哮と共に振り下ろされた剣は、最終的に龍の攻撃さえ上回る威力を孕んでいた。そして──一刀両断。

 

 「────!?」

 

 絶叫が上がる。

 四足歩行の翼ある大蜥蜴は、ただの大蜥蜴に堕とされた。その背を飾る一対の大翼、蝙蝠のそれと似た形状でありながら、全く違う威厳と畏怖を振りまいていた翼が、その根元から切断された。

 

 龍の声には、困惑と、苦痛と、何より怒りが込められていた。

 悲哀は無い。もう二度と空へ舞い上がれないことへの寂寥など抱いている心の隙間は無い。

 

 あるのは敵意。そして殺意だ。

 

 ぎょろり、と龍眼が回り、魔剣を構える衛士団長を見据えた。

 フィリップは龍の意識が自分から完全に逸れたことに気付く余裕も無いほど、目の前の光景に感動していた。だって、これは──フィリップが何度も読んできた、英雄譚の光景そのものだ。

 

 「龍を堕とした……!」

 

 誰かが口走った感動に、衛士たちも思わず浮足立つ。しかし、直後に団長が一喝した。

 

 「それがどうした! 奴はまだ健在だ! 鱗、四肢、そして魔術! 俺たちを殺すには十分だぞ!」

 

 たったいま偉業を成し遂げた──彼自身すら人生の目標にするような難行を達成した者の言葉は、この場の誰の言葉より重かった。

 

 衛士たちは一瞬で気を引き締め、陣形を形成する。

 タンクを前に、弓兵を後ろに、遊撃手は散開して。とはいえ、これはあくまで龍に攻撃が通じる場合のプランだ。魔剣を持たない彼らの役割は、囮による団長の援護、そしてフィリップの守護。

 

 だが龍は団長を徹底的にマークしていて、他の衛士たちには横腹さえ見せている。必然、前腕と魔術、そして噛みつきによる猛攻を衛士団長は一人で凌ぐことになるが──それも一瞬だった。

 

 「──?」

 

 弓兵の一人がヤケクソで放った矢が、龍の脇腹に突き刺さった。

 鏃は鱗を貫いて肉に達し、矢柄を伝ってほんの数滴の血が滴る。

 

 錆色の龍は衛士団長への攻撃を止め、首を曲げて不思議そうに傷を見遣る。その隙に衛士団長が慌てて距離を取る辺り、たった三撃、一瞬の防御でも本当にギリギリだったのだろう。

 

 龍はじっと傷を見て、それから衛士たちの方を見た。

 痛みは無いか、ごく僅からしい。出血量も、人間で言えば指のささくれくらいのものだろう。致命的な失血には絶望的に遠い。しかしそれでも、自分が人間に──猿モドキの劣等種に傷付けられたことは、本当に心の底から理解不能のようだ。

 

 「効く、のか……?」

 

 矢を放った弓兵がぽつりと呟く。

 衛士団長の一撃すら跳ね返し、魔剣を使って漸く通るような鱗に、自分の攻撃が通じた。それは彼に喜びではなく、困惑を一番に齎す光景だった。

 

 「……そんざいかくがおちた」

 「うわっ!? あ、き、君は確かフィリップ君の……?」

 

 不意に背後で聞こえた幼い舌足らずな声に、衛士たちが飛び上がる。

 振り返ると、若葉色の髪をした小さなドライアド──フィリップは一度も「彼女はドライアドです」なんて言っていないのだが──シルヴァが立っていた。彼女はこくりと頷き、先を続ける。

 

 「ん。ふぃりっぷからでんごん。いまのりゅうは“ひとにきずつけられるもの”におちた。ふつうのぶきでもつうじる」

 

 フィリップの言葉にどれほどの信頼を置いているのか、彼らは表情を困惑から歓喜へと移す。しかし、フィリップからの伝言はそれだけではなかった。

 

 「でもよわくなったわけじゃない。あるくさきにいただけでしぬ。きをつけて。……だって」

 「あぁ、それは勿論! ありがとうって伝えてくれ!」

 「よしお前ら、作戦開始だ! 今度こそな!」

 

 衛士たちは俄かに活気づいて攻撃を始めた。

 盾を持ったタンクたちは槍や剣で龍の気を引き、弓兵は目を狙って射かける。当初の作戦通りに、龍を殺すために動き出す。

 

 フィリップは相変わらずジェイコブとヨハンに見張られて身動きが取れないが、もしかしたらと期待を抱き始めていた。

 

 衛士たちが剣を振り、槍を突き、矢を放つ。

 致命傷には程遠い針の一刺しばかりだが、その雑音で衛士団長への攻撃が狙いを過ち、威力が落ちる。

 

 龍は苛立たしげに鎌首をもたげ──時が止まる。

 ほんの僅か、実時間にして一秒。錆色の龍が天を仰いで静止した。衛士たちもまた、その明らかな隙を前に、一歩も動けないでいた。

 

 “死”。

 

 その強烈な直感を前に、あらゆる生物は本能を曝け出す。

 大抵の野生動物は本能のままに生きているから、逃げ出したり、死んだふりをしたり、必死に襲い掛かって来たりと様々な、けれど見覚えのあることをする。

 

 翻って、理性に拠って生きている人間が本能に従うとどうなるのか。

 逃げる? 戦う? いや、違う。

 

 それは超高所からの落下などの、避け得られぬ死に直面した人体による生存本能の終了宣告。

 

 錯死。

 まだ死んでいないが、絶対に死ぬ。そんな状況に際して、死に至る前に心臓が止まる現象だ。

 

 錆色の龍から迸る圧倒的な威圧感と殺気は、衛士たちの心拍を急激に低下させ、呼吸さえ止めた。先ほどまで喊声と剣戟の音に満ちていた森は、無限にも思われる静寂に包まれる。

 

 そして──。

 

 「ブレスが来る!! 逃げて!!」

 

 フィリップの悲鳴のような叫びが、間一髪、衛士たちの呼吸を再開させた。

 ひゅっと喉が鳴るほど息を吸い、それで漸く、自分が呼吸を忘れていたことに気付く。心停止はほんの一瞬ながら、咄嗟には動けないほどのダメージを肉体に与えていた。

 

 見えてはいたが知覚は出来なかった龍は、半開きの口から煌々と輝く炎を漏らしている。既に発射寸前と言った様子だ。

 

 「っ──!」

 

 フィリップは咄嗟に左手を伸ばすが、間に合わない。

 

 龍が頭を下げ──ナイフのような牙が並ぶ大口から、紅蓮の炎が噴き出した。

 最大射程50メートルを超える、摂氏1500度の気体炎の掃射。錬金金属製の鎧を溶かすほどの超高温には至らないが、生き物の身体から出たにしては破格の高温だ。何より、人間の肉を焼き血を沸騰させるには十分すぎる。

 

 紅蓮の炎と真っ黒な煙が森の中を横切り、地面を、木々を、人を舐めて呑み込んでいく。 

 

 「伏せろ!」

 

 ジェイコブとヨハンがフィリップを引き摺り倒し、その上に覆い被さる。どちらかの手が顔にずいっと伸びてきて、鼻と口を握り潰すような勢いで覆った。

 

 その上を炎が舐めていく。

 生木が炙られてちりちりと音を立てるが、フィリップには炎が大気を喰らう轟々という音と、自分を庇った衛士たちの苦悶の声しか聞こえなかった。

 

 

 

 

 

 



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287

 地獄だった。

 森の土の湿気は完全に飛び、そこいらでちらちらと地面が燃えている。生木は表面を炙られて変色していたり、色づいていた葉の全てを吹き飛ばされたりしていて、数秒前までの肥沃さは見る影もない。

 

 炎を孕む大地と木々、赤く焼けた空気、罪人の肉が焦げる匂い。

 聖典に描かれた地獄のような有様が、たった一息で作り上げられた。

 

 意気軒高だった衛士たちは軒並み全員、苦痛に呻いている。無事なのは最後方でフレデリカを守っていた二人と、フィリップより少し後ろにいた衛生兵が二人。たったそれだけだ。

 

 フィリップを庇った二人も、鎧の背中が赤く変色するほどの熱を受け、苦痛に喘いでいた。

 

 「《ウォーター・ランス》! 《ウォーター・ランス》! 《ウォーター・ランス》!」

 

 二人交互に、背中の鎧を何とか冷まそうと「魔法の水差し」で水をかけ続ける。これほど「焼け石に水」という言葉を強く実感したことは無いが、フィリップは手を止めなかった。

 

 素晴らしきは王国の錬金術と付与魔術で、フィリップを庇って背中で炎を受けた二人の鎧は、その胸側にまで熱が伝わっていなかった。背中の火傷も広範囲だが、それほど深くはない。盾を使って炎を受け止めたタンク役の衛士たちも、火傷を負っているのは腕だけだ。

 

 しかし、弓兵や盾を持たない回避型のタンクたちは、炎をまともに喰らって重傷だった。流石に実戦経験豊富なだけあって咄嗟に息を止め、気道火傷は防いだようだが、それが唯一の救いみたいな状況だ。

 

 損耗率で言うと、約四割。

 

 傷はある。痛みもある。負傷者も数多い。だがまだギリギリ戦える。

 フィリップにとっては、そのことを厭わしいと思ってしまったことこそが地獄だった。

 

 生きているのは嬉しい。戦う意思が折れていないことは凄い。けれど──邪魔だ。

 死なない程度の重傷を負って諦めてくれたのなら、或いは恐怖して逃げ出してくれたのなら、フィリップは何の躊躇も無く召喚術を使えたのに。

 

 そんなことを思ってしまった自分を責めるように、急激な魔力喪失で気分が悪くなるのも気にせず、ジェイコブとヨハンの鎧を冷やし続ける。

 

 「衛生兵! 早く! 誰か──」

 

 人を呼ぼうとして息を吸うと、喉が焼けそうなほど空気が熱い。魔力の大量喪失とは無関係に汗が噴き出す。

 

 しかし、それを忘れるほどの悪寒が背筋を貫く。

 振り返ると、ちろちろと口角から残炎を溢す龍の、黄金の瞳と目があった。

 

 直後、人ならざる獣の、獰猛な意思が伝わる。言葉も無く、仕草も無く、ただの一瞥によって、フィリップはそれを痛感した。

 

 「……僕を殺すか」

 

 狙われている。

 そんなに臭いのかとちょっと傷付いたフィリップは、立ち上がってウルミを抜き放った。

 

 「馬鹿、止すんだ……! ぐっ……」

 

 立ち上がって制止しようとしたヨハンが背中の火傷の痛みで蹲る。フィリップは後ろから衛生兵が駆けてくるのを見て、ジェイコブとヨハンに背を向けた。

 

 治療はフィリップの得意とするところではない。多少の火傷や切り傷なら心得もあるが、今は医療品の持ち合わせがない以上、出来ることは限られる。それこそ水をかけて冷やすぐらいだ。そしてそれはもう終わった。

 

 「まずは龍を皆から引き離して──いや、魔剣か? 団長は何処だ?」 

 

 龍の尻尾側に回り込むように移動しながら、前衛を張っていた衛士たちの間に目を凝らす。

 気丈に盾と槍を構えている者もいるが、龍はもう一瞥も呉れない。もう一度攻撃すれば話は別だろうが、あのブレス攻撃を何度も繰り返されては幾ら最高級の盾や鎧でも限界が来る。軽傷者の役目は、重傷者を庇いながら衛生兵のところまで下がることだ。

 

 そうなると、やはりあの魔剣が欲しいところだ。

 古龍は数で押すと鬱陶しがって、ブレスで数を減らしに来る。あれはフィリップの拍奪でも避けられないし、そもそも避けさせないための攻撃だ。

 

 しかし、龍は自分の翼を捥いだ衛士団長を攻撃するのにはブレスを使わなかった。

 少数相手で使うのは勿体ないと思っているのか、或いは一秒そこらのチャージ時間を疎んじたのかは分からないが、どちらにせよフィリップが魔剣を持てば状況は同じになるはずだ。

 

 勿論、フィリップと衛士団長では戦闘能力に大きな差があるが、龍の視点からは誤差だろう。そのくらいの想像はつく──というか、外神の視座から見るとそうなのだが。

 

 「──!!」

 

 くせぇんだよこっちくんなよ! と言いたげな龍の咆哮。

 フィリップは中指を立てて挑発しようとして、すぐに止めた。そんな余裕は無いし、今優先すべきは魔剣だ。

 

 「団長は!?」

 「後ろだ! あのブレスをまともに喰らっちまって──って、フィリップ君!? 何やってるんだ、下がって!」

 

 答えてくれた衛士に礼も言わず舌打ちを漏らすフィリップ。その顔は最高戦力の負傷と主要武器の喪失という二つの難事に苦悩していたが、まだ諦めてはいなかった。

 

 「僕が龍を引き付けます。その間に治療と陣形の再構築を。あと、できればブレスを無効化する方法も考えて下さい」

 

 言うが早いか、フィリップは相対位置欺瞞を全開にして突っ込んでいく。

 迎え撃つように前足のストンピングが襲い掛かるが、フィリップは狙いの甘いそれを急加速で躱した。

 

 「さて、どうしようか……」

 

 現状、詰みはかなり近いところにある。

 龍の攻撃が当たれば終わりなのは言うまでも無いが、炎のブレスと、剣のような棘が並ぶ長い尾による薙ぎ払い。二つの回避不能攻撃が来ると、フィリップには為す術がない。

 

 暴、と森を吹き抜けていく風が乾いた砂塵を巻き上げて、危うく目に入りかけた。

 ただの環境すら邪魔をするこの状況。これはもう、どうしようもないのではないだろうか。

 

 そんなことを考えるフィリップの肩を、一人の衛士が掴んで止める。

 

 「フィリップ君! 下がるんだ! 早く!」

 

 背筋に強烈な悪寒を感じ、衛士を押し倒すように自分も飛び退く。直後、寸前までフィリップが立っていた場所に、煉瓦色の鱗に包まれた巨大な手が振り下ろされた。

 

 「──!!」

 「──!!」

 

 高低差のある二つの咆哮が重なって聞こえる。

 衛士とフィリップは伏せた姿勢から慌てて起き上がり──絶望を見た。

 

 錆色の龍と、二回りほど小さい煉瓦色の龍。

 脳震盪や蜃気楼で物が二重に見える訳ではないことは、大きさや体色の差、そして赤い方の龍には両の翼が健在であることから理解できた。できてしまった。

 

 「もう一体……!?」

 「嘘だろ、だって、魔物研究局も国土管理局も、ここには古龍が一体だけだって──」

 「言ってる場合か! 下がれ!」

 

 呆然と呟いたフィリップと声に絶望の色を乗せた衛士の二人を、また別な衛士が引き摺るように後退させる。そんな逃げるための動きすら、二匹の龍のどちらか片方に見咎められたら全員死ぬ。そう考えると、中々に勇気のいる行動だ。

 

 フィリップは衛士たちを二人纏めて押しやり──盾持ちだった彼らの火傷している方の手をわざと押して抵抗させなかった──一人、番いの龍と正対した。

 

 そして徐に左手を眼前に掲げる。

 魔術行使に際して照準補助を要するのは未熟故だが、龍を相手に魔術が無意味と悟っているフィリップは、そもそも龍を狙ってなどいなかった。

 

 「《エンフォースシャドウジェイル》──起動!」

 

 フィリップが詠唱したのは、最上級に区分される召喚魔術。どれだけ訓練しても中級魔術が限界だと人類最強に太鼓判を押されているフィリップでは、何百年訓練しても届かない領域。

 

 それは当然、フィリップによって発動されたものではない。

 ミナがルキアとステラの手を借りて作った、発動委任型設置魔術の光学刻印。フィリップの影に仕込まれた、フィリップが魔力を流し込むことで発動する魔術。それにはルキアが魔術教導で使った他人を介して魔術を使う邪法、王国に於いては禁術とされる手法が使われているのだが、法の外にいるステラが絡んでいるので善し。

 

 さておき、要はフィリップがトリガーを引く、影の中に仕込まれたミナの魔術だ。

 その効果は拘束。ミナが何処に居ても、何をしていても、その身柄を瞬時にフィリップの影の範囲内へと縛り付ける。拘束時間はせいぜい数秒だが、その強制力はミナの意思や魔術では抵抗できないほど強い。

 

 ソファに座って本を読んでいたらしいミナは、不意に椅子が無くなっても即座に足を動かして尻もちを防ぎ、不機嫌そうに立ち上がる。手も突かないのは流石だった。

 

 「……」

 

 ミナは無言のまま、片手で持っていた本をぱたりと閉じる。もう片方の手には赤い液体が半分ほど注がれた瓶──フィリップの用意したお弁当を持っていたが、彼女はそれを苛立ちも露わに投げ捨てた。

 ぱん、と物悲しい音を立てて砕ける瓶から、フィリップが増血剤を投与してまで採った血が飛び散る。じわじわと地面に吸い込まれていく血は、これからフィリップもそうなるという暗示のようだ。

 

 「あ、あの、ミナ? どうしようも──んっ」

 

 強制拘束魔術が不快だったのか、眉根を寄せて無言で近付いてくるミナに慌てる。

 どうしようもなくなったら呼べと言ったのは彼女なのだが、やっぱりダメだったのだろうか、と。

 

 しかしミナはフィリップへ伸ばした手を首筋へ絡め、流れるような動きで首筋へ顔を埋めた。

 

 こく、こく、と二度の嚥下を終えたミナの瞳は、怒りではなく柔らかな慈愛の光を湛えている。

 吸血に伴う多幸感と酩酊感で困惑も麻痺したフィリップは、とろりと蕩けた目で赤い双眸を見つめ返す。ミナは鮮やかに濡れた唇を艶めかしく舐め、異常に発達した犬歯を覗かせて微笑した。

 

 「いいわ、やってあげる」

 

 フィリップの頬を撫でたミナは、漆黒のコルセットドレスを翻して振り返り、黒銀の魔剣を霧の中から取り出して右手に握る。フィリップを背中に庇う位置だが、フィリップの心は特に揺れ動かなかった。

 

 ミナは二匹の龍を見比べると、不思議そうに首を傾げる。

 

 「赤い方は成龍? 確か、必要なのは古龍の心臓じゃなかったかしら?」

 「うん。じゃあ、赤い方をお願い。そっちはどんな殺し方をしても良いから」

 

 ウルミを抜き、錆色の龍の方へ回り込んでいくフィリップ。ミナはその背中に呆れたような溜息を溢した。

 

 「一応言っておくけれど、きみでは古龍に勝てないわよ」

 「勿論分かってるよ。衛士団長が龍殺しの魔剣を持ってるんだ。治療が終わるまで時間稼ぎするだけ」

 

 ちょっとそこで遊ぶだけ、とでも言うような気軽さのフィリップに、ミナは呆れたように頭を振る。

 

 「あまり危ない遊びは……まぁ、この話は龍を片してからにしましょうか。赤い方だけ引き付けるわ。《デコイ》」

 「ありがとう、ミナ。衛士さんたちのことも守ってあげて!」 

 

 注文が多いわね、と嘆息するミナだが、目元は優し気な微笑の形だった。

 

 赤い龍の気を引きつつフィリップとは反対側に移動するミナの背中に、負傷した仲間を背負った衛士が問いかける。

 

 「……助けてくれるのか?」

 「結果的には、そうね。あの子のお願いだし……個人的にも興味を持ったところだったのよ。龍殺し、楽しそうだわ」

 

 左手に持ちっぱなしだった本を示す。

 遠目に見えたタイトルと装丁は、王都外でも有名な児童書で、龍殺しの英雄譚だった。

 

 ──本で読んだからやってみる。そんな理由で龍殺しに挑むなんて、彼らの価値観ではまずありえない。

 

 「……化け物か」

 

 衛士の呟きは聞こえていたが、ミナは何も思わず、何も言わなかった。

 

 

 

 

 

 

 



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288

 唐突に現れたもう一体の龍──成龍らしいので、恐らくは親子なのだろう赤い龍をミナに任せたフィリップは、錆色の龍と鬼ごっこをしていた。

 

 フィリップは銀色の鉄鞭を尾のように引き、相対位置認識欺瞞を全開にしながら疾駆する。スタビライザーの役目をしていたらしい翼を失くした龍は、その背中をふらふらと頼りない足取りで追いかける。

 龍は追い付けないのではなく、追い付かない。追い付いてはいけないのだ。長い首の先に頭が付いているから、超至近距離では却って物が見辛い。龍の最適な焦点距離は、手を伸ばした場所かそれより遠くだ。

 

 フィリップはそれを知っているわけではないが、付かず離れずの距離を保ちつつ、龍の鼻先を駆け回って衛士たちから引き離していく。

 

 衛士団長の戦線復帰は何分後なのか。それは分からないが、無理だと思ったら諦めて邪神を召喚するためにも、戦闘状態に身を置いておく必要がある。戦闘本能で思考を麻痺させないと、また「誰かのためなんて云々」とケチを付けられてしまうからだ。

 

 それに、なるべく衛士たちから離れる必要もある。「対爆防御を!」なんて叫んだって戦闘中では聞こえないかもしれないし、そもそも聞き入れてくれるかも怪しい。

 

 「……いいぞ」

 

 今のところ、陽動と時間稼ぎは成功している。

 

 予想に違わず、古龍はフィリップを殺すためにブレスを使ってこない。

 人間が不快な臭いを放つカメムシを殺すのに最上級魔術を使わないようなものだろうが、手で払いのけているのは不快感が閾値を超えるまでだ。我慢の限界を超えれば、スリッパとか、殺虫剤とか、燻煙とか、色々と使う。ルキアは旅先でネズミが出たとき、血の一滴も漏れない超重力の渦に捕らえてテントの外に捨てていた。翌朝にはフィリップが謎の肉塊を不審そうに観察する羽目になったのだが、それはさておき。

 

 「──!!」

 

 龍は不随意な体に苛立ったように咆哮し、無数の剣を自分の周囲に浮かべた。物質と魔力の剣が森を穿つ混合弾幕。対多攻撃であり、掃討攻撃でもある厄介なものだ。

 

 しかし、フィリップはほっと安堵の息を吐く。

 もし衛士たちから離れるように動いていなければ、負傷兵を運んで俊敏さの落ちた衛士たちが巻き込まれていたところだ。横殴りの剣雨は流石に躱しようが無いが、今は位置関係的に撃ち下ろしだ。それならまだ『拍奪』でどうにか透かせる。

 

 走るフィリップに当たる軌道だった剣は、全部で20発を超える。拍奪によって狙えていなくとも、フィリップを狙ったものではない弾幕が致命的に降ってくる。

 

 一度のミスも、一歩のズレも許されない極限回避の連続。

 肩に掠り、足に掠り、脇腹に掠り、しかし紙で切った以上の傷を残さずに弾雨の中を駆け抜けた。

 

 「──っ、は!」

 

 思わず息を止めていたことを、フィリップは喘ぐような呼吸をして漸く自覚した。

 

 龍は黄金の双眸を僅かに見開いたようだった。

 まさか躱すとは思っていなかったのだろうが、それは流石に侮り過ぎだ。フィリップはまだ余力を残している。

 

 とはいえ。

 

 「──!!」

 

 再度の咆哮。再度の剣雲展開。

 まだスタミナに余裕があるとはいえ、そう何度も連続されると流石にキツい。

 

 フィリップは一か八か、思いっきりペースを緩めて龍の胸元に飛び込んだ。

 鱗に包まれた腹のすぐ下、龍が寝転がったり伏せたりすれば押し潰されかねない位置で、懸命に相対速度を合わせて走る。龍の身体を傘にした形だ。

 

 ずどどど、と着弾音が連続する。

 刺さった後には傷だけを残して消える魔力の剣はいいが、実体を持った剣は走るのにすこぶる邪魔だった。足を取られるだけならいいが、最悪斬れるというのだから恐ろしい。いや、ちょっと躓いたら、その直後には錆色の腕にへばりついた汚れになっているのだが。

 

 細心の注意を払って剣畑を駆け抜け、炎のブレスが焼いていない深い木立の中へ逃げ込む。

 それでも追ってくるなら、龍は木々を踏み潰し、薙ぎ倒しながらの進攻になる。歩みが止まることは無いとしても、水の中のように歩が鈍るはずだ。

 

 そう判断しての退避を、黄金の瞳が忌々しそうに見つめる。

 フィリップは敢えて木の陰には隠れず姿を晒しているが、あと少し動けば死角に入る位置だ。今見逃せば探し出すには骨が折れると確信できる、そんな位置。

 

 「追ってこないか……?」 

 

 錆色の龍は無防備にも喉を見せるように天を仰ぐ。めんどくせぇー! と叫ぶようにも見えて、フィリップは思わずくすりと笑みを溢す。いや、笑ったのは外神の視座だ。そのいやに人間的な感情の発露が、上位者気取りの劣等種には似合いに見えた。

 

 だが、笑っている場合ではない。

 ふっと息が詰まるような、瞬きが鈍化するような意識の遅延が始まる。

 

 この感覚。

 フィリップの精神は理解できずとも、肉体は理解している。肉体が発している死の警告、遺伝子による逃避命令。即ち、死の気配だ。

 

 「当てが外れた──!!」

 

 フィリップは拍奪の歩法も抜きで全力疾走し、龍との距離を詰める。

 それは何か戦略的な思考に基づく判断ではなく、身体に命じられるがままのことだった。

 

 龍の首は長く、頭部はその先に付いている。

 頑強そうな筋肉と硬質な鱗に覆われているが、かなり柔軟で360度近い可動域を誇る。その気になれば自分の全周に炎を撒くことも可能だろう。

 

 衛士たちの鎧のような超級の防具に身を包んでいても、その直下には火が通るほどの極高温領域の展開。炎に包まれた者は呼吸すら許されず死に至る。その射程は50メートルを超え、発射部である頭部の可動域は広い。

 

 長射程。広範囲。防御困難。

 タンク役の衛士が持っていた盾があれば、負傷は片手だけで済むかもしれない。盾だって「ただ前に出す」だけでは性能を活かし切れないので、フィリップが持ってもそうなるとは思えないが。

 

 故に、ブレスを撃たれたら終わりだ。絶対に、何を措いても、撃たれる前に阻止するか射程外へ逃れる必要がある。

 だが後方へ逃げるには、50メートルをチャージ時間の1秒以内に走破する必要がある。フィリップもそこそこ健脚とはいえ、流石に無理な数字だ。

 

 故に、前。

 口から炎を吐く龍の、射界の外。可動域の広い砲塔が絶対に照準できない場所へ。

 

 即ち、砲身(あたま)の真上。

 

 「う、おぉぉぉ──ッ!」

 

 タイミングを合わせ、全力でジャンプする。

 龍の鼻先が下がり、ナイフのような牙が並んだ大口が開く。先走って漏れる炎に爪先が当たり、反射的に足を引っ込める。

 

 両手は龍の鼻先に。膝を胸に付けるように足を抱え、前に伸ばす。

 急接近に驚いた龍が頭を持ち上げると、フィリップは龍の鼻面から頭の方へ滑っていく。咄嗟に角に掴まると、龍はブレス攻撃を止めて滅茶苦茶に頭を振り、フィリップを振り落とそうとした。

 

 「痛っ、いたたた、いたたたた!?」

 

 見かけによらずざらざらした角と掌が、見た目の通りにトゲトゲした鱗と身体が擦れて痛い。だがなんとかブレスは凌いだ。

 

 龍が頭を下げた瞬間を見計らって手を放し、投げ出された勢いのまま地面をゴロゴロと転がって衝撃を殺す。

 すぐに立ち上がって向き直ると、龍はフィリップに背を向けていた。

 

 「うそ!? ここに来て!?」

 

 まさか衛士たちの方に向かう気か、と身構えた直後、龍が体を丸め、その場で一回転する。

 

 自分の尻尾を追いかける犬のような仕草に虚を突かれ──“死”を前に瞠目した。

 

 回転の勢いを乗せ、振り回される長い尾。

 錆色の鱗が立ち、剣山のように棘の生え揃った鞭の一閃。ブレスと同じ、広範囲掃討攻撃。

 

 「やば──っ!」

 

 視界がモノクロになり、全てのものがスローモーションになる。

 木々が薙ぎ倒され、舞い散る木の葉一枚一枚の動きが手に取るように分かる。足元の石くれの転がり方も、吹き抜ける風の向きも、何もかもが完全に把握できた。

 

 錆色の尾、ロングソードのような棘が生え出でた巨大な鞭は、しなやかでありながら強靭な芯を持っている。

 その軌道には一寸のブレもなく、ただ振り回すのではなく明確な攻撃として“振って”いるのが分かる。ちょうど、剣のように大ぶりな棘がフィリップに突き刺さる軌道だ。

 

 どうやって避けよう、なんて、フィリップは安穏と考える。

 いや、どうやっても避けられない。それは事前に分かっていたが、不可避の軌道をじっと見つめていると、やっぱり「どうしよう」なんて考えてしまうのだった。

 

 スローモーションの視界。モノクロの景色。迫りくる致死の一撃。

 何もかもが夢や幻覚のように現実感がない。格闘技の試合を見ているような──どこか遠くの知らない誰かが戦っているのを見て、安全圏から口を挟むような。そんな奇妙な感覚。

 

 死ぬのは自分。傷付くのも自分。痛みを感じるのも当然自分なのだが、思考がそこまで至らない。その手前の、攻撃を認識したところで、ずっとぐるぐる回っている。

 

 無限にも思える思考時間。

 実時間にして一秒以下の後、フィリップの胸元へ古龍の一撃が命中した。

 

 ずずん、と鈍く重い衝撃。いつぞやのマリーの過失とは違う明確な殺意を持った攻撃は、肋骨を容赦なく砕き、内臓へ突き刺す。

 

 モノクロから若葉色に染まる視界。

 肺から強制的に絞り出された空気に血が混じり、口から零れて飛んでいく。いや、飛んでいるのはフィリップの方だ。

 

 乾いた土と焦げた落ち葉を巻き上げ、巻き込みながら、石ころのように転がって止まる。石ころと違うのは、転がるたびにびちゃびちゃと耳障りな音を立てるところだ。

 

 血泥で汚れたボロ雑巾は、ごぼっ、と聞くに堪えない音を立てて、腹の底から血の塊を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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289

 自分の口から出た大量の血液を見ながら、フィリップはどこか現実感の欠如を覚えていた。

 頬の内側を噛んだとか、殴られてケガをしたとか、そんなものとは桁の違う量の吐血。重要臓器に甚大なダメージがあることが外観で分かる。

 

 倒れ伏し、吐いた血が目の前の地面に染み込んでいくのをぼーっと見つめる。

 きーん、と甲高い音が頭蓋の中で反響していて、外の音が何も聞こえない。

 

 ただ、痛みが無いのはありがたかった。骨が砕ける音を体内から聞いたのは久し振りだったが、マリーの過失致傷の時と比べても痛みが薄い。アドレナリンが効いているのか、防衛本能が危険域の激痛をシャットアウトしたのか。

 

 「あぁ……クソ」

 

 しくじった。

 自分一人で時間が稼げるなど、冷静に考えて馬鹿げた思い上がりだった。回避不能即死級攻撃を持った相手の間合いの中で戦うなんて、ルキアやステラでもなるべく避けるシチュエーションだろうに。

 

 舌打ちしつつ身体を起こすと、右の脇腹に鈍重な痛みが走った。

 肋骨骨折と内臓損傷とは思えない打撲程度の痛みだが、じきに動けないほどの激痛が襲ってくるだろう。吹っ飛ばされた衝撃で脳震盪でも起こしたか、とにかく感覚の希薄な今のうちに龍をどうにかして、フィリップ自身の治療もしなくては。

 

 「……後でお礼を言わないとな」

 

 獲物を仕留めた捕食者の足取り、恐怖を刻み付けるような歩調で近付いてくる錆色の龍から目を逸らし、背後の森を見遣る。

 

 フィリップが串刺しにされず、ぶん殴られて吹っ飛ぶだけで済んだのは、直前でシルヴァが庇ってくれたからだ。

 森そのものであるシルヴァに刺突攻撃は通じない。龍の筋力で振り抜こうと、剣の一刺しで森は傷付かない。だから棘に刺し貫かれずに済んだ。ただ運動量と殴打の衝撃だけは緩和されず、フィリップは肋骨を折り、二人して十メートル以上吹っ飛んだのだが。というか、体重の軽いシルヴァに至っては、何処まで吹っ飛んだのかも分からなかった。

 

 「げほっ……あぁ、全く、最高だよ。戦わなくていいって何度も言ってるのに。……ヨグ=ソトースとは大違いだ」

 

 フィリップは傷を庇いながらも龍を見据え、ウルミを抜き放ちながらぼやく。

 致命傷は防いでくれるだろう、なんて思っていたが、どうやらそれも違うらしい。内臓損傷は明らかに致命傷、放置すれば確実に死ぬ深手だ。しかし、未だに世界が干渉してくる気配はないとなると、防御対象は神格レベルの相手か、即死級の攻撃かに絞られる。

 

 使えない。全く以て、使えない。一体どんな生活をしていれば、そんな規模の攻撃を喰らうタイミングが訪れるというのか。

 

 「──っ!」

 

 足に力が入らず、ふらついて片膝を突く。勢いのままにもう一度血反吐を吐いた。

 

 ふっと意識が遠退き、視界が急激に暗くなる。

 そのまま眠りに落ちそうになって、フィリップは思いっきり脇腹の傷をぶん殴った。

 

 「ぐ、ッ──あァァァ!!」

 

 絶叫。

 背骨が焼け付くような激痛が走る。視界は一気にホワイトアウトして火花が爆ぜ飛び、意識の喪失さえ許さない。

 

 ──それでいい。

 意識の喪失は許されない。ここで諦めてぶっ倒れることは許されない。

 

 「はぁ、はぁ……っ、そうだろ、僕。衛士たちを守れ、ルキアと殿下を助けろ」

 

 負傷と出血が脳機能を著しく鈍化させ、思考は殆ど空転している。けれどそれだけは覚えていた。

 

 とはいえ満身創痍だ。

 これ以上は、もう一歩だって走れる気がしない。もうあと一分だって龍を相手に時間を稼げる気がしない。

 

 それ以前に、一分後には死んでいるかもしれない。どの骨が折れてどの臓器が傷付いているのかは分からないが、内臓損傷の時点で重傷だ。今ここにステファン先生がいたとしても、王都の設備が無ければ匙を投げるほどの。

 

 手段を選んでいる場合ではない。

 衛士たちのため、ルキアのため、ステラのため、いま生き延びるために、迷いを捨てる。

 

 「マザー──シュブ=ニグラス。僕に……血を」

 

 跪き、口の端から血と涎ではない何かの液体の混合物を垂れ流しながら、虚空に向けて懇願する。いや、それが懇願だったのか、命令だったのか、はたまた交渉だったのかはフィリップ自身にも分からない。

 ただ、絶対的にどうしようもない状況を前にして、フィリップが頼ったのは彼女だった。そしてその事実は、いたく彼女の気に召した。

 

 暗雲が立ち込める。極彩色の雷霆を孕む、光を呑みこむ色の雲。

 フィリップの頭上、手を伸ばせば届く位置だ。

 

 それは冒涜的な蠢きと共に肥大と縮小を繰り返し、拍動する臓腑のようにも見える。

 この世に在らざる物質で出来た、この世ならざるモノを前に、錆色の龍が怯えたように啼いて体を丸め、脇腹を見せながら後退する。怯えた獣そのものと言った風情だが、フィリップにそれを見ている余裕は無かった。

 

 フィリップは我知らず、微かに震えながら天を仰ぎ、両手を器のようにして顎下に添えた。口を開き、舌を器のように曲げて差し出す。

 顔も、手も、目も、身体の全てが恐怖を映している。眉尻は情けなく下がり、青い双眸からは堪えきれなかった涙が流れた。

 

 あのフィリップが、だ。

 かつて盲目白痴の魔王と対面し、その姿を目にしたフィリップが。外神を知り、この世の儚さを知り、狂気を奪われ、外神の智慧と視座を与えられたフィリップが。ただの子供のように怯え、恐れ、震えていた。

 

 「あ、ぁっ──」

 

 光を呑む色の雲から、一滴の雨粒が滴る。

 フィリップの小指の先と同じか、それより小さな、ほんの僅かな水滴。雲と同じ色をした、夜闇より黒い不透明の、妙に粘性を持った雫。

 

 それこそは大地母神シュブ=ニグラスの血液、その一滴。

 あらゆる生物を変容させ、鉱物を変質させ、環境を侵食する劇毒。純度次第では一滴で星の表層を塗り替えることも可能な、星さえ侵す猛毒。フィリップの傷を癒すばかりでなく、単騎で龍を殺す英雄に昇華させる霊薬でもある。

 

 その代償は肉体。

 髪の一本から爪の先に至るまで、あらゆる細胞、あらゆる組織、血の一滴までも変容させる。人間の遺伝子は消滅し、もう二度と戻ることは無い。

 

 漆黒の雫がゆっくりと、不自然な速度で落ちて──フィリップの口を、手を、すり抜けた。

 

 「っ!?」

 

 息を呑む。

 気が付いた時には、フィリップは尻もちを搗くような形で転んでいた。黒い雨滴を、フィリップは自分でも知らないうちに避けたのだ。血の雫はとうに地面に落ちていた。

 

 「あ、……っ!」

 

 天を仰ぐも、暗雲は既に無い。

 言われた通りに血を与えた神は、その雫の行く末などどうでもいいらしかった。要るのなら使えばいいし、要らないのならそれでいい。自らの血を捨てたことに対するペナルティが降りかかるどころか、怒気の一つも感じさせずに消えてしまった。

 

 「うっ、く、っ……!」

 

 フィリップは嗚咽を漏らし、その場で蹲って身を縮める。

 悲しくて、情けなくて、腹立たしくて、心の中がぐちゃぐちゃだった。

 

 もう一度呼べば、もう一度血を与えてくれるだろう。

 

 だが、もう駄目だ。

 一度避けてしまったら、もう二度と、それを口にする勇気が出ない。──人間を辞める勇気は、もう二度と振り絞れない。

 

 「はは、はははは、あはははは! あははははは!」

 

 フィリップは品性の欠片も無い高笑いと共に、ウルミを掴んで立ち上がる。

 笑うたびに脇腹の傷が痛んだが、それも殴られた程度の鈍痛だ。心の底から沸き上がってくる嘲笑で押し流される。

 

 偶々足元にあったウルミは、情けなくも怯んだ主に代わって変性の血液を受け止め、今や全体がどす黒く変色していた。

 毎日欠かさぬ手入れの果てに得た金属光沢も、時にはフィリップをも傷付けた表面の毛羽や棘も消え失せ、生物的な光沢(ぬめり)を放つ。

 

 それはもはや四本の複合金属鞭ではなく、四本の生きた触手に変わっていた。

 

 ──加工された金属さえ生物に変えるか。

 フィリップは頬を引き攣らせるように歪な笑顔を浮かべ、歩くと痛む脇腹を庇って片足を引き摺りながら龍の方へ向かった。

 

 神威を放っていた超常の雲が消え、先程の威勢を取り戻した龍がフィリップを見つめる。

 明らかに死に体のはずなのに、どうして向かってくるのか。手にしている異形の触手はなんなのか。そういった疑問は古龍とて抱いていたが、殺してしまえば関係ないと切り捨てる。龍はそれが許される、この星の頂点捕食者だ。

 

 錆色の龍が左手を振り上げ、無防備に近付いて来た馬鹿を叩き潰す。

 その刹那、フィリップが身を躱すより先に、右手のウルミがひとりでに動いた。

 

 「──!?」

 

 苦し気な咆哮。

 龍は鱗で覆われた掌をばっさりと切り裂かれ、血を噴き出させながら後退りした。

 

 鱗は徹したようだが、切り落とすには至らない。触手の先端が掠った程度か。

 フィリップが振りもしなかったのにこの結果なら、単純な鋭利さで魔剣に匹敵する。だがウルミと同じ四メートルの刃渡りでは、龍が引っ込めた手を追いかけて切り落とすことはできなかった。

 

 「──。」

 

 錆色の龍が唸りながら鎌首をもたげ、フィリップをじっと見据える。黄金の双眸から伝わってくるのは、色濃い警戒だ。

 

 小枝のように細い漆黒の鞭。

 そんなもので自分の鱗が、700年もの間無敗を誇った守りが抜かれるなどとは想像もできない。だが掌を切り裂かれて血を流しているのが現実だ。

 

 故に、古龍は脅威判定を更新した。

 ヒトの稚児を、先の魔剣を持った人間と同等の()()と判定する。

 

 「──!」

 

 咆哮と共に地面を叩き、岩塊を自身の周囲に浮遊させる。どれもフィリップの身長を優に超すサイズで、総数は30か40くらいだろうか。

 

 再度の咆哮を合図に、その全てが砲弾と化す。

 初速は音速を超え、射出を見てからの回避はまず不可能。フィリップは岩塊をぼーっと見たまま、自分が死んだことにさえ気づかないで粉砕され、埋没する。

 

 粉砕し圧壊し埋葬する弾幕。

 フィリップが視認できないそれらを、またもひとりでに動いた漆黒の触手が迎撃する。

 

 フィリップの前に躍り出た彼らは、いやに生物的な動きで巨大な瓦礫を打ち払い、切り裂き、弾き返す。恐ろしいのはフィリップの腕に反動が全く無いことと、柄が妙にぴったりと手に吸い付いて離れないことだ。

 

 轟音と土埃だけが成果となった弾幕掃射に苛立ったように、古龍はまたも体を丸めて一回転する。

 先程フィリップを吹き飛ばし、重傷を負わせた尻尾による薙ぎ払いだ。

 

 剣のような棘の生えた尾は、フィリップが抱き着くことも出来ないほど太い。漆黒の触手が切り落とせる距離になった時には、切り落としたところで断片がフィリップを打ち据えるだろう。

 

 今度こそ致死の一撃となり得る攻撃を、フィリップはどうでもよさそうに一瞥する。

 主の無関心を補うように触手が動き、二本がボクシングのガードのように曲がって盾となり、残りの二本はアウトリガーのように地面へ突き刺さった。

 

 大気を裂いて飛来する極太の尾による一撃。

 子供一人分のクッションがあって、かつ両足が浮いた状態でも肋骨を砕く威力のそれは、鞭であると同時に鈍器でもあり、棘も含めると刃物でもある複合攻撃だ。敵が盾を持つなら衝撃で腕を砕き、回避に長けるならその範囲と速度で避けさせない。

 

 ずどん! と強烈な衝撃が伝わり、地面に堆積していた枯れ葉や小さな砂粒が一斉に舞い上がる。

 しかし威力の全てが完全に地面へ伝播されていて、柄を持つフィリップの手には一切の反動が無かった。水のような運動の流動性と、ミナの身体操作にも匹敵する動きの精度。

 

 驚いたのはフィリップより、むしろ古龍の方だ。

 生まれ落ちて以来、同族以外で自分以上の力を持つ相手に出会ったことは無いし、そもそも自分と敵対するモノがいなかった。先の魔剣による一撃が、生まれて初めて負った深手だ。

 

 黄金の双眸を小さな外敵に向けたまま、じりじりと後退する。

 僅かに怯えも見えるのは、尻尾による一撃を止めたからか。

 

 フィリップは口元を吊り上げるように歪な笑顔を浮かべ、傷を庇いながら龍へ歩み寄る。

 その歩を止めようと無数の剣が降り注ぐが、剣戟音と共に触手によって弾き飛ばされた。

 

 「──!!」

 

 苛立ったようにも、怯えたようにも聞こえる鳴き声を上げた龍が天を仰ぐ。

 

 フィリップの右手では黒い触手が勝手に動き──フィリップの見間違いでなければ、10メートル以上は伸びた。

 

 今まさに、一息の下にフィリップを焼却せんとしていた錆色の龍。

 そのマズルを黒い触手が貫いていた。天を仰いだ龍の口元は明らかにウルミが届く距離ではないが、現に触手は届いている。

 

 顎の下に逆向きに生えた鱗を通すような位置は、特に急所というわけではない。もう少し奥なら動脈や気道、脳幹なんかがあるのだが、触手の貫いた場所はもっと手前だった。

 

 しかし、ブレスは封じた。龍は存在史上最大の激痛に呻きながら、しかし顔を下げることも出来ずに藻掻く。

 残る三本の触手が禍々しく蠢き、どうするかと判断を仰ぐようにフィリップへ先端を向けた。首を傾げるような仕草には、不覚にも可愛いと思ってしまった。

 

 「……殺せ。心臓は傷付けるな」

 

 優しげな、それこそシルヴァと話すときのように柔らかな声で、しかし明確に命令したフィリップ。三本の触手たちは恭しく一礼した。

 

 触手が生物的な動きでのたうち、龍の首を狙って刈り取るように動く。

 二本は右から、一本は左から。巨大な首断ち鋏となった触手は、口蓋を貫かれて抵抗できない龍の、長い首を根元から切り落とし──その寸前で制止された。

 

 「待て、少年!」

 「──待て」

 

 声の主は見なくとも分かったフィリップは、触手たちに端的な命令を下す。

 三枚の刃は鱗を僅かに切り裂き、しかし一滴の血も流さないところで止まっていた。

 

 「……ご無事でなによりです、団長」

 

 息せき切って走った来たという風情の衛士団長に、フィリップはにこりと笑いかける。

 “待ち人来る”といったところだが、少しばかり遅かった。彼が右手に握り締めている魔剣も、今となっては無用の長物だ。

 

 「少年、その傷……それにその触手は……? いや、話は後だ。止めは俺が刺す」

 「団長がですか? 別にいいですけど、何故? 貴方のことだ、名誉の為とかじゃないとは思いますけど」

 

 衛士団長は「勿論だ」と頷き──ちょっと首を傾げてから、「いや」と前言を撤回した。

 

 「いや、実はそうだ。勿論王国には君がやったと報告するし、報酬も全て君に譲る。だから、龍を殺したという事実だけは、俺にくれないか?」

 「は……? よく分かんないですけど、どうぞ?」

 

 団長の言葉は嘘だと分かったものの、そんな嘘を吐いてまで龍を殺したい理由は分からない。いや、過程を抜きにしても自分が龍を殺したという事実が欲しいというのなら、想像も理解もできる。だが今の感じを見るに、そうではない。

 

 「ありがとう、カーター少年。では──御免!」

 

 雄叫びと共に濃紺色の宝石剣を振り抜き、龍の首元を深々と斬り裂く。

 鮮やかに赤い血が噴出し、雨のように降り注ぐ。猛毒だというそれを被らぬよう、二人は慌てて距離を取った。

 

 錆色の龍はどう、と地響きを立てて倒れ、それきり起き上がることは無かった。

 

 これでいいのかと胡乱な目を向けたフィリップに、衛士団長はしっかりと頷き──何の前触れもなく、胸元を抑えて藻掻き出した。

 

 「ぐっ……!? うっ、がはっ……」

 「ど、どうしたんですか?」

 

 彼は胸を鎧の上から掻き毟り、片膝を突いて脂汗を流している。呼吸も喘鳴のように頼りない。重傷過ぎてむしろ痛みの薄いフィリップ以上の苦しみようだ。

 

 よもや龍血の毒に中ったかと顔を蒼白にしたフィリップだが、ややあって団長の呼吸は深く落ち着いたものになり、肩で息をしつつもしっかりと立ち上がった。

 

 「だ、団長? だ、大丈夫ですか?」

 「もう大丈夫だ。心配するな。……それより、君の方が重傷じゃないか! 早く治療しないと! 待ってろ、いま治療術師を呼んでくる!」

 

 フィリップの疑問も衛士団長自身の疑問も無視して「衛生兵ー!」なんて叫びながら駆けていく背中を、フィリップは苦笑と共に見送る。

 

 手の中で、然して力を入れていないのにぴったりと手に吸い付いて離れなかった触手、或いはウルミだったモノが朽ちていく。力尽きたようにも、役目を終えて満足したようにも見える彼らは、やがて灰となって風に吹かれてしまった。

 

 貰い物だったのにな、なんて、フィリップは僅かな寂寥感と罪悪感を滲ませて呟く。

 

 そして──フィリップは彼が戻るのを待たず、森の奥へ歩き始めた。

 右足を動かすとぐちゃぐちゃになった右の脇腹が酷く痛むので、不格好に足を引きずりながら。

 

 

 

 

 

 

 



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290

 この章でこの話が書いてて一番楽しかった


 ややあって、フィリップは地面に血溜まりのある場所──フィリップが吹き飛ばされて転がった場所、シュブ=ニグラスの血を求めた場所まで戻った。

 

 失血からか力の入らなくなった足に従って、勢いよく膝を突く。

 そして拳を振り上げ、怒りのままに地面を殴り付けた。その心中には、これまでに感じたどんな感情よりも大きな自己嫌悪が渦巻いている。

 

 「──屑が」

 

 僕は──屑だ。

 衛士団の輝かしい人間性に触れてきたから、鮮明に分かる。国のため、民のため、顔見知りの子供のために命を捨てられる彼らとは、全く比べ物にならない低俗で劣悪なゴミクズだ。

 

 フィリップは歯を食い縛り、嗚咽を漏らし、草と土を掻き毟って汚れた手で、拳よ砕けよと言わんばかりに地面を殴り付ける。

 

 シュブ=ニグラスの血液。

 たった一滴で生命を変容させ、進化系統樹の極点へ押し上げることも、枠組みを外れた特異点にすることも可能な、強烈にして不可思議な劇毒。一匹の蝗が山岳を食い千切り、蛙一匹が海を呑み干すように育つ。

 

 フィリップのような脆弱な人間でさえ、腕の一振りで龍を殺し、剣閃によって海峡を作るような怪物へと変貌することだろう。

 

 それさえあれば、龍を殺せた。首を裂いて血液を集め、肋骨を砕き開けて心臓を抉り出せた。絶対に、確実に。

 変異したウルミと衛士団長の一撃で龍が殺せたのは、偶々だ。運良くウルミが変異して、幸運にもウルミに自律意思が宿り、それがたまたまフィリップや衛士ではなく龍を攻撃しただけ。

 

 あの、どす黒い雫を避けた瞬間。あの怯懦のせいで、何もかもが台無しになる可能性すらあった。

 フィリップはそれを分かっていて、分かった上で、シュブ=ニグラスの血を受けなかった。いや、そんなことを考える間もなく、反射的に避けたのだ。フィリップはただの反射で、何も考えずに彼らを捨てたのだ。

 

 「僕は──屑だ。結局は自己保身しか頭にないゴミクズだ……!」

 

 一週間前。

 ルキアとステラのために衛士団と遠征に行くと決めた時、フィリップは心の底で期待していた。

 

 美しい人間性を持つ衛士たちと一緒に、誰かを救うという同じ目的で動いていれば。たとえそこに死への恐怖や覚悟が無かったとしても、自分の人間性は、彼らと同じ輝きを放つのではないか、と。

 

 それが、どうだ。なんだ、このザマは。

 

 ルキアとステラを救うため。衛士たちを守るため。

 何もかもを諦めたフィリップが、まだ人間で在りたいと思えるほどに美しい彼らのため。

 

 その理由があってさえ──フィリップ自身が決めた守りたいものの為でさえ、フィリップは自分の人間性を捨てられなかった。

 衛士たちは死の覚悟を決めてここに来た。中には重傷を負った者もいる。ルキアとステラは死に至る病に侵されている。それなのに、フィリップは命の保証があってもなお、人間性さえ捨てることが出来なかった。

 

 そんな人間が美しいものか。

 そんな人間が正しいものか。

 

 いや──それは人間としては、正しい。

 死ぬのが怖い、それは本能だ。痛いのは嫌だ、それは本能だ。人間のままでありたい、それも本能だ。

 

 でも、フィリップは知っている。それを乗り越える人間の美しさ、太陽や宝石のような魂の輝きを。人間性の輝きを。

 それに憧れた。そう在りたいと望んだ。一度は、そう在れないのなら死んだ方がマシだとさえ思った。……その想いは、今も変わっていない。

 

 こんなクソみたいな情けない人間性に拘る必要は無い。さっさと死んで、外神にでも何でもなってしまえ。いつかと同じように、今もそう思っている。

 

 「……でも、まだ駄目だ」

 

 だが──衝動的に自死することは、決して許されない。

 

 血の滲む脇腹を庇いながらも自分の足で立ち上がり、激痛に神経信号を妨げられて不格好な姿で歩く。

 

 行く先は近くの木蔭。大荒れしていたフィリップを遠目に、しかし心配そうに木の陰から覗いていたシルヴァのところだ。

 流石はヴィカリウス・システムの幼体、森そのものと同じだけの存在強度を持つだけあって、龍の攻撃を受け止めても全くの無傷だった。そんな彼女は、頭からも胴体からも血を流しているフィリップに、心配そうに首を傾げた。

 

 「……だいじょうぶ?」

 「いや、全然。脇腹とか滅茶苦茶痛い……けど、シルヴァが庇ってくれたおかげで、僕の上半身と下半身はまだくっついてる。ありがとう、シルヴァ」

 

 掌を汚す血が付かないように手の甲で頬を撫でると、シルヴァはくすぐったそうに、けれど嬉しそうに声を漏らして笑った。

 

 ……シルヴァがフィリップと一緒にいるうちは、身勝手な理由では死ねない。フィリップはシルヴァに、居たいだけ一緒に居ようと言った。僕は君を捨てたりしないと、確かに誓った。彼女がそれを望んだとしても、ずっと一緒だと言った。その言葉に対する責任は、フィリップがどんな屑であっても消えたりしない。たとえ自分自身の死を望んでいても、吐いた言葉は、シルヴァの想いは、消えて無くなりはしない。

 

 「ふぃりっぷ?」

 「ん? なに?」

 

 心配そうな声に、フィリップは努めて穏やかな声を出す。

 傷もそうだが失血が危うく、意識が霞みつつあるが、渾身の力で姿勢と表情を制御する。

 

 「しるばとずっといっしょっていった。わすれないで」

 

 いつものように舌足らずで感情の希薄な声に、一片の懇願が混ざる。

 その言葉に、フィリップは瞠目して──掌に付いた血汚れの事も忘れて、シルヴァをしっかりと抱き締めた。

 

 脇腹の傷が痛むが、気にならない。

 掌の血が若葉色の髪を汚すが、シルヴァも気にした様子はない。

 

 「……あぁ、勿論だよ」

 

 フィリップは吐血と絶叫のせいで掠れ気味の声で、けれどしっかりと答えた。

 

 しばらくシルヴァと抱き合っていると、遠くからフィリップを呼ぶ声がした。衛士団長と、他の衛士たちの声だ。

 いい加減に脇腹が激しく痛み始めていたフィリップは返事をしようとしたが、息を吸うだけでも激痛が走り、声を出すこともままならない。

 

 戦闘が終わってアドレナリンが切れたからか、はたまたシルヴァを抱き締めて緊張の糸が切れたのが駄目だったか。今まで黙っていたんだからもういいよね、とばかり、肋骨骨折と内臓損傷、ボトル一杯分近い量の血を吐かせるに相応しい痛みが襲ってきた。

 

 シルヴァを離し、ずるずると横たわる。

 

 「や、やばい……シルヴァ、呼んできて……治療術師の人呼んできて……」

 「ん! みなよんでくる!」

 「ち、違……う……」

 

 任せろとばかり自信たっぷりに笑って駆け出したシルヴァ。フィリップはその背中に手を伸ばすことも出来ず、数秒後には意識が暗転していた。

 

 

 

 フィリップが気絶していたのは、ほんの数十秒だった。

 

 「ん……?」

 

 フィリップは目を覚ますと、ぼんやりとした視界の中で傍らに立っている人影を見た。

 シルエットだけで分かる悠然とした立ち姿だが、片手を腰に当てていてどこか呆れているようにも見える。体つきから女性だと一目で分かる彼女は、片手をフィリップに向けて差し出していて、そこから何か妙に冷たい液体がフィリップの脇腹へと垂れていた。

 

 目を瞬かせて視界をクリアにすると、人影の正体がミナであることと、彼女の左手から滴る液体は、深々と裂けた手首から流れる血であることが分かった。

 

 何をやっているのか。そう問いかける前に、脇腹の傷が瞬く間に修復されていくことに気が付いた。

 吸血鬼の血は、人間の命を集めてできたものだ。それを人間が受けると、大量の生命力が補充されて傷を癒すことが出来る。フィリップはそのロジックは知らずとも、「吸血鬼の血は薬なんだ」と端的に理解した。

 

 「……起きた? はぁ……だから危険な遊びはやめなさいと言ったでしょうに」

 

 溜息を吐くミナの声には、心配より呆れが多分に含まれていて、フィリップはばつが悪そうにニヤリと笑った。

 

 「ごめん、ミナ。ちょっと見誤った」

 「そうらしいわね。傷はどう?」

 「ん……もう大丈夫。ありがとう、助かったよ」

 

 ミナは肩を竦め、左手を軽くスナップさせる。たったそれだけの動作の後には、人間なら致命傷になりかねないほど深かった手首の傷は完全に消えていた。

 

 「あまりやんちゃが過ぎるようなら、首輪とリードを付けるわよ?」

 「それは流石にヤだなぁ。気を付けるよ」

 

 フィリップは自分の首からロープが伸びて、その片端をミナに握られるところを想像して苦笑した。ミナの膂力で引っ張られたりしたら、人間の首なんてぽろりと捥げてしまう。

 

 と、そんな話をしていると、ドカドカと大人数の足音が近づいて来た。衛士団長と、他にも大勢の衛士たちだ。

 

 「少年、大丈夫……なのか? 吸血鬼になったりしてないよな?」

 

 満身創痍というか、ほぼ瀕死に見えたフィリップがけろりとした顔で立っていれば、そんな懸念も浮かぶ。

 フィリップとミナは顔を見合わせて、それぞれ苦笑と呆れを見せた。

 

 「大丈夫です。ミナの血のお陰で助かりました」

 「見れば分かるでしょうに……」

 

 一応はフィリップの脇腹や他の傷を確認していた衛士は、フィリップが完全に無傷な──血塗れではあるのだが──ことを確かめて、ほっと一息ついた。

 

 「そうだ、聞いたよフィリップ君! 龍を一人で抑え付けたんだって!? すごいじゃないか!」

 「む? そういえば、あの魔剣はどうした?」

 

 衛士団長に問われて、フィリップは胡乱な目で首を傾げる。

 魔剣なら団長が右手に持っているが、もしかして頭でも打ったのか? なんて考えること数秒。ウルミが変じた触手の事だと漸く思い至る。

 

 「あぁ、えっと……灰になりました」

 「なんだって? そうか、一回きりの力だったのか。だからあれほどの……」

 

 フィリップが何か言い訳を考える前に勝手に納得してくれた衛士団長。フィリップは曖昧に笑って、「魔剣って?」と首を傾げたミナには「後で話すよ」と誤魔化した。

 

 「団長こそ、さっきは凄く苦しそうでしたけど、大丈夫なんですか?」

 「あ、あぁ、うむ、勿論だ。もう何ともないぞ!」

 「これから龍の解体作業ですよ、団長」

 「おっと、そうだった! では少年、また後でな!」

 

 どこか慌てたように見える団長と衛士たちは、フィリップからの質問をシャットアウトするように去って行く。

 確かに、今現在の最優先事項は龍の心臓を抉り出し、血を確保することだ。だがああも露骨に避けられると、流石にちょっと気になるし気に障る。

 

 「……?」

 「アレが龍を殺したのね。良かったわ」

 「なんで?」

 

 ミナは少しむっとした様子で衛士たちの背を見送るフィリップに構わず、背後から抱き締めて首筋に顔を埋める。

 

 「龍を殺すとね、呪われるのよ。吸血鬼の始祖は王龍を殺して、同族の血を啜ることでしか生きられない怪物に転じた。この英雄譚に出てくる勇者も、過酷な運命を背負うことになったでしょう?」

 「あ、それ読んだんだ。面白いでしょ」

 「そうね。描写の特徴から言って成龍でしょうけど、あの程度の相手をここまで強敵に描けるのは才能だと思うわ」

 

 あの程度……とフィリップは数分前までの大怪我を思い返して苦笑を浮かべ、それから漸くミナ一人に龍一匹を任せていたことを思い出した。

 

 「……ん? 待って、そういえばミナ、あの赤い方の龍は殺したの?」

 「えぇ。本で読んだほど心躍る相手ではなかったけれど、いい運動になったわ」

 

 人間なら爽やかな汗でもかいていそうな気軽さで言うミナ。フィリップは化け物過ぎるでしょ、と胡乱な顔をする。

 

 龍が相手では魔剣の即死コンボも使えないという話だったが──まさか、()()()()()で斬り殺したのだろうか。或いは魔術でどうにかしたのかもしれないが、どちらにしても現実的ではないというか、現実味がない。

 

 「ミナは呪われなかったの? というか呪いってどんなの?」

 「成龍の呪いは、一般的には幸運を奪うと言われているけれど……吸血鬼は元より、王龍の呪いを受けたモノ。強力な呪いが、むしろ他の呪いを弾くのよ」

 「へえ、滅茶苦茶便利だね、吸血鬼って。全然なりたいとは思わないけど」

 

 というか、人間の血を吸わなくては生きられないなんて、デメリットにもならないのではないだろうか。特にミナはハーフエルフ・ハーフヴァンプで、人間に対する親近感は皆無だ。食事をすることに忌避感や嫌悪感を抱いたことなんて一度も無いだろう。

 

 「お前と同じにはなりたくない」と正面から言われて、ミナは薄笑いを浮かべた。

 

 「まあね。きみが死んだら吸血鬼にしてあげるわ」

 「なるべく死なせない方向でお願いね? ……で、古龍の呪いはどんなの?」

 「師曰く、寿命を奪うらしいわ。残りの寿命の半分」

 

 ミナはさらりと言うが、フィリップにとっては大問題だった。

 

 「寿命の半分!? そんな──、っ!」

 

 嘘だ、とか、なんで、とか、ごく短い単語が頭の中をぐるぐると回る。

 しかしフィリップは何一つとして言葉にすることは無く、ミナの抱擁を解いて駆け出した。

 

 龍の死体があるところまで戻ると、衛士たちはフレデリカの指示の下、死骸を解体しているところだった。どうやらただ心臓を抉るのではなく、細かくバラして持ち帰るようだ。穴を掘っている衛士も居るから、不要部分は埋葬するらしい。

 

 フィリップは作業中の衛士たちにお礼を言われたり、称賛されたりしたが、喜ぶ気分ではなかった。

 魔剣を使って解体作業をしていた衛士団長を見つけると、フィリップは食って掛かるような勢いで衛士団長の腕を掴み、自分の方を向かせた。

 

 「団長! 団長!」

 「……どうした、少年」

 

 衛士団長はどこか悲壮感を漂わせて振り返るが、身体だけだ。顔はどこか余所を向いていて、フィリップの顔を見ようとしない。

 

 他の衛士たちもフィリップと衛士団長を交互に見て状況を察し、何か言おうとしては失敗して俯いていた。視界の端々に映る彼らも、頑なに目を合わせない衛士団長も、何もかもがフィリップの気に障った。

 

 「どうした、って……団長、知ってて僕を止めたんですか。呪いのこと──つまり、寿命のことを」

 

 ぐちゃぐちゃの思考がそのまま言葉になる。

 衛士団長は静かに目を閉じると少しの間黙考し、ややあって漸くフィリップと目を合わせた。

 

 「……あの吸血鬼に聞いたのか」

 「はい。それに、さっき僕を止めたのは不自然でした。……なんでこんなことを」

 

 問われた衛士団長は、またしばらく黙考し──

 

 「あー! 困るなぁーホント! こういうのはバレたら駄目なんだがなぁー! 少年、ちょっと頭が良すぎないか?」

 

 ガシガシと乱暴に頭を掻いて、本当に困ったように天を仰いだ。

 

 「俺と君が同じ年、まぁ何となく60歳ぐらいまで生きるはずだったとしよう。俺は今年で36、残りが24年だから失う寿命は12年で、48で死ぬことになる。君はまだ12歳、残り48年だから失う寿命は24年、36で死ぬことになっちまう。俺がやった方が、損失が半分で済む──って、おぉ! 今の俺とちょうど同じか! じゃあ……うん、俺はまだまだ現役だし、ウチの団員の誰より強い。そんな時に死んじまうなんて、悲しいだろ?」

 

 衛士団長は胸を張って「完全論破」と言いたげなドヤ顔だが、フィリップはむしろ胡乱な目をしていた。

 「おぉ!」とか「じゃあ」とか、いま考えた言い訳であることが見え透いているのだ。フィリップはこれで騙されるほど子供ではないし、騙されてあげるほど大人でも無かった。

 

 フィリップの湿度の高い視線に耐えかねた衛士団長は、ばつが悪そうにポリポリと頬を掻いて、諦めたように嘆息した。

 

 「……これもバレるか。うん、正直に言うと、あの時はそんなことは考えてなかった」

 「じゃあ何を? なんで死に急ぐんですか」

 

 死に急ぐと言われて、衛士団長は少し傷付いたように見えた。

 しかしフィリップの視線は緩まない。たとえ衛士団長が泣き出そうと、この馬鹿げた行いについて追及する──そんな決意さえ窺えた。

 

 衛士団長は気まずそうに首を擦ったり、コキコキと肩を鳴らしたりしたが、結局、肩を落としてぽつりと答えた。

 

 「俺は大人で、君は子供だ。だから俺は君を守る。それだけしか考えてなかった。それだけの理由だったんだ」

 

 衛士団長にしてみれば、それは方々から耳にタコができるほど言われている「よく考えて行動しろ」という言葉の真逆だった。

 所謂直感、心の囁きに従った、そうすべきだと思ったからそうしただけの行為。合理的理屈の無い、ここにステラが居たら叱責は免れない直情的判断。

 

 それだけに、フィリップとの地金の違いがはっきりと出ていた。

 

 「は、ははは、はははは……! あはははは……!」

 

 フィリップは声を上げ、肩を揺らして笑う。

 

 衛士団長は戸惑ったが、フィリップの頬を濡らす透明な輝きに気が付くと、その肩をしっかりと掴んだ。

 

 「そうだ、笑ってくれ。悲しまないでくれ。それでいいんだ、ありがとう、少年。君は本当にいい奴だ」

 

 見当違いな、けれどどうしようもなく善性に満ちた言葉に、フィリップは遂に顔を伏せ、酷薄な笑顔を隠した。そこに含まれた強烈な自嘲と絶望の色は、誰にも悟られなかった。

 

 

 

 

 

 

 



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291

 フィリップと衛士たちは、往路よりのんびりと帰路に就くつもりだった。そうできる可能性があったのも、現実にそうならなかったのも、フィリップがミナを連れて来たからだ。

 特殊な器に隔離保存された古龍の血と心臓、そしてフレデリカを、ミナが一足先に持ち帰った。彼女の飛行速度は時速120キロを超え、馬を限界まで酷使しても8日かかる道程を半日程度で飛び越せる。

 

 じゃあのんびり帰ろうか、と思ったのも束の間、今度はミナの食糧問題が浮上した。

 彼女に渡したお弁当は二週間分。馬に負担をかけないようのんびり帰っていると備蓄が尽きて、もしかしたら手近な人間を喰い始めるかもしれない。

 

 結局は行きと同様にかなりの強行軍で王都に戻ったフィリップたちは、王都の住民から万雷の喝采と共に迎えられた。

 既にフレデリカと宮廷錬金術師たちの手で魔力浄化装置が完成されており、王族、貴族、そして平民階級にも治療の手が広がっているらしい。

 

 もう夕暮れ、じき日没だというのに、人出は昼間よりずっと多いように思える。

 赤い夕焼けに照らされた王都は、荘厳でありながらも人々の生活感を取り戻し、温かな活気で輝いているようだった。

 

 王都門前から三等地を通り、二等地の中ほどを過ぎるまで、住民たちが作る花道が出来ていた。さながら凱旋パレードのようだが、それは別日に国を挙げた催しとして企画されている。それでも、自分や家族を救ってくれた恩人を、或いは龍を殺した英雄譚の主人公のような者たちを出迎えようという者は多かった。感謝、祝福、憧憬、称賛、飛んでくる言葉にネガティブなものは何一つなかった。

 

 二等地の住民もそうだが、被害が最も大きかった一等地の住民だって、花道に加わりたいのは山々だ。

 それでも二等地の中ほどで人だかりが途切れているのは、そこに人混みを近付けてはならない人物が居るからだった。

 

 「全員下馬! 最敬礼!」

 

 衛士団長の号令に従い、衛士たちは素早く馬から降りて跪き、首を垂れる。

 衛士たちの背中で前が見えなかったフィリップも、隣にいたジェイコブが慌てて馬から降ろす。最後の二日を共にした馬は、フィリップが降りたことにも気付かないほどぐったりと疲弊していた。

 

 「……面を上げよ、我が王国の、最も勇敢にして最も精強なる戦士たち」

 

 すぐに顔を上げた者は、フィリップを含めて誰もいなかった。

 もう一度、低く威厳のある声に促され、ようやくちらほらと顔を上げ始める。何人かの衛士は互いに顔を見合わせて、信じられないといった表情を浮かべていた。

 

 フィリップも顔を上げ、衛士たちの背中で前が見えず、ちょっとだけ伸びあがる。

 先頭で跪いた衛士団長の前には、錚々たる面々が立っていた。

 

 まず、国王。その隣にいる女性は知らないが、おそらく王妃様だろうと察しが付いた。国王と同じく戴冠しているし、王の横に並んでいる。それに何より、ステラとよく似ていた。彼女が成長して化粧をしたら、きっと鏡写しだろう。国王の少し後ろには宰相もいる。その隣にはヘレナが立っているが、宰相はどこか彼女に対して畏縮しているように見えた。

 

 そしてステラと、男女が一人ずつ。きっとステラの弟と妹、第一王子と第二王女だろう。遠目でもはっきりと顔立ちが分かるほどの美形は、姉弟の中ではステラ一人だけらしい。

 ステラの隣にはルキアもいた。こちらは顔立ちより先に髪色で分かる。

 

 聖痕者が三人と、王族。まさに国の中枢だ。

 相応に警備も厳重だったが、龍を殺した一行の前で襲い掛かろうなんて馬鹿はいないだろう。

 

 「フィリップ君、駄目だよ!」

 

 小声で叫ぶという器用さを見せたジェイコブが、伸びあがっていたフィリップの頭をぐいっと押さえつける。その甲斐あって、フィリップの姿勢が「跪く」の域を出ることは無かった。

 

 「斯様な難事を衛士団の魔術師が軒並み戦線離脱という状況で達成し、更には一人も欠けることなく帰還した。貴殿らこそ、王国が誇るべき勇士である」

 

 国王は一言、二言の称賛と労いの言葉をつらつらと述べると、他の面々と護衛と共に馬車に乗って帰って行った。

 長々と語るのは後日にしよう、なんて言っていたし、言いたいことは山ほどある。しかし長旅で疲れた勇士たちに、休息より優先すべきことなどないという判断だろう。

 

 だが、そんな配慮は必要ない。

 何しに来たんだろう、なんて思っているのはフィリップだけだ。衛士たちはこの上ない栄誉に打ち震えていたし、沿道からの喝采は一段と大きなものになっていた。国王が直接言葉を授けるだけでも、平民にとっては一生に一度ある方が珍しい特上の名誉だ。王族と最高位貴族が出迎えに来たなんて、一生自慢できるし、誰も「そんなの」と馬鹿にできないことだった。

 

 フィリップの関心は、沿道の一部と同じくルキアとステラにあった。

 国王が去った後も衛士たちが立ち上がらないのは、二人がまだ残っていたからだ。

 

 ステラが何事か言うと、衛士団長が一礼して立ち上がる。

 

 「よし、今日はここで解散だ! ダメージレポート、デブリーフィングは予定通り、四日後に本部で行う! 以上、解散!」

 

 立ち上がって敬礼した衛士たちは、仲のいい同士で集まったり、迎えに来ていた家族と合流したりしてばらばらと散っていく。衛士たちの大半は二等地住まいで、提携している宿か実家に帰っていくのだろう。

 流石に龍殺しは初めてだが、遠征は定期的に行われているから慣れたものだった。

 

 帰って飯にするべ、とか、風呂入りてぇ、とか、和気藹々と去って行く衛士たち。

 みんな自分の馬に乗ったり、手綱を引いて連れて帰るようだが──さて、ではフィリップはどうすればいいのか。そもそもこの馬は衛士団のものではなく、王国が街道沿いに敷設した中継駅の馬だ。つまり王国の持ち馬ということなのだが、何処に返せばいいのだろうか。

 

 手綱を持って右往左往していると、ジェイコブが思い出したように踵を返して戻ってきた。

 

 「あぁ、フィリップ君! 馬、使う? 使わないなら俺が連れてくけど?」

 「え、あ、じゃあお願いします……」

 

 こっち来い、と手招きしているステラの背後には、王宮の紋章があしらわれた豪奢な馬車が停まっている。最悪アレに便乗すればいいし、それ以前に、今日は投石教会かタベールナで寝ようと思っていたところだ。どうせ馬は使わない。

 これ幸いとジェイコブに馬を預けると、馬の方も「もう解放されるのか、本当に……!?」と半信半疑の希望を抱いて目を輝かせていた。

 

 「今回はありがとう、フィリップ君!」

 「また借りが出来ちまったな! いつか絶対に返すぜ!」

 「お疲れ様、カーター君! ゆっくり休めよ! あ、ダメージレポートは出さなくていいけど、デブリーフィングには来てくれよ! それじゃ!」

 

 すれ違い、追い越す衛士たちみんなに頭を撫でられたり、肩を組まれたり、背中を叩かれたりする。たまに衛士の家族だという人に握手を求められたりして、フィリップは困惑に満ちた顔で応じた。

 

 人だかりの隙間から垣間見えたステラは、悪戯っぽい揶揄うような笑みを浮かべていた。ルキアは今にも駆け出して人混みを()()()()、フィリップを抱き締めたいと思っていたが、持ち前の美意識で自制している。フィリップはルキアが何か我慢しているようだとは気付いていた。

 

 フィリップは二人を──アトラク=ナクアの娘を倒し、魔剣を手に入れ、龍を殺すに至る大冒険の目的であった二人の無事を確認して、心の底から安堵した。

 

 かなり苦労して人混みを抜けると、ルキアはこの瞬間を待っていたとばかり手を伸ばしてフィリップを抱き寄せた。

 

 「……お帰りなさい、フィリップ。本当にありがとう。私達のために……」

 「……よくやってくれた、カーター。一度ならず二度までも、命を救われたな」

 

 フィリップを抱き締めてすすり泣き始めたルキアの言葉を引き継ぐように言って、ステラもフィリップを抱き締める。ルキアとステラに包まれる形になったフィリップは、世の男子垂涎の状況にも拘らず、小さく照れ笑いを浮かべて──などいなかった。普段なら照れ笑いか、或いは優しげな笑顔を浮かべて抱き締め返しているところだが、フィリップはほんの僅かにさえ笑顔を浮かべていなかった。

 

 代わりにあるのは、絶望にも似た罪悪感。

 固く口を引き結び、目を伏せて髪を掻き毟る。

 

 「……いえ、二人が無事で良かったです。レオンハルト先輩の機械は、ちゃんと機能したんですね」

 「えぇ。貴方が取って来てくれた、龍の素材のお陰よ」

 「……あぁ、お前のお陰だ」

 

 未だフィリップを抱き締めて泣き顔を隠しているルキアは気付かなかったが、ステラは僅かに涙ぐみながらも涙腺を決壊させずにいたから、フィリップの表情に気が付いた。不思議そうに首を傾げたものの、「疲れているのか?」と決して不正解ではない推察をする。

 確かにフィリップは乗馬と長旅の疲れで、出来る事なら今すぐ眠ってしまいたいくらいだったし、ルキアとステラの柔らかさと体温は睡魔を酷く呼び寄せた。しかし、それは表情が曇る一番の理由ではない。

 

 「……あ、僕、投石教会に行かないと。ナイ神父に言われてるので」

 「一緒に行くわ」

 「いえ、今日はちょっとアレがアレなので。……それじゃ。顔が見られて良かったです、ルキアも、殿下も」

 

 二人の抱擁を逃れたフィリップは、そう言いながら二人と視線を合わせることなく、そそくさと人混みに紛れてしまった。

 

 普段と様子の違うフィリップに、まだ涙目のルキアとステラは顔を見合わせる。

 

 「……泣き顔も綺麗なのはズルくないか?」

 「揶揄ってる場合? あの子、明らかに普通じゃなかったわ」

 「まぁ、それはいつものこと──悪かった、冗談だ。明日にでも投石教会に行ってみよう」

 

 内包した魔力で淡く輝く剣呑な目を向けられて、ステラは苦笑と共に親友の背を叩いた。

 

 

 フィリップが投石教会に入ると、いつも通りの顔ぶれが出迎えた。

 黒髪黒目、長身痩躯のナイ神父。月光色の髪と目をした、妖しい色香を放つマザー。人外の美貌を持つ二人は、フィリップがここに来ることを知っていたように玄関のところで待っていた。

 

 「お帰りなさい、フィリップ君。荷物と外套をお預かりします」

 「お疲れさま、フィリップくん。着替えと食事と、お風呂も用意してあるわ」

 「……ここはいつから宿屋になったんですか。しかも客一人に付き添いが二人、相当な高級宿じゃないですか」

  

 苦笑しつつ、フィリップは素直に荷物を預ける。

 旅装も脱いで渡すと、すっと肩が軽くなる。ベルトも外してウルミも渡そうとして、既に無いことを思い出した。

 

 これまでウルミを吊っていた右腰をポンポンと叩き、喪失感に浸る。帰路でも何度かあったことだが、まだ慣れない。

 今度軍学校のマリー宛てに手紙を書いて謝ろう、と考えて、もう一人謝るべき相手が目の前にいることに気が付いた。 

 

 「マザー、その……ごめんなさい。折角血を貰ったのに」 

 「いいのよ、気にしなくて。それより、私の方こそごめんなさい。ずっと私を探してくれていたのに、会えなくて。この■■■が、ね」

 

 マザーは顔を隠すヴェールの向こうで柔らかに微笑しながら、右手でノックするように虚空を叩く。直後、その何も無いところが陽炎のように揺らぎ、極彩色の何かが一瞬だけ見えた。

 

 フィリップの予想通り、マザーは自分の血を無駄にされたことを全く怒っていなかった。

 まぁ神の血は他者に甚大な影響を及ぼすが、当人にとっては所詮一滴の血に過ぎない。傷の治る早さも血の総量も人間とは比較にならない彼らにしてみれば、同じ一滴でもフィリップの血の方が何百倍も希少だろう。

 

 フィリップはちょっと剥がれかけた世界の表層(テクスチャ)に引き攣った笑いを溢すが、それもすぐに引っ込んだ。

 

 「……もし貴方が望むなら、二週間前まで時間を戻して、私が呪いを解除したことにしてもいいわよ?」

 

 マザーはフィリップが落ち込んでいることに気付くと、慮るように言った。

 

 フィリップの苦悩、その原因については知っているようだ。

 だが情報として知っているだけで、感情をまるで理解していない。その解決策には、何の意味も無い。

 

 「いえ、結構です。……それより、ちょっと胸を貸してくれませんか」

 「えぇ、勿論。おいで?」

 

 軽く腕を広げて誘うマザー。

 フィリップは蜜に惹かれた蝶のようにふらふらと吸い込まれ、柔らかに抱擁された途端、気絶するように眠りに落ちた。

 

 「……そのまま風呂に入れてあげては?」

 「そうするわ」

 

 マザーは一片の躊躇も無く言って、フィリップを横抱きにして聖堂の奥の居住スペースへ引っ込む。

 ナイ神父は赤子のように介抱されるフィリップと、甲斐甲斐しく世話を焼く邪神に嘲笑を向け、フィリップの外套と荷物を丁寧に片付けた。

 

 

 

 

 

 



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292

 四日後。

 衛士団本部で行われたデブリーフィング──という名の祝勝会兼魔術師たちの快気祝いに、フィリップも呼ばれて参加していた。

 

 二週間前には衛士たちが死地へ赴く覚悟を決めた大講堂は、今や料理や酒の満載されたテーブルが並ぶ宴会場になっていた。まだ昼過ぎだというのに、既に酒が入った衛士たちが大騒ぎしている。

 フィリップもちょっとだけ酒を舐めてみて、やっぱり美味しくなかったのでオレンジジュースを持っていた。赤ら顔で楽しそうな周りとは違い、その表情は暗い。

 

 先程から衛士たちが次々と、代わる代わるフィリップのところにやって来てはジュースを注いでいくので、お腹がちゃぷちゃぷ言っている。尤も、フィリップは今、衛士たちと一緒にいるだけで十分に苦痛なのだが。

 

 「お、フィリップ君! ここに居たのか! 我らが小さな英雄に乾杯!」

 「いやあの、もうお腹いっぱいで……あうあうあう」

 

 かなり苦労して四分の一くらいまで減らしたジュースが、またコップになみなみと復活してしまった。乾杯の衝撃でちょっと零れたが、誤差だ。

 

 「ん? どうした? 美味しくないか? 一等地で買ってきた高級品のはずなんだが……」

 「あ、いえ、美味しいです。えへへへ……」

 

 ぺちょぺちょと舐めるように100パーセントの果汁を啜る。

 確かに高級品らしく、初めの二杯くらいはあっという間に無くなって、次の三杯くらいはじっくりと味わって堪能して、次の二杯くらいまではすっきりさっぱりとした後味を楽しめた。でもそこまでだ。流石にもう入らない。ちゃぷちゃぷ言っているのが胃なのか膀胱なのかも定かではなかった。

 

 「ちょっとトイレ行ってきます……」

 「ん? ああ。出て右だよ」

 「ありがとうございます……」

 

 知っている。一番初めの乾杯から一時間半くらいだが、既に四回はトイレに行っているのだから。

 

 用を足して戻ると、宴会の喧騒は数段落ち着いていた。

 何かあったのだろうかときょろきょろ見回すと、衛士ではない、しかし見覚えのある女性が衛士団長と話していた。

 

 二人は同時にフィリップに気付き、衛士団長が手招きする。

 今は衛士団長と話したくなかったフィリップだが、来客とあっては無視するわけにもいかず、とぼとぼと近付いた。

 

 話す距離まで近付いて分かったが、女性は以前にフィリップが“使徒”に追われた時、ステラの命令でフィリップを迎えに来た親衛隊の人だった。

 

 「……お久しぶりです」

 「覚えていて下さったのですね。ありがとうございます。それなら話が早い……こちらをお届けに参りました」

 

 何を言われるのか大体の察しが付いたフィリップは、諦めたように挨拶する。

 

 ここ数日、ルキアとステラは毎日投石教会に来ていたが、フィリップは顔も合わせずにナイ神父に「都合が悪い」とだけ言わせて追い返していたのだ。その件でステラが遂にキレて、呼び出しに来たのだろう。

 

 そう思っていたフィリップだが、親衛隊の人は一通の封筒を取り出してフィリップに手渡した。

 「王宮に来いクソ馬鹿が」みたいな伝言でも驚かないつもりだったフィリップだが、まさか強制召喚令状ではないかとビクつく。多少の叱責は覚悟していたが、流石にそこまでの覚悟は無かった。最悪バックレようとか考えている。

 

 しかし、内容はむしろ友好的なものだった。茶会の誘いだ。

 

 「今日ですか? これから?」

 「はい。既に表で馬車を待たせてあります。ご同行を」

 

 フィリップは文面をもう一度読み、「二人で話がしたい」という部分を読み返す。

 正直言って、会いたくないのはルキアだけだ。教会にも二人で来るから会わなかった。そして、今はルキアだけでなく、できれば衛士団長とも話したくない。衛士たちに褒められたり、お礼を言われるのも嫌だった。

 

 「……分かりました。行きます」

 

 主役の中座に衛士たちは残念そうに声を上げたし、中には王族の横暴だと不満の声を上げる者もいたが、親衛隊の彼女は酔っ払いの言葉として水に流してくれた。或いは、完全に黙殺したとも言う。

 

 

 ◇

 

 

 王城のバルコニー。

 ステラ専用のティーテラスとなっているそこに、一人の来客があった。

 

 そこや彼女の居室は経路秘匿区域ゆえに麻袋を被せられて通されるのが常だが、今や特例の仲間入りをして、素顔のままで来られるようになったフィリップだ。

 

 その死人のような顔を一瞥したステラは苦笑を溢し、自分の向かいの席を片手で勧める。夕焼けに照らされたそこは明るく、暖かかった。

 

 「来たか、カーター。まずは招待に応じてくれたことに礼を言おう」

 「……いえ。殿下こそお忙しいのに、いいんですか?」

 

 フィリップは素直に着席すると、紅茶を注いでくれたメイドに礼を言ってから、カップを持ってふーふーと冷まし始めた。

 

 「構わない。私のやることは、帝国と聖国にあの装置をいくらで貸し出すか、その最適解を探ることだ。吹っ掛ければいいというものでもなし、かといって生じ得る利益を捨てる戦略など有り得ん。難しいケースだが……だからこそ、息抜きが必要でな。氷を入れるか?」

 「いえ、それは流石に。ふー……ふー……」

 

 しばらくふーふーやってから、ずぞぞ、と一口啜る。

 ステラは新しく部屋にやって来たメイドと何事かひそひそと話していたので、フィリップは敢えて大きめに音を鳴らしておいた。

 

 メイドが去った後、フィリップは半分ほど減ったカップをテーブルに戻す。

 そしてステラに向き直ると、すっと頭を下げた。

 

 「……ごめんなさい。ここ何日か、会いに来てくれたのに」

 「あぁ。その件で話がしたくてな。……単刀直入に聞くが、お前が避けているのは私ではなく、ルキア一人だな?」

 

 フィリップは気まずそうに何度か言い淀んでから、決心したように青い瞳を見据えた。

 

 「……はい。でも、その──」

 

 フィリップは言葉を切る。

 それは続く言葉を探っての沈黙だったが、ステラは何度か頷いて口を開いた。

 

 「先に言っておくが、私はお前たちが望もうと望むまいと、関係を修復しろと言うし、そのように動く。お前がたとえルキアを嫌っているのだとしても──」

 「まさか! 僕はルキアのこと、嫌ってなんかいません!」

 

 食い気味の──公爵でさえ叱責される、ステラの言葉を遮っての否定。

 しかしステラは穏やかに頷き、そうだろうな、と肯定した。

 

 「お前が嫌っているのはルキアや私や……衛士たちじゃない。()()()()だ。そうだろう?」

 

 さも当然のように言い当てられて、フィリップは驚きつつ、諦めたように笑う。流石、なんて言いながら。

 

 「……龍と戦っていた時のことなんですけど──」

 

 一見して脈絡なく始まった回想語りに、ステラは静かに耳を傾けた。

 その表情があまりにも優しく穏やかで、フィリップも落ち着いて話すことが出来た。少なくとも、自己嫌悪に呑まれて泣き出さずに。

 

 「僕は途中で、一つの選択をしたんです。一つ目の選択肢は、ルキアと殿下と衛士さんたち、皆を助けられる代わりに、僕の人間性を捨てる。もう一つの選択肢は、僕の人間性を守る代わりに、何もかもを失う。そんな二択でした」

 

 言うまでも無く、シュブ=ニグラスの血を求めた時のことだ。

 

 あの時、フィリップにはその二つの選択肢があった。

 血を受けて変性し、人間を辞める。そして邪神の血を受けた化け物となって龍を殺し、衛士たちを守り、ルキアとステラを救う。

 

 或いは、血を捨てて死ぬ。あれだけの深手だ、王都で治療を受ける前に死んだだろう。ミナが居たから助かったものの、フィリップはあの時、吸血鬼の血があれほどの究極回復薬だとは知らなかった。フィリップは確かに、ヨグ=ソトースによってなんやかんや死なないだろうという推測の下ではあるが、自分の命さえ捨てるような愚行を犯したのだ。

 

 人間性のため。

 自分が人間の心を捨てないために、フィリップは自分だけでなく、大切な人たちの命まで捨てるようなことをした。それでも自分は死なないと心の片隅で思っていただけに、より一層タチが悪い。

 

 「僕は……自分の人間性のために、皆を見殺しにしたんです。いや、それよりもっと悪い。僕は自分で判断するより先に、反射的にあれを避けた。……僕は、皆に憧れる資格なんて無かったんです」

 

 ステラは何か言いたそうだったが、フィリップがまだ話し終えていなかったから頷いて先を促した。

 

 「ルキアと一緒に居て、衛士団と一緒に居て、僕も皆のようにマトモな──善人になれた気がしたんですけど、全然そんなことは無かった。クソみたいな自己保身に塗れた、屑でしか無かったんです」

 

 しかし、心の奥底には、まだ彼らへの称賛や憧れがある。

 顔を合わせただけで、自分にその資格はないと分かっているのに、憧れが燻ぶって、また燃える。だから、ルキアや衛士の皆を見ると辛かった。

 

 フィリップは彼らが好きだ。彼らのようになりたいと、今でも思っている。

 だが──フィリップは彼らとは決定的に違うのだと、痛々しいほどに理解してしまった。フィリップは彼らのようにはなれないし、根底から違うのだと見せつけられてしまった。

 

 語り終えたフィリップに、ステラは静かに頷いた。

 

 「あぁ──分かるよ」

 

 フィリップは頼りなくも、確かに笑顔を浮かべる。

 その言葉を使ったのがルキアやマザーやミナ、他の誰であっても、フィリップは嘲笑と共に「上辺だけだ」と切り捨てただろう。だがステラに限っては、本心からの言葉だと分かる。

 

 彼女はフィリップの理解者だ。

 同じく世界の儚さを知り、強大なものたちを知り、それでも美しく在るものに魅せられて正気を繋いだ同類だ。

 

 フィリップが衛士たちとルキアに魅せられて、「人間はこうも素晴らしい」と思ったように。ステラもまた、自分の為に死の苦痛を背負おうとしたフィリップを見て同じことを思った。

 

 特に、ステラの感動は大きい。

 フィリップは自分以上に深いところまで知っていて、自分より深い絶望を抱いているはずなのに、それでも他人の為に自己犠牲を許容できる。その善性と人間性は、世界に対して絶望したステラを絶望の淵に堕とさない、命綱になってくれた。

 

 あの試験空間だけではない。フィリップはいつだって、ルキアやステラや、他の誰かを守るために行動してきた。

 仮令善人の真似事であったとしても、その行いは紛れもなく、善行だ。

 

 「けれどね、カーター。善人とは善であるものではなく、善であろうとする者のことを言うんだよ」

 

 静かに、しかしはっきりと告げられた言葉に、フィリップは僅かに瞠目する。

 フィリップはそれが聖典からの引用だとは分からなかったが、もし知っていても、受けた感動には何の瑕疵も与えなかっただろう。

 

 ステラの心が込められた本気の言葉は、言霊のような不可思議な力でフィリップの胸に食い込み、見開いた目が僅かに潤んだ。

 

 「お前は自分が善人ではないと思っているようだが、私に言わせれば、お前は疑う余地なく善良だ」

 「……ありがとうございます」

 

 照れ笑いを浮かべたフィリップは、赤くなった顔を隠すようにティーカップに手を伸ばした。紅茶はすっかり冷めていたが、フィリップにとっては適温だった。

 

 「お前はルキアや衛士たちを見ていると苦しいのだろうが、それは自傷だ。それも勘違いから来る、極めて不毛な自傷行為だ。止めろ。お前は彼らに負けず劣らず善良だし、輝かしい人間性を持っている。それがたとえ模倣でも、お前の行いは輝きに満ちている」

 

 狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり、という言葉に従えば──ナイアーラトテップくらいしか知らないだろうが──善人の真似とて善行を為さば即ち善人だ。

 

 フィリップは「偽善です」と言うが、ステラは鼻で笑った。言葉の意味を間違えていると。

 偽善とは口先で善良さを謳いながら、行動が伴わないことを言う。心の底で何を考えていようと、善であろうとして善行を為すものは、それは善良と呼ばれるものだ。

 

 「それに、だ。夢を壊すようで悪いが、この世界に完璧な善人など居ない。ルキアはお前にはとことん甘いが、他人に対しては炎より苛烈だ。気に障る相手は躊躇なく殺すし、自分の美意識に適わないのならどんな社会通念でも無視する」

 「……」

 

 フィリップは、そんなところも好きですけど、とは思ったものの口には出さない。

 非人間的な部分が無いとフィリップの価値観には僅かなりとも寄り添えないだろうし、無理に合わせると最悪発狂するから、そちらの方が都合がいい。……なんて理由は、「何故だ?」と問われた時に答えづらい。

 それに何より、女性の前で他の女性を好きだというのは絶対NGである。……と、ディアボリカに言われたことを思い出したからだ。

 

 「衛士たちもそうだ。普段は王都の警備が主任務だから忘れているのかもしれないが、衛士団は王国最後の盾にして、最強の矛でもある。戦争に際しては任務だからという理由で人を殺すし、重大な犯罪者相手なら拷問もする。兵士の本質とは殺人者、国家に使役される殺人装置でしかない」

 「……殿下、殺人が悪だって認識はあったんですね」

 「……勿論だ」

 

 ステラにしては分かり易い嘘だった。

 いや、ステラとて社会通念上殺人が悪であるということは知っているし、殺人を悪として裁く法の必要性も十分に理解している。しかし自分が人を殺しても罪悪感を抱かないということを鑑みると、やっぱり「殺人は悪だと思う」という言葉は嘘だった。

 

 ステラはひらひらと手を振り、「茶化すな」と苦笑交じりに叱った。

 

 「人間は完璧な善性など持ち得ない。価値基準の上位にある物のために、下位のものを容易く捨てる。……それでいいんだ、カーター。私にとって、お前は希望だ。お前が生きて帰ったことが、お前が人間を辞めていないことが、私にとっては何よりも喜ばしい。お前は自分の命と人間性を一番大切にしろ」

 「でも、殿下。僕は……僕は、貴女のことも見殺しにするところでした」 

 「お前が人外になって帰って来ても、私はきっと自害していた」

 

 言い辛そうだったフィリップとは違い、ステラは即答した。しかし嘘の気配は全く感じられず、フィリップは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

 

 ステラが一瞬だけ纏ったのは、戦意や殺気と似ていながら、その正反対にあるもの。“死気”とでも言うべき、強烈な負のエネルギーを内包した意識だった。心の底からの死の直感と覚悟が醸し出す、今のフィリップでは何をどうやっても真似できないものだ。

 

 「カーター。お前が私たちのことを、一瞬でも自分の命と同じ秤に乗せてくれたことは、心の底から嬉しく思う。そしてお前が自分の人間性に重きを置いたことを、それと同じくらいに喜ばしく思うよ。それが最適解だ。……よくやった」

 

 フィリップが何か言おうとしたタイミングで、バルコニーに繋がる部屋の中からカタリと何かが動く音がした。

 フィリップとステラは何となく部屋の中を見るが、扉の側に控えるメイドは微動だにしていないし、何か物が動いた様子もない。

 

 気のせいか、とフィリップが視線を戻した直後、バルコニーに繋がるガラス戸が勢いよく開いた。

 

 「うわっ!?」

 

 フィリップは肩をびくりと跳ね上げる。そして思い出したように立ち上がり、ステラとバルコニーの入り口を結ぶ直線を自分の身体で遮った。王女を狙った暗殺者が、魔術で透明化して入って来たのだと思ったからだ。

 

 ステラはテーブルに肘をついて指を組み、その手に額を当てて顔を伏せる。吐き出された溜息に含まれていたのは、呆ればかりではなかった。

 

 「……そういうところだよ、カーター。……いいんだ、警戒するな」

 「え? 何──、っ!?」

 

 フィリップは目に見えない何かが自分の首に巻き付き、前に引き寄せるのを感じた。

 驚きはしたが、怯えは無かった。それは外神の智慧や自分の命に対する無関心ばかりが理由ではなく、身体の前面に触れる暖かさと柔らかさ、そして鼻腔を擽る匂いに覚えがあったからだ。石鹸と紅茶と、その奥にある形容しがたく甘く蕩けるような香り。

 

 一瞬の後に、フィリップは自分を抱き締めるルキアを見つけた。

 考えてみれば、魔術による透明化はステラが一瞬で見破れる。見破っていながら魔術攻撃しなかった時点で、その相手は一人しかいない。

 

 フィリップはいつもの癖で抱擁を返しながら、過剰反応を思い返して恥ずかしくなった。

 

 ルキアは目元を赤く腫らしていたが、もう泣いてはいなかった。抱擁を解いてフィリップの暗く淀んだ青い双眸を見つめると、柔らかな微笑を浮かべる。

 

 「……ごめんなさい、盗み聞きしてしまって」

 「私の作戦通りに、な。説得するのは骨が折れたぞ? 「私、フィリップに嫌われてしまったのかしら」なんて言うから、端的に違うと証明してやろうと言ったのに……まぁ、私の苦労話は今度にしよう。二人とも、座れ」

 

 促されるままに三人でテーブルを囲みつつ、フィリップはステラに尊敬の眼差しを向けていた。

 ルキアの美意識に対する拘りの強さは、フィリップもよく知っている。なんせステラとの魔術戦に際してさえ、泥臭い勝利より美しい戦い方で負けることを選ぶほどだ。その彼女に盗み聞きさせるなんて、どんな説得をしたのだろうか。

 

 「最初に言った通り、私はお前たちの関係性が破綻することを望まない。だが、そもそもお前たちの関係は、何も傷付いてなどいないんだ。分かるな?」

 

 フィリップとルキアは顔を見合わせ、二人とも意図を測りかねたようにステラを見つめた。

 二人分の視線を受けたステラは、微かに苦笑して続ける。

 

 「カーター。お前は自分が私たちの為に死ねなかったことを悔いている。その判断が出来なかった自分は善良ではないと思っている。そうだな?」

 「……はい」

 「フィリップ、私は、私のために貴方が死ぬことを望まないわ」

 

 ルキアが耐えかねたように言う。

 彼女にとって自分がフィリップのために死ぬのは当然だが、その逆もまた然りではなかった。むしろ、それだけは絶対に避けたいと思っている。

 

 つい鋭く眇められた赤い双眸に怒りの気配を感じ、フィリップは少しだけ萎縮した。

 

 「私たちは、と言ってくれ。それで……お前はその一点のみで善悪を判断しているが、それも間違いだ。お前は自分の人間性を最優先にしていい。それは正常なことだ。そして今、お前は自分の身を盾にして私を庇っただろう?」

 「それは……何も考えてませんでした。つい咄嗟に」

 

 自嘲するように言うフィリップ。まるでそれが馬鹿げた、愚考だとでも言いたげに笑っているが、ステラは顔を伏せて頭を振り、ルキアは感極まったように湿っぽい声で言う。

 

 「フィリップ……何も考えず、咄嗟に誰かを庇えるような人を、貴方ならどう表現する?」

 「……考え無し、とか──」

 「──言ったはずだ、カーター。自傷行為は止めろ」

 

 ぴしゃりと言ったステラの語気に圧されて、フィリップは口を引き結んだ。

 

 「何度でも言うわ、フィリップ」

 「何度も言わせるな、カーター」

 

 ルキアとステラが二人同時に言って、三人で顔を見合わせた。ややあって、フィリップが噴き出す。その失笑につられたルキアとステラも笑いだして、夕焼けに照らされたバルコニーは暖かな空気で満たされた。

 

 しばらく肩を揺らし震わせて笑っていた三人は、笑いの発作が落ち着いても口元に柔らかな笑みを浮かべていた。

 

 「オーケー、分かった。じゃあ何度でも言おう。……カーター、お前は善良だ。ルキアを前にしても、衛士団と一緒にいても、何も恥じ入ることは無い。お前は彼らと同様に、美しく、輝かしい人間性を持っている」

 「だからそれを大切にして、フィリップ。私たちの為にそれを損なおうなんて、もう二度と考えないで」

 

 フィリップは言いたいことが沢山あったが、口を開けば涙で湿った嗚咽ばかりが出てしまう。それでも泣き笑いの顔でしっかりと頷くと、二人は席を立って、王都に帰って来た日のように抱き締めてくれた。

 

 「改めて、ありがとう、フィリップ。おかえりなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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293

 仲直りから数日。

 フィリップは一緒に龍狩りへ赴いた衛士たちと共に、もう一つの重要任務にあたっていた。

 

 何十人もの貴族が控える謁見の間で、玉座に掛けた国王と王妃、玉座に至る階段に並んだ宰相、第一王子と第二王女、そして三人の聖痕者を前に、粗相なく切り抜けることだ。

 規律を叩き込まれた軍人ではあっても、登城に慣れ礼儀作法を弁えた殿上人ではない衛士たちも、フィリップ同様に緊張している。

 

 しかもフィリップは、5×10の縦隊に並んだ衛士たちの中ではなく、その数歩前だ。

 一応、衛士団長を中心に、反対側にはフレデリカもいるが、明らかに主役の扱いだった。

 

 とはいえ、フィリップはまだマシな方だ。フィリップの緊張は大勢に注目され一挙手一投足を観察されていることと、ヘマをしたらとんでもなく怒られるだろうという予感からのもの。高位貴族からの値踏みの視線に愛想笑いと会釈を返し、相手の毒気を抜く余裕はあった。ちなみにそれで粗相ポイント1追加だ。

 

 では誰が「マシではない」のかというと、部屋の何処か下座の方で比較的下級な──それでも謁見の間に入ることを許される、伯爵以上の爵位を持つ貴族だが──に混じっている、フィリップの両親だ。フィリップは謁見の前に少し話したくらいだが、二人ともガチガチに緊張して、歩くときに手と足が同時に出ていた。貴族の森番として召し抱えられている父でさえ、そんな有様だ。貴族とは縁遠い生活をしていた母は、顔を蒼白にして震えていた。ちなみに兄は「死んでも行かない。てか行ったら粗相して殺されちゃう」と固辞したらしい。

 

 「これより、功名会議を始める。まずは国王陛下より、賛辞が下賜される。拝聴せよ」

 

 普段とは違う、国王の懐刀にして快刀の名に相応しいキレのある声で宰相が告げる。

 フィリップたちを囲むように壁際に立っていた貴族たちも、一斉に国王に対して跪く。ざっ、と気持ちよく揃った音は、彼らの身に付けた礼儀作法が卓越している証だ。……一つ、二つズレていたのは、きっとフィリップの両親だろう。

 

 「貴公ら、50と3人の英雄、救国の勇士たち。その強さと献身、そして勇猛にして善良なる名は王国のあらゆる史書に刻まれ、あらゆる歴史家たちが永遠に讃える。……特に、衛士団を率いて龍を征した衛士団長グレゴリウス・ディベリア。龍の素材を以て、国を侵していた難病を癒したフレデリカ・フォン・レオンハルト。そして彼らに勇気を与え、自らも最前線に立ち龍を足止めした英雄フィリップ・カーター。貴公らの名は王城の礎石に彫られ、余の末裔に至るまで、その名を尊ぶだろう」

 「──恐悦の至り。感謝至極に存じます、国王陛下」

 

 跪いたまま、衛士団長が代表して礼を述べる。フィリップとフレデリカは予め儀礼官に教わった通り、深々と頭を下げるだけに留めた。というより、赦しなく声を出す権利が無い。

 

 「続いて、本題に入る。褒賞の検討だが──病は大陸全土に及んでいた。その解決策の発見と実現ともなれば、どのような報酬が適切なのか判断しかねる。よって、此度の功名会議が開かれた。参列者諸侯、そして勿論当人も、意見のある者は申し出よ」

 

 宰相が淡々と言うと、貴族たちがぞろぞろと立ち上がる。謁見の間にあるまじき囁き声が伝播していった。

 それは事実上の空手形、或いは無記入の小切手だ。恐らくは侯爵級の爵位や所領までがポンと手に入るような。

 

 現在、王国内における世襲侯爵位と世襲領地の保持者は十数名だ。伯爵位であればもっとずっと多いのだが、それ故に侯爵が王宮内で持つ発言力は大きい。ここで侯爵位保持者が増えると、政治のバランスが多少揺らぐほどに。特に領地の拡大意欲を持つ者からすると、未分配の王家領が減るのは面白くない。

 

 「ただし、先に幾つか伝えておくべき、既定の報酬がある。これは魔力浄化装置を貸与した帝国、技術供与を行った聖国、その他の勢力から支払われるものだ。……グレゴリウス・ディベリア以下衛士団は事前に辞退を申し出ているため、ここでは省く」

 

 宰相は事務的に言うが、フィリップとフレデリカは真ん中の衛士団長を盗み見て、正気を疑うような目をしていた。

 フレデリカは侯爵家の令嬢だが研究費で自分の分の歳費はカツカツだし、フィリップは修学旅行でそこそこ臨時収入があったとはいえ金銭感覚が平民だ。二人とも貰えるものは貰っておくスタンスだった。

 

 「レオンハルト卿へ。帝国より技術交流留学への招待、帝国における侯爵相当の一代爵位、王国に対して支払われた謝礼金の3割を付与する。聖国より、同じく技術交流留学への招待、侯爵相当の一代爵位、謝礼金の3割を付与する。詳細な金額は後程、文官から個人的に聞くように」

 「……はっ」

 

 フィリップは「なんかすごそう」とのほほんとしているが、破格の好待遇だ。

 流石に爵位の世襲権は無いにしても、彼女一人であれば帝国と聖国において相当な権力を持てる。尤も、権力を振るうのなら対価としてその技術力を要求されることだろうが。

 

 技術交流留学への招待は、フレデリカには爵位よりもずっと魅力的だった。

 帝国は王国よりも禁忌とされる領域が狭く、死霊術や支配・洗脳魔術なども積極的に研究されている。その分野への知見が得られるのは魅力的だ。しかし錬金術への蔑視は王国よりも強く──王国でも「魔術適性が無い者が魔術の真似事をしている」と揶揄されることがある──その分野は未発達だ。その蒙昧を啓かねばと、学者として思うのだった。

 

 聖国は流石に一神教のお膝下だけあって、秘術や奇跡と呼ばれる特殊分野の魔術に対する知見が深い。王国の魔術師どころか、聖痕者にすら開示されない術式も数多いのだとか。その手の情報を得られるのであれば、そちらに行く意義も非常に大きなものとなる。

 

 フレデリカは爛々と目を輝かせ、わくわくした笑顔を一礼で隠した。

 

 「そして、カーター君。申し訳ないが、貴公のことは他国に対してその一切を秘匿した。君は王国人ではあるが爵位を持たない平民であり、また非常に年若い。他国の懐柔策に対して無防備に過ぎる」

 「……有名人になりたいわけではないので、ありがたい判断です。宰相閣下」

 

 でも報酬金が貰えないのはちょっと勿体ない気がする、などと考える小市民。

 仮にフレデリカに支払われる金額と同等の報酬だったら、目を剥いて「こんなに要りません」と震えることになるのだが。

 

 「にもかかわらず、聖国の騎士王レイアール・バルドル卿より、報酬金の2割を付与するよう言われた。よってそれに従うものとする」

 「……はっ」

 

 儲かった、などと考える小市民。残念ながら、後で文官に金額を聞いたとき、目を剥いて震えることが確定した。

 

 そして既に防諜機関の眠れない夜が始まっているのだが、一番怪しいフィリップと親密な二人の神官は、どれだけ調査しても埃の一つも出ない白さだ。迷宮入りも確定していた。

 

 「王国外からの報酬はまだあるが、その前に、極めて重大な発表がある。心して聞け。……我々アヴェロワーニュ王国は──エルフとの国交を回復した」

 

 沈黙。

 貴族たちは皆一様に顔を見合わせては宰相の顔を窺い、何かの符丁や踏み絵の類ではないことを確かめる。フィリップと両親は「それってすごいの?」と思いつつ、外交の話なんて自分たちには関係ないと思って、完全に他人事だった。

 

 「エルフは強力な種族だが、何より、その極めて高度に発達した製薬技術や化学への知見は、王国に莫大な利益を齎すだろう。そしてエルフより、フレデリカ・フォン・レオンハルト卿に技術交流会の招待が届いている。そしてエルフ王より、此度の国交回復は貴公らの善意に満ちた尽力によるものだと文書にて賛辞が贈られている。後程、原本を見せよう」

 

 貴族たちの間にひそひそと囁きが伝播していく。

 ここが何処なのか、誰の御前であるのかを忘れさせるほどの衝撃があった。

 

 フィリップとフレデリカはまた衛士団長の背中越しにこっそりと顔を見合わせて、重力でぐいっと押し戻された。

 

 「さて、今一度整理しよう。彼らが王国に齎したもの、それは数多の魔術師の命であり、そこには王妃殿下と、三人の聖痕者、そして第一王子殿下と第二王女殿下も含まれる。宮廷魔術師も、何人も救われた。私の娘も、妻もそうだ。……そしてエルフとの国交回復は、王国の更なる発展に必ずや大きく寄与する。数多の人命を救い、王国に更なる栄華を齎す彼らに相応しい報酬とは何か。具申のある者はいるか?」

 

 この場に貴族たちは何十人もいたが、誰も手を挙げなかった。代わりにひそひそと囁きを交わし、自分の案が妥当かどうかを議論している。

 

 だが妥当性の検証など出来ようはずもない。

 エルフとの国交が断絶されたのは数百年前のことだし、その回復が王国に齎す恩恵は計り知れない。なんせエルフは今のところ、王国とだけ国交を開いているのだ。エルフが供給する良質な薬剤を他国に仲介するとか、もっと直接的にエルフとの仲を取り持つことで王国は大きな利益を得られるだろう。

 

 龍を殺した英雄は物語には多いが、現実には極めて少ない。その希少な例も、個人的な冒険の結果、たまたま龍を殺したケースばかりだ。

 国家の側から「龍を殺せ」と言われて「分かりました」と応じ、更に成し遂げたのはフィリップたちが初めてだ。

 

 前例がない。だから何が妥当で何が過小なのか、何処まで行けば過剰なのかが判断できない。

 

 「閣下、発言の許可を頂けますか」

 「許可しよう」

 

 かなり上座の方にいた、でっぷりと太った貴族が挙手する。

 目礼すると目が何処にあるか分からなくなるような、ちょっと子豚っぽい愛嬌のある顔だ。しかしフィリップを見る眼光は鋭く、所詮は平民と侮る気配は微塵も無い。

 

 「やはり順当に考えるのであれば、爵位が妥当ではありませんかな?」

 

 彼の言葉に、一部下座の方から「確かに」と肯定的な声が上がる。

 宰相はちらりとそちらを向くと、誰にも悟られないように溜息を漏らした。

 

 「その通り。王国としては、まさしく救国の賢者であるレオンハルト卿と、龍狩りに多大な貢献をしてくれたカーター君には、爵位を叙するべきだと考える。……ではどの程度が妥当かね?」

 「王妃殿下、王女殿下、王子殿下、マルケル聖下、サークリス聖下。これだけの方々を救っただけで、王国は最高の栄誉と報酬を授けるべきでしょう。でなければ報いられぬ、素晴らしい働きです」

 

 宰相はまた、その通り、と頷く。

 だが、その程度の事は誰にでも分かる。下座の方から「そうなのか?」と不満そうな声が上がったのは、妥当性ではなく、自分たち以上の爵位が授与されることに対する嫉妬だろう。

 

 「公爵位と世襲権。そして相応の領地と歳費が妥当だろう。……ところでフィリップ君、君はいま幾つだったかな?」

 「……12です、宰相閣下。あの、領地とか爵位は要りません……」

 

 おそるおそる、しかし誤解の余地なくはっきりと、フィリップは明言した。

 多少の「不敬な」という叱責は覚悟の上だったが、周囲から向けられるのは「そうだろうね」という同情と理解だった。というのも、貴族が爵位を世襲するのではなく親元を離れて自分の所領を持つ場合、どれだけ若くても15,6歳からなのだ。

 

 「自分より若いのに爵位が上だなんて!」という嫉妬心も、ここまで来ると「その子には厳しいんじゃないかな?」という心配が勝る。野心家で面子を重んじる貴族たちが、だ。それほどに荒唐無稽な話だった。

 

 「そうだろう? 彼に領地経営のノウハウはないし……」

 

 宰相は言葉を切り、ちらりと国王を窺う。王は青い瞳を胡乱に見つめ返した。

 報酬の話をするたびに、彼らの間で「ルキアを補佐に付けましょう。それである程度は解決です」「抜け駆けは許さん」という会話があるのは親衛隊しか知らないことだった。

 

 「……あの、僕からも希望を言っていいですか、宰相閣下」

 「勿論だ。王国はそれを最大限に尊重するとも」

 

 ありがとうございます、と無理矢理に笑顔を浮かべるフィリップ。その頭の中は完全に真っ白だった。

 

 何が欲しいとか、特に希望が無いのだ。

 爵位や領地は前述の通り、運営能力がないのでナシ。お金は貰えるなら貰うが、レイアール卿がお小遣いをくれたのでもういい。龍殺しの英雄譚だと「勇者はお姫様と結婚し、巨万の富を得て幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」が鉄板のオチだが──フィリップはちらりとステラを窺い、目が合ったので笑っておいた。

 

 フィリップはそのまま顔を伏せて、ありがちなハッピーエンドを求めるとバッドエンドに直結する状況を笑った。

 そんなことを言い出したら、ここはフィリップと衛士たちを讃える場ではなく、衛士たちがフィリップを捕らえて処刑する場に変わってしまう。流石にそれは御免だった。

 

 国王は割とノリノリで許可するかもしれないと、フィリップは知らなかった。

 

 「とはいえ、じゃあ何が欲しいかと言われると困る……」

 

 ぶつぶつと、あれも違うこれも違うと悩む姿は、謁見の間にいる貴族たちをいたく感心させた。

 一部を除いて、彼らにはフィリップが本気で悩んでいることが分かったからだ。本気で──何か裏の目的があったわけではなく、ただ純粋に人助けの為に龍に挑んだのだと分かって、ほう、と溜息を漏らす者もいた。

 

 「あぁ、爵位と領地は()()()()()に授与するからね」

 「それはホントに要らないんですけど……」

 

 念のため、みたいな口調で言う宰相だが、要らないものは要らない。

 掃除と接客にはそこそこ自信があるものの、内政なんて出来るはずがないのだから。まぁいざとなったら万能なナイ神父に頼るか、一応は王であるレイアール卿に泣きつこう。あの二人なら内政の心得もあるはずだ。……フィリップ至上主義の宗教国家になりそうでちょっと怖いが。

 

 嫌な想像に引き攣った笑いなど溢しつつ、ああでもないこうでもないと思考すること数十秒。

 

 思い当たるものが一つあった。

 

 「武器が欲しいです。今まで使ってたウルミが無くなっちゃったので」

 

 失くしたわけではないのだが、まさか「この世ならざる物質に変じて、最終的に自壊しました」とは言えずぼんやりした表現になる。

 

 宰相は少し困ったように眉根を寄せた。

 要求自体は全く問題の無い穏当で妥当性の高いものだが、まだまだ安すぎる。武器の下賜なら最低でも魔剣クラスの逸品と爵位がセットになるだろう。

 

 爵位やそれに関連した諸々は、どうせそのうち叙されることになるのだが──この手の報酬を後払いにするなら、それより少し劣るものを即座に支払うのが普通だ。考えることが増えた。

 

 「なら、君が手に入れたという魔剣はどうだ? 衛士団長に譲渡したとのことだったが、君が言うなら返還すべきだろう」

 「いえ、あれはちょっと重いし長いし、フロントヘビー型なので……僕の戦闘スタイルだと持て余すんですよね。引き続き衛士団長に……いや、殿下に譲渡した方がいいのかな? まぁ、一番良いように采配してください」

 

 ステラと衛士団長を交互に見て、サムズアップなどするフィリップ。

 あの時は衛士団長に渡すのが最善だと思ったが、ステラならもっといい運用法を思い付くかもしれない。龍狩りに際して持つべきだったのは衛士団長、その判断には自信を持っているが、次元断の魔剣が王都の巡回なんかに必要だとは思えないし。

 

 「流石に龍殺しの魔剣には見劣りするが、宝物庫には魔剣も幾つかあったはずだ。そこから何か見繕うか……それとも、オーダーメイドの方がいいか? 君に合わせた武具を、衛士たちの装備を作る職人に作らせることもできるが」

 「じゃあ、それで。予算は──」

 「はははは! フィリップ君、冗談は止すんだ。国王陛下の御前だよ。材料の用意から加工まで、諸経費込みで我々が負担するとも。そうでなくては報酬とはとても呼べない! ……というか、これでもまだまだ足りないよ。何か──欲しい物じゃなくてもいいんだ。やってほしいこととか、無いかな」

 

 フィリップが困り笑いで黙ると、玉座に至る階段の中ほどにいた鎧騎士がすっと──鎧の擦れる音を立てずに──挙手した。声を聴くまで分からなかったが、国王の親衛隊長、レオナルド・フォン・マクスウェル卿だ。

 

 「では、彼を衛士団に参加させては? 本来はAクラス冒険者か、魔術学院か軍学校の成績上位卒業生しか入団出来ませんが、彼はその基準に達するほどの偉業を成し遂げました」

 「そういうことも可能だ。どうする?」

 

 宰相は彼の提案を聞き、フィリップに頷いてみせた。

 しかしフィリップは頷きを返さず、むしろ首を横に振る。

 

 「いえ、結構です。今の僕が衛士団に入っても、彼らの足を引っ張るだけですから。ちゃんとAクラス冒険者になれるぐらい強くなって、ちゃんとした──彼らのような、勇気と強さを兼ね備えた、本物の衛士になります」

 

 反応は様々だった。

 衛士たちの中には誇らしげな笑みを浮かべる者もいれば、照れ笑いを浮かべる者も、感極まって俯く者もいた。貴族たちの中には青臭い夢に嘲笑を浮かべる者もいたが、中には感心したように頷く者もいる。

 

 「カッコイイことを言うね。胸が熱くなるよ。……でも困ったな、こういう時の無欲は非常に面倒だ。美徳ではあるけれどね。まあ、今すぐ決める必要はない。近日中に決めてくれたまえ。誰か──あー……ルキアにでも伝えてくれたら、私に伝わるはずだよ」

 

 宰相はさらりと言うが、大多数の貴族たちにとっては聞き捨てならない内容だった。まるでルキアと──大活躍したとはいえただの平民が、サークリス公爵家の次女にして聖痕者であるルキアと親しいような物言いだったからだ。まぁ、事実としてその通りなのだが。

 

 フィリップは「はっ」としかつめらしく言って、頭を下げた。

 

 それからフレデリカの報酬について暫く検討された後、解散となった。

 彼女は独自に使える研究開発機関の設立と、予算と人員、建物を含む設備一式を要求していたが、それでも不足だとして「何か考えておくように」と言われて困っていた。

 

 

 

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ11 『Dragon Slayer』 グッドエンド

 技能成長:【拍奪の歩法】+3d10 【回避】+3d10
 特記事項:なし


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砦に蠢く影
294


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ12 『砦に蠢く影』 開始です

 推奨技能は【クトゥルフ神話】です。

 特記事項:特定期間中は戦闘外で戦闘系技能をロールでき、成長判定にボーナスがかかります。


 “眠り病”の終息から二カ月が経った。

 魔術学院では授業が再開され、期末試験も恙なく終了した。

 

 フィリップたち二年生に修学旅行という一大イベントのあった年は、じき終わりを迎える。その最後のイベントとして、今年も軍学校との交流戦が企画されていた。

 

 去年と同じように尻の痛くなるキャラバン型馬車で移動しているフィリップたちだが、去年と違うところが幾つかあった。

 一つ目は、馬車の中にはルキアとステラだけでなく、ミナもいること。彼女は「薬の臭いがする血は二度と御免だわ」と、フィリップから離れるなら誰か別の人間の血を吸うことを表明し、学校行事への参加を勝ち取った。一応、部外者ではなく特別参加者という立場らしい。

 

 今回も一週間の予定で、6日目にペア戦がある。前回と違うのは、最終日のグループ戦にエキシビジョンマッチがあることだ。

 そのカードは、なんとフィリップとそのペア対、ステラとそのペアだそう。……端的に言って、無理だ。一応、触れ込みとしては「龍殺しの英雄対聖痕者!」らしいのだが、噂の一人歩きが凄い。

 

 貴族が列席した場での表彰もそうだが、衛士団の凱旋パレード。あれが一番駄目だった。

 ルキアとステラと一緒に見に行ったのだが──「フィリップくんも出るでしょ?」と当然のように言われたが、恥ずかしいやら目立ちたくないやらで断固拒否した──観客席にフィリップを見つけた衛士たちは、「フィリップ君! やっぱり君がいないと駄目だよ!」「みんな! 彼が俺たちを導いて、助けてくれた本物の英雄だ!」とか、大々的に宣言した挙句、その強靭な腕力でパレードに引きずり込んでしまったのだ。

 

 ……思えば、ルキアとステラが止めなかった時点で二人もグルだったのだろう。まぁ「二人の友人には相応しくない!」みたいないちゃもんが減ると思えば、多少は我慢するけれど。

 

 「……報酬、どうしようかな」

 

 馬車の後ろから車列を、そして澄み渡る冬の青空を眺め、フィリップはぽつりと呟いた。

 

 フィリップはまだ、王国に要求する龍殺しの報酬を決めていなかった。

 抱きかかえた黒い鞘の直剣は報酬の一部だが、まだまだ足りないらしい。というかフィリップが吹っ掛けるならまだしも、「もっと吹っ掛けろ」と迫られるのは、もう何かしらのハラスメントではないだろうか。

 

 「あの感じ、「国が欲しい」とか言っても通りそうで怖いんだよなぁ……」

 

 国を救ったのだからそれそのものを要求できる、というのは、フィリップの想像の上では整合性が取れていた。

 

 「……一応言っておくけれど、絶対に言っちゃ駄目よ? その吸血鬼が居れば国の簒奪なんて簡単なんだから、貴方、英雄から国賊に転落しかねないわ」

 「まぁ……うん、そうだな。止めた方がいい」

 

 ルキアは苦笑交じりに、ステラは何か物言いたげな顔で、フィリップを諫める。

 特にステラは、フィリップの懸念が杞憂でないことを知っていた。

 

 フィリップの対面に座ったミナが──本当はフィリップを膝上に乗せて後ろから抱こうとしていたのだが、ルキアとステラが威嚇するのでやめた──心底面倒くさそうな顔をする。

 

 「国の運営って死ぬほど面倒だから、頼まれても嫌よ?」

 「吸血鬼でも死ぬほど?」

 「えぇ、そうよ。吸血鬼でも死ぬほど」

 

 それは怖いな、と引くフィリップ。

 ミナは元々、魔王軍で吸血鬼を取り纏めていた一陣営の支配者だ。吸血鬼も自分たちの配下を持ち自分の領土を治めているが、ミナはその支配層の吸血鬼の統括者。人間に当てはめるなら、貴族たちを従える女王といったところだろう。

 

 まぁ面倒でなくても、自分の国が欲しいとは微塵も思わないが。

 良い暮らしが出来るならそれに越したことは無いが、フィリップは既に、二等地に家を買って一生働かずに暮らしていけるだけの金を手にしている。レイアール卿からのお小遣い、もとい、聖国からの謝礼金の分配分がちょうどそのくらいだった。

 

 「ミナも龍狩りには大貢献したわけだし、ミナの希望も叶えたかったんだけどね」

 「どうして駄目なのかしらね……牧場の設立」

 「犯罪者を隔離して、良質なご飯を食べさせて、最後には殺す。ちょっと待遇のマシな刑務所みたいなものなのにね?」

 

 良質な血を作らせるため、家畜の健康管理には細心の注意が払われ、運動制限どころか運動義務まである。そういう施設の設置を提案してみたのだが、「いくら君でもそのお願いは聞けない」と断られてしまったのだ。

 

 まぁ確かに、殺すために生かすというのはちょっと非人道的かもしれない。

 そうしなければミナが死ぬ、というのであれば、フィリップもどうにか強行したかもしれないが……フィリップの血を二日に一回飲ませればいいだけの現状では、そう無理をする必要もないだろう。

 

 しばらくカタカタと馬車に揺られていると、妙に懐かしさを催す建物──いや、『壁』が見えてきた。

 王都では滅多に見ない、錬金術製でない純粋な石を建材にして作られた、灰色の城壁だ。上部にはツィンネが据えられ、回廊があることが分かる。

 

 以前にも滞在したその砦は四隅に円形の塔があり、それらを結ぶ四辺が回廊付きの城壁という造りだ。正門の対角線上にもひときわ大きな塔があり、そこが砦の中枢部なのだと分かる。

 

 中からは既に到着している魔術学院生を迎える軍学校生の、叫ぶような挨拶の声が聞こえていた。

 

 「妙に懐かしい気がするな……。前回はかなり得たものの多いイベントだったが」

 「主にフィリップがね。……貴方、今回は夜歩きしちゃ駄目よ?」

 「前回のだって僕が自分の意思で……まぁ、はい、気を付けます」

 

 前回の交流戦で、フィリップは深夜徘徊してルキアとステラを滅茶苦茶心配させた前科がある。脳震盪とか懐中時計の紛失とか、色々と悪条件が重なった結果だし、フィリップはその時の記憶をまるっと失くしているのだが。

 

 「前回か……あれから一年だが、未だに騎士団の再編は終わらない。進捗も……はあ……」

 「重い溜息ね。患部の切除は終わったんじゃなかった?」

 「そこからが面倒でな。無能の数が想定より多かったのもあるが……根も深かった。お陰で腐った果実を纏めて捨てるための箱まで作らされた。こんなのは私の仕事じゃないんだが……」

 

 ステラはまた重苦しい溜息を吐く。

 フィリップは彼女と繋いでいた右手を外し、「お疲れ様です」とステラの肩を揉んだ。一応言っておくと、フィリップとステラは別にイチャついて手を握っていたわけではない。平原に吹く氷のような風から守ってくれていただけだ。深部体温の調節によって、フィリップは快適な──尻と腰のコリを除いて──旅路を過ごせた。

 

 「交流戦と言えば、カーター。今年お前に絡んできた奴は、顔と名前をしっかり覚えておくんだぞ。貴族だけでいいからな」

 「……なんでですか?」

 

 思い出したように難題を吹っ掛けるステラに、フィリップはしょんぼりと眉根を下げる。

 

 フィリップの対人認知機能は決して高くない。

 相手がルキアやステラのようなとびきりの美人とかなら覚えていられるだろうが、平凡な顔だったら、相当なインパクトが無いと一週間もすれば忘れてしまう。

 

 「頭がおかしいからよ。貴方、まだ幼くて統治能力が無いからって理由だけで、爵位と領地を国に預けたような状態なのよ? それもきっと、侯爵位か……もしかしたら公爵位だってあり得るわ」

 「それも実はよく分かってないんですよね。なんで僕だけ? レオンハルト先輩とか衛士団長には何も無かったのに」

 

 フレデリカは一応、自分専用の研究施設や人員を貰っていた。

 しかし「一般討伐参加者」でしかないフィリップが、ここまで大層な報酬を貰えるのだ。ルキアやステラの命を直接的に救ったフレデリカや、そのための素材を手に入れた衛士たちには、もっと沢山の報酬があるべきだろう。

 

 ……と、衛士たちを動かした自覚もなければ、囮になって衛士たちを守ったという自覚もなく、変異したウルミが龍殺しを成し遂げた最大の要因であることを今一つ理解していないフィリップは考える。

 

 「レオンハルトは侯爵家の長女、跡取りだからな。家を継ぐか独立のタイミングで公爵に格上げ、所領の拡充があるだろう。衛士団長と衛士たちは……兵士としての責務を果たしただけだ、爵位はいらない、報酬は負傷手当だけでいいと言って聞かない」

 「……僕も要らないんですけどね、爵位も領地も。絶対勉強とかしませんからね、ホントに」

 

 あれからずっと、ステラは「悪いことは言わないから、統治や政治について学んでおけ。私が教えるから」と言い続けている。ルキアはフィリップが嫌がっているから「いざとなったら私が補佐するわ」と庇ってくれるが、彼女もフィリップがそれらを学ぶことの必要性は認めているようだった。

 

 だが、フィリップは決めている。貴族にはならないと。

 何故なら──図書館でちらっと読んでみた貴族法や行政法、領地経営に関する書籍が、どれも頭の4ページくらいで挫折する難易度だったからだ。ステラは「私が12歳の時には出来たんだが」と口で言いつつも苦笑していたし、ルキアは「天才だものね」と呆れ笑いだった。

 

 「勉強は強制しないが……ふふっ、予言してやろう。お前は将来、必ず貴族になる」

 

 ステラ自身笑いながらの言葉に、ミナ以外みんな笑った。

 どんな魔術を使っても、未来を予言することはできないというのが今の常識であり、同時に一神教では“予言”は俗物が作り出した妄言の類であるとされている。いくらステラが聖人で世界最強の魔術師とはいえ、未来を言い当てることは不可能なはずだ。

 

 「……どうにかなりませんか?」

 「ならんだろうな。望まぬ報酬かもしれないが、王国にも面子というものがある。聖痕者三人を救った英雄に爵位の一つもやらんとなれば、今は秘匿出来ていても、後から他国に何を言われることやら」

 

 フィリップは面倒くさそうに嘆息した。

 勉強しなくていいなら、と妥協しつつあるのは、まさにそれが原因だ。フィリップの我儘のせいでステラに迷惑をかけたくない。

 

 まあ聖国のトップはアレだし、フィリップの意向に異を唱えはしないだろう。だが、帝国はそうではない。

 

 その時になってどうしても嫌だったら、最悪、帝国を滅ぼすしかないな。なんて考えるフィリップだった。

 

 それから少し馬車に揺られていると、フィリップたちの乗る馬車も砦の正門を潜り、大音量による挨拶の洗礼を受けた。

 

 馬車が停まると、こんなクソ狭いところに居られるかと言わんばかりの早さでミナが降りる。彼女がエスコートするように、或いは介助するように手を伸ばしたので、続いてフィリップが降りた。後は去年と同じように、フィリップのエスコートでルキアとステラが馬車を降りる。

 

 去年と違ってルキアとステラのところに誰も駆け寄ってこないし、「ここで待て」とも言われないのは、やはりミナが──吸血鬼が居るからだろう。

 ()()()()魔術学院生は彼女の魔力を視るだけで怯え切ってしまうが、()()()()軍学校生は彼女の身に付けた剣技を悟り、迂闊に近付けば首が無くなることを理解していた。

 

 遠巻きにする軍学校生たちの中から、軽快に飛び出してくる影と、それより素早く突進してくる影があった。

 

 「お久しぶりです、両聖下! フィリップくんも!」

 

 ひらひらと手を振りながら、旧知の友人を見つけたように駆け寄ってくるのは、フィリップにとってはウルミの師匠であるマリー・フォン・エーザーだ。茶色の短髪に同色の目をした快活な美人で、今年は軍学校の三年生だ。明朗で人懐っこい笑みを浮かべていて、去年と全く変わらない。

 

 その前を土埃を立てるほどの速度で突撃してくるのは、去年フィリップに剣術や白兵戦の基礎を教えてくれたウォード・ウィレットだ。その顔は興奮で輝き、赤く火照っている。

 

 「フィリップ君! 見たよ聞いたよ凄いじゃないか! また衛士団と一緒に戦って、しかも龍殺し! 僕、パレードを見たんだ! 衛士団長が持ってたのって魔剣でしょ!? 君が手に入れたって聞いたけどホントなの!? あ、あと──」

 「あー、はいはい、そういうの部屋でやってくれる? ごめんね。どうも」

 

 早口に言いながらフィリップに詰め寄るウォードを、マリーが後ろから首根っこを掴んで引き剥がす。

 

 「今年も君とウィレットくんが同室ペアだよ。荷物を置いて、中庭に集合してね。両聖下は私がご案内致しますので、どうぞこちらへ」

 

 フィリップは軽く手を振って女性陣と別れ、ウォードと一緒に男子用宿舎に向かった。

 今年度から軍学校は体制が大きく変わり、血統序列から実力序列が大きくなったらしい。三年生と二年生の上位クラスが去年の貴族用宿舎、二年生下位クラスと一年生が去年の平民用宿舎を使うことになっている。

 

 フィリップとウォードはあの埃っぽくて狭い部屋から抜け出し、暖炉もあればソファもある、床にはカーペットの敷かれた部屋に泊まれるということだ。部屋数の関係で、去年とは男女の棟が逆転しているから間違えないように、という警告も受けた。つまりフィリップたちは去年の女子貴族用宿舎に、ルキア達は去年の男子貴族用宿舎に泊まる。

 

 ちなみにミナはフィリップと同じ部屋に泊まると主張したが、最終的にはルキアの部屋とステラの部屋に挟まれた部屋に落ち着いた。なんでも、そこが一番月光の当たりがいいらしい。

 

 士官用の個室は二等地のさびれた高級宿くらいの内装で、豪華すぎず、かといって決してみすぼらしくはない塩梅だった。

 フィリップとウォードの二人が入っても手狭な感じは全くしないし、埃が積もっていたり、虫が出たりもしない。

 

 「……いい部屋ですね」

 「そうだね。前回とは大違いだ」

 

 二人は顔を見合わせ、前回は顔合わせ直後に二人で掃除したことを思い出してニヤッと笑った。

 

 しばらく思い出話に花を咲かせていた二人だが、ふとウォードの笑みに揶揄の色が混ざる。

 

 「そういえばフィリップ君。これは事前準備を担当してた友達から聞いた話なんだけど……」

 

 妙な間を置いたウォードに、動きやすい服に着替えていたフィリップはシャツの襟口を見失って藻掻くのを中断した。袖口から覗くと、ウォードは笑いを堪えながらしかつめらしく語る。

 

 「この砦にはね……お化けが出るらしいんだ……」

 

 ウォードはおどろどろしい声を作り、両手をわきわきさせる。

 年下の男の子をちょっと揶揄って、肝試しにでも誘おうという魂胆だったのだが、フィリップはちょっと肩を竦めてシャツを着て、トランクを閉じる。まるで何も聞こえなかったように。

 

 流石に年相応以上に大人びているし、ウォード自身が笑い飛ばした怪談話では怖がらないか、と肩を落とす。

 

 「お化けって……いわゆるゴースト系の魔物じゃなくて、本物の?」

 「え、あ、うん、そうだね。一神教で言うところの、彷徨える魂ってやつ。天国にも地獄にも煉獄にも行きそこなった霊魂、死霊術的に言うなら残留思念?」

 

 淡々と尋ねるフィリップは楽しそうではなく、ウォードは気を使わせてしまったかと顔色を窺う。

 フィリップは「ふむ」と難しそうに唸った。

 

 「ふむ……なるほど。ところで幽霊とゴーストって」

 「別物だね。ゴーストは魔物だから、魔力を込めればパンチでも倒せる。でも幽霊は違う。存在するかどうかも不明な都市伝説だし、魔力攻撃も効かないとか、呪い殺されるとか、色々と噂があるね」

 

 フィリップはまた「ふむ」と頷く。知識に間違いはないと。

 

 そして──

 

 「や、やっぱりミナと一緒の部屋にすべきだったかも……」

 

 黒い鞘の長剣を抱き締めて震え出した。

 

 フィリップはその手の怪談話──特に、正体不明の怪異には滅法弱かった。

 

 

 

 

 

 



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295

 中庭に集合した学生たちは、去年同様に開会の式辞と多少の注意喚起を受けてから、また砦の内外に分かれた。今年の軍学校首席は、ぱっとしない男子生徒だった。中庭が近接戦闘の訓練、外周二キロ圏は魔術戦の訓練に宛がわれる。

 フィリップとウォードは解散した後、すぐに正門を潜って砦の外に出る。そこでルキアたちが待っていた。

 

 今年はステラのペアがマリーで、ルキアはミナと組んでいた。なんでも、生半な相手だと邪魔だから要らないと言ったら通ったらしい。

 

 「や、フィリップくん。来たね!」

 「エーザー様。今日からまたよろしくお願いします」

 「あれ? 去年マリーで良いよって言わなかった? まあ好きに呼んでいいけど。一週間でばっちり教えてあげるね! 早速だけど、君の武器を見せて貰ってもいい?」

 

 フィリップはマリーに黒い鞘の直剣を渡し、ちらりとウォードの様子を窺う。彼は跪いてルキアとステラに挨拶しながら、横目でちらちらとミナの様子を窺っていた。

 

 「あの(ひと)、吸血鬼だね。しかもとんでもなく強い」

 「はい。ミナ──ウィルヘルミナさんです。ハーフエルフ・ハーフヴァンプの魔剣使いなんですよ」

 「なにそれ滅茶苦茶カッコイイね!? あとで模擬戦お願いしよっと!」

 

 マリーは熱っぽい視線を向けるが、ミナは退屈そうにフィリップを眺めていた。

 フィリップは彼女にいつでも模擬戦を頼めて、彼女は笑って応じてくれる──気分次第だが──ことに、少しだけ優越感を抱いた。

 

 少しして気を取り直したマリーは、しゃらん、と心地よい音を立てて直剣を抜き放つ。露わになった刀身は白銀色だが、サファイアブルーの燐光を纏っていた。

 

 「わーお! これ、錬金金属じゃないよね? もしかして魔剣?」

 「いえ、付与魔術です。例のあれの報酬で貰いました」

 「龍狩りだ。聞いたよ、大活躍だったって」

 「マリーに色々教わったお陰です」

 

 フィリップがお世辞抜きに言ったことは分かったのか、マリーは照れて赤くなった。

 

 「やだ、ちょっと、恥ずかしいって。それで、これは……刃渡り100センチ、重さは1.5キロってところかな」

 

 慎重な手つきと目で剣を検分するマリー。フィリップは彼女の正確な観察に目を瞠りつつ、頷いて肯定した。

 

 「フィリップ、先に話を通してあったの?」

 「あ、はい。ナイ教授が交流戦の話をしたその日に手紙を書いて、また教えて下さいってお願いしたんです」

 「私もミナもノウハウの無い武器だったからな。専門家に頼むのが一番良い」

 

 緊張したウォードの堅苦しい挨拶を適当に流し、ルキアとステラもこっちに寄ってきた。

 

 「使い手の少ない武器だからねー。ユーザー同士、助け合って広めていかないと。伸ばしていい?」

 「勿論」

 

 フィリップは頷いて、ルキア達に離れるよう身振りで示しながら自分もマリーから離れた。

 マリーが手にした剣からかちりと控えめな金属音が鳴り──剣が支えを失ったように、だらりと垂れ下がった。地面に擦れてかちゃりと鳴る。

 

 マリーが腕を大きく振るのに合わせて、剣はその長さを変えながら彼女の周りを蛇のように囲う。一回、二回と腕を回し、止めた時には剣は元の直剣の形に戻っていた。

 

 「おぉ……!」

 

 マリーは何気なく、素振りのような調子でやってみせたが、それはフィリップには真似できない技術だった。剣自体に長さを戻すような機構が備わっていないから、普通は腕を止めても伸長した状態のまま、だらりと垂れ下がる。

 

 「都合14節に分離する蛇腹剣。伸長時の全長は4メートルぐらいだね。……これ、材質は何で出来てるの? 軽量化の付与魔術は分かるんだけど、それにしても、振った感じの密度と重さが釣り合ってない」

 「ふふふ……何だと思いますか?」

 

 意味ありげに笑うフィリップは、マリーなら或いは正解するのではないかという期待と、それでも材料全部を言い当てるのは不可能だという確信を同時に持っていた。

 

 「銘は『龍貶し(ドラゴルード)』? ……まさか、龍の骨?」

 「んー、惜しい!」

 「じゃあ牙だ!」

 

 ウォードも答えた。

 答えを知っているルキア達三人は、子供っぽく目を輝かせて武器を自慢するフィリップに生温かい目を向けていた。

 

 「惜しい!」

 「鱗!」

 「それも惜しい! 正解は……“その全部”でした!」

 

 えぇーっ! と大仰に驚くウォードとマリー。

 二人とも薄々察してはいたが、ノリが良かったし、何より超希少素材であるドラゴンマテリアルを複数種類使うなんて信じられないという気持ちも大きかった。

 

 「古龍の骨、牙、爪、鱗、筋肉、血を錬金術で加工した剣です。あ、柄に巻いてある黒い革はドラゴンハイドですよ」

 「うそ!? え、贅沢過ぎない!?」

 「ちなみにレオンハルト先輩の作品で、付与魔術はルキアのお姉さんたち宮廷魔術師さんがやってくれました。『鋭利強化』と『耐久強化』と『軽量化』です」

 

 すごいでしょ、と衒いも無く自慢するフィリップ。

 実際、凄い。ミナの魔剣『悪徳』は鉄の剣を切り飛ばすが、アレと打ち合える強靭さだ。ちなみに材料費抜きで懐中時計並みの値が付く逸品となっている。

 

 「すーっごいね! 軸もチェーンタイプだし、ちゃんと荒く削られてる。節目に段差が全く無いし、刃もきちんと砥上げられて鏡みたい。それに、中心のズレも全く……うわーっ! すごいすごい! フィリップくんがこんなの使ったら、蛇腹剣の使用人口も爆増だよ! 一緒に伝道師になろうねっ!」

 

 マリーが丁寧に返してくれた蛇腹剣を受け取り、フィリップはニヤリと笑う。

 衛士たちに聞いた話によると、既に王都の武器屋ではウルミの発注が爆増しているらしい。何なら適当に振り回して自傷してしまい、医者にかかる馬鹿も爆増したとかなんとか。

 

 フィリップも半年前までは「伝道師になんてなるわけないじゃん」とか思っていたが、今や布教の成功度合いで言えばマリーを優に上回る伝道師ぶりだ。

 

 「よし、じゃあ早速──模擬戦から始めよっか! アタシも蛇腹剣を持ってきたから、フィリップくんはまず直剣形態だけで戦って、アタシの動きを見て覚えてね」

 「オッケーです! 殿下もよろしくお願いします!」

 

 任せろ、と頷くステラは頼り甲斐が物凄い。

 フィリップは今回も今回とて、身体操作の部分はステラの支配魔術で身体に覚え込ませるつもりだったし、その有用性は誰もが認めていた。

 

 身体操作を身に付けるには、大まかに二つのプロセスが必要だ。

 まずは体の動かし方を運動神経に刻み込み、腕の動きと蛇腹剣の動き、そしてそれらが齎す攻撃を理解する。その後、「こう攻撃したい」と思うだけで腕が勝手に動くようになるまで反復練習する。

 

 支配魔術による動きの強制再現は、第一段階である動きの理解と定着に大きく寄与してくれる。特に、変な癖が付かないところが最高だ。

 

 斯くして、今回の交流戦もフィリップ強化合宿と相成った。

 

 

 しばらく練習した後、今日はもう夕食の時間になってしまった。

 フィリップは以前と同様、ルキアとステラと一緒に別室だ。ミナは暖炉の傍のソファでワイングラスを傾けているが、中身にはフィリップの血が数滴混ざっている。

 

 とりとめのない話をしながら王都のものより数段格の落ちる食事をモサモサと口に詰め込んでいると、ふとルキアが思い出したように顔を上げた。

 

 「そういえばフィリップ、貴方、怪談話って平気だったかしら?」

 「あ、お化けの話ですか? やめてくださいよ、ホントに無理なので……」

 

 妙に粘度のあるクリームシチューに硬いパンを浸しながら、フィリップは少ししょんぼりして言った。

 ルキアは笑いつつもごめんなさいと肩を竦めるが、ステラは意外そうに眉を上げる。

 

 「意外だな。お前はそういうの得意……というか、専門分野じゃないのか?」

 「殿下……この世で一番恐ろしいものは、“正体不明”と“攻略法不明”ですよ」

 「……フィリップが言うと重いわね」

 

 一番が二個あるのか、というツッコミが飛んでこなかったのは、フィリップの声色が余りにも真剣だったからだ。

 

 フィリップはこの世界に跋扈する、人間の精神に毒となるような悍ましい手合いを知っている。だが全知ではない。

 たとえばこの宇宙の何処かに、フィリップと同じくらいの知能と強さを持つ、タコ型宇宙人がいたとして。シュブ=ニグラスはそれを知らない。知ろうと思えばいつでも知ることが出来るという点が、ただの無知とは違うところだが、外から見るとどちらも同じだ。

 

 「エーザーから聞いたが、幽霊が出るのは女子用A棟……私たちの泊まる塔らしい。だからそう怯える必要は無いぞ?」

 「男子用の宿舎まで来るかもしれないじゃないですか!」

 

 フィリップが怖いのは、それだ。「かもしれない」。

 お化けが出るかもしれない。お化けは男子用の宿舎に来て、フィリップの枕元に立つかもしれない。そのお化けは、もしかしたらフィリップの大切なものを奪っていくかもしれない。たとえば蛇腹剣や、懐中時計のような。

 

 何をされるか分からない。未知。それこそフィリップが最も恐れるものだった。

 

 しかしステラはそれを分かった上で、呆れたように口元を緩めた。

 

 「考えてみろ、カーター。私たちは聖痕者、対邪悪・対魔性のスペシャリストと言っても過言じゃない」

 「それに、吸血鬼は並大抵のアンデッドより余程上位の種族よ。私たちはみんな幽霊が出たらすぐに気付くし、貴方のところに行く前に滅ぼせるわ」

 

 ステラとルキアが慰めるが、フィリップの表情は険しいままだった。

 そりゃあ“幽霊”がゴースト系の魔物なら三人の敵ではないだろうが、そうではない可能性がある以上、二人の言葉で得られる安心感はゼロだ。武器も通らなければ魔術も通らない、本物の化け物かもしれない。

 

 長い髪の隙間から覗く目を見たら、心臓が止まって死んでしまうとか──まぁフィリップが死ぬことは無いだろうが。

 どこまでも追いかけてくる細く皺の無い手指に掴まれると、どこかへ連れ去られてしまうとか──まぁあの宮殿よりはマシなところだろうが。

 身の毛がよだつような恐ろしい姿で、見たら気が狂ってしまうとか──発狂できるなら是非ともお目にかかりたいものだが。

 

 ……深く考えると、微妙に怖さが薄れてきた。

 未知に対する恐怖は依然として残っているものの、もっと物理的に怖いものを知っている身としては、そこまで怯える必要が無い気もする。

 

 「……フィル、幽霊が怖いなら一緒に寝ましょうか」

 「ミナの部屋が女子用宿舎塔じゃないか、僕の部屋が二人部屋じゃなければ名案だね」

 「なら、きみの部屋を一人部屋にすれば?」

 「ウォードのこと殺そうとしてない? 駄目だよ? 部屋を移るにしても……「お化けが怖いから」なんて、ナイ教授の耳に入ったら死ぬほど煽られるだろうしなぁ……」

 

 フィリップはシチューの残りを流し込みながら、一週間我慢するしかないのだろうか、と唸った。

 

 フィリップとミナは寮の同じ部屋だし、偶に同じベッドで寝ているが、ルキアとステラは何も言ってこない。

 

 それは間にシルヴァが挟まっていたりするからではなく、フィリップとミナの関係性が理由だ。フィリップはミナのことを伝奇小説の登場人物のようにカッコいいと思っているし、価値観の似た相手として、剣の師匠として、何よりマザーを彷彿とさせるところが好きだ。──尤も、最後の部分に関しては無自覚だが。

 そしてミナも、フィリップのことはいい匂いのするペットとして認識している。

 

 二人の関係性がそれ以上に発展することはないだろうし、ましてや恋愛感情が生まれる余地などありはしない。フィリップが吸血鬼に憧れることも、ミナがフィリップを吸血鬼にしたがることもない。それを理解しているから、二人とも何も言わなかった。

 

 「なら、シルヴァでも抱いて寝ることね。明日からはいつも通り、私もきみの教導に加わるから」

 「うん、よろしくね、ミナ。今回のベッドは結構柔らかいし、ちゃんと寝れそうで良かった」

 

 幸いにして、その日の夜はトイレに起きることも無く、ぐっすりと熟睡できた。

 本当にシルヴァを抱いてベッドに入ったフィリップを、ウォードは眠りに落ちるその瞬間まで揶揄うかどうか迷っていた。

 

 

 

 

 

 



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296

 交流戦二日目、昼。

 フィリップたちは昼食を終え、午前と同じくフィリップ強化に勤しんでいた。

 

 目下の目標は、蛇腹剣の習熟──ではなく、長剣の扱いに慣れることだ。

 100センチの刃渡りを持つ龍貶し(ドラゴルード)は、フィリップの成長を見越した設計になっていて、今のフィリップの体格からすると少し大きい。

 

 四本複合の鉄鞭という超変則的な武器を使いこなしていたフィリップだが、蛇腹剣は微細なチェーンで編まれた中心軸に分割された剣節が付いている。ウルミとは柔らかさも重心も挙動も何もかも違うし、そもそも攻撃方法が違う。ウルミは叩き付けるか削ぎ落とすように振らなければならなかったが、蛇腹剣は切り裂くように振る。身体操作の根幹は同じだが、枝葉は全くの別物だった。

 

 特に、以前にマリーが見せた曲芸、チェーンを噛み合わせて軸を固定し、長い剣のように扱う技術は至難を極めた。ステラが再現できないので、最強の指導法である支配魔術が使えないのが痛い。

 

 まぁ、あれは本当に限られた状況でしか使えないので、長剣形態への習熟が最優先だ。

 今はウォードとマリーを相手にロングソードの扱いを学ぶための模擬戦をしつつ、ルキアとステラを相手に対魔術師戦を、ミナを相手に拍奪の通じない剣士──宮廷魔術師並みの魔力を要する魔力照準法が使える剣士なんて、それこそ彼女くらいだろうが──を想定して訓練している。

 

 ウルミよりも余程体力を要求されるロングソードでの連続模擬戦は中々にキツく、フィリップは一度「剣形態って必要ですか?」なんて弱音を吐いたが、マリーに説得されてモチベーションを上げていた。

 

 「ロングソードが使えないからソードウィップで戦うのと、ロングソードで戦ってて、ここぞってタイミングでソードウィップに変形させて戦うの、どっちの方がカッコいいと思う?」と聞かれたら、男の子は自分の感性を偽れない。あと単純に、どちらも使えた方が強いに決まっている。

 

 型や素振りのような単純作業ではないが、頭も使わなくてはいけないだけに負担が大きい。

 

 フィリップは十何回目かになるウォードとの模擬戦を終え、ゴロゴロと地面を転がって呻いている。今回の敗因はロングソードの一閃に身体が持って行かれて“拍奪”が緩み、攻撃を透かせなくなったことだ。ウォードはその隙を見逃さなかったし、相対位置認識欺瞞が解けたことに一瞬で気付いた。

 

 「くっそ……強すぎる……!」

 「いやいや、フィリップくんも去年と比べて格段に強くなってるよ! 衛士団を数分もの間、龍から守った技量。流石だよ」

 

 顎に流れた汗を拭い、爽やかに笑うウォード。だがフィリップは悔しそうに地面を叩いて立ち上がった。

 今のパフォーマンスはウルミを使った時の半分以下だ。蛇腹剣をソードウィップ・フォルムにすれば7割くらいになるだろうが、まだまだこんなものではない。こんな程度で「流石だ」なんて言われたくなかった。

 

 フィリップはずっと、ルキアやステラ、最近はミナにも教えて貰ってきたが、それ以上にウォードから学んだことを基礎にして頑張ってきた。シャドーするときもイメージトレーニングの時も、仮想敵のラインナップにはいつだってウォードがいた。

 

 まだこんなものじゃない。

 それを、誰よりもウォードに見せつけたかった。

 

 「もっかい! もう一回やりましょう!」

 

 ウォードの一撃で落とされた得物を拾い、正眼に構えるフィリップ。ウォードは「そうこなくっちゃ!」と嬉しそうに、マリーは「いいね、流石!」と獰猛に笑うが、それには待ったがかかる。

 

 「駄目だ、カーター。一度休憩を挟め。……ルキフェリア! お前もだ! 熱くなりすぎるな!」

 

 ステラの声で、ミナと模擬戦をしていたルキアが帰ってきた。

 二人の対戦はミナが言い出したことで、暇潰し兼、フィリップ(ペット)の番の強さ確認だ。この後はステラとも()るつもりでいるし、フィリップは後者の理由を聞かされていないが、ミナの退屈しのぎになるならと気にしていない。

 

 水を飲んだり汗を拭いたり、それぞれ身体を休めていると、誰も近寄りたがらない一行のところに歩いてくる人影があった。

 いち早く気付いたのはルキアで、すぐ後に相手を判別したステラと一緒に怪訝そうな顔をしている。皆が近寄りたがらない最たる原因であるミナは、肩で息をして滝のような汗を流しているフィリップの首筋に、病的な冷たさを纏う手を当てて涼ませていた。

 

 「……失礼します、カーターさん。少しだけお時間を頂いてもよろしいでしょうか」

 

 話しかけてきたのは長身の男子生徒で、容姿は特筆すべき点の無い金髪碧眼だ。フィリップはしばらく彼の顔をまじまじと見つめて、やっと名前を思い出した。ジェームズ・フォン・ルメール、フィリップが一年生の時野外試験で同じ班だったリチャードの弟で、以前にフィリップを殴り飛ばした魔術学院の一年生だ。

 

 あの問題のあと、闘技場のように巨大な体育館や、だだっ広い中庭の掃除をさせられているところを何度か見かけたが、特に話しかけてきたりはしなかったし、接点は無かった。

 

 「はい、なんですか?」

 

 ミナはフィリップの会話の邪魔にならないよう、後ろに回り込んだ。

 

 ジェームズは嫌悪感を滲ませた目を向けるルキアより、自分に一瞥も呉れない吸血鬼に慄いたようだが、後退りすることなくフィリップに向けて頭を下げた。

 

 「まずは、前回の件をお詫びさせてください。私の軽率な行動で、大変なご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

 「あぁ、いえ、それは別に。……それを言いに来たわけじゃないですよね?」

 「はい。実は、軍学校の友人からペア戦の対戦相手を聞いたので、そのご報告をと思いまして」

 

 フィリップはウォードと顔を見合わせる。ウォードは「規則違反だ」と頭を振ったが、フィリップが情報を得ることを止めはしなかった。

 

 「……言いに来たってことは、つまり」

 「はい。僕です。それで、その……」

 

 ジェームズが何か言い辛そうにしていて、フィリップは声を上げて笑った。ジェームズが報復を危惧して「勘弁してください」と言いに来たのだと思ったからだ。

 思えば「一発は一発」と口走ったような記憶が薄ぼんやりとあるが、あの一件の後に左手が吹っ飛びかけた恨みさえ一週間もすれば忘れたフィリップだ。今更そんな昔のことで、模擬戦相手をボコボコにしようだなんて思わない。

 

 「報復なんかしませんって。自分で言っても説得力のないことですけど、根に持たない方ですよ、僕」

 

 ルキアは平然としていたが、ステラは少し失笑していた。フィリップのカルトに対する執着ぶりは、根に持つとか生易しい次元ではない。フィリップが根に持たない方だとしたら、この世から「執念深い」という言葉は無くなるだろう。

 

 ジェームズは慌てて両手を振り、「あ、い、いえ、そうではなくて……」とフィリップの言葉を否定するが、ルキアとステラは彼の表情が安堵に緩んだのを見逃さなかった。

 

 「そうではなくて。あの、僕も剣術を使って戦おうと思っているので、事前にその旨をお伝えしておこうと思いまして」

 

 模擬戦開始直前に剣を持ち出したら、流石に馬鹿にしていると思われるだろう。だからジェームズは事前に言っておこうと思って行動したし、それは相手がフィリップでなくてもそうするつもりだった。というか、相手がフィリップだったから止めようとまで思ったくらいだが、個人的な感情で成長の機会を棒に振るには、この交流戦という期間は貴重すぎる。

 

 「ご不快であれば、勿論──」

 「いやいや、とんでもない! いいじゃないですか! ね、ウォード」

 

 水を向けられたウォードはジェームズに怪訝そうな目を向けながらも、「いいんじゃないかな」と頷いた。二人にとってペア戦の鬼門は、相手の魔術攻撃だ。フィリップもウォードも大抵の軍学校生には負けない技量を身に付けているが──特にフィリップは回避に専念すれば、マリーが相手でも逃げ切れる──面攻撃には滅法弱い。

 勝ち負けに大した意味の無いイベント戦ではあるが、どうせなら勝ちたいと思うのは自然なことだ。

 

 マリーはジェームズのことをじーっと見つめて、ややあって「ロングソードが適正かな。つまんないのー」と興味を失った。

 

 「やっぱり、魔術剣を──あ、やっぱりいいです。本番を楽しみにしたいので!」

 

 答えかけたジェームズを慌てて制し、フィリップは楽しそうに笑う。

 ジェームズが彼の兄と同じように魔術剣を使うなら、模擬戦はとても楽しいものになるだろう。そうではないとしても、この交流戦はとてもいい訓練が出来る重要な期間だ。フィリップと同じく、剣術を学ぼうとする魔術学院生がいることは、何故かとても嬉しかった。自分が異端ではなくなったような気がするからだろうか。

 

 話は終わりかな、とフィリップは水筒を傾ける。然して面白くも無い会話だったが、気晴らしにはなった。

 

 「そういえばカーターさん、怪談話ってお好きですか?」

 

 フィリップは水を盛大に噴き出した。

 初対面の他学校生や久々に会った友人と打ち解ける話題作りに、この砦特有の噂はもってこいだ。今やそこかしこでお化けの話が出ているし、尾ひれもたくさんついている。

 

 「女子用宿舎に出るってお化けの話ですか? ……ここまで来たら、むしろ気になりますね。新しい情報でもあるんですか?」

 

 ぞんざいに言ったフィリップに、ジェームズはばつが悪そうに苦笑して頭を振った。正体不明を明るみに引き摺り出すような新情報はないらしい。

 

 「そうですか。……じゃ、僕は訓練を再開するので。またペア戦で」

 「はい。龍殺しの英雄であるカーターさんにどこまで通じるかは分かりませんが、精一杯挑ませて頂きます!」

 

 ジェームズはやる気に満ちた顔で一礼して去って行った。

 

 「さて、じゃあ、今度はアタシとやろっか、フィリップ君!」

 「はい、お願いします!」

 

 元気のいい返事に、マリーはにっこりと笑う。白兵戦に於いて、心の持ちようや気迫はとても重要だ。しかし、流石に気合だけでどうにかなるほど白兵戦は甘くない。

 

 結局その日、フィリップは散々地面を転がった挙句、一本も取れずに終わった。

 

 

 

 

 

 



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297

 交流戦が始まって二度目の夜が来た。

 昨日は旅の疲れ、今日は訓練の疲れで、学生たちは泥のような眠りに就くことが約束されている。尤も、今日以降は「真面目な生徒は」という但し書きが必要になるが。

 

 夜遅く、消灯時間ぎりぎりでフィリップたちの部屋を訪れた軍学校生は、どうやらその範疇には無いらしかった。彼はマシュー・デイビスという名で、ウォードのクラスで一番のお調子者だった。

 

 「おいウィレット、肝試ししようぜ!」

 

 楽しそうなマシューの声に疲労の色は無く、昼間をただの余暇として過ごしたことが窺えた。

 ウォードもフィリップよりはマシだが、かなりヘトヘトだ。彼は暇を見つけてはルキアやステラに魔術を撃ってもらい、それを避けるという去年と同じ練習をしていた。

 

 ウォードは疲労のせいかどこかうんざりしたように、マシューが立っているドアの方を見た。

 

 「いや不味いよ。女子A棟だろ? 貴族の子女も沢山いるし、見つかったら大問題だ」

 

 ウォードが「大問題で済めばいいが」と思っていることは顔を見れば分かった。顔色が蒼白なのは疲労ではなく、恐怖によるものだろう。

 

 宿舎の分け方は貴族・平民という区分では無くなったものの、学校の生徒には貴族が多い。

 もしも見つかって、さらに不埒な目的を持って侵入したと思われたら、退学では済まない。良くて地下牢送り、最悪処刑だ。

 

 特に最上階は不味い。

 部屋自体はフィリップたちが使っているのと同じ士官用の個室で、二人で泊まっても十分に広い。ただ中にはベッドを搬入できなかったとかなんとかで、個室がいくつか残っている。

 

 ルキアと、ステラと、ミナの部屋だ。

 

 中でも三つの個室の真ん中、ミナの部屋は本当にヤバい。

 何かの間違いで入ったが最後、「夜食かな?」と勘違いしたミナに心臓だけ喰われて()()を窓から捨てられることになる。

 

 ミナがまだ学生寮のフィリップの部屋におらず、適当な宿で過ごしていた時のことだ。「上位吸血鬼がいるらしいぞ!」と噂を聞き付けた冒険者たちが彼女の部屋を襲い──翌日、フィリップは「サービスの良い宿だったわ」と上機嫌なミナと、困り顔の衛士たちの「心臓を抉られた死体が四つ、路地裏から見つかったんだ」という言葉を一瞬で結び付けることが出来た。

 

 「恋人に会いに来たって言えば、しこたま怒られるぐらいで済むって。それに、二重の意味で度胸が試せるってモンだ。だろ?」

 

 ウォードは馴れ馴れしく肩を組み、部屋の外に連れ出そうとする友人が嫌いになりつつあった。

 大方、軍学校の学生寮なんかより余程素晴らしい士官用の個室に興奮して、ちょっと調子に乗っているのだろうが──巻き込まないでほしい。

 

 フィリップだって肝試しには反対だろうし、と部屋の中を振り返ったウォードは、剣を佩くためのベルトを付け直しているフィリップを怪訝そうに見た。

 

 「あー……何してるの、フィリップ君?」

 「僕も行きます。お化けの正体を確かめちゃえば怖くないと思うので」

 「いや、道具は無しだぜ? それじゃ度胸試しにならないじゃないか!」

 

 フィリップはマシューに木の棒を魔剣と言い張る子供を見るような、或いは騎士の真似をして棒を振る猿を見るような目を向けた。

 

 「お化けが出たらどうするんですか。丸腰で殴り倒せるんですか?」

 「え、えぇ……? 戦う気なの……? ウィレット、お前のペア怖くね?」

 

 やけに好戦的なフィリップに、ウォードとマシューは苦笑を浮かべる。肝試しは丸腰で行って、逃げ帰ってくる奴を揶揄って、目的を達成した奴が褒められるという遊びだ。

 

 「ま、いっか! じゃあ度胸試し兼、お化け調査ってことで! 行こうぜ!」

 

 と、そんなわけで、フィリップたちは消灯後の女子宿舎に忍び込むという、色々と試されそうなイベントに臨むこととなった。

 

 まず最初の難関は、城壁の中を通って女子A塔に向かうことだった。

 砦を上から見ると、フィリップたちの泊まる塔は正方形の右上の角。ルキア達の泊まるお化けが出る女子A塔は左上の角だ。だが残念ながら、二つを結ぶ辺である城壁の真ん中には食堂などがある中央塔が聳え、中では先生たちが酒盛りしている。

 

 中庭を通るルートもあるが、外はクソ寒い上に真っ暗で、お化けも凍えるような風が吹いている。外を通るくらいなら帰って寝る方を選ぶと、三人の意見は一致した。

 

 「先生たちがこっちを見てないうちに、こっそり通り抜けよう」

 

 ひそひそと作戦──正面突破を作戦と呼ぶかは疑問だが──を立てて、出来る限り静かに決行する。

 まずはウォードが食堂の死角を通り抜け、フィリップがその後に続き、最後はマシューだ。ウォードはもう既に、先陣を切ることで度胸があると証明した。

 

 次の難関は、女子宿舎エリアに続く回廊に立った哨戒兵、もとい、巡回の教師と軍学校生だ。二人とも平服姿だが帯剣していて、嫌な威圧感を放っていた。流石に生徒相手に抜くことは無いだろうが。

 相手は二人、どちらも非魔術師だ。これが実戦なら『萎縮』の出番だが、お化け探しで殺人なんて洒落にもならない。

 

 今は回廊に差し掛かる曲がり角で身を潜めているが、回廊は一本道で、壁に等間隔に並んだ燭台が暖かな光で照らしている。隠れる物陰の一つも無い。

 

 「……どうしますか?」

 「……選択肢1、どうにか陽動。ただし相手は哨戒訓練を受けた騎士候補生と教官。選択肢2、強行突破。ただし相手は以下略。選択肢3……迂回。クソ寒い中庭を通る。たったいま何とか通り抜けた酒盛り会場をもう一回通ってな」

 

 マシューは三本の指を立てて「どれがいい?」と振る。

 前の二つは現実的ではないし、中庭からの入り口にも鍵がかかっているはずだ。流石に見張りはいないし篝火も無いから、鍵さえどうにかすれば入れるとは思うが。

 

 では鍵は何処なのかというと、本棟の何処かにあるはずだが、生徒にその場所は知らされていない。

 

 「どれも無理だろ。諦めて……ふぁ……寝よう」

 「駄目ですよウォード。お化けがホントにいるのか、いるのならその正体を確認しなくちゃ!」

 

 妙に乗り気なフィリップに、ウォードは眠気で蕩けた胡乱な目を向けた。

 お化けは怖いのに、肝試しにはやたら乗り気なやつは確かに居る。共感は出来ないものの、怖いからこそ確かめたくなる気持ちは理解できた。

 

 だがその積極性を発揮すべきは、絶対に今ではない。

 これが薄暗い森とか、廃墟の街とか、深い洞窟とかなら「いい度胸じゃないか」と囃し立てるところだが、ここは女子用宿舎だ。

 

 お化けが出ても怖いだけだが、巡回に見つかれば即拘束、一般生徒に見つかればぶっ飛ばされるに違いない。特に魔術学院生だった場合、軍学校生よりよほど殺意の高い攻撃が飛んでくることだろう。

 

 「……じゃあ、何か案はある?」

 「んふふふ。任せて下さい」

 

 フィリップは妙な笑いを漏らすと、身を潜めていた角から姿を現し、隠れる場所の無い回廊を堂々と進み始めた。

 マシューは「何やってんだあの馬鹿!」と唸り、ウォードは一緒に怒られる覚悟を決めて嘆息する。

 

 当然のように見張りの二人はフィリップを見咎めて呼び止め──二、三言だけ話すと、扉を開けて通してくれた。

 

 「え? なんで……?」

 「あー……僕、分かったかも。あの吸血鬼だ」

 

 得心がいった顔で頷くウォード。その推察は正解だった。

 フィリップは「今日の分の血をあげるのを忘れていた」と言って、ミナの部屋に行く風を装ったのだ。ミナが毎日血を吸わなくてもいいということを知っているのは、この砦の中ではフィリップに近しい一部の人間だけだ。飢餓状態の吸血鬼に襲われては堪ったものではないし、彼女たちとしては通すほかない。

 

 それに、フィリップはまだ子供だし、不埒な目的があってのことではないだろうと判断が甘くなる。まぁ事実として、フィリップが行動基準を歪めるほどの性欲を、人間相手に抱くことはないのだが。

 

 「……あれ? 俺たちは?」

 「……あ、ホントだ」

 

 後に残された二人は顔を見合わせる。フィリップは二人のところに戻ることなく、そのまま塔の中に入ってしまった。

 まぁ肝試しのルールは決めていなかったから、一人ずつ行くこと自体に否やは無い。しかしそうなると、残る二人ともが門番を突破する言い訳を考える必要があった。

 

 ウォードは「フィリップくんを迎えに来ました」という言い分が通るかもしれないが、「外で待て」と言われそうな気がする。マシューは……その付き添いという言い訳は苦しそうだ。

 

 「……中庭ルートか?」

 「冗談。それなら僕は帰って寝るよ」

 

 結局、ウォードとマシューは物陰でフィリップの帰りを待つことにした。

 

 

 ◇

 

 

 女子用の宿舎とはいえ、建物自体はフィリップたちのものとほぼ同じ士官用の宿泊施設だ。特に女子っぽい装飾で彩られていたりはしないし、古い建物に特有の不思議な匂いが漂っている。フィリップはなんとなく実家の倉庫を思い出す匂いだ。埃っぽくて、木と石の匂いが乾いた空気に混じっている。

 

 壁に等間隔で並んだ燭台の一つを拝借し、薄明りに照らされた廊下を進む。

 大半の生徒はベッドに入っているし、そうではない不真面目な生徒も部屋の外にまでは出てこないはずの時間帯だが、見つかったら怒られると思うと妙な緊張感があった。

 

 そしてそれ以上に、お化けが出るという情報が背筋を冷たくする。

 ゴースト系の魔物か、もういっそ何かしら邪神かそれに連なるモノであってくれとさえ思う。流石にルキア達と同じ建物の中でハスターやクトゥグアは呼べないが、中央塔まで戻ればナイ教授がいるだろう。

 

 不意に背中に視線を感じて、ろうそくの火が危険に揺らぐのにも構わず勢いよく振り返る。……気のせいだった。廊下は全くの無人で、蝋燭の暖かな光に照らされている。

 

 「思ったより怖い……!」

 

 フィリップは足音を殺して歩きつつも、大声で叫びたい衝動に駆られた。後頭部を何かに見られているような、背後を何かが追ってくるような、空気が粘度を持ったまとわりつくような感覚を拭い去るには、それが一番だと本能的に理解していた。

 

 しかしそれではフィリップの侵入が大勢にバレるし、そうなるとお化け探しどころではない。

 

 フィリップはここで、漸く一つの問題点に気が付いた。

 この五階建ての塔のうち──地下階層を入れると六階──具体的にどの辺りにお化けが出るのか、フィリップは知らない。ぱっと思いつく怪しい場所は地下倉庫とトイレくらいなものだが、どこか特定の個室とかだと詰んでいるのでやめてほしい。

 

 「また未知か。やだなぁ……」

 

 左手に燭台を持ち、左腰に佩いた剣の柄に右手を添えて、忍び足で廊下を歩く。

 古い建物だが石造りで、床板が無いから軋むことはない。その代わり、ひた、ひた、と薄いカーペットが僅かな足音を立てる。

 

 廊下を進み、角を曲がるときはとても緊張したが、身を隠して覗き込んだ先の景色は、たったいま通り過ぎた廊下と変わらない。向きの関係で、窓から差し込む月光が翳っているくらいだ。

 

 その通路を何事も無く通り抜けると、上下に分かれる階段に差し掛かった。

 フィリップはいま三階にいて、ミナは五階にいる。万が一生徒に見つかった場合に言い訳が利くのは上のルートだが、露骨に怪しい地下へ行くには降りるしかない。

 

 フィリップは少しだけ悩み、結局、上に登る階段に足を掛けた。

 階段にある燭台は踊り場の一つだけで、廊下よりずっと薄暗くて寒かった。足早に階段を上り終えたフィリップは、また曲がり角から先の様子を窺い──目の前を、青白い何かが通り過ぎた。

 

 「……へ?」

 

 たったいま、外壁を通り抜けて塔の中に入って来たように見えるそれは、一歩たりとも踏み出さずに前進し、石造りの上から薄いカーペットが敷かれた廊下を滑っていく。

 

 それは一見すると、ヒトガタのように見えた。フィリップの三倍近い身長があって、頭は天井と擦れている──いや、僅かにめり込んで、すり抜けているのだろうか。

 輪郭は曖昧で身体も半透明だったが、二足二腕で頭部と胴体が縦に並んでいるように思われた。しかし震える手で蝋燭を掲げて目を凝らすと、明らかに人間ではないことに気が付いた。

 

 腕は床を擦るほど長く、鎧のような甲殻を纏っている。明らかに比率の合っていない小さな手は、別の生き物から移植したような歪さだ。その中ほどからは巨大な鉤爪を備えた付属肢が生え出でて、蟹のハサミにも似ていた。

 頭部に毛は生えていない。いや、肩の部分から生えたもの、青白い球体が酔ったように揺れるそれが頭部であるという確証は無かった。

  

 「でっっっっ!?」

 

 声が完全に裏返るほどの衝撃だった。

 

 ゴースト系の魔物──ゴーストやゴースト・ドッグといった手合いは、必ず何かの生物に似た姿をしている。青白くて半透明だったり、足が無かったりするが、今見た異常はそんな程度では済まなかった。

 

 あれは明らかにゴースト系の魔物ではない、本物の正体不明だ。

 

 フィリップは燭台を適当に放り投げ、古龍の骸で作られた蛇腹剣を抜き放った。

 あれはいまフィリップの目の前を通って、フィリップは驚きのあまり声を上げてしまった。そうなればもう隠れるとか逃げるとか、そんな甘い考えは持っていられない。

 

 燭台は運よくカーペットのない石床の部分に転がっているから火事の心配はないが、フィリップは曲がり角から身を乗り出した時、投げ捨てた火種の行方を捜す余裕を失った。

 

 ──いない。

 

 影も形も曖昧なやつだったが、今や廊下は完全に無人で、影も形も無くなってしまった。

 

 最悪だ。

 正体不明は行方まで不明になってしまった。あれが何処にいるか分からない。今まさに真後ろに立っているかもしれないと思うと、フィリップは偏執的に背後を確認せざるを得なくなった。

 

 しかし、剣を構えて右往左往している余裕すら失われる。フィリップが漏らした驚愕の声は、同じ階どころか階段に反響して階下にまで届いていた。

 

 「誰だー? 消灯時間過ぎに廊下に出てる馬鹿娘はー?」

 

 こつり、こつり、呆れ声と共に階段を上ってくる人がいる。教員か軍学校の生徒か、どちらにせよ巡回役の誰かだろう。「ミナのところに来ました」という言い訳が通ることは確認済みだが、今の一幕で完全に気が動転しているフィリップは完全に忘れていた。

 

 あわあわと慌てふためいて階段を上り、慌ただしく廊下を駆け抜ける。お化けと先生を怖がって頻りに後ろを気にしていたフィリップは、部屋の扉の一つが軋みながら開いたことに、激突の瞬間まで気付かなかった。

 

 

 

 

 

 



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298

 後ろを確認しながら走っていたフィリップは、部屋の扉の一つが軋みながら開いたことに、激突の直前まで気付かなかった。

 ごっ、と鈍い音を立てて弾かれた左手が、ドアと接触したのだと分かった時には、既に体勢を崩して転んでいた。

 

 「痛った!?」

 

 素早く立ち上がったフィリップは、自分が侵入者であり、就寝時間後に廊下をドタドタ走り回っていたことを完全に棚に上げて、何処の馬鹿がドアを開けたんだと恨みがましい視線を向ける。

 

 その不遜な視線を、およそ人間に向けるものではないような、絶対零度の赤い視線が押し潰した。

 見下ろす双眸に宿るのは、耐え難い馬鹿を見る冷酷な光。目だけで言葉が話せるとしたら、きっと「どうしてお前は生きているの?」とでも言いそうな、心胆を凍り竦ませる一瞥だった。

 

 しかし、赤い双眸は驚いたような瞬きのあと、親愛に満ちた暖かな光を宿し、そして怪訝そうに眇められた。

 

 「……どんな愚か者がこんな時間に騒いでいるのかと思えば、フィリップ、貴方なの? 明日も訓練なんだから、早く眠りなさいな」

 

 そう言う彼女はもうベッドに入っていたようで、滑らかな光沢のある生地のパジャマ姿だった。

 呆れたような微笑を浮かべたルキアは、フィリップが女子用宿舎にいることに拒否感を持っていないようだ。何をやっているのだろうという疑問は、勿論あるようだが。

 

 「る、ルキア! お化け、お化けが出ました! 今さっき、すぐ下の階で!」

 「お化け……?」

 

 ルキアは微かに首を傾げ、フィリップの足元をじっと見つめた。

 その視界のチャンネルは魔力次元に合わせられており、硬い石の床を透かして階下の魔力情報を読み解いている。ややあって顔を上げた彼女は、どこかばつの悪そうな表情を浮かべていた。

 

 「……何か、見間違えたんじゃない?」

 「いやいやいや、あれは絶対お化けでした! 確実に人間じゃなかったし、なんか透けてたんですって!」

 「そう……」

 

 ルキアは自分の目とフィリップの言葉をどちらも信じて、何とか妥当性のある推理をしようと頑張っていた。

 しかし、数秒の黙考は階段を上ってきた教師の怒声で中断される。

 

 「そこの君、何してるの!」

 「やば──、っ!?」

 

 思わず声を上げかけたフィリップは、廊下の側から押されるような、或いは部屋の中から引っ張られるような不思議な力に導かれて部屋の中に転がり込んだ。

 

 明らかにフィリップを見つけて怒った女教師は、肩を怒らせてずんずんと歩いてくる。ルキアは悠然と立ったまま、彼女を迎え撃つ姿勢だ。

 しかし彼女がルキアの部屋の前に到達したとき、フィリップの姿は何処にもなかった。彼女はルキアが部屋に入れたのだと思って開け放たれたままのドアから中を覗くが、中に人影はない。

 

 「……サークリス聖下、今ここに──」

 「勘違いよ。行きなさい」

 

 吐き捨てるように命じるルキアの声に、数秒前までの親愛の情や柔らかさの類は一片も残っていなかった。

 女性でありながら騎士爵位を持った教師が、思わずぐっと息を詰まらせる。肺の中が凍り付いたと錯覚するほどの、心胆を震え上がらせるような隔意の奔流に襲われて。

 

 「っ……はい、聖下」

 

 気付けば、一礼して踵を返していた。

 

 支配魔術や、脅迫によるものではない。

 ただ単純に気迫で押し負けて、一刻も早く立ち去りたいという衝動に駆られた結果だ。

 

 足早に立ち去っていく教師の背中が角を曲がって見えなくなると、ややあって、二つ隣の部屋の扉がそっと開いた。

 

 「……なんでカーターがここに居るんだ?」

 

 ルキアと同じくパジャマ姿のステラが顔を出して、眠気交じりの胡乱な目を向けた。

 「なんのこと?」とルキアはしらを切ったが、ステラはルキアの部屋の方に壁を見透かすような目を向ける。それだけで、ルキアは澄まし顔を苦笑の形に歪めた。

 

 「……フィリップ、いい?」

 「はい、勿論」

 

 ルキアは肩を竦めて一歩、廊下側に避けた。

 その隙間を通って外に出たフィリップは、今まで何も無かったところに自分の身体を見つけた。他人を透明化させるのは難しいと本で読んだのだが、ルキアは先生に見られながら一部の狂いもなくフィリップを透明化させて隠してくれたのだ。

 

 その精度と速さたるや、フィリップは自分の手や足が無くなってパニックに陥る寸前だった。

 

 「ルキフェリア、「いい?」ってどういう意味だ。もし「駄目です」と言われたら、私と撃ち合うつもりだったのか? いま、ここで?」

 「貴女が強要するのなら、そうなっていたかもね」

 

 挑戦的にではなく、あくまで淡々と言ったルキアに、ステラは呆れたように嘆息した。

 

 「お前は全く……まあいい。カーター、お前はここで何をしてる?」

 「え? あ、そうだ、お化け! 殿下、お化けが出ました! 今さっき下の階で──」

 「──声が大きい。消灯時間後だぞ」

 

 ステラに頬を掴まれて、フィリップは「う、す、すみません」とモゴモゴ謝った。たったいまルキアに助けられたのに、ステラ以外の生徒や別の教師に見つかったら面倒だ。

 

 「お化けを探しに来たのか? 何か、邪神に関係したものなのか?」

 「いえ、それは……違うと思います、多分」

 

 なんか怒ってる? と恐々と、フィリップはつい先刻に遭遇した“お化け”のことを思い返す。

 でっかくて、半透明で、明らかな異形ではあったが──神威は微塵も感じなかった。フィリップの神威を感じるセンサーはほぼ麻痺していると言ってもいいが、それも地球産の相手に対してだけだ。邪神に連なる相手なら、故郷の森にいた黒山羊程度の劣等種相手でも感じ取れる。

 

 あれは邪神に関連した手合いではない。

 邪神そのものでもなければ、その落とし仔でもないはずだ。

 

 「……それを確かめに来たのか?」

 「え? いえ、お化け探しに──」

 

 漫然と答えたフィリップだが、ステラの顔を見た上で先を続けることは出来なかった。言葉は尻すぼみに小さくなり、おずおずと上目遣いにステラの顔色を窺う。

 彼女は呆れると同時に、怒ってもいた。深々とした嘆息が、それを端的に表している。

 

 「好奇心で女性の寝所に忍び込むのは、賢い行いとは言えないな」

 「え? いや、部屋には入ってません!」

 

 フィリップは100パーセントお化けの正体を見極めるためにここに来たのだが、別なやましい目的があったかのように言われ、慌てて言い募る。

 しかし、ステラはフィリップの言葉に大した意味を見出さなかった。ルキアとステラ以外の生徒に見つかった場合にそうなるように。

 

 「同じことだよ、部屋でも廊下でも、入ろうとしていたと思われたら終わりだ。ここには私たち以外の女子生徒も大勢いるんだ。私のテントとは訳が違うんだぞ」

 

 ぴしゃりと言い切ったステラに、ルキアもこくこくと頷く。

 当初は然程気にしていなかったようだが、やはりここまで軽率な行動を看過するのはフィリップの為にならないと思い直したらしい。が、ステラが妙に引っ掛かることを口にしたのに気付いてしまった。

 

 「そうね、確かに軽率……テント?」

 「ん? あぁ、カーターが前に寝惚けて私のテントに……いや、そんなことはどうでもいいだろう?」

 

 寝惚け眼から復帰する速さは流石の一言だが、如何せん、少しばかり遅かった。

 

 「……明日聞くわ。フィリップ、出口まで一緒に行きましょう」

 「はい。あの、殿下、すみませんでした」

 

 フィリップを伴って廊下を歩いていくルキアの背中に、ステラは寝言のように「やらかした……」と呟いた。

 

 ステラも人間だ。寝入った直後に教師の怒声で──かなり控えめだったが、元々寝ていても外界の様子に敏感なステラを起こすには十分だった──起こされていれば、思考の速度も大きく落ちる。

 

 ただ、その言い訳でカバーしきれない程度には、漏らした情報は大問題だった。

 

 以前にミナの城から帰る道中で、フィリップがテントを間違えて入って来たことがある。どういうわけか、見張りをしていたメイドが素通りさせて。「もうちょっと詰めてよミナ」などともにょもにょ言いながら押しやられて「なんだこいつ」とは思ったものの、ついそのまま二人で寝入ってしまったことがあった。

 

 勿論、アクシデントはそれだけだ。一緒に寝る以上のことは無かったし、朝起きて「何してるんですか?」と半笑いで尋ねたフィリップ──ステラがテントを間違えたと思った──をくすぐり倒したあと、ちゃんと緘口令を敷いた。ちゃんとルキアのメイドにも灸を据えて、フィリップ同様に緘口令を敷いた。

 

 なのに、まさか自分で口を滑らせるとは。

 

 ステラは夢であってくれと思いながら自室に戻り、もぞもぞとベッドに潜り込んだ。その日ステラは、ルキアに正座させられて説教される夢を見た。

 

 

 ◇

 

 

 

 翌朝の朝食時にも、ステラはまだ怒っていた。

 挨拶もそこそこに手早く食事を終えた彼女は、フィリップが食べ終えるのを待ってグラスを置いた。 

 

 「……カーター。昨日の件について、追加で話がある」

 「え……」

 

 怒られるだけでも嫌なのに、同じことで二度も怒られるなんて最悪というほかない。それに、ステラは同じことで長々と怒るタイプではないと思っていたのだが、見込み違いだったのだろうか。

 

 「そう身構えないで。怒るというよりは……そうね、注意喚起が主だから」

 

 苦笑交じりにルキアが宥める。二人は事前に何を話すかを共有していたようだ。

 

 要は説教じゃないかと思ったフィリップだが、口にも態度にも出さない。怒られている最中に反抗したって、何もいいことは無いのだから。反論材料が完全な時にだけ反論して、あとは適当な相槌と「反省してます感」でやり過ごすのが賢い行いだと知っていた。特に、自分に非があるときには。

 

 まあ、二人からするとフィリップの顔には「めんどくさいな」と明記されていたのだが。

 

 「昨日の夜、お前は女子用の宿舎に入って来たが──あれは軽率に過ぎる」

 「……はい。すみませんでした」

 

 ルキアもステラもフィリップと仲がいいとはいえ、女性だ。寝室の近くを男がうろうろしていていい気はしないだろう、と、一晩経ってお化け騒ぎの興奮が落ち着いた今なら理解できる。

 だがそれはそれとして、やっぱり同じことで二度も怒られるのは気分が良くなかった。

 

 しかし、ステラは「謝る必要はない」と頭を振った。怪訝そうに首を傾げたフィリップに、彼女は「まぁ聞け」と先を続ける。

 

 「お前は龍殺しの英雄、そして将来の公爵候補だ。爵位の貴賤を問わず、いや、貴族・平民を問わず、喉から手が出るほど欲しがる輩が大勢いる」

 「え? はぁ……そうなんですか?」

 

 ステラの言葉に説得力はない。いや、フィリップはステラの言葉をほぼ無条件に信じるので、正確には実感が無いと言うべきか。

 貴族平民を問わず“欲しがられた”ことは一度も無い。というか、そもそも龍殺しの英雄に関してはほぼ間違いだし、公爵候補に関しては初耳──「爵位と領地は然るべき時に渡すからね」としか言われていないし──だった。

 

 胡乱に尋ねたフィリップに、ステラは淡々と頷く。

 

 「そうだ。お前の年齢諸々を考慮して王宮の側で差し止めているが、婚約の申し込みは後を絶たないし、既にお前の家族に対する強硬な干渉が──落ち着け、王宮の監視役が対処した。お前の家族にも気付かれていない」

 

 フィリップが怖気を催すような怒気を纏い、ステラは慌てて宥める。

 自分やルキアがそうであるように、フィリップもまた大量虐殺に心理的抵抗感を持たない破綻した精神の持ち主だ。もしもフィリップが王国貴族に対してカルトに対するものと同等の敵意を持ってしまえば、王国は容易に滅びるだろう。

 

 「奴らはどんな手でも使うだろう。特に、お前が実際に爵位を持たない平民であるうちはな。魔術、薬物、姦計、何でもするだろう。簡単かつ言い逃れし辛いのは、やはりハニートラップだ。もし仮に女子用宿舎にいるところを奴らに見つかってしまえば、そのまま部屋に連れ込まれて──」

 「──ステラ?」

 「……大変不味いことになっていた。分かるな?」

 

 ルキアとステラが表現についてアイコンタクトを交わすのに気付かず、フィリップは顔を蒼白にしてこくこくと頷いた。

 それは非常に不味い。なんせヨグ=ソトースの守りは龍の一撃さえ素通しするザルっぷりだし、フィリップの対スリープ・ミスト対戦成績は0勝2敗だ。フィリップが抵抗できる可能性はない。

 

 「普段は私たちが一緒にいるし、ミナを怖がって強硬策に出る奴は殆どいない。そもそも平民連中でお前のことを知っている奴はごく一部だろう。だが、お前が自分から餓狼の顎に身を差し出したのなら話は別だ。たとえお前にそのつもりが無くても、お前が望んでいなくても、この世には“既成事実”という便利で恐ろしい言葉がある。……意味の説明は必要か?」

 「い、いえ、大丈夫です……」

 

 実体験とか身近にハニトラ被害者がいるとかそういうわけではないのだが、フィリップが以前に読んだ本の中に、そういう展開の話があった。あれは確か、ハニートラップを喰らった英雄が最後には毒殺されて終わる。

 ハッピーエンドを迎えない英雄は、大抵裏切りによって後ろから刺されるか、毒を盛られるかで死ぬから、そう珍しい展開というわけでもないのが恐ろしいところだ。

 

 「そういう訳だ。カーター、お前に人間に対する警戒心を持たせたくなくて、ずっと黙っていたが──」

 「──杞憂ですよ、殿下」

 

 見定めるような、或いは子供が親の顔色を窺うような目と共に言葉を切ったステラに、フィリップは安心させるように笑いかけた。

 この程度の事で、フィリップが人間全体に警戒心を持つことは無い。良くも悪くも、人間風情に警戒心を持つことが難しいのだ。そして、フィリップが人間を見限ることもない。フィリップはもう、泣きたくなるほどに美しい人間性を目の当たりにして、人間の素晴らしさを知っているのだから。

 

 「でもそれはそれとして、毒殺はイヤなので気を付けます」

 

 フィリップは大真面目な顔で、しかつめらしく頷いた。毒殺とか絶対苦しいもんなぁ、なんて考えている。

 ルキアとステラは「ハニートラップ=毒殺」という極めて限定的な論理の飛躍に首を傾げたが、フィリップが軽率な行動をしなくなるなら何でもいいので、曖昧に笑って頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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299

 その日の訓練はいつもより厳しく、フィリップは「きっと夜中にうろうろしないように、限界まで疲れさせるつもりだな」と思った。そして、それは正解だった。

 

 フィリップは龍貶し(ドラゴルード)のソードウィップ形態の使用を禁じられて、今はロングソードの扱いに慣れるのが優先だ。

 100センチ超の棒を持ったままでは極端に走り辛いから、“拍奪”の精度も大きく落ちる。だというのに、ルキアもステラも容赦なく弾幕の密度を上げてきたし、ウォードもマリーも体格で劣るフィリップを相手にパワー勝負を仕掛けてきた。ミナが一番優しかったぐらいだが、彼女はそもそもこの中で一番強いので、手加減していようが意地悪していようが、フィリップは手も足も出ない。

 

 「……よし、5分休憩にしよう」

 「…………ぁぃ」

 

 声も出せないほど追い込まれたフィリップは、ぐったりと地面に寝転がったまま呻いた。

 たったいま、ミナ相手に五分間の耐久──五分間の戦闘機動の持続をこなしたばかりだった。酸素も足りなければ水分も足りないし、アドレナリンの過剰放出で手足がプルプルしている。心拍も異常に速いし、耳鳴りまでする。ここまで体を酷使したのは久し振りだった。

 

 というか、何なら龍狩りより疲れた。まあ、あの時は一撃喰らって以降、大ダメージによる感覚麻痺状態だったからあまり参考にはならないが。

 

 フィリップはそんな益体の無いことを考えながら、モゾモゾと動いて何とか立ち上がった。

 

 「大丈夫?」

 「だいじょぶれす。といれれす」

 

 口の中に粘ついた涎がまとわりついているのに、喉はカラカラでマトモに声が出せなかった。心配そうなルキアに適当にサムズアップして追い返すが、別にトイレに用があるわけではなかった。というか、ここまで交感神経優位だと尿意も便意も消え失せる。

 

 顔でも洗って戻ろうかな、と考えながら中庭に入ると、妙に多くの生徒と目が合った。──いや、ここ一カ月くらいはずっとそうだったのだが、今朝のステラの話で多少なりとも意識が変わり、自分に向けられた視線や意識に敏感になっていた。

 

 所属する学校、学年、性別を問わず、フィリップの方を見ては近くの生徒とひそひそと話しているのが目に付く。その中の殆どが貴族で平民は二割にも満たないのだが、フィリップには知る由も無いことだった。

 男子生徒は声がよく通るからか、「あれが例の」とか「まだ子供なのに」とか漏れ聞こえてくる。女子生徒は会話の内容より、フィリップをちらちら見ながら漏らすクスクスという笑い声が耳に付いた。そんなに笑える逸話はないはずなのだが、何がそんなに面白いのだろうか。

 

 フィリップは少しだけ気を悪くして、足早に塔の中に入った。

 中には風の当たらないところでサボっている男子生徒がいて──見回りの生徒や教員が来たら「トイレに来ただけです」と言える位置だ──フィリップを見ると慌てて立ち上がったが、見回り役ではないことに気付くと、また廊下の端に座り込んで駄弁り始めた。

 

 フィリップがトイレに入るときは「あれ、例の龍狩りに付いて行ったって子じゃないか?」と囁き合っていたのだが、出てきた時には全く別の話題にシフトしていた。

 

 「ホントか? ってか、なんで女子寮のことなんか知ってんだよ」

 「いや、昨日彼女の部屋に行ってて」

 「は? どうやって?」

 「中庭玄関の鍵、彼女が開けといてくれたんだよ」

 

 ウォードの友人──マシューと似たようなことを考えるやつがいたのか、と意外そうな一瞥を呉れて、フィリップはそれ以上の興味を持たずに彼らの傍を通り過ぎる。

 しかし、すぐに聞き捨てならない内容が聞こえてきて、フィリップは廊下に張り出された部屋割り表で友達の名前を探すふりをして立ち止まった。

 

 王宮に両親が呼ばれたことで“猊下”疑惑はかなり収まったものの、今度は龍殺しの英雄になってしまったフィリップに友達なんていないのだが。

 

 「そこでさ、お化けが出たんだよ。いや、見たわけじゃなくて()()()んだけどさ……」

 

 サボり学生は演出のための間を置いた。

 片割れとフィリップは全神経を耳に集中し、彼が語る情景を詳らかに想像しようと準備した。

 

 「滅茶苦茶遠くから聞こえるような、むしろ耳元で聞こえるような奇妙な声でさ……聞こえたんだ……“たすけてください”……“ゆるしてください”……って。女みたいにか細い声だったけど、男の声だったな。妙だろ? 俺みたいに忍び込んだ野郎が、誰か女子生徒にボコられてたって風じゃない。それなら、もっといろんな音が聞こえたはずだ」

 「うわ、うわーっ! クッソ怖いな、おい! それで? 見たのか?」

 「いや、見てない──」

 

 これ以上の情報は無いか、とフィリップはサボり学生から離れていく。いや、そもそも彼の話した内容が本当なのかも怪しい。いわゆる尾ひれ、彼の創作や勘違いである可能性の方が高いくらいだ。

 

 お化けはいる。それは間違いない。フィリップが自分の目で確かめたのだから。

 しかし、フィリップの前であれは一言も発していないし、一目見ただけだが人語を解せるようには見えなかった。あれは明らかに人外の何かだ。

 

 「でも、彼女の部屋から出た時さ、妙な臭いがしたんだ」

 「性臭か? だったらお前の鼻にこびりついてただけだぞ」

 「うっせ。ホントに怖かったんだから黙って聞けよ」

 

 フィリップはなんとなく足を止め、もう少しだけ立ち聞きすることにした。

 それは別に彼の話が急に信憑性を帯びたように感じたとかそういう訳ではなく、“臭い”というワードに気を引かれたからだ。フィリップがミナに惹かれ、ミナがフィリップに惹かれ、そして何よりフィリップが一部の神話生物に好かれ、ほぼ全ての野生動物に嫌われる理由。──『(にお)い』。

 

 「なんていうか、(くさ)いっていうのはそうなんだけど、それ以上に怖くてさ。爺ちゃんが死んじまった時、埋葬するまで寝かされてた地下室の……死体安置所っていうのか? あそこみたいな独特のやつだった。埃と黴と、あとは……こう、病気っぽい臭いと、ちょっと腐ったような臭いもしてさ。吐きそうだし、何より怖かった……」

 

 サボり学生は思い出しただけで顔を蒼白にしていたが、友達の前だからか、両腕で震える肩を押さえつけて気丈に振る舞っていた。

 

 彼らはふと廊下に目を向けたが、フィリップはとっくのとうに走り去っていて、もう砦の正門を出たところだった。

 

 ふらふらしながらトイレに行ったかと思えば、今度は全力疾走で帰って来たフィリップに、ルキア達年上組──或いは指導組──は揃って怪訝そうな目を向けた。

 

 「どうしたの? お化けでも出た?」

 「そんな感じです! ちょ、ちょっとルキアと殿下だけ来て貰っていいですか? 大至急!」

 

 フィリップは揶揄うような笑顔のマリーに余裕なく返し、ルキアとステラの手を掴んで城壁の影に引っ張っていく。

 片や王族、片や最高位貴族という生まれで、何より聖人という地位がある二人は、生まれて初めての乱暴な扱いに顔を見合わせて微笑を浮かべた。

 

 残された三人に声が届かない場所まで離れたことを確認して、フィリップは二人の手を引いて顔を突き合わせる。二人が全く抵抗しなかったので危うく頭をぶつけそうになり、皆が一斉に顔を引いた。

 

 「……どうした? 何か問題か?」

 「大問題かもしれません。……ルキア、前に重力操作の極致は時間操作だって言ってましたよね」

 「そうね。……貴方が「絶対やるな、死んでもやるな」って言うから、試したことは無いけれど」

 

 怪訝そうに答えたルキアに、フィリップは刺すような目を向けた。そこに含まれた強烈な疑念の色に、ルキアは傷付いたように眉尻を下げる。

 

 だがフィリップは視線を全く緩めない。

 赤い双眸の奥底を見透かそうとするように、暗く淀んだ青い瞳を眇める。ステラが嗜めるように伸ばした手も、それどころではないと言いたげにぞんざいに払った。

 

 「本当に? 一度もやったことはないですね? 少しも試したことはないんですよね?」

 「えぇ。私の神に誓って、魔術式の一項たりとも実行したことは無いし、魔術の一部だって使ったことは無いわ」

 

 ルキアの声は固かったが、嘘を吐いている感じはしなかった。尤も、フィリップに言葉の真偽を確かめるような目はないのだが──フィリップは何度か浅く頷いて、それから深々と頭を下げた。

 

 「疑ってごめんなさい、ルキア。凄く重要なことだったんです」

 「……いいのよ、気にしないで」

 

 そう言って、ルキアはフィリップを柔らかに抱擁した。仲直りのハグといったところか。フィリップも自分が焦っていた自覚はあったし、焦燥感から態度がキツくなっていたのも自覚していたから、最大限に親愛の情と謝罪の意を込めて抱擁を返した。

 

 ややあってルキアの方から手を放すと、フィリップは今度はステラの方に目を向けた。

 

 「一応聞いておきますけど、殿下は使えませんよね? 時間操作魔術」

 「引っ掛かる言い方をするじゃないか。まぁ、使えないが……言っておくがルキアが特別なだけで、他の誰にも無理な魔術だぞ? そもそも超重力空間において時間の流れが変わるというのも、ただの仮説で──」

 「──あ、すみませんでした、ごめんなさい、拗ねないでください……」

 「拗ねてはいない。……で、どういう話だ? お前の慌てようを見るに、()()()()の話のようだが」

 

 流石、と指を弾くフィリップ。

 その脳内では、どこまで話すべきかと思考が急回転していた。

 

 フィリップが危惧していることが現実に起こっているのなら──奴らがこの空間にいるのなら、最低でも二人を同じ部屋で眠らせるか、フィリップ自身が立哨になる必要がある。

 

 奴らとは即ち、死体安置所の臭いを振りまく常外の存在。この世に在らざるモノ。

 

 ──ティンダロスの猟犬。

 フィリップが知る非神格の中で最も恐ろしく、シュブ=ニグラスに与えられた智慧が最大限の警戒を呼び掛ける怪物。

 

 単純な強さで語るなら、恐らく、古龍に軍配が上がる。「ただそこに在るもの」として、龍はそれなりに高位にいる。

 だが攻撃力──いや、()()()で語るなら、奴らの勝ちだ。「追い立てるもの」「狩り殺すもの」として、奴らを上回るものはいない。

 

 奴らは古龍のような存在格を持たず、最上級金属を鍛えた武器による攻撃すら軽減する鱗も持たない。外皮は硬くはあるものの、フィリップの蛇腹剣でも徹せる程度。その代わりのように、人間に対する執着的な殺意と、それを叶えるための追跡能力と攻撃力を持っている。

 フィリップのカルトに対する偏執的なまでの敵意ですら、奴らの執着心に比べれば一歩劣るほどだろう。

 

 その執着心は、主に時間移動を成し遂げた者に向けられる。

 ある特定の手段を用いて時間を移動すると、その道中で奴等の棲み処に立ち入ってしまうのだ。そこで臭いを覚えられて──奴らが臭いを頼りに獲物を追うかどうかは判然としていないが──次元の果てまで追跡され、追い詰められ、そして殺される。

 

 奴等の追跡を逃れる方法は極めて少ない。

 極めて難解な禊の魔術によって臭いを誤魔化すか、追跡者を撃退するかの二択だ。逃げ続ける限り、追い続けてくる。たとえマイナスの時間をかけて逃げようと──つまり、時間移動する前の時間にまで遡ったとしても、奴らはそれを追ってくる。

 

 恐ろしいのは、それが単一の存在ではないところだ。

 猟犬とは言うものの、その外見は決して犬には似ていない。その名は在り方から取られたものだ。

 

 奴らは大量に飼育され、使役され、普遍している。

 ティンダロス領域の住人たちにとって、奴らは狩りの道具でしかないのだ。その総数は全くの不明だ。フィリップがこの大陸を駆け回る猟犬たちの数を知らないように、笑えるほど膨大だということだけは絶望的にはっきりしている。

 

 恐ろしく、悍ましい。

 奴らのことを詳しく、そしてはっきりと知っているフィリップが身震いするような化け物どもだ。アレと対峙するのなら、もう一度古龍と対決した方がマシだとさえ思う。なんせ、古龍相手なら逃げ切れる可能性があるのだから。

 

 「……知らない方がいい話です」

 

 フィリップは結局、ステラの問いを拒絶した。

 ステラはルキアのように傷付いた表情を見せず、むしろ事の重大さを理解したように深く頷く。その表情に微かな恐怖が過ったのを見て、フィリップは慌てて、努めて明るい声を出した。

 

 「それに、まだ確定したわけじゃないんです。ルキアが時間操作魔術を使ってないなら、そもそも起こり得ないはずで……勘違いとか考えすぎとか、杞憂の類だと思いますし」

 

 面倒なことを聞いてしまった、と、フィリップは深々と嘆息した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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300

 章タイトルを打つときに「300話……300話!?」って二度見したのは内緒。遠くまで来たね、お互いに。
 奇しくも今日は作者の誕生日です。めでたいやらめでたくないやら

 みんなー! 祝ってー! プレゼントおくれーっ!


 一応、ミナにも時間操作魔術の実行可否を聞いてみたのだが、彼女にも無理という話だった。闇属性魔術に於いて右に並ぶ者のいないルキアでさえ軽率に検証できない高難易度の魔術となると、他の学生には絶対に無理だろう。一先ず安心したフィリップは、立ち聞きしたサボり学生の話を単なる与太話、尾ひれの類と判断して気にしなかった。

 

 それでも一応、その日の夜、ウォードが寝た後にルキア達の宿舎に行こうと思っていたのだが、無理だった。ステラが狙った通りに、疲労困憊で朝までぐっすり寝てしまったからだ。

 

 翌朝、フィリップは一生の不覚と言いたげな顔で朝食の席に現れた。

 いつもの将官用の談話室は暖炉の熱でぽかぽか陽気だったが、フィリップは夜通し爆睡していたので眠気を催さなかった。王都のものより数段質の落ちる食事をつまらなそうに食べ終えると、フィリップはミナに聞こえないよう、少し身を乗り出して小声で話しかける。

 

 「……で、どうでしたか?」

 「昨日の話か。私も気を配ってはみたが、特に変な臭いはしなかったぞ?」

 「そうね。強いて言えば、雨の臭いがしたくらいかしら」

 「まあ、夜は雨だったからな……」

 

 窓から覗く空は灰色の曇天だったが、雨は夜のうちに止んでいた。

 

 フィリップは安心したような、むしろがっかりしたような微妙な気持ちで頷き、無言のまま紅茶のカップに手を伸ばした。

 奴らがここに居るのか、居ないのか。それだけでもはっきりすれば、行動の指針も固まるというのに。ルキアかステラの言葉なら無条件に信じられるが、見ず知らずの他人の言葉は鵜呑みにはできない。

 

 「ナイ教授に聞いてみたらどうだ? 私たちより目は良いだろう?」

 

 背もたれに体重を預けながら、なんでもないアイディアのように言うステラ。

 一見すると最適解かもしれないが、そもそもあれが素直に答えてくれるとは思えなかった。フィリップだってナイ教授に「奴らがいるんですか?」と聞くだけで問題の半分が片付くなら、とっくにそうしている。

 

 「アレに会いに行くなら、フィル、先に血を頂戴ね」

 

 三人の会話には加わらず、ソファでワイングラス片手にフィリップを眺めていたミナが、唐突に眉根を寄せて言う。

 フィリップは「あ、うん、分かってる」とサムズアップで応じるが、ルキアとステラは怪訝そうにしていて、フィリップは補足説明の必要性を認めた。

 

 「ミナはナイ教授の匂いが、っていうか、ナイ神父とかマザーの匂いも無理みたいで。この前、教会から帰って来たときなんて、頭から水を掛けられたんですよ」

 

 けらけらと笑うフィリップ。ルキアとステラはとんでもないと言いたげな目でミナを見るが、フィリップは気にしていなかった。いや、当時はかなりショックだったが、理由を聞いた今では納得している。

 

 「……だって、腐乱死体と抱き合っていたような臭いだったんだもの。石鹸で落ちなかったら、本当にどうしようかと思ったわ」

 「野生動物並みの嗅覚があるのか。それにしては、カーターの臭いは平気なんだな?」

 「フィルはいい匂いじゃない。何を言っているの?」

 

 ミナはさっと立ち上がり、気分を害したように眉を顰めながらフィリップを抱き寄せた。

 本当に心の底から気を悪くしているのは表情を見れば分かったが、ルキアとステラはむしろ、ミナの行為に憤慨していた。ステラは「私たちの目の前で血を吸うなと言ったはずだ」と鋭く咎め、ルキアは今にも魔術をぶっ放しそうな気配を漂わせていた。

 

 特に血を吸うつもりの無かったミナは深々と嘆息し、フィリップの首筋に顔を埋めて深く息を吸った。

 

 「匂いはね、薄くても濃くても駄目なのよ。そして純粋すぎるのも、混ざり過ぎているのも駄目。あのマザーとかいう神官は──まあ、神官というだけで、私たちアンデッドにとっては天敵なのだけれど──匂いが純粋すぎるし、黒い二人は、匂いまで黒いわ。あらゆる全ての匂いが混ざり合ったような、黒い匂いがする」

 「……それを薄めると、カーターの匂いになるのか? 正直、私にはカーターの“臭い”も今一つ判然としないんだが」

 「さぁ? 調香師にでも聞いて頂戴。私に分かるのは香りのノートくらいよ。何と何を混ぜて薄めたらどんな匂いになるかなんて、知らないわ」

 

 ミナの適当な答えに、ステラは少しむっとしたようだった。しかし彼女の言うことにも一理あるというか、香りの合成はかなり専門的な知識が必要になる技術だということを知っていたから、言葉の正当性を認めざるを得なかった。

 

 「フィルの匂いは、あんなのよりもっと澄んで、冷たい感じね。夜の匂い、雲の無い夜空から降る、月光と星明りの匂いよ」

 「……全く分からないわ。フィリップの匂いは──いえ、なんでもないわ」

 

 微かに頬を赤らめたルキアが中途半端に言葉を切って、フィリップは続きを確認したい衝動に駆られた。

 好きなのか嫌いなのか、臭いのか臭くないのかで、今後のルキアとの距離感がかなり変わってくる。というか、嫌いだと言われたら全力で距離を置く所存だ。なんせ、龍狩り遠征の時に、フィリップは五頭もの軍馬を壊しているのだから。

 

 ルキアの精神がぶっ壊れて廃人になるのは何より避けるべきだが、その原因がフィリップの体臭だったなんて笑い話にもならない。

 

 とはいえ、ここまでずっと一緒に居るのだから、嫌いだとしても通常の範囲──汗臭いとか、その程度だろう。それなら別にどうでもいい。

 いま最優先すべきはそんなことではなく、もっと危険な臭いだ。

 

 「ミナは、宿舎で変な臭いとか感じなかった? 埃と黴と、腐臭の混ざった淀んだ臭いみたいなの」

 「特におかしな臭いはしなかったと思うけれど……どうして?」

 「んー……どう言えばいいのかな……。人間を殺すためだけに居るようなヤツが、その臭いの原因なんだ」

 

 ルキアとステラに警告しつつ、ミナにはそれほど緊張感を与えない塩梅の言葉を探り、最終的にそんな表現になった。フィリップが我ながらいい言葉選びだと感心するような調整だ。

 

 ミナは吸血鬼、人間を餌かペットのように把握している怪物だ。人間を殺すことに特化した化け物なんて、彼女にとって何ら脅威ではないだろう。

 フィリップが駄目押しに「困った連中だよね」と安心させるように笑って見せると、ミナは曖昧に微笑んだ。

 

 「きみが狙われているわけではないのよね?」

 「分からない……多分、違う。奴らは時間旅行でヘマをした奴を地獄の果てまで追いかけて殺すけど、僕は時間移動してないし……なに?」

 

 フィリップは言葉を切り、不機嫌そうに尋ねた。フィリップ当人としては真剣に考察していたのに、ミナがくすくすと、上品ながらも可笑しそうに笑ったからだ。

 

 「だって、大真面目に“時間移動”だなんて言うんだもの。ふふっ……ごめんなさい、続けて?」

 

 揶揄うような笑みに、フィリップはミナが冗談半分にしか話を受け止めていないことに気が付いた。

 当然、フィリップにしてみれば笑い事ではないのだが、ミナにとって──いや、本当はルキアやステラにとっても、時間移動を前提にして話すなんて、それこそ笑い話だ。現代魔術の常識において、時間操作や時間移動は不可能魔術だとされているのだから。

 

 「……魔術は、何も現代魔術と秘蹟だけが全てじゃないよ、ミナ。僕だってやり方とか理屈は分かんないけど、でも、時間を操作する魔術は確かにある」

 「……そうね。現代魔術でも、理屈の上では可能な技術よ」

 

 ルキアがミナを不愉快そうに見つめながら補足する。

 将官用談話室の中で、フィリップの語った内容を一番信じているのはルキアだった。彼女はそれが自分に実行可能であることを理解しているから、実感と共に、フィリップの言葉が真実であるだろうという推察をすることが出来た。次点で、フィリップのある一定分野に対する深い知見を知っているステラが、フィリップへの信頼を理由に信じている。

 

 しかしミナは、自分の知っている常識が先に立ってしまう。

 フィリップが無意味な嘘を吐いて自分を騙しているとまでは思わないにしても、冗談か、怪談話の延長だと思って楽しんでさえいた。万が一、フィリップの話が本当だったとしても、大した問題にはならないからこその余裕もあるだろう。

 

 フィリップは「そうだった」と苦笑して、彼女の態度で気を悪くするのは無意味なことだと思い出した。

 

 「まあ、ミナなら戦って勝てないことは無いと思うけど……個体次第じゃ、何回か死ぬよ」

 

 ティンダロスの猟犬は恐ろしく強い。だが、殺せば死ぬ。

 対してミナは、同じく恐ろしく強いうえに、10万回殺さないと死なない。

 

 「言い切るわね? 龍よりも強いということ?」

 「どうかな。でも……奴らと戦うか、もう一度古龍と戦うかなら、僕は古龍と戦った方がマシだと思うな」

 

 フィリップが苦笑交じりに言うと、ルキアとステラだけでなく、ミナまでもが瞠目した。

 

 いや、受けた衝撃の度合いで言えば、ミナの方が大きいくらいだ。ミナ自身は一度や二度の死は損耗率で言えば1パーセント以下だし、フィリップが瀕死でもちょっと血を分ければたちどころに癒すことが出来る。即死以外はかすり傷と言ってもいい。

 だが、フィリップが古龍を相手に肋骨と内臓をぐちゃぐちゃにされたことは、その治癒の簡単さとは無関係だ。フィリップは確かに、古龍によって重傷を負わされた。

 

 そのフィリップが「古龍の方がマシ」というからには、相手はきっと、古龍よりも“戦い”に長けているのだろう。

 腕を振り下ろすだけ、尻尾を振り抜くだけ、魔術をぶっ放すだけで邪魔者を殺せる龍は、自分の性能を過信して“戦い”をしない。一部、剣師龍のような例外もいるが。

 

 だが、自分が無敵ではないと知って、戦う術を身に付けているものは面倒だ。特に、特化した能力を持っている手合いは──そのための機能を備えているものは。

 

 「人間を狩るモノなら、人間に対して優越するのは道理だけれど……吸血鬼(わたし)よりも強いの?」

 「言ったでしょ、個体次第だよ。それに、ミナは奴らの事を知らない。それも結構なハンデだね」

 

 ミナは「そう」と、殆ど感情を滲ませずに言った。

 フィリップの物言いに、ルキアとステラは言い知れぬ危機感を覚えた。言葉ではなく、雰囲気から察した。──フィリップはまた、一人で戦おうとしている。

 

 「何か、私たちに出来ることはある?」

 

 すかさず言うルキアだが、フィリップはYesともNoとも答えかねた。

 

 「そいつらが居るかどうかも分からないので、何とも。……やっぱり、ナイ教授に聞くだけ聞いてきます。無駄かもしれませんけど。……なるべく三人一緒にいて、角に近付かないでください。あと、変な臭いがしたら、すぐ逃げて」

 

 「か、角?」と困惑したステラに、フィリップは「えぇ、角です。こんなのとか、そこも、全部の角」と、ナイフの刃や、部屋の隅や、戸棚の四辺なんかを示してみせた。

 

 ルキアとステラ、そしてミナも顔を見合わせて、フィリップに怪訝そうな目を向けた。

 「そこから()()が飛び出してくるの?」と揶揄うように問いかけたミナに、フィリップは「えぇ」と当然のように頷いて三人を更に困惑させた。

 

 「ねぇ、フィル、大丈夫? 昨日はきちんと眠れた?」

 「お陰様で、朝までぐっすり。今日はもうちょっと緩めのメニューにしてくださいね、殿下」

 

 フィリップはひらひらと手を振りながらナイ教授のところへ行こうと扉に向かい──ミナに手を掴んで止められた。

 

 「フィル?」

 「あっ! ごめん、血か、忘れてた。えっと、じゃあ──?」

 「私たちが出よう」

 

 ルキア達は目の前で血を吸われるのを嫌がるからと、フィリップはどこか適当な場所に行こうと脳内地図をめくり始めたが、先にステラが席を立ってくれた。ルキアもその後に、ミナを不愉快そうに一瞥して続く。まあ同族が目の前で食われるのは不快だろうな、と、フィリップは考えた。共感はできないが理解はできるので、まだ自分は大丈夫だ、なんて思っている。

 

 うんうんと頷くフィリップに呆れ笑いを溢しつつ、ミナはフィリップの背後から矮躯に覆い被さった。

 

 

 

 

 

 

 



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301

 干し芋のリストは作ったらtwitterに貼ります……


 フィリップが職員室──正確には中央塔の指令室──に行ったとき、ナイ教授は不在だった。

 吸血直後でほろ酔い気分だったフィリップは、仕方ないなぁなんて思いながら、食堂や、中庭や、外壁の回廊上なんかを見て回った。石壁の上を吹き抜ける冬の朝の冷たい風がきっかけになって意識がはっきりした後は、かじかんだ手をポケットに突っ込んで、ブスッとした顔で室内を探し回った。

 

 もうすぐ昼食という時間になってやっと見つけた時、ナイ教授は女子宿舎A塔、つまりルキア達が寝泊まりしている塔から中庭に出てくるところだった。頭頂部付近から猫耳を生やした黒髪の少女という特異な外見を、フィリップは中庭で訓練している生徒たちの群れの中からでも一瞬で見つけられた。

 中央塔の窓からそれを見ていたフィリップは、舌打ちなどしつつナイ教授のところへすっ飛んでいって、中央塔の玄関で出会した。

 

 ナイ教授は不機嫌そうなフィリップに、内心の読めない仮面のような嘲笑を向けて挨拶した。

 

 「おはようございますー、フィリップくーん。こんなところで、もしかしてサボりですかー? 駄目ですよぉ、羽の生えた蜥蜴風情に負けちゃうよわよわさんなんですからー、ちゃんと訓練しないとー」

 

 相変わらず媚びるように甘ったるい口調だが、フィリップは妙に違和感を覚えた。

 なんというか、普段のナイ教授とは違う気がするのだ。

 

 表情の制御は完璧で、嘲笑の一色だ。仕草の制御も完璧で、深い敬意を感じさせる。いつも通りのナイアーラトテップだ。しかし何かが、フィリップには言語化できない、判然としない何かが引っ掛かっていた。

 

 ルキアやステラのように、観察力に長けているだけでは分からないだろう。フィリップのように、ナイアーラトテップの化身と日常的に接していなければ違和感さえ持たなかったはずだ。そしてそのフィリップでさえ、どこが違うのかは分からない。ナイアーラトテップの化身制御や人間への理解は、それほどの精度がある。

 

 「あの時あれを飲んでいたらぁ、面倒な訓練なんてしなくてよかったんですよぉ?」

 「……いいから、早く()()()()くれませんか?」

 

 フィリップがかったるそうに、そして傲慢に言うと、瞬きの後には顎を上げなければ漆黒の双眸と目が合わなかった。

 

 「失礼いたしました、フィリップ君。しかし、よろしいのですか? ここでは人目につく恐れがありますが」

 「今更何を言ってるんですか。こちとら未だに平民階級のクラスメイトには『猊下』とか言われて、貴族の人たちには『龍狩りの英雄』とか言われてるんですよ。これ以上何をどう勘違いされるって言うんですか」

 「まだまだ正確な方ではありませんか。教皇庁の王国支配政策の手駒、なんて言われていないだけマシでは?」

 

 相変わらず表情を変えずに言うナイ神父。フィリップは「みんなそこまで馬鹿じゃないでしょ」なんて笑いながら、違和感の正体に気付かないまま、それに慣れて、違和感を失くしてしまった。

 

 「それで、ご用件は? 私に会いたかったのであれば、ただ一言お呼び頂ければ──」

 「ティンダロスの猟犬がいるんですか? 今、ここに」

 「すぐに──はい?」

 

 ナイ神父が仮面のような微笑のまま問い返すと、フィリップは意外そうに片眉を上げた。

 あのナイアーラトテップがフィリップの言葉を聞き損じるとは──フィリップに二度同じことを言う手間をかけさせるとは、フィリップが表情を変える程度には意外なことだった。

 

 「ティンダロスの猟犬──ティンダロスの追跡者? 呼び方は何でもいいですけど、奴らがここにいるんですか?」

 

 怪訝そうにしつつも問いを繰り返したフィリップに、ナイ神父は「失礼いたしました」と腰を深く折ってから、貼り付けた微笑のまま問いを返す。

 

 「襲われたのですか?」

 「もしそうなら、ここで安穏と喋ってはいないでしょうね。奴らは苟もシュブ=ニグラスとマイノグーラの子孫……まぁ、何世代目かは知りませんけど、とにかく人間が太刀打ちできる相手じゃあない」

 

 自慢ではないが、もしもティンダロスの猟犬に襲われていたら、フィリップは今頃死んでいる自信があった。

 クトゥグアやハスターを呼ぶ余裕は無い。シュブ=ニグラスの血を求める暇も──今のフィリップがそんなことをするかどうかはさておき──無い。そして勿論、蛇腹剣で抵抗できる相手でもなければ、致命傷を与えて放置するような、獲物に止めを刺さないような間抜けでもない。

 

 「確かに。1分も持たずに死ぬでしょうね」

 

 さも当然のように言うナイ神父。

 その薄ら笑いに気分を害したフィリップは口元をひくつかせるが、ナイ神父を言い負かせる気もしないし、喧嘩しに来たわけではないので何も言わなかった。

 

 その代わり「で、居るんですか?」と答えを急かすと、ナイ神父の薄ら笑いは深い微笑に変わった。

 

 「フィリップ君……確かに、あれらは外神とも旧支配者とも違う独立陣営であり、君に対しても尊重や敬意は無いでしょう。君が襲われる可能性はゼロではありません。ですが、あれらの住む領域はこの時間の外です。こちらに干渉するには、幾つもの条件が揃わなければなりません。君の想像ほど簡単に現れるような手合いではありませんよ」

 

 嘲笑の内に呆れさえ滲ませたような声に、フィリップは腕を組んで天井を仰ぎ、しばらくの間黙考に浸った。

 

 確かに言われてみれば、ティンダロスの猟犬なんて早々お目にかかることの無い手合いだ。

 奴らが棲息するのは、この()()とは異なる時間。あらゆる全てが鋭角と直線のみで構成された、尖鋭時空。対比して『曲線時空』などと呼ばれるフィリップの住む時間へ出てくることは滅多にない。それこそ、不幸にも奴らの領域に立ち入ってしまった不届き物を追討するときくらいだ。

 

 そして奴らを呼び出す最も手っ取り早い方法は、時間移動すること。

 最も簡単な方法で、それだ。曲線時空の全てを嫌悪し、憎悪し、殺意すら抱いている奴らを召喚して使役することは不可能であり、誰かが意図的に呼び出した可能性は無い。

 

 ややあって、フィリップは「まあ、そうか……」と納得して呻いた。

 

 しかし、フィリップにはまだもう一つ、ナイ神父に聞いておきたいことがあった。言うまでも無く、例の“お化け”のことだ。こちらに関してはフィリップが自分の目で見たというか、完全に遭遇している以上、居るか居ないかなんてことは聞くまでも無い。

 

 「……それと、あのお化けは何なんですか? 一瞬目に入っただけで、輪郭もはっきりしなかったですけど……本物のお化けですよね、アレ」

 「お化けですか。……そういえばフィリップ君、もう御存知とは思いますが、ここは元は砦、旧軍事施設です。つまり、ここで戦い、死んでいった多くの軍人たちの怨念が──おっと」

 

 すぱぁん! と乾いた快音が塔の玄関に響き渡る。おどろおどろしく作られた声での語りは、それによって中断された。

 ナイ神父の脛を蹴り飛ばしたフィリップは、そのまま肩を怒らせて中庭へと出て行った。

 

 その背中に深々と一礼したナイ神父の姿は、一瞬の後には猫耳と尻尾の生えた幼い少女の姿に変わっていた。彼女は幼気さとは対極にあるような傲慢な動きで首を傾げ、窓から見える女子A棟に鬱陶しそうな一瞥を呉れた。

 

 「これだから劣等種は困るんですよねー。あーあ……」

 

 彼女は面倒そうに溜息を吐くと、フィリップとは逆に塔の中に足を向けた。

 

 

 ◇

 

 

 フィリップが足早にルキア達に合流したとき、皆はミナを相手に模擬戦をしていた。

 今はウォードとマリーが二人がかりで戦っていたが、ミナは魔剣どころか武器らしい武器を使わず、ウォードの模擬剣の峰を素手で払ったり、マリーの蛇腹剣の先端を摘まんで取り上げたりしている。

 

 最上位吸血鬼の無双っぷりに苦笑しつつ、フィリップは外壁にもたれかかって休憩しているルキアとステラの方に歩いて行った。汗を拭いたり、水を飲んだりしているから、ウォードたちの前にミナとやり合ったか、二人で模擬戦でもしていたのだろう。

 

 真っ先にルキアが気付き、すぐ後にステラが気付いて手を振った。フィリップも手を振り返しながら近づいて、二人の横で外壁に背を預ける。

 

 フィリップはウォードとマリーが軽くあしらわれるのを眺めながら、ナイ神父との会話の内容を部分的にはぼかして二人に伝えた。特に、『時間』が二つ存在するというのは、フィリップでも理解できないことだ。尋ねられても説明できないというか、所々に邪悪言語に特有の単語が入るので説明のしようがない。

 

 「……一番の問題については、僕の考えすぎみたいです。でも、や、やっぱりお化けはいるんですよ……! この砦で死んだ兵士たちの霊が集まって異形になったんだ……」 

 

 そういえば甲冑めいた外殻を纏っていた、なんて思い返すフィリップ。輪郭も判然としなかったのだが、一度そうだと意識すると、そうとしか思えなくなっていた。

 しかし、ステラはむしろ怪訝そうに首を傾げた。

 

 「いや、この砦は結局、一度も実戦投入されないまま廃棄されたはずだぞ?」

 

 フィリップはふむふむそうなのかと頷き、ステラを見て、ステラを二度見した。

 

 「えっ? そ、そうなんですか?」

 「そのはずだが……」

 「私の方を見られても困るのだけれど……帝国と戦争していた時に、この辺りが前線になったと習った記憶は無いわね」

 

 自信無さげに言ったルキアと、「そのはずだ」と頷くステラを交互に見て、今度はフィリップが首を傾げた。

 

 「つまり……おちょくられた?」

 「……そうかもしれないな」

 

 ステラが揶揄うように言った。

 フィリップは両手を上げて悪態をついたが、顔は呆れ交じりに笑っていた。呆れの矛先は相変わらずなナイアーラトテップと、愚かにもナイアーラトテップに信を置いた自分自身だ。

 

 「もうちょっと思いっきり蹴ればよかった! ……ミナ! 次僕! キックの仕方教えて!」

 

 「キック……?」と首を傾げるミナ。フィリップの体格でキックなんてほとんど無意味というか、徒手格闘になった瞬間に負けが確定していると言ってもいい。今日は軽めで、と事前に言われていなければ冗談だと思って聞き流すところだった。

 

 ルキアは笑いながらフィリップの後を追いかけようとして、らしくなく動きの鈍いステラを振り返った。

 

 「ステラ? 体調でも悪いの?」

 「いや、それは大丈夫なんだが……カーターの話が正確なら、ナイ神父はあいつの質問にYesともNoとも答えていないだろう? 奴のことだ。カーターを試すとかそんな目的で、あいつが恐れる相手を用意しているんじゃないか……とな」

 

 ステラの危惧を聞いて、ルキアも眉根を寄せて「有り得るわね」と頷いた。

 フィリップとステラが心の底から打ち解けるきっかけになった一件のことは、ルキアもある程度は聞いている。その前例を加味して考えると、フィリップの成長を確かめるとか、むしろ「龍殺しで満足してはいけない」と示すために、敢えて勝ち目のないような相手を差し向けて来た可能性が浮上した。

 

 「有り得るわね。……どうする? フィリップに伝える?」

 「それが、私たちの身を守る上では最適解だが……正直に言って、今のカーターは信用できない」

 

 何かを恐れるように言ったステラに、ルキアは驚いたように瞠目して、次の瞬間には柳眉を逆立てて数歩離れた。その数メートルがルキアの必殺圏にして、ルキア自身を守る安全圏であると、ステラは一目見ただけで見抜いた。

 

 「何ですって? 別に、貴女が誰を信頼して誰を疑おうと知ったことではないけれど、流石に恩知らずに過ぎるんじゃない?」

 

 決して声を荒らげることは無く、あくまで淑女然として。しかし厳しい口調で咎めるルキア。彼女がまだ魔術を照準していないのは、相手が無二の友人であるステラだからだろう。

 

 もし彼女以外の誰かが──フィリップに命を救われ、その人間性さえ賭けさせた誰かが、「フィリップは信用できない」なんて言ったら、ルキアは「聖痕者の中で一二を争うほど手が早い」という風聞に違わぬ行為に及んでいた。

 

 「待て、私の言い方が悪かった。……私はカーターのことを心配しているんだ。また私たちの為に人間性を捨てようとするんじゃないか、とな。勿論、私の言葉を覚えているなら迂闊なことはしないと思うが……この機会に、自分がそれを実行できるのか確かめるくらいのことはしそうじゃないか?」

 「……確かに」

 

 フィリップはステラとの茶会以来、二人や衛士たちとは以前のように接している。

 だが心の奥底に罪悪感や恐怖が蟠っていないとは、ルキアにもステラにも断言できない。ステラはフィリップの理解者だが、フィリップ本人ではない。心の内とは、結局は本人だけのものなのだから。

 

 心が読めたらいいのに──と、一瞬だけ思ったルキアとステラだが、すぐに二人で顔を見合わせて苦笑を交わした。

 

 「同じことを考えたか?」

 「かもね。フィリップの心が読めたらいいのに……なんて、あの子が一番嫌がりそうなことなのにね」

 「あぁ。まず間違いなく発狂するだろうな」

 

 二人はミナにキックの仕方を教わり、今はマリー相手に素手で挑むという愚行に走っているフィリップを見ながら、少しの間沈黙に浸る。

 

 ややあって、ルキアの方から口を開いた。

 

 「フィリップには言わないでおきましょう。……でも、一緒の部屋で寝ましょうか」

 「修学旅行以来だな。折角だ、ミナも呼んで……いや、あいつは寝るか」

 「かもね。呼ぶだけ呼んでみましょう」

 

 二人はまた、しばらくの沈黙を共有した。

 視線の先では、フィリップがマリーに前蹴りを喰らわせて、反動で自分の方が倒れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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302

 その日──つまり、交流戦四日目の夜。

 フィリップは不幸にも、夜中に目が覚めてしまった。しかもただ目が覚めただけではなく、尿意のおまけ付きだ。昼間に碌に汗をかいていないからだろうか。

 

 嘆息し、モゾモゾとベッドを這い出るフィリップ。シルヴァはいない。フィリップが寝たことを確認して、自分から送還されていた。

 

 ふらふらとランタンを取り、蛇腹剣も掴んで部屋を出る。暖炉まである豪奢な部屋のくせに、トイレは無かった。

 部屋を出るぎりぎりまでウォードを起こそうかと悩んでいたが、最終的には恐怖より羞恥心が勝った。

 

 廊下の蝋燭はもう殆どが消えかかっていて、僅かに残った蝋燭が頼りなく揺れているのが却って不気味だ。窓から覗く月の無い夜空は、星に照らされて辛うじて漆黒ではない程度の濃紺だった。

 

 「あ、待って。怖すぎる。ここで出ちゃいそう」

 

 敢えて声を出してみるも、石造りの壁や床に虚しく吸い込まれていくばかりだ。フィリップはパジャマの上からジャケットを羽織っただけの姿で、こわごわと廊下を歩いてトイレに辿り着いた。

 

 用を足してトイレを出て──何事も無く、自分の部屋の前まで戻ってきた。

 ティンダロスの猟犬どころか、お化けさえ出なかった。我ながらビビり過ぎだと苦笑して、扉の前で大きく伸びをして深呼吸する。

 

 「ふぁ……──、あ?」

 

 むにゃむにゃと意味の無い音を垂れ流しながら大きな欠伸をして、ドアノブに手を掛けた時だった。

 

 ほんの微かに、粘つくような異臭が鼻を擽った。

 夜風に乗って窓から入って来たのだろう。その出どころは窓から見える中央塔か、女子A棟か。恐らく、後者だ。

 

 フィリップはもう一度、深々と深呼吸する。しかし、もう空気には何の異常も無かった。古い砦に染み付いた土と埃の匂いが、それには慣れたと臭細胞を素通りした。

 

 ……眠気の齎した幻覚、或いはただの勘違い。そう自分を納得させるのは簡単だ。

 今すぐ部屋の扉を開けて、剣を置いて、ベッドに潜り混んでしまえばいい。そうしたらきっと、今度目が覚めたら朝になっているはずだ。

 

 ──けれど、朝食の席にルキアとステラが来ないようなことがあったら? 

 その最悪の事態を、フィリップの怠慢が引き起こしたとしたら。フィリップはもう、二度と鏡を見られなくなるだろう。

 

 フィリップはぺちぺちと頬を叩いて眠気を飛ばすと、足音も気にせず女子用の宿舎に向かって駆け出した。

 

 

 同時刻、女子A塔と中央塔を繋ぐ連絡通路には、二人の女性が見張りに立っていた。

 一人は軍学校生のジェシカ、一人は魔術学院生のエミリーだ。二人は以前の交流戦からペア同士であり、プライベートでも遊びに行く程度には仲が良かった。

 

 仲のいい二人組ということもあり、また燭台だけでは不十分だとゴネて用意した篝火が温かく、二人はうつらうつら舟を漕いでいた。辛うじて意識を周囲に向けてはいるが、十分ではない。もしも誰かが強行突破を試みれば、魔術師でなくても、フィリップ以下の白兵戦能力でも突破できるだろう。

 

 あと一時間もしないうちに見張りを交代する時間だが、二人ともかなり限界に近かった。

 特に普段は睡眠に力を入れた魔術学院の学生寮で暮らしているエミリーは、ふらついて篝火にぶつかってしまった。三脚の台がガタリと危なっかしく揺れ、パチパチと火の粉が飛び散った。

 

 「……あっ、やば」

 

 その音と熱で一気に覚醒したエミリーは、髪の先がちりちりと焦げていることに気が付いて、慌てて魔術で水をかける。その騒ぎでジェシカも目が覚めて、伸びをしたり、コキコキと首を鳴らして体を目覚めさせていた。

 

 「ふぁ……普通に寝ちゃってた」

 「ウソ、立ったまま? 流石、軍学校生」

 

 二人は眠たそうな顔のまま顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。

 

 ジェシカが眉根を寄せたのは、そのすぐ後だ。

 愉快そうな笑みも引っ込んで、鼻の周りに皺が寄るほど顔を顰めている。

 

 「……ね、なんか臭くない?」

 「あ、ごめん、私の髪が焦げた……」

 「違う! それも臭いけど、もっと──うっ」

 

 自分の髪を示して苦笑するエミリーだが、彼女の鼻はタンパク質の焼ける特有の匂いで麻痺していて、ジェシカとは嗅覚を共有できていなかった。しかし、片膝を突き、今にも吐きそうなほど顔を顰めて口元を押さえているジェシカは、友人と危機感を共有するどころではなかった。

 

 「だ、大丈夫? 私、先生を呼んでく──、えっ?」

 

 顔を蒼白にした友人のために駆け出そうとしたエミリーの足が、竦んで凍る。

 衝撃に目を見開いた彼女は、震える足で後退り、厚い木の扉に背中を押し付けた。

 

 「なに、どうしたの?」と聞くだけで胃の内容物が全部出そうなジェシカは、涙に潤んだ目で友人を見上げる。

 

 ──その、目の前を、青白い影が通り過ぎた。

 

 「ひッ──!?」

 

 全くの無音で、全くの無挙動で、石の床を滑るように移動する“何か”。それは辛うじて二足二腕のヒトガタではあったが、絶対に人間ではなかった。

 

 腕は床を擦るほど長く、その中ほどからは巨大な鉤爪を備えた付属肢が生え出でて、蟹のハサミにも似ていた。先端にある明らかに比率の合っていない小さな手は、別の生き物から移植したような歪さだ。鎧のような甲殻を纏っているが、全身半透明で、鎧騎士のような存在感は無い。

 

 天井にめり込んでいるように見える頭部には、ぼやけて捻じれた黒い光点と不格好な穴があった。人間はそれをシミュラクラ現象によって目と口であると認識する。エミリーとジェシカは、光点に見据えられたような気がした。

 

 「あ、や、いや、嫌ッ……! 《ウインドバレット》!」

 

 エミリーは咄嗟に風属性魔術を使い、青白いナニカを殴り飛ばす圧縮空気の塊を撃ち出した。たとえゴースト系の魔物でも、魔術攻撃であれば問題なくダメージが通るはずだと。

 しかし、絶対に外すはずの無い超至近距離でありながら、魔術はヒトガタに何の影響も与えなかった。──いや、そもそもソレは、この次元における実体を持っていなかった。

 

 咄嗟の一撃は中央塔の壁に当たって弾け、そちら側の蝋燭の火を軒並み消した。

 虚しい成果を確認する余裕は、エミリーには無かった。

 

 ヒトガタは、蒼白な顔で歯をカチカチと鳴らして震えるエミリーなど居ないかのように、そして木製の扉など存在しないかのように、歩調を全く緩めずに滑る。

 

 ──死ぬんだ、とエミリーは思った。

 助けて、と叫ぶことも出来ず、ただただ震えて。固く目を瞑ったのは、覚悟や抵抗ではなくただの反射だが、それは正解だった。その異形の醜い姿を至近距離で見るのは、誰であってもお断りだろう。

 

 そして──半透明の巨体は、エミリーも、厚い木の扉もすり抜けるようにして塔の中に消えていった。

 

 「……?」

 

 予期した“死”は、もう自分を襲ったのだろうか。

 そんな疑問を抱きながら薄目を開けたエミリーは、真ん中辺りの壁の蝋燭だけが無事に明かりを灯している薄暗い廊下と、左手の隅で震えながら剣を構えているジェシカを見つけた。

 

 「……?」

 「……!」

 

 二人は極度の緊張から解放されて荒い息を溢しながら、首の動きだけで会話する。

 エミリーが首を傾げると、ジェシカは頭を激しく上下させた。エミリーは「もう大丈夫なのかな?」と聞いたのつもりなのだが、ジェシカは「私も見た!」と答えているつもりなので、本当は噛み合っていないが──ただ、二人を安心させるのに支障はなかった。

 

 「あ、あれがお化け……!?」

 「こ、怖かったね……! ホントに居たんだ……!」

 

 恐怖心を共有して緩和させた二人がまず真っ先にやったことは、エミリーの魔術の余波で倒れてしまった篝火台を立て直し、明かりをつけ直すことだった。

 篝火だけでなく、二人がいる側と、中央塔側の蝋燭も全て──つまり、廊下の真ん中あたりの蝋燭以外は全て消えていて、廊下は不気味な薄暗さに包まれていた。

 

 エミリーは火属性魔術が得意ではなかったが、それでもマッチ程度の火種は無詠唱で簡単に用意できる。

 とりあえず近くの蝋燭をつけて一安心した二人は、深々と溜息を吐いて強張った笑顔を交わすと、また恐怖を共有するためのお喋りを始めようとした。

 

 しかし、二人は今度こそ同時に、鼻を突く異臭に気が付いた。

 

 「うっ……!?」

 「さっきの……! ねぇ、これ何の臭い?」

 「分かんない! 埃っぽくて、腐ってるみたいな……気持ち悪い」

 

 粘つくような悪臭は、あの幽霊が現れた方──中央塔の方から漂ってくるようだった。

 エミリーとジェシカはほんの数秒前の恐怖も忘れ、せり上がってくる胃の内容物を飲み下すのに必死になる。いくら友人とはいえ、人前で吐くのは乙女的に大問題だ。

 

 二人の見つめる先で、天井の隅から煙が上がった。いや、下がった、というべきか。それは明らかに空気より比重が重く、冷気のように壁を伝って床に充満していく。煙は毒々しい蒼褪めた色をしていて、普通の煙以上に有害そうだった。

 

 「なに、あれ……」

 

 煙は蝋燭や他の火元から出ているのではない。

 天井と壁の交差した角、より正確には、そこから滲み出た青白い何かが発生源だ。それは一般に煙の発生源となる炎ではなく、どちらかと言えば薬品に属するものに見えた。そこから垂れた青白い粘液が数滴、ぼたたっ、と粘ついた感触で床に落ちた。

 

 そして、蝋燭の消えた暗がりから、何かが──

 

 

 

 

 



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303

 フィリップは細心の注意を払って中央塔を抜け、女子A塔との連絡回廊に辿り着いた。

 時折鼻を突いていた異臭は、もう鼻が慣れてしまったのか感じられない。それでも万が一のため、フィリップは中庭ルートではなく最短最速の連絡回廊ルートを選んだ。

 

 見張りは勿論、いるだろう。

 だが「ミナに血をあげるのを忘れてた」と言えば通してくれるのは実証済みだし、疑われたら一緒に来て貰うか、最悪の場合は押し通る。

 

 フィリップは曲がり角に身を隠して様子を窺ったりはせず、蛇腹剣を持って堂々と回廊に踏み入った。

 止めるのなら戦う、止められるものなら止めてみろと言わんばかりの、威風堂々たる足取りは、しかし、意外感によって鈍った。

 

 ──そこには、誰もいなかった。

 

 フィリップは歩調を緩め、怪訝そうに回廊を歩く。篝火の匂いに混じって、鼻を突くような残り香が感じられた。

 この独特の臭いを嗅いだ後では、見張りの職務怠慢やフィリップの幸運だと安穏と素通りすることは出来ない。

 

 「……」

 

 フィリップは石の床についた青白いシミを目敏く見つけ、片膝を突いて検分した。

 一見すると蒼褪めた粘体、膿のようなもので、それ以上の情報は見て取れない。錬金術製ではない本物の石で作られた床も、ただ汚れているだけで、溶けている様子はない。

 

 だが、フィリップの脳内では「今すぐにそれから離れろ」と外神の智慧が大音響の警鐘を鳴らしていた。

 

 間違ってもよろめかないように細心の注意を払って立ち上がり、フィリップは呆然と呟く。

 

 「()()じゃん……え? 嘘ついたの? ナイアーラトテップが? この僕に?」

 

 有り得ない、と言いたげな深い驚愕を滲ませて呟く。

 しかし、その問題について考察すべきは今ではない。フィリップはそれをきちんと理解していたし、ナイアーラトテップに対する理解は誰よりも深かった。

 

 「……いや、またおちょくられたんだろうなぁ……どうせアレでしょ、「居るとも居ないとも言っていませんよね?」みたいな理屈でしょ。あとで思いっきり股間を蹴ってやる……」

 

 フィリップは苛立たしそうに吐き捨てると、女子塔の扉に向かって駆け出した。扉の側にも蒼褪めた膿がボウル一杯分は落ちていたのだが、完全に無視した。

 

 誰か起きるかもしれないなんて注意は完全に頭の中から吹っ飛び、バタンと喧しくドアを開け放つ。

 あの蒼褪めた膿の主を探すか、ルキアとステラの安全を確認するのが先か。フィリップは少し考えて、五階を目指すことにした。

 

 階段を駆け上がって四階に着いた時だった。

 二日前と同じように、青白い半透明の異形が壁をすり抜けて現れ、目の前を横切り、廊下の奥に消えていった。

 

 「──、っ!」

 

 フィリップは思わず剣を抜いて後を追う。

 半透明のヒトガタは相変わらず無挙動で滑るように移動していて、フィリップが小走りすると簡単に追いつける速さだった。

 

 相変わらず見れば見るほど気色の悪い異形だが、戦意によって恐怖を麻痺させたフィリップは、初めて見た時よりもずっと落ち着いて観察できた。甲殻類、昆虫、そして類人猿のキメラのような外観で、頭部は眩暈か酩酊時の視界で見たようにゆらゆらと揺らいでいる。表情なんて作りようが無いはずなのに、なぜか肌が焦れるほどの悪意が感じ取れた。

 

 悍ましい外見をじっくりと観察すると、フィリップは意外な真実に気が付いた。フィリップは、そいつを知っていた。

 

 「……ん? こいつ、次元を彷徨うもの……? なんだ、お化けかと思った……」

 

 フィリップは安堵のあまり、思わず膝から崩れ落ちるところだった。

 蛇腹剣を杖代わりにして脱力しそうになる足と腰に活を入れつつ、追跡を止めて半透明の後ろ姿を見送る。

 

 次元を彷徨うもの。ティンダロスの猟犬が住む尖鋭時空とはまた違う、そしてフィリップの暮らすこの次元とも違う別次元に生息する神話生物だ。神格ではなく、何か別の神格に従属するものでもない。

 

 その行動基準は基本的に不明で、この次元に現れて人間を拐かすこともある。

 犠牲者は往々にして、この次元以外のどこかに連れ去られる。帰ってくることもあれば二度と帰らないこともあるが、帰還した犠牲者たちは何か悍ましいものを見せられて、精神を極度に擦り減らしているのだとか。

 

 ただ怖いだけのお化けより厄介というか、実害を被る可能性のある相手なのだが、フィリップはとにかく幽霊が未知のものではなく、既知の存在であるというだけで安心できた。

 

 「……ぃ」

 「……ん? 何か言った?」

 

 声が聞こえた気がして、フィリップは咄嗟にそう訊ねていた。

 勿論、相手はエルフどころか異次元の存在だ。大陸共通語が通じる訳も無いので、フィリップは自分の反射に笑わされることになったのだが。

 

 しかし、また声がした。

 今度は先程よりもはっきりと、「ごめんなさい」と。

 

 「……えっ? お前、人語を……っていうか、共通語を話せるの? 冗談でしょ?」

 

 フィリップはけらけらと笑いながら、ペースを変えずに滑り続ける次元を彷徨うものについていく。すると、今度は「たすけてください」「ゆるしてください」と聞こえた。次元を彷徨うものの特性なのか、声は二人分あるように思われた。

 仮にも別次元の住人のくせに、いやに流暢な共通語で思わず笑ってしまいそうになったフィリップだが、内容が内容だけに自重した。

 

 「それ、音を模倣してるだけ? それとも、意味を分かって使ってるの? 悪いんだけど、今ちょっと忙しくて──、あれ?」

 

 フィリップが目的地である五階に続く階段の方に一瞥を呉れ、視線を戻した時には、次元を彷徨うものの姿は完全に掻き消えていた。

 

 「えっ……──、ッ!?」

 

 その代わりのように、強烈な異臭が鼻を突く。

 埃と黴と、死と腐敗の混ざった悪臭。死体安置所の臭いだ。

 

 フィリップは弾かれたように振り返り、剣を構えて廊下の四隅に視線を走らせた。天井と壁の交差する二辺、床と壁の交差する二辺。

 

 そして、階段に至る曲がり角の天井、その角を伝って、青白い粘体が姿を現した。

 空気より比重の重い、粘ついた青白い煙を垂れ流すそれに、フィリップは深々と溜息を吐いて覚悟を決めた。僅かに後退りして距離を空け、蛇腹剣を正眼に構える。

 

 直後、粘体から滲み出るようにして、フィリップの恐れていたモノが姿を見せた。

 

 それは一見すると、四足歩行の獣に見えた。しかし、次の瞬間には三本足に見えたり、今度は八本に見えたりして一向に輪郭を把握できず、フィリップは脳が過熱するのを感じて、ぎゅっと目を瞑って頭を振った。不定形なのではない。奴はこれという形を確かに持っているが、それをフィリップの脳が認識できないだけだ。

 

 体中が蒼褪めた脳漿のような粘液に覆われ、ぼたたっ、と床に落ちている。その膿を纏う身体には一切の曲線が無く、無数の角を極端なまでに解体して抽象化したキュビズム的な外観だった。殺意に満ちた吐息が漏れる口にはノコギリのような歯が並び、槍のような舌と、涎のような青白い膿がだらりと垂れていた。

 

 間違いない。ティンダロスの猟犬だ。

 

 「最っ悪だ……」

 

 こいつのことはよく知っている。よく知っていることこそが大問題だ、とフィリップは忌々しそうに表情を歪めた。

 シュブ=ニグラスに与えられた智慧は、彼の存在から見てフィリップの脅威になるものについて。つまり、人間を殺し得る存在、そして外神の視座から()()()存在についてだけだ。

 

 そして、外神の視座はずっと叫んでいる。脳をガンガン揺らす大声で、「逃げろ」と。

 ショゴス相手なら「踏み潰せ」と嘲笑っていた智慧が全力での逃走を推奨するなど、神格に相対したとき──フィリップでは絶対に抵抗できない手合いに遭ったときだけだ。

 

 ミナを呼ぶべきか、と一瞬だけ悩み、棄却する。

 勿論、人間にとっては絶対に勝てない相手でも、吸血鬼にとってはそうではない。何より、ミナには10万もの命がある。10回死のうが100回死のうが誤差みたいなものだし、ミナの戦闘センスなら2,3回も死ねば無傷で倒せるまでに見切るだろう。

 

 だが、恐らく、そんな隙は許されない。

 ミナを強制召喚する『エンフォースシャドウジェイル』は、ミナの意思に関係なく彼女の身柄をフィリップの影の中へ引き摺り出す。彼女がどこで、何をしていようと、たとえ意識が無くてもだ。

 

 そしてこの時間、フィリップと生活サイクルを合わせているミナは、当然ながら夢の中だろう。呼んですぐ戦えるならいいが、彼女が寝ていて、フィリップがティンダロスの猟犬の一撃を無防備に受けなくてはならないような状況になれば、生存確率は限りなくゼロに近くなる。

 

 フィリップは蛇腹剣の柄にある金具を片手で操作して、長剣の形に固定されていた14の節を解き放つ。じゃららら、と金属の擦れる音を立てて、真っ直ぐだった剣がだらりと垂れた。

 左手に握り締めていたランタンと鞘を乱雑に投げ捨て、深々と姿勢を下げる。

 

 言うまでも無く、戦って勝てる相手ではないし、古龍のように半殺しにして放置するほど甘い相手でもない。

 

 だからと言って逃げるのは論外だ。

 フィリップはここに、ルキアとステラの安否を確認するために、そして二人の安全を確保するために来たのだ。自分が死にたくないから尻尾を巻いて逃げるなんて、全く無意味なことをする気はない。

 

 フィリップを睨み付けるティンダロスの猟犬の顔は、絶え間なく歪み、捻じれ、蠢き、狂う。存在そのものが、この次元とは極限に相性が悪いのだ。この次元に満ちる光では、その姿を明確に表すことさえ出来はしない。

 

 蛇腹剣の動きをじっと見つめていた──ように思われた──ティンダロスの猟犬は、フィリップが動くのに先んじて奇妙な唸り声を上げた。

 

 今まさに拍奪の歩法で襲い掛かろうとしていたフィリップは、全速力でバックステップを踏んで距離を取る。

 一瞬たりとも視線を外さなかったティンダロスの猟犬の姿が、今まで以上に奇妙に捻じれて歪んでいく。空間の攪拌とも言える現象は奴の身体だけでなく、その周囲の空間全てに及んでいた。

 

 廊下の床がペンローズ的に歪み、天井はネッカー図形のように反転した。壁は明らかに二次元平面的な形に引き延ばされ、蝋燭の裏側と表側が同時に見えた。この時間が曲がっている、という智慧の意味を、フィリップは初めて自分の目で見ていた。

 

 「うわ……」

 

 人間の目と脳では理解できない光景を前に、フィリップは思わず目を瞑って頭を振った。

 そうしなければ、きっと処理不可能な情報を流し込まれた脳が過熱して、何かしらのダメージを負っていただろう。だからそれは、目前の脅威を回避するという意味では正解だった。

 

 そして──猟犬を前にした獲物の振る舞いとしては零点だった。

 

 「しまっ──、っ!?」

 

 ティンダロスの猟犬は飛び上がり、天井と壁が交差する角に潜んだ。その時点で目の前の空間異常は消えており、フィリップは即座に戦闘態勢を取った。

 

 しかし、ティンダロスの猟犬の現在位置を示す蒼褪めた色の脳漿は悪臭と瘴気を放ちながら、ぞるぞるぞる、と耳障りな音を立てて角の上を滑っていく。それはフィリップを通り過ぎて廊下の奥に行くと、今度は壁同士の交わる角を通って階下に消えていった。

 

 フィリップはしばらく意識外からの攻撃を警戒していたが、死体安置所の残り香が消えたことを確認するとすぐさま踵を返し、五階に続く階段を一段飛ばしで駆け上がった。

 

 「殿下! 無事ですか!? ルキア!!」

 

 五階にはルキア達の部屋だけではなく、他の生徒も泊まっているのだが、フィリップはそんなのは知ったことかと思いっきりドアを叩く。入室許可を求めるノックではなく、中にいる人間を叩き起こすためのパンチと言える勢いだ。

 

 階段に近いステラの部屋を、続いて一つ飛ばしてルキアの部屋の扉を。二つの部屋を繰り返し、扉を破る勢いで叩いていると、ややあってステラの部屋の扉が開いた。

 

 「殿下、良かっ──ん?」

 

 しかし、眠そうな顔を覗かせたのはルキアだった。よかった、と安堵したのも束の間、今度は疑問が心中を埋める。 

 それはルキアも同じで、彼女はしばらく怪訝そうにフィリップを見ていたが、他の部屋の扉がガチャリと不穏な音を立てた瞬間、有無を言わさずフィリップを部屋の中に引っ張り込んだ。

 

 部屋の中ではステラがベッドから身を起こして座り、大きな欠伸をしていた。彼女が適当に腕を振ると、部屋中の燭台や暖炉が一斉に明かりを灯した。

 

 暖かな光に包まれたパジャマ姿の二人を見て、フィリップは深々と安堵の息を吐いた。

 力なく笑いながら、抜身のままだった剣を壁に立てかける。鞘とランタンを階下に置き去りにしたことに、フィリップは漸く気が付いた。

 

 しかしそんなことはどうでもいい。今は無性に二人のことを抱き締めたい気分だった。

 ルキアの手を引いてステラのところまで行って、思うがままに二人を同時に抱き寄せる。身長差ゆえ、抱き締めるというよりは二人の首筋にじゃれつくような形だったが、それでも生きた温度は感じられた。

 

 ルキアとステラは顔を見合わせたあと、まずルキアが穏やかに目を閉じて抱擁を返し、その後ステラも怪訝そうにしつつもフィリップの背中をポンポンと叩いた。

 

 ステラが離れたあと、何事か言葉を練るように指を回して言った。

 

 「……言いたいことは山ほどあるが、まず聞こう。私たちの助力が必要か?」

 

 眠気を感じさせない冷酷な戦意に満ちた声での問いを、フィリップは頭を振って否定する。 

 フィリップがここに来たのは二人の安否を確かめるためであり、安全を確保するためだ。それに、そもそも勝ち目があるか怪しい。

 

 ルキアの『明けの明星』はティンダロスの猟犬を跡形もなく消し飛ばす威力があるが、当たるかどうかは五分だ。

 あの空間歪曲はブラックホール級の異常現象で、光も、エネルギーも、重力も、時間さえも、あの歪みの中では正常に機能しない。アレを展開される前に撃つことが出来れば、といったところか。

 

 手を貸してくれようとするのはありがたいことだが、フィリップとしてはなるべく遠くに居て欲しかった。

 どう説得したものかとルキアに目を向けて、フィリップは改めて、ルキアがここに居ることの不思議さを思い出した。ここはステラの部屋だ。

 

 「ところで、ルキアはどうしてここに? 部屋は二つ隣でしたよね?」

 「私が呼んだ。修学旅行の時のように、二人で固まって守り合うべきだと思ってな」

 「え? あぁ、それは……流石ですけど、なんでまた?」

 「あー……実は、お前にナイ神父の話を聞いた時から、ずっと警戒していたんだ」

 

 歯切れ悪く言ったステラに、フィリップは怪訝そうに首を傾げる。

 ステラは少し考えて言葉を練ってから先を続けた。

 

 「私はお前と違って……いや、お前以上に、あの神父を信用していない。奴がいると言おうがいないと言おうが、その言葉に価値はない。最悪を想定して動く」

 

 ばつが悪そうに、しかし自分は間違った判断をしていないという確固たる自信を滲ませて言ったステラに、フィリップは拍手を送りたい気分だった。

 彼女の対応は、フィリップより少しだけ無知な者として最高のもの。そしてナイアーラトテップのことを深く知り過ぎているフィリップでは、むしろ取りづらい選択肢だ。

 

 「なるほど……。あんまり気を張り過ぎないでって言うべきなんでしょうけど、今回は最高の判断です、殿下。奴は居ました。このすぐ下の階に」

 

 そうなると、ナイアーラトテップが嘘を吐いた──というわけではないだろう。アレは「いる」とも「いない」とも明言しなかったのだから。

 

 何か目的があって騙したのか、或いは揶揄われたのか。

 どちらでもいいが、「ナイアーラトテップが僕に嘘を吐くはずがない」と思っているフィリップはまんまと引っ掛かり、悪意を持って意図的に情報を隠すような手合いには慣れているステラは警戒できていた。

 

 「最悪の危惧が当たったわけだ。それで、もう倒したのか?」

 「いえ、それが……」

 

 フィリップは階下での一件を掻い摘んで話した。勿論、ティンダロスの猟犬について詳しいことは殆ど省いて。

 

 「……仮説1、そいつは何か別の狙いがあって、お前を避けた」

 「有り得る話ですけど、あいつらは普通、邪魔者を避けません。邪魔をするなら殺すし、むしろ殺す相手が増えたことを喜びます」

 

 フィリップがステラの推測を頭を振って棄却すると、今度はルキアが別の推理をした。

 

 「じゃあ、フィリップだったから逃げたんじゃない? 貴方の“臭い”で、只者じゃないって気付いたとか」

 「……可能性はありますね。というか……」

 「何だ?」

 

 言い淀んだフィリップを急かすステラ。

 フィリップが一人で問題を抱え込むのではないかという危惧によるものだが、フィリップは単に思考を整理しているだけだった。

 

 「いえ、その……お化けのことなんですけど」

 

 ティンダロスの猟犬が問題としてあまりにも大きく、改めて考えるまで完全に意識の外にあったが──お化けの正体が次元を彷徨うものだったことも、そこそこ大きな問題だ。

 いまこの砦の中には、「何故か」次元を彷徨うものがいて、その上「何故か」ティンダロスの猟犬までもがうろついている。

 

 ティンダロスの猟犬は、実は次元を彷徨うものを追っていた! という意外な真実だったら楽なのだが、そうではないだろう。

 フィリップに与えられた智慧によれば、あの二種は敵対しているとか、憎悪関係にあるというわけではない。次元を彷徨うものが尖鋭時空に立ち入ったところで、追跡や殺害の対象にはならないだろう。

 

 「あれも()()()()の手合いでした。見ただけで精神が壊れるレベルじゃありませんけど、なるべく見ない方がいいです。あと、拉致されるのは本当に不味いです。……でも、そのぐらいですね。こっちは二人なら簡単に殺せると思いますよ」

 

 簡単そうに言ったフィリップに、ルキアとステラは物言いたげに顔を見合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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304

 翌日の訓練で、フィリップのモチベーションは異常なほど高かった。

 もう「緩めで」とか「ロングソードはサブだから」とか、生温いことは言わない。むしろ昨年の交流戦と同じかそれ以上の、何か大切なものが懸かったときの集中力を発揮していた。

 

 朝食を終えてすぐで、まだ日も頂上に至らないというのに、ウォード、マリー、ルキア、ステラと順に模擬戦をこなし、今は魔剣を抜いたミナと戦っているが、その表情は必死さに満ちて真剣なものだ。「勝てるわけないじゃん」なんて弱音は、心のどこにも残っていない。そんなものを抱いている余裕もないほどに、フィリップは自分の身体を追い込んでいた。

 

 「筋力、体重、技量、色々と足りていないけれど、悪くないわ」

 

 縦横無尽に駆け回り、ミナの足首や背中、首や心臓といった急所を的確に狙って攻撃を繰り返しているフィリップを、ミナは愉快そうに称賛した。

 

 言葉の合間にも斬撃が繰り出されては、ミナの魔剣に容易く阻まれる。両者の剣がどちらも規格外の性能故に火花こそ散らないが、剣戟の音は砦の中にまで高らかに響いていた。門を出てすぐのところで打ち合っているから、防壁の上や中庭からこちらを窺って見物している生徒も多かったが、フィリップは全く意識していなかった。

 

 「でも、狙いが駄目ね。私を人間に見立てて動いているのかもしれないけれど……それでは私と()る意味がないでしょう?」

 

 ミナは防御を止め、心臓を狙った突きを無防備に受け入れた。

 完全に集中していたフィリップは、自分が刃の無い模擬剣ではなく、龍の素材を使って作られた最高級の蛇腹剣を持っていることも、吸血鬼の弱点が心臓であることも──これが模擬戦であることも、全く意識の外に置いていた。

 

 しかし、ミナの魔剣とも互角に打ち合える特上の刃は、ミナの豊かな胸と心臓を諸共に貫くことは無かった。

 彼女の姿は霧となって消え、ほんの瞬きの間にフィリップの後ろに回り込んでいた。

 

 フィリップは眼前の敵が唐突に消えても全く動じず、素早く振り返って防御の構えを取る。

 ミナは敢えて防御している剣を狙って打ち込み、フィリップの姿勢を大きく崩す。マリーに教わった通りの正しい防御姿勢だったのに、腕どころか背中の肉が全部弾け飛ぶかと思うような衝撃だった。

 

 「魔眼も、魔剣も、魔術も使っていないのだから、もっと抵抗しなくちゃ。防御に回った瞬間に死ぬと思って走りなさいな」

 

 吹っ飛ばされそうになった剣を必死で掴み取ったフィリップに、ミナは容赦なく追撃する。

 剣を持った右腕が外に流れ、空いた脇腹に強烈な一撃がめり込んだ。

 

 魔剣ではなく、旋回した左足。動き自体は特筆すべきところのない回し蹴りだが、長くしなやかな足は重い鞭のようなもので、衝撃だけでなく浸透力も凄まじい。

 

 内臓破壊と吹き飛ばしの両方を同時に引き起こす蹴りをもろに受けて、ごろごろと地面を転がる。散々砂に塗れて止まったとき、フィリップはコップ一杯分程度の血を吐いた。

 

 ミナはしまったと言うように顔を顰め、足早にフィリップに近寄ると、いつかのように手首を切って血を垂らした。即座に回復したフィリップは立ち上がって口元を拭い、反対方向に飛んでいった蛇腹剣を拾いに走る。

 

 「大丈夫?」

 「……ありがとう、ミナ。次は……ウォード、またお願いできますか」

 「え、あ、あぁ……」

 

 ウォードは明らかに顔を蒼白にして、異常者相手に事を荒立てたくないときの愛想笑いで立ち上がる。

 フィリップは恐怖の混じった視線には気付いていたが、そんなことはどうでも良かった。ウォードとはどうせ、今日を入れてもあと三日だけの付き合いだ。

 

 しかし、流石にそれには待ったがかけられた。

 

 「待て、カーター。少しハードすぎる。ミナも、今のはやり過ぎだ」

 

 ミナにとっては軽症の部類だったが、怪我をさせたことに変わりはないので肩を竦めて応じる。

 フィリップもとんでもなく痛かったものの、それはモチベーションを下げる要因としては不十分だったようで、蛇腹剣を持った右手の調子を確認するようにぐるぐると回している。

 

 「いえ、このぐらいは。ミナ、今の回復、あと何回出来る?」

 「血液(いのち)のストックで言えば、何度でも。でも、やり過ぎるときみが吸血鬼になるわ。それが嫌なら、あと10回か、そのくらいね。負傷の度合いにもよるけれど」

 「限界までやろう。いい?」

 「構わないわよ」

 

 ミナもフィリップと遊ぶのは楽しいのか、いつも気怠そうな顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。

 フィリップも謝意を込めて笑い返すが、当然、フィリップの負傷を笑い事で済ませるルキアではない。 

 

 「いいえ、構うわ。フィリップ、交流戦が終わってからだって私たちが居るんだから、そんなに焦らないで?」

 

 フィリップに対しては静かな諫言といった口調だったが、ミナに向けられた初めの言葉は明らかに刺々しく、心の底では烈火のごとく怒っているのが丸わかりだった。彼女にしては珍しく。

 

 しかし、フィリップは頭を振ってルキアの言葉を棄却した。

 

 「焦りますよ。あと二回、この砦で夜を越さなくちゃいけないんですから」

 

 言葉の通り、激しい焦りを感じさせる声で言ったフィリップ。

 その肩をステラが掴むが、フィリップはその手を苛立たしげに振り払った。

 

 「カーター」

 「こうして全力で戦うのが強くなる最短ルートでしょう? 殿下。それに、最善の環境を利用しないのは非合理的なことのはずです」

 

 ステラは「それはそうだが」と言いたげに肩を竦め、ルキアの「頼りにならないわね」と言わんばかりの冷たい一瞥を浴びた。

 

 「でもフィリップ、貴方は──」

 「何を言って僕を説得しようとも、ルキア、僕は言い負かされたとしてもこれを続けます。意地でも。今すぐ強くならないといけないんです」 

 「フィリップ──」

 「──僕に、また出来ることをやらずに二人を見捨てろと?」

 

 唾棄するような勢いで言ったフィリップに、ルキアは一瞬だけ泣きそうに瞠目して、すぐに表情を取り繕った。

 フィリップは気付かなかった一瞬の変化に目敏く気付き、ステラが代わって言葉を続ける。彼女は今まではフィリップの異常なモチベーションに呆れていたが、今は無二の友人を傷付けられて明確に怒っていた。

 

 「……私たちの為だというのなら、前にも言ったはずだぞ。私たちはそれを望まないし、許容しない」

 

 厳しい口調で言うステラだが、フィリップは低質な冗談でも聞いたように冷たく笑った。

 

 「許容? 僕は僕のやりたいことをやるし、殿下の許可なんて求めてません」

 「フィリップ君、流石に言い過ぎ──」

 

 吐き捨てたフィリップを、ウォードがステラの顔色を窺いながら諫める。いや、諫めようとした。しかし残念ながら、

 

 「ウォードは黙っててください!」

 「口を挟むな!」

 

 と、ヒートアップし始めた二人に一喝されて、モニョモニョと口を噤む羽目になった。

 

 「……そうだな。私もお前の行動を許認可制にした覚えはない。だが、身命を賭して守ってくれと言った覚えもない」

 

 ステラは第三者に話しかけられたことである程度は落ち着いたが、そのせいで口調はいっそう冷たくなっていた。

 彼女は不覚にも、心の中で歯噛みする。こんなことを言いたいわけではないのに、と。

 

 ともすれば激発さえしかねないようなことを言われたはずのフィリップは、ステラの予想に違わず不愉快そうに眉根を寄せる。しかし、その口元は怪訝そうな笑みの形だった。

 

 「え? 殿下、僕の話をちゃんと聞いてくださいよ」

 「……どういう意味だ?」

 「いや、だから、僕は僕のやりたいことをやるって言ったじゃないですか。二人が望もうと望むまいと、二人のことは守りますよ」

 

 ルキアが顔をくしゃりと歪めて俯いた。

 こんな場面で無ければ「そんな顔も綺麗なのはズルくないか?」なんて揶揄うところだったが、ステラは心外そうに、少し低いところにあるフィリップの目を見つめ返した。

 

 「私たちだって自分の身を守るくらいは出来ると思うが?」

 「──っ! どうやって!!」

 

 フィリップはここで激発した。

 これまでの経験と再三の警告によって、フィリップが恐れる相手であるティンダロスの猟犬の脅威は、ステラにも伝わっていると思っていた。

 

 それなのに侮るような言葉が出てきて、フィリップは初めてステラのことを馬鹿だと思った。

 

 無論、馬鹿だから怒ったわけではない。

 だがフィリップは今でも、彼女のことを誰よりも賢い女性だと思っていたし、尊敬の念さえ抱いていた。だからこそ、その馬鹿げた考えには我慢ならない。フィリップが最高の頭脳の持ち主だと信じる女性を貶めるような甘い考えは、ひどく癇に障った。

 

 声を荒げて、連戦で乾いていた喉がズキリと痛んだ。

 その痛みで我に返ったフィリップは、信じられないというような目で自分を見つめるウォードとマリーに気が付いた。

 

 フィリップに声を掛けるべきか躊躇っているルキアより、むしろ、狼に向かって吠え立てる子犬を見るような目のミナを見て冷静さを取り戻したフィリップは、ステラから一歩退いた。

 

 「……すみません、つい。でも殿下、昨日話した通り、相手は強いんです。今の僕では到底太刀打ちできないし、二人はなるべく見ない方がいい相手です。場合によってはルキアの『明けの明星』だって効かないかもしれない。そんなヤツを相手に、どうやって身を守るんですか?」

 

 ルキアとステラには昨夜の段階で、ティンダロスの猟犬について粗方のことは話してある。

 その詳細についてはかなり省いたが、攻撃方法、移動手段、出現の前兆である独特の臭いや角を這いまわる青白い膿について、そしてほぼ無敵の防御である空間歪曲についても。現象については理解はできないだろうが、その効果の強さについては二人も納得していた。

 

 なのに自分の身は守れるというのなら、是非ともその名案について聞かせて貰おう。そんな態度で顎までしゃくるフィリップに、ステラは嗜虐心に満ちた獰猛な笑みを浮かべた。

 

 「その前に確認だが、もし私の提示した案が理論最適解だったらどうする?」

 「どう? どうとでも。殿下の言う通り、模擬戦の強度は下げますよ」

 「足りないな。それは要求の最低水準であり、ルキアを傷付けたことと、私に対する無礼への応報を含まない。……腕立て伏せでもするか?」

 

 挑発的に笑ったステラはちらりとマリーを一瞥した。

 不機嫌な王族という最もお近づきになりたくない相手の視線が向いたことで、流石のマリーもびくりと肩を震わせた。まあ、事実としては、彼女は不機嫌な「滅茶苦茶強い人」に見られたから怯えただけで、身分階級に対する意識はそこそこ薄いのだが。

 

 「え、あ、えっと、腕立て伏せは余計な筋肉が付いちゃって、可動域が狭くなるから……持久走かプランクの方がいいですね」

 

 専門家の意見に、ステラは軽く頷いた。

 

 「だそうだ。外周100周、プランク3時間。どうだ?」

 「上等。その代わり全くダメな案だったら、殿下にも僕のことを殺す気で模擬戦をして貰いますよ」

 

 挑戦的に言い返したフィリップだが、砦はかなりの規模で、正方形の一辺が200メートルくらいある。一周約800メートルとなると、勿論、100周もすればぶっ倒れるわけだが、フィリップは全く気にしていなかった。

 

 「……空間隔離魔術を使う。無駄な装飾を失くした真球状の『黒眩聖堂』と、そもそも物理的実体を持たない『煉獄』なら、“角を通って”内側に入られることはない。重力子の塊を次元歪曲でこじ開けられるかは未知数だが、概念的に遮断する『煉獄』には関係ない。……まあ、こちらからの攻撃も完全に遮断されるわけだが、自衛するだけなら問題ないはずだな?」

 

 ステラは腕を組み、真剣な眼差しで自身の策を語る。

 挑発的に顎を上げて聞いていたフィリップは彼女の言葉を聞き終えると、引いた顎に手を遣って黙考し、視線をどこか上の方にやって、それから真っ直ぐにステラを見つめた。

 

 そして、へなへなと跪いて頭を下げた。

 

 「う、ぐ、さ、最適解です……あの、どうにか負かりませんか」

 

 消え入りそうな声で言うフィリップに、ステラは愉快そうに笑ってから「仕方ないな」と言わんばかりの呆れた溜息を吐いた。

 

 「……潔さに免じて10周と5分に負けてやる。ただし、ちゃんとルキアに謝ることだ。……駆け足用意!」

 「くっ……ここぞとばかりに理想的な基礎訓練を……」

 「そうだ、焦ったって急に強くはならない。模擬戦なら私たちがいつでも付き合ってやるから、今はエーザーとウィレットにきちんとした基礎を学べ」

 

 騙された気がするとかブツブツ言いながらも、フィリップは素直に砦の外壁に沿って走り出した。

 その後姿を見送っていたミナは魔剣を霧にして手元から消し去ると、退屈そうに伸びをした。

 

 「つまらないわね。あの子と遊ぶの、結構楽しいのに」

 「あら、じゃあ私と()りましょうか。さっきのフィリップへの過剰攻撃、まだ許していないから」

 

 冷たい笑顔を浮かべたルキアが返事も聞かずに歩き出すと、ミナは異常に発達した犬歯を覗かせる獰猛な笑みを浮かべて後を追った。

 

 ウォードとマリーが顔を見合わせて、結局何が原因で言い争っていたのかと首を傾げた。

 

 

 

 

 

 



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305

 その日の夜、フィリップはベッドに入ったあと、目を瞑らずに聞き耳を立てていた。

 言うまでも無く女子用宿舎に行くため、ウォードが寝入るのを待っているからだ。

 

 魔術学院の学生寮のふかふかのベッドと前回の交流戦の硬いベッドの、ちょうど中間くらいのクオリティの寝具に包まれて、フィリップは漫然と薄暗い天井を見上げる。手足どころか背中や腰までが、痛みにも近い疲労感をじわじわと訴えていた。

 

 「……うまく乗せられた気がする」

 

 ぽつりと呟いたフィリップ。その不満の宛先は、今頃ルキアと同じ部屋で防御態勢を取り、どちらが初めの2時間を寝るかジャンケンしているだろうステラだ。

 

 昼間はフィリップが焦るあまり、言い争うような形になったが……こうして冷静に考えてみると、途中から誘導されていたような気がする。

 だって現に、ベッドに入って二分も経たないうちに強烈な睡魔が襲ってきて、もう目を開けていられない。

 

 「駄目だ……起きないと……むにゃ……」

 

 ウォードは寝入ったばかりなのに寝坊する夢を見ているらしいフィリップにくすりと笑って、自分自身も深い眠りの中に沈んでいった。そして二人は、翌朝まで続く快適な眠りを存分に満喫する。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 フィリップが眠るのとほぼ同時刻、ミナは隣の部屋から漏れ出た膨大な魔力に叩き起こされた。

 吸血鬼という頂点捕食者である彼女は、眠りがかなり深い。外敵に対して警戒する必要が無いからだ。しかしその分だけ、眠りを妨げられた時の不快感は大きかった。

 

 ミナはベッドから身体を起こし、身を包む装束を肌が透けるような薄手のネグリジェから、普段着のコルセットドレスへと変えた。魔力によって物品を編むのは高度な技術だし、人間の脳では処理できない情報を多分に含むが、吸血鬼にとっては常識の範疇だ。

 

 高いヒールを鳴らして部屋を横切り、苛立ちも露わに扉を開ける。廊下は全くの無人で、等間隔に並ぶ壁の蝋燭が、じり、とほんの僅かな音を立てた。

 

 ミナは呆れたように片眉を上げ、長い黒髪に手櫛を入れる。

 魔術師を育成する学校が聞いて呆れる、鈍感極まりない連中だと。しかしルキアとステラの魔力隠匿能力は日進月歩で上達しており、全力で秘匿すれば空間隔離魔術でさえも魔術学院生たちから隠しおおせた。

 

 それでもミナにとってはダンスホール級の騒音だ。

 ルキアとステラは夜中に騒ぐような馬鹿ではないと思っていたが、こうなると評価を大きく下方修正せざるを得ない。フィリップ(ペット)の番として強さは十分かもしれないが、飼い主の眠りを妨げるようなら不合格だ。

 

 「貴様ら、今何時だと……」

 

 ばたん! と、それこそ他の部屋の生徒たちの安眠を妨げるほどの勢いで扉を開けたミナだが、次の瞬間、彼女は後ろに大きく飛び退いた。

 

 彼女は激しく燃え盛る部屋の中を驚愕と共に見つめ、それからドアノブを掴んでいた左手に目を落とす。

 手首から先が完全に炭化して、一切の感覚が無かった。

 

 赤い双眸を忌々しそうに細め、右手の手刀で左手を容易く切り落とす。当然のように大量に出血するが、次の瞬間には傷一つない真っ白で嫋やかな手が戻っていた。

 

 「……意味が分からないわ」

 

 ミナは部屋を埋め尽くす炎が物理的なものではなく、極めて高度な魔術によって“燃える”という状態を押し付けられた、概念的なものであることを一目で見抜いた。人間以上の魔術適性を持つミナですら再現不可能な、特定属性の究極点だと。

 

 問題は、何故そんなものを夜中に、部屋の中で使っているのかということだ。

 延焼しないよう完璧に制御されているようだが、部屋に入った瞬間に燃やされるのは体験した通り。何か、外敵に備えているように思える。

 

 ミナは深々と嘆息して、フィリップの部屋で寝ることにした。

 魔術師はほぼ全ての感覚器官で魔力を捉えるが、ミナも例外ではない。隣の部屋にいるだけで、眩しいし、煩いし、臭いし、とにかく寝付ける状態ではなかった。

 

 彼女がほんの少しでもフィリップとルキア達の会話内容に興味を持っていれば、昼間の時点で分かっていたことなのだが──人間(家畜)同士の会話なんて、聞く気にもならないのは種族的に仕方のないことだった。彼らの都合や理屈なんて、ミナには毛ほどの価値もないのだから。

 

 フィリップの部屋は何処だったか──視界のチャンネルを魔力の次元へと切り替えて、無数の餌の中からペットを探す。

 途中、上質な魔力を持った処女や童貞、更には特殊な血液型である金の血や銀の血まで見つけて生唾を呑んだが、最終的には真っ直ぐにフィリップの部屋を目指して歩き出した。

 

 階を二つ降り、連絡通路のある三階に出た時だった。

 ナイ教授や投石教会から漂うものに似た、極めて純度の高い臭いが鼻を突いた。

 

 ミナは踊り場で足を止め、不快な臭いの元を探って息を吸う。二呼吸目で、階下、塔の二階から漂っていることが分かった。

 不愉快そうに目を細めたミナは、少し考えてから踵を返し、階下に足を向けた。今すぐフィリップの部屋に行ったところで、どこかの馬鹿が左手を焼いた所為で目が冴えていて、すぐには寝付けないだろう。

 

 不快な臭いの元が何であれ、排除してからフィリップのベッドに潜り込んでも遅くはない。そう判断してのことだ。

 

 二階から三階へ、足音を殺してこっそりと上がってくる二人の人間には気付いていたが、そんなものはどうでも良かった。

 ただ、その人間たち──中庭玄関で待ち合わせ、今から部屋に行こうとしていた恋人たちにとっては、最悪の遭遇だった。

 

 「きゃあっ!?」

 「きゅ、吸血鬼!? な、何やってるんだ! 夜中は、へ、部屋から出ないって聞いてるぞ!」

 

 二階と三階の間にある踊り場で遭遇した三人は、恐怖と、敵意と、無関心を表出させた。

 

 彼氏は果敢にも両手を広げ、彼女を庇うように立ちはだかる。彼の立ち位置と恰好は、図らずも踊り場から下に行かせまいとする通せんぼになっていた。

 二人には一瞥を呉れる気さえ無かったミナだが、進路を妨害されても穏便に、笑顔で「危害を加えるつもりは無いから、退いてくれないかしら?」なんて交渉するほど上機嫌ではなかった。

 

 ただでさえ、寝入った直後に叩き起こされているのだ。

 そんな不機嫌な状態のミナを更に不快にさせようなんて、フィリップでも考えない愚かな行為だろう。

 

 とはいえ、ミナも進路妨害されたくらいで魔剣を抜いて首を刎ねるほど短気ではない。

 フィリップが自分の飼っている愛玩犬、ルキアとステラが彼を慕う軍用犬だとしたら、眼前の二人は野良犬以下だが、それ故に、魔剣を抜くほどではなかった。

 

 ミナはキャンキャンと吠え立てる矮小な生き物に留めていた視線を上げ、止めていた足を再び動かし始めた。

 

 「ち、近寄るな──うっ!?」

 

 勇敢にもミナに向かって拳を振り上げ、恋人を守ろうと立ち向かった少年は、次の瞬間には壁にへばりついて失神していた。

 ミナが片手で乱暴に打ち払ったせいで肋骨が何本か折れていたが、命に別状はない。尤も、ミナは彼の命に対して一片の気遣いもしなかったので、単なる幸運によるものだが。

 

 踊り場の隅でガタガタと震え、頭を抱えて縮こまっている女子生徒には一瞥も呉れず、ミナは不快そうに口元を押さえながら階段を降りる。漂う臭気は、もはや我慢ならないほど強くなっていた。

 

 そして──蒼褪めた脳漿が壁と天井の交わる角を這って、死体安置所の臭いを振りまきながら、階下から登ってきた。

 

 「……?」

 

 ミナは初め、それが何であるのか全く分からなかった。

 ぞるぞるぞる、と耳障りな音を立てるそれが、何か自然の現象──古い建物にありがちな、雨漏りや水道管の破断の類だと思ったくらいだ。だって、スライムやウーズといった魔物とは明らかに違う。ミナはそのどちらも見たことがあるし、魔力のパターンも覚えているが、その脳漿はそもそも魔力を放っていなかった。

 

 それどころか、その気色の悪い粘体は魔力的には何の情報も持っていなかった。

 視覚的には、蒼褪めた脳漿に見える。嗅覚的には、死体安置所の臭いを纏っている。そして魔力的には、それは真っすぐでありながら捻じれていて、あらゆる箇所が直線と鋭角だけで構成された時間を持っていた。それは臭くて甘かったが、馬のように強靭で煙のように捕らえられず、何かを必死に書いていた。

 

 ミナの──いや、この歪曲した時間の中で生きるあらゆる全ての知的存在には理解できない情報を流し込まれ、思わず視界のチャンネルを物理次元に戻し、激しく頭を振って思考を中断した。

 

 「何なの……?」

 

 ミナは吐き気を催しながら、踏鞴を踏んで階段を下がる。

 不快感のあまり、その青白い粘液を吹き飛ばそうと血の槍の魔術まで展開していた。

 

 青白い脳漿は踊り場までズルズルと移動すると、ちょうど震えて縮こまった女子生徒の頭上辺りで止まった。

 

 彼女の視線はミナと深紅の槍の鋭い穂先を行ったり来たりしていて、鼻水のせいで死体安置所の臭いにも気付いていないようだった。

 

 そして、現れたティンダロスの猟犬はノコギリのような歯が並んだ口を大きく開けて、最後の最後まで自分に気付かなかった愚かな女子生徒を丸呑みにした。

 

 「……?」

 

 ミナは眼前で人間一人が喰われたことには何ら感情を動かさなかったが、ティンダロスの猟犬の異容を目にして平然とはしていられなかった。

 なにせ、姿が常に変化し続けているのだ。正確にはそう見えるだけなのだが、ミナにとっては同じことだ。

 

 今度は踊り場の壁に寄りかかって失神している男子生徒に目を付け、憎悪に満ちた唸り声をあげるティンダロスの猟犬の顔は、絶え間なく歪み、捻じれ、蠢き、狂う。四足歩行のように見えた直後には、五本足になったり、むしろ背中から足が飛び出たりしていたが、その姿は一貫して、あらゆる部分が直線と鋭角だけで構成されていた。

 

 ミナは完全に理解の範疇外にあるものを前に、より詳細な情報を得ようともう一度魔力視を使う。しかし、すぐに止めて口元を押さえた。情報はまたしても完全に破綻していた。何も考えられなくなって、ただひたすらに気分が悪く、油断すれば就寝前に飲んだフィリップの血を吐き戻しそうだ。

 

 胃の蠕動を押さえつけるように深呼吸するミナ。

 その間に、気絶していた男子生徒が意識を取り戻した。

 

 だが彼にしてみれば、失神していた方がずっとマシだっただろう。せめて意識が暗黒の中に在れば、眼前に立つ悍ましい「死」を見ずに済んだのだから。

 

 「──えっ? うわぁっ!?」

 

 全容を見ることさえ叶わない──見えているのに認識できない異形が大口を開けて飛び掛かってくるのを目の当たりにして、彼は咄嗟に両手を挙げて顔を庇った。

 

 意外にも、或いは当然ながら、防御行動に反応したティンダロスの猟犬の顎は男子生徒の腕だけを食い千切った。

 大量の血が噴き出す光景を幻視したミナだが、その予想は裏切られた。

 

 「うわぁぁぁ──、あ?」

 

 彼は反射的に絶叫したが、塔内の女子生徒たちを全員叩き起こすような悲鳴はすぐに収まる。腕は肘の先辺りから完全に消失していたが、血は一滴も流れていなかったし、チクリとも痛まなかった。

 そして。

 

 「な、なんだこれ、なん──」

 

 表情を困惑と恐怖に染めたまま、彼もティンダロスの猟犬の顎の中に消えていった。腹の中でないことは、人間二人を入れたにしては大きさが全く変わっていないことから何となく推察できた。

 

 人間二人をあっという間に喰らい尽くした異形は、相変わらずの理解不能な姿でミナの方を向く。

 だが、ミナは自分から先制攻撃するのを躊躇うような遠慮とは無縁だし、眼前の異形に対して警戒心はあっても恐怖は無い。

 

 正体不明ではあるものの、明らかに敵対的な──どこか躊躇しているようにも、訝しんでいるようにも見えたが──相手に、ミナは容赦なく血で編まれた大槍を撃ち出した。

 

 

 

 

 

 



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306

 翌朝、つまり交流戦六日目の朝。

 完全に熟睡してしまったと不本意そうに目を擦るフィリップと、そういえば今日がペア戦だったと同じく不本意そうに欠伸をするウォードは、二人揃って部屋を出た。

 

 朝食の時間はもう過ぎている。つまり──二人揃って寝坊していた。

 

 フィリップは昨日、マリーとステラに散々基礎訓練──というか、ほぼ罰則みたいなメニューを押し付けられて疲労困憊だった。ウォードは「じゃあ」とばかりミナとルキアに教導を頼んで、分不相応な相手との模擬戦で当然のようにボコボコにされて、やはり疲労困憊だった。

 一晩明けて──プラス、追加で数十分寝て、何とか回復したが。

 

 「フィリップ君、いま何時……?」

 「八時過ぎです。急いで食べれば余裕ですよ」

 

 フィリップがへらりと笑って答えた、その直後。廊下の向こうの方から、猛烈な勢いで走ってくる人影が見えた。

 よく目を凝らすまでも無く、馴染み深い相手だ。何故か男子用宿舎の廊下を必死の形相で爆走しているのは、マリーだった。

 

 「エーザー先輩!? 何して──」

 「いた!! 二人とも何してたの!? 早く来て、大変なんだから!」

 

 マリーは激しく責めるような目で二人を見て、片方ずつ手を掴んでずんずんと引っ張っていった。

 

 「何があったんですか、先輩?」

 「死体でも見つかったみたいな……ふぁ……焦りようですけど」

 

 二人とも寝起きで、フィリップは欠伸などしているが、それはマリーにとって激しく場違いな安穏さだった。

 

 「死体は見つかってない。まだね」

 

 苛立ちを隠さずに吐き捨てたマリーに、フィリップとウォードは不愉快そうに顔を見合わせた。何が起こっているのか知らないが、八つ当たりされるのは気分が悪い。

 しかし苛立ちに任せて反撃する前に、眠気で鈍った頭にマリーの言葉がじわじわと染み込んだ。

 

 「……まだ? 何があったんですか?」

 「行けば分かるよ。……あ、でも、ここからでも見えるね。ほら」

 

 マリーは窓の外、中庭の向こうにある女子A塔を指す。

 その中ほどには黒々とした点があった。──いや、点ではなく、穴だ。塔の真ん中辺りに、ぽっかりと穴が開いている。石造りの塔が倒壊するほど大きくはないが、ここからでも見えるサイズだ。

 

 「え……? なんで……?」

 「誰かの魔術が暴発したとかですか?」

 

 不思議そうに尋ねたフィリップに、マリーは呆れたように嘆息して、それからゆっくりと答えた。

 

 「ミナさんだよ。他にも色々、問題があるんだ。とにかく来て……あ、ウィレット君はいいや」

 「えっ……?」

 「え……?」

 

 フィリップとウォードはそれぞれ驚きと困惑を込めた、似たような呟きを漏らす。

 ミナが魔術の制御をしくじるわけがない、という信頼に基づく驚愕はフィリップのもの。突然蚊帳の外に放り出された困惑はウォードのものだ。

 

 「アンタが来たいなら来てもいいけど、面白い話じゃないよ、ウィレット君」

 「え、あ、えーっと……」

 

 ウォードは窓の外に見える一部が吹き飛んだ塔と、全く意味が分からないという困惑に満ちたフィリップの顔を交互に見て、僅かな逡巡の後に頷いた。

 

 「僕も行きます」

 「そ。でも、邪魔しちゃだめだよ」

 

 マリーはそれきり一言も発さず、二人を連れて中央塔の地下に向かった。

 地下はフィリップたちが前回泊まったのと同じような、粗末な部屋が幾つも並んでいた。B塔──前回の平民用宿舎と違うのは、ベッドが一つしかないことと、粗末なトイレが剥き出しで置かれていること。そして、入り口側の壁がドアまで全部鉄格子だという点だ。

 

 そこは所謂、地下牢だった。

 

 石の壁には埃が積もっていたし、蝋燭も最低限で薄暗いを通り越して普通に暗い空間だ。飾り気なんて微塵もない無骨な場所だが、今は妙に明るく輝いている。

 それは階段を降りてすぐのところにある独房に、見目麗しい女性が三人も集まっていることと無関係ではなかった。

 

 一人は独房の中で、退屈そうにベッドに座っているミナ。彼女はフィリップが来たことに気付いても、小さく肩を竦めるだけだった。

 

 一人は独房の外で、ミナに魔術を照準しているルキア。彼女はフィリップに気付くと、いつものように「おはよう」と微笑んだ。

 ミナの周りを取り囲むように幾つもの光球がふよふよと浮かんでいたが、それは彼女の魔術『エクスキューショナー』だ。回避不能状態にある対象を完膚なきまでに破壊し焼却する、『明けの明星』の限定的同時発動。ミナが殆ど動けずにいる理由がこれだ。

 

 そして勿論、もう一人。ミナを制御し得る聖痕者であるステラは、教職員らしき大人たち3人と何事か話していた。

 

 「王女殿下、フィリップ君をお連れしました」

 

 踵を鳴らして敬礼するマリーは、いつもの「変なお姉さん」然とはしていなかった。

 ステラはマリーに声を掛けられるまでフィリップに気付かなかったが、気付いた後はすぐに大人たちとの話し合いを中断して向き直った。

 

 「あぁ、来たか。カーター、状況は聞いているか?」

 「あ、はい、ちょっとだけ。ミナが塔の一部を吹っ飛ばしたんですよね?」

 

 ミナの方を見ながら言うと、彼女は適当な感じで肩を竦めた。

 どうやら本当にやったらしい。でなければ大人しく収監されているはずもないだろうが。

 

 フィリップの答えは満足のいくものではなかったらしく、ステラは小さく頭を振った。

 

 「それは問題のごく一部だ。……昨日、生徒が二人、行方不明になった。いや──」

 「四人ですぞ、殿下! 一昨日に二人、昨夜に二人! この吸血鬼がやったに決まっているではありませんか!」

 

 教師の一人、老獅子のような厳めしい顔つきの男が吼えるように言う。

 ステラの言葉を遮るのは宰相でさえ叱責される無礼千万だが、彼女の意を汲んだ内容だったからか、或いは単に処罰を後回しにしたのか、ステラは不快そうにピクリと眉を動かすに留めた。

 

 「ミナが? そうなの?」

 「……いいえ。私は誰も殺していないし、食べてもいないわ」

 

 ミナはたっぷり10秒は沈黙してから、うんざりしたように答えた。

 心底かったるいと言いたげな溜息の原因は、同じ質問を何度も繰り返されたことによるものだ。初めは騒ぎを聞きつけてやってきた教師に、次にルキアとステラに、それから何人もの教師たちに繰り返し。違うと言って、言い続けてなおこの処遇だ。

 

 フィリップに対する愛着が無ければ、そしてルキアが魔術を展開していなければ、全員殺しているところだった。

 

 そんなミナの心中など知らない、想像さえしないフィリップは、けらけらと笑った。

 

 「あはは、だろうね。ルキア、ミナは無実です。魔術を解いてください」

 「……分かったわ」

 

 説得の言葉を考えながら言うと、ルキアは意外にもすんなりと光球の群れを消してくれた。

 瞬間、ミナはコルセットドレスの裾をはためかせて立ち上がる。血溜まりを歩くための高いヒールを抜きにしてもすらりと高い上背から、激しい倦怠と僅かな怒りを湛えた赤い双眸が見下ろす。とても威圧感があったが、フィリップはにっこり笑って鉄格子の閂を外した。

 

 「なっ!? いけません、聖下!」

 「そうです、龍殺しの英雄とはいえ、こんな子供と吸血鬼の──」

 

 老教師だけでなく、若い女教師も言い募る。

 しかし、ミナはもう長身を屈めて鉄格子を潜るところだったし、ルキアも魔術を再展開する気は無いようだった。

 

 「その先は止めておけ。カーターを侮るのは仕方のないことだが、それ以上続ければ侮辱になるし──そうなれば、ルキアは反射で殺すぞ」

 「貴女のそれは私への侮辱かしら?」

 

 ステラとルキアがじゃれ合っているのに不愉快そうな一瞥を呉れて、ミナはフィリップを抱き締めた。

 心なしかいつもより手つきが優しかったのは、フィリップの気のせいだろうか。

 

 人間を抱擁して愛でる吸血鬼という世にも奇妙な光景を前にして、教師たちは戸惑っているようだったが、しばらくして我に返った。

 

 「君、何を根拠にそう言うのだね?」

 「ミナは違うと言いました」

 「……まさか、それだけで?」

 

 正気を疑うような目を向けられて、フィリップは端的に肩を竦めた。

 それだけだし、それ以上のものは必要ない。いや、もっと言えば、ミナが誰を食おうが、何人食おうが、フィリップの大切な人でなければどうでもいい。

 

 「あー……先生、昨日の夕食でパンを食べましたよね?」

 

 突拍子の無い──少なくとも脈絡を無視したように思える質問に、教師たちは一様に顔を見合わせる。中でも老獅子のような男性教師は、はぐらかされたと思って顔を顰めていた。

 

 「何? いきなり何の話だね?」

 「いいから答えてください。そっちの先生でもいいですけど」

 「え、えぇ、食べたわ。黒パンとビーフシチューだったわよね、確か」

 

 うんうんと頷くフィリップ。

 交流戦では大量に作れて再加熱しやすいシチュー系のメニューが頻繁に食卓に並ぶが、干し肉入りでスパイスの効いたビーフシチューはフィリップのお気に入りだった。

 

 「それ、なんで普通に答えたんですか?」

 「え? だって……待って、嘘でしょ? そういうことなの?」

 

 フィリップはまだ核心の部分を話していなかったが、若い女教師はフィリップの不足した言葉から言わんとしていることを察したようだった。

 顔を蒼白にして後退っているから、勘違いや誤解ではないだろう。

 

 「素晴らしい。そういうことです。ミナが人間を喰おうが殺そうが、それを隠すことはありませんよ」

 「……流石、私のことをよく分かってるわね、フィル」

 

 ミナはフィリップを抱き締めたまま、嬉しそうにつむじの辺りに唇を落とした。

 彼女にとって、人間の心臓はパンで、血液はシチューだ。それを食べることに不思議はないし、それを食べたことを隠す必要性も感じない。問題になるという認識を持っているかは不明だが、問題にするような奴を片端から斬り捨てればいいと考えていることを見抜くのは、そう難しいことではなかった。

 

 フィリップはキスや抱擁より、ミナの匂い──月と星々に満ちた夜空の匂いで眠気を再燃させていたが、ステラが目の前でパチリと指を弾いて起こした。

 

 微睡の世界から帰ってくると、ずっと震えていた若い男性教師が声を荒げた。

 

 「し、信用できない! そいつは人食いの化け物じゃないか!」

 「そうですね。だからこそ、って言う話を、まさに今したところなんですけど」

 

 不愉快そうに言うフィリップだが、男性教師はミナの不愉快そうな目に怯えてそれどころではなかった。

 

 彼以外の二人の教師とルキア達は、フィリップの言葉を信じたか、人食いの化け物の価値観など想像するだけ無駄という結論に至ったようで、それ以上の追及は無かった。

 

 しかし、ミナにはもう一つの咎がある。言うまでも無く、塔の一部を吹っ飛ばしたことだ。あの破壊痕、穴の直径は二メートル以上にもなるだろう。

 

 「……では、あの魔術は? 塔を吹き飛ばした魔術はどういうつもりだね?」

 「あ、それは僕も気になる。まさかミナに限って、魔術をしくじったなんてことはないだろうし」

 

 ミナも当然、自分の実力に自信を持っている──或いは正確に把握しているから、フィリップの言葉には肩を竦めるだけだった。照れもしないし、怒りもしない。ただ当然のことと受け止めていた。

 

 「妙な魔物がいたのよ。臭いし気色悪いし、不愉快だったから吹き飛ばした……いえ、吹き飛ばそうとしたの」

 「仕留め損なったの? ミナが? 嘘……待って、どんな奴?」

 

 何かの冗談かと思って笑っていたフィリップの顔から、言葉の途中で笑顔が消えた。

 龍さえ屠るミナが取り逃がしたなんて、相手は龍以上の速度か防御力を持っていなければ有り得ない。だが、そんなモノこそ有り得ないだろう。──通常の魔物では。

 

 「分からないわ。姿が判然としない……いえ、見えているのに理解できなくて。魔物以上に化け物だった。魔力情報も壊れてて、本当に謎ね」

 

 ミナが言い終わったとき、質問した当人であるフィリップは奇妙に表情の抜け落ちた顔で立ち尽くしていた。

 ただ、ミナの体温とは無関係に背筋が冷えていくような感覚があった。

 

 「……魔力視で見たの?」

 「そうよ。魔力は光よりも多くの情報を──フィル?」

 

 フィリップはミナの抱擁を振り解いて、彼女と正対した。

 

 「僕の目を見て、ミナ。……ごめん、少し屈んで、視線を合わせてくれる?」

 「……どうしたの?」

 

 自分の目を真っ直ぐに見つめる青い双眸を、ミナは愛おしそうに見つめ返す。

 教師たちは何が何やら全く分からず揃って困惑顔だったが、ルキアとステラがじりじりと焼け付くようなプレッシャーを放ち始めていたから、何も言えずに成り行きを見守るしか無かった。

 

 フィリップはミナの赤い双眸に濁りがないことを確認すると、出し抜けに問いかけた。

 

 「ねぇ、ミナ、空間転移魔術が使えない理由って何だっけ?」

 「いきなりどうしたの? そんなの、不確定性原理と動質量概念の不安定性に決まっているでしょう?」

 

 ミナは愛玩するような笑みを浮かべ、フィリップの頬を撫でながら答える。

 

 フィリップは胡乱な顔でルキアとステラを振り返る。二人はそれぞれの仕草で「正解」と示した。フィリップは正直、ミナが何を言っているのか全く分からなかったし、何ならもっと長い答えが返ってくると予想していたから、一瞬「おや?」と思ってしまったくらいだ。

 

 フィリップは二人に頷きを返し、質問を続ける。

 

 「1234足す2345は?」

 「3579。……何なの?」

 

 フィリップはまた胡乱な顔で振り返り、ルキアとステラは二人揃って頷いた。ステラは「自分で計算できないならもっと簡単な数にしろ」と言いたげな呆れ笑いを浮かべていた。

 

 ともかく、記憶と思考が正常なら、少なくとも精神の表層は正常と見ていいだろう。

 

 「良かった。発狂はしてないみたいだね」

 「……それ、どういう意味?」

 

 不愉快そうに目を細めたミナに、フィリップは慌てて諸手を振った。

 

 「あ、違う違う。ミナが錯乱して幻覚を見たとか思ってるわけじゃないよ。その逆──そいつを見て、何か悪影響が無いかってこと」

 「ああ、そういうこと。理解できないものを無理矢理に理解すれば、発狂することもあるかもしれないけれど……」

 

 そんな馬鹿なことをする者がいるの? とでも言いたげに微笑したミナに、フィリップは安堵の息を吐き、ステラが片眉を上げた。

 

 

 

 

 

 

 



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307

 結局、ミナの無実は証明できなかったが、ミナの有罪もまた証明されなかった。

 吸血鬼だから、人食いの化け物だからという理由で追及されたものの、フィリップとステラが断固として否定したし、最終的には「その理屈で言うなら、人間だって同族を殺す生き物でしょう?」というミナの言葉に、教師たちは誰一人として反論できなかった。

 

 フィリップたち価値観破綻者組は──誰のことかは言うまでもないだろう──ミナの痛烈な反論には一ミリたりとも心を動かされず、「ペア戦の練習、全然してませんでしたね」なんて交流戦のスケジュールについて話しながら地下牢を後にする。

 ウォードはフィリップの後について来たが、地下牢での会話に今一つ納得がいっていないのは表情から見て取れた。

 

 「……ねぇ、フィリップ君。ウィルヘルミナさんはホントに無実だと思う?」

 「勿論」

 

 ウォードが何か言いたげなことには気付いていたが、フィリップはあくまで文面通りの問いとして答えた。

 事実としてフィリップはミナの無実を信じているというのもそうだが、何より、この一週間ミナに色々と教わってきたはずのウォードが、まだミナのことを誰彼構わず血を吸って殺すような分別の無い怪物だと思っていることが、フィリップには妙に腹立たしかった。

 

 まあ、ミナは分別を持っているだけで、本質的には人並み外れた強さを持ち、人並みの価値観には絶対に共感できない化け物だ。

 フィリップの血を定期的にごく少量飲むだけで満足しているのは、既に10万以上の人間を吸い殺しているからだ。これ以上のストック増産に意味や魅力を見出していないから、ルキアとステラとヘレナを同時に相手取ることになる可能性を厭っているに過ぎない。

 

 だからウォードの懸念は、むしろ正解だった。

 

 「……でもさ、フィリップ君、君だって他人のパンを摘まみ食いしちゃったら隠すだろ? 彼女がそうじゃないって言い切れるかい?」

 「さぁ? でも、つまみ食いって怒られるから隠すだけで、トイレみたいに“隠さなきゃいけない”ものじゃないでしょう? それに、ミナのつまみ食いを咎める……咎められるのはルキアと殿下と、あとは学院長ぐらいですけど、学院長先生はここにいないし、ルキアと殿下は見知らぬ他人が喰われた程度じゃ怒らないし、隠す必要性は感じないと思いますよ」

 

 ついでに言うと、ミナは多分人間のことを「食べてはいけない他人のパン」どころか、「店先に置かれた試食自由のパン」くらいにしか認識していないと思われる。それを態々教えて、ミナに対する隔意を増幅させるメリットは何一つないので、何も言うまいが。

 

 ウォードはまだ何か言いたそうにしていたが、フィリップは気付かないふりをして、いつもの将官用談話室にそそくさと避難した。

 ミナがそのすぐ後ろに続き、ルキアとステラは何事か真剣な口調で話し合いながら少し遅れて部屋に入った。ウォードは追いかけて問い詰めるべきかと一瞬だけ逡巡して、結局、君子危うきに近寄らずと踵を返した。

 

 フィリップたちが遅めの朝食を摂っていると、いつもは酒瓶の並んだ棚を物色してからソファで寛いでいるミナが、今日は珍しく食卓でステラの隣に──フィリップの斜向かいに座った。

 ミナは何事か考え込むような物憂げな視線をフィリップに向けていたが、ややあって、深く長い溜息を吐いて問いを投げる。

 

 「ねぇ、フィル。きみはアレを──昨日、私が遭遇したモノを知っているのよね?」

 「んっ……ん? ん。んーっ!」

 

 フィリップはフォークで刺した干し肉を噛み千切ろうと奮闘しながら適当に答える。

 食事の質が王都のものから大きく落ちるのは仕方のないことだが、この干し肉は稀に見るハズレだった。ステラはくすくす笑っていたが、ルキアは「行儀が悪いわよ。ちゃんと切ってから食べなさいな」と諫める。フィリップも勿論ナイフを使ったが、繊維に引っ掛かって上手く切れなかったのだ。結局、フォークごと皿の上に投げ出した。

 

 「無理だこれ、硬すぎる。……で、えーっと、何だっけ、ティンダロスの猟犬の話だっけ?」

 「アレはそういう名前なの? 目で見えているのに、その形を頭が認識できないような、妙な魔物よ。死体安置所の臭いは知らないけれど、確かに死と腐敗に近い臭いを纏っていたし……」

 

 ミナの言葉に、フィリップはナイフも通らない干し肉と格闘しながら、こくこくと頷く。

 地下牢ではウォードとマリーもいたから詳しい話は出来なかったが、その情報だけで十分だ。ミナが遭遇したのはティンダロスの猟犬──少なくともそれに類似した何かであることは間違いない。奴らの落とし仔であるティンダロスの交雑種かもしれないし、或いは飼い主であるティンダロス領域の住人である可能性も無くはないが、この歪曲時間に侵攻してくるとしたら猟犬だろうし、フィリップは既に、この砦で猟犬と遭遇している。

 

 「ミナが仕留め損なった時点で分かってるだろうけど、奴らは強いよ。ミナも──ん? 待って? そういえば、なんでミナは夜中に出歩いてたの? トイレ……じゃないか、排泄機能は無いもんね」

 「あぁ、それ。この愚か者たちが夜中に特大の魔力反応を撒き散らしたから、きみの部屋に避難しようとしていたのよ」

 

 不愉快そうに言うミナだが、ルキアとステラは気にしていないようだった。むしろ、フィリップが一番申し訳なさそうにしている。

 

 「あー……ごめん、それは僕がお願いしたんだ。奴らから身を守れると思って。……一応聞いておきたいんだけど、ミナはどう思う? 空間隔離魔術で、猟犬から身を守れると思う?」

 「可能でしょうね。あの概念の炎、月が無かったとはいえ私の手が焼ける強度だったもの」

 

 フィリップとステラはミナの手に目を遣るが、左右どちらも傷一つない真っ白な肌だ。

 相手がミナでなければ比喩的な表現か、大袈裟に言っているのかと思うところだが、彼女は不死身の化け物だ。一瞬で再生したのだろうと察しが付いた。

 

 フィリップはむしろ、自分が突破できなかったから猟犬も無理、というロジックが気になった。少なくとも、目の前の干し肉が切れないのはナイフの切れ味の問題ではないかという疑問よりは。

 

 「……つまり、ミナの方が猟犬より強いってことだよね?」

 「強い? さぁ、どうかしら。魔術だけじゃなく刃まで通じないのなら、私だってお手上げよ。殺されはしないにしても、殺すことも出来ないわ」

 

 フィリップはしっかりと頷いた。

 古龍もそうだったが、強力な防御を持った手合いは厄介だ。逃げ切れても、殺されなくても、こちらの攻撃が届かない以上、“戦い”が出来ない。必然的に、一方的な蹂躙になってしまう。

 

 「防御性能……空間歪曲。あれが問題だよね、やっぱり」

 「空間が正常だろうと曲がっていようと、とにかく“燃やす”ような馬鹿げた魔術でも使えなければ、あれを殺すのは難しいでしょうね」

 

 肩を竦めて言うミナに、ステラは我が意を得たりとばかり獰猛に笑った。

 

 「つまり──私の出番か」

 「ですね。殿下は引き続き、ルキアと一緒に自己防衛に徹してください。今夜がこの砦で過ごす最後の夜です。幸い、今日はペア戦だけなので体力は残ると思いますし……ミナ、目を瞑ったまま戦えるよね?」

 

 フィリップはステラからナイフを借りながら、さも当然のように言った。そしてミナも、当然のように肩を竦めて応じる。

 

 ステラは「私も戦うと言ったつもりなんだが?」と両掌を天に向けたが、フィリップは「冗談でしょう?」とでも言いそうな笑顔を浮かべて黙殺した。ミナが大丈夫だったから自分も大丈夫だとでも思ったのだろうが、発狂のリスクは消えていないし、そもそもティンダロスの猟犬の奇襲性能は尋常ではない。

 空間隔離魔術の中に隠れていれば安全だろうが、自分から打って出るのはやはり危険だ。

 

 「よし、じゃあ、今夜は僕と一緒に狩りだ」

 「……フィル、きみ、自殺願望でもあるの?」

 「まさか。ただ、ルキアと殿下の寝ている傍を奴らが這いまわるのは怖いし──」

 

 怖いなんて言っておきながら、フィリップの口元には傲慢な笑みが浮かんでいた。意識してのことではないが、それ故に、ルキアとステラに危惧を抱かせる凄味のある笑みだった。

 

 「僕の近くをウロチョロされるのも不愉快だ。目的が分からないのなら殺しておいて損はない。それだけだよ」

 

 明確な敵でないなら無視すればいいのに、と思ったミナだが、口許には僅かながら笑みが浮かんでいる。

 手応えのある敵と戦う喜びに目覚めた──というわけではなく、単にペットと一緒に遊ぶのが好きなだけだ。剣術指南や戦闘術指導も楽しくはあるが、たまには二人で同じ獲物を狙うというのもいいだろう、なんて考えていた。

 

 「そう。……まぁいいわ、付き合ってあげる。なら昼間は寝ていていいかしら? 地下牢は寝心地が悪くて……ふぁ……寝不足なのよ」

 

 よく全員殺して脱出しなかったな、と思ったフィリップだが、もしもミナの眠気がもう少し弱く、微睡を殺意が上回っていたら、地下牢でミナを見張っていた教師たちは二秒以内に全員殺されていた。

 

 そんなことは知らないし、たとえ知っていてもどうでもいいフィリップの関心は、ミナの寝不足より今日のメインイベントであるペア戦にあった。

 

 「え? でも、ミナは一応、ルキアとペアなんでしょ? いいんですか?」

 「構わないわよ。どうせ、相手はステラとマリーだもの。マリーが私とステラの撃ち合いに介入できるくらい強くなっていたら、話は別だけれど」

 

 軽く肩を竦めて言うルキアだが、とんでもない要求水準の高さだった。

 マリーは強いが、流石にそこまでではないだろうな、とフィリップにも分かる。なんせ二人の撃ち合いは膨大な魔力に物を言わせた無理矢理な防御とカウンターが前提になっている。当たれば死ぬ威力の魔術が、避ける場の無い密度で、避ける間もない速度で飛んでくるのだから。

 

 「今年はカーターのことを知っている者も多いし、試合の順番は一番最後にするんだぞ?」

 

 フィリップは干し肉を切るのに龍貶し(ドラゴルード)を抜くべきか真剣に悩みながら、こくこくと頷いた。

 

 

 

 

 

 



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308

 魔術学院・軍学校交流戦のメインイベントその1であるペア戦は、前回同様、中庭五か所、砦外周部二十四か所の区画ごとに分かれて行われる。

 前回は外周部の正門からほぼ真逆の位置という最悪の区画に割り振られていたフィリップだが、今回は中庭の真ん中だった。有難いことに、ルキアとステラも同じ区画だ。これで順番を気にする必要は無くなった。

 

 これ幸いと、フィリップたちは一番最初にペア戦をすることにして、誰が初めにやるかでモジモジしていた集団の中で高らかに名乗りを上げた──のだが。残念ながら、フィリップはもう「魔術師なのに剣を持ってるよく分からんガキ」ではなく、「知る人ぞ知る龍殺しの英雄」だ。

 その後に模擬戦をするのは、流石にちょっとハードルが高かった。ただでさえ王女殿下御観覧で「無様なモノは見せられないぞ」とプレッシャーがかかっているのだ、これ以上は御免だった。

 

 とはいえ、誰も面と向かって「駄目だ」とは言えなかったので、結局はフィリップの要求通りになったのだが。

 

 「……そういうわけで、僕らが一番手です。気楽に行きましょう、ルメール様」

 「胸をお借りします、カーターさん」

 

 一番手の方が却って緊張しにくいらしいフィリップが準備運動しながら言うと、対戦相手のジェームズが生真面目に一礼した。学年の上では後輩だが年上で貴族という難しい関係だが、今のフィリップに上下関係──いや、人間関係に対する拘りは全くと言っていいほどに無かった。

 

 「僕もなるべく早く終わらせて、今夜の為に昼寝しておきたいので……ウォード、初めから前衛二枚で行きますよ」

 「うん。でも、それは向こうも同じみたいだね」

 

 フィリップとウォードのペアは二人ともロングソードの模擬剣を持っている。対して、ジェームズはロングソードを、彼のペアは刃の殺された模擬槍を持っていた。

 

 剣と比べてリーチに優れる槍をどう使ってくるか。

 ジェームズが後ろに下がって槍兵が前に出れば、フィリップたちを間合いで牽制しつつ、ジェームズが遊撃するオーソドックスな槍・剣の連携だ。逆にジェームズが前に出た場合、槍はやや後方からジェームズの隙を潰し、ジェームズは攻撃に専念する攻撃特化の陣形になる。

 

 間合いで劣るフィリップたちとしては、後者の方がややありがたい。どちらにせよ槍は邪魔だが、ジェームズが後ろに居ると、魔術が飛んでくる可能性を警戒しなくてはいけないからだ。

 

 果たして、杭とロープで区切られた模擬戦エリアに入った後、ジェームズは槍兵の前で剣を構えた。

 

 「フィリップ君、分かってると思うけど、手加減を忘れずにね。刃が無いとはいえ、本気で振っちゃ駄目だよ」

 「おっと、そうでしたね」

 

 フィリップは龍貶し(ドラゴルード)とは長さも握った感覚も重心も何もかもが違う模擬剣を空振りして感触を確かめながら、不満そうな顔でウォードに応じた。

 手加減するのが不満なのではなく、武器が不満なのだ。龍貶し(ドラゴルード)はフィリップのために作られた武器だし、フィリップの戦闘スタイルに合わせて設計されている。グリップもそうだし、重心の位置も、刃や中心軸の剛性に至るまで、何もかもがフィリップの戦い方に最適化されている。

 

 それが見習い鍛冶が練習に打った鉄の棒に置き換わったのだ。日頃の訓練でも触っていたから調子を崩すことは無いにしても、ミナ相手の模擬戦ではずっと使っていた愛剣と比べると、掌中のものはゴミ同然だった。

 

 フィリップとウォードは横並びから、フィリップがやや先行する陣形を取った。回避タンクのフィリップが前衛、ウォードはその補助と遊撃を担うフォーメーションだ。

 

 「両者、構えて──始め!」

 

 開始のホイッスルと共に、10分を測る大ぶりな砂時計がひっくり返される。

 今回も前回同様、有効打が入った瞬間に終了で、どれだけ泥仕合でも10分経過で強制終了のルールだ。

 

 開始直後、フィリップとジェームズは殆ど同じ姿勢で、殆ど同じタイミングで全力で距離を詰めた。

 

 「──っ!?」

 

 驚いたのはフィリップたち二人だけで、ジェームズは猛然と突っ込んでくる。

 まさか、フィリップと同じ──そして彼の兄であるリチャードと同じ『拍奪』使いかと思った二人だが、周りで見ている生徒たちには、それがただのブラフであることが分かっていた。

 

 ジェームズの動きは正面から見るとフィリップと全く同じだが、横から見るとフィリップの動きより明らかに荒く、確立した技術というより猿真似という印象を与える。魔力放出とその分布観測による拍奪破りが出来るのはルキアとステラくらいだが、彼女たちには最早、二人の動きは全く別なものに見えていた。

 

 暫定的に相手も拍奪使い──記憶にあるソフィーのような敵手だと定義したフィリップは、嘆息したいのをぐっと堪えた。蛇腹剣やウルミなら拍奪の歩法に対してある程度の牽制力があるのに、という嘆きは大きいが、戦闘中の一呼吸は大切だ。

 

 フィリップは感情の表明の代わりに脳の回転に酸素を使い、敵の思考を探る。

 相手は拍奪使いの剣士、つまりフィリップみたいなものだ。フィリップならソフィーが相手の場合、相対位置認識は全力で前に誤魔化していた。ソフィーの方がリーチがあるから、一発無駄に打たせないと安心して距離を詰められなかったからだ。

 

 そして、ソフィーはそれを予測して──流石の彼女も目と脳で物を見ている以上、拍奪を見切るのは不可能だった──自分は相対位置を後ろに欺瞞しながら、攻撃に遅延を入れてきた。結果としてフィリップは過剰に距離を詰め、彼女の間合いに自分から突っ込んだわけだ。

 

 ジェームズはどれほどの使い手なのか。

 まさかソフィーのレベルではないだろうが、彼は魔術学院でAクラスに籍を置く優れた魔術師だ。フィリップの知らない魔術的な方法で拍奪を看破してくる可能性もある。

 

 思考に許された時間は1秒。

 フィリップは結局、愚直に距離を詰めることを選んだ。

 

 僅かに眉根を寄せたウォードが後ろに続き、フィリップをカバーする位置に就く。相手がリーチで勝り、更にカバーに長柄武器がいるのに単身で距離を詰めるのは、ウォードからすると愚策だった。

 

 だが、フィリップは根本的に、人間の攻撃に対する脅威判定が狂っている。

 きちんと戦う相手に意識が向いていれば、訓練の成果と痛みへの忌避感で戦術的判断を下すことも出来るが、今は突然のことで判断精度が著しく落ちていた。

 

 「──、?」

 

 牽制程度の遅い一撃を繰り出したフィリップは、ジェームズがスウェイで避けたことに違和感を覚えた。

 

 拍奪使いが攻撃を避けるのは、相手の攻撃が()()当たる軌道だった時だけだ。フィリップはいまジェームズを狙って攻撃したが、狙った時点で当たるはずがないのだ。お互いに拍奪を使っているからと言って、効果が相殺されるようなことはない。その場合はどちらも攻撃を当てられない、先にスタミナが切れた方が負ける泥沼に陥る。

 短期決戦が望みなら、勿論、無理矢理に距離を詰めて鍔迫り合いの形に持ち込み、力勝負で決着するのが一番だ。尤も、フィリップはその構図を作らせないことを念頭に置いて訓練されているのだが。

 

 初撃を躱されたフィリップはバックステップを踏み、カバーに入った槍兵の刺突を躱す。後隙に差し込まれた攻撃は、こちらもバックアップであるウォードが間に入って受け流した。

 

 「……あれ、ブラフかもしれません」

 「それこそがブラフかもね。警戒して」

 「はい」

 

 フィリップとウォードは言葉少なに情報を共有すると、また同じ陣形で攻撃姿勢に入る。呼応して、ジェームズもフィリップとよく似た疾走姿勢を取った。

 

 彼我の距離は一瞬で埋まる。

 ジェームズはそんなに動きが速くないようだが、それでも15歳男子の運動神経だ。フィリップは極端な前傾姿勢での疾走に慣れているが、やはり基礎的な運動能力に差がある。結果として、二人の速度は同じくらいだった。

 

 今度はジェームズが先んじて剣を振り──フィリップの身体を透けたように空を切る。

 

 当たらない。拍奪使いを相手に、狙った攻撃は絶対に当たらない。だから避ける必要がない。

 

 フィリップはジェームズの青い瞳が、一瞬だけ驚愕に揺れたのを見逃さなかった。

 なるほど、と心の中で呟いて、攻撃の後隙を埋めるように突き出された槍が見当違いの場所を穿つのを横目に見ながら、ジェームズの首を切り落とす。

 

 頸椎を折る前に手加減のことを思い出したフィリップは、そういえばそうだったと安穏と、勝ちを確信しながらブレーキをかけて──不意に右半身の制御を失い、次に踏み出すはずだった右足がストライキして、思いっきり転倒した。右手には剣を持っていたが、上腕部と手首が収縮した上に強張って、手を突くどころではなかった。

 

 こけた後、ごろごろと地面を転がったのはわざとで、ジェームズの追撃から逃れるためだ。彼は追撃のそぶりを見せなかったので、そこまで慌てる必要は無かったかもしれないが。

 

 ギャラリーからは心配そうな声に混じって、歓声と、驚愕の声も上がっていた。

 心配は勿論、大転倒したフィリップに対して。そして歓声と驚愕は、フィリップが極めて高難度で有名な拍奪を使ったことと、それを破ったジェームズに対してだ。

 

 フィリップの転倒は偶然ではなく、ジェームズが防御した結果だった。

 

 「フィリップ君、立って!」

 

 ウォードが庇う位置に移動しながら鋭く言う。

 言われるまでも無いと跳ね起きたフィリップだが、右半身、特に右腕と右足がびりびりと痺れていた。

 

 「大丈夫?」

 「えぇ。今のは……魔術?」

 

 疑問符が多分に含まれた声を上げているのはフィリップだけではない。ギャラリーの半分はそうだった。

 残る半分は、全員が魔術学院生だ。彼らはジェームズが自分の周囲に設置型魔術を伏せていることに気が付いていたが、魔力感知能力に優れた彼ら以外には、フィリップがただただ転んだように見えただろう。

 

 ルキアとステラはフィリップが擦り傷以上の怪我をしていないことを確認して、ジェームズの周りに浮かぶ微小な魔力反応に目を向けた。

 

 「……上手いじゃないか」

 「そうね、効くかどうかは相手次第だけれど……フィリップには見えないでしょうし」

 

 珍しく、ルキアとステラが感心したように呟いた。

 二人の目には、他の魔術学院生以上に詳しい情報が映っている。一目見ただけで、どんな魔術で、何処に配置されているのかが分かるほどだ。

 

 ジェームズが使ったのは、シンプルな反応起動型設置魔術。『ヴォルカニックマイン』などと同じ、設置場所に相手が近付くと起動するタイプだ。効果も同じくらい単純で、ルキアに言わせれば、弱い。だがステラの言った通り、上手い使い方だ。

 

 魔術の効果は『放電』。電流量も電圧も大したことは無い、地味な魔術だ。

 だが──人間の動きとは即ち、筋肉の動き。筋肉の動きを司るのは脳と脊髄だが、そこからの命令は電気信号によって伝えられる。数十ミリボルト程度の、微弱な電気信号だ。……では、それを上回る電気を流せばどうなるか。

 

 言うまでも無く、筋肉は不随意に収縮し、痙攣し、誤作動を起こす。

 焼け死ぬような電流は必要ない。爆発的な電圧は必要ない。それでは魔力消費も大きいし、看破される可能性も高くなる。

 

 ほんの少し──手足が痺れて、きゅっと縮まってしまうくらいでいい。それも一瞬で十分だ。

 白兵戦に於ける一瞬は、自分の体勢を立て直すにも、相手の隙を突くにも、十分すぎるほどのアドバンテージなのだから。

 

 「フィリップ──」

 「──おい待て、外野からの助言はルール違反だし、あいつの為にもならない」

 

 声を上げようとしたルキアを、ステラが脇から小突いて止める。

 ルキアは肘の食い込んだ脇腹を押さえて顔を顰め、「……頑張って、と言おうとしただけなのだけれど」とぼやいた。

 

 

 

 

 



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309

 闇パマンなので明日からしばらくストック生産が止まる可能性が高いです。


 「中々厄介だな。動きを妨害する……というか、動作そのものを妨害するバリアみたいなのがある」

 「ですね。近付き過ぎると、手足が痺れて攻撃を強制的に中断させられる。飛び道具か、リーチの長い武器でもあればいいんですけど」

 

 フィリップとウォードは対戦相手から距離を取り、ひそひそと状況を確認し合う。

 周囲のギャラリーはこの膠着をあまり楽しく思っていなかった──早く、先程のような超絶技巧を見せて欲しいと思っていたが、でもそれはそれとして、『実力の拮抗する強者同士の戦い』っぽくてカッコイイな、とも思っていた。なんだかんだ、いい見世物である。

 

 フィリップもウォードも、行動阻害のバリアはジェームズをすっぽりと覆う透明な繭をイメージしているが、実際は衛星みたいなもので、ウォードの周りを周回軌道で守る5つの盾だ。そのどれかに触れると、筋肉を収縮させる電流を喰らってスッ転ぶ羽目になる。

 

 「ルキアと殿下が言ってたんですけど、無敵って言うのは魔術的に有り得ないらしいです。例えば魔力障壁でも、強度と範囲と持続時間がそれぞれトレードオフですよね? つまり──」

 「どんな防御魔術でも、硬いけど長持ちしないか、その逆か、ってことか」

 

 フィリップは頷くが、この「硬い・脆い」「長い・短い」というのは、全て個人の中での相対評価だ。

 ルキアにとっては脆い障壁も、一般の魔術師からすれば全力の防御を優に上回る硬さだし、ステラにとっては短くても、他からすると無限に等しかったりするのだが。

 

 「魔術学院生としての見解は?」

 「魔術師に聞いてください」

 「オーケー、じゃ、やれるだけやってみよう。左右から同時攻撃だ」

 「了解──!!」

 

 作戦会議を終えると、フィリップが先んじて走り出す。

 ジェームズの右側に展開したフィリップを陽動代わりに、ウォードは左側に展開する。

 

 ジェームズはまた拍奪の歩法によく似た疾走態勢を取ったが、彼が駆け出す前に急加速して距離を詰めたウォードが鋭い突きを繰り出し、避けるために慌ててバックステップを踏んだ。

 

 ステップ直後の隙を突いて、反対側にいたフィリップが大きく振りかぶった模擬剣による一閃を加える。

 しかし、フィリップはまたしても筋肉が不随意に収縮して、今度は顔から地面にダイブする羽目になった。不幸中の幸いか、スピードが乗っていたから、フィリップは地面より先にジェームズにぶつかって、転倒の勢いはかなり弱まった。

 

 「なんで僕だけ!?」

 

 追撃を避けるために、今度は転がるのではなく模擬剣を振って足払いを掛けながら叫ぶフィリップ。

 

 ジェームズは跳んで回避しようとしたが、蛇のような動きで伸び上がった剣に足首の辺りを打たれ、姿勢を崩して呻いた。着地でよろめいた隙を突いて跳ね起きたフィリップは、すぐさま全力で距離を取り、カバーしてくれていたウォードの後ろまで下がった。

 

 「今の……もしかして、僕よりウォードの方が魔術耐性が高かったりします?」

 「さぁ、どうだろう。そんなことは無いと思うけど……。あ、さっきのは良い動きだったよ、流石の柔軟性だね」

 「えへへ、鞭使いですからね」

 

 フィリップは照れ笑いなど溢しながら、ウォードとフィストバンプを交わす。

 上に伸び上がる足払いは、フィリップがウルミを使って鍛えてきた柔軟性と、散々地面を転がされてきた経験から繰り出されたものだ。ちなみに、フィリップを地面に転がした主たる二人、ウォードとマリー相手には通じなかった。

 

 ウォードは油断なく剣を構え、牽制に繰り出された槍の連撃を危なげなく弾いた。

 

 「……多分、妨害するのは身体なんだ。身体に干渉して、動きを阻害してるんだと思う」

 「というのは?」

 「さっき、僕は刺突で牽制し、フィリップ君は斬り込んだ。君の方が彼に近かったから、君だけが妨害されたんだ。鍵になるのは距離じゃないかな」

 

 フィリップは誰の真似か、ぱちりと指を弾いた。

 

 「流石、龍狩りの英雄の師匠。天才ですね」

 

 どう考えても過分な評価なのに、何処にも否定する部分がない称号で呼ばれて、ウォードは照れ混じりに苦笑する。

 

 フィリップもニヤッと笑い返して、三度、地面を滑る蛇のようにも、低空を舞う鳥のようにも見える極端な低姿勢で突撃を敢行する。

 ウルミには刺突攻撃なんてないが、この一週間はロングソードの扱いを主に学んできたフィリップだ。当然、刺突のやり方や身体操作も教わった。

 

 ただ、残念ながら──。

 

 「──へうっ!?」

 

 フィリップは三度、地面を転がった。

 

 ウォードはジェームズに対して攻撃してカバーするのではなく、倒れたフィリップを引き摺って下がることで隙を埋めた。途中、右腕が強烈に引き攣ったが、移動に支障はなかった。

 

 「間合いが変わった……?」

 「かもね。……もどかしいな。多分、速さでも技量でも、君は彼よりずっと上にいる」

 

 フィリップを立たせたウォードは、フィリップと並んで剣を構える。苛立ち混じりの苦笑を横目に、フィリップも同質の苦笑を浮かべた。

 

 ジェームズは魔術師だ。

 多少は動けるようだが、それでも剣の技量に於いては、ウォードどころかフィリップにも及ばない。ウルミでも蛇腹剣でもない、出来損ないの模擬剣を持ったフィリップ以下だ。

 

 あの行動阻害の魔術も、例えば衛士たちが身に付けていたような魔術耐性を強化する鎧でも纏えば、簡単に突破できるだろう。

 絶対的な強さで言えば、それほど上位には入らない。

 

 だが──フィリップとウォードのような魔術耐性に劣る相手には、一方的なほど強い。

 

 「魔術師の弱点を補う魔術か。便利なものだね」

 「……ですね」

 

 ルキアやステラなら半永続的な魔力障壁の向こうから無限に魔術が飛んでくるか、即死級の攻撃魔術が目視不可能な速度で飛んできて終わりだ。そう考えるとジェームズはまだマシな方なのだが、それでも「白兵戦に弱い」という一般的な魔術師の弱点を克服していることには変わりなかった。

 

 ウォードはちらりと、ロープの仕切りの外にある砂時計を見遣る。砂は半分ほどが下に落ちていた。

 

 「……今度はこちらから攻めても?」

 「その最強ガードが無くなるなら、どうぞ? そのまま突っ込んでくるなら、僕らは全力で逃げますけど」

 「あははは! 流石に、本職の方と龍殺しの英雄を相手にできる技量はありませんから!」

 

 ジェームズはハイになっているのか、心底楽しそうに笑いながら、また極端な前傾姿勢になった。

 

 フィリップとウォードは顔を見合わせて、その場で迎え撃つ構えを取った。

 行動阻害の魔術は拍奪の歩法より厄介だが、それだけだ。ジェームズがフィリップとウォードに対して優越し、二人が脅威と見做すのは、その一つだけだ。

 

 その一つが、あまりにも強い。近付くだけで行動の自由を奪われるのだから。

 

 だから──ジェームズが突っ込んできたとき、フィリップとウォードは何の合図も無く、全く同時に足元の地面を蹴った。

 踏み込んだのではない。石ころを蹴飛ばすように、地面を薄く覆う乾いた砂を蹴立てたのだ。

 

 「っ!?」

 

 ジェームズは極端なほどの前傾姿勢で、両腕はフィリップを真似て後ろに流している。

 そして今や移動式設置型魔術という、並大抵の才能では演算すら出来ない高等技術を行使している。それに要する集中力は絶大だ。それこそ、砂粒を防ぐ魔力障壁すら展開できないほどに。

 

 「うわっ!?」

 

 ジェームズが悲鳴を上げて立ち止まり、剣まで手放して両目を覆った。

 フィリップとウォードは図らずも全く同じ戦法を選んだことに驚き、一瞬だけ顔を見合わせ、ニヤリと笑い合った。

 

 ギャラリーからは多少非難の声が上がったが、マリーは満面の笑みでサムズアップしているし、ステラは「良い手だ」と腕を組んで頷いていた。ルキアは顎に手を遣って、自分ならどう対処するかを検討している。

 

 「カバーする、下がれ!」

 「わ、分かった!」

 

 ジェームズは目を開けることも出来ないまま、よろよろと下がる。

 その大きすぎる隙を補うように、槍兵が前に出た。

 

 だが──ただリーチで勝るというだけでは、フィリップとウォードは止められない。

 

 「良い武器ですね。ちょっとお借りします」

 「えっ? あっ!」

 

 フィリップが拍奪で攪乱した隙を突いて、ウォードが槍の柄を掴んで回し、足払いと組み合わせて槍を奪い取った。

 盛大に転んだ槍兵の手から武器が失われ、審判役の生徒がキル判定を下す。彼は「すまん、ルメール君!」と悔しそうに叫び、ロープの外に退避した。ウォードが見事な体術を披露しなければ、フィリップの模擬剣にボコボコにされてキル判定が出ていたので、まだマシな死に様だろう。

 

 ウォードは自分の模擬剣を持て余し気味に地面に置き、槍を構えた。腰に鞘でも佩いていれば納剣すればいいのだが、模擬剣風情にそんな大層なものは無かった。

 構えはとても様になっていて、取ったから使うのではなく、使えるから奪ったのだと一目見て分かる。

 

 「フィリップ君、僕の後ろに!」

 「了解!」

 

 リチャードはまだ目を覆って呻いていたが、フィリップもウォードも彼が無防備であるとは思っていなかった。

 魔術師は集中力を欠くと魔術行使に影響が出るが、目に砂が入った程度で魔術能力の全てを失いはしない。魔力障壁でも先程の行動阻害でも、防御の一つや二つはあるはずだ。

 

 その上で、それらをぶち抜けるかどうかが勝負だ。

 

 ルキアやステラのような馬鹿げた魔力量でもない限り、魔力障壁は剣や槍で突破できる硬さと持続時間しかない。そしてあの行動阻害が高等なものであれば、今は使えないはず。

 

 フィリップはそう考え、確かな勝算を持っていた。

 

 ウォードは足を狙って槍を突き──ジェームズが攻撃を避けた時よりも遠い位置のはずなのに、大きく体勢を崩して攻撃を外した。

 

 「分かった! 電気だ! フィリップ君、僕の模擬剣を使って突くんだ!」

 「電──、っ!」

 

 納得も疑問も一旦全部捨て置いて、地面に置き去りにされていた模擬剣と自分の模擬剣を交換する。

 フィリップが今まで使っていたものは柄の部分が鉄剥き出しだったが、ウォードが使っていたものには、みすぼらしい革が巻かれていた。薄くて汚いが、最低限の絶縁性はあるのだろう。これのお陰で、ウォードは感電バリアに阻まれなかったのだ。

 

 フィリップが剣を拾って突撃したとき、ジェームズは漸く水属性魔術を使って目の砂を洗い流したところだった。

 

 ジェームズはフィリップとの距離が瞬く間に埋まるのを怖がったように、慌てて右手を突き出す。

 あからさまな魔術照準を、フィリップは不敵な笑みで迎えた。避ける素振りも、怯えた様子も無い。

 

 だって──()()()()()

 

 それでは駄目だ。

 お上品に単体攻撃用魔術を使った時点で、フィリップには、拍奪使いには絶対に当たらない。

 

 それを知らないということは、やはり、先の拍奪モドキはブラフか。

 

 ジェームズは「しまった!」とでも言うように瞠目して、そして──フィリップの真横に、何かが爆音と閃光を伴って降ってきた。

 

 フィリップは咄嗟に反対方向へ飛び退きながら目を庇った。聴覚に関しては、害となるレベルの音は勝手に遮断されるので端から気にしていない。だが瞼を閉じても視界が赤く染まるほどの光量だ。ごっ、と鈍い音と手応えが模擬剣を通じて右手に伝わったことなど、気にしている余裕は無かった。

 

 視界のホワイトアウトが解けると、少し離れた所でウォードが昏倒しているのが見えた。フィリップとウォードのちょうど真ん中あたりの地面に、大きな焼け焦げた跡があった。

 

 「ウォード!」

 「フィリップ!」

 「ルメール君!」

 

 フィリップと、ルキアと、ジェームズのペアの軍学校生が同時に叫ぶ。

 ルキアを始めとしたギャラリーが次々にロープを超えて模擬戦エリアに入り、負傷者やフィリップの方へ駆け寄った。

 

 「ふ、負傷者発生! 誰か、校医先生呼んできて!」

 

 フィリップは視界の真ん中にぼんやりと残像が残っているのを感じながら、心配そうに駆け寄ってきたルキアとステラに笑いかけた。

 

 「大丈夫、大丈夫です! ……今のは、雷でも落ちたんですか?」

 「そうだ。上級攻撃魔術『ライトニング・フォール』。……当たれば即死、掠めても即死、ちょっと離れたくらいでは側撃雷に打たれて即死。まぁまぁ強い魔術だよ。……明らかに過剰攻撃、ルール違反だ」

 

 ステラの説明になるほど、と頷くフィリップの目は、微妙に焦点が合っていなかった。視界の真ん中にしつこく残る残像のせいで、遠近感が曖昧になっている。

 

 ルキアはフィリップの身体を頭頂部から爪先まで注意深く観察し、怪我が無いか確かめていた。ステラは中央塔の方を何度も振り返り、ステファンが来るのをじれったそうに待っている。

 

 「……フィリップ、大丈夫? 絶対に当たってはいないと思うのだけれど」

 

 そりゃあ当たっていたら黒焦げになっているのだが、ルキアの言い方はなんだか妙だった。

 曖昧に笑って首を傾げたフィリップに、ステラが補足をくれる。

 

 「命中寸前で、ルキアが魔術の制御を奪って外させたんだ。側撃雷を発生させないように制御しつつ、誰もいない場所に落としたわけなんだが……魔力障壁で良かったんじゃないか? まぁ、どちらにしても光と音は防げなかっただろうが……っと、ボード先生が来たな。一応診てもらえ」

 

 ステラに言われるがまま、フィリップは少しふらつきながらステファンのところへ向かった。

 魔術学院の学校医であるステファンだが、まずフィリップの模擬剣がクリーンヒットしてぶっ倒れているジェームズを診たあと、優先的に落雷の大音響と閃光で気絶したウォードを診た。

 

 未だに視界のど真ん中に居座っている残像以外には目立った影響もないフィリップは、二人の処置が終わるのをのんびりと待っている。

 

 ステラはフィリップの魔力情報から大まかに健康状態を読み取って、安堵の息を吐いた。そして質問を投げていたルキアの方に振り返ると、彼女もちょうど、フィリップの魔力を見終えたところだった。

 

 視線に気付いたルキアは、何でもないことのように肩を竦めて答えた。

 

 「相手にそのまま当てようと思ったのだけれど、フィリップが近かったから止めたのよ。感電死した死体って、見るに堪えないでしょう?」

 

 ステラは何も言わなかったが、それは彼女がフィリップを守る魔力障壁の展開と同時並行で、ジェームズを吹き飛ばす威力の魔術を準備していたことと無関係ではなかった。

 

 

 

 

 



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310

 軍学校交流戦六日目、夜。

 この古びた砦で過ごす最後の夜を、フィリップは女子用宿舎の一室で迎えた。ルキアの魔術で透明化して忍び込み、ミナの部屋で他の生徒が寝静まるのを待っている。

 

 部屋の中にはルキアとステラもいるが、もう消灯時間を過ぎたというのに、誰もベッドに入っていなかった。

 

 「もう一度確認するよ、ミナ。僕がそうしろって言わない限り、魔力視を使わないこと。砦を壊す威力の魔術は使わないこと。それから──」

 「きみが合図したら目と耳を庇うこと。何度も言わなくても覚えているわ」

 

 かったるそうに応じるミナに、フィリップはあくまでも真面目な顔で「それならいいんだ」と頷く。

 

 昼間寝ていたはずのミナだが、今も眠そうに欠伸を噛み殺していた。

 実はフィリップもかなり眠気が来ているのだが、12歳の子供と吸血鬼を同列には語れないだろう。というか、吸血鬼は夜行性のはずなのだが。

 

 「で、ルキアと殿下ですけど──」

 「たとえ砦が崩れても、お前が帰ってくるまで空間隔離魔術は解かない。分かっているさ」

 「だからフィリップ、絶対に帰ってきてね。人間のままで」

 

 フィリップはしっかりと頷き、ルキアとステラと順番に抱擁を交わした。

 

 二人とも腕が僅かに強張っていたのは、次元を彷徨うものやティンダロスの猟犬に対する恐怖からではないだろう。フィリップは何か、二人を安心させるような気の利いたことを言いたかったが、何も思い浮かばなかった。

 

 「……じゃあ、行こう、ミナ」

 

 ミナは欠伸混じりに、億劫そうに立ち上がる。

 しかし流石は特級の剣士というべきか、長い黒髪に手櫛を入れたかと思えば、赤い双眸には冷たい戦意の光が宿っていた。と言っても、半分くらいは、ペットと一緒に狩りをする楽しみが混じっていたが。

 

 「……ミナ」

 「……何?」

 

 淑女然とした、というには堂々たる女帝の風格を漂わせたミナの背中に、ルキアが躊躇いながらも声を掛けた。

 

 普段からミナとは必要最低限しか言葉を交わさないルキアにしては珍しいな、と、フィリップもステラも意外そうにしている。ミナはそもそもルキアと言葉を交わさないという認識も、彼女の行動が普段とは違うという認識も無いらしく、どうでも良さそうに振り返った。

 

 「……フィリップをお願い」

 「言われるまでもないわ」

 

 ルキアが口にするのに苦渋の決断を要しただろう言葉を、ミナは端的に受け止めた。

 相手がミナでなければ、切り捨てられなかっただけマシという慰めが必要なほどの雑な対応だが、相手は最上位吸血鬼だ。きっと守り通してくれるだろうという、確かな信頼感を抱かせてくれた。

 

 フィリップは何となく気恥ずかしさを覚えながら、「行ってきます」なんて手を振ってミナの部屋を出る。そのすぐ後にミナも続いた。

 

 廊下はしんと静まり返っていたが、就寝時間のすぐ後ということもあり、壁に据えられた燭台は全て健在で、暖かく照らされていた。

 

 「あの臭いに注意してね、ミナ」

 「えぇ」

 

 迂闊に動いて巡回に見つかるリスクを増やすべきではないと考え、ミナが臭いを感じ取るまではここで待機する手筈だ。

 扉を閉じた直後、ミナが嫌そうに背後を振り返ったのは、ルキアかステラの空間隔離魔術が発動したからだろう。眩しいわ煩いわで一刻も早く離れたいと顔に書いてあった。

 

 「はぁ……ねぇ、やっぱり下に降りない? 霧化すれば誰にも見つからないわ」

 「良い案だね。生身の僕が取り残されることを除けばだけど」

 「透明化の魔術をかけて貰えばよかったじゃない?」

 

 言われて、フィリップはミナの方を怪訝そうに見遣る。

 その話はさっき、ルキアとステラと部屋の中でしたのだった。ミナが人間同士の話に耳を傾けていないのは、いつものことと言えばその通りなのだが。

 

 「それだと、ルキアにもミナにも多少の負担がかかるでしょ。それが原因で負けたりしたら、僕、泣くに泣けないよ?」

 

 ルキアは空間隔離魔術という最高難度の魔術を使って自衛する必要があるし、ミナはティンダロスの猟犬と戦うことになる。尤も、ミナは音や気配なんかで魔力視を使わず透明化した人間を見破ることはできるだろうが、その上で通常時と全く変わらないパフォーマンスとは行かないはずだ。

 

 冗談めかしたフィリップの言葉に、ミナは淑女然とした静かな笑みを溢した。

 しかし、彼女の人外の美貌から、微笑はすぐに抜け落ちた。いつもの退屈そうな顔で階段の方を見遣り、面倒臭そうに嘆息する。

 

 「誰か来るわ。二人組、どちらも人間ね」

 「見回りだ。一旦中に──ここじゃなくて、ルキアの部屋に入ろう」

 「……そうね」

 

 思わず先程までいたミナの部屋のドアノブを握ったフィリップだが、素早く動いたミナの手が上から押さえる。

 魔力感知能力のないフィリップには分らないが、部屋の中は燃焼の概念で満ちた絶対生存不可能圏だ。それを思い出したフィリップは、一つ隣の部屋に滑り込んだ。

 

 ミナもそのすぐ後に続き、二人分の足音が廊下の隅まで進んで、ちょっと窓の外を眺めるように立ち止まり、来た道を戻っていくのを聞いていた。

 

 「……ここに居たまま臭いを探れる?」

 「この階まで上がって来れば、ね。風がないところで臭いを探すのって、すごく難しいのよ?」

 

 フィリップが「目を閉じたまま物を見られる?」とでも聞いたような胡乱な顔をして、ミナは小さく肩を竦めた。

 ミナは別に、嗅覚に外界探知を依存しているわけではない。人間よりも五感が鋭いというだけだ。狼のように、同じ森の中にいるフィリップからでも逃げ出すほどの感知能力は無い。

 

 「同じ階に居るなら扉を隔てていても分かる」というのは、同じ条件でも気付かないフィリップより多少マシくらいのものだ。

  

 「僕よりは有能だけど、それじゃ困るよ。戦闘のドサクサでもなんでも、ルキア達にアレを見せる訳にはいかない」

 

 眉根を寄せて頭を振ったフィリップを、ミナは揶揄うような笑みを浮かべて背中から柔らかく抱き締めた。

 

 「あら、私はいいの?」

 「ミナにだってホントは見せたくなかったけど、もう見ちゃったんでしょ? それに──」

 

 フィリップはそれ以上は語らず、これだけで十分だと言うように、自分を抱き締める腕に触れた。

 

 「──えぇ、そうよ。きみを守ることはあっても、守られるなんて御免だわ」

 

 ミナは怒ったような台詞を、愛おしそうに言った。

 

 ペットがどれほど強く有用でも、その後ろに隠れることは絶対にしない。 

 フィリップにとってシルヴァがそうであるように、ミナにとってのフィリップもまたそうだ。フィリップは一度シルヴァに庇われたが、二度と同じことをさせまいと自分自身に強く誓った。

 

 「……そろそろ行ったはずだ。出よう」

 「もう少しだけ。駄目?」

 「駄目。実はもう既に眠気がヤバいんだ」

 

 フィリップは身を捩って抱擁を逃れ、率先して部屋を出た。

 

 どうにも、抱き締められると条件反射的に眠たくなってしまう。

 ルキアとステラは温かくて柔らかいから仕方がない。ミナは体温が病的に低いが、マザーを彷彿させる匂いと柔らかさで、やはり眠気を誘発する。シルヴァも同じく体温が殆ど無いが、恒温のミナと違って、シルヴァは徐々にフィリップの体温に馴染んでいくので、抱き枕のように微睡を誘う。

 

 「女の人って、常に睡眠魔術でも纏ってるの? ミナもだけど、抱き合うだけで眠たくなるよ」

 「もしそうなら、馬鹿げた魔力の無駄遣いね」

 

 確かに、とフィリップは口元を緩めた。そんな無駄をステラが許すわけがないし、最大威力を誇るのはマザーだ。彼女がフィリップ相手に魔術を使うはずがない。

 

 それからしばらく、フィリップとミナは雑談に興じたり、夜の静けさを共有したりした。

 最近はルキアだけでなくミナも、フィリップの勧めで冒険譚や英雄譚の類を読むようになったから、性別や年齢どころか種族さえ違うというのに共通の話題が沢山あった。

 

 穏やかな時間が過ぎ、日付も変わろうかという頃。薄い月が天頂に至り、ミナが不愉快そうに表情を歪めた。

 

 「……フィル」

 「……来たの?」

 

 強張った声で問うと、ミナは不愉快そうに頷いた。

 

 「二つ下の階ね。それじゃあ──」

 「──行こう。化け物狩りだ」

 

 フィリップが口角を歪めて龍貶し(ドラゴルード)を抜き放つと、ミナも同質の笑みを浮かべて対の魔剣を手中に現した。

 

 「──えぇ、行きましょう」

 

 

 

 

 

 

 



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311

 連絡通路のある三階に降りると、蒼褪めた色の膿が天井の角を這い廻っているのが目に付いた。

 どこか明確な目的地がある動きではなく、廊下の向こうまで行ったかと思えば、うごうごと蠢いて、フィリップたちのいる階段の方に向かってくる。

 

 宛ても無く彷徨っているか──何かを探しているような挙動だ。

 

 「下がりなさいフィル。私が前衛よ」

 

 フィリップもミナもとっくに抜剣していたが、戦闘陣形にはなっていなかった。

 淡々とした、いつも通りの眠そうな声の指示に、フィリップは躊躇なく従い、ミナの斜め後方で構えた。

 

 「僕は遊撃担当だね」

 「そうよ。増援、奇襲、私の想定していないあらゆる全てに警戒しつつ、致命の一撃を狙いなさい。その代わり──」

 

 ミナが対の魔剣を構えるのと同時に、その正面にティンダロスの猟犬が不明瞭な姿を現した。

 猟犬の姿は相変わらず不明瞭だったが、その身体の何処にも曲線が存在しないことと、蒼褪めた脳漿を全身から滴らせていることは分かる。鋭い歯の並ぶノコギリのような口からは、槍のような舌と青白い涎、憎悪に満ちた唸り声が漏れていた。

 

 悍ましい姿の怪物を前に、ミナは漆黒の剣に口付けし、異常に発達した犬歯を覗かせる獰猛な笑顔を浮かべた。

 

 「──きみには指一本、粘液の一滴も触れさせないわ」

 

 フィリップも同質の笑みを浮かべ、ティンダロスの猟犬に目を向けた。

 猟犬は相変わらず、その姿の全容も、細部も、何もかもが判然としない。大きさが何となく分かるくらいだ。

 

 言うまでもなく、そんな相手と戦うなんて自殺行為だ。特に、相手の一挙手一投足に気を配り、一センチ単位の間合い管理を必要とする近接戦闘に於いて、相手の全容が把握できないのは致命的と言える。

 

 だがミナの技量なら、防御に専念すれば一撃も喰らわず夜明けを迎えられるだろう。

 いや、吸血鬼という種族に疲労の概念がないことを考えると、もっとか。ミナの技量だけを考えるなら無限に、性格も考慮すると飽きるまでは戦える。

 

 「……頼もしいね」

 

 フィリップは心の底からそう言って、身体を地面に投げ出すような前傾姿勢を取った。

 

 ミナが何かの魔術を使い、廊下を毒々しい赤一色に染め上げる。

 ペンキを流したような稚拙な塗り潰しで、芸術性は皆無だ。武骨で埃っぽい石造りの方がまだ見映えは良かったが、廊下は端から端までどろりとした血に覆われて、天井の隅や建材の石なんかが持っていた『角』が消えていた。

 

 「《ブラッドコフィン》──広さはモルグだけれどね」

 

 ミナはフィリップを振り返ることなく、冗談っぽく笑った。

 

 中級魔術『ブラッドコフィン』は、血で出来た棺に相手を閉じ込める拘束魔術だ。大きさの上限は精々3メートルくらいなのだが、今は10メートル以上にまで広がっている。魔力量と演算能力に物を言わせた無茶な芸当だが、猟犬の逃亡阻止には十分だ。ついでに言えば、物音を聞き付けた生徒たちが目を覚ましても、扉は押さえつけられていて開かない。怪物同士の戦闘を目にすることはないわけだ。

 

 問題があるとすれば、猟犬の唸り声に宿る憎悪が色濃くなったことか。

 今までミナに向けていた殺意が「行きがけの駄賃だ、ついでに殺そう」くらいだったとしたら、今は完全に「邪魔者を排除する」という意識に切り替わっている。

 

 まあ、曲線時空の存在を殺すことに関して、ティンダロスの猟犬が手を抜くことはない。道中のついでだろうが障害排除だろうが、どちらにせよ全力で殺しにかかってくるので、殺意の量に大した意味は無いのだが。

 

 「すごくいい手だよ、ミナ」

 「ありがとう、フィル」

 

 フィリップとミナは楽しそうに言葉を交わす。

 

 今までの傾向から言うと、猟犬はフィリップとミナを最優先殺害対象にはしていない。

 『この時間』にまで出張ってきた理由がフィリップやミナなら、先日のエンカウントで決着をつけていたはずだ。ティンダロスの猟犬が曲線時空の住人を前にして撤退を選ぶなんて、他に誰か目的の人物が居て、そいつに逃げられそうになった時以外は有り得ない。

 

 そして今、ミナは猟犬の移動を封じた。

 “標的”の追跡を阻む、明確な敵になったわけだ。

 

 「──!!」

 

 猟犬が身も竦むような咆哮と共に、姿勢をぐっと下げる。

 『伏せ』でもするような仕草だったが、その挙動は二人とも見覚えのあるものだ。ここから千キロ以上も離れた荒野の古城で、獅子頭の悪魔マルバスが見せた奇襲の構え。

 

 「ミナ、動きを追わないで、防御を置いて!」

 「っ、!」

 

 フィリップが警告した直後、ミナが双剣を振るい、バン! と扉を蹴立てたような鈍く乾いた音と共に猟犬を弾き飛ばす。

 猟犬の攻撃は、跳躍前の構えと跳躍後の攻撃寸前しか見えなかった。途中のページが抜け落ちた本のように、切り貼りされたフィルムのように、跳んでいる最中の猟犬の姿は不自然に消えていた。

 

 「速いわけじゃない。動体視力を振り切られたのではなく、認識を阻害されたわけでもない。……気色の悪い動きだわ」

 

 攻撃を魔剣に阻まれた猟犬は、勢いよく飛び退いて元の位置に着地した。どす黒い赤の液面は一滴の雫も跳ねず、波の一つも起こらず、硝子のように凪いでいた。

 

 それから何度も、ミナはフィリップの動体視力を振り切る速度で剣を振り、その度に激突音が響いた。

 奇妙なことに、激突音は一度毎にその性質を変えていた。金属同士が擦れる耳障りな音がしたかと思えば、次の一撃はガラスが割れるような甲高い音だったし、二度続けて鈍くくぐもった音がした次には、笛のように鋭く長い音がした。プールに飛び込んだような豪快な水音がした時には、ミナの魔術が破られたか、さもなければミナが重傷を負ったのではないかと思ったほどだ。

 

 硬質な外皮を持つティンダロスの猟犬と、鉄すら切断する魔剣の衝突にしてはいやにバリエーション豊富な音の羅列。

 あのティンダロスの猟犬を──フィリップの智慧にある非神格の中では最強の神話生物を相手に、幾度となく防御を成功させている証に、フィリップは思わず口元を緩めてしまう。

 

 強い。

 人間を殺す生き物と、人間を餌にする生き物の殺し合いは、そんなシンプルな感想を強烈に抱かせるものだった。

 

 火花が散り、粘液が飛び散り、時には苦悶にも似た鳴き声が漏れる。

 ミナが押している。いや、圧倒している。猟犬の不明瞭な体には幾度も魔剣が激突しているが、ミナは一撃も喰らっていない。

 

 「フィル、今」

 「分かってる!」

 

 一見するとミナが圧倒的に有利だったが、それでも彼女には分かる何かがあったのだろう。指示する声は、フィリップと模擬戦をしている時と同じくらいには楽しそうだった。

 

 ミナが差し込んだカウンターに反応して、猟犬は大きく下がった。

 そしてもう一度──フィリップにもミナにも予測できる直線的な軌道で飛び掛かった。

 

 その行動を選択するであろう場所に追いやり、その軌道で攻撃するであろう構えを取ったミナの、言葉無き誘導によるものだ。

 

 ティンダロスの猟犬は跳躍した直後に姿が掻き消え、過程を飛ばして結論だけが現れる。猟犬はミナの前で大口を開け、真っ白で嫋やかな腕に噛みつこうとしていた。

 そして、フィリップは既に、その真横で長剣形態の龍貶し(ドラゴルード)を上段に構えていた。

 

 ミナの左手は猟犬が食らいつく寸前で霧に変わり、ノコギリのような歯の上下が虚しく噛み合わさってガチンと鳴った。奇しくも歯を食いしばる形になった猟犬の首に、龍骸の剣が振り下ろされる。

 

 フィリップの手に長剣を通して、ぎちぎちぎち、と、繊維質な干し肉に無理矢理ナイフを入れたような手応えが返ってきた。

 明らかに硬い外皮を抜いて肉を斬っているのに、血は一滴も出なかった。

 

 「──!?」

 

 しかし痛みは感じているのか、猟犬は驚愕と苦痛と、やはり憎悪に満ちた、悲鳴にも似た咆哮を上げる。

 

 ミナの右手が閃き、漆黒の長剣が龍骸の蛇腹剣を上から叩いて、更に深々と食い込ませた。

 フィリップは思わず瞠目した。それは不意の衝撃にではなく、ミナの追撃を以てしても、剣が追加で1センチほど沈んだだけだったからだ。腕に伝わる衝撃からすると、或いは岩すら砕く威力だったのに。

 

 猟犬は耐えかねたように啼くと、滅茶苦茶に動いてフィリップとミナから距離を取った。

 

 「硬い……! でも凄いね、流石だよミナ。輪郭も分からない相手と互角以上に戦えるなんて」

 「あら、殺気が読めるなら簡単な相手よ。凄く素直だもの」

 

 いつものミナなら「所詮は獣ね」なんて冷笑するところだが、口許は牙を剥き出しにする獰猛な笑顔の形だった。

 

 「なるほどね、全然分かんないや」

 

 フィリップもそう言って笑い、剣の柄にある金具を弾いた。

 小さな金属音に続き、じゃららら、と鎖の音が響く。

 

 数歩踏み込んで、足から腰に、腰から肩に、肩から腕に力を伝えていく。もう一年以上も続けている身体操作は、何も考えていなくても勝手に実行された。

 

 蠍の毒針のような動きで伸長した蛇腹剣の突端が猟犬に襲い掛かり、概ね頭頂部と思われる辺りに突き刺さる。その寸前で猟犬が更に後退し、龍骸の剣は血の棺の床で小さく跳ねた。

 

 「良い追撃よ、フィル。でも、それ以上前には出ないことね」

 

 ミナより二歩ほど前に出ていたフィリップは、その警告を聞くが早いか飛び退いた。

 直後、フィリップの頭があった位置を、青白い粘液を纏った槍が貫いた。猟犬の伸縮する舌だ。

 

 フィリップの腕より細い舌と、フィリップの前に躍り出て防御したミナの長剣の激突は、銅鑼のような太く轟く音を出した。

 

 蛇腹剣を引き戻す動きで舌を切り裂き、抉り削ごうと試みたフィリップだが、粘液のせいで刃も鑢のようなチェーンも滑って役に立たなかった。フィリップは攻撃が効かなかったことより、この後のメンテナンスのことを思って憂鬱な気分になった。

 

 「うえぇ……ねぇミナ、これって水で落ちると思う?」

 「きみの方が詳しいでしょうに……フィル、追撃」

 「ホントに?」

 

 猟犬が唸りながらミナを睨み付けている──表情どころか顔の形さえ判然としないので、なんとなくの推察だが──のを見て、フィリップは流石に躊躇った。ミナならともかく、フィリップ程度の技量で攻撃できる隙があるようには見えなかったからだ。

 

 「もう遅いわ、動かないで」

 

 ミナが呆れ交じりの声で制した直後、猟犬が飛び掛かり、剣戟のような派手な音と共に弾かれる。青白い粘液に混じって、オレンジ色の火花が飛び散った。

 

 「フィル、私の指示には何も考えずに従いなさい。きみの反応速度と運動能力くらいは計算してあげるけれど、躊躇までは読めないわよ」

 

 苛立ちを滲ませるミナに、フィリップは小さく頷いた。

 彼女の戦闘センスはルキアやステラ以上だ。こと戦闘に関して言えば、最適解を導き出す速度はステラ以上かもしれない。まぁミナは面倒だと感じたら最適解でも棄却するので、必ずしもステラより良い判断が出来る訳ではないのだが。

 

 「二歩下がって剣を伸長。追撃準備」

 

 相変わらずのページの抜け落ちた挙動で突進してきたティンダロスの猟犬を鋭い剣戟音と共に弾き返し、ミナは食卓で「調味料を取って」というような調子で指示した。

 戦意に満ちているより余程受け入れやすい声色に、フィリップは抵抗なく従う。

 

 ミナがもう一度防御したとき、猟犬は苦悶の呻きと共に、大きく姿勢を崩した。ミナの足元に、輪郭が全く判然としない、青白い膿で覆われた何かが落ちていた。

 

 今だ、と確信したフィリップは、腰から上の柔軟性を完璧に使い、自分の身体をも鞭の一部にする動きで剣を振るう。

 金属音にクリアな風切り音が混ざり、ソードウィップ形態の龍貶し(ドラゴルード)は主人の命令に忠実に、不可思議な怪物の首筋を削ぎ飛ばした。龍骸の刃は、自らを穢していた蒼褪めた脳漿を、その一撃で振るい落とした。

 

 「──!!」 

 

 先の攻撃でぱっくりと割れていた傷口を、蛇腹剣が駄目押しのように切り裂き抉り、猟犬は身の毛がよだつような絶叫を上げた。

 

 効いたのか?

 フィリップがそう思ったとき、ミナの足元に落ちている物の正体に見当がついた。細部は全く判然としないが、食肉目と偶蹄目の合いの子のような奇妙な形の肢だ。

 

 「やれる、やれるよ、ミナ! 流石だ!」

 

 フィリップは興奮して叫んだ。

 ティンダロスの猟犬については、恐ろしい情報を嫌というほど知っている。人間に限らずこの時間の存在全てを憎悪していることも、人間を狩り殺すのに十分な性能を持っていることも、あのシュブ=ニグラスとマイノグーラの末裔であることも。

 

 外神の末裔だからフィリップに敵対しない、というロジックが成立しないのは、去年の春に黒山羊に襲われたことから明白だ。それに、外神の智慧は「人間を殺すには十分すぎる相手だ」と、声高に警告している。

 

 それをフィリップが、邪神の手を借りずに倒す。

 何とも心躍る、それこそ英雄譚に描かれるべき大偉業と言えるだろう。吟遊詩人や劇作家たちには、龍狩りのことなんかより、これを題材にしてほしいほどだ。尤も、健常者にとっては狂気としか思えない記述になるし、ティンダロスの猟犬を知る者にとっても、やはり「それは無理だろ」と狂人の戯言のように思われる作品になってしまうが。

 

 ミナは冷たい薄ら笑いを浮かべ、「もう少し遊びたかったわね」と呟いた。

 

 猟犬は切断された左足を再生させると、憎悪だけでなく憤怒をも滲ませる唸り声を上げて威嚇した。

 もう勝った気でいる敵対者に、「まだ終わっていない」と継戦の意思を示すようでもあった。そして、それはただ意地を張っているだけではない。

 

 フィリップとミナは猟犬の唸り声が奇妙に引き延ばされ、鈍く、低くなっていく気がした。

 それは声そのものが変化したり、二人の耳や脳に変調があったわけではない。音を伝える空間そのものが変調を来したからだ。

 

 目の前の景色がネッカー図形のように裏返り、天井も床も壁も、周りの全てがペンローズ的な実在不可能形に捻じれた。フィリップとミナは歪曲の只中にいて、理解不能な情報の濁流で溺れていた。

 何が起こっているのか、具体的に空間がどう曲がっているのかは全く分からない。しかし二人は「ここは穢れている」と、強烈に感じた。その感情的情報だけは、何も考えられなくても体感的に取得できた。

 

 「ミナ……!」

 

 喘ぐように名前を呼んだフィリップは、数秒前まで左前にいたミナを振り返った。この歪んだ空間の中では、目の前にいる相手を見るために振り返らなくてはいけなかった。

 

 「フィル、下がれる?」

 「無理! 見て!」

 

 ミナがフィリップの方を振り返ると、フィリップの下半身は腰から下が上下逆転していた。床から腰が生え、天井に向かって足が伸び、靴底から十センチくらいのところに上半身が浮かんでいた。

 

 「……それ、痛くないの?」

 「痛くないどころか、目で見ない限り異常無しだよ! ほら見て!」

 

 フィリップの上半身が腕を振ると、天を突く両足がシャカシャカと走るように動いた。どうやら感覚や運動に問題はないらしい。切断されたように見える上半身からも、血は一滴も流れていない。

 

 「問題は動けないってことだね……ミナ、前!」

 「っ、ぐっ!?」

 

 ミナはフィリップが鋭く警告するより早く反応していたが、それでも遅かった。

 

 猟犬が前足であろう部分を振り下ろし、ミナの肩口から胸にかけて深々と切り裂いた。ミナは反応して防御しようとしていたが、剣を持ちあげるのに失敗していた。

 肘を曲げて剣を交差させるだけの動きだが、手首は肘を中心とした弧では有り得ない長大な距離を移動した。

 

 毒々しい赤色に染まった廊下は、今や直視できないほどに支離滅裂だ。

 しかしその中でも、ミナの胸元から噴き出た血液は目に痛いほど鮮やかな赤だった。

 

 胸元の傷は一瞬で塞がるが、噴出した血は戻らない。液体にあるまじき挙動で天井に向かって落下すると、そこで血溜まりになった。

 

 「ミナ、霧化して下がるんだ! というか、下がる方法を……方向を探して!」

 「駄目よ、きみが無防備になるわ!」

 

 悲鳴のようなフィリップの警告を、ミナは厳しい声で却下した。

 

 「今でも十分無防備だよ! 奴はこの空間でも自由に動ける──、ぁ」

 

 跳んでみたり、走ってみたり、横歩きしてみたり、ありとあらゆる移動を試みていたフィリップだが、一歩たりとも移動できてはいなかった。

 当然だ。腰から下は180度反転して、フィリップの足はお腹の辺りの虚空を延々と蹴っているだけなのだから。宙を蹴って移動する技を持たないフィリップが、一歩でも動けるはずがない。

 

 猟犬は自分の狩場に引きずり込んだ獲物のうち、弱い方を先に黙らせるつもりのようで、そんなフィリップ目掛けて飛び掛かった。

 

 ──死んだ、と思った。

 

 時空歪曲の内側は上下左右さえ狂う無法則空間だ。踏み出した足が自分の背中を蹴り、前に投げた石が耳から飛び出すような、混沌が支配する世界。

 猟犬にとっては領域外からの攻撃を捻じ曲げる防御であり、獲物を行動不能に陥らせる拘束でもある。辛うじて攻撃ではないが、攻撃性能なら猟犬本体が十分すぎるほど持っている。

 

 視界の端でミナが身体を霧に変え、同時に全方向に移動することで、フィリップを庇う位置に移動するにはどう動けばいいのかを最速で模索していた。

 

 だが、遅い。

 猟犬がノコギリのような歯の並ぶ顎を開き、蒼褪めた脳漿を涎のように飛び散らせながら、滅茶苦茶な軌道で──フィリップには分からない、滅茶苦茶な空間の中にある最短経路でフィリップの喉笛を食い破る。

 

 

 



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312

 ティンダロスの猟犬の刃物の如く鋭い牙が、フィリップの柔らかな肌と血管を食い破る、その寸前。

 

 近くで見ても、ティンダロスの猟犬の姿は全く判然としなかった。

 この狂った時間と空間の中でならまともに見られるのではないかと考えていたのだが、全く机上の空論だった。

 

 だがそんなことより、ティンダロスの猟犬が目と鼻の先に居るというのは、何もかもがどうでもよくなるぐらい不愉快だった。目も、鼻も、脳も、本能も、理性も、主観も、客観も、人間的価値観も、外神の視座も、フィリップ・カーターという存在を構成するあらゆる全てが、ただひたすらに不快感を叫んでいた。

 

 ティンダロスの猟犬。不浄なるもの。穢れを纏った醜悪なキュビズムの化身。

 その姿は理解不能であるが故に強烈に脳を混乱させ、身に纏う死と腐敗、埃と黴の悪臭が吐き気を催させる。

 

 こいつは──生きた汚物だ。

 

 「──()()()()()()()

 

 フィリップが極限の苛立ちと共に吐き捨てたのは、その名前だった。

 直後、世界は完全に停止した。

 

 身体を霧に変え、歪曲した空間の中で意図した通りに動くための「正解」を探していたミナ。愚かにも自らの行く手を阻んだ歪曲時間の存在を排除しようとしていたティンダロスの猟犬。飛び散る蒼褪めた脳漿。フィリップが流し、天井に向かって落下していた汗の雫。

 あらゆる全ては、時間の流れを忘れたように静止している。

 

 ルキアにも、ステラにも、ミナにも、勿論フィリップにも実現不可能な光景を、フィリップは不愉快そうに一瞥した。

 

 一瞬の後──時間の止まった状態で「後」という表現が正しいのかはさておき──フィリップは捻じ曲がった時間と空間の中で、しっかりと二本の足で立っていた。

 

 「そう。それでいい」

 

 フィリップが呟いたと同時に、時間は再び正常に作動し始めた。

 

 ティンダロスの猟犬がほくそ笑む。敵対者の喉笛を食い千切る瞬間は、奴らにとって至福のひと時だ。

 霧化したミナが正しい移動方向を見つけて、フィリップを庇う位置に移動する。だが遅い。霧化しての移動には身体能力由来の驚異的なスピードを発揮できないからだ。

 

 そして──ガチン! と、猟犬の牙が噛み合わされ、金属質な音が高らかに響いた。

 

 「フィル──!」

 

 猟犬の牙がフィリップの首を貫くところを目の当たりにして、ミナが彼女らしくもない慌てた声を漏らす。

 肋骨が折れようが内臓が傷付こうが即死でなければ血を分けて癒せるミナだが、首、特に頸動脈の損傷は治癒までの猶予時間が10秒そこらしかない。

 

 しかし、次にミナが見たのは、フィリップが首から大量出血して頽れる様ではなく、バックステップを踏んで下がり、ソードウィップ形態の蛇腹剣を空振りして整形する──攻撃態勢を取る姿だった。

 

 確かに猟犬の牙が貫いたはずの首筋は、全くの無傷だ。

 ミナはほんの一瞬の思考の後に、トリックに気付いた。

 

 拍奪の歩法だ。

 攻撃が当たったのに透けたように見えたのは、ミナの目と脳がフィリップの位置を誤認していたからだ。そしてティンダロスの猟犬が頸動脈を食い千切り損ねたということは、つまり、奴らもまた両目と脳で物体の位置を認識しているということ。そして、相手を狙って攻撃しているということだ。

 

 それなら戦える。

 時空歪曲は依然として続いているが、もはやフィリップには関係のないことになった。

 

 心なしか驚いたように見える猟犬の首筋に、三度目となる蛇腹剣の斬撃が食い込んだ。回避不能の一撃を躱されたことも、自分が反撃を喰らったことも即座には理解できなかった猟犬は、ただただ痛みに呻く。じわじわと再生していた傷は、またぱっくりと断面を開けた。

 

 「後退方向を見つけたのなら僕の後ろまで下がって、ミナ。攻守交替だ」

 

 フィリップの声は軽やかだった。

 弾むように楽しげで、一瞬だけ発した恐ろしいまでの怒気など片鱗すら感じさせない、遊ぶ子供そのものといった雰囲気を纏っている。

 

 その笑顔につられて、ミナも口元を綻ばせた。

 

 「えぇ、分かったわ。完璧にフォローしてあげる」

 

 ミナの笑顔は、それこそ猟犬のように獰猛なものだった。

 

 これがミナと猟犬の戦いで、フィリップが自分の後ろに隠れろと言ったのなら、彼女は頑として従わなかっただろう。

 だが、これはただの狩り。或いは夜の散歩みたいなものだ。ならばペットが自分の前に立つことに、何ら抵抗を感じる必要性はない。思うがままに笑い、遊び、戯れるだけだ。

 

 「──!!」

 

 猟犬が咆哮し、空間の歪曲が一段と強くなる。

 フィリップやミナの脳では、何がどうなっているのかを理解し言語化出来ないほどだ。今までもそうだったが、以前までのものが「歪み」だとしたら、これは「混沌」だった。

 

 だが──もはやフィリップにとって、時空の歪みは然したる問題では無くなった。

 

 「あれは虚仮脅しだ。ミナ、槍で僕を援護して」

 「そうなの? なら──」

 

 ミナは両腕を広げ、血の槍を展開する。

 総数は13。その一つ一つが城壁をも穿つ攻城兵装。ミナ自身の『ブラッドコフィン』が廊下をすっぽりと覆っていなければ、今度こそ塔を崩しかねない威力だ。

 

 しかし、そんな大火力の展開でさえ、数万の悪魔を一息で串刺しにすることも可能なミナにとっては児戯の範疇だった。

 

 「いいね! じゃあ──、ッ!」

 

 鋭い呼気で無駄な力を散らし、全速力で突貫するフィリップ。その周囲には14の節に分離した龍骸の剣を眷属のように従えている。

 

 呼応するように咆哮した猟犬が槍のような舌を伸ばして牽制するが、見当外れの場所を穿った。

 当たらない。目と脳で物を認識しているのなら、狙った攻撃は、フィリップには絶対に当たらない。

 

 蛇腹剣の一撃が猟犬の胴体に命中し、ぎゃりぎゃりぎゃり! と、金属質な音と共にオレンジ色の火花が散る。龍骸の剣に毀れはないが、猟犬の硬質な外皮の傷もまた浅い。

 

 それならそれでいい。

 フィリップの攻撃は特別な技ではなく、ただ剣を振っただけのものだ。猟犬の次元歪曲やルキアの『明けの明星』のような、確固たる自信を持った必殺技ではない。

 

 躱されたのならもう一度。効かなければもう一度。何度でも、何度でも、敵が死ぬまで繰り返すことが可能な通常攻撃だ。

 4メートルの間合いから繰り出される切り裂き抉り削ぐ連撃を、猟犬は躱したり受けたりしながら、じりじりと後退していく。蒼褪めた脳漿が血液の代わりのように飛び散るが、フィリップは一滴も浴びないように細心の注意を払い、その上で優勢を確保していた。

 

 狙い澄ました攻撃は当たらないし、大ぶりな攻撃はミナが放つ血で編まれた大槍が弾き飛ばしてくれるからだ。

 

 フィリップの心に、じわじわと安心感が湧いてくる。

 最大の武器でありイカサマ臭い性能を誇る次元歪曲を、同じくイカサマ臭い手段で無効化したとはいえ、あのティンダロスの猟犬を相手に戦えている。その自信はフィリップの口元を緩ませたが、その笑みが、フィリップから余裕を奪う原因となった。

 

 ティンダロスの猟犬は、その名の通り、尖鋭時空とも呼ばれるティンダロス領域で飼われている猟犬だ。地球に棲む犬とは似ても似つかないが、同じく飼い主の命に従って敵を追い詰めて狩り殺すためのモノ。尖鋭時空の中では、支配階級である住人たちに使役される手駒でしかない。

 

 しかし、意思無き傀儡ではない。

 人類の飼い慣らす猟犬が狩猟本能を利用されているように、ティンダロスの猟犬もまた、その種が持つ本能を利用して運用されている。

 

 狩猟本能や戦闘本能ではない。

 ティンダロスの猟犬が持つ最大のモチベーション。それは憎悪だ。

 

 人間が、動物が、魔物が。この曲がった世界に生きるありとあらゆるものが、憎くて憎くて堪らない。

 

 だから──フィリップの笑みは、奴らの神経を逆撫でするものだった。

 

 「──!!」

 

 舐めるな、とでも言わんばかりの、心胆を寒からしめる咆哮が上がる。

 

 手負いの獣が全力を振り絞る恐ろしさを、フィリップは狩人である父から聞いていたはずだった。ミナにとっては獣の捨て身など、踏み潰せばいいだけのことだった。

 

 しかし、猟犬の纏う空気が変わったことに気付き、警戒したのはミナだけだ。フィリップは既に猟犬の脅威判定を下方修正し、嘲笑と共に踏み潰すいつもの心に戻っていた。

 

 そして。

 

 「──、っ!?」

 

 蛇腹剣が美しい弧を描き、虚空を薙ぐ。研ぎ澄まされた金属が風を切る美しい音は、今はとても空虚に響く。

 確実に猟犬の首を捉えたつもりでいたフィリップは、驚愕に目を見開いた。

 

 避けられたわけではない。

 

 前は勿論、背後はミナが見ている。それから上下左右。

 何処を見ても、あの理解に苦しむ獣が見当たらない。……猟犬は忽然と消えていた。

 

 猟犬の消失と同時に、次元歪曲も消えている。視界はクリアだ。なのに見当たらない。動体視力に優れたミナにさえ、あの異常な姿を見つけられない。

 

 もしもミナの嗅覚が、戦闘開始以前から嗅ぎ続けていた悪臭によって麻痺していなければ、或いは気付くことも出来たかもしれない。だが結果として、ミナが猟犬を見つけたのは、奴が再び姿を晒した瞬間だった。

 

 ティンダロスの猟犬は、フィリップの手元から現れた。

 正確には、フィリップが手にした龍貶し(ドラゴルード)の刃部から。

 

 奴らは鋭角に潜み、角を通って移動し、そして出現する。それは技術ではなく生態であり、ティンダロスの猟犬であるなら呼吸や疾走の如く自然と扱える。唯一付随する条件も「角が120度以下であること」だけだ。

 

 剣の刃なんて、奴らにとっては誘導路みたいなものだった。

 

 「やば──」

 

 間抜けな声だ。そう思った。自分の声に笑ってしまうほど焦っていた。

 もっと間抜けだったのは、思わず拍奪の歩法で下がりながらも、剣を手放そうとしなかったことだ。出現元である剣から離れたら、拍奪の歩法で相対位置を誤魔化し、攻撃を透かせる可能性はあったのに──一緒に移動していては、相対位置認識欺瞞も何もあったものではない。

 

 猟犬は伸び上がり、今度こそフィリップの喉笛を噛み千切らんと大口を開ける。死体安置所の死臭が鼻を突いた。

 

 ずらりと並ぶ鋭い歯、粘度を持って滴る蒼褪めた涎、歪な形に折りたたまれた槍のような舌。迫り来る全てが強烈な忌避感を催させ、身体が本能に従って否応なく硬直する。心は全くの平常で、「怖い」とか「逃げよう」ではなく「気色悪い」という苛立ちを真っ先に抱いたというのに。

 

 心と体の齟齬はミナの城やシルヴァのいた森でも経験したことだが、ティンダロスの猟犬相手にその隙は致命的だった。

 

 ぶち、という衝撃。少し遅れて、鋭い風圧が顔を打った。

 

 「……あ」

 

 右腕に激痛が走る。

 ティンダロスの猟犬の上半身が飛び出た蛇腹剣がきりきり舞いで飛んでいく。赤い床に落ちたときに、べちゃっ、と耳障りな音を立てたのは、剣を握ったままの右腕がオマケで付いているからだ。

 

 「あ、アァ──っ!?」

 

 フィリップの右腕は、肩の先から十センチ程度を残して千切れ飛んでいた。

 傷の痛みと、12年間の人生でいつもそこにあった(モノ)が無くなった衝撃に、フィリップは何もかもを忘れて蹲り、ただひたすらに絶叫する。

 

 脇の下辺りを押さえてはいるが、止血を試みているわけではなく、ただ痛みが和らぐことを期待してのことだ。

 

 心臓が鼓動するごとにびちゃびちゃと血液が流れ落ち、毒々しく赤い廊下に鮮やかな色を混ぜた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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313

 

 腕が一本無くなったぐらい、マザーなら指の一弾きすら要さずに治してくれる。フィリップが冷静であれば、そんなことを考えて笑みを浮かべることも可能だったかもしれない。だが、今は痛みと急激な失血から来る意識の混濁でそれどころではなかった。

 

 失神するほど痛いし、失血量は十分に意識喪失を引き起こす域だ。それなのに、痛みのあまり意識を失うことも出来ない。

 

 びちゃびちゃと背筋の凍るような音が続き、その音とは関係なく体の熱が引いていく。

 

 叫び、喚き、号泣すること数秒。

 ふと痛みが和らぎ、右手の指先の感覚を得た。

 

 「……ぁえ?」

 

 恐る恐る右手を動かして顔の前に持ってくると、血に濡れた、しかし傷一つない状態の右手があった。ぎゅっぱ、と掌を開閉すると、当然、自分の意思に従って動く。

 

 粘ついた唾液を飲み込んでから身体を起こすと、いつの間にか傍にいたミナが心配そうに見下ろしていることに気が付いた。

 前にも見たことのある構図だと思ったフィリップは、彼女の手首を深々と切り裂いていた傷がたちまち癒えていくのを見て、状況を完全に理解した。

 

 「ごめんなさい、剣を狙ったのだけれど」 

 「大丈夫……」

 

 傷のあった辺りを擦りながら立ち上がったフィリップは、苦労して笑顔を作る。たった今まで苦痛のあまり引き攣っていた表情筋は、あまり素直には動いてくれなかった。

 

 フィリップの腕を千切り飛ばしたのは、背後から撃ち込まれた血の大槍だった。言うまでもなく、ミナの魔術だ。

 彼女の狙いが甘かったわけではない。フィリップが咄嗟に拍奪の歩法を使って避けようとしたからだ。──ティンダロスの猟犬を右手に持っているような状態なのに。拍奪は相対位置認識を狂わせる技術だが、フィリップが掴んで追従させていれば相対位置も何もあったものではないというのに。

 

 「ありがとう、ミナ」

 「気にしないで。……それにしても、驚いたわ。あんなに叫ばなくても良かったでしょうに」

 

 大袈裟ね、と言いたげな呆れを見せるミナに、フィリップは苦笑を浮かべる。今度は自然な表情だった。

 

 「いや……人間にとっては、腕一本って相当な大怪我だよ。下手したら死んでるからね?」

 「私の血のことを忘れたの?」

 「忘れるぐらい痛かったよ」

 

 恨めしそうな台詞を、柔らかな笑みと共に投げる。

 フィリップは特に、腕を吹っ飛ばされたことを恨んではいなかった。今のはフィリップのミスだ。後衛を信じ切れず、支援攻撃圏内で自分の位置を誤魔化すなんて馬鹿なことをしたフィリップが悪い。

 

 「僕、前衛向きじゃないね」

 「戦闘スタイルと噛み合わないし、打たれ弱いしね」

 

 気を遣って「後ろに気を配れないしね」とは言わないミナだった。

 

 ミナは血液を使って鞭を作り、フィリップに投げて寄越した。

 蛇腹剣は再び完全に姿を晒したティンダロスの猟犬の背後に転がっている。千切れ飛んだフィリップの腕と一緒に。

 

 だから代わりの武器が必要だというのは分かるが、まさか何も言わずに鞭が出てくるとは。フィリップに持たせるならロングソードより鞭。正解だ。その方がフィリップを戦力として扱える。

 

 「私が前に出るわ。下がりなさい」

 

 猟犬に「フィリップ相手には効かない」という印象を植え付けられたはずだが、あの次元歪曲はいつでも再発動可能だろう。あれは流石に生態ではなく魔術だが、発動に特別な制約があるという智慧は無い。

 そう考えると攻守交替には多少の懸念があるが、仕方ない。このままフィリップが前に居ても猟犬を殺し切れないし、またフレンドリーファイアを喰らう可能性もある。

 

 分かった、と端的に頷いて後退する。

 猟犬の一挙手一投足に──具体的にどの辺りが手と足なのかは判然としないが──気を配りつつ、その理解不能な姿の情報が思考を妨げないよう、おおよそのシルエットで捉える。

 

 視線を切らないよう慎重に動いていると、ふと猟犬が振り返った。

 

 馬鹿な、と、フィリップは思った。

 あのティンダロスの猟犬が敵対者を前に余所見をするなんて有り得ない。

 

 馬鹿が、と、ミナは思った。

 彼女にとっても猟犬の外皮や次元歪曲は驚異的な防御だが、魔剣『悪徳』によるカルマ値の負債はあと数撃で十分に溜まる。即ち、魔剣『美徳』による即死圏内に入る。

 

 結果として、踏み込もうとしたミナを、フィリップは手を掴んで止めた。

 

 「待って、ミナ! 罠だ!」

 

 断定形で警告するフィリップ。しかし、確証はない。

 絶対的強者であるが故に罠を警戒しなかった──これまでの戦闘経験に於いて、罠の悉くを踏み潰してきたミナと同じく、ティンダロスの猟犬もまた、肉体性能のみで人間に優越する化け物だ。

 

 罠なんてこすっからい真似をするよりは、正面から、嘲笑と共に噛み千切るのが奴らだ。人間に優越するもの。人間を殺すものとして、奴らはそれだけの性能を持っている。

 ただ、相手が同じく人外の化け物である場合にどういう反応をするのか。それはフィリップには分からない。人間と吸血鬼の区別が付いているかどうかさえ定かではない。

 

 だが──フィリップは一つ、失念していることがある。

 

 ティンダロスの猟犬が狩りをする最大のモチベーションは、確かに憎悪だ。

 本当は永遠にこの時間に留まって、自分が死ぬまで永遠に狩りを続けたいところだろう。だが、奴らはあくまで猟犬。主人の命に従い、獲物を駆り立てるもの。

 

 最優先殺害目標である“標的”以外を殺すのは、奴らにとってはついででしかない。

 

 ミナの魔術によって完全に封鎖されたはずの廊下に、新たな影が侵入する。

 それはフィリップたちの見ている側、猟犬の背後から、滑るようにやってきた。

 

 全身半透明で、毒々しく赤い背景の透けたヒトガタ。甲殻類、昆虫、類人猿を混ぜ合わせたような異形。酔ったように揺れる頭部から、肌の粟立つような悪意を迸らせるもの──次元を彷徨うもの。

 

 知識に無い、存在感すら無い魔物のような何かに、ミナは訝しむような目を向けた。

 

 「……あれ、斬れると思う?」

 

 フィリップが尋ねると、ミナは右手の長剣を一瞥した。

 

 「どうかしら。ゴースト・キメラとかなら、魔剣の刃は通るでしょうけれど……」

 「うん。ゴーストじゃないよ。僕の勘が正しければ、あれを斬るには次元断の魔剣が要る。あのヴォイドキャリアみたいな」

 

 フィリップが言うと、彼女はすんなりと受け入れて肩を竦めた。

 

 「なら、無理ね。あれは魔剣の特性……()()()よ。私の魔剣と同じ、技術では再現できない異常性だもの」

 「だよね……。ん?」

 

 フィリップはミナから受け取った血で編まれた鞭を弄り、手に合わない武器で猟犬を相手取れるのかと心配そうにしていたが、ふと気付いた。

 

 猟犬はフィリップたちに背を向けていた。

 すぐに気付けなかったのは、相変わらず全体像さえ判然としないからという理由ばかりではない。フィリップはティンダロスの猟犬を、その恐ろしいまでの憎悪を、よく知っているからだ。まさか獲物を前に目を逸らすどころか、背まで向けるなんて。

 

 「まさか、そいつが“標的”なの? 嘘でしょ? だって、そいつは──」

 

 フィリップは思わず、猟犬の背中に問いかけていた。

 

 シュブ=ニグラスに与えられた智慧によれば、この二種が敵対するはずがないのだ。

 ティンダロスの猟犬、延いてはティンダロスの住人たちの憎悪対象は、あくまでフィリップたち歪曲時間の存在だ。こちらの世界の住人があちらの世界に踏み入ったとき、それを捕捉され、追跡される。

 

 だが次元を彷徨うものは、この曲がった時間の住人ではない。ティンダロス領域に侵入したとしても、追尾されることは無いはずだ。

 

 しかし、現に猟犬は薄ら寒さを覚えるような唸り声を上げて、ゆっくりと移動する次元を彷徨うものを睨み付けている。

 

 「フィル、あれも狩るのなら、流石に情報不足よ。魔力視を使うわね?」

 「え? いや、待っ──」

 

 フィリップが止める間もなく、ミナは視界のチャンネルを魔力の次元に合わせてしまった。

 しかしどうしたことか、ミナは発狂するでも怯えるでもなく、首を傾げた。そして小さく振り返り、片手でフィリップを傍に呼び寄せる。

 

 その仕草はミナがフィリップを抱き締めたいときの動きによく似ていて、フィリップは思わずとことこと近寄って腕の中に納まった。

 

 「……あれ、きみのペットの同族じゃない? 物理次元だとそこにいるように見えるけど、魔力次元だと、そこには何もいないわ」

 「断じて違うよ」

 

 フィリップは半笑いで即答する。

 送還状態のシルヴァとは何となくの意思疎通が出来るが、彼女も「NO」と強い意思を送っていた。

 

 「でも……それじゃ、ホントに攻撃できないんじゃない?」

 「そうね。一応聞いておくけれど、まさか攻撃の通らない相手と戦うことの愚かしさは教えなくていいわよね?」

 「そりゃ勿論。……それに、猟犬があいつ狙いなら、僕らが必死になる必要はないよ。引こう」

 

 フィリップがそう言って、遠くに落ちていた蛇腹剣を鞭を使って手繰り寄せた時だった。

 

 「たすけてください」「ころしてください」と、例の声が聞こえた。

 フィリップは勿論、それが人語を話すことを知っている。しかし、もう満足したの? と慈愛に満ちた手つきでフィリップの頭を撫でていたミナは、らしくもなく意外そうに瞠目した。

 

 「嘘でしょう? あの見てくれで喋るの?」

 「僕もそう思った。でも多分、音を真似てるだけだと思うよ。あいつ、僕らの方を見ようともしないでしょ?」

 

 フィリップは「多分あれが目だろうな」くらいのふんわりした予想で語っていたが、正解だ。

 次元を彷徨うものはフィリップのことも、ミナのことも、ティンダロスの猟犬のことさえも見ていない。

 

 ゆらゆらと揺れる酔ったような顔で、存在感の無い身体をピクリとも動かさずに滑って移動している。

 

 「確かにそうね。……あれ、こっちに来てない?」

 「……道、空ける?」

 

 ミナが魔術を解き、廊下に正常な色が戻る。

 毒々しい赤色に目が慣れきっていたフィリップは、埃っぽい古びた石造りの建物を、不覚にも美しいと思ってしまった。

 

 二人は顔を見合わせながら廊下の端に寄り、半透明の異形が通り過ぎるのを待った。猟犬は天井の角に潜み、耳障りな音を立てて這いずりながら、次元を彷徨うものを捕捉していた。

 

 「……ちょっと間抜けな絵面だね」

 

 苦笑交じりに言ったフィリップを見下ろして、ミナは軽く肩を竦めた。

 攻撃の通らない相手と戦うほど酔狂ではないミナとしては、間抜けだろうが何だろうが、面倒を背負うよりマシだ。

 

 フィリップもそれは分かっているから、無理に戦ったり、戦わせようとはしない。

 物分かりの良いペットに微笑を浮かべたミナだが、ふと、視界の端で不穏な動きを捉えた。いや、動きというか、止まったのだが。

 

 「……?」

 

 次元を彷徨うものが動きを止め、回転台の上にでも載っているかのような無挙動で壁の方を向いた。

 既にフィリップたちの前を通り過ぎているし、部屋の扉の前でもない微妙な位置だ。壁には燭台が掛かっているが、そのくらいしか特徴のない、何の変哲もない石造りの壁をじっと見つめている。

 

 「……あれ、何してるんだと思う?」

 「さぁ? 壁を通り抜けようとしているとか?」

 「あぁ、確かに──、え?」

 

 次元を彷徨うもののシルエットが、ふと肥大した。

 何の音も立てず、何の感覚も与えず、ただ、半透明の外観の横幅が二回りほど太くなった。奇妙な動きに、ミナがほんの少し立ち位置を変え、フィリップも蛇腹剣の結合を解く金具に指を添えた。

 

 「……何なの?」

 「分かんない……太った?」

 「違うわ、よく見て。腕のところが裂けたのよ」

 

 呆れ交じりに言われた通り、存在感の無い身体に目を凝らす。

 次元を彷徨うものの身体が、肩から鎖骨、腹部にかけて、ぱっくりと開いていた。

 

 傷口には見えない。いや、フィリップは直感的に、口だ、と思った。

 開口部には爪ほどの大きさの歯がずらりと並び、右胸と左胸それぞれの傷は対称だ。同じ形の口が二つ、両肩に並んでいるように見える。胸の口が開くことで肩が下がり、類人猿と甲殻類の合いの子のような異様に長い腕は、今や半分ほどが地面についていた。

 

 その中から、二対の目が覗く。

 半透明で、色も輪郭も曖昧なのに一瞬で「目」だと看破できたのは、人間の脳機能がそう設計されているからだ。目だけでは無理でも──“顔”があれば、人間の脳は、それを一瞬で認識する。

 

 口の中には、それぞれ別な顔が入っていた。

 フィリップたちの位置からでは顔しか見えない。ただし、これは文字通りの意味だ。耳の手前、髪の生え際の辺りまでしか存在しない、仮面のような「顔」。髪の生えた頭や首、その下に在るべき胴体なんかも見当たらない。

 

 生きているはずがないデスマスク。

 その虚ろな表情が恐怖の形に引き攣り、そのための筋肉や骨格さえないのに、喘ぐように口を開けた。

 

 「やめて……やめて、ください」

 「ゆるして、ください……かえして……ください……」

 

 フィリップはミナと顔を見合わせ、お互いの聞き違いや空耳ではないことを確かめた。

 いま、あの顔は確かに言葉を発した。肺も声帯もないはずなのに、確かに二人分の、違う声だった。次元を彷徨うものが模倣したのか、或いは──。

 

 「ミナ、あまり見ないで。気持ちの良いものじゃないでしょ」

 「? いいえ、別に? だってあれ、人間でしょう?」

 「あ、そう……」

 

 人間だって家畜が苦痛に鳴いていれば多少は気分を害するところなのだが……ミナにとって、人間は“家畜”というより“食肉”の方が近いのかもしれない。悲鳴を上げようが苦痛に鳴こうが関知しないようだ。

 

 フィリップが呆れと安堵の混ざった笑みを溢した時だった。

 何の前触れもなく、次元を彷徨うものの右脇腹付近が消失した。

 

 「っ!?」 

 

 咄嗟にミナの前に出ようとしたフィリップは、逆にミナの後ろに追いやられた。フィリップだけでなくミナにとっても分かる、何か正体不明の攻撃を受けている。

 

 音も光も何も無く、ただ、鎧とも甲殻とも見えるものを纏ったような頑強そうな胴体が、ごっそりと消え失せた。

 血は出ていない。それ故に、傷口が鮮明に見える。

 

 ──歯形だった。

 

 それも人間の歯型に見えるが、サイズが巨人級だ。フィリップが丸くなればすっぽり収まるほどの規模。口だけで1メートル近い、人間に似た口を持つ“何か”だ。その“何か”に食い千切られている。

 

 消失は一か所、二か所と連続し、手が、足が、顔が、そして肩の口に収められた悲鳴を上げる顔までもが食い千切られ、遂に跡形も無くなった。

 

 「……なんなの?」

 「分からない。でも多分、あいつはここじゃなくて、別の次元に──ミナ!」

 

 フィリップが鋭く警告を発し、ミナは冷静にロングソードを構える。

 

 次元を彷徨うものの身体は完全に消失した。

 そのはずだ。フィリップもミナも、何かに食い尽くされるのを確かに見た。

 

 しかし──何の前触れもなく、そこに立っていた。今まで居た場所に。食い尽くされたその場所に。半透明の異形が、何事も無かったかのように。

 

 「たすけてください……ゆるしてください……」

 「もういやだ……もういやだ……ころして、ころしてください……」

 

 恐怖に歪み切った顔で譫言のように繰り返す二つの顔。それを納めた二つの口が、ゆっくりと閉じていく。

 二つの顔を格納すると、次元を彷徨うものはまた回転台の上に乗ったような挙動の無さで廊下の方に向き直り、滑るように動き始め、外に繋がる壁を通り抜けて消えた。天井の隅にいた蒼褪めた脳漿は、その後を追っていった。

 

 「……追いかける?」

 

 追いかけて殺す? という意味の問いに、フィリップは即答できなかった。

 

 答えるのを躊躇ったわけではない。確たる答えを持っていなかったのだ。

 

 あの次元を彷徨うものは、恐らく、フィリップのいるこの次元からほど近い、しかし別の次元にいる。姿の情報がこちらに投影されてしまうような、鏡の中や、ページの表裏のような、近い次元だ。

 

 そして恐らく、人間を連れている。フィリップのいるこの次元で拉致した人間だ。

 ティンダロスの猟犬はその二人を捕捉しているのだ。多くの次元を彷徨するうち、尖鋭時空にも立ち入ったのだろう。そこで人間が見つかり、追跡対象になった。

 

 人間を攫って多次元を渡り歩くのは次元を彷徨うものの性質だ。それをどうこう言うつもりはないし、どうでもいい。

 

 だがティンダロスの猟犬を引き連れているのは迷惑千万だ。奴らはもののついでで人を殺す。

 ルキアやステラに危害が及ぶ可能性を排除できるのなら、特に敵対しているわけではない次元を彷徨うものだって殺そう。

 

 だが──そうではない。あの二人はいま、完璧に自衛出来ている。

 

 それに。

 

 「猟犬を逆に追いかけて殺すのは無理だよ。ミナ、角に入れる?」

 「無理ね。言葉の上でさえピンと来ないもの」

 「だよね。……狙いがあの二人じゃないなら、正直どうでもいいし、戻って寝よう」

 

 フィリップはそう言って笑い、階段に向かう。

 その笑顔に曇りは無く、むしろ眠気の色が濃かった。ミナは「つまらないわね」とでも言いたげに肩を竦め、彼女も欠伸を溢しながらその後を追った。

 

 「もう少し遊びたかったわね」

 「そんなに良い相手だった?」

 

 不完全燃焼だ、とでも言いたげなミナ。

 二度と御免だし奴らは一生尖鋭時空に引き篭もっていてほしい、と思ったフィリップは、苦笑交じりに聞き返した。

 

 ミナは相変わらず眠たそうに、

 

 「違うわ。きみと、よ」

 

 と言った。

 



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314

 翌朝、交流戦最終日。

 腕やら血痕やら色々と置きっぱなしだったことを思い出して慌てたフィリップだが、諸々ナイ教授が処分してくれていた。

 

 何故分かったのかというと、当然、朝食前にしこたま煽られたからだ。思いっきり蹴るからナイ神父の姿になれ、というフィリップの命令に素直に従い、そして素直に蹴られた辺り、ティンダロスの猟犬のことを誤魔化したことを、一応は悪いと思っているらしい。

 

 朝食を終え、マリーに色々と教わりながらグループ戦を終え、交流戦最後のイベントが始まる。

 学生どころか教員たちまでもが待望する、強者たちによる戯れ──エキシビジョンマッチだ。

 

 “龍殺しの英雄”対“人類最強の魔術師”という触れ込みで、実際の対戦カードはフィリップ・ウォードペア対、ステラ・マリーペアだ。

 龍殺しの英雄と、その師匠と、師匠と、師匠がいる。剣術の師と、戦闘の師と、武器操作術の師と表現すると的確か。

 

 一般生徒は血の沸き立つような戦いを予期して胸を躍らせて。そしてフィリップとウォードは、公開処刑を予期して消沈していた。

 

 基本的に、剣士と魔術師では魔術師の方が有利だ。何せ射程が違う。

 ただし、戦闘距離に制限を付けるのなら、一転して剣士が有利になる。剣の届く間合いで「よーいドン」で戦闘開始するのなら、流石に剣士が勝つ。魔術師の持つ最速の防御は魔力障壁だが、これは通常、本職の剣士の一撃を防ぎ切る硬度を持たないからだ。

 

 ……で、ステラが「通常」の範疇にいるのかというと、勿論そうではなく。

 フィリップが模擬剣を使おうが龍貶し(ドラゴルード)を使おうが、彼女の防御を貫くのは不可能だ。そしてフィリップもウォードも魔術耐性はほぼゼロ、中級魔術一発でも十分に死ねる。

 

 「間もなく、エキシビジョンマッチが始まります! 生徒たちは中庭第三区画の周りに集まり、出場者の方は準備してください!」

 

 間もなく太陽が天頂を通り過ぎようかという頃、生徒たちは教師の指示に従ってぞろぞろと移動する。

 それはフィリップたちも例外ではなく、今はロープで区切られた試合エリアの真ん中で、審判役の教師からルールの説明を受けていた。

 

 使用武器はオーソドックスなロングソード型の模擬剣のみ、攻撃魔術は中級まで……などなど交戦規定を列挙するのは、フィリップよりなお背丈の低い猫耳少女、ナイ教授だ。なんでも、「審判役には、万が一の時にはフィリップとウォードを守れる程度には強い教員を」という条件に他の教師が尻込みする中、率先して手を挙げたらしい。

 

 「勿論可能だろうが、私の精神的安全は保障されるのか?」

 「殿下に限ってオーバーアタックなんてしないでしょ? へーきですよ……手元が狂わなければ」

 

 一応は敵であるフィリップとステラは顔を突き合わせ、ひそひそと言葉を交わす。

 

 勿論、元よりフィリップに怪我を負わせるつもりはないステラだが、ナイ教授が傍に居るというだけで多少のストレスがあった。プレッシャーと違うのは、緊張感ではなく不快感を催すというところだ。

 

 「信頼には応えよう。で、あいつが私のミスとは関係なく私を害する可能性は?」

 「何らかの理由で僕を本気で怒らせようとしている、とかなら、或いは」

 

 ステラは諦めたように嘆息し、ナイ教授の指示に従ってスタート位置に向かった。

 フィリップも苦笑し、反対側のスタート位置に向かう。「僕が貴女を守ります」とでも言えたら格好のつくところなのだが、ナイアーラトテップ相手に人間風情が何かを守り通せるわけもなく、身の程を知るフィリップとしては、本当に苦笑くらいしかできない。

 

 まあ、実際にナイ教授が介入してくることはないだろう。

 ナイ教授、いやナイアーラトテップはフィリップを煽るし嘲るし、不快にするし怒らせる。だが、全て計算ずくだ。フィリップが望まないことはしない。

 

 だから、フィリップが警戒すべきは中立不介入の審判でも、魔術制御をしくじるはずもないステラでもなく。

 

 「両者、構えて──」

 「──行くよ、フィリップ君! いつかと同じぐらい本気で! 私を倒してみせて!」

 

 なんて叫ぶ、ハチャメチャにハイテンションなマリーだ。

 

 三年生の彼女にとっては、これが最後の交流戦であり、卒業式を抜くと最後の学校行事だから──ではなく、フィリップが本当に強くなっていて嬉しいのだとか。二日前、フィリップが強くならなくてはと焦るあまり、ルキアやステラと多少の口論をした日から決めていたそうだ。

 

 マリーのことをマイナー武器に魂を売った宣教師だと思っていたフィリップだが、バトルジャンキーの気質もあるのかもしれない。

 

 「それとも、まだロングソードは使えない?」

 

 口元を歪めたマリーの見え透いた挑発に、フィリップは鏡写しのような笑顔を浮かべた。

 

 ロングソードが使えない弱い奴だと思われるのは、正直、どうでもいい。

 だが──ウォード(師匠)の前で、マリー(師匠)にそう言われるのは心外だ。二人の教えがしっかりと身に付いているということを、この一週間が無駄ではなかったということを見せつけることでしか、教わった恩を返すことはできない。

 

 「さぁ、どうでしょう。ソードウィップしか使えないかもしれませんし……もしかしたら、ウルミと同じくらい上手くなってるかもしれませんよ?」

 「そりゃ楽しみだ。けど──率直に言って、どちらにしろアタシの敵じゃあない!」

 

 マリーは吼えるがごとく獰猛な笑顔と共に、全速で突っ込んできた。

 正解だ。『拍奪』を使わせたくないのなら、鍔迫り合いのような超至近戦に持ち込むのが最も手っ取り早く、そして純粋なフィジカル勝負でフィリップに勝ち目はない。

 

 対策としては素晴らしい。どうせステラが指揮しているのだろうが、対フィリップにおける最適解だ。でも大人としてはどうかと思う。

 

 「大人げないぞー! 僕の得意レンジで勝負しろー!」

 「あ、こら、逃げるな!」

 

 踵を返して全力で逃げ出したフィリップを、マリーが条件反射的に追いかける。フィリップは「ここで強くなったのを見せつけて恩返しするぞ!」なんて殊勝な考えはさっぱり捨てて、考え得る最適解を選択した。

 

 ここまでは、フィリップとウォードが事前に想定した通りだった。

 

 「──じゃ、交代だね」

 

 気負いのない軽やかな言葉と共に、マリーの眼前を鼠色の模擬剣が通り過ぎる。

 直撃寸前でスウェイしたマリーは、殆どタイムラグ無しに繰り出された唐竹割の振り下ろしを素早く受け流した。

 

 「僕が先輩を、フィリップ君が王女殿下を担当するっていうのが、一番()()()()()()作戦なんですよね……っ!」

 

 ウォードは受け流された剣を肩の柔軟性に任せて無理矢理に引き戻し、脇をすり抜けようとしたマリーを抑える。

 流石のマリーも基礎筋力で負ける相手に鍔迫り合いを仕掛けることはなく、ウォードが押しのける力を利用して間合いの外まで離れた。

 

 フィリップはウォードの後ろに回り、二人一緒にじりじりとマリーを迂回する。

 しかしマリーもステラも二人の狙いにはとっくに気付いていたから、動きを合わせて正対を崩さない。

 

 ウォードとマリーの真ん中を中心に、円を描くようにゆっくりと動く。

 そんな甘い動き、普段のステラなら一瞬で見咎めてゲームセットだ。しかし──今すぐにエキシビジョンマッチを終わらせると、もう荷造りを終えているステラたちは、迎えの馬車が来るまで暇を持て余す。ルキアやフィリップと無為に駄弁るのも嫌いではないが、それよりは、フィリップの強化にもなる模擬戦に時間を当てた方が有意義だろう。

 

 「──と、そんなことを考えてるんだろうけど」

 

 フィリップは最も警戒すべき火力担当であるステラを観察しながら、未だ一発も魔術を撃って来ない理由を推察する。

 

 ルール上、回避不可能級の範囲攻撃は飛んでこないだろう。

 初級・中級・上級といった魔術の規模区分は、概ね魔力消費量と魔術式の演算難度で決まる。そして半径10メートル以上を一撃で焼き払う規模の魔術は中級レベル以上だ。

 

 問題は弾幕。

 拳大の火球を飛ばす初級魔術『ファイアーボール』は、炎の温度が摂氏300度ぐらいで、基本射程は10メートル、貫通力はほぼゼロ。言うまでもなく弱い。

 

 しかし、いくら低温とはいえ炎は炎、当たれば火傷する。手足ならともかく、顔に当たったらキル判定だろう。

 で、ステラは多分、これを同時に100発とか、そんなオーダーで展開できる。もしかしたら1000発スケールかもしれない。勿論、初級魔術故に弾速という言葉を使うのも物悲しい速度しかないが、密度が密度だ。避けるというか、どの弾に当たるか選べるよ、という状況になるのは想像に難くない。

 

 「──正解だ」

 

 ステラが口角を吊り上げ、そう呟いたのが聞こえた。

 

 直後、周囲が俄かに暖かく、明るくなった。

 まるで、日の光が雲間を縫って差し込んだかのように。しかし、冬の高い澄んだ青空には雲一つない。

 

 では何なのか。攻撃を警戒して頭上を見上げたフィリップは、輝く天井を見つけて瞠目した。

 

 頭部大の火球が紅蓮を並べ、格子状に冬空の蒼が覗く。

 炎は並べるとくっつくと言うが、魔術で形成された炎だからか、触れ合う距離で整然と並べられた火球の全ては、“球”だと分かる形を保っていた。

 

 明らかに100単位ではない。縦横共に、100近い数の火球が並んでいる。都合、4000か、5000か、或いは。

 

 「絶対に避けられないぞ、どうする、カーター!」

 

 楽しそうなステラに、フィリップは表情筋を引き攣らせ、外で見ていたルキアが「楽しそうね……」と呆れたように呟いた。

 

 天井はまだ落ちない。

 ステラはフィリップの答えを尊大な仕草で促す。顎をしゃくるだけなのに、フィリップがやるより何倍も威厳と気品に溢れた所作だった。

 

 「……ウォードはマリーに、僕は殿下に肉薄する。これが最適解のはずです」

 「ほう? では聞くが、敵と味方の距離が多少近付いた程度で、私が狙えないと思うか?」

 

 フィリップは拍奪の姿勢を取り、無理矢理に口角を吊り上げる。

 スカートの中にまで潜り込んで彼女の身体を傘にすれば、流石に狙えないはずだ。そしてフィリップの想像が正しければ、そこまでやる必要はない。

 

 「マリーはともかく、殿下には耐魔力がありますよね。術者本人とはいえ、初級魔術程度じゃあ、近くを通るだけで勝手に消えるんじゃないですか?」

 

 フィリップが「そうであってくれ」という内心を表出させないよう、自信たっぷりを装って言うと、ステラはすっと腕を上げ、一本指を突き上げた。

 そして、ルキアと対峙した時のような獰猛な笑顔を浮かべる。

 

 「お前の出した答えが最適解かどうか、実体験で確かめろ──!」

 

 フィリップはステラの言葉を聞き終える前に走り出す。

 マリーが接近阻止のために動いたが、ほぼ同時に動いたウォードによって抑えられた。二人の会話を聞いていたウォードは、マリーから離れないよう懸命に足を動かしている。

 

 揶揄うようなステップで動くマリーを、ウォードは必死に追う。二人の足捌きに淀みは無い。さながら剣舞の如く──というには、女性の笑顔はニヤリという擬音の似合いそうな意地悪さだが。

 

 剣士二人は、なんとかなりそうだ。問題は魔術師と、魔術学院生の方。

 砂埃を蹴立てて駆けるフィリップを阻止するには、ステラは弾幕による面制圧攻撃か、魔力をばら撒いて「自分の魔力が無い部分」を狙う魔力照準法でフィリップの正確な位置を割り出すしかない。

 

 ステラは獰猛な笑顔のまま、指を立てていた腕を振り下ろした。

 

 「──行くぞ!」

 

 愉し気な咆哮を以て、遂に、或いは終に、天井が落ちる。

 フィリップは懸命に距離を詰めながら、酸素不足の頭で必死に思考を回転させた。

 

 ステラは空を隠す密度の直下弾幕以外、迎撃の魔術を展開していない。そして弾幕の落下速度は、自由落下よりなお遅い。

 彼我の距離は7メートルといったところ。天井が落ちるまでは三秒かそこら。フィリップは十分にステラのところに到達できるが、しかし、ステラは無防備に立っている。

 

 間合いが埋まる。

 ウルミの距離から剣の距離へ。そして──

 

 「──、ッ!」

 

 鋭い呼気と共に、ステラの足が跳ね上がる。

 以前に武術は護身程度と言っていたが、彼女の脚は乗馬や舞踏などでしなやかに鍛え上げられている。筋肉質とまでは行かず、さりとて細過ぎることもなく、脚線美と運動能力を高度に兼ね備えた脚は、鞭のようなしなりと共にフィリップの首を目掛けて振り下ろされた。

 

 タックルして組み付くつもりで両腕を開いていたフィリップは、打ち下ろし気味の回し蹴りを必死に躱す。身長も体重も筋力も勝る相手に組み付くつもりだったから、スピード重視で相対位置認識欺瞞が解けている。

 

 蹴られる寸前に思いっきり姿勢を下げ、足の下を潜り抜ける。

 敢えて動きの速度を緩やかにして、降り注ぐ火球の雨を凌ぐ。まさか本当にスカートの中に潜り込んで躱すことになるとは思わなかったが、予想通り、ステラの魔術耐性は自身の魔術ですら消し去る強度だった。

 

 ステラは素早く振り返り、格闘戦の構えを取るが、フィリップはそのまま大袈裟に距離を取って模擬剣を構えた。

 

 「正解だったな」

 「おかげで火傷せずに済みました。ウォードは……うわ、天才だ」

 

 垂直落下弾幕が落ちる寸前まではマリーに食らいついていたウォードだったが、最後の最後で距離を空けられ、敵の傘作戦は失敗していた。

 

 しかし、ナイ教授のキル宣言は聞こえてこない。

 それは当然、ウォードがあの回避不可能弾幕を凌ぎ切ったことを意味する。

 

 ウォードの手には、所々に焼け焦げた跡のある軍学校の制服のジャケットが握られている。魔術学院の制服と同様、錬金術製の耐火繊維で編まれたものだ。

 彼は被弾直前、それを自分の真上に放り投げ、即席の傘にしたのだった。

 

 勿論、それは初級魔術の貫通力の低さを利用した、模擬戦限定の防御方法だ。中級魔術相手には流石に心許ないし、上級魔術相手なら確実に意味を為さない。

 

 だがそれでも、フィリップには思いつけなかった方法だ。素直に称賛に値すると、フィリップは顔を輝かせた。

 

 「素晴らしい機転だ。勿論、エーザーが自分から離れなければ、ジャケットを脱ぐ隙は無かっただろうが……状況を上手く利用したな」

 

 ステラも感心したように称賛する。

 フィリップは「なるほど……」なんて呟いていたが、あれはマリーとウォードの距離が離れていたからこそ出来たことだ。ステラに組み付く位置にいたフィリップにとっての最適解ではない。

 

 「いや、目の前で徐に服を脱ぎ出したら、流石に蹴り倒していたぞ?」

 「あ、そりゃそっか……いや、というか殿下、動きが変わりましたよね? さっきの蹴り、速さと威力はともかく、フォームはミナそっくりでしたよ」

 

 フィリップの言葉に、ステラは感心したように頷いた。

 

 「ほう。それが分かる程度には目が肥えて来たのか。いいぞ」

 「まぁ、その二人プラス、ミナにも白兵戦を教わってますからね。謙遜抜きで、師匠が良いんですよ」

 

 模擬剣とは思えない鋭い風切り音と剣戟の音を奏で始めたウォードとマリーには、フィリップの称賛は届かなかった。聞かせるつもりも無かったので、別に構わないが。

 

 それより、フィリップにはもっと気になることがあった。

 

 「でも、どうして? 殿下は近接戦でも、冗談みたいな硬さの魔力障壁とか、設置型魔術とか、それこそ無限の手札があるじゃないですか」

 

 ステラの魔力障壁は、フィリップが本気で龍貶し(ドラゴルード)を振り抜いても揺らぎさえしない強度だ。そして、距離に関わらず人間風情を跡形もなく焼き払うのに、彼女は何ら苦労しない。

 

 それなら、格闘戦の練習をする時間は無駄なはずだ。ステラに限って、ちょっとやってみたかった、なんて甘い理由ではないだろうが。

 

 フィリップの問いに、ステラは事もなげに微笑した。

 

 「だが、そういう手合いばかりじゃないだろう? お前の訓練をする上で、白兵戦能力を持った魔術師を演じられると、強化メニューの幅が広がる」

 「え、あ、それは……ありがとうございます」

 

 まさか自分の為だとは思わなかったフィリップは、意外そうに頭を下げる。

 ステラは少しだけ照れたように笑うと、「気にするな」とひらひらと手を振った。

 

 「お前だって、召喚術に頼る場面は減らしておきたいだろう?」

 「……流石」

 

 その通りだと、フィリップは嬉しそうに口角を吊り上げる。

 それはフィリップが武器術や戦闘技術を学ぶ最大のモチベーションであり、最優先課題の一つ。

 

 フィリップは身体は矮小すぎる癖に、戦闘能力は両極端だ。

 『萎縮』と『深淵の息』は非魔術師相手なら一撃必殺と言える殺傷力を誇るが、フィリップ自身の魔力が貧弱なせいで、魔術師相手には通用しない。往々にして白兵戦能力に劣る魔術師が相手なら、ウルミや蛇腹剣といった近接攻撃に切り替える必要がある。

 

 では至近戦に秀でているのかというと、まぁ可もなく不可もなくといったところだ。特殊技術である『拍奪』の修得と、その戦闘スタイルに合わせて設計された龍骸の蛇腹剣を持ち、決して弱くはない。とはいえ、魔術師相手では接近するのが困難なこともあるし、ステラやジェームズのような接近戦にも対応できる魔術師だっている。

 

 仮にジェームズがフィリップを本気で殺しにかかってきたら、フィリップに許された対抗策は、拍奪を使った数分の耐久と邪神召喚。その一択だ。

 

 そしてミナやディアボリカのような化け物相手では、呪文詠唱に十分な時間、耐久できない。

 

 故に、もっと強く。

 力も、速さも、技も、今のままでは何もかもが足りない。

 

 ジェームズはステラやミナのようなトップクラスと比べると、一段どころか十段ぐらい落ちるが、フィリップは更にその十段下だ。

 いや、そもそも、人間風情に邪神召喚を切らされるようでは、衛士団の入団基準となるAクラス冒険者どころか、「比較的優秀」程度の評価であるBクラス冒険者にもなれはしないだろう。

  

 「ほら、かかって来い。素手の女一人に負けてくれるなよ、“龍狩りの英雄”」

 

 首元と胸元を守るような少し低めの構えを取ったステラは、そう言って獰猛な笑顔を浮かべる。フィリップは油断なく、そして容赦なく模擬剣を構え、再び突撃した。

 

 

 

 

 



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315

 魔術学院と軍学校の交流戦は、エキシビジョンマッチの終了を以て全課程が終了となった。

 生徒たちはぞろぞろと列を為して荷物を運び、魔術学院生から順番に馬車に乗り込んでいく。夜までに王都に到着したければ、あと1時間以内に砦を後にする必要があったから、みんな駆け足気味だ。

 

 フィリップが荷物を取って中庭に出てくると、一つの馬車の近くでルキアとステラが話しているのを見つけた。その馬車を目指していると、背後から声を掛けられた。

 

 「カーターさん。すみません、少しだけお時間を頂けませんか?」

 

 振り返ると、ジェームズがどこか気まずそうに立っていた。

 

 昨日のペア戦の時、フィリップにオーバーアタックを仕掛けてしまい、咄嗟に目を閉じたフィリップが闇雲に振った模擬剣が顔面にクリーンヒットして失神して以来の邂逅だ。フィリップがステファンに聞いた話によると、顎の骨に罅が入っていたらしい。

 

 「あ、ルメール様。昨日はすみませんでした。あの時は前がよく見えてなくて……」

 「い、いえ、とんでもない! あれは私のミスが招いた自業自得ですから、謝らないでください!」

 

 フィリップが先んじて言うと、ジェームズは慌ててぶんぶんと大袈裟に首を振り、それからきっちりと踵を揃えて深々と頭を下げた。

 

 「私の方こそ、申し訳ございませんでした。あれは、最近修得した僕の切り札で……焦りのあまり、つい咄嗟に……」

 

 深い反省の意を窺わせる声色の謝罪に、フィリップは鷹揚に笑い、肩に手を遣って頭を上げさせた。

 

 フィリップは別に、あの一件で怒ってもいなければ、何か注意するつもりも無かった。

 なんせ、以前には効果の判然としない魔術をぶっつけ本番でクラスメイト相手にぶっ放し、肺の中を海水で満たして地上で溺水させ、半殺しにしたことがある身だ。尤も、あれは決闘の場でのこと。模擬戦とは違う、両者納得ずくでの殺し合いの場でのことだ。むしろ半殺しで済んで良かったね、といったところだが。

 

 「気にしないでください。僕もウォードも、怪我も後遺症もありませんし──」

 「──それで済んだのはルキアのイカレた反応速度と演算能力のお陰だということを、忘れずに生きていくんだな」

 

 へらりと笑って手を振りかけたフィリップは、背後から抱き寄せられて言葉を切る。

 優しげではありつつも有無を言わさない感じの手つきはステラのものだ。見上げると、やはり彼女だった。顔に浮かぶ威厳に満ちた表情は、フィリップからすると珍しいものだった。

 

 「咄嗟に上級魔術を撃てる才能は素晴らしい。だが、才能に振り回されるな。その全てを制御し、支配しろ。それが出来ないのなら、才能は祝福ではなく呪縛になるぞ」

 「……御言葉を胸に刻み、精進して参ります」

 

 どう聞いても叱責だったのだが、ジェームズは嬉しそうに──というか、感動に打ち震えた様子で一礼して立ち去って行った。ステラが平然としているからそれが普通なのだろうが、フィリップは困惑顔だ。

 

 「……具合はどうだ?」

 

 何事も無かったかのように尋ねたステラに、フィリップはびっと親指を立てた。

 

 「あんなのステファン先生にかかれば無傷も同然ですって。っていうか、あれぐらいの怪我はいつもの事じゃないですか。心配いりませんよ」

 

 先刻──エキシビジョンマッチは、ステラたちの勝利で決着となった。

 

 格闘戦の構えから全くの無挙動で繰り出される、100発近い『ファイアーボール』の弾幕を前に、フィリップは成す術がなかった。というか、フォームだけはミナにも匹敵するキレッキレのパンチやらキックやらを見せられて警戒しているところに、ほぼ壁みたいな火球の群れが飛んで来たら、流石に対処できない。当然のように被弾して、軽度の火傷を負ったのだった。

 

 冷静になって考えてみると、格闘戦の最中には拍奪の歩法を混ぜにくいから、フィリップの回避を封じるための作戦だったのだろうが。

 

 「けど、あれはズルでしょ」

 「戦いにズルも何も無いだろう? ……まあ、ルキアには怒られたが」

 「さっき話してたのはそれですか……」

 

 心なしか、ステラはちょっとしょんぼりして見えた。

 

 「そう言えば殿下、格闘戦はマリーに?」 

 

 今更ルキアに叱られたくらいで落ち込みはしないだろうが、なんとなく話題を変える。

 

 「パンツが見えるぐらいじゃ照れもしなかったですし、流石ですね」

 

 流石というか、王族の宿命というか。ステラは王城に居る間は、着替えどころか風呂で身体を洗うのも侍女任せだ。他人に肌を見られるのも、下着を見られるのも慣れっこになっている。まあ、当人は魔術学院の学生寮で自由を知って以来、城に帰った時が面倒くさくて仕方ないとぼやいているが。

 

 「これはアンダースコートだ、下着じゃない」

 

 ステラはスカートを摘まんでひらひらと弄びながら、憮然としたように言う。

 流石に公衆の面前でスカートをたくし上げるようなことはしなかったが、もしスカートをめくったとしても、見えるのは白く厚ぼったいハーフパンツのような布だった。アンダースコート。運動用の、見えても問題の無い衣服だ。

 

 それを聞いたフィリップは「なるほどね」と何事か納得したように頷き、爆弾を投下した。

 

 「殿下、赤が好きですもんね」

 

 ぴし、と音を立てて空気が凍り付く。

 辺りの生徒たちは荷物の搬出や移動で騒いでいて、会話の内容は周囲に聞こえなかったはずだが、ステラが一瞬だけ放った強烈な魔力に気圧される魔術学院生はそれなりにいた。

 

 「……どうしてそう思う?」

 「え? ルキアと遊んでるときとか、たまに見えてますよ?」

 

 さも当然のように言ったフィリップに、ステラは仮面のような微笑を顔に貼り付けた。

 

 普段、放課後にフィリップの訓練を終えた後、ルキアとステラが遊ぶことがある。遊ぶと言っても、飛び交うのは上級魔術のコンボや、魔術式を改変された半オリジナル魔術ばかりだが。お互いがお互いの新しい手札を試している実験でもあり、間を通るだけで跡形も残らず消し飛ぶだろう。

 

 未だに中級戦闘魔術師程度の魔力障壁を削り切れないフィリップを相手にして、まさかスカートを翻すことなんてない。部屋までアンダースコートを取りに行くのも面倒だし、このままでいいか。──そんな考えで、運動着どころか制服そのままで体育館に行くことはザラにある。そしてフィリップがバテた後、興が乗ってルキアとの遊びに突入することも珍しくない。

 

 「……そうか」

 

 ルキアもステラもお互いの魔術を見逃さないよう、視界のチャンネルを魔力に合わせているのが仇になった。でなければ、ルキアが気付いて注意するだろう。

 

 「そういうことはもっと早く言ってくれ」

 「あ、はい……」

 

 ルキアのを見た時にはその日のうちに言ったのだが、その時は「教えてくれてありがとう」とお礼を言われた上で、「でも、そういう時は見ていないふりをする方が紳士的かもしれないわね」と、やんわり嫌がられた。だから黙ってたのに、結局どっちなんだ、と思うフィリップ。

 迂闊に口走らず早々に忘れることが紳士的なのであって、話の流れでポロリと漏らしたからダメなのだが。

 

 「まぁ、私は別に構わないが、ルキアにはそういうことを言うんじゃないぞ? 元はカーターだった塩の柱、なんて見たくないからな」

 

 ステラに曖昧に笑い返しながら、「一度は許されたけど、多分二度目は無いんだろうな」なんて考えるフィリップだった。

 

 

 馬車に乗り込むと、既に乗っていたミナが読んでいた本をぱたりと閉じ、フィリップを手招きして呼び寄せる。

 ふらふらと従いかけたフィリップだが、ルキアがその手を掴んで自分とステラの間に挟んだ。

 

 「……まぁ、いいわ。昨夜の奴、砦の中を探し回ってみたのだけれど、見当たらなかったわ」

 

 淡々と言ったミナに、フィリップは「そうだろうね」と頷く。

 

 「見つけたら呼んで、って言ったしね。魔術の痕跡はどうだった?」

 「それもナシよ。尤も、あんなのを呼び出す愚かな魔術師が居るのかさえ疑わしいけれどね」

 「だよねぇ……」

 

 ミナが言う「あんなの」とは、ティンダロスの猟犬ではなく次元を彷徨うもののことだ。

 フィリップは予想される両者の関係を大まかに、概ね「猟犬は次元を彷徨うものが拉致した人間を追ってここに来た」と伝えてある。となると当然、「じゃあ次元を彷徨うものはどうしてここにいるの?」という疑問が浮かび、ミナはそれを確かめるために砦の中を探索していたのだった。

 

 一応、フィリップは次元を彷徨うものの性能を知っているから、ただ人間を拉致して色々な次元を連れ回し、発狂させたりさせなかったり、殺したり殺さなかったりする気紛れな化け物を、好き好んで使役する馬鹿はいないだろうと分かる。

 

 しかし、あれが何者かによって召喚されたものではない、野良だという確証はない。

 外神の視座と智慧を持つフィリップにとっては笑ってしまうような無能の雑魚でも、人間から見れば神にも等しい強大なモノ、ということもある。修学旅行で遭遇した、あの枢機卿(道化)もそうだった。

 

 「なんだったんだろうね、アレ」

 「……フィリップが分からないなら、誰にも分からないんじゃないかしら」

 

 冷酷にも聞こえるほど淡々と言ったルキアに、フィリップとステラは「確かに」と笑って頷く。

 しかし、フィリップにとって、この砦に次元を彷徨うものやティンダロスの猟犬がうろついていることは、もはや然したる問題ではない。今日でこの砦とはおさらばなのだから。

 

 砦の保守や、もしも来年度も交流戦があるのならその準備のために駆り出される人は、もしかしたら不幸な遭遇を経験するかもしれないが──そんなのはフィリップが知ったことじゃあない。フィリップの知らないところで、知らない誰かが何人死のうが何億人死のうが、どうでもいい。

 

 ティンダロスの猟犬がこの時間に居た理由は推測できたものの、確証はない。次元を彷徨うものは野良の可能性もあるが、こちらは魔術で使役できるかもしれない。フィリップはそんな術法を知らないから、こちらも作為的なものである可能性があるとは断言できない。

 

 結局、この古びた砦で起きた出来事の殆どは、その原因さえ分からないままとなった。次元を彷徨うものの口の中に閉じ込められたあの“顔”の一つに既視感を抱いたことなど、フィリップは自覚さえしないままだ。

 

 だが──それもすべて、どうでもいいことだ。

 

 フィリップは両隣に座る二人と腕を組み、抱き寄せて嬉しそうに笑った。

 

 「何にせよ、二人が無事でよかったです。……ミナも、ありがとね」

 

 その年相応に無邪気な笑顔に、ルキアとステラは顔を見合わせて柔和な微笑を返す。

 ミナも読みかけだった本を途中のページで開き直しつつ、妖艶な笑顔を浮かべた。

 

 「えぇ。また誘ってね」

 

 そもそも二度と遭いたくないんだけど、と、フィリップは苦々しく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ12 『砦に蠢く影』 ノーマルエンド

 技能成長:【剣術(直剣)】+25 【拍奪の歩法】+10 【鞭術(ソードウィップ)】(鞭術(ウルミ)を引き継ぐ)+20
      【回避】+10 


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冒険実習
316


キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
シナリオ13 『冒険実習』 開始です

必須技能はありません。
推奨技能は各種戦闘系技能、【科学(植物学)】、【サバイバル(森林)】、【目星】などの探索系技能です。


 新緑鮮やかな陽気な春の日、フィリップは新調した制服に袖を通し、教室の一番窓側の席から王都の街並みを眺めていた。校舎棟の最上階にある教室からは、一等地と二等地を隔てる水路の煌めきや、一等地の豪奢な街並みが良く見える。

 白銀の輝きを放つ懐中時計を開けてみれば、時刻は8時を過ぎたところ。未だまばらなクラスメイト達がそろそろ登校し始めて、教室に活気が出てくる頃合いだ。

 

 学校行事が盛り沢山だった二年生が終わり、進級試験をパスしたフィリップたちは、とうとう魔術学院の三年生になった。

 ルキアとステラは在校生代表として、今まさに入学式の執り行われている大講堂に行っている。ミナはまだ部屋で寝ているか、起き出して図書館に居るかだろう。

 

 教室には一年生から同じクラスの、成績上位の生徒が数人と、教卓に乗って黒板に落書きして遊んでいるシルヴァしかいない。静かで、穏やかな空間だった。

 シルヴァは大陸共通語と、エルフ語と、フィリップも知らない記号のようなもの、そして森に住む動物らしき稚拙な絵なんかを描いていて、クラスメイトたちも微笑ましそうに見守っている。邪悪言語は書いてはいけないと、予め言っておいて正解だった。

 

 ゴブリンっぽい小人みたいな絵の下には「のーむ」と書かれているし、「くろやぎ」と書かれた下には、控えめに言って六本足の低木か、大きな眼球の魔物であるゲイザーが描かれている。触手もモリモリだ。

 

 「……シルヴァ、そろそろ皆が登校してくる時間だし、黒板を綺麗にしよう」

 「んー……これだけのこしたい! けっさく!」

 

 シルヴァがぴっと指差した先には、チョーク全色を使って仕上げられた超大作がある。色が重なりまくって輪郭すら判然としないが、どうやら三角錐状の何かだ。所々に、触手と思しき突起物が見て取れる。タイトルは共通語ではない記号で書かれていて、フィリップにも読めなかった。

 

 「……すごい、大作だね。なんて言うタイトルなの?」

 「もりかじにあったなるらとてっぷ」

 

 シルヴァは「書いてあるじゃん」と言いたげに表題を示す。

 フィリップはゲラゲラ笑いながら、その絵は消さないことにした。フィリップが分からないなら、ルキアやステラにも分からないだろう。……尤も、ナイ教授はタイトルを読めるだろうが。

 

 しばらくシルヴァと雑談していると、ぞろぞろと登校してきた級友たちの海を割って、ルキアとステラが教室に入って来た。

 フィリップを探す素振りも見せず、当然のように窓側最後尾、フィリップのいる机に並ぶ。一年次からの、所謂「いつもの席」だ。

 

 「おはよう、フィリップ」

 「おはよう、カーター。……なんなんだ、アレは?」

 

 冷たく感じられるほど涼やかな声で挨拶するルキアとは裏腹に、ステラは楽しそうに、黒板に残されたシルヴァの絵を指して笑っていた。

 

 「おはようございます、ルキア、殿下も。あれはシルヴァの作品で……あ、すみません! ナイ教授が来るまで消さないでください!」

 

 親切なクラスメイトが黒板消しを持って絵に向かって行ったのを慌てて止めるフィリップ。新年度早々にナイアーラトテップを煽る絶好の機会を逃すなんてとんでもない。

 

 「……ところで、ルキアはなんだかお疲れですね? 入学式って、そんなにしんどいんですか?」

 「いや、大洗礼の儀や国王への謁見に比べれば、全然全くこれっぽちも煩雑じゃあないんだが……まぁ、こっちは聖痕者や貴族の義務ではなく、学院長に言われた余分だからな。心情的にかったるいんだろう」

 

 ルキアは肯定も否定もせず、すまし顔のまま微かに肩を竦めた。

 

 教室に人が増えてくるとシルヴァは自分から送還されて姿を消し、フィリップはルキアとステラと雑談に興じていた。

 

 ややあって、教室前方の扉がからからと開き、長い黒髪と尻尾を靡かせた猫耳の少女、ナイ教授が入ってきた。

 フィリップがニヤニヤと、ルキア達も含めたクラスメイト達が不思議そうに見守る中、彼女は黒板に描かれた抽象的、もとい中傷的な絵に目を留めて──腕を一振りして、黒板を新品のように綺麗にしてしまった。

 

 「誰が遊んでいたのかは知りませんけどー、遊んだあとはきちんとお片付けしてくださいねー、フィリップくん」

 「名指ししてるじゃん……」

 

 媚びるような甘ったるい声で揶揄うナイ教授に、フィリップは不機嫌そうに呟いた。

 ナイ教授はそれ以上小言を続けることなく、クラス全体に挨拶して、定型文的な話を始める。「皆さんは最高学年ですから、後輩たちの規範となるような生活を心がけて」とか、「今年は進路を決定する大切な年なので、自分自身とよく向き合って」とか、そんなよくある、いつもの話だ。

 

 退屈そうに窓の外を眺めながら聞き流していたフィリップは、窓側の脇腹を小突かれて、視線を傍に戻す。三人掛けの机の窓側にはステラが、通路側にはルキアが座っているが、ステラがフィリップの放心を見咎めるのは、教師が重要なことを言ったときだ。ちなみに、ルキアは教師が言ったことを繰り返し説明するのも構わないというスタンスなので、右の脇腹が小突かれるのは先生に怒られそうなときだ。

 

 教壇の方に視線を向けると、ナイ教授がにっこりと笑った。何か重要なことを言おうとして、演出の為に──フィリップの意識が戻ってくるのを待つために──間を置いていたらしい。

 

 「なんとー、このクラスに特別編入生がやってきます!」

 

 ナイ教授が朗らかに言うと、教室にざわざわと囁き合う声が満ちる。

 フィリップたちも例に漏れず、顔を寄せ合ってひそひそと話し始めた。

 

 「三年次で編入なんて出来るんですか?」

 「普通は無理だな。特別編入生の()()()が、学院長を説得するだけのものなんだろう」

 「貴女も詳細を知らないの?」

 「あぁ。私に情報が上がってこなかったということは、カーターのような危険分子ではないということだろうな」

 

 なんだって? と言いたげな目をしたフィリップだが、ちょっと考えて、何も反論できないことを思い出した。フィリップも編入生だが、当時は二等地の一部を吹き飛ばし、その召喚物を制御できない爆弾扱いだったのだから。

 

 「ま、僕と同等レベルの爆弾ではないってことですよね」

 「お前と同等の爆弾が居るなら、それは人類史上最大の悲報だよ」

 

 楽観的に言ったフィリップに、ステラは揶揄い交じりに返す。フィリップは「酷い言いぐさだ……」と笑って、またナイ教授の方に向き直る。ルキアは同意こそしなかったものの、否定も出来なかったので黙っていた。クラス中でのひそひそ討論会は一旦落ち着き、「取り敢えずその特別編入生を見てから再開しよう」という雰囲気になった。

 

 ナイ教授はフィリップの意識が雑談から帰って来たことを確認して、教室の扉に向かって「どうぞ!」と楽しそうに言った。

 

 そして、からからと音を立てて扉が引かれ、女子用の制服を着た生徒が入ってきた。クラス全体から集中する視線に動じることも無く、堂々たる足取りで──というか、むしろスキップのように軽やかな、楽しそうな足取りで。

 

 「エルフの王女様──エレナちゃんです! はい、はくしゅー!」

 

 間延びした声に応じるように胸を張る、見覚えのある少女。

 ポニーテールに結わえられた艶やかな金色の髪。活発な輝きを湛えた翠玉色の瞳。綺麗というよりは可愛いと評した方が適切な、人間以上の美貌。年頃はルキアやステラと同じくらいに見えるが、実年齢は90歳を超えている。

 

 長命種、エルフ。

 吸血鬼のような不老不死ではないものの、極めて長い寿命を持ち、肉体の成長や老化が著しく遅い。そして肉体と精神は強く結びついている。肉体の成熟同様、精神の成熟もまた遅い、永遠の少女。

 

 クラス内から沸き上がる拍手がナイ教授赴任の時より僅かにまばらだったのは、年が近い──見かけ上──から、美しさに見惚れていた生徒が多いからだろう。人懐っこい明朗な笑顔は、異性だけでなく同性にも「仲良くなりたい」と思わせる魅力があった。

 

 「ご挨拶をどうぞー!」

 「はい! エルフ王エイブラハム二世の娘、エレナです! 人間のことをもっとよく知りたくて、この王国にやって来ました! 皆とは一年だけの短い関係になっちゃうけど、仲良くしてね!」

 

 エレナがぺこりと一礼すると、また拍手が沸き上がる。

 エルフたちからは放蕩王女とか呼ばれていたらしいが、拍手に鷹揚に手を挙げて返す様はステラとよく似ていて、彼女らしい明るさと気品を兼ね備えた所作だった。

 

 それに、人語──大陸共通語が一段と流暢になっている。

 脳のオーバーロードは鎮静したはずだから、王国に来るにあたって普通に勉強したのだろうが、それでもフィリップが龍のいた森で遭遇してから半年も経っていない。下地が出来ていたとはいえ、非凡な習得速度だ。

 

 「ホントは三年生じゃなくて、一年生からやった方がいいって、学院長さんに言われたんだけど……フィリップ君がいるクラスがいいってゴネちゃった! ボクが人間のことをもっと知りたいって思ったきっかけはフィリップ君だしね!」

 

 エレナが悪戯っ子のような笑顔で言って──教室内の全員が『拘束の魔眼』でも喰らったように凍り付いた。或いは、空気さえも。

 例外は「久し振り!」と朗らかに手を振るエレナと、「共通語が滅茶苦茶上手くなってるなぁ」なんて感心しながら手を振り返すフィリップだけだ。

 

 「……知り合いなの、フィリップ?」

 

 ルキアの声は心なしか不機嫌そうだったが、表情はいつも通りに涼やかだ。

 フィリップはその顔を見て安心したのか、普段通りに、何でもないことのように答える。

 

 「あぁ、前に話した、龍狩りの時に魔剣をくれたエルフが彼女ですよ。所謂、僕らの命の恩人ってやつですね」

 「僕ら、ということは、フィリップも助けられたのだったかしら?」

 「え? あー……はい、確か」

 

 そういえばアトラク=ナクアの蜘蛛を魔剣で斬り伏せたのは彼女だし、それはちょうどフィリップが負けそうになったタイミングだったような、とうろ覚えの記憶を手繰るフィリップ。

 幼子が粘土を捏ねて作ったカリカチュアじみた醜悪な蜘蛛と戦い、死の寸前で救われた、なんて、普通なら忘れたくても忘れられないハードな経験だ。しかしフィリップには死の恐怖が無かったうえに、あくまで龍狩りのための寄り道、更に言えばルキアとステラを救うための過程に過ぎなかったので、どうでもいい記憶として脳の片隅に追いやられていた。

 

 だからフィリップが「僕らの」といったのは、実際に自分の身を救ってくれたからではない。

 

 「二人が死んでたら、僕の精神もどうなってたか分からないので。二人の恩人は僕の恩人ですよ」

 

 さも当然のようにフィリップが言うと、ルキアとステラは顔を見合わせ、照れたように笑って目を逸らした。

 

 フィリップの囁き声が聞こえたのか、エレナは教壇の上で照れ笑いを溢している。

 

 「やだなぁ、ボクはエルフの皆を守るために戦っただけ。それを言うなら、あなたこそ、ボクたちエルフの恩人だよ!」

 

 フィリップとエレナは教室最後尾の机と教壇上で視線を交わし、二人ともが照れ笑いを浮かべた。

 

 

 

 

 



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317

 「それじゃ、皆さんお待ちかねの質問たーいむ!」という、ナイ教授のハイテンションな声に当てられたか、クラス内が色めき立つ。

 「好きな食べ物は何ですか?」とか、「何属性の魔術が得意ですか?」とか、そんなありきたりな質問に始まり、「実年齢は何歳なんですか?」とか、「人間の国はどうですか?」とか、少し特異なものもあった。

 

 ちなみにそれぞれの回答は「お肉!」「無属性の身体強化かな。デコピンでフィリップ君の鞭と同じくらいの威力は出るよ!」「95歳!」「すっごく快適! 蛇も熊も狼も虫も魔物もいないしね!」だった。年齢のところでどよめきが起こったのは言うまでもない。

 

 年齢の割には精神が未成熟だと思った生徒は何人かいたようだが、物語や歴史書なんかでエルフについて知っている者は、「なるほどこういうことか」と知識と経験の擦り合わせに成功する。

 

 一通り質問が出尽くしたあと、エレナも着席してHRに入ることになったのだが、当然のように争奪戦になった。

 教室は三人掛けの長机が四列四段になっており、この3-Aは全38人だ。空きのある机に座っていた生徒たちは、皆「是非に」と挙って手を突き上げる。

 

 しかし、エレナは再びクラス内の空気を凍り付かせた。

 

 「折角だから、フィリップ君の隣がいいな! あなたたち、どちらか代わってくれない?」

 

 教室中が一斉に静まり返ったのは、クラスメイト達がフィリップに対して嫉妬したわけではない。

 エルフが王国と国交を回復したのはフィリップを含む龍狩り遠征部隊のおかげだと知っている者は多いし、今は衛士団長が持つエルフの秘宝、龍殺しの魔剣を手に入れたのがフィリップだということは、主に衛士たちの口から広がっている。

 

 この教室の中でエレナが知っている人間はフィリップだけだ。知らない異種族に囲まれれば、いくら陽気な性格でも友人を頼りたくなるだろう。

 だから、フィリップの隣がいい、という希望は理解できるし、納得も出来る。同情だってしよう。

 

 だが──相手が悪い。それも絶望的に。

 

 にっこりと、友好的な笑顔を浮かべているのはエレナだけだ。

 現在フィリップの隣に座っている、言葉の宛先である二人──ルキアとステラの顔を、エレナ以外の誰も見ることが出来なかった。

 

 「……貴女が何処に座りたいと思おうと、誰に懐こうと勝手だけれど、他人の場所を奪おうとするのは感心しないわね」

 「……分からないことがあってもすぐに訊けるように、前の方の席がいいと思うが?」

 

 警告、一回目。

 そんな声すら聞こえてきそうな冷たい声色で言ったルキアをフォローするように、ステラが片手で教卓の前の席を示す。

 

 エレナは特に拘泥することもなく、「確かにそうだね!」と納得して、ステラが指した席に座った。隣になった生徒は嬉しそうに挨拶している。

 

 フィリップはエレナの笑顔が曇らなかったことに安堵しつつ、ちょんちょんとステラの腕を突いて尋ねた。

 

 「そういえば、殿下もエレナと面識がないんですか? 公務とかで顔を合わせたりは?」

 「ん? あぁ……エルフ王とお父様の会談に同席したことはあるし、使者……宰相だったか、その二人と話したことはあるが、彼女とは無いな。確か、公務に就くにはまだまだ早いとか」

 「長命種らしいスケールの話ね……」

 

 苦笑気味のルキアに、フィリップも頷いて同意を示す。確か、向こう800年くらいは“放蕩王女”で居ても問題ないとか言っていたはずだ。

 

 「はーい、それではー、真面目なお話をしますよー。静かにしてくださいねー」

 

 ナイ教授がぱんぱんと手を叩き、賑やかになりつつあった教室内の注目を集める。

 幼子に対するような態度だったが、生徒はほぼ全員、素直に背筋を正して口を閉じた。頬杖を突いたまま「そこはかとなく腹立つなぁ」なんて考えているのはフィリップだけだ。

 

 ナイ教授はチョークを魔術で浮き上がらせると、それを指先で操って黒板に文字を書き込んだ。デカデカと、しかし可愛らしい丸みを帯びた字で、『コース分け』と。

 

 「魔術学院の三年生はぁ、進路ごとに二つのコースを選択して所属してー、別々のカリキュラムで授業や実習を行いまーす。一つはもちろん、Aクラスの大半の方が所属するであろう、統治・研究・開発職を目指す後方コースですねー。そしてもう一つはー、バリバリ戦ってー、国を守ったり冒険したりするのがだーい好きなフィリップくん向けのー、実戦コースになりまーす」

 

 フィリップは目に見えてむっとした顔になった。

 確かにそっちを選ぶつもりだったが、そう言われると反骨心が芽生えてしまう。……とはいえ、後方コースは貴族向けというか、研究職に必要な高度魔術理論に傾倒したり、政治学や財政学といった統治に必要な技能を身に付けるための過程だ。

 

 コース内で更に科目選択があり、それぞれの専攻分野で上位の成績を取ると、宮廷魔術師や宮廷錬金術師、衛士団といった特別な職に繋がる道が開ける。

 

 「後方コースには『錬金術』『魔術理論』『医学』『薬学』『魔物学』『内政』『外政』『軍事戦略』とー、今年は特別にー、先生が担当する『考古学』もありますよぉ。どうですかー、フィリップくん」

 「結構です」

 「そうですかぁ、残念ですー。そんなフィリップくんが選択する実戦コースにはー、衛士団や騎士団を目指す『宮廷コース』とー、『冒険者コース』の二つがありますよぉ」

 

 後方コースと実戦コースで細分化に差があり過ぎるが、まぁ、仕方ない。

 魔術学院は戦闘魔術師の養成校ではなく、より広範の知識を教授し、王国の中枢を為す文官や武官を育て上げる教育機関だ。そして後方に必要なのは特化した知識や技能を持つ専門家で、実戦に必要なのは平凡でも万能な群。少なくとも王国はそういう風に定義している。

 

 衛士団を目指すのなら、宮廷コースで上位成績を取るのが最短最速なのだが──当然、フィリップには無理だ。上級魔術をバンバン撃ち合うような連中に混ざって、成績上位に食い込めるわけがない。

 ……いや、ルール無用の殺し合いで成績を決めるのなら、拍奪と蛇腹剣でどうにかなるかもしれないが、まさかそうではないだろう。近接縛りで魔術を撃ち合うとか、上級魔術の発動速度を競うとか、そんな感じのはず。そしてフィリップの発動限界は初級魔術。論外だ。

 

 「フィリップは冒険者コースなのよね?」

 「ですね。Aクラス冒険者になって衛士団を目指すなら、それしかないです。二人は後方コースでしたよね」

 

 フィリップの確認に、二人は揃って頷く。

 ルキアとステラは当然、卒業後には王宮入りだ。後方コースで『内政』とか『外政』を選択して、三年次はのんびり過ごすらしい。これまでの貴族や王族としての教育で、その辺りは完全にマスターしているそうだ。

 

 「カーターも『内政』を取っておくべきだと思うが……」

 「ヤですよ。絶対難しいじゃないですか」

 「だ、そうだ。その時が来たら頼むぞ、ルキフェリア」

 

 ルキアは「えぇ」と事もなげに肩を竦め、フィリップは「どうにか逃げる方法を探さなくちゃ……」と頭を抱えていた。ステラが無理だと判断したのなら、フィリップ風情がどれだけ考えても無理なのだが。

 

 それからコース選択の書類が配られ、詳しい内容が書かれた冊子が配られ、追加で二、三説明があって、漸くSHRが終わる。

 クラスメイト達が一斉にエレナの方に押し寄せるのを横目に、フィリップは二人と話し続けていた。

 

 「実際のところ、僕が逃げ切れる確率ってどのくらいですか?」

 「楽観的過ぎる質問だな。お父様やサークリス公爵の評価を著しく下げるような……例えば、重大な法律違反でもすれば、心変わりするんじゃないか?」

 

 流石にそれは、とフィリップも尻込みする。

 フィリップは自分の人間性が環境に左右されることを理解しているからだ。人間社会の中にいれば、人間社会に適応するための振る舞いを忘れずにいられるだろう。しかし犯罪者になり、逃亡生活になれば心が荒むし、牢獄生活はカウントダウンにも等しい。

 

 どうにか貴族位の授与から、正当な手段で逃げ切れないものか。

 

 「……公爵は「然るべき時に」って言ってましたけど、これってもしかして」

 「まぁ、二年後だろうな。お前が15歳になった時だ」

 

 少し考えての答えに、フィリップは形容しがたい呻きを漏らした。

 

 「……殿下、なんか抜け道とか作っといてくれませんか」

 「無理だな。誰が何と言おうと、国王の意向は絶対だ。そのくらい、田舎にいた頃でも知っていただろう?」

 「それはそうですけど……」

 

 国王の意向は絶対。それは勿論、フィリップだって知っている。

 国家における最上位意思決定。法律、道徳、不文律、ありとあらゆるルールは、国王の言葉の前に首を垂れる。

 

 だがそれはそれとして、やっぱり貴族は無理だと思うフィリップだった。

 

 ルキアとステラは顔を見合わせ、何か説得できる材料は無いかと思考を回す。説得して貴族にするのではない。説得に失敗したとて、貴族にはなるだろう。乗り気か、そうでないかの違いだ。

 

 「……フィリップ、貴族になったら、お金だけじゃなくて、それなりの権力も貰えるのよ?」

 「要らないですよそんなの」

 

 何ならお金も要らないかもしれない、などと考えるフィリップ。

 今までのフィリップなら「まぁ貰えるなら貰います」と庶民ぶりを発揮していたところだが、今やその気になれば一等地に屋敷を構えて使用人まで雇える大金持ちだ。龍狩りの折、王国からだけではなく、聖国の騎士王レイアール・バルドル卿からも謝礼金(おこづかい)を貰ったからだ。

 

 無駄遣いを全くしないのは金銭感覚が庶民のままだからか、単に真面目なだけなのか。

 

 「そう? でも、貴方のお気に入りの作家を援助したり、どこかの劇団に口利きして作品を演劇にしたりできるし……メリットは多いんじゃない?」

 「んむむ、それは確かに……!」

 

 なにそれやってみたい! と顔を輝かせるフィリップ。

 少し気乗りしてきたフィリップは、自分でも「他に何ができるだろう」と考える。

 

 貴族になり所領を与えられると、領内の統治権が委任される。

 刑法・民法・政治体制から税率、税の支払い形態まで、思いのままだ。ある貴族の所領では、税を農作物や貨幣ではなく、鉱物によって納めているらしい。

 

 そして法律を決められるということは、勿論、罰則の形態もだ。

 勿論、王国法と著しく矛盾するような法を敷くことはできない。基本的に王国法が優先され、王国法で禁止されていることを解禁したり、罰則を緩くすることは無い。例外的に、極端に治安が悪い地方では都市内部での重武装が許可されたり、国境線を有する領地では身分検めを拒否した者をその場で処断出来たりするくらいだ。

 

 フィリップは暫し考え、ややあって、最悪の答えを出した。

 

 「あ、牧場が作れる!」

 「やるなよ」

 

 即答だった。

 流石に無辜の民を無理矢理拉致してミナの食料にしたりはしないが、例えば、死刑級の罪人や決闘の敗者なんかを有効活用できると考えれば、そこそこ良い政策に思えるのだが。

 

 「駄目なんですか?」

 「いや、現行法上では問題ない。というか、そんなことを考える貴族は今まで居なかったから、態々規制する法が存在しない。が、それをやるなら法を変える」

 「王族の横暴だー、ぶーぶー」

 

 フィリップの軽口に、ステラは悪役っぽく「ふははは」と笑って返した。

 

 「……で、真面目な話、僕が逃げ切れる確率はどのくらいで?」

 「ゼロだな。今年で学院は卒業だが、長い付き合いになりそうで嬉しいよ」

 

 ステラは嬉しそうに、そして揶揄い交じりに笑ってフィリップの肩をポンポンと叩き、席を立って教室を出て行った。多分、トイレだろう。

 

 その背中を憮然とした表情で見送るフィリップの手に、ルキアがそっと自分の手を重ねた。ミナほどではないがフィリップより冷たい手は、心をすっと落ち着けてくれる不思議な魔力に満ちていた。

 

 「……その時には私が補佐に就くから、心配しないで?」

 「よろしくお願いします……僕も二人と長い付き合いになりそうで嬉しいですよ」

 

 フィリップは本心からそう言って、言葉通りの笑顔を浮かべた。

 

 

 

 

 



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318

 初日は授業が無く、昼前に放課後となったフィリップたちは、昼食を終えて体育館に来ていた。

 目的は言うまでもなく、いつも通りのフィリップ強化訓練。ミナも合流して万全の態勢だ。

 

 何度か模擬戦を終え、今はフィードバックの最中だった。

 

 「ソードウィップ形態は勿論、ロングソードへの習熟も十分ね。武器の性能もあって、魔力障壁の強度だけで語るなら、宮廷魔術師の守りも貫けると思うわ」

 「……まぁ、中級程度でも戦闘魔術師なら範囲攻撃の手札は揃えているのが普通だ。自分を過信するなよ」

 

 ルキアとステラに頷きを返し、模擬戦相手だったミナに「ありがとう」と手を振る。ミナも微笑と共に手を振り返し──何かに気付いたように、入り口の方に目を向けた。

 

 「珍しい来客ね。きみの知り合いではないの?」

 「え?」

 

 残念ながら交友関係が終ぞ広がらなかった──敬遠され続けていたフィリップには、友人と呼べる相手が殆どいない。数少ない例外は既にこの場に居るか、軍学校生なのでここに居るはずがない。

 

 では誰だろうとミナの視線を追っていくと、深みのある翠玉色の双眸と目が合った。

 エレナは扉に半身を隠したまま、やっと気づいてくれたとばかり嬉しそうに手を振っている。

 

 ルキアとミナは「何しに来たんだろう」と怪訝そうにしているが、フィリップとステラは顔を見合わせ、二人同時にぱちりと指を弾いた。

 

 「エレナさん、ちょうどいいところに!」

 「格闘戦の教導役、発見だな」

 

 何か用があったのだろうエレナは、「えっ? なに?」と困惑顔で目をパチクリした。

 

 それから一時間くらいして、フィリップが満足いくまでボコボコにされた後。

 

 「で、エレナさんはなんで体育館に? 学校探検ですか?」

 「それは二日前に済ませたよ。あなたを探しに来たんだけど……まさか、白兵戦を教えることになるとは思わなかったな」

 

 今更な質問に、エレナは苦笑交じりに答える。

 「なに? 何なの?」と困惑するエレナを体育館に引きずり込み、「格闘技術を教えてくれませんか?」と強引に教導役を押し付けたのだが。まぁ、事情を理解してからはエレナも乗り気だったし、最後の方はファイターズ・ハイになってフィリップを殴り倒す寸前だったが。

 

 恐ろしいのは、彼女の格闘技術は対人戦闘なんて甘いものを想定していないことだ。

 顔を打って怯ませるとか、顎を打って脳を揺らすとか、そんな戦術は一度も無かった。顎を打つなら頭蓋を粉砕するか脊髄を引き摺り出す、首を打つなら頸椎を砕く、胸を打つなら心臓を貫き、腹を打つなら腎臓をブチ抜く。

 

 致死。致命。或いはそれに至る重傷を。そういうコンセプトだった。

 

 そして彼女の技量は、秩序を持った連携を繰り出す狼や、無秩序だが大量に群れる魔物や、熊のような強力な個を相手に磨き上げられている。故に、徒手格闘のレンジに於いては明確な苦手が無い。

 

 「手加減が上手くて助かりました。素手で生木を抉るパンチなんて受けたら、痛いじゃ済みませんからね」

 「やだなぁ、そんなミスしないって。それより──」

 

 エレナはどこか恐々と、悪戯がバレた幼子のような様子で、フィリップの奥に視線を向けた。

 つられてフィリップも振り返るが、特に何もない。ミナがステラの魔力障壁を素手で割れるか試して遊んでいるだけだ。ちなみに罅が入っていた。

 

 「あのひと、人間じゃないよね?」

 「ん? そうですよ。あ、そういえば、ミナとエレナさんは親戚なんでしたっけ……あれ?」

 

 今の今まで背後にいたはずのエレナを振り返ったのに、彼女はもうそこには居なかった。

 

 「ねぇあなた、ボクの親戚なの!? エルフ王の血を引いてるってこと!?」

 

 いつの間にかミナのすぐそばにいたエレナは、目を輝かせてミナに詰め寄っている。

 ミナが不快感も露わに彼女を斬り捨てるのではという危惧は、幸いにして杞憂だった。

 

 ミナはフィリップに対する時の慈愛と愛玩と、配下に対して見せていたような無関心のちょうど中間の困り顔で「えぇ、そうよ」と頷く。

 エレナは今度は目だけでは足らず顔を輝かせて、更に一歩、ミナに詰め寄る。二人の距離は、もう二歩ほども空いていない。

 

 「あなた、幾つ? ボクは95!」

 「105だけど……」

 「じゃあ、あなたの方がお姉さんだね! ボク、ずっと兄弟が欲しかったんだ! ねぇ、姉さまって呼んでもいい!?」

 

 エレナはまた一歩、ミナの方に詰め寄る。もう抱き合っているのではと思わせる至近距離だ。

 ミナは高いヒール込みで190センチの上背があるが、エレナは精々160センチかそこらで、大きく見上げる形になっている。

 

 物理的にも精神的にも、やたらと距離を詰めてくるエレナに、ミナは面倒そうに、そして対応に困ったようにフィリップの方を見た。なんとかして、とでも言いたげだ。

 

 しかし、フィリップは頭の中で血統図を組み立てるのに忙しく、ミナを見ていなかった。

 

 「ミナのお母さんがエルフ王の妹だから、えーっと……従姉妹、なのかな?」

 「なるほど……どうりで、良質な血のエルフなのに食欲が湧かないわけだわ。死んだ母に似ているのね」

 

 ミナは形容しがたい、どこか苦しそうにも見える微笑を浮かべて、エレナの頬を撫でる。エレナはくすぐったそうに、そして嬉しそうに表情を綻ばせると、ミナの胸に顔を埋めるように抱き着いた。

 

 「ううん、それだけじゃないよ。ボクと姉さまも似てるんだ。姉さまはきっとお母さん……ボクの叔母さんに似たんだね」

 「……良かったわ」

 

 所在なさげに手を彷徨わせていたミナは、躊躇いがちにエレナの髪を梳くように撫でる。

 それを見たフィリップは「ミナの髪は父親似だよね」という言葉が喉元まで上がってきたが、口走る前に苦労して呑み込んだ。

 

 生き別れの姉妹が感動の再会を果たした神聖な空気に──正確にはたった今互いの存在を知った従姉妹だし、どちらかと言えばミナの困惑が大きすぎて微妙な空気だが──水を差すのも気が引けて、フィリップとルキアとステラは集まって、「どうしましょう?」「訓練も終わったし、何処か遊びに行くか?」「でもあの子、フィリップに用があったんじゃないの?」と囁き合う。

 

 それなりに離れていて、それなりに小声だったのに、会話の内容を聞き取ったエレナは慌てたようにミナの胸元から顔を上げた。

 

 「って、ちょっと待った! ボクはフィリップ君を探しに来たんだから、勝手にどっか行かないでよ!」

 

 しゅばっ、という擬音の付きそうな素早い動きでミナのところからフィリップの方にすっ飛んできたエレナは、フィリップの肩をがっしりと掴んだ。

 手指それ自体は細くて柔らかいのに、込められた力は人外のものだった。フィリップが本気で逃げようとしても押さえつけられるだろうと、簡単に想像がつく。

 

 「そういえばそんなこと言ってましたね。それで、ご用件は?」

 

 問われると、エレナは本題まで長々とかかったことも忘れたように、楽しそうにぱちりと手を叩いて言う。

 

 「あなたがどのコースを選ぶのか聞いておきたくってね! ボクは冒険者コースにするつもりなんだけど、あなたも先生の言っていたように、そうするの?」

 

 フィリップは「先生の言っていたように」という修飾語だけで首を横に振りたくなったが、エレナ相手に意地を張ったって意味がないし、Aクラス冒険者を目指す最短最速のルートを選ばないはずもないので、少し苦みのある作り笑いで頷いた。

 

 エレナはぱっと顔を輝かせて、つい先ほどミナに対してやったように、フィリップに一歩詰め寄った。

 

 「じゃあさ、ボクとパーティーを組まない? 書類は見たよね? 冒険者コースには実習っていうのがあって、生徒同士でパーティーを組んで、模擬依頼をやるんだって」

 「……それを言いに来たんですか? 授業が始まってからでも良かったんじゃ……」

 「だって、あなたは龍殺しを成し遂げた英雄でしょ? 早く言っておかないと、誰かに取られちゃうと思って。その感じだと、ボクが一番乗りだよね!」

 

 そんなに楽しみなのか、とズレた推測をするフィリップ。

 エレナの答えはその推測を正し、ついでにフィリップの心の健常な部分を鋭く突き刺すものだった。

 

 「ははは……いや、僕を誘ってくれそうな友達はいないので……」

 

 というか、そもそも友達と呼べるのはここにいる二人くらいだった。

 それが不味いことであるという認識はある。友人だろうが他人だろうが無価値と断じる価値観を持っていても、交友関係が広いに越したことは無いという常識もまた持っているのだから。

 

 乾いた笑いを溢すフィリップに、エレナは不思議そうに首を傾げ、ルキアとステラの方を見た。

 

 「あなたたちは、フィリップ君と組むんじゃないの?」

 「私たちは後方コースよ。冒険者になるつもりはないもの」

 

 答えるルキアは少しだけ寂しそうだった。

 二年後にはフィリップも貴族になり、また一緒に居られるのに。──或いは、フィリップがどうにかして二年間の猶予期間で逃げ道を見つけようとしていることを知っているのか。

 

 具体的な方針はまだ何一つ見つかっていないので、杞憂に終わりそうだが。

 

 「えーっ? そうなの? フィリップ君の友達だっていうから、一緒に冒険したかったんだけどなぁ……」

 

 エレナは本当に残念そうに肩を落とした。

 フィリップが龍殺しという難行に赴く理由、自分の命より大切に思っているという友達と一緒に冒険出来たら、それはどれほど楽しいだろうと期待していたのに。

 

 しかし、彼女は長々と気落ちしているタイプではない。ほんの数秒で顔を上げた時には、「まぁいっか!」と顔に書いてあった。

 

 「あ、そう言えば、ちゃんと自己紹介してないよね! ボクはエレナ。これでも一応、エルフの王女なんだ! よろしくね!」

 

 人懐っこい仕草で片手を差し出すエレナ。

 ルキアは「そう来たか」とでも言うように片眉を上げ、制服のスカートに僅かに触れるカーテシーをした。

 

 「……アヴェロワーニュ王国、サークリス公爵家が次女、ルキア・フォン・サークリスです。どうぞお見知りおきを」

 「アヴェロワーニュ王国第一王女、ステラ・フォルティス・ソル・アブソルティア・レックスだ。直接顔を合わせるのは初めてだが、エルフ王陛下から色々と聞いている。お会いできて光栄だ」

 

 ルキアが臣下で、ステラが主君。

 その関係性を示すようにステラが一歩進み出て、エレナの手を握る。握手を求めたのはエレナからだったが、先に手を放したのはステラだった。

 

 フィリップに対するものとは違う、明らかに隔意のある対応に、エレナは目を白黒させた。が、その程度ではへこたれない。

 

 「な、なんでそんなに畏まってるの? それとも、人間社会だとこれが普通なの……? エレナでいいよ。フィリップ君の友達なら、ボクたちエルフの友達だからね!」

 「貴女が「王女だ」なんて態々言うからでしょう」

 「あ、そっか、あはは! ねぇフィリップ君、あなたが言ってた助けたい友達って、この子たちだよね! じゃあ、あなたが「知り合いのお姫様」だ! フィリップ君から聞いてるよ、ボクたち仲良くなれそうだね!」

 

 エレナは面食らって言葉が出てこない様子のステラの手を取り、嬉しそうにぶんぶんと上下に振る。

 

 ステラは完璧に取り繕われた外交的笑顔を浮かべながら、フィリップが何を言ったのか、いや、エルフの集落で何があってどんな話をしたのか、微に入り細を穿って聞き出さねばならないと心のメモ帳に書き記した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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319

 三年次の授業が本格的に始まってから、早くも二週間が過ぎた。

 国語や数学、歴史や神学といった学年共通のカリキュラムも一段と難しくなり、得意科目の文学までもが眠気を引き起こし始める。

 

 そんな中で癒しになるのが、思う存分身体を動かせる体育と──勿論、進路別科目の冒険者コースだ。学年の全員がコース選択を終了し、学校側がクラス分けなどを決定するのに一週間を要し、今日が初の授業となる。

 

 冒険者コースは元々希望人数が少ないらしく、フィリップたちが集められたのは定員20人の小教室だった。しかも、机には二つ空きがある。

 

 「……もしかして、この部屋にいるみんなで冒険するのかな? だとしたらすっごく楽しそうだね!」

 

 隣の席に座ったエレナが身体を傾け、ひそひそと囁く。その笑顔が本当に楽しそうで、フィリップは「流石にそれは無いと思いますけど」と冷ややかに切り捨てることが出来なかった。

 その代わり、基本的に森を出ないエルフ、しかも厳重に保護されるべき王族でありながら、“放蕩王女”と呼ばれるほどに冒険を重ねてきたエレナ自身のことを訊ねる。

 

 「冒険って、具体的にどんなことをするんですか? やっぱり、魔物を倒したりとか?」

 「人によって違うと思うよ。ボクは、森で勉強するのとか嫌いだったから、色んなところに行けたらそれで良かったんだけど……魔物とか獣は、「通りたいだけなんだ」って言っても通してくれないからね。戦う力は必要だけど、戦うことは目的じゃなかったかな」

 

 なるほど、とフィリップは頷く。

 確かに、エレナが闘争を求めて彷徨っているところは想像がつかない。むしろ、その強さから来る余裕で熊や狼にのんびりと話しかけているところが目に浮かぶ。唸り吼える狼の群れに、「東に行きたいんだけど、あっちで合ってるよね?」なんて安穏と尋ねる姿が……。

 

 フィリップは自分の妄想で笑いそうになり、そっと顔を伏せた。

 

 「ね、あなたはどんな冒険がしたいの? やっぱり、自分の力だけで龍殺しとか?」

 「いや、龍はもう十分です……。Aクラス冒険者になりたいっていうのは大目標なので……や、やっぱり、自分だけの魔剣とか……いや、龍貶し(ドラゴルード)は良い武器ですし、僕専用に設計されてるので、一番手に馴染む武器なんですけどね!? でもやっぱり、ロマンは別腹というか……」

 

 早口に語ったかと思えば、今度はもにょもにょと語尾を濁らせるフィリップに、エレナは不思議そうな笑顔で首を傾げた。

 

 「いいんじゃない? コレクション……使わず集めるのが好きな人って、エルフでもいるよ。パパなんて、もう百年も狩りをしてないのに、強い弓を作ったり買ったりして、ママがいつも……って、あ! 先生が来たよ!」

 「……げ」

 

 フィリップは冒険者コースを受け持つ女教師の顔を見た瞬間、嫌そうな声を漏らした。

 無表情をやや不機嫌寄りにした薄い仏頂面で、教室の中を睥睨しながら入って来たのは、治療術担当のジョンソン先生だ。くすんだ金髪には白が混じり始め、いつも厚ぼったい化粧をしている。口さがない生徒などは、化粧のせいで表情筋が固まっているなどと揶揄するほどだ。

 

 元々は薬草に詳しく錬金術を担当していたらしいのだが、ナイ教授の方が適性があると学院長に判断され、担当科目が変更になったとか。ちなみに、年中不機嫌そうなのはそれ以前からずっとだ。

 フィリップは二年次から召喚術を取っていて、錬金術も治療術も選択していないのだが、いつもむっつりと睨みつけるような顔で廊下を歩いているこの教師が好きではなかった。

 

 「……冒険者コースを担当する、ベルベリン・ジョンソン教授だ。君たちがここに居るということは、将来構想の一部に冒険者という進路が入っているわけだ。素晴らしい。命懸けの冒険に繰り出す覚悟の決まった、勇猛果敢な戦士の集まりというわけだな?」

 

 素晴らしいとは微塵も思っていない仏頂面で言うジョンソン先生に、生徒たちは誰も何も言わなかった。

 決して心地よくはない沈黙にフンと鼻を鳴らした先生は、持っていた冊子を教卓に放る。

 

 「冒険者とは何か、どのような職業かが書かれた事前資料だ。当然、読んでいるな。……冒険者の死因に占める最大の要因は準備不足だと書かれている。では……一番前の君。何パーセントだ?」

 「はい!? わ、私ですか!? えーっと……」

 「資料を見るな。戦闘中や過酷な環境下でのんびりメモをめくっている暇はないぞ」

 

 不機嫌そうに──或いは、いつも通りに──言ったジョンソン先生に、指名された女子生徒は自分の冊子に伸ばしかけていた手を、熱いものでも触ったようにびくりと引っ込める。そして、しょんぼりと肩を落とした。

 

 「わ、分かりません……」

 「資料は見たのか?」

 「はい、勿論」

 「見ただけでは駄目だ。内容が理解できるまで読め。……有名な言葉だ。そして冒険者を目指す君たちには、更にこう続けよう。暗記するまで読み込め。一字一句暗誦できれば言うことはないが、最低でも要点くらいは暗記しろ。何故か──」

 

 ジョンソン先生は鞄の中からバインダーを取り出し、二枚の厚手の紙を取り出した。錬金術で作られた紙は薄いほど高価だから、かなりの安物のようだ。

 一枚は赤っぽく、一枚は白い。

 

 「これは依頼票というものだ。冒険者ギルドを通じて、一般人や他の冒険者、時には国家からの依頼は、全てこの依頼票を通して公募される。公募依頼と指名依頼の違いについては資料を読むように。まあ、名前から分かるとは思うが」

 

 挑発的なセリフだが、ジョンソン先生はにこりともしていない。

 

 「依頼票には二種類ある。一つは“実行依頼”、通称“白カード”。「○○という魔物の討伐」、「○○という薬草の収集」エトセトラ。依頼内容が具体的で煩雑さはないが、報酬が安い傾向がある」

 

 白い方の紙を見せながら話していた先生はそれを教卓の上に置き、もう片方の紙を掲げて見せた。

 

 「もう一つは報酬が比較的高額になる傾向のある“赤カード”。正式には委任依頼と呼ばれ、依頼内容が大雑把だ。例えば、「畑を荒らす害獣をなんとかしてほしい」「病気を治して欲しい」エトセトラ。害獣とは具体的に何という獣か。どのような生態で、ただ遠ざければいいのか、殺す方が楽なのか。最もリスクの無い駆除方法は何か。病気とは何で、どのような症状を緩和すればよいのか。それにはどんな薬が必要なのか。そういったことを調査する必要があるが故に、報酬が割高になる。言うまでもないが、未知こそ最大の危険だ」

 

 うんうんと頷くフィリップとエレナ。ルキアとステラがここにいたら、二人も頷いていただろう。

 どうやら価値観を共有できるらしいと知り、フィリップの中でジョンソン先生への好感度が少しだけ上がった。

 

 「では未知への対策とは何だ。……そこのお前」

 「魔術師の持つ最大の強みである、手札の多さ──汎用的で万能な強さです」

 

 また前の方に座っていた生徒が指される。後ろの方に陣取って正解だった、とフィリップはひっそり安堵した。

 

 答えを聞いて、フィリップは僅かに口元を歪めた。

 悪くない答えだが──不正解だ。いや、問題が意地悪すぎる、というべきか。

 

 「零点だ。万能な人間など存在するはずがないだろう。そも魔術に頼る時点で万能とは呼べない」

 

 相変わらず不機嫌そうに言うジョンソン先生の言葉に、フィリップは今度は小さく頷いた。

 隣の席のエレナがそっと身体を傾け、「答え分かる?」と囁く。──分からないはずがない。恐らくこの学院の中で、フィリップは三番目か四番目くらいに“未知”の恐ろしさを知っている。

 

 「この問題に百点の解など存在しない。未知に踏み込む時点で大減点だ。ではどのように減点を減らすかだが──事前準備だ。ありとあらゆることを調べ、頭に叩き込め。簡単な薬草採取でも、調べるべきはその薬草が何処に生えていて、どのように採取保管するかだけではない。生息地の環境、近辺にいる魔物、治安状況、天候、エトセトラ。未知が未知のまま踏み入るな。闇の中に踏み出すのなら、一歩目は必ず照らし出せ。照らし出し踏み込んだ先で、今度はその一歩先を探るのだ」

 

 フィリップはまた小さく、何度か繰り返し頷いた。薄く目を瞑っているのは感心の現れだ。

 

 素晴らしい答えだ。フィリップが教師でも、生徒にはそう教えるだろう。

 未知に踏み入ることは、必ず危険を伴う。未知というものは危険を内包していると言ってもいい。それは喩えるなら、昏い水の中に飛び込むようなものだ。足が付くかもしれないし、底なしに深いかもしれない。色とりどりの優雅な魚の楽園かもしれないし、人食い鮫の領域かもしれない。或いは、沈んだ神殿があるかもしれない。

 

 しかし、もしかすると伝説の癒しの泉で、ありとあらゆる病と怪我を治癒する祝福の水かもしれない。水底には無限の財宝があるという。その宝を手にするのは、危険を冒して飛び込んだものだけだ。

 

 それに──個人的に、未知を踏破するのは、とても尊いことだと思っている。

 

 「児童書に憧れて破天荒な冒険がしたいと望むのは結構だ。夢を見ろ。夢も見られなくなったら、人間はお終いだ。だが──忘れるな。未知を踏み越えることが極めて難しいからこそ、物語になるのだということを」

 

 フィリップは今度は実体験に基づいて頷いた。

 龍殺しは英雄譚の代表格とも言えるが、ヴォイドキャリアのような超級の魔剣を抜きにして龍が殺せたら、そいつはもう人間ではない。それほどの難事だからこそ、英雄の所業なのだ。

 

 「あらゆる状況に対応できる万能の力など必要ない。第一に、全能とは神にのみ許された御業だ。人の身では有り得ない。必要なのは知識と知恵。どんな状況が想定されるのかを考えるための知識、その状況を乗り切るための知恵と準備。いいか──知識とは、力だ」

 

 その通り、とフィリップは心中で一人笑う。

 知識とは力だ。だが、決して自分を守ってくれるだけの優しいものではない。力は必ず双方向に働く。壁を殴ると拳が痛むように、作用には反作用が付随する。

 

 人々よ無知であれ。しかし、自らが無知であることは知るべきだ。そんな矛盾した思想さえある。

 

 「一週間後、君たちには模擬依頼票が配られる。こちらで指定したメンバーでパーティーを作り、その依頼書に書かれた依頼を達成すること。冒険者コースではこの形の実習が定期的にあるので、各種装備の点検や物資の補充は怠らないように。……案ずるな、依頼は全て、資料にある基本の装備だけでこなせる簡易なものだ。実習中に殺すわけにはいかんからな」

 

 それで死んだらお前らが弱かっただけ。

 無表情を少しだけ不機嫌に寄せたような仏頂面からは、そんな声が聞こえてきそうだった。 

 

 



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320

 進路別選択科目の初授業から一週間後。

 フィリップたち冒険者コースは、先週と同じ少人数教室で講義を受けていた。

 

 今はジョンソン先生が板書しつつ、冒険者が持つ特権と制限について語っている。

 しかし、生徒たちはどこか上の空だった。それは勿論、今日の講義中に、これから一週間で達成するべき模擬依頼票が配られ、パーティーを組むメンバーが発表されるからだ。

 

 「──と、これらの王国法を根拠に、冒険者には特定状況下においてのみ、都市内部を重武装状態で移動することが認められる。通常は演習中の軍学校生と、衛士団と近衛騎士団、そして各都市の衛兵にのみ許された特権だ。その状況とは何か。前回はそこまで当てたから……カーター、答えろ」

 「依頼遂行中と、帰還から2時間以内です」

 「よろしい。他には?」

 「ほ、他ですか?」

 

 なんかあったっけ? と隣席に視線で助けを求めるものの、エレナはノートの端っこにミナの似顔絵を描いて遊んでいた。

 

 ジョンソン先生はフィリップが答えられないのを察して嘆息すると、答えを黒板に書きこんだ。

 

 「……冒険者ギルドで発行される認識票と依頼票。この二つの携帯が義務付けられる。きちんと復習しておけ」

 「はい……」

 

 それからしばらく冒険者が覚えておくべきルールについて講じたあと、ジョンソン先生は遂に、鞄から紙の束を取り出した。

 教室の中は先生の不機嫌に──平常通りなのだが──当てられて静かだったが、漸くメインイベントのお出ましに空気が浮足立つ。

 

 「ではこれより、第一回目の模擬依頼実習の依頼票を配布する。……いや、先にグループ分けを発表した方がいいか」

 

 ジョンソン先生は鞄から大きな紙を取り出すと、磁石を使って黒板に貼り付けた。

 

 「各自、自分のパーティーメンバーを確認すること。その後、グループ代表に割り当てられた者が依頼票を取りに来なさい。……混み合うから、窓側の列から順番だ」

 

 期待に胸を躍らせてばたばたと慌ただしく立ち上がった生徒たちが、順番と言われてしょんぼりと座る。前の方の席の生徒は、首を伸ばして座ったまま読もうと試みていた。

 

 フィリップは窓側だったので、やっぱり少し期待しながら黒板へ足早に近付いていく。

 パーティーは三人か四人で組まれているようだが、流石に魔術師が集まる学校だ。前衛・遊撃・後衛の陣形を組むのは無理だろう。

 

 ややあって自分の名前を見つけたフィリップは、班員の名前も確認する。三人パーティーだ。

 パーティーリーダーは“エレナ”。何日か前に「一緒に組めたらいいね!」「だったら心強いですね」なんて会話したことを思い出して、振り返ってサムズアップすると、意を解したエレナが花の咲くような笑顔を浮かべた。もう一人は“ウィルヘルミナ”。なんと、ミナと同じ名前──いや、ミナ当人だ。フィリップも含めて他の生徒はみんなフルネーム表記なのに、姓を持たないエレナとミナだけは名前しか書かれていない。

 

 「あの、先生──」

 「ん? あぁ、カーターはエルフの王女様の護衛だ。龍殺しの英雄に吸血鬼までいれば、誰も文句は言えんだろう。なんせ、龍が出ても殺せるんだからな」

 「いや、でも……ミナはOKしたんですか?」

 

 これで「君が説得しなさい」とか言われたら、学院長かステラに抗議しに行くが。

 フィリップは別に、ミナに対して命令権を持っているわけではないし、おねだりしたところで聞き入れてくれるかは五分五分だ。なんせ、ミナは自分の感情を最優先にする。面倒だと思えば100年の時を共にした配下でさえ見捨てるのだから。

 

 フィリップが確実に死ぬような場所に行くとなれば話は別かもしれないが、そうなったら同行ではなく、フィリップが行くのを阻止するように動くだろう。

 

 思いっきり眉間に皺を寄せたフィリップに、ジョンソン先生は事もなげに肩を竦めてみせた。

 

 「学院長が説得したそうだ。「どうせカーター君と一緒に冒険者をやるんだろうから、システムを理解しておいたら?」と言ったら納得したそうだが。……愛されているな」

 

 口元を吊り上げるような笑い方は、どうやら皮肉を込めたものらしい。

 まぁ、吸血鬼が人間を愛するなんて馬鹿げた話だし、それこそ皮肉か冗談みたいな話だが。

 

 フィリップの乾いた笑いで会話が途切れ、そのまま席に戻る。隣の列だったエレナがニコニコしながら紙を確認しに行って、「ホントだぁーっ!」と、満面の笑みで帰ってきた。赤とピンクの中間ほどの色合いの紙を大切そうに胸に抱いている。

 

 「それが僕らの依頼ですか。内容は?」

 「えーっとねぇ……『クロスジバチに刺されちまった! 虫刺されに効く薬草を採って来てくれ!』だって!」

 

 エレナが読み終えると、二人は顔を見合わせた。

 片や森育ちどころか森の住人であるエルフ。片や森近くの田舎育ちで、小さい頃は何度も虫取りをした元田舎少年。

 

 虫刺されなんて日常茶飯事、その処置だってお手の物だ。なんてイージー……とは、残念ながら言えなかった。

 

 「クロスジバチっていう虫だよね? どんなの?」

 「さぁ……?」

 

 親切にも虫の正式名まで書いてくれた依頼者──作ったのは先生なのだろうが──には悪いが、虫が山ほどいる環境で、どの虫が何という名前なのかなんて気にしない。重要なのはどの虫が害か、そしてどの虫が益となるのか。その二つだけだ。

 

 「幸い、この学校には医学と治療術の専門家がいます。あとで聞きに行きましょう」

 「いいね! ボクもエルフの端くれだし、薬学系に強い自信はあるんだけど、流石にどんな虫なのか、どんな症状なのかも分からない状態で効く薬草を挙げるのは無理だよ」

 

 二人とも経験上、蚊に噛まれた時と蜂に刺された時の症状の違い、その場合に使われる薬が違うことくらいは知っているが、具体的にどんな虫にはどの薬草が効くのかは知らない。

 ひそひそと言葉を交わしているのはフィリップたちばかりではなく、教室のそこかしこで行われていた。

 

 「達成期限は一週間後だ。つまり、採集にしろ討伐にしろ、一週間以内に行って帰ってこられる場所までしか想定していない。それを前提に行動しろ。いや──もっと大きなヒントをあげよう。君たちは一年次に野外訓練をしたと思うが、今回は野営技術を必要としない想定だ。どこかの街や村で宿を取れるように行動しなさい。もしも野営が必要になるようなら、その計画には無駄がある」

 

 ジョンソン先生はクラスを見回して質問がないことを確認すると、授業を結びにかかった。

 

 「全員、メンバーと依頼は確認したな? 私は今後一切、依頼についての質問は受け付けない。自分たちで考え、調べ、行動しなさい。……以上で本日の講義は終了とする」

 

 一斉に礼をして、それからぞろぞろと出口に向かう生徒たち。

 先日はクラスメイト同士で固まって教室を出ていた生徒たちは、今日はパーティーメンバーで集まっていた。

 

 フィリップとエレナもその例に漏れず、二人で教室を出て、その足で図書館に向かう。まずはクロスジバチについて調べる……わけではなく、ミナがそこにいると考えてのことだ。

 案の定、彼女は図書館の中で一番ふわふわだと評判の大きなソファに座って、ワイン片手に本を読んでいた。

 

 「ここ飲食禁止だよ、ミナ」

 「溢して本を傷付けるからでしょう? その可能性がないなら、何も問題ないはずよね」

 「いや、ルール……まぁいいか。今は何を……『R・グレイトマンの冒険記録3 荒野編』。僕が一巻で折れたやつだ……三巻は面白い?」

 「きみが面白くなかったのは、現実的なことしか書かれていなくて地味だったからでしょうね。冒険かどうかはともかく、野営に役立つ本ではあるわよ」

 

 そうは言いつつも、ミナがページを繰る手つきは普段の倍近い速さだ。物語を読んでいるというより、文字列から情報を抜き取っているだけのように見える。やはり面白くはないのだろう。

 

 「前にも聞いたかもしれないけど、ミナって野営慣れしてるよね?」

 「師のところではいつも野営だったもの。それより、何か用事があったんじゃないの?」

 「あ、そうだった。模擬依頼実習の話、聞いてるよね? あれの詳細が配られたんだけど、ミナ、クロスジバチって知ってる?」

 

 ダメ元で──というか、ほぼ苦笑しながら訊ねたフィリップに、ミナも似たような表情で首を傾げた。

 

 「さぁ? 見たことはあるのかもしれないけれど、私、虫の名前に興味を持ったことが無いから」

 「そうだろうね……じゃ、予定通り、ステファン先生に聞きに行こう」

 

 ステファン先生? と首を傾げる二人を連れて、フィリップは迷いのない足取りで医務室に向かう。

 フィリップももう三年生だが、一年生の終わりごろには医務室利用回数が全校トップだったとか何とか言われているので、勝手知ったる道だ。

 

 ステファン先生は貴族でその上二つ名持ち。他の生徒が気後れして医務室に行き辛いなか、「コケた!」とか、「寝違えた……」とか、そんな軽い症状で扉を叩くのはフィリップぐらいだった。ついでに、一年生の後学期からは近接戦闘の訓練、特にウルミという扱いの難しい武器を練習していたから、利用回数も数倍だ。

 

 顔見知りどころか、もうちょっとした友達くらいの距離感になっていたフィリップを見て、ステファン先生は「今日はどうしたの?」なんて困ったような微笑と共に出迎えてくれた。

 フィリップが「クロスジバチに刺された時って、どうすればいいですか?」と訊ねると、彼女は書き物をしていた机から離れて、薬の瓶が並んでいる戸棚に向かう。

 

 「クロスジバチ? まだ春なのに、珍しいわね? カーター君が刺されたの?」

 「あ、いえ、そうじゃなくて」

 

 エレナが少し慌てながら補足すると、薬棚に伸ばしかけていた手を止めたステファン先生は、「そっか、その時期か」と納得した。

 

 「あぁ、なるほどね。うーん……そういうことなら、私が助言しない方がいいわね。魔術学院って、たとえOBやOGでも軽々に入れないから、先生や図書館を頼るのは良くないかも」

 

 なるほど、とフィリップとエレナも頷きを返す。さっきジョンソン先生も「依頼についての質問は受け付けない」と言っていたのは、そういう意図だったのだろう。

 

 ミナはどうでも良さそうにしているし、フィリップもエレナも駄々をこねるほど子供ではない。大人しく医務室を後にして……さて、ではどうするか。

 一応はパーティーリーダーのはずのエレナは「じゃあ……どうする? フィリップ君」と丸投げの姿勢を見せている。いや、フィリップが訊けば彼女もきちんと考えてくれるのだろうが、フィリップは頼られると弱かった。或いは本人も自覚している通り、美人に弱いのかもしれない。

 

 「王都の図書館で調べるか、町医者に行って聞いてみるか……ん? いや待って。もう一人、この手のことに詳しい人がいたよ。そっちに行こう」

 

 素直に思考を回したフィリップは、幾つかの安直な答えを経て、やがてもう一人の専門家の事を思い出した。彼女は既に学院を卒業してしまったが、まだ王都に居るはずだ。

 

 

 

 

 

 



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321

 模擬依頼が開示されてから一週間、冒険者コースの生徒たちは一斉公欠扱いになり、他の授業への出席が免除される。

 そのことを予め知っていたフィリップたちは、医務室を出たその足で、フィリップの案内する先に向かった。

 

 そこは一等地で魔術学院図書館の次に大規模なことで有名な図書館──ではなく、二等地まで足を伸ばしていた。

 そこそこの規模の商店が並ぶ繁華街を抜け、閑静な住宅地に入った頃には、エレナもミナも困惑顔だ。ミナはどちらかというと、いつまでも家に帰ろうとしない犬を見るような、呆れ混じりの愛玩に満ちた目をしていたが。

 

 「ここだよ」

 

 と、フィリップは足を止め、一つの民家を指した。

 周りの家より少しだけ小綺麗だが、一等地の建物とは比較にならない、小ぶりで簡素な造りの家だ。

 

 「……ここは?」

 「ま、ここでちょっと待っててください」

 

 ヘタクソなウインクなど残して、フィリップはノッカーを三度鳴らした。

 「はーい」と応える声は少し低めだったが、女性のものだ。

 

 扉が開くのを少し下がって待っていたフィリップは、扉のすぐ向こうからの「どちら様でしょう?」という丁寧ながらも警戒心を窺わせる声色の問いに、「フィリップ・カーターです」と応じた。

 

 動揺したように気配が揺れ、扉が開く。

 驚いた顔でフィリップを出迎えたのは、一年生の時に一緒に使徒に襲われ、去年には一緒に龍殺しに赴いた妙な縁のある先輩──フレデリカ・フォン・レオンハルトだった。

 

 「カーター君。久しぶりだね、また会えて嬉しいよ。それに──」

 

 最近また背が伸びたフィリップより更に背の高いフレデリカは、フィリップの頭上から同行者二人に目を向ける。

 まずはフレデリカ以上に背が高く、そればかりが理由ではない存在感を放つミナに。そしてもう一人に目を向けた時、当の彼女はもうフィリップの横をすり抜けてフレデリカの目の前に出るところだった。

 

 「フレデリカさんだ!! 久しぶり! ボクのこと覚えてる!? 森の皆に聞いたよ、あなたもボクの治療を手伝ってくれたんでしょ? キチンとお礼を言えてなかったの、ずっと気にしてたんだ! ホントにありがとう!」

 

 フレデリカの手を掴んで激しく上下させるエレナ。フレデリカはその勢いに押されて、見るからに困惑していた。「なんでここに?」と顔に書いてある。

 

 「あぁ、いや、貴女はカーター君を助けてくれたわけですし、そうでなくても、怪我人を癒すのは治療術師としても医師としても当然のことです」

 

 その高潔な物言いに、フィリップだけでなくエレナも口元を綻ばせた。

 エレナは手を握ったまま、殊更に嬉しそうな笑顔で言葉を続ける。

 

 「あなたとフィリップ君のどっちに会いに行くか迷ったんだけど、王国や人間のことを学ぶなら、フィリップ君のいる魔術学院の方がいいだろうって言われたんだ」

 「そうでしょうね。私のところに来ても、機密事項が多すぎて殆ど一緒には……いえ、それより、何の御用でしょう? 例の吸血鬼にカーター君まで。また龍殺しに同行しろなんて言わないでね」

 「それは僕も嫌ですよ。そうじゃなくて、実は──」

 

 フィリップが模擬依頼実習という単語を出すと、彼女はすぐに「あぁ」と納得の声を上げた。

 フレデリカにとってもほんの一年前の経験のはずだが、懐かしそうに「そっか、そんな時期か」なんて頷いている。彼女は錬金術か医学を選んだのだろうな、なんて話しながら考えていたら、ちょっと噛んだ。

 

 「なるほど。何かあったら頼ってくれと言ったのは私だし、ここにいることも手紙で教えたからね。早速、私を頼ってくれたわけだ。……あはは、思ったより嬉しいし、照れ臭いな。さあ、どうぞ入って」

 

 促されるまま玄関を潜るフィリップは、二年ほど前にこの家で見たもののことを完全に忘却している。フレデリカがフィリップたちから見えないようにさっと隠した小瓶にも、「護身用かな? 警戒心が強いんだな」なんて安穏とした感想しか持っていない。

 それが一滴の龍血を混ぜた、強い気化性を持つ毒物の中では最強とも言える代物であることには、フィリップも含めて誰も気付いていなかった。

 

 客間はアンティーク調の家具はそのままに、フレデリカに合わせて、医学書や錬金術関係の書物や雑貨が飾られていた。棚の一つには紫色から赤色まで100以上の色相に分けられた小瓶が並んでいて、クリアな輝きを放っていた。

 

 「それで? 私にどんな頼み事かな? もしかして、武器に何かあった? 私たちの最高傑作、成龍と古龍の素材をふんだんに使った龍貶し(ドラゴルード)に」

 「いえ、頂いてからずっと変わらず、最高の性能ですよ。そうじゃなくて──」

 

 フィリップたちが詰まってしまった部分、つまり「クロスジバチとは何ぞや?」という疑問について語ると、彼女は同情するように笑った。

 

 「……なるほど。それなら、祖父が作っていた標本がある。少し待っていて」

 

 使用人は雇っていないのか、フレデリカは自ら立ち上がって客間を出て行った。

 標本を探すのに手間取っているのかと思い始めた頃、彼女は小ぶりな標本箱と、盆に乗ったティーセットを持ってきてくれた。本当に使用人はいないらしい。

 

 上品なアンティーク調のカップに注がれた紅茶を飲みながら見るには、小指の先ほどの虫の標本は些か以上に風情に欠けている。しかし、フィリップを除けば、あとは人間以上の美貌を持つ妖艶な美女と明朗な笑顔の絶えない美少女、そして貴公子然とした中性的な美人だ。ピン留めされた羽虫が混ざっていても、十分に華やかな空間だった。

 

 「この小さいのがそうだよ。蜂じゃなくて蠅の仲間なんじゃないかって、祖父が言ってた」

 

 なるほど、と分かったような相槌と共に標本箱を覗き込んだフィリップとエレナは、二人ともがあっと閃いたように指を弾いた。エレナの方が音がクリアだった。

 

 「あー、こいつか! カユイバチだ!」

 「え? いや、シムリでしょ。コクロシムリ」

 

 「え?」と顔を見合わせるフィリップとエレナ。

 フィリップが出した名前は俗称とはいえ、どちらも記憶にある名前を正しく出力している。人間とエルフでは名前が違うのも当たり前だ。特に、固有名詞では。

 

 いやいや、いやいやいや、と譲らない二人に、フレデリカが「いや、一応王国では「クロスジバチ」って名前が決まってるんだけど」と口を挟む。すわ三つ巴かと思われた──フレデリカが独り勝ちするのだが──その時、ティーカップを上品な所作でソーサーに戻したミナが面倒そうに嘆息した。

 

 「名前なんてどうでもいいわ。重要なのは、何の薬草が効くのか、よ」

 

 それは確かに、と頷く三人。

 フレデリカは顎に手を遣って、これまた様になる格好で少し考え、幾つかの薬草の名前を挙げ始めた。

 

 「それなら、ヨモギネとかクロアサガオとか……もっと強力なので言うと、ドクアオギとか、アロエノフリとか、その辺りかな。どれもそんなに珍しくない草だから、近所の森でも見に行くといいよ。私が持ってるサンプルをあげてもいいんだけど……“知は力なり”ってね。何処に生えているのか、良質なものと劣悪なものの見分け方、近くに生える他の植物。そういったものを知っておくと、必ず役に立つよ」

 「あ、いえ、今回の課題はお店で買ったりしちゃいけない決まりなので」

 

 一応、冒険者ギルドのルール上では、依頼された物品を店で買うことは禁止されていない。

 たとえば今回のようなケースでも、依頼を受けた冒険者が何処かの店で薬草を買い、依頼者に渡して完了しても何ら問題ない。依頼を出すということは、クライアントが何かの事情で薬草を買いに出られないとか、その薬草が効くことを知らない場合が殆どだからだ。そういう場合、冒険者は労力と知識を以て報酬分の働きをしたと見做される。ただ、勿論薬草の買い値と報酬額に差が無ければ利益にはならない。

 

 しかし、一般的な店で買える薬草は、この世に存在する薬草の1割にも満たないとされている。そして往々にして、冒険者に依頼されるのは残りの九割の方。学院の制定したルールも当然だ。

 

 「そうなんだ。もし必要なら、傷薬とか虫除け薬くらいなら調合してあげるよ」

 「あー……実は、その辺の道具類はもう全部買い揃えちゃって」

 「流石、準備が良いね」

 「学校からの指示ですよ。……それじゃ、ありがとうございました」

 

 ティーカップを空にして立ち上がったフィリップに、ミナとエレナも続く。

 最後にフレデリカも立ち上がり、ぺこりと頭を下げたフィリップに鷹揚に手を振った。

 

 「なに、お安い御用さ。最近は例の一件のせいで、まともな話し相手にも難儀していたから、君に会えて嬉しかったよ。ステファン先生の気持ちが分かったかもね」

 

 フレデリカは玄関まで一緒に来て、フィリップとエレナと握手を交わし、ミナにも微笑みかけて見送ってくれた。

 

 「今度はティータイムにでも来てよ。勿論、錬金術師として頼ってくれるのも嬉しいけれどね」

 

 フィリップとエレナは手を振って別れてしばらく歩いたあと、感じ入ったような溜息を吐いた。

 

 「……やっぱりいい子だよね、フレデリカさん!」

 「ですね。……ところでミナ、さっきからずっと怖い顔だけど、何かあった?」

 

 怖い顔……というか、不愉快そうな顔、というべきか。

 以前にティンダロスの猟犬の放つ死体安置所の如き悪臭を嗅いだときほどではないが、眉間に皺が寄っている。

 

 もしやフィリップには感じ取れない神話生物の気配を、その鋭敏な感覚で検知したのでは。そう思ったフィリップの方が、表情は険しい。

 

 鬼が出るか蛇が出るか。

 だがどちらにしても、フレデリカと、この王都に住む人々のため──延いてはフィリップの生活空間を守るため、駆除しなければならない。場合によっては、また王都の一部を吹き飛ばすことになっても。

 

 そんな決意を抱いたフィリップだったが、幸いにして杞憂に終わる。

 

 「あの家、妙に血の匂いがこびりついていたわ。ゴミ捨て場みたいに酷い臭い。老人の血は好きじゃないのよ」

 

 それなら、フィリップにも心当たりがある。正確にはいま言われて思い出した。

 フレデリカが住まいにしているあの民家は、元は彼女の祖父の家だ。

 

 「あー……まぁ、その件については解決したから、気にしないで。それにしても、やっぱり凄い嗅覚だね。僕は全然分からなかったのに。エレナさんは?」

 「ボクも全然……ん? 待って? フィリップ君は、姉さまのことは「ミナ」って呼び捨てなのに、どうしてボクは「エレナさん」なの? ボクの方が姉さまより年下だよ?」

 

 思い出したように言ったエレナは、ふくれっ面でフィリップの脇腹を擽った。

 精神は死体並みに鈍感なくせに肉体は意外と敏感らしいフィリップは、声にならない声を上げて飛び退いた。

 

 何をするんだとか、今更何を言い出すのかとか、色々と言いたいことはあったフィリップだが、飛び退いた拍子にぶつかったミナに抱き留められて、文句は一言も出てこなかった。

 

 「だって、私とフィルは家族だもの。ね?」

 「ん……そうだね。それに、エレナさんはエルフの王女様だし……いや、ミナも血統的にはそうなのかな?」

 

 ミナの病的に低い体温と月夜のような匂いに微睡みそうになりながら、赤い双眸を見上げる。

 彼女よりも先に、エレナの方が答えをくれた。

 

 「そうなるね。それに、吸血鬼の始祖の末裔って、他の吸血鬼にしてみれば神様みたいなものじゃないの? 姉さま?」

 「さぁ? 確かに他の吸血鬼より数段は強いし、魔王軍の中では吸血鬼陣営の総領になっていたけれど……吸血鬼にとっては“親”が神よ。生みの親ではなく、自分を吸血鬼にした者、という意味」

 

 「ディアボリカが?」と見るからに可笑しそうな顔をしたフィリップに、ミナが呆れたように補足する。「そんなわけないでしょう」とでも言いたげだ。

 フィリップも「だよね」なんてけらけらと笑いながら、眠気が本格化する前にミナから離れる。それでも手の届く距離を出ない辺り、ペット根性が染み付いていた。

 

 そんな会話に疎外感を覚えたのか、エレナはちょいちょいとフィリップの袖を引いた。

 

 「ねぇフィリップ君、ボクたち、お互いに命を懸け合った、賭け合った仲だよね」

 「そうですね」

 

 命を懸けた実感もないままに頷くフィリップだが、それはエレナの欲していた答えではあったようだ。

 彼女は満面の笑みを浮かべ、ぴょんと跳ねるように距離を詰めた。フィリップとの距離は、もう手を伸ばす隙間もないほどだ。

 

 「それに、これから一緒に冒険する仲でもあるよね」

 「そ、そうですね?」

 

 なんでこんなにグイグイ来るんだろう、と、未だにエレナの言いたいことが分からないでいるのは、フィリップも友達が少ないからだ。自信を持って「仲のいい友人です」と紹介できそうなのは、ルキアとステラとウォードくらいのものである。

 

 「じゃあ、ボクたちは仲間だよね。仲間に対して、敬語とか敬称は要らないんじゃないかな?」

 

 心なしか怒気を感じる笑顔のエレナに、フィリップは少したじろいで、そして少し照れた。

 これまでの経験上、年上の女性を呼び捨てにすることには慣れていない。ルキアとミナは例外だが、ミナには例外になるきちんとした理由がある。彼女はフィリップを毛ほども人間扱いしていない──いや、より正確に言えば、吸血鬼から見た人間として正しく扱っている。だから「年上の女性」というより、「異種族」という認知の方が大きいのだ。

 

 対して、エレナはその特徴的な耳と極めて整った容姿を除けば、ルキアやステラと年の変わらない少女にしか思えない。

 人間より人外の方が気楽に接していられるというのはフィリップは気に入らないだろうが、事実としてそうだった。

 

 照れ臭そうに明後日の方を向いていたフィリップは、はにかんで笑いながら、おずおずと口を開いた。

 

 「……エレナ?」

 「……いいね! “友達”って感じがする!」

 

 彼女は嬉しそうに、そして楽しそうに笑って、フィリップをぎゅーっと抱き締める。そして。

 

 「じゃあ、次は姉さまも! これからは「貴様」っていうのナシね!」

 

 そう言って笑ったエレナに、ミナは面倒くさそうな苦笑を溢した。

 

 

 

 

 




 新作(https://syosetu.org/novel/316865/ )もよろしくお願いします!


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322

 フレデリカに教えてもらった薬草を王都の図書館で調べてみた一行は、本当にどこにでも生えているのだという情報とも呼べない情報を得た。

 

 図鑑の生息地の欄には「普遍」と書かれていたし、道中で見つけた薬草屋では二束三文で売られていた。店主のおじさんに聞いてみたところ、「流石に錬金術の調合に使うような良質なのは魔物が棲んでるような魔力濃度の濃い森とかにしか生えてないけど、普通の虫刺され用とかなら、王都の南にある小さい森にも生えてるよ」とのこと。

 

 フィリップはありがとうございますと愛想笑いで一礼して店を後にして、やがて深々と溜息を吐いた。

 

 ──何というか、がっかりだ。

 冒険というからには、もっとこう、わくわくするような危険と隣り合わせであってほしかった。

 

 いや、学生向けの課題として用意されたもの、それも優秀な魔術師の集まるAクラス用に設定されたのではなく、むしろ後方コースや宮廷コースには行けない成績の劣等生向けのものであるということは分かっている。それに相応しい、妥当な難易度設定だと納得もできる。

 

 でもそれはそれ、これはこれだ。龍殺しや魔剣探しとまでは言わずとも、もう少し歯応えのある冒険らしい冒険がしたかった。毒蛇の潜む砂漠を踏破するとか、魔物の棲む密林を探るとか、難解なダンジョンを攻略するとか、そういうのが。

 

 「……何なら王都の公園とかにも生えてるんじゃない? 探してみる?」

 

 目に見えてモチベーションの下がったフィリップが言うと、エレナがとんでもないことを聞いたように目を瞠った。

 

 「何言ってるの! それじゃ冒険にならないじゃん!」

 「いや、だって……」

 

 それなら遠出する必要もないし、何なら今日中に課題が終わる。あとはルキアやステラと遊ぶとか、図書館に入り浸るとか、なんでもできる自由時間だ。

 

 その方が効率的だし、合理的。

 ごく自然に、そんな言い訳が口を突いた。

 

 エレナは一瞬だけ息を詰まらせて、そして深い落胆を表すような重い溜息を吐いた。

 

 「いい、フィリップ君? 冒険っていうのはね、効率を求めてするものじゃないんだ。ボクに言わせれば、この国の冒険者ギルドっていうのもナンセンスだね! 依頼を主目的にするなら、冒険者なんて名乗るべきじゃない!」

 「ちょ、ちょっとエレナ、声が大きいよ」

 

 ヒートアップし始めたエレナを、フィリップは少し焦りながら諫める。

 夕方の二等地には依頼帰りの冒険者が散見される。近くには平服姿の人間しか見当たらないが、彼らが冒険者ではないという確証はないし、来年には冒険者になろうというのだ。あまり問題を起こすべきではないだろう。

 

 しかし制止も虚しく、エレナは拳を握って続ける。

 

 「強さのため、お金のため、有名になるため、そんな理由でやるのは冒険じゃない。冒険とは手段ではなく、目的であるべきなんだ! 冒険がしたい。わくわくするような、心が弾むような! 時には背筋が凍るようなことも、飛び跳ねたくなるようなことも、握り拳から血が出るようなことも経験して、まだ自分の知らない、この広い世界を探検したい! だから冒険に出るんだ! 依頼を受けたら、そのついでに人助けまでできる! 最高だ! この点については素晴らしいと思うよ! ……ねぇフィリップ君、思い出してよ! あなたはどうして、魔剣が欲しいと思うようになったの? 強さが欲しいの? 名声が欲しいの?」

 

 そんなわけはない。

 ミナの持つ悪性へ堕とす魔剣『悪徳』や問答無用で悪性の首を落とす魔剣『美徳』、エルフの宝剣だった次元断の魔剣『ヴォイドキャリア』。どれも強力な武器だが、邪神にしてみれば蚊の一刺しに等しい。そして、そんな邪神でさえ、フィリップと同じ泡沫だ。何の価値もない。

 

 名声も同じだ。

 唾棄される汚らわしい罪人であろうと、尊敬される聖人であろうと、傅かれる王であろうと、瞬きの後には消え去っているかもしれない夢幻に過ぎない。

 

 どちらも、フィリップが何かを決意するだけの魅力を持ってはいない。

 

 だが、心の内に。ぐちゃぐちゃに壊れて継ぎ接ぎにされた泥の中の宝石粒の中には、確かに憧れが宿っている。冒険者という、依頼をこなす便利屋にではない。物語の中に出てくるような、未知を切り拓き、自らの蒙を啓き続ける求道の徒に。

 その、心躍るような未知への探究そのものに。

 

 「違う……僕は……そうだ、僕は、かっこいいから欲しかった。かっこよくて、楽しそうで、でも楽しいことばかりじゃない、そんな冒険譚が好きだった。魔剣は、そのイメージ、代名詞でしかなくて……そうだ、僕は」

 

 衛士になりたい。冒険者になるのは、そのための手段。入団資格が得られるAクラス冒険者になるため。

 

 いつからだろう、そんな風に考えるようになったのは。

 衛士団にはなりたい。彼らのように、強く、勇敢で、輝かしい人間性を持った人になりたい。その想いは確かにある。

 

 だが、それでも──ずっと憧れていた冒険を踏み台にしたくないという思いも、この胸に宿っているというのに。

 

 「よく言ったぞー!」「かっこいいー!」と称賛と揶揄を投げてくる野次馬に自分が熱くなっていたことを気付かされ、照れ笑いで応じていたエレナが「こほん」と咳払いして続ける。

 

 「……勿論、過剰な危険は背負うべきじゃないよ。リスクを考えないのは冒険じゃなく、ただの自殺行為だからね。どこにでもある薬草を採りに、暗黒大陸まで行くのは馬鹿げてる。……でも、近くの森に行くくらいの冒険は許されると思わない?」

 

 フィリップは「仰る通り」と言わんばかりに、深く、はっきりと頷いた。

 

 しかし、フィリップがやる気になったところで、パーティーにはもう一人、フィリップどころではなくダウナーでモチベーションの低い人物がいる。冒険者になるのはフィリップで、自分はその御守りという認識であろうミナだ。

 

 彼女は面倒を嫌う。それも目先の面倒を避けるのが優先だ。フィリップが依頼に慣れるため、という理由では、態々快適な王都を出るには不十分と判断するだろう。

 

 ……どう説得するか。

 そう考えながら視線を向けたフィリップとエレナに、当のミナは軽く頷いた。

 

 「……いいわよ、行きましょう」

 

 フィリップとエレナは顔を見合わせ、意外な同意に目をパチクリする。一体、どういう風の吹き回しなのか。

 

 身体を動かしたいとか、そんな理由ではないだろう。

 龍狩りはともかく、そこいらの魔物を相手にしたところで素振りより多少マシ程度の負荷でしかないはずだ。王都に残ってルキアやステラ相手に模擬戦でもした方が、よほど運動になる。まぁ、ミナはどれだけ鍛えたところで筋肉がついたりしないし、どれだけ怠惰な生活を送ったところで贅肉が付いたりもしない。

 

 変わるのは技量だが、それも流石に物理存在の限界付近にある。近接戦のプロではないルキアやステラを相手にしていては成長出来ないだろう。そしてルキアやステラのような超級の魔術師相手で意味がないのなら、王都近郊の森に棲んでいるような魔物相手では論外だ。

 

 結局、二人ともミナが乗り気な理由は推理できなかった。

 

 「意外だね。面倒なのは嫌がるかと」

 

 やんわりと理由を尋ねたフィリップに、ミナは薄い笑みを浮かべた。

 

 「私も最近は冒険譚を読むから、感化されたのよ。飽きるまでは付き合うわ」

 

 布教しておいてよかった、と、フィリップは思わぬ恩恵に苦笑した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 旅の準備を終えた翌日、フィリップ、ミナ、そしてエレナの三人は、目星を付けた王都近郊の森に向かうため、朝早くに王都を出ようとしていた。

 

 一応は学校の研修なので外泊申請は必要ないのだが、目的地まで貸馬車を使う場合は利用代を学校が負担してくれるということで、その旨をジョンソン先生に伝えておく。

 朝礼中だった職員室を出ると、ルキアとステラが待っていた。

 

 職員室に用事かな? と扉の前から退くフィリップだが、そうではない。用事があるのはフィリップに、だった。

 

 「カーター、今日から実習だな?」

 「はい。一応、明日の夜には帰ってくる予定ですよ」

 

 そうだったな、と頷くステラ。どこか歯切れが悪く、落ち着かない様子に見える。

 彼女はらしくもなく躊躇いがちに口を開いたかと思うと、自分でもらしくないと思ったのか、深々と溜息を吐いた。

 

 「王都近郊の森に行くだけで、何をそんなに心配しているのかと思うかもしれないが──カーター、必ず自分を最優先にするんだぞ。お前の身体と精神を第一に考えて行動しろ。いいな?」

 「……はい、殿下。分かってますよ」

 

 死地に赴くがごとく悲壮な空気を漂わせて抱擁するステラに、ミナとエレナは顔を見合わせる。

 

 フィリップはちょっとした旅行程度のお出かけで大きな心配をかけてしまうことを心苦しく思いつつも、「まあ確かに人間はちょっとしたことで死ぬからな」なんて考えていた。ステラは何か、人類領域外の存在に出くわしたり、龍のような王都近郊の森に出るはずがない強力な相手に遭遇することを危惧しているようだが、人間を殺すには過剰だ。

 

 蜂の一刺し、蛇の一噛み。人間はただそれだけで、十分に死ねる。

 フィリップのダメなところは、それを知っていながら、結局は自分の命も含めた天地万物を軽視しているところだ。

 

 「気を付けてね、フィリップ」

 「はい」

 

 ルキアとも抱擁を交わすフィリップに、エレナは堪えきれないといった様子で噴き出した。

 

 「もう! みんな寂しがりやさんだなぁ! これから楽しい冒険に出掛けるんだから、こういう時は笑って送り出してくれなきゃ!」

 「……そうね。龍と戦う訳でもなし、心配し過ぎよ。私が居て、そこいらの魔物に負けるわけがないでしょう?」

 「……そうだな」

 

 フィリップでさえ恐れる『ティンダロスの猟犬』なる異常存在と戦ったミナの言葉だ、と自分に言い聞かせるように頷くステラ。ルキアは曖昧に笑うだけで、肯定も否定もしない。

 

 そんな二人を可笑しそうに見ながら、エレナはフィリップに咎めるような目を向けた。

 

 「もしかしてフィリップ君、捨て身アタック常習犯? だからこんなに心配されてるの?」

 

 何度目だろうか。エレナの言葉で、周囲の空気が凍り付いたように錯覚するのは。ぴし、と音が鳴ったような気さえした。

 

 おそるおそるルキアとステラの方を窺ったフィリップは、幼少期から鍛え上げられてきた表情筋を完璧に制御している二人を見た。

 

 ──笑顔だ。

 ただし、フィリップがこれまで見たことも無いような、背筋に氷柱を差し込むような凄味のある微笑だが。

 

 「捨て身アタック?」

 「常習犯?」

 

 フィリップはさっとミナの後ろに隠れた。

 

 「その話はまた今度……というか、龍狩りの前の話ですから」

 

 あのお茶会の前の話だからセーフ、という主張は、何とか認められた。

 

 

 

 

 

 

 



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323

 乗合馬車で半日ほどかけて王都近郊の森にほど近い農村にやってきたフィリップとエレナ、そしてミナは、一先ず宿を探すことにした。

 

 幸いにして空き部屋が三つ以上ある宿を見つけられたのだが、エレナは二部屋しか取らなかったし、他の二人も何も言わなかった。──フィリップは「ミナとエレナが同じ部屋かな」と思っているし、エレナもそのつもりだ。ただ、ミナは「私とフィルが同室なのね」と思っている。

 

 部屋に荷物を置く段階になって、漸く認識の相違に気付いた一同だが、結局、フィリップとミナが同室になった。

 一応はエレナがパーティーリーダーなのだが、意思決定権が一番大きいのはミナらしい。

 

 諸々の準備をして部屋を出たとき、一見して分かる武装をしているのは、黒い鞘のロングソードを持ったフィリップだけだった。

 半袖にハーフパンツという森を舐めているとしか思えない格好のエレナは、よく見ると腰の後ろにナイフを持っている。普段と変わらずコルセットドレス姿で高いヒールを履いたミナには、もう何も言うまい。擦り傷だろうが虫刺されだろうが足首の捻挫だろうが、即座に治るのだろうし。

 

 ちなみに吸血昆虫の大半は呼吸によって生じる二酸化炭素や体温などを感知して餌を探すので、どちらも無いミナは極めて狙われにくかったりする。

 

 村から少し離れた所にある中規模程度の森が、今回の目的地だ。村を出て畑を横目にしばらく歩いていると、腰に手を遣って、見るからに困り顔で畑を見つめているおじさんが居た。

 

 「どうしたの? 何かトラブル?」

 

 「不作なのかな」と一瞥して興味を失ったフィリップと、端から一片の興味も持っていないミナは素通りしようとしたが、気が付くとエレナが話しかけていた。

 

 二人は顔を見合わせ、足を止める。いきなり声をかけられたおじさんは面食らったようだったが、それ以上に、ミナとエレナの外見に気を引かれているようだ。

 美しさに見惚れているばかりではない。それもあるが、細長い特徴的な形の耳と極めた優れた容姿を見れば、多少の知識があれば人間でないことがすぐに分かる。

 

 「ねえちゃん達、まさかエルフ……!? 初めて見たぜ!」

 「ボクたちはただの冒険者見習いだよ。気にしないで。それよりあなた、すごく困り顔だよ? 何かあったの?」

 

 おじさんはフィリップほどエルフに対して思い入れが無いのか、「珍しいモノを見た!」と目を瞠るだけで、それ以上の感動はないようだ。

 或いはエレナの問いに対する答えが、それ以上に重要な問題なのか。

 

 「いや……ちょっと畑が荒らされててな。冒険者ってことは、薬草でも摘みに来たのか? 森のかなり浅いところまで出て来てるハズだから、気を付けてな」

 

 獣か、と、フィリップとエレナは明言されずとも理解する。

 ミナは端から興味がないので、「先に行くわね」と森の方に向かって行った。その後をトコトコと付いていくのは、いつの間にか出て来たシルヴァだ。

 

 フィリップが「あれ!? いつの間に!?」なんて二度見している横で、エレナとおじさんの会話が続く。

 

 「ふぅん? 何作ってるの?」

 「俺のとこは野菜だ。他にも麦を作ってる奴とか、果実畑の方もやられたらしい」

 「果実ってことは、木になってるやつだよね? じゃあイノシシとかじゃないね。イノシシが木にぶつかった跡って特徴的だから」

 「あぁ、みんな熊じゃないかって怯えてる。村の衛兵は槍を持ってるが、デカいグリズリーとかだと不安だしな」

 

 気重そうに言ったおじさんに、エレナは楽観的過ぎると言いたげに頭を振った。

 

 「不安っていうか……人間には無理だと思うよ。ボクも小さい頃は出来なかったもん」

 

 今なら戦えるのも大概異常だと言いたげなフィリップだが、口には出さなかった。ディアボリカがいたら怒られそうな気がしたからだ。

 

 「でも、熊も結構分かりやすいよ? 大きいし重いから、柔らかい地面だと足跡とか露骨に残るし」

 「あぁ、それが……蹄跡に見覚えが無くてな。これなんだが……」

 

 おじさんは少し屈んで、畑の一点を指差した。

 その先には、何かの足跡らしき窪みがある。畑の奥に向かって点々と続いているようだ。

 

 馬やイノシシの蹄ではないし、狼や熊のパッドフットでもない。偶蹄目の足跡に似ているが、別れ方が左右ではなく前後だ。

 

 ヒールのある靴の跡に近いが、人間の足跡にしては小さい。足のサイズがフィリップの拳より小さいとなると、幼児? まさか、野菜や麦を盗むような幼児は居ないだろう。

 

 「あ、ホントだ、なんだろうコレ。フィリップ君、分かる? ボクたちの森にいた動物とか魔物じゃないみたい」

 「僕も田舎育ちですけど、獣に詳しいわけじゃ……いや、これホントに蹄ですか……?」

 「そう思うよね! 魔物かな?」

 

 エレナの推理に、フィリップも頷いて同意を示す。

 獣の足跡については二人とも多少の知識があるが、魔物の足跡には詳しくない。狩人にしろ冒険者にしろ、魔物は調査研究やトラッキングの対象ではない。そういう学術的なアレコレは王宮のやることだ。

 

 魔物だろうけど、でもどんな奴だろう? と首を傾げる二人だが、それには待ったがかかる。

 

 「いや、この辺に居るのは踏み潰せるくらいのスライムと、あとはキラービーが精々で……」

 

 農家のおじさんに言われて、エレナは「そうなの?」と首を傾げた。

 

 「でっかい蜂だよね。ボクらの森にもいたよ。でも、あいつらは六本脚だけど、こいつは二本足だ。歩幅は……姉さまより少し小さいくらい? 深さも考えると、大人のエルフくらいの大きさと体重だと思う」

 「流石エルフ、狩りのセンスはピカイチだな! 村の狩人連中もそう言ってたぜ!」

 「現実的に考えるなら、熊か魔物だね、確かに。グリズリーではなさそうだけど、こんな足だ。突然変異っていうのも、あながち間違った推理じゃないかもね」

 

 突然変異……正確には遺伝子異常を引き起こしそうな存在に嫌な心当たりがあったフィリップは、「あいつじゃありませんように」と祈りつつ、周囲の風景を確認する。

 

 晴れ渡る青空に、冬から春にかけて収穫される野菜や果物の彩り。六月の収穫に向けてどんどんと穂を出し、肥えて垂れはじめる若い麦。懐かしくも素晴らしい田園風景だ。……遠近感の狂った異常な植物や、肉食性の触手なんかは見当たらない。おじさんも良く鍛えられた身体を小麦色に日焼けさせていて、とても健康そうだ。

 

 遺伝子構造を破壊し狂わせるヤツはいないようだ。──良かった。物理的存在では干渉できないから、即刻邪神召喚しなければならないところだった。

 

 勝手に怖くなって勝手に安堵していたフィリップは、肩を叩かれて意識を取り戻した。

 

 「……ね、あの蜘蛛みたいな、普通じゃない魔物だと思う?」

 「どうかな……神威は感じないし、突然変異した動物とか、この辺には居ない珍しい魔物かも」

 

 遺伝子を狂わせる例のアイツはいない、と、それだけは一見して分かるフィリップだが、そこまでだ。

 人類領域外の存在で一定以上の強さを持つ相手のことなら、フィリップは人類屈指の知識量を誇る。だがこの星にどんな動物が棲んでいて、どんな姿形で、どんな生態なのか。そういう普通の知識は、狩人だった父親の影響で、他よりは少し詳しい程度だ。

 

 「可能性はどのくらい?」

 「うーん……半々ぐらい?」

 

 人類領域外の存在か、そうではないかの二元だから50パーセント。そんな甘い計算式によって導き出された不正解に、しかし、エレナは「そっか」と重々しく頷いた。ステラが居てくれたら、「どういう計算だ?」と深掘りして、少なくとも半々よりは少ないと分かっただろうに。

 

 「じゃあ、ボクたちが調べて、有害な魔物なら駆除してあげるよ!」

 

 自分も怖いだろうに、おじさんを心配させないように明朗な笑顔で言うエレナに、フィリップとおじさんは「え?」と声を揃える。

 

 「え? あ、いや、冒険者なんだろ? 悪いが、赤依頼を出してやれるほどの持ち合わせはねぇんだ」

 「やだな、押し売りみたいな真似しないって。ただの人助け。あなたは困ってて、ボクたちは力になれるかもしれない。なら、助けるのが当然でしょ? ね、フィリップ君?」

 

 フィリップは一瞬、予期せぬ痛みに襲われたかのように顔を顰めた。

 

 見ず知らずの他人だろうと、困っている人がいるなら助ける。なるほど当たり前のことだ。少なくともフィリップの心のうち、人間の部分はそう頷く。

 だが、人間ではない部分──大部分は、エレナの言葉を嘲笑ってしまった。

 

 何処の誰とも知らない他人がどうなろうと知ったことではない。一人死のうが一億人死のうがどうでもいいと。

 

 「……えぇ、勿論」

 

 フィリップの笑顔が僅かに歪なことには、エレナも農家のおじさんも気付かない。

 

 だが、あぁ、そうだったとフィリップは思い出す。

 心の底で何を考えていようと、善であろうとすればよいのだと。今は一緒にいない“理解者”の言葉を想起して穏やかに笑ったフィリップは、もう一度、しっかりと頷いた。

 

 「その魔物がどんなものであれ、僕たちが駆除します」

 

 フィリップの言葉に、それでこそだよ、と口の動きだけで言ったエレナは、心の底から嬉しそうな笑顔だった。

 

 二人は顔を見合わせて頷きを交わし──

 

 「森の調査……は、シルヴァがいるし……」

 「戦闘は……姉さまがいるね……」

 

 もしかして僕たちは要らないのでは? と言う悲しい事実を口に出す前に、二人は乾いた笑い声をあげて誤魔化した。

 

 

 

 

 

 

 



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324

 森に入る前に二人揃って木の幹に手を当て、目を瞑って数秒ほどの祈りを捧げたフィリップとエレナは、「この文化そっちにもあるんだ」とお互いに驚いていた。エルフでも人間でも、ドライアドの不興を買うのは避けたいのは同じらしい。

 ミナの高いヒールの靴跡は追いやすく、簡単に追い付くことができた。

 

 既に一掴みほどの草花を摘んで持っていたシルヴァは、何故か湿度の高いジトっとした半目でフィリップを見遣る。

 

 「……な、なに?」

 「んーん。ふぃりっぷはわかりやすいとおもっただけ」

 「ん? まぁ、そりゃ、お互いの位置は何となく分かるからね。それは薬草?」

 

 そういうことじゃないんだけどなぁ、と言いたげな顔だったシルヴァだが、更に何か言うほど重要なことではなかったようだ。フィリップがシルヴァの手元の草を指して尋ねると、すぐに自慢げな表情になった。

 

 「しらない。でも、きれいにさいてる」

 

 シルヴァが持っていたのは、小さな花が幾つか集まって半球になったような、小ぶりながら華美な植物だった。鮮やかに赤いゼラニウムだ。

 何処かで摘んできたのだろうと思ったが、よく見ると、シルヴァは両掌サイズ分の土ごと、花を根元から掘り返していた。

 

 「うん、確かに綺麗……って、根っこから掘ったの?」

 「う? でないとすぐかれる」

 

 当たり前じゃんと言いたげなシルヴァに、フィリップも言われてみればそれはそうだと納得する。

 花を摘むというと地上部だけ、茎の部分から手折るようなイメージだったのだが、確かにそれだと王都に帰る頃には萎れているだろう。

 

 まぁ薬草でないのなら、良い状態で持ち帰る意味は薄いのだが……掘り返したものを埋め直すのも、それはそれでどうなんだという気がする。ついさっき、ドライアドに「森の恵みを分けてくれてありがとう」と祈ったばかりなのだし。

 

 「……それ、持って帰ろうか。殿下にあげよう。赤、好きだし」

 

 普通は花を贈るなら花束だろうけど、と笑うフィリップに、シルヴァもにっこりと笑い返した。

 

 「しるばもそうおもってた! るきあのぶんもさがそ!」

 「いいね! ルキアが好きな色は……黒? 黒い花なんてある?」

 

 邪神絡みのことなら無類の知識量を誇るフィリップだが、植物には詳しくない。特に、花の種類や色については。

 

 「いっぱいある。……このもりにはないけど」

 「じゃあ駄目じゃん……」

 

 うーん、と二人揃って首を傾げるフィリップとシルヴァ。エレナとミナは幼い二人を微笑ましそうに見ていた。

 

 「花を贈るなら、花言葉から逆に考えたらどう?」

 

 と、助言をくれるエレナ。だが、花言葉という単語に、フィリップは聞き覚えがなかった。

 ミナも不思議そうにエレナの方を見ているから、普遍的な常識の類ではないはず、とフィリップも視線で問う。

 

 やはり、エレナは「エルフの文化だね」と頷いた。

 

 「花には色や種類によって意味があるんだ。赤いゼラニウムは『あなたがいれば幸せです』だったかな。丁度いいね?」

 「へぇ、ホントにぴったりですね」

 

 揶揄うような笑みを浮かべて言ったエレナだが、フィリップが少しも照れずに頷いて、毒気を抜かれたようだった。微笑の質が変わり、優しげなものになる。

 

 「ルキアちゃんには、どんな言葉を贈りたい? 勿論、好きな花があればそれが一番だと思うけど」

 

 フィリップは「なんかそんな話をしたような、してないような」と眉根に皺を寄せて記憶を探る。

 普段ルキアと話すとき、話題は完全にランダムだ。フィリップの家のことや丁稚時代の話をすることもあれば、ルキアの家のことや社交界の話、学校であったことの愚痴から読んだ本の感想まで、幅広い。何なら、何も話さずに無言で寄り添い、互いの体温で暖を取りながら全く別の本を読んでいることも多い。

 

 いつか好きな花の話もしたような気がするのだが……いや、宝石の話だったか? それとも絵画? と、そこまで記憶を掘り返して、結局諦めた。思い出せないなら、もう一から彼女が好きそうな花を探すしかない。

 

 「うーん……花って言われても、僕が知ってる花と言えば……シダの花? あと白百合とか」

 

 フィリップの言葉に、エレナは「ん?」と疑問を示すように首を傾げた。

 

 「シダってこれだよね? これ、花は付けないよ?」

 

 エレナは地面近くに傘のように生えていた草を示して言う。

 確かに、一般的にシダは花を付けない。が、フィリップの読んだ本の中では花を咲かせていたのだ。

 

 「え、でも、“エイリーエス”では……」

 「人間の古典文学だね。爺が持ってたよ。……中身は読んでないけど。でも、あれってフィクションでしょ?」

 

 そっかぁ、と項垂れるフィリップ。

 なお、シルヴァの知識によると、シダは本当に数百年に一度だけ、ある特定の星座配列になった夜に一斉に満開の花を咲かせるのだが……今日ではないのなら、言う必要もないだろう。そう判断して何も言わなかった。

 

 「じゃあ、アルラウネとか……?」

 「それ魔物じゃん! しかも、でっかい花の中にえっちなお姉さんが入ってるやつ! 引っ叩かれるよ!?」

 

 言われてフィリップも、そういえばルキアもステラもアルラウネは嫌いだったな、とシルヴァに出会った森でのことを思い出す。

 

 そして、知識が尽きた。あとは薬草にどんな花が付くかと、食べられる山菜とよく似た食べられない山菜を花で見分ける方法くらいしか知らない。

 

 「しょうがないじゃん! 今まで花の名前なんか気にしてこなかったんだから!」

 

 エレナはけらけらと笑いながら、「何か忘れてるような?」と首を傾げる。そして、重要なことを一つ、思い出した。

 

 「……って、そんな場合じゃなかった! シルヴァちゃん、この森におかしな魔物とか、動物とかいない? こんな感じの蹄のやつ!」

 

 エレナが地面に絵を描いて例の不思議な蹄跡を再現するが、シルヴァは怪訝そうだ。

 絵が下手なわけではないので、その反応だけで答えに察しは付いた。

 

 「んー……? このもり、そんなにどうぶつはおおくない。いのししとおおかみと、あとはちっこいの。りすとか。まものもよわいのしかいない」 

 

 そっか、とエレナ。でもドライアドって偶に適当だからなぁ、なんて考えているが、ヴィカリウス・システムは環境の代理人。星の表層に根付いた概念そのものだ。視座の高さゆえに危機感を共有できないことはあれど、森の情報を見逃すことはない。

 

 「ちなみに、地球圏外のやつとか、カルトとかは?」

 

 ヒソヒソと声を潜めて訊ねるフィリップに、シルヴァは首を横に振った。

 

 「ちひょうにはいない。でも、にんげんがひとり。いぬといっしょ」

 「そりゃ村の狩人だろうね。調査かな? 普通に狩りかもしれないけど、動物とか盗人と間違えて射かけられないように、近付いたら教えて」

 

 わかった! と頼もしい返事をしたシルヴァに「よろしくね」と笑いかけて、フィリップはふと、何か大事なことを忘れているような不安感に襲われた。

 ルキアへのお土産じゃなくて、妙な蹄の正体でもなく、もっと何か、ここに来た理由の根幹に関わることのはずなのだが。

 

 「……なんか忘れてる気がする」 

 「薬草の採取。きみ、その為に来たのでしょう?」

 

 呆れ顔のミナに、フィリップは小気味よい音を立てて指を弾いた。

 

 「っと、そうだった! シルヴァ、ヨモギネとクロアサガオとドクアオギ、あとアロエノフリって薬草を探せる? どれか一つでいいんだけど」

 「んー……そこ」

 「あ、コレ? ……なんか、萎びてない?」

 

 薬草というか、なんか死にかけの草だった。全体的に茶色っぽいし、萎れている。

 もう今にも倒れて朽ちそうに弱々しい茎や蔓の先端には、やはり枯れたように変色した醜い花が咲いている。咲いているというか、くっついていると言った方が正確な有様だが。

 

 エレナも「確かにクロアサガオだけど、これはちょっと……」と渋い顔だ。近くの村の住民も、ここに来る冒険者たちも、誰も採って行かなかった残り物なのだろうが、残っている理由が明白だった。

 

 「……もっといいやつさがす?」

 「そうしよう。この森で一番いいのを頼むよ」

 

 わかった! と再び頼もしい返事をくれたシルヴァは、殆ど考えた素振りも無く、一方を目指して駆け出す。

 森は彼女の庭、という評価は、エレナに向けられるべきだろう。彼女の健脚は泥濘や隆起した根や罠のような絡まった下草などで足元が不安定でも衰えることはない。だが、シルヴァはそれ以上にすばしっこく、フィリップだけでなく、ミナもエレナも「ちょっと待って」と声を揃えた。

 

 それから暫く歩き回り、一行は木々に隠されるように拓かれた獣道を通り、巨大なスズメバチの巣を潜り──エレナの持っていた虫よけ薬が大活躍した──、以前にシルヴァが“水鏡”と呼んでいた泥の沼を迂回して、漸く一輪の花の許に辿り着いた。

 

 一見すると、白いユリのような花。

 しかし、それが単なる観葉植物の類でないことは、周囲の様子を見ればすぐに分かった。

 

 その花は、いやに拓けた裸の地面の上に咲いている。それを中心とした半径2メートルほどの範囲には、他のどんな植物も、岩肌にでも生えるコケ類さえ息づいてはいなかった。

 

 「ウソ、あれって、アルバ・アルファード? こんなところで見られるなんて……!」

 

 目にしたエレナが感動も露に口元を覆い、瞠目する。

 手のひらではなく手の甲で唇を隠すような仕草はルキアやステラが驚いたときに見せるものとそっくりで、フィリップは「ちゃんとお姫様なんだな」なんて、失礼な感想を抱いた。

 

 エレナから花に視線を戻すフィリップだが、見覚えはない。ミナもそのようで、二人は顔を見合わせて首を傾げた。

 

 「ま、まさか二人とも、あれを知らないの!? 周囲の栄養分や魔力の悉くを吸い尽くし、無類の薬効と美しさを兼ね備える超希少植物だよ!」

 

 希少って言われてもね? 所詮草でしょう? と、いまひとつエレナと興奮を共有できない二人。

 フィリップの読んだ児童書の中に登場でもしていれば、もう少し年相応のリアクションもできたはずだ。いや、奇麗な花、強い薬効のある草にさして興味を示さないのは、それはそれで子供らしいのかもしれないけれど。

 

 「ふーん……。あ、他人を寄せ付けない美しさっていうのは、割とルキアに似合うのでは? 色も、まぁ、黒と白なら相性は悪くなさそうですし」

 

 持って帰るか、とスコップを取り出したフィリップに、エレナは慌ててその前に立ちはだかり、庇うように両腕を広げた。

 

 「摘んで帰るつもり!? だ、ダメダメ! 絶対ダメ! あれが希少なのは、人間やエルフが薬効目当てに乱獲したからなの! ここで静かに咲かせておいて、自然に繁殖させようよ!」

 「なるほど? ……あ、じゃあ、持ち帰って、レオンハルト先輩にでも預けてみるのはどうですか? 案外、繁殖のいい方法とか──」

 「うーん、フレデリカちゃんなら……いや、でも、こういうのって口の数は少ないほうがいいでしょ? それに、万が一、他の人に知られたら危ないし」

 

 森育ちが理由かは定かではないものの、希少植物の保護に強いこだわりがあるらしいエレナだが、フレデリカになら任せられるようだ。その信頼感はやはり、あの蜘蛛と戦った後、彼女も治療に加わったからだろう。

 そんな彼女と同等かそれ以上の信頼を向けられるフィリップとしては、嬉しいやら面映ゆいやらだ。

 

 しかし、照れている場合ではない、不穏な言葉が聞こえた。

 

 「危ない?」

 「だってフレデリカちゃん、戦えないでしょ?」

 「待って? つまりこれは“殺してでも欲しい”とか、そういう考えの人間が出るほどの代物なの?」

 

 面倒なものを見つけてしまったと言いたげなミナに──まぁ、彼女は何をするにも気怠そうなのだが──、エレナは至極当然とばかりに軽く頷いた。

 

 「うん、そうだよ。だから、これはここに置いていこう」

 

 フィリップとミナはもう一度顔を見合わせて、「襲ってくるヤツ全員殺すのは面倒だしね」と肩を竦めた。

 

 

 

 



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325

 超の付く希少植物さえ一瞬で見つけられるシルヴァにとって、広大な森の中から良質な薬草を探し出すのは簡単なことだった。

 特に、移動中にエレナが見つけた薬草を指定し、同種のもので最も栄養を溜め込んでいる個体や育っている個体を探すという方法をとったとき、効率と安定感が段違いだ。

 

 森に生き、100年近くを森で過ごしたエレナも脱帽だった。……まぁ、現在の個体(シルヴァ)はともかく、ヴィカリウス・シルヴァの存在歴は4億年規模なので、95歳なんて赤子も同然なのだが。

 

 これとこれと、とシルヴァが指定した薬草を、エレナがホイホイと手際よく根っこ付近の土ごと掘り返し、簡易プランターに入れていく。フィリップとミナは成果物と荷物持ちだ。旅行鞄は宿に置いてきたものの、野外探索用の装備品類が入ったリュックに、湿った土の入ったプランターは流石に重い。

 

 「こんなところかな! 五種類一株ずつ、根っこから完全な状態だったら、流石に課題はクリアでしょ!」

 「まぁ、そうだろうね……」

 

 というか、それで不合格だったら合格基準を問い質す必要がある。

 

 そんなことを考えながら来たほうに戻り、森の中を村を目指して歩いていると、ミナと話していたエレナが歩調を速めてフィリップと並んだ。

 

 「ね、フィリップ君、例の足跡のこと、どう思う? シルヴァちゃんは、変な魔物はいないって言ってたけど」

 「森の中にいて、シルヴァが何か見落とすってことは考えにくいよ。あるとしたら、地下に潜ってるような連中だろうけど……一度も地上に出たことがないなんてあり得る? 有り得たとしても、地上に出てないなら、野菜泥棒とは関係ないよ」

 

 まぁ、カルトであるのなら、野菜泥棒でなくても森の肥やしにするが。……海水が植物や土壌に与える悪影響は、この際無視することにして。

 

 そんなことを考えたからか、フィリップの口元は嗜虐的に吊り上がっていた。

 普段なら、ステラが「仕方ないな」と言いたげな呆れ笑いを浮かべて、ルキアが少し怯えながらもフィリップの身を案じて、それで終わり。そこから先はフィリップの、フィリップだけの、誰にも邪魔されない至福のひと時なのだが──今はカルトの存在どころか痕跡すら見つかっていないし、いま一緒にいるのはルキアでもステラでもなく、エレナだ。

 

 「わ、怖い顔。駄目だよー、フィリップ君はニコニコしててくれないと!」

 

 言って、エレナはフィリップの頬を両手で挟み込むように吊り上げさせた。

 むぎゅ、と意図せぬ声が漏れて恥ずかしくなるフィリップを気に留めず、「おぉ」なんて感嘆を漏らしながらモチモチとほっぺを弄ぶエレナ。ステラとミナに続き、頬肉の柔らかさの虜になるのは三人目だ。が、

 

 「あたっ」

 

 フィリップはエレナの手を、羽虫に対するように雑な手つきで払った。

 

 「姉さまはいいのにボクはダメなのー!? ずるいよ!」

 「え……?」

 

 怪訝そうな顔のフィリップは、何言ってんだこいつと言わんばかりの冷たい目をしていた。

 

 しかし、じゃれあっている余裕があるのかどうかすら定かではない現状だ。エレナもフィリップも、それはしっかりと理解している。真剣な顔に戻ったのは、むしろエレナが先だった。

 

 「それで、真面目な話。この森以外から来た魔物って可能性もあるよね?」

 「村の周りは街道沿いの草原か畑ばっかりで、身を隠せるような場所はこの森ぐらいだけどね。で、ここにいないとなれば」

 

 より面倒な可能性が出てくる。

 あれは足跡なんかではなく、しかし野菜泥棒が残していった痕跡であることは間違いない。そして、身を隠せる森の中でも地上部にはいないとすれば──簡単だ。そいつは、地下を移動しているに違いない。

 

 あの奇妙な蹄跡は、足の跡ではなく、穴の跡なのだ。地下を掘り進んで、畑の位置で顔を出した何かが、退散するときに埋め戻した跡。

 

 「案外、モグラとかかも」

 「どんなサイズのモグラ……?」

 

 楽観的を通り越して呆けたことをいうフィリップに、エレナが苦笑する。

 

 野菜や果物は()()()()いるのだ。盗み食いされているのではなく、何者かによって持ち去られている。齧った跡がある程度ならモグラの可能性もあるが、状況はその甘い推測を否定する。

 

 あの奇妙な蹄の持ち主は、野菜や果実を収穫して持ち去る体格と知性を持っている。それは確実だ。

 

 「……じゃあ、アライグマとか?」

 「だといいね……今日はもう日が暮れそうだし、調査は明日にしよう。今夜は罠でも仕掛けておけば、案外引っかかってくれるかもだしね」

 

 敢えて惚けるフィリップにはもう突っ込まず、エレナは歩調を速めてフィリップより前を行く。

 

 話は終わりと言わんばかりの態度だが、フィリップには聞き捨てならない部分があった。明日? 明日といっても、明日は昼前には村を出て王都に戻る予定だ。のんびり調査している時間の余裕はない。まさかとは思うが、

 

 「明日……って、もしかしてエレナ、その魔物だか動物だかを見つけるまで続けるつもり?」

 「勿論だよ! 自分の旅程を理由に投げ出すくらいなら、初めから首を突っ込んでない!」

 

 即答だった。そして、フィリップの危惧した「まさか」だった。

 

 しかし、フィリップは即座に「駄目だよ」と否定できなかった。

 なんというか、彼女の言動は端々に善性が表れていて、感情的に否定しづらいのだ。

 

 そしてフィリップは、しばしば理屈より感情に重きを置く。

 

 「……その言い方はちょっとズルいなぁ」

 

 仕方ないなぁ、と、普段自分が言われているように、呆れ混じりに笑い、フィリップも長期戦の覚悟を決めたのだった。

 

 さっき会ったおじさんの畑のところまで戻ってくると、彼は既に農作業を終えて家に帰ってしまったらしく、畑に人はいなかった。周囲の他の畑にも、殆ど人がいない。あまり長々と留まって妙なことをしていると、フィリップたちも野菜泥棒の類と間違われてしまいそうだ。

 

 エレナも同じ危惧を抱いたらしく、「罠だけ仕掛けて、早めに宿に戻ろっか」と肩を竦める。

 

 「罠と言っても、そんな技能があるの? フィルもだけれど」

 「獣道に仕掛ける捕獲用のやつなら、お父さんに教わったから作れるよ。でも……」

 「ボクもだよ。でも、いま必要なのはそういうのじゃなくて、もっとこう、誰かが近づくと音が出るとか、そういう警報装置的な罠なんだよね。……姉さま?」

 

 フィリップとエレナが言っているのは、植物の蔓なんかでロープを作り、手近な木の枝のしなりを利用して小動物を吊り上げる基本的な捕獲罠のことだ。一応、使う素材次第では山羊やイノシシのような脚力の強い動物でも拘束できる。

 

 しかし、相手が高度な知性を持つ魔物や手先の器用な猿の類だと拘束を外されることもあるし、熊なんかの大型獣には効果がない。

 

 どうしよっか、と顔を見合わせたフィリップとエレナだが、エレナはフィリップの肩越しに、不審な行動をしているミナを見つけた。

 

 「なに?」

 

 空の片手を畑に向けている様子からして、何かの魔術を使っていたのは間違いないと思われるが、どんな魔術を使ったのかを見ただけで判別できる目の持ち主は、いまこの場にはいなかった。

 

 「反応起動型の魔術を伏せるのはいいんだけど、それ、どんな魔術?」

 「……?」

 

 問いの意味を測りかねたミナがぱちりと指を弾く。

 直後、畑をぐるりと取り囲んで乱立する、深紅の槍。かつて数万の悪魔を一息で磔刑に処した、赤い彼岸花畑の具現。

 

 警報というか処刑だ。しかも殺した後に晒すタイプのやつ。

 

 「やりすぎだよ姉さま! 魔物だったらこれでいいかもしれないけど、ただの獣かもしれないんだよ!?」

 

 慌てて諫めるエレナだが、ミナとフィリップは首を傾げる。それの何が問題なのだろう、と。

 

 「だって、獣には悪意はないんだよ? そりゃあ、殺しに来るならこっちも殺し返さなきゃだけど、そうじゃないなら、無闇に殺しちゃダメ」

 

 言い聞かせるようなエレナに、シビアなのか甘いのかよく分かんないなぁ、と苦笑するフィリップ。ミナはどうでもよさそうに魔術行使を止める。二人とも、見知らぬ町の見知らぬ人が野菜泥棒に遭っているからといって、殺意を伴うほどの怒りを覚えることはない。

 どうでもいい相手だから殺す、どうでもいい相手だから生かす、この二つはフィリップやミナの中では両立する。

 

 だから、まぁ、殺すなと言われれば殺さないけれど。

 

 「殺したほうが楽なのにね?」

 「そうだね……」

 

 めんどくさいなぁ、と、二人の心が一つになった。

 

 

 

 



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326

 宿に戻り、王都のものとは比較にならないほど簡素な夕食を終えたフィリップたちは、部屋に集まって穏やかな食後の時間を過ごしていた。

 ミナもフィリップの血を吸って空腹が満たされ、フィリップをそのまま膝に乗せて満足そうに微睡んでいる。

 

 フィリップはというと、膝上で抱かれたままエレナとトランプゲームをしていた。ちなみにエレナが王都で買ってきたものだ。

 

 運が絡むカードゲームには無類の強さを誇るフィリップがポーカーとブラックジャックでエレナをボコボコに負かし、今はババ抜きをしている。これが意外といい勝負なのだった。

 ミナは上がり、フィリップとエレナの残り手札は二枚対一枚。ジョーカーはフィリップの手にあり、エレナの手番。エースを引けば彼女の勝ちだ。

 

 「フィリップ君、右利きだよね?」

 「そうですよ。前に言いましたよね?」

 「なのに右手で持ってる一枚の方が、掴む力が微妙に弱い。これは取ってほしいから? それともブラフ?」

 

 フィリップは何も答えず、ただ笑っている。

 表情を隠す仮面の笑顔ではない。単純に心の底からの、『なんでそんなの分かるんだよ怖いよ』という苦笑だった。フィリップ本人としては、両手の力は同じくらいのはずだった。

 

 「うーん……こっち! またジョーカー!? もう!!」

 

 エレナが二択を外すのはこれで三回目だ。自分に呆れたように、そして楽しそうに笑って、手札をシャッフル。二枚ともを片手で持って差し出した。

 

 「はい、どうぞ」

 

 フィリップはカード越しにエレナの翠玉色の双眸をじっと見つめるが、好戦的な光はまっすぐにフィリップを見つめ返し、カードに向かない。

 心理戦は諦めて適当にカードを引くと、ジョーカーだ。フィリップもジョーカーを引くのは三回目になる。

 

 ツキがどっか行っちゃったかな、なんて考えるフィリップだが、違う。フィリップは三回中三回、エースを引いている。いや、引こうとしていた。

 しかし、フィリップの手がカードに触れる直前で、エレナが手の中でカードをスライドさせ、左右を逆転させている。古典的なトリック、イカサマだ。

 

 トランプゲームは今日が初めてだというエレナだが、発想力と指先の器用さは天才的だった。何より運動神経が段違いなので、フィリップに見切れるはずがないというのが恐ろしい。

 

 ちなみに、ミナは位置関係的にフィリップの手札が見える上に、記憶力と動体視力がエレナ以上に飛び抜けているので、カードの位置を追いかけて記憶するカードトラッキングで一抜けしている。

 

 実力系イカサマ対小手先系イカサマ対運だけ。地獄のようなマッチアップだった。

 

 「ふふん、フィリップ君の力加減も分かってきたし──おっと、これは」

 

 心理戦になると弱い自覚のあるフィリップは、引いたカードを裏返してシャッフルし、自分でも見えないように伏せて差し出した。どちらがジョーカーか知らないなら、力加減に不随意の意図が混ざることもない。

 

 ちなみに、ミナはジョーカーの行方を完全に追跡できている。フィリップから見て右側にあるのがジョーカーだ。

 

 エレナがそっと手を伸ばし──ぱっと、窓の外に白い光が瞬いた。

 二人は同時にカードを置き、窓に駆け寄る。

 

 「起動した!」

 「ホントだ! 見て!」 

 

 光源は窓の外、畑の方だ。

 さっきエレナとミナが仕掛けた、反応起動型の魔術。畑に侵入すると照明弾が打ち上げられるだけの、ただ驚かせるだけの代物。殺意のかけらもない、ミナに言わせれば手間の無駄、フィリップに言わせれば甘い魔術だ。

 

 しかし、効果は十分。夜の闇を払い畑を煌々と照らし出す光は、畑のそばで驚いたように空を見上げる影を映し出していた。影──人影だ。

 

 「人間!? もう、おじさんには夜中に近づかないでって言ったのに! いや、まさか野菜泥棒!? 行こう、フィリップ君、姉さま!」

 

 言うが早いか、エレナはあっという間に部屋を飛び出していった。

 ドアを開けてダッシュで、ではない。窓を開けて、ジャンプで。飛び出して──飛び降りていった。

 

 「あ、ちょっとエレナ! 人型だからって人間とは──そこ窓! ここ二階! ……あ、いや、余裕か。僕たちも行こう、ミナ!」

 

 突然の暴挙に慌てるフィリップだが、よく考えると彼女の故郷、エルフの集落は地上二十メートル近い林冠部に据えられたツリーハウスと回廊が主な居住空間だ。彼女はその高さまで一跳びで飛び上がり、怪我一つなく飛び降りるような種族。王都外の建物の二階なんか、誤差みたいなものかもしれない。

 

 「……まぁ、いいわよ。行きましょうか」

 

 ずっとフィリップを抱いていたから眠たいのか、死ぬほどかったるそうなミナだが、五秒ぐらい考えこんだ後、億劫そうに頷いた。

 

 ミナは欠伸交じりに窓を開け、体重を感じさせない動きで窓枠を飛び越えた。

 

 ぽつんと一人残されたフィリップは開けっ放しの窓から下を見下ろし、高さを確認する。宿の部屋から漏れる明かりで、下でミナが「早くしなさい」と言いたげな顔で待っているのと、畑に向かう道を疾走する人影がうっすらと見えた。

 

 エルフのツリーハウスから見下ろすよりは、かなり地面が近い。いけるか? なんて、一瞬だけ考えるフィリップだが。

 

 「……やめとこう」

 

 すんなり着地できる自信はないし、ミスしたら凄く痛い目に遭いそうだと首を振る。

 死への恐怖は希薄でも、痛みへの恐怖は人並みだった。

 

 龍貶し(ドラゴルード)を引っ掴み、大人しく階段を下りて玄関から外に出ると、ミナが「何やってんだこいつ」と言わんばかりの怪訝そうな目で見てくる。無駄な遠回りではなく、普通のルートなのだが。

 

 「……さっき見えたアレ、人間かな?」

 「魔力規模的には、そうね。尤も、体格や魔力が人間に近い魔物という可能性もあるけれど」

 

 畑に続く道を小走りで通り抜けながら、フィリップとミナはそんな会話を交わす。

 

 ミナの魔力視の情報収集力は、意外にもルキアやステラより少し低い。あの二人は魔力の情報だけでフィリップの体調まで判別するが、ミナは精々がフィリップと他の人間を判別する程度だ。

 より正確には、情報と結びつく知識の量に差がある。三人とも見えているものは同じだが、その後で差が出るのだ。

 

 仮に魔力の情報が文字列だとすると、「ちょっと風邪気味」という情報を得たとき、ルキアやステラはすんなりと理解できる。風邪というものを、知識と経験の両方で知っているからだ。対して、ミナにはそれがない。「風邪」という人間の間では至極一般的な病気のことを知らない。知識の上でも、勿論、経験でも。吸血鬼はアンデッド、病気に罹らない性質だ。

 

 魔物を見た時もそうだ。

 ルキアやステラは一応、幼少期に魔物を相手に多少の戦闘訓練を積んでいる。相手にもならない魔物相手には、多少の。あとは同格のお互いを相手に、血が滲むほどの。だから魔物の魔力情報も希少種でなければ多少は知っているし、王都や王宮を歩いていれば魔術師はそこら中にいる。情報を取り込むには最高の環境だった。

 

 対して、ミナは訓練の過程で狩ったことのある相手──幼少の身とはいえ、多種多様な強力な種族特性と血に刻まれた才能を持った、最高位吸血鬼の敵に相応しい相手しか知らない。

 

 だから人間程度──家畜や食料と同等の魔物の魔力情報なんか、知っているわけがなかった。

 

 「人間に擬態するなんてまだるっこしいことをするヤツも、いないわけではないんだよなぁ……」

 

 面倒くさそうに言うフィリップ。

 その脳裏には、人間に擬態して人間社会に溶け込んでいる四体の化身が浮かんでいる。即ちナイアーラトテップの化身であるナイ神父とナイ教授、シュブ=ニグラスの化身マザー、そしてマイノグーラの化身レイアール卿。

 

 もっと弱い例だと、過去に遭遇したショゴスなんかも擬態能力を持っている。ジェヘナにいた劣等個体には無理だろうが、ショゴス・ロードと呼ばれる上位個体は人間に化け、時に医学や錬金術のような高度な技術を身に着けることもあるほどの精度の知性を誇る。

 

 あの奇妙な蹄跡はどう考えても人間のものではない以上、人外が何処かで絡んでいるのは間違いない。罠を起動させたのが農家のおじさんでないのなら、ただの野菜泥棒でも人間かどうかを疑うべきだ。

 

 だから、

 

 「野菜泥棒だったよ! 二人とも構えて!」

 

 なんて、ナイフを持った男……外見的にはエレナと同い年くらいに見える、少年と相対しているエレナを見たときには、正直、溜息が出そうになった。

 まぁ、そりゃあ、エレナの身体能力と戦闘センスを以てすれば、ロングソードで武装した大の男でも子犬みたいなものだろうけれど、人間である確証もないのに戦闘に入るのは迂闊すぎると、呆れの嘆息が。

 

 上空をふよふよと漂っている照明弾はゆっくりと降下しているが、まだ暫くは輝きを保っているだろう。

 唐突に畑の辺りを照らし出した光につられて、村の方から農家や野次馬が集まってくるのが見える。

 

 「仕方ない。エレナ、手っ取り早く済ませよう」

 

 言って、フィリップは黒塗りの鞘から淡い光を放つ刃を抜き放った。

 龍骸の蛇腹剣──ティンダロスの猟犬の外皮すら切り裂く、人造の魔剣とさえ言える業物。人間を斬ったことはないが、試し切りでは斬撃の効きにくい魔物であるスケルトンを一撃で両断し、錬金金属製の鎧さえ真っ二つにした。

 

 ただの盗賊だろうが、人間に擬態した何かだろうが、大概の相手は斬れるはずだ。

 

 「ち、近付くなよ、お前らッ!」

 

 短剣を振り回す少年は、威嚇が通じると思っているようだ。

 無理もない。剣で武装しているとはいえフィリップは子供、あとは素手の女が二人だ。舐めてしまう気持ちは理解できる。フィリップに理解されることが良いことかどうかはさておき。

 

 声は微妙に裏返って甲高く、もしかするとフィリップとそんなに年が離れていないのではないかと思われた。

 

 「……取引しよう。君が人間ではないなら、今すぐ正体を明かして……そうだな、あっちの森に逃げ込むなら、僕らは何もしない。でも村人たちがこっちに来てから事を起こしたら、僕たちも本気で殺しにかかる。どう?」

 

 淡々と語るフィリップだが、青い目の奥に宿る光は剣呑だ。

 

 正確には、邪神召喚に掛かるリミッターが外れると言うべきか。

 フィリップのことをよく知らない村人たちは「目と耳を塞げ」と言っても従ってくれないだろうが、ミナとエレナなら。人類領域外の存在を知る二人なら、似たようなモノが姿を現した時点で、より詳しい者の言葉に従ってくれるはずだ。

 

 いま邪神召喚を使うと、何も知らない村人たちも高確率で巻き込まれる。だが人外がその姿を現し、そのせいで発狂した後でなら、もうどうなろうが知ったことじゃあない。狂人が重ねて発狂できるのかは知らないけれど、廃人になる──精神的死を迎えられるなら、それはなんとも羨ましい話だ。

 

 「何言って……クソ、もう村人がこっちに……この魔術はてめぇらの仕業か!」

 

 唾を飛ばして怒鳴る少年を、フィリップは虫でも見るような目で見る。観察する。

 僕の臭いに反応しないなら、少なくとも鼻が利くタイプじゃあないな、なんて考えながら。

 

 少年は幾つか罵倒の言葉を残して踵を返し、逃げ出した。その直後。

 

 彼の踏んだ地面が爆発した。

 

 

 

 

 



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327

 爆発。──いや、燃焼を伴う、所謂爆発ではない。フィリップとエレナがそう誤認したのは、地面の土が爆音と共に高々と噴き上がり、ばらばらと雨のように降ってきたからだ。

 地面が爆発した。反射的にそう思ってしまう光景だった。

 

 背後で村人たちがどよめき、足を止めた気配がする。

 

 なんだ、と反射的に疑問の声を上げかけたフィリップは、口に入った土を吐き出すために言葉を中断せざるを得なかった。

 

 もうもうと立ち込める土煙が晴れた後、土の臭いには血の臭いが混ざっていた。

 続いて、苦悶の声が耳に届く。

 

 「ごめんなさいね、フィル。思ったより土が柔らかかったの」

 

 髪に付いた土を撫でるように払いのけながら言うミナ。その言葉で爆発の原因と、目の前の光景は簡単に理解できる。

 

 一本、天を衝く赤い彼岸花。穂先に飾られているのは二本の脚だ。槍の威力のあまり、脚であることは一見して分からないほどぐちゃぐちゃになっている。

 しかしそれが足であることを理解できたのは、地面に()()()があるからだ。

 

 両足を吹き飛ばされ、大量の血を流しながら痛みに悶えている少年が。

 

 「ね、姉さま、やりすぎ!」

 「……?」

 

 砂粒が目に入って目元を擦ろうとするフィリップを巧みに制御し、簡単な水属性魔術で目を洗い流していたミナは、愛玩の笑みから一転して、怪訝そうにエレナを見た。

 

 生きているのにやりすぎ? とでも言いたげだ。

 しかし爆発の──というか、土煙の影響から脱したフィリップが状況を確認すると、エレナと同じことを言った。

 

 「うん、やりすぎだよ、ミナ。足を吹っ飛ばしたら蹄があるかどうか確認できないでしょ?」

 

 同じではなかった。

 言葉の始まりは同じだが、全体のニュアンスとしては真逆と言ってもいい。

 

 「あぁ、それはそうね。でも、殺してしまえば蹄の有無なんて関係無いんじゃない?」

 「一件落着だと思ったら後から真犯人が出てくる展開の本を、僕は何冊も知ってる。確証は取っておくものだよ」

 

 そいつも殺せばいいじゃないと言いたげに片眉を上げるミナだったが、それ以上は何も言わなかった。議論する方が面倒だという結論に至ったのだろう。フィリップおすすめの本を何冊も読んでいるから、納得できる部分もあったのかもしれないが。

 

 ミナと何か交渉する時は、もしかすると一方の選択肢を過剰に面倒臭くすれば簡単に誘導できるかもしれない、なんて考えるフィリップ。

 その選択肢やミナの許容範囲を考えるだけの頭脳はないと自覚しているので、思いついただけだが。実行に移す頭はないし、そもそもミナは面倒な二択を突き付ける面倒な奴を殺す、第三の解を平気で選ぶ。妙な交渉は逆効果だし、自殺行為だ。

 

 「両足が千切り飛ばされても本性を見せない根性があるヤツなのか、痛みがないタイプなのか、それとも隠れた本性なんて初めから無いのか……」

 

 抜き身の蛇腹剣を持って近づいていくフィリップは、ぶつぶつと独り言ちながら考え込んでいる。

 

 エレナが恐々と「何する気?」と背中に声をかけると、フィリップは振り向きもせず、当然のように応じた。

 

 「そりゃ、確認だよ。ミナ、こいつの脚、治せる?」

 「えぇ、いいわよ」

 

 ティンダロスの猟犬という常識外を知っているからか、或いはそれに相対した時の、スイッチの切り替わったようなフィリップを知っているからか、ミナは軽く肩を竦めて手伝ってくれる。

 

 ミナが薄く手首を切って血を垂らすと、無残な断面を覗かせていた両足はたちどころに癒えた。しかし強烈な痛みの感覚はしばらく残る。すぐに立ち上がって走り出すのは、痛みに慣れていなければ難しい。

 果たして、少年はぐったりと横たわったままだった。

 

 「それじゃ、ちょっと失礼して……」

 

 フィリップは少年の足元で片膝をつくと、徐に足を取って見やすいように持ち上げた。

 抵抗はないが、恐怖か痛みかで体がガチガチに強張っているから動かしづらい。

 

 「……何してるの?」

 「何って、だから、確認だよ」

 

 問いを投げるエレナに、フィリップはまた当然のように答える。

 手の中にあるのは五本指の人間の足だ。サイズも明らかにあの蹄跡より大きい。

 

 とはいえ。

 

 「それは全然、君が人間であることの証明にはならないよね」

 

 虚ろな目で自分を見返す少し年上の少年に、フィリップは淡々とそう告げた。

 

 「え……?」

 

 困惑したような声を、フィリップはもう聞いていない。

 フィリップにとって目の前の少年は、今のところ()()()()だ。年齢、性別、種族、目に見える何もかもが擬態であるかもしれない以上、見た目から分かる情報のすべてが無意味だった。

 

 「僕は人間に擬態する人外を知ってる。まぁ、奴らは野菜泥棒なんて意味の分からないことはしないと思うけど、そもそも存在からして意味不明な連中だからね。僕たち人間からは野菜泥棒に見えても、実は深淵に繋がる儀式の一部だったりするかもしれない」

 

 まぁフィリップはそんな儀式を知らないのだが、それを言うならフィリップが知っている儀式なんて殆どないので、そんな儀式がないとも言い切れない。

 

 ただ、フィリップの認識が「儀式をしようとしていた暫定カルト」ではなく、「目的不明の暫定人外」で止まっていることは、少年にとっては間違いなく幸運だった。

 

 「な、なに言って……」

 「分かんない? 君が人間か、自分のことを人間であると思い込んでいた場合のために言っておくと、僕は君が人間であることを疑っている。君が人外だと疑ってる。だから──」

 

 フィリップは少年の足をぞんざいに放すと、立ち上がり、龍貶しの柄にある金具を操作した。じゃらら、と鎖のような音を立てて14の節が分離し、足元に垂れ下がる。

 

 「……フィリップ君?」

 

 倒れて動かない少年相手に追撃の意思を見せたフィリップ。エレナは肩を掴んで止めようとしたが、フィリップが龍貶しを整形するために空振りしたので近付き損ねた。

 

 「今から君を拷問する。まあ、僕は異端審問官じゃないから拷問のノウハウなんてないし、何となく死ななそうだけど痛そうなことをするだけで、案外サックリと死んじゃうかもしれないけど……擬態って、死んだら解けるでしょ?」

 

 自信なさげに言うフィリップだが、目の奥に宿る光は依然として剣呑だ。そして、もう殆ど少年に対する興味を失いつつあった。

 

 拷問中に音を上げて擬態が解ければ良し、黙秘を貫き通して死んでも、死ねば擬態が解けるだろう。死んだ後でも姿が変わらなければ人間だ。

 状況は確定し、推理の必要性は無くなった。あとは頭ではなく体を使うだけ、ただの作業の開始だ。

 

 別に、彼が人間であろうと人外であろうと、大差はないのだけれど──謎を謎のままに、未知を未知のままにしておくのは、気分が良くない。

 

 「や、やめて──」

 「──駄目だよ、フィリップ君!」

 

 背後からの声に、フィリップは振り上げていた手をぴたりと止めた。

 制止するエレナの声は、怒声とか、警告というべき鋭いものだったからだ。カルトや邪神が絡まない限り、怒られの気配には敏感なフィリップは反応してしまう。

 

 そして、その隙を見逃すエレナではない。

 するりと滑り込むようにフィリップと少年の間に割って入り、少年を庇うようにフィリップと正対する。

 

 「この子が化け物だって確証もないのに拷問だなんて、何考えてるの!? もしもこの子が人間だったらどうするつもり!?」

 

 どうって? 首を傾げるフィリップ。別にどうもしないというか、人間か否かを確かめるための拷問なので、確認したら終わりだけど、なんて考えている。

 

 「……あなたがボクと会う前にどんな経験をして、あの手の怪物にどれだけの警戒と知識を持っているのかは知らないよ。でも、これだけは言える。それはやりすぎだよ。彼が人間だったとしたら、ただ野菜を盗んだだけだ。お腹が空いていたのかもしれないし、もっと大きな理由があるかもしれない。たとえ純粋な悪意からの行動でも、拷問されるほどの罪じゃないとボクは思う」

 

 少年をただの人間だと思っているエレナと、人間ではないと疑っているフィリップでは、絶対に通じ合わない。

 それは二人ともよく理解していた。エレナは人間社会に興味を持ってやってきたエルフで、フィリップは外神の視座を持つ人間。異なる価値観への理解は人一倍だ。

 

 そして。

 

 エレナは自分を信じている。

 自分の信じる“善”こそは、誰に恥じることもない正義、王道であると信じている。それは危うさを伴う性格ではあるものの、いまこの場において、そしてフィリップと一緒にいる上では有利に働く。

 

 フィリップの感性は他人を毒する。ルキアやステラのような強固な自我がなければ、いつか呑まれてしまうだろう。エレナには呑まれないだけの強さがある。

 

 対して、フィリップは自分の中にある善性や良心というものを全く信用していない。

 常識的に、「人を殺してはいけません」とか「人のものを盗んではいけません」とか、そういう良識は持ち合わせているが、それに従うかは状況次第だ。それに、それは()()()()()()()()()から悪だと思っているだけで、フィリップ自身の感性ではない。

 

 厳密にいえば、フィリップの中に「善と悪」という区分はない。だって──善悪とは、根本的には人間社会の秩序と存続のための共通認識だ。感性の根本が人間ではないフィリップには、どうしたって理解ができない。

 

 何が善で何が悪か。そういう論争になると、エレナは最強で、フィリップは最弱だった。

 

 「……フィリップ君」

 「……なに」

 

 どんな説得の言葉が飛んでくるのか。思わず身構えたフィリップだったが、エレナのパンチはフィリップのガードをいとも容易く打ち砕いた。

 

 「──あの日の、衛士団のみんなと一緒にいたあなたなら、絶対にそんなことはしないよ」

 

 フィリップは面食らったように瞠目し、しばし沈黙した後、さっぱりと両手を挙げた。

 

 「オーケー、僕の負け。拷問はまだナシにするよ」

 

 

 

 

 



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328

 相手が人間かもしれないうちは過度な暴力は振るいません、とエレナに約束させられたあと──まぁこれは相手が人外か人間かという判別に拷問を使わないというだけであって、カルトをぐちゃぐちゃにするのは何の問題もないというか、それを問題にするなら、むしろエレナの存在が問題になってくるのだけれど。

 それはさておき、とにかくちょっと怒られて方針を転換したフィリップは、極めて穏当な方法で審問を続けていた。

 

 人間と人間、或いはエルフや吸血鬼ともそうするように、言葉による会話で。言葉のみで。

 

 「そういうことになったから、君が人外だったとしたら有利な状況だね。君は縛られているし、周りには村人もたくさんいるけど、みんな戦闘に慣れてるワケじゃない。対して、こっちの最高戦力は飽きて宿に帰ってしまったし、僕も剣を納めてる。それでも擬態を解いて襲い掛からないのは、人間と同等程度の出力しかないからなのか、或いは本当に人間なのか」

 

 少年はロープで両手両足を拘束され、篝火を持った村人たちにぐるりと取り囲まれている。

 包囲の中には野菜泥棒の少年の他にはフィリップとエレナだけだ。ミナは眠いし飽きたからと宿に戻って寝てしまった。

 

 シュブ=ニグラスに与えられた智慧が警告を発しないということは、少なくとも外神の視座から見て人間を殺し得る存在ではないか、認知もされない劣等種かだ。ミナがいなくても対処できると踏んで引き止めなかった。

 

 「……何言ってるのか分かんねー。頭おかしいんじゃねーの?」

 

 最大の恐怖であった蛇腹剣が遠ざかり、どうやら一番穏便なエレナが意思決定権で上位にあるらしいと知り、少しだけ元気を取り戻した少年が悪態を吐く。

 

 ……だが。

 

 「だといいんだけどね」

 

 と返したフィリップの目があまりにも暗く、逆に気圧されてしまった。

 

 かと思えば、一転して優しげな声で、

 

 「それより、君の話をしよう。僕は何も、人間である証拠を見せろと言うつもりはないんだ。それは無理だと分かってる。僕だって、自分が人間であることを論理的に証明できない」

 

 なんて寄り添ってくるものだから、少年は怪訝さと恐怖が綯い交ぜになった目で黙り込むしかなかった。

 

 フィリップは「今日は疲れたなぁ」なんて言いながら少年の前に座り込み、少し高い位置になった少年の目を見つめる。

 早起きして乗合馬車に揺られてこの村にやってきて、森を練り歩いて薬草を探し、夜中──そろそろ寝ようかな、というタイミングで罠が起動して今に至る。魔術学院の超健康志向の学生寮生活で生活サイクルが作られているフィリップには、中々に堪える一日だった。

 

 どうやって化けの皮を剝がそうか、と考えているのは思考の20パーセントくらいで、八割方寝ている。

 

 「お、俺は確かに野菜を盗みに来たけど、そりゃ今日が初めてだ! お前らが言ってることなんて全然分かんねーよ!」 

 

 少年の言葉に、村人たちがじりじりと焦げ付くような怒気を放つ。

 時間と労力と愛情を込めて育てた野菜を盗みに来たのなら、そんなのは初犯だろうと常習犯だろうと許す理由はないし、即刻衛兵に突き出して領主裁判送りだ。

 

 フィリップも田舎育ちだから気持ちは理解できるし、そういうシステムがあるのも知っている。だが、彼が法的にどんな処遇を受けるかは、フィリップにはどうでもいいことだ。

 

 「僕は別に、野菜泥棒の善悪や君に下される罰に興味はないんだ。僕は王都の人間だから、正直、泥棒したことを怒ってもいない」

 「は、はぁ? だったら──」

 「うん。僕が君を責める理由はない。というか、僕は君を責めてなんかいない。ただ、君が人間であるかどうかを確かめたいだけなんだ」

 

 淡々と言うフィリップだが、そのロジックを理解できているのはフィリップとエレナだけだ。村人はみんな頭の上にクエスチョンマークを浮かべたような顔をしていたが、エレナが「魔物が化けてるかもって疑ってるんだ」と言うと、「そんな可能性があるのか!」と驚きつつも納得していた。

 流石は冒険者だな、なんて褒められるが、これは冒険者というよりフィリップやエレナに特有の感性だろう。

 

 「僕が恐れていることは二つ。君が人外で、何か邪悪な儀式や魔術で人間社会を損なおうとしているかもしれないこと。もう一つは、君がそもそも人間社会を損なうレベルの人外であること。……というと、なんだか僕が人類を守ろうとしているような、物凄く高尚な人間に聞こえるな。“僕の住みやすい世界を”くらいにしておこうか」

 

 フィリップは少年をじっと見つめ、睡魔が侵攻を開始した頭で考える。

 

 彼の言葉の真偽を、どうにかして見極めたい。

 別にこの村がどうなろうと知ったことではないが、ここは王都から馬車で半日、フィリップたちの生活圏からかなり近い位置だ。何かの用事でルキアやステラが経由地にすることもあるかもしれないし、できるならクリーンな状態にしておきたい。

 

 何か、嘘を見抜くような魔術でも使えたらいいのだが──そんな魔術は存在しない。例外的に、ステラは支配魔術を使って「嘘を吐くな」と命令すれば疑似的に嘘を見抜くこともできるが、ルキアは自前の観察眼と社交界での経験を使うしかない。あの二人でもそんな便利な魔術を使えない、作れないということは、人間には無理なのだろう。

 

 そこまで考えて、フィリップの眠気に侵された頭に雷光の如き閃きが走った。

 ──人間には無理。では、人外では?

 

 「エレナ! ミナ呼んできて! 起こして連れてきて!」

 「えっ? いいけど、どうして?」

 

 フィリップの勢いに押されてつい「いいけど」なんて口走っているエレナだが、立場が逆ならフィリップは「嫌だ、自分で行って。そしてミナを起こすことの難しさを知って」と突き放すことを、彼女は知らない。

 

 「『契約の魔眼』だよ! あれなら嘘を吐けないようにできるんじゃない!?」

 

 天才的閃き。そして正解だ。

 フィリップにしては珍しく、なんて意地悪を言う必要もないくらいの、ステラがいれば満足そうに頷くだろう最適解。拷問の前に、ミナが宿に戻ってしまう前に思いついていれば、言うことはなかったのだが。

 

 「契約の魔眼……は、よくわかんないけど、とにかく姉さまを起こしてくればいいんだね? ちょっと待ってて!」

 

 駆け出したエレナがあっという間に見えなくなったのは、夜闇のせいばかりではない。あれほどの健脚ならすぐにミナを連れて戻ってくるだろう。

 

 予想より少しだけ遅れて戻ってきたエレナは、滅茶苦茶に不機嫌そうな顔のミナを連れていた。ミナはフィリップの予想通り、睡眠直後に起こされて死ぬほどかったるそうだ。ちなみに死ぬのはミナ以外の全員である。

 

 「……ねぇフィリップ君、もしかして、もしかしなくても、知っててボクを行かせたよね?」

 「まぁね。……ミナ、悪いんだけど、この人に契約の魔眼を使ってくれない? 『嘘を吐くな』って」

 「……どうして?」

 「それで人間かどうかわかるでしょ?」

 

 フィリップがそう言うと、ミナは深々と溜息を吐いて、それから口元を隠して欠伸を一つ。溜息が本体なのか欠伸が本体なのかは判然としなかったが、なんとなく、赤い双眸からは呆れたような気配が感じ取れた。

 

 「……はい、掛けたわよ」

 

 ミナが何かしたような気配は、フィリップにも少年にも、エレナにも分からなかった。ただ、少年は赤い双眸が血よりも鮮やかに輝いた気がした。

 

 「ありがとう。じゃあ改めて……君ってホントに人間?」

 

 フィリップは穏やかに、拷問などするはずもない、朴訥な田舎少年のような態度で尋ねる。態度の温度差が激しすぎて演技臭いが、どちらかといえばこちらの方が素に近い。尤も、フィリップの“素”は、およそ人間の精神性とは呼べない自己中心的の極みじみたものなのだけれど。

 

 「だ、だから、そうだって言ってんだろ! なんなんだよお前!」

 

 叫ぶように答えた少年に、フィリップはミナの方を見て、彼女が頷くのを確認した。

 レジストされてはいない──嘘を吐ける状態ではない。

 

 つまり、本当に。

 

 その確証を得て、フィリップはにっこりと笑った。

 

 「──ならいいんだ! じゃ、僕たちは宿に戻るので!」

 

 村人たちに手を振って去っていく、その、やけにあっさりとした引き際が、少年にはむしろ恐ろしかった。

 契約の魔眼なるものに聞き覚えはないし知らないが、きっと嘘を吐けなくなる魔術なのだろうと察せられる。そんなものを使ってまで訊くことが、「君って人間?」なんて意味不明な質問だった。

 

 それはつまり、フィリップは本気で、心の底からその一つを確かめるために行動していたということだ。

 全く理解できない。野菜泥棒がどうしても許せなくて、無理やりに「魔物の擬態かも」と口実を付けて甚振っていたと考える方がまだ納得がいく。というか、少年はそうだと思っていた。

 

 なのに、フィリップは本当にすっきりした顔で、ミナと一緒に村の方へ戻っていく。

 

 頭がおかしいと、さっきは悪態として、定型文としてそう言った。

 だが、今は確信していた。()()()()()()()、と。確信して、恐怖していた。

 

 人一人、或いは村人たち数人も含めた幾人かの心胆を寒からしめたことも知らず、「今日は本当に疲れたなぁ」なんて言いながら宿への道をミナと並んで歩くフィリップ。エレナはぷりぷりと怒っていたが、「あんなに簡単なら拷問なんて要らなかったじゃん」とか言っているので、フィリップの異常な思考には気が付いていない。

 

 「結局、あの人は蹄の持ち主じゃなかったんだね……何なのかな、アレ」

 

 明日の出発時刻までに分からなかったら嫌だな、と安穏と考えるフィリップ。最悪の場合は周囲一帯を丸ごと吹き飛ばすというのも、安心を得るための一つの手段として視野に入る。

 万が一の場合の安全策が一つでもあるというのは、ある程度の安心感を齎してくれるものではあるものの……ここは王都から馬車で半日の近郊だ。フィリップの生活圏にほど近いし、あまり迂闊なことはしたくない。

 

 「あぁ、あの蹄跡の正体なら分かったわよ」

 

 困ったように眉尻を下げたフィリップに、同じく眉尻の下がった──こちらは眠気のせいだろうが──ミナが欠伸交じりに応じる。

 

 そっか、と眠たそうに答えたフィリップの眠気に侵された頭に、言葉の意味がじわじわと染み込んでいって、漸く。

 

 「え!?」

 「そうなの、姉さま!?」

 

 妙なラグを挟んでの反応に、ミナが怪訝そうに片眉を上げた。

 しかし特に何も言わず、どこか不満そうな溜息を吐いて言葉を続ける。

 

 「……認めるのは癪だけれど、あの聖痕者たちがいれば一瞬で看破できたでしょうね。……あれは土属性魔術、初級にも満たないような、土の表面を僅かに震わせるような魔術の結果。見てなさい」

 

 ミナは道を少し外れて畑の方に踏み出したかと思うと、すぐに戻ってきて、指先を畑の方に指向した。

 

 村の明かりを頼りに歩いていたフィリップには、周りの景色はぼんやりとした暗がりに覆われていて不明瞭だ。ミナが何かしたのは分かるが、細かいところまでは判然としない。

 

 「わ、ホントだ!」

 「……暗くて見えないよ」

 

 不満そうに言ったフィリップに、ミナは「仕方ないわね」と面倒そうな溜息を吐いて、フィリップにも見えやすい道の上で再演してくれた。

 

 高いヒールの靴跡のついた土が、小麦粉を篩いにかけたように震えて砂粒が動き、靴跡が外側から徐々に崩れていく。最終的にヒールの部分が消えて、爪先部分が二回りほど小さくなり、靴跡とは判別できないへこみになった。

 

 箒や整備具で掃き均すより、もっと低次元な整地、隠滅だ。だが、“靴跡”の消去には成功している。

 

 「あの人間の魔力と畑に残っていた魔力残滓、多分、同じものなんじゃないかしら」

 

 なるほど、とフィリップとエレナは声を揃える。

 

 さっきの少年は「泥棒は今日が初めて」と言っていたが、それは魔眼を使われる前のこと。嘘だったのだろう。

 

 これまでの犯行は靴跡という証拠を消しているから、現行犯で捕まっても罪に問われるのは一回分だけ。領主裁判でも大きな罰は下されないと、そう踏んでのことか。

 

 「でも、魔術が使えるなら、足跡を変えるんじゃなくて消すんじゃない? だって、その方が調べられる確率は下がるでしょ? 足跡がないだけなら鳥の可能性もあるけど、変な足跡なんて、野菜が無くなってること以上に怖いもん」

 

 エレナが言うと、ミナは「さぁ?」と突き放した。いや、突き放したというか、初めからフィリップやエレナほど真面目に考えてはいないのだが。

 

 フィリップは少し考え、一つの仮説に辿り着く。

 ミナには想像もつかないような、しかしフィリップやエレナにとっては、そこそこ当たり前の仮説に。 

 

 「いや、本人としては、消したつもりだったんじゃない? それとも、消せなかった……消しきるほどの力が無いとか」

 

 「どういうこと?」とミナとエレナが声を揃える。

 フィリップはまず、一番目の仮説から説明することにした。「本人としては消したつもりだった説」、人間という昼間に生きて夜に眠ることを大前提にした身体設計をしている生物の、構造的弱点が生んだ陥穽であるという仮説。

 

 「暗闇に目が慣れたと言っても、人間の夜目には限界があるよ。ミナやエレナみたいに、昼間同然に物が見えたりはしない。本人としては消したつもりでも、朝になってみたら残ってたってこと」

 

 なるほど、と二人。

 反論が飛んでこないことに幾らか気を良くした、というか、自信をつけたフィリップは第二の仮説について語る。

 

 「消したくても消せなかった説」、フィリップもきっと同じ状況になるだろうという、実現に足る能力を持ち合わせていないという仮説。

 

 「それに、あの人は僕より二つ三つ年上っぽかったけど、魔術適性があるなら15歳になる年に魔術学院に入ってるはずだよ。つまり入学許可が下りない程度の魔術適性しかないんだ。土の表面を震わせて足跡を消したくても、足跡の周りの土をちょっと崩すのが精々か、全部消すと魔力枯渇で倒れるか、そんな程度しかね」

 

 ボクと同じ程度の、貧弱な魔術適性しかないんじゃないかな、と、自虐ではなく実感を込めて語る。水の槍を飛ばすのではなく水の塊を作るだけ、稲妻の槍は冬場のドアノブ以下の電圧・電流量で、火球を飛ばすというかマッチを投げる。初級魔術すら満足に扱えないフィリップにとって、そのレベルの無能は何も珍しいものではなかった。

 

 「……なるほど。じゃあ多分、その両方だね。あの子本人としては、足跡は完璧に消したつもりだったと思うよ。でないと、拷問されそうになったとき、タネを全部明かしてるはずだから。痛めつけられそうになってまで隠すようなトリックじゃないでしょ?」

 「かもね」

 

 いやあスッキリしたなぁなんて安穏と伸びをするフィリップ。

 例の少年が野菜を盗むに至る理由なんて、毛ほども興味がなかった。その後の処遇にも。

 

 謎が解けて気分爽快、懸念が杞憂に終わって安心。その程度の感傷しかないフィリップとは違い、エレナの表情はどこか物悲しそうだった。ミナはフィリップ同様に興味薄だが、それ以上に眠そうだ。

 

 「どうして学院はあの子に入学許可を出さなかったんだろう。あの子、独学で魔術を習得したってことでしょ? すごくない? ボクなんて爺に教わっても魔術が苦手なのに」

 

 すごいよね、と、数年前のフィリップだったら頷いていたところだ。先天的な才能があったのか、良い師に巡り合えたのかは分からないが、才能ゼロではないのだろうし。

 

 しかし今の、魔術学院で数年を過ごしたフィリップは、学院のカリキュラムに触れて、魔術教育でさんざん落ちこぼれて、才能の格差というものを実感している。

 

 才能ゼロではない──そんな程度の才能なら要らない。魔術学院とはそういうシビアな場所だ。

 いずれ王に仕え、国をより良い方へ導く統治機構、或いは知恵の湧出元、文明を発展させるモノとして有用であるものしか必要としない、最上位教育機関。

 

 「そりゃあ、箒で掃く程度の魔術を使って魔力枯渇するような、もしくは箒で掃くよりショボい魔術しか使えないようなのは要らないんでしょ。僕も入学したのは拘束代替措置だったし」

 

 フィリップが冷たく言った答えこそ、魔術学院と、王国の答えだった。

 

 何ならフィリップも学院の入学基準に照らせば“要らない子”だったはずだ。ルキアとステラに教わってそろそろ三年が経とうとしているが、未だに初級魔術の成功が安定しない、非才の身など。

 

 まぁ爆弾を野放しにするよりは、特例で15歳に満たなくとも編入を許可し、衛士団の言う通りに召喚術を教えるべきだという判断を下したわけだが。

 

 「え、なにそれ?」

 「……また明日話すよ」

 

 話していたら宿についていた一行は、欠伸交じりに自分の部屋に戻っていった。

 

 

 

 

 

 



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329

 「フィリップ君はさ、ちょっと怖がりさんだよね」

 

 旅程通り、昼前に村を出たフィリップたち。

 王都に向かう乗合馬車に揺られていると、エレナがふとそんなことを口にした。

 

 恐怖すべき場所で恐怖できない自覚はあっても、まさか恐怖に駆られやすいとは自認していないフィリップは、怪訝そうに正面に座ったエレナを見返す。

 

 キャラバン型の馬車にはフィリップたち三人の他に、王都に作物を卸しにいく農家の人が二人いたが、山盛りの荷物で一行とは隔てられていた。荷物の壁の向こうからかすかに話し声が聞こえるが、内容までは分からない。

 ということは、こちらの話し声も向こうには明瞭ではないはずだ。

 

 「……そうかな? 初めて言われたけど」

 

 或いはルキアやステラにもそう思われているのかもしれないけれど、少なくとも面と向かって言われたのは初めてだった。

 

 「だって、ただの野菜泥棒だって分かったのに、あんなにしつこく疑うんだもん。……そりゃ、経験的に怖くなっちゃうのは分かるけど、怖がりすぎだと思うな」

 

 フィリップは第二の意見を求めて、自分を膝に抱いているミナを見上げる。

 しかし彼女は二人の会話には興味がないようで、馬車の外を流れていく景色を見ている。話を聞いていた様子も全くない。

 

 「……いや、まあ、確かに、怖がりなのかもね」

 

 怖がりすぎ、というか、フィリップの抱く恐怖の全ては不必要な恐怖心だとは分かっている。

 誰が死のうが何が損なわれようが、本質的には無意味だと知っているから。

 

 フィリップの答えは、同意とは呼べない。意が同じではないのだから。だからその頷きはただの相槌だったが、エレナはお化けを怖がる子供を宥めるように、自信たっぷりに言う。

 

 「僕もそこそこ……あなたが生きてきたより長い時間、冒険してきたけれど……あんなのに出遭ったのは、あの一回きり。あんなの、この世界にはいちゃいけない、いるはずがないヤツなんだから。きっと、もう二度と遭うことはないよ」

 「……ははっ」

 

 フィリップは軽く、軽口でも聞いたように笑った。

 なんて楽観的で──視座の低い考え方なんだ、と。

 

 何かがこの世界に居てはいけないモノかどうかなんて、誰にも決められない。三次元世界を自由自在に操れる外神だって、本質的には泡に同じなのだから。フィリップもエレナも、旧支配者も外神も、その存在を担保しているものは何もない。強いて言うなら、幸運、だろうか。

 

 この世界は、ただの幸運ゆえに存続している。

 

 ただそれでも、存在の格差、単純な強さなんかを考えて。関係性が一方的であるかどうかを勘案して。存在の是非を決定する権利があるのは、どう考えてもエレナなんかではない。

 ついでに言うと、どちらかと言えば、いるはずがないのはエレナの方だ。広大な宇宙の片隅で──異種異形の犇めく星々の中で、地球という小さな星が木端微塵になっていないだけラッキーなのだから。

 

 「そういう意味で言ったのなら、間違えてるのはエレナの方だよ。僕は確かに、エルフにしてみれば赤ちゃんみたいな年齢かもしれないけれど、既に──」

 

 フィリップは指折り、人類領域外の存在と遭遇した例を数える。

 まず王都に来たあの日に幾千万……個体数じゃなく、回数で数えるべきか。クトゥグアとヤマンソとハスターも、まぁ自分から呼んだみたいなものなのでノーカウントだとして。

 

 王都地下のカルト共のせいで一回、田舎の森に棲み着いていた劣等種で二回、地下ダンジョンで遭遇したアイホートの雛で三回……ナイアーラトテップの試験空間にいた奴らとか、ディアボリカが連れていた土星の猫は省くべきか? じゃあショゴスやサイメイギも……サイメイギは体液入りワインだけだったが、これも省くとして。あとはエルフの集落の地下にいたアトラク=ナクアの娘で四回。先日の猟犬で五回か。それに追われていたらしい次元をさまようものを、同時同列にカウントするのは微妙なところだけれど。

 

 「五回? 意外と少ないな?」

 

 体感的には、もう十回以上は神話生物に遭遇したような感覚なのだけれど──まぁ、無理もない。未だ出会ったことのない邪神やその眷属の情報も、全て頭の中に入っているのだし。記念すべき一回目の、最大にして最悪の遭遇の時点で、詰め込まれているのだし。

 

 「い、いや、多いと思うよ? その全部であんなのが出て、襲われたんだとしたら、いま生きてるのも奇跡なんじゃない?」

 

 フィリップが生きているのは、残念ながら奇跡ではない。勿論、フィリップが存在していることは、前述のとおり奇跡的、幸運によるものなのだけれど──その生存に関しては、ほぼ確約されている。と思う。ヨグ=ソトースのスタンスは今一つ判然としないものの。

 

 死にたいと思っても、死が救済であっても、死は許されない──生存が確定している。

 

 そんなことを考えたフィリップは、皮肉そうに口元を歪めた。

 

 「んー……まぁ、直接対決したのは蜘蛛くらいだから」

 

 ミナの助力があったことを見逃してもいいのなら、猟犬もそうか。それでも五回中二回だ。

 

 思えば、どのケースでも賢く立ち回ってきたような気がする。過去回想に自画自賛が混じるのはよくあることだし、辛口に採点してみても、やっぱり我ながら凄いという感想しか出てこない。

 

 「……いや、でもさ、そんなに遭ったんなら、流石にもう遭わないんじゃない?」

 

 どうだろう、とフィリップは首を傾げる。

 

 1パーセントの不運を引いてしまうバッドラックなら、次の1パーセントも引いてしまうような気がする。そして0.01パーセントを引くほどの不運なら、その不運ゆえに、次の1パーセント、0.0001パーセントでさえ引くのではないだろうか。

 

 「大丈夫だよ! ほら、フィリップ君、運いいし!」

 「カードゲームの話だよね。何なんだろうねアレ。確率の揺り戻しとかホントに存在するの? 殿下は有り得ないって言ってたけど」

 

 というか、ステラはフィリップの「1パーセントの連続理論」は前提が間違っていると言っていたけれど。しかし詳しいところまでは覚えていなかった。

 

 信頼感の弊害だ。「それは違うぞ」と言われたとき、「どうして?」と疑問を持つのではなく「そうなんだ」とすんなり納得してしまうから、その後の説明の扱いがぞんざいになる。

 

 「ミナ、分かる?」

 「? 何が?」

 

 やっぱり聞いてなかった、とエレナとフィリップは苦笑を交わし、もう一度説明する。

 ほぼダメ元で聞いたフィリップだったが、ミナは意外にも「当然、意思決定点……観測時点によって事象の発生確率は見かけ上、変化するでしょう?」と、不思議そうに──どうしてそんな単純なことを訊くのだろうと言いたげに、端的に答えた。

 

 どういうこと? と明記された顔の二人に呆れ笑いを零し、ミナは空中に魔力の軌跡を残す指文字を描いて説明する。何気なくやっているが、そこそこ難しい技術だ。フィリップは真似しようとしても10回に1,2回しか成功しないし、不明瞭ですぐに消える。

 

 しかしミナの描いた樹形図は、馬車の中の虚空に淡い光を投げるほど明瞭だった。

 

 「賽子を三回、順番に振るとして……振る前に一の目が三回連続で出る可能性を考えたら、確率は幾つ?」

 「216分の1……あ、そうだ、思い出した! 殿下にも同じこと言われた!」

 

 六面ダイスのダイスロールを三回試行する、3D6で3が出る確率は、約0.46パーセント。

 ダイスロールをする前に考えた場合、その計算は正しい。

 

 しかし、既に二回の試行を終えて二回ともで一の目を出した後、最終一回のダイスロールでも一の目が出る確率は、つまり、ダイスロール一回で一の目が出る確率そのものだ。即ち、約17パーセント。

 

 すでに起こった事象は、現在時点における何かの事象が生じる確率を、直接変動せしめるものではない。

 

 1パーセントの不運が重なる確率は、何度状況を重ねても、その時点に於いては1パーセントでしかない。二度目の不運を引く確率が0.01パーセントにはならない。

 つまり──1パーセントを引いてしまうだけの不運があれば、不運は何度でも重なり得るということだ。

 

 そしてフィリップの不運が如何ほどかなんて、今更論じるまでもない。王都に来たその日にカルトに拉致されて、外神たちの前に引きずり出される以上の不運があれば教えて欲しいものだ。

 

 それはともかく。

 特大の不運を経験していようと、不運が重なっていようと、次の機会に不運に見舞われる確率は、全く変わらないということだ。

 

 「……でも、まぁ、エレナの言ってることも分かるよ。確かに、そうホイホイ連中に遭うはずもないよね」

 

 神話生物、フィリップが言うところの人類領域外の存在は、文字通り、()()()()()に棲むモノたちだ。

 地下深く、密林の奥、火山地帯、氷河、果ては宇宙空間までも。およそ人類の手が届かず、足の伸びないところに棲んでいるからこそ、人類はこの星の覇者のような顔をしていられる。

 

 しかし、人類史が始まって幾千年、人類の大半は未だに奴らを知らず、無知の闇の中で幸せに生きている。……ということはつまり、奴らとの遭遇は相当なレアケースだということ。

 

 まぁフィリップのように奴らの存在を知る人間が極めて少ないから、案外気付かれていないだけかもしれないけれど。

 でもそれは、気付かない程度の接触しかなかったということだ。

 

 ……確率の話に則るのなら、これまで不運だったからといって、1パーセントを引く確率が上がることはない。0.001パーセントを引くほど不運だったとしても、次の1パーセントを引く可能性は、やっぱり1パーセントしかないのだ。

 

 「これからボクたちで沢山冒険するんだから、あんまり悲観的にならないでよね! それに、ボクも姉さまもいるんだから、何が出てきても大丈夫! あの蜘蛛だって、もっと簡単にやっつけちゃえるよ!」

 

 拳を握って頼もしいことを言うエレナ。彼女の言葉には自分自身の強さと、それ以上の強さを持つミナへの信頼がある。

 

 フィリップとしても、ティンダロスの猟犬に対して優勢だったミナがいるのなら、じゃあ何に負けるんだとは思える。尤も、発狂リスクや、戦闘技術ではどうにもならないレベルの邪神が出てきたら終わりなのだが──それこそ、遭遇確率は1パーセントを下回るだろう。

 

 「……うん、そうだね」

 

 実習が終わって、卒業してからも、きっとミナとエレナとは一緒にいる。一緒に、色々な冒険をするだろう。

 その終わりが不随意なもの、或いは上位意思の介在したものではなく、せめてフィリップが不満を垂れ流しながら貴族になるような、平穏なものであることを願おう。

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ13 『冒険実習』 ノーマルエンド

 技能成長:なし
 SAN値回復:通常1d6のSAN値を回復する。

 特記事項:最終シーンにおいて同行者『エレナ』の説得技能が一定値以下で成功した場合、人間性値を回復する。クリティカル時、状態異常『油断』を付与する。


 次回シナリオタイトルは『緑色の水底』です。


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緑色の水底
330


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ14『緑色の水底』 開始です。

 必須技能は各種戦闘系技能、【クトゥルフ神話】です。
 推奨技能は各種探索系技能と【薬学】【化学】【博物学】などの調査能力を拡張する技能です。

 Peek-a-boo


 初回の実習でとんでもない高得点を叩き出した誰かのせいで、今年の冒険者コースは豊作だという言説が流れ始めてはや数か月。そろそろ前期の中間試験の時期を迎えた。

 本当に才能が豊作だったのかピグマリオン効果なのか、実際に例年よりも平均点が高く、冒険者コース担当のジョンソン教授はある懸念を抱いていた。

 

 もしかして──難易度設定を間違えたのでは? と。

 

 冒険者コースの目的は、勿論、冒険者を志す生徒たちに“冒険者とは何か”を教えることだ。

 勿論、冒険者コースの卒業生が全員冒険者になるわけではないし、そもそも王国としては冒険者になるような落ちこぼれの生徒がどうなろうと知ったことではない。

 

 しかしジョンソン教授は教師として、そして人間として真っ当な価値観を持っている。

 自分の教え子が死ぬというだけでも彼女には苦痛だが、それが無知ゆえとなれば、教師である彼女が殺したにも等しい。──少なくとも彼女はそう考えている。

 

 冒険者は時に未知なる場所に赴き、何もわからないまま未知の相手と戦うことだってある危険な職業だ。彼らでは倒せない魔物が衛士団に回されるという順番上、分不相応な相手を押し付けられることもある。

 

 そんな彼らの最大の敵は、未知。

 では次点、最大ではないけれど、彼らを殺すのに必要十分な威力のある“敵”は何か。答えは“慢心”だ。

 

 このぐらいは行けるだろう。

 その甘い考えが原因で死んだ冒険者は数多い。……彼女の教え子にも。

 

 このまま「自分たちは優秀なんだ」と思ったまま卒業すると、確実に死人が出る。これではよくない。何か、是正策を用意しなくては。生徒たちの鼻っ柱を折り、警戒心を植え付けられるような。

 

 「こういうとき、人脈があって良かったと実感するな……」

 

 ジョンソン教授は便箋を取り、一通の手紙を認めた。

 宛先は──冒険者ギルド・ギルドマスター。

 

 

 ◇

 

 

 「これより、冒険者コースの前期中間試験課題について説明する。各自メモを取るなどして、あとから質問をすることなどないように」

 

 ジョンソン教授の不機嫌そうな声と顔にも慣れてきた生徒たちは、夏前の気だるさに包まれた緩慢な動きで鞄を漁る。

 

 流石のエレナもその例に漏れず、気だるげに頬杖を突きながらかりかりとノートの端に落書きしている。フィリップに至ってはノートを間違えて持ってきていることに気づき、鞄に仕舞いなおす始末だ。

 

 「ごめんエレナ、ノート忘れたから後で写させて」

 「ん、いいよー。じゃあちゃんと書かなきゃ……」

 

 クラス全体の準備が概ね整ったことを確認して、ジョンソン教授が講義を再開する。

 フィリップも含めてノートを出していない生徒も何人かいたが、殊更に注意したりはしないようだ。

 

 「今回、君たちには本職の冒険者に対して依頼が出され、()()()()()()()()()調査依頼をこなしてもらう。君たちなら出来ると思ってのことではない。簡単な模擬依頼をこなせたからといい気になって、本物の依頼、本物の未知とはどういうものかを知らないまま現場に出すわけには行かないからだ。故に、中間試験の実技課題は極めて困難なものになる」

 

 「配点は二割。筆記試験の比重を八割へ引き上げる。筆記試験が通れば前期の実習課題をパスできる。……ただし、もしもこれらの依頼を達成することが出来れば、前期の実習課題は即、満点とする。筆記試験も受けなくてよろしい」

 

 筆記試験免除。

 その言葉が教室内に広がる速度が一瞬ではなく、むしろじわじわと「え?」「いま」「テスト無しって言った?」と浸透していくような遅々としたものだったのは、やはり夏前の気だるさのせいだろう。凄まじいデバフ性能だ。

 

 しかし、テスト免除という言葉はもっと高威力だ。倦怠感を吹き飛ばして余りある。

 

 「やった! 冒険者ギルドで使われる固有名詞とか全然分かんないから助かった! フィリップ君、頑張ろうね!」

 「うん! 一科目減るのはラッキーだ! 後でルキアと殿下に自慢しよう!」

 

 「ほどほどにね!」なんて言うエレナだが、表情に呆れや苦笑の気配は微塵もない。それだけ別言語の固有名詞は扱いづらいのだろう。

 

 教室内の喧騒がある程度落ち着くのを待ち、ジョンソン教授がパンパンと手を叩いて注目を集める。

 ここで騒ぎ続けてさっきの条件がナシになっては困るという考えは、教室の誰もが共有していた。

 

 「期限は三週間だ。それまでに学校に帰り着き、結果を報告すること。遅れたらその時点で失格とする。……では、これから依頼票を配布する。パーティーリーダーは前に取りに来るように。内容はランダムだが、パーティー同士で交換できないよう、配布時にこちらで控えておくので留意すること」

 

 浮足立った生徒たちが、ジョンソン教授が話し終える前にぞろぞろと立ち上がって列を成していた。

 

 ジョンソン教授は呆れ顔だが、怒ってはいないように見える。

 まあそうだろう。ハイテンションでいられるのは、どう考えても今のうちだけなのだから。

 

 「エレナ、いい感じの依頼引いてね!」

 

 初めての模擬実習が森での薬草採取で、満点を取った二人──正確にはミナもメンバーの一人だが、彼女はエルフの王女様の護衛という扱いなのでテストも成績も関係ない。

 

 ともかく、あれから二人は三度の模擬依頼をこなした。

 洞窟ダンジョンの探索と、荒野での毒蛇捕獲、そして街道沿いの魔物討伐。徐々に難易度が上がっていったものの、特にトラブルもなく、平均より少し上くらいの点数をキープしてきた。

 

 勿論、カルトや神話生物にも遭っていない。エレナの言葉通り、楽しく、しかし難題や問題点もあった、心躍る冒険だった。戦闘面をほぼミナに依存できるのが本当に心強い。……まぁ、気が乗らないからパス、とか言い出したこともあったけれど。

 

 しかし、流石にエルフとヴィカリウス・システムという反則級のカードを持っているだけあって、森でのパフォーマンスが桁違いのパーティーだ。

 

 つまり狙うは。

 

 「任せて、森の依頼を引いてくるよ!」

 

 そう、森だ。

 調査依頼ということは、武力よりも知識量と観察眼が必要になる。が、フィリップも、エレナも、ミナも、知識量で言えば常人よりは多いだろうが、それぞれ変な方向に偏っている。

 

 しかしフィールドが森であるのなら、エレナにとってはホームグラウンド、シルヴァにしてみれば掌の上みたいなものだ。森を調べるなんて、二人に掛かれば息をするように簡単なこと。

 

 果たして──エレナは顔を輝かせて戻ってきた。

 

 「やったよフィリップ君! 大当たりかも!」

 「いいね! カード見せて!」

 

 僕の勝ちだ。本職の人間でも達成出来なかった調査だか何だか知らないが、テスト免除のために散るがいい。

 そんなことを考えながら、薄汚れた赤いカードを覗き込み──首を傾げる。

 

 「……いや、無理だけど?」

 

 依頼名──『湖の水質汚染の原因解明』。

 どう考えても王宮の学者とか研究職系の魔術師がやるべき内容だった。

 

 なのにどうしてエレナは満面の笑みで、「楽しみだね!」なんて言っているのか。

 

 「エレナ、水質調査なんて出来るんですか?」

 「え? ううん、できないよ。フィリップ君もでしょ?」

 「そりゃあ、まぁ」

 

 そんな経験もノウハウもない。具体的に何をどうすればいいのかも分からないレベルだ。だというのに、何故。

 

 フィリップの疑問は表情だけで伝わったらしく、エレナは「よく考えてよフィリップ君」なんて言いながら自分の席、フィリップの隣に座る。そして。

 

 「水遊びできるじゃん! ボク、泳ぐの久しぶりなんだ! 楽しみ! あ、現地に着いたら、ボクの魚捕りパンチ見せてあげるね! 水中でばーんって……どうしたの?」

 

 エレナが目を留めたフィリップの苦い笑顔のわけは、「なんか滅茶苦茶楽しそうだし、楽しみにしているみたいだけれど──どの程度の汚染かも分からないのに興奮しすぎじゃない?」と脳内で批判しているからだ。

 そりゃあ、水がちょっと濁っているとか、藻が大量繁殖しているとかなら、泳げないことはないだろうけど。

 

 「水が毒になってるとか、滅茶苦茶強酸性とかだったらどうするの? いや、そんなことがホントにあるのかは知らないけどさ」

 

 昔に読んだ児童書に登場した魔境秘境の類を思い出して言ってみただけのフィリップだが、実はどちらもそう非現実的な可能性ではなかったりする。特に火山地帯の湖では。

 まぁ、今の段階では行先さえ分からないので、懸念の一つとして言ってみただけだ。

 

 エレナはなぜか得意げな顔で、自信たっぷりに笑った。

 

 「フィリップ君らしからぬ愚問だね……そんなの、解決してから泳げばいいのさ!」

 

 ……紙一重、と言うけれど。彼女はどっちなのだろうかと真剣に考えるフィリップだった。

 

 

 

 

 

 

 



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331

 投稿場所間違えちゃった♡ 教えてくれた方、ありがとうございます!!


 実習コースの授業が終わったあと、フィリップはエレナと別れてすぐに教室へ戻った。

 いや、エレナがフィリップと別れて図書館へ行った、と言った方が的確か。今回の依頼実習の行き先についてミナと話してくると言っていたエレナだが、王国の地理についてミナが知っているとは考えにくいので、フィリップはパスした。

 

 「シリル湖? 王国北部の観光地ね」

 「正確には()()()()()だな。元は“心鏡(こころかがみ)の湖”とも呼ばれるほど澄んだ水が有名だったが、数年前に原因不明の酷い汚濁が起こって、今ではただの、辺鄙な場所にある大きな水溜まりだ」

 

 教室でいつものように隣に座ったルキアとステラの言葉に、フィリップは「やっぱり」と頷く。

 ミナのいた古城、そして魔王の領域である暗黒大陸は大陸南部に広がっている。そして依頼実習の行き先であるシリル湖は、暗黒大陸から見ると王都よりさらに北だ。ミナがそこまで浸透していたら、人類は今頃半減している。

 

 彼女の性格的に、遠出して観光を楽しむタイプでもないし。

 

 「汚染っていうのは? ……泳げる程度ですか?」

 「いや、私も概要報告を見ただけで、詳しいことは知らないが……泳ぐつもりなのか?」

 

 水が汚染されていると明記されて、調査しても原因が分からなかったということまで分かっているのに? こいつはこんなに楽観的なバカだったか? というステラの内心を声ではなく表情から読み取ったルキアだったが、柳眉を逆立てることはなく、むしろ困ったように眉尻を下げた。

 

 確かにフィリップは時々怖いほどに楽観的だが、考えなしの馬鹿ではない。考えた結果として、やっぱりどうでもいいから楽観するだけだ。

 

 そしてフィリップは基本的に、痛いことと苦しいこと、そして怒られることは嫌う。

 そのフィリップが汚れた水で泳ぐなんて露骨に病気になりそうなことをするとは考えにくい。なのに一体、どういう風の吹きまわしなのか。

 

 「いえ、僕じゃなくて……エレナが」

 「……そうか。まぁ、うん、現地で水の感じを見てから決めたらどうだ?」

 

 やっぱり、と言いたげな苦い顔のルキアが頭を振る。

 まぁ彼女にとっては、エレナが汚水にダイブして病気になったところで胸はちくりとも痛まないのだが……感染(うつ)されても困る。

 

 「ですね……。ところで、その概要報告ってどこで見られますか?」

 「王国が調べた時の資料なら、うちに保管されているか、宮廷錬金術師の資料保管庫か……いや、待てよ? 確か写本作業の時に書庫を開けたんだった。……レオンハルトが持っているんじゃないか?」

 

 「レオンハルト先輩が? へぇ……」

 「あの龍狩りの一件で獲得した報酬の一つだな。王国が所有する全学術的情報への無制限アクセス権。現存する資料の譲渡……勿論、希少度の高いものは写本になるが。当然ながら公開することまでは許されていないが……お前なら問題ないだろう」

 

 なんでまた彼女が? という疑問がフィリップの顔に出る前に、ステラが補足をくれる。

 次は「なんで僕はいいんだろう?」なんて疑問も浮かびそうな特別扱いだが、流石にそこまで鈍感ではないフィリップは、「まぁ僕も龍狩りの英雄らしいしね」と納得顔だ。

 

 ちなみに不正解である。

 開示された資料の中には王や宰相の他には筆頭宮廷魔術師や筆頭宮廷錬金術師にしかアクセスできないものもある。禁呪や邪法と呼ばれる類のもの、強力な魔術儀式の方法なんかだ。

 

 王国の中枢しか知らないような情報もある。

 では何故フィリップならいいのかというと、フィリップはどうせ、その()()()()()になるからだ。残念ながら。

 

 「シリル湖か……子供のころに何度か行ったが、いい所だったぞ。今がどうなっているのかは知らないが」

 

 へぇー、とのほほんとした相槌を打つフィリップ。

 これまで観光名所や風光明媚の類には然して興味はなかったものの、そう言われると、ちょっと行ってみたくなる。いや、行くのだが、汚染調査ではなく、綺麗な状態を観光しに行くという意味で。

 

 「フィリップは行ったことあるの?」

 

 ルキアの問いには頭を振って答える。

 田舎から出たのは王都に来る時が初めて──物心つく前に何度か旅行に行ったことはあるらしいが、覚えているのは兄のオーガストだけで、全く記憶になかった。常に父か母に抱かれていた時分らしいので無理もないけれど。

 

 「じゃあ、もしフィリップたちが水質汚染を解決出来たら、夏休みに一緒に行きましょう?」

 「いいですね! ……って、そうなると責任重大ですね。頑張ります」

 

 答えると、ルキアは嬉しそうに、しかし気品を損なうことなく柔らかに微笑んだ。

 

 試験免除はともかく、そう期待されると、ちょっと肩が重くなる気分だ。

 というか水質汚染の解決なんて、どう考えても冒険者の領分ではない──というか、元の依頼だって「原因解明」であって「問題解決」ではないのだけれど。

 

 しかしまあ、原因が魔物の類だったらミナに頼るか、最悪邪神を呼んでブチ殺せば解決だ。

 残念ながら湖一個の水質汚染となると、環境要因である可能性の方が高そうだけれど……汚染源があるようなものなら、やっぱり邪神を呼んで吹き飛ばせば解決しそうではある。何なら、今ある湖を溜まった水ごと蒸発させて一から作り直したっていい。

 

 ……いや、駄目か、流石に。そんなモノ、たとえ観光名所級に綺麗でもあまり見せたくないし。

 

 「夏休み? 建国祭はどうするんだ?」

 「主賓が一人居なくなるくらい、問題ないでしょう?」

 

 ルキアとステラの会話に、フィリップは怪訝そうに眉根を寄せる。

 

 「……? 二人では?」

 

 ステラは主催側だから主賓にはカウントされないのかな、なんて考えるフィリップだが、フィリップに言われるまで、ルキアは二人で──旅の世話をする使用人は除いて──行くつもりで「一人」と言っていた。

 

 「貴女も来る? 建国祭が第一王女不在になるけれど……まぁ、学院長がいるし良いんじゃない?」

 

 フィリップがそのつもりなら、旅の仲間に親友が加わることに否やは無いルキアだが、ステラは無邪気に友達と旅行できる身分ではない。国を挙げての催しがあるとなれば尚更だ。

 

 そう配慮してのことだったが、彼女も大概、その手の政治的仕組みには無頓着だ。それが許される超特権階級の聖人でもある。

 

 そしてそれは、ステラもそうだ。

 

 「…………行く」

 

 彼女はたっぷり10秒は考え込んでから、口の端でそう答えた。

 

 

 ◇

 

 

 案の定、ミナもシリル湖については全く知らないとのことで、エレナはしょんぼり顔で教室に帰ってきた。

 そしてフィリップとエレナは、放課後に揃って学院を出た。流石に準備もしていないので、実習に出たわけではない。

 

 二人が向かったのは、初回の実習課題である薬草探しと三回目の課題だった毒蛇捕獲で色々とお世話になったフレデリカの所だ。もうすっかりフィリップたちのパーティーの知恵袋である。ちなみにミナは「あの家は臭いから行きたくない」とのこと。たまにフィリップでも分かるほど濃い薬草や薬品の臭いがするから、無理もない。

 

 扉をノックすると、いつかのように「どちら様でしょう?」と警戒心を感じさせる声で誰何される。フィリップが名乗ると気配が和らぐのも、いつもの通りだ。

 

 「やあ、カーター君。それにエレナさんも、来てくれて嬉しいよ! さぁ、上がって!」

 

 おじゃましまーす、と声を揃えて玄関を潜る二人。なんだか姉弟のようにも見える、邪気を感じないコンビだった。……まぁ実際、エレナだけでなくフィリップにも邪な気は一切ないので間違ってはいない。フィリップは至って純粋に、そして無垢に、この世の全てを蔑視しているだけだ。

 

 リビングに通されて少し待っていると、フレデリカがティーセットを持ってきてくれた。相変わらず、使用人は雇っていないようだ。懐には余裕が……押し潰されるほどの余剰があるはずなのだが。

 

 「実は昨日、マカロンを作ったんだ。手慰みだけど、良かったら食べて」

 「わーい! ありがとうフレデリカさん! ……わ、おいしいね! 外はぱりぱりしてるのに、中はしっとりしてる! 見た目も可愛いけど、食感が楽しいね!」

 

 興奮するエレナの隣でフィリップも「甘くて美味しいです」と不器用な感想を述べつつ、何でもできるなこの人、などと感心する。

 

 ちなみにマカロンはただレシピ通りに作ればいいというものではなく、作る部屋の環境によって出来栄えが変わる、製作難易度の高い菓子だ。

 前回は生地を一日寝かせたらベストな出来栄えだったのに、今度は二日寝かせないとベストにならなかった、なんてこともある。

 

 フレデリカが立ち上げた“王国最高の研究機関”の設備として現在王国が総力を挙げて建造中の、特殊実験室。光量、室温、湿度、気圧などを自由に操作可能な環境再現型実験室のテストとして作られたものが、今二人が食べているマカロンだった。

 

 「それは良かった。それで……今日は、どうしてここに? 勿論、ただお茶を飲みに来てくれたのなら嬉しいけれど、そうじゃないんだろう?」

 

 ソファに浅く腰かけて、少しだけ残念そうに言うフレデリカ。相変わらず、気の置けない話し相手に飢えているらしい。

 アンティーク調の家具と彼女の貴公子然とした振る舞いはよく似合っていて素晴らしく絵になったが、ドキドキしているのはフィリップだけで、エレナは全く平然としていた。普通は逆ではないのか。

 

 「はい。実は──」

 

 今度は実習課題で湖の水質汚染の原因を探ることになったと言うと、フレデリカは質の悪い冗談でも聞いたような苦笑を浮かべた。

 

 「シリル湖の汚染を? あれは宮廷錬金術師でも分からなかった、匙を投げたような問題なのに……鼻っ柱を折りに来たんだね」

 「……何とかなりませんか?」

 「うーん……私も資料では知っているけれど……水質悪化と汚濁が主な異常らしいよ。水草や藻類の異常繁茂は無し……だったかな。少し待ってて」

 

 フレデリカは紙束を読みながら持ってきて、フィリップたちに渡した。

 紙は宮廷錬金術師や学者たちで構成された王国の調査団が記した調査記録で、内容は概ねフレデリカが語った通りだ。

 

 「資料には調査の手順も載ってるし、持って行くかい? 特殊な薬品とキットを使う手法もあるみたいだけど、このぐらいなら用意してあげるよ?」

 「え? でも──」

 「いいの!? ありがとう、フレデリカさん! ぜひお願い!」

 

 学者がやって無理だったのなら、学生風情が見様見真似──どころか、記録を読んで道具と手法だけ真似たところで、有益な情報は得られないのではないだろうか。

 そう思ったフィリップが言葉にする前に、エレナが嬉しそうに言った。

 

 「あぁ、任せて。それにしても、凄くモチベーションが高いね?」

 「泳ぎたいからね!」

 

 原因不明の汚染を受けた湖で? と思ったフレデリカだったが、まぁ流石に汚染された状態では水に入ったりしないだろうと一人で納得する。

 実際はちょっと怪しいというか、一見して大丈夫そうだったらダイブしそうなほど、エレナの「泳ぎたい欲」は高まっているのだが……。

 

 「じゃあ、道具と薬品を準備しておくから、二日くらいしたら取りに来てくれるかい?」

 「ありがとう! その時はボクたちがお菓子を持ってくるね!」

 「それじゃあ私も、市販品にも負けないように腕によりをかけて傑作を仕上げておくよ」

 

 それはなんだか本末転倒な気がする、と思ったフィリップとエレナだったが、マカロンが美味だったので何も言わなかった。

 

 

 



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332

 課題開示から一週間。

 フレデリカから調査キットを受け取ったフィリップたちは、馬車で四日ほどかけて、目的地の湖に到着した。

 

 シリル湖は周囲を深い森に囲まれた湖で、資料によると、周囲長10キロ、最大水深200メートルの氷河湖だ。元は月夜に凪いだ湖面が鏡のように夜空を反射して美しく輝き、そこを訪れた王家の人間が「湖の精に心の中を覗かれた」というよく分からない伝説を残したことから、“心鏡の湖”と呼ばれる観光名所だった。

 水質汚染が観測されたのは五年前で、原因不明のまま年々悪化しているとのこと。

 

 どんなものなのかというと、湖全体が毒々しい緑色に濁り、風に吹かれて消える程度ではあるものの、僅かながら腐臭も感じるほどだった。

 

 「泳ぐのはやめとこうね、エレナ」

 「そ、そうだね……」

 

 三人の中で一番五感の鈍いフィリップが気付くということは、エレナにはもっと酷い臭いに感じるはずだ。ミナなんて、今にも帰りたいほど──?

 

 「……ミナは?」

 

 振り返ると、さっき森を出るまで二人の後ろにいたはずのミナが、忽然と消えていた。

 何かに奇襲された──わけでは、勿論ないだろう。何に襲われたとしても、ミナが声を出す間もなくやられるとは考えられない。

 

 自分からどこかに行ったのだろうが、何故、何処に行ったのか。フィリップは何も聞いていないからエレナに尋ねたのだった。

 

 「姉さまなら帰ったよ。「魔物がいないなら私の出番も無いでしょう? こんなゴミ捨て場みたいなところに居たくないし、帰るわ」だって」

 「……流石、自由だなぁ」

 「「お腹が減ったら血を吸いに来るし、何かあったら呼んでいいわよ」って、あなたに伝言。……うぅ、ボクも帰りたいよ。酷い臭いだ……」

 

 フィリップはもう鼻が慣れ始めているのだが、流石に感覚の鋭敏な種族は違うらしい。

 

 「確か、湖畔に管理人の夫婦がいるんだよね? 宿を借りられないか聞いてみない? 野営するつもりだったけど、この臭いはちょっとキツいよ。遮る壁とドアが欲しい……」

 「レオンハルト先輩が言ってたね。どうせ調査のことを伝えに行くんだし、頼んでみようか」

 

 管理人というのは、この湖がある地域の領主から任ぜられて、湖の監視をする仕事だそうだ。

 汚染が始まる前は老夫婦が任されていたそうだが、汚染の一件で管理の不備を指摘されて引退し、今は若い夫婦がその職に就いているらしい。先代から引き継いだ、湖畔にあるコテージに住んでいるのだとか。

 

 フレデリカからはその情報と一緒に、「調査の前に挨拶するんだよ。温厚な人たちだとは聞いてるけど、汚染の犯人扱いはされたくないだろう?」と言われている。

 

 テントだの保存食だのを詰め込んだ重いリュックを背負い──情けないことに、フィリップよりエレナの方が持っている量が多い──よちよちと湖畔を歩く。

 砂利っぽい浜は歩きにくかったが、エレナはそれ以上に臭いの方がキツそうにしている。フィリップはもう完全に慣れているのに、可哀そうなことだ。

 

 コテージは二人暮らしにはやや大きいものの、造り自体は華美なところのない簡素なものだ。築年数はあるようだが、よく手入れされていて、本来であれば美しい湖の景観を損なうことなく、むしろ飾るように寄り添っていただろうと思わせる純朴な外観だった。

 

 「すみません、管理人の方、いらっしゃいますか?」

 

 ノックして呼びかけると、ドアの向こうから「お待ちください」と返事があった。

 リュックを下ろして口元を押さえているエレナの方を向いたとき、ちょうどドアが開いた。

 

 顔を見せたのは、くすんだ金髪と青い目を持つ妙齢の女性だ。どこか陰のある美人といった顔立ちだが、心なしか肌の血色が悪く、一見しただけだと実際より老いて見える。やはり、湖の臭気が毒なのだろうか。

 

 「貴方たちは……?」と困惑も露な彼女に依頼票を見せて事情を説明し、ついでにエレナの体調のことも伝えると、「エルフの国と国交を回復したとは聞いていましたけど、本当だったのですね……」と驚きつつも、湖を調査することと、ベッドを一つ貸すことを了承してくれた。

 

 コテージには寝室が一つしかなかったものの、ベッドは二つあった。一つは管理人の彼女──エレーヌ・ルモンドと名乗った──が使うので、フィリップはリビングのソファで寝ていいとのこと。フィリップだけテントで野営というのも嫌なので、お言葉に甘える。

 

 「コテージはお好きに使ってください。お風呂とトイレと、キッチンも。でも、水は湖の水じゃなくて、裏手の井戸から汲んだものを使うようにしてくださいね。綺麗な地下水でないと、病気になってしまいますから」

 「そりゃあ、そうだろうね……」

 

 憂鬱そうに言ったエレナがリュックを持って寝室に引っ込んだ。

 フィリップはリビングに残って、エレーヌと話を続ける。

 

 「あと、管理用のボート小屋には鍵がかかっているので、使いたいときは私に言ってください」

 「ありがとうございます、ルモンドさん。旦那さんにもご挨拶とお詫びがしたいんですけど、今はどちらに?」

 

 夫婦で住んでいるからベッドが二つあるのだろうが、その片方をエレナが使うとなると、必然的にエレーヌかその夫がもう片方のベッドに移動することになる。まぁ夫婦なので慣れてはいるだろうけれど、急に追いやられていい気はしないはずだ。

 

 そう思って聞いたフィリップだったが、エレーヌは元々どこか陰を感じさせる顔を更に曇らせた。

 

 「……夫は死んだわ。だから気にしないで」

 

 気にしないで、と口にする時にはエレーヌはもう涙声だったので、気にしないなんてことは普通は絶対に無理だったのだが、フィリップは普通ではない。

 そりゃあ誰かを不意に傷付けてしまったことに対する罪悪感は人並みにはあるものの、そもそも「まあ人間は死ぬものだよね」とか思っているから、受けたショックは罪悪感の分だけだった。

 

 「あ、すみません、すごく不躾なことを……。不躾ついでに質問なんですが、それは湖の汚染が原因で?」

 「分からないわ。ごめんなさい、子供の前で泣くなんて、私……」

 

 問いを重ねられて本格的に泣き始めたエレーヌに、流石のフィリップも戸惑った。

 周りに年上の女性が多いフィリップだが、感情を表出させるタイプは少ないから、誰かを慰めた経験はかなり少ない。ミナは感情に正直だが、泣くようなタイプではないし。

 

 だからこそ、まさか泣くとは思わなかったのだが。

 

 「……何してるのさ、フィリップ君。ごめんなさい、エレーヌさん。この子、少し人の心に鈍いところがあって……」

 

 コテージの壁で臭いが遮断されてある程度は気力を取り戻したらしいエレナが、不機嫌そうな顔でのそのそと寝室から出てくる。

 彼女はエレーヌを慰めるように背中を擦りながら、もう片方の手でフィリップに「あっち行ってて」と示した。

 

 扱いがひどいんじゃなかろうか、なんて考えつつも大人しく従うフィリップ。

 「水でも持って行くべきだよね」とコップを持ってコテージの裏にあるという井戸を探しに出た辺り、人の心がない、は言い過ぎにしても、“人の心を残している”というべき状態ではある彼にしては、抱いた罪悪感は大きい方だった。

 

 コテージの裏には、井戸だけでなく、小さな花壇もあった。

 綺麗な花が並ぶ花壇の奥には、ぴかぴかに磨かれた大きめの石がある。察しがついたフィリップが近づいてよく見ると、やはり、墓石だった。

 

 『穏やかなる守人に安らげる眠りを。ニコラ・ルモンドここに眠る』と墓碑銘が刻まれている。

 

 「没年は……五年前。それに死因は分からないって言ってたな……あー、やだやだ、凄く嫌な予感がする」

 

 エレナにも言われた通り、そしてここ何回かの冒険でそうだったように、()()()()()()と遭遇する確率は決して高くないのだ。湖を汚染するような輩にいくつか心当たりはあるものの、人類領域外の存在がいる確証はないし、気にしすぎるのはストレスだ。

 言われたではないか。怖がりすぎだと。

 

 「うん、そうだよ。僕がビビリなだけだって」

 

 ぴかぴかに磨かれた御影石に反射する自分に向かって、フィリップは強く言い聞かせた。

 

 「でも五年も前にしちゃ反応が過敏じゃない? まだ吹っ切れてない……吹っ切れられないような死に方だったのかな」

 

 それだけ愛が深かったんだよ、とか、引きずるタイプなんだろう、とか、そんな突っ込みをくれる人は、生憎と傍に居てくれなかった。

 

 

 

 

 



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333

 フィリップが戻ってきたときには、もうエレーヌは泣き止んでいた。

 まだ目元が赤く腫れていたものの、涙は出ていないし、「さっきはごめんなさい。驚かせてしまって」なんてフィリップのことを気遣ってくれた。

 

 それからフィリップたちは本格的に湖を調査することにして、持ってきた道具やら装備やらを弄って準備する。

 興味深そうに見ていたエレーヌは、「まあ、王国の調査隊と同じくらいの器材ね」と驚いていたが、それをベースに用意してもらったものなので当たり前と言えば当たり前だ。

 

 タオルに砕いた炭を挟んで作った防臭マスクを付けたエレナは、漸くサムズアップして探索開始の合図にした。

 目元しか見えていないし、一言も発していないのに「これでよし!」なんて楽しげな声が聞こえた気がしたのは、フィリップが凄いのかエレナが凄いのか。

 

 フレデリカに貰った手引書に従って、湖の水を採取しては試験管に小分けにして、そこに薬品を入れて変化を見る。

 

 ある試験管は緑色に濁った水が一瞬で透明になったかと思うと、次の瞬間には鮮やかな赤に変色した。手引書によると、赤が濃ければ濃いほど純粋な水から遠いらしい。汚染発生以前の基準色は、淡いピンク色。そりゃあ湖の水が純粋であるはずがない──魚のフンとか、色々混ざっているだろうし──とはいえ、流石にちょっと色が濃すぎる。

 四年前の調査記録によると、当時はやや濃い目のピンクと言ったところ。順当に汚染が進んでいると見ていいだろう。

 

 「次は酸チェック……あれ? 反応薄いな?」

 

 次の試験管に入れた薬品は溶液の性質を見るもので、酸性だと黄色く、アルカリ性だと青くなるのだが……湖水は、まあ強いて言えば黄緑寄りになったくらいで殆ど無反応だ。

 ただ、四年前の実験記録だとやや青寄りになるはずなので、弱アルカリから弱酸へ変質している。

 

 「次の項目は……臭気? 測定方法は個人の判断? 急に大雑把だなぁ……」

 

 とかぼやいていると、エレナが調査記録用のバインダーを引っ手繰って「大いに問題あり」と書き込んだ。多分そういうことじゃなくて、具体的に「腐臭」とか「刺激臭」とか書くべきなのだろうけれど、フィリップたちは調査記録を残すためではなく原因解明のための手段として手がかりを探しているだけなので、これでも別に構わない。

 

 「ベクトル的には腐臭、だよね。案外、死体が山ほど捨てられたりして……まぁ、無いか」

 

 こんな広い湖を汚染する数の死体が放棄されていたら、管理人はまぁ気付くだろう。

 ただ、この辺りからもう少し北の山側に行くと、竜巻が頻発することで有名な場所がある。なんでも、その辺りに成龍の群れがいるのだとか。

 

 竜巻で大量の死体──人間に限らず、動物や植物なんかの死骸が大量に巻き上げられて湖に落下し、腐敗してしまったという説は無理筋ではない。……と、四年前の調査記録にそういう考察が乗っている。

 

 ただ、潜水調査は研究者たちの体調を考えて実施されなかったとはいえ、調査中に動物の死骸が一部でも見つかったという報告は無かったらしい。おそらく、水質汚染を切っ掛けに野生動物の大半がこの水源を離れたのだろう。

 

 「あとは鉛と硫黄とヒ素の含有率……なんで氷河湖だと可能性が低いんだ? ……まぁいっか」

 

 手順通りに薬品を使って各種パラメータを計測するものの、どれも汚染原因として有意であるという結果にはならなかった。

 そりゃあそうだ。ここまでは四年前の王国調査団の真似でしかない──原因不明という結論を出した調査の繰り返しでしかない。

 

 何か、工夫を加える必要がある。

 

 「うーん……なーんも思いつかないや」

 

 そりゃあ、まぁ、特に理系というわけでもなければ、この手の科学的調査のノウハウがあるわけでもないフィリップに思いつくことなら、プロの集団がとっくに思いついて解決しているだろう。

 

 「エレナはどう思う? なんか原因に心当たりとかない?」

 

 口元をマスクで覆ったエレナは、無言のまま首を振って否定する。その時にちょっとマスクがずれて、慌てて直していた。

 

 一応は先人に従って器材をカチャカチャ弄り回すこと数時間。だんだんと日が傾いできて、遂に空が朱色に染まり始めた時には、フィリップもエレナも完全に諦めムードだった。

 

 ちょんちょんとフィリップの肩を叩いたエレナがコテージの方を指し、「帰ろう」とか「今日は終わりにしよう」といった感じのジェスチャーをしたので、フィリップもすっぱりと粘るのを止めた。

 

 コテージに戻ると、エレナは「ぷはー!」なんて解放感溢れる声を上げてマスクを取り、上着を脱いでソファにダイブした。

 

 「フィリップくーん、どうしよー! なにも分かんないよー!」

 「僕だってそうだよ……」

 「ぐぇ……」

 

 徒労感に任せてソファに座る──ソファに寝転がったエレナの上に座る。

 普段なら「このやろー!」なんて笑いながら逆襲してくるエレナも疲れ切っていて、呻きを漏らしたきりだった。子供一人分程度の重さで苦しくなるほどヤワではないはずなので、それもただのリアクションだろうが。

 

 「どうしよう。浮き輪持ってきたのに……」

 「うーん……まぁ、湖畔でチマチマ水を弄ってても仕方ないよね。明日は湖の周りをぐるっと回ってみて、何もなければボートを借りて水上に出てみようか」

 

 フレデリカの教えに従って。

 何なら水質の調査も、湖畔の一端ではなく、水深別に水を採るべきだというのが彼女の主張だったのだが、王国の調査隊は一部採取式だったのでそちらに倣った。

 

 「森から何かが流れ込んでるってことは……」

 「無いだろうね。来るときにシルヴァが森を爆走して遊んでたけど、おかしなことは何もないって言ってたし」

 

 そっか、とエレナが力なく呟いて、しばしの沈黙が通り過ぎる。

 黙考ではなく、完全に思考が停止しての沈黙だった。

 

 「……そういえばさ、ここの湖って、“湖の精”がいるんだっけ?」

 「ニンフとか、ウンディーネとか? ボクは会ったことないけど、フィリップ君はあるの?」

 

 “心鏡の湖”の異名は王家の人間が「湖の精に心を覗かれた」という言葉を残したのが由来らしい、という逸話を思い出したフィリップが呟く。

 エレナが具体例を挙げるが、どちらも伝承上の存在だ。村の近所に森があったフィリップは樹木の精であるドライアドが身近だったが、湖の精は本でしか知らない。

 

 「僕も本で読んだだけだよ。すごく美人なんでしょ?」

 「らしいねー。でも、姉さまより美人なんてことある?」

 「知らないよ……マザーより美人ってことは無いだろうけど」

 

 と、ぐったりしながら全く脳を使わずに脊髄で会話していると、不意に煙っぽい臭いが鼻を突く。

 

 すわ火災かと飛び起きた二人に、キッチンで薪に火をつけていたエレーヌが驚いて肩を震わせた。

 

 「あ、ご、ごめんなさい? そろそろ夕食の用意をしようと思って……貴方たちの分も用意するわね」

 「いいの? ありがとう、エレーヌさん! じゃあ、ボクたちの持ってきた食料を使ってよ! パンと干し肉と、スープに入れるスパイスもあるよ!」

 「……ありがとうございます。調理……は難しいですけど、何か手伝いますね」

 

 家事系は、意外にも──というと失礼だが──エレナの方がフィリップより上手だ。

 フィリップも魔術学院のカリキュラム上、野営のノウハウを教わってはいるし、魔術や火打石無しでの火起こしや鍋を使わない調理方法も幾つか知っている。サバイバル能力は、その手のプロである衛士団と一緒に旅をしたこともあって、かなり高い。

 

 だが、流石にエレナには何十年レベルの経験がある。焚火一つ作るにも、フィリップと最終的な成果物は同程度でも手際の良さが倍くらい違うのだった。

 

 そして調理設備が整った状態での料理となると、フィリップは全くの未経験だ。

 直火でならレアからウェルダンまでの6段階で指定された通りに肉を焼けるのに、鍋を使うと有り得ないぐらい外側しか焼けないといえば、調理技術の偏り具合──野生度合いが分かるだろう。

 

 フィリップも「文明の中に生きる人間としてこれは良くない」と、たまに練習しているのだが……まだ練習中なのだ。他人の家で練習するわけにはいかない。

 

 食事を摂って順番に風呂に入り、その日はもう何をする気力も残っていなかったので、調査も考察も全部明日に丸投げして眠ることにした。

 

 エレナとエレーヌは寝室に引っ込み、フィリップはリビングの三人掛けソファに横になる。

 エレーヌは「疲れているなら代わりましょうか?」と言ってくれたが、流石にそれは悪いと断った。ソファでも、地面にマットを敷いて寝袋に入るだけよりずっとマシだ。

 

 窓が閉め切られ、明かりも消されて真っ暗になった部屋で一人、フィリップは天井を見上げながら考える。

 

 王都からここまで乗合馬車で四日。課題開示から一週間が経っている。そして期限は三週間。

 つまり帰りに五日かかる計算でも、あと一週間くらいは時間的猶予がある。

 

 時間的には、猶予がある。 

 ただ、多分、一週間もここにいたらエレナがあまりの臭気で体調を崩しそうだ。フィリップは風が吹いていれば全然平気だし、無風でも五分もすれば慣れる程度なのだが。

 

 なるべく早く終わらせたいなぁ、なんて考えた後には、フィリップの意識は深い眠りの中に落ちていった。

 

 そして──どのくらいの時間眠っていただろうか。

 きい、と軋むような音がした。

 

 ふと目が覚めたフィリップは、寝ぼけ眼で「何の音だろう」と暗闇に目を向ける。

 と、誰かが寝室から出てきて、廊下を歩いているのに気が付いた。さっきの音は、寝室の扉が開いた音だ。

 

 「……」

 

 真っ暗なのにランタンどころか燭台の一つも持っていないから、夜目の利くエレナだろうか。或いは住み慣れた家で暗闇の中でも問題なく動けるエレーヌか。

 

 別にどちらでもいい。どうせトイレか何かだろうし、と、起こしていた頭を枕代わりのクッションに戻す。

 

 また、きい、とドアの開く音がして──「くさーい!」と、時間を弁えない大音量の悲鳴が上がった。

 

 「……うるさいなぁ」

 

 フィリップがのろのろと上体を起こすと、たったいま寝室から出てきた誰か──聞こえた声からするとエレナのようだ──が、のそのそと寝室に戻っていった。

 

 「……王都外のトイレならあんなものでしょ。エルフの集落だってそうだったじゃん。もう……」

 

 水洗式トイレなんて、王都か、あとはミナのいた城くらいでしか見たことがないような代物だ。あとは大概汲み取り式だし、エルフの集落にあったトイレだってそうだった。

 このコテージのトイレも定期的に廃棄されているようだし、きちんと掃除が行き届いていて、そこいらの宿なんかよりよっぽど綺麗だ。

 

 王都のクオリティに慣れたのか寝惚けていたのか知らないが、明日文句を言おうと決めて、フィリップはまた眠りについた。

 

 

 

 

 



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334

33-4


 翌日。

 朝食を終えたあと、フィリップたちは予定していた通り、全周10キロあるという湖の周りをぐるりと回ってみることにして、既に半分ほどを歩いていた。湖面は相変わらず汚らしい緑色に濁っていて、風が無いと腐ったような悪臭が漂ってくる。

 

 エレナは昨日学んだ通り、炭を使った防臭マスクを付けていた。

 昨日の即席で作ったやつとは違い、ちゃんと喋れるように改良されている。

 

 湖に更なる異常は無いかと目を向けていたとき、ふと昨夜のことを思い出したフィリップは、「そうだ!」とエレナを指差した。

 いきなり指を突き付けられて面食らったエレナが戸惑いも露に「え、な、なに!?」と、自分の更に向こう側を振り返った。違う。そういうことじゃない。

 

 「エレナ、昨日の夜叫んでたでしょ。ベッドを借りてるんだから、管理人さんに迷惑かけちゃ駄目だよ。僕もちょっと煩かったし」

 

 まぁフィリップは彼女が叫ぶ前に勝手に目が覚めていたので、そんなに怒ってはいない。

 とはいえ彼女はコテージを貸してくれたエレーヌと同じ部屋、隣のベッドで寝ているのだし、あまり五月蠅くすると叩き出される可能性だってある。……温厚なエレーヌがそんなことをするとは思えないけれど、だからこそ、恩を仇で返すべきではないだろう。

 

 そう思っての言葉に、エレナは答えなかった。

 そんなことより大事なことがあると言わんばかりの反応で、ぱちりと指を弾く。フレデリカの真似だろうか。或いはフレデリカの真似をしているフィリップの真似か。

 

 「え、あ、そうだ! 言われて思い出したけど、昨日ボク、気が付いたら玄関に立ってたんだ!」

 

 何言ってんだこいつと言いたげな顔になるフィリップだが、嘘だとまでは思っていない。エレナはこういうとき、妙な言い訳をせずさっぱりと謝るタイプだ。

 それに、昨夜の奇声がトイレではなく湖の臭いに宛てられたものだったとしたら、多少は納得できる。

 

 とはいえ、やっぱり言っている意味がよく分からない。

 

 「寝惚けて……ってことはないよね。エレナ、寝起きはいい方だし。なんだっけそういうの……白昼夢じゃなくて……夢遊病? あれって突発的に発症するの?」

 「分かんない……。でも、凄く変な夢も見たし、病気なのかな……? 帰ったらフレデリカさんに見てもらうよ……」

 

 医学方面ならステファンの方が専門なのだが、まぁフレデリカでも、自分で無理だと思ったら師匠を頼るだろうし大差は無いかと何も言わないフィリップ。

 そんなことより、だ。エレナがそうだったように、フィリップにも、そんなことより気になることがあった。

 

 「ふーん、どんな夢?」

 「どんな、って言われると思い出せないんだけど……でもなんか、湖の方に呼ばれたような……ごめん、分かんないや」

 

 フィリップはなんか嫌な予感がするなぁ、なんて思いつつも、ここ最近の穏やかで平和な──戦闘こそあったものの、人類圏外の存在の影も形も無かった時間を思い返して、「まさかね」なんて甘い考えを持ってしまう。

 

 ──まぁ、とはいえ。

 フィリップが今すぐに意識を切り替えられたとしても、未来が大きく変わることは無いのだけれど。

 

 「……なるほど? なんか怪物とか出てこなかった?」

 

 一応ね、と誰にともなく心の中で言い訳しつつ尋ねると、エレナは腕を組んで考え込んだ。

 

 「え? うーん、どうだったかな……」

 

 うんうん唸っているが、まぁ、夢を鮮明に思い出すというのは意外と難しいものだ。フィリップにも経験がある。朝起きた瞬間には滅茶苦茶いい夢を見た覚えがあるのに、朝食の席でいざ具体的な話をしようとすると、八割方不明瞭だったとか。

 

 「まぁ、無理に思い出さなくていいよ。……でも、そうだな、今日は寝るときに足首に鈴かなにか付けておいてね。それか縄」

 「鈴は寝返りの時とか五月蠅そうだけど……縄よりマシかな」

 「どっちも嫌だって言うなら最悪、僕が一緒に寝ることになるけど」

 「あ、いいね。いつもは姉さまと一緒に寝てるし、偶にはボクと寝る?」

 

 冗談のつもりだったんだけど、と胡乱な顔のフィリップに、エレナは悪戯っぽい笑みを返す。

 

 それで揶揄われているのだと気付いたものの、フィリップとしてはあまり冗談も言っていられない。

 いや、まぁ、()()()()()()()()どうなったって知ったことじゃあないし、何が何でも一緒に寝る、一緒に寝て守ると主張することはないのだけれど──ルキアやステラとは違うのだけれど。

 

 まぁそれでも、朝起きたらパーティーリーダーが入水していたというのは寝覚めが悪いし、同じ屋根の下で寝ている誰かが夜中に()()()()いるというのは夢見が悪い。

 勿論、まだ()()だと決まったわけではない。それはこれから確かめなければならないことだ。

 

 「エレナがゴネるなら、そうなるよ。いや……流石のエレナも、手足をベッドに縛り付けたら移動できないよね?」

 

 僕も一年生の時の交流戦でベッドに拘束されたなぁ、なんて懐古するフィリップ。あの時は脳震盪による異常行動で夜中に徘徊していたらしいが、正直全く記憶にないので、イメージとしては「不当に拘束された」という印象の方が強いのだけれど。

 

 「そりゃそうだけど……ボク、ロープくらいなら普通に千切れるよ?」

 「流石。じゃあ鈴付けといて」

 

 というか、それなら僕も一緒に寝たくないよと突き放すフィリップ。

 寝相の良いミナはともかく、夢遊病の疑いがある腕力お化けと一緒に寝られるわけがなかった。

 

 エレナもその理屈は分かるからか、寂しそうにしつつも「はーい」と応じた。

 

 「うーん……でも、夢誘導なら管理人さんも入水してなきゃおかしいよなぁ……魔術師なら多少は耐性があるだろうけど……」

 

 魔術師なら井戸から水を汲む必要もないし、薪に火をつけるのに火打石を使う必要もないが、エレーヌはどちらも手作業でやっていた。

 勿論、魔術絡みではフィリップの目は節穴なので、火と水の属性はからきしでも他がずば抜けているなんて可能性もゼロではないのだけれど……。

 

 でもやっぱり、人口の比率を考えるなら彼女が非魔術師である可能性の方が格段に高い。王都から離れた場所に住んでいるというのも、その可能性を高める理由の一つだ。

 

 それに、水辺に棲んでいて、夢を使って人間を水底に引きずり込むヤツはそこそこ多いものの、どいつもこいつも神格だ。フィリップが出向いたところに偶々邪神がいる可能性なんて、それこそ1パーセントくらいだろう。

 

 確認する方法は、邪神の手を借りる以外では無い──いや、無いことはない。

 

 フィリップがその存在を怪しんでいるやつらは、どいつもこいつも神格、邪神だ。

 しかし唯一神や他の一部の旧神のように、信仰によって存在を確立する形而上学的存在ではない。もっと物理的で現実的な、“神と呼ぶべき強大な生き物”。

 

 ここにいるのなら──緑色に穢れた湖面の下、氷河によって削られた最大水深200メートルもの大穴のどこか、二十億リットルもの水の下のどこかに隠れ潜んでいるのなら、潜れば見つかるだろう。見るからに病んだ色の、触れるだけでも病気になりそうな色の水に、どうやって潜るのかという問題はあるものの。

 

 「いない想定で動くべき……なのかな? それとも逆? でも、僕はビビリらしいし……」

 

 まぁいざとなったらエレナをどうにか昏倒させて──後ろから殴るとかして──引き摺ってでもここから逃げればいいだけのことか。

 

 今はルキアもステラもいないし、最悪の場合は邪神召喚がいつでも使える。

 ()()に襲われたってどうとでもなるというのは、警戒心を緩める一つの材料だった。

 

 居たら、いや、出てきたら殺そう。フィリップは心の内でそう決めた。

 

 「それまではいない想定で動くとして……うん。エレナ、予定通り、ボートを借りて沖の方に出てみよう」

 「オッケー! それじゃ、エレーヌさんに鍵を貰ってこないと……って、あれ、エレーヌさんじゃない?」

 

 エレナが湖の対岸を──一キロ以上向こうを見据えて指し示す。

 しばらく目を凝らしても見つからなかったものの、エレナは「ちょうどボート小屋の方に行ったみたい!」と嬉しそうだったので、それを信じて湖畔を回っていく。

 

 エレーヌ曰く、旦那さんが亡くなってからは管理と言っても湖畔がメインで、ボートで岸を離れるのは年に一度くらいだそうだ。

 今日がその一回とか、フィリップたちに触発されてやる気を出したとかなら、ついでに乗せて貰おうとエレナは考えている。

 

 湖を半周する時間があればボートの準備も終わるだろうと思っていたのだが、しかし、二人がボート小屋の前に着いてもエレーヌは小屋から出て来なかった。どころか、ボート小屋には鍵がかかっている。

 

 まぁ一キロ向こうのことだし、風に揺れる木の影なんかを人影と誤認しても無理はない。

 コテージにいるだろうし呼びに行こうと踵を返すフィリップだったが、エレナは長い耳をぴこぴこと震わせて、ボート小屋の扉をノックした。

 

 「……あれ? ねぇフィリップ君、コテージにエレーヌさんがいるかどうか見てきてくれない? ボート小屋の中に人が居るみたいなんだ」

 「え? いや、ルモンドさんじゃない? ……泥棒だったら、コテージの方を狙うでしょ」

 

 やや警戒心を滲ませたエレナに、フィリップはその原因に気付いて頭を振る。

 ボート小屋は明らかにコテージより見劣りのする、本当に「小屋」というべきこぢんまりとした木の建物だ。ここに貴重品があると思う人間はいないだろう。

 

 「それもそっか……エレーヌさん、いるー?」

 

 もう一度ノックすると、少し慌てたような気配が小屋の中で動いたのがフィリップにも分かった。

 

 ややあって扉が開き、中からエレーヌが顔を出した。

 

 「どうしたの? 私に用事?」

 「うん。ボートを使わせてもらえないかな?」

 

 エレナが言うと、エレーヌは合点がいったように「あぁ」と頷いた。

 

 「えぇ、構いませんよ。あまり使ってはいないけど整備はしているから、そのまま使えるはずですし。オールを湖に落とさないように気を付けてくださいね」

 「ありがとう!」

 

 朗らかにお礼を言ったエレナに、エレーヌはにこりと微笑んでコテージの方に戻っていった。

 

 「これだね。ボクがボートを持って行くから、フィリップ君はオールをお願い」

 「持って行く? ……わお」

 

 よいしょ、なんて小さな掛け声と共に、エレナは二人乗りの木製ボートを担ぎ上げた。

 そりゃあ水に浮かべるものだから重厚な木材ではないだろうし、実際、十キロそこらではあるのだろうけれど……如何せん、線の細い少女がボートを片手で持ち上げて運搬している光景は驚愕を誘った。

 

 ……でも、ボートはタイヤ付きの台座に乗っていたから、ストッパーを外せばもっとスマートに岸まで運べたと思う。

 

 フィリップもオールを持って後に続き、なんとなく小屋の方を振り返った。

 

 「あの小屋、なんか甘い匂いしたね? ココアか何か飲んでたのかな?」

 

 それか、ボートの整備に使う薬の臭いかもしれない。

 一瞬香っただけではっきりとは覚えていないが、どちらかといえば食品ではなく、ケミカルで甘ったるい感じだったし。

 

 「え? そう? ボクは分かんなかったけど……あ、そりゃそっか」

 「そりゃそうだね……」

 

 フィリップも「聞いた意味は無かったな」と、エレナの鼻と口を覆う防臭マスクを見て苦笑した。

 

 

 

 

 

 



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335

 ボートを漕いで湖を渡って、そして戻ってくるまでの間、フィリップたちは何の情報も得られなかった。

 だが、あまり気落ちはしていない。優秀な魔術師を擁する王国の調査団が調べて何の成果もなく、そして何の問題もなく調査を終えたということは、汚染源はかなり慎重に隠されている。ミナがいて魔力視を使ったとしても見抜けなかっただろう。

 

 使い終えたボートは汚水に濡れているから担ぎ上げるわけには行かず、ボート小屋からキャスター付きの台座を持ってきて、それに乗せて運び込んだ。

 

 ボート小屋はずっと扉を開けていたから換気されたのか、さっきのケミカルな甘い香りはしなかった。

 その代わり、遠くから風に乗ってきた雨の臭いを一瞬だけ感じた。小屋の入り口から遠くに見える灰色の雲は、雨の予兆だ──尤も、この辺りの気候がフィリップの田舎と同じなら、という但し書きは要るけれど。

 

 「手がかり無しかー。どうする、フィリップ君?」

 「うーん……ここまで王国の調査隊の真似をしてきたわけだけど……専門家ではない僕たちが専門家の真似をしたって、結果で劣るのは当たり前なんだよね」

 

 かと言って、仮説と検証を繰り返すセオリー通りの調査をしたって、それこそ専門家の立てる仮説には到底及ばない稚拙な考えしか浮かばないだろうし、立証する方法だって、どう考えても調査隊の方が知識量で優っている。

 

 「そうだよねー……。あ! 発想を逆転させるのはどう?」

 

 会心の閃きを得たと満面の笑みを浮かべるエレナは、怪訝そうな顔のフィリップに気付いて補足をくれる。

 

 原因を探しても、何もかもが足りないフィリップたちでは先人を超える結果は出せない。

 ならば。

 

 「原因じゃなくて、結果の方を優先しようよ! どうにかして、水を綺麗にしちゃえばいいんだ!」

 

 逆転──原因を放置して、望む結果だけを用意する。

 水が綺麗にさえなってしまえば、それで依頼は達成……ではない。依頼内容は“水質汚染の調査”であって、“改善”ではない。

 

 だが、エレナは別に、依頼達成が最大の目的というわけではない。彼女はこの湖で泳げればそれでいいのだ。

 フィリップとしても、達成困難な依頼であると明言された依頼に本気で取り組む理由は、精々がルキアとステラの期待くらい。これでは流石にモチベーションは保てない。

 

 だから、依頼達成ではなく目的達成を主軸として行動するのは構わない。それはそうなのだが──それを言うなら、王国の調査団だって、大目標はそれだったはずだ。

 

 「どうにか、って……王国はそれをするために原因を探ってたんじゃないの? 不純物を取り除く浄水薬みたいなものはあるかもしれないけど──」

 「あるよ! ボクたちはいつも、水源に土砂なんかが流れ込んだら、それを使って水と不純物を分離させるんだ。汚い水でも30分くらいで飲めるようになる優れモノだよ!」

 

 フィリップは聞いたことが無かったが、エレナはそうではなかった。

 自信満々な言葉にはフィリップも頷くが、しかし、「じゃあそれで」と丸投げするには不安が多い。

 

 「汚染の原因が分からないなら、薬を入れた時にどういう反応をするか分からないし……多分、その程度のことなら調査隊は試してるでしょ?」

 

 フィリップは薬学や錬金術に明るいわけではないが、世の中の薬品類に、混ぜてはいけないものが存在することはなんとなく知っている。

 身近なところで言うと、実家の宿で使っていた衣服用漂白剤と食器用洗剤は、混ざると毒ガスが発生する……と、兄のオーガストが言っていた。実証済みだとも。

 

 湖の汚染を取り除こうとして、汚染物質と薬品が致命的な反応をしては本末転倒だ。その辺りはきちんと検証する必要がある。

 

 そして、やっぱり「それぐらいなら国がやってそう」と思えるアイディアだった。勿論、フィリップの勝手な想像でしかないけれど。

 

 首を傾げるフィリップに、エレナは無い胸を張って自慢げに言う。

 

 「ふふん、フィリップ君、あなたはちょっとエルフのことを侮ってるね! 勿論、フレデリカさんは優れた錬金術師だけど──薬学に関して、ボクたちエルフに並ぶものはいないよ」

 「……王国にはそもそも、そんな薬が無いってことか。なるほど」

 

 エルフの製薬技術は国益になるレベルだというし、ある程度の信頼を置いてもいいだろう。

 

 王都から見ると、このシリル湖もエルフの集落があるティーファバルト大森林も、どちらも北側だが……あの森はここよりもう少しだけ北にある。馬で一日か、二日くらいか。

 

 「つまり、ティーファバルト大森林まで戻って、エルフの薬を取ってくれば……」

 「そう! 綺麗な水に戻るってわけ! ここからなら、往復四日ってところじゃない?」

 「すごい薬を作れるんだね、エルフって」

 「それほどでも……あるね! そうだよ、ボクの臣民はすごいでしょ!」

 

 嬉しそうに言うエレナ。自慢げな口調だったが、フィリップが浮かべた笑みに苦笑の色は微塵も無かった。

 

 実際、本当に凄い。

 田舎育ちとして王都の、延いては王国の技術力には感動すら覚えていたのだが、薬学分野ではその上を行くというのなら、エルフにはフィリップの感動を買うだけの技術力がある。

 

 フィリップは知らないことだが、脳のオーバーロードを疑似的に再現する薬や、その副作用や後遺症についての知見もあるのだから。

 

 「うん、ホントに凄いよ! 毒は量って言うけど、どのぐらいで湖全部が綺麗になるの?」

 

 逆に汚染されたりはしないよね? という懸念からの問いだったのだが、エレナは何か、ものすごく都合の悪いことを思い出したような顔をしていた。

 

 「えっ」

 「えっ……?」

 

 素っ頓狂な声に、フィリップも同じような声を返す。

 なんだかとても嫌な予感がしてきた。

 

 「……一粒で水瓶一個分ぐらい?」

 「100リットルぐらい? ……それ、どのくらいあれば湖全部を浄化できる?」

 「……湖って、水瓶何個分ぐらいだと思う?」

 

 聞き返されて、フィリップも黙る。流石に規模が違いすぎて、直感さえ働かなかった。

 

 ちなみに、シリル湖の貯水量は概ね2000トン。単純に湖水1トン当たり1000リットルだと考えると、20億リットル。100リットルの水瓶で換算すると、2000万個分。

 コインサイズの錠剤一個で100リットルを浄化するエルフの浄水薬だが、そんな数の備蓄は無いし、すぐさま調合できる数でもない。材料的にも、労力の面から言っても。

 

 「……帰ったらレオンハルト先輩じゃなくて、殿下に言おう。これは多分、外交支援レベルの話だ」

 「うん、ボクもそう思ってた……」

 

 帰ってステラに言えば何とかなるだろう──なんて考えた時だった。

 

 ボート小屋の片隅に、小さめの書き物机が置かれているのが目に付いた。

 机上にはペンとインク壺、少しボロい「管理日誌」と書かれたノートが一冊。王都で売られている、錬金術製の紙をふんだんに使った品だ。

 

 「……あ、駄目だよフィリップ君。勝手に見ちゃ」

 「あ、うん……」

 

 なんとなく手を伸ばしたフィリップだったが、エレナに見咎められる。

 調査に来たのだから見てもいい、というか、見るべきだとは思うのだが、確かに断りもなくというのはマナー違反かもしれないとフィリップも自省する。

 

 「気になるならエレーヌさんに聞いてみよう。……っていうか、結構古そうだね?」

 「古いっていうか、雨漏りとかで濡れたんだと思う」

 

 或いは、何なら湖の浅瀬に落っことしたなんてこともあるかもしれない。

 一応は本の形に装丁されているし表題も読めるが、表紙が黒ずんでいるし、紙もごわごわだ。一発で盛大に汚したのか、年季でじわじわと汚れていったのか判断に困る。

 

 「雨といえば、そろそろ雨が来そうだね?」

 「エレナもそう思う? なら、ホントに降るかもね。……これ、コテージに持って行こうか。読みたいし、濡れても困る……?」

 

 日誌に手を伸ばしたフィリップだったが、それを取り上げることはなく、自分の手を不思議そうにじっと見つめている。

 

 エレナと交代でとはいえ二キロもボートを漕いで、もうノートを持ち上げるだけの力さえ残っていなかった……というわけでは、流石にない。確かに無駄な筋肉は付けないように気を付けているが、持久力はそこそこある。

 

 「どうしたの?」

 「いや、なんか付いてた……多分、ボートの整備に使うタールか何か……あ、でもなんか甘い匂いがする」

 

 本の表面はべたついていた。具体的に何が付いたとまでは判別できないが、本にココアでも零せばこんな感じになるだろうと思われた。

 

 タールは接着剤や緊急時の消毒薬として使われるが、船の防水や撥水加工に使われるという話を本で読んでいたフィリップは、ベタベタする感触の正体に当たりを付ける。

 甘い匂いのするタールはちょっと聞いたことが無いが、薬品の臭いなんて千差万別だ。肌に悪影響のある、例えば強酸性の薬品とかだったら嫌だが、そんなものが本に付いたら、「この本汚いなぁ」では済まない状態のはずだし、きっと違うだろう。

 

 日誌をコテージの方に持ち帰ってエレーヌに確認を取ると、少し恥ずかしそうに「大したことは書けていませんけど、それでもよければ」と許可してくれた。

 

 中を見てみると、細かくきっちりとした几帳面そうな字で埋められてはあるものの、情報の方は本当に大したことが無かった。

 日付と、その横には大抵『異常なし』と書かれているばかりだ。たまに『水位上昇』とか『基準値へ復帰』が混ざっているものの、水質汚染に関係した情報は何もない。

 

 しばらく捲っていくと昨日の日付になって、そこにもやっぱり『異常なし』だ。そこから先は白紙だった。

 

 「……あの、汚染が始まった年の日誌はありますか?」

 「えぇ、ボート小屋の机の引き出しに、先代の分も保管してあるわ。取ってきましょうか?」

 

 引き出し? と数分前の記憶を手繰ると、思い当たるものは確かにある。天板の下に二つ、引き出しがあったはずだ。鍵は……無かったような。

 

 「いえ、自分で行きます」

 「そろそろ夕食の支度をするから、早めに戻ってきなよ!」

 「分かった。じゃあ持ってきてここで読むよ。いいですか?」

 「えぇ、どうぞ。それじゃあ、私たちは先に支度を始めましょう。手伝って頂けますか?」

 「勿論!」

 

 いつの間にか仲良くなったらしいエレナとエレーヌに微笑ましそうな目を向けて、フィリップは先ほどまでいたボート小屋に戻る。

 特に探すこともなく机の引き出しに手をかけると、そこも何だかべたついていた。

 

 不愉快そうに眉根を寄せつつ、無視して引き出しを開けると、何冊かのノートが二列の山になってきっちりと収められている。字や、綺麗に整理整頓されたコテージの内装なんかを見れば分かることだが、エレーヌはきっちりした性格らしい。

 そしてその山の上に、ノートを台座にするようにして、一冊の黒い革表紙の本が置かれていた。

 

 なんだこれ? と持ち上げようとして、フィリップはまた汚いものに触れてしまったように手を引っ込める。

 

 革の装丁は不快にべたつく何かでじっとりと濡れていた。何度か感じたケミカルな甘い匂いもする。

 本は、その薬品の瓶に漬け込んだような有様だ。

 

 「……うわ。もう、なんでこんな本を大事に仕舞ってるんだ?」

 

 下敷きになっていたノートは、黒い本に付いた液体のせいでべちゃべちゃだ。いや、もしかしたら、この引き出しの中に薬品を零したのかもしれない。

 

 薬品は黒くて粘性があり、それこそタールのような質感にも思える。

 

 まあ、汚れた本を大切に仕舞っているのか、大切に仕舞っていた本が汚れたのかはどうでもいい。今の目的はノートだ。

 

 詳細不明の薬品らしきもので濡れたものをいつまでも触っていたくなかったフィリップは、黒い本を机の上に適当に放る。

 それきり興味を失ったから、その本の表紙がべたべたに汚れているのに、中のページ自体には撓みさえないことと、その異常さには気付かなかった。普通は装丁全体が汚れるほど濡れたらページも汚れるし、水分を吸って変形するはずなのに。

 

 目当てのノート──汚染が始まった年の、先代の老夫婦が書いたものと、ルモンド夫妻が書いたものの二つだけ持ってコテージに戻る。幸い、表題の下に何年分と付記されていたし、年度順に並んでいたからすぐに見つかった。それに、五年前のノートは山の下の方にあったからか、汚れが少ない。さっきの、今年度分と同じくらいだ。

 

 まぁ、こんな有様になっても大切に保管しておくような、大事な本なのだろう。

 

 フィリップは汚れた黒い本を元の引き出しにそっと仕舞って、二冊のノートを持ってボート小屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 



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336

 夕食を終えたあと、フィリップはソファで過去の管理日誌を読んでいた。

 エレーヌの書き方は先代の老夫婦に倣ったもののようで、字の感じはまた違うが、内容はよく似ている。基本的には『異常なし』で、水位や濁度に変化があった場合はその旨を端的に書くだけだ。

 

 汚染が始まったのが具体的に何月の何日かは分からなかったものの、『濁度上昇』と『異常なし』が不定期に繰り返され始めたのは、五年前の春先のようだ。

 それから徐々に『濁度上昇』の頻度が上がり──そこからずっと、『濁度復帰』の文字は無い。半年ほど過ぎたあたりで日付が途切れ、ルモンド夫妻のノートに引き継がれている。

 

 「原因を調べたりはしなかったんですか? ルモンドさんたちもそうですけど、先代の管理人さんも」

 

 責めている風に聞こえないよう気を使いつつも、端的で情報の薄い日誌からでは得られない情報を求めてしまう。

 

 しかし考えてみれば、管理人とは言っても学者ではないし、魔術師ではないなら出来ることも限られるだろう。先代も含めて管理人たちが何もしなかったとは思えないし、成果があったとも思えない。

 

 果たして、エレーヌの答えは想像通りのものだった。

 

 「いえ、調べようとはしたのですが……何をどうすればいいのかも分からなくて、冒険者ギルドに依頼を出しました。それから何度か冒険者の方たちには来て頂きましたけど、何も見つけられなくて……」

 「王国にまで報告が上がったものの、国の調査隊でも何も分からなかった、と」

 「えぇ……」

 

 だろうね、と言いたげな落胆さえしていない顔で頷くフィリップ。

 

 エレーヌはその冷たくすらある納得に焦ったように、きゅっと手を握って言葉を紡ぐ。

 

 「あの、参考になるかは分からないのですけど……その、夫が死んだときのことです」

 

 その言葉を受けて、フィリップとエレナは怪訝そうに、そして期待を滲ませてエレーヌを見遣る。

 

 昨日はあれだけ苛烈な反応を見せたのに──フィリップのような子供に問われただけで泣き出すほどだったのに、どういう心境の変化なのだろうか。

 エレナが思わず「いいの?」なんて聞いたのも無理はない。

 

 「はい。……夫は湖を調べているときに亡くなりました。でも、死に様が不可解なんです」

 

 死因不詳ってこと? とフィリップとエレナは二人揃って首を傾げる。

 ところがどうもそういうことではないらしく、エレーヌは頭を振って否定した。

 

 「いえ、死因は溺死です。肺の中が水でいっぱいだったので、間違いありません。でも、服が殆ど濡れていなかったんです」

 

 エレナは「え?」と不思議そうな声を漏らしたが、フィリップはぴくりと眉根を寄せるだけだった。

 

 しかし反応が薄いからと言って、驚きまで薄いわけではない。

 むしろ驚きの大きさで言えば、フィリップの方がエレナより何倍も──或いはエレーヌが死体を見つけた時よりも大きいかもしれない。

 

 「それって変じゃない? 溺れたなら頭のてっぺんから爪先までぐっしょりだろうし、誰かに顔だけ湖に突っ込まれたって抵抗するだろうから、びちょびちょになるよね?」

 

 そう。その通りだ。

 夜闇のせいで浅瀬を踏み外し、深みに嵌って溺れてしまったというのなら、全身が濡れているはずだ。真夏でもあるまいし、夜の間に服が完璧に乾くとはちょっと考えにくい。よしんば乾いたとしても、水草とか、その手の痕跡が残っていそうなものだ。

 

 不可解な死に様。確かにそう言って差し支えない。

 

 そして、フィリップはその死に様を知っている。正確には、そんな感じの死に様を再現できそうな魔術を知っている、というべきか。

 

 現代魔術の埒外にある、別体系の魔術。領域外魔術『深淵の息(ブレスオブザディープ)』。

 標的の肺を海水で満たし、地上に居ながら溺水の苦しみを味わわせ、死に至らしめることもある害意に満ちた魔術だ。フィリップはカルトを苦しめるのに好んで使う。

 

 だが、あれはナイ神父に教わったもの……正確には、ナイ神父から送られてきた誰かの手記を読んで発現させたものだ。誰でも簡単に使えるものではない。

 魔術の才能があれば、現代魔術を使っても同じ現象を起こすことは出来るのかもしれないけれど……。

 

 「すみません、その話、もっと詳しくお願いします」

 「え? は、はい。えっと、彼が夜の間に湖を見に行って、朝起きたら……その、彼が湖畔で倒れていたんです」

 

 悲しみを堪えるように言い淀みつつ、それでも最後まで言い切るエレーヌ。

 

 フィリップの脳内には幾つもの疑問が渦巻いていたが、取り敢えず最も簡単なものから解決していくことにする。

 

 「……そもそも、どうして夜に湖を?」

 

 見回りかと思ったが、違うだろう。

 何か異常があったとしても、夜闇の中では判然としない。そりゃあ星や月の明かりはあるが、水の色などの細かな異常を見るなら、絶対に昼間の方がいい。

 

 だが、確認ではなく、確信があったとしたら別だ。

 星と月の明かりでも、湖の傍に人影があれば気付くかもしれない。

 

 誰か──領域外魔術を使える何者かが湖の傍にいた。その日の夜に。

 そしてエレーヌの夫──確か、墓碑にはニコラ・ルモンドとあったか──彼がそれに気付き、恐らく湖を汚染した犯人か、また別な不埒者だと思ってコテージを飛び出したのだ。

 

 そして死んだ。殺されたのだ。領域外魔術『深淵の息』によって。

 

 そういう推理は、一応、成立する。

 

 「分かりません、私、彼が夜中に起きたことにも気付かなくて……でも、朝にはもう冷たくなっていたので、夜の間にコテージを出たのは間違いないと」

 

 エレーヌの言葉をなんとなく聞きながら、フィリップは自分の推理にある穴をどう埋めるべきか考えていた。

 

 『深淵の息』は、標的の肺を海水で満たして即座に窒息させる。すぐに救命措置を行えば助かるし、放置すれば死ぬ。

 陸地に居ながら溺死させられると考えると、まぁそこそこ殺人向き、というか、殺人が罪になる状況での殺人向きだ。優秀な魔術師を揃える衛士団はともかく、魔術を使った殺人なんて、そこいらの町の衛兵風情には見破れないだろう。

 それが魔術の仕業とまでは分かっても、誰が犯人なのかを突き止めるには高精度の魔力視が必要だ。

 

 そして──水辺にいるのなら、溺死させたあとで水の中に死体を捨てればいい。

 重りを付けたら殺人だとバレるだろうが、例えば足に水草なんかを絡ませておけば、泳いでいる最中に水草に足を取られ、パニックに陥った末の溺死だと思われそうだ。

 

 要は、死そのものは誤魔化せなくとも、殺人は誤魔化せるのだ。水難事故のように偽装できる。

 

 まあ、汚染された湖で泳ぐような馬鹿な管理人はいないだろうけれど……辺りに酒瓶でも転がしておけば、酔っていたのだと思わせられるのに。

 

 自衛とカルト討伐以外で人を殺せば、当然、罪になる。

 そりゃあカルトは殺人に対する忌避感なんて無いだろうけれど、そもそもカルトは、カルトだとバレた瞬間に異端審問(ごうもん)の後、処刑だ。隠れ潜むのが常のはず。

 

 こんなあからさまな痕跡を残すということは、カルトではないか、年季の浅いやつか。

 

 「それ、汚染開始から数えていつ頃の話ですか?」

 

 唐突に集中力が跳ね上がったように真面目な声と顔つきになるフィリップ。エレナは「ちょっと違うけど、あの時の顔に似てるな」なんて思っている辺り、モチベーションの高低が当初とは完全に逆転している。

 

 「え? えっと……私たちが越してきて二月くらいだから……湖が濁り始めて、半年くらいかしら」

 

 エレーヌにもその変化が伝わったのか、答える声は戸惑い気味だ。

 

 フィリップは黙考に浸って、エレーヌの困惑と、妙に嬉しそうなエレナには気付かない。

 尤も、気付いたところで「なんだこいつら」と言いたげに片眉を上げて、それで終わりだっただろうが。

 

 「……その付近で、怪しい人間を見ませんでしたか? カルトとか、依頼を受けた冒険者以外のパーティーとか、何でもいいんですけど」

 

 尋ねると、答えが返るより先にエレナが声を上げた。

 

 「フィリップ君、カルトって何?」

 「ん? んー……定義を聞いてるなら、一神教と正式認可された分派以外の宗教を信仰してる奴ら、かな」

 

 答えつつ、フィリップは内心で「そっか」と軽い納得に落ちていた。彼女は「カルト」という人語──大陸共通語の名詞を知らないのだ。

 

 一神教徒・カルトという区別は、人間に独特のものだ。

 唯一神対魔王という対立構造についてはミナやエレナも知っているし、物理的な神の実存については、二人とも()()として知っている。

 

 しかし、彼女たちには信仰がない。

 一神教の教義や規則なんて一つも知らないのではないだろうか。ミナは教養の一つとして聖典や偽典は読んだと言っていたが、プロパガンダとマーケティングばかりで面白くなかったとか言っていたので、物語気分で読んでいる。

 

 カルトって何? という質問は、本当に文字通り、「カルト」という名詞が指し示すものを知らないからの問いだった。

 

 だから、エレナが「ふーん……。じゃ、ボクもカルトってこと?」と、ルキアやステラが居ればそっとフィリップの顔を伺うようなことを言っても、顔色一つ変えなかった。

 

 「いや、人間に限定した話。カルトは見つけ次第ブチ殺していい、ブチ殺さなくちゃいけない公共の敵だから、エルフがその枠に入るなら国交なんて結ばれてないよ」

 

 フィリップの答えはエレナには今一つ理解できなかった──言葉の意味が、ではなく、そういう仕組みになっている意味が──らしく、「ふーん」と不思議そうに首を傾げる。

 

 「そうなの? 別に、唯一神以外の神様を信じたっていいんじゃない? 唯一神がいるなら、他にもいたっておかしくないでしょ?」

 「ん、まぁね」

 

 いや、まあ、いるのだけれど。

 

 「なのに、たった一種類の神様を信じるかどうかで敵と味方を決めるなんて……人間って、結構適当なんだね?」

 「人間が決めたのか、神が決めたのかは知らないけど、ま、そうだね」

 

 フィリップとしてはその方がありがたいのだけれど、お愛想で頷いておく。

 そっちの方がブチ殺すときに色々と考えなくていいから楽だ、という理由だから、内心をそのまま口にするのは憚られた。

 

 「でも、フィリップ君はそんなことしないよね? だって、異種族にもすごく寛容だし」

 「ん? そりゃ……いや、まぁ、誰がどんな神を信じようと好きにすればいいとは思うよ」

 「だよね!」

 

 嬉しそうに笑うエレナに、フィリップはド下手糞な仮面の微笑を取り繕う。

 

 危なかった。

 ついうっかり、エレーヌという他人の前で「ルキアだって唯一神信仰じゃないしね」とか口走るところだった。

 

 いや、聖痕がある限り、彼女が一神教から破門されてパブリック・エネミーになることはないだろうし、そうなったとしても、むしろ滅びるのは人類の方な気がするけれど……。

 

 手間は少ない方がいい。

 

 そうなったらフィリップはルキアの側に付くし、ステラもそうなるだろう。

 でも、フィリップにはまだまだ殺したくない人が大勢いる。彼らを発狂させず惨殺もしないように立ち回るのは、多分、ステラがいても難しいだろう。

 

 ルキアか衛士団か、みたいなクソッタレな二択に挑むぐらいなら、衛士団が守るべき人類を根絶して戦う理由を失くすことになる。

 

 そんなまだるっこしいことは御免だ。

 だからうっかり滑らなかった自分の口にグッジョブ。

 

 「?」

 

 フィリップの笑顔が歪なことには気付けても、内心までは類推できないエレナは、嬉しそうな笑顔を少しだけ不思議そうに変えて、それだけだった。

 

 ステラが居れば、きっと「いや、単純にルモンドの口を封じるのが最短最速の最適解だぞ?」なんて、苦笑と共に囁いていたかもしれない。

 

 「あの……夫はカルトに殺されたのでしょうか?」

 「確定ではないですけど、その可能性はありますね」

 

 恐る恐るといった風情で尋ねるエレーヌに、フィリップは端的に返す。

 

 湖を取り囲む森の中にカルトがいないことは、来るときにシルヴァが確認しているので確実だ。

 尤も、五年前の殺人犯が長々と現場付近に潜伏しているとは考えにくいが。

 

 その推測に、エレーヌは小さく頷いた。

 

 「──そうですか」

 

 やけに冷淡な声の相槌に違和感を覚えたのはフィリップだけではなかったが、エレーヌはすぐに「今日はもう寝ることにします」と寝室に引っ込んでしまった。

 それで結局、二人は「強烈な悲哀の感情を押さえつけた結果、平坦な声になっただけだろう」と会話もなく同じ結論を出した。

 

 

 

 

 

 

 



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337

 その日の夜。

 他人の家のソファという熟睡には不向きな寝具を使っていたフィリップは、小さな物音で目が覚めた。昨日も聞いた、きい、と木が軋むような音だ。

 

 「……?」

 

 またぞろエレナが深夜徘徊し始めたのかと面倒そうに顔を上げたフィリップだったが、寝室からランタンを携えて出てきたのはエレーヌだった。

 フィリップがすぐに枕代わりのクッションに頭を戻したのは、肌が透けるような薄いネグリジェを身に着けている彼女の姿に気まずさを感じたからではない。ランタンの頼りない明かりに照らされた彼女の顔色が、普段にも増して病的な土気色に見えたからだ。

 

 まるで、死体が立ち上がったように。

 

 ミナもかなり血色が悪く、光の加減では蒼褪めて見えるときもあるが、その比ではない──本物のアンデッド以上に不健康そうだった。まあミナは顔立ちや肢体の美しさに目が行って誤魔化されている部分も大きいとは思うけれど。

 

 玄関を開けて出ていった音を聞いて、フィリップはもう一度身体を起こす。今度は靴を履いてソファから降り、完全に起き上がった。

 

 なけなしの魔力で指先に火を灯し、その明かりで懐中時計を見ると、時刻は2時を少し回ったところ。

 夜の散歩には遅い時間だし、湖の見回りにしてはエレーヌは軽装すぎた。

 

 寝ぼけ眼ながら何をしているのか気になったフィリップは、エレナを起こさないよう気を遣いながら玄関まで行き、そっと扉を開けて外の様子を窺う。

 

 しとしとと静かに雨が降る夜闇を見通すことはできなかったが、エレーヌの持っていたランタンらしき光点は湖の方には向かわず、湖畔を通ってボート小屋に消えた。

 

 何をしているのか気にはなる。

 なるが──夜の冷雨の中、眠気を押して見に行くほどの興味はなかった。

 

 しばらく見ていると、ランタンはゆっくりと、何か重いものを持っているような動きで小屋から出てくると、すーっと滑るように湖の上に移動していった。おそらく、ボートに乗ったのだろう。

 

 何をやっているんだろう、と、フィリップはそこまで考えて、やめた。

 

 特別、何か気になることがあったわけではない。そして、思考を切り上げる特別な理由もない。

 ただ、眠いから寝よう、と。そう思っただけだ。

 

 しかし、ちょうど振り返ったタイミングで、眠気に従ってベッド代わりのソファに戻ることは出来なくなった。

 

 ──しゃらん、と、涼やかな音がしたからだ。

 

 鈴の音。

 寝る前にエレナが「見て! これでいいよね!」と、馬鹿正直にフィリップの言いつけを守って足首に着けているのを見せに来た、警報装置代わりの鈴の音だ。

 

 弾かれたように振り返ったフィリップの視線の先で、きい、と扉の軋む音がする。

 

 エレナはランタンの類を持っておらず、自前の夜目だけで動けるようだ。

 窓も扉も閉め切られて暗いコテージの廊下に、ぼんやりと人影が立っていることだけは見て取れた。

 

 「……何してるの、エレナ? トイレ?」

 

 妙な雰囲気を纏うエレナに、フィリップは努めて明るく問いかける。

 ディアボリカに「デリカシー!」なんて怒られそうだな、という思考が頭の片隅に浮かぶ辺り、まだ余裕は残っているが──左手は咄嗟に自分の腰を撫でていた。いつもは龍貶し(ドラゴルード)を佩いている、その場所を。

 

 だが、ついさっきまで寝ていたし、そもそもここには戦闘を想定して来ていない。コテージに入ったときから、ずっと荷物と一緒に置いてある。今もそこ、エレナの背後にあるリビングの、ソファーの横に置かれている。

 

 我知らず武器に手が伸びてしまうような存在感を纏うエレナは、寝言のように──譫言のように、ぶつぶつと不明瞭な呟きを漏らす。

 フィリップには聞き取れないそれは、彼女の母語、エルフ語だった。

 

 「……エレナ。トイレじゃないなら、ベッドに戻って」

 

 強い口調で言うフィリップだが、エレナには届かなかったらしく、彼女は覚束ない足取りながらも確かに一歩、フィリップに──玄関に向かって一歩、踏み出した。

 

 「ホントに夢遊病だったの? エレナ、聞こえてる?」

 

 フィリップはもう一度、本来は拳大の火球を飛ばす初級魔術『ファイアーボール』を唱え、指先に蝋燭大の火を灯す。

 

 ぼんやりと照らし出されたエレナの顔は無表情で、翠玉色の目はフィリップの出した炎が映り込んでいないかのように虚ろに濁っていた。

 

 「……エレナ!」

 

 フィリップはらしくもなく大きな声を出し、エレナの肩を揺する。

 しかし、エレナは相変わらずぶつぶつとエルフ語で何事か呟くばかりで、目の前のフィリップに気付いているのかさえ怪しい。

 

 こうも無反応だと、一発引っ叩いたら駄目だろうか、なんて荒っぽい考えも浮かぶ。

 

 もしも実行に移したら、エレナには平手打ちの仕方なんて習っていないので、教わった通りに顎狙いでフック気味の掌底が飛ぶことになるのだが。それも手首を返しながら打ち抜く、顎骨と脳の両方に強烈なダメージを与えるやつ。

 

 しかしフィリップが生まれて初めて女性の顔面をぶん殴る前に──訓練中に顔を狙ったことは数え切れないが、一発も当たっていないのでノーカウントとして──エレナの方が先んじて動いた。

 

 ぼっ、と空気の爆ぜる音を耳元で聞いたフィリップは、咄嗟に音とは反対方向に跳ぼうとして壁に激突する。

 

 音の正体は、まさにフィリップが繰り出そうとした旋回力を込めた掌底──人中をブチ抜く威力の突きだ。

 ただし、エレナが、フィリップを狙って繰り出したものだが。

 

 「痛ッ……! エレナっ!」

 

 思わず『深淵の息』を撃ちそうになったフィリップだったが、ギリギリのところで踏み止まり、もう一度呼びかける。

 

 フィリップがまだ生きているのは、彼女の意識が正常な状態ではないからだ。でなければ今の一撃はフィリップの反射速度を超える速さで頭蓋を粉砕していた。

 

 眠気か、或いはもっと別の意識障害かは不明だが、エレナの動きは緩慢だ。

 一撃は遅く、追撃がない──普段のエレナなら有り得ない、鈍重な動き。

 

 明らかに正常な状態ではないが、だからこそ過激な方法で制止するのは憚られた。

 殴り倒す──気絶させる程度に留めておきたい。至近距離の格闘戦でエレナに勝てる気はしないけれど。

 

 「……」

 

 覚悟を決め、拳を構える。

 意識朦朧とはいえ、手加減なしのエレナと殴り合い。ステラが聞いたら頭を抱える暴挙だろう。

 

 エレナのパンチは生木を抉り、熊の毛皮を貫いて内臓を穿つ。生身の人間が受け止められるものではない。胴体に喰らったらほぼ死ぬと考えていいだろう。

 

 最悪、手足なら捨ててもいい──なんて、フィリップはそんな殊勝な考えは持っていない。手足に喰らうのだって普通に嫌だ。許容範囲は擦り傷、打撲、まあ最悪でも骨亀裂くらいまで。

 

 それを超える傷を負ったら、その時は悪いが地上で海水に溺れてもらう。なに、救命処置のやりかたは学院で習った。エレナは間に合うように祈るだけでいい。

 

 「来いよ寝坊助。起きたら僕が魔術を使ってないことと、ミナを呼んでないことに感謝して、逆立ちで湖の周りを100周して貰うぞ……」

 

 正確には、この距離では強制拘束魔術『エンフォースシャドウジェイル』を起動する前に殴り倒されそうだから、呼ばないのではなく呼ぶ余裕がないのだが。ついでに言うと、ミナは多分気持ちよく眠っている最中なので、無理やり呼び出したりしたらフィリップもエレナも危ない。標本よろしく地面に縫い付けられるのは御免だ。

 

 ファイティングポーズのフィリップに、エレナも同じ構えを取り──エレナが先んじて動いた。

 

 前手の左ジャブからワンツー。右ストレートは途中で沈み込み、顔ではなく胸を打ちに来る。

 加減ではない。むしろ殺意に満ちた攻撃だ。左第二・第三肋骨と胸骨を砕き心臓と肺を陥没させる必殺の一撃。エレナが『熊殺しパンチ』と言い、ステラが『地獄行き(スライドアウト)』と言う、エレナの技の中では一撃の威力に長ける技。

 

 ちなみに人間と体格・体内構造の近いオーガ相手に打った時には、心臓と肺の一部が、背中側から腎臓と一緒に出てきたとか。

 

 フィリップは全力で身を捩って躱しつつ、エレナの右手を全力で殴りつけて軌道を逸らす。

 拳が掠めたパジャマの一部が、鑢でもかけたように削れ飛んだ。王都で買った、綿製の服が。

 

 それには頓着せず、フィリップはエレナの顎を狙って裏拳を繰り出す。手首のスナップはウルミと蛇腹剣で鍛えられ、フィストガードありなら板だって割れる威力だ。

 

 叩き起こす、というか、昏倒させるような一撃。

 エレナはパンチの直後で姿勢が崩れ、顔が前に出ている。決まれば落とせる。

 

 が──当然のように、左手で叩くようにガードされた。

 

 流石に闘い慣れている。

 獣や魔物が主な相手だったらしいが、二足二腕の人型との戦いもお手の物か。

 

 エレナはさっと顔を上げ、牽制のように目元を狙ったフィンガージャブを繰り出す。

 人差し指と中指、薬指と小指をセットにして揃えた手で眼球を突く、所謂目潰しだ。

 

 フィリップはスウェイで躱しつつ、流れた姿勢を利用して膝関節を狙ったサイドキックを入れるが、ステップバックで躱された。

 

 「困ったなぁ……。勝てる気がしない」

 

 フィリップのパンチやキックでは、胸や腹を狙っても有効打にはならない。エレナを制圧したければ、狙うは喉か顎だ。胸を叩いて心臓震盪を起こさせる技もあると聞くが、フィリップには再現するだけの技術がない。

 

 対して、エレナの攻撃はどこに当たっても大体ヤバい。肉が吹っ飛ぶか、骨が砕けるか、内臓が壊れるか、死ぬかだ。

 

 「なんで僕の相手はこんなのばっかりなの? 呪い? おかしいなぁ。外神全ての加護と寵愛が約束されてるって話だったんだけど、運を──運命を操るようなのもいるし、何なら運命そのものみたいなヤツだっているのに」

 

 まぁ本当に運とか運命を操作されたら、それはそれでフィリップは本気で怒るのだけれど……そう考えると、融通は利かないものの忠誠心はしっかりしているのか。

 

 都合のいい神じゃないことは知っているし、こんなのはただの愚痴だ。

 聞いてくれる人もいないのに愚痴を零してしまうくらい、状況は良くない。

 

 「……退いてって言ってるじゃない」

 「ん? 喋っ──っぶな!?」

 

 フィリップの顔面を襲う、意趣返しのようなサイドキック。

 蹴り上げる形のそれは、首より上に当たれば脊髄が引きずり出されるような一撃だ。

 

 エルフ語ではなくフィリップにも聞き取れる大陸共通語に意識を引かれ、回避がコンマ数秒遅れた。ただでさえギリギリの状況下で集中が欠落した代償は、即座に支払われた。

 

 頭部狙いのサイドキックを躱すのに必要以上に体勢が崩れ、ジャブ代わりだったそれに続く、本命の一撃を躱せない。

 エレナの右足はフィリップの頬を掠めた瞬間に折り畳まれ、軸足は打ち込む時とは逆方向に回転する。

 

 再装填、完了。

 

 そして。

 

 咄嗟のジャンプバックとクロスアームブロックが功を奏し、フィリップの腕と肋骨、そして胸骨は、みしりと嫌な音を立てるだけで済んだ。

 

 しかし無傷とはいかない。

 フィリップの矮躯は蹴りの威力で軽く吹っ飛び、玄関ドアを蝶番もろともに破壊して浜へと転がる。

 

 「っ……!」

 

 トゲトゲした小石の痛みを無視して粗い砂利の上を転がり、衝撃を逃がす。変に耐えたらどこかが壊れる、そう確信できる威力だ。

 

 蹴られた腕、衝撃を受けた胸、扉に激突した背中、剥き出しで砂利に触れる手足。全身が満遍なく痛い。痛いが──()()()()だ。

 

 問題はそんな、我慢できる痛みではない。

 

 フィリップは立ち上がり、怒りを抑えながら考える。

 

 「怖いなぁ、夢遊病って。とはいえ……エルフの王女様がご乱心して人間を殺すのと、ご乱心したエルフの王女様を人間が殺すのは、どっちの方が不味いんだろう」

 

 ステラに怒られるようなことも、ステラが怒られるようなことも、出来れば避けたいのだけれど……まあ、仕方ない。

 

 死ぬのが嫌なわけではない。フィリップのような深い絶望を背負った者にとって、死は救済だ。

 だが死の代わりに訪れるものは嫌だ。そうなるぐらいならエレナを殺そう。その結果としてエルフと人間に再びの断絶が引き起こされようが、全面戦争が始まろうと知ったことじゃない。

 

 「続けようか、エレナ? 運が良くても二度と泳ぎたいだなんて思えなくなるだろうけど、まあ、せめて命があるように祈っておくといいよ。誰に宛てるのかは知らないけど」

 

 ふらふらとコテージを出るエレナに、フィリップは左手で魔術を照準した。

 

 「《深淵の(ブレスオブ)──」

 

 フィリップから迸る、悪意も殺意も含まない純粋な害意。

 エレナのことが嫌いなわけではないし、苦しめたいわけでもない。殺す必要もその意思もない。けれど──苦しもうが死のうが、どうでもいい。

 

 だが怒気はある。

 殴られかけて、蹴飛ばされて、ドアごと吹っ飛ばされて、フィリップは少し怒っていた。痛かったし、眠かったからだ。

 

 そして、エレナは自分に向けられた攻撃の意思を前にして。

 

 「うっ? げほげほっ! く、くさーい! なんでドアがないのー!?」

 

 と、素っ頓狂な声を上げた。

 

 

 

 

 




 注意事項はこれまで通り、以下省略。

 ミナちゃそ牙見せて!! という絵です
 
【挿絵表示】


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338

 翌朝。

 エレナは森で取ってきた木材とボート小屋にあった工具を使って、ドアの修繕作業をしていた。その小ぶりな鼻の穴には、両方ともに赤く染まったガーゼが詰め込まれている。

 

 しばらくトンカンキコキコと作業音を響かせていたエレナだったが、ややあってフィリップとエレーヌがいるリビングに戻ってきた。

 フィリップはエレーヌに謝って、事情を説明していたところだ。昨日は夜も遅かったからと、諸々が今朝に回されていた。 

 

 「……ふぅ。おわったよ、ふぃりっぷくん。……おっ、血も止まったみたい」

 「お疲れ様。こっちも説明終わったよ」

 「そっか。エレーヌさんも、本当にごめんなさい。今まではこんなこと、一度も無かったんだけど……」

 

 意気消沈して頭を下げるエレナに、エレーヌは「いえ」と苦笑気味だ。

 「以前より綺麗で建付けのいいドアにしてくださいましたし」というのは、流石にリップサービスだろう。確かに軋みもなく滑らかに開くようになってはいたし、作ったばかりだから汚れ一つないけれど。

 

 しばらく「ごめんなさい」「いえいえ」のやり取りを繰り返したあと、埒が明かないと判断したのか、エレーヌは近くの村まで買い物に行くと言ってコテージを出てしまった。

 

 フィリップたちが来た日から一度も買い出しに行っていないのは確実なので、方便ばかりではないだろう。

 

 フィリップもそろそろ調査を始めようと準備していると、ばつの悪そうな顔のエレナがとぼとぼと近づいてきた。

 

 「ねぇフィリップ君、その……ごめんね? ホントに覚えてないんだ」

 「ん? いや、もう怒ってないよ。一発分、きっちりやり返したからね」

 

 エレナの鼻血の原因は、フィリップのパンチだ。

 今朝の起き抜け一言目──は、流石に「おはよう、エレナ」だったので、二言目──一発は一発だよね、と、子供の喧嘩のような理屈でフィリップが拳を叩き込み、今に至る。結構本気で殴ったのに折れてはいない辺り、羨ましいほどのタフさだった。

 

 「でもボク、結構本気で戦ってたんでしょ? もしかしたら、フィリップ君だって怪我してたかも……ううん、死んでたかもしれないんだよ?」

 「いや、それは大丈夫。エレナが正気に戻るのがあと3秒遅かったら、死んでるのはエレナの方だったから」

 

 あれは本当に危なかった。エレナの寝起きがもう少し悪くて、「くさーい!」なんて大仰に嫌がるような性格でなければ、玄関先で溺死していた可能性さえあった。

 

 よく考えてみれば、そもそもフィリップがエレナと戦う必要は無かったのだ。エレナは一昨日の夜、自分で玄関のドアを開け、吹き込んできた悪臭で目を覚ましていた。

 フィリップはエレナと殴り合う必要なんてなくて、ちょっと脇に退くか、ドアを開けるだけで良かったのだ。昨日の段階で思い出せていれば、と思うも、後悔は先に立たない。

 

 「そ、そっか。それで、その……相談があるんだけど、いい?」

 「ん? なに?」

 

 まだ少し委縮した様子のエレナを宥めるように、フィリップは努めて穏やかに応じる。

 

 「夢のことなんだけど……」

 

 夢? とオウム返しで首を傾げるフィリップに、エレナも「うん、夢」と繰り返して頷く。

 

 「ボク、これまで夢遊病の症状なんて出たことがないから、もしかしたらそれが原因かもって思って。昨日は忘れちゃってたけど、今日はちょっとだけ覚えてるんだ」

 「ふーん。どんなの?」

 「うん、あのね、呼ばれたんだ。声……じゃないんだけど、うーん、表現が難しいなぁ。どんな声だったっていう情報が全然なくて……音じゃなくて、文字で伝わるみたいな感じだった。とにかく、その“意思”が、ボクを呼んでたんだ」

 

 沈黙するフィリップ。

 何か言おうとして口を開きかけ、そして、溜息さえ吐かずに閉じる。

 

 頭の中で目まぐるしく飛び交う単語と懸念を一旦置いておくのに、フィリップはたっぷり五秒を要した。そして漸く、

 

 「……それは、名前を、ってこと?」

 

 と、薄々は答えに察しを付けている問いを、無駄な問いを投げた。

 

 「ううん。そうじゃなくて……存在を、って言えばいいのかな。ボクを呼び寄せていたんだ。外に──あの、緑色の水底に」

 

 エレナがそう語り終えたとき、フィリップの思考は二つの可能性、二つの行動指針の間で揺れていた。

 

 どっちだ?

 

 夢遊病患者の妄想か?

 それとも──()()()()夢遊病か?

 

 二つの差は大きい。

 前者であるのなら、耳を傾ける理由も意義もない。王都に帰ったらその旨をステラかステファンに報告して、あとは丸投げだ。

 

 だが後者であるのなら、恐らく、フィリップが対処すべき事案だ。ステラにも、他の誰にも頼れない。

 

 「……そう、なんだ」

 

 なんとか相槌を絞り出したフィリップは、エレナをコテージで待たせて外に出た。

 

 湖は相変わらず汚らしい緑色に濁っていて、風が途切れると肉の腐ったような臭いが鼻を突く。

 だが──()()()()なのだ。

 

 湖──水源を生息地とし、そこを汚染するという性質。夢を使い、人間を生息地へ誘導するという性質。この二つから、思い当たる邪神が数柱、既にいる。

 しかし、フィリップはこの湖を訪れてから一度だって、神威を感じていないのだ。

 

 悲観的推測になるが、シュブ=ニグラスの視座からでは把握できないような神格を持たない劣等存在でも同じことが出来るとしたら、エレナを誘い出そうとした手合いの正体は杳として知れない。それっぽい神格は片手の指で足りる──正確には、こちらも「シュブ=ニグラスが知覚できる範囲では」という但し書きが付くのだが。

 

 逆にフィリップが望む展開は、エレーヌの夫、ニコラを殺したであろうカルトの仕業だったという展開だ。それなら簡単で、フィリップの目的がそのまま問題解決に繋がる。カルトを見つけて殺すだけの、楽しいお仕事だ。

 

 「いや、待て……。カルトは確実に居る、のか? いや、居た、と過去形で言うべきなのかもしれないけど……」

 

 現状、確定している事象は二つ。

 一つ。五年前に湖の管理人ニコラ・ルモンドが『深淵の息』によく似た死因で死んでいること。自殺を疑う理由はないし、殺された、と明言してもいいだろう。

 一つ。彼が死ぬ数か月前から水が濁り始め、湖が汚染されていること。こちらは王国の調査団が調べても原因不明だったから、自然現象ではないと考えるべきかもしれない。少なくともありふれた現象ではない。

 

 エレナの言葉の真偽は分からないが、この二つは疑いようがない。

 

 「……森の中をもう一回確かめるべきか? カルトの存在だけでもはっきり……いや、シルヴァが見落とすなんてこと……ある?」

 

 虚空に向けて問いかけると、魔術経路を通じて「ない」と断定的な意思が伝わってきた。

 まあそうだろう。シルヴァは森の中にいるとき以外はちょっと毒気のある幼女といった感じだが、一度森に足を踏み入れたなら、そこは彼女の掌の上か、頭の中みたいなものだ。どこに何がいるのか、どういう状態なのか、そういった情報を一瞬のうちに把握する。

 

 カルトを見逃すとしたら、“森”の範疇外──地下深くに潜んでいた場合くらいだ。

 

 ──ハスターを呼ぶか?

 

 脳裏にそんな案が浮かぶ。

 単純にして最速の、そして拙速の解だ。きっと最適解ではない。森を()()()、湖を()()()()()()というのは、流石に性急すぎる。

 

 ルキアもステラも夏休みを楽しみにしているだろうし、フィリップの目的はあくまで景観を戻すことだ。

 水底に潜むナニカ、或いは地中に潜った何者かを、引き摺りだしてブチ殺すことじゃあない。──どちらも、そんなものがいるのならという但し書きが必要なのだし。

 

 しかし、頭の片隅に妙な引っ掛かりがある。

 

 エレーヌだ。

 昨夜はエレナのせいでそれどころではなかったが、彼女は湖の上で何をしていたんだ? あんな深夜に、わざわざボートを漕いで湖の真ん中まで行く必要性とはなんだ?

 

 単に寝付けなくて、夜風に当たりにいったという可能性もなくはない。ないが──湖の周りには腐臭が満ちていて、清涼な夜の空気とは程遠い。

 この不快な空間にわざわざ出ていくだけの理由があったのは確実だ。それがカルトや邪神、神話生物との交信ではないと断定するだけの材料は、ない。

 

 「……でも、湖には出てみたけど、何もなかったし……夜か? 時間帯? 可能性はあるか……それとも、何か特定の儀式や呪文を行使しないと顕現しない?」

 

 どれもありそうだ。

 

 「僕の夢に出てきたら一発だったんだけど……有り得ないしなぁ」

 

 フィリップの夢に干渉したければ、シュブ=ニグラスの精神防護を突破する必要がある。

 そんなことが可能なやつは、こんな辺境の小さな星の、小さな水溜まりに収まるような低次存在ではないだろう。というか、何ならそれを試みた時点でシュブ=ニグラスの粛清を受けて消滅していても不思議はない。

 

 ……いや、もしかして、そういうことか?

 だから神威も、邪神に特有の存在感も感じなかったのか? 既にフィリップへ干渉を試みて、粛清された後なのか?

 

 不味い。

 いるかいないかの二元ではなく、居た場合でも「もういない」という可能性が出てきた。推測の複雑さがどんどん上がっていく。

 

 「分かんないなぁ……ルモンドさんはどっちなんだ……?」

 

 フィリップは独り言ち、困ったように頭を掻いて、ゆっくりと湖畔を歩き始めた。

 腐臭漂う空間は深く思考するのに最適とはとても言い難いが、その刺激が閃きの助けになればと思ってのことだ。尤も、これはゼロからイチを生み出す閃きではなく、点と点を繋ぎ合わせる地味で地道な思考の方が必要なのだけれど──地力の方が重要なのだけれど。

 

 フィリップはぶつぶつと呟きながら思考を回し、その足は自然とボート小屋の方に向かっていた。

 

 汚染の原因として思い当たる神格や神話生物は何種かいるものの、それらとの接触や交信、召喚や退散の術法を、フィリップは知らない。ナイアーラトテップに教わっていないし、シュブ=ニグラスはそんな無意味な知識は与えてくれなかった。

 

 「怪しいのはやっぱり、時間と場所か……夜中にボートで出てみるのは一案だけど、そうなるとエレナを放置することになるし、エレーヌさんにも確実に気付かれる。この仮説が正しいなら、あの人は信奉者か奴隷だし、なるべくバレたくはないんだけど……うーん……」

 

 よくわかんないから先に殺しとこう、という思考が一度も脳裏を掠めなかったわけではないが、多分、エレナに止められるだろう。

 フィリップとしても、一宿の恩がある人を冤罪で殺して「あ、そうなの? それはごめんね」で済ませるのは気が引ける。その程度の反応しかできないだろうという自覚があるからこそ。

 

 フィリップはぶつぶつと、誰にも相談できないからこそ自分で自分の思考の整合性を確かめるように、考えの内容を声に出して纏めながら、やがてボート小屋の前に辿り着いた。

 

 鍵がかかっているから使うときには声をかけて、というエレーヌの言葉は覚えていたフィリップだったが、なんとなくドアノブに手を伸ばす。

 かち、とノブが音を立てて回転し──目を瞠るフィリップは咄嗟に動作を中断することができず、長い間風雨に晒されていただろう古びた木の小屋は、きい、と軋みながらその扉を開けた。

 

 ドアが、開いてしまった。開くはずがなかったのに。

 

 想定外の事態に弱いというわけではなく、むしろ場当たり的な対処能力は高い方なフィリップだが、あまりにも意外な事態に硬直する。

 

 ここには露骨に怪しいものが二つある。

 

 一つはボート。

 湖の上に出たければそれを使うしかない。勿論、汚染された水で泳ぐという迂遠な自殺行為を厭わないなら別だが。

 

 もう一つは、あの本だ。

 黒い革表紙で装丁された、何かの薬品にまみれた本。

 

 あんな汚れた状態でも後生大事に持っている──それに、過去の日誌の上に置くほど頻繁に読んでいるというのは、少し不自然だ。

 

 王都外で出回っている高価な手書きの写本はともかく、王都で売られている錬金術製のコピー品なら、丁稚時代のフィリップでも不定期には買えるお値段だ。管理人の給料がどの程度のものなのかは知らないが、同じものを買えないということは無いだろう。あの本はちらっと見ただけだが、錬金術製の紙で編まれていたようだし、あれ自体がコピー品である可能性も高い。

 

 なのにそうしないということは、つい最近汚したのか、或いは。

 

 「コピー品なのは本だけで、中身はノートみたいな白紙……白紙だった、とかかな」

 

 ()()でなくてはならない理由があるとしたら、内容がオリジナルである場合だ。

 日記とか、料理のレシピ本、自分で書いた小説とか、可能性は幾つか思い浮かぶ。最悪の可能性は、勿論、魔導書の写本であるというものだが。

 

 まあ、ドアが開いた以上、確かめるのは簡単だ。引き出しの中にあるあの本を開けて、中身を読んでみればいい。

 

 まぁ日記とかだと多少気まずい思いをすることになるが、怖いのはそのくらいだ。魔導書だったら、その時点で方針は決定し、邪神を召喚することになる。

 

 軽く決めて、完全にドアを開けた時だった。

 

 「──エレーヌさんのこと、疑ってるの?」

 「うわっ!? エレナ、いつの間に!?」

 

 びっくり系には弱いのか、背後からの声でフィリップは飛び上がるほど驚いていた。

 

 「あの人は汚染とは無関係なんじゃない? 管理人なんだから、湖を綺麗に保つのが役目のはずでしょ? 旦那さんの遺志を継いで、旦那さんが亡くなった場所に住み続けるなんて、生中な覚悟じゃできないことだと思うし……血迷ったなんてこともないんじゃない?」

 「……それはこれから分かるよ。多分ね」

 

 言って、フィリップは小屋の中に踏み込んだ。

 

 エレナは引き留めようと手を伸ばすが、その手は何か躊躇したようにびくりと震え、やがて力なく下ろされた。

 

 「一応、小屋の外で待ってて。何かあると困るから」

 

 もしかしたらエレーヌが持ち出してどこかに隠しているかもしれないという危惧もあったが、引き出しを開けると、例の本は変わらずそこにあった。昨日見たままの、黒い薬品に塗れた汚い姿だ。

 

 これが魔導書である可能性は、まあ概ね半分以下だろう。

 智慧ある者が魔導書をこんな古びて雨の吹き込みそうな小屋に放置するはずもないし、この薬品が防水処置なのだとしても、フィリップが日誌を取りに行くと言った時、好奇心に駆られて内容を見てしまうかもしれないと考えれば、絶対に自分が行くと言ったはずだ。

 

 いやそもそも、鍵を開けっ放しにしてどこかに出かけていくなんてことは有り得ない。

 

 そう予想して本を開けたフィリップは、正解だったと頷いた。

 

 「……日記、か」

 

 

 

 

 



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339

 日記を取り出すと、何冊か重ねて入れられた管理日誌の更に下に、まだ何か入っていることに気が付いた。

 日誌が盾になったのか薬品で汚れていないそれを取り出すと、小ぶりな木製の額縁だった。中には肖像画が収められている。描かれているのはエレーヌと、金髪で良く日焼けした快活そうな男性だ。彼が夫のニコラ・ルモンドだろう。

 

 フィリップは額縁を机の上に適当に置き、日記の検分を始める。

 

 基本的には一ページを何段にも区切って一日ごとにしているようだが、時たま一ページを丸ごと一日に当てていることもあり、レイアウトに凝る方ではないようだ。その代わり、小さな字でびっしりと書き込まれていて情報量は申し分ない。

 

 並みの小説より余程分厚いハードカバーで、持った感じだと5~600ページはあるが、もう使い切られている。日付だけで年までは書かれていないから判然としないが、かなり長い間の記録が詰め込まれているようだ。

 

 初めの方から流し読むと、所々で「ニコラが~」「ニコラは~」と夫の様子が書かれているから、少なくとも五年前から使われているのだろう。

 五年前の春先に、湖の管理人になった旨が書かれている。『ニコラは子供のころからこの湖が大好きだったから、自分が湖を汚した犯人をとっ捕まえるんだって息巻いていた。泳ぐのが好きなだけで、汚染の原因を突き止める学者様みたいなことは全然できないし、喧嘩だって殆どしたことがないのに。ばかな人』と。

 

 一文を読んで、フィリップはちょっとだけ顔を顰めた。

 呆れたような文面から内心を推察できなかった、と言うわけではない。夫亡き後も腐臭漂う湖の傍で暮らす彼女の愛情深さを読み取れないほど、フィリップの読解力は低くない。

 

 ただ、愛が深すぎるあまり道を踏み外したという例は、既に知っている。あの枢機卿(道化師)がそうだった。

 ぺらぺらとページを捲って先を読み進めていくと、幸せな夫婦生活の情景が断片的ながら垣間見えて、その懸念がどんどん強くなっていく。

 

 二人は学術的な知識を持たないなりにもきちんと湖を調べていたようで、

 

 『ニコラが湖に何かが住み着いているかもしれないと言っていた。人間くらい大きな魚影を見たそうだ。私は見たことがないけれど……。泳いで捕まえよう、なんて言いだすんじゃないかとヒヤヒヤしたけれど、彼は「一人で湖に近づくんじゃないぞ」だって。』

 

 なんて記述もあった。

 だが、これに関してはニコラの見間違いである可能性が高そうだ。少なくとも()()ではないだろう。

 

 そして──()()()が訪れた。正確には、その数日後だ。

 

 『四日前、ニコラが死んだ。湖の傍で倒れていた彼は、肺いっぱいに水を飲んで死んでいた。溺れたわけがない。彼の泳ぎは王国一だ。誰かに溺れさせられたんだ。服が乾いていた理由は分からない。陸地に打ち上げられて、夜の間に乾ききったなんて有り得る?』

 

 冷静になるのに──文章を書ける程度に落ち着くのに、四日かかったのだろう。そこまでの期間は完全に抜け落ちている。

 

 問題はここからだ。

 人間が正道を外れカルトに落ちるなら、それ相応の理由があるはずだ。特に、ちゃちな地下サークルじみたものではなく、本物の邪神や神話生物に接触できるレベルとなると。

 

 深い悲嘆を感じさせる文言の並ぶページを捲り、ニコラの死から10日ほどが過ぎた頃だ。

 

 『湖に住み着いたモノについて詳しい人から、変な記号(文字?)で書かれた本を見せられた。なんだか湿っていて、甘い匂いのするベタベタが滲み出ている気色の悪い本だ。でも、これが読み解けたらニコラが生き返るかもしれないと言われた。ダメ元だ。もしも嘘だったら、カルトとして教会に突き出したあと、火刑台に火をつける役目は私にやらせてもらおう』

 『次のページから、重要なページの写しに入る』

 

 フィリップはページを捲り──即、本を閉じた。

 一瞬だけ目に入ったエレーヌの言う『記号』が、フィリップには難なく文字として認識できたからだ。

 

 「…………エレナ、あっち向いてて」

 「え? うん……」

 

 小屋の入り口のところに立っていたエレナが戸惑いつつも従ったのを見て、フィリップはもう一度本を開く。

 『記号』の羅列は30ページ以上にも及び、それから漸く日記が再開されている。

 

 『本は三日間だけ貸してくれるそうだ。親切に写すべきページを教えてくれて、記号や文字が間違っていたら教えてくれた。でも、記号や文字の意味だけは何度聞いても教えてくれない。それを読み解き、書かれた意味を理解する必要があるのだそうだ』

 『本を返した。無駄骨だったら許さないと言った時、彼はそんなことは有り得ないと笑っていたけれど、ライルが生き返らなかったら湖に沈めてやる』

 

 そこまで読んで「おや?」と思ったフィリップだったが、一先ず読み進めることにする。痺れを切らしたエレナが振り返る前に。

 

 しかし、その先は日記と『記号』を読み解くためのノートとしての用途が2:8くらいの割合で混ざっていた。

 日記部分によると王都の図書館で数学や錬金術、魔術理論の本を借りて試行錯誤していたようだが、そんなところにヒントがあるはずがない。必要なのは──。

 

 「そう、それだ。言語学……」

 

 『今日は王都の図書館で『古語とエルフ語に見る言語乖離の遷移と予想』『言語学概論』『文化が持つ国の遺伝子』の三冊を借りてきた。理系でダメなら文系で、という甘い考えでどうにかなるとは思えないけれど、ティムが生き返るために出来ることは全部やりたい』という日記を書いた日から数か月で、ノートの内容はじわじわと精度を増していた。

 

 「……まさか、独力で読み解いたの? 実例を魔力視で見たとかじゃなくて、思考力と歳月だけで? て、天才じゃん……」

 

 思わず苦笑するフィリップ。

 ノート30ページ以上にびっしりと書かれていたのは、人外が邪神との交信のために作り出した完全に別体系の言語である邪悪言語だ。

 

 大陸共通語とは文字や文法が違うどころの話ではない。いや、それも違うのだが、それ以上の問題が山ほどある。人間の舌と声帯では発音できないなんて当たり前。人間が知らない宇宙の法則や論理が平然と使われ、地球の論理は当然のように否定される。

 

 それを独学で理解したとなると、身近に努力する天才が三人もいる──ミナを入れると四人──フィリップも、自然と拍手してしまうレベルの天才だ。

 

 王都で言語学者でもやっていれば、エルフとの国交を回復した今、まさに欲しがられる人材になっていたことだろう。目下、二国間の通訳が出来るのは王都のエルフ学者が一人と、エルフ側もエレナの世話役だった生物学者のリック翁だけのようだし。

 

 今からでも勉強すれば十分に通用するだけの才能だとは思うが──残念ながら、そんな未来は訪れない。ステラが彼女の才能を欲したとしても、だ。

 

 「狂人の洞察力ってやつなのかな? だとしたらちょっと羨ましいけど……」

 

 枝葉末節を細かに知覚するだけの知性を失う代わりに得られる本質を見抜く力が羨ましいのか、或いは発狂できることが羨ましいのかは、まあ、さておくとして。

 

 フィリップはぺらぺらとページを捲って先を読み進め──遂に、祝うべきその日を迎えたエレーヌの日記を見つけた。

 

 『本は目的に完食した。カップにはプディングが必要だ。飛ぶ後に彼のペットとなる、歩く猫の体が。頭は思考になり、足は魚になる。彼の神への貢献、献身によって金貨と石榑が泳ぎ回り、その褒賞としてジャンを蘇らせて頂くのだ。全ては愛のために。全ては彼の神のために』

 

 ……壊れていた。

 文章が、文法が、単語が。

 

 そしておそらく、記述者の精神(こころ)も。

 

 だからこんな、見つかった瞬間に即カルト認定を喰らうような代物を、鍵もかけずに放置していたのだろう。狂人の思考や行動に論理的整合性はない──一見して普通に見えても、どこかに歪みがあるものだ。

 

 まともに会話が成立していたのは、精神の一部だけが壊れ、一部は健常な状態で残っているからか。完全に壊れ切ったら、脊髄反射しかできない廃人になるはずだし。

 

 「エレナ。状況が──」

 

 状況が変わった、と。

 そう口にしようとしたフィリップだったが、その認識ですら甘かった。

 

 状況は──終わっていた。それも、最悪の状態で。

 

 「──見て、しまったのですね」

 「っ!?」

 

 深い失望を滲ませる声に、フィリップは弾かれたように振り向く。

 と、小屋の入り口には奇妙に表情の抜け落ちたエレーヌが立っていた。エレナもいつの間にかこちらを向いていて、エレーヌの一歩後ろで申し訳なさそうな顔をしている。

 

 ただし、その表情の宛先はフィリップではなく、エレーヌだ。

 

 「ごめんね、エレーヌさん。鍵が開いてたとはいえ、勝手に見ちゃって。でも、あの顔をしてる時のフィリップ君は、なにかすごく重要な──」

 

 事ここに至り、あまりにも安穏としているエレナに目を瞠るフィリップ。

 だが、それはフィリップが悪い。日記を読んだのも、エレーヌの状態に気付いたのも、その目的を理解したのも、全てフィリップだけだ。エレナには何も教えていない。

 

 彼女にとって、エレーヌはまだ容疑者にすらなっていない。「フィリップが疑っている人」とか、最悪、まだ「傷心の管理人のお姉さん」みたいな認識かもしれない。いや、エルフにとっては幼子なのか。それはまあどうでもいい。

 

 フィリップはエレナに、まだ何も教えていない。エレナは何も知らないのだ。

 そして基本的には底抜けの善人である彼女が、何の理由もなく他人を疑うわけがない。

 

 「──エレナっ!」

 

 このクソ馬鹿が、とでも怒鳴りつけそうな剣幕で叫ぶフィリップ。

 咄嗟に「逃げろ」とか「そいつは敵だ」とか具体的なことが言えないあたり連携訓練はまだまだ必要と言わざるを得ないが、今回に関しては、たとえ指示と理由を端的に発していたとしても意味はなかった。

 

 状況は、もう終わっているのだ。

 

 フィリップは自分の視界が霞み、ゆっくりと傾いでいくのを感じる。酔ったように揺れる景色の中で、エレナの身体も同じように傾いていくのを見た。

 

 「うっ……!?」

 「ガス……!?」

 

 フィリップとエレナはそれぞれ木の床と砂利の地面に倒れ、呻く。

 以前にフレデリカが“使徒”相手に使った鎮静ガス、シュヴァイグナハトのダウングレード品のようなものだろう。あれは魔力の貧弱なフィリップには通じなかったが、今は凄まじい眠気と手足の脱力感に襲われている。

 

 マスクをしているエレナにも効くあたり、炭とタオルでは防げないのだろうが──エレーヌは完全に素顔なのにピンピンしている。いや、いつもと変わらず、体調の悪そうな土気色の顔なのだけれど……。

 

 「なるほど。お前、()()()()()()のか……」

 

 フィリップは最後にそれだけ言って、完全に意識を失った。

 

 

 

 

 



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340

 遠くの方で、誰かがフィリップを呼んでいた。

 いや、遠くにあるのは──遠退いているのはフィリップの意識だ。

 

 それがだんだんと、暗い洞窟を抜けるように近づいて晴れ、気が付くと、呼び声はすぐ近くで囁かれていることに気が付いた。

 

 「フィリップ君、起きて! フィリップ君!」

 「……っ」

 

 目を覚ますと、周囲は薄暗かった。

 ボート小屋に閉じ込められているのかと思ったが、違う。外だ。フィリップたちが調査に来た湖の傍に、両手を縛られて寝かされていた。

 

 薄暗いのは、時間のせいだ。遠くに見える山の背中に太陽が隠れはじめ、空には紺と朱色が混ざり合っている。

 

 「いたた、フィリップ君、あんまり動かないで。ボクと一緒に縛られてるんだから」

 「……ごめん」

 

 フィリップとエレナは背中合わせに、どうやら一本のロープで両手を結ばれているようだ。フィリップが動くとエレナの腕が締まり、エレナが動くとフィリップの腕が締まるようになっている。

 

 「あのゴミクズはどこ行ったの?」

 「え、エレーヌさんのこと? 分かんない。ボクもいま起きたところなんだ」

 

 怒りを感じさせない平然とした声で、普段の彼らしからぬ口汚い呼び方をするフィリップに、戸惑いつつ答えるエレナ。

 

 フィリップは冷静に──本人は冷静だと思っている思考の下に、自分の手がエレナの背中に沿うような位置にあることを確認する。

 ロープを外すのにはエレナが邪魔だ。彼女が本気で抵抗すればロープは千切れるだろうが、それより先にフィリップの腕に食い込んで、そっちが千切れそうだ。かといってフィリップの腕力では、ロープを千切ることも、人間の腕を千切ることも出来はしない。

 

 だが──()()()()()、体重をかけて砕くことができる。

 

 もちろん第一選択ではない。ないが、一案として頭の片隅には置いておく。

 

 「取り敢えず体を起こそう」

 「え? でも、まだ気が付いてないふりをした方がよくない?」

 「いや……あいつの狙いはもう分かった。どの程度()()()()()奴なのかも。確定だよ。あいつはカルトだ」

 

 せーの、と呼吸を合わせて身体を起こし、二人は取り敢えず背中合わせで座る。

 

 「かると……えっと、確か、唯一神以外の神様を信仰する人のことだよね。それとこれに何の関係があるの? あ、ボクたちがエレーヌさんを捕まえるんじゃないかって思われたのか!」

 

 困ったように言うエレナ。

 フィリップは目が覚めたことをエレーヌに気付かれない方がいいなんて考えは一片も持たず、声を上げて笑った。

 

 「あははは! 死ぬほど楽観的だね」

 

 死ぬのはエレナ一人だけど、とは、もう敢えて言う必要もない。

 彼女はフィリップの纏う空気が切り替わったことに気付かないほど鈍くない。顔は見えずとも声を聞くだけで、フィリップが眩暈に襲われるほどの激甚な悪意を心の内に宿していることは察していた。

 

 「……何が起きてるの?」

 「んー……そうだなぁ……」

 

 フィリップはエレナの背中に体重を預け、紺色を濃くし始めた空を見上げて考える。

 

 邪神がいると明言するとか、邪神の名前を出すとか、それは流石に駄目だとしても……どうにか状況だけでも伝えておきたい。というか、さっきはそれを怠ったせいで、エレナがエレーヌの接近を知らせてくれなかったのだ。

 

 エレーヌが敵であること、そして彼女の目的を説明するのに必要なことくらいは開示すべきだが……まさか、ありのままを伝えるわけにもいかない。ぼかして誤魔化して、しかし要点だけは誤解のないように。

 

 「この湖の底にはね、魔物がいるんだ。そいつは8割方死んでいて、必死に生き永らえようとしている。正確には、死にかけの2割分だけがここにいる、と言うべきなんだろうけど」

 

 ちなみに“いつから”いるのかは、実のところ判然としない。

 それは“どうして”いるのかが分からないからだ。カルトが魔術で召喚したのかもしれないし、ずっと湖の底にいて、何かのきっかけで目覚めたのが五年前ということもある。

 

 だがどちらにしても、居るのは確実だ。

 神威は感じないが、恐らく、大量の水によって遮られているのが原因だ。フィリップが鈍感すぎるという可能性もないではないけれど、エレナも、過去にここを訪れた調査隊や冒険者が揃いも揃ってフィリップ級の鈍感だとは思えない。神威を放っているなら、誰かが気付くはずだ。

 

 フィリップの説明は続く。

 

 「そいつは人間を殺して力に変えて、更に死体を下僕にしてる。下僕を使って更なる()()()()を集めたり、残りの8割を探させたり、まあ色々してるんだ」

 

 困るよね、と小さく笑うフィリップだが、エレナの反応は想像以上に大きかった。

 

 「えぇっ!? なにそれ!? じゃあ早くエレーヌさんに……ま、待って? まさか、それって……」

 「そう。あの本に書いてあったんだよ。ルモンドさん……まあ、うん、ルモンドさん()()()()()は、そいつの下僕ってこと」

 

 意外な頭の回転──でもないか。

 だが、エレナが一度信じた相手を疑うとなると、いつもよりちょっと早めだ。

 

 エレナに然程の興味がないフィリップが──正確には天地万物の殆どに対してそうなのだけれど──気付かない程度の、小さな誤差の正体は、昏倒寸前にフィリップが見せた、エレナには見せたことのなかった表情が原因だ。

 

 聖人君子や人形ではないフィリップは怒りもするし悲しみもする。気分を害したら、結構顔に出る方だ。百面相とまでは言わずとも、表情筋は素直だし活発だと言えよう。

 概ね、ルキアやステラと一緒にいるときは幸せそうにニコニコしている。ミナと一緒にいるときは眠ってしまいそうな穏やかな表情のことが多いし、エレナやシルヴァと遊んでいる時は年相応に無邪気な笑顔だ。

 

 そして、さっきの──黒い本を読み終え、エレーヌに攻撃された時のフィリップの表情は、エレナがこれまでに見たことのないものだった。

 

 それこそ生き別れになった恋人に再会したような──或いは、親の仇に再び見えたような。

 

 過去に同じ表情を見たことがある者はその殆どがもう死んでいるし、数少ない例外の中にも重篤な記憶障害を負ったものがいる。

 

 周りのことなどどうでもいい。或いは自分のことさえも。

 ただ眼前敵の苦悶の表情と絶叫、そして死のみを望む妖艶で凄惨な微笑。今は背中合わせに縛られていてお互いの表情は見えないが、エレナの脳裏には憎悪と殺意に満ち、どろりと濁った青い瞳がこびりついていた。

 

 「そ、そんな!? 魔物を討伐……は、厳しいよね、やっぱり。この湖、深さ200メートルもあるんでしょ?」

 

 人を操る悪いヤツ=ぶっ飛ばす、と直結する思考は頼もしい限りだが、彼女の言う通り、流石に厳しいものがある。

 最大水深200メートルだというこの湖の底にいるのだとすれば、体術に長けるものの魔術適性の低いエレナではどうにもならない。フィリップにも同じく。

 

 そして理由はそれだけではない。

 水底で眠っているやつは、神格だ。神格である以上は人間やエルフとは一線を画す存在の格を持ち、その格差はそのまま干渉を拒む隔絶となる。

 

 「たとえ地上に居ても僕らじゃ無理だね。一定以下の攻撃は全部無効にするヤツだから。……ドラゴンみたいなものだよ」

 

 まあエレナはドラゴンと戦ったことはないはずだけれど。脅威度を伝えるにはいい塩梅の喩えだろう。

 

 「……エレーヌさんは、操られてるってことだよね?」

 「さぁ、どうだろう……今がどうかは知らないけど、始まりは自分の意思だったはずだよ。旦那さんを蘇らせるために……?」

 

 フィリップは言葉を切り、首を傾げた。

 エレーヌは自分の意思で何かの魔導書を読み解き、ここにいるヤツと交信した。それは間違いない。そして日記を見る限り、その目的は夫であるニコラの蘇生だ。少なくとも、魔導書を──あの日記も、本物に限りなく近い魔導書の写本のようなものだったけれど──貸したカルトからは、そう聞いていたはず。

 

 しかし、魔導書を解読し終わった時点でエレーヌも気付いたはずだ。

 

 死者の軍勢の一員、意志ある死体にしたければ、犠牲者は水底にいるモノの手にかかって死ななくてはならない。

 

 水底に眠る邪神が授けてくれるのは、死に分かれた愛する者との再会なんかではない。そいつは所詮、死体を歩かせるだけだ。

 まあ、動く死体との邂逅を「再会」と表せるのであれば、そう言ってもいいけれど。

 

 「なるほど、その時点で狂ったのか」

 

 思えば、魔導書を写し終えた辺りから妙だった。

 お墓にあった彼女の夫の名前は『ニコラ』だったのに、日記の中で彼女は別の人物を蘇らせようとしていた。別の名前を書いていた、と言った方が正しいか。

 

 だが、流石に夫の名前を間違えるわけは無いだろうし、邪神に縋ってまで夫を蘇らせようとするほど愛の深い人が浮気というのも考えにくい。

 単純に記憶に障害が出た、と考えるには、ぴかぴかに磨かれていたあの墓は不自然だ。きっと毎日手入れをしているはずだし、名前を忘れるはずがない。

 

 人名認知に障害が出たか……個体認知の方か。それとも、何も分からないレベルで壊れているか。

 

 まあ、どれでも構わない。どうせ死んでいる。

 

 どうせ殺す。

 

 立ち上がった死体を、二度と立ち上がらないようぐちゃぐちゃにして殺し切る。なに、炭の塊にして粉砕すれば動かなくなるだろう。サイメイギの従者の時のように。もう死んでいる以上『深淵の息』で溺水の苦しみを味わわせられないのは──呼吸していないのだし──残念極まるけれど、まあ、たまにはそういうのもいいだろう。

 

 カルトを綺麗に、すんなりと……。

 

 いや、それはない。出来る限りのことはするべきだ。立ち上がった死体だからと諦めるのではなく、出来る限り試行錯誤して──死力を尽くして、苦しめて殺すべきだ。フィリップはそう、自省した。自省──のようなことをした。

 

 「どうしようかな……」

 

 エレーヌがアンデッドとしてどの程度のものかは知らないが、ガスが無効だった辺り、呼吸を必要としないのは確実だ。だから『深淵の息』は効かない。

 問題になるのは痛覚だ。ゾンビやスケルトンといった低位のアンデッドは触覚さえ曖昧だと授業で習ったが、最高位アンデッドである吸血鬼は疑似的な呼吸も可能で、他とは比較にならないほど人間っぽい。だが痛覚があるかどうかは疑問だ。

 

 ミナは平然と自分の手首を切って大量の血を流すけれど、全然痛そうではないし、「いつもごめんね、痛いよね」と言った時には『何言ってんだコイツ』と言わんばかりのおかしなものを見る目で見られたので、たぶん痛くないのだろう。あれは「斬撃を飛ばせるの?」と訊いたときと同じ目だった。

 

 アンデッドは例外なく痛覚がないのだとしたら、四肢を切り刻んでも意味がないということになってしまう。やはり『萎縮』による脱水炭化しかないのか。

 

 なんともつまらない話だ。全くやる気が起きない。

 

 そんなことを考えていると、コテージの扉が開いてエレーヌが出てきた。

 相変わらず病的に顔色の悪い彼女は、じき日没と言うこともあってランタンを片手に、もう一方の手にはあの黒い革表紙の本を持っていた。

 

 「フィリップ君。ここは落ち着いて、エレーヌさんの出方を見るべきかな? それとも一か八か、ボクがフィリップ君を背負って森まで逃げ込めるか試そうか?」

 「落ち着いてよエレナ。あいつは僕たちを邪神の手下にするために、そこそこ煩雑な殺し方をしなくちゃいけない。少なくとも深夜までは殺されないから」

 「そ、そんなことも書いてあったんだ?」

 

 フィリップは「まぁね」と軽く頷く。

 実際、儀式の手順やら呪文やらがきちんと書かれてあった。邪悪言語で、だが。

 

 フィリップたちのすぐ傍まで近づいてきたエレーヌは、左手をちょっと掲げて黒い本を示した。

 

 「……これ、凄いでしょう? いつからか、本の内側からこの液体が滲み出てきたの。まるであいつらに借りた“本物”みたい。私も“本物”の仲間入りってことよね!」

 

 自慢げで嬉しそうなエレーヌの言葉に、何を言っているんだろう、と恐怖と共に困惑を示すエレナ。

 

 フィリップは勿論、エレナに「落ち着いてよ」と言える程度には落ち着いているのだろう。

 実際、フィリップはエレーヌに「そうなんですね」と適当な相槌を打つつもりだった。まあ、結局のところ口を突いて出たのは、

 

 「人間の偽物が人語で僕に話しかけないでよ。劣等種」

 

 という、もう言葉の意味から文字数まで、何から何まで違うような言葉だが。唯一、テンションだけは適当な相槌に相応しい、愛想笑いの雰囲気なのが逆に不気味だった。

 

 

 

 

 

 



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341

 「偽物? いやね、私は歴とした人間よ」

 「僕とお前では“人間”という言葉の範囲が違うのかな。生憎、僕は立ち上がって動く死体を人間だとは思わない」

 

 何を言っているのか分からないと言いたげな顔のエレーヌに、フィリップは辛辣な答えを返す。

 相手の気持ちなど慮る必要は無いと言わんばかりの態度は、武器もなく縛られているとは──生殺与奪の権を握られているとは、とても思えない横柄さだ。

 

 実際、フィリップにそんな意識はない。

 

 相手がカルトであると分かった時点で、フィリップが縛られていようと、死の直前であろうと、決定することはただ一つだけだ。即ち、眼前敵の死。

 自分が死ぬかもしれないなどという懸念は頭の中から完全に消え、カルトを如何に苦しめて殺すかが思考の大半を埋める。

 

 こうやって逃げて、こうやって倒そう。とか、そんな甘い考え方ではない。

 ()()()()()。それだけだ。

 

 まあ今回の場合、相手はもう死んでいるのだけれど。

 

 「死体……? 何を言っているの? 私は──」

 「さっきの昏睡性ガス、あれは魔物駆除に使うヤツの弱い版でしょ? 獣除けに使うとでも言えば、錬金術師とかその手の知識のある冒険者が作ってくれるだろうけど……どうしてお前には効かない? それはお前が呼吸していないからだ」

 

 エレーヌではなく、エレナに説明するために態々語る。

 いつものフィリップなら「カルトか。じゃあ惨く死ね。お前と語る言葉なんぞ持ってない」とばかり殺しにかかり、縛られているならハスターに解いて貰えばいいじゃない、と召喚魔術を切りかねないことを考えると、エレナは枷としてそこそこ有用なようだ。

 

 ルキアやステラ、衛士たちとは比べるべくもないが。

 

 「それに、僕はここ何日かで、お前がトイレに行っているところを見たことがない。まあ偶然である可能性だって大いにあるけれど──ミナと同じで、食べたモノが消化ではなく魔力に分解されると考えると納得は行く」

 

 「そういえば!」なんて指を弾くエレナ。彼女もフィリップと同じく、エレーヌがトイレに行くところを見ていないらしい。

 

 まあ、一つの小さなコテージ内で一緒に寝泊まりしているとはいえ、たった三日のことだ。たまたまタイミングが合わなくて見掛けなかっただけ、という可能性だって十分にあるし、態々「ちょっとトイレ」なんて宣言していくのは学院でだってフィリップくらいのもの。偶然である可能性も十分に高い。

 

 だが、そんなことはもう、どうでもいい。

 

 「というか、率直に言って、僕はお前が生きていようが死んでいようがどうでもいいんだ。僕の憎悪は、ただお前の苦痛によってのみ払われる」

 

 エレーヌはカルトだ。厳密にはただの邪神崇拝者であり、それだけなら状態的にはルキアと同じ。フィリップが殊更に憎悪を向けることはない。

 ないが──フィリップは彼女をカルトであると断定した。定義し、決定した。ならばその時点で、エレーヌはカルトなのだ。

 

 ならばその生死に意味はない。

 痛覚があるのなら肉体的苦痛を、感情があるのなら精神的苦痛を背負わせて殺す。殺し直す。

 

 「手始めにお前の神を引き摺り出そう。殻を剥いて素焼きにして、小さく切り分けてビヤーキーの餌にしてやる。次にお前の夫の墓を暴こう。骨を砕いて森に撒けば、きっといい養分になる。そして最後にお前を解体(バラ)そう。無人の墓前に揃えて供えてあげるよ」

 

 背中合わせに座ったエレナが、びくりと震えたのが肌感覚で分かったフィリップだったが、頓着はしない。

 

 いまはエレナの感情に気を配っていられるほど、フィリップにも余裕がない。

 殺したくて殺したくて堪らないのだ。

 

 飢えている。

 餓えている。

 渇いている。

 

 まるで本当に飢餓に陥ったかのような攻撃衝動に襲われているのだ。

 

 「カルトは絶滅しなくてはならない。ただし、あらん限りの苦痛を味わった上で、ゲロと血と絶望に塗れて死んで貰う必要がある」

 

 そして──フィリップの目の前で、出来るならフィリップ自身の手に掛かって死ぬ必要がある。

 

 「必要?」とエレナが呟く。

 囁くようなその問いに、フィリップは誰がどんな気持ちで問いかけた言葉なのかに一切の気を払わず、淡々と答えた。

 

 「あぁ。僕が望む──故に、それは必要なんだ」

 

 “神がそれを望まれた。故にそれは必然である。”

 一神教の聖典の一説を改変した言葉だと分かったのは、エレナではなくエレーヌだった。

 

 「神にでもなったつもり?」

 「まさか。天地万物に平伏されたってなりたくないよ」

 

 冷ややかなエレーヌの言葉に、フィリップはにっこり笑って──劣等種に向けるに相応しい侮蔑に満ちた嘲笑を浮かべた。

 馬鹿にして面白がっている、というわけではない。ただ単に見下しているだけだ。ナイアーラトテップがフィリップに向けるものとはまるで違う、薄ら寒い笑顔だった。

 

 「……まるで狂人ね」

 「お前から貰うには最高の誉め言葉だよ」

 

 ほんの少しの怯えと、フィリップと似たような軽蔑の感情を滲ませて言うエレーヌに、フィリップは嬉しそうに笑う。

 その笑顔には曇りや裏が一寸たりとも感じられず、嫌みの類ではないと直感的に理解できる。だからこそ、不可解だった。

 

 まるで、神を見下しているかのような物言いは。

 

 「……月が昇ったわね。じゃあ、始めましょうか」

 

 恐ろしいものから目を背けるように、エレーヌはフィリップから視線を切って湖の方を見た。

 決して美しいとは言えない緑色に汚濁した水面は、微かに映る白銀の月の光さえ穢すように思えて、フィリップは得も言われぬ不快感を抱く。

 

 まあ、その不快感なんて無くても、どっちみち。エレーヌの死は確定しているのだけれど。

 

 「……貴方たちには本当に申し訳ないと思っているわ。分かってとも、許してとも言わない。けれど、夫を──セオを生き返らせるためなら、私はなんだってするわ」

 

 本当に申し訳なさそうなエレーヌに、フィリップはまるで慰めるかのようににっこりと笑いかけた。

 

 「あっそう。ところで旦那さんの名前ってなんだっけ?」

 

 エレナが不思議そうに振り向こうとして、縛られているのを思い出して諦めたのが背中に感じる動きで分かった。

 問われたエレーヌの方がむしろ平然としていて、ちょっと首を傾げた程度で普通に答える。

 

 「言っていなかったかしら? ルークよ。ルーク・ルモンド」

 

 エレナはまた振り返ろうとしたが、「え?」と口走る前に、フィリップが体重をかけて「静かに」と示す。

 

 反応から察するに、エレナもコテージの裏にあった墓石を見たのだろう。

 ぴかぴかに磨き上げられた御影石に彫られた『ニコラ・ルモンド』の銘も。

 

 「そうなんだ。髪の色とか目の色は覚えてる?」

 「勿論。貴方と同じ金髪に青い目だったわ」

 

 ふむ、とフィリップは頷く。

 ボート小屋で見た肖像画に描かれていた男は、確かに金髪に青い目だった。

 

 つまんないなぁ、なんて口走りそうになりつつ、先を続ける。

 

 「ふーん。あれ? そういえば、旦那さんの名前ってなんだっけ?」

 

 問いかけると、背後でエレナが身動ぎしたのが分かった。

 たったいま聞いたばかりの質問を繰り返されて流石のエレーヌも眉根を寄せるが、これから生贄にする子供への罪悪感か、はたまた違和感を抱き続けるだけの健常性がないのか、素直に答える。

 

 「え? だから、アンリよ。アンリ・ルモンド」

 

 十数秒前とは違う答え。

 それを聞いて、フィリップはにんまりとほくそ笑んだ。

 

 「ルーク=アンリ・ルモンドさん? それとも複数人いるの?」

 「何を言っているの? 私の夫は人生でただ一人、アイクだけよ」

 「アイクさんってどんな人だったの? 髪の色は?」

 「綺麗な茶髪よ。すごく癖の付きやすい髪質でね、毎朝大爆発だったの」

 「あはは、そうなんだ。じゃあ──」

 

 畳みかけるように──或いは傷口に塩を塗り込めるように、心底楽しそうな笑顔で問いを重ねていたフィリップの愉悦に浸るひと時は。

 

 「もうやめて!」

 

 と、そんな悲壮感漂う叫び声で終わりを迎えた。

 

 「フィリップ君、お願い……もう十分でしょ? エレーヌさんは、もう──」

 

 今にも泣き出しそうに湿った声で紡がれる説得の言葉は、しかし、尻切れに終わる。

 その先を口にすることが憚られた、とか、その必要が無かった、とか、そんな優しい理由ではない。

 

 エレナが口を噤んだのは恐怖ゆえだ。

 背後から感じる、首筋が焦げ付くような敵意に気圧された。

 

 自分の背丈を優に超える熊や、6匹以上の狼の群れ、武器防具で武装したオーガの一個小隊をさえ相手取った経験を持ち、その全てを退けてきた歴戦のエレナが。

 

 敵意の出処は言うまでもなくフィリップだ。

 

 正気を失ってしまったらしいエレーヌを弄ぶような物言いが気に障ったとか、フィリップが他人を執拗かつ残酷に嘲弄するところなど見たくなかったとか、理由はいくらでも思いつく。フィリップだって、エレナの思考はある程度分かってきたのだから。

 

 で。

 

 それがどうした、という話だ。

 

 今この場に限らずとも、フィリップは意思決定に自分の感情を介在させることに躊躇いがないし、その比重は合理性を容易く上回る。他人の感情なんかが、今更どれほどの意味を持つと言うのか。

 

 いや──そもそも。

 

 ()()()()()のは仕方ない。それはフィリップ自身が勝手に枷を付けているだけの、いつものことだ。

 

 だが()()()()()のなら。

 そんなやつは要らない。誰であれ。その理由がなんであれ。

 

 しかしフィリップが募らせた苛立ちを言葉に変換して口走る前に、じわじわと空の頂上へ向かい始めた月を見たエレーヌが慌てる素振りを見せた。

 

 「もう、なんなの、二人して……。あぁ、時間だわ。もう儀式を始めないと」

 

 月は未だ頂上には届かない。昨日の月から考えるに、日付が変わるまで1~2時間と言ったところか。

 フィリップが読んだ日記の魔導書の写しの部分に書かれていた、生贄奉納の儀式に適した時間帯だ。ちなみに交信儀式は月が天頂を過ぎてからが最適なので、昨夜はボートに乗って湖の真ん中まで出て、そこで交信していたのだろう。

 

 まあ、今更そんなことが分かったって、特に意味はないのだけれど。

 

 儀式の方法は知っている。さっき読んだ。

 エレーヌが呪文を唱えると湖から棘のように鋭利な触手が出てきて、生贄を貫く。そして大量の負のエネルギーを送り込まれ、贄はアンデッドの軍勢として自ら水底に沈む。

 

 フィリップもエレナも、流石に触手で貫かれたら死ぬだろう。シュブ=ニグラスの精神防護が隷属効果を弾くとしても、物理攻撃に対して、フィリップは意外と無防備だ。

 

 フィリップは暫し、無言で考え込んだ。

 

 眼前のカルト。背後の少女。──妙に覚えのある状況だ。

 違和感が既視感だと気付いた後は、以前に経験した類似の状況を思い出すのにそう時間はかからなかった。

 

 一瞬の過去回想の後に、フィリップは悲壮感にも似た何かを滲ませる、泣き笑いのような笑みを零した。

 

 「あぁ──ルキアは本当に凄いなぁ。一緒に居なくても、僕を導いてくれる。僕を……引き留めてくれる」

 

 ルキアみたいに、自分の力だけで誰かを守れるほど強くはない。

 何より、そんな感情よりもカルトへの憎悪の方がずっと大きい。

 

 けれど──ルキアならきっと、ここでエレナを見限ったりはしない。

 ほんの一瞬だけでもそう思ってしまったら、フィリップはもう笑うしかない。──もう、エレナのことをどうでもいい相手と見捨てるわけには行かない。

 

 だから、フィリップは。

 

 「《エンフォースシャドウジェイル》起動」

 

 神様ではなく、飼い主を頼ることにした。

 

 

 

 



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342

 月の光を受け湖とは反対方向に伸びるフィリップの影の中に、一つの人影が君臨する。

 長い黒髪と漆黒のコルセットドレスを靡かせる立ち姿は、白銀の月光を浴びて凄惨なまでの美しさを湛えていた。

 

 「ミナ、どうにもならなくなっちゃった。ロープを力任せに千切ろうとすると、多分、僕の腕が折れる」

 

 強制召喚されたミナは辺りに漂う臭気に思いっきり眉根を寄せたが、縛られていながらニコニコしているフィリップを見つけると、呆れの色を交えつつも柔らかに微笑した。

 

 「……いいタイミングだったわ、フィル。ちょうどお腹が減って、こっちに飛んでいたところだったの」

 「そうなん──」

 

 フィリップの相槌を聞き終えるまで待つことなく、ミナはふわりと屈んでフィリップの首筋に腕を回し、流れるような所作で首筋に牙を突き立てる。

 なるべく痛まぬように、なるべく怖がらせぬようにという配慮と、愛玩動物に向けるに相応しい弱者への慈愛を感じさせる手つきではあったが、動き自体は慣れたものだ。フィリップも、ミナも、被捕食と捕食は日常の一部。

 

 こく、こく、と真っ白な喉が二回鳴ると、束の間の抱擁が解ける。その後には、フィリップとエレナを戒めるロープが鋭利な刃物で裁断されたような綺麗な断面を晒して落ちていた。

 

 「……ありがと、ミナ」

 「どういたしまして。ごちそうさま」

 

 解放されたフィリップは立ち上がると、「寝違えたかも」なんて言って身体を動かしながら、わざとらしくミナから離れる。背後ではエレナが「ありがとう姉さま! ねえ聞いてよ!」と騒がしく現状の説明をしていた。

 

 フィリップは吸血行為が嫌だったわけではない。いつも通り全く痛みのないただの愛情表現、スキンシップ程度の触れ合いだ。ただ──滅茶苦茶いい匂いがしたので、心臓の鼓動が五月蠅い。

 何のことはない、いつもフィリップを眠たくさせる夜と月の匂いなのだが、流石に湖の腐臭に慣れた後で嗅ぐと刺激が強い。吸血後の酩酊感もあって、長い昼寝から目覚めたばかりだというのにまた寝落ちてしまうところだった。

 

 ミナから離れて再び鼻腔に纏わりつくような腐臭を吸い、「きゅ、吸血鬼!?」と、恐れも露に叫んだエレーヌの声を聞いて、何とか意識を保つ。

 

 エレーヌは何やらわちゃわちゃと日記を繰り、やがて一つのページを開くと、本を握りしめるようにして()()を注ぎ込んだ。

 魔力か、生命力か、或いはもっと別な何かかもしれない。しかしフィリップには、エレーヌが自分の中にある“それ”を本の中に流し入れたのが感覚的に理解できた。

 

 「っ……《緑の従者の指揮》!」

 

 起動詞……ではなく、呪文か。現代魔術ではなく領域外魔術に属するものであることは、フィリップには分からずともミナには見て取れた。

 その詠唱は、“詠唱”とは言うけれど、詠うようにも、唱えるようにも聞こえない、恐怖に駆られた絶叫だ。

 

 エレーヌもフィリップ同様に照準補助に腕を使わなくてはならないらしく、右手を湖に向けている。右手どころか、目線も、身体もだ。

 

 魔術適性に乏しい者でも使える領域外魔術でこの様なら、恐るるに足りないだろう。フィリップでも手だけ向ければ照準できるのだから。

 ……というのは、酷な話か。フィリップに魔術を教えているのは人類最強の魔術師二人なのだし、環境が違いすぎる。

 

 フィリップは嘲笑と共に左腕を掲げ、動く死体を炭の塊に変えようと息を吸う。しかしほんの一節の呪文を唱え終える前に、ミナが射線を遮るようにフィリップの前に立った。

 フィリップの邪魔をしているという様子ではない。死ぬほど面倒臭そうな顔をしているが、敵意の籠った視線の宛先はエレーヌと、緑色に汚濁した水面を波立たせる湖だ。

 

 一先ず手を下ろしたフィリップと、拳を構えるだけで行動を起こさなかったエレナは、不自然に荒れる湖の波音に気を引かれて目を向けた。

 

 緑色の水面は嵐のごとく荒れ狂い、湖の中心から岸に向かって押し寄せる波を生む。

 

 風の仕業ではない。

 それは水底に蠢く幾百の手が水を掻き、湖水が攪拌された結果だ。

 

 そして浅瀬にまで辿り着いた彼らは、水を吸った重い体をゆっくりと起こした。

 

 夕暮れが終わり夜を迎えた藍色の空の下、緑色の水を割って立ち上がる、無数の人影。

 虚ろな眼窩、肥大した手足、ぼっこりと膨れた腹。肉の所々を腐り落とし、腐臭を漂わせる異形。いや──再び立ち上がった水死体たち。

 

 ざっと200体は居ようかという、数ある死因の中でも屈指の凄惨さだとされる膨れたヒトガタ。幽鬼の足取りで行軍する群れを目の当たりにして、エレナが片膝を突いて嘔吐した。

 

 それでも、流石に戦闘慣れしている……というか、危機感のあるエレナは根性で立ち上がり、口元を拭って拳を構える。

 

 胃液の饐えた臭いに当てられたフィリップの方が、吐いている時間は長かった。

 三人の中で一番臭いに敏感なはずのミナはすらりとした鼻筋にしわを寄せているものの、吐きもせず、むしろフィリップの背中を擦ってくれていた。

 

 「アンデッドの……大群!? 湖の下にこんなものが!?」

 

 エレナの驚愕が五月蠅い。

 ただでさえ腐乱した死体の放つ臭いで限界ギリギリだったフィリップに止めを刺したのはエレナのゲロだというのに、「早く立って!」なんて急かしてくるのが苛立たしかった。

 

 「神の軍勢よ。私は神よりその指揮権を頂いているの。水辺にノコノコ現れた愚かな吸血鬼も、神への供物にすればいいだけ! そうしたらきっと、ヒューイの復活に大きく近づくわ!」

 「そうか! 吸血鬼は大量の水に弱い! 姉さま、捕まえて引きずり込む気だよ! 気を付けて!」

 

 勝ち誇ったように──或いは現実逃避するように声高に叫ぶエレーヌ。

 エレナはミナとフィリップを庇う位置に立って拳を構えるが、鈍重な足取りながらも踏み均す物量を持って湖から出てくるアンデッドの軍勢を相手に、パンチやキックでは心許ない。 

 

 「……別に吸血鬼に限らず、大抵の陸棲存在は水中だと弱くなると思うのだけれど」

 

 ミナがぼそりと呟く。

 

 ちなみにミナは泳ぎがあまり得意ではない。

 得意ではないが──()()()()()()()()だ。伝承にあるように大量の水に押し流されると浄化されるとか、清涼な川を渡ることはできないとか、そういう種族的な特性があるわけではなかった。

 

 そりゃあ水中では剣も振りにくいし血の槍の威力や速度だって大きく減衰するから、戦闘能力は低下する。ただ、ミナとて呼吸を必要としないアンデッドだ。溺れない以上、吸血鬼はむしろ並大抵の存在より水に強い方だった。

 

 「姉さまは下がってて! ボクなら多少は泳げるから、捕まっても大丈夫!」

 「格闘戦の方が、水中では余程やりにくそうだけれど……」

 

 立ち上がろうとするフィリップに手を貸しながら、ミナは胡乱に呟く。

 エレナの中では「ミナは吸血鬼だから水に弱い」という大前提があるのだが、ミナにしてみれば、むしろエレナの方が水に弱そうだった。 

 

 吸血鬼は飛行できるから、そもそも川に入って服を濡らしたり、泳ぐ必要がない。それを見た人間やエルフが吸血鬼は泳げないと勘違いしたのだろう。或いはそういう方便で、恐怖に怯える人々を宥めようとしたか。「この村は川に囲まれているから安心だ」とか言って。

 まあ、そういう村から順番に餌食になっていくのだろうし、吸血鬼の側も、もしかしたら間違った噂を敢えて助長しているのかもしれない。そちらの方が餌を取るのが簡単になる。

 

 そんなことを考えて薄く笑みを浮かべたフィリップの隣で、ミナも残忍に口角を吊り上げる。

 

 「死体が立ち上がった程度のアンデッドが、この私に盾突こうだなんて」

 

 つまらない冗談を聞いたと言わんばかりに、皮肉げに口元を歪めるミナ。

 吸血鬼はアンデッドの中でも相当に上位に位置する種族だが、ミナはその吸血鬼の中で最も()()()吸血鬼とされ、魔王勢力の中では吸血鬼陣営の棟梁だったらしい。始祖の系譜、とディアボリカは言っていたか。

 

 不死。長命。様々な種族特性と長年の研鑽に裏打ちされた圧倒的な戦闘力。

 そんじょそこらのアンデッドに牙を剥かれるなど、脅威判定どころか可笑しくなってしまうほどの絶対的強者だ。そして、ミナは対アンデッドに於ける反則級の切り札を持っている。

 

 フィリップが気付いたときには、彼女の右手には白銀の断頭剣が握られていた。

 

 強力な邪悪特攻性能を持つ魔剣『美徳』。励起状態で防御無視効果を持つのはフィリップも知るところだが、聞くところによると完全開放すればルキアの『粛清の光』にも匹敵する攻撃範囲と断罪性能を発揮するのだとか。

 

 「血を啜りて輝くは魔の理。無傷無血こそ聖の理。なれど邪なるものに救いは無く、父の御名において断罪するのみ」

 

 ミナは右手に魔力を編んで作った漆黒のガントレットを纏い、フィリップには覚えのない詩を紡ぐ。

 それが魔剣の全力開放に必要な起動詞に類するものであるとは知らずとも、エレーヌの絶叫よりは余程“詠唱”という言葉が似合うと思える、落ち着いた声色だ。

 

 或いは、ただ単純に面倒そうな声なのかもしれないが。

 

 「垂頸落とせ──魔剣「美徳」」

 

 詠唱が終わり、胸の前で地面と垂直に立てられた断頭剣が光の柱に変わり、目を焼くほどに眩い、覚えのある極光が夜天を衝く。光が降り注ぐルキアの『粛清の光』とは逆だ。

 ガントレットが炉に突っ込んだようにきいきいと軋むのに構わず、ミナの口角が獰猛に吊り上がり、異常に発達した犬歯が瑞々しい唇から覗く。

 

 そして──一閃。

 

 真夏の太陽を彷彿とさせる苛烈な色の光が湖面を薙ぎ、光の粒子が蛍の群れのように散乱する。

 

 フィリップが目で追えない速度の横薙ぎの過ぎ去った後に、もはや動くものはフィリップたち三人だけだった。

 次々と湖から上がってきていた水死体の全ては光の剣に触れた瞬間に灰と化し、風に吹かれ、水に溶けて消えてしまった。

 

 くだらない一幕だったと言いたげな溜息と共に魔剣を霧に変えたミナに、エレナが「すっごーい!」とじゃれつく。

 

 「ありがとう、姉さま! すっごくカッコよかった!」

 「……うん、助かったよ。ありがとね、ミナ」

 

 ミナは相変わらず臭そうに顔を顰めたまま、二人のお礼には適当に手を振って応じた。

 

 ──正直、思うところはある。

 ミナが狙ったのか巻き添えを喰らったのかは不明だが、三人の前に立っていたエレーヌまでもが塵に変わってしまった。

 

 フィリップは彼女を暫定的にカルトだと定義していた──フィリップ自身が、なるべく苦しめたうえで殺したかったのに。

 

 「あーあ……」

 

 ざく、と小気味の良い音。

 残念そうに嘆息したフィリップの靴が、エレーヌだった残骸、塵の小山を踏みつけた音だ。

 

 ミナとじゃれ合っていたエレナが振り返り、足元を踏み躙るフィリップを見つけて柳眉を逆立てる。 

 塵とはいえ元は人間だったモノ。それを足蹴にするとはけしからん、死体を踏みつけにするのと同じだ──なんて、説教を垂れる寸前で、エレナは口を噤んだ。

 

 「塵を踏むもの……なんちゃって。ふふふっ……くだらな……ふふふっ……」

 

 フィリップは笑っていた。楽しくて笑っているというより、可笑しくて、そして呆れているような笑い方だ。

 この場では自分にしか分からない、そして分かる相手はきっと笑ってくれないであろう、笑ってしまうほどにくだらないことを言った、と。

 

 大声を上げることはなく、しかしくつくつと喉を鳴らして確かに笑っているフィリップに、ミナとエレナは怪訝そうな目を向ける。

 

 視線に気づいたフィリップは二人にも笑顔を向けると、笑いの発作を鎮めるように深呼吸して、しかし口元が緩むのを制御しきれずにへらりと言った。

 

 「──帰ろうか。二人とも」

 

 

 

 




 流石にまだ終わらないよ


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343

 もう日も暮れてしまったものの、この悪臭漂う湖畔のコテージでもう一夜明かすよりマシだろうと荷物を持って森に入ったフィリップたち。

 「いくらアンデッドだったとしてもあれはよくないよ!」なんて説教を垂れるエレナを鬱陶しく思いつつ「んー」とか「そうだねー」と適当な相槌でやり過ごしていると、くい、と腕を引かれた。

 

 エレナが怒ってフィリップの腕を掴んだわけではない。

 エレナもミナもフィリップの前を歩いているし、腕を掴んだ手は小さくてふわふわしている。目を下げると、やはり、シルヴァだ。

 

 「どうしたの?」

 「ふぃりっぷ。なにかいる。いっぱい」

 

 恐れた様子はなく、警戒心も感じさせない警告。いや、ただの報告か。

 何かがいるから気を付けろ、ではない。ただ単純に「何かがいる」ということを伝えただけだ。

 

 ただ、意味のない言葉ではない。

 シルヴァが態々出てきて報告したということは、フィリップがその情報を欲しがると思ったのだろう。シルヴァはともかく、フィリップが警戒するような「何か」がいるのか。

 

 狼や熊ならミナとエレナがどうとでも料理できるだろうし、フィリップだって『萎縮』で対処できる。尤も、嗅覚に優れた野生動物はフィリップに付いた邪神の残り香(けはい)を恐れて近づいてこないのだけれど。

 

 「何かって?」

 「……わかんない。でも、しってるのもいる。にんげんとか、くろやぎとか、きのことか」

 

 湖を囲う森は別に、前人未到の秘境というわけではない。

 心鏡の湖が汚染され観光地ではなくなって以降、森を通る人間は極端に減少したものの、今でも近場にある村の食糧庫として重宝されている。

 

 だが日が沈んでから森に入る人間は珍しい。特に地元の人間は、この森を縄張りにしている狼を警戒して、日が沈んだ後は森に踏み入らない。

 湖から漂う腐臭を避けて森の外縁側に根城を移した彼らは、利口にも森の外には出ない。そうすると人間が本気になることを知っているからだ。しかしその分、狩りの時間に森に入った人間は容赦なく襲う。人間が馬鹿には厳しいことを、馬鹿の復讐はしないことを理解しているのだ。

 

 近くに住む人間ではない。かと言って、汚染された湖を態々見に来る酔狂な観光客である可能性も低いし、調査依頼は取り下げられているから冒険者でもないだろう。

 

 それに、人間なんかよりもっと気にすべき単語があった。

 

 「黒山羊って、あの黒山羊? 前の奴みたいな蒙昧だと面倒だなぁ……」

 

 フィリップのことを『母なるシュブ=ニグラスの匂いを付けた人間』としか認識できないような劣等個体だと、またぞろ生贄にしようと襲われる可能性がある。フィリップの背後に外神たちがいることを知らない、理解できないような、と言うべきか。

 

 「シル──」

 「フィル。私の傍に来なさい」

 「フィリップ君、荷物を置いて剣を抜いて! 何かがこっちに近づいてきてる! それもかなりの数だよ!」

 

 反射的にシルヴァを見遣ると、彼女はこくりと頷き、自分から異次元に還っていった。

 言われるがままにミナの隣に移動し、重たいリュックを置いて龍貶し(ドラゴルード)を抜く。何が来るのか、どこから来るのかはフィリップには全く分からなかったが、なんとなくミナとエレナが睨みつけている方を警戒しておく。

 

 梢から月光が差し込んでいるとはいえ、夜の森はかなり薄暗く、フィリップの目では闇が満ちる木立の間を見通すことはできない。

 しかし、夜闇の中に目を凝らす必要は無かった。

 

 それらは、煌々と輝く篝火を掲げ、木立の陰から堂々と姿を晒してやってきた。

 

 松明、ランタン、魔術の炎や輝く液体の入った試験管など、様々な光源を手にしたローブ姿の集団。ざっと数えただけでも20人以上はいる。

 手にした明かりと同じく、ローブにも統一感は無い。砂色から森林迷彩的な緑と茶色のマーブル、オーソドックスな黒まで様々だ。

 

 「……っ?」

 

 無言のまま串刺しにしようと片手を上げたミナが、怪訝そうに動きを止める。

 その理由は警戒心ではなく、不審感だ。

 

 ローブ姿の集団は一人残らず、一糸乱れぬ動きで跪いて、恭しく首を垂れていた。

 処刑を待つ罪人の姿ではない。気品と敬意を感じさせる、王に拝謁する貴族の所作だ。或いは──神前に膝を折る、敬虔な信徒の。

 

 「──お初にお目にかかります、()()()()()よ」

 

 姿を見た瞬間、条件反射的に左手を向けて魔術を照準していたフィリップは、一団の代表者らしき最前の人影の声を聞いて、その肺を海水で埋めるのを止めた。

 人影──人間である確証が持てない故に、そんな言葉を選ばざるを得ない。ローブ越しで曖昧ながらも男にしては華奢な体格のように思えるが、声が不明瞭だ。

 

 何を言っているのかははっきりと聞き取れるが、男の声でも、女の声でも無いように感じられる。中性的、とは少し違う。無性的、と言えばいいのか。無機質なくせに、胸の高鳴る歓喜が伝わってくる、そんな声だ。

 

 「……は?」

 

 フィリップは思わず、驚愕の声を漏らした。

 

 ()()()()()。こいつはいま、確かに、そう口にした。

 誰一人としてその意味を知るはずのない──ルキアやステラでさえ、ナイ神父がフィリップをそう呼ぶとしか知らない、その言葉の意味するところを知らない呼び名を。

 

 神威は感じない。人間のカタチを真似ただけの化け物である可能性はあるが、少なくとも邪神やその近縁種ではないようだ。

 

 であれば──なるほど、それは。

 

 「……最低限の智慧はあるんだ。おめでとう」

 

 ミナとエレナが怪訝そうにしているのに気付かず、フィリップは両手を広げて言祝いだ。

 

 おめでとう、と、心の底から祝福する。

 智慧を得たこと。自らが蒙昧であることを知り、その蒙を啓く第一歩目を踏み出したこと。そして──最低限、フィリップの興味を引いたこと。

 

 「僕、カルトとは会話しないことにしてるんだけど……智慧があるのなら言葉を交わす、というのは、人間として当たり前のことだよね? だから、うん、話くらいは聞いてあげるよ」

 

 対話の席に着く、という口ぶりではない。そんな生易しいことは考えていない。

 俎上に乗った魚の名前を知っておくとか、叩き潰す虫の種類を知っておくとか、そういう類の知識欲に基づく行動だ。

 

 普通は図鑑で調べるか有識者に尋ねることを、言葉が交わせるから当人に尋ねるだけ。聞きたいことを聞いたら、その後は一瞬の躊躇もなく首を刎ねるだろう。

 

 フィリップからじりじりと滲む、夜の静寂が重さを持つような殺気。

 知らず足を震わせていたエレナだったが、彼女が何か行動を起こす前に、小気味の良いぱちりと乾いた音が静寂を散らした。

 

 思い出したように手を叩いたのは、持っていた──構えていた、ではない──魔剣を霧に変えて消し去ったミナだ。

 

 「あぁ、ごめんなさい? 確か、『カルト狩り』は見ない方がいいのよね? 森の外で待っていればいいかしら?」

 「え? あぁ、うん、そうだね。そうしてくれる?」

 

 フィリップが頷くと、ミナはなんだか妙に生温かい視線を呉れて去っていく。戸惑いも露なエレナのことも引っ張っていってくれて好都合ではあるのだけれど、視線のわけはちょっと気になる。

 ちなみにミナは王都で人間の生活やペットについて──主に犬猫だが──深く調べた結果、『カルト狩り』のことは風呂やトイレと同じ、羞恥心を持つべき行為であると認識しているのだった。

 

 二人が去ったあと、跪いたヒトガタたちの中で最前にいる、先ほどと同じモノがひときわ深々と頭を下げて答える。黒いローブに目深なフードで人相は全く分からないが、なんとなく、フィリップはそいつのことを女だと思った。

 

 「我々など、御身の前では赤子の如き無知、死人にも同じ蒙昧でございます。しかし……はい。我々は最低限、この世の真理の末端を垣間見たといえましょう」

 

 フィリップは少し眉を上げ、ぞんざいに顎をしゃくって先を促す。代表らしき女──おそらく──は、恭しく頭を下げて言葉を続けた。

 

 「恐縮ながら名乗らせて頂きます。我々は啓蒙宣教師会。単刀直入に奏上致します──あなたをスカウトすべく、我ら一同参上致しました。魔王の寵児よ」

 「宣教師……?」

 

 スカウト、なんてあからさまに論外な部分は完全に無視して、気になった部分に突っ込む。

 宣教師なんて役職が一神教に存在したのは、もう何百年も前のことだと、歴史の授業で習った。具体的に何年前を最後に宣教師という役職が消滅したのかまで習ったはずだが、咄嗟に出て来ない辺り、眠気との戦いがいかに熾烈なものかが窺える。

 

 さておき、大陸に存在する三大国家、そして帝国隷下の小規模国家群も含めて、ほぼ全ての人類群が一神教を信仰している現代において、一神教を広める宣教師という役職は消滅して久しい。それこそ、教科書の中で読むような代物だ。

 

 随分レトロな名前を付けるのだな、と面白がるフィリップに、代表者はさらに続ける。

 

 「はい。我々は──カルトを教導し、啓蒙し、布教するカルトでございます。あの管理人にグラーキの黙示録と知恵を与えたのは我々です。そして、グラーキの破片をあの湖に召喚したのも」

 

 グラーキの黙示録。フィリップは聞き覚えのない名前だが、あの日記の写本部分のオリジナル──エレーヌの言っていた“本物の魔導書”なのだろう。

 名前からして、あの湖の底に住み着いた旧支配者、グラーキにまつわる物か。召喚の方法、傷ついたグラーキを癒す方法、死体軍団である緑色の従者を作る方法なんかが、あの日記には書いてあったが、その原典だとすれば推理に間違いはなさそうだ。

 

 いや、それより──エレーヌのことや、水底に住んでいる旧支配者のことなんかより、もっと重大なことがある。

 

 「カルトを教導する、だって?」

 

 フィリップは可笑しそうに、オウム返しに訊く。

 言わんとしていることは分かる。分かるが──まさか。

 

 「我々はカルト──空想の神、矮小な神に縋る蒙昧共が厭わしいのです。偏執的譫妄の産物を信仰し、剰えそれこそが真理と思い込む愚物が」

 

 その言葉に、フィリップは薄い笑みを浮かべて頷いた。

 

 「あぁ──分かるよ」

 

 と、心の底から()()()()

 

 カルトと一口に言っても、智慧の深さはピンキリだ。ヨグ=ソトースと接触するリスクさえ知らずよく分からない空想の神が時間の支配者だと思っているようなヤツらもいれば、外神のことを知ったうえで「そちらの方が恩恵がありがたいから」とクトゥルフなんて劣等種を信仰するモノもいる。

 

 悪魔崇拝、魔王信仰、自然の神格化、エトセトラ。一神教の定義する「カルト」には、こんな普通の──フィリップからすると、それはもうカルトではないだろうと笑ってしまうようなものまで含まれる。

 

 聞いたこともないような──勿論、シュブ=ニグラスの視座からは見えないだけで、実在するのかもしれないけれど──邪神を信仰するカルトもいる。だが、そういう手合いを、フィリップは心の底から厭わしく思っていた。反射的な憎悪とは別に。

 

 譫妄は智慧ではない。

 

 フィリップが誰か他人に共感するなんて、ステラ相手にさえ滅多にないことだ。思考ではなく思想への共感となると、ステラ相手でさえあったかどうか。

 その相手がカルトだなんて知られたら、ルキアとステラに隔離修道院にぶち込まれるかもしれない。まあ、そんな下手な冗談みたいなことをする二人ではないけれど。

 

 「合点がいったよ。物事の順序が狂っている気がしてたんだけど、そんなことはないみたいだ」

 

 フィリップはつかつかと無造作に、啓蒙宣教師会を名乗るカルトたちの方に近づく。

 そして、会話していた代表者ではない、その斜め後ろにいたヒトガタが口から大量の海水を吐きながら倒れて藻掻き、やがて動かなくなった。

 

 「《深淵の息(ブレスオブザディープ)》──あの死に方は知ってる。カルトが居なくちゃ再現できない死に様だ。……ルモンドさんをグラーキの信奉者にするために、そのためだけに殺したな?」

 

 突然の仲間の死に、しかし、カルトたちは殆ど無反応だった。

 怒りも、悲しみもしていない。むしろフードの下から同胞だったモノに向けられる様々な色と形状の目からは、色濃い嫉妬の念が滲んでいる。

 

 そして、フィリップの双眸にも怒りや嫌悪感の気配はない。

 むしろ、どこか感心したように跪く一団を見下ろしていた。実際、「はい」と先頭の女らしきヒトガタが答えると、フィリップは「へぇ」と感心の声を漏らす。

 

 グラーキを呼ぶことが目的ではない。その復活や勢力拡大を、こいつらは端から目的としていない。

 

 エレーヌ・ルモンドという人間に智慧を与え、蒙昧なる人間の総数から1を引く。智慧ある者の総数に1を加える。彼ら“宣教師会”の目的はそれだ。

 そして、旧支配者グラーキ──地球に根付いた劣等種ではあるものの、確かに神格を有する邪神は、そのための道具、舞台装置の一つに過ぎない。エレーヌの夫、彼女に目的意識を植え付けるためだけに殺されたニコラもまた。

 

 「いいね。智慧の使い方に正解も不正解も無いだろうけど──僕の好みではある」

 

 フィリップの言葉に、跪いた集団にざわめきが広がる。

 それは大抵「おぉ」とか「あぁ」とか感嘆符以上の意味を持たない音だったが、それだけに深い歓喜を感じさせた。

 

 勿論、フィリップ好みの思考・思想であることは、彼らがカルトであることを否定しない。フィリップの憎悪と害意の宛先から外れることにはならない。

 

 それは彼ら彼女らとて理解している。

 その上で、言葉を続ける。

 

 「過去、貴方様が窮極の玉座に赴かれた折にお使いになった、“時神の僕”。彼らに外神の副王ヨグ=ソトースとの交信の術法を授けたのは我々です」

 

 言葉が終わり、数秒の沈黙が下りる。

 痛い沈黙、どころの話ではない。全身矢達磨になったかのような痛苦を錯覚させる、重い静寂だ。

 

 誰も動かない。誰も動けない。

 木々の梢さえ、葉の擦れる音を立てないように息を殺しているかのようだ。

 

 ややあって、フィリップはどうにか、

 

 「……へぇ?」

 

 と、それだけ絞り出した。

 

 



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344

 「へぇ?」なんて呟き、こうなるんだぁ、と一人納得する。

 フィリップは今初めて、シュブ=ニグラスの精神防護がどれだけ強力なものなのかを理解した。

 

 怒りは短い狂気である、とは言うけれど、狂気の域に至る怒りなんて、そう抱くことはないだろう。フィリップの精神状態、天地万物への諦観と嘲笑を鑑みるに、その難易度は他の人間を数倍して高い。

 

 親しい友人、尊敬する人、或いは親兄弟を殺されようとも「まあ、人は死ぬものだしね」なんて納得してしまうのではないかと、我が事ながら他人事のように懸念するフィリップだ。愚弄されようと罵倒されようと、怒りが一定の閾値を超えることはない。

 

 より正確には、その前に発散する。

 フィリップの中で他人の命や社会的制裁の比重は、自分の感情より遥か下にある。イラついたからという理由で他人を殺すことに、あまり忌避感はない。

 

 だからフィリップの感情をその閾値にまで昂らせるには、何かワンアクションでそこまで持ち上げる必要がある。

 

 過去、ナイアーラトテップがカルトに与したと勘違いした時のように。

 あの時は、閾値のギリギリで止まった。激情は狂気に至る寸前で止まり、その後すぐに発散したから何事もなく終わったが──今回は、完全に振り切れている。ブチ切れている。

 

 憎悪と憤怒は足し合わされ、遂に感情の域を抜け狂気の範疇へ踏み入った。

 

 しかし、だ。

 

 狂気的な量の激情は、しかし、狂気らしい性質を表出させなかった。

 

 フィリップは文字通り、狂気を奪われている。

 膨大な知恵を与えられてこの世の真の姿を知り、この世界がどれだけ悍ましく儚いものかを知らされて、その結果として、何を見ても、何を知っても「まあ、所詮は泡沫だ」と冷笑する。それ故に狂わない、というわけではない。

 

 本当に、狂気という状態にならないように制限されている。固定されているのだ。

 

 だから狂わない。狂えない。

 脳が過熱するほどの憤怒も、身を焼くほどの憎悪も、フィリップから理性を奪うことはできない。

 

 ──尤も、フィリップは理性の有無に関係なく、感情だけで動くのだけれど。

 

 「……どうしたの? 続けて?」

 

 穏やかに促すフィリップの声で、彼らは呼吸やそれによく似た何かを忘れていたことに気が付いた。

 

 代表の女は深呼吸して声の震えを抑え、続ける。

 

 「黒山羊のカルトに潜入していたエージェント。彼も我々の一員です。一神教の枢機卿にショゴスを使役する術やシアエガのことを教えたのも」

 

 フィリップの顰蹙を買うことを()()、声が震えぬよう必死に取り繕いながらもそう明かす。

 その姿に、フィリップは確かな誠意と敬意を感じた。畏怖と崇敬──まるで、神にでも拝謁したような感情の動きが見て取れる。

 

 「貴方様の深淵なる智慧を、どうか我々と共に揮って頂きたいのです。愚劣な妄想を智慧だと思い込み、剰えその為に他人を害するような救いようのない愚者を救う、そのために」

 

 言って、彼らは揃って頭を下げた。

 伏して願い奉る、という言葉がぴったり当てはまる、そんな恰好だ。

 

 フィリップは深々と嘆息し、その一挙動で“宣教師会”たちを震え上がらせる。

 人間も人外も関係なく──いや、人間以上の智慧を持つ人外の方が、畏怖の念は大きい。

 

 「……お前たちの思想には、正直、共感は出来る。理解もできる。蒙昧を払う、なるほど、素晴らしい信念だ」

 「恐悦至極に存じます。魔王の寵児よ」

 

 頭を下げたまま謝辞を述べる女だが、フィリップの表情は硬く険しい。

 心の内には怒りがある。憎しみもある。なのに、感情が行動へ直結しない──フィリップらしくもなく。

 

 それは、感情をそのまま表出させてはいけないと分かるからだ。

 

 心の内はどす黒い殺意で染まり切っているはずなのに、理性の立ち入る余地なんて一片も残っていないはずなのに、妙に落ち着いている。

 

 閾値を超えた感情は全てそのままに、激情に駆逐されるはずだった理性さえもそのままだ。

 

 シュブ=ニグラスの精神防護。

 そうだ。そうだった。それはそういうものだった。

 

 この世の姿を知り、幾千万の外神を知り、旧支配者や旧神、神話生物のことを知り、狂って然るべき膨大な知識と人間の思考形態では理解できない概念を詰め込まれ、その上で思考と理性が破綻しない。そういう防護だ。

 

 何があっても狂わない。狂えない。

 

 しかし──それは、狂気に至るほどの激情そのものを否定しない。憎悪も、憤怒も、フィリップの感情はフィリップだけのものだ。誰であれ、それを書き換えることは許されない。

 

 「でもね。それは僕がお前たちを見逃す理由にはならないし、与する気にさせる要因でもない。何より──あれがお前たちのせいだと言うのなら、僕は僕の憎悪に従う。お前たちの論理も感情も知ったことじゃあない」

 

 フィリップは冷静だ。

 冷静に──眼前のカルトを、なるべく苦しめて殺そうと考えている。

 

 直接的ではないにしろ「お前たちを殺す」と言われたカルト……“宣教師会”たちは、器用に頭を下げたまま顔を見合わせ、薄く笑った。さも当然のように。

 

 「それでこそ、魔王の寵児に相応しい在り方かと存じます」

 「うん。だから──一先ず、今日のところはお開きにしよう」

 

 代表者の答えに、フィリップも当然のように頷く。

 続く言葉はルキアやステラが聞いたら体調でも悪いのかと心配してしまうような、フィリップらしからぬものだった。

 

 が──まさか、だ。

 まさかフィリップが、感心したから見逃してやる、なんて甘い考えを持つはずがない。相手をカルトだと見做した時点で、殺すことは大前提。あとはどれだけ苦しめて殺せるかというオプション思考と、なるべく多くを殺すという効率主義。そして、絶滅を願う野望。

 

 なのだが、流石にこいつらは特別だ。 

 

 「……あぁ、勘違いしないで。僕は君たちを殺す。一人残らず、なるべく苦しめて、なるべく惨たらしく。でも今じゃない。今始めると、僕はきっと、僕自身の憎悪を制御できない。……分かるだろ?」

 

 フィリップの声色は最後の問いを投げるまで、一貫して穏やかだった。

 殺気を放つこともなく、怒りのままに喚きもせず、ただ淡々と、決定事項を伝達するように告げる。

 

 そして──勿論、何も起こっていない。

 十人以上いる統一感のないローブ姿の集団、人間も人外もごちゃ混ぜのカルトたちが、一瞬だけ一人残らずその姿を消し去った。

 

 ほんの一瞬だ。当人たちが気付くこともなく、肉体も意識も存在も消えていた彼らが気付けるはずもない、ほんの一瞬。しかし、たまたまそのタイミングでは瞬きをしなかったフィリップが、しっかりと知覚できる程度の時間。

 

 フィリップが目を瞠る頃には、そっくりそのまま元通りだ。相変わらず神経を逆撫でする格好で跪き、深い敬意と崇拝を感じさせる姿で首を垂れている。

 

 だから、何も起こってはいない。 

 

 「……そんな、僕が一ミリも楽しめない幕引きは望んでないんだ。……あぁ、うん、これを汲み取ってくれるお前は、実は一番、僕に忠実なのかもしれないね。ヨグ=ソトース」

 

 フィリップは柔らかに、優しげに、利口なペットを褒めるような口ぶりで言った。

 

 瞬間。

 

 世界が。首を垂れた。

 深々と、恭しく──文字列にすると全く意味不明だし、誰もがそれを言語化できない。しかし、この世界に息づくすべての生物、この世界に根差す全ての物質、存在の全てが、それを理解していた。そして、誰もそれを自覚できない。何故なら、誰もが全くの無意識、無自覚、無知覚の裡に、首を垂れていたからだ。

 

 木々が、海が、雲が、大地が、風が、光が、闇が、過去と現在と未来(時間)が、そことこことあそこ(空間)が、遍く全てが平伏した。勿論、人間だって例外ではない。ルキアも、ステラも、国王や宰相、アイリーンやオーガスト、フレデリカ、国王から奴隷までもが分け隔てなく。エルフやヴァンパイアも、種族に関係なく、遍く全てだ。

 

 邪神だって例外ではない。

 ナイアーラトテップは自発的に。マイノグーラは愉快そうに嗤って。クトゥグアやハスター程度では自分が何をしているかなど知覚できないが、流石に外神たちは別だった。

 

 この世の全てと、この世の外にある全てが跪き、首を垂れ、全身と全霊を以て謝意を示した。忠誠とは返報を期待してのものではないが、それでも、忠義と能力を疑われることだけは苦痛だったのだろう。

 

 それが今、遂に──ただの一言で、報われたような気がした。

 

 フィリップも、カルトたちも、ほんの一瞬以下の時間だけ世界に起こった異常にはまるで気付かず、言葉を続ける。

 

 「お前たちの思想は理解できる。けれど、カルトに与し、カルトを導き──カルト染みた時点で、お前たちはカルトだ。故に、絶滅しろ」

 

 “絶滅”とは、一個の集団に対して使えるほど安い言葉ではない。対象が一つの種、生態系を構成する一要素になって漸く使える。

 

 つまり……或いは、今更言うまでもなく。

 フィリップは“カルト”のことを人間だと思っていないし、同時に、一個人や一個の集団としても認識していない。

 

 蜂に刺されたことのある子供が蜂を怖がるとき、どの巣のどの個体かなんて気にすることはない。なんていう種かさえ気にしない。ただ、それっぽい色と大きさ、あとは羽音に反応して怯えるように。

 

 フィリップの殺意と害意の宛先もまた、カルトという記号だ。

 

 何を信仰しようと、どんなバックボーンを持っていようとどうでもいい。そこに差異はない。そんな理由で差異は生まれない。

 

 カルトは、カルトだ。

 黒山羊のカルトも、クトゥルフの信奉者も、シアエガを利用していた男も、こいつらも、何ら変わりなく──全く同じ、カルトという名前で分類される害虫だ。

 

 いま目の前にいるこいつらを全員殺したって、それは“絶滅”とは呼べない。一個の巣を破壊する行為は“駆除”に過ぎない。

 フィリップは目の前のカルトをなるべく苦しめて殺すことに執心しているくせに、その実、目の前のカルトには一定以上の興味を持っていないのだった。

 

 絶滅させるのはカルトという種。

 弄んで壊す命に価値は無く、カルトを絶滅させることにさえ価値は無い。数十人ぽっちのカルトを殺すのに『深淵の息』だの弱火でじっくりだのと手を尽くすのは時間と労力の無駄だが、それでも凄惨な死に拘るのは、そうでなくては楽しめないからだ。

 

 絶滅はさせる。

 なるべく苦しめて、残酷に──楽しめるように。

 

 そんな内心を窺わせる柔らかで楽し気な微笑で吐き捨てたフィリップに、“宣教師”たちは恭しく一礼した。

 

 「御心のままに。我ら啓蒙宣教師会は再び野に散り、貴方様の賛同をいただいた思想を──蒙昧なる者たちの啓蒙を続けることと致します。再び貴方様に見える栄誉を賜りましたなら、その時には必ずや、我らは貴方様にご満足頂ける成果を見せ、そして貴方様の手に掛かる至上の栄誉に与ることでしょう」

 

 意志表明というよりは預言じみたことを言う。

 フィリップは口元を苦々しく歪めるが、何も言わず、「さっさと失せろ」とばかり手を払った。ぞんざいに。

 

 長々と謝辞を述べている啓蒙宣教師会の面々を捨て置き、踵を返す。

 ミナたちが立ち去った森の外ではなく、元来たほう──湖の方に。

 

 腐臭漂う湖畔に立ったフィリップは、森の清涼な空気とは比較にならない淀んだ臭いを肺いっぱいに吸い込み、吐き出す。深呼吸で散らしたのは緊張ではなく、苛立ちだ。

 

 左手を湖に向けて伸ばし、呪文を唱える。

 詠唱が終わり展開された魔法陣から出てきたのは、黄色の外套を纏ったようなヒトガタだ。フィリップの倍近い背丈があり、恐らく人間ではないだろうと容易に判断できるが──しかし、他に人外らしきところは一見しただけでは認められない。外套のフードと白い仮面が顔立ちを覆い隠し、地面に引きずるほど長い袖や裾のせいで肌の色さえ分からないほどだ。

 

 尤も──外套の下にあるモノどころか、外套のように見えるモノさえ、タコのように表面を変色させた無数の触手なのだけれど。

 

 「流石、遠慮というものを知らない……いや、しないのだね、魔王の寵児よ。いや、不満はないとも。それが君と私の正しい在り方だ。火の番でも畑仕事でも、好きに使うがいいさ」

 

 男とも女ともつかない、しかし若い人間のものによく似た声は、呆れと諦観の色を濃密に映している。

 ハスター──旧支配者の中でも上位の存在格を持つ邪神にしては分かりやすい感情の動きだが、もしかして、フィリップに合わせてくれているのだろうか。

 

 まあ、それを理由に遠慮したりはしないのがフィリップなのだけれど。

 

 「お言葉に甘えます。ドブさらいをして下さい」

 

 相手が邪神でなくても、遠方から呼びつけた相手に頼むにはあんまりなことを言う。──ハスターの住処が地球から150光年離れた黒きハリ湖にあることを思うと、遠方なんて言葉では全く足りていない気がするけれど。

 

 しかしハスターは前言の通り、軽く肩を竦めて頷く。

 正確には無数の触手で象ったヒトガタの、肩に見える位置と頭に見える位置を動かしたのだが、この際細かいことは置いておこう。

 

 「……承ろう。グラーキの破片の排除と水質の復旧だね? ……カルトに呼ばれたモノだと知って、放置も出来なくなったかい?」

 「えぇ、まあ。速やかで的確に──僕の期待に応えてくださいね」

 

 冷たい声のフィリップに、ハスターはむしろ上機嫌に笑った。

 

 「ははは。“期待”だなんて、君は意外と冗談のセンスがあるんだな」

 

 フィリップは何も言わず、ハスターを残してミナたちのところに戻る。

 森の中にはカルトの群れがいた痕跡など一つも無く、出てきたシルヴァもサムズアップしたきり、林冠の辺りを枝から枝へ飛び移って楽しそうにしていた。

 

 ミナたちと合流した後、フィリップはエレーヌやカルトに対する接し方について多少の苦言をエレナから呈されるのだが──それはどうでもいい話だ。

 

 物語的にも。

 フィリップにとっても。

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ14 『緑色の水底』 ノーマルエンド

 技能成長:なし
 SAN値回復:なし

 特記事項:ヨグ=ソトースが介入。世界の連続性が消失。正常性が一定値減少
    ヨグ=ソトースが介入するような事案は発生しなかった。特記事項なし。


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希死
345


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ15『希死(仮題)』 開始です。

 必須技能・推奨技能はありません。


 王城のとある一室、国王でさえ滅多に立ち入ることのないその部屋に、フィリップはいた。

 部屋はステラの私室より小さい上に、玉座と、それに向かい合うように置かれた演壇、そして演壇の両側の壁に据えられた机と椅子のセットのせいで実際以上に手狭に感じた。部屋最奥の玉座には国王が坐し、両隣にステラとサークリス公爵を従えている。

 

 部屋にはルキアと、もう一人の大人がいる。護衛の騎士を除いて、重要なのはこの六人だ。

 

 国王と向かい合うように演壇に登ったフィリップは、部屋の中を見渡して嘆息する。

 そして両手を戒める鉄の枷を見て、皮肉げに口元を歪めた。

 

 フィリップから見て左側の机に着いていた、国王より幾つか年上に見える壮年の男性が徐に立ち上がる。

 そして国王へ整った所作の立礼を送り、苛烈な怒りを湛えた口調で話し始めた。

 

 「原告ケイリス・フォン・ディーチ伯爵より、国王陛下へ奏上致します。被告フィリップ・カーターに対し──死刑を求刑致します」

 

 自分を睨みつけ、死を願う男に、フィリップは困ったように笑った。

 

 どうしてこんなことになったのか。その原因は、一週間前の出来事にあった。

 

 

 ◇

 

 

 王国内ではそこそこ有名な観光地だった『心鏡の湖』の水質汚染が突如として改善されたとあって、その場所の人気は以前を数倍しているらしい。

 神の御業だとか、精霊の奇跡だとか、そんな感じの噂が盛況の源だ。ステラにはある程度“事実”を話してあったので、それを聞いたときには二人してゲラゲラ笑ったものだが──さておき、フィリップたちはかねてより計画していた避暑旅行に行くことになった。

 

 夏休みの時期にはエルフの首都で大事な祭事があるとかで、残念ながらエレナは不在だ。

 「フィリップくんと姉さまと水遊びしたかったー!」なんて、馬車に乗って王都を発つギリギリまでゴネていたので、選べる機会があれば水辺の依頼を受けよう、なんて思ったフィリップだった。

 

 「それで……何を探しているの、フィル?」

 

 三等地外縁の王都の門までエレナを見送りに来ていたフィリップは、夏休み中の滞在先であるタベールナには戻らず、三等地の店をあちこち覗いて回っていた。

 

 ミナは夏の日差しを鬱陶しそうに見上げつつ、リードを引っ張って散歩の延長を主張する犬を見るような目でフィリップを見守っている。

 

 「浮き輪。地元だとフロートと言えば水筒に使う革袋だったんだけど、王都にはレジャー用のものが売られてるらしいから、探してみようと思って」

 「フロート?」

 「浮き具のことだよ。川で遊ぶときとかは、それと子供を結んでおくとか、それに掴まって泳いだりするんだ」

 

 三等地には置いてないのかなぁ、なんて言いながら真剣な眼差しで大通りに面した店を吟味しているフィリップ。

 「浮き具……?」と今一つ理解できていない様子のミナも、現物を見た方が早いかと素直に後ろについてくる。

 

 「フィル、泳げないの?」

 「泳げないってほどではないけど、そんなに速くはないかな。流れとか波が激しくない限り、フロート無しでも溺れたりはしないよ。……ミナこそ、荒野育ちでしょ。泳げるの?」

 「泳ぐという行為を試したことはないけれど……水中でも問題なく飛べるし、溺れることはないわね」

 「いや、そりゃ呼吸しなくてもいいんだから溺れはしないでしょ……」

 

 というか、水中を“飛ぶ”というのもおかしな話だが。

 多分、手で水を掻いたりバタ足をしたりせず、自由自在に水中を移動できるということなのだろう。それはもう「飛翔」とは呼べなさそうだけれど、絵面を想像すると面白かった。

 

 ──と、そんな話をしている時だった。

 

 「ねぇ、そこの美人さん。ちょっといい?」

 

 明らかにフィリップとミナの行く手を阻むように、四人の男女が立ちはだかる。

 軽鎧や刀剣、魔術補助具の杖などで完全武装しており、如何にも物々しい雰囲気を纏っている。一団に武装の統一感はなく、騎士や衛士の一個部隊という感じではない。盗賊ほど小汚い身なりではないので、冒険者か傭兵だろう。

 

 フィリップが足を止めて漸く自分たちのことだと気付いたミナが、フィリップの二歩ほど前で立ち止まった。

 

 「……?」

 

 まさかナンパか。正気かこいつら。

 そんな内心を窺わせる胡乱な目を向けるフィリップだが、そんなワケはない。

 

 吸血鬼相手に純粋に「綺麗」とか「美人」とか思えるのは、人外への恐怖心が欠如しているごく一部の人間だけだ。

 

 「貴女──吸血鬼よね?」

 「……そうだけど?」

 

 道行く人に「キミ人間だよね?」と問いかけた時に向けられるであろう、正気を疑うような顔のミナ。

 

 しかし彼らにとってそれは当然のことを確認したわけではなく、むしろ、決定的な糾弾──弾劾のつもりだった。

 

 「だったらさぁ、なんでそんなに堂々としてるワケー? ちょっと人間舐めすぎじゃなーい? 気付かれないとでも思ってんのー?」

 

 両腰に対の短剣を佩いた痩躯の男が笑う。

 挑発的な笑顔だが、ナイ神父の嘲笑を見慣れているフィリップには挑発的というより単に不自然に見えた。

 

 「ミナは一応、衛士団に認められて王都に入ってますよ。無闇に人を食わない、万が一の場合は僕が拘束するって条件にも、ちゃんと同意しました」

 「いやいや、流石にそれを「はいそうですか」って認めるワケないじゃーん?」

 

 じりじりと首筋の焦れるような敵意を放つ、武装した一団。

 周りの店にいた客や店員がそっと離れていく──戦闘慣れしていない一般人にも感じ取れるほど、濃密であからさまな敵意。

 

 しかし──フィリップは丸腰のまま、ぽりぽりと頭を掻く。構えもせず、逃げもせず。

 

 「認める、ねぇ……。衛士団が認めた以上、何処の誰とも知らない人の許可なんて必要としないわけなんですが……というか、冒険者みたいですけど、王都の人じゃないですよね?」

 「私たちはディーチ伯爵領から王都に出てきたのよ。支部から王都行きの許可が出た、所謂“一握り”ってわけ」

 

 ふーん、と適当に頷くフィリップだが、そこそこ凄いことだ。

 

 王都の冒険者は魔術学院や軍学校の卒業生が多く、戦闘能力に長けている。戦闘力や経験などを総合的に判断して区分される冒険者ランクは、一応は王都内外で一貫した等級区分になっているものの、同じランクでも王都の冒険者の方が強いとされているくらいだ。

 

 それに、そもそも魔術師のいないパーティーが殆どの王都外の冒険者では、出来ることの幅が大きな差がある。

 

 だから王都外からやってくるということは、そこそこ以上の実力があることの証明だった。少なくとも、今のフィリップの白兵戦能力では敵わないだろう。──魔術は普通に効くだろうけれど。

 

 ともかく、フィリップは「やっぱりね」と軽い納得に落ちた。

 冒険者は知識と情報が命だと冒険者コース担当のジョンソン教授に教わったが、フィリップは王都ではそこそこ顔の売れた『龍狩りの英雄』だ。主に衛士団が凱旋パレードに引きずり込んでくれたせいなのだが。

 

 そしてミナの強さと危険度も、王都の冒険者はミナが来てから数週間で厭というほど思い知っている。寝首を掻きに行ったパーティーが丸々一つ、心臓だけオヤツにされて残飯は捨てられていたこと、知らない者はいない。

 

 「やっぱり。冒険者ギルドに行って説明を受けるとき、ミナのことも教わりますよ」

 「えー? そんなまだるっこしいことしなくたってー、もーっと簡単な方法があるじゃーん?」

 

 獰猛に笑って、双剣使いの男は踊るようなステップで飛びかかった。

 一対の短剣は毒々しい紫色の煌めきを纏い、妖しい存在感を放っている。斬られるどころか、掠めるだけでも悪影響がありそうだと直感できる色合いだ。

 

 そして。

 

 ぞぱ、と。耳障りな音を立てて、三つの赤い彼岸花が咲いた。

 

 「……え?」

 

 振り返る前に気配で分かったのだろう、男は斬りかかる動作の途中で硬直し、恐る恐るという動きで振り返る。

 

 その目に映るのは、援護のため構えた、背中を預けるに足る頼れる仲間たち──赤い彼岸花の穂先に磔にされた彼らの、鮮やかに赤い姿だった。

 

 死者たちの名誉のために言っておくと、彼らとて本気でミナを殺すつもりで斬りかかったわけではない。

 攻撃に対する反応を見て、ミナが本当に()()かどうか確かめようとしただけで、攻撃は全て寸止めや足元狙いのつもりだった。尤も、彼らの武器ではミナを一回殺したところで、10万以上の命の一つを削るだけだ。魔剣『美徳』のようなアンデッド特攻性能はないので、殺し切ることなど到底不可能なのだけれど。

 

 そしてミナの名誉のために言っておくと、彼女とて、攻撃の狙いが甘いことは分かっていた。やけに動きが遅いのは、単純に弱いのか加減なのかは判断しかねたが。

 

 だが──まあ、だからどうしたという話で。

 刺さない虫。咬まない虫。小さく、無力な羽虫。──飛び回るそれを適当に払って殺すことに大多数の人間が意味を見出さないように、適当に払った小さな命の顛末に興味を持たないように、ミナもそうだ。

 

 性格的に、人間を積極的に殺したりはしない。

 しかし絡んでくるのなら、面倒なら、殺す。なるべくシンプルに、労力を使わない方法で。そして速やかに。

 

 王都で自分たちの実力を誇示する手っ取り早い機会だとでも思ったのだろう。

 過去に吸血鬼を倒した経験があるからと、自分たちの力を過信した。いや、無知だったのだ。

 

 この世には、『試しに挑んでみよう』なんて考えを許さない──逃げることさえ許されない、強大な存在がいるということを知らなかった。

 

 「な、なんで……」

 

 震え声の呟きに、フィリップは冷たい目を向ける。

 

 なんで死んだのか、という意味なら、彼我の実力差も見えないほど弱くて愚かだったからだ。

 そして、なんで自分だけは磔刑に処されていないのかという意味なら、ただの気まぐれだ。ただ、ミナが気まぐれに──彼をおやつにすることに決めたから。

 

 「ぁっ」

 

 聞くに堪えない凄惨な音を立てて、男の胸の中から赤黒い塊が引き摺り出される。断末魔は限りなく小さかった。

 フィリップがついまじまじと正体を見てしまったそれは、まだビクビクと痙攣している心臓だ。

 

 無挙動で三人を殺し、最後の一人も無造作に殺したミナは、血を噴いて頽れる死体には一片の興味も示さず、王都の石畳にじわじわと広がっていく血のように鮮やかで艶やかな唇を手中の心臓へ近づける。

 

 そして心臓の左側、厚い筋肉の外皮に牙を立てて引き裂くと、中から零れ出したほんの少しの血液だけを舌の上に垂らした。

 オレンジの果汁を絞って飲むような仕草だが、赤く艶めかしい舌と唇を同じくらい赤い血液が濡らす様はいやに色気に満ちていて、フィリップは思わず見入ってしまった。

 

 「ん……微妙ね。栄養状態が悪いのかしら」

 

 言って、ミナは手にしていた心臓を適当に放った。

 石畳に落ちた心臓は熟れすぎた石榴のように汚らしい音を立てて潰れ、それきりミナの興味を完全に喪失した。ゴミのように、というか、事実、残飯(ゴミ)として。

 

 「ポイ捨て……いや待って、そんなこと言ってる場合じゃない」

 

 ゴミはゴミ箱へ、というか、自分のものではなくてもゴミを見つけたら拾って捨てるのが当たり前の元宿屋の丁稚としては、ちょっと顔を顰めるところだ。

 が、流石に、そんなことを気にしている場合ではない。磔刑にされた三人からは絶えず鮮やかな血液(みつ)が流れ出し、鉄と内臓(わた)の匂いが立ち込めている。

 

 綺麗に整備された石畳の上を血の川が流れ、そこかしこから押し殺した悲鳴が聞こえてくるさまは、小さな地獄のようだ。

 

 その中で、フィリップは──庶民だった。

 

 「なんか、物凄く贅沢なことしなかった? リンゴをひと齧りして捨てるみたいな」

 

 傷んでいたわけでもあるまいし、勿体ないことをせずにちゃんと全部食え、なんて考える小市民。一応、フィリップも王宮の金庫に預ける程度の財産はあるのだが、一度も手を付けていない。というか、額が大きすぎて怖いので忘れようとしている。ゼロがあともう2つくらい少なければ、「大金持ちだ!」と喜べる程度だったのだけれど。

 

 「ここの血が一番フレッシュなのよ。血液(いのち)のストックはまだまだ余裕があるし、全部飲む必要はないわ」

 「あ、そう……」

 

 つまみ食いを終えて完全に興味を失ったらしいミナは、「普通に売られているものなら取り寄せられるでしょう? あの二人に頼みなさいな」なんて言って帰りたそうにしている。

 

 日差しを浴びても灰にはならないミナだが、日光下では各種能力が半減するという種族特性があるから、ただ暑いだけのフィリップより夏の日差しが鬱陶しいのだろう。

 

 確かに買い物ならルキアかステラに言えば取り寄せてくれるから、欲しいものがどうしても見つからない場合は頼るのも一案だ。

 しかし流石に王宮や公爵家が使う店は高級品ばかりだし、金銭感覚が一般人の域を出ないフィリップとしては、やっぱり二等地から三等地レベルの値段が丁度いいのだった。

 

 「ミナは何か持って行きたいものとかないの?」

 「大体のものは魔術で作れるし、特に思いつかないわね」

 

 適当な答えのミナに、フィリップは血の杭を一瞥して苦笑した。

 

 清涼感溢れる湖畔に禍々しい血の色をしたパラソルなんて置かれたくないので、日除けになるものを探しておくべきかもしれない。まあ森に囲まれた湖なので、木陰には困らないだろうけれど。

 

 と、そんなことを考えつつその場を立ち去ろうとすると、背後から物凄い勢いで駆け寄ってくる人影があった。

 走っているだけなのにガチャガチャと喧しいのは、彼の全身を覆う金属鎧のせいだ。鎧に施された意匠はフィリップにはもう馴染みの深い、王都衛士団のシンボル。

 

 「ちょ、ちょっと待ってカーター君! ウィルヘルミナさんも! なーに何事も無かったように立ち去ろうとしてるんだい!? これ君たちがやったんでしょ!?」

 

 慌ててフィリップとミナを引き留める、全身鎧姿の男性。

 フルフェイスヘルムで顔が分からないから、くぐもった声からの判断になるが、多分、一緒に龍狩りに行った中の誰かだろう。聞き覚えがあるような気がする。

 

 「え? ……もしかして、この掃除って僕たちがやるべき……ですよね、やっぱり。ごめんなさい。えっと、道具の貸出とかってありますか?」

 「うん、違う違う、そういうことじゃない。いや、それもなんだけど……え? 俺が間違ってる? 今ってどういう状況?」

 

 死体の処理は投石教会にでも頼もうか、なんて考えるフィリップに、衛士は真顔で──顔は見えないが──頭を振った。

 

 問われたフィリップだが、それはフィリップとしても尋ねたいくらいだ。まあ、尋ねるべき相手はもう死んでいるのだけれど。

 

 「この人たちが斬りかかってきて、ミナが反撃した……っていう以上の説明はないですけど……」

 

 フィリップの説明は端的で正確だ。

 類似のケースを既に何件か知っている衛士団にとって「ああまたか」程度の感情しか呼び起こさない、状況の推察には必要十分なもの。

 

 ミナが絡まれるところを見るのは、フィリップはこれが初めてだ。しかし衛士たちにとってはそうではない。

 血気盛んな冒険者たち、中でも王都外から実力でのし上がってきた手合い──つまり、魔力視ができるような高位の魔術師がいないパーティーが、実力を誇示するためとか正義感とかで挑みかかることは、頻繁ではないにしても、一回や二回ではない程度にはままあることだった。

 

 そして、生存や和解の余地なく一瞬で殲滅されることも。

 

 この手のトラブルは、命懸けの冒険で心の余裕をすり減らした冒険者たちにはよくあることだ。刃傷沙汰もそうだが、人死にだって珍しくはない。

 絡んで殺したらペナルティは重いが、絡まれて殺した場合のペナルティが微々たるものに設定されているのは、彼らに自重と自己防衛を促すためだ。

 

 トラブルは、まあ、起こる。人間の集合だ、それは仕方のないこと。

 だからせめて殺さない程度、喧嘩程度にしなさいね。自分の身は自分で守っていいからね。

 

 と、そういうルールになっている。

 

 だから──化け物に絡んで瞬殺されても、ルールは化け物に報いを与えてはくれないのだった。

 

 「またか? ギルドの連中、ちゃんと説明……いや、見たことないツラだな? 王都に出てきたばっかりの奴か?」

 

 衛士は凄惨な状態の死体をゴソゴソと漁り、一枚の紙を探し当てた。

 王都のパンフレット。入口のところで「一人一枚まで。ご自由にお持ちください」と山積みになっている、フィリップにも見覚えのあるやつではなく、冒険者が王都に入るときに配布される、衛士団から手渡しされるものだ。

 

 「やっぱりそうだ。でもパンフ持ってるってことは、門で説明は受けたはずだし……可能性は二つだな」

 

 二つ? と首を傾げるフィリップ。

 ミナは完全に興味を失って、指についた血を舐めていた。

 

 「カーターくんは自分から喧嘩売るタイプじゃない。ウィルヘルミナさんのことはよく知らないけど、カーターくんが一緒にいて止めないはずはないから──こいつらが馬鹿だったか、門のとこにいるウチのヤツが説明をサボったか。どっちかだ。……とりあえず死体は俺たちが回収するから、フィリップくんたちは俺と一緒に来て、調書だけ作ってくれるか?」

 

 衛士団のファンボーイは「取り調べてくれてもいいですよ」なんて言いつつ、上機嫌に了承した。

 



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346

 王都三等地の往来で起きた凄惨な殺人事件──もとい、傍迷惑な集団自殺から一週間。

 フィリップはルキアに招かれ、王都一等地のサークリス公爵邸でティータイムを楽しんでいた。

 

 華美な茶会……という風情ではない。

 勿論、会場のルキアの私室は魔術学院の学生寮以上に広く、整然としていながらも華やかに飾り立てられている。しかし部屋の中にはルキアとフィリップ、そして給仕役のアリアだけで、向かい合って座ったテーブルセットも小さなものだ。卓上のティーセットも簡素なもので、正式な茶会(ティーパーティ)の作法には則っていない。

 

 だからこそ、礼儀も作法も必要ない、ただおやつを食べて紅茶を飲みながら友達と過ごすだけの幸せな時間が、二人の間には広がっていた。

 

 そして──穏やかな空間に罅を入れるような、冷たく硬質な靴音が二人の耳に届いた。

 

 公爵家の使用人ではない。

 彼らは下男から家令に至るまで徹底的に躾けられ、廊下を歩くときに足音を立てて主人たちの注意を引いてしまうような稚拙な者は一人もいない。靴音が扉を隔てても聞こえるほどの速足自体が、使用人には無作法な行為だ。

 

 しかし、現に高らかな靴音は廊下を進み、こちらに近づいてきている。

 

 「……誰か来たみたいですね?」

 

 公爵家の使用人のレベルの高さはとうに知っているフィリップは、そう言ったものの、特に興味は持たずにチョコケーキの最後の一切れを口に入れた。

 

 直後。

 

 すぱぁん! と盛大な快音を立てて、ルキアの部屋の扉が開かれた。

 

 「えっ!? げほっげほっ! えっほげっほ……」

 

 まさかルキアの部屋にこの勢いで──ノックもせずに入ってくるような馬鹿がいるとは思わなかったフィリップが盛大に咽る。ケーキが喉の変なところに引っかかっていた。

 

 「……随分な無作法だけれど、相応の理由はあるんでしょうね? ステラ?」

 

 立ち上がってフィリップの背中を擦っていたルキアは、ドアの前でアリアに阻まれ、睥睨するような一瞥の裏でメイドを退()()()かどうかを計算しているステラに険のある声をかけた。

 

 「お前が納得する理由かどうかは知らないし、どうでもいい。カーター、お前に関することだ。落ち着いて聞け」

 

 焦っている様子のステラを見て、フィリップはルキアが柳眉を逆立てる前に動くべきだと直感した。

 

 「いや、まずは殿下が落ち着いてくださいよ……。ささ、一杯どうぞ」

 「…………まぁいい、貰おう」

 

 余程急いで来たのだろう、肩を上下させているステラに、フィリップは卓上のカップを手渡した。

 

 彼女の様子からすると相当に重大な用事なのだろうが、安穏としたフィリップにぶつけるべき叱責と小言は、口を突いて出る寸前で引っ込んだ。

 呑み込まなければ彼女自身の焦りを八つ当たり気味にぶつけてしまうと思ったからだ。ルキアの前でフィリップ相手にそんな不細工なことをしたら、本来の用件を伝えるまでに1時間はかかるし、1時間後に三人とも無事でいられる保証はない。

 

 なんだか複雑な顔で黙り込んでからカップを受け取ったステラに、フィリップは「流石に僕のカップは駄目だったかな」なんて首を傾げる。馬車での移動中なんかは、「一口ください」と水筒の貸し借りなんかも普通にしていたのだけれど。

 

 「……それで? フィリップがどうしたの?」

 

 ステラはカップに残っていた紅茶を飲み干し、深呼吸して息を整えてから口を開いた。

 

 「ディーチ伯爵から、カーターを被告人とした御前論奏の申し入れがあった」

 「──ふぅん?」

 

 ルキアが不機嫌そうに相槌を打つ。

 そのたった一言で、部屋の中の空気全てが鉛になったような重圧が襲い掛かった。

 

 気付かないのはフィリップ一人だけだが、フィリップが気付かないということはつまり、怒気ではない。感情に呼応するように昂った魔力が発散され、部屋の中を埋め尽くしている。

 

 「何ですか、それ?」

 「簡単に言えば、裁判だ。ただし、国王の御前で行われ、裁定は国王が下す」

 

 そう聞くと、単純に格の高い裁判のように思われるが──厳密には、それは裁判とも少し違う。

 一般的な裁判は法に則って罪人を裁くが、国王とは法よりも上位に坐するもの。法を使って臣民を治めはするが、その意思や行動は法に縛られない。

 

 そして御前論奏において、裁きを下すのは国王だ。

 つまり──法を無視した沙汰が下されることもある。

 

 原告・被告共に、法的な正当性を主張することに大きな意味がない場所だ。重要なのは、王の目から見てどちらが正しいか。

 

 自分は正常だと胸を張れないフィリップとしては、あまりいい舞台ではない。

 

 「裁判……罪状は何ですか?」

 「殺人。テイムしたモンスターによる間接的関与だそうだ。……ヴァンパイアらしいが?」

 「わお。ヴァンパイアは人間を殺すものだってことも知らないのに、訴訟なんて高等なこと出来るんですね」

 

 フィリップが言うと、ルキアがくっと喉を鳴らして顔を背け、ステラも顔を背けて失笑した。

 

 「んふっ……カーター、真面目な話だぞ」

 「すみません。で……あ、ちょっと待ってください? それ欠席したら叙勲の話が立ち消えになったりしませんか?」

 

 いきなり「裁判」と言われてもピンと来なかったのか、或いは国家に罪人として扱われることが怖くないのか、安穏としたことを言うフィリップ。

 

 アリアは感心したような目を向けるが、ルキアとステラは「まだ諦めていなかったのか」と呆れ顔だ。

 

 「国外追放の可能性を許容できるなら、試してみるか? 私は許容できないが」

 「あ、それは嫌ですね……。そうなると聖国くらいしか行く当てがないのが本当にイヤです。……というか、訴えられてるのは僕なんですか? ヴァンパイア──どうせミナのことでしょうけど、ミナが誰か殺したって、それは僕の所為じゃないでしょ。第一、僕はミナをテイムしたわけじゃないですし」

 

 というか、ミナはそもそもフィリップの命令に従って動くつもりなど毛頭ない。

 「あいつを殺して!」なんて言ったって、気分が乗らなければ普通に拒否するだろうし、あまり下手なことを言うと躾けられる可能性もある。ペットよろしく、というか、そのままペットとして。

 

 「あー……それなんだが。お前は一応、ミナの使役者ということになっている」

 「は? なんでですか?」

 「テイムされていない……安全である保証がない魔物は王都に入る際、錬金術製の特殊ケージに入れて運搬するよう王国法で定められている。ミナが王都に入るとき、衛士団が許可を出す決め手になったのは『エンフォースシャドウジェイル』だったな? あれが疑似的な召喚使役術式として認められて、ミナは名目上、お前の使い魔になったんだ。書類上、と言うべきか」

 

 あれは召喚でも使役でもなく拘束術式なのだが、そういうことになってしまった以上、この場でゴネたって意味はない。フィリップは文句を言おうとして、寸前で不貞腐れたように口を噤んだ。

 

 「……書類上、僕にはミナの行いに対する責任があると?」

 「そういうことだ」

 

 ふーん、と頷いて考え込むフィリップ。

 

 ペット(ミナ視点)兼飼い主(書類上)兼ペット(フィリップ視点)。

 アイデンティティが崩壊しそうな肩書だ。その程度で崩壊するほどヤワな自己認識はしていないが──どうせ、自分も他人も“泡”という認識に帰結するのだが。

 

 ちょっと拗ねていたフィリップだったが、その自分の考えが面白かったのか、今はくすくすと一人で笑っていた。

 

 なんか下らないことを考えているんだろうなぁ、と、心を読む力など持たずとも推察できたルキアとステラは、今一つ危機感のない友人に代わって大真面目に思考を回す。

 

 「相手の言い分は?」

 「先日、ミナが冒険者に絡まれて全員殺したのは知っているな? その一件は正当な防衛行為ではなく、不当な傷害行為だというのが大まかな論旨だ。“龍狩りの英雄”と、成龍一匹を単身で相手取れる化け物であれば、殺さずに反撃することも、その場を立ち去ることもできたはず。殺したのは過剰であり、カーターがミナを制御できていないか、その武力に酔っている……そう主張したいようだ」

 

 ステラから説明を受けて、ルキアは嘲笑を通り越して呆れの色が多分に強い苦笑を浮かべた。

 

 「力量差も見切れずに絡んで行って殺されて、その上……はぁ。無様すぎてぞっとするわね」

 「彼奴が殺した冒険者の一人が、ディーチ伯爵の娘だったらしい。それで、まあ、何というか……少し憔悴しているのだろう」

 

 狂った、という言葉を敢えて避けるステラ。

 ルキアにもその理由はなんとなく分かる。もしもフィリップが相手を「吸血鬼は人間を殺すということも知らない馬鹿」ではなく「狂人」と認識すれば、どんな対応をするのか想像もつかない。

 

 流石に即カルト判定を下して殺しにかかることはないだろうけれど──では人間に向けるべき最低限の敬意と尊重を持てるかというと、ちょっと怪しい。

 

 ただ、ディーチ伯爵の主張は全くの的外れというわけではない。

 

 冒険者たちとミナの戦力に大人と子供ほどの──人間と虫けらほどの差があった以上、防衛の域を逸脱していたという主張は正しい。

 冒険者ギルドのルール的にも、王国法としても、馬鹿が絡んで返り討ちにされた場合は返り討ちにした方は罪に問われない。しかし、過剰防衛を抑制する意味で罰則規定があるにはあるのだ。

 

 判例からすると、戦意を喪失した相手に追撃を加えたり、拘束代わりに四肢を切断したりした場合には過剰防衛になる。

 

 道理として考えても、子供の喧嘩を仲裁する大人が、どさくさで殴られたからと言って子供を殺せば罪になるだろう。そういう主張だ。

 

 過剰防衛行為。

 そしてそれは吸血鬼を制御できていない証左であり、使役術やテイムに関係する法に触れる。

 

 簡単に纏めると、ディーチ伯爵の主張はこの二点だ。つまり。

 

 「私たちが主張すべきは二点。自己防衛に過剰も何もない、絡んだ馬鹿が悪いということ。化け物を制御しようという試み自体がナンセンスであること。まず大前提として、法の上では相手が正当である以上、道理で語る必要がある。いいか? 王国法に照らしてどうこうじゃなく、常識と道理で説得するんだ」

 

 私たち、とさらりと言ったステラに、ルキアとフィリップは顔を見合わせてこっそりと笑う。

 ルキアは「あのステラが、すっかり保護者ね」と可笑しくて笑ったのだが、フィリップは「殿下が味方なら勝ちは確定だ」と安穏と笑っていたので、微妙に噛み合っていない。

 

 そして、フィリップの安堵は時期尚早だ。

 

 「でも、御前論奏だったら、ステラはあまり役に立たないわね。貴女は裁判所の側、フィリップの側にも、訴えた側にも付けない、付いてはいけない中立だもの」

 「まあ、流石に裁定者はお父様だが……正直、訴えが通ったのが不思議なんだ。そりゃあ、書類上はカーターを訴えることが可能なわけだが……」

 

 どういうことですか? と首を傾げるフィリップに向けて、ステラはぴっと指を差す。

 

 「お前は聖痕者と神官に近しく、衛士団に混ざって龍狩りを成し遂げた英雄であり、今はまだ平民であるものの爵位授与は確実……。どう考えても、王国側が問題を握り潰すべきだ。というか事実、文官連中は私のところにそう言いに来た。が──その時には既に、御前論奏は執り行われることになっていた」

 「臣下の掌握が甘い……わけではないでしょうね。貴女に限って」

 

 確かに、とフィリップも頷く。ステラは次期女王として国王や宰相からの信頼も篤く、能力的にも信教の面から言っても、反感を持つ余地がない。おまけに人類最上級の美人と来れば、彼女の足元に身を投げ出しその手足になりたいと望む声も多いだろう。

 

 フィリップだって、貴族になるのは勉強が大変そうなので嫌だが、彼女の臣下となり彼女のために働くのは嫌ではない。

 

 だから、ステラの人望がないわけではない。

 ないが──王宮の全てを掌握しているのは、今はまだステラではないのも事実。

 

 「予想だが、宰相か父上のどちらか──或いは両方が、何か企んでいるんだろう。カーターのことをもっとよく知るいい機会だとでも思ったか、ミナが狙いか。或いは、訴えてきた貴族の方に何かあるか……」

 

 面倒な、とルキアが眉根を寄せる。

 フィリップもルキアも「国王も奴隷も同じ人間だよね」と、強い平等意識を持っているわけだが──万人を平等に無価値と見ているわけだが、その能力に大きな差異があることもまた、知っている。

 

 二人が良く知る人間で一番頭が回って頼りになるのはステラだが、国王はその彼女をして「自分以上にこの国を善く治められる」と信頼する人物だ。能力、人望共にステラを上回っているというのは想像に難くない。

 

 もしも国王が“敵”になったのだとしたら、本当にフィリップが国外追放されるようなことも有り得る。まあ、龍狩りの英雄(デコイ)はともかく、ミナという強大な化け物と聖痕者二人に反感を持たれるようなことをするとは考えにくいけれど。

 

 「とにかく、私は当日まで色々と調べる必要があるし、本来ならここでこうしてお前と話しているのも多少不味い。ルキア、カーターのことは任せるぞ」

 「言われるまでもないわ。……ところで、そのディーチ伯爵を殺せばいいんじゃないの? 王族の()を使えないなら、マルグリットを貸してあげましょうか?」

 「言うと思った……。まあ、それも一つの手段ではあるが、最終手段だ。カーターが今後貴族になるにあたって、この手の問題を武力──暴力だけで解決するのはよろしくないからな」

 

 言い聞かせるようなステラの言葉に、フィリップは曖昧な笑顔を浮かべて頷いた。

 まあ最悪の場合は()()かなぁ、なんて考えていたのがバレたのだろうか、と。

 

 ルキアはフィリップに聞こえないよう、声を潜めてステラに囁く。

 

 「……でも、書類と法の上では、フィリップは有罪なんでしょう? どうするの?」

 「どうするというか……法と書類だけで考えるなら、カーターが無罪になることはないだろう。ディーチ伯爵は馬鹿じゃない。娘を殺された報復を成し遂げるために、きちんと考えて動いている」

 「……そうなると、御前論奏はある程度好都合よね? 法に適っていなくても、陛下が「法の側に問題がある」と思えば放免されることもあるし」

 

 彼女らしくもなく、安心を求めるように尋ねるルキア。

 

 「あぁ。お父様の裁量で全てが決まる以上、カーターが重い処罰を受けることはないと思うが……」

 

 ステラは、そこは心配していない。

 ステラが個人的感情と主観を抜きにしても「フィリップを罰するべきではない」と考えている以上、ステラ以上に頭の回る国王()ならば、間違いなく同じ考えのはずだ。

 

 だって、これは最適解でさえない、ただの一択。

 

 フィリップを敵に回すということは、ミナを敵に回すことと限りなく等しい。

 そしておそらく、聖国の黄金騎士、人類の最終防壁と称されるレイアール・バルドル騎士王までも。

 

 ディーチ伯だって、そんなことは分かっているはずだ。……多分。

 大陸中に蔓延した魔力感染性の奇病“眠り病”の治療器具、魔力浄化装置を聖国に貸し出したとき、その素材回収にフィリップが貢献したなんてことは王国は一言も教えていなかったのに、謝礼金の2割をフィリップ個人へ分与するよう聖国から要請があったことは、保管されている親書を見ればすぐに分かる。

 

 フィリップのことを調べているのなら、そのことも知っているはずだ。よしんばそちらは知らなかったとしても、ミナの強さは十分に理解しているだろう。

 

 それを分かった上でのことだから、国王と宰相もそれを利用して、何かの策謀を巡らせているはずだ。或いは、何か目的があってディーチ伯を泳がせているか。

 

 「……まあ、あまり過激なことは言われないはずだ。だが罰金程度でも、たとえ何の罰則もないとしても、非を認める必要は無いからな」

 

 勿論です、とフィリップは頷く。

 認めるも何も、事実、フィリップはほんの一片たりとも罪悪感を覚えていないのだから、罪の認めようがない。

 

 まあ、罰金の代わりに爵位の叙勲を取りやめにしてくれるというのなら、ちょっと考えなくもないけれど。

 

 ──なんて、この時には、まだそんなことを考えていた。

 

 

 



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347

 そして迎えた、御前論奏の当日。

 王宮の中に設えられた専用の裁判室で、フィリップは両手を鉄の枷に戒められ、半笑いで部屋の中央にある演壇に立っていた。

 

 「此度の御前論奏はケイリス・フォン・ディーチ伯爵より提起され、フィリップ・カーターの行いを弾劾するものである。あらゆる全ての裁定は国王陛下の御心のままに下される。両名及びその弁護人は、天地万物の祖にして全知聡慧たる唯一神と、偉大なりしアヴェロワーニュ王国67代国王アウグストス二世の名の下に、一切の虚偽なく語ることを宣誓せよ」

 

 威厳のある声で宣言したのは、部屋の最奥に据えられた玉座の隣、国王の傍に立ったサークリス宰相だ。いつもの穏やかな物腰は鳴りを潜め、触れれば切れる刃のような冷たい威圧感を放っている。

 国王を挟んで反対側にはステラもいるが、彼女は物憂げな顔で一同を見下ろしているだけだ。

 

 対照的に、フィリップの右手側の机に着いたルキアは、目に見えて不機嫌だった。指先で机を叩いたり貧乏揺すりをしたりといった明確な動作はないものの、腕を組んで眉根を寄せていれば、フィリップでなくても簡単に分かる。

 

 フィリップのいる演壇から見て左側の机に着いていた壮年の男が立ち上がり、片手を掲げて言われた通りに宣誓の文句を読み上げる。続いてフィリップもそれに倣うと、いよいよ本格的に御前論奏が始まった。

 

 「先ずディーチ伯爵より、論旨を述べよ」

 「はっ。まずは国王陛下と第一王女殿下、宰相閣下、サークリス聖下にまでご足労いただいたこと、深くお礼申し上げます」

 

 立ち上がったディーチ伯爵が深々と、確かな敬意と畏怖を湛えた所作で一礼する。

 彼は総白髪を豪快なオールバックに撫でつけた偉丈夫で、老いてなお猛々しい狼を彷彿とさせる威圧感を放っていた。

 

 国王と宰相は穏やかに笑って頷き程度の返礼で応じるが、ルキアとステラは礼を返さなかった。まあ家格やら地位やらを考えると返礼の義務は必ずしも無いし、特段無作法というわけではないのだけれど……隔意を明確にするというのは、貴族社会ではあまりよろしくないことだった。

 

 それは場合によっては敵対を意味するからだ。

 貴族間の抗争は地位や権力の取り合いだけではない。時に私兵を用いた領地の侵略や、直接的な暗殺に発展することもある。

 

 ディーチ伯爵は答礼がないことに気付いたが、仕方ないと言うように一瞬だけ目を瞑り、国王の方へ向き直った。

 

 「此度の御前論奏に於いて、私は先のフィリップ・カーターによる殺人行為──我が娘を含む四人の冒険者を死に至らしめた件について、公正なる再審を求めるものであります。当時の状況はカーター氏を無罪とした衛士団の論拠、自己防衛行為に該当せず、過剰防衛行為として処罰すべきであります。また、そのような状況に至る理由として、使役する魔物の不服従──安全化が不足していると考えられます。これは重大な王国法違反であり、厳正なる膺懲が必要であると主張致します」

 

 意外にも落ち着いて語るディーチ伯爵だが、青い双眸は爛々とした復讐心を湛えていた。

 憤怒、憎悪、悲哀、悲嘆、悔恨、疑念。肯定的な感情は何一つとして残っていないような、そんな目だ。

 

 言葉は続く。

 

 「安全化されていない魔物を王都内へ引き入れたこと。そしてその力を利用し臣民の身命を傷つけ損なったこと。今回の件だけでなく類例が既に4件以上報告されていることを鑑み、重大な罪科であることは明白であります」

 

 ふむ、と宰相が頷き、フィリップを見遣る。

 

 「被告、フィリップ・カーター。論旨の事実整合性について反論は? ……つまり、君の主張はさておき、事実と異なる点はあるかな?」

 「はい、宰相閣下。えーっと……その冒険者を殺したのは僕じゃなくてミナですね。類例に関してもそうです。……あと、ようちょうってなんですか?」

 「膺懲、簡単に言えば罰を与えることだね。……ふむ、両者の事実認識は概ね理解した」

 

 ばん! と大音響が広い部屋を震わせる。

 音源は机に恨みでもあるのかという勢いで両手を叩きつけたディーチ伯爵だ。

 

 彼は国王と宰相を見ながらフィリップに一本指を突き付ける。フィリップを斬り殺さんばかりの勢いだが、それこそミナでもあるまいし、遠くで腕を振っただけでは風さえ届かない。

 

 「陛下、宰相閣下! このような自らの責任を──ぐっ!?」

 

 ディーチ伯爵がトラバサミのような勢いで口を閉じる。言葉が途切れるほどの唐突な動作は、勿論、彼の意思によるものではない。

 

 「身勝手に口を開くな、痴れ者が。ここは自らの主張を憚りなく叫ぶ猿の立ち入れる場所ではない。陛下の御前に立つことを許された貴種として、振る舞いには節度を持て」

 

 殺すぞ、とでも言いそうなほど冷たい声色のステラ。ディーチ伯爵の口を閉じさせたのは、彼女が無詠唱で行使した支配魔術だ。

 ややあって魔術の効力が切れると、ディーチ伯爵は顔を赤くして項垂れるように頭を下げた。取り乱したことを恥じ入るだけの理性を、一応は持っているらしい。

 

 「……申し訳ございません」

 

 ごほん、と咳払いを一つ挟み、伯爵は先を続ける。

 

 「原告ケイリス・フォン・ディーチ伯爵より、国王陛下へ奏上致します。被告フィリップ・カーターに対し死刑を求刑致します。……以上を、私の主張とさせていただきます」

 

 うむ、と国王が重々しく頷く。

 まあ流石に、たとえフィリップが全面的に罪を認めて死刑を望んだとしても、求刑がそのまま通ることは無い。

 

 使役下にあるはずの魔物が暴走して貴族の子女を殺したとなれば、確かに断頭台送りも有り得る。が、フィリップは“龍狩りの英雄”──こそばゆい称号はともかく、間違いなく救国の英雄ではある。そしてその名前は、どうやら聖国にまで轟いているようなのだ。少なくとも国内に教皇領を有する聖国の長、レイアール卿は知っている。

 

 だから、死刑は有り得ない。ディーチ伯爵だって慣例的に求刑しただけで、特別な配慮が働くことくらい承知の上だろう。

 

 「では被告。反論、もしくは主張を」

 「はい。えーっと……まず……?」

 

 暫しの沈黙。

 フィリップは手枷に目を落とし、右側にいるルキアを見て、正面にいるステラを見て、ばつが悪そうにへらりと笑った。

 

 ……事前に二人から教わっていた台本が、頭の中からすっぽりと抜けていた。

 

 まあ御前論奏でなくても裁判の場なんてフィリップは初めてのことだし、ど忘れしてしまったとしても無理はない。ないが──フィリップはほとんど緊張していないので、台本が吹っ飛んだ原因は別にある。

 というか、手枷のせいだ。

 

 鉄製の手枷。ここに入るとき、騎士の一人が申し訳なさそうに「すみません、規則なんです……」と謝りながら付けた、何の変哲もない拘束。

 魔力制限も無く、錬金金属のような強靭さも持たない、ただの鉄。そりゃあフィリップにとっては重いし頑丈だし、腕を繋がれていては走りにくいので行動制限としては機能する。

 

 でもそれだけだ。

 フィリップでさえ、やろうと思えば『萎縮』なり召喚魔術なりでディーチ伯爵を殺せるし、ミナだって呼べる。平民がこの部屋に入るときには必要なものらしいが、何とも残念なセキュリティだった。まあ、魔術適性に優れた平民がそもそも稀なのだろうし、ここに呼ばれた時点で素性や素行に問題なしと判断されているのだろうけれど。

 

 ──と、そんなことを考えていたら、覚えた内容が吹っ飛んだのだった。

 

 何を主張すべきかはギリギリのところで覚えていたので、あとでルキアとステラに怒られる覚悟を決めて自分の言葉で話すことにする。

 

 「まず、冒険者四人を殺したのは僕じゃなくてミナです。まあミナは王国人じゃないので、御前論奏とか王国法に基づいた裁判には出られないっていうのは分かりますけど……まあ、だからって僕に責任を押し付けて呼びつけるって言うのもナンセンスだと思いますよ。というか、ミナを殴れないから代わりに僕を殴っておくみたいな八つ当たり感に溢れてるんですよね」

 

 国王に向けてそこまで言って、フィリップは言葉を切ってルキアとステラの方を窺った。

 

 ……大丈夫そうだ。二人とも呆れ笑いだが、怒っていたり、焦っていたりはしない。何も不味いことは言っていないようだ。

 

 「で、えっと、防衛の過剰っていう話についてですね。うーん……」

 

 フィリップはもう台本を思い出そうとはせず、端から台詞を考えて喋り出す。

 

 「目の前を蝿が飛んでいたとして、自分の部屋でもなく無理に殺す必要もない場所だったら、手で適当に追い払いませんか? しっしっ、って。あの血の杭の魔術は、ミナの感覚だと多分そんな感じなので……適切な労力の使い方だったと思いますよ」

 

 玉座の肘掛けに頬杖を突いた国王が相槌のように片眉を上げる。

 宰相は相変わらず仮面のような笑顔だったが、ルキアとステラが表情を変えないということは、多分このまま続行していいのだろう。

 

 「想像ですけど、冒険者の側が怖気づいて逃げ出していたら、ミナも追わなかったと思いますよ。どっかに飛んでいく蝿を追いかけ回して殺すのは無駄骨ですからね。挑んできたのは馬鹿だから、逃げられなかったのは弱いからですし、それを僕の所為にされても困ります」

 

 フィリップが言葉を切ると、またディーチ伯爵が激高した。

 が、まあ、これは仕方ないだろう。

 

 「おのれ、黙って聞いておれば! 私の娘を──貴殿らが殺した人間を蝿に喩えるなど、命の冒涜に──」

 

 ──他ならない。

 その通りだ。彼の価値基準に照らせば、人間には人間の、命の重みというものがある。それは飛び回る羽虫とは一線を画するものだ。

 

 その理屈はフィリップにも分かるし、人も虫も同じく泡だと認識してしまうフィリップだって、感情的優先度は確かに存在する。ルキアやステラ、衛士たちのようなフィリップが好む人間のためでなくとも、虫を殺すことに躊躇は無い。……まあ、平時でも人間を殺すことに躊躇いがあるかと言われると、無いのだけれど。

 

 いや、あるにはある。あるが、それは社会的・法的制裁や人間社会からの逸脱なんかが嫌なだけで、殺人行為に対する忌避感ではない。

 

 とにかくディーチ伯爵の言葉に否やは無かったフィリップだったが、彼の口から出たのは同意の言葉ではなく、失笑だった。

 

 「──ふふっ。……あ、すみません。“冒涜”という言葉が安く使われるのが面白くて、つい」

 

 呆然とするディーチ伯爵を無視してくつくつと喉を鳴らして笑っていたフィリップは、少し深呼吸してから先を続ける。

 

 「まあ人間は蝿を食べませんから、例えとして適切かどうかは微妙ですけど……。ミナも食べる人間と食べる部位は選んでるみたいなので、全部の人間が美味しそうに見えるわけじゃないらしいですけどね。……何の話でしたっけ? あぁ、そうそう。馬鹿が馬鹿なことをして死んだって、それは僕やミナのせいじゃないんですよ」

 

 泳げないにもかかわらず湖に飛び込んで溺死した者がいたとて、それは管理人の責任ではない。

 避けられないタイミングで馬車の前に飛び出してきた子供を撥ねたからと言って、御者や馬が悪いことにはならない。

 

 王国法や冒険者ギルドの規則を抜きにして、常識で考えたって、そうだ。

 

 「僕が今ここでルキアに襲い掛かったとして、まあ順当に塩の柱に変えられると思うんですけど……」

 

 さも当然のように言ったフィリップに、ルキアが形のいい眉を顰める。

 「そんなことしないわ」と言いたげだが、彼女自身、それは相手がフィリップだからだと自覚している。赤の他人だろうと顔見知りだろうと、大抵の場合は反射で殺す。例外はフィリップと、ルキアにじゃれついてくることもあるシルヴァ、実力的に反射程度の攻撃では殺し切れないステラとミナくらいか。

 

 それに、ここは別に「そんなことはしない」と主張すべき場面ではない。そんなことをしたってフィリップの話の腰を折るだけだ。

 

 フィリップは何も言わないルキアの物言いたげな顔に苦笑しつつ先を続ける。

 

 「……その後でルキアが罪に問われるって言うなら、この話し合いを続けましょう。そうじゃないって言うなら、この話し合いの結論は既に出てます」

 

 言い切る。

 ルキアとフィリップでは家格も立場も違いすぎるのだが、そんなことは気にならないらしい。

 

 自信満々な口調ばかりが理由ではないだろうが、国王は小さく頷き、フィリップの言を肯定した。

 

 「ふむ。……防衛行為は、防衛理由を作った側に責がある。その理屈は分かるな、ディーチ伯」

 「……はい、陛下」

 

 ふぅ、と安堵の息を吐いたフィリップは、ステラと目が合って口元を緩ませる。ステラも鏡写しのように顔を綻ばせたが、すぐに表情を引き締めた。

 まだだ。まだ──半分しか、話は終わっていない。

 

 

 

 

 



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348

 自己防衛に過剰もクソもあるか馬鹿が──というフィリップの心情を可能な限り柔らかくぼかして伝えたところ、なんとか国王を説き伏せることには成功したらしい。

 しかし、ディーチ伯爵の弾劾はもう一件残っている。

 

 圧倒的な戦闘能力を誇るミナに挑み、当然のように馬鹿が負けた。

 ミナの一挙動すら要さない、蝿を払うような一撃で。──それ自体が、フィリップを糾弾する理由になる。

 

 「……しかし、それはあの吸血鬼が自儘に行動していることの──制御下にないことの証言に他なりませんぞ。王国法に則れば、あの吸血鬼めが王都に居ることそのものが、彼を処断する理由となりましょう」

 

 ミナが自分の意思でその力を振るうことに何の制限も掛かっていない状態。それは、使役者として扱われるフィリップを罪人に貶めるに十分だ。

 

 法の上では、そうなる。

 しかしこの場は法ではなく、その上位に坐する国王が取り仕切る場。彼の意向が全てを決める。

 

 宰相は玉座に掛けた主君の顔をちらりと窺い、議論の続行を決定した。

 

 「ふむ。それはその通りだが……いや、まずは君の……被告の意見を聞こうか」

 「はい。えっと……まあ、そうですね。ミナは僕の制御下には無いです。というか、ミナは僕の飼い主なので……」

 

 むしろ僕が首輪を付けられてる側なんですよね、と笑うフィリップ。

 しかし、その関係性を明確に理解しているのは当人たちと、あとは精々ルキアとステラくらいだ。国王も公爵も初耳だった。

 

 「……ん? 飼い主?」と困惑も露な公爵に、フィリップは当然のように頷く。

 

 「はい。……え? なんか変ですか? 人間と吸血鬼の関係性としては妥当なところだと思いますけど」

 

 卑屈なのか達観しているのか測りかねることを言うフィリップ。

 実際、両者の力関係を考えれば正しい──フィリップはそう判断したから、ミナのペットに甘んじているわけだ。

 

 しかし大多数の“人間”に、そんな殊勝さや客観性はない。

 人間は脆弱で矮小だから他の強力な種族に支配されても仕方ないよね、なんて思える人間が一般的だったら、ヒトという種族はこうまで繫栄しなかっただろう。

 

 「……文字通りの意味だ。カーターはあの吸血鬼の愛玩を受け、その庇護下にある。ミナの方は犬猫に対するような接し方だから、概ね正しい表現だな」

 

 ステラが公爵に説明し、彼は「そうなのですね」と頷いたが、本当に理解できているかは微妙なところだ。

 

 「根本的に、人間と吸血鬼だと吸血鬼が上位なんですよね。それを制御しろと言われても──」

 「責任転嫁も甚だし──ぐっ!?」

 

 フィリップの言葉を遮るように、また机を叩いて吼えるディーチ伯爵。

 しかし、彼の言葉もまた最後まで言い切られることは無かった。

 

 「──私に二度同じことを言わせるのは、カーター一人で十分だ」

 

 冷酷な女王の口調で告げられたのは、二度目の、最後の警告。

 まだ強制的に口を閉じさせる程度の命令しかしていないが、三度目は無い。次はこの場で語る格無しと判断し、叩き出す。正確には自分の足で出て行かせるのだが。

 

 「え、ごめんなさい……」

 

 怒られたのはディーチ伯爵だが、フィリップまで慄いていた。そんなに苛立ちを募らせていたのか、と。 

 勉強でも戦闘訓練でも、何度目かになる同じ注意をするときのステラは、確かに不機嫌そうではあったけれども。わーい許された、と特別扱いを喜べない程度には、今のステラは険しい顔だった。

 

 続けて、と宰相に促され、フィリップは素直に頷く。

 

 「……ミナが龍殺しに協力してくれて、普段は温厚だから──まだ王国が存続しているから勘違いしたのかもしれませんけど、彼女は正真正銘の化け物ですよ? エサでしかない人間の命令なんて聞くわけないじゃないですか」

 

 フィリップが言葉を切ると、ディーチ伯爵はフィリップではなく国王に向けて吼える。

 

 「お聞きになりましたな、陛下! 安全化されていない魔物を王都へ引き入れたという王国法違反は明白です!」

 

 ディーチ伯爵にとってこの場における最優先事項は、フィリップの論破や謝罪を引き出すことではなく、国王を説得することだ。

 だから国王に訴えることは、戦略として間違っていない。フィリップの言葉を遮って会話や討論という形を崩したりしないのであれば、ステラも見咎めることは無い。

 

 ただ、彼の論理はフィリップにしてみれば甘いものだった。

 

 「安全化……。ミナは基本的に温厚ですし、定期的に僕の血を飲んでいれば人を襲うことも無いので、十分に安全では? 何かの都合で僕がミナから遠い場所に居ても、魔術で呼び出せるわけですし」

 

 客観的に安全か危険かで判断するなら、ミナは安全な部類だ。そもそもダウナーな彼女は、積極的に攻撃したり喧嘩を売ったりすることが滅多にない。

 

 しかし──主観的に「危なそう」ではある。確かに。

 言い換えれば、怖いのだ。羊の群れに狼が紛れ込んでいたら、食べられてしまうのではないかという懸念が生じるように。

 

 その狼には首輪が無い。躾けられてもいない。ただ満腹であるだけ。

 

 満腹である以上羊を狩ることは無く、安全だ。

 しかし、安全であることが分かっているのは狼の側だけだ。これでは羊の恐怖心を拭えない。

 

 そして羊が狼の気分を害したり、空腹になれば、当然──。

 

 「絶対に人間を害さない、なんて、人間同士でも有り得ませんよ? むしろ自分の都合で人間を害することが無い──そんな何の得にもならない無駄手間を取ることがないミナの方が、力量差も見れずに襲い掛かってくる馬鹿より余程安全だと思いますけど」

 

 フィリップの言には一理あると、宰相は納得できる。

 彼の娘は二人とも優れた魔術師であり、長子は宮廷魔術師、末子は聖痕者だ。只人の域はとうに逸脱し、化け物にも匹敵する戦闘能力を有している。

 

 それでも誰一人として彼女らのような魔術師を危険視しないのは、誰もが常識や理性を持ち合わせているからだ。

 どれほど強力な力を持っていようと、同じ人間である以上は対話が可能であり、同じ神を信じる以上は共通した道徳心を持ち合わせている。その前提は、誰もが殊更に思考することなく共有している。

 

 フィリップにはそれがない。その前提、先入観を持たないが故に、種ではなく個体それぞれを見て判断できるのだ。

 人間だから安全、化け物だから危険、ではなく。安全な奴は化け物でも安全だし、人間でも危険域の馬鹿なら死んで当然。そんな冷静で酷薄な認識を示している。

 

 「何故だ……。どうして、そんなにも冷酷なのだ……。“龍狩りの英雄”である貴殿であれば……あの吸血鬼を止められたのではないのか……? 私の娘を救えたのではないのか……?」

 

 王女を救うため、衛士たちを死なせないため。そんな理由で龍狩りに同道した小さな英雄。──そんな逸話を聞いていたからか、無念そうに、そして詰るようにディーチ伯爵が嗚咽を漏らす。

 

 しかし、フィリップは顔を引き攣らせてのけぞった。

 驚いたような反射行動のあと、ステラに目を遣って怪訝そうに眉根を寄せる。

 

 ステラはフィリップの素直な表情筋から、「これ狂人ですか?」という殺意一歩手前の疑問を読み取った。

 怒りや悪意があるわけではない。狂ってしまったなら殺してあげよう、という憐憫と善意だ。

 

 ステラが頭を振って否定すると一応は納得したのか、「ただの馬鹿かぁ……」と呟いて頷く。ステラへの信頼度が高くて何よりだ。

 

 「……なんでですか?」

 「なに……?」

 

 理解できない別言語を耳にしたように、ディーチ伯爵は呆然と立ち竦む。

 激昂どころか一片の怒りを抱くこともできないようだ。

 

 「弱すぎて瞬殺されたとはいえ、一応はミナを害そうとしたんですよ? なんで僕が加害者を守らないといけないんですか?」

 「そ、そんな……弱き者を守ってこその強者ではないか!」 

 「え……? それはなんというか、都合の良すぎる考え方では? 強ければ強いほど判断基準が感情に寄っていくなんて珍しくもありませんし。それに、敵対しておいて「弱者を守れ」というのはバカバカしいにも程がありますよ」

 

 フィリップの言葉は道理だ。

 だが、道理でしかない。

 

 容赦、というものが一片も無いのだ。

 

 「弱者なら何をしても許されるべき、みたいな思想をお持ちなのかもしれませんけど……それは逆ですよ。何をしても許されるのは強者の方です。極論、ここで僕とミナが死刑宣告を受けたって、僕たちが馬鹿正直に断頭台まで歩かなければいいだけの話ですしね」

 

 フィリップはともかく、ミナは首を刎ねられたとしても「満足した?」とか言いながら落ちた首を拾ってくっつけて、そのまま退屈そうに帰るところも簡単に想像できるけれど……それよりは、刑吏を皆殺しにしてつまみ食いして立ち去るところの方が想像が容易だ。

 

 まあフィリップもフィリップで、死刑の前に神父に会いたいと言えばどうとでもなるだろう。最期に懺悔する機会は、どんな重罪人にでも平等に与えられる権利だ。

 

 「国に叛逆するというのか!?」

 

 囁くような戦慄に、フィリップは薄く笑う。

 

 「その言い方は強弱が逆転していますね。その場合は、人間が吸血鬼に叛逆するんですよ」

 

 出来るものなら、と但し書きまで付く戦力差だが。

 

 ……しかし王国と敵対するとなれば、ルキアとステラ、そして衛士団が戦線の中核となるのだろうが──物の見事に対フィリップ要員ばかり集まっている。戦力どうこうではなく、心情的にフィリップが殺せない相手ばかりだ。

 

 ミナはそんなのは知ったことじゃないとばかり八面六臂の活躍を──衛士団相手になら、出来るだろう。だがルキアやステラの神罰術式に対して、ミナはあまりにも相性が悪い。一撃で塩の柱か灰の山になってしまう。

 

 そんなことを考えてくすりと笑ったフィリップに、ディーチ伯爵は恨みがましい、しかし恨みばかりではなく慄くような目を向ける。

 

 しかし彼が何か言う前に、硬質な音が一同の注意を引いた。

 こつこつ、と小さな音。国王が玉座の肘掛けを叩いた、それだけの音は、またヒートアップしかけたディーチ伯爵に一瞬で冷静さを取り戻させ、ゴミを見るような目をしていたルキアに「やっと終わりか」という溜息を吐かせるくらいの効果はあった。

 

 「両者の言い分は概ね理解した。……フィリップ君、最後に少し、個人的な質問をしてもいいかな? この質問に対する答えは御前論奏の裁定には関与しないから、率直に答えて欲しい」

 

 嘘だ、絶対関与するぞ、と全員の心が一つになる。

 というか、御前論奏は端から国王の意向で全てが決まる場なのだから、彼の質問や感情が沙汰に影響しないなんて有り得ないのだが。

 

 かと言って、まさか国王相手に「関係ないなら聞くな。早く帰らせろ」なんて言うほど常識が欠如しているわけではないフィリップは、「何なりと」としかつめらしく頷く。

 

 「フィリップ君。君は──人間と化け物、どちらの味方なんだい?」

 

 やさしいおじさんの仮面を被った国王は、穏やかな声で問いかける。

 しかし質問の内容は、一言でも誤れば即死も有り得るようなものだった。もし仮に化け物の側だと答えたら、或いはカルト認定され人権を失うことだってある。

 

 「僕は僕の好きな方の味方です。赤の他人とミナなら、ミナですね」

 

 ふむ、と国王は軽く頷く。

 質問一つで、フィリップの価値観は概ね理解できた。要は、彼は人間と化け物を分け隔てなく扱うが故に、両者の格差をはっきりと認識しているのだ。

 

 人間だから、化け物だからという区別はしない。どちらも只人であるかのように、自分が好きか嫌いかで判別する。

 その代わり、人間に優越するのであれば相手が化け物であれ素直に従う。それが人間として正しい姿だと思っているから。

 

 ……まあ、許容範囲か。と、国王と宰相は一切の意思疎通なく、同じ感想を抱いた。

 

 「あの吸血鬼とステラなら、どちらだい?」

 「そりゃ殿下です」

 

 ついでのような気軽さで問われ、ステラが「急に何を言っているんだ」と明記された顔で父親を見遣る。その反応と同時くらいの即答をしたフィリップは、「何を当たり前のことを」と言いたげな半笑いだった。

 

 「……これは単なる興味だが、サークリス聖下とステラでは、どうかな?」

 

 穏やかな笑顔で凄いことを聞く、と、公爵は同じ仮面の裏で苦笑する。

 何言ってんだこの人、と思ったのはフィリップも同じだったが、こういう場合でも素直に思考して答えられるのはやはり彼の美点だろう。

 

 「え? 二人が敵対したら、ってことですよね? ……僕の味方の方? 僕と関係ないところで敵対してるなら、多分殿下の方が正しい理由を持っているんでしょうけど、ルキアの方が僕に寄り添った理由を持ってくれそうなので……うーん……仲直りさせるっていうのはナシですよね?」

 「ははは! うん、そうだね。それはナシだ」

 

 馬鹿が死ぬのは馬鹿だから、なんて平然と言い放った口から出たとは思えない安穏とした台詞に、国王は愉快そうに笑う。

 

 喧嘩したなら仲直りすればいい、なんて。

 冷酷で、或いは残酷でさえあるのではという懸念を吹き飛ばすような第一の選択肢だ。

 

 フィリップは眉根を寄せて唸っていたが、やがて一つの答えを出した。

 

 「うーん……敢えて選ぶならルキアです」

 

 選択肢として挙げられていたルキアとステラは、答えを聞いても大した反応は見せなかった。

 ルキアは「そうなんだ」とでも言うように頷くだけで、ステラも興味深そうに首を傾げるくらいだ。国王の方を見て、二人にだけは分かる程度の勝ち誇った表情を微笑の仮面に混ぜた公爵と、それを物言いたげな顔で見返す国王の方が反応は大きい。

 

 しかし、反応らしき反応はそれくらいで、フィリップからすると極小というか、皆無と言ってもいいくらいのもの。

 

 「二人が戦ったら殿下の方が強いじゃないですか。二人ともが生き残る可能性を一番高めるのは、この選択肢だと思うんですけど……どうでしょう先生」 

 

 蛇足のような説明を加え、ステラに水を向けると、彼女は一瞬で思考を終えて首肯した。

 分かってきたじゃないかと言いたげなステラの笑みに、フィリップは安堵したように表情を綻ばせて応じる。

 

 「素直に喜びかねる理由だけれど……でも、心強いわ」

 「実際、お前が介入するなら一時休戦は免れないだろうしな……」

 

 気品を損なわぬよう穏やかに、しかし喜色を交えて微笑するルキア。

 ステラはその状況を想像して苦笑しているが、まあ、それは仕方ない。ステラがルキア相手に有利なのは、どんな悪辣で外道な手段でも最適解であるのなら選択できる精神性故だ。戦いの場に於いても美しさに拘泥するルキアとは、メンタル面で大きな差がある。

 

 しかし実力はほぼ拮抗している以上、フィリップに召喚術を使わせないように気を配りながら戦うのは流石に自殺行為だ。故に、休戦を選ぶしかなくなる。

 

 妙な言い回しをするステラに、国王も宰相も不思議そうな目を向ける。しかしステラがそれ以上言葉を続けることは無く、単に言葉選びを間違えただけだろうと納得した。

 

 自発的な行動を強いられる状況を表すのなら、普通は「休戦せざるを得ない」と言うべきだ。フィリップを巻き込まないよう休戦せざるを得ない、と。

 「免れない」なんて、まるで、何かに強制されるような表現だが──まさか戦闘状態の聖痕者二人に干渉できる者なんていないだろう。同格の魔術師なら或いは可能かもしれないが、フィリップはそうではないのだし。

 

 「うん、面白い話だったよ。ありがとう。それじゃあ──裁定を下そう」

 

 穏やかな、しかし自然と首を垂れさせる雄峰の如き厳然たる声で宣言される。

 

 フィリップは何ら身構えることなく、許容範囲を超えて面倒な沙汰だと残念だなぁ、とだけ思って、それきりだった。──殺すことになるかもしれない命に対する感傷は無かった。

 

 そして──。

 

 

 

 



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349

 結局、フィリップは無罪放免となった。

 今回の御前論奏自体、ディーチ伯爵に──正確には国王の乳母だった彼の姉に配慮してのものだったらしい。ステラが「貴族社会の義理として必要な手順だ。巻き込んだようで悪かった」と苦笑交じりに謝ってくれたし、無罪だったのでフィリップは特に気にしていない。

 

 これまでも様々な場面で国王の決定に口を挟もうとしてきたらしいし、結論はともかく御前論奏を開くくらいの義理は通さないといけないのだろう。あの()()()()()()()が乳母には頭が上がらないというのは、なんとなくイメージしやすいし、とフィリップは簡単に納得した。

 

 ──この国の王権は乳母どころか先王や王母でさえ口を挟めない程度には強力なのだが。

 

 ともかく、一仕事終えた気分のフィリップは、王城を出てすぐに二等地に足を向けた。目指す先は投石教会だ。

 馬鹿が馬鹿なことをしたのを発端に馬鹿に絡まれ、馬鹿馬鹿しい論理で訴追されたのだ。流石にちょっと──たっぷりと、癒しが欲しいところだった。

 

 「ちょっとの癒しなら、シルヴァでも十分なんだけどね」

 

 何処へともなく呟くと、何処からともなく意思が届く。

 言語を介さない意思疎通に最適化されていない人間の脳では正確に言語化できないが、シルヴァからの返事は概ね「いっしょにあそぶ?」といったところ。

 

 心遣いは嬉しいが、無尽蔵のスタミナを持つ──疲労という概念を持ち合わせない森の代理人と一緒に遊ぶほどの気力はない。いつもなら平地だろうと森の中だろうと鬼ごっこに興じるところだが、流石に今日のフィリップはお疲れだ。

 

 「今日はパス……あ、寮に行ってミナと遊んでくる?」

 「ん! そうする!」

 「おぉ、すごい食いつき……」

 

 言うが早いか実体化して飛び出していくシルヴァ。流石の健脚と矮躯のせいもあって、あっという間に通りを曲がって見えなくなってしまった。

 

 ミナとシルヴァが遊んでいるところはあまり見ないが、無限スタミナ同士、意外と楽しめるのだろうか。

 シルヴァは外見こそふわふわした小さな幼女だが、頑丈さではフィリップどころかミナ以上だ。彼女を傷つけるのに必要なのは強力な単体攻撃ではなく、森一つを焼くほどの範囲攻撃。一個体、それも小さな少女を相手にはまず選ばない攻撃というところが、何とも厭らしい防御性能だと言える。

 

 しかしミナにとっては、じゃれついてくるくせに簡単に潰れてしまうフィリップよりは幾らか遊びやすい相手だろう。

 シルヴァにとっては……何故懐いているのかはちょっと分からないが、フィリップより運動神経が近しい遊び相手なのだろうか。

 

 フィリップは思考を切り上げ、投石教会を目指してのんびりと歩く。

 御前論奏は面倒なイベントだったが、面倒なだけで、フィリップの側に不利益は無かった。学院のテストみたいなものだ。

 

 欠伸をしたり伸びをしたりしながら、夏場にしては珍しい曇り空の下を安穏と歩く。

 王城を出た直後から、その背後を付かず離れずの距離で追跡している人影に気付くだけの技量を、フィリップは持ち合わせていなかった。

 

 二等地に入り、少し辺鄙な場所にある教会を目指して人通りの少ないところを歩いていても、人影の隠形は完璧だった。人ごみに紛れることもなく、フィリップ以外の人間に怪しまれることもなく、平然と後ろをついてくる。

 

 特筆して若くもなく老いてもいない、王都の二等地を歩いていそうな男だ。

 一見しただけでは何ら怪しいところのない、平民が普段着にするシャツとズボン姿だからだろう。子供の跡を尾ける不審者には見えない。

 

 フィリップは完全に人通りの絶えた細い路地へ入り、遂に彼我の距離がこれまでになく縮まる。

 

 残り二十歩。フィリップは気付かない。

 残り十歩。フィリップはのんびりと下手糞な口笛を吹いている。

 

 残り五歩。何の変哲もないシャツの裾がはらりと捲れ、刃渡り6センチほどの小ぶりな刃物が男の手の内に現れる。フィリップは丸腰だし、それ以前に男の接近に気付いてさえいない。足音も気配も何もかもが完璧に遮断されているからだ。

 

 小さなナイフが振りかぶられる。

 首も心臓も、分かりやすい急所を狙う必要はまるでない。彼は多種多様に分化した暗殺技術の中で、毒刃を主として扱う。塗布されているのは刃が掠めたときに体内に入る微小な量でさえ致死域に達する猛毒だ。

 

 標的が感じる痛みも極小。血が滲む程度、紙で切った程度の痛みだけ。

 切り傷に気付くのが先か、特殊な植物から抽出した神経毒が心臓を止めるのが先か。どちらでもいい。どちらにしろ、依頼は達成される。

 

 彼我の距離が残り二歩にまで近づき、男の攻撃圏内に入る。そして──。

 

 どぷん、と、陰鬱に低い水音を聞いた。

 

 「──え?」

 

 困惑の声が男の口を突く。突いて出たはず。なのに、耳には自分の声が届かない。

 彼は自分が目を開けているのか閉じているのかさえ判然としない、昏く、重い水の底に居ることに気が付いた。いや、身体に纏わりつく感触は水というより泥、沼のようだ。

 

 しかし目を開けても沁みることはないし、水面下に落ちたのだと気付く前からずっと呼吸は出来ている。これはいったいどういうことなのか。

 それに、人体は泥よりも軽いはずなのに、一向に浮かぶ気配がない。粘度の高い空気のようだ。

 

 そして──それだけだ。

 何もない。何も起こらない。泳いでみても、息を止めてみても、何も変わらない。疲れもしないし、息苦しくもならない。何も見えないし、何も聞こえない。

 

 何もないことは分かる。それ以上の情報が何もない。試しに舌を噛んでみても、痛みも血の味も、嚙みついた感覚さえなかった。

 

 「え……?」

 

 意図して声を漏らすが、やはり、耳には届かない。耳を塞いでみても、押さえた感覚も腕の筋収縮の音も感じられない。

 

 無感覚空間。

 

 では──身体はそこにあるのだろうか。

 声は出ないか、出しても聞こえない。目を開けているのか閉じているのかも判然としない暗闇。体に触れようとしても、触れた感覚も無ければ体を動かした実感もない。ただ、やった気になっているだけかもしれない。

 

 人間は無感覚状態だと一時間で発狂するなんて言われているが、彼は暗殺者として鍛え上げた強靭な精神を以て、70時間──ほぼ三日も耐えてみせた。

 

 凄まじい精神力だ。常人の比ではない。

 フィリップが知れば、拍手して賞賛してくれることだろう。

 

 だが──それだけだ。

 

 ここは宇宙発生以前の原初の混沌であり、宇宙消滅後の終末の虚無。

 光も無く空気も温度も無い、始まりも無く終わりも無い虚空。虚ろにして無。虚無の汚泥。

 

 この中では死という概念すら死に絶え消え失せ、命は生まれることも失われることもない。彼は狂い、しかし死ぬことは無く、永劫その中を彷徨うのだ。

 

 

 重く鈍い水音を聞いたような気がしたフィリップは、足を止めて振り返る。

 見覚えのある街並みが広がっているだけだ。曇り空だが、雨の一滴も降っていない。

 

 「……なにかした?」

 

 近くの家の塀に止まっていた、大きめのカラスに問いかける。

 勿論、フィリップは鳥と会話しようなんてメルヘンではない。首を傾げたカラスはよく目を凝らして見れば、無数の触手を編んで作られた醜悪なカリカチュアだと分かる。

 

 シュブ=ニグラスの使い魔……もう少し高いところに止まっていたら、いつもの子、いつもの事だと素通りしていただろう。

 

 「気のせいか。……ん? なんか君、ちょっと太った? いや太ったというか、全体的に一回りぐらいゴツくなってない?」

 

 窓を開けたらそこにいた、なんてこともあるシュブ=ニグラスの使い魔だ。もう三年の付き合いになるし、フィリップはその威容ならぬ異容を見慣れている。

 目の前のカラスは、その見慣れた姿と微妙に違っている気がした。羽も足も嘴も、全体的に大きくなっている気がする。

 

 そりゃあカラスなら成長もするだろうけれど、形だけ似せた触手の塊に、まさかそんな真っ当な生物じみた機能が備わっているはずもないし。

 

 「……流石に露骨過ぎたでしょうか?」

 「喋ったぁ!? 君喋れたの!? じゃあなんで今まで喋らなかったの!?」

 

 靴音も高らかに、蛇を見つけた猫のような動きで飛び退るフィリップ。幸いにも周りに人はいなかったが、大通りなら周囲の生温かい視線を一身に受けていたことだろう。

 

 カラスはそんなフィリップを慈しむように──愛玩するように小首を傾げた。

 これまでに見たことのない反応だ。というか、これまでこの使い魔が喋るところなんて見たことが無い。

 

 ──いや、しかし、それにしては声に聞き覚えがある。

 獣性を擽る怪しい色香を纏う声。虫を呼び寄せては溶かして殺す食虫植物の如き、不自然に甘ったるい声だ。

 

 「……いや待って? 今の声……レイアール卿?」

 

 怪訝そうな声で問われ、カラスはこくこくと頷く。何かを啄むような仕草を不覚にも可愛いと思ったフィリップだったが、それも一瞬だ。言うまでも無く、よく見ると触手の塊なのだから。

 

 「……何してるんですか? いや、それ以前に、マザーの使い魔は?」

 「今は彼女にレクチャーしている最中でして。少し離れたところから見ています。……あちらに」

 

 ふい、と顔を背けるようにして嘴で示された民家の屋根には、なるほど、確かにもう一羽のカラスが止まっている。

 フィリップの視線を受けて嬉しそうにぱたぱたと翼をはためかせる様は、やはり可愛らしい。仕草だけは、だが。

 

 「レクチャー? まあなんでもいいですけど、僕の生活圏であんまり変なことしないでくださいね」

 「勿論です。我らが寵児」

 

 なんでもいいというのは言葉の綾ではないらしく、フィリップは本当にどうでも良さそうに踵を返し、また投石教会に向かい始めた。

 

 そんなフィリップを見下ろす影が、少し離れた場所の民家の屋根にもう一つ。

 華奢な肢体をクラシカルなモノクロームのメイド服に包んだ女──メグだ。彼女は目を瞠り、驚愕のあまり硬直している。

 

 彼女はルキアに命じられ、フィリップが教会に入るまで見守っていたのだった。

 そして当然、フィリップの背後に迫った暗殺者を、腕をピクリとも動かせないよう一瞬で首を刎ね飛ばす準備はしていた。男が影の中に落ちて沈む、その時までは。

 

 ……今のは?

 メグは口の中で疑問を転がすより早く、半自動的に素早く身を伏せ、周囲の気配を探る。

 

 魔術──ではない。

 魔力の動きが全く感じられなかった。

 

 フィリップが何かしたという風にも見えない。いやそもそも、彼は背後から接近する人物に全く気付いていなかった。まあメグからしても及第点を付けていい程度には熟達した隠形だったから、それは仕方ない。

 

 フィリップは完全に無防備な状態で、襲撃に気付いてさえいなかったのに──湖に張った薄氷を踏み抜いてしまったような動きで、男は地面の下に消えていった。

 

 周囲には誰もいない。

 メグに魔力視を可能とするほどの魔術センスはないが、それでも暗殺者として磨かれた感覚は、隣の部屋にいる人間の数と体格、動きまでを仔細に把握するほどだ。フィリップを援護できる位置にはメグ以外誰もいなかったと断言できる。

 

 暗殺者には気付けなくとも、あの異常な光景の断片だけは感じ取ったのか、フィリップは振り返っていたが、メグ同様に何も見つけられていないようだった。カラスの羽音か何かだと思っているようだったが、その後、カラスに話しかけていたのは少し可愛かった。何と言っているのかまでは聞こえなかったけれど。

 

 「……」

 

 フィリップが投石教会の扉を潜るのを見届け、メグは屋根伝いに一等地へ、ルキアの元へと戻る。

 道すがら、理解できない光景をどう説明したものかと考えつつ──フィリップが鳥と会話していたと伝えたらどういう反応をするだろう、なんて、益体のないことが頭を過った。

 

 

 

 

 

 



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350

 王国には、俗に暗殺者ギルドと呼ばれる裏組織が存在する。

 全ての冒険者を統括する、そこに属さなければ冒険者として活動できない冒険者ギルドと違い、暗殺者ギルドは『所属しておくと便利』程度の組織だ。依頼人との仲介や報酬条件の交渉、不特定の暗殺者に向けた公示依頼が受注できるなどのメリットがある。

 

 本部は王都三等地内の商店に偽装された、こじんまりとした建物だ。

 中を覗くと雑貨屋のようだが、道に置かれた看板には『新刊入荷』と書かれており、書籍の類も扱っているようだ。

 

 暗殺者がわらわらと集まるわけにもいかないので、冒険者ギルドのように大仰な建物は必要ない。店員だって、店長を除いて一人だけだ。どちらも若く精悍な男で、寂れた雑貨屋の店番には向いていないように思える。

 

 暗殺者たちとのやり取りは商品の中に紛れ込ませた情報や、注文に見せかけた符丁によって行われる。

 今日は既に公示依頼の通知を二件送り、報酬交渉の依頼が二件、依頼指名が一件あって、ギルドとしてはとても忙しい部類だった。王国は別に日常的に暗殺が横行している修羅の国ではないので、暗殺依頼が一日の内に三つも舞い込んでくるのは珍しい。

 

 特に、最も新しい依頼はそうだ。

 

 「……“龍狩りの英雄”なんて、クソビッグネームじゃないすか。ドラゴン殺すようなヤツ、暗殺できるんすか?」

 「誰か出来るかもしれないって期待で公示依頼にしたんだろう。出来るもんならやってみろって挑発されたように感じて、B級のアサシンが何人か動くだろうが……エース級の奴らは動かねぇだろうさ」

 

 店や周りに誰もいないのをいいことに、符丁も使わずに会話する二人。

 しかし実際には、このくらいの会話なら誰に聞かれても問題ないのだった。

 

 というのも、暗殺者ギルドは裏組織ではあるものの衛士団には既にその存在を知られている上、連絡役という情報を扱う重要な仕事の二人にはギルドの監視が付いているからだ。

 

 衛士団が暗殺者ギルドを潰しにかかるなら、とうに潰されているはず。何かの目的があって泳がされていることは間違いない。

 

 そして衛士団や他の組織が情報の集積所である二人を狙った場合、ギルドの監視役は情報の処分役に変わる。つまり、誰かが二人を捕らえる前に殺す役目だ。

 

 会話の内容が漏れたら不味いものになれば、即、殺される。

 それを分かっているから、喋り続けられる限りは喋っていていいのだと安穏と会話している。そのくらいの図太さが無ければ、暗殺者ギルドの連絡役は務まらないのだった。

 

 「そーっすねぇ……。何人か受注していきましたけど、どいつもこいつもパッとしないっす。……あ、でも、二つ名持ちが一人、もう動いてますよ」

 「ほう? どいつだ?」

 「『調香師』っすね」

 

 うわぁ、と店長──実際はギルドの連絡役の一人に過ぎない、ただの平構成員──が表情を歪める。

 連絡役として色々な情報を持っている二人だが、その名前は悪い意味で有名だった。

 

 「面倒なのが釣れたもんだな……」

 「そーっすねぇ……。奴さん、他人を巻き込むとか気にしないっすから」

 

 誰が巻き込まれようと所詮は他人事だ。二人とも、暗殺の標的以外が死ぬことに対して不快感は無い。

 

 問題は、度が過ぎれば王国が動くだろうということ。

 既に暗殺者ギルドの存在が衛士団に知られている以上、残しておくデメリットがメリットを上回った瞬間に殲滅戦が始まるだろう。その場合、国内最強の武力組織に抵抗できる手段を持ち合わせない暗殺者ギルドは壊滅だ。

 

 そんな会話をしていると、入口のドアが涼やかなベルの音と共に開き、一人の客が入ってきた。人相も判然としないほど目深にフードを被った、旅人風の装いだ。体格からすると、男か。

 

 彼は真っ直ぐに二人のいるカウンターへ来ると、一枚のコインを置いた。

 王国で使われている硬貨ではない──いや、大陸中のどの国で使われている貨幣とも合致しない、貨幣としての価値は無いものだ。

 

 「鑑定(受注)っすか? 買取(依頼)っすか?」

 「鑑定だ。それから、表の看板にあった本(公示依頼)三作目(NO,3)を」

 「了解っす。あー、すんません、切らしてるっす。取り寄せます? お値段このくらいっすけど」

 

 店員は指を四本示して見せる。

 男は頷いたようだったが、フードのせいで首の動きは判然としなかった。

 

 「いつ頃届く(達成期日は)?」

 「近日中には(無制限)」 

 「そうか」

 

 不愛想に言って、踵を返して出口に向かう男。

 多くの暗殺者を見てきた連絡役の二人の目からすると、その動きは洗練された戦士のものではない。どちらかと言えば毒や爆薬を使う、直接手を下すタイプではない暗殺者のように見えた。

 

 「あざっしたー!」

 

 適当に見送りつつ、預かったコインを裏返す。

 貨幣的価値が無いだけでなく、安物の金属で作られているから換金額も大したことのない金属片だ。

 

 しかし、それは暗殺者ギルド内で通じる身分証のようなものだった。

 模様の彫り込みがコイン毎に微妙に違い、その組み合わせを解読すると文字列になる。

 

 「おっ。二つ名持ち、二人目っすね」

 

 軽薄な店員は楽しそうに、或いはどうでも良さそうに笑った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 暗殺者『調香師』は、三十路を過ぎた落ち着いた雰囲気の女性だ。

 王国人にありふれた金髪と碧眼は暗殺に向いた平凡なものだが、才能まで外見同様ではなかった。

 

 彼女は暗殺に際して、オリジナルの毒を使う。

 高い気化性と強烈な毒性を兼ね備えながらも、扱いの容易な毒だ。呼吸器以外からの浸透性は限りなく低く、しかし呼吸器から体内に侵入した場合、激甚な出血毒へ変化する。

 吸入した対象は十秒から一分以内に呼吸器から出血し、やがて内臓、全身から出血し死亡する。

 

 毒は気密性のガラス製キャニスターに封入された無色透明の液体で、気化時の体積膨張率は2000倍にもなる。常温常圧で爆発的な気化性を見せ、密封されたキャニスターを開けたが最後、掌大の小瓶は部屋一つを丸ごと致死空間へと変貌させる。

 

 彼女はフィリップ・カーターの暗殺依頼を受注したあと、二等地の投石教会を訪れていた。

 

 その日のその時間に、疲れ切ったフィリップが昼寝しに来ることを知っていたわけではない。一神教の敬虔な信徒である『調香師』は、仕事の前に祈りを捧げるのが常だ。

 

 彼女は聖女像の前に跪き、両手を組んで一心に祈る。

 夕暮れの朱い光がステンドグラスから差し込む幻想的な光景は、荒波を打っていた彼女の心を多少なりとも平静にさせた。

 

 殺人を前に気が高ぶっていたわけではない。暗殺者ギルドから二つ名を与えられるほど熟達した暗殺者である彼女は、今更仕事で緊張することはない。

 

 ただ、思いもよらなかったのだ。──人目を避けて訪れた小さな教会に、怖気を催すほど美しい神官がいようとは。

 

 「……」

 

 祭壇の隣でじっと自分を見つめている長身痩躯の神父は、浅黒い肌と漆黒の髪、同じ色の瞳を持っており王国人ではないのだろうと推察できる。

 敬虔な信徒に向けるに相応しい慈愛に満ちた視線を受け、標的以外を巻き込んで殺すことに一片の罪悪感も覚えない『調香師』の冷たい心も燃え上がるようだ。

 

 もう一人、信徒用の長椅子に座った喪服姿の女──神父に「大修道女(マザー)」と呼ばれていたから、彼女も神官なのだろう。ヴェール越しにも分かるほど整った容姿、黄金とも白銀ともつかない月光色の髪、妖艶な魅力に満ちた肢体、何処を見ても美しくない箇所が見当たらない、神の作り上げた彫刻美術品のようだ。

 嫉妬心すら凍てつかせる絶対的な“美”が、人の形をして座っていた。

 

 「……あの」

 「はい? 何でしょう?」

 「あっ、いえ、あの、何でもありません……」

 

 言葉が尻切れに消えたのは、呼びかけた先を考えていなかったからばかりではない。

 深く落ち着いた声も、僅かに首を傾げる幼気さを滲ませる仕草も、長年を信仰に費やしたであろう年季の入った美しい所作も、何もかもが思考を停止させる。

 

 とんでもなく美形の神官がいるという噂を聞きつけてやってきた参拝者のうち、9割以上が声をかけることも出来ず放心状態で帰っていくことを思えば、初対面で呼びかけられただけでも肝が据わっていると評価していいだろう。

 

 年甲斐も無くもじもじと俯いた『調香師』に、ナイ神父は穏やかに笑いかける。そして──

 

 「今日のフィリップ君は大層お疲れのご様子。申し訳ありませんが、貴女で遊ぶのは無しにしましょう」

 

 笑顔によく似合う穏やかな声色の言葉が終わると同時に、ぱぁん! と盛大な破裂音が荘厳な教会の中に響き渡る。

 思わずびくりと肩を跳ねさせた『調香師』は、音のした方へ振り向き──無残に引き裂かれた、自分の鞄を発見した。

 

 革の生地が膨れて爆ぜた風船のように千切れ、中に入れていた錬金樹脂製の特殊防毒マスクが傷ついて放り出され、そして──ガラスの瓶が粉々になって散乱していた。

 

 「……あっ?」

 

 蒼褪めるを通り越して、放心して呟く。

 

 彼女の使う毒に、事前服用の解毒剤なんて便利なものは無い。

 このレベルで強力な毒の解毒剤は、それ単体ではまた別種の毒になるからだ。

 

 咄嗟に鼻と口を覆い、扉へ向かって猛然と駆け抜ける。

 何の邪魔も入らずに辿り着き、体当たりするようにドアを押し開け──開かない。慌ててドアノブを引き──それでも、開かない。鍵を確かめてもう一度試みるが、扉はビクともしなかった。

 

 きちんとした道や扉の類があると自然とそこを通ってしまうのが人間の基本的な性質だが、歴戦の暗殺者である『調香師』は、常識に囚われない柔軟な思考を素早く展開できる優秀な脳を持っていた。

 

 ドアが開かないことを確認すると、彼女は即座に扉を離れて窓へと駆け寄る。そしてガラス窓が何らかの方法でロックされていることを確かめると、躊躇なく拳を握りしめた。

 

 だが──叩きつけた拳は冷たいガラスを打ち、しかし薄手の高級なガラスに罅の一つも入れずに終わる。二度、三度と繰り返しても、ガラスは割れるどころか震えもしない。

 

 では、と別の窓へ向かい、試し、場所を変え、試し、三つ目の窓にも虚しく跳ね返された時だった。

 同じ空間に居るはずの二人の神官が──普通に呼吸していれば、もう血を吐いて倒れているはずの二人が、平然としていることに気が付いた。

 

 ナイ神父は内心の読めない仮面のような微笑で奇行に走った『調香師』を見ているし、マザーは相変わらずの神秘的な佇まいで虚空を見ている。実際は使い魔を通してフィリップを見つつ、マイノグーラの授業を受けているのだが。

 

 気化毒が暴発したと思ったのは、もしかして勘違いだったのだろうか。そう安堵の息を吐き──

 

 「──ッ!?」

 

 吸った息を即座に止める。鼻の奥から胸の下あたりまでに熱湯が通ったような強烈な刺激を感じて。彼女の使う毒に特有のものだ。

 

 毒は、量だ。

 どれほど強力な毒性があっても、閾値に満たなければ最大の効果は発揮されない。要は致死量以下なら死なないのだ、当然ながら。

 

 彼女の使う毒の致死量は、飽和状態で成人男性が深呼吸を三回したときに吸入される程度だ。それだけ吸えば、確実に内臓出血を引き起こして死に至る。

 

 だが、恐ろしいのは致死量ではない。

 それはごく少量を吸入した時の、呼吸器への刺激性。

 

 鼻や口、喉の奥がじりじりと焼けるような感覚に襲われ、咳き込んだり嘔吐したりしてしまう。そして──人間の身体は、咳き込んだ後にはつい息を吸ってしまうようになっている。

 勿論これはただの反射で、心拍のような不随意運動ではない。訓練すれば抑え込める反応だし、毒を扱う『調香師』はきちんと訓練している。

 

 常人であればつい咳き込んで息を吸い、より強烈な刺激や吐血に負けて更に呼吸が激しくなり、そして死ぬ。そんな悪辣な性能だが、彼女はその扱いに長けていた。

 

 だが、それまでだ。

 

 彼女は暗殺者、毒物のプロであって、ダイバーではない。

 無呼吸状態で長時間行動することには慣れていないし、ドアへ走ったり窓を叩いたりと、血中の酸素をかなり消費してしまった。

 

 じわじわ、じわじわ、息が苦しくなってくる。

 ハンカチや服程度の荒い生地では毒を濾過できない以上、防毒マスクを付けなければ息をすることさえ出来ない。

 

 さっきは教会を出ることを優先して放置した、床に転がっていた防毒マスクを探す。が、少しばかり遅かったようだ。

 

 「どうですか? 似合いますか?」

 

 シュコー、と独特の呼吸音と共に、くぐもった声がする。

 口元を押さえたまま弾かれたように視線を上げると、髑髏のような形の防毒マスクを被ったナイ神父が、目元の透明な樹脂の向こうで嗤っていた。

 

 『調香師』の視界の端で、喪服の女が立ち上がる。

 この絶望的な状況が何か変わるのではないかと一縷の望みを懸けて目を向けると、彼女は床に散乱した『調香師』の荷物に不愉快そうな一瞥を呉れる。

 

 そして、全くの無挙動で消し去った。

 散らばった荷物も、彼女にとって最も大切な相手を迎えるのに邪魔な調香師(他人)も、人間には毒となる化学物質も、何もかも。物理でも魔術でもない、もっと高次の干渉によって。

 

 しかし、『調香師』だけは、数秒後に再び出現した。

 人間は消せないとか、人間を消すことに躊躇いを覚えたとか、そんな理由ではない。ないが──甘い理由ではあった。

 

 「えっ? あっ? えっ?」

 

 自分の身に起きたことを本能的に理解したのか、『調香師』は恐れ慄いて後退する。

 後ろ向きに踏み出した足が二歩目か三歩目かになった時だ。ぴかぴかに磨き上げられた木の床が、突如として沼地の柔らかさになった。

 

 「っ!?」

 

 片足が沈み込み、咄嗟に息を吞んで、毒ガスが消えていることに気付く。

 しかし脛まで影の中に沈んだ状態で抜くことも立つこともままならないとなれば、安堵する間も無いだろう。

 

 「し、神父さ──」

 

 神父様、と言い終えることも無く、助けを求めるだけの間も無く、『調香師』は原初の混沌の泥に沈んだ。

 

 「……一度消したモノを戻してまでやることでしたか?」

 「普通に消す方が早いけど、確かにこっちの方があの子が好きそうね」

 

 マザーはナイ神父の言葉に耳を貸さず、独り言ちる。

 ナイ神父は酷薄な嘲笑を浮かべたが、何も言わずに玄関扉の方へ向かった。

 

 その数秒後。

 触手のカラスと会話を試みるほど疲れたフィリップが教会を訪れる時には、彼女がこの教会を訪れた痕跡は何一つとして残っていなかった。

 

 

 

 

 



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351

 馬鹿なことをした馬鹿の馬鹿な親から訴えられるという些細なトラブルはあったものの、無事に旅行出発の日を迎えたフィリップは、休暇中の宿であるタベールナの一室で目を覚ました。

 不明瞭な呻きと共に伸びをして、大きな欠伸を一つ。そして──死ぬほど不機嫌そうな目で部屋の扉を睨んだ。

 

 「フィリップ君! お願いだから起きて、早く来てくれ! 大変なことになる! というかもうなってる!」

 「早く起きろ、丁稚くん……元丁稚くん! またぞろ俺たちを過労死させる気か!」

 

 ドアの向こうに何人かの従業員がいて、かなり強めにドアを叩いている。ノックどころか、寝ているフィリップを叩き起こす勢いだ。当然、気持ちの良い朝の微睡みを邪魔されたフィリップは不機嫌にもなる。

 

 フィリップは一応臨時手伝いという扱いだが、休暇中は客として泊まっている。

 そして客を相手にこんな無作法を働く従業員は、女将にボコボコにされても文句は言えない。というか、客にボコボコにされるだろう。

 

 フィリップも理由次第では蹴り飛ばすつもりでドアを開け──目の前には鎧姿の女騎士が立っていた。

 白銀のフルプレートアーマーは、胸元の辺りに五つの赤い十字が組み合わされたような意匠が飾られている。

 

 ステラの聖痕と同じもの。それを胸に掲げる部隊は一つしかない。

 

 「親衛隊の……? なんの御用ですか?」

 

 女騎士の後ろには、フィリップも良く知るタベールナの客室担当が二人。先ほどの声の主だ。

 二人とも無言だが、しきりに外を指したり、「早く!」と口の動きだけで言っているので、何か重要な用事なのだろう。

 

 「おはようございます、カーター様。たったいまお目覚めになったところとお見受けいたしますが、既に集合時刻を過ぎております。王女殿下とサークリス聖下が表の馬車でお待ちです」

 

 女騎士は呆れの感情を完全に封殺した、機械的に無感動な声で言った。

 

 寝起きで頭が回っていなかったフィリップは、不機嫌そうに緩慢な動きで部屋の中に戻り、ベッドサイドに置かれていた懐中時計を取り上げる。そしてハンターケースを開き、二秒後。

 

 「……うわ、ホントだ!? 寝坊した!!」

 

 寝起きとは思えない大絶叫が迸った。

 

 「お荷物を先に馬車へお運びしましょうか」

 「是非……いや待って! パジャマを入れるので!」

 

 呆れ顔の女騎士の前でドアを閉め、どたばたと慌ただしく着替えを済ませたフィリップは、着替え諸々の入った鞄を持って部屋を出た。所要時間は2分以下と言ったところか。素晴らしい。集合時間が三十分前でなければ。

 

 「……ボタンを掛け違えておられますが」

 「おっと。ありがとうございます」

 

 親衛騎士に荷物を運んでもらい、自分はぷちぷちとボタンを直しながら──つまり、普通に歩くよりやや遅いくらいのペースで玄関に向かう。

 開けっ放しの扉の外には、四人乗りサイズの大きな箱型馬車(クーペ)が止まっていた。あと、荷物を運ぶためのキャラバン型馬車が二台と、護衛の騎兵が八人。馬はクーペに二頭、大型キャラバンに二頭ずつ、そして騎兵が一人一頭。

 

 軍馬が総計十四頭。全身鎧姿の親衛騎士が八人と、御者役に三人で総計十一人。

 

 フィリップにとっては結構な大所帯だし、それは大抵の平民視点と一致する。

 極めつけに、馬車には王室の紋章が掲げられているし、騎士は全員が第一王女の親衛隊となれば、馬車の中におられる御方がどなたであるかなど考えるまでもない。

 

 おめでとう、大衆宿屋タベールナ。二年前の公爵令嬢の来訪に引き続き、今年はなんと王族までもがお出ましになるという付加価値ができた。

 勿論、一部始終を見ていた人は「あぁ、例の龍狩りの英雄を迎えに来ただけか」と納得するだろうが、人間の情報伝達能力は決して高くない。三人目の伝聞者辺りからは「あそこの宿に公爵家の人と王族が来たらしい」みたいな伝わり方になるだろう。

 

 二年前の夏休みも大変だったらしいが、まあ、どちらもフィリップには関係のないことだ。

 

 親衛騎士の案内に従ってクーペに乗り込むと、中にはルキアとステラ、道中の世話役なのだろうメグがいた。

 

 「おはよう、フィリップ。……寝癖を直してあげるわ、いらっしゃい」

 「おはよう。遅刻だぞ、カーター」

 「おはようございます、カーター様。お嬢様、ヘアケアセットはこちらに」

 

 三者三様の挨拶にそれぞれ答えつつ、誘われるがままにルキアの向かいに座って頭を向ける。傍目にはルキアに向かって謝っているような恰好だが、ルキアはメグから受け取った櫛や蒸しタオルを使って寝癖を整えていく。その慈愛に満ちた手つきや微笑みを見れば、彼女が然して怒っていないことは明らかだった。

 

 何気なく取り出された蒸しタオルだが、メイクバッグの中から取り出した時には乾いていた。ルキアが受け取り、フィリップの頭に当てるまでの間に魔術を使って濡らし、温めたのだろう。

 こういうところを見ると、やはり魔術とは便利なものだとつくづく実感する。

 

 「はい、出来たわよ」

 「ありがとうございます、ルキア」

 

 欲を言うならもう少しスタイリングしたい、と明記された顔のルキアだが、口には出さない。どうせフィリップが嫌がるからだ。

 

 寝癖の取れた頭を触って確認しながら、フィリップは窓の外を見て馬車が動き始めていたことを知る。

 フィリップが変な姿勢で頭を触られていたという理由もあるだろうが、乗っている人間に動き出したことを感じさせないのは凄まじい。馬も御者も、どちらも高度に訓練されているのだろう。勿論、馬車自体もいい作りに違いない。

 

 「お前が寝坊なんて珍しいじゃないか? 旅行が楽しみで眠れなかった、なんて性質(タチ)でもないだろう?」

 「いや、そんな感じの理由ですよ。ベッドに入ってから妙に寝付けなくて……やっぱり昼寝しすぎると駄目ですね」

 

 子供か、と呆れたように笑ったステラだったが、子供か……とニュアンスの違う呟きと共に嘆息する。

 もっと大人になればともかく、17歳と12歳の差は大きい。ステラ達から見たフィリップは、年齢的には子供だ。

 

 年相応以上の落ち着きを備えてはいるが、昼休みの校庭でルキアの膝枕で昼寝をしている時の顔なんかは幼気で可愛らしい。しかし邪神絡みのこととなるとスイッチが切り替わったように頼もしくなるし、カルトが絡むとルキアですら怯えるほど昏い悪意を纏う。

 

 子供なのか、そうではないのか。

 ルキアもステラも判断に困るが──なんであれ、二人はフィリップのことを対等な友人として扱っていた。目下の子供ではなく、敬遠すべき化け物でもなく。

 

 「……と、そういえば、ミナは? お弁当は用意してませんし、一緒に来ないと」

 「後から来るらしい。わざわざ魔術学院に寄って迎えに行ってやったのに、『馬車はつまらないから先に行きなさい』だぞ? カーター、お前はああはなるなよ」

 「あはは……。まあ、ミナの飛ぶ速度って馬車の比じゃないですから。馬車は遅いし退屈っていうのは分かります」

 

 苦笑交じりにフォローするフィリップ。

 ミナは御者をやるのは好きだが──今までやったことがないから楽しいのだそう──馬車に乗って移動するのは、実はあまり好きではない。楽だったり早かったりするならともかく、何のメリットもない乗り物になんて乗っていられないわ、とのこと。フィリップがいるなら愛玩して時間を潰すこともできるが、ルキアやステラが一緒だと、大抵の場合において彼女たちにフィリップが取られる。

 

 「まあ、お陰でメグが御者席じゃなくてこっちに乗れたのは良かったけれどね」

 「親衛騎士の方と二人旅というのは、あまり楽しそうではありませんしね……」

 

 世話役のメイドは他にも何人かいるらしいが、メグが乗る予定だったのは他のメイドが荷物と一緒に乗っているキャラバン型馬車ではなく、このクーペの御者席だった。ミナの分の席が空いたことを聞いて、これ幸いと同乗を申し出たのだ。

 

 御者席より快適そうですし、なんていうのは、彼女にしか口にできない理由だろう。他のメイドは羨ましがるどころか、仕える主人と次期女王、そして龍狩りの英雄と同じ空間に長時間居続けることを恐れて手を挙げなかった。

 

 多少の粗相で首を刎ねるような狭量な者はいないのだが──フィリップはともかく、ルキアとステラはその域、多少の粗相で首を刎ねられかねない貴人だ。個人がどうこうではなく、家格だけで気後れする。

 

 ルキアとステラだけなら、まあ、どうとでもなる。二人とも従者風情と仲良くお喋りするような教育は受けていないから、たとえ同乗したとしても家具のように──正しく扱ってくれるだろう。

 問題はフィリップだ。安穏とした空気を纏うこの少年は、従者にも気さくに話しかけて──公爵令嬢と第一王女の会話に、従者を引き込んでくるのだ。善意にも満たないただの気質由来の行為なのだろうが、非常にやめてほしい。

 

 だから誰か一人乗るとしたら、ルキアの護衛として特に親密なアリアとメグの二人のうちどちらかだ。

 そしてアリアはこういう時に「是非」と出張るタイプではないので、当然の流れでメグが入った。

 

 だが、メグとて高位の従者だ。 

 

 「メグ、親衛騎士さんたちのこと嫌いなんですか?」

 

 なんて質問は、プロフェッショナル相手には愚問以外の何物でもない。

 個々人の好き嫌いなど捨て置き、身も心も主人に捧げて奉仕する。それが王都のメイドの心構えであり、ルキアが「そうしろ」というのであれば、嫌いな相手と肩を並べて5日間の旅路を行くことに否やはないのだ。

 

 そして、質問を文字通りに受け取ったとしても、答えはNOだった。

 

 「私ではなく彼女たちの方が、私のことを嫌いなんです。私、王宮では第一級警戒対象として周知されていますので」

 「あぁ……殿下がいなければ玉座の間で国王を暗殺できる、でしたっけ? 見張りの誘導とか鍵開けは凄かったですけど……実はメグは結構強い魔術師だったりするんですか? 魔術系アサシンみたいな?」

 

 暗殺の──誰かを隠密裏に殺す場合の武器に、魔術は意外と不向きだ。

 魔術師は魔力を五感で知覚するから、無詠唱無挙動の魔術行使でもバレないことはまず無い。ルキアのように優れた才能と努力を以てしても、ミナのように感覚の鋭い相手には感付かれる。

 

 だから暗殺には物理的な手法が使われることが多い。オーソドックスなところだと、やはり刃物や毒だ。

 

 「中らずと雖も遠からず、ね。より正確には、魔力──待って?」

 「あぁ、私も今思い出した。カーター、一つ真面目な話がある」

 

 スイッチが切り替わったように表情を引き締めたステラに、フィリップは「怒られる?」と身構える。実際にステラは少し怒っていたが、その宛先はフィリップではない。

 

 「お前に刺客が差し向けられている。勿論、一人や二人なら対処は簡単だが、今回のは少し厄介だ」

 

 すっごいコト忘れてるじゃん、と愕然とするフィリップ。

 死にかけたことは何度かある──実際には死なないだろうと高をくくっていたことはさておき──フィリップだが、暗殺者に狙われるのは人生初だ。そんな情報を聞けば流石に驚く。

 

 一応明記しておくと、命を狙われている実感も、それに対する恐怖も無い。

 ヨグ=ソトースの忠誠を目の当たりにした以上、その守りへの信頼には、これまで程の疑念はないのだから。……まあ、過剰防衛になる懸念はあるけれど──ディーチ伯爵には「防衛に過剰もクソもあるか」なんて言ったが、外神相手に危惧される過剰さはスケールが違う。人間一人殺せばいいのに、適当にやったら三次元世界が滅んじゃいました、なんてことも有り得るだろう。

 

 だがそれはそれとして、暗殺者の襲撃なんて人生初の大イベントであることに変わりはない。そんなことを忘却していた二人に、フィリップは驚き呆れていた。二人は、まあ、慣れているのだろうけれども。

 

 「冒険者には彼らを統括し依頼を斡旋する冒険者ギルドが存在するが、暗殺者の間にも似たような組織が存在するんだ。暗殺者ギルド、と王宮では呼んでいる」

 「あら、復活したんですね。足抜けするときに上層部を皆殺しにしたのですけれど」

 

 さらりと物凄いことを言ったメグだが、彼女自身も含めて誰も反応しない。

 ルキアとステラは既知の情報だったから。そして三人とも、人間の集団を鏖殺することに特別感を見出さない特大戦力だ。フィリップは他人任せというか、邪神任せだが、そもそも人間が何億集まっていようと『泡』以上の価値認識にならない。

 

 「殺すなら上役ではなく実務役を殺すべきだったな。斡旋や連絡のシステムは問題なく機能しているようだぞ」

 

 暗殺者界隈にやたら詳しいメグもだが、そんな裏世界のことを詳細に知っているステラも怖い。

 いや、国王暗殺すら条件次第では可能な腕利きの元暗殺者と、国家の中枢たる次期女王だ。そういう情報にも詳しくて当然なのだけれど。

 

 「ともかく、その暗殺者ギルドを通じて、不特定多数のアサシンに向けて暗殺依頼が出されている。標的は“龍狩りの英雄”。暗殺の方法、日時、場所、全て不問。とにかくお前を殺せばいい、という依頼だな。報酬金額は大したことがない……相場で言えば地方貴族の暗殺くらいだから、二つ名持ちの大物なんかは出て来ないだろう」

 「……なんか、やけに詳しいですね?」

 「そりゃあ、暗殺者の斡旋組織なんて、王家が監視していないわけがないだろう? 依頼を差し止めようと思えば可能だが、それをやると所属する暗殺者たちも王家の影に気が付くだろうから、悪いがナシだ」

 

 この国で一番暗殺されそうなのが誰かはさておき、一番暗殺されたら困るのは間違いなく王家の人間だ。

 だから王宮が暗殺者を管理は出来ずとも監視するため、暗殺者ギルドは敢えて放置されている。勿論、ギルドに属さず依頼人と直接やり取りをするタイプの暗殺者だって居るので、監視は完璧ではない。だが別に、王宮の暗殺対策はこれだけではないから構わないのだ。

 

 今回はその暗殺ギルドへ依頼が持ち込まれ、王宮の設計通りに報告が上がったわけだ。王国の重要人物が暗殺の標的になっている、と。

 

 「なるほど」と軽く頷くフィリップに、ルキアとステラは薄い笑みを浮かべる。

 物分かりが良くて助かるし、頼もしいと。

 

 唯一、元は暗殺者ギルドに所属していたらしいメグだけが首を傾げていた。

 

 「……あっさりと受け入れてしまわれるのですね? 普通はもっと不安になったり、なんで、と食い下がるものかと思いますけれど」

 

 フィリップは隣のステラと向かいのルキアそれぞれと顔を見合わせ、「何を言っているんだろう」とでも言いたげに首を傾げる。

 

 「まぁ……そりゃあ、敵なら全員殺せばいいだけですしね」

 

 怪訝そうな顔で、当然のことのように言う。

 

 全人類が敵に回ったら、という想像で、敵の多さではなく敵の中に自分が殺したくない人間が含まれることを嘆くフィリップだ。

 暗殺者ギルドが総勢で何人いて、フィリップ暗殺の依頼を受注するようなのが何人いるのかは知らないが、そんなことはどうでもいい。

 

 敵なら殺せばいいのだ。

 カルト相手と違って拘りもないし、適当に邪神を召喚して昼寝でもしていれば勝手に片が付く。

 

 「まあ暗殺者なら返り討ちにしたって文句は出ないでしょうし、捕まえてミナのご飯にするのもアリですね。吸血鬼にとっては心臓の半分に入ってる血液が一番おいしいらしいですよ」

 「使いどころに困る知識ね……」

 

 暗殺対象になったことへの衝撃も収まり、妙な蘊蓄を披露するフィリップ。

 暗殺者? 全員殺せばいいじゃん……と、その程度の認識しかできない人間しか、クーペには乗っていなかった。

 

 

 



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352

 王都を出て二日。

 馬車に揺られて街道を進む一行は、往路の半分を過ぎようとしていた。

 

 窓の外には長閑な草原の景色が穏やかな速度で流れ、遠くの方で落雷のような音が鳴りつつも、雲は薄く心地の良い晴天だ。まさに旅日和。

 

 そんな中──フルフェイスヘルム越しにもよく通る、鋭い警告が夏の空気を裂く。

 

 「全体停止! 全周警戒! 二班、対空警戒! 三班、広域偵察開始!」

 

 ステラの肩に頭を預けてすぅすぅと安らかな寝息を立てていたフィリップは、馬車の急制動による慣性で正面に座っていたルキアに突っ込むところだった。

 ルキアの胸や太腿に顔からダイブするようなハプニングは起こらない。隣に座っていたステラが持ち前の反射神経で押さえてくれたからだ。尤も、そうでなくても護衛役のメグが本気を出せば簡単に止められただろうが。

 

 爆睡していたフィリップを除き、車内の全員が急制動に先んじて、どっぱぁん! という擬音の当てはまる、水袋が破裂したような音を聞いていた。

 

 「……人でも撥ねましたか?」

 

 御者席に通じる小窓を開けたメグが、手綱さばきを誤った馬鹿に対する嘲笑を滲ませつつ尋ねる。そういうところが親衛騎士に嫌われる一つの要因なのではと思わなくも無いが、メグにしてみれば親衛騎士などいつでも殺せる有象無象でしかないのだろう。それこそ、嘲笑を向ける程度の。

 

 「現在確認中です」

 

 馬車を止めたまましばらく待っていると、前方から警護役の騎兵が馬を駆って近づいてくる。メグが扉の小窓を開けると、彼女は馬上からステラとルキア、そしてフィリップにも一礼したあと、漸く報告に入る。

 

 「突如、進路上に死体が降ってきました。現在、魔術の痕跡を調べると共に死体周辺の空気を圧縮し、病原・毒物投射として警戒中。皆様方におかれましては、各々魔力の汚染確認をお願いいたします」

 

 「そんなことをしている間に急いで離れたらいいのでは?」なんて考えるフィリップだが、それは拙速だ。

 人間が自力で空を飛ぶことは無い以上、必ず何か理由がある。想定されるのは「飛行型の魔物に落とされた」とか──親衛騎士たちが警戒しているように、感染症に罹った死体を魔術で投射し、ステラたちを害することを目的とした“攻撃”か。

 

 後者であれば、慌てて逃げだしたところを罠にかけるくらいの用意はあるだろう。というか、ステラならそうする。

 毒や感染症は解毒剤や薬で処置されるかもしれないから、汚染物を投げてハイ終わりでは済まないだろう。確実に息の根を止めるための第二波が来るはずだ。

 

 「そうか。ここにいるんだぞ、カーター。迂闊なことはするな」

 「……はーい」

 

 もうドアを開けて馬車を下りる寸前だったフィリップだが、ステラに釘を刺されて素直に座りなおす。

 

 フィリップをじっと見つめていたルキアが何も言わないということは、汚染はされていないのだろう。

 

 「……お前の専門分野か?」

 

 他人(メグ)の手前、ぼかした聞き方をするステラ。

 しかしフィリップとしても、現段階では首を傾げるほかない。

 

 「流石にモノを見ないことには分からないですけど、突然空から死体が降ってくるって、露骨に怪しくないですか?」

 「……安全が確認されるか、詳しい異常性が明らかになるまでは動くな」

 

 場合によってはちゃんと任せてくれるらしいので、フィリップは何も言わずにドアを閉めた。

 

 ややあって、また親衛騎士が持ってきた情報によると。

 

 まず、死体は落下の衝撃で潰れて破裂したが、落下する瞬間を見た騎士によると、落ちてきた時点で既に人の形をしていなかった気がするとのこと。

 死体は拉げた軽鎧と肉片から辛うじて人間だと判別できる程度にしか死体が残っておらず、情報を得るのは極めて難しいそうだ。

 

 そして、同様の死骸が周囲に数個発見された。どの死体もまだ蝿が集っておらず、相当に新しいものであると断定できるらしい。

 

 汚染物投射ではなく魔物が原因、というのが傾向から判断した結論だ。

 だが、人間を掴み上げて飛行できるサイズの魔物は街道近辺には生息していない。もっと北の山岳地帯から流れてきたのか、使役している術者がいるか。考えられる可能性としてはその辺りだ。

 

 「魔物の仕業なら無視して構わない。上空にも警戒しつつ、先へ進め」

 

 本当に魔物の仕業なら自分一人でどうとでもなるからか、ステラの口調には迷いや恐れが一片も無い。敬礼して応じる親衛騎士たちも心強そうだ。

 

 それからしばらく車列を進めた時だった。

 

 「上空に敵影! 対空攻撃用意!」

 

 車列を止めるより早く、攻撃準備命令が飛ぶ。それは悪くない判断だ。撃墜できなければ逃げるしかないから、状況を見極めているうちは車列を走らせていていい。

 

 窓ガラス越しにそれを聞いたフィリップは窓に顔を近づけて空を見ようとしたが、角度的に難しいと判断し、窓を開けて上体を馬車の外に出した。

 

 馬鹿、と引き戻そうとするステラと、フィリップの周りに魔力障壁を展開するルキアは反応が対照的だ。

 フィリップが無防備なのはいつもの事だが、馬車の外にはどうやら飛行型の魔物がいる上、周囲を全身鎧を着た騎兵が駆けている。そして走っていた馬車はこれから止まるところだ。もう色々と危険すぎて、メグは苦笑することしかできなかった。

 

 車内のことは一旦忘れて空に目を凝らしていたフィリップは、騎士たちの示す方向に一つの影を見つける。……人影、それも見覚えのあるシルエットだ。

 

 「待って、死にたくないなら待って! あれミナです!」

 

 ミナはフィリップの友人の配下だろうと何だろうと、攻撃してくるなら反撃するだろう。そして彼女の攻撃は大抵の人間を一撃で容易に死に至らしめる。錬金金属製で付与魔術まで施された全身鎧を着ていようとお構いなしだ。

 

 地対空なんてそもそも不利な状況でミナに攻撃するなんて、先日の冒険者と似たような自殺行為だ。旅行を邪魔されたくないフィリップとしては、親衛騎士たちを止めるしかない。

 

 どうやら漸くフィリップを追ってきたらしいミナを、車列を止めて待つこと数十秒。フィリップだけでなく、他の三人も馬車を下りて空を見上げている。

 そして剣を抜くかどうか迷っている様子の親衛騎士たちに見守られる──一挙手一投足を監視される中、一行に合流したミナは、大きな荷物を持っていた。

 

 「……ねぇミナ、色々聞きたいことはあるんだけど、まず聞くね? ……それは何?」

 「おやつ。銀の血よ」

 「あぁ、なんか特に美味しいんだっけ? いや、そういうことを聞いてるんじゃなくて……人間だよね? どこで拾ってきたの?」

 

 ミナが小脇に抱えるように持っていたのは、ぐったりした人間の女だった。

 茶髪に緑色の目をした妙齢の女で、容姿は整っているようだが血の気が引いていて土で汚れている。服も同じだ。転んだどころの話ではなく、地面を何度も転がったくらい、身なりが乱れている。

 

 おやつと言うからにはまだ死んでいないのだろうし、傷らしい傷は見当たらないが、気絶しているようだ。

 まあ、気持ちは分かる。吸血鬼の飛翔速度は生身の人間が長時間耐えられるものではないし、人間の脆弱さを知っていたディアボリカと違い、ミナはそもそも無頓着だ。そりゃあ失神ぐらいするだろう。

 

 「さっき、そこに──あの丘の向こう側に人間の群れが居たから、突っ込んで吹っ飛ばしたのだけれど」

 「うん……うん? なんで?」

 

 さらりと聞き流しかけたフィリップだが、ルキアやステラが突っ込む前に自分で気付く。

 そういえば、ミナが吹き飛ばしたと言ったのは“人間”だ。フィリップや、ルキアやステラと同じ。路傍の石ころを蹴飛ばすのとはワケが違うのだった、と。

 

 少なくとも理由くらいは聞いておくべきだろうと尋ねたフィリップだったが、ミナは逆に怪訝そうに首を傾げた。

 

 「? 特に理由は無いわよ……?」

 「あ、そう……。それで?」

 

 狼が兎の群れからよく肥えた個体を狙って狩るのと、構図としては同じ……なのだろうか。

 シャチがアザラシを空高く放り投げるような、或いは子供が蟻の行列を踏み潰して遮るような、そんな残酷で無邪気な遊びなのかもしれない。

 

 まあ化け物のやることだ。理由がないのなら、フィリップからそれ以上言うことは無い。

 

 「その群れの中に居たから、持ってきたのよ?」

 「……群衆を襲って拉致してきたってこと?」

 「ふふっ。随分と大仰な言い方ね」

 

 ミナは子供の冗談を聞いたように慈愛に満ちた微笑を浮かべる。

 

 彼女の主観はともかく、価値認識が破綻しているフィリップにしては極めて妥当な表現だ。ルキアもステラもそう突っ込みたかったが、そこに触れている場合ではなかった。

 

 ステラは片手で親衛騎士に指示を出し、ミナの示した丘へ偵察隊を送る。

 ルキアはというと、車窓から見ていた──フィリップの寝顔と交互にではあったものの──景色を思い出して、怪訝そうに首を傾げていた。

 

 「……でも、丘の向こうって何もない平地よね? どうしてそんなところに人が?」

 

 確かに、とステラも頷く。

 丘を通ったのは二十分ほど前だが、その時には人影の一つも無かった。土地的に開墾には向かなかったのか、人の姿も建造物も無い、下草ばかりの手入れされていない草原だった。

 

 地図上では近くに村落の類があるわけでもない。勿論、街道沿いだから旅人が野営地にすることはあるかもしれないが、まだ日は高いし、街道駅まで行けば替えの馬も宿もある。まあ金が無ければどうしようもないが。

 

 誰が何の目的でそんなところに居たのか。

 

 ステラは野営中の旅人ではないかと懸念し、フィリップはどうせならカルトであってくれないかと思いつつ、それはそれでミナに大半を取られたことになるので残念だったりする自分の面倒臭さに苦笑する。ルキアはどうでも良さそうだ。

 

 ややあって、丘の向こうから数人の騎兵が駆けてくる。偵察に出向いていた親衛騎士たちだ。その中から一人がステラの元へ馳せ参じると、馬を下りて跪いた。

 

 「確認して参りましたのでご報告申し上げます。丘の向こうでは確かにクレーターと、爆発に巻き込まれたような死体が複数発見されました」

 

 まぁそうだろうな、と頷く一行。

 ミナが人間を殺したことを隠したり、誇張したりするとは思えない。彼女にとって人間を殺すことは、責められることでもなければ褒められることでもないからだ。

 

 「それと、その死体なのですが、全員が武装していました。冒険者の認識票は持っておりませんでしたので、恐らく、傭兵か盗賊の類かと」

 

 親衛騎士の言葉に、ルキアとステラが顔を見合わせる。

 

 どちらにせよ、街道沿いをうろついているにしては不穏な連中だ。

 特に、王家の紋章を掲げた車列の後ろに居るとなると。

 

 動機はともかく、ミナを責める必要はないんじゃないかな……とフィリップが思い始めた時だった。

 

 「──ぁ、っ?」

 

 ミナが持っていた“おやつ”が、失神から目を覚ました。

 

 

 

 



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353

 目を覚ました女は、ミナに小脇に抱えられたまま暴れ藻掻いて抜け出そうとしていた。

 吸血鬼の速度で奇襲されては、何が起こったのか分からないうちに気を失ったに違いない。そして目が覚めたら、化け物に捕まって鎧騎士に囲まれている。慌てふためくのも無理はない。

 

 「い、いやっ! お願い、殺さないで! 私はあいつらの仲間じゃないの! 捕まってただけなの!」

 

 妙なことを言う女に、騎士たちが身動ぎするように反応する。

 しかし最も反応が苛烈だったのは、意外なことにミナだった。

 

 彼女の双眸が血よりも赤く輝いたかと思うと、女の動きが完全に停止する。震えていた声も、藻掻いていた手足も、瞬きも、心臓の動きさえ。

 

 「……こういう喧しいのを見ると、フィルが大人しい子で良かったと思うわね」

 

 女を持っているのとは逆の手を伸ばし、フィリップの頭を撫でるミナ。

 対フィリップ最強とされる──フィリップの自認なので、信憑性は五分五分──“拘束の魔眼”だ。女の全身は細胞呼吸に至るまで完全に停止している。

 

 しかし、それでは困るのだ。彼女にはまだ聞きたいことがある。

 

 「……ミナ、魔眼を解いてくれない?」

 「やぁよ。五月蠅いじゃない」

 「僕が静かにさせるから。お願い」

 

 静かにさせると言っても、フィリップは恐慌状態の女性を宥めるノウハウなんて持っていないので、物理的に口を塞ぐか、脅すか、殴るぐらいしか手立てがないのだけれど。

 

 それはミナも分かっているはずだが、彼女は「仕方ないわね」と肩を竦めつつも魔眼を解除する。

 「カーターに甘い女ばかりで、将来が少し心配になるな」なんてステラは言うが、彼女も大概フィリップには甘い。 

 

 幸いにして、フィリップが生まれて初めて女性の顔面を殴る必要は無かった。

 

 「な……なんなの、今の……」

 

 茶髪の女性は身体を震わせて縮こまり、ミナを見上げている。抵抗するだけの気力は完全に失われ、顔面蒼白だ。

 

 気持ちは分かる。

 フィリップもあれを喰らった後は「これどうしようもないな」と諦めて……普段の諦観を数倍して諦めていたものだ。というか、未だに対抗策を思いついていない。

 

 単純に魔術で縛り上げるとか麻痺させるとか、そういう「分かりやすい拘束」ではないのに、全身がピクリとも動かせないことと、その絶望感だけはじわじわと精神を苛み続ける。寸前まで抱いていた他の恐怖なんて押し潰すほどの恐怖だ。

 

 「お久しぶりですね。お元気そうで何よりです。確か……『扇動者』でしたか?」

 

 安穏とした──或いはこの場で一番無警戒なフィリップ以上に安穏とした声は、ルキアを庇うような位置に立ったメグのものだ。

 その声にはっとしたように、幾人かの鎧騎士がステラとミナの間に割って入った。

 

 フィリップは「セン・ドーシャ? 珍しい名前だな」なんて呆けたことを言っているが、それは勿論、本名ではない。

 ギルドや国家などから与えられる“二つ名”。自分で名乗ったり勝手に呼ばれていたりする通り名とは訳が違う、極めて優れた能力を持つ者の証。

 

 そしてその名前は、王宮にまで届いていた。轟いていた、というほどではないが、確実に。

 

 「……ある女を知っている。そいつは人心の掌握に非凡な才能を持ち、政治思想を掲げる集団や、不満を持った農民の寄り合いに紛れ込んでは活動を過激な方へ誘導してきた。領主貴族と税率を交渉するための農民団体をテロリズムへ傾倒させ地方領主を私刑にした。ある時は文字の読めない者に聖典を読み聞かせる慈善団体を極めて排他的な狂信者集団へ変貌させ、田舎の教会にいた司祭を火あぶりにした。恐るべきなのは、女自身は何一つとして過激な思想や信仰を持っていないところだ」

 

 凄い、とフィリップは目を瞠る。

 ステラの知識量もそうだが──常に暗殺を警戒しているのだから当たり前だが──語られた内容もだ。

 

 「女は依頼を受け、特定個人を殺すために不特定多数の人間を狂乱した暴徒へ変貌させる。刃物遣い、毒遣い、罠遣い。暗殺者にも色々と種別はあるが──そいつは、言うなれば“人間遣い”だ」

 

 人間は愚かだ。

 先の裁判沙汰でそれを痛感し、人間が論理性や合理性とはかけ離れた行動を取るところを目の当たりにしたフィリップは、人間を誘導することがどれほど難しいかを想像できる。

 

 親密な特定の個人であれば、思考パターンを読んで多少の誘導は出来るだろう。ステラは常に利益を最大化する最適解を選択するし、ミナは逆にどれほど大きな利益を生む選択肢でも面倒なら選ばない。

 

 そこまで考えて目を輝かせているフィリップだが、ステラと、勿論『扇動者』に言わせれば、人間は数が多い方が誘導が楽だ。

 

 基本的に多数派に従う傾向のある人間という生き物は、集団の半分弱を誘導すれば勝手に追従する。肝要なのは、集団に浸透したあとすぐに半数を誘導するのではなく、まずは小さなグループを作ること。

 

 そしてじわじわと静かにグループを拡大し、集団の半数近くを取り込んだ段階で大声を上げる。あとは声の大きい方に従う馬鹿と、声の大きさで人数が多いと錯覚した馬鹿を取り込んだら、もうそれでいい。賢い者は異変に気付いてとうに集団を抜けているか、関わってこないが、そういう手合いは無視だ。

 

 『扇動者』が潜り込む集団は、馬鹿だけで標的を殺すのに十分な数が揃う集団。

 司祭を殺したときは13人中8人。地方領主を殺したときは31人中17人。それだけいれば十分な、簡単な依頼だった。

 

 今回は王女の親衛隊が警護する要人の暗殺とあって、『扇動者』はかねてより浸透を続け完全に自らの麾下に置いた、総勢58名の傭兵団を使うことにした。聖痕者は無理でも、物理型らしい“龍狩りの英雄”一人くらいならどさくさ紛れに毒矢を当てることくらいできるはず。

 成功すれば、彼女はギルド内で優秀とされるA級、いや最優秀とされるエースにまで上り詰められることだろう。

 

 そう思っていた。

 

 まさか空から吸血鬼が降ってくるとは思わなかったが──まだだ。まだ、自分自身が生きている限り、失敗にはならない。

 

 「──流石は第一王女殿下。博識であらせられる」

 

 かちりとスイッチが切り替わったように、落ち着いた声を出す『扇動者』。

 急に冷静になった女に驚くフィリップだが、ルキアとステラは虚勢に過ぎないと看破していた。

 

 だが、虚勢でもなんでも落ち着いて話が出来るなら構わないと、ステラは顎をしゃくって先を促す。

 

 「未だ即位されておられぬ今でさえ賢君と名高い貴女様であれば、きっと頷いて下さる交渉がございます。私の今後一生の忠誠、此度の件の依頼者の情報を奏上致しますので、命だけはお助け下さい」

 

 命乞いとしては妥当な条件、というか、オーソドックスな条件のように思える。

 

 しかし、ステラは鼻で笑った。

 

 「依頼者を売る暗殺者を信用しろと? ナンセンスだな」

 「ご尤もです。ですが──暗殺者ギルドの口の堅さはご存じでしょう? 貴女様にとって有益となるのは私を措いて他に無いと存じますが」

 

 ステラは今度は「ふむ」と頷いた。

 

 「……嘘を吐くなよ」

 

 おや? と首を傾げたフィリップだが、ルキアに制されて何も言わなかった。

 尋問相手に「嘘を吐くな」なんて、それこそナンセンスだと思うのだけれど。

 

 『扇動者』はステラがただ釘を刺したか、或いは「嘘だと感じたら殺す」という警告だろうと思いつつ、素直に答える。ここで嘘を吐くという選択肢はない。僅かにでも嘘を交えれば、全ての貴族を従える王家の人間は即座に看破してくるだろう。

 

 「はい。依頼者はヴェルデ伯爵夫人、メロウ・フォン・ヴェルデ。──ディーチ伯爵の実の姉君でございます」

 

 答えを受けて、ステラの目がすうっと据わる。

 しかし意外感を覚えている様子はない。事実、彼女にとってその答え、その人物は想定の範疇だった。

 

 ステラはぐーっと伸びをして、

 

 「んっ……ふぅ。ところで言い忘れていたが、お前の生殺与奪の権を握っているのは私じゃない。交渉するなら私とじゃなく、そちらとするべきなんだが……お前は肉を食べる前、家畜と交渉するか?」

 

 と、至極冷静に──冷酷に、言った。

 

 「……私のおやつを取る気なのかと思ったわ」

 「冗談。頼んだって、カーター以外に分け与える気なんて無いだろう」

 

 不機嫌そうなミナに、ステラは「まさか」と笑う。

 ミナはペットが自分の食事を自分で用意できないのなら、労力を費やして用意することに否やは無い。場合によっては自分の食糧を分け与えもするだろう。それが飼い主の責務であると思っているからだ。

 

 だが、ステラが「そいつが持っている情報が欲しい」と言ったところで、そんなのはミナの知ったことではない。

 

 「正解。まあ、フィルは、というか、人間は人間を食べないらしいけれど……試してみる? 銀の血ならイケるかもしれないわよ? 非処女だから、万全の味じゃないでしょうけど」

 「いらない。前にも言ったけど、人間は共食いすると病気になるらしいし」

 

 安穏と会話するフィリップとミナ。

 二人を和やかに見つめるルキアとステラ。そして、街道の外に魔術で穴を掘り始める親衛騎士たち。

 

 誰も『扇動者』の言葉に──その身命に価値を感じていない。

 人間の中に潜み、幾人もの人間を自らの言葉で操ってきた彼女は、それをはっきりと感じ取っていた。

 

 誰の目も“自分”に向いていない。誰の耳も“自分”に向いていない。何の感情も“自分”に向いていない。

 

 ただ一つ──自分の血液に対して向けられた、化け物の食欲を除いては。

 

 「お、お待ちを……お待ちください、王女殿下」

 「──伝令兵」

 「はっ」

 

 声を震わせる『扇動者』を無視して、ステラは親衛騎士の中で特に武装の薄い、純魔術師然としたローブ姿の女性を呼び出した。

 

 彼女はステラの命令を受け、召喚魔術を行使する。

 

 「《サモン》──スティンガーイーグル!」

 

 フィリップが使う「呼びかけ」とは違う、使役術式と召喚術式による本物の召喚魔術だ。

 事前に契約した生物や魔物を呼び出し、命令に従事させる。ルキアとステラは学院の授業の一環で、狼と使役契約を結んでいる。

 

 召喚されたのは、フィリップが抱きかかえるほどもある大きさを誇る漆黒の猛禽だ。

 烏なんかとは見間違えようもない速度で車列を一周し、召喚術師の女が掲げた剣の鞘に止まった。

 

 飛行型魔物スティンガーイーグル。

 全魔物を強さ順に並べると、真ん中よりやや上くらいに位置する魔物だ。剣や槍の届かない高度から急降下し、鋭い爪を備えた強靭な足で一撃を加え、すぐに離脱するという戦法は、魔術師のいないパーティーなら敗走も有り得る。

 

 が、攻撃手段はそのくらいだ。魔術も撃ってこないし、武器を使ったりもしない。

 

 しかし、ある明確な強みがある。

 

 ステラは紙とペンを受け取って何事か書き記すと、別な親衛騎士が捧げ持っていた薄い金属の筒に入れて蓋をする。

 それを渡された召喚術師がスティンガーイーグルの足に筒を括り付けるのを見て、ミナが「賢いわね」と感心を露にした。

 

 説明を求めるように見上げるフィリップの頭を撫でながら、ミナは飛び立っていくスティンガーイーグルを目で追いかける。至近距離ならフィリップの動体視力を振り切るほどの初速だ。

 

 「見ての通り、スティンガーイーグルは飛行速度だけなら私たち以上よ。情報伝達にはうってつけの魔物ね」

 

 スティンガーイーグルの飛行速度は全魔物の中で最速とされる。

 一瞬の最高速度を競うならまだまだ上がいるし、戦闘中のミナの速度だってそうだ。だが一定距離を飛行し移動するという計測方法であれば、吸血鬼であろうと、ドラゴンであろうと、スティンガーイーグルには劣る。

 

 つまり、吸血鬼やドラゴンに襲われても逃げ切れる可能性がある運び屋、というわけだ。

 

 「お父様に知らせておいた。旅行が終わって帰ったころには、処刑も終わっているだろう」

 

 一件落着とばかり肩を竦めて馬車に戻ろうとするステラ。

 その背中に縋る声は、言うまでも無く『扇動者』のもの。

 

 「で、殿下!? いま私を殺すのは、どう考えても……だって、私が嘘を吐いている可能性が──」

 

 先ほどまで何とか繕っていた冷静さは消え失せ、目尻に涙を滲ませて叫ぶ女暗殺者。

 言葉の内容はフィリップも「確かに」と頷くだけのものだったが、ステラは鼻で笑った。

 

 「それは無い。私は言ったはずだぞ、()()()()()と。まさか気付いていなかったのか? 自分が支配魔術の影響下に落ちていることに」

 「ステラが秘匿していたとはいえ気付かなかったとなると、魔術適性がフィリップ並み……なら、魔術無しであれだけのことをしたのよね? それ、結構凄くない?」

 「あぁ、凄いな。カーターが貴族になった時、或いは役立ったかもしれんが──」

 

 残念ながら、フィリップの周りには合理や利益では動かない手合いが多い。

 ステラがここで彼女の利用価値を認めても、フィリップを殺そうとした暗殺者を許すルキアではないし、人間の論理で動くミナではない。

 

 「“人遣い”……暗殺者っていうか、テロリストじゃないですか? 暗殺ってもっとこう、誰にもバレないよう静かにこっそり殺すものなんじゃ?」

 

 場違いなほど安穏としたことを言うフィリップに、ステラは軽く笑って頭を撫でた。

 

 「まあ言葉からそういうイメージを持つのも無理からぬことだが……厳密には、特定の要人を政治的目的で殺害することだ。無人の夜道で後ろから刺そうが、白昼堂々決闘を挑んで殺そうが、パレード中に爆殺しようが、意図次第では暗殺と呼ばれる」

 「決闘でもですか!?」

 

 妙に食いつくフィリップに困惑しつつ、ステラは軽く首肯する。

 

 「状況次第だよ。実力の近い者同士がやむを得ずではなく合意の上で、正々堂々と戦うなら、それは普通に決闘だ。だが状況に恣意性があったり、強い側が弱い側に一方的に挑む場合には暗殺とされることもある。……今になって、暗殺対象になった実感でも湧いてきたか?」

 「それは微妙ですけど、決闘は結構身近だったので」

 

 フィリップの答えに、ステラは今度は困惑せず、むしろ納得した。嫌な納得の仕方だが。

 

 「あぁ……後で決闘の細かいルールについても教えてやるから、正当性のない決闘を挑まれたらすぐに私かルキアに……いや、私に教えるように」

 

 了解です、とサムズアップするフィリップ。

 「どうして私を省いたのか教えて頂けるかしら?」「お前は一番駄目だ。お前の行動スタンスでカーターが動いてみろ、そのうち大陸が吹っ飛ぶぞ」なんて二人の耳の痛い会話には耳を塞ぎつつミナの方を確認すると、ミナはもう飛び去っていて、ミイラのように萎びた死体を親衛騎士が埋葬しているところだった。

 

 

 

 

 

 



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354

 御前論奏が行われたその部屋に、国王と宰相、そしてディーチ伯爵が再び集まっていた。

 彼らの位置関係は数日前と変わらず、国王が玉座に掛け、その隣に宰相がいる。ディーチ伯爵は演壇から見て左手側の机に着いている。

 

 数日前と違うのは、フィリップが立っていた演壇には初老の貴婦人が立っていること。

 そして──手足を鉄の枷で戒められた彼女の背後には既に抜剣している二人の鎧騎士が立ち、首筋へ刃を添えていることだ。

 

 また、彼女はフィリップのように自分の足でここに来たわけではない。

 愚かにも王城の進入禁止領域──国王の私室へ至る廊下へ入ろうとして、城兵に拘束されたのだ。

 

 国王と宰相の狙い通りに。

 

 「誤解なきように言っておくが、これは御前論奏ではない。ただ衛士団はちと面倒でな、拘置所へ立ち入らせる人間は逃亡幇助の可能性が無い人間だけだ。如何な貴族とはいえ、肉親が入るには余の印璽が要る。故に、彼らに捕らえられる前に親衛隊が引っ立てる必要があった。それだけだ」

 

 自分の行動が完璧な誘導下にあったとは想像もできない老婦人は、三人の顔を順繰りに見ることしかできない。

 

 困惑と、僅かな恐怖に満ちた顔が二周したころ、宰相が呆れたような溜息を吐いた。

 

 「……分からないか、メロウ・フォン・ヴェルデ伯爵夫人。貴女を処刑する前に話がしたいという、貴女の弟──ケイリス・フォン・ディーチ伯爵の嘆願を、陛下が慈悲深くもお聞き入れになったのだよ」

 

 処刑という言葉に、ヴェルデ伯爵夫人の肩がびくりと跳ねる。

 無機質でありながら獰猛な印象のある言葉は、この二年で貴族たちにとって急激に身近になっていた。

 

 二年前の夏、旧近衛騎士団の解体と腐敗の原因だった貴族の大粛清を皮切りとした、宮廷内の大掃除のせいだ。

 時には貴族でさえ拷問し、国家の為であればどれほど外道な手段でも使うというステラのスタンスを知らしめた、二年に及ぶ大改革。

 

 一部の──国家運営装置として正しく在った貴族たちから熱狂的な支持を受けたそれは、同じく一部の私腹を肥やすことに躍起になっていた貴族たちには、審判の喇叭が1000年早く鳴ったような悪夢だった。

 

 素晴らしいのは、ステラは別に悪事を嫌う潔癖症ではないところだ。

 俗に汚職や賄賂と呼ばれる手段でも、その目的や行動が国家にとって益となるのであれば許される。その副産物として貴族個人や一個の家が潤うことを、彼女は寛容に受け入れる。

 

 国益。

 彼女が見るのは、そこだ。そこだけだ。

 

 感情どころか、常識的・感情的善悪観念すら無い究極の国家運営装置。あらゆる貴族の模範にして、理論最適解的な最高意思決定者。

 

 その()()()()()()()()()()、と、誰もが口にする。

 数十年前に彼女の父、現国王が行った宮廷内の大掃除。文官と各国家機関のクリーンアップを彷彿させると。

 

 処刑という言葉は、数十年前に貴族たちの首元を離れ、今また再び添えられた刃だ。

 流氷の周りを回遊するシャチのように、付かず離れず、獲物を見つめていた。

 

 その刃が今、ヴェルデ伯爵夫人の首筋で凍てつくような冷気を放っている。

 

 「陛下、これは……これは何かの間違いでしょう? だって、だってこんなこと、出来るはずがありませんわ」

 

 震え声の主張に、感情を見せたのはディーチ伯爵だけだ。悲痛な顔を伏せて隠した彼以外は、ずっと億劫そうな顔のままだった。

 

 「何故だ? 其方は再三、余の決定に口を挟み続けた。そして此度は王城の礎石にその名を刻む英雄に対し、暗殺者を差し向けた。忘恩もだが、何より王権への不敬は万死に値する」

 

 国王は淡々と告げる。

 死の宣告にしてはあまりにも無感動で投げやりな言葉が、むしろヴェルデ伯爵夫人には恐ろしかった。

 

 かつての大粛清を思い出す──あの、鳴り止まぬ断頭台(ルイゼット)の大合唱を。

 

 「わたくし、私は、貴方様の乳母でございますよ!? そんな、そんなこと出来るはずが……それこそ忘恩ですわ!」

 

 その言葉で、国王は初めて眉根を寄せた。

 露にされた感情は、悲嘆と、後悔。

 

 しかし、そんな人間的な反応は呼吸一つで掻き消えた。

 

 「うむ、幼少のみぎり、其方には大変世話になった。故に四度、警告したはずだ。我が王権の絶対性を思い出さぬのであれば、その不要な頭を落とすことになると」

 

 王の声は威厳に満ちてはいたが涼やかで、苦悩の気配は微塵も無い。

 

 だからこそ、和解も説得も有り得ないとはっきり分かってしまった。

 

 「な、あ……で、ですが陛下! 彼は私の姪を殺したのですよ!? あんなにも可愛らしい子を……! ケイ、ケイリス! 貴方からも何か言って頂戴! 貴方だって、漸く娘が生まれたって、あんなに溺愛していたじゃない!」

 

 断頭台へ続く道からどうにか逃れようとしているのか、ただ反射的に保身に走っただけなのかは不明だが、ヴェルデ伯爵夫人がディーチ伯爵に縋るような声をかける。

 しかし、ディーチ伯爵に御前論奏の時のような大きな感情の揺れは見られなかった。

 

 「えぇ、その通りです、姉上。家は息子が継ぐからと、甘やかし過ぎました。……その罪だけは、もう二度と雪げないのです」

 「ケイリス……?」

 

 思わぬ反応、いや無反応に、ヴェルデ伯爵夫人は呆然と弟を見つめる。

 見つめ返す弟の視線には親愛と、それ故の深い悲哀と失望があった。

 

 「まだお判りになりませんか、姉上。この国を最も善く治められるのは現王たるアウグストス二世陛下、次いで次期女王たるステラ第一王女殿下。御二方にとって、矮小な野望を持った貴女は邪魔でしかないのです」

 

 その一言で、彼女の感情に占める怒りの割合が一時的に恐怖を上回る。

 かっと見開かれた目が赤く充血しているのは、怒りのあまりか、或いは彼女の姪が死んだ日からずっとそうなのか。

 

 「実の姉を、裏切ると言うのですか!」

 「左様。国家の為であれば血の繋がった親兄弟とて切り捨てる。国家の運営装置とはそういうもの。貴族の特権とは、その滅私奉公に対する報酬なのです。……私がまだ幼い頃、貴女が読んでくださった本に、そう書いてあったでしょうに」

 

 弟の言葉が聞こえていないのか、夫人は答えることなく言葉を続ける。

 

 「姪は……お前の娘の仇は、どうするのです! お前もあの子を愛していたのでしょう!?」

 

 或いは伯爵の言葉が聞こえていて、突き刺さったが故の反撃だったのか。

 苦し紛れにも思える一言で、伯爵の拳が机に叩き付けられた。

 

 ずどん! と凄まじい音が王城の一室に響く。彼を見たフィリップが抱いた老いた狼という印象は強ち間違ってはいないのか、明らかに鍛えられた者の、力任せの一撃だ。

 

 「無論!」

 

 咆哮、とは、その叫びを聞いた誰も思わなかった。声の質も大きさも、そう表現できるだけのものだったのに。

 それは、誰もがもっと相応しい言葉を思い浮かべたからだ。即ち──慟哭、と。

 

 彼が再び言葉を紡いだのは、大きく深呼吸して心を落ち着け、国王に深々と一礼した後だった。

 

 「無論……思うところは、あります。しかし領民のみならずこの国の全ての民と、この国そのものを救った英雄に対する狼藉など、本来であれば私自らが娘の首を刎ねて王の御前に差し出し、私は自らの足で断頭台へ向かうべき重罪です」

 

 ふ、と国王が口元を緩める。

 それは彼にしては珍しく、心の底からの笑みだった。嘲笑や冷笑ではなく慈愛と歓喜を称えた穏やかな微笑は、宰相ですら滅多に見ないもの。

 

 「親愛の情が大きいのは、余の臣民全ての美点だな。……事実、卿は余にそう上申した。だが、余はそれを拒んだ。価値ある命は無駄に散らすべきではないと」

 

 言葉の前半、誰に聞かせるわけでもない独白を聞いたのは、宰相一人だけだ。彼にしか聞こえない程度の小声だったし、彼以外が聞いたところで「国王らしい慈悲に溢れた声だ」と思うだけだっただろう。

 

 「無論、何の理由も無く其方を殺すことも、何かしらでっち上げて断罪することも容易いが……それでは些か外聞が悪いのでね。全ての貴族が伯爵や公爵のように肝の据わった悪人ならば、外聞など気にする必要も無かったのだが」

 

 ははは、と宰相と伯爵が笑う。

 彼らにとって国家運営機構として正しく在る貴族が善悪で言えば悪に分類されることなど、態々口にすれば笑ってしまうような常識でしかなかった。

 

 と、空気が弛緩した隙を狙ったかのように、部屋の扉がノックされる。騎士の一人が対応し、一通の封書を持って戻ってきた。

 

 手渡された手紙を読んだ国王は、感心したように頻りに頷く。

 

 「……多少想定外だが、まぁいいだろう。まさかあの二人が暗殺者と言葉を交わすとは……いや、フィリップ・カーターかあのヴァンパイアの手によるものか?」

 

 ステラもそうだが、ルキアも暗殺者と会話するタイプではない。というか、会話する距離まで近づかない。

 その理由が単に面倒で早く終わらせたいからなのか、潜在的な恐怖からなのかは分からないが、その習慣を態々変えたとは思えない。が、まぁ、暗殺が阻止できたのならそれでいい。ステラが暗殺を依頼した者の情報を掴んだのは想定外だが、特に問題は無いのだから。

 

 「さて、本題だ。暗殺者ギルドからは常に依頼を受注した者についての報告があるはずだが、全員で何人だ? その中で二つ名持ち(ネームド)は何人いた?」

 

 凡百の暗殺者が親衛隊の守りを抜けることはない。だが二つ名持ち、卓越した技や経験を持つ者であれば、或いは。

 

 夫人は答えない。

 その情報を盾に助命を嘆願するつもりなのか、ただ単に声が出ないのか、それとも子供じみた反抗のつもりなのだろうか。

 

 どれでもいい。どれであっても、国王は情報を吐かせるだけの準備はしてあるのだから。

 

 「……黙られると困るな。一応、外には『悪魔の瞳』──貴女の齢であれば当然知っているだろうが、8人の異端者の8人から真実を引き出した凄腕の審問官がいる。しかし、余は立場柄、血を見慣れていない。なるべく──」

 「ろ、六人です、陛下。嘘ではありません。二つ名持ちは『調香師』、『扇動者』、『サドンデス』、『ドレッドリーシュ』の四人ですわ。ほ、本当です」

 

 国王は部屋の扉を一瞥する。

 一応、本当に呼んで待機させてはいるのだが──本人の言った通り、名前だけで凄まじい威力を発揮した。

 

 「よろしい。其方には聖女の抱擁を、尊厳ある死を約束しよう」

 

 上機嫌に頷く国王。

 断頭台で苦しみなく死ぬことは、大罪人に与えられる最後の赦しだ。

 

 「ステラが捕らえたのは『扇動者』。屋内専門の『調香師』はともかく、『サドンデス』と『ドレッドリーシュ』は屋外でこそ真価を発揮するが……まあ、親衛隊を連れて行ったなら大丈夫だろう」

 

 そうですね、と宰相も頷いて安堵を見せる。

 どの名前も彼らにとっては既知のものであり、彼らの娘に指一本触れられない程度の相手だった。

 

 ただ、ステラの親衛隊はステラを守るために、彼女一人ではカバーできない技能分野に高い能力を持つ人員を集めている。例えば近接戦闘、白兵戦などだ。

 

 フィリップはむしろ、ステラが自力でカバーできる魔術分野に適性が無い。

 超遠距離魔術狙撃や、光学系術式による透明化を見破る術がないのは不安要素だが──『サドンデス』も『ドレッドリーシュ』もそういう手合いではない。これなら大丈夫だろう。

 

 顔を見合わせて頷き合う国王と宰相。

 通じ合う二人にディーチ伯爵が控えめに、しかし強い意志を感じさせる声で呼びかける。

 

 「陛下、最後にお聞かせください。姉が……メロウ・フォン・ヴェルデが暗殺などという短絡的な手を選んだのは、私が御前論奏に敗訴した後の事。敗訴を伝えた激昂の最中のことです」

 

 だから許せ──なんて、そんな甘っちょろいことを言うつもりは、ディーチ伯爵にはない。

 彼は御前論奏の場で見せたほど、感情的でも愚かでもない。まあ、全くその気が無いわけでもないのだけれど。

 

 「あぁ、あれは名演技であった。顔見知りのステラも、娘を喪って憔悴しているのだろうと思っていたぞ。あれも才気に溢れてはいるが、まだまだ年季が足りんな」

 「え、演技……?」

 

 ヴェルデ夫人が呟く。

 

 そう、演技だ。あの御前論奏にまつわる全てが(はかりごと)

 

 ディーチ伯爵は娘が死に憔悴した哀れな父親──ではない。

 いや、事実として、子供を諦めるぎりぎりの齢まで男児しか生まれなかったディーチ伯爵は、末っ子の娘を大層可愛がっていた。同じく女児に恵まれなかったヴェルデ夫人も、可愛らしい姪を溺愛していた。

 

 だから娘が死んだと聞いたときには、それは大変に悲しんだものだ。理由を調べ、もしも誰か原因がいるのならこの手で殺すとまで思っていたのだが──救国の英雄を相手に狼藉を働いた末路だと聞いて、怒りは完全に消え失せた。

 

 そして国王の言う通り、娘の不始末を贖うため、自らの命さえ差し出した。

 

 しかし、国王はそれを拒否した。

 真に国の忠臣たれと生きるのなら、その命にはまだ使い道があると。御前論奏を提起し、命じた通りに道化を演じよと。

 

 「あの状況になればヴェルデ伯爵夫人が短絡的な手に出ると、陛下は分かっておいでだったのでは? その上で、彼女を排除できるよう、状況を誘導したのではありませんか? 龍狩りの英雄に聖痕者などという強大な標的に挑む暗殺者が少ないこと、エース級は動かないことを見越して、少数の親衛隊だけで対処できるとお考えになっていたのでは?」

 

 そして──捨てられた石を使って、三羽の鳥を落とした。

 

 国王の心情は、概ねフィリップと一致していた。

 即ち、馬鹿が馬鹿なことをして死のうが、知ったことではないと。知らずとはいえ救国の英雄と滅国の怪物に喧嘩を吹っ掛けるレベルの馬鹿なら、死んで結構だ。まあ、もっと穏便な死に方なら言うことは無かったのだが。

 

 しかし、「馬鹿が馬鹿だったので死にました」で終わってしまっては勿体ない。馬鹿とはいえ国王の財産たる臣民の命だ。たとえその価値をゼロだと認めていても、1に、10に、100に化けさせてこそ賢君というもの。

 

 国王は静かに問いかける。

 

 「そうだ、と言ったら、卿は余を非難するか? 卿の姉を謀殺したと?」

 

 ふ、と小さく笑ったのは、宰相だけでなくディーチ伯爵もだ。

 

 「謀殺、とは言いますまい。誅殺と言うべきでしょう。国を脅かす内憂を払うことは」

 「あぁ──此度は大儀であったな、ディーチ伯爵」

 

 笑みを交わす三人を、ヴェルデ伯爵夫人だけが慄いたように見つめていた。

 

 

 

 



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355

 なんだか王都を出る時にはいつも急いでいるような気がするけれど、今度はややのんびりと──道中で暗殺者が襲ってくるのではと警戒に警戒を重ねながらの旅路だった。警戒していたのは主に親衛隊の皆さまだが。

 

 そんな馬車旅行も一旦は終わり、遂に例の湖──“心鏡の湖”に到着した。

 

 緑色に淀み腐臭さえ放っていた湖は、あの汚濁が嘘のように美しい姿を取り戻していた。

 水は完全に透き通り、かなり深いところでも水底がすぐ近くにあるように錯覚するほどだ。そして水深が増していくにつれて、緑から青へと色を変えていく。エメラルドグリーンからコバルトブルーへのグラデーションだ。

 波打つ湖面から吹き抜ける風は涼やかで、あの吐き気を催す悪臭は欠片も残っていない。

 

 フィリップですら目を瞠るほど美しい──が、あまり鏡っぽくはない。これが正常なのだとすると、名前の元になった『湖の精に心を覗かれた』という逸話は、外観から作られたものではないのかもしれない。

 湖の精といえばニンフやウンディーネだが、彼女たちがドライアドのように心を読む力を持っているとは聞いたことがないけれど。

 

 「……カーター、そこで立ち止まるな。後ろが閊える」

 「おっと、失礼しました」

 

 後ろから突っつかれて、フィリップはなんとなく一列になって森を抜けたところだったと思い出した。

 汚染の話は聞いていても実際に見たわけではなかったルキアとステラは「懐かしいわね」「何年ぶりだろうな」なんて話しているが、エレナが体調を崩すほどの汚染具合を目の当たりにしたフィリップとしては、この変貌には感動すら覚える。思わず立ち尽くしてしまうほどに。

 

 「流石旧支配者、何でもできる。ドブさらいだってお手の物だ」

 

 砂利の浜辺を歩き、波打ち際で水を掬う。

 指の間を落ちていく水は滑らかで、夏の日差しを受けて煌めいている。臭いを嗅いで、口に含んでみるが──無味無臭、ただの水だ。

 

 「完璧だ……」

 

 では、とばかりの直結思考でフィリップは駆け出す。

 目の前に泳げる水溜まりがあるならダイブしてみるのは少年(クソガキ)の本能だが、至極当然のように襟首を掴まれて阻止された。

 

 「おい待て。そんな恰好で泳ぐつもりか?」

 「……っと、確かに」

 

 フィリップは自分の服装を見下ろして、気持ちが急きすぎたと自省する。

 何の変哲もない半袖シャツと半ズボンにスニーカー。ダメダメだ。せっかくルキアにお願いして取り寄せてもらった浮き輪も荷物の中に詰め込まれたままだし、水遊びには全く適していない。

 

 「あれが今回私たちが泊まる宿だ。取り敢えず荷物を置いて着替えよう」

 

 ステラの示す先は、元は管理人の住まいであるこぢんまりとしたコテージがあるはずだった場所だ。

 しかし、あの小さくも風情のあった建物は完膚なきまでに取り壊され、今では一等地の邸宅じみて豪奢な、景観にそぐわぬ不細工な建物に変わっていた。田舎育ちのフィリップも、美的感覚の鋭敏なルキアも、何とも言えない顔でそちらに向かう。

 

 湖畔の朴訥な景色の中で異様な存在感のある別荘は、外観から受ける印象と同様の内装だった。即ち、絢爛豪華で装飾華美。玄関を潜っただけで住み心地は最高なのだろうと想像できるが、フィリップとルキアは「それはいいんだけど、なんだかなぁ」と心を一つにする。

 

 ステラは自分が泊まるのだから当然のこととすんなり受け入れているが、彼女も苦笑気味な辺り、景観を壊しているという印象は受けたのだろう。

 

 「……カーターの部屋はそこだ。ルキアはこっち、ミナはそこだ。それじゃ各自、支度を済ませよう」

 

 ぞろぞろと指定された部屋に入ると、後ろから親衛騎士が付いてきて荷物を運び入れてくれる。

 この旅行のために作られた建物なのか、部屋の扉にはそれぞれの名前が彫られていたし、フィリップの部屋には龍貶し(ドラゴルード)を置くための台座まであった。

 

 薄い高級ガラスの嵌った窓を開けてみたり、ベッドの柔らかさを確かめてみたり、元宿屋の従業員としての興味を満たしていると、声なき意思が届く。

 魔術的異空間にいるシルヴァからの、『そんなのはどうでもいいから早く遊ぼう』という催促だ。

 

 フィリップは確かにと頷き、荷物を漁って着替えと浮き輪を引っ張り出す。浮き輪は革袋より伸縮性や強靭さに長けた錬金繊維製で、浮力も大きいらしい。

 

 着替えを終えた時には、シルヴァはもう実体化して扉の前で待っていた。

 

 「よし、GO!」

 「ごー!」

 

 どたどたと無作法に廊下を駆けていく二人の子供に、親衛騎士たちは怒りではなくむしろ安堵したような生温かい目を向ける。

 二人は砂利の浜を踏みしめ、燦々と照り付ける太陽の下、煌めく水面へ飛び込──もうとして、急停止した。止まったのはフィリップだけだったが、フィリップが止まったのを見てシルヴァも足を止める。

 

 「……なにしてる?」

 「準備運動。人体にはね……足が攣るっていう奇妙な自殺機能があるんだ……」

 

 地元の川で遊ぶときでさえ、準備運動をしろと父親から耳にタコができるほど言われてきたのだ。

 さっきはついはしゃいでしまったが、フィリップはこの湖に入ったことがない。何処までが浅瀬で何処からが深みなのか、どの辺りまで砂利肌でどこから岩肌なのか、そういう情報がまるでないのだから、迂闊に飛び込むなど自殺行為だ。

 

 「ふーん……じゃあしるばもやる」

 「いや、シルヴァは溺れないと思うけど……まぁいいや。この辺の筋肉を伸ばして……」

 

 そもそもシルヴァに筋肉や骨格という概念があるのだろうかと頭の片隅に疑問符を浮かべつつ、教わった通りの準備運動をきっちりとこなす。特に溺れたことがあるわけではないのだが、生来の真面目さがそうさせるのだろう。

 

 そして準備運動を終えた二人は、改めて煌めく湖面に向き直る。そして。

 

 「よし、GO!」

 「ごー!」

 「ストップ。待ちなさい、フィリップ」

 

 全速力で駆け出したつもりだったフィリップだったが、気が付くと地面から数センチ浮いていた。当然、地面を蹴っていないのだから一歩も前には進んでいない。ちょうど足元を見たタイミングで浮遊が終わり、ふわりと衝撃なく着地する。

 

 重力操作なんて闇属性魔術の中でも特に高度な術式だ。一行の中で使えるのは一人だけだし、フィリップのことを「フィリップ」と呼ぶのも一人だけだ。

 

 一足先に湖へダイブして楽しそうに泳いでいるシルヴァを羨ましそうに一瞥して、フィリップは少し不貞腐れながら振り返る。

 

 「なんですか、ルキア? 着替えも終わったし準備運動もした、し……え? なんですかその恰好」

 「私も丁度それを尋ねようと思っていたところよ。なに、その恰好?」

 

 怪訝そうに見つめ合う二人。その装いはほぼ正反対だった。

 

 ルキアは黒いワンピース型の水着に、ゴシック調レースのアームガードとシースルーのロングパレオという出で立ちだ。パレオは右脚が太腿のかなり上の方まで露出するように巻かれている。流石に鼠径部までは見せないが、普段のスカートの比ではない。

 水着とは言うが露出しているのは肩回りと片脚くらいで、更に日傘まで持った徹底ぶりは、直射日光に弱い先天性色素欠乏(アルビノ)ゆえか。

 

 しかし水着は水着だ。泳ぐ際に支障が無いよう、身体に密着する素材で作られている。露出などせずとも肢体の曲線美は存分に主張されていたし、黒で統一されている分、脚や肩回りの肌の白さが際立って映える。もしも近くにフィリップ以外の男がいれば魅入られて立ち竦むほどの色香を纏っていた。

 

 そんな彼女を怪訝そうに見るフィリップはというと、長袖に長ズボン、片手に浮き輪、足元に至っては底の厚いブーツだ。森を通り抜けてきた時より重装備、というか、むしろ森を歩くときにその恰好をしておくべきだったと突っ込みたくなる装いだ。

 

 「何って、湖に入るので。ルキアこそ……いやまあ上半身はいいとして、なんですかそのスカート半分みたいなの。しかもサンダルって。森で足首怪我したの、忘れたんですか?」

 「これはパレオよ。……待って? これ、私がおかしいの?」

 

 頭痛を覚えたようにこめかみを押さえるルキアと、「暑さで熱でも出たのでは?」と訝るフィリップ。

 どちらがおかしい、どちらが悪いという話ではない。これはどちらともが無知なのだ。それだけにこのままでは埒が明かないところだったが、幸い、第三者の介入があった。

 

 「どうした? 水着姿のルキアに見惚れたか?」

 「あ、殿下。ちょっと見て──は?」

 

 合理性の化身たるステラなら、ルキアを一瞬で説得できるに違いない。

 そんな期待と共に揶揄う声のした方へ視線を移したフィリップだったが、台詞は自分自身の素っ頓狂な声に遮られた。

 

 ステラが着ていたのは、真っ赤なビキニだった。

 勿論彼女とて淑女だ。俗にマイクロビキニと呼ばれるような過度に露出するものではない。

 

 しかし普段シャツの下からでもはっきりと存在を主張している豊かな双丘は一枚目のヴェールを脱ぎ、その大きさをより鮮明に見せつけている。健康的に鍛えられ引き締まったお腹も、腰から尻へ、尻から太腿へ、そして脚全体へ続く美しい曲線の流れもだ。

 彼女自身と侍女以外は見ることのない、隠されていなければならないはずの場所が大胆にも晒されている。

 

 綺麗な身体だ、とか、えっちじゃん、とか。そういう感想は持てないにしても、普段のフィリップなら「へぇ、殿下の方がルキアより胸が大きいのか」と、内容に反して虫を観察するような目を向けていたかもしれない。

 

 だが、フィリップの目は怪訝そうに細められていた。

 

 「……なんで下着? ふざけてるんですか?」

 「そんなわけないだろう。水着だよ」

 

 フィリップはステラを頭の先から爪先まで一通り眺めたあと、呆れたように頭を振る。勘弁してくれと言いたげだが、それはルキアたちも同じ気持ちだろう。

 

 「水着? まぁなんでもいいですけど、二人とも最低でも靴だけは何とかしてから出直してください。サンダルなんか論外ですよ。水遊びは初めてですか?」

 「いや、私に言わせればブーツの方がおかしいぞ? お前はこれから森にでも行くのか?」

 

 うんうんとルキアも頻りに頷く。

 フィリップの装いは二人にしてみれば森歩きのそれなのだが、それにしては浮き輪が邪魔だった。湖をぐるりと取り囲む森に繰り出すつもりではないだろう。

 

 どういうつもりなのかと視線で問い質すステラに、フィリップは全く同じ視線を返す。

 

 「はぁ? 岩とか尖った石で怪我しないように厚みのある靴を履く、常識じゃないですか。岩肌とか流れてくる枝なんかで怪我しないように長袖と長ズボン。それだと泳ぎにくいから、流れと深さを知らないところではフロートを使う。子供でも知ってますよ」

 

 ルキアとステラは答えに詰まり、顔を見合わせる。

 僕より小さい子供って意味ですけど、と補足するフィリップだが、二人が引っかかったのはそこではない。

 

 「……田舎ではそうなの?」

 「……え? 王都では違うんですか?」 

 

 またか、と三人の内心が一致する。

 王都の内外で文化に差があるのは周知の事実だったが、こんなところにも違いがあったとは。

 

 「あぁ……うん、概ね理解した。言いたいことが二つあるが、取り敢えず脱ごうとするのをやめろ」

 

 じゃあ僕も下着で泳いでみようかな、とベルトをカチャカチャやりだしたフィリップを止めるステラ。彼女は先ほどのルキアと同じく頭痛を覚えたように眉間の辺りを押さえていた。

 

 「……まず、私とルキアのこれは水着と言って、濡れてもいい装いだ。深いところで泳いだり潜ったりする装備ではなく、あくまで浅瀬で水遊びをするときに着るものだが、泳ぎに適した素材になっている。通常の布より身体に纏わりつかないし、水の抵抗も少ない。ちょっと──ルキアのを触ってみるか?」

 「……まぁ、そうね。貴女ではないわね……」

 

 ワンピースのルキアと、ビキニのステラ。水着の質感を確かめるために触るなら、流石に一択だった。主に布面積と部位的な理由で。

 

 背中なら、とお許しを頂いて触ってみると、確かにフィリップが知らない質感だ。

 

 「おぉ、ホントだ……。意外と厚みがありますね」

 「靴だってこれでいい。浅瀬の、足元の石が小さく丸くなっているようなところで遊ぶのが普通だからな」

 「私もステラも、シルヴァみたいにエネルギッシュに遊ぶタイプじゃないしね……」

 

 ルキアの言葉に、三人ともが湖の方を見遣る。

 シルヴァは森の外でもスタミナは無尽蔵だからか、ちょっとした水柱が上がるほどのバタ足で楽しそうに泳ぎ回っていた。

 

 「僕も遊びたいんですけど」と指差すフィリップを、ステラが「まぁ待て」と宥める。

 

 「考えてみれば、王都外では水着の文化がないのは理解できる。この素材も錬金繊維だからな。で、もう一つ」

 

 億劫そうな顔をしたフィリップだったが、片手で頬を挟まれて「ぷぅ」と間の抜けた音が漏れた。

 

 「で、でんか?」

 

 笑顔ではあるものの、妙な威圧感と凄み──フィリップの言う「怒られの気配」を漂わせたステラに、フィリップは思わず声を震わせる。

 怒られることそれ自体も嫌だが、ステラが怒るときは徹底的な理詰めであることが大半なので、反論の余地もなければ反抗の余地もないのだ。あと、往々にしてフィリップが100パーセント悪い。

 

 「下着だと思ったのなら目を背けるくらいしろ」

 

 笑顔のまま、そして凄みもそのままのステラに、フィリップはこくこくと──というか、がくがくと勢いよく頷く。

 

 「す、すみません、つい」

 「ついって、お前な……」

 

 凄いこと言うなこいつ、と僅かに赤面するステラだが、顔の火照りはすぐに引っ込む。彼女は誰に言われずとも「つい見惚れた」という意味ではないと理解できたし、それは正解だ。

 

 フィリップは「殿下のことは世界で一番賢いと思ってたけど、過大評価だったかも」なんて考えていたら、つい顔を背けるのを忘れていただけだった。

 

 

 

 



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356

 それぞれの従者に日傘を預けて波打ち際に座ったルキアとステラは、腰の深さの辺りで遊んでいるフィリップとシルヴァを眺めていた。

 遊んでいる、と言っても、潜水や遠泳の類は呼吸不要で無尽蔵のスタミナを持つシルヴァが無敵なので、いつもの鬼ごっこだ。ただし、二人ともかなりガチになっている。

 

 逃げるシルヴァと追いかけるフィリップが立てる水音は、ちゃぷちゃぷ、程度ではない。ドドドド、とバタ足が盛大に飛沫を上げている。折角の浮き輪も「これスピード出ない!」と浜にぽつんと取り残されてしまった。

 

 「……まぁ、その、なんだ。あいつは水着を見るのも初めてだし、変な服だと思うのも無理はないさ」

 「慰めは不要よ。言っておくけれど、フィリップに見せるために選んだわけじゃないから」

 「お前の価値観は分かっているさ。だが、それはそれとしてカーターに褒められるのは嬉しいだろう?」

 

 けらけらと笑うステラだが、ルキアの言葉を照れ隠しの嘘だとは思っていない。

 彼女の美意識は強固で、その判断基準は自分の中にしかないことを知っているからだ。彼女が着飾る時に求めているのは誰かに見せるための美しさ、誰かに褒められるための美しさではなく、自分自身を認めるためのものだ。

 

 とはいえ、親しい友人の賞賛に価値を感じないわけではないので、ルキアも「えぇ、勿論」と軽く答えるのだが。

 

 「……ところで貴女の水着、ちょっと露出が激しすぎない?」

 「そうか? オーソドックスなデザインだと思うが。私にはむしろ、お前の水着が暑苦しそうに見える」

 

 胡乱な表情をお互いに向ける二人。

 

 ルキアの水着はパレオやアームガードも含めると、肌の露出箇所が殆ど無い。日焼け対策プラス、他人に肌を晒すことを嫌う性格の現れだ。

 

 対して、ステラは上も下も局部を隠す程度。フィリップが下着と誤解する程度の布面積だ。こちらは王城にいる間は着替えや風呂の世話を侍女に焼かれている──任せているわけではなく、()()()()()()()()()のだが──彼女の、羞恥心の薄さが垣間見える。

 下着を見られるのは嫌がる辺り、見られてもいい装いだと判断した時点ですっぱりと羞恥心が消えると言うべきか。

 

 「日焼け対策に偏光魔術を使わなくていいし、露出もしたくないもの。なら、これが最適解でしょう?」

 「湖畔で水着だぞ? そこまで神経質に日焼けを嫌う時点で最適じゃあない。が、まあお前は肌が弱いからな」

 

 大真面目な顔で分かりにくい冗談を言うステラと、それを真顔で見つめるルキア。ややあって、二人は顔を見合わせて笑った。

 バカンスに合理性を求めるものではない。いや、むしろあれこれ考えず楽しむことこそ合理的だろう。

 

 ただでさえ、ここ何年かは慌ただしかったのだし──これまで培ってきた価値観が崩壊するような出来事を多々経験してきたのだし。

 

 この湖は安全だろう。

 なんせ、フィリップが邪神を使って掃除したという話だ。その上周囲をステラの親衛騎士が守っている。野外でここよりも安全な場所は無いのではないだろうか。

 

 そもそも正面戦闘能力がイカれている。

 邪神を使役する『龍狩りの英雄』……は置いておくとしても、ダンジョン一つを吹き飛ばせるルキアに、純火力では彼女を上回るステラ。魔術戦はともかく白兵戦能力では誰も敵わないのではないかと思われる吸血鬼。

 

 と、そこまで考えたステラは、件の吸血鬼の姿が見当たらないことに気が付いた。

 そりゃあ水着ではしゃぎ回るタイプではないが、遊んでいるペットを愛玩するくらいの風流心は持ち合わせているだろうに。

 

 「……そういえば、ミナはどうした?」

 「あぁ……あれ、見える?」

 

 問いを受けてルキアが苦笑と共に示したのは、かなり遠くの岸辺だ。

 遠目では分かりづらいが、白い波飛沫──いや、水柱が上がっているように見える。

 

 「……あれは何だ?」

 「剣で湖を斬ろうとしてるのよ。彼女の師匠は出来たんですって」

 

 ステラは情報が物理的な衝撃を持ったようにのけぞる。

 実現できたというミナの師匠はもうこの際置いておくとして、あの無駄や面倒を嫌うミナが試しているということは、彼女には出来るビジョンが見えているということだろう。

 

 「冗談だろう? いくらあいつが化け物とはいえ、力や速度ではどうにもならないだろう。魔術ならともかく……お前は出来るか?」

 「やり方は何通りか思いつくわね。重力操作で無理やり割るとか、『明けの明星』で吹き飛ばすとか」

 「ははは、水蒸気爆発でとんでもないことになりそうだな」

 

 軽快に笑うステラ。

 普通は魔術を使おうが何をしようが無理だから、海を割った聖人の御業が『奇跡』と呼ばれるんだよなぁ……なんて、傘を持つ従者二人の心が一つになった。

 

 

 ◇

 

 

 和やかな空気の流れる水辺から500メートル。

 湖を取り囲む森の樹上に、彼はいた。

 

 全身に木の枝葉を付けた男だ。顔には緑色のインクが塗られ、更に木の枝葉を付けたフードで輪郭を隠している。

 彼の衣服は全身が土や木の枝葉で汚れているだけでなく、ぶかぶかでサイズが合っていない。それもこれも森の景色の中に溶け込み、発見されないようにするためだ。

 

 彼は暗殺者だった。

 得物は帝国の一部で使われる金属複合弓(コンパウンドボウ)。滑車の力で弦を引くことから、通常のロングボウよりも強力なことが多い。

 

 中でも彼の使う弓は超の付く強弓だ。弓力は150ポンド──約68キログラム。

 長年の研鑽と仕事で右肩の筋肉は極限の柔軟性と強度を持ち、左腕は一本の棒のように硬く鍛えられている彼でなければ、そうそう扱えない代物だ。

 

 高倍率の照準器などは無いが、小型望遠鏡で標的の位置を観測した後は自分の目と空間把握力だけで命中させる腕前を持ち、標的にも護衛にも悟られることのない超遠距離から頭蓋をブチ抜いて殺す。その仕事ぶりから、与えられた二つ名は“サドンデス(突然死)”。

 

 望遠鏡の狭い視界の中心には、今回のターゲットである少年がいる。

 泳いでいる人間を狙うのは初めてだが、何も馬鹿正直に挙動の不鮮明な水泳中を狙う必要は無い。立ち上がって動きの鈍る瞬間か、或いは陸に向かって歩いている動きの遅い瞬間を狙えばいいだけのことだ。

 

 一発わざと外して撃ち、標的が慌てて陸地へ向かうよう誘導することもできるが──それには二人の聖痕者がネックだ。おそらくただの一射でも『サドンデス』のいる位置を正確に割り出し、魔術攻撃が飛んでくるだろう。そうなれば非魔術師の彼に為す術はない。

 

 故に、待つ。

 彼は背負っていたコンパウンドボウを取り出し、矢をつがえて深く呼吸した。チャンスは一度。そしておそらく、十秒以下。

 

 なんのことはない。その程度の難易度であれば、これまでに何度でもこなしてきた。

 龍狩りの英雄を殺すという大仕事だって、終わった後では『昔の仕事』と片付ける程度のものでしかないだろう。

 

 狙撃とは撃つ瞬間ではなく、それ以前の準備によって成否が決まる。優れた射手は、撃つ時点で当たるか否かが分かるものだ。

 

 そして、彼は既に確信している。

 撃てば当たる。当てられる。そして500メートル先からでも頭蓋骨を貫通する弓と矢だ。確実に殺せる、と。

 

 

 そんな彼から1000メートル。

 また別な木の上に、彼女たちは立っていた。

 

 「──とでも思っているんでしょうけど、駄目ですよ、そんないい位置取りしちゃったら。分かりやすく狙撃しやすい場所なんて、カウンタースナイパーが見てるに決まってるじゃないですか」

 「笑ってないで、さっさと片付けるわよ」

 

 けらけらと愉快そうに笑うのは、巨大な弓を手にした女だ。

 全身を覆う親衛騎士のシンボルである金属鎧もそうだが、彼女自身の身長に匹敵するほどの大弓は、樹上で扱うには不適切なサイズだろう。

 

 もう一人は小型の望遠鏡と温度・湿度計を持った親衛騎士。

 二人とも女性とはいえ武装を含めると相当な重量になるから、二人が立っているのは別の木だ。

 

 「距離1230。風偏移、無風から左2.5へ。気温27度、湿度25パーセント」

 「環境了解。補助魔術はセットA」

 「セットA了解。《ストレングス》《デクスタリティ》《ホークアイ》《デュラビリティ》《エンハンス・ピアース》」

 

 攻撃魔術より難易度が低いとはいえ、補助魔術五つの同時詠唱は相当に高度な技術だ。

 筋力補助、器用補助、遠見、武器耐久力向上、貫通力強化。これだけ積めば、人間を人間以上の領域へ向けて一歩か二歩は進ませられる。

 

 しかし、セットAは彼女が狙撃する際の最低限の補助だった。

 

 彼女が使う弓は弓力240ポンド──108キロ。それも滑車どころか照準器さえ付いていないロングボウだ。

 

 女性云々ではなく、もはや補助魔術が無ければ人間には扱えない代物だ。それもそのはずで、この弓は端から人間が扱うことを想定していない。

 悪魔が鍛ち、悪魔が使っていた人外の武器。それもゴエティアの悪魔の側近と目されていた、高位悪魔の持っていた代物だ。一度は王宮の宝物庫に収まり、ステラが自らの親衛隊で最も腕の立つ弓兵へ貸し与えたもの。

 

 狙撃は撃つ瞬間ではなく、それ以前の準備で成否が決まる。──とは言うが、この状況は論外だろう。

 

 縦に構えられるギリギリのサイズの弓は、そもそも人間が使うものではない。

 無風とはいえ体重だけで撓んで揺れる樹上は、安定した足場には程遠い。

 

 その上、標的までの距離は1230メートル。

 

 遠い、なんて次元ではない。

 望遠鏡や補助魔術が無ければ標的を視認することさえ出来ない距離だ。そして、大抵の弓の限界射程でもある。仰角を付けて、何とかギリギリ届く距離。狙うとか当てるとか、そんな概念を持ち込めない距離。

 

 しかし、彼女が構えた弓の向きはほぼ水平だ。

 真っ直ぐに狙いを付けて、真っ直ぐに撃ち抜くつもりでいる。

 

 弦を引き絞る腕の金属製の手甲が弓力のあまりきいきいと軋みを上げるが、つがえられた剣のようなサイズの大矢はぴくりとも震えず、真っ直ぐに1キロ先の標的を見つめている。

 

 そして──ばん! と、千夜城のバリスタにも匹敵する音を立てて、付与魔術で淡く輝く大矢が撃ち出された。

 弓返りで衝撃を逃がしても腕ごと持って行かれそうな反動を、付与魔術で強化された筋力と身体操作で無理やりにいなす。

 

 分散した衝撃と大音響が梢を揺らし、ばさばさばさ! と周囲にいた鳥や虫たちが一斉に羽ばたいて逃げていくのを、彼女は舌打ちと共に見送る。

 

 「まさか、外したの?」

 「当たる位置には撃ちましたけど、当たる前に森の動きでバレるかも。というか、私なら警戒して場所を変えるくらいはしますね」

 

 矢の飛翔速度は秒速100メートルを超えるが、それでも距離が距離だ。弾着まで10秒近くかかる以上、狙撃に気付かれれば回避される恐れがある。

 

 補助魔術師は険しい顔で望遠鏡を覗き、弓兵は鞘のような矢筒から二本目を番えた。

 

 

 



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357

 『サドンデス』は、遥か1キロ先で鳴り響いた音には気付かなかった。

 しかし、彼の視覚は今なお全盛と言ってよい性能を誇る。標的を見据えた視界の端、不自然に多くの鳥が一斉に飛び立ったのを認めた彼は、反射的にそちらへ弓を構えた。

 

 駆動音を殆ど立てずに滑車が回転し、弓弦が引き絞られる。

 撃つべき敵は見当たらない。当然だ。“敵”は彼の──人間の直感知覚圏外、1230メートル向こうにいるのだから。

 

 しかし、彼は自らの脊髄が氷柱に取って代わられたような激甚な悪寒を、気のせいと切り捨てはしなかった。

 

 いや。

 

 ()()()()()()

 

 シュカッ! と小気味よい音を立てて、真後ろの木の幹に剣のようなサイズの矢が突き刺さったのだから。

 

 「っ!?」

 

 矢は射撃姿勢で半身を切った『サドンデス』の腹の辺りを掠めていた。

 ほんの数秒前までの待機姿勢のままでいたら、胸元か頭を貫かれていただろう。

 

 馬鹿な、と思うより早く別の枝に飛び移り、木の幹に身体を隠す。

 相手も弓矢、直線兵器だ。射手は確実に矢が飛んできた方向にいるのだから、飛び降りて森の木々を遮蔽にすればこれ以上狙撃されることは無い。

 

 「……見事な腕前だ」

 

 『サドンデス』が思わずといった風情で感嘆の言葉を漏らす。

 彼とて狙撃手だ。カウンタースナイパーには十分に気を付けていたし、敵の潜んでいそうな位置、潜みやすい位置を入念に確認したうえで狙撃場所を選んだ。

 

 周りに敵はいないはずだった。加えて、あの遠方で一斉に飛び立った鳥の不自然な動き。

 併せて考えると、こちらを狙えるはずがないと警戒の外に置いていた超遠距離からの狙撃という可能性が浮かぶ。一キロ狙撃。武器の性能もそれを扱う射手も、どちらも尋常ではない。

 

 狙撃勝負は無理だ。相手はこちらの射程外で、こちらは相手の射程内。それも恐らく、いや確実に必中圏内だ。勝負にならない。

 

 二択だ。

 場所を変えて引き続き暗殺対象を狙い続けるか、尻尾を巻いて逃げるか。

 

 現状は敵方が圧倒的に有利な状況に見えるが、二人の狙撃手同士の撃ち合いであればの話だ。

 敵方の目的は暗殺の阻止。『サドンデス』撃破はそのための手段に過ぎない。次の一射で仕留められたとしても、その前にこちらがターゲットを殺していれば、実質的には敵方の敗北だ。

 

 暗殺者と護衛の戦いは、いつだって暗殺者の側が有利な状況なのだ。

 

 そのはずなのに、悪寒が止まらない。

 標的に一射撃ち込めば勝ちと、愚かにも急いた獲物は直後に仕留められるだろうという直感がある。

 

 予感を裏付けるように、少し離れた地面にさっくりと大矢が刺さり埋まる。

 最速で標的を狙うのに最も適した位置。そして、最速で標的を狙っていたら、ちょうどそこにいただろうタイミングだった。

 

 先刻の一射と今の予測射。二つの入射角を考えると、狙撃地点は相当に遠い。リリースから着弾まで10秒弱。矢の飛翔時間まで加味した正確無比な予測射は、敵方の技量が『サドンデス』以上だと明確に示していた。

 

 「素晴らしい。そんな死神なら、この魂を懸けて競うのは光栄なことよ」

 

 言って、木の枝葉が全身に付いた偽装迷彩服を脱ぎ捨てる。

 これは発見されにくくするためのもの。そして発見された後、逃げるときに照準を付けられにくくするためのものだ。

 

 相手はこちらを見て的を探して撃っているのではなく、こちらの動きを予測して撃つだろう。静止目標なら兎も角、不規則に動く的を狙える距離ではない。

 偽装は無意味だ。ギリースーツはこうなると、動きを妨げる枷にすらなる。

 

 外套が取り払われ、白く染まった髪や口髭、深く彫り込まれた皺が木漏れ日の下に晒される。

 老年といっていい齢であることは明らかだが、その技量、殺人能力には些かの衰えも無い。視力、筋力、指先の感覚、空間把握能力、全て健常だ。

 

 或いは、死神の手を逃れ得るほどに。

 

 「…………」

 

 黙考する。

 二射目以降、追撃は無い。これだけの距離があってなお射手がセオリー通りに狙撃位置を移動しているのか、こちらが慎重になったことを悟って待っているのか。

 

 今の位置からでは狙撃手も、標的も見えない。

 前者から隠れつつ後者を射界に収める位置が最適だが、相手もそれは承知のはず。相手が移動していたら、こちらが迂闊に動けば無防備に横腹を晒してしまう可能性もあるが──さて。

 

 最適解を探る思考の中、ほんの僅かな悪寒──ちょっとした嫌な予感程度のものが首筋に走る。

 彼がそれに従って素早く動き、身を隠す遮蔽を別の木へと移したのはなんとなくだ。なんとなく嫌な予感がしたから、取り敢えず移動してみた。

 

 その直後、森の柔らかな地面に再び音も無く大矢が突き立った。

 ほんの一瞬前まで、彼が身を隠していたその場所に──木の幹という頼もしい遮蔽の庇護下であるはずの、その場所に。

 

 「っ!」

 

 曲射だ。

 それも重力を使う放物線状のものではない、この超遠距離を利用した横カーブ状の。

 

 弓矢は勿論、直線兵器だ。曲がって遮蔽を避けるようなスマートな機能は無い。

 だが射手の習熟度次第で、その直線性には差異がある。いや、むしろ狙った場所に真っ直ぐ飛んでいくようになるまで、長い練習が必要だ。未熟な者が撃てば的に届かなかったり、あらぬ方向へ飛んでいくこともある。

 

 今のはその、弓矢という武器に生じるブレを利用した曲芸だ。敢えて射形を崩して撃ち、矢が曲がるよう狙った。

 1000メートルもの長い距離をかけて、ゆっくりとなだらかに──しかし最終的には、障害物を避けるほどの角度を持つように。

 

 逃げ隠れてもなお命を刈り取る、禍々しく湾曲した死神の鎌を彷彿とさせる技だ。

 

 「素晴らしい……!」

 

 『サドンデス』は獰猛な笑顔を浮かべ、再び遮蔽を移動する。少し遠く、また標的を撃てるわけでもない場所に。最善どころか次善でさえない、四番手くらいの位置だ。

 一見無駄に思える判断はしかし、最善の位置と次善の位置に当然のように遮蔽を搔い潜って突き立った大矢によって、彼の命を救ったことを証明していた。

 

 今の二射、着弾のタイミングにズレが殆ど無かった。

 つまり、射手はこれだけの曲芸射撃を立て続けに行えるほどの技量を持っている。

 

 そして超遠距離から標的と遮蔽、そして“標的の標的”の位置を加味して動きを予測する思考の速度と精度も。

 

 強力なマルチタスク? いや──。

 

 「バディか。確か、射手(シューター)観測手(スポッター)の二人一組で狙撃手を運用するシステムが、王国の一部部隊で実験中だと聞いていたが……これがそうなら、お荷物どころか脳と手、同体だな」

 

 周辺の状況を観測し、獲物の動きを予測して射撃地点を指示するのは(スポッター)の役目。(シューター)はその指示通り、身に着けた技術を最大限に発揮すればよい。そういうシステムだ。

 

 『サドンデス』のような狩人気質の弓兵、自分で考えて自分で撃つ、技量と経験を最も重んじるタイプの人間が考え付くことではない。

 そしておそらく、こればかりはあの有能な国王や第一王女の発案でもないだろう。特に第一王女は個人で軍隊を殲滅できる大戦力。この手の、何か欠けた技能を他人で補うことを発想するのは、もっと劣った人間だ。

 

 噂を聞いたときには、移動や隠蔽の邪魔になる他人など連れ歩くべきではないと思ったものだが──なるほど、恐ろしい。

 

 単一の強力な才能を集中運用できるだけではない。

 複数の強力な才能を並列運用することで、最終的な威力を何倍にも高めている。

 

 「さしずめ『死神と鎌(デス&サイズ)』と言ったところか。持つべき者が持つべき物を得た、と」

 

 恐ろしく、素晴らしい。あぁ、それは認めよう。

 

 だが、まだ甘い。

 『サドンデス』の長い経験に裏打ちされた直感によって、敵手の攻撃は既に四度、外れている。

 

 敵方、射手の技量は『サドンデス』を上回る。それは間違いない。認めざるを得ない。

 だが、観測手の予測は些か素直すぎるようだ。老獪な狩人である『サドンデス』の直感、いや経験が一歩優っている。

 

 血沸き肉躍る()()()()が、どうやら出来そうだと獰猛に口角を吊り上げる『サドンデス』。

 

 しかし、だ。

 

 彼は一つ失念している。

 敵手、『死神と鎌』は、単独隠密行動を取る暗殺者ではない。いや──『サドンデス』のように、個人の技量だけで事を為すことを至上の誇りとする狩人気質の弓兵ではない。

 

 彼女たちは親衛騎士。

 護衛目標であるステラ、そして今はフィリップをも守ることを至上命題として行動する、()()だ。或いは組織、部隊と言い換えてもいい。

 

 「っ!?」

 

 がさがさと、何者かが藪をかき分けて枝を払い除けながら森に入ってくる音がする。

 それも一つではない。二人、いや三人か。弓兵一人が相手取るには多い数だ。相手が魔力障壁を使える魔術師や盾を持った騎士なら、多すぎると言ってもいい数。

 

 『サドンデス』は即座に悟る。

 彼ら──いや、彼女らは、『サドンデス』を狩り出すための部隊。狙撃手と連携したマンハント部隊だと。

 

 先刻からの狙撃は、勿論『サドンデス』を仕留めるつもりの攻撃ではあった。しかしそれ以上に、時間を稼ぐ目的の方が大きかったのだ。彼をこの場に釘づけにして逃がさないために──遅れてやってくる人狩り部隊が、彼を見つけて殺すために。

 

 「猟犬か。ふぅむ……」

 

 呟きつつ、そろそろ頃合いだという直感に従って遮蔽を移すと、先ほどまでいた場所と、最善と次善の位置に矢が突き刺さる。『サドンデス』が移動先に選んだのは、やはり少し遠い四番目くらいの位置だった。

 

 『サドンデス』は手中の愛弓を見下ろし、暫し黙考する。

 150ポンドの複合弓に、錬金素材の高級矢。500メートル射では厳しいが、同じ森の中──いま入ったばかりでも精々200メートルだ。ならば相手が錬金金属のフルプレートアーマーを身に着けていても、問題なく致命傷を与えられるだろう。

 

 猟犬を逆に狩るのは、武装的には可能だ。

 だが『死神と鎌』から逃げ回りながら、更に手練れの騎士を相手取るのは骨が折れる。不可能とまでは言わないが、余裕とも言えない。生きるか死ぬかの戦いにはなるだろうし、死ぬ確率の方がやや高いくらいだ。

 

 老狩人──否、老いた獲物は数瞬の思考の後、森の外、湖とは反対側へ駆け出す。

 

 依頼は無期限だ。ここは一度撤退し、再びの機会を伺うべきだろう。

 勿論、今日を逃せばチャンスは二度と無い可能性、他の暗殺者に獲られてしまう可能性は十分にある。それを厭うプライドも持ち合わせている。

 

 あれほどの腕を持つ射手にならば、標的を討つと同時に撃たれて死んでも本望だとは思っていたが、猟犬に狩り殺されるのではまた違ってくる。その死に様で屍を晒すのは不本意だ。

 

 故に、ここは一度退く。

 

 老体とは思えない健脚で木々の合間を縫う『サドンデス』は、慎重に狙撃手を探しているらしい猟犬たちがどんどん離れていくのを感じ取り──これまでで最大の悪寒に襲われた。

 背骨が氷柱に変わったどころではない。身体の全てが凍り付いたような──なのに、背中の一点だけは焼き印を押されたように灼熱だ。

 

 「く、──はっ」

 

 自然、笑みが零れる。

 左胸、背中から心臓を穿って胸に抜け、眼前の木に突き刺さった大矢を見て。赤く汚れたそれを、地面に点々と零れ落ちる赤を見て、自然と。

 

 穴の開いた胸に宿るのは、僅かな自嘲と、大きな賞賛だ。

 

 そうだった、と、当然のことを忘れていた自分を嘲る。

 猟犬とは仕留めた獲物を持ってくるばかりではない。獲物を狩人の前へと誘い出す役目もあるのだ。

 

 そして、大笑する。喝采する。

 これまでの自分の動きから、完璧に性格を読み切ったのだろう。そうでなければ、この距離で一射で確実に逃げる標的を仕留めることはできない。

 

 観測手の方は未熟だと思ったが、如何せん、情報を与えすぎたようだ。

 

 反省点はある。判断が遅れた場面が多かった。年のせいと諦めたくはない。

 後悔も、未練もある。冷汗が止まらないような時間だったが、叶うなら今度は500メートルのフィールドでもう一度出会いたい。

 

 だが──あぁ。

 

 悪くない死だ。

 

 その歓喜を最後に、彼の意識は完全に消滅した。

 満足そうに笑って息絶えた『サドンデス』の死体が発見されるのは、そのすぐ後のことだった。

 

 

 倒れ伏した老暗殺者から一キロ。

 当初と変わらず木の上に立っていた親衛騎士たちは、枝に腰掛け幹に背を預けて肩で息をしていた。

 

 「ねぇー!! なんなんですかアイツ! 並の獣よりよっぽどカンいいじゃないですか! 化け物ですよ化け物! どんな野生児なのか顔見に行きましょう!」

 「老人……いや老兵だったわよ。というか頭痛いからちょっと喋らないで。響く。今すぐ殺して黙らせたいぐらい響く」

 「私だって腕も肩も背中も痛いですぅー! 先輩の腕引きちぎってくっつけたいぐらい痛いですぅー!」

 

 ぎゃいぎゃいと姦しく言い合っていた二人だったが、やがて気力も使い果たし、二人同時にぐったりと項垂れた。

 

 「……増援とか来ないんですか? 王都の方でも状況は把握したころでしょ?」

 「ばーか。王都からここまで何日かかると思ってんのよ。来るとしてもまだ先」

 「そっかぁ……。交代要員もいませんしねぇ……」

 

 へへへ、と虚ろな笑い声を漏らしていた二人は、かくんと操り損ねた人形のように天を仰ぐ。

 

 そして、絶叫。

 

 「……王女殿下ぁー! 狙撃手増員しましょぉー! あいたた、肩が……」

 「私たち有用でしたー! 実験成功でーす! っはははは! あー……頭いった……」

 

 補助魔術で人外級の筋力を普段を数倍する時間発揮し続けた弓兵が、叫びに合わせて振り回していた右肩を庇う。

 短時間ではあるものの極限の集中と共に目と脳とを酷使し続けた観測手が、こめかみを押さえて項垂れる。

 

 そして二人は同時に、大きな達成感と疲労感に満ちた溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 



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358

 フィリップたちの背後、そして頭上で超遠距離の狩りが行われていた時、実のところ、『サドンデス』はフィリップを狙撃できる状況ではなかった。

 彼がどうこう、護衛の狙撃手がどうこうではない。『サドンデス』が枝から降りたそのとき、フィリップはもう、そこに居なかったからだ。

 

 狙撃に気付いて湖を出たわけではない。

 その時点ではカウンタースナイパーの二人以外、誰も狙撃に気付いていなかった。

 

 フィリップは消えたのだ。

 

 忽然と。

 

 攻守交替して鬼役になったシルヴァから逃げている途中に、もう少しで捕まえられそうだと無邪気な笑みを浮かべていた彼女の目の前で。

 

 はしゃぎ回る年下の子供に温かな眼差しを向けていたお姉さんたち(ルキアとステラ)、そして二人も含めた子供たちを見守っていた護衛や従者たちの、目の前で。

 

 「……う?」

 

 人間って水に溶けるものだっけ? とばかり、不思議そうに首を傾げるシルヴァ。

 始めはフィリップが水中に潜ったのだと思っていたルキアたちも、すぐ傍にいるはずのシルヴァが立ち止まってきょろきょろしていれば、流石に異変に気付く。

 

 「シルヴァ、どうした? カーターを見失ったのか?」

 「見失うって言っても、この透明度に、水底は泥の少ない砂利でしょう? あんなに遊んでいたのに殆ど濁っていないし、見失うなんて……」

 

 二人は波打ち際から立ち上がり、ちゃぷちゃぷと水の中に入っていく。

 やがてシルヴァの元まで来ると、周囲の湖面を見回して──三人で顔を見合わせる。

 

 いない。

 

 未だルキアとステラに身長の追い付かない矮躯とはいえ、同年代と比べてそう背が低いわけでもない人間一人が、澄んだ水の下の何処にも見当たらない。

 

 「……穴でも開いているんじゃないだろうな」

 

 湖にそんなものがあるのかは知らないが、海の沖合では地下空洞や大陸棚の構造、海水の温度差など様々な原因で水流が急激に下降することがあるらしい。運河の一部では渦潮という現象が見られるとも聞くし、何か自然現象で水底に引きずり込まれた可能性もないではない。尤も、ルキアたちは腰まで浸かるかどうかという深さの“底”だが。

 

 が、それにしたって、その現象そのものや残滓が全く見当たらないことはないだろうし、フィリップより体重の軽いシルヴァが巻き込まれていないのも不自然だ。

 

 フィリップが潜って隠れて沖合に行き、三人を揶揄っていると考えた方がまだ納得できる。

 尤も、フィリップがそういう悪戯を好む性質ではないのは皆も知るところだ。そうではないとしたら……。

 

 「魔物に襲われた……なんてこと、有り得る? だって、その……」

 

 メグと親衛騎士の手前、ルキアの言葉は歯切れが悪い。

 公的には「湖の異変は自然に解決した」ということになっているし、そうでなくてもフィリップが邪神を召喚して掃除したなんて言えるわけもないのだから。

 

 しかし会話の相手、ステラには問題なく意図が通じる。

 魔物がいる可能性は無いではない。掃除の後で住み着いた可能性は排除できないのだから。

 

 二人は顔を見合わせて眉根を寄せ、悩まし気に目を瞑った。

 

 黙考は一秒以上、二秒以下。

 ただそれだけの時間で、二人はきっぱりと覚悟を決めた。

 

 「……私が見るわ。万が一の場合でも、貴女なら私を殺せるでしょう?」

 「そう。お前の視点ではそれが最適に見える。が、違う。私が見るべきだ。一度あれを目にしている私が見た方が何事も無く終わる可能性がある分、優越する選択肢と言える」

 

 “見る”覚悟を。

 もしかしたら溺れているかもしれないフィリップを見つけるため、邪神が住み着き、それを邪神が掃除したという深みに、魔力を通じて物理視界より多くの情報を見る目を向ける覚悟を決める。

 

 その結果として発狂するかもしれないリスクを、許容する。

 

 ルキアはステラの強さ──魔術戦と、心の強さを信じて。

 ステラはいつものように、状況と選択肢を考えて最適の解を選んで。

 

 ルキアが頷くと、ステラは瞑目して深呼吸したかと思うと、内包した魔力で幽かに輝く蒼い双眸を蒼碧の湖面へと向ける。

 

 そして──。

 

 「──ば、かな」

 「なに、どうしたの? ……ステラ?」

 

 意味のない感嘆符。

 ステラ自身、配下が報告にそんなものを混ぜれば叱り付ける、無意味な時間の浪費。

 

 そんなことをしてでも自身を落ち着かせなければ、或いは声が震えて言葉の体を為さなかったかもしれないほどの衝撃と恐怖が心を揺さぶる。

 

 「……カーターの魔力反応が無い」

 

 見当たらない。

 湖の何処にも、フィリップの魔力反応が無い。

 

 フィリップの魔力は元から凄まじく貧弱だが、それでもステラやルキアは小さな中に確かにある個性を記憶している。

 

 ルキアやステラ、離れたところにいるミナの放つ膨大な魔力に目を晦ませることなく、湖のもっと深い場所に棲む魚や、最近住み着いたばかりであろう弱々しい精霊の魔力を読み解ける。

 なのに──人間大の、いつも傍に居た魔力の情報がどこにも見当たらない。

 

 愕然とするステラから視線を斬り、ルキアも視界のチャンネルを魔力の次元に切り替える。が、成果は無い。

 

 「そんな……」

 

 そんな馬鹿な話は無い。

 だって、生物は例外なく魔力を持っている。どれほど微量でも、どれほど低質でも、必ず。或いは物品や鉱石でさえ、魔力を内包するモノはある。

 

 死体でも、そうだ。

 

 考えたくない可能性、最悪中の最悪と言っていい可能性として、フィリップが溺れた可能性もあるにはあるが──たとえ人間が溺死したとしても、内包した魔力が発散し切って消えてしまうまでには、それなりに時間がかかる。

 

 いや、そもそも人間が溺水してから溺死するまで、そこまで早くは無い。

 あの恐るべき『深淵の息』、肺の中を即座に海水で埋め尽くしたときでさえ、犠牲者は苦しみ藻掻いてからじわじわと死に至る。だからこそフィリップがカルト相手に使いたがるのだ。

 

 もしも下降海流や渦潮の類に巻き込まれて溺れたのだとしても、まだフィリップを見失ってから一分かそこら。人間が窒息死するには早い。

 

 故に、これは。

 

 「フィリップが……消えた?」

 

 消えた、と表現すべきだろう。──子供とはいえ人間一人が、まるで消滅したように、何の痕跡も無く消え去った。

 

 エネルギー保存則? 質量保存則? そんな縛りがあるんだ、ふーん、物理現象って不便だね。と言わんばかりの利便性と特殊性を持つ現代魔術だが、それでも物質を何の痕跡も残さずに消滅させることは不可能だ。

 ルキアが同じことをしたければ、『明けの明星』の超エネルギーで消し飛ばすとか、重力系魔術で分子レベルでバラバラにするとか、何かを媒介にしなければならない。ステラもそうだ。

 

 すると当然、強力な魔術が巨大な爪痕を残す。

 魔力は嵐の如く吹き荒れ、大抵の魔術師は光と音のついた暴風に煽られたような衝撃を受けるし、ミナや、それこそルキアやステラのような知覚力の鋭敏な魔術師が気付かないなんてことは有り得ない。

 

 「……ふぃりっぷ、つれてかれた」

 

 シルヴァがぽつりと呟いて岸の方にぱちゃぱちゃと泳いでいく。

 流石に聞き捨てならなかったステラの手が素早く伸び、シルヴァを釣り上げるように引き戻した。

 

 「心当たりがあるのか、シルヴァ? なら教えてくれ。あいつを助けるにはどうしたらいい?」

 

 ステラの真剣な眼差しとルキアの縋るような視線を受けて、シルヴァは胡乱な顔で首を傾げた。

 

 「ん? むり」

 

 淡々と。

 至極当然のように突き付けられた拒絶に、ルキアの表情に危険な色が宿る。

 

 しかし、シルヴァは別にルキアやステラに対する意地悪やフィリップへの悪意で言ったわけではなかった。

 

 「にんげんにはむり」

 

 淡々と。

 至極当然のように告げられた言葉が「人間風情には」という意味を持っていることを、ルキアとステラは直感的に理解した。

 

 

 ◇

 

 

 気が付くと、フィリップは重く暗い水の中にいた。

 水面はどこまでも上に、水底はどこまでも下に。蒼碧と昏い蒼に挟まれて揺蕩う自らの矮躯を客観視する。

 

 この水は、不思議だ。

 掬い上げるととても軽いのに、深みに入ると二度と浮かばない。水底を見通せない碧なのに、沈みゆく最中に水面を見上げると、日の光がいつまでも煌めいている。息が出来ないのに、不思議と苦しくない。

 

 溺水は地獄の苦しみだと何かで読んだけれど、湖の中は温かくて、ほんの少しも辛くない。眠りに落ちるように、深く、昏い、水の底に沈んでいく。

 

 こんな死なら、悪くない。死の後が斯く安らかであれと、そう思わせる安らかさだった。

 

 口の中から、最後の空気が泡となって出て行った。

 だんだん視界が狭く、昏くなっていく。

 

 静かで、満ち足りた、涼やかな夜のような匂いが忍び寄る。

 その柔らかな腕に身を任せ、抱擁の中で眠りに就く。その幸福に思いを馳せて目を閉じて──ふと、声が聞こえた。

 

 「──行くな、カーター!!」

 

 水の上から、深淵へ。届くはずもない声はしかし、くぐもってはいたが、確かに耳朶を打った。

 

 本当に聞こえたのか、それとも幻聴か。

 それは定かではないが、フィリップにとってはどうでもいいことだった。

 

 声を認識した瞬間、フィリップは雄鶏の声を聞くよりはっきりと意識を取り戻した。

 

 ──死にたくない。

 

 何よりもまず、そう思った。

 

 死は救いだ。フィリップのような心の傷付いた者にとっては、特に。

 

 けれど、その救いは狭量だ。自分一人だけしか救ってくれない。

 

 理解者を喪うステラには、むしろ絶望が押し寄せることだろう。フィリップが彼女を失ったとき、どんな感情を抱くのかは我が事ながら全く想像できないが──正常であれば、それこそ自死するほどの苦痛のはずだ。

 

 であるなら、そんな苦痛を、彼女に背負わせるわけにはいかない。

 そんなことになるのなら、死んではいけない。死にたくない。危機感と共に、そう思った。

 

 フィリップは遥か彼方の水面に手を伸ばし──また、声を聞いた。

 

 「起き上がりなさい、おばかさん」

 

 奇妙な声だった。

 

 フィリップのことを「おばかさん」なんて呼びそうなのはミナくらいだが、彼女の声ではない。知らない人の声のはずなのだが、しかし、奇妙な親近感もあった。家族のように、とても親しい人のような──。

 

 なにより、その声は心地よい。

 フィリップも含めた人間に対して一片の価値も感じていないことが、質感さえ明瞭ではない声からでもはっきりと分かる。

 

 考えに浸る間もなく、再び声が聞こえる。

 今度は、今にも泣き出しそうなルキアの声だった。

 

 フィリップは声に言われるがまま、上体を起こした。水面に向かって泳ぐだけの酸素が残っていないことは分かっていたが、それでも、生きたいという思いがそうさせた。無為な行いを、美しい死の前で醜く足掻くことを強いた。

 

 そして──気が付くと、フィリップは腰のあたりまでを水に浸して、湖の中に座っていた。

 さっきまでいた場所より浅瀬に移動している、と不審に思ったのもつかの間、気管のかなり際どいところにまで水が入っていることに、強烈な刺激で漸く気が付く。

 

 盛大に水を吐き出して咳き込んでいると、ルキア達が水を蹴立ててやってきて、フィリップを抱き締めて団子のようになった。

 波打ち際で主人を待っていた従者たちも何事かと駆け寄ってくると、最後にシルヴァがぱしゃぱしゃと泳ぎながら。

 

 ルキアもステラも、さっき聞いた声のように泣いてはいない。二人とも何かに怯えたように顔を蒼白にしているが、一見した限りでは怪我や狂気の気配はない。シルヴァだけが、いつか見たような不機嫌さと胡乱さの入り混じった顔でフィリップをじっと見つめている。

 

 「なんだったの?」

 「何があった?」

 「今の何?」

 

 ルキアと、ステラと、フィリップと。三人の声がちょうど重なった。

 

 

 

 

 



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359

 フィリップが迷い沈んだ、或いは連れて行かれたそこに、人間が呼び習わすような名前は無いそうだ。

 

 そこは精霊たちの狩り場──と言うと、少し物騒だ。

 人間は悲喜交々の複雑な感情を持つが、自覚できていない感情、無意識にほど近いものもある。彼女たちはそれを餌にしており、その結果として、時に様々な逸話を生んできた。

 

 強さへの憧れを心の表層に燃やし、その裏では戦いへの恐怖を抱いていた少年の恐れを喰らい、勇猛果敢な英雄を作り出した。

 自分より善く国を治める者がいると笑っていた王家の人間の、心の裏側にあった諦観を喰らい、内戦を引き起こした。

 

 食事の間、その場所は心の形に景観を変える。

 

 強くなりたいと一心に願う少年の心は、何処までも続く綺麗な鏡の如き湖面だった。

 どす黒い策謀に触れ続けて疲れ切った男の心は、荒波の猛り狂う嵐の海だった。

 

 フィリップが見たのは、何処までも遠く、それでも確かに輝く水面。そして、日の輝きなど届かぬ深さの底。ただただ昏く、見通すことさえ叶わぬ深みにある、水底。

 

 「……凄く比喩的で示唆に富んだ話だけど、全然分かんないや。結局、僕はどんな精神状態で、何を食われたの? というか、ホントに食われたの?」

 

 湖を囲う森の中で、フィリップはシルヴァと共に木陰に座り、彼女から詳しい話を聞いていた。

 一先ずはフィリップだけだ。ルキアとステラは森の外で待機している。勿論シルヴァはあれは邪神絡みではないと二人に断言してくれたのだが、フィリップの心を語るのなら邪神についての話をしないわけにはいかないのだから。

 

 「シルヴァはある程度分かってると思うけど、僕の精神はシュブ=ニグラスに守られてる。たとえ僕自身が自覚していない領域だとしても、精霊風情が彼女の守りを抜けるものなの? あぁいや、その守り自体が大雑把な可能性はあるけどさ」

 

 フィリップはらしくもなく焦っているようで、先の問いの答えも返されていないというのに問いを重ねる。

 仕方ないな、と言いたげな溜息混じりに答えるシルヴァの方が、むしろ──或いはちゃんと年上に見えた。

 

 「ふぃりっぷがみたのは、ていかんとぜつぼう。たぶんだけど」

 「あー……まぁ、そうだろうね」

 

 呆れ混じりにフィリップは頷く。

 

 水遊びが楽しいとか、木陰は涼しくて気持ちがいいとか、そういう表層の部分を全部取り除いたら、諦観と絶望の二つが残るのは分かる。

 いや──あの、夜闇なんかよりずっと寒々しい水の色を思い出せば、思考するまでもなく直感できる。あれは、鏡の中にある色だ。瞳を濁らせる影の色。

 

 「しゅぶにぐらすのことはしらないけど、ふぃりっぷのへんかがつごうのいいものなら、たぶん、きょようする」

 「確かにそうかも。じゃあ僕が無意識の何かを食われた結果、シュブ=ニグラス……外神たちは得をするってことか。何だろう……反感とか?」

 「いまあるならちがう。……そもそも、ちょっとかんがえたくらいでわかるわけない。むいしきだもん」

 「そりゃそうだ」

 

 言葉遊びのようだが的確な指摘に、フィリップも目から鱗が落ちた気分だ。

 やっぱり森の中にいるシルヴァは頼りになるなぁなんて頷いていると、そのシルヴァが意外そうな顔で見上げて首を傾げた。

 

 「……ふぃりっぷ、ぜつぼうにおぼれなかったの?」

 

 これまた詩的な表現だが、あの空間を訪れたフィリップには言わんとしていることは分かる。

 

 「うん……よく覚えてないんだけど、ルキアたちが僕のこと呼んでたでしょ? それで引き戻されたんだ」

 

 あそこで何も考えず沈むままに身を任せていたら、恐らく、フィリップは現実世界に帰ってこられなかっただろう。あれはそういう場所、そういう現象だ。

 

 自らの心の景色、心底の絶望と諦観に溺れて、心が溺死する。

 今のフィリップが──狂気という状態にさえ踏み入れないフィリップが、その先とも言える廃人の域に立ち入れるものかと思わないでもないが、試す気にはならない。

 

 精神の平穏が訪れるのなら試す価値はあるが、あれは多分、肉体にもフィードバックがある類のものだろうし。

 

 そこまで考えたフィリップは、ふと自分の思考に疑問を抱く。

 しかし具体的にどの部分へ違和を感じたのか自覚する前に、シルヴァが怪訝そうに頭を振った。

 

 「う? んーん。だれもよんでない。さがしてるうちにかえってきたし、しるばもよびにいくところだったし」

 「え、嘘? じゃあ幻聴か……」

 

 幻聴や幻覚の類は、流石にシュブ=ニグラスの守りの範疇外だろう。外部からの精神影響ではなく脳の誤作動とか、単にフィリップ自身の妄想の産物だとしたら、そこまで干渉される方が逆に嫌だ。

 

 まあそれはそれとして、幻聴も幻覚も症状としては喜べるようなものではないので、フィリップの浮かべた笑みには苦みの色が強い。

 

 「よばれて、どうしたの?」

 「どうしたってこともないよ。あー、ここで死ぬのは不味いなーって思って……そうだ、声がした。身体を起こしなさい、おばかさん、って。もしかしてあれ、精霊の声だったのかな!?」

 

 だとしたら湖の精霊と話したことになる! と喜ぶミーハー少年。

 歓喜の理由は言うまでも無く、湖の精は英雄譚の類ではポピュラーな登場人物だからだ。

 

 無意識の領域とはいえ自分の感情を食った相手だが、それはそれ、これはこれ。そうすっぱりと分けて考えられる辺り、フィリップはいつものフィリップなのだろう。いつも通りの無頓着さだ。

 

 シルヴァは呆れ混じりに笑いながら、また頭を振って否定する。

 

 「ちがう。それはたぶん、らーくす。しるばとおんなじ、かんきょうのだいりにん」

 「ヴィカリウス・システムってこと? ……へー、湖にもそんなのいるんだ」

 

 心なし、ではなく、明らかに声のトーンが落ちる。

 精霊じゃないのか、とがっかりしているのは明らかだが、どう考えてもヴィカリウス・システムの方が遭遇確率は低い。というか、接触経験のある人間などフィリップくらいだろう。下手をすれば邪神よりレアだ。

 

 「しるばがいるからでてきたのかも。ふつうはにんげんなんかにかかわらないし」

 「そりゃそうだ。というか、シルヴァみたいに実体があるのも稀なんでしょ?」

 

 シルヴァは頷くのではなく、自慢げに胸を張る。

 それがヴィカリウス・システムとって凄いことなのかどうかは、人間と外神の価値観しか持ち合わせないフィリップには分かりかねるのだが。

 

 「あー……考えることが多いなぁ。とにかく最優先は、僕が何を食われたのか、だけど」

 「ん。ふぃりっぷ、しるばのこと、ちゃんとすき?」

 

 真正面からの問いをしっかりと受け止め、フィリップは目を瞑ってまで真剣に考える。しかし、結論を出すまでは一瞬だった。

 

 「……勿論。それは無意識じゃないし、ちゃんと好きだよ」

 「えへへ。じゃあなんでもいい」

 

 ふわり、花開くような笑顔を浮かべるシルヴァ。

 その幸せそうな表情と穏やかな笑い声につい頷きそうになるが、そうもいかない。

 

 「いや良くないよ!? 気になるじゃん!?」

 

 無意識なら何を食われてもいい、というわけではない。

 そりゃあ人間であることへの拘りや人間性への憧れ、あとはカルトに対する憎悪辺りは明確に意識できていることだから、フィリップ・カーターという人間を構成する上で重要なものは無事のはずだ。

 

 だが無意識領域にも重要なものはあるだろう。

 例えば社会性……は、元からあるかどうか微妙だが、少なくとも宿の仕事に支障がない程度にはあるはずだ。遵法意識も同族意識も薄い人間に社会性も何もあったものではないと、そう思わなくもないけれど。

 

 あとは、死や痛みへの恐怖。これを失くした生物は、その生存能力を著しく低下させる……が、これも正直、元からあるかどうか怪しい。

 

 「……ふぃりっぷがだいじにしてるものは、ぜったいぶじ。ふぃりっぷがだいじにできてるなら、それはむいしきじゃないし、しゅぶにぐらすがゆるすわけない」

 「いや、そうだけど……うん? いや、それなら別にいい、のかな? 分かんなくなってきた……」

 

 実はそんなに大きな問題ではないのでは? なんて思ってしまったが最後、フィリップの関心は簡単に別のところに飛んでいく。

 

 「っていうか、この話、皆には内緒ね? 特にミナには」

 「なんで?」

 

 呆けたような声色の問いに、フィリップは何も気負わず、何も恐れず、柔らかな微笑さえ浮かべて言う。

 

 「もしも食われたのがシルヴァだったら、僕なら精霊を根絶やしにするからだよ」

 「……ん」

 

 ぽふぽふ、と、細かな葉の手袋を纏った柔らかな手がフィリップの頭を撫でた。

 ただの通行人に必死に吠え立てる子犬を宥めるような、或いは「落ち着け」と諭すような仕草だ。フィリップはくすぐったそうに、照れ笑いで受け入れる。

 

 「るきあとすてらは? せいれいにもらーくすにもてだしできないよ?」

 「変に心配かけたくないし、二人にも内緒。そもそも自分のどこがどう変わったのかも分からないしね。……どうせなら、諦観と絶望の方を食って欲しかったんだけどな」

 「……まずそう」

 

 確かに、と思ったフィリップだったが、相槌を打つ前に話が逸れていることに気付いた。

 

 「シルヴァは、さ。僕の何が食われたと思う? ……今のシルヴァなら、分かるんじゃない?」

 

 今の──森の中にいるシルヴァは、容姿こそ変わらないものの、知性は普段を遥かに超えたものになる。

 森の全域を完全に掌握し、過去に森の中で起きた出来事から情報を汲み取って知識とする。森を出ればじわじわと忘れてしまうらしいが、森の中にいる限り、シルヴァは殆ど別人だ。

 

 思考の速度や精度、観察力、把握力、記憶や知識。そういったものが普段とはまるで違う。それも森に入る毎に、徐々に強度を増している気がする。

 

 だから今の、森の中にいるシルヴァなら、或いはフィリップが何を食われたのか分かるのではないか。

 駄目元で聞いただけだったが、しかし、シルヴァは少し首をひねったあと。

 

 「んー……わかんない」

 

 あっけらかんと、軽々に否定した。

 しかし、言葉はそこで終わらない。

 

 「もうたべられたものなのに、それでもきになる? むだなのに」

 

 突き放すような、或いは揶揄うような言葉に、フィリップは思いっきりに瞠目する。そして深く大きく息を吸うと。

 

 「た、確かに……」

 

 囁くようなか細い声で言って、今日はシルヴァに気付かされることが多いなぁ、と益体のない頷きを返した。

 

 

 

 

 

 

 




 いやー森にドライアドがいればなー! 心の深層を読んで何が食われたのか、本当に食われたのか判別してくれたかもしれないんだけどなー! ドライアドがなー!


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360

 シルヴァとの密談を終えて森を出ると、皆がすぐそこで待っていた。

 森と湖畔とを隔てる境界線、ぼんやりとだが直感的に把握できる木々と藪の壁のラインの一歩手前に、ルキアとステラと二人の従者、そしてミナまでもが。

 

 「……それで? シルヴァが知っているということは、カーターがいきなり消えた理由はヴィカリウス・システム絡みなのか?」

 

 先刻の、声も出せずにただ抱きしめることしかできないほどの動揺からは、流石、すっかり立ち直ったステラが問う。

 

 フィリップは「えーっと」と考えを纏めている風を装って時間を稼ぎつつ、残る二人の様子を窺う。

 

 ミナは、多分殆ど何も聞かされていないのだろう。不機嫌そうに、そして退屈そうに立っている。それでも途中だった剣技の練習に戻っていないのは、フィリップ絡みの事だからだろう。飼い主としての責任感が億劫さを上回る程度には愛されているらしい。

 

 落ち着くまでステラ以上に長時間の抱擁を要したルキアは、もう表情こそ穏やかで上品な微笑だが、視線はフィリップに固定されて動かない。……なのに頼りなく儚い印象を受けるのは、赤い双眸の奥に隠しきれない不安の光があるからか。

 

 「……」

 

 フィリップはそれを払う方法を知らない。

 どんな言葉が、どんな行動が効果的なのかを考えるには年齢も経験も、他にもいろいろと足りていない。

 

 けれど──けれどまさか、無視も出来ず、懸命に思考を回す。

 

 ルキアの不安の原因は、フィリップが先ほどまで気にしていたものとは違うはずだ。

 俗に水の精霊と呼ばれる数種類の精霊種の、そのうちの一種は人間の無意識にある感情や思考を食う……なんて話は、精霊の登場する物語を山ほど読んできたフィリップでさえ、さっき知ったほどマイナーな知識だ。

 

 それに、そもそも王都の人間は精霊との──言い換えるなら、自然との関わりが著しく薄い。フィリップは田舎にいた頃に日常的に森に入るからドライアドのことを知っていたし、祈りを捧げる習慣もあるが、都会ではそもそも森や湖といった自然の環境が身近にない。

 

 となると、やはりフィリップが溺死しかけたこと、或いは急にいなくなったことが理由だろう。

 あの憔悴ぶりには覚えがある。記憶の片隅、忘却の淵に引っかかるようにだが、確かに。

 

 「……あぁ、二年前の」

 

 思い出した。

 なら──フィリップは、彼女の不安を払う方法を知っている。

 

 「ルキア、ちょっと屈んでくれませんか?」

 「? えぇ、構わないけれど……っ!?」

 

 ルキアが声を詰まらせる。

 彼女が最初に感じたのは、風情も雰囲気もないことに、湿り気だった。岩肌や漂流物から身を守るためだという、田舎では常識的らしい長袖シャツが吸った湖の水の匂い。

 

 そして──体温と、呼吸と、鼓動。

 

 ルキアの頭を抱きかかえるように抱擁し、髪を梳くように撫ぜる、ルキアよりも温かい子供の体温。濡れた服で冷えて風邪をひいてしまうかもしれない、なんて場違いな心配もさせる、幼い温度。

 

 一定のリズムで上下する、しなやかに鍛えられ、それでもまだまだ小さく薄い胸板。頼りがいは、正直ない。けれどその分、年少者に対する慈愛や庇護欲はそそられる。

 

 とく、とく、と、静かに穏やかに、それでもしっかりと脈動する、命の音。自分を抱きしめておきながら、昼寝をしているときのような穏やかさを保っているのは少しだけ気に入らないけれど。

 

 フィリップは生きている。いまここにいるのだと、直感で理解できる。閃きも驚きもなく、すとんと胸に落ちて沁み込むような、滑らかで温かな納得に落ちた。

 

 驚きに見開かれていた目がゆっくりと閉じ、両腕が恐る恐る抱擁を返す。

 ルキアもフィリップも、他の誰も何も言わないままどのくらいが経っただろうか。ルキアの身体から硬直が抜けきったのを確認したフィリップが柔らかに口元を緩め、頭頂部へと唇を落とす。

 

 ステラの従者が思わず声を漏らしかけたが、主人が片手で制した結果、最も大きな反応を見せたのはミナになった。と言っても、彼女もフィリップの仕草が自分の真似であることに気付いて愛玩の笑みを浮かべただけだが。

 

 ルキアの手に再び強張るような力が加わるが、フィリップは変わらず慈母の如き笑みで受け入れる。そうしてまた幾らかの時間が過ぎ、フィリップが漸く口を開いた。

 

 「──僕は、生きていますか?」

 「……えぇ」

 

 当たり前のことを尋ねられて、しかし、ルキアは抱き着く手に一層の力を込める。フィリップに些かの苦痛も与えないよう気を配りつつも、腕の中にある命を手放すまいとするかのように。

 

 「僕は生きている。ここに存在している。そうでしょう、ルキア?」

 「……」

 

 言わんとするところを測りかねたか、怪訝そうな赤い双眸がフィリップを見上げる。フィリップは意図を言語化しようと試みて口を開いたものの、結局は何も言わずに口を閉じ、銀色の髪を梳くように撫でる。

 

 その甘やかでありながらもどこか退廃的な空間は、ルキアが立ち上がったことで終わりを迎える。

 少しだけ名残惜しそうにしながらも離れて立ち上がったルキアの微笑みに、もう翳りは無い。

 

 いや、むしろ目に見えて晴れて──照れている。

 フィリップから離れた直後は穏やかな微笑を浮かべていたのに、数秒経った今更になって頬を耳まで赤く染めて、視線を明後日の方角へ泳がせていた。

 

 表情こそ平静を装ってはいるものの、肌が白いだけに血色が分かりやすいルキアに、フィリップは「そんなに照れることかなぁ」なんて内心首を傾げる。このくらいのことはマザーもミナもやるし、実家に居た頃は母親にだってされていた。フィリップもシルヴァにはよくやることだ。

 

 まあ、四つ五つ下の子供に慰められるというのは、彼女の美意識や自尊心には適わないことではあるだろうけれど。

 

 「おや、私にはしてくれないのか?」

 

 物も言えない様子のルキアを見かねたステラが揶揄い交じりの助け舟を出す。が、ルキアには感謝の視線で迎えられたその言葉に、フィリップは怪訝そうな一瞥を返す。視線だけでなく表情全部で、下手な冗談を聞いたと呆れている。

 

 「え……? いや、下着姿の女性に抱き着くほど無神経ではないので……」

 

 さも自分が常識人であるかのような、そしてステラが非常識的であるかのような言い種に、ステラはけらけらと軽快に笑う。

 そして笑ったかと思えば、フィリップが消えた時と同じくらいの唐突さで表情が消えた。

 

 「ははは。次下着って言ったら爵位の件、前倒しにするからな」

 「ごめんなさい。以後は厳重に気を付けます」

 

 同じく表情の消えた真顔で、フィリップは宣誓するように右手を掲げてみせる。

 

 そんな他愛のない遣り取りで気まずくなりかけた空気を日常に戻すと、ミナが穏やかに──愛玩の情を滲ませる微笑と共に口を開いた。

 

 「フィル。番のご機嫌取りは結構だけれど、先に何があったのか教えてくれる?」

 「あ、うん」

 

 ミナに頷きながら、フィリップは今度はステラの目をじっと見つめて観察している。

 

 ルキアの心配は感情に依るところが大きく、自分の目で見た「フィリップは無事だ」という事実でさえ、心の内にある恐怖が邪魔をして安心材料にしきれない。しかしそれ故に、合理も論理も無視した感情的なアプローチで溶かすことができる。

 

 ステラは逆だ。

 彼女も先刻はフィリップを抱きしめることしか出来なかったが、今では軽口を言える程度には持ち直している。それはフィリップの無事という明確な事実が、彼女には大きな安心材料として働いたからだ。

 

 しかし、フィリップが無事ならそれでいいルキアとは違い、ステラはその先──或いはその大元を気にする。フィリップが突如として失踪した理由や対策を、その知識を求める。

 彼女を安心させるには、感情ではなく論理──どうしてそうなったのか、どのように防げばよいのか、そういった確固たる理屈と理由が必要だ。

 

 尤も、ステラの目には分かりやすい恐怖の色はないけれど、それはそれ、フィリップが彼女の心配をすることとは別の話だ。

 

 「僕がいきなり消えたのは精霊の仕業で、湖のヴィカリウス・システムが助けてくれたらしいです」

 「ヴィカリウス・システム……?」

 

 ステラに向けた言葉だったが、ミナが反応した。

 シルヴァに向いたその視線の意図するところは正しいと首肯する。

 

 「うん。シルヴァの同族だね。多分、例の汚染が気になって見に来たか、ここに発生したか……勿論、元々ここに居たっていう可能性はゼロじゃないけど」

 「星の表層の何処に居てもおかしくないし、いない時間だってあるのでしょう? 偶然と考えるよりは……シルヴァの飼い主、きみを見に来たんじゃない?」

 「どうだろう? ヴィカリウス・システムが人間に興味を持つ理由にはなる……のかな?」

 

 森の中にいるとき限定だが、シルヴァは昔の──今の“シルヴァ”のものではない、かつて存在した“ヴィカリウス・シルヴァ”の記憶や、森林という環境が経験してきた歴史を断片的に思い出すことが出来る。

 記憶は知識となり、知識は価値観となる。シルヴァの価値観はゆっくりと、しかし確実にヴィカリウス・システムのそれへ変化、いや成長しているのだ。

 

 そのシルヴァに問うてみると、彼女は翠玉のような目を胡乱げに細める。

 

 「……たぶん」

 「そ、そう……だよね?」

 

 表情から「何言ってんだお前」みたいな辛辣なことを言われるかと身構えたフィリップだったが、シルヴァの答えは平凡で、平穏なものだ。声こそ胡乱そうだが、少なくとも言葉の内容は。

 

 「それで? ヴィカリウス・システムはカーターを助けてくれたそうだが、精霊は何のためにカーターを消したんだ? ただの悪戯か? 姿を消したというか、存在が消えたような有様だったが」

 「精霊の悪戯なんて珍しい話でもないでしょう? ドライアドだって、森を不用意に傷付けたり汚したりしたら、陰険で苛烈な制裁を加えるって話ですし……まぁ、ドライアドのは“悪戯”とは少し違いますけど」

 

 やっぱり気になるよね、とフィリップは内心苦笑するが、懸命に表情を制御する。

 尤も、フィリップの素直な表情筋は心の内をそのまま反映してしまうのだが、幸い、それは傍迷惑な精霊に対するものと受け取られた。

 

 「……フィリップじゃなくて、私たちを揶揄うためだった、と? それなら……それなら、私にも怒る権利はあるわよね?」

 「無駄よ。精霊が住むのは魔力次元と物理次元の狭間、ふたつの裏側。どんな攻撃魔術でも、その壁を無理やりに壊すことはできないわ」

 

 元通りなのか、或いは意図して元通りを演じているのか、ルキアが湖に険の籠った眼差しを向ける。

 湖は清涼なだけでなく、広く、深い。だが『明けの明星』なら数発で干上がらせられるだろう。貫通力と射程が最大の特徴であるルキアの切り札だが、エネルギー化された光は強烈な熱を振りまく。中程度の出力で一発撃ち込めば水蒸気爆発を起こし、水位が目に見えて下がるはずだ。

 

 が、そんなことをしても精霊たちには傷一つつかない。時間と労力と景観を無駄にするだけだ。

 

 「……まあ、フィルに怪我がないのならそれでいいわ。精霊に魂だけ連れ去られたとか、取り替えられたってことも無さそうだし」

 

 ミナは「休憩は終わりね」と伸びをして飛び立ち、剣の練習に戻っていった。

 どうでもよさそう、というと少し語弊がある。飼い主としてペットの安否を確認しに来たわけだし、場合によっては湖そのものを干上がらせるくらいの報復措置だって視野に入っていたのだから。

 

 「相変わらず自由な奴だ……が、ふむ。言う通りではある」

 

 意外にも頷いて同意を示したステラが、フィリップの腰に手を添えて抱き寄せる。身長差故に必然、フィリップはステラの胸元に顔を寄せる形となった。

 

 水着はオーソドックスなデザインで、布面積は決して少なくない。が、逆にステラのプロポーションは非凡なもの。要所こそ完璧に隠されているものの、肌の露出具合は『惜しげも無く』という表現が過剰ではなく当てはまるもの。フィリップが下着だと思ってしまうほどのものだ。

 

 そんなステラに抱き寄せられても、フィリップは照れたり恥ずかしがったり、或いは興奮したりはしない。それがステラにはフィリップらしく思えて、ふ、と僅かな呼気と共に表情を緩めた。

 

 「お前が無事であるなら。お前が無事に生きていて、変わらず今まで通りのお前であるのなら、それだけで安心できるよ、私は」

 

 ステラは穏やかに、まだ湿気を含んだフィリップの髪に頬を寄せて囁く。静かで甘やかな、一夜明かしたような空気が流れかけて──とす、と軽い衝撃で霧散する。

 見ると、ステラに抱かれたフィリップは、反対側からシルヴァに挟まれていた。そしてルキアもしずしずと淑やかに歩み寄り、フィリップをシルヴァと一緒に抱き寄せる。

 

 「じゃあ、すてらはしょうがいしんぱいむよう。ふぃりっぷはずっと──なにがあってもふぃりっぷのまま」

 「そうなのか?」

 

 幼児の言葉と断じるには、シルヴァの言葉は重すぎる。しかし森の外の彼女は、ヴィカリウス・システムとしても精神的にもまだまだ未熟な幼子に過ぎない。

 

 ステラがどう解釈したものかと悩む台詞に、彼女自身が補足をくれた。

 

 「ん! しるばとずっといっしょって、やくそくしたから」

 

 疑う余地など何もない。

 満面の笑みでそう示すシルヴァに、ルキアとステラだけでなくフィリップも柔らかな笑みを浮かべる。

 

 フィリップはもう、自分の中にあったはずの何かが食われたかもしれないなんて気にしてはいなかった。

 

 




水ル
注意事項は今まで通り。


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水スは誰か任せた。ミとマとエとシも頼む()


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361

 その日の夜。

 フィリップはベッドに寝転がりながら、窓の外の遠い星空を眺めていた。

 

 消灯してから既に一時間が過ぎていることは懐中時計で確認済みだ。健康優良児のフィリップがそれほどの時間、眠りに落ちずにいられたのはむしろ珍しい。特別な理由が──悩みが無ければ、昼間は散々遊んで疲れているのだし、一分そこらで眠っていただろう。

 

 今日は全く寝付けない。もぞもぞとベッドを抜け出して靴を履き、コテージを出て行くほどに。

 

 「カーター様、どちらに?」

 「うわっ!? あぁ、なんだ、親衛隊の……ちょっとお散歩に」

 

 玄関の外に立哨がいると思わなかったフィリップは声を掛けられて飛び上がるが、声の主が全身鎧姿であるのを見てほっと安堵する。声こそ女性だがフルフェイスヘルムに隠された素顔を確認しないのは不用心ともいえるが、そもそもフィリップはステラの親衛騎士たちの顔や名前を正確には把握していない。誰何したくても出来ないのだった。

 

 「明かりをお持ちでないようですが」

 「ちょっとそこまでですから」

 

 誰か呼んでランタンを持ってこさせよう、という意図は汲めたものの、それがフィリップの安全のためとまでは読み切れなかったフィリップは、適当に手を振って歩いて行ってしまう。

 

 見送る騎士はヘルムの下で困り顔だ。彼女たちの最優先は勿論ステラだが、高い地位を持つルキアだけでなく友人であるフィリップも、同様に護衛対象として命じられているのだが。

 かといって、本人の意思を無視してでも守るほどではない。立哨という立場上、玄関に入って誰か呼ぶなんてことはできないから、声を上げることになるのだが、それではルキアやステラを起こしてしまう。

 

 ランタンの重要性は、それほどではない。寝入った主君を起こすほどでは。

 今宵は星月夜。湖面は波打ちながらも夜空を反射させて明瞭だ。そもそも岸辺からいきなり深みになっている部分は、コテージ周辺にはない。多少視界が悪くても問題ないだろう。

 

 そう判断してくれて、フィリップは一人、夜の散歩に繰り出すことができた。

 と言っても、行先は本当にすぐそこの波打ち際なのだが。

 

 波の届かない場所で靴を脱ぎ、裸足で砂利の地面を踏む。仄かに熱を持っていた昼間とは違い、浜はひんやりと冷えていて心地良かった。

 

 「無意識を食う、ねぇ……」

 

 聞く者のない独り言は、心の底からの疑問だ。

 何が食われたのか今更気になって、不安になったわけではない。ただ──気になることが無いわけでもない。

 

 「シルヴァは“外神にとって都合が良いなら許容する”って予想だったけど……」

 

 白く打ち寄せる波に足を付け、冷たい感触を楽しみながらぼやく。

 森の中にいるときのシルヴァの言ゆえに、そういうものかと納得してしまったが、落ち着いて考えると納得しかねる仮説だ。

 

 勿論、外神の行動基準として彼らの気分や利益が挙げられるのは確かなのだけれど、それだけならフィリップを守ったりしないだろう。フィリップを守ることだけが目的なら、外敵全てを予め駆除した平和な世界を作ればいいだけのことだし、フィリップが怪我も病気も、誰かに絡まれたり訴えられたりもしないように運命を操作することだって可能だ。

 

 そうなっていないということは、少なくともフィリップが過干渉を嫌い人間のまま人間らしく生きていたいという願いを持っていることは知っていて、それを積極的に壊そうとはしていない。

 

 いや。

 

 「僕の利益、僕の意思。それに殉じないのであれば、僕を守ろうが僕に従おうが“従僕”とは呼べない。だから少なくとも、ナイアーラトテップはそう動いている」

 

 アレがフィリップに嘘を吐くはずがない。

 だから以前に言っていた「従僕でありたい」という言葉は真実、誠心誠意の表れだろう。

 

 ヨグ=ソトースの忠誠も目の当たりにした。アレも大概大雑把ではあるが、フィリップの意思を汲むという一点ではナイアーラトテップを上回る。まぁフィリップそのものなので、当たり前と言えば当たり前なのだが、それを言い出すとキリがない。

 

 なにせ天地万物だ。フィリップどころか、ナイアーラトテップもシュブ=ニグラスも本質的には彼のもの。誰かの意を汲むことなど造作もないどころか、「意」そのもので、「意を汲む」という動作そのものだ。

 

 「……まあ、深く考えると面倒なことは置いておくとして」

 

 人間の脳は言語に基づいて思考するが、ヨグ=ソトース絡みは大陸共通語どころか邪悪言語でも体系化して理解できない複雑さだ。ヨグ=ソトースが“何”なのかなんて気にしていられない。

 

 「無意識だろうが何だろうが、僕のものであるなら、僕の意思で捨てるまでは守るはずだ。つまり、僕が無意識的に捨てたがっていたものか、捨てた方が()()()()()有益なものか……」

 

 無論、シュブ=ニグラスとナイアーラトテップでフィリップに対するスタンスが違う、という可能性もあるにはあるけれど。

 

 考える。まずは時系列に沿って、主観的な事実だけを順番に。

 あの恐ろしくも心地の良い水の中に沈み、幻聴を聞いて、ヴィカリウス・システムに助けられて、シルヴァと話して──そうだ。あの時、何かに違和感を抱いたのだ。

 

 何だったか。何に対する、どういう違和を感じたのか。二日前の夢のように判然としない。違和感を覚えたことだけは記憶しているのに、細部が全く思い出せない。

 

 もう一度、思考をリセットして初めから考え直す。もっと細かく、昼間のことを思い出すように。

 

 あの時、フィリップはシルヴァと遊んでいた。

 そして不意に、とても深い水の中のような空間に──フィリップの心を映したという空間に沈んだ。そして幻聴を聞き、死にたくないと足掻いて藻掻いて──?

 

 「あ、っ?」

 

 おかしい。おかしかった。いま、何かが。

 

 当ての分からぬ違和感に襲われ、同じ思考を繰り返す。

 

 遊んでいて、転移紛いの超常現象に見舞われ、幻聴を……違和感は幻聴に対するものか? いや、違う。フィリップの意識や思考はともかく脳の構造自体は人間、人体のそれだ。幻覚や幻聴は機能不全であるにしろ、不全状態の機能としては珍しくない。

 

 その後だ。

 

 「()()()()()()、だって?」

 

 思わず、フィリップは愉快そうな笑顔を浮かべる。

 死にたくない、なんて、生物であるのなら当然持っているべき思考だ。いや、思考以前に、自己保存は本能レベルで備わっている。つまり──無意識だ。

 

 しかしフィリップは夜空を映す水面に目を落とし、半端な笑顔を、愕然として硬直した自分の顔を見つめる。

 

 死にたくない、なんて。それはフィリップが抱くにしては、あまりにも真っ当すぎる──正常すぎる思考だ。異常な価値観を、異常な視座を、異常な精神性を持つフィリップの中に混じった、ひとかけらの“正常”。

 

 それこそが異常だ。

 

 正常か異常かは母集団によって変わる。

 青い目を持つ者の多い王国の中でルキアの赤い瞳は“異常”だが、例外なく赤い瞳を持つ吸血鬼しかいない千夜城では青い目のフィリップこそが“異常”だったように。

 

 異常なフィリップの中に、唐突に生じた正常は──何かの異常だ。

 

 「あの水の下で、僕は……」

 

 溺水の苦しみも無く緩やかに沈んでいく中で、フィリップは確かに思っていた。

 これが“死”であるなら、この安らかさに身を任せたいと。それはどんなにか幸福であろうと。

 

 あの月夜から、フィリップにとって“死”は遥か遠くにある救済だった。死ねないことが分かっていたから──死後に安寧など訪れないことを理解していたから。

 

 人間として平穏無事に死に至り、そこで何もかもが終わるのなら、今すぐに死んだって良いと思っていた。……いや、死んだっていい、なんて言い方では不足だ。

 

 死にたい、と。

 

 死が終焉で救済であるのなら、他の何を措いてでも死にたいと思っていた。

 

 ……そのはずなのだが。今は、全くそう思わない。思えない。

 死ぬのが怖いわけではない。死の後に訪れるものは嫌だが、もう諦めは付いているし、怖くはない。ヨグ=ソトースをはじめとした外神たちに守られているのだから、早々死ぬことは無いと高を括っているのもある。

 

 死への恐怖は無いのに、死を厭う心はある。恐怖ではなく、何か別の理由なのだろうか。

 

 いや、違う。

 

 何か特別……ではなくとも理由があって“死にたくない”のではない。これは、この状態は、“死にたくなくなった”と言うべきだ。

 

 「僕は、それを食われたのか? 希死念慮を? ……不味そう」

 

 呟きは不味い状況かもしれない、ではなく、味についての言及だ。

 精霊の味覚なんて知る由もないのだが──そもそも精霊が人間同様に味を感じながら食事をしているのか、エネルギーを吸収するようなイメージなのかは知らないが。

 

 シルヴァのようなことをいうフィリップだが、その口元は笑みの形に緩んでいる。

 死への渇望なんて、あって良いことはないだろう。それは精神医学に明るくないフィリップでもなんとなく分かるから、心の内にあった希死念慮が無くなったのなら喜ばしい。

 

 が、全然、全く、これっぽちも実感が無い。

 

 「無意識が無くなったって言われてもなぁ……」

 

 声に出してみると、殆ど言葉遊びだ。

 元々意識の範囲外にあったのだから、無くなったってピンと来ないのは仕方ない。が、元々はあったものが消えているというのに、「意識してみればそうかも……?」程度にしか認識できないのはどうなのだろうか。

 

 その程度の影響だから、一々守るまでも無いと──フィリップが介入不要と判断すると思って、シュブ=ニグラスの精神防護が発動しなかったのか? 或いは単純な喜怒哀楽、外界との接触による精神の動きと同じ、自然のものだと判断してか?

 

 いや、そもそも、ずっと当然のようにあった『シュブ=ニグラスの精神防護』だが、これはどういうものだ?

 

 フィリップの精神──或いは脳か魂か──に設置された自動防御なのか。それとも、シュブ=ニグラスがフィリップを逐一監視していて、精神影響に対して随時対応しているのか。

 

 ……どちらもありそうだし、どちらでも有り得る。

 

 「……その辺、どうなんですか?」

 

 振り返りつつ尋ねるが、当然、背後には誰もいない。

 砂利の浜と、夜の闇。景観にそぐわぬ豪勢なコテージまで届く声量ではないし、フィリップの問いは虚ろに消えるはずだった。

 

 しかし──ぞる、と、聞くに堪えない湿った音と共に、夜闇が蠢く。

 闇がより昏く黒く汚濁し、触手となって蠕動する。一本、十本、百本と増殖したそれらは蠢き絡まり合い、やがて見覚えのあるカラスのカリカチュアになった。

 

 ちょんちょん、と跳ね歩く動きは、夜闇で姿がはっきり見えない今なら可愛らしく思える。

 使い魔はフィリップをじっと見つめると、無数のミミズか蛆虫のような単一の触手へと分裂し、砂利の浜に変形した文字や歪んだ記号で構成された魔法陣を描く。

 

 「……んっ!?」

 

 フィリップはシュブ=ニグラスに与えられた智慧によって邪悪言語をネイティブレベルで読解できる。

 その智慧によると、この魔法陣は超高次の召喚術式──いや、邪神の側から作り出した門、()()()()とでも言うべきか。

 

 「まあ、世界は狭いし脆いから、確実に安全な方法で来てくれるなら、それはそれでいいんだけど……」

 

 こんな仰々しいものを介さずとも、ただの一歩を踏み出す程度の労力で宇宙さえ渡れることを知っているから、「何やってるんだろう」なんて思ってしまうが……なんとなく、フィリップの勝手なイメージとして、シュブ=ニグラスは不器用なイメージがある。

 世界を渡るつもりで宇宙を跨ぎ、同一世界内を歩くつもりで別世界を踏み潰し、座標間を移動するつもりで座標そのものを蹴り飛ばしてしまいそうな。

 

 魔法陣が星の光を呑み、新月が漆黒の光を注ぐ。黒い光、見覚えのある、光の原色からは作られないはずの色をした輝きに目が眩む。

 

 眩しくて目を庇ったフィリップが再び目を開けると、波打ち際に一人、静かに立つ人影があった。

 

 月が夜天ではなく地上で輝くことを選んだかのような、黄金とも白銀ともつかない月光色の髪が星明りに煌めく。夜闇の中に浮き上がる漆黒の喪服に包まれた肢体が膝を折って腰を下ろし、ぽんぽんと膝を叩いた。

 苦笑を浮かべたフィリップに、精緻な装飾の織り込まれたヴェールの向こうで柔らかな微笑みが返されたのが分かった。

 

 「……うん」

 

 フィリップは諦めたように、或いは待ち焦がれていたようにマザーの元へと歩き、膝に頭を預けて丸くなった。

 

 

 

 



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362

 マザーの膝に頭を預けて横になったフィリップは、マザーの手が頭を撫でるがままに身を任せる。

 

 しばらく無言で、できれば目も瞑って、太腿の柔らかさや上質な布の肌触りや月と星々の匂いを堪能したいところではあるけれど──そうするとこのまま寝てしまいそうなので、仰向けに姿勢を変え、気力を振り絞って言葉を紡ぐ。

 喪服越しにもはっきりとその存在を主張する豊かな双丘の稜線が微妙に顔を隠してしまうが、マザーが姿勢を変えて何とか目を合わせることはできた。

 

 「貴女の守り……僕の精神の防御は、完璧なんですよね?」

 「えぇ、勿論よ。……どうしたの? 何か気になることでもあった?」

 

 優しく柔らかに頭を撫でる手が急激に眠気を呼び、名残惜しく思いつつも手を取って自分の胸の上へ置く。

 嫋やかで温かい手が、心臓と、重ね合わせた手を通じて全身を温めてくれるような気がして、フィリップの口も軽くなる。

 

 「はい。実は──」

 

 フィリップは精霊の食事場に迷い込んだこと、精霊が人間の無意識を食うこと、そして自分の心が食われたかもしれないことを語る。死への恐怖は微塵も無いままなのに、どうしてか死にたくなくなったことも。

 

 恐怖の告白──とまでは行かずとも、不安を吐露しているというのに、フィリップはむしろ幸せな気持ちで話せていた。

 自分の言葉をマザーが聞いてくれている。相槌を打ったり、驚いたり、笑ったりしてくれる。ヴェール越しの銀色の双眸が自分を見つめて優しく細められ、慈愛と愛玩に満ちた柔らかな眼差しを独占している。そう感じるだけで幸せだった。

 

 やがてフィリップが語り終えると、マザーは右手をフィリップの胸に置いたまま、左手で口元を隠して笑った。気品を感じる仕草だが、それ以上にぞっとするような色香があった。

 

 「ふふ。大丈夫よ。貴方の全ては、貴方が自ら捨てるまで永劫に貴方のものよ。私たちが守っているのだもの」

 

 でも、と言い募ろうとしたフィリップだったが、その前に頬を撫でられて言葉を飲み込む。

 

 「えぇ、えぇ。あの■■が貴方に不信感を与えていたことは分かっているわ。けれど、ね、フィリップくん」

 

 ふ、と呼気交じりに笑みを浮かべるフィリップ。

 名前を呼ばれただけで、脳髄が耳から溶け出そうな多幸感に包まれる。言葉の中に人間の脳では理解できない邪悪な罵倒が混じっていたことには気付いていたが、気を払う余裕までは無かった。

 

 「フィリップくん、よく考えてみて。私たちは外なる神、時間の外に在るものよ?」

 「僕を守り損ねたら、守り損ねる前に時間を戻すか、その時点に再干渉すればいい。それは分かります」

 

 そうよね、と満足そうな相槌を打つマザーだが、フィリップに分かるのはそこまで──外神に何が出来るかまでだ。彼らがどう動くのかは所詮推測の域を出ないし、ましてや自分のことなど。

 

 「でも、僕が死んだ後にどう思うかは分からない。人間の身命なんてさっぱり捨ててしまうかもしれない」

 「そうね。貴方の心は貴方だけのもの。貴方がどう思ったとしても、私たちは説得なんてせず、貴方の望みを叶えるだけだと思うわ」

 

 半ば予期していた通りの答えを受けて、フィリップは緩やかに目を閉じた。

 

 「それは……怖いよ、マザー」

 

 ぎゅっと、硬く目を瞑ったフィリップが恐怖を吐露する。

 いや、恐怖ではなく単なる懸念か。どちらにしてもマザーには理解も共感もできないものだが、だからといってフィリップの感情を笑ったりはしない。

 

 「なのに、貴方は不死を望まないの?」

 

 代わりに投げられた問いは、フィリップには妙に遠くに聞こえた。

 だが、マザーの体温も匂いもそこにあるし、胸に置かれた手をフィリップはしっかりと握っている。

 

 だから声が遠くなったのではなく、フィリップの意識が遠退いているのだ。

 目を瞑ったことで睡魔への抵抗力を喪ったか、或いはいつもの通りか。

 

 「僕は……なるべく人間でいたい。そして僕の価値観だと、不死身(アンデッド)は人間とは呼ばないんだ」

 

 答えている間にも、どんどん意識が沈んでいく。目を開けようとしても瞼が重く、目を開けようという気にもならなくなる。

 

 「だから、僕はずっと──」

 

 マザーの膝の上で、フィリップの頭がゆっくりと傾いでいく。

 言葉は尻切れに消え、やがて微かで規則正しい寝息が聞こえてくると、マザーは困ったように微笑して握られていた手をそっと外す。

 

 彼女は権能や触手を使わず自らの腕でフィリップの矮躯を抱き上げ、重さを感じさせないほど滑らかに、そして腕の中で眠る子供を起こさぬよう静かに立ち上がる。足を向けた先はフィリップの泊まる宿、湖畔のコテージだ。

 

 何ら魔術を行使した様子もなく平然と歩き、当然のように立哨の親衛騎士が開けた扉から入り、フィリップの部屋へ向かう。

 

 「けれどね、フィリップくん。成長するにつれて嗜好が変化するなんて、学習と成長の機能を持った生き物なら当然のことよ」

 

 フィリップをベッドに横たえてタオルケットをかけながら、マザーは穏やかに語る。

 返事は無いし、マザーとて寝入った人間が会話に応じないことくらいは知っている。それでも聞こえているのか、或いは聞こえていなくてもいいのかはマザーにしか分からないことだ。

 

 「──おやすみなさい、良い夢を。貴方が大人になっても、幼いままでも、ずっと変わらず愛しているわ」

 

 枕元に立ったマザーが腰を折り、フィリップの額へ唇を落とす。

 ヴェールを少しだけ持ち上げる仕草も、キスをするまでの一連の所作も、何もかもが怖気を催すほどに艶めかしい。窓から差し込む星明りに照らされた姿を見たものがいれば、性別を問わず腰が砕けるような色香を纏っていたのに──その光景は聖人の影に口付けする信徒のようにも見えた。

 

 新月から降り注ぐ漆黒の光が翳り、やがてそんな物理法則に反したものなどあったはずもないと言わんばかりの星明りに満ちた夜が戻る頃には、この場にいるはずもない王都の神官の姿は無かった。

 

 ただ、フィリップは幸せそうな寝顔を浮かべ、悪夢も含めた何にも邪魔されることのない穏やかな一夜を深い眠りの中で過ごした。

 

 

 

 翌朝。

 旅先の慣れない枕だったとは思えないほど快眠だったフィリップは、朝から上機嫌に鼻歌など歌いながら洗面所へ向かい──折角なので湖の水で顔を洗おうと玄関に向かった。

 

 夏場とはいえ朝は涼しく、湖の水もひんやりと冷えていて心地いい。

 顔を洗うだけでなく思いっきり飛び込みたい衝動に駆られるが、少し離れたところで既にぱちゃぱちゃ泳いでいるシルヴァに合流する前に、背後から呼び掛けられた。

 

 「フィル」という呼び方と、不機嫌でかったるそうな声で振り返るまでもなく人物を特定できる。

 天地万物が面倒臭いと言いたげな声はいつものことで、それ故に、振り返ったフィリップは怪訝そうに眉根を寄せることになった。

 

 「おはようミナ。ここで顔洗うの、気持ちいい……なんか怒ってる?」

 

 ミナは波打ち際に立っていたが、高いヒールのおかげで足やコルセットドレスは殆ど濡れていない。しかし、眉根だけでなく鼻筋にも皺を寄せて、ぞっとするほど冷たい目をしている。

 

 「怒ってはいないわ。不愉快なだけ」

 「寝起きが悪いの、珍しいね」

 

 毎日ではないにしても、そこそこの頻度でミナと同じベッドを使っているフィリップだが、起き抜けのミナが不機嫌なのは珍しい。無理やり起こされたのなら話は別だが、自分の意思で起きたのなら、早起きに慣れているフィリップよりも寝起きが良いくらいなのに。

 

 不機嫌だからと言ってフィリップ(ペット)に八つ当たりするタイプではないし怖くは無いのだが、それでも癇癪で軍隊一個を殲滅できる相手だ。怒らせたいとは思わないし、逆鱗に触れるような真似は避けるが吉だろう。

 

 具体的に逆鱗はどの辺なのかなぁ、と探るような問いに、ミナは表情を不機嫌の形に固定したまま──この湖を訪れたときのエレナを彷彿とさせる顔で答える。 

 

 「臭いのよ。コテージも、この辺りの空気も、きみも」

 「え? いや、湖はちゃんと……あっ」

 

 唐突に「お前臭いよ」と言われて傷つく程度には人間性を残しているフィリップだが、ミナが最後に言ってくれたお陰で事なきを得た。ショックを受けるより先に思考が始まっていなければ、「寝汗か……?」と見当違いなことを考えて、朝から湖にダイブしていたかもしれない。

 

 「そう。きみが教会に行った後の、形容しがたい悪臭よ。どうしてここでそんな臭いを付けているのかは知らないけれど、なるべく早く落としなさい」

 

 落としなさいと言われても、とフィリップも眉根を寄せる。

 ミナが悪臭という形で知覚しているのは、シュブ=ニグラスの気配或いは神威の残滓のようなもので、物理的に匂うものではない。

 

 石鹸で落ちることもあったが、駄目なときは焚火で煙の臭いを付けても駄目だった。そして反応的に、今回は後者のようだ。前者の場合は「なんとかしろ」なんて曖昧なことは言わず、問答無用で風呂場に連れて行かれる。

 

 「どうやって……あ、今日って吸血の日!? 完全に忘れてた……」

 「それは別に構わないわよ。適当に済ませるから」

 

 ごめんね、と手を合わせるフィリップだが、ミナは言葉通り別に怒ってはいないし、食事の心配もしていない。

 彼女は王都に居る間の食事は二日か三日に一度、フィリップの血を少量飲んで吸血衝動を紛らわせているが、別にフィリップの血が特別美味しいとか、フィリップ以外の血は飲みたくないとか、そういうわけではないのだから。

 

 手頃な人間を襲って、吸い殺せばいいだけの話だ。惜しむらくは、栄養状態もよく魔力も極めて良質でおまけに処女という最高の血液の持ち主が身近に二人もいて、そのどちらも食えないこと。

 迂闊に手を出せば返り討ちにされるのは確実だし、ペットも嫌がる。

 

 「……僕が食べないでって言った人、覚えてるよね?」

 「私、きみのお願いを忘れるほど薄情じゃないつもりよ。心配するなら、記憶力じゃなく個体認識力の方にするべきね」

 

 ミナの言葉に、フィリップは口元を苦々しく歪める。ミナは確かに化け物だが、人間の顔が識別できないほど逸脱していないはずだ。

 

 「それって冗談? 勘弁してよ、笑えない」

 

 ミナは薄く笑って肩を竦めると、どこかに飛び去った。

 また手頃な人間の集団か、或いは適当な村落を襲って人間を食い、殺すのだろう。

 

 どうでもいい。

 

 ルキアやステラとミナならフィリップは前者を選ぶが、赤の他人とミナなら後者を選ぶ。ミナに餓死しろと言うつもりはないし、飢餓状態で狂暴化したミナがルキアとステラに殺されるようなことを避けるためになら、フィリップの知らない誰かが恐怖の中で食い殺されたって知ったことじゃあない。

 

 フィリップはミナが飛び去った方を見つめ──正確にはその下の森を見つめて、安穏とした考えを浮かべていた。

 

 「僕も湖で遊ぶって言ったら二人とも心配しちゃうかもしれないし、今日は森で遊ぼうか、シルヴァ!」

 

 シルヴァは少し遠くで泳いでいたが、歓喜と興奮、そして「大賛成」という意思は激しく伝わってきた。

 

 

 

 

 



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363

 ア ー マ ー ド コ ア の 新 作 が 出 た


 ルキアとステラは、フィリップの身の安全のため、そして自分たちも含めた三人のバカンスのため、精霊を排除するかフィリップを泳がせないようにする必要があった。精霊の悪戯に心を掻き乱されるのは二度と御免だ。

 

 とはいえ、湖まで来て「泳ぐな」というのも酷な話だ。二人ともフィリップには楽しんでほしいし、そこまで苛烈な制限を付けるのは本意ではない。

 

 何が何でも水遊びがしたいわけではないフィリップを説得するのは、幸い、至極簡単なことだった。

 朝食の席でルキアとステラが二人がかりで説得に臨まずとも、従者に伝言させるだけですんなり受け入れただろう。

  

 フィリップの安全と二人の安寧の兼ね合いを色々と考えて「水に入るときは常に私かルキアがお前の片手を握っている。振り払ったら即、お前を陸に打ち上げるからな」とまで言ったというのに、あっさりと、「今日はシルヴァと森で遊ぶので」と言い放って、強烈な肩透かしを食らわせたくらいだ。

 

 まあ二人としても交代で監視なんて子連れの夫婦みたいなことをするのは不本意だし、それでは流石にバカンスを満喫するどころではないので、フィリップが泳がないならそれで構わないのだが……ちょっと釈然としないものはある。

 

 しかしフィリップにも言い分はある。

 彼とて水遊びをしにここまで来たのだから、遊泳制限は地味に悲しい。勿論二人に余計な心労を負わせることの方が悲しいので、説得して二人の懸念を完璧に払拭できる自信が無い以上は従う。

 

 「マザーが大丈夫って言うからには大丈夫なんだろうけど、この理屈は僕ぐらいしか分かんないだろうしなぁ……」

 

 変に言い募って「じゃあ手つなぎ遊泳で」というのが、フィリップが最も避けるべき展開だ。だってきっと、それが二人の心労が一番大きくなる。

 

 「これが最適解のはず……。旅行が終わってからなら殿下に訊けるかな?」

 

 流石に今日明日に訊くと、ステラは「気遣いは不要だ。邪神が保証したなら大丈夫だろう」とか言って水遊びを許して、それでも気を張り詰めたままバカンスを過ごす可能性がある。

 

 「ふぃりっぷ、みっけ!」

 

 頭上からの──樹上からの、声。 

 フィリップはいま、湖を取り囲む森の中にいる。青空の半分以上が林冠に隠されるような、よく成長した森だ。

 

 「うん……やっぱり逃げる側は話にならないな。というか、まだ三分ぐらいしか経ってないのに」

 

 誰の真似か、しゅたん、とやけに格好よく樹上から降りてきたのは、先の声の主であるシルヴァだ。かくれんぼの探す側、鬼役でもある。

 

 逃げる側、子役だったフィリップに与えられていたタイムカウントは100秒。100秒使ってシルヴァから離れて隠れたのに、80秒かそこらで見つかった。

 

 「つぎ、ふぃりっぷがおに! ひゃくかぞえて!」

 「オーケー。流石に逃げる側は厳しいけど、鬼側なら負けないよ! いーち、にーい、さーん……」

 

 フィリップが木の幹に向かって顔を伏せると、背後で僅かに気配が動く。ルール上カウントダウン中には振り向けないが、直感的に、今のは跳躍──いや、それは不味い。というかズルい。

 

 いやそもそも、森の中で何かする時点でシルヴァが思いっきり有利だ。

 鬼ごっこだと勝ち目はないが、かくれんぼでも大概だろう。なんせシルヴァは森の全域を掌握しているのだから、その気になればフィリップがどこでどう隠れているかも一瞬で分かるはずだ。

 

 勿論、それでは遊びにならないし面白くもなんともないので、流石に目は瞑っているだろう。

 

 条件的には、フィリップも似ている。

 領域外魔術の召喚術式で結ばれているフィリップとシルヴァは、お互いの位置をなんとなく把握できる。その相互把握は距離が近ければ近いほど正確になるから、これもかくれんぼではチートの範疇だろう。

 

 だからフィリップも魔術的な感覚には頼らず、自分の目と推理力だけでシルヴァを探すつもりだ。

 

 そのつもりだが──いや、よしんば魔術的感覚をフルで使ったとしても、目の届かない頭上に隠れられては見つけようがない。木登りは苦手ではないが、取り立てて得意というわけでもないのだし。

 

 「じゅういち、じゅう……に、ってちょっと待って!? 木の上はナシだよ!?」

 

 かなりのスピードで遠ざかっているだろうシルヴァに届くよう、大声で叫ぶ。ややあって、シルヴァから「わかった」と意思だけが返ってきた。

 

 隠れる場所を地上に限定したとしても、シルヴァを探すのは相当に難しい。一応ハンデ代わりのルールとして「初めに隠れた位置から動くのは禁止」と決めてあるが、それでも相手はヴィカリウス・シルヴァ。森そのものと言っていい存在だ。

 どこが死角か、どこに隠れたらどの場所からの視線が切れるかを完璧に把握しているだろう。おまけにあの出で立ちだ。背景との同化率が物凄い。

 

 「99……ひゃーく! いくよー!」

 

 返事が無いのを承知で声をかけて、フィリップは顔を伏せていた木の幹から身体を離す。

 

 100秒間の暗闇の後に見る森の景色は明るく、それ以上に美しい。

 自分たちの分の日光を確実に確保しつつ低層にも淡い木漏れ日をくれる古い木々は、樹齢を感じさせる太く強そうな高い幹と、若々しく青々とした林冠を持つ。未だ年若い低木たちは木漏れ日を受けて若葉を煌かせ、時に果実を鮮やかに魅せつける。下草は柔らかく、時に深く険しい藪となり、優しいだけではない森の二面性をよく表している。

 

 深く、広く、そして密度の高い森だ。──この中から幼女一人を探し出すことを思うと、ちょっと尻込みするくらいに。

 

 「み、見せてやるぞ、狩人の息子の底力ってやつを……!」

 

 魔術経路になんて頼らねぇ、聞きかじりのトラッキングで追跡してやる! ……なんて息巻いていたのは、シルヴァの痕跡の開始直後十数秒分が、発見不可能な頭上にあることに気付くまでの数十秒だけだった。

 

 シルヴァに心を読む力が無くて良かった、と久々に思う。

 ドライアドとは違い、ヴィカリウス・システムに読心能力は無い。人間──700万年前に生じたサヘラントロプスの末裔程度、四億年の存在歴を持つヴィカリウス・シルヴァにはいてもいなくても変わらないモノなのだから。

 

 だから──フィリップがちょっとだけズルしたことに、シルヴァは気付いていないだろう。距離には目を瞑って、方向だけ確認したのだけれど。

 

 ……確認、したのだけれど。

 けれどフィリップは、もう三十分も森の中を彷徨っていた。

 

 「ぜ、全然いない……! シルヴァー? ホントに地上にいるー?」

 

 やや大きめくらいの声で叫んでみるも、シルヴァからの返事は無い。声が聞こえない距離にいるのか、聞こえるけれど無視しているのか。

 

 いや、シルヴァは人間の心こそ読めないものの、森の中で起こっていることは完璧に把握できる。フィリップが呼びかけたことは分かっているはずだ。

 つまり意図的に返事をしていない。……息を殺しているのだろう。

 

 「この辺にいるってこと……?」

 

 木の幹の一つ一つを回り、ゴソゴソと藪をかき分けて、時に飛び出してきた虫に驚いたりすること数分。やっぱりシルヴァが見当たらない。

 

 これはそろそろ、もう一回ズルするべきかもしれない──フィリップがそんなことを考えていたとき、森の外、湖では大事件が勃発していた。

 

 

 ◇

 

 

 僕に気を遣わず、二人は湖で遊んでてください。

 そうまで言われてしまったルキアとステラは一緒に森で遊ぶとは言えず、無理について行っても「気を遣わせてしまった」と思わせてしまうだろうから、二人で水遊びをしていた。

 

 折角の機会だから普段は使わない筋肉を使おうと、ステラは身長以上に深い場所で、そこそこ本気で泳いでいる。ルキアも付き合い程度には泳いだが、変な日焼けをすると気付いてからは岸辺にいた。

 

 ルキアの視線は綺麗なフォームで泳いでいるステラではなく、森の方に向いている。流石に魔力視までは使っていないが、「フィリップはどうしているのだろう」という心配が顔に明記されていた。日傘を持つメグも苦笑気味だ。

 

 昨日ほどではないもののバカンス中とは思えない緊張感のある空間に、慌てた声が響く。

 

 「ルキア! ルキフェリア! 問題発生だ! ちょっとこっちに来てくれ!」

 

 見ると、遠く──ルキアより背の高いステラが首まで浸かる深さの辺りで、繰り返し呼んでいた。

 

 「……? なに、どうしたの?」

 

 ステラらしからぬ慌てように、ルキアも流石にただ事ではないとメグにパレオを預けて水に入る。

 黒いレースの布地が取り払われ真っ白で柔らかそうな肌が、健康的な肉付きと曲線美を兼ね備えた脚が露になるが、従者も親衛騎士も全員が女性だ。フィリップ以外の男が居れば歓声でも上げそうな美しさだったのだが。

 

 大仰に呼び立てた割には首まで水に浸かる位置から一歩も動かないステラに、もしや足が岩に挟まりでもしたのかと急ぐ。

 

 岩を砕いて退かすのは、水中ではルキアの方が適切だろう。ルキアの方が、というか、火よりも重力の方が。

 岩棚を吹っ飛ばすくらいの火力は余裕で出せるステラだが、そうすると同時に大量の水が蒸発し、水蒸気爆発を起こす可能性がある。勿論、熱操作や魔力障壁で自傷は防げるが──それよりは、重力操作で簡単に事を為せるルキアに頼った方が早いし安全だ。

 

 そしてステラのすぐ傍まで来たルキアは、彼女の姿に違和感を覚えて立ち止まった。

 

 濡れて艶めく陽光のような金髪。

 少し視線を下げて、艶やかに水の滴る白く嫋やかな首筋や鎖骨に。

 

 そして視線をさらに下げ、水面下に。

 最強の証である赤い聖痕。ルキア以上の大きさを誇る胸の双丘、女性的魅力に富んだその曲線美を追い──やけに肌色の面積が多い。僅かなくすみもない美しい肌がずっと続き、そして、丘陵の頂点に咲くピンク色──。

 

 それを認識して、ルキアは思いっきり胡乱そうな顔でステラの顔を見た。

 ステラは笑顔だ。見覚えのある──フィリップが難問に躓いたときに見せる、諦観に満ちた笑顔だった。

 

 「……探せばいいのね?」

 

 命に別状はないなら、まぁ、想定した状況よりは幾分マシだ。

 それでも友人の尊厳が懸かっているので、そこそこ非常事態ではあるのだが。

 

 「あぁ。カーターが出てくる前に頼む」

 

 実際のところ、生まれて以来ずっと着替えや風呂を侍女任せにしていたステラの羞恥心はかなり希薄だ。

 みだりに肌を見せるべきではないとか、恥ずべきことだという常識は持ち合わせているが、別に見られたところで死にはしないし発狂もしないのだから良いんじゃないかとは思う。

 

 しかし、当人の感情とは別に、彼女には地位というものがある。

 婿()()()前の王族の裸を見た? なるほど、目を抉ったのち首を刎ねよ。──これが、通常の展開。

 

 問題はフィリップの“救国の英雄”という立場と、国王の思惑。

 ステラも父の考えの全てを読み解いているわけではないが、それでも家族であり、背中を見つめ続けてきた相手だ。

 

 「ステラの裸を見た? ふむ。フィリップ君、君も魔術学院で学んだ学識と知性、そして品性と良識を持つ人間だ。責任の取り方くらい、知っているだろう? ……なに、今後二度とこのようなことが起こらぬよう、君が生涯を懸けて守るだけのことだ。死が二人を分かつまで、ね」

 

 ……とか、言いかねない。

 

 「見つける前にフィリップが帰ってきたら、メグに私のパレオを借りなさい。運が良ければバレないでしょう」

 「あれはレース……いや、無いよりマシだな。有難く借りるよ」

 

 流石にステラの心配までは共有していないものの気遣ってくれる友人に、ステラは心から感謝した。

 

 

 

 

 

 



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364

 フィリップがその男と遭遇したのは、シルヴァが見つけられなさ過ぎて、いい加減方向だけじゃなく距離も見るべきなのではと諦めかけた時だった。

 

 低い位置の枝や藪をガサガサと掻き分けながら森の中を進んでくるモノがいることに気付いたフィリップは、音の大きさと乱雑さから大型動物であると当たりを付けた。人間大か、それより大きいくらいのサイズ。そして人間並みの進行速度。

 人間か、小型の熊か。

 

 どちらの可能性も低い。

 

 この森を含む湖近郊は一時的に王家が借り上げ、地元の領主貴族でも軽々に立ち入れないよう制限されている。

 

 いや、制限されている、という言い方は微妙か。別に大部隊がぐるりと包囲して厳しく見張っているわけではなく、観光用に整備された林道に検問が置かれているだけなのだし。

 それでも、森に踏み入った時点で王家領への無断侵入だ。知らなかろうが厳重な処罰が待っているし、もしも凶器を持っていれば、たとえキャンプ用のナイフでも王族暗殺未遂で処刑されかねない。

 

 だというのに、左手を構えたフィリップの前に現れた男は、森歩き風の長袖と長ズボンの平服姿ではあったものの、腰に長剣を佩いていた。

 整備された道を逸れて森の中にいる時点で怪しいのに、帯剣しているとなれば怪しさは倍増、閾値超過だ。フィリップがステラの護衛だったら今すぐ殺している。

 

 「……お前が“龍狩りの英雄”フィリップ・カーターで合ってるか?」

 

 誰何と言うには覇気のない、ただ確認しただけのような問いかけに頷く。

 「先に名乗るのが礼儀だぞ」なんてお決まりの台詞が出て来なかったのは、相手に対する興味の無さの現れだ。

 

 名前なんてどうでもいい──眼前の人物が誰なのかはどうでもいい。

 

 重要なのはその目的だ。

 

 「……そういう貴方は暗殺者ですか? あぁ、動かなくていいよ。二人を呼びに行く必要も無い」

 

 そういえばこの状況も知っているのだった、と少し慌てつつ告げる。未だシルヴァの位置は分からないままだが、これでも問題なく届いているだろう。

 まあシルヴァが暗殺者──人間を脅威と見做すかどうかは微妙だが、ルキアとステラに「ふぃりっぷがたたかいはじめた!」とか言われても困るからだ。

 

 ただでさえ昨日の一件でルキアとステラに多大な心配をかけたのだし、これ以上の心労はかけたくない。

 

 「仲間がいるのか? そんな気配はしなかったが……だがまぁ、お前がそのスタンスなら有難い」

 

 男は剣を鞘ごと腰のベルトから抜くと、目の前の地面に突き立てる。

 そして、その柄から完全に手を離した。

 

 「……?」

 

 抜剣するどころか威嚇さえしない男に、フィリップは漸く不審そうな顔をした。

 

 「俺は“暗殺者”って言葉が嫌いでね。なんだか陰気臭くて辛気臭いし、卑怯臭い」

 

 不審がるフィリップを気に留めず、男は旧来の友人同士のように淡々と語る。

 確かに暗殺者というと、専ら黒いフードを被ってナイフを使い、背後から奇襲するようなイメージがある。影のように音も無く近付き、誰にも気づかれることなく標的を葬り去る──そんな印象だ。

 

 まあ実際にフィリップを襲ってきた──襲おうとした“扇動者”は普通に平民の普段着っぽい装いだったし、フィリップが終ぞ見えることのなかった他の暗殺者たちも、誰一人として黒いローブなんてあからさまなモノは着ていなかったのだけれど。唯一、ギリースーツを着ていた“サドンデス”は例外と言えるかもしれない。

 

 「結局どんな臭いなのか判然としませんけれど……つまり?」

 「つまり、陰からコソコソ、静かにコソコソってのは性に合わないってことだ。俺は“暗殺者(アサシン)”じゃなく“決闘者(デュエリスト)”なんでね」

 

 決闘だろうと不意討ちだろうと政治的意図を持って要人を殺害した時点で“暗殺”と呼ばれる、とステラに教えてもらったものの、男の言わんとするところも分かるフィリップは曖昧に笑う。

 

 「この鈴が地面に落ちたらスタートだ。お互いにその剣を目指して走り──後は、分かるだろ?」

 

 所謂貴族の決闘とは違うが、創作の中では割と見掛けるスタイルだ。

 大体の場合においては悪役がズルをして先に動いたり、武器に細工がしてあったりして、主人公が技や経験や根性で乗り越える展開になる。

 

 確かに正面から向かい合って一応は武器を手放しているだけあって、“暗殺”という言葉からイメージされる陰気さは無いけれど……フィリップにも思うところはある。

 

 「は、はぁ……子供相手に白兵戦を仕掛けるのは卑怯臭くないんですか?」

 「おいおい、ドラゴンスレイヤー相手に子供だから~なんて言うはずないだろ。体格も年齢も、お前には何の障害にもならないはずだぜ?」

 

 確かに、相手が両目と脳で立体視しているなら数百年生きた巨大な龍相手でも通用する戦闘技術を持ってはいるけれど……いや、思い浮かぶ反論はどれもナンセンスだ。この場合は男が正しい。

 

 こと殺し合いに際して、子供だから、年下だからなんて理由は何の意味も持たない。

 経験が浅いことも、身体が小さいことも、力が弱いことも、精神的に未熟なことも、子供らしい何もかもが弱点。

 

 しかし平時であれば大人たちが守り補助するべきものは、戦場に於いては突くべきものだ。

 

 「戦闘に於いて、体格や経験の不足は手前がカバーすべきモノだろ? 相手の譲歩やら温情やらを求めるものじゃない」

 

 友達が下手な冗談を言ったときのような、揶揄い交じりの苦笑を浮かべる男。

 フィリップも「だよね、それは確かに」なんて頷いていて、暗殺者と暗殺対象にはとても見えない。

 

 しかし、相手は暗殺者だ。

 どれだけ仲の良い相手でも依頼を受けると決めた時点で必殺の覚悟は決めているし、これは単なる話術だ。心理的距離を詰めることで、あわよくば相手の太刀筋を鈍らせるための作戦。盤外戦術という奴だった。

 

 国の為に龍殺しに赴くほど情に篤い人間なら、多少は悩むはずだ。

 

 フィリップに語った「暗殺者ではなく決闘者」という信条それ自体に嘘は無い。武器に細工はしていないし、鈴が落ちるまで動くつもりもない。

 しかし隠し武器は持っているし、心理戦だって仕掛ける。これは見抜けない方が悪く、引っかかる方が間抜けなのだ。

 

 目と頭が悪い、或いは無警戒。それは仕掛けた側が卑怯なのではなく、引っかかった側が弱いだけ。

 

 そして弱さは、弱いヤツの責任だ。

 体格の優劣や経験の多寡、技の巧拙と同じ。

 

 「それじゃ……!」

 

 鈴を放り、腰の後ろに手を隠す。

 剣に向かって走ると見せかけて、フィリップが剣を取り鞘から抜くその一瞬の隙を突いて隠し持ったナイフで攻撃。心臓を一突きだ。

 

 りぃん、と涼やかな音を聞き、即座に駆け出す男。──フィリップは走っていない。

 しかし動いていないわけではない。コップに手を伸ばすような何気ない仕草で左手を向けている。

 

 “龍狩りの英雄”について、男はそれなりに調べた。

 

 曰く、彼は国を守るため、そして衛士団を無為に死なせないために自ら志願して龍狩りに同行した。

 曰く、彼は実際に衛士団を守り、古龍を相手に囮となって時間を稼いでみせた。

 曰く、彼は使い手の限られる特殊な剣術である“拍奪”を使う、速度重視の剣士である。

 

 間違った情報は一つも無い。

 

 次期女王であるステラは国の未来そのものであり、“眠り病”の主な感染者だった魔術師たちは国家にとって文明の源泉。国を守ったと言っても過言ではない。

 

 囮どころか龍の首を落とす一歩手前まで行ったものの、衛士団長が戦線復帰するまでの時間を稼ぐつもりで駆け出したのだし、これも間違いではない。

 

 そしてフィリップは間違いなく拍奪使いの剣士と言っていい技量を持ち、武器に至っては技量に見合わない超業物だ。

 

 だから、男の戦術は間違っていない。

 武器を持っていないタイミングで足場の悪い森の中で仕掛け、速度に自信のある相手が先に剣に辿り着く。そして鞘から抜くまでの隙、動きが止まり“拍奪”が使えないその一瞬を狙う戦術は、決して悪いものではない。

 

 ──相手が剣士なら、という但し書きは必要だが。

 

 フィリップは剣を使うが、それは手加減のため、そして召喚魔術詠唱の時間を稼ぐためだ。剣は所詮サブウェポンに過ぎない。

 

 相手を殺すというシーンに於いて、フィリップが最も信頼するのは召喚魔術。次いで──『萎縮』。

 左手を向けて補助しなければ真面に照準することも出来ない、貧弱な魔術適性しか持たないフィリップでも扱える領域外魔術。ある程度の水分を含む有機物を脱水炭化させ破壊する、凶悪な攻撃性能を持った魔術だ。

 

 服や鎧、盾なんかでは防御できず、また照準補正も極めて強い。フィリップが伸ばした手の延長線上になんとなくいればまず当たる。

 フィリップ本人の魔力が貧弱である故に、魔術師相手ではまず通用しないし、並み以上の魔力がある相手なら距離次第でレジストされるが──剣士相手なら問題なく発動するだろう。

 

 無慈悲に、無感動に、無意味に、路傍の石を蹴り飛ばすように──フィリップは男を殺そうとした。

 

 ()()()()()()

 

 未遂だ。

 いくらフィリップの殺人能力が非凡とはいえ、死人を殺すことはできない。

 

 フィリップが魔術を撃ち込むより早く、男の頸に巨大な黒い狼が取り付き喉笛を嚙み千切ったその瞬間、フィリップは彼を殺すことが出来なくなった。

 

 「い、お、いや魔物か!」

 

 犬、と言いかけて、サイズと体格から狼だと思い直して、フィリップのすぐ傍に来た時点で通常の動物ではないことを思い出す。

 

 今日のフィリップは昨日の逢瀬のせいでミナが何処かに飛んでいくほど臭い。

 ミナもたいそう鼻が利くが、それでも狼とは比較にならない。ミナでダメなら、狼が近づけるはずがないのだ。

 

 つまり自然の生き物ではなく、常外の戦闘本能と人間への憎悪を持った魔物でしか有り得ない。

 

 しかし──それこそ有り得ない。

 この森に人間を襲う魔物がいないことはシルヴァが確認した。森の全域を完璧に掌握するヴィカリウス・シルヴァが。

 

 どう、と倒れ伏した男の頸から大量の血が噴き上がる。

 鮮血のシャワーを浴びて気持ちよさそうに唸る獣は、よく見ると狼でさえ無かった。

 

 しなやかでありながら強靭な筋肉を纏う四肢に、鋭く地面を捉える爪、鉄板の硬度と絹の柔らかさを兼ね備える毛皮。

 皮膚、筋肉、動脈、頚椎を一咬みで裂き砕く鋭い牙を備えた顎。木陰の暗がりで怪しく光る、()()の双眸。

 

 そいつには、頭が二つあった。所謂オルトロス型の魔物だ。

 

 フィリップは咄嗟に魔物の方へ距離を詰め、地面に刺さったままだった剣を取って構える。

 双頭の犬型魔物は王国の研究機関によって発見・解析が済んでいるものだけで四種類いると冒険者研修で習ったが、サイズからすると、魔王領域に生息する上位二種(とびきりの化け物)ではない。

 

 しかし、下位二種でも魔力量はフィリップを優に超える。『萎縮』はレジストされるだろう。

 鞘の下に仕舞われていた刃は何の変哲もない鉄製で、錬金金属製のウルミと龍骸の蛇腹剣を使ってきたフィリップからすると模擬剣同然だが、今はこれしか武器が無い。鉄板どころか錬金金属製の鎧さえ切り裂く龍貶し(ドラゴルード)はコテージに置きっぱなしだ。

 

 魔物の体高は概ねフィリップの腰か腹と同じくらい。筋力や重心を考えるまでも無く、人間を押し倒して喉笛を噛み千切るには十分なサイズだ。先程の男は奇襲だったが、正面からでも十分に。

 そして傾向から考えると目の数が多い相手には“拍奪”は効きづらく、その上武器が通じるかどうかは未知数ときた。

 

 「……え? どうしよう」

 

 切り札を除く手札の大半がゴミになった。──いつものように。

 

 

 

 



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365

 フィリップ個人の戦闘能力は、人間と獣と魔物を全部まとめて考えた場合、概ね中の下から中の中と言ったところだ。

 

 相手が魔力を持たないなら一撃で殺せる魔術を持つものの、一定値以上の魔力を有する相手だと途端に弱い。また対多戦闘も不得手であり、そのくせ周りに味方がいると切り札が使えなくなるというポンコツっぷりだ。

 

 攻撃力は貧弱な反面、回避能力は極めて高い。

 並大抵の相手、両目と脳で物を見ている相手が攻撃を当てることは困難で、ルキアやステラでさえ点攻撃を当てようとするのは馬鹿正直すぎると判断する。巨躯のドラゴンにブレスか尾による範囲攻撃を選ばせたくらいだ。

 

 相手が悪路走破性に長けた四足獣型で『拍奪』の効きづらい四眼の魔物でも、もしかすると森を出てルキアとステラに助けを求めることくらいは出来るかもしれない。

 

 問題は、フィリップがそれをしたくない──ルキアとステラに余計な心配をかけたくないこと。

 

 フィジカルから見たフィリップの戦闘適性は前述の通り。

 では反面、メンタルはというと、戦闘には不向きだ。以前にマリーが言った通り、フィリップにあるのは戦闘の才ではなく、()()の才。

 

 「正々堂々など知ったことか、勝てば良いのだ」というスタンスのステラと、「無様に勝つくらいなら美しく負ける」というスタンスのルキア、師匠二人のどちらとも違う。

 

 カルトを除き、フィリップの戦いに対するスタンスは極めて消極的だ。

 痛いのは嫌いだし切り札はやたらとハイリスク、おまけにワンミスで世界が滅びる可能性もあるとくれば、戦いを嫌うのも納得だが。

 

 しかし理由はそればかりではない。

 根本的に他者の価値がゼロで固定されているフィリップは、“戦うべき敵”という認知が難しい。外神の視座から見て「人間を殺すに能う」と判断される手合いも、その外神の視座からすれば全然全くこれっぽっちも警戒の対象ではないのだ。

 

 脅威だから戦う、戦って自分の身を守るという意識は欠如し、戦闘思考には重大な欠落がある。

 

 敵を敵と思えない、敵と判じる脅威判定能力に欠陥を抱えたフィリップのスタンスは、「敵は死ね」──と言うと好戦的に聞こえるか。

 

 ()()()()()が正しい。

 敵──人も魔物も神話生物も、邪神でさえも、どうせ泡でしかないのだから、手間をかけさせるな。一人で勝手に首を括れ、と。そういうスタンスだ。

 

 折角“死”という終わりが、終わりという救いが用意されているのだから、それに飛びついておけばいいのに。

 

 「暑くなると馬鹿が増えるのは仕方ないのかもしれないけれど……魔物もなのか」

 

 勘弁してくれと言いたげに頭を振るフィリップは、やはり、眼前の魔物を敵と認識していない。

 相手が自分を殺そうと唸っていることも、自分を殺すのに十分な力と爪牙を持ち合わせていることも見ればわかるが、やっぱりどうにもピンと来ない。

 

 というか、こんな「狼です。鼻利きます。しかも鼻が二個あります」という見た目のくせに、ミナが飛んで離れていくレベルの悪臭に気付かないのか。

 

 フィリップがそう苦笑した時だった。

 

 「馬鹿とは、心外だな。彼らは人間なんぞより余程賢い。どちらが狩人(上位)でどちらが獲物(下位)か、教えずとも理解できるのだからな」

 

 不愛想で無機質な声。背後からだ。

 

 思わず魔物を前にしていることも忘れて振り返ったフィリップの前に、木陰から一つの人影が姿を見せる。

 砂の色をしたフード付きのマントを目深に被って人相を隠した人物だ。体格からすると、男か。

 

 「そして見たところ、君は彼らより下位のようだ。彼我の戦力差を見極める目を持たずによくもまあ──いや、だからこそ、か。盲目の馬鹿でなければ、古龍に挑もうなどとは思わんだろう」

 

 嘲るような言葉だが、声色は変わらず不愛想で無機質だ。僅かばかりの不機嫌さを除き、感情の揺れを殆ど感じない。

 声だけではない。立ち姿にも、どこか人間味を感じない。明らかにそこに人間が立っていて、フードの下からこちらを見ていて、声まで出しているというのに、木の人形が立っているような感覚さえある。

 

 気配の遮断ではなく、気配の欺瞞とでも言えばいいのか。

 明らかに、確実にそこにいるのに、そこに居るのが人間ではないような気にさせる技術。

 

 対人、暗殺向きの技術ではない。気配が妙だろうと何だろうと、敵がいるなら対処するのが当たり前だ。だから大抵の暗殺者は気配を消し、紛らわせ、誤魔化す。メグなんて、同じ馬車の中にいるのに、その存在を忘れるくらいの精度を誇る。

 このレベルで、人間相手の気配欺瞞は漸く及第点だ。

 

 何なら点が三つ並んでいるだけで顔だと誤認してしまうほど高い同族認知能力を持つ人間を相手に、人形と錯覚させる程度ではまだ足りない。というか、人形がいるだけで不自然極まりないのだし。

 

 しかし──相手が魔物なら、人間ではないと思わせた時点で無敵だ。奴らの憎悪と殺戮本能は人間に向けたもので、どうしてここにあるのか分からないだけの人形相手には見向きもしないだろう。

 

 「……暗殺者か。もしかして魔物使い?」

 

 魔物の挙動は妙だ。

 フィリップを襲うわけでもなく、かといって逃げたり警戒したりもしない。何かを待っているように、じっとこちらを見ている。命令を待つかのように、いつでもこちらを襲えるように見つめている。

 

 野生ではなく、術者の使役下にあると考えられる動きだ。

 

 「……“ドレッドリーシュ”。“龍狩りの英雄”、その首級、俺が頂く」

 

 フィリップの問いに対しては肯定も否定もない。しかし肯定したようなものだろう。

 

 二つ名持ちか、とフィリップは口元を苦々しく歪める。

 フィリップが知るネームドは『明けの明星』『粛清の魔女』のルキア、『撃滅王女』『恒星』のステラ、『シュヴェールト』のアリア、『椿姫』のメグ、今代の『兵』を襲名した衛士団長。

 

 人間基準にはなるが、化け物揃いだ。

 この前遭遇した『扇動者』もステラが認める稀有な才能の持ち主だったようだし、生半な強さや技では二つ名は与えられないと考えていいだろう。

 

 ルキアやステラ、衛士団長といった人外領域に片足を踏み入れたレベルではないとしても、何か特別な技術を持っているに違いない。──それこそ、龍狩りの英雄を殺し得るような手札を隠しているはずだ。

 

 「ははは……。シルヴァ、二人のところまで全力で走ったら何分かかる?」

 「……ごふんぐらい。しるばだけなら」

 「っ!? びっくりした……! うわ、そんなとこに居たの? いや、枝の上ではないけどさ……」

 

 ぴょこ、と、フィリップの頭のすぐ上に現れたシルヴァに、フィリップは魔物が出てきたとき以上の反応で飛びのく。

 シルヴァは頭より少し高いくらいの位置にある木のうろにすっぽりと収まって、まだ青々とした葉の付いた枝を持ってカムフラージュしていた。

 

 確かに、フィリップの目も手も届かない高所ではない。枝もその木本来のものではなく落ちていたものを拾ったようで、葉の所々に土汚れが付いている。もう少し観察力があれば気付くことはできたかもしれない。

 

 まあ、それはともかく。いま気にするべきはシルヴァの隠れ場所がルールの範疇かどうかではない。

 

 「まぁいいや、二人に伝言を頼める? 僕が戻るまで魔力視で森を見るのは禁止、って」

 「……わかった」

 

 素直に頷いて駆け出したシルヴァに意外そうな目を向けていたフィリップは、懐中時計を取り出して現在時刻を確認しつつ『ドレッドリーシュ』へ向き直る。

 

 「そういうわけだから、五分だけ待ってもらえる?」

 

 なんて、言ってみただけだ。

 フードの下で首が動き、呼応するように魔物が唸り声を上げたって、別に驚きはない。

 

 「……ま、そうだよね。僕が暗殺者でもルキアと殿下に接触されるリスクは犯せない。なんてったってあの二人、森の外から片手間に僕らを虐殺できるんだから」

 

 更に言えば、彼の視点ではフィリップが二人に対して「こっちを見るな」なんて命令できるはずがないのだから、何かの符丁や暗号か、或いは「何言ってんだコイツ」と思った聖痕者がこちらを見るように仕向けていると思うのが普通だろう。

 

 「仕方ない……ッ!」

 「ッ……!」

 

 フィリップは億劫そうに、欠伸交じりに伸びをして──その動きの流れで、手にした鉄剣を思いっきり投擲した。

 

 不意討ち。

 それも初動を誤魔化した上で、剣を投げるという意表を突く攻撃だ。

 

 とはいえ投擲に適した形状をしているわけでもないただの鉄剣だし、速度もそれなりだ。フィリップの先生たちの誰に対しても全く意味のない攻撃だったが、『ドレッドリーシュ』は大仰に飛び退いて躱した。

 

 鈍臭い動きを笑う余裕も無く、フィリップは踵を返し、完全に背を向けて木立の中へ逃げ込む。武器を手放した時点で、足を止めて時間を稼ぐのは不可能だ。

 

 「追って殺せ。《サモン》──ツインヘッドハウンド。お前はさっきの子供を追え」

 「ははは……」

 

 背後から僅かに聞こえた声に苦笑しつつ、フィリップは追い立てる四足獣の足音だけを気にして走り続ける。

 如何な狼型の魔物とはいえ、シルヴァはその気になれば林冠の上を走れる身軽さだ。地を這う魔物がどれほど健脚だろうと追い付けるはずがないし、よしんば追いついたとしても、シルヴァを傷付けたければ対森林級の攻撃が必要だ。

 

 ドラゴンでさえ、シルヴァを殺したければブレスを撃つしかない。人間一人殺すのに牙を使わねばならないような低次の魔物が、シルヴァを害せるはずがないのだった。

 

 問題はフィリップの方──そんな低次の魔物にさえ殺されてしまいかねない人間の方だ。スタートダッシュで距離を稼いだって、相手は四足の肉食獣だ。人間なんぞより余程健脚だろうし一瞬で追い付かれるのは目に見えている。

 では隠れるか? いや、目か耳か鼻か、何かしらの手段で見つけられるだろう。フィリップの纏う外神の気配に気付かないとしても、普通に汗なんかの人間の臭いで追跡されるに違いない。あの見てくれで知覚力に欠けることはないだろう。

 

 逃げも隠れも出来はしない。

 

 ではどうするか。フィリップは走り出す前に決めていた。

 

 「……時間稼ぎのつもりか? あのドライアドが森を出ることはないし、お前の仲間がここに来ることもない。観念して降りてこい」

 「一番目と三番目は正解。二番目は零点だ」

 

 手頃な木に登ったフィリップは、『ドレッドリーシュ』が手を伸ばそうとも、ツインヘッドハウンドが飛び跳ねようとも届かない高さがあることを確認して中指を立てた。

 

 対するドレッドリーシュは呆れ顔だ。

 その表情は往生際の悪い暗殺対象ではなく聞き分けのない子供に対するものであり、殺意ではなく苛立ちが強く浮かんでいる。

 

 石でも投げればフィリップを打ち落とすこともできるだろうが、彼の中では、フィリップはもう死人に等しい。

 確かにツインヘッドハウンドは木に登れないが、別にどうとでもなる。木に登れる魔物も、木を切り倒せる魔物だって、彼の使役下にはいるのだから。

 

 石を投げるのは面倒だが、かと言って、こんな無様な逃げ方をして、剰え樹上が安全圏だと思い込んで煽るような馬鹿相手に全力を出すのも小癪だ。

 

 まあ、あのドライアドを咥えたツインヘッドハウンドが戻ってくれば、絶望して墜ちてくるだろう。

 その様を見て鬱憤を晴らすのも悪くない。自分が優勢だと思っている馬鹿の嘲笑を、絶望の形に歪めるのはいつだって心が躍る。

 

 そう考えて待つことを選んだ『ドレッドリーシュ』は、刻々と時間が過ぎ、五分を数えても焦らない。

 五分逃げたモノを捕まえたのなら、帰りも五分くらいかかっても何ら不思議ではないからだ。三分で捕まえたとしても、復路も含めて五分では帰ってこられない。まあ、単純に狼と同等の速度を出せるツインヘッドハウンドから数分単位で逃げたことは褒めてやってもいいが、そろそろ捕まえている頃合いだろう。そう考えて。

 

 ──もはや言うまでもなく、その判断は間違いだ。

 

 時間の経過を待っていたのは、時間の経過で明確に勝率が上がるのは、フィリップの方なのだから。

 

 「──さて、五分だ」

 

 フィリップの声色ががらりと変わる。

 白金の懐中時計を閉じ、大事そうに内ポケットへ仕舞うと、待ちくたびれたというように伸びをした。

 

 「折角の夏だ、ホットに行きたいところだけれど……森を傷つけるとドライアドに怒られるからね」

 

 何ならこうして枝の上に立っているだけでも怒られないか心配ではあるけれど──緊急避難だからか、或いは木を重篤に傷付けたわけではないからか、その気配はない。

 

 「降りてくる気になったのか? どうせ助けは来ないんだ、もうしばらく粘ってもいいんだぞ?」

 

 苛立ちと嘲弄を無関心で薄めたような曖昧な感情を滲ませる『ドレッドリーシュ』。対して、ずっと時間を気にしていたフィリップはもう何も考えていない。

 

 「うん。次は召喚術勝負にしよう」

 

 枝の上から降りることなく、フィリップは言う。──実は焦って登るあまり、ひとっ飛びに降りるにはちょっと怖い高さまで登ってしまっていた。

 

 「……ほう?」

 

 ふっと、『ドレッドリーシュ』の気配が変わる。

 まるで木を削り出した人形のようだった気配に、僅かばかりの人間味が宿る。木の人形の表面に色が付いた程度の僅かなブレだったが、感情が無いわけではなく、単に制御しているだけだというのは分かった。

 

 「舐められたものだ。この俺に召喚術で挑むだと? 確かに、俺の魔力規模は並より少し上程度だが──《サモン》!」

 

 召喚魔術が唱えられ、周囲の空気が僅かに震えるほどの魔力が迸る。

 魔力的異空間と物理次元とを繋ぐ魔法陣が次々と展開され、木漏れ日の差す森に淡い輝きが満ちていくと、さしものフィリップも瞠目を禁じ得ない。魔力規模ではフィリップの5倍、いや6倍にもなるだろう。

 

 勿論、ルキアやステラには遠く及ばない。しかしそれでも、フィリップが逆立ちしたって出来ないことを為しているのは間違いない。

 

 「同時使役数には自信があってな。ツインヘッドハウンド4体、ニュームーンウルフ3体、ブラッドグリズリー1体、デモニックバット2体、ラピッドボア2体──総計12体! “龍狩りの英雄”、貴様を殺すには十分な数だろう!」

 

 名前を挙げるごとに、『ドレッドリーシュ』の周りに魔物が現れる。

 双頭の大犬、凝固した闇のような狼、どす黒い赤色の毛皮をもつ巨大な熊、巨大な鉤爪を持った直立する蝙蝠、凄まじい速さで木々の間を駆け抜ける猪。どれもこれも自然の生物では有り得ないサイズや形状をしているが、見ただけで発狂するような手合いは一匹もいない。どれもこれも、ただの魔物だ。

 

 12体。シルヴァを追っているもう一体も合わせると13体の同時召喚。

 召喚術が通常魔術に比べて魔力や制御力を必要としないシステムになっていることを加味しても、才能と研鑽無くしては再現できないことだろう。

 

 そして獣型の魔物というのは、往々にして並の獣よりも性能に勝る。

 大犬4頭、狼2頭、熊1匹、蝙蝠2羽、猪2頭。普通の動物でもこれだけ同時に相手取れる人間はそういないだろう。狼一匹でも十分に危険なのに、熊までいたら大抵の人間は簡単に死ぬ。

 

 それら全てが強化された運動性能や特殊能力を持ち、更には召喚術師の下で連携して襲い掛かってくるのだから一溜まりもないに違いない。二つ名が与えられるのも納得だ。

 

 そのうえ。

 

 「うん、確かに、僕の戦闘スタイルは対多戦闘に向いてない」

 

 フィリップは対人戦闘ではそこそこやれるが、それでも二対一なら不利だし、三対一なら絶望的だ。特に相手が魔術師だったら、弾幕を張られてあっさり死ぬ。

 

 ──で。

 

 それがどうした?

 フィリップは口元を嘲笑の形に歪め、眼下、魔物の群れを従える男を見下ろした。

 

 「周りに誰もいないなら、僕が態々自分の足で走って、自分の手で殴らなくちゃいけない道理はない」

 

 

 

 

 

 



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366

 木漏れ日の満ちる森の中、木立の間に哄笑が響く。

 笑う声は愉快そうで、嘲る色はない。──その主を考えると、“珍しく”という言葉で修飾すべきかもしれない。

 

 「ははは! いいね! 数には数でっていうのは、基本だけど盲点だった!」

 

 枝の上に立ち、高笑いするフィリップ。

 その表情に曇りは無く、面白いものを見た子供の笑顔そのものだ。遊んでいるときのシルヴァとよく似ている。

 

 靡く木の葉で揺れる夏の日差しを浴びた姿は如何にも幼気で無垢で、楽しく遊ぶ子供以外の何にも見えない。

 

 ──その周囲に、十二の異形を従えていなければ。

 

 「魔物とぴったり同じ数、都合12体のビヤーキーか」

 

 ビヤーキー。或いはバイアクヘー。

 ハスターの支配するアルデバラン周辺領域原産の神話生物で、地球外生命。

 

 一般的な牛くらいの大きさで、牛と鳥と昆虫を混ぜて死体から滴る腐敗液で薄めたような、奇妙で気色の悪い外見をした怪物だ。四足歩行に適しているとは思えない骨と皮だけのような四肢と、蝙蝠と鳥の合いの子のような痩せた翼を持っている。

 頬肉のない牛のような頭蓋に生え揃うのは草を磨り潰すための分厚い臼歯ではなく、肉を引き裂くための鋭い牙だ。

 

 見るからに異形の化け物と言った風情の外観をしているものの、特に神格に連なるものではなく、取り立てて強いわけでもない。

 いや、身体はデカいし空を飛ぶし、星間航行能力もある。おまけに領域外魔術を使える個体までいるが、小型の龍に魔術師が乗っかったようなものだと考えれば、絶望的な戦力ではないことが分かるだろう。

 

 ルキアやステラは言うに及ばず、硬い外皮以外に特殊な防御──ティンダロスの猟犬でいう次元歪曲のような──は持っていないから、一対一ならフィリップでも龍貶し(ドラゴルード)で斬り殺せる。

 

 ──しかし、それは『外皮は龍骸の剣なら切り裂ける』というだけ。

 飛行や磁場の観測といった様々な用途を持つ、ビヤーキーに特有のフーン器官という内臓による外部認識は、フィリップの攻性防御である拍奪を無効化する。

 

 まあ、単純に空を飛んで魔術まで使う牛というだけで、脅威度は推して知るべしという感じではあるけれど。体重、体格、筋力、どれも脅威だ。

 

 それが12体。

 ハスター召喚の魔法陣から出てきたのはヒトガタを象る無数の触手の集合ではなく、異形の群れだった。

 

 「いい趣向だね。ちょっと臭いけど……ま、ティンダロスの連中に比べたらずっとマシか。──行け、そいつらを殲滅しろ」

 

 命令を受け、ビヤーキーの群れが磁気を持つという鳴き声を上げながら魔物を追い立て始める。残念ながらフィリップの耳には、彼らの鳴き声は嗄れて耳障りなものとしか聞こえなかった。

 

 数には数で。量には量で対抗する。

 質も量も関係なく天地万物を薙ぎ払うような化け物を使うのは、大袈裟だしナンセンスだ。

 

 単なる気まぐれか、ハスターなりの諫言のつもりか、はたまた意外とエンターテイナーなのかは定かではないが、フィリップの受けはとても良かった。

 

 ……それは、そうなのだけれど。

 

 それはそれとして、ハスター本体が出て来ないとそれはそれで困る。

 

 「ハスター。降りるのに手を貸してくれない?」

 「……分かった」

 

 配下にすべて任せるつもりだったのだろうか。地面を見下ろして「飛ぶには高いなぁ」なんて眉尻を下げるフィリップに答える声は沈んでいた。その後に続く、魔法陣から大量の触手が這い出てくるぞるぞるという湿った音も、心なしか溜息交じりな気がした。

 

 フィリップが触手の海をクッション代わりに枝から飛び降りた時には、魔物もビヤーキーも、暗殺者もみんないなくなっていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 恐ろしい詠唱を皮切りに空が濁り、雲が蠢き、風が暴れ始めた。

 見たことのない不快な色の空は、日の光が穢されたことを示しているようだ。雲は嵐よりもっと暗い色で重く立ち込め、有り得ない挙動で垂れ下がる。穢れた光は木々の葉をも侵し、目に優しい包み込んでくれるような緑色は毒々しい黒を纏う。

 

 どす黒く汚れて淀んだ空間を、心地よさそうに悠々と泳ぐ異形がいる。

 ビヤーキーと呼ばれた怪物。巨大な昆虫が哺乳類を犯し、人間の胎で育てさせたような悍ましい化け物。

 

 見たこともない異形の群れから、『ドレッドリーシュ』と使役下の魔物たちは散り散りになって逃げだした。

 

 一心不乱に、振り返ることなく必死に走り続ける『ドレッドリーシュ』の魔術的感覚に、配下の魔物が次々と倒されていることが伝わる。

 

 広い視野と優れた空間把握力を持ち木立の合間を縦横無尽に駆け抜けるツインヘッドハウンドが、それ以上の空間把握力と運動性能を持つ捕食者に捕らえられて引き裂かれた。

 

 影の中でのみ発動する強力な自己隠避魔術を使うニュームーンウルフが、視覚に依らない索敵能力を持つ捕食者に狩り出された。

 

 厚い毛皮と強靭な筋肉に加え、鋭利な爪牙と飢餓のような攻撃本能を持つブラッドグリズリーが遥か高空へと持ち上げられたのち、地面で熟れた石榴のように弾けた。

 

 翼を持つとはいえ空中に滞空して超音波攻撃するのが主なデモニックバットは、空中戦(ドッグファイト)で撃墜された。

 

 直線ではビヤーキーの飛行速度を上回る疾走速度を誇るラピッドボアは、魔術によって速度を落とされて捕まった。

 

 しかし──逃げた獲物のうち、最も逃走・戦闘能力に欠けるはずの『ドレッドリーシュ』だけが、未だに息を荒げながら森の中を逃げ惑っている。

 

 背後からは聞くに堪えない汚らしい鳴き声が時折響き、合間合間に魔物の断末魔が混ざる。

 頼みの綱のもう一匹、シルヴァを追わせていたツインヘッドハウンドにも戻ってくる命令を出したというのに、自分の元へ帰り着く前に狩り殺された。

 

 木の根に足を取られ、泥濘で滑り、木の枝で肌を切りながらも必死に走り続ける『ドレッドリーシュ』。

 異次元のように変貌してしまった森の中を泳ぐように飛び回りながら、狩りか、或いは遊んでいるかのように魔物たちを屠った彼らが、今や残り一匹の獲物となった自分を追っていた。

 

 振り返らずとも分かる。背後、いや全周から感じる威圧感は、知覚力は並の人間の域を出ない魔物使いの暗殺者でも、脊髄を引き抜かれて氷柱を差し込まれたような激甚な悪寒を感じるほどだ。

 時折木々の間を太く長い何かが悠然と横切るのが見えて急転身したことも一度や二度ではない。

 

 魔物の断末魔が消え、森は一時の静寂を取り戻す。

 静けさも、ふと聞こえる異形の愉悦も、どちらともが『ドレッドリーシュ』の精神を蝕む毒だった。

 

 躓いたりぶつかったりしながら一生懸命に──それこそ命を懸けて、足を動かすことだけを考える。ほんの少しでも恐怖に囚われて足が竦めば、その先には“死”しかない。

 

 走り、走り、ひたすらに走り──遂に、その酸欠で狭窄し暗くなった視界の中に、灯火の如き輝きが映る。

 

 陽光の温かさと澄んだ水の冷たさを感じさせる、美しき湖の煌めきだ。

 

 ──勝った、と。

 『ドレッドリーシュ』は無意識にそう安堵した。

 

 あの湖には聖痕者が二人に、第一王女の親衛隊までいる。助けを求めるのに彼女たち以上に頼れる相手はそういないだろうと。そして聖痕者であれば、あの異形の怪物どもも一瞬で殲滅できるはずだと。

 

 当然、その特大戦力が自分を殺しにかかる可能性はある。いや、逃がしてくれる可能性の方が低い。それは勿論分かっている。助けてくれるどころか、怪物と一緒に殺されるのが関の山だろう。

 けれどそちらの方が──魔術や、剣や、弓、そういう普通の死に様で死ねるのであれば、そちらの方が断然マシだ。

 

 そんな考えから必死に走り、遂に『ドレッドリーシュ』は森を抜けた。

 

 陽光を遮る梢が無くなると、肌を刺すような日差しが燦々と降り注いで唐突に暑さを思い出す。普段なら鬱陶しいほどの熱気だが、『ドレッドリーシュ』は深々と安堵の息を吐こうとして酸欠で咽せ、それでも込み上げてくる笑いで身体が痙攣しそうだった。

 

 青い空。白い雲。温かな日差し。水の匂いの混じる風。

 

 やはり人間は、陽光の下で生きるようになっている。

 だって、ただの光、ただの熱であるのに──こんなにも心が安らぐのだから。

 

 しかし呆けてばかりもいられない。あの耳障りな鳴き声は聞こえないものの、まさか森を出たら襲われないなんてことは無いだろうから。

 

 「た、助けてくれ! 誰か、誰か──!」

 

 一番近くに居た人影に向かって走りながら、『ドレッドリーシュ』は大声を上げ思いっきり手を振る。

 砂地用のマント姿は湖畔にあっては不自然極まりないだろうが、脱いでいる余裕なんてありはしない。というか、街道が封鎖されている森を抜けて湖に来た時点で暗殺者確定みたいなものなのだし、多少怪しかろうと誤差だ。

 

 そして──湖畔に佇んでいた使用人が振り向いたとき、激甚な危機感に襲われて足を止めた。

 

 モノクロームなメイド服に身を包んだ、華奢な女だ。

 体格だけなら、特に戦闘術を身に着けているわけではない『ドレッドリーシュ』が魔物を使うまでもなく殺せそうに思えるほど。

 

 しかし、その顔には嫌な見覚えがある。

 貞淑な令嬢といった風情の容姿に物憂げな表情が良く似合うが──彼女が死ぬほど物騒なことを考えていることは知っている。

 

 あぁ──どうして、こいつの頸には頭部が付いているのだろう、と。

 

 「……あら? 確か、魔物使いの……」

 「つ、『椿姫』……!?」

 

 終わった、と、『ドレッドリーシュ』は()()する。

 元ギルドトップ暗殺者『椿姫』。対多数戦能力ならいざ知らず、単に人殺しの巧さだけなら『ドレッドリーシュ』は彼女の足元にも及ばないと自覚し認めている強者だ。

 

 その殺し方は極めてスマートで、標的は気付かぬうちに首を切り落とされて死に至る。中には自分が死んだことに気付かず数歩歩いて振動で首が転げ落ち、自分の身体を見上げた頭が驚きに目を見開いた、なんて逸話もあるくらいだ。流石に都市伝説だろうが、とにかくそのくらい凄い業前だと広く知られている。

 

 彼女の手に掛かるなら、一瞬で苦痛なく死ねるだろう。あんな見るも悍ましい魔物に殺されるよりずっとマシだ。

 

 これで終わりだと──体感時間では無限にも思える、実際はほんの数分の恐怖体験、逃亡から解放されると、そう安堵した。

 

 同時に、早くしてくれと急く。

 

 早くしないと、あいつが追い付いてくる。

 冒涜的な獣たちを従える、幼き怪物。あの恐ろしい冒涜の王が。

 

 ──直後。

 

 「あ、っ!?」

 

 『ドレッドリーシュ』は派手に転倒した。

 地面が柔らかい砂利に変わって足を取られたわけではない。何かに足を掴まれて引っ張られて、つんのめって転んだのだ。水草か木の根にでも躓いたような感触だったが、しかし、足には何も絡まっていない。

 

 絶望と恐怖が足から脳天へ駆け上がってくる。

 脚を掴んだ見えない“何か”は、じわじわと森の方へ──あの地獄の方へ『ドレッドリーシュ』を引っ張っていた。

 

 「あ、い、嫌、嫌だ、いやだ! 助けて! 『椿姫』! 助けてくれ!」

 

 砂利を、小さな雑草を、落ちていた水草までも掴む必死の抵抗も虚しく、『ドレッドリーシュ』は森の中に引きずり込まれて見えなくなった。

 

 甚大な恐怖を映した形相と絶叫に、さしものメグも踏鞴を踏んで下がる。

 『ドレッドリーシュ』、面識こそ無かったもののお互いの情報は把握していたから知っているが、彼は魔物使いだ。狂暴な魔物を手懐けるため、時には自分を囮にして拘束用魔法陣に誘い込んだり、魔物が罠にかかるまで気配を殺してじっと待っていたりもする。恐怖心は麻痺しているような手合いのはずだ。

 

 いや、そもそも二つ名を冠する時点で相当な手練れだ。ある日突然森の中で熊さんに出会ったって落ち着いて対処できるだろう。

 

 その熟達のアサシンがあれほど恐怖し恐慌するなんて、どう考えても只事ではない。……いや、勿論暗殺者だって人間だ。恐れもすれば怯えもする。しかしあんな、形振り構わない狂乱ぶりは二つ名持ちの暗殺者には似つかわしくない。

 

 まるで、あの吸血鬼のような恐ろしい捕食者にでも追われていたようだ。

 

 流石のメグもアレ相手、アレと同等の何か相手では歯が立たない。

 思わずルキアに助けを求めたくなるが、彼女はステラの水着探しで離れたところにいる。森の中をゆっくりと進んでくる“それ”が姿を見せる方が、メグが何か判断するより早かった。

 

 メグは逃げることも攻撃することもなく、悠々と森を出てきた彼を呆然と出迎える。

 

 「馬鹿ばっかりだ。ま、ビヤーキーに大した知性が無いことを知った上で、ちゃんと命令しなかった僕が一番馬鹿なんだけどね」

 

 へらへら笑いながら姿を見せる、金髪碧眼の少年──メグもすっかり馴染みの相手になったフィリップ。

 彼はメグに気付いたようだが、「あ、メグだ」とばかり僅かに眉を動かしただけで、特に何か話しかけたりはしなかった。

 

 森から出たフィリップは湖の方を見てから左右を確認し、ちょっと離れて森の上の方を見ると、こくこくと満足そうに頷く。

 ついうっかり命令し忘れていたが、森から出たビヤーキーは一匹もいない。ハスターが配慮してくれたようだ。

 

 「二人は……結構沖の方だな。シルヴァと遊んでるのか。よしよし……うん、知性のない配下も完璧に制御してるね。流石は邪悪の貴公子」

 

 やっぱり信用できるなぁ、なんて感心していると、森の方から声なき意思が届く。

 声ではない故に声色という情報が抜け落ちた言葉では感情を読み取りようもないが、なんとなく、「乾いた笑い」と表現すべきもののような。

 

 「ははは……。お褒めに与り光栄だ」

 「しかも愛想笑いまで出来る。女性の化身で顕現したら惚れちゃいそうな万能っぷりだ」

 

 勿論冗談──とは言い切れないのが怖いところだ。

 邪神が人間状の化身を象るとき、手癖で完璧なものを作ってしまうのか、或いは意図して作っているのかは不明だが、美形になることが多い。

 

 人間の美的感覚は概ね顔や身体が左右対称でパーツごとの均整がとれていれば美しいと判断するが、勿論、完璧に左右対称の身体を持つ人間はそういない。遺伝子は優れた設計図だが、自然の産物である以上、どこかに欠陥はあるものだ。

 

 邪神の化身作成にはそれがない。

 人間が定規を使って線を引くように、なんとなくヒトガタを作るだけで完璧なものが出来上がってしまう。なんとなく出来上がった完璧なものを、人間の側が勝手に美しいと感じているだけの場合もままあるだろう。ナイアーラトテップ辺りは慣れているから美醜を考えて意図した化身を作っているはずだけれど。

 

 ともかく、邪神は人体では到底有り得ない美を持った姿を象ることができる。それは自然的・超自然的なものもそうだし、人間の美的感覚に即したものもそうだ。

 

 フィリップがいま知っている以上の“美しさ”を見せつけられて、簡単に堕ちてしまう可能性は有意にあった。

 

 それも些事(あわ)だが。

 

 「お望みとあらば、銀髪美女の姿で馳せ参じようか?」

 「なんで銀髪……? それより、処分が終わったらさっさと帰って欲しいんだけど、これは何待ちの雑談なの?」

 「ビヤーキーたちが魔物と人間を綺麗に食べ終わるのを待っているんだ。急がせてはいるけれど、所詮は生物の食事だからね。限界というものがある。食べ残し、食べこぼしは無い方がいいだろう?」

 

 逆の立場だったら「自分が呼んだくせに!」と怒るようなことを平然と宣うフィリップだが、応じる意思(こえ)に呆れの色は無い。それが当然であるかのように、淡々と応じる。

 

 まあそもそも声色が分からないから感情なんて読み取りようもないのだけれど……そんなことより、ちょっと至れり尽くせりにも程がある。フィリップが召喚に際して命じた、念じたのは「不快害獣の駆除」だけだったというのに。

 

 「……今度、メイド服でも着てみる?」

 

 コスプレという概念を知らないからか、その手の所謂『プロの衣装』をその域にない人間が身に着けることには否定的なフィリップだったが、思わずそんなことを口走る。

 

 「メイドフク? どういうものだい?」

 「侍女が着る制服みたいなものかな。あ、でもハスターって男神だっけ?」

 「遺伝子で生殖する原始生物じゃあるまいし、性別なんて持ち合わせていないが……従者に扮するということかい? それはナイアーラトテップの顰蹙を買いそうだけれど」

 

 それはそうだと、フィリップは一瞬で納得した。

 

 しかし……それはそうだが、ナイアーラトテップの不興を買うのはフィリップではなくハスターだ。アレがフィリップの意向に口を挟むとしたら、それはアザトースの意向と相反した時だけだろう。

 自分の感情で主人の行動を制限するようなら、そんな奴は従僕とはとても呼べないし、そんなのは要らない。

 

 まあ「おや、君は着せ替え人形で遊ぶ趣味がおありでしたか。あぁ、いえ、責めるなど滅相も無い。ご自分好みの雌性を好みに従って着飾らせ侍らせるというのは、スケールの小さい話ですが上位者の遊びでしょう。えぇ、全く以て矮小な話ですが」とか、煽られるのは目に見えているけれども。

 

 

 

 

 

 



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367

 暗殺者『ドレッドリーシュ』を返り討ちにしてから一週間。

 あれ以来何事も無くバカンスを過ごした一行は清涼な湖畔に別れを告げ、王都への帰路に就いていた。

 

 暗殺依頼の取り下げと、既に依頼を受けていた暗殺者が六人だという情報は王都から届いていたが、それとは関係なく王女と公爵令嬢の乗る車列だ。行きと同様、警備は物々しく大所帯だ。

 

 四人乗りのクーペに揺られて一時間も進むと、森を抜けて街道へ出る。昼前に出発したから、今日は少し進んだ街道沿いの宿で一泊の予定だ。

 

 「やっぱり遊び足りないか?」

 

 街道に面した森を眺めていると、隣に座ったステラが揶揄い交じりに問う。

 フィリップが気を遣った甲斐あって水遊びをそこそこ満喫できたルキアやステラとは違い、フィリップはずっと森でシルヴァと遊ぶか、戻ってきたミナと足場の悪い環境での戦闘訓練をしていた。

 

 ルキアもステラも何度か「私たちが見ているから湖で遊ぼう」と誘ってはみたものの、フィリップは頑として水に入ろうとはしなかったのだ。

 一度神秘体験をしたくらいで怯えるような可愛い性格ではないだろうし、フィリップ自身「もう二度とあんなことは起こらない」と言っていたのだけれど。

 

 「少し。また来ればいいだけのことなんですけどね。エレナも遊びたがってたし、ミナも「もうちょっとで斬れそうなのだけれど」って言ってたし……」

 

 斬れそう、とは言うまでも無く湖のことだ。……いや、明言してなお意味不明だが、とにかくミナはもう少しで湖を斬れそうだと言っていた。

 エレナも前々から水遊びがしたいとは言っていたし、誘えば喜んで来るだろう。

 

 ルキアとステラと一緒に、とは行かなくても、水遊びの機会はまだまだある。来年の夏にまた来るという選択肢だって。

 

 「……一度起こったことは二度起こり得るぞ。普通ならな」

 

 再び精霊の悪戯で拐かされるかもしれない。

 そして今度こそはヴィカリウス・システムの助力を得られず、帰って来られないかもしれない。

 

 そんな懸念を滲ませるステラの言葉に、フィリップは柔らかに笑う。

 

 「大丈夫ですよ。確かに、同じ現象が起こることは考えられますけど……出てくればいいだけの話ですから」

 「……またたべられない?」

 

 ぴょこ、とフィリップの膝上に現れたシルヴァが見上げつつ問う。

 唐突な出現だが三人ともよくあることだと平然と受け止めているし、ルキアの隣に座っているメグも、この旅行の間ですっかり慣れているようだ。

 

 食べられる、という言葉にピンと来なかったのは三人だけで、フィリップは「今更何言ってるの?」とばかり首を傾げて半笑いだった。

 

 「ん? あれ? この前の話、聞いてなかったの? 僕とマザーの」

 

 きいてない、とシルヴァは頭を振る。

 まさか生物ではあるまいし、ヴィカリウス・システムに睡眠なんて必要ないはずだが、あの夜に限って寝てみたのだろうか。

 

 不思議そうなフィリップと同じく怪訝そうな顔のルキアとステラに気付き、フィリップはシルヴァと一緒に抱いていた懸念のことを話す。水の精霊の一種が無意識の感情を食うことと、フィリップが餌場に迷い込んだことを。そして、何事も無かったことを。

 

 「結局、僕はなにも食われてなかったんです。……考えてみれば当たり前ですよね」

 

 マザーとナイ神父の両方を知るルキアも、片方しか知らないが他に二柱の邪神を知るステラも、「当たり前」という言葉には納得できるはず。

 

 そう思って、苦笑交じりの安堵が返ってくることを予期したフィリップだったが、二人は相変わらずの──いや、より色濃く怪訝そうな表情を浮かべている。……そして、ちょっと怒っているようにも見えた。

 

 ルキアもステラも不機嫌を他人にぶつけるタイプではないから、怒るときは絶対にこちら側に理由がある。

 しかし、フィリップには今一つ思い当たるところがない。もう全部解決したのに、なんて考えているから当たり前なのだけれど。

 

 「……そもそも水の精霊が人間の感情を食うという話は初耳だが?」

 

 淡々と──どこから詰めていくべきかと考えていることが、ステラにしては珍しく丸分かりの声。

 フィリップは「確かに」と安穏と頷いているが、

 

 「僕も初めて聞いたときは驚きました。けどまあ、英雄譚の類だと水の精霊に勇気を貰うのはポピュラーな展開ですからね。“勇気を与える”じゃなくて“恐怖を失くす”が正確だったわけですけど、湖の精霊が英雄を作り出したことには変わりないですよね」

 

 なんて言っていては、二人の不機嫌は増す一方だ。

 

 「私の言っている意味が、意図が伝わらなかったようだな。──どうしてそれを今まで黙っていたのかと、そういう問いのつもりだったんだが」

 「……? ……! ……」

 

 フィリップはそうだっけ? と首を傾げ、そういえばそうだ! と思い出して愕然とし、しまったやばいどうしようと目が荒海に繰り出す。

 

 別に何も食われていないのだし、精霊なんぞより余程上位の存在からのお墨付きなのだから、伏せるべき部分だけしっかりと伏せて説明すればいいのだが、やっぱり怒られの気配には敏感なのだった。

 

 怒りと心配が綯い交ぜになった赤青二つの視線に縫い留められたフィリップに、思わぬ場所から助け船が出される。具体的には膝の上から。

 

 「いったらふたりともしんぱいするから。ばかんす、たのしめなくなるから」

 「っ、シルヴァ」

 

 それは言わない約束のはず、と焦るフィリップは、どうして緘口令を敷いたのかさえ忘れているようだ。

 

 「う? ばかんすおわったけど、まだだめ?」

 「……いや、もういいよ」

 

 そうだった、と思い出す。

 ルキアとステラに知られたくなかったのは、知ってしまえばバカンスどころではなくなると思ったからだ。優しい二人は、きっとフィリップのことを心配してくれる。もしかしたらバカンスを切り上げて王都に帰ろうと言い出すかもしれない。そう危惧してのことだった。

 

 もうバカンスは終わったのだし、何より、説得に失敗しても二人を気遣わせることはない。いや、説得に失敗した場合には、きっと二人とも納得したフリなんてしないだろう。その必要が無いのだから。

 

 だから、まあ、ある程度は話していいだろう。

 

 「……何か、取られたの?」

 

 不安そうに尋ねるルキアに、フィリップは努めて穏やかに安心させるよう頭を振る。

 

 「いえ、何も。それを許すほど、マザーもナイ神父も寛容じゃあありませんからね」

 

 考えてみれば当たり前の話。魔王の寵児(フィリップ)から何かを奪うなんて、あのナイアーラトテップが許すはずがない。シュブ=ニグラスは視座の高さゆえにフィリップへの干渉に気付かない可能性もあるが、干渉そのものには気付かずとも、フィリップの変化には気付くだろう。

 

 しかし──そうなると、フィリップの変化はどういうことなのだろうか。

 希死念慮の喪失。死への忌避感が芽生えたというより、死への渇望が薄れたというべきような、曖昧な変化。

 

 これは確かに、あの湖に沈んでから変わったことだ。

 絶望と諦観の水底で、ルキアとステラの声を聞いてから。

 

 そう考えて、フィリップの中でかちりと何かが噛み合った。

 

 「そうか。僕は──」

 「どうした?」

 

 思わず口走り、ステラが首を傾げる。

 フィリップの口元は嬉しそうな笑みの形に緩んでいた。

 

 「ルキア、殿下、僕は──」

 

 あの声を聞いて、死にたくなくなった。

 

 普段は冷たいほどに涼やかなルキアの、今にも泣き出しそうに悲痛な声を聞いて。

 普段はどんな状況でも一抹の余裕を残しているステラの、恐怖と焦燥に満ちた声を聞いて。

 

 ──結局は幻聴だったらしい二人の声を聞いて、フィリップはこれまで胸の奥底で燻ぶらせていた死への渇望を喪失した。

 

 二人に悲しんでほしくない。苦しんでほしくない。

 二人のためになら、このクソみたいな世界で生き続けることくらいは出来る。二人のためになら、そのぐらいの無為な苦痛は背負える。

 

 ルキアとステラのために、生きられる。

 

 そんなことを口走りかけて、フィリップは寸でのところで自分が何を言おうとしているのか気が付いた。正気付いた。

 

 「……照れ臭いからやっぱナシ! 今の無しでお願いします!」

 

 顔を赤くして言葉の通り照れ笑いを浮かべたフィリップからは、深刻さは全く感じられない。

 しかし普段は羞恥心など持ち合わせないかのように振る舞い、水着を見ようが下着を見ようが喜ぶどころか照れさえしない少年の頬を赤らめた顔というのは、中々に嗜虐心をそそるものだった。

 

 「おいおいおい気になる切り方をするじゃないか」

 

 続きを吐けとばかり、フィリップの頬を指先でうりうりと突き捏ねるステラ。

 心を読む術を持たない彼女だが、なんとなく、直感的に、フィリップが物凄く嬉しいことを言おうとしたのだと察していた。内容までは分からないが。

 

 「ちょっと。フィリップが嫌がってるんだから、無理に聞き出そうとしないで」

 

 そこそこ本気で止めるルキアだが、彼女も彼女で口元が緩んでいる。

 彼女がもう少し我儘だったら、ステラと一緒にフィリップを揶揄っていたかもしれない。

 

 「あー、もう! 二人が大好きって話ですよ! 大体は!」

 

 ぷにぷにと頬肉を弄ばれ続けていたフィリップが遂に激発し、顔を真っ赤にしてステラの手をぺちりと払い退ける。

 

 それが意外と痛かったのか、或いは声が少し大きすぎたか、ルキアもステラも鳩が豆鉄砲を食ったような顔で黙った。

 筋肉の柔軟性も鞭術で培った身体操作も使わず、全くと言っていいほど強く叩いていないはずだけれど、と心配そうな顔になったフィリップに、ステラは目をぱちくりさせ、一言。

 

 「……それより恥ずかしいことを言おうとしていたのか?」

 

 フィリップは話題が完全に変わるまで、窓の外を眺める人形になった。

 

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ15『希死』 グッドエンド

 技能成長:なし
 SAN値回復:通常1D6、またはバカンスによる心の休息として妥当な量の回復。


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カエルの村
368


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ16 『カエルの村』 開始です

 必須技能は各種戦闘系技能です。
 推奨技能は【クトゥルフ神話】、【薬学】か【医学】です。


 夏休みが明けて実習の日々に戻ったフィリップたち。

 よく晴れた秋のある日、フィリップ、エレナ、ミナのいつもの三人は、王都から離れた街道上──いや、道のように見えた枯れた川床の上で呆然と空を見上げていた。

 

 辺りは見渡す限りの不毛な荒野で、王都どころか村の一つも見えはしない。遠くに見える森が、当面の水分補給のための臨時目的地だ。

 

 「……ねえ、フィリップ君」

 「なに、エレナ?」

 

 ここまでどのくらい歩いたのか、疲れ切った様子のフィリップとエレナが呟き程度の声量で会話する。

 最後尾をのんびりとついてくるミナだけはまだまだ余力十分といった感じだが、そりゃあそうだ。アンデッドは疲労しないのだから。

 

 「もしかして、地図って100年前のじゃ駄目だった?」

 「……まあ、うん、そうだね」

 

 当たり前だろと言いたいところだが、強く責めづらい。

 こうなった原因の一端は、間違いなくフィリップにあるのだから。

 

 それは四日ほど前のこと──。

 

 

 ◇

 

 

 夏休みが終わり、魔術学院では後期の授業が始まった。

 三年生は授業の半分ほどが実習となり、中でもフィリップたち冒険者コースでは、これまでの模擬依頼とは違う本物の依頼が課題として与えられる。

 

 前期と同じ教室に集まった冒険者コースの学生たちは、担当教諭とジョンソン教授に脅され──もとい、厳しく教えられていた。

 

 「後期課程では実際に冒険者ギルドへ寄せられた依頼のうち、最も簡易であるとされるDランクの依頼をこなしてもらう」

 

 フィリップはテキストに目を落とし、冒険者のランク区分についてのページを繰る。

 

 冒険者のランクは実力別に四つ。

 最低のDランクから順にC、B、Aと上がり、自分のランク以下の依頼しか受注できない。

 

 基本的に依頼達成回数と難易度に応じてランクが上がるが、Aランクへの昇格は強さだけでなく人格についてもギルド側が審査し、実戦経験と依頼成績も加味して判断される。

 

 通常、冒険者になるとDランクのライセンスが発行される。

 Dランクの依頼は最低ランクだけあって極めて簡易な採集や害獣駆除などで、これなら魔術学院の野外試験の方が難しいくらいの代物ばかりだ。また、王都ではサバイバル訓練や戦闘訓練といった講習が義務付けられている。要は冒険者見習いみたいなものだ。

 

 Cランクから漸く、所謂「冒険者」らしい依頼を請け負うことになる。

 魔物の駆除、専門知識を要する薬草採集、ダンジョン攻略や未開墾領域の調査など。Bランクにはより高難易度のものが割り振られる。

 

 Aランク冒険者は、軍学校と魔術学院の成績上位卒業生以外で唯一、衛士団の入団資格を満たす基準だ。

 フィリップが目指すのはここ……なのだが、かなりキツい。ランク評定はパーティーを組んでいるならパーティー単位で下されるので、エレナとミナに頼ってランクを上げることは可能だが、それでは相応しい強さが伴わない。というかそれをするなら、龍狩りの一件の報酬で衛士団に入っている。

 

 ちなみに冒険者のランクには通常の四つの他にもう一つ、Sランクがあるが……これは普通に依頼をこなしていても辿り着けない例外規定なので、フィリップには関係ない。

 

 ジョンソン教授の話は続く。

 

 「魔術学院生は本課程をパスして卒業することで最低限度以上の戦闘・探索能力を持つと認められ、初めからCランクのライセンスを発行される。つまり言い換えるなら──今後、君たちに付される課題はその全てがライセンス発行試験だ。そして確かに依頼人の存在する仕事であり、仕損じれば困る誰かが生まれる。君たちのせいで、だ」

 

 まぁそうだな、と漫然と聞いていたフィリップに、エレナが隣席から身体を傾けてひそひそと話しかける。

 

 普段なら先生に見咎められるからやらない行為だが、夏休み明けでまだ浮かれているのかもしれない。

 

 「そう言われると急に緊張するね……!」

 「簡単な依頼しかないみたいだし、これまでの模擬依頼よりマシじゃない? というか前期の期末試験よりマシでしょ」

 

 というか、そうでなければ困る。

 湖に行ったらグラーキの破片が潜んでいたあの一件と同等かそれ以上の事件が起こったら、いよいよエレナの正気が危うい。

 

 ひそひそと会話していると、ジョンソン教授が咳払いしてこちらを指した。

 最近では彼女は不機嫌なのではなく不愛想なだけだと分かってきた生徒たちだが、どちらにしても先生に怒られるのは嫌なのでフィリップはさっと姿勢を正す。

 

 「その通り。Dランクの依頼は大半が白カード、実行依頼だ。君たちは何も考えず、書かれたことを書かれた通りにやるだけで良い。……そう思うかね?」

 

 そうだろう、とフィリップも含めた大半の生徒が頷く。

 白カード、実行依頼は書かれたことをやるだけの簡単な依頼。対して赤カード、調査依頼は目的だけ与えられて手段を委任される形態上、『何をしなくてはならないのか』をまず調べる必要がある。手間も難易度も大違いだ。

 

 「至極簡易な依頼ばかりだ。どの森のどの辺りに生えているのかまで分かっている薬草の採取、どの辺りに出没するのかまで分かっている害獣の駆除、エトセトラ。魔術一発どころか、一発も撃たずに終わる依頼だって少なくないだろう。ちょっと難しい子供のお使いみたいなものだ」

 

 この言葉にも、生徒たちは頷く。

 冒険者コースに居る時点で魔術の腕前に自信が無いのは明らかなのだが、そんな落ちこぼれの彼らでも、今のところ誰一人として課題で死闘を演じたことはない。死人どころか、大怪我を負った者もいないくらいだ。

 

 野外試験だの魔術戦演習だので散々鍛えられているから、学校側としてはそれで当然という認識なのだが──例年、死人や怪我人は出る。当たり前だ。教員の庇護下を離れて魔物と戦う、死線上に身を置くのだから、怪我もするし死にもする。

 

 今年は優秀な方だ。

 

 生徒たちが、ではなく、担当教授が。

 生徒の実力をよく理解し、「冒険者ってなんとなくカッコいいよね」みたいな甘いノリで進路を決める馬鹿が一人も出ないよう、かなり厳しい模擬依頼を作りカリキュラムを組んできた。先の未達成依頼の件、生徒たちの増長を防ごうとした件もその一つだ。

 

 誰も死なないライン。そして誰も油断しないライン。

 その二つがちょうど重なったいい塩梅の課題を作るセンスを、彼女は高い水準で持っていた。

 

 生徒をあたら無駄死にさせぬよう全力を尽くす。

 そんな彼女が夏休み明けの緩慢な空気を増長させるようなことを、まさか口にするはずもない。言葉は続く。

 

 「もし仮にミスをすれば、君たちは子供のお使い程度の仕事さえこなせない無能ということになる。……栄えある魔術学院生が、まさかそのような醜態を晒してくれるな」

 

 前の方の席にいた生徒二人がひそひそと言葉を交わし、クスクスと忍び笑いを漏らす。

 最後列に座っているフィリップは気付かなかった程度の小声に、しかし、ジョンソン教授は耳敏く気付いて眦を釣り上げた。

 

 「左様だ。今年は確かに、本当に子供がいる。しかしだ、16歳と17歳の諸君──生徒の成績を開示することは原則ないが、冗談を言う余裕があると思っているそこの二人のために教えておこう。彼は現状、コース内で三番目に好い成績を誇っている。君たちの大半は、13歳の少年に負けている。恥じ入り、奮励するように」

 

 最低限のプライドはあるのか、クラス内の空気がすっと冷える。

 「龍狩りの英雄に勝てるワケないだろ」という意見もあるようだが、冒険者になろうという連中は、得てして大望を抱くものだ。それこそ、龍殺しのような。「勝てるわけがない」で終わるような“頭のいい”手合いは、こんなところにいない。

 

 冷えた空気が熱を帯びていく。

 負けん気──熱気を、帯びていく。

 

 そんな中で、安穏とした空気のままの二人がいる。

 

 「わ、三位だって! すごいねフィリップ君!」

 「そりゃミナとエレナがいれば、実習課題は余裕だからね。座学も暗記が大半だし、エレナに語句の説明をするのにちゃんと理解しなくちゃいけなかったから……エレナのおかげだよ」

 

 二人して「えへへへ」と照れ笑いを向け合うフィリップとエレナ。

 実際、知識を要求される課題ならフレデリカという王国が誇る頭脳を頼ればいいし、武力を要求される課題ならミナがいる。座学の成績でフィリップを上回る者はいるだろうが、実習課題で誰かに負けたら、それはもう勝った奴の方が異常と言っていいだろう。

 

 「緊張感とモチベーションは高めたか? では課題を配布する。パーティーリーダーは並んで取りに来るように」

 

 ジョンソン教授は「締まらない奴らだ」とでも言いたげな苦笑を浮かべていた。

 

 

 

 



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369

 フィリップたちに与えられた課題──いや依頼は、至極簡単な害獣駆除だった。

 森に棲み着いた中型草食獣数種類の全滅。シカとかイノシシとか、作物を食い荒らす農村の厄介者だ。

 

 これが先生が用意した模擬依頼だったら、適当に行って適当に殺して──それこそミナが片手間に殺し、エレナが手慣れた狩りを見せ、フィリップが炭の塊を作って終わりだ。しかし、これはもう単なる課題ではなく、仕損じれば困る人の出る本物の依頼。

 基本的に真面目なフィリップとしては、楽な仕事だとは思っても、手を抜いていい仕事だとは思えない。

 

 更に、指定された場所は王都からそこそこ遠く、また近辺に重要な町もない辺鄙な場所で、近くへ向かう乗合馬車の類が無いところだった。

 

 そんなわけで、いつものようにフレデリカの家に向かったのだが、残念ながら不在だった。

 買い物にでも出掛けているのだろうかと暫く待っていたら、近所の人に「レオンハルト様なら、一週間くらい所領の方に戻られているよ」と言われて、そういえば彼女も侯爵位を継承する貴族の嫡子だったと思い出した。今更ながら。

 

 ならば元Aランク冒険者だという衛士団のジェイコブ辺りに話を聞こうと、衛士団の詰め所に足を向ける。ついでに、依頼の場所に詳しい人が居たら地図でも描いてもらおうと。

 

 近づくにつれて剣戟の音が大きくはっきりと聞こえてきて、フィリップはぼけーっと詰所の方の空を見上げた。

 

 「訓練かな? それにしては……」

 

 なんだか音が雑然としている気がする、と首をひねるフィリップ。

 日頃ルキアたちと行っている訓練と二度の軍学校との交流戦の経験から、なんとなく感じる。剣と剣、鉄と鉄のぶつかり合う音の感触が、模擬戦闘っぽくない。

 

 相手が万が一受け損じた場合でも寸止めできるよう配慮された打ち込みと、ただ相手をぶちのめし斬り伏せることだけを考えた打ち込みでは、力の込め方が同じでも音の質が微妙に変わる。

 

 いや、正確には、力の込め方が微妙に変わるのだ。意思、意識が、そのまま身体操作に影響を及ぼして。

 だから意識的に使えない部分の運動神経を鍛え、意識に直結した身体操作を可能とするほど研ぎ澄まされた戦士であればあるほど、音の違いは明瞭になる。

 

 聞く方にもそれなりの素養は必要になるが、フィリップにも少しは分かる。

 

 これは──模擬戦の音とは違う。

 

 「……衛士団に絡む馬鹿がいるのか。大変だなぁ」

 

 何か手伝えることがあるかもしれないと、フィリップは少しだけ歩調を速める。

 とはいえ衛士団は大陸最強の武装組織の一つ、王国最強の兵士たちだ。フィリップ風情の助力が、まさか必要になるとは思えないけれど。

 

 そんなことを考えながら詰所に入ると、苦虫を嚙み潰したような顔の受付役が出迎えてくれた。フィリップが捕まった時に看守役だった衛士だ。

 衛士たちは基本的に全ての持ち場をローテーションで受け持つから、今日はたまたま彼の日だったということなのだが、妙な縁でもあるのだろうか。

 

 「……やあ、カーター君。何かトラブルかい?」

 「いえ、学院の課題のことでジェイコブさんに相談があったんですけど……あの、というか、そちらこそトラブルが起こってませんか?」

 

 建物の中に入ると流石にかなり軽減されるが、それでも剣戟の音はずっと続いている。というか、詰所の裏くらいから聞こえている気がする。

 ここまで近づくと色々と情報が読めてくるが、どうやら一対一ではない。もっと乱戦のようだ。

 

 「あぁ……この音か。裏の訓練場に行けば分かるよ。ジェイコブもいる。……あいつだけでも救ってやってくれ」

 「え……?」

 

 受付役の表情や態度といい、鳴り止まない剣戟の音といい、何かが起きているのは確実だ。

 言葉からすると流石に人死にが出るような状況ではない……のだろうか。本当に? 激しい戦いの音は、全くそうは言っていないのだけれど。

 

 とにかく言われるがまま、案内されるがままに訓練場に行き──死屍累々。その言葉を、視覚に依って体感した。

 

 縦横50メートルほどの、塀に囲まれた訓練場。

 舗装されていない剥き出しの土の上に、何十人もの鎧を着た男たちが倒れ伏している。ある者は剣を握ったまま、ある者は無手で、ある者は折れた槍を両の手にそれぞれ握って。

 

 「……!?」

 

 彼らの纏う鎧には共通の意匠がある。

 王都衛士団の紋章──王国最高の戦士たちである証が。

 

 魔術行使の跡だろう、地面や塀には焼け焦げも見て取れて、ほんのりと熱を持った空気が石の焦げる独特の匂いを鼻腔へと届けた。

 

 その中心に、悠然と立つ男が一人。

 

 フルプレートメイルに身を包み、フルフェイスヘルムで顔を隠した偉丈夫。

 右手にはオーソドックスなロングソードを持っているが、滅茶苦茶に刃毀れしていて最早使い物になりそうもない。

 

 「……」

 

 かち、と、スイッチの切り替わる音を聞く。

 幻聴だ。実際にそんな音は鳴っていない。

 

 しかし明確に、フィリップの意識は切り替わる。

 

 眼前の何者か。彼が衛士団を悉く叩き伏せたのは間違いない。必要な情報はそれだけだ。それだけ分かれば、あとは簡単な一問一答。

 

 Q,こいつは何者か。 A,敵だ。

 

 敵をどうする? なんて設問は、愚問に過ぎる。答えは一つ、間違えようもない。

 

 A,殺す。

 

 「『萎縮(シューヴリング)』」

 

 即断即決、即行で即死魔術をぶっ放す。

 鎧にも盾にも弾かれない内部干渉型、内臓も肉も脱水炭化させる『萎縮』。カルト相手ではないから、苦しめるための『深淵の息(ブレスオブザディープ)』など使わない。

 

 しかし、相手は依然として健在だ。

 魔術行使に対して身構えたものの、持ち前の魔術耐性か、或いは鎧に魔術防御力を高める付与魔術でもかけてあるのか、不思議そうにしているだけで何の痛痒も感じていない。

 

 それも想定の内だ。

 というか、フィリップの魔術能力ではそうなる可能性の方が高い。

 

 魔術が効かないと見るや、フィリップは入り口のすぐ傍に置かれていた模擬剣の一本を取り上げ、拍奪の歩法で駆け出した。

 一見して長剣と分かる龍貶し(ドラゴルード)は王都内を歩くときには帯剣できないから置いてきたが、こんなことになるなら服の下にでも隠して持ってくればよかった、なんて後悔は、流石に無駄だろう。

 

 こんな状況、学院を出る前に予想できようものか。

 

 相手の得物はボロボロのロングソード。こちらの防具は普通に王都の二等地で買ったシャツとズボン。

 こちらの得物は刃引きされたロングソード。相手の防具は重厚なフルプレートメイル一式。恐ろしいことに、鈍い鋼色の鎧には傷一つない。

 

 武装差はあるが、状況としてはそう悲観するものでもない。

 

 相手の得物は剣だ。点攻撃か線攻撃しか使えない。

 そんな相手、拍奪使いの敵ではない。

 

 そしてフルプレートメイルに対して効果的な武器の一つに、メイスがある。

 短めの柄の先端に重りを付けたハンマー状の鈍器で、鋭利な刃や棘などは無くとも、フルプレートメイルを陥没させ、骨を砕き内臓を潰すほどの威力を誇る。頭を狙えば一撃即死も有り得る恐ろしい武器だ。

 

 刃引きされたロングソードも、まあ、重心がややリア寄りのメイスみたいなものだろう。簡単に考えれば鉄の塊だ、人間を殴り殺すのには十分使える。

 

 男に急接近したフィリップは、男の脛を狙って模擬剣を振るう。

 頭を狙えば一撃必殺も有り得るが、如何せん、フィリップは地面を這うような超前傾姿勢で、相手は身の丈2メートルにも届こうかという偉丈夫だ。狙えないというか、単純に手が届かない。

 

 だが戦士にとって、足は第二の心臓だ。

 走る、踏ん張る、剣を振り盾を突く。ありとあらゆる動作の根幹となる部位。最悪寝転がった状態からでも爆撃できる魔術師はともかく、剣士は足が折れたらお終いだ。

 

 地面の上に打ち倒してしまえば、頭は後からグチャグチャに出来る。

 

 応戦する男は、すっと片足を上げる。

 そして重心を下げ──その動きを見た瞬間、フィリップは全力の制動を掛けた。

 

 見覚えのある動きだ。

 身体操作によって重心を集め、下げ、そして中心軸に乗せて叩き付ける技。エレナは『熊脅し』と名付けていた、当てないストンプ。所謂、震脚。

 

 根の浅い木なら真横に打つだけで倒すほどの威力を誇るあれは、流石にエルフの筋力とエレナの身体操作精度があってのことだろう。

 エレナはあれをパンチの助走代わりのように、前動作として使っていたけれど、そもそも木を倒すほどの勢いで踏まれるだけでとんでもないダメージだ。

 

 ズドン! と、土の地面を踏んだだけとはとても思えない大音響に、少し遅れて脛が痺れるような衝撃が伝わる。

 焦りから上体を起こしていたからその程度で済んでいるが、あのまま走り続けていたらバランスを崩して転んでいたかもしれない。

 

 危なかった、なんて安堵したフィリップは、視界の端に鈍い鋼の色を見た。

 

 「──ッ!?」

 

 気付いたときには、フィリップは右脇腹に激痛を抱えて飛んでいた。

 5メートルも吹っ飛んで、倒れていた衛士の上に落下すると「ぐえ」と苦悶の声も重なる。

 

 何とか手放さなかった模擬剣は握ったままで、しかし立ち上がらず、フィリップは呆然と空を見上げてぱちぱちと目を瞬かせた。

 

 なんだ今のは。

 同じ疑問が、複数の項目に向けられる。

 

 まず、今の蹴り。

 喰らった瞬間はそれはもう痛かったのだが、今はもう殆ど痛くない。矮躯の子供とはいえ人間を吹っ飛ばす威力だったのに、骨にも内臓にもダメージが通っていないようだ。そりゃあ鎧で蹴られたのだから、表皮はまだ痛むけれど……運動量と浸透力にダメージが伴っていない。蹴り飛ばされたというのに、まるで投げ飛ばされたような感覚だ。

 

 あの震脚を踏み込みにして撃った蹴りにしては、あまりにも生温い。

 更に追撃が無いのも妙だ。鎧の男はフィリップが起き上がるのを待っているかのように、一歩も動いていない。

 

 そして、フィリップの下敷きになった衛士から聞こえたような、呻き声。

 

 「……生きてるんですか?」

 「いや、四分の三ぐらい死んでる……むしろ四分の五ぐらい死んでる……ってその声、カーター君?」

 

 死人が喋ったらこんな声だろうと思わせる魂の抜けたような呻きに、訓練場に散らばっていた死体たちが次々に顔を上げた。

 

 「え? フィリップ君?」

 「カーター君だって? なんで?」

 「なに? フィリップ君がいるだって? そりゃ死んでる場合じゃねぇ……!」

 

 続々と起き上がる死体たち。

 中には気絶していた者もいたが、同僚に小突かれて「イテッ」と呻いてのろのろと顔を上げる。ややあって、訓練場に散乱していた死体たちは一人の例外も無く立ち上がっていた。

 

 「……え?」

 

 呆然と呟いたフィリップは、依然として訓練場の真ん中に悠然と立つ鎧の男を見る。

 

 彼は緩慢な動きでヘルムを取ると、ぞんざいに足元へ放る。

 単なる金属板の加工品では有り得ない、ズン、という鉛の塊でも落としたような重々しい音が鳴った。

 

 ヘルムが取り払われ露になった顔に見覚えはない。

 王国人にありがちな金髪に青い瞳の、壮年の男だ。顔には年齢を映す皺が刻まれているが、目に宿る野性的な光と口元に浮かぶ獰猛な笑みは、若々しさというより野卑な荒々しさを感じる。

 

 「途中までは悪くない動きだったが、一発喰らった後の放心はいただけないな。見たことのない敵手、或いは技や武器に相対したら、考えるべきは「それは何か、どういう原理(モノ)か」ではない。「突破できるか」……「倒せるかどうか」だ」

 

 手甲、脚甲、チェストプレートを順番に脱いでいく。粗雑に地面に置かれるそれらは、全てが外観以上の重そうな音を立てていた。

 音から推察されるとおりの重量なのだとしたら、あれはもう防具ではなく拘束具だ。そう慄いているのはフィリップだけで、衛士たちは皆苦笑いを浮かべている。

 

 「倒せるかどうかを考えるなら、まず相手がどういうモノなのかを考えなくちゃいけないでしょう? ──()()

 

 まさか、とフィリップは目を瞠る。

 

 「先代、って、まさか先代の衛士団長ですか? 皆さんが「超人」とか「脳筋」とか「変態」とか言ってた、あの?」

 

 初対面の人間に向けるにはあまりにも失礼な物言いに、筋骨隆々の上半身を剥き出しにした男は豪快に笑った。

 

 

 

 



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370

 「あっはっは! 懐かしい呼ばれ方だな!」

 

 先代はしばらく体を揺らして豪快に笑っていたが、ふと思いついたように衛士の一人に指を向けた。

 

 「はぁ、笑った笑った……。と、そういえばマット、戦って勝てる相手かどうかなんて、見りゃ分かるだろ」

 「空飛んでる成龍を見て突っ込んでったアンタの目利きを信用しろってんですか? 冗談でしょう?」

 

 マットと呼ばれた彼は、フルフェイスヘルムを被っていても声色から分かるくらいに色濃い苦笑を浮かべていた。

 

 フィリップもその逸話は衛士たちから聞いている。

 王都上空に成龍が迷い込んだとき、先代衛士団長は一人でそれを地に墜とし、撃退したという。

 

 その時彼は、王都の住民を、そして王城に坐す尊き方々を守るため、盾になる覚悟を決めた衛士たちを前に、思いっきり馬鹿にした顔をしてこう言ったとか。

 

 「龍の鱗は剣を通さない硬さだ。じゃあ隙間を狙うか、鱗が無いところを狙うか、剣以外の攻撃手段を探すかだ。防御は一つで、対策は三つもある。つまり俺たちの方が三倍有利ってことだ。そんな状況で守りに入る? お前たち、揃いも揃って馬鹿なのか?」

 

 と。

 

 そして単身、剣だけ持って突撃したという。

 「俺は飛べないんだから、奴のところまで跳んで跳ねて行くしかない。鎧なんか重くて邪魔だろ?」と言って、上裸で。

 

 自己保存の本能が異常な価値観である程度マスキングされているフィリップでも、「いやそれホントに最適解か?」と首を傾げる蛮行だ。

 

 「おいおい、あの時だってちゃんと撃退しただろ? ちゃんと観察すればどんな相手でも……」

 

 先代は笑いながらフィリップの方を見て、ぱちぱちと目を瞬かせる。そして。

 

 「……すまん、嘘だった! 君に勝てるかどうかは分からん!」

 

 それはもう朗らかに、すっぱりと前言を撤回した。

 えぇ……、とそこかしこから困惑の声が上がる。勿論、フィリップも声を漏らしたうちの一人だ。

 

 「剣士ではあるんだろう。先のアレ、ありゃ拍奪の歩法だな? しかしあの流派の伝承者ってワケでもなさそうだし、初撃に魔術を選んでいた……。だが、かといって魔術師でもない。魔術はその域まで剣術を鍛えた片手間で修められるような甘い技術じゃねぇ。たとえ聖痕者でもな」

 

 むむむ、と腕を組んで唸る先代。

 観察は正確だが、いま見せた技だけで先代を殺すのは無理だというのがフィリップの正直な意見だった。

 

 一パーツ何キロあるのかも分からないような鎧状の拘束具は、彼に着けられた枷であると同時に防具としてもきちんと役割を果たしていた。フィリップの腕力で彼の骨を砕くには、きっと一撃では足りなかっただろう。

 

 しかし先代の動きは鈍重ではなく、一瞬だけフィリップの動体視力を振り切る速度だった。

 そんな高速で繰り出された蹴りは、速く重いはずなのに、瞬間的に痛いだけで骨や内臓にダメージの残らない精密なもの。

 

 体格、体力、運動性能、そして技術。何もかもが桁違いだ。「無理だろ感」ではミナやディアボリカにも匹敵する。

 

 僕なんかに勝てないわけないだろと苦笑したフィリップに、先代は歯を剥き出しにするような豪快ながらも明朗な笑顔を返した。

 

 「流石は“龍狩りの英雄”だな、カーター少年!」

 「……僕のこと、ご存じだったんですね」

 

 まあそりゃあそうか、とフィリップは一人納得する。

 王都に住んでいる衛士団の関係者なら、龍狩りを終えた衛士団の凱旋パレードは見に来ただろう。沿道からパレードの中心に引きずり込まれて胴上げまでされたフィリップのことを、まさか知らないはずはない。

 

 そう考えたフィリップだったが、残念、ハズレだ。

 先代はそもそも王都に住んでいないし、30人近い衛士を一人で相手取って鎧に傷一つ付けないレベルの化け物がいるなら、それこそ龍狩りの折に頼っていただろう。

 

 「名前だけは、実は随分と前からな。二年くらいか? 手紙で近況を聞いたとき、何人かが君のことを書いてたんだよ。命の恩人だってね。いつか会いたいとは思ってたんだが、眠り病の件を聞いて、居ても立っても居られなくなってな。こうして王都に帰ってきたってワケだ」

 

 帰ってきた? と首を傾げたフィリップに、衛士の一人が「先代は衛士団を引退してから、大陸中を巡って剣術を教えてるんだよ。いつか来る魔王との戦いに備えてね」と注釈をくれる。

 魔王の脅威度については今一つピンと来ないどころか、何なら本格的に人類陣営と魔王陣営で戦争が始まったって参戦する気は更々無いフィリップだったが、ただ人類を守るために活動している人間というのは好感が持てる。

 

 レイアール卿は一応「人類の最終防壁」らしいけれど、アレは良質な魂を食うためだけにその役に就いているのでノーカウント。

 

 「ついでに、俺をもっと強くしてくれそうな好敵手を求めてな。いやぁ、見つからんものだ」

 「それが、どうして態々僕に会いに? 好敵手にはなれそうにありませんけど」

 

 まさかフィリップのようなミーハーではないだろうし、手紙のやり取りをしていたのなら、衛士団が誰も死んでいないのは知っているはずだ。

 

 そんな的外れなことを考えるフィリップに、先代はズボンで掌を拭ってから右手を差し出した。

 

 「いやいや、単に礼を言いたかったんだ。俺の過去を、人生を守ってくれたこと、本当に感謝している。ありがとう」

 

 フィリップは一瞬、何を言われたのか分からず、先代の右手をぼけーっと見つめていた。

 掌だけでなく、手の甲も、拳も、手首までもが分厚く鍛えられた、石のような手だ。

 

 「君は俺が生涯の半分以上を費やして守ってきたものを守り通してくれたんだ。俺の戦友たちを救ってくれて、俺の主君を、俺の国を救ってくれて、本当にありがとう」

 

 ふ、と、フィリップは小さく笑った。

 学院の同級生や後輩に先生、果ては何処の誰とも知れない一等地ですれ違った貴族にまで、そんな感じのお礼を言われ続ける時期もあった。

 

 自分や家族を助けてくれてありがとう。国を救ってくれてありがとう、と。

 

 それを聞くたびに思っていた──どうでもいい、と。

 フィリップは彼らや国を救うために行動したわけではないし、フィリップが守りたいと思った人間以外はどうでもいい。救えてよかったとも、死んでいればよかったとも思わない。至ってフラットに、生きていようと死んでいようと、何ら感情が動かない。

 

 フィリップがあの龍狩りを達成して、救えてよかったと感じたのは、ルキアとステラと──。

 

 「いえ、僕は衛士団に少しでも恩を返せたらと思っただけですから」

 

 衛士たち。

 

 彼らにお礼を言われるのは、いつまで経っても慣れないほどに嬉しいことだ。

 達成直後は心の余裕が無くて、彼らの謝辞を素直に受け止められなかったことを思い出すと、ちょっと恥ずかしくなるけれど。

 

 今もそうだ。

 彼らが「変態」だの「脳筋」だのとふざけた呼び方をしつつも、決して侮らず、絶対に深い敬意と親愛と共に語る人物にこう言われて、嬉しくないはずがない。

 

 フィリップは先代の手をしっかりと握り返し、謝辞に頷きを返す。

 

 「そうか。……あぁ! そういえば、さっきのは凄く良い動きだったぞ! もう一戦どうだ? もしかしたら、何かアドバイスできることがあるかもしれん」

 

 思わぬ申し出に、フィリップはぱっと顔を輝かせる。

 

 船頭多くして船山に上るとは言うけれど、戦闘経験は多様であるに越したことは無いだろう。特に、普段フィリップを教導してくれるのはエレナとミナだが、二人とも色々と人間離れしているから──人間ではないから当たり前なのだけれど──教えが噛み合わないこともある。

 技の説明が「まずその場で身長と同じくらい跳びます」から始まった時は、エレナに教えを乞うのは止めるべきなんじゃないかと思った。

 

 ともかく、滅多にない機会だし、なにより衛士たちの中でさえ伝説的な語られ方をする猛者による指導だ。願っても無いことだと頷こうとしたフィリップは、先代の後ろで衛士たちがわちゃわちゃしているのに気が付いた。

 

 「……?」

 

 手を交差させたり、首を横に振ったり、両手を前に突き出したりと、人によって動きが違う。口もパクパクと動いているが、声は出ていない。

 

 「ん? どうした?」

 「あ、いえ……」

 

 フィリップの不思議そうな顔につられて先代が振り返るが、衛士たちは全員が明後日の方向を向いていた。落ちていた模擬剣を拾って片付けたり、鎧のフィッティングを直したりしている。

 ……そう切迫した用事ではなかったのだろう。あとで聞けばいい。

 

 フィリップはそう判断して、ボコボコにされてつい先ほどまで地面に転がっていた衛士たちの警告を受け取らなかった。

 

 「ぜひお願いします!」

 

 結局、フィリップは怪我こそしなかったものの、翌々日まで何も手に付かないくらい追い込まれた。

 

 

 ◇

 

 

 そんなこんなで、目的地近辺のことを尋ねることも、地図を描いてもらうことも忘れた結果がこの有様だ。

 トドメになったのは、エレナが持っていた100年前の地図だが。

 

 その地図が描かれてから100年弱、なら、ギリギリ使えたかもしれない。

 しかし残念ながら、正確には130年くらい前のこと。エレナが彼女の世話役であるリック翁の部屋から引っ張り出してきた、骨董品にも等しいものだ。

 

 当時、王国と帝国は血で血を洗うような領土戦争の最中だった。

 聖痕者も戦線へと投入され、一方が大魔術を以て山を作ったかと思えば、他方はこれまた大魔術で大河を作る。かと思えば、翌日には山が丸ごと吹き飛んで更地になり、大河は水の全てが竜巻に飛ばされて谷になる。

 

 その時代に作られた地図は、まあ、歴史的価値はあるだろう。ただ位置情報の指標としてはゴミ同然だった。

 

 そのゴミに描かれた街道と、街道に見えなくもない枯れた川床が近くにあったのは不運だった。しかし「意外と使えるね!」なんて言ってコンパスを仕舞ったのはただの愚行だ。方位を確認しながら進んでいれば、もっと早い段階で道ではないことに気付けただろうに。

 

 もう自分たちがどの辺りにいるのか分からなくなって、とにかく水と食料を確保すべく森を目指してはや2時間。漸く辿り着いたフィリップはドライアドへの挨拶もそこそこに、森林内限定だが完璧なナビゲーション・システムことシルヴァを呼び出した。

 

 「や、やっと着いた……。シルヴァ、水源、川とか泉とかある?」

 「ん! こっち!」

 

 軽快に木々の隙間を走り抜けるシルヴァの後ろを、フィリップとエレナはぐったりとついていく。

 少し歩くと、幅が十歩も無いような小さな泉があった。

 

 「助かったー! ……地下湧水かな? このまま飲めそう!」

 

 嬉しそうなエレナに、フィリップは苦笑を浮かべる。

 確かに水は澄んでいて冷たく、一見して分かるような害はなさそうだ。しかし生水は飲むなと冒険者コースの授業で散々言われている。エレナは大丈夫なのかもしれないが、エルフと人間の胃の丈夫さの違いを検証する気にはならない。

 

 「それはやめとこう……。けど、これで一旦は水を温存しなくていいね」

 

 フィリップとエレナは水筒を取り出し、五分の一ほど残っていた中身を全て喉に流し込む。

 万が一にも森の中に水が無かった場合、更に別な水源を探して歩かなければならないからと残しておいたものだが、補給できたので備える必要は無くなった。

 

 「ぷはーッ! ぬるくなってるけど美味しいー!」

 「だね……うん?」

 

 水筒を空けて、ふと気づく。いや、思い出す、と言った方がいいか。

 これまでずっと、フィリップは「水は実質無限にあるからな」と思っていたことを。そしてその理由も。

 

 「……ねぇミナ、もしかして魔術で水出せる?」

 「えぇ。二人とも我慢しているみたいだったから言わなかったけれど」

 

 うわあ、と頭を抱えるフィリップとエレナ。この二時間ほどの我慢は完全に無駄だった。

 フィリップも途中までは「脱水症状になりそうだと思ったら『ウォーターランス(魔法の水差し)』で水筒を補充するしかないな」と思っていたのだが、あとどのくらい歩くか分からないし、魔力枯渇で動けなくなるのが一番困るから最後の手段にしようと思って──途中から完全に忘れていた。

 

 いや、その考えが浮かんだ時点で、もう脱水症状気味だったのだろう。ミナを頼るなんて簡単なことを思いつかなかったのだから。

 

 「……いや、脱水で頭が回ってなかっただけだから。次からは僕たちが水を温存するって言いだしたら「結構ヤバいな」と思って?」

 

 ミナが「生物って不便ね」と肩を竦めると同時、フィリップの片手がちょいちょいと引かれた。

 手に感じるふわふわとした小さな感触は、見るまでも無くシルヴァのものだと分かる。

 

 「ふぃりっぷ、ふぃりっぷ」

 

 ん? と目線を下げて翠玉色の双眸を覗くと、彼女はぴしりと一方を指差した。

 

 「にんげんがいる。あっちのほう」

 

 水を汲んで煮沸するための火を起こそうとしていたエレナが、地面に耳を当てて「ホントだ」と呟く。

 

 「……ふむ?」

 

 森の中で色々なモノに出会ってきたフィリップは、シルヴァの情報共有に少しだけ身構えた。

 カルトに吸血鬼、ドラゴンにアサシンだ。友好的なのはエルフとヴィカリウス・システムくらいだった。

 

 「……この際カルトでもいいや。ここが何処なのか聞いてみよう」

 

 まあカルトだったらどれだけ親切に道を教えてくれても、懇切丁寧に苦しめて殺すのだけれど。

 

 

 

 

 



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371

 シルヴァの示した方に向かっていると、まず最初にエレナが足を止めた。

 次いでフィリップが「どうしたの?」と振り返って止まり、フィリップを見ていたミナも止まる。シルヴァはちょっと先に進んでいたが、フィリップが止まったのを感じて胡乱な顔で戻ってきた。

 

 「魔物がいる……足音からすると、六脚の昆虫型だね」

 

 柔らかな土に、深い木立、そして風に揺れる梢。

 人間の聴覚では足音なんて全く聞こえないのだが、エレナが「いる」と言うのならそうなのだろうし、樹上のシルヴァも頷いている。

 

 「……さっき言ってた人、襲われてるみたい! 助けに行こう!」

 

 言うが早いか、エレナは颯爽と駆け出した。

 木の根に足を取られることもなく、あっという間に遠ざかる後ろ姿に、フィリップは呆れ笑いを浮かべてついていく。

 

 「元気だなぁ……」

 

 さっきまで二人して脱水に苦しんでいたとは思えない溌溂とした動きに、「大人は凄いなぁ」なんて羨むフィリップ。大人というか、エルフの凄さなのだが。

 そんなエレナが、まさかそこいらの魔物風情に負けはしないだろうと、やや駆け足程度の舐めた速度で後を追う。

 

 その更に後ろを追うミナは、人間は脆くてかわいいなあ、なんて考えながら更に緩慢な速度だ。本気を出せばパーティー内で最速だと言うのに。

 

 ややあってフィリップが追い付いたとき、エレナはフィリップと同い年くらいの女の子を背中に庇って、頭を抱えていた。

 負傷したわけではないだろう。彼女の前には元は人間大の蟻の姿をした魔物だった、内側から爆散したような無残な残骸が転がっている。

 

 パンチかキックかは知らないが、あれは一撃だ。衝撃が体の内側で暴走して、逃げ場を探す間もなく全体が負荷に耐え切れず破裂したのだろう。

 

 「姉さまー、フィリップくーん、ごめん、やっちゃったー!」

 

 思いっきり目尻を下げたエレナが悲鳴にも近い声を上げる。

 確かに、今はまだ魔物の中身が散らばっていて汚らしいが、魔物の死骸は一定時間で灰のような粒子になって消える。

 

 そんな、顔のパーツが溶けるほど落ち込むことは無いと思うのだが。

 

 フィリップがそんな風に安穏と考えていたのは、魔物の頭部らしき破片を見つけるまでだった。

 

 「げ、メイルアントじゃん……」

 

 メイルアント。

 外見上は人間大の蟻で、魔物の例に漏れず人間に対する攻撃衝動は強い。昆虫と同じく硬い外骨格で守られており、革鎧なんかよりずっと防御力に秀でている。反面、攻撃性能は低い。攻撃手段は人間の腕ほどもある顎による噛みつきくらいだ。

 

 だが、厄介なのは個体の性能ではない。

 こいつらは頭を切り落として綺麗に殺さないと、負傷や絶命時に特殊な魔力を散布して仲間を呼ぶ性質がある。

 

 こんな風に身体をバラバラにして殺したら、それはもうわんさかと──あぁ、駄目だ。既に遠くの方から、フィリップにも足音が聞こえるほどの勢いで増援が来ている。

 

 「この子を守ろうとして勢い余ったんでしょ? 仕方ないなぁ……」

 

 フィリップもエレナの隣に並び、黒塗りの鞘から龍貶し(ドラゴルード)の青白く輝く刀身を抜き放つ。

 

 メイルアントは一対の複眼と三つの単眼を持ち、拍奪が通じない。

 が、そもそも必死になって避けなければならないような攻撃をしてこない相手だ。動きも、模擬戦中のエレナの七割くらい。全然どうとでもなる速さと精度だ。

 

 全く以て、フィリップの敵ではない。……まあ、間合いを伸長しつつ外骨格を容易に切断できる優れた武装ありきではあるけれど。

 

 相場からすると、増援は十体くらいか、多くても二十体強。フィリップとエレナだけで十分に殲滅できる。

 

 そして、ミナがゆっくりと片手を挙げ──フィリップとエレナが大慌てで止めた。

 

 「うわーっ! ミナ、ストップ!」

 「姉さま、メイルアントは綺麗に首を落として倒さないと仲間を呼ぶんだよ!」

 

 ミナは雑魚狩りに地中から出現する血の槍を使うことが多い。

 獲物を貫き、磔にして晒す彼岸花。あれは対単体攻撃として非常にスマートで確実性も高いから、フィリップが「もし一つだけ上級魔術が使えるとしたらランキング」の上位にいるけれど、メイルアント相手では下策だ。

 

 「全部殺せばいいじゃない?」

 

 慌てふためくフィリップとエレナに、ミナはどうでもよさそうに答える。

 

 それはそう、とフィリップもエレナも頷くところだ。単純な戦力的には。

 しかし、フィリップもエレナもつい先ほどまで脱水症状気味だったから十全のパフォーマンスとは言い難いし、後ろに少女を庇っている状態だ。

 

 十体そこらならともかく、森の全域に散らばった同族が一斉に寄ってきたら、流石のミナでも討ち漏らすかもしれない。そうなれば最低限自衛できるフィリップとエレナはともかく、少女は死ぬだろう。

 

 「確かに。でも、そっちの方が面倒じゃない?」

 「……それもそうね。はぁ……剣を振る気分でもないのよねぇ……。フィル、危なくなったら助けてあげるから、エレナと一緒になんとかしなさい」

 

 言って、ミナは後ろ向きに跳躍して近くの木の枝に腰掛けた。ちょっと膝を使っただけのジャンプで五メートルは跳んでいる。

 

 「流石に、この程度の相手で危なくなんてならないよ。ねぇエレナ?」

 「うっ、気を付けるね……」

 

 そんなつもりはなかったのだが、「これ以上増援を呼ばせるのはやめろ」という意味に聞こえたのか、エレナはばつが悪そうに目を逸らした。

 

 ややあって、襲い掛かってきた魔物蟻の群れを、フィリップとエレナは危なげなく殲滅した。

 エレナの蹴りは大鉈の如き切れ味を以て首を切り落とし、龍骸の蛇腹剣は巧みな使い手の業前によって断頭台の如き精密さを持つ。近接攻撃しかできないうえ、取り立てて力が強いわけでもなければ動きが速いわけでもない魔物を十匹殺すくらい、造作もないことだった。

 

 フィリップにしては珍しくスマートに敵を全滅させたあと、取り出した水筒が空だったことに気付く。

 

 戦闘が終わって樹上から降りてきたミナに「お水ちょうだい」と言う前に、横合いから革の水袋が差し出された。見ると、エレナが守った少女だ。

 

 「……あ、あのっ、ありがとうございます! 助けてくれて!」

 

 声が裏返りかけるほど怖かったらしく、彼女は手にした水袋を今にも取り落としそうなほどガチガチに強張っている。

 お礼を返して水筒を受け取ろうとして、フィリップは今になって初めて、エレナが庇っていた少女をしっかりと見た。

 

 へたり込んでいたから小さな少女だと思ったが、フィリップと同い年、12、3歳くらいだ。

 亜麻色の髪に、澄んだ水色の瞳をしている。顔立ちはかなり整っている方だが、流石にルキアやステラほどではない。──いや、他人の容姿を比較して順位を付けるのは失礼な話ではあるけれど。

 

 水を有難く頂いて、エレナにも分けていいかと目で断ってから回し飲みする。

 口の端から零れた水を拭いながら、エレナは気にするなというように手を振った。

 

 「あはは、気にしないで! ボクもちょっとヘマしちゃったし、ごめんね? 怖くなかった?」

 「はいっ! お二人がずっと私を気にしてくれていたのは分かりましたし、黒髪のお姉さんが、ずっと私の上に居てくれましたから!」

 

 頼もしそうに、そして嬉しそうに言われて、フィリップとエレナが明後日の方向に視線を泳がせる。

 それは本当に「居た」だけで、たとえ少女がメイルアントに頭から貪り食われても、ミナは何もしなかっただろう。

 

 「……それ、ビタールート? 誰か風邪でも引いたの?」

 

 何か別の話題は無いだろうかと、目に付いた、少女が手にしていた物を指す。

 掘り返したばかりなのだろう、まだ土がついている、小さなニンジンのような発達した根っこのある植物だ。

 

 フィリップはそれをよく知っている。

 田舎の森にも生えている、そこそこポピュラーな薬草だ。血行の促進と発汗作用があり、風邪によく効く。そして二度と風邪を引きたくなくなる程度には苦い。

 

 「いいえ、お父さんが蛇に噛まれちゃって、すごく高熱で……もう二日もずっと動けないくらい辛そうだから、私……」

 

 なるほど、と頷いたのはフィリップだけで、エレナはむしろ首を傾げた。

 

 「蛇毒にプエラリアが効くって説は聞いたことないなぁ。どんな蛇?」

 

 さらりと別名称、恐らくエルフ内での呼び方で薬草を示すエレナ。

 まあ言語はともかく、製薬技術に関して、エルフは人間を優に上回っている。それこそ、彼らとの国交回復と交易再開が即座に国益となるほどに。

 

 エレナも「放蕩王女」だなんだと言われているらしいが、それでもエルフの王族であり、薬学知識はそれなりだ。冒険慣れもしているし、蛇に噛まれた時の対処方法も知っているだろう。

 

 「分かりません。お父さんが咬まれたのは畑仕事の最中だったみたいなんですけど、ちょっと痛いぐらいだから我慢してたらしくって」

 「……容体は? 熱が出てるだけ?」

 

 やんちゃだなぁ、と呆れる苦笑以上に苦々しく険しい表情で、エレナが問う。

 少女は落ち込んだ様子で頭を振った。

 

 「もっと酷いです。頭が痛いって魘されてて、ご飯も吐いちゃうし、その……おしっこにも血が混じってて。咬まれた足も、紫色に腫れてます」

 「えぇ!? そ、それでもお医者さんに見せてないの!? まさかお医者さんがプエラリアを勧めたわけじゃないよね!?」

 

 その言葉で、ビタールートを使うという発想がどれだけ馬鹿げたものなのか、フィリップにも少女にも分かった。

 エレナの声には怒りと侮蔑が混ざっており、そんな処方をする医者はとっちめなくちゃならないと顔に書いてある。

 

 「村にお医者さんがいなくって。昨日、村の人が近くの町までお医者さんを呼びに行ってくれたんですけど、領主様がご病気だとかで、いらっしゃらなくて」

 

 エレナの言葉が自分への叱責に思えたのだろう、少女は今にも泣きそうな声で言う。

 普段なら「ごめんね、あなたに言ったつもりじゃないんだ」と慰めそうなエレナは、険しい顔で周囲を見回していた。

 

 また魔物かと思ったフィリップだったが、それなら警告するだろう。

 

 「……フィリップ君、シルヴァちゃんを呼んでくれる?」

 

 なんで? と表情で尋ねると、エレナはじれったそうに手振りで急かした。

 

 「早く。聞く限り、その人はかなり危険な状態だ。ボクが薬を作る。けど、手持ちの薬草だけじゃ材料が足りない。幸い、この森の植生の感じからすると、足りない材料が自生してる可能性はかなり高いんだ。探して採ってくる」

 「分かった。シルヴァ、聞いてた? エレナを手伝ってあげて」

 

 ぴょこりと飛び出したシルヴァは、呼んでおいて先に駆け出したせっかちなエルフを追いかける。

 木々の合間を縫ってあっという間に見えなくなった後ろ姿に頼もしげな一瞥を呉れて、フィリップは本格的に泣きの入った少女の方に向き直る。

 

 少女は声を上げて泣くタイプではないようだが、フィリップの知る彼女の情報はそのくらいだ。少女に対する興味も同じく。

 ただ目の前で泣かれているのは気分が悪いし、それを放置するのも、なんだか人倫に悖る気がする。フィリップを後ろから抱きすくめて愛玩しているミナからの助け舟は、全く期待できそうにないし、自分でどうにかするしかない。

 

 「……君、この近くに住んでるの?」

 「は、はい。あっちに、村があって……ぐすっ……そこに……」

 

 律儀な性格なのか、フィリップの苦し紛れの話題逸らしに、少女はしゃくりあげながらも答える。

 

 そこからどう会話を続けようかと考えて、フィリップの脳裏にふと閃くものがあった。

 

 「じゃあ、この森に魔物がいるってことぐらい知ってたでしょ。それなのに、一人で薬草を採りに来たの?」

 

 馬鹿なことだ。

 そう詰められていると感じたのだろう、少女は唇を噛んで頷く。

 

 「だ、だって、お父さんが苦しそうで……お母さんもずっと看病してるけど、良くならなくって……」

 

 そっか、とフィリップは頷いて同情を示す。

 フィリップは別に、彼女の行動を責めるつもりはない。フィリップ自身、自分一人では到底敵わない龍を殺すため、大切な人たちを守るために自殺行為にも等しいことをした身だ。気持ちは分かる。

 

 「でも私、お薬のこと、なんにも知らなくて……。魔物に襲われて、皆さんにもご迷惑を……」

 

 すすり泣く少女に、フィリップはまた「そっか」と相槌を打つ。

 

 「……君、名前は?」

 「て、テレーズ……テレーズ・リール……」

 

 命懸けで摘んできたビタールートを取り落とし、まだ土汚れのついた手で顔を拭おうとするテレーズを止め、ハンカチを差し出す。

 彼女は王都製の薄手でありながら精緻な装飾の施されたそれを汚すことを躊躇ったか、頭を振って遠慮するが、フィリップは頬を押さえて半ば強引に涙を拭う。

 

 「……確かに、君は無知だった。魔物と戦う力も無く、薬草や医術の知識も無く、ただ無意味に自殺するところだった」

 

 厳しい言葉だ。

 しかしフィリップの声色も、涙を拭う手つきも優しさに満ちている。

 

 テレーズは無知だった。

 蛇毒に必要なのは対症療法的な薬草ではなく、解毒薬であることを知らなかった。

 

 テレーズは愚かだった。

 自らの弱さを一時の感情で忘れ、危険な場所に一人で踏み入り、死にかけた。

 

 だが──善良だ。

 フィリップが少しだけ羨むくらいに。

 

 「けれどね、その善良さのおかげで、僕たちは君に出会えた。そして、こうして非常事態を知ることが出来た。……大丈夫、君の善良さは、きっと報われるよ、テレーズ」

 

 フィリップはテレーズを勇気づけようとか慰めようとか、そういう演出的な意図を全く抜きにして、自信満々に告げる。

 

 「あのお姉さんはね、僕が知る中で三番目に薬に詳しいんだ」

 

 

 

 



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372

 「文明未開の猿なの!? 次そんなことしたら、ボクがあなたを殺すからね!」

 

 蛇に咬まれたというテレーズの父を見て、応急処置をしたというテレーズの母、彼の妻へとエレナがぶつけた言葉だ。テレーズも彼女の母親も、エレナ自身も半泣きになっていた。

 

 ベッドに横たえられ、苦悶の表情で呻くテレーズの父は、蛇に咬まれたというふくらはぎ付近の肉を抉り取られ、余燼の薪か何かでその傷口を焼かれていた。

 

 典型的な民間療法、フィリップも授業で習う前だったら同じことをしていたかもしれない処置だ。

 根拠には諸説ある。毒を注入された部分を切り取れば大丈夫で、焼くのは切除後の傷の止血と殺菌だとか、蛇毒は熱によって無毒化されるから焼けばいいとか、一番毒が強い部分だけ切り取ればいいとか、色々と。

 

 だが冒険者コースで行われた応急処置の授業で、特別講師のステファンはその手の民間療法を唾棄していた。

 

 「医者の見様見真似が定着した、馬鹿が馬鹿なことをしているだけの愚行です。いいですか、人間の血液は一秒でおよそ15センチ進みます。蛇に咬まれ、慌てて蛇を振り払い、ナイフを抜く。この動作に三秒かかったとしたら、指先を咬まれて血管内へ侵入した毒は大体二の腕の辺りまで進行しますね。……もう分かりますね? 傷口を焼く? 切る? 毒を吸い出す? 馬鹿馬鹿しいにもほどがあるでしょう」

 

 ──と、田舎出身で、親などから「蛇に咬まれたら毒を吸い出すんだよ」と教わってきた一部の生徒を知らないうちにボコボコにして。

 

 「……傷口の腫れは毒じゃなくて火傷だ。でも、血尿と発熱は間違いなく蛇毒……。よし、薬の材料は足りる。問題は本人の免疫力と体力、あとは解毒剤の拒否反応と合併症か……でも、やらなくちゃこのまま死ぬ……!」

 

 ぶつぶつと苛立たし気に呟くエレナ。

 その言葉からは、処置したとしても一定の確率で死ぬのだということが窺える。

 

 しかしエレナが悩んでいたのはほんの一瞬だ。

 ほんの僅かな逡巡の後に、彼女は決断を下した。

 

 何もせず見殺しにするくらいなら、足掻くだけ足掻いた結果、自分のせいで殺すかもしれない可能性を許容すると。

 

 「フィリップ君、水を用意して! なるべく綺麗で不純物の少ないやつ!」

 「……オーケー。ミナ、悪いんだけど、宿屋を探してきて。最悪、三人一部屋でもいいから」

 

 応じるフィリップは僅かながら不敵な笑みを浮かべている。

 エレナの善性はよく知っている。それこそ、時折邪魔だと思うほどに。

 

 これは長くなると察したフィリップが言うと、ミナは意外そうに見つめてきた。

 

 「……私の血を使おう、とは言わないのね。もしかして、まだ脱水とやらの影響が抜けていないの?」

 「ん? あぁ……。こんな理由でも使ってくれるの? 駄目だと思ってた」

 

 それに残念ながら初回の冒険実習以降、フィリップ以外にミナの血を使うことはフレデリカに厳しく禁じられてしまった。

 

 なんでも、「人間は馬鹿だから、その手の万能薬はどんな手を使ってでも欲しがるんだ」とのこと。「斯く言う私もその一人でね、彼女の恐ろしさを知らなければ、検体になってくれとお願いしていたかもしれない」とまで言われては、フィリップとしても納得するしかない。

 

 大多数の人間はフレデリカよりは馬鹿だろう。絡んでくる馬鹿もいるはず、というか、現に居るので、今以上に増えるというべきか。

 それが血を金で買おうとする程度ならまだしも、ミナを傷つけて血を奪おうとするほどの──ミナに傷を付けられると驕るほどの馬鹿ではないと、誰も保証できない。

 

 だからミナが「あ、人間って邪魔だな」と思わないように、そもそも秘匿しておいた方が得策だ。

 

 フィリップの言葉に、芸を覚えた犬を見るような目をして抱きしめ、頭頂部に唇を落としてから離れた。多分、フィリップの判断は正解だったのだろう。フィリップが絶対に譲れない理由があるなら兎も角、「助けたいから」みたいな漠然とした甘い理由では、ミナは動いてくれないらしい。予想通りに。

 

 「頑張りなさい、フィル」

 「……うん」

 

 頑張るも何もフィリップは魔法の水差し兼魔法の火種で、調合は全部エレナがやるのだけれど……そんなことを言っている余裕も無さそうな声で急かされて、フィリップはエレナの助手に回った。

 

 

 ◇

 

 

 処置には二時間ほどを要し、終わった時にはもう夕暮れだった。

 

 フレデリカは「錬金術はレシピ開発と試行錯誤が七割、二割が錬成とか調合の待ち時間、作業時間は残りの一割だよ」なんて言っていたけれど、薬学はまた別らしい。

 薬草を何種類もブレンドして3種類の薬を作るのに、待ち時間も何もあったものではなかった。というか、濾過や精製の間に別の作業をこなさなければ、或いは手遅れになるかもしれない状態だった。

 

 精密さとタイミングなどの知識が求められる部分をエレナが担当し、切る・潰す・挽くなどの単純作業をフィリップが担当して、二人とも疲労困憊だ。

 エレナは普段の格闘戦の比ではないほど神経を使ったし、フィリップに関しては肉体疲労もだが綺麗な水を出す『ウォーターランス』を何度も撃って魔力欠乏ギリギリというのもある。

 

 というか、最初はこの村の水源だという川からテレーズと一緒に水を汲んできたのだが、「なんか葉っぱ浮いてるけど?」と言われて「川に流れてたやつかな」と返した直後、呆れとも諦めともつかない乾いた笑いを漏らしたエレナに「もっと綺麗なのがいいかな」と言われて、いよいよ魔法の水差しとしての役割が確定した。

 なお、フィリップは「別に煮沸したらいいかなって」などと供述していた。煮沸したとて不純物が消滅するわけではないのだが。

 

 「……っ!」

 

 単に薬を飲ませて終わりではなく、火傷や化膿部位の外科的処置まで終わらせたあと、汗びっしょりになったエレナはフィリップにVサインを突き付けた。

 

 汗なんて全く綺麗なものではないと分かっているのだが、それでも、やり遂げたと吼えんばかりの不敵な顔で光る玉の汗は、爽やかな輝きを帯びて見えた。勿論、エレナの容姿が人間離れして整っているのも大きな理由だろう。

 

 「ぉおう……何? 勝利のピース?」

 

 その文化エルフにもあるんだ、と場違いな感想を抱くフィリップに、エレナはむっと眉根を寄せた。

 

 「ちがーう。二日! 二日、様子を見ます! いいよね?」

 「さっき言ってた、拒否反応とか合併症が出ないかを見るんだよね。いいよ。旅程にはまだ猶予があるし、村があるなら位置も分かる。最寄りの駅宿か、最悪、街道まで出ればどうとでもなるしね」

 

 エレナが、というか、フィリップ以上の知見を持つ者が必要だと判断したことに口を挟めるほど、フィリップも馬鹿ではない。まあ、最悪の場合はエレナだけ残して一人で学院に戻ることになっていたが、二日遅れたくらいなら減点も無い範囲だ。

 

 「あ、あの、夫はどうなるんでしょうか……?」

 

 作業中にあれやこれやと話しかけたり手伝おうとしたりして、遂には「ちょっと黙ってて! いまミリグラム単位の作業中だから!」と一喝されて以来静かにしていたリール夫人が、おずおずと問いかける。テレーズもずっと固唾を呑んで作業風景を見守っていたが、今は治療を終えた父親の傍についていた。

 

 投薬と外科的処置は完璧に済ませたはずだが、リール氏はまだベッドの上で呻いたまま、意識さえ取り戻さない。

 まあそりゃあ、毒は二日かけて体内に浸透したのだから、数分で抜けきることはないだろう。数十分か、数時間か、目に見える効果が出るまで、最低でもそのくらいはかかるはずだ。

 

 「解毒剤の投与と外傷の治療はしたけど、身体の内側が傷ついてるからね……。体力勝負かな。……ところでこの家、食材とかは倉庫にあるの?」

 

 言って、エレナはこぢんまりとした家の中を見回す。

 簡易な石造りの一軒家で、快適さは王都の建物とは比較にならないほど劣悪だ。ただ、エルフのツリーハウスよりは頑丈そうに見える。

 

 竈に、食卓、木枠と藁とシーツで作られた簡易なベッドが三つ。家の中にあるのはそれだけだ。家の外に水瓶があるのは来るときに見たが、食料保管庫に類するものは無かった。

 

 村の中を丹念に見て回ったわけではないが、家に来るまでの間には野菜や果実の類が鮮やかに実る果樹園や、黄金の海のような畑が広がっていた。この十世帯程度の小さな村を、十分に満たすほどの食糧があるはずだ。

 

 「いえ、ちょうど明後日が収穫祭なので、それまでは作物を使えなくて……。今は麦粥と川魚が主です」

 

 収穫祭の前に作物に手を付けてはいけないルールでもあるのか、リール夫人はさも当然のように答える。

 フィリップの故郷では特にそんなことは無かったのだが、まあ、場所が違えば風習も違うだろう。

 

 「うーん、経験則だけど、こういう時はお肉の方が……」

 「では、村の狩人に──」

 「いや、それよりボクたちが──」

 

 なんだか物凄く不穏なことを言おうとしているエレナを止めようと手を伸ばしたフィリップだったが、その前にノックも無く扉が開いて振り返る。

 気心の知れた僅かな人間しかおらず、盗るような金品もない田舎では玄関に鍵をかけないのは珍しくないことだが、だからといって平然と入ってくるのも非常識な話だろうに。

 

 そう思ったフィリップだったが、挨拶も無しに入ってきた長身の人影を見て、間違っているのはフィリップの方だと気付いた。

 

 吸血鬼の女王に、人間の習慣など求めるべきではない。

 

 「あ、おかえりミナ。ちょうど終わったところ……なにそれ?」

 「この村、宿屋が無いらしいわ。今夜は野営にしようって言いそうだから、きみとエレナのご飯を獲ってきたの」

 

 野営だろうから、ではなく、野営にしようって言いそうだから。

 言葉の違いは、ミナ一人だったら村人を全員殺して居心地の良さそうな家を使うからだろう。そして勿論、フィリップもエレナも一緒に冒険する中でそんな提案をされて、「それなら野営にしよう」と断固主張したことがある。

 

 私もきみの我儘の傾向が分かってきたでしょう? と言わんばかりの優しげながらも自慢げな顔に笑顔を返す。

 

 仲が深まってきたことも嬉しいが、それよりもっと嬉しいものがある。

 

 ミナが左手で軽々と持っている、巨大な肉の塊──シカだ。

 

 「いいね、ありがとう! 猪より鹿の方が好きなんだよねー」

 

 肉付きはどんなものかと獲物を検分するフィリップ。

 その後ろで、エレナがリール夫人に問いかける。

 

 「ねぇ、ボクたちと取引しない?」

 「と、取引ですか?」

 

 リール夫人の顔が目に見えて曇る。

 効果のほどはまだ分からないとはいえ、手を尽くしてもらった恩がある。治療費だってまだ支払っていない。そんな状態で持ちかけられる取引は、どれだけ重いものでも受け入れるほかないだろう。

 

 何を言われるのかという不安。そして、きっと何を言われても応えられないことへの無念が表情に過る。

 

 しかし、あのエレナだ。

 他人の弱みに付け込むような真似、戦闘中でもなければまずしないだろう。

 

 半笑いで成り行きを見ているフィリップの予想に違わず、エレナはにっこりと笑う。

 

 「ボクたちからはこの鹿肉の一部を提供する。代わりに、二日間の宿を貸してよ」

 

 鹿肉──リール氏に不足している、栄養の提供。喉から手が出るほど欲しいものだろう。

 対して、夫人たちの側が物質的に提供するものはほぼゼロだ。そりゃあ、自分の生活圏内に見ず知らずの他人を入れて、あまつさえ二晩も泊めるというのは普通ではない。ないが、金銭的負担はない。

 

 一見してリール家が有利すぎる、すぐにでも飛びつきたくなるような提案のはずだ。

 しかし、夫人は言い募る。

 

 「し、しかし、それでは私たちが一方的に得をしています! 治療費だって──」

 

 有利すぎる、それこそが問題なのだと。

 恥を知っているのか、或いは不相応に自尊心が高いのか。どちらでもいい。

 

 エレナは蛇毒で苦しむ者を、そして苦しむ家族を見て居ても立ってもいられなかった善良な少女を救いたかった。ただそれだけだ。お礼が欲しくて、汗だくになってまで難解な調合と治療を施したわけではないのだから。

 

 それに──。

 

 「あぁ、治療費ならもう貰ったよ」

 

 え? とテレーズとリール夫人の声が揃う。

 エレナは水色の目をぱちくりしているテレーズに、にっこりと笑いかけた。

 

 「さっき、ボクたちはテレーズちゃんに水を貰った。実はボクたち、あの時ちょっと脱水症状気味で水筒も空っぽでさ。テレーズちゃんが水を分けてくれなかったら危なかったかも。だから、命のお礼を命で返そうとしただけ。お礼にまたお礼を貰っちゃったら、無限ループしちゃうでしょ」

 「え? で、でもあれは、私を助けてくれたから、そのお礼で……」

 「そうだっけ? ボクがメイルアントを潰しちゃって、あなたを危険に晒しちゃったことなら覚えてるんだけどなー……」

 

 そんなこと、と言い募るテレーズと、なんとか躱そうとしているエレナ。どちらも共に、笑えるほどに善良だ。

 

 「……テントの方が快適そうじゃない?」

 

 薄く笑みを浮かべるフィリップの後ろで、家の中を見回していたミナがぽつりと呟く。

 確かに王都製のテントは居心地がいいし、寝袋やマットは石の床より断熱性と快適さに優れる。というか、この家で寝ることになっても寝袋は使うだろう。

 

 リール家の人々に聞かれていないことを確認して、フィリップは困ったように眉尻を下げた。

 

 「妹分がカッコ良いこと言ってるんだから、カッコ付けさせてあげるのも姉貴分の務めだよミナ」

 

 まだリール夫人やテレーズと話しているエレナの、人間以上の聴覚を誇る細長い耳が、仄かに赤くなったのが分かった。

 

 

 

 




 Q,切除とか加熱はともかく、吸引はホントに無意味なの?
 A,知らん。でもMSDマニュアルにはそう書いてあるから多分そう。落ち着いて咬まれた部位を心臓の高さに挙げ、速やかに病院へ行けと書いてある。毒の吸収を遅らせるための圧迫固定もしないほうがいいらしい。

 詳しくはMSDマニュアルを読んで。


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373

 取引は無事に成立し、リール家で一夜明かした翌朝。

 目を覚ましたフィリップは、隣で寝ていたエレナがいないことに気が付いた。と言っても、狭い家だ。探そうとするまでもなく、少し首を動かせば見つかった。

 

 エレナはリール氏のベッドサイドに腰掛け、何かの薬草を乳鉢で磨り潰している。そして、リール氏はベッドの上で上体を起こしていた。

 まだ顔色は優れないようだが、ベッドに横たわり激痛に呻くことしか出来なかった昨日とは大違いだ。

 

 「あぁ、おはようございます。えぇっと、カーターさんで間違いありませんか?」

 「はい、フィリップ・カーターです。おはようございます、リールさん。屋根をお借りしたのに、ご挨拶が遅れてすみません」

 「いえ、とんでもない。娘から聞きました、貴方たちが私と娘を助けて下さったと……。本当にありがとうございます」

 

 リール氏はベッドの上で深々と頭を下げる。

 短く切り揃えられた亜麻色の髪を見て、フィリップはテレーズと彼の血の繋がりを感じた。

 

 「リールさんが目を覚ましたのは一時間くらい前だよ。テレーズちゃん、殆ど寝ないで看てたみたいだから、今は安心してぐっすり」

 

 エレナの示す方を見ると、ベッドの一つに毛布に包まった小さな塊があった。父が目覚めたことを確認して一頻り喜び、後は何とかベッドに潜り込んだところで力尽きたといったところか。

 

 「エレナは何を作ってるの?」

 

 ツンとした臭いを漂わせる乳鉢の中には、緑と紫の混ざり合ったペーストが入っている。

 フィリップの田舎では使われていなかったレシピのようで、原料や薬効は全く分からない。

 

 「化膿止めと、最悪の場合に備えてドーピング用の薬をね。正直、エルフ用の薬をヒトに使うのはお勧めしないんだけどね」

 「薬のことはよく分からないから、その辺りはエレナに任せるよ」

 「うん。ボクに出来るだけのことはするよ」

 

 答えるエレナはどこか無念そうだったが、すぐに作業に集中する薬師の顔になり、フィリップに悟られることは無かった。

 彼女の無念は、エルフの技術を以てしても、大きく抉り取られ焼かれまでした深い傷を完璧に治すことはできない無力感が原因だ。いや、患者がエルフであればやりようはあるのだが、エルフでも強烈な副反応の出る強い薬を使うことになる。脆いヒトが耐えられるものではない。

 

 ミナの血なら或いはとも思うが、本人がどれほど軽んじていようとも、あれは血なのだ。議論の余地なく。フィリップが傷ついてあれを使うとき、ミナもまた傷ついているのだ。どれほど軽微であっても、確実に。

 自分の力量不足を補うために誰かを傷つけるなど、善良なエレナが許容できるはずがなかった。

 

 「……お二人は、ずっと冒険者をやられているんですか?」

 

 なんとなく空いた会話の隙に、リール氏が問いかける。

 エレナは作業の手を止めないまま、端的に頷いた。

 

 「ボクは80年くらい? 冒険者っていうか、爺とボクで冒険してただけなんだけどね」

 

 予想を上回る歳月に、リール氏の目が見開かれる。

 

 「は、はちじゅう……。ははは、エルフは本当に不老長寿なのですね。つい、16,7歳かと……」

 

 気持ちは分かる。

 長命種は老化だけでなく精神の成熟速度まで緩慢だから、エレナも外見通りに16,7歳くらいの精神性だ。勿論、百年弱の経験がある分、戦闘センスなんかは相当に研ぎ澄まされているけれど。

 

 「そうですね」と頷いて同意を示すと、まさか、という顔がフィリップの方に向いた。

 

 「……僕は13歳です」

 

 リール氏は露骨にほっとした顔になった。

 実年齢以上にしっかりしているとはよく言われるフィリップだけれど、外見は実年齢そのままだ。年齢に相応しい愛嬌があるとはとても言えない目をしているが、顔立ちが老けているわけではないし。

 

 「よし、出来た。こっちの緑色の小瓶が化膿止め、つまり、傷が悪化するのを防ぐ薬ね。一日一回、水浴びをして清潔にしてから患部に塗ること。あ、川の水とか絶対ダメだよ。一度沸騰させてから冷ました水ね」

 

 言って、エレナはベッドサイドに拳大の瓶を置く。中には緑色のどろりとしたゲルが満杯になっている。

 瓶はもう一つ。こちらは指一本にも見たない、瓶というよりは小ぶりな試験管だ。青紫色のペーストが僅かに入っている。

 

 「こっちの青紫のがドーピング用。もしも高熱が出たら、スプーン半杯分を首筋に塗ること。規定より少ない分には問題ないけど、多すぎたら最悪死ぬから、くれぐれも気を付けて」

 

 最悪死ぬ、というのは、オーバードーズを抑制するための脅しでも何でもない、ただの事実だ。

 エルフは長く人間と交流していなかったからヒト用の薬を作らなくなって久しいし、エルフ用の薬は人間に完全には適合しない。……そりゃあそうだ。寿命からして違う異種族なのだし、ただのパンチで生木を抉る肉体強度の異種族に使われる薬なんか、脆い人間が使っていいものではないし。

 

 「リールさんは大丈夫そう?」

 「毒は無力化できたよ。でも、内臓がかなり傷ついてるし、脚の傷も浅くはない。多分、しばらくは真面に踏ん張ることも出来ないと思う」

 

 神妙に頷くリール氏の左足、ふくらはぎの辺りにはきっちりと包帯が巻かれている。その下には、そこそこ深く広く抉られて焼かれた凄惨な傷がある。

 

 「蛇に咬まれたら傷口の周りを切り取ればいい、なんて馬鹿な風説、誰に聞いたのさ? 知見のある医者ならまずそんなことはしないよ?」

 「誰にというか、そういうものだと思って育ってきたので……」

 

 お恥ずかしい限りです、とリール氏。

 フィリップも学院で習うまでは「毒を吸い出す」という馬鹿げた応急処置が有効だと思っていたので、微妙に目を逸らした。

 

 「そ、そういえば、皆さんはいつまでこの村に?」

 「明日までかな」

 

 昨日の夕食のとき、リール夫人に村の大まかな位置と最寄りの街道の方向を聞いてある。

 幸いにして駅宿が近くにあるらしく、村を出るのが夕方になっても野宿する必要は無いそうだ。

 

 エレナがこの村に二日間滞在したいと言ったのはリール氏の予後を見るためだから、投薬からぴったり48時間後、明日の夕方くらいまではここに居るはずだ。

 

 答えを聞いて、リール氏はぱっと顔を輝かせた。

 

 「明日ですか! ちょうど良かった! 実は、明日が収穫祭なんです! 皆さんも是非参加していってください!」

 「そういえば、奥さんもそんなこと言ってたね。収穫祭ってなに?」

 

 王国だけでなく大陸中でポピュラーな祭りのはずだが、エルフの文化にはないらしい。まあ農耕種族ではなく採集・狩猟種族なので当たり前だが。

 

 フィリップの田舎にも収穫祭はあったが、あれは「是非参加してほしい」と主張するような面白味のあるイベントではない。ちょっとした出店なんかがあったり、大人たちが昼間から酒を飲んだりして、クライマックスには大きな篝火を囲んで踊るくらいだ。そしてその年で一番出来のいい作物を炎にくべて、煙に乗せて神への感謝を示す捧げものにするのだとか。

 

 実家が宿屋だったフィリップはむしろ祭りが終わってからが本番というか、いい感じのカップルだけ通して、泥酔した女性によからぬことをしようとしているヤツは衛兵に通報して、出来る限りの速度で部屋の掃除をして、エトセトラ。何も面白くない。

 

 でも宿のないこの村ではアレはどうするのだろう、などと益体のないことを考えるフィリップだったが、土地が変われば風習も変わるのが普通だ。

 

 「はい。色々と工程はあるんですが、私がお勧めしたいのはメインのイベントで。全ての畑から今年一番の出来の作物を集めて料理して、それを村の皆で分け合うんです」

 

 へぇ、とフィリップとエレナが同時に頷く。

 エレナは「そういうお祭りがあるんだ」程度の理解だったが、フィリップは感心している。

 

 神への感謝なんて意味の分からない理由で折角の傑作を炎にくべてしまうくらいなら、皆で分け合った方がずっと有意義だと。

 宛先が唯一神なら尚更だ。集合無意識に寄生する概念存在が、まさか煙を食って生きているわけではないだろうし。

 

 「それに、その前に皆で篝火を囲んで踊るんですが、テレーズの踊りは村で一番なんですよ。親の私から見ても妖精のように愛らしくて」

 「わかるかも! テレーズちゃん、可愛いもんね! ね、フィリップ君!」

 

 「子煩悩だな」と苦笑しかけていたフィリップは、慌てて接客用の笑顔を張り付けて同意した。

 テレーズの顔立ちは確かに整っているが、人類の最大値を18として数値化するなら、まあ15か16といったところ。間違いなく美少女の部類ではあるが、人類以上の美貌を持つエルフを前に「妖精のよう」なんて形容できるのは、親馬鹿以外の何物でもない。

 

 だからといって「それは言い過ぎでしょう」なんて、まさか言えるはずもないのだけれど。

 

 と、雑談したり朝食を摂ったりしているうちにテレーズも目を覚まし、一行はテレーズの案内で村を回ることになった。

 豊かに実る田園風景に風光明媚を見出し心洗われるタイプは一人もいないが、狭い家の中で何もせずぼーっとしていられるタイプもまたいない。

 

 テレーズを先頭に、エレナ、フィリップ、ミナと列になって村を回る。

 広場を中心に円形に家々が並び、魔物除けの柵に囲われ、更にその外に広大な農作地帯が広がる典型的な小規模農耕集落といった感じだ。

 

 普段なら見るべきものは多くないのだろうが、収穫祭という一年を通して最大規模の催しを明日に控えていることもあり、村全体が陽気な活力に溢れていた。

 まだ前日の昼前だと言うのに、広場の真ん中にはフィリップが中で踊れるくらい大きな篝火の木枠が設置されているし、家や木々が布切れで飾り立てられている。修学旅行で訪れた大洗礼の儀のジェヘナとは比べ物にならないが、この村では精一杯の飾りつけなのだろう。

 

 「まだ準備中だけど、明日は篝火の前に祭壇が置かれて、そこに今年一の作物が山盛りになるの! すっごく豪華なのよ!」

 

 共に一夜を明かして打ち解けたテレーズが楽しそうに語る。

 ちなみに彼女はフィリップと同い年だった。この年頃は女子の方が成長が早いことを考えると、彼女はやや童顔な方だ。

 

 「今年一番のやつを皆で分け合うって、なんか良いね。僕の村じゃ、神様に捧げるって言って燃やしてたよ」

 「私たちも神様に捧げるよ? その後で、みんなで食べるの!」

 

 まあそりゃあ、神が下界に手を伸ばして食い物を漁るなんてことはしないだろうし、「神に捧げたが残されてしまった」とか「我々に下賜してくださった」みたいな認識になるのかもしれない。

 

 そんなことを考えているフィリップの耳元に、ミナがそっと唇を寄せて囁く。

 

 「唯一神って、麦とか野菜を食べるの?」

 「そもそも食事が必要なのかさえ怪しいと僕は思ってるけど……ま、この手の儀式を通じて高められた信仰は食えるんじゃない?」

 「信仰起源説? きみ、意外と博識ね? 始祖の蔵書の中でも相当古い古文書に載っているような仮説よ、それ」

 

 小馬鹿にしたような口調で会話する冒涜者たち。

 まあフィリップはともかく、ミナは唯一神に敵対する魔王の陣営で一個種族の長として君臨していた身だ。天使の軍勢に襲撃されたこともあるそうだし、唯一神に対しては具体的な敵愾心があるのだろう。

 

 唯一神にも魔王にも特別な感情を持っていないエレナは、二人の会話以上に興味を引かれるものを見つけていた。

 

 「ねえテレーズちゃん、あれは何? 来た時にちらっと見たけど、畑の方にもあったよね?」

 

 エレナが指した先には、両手で抱えるくらいの大きさのカエルを模した置物がある。

 フィリップもこの村を訪れた時から気になっていたものだ。それはこの村の全ての家の前にあり、更には畑の傍にも点在している。一つ二つなら、そう気に留めることも無い粘土細工だが、流石にこの数は異常だ。大流行である。

 

 「カエルの置物だよ。川で取れる粘土を使って作ってるの」

 

 カエル……どことなく愛嬌のある、サイズを調整してデフォルメしたアマガエルっぽい感じだ。作者によって微妙に個性が出ていて、ぬぼーっとした顔のヒキガエルっぽいやつもいれば、ハート柄とかお花柄とか、自然にはいないだろう模様のものもある。

 カエルを模した陶芸品。それぐらいは見ればわかる。エレナが聞いたのは原材料と産地の話ではなく、モノの話だ。

 

 勿論、テレーズもそれは分かっている。今のはただの前置きだ。

 

 「収穫祭の祭壇にもカエルの像があるんだよ! カエルはね、神様なの!」

 

 どういうことだろう、とエレナに疑問を抱かせる、いい語り方だ。

 この後の説明を聞けば、きっとこの村のことが良く分かるのだろう。カエルの置物を沢山作って並べる理由も、この村の文化のことも、収穫祭のことも。

 

 テレーズは当然、促されるまでも無く先を続けるつもりだった。

 

 しかし──ぽん、と肩に手が乗せられる。

 父以外の異性に触れられることにも、そもそも村にはいない同年代の異性にも不慣れなテレーズはびくりと肩を跳ねさせ──誰にも触れられていないエレナまでもが同じ動きをした。

 

 それはテレーズの肩を掴んだフィリップの表情に見覚えがあったからだ。

 

 「──詳しく聞こうか」

 

 なんて言うフィリップの酷薄な笑みは、あの汚濁した湖で見たものと全く同じものだった。

 

 



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374

 「フィリップ、くん……?」

 

 首筋の焦れるような熱を持った敵意に、エレナが思わず身構える。

 

 いつもの落ち着いていながらも年相応の部分もある大人びた少年の気配でも、ティーファバルト大森林で見た決意の猛りでもない、全く対極にある空気。湖で感じた、燃えるような悪意と凍てつくような敵意が渾然一体となった、複雑に縺れた殺意。

 解きほぐすことなど敵わないと直感できる、どうしようもない衝動。

 

 カルト、とフィリップが呼ぶものに対しての、容赦のなさは知っている。

 最愛の夫を亡くし心が壊れてしまった女性を罵り、弄び、その死体さえ踏み躙るほどだ。

 

 フィリップがテレーズやこの村の人々の「カエルは神様」という価値観を信仰と見做し、彼らをカルトであると判断すれば、きっと殺すだろう。一人残らず、何の躊躇も無く、戦う力を持たない村人たちに一方的な虐殺を押し付けて殲滅するに違いない。

 

 一度はテレーズを魔物から助け、エレナと協力してリール氏を救うための薬を作り、同じ獲物の肉を食い同じ屋根の下で眠ろうと、何も関係ない。一言も言葉を交わしていない他の村人たちと一緒に、淡々と殺すだろう。

 そして制止に従うような甘さも無い。殺戮を止めたければ、フィリップが自発的に止まる理由を用意するか、或いは殺して止めるしかない。

 

 言われずともそう理解できるだけの激甚な殺意が、感覚の鋭敏なエレナには見て取れた。

 

 しかし、殺気を感じるのは相当に鍛えた戦士でもなければ不可能だ。ただの村娘でしかないテレーズには、それだけの感覚が備わっていない。

 

 故に、テレーズは自分の肩に置かれた手の大きさと硬さにどきどきしながら、ただ聞かれたことに答える。答えてしまう。説明が不足していたり間違えたりしたら、次の瞬間、自分の肺が海水で満たされることなど露と知らず。

 

 「あ、あのね、カエルって作物を食べる悪い虫を食べてくれるし、カエルが鳴くと雨が降るの。ほら、川は村の低いところにあるから、水撒きのためには何回も汲みに行かないといけないでしょう? だから、雨を降らせてくれるのって、すごくありがたいの。それに虫も追い払ってくれるから、神様」

 

 エレナはフィリップに悟られないよう、微妙に右足を下げる。

 一撃──蛇腹剣を持っていないフィリップが魔術を撃つ前に、一撃入れて意識を刈り取る必要がある。頚椎殴打による昏倒は後遺症の危険もあるが、背に腹は代えられない。

 

 身構えるエレナに気付かず、フィリップはどこか上の方を見てぶつぶつと呟きながら考える。

 

 「自然の神格、いや神聖視? 土着信仰の原型みたいなものか」

 

 口の中で転がすような独り言は、テレーズには聞こえない。しかしエレナにははっきりと聞き取れる。

 

 エレナがほっと安堵の息を吐くのと、フィリップがテレーズににっこりと笑いかけるのはほぼ同時だった。

 

 「……そうなんだ、よかった」

 「よかった? あ、うん、良い神様なんだよ。教会に置いてあるのは聖女さまの像なんだけど、玄関先にはカエルもいるの!」

 

 よかった、なんて笑うフィリップだが、本当に心の底から「よかった」と思っているかどうかは誰にも分からない。

 手間は省けるし、蛇蝎の如く嫌う存在とひとつ屋根の下で眠ったわけでは無かったし、自分がカルトを助けるために汗を流したと考えるだけで吐き気がするが──それも些事だ。

 

 カルトを嬲り殺しにする悦楽の前の、小さな段差程度の話でしかない。

 「いない」方が「いたけど殺した」より幾らかマシだと考えるのが正常だとしたら、異常なフィリップがそれに倣う可能性はどのくらいか。これはそういう話だ。

 

 テレーズの言葉に、フィリップは「へぇ」と感心したように頷く。

 

 「へぇ? ちゃんと唯一神も信仰してるんだ」

 「? 当たり前でしょ?」

 

 当たり前という言葉に、フィリップは薄く笑みを浮かべる。

 

 そう、当たり前だ。

 そして「人を殺してはいけません」とか「人のものを盗んではいけません」とか、そういう当たり前の禁忌を犯す輩がいるように、唯一神信仰という当たり前から外れたものはいる。多くは無いが、少なくも無い。そんな割合で。

 

 罪があるなら罰がある──いや、罰があるから罪が定義されるのだが、それはさておき、罪人がいるならそれを罰する者もいる。

 物を盗んだり人を殺したりすれば、衛兵や衛士団に捕まるように、信仰を異にすれば、教皇庁の使徒が罰を与えにやってくる。

 

 だがフィリップは別に、一神教を信じていないからカルトだと断じるわけではない。土着信仰、自然の神聖視、大いに結構だ。それは人間の、創造力を持つ生物の営みとして自然なことなのだから。

 

 「で、でも、あんまりカエルの鳴き声はしないね? 昨日の夜も結構静かだったし!」

 

 なにか慌てて話題を変えようとするかのようなエレナの言葉に、フィリップも記憶を探って「確かに」と頷く。

 フィリップの地元はそれほどカエルが多い土地ではなかったが、それでも夕方から夜にかけては五月蠅いくらいに鳴いていたものだ。

 

 まあ、この辺りには毒を持った蛇もいるらしいし、食物連鎖の定めに呑み込まれたのかもしれない。

 

 「それでね、収穫祭は唯一神さまと、カエルたちにも感謝を捧げる日なんだけど──」

 

 フィリップが腰を折ってしまった収穫祭の話に戻るエレナとテレーズ。

 

 そういえば自分もミナと話していたのだったか、と振り返り──いない。

 

 「……あれ? ミナ?」

 「姉さまなら、さっきあっちの方に歩いて行ったよ? シルヴァちゃんと一緒に」

 「え? うわホントだ! シルヴァが離れてる!? 何やってるんだろう……」

 

 まあ近くに森があるとき、シルヴァは勝手に飛び出して行くことがあるけれど……村近くの森はもう十分に満喫しただろうに。

 

 いや、シルヴァのことはいい。彼女は見た目通りに無邪気で、人間を襲うようなことはまずない。

 問題はミナだ。彼女は人間を襲うことに価値を感じない程度には上位の存在だが、同時に、戯れに人間を吹き飛ばして遊ぶ程度には人間に近しい存在だ。フィリップが良い感じの棒を拾って振り回すとか、手頃なサイズの石を蹴っ飛ばすのと同じ感覚で人を殺す。

 

 ミナの目に留まらなければ大丈夫だとは思うが、あの美貌だ。声をかけるだけの勇気を持った男がいないとも限らない。

 

 そんな懸念から少し慌てて二人を探すと、流石に長身の黒髪と若草色の幼女のペアは目を惹いて、何ら苦労することなく見つけられた。

 

 「目立つねぇ二人とも」

 

 トラブルを起こしていないようで何よりだと思いながら近寄っていくと、二人は村の片隅にある小さな教会を見上げて立ち止まっていた。

 

 「ねぇフィル、この教会みたいな建物はなに?」

 

 フィリップが来たことにすぐ気付き、ミナが眼前の建物を示して言う。

 そこらの民家より一回り大きいだけの簡素な建物だが、尖塔状の屋根に十字架を掲げることを許された建物は一種類しかない。

 

 「僕の目には教会そのものに見えるね」

 「そうよねぇ、建築物だけなら間違いなく教会なのだけれど……なんというか、古いのよね……」

 「そうかな……?」

 

 王都外の建物なんてどれもこれも質素な造りだし、こんな、村人が30人いるかどうかの小さな村なら尚更だ。

 教会はその例に漏れず、周りの家々と同じくらいに簡単な造りだ。しかし、特に突出して古い建物という感じもしない。きちんと手入れもされているようだし、ボロくはない。

 

 「あぁ……。いい、フィル? 教会には基本的に、神の加護が与えられているの。だから生半な悪魔や吸血鬼では敷地に入ることさえ出来ないわ。勿論、ゴエティアの悪魔や上位の吸血鬼なら別だけれど」

 

 「加護ぉ?」と小馬鹿にしたような顔をするフィリップに、ミナはくすくすと笑う。

 神が信徒に加護を与えるというのがフィリップにしてみればもう胡乱な話だ。そんなものがあるなら、ルキアもステラもフィリップとお近づきになっていないだろう。……まあ、単純に運命干渉を外神が撥ね退けただけかもしれないけれど。

 

 聖痕というシステムはあるが、あれは別に魔術の才能や威力を強化するものではなく、単純に「現生人類の中で一番強い」ということを示すだけのものだし。

 

 「神域級設置型防護魔術、と言い換えてもいいわ。きみにはそちらの方が分かりやすいかしら?」

 「あ、うん。かなり現実味を帯びて考えられるようにはなったかな」

 

 それならまあ、ルキアやステラにも出来そうではあるとフィリップは頷く。本当にできるかどうかは別として。

 

 「けれど、この教会に掛けられた加護はかなり古くなっているわ。四年か、五年か……もうそのくらいは更新されていない。……この建物はもう、教会として認められていないのよ」

 

 ほえー、と間の抜けた相槌を打つフィリップ。

 別にこの村の教会がどうなっていようと、フィリップにもミナにもどうでもいいことだ。

 

 ただ、頭の片隅に引っかかることがあった。

 

 「……投石教会はどんな感じ?」

 「全然違うわね。あの教会は普通よ。普通に小綺麗で、普通に加護があって、普通に吸血鬼を遠ざける。──なのに、物凄く臭い。遊びに行っただけのきみに臭いが移って、しばらく遠ざけたくなるくらいにね」

 「そ、そうなんだ……」

 

 それはよかった……のだろう、たぶん。

 ミナが教会の外観から加護の有無を判別できた理由は魔術的なものだろうが、彼女の魔術センスはルキアやステラと同格──つまり、聖痕者であれば同じくそれが判別できるということ。

 

 もしもヘレナが投石教会の加護を判別して、もし無かった場合、まあ順当に調査の手が入るだろう。その後どうなるかは、然して思考するまでもない。

 

 「ここは単に、加護を与えられなくなっただけ。廃棄された教会に近いわね。大方、司祭が祭壇の扱いを間違ったとか不敬を働いたとか、そんな理由でしょう」

 

 ミナは一人で結論を出して、一人で納得した。

 フィリップも特にコメントすることはない。

 

 加護が失われたのは玄関先でぬぼーっとした顔をしているカエルの置物が原因だろうが、まあ、どうでもいい。フィリップにとってもミナにとっても、この村は明日まで滞在するだけの場所だ。悪魔や吸血鬼に襲撃されたときの緊急避難場所が機能不全を起こしていて、万一の場合に村人が全滅したなんてことになっても、至極どうでもいい。

 

 「……で、シルヴァは何してるの?」

 

 ミナと手を繋いでぼーっと教会を見上げていた幼女に問う。

 相当なことがないと死なない、怪我さえしない二人だし、勝手に何処かへ行くなと強く止める気はないが、一言くらい欲しかった。特にシルヴァ。

 

 「みなとおにごっこしようとしてた」

 「……勝負になるの?」

 

 聞いてから、そういえばシルヴァはミナにやたら懐いていたなと思い出す。案外運動神経が近く、お互いに遠慮する必要のない遊び相手なのだろうと思ったこともあったと。

 

 「あら、森の中ならいい運動になる程度には善戦するのよ、この子? 私も偶には真面目に剣を振らないと技が鈍るから、丁度良いわ」

 「そ、そう……」

 

 鬼ごっこで剣を振るシーンなんてあるかなぁ? と首を傾げるフィリップだったが、シルヴァとミナが楽しいならそれでいいだろう。

 流石のミナも剣で森を伐り倒すことはできないだろうし、シルヴァが怪我をすることもないはずだ。

 

 二人と別れてエレナとテレーズのところに戻ってくると、エレナがテレーズのことを頻りに褒めていて、テレーズが物凄く照れていた。

 

 「何を話してたの?」

 「あ、フィリップ君。テレーズちゃんの踊りを見せて貰ってたんだけど、凄いんだよ! ね、テレーズちゃん、もう一回見せて!」

 「え、あ、えっと……そんなことより、明日のお祭りで飾るカエルの神像を見に行かない? 明日は捧げものの山でよく見えないから、見るなら今日だよ! あんまり可愛くはないんだけど、みんなで作ったの!」

 

 つい先ほどまで照れつつも嬉しそうにしていたテレーズだったが、フィリップの興味深そうな視線を受けると躊躇ったように視線を逸らす。嫌悪感は見て取れないが、どう見ても乗り気ではない。

 なにか嫌われるようなことをしただろうかと思考を巡らせるも、思い当たる節はないし、フィリップがどうこうではなく催促されて踊るのが恥ずかしいとかだろう。

 

 フィリップもなんとなく上機嫌で口笛を吹いていたら、エレナに「いい感じのメロディーだね! もう一回聞かせて!」と言われて、小恥ずかしくなって拒否したことがあるし。

 

 タイミングが悪かったと肩を竦めて、テレーズの提案通り、神像が保管されているという教会に向かう。

 つい先ほどミナと話した場所だからフィリップは案内を受ける必要も無かったが、率先して歩き出したテレーズの後に続く。

 

 かと思うと、テレーズが踵を返して、ととん、と軽いステップでフィリップに近づいた。

 不思議そうにしているエレナをちらりと見て、そっとフィリップの耳元に顔を寄せて囁く。 

 

 「あ、あのね、フィリップに見せたくないわけじゃないんだよ、踊り……。でも、あの、明日はちゃんとした服を着るから、その時に見て欲しいなって……」

 「ん? あぁ、楽しみにしてるね」

 

 ドレスとヒールではないだろうけれど、大事な祭りの踊りなら大切にしたいという心理もあるか。なんて、筋違いなことを考えて頷くフィリップ。

 

 楽しみにしている、なんて完全に社交辞令だ。

 なんとなくこの場面における普通の答えっぽいから選んだ音の羅列で、フィリップ自身の感情は一ミリも乗っていない。

 

 しかし、

 

 「っ! ……うん!」

 

 なんて、花の咲くような笑顔で喜ばれてしまっては、適当な答えを返したことに罪悪感の一つも抱くだろう。

 

 フィリップでなければの話だが。

 

 

 

 

 



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375

 「司祭さま、こんにちは! 神像を見せて貰いに来ました!」

 

 教会の扉を開けるや否や、テレーズの元気な挨拶が小さな聖堂に響く。

 

 礼拝堂には五人掛けの長椅子が六脚しかなく、最奥の聖女像も王都のものとは比較にならない小ぶりなものだ。投石教会の聖女像はフィリップ三、四人分はあるが、ここのものはフィリップと同じくらいの背丈だった。

 

 何か作業をしていたのか、この教会を任された司祭であろうカソック姿の男は、長椅子に腰掛けて手で顔を仰いでいた。

 テレーズの声に振り返り、襟元を正してフィリップたちの方に歩いてくるのは、間もなく中年に差し掛かろうかという年頃の優男だ。ナイ神父ほどではないが、立ち居振る舞いの端々に信仰に捧げた年月が現れている。

 

 ……いや、ナイ神父のそれは模倣なのだけれど。

 

 「こんにちは、リールさん。その様子だと、お父さんは回復したようですね」

 「はい! こちらの方たちが助けて下さったんです!」

 

 テレーズの満面の笑みにつられるように、司祭も朗らかな笑顔になる。

 

 「そうでしたか! あぁ、私はニック、ニック・アンドリアです。まあ、皆さんからは神父や司祭と呼ばれるばかりで、名前を呼ばれて反応できるかは分かりませんが」

 

 中々鋭利な冗談が飛んできてどう返せばいいか分からないが、取り敢えず「まさか」と笑っておく。

 

 「おや、もしやそちらの方はエルフですか?」

 「はい。ご存じかもしれませんが、エルフは非常に優れた薬学知識を持っていて。リール氏を助けたのは殆ど彼女で、僕は手伝いくらいですね」

 

 ご謙遜を、と司祭は言ってくれるが、社交辞令だとフィリップでも分かる。

 フィリップが話し始めたとき、ちょっと驚いた顔をしていたからだ。王都ならフィリップくらいの年頃の丁稚や見習いは少なくないから、多少振る舞いが大人びている子供がいても驚きはしない。司祭のように驚いたあとで「多分どこかの店の見習いか何かだろう」と勝手に納得するのは、王都よりは丁稚というシステムが根付いていない田舎の方にありがちな反応だ。

 

 苦笑しつつ、一般常識的な挨拶の手順、体に染みついた流れに沿って言葉を続ける。

 

 「僕はフィリップ・カーター。あちらがエレナ。あともう一人、彼女の従姉妹を加えた三人で、昨日からリール氏のところに泊めて頂いていて。明日までは彼の経過観察が必要とのことなので、折角ですし収穫祭に参加してはとリール氏に──司祭さま?」

 

 司祭はフィリップが差し出した手を握ったまま、フィリップの顔を驚いたように見つめていた。

 

 「フィリップ・カーター? もしや、貴方があの?」

 

 知っているのか、とフィリップの眉根にしわが寄る。

 あの? とテレーズが首を傾げているように、この田舎の小さな村にまでは、“あの話”は伝わっていないと思っていたのだけれど。

 

 「そうだよ! “龍狩りの英雄”! 姉さまと衛士団と一緒にドラゴンを倒したの! しかも、古龍をね!」

 「まあ、殆ど衛士団の皆さんがやってくれたことですけどね。僕はちょっと時間を稼いだくらいで」

 

 エレナが嬉しそうに、そして自慢げに薄い胸を張る。

 彼女は龍狩りに関係ない──わけではないのが、妙に突っ込みづらい。彼女がくれた魔剣ヴォイドキャリアが無ければ、如何な衛士団長とはいえ龍の翼を斬り落とすことは叶わなかっただろう。

 

 「……それでも、貴方様の御力があってこそ達成し得た偉業でございましょう。私もこの出会いに感謝いたします」

 

 恭しく首を垂れる司祭を、フィリップは「止してください」と制する。

 幸い、司祭が何か追加で賛辞を述べる前に、何のことか分からないという顔をしていたテレーズが口を開いた。

 

 「龍狩りって、この前来た吟遊詩人の人が歌ってたお話のこと? 王国を救ったっていう」

 「えぇ、そうですよ。幸いと言っていいのか分かりませんが、この村には魔術師がいませんから、例の“眠り病”の脅威も知られていないんです。まあ、田舎は何処もそんなものだと思いますが……それでも、カーター様の御高名はかねてより聞き及んでおります」

 

 確かに、フィリップの故郷も“眠り病”の流行とは無縁だった。

 フィリップもルキアとステラが病床に臥したあたりで「家族は大丈夫だろうか」なんて心配したものだが、どうも王都外ではそれほど流行っていないと聞いて安堵したのを覚えている。そして魔力が感染経路だと聞いて、じゃあ大丈夫だと確信したのだった。

 

 「お名前を頂くまで気付けず、申し訳ございません。吟遊詩人は龍狩りの英雄の容姿を筋骨隆々の美丈夫と歌っておりましたもので……」

 「ははは……ご期待に沿えなくて申し訳ない」

 

 筋骨隆々の美丈夫と聞いて、真っ先に脳裏に浮かんだディアボリカの幻影を振り払う。

 ああなるのは嫌だ。鍛え方からして体格は真似できないが、それはともかく、髭が生えてきたら全部剃ろうと決めた。

 

 「何を仰いますか。その御年で数多の人々を救うなど、まさしく英雄の御業。御自らを卑下することなど、全く不要でしょう」

 「フィリップはかっこいいよ! 背も高いし、強いし、私を魔物から助けてくれたし!」

 

 司祭に続き必死に慰めようとしてくれているらしいテレーズに、フィリップはむしろ追い打ちをかけられた気分だった。

 

 まず、別に背は高くない。

 同年代の平均くらいだ。魔術学院の健康第一な環境で暮らしているのに平均程度ということは、元々のポテンシャルは並以下ということになる。

 

 そして言うまでも無く、強くはない。

 いや、こちらも同年代の一般人──それこそテレーズなんかとは比較にならない戦闘能力を有してはいるし、相手が大人でも素人なら惨殺できる。しかし本職の戦士には体格差もあって敵わないだろうし、魔術学院を卒業したちゃんとした魔術師相手だったら惨殺されるのはフィリップの方だ。

 

 そして周りには最低でもパンチで生木を抉るやつ(エレナ)爆撃マーカーを持ったようなやつ(ルキアとステラ)。そして爆撃機みたいなやつ(ミナ)。ちなみに爆撃機は10万機ある。

 

 絶対評価でも相対評価でも、「弱い」とまでは断言されないにしても、「強い」とは言えない。「弱くはない」という評価が精々だ。

 

 顔に関しては、自他共に「普通」と評価する。

 

 子供らしい愛嬌は絶望と諦観で濁り切った目が完全に拭い去り、時折天地万物への冷笑を滲ませる顔を「普通」と評価してくれるルキアの激甘評定は、正直信憑性はない。

 ないが、ステラが「無作為な100人に「王国人の子供の絵を描け」と言えば、なんとなくお前っぽい絵を描くやつが半分くらいはいるだろう顔」と言っていたので、平凡な顔なのだろう。

 

 「ははは……ありがとう。テレーズも可愛いよ」

 

 乾いた笑いで社交辞令を返すフィリップだが、テレーズは大袈裟なほど顔を真っ赤に染めた。

 

 「かわっ!? わ、私なんてそんな、全然だよ! エレナさんとかミナさんの方が、もっとずっと綺麗だし……」

 

 フィリップの言葉はお世辞ばかりではなく、彼女は本当に整った容姿をしている。リール氏の親馬鹿ぶりからして褒められ慣れていないことはないだろうに、不思議な反応をするものだとフィリップは首を傾げる。

 親や近所の人からの賛辞と、他から貰う賛辞では重みが違うのだが。

 

 「そうだね。まあ二人とも人間じゃないから、人間以上の美を持ってても不思議はないよ。……けど二人が美人だってことは、別に、テレーズが可愛いってことを否定する材料にはならないでしょ?」

 「そうだよ! テレーズちゃん、もっと自信持っていいと思うな!」

 

 適当なことを言うフィリップにエレナが同調する。

 美しさも強さも、人間である限り相対的なものだ。ルキアのように自分の中に絶対的な価値観を持っている者でもなければ、誰かと比べて美しいか、誰かと比べて強いかという価値判断になるのも無理はない。

 

 しかし適当に言ってはいても、嘘やおべっかではない。

 フィリップは真摯に、心の底からテレーズのことを可愛いと思っている。……正確には、「テレーズの顔は一般的に美しいとされる造形に沿っていると認識している」と言うべきだが。可愛いから好き、とか、性欲を催すとか、「可愛い」という認識の次に進まないのだった。

 

 高名だが難解な美術品を見たような気分が近い。「これが所謂“美しい造形”らしい。ふーん」と、風流心のかけらもない感想を抱いているのと同じだ。

 

 「あ、え、えっと……」

 

 そんなことは露と知らず、テレーズは真っ赤な顔を伏せて黙りこくってしまう。

 

 そんな彼女を見かねて、司祭が苦笑交じりに助け舟を出した。

 

 「そういえば、お二人は神像を見に来られたのでは? ちょうど倉庫から出してきたばかりで、これから掃除するところなのですが、それでもよろしければご覧になっていきますか? 明日は祭壇の上で山盛りの作物に埋もれてしまいますから、間近で見られるのは今だけですよ」

 

 そういえばその為に来たのだった、と、フィリップとエレナの興味がさっぱり移る。

 フィリップはともかく、エレナにとってもテレーズを褒め殺す──文字通りの意味で──ような満面の笑みでの賛辞は、ただの主観的事実の開示でしかなく、「今日は暑いね」という会話と同じくらいの重みしかなかった。

 

 ……ところで。

 

 「別に、お祭りの後でも見られるんじゃないの?」

 「あっはは! それは確かに!」

 

 適当に出した助け舟の適当な部分をつつかれて、司祭は照れ交じりに朗らかな笑みを浮かべた。

 

 

 



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376

 「神像……と言っても、村中の置物と同じ製法で作られた、簡易な粘土細工なのですが」

 

 そんな前置きをしてから礼拝堂の奥の居住スペースへ案内された一行は、勝手口の土間に置かれた、抱えるほどの大きさの粘土細工に対面した。

 言葉通り、倉庫から出してきたところなのだろう。傍らには空の木箱が置かれ、ブラシや布巾といった掃除道具も準備されている。

 

 「あー……なんというか、確かに、あんまり可愛くはない、ね?」

 

 苦笑いを浮かべて何とか言葉を探したエレナに、司祭とテレーズも似たような苦笑を浮かべる。

 事実として、村のそこかしこにある置物の、可愛らしくデフォルメされたマスコット的なカエル像とは毛色が違っている。

 

 そしてフィリップは頭の片隅が妙に騒ぎ立る、他人事のように実感のない既知感を覚えていた。

 

 モデルはカエル──なのだろうか、本当に?

 

 太った人間のように胸と腹の区別がつかないずんぐりとした塊、胴体であろうそこから二本の腕と脚が伸びる。不自然な角度で曲がったそれらは怠惰な姿勢を象り、先端には鋭利な鉤爪のようなものも見て取れる。

 両生類の特徴とは一致しない体毛のような線が幾重にも刻まれ、その上に不可思議な文様が躍っていた。

 そして顔こそヒキガエルのようにのっぺりとしているが、耳か角と思しき一対の突端が頭頂部付近に備わっている。

 

 恐ろしい外見、とまでは言いきれない。どちらかと言えば、不細工と表現した方が的確だ。

 

 「……うん。うん……聞きたいことが山ほどあるんですが、取り敢えず、カエルの神様、でしたっけ? 名前を聞いてもいいですか?」

 

 フィリップは怪訝そうに尋ねる。

 外神の智慧が、ひっそりと囁く名前があるからだ。

 

 ツァトゥグア。

 ヒキガエルのような顔、不摂生を極めた身体、不自然に長く歪な角度に曲がる手足、両生類にはない厚い毛皮。どれもこれも、あの旧支配者の特徴と合致する。

 

 しかし、別に像から神威を感じるなんてことはないし、智慧の主張も警告とまではいかない。

 「違っていたら大変申し訳ないんですけど、もしかして……?」くらいの心許なさだ。「邪神の像だ! やっぱりカルトの村じゃないか! 焼こう!」と、短絡的に虐殺の引き金を引けない程度には警鐘が小声だった。

 

 「違うよ、フィリップ。カエル“の”じゃなくて、カエル“が”神様。これは神様みたいなカエルをイメージして、みんなで一緒に作ったの」

 

 カエルの特徴を備えた神、ではなく、カエルを神聖視しているだけ。

 この像は具体的な神を象ったものではなく、カエルを盛りに盛った結果。と、そういうことらしい。

 

 「恥ずかしながら、それまで使っていた神像を私が不注意で割ってしまったんです。私がこの村の教会に赴任してきてすぐでしたから……四、五年くらい前になりますか」

 「それで村長のところに謝りに行ったら、「あの神像は前の司祭様が“神さまっぽいカエル”って作ったものだから、お前さんの思う“神さまっぽいカエル”像作って、それを使っていこう」って言われたんだよね」

 

 「へぇ、良い人だね、村長さん」と笑うエレナの横で、フィリップはしかつめらしく「ふむ」と唸る。

 聞く限り、邪神信仰の気配はない。というか、カエルに対してのそれも信仰心というには低次の、それこそ「ありがたい」という感謝の念だろう。

 

 邪神信仰が根付いていたとしたら、その神の像を毀損した者がどう扱われるかなど想像に難くないし、信仰を異にする余所者に新しい像を作らせたりもしないだろうし。

 

 「とはいえ私も一神教の司祭ですし、想像力もこの年になると……。そこで、村の子供たちの手を借りたのです。みんなの思う“神さまっぽいカエル”を、みんなで一緒に作ろうと」

 「このブレスレットとネックレス、私のアイディアなの! ……アクセサリーだけじゃ可愛くならなかったんだけど」

 

 言われてよく見てみると、確かに、身体の模様の中に装身具のような形状のものもある。いや、不可思議な文様のように見えたものは、その実、数人の子供たちが思い思いに描き込んだ図柄だ。お花に、カブトムシ、太陽、剣、人の顔、うんち。参加者の中にクソガキがいたらしい。

 

 だったら、まあ、他人の空似というやつだろう。

 なんとも人騒がせな話──いや、むしろツァトゥグアの顔がヒキガエルに似ているのが悪い。ハスターでも呼んで、どこぞの地中に引きこもって惰眠を貪っているヤツの顔面を、顔の形が無くなるまでボコボコにさせたいところだ。

 

 そんなことをしたらいよいよフィリップが外神の尖兵扱いされて、旧神だの旧支配者だのに襲われる日々になるのでやらないが。

 

 「……前の神像もこんな感じだったんですか?」

 

 今代からなら、他人の空似とみていいだろう。

 しかし先祖代々伝わるモノだったりすると、信仰が遺伝している可能性が出てくる。勿論、生態的な遺伝子による遺伝ではない。文化的遺伝子による継承だ。

 

 「概ねは、恐らく。あまり覚えていませんが、この村で育った子供たちがイメージする神様カエルは神像の印象に引っ張られるでしょうし、こんな感じだったのでは?」

 「私もあんまり覚えてないな。こんな風に座ってたと思うんだけど」

 

 曖昧なことを言う二人に、フィリップは不満そうな表情を浮かべる。

 その辺りをはっきりして貰わないと、何かのきっかけがあって精神汚染された無自覚カルトである線が残って、精神衛生上よろしくない。……宝石屑の混じった汚物みたいなフィリップの精神に、精神衛生なんて言葉は似つかわしくないけれど。

 

 「……フィリップ、どうしたの?」

 「いや……。収穫祭って、具体的にどんな感じ? 生贄とかある?」

 

 真剣な顔で黙り込んでいたかと思えば、今度は素っ頓狂な質問をするフィリップに、テレーズが目を瞬かせる。

 「また始まった」と言いたげに眉根を寄せるエレナは、フィリップが何を考えているのか分かったようだ。

 

 「え? ないよ? 何言ってるの?」

 「強いて言えば、今年一番の作物たちを唯一神と神像に捧げることがそうでしょうか? カルトの如何わしい儀式のような、仔羊を生きたまま捌いたりといったことはありませんよ」

 

 一神教の神父だけあって、彼もフィリップが何を懸念しているか察したのだろう。司祭が注意深く補足する。

 尤も、フィリップが「カルトだ、一神教に通報しよう」ではなく、「カルトだ! なるべく苦しめて惨殺しよう!」という過激な思想の持ち主であるとまでは分からないはずだが、それでも通報されるだけで相当に面倒なことになる。

 

 彼はフィリップ同様、土着信仰に寛容なようだが、一神教──異端審問部隊である“使徒”はそうではない。フィリップはそれを、フレデリカと共に禁書庫の中で目の当たりにしている。視座が低いくせに──いや、視座の低さ故に狭量な臆病者たちの、迫害の歴史を。

 

 まあ司祭が語った儀式の内容はテンプレートなカルトのイメージで、実際にそんなことをしているカルトに遭遇したことはないけれど。

 

 「まだ収穫し切っていない残りの作物を皆で刈り入れて、今年一番の作物を祭壇に捧げて、あとは篝火の周りで踊って……それから、みんなで捧げものを使って料理するの! みんなで分け合って食べるんだよ!」

 

 言葉の最後で、テレーズの声のトーンが一段階上がる。そんなに食い意地が張った性格ではないし、昨日の夕食や今日の朝食を見るに食は細い方だが、それでも楽しみなのだろう。

 気持ちは分かる。村を中心に広がる見事な畑を見れば明らかだが、この土地はかなり肥沃だ。出来上がる作物の出来も相当だろう。その中でも選りすぐりを集めた料理ともなれば、その味の素晴らしさは想像に難くない。

 

 しかし、今のフィリップにはそれを楽しみにするだけの余裕はない。

 即座に村を焼き払うほどではないが、その判断をするだけの材料は早急に集めるべきだ。

 

 「この祭りは……いえ、そもそもカエル信仰はいつ頃から?」

 「私が来た時には習わしとしてありましたが……詳しい歴史であれば、村長の方が詳しいですよ」

 

 なるほど、とフィリップは頷く。

 確かに司祭が赴任したのが五年前であれば、テレーズの方がこの村に詳しいくらいだろう。勿論、大人と子供ではそもそもの知識量に差があるし、祭りの運営にかかわる大人でなければ知らないようなこともあるかもしれないが。

 

 司祭──ニック・アンドリアと言ったか。仮にも一神教の司祭である彼が寛容に適応している辺り、あからさまな邪教の類ではないはずだ。彼が持ち込んだわけではないようだし、ゆるい土着の祭事の域は出ないものと考えていいだろう。

 

 しかし、問題なしと判断するには、この不格好な神像があまりにも不穏だ。小声で控えめながら、智慧が囁く程度には邪神の姿を模しているのだから。

 

 「村長にお会いしたいのですが」

 

 祭りの全貌がテレーズの語ったままであるのなら、邪神信仰に繋がるものには思えない。まあ、フィリップは邪神信仰の儀式に詳しいわけではないので、なんとなくのイメージだが。

 

 フィリップの頼みに、司祭は残念そうに眉尻を下げる。

 

 「勿論ご案内いたします、と言いたいところですが、像の掃除以外にも色々と祭りの準備がありまして。リールさん、カーター様をご案内してくれますか」

 「はい! 行こ、フィリップ! あ、じゃなくて、えっと……フィリップ、凄い人なんだっけ」

 

 礼拝堂での龍狩りの英雄云々という話を思い出したのだろう。テレーズはフィリップに差し出していた手を遠慮したように引っ込める。

 フィリップは僅かに苦笑して、自分からテレーズに手を差し伸べた。

 

 「いいよ、今まで通りで」

 

 テレーズは花が咲くような笑顔を浮かべたが、フィリップの手を取る動きはどこか躊躇いがちだ。

 異性と手を繋ぐことに恥じらいを覚える多感な年頃なのだから、無理もない。先に手を伸ばしたのだって、普段年下の子供たちの面倒を見ているから、つい身体が動いただけだった。

 

 フィリップはエレナとテレーズに両手を取られても平然としている。エレナが「じゃあボクも」と言って手を握ったときには多少驚いていたが、「珍しいな」と思っただけだ。

 

 エレナはただテレーズの──或いは普段のルキアやステラやミナの真似をしただけではなく、意図があってのことだった。

 手を繋いだ状態で更に体を寄せ、耳元でひそひそと囁く。そこに甘やかな空気はなく、むしろ罪を咎めるような刺々しさがあった。

 

 「フィリップ君、まだ疑ってるの? ここの人たちがカルトじゃないかって」

 

 険の籠った声に怯むことなく、フィリップは「そうだけど」と淡々と答える。

 怒られの気配には敏感だし、エレナが多少の怒気を孕んでいることは分かっているが、調査を止める気はない。ことカルト絡みでフィリップを止めたければ、物理的か心理的かはともかく枷を嵌めるしかない。

 

 エレナもそれは分かっている。しかし、彼女が分かっているのはそこまでだ。

 彼女はフィリップが過去にカルト絡みで嫌な思いをして、その結果、カルトが嫌いになったのだろうと予想している。

 

 間違いではない。フィリップのカルト嫌いは、あの原体験が理由の全てだ。

 

 ただ、この村に根付いた信仰がカルティズムに類するものかどうかを確かめようとしている理由は、もはや憎悪ばかりではない。

 

 ツァトゥグアの力を利用して、例えば国家転覆や人類の進化のような大それたことを企てているのなら阻止しなくてはならない。まあ、行動理由の80、いや90パーセントが憎悪であることは認めるが。

 

 しかし、それをエレナに明かすことはできない。

 彼女は地球圏外の存在、アトラク=ナクアの娘のような常識外の生命体を知ってはいるが、その先は知らないのだから。戯れに文明を滅ぼし、星を砕き、生命を弄ぶ邪神たちのことを知らない。

 

 それを教えるという選択肢は──無い。

 エレナはフィリップの中でルキアやステラほど重要性が高くないが、それでも、無知なまま死ねる幸福を自分の手で壊すほど低くもない。

 

 どうしたものかと悩んでいると、フィリップとエレナをじろじろと見ていた村人の一人が、陰になって隠れていたテレーズに気が付いた。

 恰幅の良い、そして人当たりの良さそうなおばさんだ。

 

 「あらテレーズちゃん! お父さん、良くなったって?」

 「はい! こちらの、冒険者の方たちが治療してくださったんです!」

 「そうなの! 良かったわね! またお見舞いに行くわね! お姉さんたちも、ありがとうね!」

 

 手を振って去っていくおばさんは耳が遠いのか、普通よりやや声が大きい。応じるテレーズもだ。

 しかしそのお陰で、フィリップたちに向けられていた「誰?」という怪訝そうな視線の数々は無くなった。

 

 「リールさん、良くなったのか! いやあ、良かった! 姉ちゃんたち、ありがとな!」

 「テレーズお姉ちゃんのパパ、お怪我治ったの?」

 

 近所同士が王都より親密らしく、大人も子供もわらわらと寄ってきてはテレーズにお祝いの言葉を贈っていく。中には「そうなんだ」と言ってリール家に向かう人もいるくらいだ。

 フィリップの田舎でも、ここまで近所同士の距離感は近くない。村人の数が少ないからこそだろうか。

 

 「みんないい人たちじゃん」

 

 次々に贈られる謝辞に手を振って応じながら、やんわりと釘を刺すエレナ。だが、的外れだ。

 フィリップはカルトが悪人だから殺すわけではない。嫌いだから殺すのだ。正義を気取るつもりもないし、悪に酔っているわけでもない。

 

 悪意には、酔っているかもしれないけれど。

 

 善人だろうと悪人だろうとカルトなら惨殺するよ、なんて、村人に囲まれた状況では囁くのも憚られたので、フィリップは「そうだね」とだけ返した。

 

 

 



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377

 FA貰っちゃった(狂喜乱舞) 

 
【挿絵表示】


 こちらのイラストはサカサさん(@sieben27)に頂きました。ありがとうございます!


 フィリップたちはしばらく村人たちに囲まれたあと、村長に会いに行った。

 村長はもう60歳を超えているだろう腰の曲がった老人だ。王都外の平均寿命が70歳前後であることを鑑みれば、かなりの齢といえる。

 

 しかし杖などは突いておらず、足取りもしっかりしている。腰が曲がっているのは、長く農作業に従事してきた勲章だろう。

 

 自己紹介もそこそこにフィリップがカエル信仰について問うと、彼は胡乱そうに首を捻る。

 

 「カエル? えぇ、確かにありがたい生き物として大切にしてはいますが、信仰とまでは……。そも、信仰とは唯一神のみに捧げられるものでは?」

 「は? いえ、しかし、この村ではカエルの神像に感謝を捧げる祭りがあるのでしょう?」

 

 想像していた何倍も常識的な、一般的で模範的な一神教徒のような答えを返され、フィリップの方が面食らう。

 聞いていた話と違う、というか、話が違う。

 

 「明日の収穫祭のことですな。ふむ……神像はカエルたちの代わり、いえ代表のようなものとして用意していたもので。特に神であるという考えは……。儂が子供の頃から代々ずーっと、神様のように煌びやかで、カエルたちの代表たるに相応しい像を作るようにはしておりますが」

 

 図らずも、問いかける前に一つの疑問に答えが出た。

 カエル信仰──いや、カエルの置物を作ったり祭りで象徴的に扱う風習は、相当に昔から続いているようだ。

 

 だが、信仰ではない……のだろうか。

 

 「神聖視はしていないんですか?」

 

 そう尋ねると、村長に苦笑されてしまった。

 まるでフィリップがおかしいよう──いや、フィリップは間違いなく正常ではないのだが、それは今はどうでもいい。

 

 「ありがたいものであるとは思っておりますが、神聖なものとまでは」

 

 神聖視さえしていないと、村長は言う。

 それなら確かに、一神教の司祭の反発も少ないだろう。フィリップだって、それを初めに聞いていればカルトだという疑いは持たなかった。

 

 「……雨を降らせてくれる神様なのでは?」

 「えぇ、雨を降らせてくれることには感謝しておりますとも。しかし、それだけでは世界をお創りになった唯一神のような神であるとまでは言えんでしょう」

 

 確かに。というか、雨を降らせるくらい聖痕者なら出来そうなものではある。

 村長の表情や声色からも、カエルと唯一神が同列だと思っている様子は見て取れない。尤も、フィリップの対人観察眼の信憑性はたかが知れているが。

 

 テレーズは確かに「カエルは神様だ」と言っていた。

 しかし落ち着いて考えてみれば、それが単なる慣用句的表現、「神様のようにありがたいもの」というだけの可能性はある。

 

 「まあ、これは儂の考えですから、カエルを神様だとか、神様の御遣いだと言う者もおりますが」

 

 村長の穏やかな言葉に、一度は収まりかけた疑心が微妙に再燃する。

 しかし火勢は極めて弱い。フィリップが苦笑と共に呆れたように頭を振る程度の反応しかしない辺り、本当に弱火だ。

 

 「ふんわりしてますね……」

 「儂が子供の頃からなんとなく続いている、ただの風習ですからなあ。誰かが何かを決めたわけではありませんし、決めていたとしても、もう何十年も前の事ですし……」

 

 言って、村長は遠い目をする。

 半世紀以上も前だろう、子供だった時分を思い返しているのだろうか。

 

 「我々は、ただカエルを大切にしようというだけで。一神教の教えに背こうとは、全く」

 

 どこか怯えを滲ませて訴えかけるような目を向ける村長に、フィリップは接客用の笑顔を貼り付けて頷く。

 

 「あぁ、勘違いさせたみたいですね。僕は別に、皆さんが背教者だと疑ってるワケじゃありませんよ。ただどういうものなのか気になっただけで」

 

 そう言われてもなあ、と村長は胡乱な顔だ。

 一神教の司祭が──今代のニック神父だけでなく、先代やそれ以前も教皇庁に告げ口したりはせず、“使徒”に村ごと滅ぼされていないから、フィリップが告げ口したところで大丈夫だとは思っているのだろう。

 

 まあ口封じに動くようなら反撃すればいい。戦闘能力どころか魔術耐性も無いだろうし、一瞬だ。

 

 というか……なんか、大丈夫そうだ。

 カルトは往々にして、特別感のようなものを醸し出す。本当に特別な手合い──人類領域外の生物や、邪神に連なるモノである場合もあるし、自分が特別な智慧を得た真理到達者であると思い込んでいる一般無知蒙昧劣等種である場合もあるけれど。

 

 しかし、彼らにはそれがない。

 リール家の人々と司祭と村長くらいにしかまともに話をしていないけれど。

 

 それからしばらく聞き込みを続けたが、結局、村人たちの意見はバラバラだった。

 

 カエルは神の遣いだという者もいれば、カエルはカエルだろと呆れる者もいる。天使が姿を変えて懸命に働く俺たちを見守ってくれていると語る者、虫を食べてくれるのは嬉しいけど見た目は正直気持ち悪いという者。

 

 十人十色だ。

 それも、統一された教義や信条を持つ宗教集団では有り得ない程度には振れ幅が大きい。「カルトが紛れ込んでいる村」ではあるかもしれないが、「カルトの村」ではなさそうだ。

 

 朗報ではあるが、逆に言えば、無知で善良な一般人を巻き添えにしないというフィリップの自分ルールに従う限り、安易に全員殺す択は取れなくなったということだ。

 

 村人は全部で三十人程度。

 フィリップより年下の子供も含めてだ。

 

 全員に「きみの信仰の形を教えて欲しいんだけど……」なんて聞いて回れないこともない数ではあるが、流石に不審すぎる。こっちがカルト扱いされそうだ。

 

 「……あの、エレナさん。フィリップはさっきから何を……?」

 

 どうしたものかと腕を組んで唸っているフィリップの後ろ姿を見ながら、テレーズがエレナに尋ねる。

 フィリップに聞かれないよう小声で囁くような問いに、エレナも声量を抑えて応じた。

 

 「うーん……。フィリップくんはさ、ちょっと怖がりなんだよね」

 「こ、怖がり?」

 

 魔物の群れを容易に殲滅せしめる戦闘力を持ち、見知らぬ土地の見知らぬ大人にも物怖じせず話しかけられるフィリップには相応しくない評価だと、テレーズは目を瞠る。そして同時に、なんとなく嫌だとも思っていた。それは違うと否定したかった。

 

 しかし、フィリップのことを自分よりよく知るエレナの言葉だ。軽々に反発することも出来ず、むっとした顔のまま言葉の先を待つ。

 

 反発する必要などないのだが。

 テレーズは「怖がり」という言葉を侮蔑的に捉え過ぎている。エレナのそれは「脅威に対して反応が過剰だ」という客観的評価に過ぎない。テレーズが感じたような「臆病者」と嘲る気持ちは一切ないし、そんなこと、あの地下空洞で命を預け合ったエレナが言うはずがないのだから。

 

 「うん。前に、物凄く嫌なことがあったみたいでさ、二度と同じ目に遭わないように……そして多分、誰も同じ目に遭わせないように、自分から怖がりになってるんだと思う」

 

 フィリップの切り札であろう“捨て身アタック”の正体は分からないが、あの蜘蛛や古龍を十分に殺し得るものなのだろう。

 

 その強力な手札が原因だろうが、フィリップの恐怖の閾値はかなり高い。

 エレナのパンチやキックも、ミナの剣閃も、ルキアやステラの魔術も、訓練用の見える速度の域であれば絶対に怯えて目を瞑ったり顔を背けたりしない。どころか、不意討ちした時には「下らない」とばかり侮蔑的な目で見つめてきたくらいだ。……不意討ちは当たったけれど。

 

 「自分から、怖がりに……」

 

 そんなことが有り得るのだろうかと、テレーズは疑問だ。

 何か怖いものを怖がるのは、自分の意思では止められない。それと同じで、怖くないものを無理に怖がることも、自分の意思では無理なのではないだろうか。

 

 もしも可能なら、それはきっと、とても強い意志の力が為せる業だ。自分自身を騙し抜くほどの。

 それほどの強さで、もう誰も自分と同じ目に遭わせないと思えるというのは、それはなんとも──。

 

 「……かっこいいって思った?」

 「え!? あ、あの、えっと……はい」

 

 エルフは心まで読めるのだろうかと言いたげな上目遣いのテレーズに、エレナは苦笑を返す。

 エルフにそんな力はないし、テレーズの声は内心がそのまま出力されたくらいに陶然としていた。誰にだって丸分かりだ。

 

 「そうだよね。何かを怖がることは、生き物として正しいことだよ。恐怖は生存本能の発露、原始的なだけに強力な警戒心だ。意識して出来ることじゃないし、誰かを守るためにそのレベルの警戒心を持てることはすごく素晴らしいと、ボクも思う」

 

 恐怖、特に遺伝子に刻まれた本能的恐怖は、種の存続と共に受け継がれてきた、種の存続に必要な警戒心だ。

 蛇の威嚇音、闇に浮かぶ一対の光源、鼻を刺すような刺激臭、苦み、炎の熱さ。どれもこれも、恐れを忘れた奴から死んでいく危険なものだ。

 

 恐怖とは、生命を生かす偉大な機能なのだ。

 長く森に生きてきたエレナは、それをよく知っている。だから、恐怖すること自体を厭ったり笑ったりすることはない。

 

 しかし──フィリップのそれは、必要十分の域を超えている。

 

 「でもフィリップくんは怖がりすぎなんだ。いや……もしかしたら、怖がっているフリをしてるだけなのかも」

 

 カルトや人類領域外の存在を恐れている──いや、嫌っているフィリップだが、それは時折、どこかわざとらしさを滲ませる。

 子供のごっこ遊びに付き合う大人の空気に近しいような、いや、或いはペットは飼い主に似るという奴だろうか。吸血鬼が人間を愛玩するような──。

 

 「ま、ボクもよく分かってないんだけどね!」

 

 神妙な空気を醸し出したかと思えば一転してあっけらかんと言い放ったエレナに、テレーズは目を白黒させる。

 

 エレナも一時は真面目に考えていたが、諦めた。

 彼女はフィリップと出会ってから日も浅いし、心理学への造詣は薬学ほどに深くない。なにより、フィリップ自身が事情へ深く立ち入られることを望んでいないのだから。

 

 「ボクに出来ることは、フィリップくんが恐怖で目を瞑っているときに、落ち着いてから後悔するようなことをしないように見守って止めてあげることだけ」

 

 場合によっては、殴ってでも止める。

 結果としてフィリップの望まぬ結果になり、彼に疎まれることがあったとしても、そんなのはエレナの知ったことじゃない。

 

 誰かに嫌われるから、なんて理由で自分のやりたいことを我慢するような可愛らしい性格をしていたら、エレナは“放蕩王女”なんて呼ばれていないのだから。

 

 「……素敵ですね。本当に、相手のことを知り尽くした仲間って感じで」

 

 テレーズは何か考え込むように顔を伏せ、亜麻色の髪が表情を隠す。

 

 「全然、まだまだだよ。今のも全部、ただの推測だし……あ。ははは……」

 

 普段の明朗さは鳴りを潜め、静かにしっとりとした空気を纏っていたエレナは、村人に絡まれているフィリップに呆れたような苦笑を向ける。

 

 信仰絡みの質問を続けるあまり、「他の教会にチクるつもりか?」と詰められているようだ。相手は大人だが荒事に発展しそうな気配はないし、エレナの見立て通りなら100戦中100回フィリップが勝つ。まだ介入しなくていいだろう。フィリップにもいい薬だ。

 

 そんなことを考えていると、隣でテレーズが勢いよく顔を上げてエレナの方を向いた。 

 

 「……あの! ぼ、冒険者って、どうやったらなれますか!」

 

 予想だにしなかった問いに、エレナは暫し瞠目する。

 恥ずかしそうに頬を赤らめているが、まっずぐにエレナを見つめる水色の瞳は真剣そのものだ。冗談どころか、興味本位の質問でさえないだろう。本気の決意が声色に映っていた。

 

 ややあって、エレナはぱっと顔を輝かせてテレーズの手を取った。

 

 「興味ある!? あなたが望むなら、ボクたちはいつでも歓迎だよ!」

 

 テレーズは一言も「エレナたちと一緒に冒険したい」とは言っていないが、エレナはそう受け取ったし、それは正解だった。

 彼女が冒険者に興味を持ち、憧れるようになったのは、ほんの昨日からだ。自分を背に庇い剣を抜き放つ英雄譚の登場人物のような少年を、魔物を前にしても笑顔を崩さない明るく快活な少女を、深い慈愛の眼差しで二人を見守る姉のような女性を知って、彼ら彼女らに憧れたからだ。

 

 自分もあんなふうになりたいと──お互いに強い信頼関係で結ばれた彼らの仲間になりたいと、そう望んだのだった。

 

 しかし、彼らは強く、賢い。

 きっと沢山訓練して勉強したのだ。そうでなければ冒険者になどなれはしないのだ。──と、そんな勘違いをしつつ。

 

 「え、いいんですか!? でも、私、戦ったりできないし、薬草の知識とかもありませんけど……」

 

 じゃあダメ、と言われるのではないかと怯えながら尋ねるテレーズに、エレナは「前にもこんな話をしたような?」と頭の片隅で思いながら、安心させるように笑いかける。

 

 「効率や利益を求めて冒険してるわけじゃないもん! 冒険っていうのは、冒険するためにするものでしょ?」

 

 確か、フィリップに会いに人間の町へ赴いて暫くした頃──冒険者になるための授業が始まってすぐのことだ。フィリップにもそんな話をした。

 

 依頼をこなして金を稼ぐためだとか、依頼人の助けになって喜んでもらうためだとか、冒険をするのにそんな高尚な理由は要らない。

 

 冒険は、冒険するためにするものだ。

 この広い世界に遍く未知の中に身を躍らせ、時に苦しみ、時に楽しみ、未知を既知に変えていく。それが冒険の本懐だ。知らない場所、知らない環境、知らない人、知らない敵、何もかもを自分の目で、足で、技で、全てを使って踏破する。

 

 それこそ、エレナが望む冒険だ。いや、エレナはそれのみを冒険と定義する。

 

 「それに、姉さまはボクとフィリップくんが束になっても敵わないぐらい強いし、王都にはボクより医学や錬金術に長けた子がいるんだ。ボクたちは強さや賢さを求めて集まったわけじゃない、一緒に居たいから一緒に居るパーティーなんだよ」

 

 その言葉に、テレーズは目を見開く。

 エレナが姉さまと呼ぶ黒髪の女性、彼女が一番強いのだろうとは雰囲気で察していたが、それほどとは。そして王都とは何と凄いところなのか、と。

 

 そして──それなら。

 強さも賢さも条件ではなく、ただ一緒に居たいと言うだけでいいのなら、テレーズは何も怯えることはない。心の内で燃える憧れは、誰よりも強い自信があるのだから。

 

 「なら、私も……私も、エレナさんやフィリップと一緒に冒険したいです!」

 

 勇気を振り絞って問いかけたような先の言葉とは違い、心の内から勝手に湧き出たような言葉に、エレナはこれまでとは質の違う笑みを浮かべる。

 幼子に向けるものでも、安心させるためのものでもない。同族を見つけたときの、仲間に向ける親しみを込めた笑顔を。

 

 「……初めて会った時から思ってたけど、あなたも結構直情的だね。勿論、いいよ。パーティーリーダーとしてあなたを歓迎する……と言いたいところだけど、流石にフィリップくんと姉さまを説得するのが先だよね」

 「……聞いてみる、じゃなくて、説得する、なんですか?」

 

 好意的な返答に安堵の息を吐くテレーズ。

 「駄目だって言われてもボクはあなたの味方だから、安心してね」という意味を込めた、ただの軽口だろうと思っているが、違う。

 

 「直情的なのはあなただけじゃないってこと。フィリップくんも姉さまも、勿論ボクも、やりたいことは誰に止められたってやるタイプだから」

 

 現在のパーティー構成は面倒なら配下でも見殺しにするミナに、嫌いだからという理由だけで大量殺人を犯すフィリップ。直情型の悪人が二人だ。

 

 なら、エレナとテレーズが直情型の善人としてブレーキにならなくては。

 

 まあ、エレナも根本的には人外。ミナが人間を殺したところで、「まあ吸血鬼だし、そういうものだよね」と納得してしまう精神の持ち主ではあるので、人間の常識に照らして「善人」と言えるのは、もしかしたらテレーズ一人かもしれないけれど。 

 

 



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378

 「で、出した結果がそれなの? 判定不能?」

 

 太陽はもう天頂を通り過ぎ、エレナの腹の虫が鳴き始めた頃になって漸くフィリップが出した結論に、エレナは蟀谷に青筋を浮かべていた。

 エレナは今まで一度だって怒りに任せて拳を握ったことはないのだが、それはそれとして殴られるのではないかと思わせる凄みのある笑顔と共に。

 

 「う、うん。いや、正確には「この村を」判定するのは無理なんだ。一個集団のように見えるけど、信仰の形態や強さがまるで統一されてない」

 

 信仰によって結ばれた集団にしては、肝心の信仰が曖昧だ。

 話を聞いていく中で、彼らが概ね「カエルは神様のように有難い生き物」派、「カエルは神様そのもの」派、「唯一神と比して語るなどけしからん」派に分かれていることは分かった。「けしからん派」は、言うまでも無く「唯一絶対の神である唯一神の他に神などいない」という主張を掲げている。

 

 彼らは信仰や信条を共有していない。他者のそれを尊重しつつ、自分の信仰は確立して持っている。

 一個の宗教的共同体として彼らを捉えることはできない。宗教的理念ではなく、何か別のもので繋がった他人。なんというか……“ご近所さん”といった感じだ。

 

 信仰に歪みがないというか、むしろ不自然に統一されていない分混沌としているというか。

 

 「それが土着の信仰として自然なんだと思う。信じたいものを信じたいように信じる、って言うのかな」

 「土着の……? 普通はそうじゃないの?」

 

 一神教に信仰を統一された人間とは文化を共有していないエレナの問いは、フィリップにはむしろ新鮮だった。

 

 「普通……」

 

 普通は、一神教だけを信じている。

 

 一神教が大陸全土に浸透し、文化や道徳心の基盤となっている現状、一神教の信仰は人間の証明と言っていい。

 人を殺してはいけません、暴力を振るうのはいけないことです、他人の物を盗んではいけません。その手の人間として基本的な道徳心は、教会で行われる説法や聖典の朗読などを通じて教えられるし、家庭でも聖典ベースの訓話なんかを読み聞かせる。

 

 それはもう、大陸に生きる人々の遺伝子に刻まれたことだ。肉体ではなく、文化の遺伝子に。

 自分の親がそうしたように、自分の周りがそうしているように、当然のように、自分の子にも同じことをする。親はそのまた親にそうされている。子も、自分の子に同じことをする。

 

 そうして何世代、何十世代もの時間をかけて、一神教は人々の思考や文化の基盤となった。

 

 一神教を信仰していることは、大陸の人々にとって“普通”なのだ。

 大陸共通語を話し、十進法を使い、嬉しい時には笑って悲しい時には泣く。そのレベルで、信仰は身体に刻み込まれている。

 

 それでも、人によって濃淡はある。

 フィリップもあの一件以前から熱心な信仰者ではなかったし、ルキアやステラもそうだ。育った環境や経験、強さなんかが違うから、思想にも差異が生まれる。

 

 規模の小さい土着信仰であるからこそ、その差異がはっきりしているのだろう。

 一神教のように文化や思考の基盤に食い込むほどの強度や歴史が無く、恐らくは虫害を受けにくい作物や多量の水を必要としない作物を育てていたりするとカエルに対する感謝も薄いから、信仰心も薄くなる。

 

 誰かに強制されていたり、儀式を通じた遭遇や信仰の強化統一が行われていたら、こうはならない。

 

 「……二人とも、さっきから何を話してるの?」

 

 ひそひそと囁き合うフィリップとエレナに、疎外感を覚えたテレーズが頬を膨らませる。

 あざといが、まだ幼さの残る顔立ちの彼女がやると絵になる仕草だった。

 

 村人を全員殺すべきかどうか考えあぐねていた、なんて言えるはずもなく、適当に誤魔化していると、村の反対側が俄かに騒がしくなる。

 悲鳴と叫び声。そして、笛か何かを全力で吹いている、耳に突き刺さるような甲高い音。

 

 村人たちは蜘蛛の子を散らすよう──とまでは行かないが、ぞろぞろと自分の家に戻る。何人かは名残惜しそうにしていたが、他の村人にせっつかれるように帰っていく。

 

 「獣が森から出てきたみたい。この時期にはよくあることなの。家に戻ろう?」

 「よくあるの?」

 

 テレーズが怯えも慌てもせず、淡々とフィリップとエレナの手を引いて家の方に向かう辺り、本当に珍しいことではないのだろう。村人たちもさっさと家の中に引き篭もり、硬い石造りの壁で身を守っている。

 

 むしろ余所者のフィリップたちの方が警戒しているくらいだ。

 エレナは野生の獣の脅威をよく知っているし、フィリップは外神の残り香を気にせず向かってくる獣に不信感を抱いている。本当に獣なのかと。

 

 「冬ごもりの準備もあるだろうけど、畑の作物の方が野生より出来がいいですから」

 「……畑を狙って出てきたってこと? 収穫、まだ少し残ってるんでしょ? 大丈夫なの?」

 

 よくあることと言うだけあって、村人たちもテレーズも畑にある程度の被害が出るのは諦めているようだが、エレナは「何故戦わないのか」と言いたげに不満そうにしている。

 

 だが、仕方のないことだ。

 この村にも狩人はいるらしいが、彼らは狩りのプロであって、戦闘のプロではない。

 

 待ち伏せ、誘い出し、射界へ入った獲物に必殺の一矢を射かけて仕留める──そんな狩りの腕がイコール戦闘能力となるような、所謂射手(シューター)タイプのハンターばかりではないのだ。罠を仕掛けて只管待つとか、時には錬金術師からガスを仕入れて一網打尽を試みる者もいる。

 

 まあ、この村の狩人がどういうタイプかは知らないけれど、とにかく、暴れ回る獣と一対一で渡り合うばかりがハンターではない。

 

 いや、そんなことより──。

 

 「獣……?」

 

 果たして食い意地だけで自分に近づいてくるだろうかと、フィリップは思考を回す。

 フィリップが纏う“月と星々の香り”、外神の残り香は、鼻の利く野生動物には相当な悪臭だ。矢の雨を掻い潜り槍衾を踏み越えるよう訓練された恐れ知らずの軍馬でさえ、二日も乗れば闘争心が完全に萎えて使い物にならなくなるほどに。

 

 時期的に獣は冬ごもりの準備中か、または森に自生している果実や山菜等より高品質なものを求めているのだろうと思われる。

 つまり、恐怖を飲み込んででもフィリップに近づかなければならないほど飢えているわけではないということだ。

 

 勿論、フィリップの臭いに気付かない、鼻の利かない獣である可能性もあるけれど……そうではないとしたら、「得体のしれない臭いを漂わせる怖いヤツ」以上の脅威から逃げているとは考えられないだろうか。

 

 例えば──ちょっと興が乗ってきて、剣を振りながらついうっかり殺気を漏らしちゃった吸血鬼とか。

 

 「……フィリップくん?」

 

 あらぬ方向に、今日提出のレポートを忘れていた時とそっくり同じ顔を向けるフィリップ。

 エレナはその妙な反応に首を傾げるばかりで、フィリップと不安を共有できていないようだ。

 

 「……駆除しよう。テレーズ、僕の剣を取ってきてくれる?」 

 「え? う、うん、分かった!」

 

 龍貶し(ドラゴルード)は他の荷物と一緒にリール家に置きっぱなしだ。

 ただの獣なら『萎縮』一発でカタが付くが、「獣だと思ったら魔物でした!」というケースを想定して武器を求めた……というわけではない。

 

 単にフィリップの危惧をエレナに伝えるのに、ミナの正体を知らないテレーズが近くに居るのが厄介だっただけだ。

 

 懸念を共有すると、エレナはフィリップと全く同じ表情で目を泳がせる。

 「姉さまが殺気を制御できないわけないじゃん!」と、実力だけを見るなら言い切れるのだが、そもそも殺気を制御しなければならないとも思っていないだろう。そう思い至ってしまえば、反論の言葉も出て来ない。

 

 「あー……、うん、そうだね。畑に被害が出ないよう、ボクたちが対処しよっか」

 

 元々そのつもりだったけど、とエレナ。

 ただ、善意で助けるのとマッチポンプでは気の持ちようが全然違うというか、気の落ちようが違う。

 

 ややあってテレーズが大変そうに長剣を抱えて戻ってくると、フィリップとエレナは取り敢えず笛の聞こえた方に向かう。途中「おいあんたら、何やってるんだ! 暴れイノシシ舐めてると死ぬぞ! 早く家の中に避難しろ!」と家の中から怒鳴られたが、エレナが「大丈夫、心配しないで!」と笑顔で手を振って応じる。フィリップはエレナの健脚に付いていくので精一杯だ。

 

 そういえばテレーズには「家に戻れ」とも「ついてきて」とも言っていないが、ついてきている様子はないし、きちんと家に戻ったのだろう。

 

 村の端まで来ると、森に向かって伸びる一本道の手前に弓矢を持った男がいた。青年というには年を食っているが、壮年というにはまだ若い、そんな年頃だ。

 

 彼は険しい顔で森の方を睨んでいたが、フィリップとエレナに気付くと怪訝そうに目を細めた。

 

 「ん? なんだ、手伝ってくれるのか?」

 

 勿論、とエレナ。

 フィリップは手で日除けを作りながら、道の先でもうもうと煙る砂埃に目を凝らす。

 

 両側を麦畑に挟まれた、森へと続く長い道だ。

 王都外のあらゆる道の例に漏れず未整備で、岩盤の上に積もる砂がやや厚い。

 

 土煙の原因は、100メートル向こうで荒ぶる六つの黒い点。獣──群れているということは、熊の類ではなさそうだ。恐らくは猪か──その群れと、それを押しとどめる猟犬だ。勇猛果敢な低い吼え声がここまで届く。

 

 「狩人ですか。猟犬はセント?」

 「いや、セット・マスティフだ。……詳しいな?」

 「父が狩人だったので」

 

 猟犬の役目は嗅覚による索敵(セント)ではなく、誘い出しと格闘(セット&マスティフ)

 ここからでは黒い点にしか見えないが、恐らく、そこそこ大型で強い種だろう。多分、猪一匹くらいなら狩人の援護無しに噛み殺せるような。

 

 彼──彼女かもしれないが──が群れの行く手を阻み、威嚇していることで、獣の進行速度はほぼゼロにまで抑えられている。だが流石に多勢に無勢、じき突破されるのは目に見えている。一匹の喉笛を噛み千切っても、残る四匹が黄金の穂波を踏み荒らす。

 

 猟犬が機能しているうちにフィリップとエレナが援護に回るべきか。

 

 そう思ったのも束の間、

 

 「ん? ハリー! どうした!? ……うぉっと!?」

 

 どういうわけか、猪の群れに果敢に吠え掛かって歩みを止めさせていた猟犬が逃げ帰ってくる。

 いや、逃げてきたというか──より優先すべきモノを見つけたように、真っ直ぐに飼い主の元へ戻ってくる。黒い点だったものがみるみるうちに四足の獣の輪郭になり、やがて狼のような見事な体躯を持つグレーの犬になった。

 

 がっちりとした体格の格闘犬は飼い主とフィリップの間に割って入り、吠え立て、唸り、牙を剥く。まるでフィリップが飼い主の敵であるかのような荒らぶりようだ。

 

 「……やっぱり駄目か」

 

 フィリップが「もふもふだ!」と目を輝かせたのも一瞬で、獣どころか人間さえ殺せそうな見事な猟犬に威嚇され、しょんぼりと肩を落とす。

 

 「昨日からこの調子なんだ。ずっとあんたらに怯えてる。猟犬のくせにな」 

 

 狩人に叱り付けられ、ふわふわの耳がぺたりと寝る。

 僕が臭いせいでごめんね、ともふもふしたいところだが、そうもいかないのが辛いところだ。

 

 「あー……僕の剣、ドラゴンの素材を使ってるので、そのせいだと思います。優秀な子ですよ」

 「そりゃ凄ぇな! ……っと!」

 

 今が好機とばかり村に向かって突進を始めようとした猪の群れを、狩人が笛を吹いて威嚇して止める。フィリップやエレナには耳を劈く甲高い音でしかないが、動物にはもっと嫌な音らしく、猪の歩調が目に見えて緩む。

 

 だが、止まらない。

 今は突進前だったから勢いを殺せたが、本気の突撃が始まってからでは意味をなさないだろうと察せられる。

 

 猟犬に再度突撃するよう指示を出す狩人だが、彼はいまフィリップを警戒するのに忙しい。飼い主の身を一番に案じる、いい犬だ。

 

 「参ったな、畑に入らないように追い立てたいんだが、こいつは使い物になりそうにない。先頭の奴を撃ったら、連中は散り散りになって畑を踏み荒らすぞ」

 

 何故撃たないのだろうと思っていたフィリップとエレナの疑問に問われる前に答え、狩人は忌々しそうに砂煙を見つめる。

 

 フィリップは知らず、エレナと狩人は言葉を交わさず共有できることが二つある。

 

 一つ。あの種の猪は基本的には真っ直ぐに、そして拓けた場所を進む性質がある。

 二つ。例外として、群れの仲間が外敵にやられた場合、彼らは素早く散開する。仲間を助けるのではなく自分の身を守るため、他の仲間とは違う方向に散らばるのだ。訓練もしていないだろうに、完璧な連携で。

 

 つまり何もしなければこの道を直進して村に入るし、どれか一匹でも撃てば、残った奴らが両側の畑を滅茶苦茶に踏み荒らしていく。

 

 「全部で五匹だ。ボクが右の三匹をやるから、フィリップくんは左の二匹をお願い。狩人さんは撃ち漏らしがあったらカバーして!」

 「後ろから援護射撃されるの、ちょっとトラウマなんだけどなぁ!」

 

 狩りに関してはエレナに全幅の信頼を置いているフィリップは、彼女の指示に即座に従う。

 先程から断続的に獣除けの笛を吹いてはいるが、慣れてきたのか徐々に効きが弱くなっている。突撃はじき全速に達するだろう。

 

 二人は道と麦畑の間の僅かな隙間を駆け抜け、一瞬で猪の群れに肉薄する。

 二人の速度も相当だが、猪も猛スピードでこちらに向かってきている。相対速度は時速90キロにも達するだろう。

 

 交錯は一瞬。

 

 フィリップは手近な一匹の頸を容易く刎ね飛ばすと、もう一匹に狙いを定めつつ刀を返し──片目に鋭い痛みを感じて思わず顔を背けた。

 砂埃だ。痛みは動きが止まるほどではないが、動きが精彩を欠く。

 

 咄嗟に振るった剣は、切っ先に僅かな手応えがあるのみだ。

 ただの獣を斬りつけて手応えがある時点で、あまりよろしくない。龍貶しは錬金術製の鎧すら切り裂く鋭利さだ。獣の毛皮など何の抵抗も無く断つはずなのだから。

 

 だがいくら龍の骸を素材に使い、王国最高の錬金術師の手によって造られ、王国最高の付与魔術師が強化したとはいえ、刃物である以上、刃の角度というものがある。斬撃が最適な角度に沿っていなければ刃が通らないのは自明だ。

 

 甲高い豚の悲鳴が上がり、しかし、猪が倒れた気配はない。

 

 「しまった、浅い!? エレナ!」

 

 砂埃の只中に突っ込んだせいで何も見えない。『萎縮』の照準補正性能が高いと言っても、的が見えなければ狙いようがない。

 

 だが、道の反対側にエレナがいるはず。彼女の健脚なら、多少遅れたくらいなら猪の突撃にも追い付ける。

 

 そう直感的に考えて叫んだものの、返事は否定だった。

 

 「ボクも無理! 狩人さん、お願い!」

 

 ホップ、ステップ、ジャンプ。

 頭蓋、頚椎、脊椎をそれぞれ踏み砕いて三匹の猪を倒していたエレナは、前方伸身宙返りをして見事な着地を決めたところだった。1260度の回転付きで。

 

 遊び過ぎだ。

 そりゃあ殴ったり蹴ったりしている余裕はないし、ほぼ同時に決める必要があるからストンプは悪くない選択ではあるけれども。

 

 



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379

 「……ッ!」

 

 狩人が渾身の一矢を放ち、フィリップたちから逃げて今まさに畑に飛び込もうとしていた猪の頭を撃ち抜いた。

 

 ずんぐりとした体は短い断末魔と共に転倒し、ごろごろと畑に転げ落ちる。麦が何本か倒れたようだが、そのくらいは許容範囲だろう。

 

 「ふぅ……」

 

 一件落着とばかり剣を納め、水筒の水で目を洗う。服がびちゃびちゃになるが、今日は暖かいし、そのうち乾くだろう。

 

 上を向いてジャバジャバやっていると、「大雑把だなあ」と苦笑していたエレナが弾かれたように森の方を向く。

 勢いにつられてフィリップも森の方を見つつ、頬を垂れてきた水をぺろりと舐める。汗が混じって微妙にしょっぱかった。

 

 エレナが見ているのは森のすぐ外の辺り、フィリップたちから4,50メートルのところにいる茶色っぽい塊だ。

 

 「待って、もう一匹……熊だ!」

 

 また面倒なのが来た、とフィリップとエレナの心情が一致する。

 その後方、狩人は弓を仕舞って陶器のボールを取り出している。中身は特殊な木の実を発酵させて作った、熊を撃退するときに使う強烈な刺激性のあるゲルだ。熊のサイズを見た瞬間、自分の弓では歯が立たないと察せられた。

 

 熊は面倒だ。

 頭蓋も含めたあらゆる骨が硬く、毛皮も極めて強靭だ。並大抵の弓矢なら容易く弾き、鏃に毒を塗っていても毛で止まっては意味がない。その上、デカくて重くて力が強い。

 

 まあ、エレナは殴り殺せるらしいし、フィリップも視野外からの突進で一撃死さえしなければ拍奪と龍貶しで割と善戦できる。

 

 しかし、今求められているのは「熊を殺せ」ではない。「熊を畑に入れるな」だ。

 自分は熊より強いとはっきり自覚しているエレナが戦闘態勢になれば、おそらく、敗北条件に抵触する。熊は藪の中に身を隠して奇襲する程度には知性があるし、敵の感情や強さにも敏感だ。

 

 「僕が殺る!」

 

 ファイティングポーズを取ろうとしたエレナを抑え、フィリップが前に出る。

 フィリップは悪臭を漂わせてはいるが、見た目には弱そうなはず。そして相手が魔力を持たない通常の生物なら『萎縮』で一撃必殺が見込めるからだ。

 

 しかしフィリップが左手を伸ばすより先に、熊の歩調が大きく乱れる。

 右半身と左半身が別々の生き物になったかのように、四足歩行の仕方を忘れてしまったかのように足取りが覚束なくなる。そしてそのまま数歩ほど走り、右半身だけが半歩ほど先行して前に出た。

 

 フィリップはそれを輪郭だけでぼんやりと捉え、視力の優れたエレナが目を瞠る。

 

 そして、半身のずれはみるみるうちに大きくなり、全体がバランスを崩して、遂に左右の半身が完全に分かれて倒れた。

 砂埃の中、びくびくと痙攣している二分の一の大きさになった巨躯の向こうに人影が現れる。

 

 臓物の浮かぶ血溜まりを赤いハイヒールが悠々と踏み越え、漆黒のコルセットドレスが風に靡いた。

 

 「ッ……! ミナ!」

 

 恐らくは獣たちの暴走の元凶であろう吸血鬼は、右手で漆黒の長剣を弄びながらフィリップを一瞥する。

 

 「……怪我は?」

 

 ミナにしては珍しい質問だ。

 二人が熊と戦う前だったことくらい、一目で看破できるだろうに。

 

 そう思いつつも頷いて答えると、ミナは安心したように口元を緩めた。

 

 「良かった。ちょっと飛ばし過ぎたんじゃないかと思って心配だったのよ」

 

 フィリップとエレナはミナとは反対に口元を引き攣らせて顔を見合わせる。

 飛ぶ斬撃──人間なら流派の秘奥義になっていそうな、物理法則を無視した攻撃。ミナにとっては「跳ぶ」とか「剣を振る」といったような、ただの動作らしいけれど。

 

 いや、この際飛ぶという部分を無視したとしても、熊を両断する一撃の流れ弾なんか掠っただけで大怪我だ。

 

 「……あれ? シルヴァちゃんは?」

 

 二人で鬼ごっこをしていたはず、と首を傾げるエレナ。

 

 「あぁ……そこに居たよ。今は戻ってるけど」

 

 ぴょこ、とフィリップの足元から出てくるシルヴァ。

 若草色の髪は所々血と泥で汚れ、それらに加えて獣の臭いも漂わせていた。あとで水浴びをさせなくては。 

 

 「……熊の下敷きになってたの?」

 「おなかにくっついてにげてた。かんぺきなかくればしょだったのに」

 

 エレナも臭そうにしつつ尋ねると、シルヴァはむすっとした顔で左右に分割された熊の死骸を一瞥した。

 

 「そうね。何もしなくても私からは逃げるし、魔眼禁止のルール上面倒な騎獣ではあるわ」

 「でも、しるばはもりからでたらまけ。はんそく。……またまけた」

 

 誰の真似か、腕を組んでしかつめらしく頷くシルヴァ。

 ルールなんて決めて、意外ときっちりした鬼ごっこをしているのだなとフィリップとエレナは苦笑を交わす。

 

 二人とも「反則に誘導するためにミナがわざと殺気を漏らしたのでは?」という嫌な疑念を共有していたが、口には出さなかった。

 

 「おーい! 大丈夫かー!? ……え?」

 

 戦闘終了とみて駆け寄ってきた狩人は、頭から尻まで一刀で綺麗に分割された熊を見て戦慄する。人間技ではない──いや、魔物でもここまでできるヤツはそうはいない。

 

 一応ミナとエレナはどちらもエルフということで通しているから「エルフってすげぇな」なんて納得してくれて、フィリップとエレナは改めてほっと一息だ。

 

 ……で。

 内臓とかその内容物とか、諸々をモロモロと零す死骸をどうするか。

 

 体重300キロはありそうなよく肥えた大物だが、放置すれば300キロの腐肉となって悪臭を撒き散らし、感染症や不快害虫の温床になるだろう。というか、既に臓物や血の匂いが漂い、空にカラスが現れ始めた。フィリップとミナがいるから降りてきて啄むのは躊躇っているようだが。

 

 「……台車か何か持ってきて、森に埋める?」

 「まあ、そうだね。放置はできないし、畑に燃え移るのが怖いから焼き払うわけにもいかないし……」

 

 焼き尽くそうと片手を伸ばしていたミナをエレナが身振りと言葉で抑える。

 体長二メートルはありそうな熊の死骸を灰にするレベルの火力を用意しつつ、火の粉の一つまで完璧に制御するのは難しいだろう。やってみたら意外と出来るかもしれないが、試す気にはならない。

 

 「こりゃ酷、いや、凄いな。あー……こっちの処理は俺がやるから、猪を村に持って帰って、村の奴らと一緒に解体しておいてくれないか? 勿論、逆でもいいが」

 

 狩人は気を遣ってくれたようだが、酷い、でも正解だ。

 無造作になんとなく真ん中あたりを斬ったものだから、内臓が幾つか裂けて内容物が出ているし、血ではなさそうな謎の汁も流れている。

 

 「いいけど、こっちの方が大変じゃない? 分かってると思うけど、ちゃんと深く掘って埋めないと他の獣が寄ってくるし、虫とかカラスとか凄いことになるよ?」

 

 熊を殴り殺したあと酷い目にあったらしく、エレナの声からは嫌悪の記憶が感じ取れた。

 同じ経験があるのか、狩人も遠い目をして苦笑する。

 

 だが熊はそこそこの大きさだ。体長2メートル強、体重は300キロ弱くらいだろうか。

 これを完璧に埋める穴を掘るとなると、慣れた狩人でも大仕事だろう。土の質次第では日没どころか夜中までかかりそうだ。

 

 「だからだよ。手伝って貰ったんだから、キツいほうは俺がやるさ」

 

 一見して100キロ近くありそうな熊の半身をそのまま運ぶわけにもいかないと判断したのだろう、狩人が解体用らしきナイフとマチェットを取り出す。

 

 「熊の肉は食べないの?」とエレナ。

 狩人は「あー、食うって村もあるらしいが、ウチでは食わないな。あんたらが食うってんなら、捌いてみるが?」と、配慮に満ちた愛想笑いを浮かべる。

 

 しかし熊の肉は食べたことがなかったフィリップが興味深そうに死骸の方を見ると、その反応で色々と察した狩人は配慮を捨てて「猪の方が美味い。無理して食べるモンじゃないぞ」と注意した。

 エレナも「確かに」と頷いているので、そうなのだろう。

 

 「よし、じゃあ──」

 「私、荷車取ってくるね! 男の人も呼んでくる!」

 

 フィリップとエレナが村に戻ろうと──荷車を持ってきて、ついでに猪を運んで解体する人員も欲しいな、なんて思っていると、不意にテレーズが狩人の後ろから出てきた。

 てっきり家に戻ったのだとばかり思っていたのはフィリップだけではないようで、隣でエレナも瞠目している。

 

 「テレーズ、居たの!? 家に戻ったと思ってた!」

 「……うそ」

 

 驚愕を叫ぶフィリップと、呆然と呟くエレナは対照的だ。

 全然気付かなかったことを笑う余裕があるのはフィリップ一人。エレナは驚きのあまり口元を覆っている。仕草が妙に上品で、フィリップはふとルキアとステラを思い出した。彼女もまた貴き血を流す者だった、と。

 

 だがフィリップが忘れていなかった分野、彼女の戦闘経験もまた一流だ。

 特に森の中で何処から襲ってくるか分からない獣や魔物を相手にしてきた彼女は、種族的なものだけではない優れた感覚を有している。

 

 その彼女が──。

 

 「獣を畑に入れないことに全神経を集中してたとはいえ、気付かなかった。……このボクがだよ?」

 

 有り得ない、とでも言いたげなエレナ。

 単なる自画自賛ではなく実力が伴っているから、受けた衝撃もひとしおだろう。

 

 まだ衝撃から立ち直れていないエレナの表情をどう受け止めたか、テレーズは困ったように眉尻を下げた。

 

 「あー……やっぱり駄目でした、よね。そう言われるとは思ったんですけど、フィリップたちが戦うところを見たくて、つい隠れて……ごめんなさい」

 

 テレーズにとっては誠意を込めた謝罪はしかし、エレナには追撃だった。

 

 「つい隠れた程度で……!?」

 

 追撃──というか、エレナはもう一周回って笑顔だ。

 

 「テレーズちゃん、もしかしたら……ね、ちょっと耳を貸して」

 

 また二人でゴニョゴニョやり始めたエレナとテレーズ。

 

 何の話だろうと聞き耳を立てたフィリップだったが、内容を聞く前にミナに後ろから抱きしめられた。

 特に何の脈絡もなく愛玩されるのはいつものことだし、驚きはない。

 

 シルヴァもぽてぽてと近寄ってきて──ミナが不愉快そうに眉根を寄せた。

 フィリップにも分かるほど、シルヴァが異臭を放っている。吸血鬼である以上血や臓物には慣れているだろうけれど、獣の臭いは別らしい。

 

 「フィル、その子を仕舞うか洗ってきて」

 「あ、うん。シルヴァ、水浴びしに行こう」

 

 王都の温かいシャワーに慣れたフィリップとしては、川の水をそのまま浴びるのは昔懐かしい行為だ。

 だが別に不慣れなことではないし、不満も無い。

 

 ちょうどフィリップがシルヴァを伴って立ち去ったタイミングで、エレナとテレーズと、いつの間にか狩人も巻き込んでいた密談が終わる。

 テレーズがよろしくお願いします、と狩人に頭を下げて握手を交わしているのを見て、「何を話してたの?」と尋ねる──人間同士の会話に興味を持ちそうなのは、ペットを洗いに川へ行った。

 

 「じゃあ、決まりね! 姉さま、ちょっといい?」

 「なに? フィルには内緒の話?」

 「そういうわけじゃないんだけど……先に姉さまから説得しようかなって」

 「説得、ね……」

 

 自分を説得できると思っているのなら大きな間違いだとミナは苦笑する。

 ミナの行動基準は「面倒か」という一点。それがいま必要なことでも、将来的に必要となることでも、いま面倒ならやらない。

 

 どれほど道理を示そうと、どれほどの利を提示しようと、閾値を超える面倒臭さならやらない。故に、一般的な説得手法は殆ど通じないといっていい。

 

 しかし──それほどの視座を有する強さ故に、ミナは器が大きい。

 

 「テレーズちゃんをパーティーに入れたいんだ!」と言われても、寛容に受け入れる──というか、どうでもいい。

 姉さまを前衛、ボクとフィリップくんが遊撃、テレーズちゃんが後衛になればバランスのいいパーティーになるんだ。とか言われても、心底どうでもいい。

 

 「いいんじゃない? あの子が守りたいと思ったら勝手に守るでしょうし」

 

 ペットがどうしたいかを考える程度には愛着があるが、それも些事だ。

 ペットが愛着を持つなら好きにさせる。……まあ、番にしたいと言い出したら「ちょっと待て」と止めるかもしれないけれど──ソレにするぐらいなら聖痕者にしておけと勧めるけれど。

 

 けれど「彼女を助けるために血を使え」と言われても、気分が乗らなければ拒否する。ミナにとって、テレーズはそのくらいの相手だった。

 

 だから、まあ、パーティーに入るなら好きにすればいい。どうせ大半の相手はミナ一人で片付くし、ミナが勝てないような手合い──王龍なんかが出てきたら、フィリップを抱きかかえて飛んで逃げる。

 

 今と、何も変わらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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380

 フィリップがシルヴァを洗い終えて村に戻ると、獣の襲来を受けて家に籠っていた村人たちが表に出て何事か集まっていた。

 

 中断していた祭りの準備を再開した、という感じではない。

 それよりもっと熱気と活気に満ち溢れているし、なんだか妙に香ばしい匂いもする。祭りの準備中というか、この空気は祭りそのものだ。

 

 「あ、フィリップ君! こっちこっち! 早くしないとなくなっちゃうよ!」

 

 人だかりの只中に居てもフィリップに気付いたエレナが、人波の中でぴょんぴょんと跳ねる。

 彼女を取り囲んでいた──いや、彼女の前に置かれた野外用調理器具、簡易な焚火の上で回る肉を取り囲んでいた村人たちが一斉に振り返り、「あぁ」と軽い納得を見せて、エレナまでの道を開けてくれた。

 

 「君たちが猪を獲ってくれたんだって? ありがとな!」

 「あぁ、いえ……」

 

 木串に刺した肉を頬張りながらお礼を言われて、その適当な感じに懐かしさを覚える。

 魔術学院の同級生はまずやらない態度だが、田舎にいた頃はフィリップも含めて皆がこんな感じだった。勿論、仕事中は別だが。

 

 視界の端で司祭が眦を吊り上げてお礼を言った村人を見ているのに気づき、フィリップは鷹揚に手を振って「別にいいよ」と示す。

 恭しく頭を下げる司祭と村人たちの差は、知識の差だろう。フィリップを“龍狩りの英雄”と知っているか否かの違いだ。

 

 まあ、彼らは別に“眠り病”に侵されてもいないし、きっと国が無くなったって関係なく、ここで自給自足の生活をしていけるだろう。まあ他国から侵略を受けて村が焼かれるとか、そういう危険は出てくるけれど……とにかく、フィリップは別に彼らを救ったわけではないのだし、妙に遜られるより自然に接してくれた方がいい。

 

 「なーんて、フィリップ君の分はちゃんと取り分けてあるよ! 塩コショウ少なめ、香草は多めね!」

 「うーむ、完璧な味付け……。どうして僕がやると臭みが残るのか……」

 

 エレナから串肉を受け取ってかぶりつき、味付けの巧さに唸る。

 肉質は野生の獣だけあってそれなりだが、臭みが殆ど無い。そこいらで拾ってきたちょっと煙の多い薪で、香草と一緒に焼いて塩コショウを振っただけの、調理法まで野生みたいなものなのに。

 

 「これで一匹と半分くらいだから、明日の収穫祭本番でも全員が腹いっぱいに肉を食えるし、捧げものの料理にもたんまり肉を使える。ありがとな、姉ちゃん!」

 

 フィリップやテレーズより年下の、腕白そうな少年が嬉しそうに笑って言う。

 その笑顔につられるように、エレナの笑顔も普段の三割増しで明朗だ。

 

 「気にしないで! ボクも健啖な方だって自信はあるけど、流石に五匹も食べられないから」

 

 健啖……というか、フィリップに言わせればエレナは化け物だ。

 ルキアもステラも特に食が細いわけではなく、普通に大人の女性一人分は食べる。フィリップも普通に成長期の子供一人分は食べるし、ルキアやステラよりおやつの分量も多い。

 

 で、エレナはその三人を合計したくらいはぺろりと平らげ、おやつもフィリップと同じかそれ以上に食べる。

 

 まあ、身体の強度とエネルギー出力を考えれば納得のいく量ではある。あるが、ミナはともかくルキアやステラと並んでも一番スレンダーなエレナが一番大食いというのは、傍から見ていてやや不可思議な光景ではあるけれど。

 

 昨日のシカ肉は半分ぐらいエレナが食べたし、冒険中には夜中にこっそりテントを抜け出してヤギを狩って食べていたこともある。朝起きたらキャンプの中に寝る前には無かった中型獣の骨が落ちていたときには流石に肝が冷えたし、「あ、それボクが捨て損ねたゴミ。埋めてくるね」と言われた時には耳を疑った。

 

 「……ちなみに何匹までならイケるの?」

 「いや、一匹全部も無理だよ! 八割か、そのくらい?」

 

 猪一匹がだいたい5~60キロ、可食部がなんとなく45キロくらいだとして、その8割でも36キロ。

 学院の食堂でディナーセットを注文したときのトレイの重さが、食器込みで1キロ強くらいではなかろうか。

 

 それだけ食って身体の強度とエネルギーに回せば、そりゃあ、パンチで生木を抉るくらいできるだろう。人体では有り得ない吸収変換効率は流石異種族の一言に尽きる。

 

 そんなことを考えていると、カソック姿の神父が口元をハンカチで拭いながらやってきて、フィリップに恭しく頭を下げた。

 

 「本当にありがとうございます、カーター様。それと彼らの無知と無礼をご寛恕賜ったこと、彼らに代わってお礼とお詫びを申し上げます」

 

 村人たちは「大袈裟だなあ」という呆れの混じった視線を司祭に向け、司祭は射殺すような目で睨み返す。

 

 なんで? という顔をする無知さえ許しがたいと言いたげだったが、「大丈夫ですよ」と愛想笑いを浮かべたフィリップの顔を立ててくれるつもりはあるようで、司祭はそれ以上何も言わずに肉のお代わりを取りに行った。

 

 「そうだ、フィリップ君! ちょっといい?」

 

 調理を村人に任せて近づいてきた神妙な顔のエレナと、調理器具の上で香ばしい匂いを放っている焼肉を見比べ──フィリップは取り敢えず串肉を三本ほど確保した。

 

 

 その日の夜。

 リール家で夕食を摂ったフィリップがミナに抱きしめられて微睡んでいると、じき就寝だというのに元気一杯なエレナに叩き起こされた。

 

 「フィリップ君! フィリップ君! やったよ! 二人とも良いって!」

 

 何事かと目を擦ると、エレナが満面の笑みを浮かべているのがぼやけて見えた。

 

 ひんやりして居心地のいいミナの膝上から降り、何の話だろうかと思考を回していると、まだ長時間は立っていられずベッドの上で一日を過ごしていたリール氏が慌てて立ち上がった。

 

 「い、いやいや! まだ“良い”とは言っていません! あくまで条件付きですよ!?」

 「分かってる! テレーズちゃんがハンターとして最低限、生き残る術を身に着けたら……だよね!」

 

 そうです、と頷きつつ、リール氏はまたベッドに腰掛ける。

 しきりに左足を気にしているのは、抉られた傷が痛む──いや、痛みは鎮痛剤によって抑制されているはずだから、貧血か、傷が引き攣るのだろう。

 

 そしてリール氏の反応で、フィリップも昼間にした話を思い出した。

 

 テレーズをパーティーに迎え入れたいというエレナの要望に、フィリップは消極的肯定を返したのだった。

 別に居ても居なくても何も変わらないだろうし、別にいいんじゃない? と。

 

 戦闘方面はミナが、探索方面はエレナが、それぞれほぼ完璧な能力を有している。普通に冒険するだけならフィリップが同行する意味さえない。

 

 今のパーティーは学校側の指示で組んでいるものだが、卒業後もこのパーティーで続けるとしたら──いや、フィリップは間違いなく冒険者になるし、ならないなら多分爵位の叙勲が早まるので、ならない選択肢はない。

 フィリップが冒険者になるなら、ミナも付いてくるだろう。まあ最悪「嫌よ面倒臭い。貴族になりなさい」とか言われるかもしれないけれど、そうなったらルキアとステラと学院長に泣きつくか、投石教会に立てこもって交渉だ。

 

 ともかく、フィリップとミナが冒険者をやるなら、エレナも付いてくるだろう。

 卒業後もこのパーティーが続く──いや、課題だなんだという縛りが無くなって、本格的に動き始めるのは確定だ。

 

 能力どうこうではなく、一緒に居たいから組んでいるパーティー。そのスタンスはずっと変わらない。

 

 だから今更戦闘能力に欠ける人間が一人増えたところで、誰も気に留めない。端から能力主義で集まったメンツではないのだから。

 

 が、それはそれとして、ハンターの技能をフィリップが卒業するまでに身に着けて合流するのは、流石に厳しいのではなかろうか。

 

 「……難しそうじゃない?」

 「ハンターって言っても、森の中で何か月も暮らす……野伏(レンジャー)みたいな技能は要らないからね。所謂アーチャー……特にボクたちみたいなパーティーだと、最後方か遊撃位置で弓を使って援護する立ち回りになるかな」

 

 なるほど、とフィリップは頷く。

 それなら弓の腕と、位置取りや優先排除目標を見極める戦術眼さえ鍛えれば、一定の強さにはなる。

 

 逆にミナは「弓?」と呆れ顔だ。

 

 「弓ねぇ……付与魔術も無しにどこまで役に立つか分からないけれど……」

 「た、確かに……誰も付与魔術使えないしね……あ、いや、エレナは使えるけど」 

 

 付与魔術には大別して二種類ある。自分にかける自己強化系と、他人や物品にかける他者強化系だ。

 エレナが使うのは拳の硬化や打撃力強化、筋力や敏捷補助など、自己強化系ばかり。他者強化は使えないらしい。

 

 となるとテレーズは魔術補助なしで弓矢を使うことになるが、ミナにとって()の弓矢は何の脅威にもなり得ないものだった。たとえ鏃が銀で出来ていても、だ。

 ちなみにフィリップにも点攻撃は通じないので、ミナとはある程度脅威判定を共有できる。

 

 「というか、女の子が引ける弓なんて、大した威力出ないんじゃない?」

 

 ミナのような例外はともかく、獣相手にさえ自衛できないようでは困る。

 死体になればともかく、怪我人を抱えて長距離を移動する大変さは想像に難くない。

 

 そう考えたフィリップだったが、エレナに言わせればそれは侮りだ。

 

 「おーっと、それは違うよフィリップ君。弓は腕力じゃなくて、背筋を使って引くんだ。肩や肩甲骨周りの柔軟な女の子の方が、むしろいい使い手になることが多いんだよ」

 「そうなの?」

 

 ホントに? とミナを振り返る。

 教えてくれたのがステラだったら「そうなんですね」と簡単に納得していただろうが、戦闘面では二人とも人外だ。信憑性は二人で一人分くらいだった。

 

 残念ながらミナは「さあ?」と首を傾げたけれど。

 

 「うん。あー……まあ、姉さまぐらい胸が大きいと、スタンダードなスタンスでは引けないんだけど」

 「確かに、引っかかりそうだね。まぁでも──ミナは前衛だし、関係ないよね」

 

 テレーズは大丈夫でしょ、と言いかけたフィリップだったが、脳の片隅で「デリカシーは大前提よ?」なんて囁くダンディな吸血鬼を振り払って、言葉の続きを変えた。

 

 「まあ、そうね。私はもうフィルを後ろから援護したくないし、後衛を用意するなら増員するしかないのだけれど……」

 

 ミナが下がってエレナかフィリップが前衛を張るのは、戦力的に不可能ではない。

 ただ、フィリップの『拍奪』は敵味方関係なく作用する。たとえミナであっても照準を両目で行っている限り、相対位置認識が狂い、誤射の可能性が生じる。

 

 既に一回やらかしているミナとしては、なるべくやりたくない陣形だ。

 だが、それは後衛要員を補充したとて変わらない。どちらにしてもフィリップがフレンドリー・ファイアを喰らう可能性が出る。

 

 が、まあ怪我をしたら血で治せばいいだけのことだと、吸血鬼(バケモノ)は楽観的だった。

 弓矢なら即死位置──医療行為が間に合わなかったり治療不可能であるという意味ではなく、文字通りの即死位置、脳幹部にさえ当たらなければどうとでもなる。ミナの破城槍ではそうはいかない。

 

 「痛いだけでも十分嫌なんだけど……あー……テレーズの腕を見てから決めても遅くないんじゃない?」

 

 このまま行くと大怪我しそうだと、珍しく危機感を持ったフィリップの言葉だったが、エレナには「大丈夫! 下手なら練習すればいいだけだよ!」と軽く受け止められた。

 

 

 

 



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381

確認ヨシ!


 また一夜を明かし、フィリップたちの滞在最終日──そして、収穫祭の当日を迎えた。

 農夫たちは早朝から起き出してまだ畑に残っている作物を収穫しており、その傍らで着々と祭りの準備が進んでいく。

 

 祭壇に瑞々しく豊かに実った様々な作物が山と積まれ、篝火が煌々と燃え盛り火の粉を立ち昇らせる。村人の顔に熱気と活気が満ち溢れ、誰もが収穫の喜びを共有していた。

 

 そんな浮足立った空気の中、司祭が例の神像を持ってくる。

 エレナと一緒に収穫した作物の搬入を手伝っていたフィリップは、ついそちらに意識を集中し──そんな大げさな反応をしているのは自分だけだと気が付いた。

 

 「おはよう司祭様」「おはようございます神父様」と、ちらほらと挨拶が向けられ、司祭も穏やかに挨拶を返す。

 それだけだ。剥き出しの神像を落とさないように両手で抱えた──特に捧げ持ったりはしていない司祭にも、神像にも、特に反応を示さない。

 

 祭りの舞台装置か飾りが運ばれてきた。そんな感じだ。

 

 収穫祭と云うだけあって、メインは作物の方なのだろう。

 事実、果実や麦や野菜が運ばれてくるたびに、そこかしこから歓声が上がる。不細工な粘土像とは扱いの格差が物凄い。

 

 カルトの信仰する神の姿を模した像であれば、有り得ないだろうぞんざいさだ。

 いや、まだ「信仰心は無いが邪神の力を利用して何か企んでいる」という可能性は残るけれど──違うだろうと、なんとなくだがそう思う。

 

 「フィリップ君、ちゃんと前見て運ばないと危ないよ!」

 「あ、うん、そうだね」

 

 前方不注意になっていたフィリップに、後ろを歩いていたエレナからの警告が飛ぶ。

 

 フィリップが両手で抱えて運んでいるのは、小型の農具が入った箱だ。使い終わったばかりの鎌やナタ、鍬などで、かなり重い。

 中身には錆の原因になる土汚れや欠けが目立つが、今日のところは一度倉庫に仕舞って、また別の日に一斉にメンテナンスするらしい。

 

 「悪いね、手伝って貰って! でもその分、この後の料理はウマくなるからよ!」

 

 人好きのする笑顔を浮かべたおじさんがフィリップとエレナに手を振りながら畑の方に戻っていく。

 

 村の中に邪な──嫌な気配は全くない。

 ここにあるのは達成感と歓喜、期待、そして祭りを楽しむ心だけだ。

 

 チャカポコと少し間の抜けた打楽器の音が断続的に聞こえる。ヒョロヒョロと頼りない笛の音、ドコドコと重厚な打楽器の音。チューニング中だろうか。

 

 「あとは荷車だけだね! 片付けたらちょっと休憩しよ! さっきおばさんがジュース作ってくれるって言ってたから」

 「ホントに? やった……待って、荷車? じゃあコレも乗っけてくれば良かったじゃん」

 「荷車は果樹園の倉庫に仕舞うやつだから、反対側だよ」

 

 げ、とフィリップの顔が歪む。

 果樹園は村のはずれ、小高い丘の上だ。

 

 エレナがいるから楽できるわけではなく、二台以上あるからフィリップも運ばなければならない。いや、他の村人に任せればいいのだが、自分の仕事と割り振られたものを他人に丸投げ出来ない程度には真面目な気質が邪魔をしていた。

 

 程よく汗をかいて村に戻ってくると、出店──金を取られるわけではなく、自分の畑で取れたものを料理したり、或いはそのまま振舞ってくれる“お裾分け”──の準備をしていた中年の婦人がエレナに手を振る。

 

 「あぁ、お嬢ちゃん! これ、さっき言ってたジュースね! 坊やもどうぞ!」

 「ありがとう! 楽しみにしてたんだ!」

 「ぼ、いや、ありがとうございます」

 

 坊や扱いは久しぶりでちょっと戸惑ったが、否定できる要素はない。

 事実、王国では慣例的に15歳からが大人とされているし、貴族の嫡子が家督を継ぐ場合の最低年齢もそこに設定されている。13歳の自分は間違いなく「坊や」だ。

 

 ……まあ、肉体と精神の成熟が人間より緩慢な長命種とはいえ、発生からの年月で言えば「お嬢ちゃん」呼ばわりされたエレナはおばちゃんの倍ぐらいありそうだけれど。

 

 木を削った簡易なコップに入っているのは、柑橘系の何かを絞った果汁のようだ。匂いはオレンジより少し酸っぱいが、口に含むと僅かな苦みがアクセントになって甘みが引き立つ。

 「なんだろうこれ」「美味しいね」「お土産に買って帰ろうか」なんてエレナと話していると、背後から声をかけられた。

 

 「あ、あの、フィリップ! ちょっといい?」

 

 緊張で強張ったような硬い声は、この二日で耳慣れたテレーズのものだ。

 振り返ると、昨日や一昨日着ていた簡素なものとは違う、王都でも余所行き用として通用しそうな仕立ての良い服を纏った彼女が、どこか所在なさげに立っていた。

 

 「これ、どうかな……?」

 

 フリル付きの真っ白なブラウスに、目の色とよく似たライトブルーのジャンパースカート。足元は編み上げブーツがシックに飾る。

 全体的に色味を淡くすることで、テレーズの滑らかな亜麻色の髪が良く映えていた。

 

 どう、と言われても、特にどうということはない。

 おかしいところもないし、取り立てて素晴らしい服というわけでもない。そこまで考えて、フィリップはここが何処なのかを思い出した。

 

 ここは王都ではないし、彼女はテレーズだ。ルキアでもステラでもない。

 王都で余所行きとして通用するレベルの服なら、王都外、それもこんな田舎なら一張羅だろう。

 

 「え? あー……、っと、似合ってるよ。テレーズは綺麗な髪をしてるけど、その色をよく引き立ててる」

 「えっ? う、うん、ありがとう……」

 

 テレーズは一瞬何を言われたのか分からないと言うように瞠目して、それから一気に顔を真っ赤にした。

 彼女にとってその一張羅は「綺麗でフリフリの可愛い服」という認識だったし、期待していたのもそういう誉め言葉だった。

 

 「……フィリップ君、意外と褒め慣れてるね? もっと「フリフリで可愛いね」みたいなことを言うのかと思ったら、ボクの臣下みたいなこと言うからびっくりしちゃった」 

 「ははは、まあね……」

 

 丁稚時代に最低限の作法は仕込まれたが、半分はルキアやステラと付き合ううちに学んだものだ。「絶対必要になるから」とステラに教えられたこともあるし、千夜城でもディアボリカにみっちり仕込まれた。ミナにフィリップを異性として意識させるために。

 

 典雅な顔立ちの紳士曰く、ブスを褒めるときは服をメインに、美人を褒めるとき服は額縁のように。そして絶対に嘘を吐かないように。

 

 「女は舐めた嘘とお世辞に厳しいから、特に褒める時には絶対にウソ吐いちゃダメよ? すぐ分かるんだから。ちょっとアタシで練習してみましょ。顔立ちについて語るのは難しいから、おすすめは髪ね。女の命って言うくらいだし、褒められて嫌な気持ちになる女はそういないわ」

 「いいスーツを着てますね。滑らかで光沢があって、でもチープな感じは全くしない。靴のセンスもいい。全体的にスタイリッシュでクールです」

 「ぶっ飛ばすわよアナタ」

 

 なんて会話も、今思えば懐かしい。

 まあ、ルキアやステラのような「美しくて当たり前」レベルの美人は、逆に服を褒めるしかないのだけれど。勿論、ミナも同じく。

 

 「ね、フィリップ。私のこと、ちゃんと見ててね!」

 

 照れ臭そうにしながらもフィリップを真っ直ぐに見つめて言ったテレーズが、村の中心で煌々と燃え盛る篝火の方に駆けていく。

 気が付くと、老夫婦や若いカップル、子供たちが篝火とその前に置かれた祭壇を取り囲んで輪になっていた。

 

 そこに数人の農夫たちが作物の山盛りになった荷車を運んで来ると、広場に集まった村人たちが一斉に歓声を上げた。

 

 「今年は東側の果樹園が特に良かったな!」

 「いやいや、丘麓の野菜も相当なモンだよ!」

 

 アルコールを入れて赤ら顔になったおじさん二人が、木のジョッキを荷車に向けて掲げる。

 普段を知らないフィリップたちから見ても、野菜も果実も麦束も、どれも素晴らしいの一言に尽きる出来栄えだ。

 

 それらを使った料理が作られるのはまだ先、神への感謝を示す踊りが終わった後だそうだが、辺りには既に芳しい香りが漂い始めている。行商へ流すと品質に対して低い値を付けられる傷モノやミニサイズのものを皆で分け合ってしまおうと、そこかしこで料理が振舞われているのだ。

 

 今年はフィリップたちが獲ったイノシシ肉が大量にあるから、普段よりも豪勢なのだとか。

 

 エレナと一緒に片っ端から堪能していると、教会の屋根から民草の喧騒を見下ろしていたミナが飛んできた。

 勢いよくやってきた、という意味では無く、本当に文字通り空から降りてきたのだ。

 

 「フィル、きみ、最近肉ばかり食べ過ぎよ。野菜と果物も食べなさい」

 

 どこか不機嫌そうに言うミナに、エレナが目を丸くして口元を苦笑の形に緩めた。

 

 「……爺やみたい」

 「いや……うん、僕も初めはお母さんみたいって思ってたよ。僕の健康のためなのかなーって」

 「え? 違うの?」

 

 まさかそんなはずはない。

 彼女は病気という概念を持ち合わせないアンデッドだ。健康という概念もまた、王都に来てから人間やペットのことを調べるうち、文献の端に偶に出てくる程度のものだった。

 

 だから毒ではないのなら好きなものを食えばいいというのがミナのスタンスだが、絶食と偏食は許さない。血の味が落ちるからだ。

 

 そんな話をしていると、楽器のチューニングが終わり、穏やかな音楽が流れ始める。

 学院の授業で聞いた宮廷楽団の演奏とは比にならない、音の質も量も圧力も、何もかもが足りていない貧相なものだが──この場には、それこそが最も似合いの音楽だ。

 

 秋の涼やかな陽の下、精一杯盛装した村人たちが砂の地面でステップを踏む。

 なんとなくワルツの系譜を感じさせるスローテンポな曲だが、不思議と心が落ち着く曲調だ。

 

 ジュースのお代わりを貰って啜りながら、見るとはなしに村人たちの様子を見ていると、半分くらいは曲に合わせてステップを踏んでいたが、残りの半分はぼーっと曲を聞いていたり、準備運動をしていたりする。

 

 おや? と首を傾げたのも束の間、曲調が──いや、恐らくは曲そのものが変わる。ステップにターンやジャンプが多く混ざり、舞踏芸術(バレエ)の要素を感じさせた。

 

 情熱を感じさせるアップテンポな舞踏曲。

 鼻を擽る肉の焼ける香ばしい匂いに、そこかしこから聞こえる歓声と笑い声。

 

 なんとも平和なことだ。

 

 輪になって踊っていた人たちは篝火の周りを回っているようで、テレーズはちょうど祭壇に隠れて見えなかった。少し待っていれば、また見える位置に出てくるだろう。その時に手でも振ってみようか。

 

 そんなことを考えていると、祭壇の前に正装の司祭が跪く。

 山と積まれた作物と、胸の十字架、そして不細工なカエルの像に祈っているようだ。ぶつぶつと呟いているのは神への感謝か祝詞だろう。

 

 ミナに課されたノルマの野菜炒めをぺろりと平らげ、ジュースと串焼き肉のお代わりを貰いに行くと、当のミナとエレナが何事か揉めているようだった。

 

 エレナがミナに掴みかかるほど反抗しているのは、かなり珍しい光景だ。

 基本的にエレナとミナでは、というか、パーティー内ではミナの発言力が強い。フィリップもカルト絡みのこと以外では割と簡単に自分の意見を曲げるから尚更に。

 

 「何してるのさ、二人とも」

 

 近寄って声をかけると、掴み合いというわけではなく、単にエレナがミナの手を掴んで制止しただけのようだった。というか、エレナの腕力も大概だが、掴み合い取っ組み合いでミナに勝てるほどではない。エレナが吹っ飛んでいない時点で、ミナの本気度はその程度なのだと分かる。

 

 「フィリップ君、良いところに! ね、あれって何してるのか分かる!?」

 

 アレってどれ? とエレナの示す先を見遣ると、祭壇の前に跪く司祭がいる。

 

 「あの人があれを始めてから、ボクも姉さまも物凄く気分が悪いんだ。姉さまなんか、魔術を撃とうとするぐらいで……正直、ボクも殴ってでも止めたいんだけど」

 

 確かに、二人とも思いっきり顔を顰めているし、ミナなんか今にも飛び去ってしまいそう──ああいや、今まさに司祭を殺そうとしていたのだったか。ともかく、顔だけでなく行動にも出るほどに不快そうだ。

 

 ミナが不快そうな理由は、なんとなく想像がつく。

 祈りだか祝詞だかは知らないが、司祭の言葉は彼女の天敵へ送られるものだ。特に神威のようなものは感じないが、もしかしたら空気や場所が聖別され、対アンデッド的な効果を持っているのかもしれない。

 

 だが、エレナがそこまで反応する理由は謎だ。

 

 「ミナとは相容れないものだろうけど……エレナも? 一緒にミサに行ったこともあるじゃん」

 

 特に何も感じないフィリップは、柑橘ジュースを啜りながら安穏と問う。

 

 「ミサ? 違う、違うんだよフィリップ君、あの人──()()()()()()()()()()()!」

 

 言われて、フィリップは司祭を見遣り、もう一度エレナの方を見る。

 ここに来たばかり、或いは昨日の朝だったら「なんだって!?」と激しく反応していただろうが、祭りの空気と美味な食事に当てられては反応も鈍くなる。

 

 ホントかなあ、なんて、コップに半分ほど残ったジュースを飲み干しながら司祭の方に歩み寄り──。

 

 「ウガア=クトゥン=ユフ! 来たれり! 敬愛する主ツァトゥグァよ、夜の父よ! 栄光あれ、太古のものよ! 菌にまみれしムーの偉大な旧き這うものよ! 今こそ我が捧げし供物を、どうか受け取り給え! イア イア グノス=ユタッガ=ハ! イア イア ツァトゥグァ!」

 

 人間の言葉ではないどころか、ルーツを辿ればこの星の言葉でさえない邪悪言語で唱えられた邪神を称える祝詞に、フィリップはジュースを噴き出して激しく咽た。

 

 

 

 



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382

 フィリップが気道に入りかけたジュースを涙目になりながら咳込んで排出した後、真っ先にやるべきは何だったのだろう。

 

 武器はない。龍貶し(ドラゴルード)はリール家に置いたままだし、領域外魔術は通じない。パンチやキックも下策だ。邪悪言語は人間の発声器官に適していない。それをあれほど完璧に発音した司祭は、確実に人間ではないのだから。

 

 だが、詠唱は止めさせたい。フィリップが一番に考えているのはそれだった。

 もしもルキアやステラのような最優先庇護対象が居れば、その保護に動いただろう。咳き込みながら身振り手振りで「逃げろ」と示していたかもしれない。

 

 何を措いても守るべき相手ではないミナとエレナしか傍に居ない状態では、思考が攻撃寄りになってしまうのも無理はない話だ。

 

 しかし、それを為すための武器がない。

 人外相手に殴り掛かって勝てるなんて甘い幻想を抱くには、身近にいる人外が強すぎる。武器が要る。人外相手でも通用し得ると安心できるだけの、強力な武器が。

 

 「ミナ、剣を貸して!」

 「殺していいのね?」

 

 我が意を得たりとばかり、ミナは右手の内に血の大槍を作り出し、同時に左手で漆黒の長剣をフィリップに向けて放る。

 フィリップがキャッチできるギリギリの速度で飛来したそれを空中で掴み、『拍奪』を使わず全速力で司祭へと突撃する。

 

 ミナが攻撃魔術を展開しフィリップが剣を持って駆け出したことで、村人たちが驚愕の声を漏らす。

 

 だが、遅かった。何もかもが。

 

 フィリップの眼前で、祭壇が神像や捧げもの諸共に消滅する。

 何の前触れもない消失の後、そこには渦巻く闇があった。地面にぽっかりと空いた虚穴、触れたものを地底へ引きずり込むかのような渦だ。

 

 「な、なんだ!? 祭壇が消えたぞ!?」

 「穴に落っこちちまったのか!? いやそもそも、その穴は何だ!?」

 

 剣を構えて油断なく穴を警戒するフィリップの前で、司祭の姿が変わる。

 変化や変態の類ではない。霧が晴れるように、或いは蜃気楼が揺らめくように、目に映るものが変わったのだ。

 

 人間の姿がどうなったとか、手や足がどう変わったとか、そんな次元ではない。フィリップが睨みつけていたものは、彼の目の前で全く別のものに変貌していた。

 

 それはまるで、人間大に巨大化して直立したトカゲのようだった。

 錆色の鱗を全身に備え、体格に対して不釣り合いなほど小さい四肢をもつ爬虫類。

 

 それが確かな知性と智慧を持った生き物であることを、縦長の瞳と目を合わせた者は否応なく理解する。

 

 「リザードマン系の魔物……じゃあないな」

 

 高度な知性を備えている、ということは、戦闘と殺戮の本能にのみ基づいて生きる魔物ではない。

 最低でも悪魔や吸血鬼のような、明確に人間に優越するナニカ。フィリップに与えられた智慧の範疇外のようだが、感じる気配はレッサーショゴスと同等──人類領域外の存在だ。

 

 「し、司祭様が魔物に変わった!?」

 「何がどうなってるの!?」

 

 村人たちの間に恐怖と混乱が伝播していく。

 子供たちは親の方に、大人たちは子供たちの方に駆け寄り、危機意識の高い家族はさっさと家に引っ込んだ。それでも未だ半分以上が広場に残っている辺り、平和ボケしているのか、目の前の光景がそれだけ衝撃的だったのか。

 

 「……フィル、下がりなさい。私の後ろに。……その穴、物凄く嫌な気配がするわ」

 

 血の大槍を待機状態にしたミナが、有無を言わさぬ口調で命じる。

 

 直後、穴の底から真っ黒な人影が現れた。

 仕立てのよいローブ姿は、その要素だけを見れば高位の司祭にも見える。しかし滑らかな生地に隠された肉体は異常なほどに隆起し、身の丈も二メートル近い。極めつけは頭部、フードも何も被っていないその場所は、猿とも獅子ともつかない野獣の形だった。

 

 「あの印は……ツァトゥグアの司祭か」

 

 獣の司祭の頭部に刻まれた幾何学的な文様に、フィリップは忌々しそうに眉根を寄せる。

 旧支配者ツァトゥグアの印を刻まれた異形の司祭。異形へと変貌した──いや、強力な認識阻害系の魔術で外見を誤魔化していた村の司祭。そして村人たちの反応。

 

 村人たちはみんなシロか。

 

 ──アンラッキーだ。

 

 そうなると、ミナとエレナだけ逃がして、あとは邪神を呼んでカルト虐殺パーティー……という、最短最速の解が選択できない。

 ()()()()()なら殺すが、()()()()()分には守ってしまう。フィリップはその甘さを自覚していたし、捨てるつもりもない。

 

 だが、邪魔だ、とは、どうしても思ってしまう。

 

 「──此度の祭祀、我らが神は大変喜んでおられる。偉大なる神は貢物をご所望である。大いなる神は特に仔羊の肉をご所望である。幼過ぎては食い応えが無い故……そこの小娘。お前がちょうど良い塩梅だろう」

 

 妙な訛りのある邪悪言語で紡がれた言葉を理解できるのは、フィリップと司祭──いや、司祭に化けていた化け物だけだ。

 しかし言葉は分からずとも、毛むくじゃらの手で指を差されて、言葉に込められた意思はなんとなく伝わった。

 

 テレーズが選ばれたのだ、と。

 

 村人たちの反応は様々だ。

 テレーズや獣人から逃げるように後ずさる者、テレーズを庇う位置に動く大人、親に泣きつく子供。

 

 ミナは自分の知識と経験に無い謎の魔物を警戒しているが、エレナは誰よりも直情的だった。

 

 「フィリップ君、テレーズちゃんを守るよ! 皆は家に戻って隠れてて!」

 「……うん!」

 

 フィリップは魔剣『悪徳』を持ったまま、エレナは両の拳を握りしめて、テレーズを背中に庇う。

 そのままでは戦い辛いところだが、騒ぎを聞きつけてやってきたリール氏と夫人がテレーズを連れて家に避難していく。

 

 後顧の憂いは断たれた。

 フィリップとエレナは顔を見合わせて獰猛な笑顔を交わし──。

 

 「我らが神へその身を捧げる栄誉を求める心は、我ら皆が共有するところ。それ故に、横紙破りは許されぬ。──《ヨグ=ソトースのこぶし》」

 

 獣の司祭から強烈な圧力が放たれ、何の抵抗も出来ずに吹っ飛んだ。

 エレナが近くにあった倉庫に突っ込み、崩落した屋根と中にあった作物に埋もれる。ミナは民家に激突して壁に大穴を空けて見えなくなり、フィリップは出店のテーブルと民家の生垣を薙ぎ倒した後、家の壁に衝突して止まった。

 

 「……ぅ」

 

 目覚めたフィリップは甲高い耳鳴りと霞む視界に戸惑い、鈍痛と共に背中に感じる冷たい石壁の感触で、自分が一瞬だけ気絶していたことを理解した。鍋や食器類が乗った重いテーブルに激突したところまでは覚えていたのだが。

 

 そして──すっかり無人になった広場に、もう一つの異形が現れる。

 

 地底に繋がる大穴から出でたのは、巨大な腕だ。

 不自然な角度の関節を複数個備え、厚い毛皮で覆われた剛腕。指の先には邪悪な鉤爪があるが、それは戦闘や狩りに使うためではなく、不摂生によるものだろうと思われる汚らしい形だった。

 

 形容しがたい悪臭を放つその腕は、フィリップの元へ蛇のように伸びる。

 しかし、害意は感じられない。拳を握るでもなく、握り潰すでもなく、そこにあるものを掴もうとするかのような動きだ。

 

 フィリップは僅かに眼振の残る目でそれを見つめ、不快げに片眉を上げた。

 

 「ツァトゥグア……外神ザズル=コルースの末裔か。寝惚けているのか知らないけど、その臭い手で僕に触るなよ、劣等種」

 

 フィリップが吐き捨ててなお、「腕」は止まらない。かと思えば、「腕」は本当に寝惚けていたように、妙なラグを挟んでびくりと硬直した。

 そして、するするとその全体を大穴の中に戻していき、あっという間にいなくなった。

 

 「我が神……?」

 

 人語を解さないか、フィリップの言葉が聞こえなかったのかは不明だが、獣の司祭はその動きを困惑交じりに追っていた。

 

 「……彼らは私にお任せを。貴方は我らが神に捧げる別な贄を探してください」

 「……ふむ。了解した」

 

 司祭同士が邪悪言語で会話し、獣の司祭は大穴の中へ姿を消す。直後、大穴そのものも掻き消えた。

 後には祭壇と篝火の消え失せた空虚な広場と、無機質な瞳でこちらを見つめる異形の爬虫類だけが残る。

 

 「痛いなぁ……」

 

 耳鳴りと乱視が収まると、全身の色々な部分が痛み始めた。

 骨折や骨亀裂レベルの重傷はなさそうだが、生垣に突っ込んだときにあちこち切れているし、打撲箇所も多い。

 

 一発は一発なんて理屈が通じる子供の喧嘩の域はとうに出たが、報復すべき相手は帰ってしまった。

 

 だが、まあ、元より報復に論理的な整合性など求めるものではない。

 八つ当たりだろうと何だろうと、鬱憤を晴らすのが先だ。ステラならまた違うのだろうけれど、フィリップは──今のフィリップは特に、感情に忠実だった。

 

 「……で、君と、さっきの猿モドキは誰なのかな。邪悪言語が使える辺り、智慧のある生き物なんだろう?」

 

 智慧があるならば自分の問いには素直に答えるはずだと、フィリップは当然のようにそう思考する。

 

 フィリップが「魔王の寵児」だから、ではない。

 軽微な脳震盪で思考の表層が吹っ飛んだフィリップは、何の理由も根拠もなく、天地万物は自分に従うものだと思っている。

 

 考えている、というには自覚が足りない。「自分の意に何もかもが従うべきだ」とか「自分の意に沿わないものなどあってはならない」とか、そんな甘い思考はない。

 

 ()()()()()()()()なのだから、そんな思考が挟まる余地はないのだ。

 

 「ツァトゥグアのことは知ってる。あんな低劣な旧支配者でも一応は外神の末裔、ルーツを遡ればアザトースに至るからね。でもお前たちのことは知らないんだ。リザードマンではなさそうだけど」

 

 知性のない魔物と同列に語られて、爬虫類の無機質な瞳が細長く眇められる。

 不満はありそうだが、しかし、態度には「ニック司祭」であった頃と同等の敬意が込められていた。

 

 「……私は蛇人間。蛇の神イグを祖に持つ種族。そして貴方を攻撃したのはツァトゥグアに仕えるヴーアミ族です」

 

 イグという名前は知っている。遥か古代に遠い星からこの惑星に辿りついた旧支配者だ。

 智慧はそれを、殆ど脅威と見做していない。存在歴も浅く、存在格も大したことはないが、それ以上に人間に対して極めて無関心だからだ。たとえ人間と蛇人間が全面戦争を始めても、イグはどちらにも加担しないだろう。

 

 「イグの末裔? なら種族的には地球圏外の存在なのかな?」

 

 異星から来た存在──即ち、自分とは何から何まで違う異形。

 そう理解した時に去来する全ての負の感情は、フィリップには無縁のものだった。

 

 あるのは多少の興味と、親近感。

 フィリップ本来の感性ではなく、外神の価値観に基づく自己認識には、人間や地球の存在よりも彼らの方が身近だった。声も僅かに明るくなっている。

 

 しかし、蛇人間は長い首を横に振る。

 

 「いいえ。私たちは紛れもなくこの星に根付いた、歴としたこの星の民でございます。三億年前には地表を覆うほどに繫栄し、5000万年もの栄華を誇ったのです。……我々と祖を同じくする恐ろしき同胞、恐竜たちが地表を踏み荒らすまでは」

 「恐竜……? 分かんないけど、流石に同じ祖を持つ相手とは戦えなかったか。……で、それがどうしてツァトゥグア信仰に繋がるの?」

 

 フィリップの問いに、蛇人間は僅かに眉根を寄せたようだった。

 如何に外神の智慧を持ち邪悪言語をネイティブのように解するフィリップも、爬虫類の顔に浮かぶ表情を読み取るのは難しいが、なんとなく不愉快そうだ。

 

 「……ヒトが、我らを駆逐しに来たからです」

 

 ヒトという呼び方をするのに僅かな時間考え込んだ理由を察し、フィリップは朗らかな笑顔を浮かべる。

 

 「遠慮しなくていいよ。5000万年も栄えた種族なら人間の文明なんか新興もいいところだろうし、それこそ文明未開の猿ってやつだろう? ……いや、君が三億年生きてるとは限らないか」

 「私は一万年前に存在した蛇人間最後の王国の生き残りでございます。しかし長く冬眠しておりましたので、活動時間は百年程度かと」

 

 フィリップの表情も声も、朗らかに明るい。

 しかし彼の心中に友愛の情は一片も無かった。

 

 話が終われば、聞きたいことを聞き終えれば殺す。

 彼に攻撃の意思がないのであれば、ツァトゥグアやその司祭が消えた今、戦う理由は無いのだけれど──フィリップはカルト化した人間には苛烈に反応するし、身近な人の心身を損なう可能性のある神話生物は容赦なく駆除するが、人間以外が何を信仰しようと興味はないのだけれど。

 

 けれど、先の一撃による痛みの分、苛立ちの分は返させてもらう。

 

 「私が祖なるイグ神を信仰していた頃にも、人間との抗争がありました。イグ神を祀る神殿を、あの美しい建物や壮麗な美術品の数々を、あの猿共はその価値も理解しないままに破壊したのです。抵抗した私の同胞たちも、弓や槍によって斃れていきました。イグ神のお膝元で、です。私たちは何度も祈りました。何度も、何度も、子たる我らをお救い下さいと願い奉りました」

 「それでもイグは応えなかった? だからツァトゥグアに鞍替えしたのか……いや、怠惰さではどっちもいい勝負じゃない?」

 

 ツァトゥグアもただの信者が希ったくらいで戦争に手を貸したりはしないだろう。エイボンのようなとびきり気に入った信者であれば或いはといったところだ。

 

 まあ神が信者には優しいなんてのは幻想だし、異種族間戦争なんて、神の力の強弱に関係なく面倒臭いだろう。

 弱い神なら一個種族を絶滅させるなんて不可能だし、強力な神格だとむしろ一個種族だけを滅ぼすなんて繊細な作業ができない。

 

 フィリップの使うハスターだって、人間と、例えばエルフが戦争をしているからエルフを滅ぼせと言われても厳しいはずだ。この星を砕け、とかなら容易だろうが。

 

 まあ外神ならどうとでもなるだろう──なんとなく不器用なイメージのある数柱は、勢い余って銀河ごと壊してしまいそうではあるけれど。

 

 「ツァトゥグア神は少なくとも、献身と奉仕に見合った報酬を下さる。私たちは彼の神の下で力を溜め、やがては思い上がった猿共をこの星から駆逐するのです」

 

 深い憎悪を感じさせる言葉に、フィリップは「ふーん」と気のない相槌を打つ。

 隣家の今夜の献立くらいにはどうでもいい話だと。

 

 長命な、そして恐らくは個体の記憶ではなく種族の歴史を重んじる種族だけに、いつ頃の予定なのかは少し気になるが──いや、そうでもないか。

 ルキアやステラといったフィリップの大切な人たちが存命のうちに仕掛けてくるなら、どうせ殲滅する。ハスターでもクトゥグアでも、ナイアーラトテップでもシュブ=ニグラスでもヨグ=ソトースでも外神連合軍でも、なんでも使ってだ。

 

 カルトのような特別な思い入れのある相手ではないから、ナイアーラトテップ辺りに適当に丸投げすれば片付くだろう。その時にフィリップが、今と同等の気分──外神の思考を表出させた状態であればの話だが。

 

 

 

 

 



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383

 「質問がまだあと二つある。一つ目は、ここの人たちは君の同族、或いは同類のカルトなのかってこと」

 

 ミナから借りたままの漆黒の長剣をくるくると弄びながら尋ねるフィリップ。

 その声色に期待の色が滲んではいないかと気にする者は、この場にはいない。

 

 蛇人間は相変わらずの無機質な顔で首を傾げる。

 瞼も唇も鼻梁も無い爬虫類の顔だ。表情なんて読み取れるはずも無いが、どことなく怪訝そうに見えた。

 

 「……私の答えは、貴方の行動を左右しうるのですか?」

 

 自分の言葉に耳を貸す気はあるのかと問われ、フィリップはにっこりと笑う。

 

 「勿論。僕は智慧あるモノの言葉に耳を傾けることの大切さを知っている。それこそが無知を払うことだとね。僕はそうじゃないと思っていても、君がそうだというのなら調べ直すくらいはするさ」

 「光栄の至り……ですが彼らは、未だ無知なるまま。私は“失敗”したのです」

 

 どこか懺悔するような気配を漂わせた蛇人間の言葉に、フィリップの笑顔が強張った。

 

 「……訂正するよ。質問は全部で三つだ。それで二つ目だけど、君はどうしてこの村に住み着いたの? もっと快適で、もっと人の多い村や町はいくらでもあるだろう? それともこの村には、ずっとツァトゥグア信仰があったの?」

 

 蛇人間はまた長い首を揺らして頭を振る。

 なんだか、だんだん可愛く思えてきた。この個体はここで殺すが、同族がいたらちょっと珍しい魔物として愛玩動物化できるのではないだろうか。

 

 並の人間より賢いし強いし、邪悪言語で喋るから体調を崩しかねないほど不愉快だし、おまけに人類の絶滅と星の支配者に返り咲く野望を持っていると、問題は山積みだけれど。

 

 「いいえ。この村のカルティズム……信仰とも呼べぬ低次の共同譫妄は、純粋にカエルを崇めるものでした。それを先代の司祭が今ほどまでに希薄化させ、私がそこに一滴の真実を混ぜ込んだのです」

 

 ほう、とフィリップは感心の息を吐く。

 先代の司祭を殺したのか支配魔術の類で従わせて取って代わったのかは知らないが、上手いやり方だ。

 

 この村に、過去には本当にあったらしいカエル信仰のカルト。それを希薄化させた先代の司祭は、きっと一神教に帰依させようとしたのだろうけれど……文化を完璧には拭いきれなかった。

 そして残ったカエルの神像を祀る収穫祭と云うイベントを、ツァトゥグアへの祝詞によって汚染し──いや、もしかしたら祭壇や楽器にも細工がしてあるのかもしれないが、とにかくツァトゥグアへの交信儀式に仕立て上げた。

 

 「そして今回の降臨を以て、村人たちの蒙を啓くつもりだった?」

 

 蛇人間は長い首で頷いた。

 

 「降臨……いえ、正確には交信儀式ですが……ともかく、あれは何度も試しましたが、成功したのは今日が初めてです。……ツァトゥグア神のお目覚めになられているタイミングと一致しなければ、そもそも不発に終わる儀式ですから」

 「そりゃそうだ。……それじゃ最後の質問だけど──」

 

 核心に触れる。

 眼前の蛇人間はどうあれ殺すが、どう殺すかを決定づける問いを投げようとしたフィリップだったが、その寸前で、落ち着いたを通り越してダウナーな声が背に触れた。

 

 「──フィル」

 

 振り返るまでも無く、飼い主の声であることは分かる。

 しかしその声に、いつもの天地万物が面倒臭いと言いたげな気配だけではなく僅かな怒りまでもが感じ取れて、フィリップは思わず口を噤んだ。

 

 振り返ると、ミナと一緒にエレナもこちらに向かってくるところだった。どうやら先に二人で合流していたらしい。

 

 エレナは所々に生垣の葉っぱや小枝なんかを付けたフィリップを頭の先から爪先まで眺めまわして、深刻そうに唸る。

 

 「不味いなあ、結構キツめの脳震盪か、それより深い損傷があるかも。姉さま、お願いできる?」

 「言われるまでも無いわ。……フィル、こっちにいらっしゃい」

 

 有無を言わさず、ミナの双眸が血よりも赤く輝く。

 “契約の魔眼”──支配魔術にも匹敵する他者操作能力が発動し、フィリップの身体は不随意に歩いてミナの腕の中に収まった。

 

 「脳震盪?」とエレナに胡乱な目を向けるフィリップだったが、間違いなく脳震盪にはなっていたし、まだ思考の回転速度が遅い。

 

 大抵の者が不愉快な音の羅列としか認識できない邪悪言語話者と普通に会話している時点で、疑われるのは正気の喪失か、意識の混濁だ。前者を疑われていないだけマシだろう。

 

 「……深い傷はなさそうだね」

 「軽いもの、柔らかいものに何度かぶつかって衝撃が和らいだんでしょうね。真っ先に石壁にぶつかってたら、背骨ぐらい簡単に砕けていたわよ」

 

 言って、ミナは抱きしめたフィリップの頭頂部に唇を落とす。

 赤い──血に濡れた唇を。

 

 「だよねー。ボクも受け身を取ろうと思ったら左肩が脱臼してさー。まだちょっと痛いや」

 

 吸血鬼の血の生命力によって傷の癒えたフィリップは、また胡乱な目でエレナを見つめる。

 仰る通り、机と生垣がクッションになってなお脳震盪を起こすレベルの衝撃だったし、ミナなんか石の壁をブチ抜いていたのだから、エルフの強靭な身体でも脱臼するのは分かる。

 

 だが脱臼した直後は「ちょっと痛いや」なんて笑っていられるレベルではなく痛い。というか全然ちょっとではない。

 

 「それで……さっきの猿獅子頭は、もう殺したの?」

 「いや、逃げちゃった。そっちの蛇頭をこれから殺すところだよ」

 

 ヴーアミ族、と言ったか。

 三人を吹き飛ばしたツァトゥグアの司祭にミナは珍しく明らかな殺意を抱いているようだったが、追いかけて殺すほどではないようで、逃げた方向を聞いたりはせず「そう」と残念そうに肩を竦める。

 

 良かった。

 「どっちに逃げたの?」とか聞かれたら「下……?」としか答えられないし、どうせ追いかけようもないのだけれど。

 

 「そう。なら……久しぶりに競争しましょうか。ハンデはいる?」

 「剣はこのまま貸して。あと、全速全力は出さないでほしいかな。競争の余地は残してほしい」

 

 どちらが先に首を落とせるか。

 ターゲットは蛇人間、勝利賞品も蛇人間だ。正確には、胸中の苛立ちを発散する権利と生きた巻き藁だが。

 

 「テレーズちゃんを攫おうとしてたヤツも、協力してたあなたも、許さないよ! 投降するなら今が──」

 

 エレナの言葉に耳を貸さず、蛇人間の短い手が動く。

 一瞬だけ錆色の鱗に包まれた空の手指を向けているのかと思ったが、違う。掌中にはL字型の棒のようなものが握られていた。

 

 木製の握把、黒い金属製らしき筒、後部には一見して単純そうな機械仕掛けがあり、先端の黒々とした穴がじっとこちらを見つめている。

 

 ──それは、未だ人類が発明していない武器。

 魔術の発達した現代においてその道具が生まれるだけの需要は無く、魔術が存在しなかったとしても数百年後に漸く至る発展形。人類とは違う時代を生き、人類とは違う文明を築き、人類以上の大繁栄を誇った蛇人間の武器。

 

 ナイアーラトテップ辺りが見れば、それを称してこう言うだろう。

 

 ──燧発式拳銃(フリントロック)

 

 「っ!?」

 

 乾いた炸裂音がしたのとほぼ同時に、フィリップの眼前にはミナの真っ白な手があった。

 フィリップが握り込まれた拳の甲を視認した後に、漸く腕が動いて生じた風が髪を揺らす。そんな速度で動いたミナは、驚愕と期待が綯い交ぜになった目で蛇人間の持つ拳銃を見つめていた。

 

 「──火薬か何かで鉄の礫を飛ばしたようね」

 

 ミナが握り込んでいた拳を開くと、掌中には確かにぐにゃりと曲がった金属塊があった。

 撃った衝撃で曲がったのか、握って曲げたのか──きっと後者だ。撃った衝撃で曲がったのなら、狙った位置に飛ぶはずがない。

 

 「攻城兵器の大砲と理屈は同じでしょうけど……サイズを小さくして個人に携行させる。面白い発想ね」

 

 ミナは悲惨な形になった弾丸を弄びながら、蛇人間が未だこちらに照準し続けている武器を興味深そうに示した。

 

 「……そうなの?」

 

 しかし、フィリップはミナと興奮を共有できなかった。

 

 大砲が、そもそも前時代的な武器だと学院で習った。ステラにも。

 

 弱くはない……歩兵相手なら。ただ、大抵の軍事的重要建造物が錬金術製の堅固な建材を取り入れているし、そもそも本体も砲弾も弾薬も重い大砲をえっちらおっちら運ぶくらいなら、火力に長けた戦闘魔術師一人を運んだ方が楽だし、早いし、隠密性にも優れている。その上汎用性も高い。

 

 魔術師一人のやることを非魔術師数人で再現できる、という点でステラは多少の評価をしていたけれど、如何せん格差が大きすぎる。

 地形そのものを変える聖痕者のような例外は抜きにしても、大砲一発分の攻撃魔術なんて、正規の戦闘魔術師にとっては切り札にもならない。宮廷魔術師クラスならジャブ代わりに撃てる者もいるそうだ。

 

 大陸を二分する大国たる王国と帝国が領土を争っていた時代も、今も、大砲が役に立った戦闘は殆どない。

 魔術で砲撃を防がれるわ、砲撃音や煙で位置が割れて魔術爆撃が降り注ぐわ、鹵獲されたら敵方に金属資源が奪われるわ、散々だ。

 

 「私が契約の魔眼や魅了の魔術で王都の一般人を全員支配下に置いて衛士団に襲い掛からせても、きっと止められるわよね? けれど、その全員がアレで武装して不意を衝けば──衛士団でも殺し切れると思わない?」

 「どうだろう。でもそんなまだるっこしいことしなくたって、ミナが魔術をぶっ放せば終わりでしょ?」

 

 フィリップの問いに、ミナは「まあね」と肩を竦める。

 しかしミナにとって、人間を殺せるなんてことは当たり前なのだ。

 

 そして大抵の知性ある生き物にとって、「当たり前」になったことは、次は「どれだけ楽にできるか」という思考に繋がる。

 

 「そりゃあ同じ結果を出すことは私一人でも出来るけれど、私が動くのと同じ結果を、そこいらに生えている人間が持ってくるのよ? それなら、そっちの方が楽でいいじゃない?」

 「小が大を兼ねるようになる道具、ってことか。そう聞くと物凄く便利に思えるね」

 

 今一つ銃の強力さ──特に、人類にはほぼ知られていない隠密性の高い飛び道具という人間にとっての脅威には、フィリップもミナも思い至らない。

 

 しかし一軍の長、一個陣営の長であったミナには、それが「技」ではなく「道具」であるという点が素晴らしく輝いて見えた。

 

 「でも……要らないわね。見る限り連射も利かなそうだし、五月蠅いし、威力も低い。よく考えたら兵隊を揃えるのがまず面倒だし」

 「ははは……ん? 待って? 衛士団を殺し尽くそうとか考えてるの?」

 「物の喩えよ」

 

 言って、ミナは蛇人間に向かって血の大槍を投射した。

 城壁にさえ突き刺さる、それこそ大砲じみた一撃を。

 

 空気を裂いて飛翔する深紅の槍は一秒と経たずに彼我の間を駆け抜け、そして──紫電が迸り、あらぬ方向へと逸れた。

 

 「……障壁?」

 「……違うわね。あいつは魔術を使っていなかった」

 

 エレナとミナの会話に耳を傾けつつ、フィリップは鼻を突くようなオゾンの臭いに顔を顰めた。

 

 

 

 

 



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384

 電磁パルス装甲。

 

 蛇人間が全くの無挙動でミナの攻撃を弾いたトリックはそれだ。或いはツールと言い換えてもいい。

 ネックレスの先に飾られた結晶。装身具に見せかけたそれが、強力な磁場を作り出す装置なのだった。

 

 右手のフリントロックとは違い、こちらは彼が作ったものではなく三億年前の蛇人間第一王朝時代に作られたもの。そして現代の人類文明では製造不可能なもの。所謂、オーパーツだ。

 

 「……ねえフィリップ君、あれなに?」

 「僕に聞かれても困るよ。あいつとはさっき知り合ったばかりなんだから」

 

 そもそも今の現象は、フィリップの目には魔力障壁とほぼ同じに見えた。

 ミナが違うと言ったから別物だと分かっただけで、その正体すら全く分かっていない。

 

 しかし──ふと思い出したことがある。

 

 「……ところで、見たことのない技や武器を前に考えるべきは正体や原理じゃなく、倒せるかどうからしいよ?」

 

 言うと、エレナは胡乱な目でフィリップを一瞥した。

 何言ってんだコイツと顔と視線に書いてあるが、言い出しっぺはフィリップではない。精強無比なる衛士団の中でも伝説的戦士として語られる、先代衛士団長の御言葉だ。

 

 或いは、空を飛ぶドラゴンに上裸で突っ込んでいく変態の言葉ともいえる。

 

 「え、なにその脳味噌まで筋肉で出来てそうな思考……。敵の正体も技の原理も分かってなきゃ突破法も考えられなくない?」

 「うん、僕もそう思う。これを教えてくれた人は「そんなの見ればわかる」って言ってたけど、どう?」

 

 ボソボソと会話する二人の隣で、ミナが立て続けに三発の大槍を撃ち出す。

 その全てが、軽いスパークと共に逸れてあらぬ方向へと飛んでいった。

 

 「……試してみないと分かんない。直接攻撃なら効くかも?」

 「だよね──っと!」

 

 また乾いた炸裂音が空気を震わせ、ミナの左手が飛来した鉄礫を捕らえる。その位置はやはり、フィリップの眼前だ。

 

 「気を付けなさい。頭蓋骨くらい砕ける威力よ」

 「でも直線攻撃だね。それに狙ってる」

 

 だったら、『拍奪』を使えば当たらない……はずだ。流石にあの外見で、二つの目と脳で物を見ていないなんてことはないだろうし。

 

 「クロスボウと同じで、引き金を引くタイミングで直線上にいなければいいよね? じゃあボクでも避けられる」

 

 そしてミナは見切るどころかキャッチできる。

 相手の攻撃面に関しては、少なくともあの道具(フリントロック)によるものだけは対処可能だ。

 

 防御面、謎のバリアらしきものと、身体を覆う鱗は既知。どちらも剣で直接斬りつければ、もしかしたら徹せるかもしれない。

 

 問題は攻守共に、まだ何か隠し玉を持っている可能性があることだが──そんなことを気にしていては、何とも戦えない。

 

 「行くよ、フィリップ君、姉さま!」

 

 拳を握りしめた──三人の、いやこの場の誰よりも武装の薄いエレナの号令が、そのまま開戦の号砲となった。

 

 「えぇ──」

 

 静かな応答と共に、血溜まりを歩くためのヒールが一歩目を踏み出し──ミナの身体が掻き消える。瞬きの後、彼女の身体は蛇人間の背後にあった。

 

 白銀の断頭剣が目視不可能な速度で振るわれ、電磁パルスに触れた瞬間、やはりスパークを散らして弾かれる。

 一度剣を弾かれた後、ミナはもう一度剣を押し込もうとしたが、押し切れない。

 

 ばちばちばち! と凄まじい火花と紫電が爆ぜ、ミナの一撃が力場のような何かと拮抗する。

 

 「姉さま、そのままね! はッ!!」

 

 エレナの拳が風を切り、ミナとちょうど反対側へ強烈な一撃を加え──弾かれたように、というか実際に弾かれて飛び退いた。

 

 「あっつ!? 姉さま、なんか武器作れない!?」

 

 尋常ではない拳速故か、ミナの攻撃を防ぐのにエネルギーを回していたのか、或いは意外と攻撃性能は持っていない防御特化の障壁なのか、エレナは拳をフーフー吹く程度で済んでいる。手首から先が消し炭になっていたりはしない。

 

 だがあのスパークも単なるこけおどしや演出ではないだろうと、フィリップにも見ればわかる。電流か何かで攻撃を防いでいるのだろうと。

 

 「ありがと! ……わお、すっごくボク向きの武器。てっきり槍とか長剣かと思ったよ」

 

 ミナが血で編んだのは、細くしなやかなスウェプトヒルト・レイピアと、短めだがその分強靭そうなマインゴーシュの二本。掌中で弄んで重心を確かめつつ、エレナが意外そうに呟く。

 

 フィリップに言わせれば、それはミナを舐めすぎだ。

 ミナは単に武器として剣を使っているのではなく、確固たる理合と経験に基づいた剣術を使っている。フィリップにそうしているように、他人に教導することも可能なレベルで技を備え、体格、運動性能、性格、戦闘スタイルなんかを考えて最も適した武器を導き出す、なんて芸当も可能だ。

 

 「はぁッ!!」

 

 ミナが一度退いて体勢を整える隙に、エレナがレイピアとマインゴーシュによる連撃を叩き込む。

 今度は悲鳴と共に飛び退くようなことはなく、スパークの爆ぜる音は十を超えて重なった。

 

 蛇人間を挟んで反対側に回り込んだフィリップも、先のエレナを真似て同時攻撃を試みる。

 

 「っと、そうだった、これは伸びないんだった──ッ!!」

 

 手癖で柄の上部、龍貶しなら蛇腹の各関節のロックを外す留め具がある位置を何度か擦ったあと、やや慌てながら漆黒の魔剣を振り抜く。

 龍貶しと同等、鉄の剣でさえ斬り飛ばす鋭利さを誇る魔剣の刃も、やはり斥力のようなものに押し退けられて蛇人間の鱗にさえ届かなかった。

 

 「駄目ね。流石に『悪徳』も刃が触れないと悪性値は溜まらないし……『美徳』も無反応。いま全力を解放させても、あいつにとってはただの光る柱でしかないわ」

 「……え? あれ邪悪属性じゃないの? 嘘でしょ?」

 

 フィリップが「全力はナシ」とか言ったから魔剣の力を使わないのだとばかり思っていたが、まさかの事実だ。あんな見てくれで邪悪ではないらしい。

 ……いや、単純に熾天使の断罪権を上回るだけの防護を、ツァトゥグアから貰っているとかかもしれないけれど。

 

 「……ミナ、全力を出せば殺せる?」

 「電気的な何かで障壁を張ってるなら、足元には展開できないはずよね?」

 

 電流は地面に触れた瞬間、そちらに流れていくはず。だから障壁も地面より上にしかない……そういう読みか。

 だとしたら、ミナがよく使う、足元から血の槍を生やして磔刑に処す魔術攻撃なら障壁のない部分を徹せるはずだ。

 

 「……ちょっと試してみようよ」

 

 フィリップの言葉に頷き、ミナが嫋やかな指を上向きにフリックする。

 直後、赤い彼岸花が咲き──蛇人間が驚愕の呻きを漏らしながら、高々と宙を舞った。

 

 だが、血飛沫は上がらない。見る限り、無傷だ。

 

 爬虫類の無機質な目が上空からフィリップたちを睥睨し、甘い考えを嘲笑うかのように細められた。

 

 「足元まであったみたいだね。やっぱり魔術なんじゃない? 魔力もばちばちってするでしょ?」

 「魔術ならミナに見えないわけがないよ。……オーパーツの一種じゃない?」

 「あぁ、ダンジョンから出土するっていう……。あんな強力なのもあるんだ?」

 

 現行文明では製造不可能な物品(オーパーツ)であることは間違いない。おそらく人類文明のものでさえないのだろうけれど。

 

 「あれは何か」「どういうものか」という疑問に逆戻りしてしまったことを自覚しないまま、ひそひそと言葉を交わすフィリップとエレナ。

 その隣で、ミナだけが攻撃を継続し、「ブチ抜けるかどうか」を試行していた。

 

 ミナがくるりと円を描くように左手を回すと、空気が渦を巻きながら赤い色に染まっていく。

 渦は深く、赤は鮮やかに、徐々にその存在感を増していき、やがて熱を帯び始めた。

 

 それを見たエレナがしかつめらしく頷く。

 

 「確かに、属性魔術なら通るかもね。攻撃そのものは止められても、熱が通るならそのまま焼き殺せばいいんだ」

 

 蛇──変温動物相手なら冷気攻撃の方が効果が大きそうだけれど、外見が意外と当てにならないのはさっき知った。あの見てくれで邪悪属性ではないというのだから、もしかしたら恒温動物かもしれない。

 そう考えると、どちらでも関係ない熱攻撃は正解だ。

 

 そして──空高く打ち上がった蛇人間は、撃ち出された炎の渦に向けて手を突き出す。

 直後、ミナの魔術はあの障壁に触れるより早く、見えない壁に激突したような挙動で爆ぜ散った。

 

 「おっと、防いだね?」

 「つまりあの障壁には相性が悪いか、或いは限界値まで余裕がないかだ」

 

 魔術ではない以上、「無敵になる魔術はない」という現代魔術のセオリーに従うとは限らない。

 非人類文明の道具には、無敵の障壁を展開する代物があるのかもしれない。

 

 だが、そんなものがあるのなら、蛇人間は恐竜とやらとの生存競争に負けていないだろう。いやその“恐竜”が、全ての攻撃や挙動に次元断特性を持っているとかなら話は別だけれど。

 

 「そう思わせてるだけの可能性もあるよ、気を付けて!」

 「分かってる!」

 

 フィリップとミナは蛇人間の落下位置を挟み込むように陣取り、魔剣『悪徳』と血で編まれた二刀をそれぞれ構える。

 あからさまな着地狩りだが、空中で姿勢を変える術を持たない蛇人間は、その只中に降りる──落ちるしかない。

 

 べちゃりと潰れるように着地した蛇人間に、左右からフィリップとエレナが襲い掛かる。

 鉄さえ切り裂く魔剣『悪徳』の一閃と、エルフの身体能力で繰り出される連撃を前に、蛇人間は両腕を広げて二人を指差し──否、両手の燧発式拳銃(フリントロック)を照準した。

 

 しかし。

 

 「当たんないよ!」

 

 エレナの宣言通り、撃ち出された鉄球はフィリップとエレナを素通りしてどこかに飛んでいった。

 

 『拍奪』を使っているフィリップを、蛇人間はそもそも狙えていない。

 そして、エレナは持ち前の運動神経と動体視力によって銃口の向きから射線を見切り、引き金が引かれる瞬間に身を躱していた。

 

 返す刀でもう一撃、エレナが追加で五発ほど叩き込むと、遂に障壁の手応えが薄れて消える。

 魔力障壁を砕いたような手応えこそなかったものの、爬虫類ののっぺりとした顔に、フィリップでも分かるほどの焦燥が浮かんだのが見て取れた。

 

 「今だ!」

 

 言われるまでも無い。

 漆黒の魔剣が閃き、光も音も抵抗も無く、錆色の鱗を切り裂く。直後、血の双剣が人体であれば急所があるはずの位置を正確に貫いた。

 

 フィリップとエレナの斬撃をもろに受けた蛇人間は苦痛に満ちた断末魔と共に鮮血を噴き出し、どうと地面に倒れ伏した。

 

 「……死んだかな?」

 「死んでたら困るよ。まだ聞きたいことが残ってる」

 

 うつ伏せに倒れた蛇人間の身体を蹴って仰向けにし、鮮やかな血を垂れ流す大きな傷を確認する。

 どくどくと鼓動に合わせるように血が流れだし、浅い呼吸で胸が上下している──まだ生きている。虫の息だが。

 

 フィリップの暴挙に、エレナはむっと眉根を寄せる。

 

 倒れた蛇人間の傍に落ちていた謎の武器(フリントロック)を拾って適当に放ってはみたものの、苦戦のタネだった障壁を展開していた方法が謎だったので、武装解除は完了していないかもしれない。

 

 迂闊に近づくべきではないとか、瀕死の相手に暴行を重ねるくらいなら楽にしてやるべきだとか、そんな言葉も浮かんだが、もっと気にすべきことがある。

 

 「あいつの声、言葉じゃないよ。人語でもエルフ語でもないどころか、聞いてるだけで気分が悪くなる。あなたはさっき言葉のように聞こえたのかもしれないけど、それは頭を打って幻聴を聞いてたようなものだからね?」

 「でもこっちの言葉は理解できてる。聞きたいことを聞いたら止めを刺すから、エレナはちょっと離れてて」

 

 言うと、エレナは渋々ながら離れる。

 意外──でもない。邪悪言語は大抵の智慧なき存在には毒だし、聞かなくて済むなら願ったりといったところか。

 

 ミナと一緒に離れていく二人を見送って、フィリップは震える目で見上げてくる蛇人間に向き直った。

 

 「さて……最後の質問だ」

 

 



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385

 横一線の刀傷に、重要臓器のあるだろう複数個所の刺傷。

 流れ出る血はとめどなく、土を赤黒く染めていく。その流量さえ徐々に減っているところを見るに、保ってあと五分くらいか。

 

 浅く細い呼吸を繰り返す蛇人間を見下ろして、フィリップは淡々と問いを投げる。

 

 「『啓蒙宣教師会』を知ってる? 知らないなら質問はここで終わりにして、慈悲の一撃をあげよう。君がその一員だっていうなら、惨く殺す……と言いたいところだけど、その身体じゃ苦悶の声も出せないか」

 

 どうせ『深淵の息』はレジストされるだろうし、手足の先から切り刻むとか、原始的な拷問に頼ることになるけれど──どう見ても勝手に死ぬ身体だ。死に体だ。

 

 苦しみから逃れたい一心でどんな嘘でも吐くだろう有様だが、フィリップを欺くことはないだろう。

 『宣教師会』と無関係なら、真実をそのまま述べれば慈悲の一撃が得られる。だが関係者なら、『魔王の寵児』を前に嘘を吐くことはしない。

 

 本当のところはどうか知らないが、フィリップは少なくとも前回の邂逅を経て、彼らをそういう集団だと理解していた。

 ことを為す前であれば、或いはフィリップを欺き騙して“作品”を作り上げるかもしれないけれど、失敗した後でなら、潔く首を垂れる手合いだと。

 

 果たして、蛇人間は爬虫類の顔で薄く笑みを浮かべた。

 

 「私はその末席……拝謁すら許されなかった末端でございます」

 

 あの場にはいなかった構成員。

 言葉通り、組織の末端なのだろう。

 

 末端でさえ人類領域外の存在であることを重く受け止めるなら、中枢には神格がいてもおかしくないのが怖いところだ。

 一番怖いのは、ほぼ確実にナイアーラトテップが無関係なこと。カルトを利用したり扇動したりする可能性はあるが、内側に入り込んだり、自ら意図して作り出すはずがない。

 

 それはフィリップの逆鱗に触れる。

 

 「そうか。……残念だよ。もう少し苦しめて殺したかった」

 「私も……もっと、貴方様と……話が……」

 

 本当に心の底から残念そうに言って、巨大な爬虫類は事切れた。

 「蛇人間にもう一度繁栄を……!」みたいなことを言って死んでくれたら、次に出会った同族を凄惨に殺せば鬱憤も晴れそうなものを。

 

 フィリップはつまらないとでも言いたげな軽い嘆息を最後に、完全に興味を失った。

 そしてエレナとミナの方を振り返り──二人とも、そこには居なかった。

 

 「……あれ?」

 

 きょろきょろと辺りを見回すと、戦闘の収束を察知した村人たちがちらほらと顔を見せ始めていた。

 

 「あ、あのー……もう大丈夫なんでしょうか……?」

 

 おっかなびっくり声をかけてくるのは村長だ。

 彼の目に浮かぶ怯えの宛先は血溜まりの中に立つフィリップか、或いは血溜まりそのものか。

 

 「あ、はい。もう大丈夫ですよ。……あの、僕の連れ二人、見ませんでしたか?」

 「あぁ、さっきリールんちの方で見たぞ。……こいつ、なんなんだ?」

 

 やはり村の中で一番慣れているのだろう狩人が、フィリップの少し後ろからおっかなびっくり死骸を覗き込む。

 大人の人間よりさらに一回りくらい大きい爬虫類なんて見たこともないだろうが、もう死んでいることを抜きにしても、熊の方が大きいし怖い。

 

 「……物凄く珍しい魔物ですよ。死体は消滅しないので、適当に埋めておいてください」

 

 快諾……ではなかったものの、蒼白な顔で「任せてくれ」と頷いた狩人に処理を任せてリール家に戻る。

 

 玄関を開けると、家の中には妙な空気が漂っていた。

 エレナはリール家の人たちとベッドサイドに集まって何事か話しているようだが、明らかに意気消沈している。部屋の空気は重く淀んで濁っており、妙、というか、異様と言ってもいい。

 

 祭りが終わったら村を出て王都に戻る予定だったから荷造りは終えていたはずだが、エレナの荷物が解かれて荒れている。

 

 ミナだけがいつもどおり退屈そうに、フィリップのリュックを椅子代わりに腰掛けて欠伸など漏らしていた。

 

 「……なにこの空気?」

 「あの人間が死んだそうよ」

 

 へぇ、と適当な相槌を打ちかけたフィリップだったが、流石に聞き捨てならなかった。

 

 「へぇ……え? 死んだ?」

 

 死んだと聞いて、フィリップはミナの言う「あの人間」がリール氏だと思った。

 毒蛇に咬まれ、誤った民間療法で傷口を抉り焼かれて、エルフの薬を以てしても治療の甲斐なく死ぬ可能性が残る状態だったのだから。それに、今日までこの村に残っていた理由は、収穫祭ばかりではない。

 

 治療したリール氏の予後観察、合併症や拒否反応が出ないかを見るために二日間の滞在を決めたのだ。

 だから彼が死んだというのなら、驚きはあるが納得は出来る。

 

 しかし、リール氏はエレナの傍に立っていた。

 今一つ状況が呑み込めず、エレナの脇からベッドの中を覗き込む。

 

 横たえられた人物と視線が合うことはない。

 閉じられた瞼を見る前に、真っ先に目に付いたのは、一部が血で汚れた亜麻色の髪だった。

 

 「……テレーズ……!?」

 

 目を瞠る。

 二晩を同じ屋根の下で過ごしたとはいえ、寝顔を見たこともない少女が、まだ血色の残る穏やかな顔で眠っている。

 

 タオルケットをかけられた薄い胸は、目を見開いたフィリップの前で一度も上下しなかった。

 

 「……な、なんで?」

 

 あまりにも脈絡のない展開に、流石のフィリップも大いに混乱する。

 だって、テレーズのことは守ったはずだ。ヴーアミ族の司祭が現れた後、背に庇い、駆け付けた両親に預け、他の村人たちと一緒にそれぞれの家に隠れさせた。

 

 『ヨグ=ソトースのこぶし』を喰らったのも、ツァトゥグアが手を伸ばしてきたのも、戦闘になったのも、全部その後の事だ。

 

 フィリップが問いかけた先はエレナだったが、歯を食いしばり、俯いてただ涙を流す彼女は答えられる状況ではなかった。

 しかもフィリップの問いが堰を切ったように、リール氏も夫人もベッドに顔を伏せて本格的に泣き出してしまった。

 

 眉尻を下げたフィリップの視線を受けたミナは肩を竦めて「知らないわよ」と言外に示す。まあ、そうだろう。人間が一匹死んだからといって、ミナが興味を持つとは思えない。

 

 フィリップが深々と嘆息すると、リール氏が啜り泣きながら顔を上げた。

 

 「わ、私、私のせいなんです……」

 

 続けて、と視線で促すと、リール氏は時折しゃくりあげながらも訥々と語り出した。

 

 エレナに言われて家に戻る途中、リール氏はずっとテレーズの手を握っていたそうだ。その行為自体に意味はなく、テレーズを守らなければとだけ考えて。

 しかし村人たちが一斉に家に戻ろうとすれば、それなりに人波の交差が生まれる。そこかしこで誰かと誰かがぶつかって、死ぬほど急いでいる者同士、お互いの安否を確認する余裕もなく足早にその場を去っていく。

 

 普段から農作業に従事している屈強な──女性や老人でもそれなりに体力のある人間が多い村だけあって、ぶつかるくらいどうってことない。

 

 ただ、リール氏だけは例外だった。

 彼の片足は万全には程遠い状態だ。治療を施したとはいえ、ふくらはぎが抉れ、焼かれている。鎮痛剤は機能しているようだが、まだ引き攣る感覚があり力も入らないと彼自身が言っていた。

 

 村人がテレーズとぶつかりそうになり、リール氏は咄嗟にテレーズを庇ったそうだ。

 いつもならどんっとぶつかって、それだけで済む。だが足に力が入らず、転倒した──テレーズを巻き込んで。

 

 抱きしめて庇ったつもりだったが、甘かったとリール氏は語る。

 起き上がった時にはテレーズは意識を失っていて、抱き上げて家に帰ってきた時にはもう息をしていなかったらしい。

 

 エレナは蘇生措置をしなかった。

 傷口を見た瞬間、その優れた知識故に、即座に理解できたのだ。“無理だ”と。

 

 フィリップは事の顛末を聞き終えて静かに頷くと、穏やかに口角を緩めた。

 

 「頭打って死んだんだ。そっか……狂死じゃなくて良かった」

 

 呟いた直後、フィリップは胸が締め付けられるような感覚に襲われた。

 ……心情的な話ではなく、物理的に。

 

 ミナが背後からフィリップを抱き上げ、素早くその場から──豪、と風を切ったエレナの拳線上から退かしたのだ。

 

 「あっぶな!? なに!?」

 「じゃれ合うのは結構だけれど、力加減には気を払いなさい」

 

 直撃したらそれこそ頭蓋骨が砕けるような一撃を見て、フィリップとミナが非難の声を上げる。

 内臓がブチ抜かれたくらいならミナの血で治せるが、頭部が吹っ飛んだら流石にその限りではない。

 

 「良かった!? テレーズちゃんがっ……こんなことになってるのに、良かったって言ったの!?」

 

 石造りの部屋に木霊するほどの怒声に、ミナが煩そうに眉根を寄せる。

 エレナもまさか“死んで良かった”と取ったわけではない。しかしテレーズが死んでいる──最悪の状況で、“良い”ことなど何一つない。

 

 たとえ慰めでも、“良かった”なんて言うべきではない。ましてや笑みを浮かべるなど、あってはならない。

 エレナはそう思っていた。

 

 しかし、フィリップはエレナが何を怒っているのか分からないと言いたげに怪訝そうな顔をして、口角を上げる。

 

 「普通の死に方で良かったでしょ。平穏な、幸せな死だよ」

 「あなたね──!」

 

 あの湖を訪れる前なら、或いは羨望の情すら滲ませていただろうフィリップの言葉に、エレナは益々激昂する。

 

 怒りに任せてフィリップの胸倉へ伸ばした手は、しかし、ミナにぺちりと払い退けられた。

 

 「何をそんなに興奮しているの? もう少し淑やかになさい」

 「姉さまは黙っててよ! 人間が一人死んだくらいどうでもいいんでしょ!?」

 

 当たり前じゃない、と言いたげな──いや、何を当たり前のことを言っているのかと言いたげな、呆れと軽蔑の綯い交ぜになった目で見降ろされ、エレナが怯む。

 

 現状、ミナの機嫌は相当に悪い。

 自分を吹き飛ばしたヴーアミ族に報復し損ね、その仲間だという蛇人間はフィリップとエレナが殺し、ただでさえストレスが溜まっていた。そんなタイミングで、エレナが()()()()()()()ペットに殴り掛かったのだ。

 

 殴られていないだけ有情といえる。

 

 「はぁ……」

 

 深々と嘆息したミナの双眸が血よりも赤く輝き、エレナが硬直する。

 手足だけではない。心筋、呼吸、流れ落ちる汗や涙さえもが完全に凍り付く完璧な行動阻害──拘束の魔眼だ。

 

 「フィル、この子の荷物も纏めなさい。私が持つから」

 「え、あ、うん……」

 

 まだ泣いているリール家の人々を横目に、エレナが散らかしたらしい──何か手は無いかと、分かり切ったゼロパーセントを探していたらしい──薬品バッグをもう一度パッキングする。

 支度を終えると、ミナはエレナの鞄を左手に、エレナ本体を右手で抱えて立ち上がった。

 

 「それじゃ、お世話になりました!」

 

 フィリップはぺこりと頭を下げ、リール家を出ようとする。

 その背に、涙で濡れた声が追い縋った。

 

 「カーター君! 最後に、お別れを言ってあげてくれないか……?」

 「ミナさんも、お願いします……」

 

 リール氏と夫人、二人の懇願を、ミナは完全に無視して──いや、耳に入ってはいるが、ただの雑音か意味のない鳴き声のように聞き流して、さっさと玄関を潜ってしまった。

 

 フィリップはその背に苦笑を向けつつ、テレーズの眠るベッドに向けて軽く手を振った。一日遊んだ友人に夕暮れ時にするように──死者に対する別れの挨拶には程遠い、適当な所作で。

 

 「……じゃあね、テレーズ。また会えるように祈ってて」

 

 

 



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386

 「なんでお別れも言わせてくれなかったの!?」

 

 宿についてから漸く“拘束の魔眼”を解かれたエレナは、状況を理解するや否やそう食って掛かった。

 

 しかしフィリップもミナも、エルフの怒気で怯むほど可愛い性格はしていない。

 三人部屋のベッドの上で顔を見合わせ、肩を竦めて淡々と返す。

 

 「だって暴れて危なかったし」

 「そうね。フィルのことも殴ろうとしてたし」

 

 あれは危なかったね、なんてヘラヘラと笑うフィリップだが、あれは直撃していたら顎の骨くらい折れていたかもしれない威力を孕んでいた。

 

 そしてミナにとって、そのレベルの攻撃は許容範囲外だ。

 そのレベルでペットを傷つけるのなら阻止するし、報復もする。

 

 「次に感情に任せて私のペットを殴ろうとしたら、腕を斬り落とすわよ」

 

 血よりも赤い、しかし冷たい瞳がエレナを見下ろす。

 彼女にとってエレナは()()()親族だ。それは勿論ミナ自身との血縁関係を意味するのだが、その情報から感じるべき愛着や親しみといったものはない。

 

 ミナは吸血鬼。エレナはエルフ。

 

 血ではなくこれまでの生き方で、二人の在り方は隔絶している。

 

 だからミナにとって、エレナの重要度は一緒に過ごした時間の分と、『母親の親族』ということだけ。

 積極的に殺したりはしないし、多少の不興は許容するが、そこまでだ。一緒に過ごした時間も愛着も上回るペットを傷つけるなら、冷徹に報復する。

 

 ミナの視線を受けて、エレナは怯えと共に冷静になる。そして漸く、数時間前の自分を客観視できた。

 

 「……感情的になったのは、ごめんなさい。フィリップくんも、殴ろうとしてごめん」

 

 「いいよ」とフィリップは軽く応じる。

 直撃していたら、いや直撃して顎骨が折れていてもミナの血で治療さえすれば、「一発は一発」と殴り返してチャラにしている。当たってもいない攻撃のことでグチグチ言い続けるほど、フィリップは繊細ではない。

 

 エレナは「ありがとう」と神妙に頭を下げ、その神妙な顔のままフィリップを見つめた。

 

 「その上で言わせてもらうけど、ボクはフィリップくんの言ったことに、全然、何一つとして共感できない。誰かが死んだっていう状況は最悪だよ。その中で、たとえ慰めでも“良かった”なんて言わないで」

 

 この一点だけは譲れないという強い意志を湛えた青い瞳が、昏く淀んだ青い瞳を真っ直ぐに見据える。

 

 視線の交錯は一瞬。

 フィリップはすぐに目尻を下げ、柔らかに笑った。

 

 「うん、分かった」

 「……ホントに分かってる?」

 

 あまりにも軽すぎる返答に、エレナが柳眉を逆立てる。

 フィリップはこういう時に適当に答えるタイプではないが、そう分かっていても疑ってしまうほど軽い声色だった。

 

 だが──。

 

 「勿論。逆に聞くけど、どうして僕が分かってないと思うの?」

 

 分からないはずがない。

 

 だって──そもそも人の生死に意味はない。

 人は死ぬ生き物なのだから、頭を打って死のうが発狂した挙句自分で自分の心臓を抉り出して死のうが、同じ死だ。良い死も悪い死も、同じ死だ。

 

 そして生者と死者の間に絶対の隔絶があると思っているのは、時間が不可逆のものであると、世界が一つであると、神がただ一柱のみだと思っているのと同じ。視座の低さに起因する、ただの勘違いだ。

 

 死を覆せないのは、その力が無いだけのこと。

 

 そして、死を覆すことにもまた、意味はない。

 生者も死者も、同じ泡だ。現世も冥界も、天国も地獄も、泡沫の夢に過ぎない。

 

 フィリップの言う「幸福な死」も、所詮はただの感傷。フィリップがなんとなくそっちの方が幸せだよね、と思っているだけのものだ。

 これは別に、フィリップにとって何が何でも主張しなければならない譲れないモノではない。

 

 「カルトを見逃せ」と言われたなら話は別だが、「幸せな死だと思っても口にするな」という主張は、それでエレナの気が済むなら呑んでもいい程度の要求だ。

 

 「……ううん。分かってくれたならいいんだ! ありがとう、フィリップくん! やっぱりあなたはいい人だね!」

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ16『カエルの村』 バッドエンド

 技能成長:【薬学】+1d4
 SAN値回復:なし


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卒業式
387


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 ボーナスシナリオ『卒業式』 開始です。

 推奨技能はありません。

 チャプター1『魔術学院編』最終シナリオです。


 カエルを模した粘土細工が点在する田舎の村で起こった事件から数か月。

 フィリップたちのパーティーが更なる事件に巻き込まれることはなく、平穏無事な日々を過ごした。

 

 そして刻々と、その時が近づいてきていた。

 

 フィリップたちの魔術学院卒業の時が。

 

 「とうとう卒業式まであと一か月となりましたねー。長いようで短く、短いようで長い三年間だったと思いますけれどー、皆さんには最後の関門が待ち受けていますぅ」

 

 朝礼の倦怠感に満ちた空気を更に気怠くさせる、媚びるように間延びした幼い声が教室に響く。

 

 鈴を転がすような声を幸せそうに聞くだけのクラスメイト達も、こいつ何かの間違いで死なないかなと言わんばかりの冷たい目をしたフィリップも、結局三年間変わることは無かった。両隣のルキアとステラは慣れてきて、当初のようにフィリップにくっつくことはなくなったけれど。

 

 それにしても、関門とは嫌な言葉だ。

 つい先日、修了試験──卒業資格テストを死ぬ気でパスしたばかりだというのに。

 

 「……試験も実習ももう無いですよね?」

 

 うんざりした顔のフィリップが問う。

 実技が壊滅的なフィリップは筆記試験で八割以上を取らなければ卒業できないので、ルキアとステラだけでなくフレデリカにまで協力してもらい、何とか追試にもならず一発でパスした。

 

 それでも総合点数が赤点ギリギリ、学年内順位は下から数えた方が早いというのだからつまらない。もう二度とテストは御免だ。

 

 「試験も実習ももうありませんしぃ、この関門をクリアできなかったからといって卒業できないなんてことはありませんからー、心配しなくてもいいですよー、フィリップくん」

 「……じゃあ何です?」

 

 ナイ教授は猫耳をぴこぴこさせてにっこりと笑うだけで、質問に答えない。

 いや、質問に答えるのに必要な前提の説明から始める。

 

 「これから卒業式のプログラムについてご説明しますねー」

 

 魔術で浮かべたチョークが黒板を滑り、丸みを帯びた可愛らしい文字を書いていく。

 

 式次第。

 一、学院長による式辞。二、来賓紹介。

 

 入学式を経験した大多数の生徒は「こんなのだったな」と懐かしそうにしているが、途中編入だったフィリップだけは「ふむふむ」と真面目に聞いている。

 

 「来賓はトップシークレットですので、本番のお楽しみですよぉ」

 

 勿体ぶるなー! とヤジの一つでも飛ばしてやろうかと、フィリップはのんびり考える。

 

 しかし特段興味もない情報のために声を上げる必要は無く、右隣に座るステラが指折り教えてくれた。

 

 「確か今年は……我が国からはお母様と宰相、帝国からは皇妃とアルシェ、聖国からはレイアール卿が参加する。それからお父様、帝国皇帝、教皇からの祝辞が手紙で届く手筈だったか」

 「……それって豪華なんですか?」

 

 相槌を打ちながら聞いていたフィリップは最後まで聞き終えると、レイアール卿を除くと国の最重要人物は誰も直接参加しないのかと首を傾げた。

 

 しかし国際的な催しでさえなく、あくまでも一個学校機関の、一世代の卒業式にこれだけの人物が揃うのは極めて異例だ。

 

 「まあ、私とルキアの卒業を祝うのに見合った顔ぶれではあるな」

 「アルシェっていうのは、帝国の水属性聖痕者ノア・アルシェよ。確か、フィリップも面識があったわよね?」

 「え? いや、無いですよ」

 

 頭を振って否定するフィリップに、ルキアは怪訝そうに眉根を寄せた。

 

 「修学旅行のとき、カジノで負かしたんでしょう?」

 「……あ! そうでした!」

 

 修学旅行の最終日前夜、カジノに遊びに行ったフィリップは、持ち前のカード運で参加したポーカーテーブルを荒らしに荒らし、最終的に出禁になった。その時の対戦相手の一人が聖痕者だったはずだ。

 

 「関門って、これじゃないですよね? まさか私たちに応待しろと?」

 

 前列に座っていた生徒がきっちりと挙手して質問すると、ナイ教授はにっこりと──度し難い愚者に向けるに相応しい嘲笑を浮かべた。

 

 「まさかぁ。そんなことさせるわけないじゃないですかぁ」

 

 そりゃあそうだ。

 社会性を示すため自発的にやるならともかく、ナイアーラトテップがフィリップに「人間やマイノグーラに頭を下げろ」なんて言うはずがない。

 

 「でも、無関係というわけでもないですよー。皆さんには彼らの前でぇ、ダンスをしてもらうのでー」

 

 楽しそうに──いや、愉快そうなナイ教授の言葉を最後に、一時的に教室の中からありとあらゆる音が消えた。

 

 しかし生徒たちの表情はまちまちだ。

 初耳だと愕然としている者、何を言われたのか分からないし分かりたくもないと呆然とする者、そういえばそうだったと頭を抱える者。

 

 一部、あぁそうかと当然のことのように受け止めている者もいるが、ルキアとステラも含めたごく少数だ。

 フィリップはというと、勿論、初耳だと瞠目している。

 

 「……まあ、そうだな。魔術学院が卒業舞踏会を開くのは例年のことだ」

 「舞踏会……まあ、そうね。社交場としての機能を持たないダンスパーティーをそう呼べるのならだけど」

 「不満か?」

 「いいえ。全ての舞踏会がそうなって欲しいわ」

 

 平然と会話するルキアとステラに挟まれて、フィリップの視線は二人の顔を行き来する。

 そういえば二人とも今年の入学式には聖痕者として、来賓枠で参加していたらしいし、卒業式に参加したこともあるのかもしれない。

 

 説明が、説明が欲しい。

 そう明記された顔を向けられて、ステラは微かに口元を綻ばせながら応じる。

 

 「単なるセレモニーだよ。魔術学院に入学する年齢の貴族は、大抵がデビュタントやお目見えを済ませている。今後舞踏会を経験することも無い平民に多少の教養をつける目的かもしれんが、必要とは思えんな」

 

 デビュタント? お目見え? といつもの無理解の境地に至った虚無の笑顔になったフィリップに、ルキアが「どちらも簡単に言えば社交界デビューのことよ」と注釈をくれる。

 デビュタントは貴族の子女が正式に社交界へ参加することを表明するパーティー、お目見えは15歳を迎え正式に貴族社会への参入を認められる貴族の子息が国王へ拝謁する場のことだ。

 

 魔術学院の入学年齢は14歳──15歳になる年だ。

 三年生の大半が17歳になっているから、殆どの貴族出身者はダンスパーティーの経験がある。ルキアやステラも言わずもがなだ。

 

 Aクラスの生徒には貴族が多く、焦燥の理由も「そんな面子の前なんて」というものが多い。

 しかしフィリップを含めた平民出身の生徒は、もっと根本的な問題と焦燥を抱えていた。

 

 「……ところでフィリップ、貴方、ダンス出来るの?」

 「教養の授業で習った程度には」

 

 ちなみに授業で教わったのは基本的でポピュラーな曲とその特徴、基本となるステップ、そして歴史と文化的な価値について。

 全て座学だ。

 

 「それは出来るとは言わない。……練習するか? 私が支配魔術で無理やり踊らせることはできるが──」

 「ノアにはバレるわね。そして恐らく、レイアール卿もいい顔はしない」

 

 一応、王国では支配魔術の対人使用は禁じられている。

 勿論王族であり法の軛を外れた立場であるステラにその制限は適用されないが、それでも公の場で同級生に向かって撃つような魔術ではない。相手が救国の英雄なら猶の事だし、その恩恵を帝国も聖国も受けているのだから尚更だ。

 

 支配魔術で遠隔操作すれば、ダンス経験のないフィリップでもフロアを虜にするほど優美なステップが踏めるのだが。

 

 「……踊らなければいいのでは?」

 「そうね。私もパーティーで気乗りしないときは踊らないし」

 

 駄目元で言ってみただけだったが、意外にもルキアが肩を竦めて同意する。

 ダンスパーティーで踊らないなんて選択肢があること自体、そう言った行事と縁のないフィリップには驚きだった。

 

 「そりゃあ舞踏会ならそれでもいいが、セレモニーだぞ? 卒業生は必ず踊ること、みたいな決まりが──」

 「ありますよぉ、フィリップくん」

 

 教壇で卒業式について説明していたナイ教授が、にっこり笑顔でフィリップたちの私語に釘をさす。

 

 が、二年半もそんなことを繰り返していたから流石にステラも慣れて、怯えて喋れなくなるようなことにはならない。

 

 「だそうだ。まあ舞踏会の最中、こっそり回遊して誰にも声を掛けられないでいられる秘策があるなら別だが……この場合の“誰にも”には当然、レイアール卿とナイ教授も含まれる」

 

 それは無理だとフィリップは諦観に満ちた苦笑を浮かべる。

 

 三次元世界の外からこちらを見ているような奴らは、言うなればガラスの水槽に飼われた小魚を観察する人間。見失うはずがないのだ。そしてその気になれば、指を突っ込んで捕まえられる。

 別にダンスをしなかったからといってフィリップが死ぬわけでもなし、強硬に干渉してくることはあるまいが。

 

 「あ、そうそう。パーティーには皆さんの保護者の方もお呼びしますよぉ」

 

 ふーん、と適当に相槌を打ち、フィリップは「保護者」という単語が一般には親を指すことを思い出した。

 書類上の保護者はナイ神父とマザーになっているし、ステラに「お前の保護者」と言われて真っ先に出てくるのが邪神連中だから、ついそっちで考えていたが──まさか。

 

 「……ねぇ待って? それって()()()?」

 

 どういう意味かと問われてもおかしくない意図も意味も不明瞭な質問に、ナイ教授は異常に整った顔に輝くような笑顔を貼り付けた。

 

 「勿論、お父さんとお母さんのことですよー」

 

 それは、踊っている場合ではないのではないだろうか。

 

 

 



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388

 卒業式に向けた特別授業──予行演習やダンスレッスンなどが始まったある日の放課後。

 フィリップは外出届を提出し、二等地の民家を訪れていた。

 

 もはや冒険実習の手助けだけではなく、茶飲み友達になりつつあるフレデリカの家だ。

 今日も今日とてお菓子を持ち込み、お茶を貰って駄弁っているのだった。

 

 「卒業式か。つい去年のことなのに、凄く懐かしいなあ」

 

 フィリップと向かい合う形でローテーブルを囲み、優雅にティーカップを傾けるフレデリカ。

 アンティーク調のソファやティーセットは舞台俳優のような彼女にとても似合っていたが、シンプルなブラウスの上に白衣を纏った実験着姿では微妙に浮いていた。

 

 そんな恰好でも構わず招き入れてくれる辺り、フレデリカも大概フィリップと仲良くなってきたようだ。

 

 「先輩もダンスパーティーに出たんですよね? どんな感じでしたか?」

 「私たちの代には聖痕者も王族も居なかったから、あまり参考にはならないと思うよ? むしろ、第一王女殿下が来賓枠で来て下さったくらいさ」

 

 在校生代表──ではなく、王国の代表としてか。

 そういう話を聞くと「そういえば“殿下”だったな」なんて、渾名か愛称のように呼んでいるのがかなり特別な部類に入る敬称だということを思い出す。

 

 まあ思い出すだけで、そこから先には何もないのだけれど。

 

 「まあ、これでも侯爵家の次期当主だ。デビュタントもとうに済ませているし、力にはなれると思うよ」

 

 確かに、彼女の普段の振る舞いを真似るだけでエスコートの基礎くらいは身に付きそうではある。

 

 だが、今日ここに来た目的はフレデリカの淹れる美味いお茶やお菓子でもなければ、ダンスやマナーのレッスンでもない。

 

 「そっちはまた今度お願いします。今日は──」

 「あぁ、分かっているさ。……これのことだね」

 

 ゴトリと重い音を立て、机上に置かれたのは前腕ほどのL字型木材──それと鉄の部品と機械が組み合わされた道具。

 蛇人間が持っていた鉄礫射出装置。フリントロック・ピストルだ。

 

 「機構は凄く単純だ。金属の筒の中に火薬を入れ、小さな火打石で着火。爆発の勢いで鉄の礫を飛ばしている。……使われている火薬は未知のものだったけど、解析の結果、材料自体は簡単に手に入るものだった。製法もすぐに分かると思う」

 「じゃあ、再現できるってことですね」

 

 再現。

 恐らくはあの村の付近で手に入るものを使って作ったのだろう、低質な素材のこれを、錬金術で再現する。

 

 それがフィリップがフレデリカに──王国最高の錬金術師に持ち込んだ依頼だ。

 

 ミナには初見の不意討ちでも通じなかった武器だが、それでも遠距離攻撃手段に欠けるフィリップには有用なはずだと信じて。

 

 「うん。……ただ、君の依頼に応じるにあたって、いくつか条件を付けさせてほしい」

 

 ティーセットを置き、真剣な顔で語り始めたフレデリカに、フィリップも神妙な顔でクッキーを飲み込んだ。

 

 「まず、無闇に人前で使わないこと。そして、その出処や製法、機構なんかを誰にも明かさないこと。そして鹵獲されそうになった場合、なるべく原型を留めないように破壊することだ」

 

 要は、情報を徹底的に秘匿しろということか。

 態々細かく羅列してくれたフレデリカの言葉を、フィリップはそう端的に解釈する。

 

 「知っての通り、これは遠距離攻撃武器だ。しかもクロスボウより小さく、ポケットや服の中に簡単に隠せる。そして威力も、ウィルヘルミナさんによれば頭蓋骨を砕くほど高い。何より、この武器の存在を知る者が極めて少ない。大きな音が出るとはいえ、物凄く暗殺に向いている武器なんだ」

 

 確かに、初見殺し性能は拍奪+蛇腹剣と同等──いや、遠距離攻撃であることを考えれば上回る。

 

 フィリップやエレナだって、ミナがいなければ一発目で死んでいただろう。

 ルキアやステラなら魔力障壁で弾けるし、撃たれる前に魔術を撃つことも可能だが、それでも不意討ちで撃ち込まれたらどうしようもない。

 

 「……じゃあ、むしろ公表すべきなのでは?」

 「駄目だね。これは威力──攻撃力という意味じゃなく、秘匿性や暗殺適性を鑑みた“能力”に対して、機構があまりにも簡易だ。ごく少量で高威力を発揮する火薬を作るのは簡単なことじゃないけど、それは大型化である程度誤魔化しが効く。もっと……そうだな、本体を傘くらいの大きさにすれば、火薬が現行の物でも機能すると思う」

 

 現行の火薬と言っても、大砲用のものだ。そして現代戦における大砲の価値はかなり低く、火薬を作る技術はそれほど発達していない。

 

 フリントロック・ピストルのガワだけを複製しても、火薬が低質で殺傷力が十分に得られないのだ。

 それはフィリップも知っている。火薬を買ってきて試したから。

 

 結果は失敗──弾丸は満足に飛ぶこともなく無様に落下した。しかも実験の中で錬金術製の高性能爆薬──鉱山の発破作業に使うような代物まで試したせいで、二丁あったフリントロックのうち一つは完膚なきまでに吹き飛んだ。

 フィリップの右手はミナがすぐさま治してくれたのだが、人気のない荒野に散らばった木と鉄の破片はどうしようもなかった。

 

 それはともかくとして。

 

 「……えっと、つまり?」

 「つまり、ある程度の技術力があれば誰にでも──町の鍛冶屋にだって作れる代物なんだ。この武器が公表されて広まれば、誰もが初級攻撃魔術を準備したような状態になる。ただし、魔術耐性を貫通する物理攻撃だ」

 

 初級魔術は非魔術師相手なら十分に脅威だが、逆に、魔術学院に入れるレベルの魔力があるなら大抵は魔術耐性で逸らされるか掻き消される。

 魔術師同士の戦闘において、中級以上が攻撃魔術の基本になるのはそのためだ。ステラを相手にするなら、ルキアでさえ上級魔術を基本に神域級魔術を切り札に据える。

 

 戦術の基礎、常識となるレベルで、魔術師にとって魔術耐性の存在は大きい。

 

 そして大抵の魔術師は、中級以上の魔術は発動の予兆を感覚で察知できる。魔術を用いた暗殺は、実のところ警戒が容易なのだ。

 

 しかし、それ()は違う。

 音は派手だが、それは「撃ったときの音」だ。音が聞こえた時には攻撃は終わっているのだから、それから警戒しても遅い。

 

 高い暗殺適性を持つ武器──高い奇襲性能を持つ武器だ。

 

 「……殿下が迂闊に外を出歩けなくなる、ってことですか?」

 「王女殿下だけじゃない。私のような貴族も、君のような重要人物も……いいや、この世の誰もが外を歩くときには怯えなくてはならない世界になる」

 

 道を歩く誰もが攻撃準備を完了している世界。

 いや──それを疑わなくてはならない世界、か。

 

 魔術発動前の魔力の流れすら視認できるルキアやステラでさえ、目の前の人間が敵かどうかを一目で看破できなくなる。それはきっと、とても大きなストレスだ。

 

 だが、それなら、全員が怯えればいい。

 

 「大量生産できるなら、全員がこれを持てばいいのでは? 国が配るとかして」

 

 相互確証破壊──国家対国家戦争に於いて、聖痕者の軍事投入は敵方の応報を以て地形変動級の大戦争に発展するという状態を指す言葉として、その概念はある。

 

 それを個人間レベルで適用させてしまえばいい。

 (それ)を使うなら相手も同じものを使う。誰もがそう理解している状況、拮抗状態を作ってしまえばいいのではないだろうか。

 

 そう安直に考えるフィリップに、フレデリカは重々しく頭を振る。

 

 「……ウィルヘルミナさんのことを考えてみて」

 

 意外な名前を出されて、フィリップは怪訝そうに眉根を寄せる。

 暗殺を警戒しなくてはならないステラやルキアならともかく、ミナは飛来する弾丸を素手で掴んで握り潰すような化け物だ。

 

 そして手が間に合うなら魔力障壁の展開も間に合うだろうし、そもそも一発喰らった程度で命のストックが削れるかも怪しい。よしんば削れてもストック総数は10万を超える。

 

 フィリップの知る中でそれ(銃器)の普及に最も価値を見出さないのは彼女だろうに。

 

 「彼女は吸血鬼だ。人間を食い、殺す化け物だ。人間を殺すことに一切の罪悪感を覚えず、淡々と作業のように殺す。……それはどうしてだと思う?」

 「そういうものだから……あ、“簡単に殺せるから”。殺すことを意識する必要も無いくらい、簡単に──指の一振りで磔刑にできるから、ですか?」

 

 言うと、フレデリカは神妙に頷いた。

 

 勿論、ミナが本当はどういう理由で人間に価値を見出していないのかは分からない。

 食料を製造・貯蔵している自立歩行型タンク、みたいな認識かもしれないし、群れて邪魔だが食える虫ぐらいの感覚かもしれない。

 

 だが人間を殺すという行為にも、人間そのものにも意味や価値を感じていないのは確かだ。

 

 「これを蔓延させたら、全ての人間がそういう価値観になる。指をちょっと動かすだけで人間を殺せるようになり、価値観が破綻していく。勿論、道徳心や他人を害することへの恐怖心で、そうはならないかもしれないよ。けれど──人間は、目的のためならどんな残酷なことでもする生き物だろう?」

 

 フレデリカの青い双眸に僅かな憤怒の色が宿る。

 その極めて優れた記憶力を有する脳裏には、凄惨に殺された祖父の姿が今も刻まれているのだろう。

 

 「確かに……。力が価値観を狂わせた例も、身近にいますしね」

 

 ルキアも、ステラもそうだ。

 まああの二人はフィリップからすると「正常な人間の価値観」ではないだけで、「正常な価値観」ではあるのだけれど。

 

 「君には恩も縁もある。未知の火薬、未知の武器を研究するのも楽しい。だから、君の頼みには可能な限り応えたいけれど──出来ないというのなら、この話は無かったことにしよう」

 「情報の徹底秘匿……。ルキアと殿下にだけは教えてもいいですか? あと、衛士団にも」

 

 フィリップはフレデリカを信頼している。彼女の頭脳を、その判断を、ステラの次くらいに。

 

 だから彼女が止めておけというのなら、それに従う。

 

 「先の二人はいいよ。王女殿下もこれの危険性は分かってくれるはずだから。でも、衛士団は駄目だ。彼らに伝えれば本格的に軍事的な研究が始まる。そして有用性が認められれば、国の財力と人員を以て大量生産されることになる」

 

 そうなればいくら王国が技術の独占に強く拘泥しているとはいえ、流出と蔓延は避けられない。

 後に待つのは価値観の崩壊と治安の悪化、か。

 

 ルキアやステラが安心して外を出歩けなくなる世界は、フィリップも望むところではない。

 

 「……分かりました。ルキアと殿下以外、誰にも言いません」

 

 

 



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389

 フィリップの髪とステラの髪は一口に言えば同じ金髪だが、やはり微妙に違いがある。

 

 フィリップの髪はスタンダードなブロンドだが、少し色素が薄くプラチナ気味だ。あの一件以来の強ストレスによる脱色と、王都の素晴らしい住環境、王都外で育ってきて碌に手入れもされなかった髪を見かねたルキアのケアが拮抗して、何とか「傷みやすい髪質」程度で済んでいる。

 

 対してステラの髪は王城(じっか)に居るときは侍女たちによって完璧にケアされ、学院にいても身嗜みを疎かにできない立場上、最低限のケアはしている。陽光を編んだ絹糸のような滑らかさと輝きを、背中まで伸びる長さで保つのは並大抵のことではない。

 

 そんな二つが擦れ合うほどの距離で互いに手を握り、腰を抱く。

 互いの体温、呼吸、或いは心臓の鼓動すら把握できるほどの至近距離で身体を寄せ合い、囁きを交わす。

 

 ぱん、ぱん、と乾いた音が、二人の動きに合わせてリズムよく連続する。

 

 「──と、そういうわけなので、殿下も注意してくださいね」

 「消音性に劣るが小型で、何よりボディチェックをすり抜ける可能性のあるクロスボウの亜種か。覚えておこう」

 

 足元で砂粒の踏まれる音を聞きながら、二人は姿勢を変え、お互いの位置を入れ替える。

 二つの青い双眸がお互いだけを映す時間は、二年と半年の学校生活の中でも稀な体験だった。

 

 「……ところでカーター、ダンスの最中にはあまり話すものではないし、話すにしても話題が無骨すぎる。もう少し雰囲気に合った話題を選ぶべきだな」

 「了解です。でもそれはそれとして、こうやって顔を近づけてても不自然じゃないですし、内緒話には最適なのでは?」

 

 フィリップとステラはいつものように放課後に体育館に集まり、戦闘訓練をしている普段とは違い、ダンスの練習をしていた。

 

 流石に音源──音楽隊を用意するレベルにはまだフィリップが至っていないので、ルキアとステラのうち相手役をしていない方が手を叩いて拍を取ってくれる。

 

 「お前な──痛っ」

 「あ、すみません! ここ右からか……」

 

 フィリップがステラの足を踏み、ステップの流れが途切れたことでルキアの手拍子も止まった。

 

 既に二時間以上経過していることもあり、フィリップは地面に座り込んで休憩の姿勢だ。

 ルキアが手を翳すと、邪魔にならない場所に置いてあった水袋がフィリップに向かって()()()きた。重力操作とは便利なものだと思いつつ、礼を言って水を流し込む。

 

 二人ともダンスもマナーも完璧である以上、これはフィリップに教えるためだけの場だ。だからフィリップも「やめよう」とは口にしないが、顔には思いっきり書いてある。

 「こんなことしたって何の役にも立たないんだから止めようよ」と。ダンスが出来なくても死にはしないし、苦しむこともないのだからと。

 

 ルキアとステラはフィリップのそんな表情を見て顔を見合わせるが、いずれ貴族になるのだから、これも身に付けておかなければならない教養だ。

 ただ、その理由だとフィリップは意固地になりそうな気もする。「貴族になんてならないから」と。

 

 「……今は私もお前もローファーだし、お前が私やルキアの足を踏む側だが、本番は私たちはヒールだぞ。そしてお前がステップをミスすれば、私たちがお前の足を踏む可能性もある。……言っている意味は分かるな?」

 「もう一回支配魔術貰っていいですか?」

 

 それはやばいとフィリップはすぐさま立ち上がる。

 ルキアやステラに踏まれるくらい可愛いものだが、ハイヒールは凶器だ。ミナとの戦闘訓練でそれは嫌というほど思い知っている。

 

 あれは面積が小さい分体重が集中して痛い、なんてものじゃない。刺さるのだ。

 

 そんな話をしていると、体育館の入り口にふらりと現れる人影が一つ。

 貸し切り時間中は誰も近づかないのが常だが、例外もいる。三人と──聖痕者二人と龍狩りの英雄を相手に平然と接する、例外も。

 

 「お、ダンスの練習? ボクも混ざっていい?」

 

 楽しそうに手を振りながらやってきたエレナは、フィリップの訓練中にもふらりと現れて参加することが多い。

 

 今日は戦闘訓練ではなくダンスの練習だが、実のところ、ダンスのことでエレナから教わることはない。

 彼女も王族ではあるものの、そもそも種族が違う。当然、音楽文化も舞踏文化も違うから、創作ダンスならまだしも、きちんとしたステップや順序の決まったダンスではフィリップ同様に知識ゼロなのだった。

 

 「えー……」

 「えーって、酷くない!? ボク、結構上手い方だよね!?」

 

 上手いか下手かで言うと、エレナは上手い部類だ。

 そりゃあ運動神経は抜群にいいし、リズム感も悪くない。ただ──。

 

 「上手いけど……エレナ、乗ってきたら急にリードに回るんだもん」

 「直感と音感だけで踊るからだ。ダンスにはルールに基づいた秩序がある。……何度言っても聞きやしない」

 

 ただ、天才肌というか、自由人というか、「音楽に乗って体を動かす」ことには優れたセンスを示しているものの、「振付に沿って動く」のが苦手なのだった。振付以上に自分のリズム感を優先してしまう。

 

 「だって、決められた通りに動くだけなんてつまんないじゃん! ボクと踊るときは自由に踊ろうね、フィリップくん!」

 

 さも当然のように言うエレナ──いや、ルキアとステラもか。

 特に誰も「当日一緒に踊ろうね」と約束は交わしていないものの、完全に共通認識になっている。

 

 本来は事前にパートナーを決めておくべきらしいのだが、ナイ教授に「ルキアか殿下のどっちかとしか踊れないとかイヤなんで、そこのところよろしく」と言ったところ、「そう()()()()、今年度は何曲か用意して複数人と踊れるようにしてありますよぉ」と返された。

 仰ると思って、ではないところが流石だった。

 

 だからエレナとも踊れないことはないのだけれど──ちょっと怖い。

 

 「エレナがヒールを履かないならね」

 「えー……姉さまとお揃いにしようと思ってたのに……」

 「エレナにあんなので踏まれたら足に穴が開くよ」

 

 謁見用に誂えた正装用の革靴はあるが、防御力重視なら森歩き用の厚いブーツの方がいいかもしれない。

 上下ともに謁見用のタキシードで靴だけブーツは、何かの冗談みたいな装いだけれど。

 

 「む。そんなに重くないもん!」

 「脚力の話だよ」

 

 流石に女性相手に面と向かって「お前重いよ」と言うほどデリカシーに欠けてはいない。

 いや、パンチで生木が抉れる辺り、エレナの体重は相当なものになるはずなのだが、どういうわけかエレナの体重は見た目通りだ。身体能力と身体操作精度が桁外れ過ぎる。

 

 そんな話をしていると、ルキアがフィリップを手招きして呼び寄せた。

 単にダンスの指導をするためばかりではなく、エレナがちらりとステラの方を見たからだ。フィリップではなくステラに用事があることを、彼女は僅かな一挙動だけで理解していた。

 

 「フィリップ、いらっしゃい。……さっきのステップだけど、もっと──」

 

 今度はルキアと練習し始めたフィリップを横目に、ステラはエレナの方に向き直った。

 二人とも仲は悪くないが、良くも無い。フィリップという共通の友人もいるし、フィリップの訓練という共通目的のために一緒になって頭を捻ったことも数多いが、ステラの側に仲良くなろうという意識がないのだった。

 

 「……で、何しに来たんだ?」

 「おっと、そうだった! 私の保護者枠で父様と母様を呼びたいんだけど、学院長に言っても対応できないって言われちゃって。ステラちゃんならできるよね?」

 

 そりゃあ出来る出来ないで言えば、出来る。

 ステラは卒業式という一個行事の中ではいち卒業生でしかない──成績首位はルキアが持って行ったので、首席でさえない。公務で度々欠席していたから、平常点の差で負けたそうだ──が、それ以前に次期女王だ。

 

 彼女が「やれ」と言えば、国の機関が「はい」と声を揃える。国王が「やめろ」と言わない限りは。

 

 しかし、「やれ」と言うかどうかはまた別の話であり、「はい」と言うしかない国の機関が「できる」かどうかもまた別の話。

 

 「いや、私でも即決はできないぞ? そちら側の警備要員とこちらの警備担当者、儀典官にも話をつけて……まあ、エトセトラだ」

 

 エレナの両親──つまり、エルフの王と女王だ。

 エルフは国家という形態を持たず、一個種族の巨大な集合の中に、各地に点在する集落が小規模共同体としてある。

 

 つまり“国王”ではなく“種族王”。扱いには他国の王と同等かそれ以上の配慮を要する。

 軽々に「やれ」と言える案件ではなかった。

 

 「あー……そっか。何かあったらエルフと人間の種族間問題になるもんね」

 「そういうことだ。というか保護者枠じゃなく来賓枠になりそうだが……まあ、希望は分かった。伝えるだけ伝えておくが、期待はするな」

 

 

 

 



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390

 「これより、第723回魔術学院卒業式を執り行います。まずは私からお祝いの言葉を贈らせてください」

 

 魔術学院長ヘレナ・フォン・マルケルの落ち着きと威厳を兼ね備えた拡声器越しの声が、魔術学院が所有するパーティーホールに木霊する。

 

 パーティーホールは校外の一等地にあり、年に一度卒業式の会場になる以外で使われることのない設備でありながら、学院内のどの施設よりも絢爛豪華な建物だ。

 

 学院長の立つ舞台を最奥に据え、卒業生百数十名程度なら一度に踊れそうなほど広いダンスフロアに、その保護者たちを収容するだけでなく、全員の腹を満たすほどの食事が所狭しと並んだ立食形式のビュッフェスペースまである。

 

 光源は窓から差し込む陽光と、ガラス造りのシャンデリア。

 壁は錬金術製の堅牢な建材と本物の大理石の混合で、彫刻によって典雅に飾り立てられている。ただ、等間隔に鎧姿の騎士が立ち並んで槍を携えているので、装飾をじっくり眺めるのは難しそうだった。

 

 ダンスフロアに点々と集まった卒業生たちは制服ではなく盛装しており、列になって並ぶのではなく仲の良い者同士で集まって立っている。手にグラスを持った生徒も多い。フィリップとルキアとステラも、いつものように一塊だ。

 

 「……卒業式っていうのはもっとこう、皆でお行儀よく座って、“偉い人”の話を聞くようなものだと思ってました。全校集会の厳しい版みたいなの」

 「入学式はそんな感じよ。注意事項とか伝達事項とか、山のようにあるから」

 

 舞台上で滔々と式辞を述べる学院長を横目に、ひそひそと囁き合うフィリップとルキアも、同じく盛装している。

 フィリップは当初、「謁見用の燕尾服でいいですよね」とか舐めたことを言っていたのだが、ルキアとステラから待ったがかかった。

 

 そもそも燕尾服は夜用の最上位礼装だし、フィリップが言っているのは龍狩りの後に作った素材からテーラーまで王家が監修したガチガチの高級品。いくら公の場で王妃や他国の皇妃も出席するとはいえ、流石に過剰だった。

 

 卒業式が夜に行われて、学院運営側(ホスト)が着るならギリギリセーフといったところか。学生という身分も併せて考えるに、準礼装、タキシードかディレクターズスーツがベストだ。

 

 そんなわけで、またぞろルキアに引っ張られて服を仕立てに行き、誂えた礼服姿のフィリップ。周りの生徒も似たような恰好で、燕尾服を着ているのは先生たちくらいだった。

 

 ルキアはプリンセス・ラインの黒いセミアフタヌーンドレス姿だ。

 肩周りも背中も露出しないデザインでありながら、コルセットの類で締め付ける必要も無いほどの曲線美を描く腰のラインや、堂々としていながら淑やかさも感じさせる優雅な立ち姿が周囲の視線を惹き付けている。

 

 所々にあしらわれたゴシック調のレース装飾に気付いたとき、フィリップはなんとも言えない顔だったが、ステラはそれ以前に「黒か……」となんとも言えない声を漏らしていた。

 ドレスコードに照らすなら、黒と白は身分を問わず使える色だから間違ってはいない。が、爵位序列最上位の彼女が身に付けるには、些か地味過ぎる色でもある。

 

 銀色の髪に赤い瞳、そしてとびきりの美人なので、これ以上飾り立てる必要も無いといえばその通りではあるのだけれど。

 

 「入学式は毎度苦痛だったな……いや、多分これからも呼ばれるのだろうが」

 「あぁ、来賓枠で……」

 

 ルキアと反対隣りにいたステラが仄かな倦怠感を滲ませて呟くと、フィリップもそういえば二人ともかったるそうに「入学式に出ていた」と言っていたことがあったな、なんて思い出した。

 今日を限りに在校生代表ではなくなるわけだが、今後も特別ゲストとして招かれることだろう。

 

 ちなみにステラもルキア同様プリンセス・ラインのセミアフタヌーンドレスだが、こちらは深紅一色だ。

 二人とも3、4センチのヒールを履いており、顔を見ようとするといつも以上に上を向かなければならなかった。

 

 「──以上を以て、開会の式辞とさせて頂きます。続きまして、来賓の方々より祝辞を賜りたいと思います」

 

 そんなことを話しているうちに学院長のスピーチが終わり、代わって珍しいネイビーブルーの髪を持った女性が壇上に立った。

 二十歳そこそこの若々しい風貌ながら、眼下、学生たちを見下ろす双眸は冷たくも鋭く、蛇を思わせる観察するような目だ。その視線から放たれる威圧感は平時のミナにも匹敵する。

 

 「ウルタール帝国騎竜魔導士隊隊長、水属性聖痕者ノア・アルシェです。本日は第ななひゃ──あ、あの時の運だけのカス! そっか、アンタもこの代か!」

 

 冷酷な女帝の如き凍てつくような声色が一転し、近所のお姉さん然とした親しみやすさを醸し出した。

 指を差されたフィリップが口元を引き攣らせ、両隣のルキアとステラがそれぞれ眦を吊り上げ、呆れたような溜息を吐く。

 

 「アルシェ」

 「おっと、失礼しました、先輩。んんっ……第723期卒業生の諸君、この度はご卒業おめでとうございます」

 

 どういう関係なのか、ヘレナが険のある声を出すと、ノアはぴしりと背筋を伸ばして咳払いを一つ。

 そしてまた厳格な軍人の空気を纏い、スピーチを再開した。

 

 「……フィリップくん、あの人に何したの?」

 

 「なんだ今の」というどよめきが学生や保護者に伝播していく中、いつの間にかステラの隣に来ていたエレナがひっそりと囁く。

 

 「カジノで物凄い勝ち方したんだよ。リバーでロイヤルストレートフラッシュを揃えて」

 「……前から思ってたけど、あなた本当に豪運だね」

 

 エレナが慄いたように言うと、ちょうどノアのスピーチが終わった。

 

 「──これにて、帝国臣民よりの祝辞とさせていただきます。……次は負けないかんね!」

 

 挑発的なウインクを、最後に残して。

 

 

 ◇

 

 

 真面目に話を聞いている学生たちの背後で、保護者達はグラス片手に世間話に花を咲かせていた。

 

 魔術学院には平民も多く在籍しているはずだが、この場に呼ばれたのは大半が貴族だ。例外的にAクラス生の保護者は平民であろうと招待されているが、Bクラス以下の生徒の保護者は王国主導の厳重な素行調査を突破しなければ招待状さえ送られない。

 

 招待されたとしてもドレスコードを満たす服装を持っていなかったり、そもそもこんな場に来たくないといって断ったりするケースも多く、卒業生の数に対して来場した保護者の数は明らかに少なかった。

 

 それでも、中には今にも吐きそうなほど緊張しながらも子供の晴れ舞台を見に来た親もいる。

 フィリップの両親、エドガーとアイリーンもそうだ。

 

 「……平気かい、母さん」

 「あんまり……」

 

 フィリップとよく似た目鼻立ちの壮年の男性──フィリップの父、エドガーに肩を抱かれたアイリーンは、ハンカチで口元を押さえている。

 エドガーは地元ヴィーラムの町近辺を統治するヘンリード伯爵に森番として召し抱えられており、こういった華やかな場に多少なりとも慣れている。しかしアイリーンは、以前の謁見の折には緊張が高まりすぎて吐き気を催す余裕もない有様だった。

 

 半ば意地で卒業式に参加したものの、フィリップを探すこともままならない状態だ。

 

 どうしたものかとエドガーが辺りを見回すと、ちょうどこちらに近づいてくる人影があった。

 幸か不幸か、見慣れた顔だ──いや、幸いにして、見慣れた顔だ。そして不幸にも、参加者の中で最上級に爵位序列の高い人物だった。

 

 つい先ほどまで壇上でスピーチをしていた、王国宰相。アレクサンドル・フォン・サークリス公爵だ。

 

 「やあ、カーターさん」

 

 気さくに手など振りながらやってくる宰相は、隣に夫人オリヴィアを連れていた。

 

 エドガーとアイリーンは素早くそして丁寧に、フィリップより洗練された所作で一礼する。跪かないのはパーティーの場であることを鑑みてだ。

 

 「これは、サークリス公爵閣下に公爵夫人。ご無沙汰しております」

 「龍狩りの勲功会以来ですね。……奥方はどうされたのですか? 顔色が優れないご様子ですが」

 

 顔色が青白いを通り越して土気色になりつつあるアイリーンに、公爵夫人が柔らかに笑いかける。緊張を解そうという心遣いにはアイリーンも気付いていたが、笑い返すほどの心の余裕はない。

 

 二人とも威圧感を垂れ流したりはしていないのだが、それでも立ち居振る舞いの全てに気品が滲みだしているし、壁に沿って並ぶ騎士たちの視線をフルフェイスヘルム越しにも感じ取れるほど、注目されているのが分かる。

 粗相一つで首が飛びそうな空気だ。勿論、そんなことはないのだが。

 

 「こういう場に慣れていないので緊張気味で……」

 「それはいけない。……オリヴィア、すまないが」

 「構わないわよ。フィリップ君の御母上ですもの。仲を深めておかないと」

 

 オリヴィアは指先一つで壁際に控えていた鎧騎士を呼び寄せると、「控室を開けて、水と軽食を持って来て」と命じ、アイリーンを支えてホールを出て行った。

 

 その背中を見送り、エドガーは公爵に向き直り、また深々と頭を下げる。

 

 「ご配慮くださりありがとうございます。……それに、息子がお世話になっているようで。学の無い身では何とお礼を申し上げたらよいものか……」

 「いやいや、お礼だなんて。フィリップ君は我が国の誇る英雄にして、私たち家族を救ってくれた大恩人。むしろ私たちの方がお礼を言いたいのですよ」

 

 親しみやすそうな快活な笑顔を浮かべる公爵だが、エドガーはむしろ一層困った顔になる。

 

 「龍狩りの件ですね。恥ずかしながら、未だに事の重大さが今一つ理解できていないのですが……今後とも息子をよろしくお願いいたします」

 「えぇ、勿論。末永く、ね」

 

 にっこりと意味深に笑う公爵に薄ら寒いものを感じつつ、しかし聞き返したり「どういう意味ですか?」と尋ねるわけにもいかず、曖昧に笑い返すしかなかった。

 

 「ところでカーターさん、以前にお聞きした気持ちに変わりはありませんか?」

 

 以前──龍狩りの折。

 公爵はフィリップの家族に対して、貴族にならないかと持ち掛けていた。

 

 エドガーやアイリーンに貴族の才を見出したわけではない。フィリップを説得する材料の一つとして、「ご両親も貴族になったのだし」と言うためだけだ。

 思想、思考、勇気、そして勿論ルキアの良き友人として、フィリップにはそれだけの価値があると公爵は計算している。

 

 しかし、エドガーはフィリップ同様、地位や権力に拘泥しない人物だった。

 いや、貰えるものなら貰っておく平民根性はあるのだが、それも多少の現金までだ。爵位となると尻込みする。

 

 「光栄なお話ですが……息子の功績を借りるのは情けない話ですし、妻もこういった場は苦手です。何より、弟子に教えるべきことがまだまだ山のようにありますので」

 「弟子ですか」

 

 興味を惹かれたように──興味を惹かれたふりをして、公爵はエドガーの主張を受け入れも拒絶もせずに話題を変える。

 

 「えぇ。息子たちは二人とも狩人になる気はないようですし、私の──いえ、先祖代々の技術や知識を継承していきませんと」

 「ほう。……おっと、ダンスが始まるようです。少し後ろの方に行きましょう。……そういえば、キッシュはお試しになりましたか? あれはお勧めですよ」

 

 言って、公爵は見た目にも美味そうな料理が豪奢に並ぶテーブルの方へエドガーを案内する。

 それは彼にしては珍しく裏表のない、本当にダンスの邪魔になりそうな位置から退くだけの意味しかない行動だった。

 

 そして壇上に宮廷楽団が並び──ホールを艶やかに彩る音楽が奏でられる。

 

 

 

 

 



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391

 絢爛に飾り立てられたホールに満ちる音楽は、弦楽器を主とした華やかで軽やかな舞踏曲だ。

 用意されている曲目は五つ。卒業生はそのうちどれか一つで必ず踊らなければならないルールだが、フィリップはルキアとステラによるレッスンの甲斐あって、全ての曲で及第点程度には踊れるようになっていた。

 

 初っ端からダンスホールに立つ生徒は少なからずいて、「さっさと終わらせてしまおう」と考える生徒や、もうノリノリのカップル、見せ場到来とばかりに躍り出たダンス部員などが目に付く。

 

 ルキアとフィリップのペアも、そのうちの一つだ。

 

 体を寄せ合い音楽に合わせて揺れ動くのは淫靡であるとして、規制されかけたこともあるというワルツ。

 赤い瞳を見つめながらステップを踏むと、身体の動きに遅れた銀色の髪がフィリップの鼻先を擽り、香油の花の香りを届ける。

 

 「ねぇフィリップ、これから二年間、何処を拠点にするの?」

 

 フィリップのリードに身を任せ、穏やかな微笑を浮かべたルキアが問う。

 

 レッスン時に着ていた制服より薄着のルキアの腰に沿えた手から、仄かに体温を感じる。

 極めて上質なレースの手触りや、その奥にある華奢な腰の感触にも、フィリップの心が乱されることはない。習った通りに身体を動かしながら会話するのにも随分と慣れた。

 

 卒業後は当然、学生寮を出なくてはならない。

 龍狩りの報酬で一等地に土地と屋敷を構えて家具を揃え、おまけに使用人まで雇える程度には貯金が出来たフィリップだが、未だに金貨一枚たりとも使っていない分、育ち故の貧乏性も相俟って手を付ける気にはならなかった。

 

 では当然、何処かの宿を借りるしかない。

 そして宿と言えば、何かと融通を利かせてくれるところがある。タベールナだ。

 

 しかしパーティーメンバーの二人を連れて行くと、ミナから待ったがかかった。

 野営慣れしたミナだが、「野宿にも耐えられる」ことと「低レベルな住環境に長く住める」こととは全く別だと言って。

 

 タベールナでいいじゃん、とフィリップとエレナは思っていたのだが、二等地の宿でもミナにとっては安宿らしい。

 吸血鬼の女王、神にも等しい始祖の末裔様は、魔術学院の学生寮と同等の水準をお望みだった。

 

 「荷物は一旦タベールナに置かせてもらってますけど……今後どうするかは未定ですね。投石教会はミナが嫌がりますし……レオンハルト先輩にも誘われてるんですけど、あの家、迂闊に触っちゃいけないものだらけな気がするので」

 

 普段は所領で退屈な生活をしている分、王都では一等地から出ることなく贅沢三昧を楽しむ貴族は多い。

 フレデリカの両親もそのタイプらしく、彼女は二等地のあの家で一人暮らしだ。何度聞いても頑なに理由を教えてくれないが、使用人さえ雇わずに。

 

 しかし人恋しくないわけでもないらしく、フィリップが卒業後に二等地を拠点にしようと考えていることを告げると、かなり熱心に誘ってくれたのだった。

 

 ただ、あの家にはフレデリカが使う実験用の器材や薬品がそこらじゅうにある。

物によっては空気と反応して毒性のあるガスを発生させたり、落とした衝撃で部屋一個が吹き飛ぶ大爆発を起こすそうだ。

 

 ちょっとお邪魔してお茶して帰るくらいならフレデリカの目が届くが、一緒に住むとなると、彼女の目が離れる瞬間もあるだろう。そんなときに何か重大なやらかしをしてしまう可能性を、フィリップは十分に考えていた。

 

 面倒な課題を思い出したときの困り顔になったフィリップに、ルキアは何か言い淀んだ言葉を無理やり押し出すように一息に言う。

 

 「……貴方さえよければ、公爵家の別邸に住まない?」

 「別邸って、いつもの家ですよね? 一等地の」

 「えぇ。家事雑事の類は使用人に任せられるし、冒険に出かけている間も部屋は完璧に管理できるし、防犯も完璧よ。それに──」

 

 彼女らしからぬ、どこか焦りを感じさせる声で列挙されたメリットは、どれも素晴らしくはあるが即決要素ではない。

 

 しかし、フィリップは一切悩むことなく嬉しそうに頷いた。

 

 「──いいですね。ずっとルキアと一緒にいられて」

 

 たった一つの即決要素を添えて賛成すると、ルキアは信じられないと言うように瞠目する。

 そしてフィリップが「自分で言ったのに?」なんて無粋なことを口にする前に、無言でフィリップを抱き寄せた。

 

 曲に合わせたステップをそのままに、二人の距離が一歩分さえ無いほどに詰まる。

 ルキア自身が踊れなくなるほど密着しているわけではないが、友人同士やただのパートナーの距離ではない。明らかに「抱き寄せている」と分かる、恋人か夫婦でもなければ見咎められるような距離。

 

 そして練習の時には無かった密着具合に慌てたフィリップが、足の踏み場を見失う距離だった。

 

 「ルキア? 近い、近いです、足! 足踏ん……ごめんなさい!」

 

 二人とも足を痛めなかったのは運が良かった、と、一部始終を愉快そうに眺めていたステラは後にそう語った。

 

 

 ◇

 

 

 「ルキフェリア……」

 「ごめんなさい、つい」

 

 一曲を何とか無事に踊り終えた後、呆れ声のステラに、ルキアは淡々と応じる。

 しかし表情や声色を取り繕っているのは、ルキアの抜けるように白い肌がほんのりと赤く染まっていることから明らかだった。

 

 「何の話をしてたんだ?」

 

 琥珀色の液体が注がれたグラスを上品に弄びながら、ステラは声色通りの呆れ顔で尋ねる。

 

 「卒業後の拠点に公爵家の別邸を貸してくれるって話です。……いや、よく考えたら公爵様とかご夫人に話を通さないと不味いのでは?」

 「お前、今言ったのか? いや、今まで言っていなかったのか?」

 

 特に面白い話でもないし、「そうか」と軽く相槌を打って終わりだろうと思っていたフィリップは、ルキアに呆れと揶揄いの混じった笑みを向けるステラに怪訝そうな目を向けた。

 まさか話の中心にいるはずの自分より先に──それも数か月前にステラに話が通っていたとは思えないだろうし、無理もない。

 

 「……勇気が出なくて」

 「…………そうか」

 

 「乙女か」と突っ込みたい衝動に駆られたステラだったが、その通りなので突っ込みにはならないことに気が付いた。

 

 とはいえルキアも乙女回路を暴走させるタイプではないし、フィリップをぬか喜びさせるような無粋なことはしないだろう。ステラに「フィリップをうちに住まわせようと思うのだけれど、どうかしら?」と相談に来た時点で──どれだけ遅くともステラが「いいんじゃないか?」と答えた後には、公爵に話を付けてあるだろう。

 

 「……えっと、取り敢えず公爵様に挨拶してきますね?」

 「いや、もう話は通っている。向こう二年くらい世話になる旨だけ伝えればいいぞ」

 「……そりゃそっか。了解です」

 

 ステラと同じ結論に至ったらしく、フィリップは簡単に納得してダンスフロアを離れ──ぴたりと止まる。

 

 「待てよ? 向こう二年? なんで……あっ」

 

 ステラがここまで言う辺り、もしかして「絶対」と頭に付けてもいいくらいの確率で逃げられないのだろうか。

 そんなことを察したフィリップはダンスの余韻もすっかり消え失せ、とぼとぼとダンスフロアを離れた。

 

 幸いにして、探し人はダンスフロアとパーティーフロアの境界線の辺りで誰かと話しており、特に捜し歩くことも無く見つけられた。

 

 護衛の一人もいないのだろうかと心配になるほどすんなりと近づいていくと、公爵だけでなくその話し相手も見覚えのある顔だった──というか、家族だった。

 

 「お話し中すみません、公爵様。至急かつ重要な──あれ? お父さん」

 

 呼びかける前に声で気付いたようで、フィリップの父エドガーは満面の笑みを浮かべて振り向いた。

 

 「フィル、久しぶり。一年ぶりぐらいかな」

 「うん。龍狩りのときのパーティー以来だね」

 

 お互いに盛装していることも忘れ、固く抱擁を交わす。

 いつもは土と葉っぱの匂いを纏っていた父は、今日は長く着ていなかった服の匂いがした。

 

 「あの時は悪かったね。もっと沢山一緒に居たかったんだけど」

 

 整髪剤で整えられた髪をわしゃわしゃと撫でられても、フィリップは嬉しそうに笑っている。

 一年ぶりとは言うものの、龍狩りの折には殆ど会話する暇もなく二人とも帰ってしまったのだ。だから実質、再会は三年ぶりと言っていい。

 

 「仕方ないよ。お母さんが熱出しちゃったんだし」

 「母さんはこういう場は初めてだったからね。まあ、今日もまた体調を崩して別室にいるんだが」

 

 あとで会いに行こうね、とまた頭を撫でられて、フィリップは今度は曖昧に笑う。

 フィリップは初めてこういう公的な場に来た時も熱を出すほどの緊張とは無縁だったが、それは根性が据わっているからではない。父が知らない、知る由も無い精神の破綻が原因だ。

 

 それを明かす気はない。

 父の前では“いつかと同じ”フィリップ・カーターを演じきってみせる。

 

 あれ以前の自分がどんな風に笑っていたか、どんな風に甘えていたか、家族をどれだけ大切にしていて、どれだけその大切さを知らなかったか。もう思い出すことはできないけれど。

 

 そんなフィリップの心中を知ってか知らずか、公爵が咳払いを一つ挟み、エドガーにここが何処であるかを思い出させた。

 公爵閣下を放って家族との再会を喜び続けるわけにもいかず、二人は慌てて抱擁を解く。

 

 「確か、ヘンリード伯爵家の森番をされているとか?」

 「はい。身に余るご高配を頂きまして……日々、伯爵様のご期待に応えるべく精進を重ねております」

 

 慌てるあまり跪きそうになったエドガーだったが、パーティーの場であることを思い出して寸前で耐えた。

 フィリップは「失礼しました」と照れ笑いを浮かべているだけだが、それくらいの反応でいい。やはり慣れの差かと、エドガーは我が息子ながら感心した。

 

 「いやいや、私も伯爵の面倒を見ておりますが、あれは人を見る目に優れる。狩りの腕前もさることながら、薬草や山菜の知識にも長じておられるとか?」

 「いえ、滅相も──」

 「──はい。いつぞや僕がルキアに使った薬も、父が作り方を教えてくれたものですよ」

 

 久々の再会でテンションが上がったのか、或いはパーティーという非日常によるものか、フィリップが珍しく会話に割り込む。

 

 流石に無作法だと咎めようとしたのはエドガーだけで、公爵は興味深そうに頷いていた。

 

 「あの子が足を痛めた時にくれたという軟膏だね? そうだったのか。……ところでフィリップ君、何か用事があったのでは?」

 

 言われて、フィリップは自分が公爵を探していたことを思い出した。目的を忘れていたことに気付いた、と言うべきか。

 

 「そうでした!」なんて指を弾き、「卒業後の家、というか活動拠点についてなんですけど」と切り出すと、公爵は全てを察したように「あぁ」と端的に頷いた。

 

 「あぁ、ルキアから聞いているよ。うちに住むんだろう? 明日からよろしく頼むよ」

 「……はい。二年間お世話になります。よろしくお願いします」

 

 やっぱり話は通っていたと安堵しつつ、フィリップは折り目正しく一礼する。

 

 その後頭部に、公爵は意外そうな一瞥を呉れた。

 

 「おや、もっとゴネたり、質問するかと思ったのだが」

 「殿下にまで話が伝わってて何も言われないってことは、僕にとって最適な選択ってことですからね……」

 

 ふむ、と公爵は肯定的とも否定的とも思える曖昧な吐息を零す。

 忠誠や信仰とは違うが、強い信頼関係があるのは良いことだ。しかし、妄信的であるのは頂けない。

 

 将来的に公爵位を戴くことになるのだから、求められるのは君主に対する絶対的信頼ではなく、場合によっては諫めるための批判的思考だ。……まあ、それはルキアやガブリエラ(娘たち)が十分に果たしてくれるだろうけれど。

 

 「……話が見えないんだが、フィル、どういうことだい?」

 「あ、うん。冒険者になるって話はしたよね?」

 

 話をした、というか、手紙で伝えただけなのだけれど。

 

 「聞いたよ。まあ、貴族にならない方法を探すためっていう理由には賛同しかねるけれど……幸せになる方法を模索するのは悪いことじゃない。色々と試してみるといいよ」

 「……うん。で、冒険者として活動する間の拠点をどうするかって話になってて」

 

 それについても決まっていたはず、とエドガーは怪訝そうに眉根を寄せる。

 手紙の内容を一字一句覚えているわけではないが、息子が何処で何をしているかくらいは把握しているつもりだ。 

 

 「丁稚奉公に出てたタベールナに住むと聞いていたけど?」

 「そのつもりだったんだけど、パーティーメンバーから不満が出てさ……。一時の野営地ならともかく、長く住むならもっとマシなところにしろって」

 「そうなんだ。……あれ? タベールナって二等地の宿だよね?」

 

 王都外の人間にとって、王都の宿というだけでも十分に贅沢だ。

 そして二等地ともなれば、王都外の人間はバカンスで訪れることさえある高級宿。……もちろん大衆向けの安宿や、冒険者ギルドや衛士団と提携した長期契約向けの宿もあるのだが、王都外の人間はそこまで詳しく知らない。

 

 「……まあね。それで悩んでるって話をした友達が、うちに住まないかって言ってくれて」

 「…………冗談だよね? 聖下と?」

 

 たっぷり十秒は絶句したエドガーは、何か言おうとしては引っ込めるのを三度繰り返したのち、なんとかそう絞り出した。

 しかしそれきり何も言えなくなってしまったようで、フィリップを見つめるばかりだ。何か言おうと口をパクパクさせてはいるが、声は出ていない。

 

 その様子を愉快そうに見ていた公爵は、とうとう耐えきれなくなったように声を上げて笑った。

 

 「ははは。まあ、その辺りの話は私から。フィリップ君、まだ王女殿下とは踊っていないだろう? 行ってくるといい」

 

 ルキアともステラとも、練習の時から嫌になるほど踊ったが──そういう話ではないことくらい、フィリップにだって分かる。

 まあ、「きっと違うのだろう」と推測できるというだけで、フィリップ自身がそう思っているわけではないのだけれど。

 

 踊るのは面倒だ。神経を使うし、体力も使う。

 だがそれでも、ステラと踊らないという選択肢は、流石にない。

 

 「……はーい」

 

 フィリップは父親ともう一度抱擁を交わして、手を振って去っていった。

 

 

 

 



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392

 ステラの所に戻ろうと人波を縫って歩いていると、目の端に眩い光が突き刺さった。

 シャンデリアも、装飾ガラスから差し込む日の光も、じっと見つめでもしなければ目が眩むほどではない。

 

 何事かと目を向けると、絢爛豪華という言葉がこのホール以上に似合う人影がこちらに歩いてくるところだった。

 

 「我らが寵児。またお会いできる今日という日を心待ちにしておりました。この歓喜の一片でも貴方に伝わらぬことを願います。でなければきっと、貴方様が燃え朽ちてしまうでしょうから」

 

 黄金の──文字通り純金製だという全身鎧に身を包んだ騎士王、レイアール・バルドル卿だ。

 パーティーの場であるにも関わらずフィリップの前に膝を突き、手を取って額を当てた。フルフェイスヘルムに阻まれる口付けの代わりだろう。

 

 鎧は単純に考えて鉄製の鎧の2.5倍の重量、約80キロの重さがあるはずだが、流れるような所作からはそんな気配は微塵も感じられなかった。

 

 「その馬鹿みたいな鎧の反射光で燃えそうなんですが。というかなんで全身鎧に帯剣まで許されてるんです? 王女殿下も王妃様もいる空間ですよここ」

 

 腰に佩いた黄金の長剣、何かを掴んだ手の骨のような意匠のある魔剣インドラハートは、抜けば周囲の空気を毒に変えるのだという。

 正確には強烈な放電によってオゾンを発生させるのだが、糜爛性の毒ガスと考えればフィリップの認識に間違いはない。

 

 どう考えても即刻この場からつまみ出すべきなのだが、残念ながら、彼女は「守られる側」だ。

 

 「私も聖国の王ですので」

 「……あ、そっか」

 

 言われて漸く思い出す程度には、フィリップは目の前の黄金の騎士を対等に考えていた。

 

 「というか、お考えの通り、私は神なのですけれど」

 「神であることを前面に押し出すなら今すぐこの世界から出て行ってくださいね」

 

 にっこり笑顔のフィリップだが、その声に阿る色は一切ない。

 眼前の存在、黄金の騎士王は自分の言葉に従う。何の疑いも無くそう確信している──いや、()()()()()()()

 

 「おっと、これは失言でしたね。それはそうと、我らが愛しき子よ。一曲踊っていただけませんか?」

 

 壇上をちらりと見遣ると、楽器の入れ替えや再調整中だ。もう間もなく次の曲が始まるだろう。

 

 片膝を突いた騎士の姿は、純金の鎧というふざけた格好でも見惚れるほどに動きが洗練されている。これほど自信満々でなくとも、素晴らしい舞踏を魅せてくれるに違いないと期待できる。

 できるが──中身の体重が50キロだと仮定しても、総重量130キロオーバーだ。万が一足を踏まれでもしたら、ステラと踊れなくなるかもしれない。

 

 「……僕がステップをミスしても絶対に足を踏まないって約束してくれるなら、いいですよ」

 「勿論ですとも」

 

 レイアール卿はさも当然のようにフィリップの腰に手を添え、リードの姿勢だ。一応は女性の化身を象っているマイノグーラだが、ここは騎士王として振舞うつもりか。

 

 変に抵抗して足を踏まれるのも怖いので、大人しくリードと音楽に身を任せることにする。

 

 先のルキアほどではないが近めに抱かれ、しかし一切の危なげなく、人形でも操るように巧みなステップを踏むレイアール卿。

 いつの間にかフルフェイスヘルムが消え失せており、フィリップが見上げた先にはナイ神父と同じ浅黒い肌と漆黒の髪が露になっていた。

 

 黒い、いや、色が判然としないほどに昏い目からは、敬愛と、もうすっかり慣れてしまった愛玩の念が感じられる。

 

 「時に、我らが寵児よ。学院を卒業した後は冒険者になるそうですが、聖騎士などに興味はありませんか? いえ、聖国に来て頂けるのなら、聖騎士でも騎士団長でも王配でも国王でも教皇でも、どんな椅子でもご用意いたしますよ」

 

 ほう、とフィリップは興味深そうな吐息を漏らす。

 ナイアーラトテップとシュブ=ニグラスはともかく、外神の中でもはぐれ者のマイノグーラがここまでの拘泥を見せるとは思わなかったからだ。

 

 ここまでの、と言っても、人間社会の中での地位なんて、外神にもフィリップにも大した価値は無いのだけれど。それでも、条件を提示して勧誘するというのは意外だった。

 

 「……結論から言うとどれも要らないし行きません。ところで僕を教皇にして何を崇めるんですか? アザトース? あれは信仰されてることを知覚するだけの知能も知覚力もありませんよね?」

 「貴方自身に決まっているではありませんか。勿論、貴方がお望みならばシュブ=ニグラスでも一向に構いませんけれど」

 

 それはそれでアリですので、と笑顔を浮かべるレイアール卿だが、フィリップにとっては全くナシだ。現行の人類文明、人類社会が一神教を基盤として成立している以上、その崩壊はイコール、人類社会と文明の崩壊だ。

 そんなことが可能なのかは別として、人類がその営みによって唯一神を排するならともかく、外神の手で歪められるのは許容できない。

 

 というか、フィリップ自身を信仰したとて、神ならざるフィリップにはなんの返報もできない──いや、唯一神も碌な返報をしないし、大抵の邪神もそうなのだけれど。

 

 「僕を……信仰……? それはアレですか、聖人信仰的な……?」

 「まさか。貴方の価値が分かる者だけを集めた星にするのですよ」

 

 なるほど、と頷きかけたフィリップだったが、そもそも“魔王の寵児”が意味するものを理解できる時点で、それなり以上に智慧があることの証明だ。

 

 「カルトと邪神しかいない星になると思うんですけどその辺どうですか? 僕の敵になりたいなら面倒なので一人で勝手に死んでほしいんですけど」

 「ふふふ。勿論冗談です」

 

 クソみたいな冗談だった。

 相手が全身鎧を着ていることも忘れて思いっきり足を踏みつけてしまう程度には。

 

 勿論、レイアール卿には何の痛痒も無く、舞踏は緩やかな曲調に相応しい穏やかな終わりを迎えた。

 

 「ありがとうございました。また機会がありましたら是非に」

 

 フィリップの手の甲に口付けを落とし、顔を上げた時にはレイアール卿の頭はフルフェイスヘルムで覆われていた。

 恭しく一礼して去っていく後ろ姿に胡乱な目を向けていたのは数秒で、鬱陶しいほどに目立つ鎧姿は掻き消えたように人波に紛れてしまう。

 

 あれを見失う目ならシュブ=ニグラスの血でも注すべきだと自嘲していると、入れ替わりのようにぱたぱたと軽快な──この場には相応しからぬお転婆な足音が近づいてきた。

 振り返るまでも無く足音の主には見当がつく。 

 

 「あ、フィリップくん! ボクとも踊ろうよ!」

 

 探し人を見つけたと満面の笑みで手を振りながらやってくるエレナに、周囲からは生温かい視線が向けられる。

 人外の美貌の持ち主ではあるものの、エレナは「綺麗」というよりは「可愛い」と評すべき容姿だし、立ち振る舞いもそうだ。子供っぽい仕草が良く似合う。

 

 白いトーガ調のドレスはエルフの正装らしく、物珍しさから目を向けている者も多い。

 

 「エレナ。勿論いいよ」

 

 フィリップはちらりと足元に目を向け、エレナの靴がウエッジヒールであることを確認してから頷く。

 普段ミナが履いているようなピンヒールだったら普通に拒否するか、どうしてもと言うならヒールを折れと強く主張するところだったが、ウエッジソールなら踏まれても大丈夫だろう。

 

 ……多分。

 

 「今日は残念だったね、お父さんとお母さん……いや、国王陛下と王妃殿下? が来られなくって」

 

 手を取り合い、アップテンポな音楽に合わせて跳ねるようにステップを踏みながら、フィリップはそんな話題を選んだ。

 

 エレナの保護者と言えばリック翁が真っ先に思い浮かぶフィリップだが、エレナはどうやら両親とミナを会わせたかったらしい。

 ダンスの練習をしていたとき、ステラにエルフ王と王妃を招待したいと言いに来たくらいだ。

 

 ただ結局、その目論見は失敗に終わった。

 

 「うん……。まさか父様たちの方がダメって言うなんて」

 

 仕方ない。

 エルフが国交を回復したのは人類国家のうち王国ただ一つだけ。それもフィリップと衛士団を見て「まあ、こいつらなら……?」と妥協した末の国交回復だ。

 

 彼らの中には今も、以前の首都を焼かれた恐怖と憎悪が根付いている。長命種であればこそ、百年以上も前の惨劇の実体験を持つ者が多く生きているのだ。

 

 特に下手人の所属していた帝国への憎悪は大きい。

 尤も、彼はかつて帝国の魔術師であったというだけで、その時にはどこにも属さない流れ者だったのだが。

 

 「ところでフィリップ君、気付いてる? ボクたち、囲まれてるよ」

 「……はい?」

 

 やっぱりディアボリカはクソ野郎だな、なんて考えていると、エレナが顔を寄せてとんでもないことを囁いた。

 

 「ボクの後ろ、テーブル傍の赤いドレスのお姉さん。パンツスタイルのお姉さん。金髪七三のお兄さん。オールバックのおじさん……他にあと四人」

 

 言いながら、エレナはフィリップをリードして体勢を変えつつ周囲を確認させる。

 確かにエレナの言った通りの特徴の人間が、ダンスフロアを囲むように踊りもせず立っているのは確認できた。

 

 八人。それは不味い。非常に不味い。

 フィリップはいま非武装だし、動きづらいタキシードでは『拍奪』もまともに使えない。相手が魔術師なら領域外魔術も耐性で弾かれるだろう。

 

 戦闘になれば勝ち目は薄い。

 この場にはレイアール卿──マイノグーラがいるが、ルキアもステラもいる空間で、空気を毒ガスに変えるあの剣を抜かせるわけにはいかないのだ。

 

 「ルキアと殿下は?」

 「大丈夫。二人とも護衛に囲まれてるから。……凄いよ、あの人たち、さっきから二人の方に誰も近づけてない」

 「ならいい」

 

 見る限り、ルキアもステラも包囲に気付いた様子はない。

 何処の誰がどんな目的で取り囲んでいるのか知らないが、取り囲む時点でほぼ攻撃準備状態みたいなものだ。

 

 でなければそれこそ護衛──と、そこまで考えたとき、フィリップは視界の端でこちらに一礼する人影を見つけた。会釈程度だがはっきりと目を合わせて。

 エレナの言った、赤いドレスを着た女性だ。

 

 「……いや、多分、僕たちの方も気にしなくて良さそうだね」

 「赤いドレスの人と金髪七三の人、見覚えがある。殿下の親衛隊の人と、近衛騎士団長の息子さんだよ。殿下の……いや、もしかしたらエレナの護衛なのかも」

 

 フィリップが言うと、エレナは顔全体を綻ばせて安堵を示した。

 

 「味方なんだ、よかった……。皆凄腕みたいだし、あのパンツスタイルの子とか、結構やるよ。卒業生みたいな顔してるけど、絶対違う」

 「へぇ……え? あれマリー先輩じゃん。僕に蛇腹剣とかウルミの使い方を教えてくれた、軍学校のOGだよあの人」

 

 エレナがそう言うのだから、それはもうとんでもなく腕が立つのだろう。

 そう思って顔をよく見ると、なんと、そのお姉さんにも見覚えがあった。マリー・フォン・エーザー、マイナー武器の伝道師だ。

 

 彼女もフィリップの視線に気付くと、悪戯がバレた子供のようにニヤッと笑い、ウインクを飛ばした。

 

 「あ、ウインクしてくれた。……覆面の護衛とか?」

 「ふくめん……はちょっと分かんないけど、敵じゃなくてよかった」

 

 よかったと言いつつ、先ほどの安堵はどこへやら、今度は好戦的な目をしているエレナ。

 フィリップはそんな彼女に呆れたような溜息を吐きつつ、ダンスを最後まで踊り終えて礼を交わした。

 

 「なんでちょっと悔し気なのさ。……あとでミナと僕と二対一でもする?」

 「するー……。ドレスもヒールもそうだけど、やっぱり“お行儀よく”っていうのが無理……」

 

 お行儀良くして疲れちゃったよ、とでも言いたげだったが、さっき走ってきたのを見ているのでなんとも言えない。

 

 いや百歩譲ってそれはいいとして、ストレス発散の方法がステゴロというのはお姫様としてどうなのか。

 

 「お転婆プリンセスだなぁ……」

 

 そのくらいの方が楽しくていいけれど。

 

 

 



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393

 フィリップがステラを探してダンスフロアを彷徨い歩いていると、物凄い勢いで近づいてくる人影が目に留まった。

 エレナだけではなくフィリップのことも守ってくれるのか、或いは端から“龍狩りの英雄”の護衛なのか、マリーが止めようと動く。しかしこちらも見覚えのある近衛騎士団長の息子、金髪七三のアルバートがマリーを制した。

 

 相手が手を出すまでは様子を見ろ、という感じではない。その人なら通していいから、と宥めたような感じだ。

 

 突進してくる人影に目を凝らすと、なんとそちらにも見覚えがある──というか、実の母親だった。

 

 「ねえフィル、あんたの交友関係どうなってるの!?」

 「うわぁ!? お、お母さん!? 体調はもういいの?」

 

 平民に許された色であるベージュ色ベースのセミアフタヌーンドレスに身を包んだアイリーンは、先ほどまで体調を崩して別室に居たとは思えないスピードでやってくると、フィリップの肩をがっしりと掴んだ。

 もう大丈夫なのかと問う必要も無いくらい元気そうだ。

 

 「体調なんて! 控室で休んでたら、色んな人がお見舞いに来たのよ! あんたの担任だって言う小っちゃい子とか、学院長はまだいいわ。王妃殿下に、聖国王陛下、第一王女殿下とサークリス聖下までいらっしゃって、聖痕者様の前でおちおち寝ていられないわよ!」

 

 ちょっと泣きの入ったアイリーンに、流石のフィリップも同情する。

 というかフィリップも「なんかしんどい」とか「なんかお腹痛い」とか、ちょっとした体調不良で欠席しただけでルキアとステラが見舞いに来るのは居心地が悪かった。

 

 我慢して出席しようとすると、ミナが真っ先に気付く。彼女が寝ている隙を見計らって早めに教室に行っても、歩き方や姿勢でエレナにバレる。エレナが他の生徒と喋っていて気付かなくても魔力の流れでルキアとステラに悟られる。これ以上先に進んだことは無いが、多分、HR開始まで誰にも気付かれなかったとしてもナイ教授に保健室送りにされる。

 

 まあ、そもそもテストでもない限り体調不良を我慢するなんて苦行を、痛いのも苦しいのも嫌いなフィリップはしないのだが。

 

 「いや、学院長も聖痕者……待って? ナイ教授が?」

 

 何もしてないだろうな、と一瞬だけ思ったものの、ナイ神父は実家に泊まったこともある。

 化身が違うと性格も微妙に違うが、本質的には同一の存在だ。その在り方や行動原理は一貫している。……慇懃無礼の権化たる神に仕える者(神父)、煽り散らかすばかりの教え導く者(教師)となると、多少の揶揄を感じずにはいられないけれど。

 

 だがまあ、どちらにしてもフィリップを害することはないはずだ。その所有物や、大切な人たちもまた。

 

 思った通り、アイリーンは平然と頷く。

 

 「え? あぁ、物凄く丁寧な子よね。小さいのにしっかりしてて、ちゃんとあんたのことを見ててくれたんだって思ったわ。……いや、そんなことはどうでもいいの! 龍殺しが凄いことだっていうのは分かったつもりだったけど、王女殿下はそれ以前から友人だったって仰られるし、どうなってるの!?」

 「確かに……」

 「確かにって、あんたねぇ……失礼なこと、してないでしょうね?」

 

 フィリップは沈黙した。

 

 してない、と言いたいところだが、つい先日もダンスの練習中に足を踏んでいる。

 それを思い出さなければ「してないよ」と笑えただろうが、フィリップの素直な表情筋は「やばい」という内心をそのまま映し出し、そしてアイリーンも10年間はフィリップを育ててきた。表情の動きも、その意味も十分に分かっている。

 

 「……何したの」

 

 恐る恐るといった風情で尋ねるアイリーンに、フィリップは視線を遠くに投げて思い出す。

 

 「い、色々……。足踏んだり、汗拭いて貰ったり、魔術で水出して貰ったり……」

 

 アイリーンは絶句した。

 

 そしてフィリップもまた黙り込む。

 

 エトセトラ、だ。

 この数週間に限ってもこれだけある。

 

 というか、単に第一王女と一平民という立場だけを考えるなら、足を踏んだ時点で無礼討ちに首を刎ねられてもおかしくない。或いは宰相でさえも、相当なペナルティが科せられることだろう。

 

 改めて考えると、ただの平民の子供が随分と舐めたことをしてきたものだ。

 

 ──まあ。

 

 「──反省なんて、寂しいことをしてくれるなよ。カーター」

 

 いつの間にかすぐ後ろまで来ていたステラが、揶揄うような、しかし咎める気配も確かに漂わせる声を出した。

 対して、フィリップは軽く肩を竦める。

 

 「しませんよ。殿下にとって僕がそうであるように、僕にとっても殿下は必要不可欠な存在ですからね」

 

 フィリップの言葉に、ステラはこれ以上何も言うことは無いとばかり満足そうな笑顔を浮かべる。

 対照的に、アイリーンは生温かい、そして何とも言い難いような目を向けていた。

 

 「……フィル、そういうことはもう少し大きくなってから言いなさい」

 

 呆れ声のアイリーンに「なんで?」と明記された顔を向けていたフィリップだが、ちょっと考えて、自分が中々に際どいことを言ったのだと気付いた。

 

 「……口説いたわけじゃないよ!? ただの事実! ね、殿下?」

 「そうだな。……っと、最後の曲が始まる。行こう」

 

 クスクスと忍び笑いを漏らしていたステラが、チューニングや楽器の入れ替えが終わったことを察してフロアを示す。

 

 ちょうどその時、人波を割って──淑やかな足取りが聖人の御業の如く人の海を割り、ルキアがやって来た。

 

 「居た。フィリップ、ステラ、最後の曲──あぁ、行くところね。なら呼びに来る必要も無かったかしら」

 「いやいや、ありがとうございます、ルキア。……あ、そうだ」

 

 最後の一曲を踊ろうとフロアに入っていく人たちの中、フィリップは出来得る限り恭しく跪き、ステラに手を差し伸べた。

 

 「僕と一曲踊っていただけますか、マイフェアレディ」

 

 単なる思い付きの悪ふざけ。

 ただし所作はナイ神父とフレデリカを真似て、台詞は以前に読んだ本からの引用だ。間違いがあるはずもない。

 

 だがフィリップのキャラではない。

 ステラに「急にどうした?」と苦笑され、ルキアも何も言わずに苦い笑いを浮かべるだけだろうと予想していたフィリップだったが、しかし、ルキアはステラに正気を疑うような冷たい眼差しを向けた。

 

 「…………私が教えたんじゃないぞ? その死ぬほど軽蔑した目をやめろ。私が蛇だったら冷気で死んでる」

 

 身体を傾けるほど思いっきり引いているルキアに、ステラが慌てて弁解する。

 あのステラが慌てるほど、ルキアの表情は冷たい軽蔑の一色だった。

 

 なんか間違えたかな? とフィリップは二人の顔を交互に見て首を傾げる。そっと立ち上がったとき、アイリーンは少し離れたところで震えていた。顔を真っ赤にして、聖人二人の前で噴き出さないように必死に堪えている。

 

 「本で読んだんですけど、変ですか?」

 「……そうね。私たちの年では使わない言い回しというか……」

 

 ルキアが言い淀み、擁護のしようがないレベルで間違っていたのだと察しが付いたフィリップは、苦みの深い照れ笑いを浮かべるほかない。

 

 「長年連れ添った者相手に使う呼び方だな。私たちの年で使うと、なんというか、気取りすぎている感じがする」

 「年もそうだけど……いえ、これ以上はいいわ。それより、そろそろ始まるわよ」

 

 ダンスフロアから音が消えている。

 音楽が始まる前の、最初の静寂だ。

 

 「そうだな。行こうか、カーター」

 

 ステラが差し伸べた手を取り、絡まり合うようにスタンスを取ってフロアに立った直後、演奏が始まった。

 

 ギリギリ間に合った、と目線だけで安堵を共有し、同時に笑顔を浮かべる。

 終宴に相応しいスローテンポな曲に合わせて、身体を寄せ、ステップを踏む。

 

 曲目と順番が発表された時からステラと踊ろうと言っていた曲だ。何度も何度も一緒に練習して、この曲に限ってはステラの癖まで理解している。慌てていても、話していても、間違えることはない。

 

 「……二年と半年、どうだった?」

 

 問われて、フィリップは魔術学院に編入するに至る悪魔の襲撃から、つい先日のツァトゥグア神との遭遇までをざっと思い出す。

 

 三年生になってからは実習続きであまり校内には居なかったが、それでも、学院で過ごした思い出は濃い。

 

 「……色々ありましたね。編入初日に決闘を挑まれたり、下級生に絡まれたり。修学旅行じゃとんでもない羞恥責めに遭いましたし、帰ってきたら吸血鬼に攫われましたねぇ……」

 

 しかも吸血鬼のペットになって帰ってくることになるとは、編入前には想像も出来なかった。

 ヴィカリウス・システムなんて超常の存在に懐かれたこともそうだが、意外と想定外の連続だった。──まあ、そもそも盲目白痴の魔王に愛されたこと自体、意味不明なのだけれど。

 

 「あれは驚いたな。お前が夜中に徘徊した挙句低体温症で死にかけていた交流戦ほどじゃなかったが」

 「ねえそれまだ言います? 身に覚えがないんですってば」

 

 過ぎたことで怒られるのも揶揄われるのも好きではないが、身に覚えのないこととなると猶更だ。

 ルキアがあんなにも取り乱したのだから、もう嘘や冗談だと疑ってはいないが、それでも気に食わない。

 

 覚えていたって誰も幸せにならないのだし、早く忘れて欲しいところだ。

 

 「ははは。それだけ驚いたし、怖かったからな」

 

 落ち着いた笑い声と共に、ステラの手に少しだけ力が籠る。

 フィリップは繋いだ手ではなく、腰に添えた方の手に力を籠め返した。

 

 「殿下、僕のこと大好きですもんね」

 「そうだな。お前が私のことを好きな程度には好きだよ」

 

 冗談に、即座の冗談が返ってくる。

 打てば響く、という言葉が相応しい反応速度は、一片の嘘や誇張も無いからこそだ。

 

 「いえーい、相思相愛ですね」

 

 フィリップが真顔で言うと、ステラも「そうだな」と真顔で頷く。

 

 そしてしばらく、二人とも目を合わせない時間が続いた。

 耳慣れない音楽と、身体に染みついた動き。惰性で身体を動かさなければ蹲ってしまいそうだ。

 

 フィリップは斜め下、ステラは斜め上に視線を投げ、口を真一文字に引き締めようと奮闘すること数秒。

 

 二人はほぼ同時に失笑した。

 

 「ふふふ……」

 「くくく……」

 

 アイリーンに「口説くならもっと大人になってからにしろ」と言われてから、じわじわと溜まっていたものが遂に決壊したのだった。

 

 恋とか愛とか、二人の関係はそういう色っぽいものではない。

 クラスメイトや友人の域は出ているし、親友と称してもまだ足りない気がする。家族よりもお互いのことを知っている──勿論そんなはずはないのだけれど、そんな気がするほどに、心の距離は近い。

 

 しかしお互いに、恋愛的な意味で好きかと訊かれると、「いや別に」と口を揃える。

 その口で「でも好きは好き。相手の為なら死ねる」と口を揃えるのだから分からない。並の恋人同士よりも重い感情だろうに。

 

 しばらく笑って、またしばらく踊り、遂に曲が終わる。

 

 お互いに一礼してルキアの方へ戻りながら、ステラがふと口を開いた。

 

 「私の部屋の場所は覚えているな? いつでも遊びに来い」

 「勿論。休日のたびにルキアと一緒に行きますよ」

 

 即答だった。

 フィリップは冗談めかしているものの、本気で暇さえあれば行こうと思っているし、本気でルキアも巻き込むつもりでいる。毎週末に遊びに行ったとしても、学院にいる時よりずっと会える日が減るのだから。

 

 その本気度を声や表情から読み取り、ステラは呆れ混じりの苦笑を浮かべた。

 

 「それはちょっと私のことが好き過ぎないか?」

 

 ルキアは公爵家で内政補佐、ステラは今までも学業の傍らでこなしていた公務に専念。そしてフィリップは勿論、冒険者になる。

 

 三人とも王都にいる時もあれば、誰もいない時もあるだろう。

 これまでのように毎日顔を合わせるどころか、毎週末でも難しいかもしれない。休日だって、王都外から戻ってきたフィリップは公爵邸の大きなベッドから出たくないかもしれないし、ルキアやステラも疲れ果てているかもしれない。

 

 だが、そんなのは知ったことじゃない。

 どれだけ疲れていても、もう何もしゃべれないくらい疲労困憊でも、何も喋らなくても、何もしなくても、ただ一緒に居るだけで心は安らぐ。

 

 ルキアとステラとフィリップは、そんな不思議な関係だった。

 

 「殿下が僕のことを好きな程度には好きですよ」

 

 先の言葉をそのまま返され、ステラは「そうだな」と軽く肩を竦める。そして。

 

 「まあ、あと二年もすればお前は所領と王都を行ったり来たりする身になるわけだが」

 

 無慈悲にそう宣告した。

 ちょうど合流したルキアは「もうちょっと余韻に浸ったら?」と呆れ笑いだ。

 

 フィリップもルキアにつられて笑みを浮かべたが、心中には強い決意の炎が燃えていた。

 

 「絶対に逃げ切ってやる……!」

 

 ──なんて。

 

 ステラが宣言し、ルキアが何も言わない時点で、まず無理なのだけれど。

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 ボーナスシナリオ『卒業式』 ノーマルエンド

 チャプター1『魔術学院編』終了です。
 GMは妥当な量のボーナスを与えることができます。

 次回からチャプター2『冒険者編』が始まります。


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子喰いの洞窟
394


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ17 『子喰いの洞窟』 開始です

 推奨技能は各種戦闘系技能、【サバイバル】等の野外探索技能、【クトゥルフ神話】です。


 ある春の日の朝。

 柔らかく体を抱擁する滑らかな手触りの高級寝具に包まれたフィリップは、機械式壁掛け時計の鐘の音で目を覚ました。

 

 体を起こすと同時にカーテンが開かれ、眩しい朝の光を広い部屋の中に取り入れる。それを後光の如く背負った人影が、フィリップに恭しく頭を下げた。

 

 「おはようございます、カーター様」

 

 折り目正しい所作の中にも敢えて作られた隙があり、それが親しみやすさと人間味を作り出している。

 クラシカルなモノクロームのメイド服に身を包んだメグは頭を上げると、寝ぼけ眼でぼーっとしているフィリップに柔らかく微笑みかけた。

 

 「……おはようございます、メグ」

 

 同じ部屋の中にある洗面台で顔を洗って寝室に戻ると、メグは着替え一式を持って待っていた。

 

 着替えはフィリップの私物ではない。

 正確には、フィリップが持っていたものではない、と言うべきか。

 

 公爵邸に迎えられてから二週間。

 フィリップが今まで持っていた服は殆どが倉庫に押し込まれ、普段使い用のクローゼットには公爵家が用意した仕立ての良い衣服が並んでいた。

 

 下着も含むあらゆる着衣のグレードが数段飛ばしで跳ね上がり、シルクらしきサラサラのパジャマに皺を付けるまいと固まって寝るどころではなかったのも全ては過去の事。今や顔を洗ったときに水が跳ねても気にしていない。

 

 フリル付きシャツとベストに着替えて食堂へ向かうと、既にサークリス公爵家が勢揃いしていた。

 

 「おはよう、フィリップ君」

 「おはよう、フィリップ」

 

 長いテーブルの最奥、食堂に入る人間を真っ先に見られる上座に着いた公爵と、一番近くにいたルキアが同時に挨拶する。

 フィリップが挨拶を返すと、次席のオリヴィア・フォン・サークリス公爵夫人、その次席、次期公爵にしてルキアの姉であるガブリエラ・フォン・サークリスも手を振りながら挨拶してくれた。

 

 彼女らにも挨拶を返すと、食堂の扉が開いてエレナとミナが入ってきた。

 朝っぱらから興奮した様子で頻りにミナに話しかけているエレナとは対照的に、ミナは欠伸を片手で隠していて、まだ眠そうだ。

 

 二人にも挨拶をして、三人とも席に着く。

 ミナはごく自然に上座の方に向かったが、途中で自分がゲストであることを思い出してフィリップたちの方に戻ってくる。

 

 席次はサークリス公爵から順に、公爵夫人、ガブリエラ、ルキア、ミナ、エレナ、フィリップの順だ。

 つまり公爵夫人とガブリエラ、ルキアとミナ、エレナとフィリップが向かい合う形になる。ルキアとフィリップは斜向かいだ。

 

 「全員が揃うのは珍しいね。初日の顔合わせ以来かな?」

 

 王国の中で間違いなく五指に入るレベルで多忙な宰相と、その補佐のガブリエラ。公爵家内部や所領での内政を執るオリヴィアと、その補佐のルキア。皆忙しく、宰相とガブリエラに至っては帰って来ない日もあるくらいだ。

 

 こうして同じテーブルに着くのは、公爵の言う通りかなり珍しいことだった。

 

 メイドたちがてきぱきとフィリップたちの前に配膳し、もう食事を終えていた公爵一家の分の皿を下げていく。

 注文も配膳もなく出されたものを食べるだけの食事にはまだ慣れないフィリップは、学院にいた時のように「水取ってきます」と席を立ちかけて、即座に動いたメグがグラスを持ってきてくれた。

 

 何人かに苦笑されながら座り直し、公爵の言葉に応じる。

 

 「そうですね。皆さんご多忙ですし、エレナも帰ってきたばかりですし」

 「ほう。最強パーティー、遂に始動だね」

 

 魔術学院卒業から二週間。

 フィリップたちは未だ冒険者として正式に活動を開始していなかった。エレナが近況報告のためエルフの集落に戻っていたからだ。

 

 公爵邸に荷物を移した翌日には王都を出て、帰ってきたのは昨日の夕方だった。

 これで漸く、満を持して、フィリップたちは冒険者として動き出せる。

 

 「龍狩りの英雄に、エルフのお姫様、吸血鬼の女王様。すごいパーティーだね!」

 

 楽しそうに言うガブリエラに、公爵も「そうだね。期待の新星だ」と頷く。

 

 「無茶しちゃ駄目よ、フィリップ。常に自分の心身の安全を最優先に考えて」

 「そうね。まあ、ウィルヘルミナさんがいれば安心だとは思うけれど」

 

 ルキアとオリヴィアが「いいわね?」とフィリップに念を押すような一瞥を呉れる。

 確かにパーティー内でもこのテーブルの中でも、一番弱いのはフィリップだ。ルキアは言うまでも無く、オリヴィアは元宮廷魔術師筆頭、ガブリエラは現役の宮廷魔術師だ。宰相の戦闘力は未知数だが、ルキアの父親なのだから凄まじい魔術適性の持ち主だろう。

 

 しかし、パーティー内で一番危なっかしいのがフィリップかのように言われるのは心外だ。

 

 「はい。……いや、一番危なっかしいのはエレナですけどね?」

 「え、ボク? そうかな?」

 「無自覚なのが殊更に危なっかしいわね」

 

 パーティー内、フィリップとミナの意見は一致している。

 

 ミナはそもそもとんでもなく強いし、苦戦を強いられる相手──面倒な相手とは極力戦わない。危機管理ではなく単純に面倒臭いからだが、安全が確保されることに変わりはない。

 

 フィリップは危機意識が死んでいると言っても差し支えないが、ミナが「やめておけ」と言えば大抵従う。勿論、カルト相手なら話は別だが、フィリップはそもそもカルト相手に手心を加えない。自力で惨殺できないと判断したが最後、何の躊躇もなく邪神を呼び、殺す。

 

 そしてエレナはと言うと、誰かの為ならたとえ火の中水の中、アトラク=ナクアの次元超越糸で編まれた巣の中にだって飛び込んでいく。他人のために我が身を顧みない善性は凄まじいの一言だ。

 その善良さはフィリップも認めるところだが、あまり憧れを抱かないのは、やはり彼女が異種族だからだろう。

 

 カルトを前に敵意と害意を剥き出しにした、ルキアやステラでさえ怯む状態のフィリップ相手にさえ突っかかってくるのだから、かなりの鈍感か命知らずのどちらかだ。

 

 そんな彼女がパーティーリーダーであり、また性格的にも一番アクティブなのだから怖い。

 

 「まあ、最初はCクラスの簡単な依頼しか受けられないし、龍狩りの時よりずっとマシです。そんなに心配しなくても平気ですよ」

 

 その龍狩りの時に自分の身を犠牲にしてまでルキアとステラを助けようとした過去があるから心配なのだが、フィリップは安穏と笑っている。

 

 確かにCクラス冒険者に回される依頼は、難易度的にはそう危険なわけではない。

 Dクラス相当となる小型~中型害獣駆除の域を超え、魔物の討伐やダンジョンの調査といった専門知識や戦闘能力が求められる依頼にはなるが、このパーティーなら何も問題はない。

 

 というか、探索はエレナ一人、戦闘はミナ一人で十分に事足りる。

 

 そんなことを考えていると、懐中時計を確認した公爵が「おっと」と慌てたような声を上げた。

 

 「おっと、そろそろ時間だ。行こうか、ガブリエラ」

 「はい、お父様。じゃあみんな、行ってきまーす!」

 

 にこにこ笑顔で手を振りながら食堂を出て行くガブリエラの後に、オリヴィアと抱擁と口付けを交わしていた公爵が続く。

 まだ食事中だったフィリップとエレナは慌てて口の中のものを飲み込んで「行ってらっしゃい」と声を揃えるが、ミナは一片も気を払うことなく血液入りのワインを楽しんでいた。

 

 二人が食事に戻るより早く、公爵の後を追うようにオリヴィアとルキアも席を立つ。

 

 「私たちもそろそろ始めましょうか。今週中に例の治水工事の件、目途を付けておきたいわね」

 「えぇ、お母様。……フィリップは食べ終わったらすぐに出るの?」

 

 ちょうどスープを啜ったところだったフィリップはまず頭の動きだけで答え、嚥下してから言葉も添える。

 

 「あ、はい。荷物の準備は出来てるので、着替えたら」

 「そう。お母様の執務室にいるから、出発する前に声をかけてくれる?」

 

 何かお使いでも頼まれるのだろうか。日帰りの依頼を受けるとは限らないので、誰か別な使用人を行かせる方が確実なのだけれど──なんて考えつつ、フィリップは軽率に頷いた。

 

 「分かりました。お仕事、頑張ってくださいね」

 「えぇ、ありがとう」

 

 穏やかな微笑を残して食堂を後にしたルキア。

 フィリップが彼女の言いつけ通り公爵夫人の執務室を訪れたのは、その30分ほど後のことだ。

 

 厚く固い高級木材のドアを叩くと、もしかしたら部屋の中にノックの音が聞こえないのではないかと心配になるほど重厚な感触が手に返る。

 

 「ルキア? そろそろ出発するんですけど、何か用事ですか? お使いとかだったらメモとか──」

 

 勿論そんなことはなく、フィリップが最後まで言い終えるより先にルキアが扉を開けた。

 

 「そうじゃないわ。勘違いさせたわね、ごめんなさい。ただ玄関まで見送りたかっただけなの」

 

 行きましょう、と先導するように歩き出すルキアに、フィリップは嬉しさと困惑が綯い交ぜになったような曖昧な笑みを浮かべる。

 

 好意で言ってくれているのは間違いないのだろうし、それ自体は嬉しいが、わざわざ見送りに来る意味は分からない。

 いや、意味なんてないのかもしれないけれど、だとしたら尚更見送りになんて来なくていい。なんだか忙しそうだったのだし。

 

 「え? いや、いいですよそんなの。お忙しいんでしょう?」

 

 ルキアは卒業以前から「家の用事」と言って欠席することが偶にあったが、卒業してからはフィリップと遊ぶ──もとい、戦闘訓練をつける暇もないほど忙しそうにしている。

 時間を見つけて訓練を付けてくれるときも、ふとした瞬間に疲れが見えるのだ。家業に戻っただけとはいえ環境や生活習慣が激変したわけだし、無理もない。

 

 だからこそフィリップの見送りなんて無駄な時間を排して、さっさと仕事を終わらせてゆっくり休んでほしいのだけれど。

 

 「……駄目かしら?」

 

 変わらず微笑を浮かべてはいたものの、どこか寂しそうに眉尻を下げたルキアに、フィリップは妙な罪悪感を覚える。

 フィリップとしては真っ当にルキアを案じて尊重したつもりなのだが、なんだか悪いことをした気分だ。

 

 「……じゃあ、お願いします」

 

 ステラは以前「フィリップの周りには彼に甘い女しかいない」と評したが、フィリップも大概、身内には甘いようだ。或いは自称する通り、美人に弱いのか。

 

 ルキアと並んで玄関まで行き、ドアマンが開けてくれた扉を潜る前に、フィリップは振り向いて手を振った。

 

 「行ってきます、ルキア」

 「えぇ、行ってらっしゃい、フィリップ。気を付けてね」

 

 なんてことのないただの挨拶、学院に居た頃でも偶にあったなんてことのない遣り取りなのに、フィリップは妙に気恥ずかしかった。ルキアが平然としているから、自分だけが浮かれているようで尚更にそう感じる。

 

 なんというか、家族が──姉ができた気分だ。

 兄が居るといっても、遊びに行く時にはずっと一緒だったし、むしろフィリップを引っ張って率先して馬鹿をやるタイプだったから、見送ってくれるのは母くらいのものだったけれど、流石に年齢的にルキアを母親と同一視はできない。

 

 公爵邸の門を出ると、既に準備を終えたエレナとミナが待っていた。

 冒険者でも依頼受注前は王都内を武装して移動できないが、そこはミナに『龍貶し』を預けることでクリアしている。

 

 「よーし、準備はいいね? それじゃ、冒険者ギルドに行くぞーっ! 冒険の始まりだーっ!」

 

 エレナの号令に、フィリップも拳を突き上げて応じる。

 

 冒険者としての初仕事がどんなものになるのかは、まだ分からない。

 けれど──まあ、どうにか、いや、どうとでもなるだろう。

 

 「勿論目指すはAクラスだけど、目的に囚われないようにね! ボクたちは冒険するために冒険するパーティーだってことを忘れず、楽しんでいこう!」

 

 フィリップとエレナとミナ。

 “龍狩りの英雄”にエルフの姫君、そして吸血鬼の女王。

 

 三人で出来ないことなど、あんまりない。

 

 

 

 

  

 

 



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395

 冒険者ギルド、或いは冒険者組合と呼ばれる組織の王都本部は、二等地の大通りにあった。

 二等地最大の建造物である石造り四階建てのギルド本部を、フィリップとエレナは「これが……!」と感動の表情で見上げる。

 

 エレナはともかく、フィリップも冒険者ギルドという冒険譚ではお馴染みの舞台を前にして興奮気味だ。

 

 扉を開けると、宴会の後の食堂のような独特の匂い──飯と酒の匂いが鼻を突く。

 広いフロアの最奥に受付カウンターがあり、入口からそこまで伸びる道の左右には、四人掛けや六人掛けのテーブルが所狭しと並んでいて食堂のようだ。

 

 その二割ほどが埋まっており、冒険者らしき者たちが昼間から酒を飲んでいる。

 フィリップはなんとなく筋骨隆々の男たちが屯しているようなイメージを持っていたのだが、大抵は中肉中背だったし、女性もそれなりに見受けられた。

 

 三人が中に入ると、酔っぱらいの上機嫌な笑い声が飛んできた。

 

 「ははは! 春だな! またガキか!」

 

 どういう意味だろう、と思ったのはエレナだけだ。ミナはそもそも人間の鳴き声に注意を払っていない。

 そしてフィリップは言葉の意味を理解して、苦笑交じりに肩を竦めた。

 

 王都の冒険者ギルドには、王国中の支部からそこでは解決できなかった依頼や国や貴族からの依頼が並ぶ。

 暗黒大陸と接している南端部のギルド支部と、依頼の上限難易度が然程変わらない。

 

 つまりここを活動拠点にするのは素人には難しいわけだが、毎年このくらいの時期になると「冒険者になりたくて」と田舎から出てくる子供が増えるのだ。本で読んだり、実際に田舎の村を訪れた冒険者に話を聞いたりして、冒険者と──王都の素晴らしい住環境に憧れて。

 

 フィリップは一応魔術学院で冒険者コースを選択し、Cランク冒険者のライセンスが発行されているわけだが、それは見た目からは分からないし無理もない。笑い声はかなり遠くのテーブルからだったし、冒険者に憧れて田舎から出てきた子供にでも見えたのだろう。

 

 近付いてよく見れば“龍狩りの英雄”だと分かるだろうが。

 もし“英雄”の顔を知らなかったとしても、既に十人以上の冒険者を惨殺している高位吸血鬼と一緒に居る時点で「冒険者志望の田舎者」とは見られないはずだ。

 

 どちらも知らなければ、それはちょっと冒険者として情報収集能力に疑問がある。未知は大敵だと誰か教えてあげて欲しい。

 

 「フィリップ君、危ないよ」

 「ぐえ」

 

 なんとなく声のした方を見ながら歩いていると、エレナが警告と共にフィリップのリュックを引っ張った。

 不意に加わった力に抵抗もできず引っ張られると、身体に遅れた足に何かがぶつかり、目の前でべしゃっと潰れる。

 

 見ると、ジョッキを持った男が仰向けに倒れていた。

 

 「っ! おい、いってぇな! てめぇ!」

 

 ビールを被った赤ら顔の男は、アルコールだけではなく怒りの色も顔に足しながら立ち上がってフィリップに詰め寄る。

 

 「あ、すみませ……? いや、今の僕が悪いですか? 後ろ向きに歩いてきたそちらの落ち度では?」

 

 自分の足に引っかかって転んだからつい謝りそうになったが、直前で思いとどまる。

 男は仲間と喋りながら後ろ歩きで向かってきたし、エレナがフィリップを退けなければ普通にぶつかっていた。こちらが謝る必要は無い。

 

 「なんだと!?」

 

 呂律の怪しい声を荒げ、男はフィリップに向かって手を伸ばす。

 フィリップは左手を伸ばし、エレナは腰を落として構え、建物の内装を観察していたミナは無感動な一瞥を呉れ──直後、エレナとミナの目線があらぬ方向へと飛んだ。

 

 いや──飛んでいった男を、反射的に目で追っていた。あまりの速度故に、フィリップが見失った男を。

 

 胸倉を掴もうとしていた男は消え失せ、その代わりのように、フィリップの前には鎧姿の男が立っていた。

 

 「──すまない。俺の友人が粗相をした。あれで勘弁してやってくれないか」

 

 そう語る男の目はフィリップもエレナも見ていない。

 真っ直ぐ逸らさず、睨みつけるような鋭い眼光をミナ一人だけに注いでいる。

 

 あれ? と男が示す先、フィリップたちが入ってきたドアの方を見ると、入口のすぐ隣の壁に男がへばりついて白目を剥いていた。

 

 フィリップの動体視力では見切れなかったが、エレナとミナは何が起こったのかを見ていた。

 彼はミナの意識が建物の内装からペットに絡んでいる人間に向いた瞬間、遠くのテーブルから筋力強化と速度強化の補助魔術を使って一瞬でやってくると、絡んでいた男を壁まで蹴り飛ばしたのだ。

 

 見る限り男は気絶しているようだが、死んではいなさそうだ。

 一緒に居た仲間が駆け寄って介抱しているが、何も言わずに担いで出て行ったから大丈夫だろう。

 

 ……鎧の男は、どうやらかなりのやり手らしい。

 手加減の巧さもそうだが、ミナが動く寸前で──ギルドのド真ん前に血染めの彼岸花が咲く前に介入した。

 

 「……あなた、あの人とパーティーを組んでるの? 見た感じ、強さが全然釣り合ってないみたいだけど」

 

 好戦的な笑顔を浮かべたエレナの問いに、男はフルフェイスヘルムで覆われた頭を振る。

 

 「いや。だが、以前に一度酒を奢ってもらった。……見るに、そちらのパーティーも強さの格差は大きいようだが」

 

 言って、男はミナから視線を切り、エレナとフィリップを順番に見遣る。

 

 「言うまでも無く、そちらの吸血鬼が突出している。だが彼女を省いても、君とそちらの少年には大きな差がある。荷物持ちにも見えるが──拍奪使いだな。だが、彼が君を殺すには彼があと二人必要だ」

 

 へぇ、とフィリップとエレナは顔を見合わせる。

 フィリップが三人いないと殺せないエレナが褒められたのか、三人程度でエレナを殺せるフィリップが褒められたのか、二人とも判断しかねていた。

 

 いやまあ、単に感情や意味を交えず事実を述べただけである可能性が一番高いのだけれども。

 

 そんな二人を他所に、男は淡々と続ける。

 

 「パーティーは構成要素の強さを均一化するべきだ。君もその吸血鬼も、それを理解できないほど経験が浅いわけではないだろう。ならば……道楽か?」

 

 依然として顔は見えないが、くぐもった声に僅かな険が籠る。

 身構えたのはフィリップだけだ。エレナもミナも、男に敵意がないことは姿勢や重心の位置を見れば簡単に分かる。尤も、フィリップが身構えた理由も「怒られるのだろうか」と嫌がっただけだが。

 

 「感心せんな。あそこに並ぶ依頼票の数は、困窮する人の数だ。ここは異種族の遊び場ではない」

 

 男が指す先の掲示板には、赤と白の紙が所狭しと、重なり合うように大量に貼り出されている。

 

 遊び、と。言われてしまえばそうなのだろう。

 エレナは冒険するために冒険すると宣言している。ついでに依頼を受けたら人助けまで出来て一石二鳥だと。

 

 フィリップは言わずもがな、貴族にならずに済む道を探すために──恐らくとんでもなく難しく煩雑であろう勉強から逃れるために、衛士団を目指している。冒険者はただの踏み台……というと聞こえは悪いが、過程に過ぎない。

 

 ミナに至っては、ペットのお散歩感覚だ。行きたい方向に行かせ、やりたいことをやらせているだけ。度を超えて面倒になったら依頼を放棄して帰ることもあるだろう。

 

 遊んでいるように見える、どころの話ではない。

 現実に、誰もが遊び感覚でここにいる。

 

 「それは──」

 「──話が長引くようなら、私とフィルで先に手続きを済ませておくわよ」

 

 エレナが言い淀んだ隙間に、面倒そうなミナの声が挟まる。

 悠然と歩いて男の隣を通り抜けるミナを、彼は引き留めようとはしなかった。むしろ半歩ほどずれて、道を開けたくらいだ。

 

 ここでミナに絡むような馬鹿なら、馬鹿が馬鹿故に馬鹿なことをして死ぬだけだっただろう。

 しかしそこまで物分かりが良いと、眼前の男を最低限の思考能力を持った人間であると認めざるを得ない。フィリップもなんとなく申し訳ない気分になる。

 

 「あー……その、なんて言うか、上位者がどこでどう遊ぼうと、劣等種にどうこう言う権利は無いですよ?」

 「ちょっと、フィリップ君!?」

 

 だからといって、彼の言葉に同意できるほど、フィリップの視座は低くないのだけれど。

 

 火に油を注ぐが如き暴言一歩手前の主張に、エレナが「何言ってるの!?」と目を剥く。しかし、男は的確な反論だとばかりしかつめらしく頷いた。

 

 「む。それは確かにそうだな……」

 「納得しちゃった!?」

 「一応弁解しておくと、僕らも遊びに来たわけじゃないです。結構本気でAクラス冒険者を目指してるので」

 

 去り際に淡々と言い残したフィリップの言葉に、フルフェイスヘルムの正面がエレナを離れる。

 シェードで遮られた視線が追ってくるのを感じて、フィリップも応じるように足を止めた。

 

 「ほう。それは──」

 

 男の声が僅かに揺れる。

 口角が笑みの形に歪んだゆえの声の震えだ。

 

 是非とも詳しく問い質し、語らいたいと、そんな感情も見え隠れしているが──残念ながらフィリップにもその飼い主にも、それに応じてやる理由は無い。

 

 「──フィル、早くしなさい。パーティー登録するんでしょう?」

 「あ、うん」

 

 呼ばれるがままトコトコと足早に去っていくフィリップの背中を、エレナは物言いたげな目で見送る。

 心なしか鎧の男もあっけに取られているような気がした。

 

 「……なんかごめんね? でも、あの子の言った通りだよ。あの子は憧れに惹かれてここに来た。姉さまはあの子を守るためにここに来た。そしてボクは冒険を求めてここに来た。そして勿論、困っている誰かを助けるためにね」

 

 苦笑を収め、真剣な眼差しでフルフェイスヘルムの奥にある双眸を見透かすエレナ。

 その表情か、声か、言葉の内容か。何が琴線に触れたのかは分からないが、男は上機嫌そうな笑い声を漏らした。

 

 「ははっ……そうか。引き留めてすまなかったな」

 

 言って、男はどこか満足げな様子でギルドを出て行く。

 遠巻きに見ていた他の冒険者たちは「喧嘩にはならなかったか」と安堵していたり、逆につまらなそうにしていたりするが、冒険者が一人気絶するレベルで蹴り飛ばされたことには然程注意を払っていない。

 

 人間を蹴り飛ばす──文字通り()()()()()()なんて並大抵のことではないが、それを目の当たりにしても殆ど無反応だ。

 きっと慣れているのだろうが、あの鎧の男がそれをすることに慣れているのか、自分たちもできるから慣れているのかで評価はかなり変わる。だがどちらにせよ、肝の据わった者が多いようだ。

 

 「彼は何だったんだろう」とエレナがその背中を見ていたのはほんの数秒で、それ以上何か考える前にハイテンションなフィリップが戻ってきた。

 

 「エレナ、手続き終わったよ! 早速だけど、良さげな依頼を探そう」

 

 これエレナの分ね、とフィリップが小さな金属板をエレナに手渡す。

 名前や冒険者ギルドの登録番号、階級などが刻まれた認識票(ドッグタグ)。武装した状態でこれを持たずに王都内を歩くと捕まってしまう、正規の冒険者であることを示す証のようなものだ。

 

 「全部やってくれたの? ありがとう! パーティー名は何にしたの?」

 「いつでも変えられるって言われたから、取り敢えず“エレナと愉快な仲間たち”にしておいたよ」

 

 フィリップは依頼の張り出されている掲示板の方に向かいながら、どんな依頼があるのだろうと弾んだ声で答える。

 パーティーの結成やそのメンバー構成は特にギルド側に申告する必要は無いが、申告しておくとパーティー向けの高難度の依頼を紹介してくれることがあるらしいので申請しておいた。名前は適当だ。

 

 ……いや、ちょっと悪戯心を出した。

 

 「あははは! ボクがパーティーリーダーだから? ……え、ホントに?」

 

 冗談だと思って笑っていたエレナだったが、フィリップがエレナの方を見もしないことと、ミナが訂正しないのを見て真顔になった。

 

 「別に、なんでもいいじゃない?」

 

 本当に一片の興味も無さそうに言ったミナの顔を見て、エレナはカウンターに飛びつくような勢いで踵を返した。

 

 

 

 

 



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396

 「パーティー名をちゃんと考えよう!」

 

 ギルド内の四人掛けテーブルに座り、エレナは天板を叩いてそう主張する。

 ホワイトアッシュの分厚い木材がびりびりと震えるのを感じ、「早く依頼見に行こうよ」と言いたげな不満顔だったフィリップは、すっと背筋を正してしかつめらしく頷いた。

 

 相当な大音量だったはずだが、周囲の冒険者たちは「うるせえな」という一瞥を呉れるか殆ど無反応で、厚さ10センチもの硬質な木材を振動させる膂力に驚いた様子はない。

 

 「……オーケー。何か案があるの?」

 「ないよ! ないけど、さっきのはイヤ!」

 

 フィリップとしても冗談で付けた仮名がずっとそのままになるのは想定外だし、そもそも仮名だ。

 良い感じの名前がぱっと思いつかなくて、いつでも変更できると言われたから「パーティー1」とか「Aチーム」といった記号のような名前よりはユーモラスなものにしただけ。

 

 だから変えることに異論はない。

 ないが、そもそも今日は依頼を受けるつもりでここに来たのだ。長々と名前について議論するのが嫌で仮名にしたのに、腰を据えた話し合いなんて始めたら本末転倒だ。

 

 「まあ冗談半分だし、仮名称のつもりだったし変えるのはいいけど……いい感じの名前がぱっと思いつくならそれにしてるんだよ、僕は。……15分経って決まらなかったら、先に依頼を見に行こう」

 

 言って、フィリップは懐中時計を取り出して時間を確認した。

 時刻は午前九時を少し過ぎたところ。15分と言ったが、遠出する依頼を受けないならもう少し余裕があった。

 

 「……姉さまは?」

 

 ミナは両掌を天井に向け、無言で「特に何も」と示す。或いは「どうでもいいわ」というボディランゲージかもしれないが、どちらにしても有用なアイディアは出てきそうにない。

 

 「うーん……。あ、“トリニティ”なんてどう? エルフとヴァンパイアとヒトの三種族が一つになったパーティーだし」

 「いや……ヴァンパイアがいるのに一神教絡みの名前はちょっと」

 

 よくぞこの一瞬でと目を瞠ったフィリップだったが、それこそ一瞬で、すぐに苦い顔で頭を振る。

 

 言葉の響きは確かにカッコいいと、フィリップも認めるところだ。それに“エレナと愉快な仲間たち”よりは冒険者パーティーの名前っぽい。

 

 だが如何せん、本来の意味との相性が悪い。

 “トリニティ”とは一神教における三位一体、父と子と聖霊を指す言葉だ。つまり唯一神と、聖人と、天使を示す。一神教の中核、最も神聖であるとされる三要素だ。

 

 「私は気にしないわよ?」とミナは言うが、フィリップは変わらず首を横に振る。

 

 「他の人が気にすると思うよ? 信仰の絡んだ人間って死ぬほど面倒臭くない?」

 

 ヴァンパイアを含むパーティーというだけでほぼアウトというか、王国以外にバレていないからまだセーフ、というレベルの綱渡りだ。レイアール卿が統べる聖国はともかく、一神教や帝国にバレたらそれなりに大きな問題になるだろう。

 

 そして公的機関だけでなく、個人がどう思いどう行動するかも問題だ。熱心な一神教徒には冒涜と思われても仕方のない名前だし、パーティー名を耳にした全員から喧嘩を売られるのも面倒な話ではある。

 

 「……確かにそうね」

 

 覚えでもあるのか、ミナもかったるそうにフィリップの言葉を肯定する。

 

 しかし「駄目かあ」としょんぼり俯くエレナを慰めるわけではないが、フィリップは結構好きな名前だった。

 

 「……でも正直、皮肉が利いてていいセンスだと思うよ。僕もエレナもミナも……パーティーの誰も一神教の熱心な信者じゃないのに、そんな名前なんて。やっぱりそれにしよっか」

 

 一神教を信仰していないエルフと、神敵たるアンデッドの中でも上位の存在であるヴァンパイア、そして“魔王の寵児”のパーティーが名乗るにしては、流石にちょっと綺麗すぎる。

 

 「そんな意図はしてなーい!」と不満そうにむくれるエレナだったが、残念、賛同者はもう一人増える。

 

 「確かに、ジョークとしてはいいセンスね。私も賛成」

 

 愉快そうに笑うミナという珍しいものを見て、エレナは喜ぶべきか迷っているような曖昧な笑顔になった。

 

 「えぇ……。なんか釈然としないなあ……。一神教信者のヒトに絡まれるんじゃないの?」

 「かもしれない、って話だよ。というか……」

 「絡まれたら殺せばいいだけの話じゃない」

 

 フィリップが敢えて言わなかった先を、ミナは淡々と引き取る。

 

 「それは……うーん……」

 

 言い淀むエレナ。

 フィリップはともかく、ミナが人間を殺すのは、吸血鬼という種族である以上当然のことだ。食うために殺し、戯れに殺し、片手間に殺す。

 

 エレナにはそれを否定できない。

 彼女の従姉妹である、彼女より強いという理由もあるが、何より、種族が違えば価値観も違うということを理解しているからだ。人間の文明と社会の内で暮らして、エレナはそれをよく分かっている。

 

 とはいえ、まさか「そうだね!」と全面的に同意することも出来ず、エレナは困り果てて唸っていた。

 

 そしてエレナが適切な答えを見つける前に、フィリップは背後から呼びかけられた。

 

 「──あれ、フィリップ君? ウィルヘルミナさんも」

 

 聞き覚えのある声。

 振り向く前に「もしや」と当たりを付けた通りの人物が、振り返った先で不意の再会に歓喜の笑みを浮かべて立っていた。

 

 「──ウォード!? お久しぶりです!」

 

 フィリップが三年生の時には交流戦が無かったから、一年以上を経ての再会だ。

 満面の笑みで握手を交わす二人に、ウォードとは面識のないエレナと、何故かミナまでもが不思議そうな顔をしていた。

 

 「……きみの知り合い?」

 「フィリップ君の友達?」

 

 エレナが魔術学院に来たのは三年生の初めだから、知らなくて当然だ。

 だがミナは交流戦の時に会っているし、マリーと一緒に模擬戦をしていたはずなのだけれど。

 

 「……エレナはともかく、ミナは知ってるでしょ。ウォード・ウィレット……さん? 先輩、ではないもんね、一応。まあとにかく、交流戦の時に僕のペアだった人だよ」

 「あぁ。きみの一人目の剣術の師匠ね」

 

 思い出したと頷くミナに、ウォードは「ご無沙汰してます」と丁寧に一礼した。

 

 フィリップはウォードのこういうところが好きだ。

 こういう──自分の“分”というものを弁えているところが。

 

 「フィリップ君の師匠!? ……え? ホントに?」

 

 目を輝かせたエレナはウォードを頭のてっぺんから爪先まで視線を一巡させ、一転、怪訝そうに目を細めた。

 ウォードの戦闘スタイルは腕力と技量を両立させた正統派だし、彼は槍も弓も扱える万能型だ。服の上からでは分からないが、鍛え上げられた身体には師匠との実戦に極めて近い稽古で付けられた無数の古傷がある。

 

 対して、フィリップは基礎筋力こそついてきたものの、主眼を置いて鍛えているのは関節や筋肉の可動域と柔軟性。そしてロングソードはあくまで補助で、メインはソードウィップ。ついでに言うと、負傷した後には王国最高の医師(ステファン先生)強力無比な回復薬(吸血鬼の血)によって治療されているから、その身体に目立った傷跡はない。

 

 身体の作り方も、身に着けた技も、何から何まで違う。師弟の間柄にはとても見えない──姿勢や仕草から相手の力量や戦闘スタイルを看破できるエレナだからこそ、その違和が強く感じられたのだった。

 

 しかしウォードも流石で、エレナが言わんとしていることにすぐに気付く。

 

 「あ、いや、“拍奪”は僕の先輩が教えたので、僕は剣術の基本を少しだけ」

 「なるほど! うん、納得した! ボクはエレナ。よろしくね!」

 

 怪訝そうな表情は霧散し、いつもの明朗快活な笑顔を浮かべたエレナに、ウォードは「よ、よろしくお願いします……」となんとか絞り出すように答えた。

 

 人外の美貌を前に見惚れてしまう気持ちは分かるので、フィリップも揶揄ったりはせず、「どうしたの?」と首を傾げるエレナの追及を遮る。

 

 「ウォードも冒険者になったんですか?」

 「“も”ってことは、やっぱり君も?」

 

 どこかほっとしたような空気を漂わせつつ、ウォードは助け舟にありがたく乗る。

 

 「はい。この三人で。ウォードも、まだパーティーを組んでないならどうですか?」

 「お誘いは凄く嬉しいんだけど、僕ももうパーティーを組んでるんだ。……っと、噂をすれば、だね」

 

 言って、ウォードはギルド入り口の方を示した。

 そちらに背を向けて座っていたフィリップは、多少の興味を惹かれて振り返り──楽しそうに駆け寄ってくる人物の顔にまたしても見覚えがあり、目を瞠る。

 

 「お待たせ、ウォード……って、フィリップ!」

 

 喜ばしくも驚きの再会に相応しい笑顔を浮かべた少女。

 「久しぶり! でもないか、二週間ぶりぐらい?」なんて笑う、宿屋タベールナの看板娘。

 

 モニカだ。

 

 「も、モニカ!? パーティーってまさか……!?」

 

 ばっとウォードを振り返ると、「そうだよ」と端的な頷きが返される。

 

 ウォードの衛士団好きと家の立地を考えると、以前から親交があってもおかしくはない。二人が知り合いだったなんて話は聞いていないが、顔見知り程度の関係だったとしても、知り合いのいない冒険者生活を始めるときに一緒に組むことになるのはそう不思議なことではない。

 

 ないが、そもそも、それ以前の問題がある。

 

 「フィリップとエレナさんも冒険者なんだよね! ね、一緒にパーティー組みましょ!」

 

 楽しそうに、「買い出しサボって神父様のところに行きましょ!」と言っていたときの笑顔そのままで、モニカが言う。

 

 それは別にいい。

 だがそれ以前の問題があるのだ。

 

 「そうだけど、いや、えっ? 宿の仕事は? 女将さんの後を継ぐんじゃないの?」

 「そうよ! でも、それってまだ先のことじゃない? だから私も冒険者になってみようと思って! フィリップの真似!」

 

 真似──拠点にしたいと言いに行ったとき、冒険者になる旨は確かに話した。彼女がエレナと顔見知りになったのもその時だ。

 だがあの時は「ふーん」くらいの反応だったし、特段の興味を持ったようには見えなかったのだが。

 

 いや、それはいい。問題は冒険者になろうと思った理由ではない。

 

 サボりと言っても精々が数十分。長くても二時間くらいだった。

 あまり長くサボるとみんなが心配すると、フィリップが言うまでも無くモニカも分かっていたはずだ。

 

 カルトに拉致された件もあるし、一般的な親よりもセルジオとアガタの心配は深い。宿泊客であり、モニカのことを妹や娘のように可愛がってくれた衛士たちもそうだろう。

 

 だが冒険者になるとなれば、そんな短時間のサボりではどうにもならない。

 日帰りの依頼ならまだ楽な方だ。

 

 「……大将と女将さんは、なんて?」

 「心配しなくても、ちゃんと相談したわよ! 流石にサボりの時間だけじゃ冒険なんてできないもの! 社会勉強になるだろうって許可してくれたわ!」

 

 それなら、まあいい。なんて、フィリップは謎の視点から許可を出す。

 モニカの方がフィリップより二つ上のお姉さんのはずだが、保護者か監督者のような目線になってしまうのは何なのか。

 

 ナイ神父に惚れ込んでいる馬鹿な人間を憐れんでいる──いや。フィリップの心がまだ人間だった頃の、地下牢で目覚めた時の恐怖を共有した相手だからだろうか。

 

 「……戦えるの?」

 

 とエレナ。

 聞くまでもなく分かっているだろうに、態々尋ねるのは初対面の相手に対する礼儀のつもりなのだろう。

 

 いや、或いは戦えなくてもいいと思っているからか。

 戦闘面に関して、フィリップたちにはミナという切り札がいる。面倒臭がらず本気を出せば、という条件こそ付くものの、大抵の相手どころか悪魔の軍勢でさえ一瞬で血と臓物の香る花畑に変えられる化け物だ。

 

 冒険は冒険するために。

 戦いも探索も、出来る奴がやればいい。エレナはそういうスタンスだ。

 

 「ふふん! ウチに泊まってる衛士さんたちに護身術を教わってるからね!」

 「そうなんだ!」

 「いや、いくら衛士団仕込みとはいえ、護身術を習った程度のレベルでどうにかなる?」

 

 納得したのか、単に相槌を打って戦力外認定したのかは不明だが、頼りにならなくなってしまったエレナに代わってフィリップが問う。

 基本的にフィリップにとって他人は“枷”だ。それが戦えない者であるとなれば「一人で逃げろ」と手放すことも出来ず、それが見知った人間であるとなれば殊更に重い。

 

 「なるんじゃない? 授業で習わなかった? D級の依頼なんて、何の訓練も受けず実戦も経験してないただの力自慢なんかでもこなせるものだって。C級の依頼にしたって、僕らぐらいの強さがあれば大丈夫だよ」

 

 とウォード。

 確かに、フィリップ以外を守る気のないミナはともかく、エレナとウォードが居れば大抵の相手からは守り通せるだろうけれど。

 

 モニカは三人の会話を不満そうに聞いていたが、ふと思いついたようにニヤリと口元を歪めた。

 

 「なに、疑ってるの? そりゃ、“龍狩りの英雄”サマには敵わないだろうけどさー」

 「やめてよモニカ、小恥ずかしい……。分かった、いいよ。一緒に組もう」

 

 照れ交じりの苦笑を浮かべて折れたフィリップに、モニカはしてやったりと言わんばかりの笑顔になる。

 

 しかし、これで晴れて5人パーティーの結成……とは行かなかった。

 

 「いや、待ってくれフィリップ君。もう一人メンバーがいるんだ。その子の意見も聞いてから決めたい」

 

 それは道理だとフィリップもエレナも頷く。

 今日はウォードのパーティーもここで待ち合わせているようだし、じきにメンバーが揃うだろう。

 

 ちょうどそう思った時、ウォードがギルド入り口の方を指して言った。

 

 「……今日は運が良いみたいだ。いいタイミングで来てくれたよ」

 

 

 

 

 



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397

 ウォードが示したのは、モニカと同年代くらいの──15,6歳に見える少女だった。

 

 ロブカットの茶髪は王国では少しだけ珍しいが、目の色はオーソドックスな青。勝ち気そうな吊り目がちの双眸が鋭く動き、フィリップたちを一瞥する。

 

 スレンダーな身体を包むのは平服と旅装のマントで、エレナでなくても白兵戦向きの身体が作られていないと分かる。きっと狩人か魔術師だ。

 

 「待たせたわね、モニカ、ウォードも。……誰?」

 

 自分のパーティーメンバーに軽く挨拶し、その話し相手を適当に指す。

 ぞんざいな扱いだが、完全な他人同士だし無理もない。

 

 そんなことより、フィリップは隣に立った彼女からふわりと甘い匂いが漂ってきたことの方が気になった。

 不自然な、作られた花のような香り。香水か何かだ。

 

 となると、狩人という線も無くなった。

 森に潜み、獣の鼻すら掻い潜る彼らは、常に自然の匂いを纏っている。土や、葉っぱや、木の匂いを。これから依頼に行こうというときに香水をつけるはずがない。

 

 魔術師か、でなければ非戦闘員だが──モニカがほぼ非戦闘員なので、それはないだろう。ウォードも枷を二つも付けて依頼に赴くほど馬鹿ではない。

 

 「軍学校時代に知り合った子と、そのパーティーの人たち。フィリップ君、ミナさん、エレナさん。……こちらが僕のもう一人のパーティーメンバーで、パーティーリーダーのリリウム」

 「リリウム・パーカー。魔術師よ」

 

 自慢げに薄い胸を張って名乗ったリリウムに、フィリップとエレナは顔を見合わせた。

 その後、エレナはミナを、フィリップはリリウムを見遣る。

 

 エレナは「魔術師なのに姉さまに反応しない……?」なんて訝しんでいたが、フィリップの疑問はそこではなかった。

 

 「え? あの、失礼ですけど、お幾つですか?」

 

 「失礼、と口にはしても礼を失さないのがマナーよ」なんてディアボリカの声を幻聴するが、ここは敢えて押し通す。

 

 リリウムは少しむっとしたようだったが、

 

 「……16だけど?」

 

 と答えてくれた。

 

 フィリップの予想通り、外見通りの答えが返され、フィリップは思いっきり目を瞠る。

 

 「さ、サボり……? ウッソでしょ……!? 授業をサボるのはともかく、学院を抜け出すのは流石に聞いたことないよ!?」

 

 驚きのあまり、思わず口調が素になってしまうフィリップ。

 

 16歳、つまり学院に正規の年齢で入学していた場合、二年生か三年生だ。

 そして今日は平日。普通に授業があるだろう日の、授業中であるだろう時間。野外訓練の時期にはまだ早いし、学院生がこんなところにいる理由はもう一つしか思いつかない。

 

 サボりだ。

 

 ……が、流石にここまでの大逃走は聞いたことがない。

 というか、普通に校内でブラブラしていたり、図書館や寮に引き籠っていたりしても、100パーセント授業時間内に教員の誰かが見つけると専らの噂だった。

 

 そして、それは事実だろう。

 学園外縁には学院長の──聖痕者の展開した結界魔術があり、高位の魔術師には壁どころか建造物を丸々一個見通す魔力視がある。脱走も隠避も不可能だ。

 

 しかし事実として、リリウムは学院から遠く離れた二等地の冒険者ギルドに居る。

 ならば、まさか。 

 

 「あぁ、またその勘違い。私はね、天才なの」

 

 フィリップの衝撃を見透かしたかのように、リリウムは自信たっぷりな表情で語る。

 

 「所謂遅咲きってやつ? 魔術学院には入れなかったけど、独学で魔術を使えるようになったのよ! 見なさい! 《ウォーター・ランス》!」

 

 詠唱に従い、リリウムの掌中に二十センチ大の水の槍が形成される。

 渾身のドヤ顔を浮かべる彼女に、フィリップはどんな言葉をかけるべきか測りかねて黙ってしまった。

 

 いや、独学で魔術を使えるようになったのは凄いことだ。

 魔術学院という最高の環境で、ルキアとステラという最高の教導役に教授され、それでも日常系魔術師の域を出なかったフィリップにはそれがよく分かる。

 

 「……おぉ、ホントにちゃんと発動してる。独学で? 凄いですね」

 「ふふん! そうでしょ! この凄さが分かるってことは、あなたも結構賢いみたいね!」

 

 凄い。相当な努力、それもがむしゃらではなく正しい努力を積んだのだろう。

 それは本当に凄いことだし尊敬できるのだが──魔術には才能が必要だ。

 

 魔術を使う才能を前提として、使用可能、或いは得意な属性や系統についても、全ては才能が決める。生まれ持った素質が。

 

 指の一弾きでダンジョン一つを消し飛ばすルキアでさえ、適性のない支配魔術や補助魔術は使えない。

 地頭の良さや専門分野への知見ではルキアやステラをも凌ぐフレデリカだが、魔術適性は並の魔術師にやや劣り、学院の実技成績は良くなかった。

 

 どれほど良質な環境を揃えられても、結局は初級魔術さえ満足に使えなかったフィリップも、才能の必要性を裏付ける要素の一つだ。

 

 勿論、才能が全てではない。

 ルキアもステラも、幼少期からたゆまぬ努力を積み重ねて今の強さを手に入れた。魔術学院に首席入学したなんとかという学生も、まだウルミの練習中だったフィリップにさえ勝てない有様だった。

 

 魔術分野において才能は種、努力は水だ。

 

 努力無くして才能は開花しない。

 だが、才能のない努力は全くの無駄だ。

 

 そして魔術学院──いや、王国は魔術適性を計測し評価する方法を既に確立している。実数化なのか相対評価なのかは一般人には明かされていないが、過去、魔術学院に入学を許されていない者が中級以上の戦闘魔術師になった例は一件もない。その精度を疑う余地はないと言っていいだろう。

 

 魔術学院への入学が認められなかったということは、どれほどの水を注いでも大成しない種しか持っていないということだ。 

 

 「そういうことなら、一緒にパーティーを組んでもいいわよ! 私があなたたちを助けてあげる!」

 「いいね! 魔術師がいるなら姉さまも前衛に立てるし!」

 

 魔術師と、リリウムをそう呼んでいいのかは疑問だが、ウォードが何も言わないなら戦闘に耐える程度には魔術を使えるのだろう。

 だったら、フィリップから言うことは何もない。

 

 「私はどちらにしろ前衛よ。この子、結局後ろを気にしながら戦えるようにならなかったんだもの」

 「あー……。フィリップ君、目で見た攻撃でさえ「当たったら痛そうだし避けよう」みたいな避け方するもんね。見えてない攻撃に注意するのは難しいかも」

 「完璧な分析どうも。……パーカーさんは──」

 

 不意の批判にちょっと傷付きつつ、フィリップは内心「支援攻撃を味方に当てる方が悪いでしょ」と反駁する。相対位置認識を狂わされては狙いを付けるどころではないのだが。

 

 そんなフィリップが問いを投げ終わる前に、モニカが不満そうに声を上げる。

 

 「同じパーティーなんだから、堅苦しいのはナシにしようよ!」

 「モニカ……。悪いけど、僕は流石にウィルヘルミナさん相手に馴れ馴れしくはできないよ」

 

 年上の綺麗なお姉さんだから──ではなく、化け物であると知っているからだろう、ウォードは慄いたように言う。

 フィリップは「実はエレナもエルフのお姫様で……」と明かしてみたくなったが、ウォードに揶揄いの域を出る量のストレスを与えそうなので口にチャック。

 

 「……うん、まあ、皆が一番楽なようにすればいいんじゃない? で、パーカーさんの戦闘スタイルは?」

 「後方から魔術を撃って敵を妨害するって感じかな。決定力はないけど、狙いは正確だよ」

 

 ウォードが答える。

 

 狙いの正確さなんて、フィリップ相手──『拍奪』相手では何の意味もない。

 いや、むしろ目で見た通りの場所を正確に狙う限り、絶対に当たらないのが『拍奪』の歩法だ。

 

 フィリップが気にしているのはそこではなく、何属性が得意で、何発同時展開出来て、どのくらいのレートで連射できるのかという具体的な戦形の話だったのだが。

 

 「いや、魔術師は大体そうでしょ? それより、早く依頼を見に行こうよ!」

 

 問いを重ねる前に、エレナが掲示板の方を示して待ちきれないと明記された顔で言う。

 懐中時計を見るまでも無く、当初の予定、15分だけ話し合うといった予定時間を過ぎているのは分かった。

 

 ……予定といえば。

 

 「あぁ、うん……うん? いや待って! 元はと言えばエレナが引き止めたんだよ! パーティー名はどうするの!?」

 「あ、忘れてた……。まあいいや、一旦依頼を受けてから、なんか良さげなのを考えよう!」

 

 そんなわけで、フィリップたちは一先ず“エレナと愉快な仲間たち”として、冒険者デビューを果たすこととなった。

 

 

 

 



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398

 ちょっと前から400話に向けて記念絵でも描こうと思っていたのですが、どうも無理そうであることをお伝えしておきます()


 記念すべき初受注となる依頼はどんなものがいいか。

 フィリップは「なんでもいい」と言い、エレナは「楽しいのがいい」と言い、ミナは「手応えがあるのがいい」と言った。

 

 単身で成龍を相手取って「まあまあ楽しめた」なんて言い放つミナが手応えを感じるであろう依頼は、幸いにして掲示されていなかった。王国は平和なようで何よりだ。

 

 一応は初めて一緒に戦う仲間が二人もいるわけだし、ここは簡単そうな依頼がいいだろうというウォードの案に乗り、依頼を探した。

 

 対人戦闘──いや、敢えて殺人行為と明言するが、モニカはその経験がない。

 となると採集か調査系が望ましいが、あまりにも簡単なものだとミナがすぐに飽きるしエレナも楽しめない。

 

 そこで選ばれたのは──“ダンジョン調査”。

 

 より正確には、川の氾濫によって新たに発見された洞窟がダンジョンであるかどうかの調査。

 近隣住民の話によると、洞窟から魔物が出てきたり、近くで子供が行方不明になっているらしい。それが単に自然の洞窟に魔物が住み着いただけなのか、洞窟が魔物を産み落とす仕掛けを持ったダンジョンなのかを確かめろという依頼だ。

 

 ダンジョンである場合、自然形成ではありえない構造をしていたり、オーパーツが出土したりするので多少調査すればすぐに分かる。報告されている魔物も低級のものばかりで、高度な知性や戦闘能力を有する種はいないようだ。

 

 これなら、連携訓練をしていない新造のパーティーでもどうにかなるだろう。

 

 そんなわけで六人パーティー“エレナと愉快な仲間たち”は貸し馬車を使い、件の洞窟を目指して王都を出発した。

 王都からほど近いとはいえ、街道沿いに一日かかる旅程だ。馬に死ぬほど嫌われている──実際、勇猛に訓練された軍馬でもフィリップが乗ったら数日で使い物にならなくなった──フィリップ以外が持ち回りで御者役を務め、のんびりと目的地を目指す。

 

 「フィリップとミナって姉弟なの? 親子ってほど年が離れてるわけでもないでしょ? けど、恋人ってほど近くもなさそうだし」

 

 半日ほど進んだとき、リリウムがふと問いかけた。

 

 それほど大きいわけではないキャラバン型馬車の中には各々の荷物が積み込まれ、それなりに身を寄せ合って座らなければならない。

 しかし御者役のエレナを除く五人が普通に座れるくらいには空間があるというのに、態々フィリップを膝に乗せて抱きしめているミナを見ての疑問だろう。

 

 「……そう見える? 僕とミナはあんまり似てないと思うけど」

 

 というか、平凡な容姿のフィリップと人外の美貌を持つミナは全く似ていない。

 美醜を抜きにしても、ミナは黒髪でフィリップは金髪、目の色だって青と赤だ。血縁関係があるようには見えないだろうに。

 

 「そう見えないから聞いたのよ。どれでもない感じがする」

 「それ、私もずっと気になってた! フィリップは銀髪のお姉さんが好きなんじゃないの?」

 

 悪戯心がそのまま顔に張り付いたようなにやけ顔のモニカ。

 彼女の知るマザーとルキアのことを言っているのだと察したフィリップは、眉根を寄せて深々と嘆息した。

 

 「……モニカ、そういう否定しづらい事実を口にする行為はそのうち罪に問われるよ」

 

 少なくとも現王とステラの治世でそんな悪法が敷かれるわけはないのだが、思わずそんなことを口走る。

 

 しかし、悪手だ。モニカの言を肯定してしまっている。

 いや──否定したとしても、フィリップのマザーに接する態度や蕩け具合を知っているモニカには無意味だっただろう。

 

 少なくともこの話題に於いて、フィリップが反駁できる余地はないのだった。

 

 「ふーん? 事実なんだー?」

 

 ニヨニヨと妙に腹の立つ笑顔を浮かべるモニカに、苦笑を浮かべたフィリップよりもリリウムの方が大きな反応を見せる。と言っても、怪訝そうな顔で問いを投げるだけだが。

 

 「……モニカも結構、フィリップと仲いいわよね。知り合いだったの?」

 

 問われて、フィリップとモニカは顔を見合わせる。

 

 単純に「友達」と言い切れる関係ではない。お互いを大切に思っていたことは間違いないだろうが──フィリップのそれは一般的なものともモニカのそれとも大きく乖離しているが──では友情故かと言われるとそうではない。

 親愛だったのか、或いは依存や執着だったのか、年に数日会うかどうかという数年を過ごした今となっては分からず仕舞いだ。

 

 「あー……うん。なんて言えばいいのかな。僕が丁稚奉公に出てた宿の、大将と女将さんの娘さん」

 「でも上司とか主従って感じじゃないもんねー? そう、それこそ姉弟みたいな!」

 

 一人っ子のモニカは完全に想像で語っているが、実際に兄を持つ末っ子のフィリップとしても、その関係性は中らずと雖も遠からずといったところだ。

 

 「振り回される感じは確かにお兄ちゃんと一緒かも……サボり癖も」

 

 呆れ混じりに言うフィリップ。

 彼が歴史はともかく神学の授業なんて死ぬほど不毛な90分でさえ真面目に出席していたのは、サボり魔たちがすぐ傍に居て反面教師になったからかもしれない。

 

 ばつが悪そうに目を逸らしたモニカとフィリップを見て、リリウムはまたミナに目を戻した。

 

 「……で、二人はどういう関係なの?」

 

 話も戻る。と言っても、特に話を逸らしたつもりはないのだけれど。

 

 フィリップとミナは一度たりとも合図を交わさず、全くの同時に答えた。隠すことなどないと言わんばかりに、淡々と。

 

 「ペットよ」

 「ペットだね」

 

 沈黙。

 モニカも、リリウムも、言葉を咀嚼して意味を確かめているにしても長い時間をかけて黙考する。

 

 フィリップの好みについての話をニヤニヤしながら聞いていたウォードはばつが悪そうに視線を逸らし、御者席のエレナはさっきから「いいなー楽しそうで」と不定期に呟くばかりだ。じゃんけんで負けた自分を恨んでほしい。

 

 「……は?」

 「……え?」

 

 たっぷり10秒は沈黙した後、モニカとリリウムが尋ね返す。

 聞き取れなかったわけではないことは考え込んでいたから明らかなのだが、フィリップたちにしてもこれ以上説明を追加する余地はない。

 

 「それ、言って良かったの?」と遅ればせながらウォードが確認するが、フィリップとミナの関係性は国王にまで知られているし、パーティーを組んで活動していたら遅かれ早かれ露呈する。

 

 いや、そもそもこうして同じ馬車に乗って街道を行くこの現状が奇跡のようなものだ。余程の無知か馬鹿、あとは酔っぱらいくらいしか、ミナに近づこうとしないのだから。

 

 「冒険者ならミナのことは知ってるでしょ?」

 

 と、それが決定的な理由であるかのようにフィリップは言う。

 実際、フィリップにとってはそれが理由の全てだ。

 

 つまり、ミナが吸血鬼であること。人間に優越する化け物であるから、従うしかない劣等種(にんげん)の正しい姿として従っている。

 

 僕の主張は以上ですが異論は? と目を向けると、モニカもリリウムもきょとんとしていて、フィリップは怪訝そうに目を細めた。

 

 「……え? まさか知らないの? ギルドも衛士団も周知してるでしょ?」

 

 というか、何なら冒険者ギルドには似顔絵付きの警告まで掲示されていた。

 特徴も列挙され、先に手を出して返り討ちにされてもギルドや王国は一切関知しない旨、既に上位ランクの冒険者パーティーを含む数名が手も足も出ず殺されたことが書かれていた。

 

 まあ、目を通していないのならそれはそれで仕方ない。情報収集を怠った馬鹿が死ぬのは冒険者の常なのだから。

 

 フィリップの目が柔らかに細められる──嘲笑の形に歪む寸前、リリウムは何かに気付いたようにはっと息を呑んだ。

 

 「ま、まさか、あの吸血鬼ウィルヘルミナ……!?」

 

 まさかと言わんばかりに目を瞠るリリウム。

 対して、モニカは「吸血鬼!?」と悲鳴を上げて馬車から落ちるギリギリまで飛び退いた。

 

 今の今まで気付かなかったことも、知らなかったことも、フィリップからするとそれこそ“まさか”だ。

 

 笑いそうになるのを何とか堪えつつ、フィリップは頷いて肯定する。

 

 「そうだよ。あぁ、定期的に僕の血を吸ってるから皆には食欲を向けないと思うし、もし僕が吸血されてるところに出くわしても死なない範囲だから気にしないでね」

 「……フィリップ、頭おかしくなったの?」

 

 正気を疑うような目を向けるリリウムの内心を、モニカがそのまま口に出す。

 しかし、その問いに対する答えだけは、いつどんな状態でも変わることがない。

 

 「残念ながら正常だよ。ナイ神父とマザーと仲いいんだし、今度「フィリップは狂ったんですか?」って聞いてみたら? ……いや待って、聞くならナイ神父にして。マザーはもしかしたら怒るかもしれないから」

 

 モニカも信用せざるを得ない二人の名前を挙げると、彼女は「むぅ」と小さく唸って黙る。

 リリウムは投石教会の神官たちのことを知らないようだったが、彼女の関心はフィリップよりミナの方に傾いている。フィリップの頭がおかしいかどうかなんて気にしている余裕はない。

 

 「吸血鬼ウィルヘルミナって、もう何人も冒険者を殺してる化け物なんでしょ? 龍狩りに貢献したから辛うじて許されてるって聞いたわよ」

 

 恐怖を色濃く映すリリウムの言葉に、フィリップは誰の真似か、ぱちりと指を弾く。

 

 「前半分は正解。でも後ろ半分は不正解。人間の側でミナに裁定を下せそうなのは三人──王都の全人口の内、三人。人間の側がミナの存在を許すとか許さないとか、そんな同格か格上みたいな話ができる間柄じゃないんだよ、ヒトとヴァンパイアはね」

 「……そうは見えないけど」

 

 確かに、膝の上に載って撫でまわされているフィリップが言っても説得力はない。

 

 だが、そもそも脅威判定を他人任せにすること自体がナンセンスだ。特にフィリップに任せるのは。

 第一、魔術師なら見るまでも無く肌感覚で分かるはずだろう。ミナの持つ膨大な魔力、聖痕者ですら身構える圧倒的な存在感を前に、物理的視界に映るものがどれだけの価値を持つというのか。

 

 「そうですか? じゃあパーカーさんは魔力視の精度が低いから気を付けた方がいいですよ。ルキアや殿下でさえ、一撃必殺の神罰術式抜きだったら“魔術戦が出来る”って言うぐらいなので」

 

 その話をしたルキアもステラも「負けるかもしれない」とは一言も言わなかったけれど。

 ちなみにお互いに対しては、ルキアが「普通に闘っても勝ち目はない」と言い、ステラは「拘りを捨てられたらかなり苦しい」と言う。そしてそれらは正しいので、二人の魔術に関する見立てには見栄の類が無く、そして正確だ。

 

 「戦える」というのは、文字通り戦闘の形を取れるというだけ。一方的な虐殺や処刑にならないというだけだ。

 途中で白兵戦に持ち込まれない限り、まず勝てる。

 

 しかし聖痕者──人間でありながら爆撃機じみた火力を持ち、魔力障壁によって破城槌の直撃にも耐える超級の魔術師たちと同格か、一歩劣る程度。魔力の質も量も凄まじいの一言に尽きる。

 

 魔術師でありながらそれを感じ取れないのなら、リリウムは感知能力にかなり問題がある。

 ルキアやステラのような“眼”を持っていないのだろうとは思っていたが、もしかしたらフィリップ並みの鈍感さかもしれない。

 

 そんなことを考えていると、モニカがフィリップの言葉に食いつく。

 

 「よ、呼び捨てになってる……! のは、後でちゃんと問い質すとして、今はその人の話! ペットってなに!?」

 「そうよ! 卑猥だわ! っていうか誰?」

 

 「ルキアや殿下」が、まさか聖痕者のルキア・フォン・サークリスと第一王女殿下を指すとは思わなかったのか、リリウムは知らない人間を引き合いに出されたと思っているらしい。

 

 だがそんなことより、もっと大きな突っ込みどころがあった。

 

 「え……?」

 「は……?」

 

 フィリップとミナの表情が同じ困惑の一色に染まる。

 フィリップが知る限りの人間の常識、そしてミナが100年間慣れ親しんできた吸血鬼の常識に照らして、ペットを飼うという行為は「卑猥」と表現されるものではなかった。

 

 人によっては、「猟犬は“相棒”だ、ペットじゃない!」とか、「ペットって言うな、家族と呼べ!」とか、そういう主張をすることはある。それならフィリップも聞き覚えがあるし、「あぁはいはい」と適当に流すことも出来た。

 

 だが、流石に「卑猥」と糾弾されるのは衝撃的だった。

 

 「……少なくとも僕の田舎ではペットを飼うことに卑猥さは無かったけど……王都でもそうでしょ?」

 「人間を飼ってる人なんかいないわよ!」

 

 キャンキャンと甲高く吼える子犬のように、顔を赤くしたリリウムが主張する。

 そりゃあフィリップもそのケースは聞いたことがないし、人間に飼われるとなれば躊躇いなく飼い主の喉笛を噛み千切る所存だが、それでも表現が違う気がした。

 

 「……いや、よしんば人間が人間を飼ってたって、それは“猟奇的”とか“分不相応”って言われるものじゃない? “卑猥”は違うでしょ」

 「悪魔みたいに疑似的な性欲がある連中は、愛玩用──性欲発散用のペットを持っているらしいけれど……」

 「吸血鬼は生殖じゃなくて増殖、吸血で同族を増やすから性欲もないもんね。その分食欲は強いけど」

 

 そのものズバリ、モニカとリリウムが想像していた通りのケースを引き合いに出された上で否定され、二人は誰とも目を合わせないように顔を伏せて黙り込んだ。

 

 「……」

 「……」

 

 誰も、何も言わない。

 ミナは不思議そうに──意味不明なことを言った馬鹿を見る目を二人に向ける。フィリップの目は純粋な疑問一色だ。

 

 ウォードはいたたまれなさそうに全員の顔を順繰りに見て、出すべき助け舟を見つけられずに馬車の外に視線を投げた。

 

 御者席のエレナも今は黙っているが、「へぇ、悪魔ってそうなんだ」と呟いていたので、単に知識が追加されただけのよう。居心地の悪さは感じていないようだ。

 

 「で、なんでペットを飼うのは卑猥なの?」

 「フィリップ君。もうそれ以上掘り下げないであげてくれ……」

 

 フィリップの100パーセント好奇心由来の追撃を、心底いたたまれなさそうなウォードが遮った。

 

 

 

 

 



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399

 馬車の中の空気が当初の二割増しで冷え込み、居た堪れない雰囲気の旅路は数時間で終わる。

 陽気なエレナと物怖じしないフィリップと、元々知り合いのウォードとモニカがいて、旅の前半は和気藹々としていたのだが。

 

 今日が結成初日のパーティーとは思えない親し気な空気が無くなり、リリウムとモニカから警戒心さえ感じるようになったのは、ミナがヴァンパイアであることを明かしてからだ。

 

 じき日の入りという頃合いに漸く目的地の洞窟近くに到着した一行は、近くの村で情報収集する班と、前線基地代わりのキャンプを作る班に分かれて行動することにした。

 

 当初、エレナは「まだよく知らない人と組んだ方がいいよね!」と班分けをランダムにしようとしたのだが、フィリップは「考えがある」と言って、フィリップとエレナとミナ、ウォードとリリウムとモニカという構成に──つまり、元々組んでいたパーティー別に分けた。

 フィリップたちはキャンプ設営、ウォードたちが聞き込みだ。

 

 キャンプ地は件の洞窟からそう離れていない川岸にした。

 街道からなだらかな土手を降りると砂利の河岸があり、川幅20メートルはあろうかという綺麗な川が穏やかに流れている。下流の方と対岸には森があり、目的地の洞窟は対岸の少し上流の方だ。

 

 「……で、どうして?」

 

 ウォードたちが出発した後、テントを立てていたエレナが唐突に尋ねる。ちなみに、ミナはフィリップの晩御飯を()ってくると言って、シルヴァを連れて森の中だ。

 一応、シルヴァには「変わった事があったらすぐにミナを連れて帰ってきて」と言ってあるが、もう数十分は経っているので大丈夫だろう。森の中には神話生物もカルトもいないはずだ。

 

 「どうして班分けを同じパーティーだった組で揃えたのか。ミナを怖がってる二人と打ち解けなくちゃいけないのに。って?」

 「……そう。ボクが聞きたかったことそのまま」

 

 分かっているならどうして、とエレナは不満そうに眉根を寄せる。

 しかし、フィリップだってエレナに対する意地悪で反対したわけではない。

 

 「逃げるチャンスをあげたんだ。人間が吸血鬼を恐れるのは普通のことだよ。ミナが怖いなら、無理に慣れたり我慢したりする必要はない。僕たちから離れられるこの時間を使って作戦会議なり相談なりして、逃げ出すって結論が出たなら実行できるようにしてあげたんだよ」

 

 ウォードはともかく、多少なりとも魔術の心得があるらしいリリウムと、実戦経験のないモニカの二人はどこまでミナを恐れるか分からない。

 

 ミナの強さと人間に対する無頓着さを洞察できるだけの地力があり、かつ悲観的で現実的なら逃げだすだろう。

 しかしミナの強さに関して「既に何人も殺している」と又聞きしただけの情報しか持っていないのなら、そして「フィリップと仲良くできるくらいフレンドリーなら」と楽観視できるのなら、或いは逃げ出さないかもしれない。

 

 モニカは後者っぽいが、リリウムはどうだろうか。

 

 だがどちらにしても、変に恐怖を溜め込んで不意に爆発されるのが一番困る。

 ミナの寝首を掻こうとしたリリウムが朝起きたら心臓だけ無くなった死体に変わっているとか、恐怖を溜め込み過ぎて発狂したモニカをタベールナに送り届けなくてはいけないとか、そんな面倒は御免だ。

 

 「……なるほど」

 

 フィリップの主張に、エレナは重々しく頷く。

 単なる思い付きではないと分かってくれたようで安心だ。

 

 それから暫くテントの設営や薪拾いなんかをしていると、土手を登った街道の方からフィリップたちを呼ぶ声がした。

 おーい、おーいと、だんだん近づいてくる声の主を確かめると、下り坂を全力疾走で駆け降りたモニカがそのままのスピードでフィリップに突っ込んできた。

 

 「ただいま! フィリップ、フィリップ! 大変!」

 「うわ、あっぶな!? 何事!? パーカーさんだけ逃げたとか?」

 

 持っていた薪を投げ捨ててモニカを抱き留めるようにキャッチ。

 相手がエレナなら適当に避けているところだが──というか、でないとフィリップが撥ねられる──流石にモニカが勢い余って川に突っ込んで行ったら結構な事故だ。溺れるほど深くは無いようだが、ただでさえ速度が乗っているのにごつごつした岩場で転んだりしたら危ない。

 

 奔放な姉としっかり者の弟のような光景を展開する二人の後ろから、むっとした顔のリリウムが帰ってきた。ウォードも一緒だ。

 

 「はぁ? 私が何から逃げるっていうのよ?」

 「ただいま。良い……って言うのは良くないか。沢山収穫があったよ」

 

 ほう、とつい感心した顔で溜息まで漏らしたフィリップに、リリウムは思いっきり目尻を吊り上げる。

 

 「ねえちょっと、私があの吸血鬼に怯えて逃げ帰るとか思ってたんでしょ。馬鹿にしないでよね! 私は天才魔術師なんだから、敵でもない相手にビビったりしないわ!」

 「お、おぉ……ごめんなさい……」

 

 のけぞるフィリップだが、その理由はリリウムの剣幕に押されたからばかりではない。

 

 リリウムのことを、素直に凄いと思ってしまったのだ。少しだけだが。

 物凄く根性が据わっているのか、物凄く馬鹿なのかは判断しかねるが、凄いことだ。人間が食人種を恐れるのは正常な本能だというのに、見栄や意地で覆い隠せるというのは。

 

 ……まあ、溜め込んで暴発されるのは勘弁だけれど。

 

 「それで、収穫って?」

 

 話を逸らすな! と子犬のように吼えるリリウムから逃げ、盾にしたウォードに問う。

 

 「みんな揃ってから話すよ。ウィルヘルミナさんは?」

 「狩り……いや、ちょうど帰ってきたね」

 

 ガサゴソと茂みを掻き分けるなんてかったるいことはせず、魔剣の一振りで道を作りながら森を出てくるミナ。

 その音や気配に振り返ったフィリップは、珍しいほど上機嫌な彼女を見て目を見開いた。

 

 「良かったわねフィル、今夜はご馳走よ」

 

 ニコニコと嬉しそうな笑顔のミナは、後ろに大きな茶色い塊を引き摺っていた。

 ぐったりとして動かない、全長二メートルにもなろうかという大きな肉塊。大きな角を持つ四足の獣、まだ新しいその死骸だ。

 

 「わ、シカ……じゃない!? デカい!?」

 

 フィリップが知る普通の鹿の倍、いや三倍はある。

 角も太く大きく、テーブルがくっついているのかと見紛うほどだ。

 

 「うわぁぁ!? グレートアルセスだ!? ふぃ、フィリップ君、これ、滅茶苦茶美味しいよ!」

 「見るからに北の獣だけど……こんな大陸中部に居るのは珍しいね。けど確かに、肉の質は良さそうだ」

 

 大興奮のエレナと冷静に検分しつつも目を輝かせるウォードにつられて、モニカとリリウムも自分より大きな獣の死体に怯えつつ、じわじわと近寄ってくる。

 

 「血肉を形作る栄養素が物凄く豊富らしいわ。確か、後天的に銀の血を作る実験に使われていたはずよ」

 

 そんなグレートアルセスの上に乗っかっていたシルヴァがぴょんと跳び下り、フィリップに満面の笑みを向けた。

 

 「しるばがみつけた! これも!」

 

 どこか自慢げなのは、やはりウォードが言った通り珍しい獣だからだろう。

 シルヴァは胸を張りつつ、グレートアルセスの厚い毛皮の中に仕舞っていたものを取り出してフィリップに見せる。

 

 「ん、お……? キノコ……?」

 

 ひょろりと長い平滑な柄に、茶色い無地の傘。対して目立つところのない、痩せたキノコ。

 たった一本のそれを、シルヴァはとても凄いもののように掲げ持ってフィリップに見せつける。

 

 特に美味しそうとも思わなかったフィリップは困り顔になりつつも、「ありがとう」と笑って手を伸ばした。

 

 「あ、食べちゃ駄目だよフィリップ君。キノコは種類が同じでも採った場所で毒性が──っ!?」

 

 そんな会話を背中で訊いていたエレナは、ミナから受け取った巨大なシカを解体していた手を止め、呆れ混じりの困り笑いで振り返る。そしてその目にキノコが映った瞬間、青い双眸が極限の危機感で見開かれた。

 

 「待って!!」

 「痛っ!? エレナ!?」

 

 戦闘訓練中並みの速さで動いたエレナがフィリップの腕を捻り上げ、手からキノコを奪い取る。

 

 彼女が柄の断面や傘の裏側を検分している間、フィリップは半分極められていた腕を押さえながら恨みがましい視線を向けていた。

 そんなに焦って乱暴に奪い取らなくたって、見たことのないキノコなんか食べやしないのに、と。

 

 やがて検分を終えたエレナは、慄いたように頭を振る。

 

 「こ、これ……いや、エルフの掟で詳しいことは言えないんだけど、ボクたちが使う物凄く強力な薬の材料なんだよ」

 「……毒なの?」

 

 まだ腕を擦っているフィリップに代わり、モニカが問う。

 田舎育ち、というか、狩人を父に持つフィリップとは違い「知らないキノコは摘むな食べるな」なんて教わってはいないだろうが、それでも毒キノコの存在は知っていたようだ。王都ではそうそうお目にかからない代物だろうに。

 

 エレナは神妙に頷き、それから漸くフィリップの恨みがましい視線に気付いて「あ、ごめんね!」と慌てて謝る。良いから先を続けろとフィリップが視線で促すと、エレナはまた頷いた。

 

 「猛毒だよ。猛烈な複合毒。体重比を考えるまでも無く、一口でも食べたら戻ってこれなくなるよ。死にはしないだろうけど」

 「死にはしないけど戻れない? あ、あー……幻覚系ですか?」

 

 フィリップより早く、ウォードが嫌そうに尋ねる。何か思い出でもあるのだろうか。

 

 その表情に興味を惹かれたのはフィリップだけで、エレナは淡々と答える──頭を振るが、それは単純な否定ではなかった。

 

 「わかんない」

 「分かんないってどういうことよ?」

 

 お手上げとばかり両掌を上向きに返したエレナに、リリウムが眉根を寄せる。

 揶揄われていると思ったのだろうが、違う。本当に分からないのだ。薬学に関しては人類以上の知見を持つエルフでさえも。

 

 「具体的にどんな症状が出たのか分からないんだ。色んな毒素が含まれてるし……含有毒素で一番多いのは確かに幻覚系なんだけど、麻酔……睡眠、麻痺系の毒も含まれてる」

 

 補足してくれるエレナだが、却って分からなくなった。

 毒の種類が分かっているのなら、その効能も分かるはずだろうに。

 

 「分析は出来てるけど……あぁ、だからこそ食べた例はないってこと?」

 

 人類が知る毒草類が大抵は犠牲者の存在があって初めて毒草と発覚したものばかりであることを考えると、やはり優れた薬学者集団であるエルフは格が違うと思わされる。

 

 しかしフィリップが感心したのも束の間、エレナはさも当然のように「いや、あるよ」と頭を振った。

 上機嫌に鼻歌交じりでグレートアルセスの解体に勤しんでいるミナと、フィリップによじ登って肩車の位置に落ち着いてご満悦なシルヴァを除く三人が、揃って頭上にクエスチョンマークを浮かべる。

 

 服毒後、自分がどういう状況なのかを言い残すことも出来ない理由として真っ先に思いつくのは、「死んだから」だ。その手の毒は毒を解析するか死体を解剖するかして、漸くどのような毒なのかが分かる。

 だがエレナはさっき、「食べても死なない」と言った。致死毒ではなく幻覚系の毒だと。

 

 三者の怪訝そうな目に見つめられて、エレナは説明不足に気付いて先を続けた。

 

 「あるけど、食べたが最後、強烈な毒で侵された脳組織は壊滅的な被害を受ける。大抵は廃人になるね。しかも服用から数時間は麻酔と幻覚で物凄いことになる」

 

 「物凄い?」とフィリップとウォードは異口同音に首を傾げる。

 

 「周りが全部敵や怪物に見えて、攻撃性が極端なほどに増す。その上、麻酔作用で痛みも苦しみも感じなくなる。所謂バーサーカー化するんだ」

 

 「なるほど」とフィリップとウォードの声がまた揃う。

 モニカとリリウムは今一つピンと来ないようだが、痛みを感じない相手がどれだけ面倒臭いかを知る二人は物凄く嫌そうな顔をしていた。

 

 フィリップは動く死体に首を絞められ、小指を折っても目を潰しても脱出できなかったことを思い出して首筋を擦る。恨みなんてとうに忘れたが、苦痛だけはしっかりと覚えていた。

 

 「まあ、観察から導き出された推論だけどね。服用者は言葉を交わせなくなるし、もしかしたら幻覚じゃなく精神の崩壊とかかもしれないんだけど──とにかく客観的には幻覚を見ているような振る舞いをして、暴れまくる。そして痛みを感じていないように見える」

 

 ただし本当に幻覚を見ているのか、或いは「実在するが見えないはずのもの」を見ているのか、痛みを感じないのか、「痛みなんて気にしている場合ではないものが見える」のか、それは誰にも分からない。

 本当にただの幻覚だとしても、毒素による一時的なものなのか、毒素が脳細胞を破壊した結果として幻覚を見ているのかさえ分からない。

 

 服用者が何かを語る前に幻覚に溺れ、暴れ、そして精神が崩壊するからだ。

 

 「どんな症状だったか喋れた人が居ないってことか……。解毒はできないんですか?」

 

 ウォードは恐る恐るといった体で問いかける。

 

 薬の材料にするからには、毒素の抽出や弱毒化の手法がある──とは限らない。

 毒は量だ。効果が完全に発揮される閾値以下の量を使っているだけの可能性もある。

 

 彼の懸念を肯定するように、エレナは重々しい口調で答えた。

 

 「食べた瞬間に吐かせればなんとか。毒素の吸収量が閾値を超えたらもう助からない」

 

 そんなに、とウォードは怯えつつもエレナの手中にあるキノコをまじまじと見つめる。何かの間違いで食べれるキノコと間違えないよう、特徴を頭に叩き込むように念入りに。

 

 「……でも、これはもっと北の方の高山地帯にしか生えてないはずなんだけど……」

 「きたのはさいきん。きたからもくざいをはこんでくるのについてきた」

 

 不思議そうなエレナに、シルヴァがさらりと答える。

 森に入った瞬間に、その森の全ての情報を把握できるヴィカリウス・シルヴァの機能は本当に大したものだ。お陰で「カルトが持ち込んだのでは?」なんて深読みをしなくて済む。

 

 「なるほどねぇ……。で、なんで摘んできたの?」

 「かわったことだから。ほうこく!」

 

 肩車されたままフィリップの後頭部にもたれかかるシルヴァの顔は見えないが、なんとなく自慢げな表情が思い浮かぶ声だ。

 

 ぐっがーる、なんて言いつつ頭上の幼女をわしゃわしゃ撫でていると、目を爛々と輝かせたモニカが近づいてきた。

 

 「……さっきからずーっと気になってたんだけど、何その子!? 妖精? 精霊? かっわいいー!!」

 「妙に静かだと思ったら……」

 

 呆れたように言うフィリップだが、リリウムも「それは誰?」と言い損ねていたが遂に言ってくれた! と明記された顔でフィリップとシルヴァの方を見ていた。

 

 

 

 

 

 

 



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400

 400!? ってなった395話投稿時からちまちま描いていた400話記念絵が遂にできたので投稿です。無理に合わせようとするから執筆も更新も遅くなるんだよね(自省)

 ここまで一緒に楽しんで下さった読者様方に、この場を借りて改めてお礼を申し上げます。これからも書いてて楽しいものを書きますが、皆様と末永く共に楽しめることを切に願っております。

 それから勿論、シェアードワールドを解放してくださったラヴクラフト御大に最大の感謝と敬意を。

 これまでありがとうございました。お察しの通りこのままの感じで進むと完結は2000話ぐらいになりそうです。嘘だよな……?
 これからもよろしくお願い致します。



 ミナとエレナが解体してくれたグレートアルセスの肉は、直火でなら焼き加減をレアからウェルダンまで6段階に調節できるフィリップが調理した。

 いや、焚火にかけて焼くだけの行為を「調理」と呼んでいいものかは疑問だが。

 

 スレンダーな体形の少女どころか筋骨隆々の大男だったとしても「凄い」と称賛されるほどの健啖家であるエレナと、育ち盛りのフィリップとウォードがいてもなお平らげられないほど、グレートアルセスの可食部は多かった。

 

 月と星の明かりの下、肉の余りを燻製にしながら、フィリップは一行にシルヴァとのなれそめを語り終えた。

 とある森で出会ったこと。封印されていた吸血鬼と戦ったこと。はぐれドライアドだと思って連れ帰ったこと。王都についてからヴィカリウス・システムについて知ったこと。

 

 「で、それ以来僕と一緒に居るんだ。ちなみに、その封印されてた吸血鬼がミナのお父さん」

 

 フィリップが語り終えたとき、エレナとミナ以外の、初めてその話を聞いた全員が同じ表情をしていた。

 

 ──どこからどこまでが本当なんだ? と。

 

 勿論フィリップは嘘も誇張も無く、どころか部分的には──主にディアボリカを一撃で倒し得る切り札があったという部分なんかを──隠していたのだが、それでも十分に異常だ。

 

 たかだか十二歳の子供が、弱っていて遊び半分だったとはいえ上位のアンデッドである吸血鬼を相手に十数分も耐えられる時点でまずおかしい。

 森の管理人であるドライアドの全滅? 環境の代理人? 封印されていた吸血鬼の復活? 冒険譚にしても出来すぎだし、盛り過ぎだ。 

 

 「……その話は僕も初耳だったな。てっきり魔術学院で召喚術を習ったんだとばかり」

 

 食べ過ぎたとばかり腹を擦っていたウォードがなんとか絞り出したように言う。

 

 以前の交流戦でシルヴァを目にしてはいたが、彼はそもそもフィリップが「召喚術を暴走させて魔術学院にぶち込まれた」ことを知っている。拘束代替措置──召喚術を学ぶために魔術学院へ編入させられたことも。

 

 だからこそ、シルヴァをフィリップが召喚した精霊か何かだと思っていたのだろう。授業の中で遂に召喚術を会得したのだと。

 

 そんなウォードの反応の大きさは、三人の中で真ん中くらいだった。

 

 一番小さいのはモニカ。

 彼女はフィリップが話す内容が凄いのかそうでないのかも微妙に分かっていないところがあった。

 

 そして一番大きいのは、思いっきり眉根を寄せて怪訝そうにしているリリウムだ。 

 

 「……は? あんた、魔術師なの?」

 「いや、違いますよ?」

 

 嘘、ではない。

 フィリップは魔術師なのかと訊かれて「そう」だと答える者は、魔術への理解度が一般人並みだ。“魔術が使える”ことと、職業或いは戦形が“魔術師”であることとは一致しないというのは、魔術学院生なら一年生でも知っている。

 

 フィリップが使える魔術は初級魔術が数種類。どれも実戦に堪える威力は無く、ステラは「戦闘中なら石でも拾って投げた方がいい」とまで言う。それだけで、ルキアの「召喚魔術用に魔力を温存すべきね」というオブラートに包まれた同意を聞くまでも無く、どれだけお粗末なものか分かるだろう。

 

 魔術戦どころか、非魔術師相手にだって有効打にはならない魔術を、魔術師たちは“魔術”と呼ばない。

 

 まあ例外的に領域外魔術という手札はあるが、これも態々自分から明かして自慢するようなものでもない。召喚術も言うに及ばず。

 

 「……そうよね。入学年齢って14歳だし」

 「15の年だから、僕の場合だと来年ですね。入学資格は満たしてなかったし、許可は下りなかったでしょうけど」

 

 何事も無ければ──あの地下祭祀場で地獄を見なければ、魔術学院に入ることもなかっただろう。ルキアにもステラにも会わなかったし、こうしてミナやエレナと一緒に冒険することもなかったに違いない。

 

 そう考えると、悪くない気が──いや、しない。全然、全く、これっぽちもしない。

 あの美しい世界の中でなお悍ましかった魔王の姿を思い出すだけで吐き気がするし、甚振ることもできず液状化して死んだカルトを思うと腸が煮えくり返る。

 

 そんなことを考えて不意に肌のひりつくような怒気を迸らせたフィリップに気付いてか、或いは単に話の流れか、ウォードが明るい声を出した。

 

 「それなのにあんな召喚術が使えるなんて、凄いよね!」

 「ナイ神父のお陰よね!」

 

 ウォードだけでなく、モニカもハイテンションだ。

 まあフィリップは丁稚奉公をしていた時分からナイ神父に魔術を教わっていたし、間違いではない。

 

 人間スケール、自衛スケールの魔術は頑なに教えてくれないのは不満だが。

 

 「……まあ、そうだね」

 

 ものすごく嫌そうに顔を顰めながらの肯定に、モニカとミナ以外が不思議そうな顔をした。

 

 ただリリウムの興味はすぐに移る──いや、戻る。

 

 「召喚術? どういうこと? やっぱり魔術が使えるの?」

 

 重ねるように問われ、フィリップは「もう聞かないでくれないかなあ」と言わんばかりに憂鬱そうな顔だ。

 

 ルキアやステラだけでなく、ディアボリカやミナのような本当に優れた魔術師を知るフィリップにとって、「魔術が使える」というのは彼ら彼女らのレベルだ。

 

 魔術に関して、フィリップはほぼ無能だ。

 

 空中に魔力で文字を書く魔力操作は、魔術の腕は平凡以下とされていたフレデリカでさえ簡単にやってのけるが、フィリップが成功するのは三、四回に一回くらい。

 

 そりゃあ理論分野はルキアとステラだけでなくフレデリカの教導を受けて並み以上になったが、実技方面は最後まで最底辺だった。

 

 別に「だから何?」程度の話ではあるが、それでも自分の弱点をつつかれていい気はしない。

 

 「実戦可用域にないものを“使える”と言っていいなら、イエス。魔術戦が出来るかと言われたら、ノー」

 

 語気を強めて言い切り、「この話はやめよう」と言外に匂わせる。

 しかし、モニカはフィリップの不機嫌に気付かなかったように、

 

 「実戦かぁ……。流石、魔術学院の卒業生は考え方が違うわねー」

 

 なんてぼんやりと呟く。もしかしたら満腹で眠くなっているのかもしれない。

 

 すると当然、リリウムも食いつく。

 

 「ちょ、ちょっと待って。さっきから話が支離滅裂よ!? 結局、あんたは魔術師なの? 魔術学院の卒業生? どういうこと?」

 「あぁ、はい、一から説明します」

 

 こうなったらヤケクソだ。

 魔術学院の授業内容も交えて、僕がどれだけの無能か徹底的に講義してやろう。

 

 そんなことを考えて立ち上がり、リリウムの隣に座り直そうとしたフィリップだったが、ほぼ同時にウォードが立ち上がって剣を取った。

 

 「──いや、フィリップ君。それは後にしよう」

 「お。いいカンしてるね、ウォード君。……魔物だ」

 

 エレナもすっと立ち上がり、川下の方を向いてファイティングポーズを取る。

 

 星と月の明かりがあるとはいえ、焚火から離れた場所まで明瞭に見えるほどではない。二人が睨む方向には夜の闇しか見当たらないが、エレナがそう言うのなら間違いないだろう。

 フィリップが立ち上がると同時にリリウムも表情を引き締めて立ち上がり、その後にミナが、最後にモニカが続いた。

 

 「ミナがいるのに近寄ってきたってことは、無知性の低劣……じゃなくて、低級の魔物だね。何が何匹?」

 「ジャイアントスパイダーとデモニックバット、ビースト・スケルトン。数は……全部で十かな」

 

 フィリップの問いに、「そこまでは」と頭を振るウォードに代わり、耳をそばだてていたエレナが答える。

 ジャイアントスパイダーは大型犬サイズの蜘蛛。デモニックバットは体長70センチくらいの直立する蝙蝠で、大きな鉤爪を持っている。ビースト・スケルトンはオーソドックスなアンデッドであるスケルトンの獣版で、骨格は通常の獣のどれとも一致しないが、なんとなくオオカミっぽい。

 

 「洞窟とは反対側よね? 森から出てきたのかしら」

 

 じわじわと夜の闇から染み出すように姿を現す魔物の群れを目の当たりにして、リリウムが僅かに肩を震わせながら言う。

 心なしか声も震えているが、それに気付いたのはミナだけで、そして彼女はそんな情報に一片の価値も見出さなかった。

 

 「折角だし、連携の訓練と行こうか。エレナ、指揮をお願い」

 

 とフィリップ。

 

 予想通り、どれも実習レベルの低級の魔物。相性も何も考えずギルドで再会したから組んだだけのパーティーが連携を確かめるには、ちょうどいい弱さの魔物だ。

 

 「オッケー! 姉さまとウォード君は前衛、ボクとフィリップ君はリリウムちゃんとモニカちゃんを守りながら遊撃、後の二人は後衛ね!」

 「ミナ、魔剣解放も魔術もナシね! 僕もロングソード状態しか使わないから」

 「はいはい。怪我しちゃ駄目よ」

 

 エレナが獰猛な笑みを浮かべ、ミナは欠伸交じりに血で編まれた直剣を握る。

 敵の位置次第だが、伸長すれば刃渡り4メートルにもなる蛇腹剣を使えば、低級の魔物くらい5匹纏めて撫で斬りにできる。それをしないのは、単純に戦闘を長引かせるためだ。

 

 瞬殺してしまっては連携も何もない。練習にならないからだ。

 

 「……モニカ、あれって何なの? なんで魔物の群れを前にして「真面目に闘うな」なんて言ってるの? もしかして自殺志願者?」

 「わかんない……。でも、フィリップもミナさんもすっごく強いはず」

 

 フィリップがドラゴン相手にデコイを務めるほどの戦士であること、ミナとウォードがその師匠であることは知っているモニカが言うが、声には自信がない。

 龍狩りの話は衛士たちに聞いているが、フィリップが戦うところを見るのは初めてなのだから。

 

 それに、ウォードとリリウムと冒険するのはまだ三度目。

 十匹単位の魔物の群れと遭遇したのはこれが初めてなのだった。怯えてしまうのも無理はない。

 

 そんなモニカとリリウムに気付くこともなく、フィリップたち実戦経験者組は陣形を確認していた。

 

 「パーカーさんは僕の、エレナはウォードの援護をメインにしようか。お互いの知らない相手の戦形を把握しておこう」

 「お、ボクが言おうとしてたことそのまま! フィリップ君も分かってきたねー!」

 

 ミナを最前線にして、フィリップとウォードが遊撃としてその援護。その少し後ろにエレナが陣取り、後衛ポジションからリリウムが、それぞれペアの相手を援護する。非戦闘員のモニカを最後方に置く、A型、或いは魚鱗と呼ばれる陣形だ。

 

 フィリップはエレナと笑みを交わし、龍骸の蛇腹剣龍貶し(ドラゴルード)を抜き放つ。

 

 鞘走りの音は夜の空に似合いの澄んだ涼やかさ。水色の燐光を纏う刀身が月と星に照らされ、背後から二つ、息を呑む気配がした。

 

 

 

 

 




 例によって例の如く自作絵です。自衛よろしくお願いします

 
【挿絵表示】


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401

 実のところ、フィリップが後方火力支援を受けながら戦うのは二度目のことだった。

 二年次の交流戦の折、ティンダロスの猟犬を相手にミナの援護を受け、ついうっかり『拍奪』を使ってフレンドリーファイアを誘引して以来だ。

 

 これまで一緒に戦闘したことがあるのはエレナとミナくらいで、二人とも近距離型だ。ルキアとステラとは模擬戦相手としては幾度となく戦ったが、肩を並べて戦ったことはない。あの二人はフィリップの支援なんかやらせずに火力要員として運用した方が1000倍有用だ。

 

 というか、二人とも戦線投入が戦闘終了を意味するレベルの極大戦力なので、フィリップが出しゃばる隙が無い。

 

 リリウムはどんなものなのだろうとワクワクしつつ、ミナが飽きないように気を配りながら、フィリップは率先して魔物へと突撃した。

 「上等」とばかり、群れの戦闘を走っていたビーストスケルトンが吠え立てながら飛び掛かる。

 

 蛇腹剣を伸長すれば一方的に斬り伏せられる甘い動きではあるが、縛りのある今は直剣の距離まで近づくしかない。となると当然、相手の跳躍や助走は威力を高めるのに十分な距離を進むことになる。

 骨だけの獣の体重なんてたかが知れているとはいえ、相手は魔物。爪も牙も殺意も、鋭さは自然のものではない。加速の乗った攻撃を受け止めるのは避けた方が賢明だろう。

 

 「なるほど……。パーカーさん!」

 

 こういう時に援護して貰えばいいのか、と遅ればせながら気付いたフィリップは、合図しながら素早くサイドステップを踏んで射線を開ける。

 

 「任せなさい! 《ファイアーボール》!」

 

 ほう、とフィリップは感心の息を漏らす。

 対アンデッドに効果的で最も簡易な火属性魔術を選択する判断力、打てば響く反応速度、どちらも素晴らしいと。

 

 しかし、その感嘆は紅蓮の火球がすぐ隣を通り過ぎたときに、リリウムの魔術適性の低さをまざまざと見せつけられて消え失せた。

 

 フィリップに当たりそうで危なかったとか、魔物に当たらない軌道だったわけではない。というか、強力なホーミング性能を持った魔術でもない限り、照準は魔術師自身の視覚や空間把握能力頼りだ。狙いが甘いのは魔術適性の不足ではない。

 

 ──熱くなかったのだ。

 

 いや、腐っても炎だ。

 触れれば火傷くらいはするのだろうが、ステラが使った初級魔術のように、掠めるだけで肌が焼けるような熱気を放っていたりはしない。火球のサイズも、フィリップの使う蝋燭大ほどではないが、拳大には僅かに足りない。

 

 初級魔術の『ファイアーボール』は、攻撃性能の全てを熱に依存している。

 もっと上位の火属性魔術になれば、単なる投射系魔術でも爆発とか延焼とか様々な付加効果を持つが、単純に魔力を熱に変換して撃ち出すような最低難易度の魔術にそんな豪勢なものはない。

 

 温度とサイズの不足は、イコール、威力の不足だ。

 

 「──フィル」

 「分かってる!」

 

 魔術攻撃を当てにして回避らしい回避を殆どしていなかったフィリップは、ミナの警告とほぼ同時に『拍奪』を使わず全力で後退する。

 ビーストスケルトン──眼球も脳もなく、魔術的な力で外界を認識しているスケルトン系アンデッドには、残念ながら相対位置認識欺瞞は効果を発揮しない。

 

 直後、炎の塊が直撃し、しかし一切怯むことなく突っ込んできた骨の獣は、フィリップの二歩ほど前の空間に爪を突き立てた。

 

 さて──。

 

 「その“当てが外れた”って顔はやめなさい。魔力の質と量を見て魔術威力が推察できなかったのは、きみの能力不足よ」

 「魔力の質と量とやらを、僕はそもそも見られないんだけど……。まあ、それならそれでやりようはあるでしょ」

 

 がっかりした顔のフィリップに、ミナが呆れたような目を向ける。

 そんな彼女の手に握られた血の直剣の先端には、三匹いたデモニックバットの頭部が三つ、団子のように串刺しにされていた。

 

 飛行型の魔物はまだ相手取るべきではないと判断したのだろうが、それにしても処理が早い。フィリップが多少の驚愕と共に瞠目した時には、その頭部も、地面に頽れていた胴体も、黒い灰のような粒子になって消滅した。

 

 「リリウムちゃん、ジャイアントスパイダーを優先して攻撃! フィリップ君、残りはどっちも『拍奪』の通じない相手だよ、気を付けて!」

 

 危なげなく魔物を処理していくウォードに援護は不要と判断してか、エレナからフィリップたちに指示が飛ぶ。

 ちょうど目の前のビーストスケルトンを斬り伏せたところだったフィリップは片手で「了解」と応じ、リリウムは声に出しつつ素直に照準先をフィリップに一番近いジャイアントスパイダーへ切り替えた。

 

 「判断速度は悪くない。司令塔に従うだけの素直さもあるし、指示に従うだけじゃなくどれを狙うべきか自分で考えられてる。ちゃんと正解だしね。……魔術の威力が上がれば、結構いい感じなんじゃない?」

 「はい。僕もそう思って、彼女と組むことに決めたんです」

 

 少し離れたところで安穏と言葉を交わすエレナとウォードに、フィリップは物言いたげな目を向ける。

 

 魔術の威力は大抵の場合、魔術の等級と種類によって決まる。

 初級魔術なら人間一人を殺すのに数発必要だが、中級魔術なら或いは一撃でも殺し切れる。上級魔術にもなれば数人、数十人を纏めて吹き飛ばすこともできるし、神域級魔術ともなれば都市全域を一撃で壊滅することも可能だ。

 

 しかし、別の魔術師が同一の魔術を使った場合、威力に差が出ることは殆どない。当然だ。「拳大の火球を撃ち出す魔術式」なのだから、魔術式にどれだけの魔力を代入しようと、出てくるのは「拳大の火球」と「余った魔力」。余剰魔力は熱や現象に変換されず、ただ散っていくだけだ。

 

 生じる結果を変えたければ魔術式そのものを変えるしかない。それが現代魔術における通説であり、ルキアとステラが出した結論でもある。

 ルキアが以前、本来は目視可能速度を超えるはずがない初級魔術で雷速を出したのも、魔術式を部分的に改変した結果だ。

 

 魔力の質も量も圧倒的に他と違う場合に於いては、ある程度有意な差異が認められるのだが──ルキアやステラで漸く「ある程度有意な差異」レベルなので、誤差と言っていい。

 

 ──つまり、魔術の威力を上げるには、ルキアやステラくらいに魔力を高める他には、使う魔術を変えるしかないのだ。

 魔術式の部分改変なんて魔術学院でも習わないような超高難易度の、魔術研究者レベルの技術があるなら別だが、それも「別の魔術を使う」と言っていいだろう。

 

 そんなことを考えて、

 

 「パーカーさん、中級魔術は使えますか!」

 

 なんて叫ぶフィリップだったが、不正解だ。

 

 リリウムの初級魔術はフィリップの見た通り、カタログスペック通りの威力を発揮していない。

 魔術が発動するのに必要な魔力量や質、演算能力は持っているようだが、初級魔術の威力上限に届くほどではないのだ。発動最低限にギリギリ届く程度のフィリップよりマシだが、やはり、正規の魔術師には程遠い。

 

 しかし、それはある意味では僥倖だ。

 魔力の質はともかく、量は後天的な訓練である程度成長する。

 

 フィリップがルキアの教えを受けながら「死ぬまでの間、死ぬほど努力すれば、もしかしたら使えるようになるかもしれない」中級魔術をリリウムが覚えるより、初級魔術をスペック限界で使えるようになる可能性の方が、まだ高い。

 

 ちなみにリリウムの答えは、

 

 「市販の魔術指南書に中級魔術なんか載ってるワケないでしょ!」

 

 という怒気交じりのものだった。

 

 本職の魔術師が対魔術師戦で手札に数えるものを、魔術を技術と文明の湧出元として集積している王国が、王都外では高価な書籍媒体とはいえ広く流出させるはずがない。

 

 そりゃあそうだと納得したフィリップは軽く肩を竦め、手近にあった石をリリウムの方に蹴った。

 

 「……は? 何なの?」

 

 足元にころころと転がってきた小石を見て、リリウムは眉根を寄せて思いっきり怪訝そうな顔をフィリップに向ける。

 

 「──フィル、前」

 

 退屈そうに欠伸していたミナの警告を受けて視線を引き戻すと、大型犬大の蜘蛛、ジャイアントスパイダーがフィリップに糸を浴びせかける寸前だった。

 慌てて距離を詰めて真っ二つに叩き切り、今にも飛び掛かろうとしていた別のジャイアントスパイダーに死骸を蹴りつけて妨害する。

 

 「魔物相手だと耐性に押し負けて碌な威力が出てないから、石を拾って投げた方がいいですよ」

 

 淡々としたフィリップの言葉に、リリウムは眦を吊り上げる。

 振り返らず、魔物の群れ全体を見るように視野を向けていたフィリップは彼女の表情を見ていないが、勝気そうな顔には自分の力を侮られたことに対するものにしても明らかに過剰な、烈火の如き怒りと、殺意にも近しいほどの憎悪が宿っていた。

 

 「はぁ!? なんですって!?」

 

 激高したリリウムに、ウォードとモニカがぎょっとした顔をする。

 以前にウォードが魔術の威力不足を指摘したことはあったが、その時は「そうね」と納得して受け止めていたのに、と。

 

 「魔力のない獣相手なら有効だろうけど、魔物相手じゃ──っと、危ない」

 

 別種の魔物同士でそんな知能はあるまいが、人間への害意と戦闘本能がそうさせるのか、まるで連携するように同時に襲い掛かってきたジャイアントスパイダーとビーストスケルトンを一刀の下に斬り伏せる。フィリップの腕力は大したことないが、得物が得物だけに、魔物の外皮であろうと殆ど抵抗なく切り裂けた。

 

 もう一度視野を広く取ると、魔物の群れはウォードとミナによって殆どが駆逐されていた。残りはウォードからフィリップに狙いを変えて突っ込んでくる──恐らく逃げようとしているジャイアントスパイダーが一匹だけ。

 

 一対一ならウルミを使っていた時分のフィリップでも勝てるような魔物が群れたところで、このパーティーの敵ではなかった。

 

 最後の一匹を処理すべく剣を構えるフィリップの背後で、リリウムは勢いよく屈んで足元に転がった石を拾い上げる。

 

 「私は魔術師よ! そんな原始的な戦い方はしないわ!」

 「え? なんで怒って──うわ!? ちょっと!?」

 

 怒声に反応して振り向いたフィリップは、夜闇の中を顔面目掛けて飛んで来る「何か」を慌てて避ける。

 暗くてよく見えなかったが、拳大より二回りは小さい何か──フィリップが蹴飛ばした石くらいの大きさだった。

 

 手を振り抜いた姿勢でこちらを睨みつけるリリウムと合わせて考えると、その直感は正しいと分かる。リリウムが石を拾って投げたのだ。

 

 ただし、狙いは魔物ではなくフィリップの頭部に合わせられていたが。

 

 「リリウム! ──っ、フィリップ君、前!」

 

 どういうつもりなのかと問い詰めようとしたフィリップより先に、ウォードがリリウムに負けず劣らずの怒気を迸らせる。

 投石は場合によっては鎧を着た相手にも有意なダメージを与えられる、極めて危険な攻撃だ。生身で頭に当たれば、或いは命の危険さえある。怒りに任せてやっていいことではない。

 

 しかしその一呼吸のせいで、フィリップの真後ろにジャイアントスパイダーが迫っていると警告するのが遅れた。

 

 まあ、魔物のことをすっかり忘れてリリウムに「なんだこいつ」と言いたげな目を向け、剣までだらりと下げているフィリップが、そもそも論外なのだが。

 

 「はぁ……」

 

 敵に背を向けて武器を下げた馬鹿に向けるに相応しい嘆息と共に、地中から生え出でた血の槍、ミナの魔術がジャイアントスパイダーを磔にした。

 

 その凄惨な音と光景に怯んだリリウムだったが、真っ先に出てきた言葉は「魔術……!」というものだった。

 

 ミナはリリウムの震えた声や慄いた眼差しに一片の興味も示さず、いつものように気怠そうにフィリップの方へ歩み寄り、くるりと反転させて背中側から抱きしめる。振り返る形になったことでフィリップはまたリリウムと向かい合うが、彼女はもう怒ってはいなかった。

 

 放心したように無表情のリリウムは、ただ茫然とミナのことを見つめている。

 言葉は無く、ただ、目の奥には憧れと、何かネガティブなものが宿っていた。

 

 そんな彼女の様子に興味はなく──もはや一瞥も呉れず、ミナはフィリップの首筋に顔を埋めながら囁く。

 

 「投擲は確かに簡易……原始的で有用な攻撃方法だけれど、何の訓練も無く使いこなせるほど底の浅い技術でもないわよ。むしろ、その鈍臭そうなのがいきなり実戦域にあると、どうして思ったの?」

 

 リリウムが投げ損じたと思っているミナの言葉に、フィリップは「そんなに難しいの?」と眉尻を下げながらミナに体重を預ける。

 

 フィリップ以外で唯一言葉の内容が聞こえていたエレナは、リリウムの方をちらりと見て再び激昂しないことに安堵の息を漏らしつつ、「やっぱりコミュニケーションに難ありだなあ」なんて、口角を引き攣らせていた。

 

 

 

 

 

 



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402

 「……それで?」

 

 戦闘が終わり、再び焚火を囲んで一息ついた一行に、フィリップが水を向ける。

 いつものようにフィリップを膝に乗せて愛玩していたミナは一瞬だけ自分に言われたのかと思ったようだが、すぐに違うと気付いてフィリップの首筋に顔を埋めた。

 

 フィリップの視線と意識が向いているのは背後のミナではなく、ちょうど焚火を挟んで正面に座っていたウォードだ。

 ばっちりと目が合い、問いの先であることを悟った彼は眉根を寄せて困り笑いを浮かべる。

 

 「……えっと、何が?」

 「ウォード、さっき──晩御飯の前に、「いい収穫があった」って言ってましたよね? モニカも「大変だ」って」

 

 言うと、ウォードはたった今思い出したとばかり、頻りに頷いた。

 

 「あぁ、うん。いや、その前に、先に禍根を断っておこう。……リリウム」

 

 ウォードにしては珍しい硬い声に、フィリップは興味深そうな目を向ける。

 名前を呼ばれたリリウムは一瞬びくりと肩を震わせたが、すぐに顔を背け、更にウォードに背を向けるように座り直しまでした。

 

 「……先にそっちが謝るべきでしょ。私は暴言に対して報復しただけ」

 

 苛立ちも露に言うリリウム。

 暴言を吐いた覚えのないフィリップは、指を差されて「え? 僕ですか?」と困惑顔だ。

 

 「いいや。君は投石を馬鹿にしすぎだ。確かにフィリップ君は君を傷つけたし、その件については後で話す。けれど、君の衝動的な行いが彼に甚大なダメージを与えていた可能性もある。例えば目に当たっていたら、大した威力でなくても失明するかもしれない」

 「……知らないわよ、そんなの。実際には当たってないんだからいいじゃない」

 

 ふむ、とフィリップは軽く頷く。

 顔に向かって物が飛んできた時には反射的に驚いたが、当たってはいないし、当然何の痛みも感じていないので怒ってはいない。

 

 もし当たっていたとしても、その時はフィリップ自身が心行くまで報復する。なに、エレナの人外の美貌にさえ「一発は一発」と拳を叩き込んだのだ。今更女性の顔面を殴ることに躊躇することはない。

 

 それに、頭蓋骨を貫通して一撃で脳が破壊されたならともかく、目の表面が傷ついたくらいならミナの血で治せる。まあミナに相談した時点でリリウムは殺されるだろうけれど。

 

 「……僕は──」

 「フィリップ君はちょっと黙っててくれないか。話がややこしくなる」

 

 後の先。

 フィリップの言葉を完璧に遮ったウォードに、フィリップは「はーい」としょんぼり返すしかなかった。

 

 エレナはそれを見て暫くけらけら笑っていたが、徐に立ち上がると、フィリップの前に座り直した。

 焚火と、その奥のウォードとリリウムを身体で遮るような位置だ。

 

 「はいはい、フィリップ君は私とお話ししようねー」

 

 怒られの気配を感じて思わず身を引くフィリップだったが、ミナに抱きしめられていては逃げることも叶わない。

 

 「……で、なんであんなこと言ったの?」

 「あんなことって?」

 

 尋ねるフィリップの大真面目な顔を見れば、ふざけたり茶化したりしているわけではないことが分かり、エレナは困ったように眉尻を下げる。

 

 「パーカーさんが怒ったときのこと。“石を拾って投げたら?”ってやつ」

 「あぁ……。あれ、殿下の受け売り」

 「ステラちゃんの?」

 

 もう入ることは無いだろう魔術学院の体育館を懐かしみつつ、当時のことを思い出しながらフィリップは語る。

 

 「うん。日常系魔術で無理して戦うぐらいなら魔力は温存すべき、って。いざというときに切り札が使えないんじゃ話にならないしね」

 

 勿論、流石にフィリップのようなケースは稀だろうが、それを言うなら、ルキアやステラのように上級魔術を撃った端からその分の魔力が回復する魔術師だってそうはいない。魔術師が継戦能力を気にするのは普通のことだ。

 

 だから他人にも適用できる理屈だと思って、リリウムにも忠告したのだけれど。

 

 フィリップの言に、エレナは「切り札?」と首を傾げる。

 彼女はフィリップが碌に魔術を使えないことと、例外的に二つの超攻撃的な魔術を扱えること、そしてやっぱりその二つもポンコツで、一定以上の魔力を持つ相手には弾かれることを知っている。

 

 石でも投げた方がマシな「魔法の水差し」と「魔法の火種」、あとは「冬場のドアノブ以下」と評された『サンダー・スピア』。比較的簡単だとされる『ウォーター・ランス』を除けば、それぞれの属性で人類最高最強の魔術師に教わって、このザマだ。

 どれも「切り札」と呼べるものではない、というか、フィリップはそれらを端から手札としてカウントしていない。

 

 「あぁ、例の“捨て身アタック”。前から聞きたかったんだけど、やっぱり自爆系の魔術なの?」

 「そんな感じ。僕も周りも全部吹っ飛ばす、みたいな。使い勝手の悪い、小を兼ねない大ってやつだよ」

 

 そこには食いつかないで欲しかったと思いつつ、正解からそう遠くない表現をするエレナに乗っかる。

 

 「……フィリップ君には、それや剣技があるからステラちゃんの言葉を受け入れられたんだよ。魔術師が魔術を否定されるのは、あなたが召喚術や剣術を否定されるようなものだよ? 今日会ったばかりの人に、いきなり「君の剣技は弱すぎる。戦わずに逃げろ」とか言われたら、嫌じゃない?」

 

 言われて、フィリップは「ん?」と首を傾げる。

 

 「ん? うーん……。否定しにくい事実を突きつけられるのは、そりゃあ嫌だけど……それは別に、ただの事実だしね。その弱さが味方の害になるなら、尻尾巻いて逃げるよ」

 

 淡々と言うフィリップに、エレナは深々と溜息を吐き、両手で顔を覆った。

 フィリップの言葉や態度に強がりの気配は全くない。彼は心の底から素直に語っている。そう分かった時点で、エレナはアプローチを間違えたことにも気付いていた。

 

 フィリップは自分が強いとは思っていないし、事実としてそこまで強くはない。

 

 そして、それを自覚させるには十分すぎる環境が揃っている。

 剣術指南役のウォードやマリー、戦闘に関する全般を教導するステラとミナ、対魔術師戦の相手役を幾度となく務めてくれたルキアに、格闘戦指導役のエレナ自身もそうだ。最近では一度だけだが先代衛士団長にも稽古を付けて貰った。

 

 こんな化け物連中に囲まれていては、「弱い」という言葉から侮蔑的な印象が抜け落ちるのも無理はない。

 

 何より、エレナはフィリップのその自己認識が、卑屈や悲観から来るものではないことを知っていた。

 

 「……“その代わり、強みで誰かを助けられるなら自分を犠牲にしてでも助ける”って続くでしょ、それ。そうだった、こういう子だった……」

 

 顔を覆ったまま、何故か恨みの籠ったような声でボソボソと呟くエレナ。

 その隣で、フィリップは「そりゃそうでしょ」と怪訝そうな顔だ。……尤も、エレナの思う「誰か」とフィリップの思う「誰か」には、大きな差があるのだけれど。

 

 ボソボソと不明瞭に何事か呟いたかと思うと、エレナは勢いよく立ち上がった。

 

 「……ウォード君! 交代! ボクじゃフィリップ君を説得できない!」

 

 なんだこいつと言いたげな冷たい目を向けるフィリップとミナを置いて、エレナは焚火を迂回してウォードの方に向かう。

 ややあって、エレナがリリウムの前に、ウォードがフィリップの隣に座った。

 

 「……と言うわけで交代したんだけど、エレナさんに何て言われたの?」

 

 エレナとの会話を掻い摘んで話すと、ウォードは複雑そうな顔で唸る。

 魔術に関係したことならウォードよりもフィリップの方が詳しいし、それが聖痕者の受け売りだというのなら、非魔術師がどれだけ頭を回したところで覆せるものではない。

 

 それにウォードは交流戦でステラと多少は会話している。

 ステラの考え方や話し方を知っているからこそ、何の否定材料も見つけられないのだと考える前に分かってしまった。

 

 「あぁ……。そうか、第一王女殿下の……あの方の仰ることに間違いは無いだろうし、正直、僕もそう思う」

 

 神妙に言うウォードに、フィリップも当然のように頷きを返す。

 フィリップの中で最も信憑性が高いものは当然「自分の目で見たこと」だが、「ステラが言ったこと」もそれに匹敵するくらい高い。

 

 「でもね、他人の拘りやポリシーを無遠慮に踏み荒らすのは良くないよ。それが喩え合理的には間違っていても、その人にとっては譲れないことかもしれないだろう?」

 

 言い聞かせるような調子のウォードに、フィリップはまた軽く頷く。

 実際、フィリップはそういう人物と親しい。提示されたものが合理的最適解であると分かっていてもなお、自分の価値観に沿わないものなら突っぱねる人物と。

 

 「ですね。ルキアと殿下も偶に喧嘩して……あー……パーカーさんも戦い方に拘りが?」

 

 だとしたら、知らずのこととはいえ迂闊に逆鱗に触れたフィリップが悪い。ミスというか、運が悪かった。

 ルキアは「無様に勝つぐらいなら美しく負ける」と言うが、もしかしたらリリウムも「魔術を使わずに生き延びるくらいなら魔術で戦って死ぬ」みたいな価値観の持ち主かもしれない。

 

 「多分ね。僕も詳しいことは知らないし、フィリップ君なんて初対面だから尚更仕方ないことだとは思うけど、気付かずに蛇を踏んだ形だね」

 「落ち葉に紛れて寝てる蛇なんて、本職の狩人でも稀に見逃しますよ」

 「そうだね。だから、運が悪かったんだよ」

 

 「そうなの?」とは言わず、「そうだね」と肯定したウォードに、フィリップは自分で言っておいて不思議そうな目を向けた。

 田舎の人間なら、そりゃあ「そうだね」と言う反応だろうけれど、王都の人間にはそもそも蛇自体が見慣れない動物だろうに。

 

 「……ウォード、王都の人ですよね?」

 「そうだよ? ……あぁ。剣術の師匠に連れ出されたことが何度かあってね。山だの森だのには多少慣れてるんだ。軍学校で山地だの森林だのの行軍訓練もしたしね」

 「あぁ……。お師匠さん、厳しそうですもんね」

 

 交流戦の折、ウォードと一緒に風呂に入ったり着替えたりしていて目にした、全身に刻まれた無数の古傷を思い出して慄く。

 あれは模擬剣が摩擦で切った傷ではない。真剣で、かなり深々と切り裂かれた跡だった。それも十やそこらではない数の。

 

 魔剣と龍骸の蛇腹剣で模擬戦をしているミナとフィリップの訓練でも怪我は絶えないが、流石にそれはミナの血液、究極回復薬ありきだ。生身の人間同士であんなにも傷を負うほど苛烈な訓練を課すなんて、「厳しい」の域を遥かに逸脱している。

 

 「まあね。ははは……」

 

 思い出したのか、ウォードは暗い目で乾いた笑いを零していたが、それも一瞬だ。咳ばらいをして話を戻す。

 

 「んん。ともかく、フィリップ君はリリウムと話し合って、あの子の拘りを悪意で貶したわけじゃないことを説明するべきだね」

 

 エレナにも怒られ、ウォードにもこうして苦言を呈されて「僕は悪くない」と強硬に主張するほど物分かりの悪くないフィリップは、素直に「はい」と頷いた。

 

 「……ところでパーカーさんとウォードって、パーティーを組む前から知り合いだったんですか?」

 「家が近所でね。親同士の仲が良いから、子供の頃にはよく遊んでたんだ」

 

 そういうご近所付き合いは王都でもあるんだ、とフィリップはなんとなくほっこりした。

 王都と王都外では技術格差が激しく、文化に微妙な差異が生じ始めている。数百年もすれば言語さえ乖離するだろうと学者に言われているくらいだ。

 

 それでも田舎と似たような安穏とした暮らしがあるのだと分かると、何故だかちょっとだけ嬉しい。

 

 「へぇ。モニカとも?」

 「いや、モニカちゃんはタベールナに行ったときにちょっと話したことがあるくらいだったんだけど、ギルドでばったり会って……っと、あっちの話も終わったね」

 

 焚火の向こうでエレナが立ち上がったのを見て、ウォードも伸びをしながら立ち上がる。

 それから大きな欠伸をして、一言。

 

 「よし。じゃあ……今日の所は一旦寝て、二人の話し合いは明日の朝にしよう」

 

 げ。と、フィリップは口元を苦々しく歪める。

 そのやり口は実母アイリーンが、フィリップと兄オーガストが喧嘩した時に使っていた。“話し合い”が終わるまでずっと──最長記録ではその日の夜まで、ずっと朝食が出て来ないのだ。

 

 いわば食事を人質にした強制和解策。

 

 王都でもそんなことをするのかは知らないが、ウォードがそのやり方を知っていたことはフィリップにとって予想外だったし、望まぬことでもあった。

 

 そんなところは田舎と一緒でなくていいのだけれど。

 

 

 

 

 



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403

 翌朝。

 ウォードと同じテントで目を覚ましたフィリップは、寝ぼけ眼を擦りながらモゾモゾと外に出る。

 

 朝日を浴びて煌めく川面に目を細めると、川辺に一つ、人影があることに気が付いた。誰かが顔を洗っているようだ。

 フィリップも顔を洗おうと近づくと、すぐに人物は特定できた。……リリウムだ。

 

 「……おはようございます」

 「……おはよう」

 

 緩慢に挨拶を交わす二人。

 なんとなく気まずそうなのはリリウムだけで、フィリップは単に眠いだけだ。

 

 顔を洗い、ついでに水を飲もうとして、自分が使っているのが王都の水道水ではないことを思い出して慌てて吐き出す。川の水は透き通っているし変な味もしなかったが、良く知らない川の水を飲まないなんていうのは常識だ。

 

 明らかに寝惚けているフィリップを見て、リリウムはくすりと笑いを漏らす。

 

 空気が弛緩したその隙を逃さず──偶然だが──フィリップはリリウムの方を向いて頭を下げた。

 

 「パーカーさん。昨日はすみませんでした。知らずのこととはいえ、貴女の誇りを傷つけて」

 「……エレナさんとモニカに色々聞いたわ。貴方、魔術学院の卒業生らしいわね。……黙ってたことも、別に怒ってないわ。魔術事故を起こしたなんて、自分から言うことでもないし」

 

 二人から何を聞いたのか、或いは単に一晩寝たからか、リリウムは昨日の怒りを霧散させて落ち着いた様子で語る。

 

 「本物の魔術師に囲まれてたんなら分かるでしょ。私たちは「ただ才能がない」だけで、何もできないって決めつけられて、見下されてる。……貴方もその口かと思って、ついカッとなったわ。ごめんなさい」

 

 深々と、とは言えないが、それでもしっかり分かる程度には頭を下げるリリウムに、フィリップはふっと相好を崩した。

 こういう物分かりの良いタイプは好きだ。人間として正しく、言葉によって意思の疎通が図れている気がする。

 

 「正直、そこいらの魔術師に言われたことなら反発してた。けど……聖痕者様に言われたことなら、流石にそうもいかないでしょ」

 

 肩を竦めつつも反骨心は感じさせず、むしろ致し方ないと納得したように言うリリウム。

 流石は天下に名高き聖人様だと口元を緩めるフィリップだったが、リリウムは聖人の言葉だから納得したわけではなかった。

 

 「三年前の御前試合、見た? 凄かったのよ。人間技じゃなかった……まさしく神に見初められた聖人の御業だった」

 

 三年前──フィリップがサークリス公爵一家に連れられて観に行った年だ。

 

 「……はい。空間隔離術式、神域級魔術の改変。学院長が驚くくらいの難易度らしいですね」

 

 後から聞いた話だが、ルキアは他の魔術との並列処理どころか、長時間維持さえ難しいそれを設置型に改変することで、あれほどの魔術戦を見せたらしい。

 対して、ステラは自前の魔力と演算能力に物を言わせてゴリ押しでそれに追随したそうだ。

 

 その話を聞いたときは、大抵の魔術理論を理解できないが故に、大抵のことは「そうなんだ」と無理解に受け入れていた当時のフィリップでさえ耳を疑った。

 

 「私もその解説は現地で聞いてた。何言ってんのかは、正直、今でも全然分かってないけど。あとで教えてくれる?」

 「どのぐらい難しいかって説明しか出来ませんけど、そんなので良ければ」

 「ありがと」

 

 暫しの沈黙が二人の間に降りる。

 フィリップはもう話が終わったつもりで「結局は咄嗟にゴリ押せる魔術師が強いんだよなあ」なんて考えていたが、リリウムは再び口を開いた。

 

 「流石にあんなのは無理だって自分でも思うけど、でも、私たちみたいな“不許可組”だって無価値じゃない、出来ることがあるんだって証明したいの」

 「……例えば?」

 

 無理だよ、とは思ったものの口には出さず、代わりにそう問いかける。

 魔術学院は言うまでも無く、学校──教育機関だ。その本質は「篩い分ける」ことではなく、「育てる」ことにある。

 

 入学を許された者と許されなかった者の差は才能だけだが、独学者と卒業生とでは研鑽の質が圧倒的に異なるのだ。

 

 才能も無く努力の質も劣る一般人。優れた才能に良質な研鑽を重ねた卒業生。

 

 比較する気にもならない。

 

 フィリップは冷めた目でリリウムを見つめていたが、彼女の答えを聞くと、ほんの僅かに興味深そうに片眉が上がる。

 

 「──Aクラス」

 

 フィリップの目指すところと同じ。──正確にはフィリップにとっては経由地点だが。

 そして、そう非現実的な目標と言うわけでもない。

 

 Aクラスに上がるには強さと人格を兼ね備えていなければならないが、“強さ”の種類は問われない。

 魔術師としてでもいいし、戦士としてでもいい。弓兵や、補助魔術師、治療術師、野伏でもいい。余人とは一線を画する卓越した技能を有し、それを以て多くの依頼を達成することが条件だ。

 

 つまり、この場合に於ける最適解は「魔術師を辞めること」。……なのだが、流石に、今そんなことを言っても聞き入れてはくれないだろう。

 

 「Aクラス冒険者になったら、魔術師として大成したって言えるでしょ。そして──、っ、いえ、なんでもないわ」

 「……まあ、何か事情があるのは分かりましたし、話したくないなら聞きませんよ。……でも──」

 

 口が滑ったと眉根を寄せるリリウムに、フィリップは軽く肩を竦める。話したがらない事情に首を突っ込むほど、フィリップはリリウムに興味がない。

 

 しかし同じく言い淀んだフィリップに、リリウムは不愉快そうに眦を吊り上げた。

 

 「……何か言いたそうな顔で黙らないで。イライラするから。この際だし、言いたいことがあるなら言いなさいよ」

 

 なんだこいつ、と、普段ならフィリップも眉根を寄せるところだが、今はそれより言いたいことがあった。

 言いそうになったが、本当に言うべきかと珍しく躊躇したことが。

 

 「……学院で習った魔術理論の中に、“血統遺伝的魔力構成要素と魔力中の性質決定因子仮説”っていうものがあるんです。内容を簡単に要約すると、魔術適性は遺伝で先天的に決まってる、っていう仮説なんですけど」

 

 仮説──ではある。一応。()()()()()()()()()()()()

 フィリップはナイ神父からそれが“正解”であることを教えられている。そのせいで授業で同時に習った複数の“不正解”は殆ど頭に入って来なかったし、その不正解の方がテストで出てきた時には問題用紙を破りかけたが。

 

 ともかく、「ふーん。……けど、所詮は仮説でしょ」というリリウムの挑戦的な相槌は間違いだ。

 フィリップが何と返すべきか迷っていると、リリウムは「それに」と先を続ける。

 

 「それに、適性がないからって、勝手に()を決められちゃ堪らないわ」

 「いや、魔術適性は「初期値」じゃないんです。その人に何ができるのか、どういったことが得意で、どこまで極められるのか。その人が持つポテンシャル、「潜在値」というか……」

 

 適性の絶対性は、例の性質決定因子仮説を証明するまでも無く、ルキアやステラが身をもって実証している。

 最高の才能に最高の環境、物心ついて以来の無謬の研鑽を以てしても、ルキアは支配魔術を会得できていないし、ステラは支援系魔術を使えないままだ。

 

 フィリップの言葉に、リリウムの眉根が険しく寄る。

 流石に厳しく言い過ぎたかと自省──のようなことをしたフィリップは、少し慌てて、

 

 「……とはいえ、僕は「死ぬまでの間死ぬほど努力して上振れを引けば、もしかしたら中級魔術が使えるかもしれない」程度ですけど、パーカーさんは違うかもしれませんしね。……ルキアに頼めば調べて貰えるかもしれませんけど、帰ったら頼んでみましょうか?」

 

 と、よく分からないフォローをする。

 

 リリウムはその内容自体には触れず、興味深そうにも怪訝そうにも見える不思議な目でフィリップを見据えた。

 

 「……二人から聞いてたけど、ホントに聖痕者のサークリス聖下と友達なのね」

 「えぇ。……あっ、ミナでも出来るかも? 聞いてみましょう」

 

 ルキアもミナも、嫌なら「嫌」とはっきり言うタイプだから、頼んだところでやってくれるかどうかは微妙なところだけれど。

 しかし二年前のルキアでも、ちょっと探ったくらいでフィリップの魔術適性の無さを看破出来たのだ。魔力の質と量のどちらも持っていないフィリップだからあれだけ簡単に分かったのかもしれないけれど、ミナはそう労力の要らないことならやってくれる。

 

 そんな仮定に基づく推測をしているフィリップに、リリウムはふっと口元を緩めた。そして一言。

 

 「必要ないわ」

 

 そう、端的に断った。

 遠慮や、或いは否定されることへの恐怖もあっただろう。しかし彼女は胸を張り、フィリップを真っ直ぐに見据えて勝気な笑顔を浮かべる。

 

 「誰に何と言われようと、私は「出来る」と信じる。たとえ聖人様に「無理だ」と言われようと、それを覆してみせる。絶対に」

 

 絶望と諦観で濁った青い目と交錯するのは、同種の負の感情を希望と決意の輝きで覆い隠した、同じ色の双眸。

 分不相応な願いを抱くのは人間の常だ。それが自らの分を超えたものであるとも知らず……或いは知った上でなおか。どちらでもいい。

 

 「……いいね。そういう目が出来る人は大好きだ」

 

 身の丈より大きな虫の死骸を懸命に運ぶ蟻を見るような目で、フィリップは笑った。

 

 

 

 

 



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404

 全員が起き出して朝の支度を整えると、一行は朝食と並行してブリーフィングを始めた。

 ちなみにメニューは昨日のグレートアルセスの残りと王都から持ってきたパン、森で摘んできた野草のスープ。川辺のキャンプにしてはかなり豪勢といえる。

 

 ブリーフィングの中心になるのは、依頼の発注元である近くの村に聞き込みに行っていたウォードだ。

 

 「それじゃ、これから調査に向かう洞窟の情報を共有するよ。近所の村の農家と狩人の情報だから、信頼性はギルドの情報に劣る。今後、情報と相違するものを見つけたらすぐに共有してほしい」

 

 真剣な表情で語るウォードに、まだ眠そうに欠伸しているミナ以外の全員が神妙に頷く。

 ウォードはミナも含めて全員に向けて頷きを返し、ポケットから茶ばんでごわごわした紙状のものを取り出した。

 

 「うわ、懐かしい。樹皮紙ですか」

 「王都の紙は外じゃ高級品だからね。トラブル回避だよ」

 

 ウォードがメモ帳代わりに使ったのは、樹皮紙と呼ばれる代用品だ。

 その名の通り、特定の種類の木を見つけて皮を剥いだだけの、特にどこで売られるとも無い──刃物さえあれば簡単に自己調達できる、最低級の筆記具。ちなみに木炭で書き込むのだが、書き味も保存性も最低だ。

 

 田舎ではメモ代わり、すぐに捨てるようなことを書くときに使っていたが、王都では全く見なかったものに、フィリップは「懐かしいなあ」としみじみとした笑顔になる。

 

 「まず、洞窟の深さは不明。発見されている開口部は二つ。一つはこれから僕たちが向かう川沿いのもの、もう一つは、ここから四百メートルくらい向こうの村にある廃井戸。こちらは地下水層が崩落して洞窟と繋がったみたいだ。開口部から底部までは約十メートル。侵入も脱出も容易じゃないから、入口としては使えない。必然的に、最近見つかった川沿いの開口部を使うことになる」

 

 立て板に水に説明してくれるウォードのおかげで、洞窟探査は初めてのフィリップにもなんとなく状況が掴めた。

 

 しかし村はここに来る途中に遠目に見たが、そこから川上の洞窟までが地中でずっと繋がっているというのは、流石に直感的にはイメージできない。

 

 「400メートル? 長いですね?」

 「いや、そんなに長くないよ。ボクが経験した中だと、10キロとか、そんなのもあったし」

 「10キロ……」

 

 言われてみれば、フィリップがこれまでに唯一訪れたダンジョンである、あのアイホートの雛がいた迷宮型のもの。あれも深さはともかく、総面積は相当なものだった。

 びっしりと張った巨大な蜘蛛の巣のせいで全容は把握できなかったが、エルフの森の地下にあった洞窟──地下湖も相当な大きさだったし、地下構造物は数百メートル規模が普通なのだろうか。

 

 「続けるよ。国土管理局が付けた正式名称は分からないけど、村では“子喰いの洞窟”と呼ばれてる。……その名の通り、既に四人の子供が洞窟に消えた」

 「探検しに行って迷った、って可能性は?」

 

 安穏とした問いを投げたのは、過去に洞窟探検に繰り出して迷子になった経験のあるエレナだ。

 小さい頃に近所の森で遊んでいたフィリップも、「洞窟があったら行くよなぁ」なんて頷いている。

 

 そして二人の感性と、件の子供たちの感性は同じだった。

 

 「探検しに行ったのは、その通りらしい。元々、川が氾濫した直後で危ないから行くなと言っていたそうなんだが、言いつけを破ったようだ」

 

 「あぁ……」と二人の声が揃う。

 フィリップの田舎には氾濫するほど大きな川が無かったからピンと来ないが、埋没していた洞窟が露出するレベルの大氾濫だったのだから、見に行ってみたくなるのも仕方ないかもしれない。

 

 「川に流されただけとか、森で魔物に襲われた可能性もあるわよね?」

 

 とリリウム。

 野営時に襲われたことを考えると、確かに有り得ない可能性ではない。

 

 しかし、ウォードは頭を振って否定する。

 

 「いや、子供たちは洞窟を進み、廃井戸の下まで来たそうなんだ。そこから村の人に声をかけて、驚かせて遊んでいたらしい」

 「クソガキね……」

 

 呆れ顔のリリウムに、フィリップとエレナも同意する。

 モニカも「怒られそう……」なんて言っているが、モニカがその村の子供だったら絶対に同じことをしているとフィリップは確信できた。フィリップもいたら、多分巻き込まれて一緒に怒られている。

 

 「一応、子供たちの名前と当時の服装も聞いては来たけど、生存は望み薄だね。なんせ二週間も前のことだ」

 「食べ物のない洞窟に二週間、それも魔物がいる可能性もある、か……。そうだね。ボクでも死ぬかも」

 

 今一つ洞窟で遭難するイメージが掴めずにいたフィリップも、エレナの言葉を聞いて生存難度の高さを察する。

 ぱっと一瞬で思いつく限りでも、「光源不足」「足場の不整」「間合いの狭窄」とデメリットは多い。特に走り回って相手を攪乱し、蛇腹剣で中距離から一方的に首を刈り取るのが理想的戦形のフィリップは、かなり苦しい状況になるだろう。

 

 しかしそうなると、そんな空間を子供だけで400メートルも進めたことの方が驚きだ。家からランタンか何かを持ち出したのだとしても、クリアできるのは光源問題だけ。むしろ魔物を誘引してしまいそうなものだが。

 

 「子供だけで400メートル以上も進めたなら、ダンジョンじゃないんじゃないの?」

 

 フィリップが考えていた疑問をそのまま、モニカが口に出す。

 しかし、ウォードはまた頭を振って否定する。

 

 「そうとも言い切れない。400メートル直通のトンネル状洞窟と、洞窟型ダンジョンが脇道か何かで繋がった可能性もある。或いは何かギミックのある……例えば大声を上げるまで魔物が出現しない、トラップ系ダンジョンかもしれない」

 

 確かに、と、ダンジョン攻略経験のあるエレナと、学院で習ったフィリップが同時に頷く。

 ダンジョンは基本的になんでもありだ。術者不在の魔術式トラップだとか、どこからともなく矢が補充される機械式バリスタだとか、倒しても倒してもギミックを解くまで無限に復活する魔物とか。

 

 「出てくる魔物の種類は?」

 

 とエレナ。

 ウォードはまたメモに目を落として答える。

 

 「村人たちが確認しているのはケイブバットとスカウトスパイダー。昨日戦ったデモニックバットとジャイアントスパイダーとサイズ感がよく似ているから、見間違えた可能性もあるけれど」

 

 かなり詳しいところまで──いや、必要になる情報を的確に集めてきたウォードに、フィリップとエレナが感心の目を向ける。

 

 「前二つは、どっちもダンジョン以外では滅多にお目にかからない種だね。見間違いじゃなければ、ほぼ確定だ」

 

 エレナの言葉に「そんな判別方法が」と感心したのはフィリップとリリウム。ウォードは「そうですね」と軽く同意しているので、頭にあったのだろう。モニカは基本的に前提知識がないので、あるがままを受け入れる姿勢だ。

 

 そんな方法があるなら、もしかしたら今日中には王都に帰れるかもしれない……なんて、フィリップが甘い希望を持った直後、神妙な顔のウォードが先を続け、希望を打ち砕いた。

 

 「それから、恐らく魔物ではない通常の生物……或いは、相当に上位の魔物が棲みついている可能性が高い」

 

 「ふぅん?」と興味深そうに──今初めて興味を持ったミナが意識を向ける。

 そんな彼女を挟んで、フィリップとエレナは苦々しい表情の張り付いた顔を見合わせた。

 

 言葉も無く同じ存在を思い出して危機感を共有している二人に気付かず、リリウムが「何故?」と問いかける。

 

 「井戸の下にきた子供たちがそいつに襲われて上げた悲鳴が、井戸を伝って村にまで届いたそうだ。子供たちは頻りに「やめて」「助けて」と繰り返していたという」

 

 ウォードが語る悲惨な状況を想像して顔を顰めたのはモニカだけだ。

 ただ他の四人も無反応と言うわけではなく、疑問や焦燥など、それぞれの内心を映した表情を浮かべている。

 

 「普通に、魔物に怯えただけじゃないの?」

 「違うね。悲鳴は数十秒も続き、徐々に小さくなって消えたそうだ。遠ざかったように──まるで洞窟の底に引きずり込まれたように。戦闘本能──殺戮本能で戦う魔物が、丸腰の、十歳にも満たない子供四人を殺すのに何秒かかると思う?」

 

 リリウムの問いは、ウォードがすぐに否定する。

 実際、ケイブバットだろうとデモニックバットだろうと、スカウトスパイダーだろうとジャイアントスパイダーだろうと、非武装非戦闘員の子供を殺すのに何十秒もかけることはない。

 

 飛び掛かり、首筋に爪や牙を突き立てて、それで終わりだ。

 

 「時間はともかく、魔物は普通の生き物と違って獲物を巣穴に持ち帰ったりしない。その場で殺す。知恵を備えた魔物、“殺すために殺す”行動原則を逸脱した変異種か、そもそも魔物ではないのか……」

 

 真剣な表情で考え込んだエレナに、フィリップも多少危機感を煽られる。

 “殺すためだけに殺す”大原則を外れた魔物の代表例は、今まさにフィリップの隣で「手応えのある相手だといいわね」なんて笑っている。

 

 いや、まあ、吸血鬼が出てきてもミナを見た瞬間に逃げていくだろうけれど。なんせ元吸血鬼陣営の統括者様で、吸血鬼にとっては神にも等しい始祖の系譜。人間にとっての天使みたいなものだろう。

 

 「……思ってたより危なそうだね。ミナの魔力視で確認してみる?」

 

 水を向けると、ミナはふっと口元を緩める。

 

 「……何か勘違いしているようだけれど、魔力視は視界のチャンネルを魔力の次元に合わせるもので、透視能力ではないわよ」

 「え? そうなの? 殿下は扉越しに敵の位置が分かったし、ルキアも森の中で僕の位置を割り出してたよ?」

 

 魔術学院Aクラス卒業生にあるまじき知識不足──ではない。

 そもそも魔力視自体が非常に優れた能力を持つ魔術師にしかできないことだ。授業でも習っていないし、ルキアやステラもフィリップが100年かかっても習得できないことを教えるほど暇でも馬鹿でもない。

 

 「魔力視界に魔力を持たないものは映らないのよ。だから魔力視は物理的な遮蔽ならどんな厚みがあっても、何枚でも見通せるけれど、それは逆に、魔力を持たないものはどれだけ巨大でも、たとえ目の前にあったとしても見落としてしまうということ。壁を見透かせるんじゃなくて、魔力情報だけが見えるようになった結果、壁を認識できなくなる、と言えばいいかしら」

 

 魔力視のできないフィリップに魔力視とは何かを教えるのは、盲者に色を教えるようなものだ。

 ちょっとやそっとの説明では立ち行かない。フィリップもなんとなくのイメージはつくが、正解かどうかは分からない。

 

 だが、今重要なのは実態ではない。何が出来て何が出来ないのか、それだけ分かっていればいい。

 

 「……つまりダンジョンや洞窟じゃ、「どこに魔物がいるか」は分かっても、「どうやってそこまで行くか」は分からないってこと?」

 「そうね。ついでに言うと、魔物の種類を判別するには、その魔物の魔力パターンを知っていないといけないわ。そして──」

 

 この先は言うまでもないだろうと肩を竦めたミナの言葉を、フィリップは笑って引き取る。

 

 「僕でも殺せるような劣等種を、ミナが覚えてるワケないか……」

 

 「正解」とミナが浮かべた優し気な笑顔に、リリウムとモニカが見惚れて釘付けになる。

 ウォードは暫く「会話の内容さえ……」と言いたげに複雑そうな顔をしていたが、ややあって、咳払いを一つ。

 

 「……というか、今の話を聞いて、ダンジョンかどうかだけ確かめて帰ろうなんて言わないでしょ?」

 

 勿論そうだと断定したような、半ば確信さえ感じさせる調子で尋ねるウォードを、フィリップはぽかんと口を開けて見つめ返す。

 

 依頼内容は「ダンジョンであるかどうかの確認」だ。

 攻略しなくてもよい旨は依頼票にしっかり明記されていたし、何なら報告を優先されたしとまで書かれていた。

 

 正体不明の何かが棲みついているらしい洞窟を、長々と歩き回る必要は無い。

 

 だというのに、エレナが勢いよく立ち上がって拳を握る。

 

 「勿論! 村の人たちに危害が出ないよう、その謎の魔物をボクたちで駆除しよう!」

 「そうよね! そんな話を聞いて逃げ帰ってちゃ、冒険者の名が廃るわ!」

 

 何に感化されたのか、モニカがエレナに続いて鼻息も荒く立ち上がる。

 青い瞳は悪戯っぽく輝き、フィリップは「ナイ神父のところに行きましょ!」と、仕事中にも関わらず、有無を言わさず引っ張って行かれた時のことを思い出した。

 

 だが、棲みついているのは、何も上位の魔物と決まったわけではない。

 もっと別のモノ──別の星から来たモノなどの、人類領域外の存在である可能性もある。

 

 「……モニカはともかく、エレナはなんでそんなにやる気なのさ? エルフの森にいた奴のこと、忘れたわけじゃないよね?」

 「当たり前じゃん! むしろ、覚えてるからこそ、万が一にも村の人に被害を出さないように確かめるんでしょ!」

 

 即答され、フィリップも言葉に詰まる。

 底抜けの善人なのか、間抜けな善人なのか。どちらでもいいが、確かに、言っていることには賛同できる。

 

 「確かに……。顔も見たことない人たちだけど、叶うなら、何も知らず幸せに死ぬべきか」

 

 

 

 

 

 



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405

 ブリーフィングを終えた一行は少しだけ川を上り、件の洞窟の開口部の前で最終確認をしていた。

 ウォードが装備品、モニカとリリウムが携行品、フィリップとミナとエレナは浅い部分の先行偵察をする。

 

 洞窟の開口部付近はよくある風食洞窟のようで、川が氾濫したという前情報が疑わしくなるほど埃っぽかった。

 

 「洞窟……ではあるんだろうけど、ほら穴って感じだね」

 

 ざり、と足元で砂を踏む音がする。

 特に獣臭や血の匂いはしないので、探索開始早々に熊だの狼だのに襲われることはなさそうだ。

 

 それだけ確認して、フィリップたちは一旦洞窟の外に出た。

 

 「普通に洞窟だと思うけど……ボクたちの森にあった洞窟のイメージに固定されたのかな? あれは、えーっと……なんていうんだろう」

 

 人語に訳せない……と唸るエレナ。

 日常会話と冒険者用語、後は戦闘面に関する大陸共通語はほぼ完璧にマスターして使いこなしているが、洞窟の種別なんてニッチな単語まではカバーしていなかったらしい。

 

 「特殊な洞窟って言うと、鍾乳洞とか? こう……円錐形の石が天井や床から生えてるような」

 

 装具の点検を終えたウォードが身振りを交えながら口を挟む。

 「そう、そんなの!」とフィリップとエレナが声を揃えると、彼は「仲いいね」と笑った。

 

 「なら多分、中に入ったら「洞窟だ」って思うよ。ここも鍾乳洞らしいから」

 「あ、そうなんですか」

 

 そんな感じはしなかったけれど、とフィリップはたった今出てきた洞窟の黒々とした穴を一瞥する。

 しかしこの近くに住む村人から話を聞いてきたウォードが言うのだから、奥の方はそうなのだろう。入り口だけ洞穴の種類が違う、なんてことがあるのかは、地質学や洞窟のことに詳しくないフィリップには分からないことだ。

 

 「よし、行こう。全員、ランタンと補充用のオイルは持ったね? 火種は? 水筒は満タン?」

 

 携行品のチェックをしていたモニカとリリウムが頷きを返し、各自でも確認する。

 ランタンは安物のオイル式だが鉄柵で補強されており、多少ぶつけたくらいでは割れないようになっている。補充用オイルは金属製の小瓶入り、火種は昔ながらの火打石だ。多少濡れるどころか、水没したって問題ない。

 

 それから水筒に、携行食糧と救急セットなどを詰めたミニサイズのリュック。テントなんかは下流のベースキャンプに置いたままだ。

 

 エレナとお互いの服装や装具を確認し終えたフィリップは、いつも通りのコルセットドレスとピンヒール姿のミナに目を留めた。

 靴は、まあいい。森歩き用の頑丈なブーツを履いたフィリップ以上の運動性能を持っている相手に文句を付ける余地はない。服も、まあいい。岩肌で擦れるどころか崩落に巻き込まれて瓦礫に埋まったって、次の瞬間には無傷で立っているだろう。防御の役割を衣服に求める必要は無い。

 

 しかし、そんな彼女にも一つだけ、フィリップが渡した装備があった。

 

 「ミナ、ランタン渡したでしょ。腰に付けといてよ」

 「……?」

 「フィリップ君、姉さまの種族、まさか忘れたわけじゃないよね? 吸血鬼だよ? 夜の住人だよ? 暗闇を見通す目ぐらい持ってるに決まってるじゃん」

 

 何言ってんだこいつと言わんばかりの視線を、ミナとエレナから同時に受ける。

 だが、フィリップだってそんなことは承知だ。ミナが化け物であればこそ、ペット扱いを甘んじて受け入れているのだから。

 

 「いや、僕がミナを見つけるのに必要なんだよ。人間はヴァンパイアどころかエルフ以下の暗視力しかないんだから、迷子になってランタンも壊れたら困るでしょ」

 「……腰?」

 

 仕方ないと言いたげな溜息と共に、ミナはコルセットドレスの腰回りを見下ろす。

 しかしデザイン的に、正面と背面の飾り紐くらいしか付けられそうな場所が無かった。冒険者組はみんな、ユーティリティベルトの類を付けていたのだが。

 

 「……手で持ってて」

 「準備は良いね? ……よし。行こう」

 

 ミナが一瞥するだけで火を灯したランタンを持ったのを確認して、ウォードが号令をかけた。

 

 一行はぞろぞろと一列になって洞窟に侵入する。

 ミナほどではないが暗視能力の高いエレナを先頭に、リリウム、ウォード、モニカ、フィリップ、殿にミナという隊列だ。

 

 開口部から十分に光が差し込む入り口付近を過ぎると、埃っぽい感じが無くなり、徐々に空気が湿気を帯びてきた。

 探索用の長袖がちょうど良く感じるくらいに気温が下がったのに、その長袖が鬱陶しいほど纏わりついてくるようだ。

 

 フィリップたち人間組がランタンの明かりが届く範囲しか見えなくなり、足場がごつごつした岩肌に変わった時のことだった。

 

 「……ひっ!?」

 「うわっ!? 何!?」

 

 衛士団仕込みの護身術とやらも案外馬鹿にできないと思わせる速度で、前を歩いていたモニカが悲鳴と共に飛びついてくる。

 16歳の少女に負けず劣らず大きな声を上げたフィリップはモニカを抱きしめたまま、大きくバックステップを踏んでミナの腕の中に収まった。

 

 前ではウォードたちも何事かと振り返り、ウォードは剣の柄に手を添え、エレナはファイティングポーズを取っていた。

 

 モニカが注視する先に、フィリップはそっとランタンを掲げ──見慣れた姿が照らし出された。

 明かりに驚いたようにぴょんと跳ねる、茶色と黒の斑模様が特徴的な大きめのバッタ。田舎では偶にトイレの隅っこで見かけた、通称便所コオロギ。

 

 「……カマドウマ?」

 「……ただの虫じゃん。驚かせないでよ……」

 

 ウォードが脱力したように呟き、フィリップが飛び跳ねた虫をブーツの爪先で弾き飛ばした。

 

 「びっ……くりした……! フィリップ君の声で一番びっくりしたよ……」

 「意外と怖がりね、フィリップ」

 

 エレナは恨めしそうに、リリウムは揶揄い交じりに可笑しそうにしながらも、「何事も無くてよかった」と安堵の息を吐いて進行方向に向き直る。

 

 「前を歩いてる人が急に飛び上がってこっちに飛びついてきたら、誰だってびっくりするでしょ」

 「ご、ごめん……」

 

 フィリップはモニカの頬をつねりながらその後に続き、「今度は前の人に飛びついて」とモニカをウォードの方に押しやった。

 別にモニカのことが嫌いだからというわけではない。本当に不味い状況だった場合──例えば魔物が不意討ちをしてきたりしたら、他人を守りながら戦えるのはフィリップではなくウォードだからだ。

 

 少し歩くと、空気が覚えのある匂いと冷気を帯び始めた。

 

 「……なんか、じめじめする」

 「そうだね。覚えのある感じになってきた」

 

 ランタンの火が揺らめきと共に照らし出す壁や天井は、相変わらずのっぺりとした土と岩の質感だ。エルフの森にあった洞窟のものではなく、フィリップが「ただのほら穴」と評した様相が続いている。

 

 「そういえば、鍾乳洞と洞窟って何が違うんですか?」

 「鍾乳洞は洞窟の種類の一つだよ。かなり特徴的な……って、フィリップ君は見た目は知ってるのか」

 「はい。トゲトゲした岩が天井からぶら下がってたり、逆に地面から生えてたり」

 

 鍾乳石と石筍。

 どちらも鍾乳洞を形成する石灰岩層以外では形成されない洞窟生成物だ。石灰岩に含まれる炭酸カルシウムが酸性雨などに溶出し、空気に触れて再析出したことで生じる。

 

 「……おっ。それってこんな感じでしょ?」

 

 先頭を進んでいたエレナが声を上げる。

 フィリップは二つ前を進むウォードの陰から顔を出し、エレナのランタンが照らす先を見た。

 

 予想に違わず、これまでとは洞窟の様子が大きく異なっていた。

 棚田のような階段状に水盆が幾つも連なったような畦石池に、地面からにょきにょきと生えた細長い棒状の岩。その上の天井には、水の滴るストローのような形の細い岩、或いは結晶質の氷柱のようなものがある。

 

 フィリップにも覚えのある「洞窟」──鍾乳洞の様相だ。

 

 「おぉ……。あ、ここが境界ですか? こんなにはっきり切り替わるものなんだ?」

 

 ウォードとエレナと同時に会話しているせいで、言葉に敬語が現れたり消えたりする。

 そんなフィリップがランタンで照らした先の壁には、色味の違う二つの岩が明確な境界線を作り出していた。

 

 「鍾乳洞は石灰岩層が雨水によって溶食されてできる洞窟。ボクたちがここまで進んできたのは、水か風の流れで岩石層が浸食された洞窟。地面を構成する土の質が違うんだよ」

 

 などと言いつつ、エレナも壁に手を這わせて「でもここまで明確なのは稀だね」と驚いていた。

 実際、フィリップが見つけた部分以外はそれほど顕著ではないし、鍾乳洞も100パーセントが石灰岩でできているわけではなく、当然ながら岩石層も混じっているので、岩の部分や土っぽい泥の部分なんかは探せばいくらでもある。

 

 暗く、ランタンの限られた光量では判別しづらいが、壁も床も天井も、数種類の岩石が混ざり合って形成されている。

 

 ……まあ、だから何、と言う話ではあるのだけれど。

 そんな情報を手に入れたところで、この洞窟がダンジョンかどうかは分からない。

 

 ダンジョンはほぼ自然生成物と同一の環境を持っていることもあれば、明らかに人工物である場合もある。森が丸々一つダンジョンに認定されている場所もあるのだ。自然洞窟と同じ外見であることが、ダンジョンでないことの証明にはならない。

 

 「……エルフは薬学専門なのかと思ってた」

 「ボクは臨床より冒険の経験の方が豊富だからね! 伊達に放蕩してないってこと!」

 

 ふふん、と無い胸を張るエレナ。

 「自慢げに言うようなこと……?」とリリウムが呆れたように笑った、そんな時だった。

 

 エレナがぴたりと足を止め、後ろを歩いていたリリウムがつんのめり、それでも間に合わずに「きゃ」と軽く悲鳴を上げてぶつかる。

 

 「全隊停止! じゃなくて、皆、止まって」

 

 ウォードがモニカにハンドサインを送りながら、鋭く警告を発する。

 咄嗟に軍学校式の命令が出る辺り、よく教育されていると感心するところだが、フィリップの関心はすぐにエレナの見つめる先に移った。

 

 「あそこ、陥没してますね。穴の周囲の地盤も弱いかもしれない」

 

 ウォードとエレナが掲げたランタンの光が少し遠くまでを照らす。

 言葉の通り、二十メートルほど先の地面が不自然に黒く染まっていた。フィリップには言われなければ穴があるとまでは分からなかったが、言われてよく見てみると、その周囲の地面だけ妙にごつごつしている。

 

 周囲の壁は一見してヌメヌメしていそうな、流れ落ちる水に削られ、析出した石灰で覆われて滑らかなのに、黒く染まった部分の周りは荒く削り取ったような様相だ。

 

 「……いや、陥没じゃなくて崩落だね。見た限り、落ちる部分は落ち切ってるよ」

 

 警戒心を露に呟いたウォードだが、エレナは頭を振って否定する。何が違うんだろうと思ったのはフィリップだけではなかったが、二人の真剣な表情に気圧されてか、誰も何も言わなかった。

 

 しかしエレナとて洞窟の専門家ではないし、第一、地面のどこが脆くてどこが安全かなんて、ランタンの淡い光を頼りに一瞥しただけで判別するのは不可能だ。

 エレナも経験則的に、崩落の規模と瓦礫の落ち方からそうだと思っただけで、何か確固たる証拠があるわけではない。このまま進むのは危険だと、そう判断するだけの経験はある。

 

 だから。

 

 「ホントは命綱とか付けて、ちゃんと確認しながら進むべきなんだけど……ふっ!」

 

 震脚。

 鋭い呼気と共に繰り出されたのは、それだ。

 

 足を通じて尻の奥にまで衝撃が伝わってくるような踏み込み。それ自体は攻撃ではなく予備動作だとエレナは言うが、リリウムとモニカがバランスを崩して尻もちを搗くほどの振動が撒き散らされる。ウォードは驚愕に目を瞠り、フィリップは後ろから伸びてきたミナの腕に包まれながらも同じような顔だ。

 

 衝撃は地面を走り、壁を走り、天井にまで伝わる。二十メートル先の穴にまで伝わったかは不明だが、穴に至るまでの地面が頑丈であることは確からしい。

 

 びりびりと地面が、足が震え──やがて収まると、フィリップは信じられないほどの馬鹿を見る目をエレナに向けた。

 

 「もしかして発狂してる? 僕たちの立ってるここまで崩れたらどうするのさ?」

 「大丈夫だよ! 足場も天井も確認してからやったに決まってるじゃん!」

 

 未だかつてなく冷たい目をしたフィリップに、エレナは慌てて弁解する。

 或いは咄嗟にフィリップを抱き寄せて、いつでも飛べるように身構えていたミナの、同じく冷たい目に怯んだのかもしれない。

 

 石橋を叩いて渡るとは言うし、崩落の危険がある場所に敢えて刺激を与えて安全を確認するのも分かる。エレナなりに安全という確証があってのことなのだろうが、薄暗い中でいきなり震脚を喰らった形のフィリップはしばらく物言いたげな顔をしていた。

 

 



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406

 エレナの暴挙──もとい、荒療治的な安全確認によって崩落現場までの安全を確認したフィリップたちは、躓いたり滑ったりしないよう細心の注意を払いながら、地面にぽっかりと空いた穴を見下ろす。

 ランタンの光で照らしてみても底は見えそうにない。

 

 一応ロープは持ってきたから、ランタンを括りつけて下ろせばある程度までは深さを調べられる。他にも石か何かを落として落下音がするまでの時間を測るとか、単純にミナが飛び込んでみるとか、穴を調べる方法はいくつかあるが──目的は今のところ、穴の下ではない。

 

 フィリップたちが目指しているのは穴の向こう側、子供たちが襲われたという廃井戸の下だ。

 

 穴は壁から壁までほぼ完全に広がっており、幅も10メートルはある。

 エレナとミナはともかく、フィリップたち人間組は助走ありでも跳び越せない。

 

 唯一の道は、左の壁際に残った細い道……というか、壁からちょっと突き出た出っ張り。その幅およそ三十センチ。

 普段なら難なく歩ける幅だし、障害走経験のあるウォードからすると、平均台より幅広だ。だが、すぐ傍に深さも分からない黒々とした大穴が口を開けているとなれば、途端に心もとなく感じる。

 

 「ミナ。一人ずつ抱えて飛び越えてくれない?」

 「嫌よ。同じところを行ったり来たりするなんて。笑えるくらい不毛じゃない」

 

 即答され──出来ないとか、やるべきではない理由を並べられるのではなく、「不毛だからヤダ」と言われて、フィリップは「あ、これは駄目なんだ? オッケー……」と軽く頷く。

 「何よその理由」と胡乱な顔になったのはリリウムとモニカだけだったし、その二人も流石に吸血鬼相手に「できるならやってよ」と注文することは出来なかった。

 

 「一列になって行けばいいでしょ。それこそ命綱で皆を繋いでおくとかする?」

 

 この中で一番鈍臭い──もとい、運動慣れしていないのは純魔術師のリリウム、次点で護身術を習っているとはいえ肉体能力は16歳の少女でしかないモニカ。前者はエレナとウォードに、後者はウォードとフィリップに前後を挟まれているので、命綱はきちんと機能するだろう。

 

 まあ二人が同時に滑落したら流石のウォードも巻き込まれそうだけれど、エレナとミナがいればどうにかなるはずだ。

 

 「あー……できればそうしたい。皆が纏めて落っこちるのは最悪の展開だけど、確か、上位の吸血鬼には飛行能力がありますよね?」

 

 ウォードもフィリップと似たようなことを考えていたらしく、おずおずと問いかける。

 しかし、ミナは顎に手を遣って穴の方を見ていて、ウォードの声は言葉として認識されてさえいないようだった。

 

 「……ミナ?」

 「ん? なあに?」

 

 フィリップが声をかけると、いつになく真剣な顔をしていたミナは軽く首を傾げてフィリップを見遣る。

 全く話を聞いていなかったのを察したフィリップはむっと眉根を寄せて「ミナ、僕と誰かの会話も耳には入れておいてよ。二度手間になる」なんて苦言を呈した。

 

 「善処するわ。それで?」と適当に応じるミナに嘆息しつつも、「まあ化け物だし」と軽く肩を竦めたフィリップは、ウォードとの会話をかいつまんで説明する。

 

 「ロープで繋ぐ? ……構わないけれど、そこの崖道を通る間だけよ。きみに付けるなら、もっときちんとしたハーネスとリードがいいし……ランタンもロープも持ったら、両手が塞がるもの」

 

 フィリップにハーネスとリードを付ける考えがある──しかもデザインに拘る程度には現実的に考えているらしいミナ。

 なんだって? と険しい目を向けるのは、またリリウムとモニカだけだ。ウォードもその光景を想像したのか苦笑いを浮かべているが、倒錯的なプレイだとまでは思っていない。

 

 当事者のフィリップは、龍狩りの折に「あまりやんちゃが過ぎるなら首輪とリードを付けるわよ」と言われたことを覚えていたので、普通に聞き流した。

 古龍相手に挑みかかるくらいの“やんちゃ”までなら許されるようなので──肋骨骨折と内臓損傷までなら許されるようなので、あまり重く受け止めていないということもある。

 

 しかしそれ以上に、ミナが両手が塞がることを嫌がったことの方が気になった。

 

 「……何を警戒してるの? 何か見えた?」

 「これまで見たことのない質の魔力を持った魔物が何匹か。昨日の蜘蛛や蝙蝠とは明らかに別種ね」

 

 ミナの言葉に、フィリップも黒い闇に満ちた穴の方を見遣る。

 

 「……例の上位魔物かも」

 「違うわね。魔力規模はきみより少しマシ程度だもの」

 

 じゃあ違うか、とあっさり納得するフィリップ。

 錬金術製の魔物駆除用睡眠ガスの例が示す通り、フィリップの魔力は相当に下位の──態々ガスを使うまでもない弱い魔物と同程度だ。

 

 「それホントに魔物? 弱すぎるでしょ。……例の子供たちじゃない!?」

 

 フィリップの声に、腰にロープを巻いていたウォードたちが弾かれたようにこちらを向く。

 もしそうなら、ウォードやエレナは他の者に巻いたロープを解き、自分一人だけが穴の中に降りていくことだろう。

 

 というか、エレナはもうそのつもりでフィリップたちの方に歩み寄ってきていた。

 

 しかし、ミナは軽く頭を振って否定する。

 

 「違うわね。人間の魔力反応じゃない」

 「あ、そう……。じゃあ、別の魔物なんだろうね」

 

 なーんだ、と軽く納得して、フィリップもモニカから受け取ったロープを腰に巻く。

 

 「……フィリップ君にしては珍しく無警戒だね?」

 「あの蜘蛛も、ティンダロスの猟犬も……って、エレナはこっちは知らないか。ミナと一緒に戦った……ミナが殺し切れない相手なんだけど、そういう手合いは「僕より多少マシ」みたいな甘い性能はしてないよ」

 

 あの蛇人間のような本体性能ではなく武装が脅威になるタイプの領域外存在も、いるにはいるけれど──まあ、そんなのが出てきたらその時はその時。

 戦って殺すか、逃げ出して邪神を嗾けるか、どちらかだ。

 

 腰に結んだロープの端をミナに渡したフィリップは、リュックを胸側に回して「ヨシ」と頷く。

 もうすっかり話が終わった気になっているが、エレナもウォードも、今の内容を聞いて「じゃあ行こうか」と切り替えられるほど平和ボケはしていない。

 

 「……姉さまが殺し切れなかった? 嘘でしょ?」

 「本当よ。もう二度と戦いたくないし、こんなところで出くわしたらフィルだけ抱えて逃げるわね」

 

 こんなところ、とは、壁のごつごつした洞窟内という意味だろう。

 そこら中に奴の通り道である“角”がある。

 

 「姉さまが逃げる!? そんなに強いの!?」

 「……そうね。成龍なんかよりは余程」

 

 うんざりしたように言うミナに、フィリップは「それは言い過ぎでしょ」と笑う。

 成龍が存在格ガード──とフィリップが勝手に呼んでいる、下位存在からの干渉無効化現象──を持っているのかは知らないが、ティンダロスの猟犬にはそれにも匹敵する強力な防御がある。

 

 周囲の空間を歪曲し、人間の身体どころか光やエネルギーでさえ捻じ曲げる防御空間の展開だ。

 

 それに、“角”を通って標的をどこまで追い詰める移動性能と執念も脅威といえる。

 

 しかし、その特異性に頼っているからか、攻撃能力はそれほど高くなかった。

 

 「防御性能と追跡力はね。でも攻撃力はそこまでだよ。ドラゴンなんか、人間は歩く先に居ただけで死んじゃうし」

 「……いや、ドラゴンに一部分だけでも勝つって、相当なことだよ?」

 

 慄いたように言うエレナに、他の三人も真顔で頷く。

 ウォードはともかく、リリウムもモニカも伝承や本の中でしかドラゴンを知らないだろうに。

 

 「総合力で私より強いことはないけれど、面倒なのよね」

 「そんな感じだね。あの防御はルキアの『明けの明星』でもブチ抜けないし」

 「……それって凄い魔術なの?」

 

 聖痕者と聞いたことのない魔術の名前に、リリウムが興味深そうな目を向ける。

 ほぼ確実に、というか、絶対に使えないとは思うフィリップだったが、それは態々言うことではないかと呑み込んだ。

 

 「僕がこれまで見た中では最高火力ですね。地下ダンジョンを丸ごと一個消し飛ばしたので……破壊規模からすると、交流戦で使ってた砦一個ぐらい?」

 「それが効かない相手が居るの!?」

 

 喩えが伝わったのはウォードだけだったが、三人分の驚きを纏めたような顔をする。

 その反応でどれだけの魔術なのか薄々察したリリウムとモニカも、どこか怯えたように穴の方を振り返った。

 

 「世の中にはいるって話。ここにいるのは違うよ。いいから早く穴を渡ろう」

 

 ホラホラ、とぐいぐい押すフィリップを「危ないでしょ!」と叱りつつ、エレナは素直に穴の横に三十センチほど突き出た崖道に足を懸ける。

 するするとスムーズに進んでいく彼女の後ろを、リリウムがべったりと壁に背中を付けておっかなびっくり続く。モニカは前後を挟むウォードとフィリップのリュックを掴んで恐々と。ウォードとフィリップは「掴まれるのは想定外だ」と書かれた顔で、引っ張られても踏ん張れるように気を払いながら。

 

 いざとなったら飛べるミナが命綱を持っている安心感があるからか、誰かが怯えて途中で動けなくなるなんてことはなく、すんなりと向こう岸に着いた。

 

 それからしばらく鍾乳洞を歩くと、広い空間に突き当たった。

 天井はかなり高いが、反面、地面には瓦礫のような大きな岩が山積みになっていた。天井が剥がれて落ちてきたような有様だ。

 

 「……お、到着! ここがもう一つの開口部だね!」

 

 言われて見上げると、確かに十五メートルくらい上に小さな光点が見える。

 廃井戸に被せられた板か何かの隙間だろう。

 

 ランタン六つの揺らめく光では空間全体を照らし切れないが、ざっと見た限り、戦闘の痕跡はともかく、血の跡さえ見つからない。

 

 「子供たちはここで襲われたんだよね? ……変だな。魔物の気配がない。姉さまはどう?」

 「低劣な魔物の魔力残滓なんてすぐに消えるわよ。……でも、そうね。例の雑魚以外に魔物の反応がないのは気になるわ」

 

 エレナとミナの会話に、フィリップは「そっか」と軽く頷く。

 モニカとリリウムは足場の悪い中を400メートルも歩いて疲れたのか、程よいサイズの瓦礫に腰掛けて一息ついていた。

 

 「……はい?」と目を見開いたのはウォード一人だ。

 

 フィリップもエレナも、ミナの魔力視による「謎の存在はフィリップ並の魔力しかない」という情報で安心しきって、「やっぱり、大声に反応して魔物が出現するトラップ系のダンジョンなのかな?」なんて話している。

 

 「……いやいや、待ってくれフィリップ君。村の人たちはこの洞窟に魔物が棲んでるって言ってた。その種類までは同定できていなかったとしても、蜘蛛型と蝙蝠型の魔物が居ることは確認されてるんだよ?」

 

 慌てたように言うウォードだが、「それで?」と首を傾げたフィリップとは危機感を共有できていない。

 まあ、そもそもフィリップが危機感を抱くのなんて、智慧が警鐘を鳴らしたときくらいのものではあるのだけれど。

 

 それに、名前を知らないどころか顔も見たことのない誰かの証言を根拠にされても困る。そんなものより、ミナの目の方がずっと信憑性に勝るのだから。

 

 村人が間違えたのだろうと、短絡的にそう考えたのはフィリップ一人。

 エレナは流石に「村人も正しいことを言っている」可能性に気が付いていた。

 

 しかし、それを伝えようとフィリップの方に向き直ったとき、彼女は一瞬前までの思考を吹っ飛ばして叫んだ。

 「フィリップ君!?」と──気配ははっきりとそこにあるのに、姿は完全に見えなくなった者の名前を。

 

 そしてその時には、既にミナが漆黒の魔剣を抜き放ち、固い岩盤の地面を踏み砕くほどの踏み込みを初動として飛び出していた。

 

 目を瞠る──ミナの動きを追えたのはエレナ一人だけ。

 その彼女の視線の先で、ミナの姿も闇に溶けるように消えていった。

 

 エレナが思わず「姉さま!」と悲鳴を上げ──「姉」と言った時には、濡れた布を引き裂いて打ち捨てたような、聞くに堪えない凄惨な音が洞窟の中に木霊していた。そして「さま」と言い終わった直後、ランタンの光が二つの影を映し出した。

 

 一つは、剣を振り血を払う長身の人影。

 後ろ姿のシルエットだけでもその肢体が持つ曲線美がはっきりと分かる。よくよく見てみると、彼女はもう一つ、身の丈が自分の胸元までくらいしかない小さな人影を片手で抱き寄せていた。

 言うまでも無く、フィリップだ。

 

 もう一つは、地面に落ちた何かの塊。

 ミナの剣から飛び散り、地面に雫の弧を描いた赤い色の源泉。

 

 それは胴体を袈裟に両断されて絶命した、青白い肌をした子供の死骸だった。

 

 

 

 



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407

 渦中──事の中心といっていい位置にいたはずのフィリップだったが、彼が見たのは闇と、その中に飛び込んでくるミナだけだった。

 

 闇が晴れたのち、フィリップは自分を抱きしめているのが見知らぬ人物や魔物ではなくミナであることの次に、腰に提げたランタンの火が消えていないことを確かめた。

 

 ランタンの火は消えていない。腰に提げた感触からしても、オイルはまだ半分くらいは残っている。フィリップのものだけでなく、エレナたちがそれぞれ持っているものも、咄嗟にミナが放り投げて地面に転がったものでさえ。

 なのに、フィリップはその五つの光点、光源を認識できていなかった。それらが照らし出すはずのパーティーメンバーのことも。

 

 まるで、フィリップと彼らを隔てるヴェールがあったかのように。

 

 それが取り払われた後、真っ先に声を上げたのはリリウムだった。

 

 「え、う、嘘、子供……? まさか、例の……?」

 

 体を斜めに二分割されて頽れた死骸を指し、声を震わせるリリウム。

 モニカは彼女より更に受けた衝撃が大きかったようで、声も出せない有様だ。

 

 「いや……」

 

 違うのではないか、と、フィリップは首を傾げる。

 だが、確証はない。ここからでは青白い塊にしか見えない死骸を、もっと近くで検分してみないことには。

 

 「……フィリップ君?」

 「ウォードたちは近づかないで、周りを警戒しててください」

 

 ウォードの言葉に答えながら、フィリップはゆっくりと近づいて死体を検める。

 噎せ返りそうな血と内臓の臭いを覚悟していたが、鼻を突いたのは酸っぱいミルクのような饐えた臭いだった。

 

 死人よりも蒼褪めた肌に、不自然に鮮やかな色の血液。子供の身長でありながら手足は異常にひょろ長く、指の間にはカエルのように発達した水かきがあった。

 

 体格だけは幼い子供のようだが、顔は辛うじて目と口が三角形に並んでいるだけの醜いものだ。眼窩の周りが腫れたように盛り上がり、目はミナの鮮やかなそれとは違う濁った赤に染まり、白目と黒目の区別もつかないほどだ。力が抜けだらりと開いた口は円形で、小さいながら尖った牙が同心円状に並んでいる。

 

 サナダムシのような顔にヌタウナギの口を持つ化け物だ。

 なのに、青白くつるつるした肌と、人肌のような紋と皺のある肌が斑になっていて、元は人間であったのではという疑いを拭いきれない。服は着ていなかったが、乳首に男性器、首筋には黒子まである。

 

 残念なことに、フィリップにも植え付けられた智慧にも、人間がそのような姿に変貌する症状についての情報は無かった。

 

 「擬態、なのかな? 何かが子供に化けてた……?」

 

 或いは何らかの要因で変化した人間か。

 外見情報しか持ち合わせないフィリップでは、それを見極めることは出来ない。

 

 「……捌いてみる? 人間の体内構造なら多少分かるけれど」

 

 まだ学院にいた頃、冒険実習の折にフィリップが言っていたのはこういうことか、と納得して頷くミナ。

 彼女にとっても、眼前の死骸は異常なものだ。明らかに人間ではない魔力に、人間離れした容貌。なのに、斬った手応えは人間の子供と変わらなかったのだから。

 

 「……うん。そうしよう。それから……エレナ、()()()()()()()がいるかも」

 

 フィリップの警告に、エレナの表情が一瞬だけ恐怖を映して歪む。

 しかし流石は歴戦の冒険者というべきか、次の瞬間には真剣な顔で頷きを返した。

 

 尤も、これが領域外存在の擬態や、それらの手で変貌した人間であるとは限らない。

 吸血鬼以外にも血を分けるなどの方法で同族を増やす上位魔物がいるかもしれないし、ただ単に人間を真似損ねた擬態系の魔物かもしれない。

 

 だが──嫌な予感が胸の内に蟠る。

 

 「フィリップ君、説明してくれないか? それは何だったの? いま何が起こってるの?」

 

 切っ先のない断頭剣をフォーク代わりに、漆黒の魔剣をナイフに見立て、人間の骨と肉と内臓を綺麗に取り分けていくミナに慄きながらも、ウォードは平常心を取り繕って問いかける。

 

 自分が落ち着くためなのか、或いは意図してのことなのかは分からないが、彼が動揺すればモニカとリリウムがパニックを起こしかねない現状を考えると、平静を装うのはいい判断だった。

 

 「僕にも詳しいことは分かりませんけれど……二足二腕の魔物に襲われて返り討ちにしたものの、その正体が全く分からない、って状況ですね。こいつ、人間っぽいのはシルエットだけですよ」

 

 臓器もね、とミナ。

 まだ身体の右上半分しか解体し終えていないが、少なくともその範囲は人間のそれと酷似していた。

 

 「そもそも、魔物が居ないのがおかしくない?」

 

 意外にも気丈なモニカが呟く。──いや、意外でもないか。

 彼女はいきなり拉致されて地下牢に縛られても、隣にいる自分より年下の子供を気遣えるくらい強い心を持っている。

 

 「確かに……。いや、村の人たちは「ケイブバットとスカウトスパイダーが洞窟にいる」って言ったの?」

 「違うわ。紫っぽくて小ぶりな蜘蛛の魔物と、デカい爪を持った蝙蝠が洞窟から出てきた、って──まさか?」

 

 フィリップが問いかけた先はモニカだったが、答えたのはリリウムだった。

 同い年だが自分より弱いはずのモニカが平静を取り繕えているのに、自分だけ震えてなんていられないとでも思ったのか、或いは彼女もまた肝が据わっているのか。

 

 そんな益体のないことを考えてしまうくらい──つい現実逃避してしまうくらい、嫌な予感がする。

 口には出さなかったフィリップのその内心を、ウォードが「物凄く嫌な予感がしてきた……」と吐き出した。

 

 「村の人が見たのは「魔物が洞窟から出てくるところ」だけ……?」

 「だろうね……」

 

 「不味いですね」「不味いね」と頷きを交わすフィリップとウォード。

 エレナも苦々しく表情を歪めており、「どういうこと?」と困惑顔なのはリリウムとモニカだけだ。

 

 「魔物は洞窟に棲みついてたワケじゃないってこと。いや、“追い出された”のかな」

 

 エレナの説明を受けて、残る二人も「あっ」と目を瞠る。

 説明は不親切だった、というか、敢えて直接的な表現を避けたのだが、二人とも言葉が足りなくてもきちんと自分で考えて補っていると分かって、エレナはにっこりと笑った。それが生き残るうえで一番大切なことだと。

 

 しかし、フィリップとウォードは笑うような気分ではなかった。

 

 「だとしたら朗報が一つ。ここは魔物を無尽蔵に生み出すダンジョンじゃない。そして棲みついていた魔物は全部、洞窟の外に追い出されてる。もしかしたら、僕たちが昨日戦ったのがそうかもしれませんね」

 「そうだね。そして悲報も一つ。……そいつらを“追い出したヤツ”がいる」

 

 ジャイアントスパイダーもデモニックバットも、そりゃあフィリップたちの敵ではなかったけれど──リリウムの魔術が大幅に軽減されたように、一般人に毛が生えた程度の魔術では太刀打ちできない相手でもある。

 

 それにどちらも、洞窟の中──暗い閉所で本領を発揮するタイプだ。デモニックバットの飛行能力は制限されるが、超音波による視覚に頼らない周辺把握は強力だし、ジャイアントスパイダーは壁も天井も縦横無尽に這い回り、粘着糸で罠を張ることもできる。

 

 それらを洞窟から追い立てたのだ。

 同等以上に洞窟に適した機能を持っているか、ミナやエレナのようにゴリ押しが通る性能を持っていることは想像に難くない。

 

 「悲報は一つじゃ足りませんよ。そいつが持ってるのが擬態能力でなければ、人間を変性させる機能か道具を持ってる。コレ、ただの錯乱した子供じゃない。見てよこの顔──ごめん嘘! 見ないで! エレナだけ見て!」

 

 どれどれ、とまでは軽くなくとも、それなりに好奇心を感じさせる足取りで近寄ってきたモニカとリリウムを、フィリップは慌てて制止する。

 意識が謎の魔物──領域外存在である可能性も出てきた相手に集中しすぎて、一瞬だけだがウォードたちの存在を忘れていた。

 

 二人はむっとした顔で「なんで?」と不満を露にするが、ミナの後ろから解剖中の死骸を覗き込んだエレナもフィリップと同じ結論を出した。

 

 「うわ……結構グロテスクだけど、それでも見たい?」

 「泣いてもゲロ吐いても発狂しても自己責任だよ? 僕らは「だから言ったじゃん、馬鹿だな」って目で見るだけだし、ゲロ吐いてる最中に魔物に襲われても庇わない。馬鹿が馬鹿ゆえに死ぬ責任まで負う気はないしね」

 

 そうだよ、とエレナも脅かす。

 尤も彼女に関しては制止目的の脅しでしかなく、いざとなったら全力で二人を守るだろうけれど。フィリップは……どうだろうか。モニカのことは守るかもしれないが、現状、リリウムにその必要性は見出していない。

 

 「そ、そこまで言うなら見ないわよ……」

 

 フィリップの冷たい目と、普段は明朗なエレナの脅しのどちらが効いたのかは不明だが、二人は大人しく引き下がる。

 

 出来たわよ、とミナに呼ばれて視線を戻すと、死骸は真っ白な皿と銀のカトラリーを幻視してしまうほど綺麗に解体されていた。

 まだ人の形を留めている骨、その隣に体内配置通りに並べられた内臓、一塊に置かれた肉。

 

 「そんなことできるの?」と思わず呟いたフィリップに、ミナは「使う機会のないテーブルマナーだと思っていたけれど、意外なところで役立ったわね」と笑う。

 これが人間の死体だったら多少の小言をくれそうなエレナも、魔物の肉の扱い方には無関心だった。

 

 「……“血”じゃあないな」

 

 フィリップの呟きは、その結論を出せた安堵によるものだ。

 

 人間の内臓の形なんて本でしか見たことは無いが、見る限り、異形の臓器はない。ミナが何も言わないということは、健常な人間と有意な差はないはずだ。

 

 神威も感じないし、外見だけの変化なら、フィリップが知る「人体を変容させるもの」、シュブ=ニグラスの血液()ではない。あれはそんな、生易しい代物ではない。

 

 「吸血鬼の血は一度に過剰に摂取すると確かに肉体が変質するけれど、どれだけ低俗な吸血鬼でも、直々に血を分けたなら吸血鬼化するわよ。こんな……よく分からない変化はしないわ」

 「……そうなんだ」

 

 言葉が示すものを勘違いしている──フィリップの恐れているものを知らないミナに、フィリップは同じ懸念を抱いていたかのように頷く。

 

 吸血鬼の血なんて、全然マシ……というか、流石にシュブ=ニグラスの血を受けた相手なら、元が人間の子供でも今すぐ全員で逃げ出すべきだ。

 

 勿論、質や量によって効果のほどは大きく異なるが、人間のような下等種でも変容できる──存在格差のあまり内側から弾け飛ぶとか、燃え尽きて灰になることのない用量でも十分に脅威となる。

 錬金金属製とはいえ無生物のウルミをさえ、古龍を殺すほどの化け物に変生させたこと、絶対に忘れはしない。

 

 「ともかく──、っ!?」

 

 ともかく、一旦洞窟を出たい。

 そうエレナとウォードに具申しようとした、その瞬間。

 

 ふと、視界が妙に暗くなった。すぐ傍に居るミナは見えるが、一瞬前に話しかけようとして見ていたウォードとエレナは見当たらない。フィリップとミナの持ったランタンの光も、彼らがいるはずの場所を照らす前に光が途切れている。

 まるで、そこに闇の壁があるかのように。

 

 この感覚は知っている。つい先ほど経験したという意味ではない。もっと以前に、一年以上も前に同じものを見たことを思い出した。

 

 この闇の壁に囲われた感覚──以前に教皇領でショゴスが使っていた領域外魔術だ。ただ視界を妨げるだけの、弱い魔術。やろうと思えば闇属性の初級魔術でだって似たようなことが出来るだろう、意味の薄い魔術。

 

 しかし領域外魔術であるがゆえに、きっと魔力消費はフィリップでもある程度連射できるほど少ない。「フィリップと同程度の魔力規模」の魔物にも、十分に扱える。

 そして魔力消費の少なさは、イコール、魔術行使の気配の小ささだ。

 

 それはミナに警戒させない矮小さと──戦闘慣れしておらず、一連の異常事態でパニック寸前だった少女たちを決壊させるには十分な威力を併せ持っていた。

 

 

 



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408

 ランタンが炎をそのままに明かりだけを失ったとき、闇の繭は二つあった。

 一つはフィリップとミナが包まれたもの。一つは残る四人が包まれたもの。

 

 フィリップが咄嗟にミナの方へ駆け寄った直後、甲高い悲鳴が二つ上がる。

 

 「きゃあぁぁっ!?」

 「な、なに、なんなの!? どうして光が届かないの!?」

 

 一つはモニカ。

 既に三度、ウォードとエレナと共に冒険しているらしい彼女だが、それとはまた別の経験故に、突発的に訪れる暗闇に尋常ならざる恐怖を抱いていた。

 

 一つはリリウム。

 彼女も全く戦闘慣れしていないわけではないが、不意に視界を奪われてもパニックに陥らない訓練なんて受けていない。暗闇の中、どんな相手が何処にどれだけいるのかも分からない。そんな状況に耐えられる精神の図太さも経験も、彼女は持ち合わせていなかった。

 

 そんな状況でも落ち着いて対処できるよう訓練されているのは、本職の騎士を育てる学校にいたウォード一人。

 エレナも長年の冒険の中で、視界妨害魔術『ブラインド』などを喰らった経験があって慣れてはいる。

 

 声の聞こえない二人に、フィリップは闇の繭の中から大声で呼びかける。

 

 「ウォード、エレナ! 二人を!」

 

 後から思い返せば、「二人を優先して守って」なんて、言うまでもないことだ。

 ウォードとエレナなら言われるまでも無く非戦闘員の二人を守るし、その二人の次に弱いフィリップのことも、一番強いミナと一緒にいるから大丈夫だと正しく判断する。

 

 なのに態々叫んだのだから、フィリップも多少は動揺していた──いや、成長したのだろう。

 

 暫定領域外存在に、暫定領域外魔術。

 僕が警戒すべき相手かもしれない、と警戒できている。もっと直接的になれば、もう言うことはないのだが。

 

 「そっちからは見えるの!?」

 「僕からはミナしか──、っ!」

 

 叫び返すエレナに答えようとしたフィリップだったが、途中で柔らかいものに顔を圧迫されて喋れなくなった。

 滑らかな肌触りも、包み込むような柔らかさも、病的な冷たさも、全て既知のものだ。唐突に顔を塞がれても驚きはない。いつものことと受け入れられる。

 

 「別に、遍く生物全てが知恵を持っているとは思っていないけれど──お前たちは相当に下等なようね。この私の前で、私のペットを、私の領域ともいえる闇の中で襲おうだなんて」

 

 フィリップを片手で抱きしめたミナが吐き捨てるように言う。

 彼女がもう片方の手で握った漆黒の長剣には、あの青白いヒトガタが突き刺さっていた。

 

 喉を貫かれ、フィリップよりも矮小な体躯を宙づりにされてビクビクと痙攣する蒼褪めた身体は、水揚げされた魚にも、電極を刺されたカエルにも見える。

 

 その痙攣が終わるよりも先に、二人を包んでいた闇の繭が掻き消える。

 ランタンが周囲を照らすと同時に、もう一つの闇の繭が光を弾いて露になる。そのすぐ傍らに、もう一つ、眩しそうに顔を隠す蒼褪めたヒトガタがあった。

 

 ミナに抱きしめられたまま目を見開いてそれを見つめるフィリップとは裏腹に、ミナの関心は剣先に吊られたままのゴミにあった。

 

 「……?」

 

 怪訝そうな表情で首を傾げたミナは、謎の生き物の死骸を剣先に吊るしたまま、先ほど自分で切り捨てた死骸の方につかつかと歩み寄る。

 青白い二つのヒトガタ。いやに赤い血を垂れ流す二つの肉塊を並べ、顎に手を遣って思考する。

 

 「……死体が消えないけれど、まだ生きているの? それとも、魔物ではないのかしら」

 

 まあどちらにせよ、心臓と脳の両方を潰せば行動不能になる。

 どちらかが潰れても問題なく活動できる種はいるが、吸血鬼でさえ、二つを同時に潰されては戦闘続行は困難だ。死ぬという意味ではなく、再生が優先され、反射的行動しかできなくなる。

 

 こいつらがどういう存在なのかは不明だが、再生の隙を見逃すほど間抜けではない。ミナはそう考えて、高いヒールつきの靴で器用に頭蓋を踏み砕いた。

 

 そんなことをしている間に、ウォードたちの方にいたヒトガタは闇の繭へ入っていく。

 断続的に聞こえるウォードたちの叫び声を聞きながら、フィリップは自分を抱きしめるミナの腕から藻掻き抜けた。

 

 「ミナ! 放して! あっちにも一匹いたでしょ!」

 「あぁ、ごめんなさい? でも大丈夫よ。この程度の相手ならエレナ一人でも──、?」

 

 駆け出したフィリップの横を小ぶりな火球がすれ違い、ミナに向かって飛んでいく。

 人外の魔術耐性によって掻き消えた小さな煌めきを、ミナは不思議そうに、フィリップは安堵と共に一瞥した。

 

 ミナはあれで攻撃には過敏だ。

 十万もの命を持ちながら、その一つを削ることさえ出来ない攻撃でも、それを攻撃と認識したのなら反撃する。そんな甘い攻撃しかできない雑魚相手だろうと、慈悲の心を持つことはない。片手間に殺す。

 

 しかし流石に流れ弾を、それも耐性で弾かれて消えるほど弱い魔術を攻撃とは認識しなかったようで、足場の悪い中を躓きながら走っていくフィリップの背に呆れたような溜息を送るだけだった。

 

 「足場に気を付けなさい」

 

 雨の日に出かける子供を見送るかのような言葉を背中で受け止めたフィリップは、闇の繭に突っ込んでいくべきか逡巡し、足を止めて構える。

 

 魔術がこちらを向いて飛んできたということは、このままフィリップが突入すると、リリウムと“的”を挟む形になるはずだ。

 

 ミナや魔物なら耐性で無効化・軽減できる威力の魔術でも、フィリップ相手なら普通に効く。まあ一般の魔術師が使う初級魔術なんて直撃しても火傷が精々だが、熱いのも痛いのも嫌だ。フレンドリーファイアは避けたい。

 

 そんなことを考えて立ち止まったフィリップの前で、闇の繭から一つの影が飛び出してきた。

 いや、二つだ。

 

 「っ!?」

 「待ちなさい!」 

 

 一つは例の青白いヒトガタ。

 顔を庇いながら、フィリップたちが来た崩落穴の方へ逃げていく。

 

 もう一つはフィリップと同じくらいの矮躯。

 右手の内に炎を灯し、腰に吊ったランタンを揺らしながら、決死の表情で蒼褪めた怪物の後を追う。

 

 「は!? いや、待ってパーカーさん!」

 

 なにやってんだあいつと言わんばかりの馬鹿を見る目を向けたフィリップに、リリウムはどこか挑発的にも見える一瞥を呉れ、しかし、立ち止まることなく走り去った。

 

 その数秒の後、術者が影響範囲外に出たことで闇の繭が晴れる。

 それとほぼ同時に、もう一人。更にリリウムの後を追って行く影があった。

 

 「ウォード!?」

 

 彼らしからぬ鬼気迫る表情で駆け出したウォードの後を、フィリップも反射的に追っていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 モニカとリリウムが悲鳴を上げたとき、ウォードとエレナは即座に二人を挟んで背中合わせに構えた。

 

 宥めはしない。慰めもしない。

 だがこれ以上狂乱するようなら殴って黙らせる。

 

 耳障りで集中を掻き乱すパーティーメンバーより、視界外から襲ってくる魔物の方がずっと厄介だ。

 

 「ウォード、エレナ、二人を!」

 「そっちからは見えるの!?」

 

 視界内にはいないフィリップの声に、ウォードは周囲への警戒を解かないまま応じる。

 だったら()()()と、ウォードとエレナの心情は一致していた。

 

 フィリップの性格的に、もしそうならすぐさま助けに来ている。

 つまり見えているが助けに来ないということは、助けに来られない性質がある魔術をかけられたということだ。

 

 「僕からはミナしか──っ!」

 

 フィリップの言葉が途切れるが、ウォードとエレナには言葉も無く「心配無用」という共通認識があった。

 なんせ、龍殺しコンビである。片や成龍を単身相手取り「まあまあ楽しめた」と言い放つ怪物、片や「囮」ではあるけれど。

 

 背中の二人は逃げ出したりはせず悲鳴を上げるだけで済んだようだが、魔物の攻撃に晒されて無事でいられるフィジカルはない。守るべきはこちらだ。

 

 そして、欲を言うのなら。

 

 「二人の方に合流しよう! ボクじゃこの闇は見通せない!」

 

 六人一塊でいたい。

 

 これが単純に視界妨害系魔術を使う魔物というなら、エレナ一人でも後ろの()()を守りきれるかもしれない。だが、相手はフィリップが本当に警戒する──エレナやミナの攻撃を見た時のワンフレーム遅れたそれとは違う、“正しい”警戒をする、人類領域外の生命体。

 かもしれない、と但し書きはいるものの、その但し書き付きでも十分に恐ろしい相手だ。

 

 魔術で作り出された光を完全に遮断する“闇”でさえ見通す、最高戦力であるミナ。そして誰よりも領域外存在(ああいう手合い)に詳しいフィリップ。

 

 ──二人とは、出来るなら合流しておくべきだ。

 

 エレナの経験から来る直感が、そう囁いている。

 

 「いや、今迂闊に動くのは危険です! 僕たちはともかく──」

 

 だが、できない。

 モニカとリリウムを庇ったまま、視界の通らない場所へ──闇の繭の向こう側へ通り抜けるのはリスクが大きすぎる。

 

 繭の外を這い回る魔物の気配は感じ取れるが、どうやらこいつらは群れるタイプで、襲い掛かる前に獲物の視界を奪い、更に群れから引き離す知能まである。

 視界の通らない場所に抜ける──視界が切り替わる瞬間、脳に一瞬だけ生じる“把握”の隙を突かれたら厄介だ。

 

 動きはミナやエレナからすると緩慢で、フィリップの全速にも満たない。だが、相手はこれが全速ではないかもしれない。

 死骸の体躯はモニカやリリウムよりなお貧相で、手足はひょろ長く筋肉があるようには見えなかった。だが、フィリップとエレナとミナのように、筋繊維一本ごとの出力が違う場合もある。

 

 未知なのだ、相手が。

 

 未知は、怖い。

 相手が何をしてくるのか、何が出来て、何が得意で、自分たちが何をするのが最も不味いのか。それが全く分からない。

 

 エレナはこれでも、自分を強者だとは思っていない。

 「真の“強者”とは何か」。そんな命題には、100年近い研鑽を以てしても答えは出せないままだけれど──ミナは、答えに近しい存在だと思っている。

 

 相手が何をして来ようとも正面からねじ伏せられる戦闘能力。これは強さを表すものの一つだ。

 魔術師相手に魔術で、剣士相手に剣技で、化け物相手に基礎性能で優る。そして何より、()()があるのがいい。

 

 未知を強引に既知に変え、情報を集めたうえで戦うかどうかを判断できるのは、エレナでは真似のできない強みだ。

 

 「っ、後ろ!」

 「分かってる!!」

 

 全周に警戒心を振りまいていたウォードの警告と、ずっと気配を追っていたエレナの反応は全くの同時だった。

 

 エレナが振り返りざまに放った回し蹴りが柔らかいものを捉える。

 しなやかに鍛え上げられた脚を包む探索用の重いブーツは凶器だ。このまま蹴りに重さを載せてしまえば、この感触なら当たった“何か”を圧し折ることもできるし、“中身”を破裂させることもできる。

 

 しかし──。

 

 「──!!」

 

 耳障りな、しかし何故か聞いたことのあるような音。

 苦し気な喘鳴とも不愉快ないびきともつかないその音は、エレナの神経を酷く逆撫でした。集中が途切れ──怯み、エレナが丹田へ集めていた重さが、蹴りに載せきる前に散ってしまう。

 

 「ッ!?」

 「エレナさん!?」

 

 体重も筋力も技術も何一つ十分に発揮されていない甘い蹴りに飛ばされた、青白い塊が地面を転がって立ち上がる。

 ウォードは素早く立ち位置を変え、それと二人を隔てる位置で構える。エレナも不愉快そうに顔を顰めてはいたが、格闘戦の構えには一部の隙も無い。

 

 そして、そんな二人の間を通り過ぎる、紅蓮の火球が一つ。

 

 「《ファイアーボール》!」

 

 リリウムが放った初級魔術の炎弾は頼りない速度で飛翔し、青白いヒトガタの醜い顔面を舐めるように広がった。

 

 貫通はしない。そんな硬度も速度も威力も無い。

 延焼もしない。そんな温度も持続性も初級魔術には再現できない。

 

 精々が火傷する程度。魔物の耐性程度で大幅に減衰する威力しか持たない、投石以下の魔術。

 

 だというのに、ヒトガタはウォードたちにも分かる明らかな苦悶の声を上げ、顔を押さえてのたうち回った。

 

 「効いた!?」

 

 思わず漏れたエレナの驚愕に、リリウムはむしろ自信を付けたようだった。

 

 「っ、そうよ! 私は天才魔術師なんだから! こんなよく分かんない魔物、私の魔術で蹴散らしてやるわ!」

 

 身を翻して逃げ出した青白い化け物を、リリウムは『ファイアーボール』を射出待機状態にして追いかける。

 

 「待って、リリウム! 深追いは──」

 「私も行く!」

 「モニカちゃん!? 待つんだ!」

 

 その背中に手を伸ばしたウォードだったが、捕まえたのはその後ろを走っていた──すぐ後に続いて走り出したモニカだった。

 

 「リリウムちゃん一人じゃ危ないでしょ!」

 「モニカちゃんが付いて行ったって変わんないよ!」

 

 リュックサックを掴まれたモニカは、声に怒気を滲ませてリリウムが姿を消した方を指差す。

 エレナもモニカの腕を掴んで制止するが、モニカの焦りは収まらなかった。

 

 「でも行かないよりマシでしょ!」

 

 行けば何か出来るはず。一緒に居れば何か出来るはず。

 

 モニカはそう信じている。

 あの日から──ただの順番で、同じ境遇だったはずの自分だけが救われたあの日から。フィリップだけが、別人と見紛うほど目の輝きを失ったあの日から。

 

 しかし、今回はモニカだけでなく、頼れる仲間も一緒にいる。

 闇のヴェールが晴れた直後、ウォードは剣を納めて走り出した。

 

 「僕が行くから大丈夫! エレナさん、モニカちゃんをお願い!」

 「いや、ちょっと!? ……っ」

 

 ウォードの後に続いて駆け出していくフィリップを見て、エレナは咄嗟に立ち止まることが出来た。

 

 さっきの魔物、蹴った感触ではそこまで強くなかった。衝撃を殺したりインパクトをずらしたり、そういう技術は持っていないし、動きもそこまで速くはない。フィリップとウォード二人で十分に殺せる相手だ。

 

 それなら、フィリップ以外を守るという行為にやや不安のあるミナとモニカを二人きりにするよりは、自分がここに残るべきだと。

 

 それが合理的な判断なのか、「ああいう手合い」を前にしたフィリップの傍に行くことへの恐怖が生んだ逃避と合理化なのかは、エレナ自身にさえ分からなかった。

 

 

 

 

 



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409

 「待ちなさい!」

 

 怒りに満ちた声を上げるリリウム。

 足場の悪い洞窟内を懸命に駆ける彼女の視線は、よたよたと弱々しい足取りで逃げる蒼褪めたヒトガタに固定されていた。

 

 背後、洞窟内に反響する甲高い怒声を聞いて、「お前がな」と心を一つに追いかけてくるフィリップとウォードのことなど気にも留めていない。

 

 三人の中で冷静──いや、危機認識を正常にできているのはウォードだけだが、だからこそ、ウォードが一番、走るのに全力を出せていなかった。

 洞窟内は天井や壁から染み出した地下水で微妙に濡れているし、足場は石灰岩が不規則に堆積してごつごつしている。決して走りやすい地形ではない。

 

 だからウォードは石筍や水溜まりなんかに足を取られないよう細心の注意を払いながら走っていたが、リリウムとフィリップにそんな余裕はなかった。地形に気を配らず全力で走らなければ、追いかける相手に振り切られてしまう。

 幸いにして──或いは不幸にも、今のところ二人とも転倒することなく走ることが出来ていた。

 

 そんな二人より先行していたリリウムの前に、先ほど一行が細心の注意を払って隅を渡った崩落穴が現れる。

 人間の跳躍力では流石に跳び越せないが、魔物は壁や天井を自在に這い回っている。向こう側へ逃げられたら追いかけるのは不可能だ。

 

 そう考えて眉根を寄せたリリウムの前で、魔物はほんの一瞬も足を止めることなく大穴へその身を躍らせた。

 

 僅かに目を見開いたリリウムだったが、滑ったり躓いたりしないよう歩調を緩めて穴の縁で止まると、右手を黒々とした穴の下に突き付けた。

 

 「《ファイアーボール》!」

 

 青白い魔物が逃げ込んだ大穴に火球を撃ち込むと、暗闇の中を彗星のように落ちていく赤が穴の内壁を照らし、十メートルほど下で水面に消える。

 

 そして──ぞわぞわぞわ! と、大量の何かが一斉に動いたような、背筋の冷える音がした。

 

 「ひっ!?」

 

 その音に、リリウムは嫌な想像をしてしまった。

 大穴の奥、誰も立ち入ったことのない巨大な地下湖の壁や天井に、びっしりとへばりついた大量のヒトガタが蠢く様を。十や百では足りない数のそれらが、今にも大穴の壁を伝って溢れ出てくる光景を。

 

 逃げたい、とリリウムは思った。

 踵を返してウォードやモニカの方に戻りたいと。

 

 そうしなかったのは、氾濫した川のような勢いで襲ってくるであろう魔物の群れを前にしては、流石のウォードやミナでも太刀打ちできないだろうと思ったからではない。

 

 自分が一人であることを思い出して、恐怖に呑まれて動けなかったのだ。

 足は竦み、身体は強張り、振り返るどころか目を瞑ることさえ出来なかった。

 

 そして一瞬の後、ざわざわざわ! と風に吹かれる藪のような音と共に、大穴から噴出する黒い塊を見た。

 

 「きゃあっ!?」

 

 尻もちをついたリリウムは這って下がることも出来ず、洞窟出口の方へ飛んでいく塊を呆然と見送る。

 

 塊──リリウムなんて簡単に呑み込んでしまえる大きさの黒い塊に見えたそれは、ランタンの明かりに照らされてしまえば、なんのことはない、両掌に乗るくらいの小さな蝙蝠の群れだった。魔物でさえない、リリウムの魔術に驚いただけの、ただの洞窟の住人だ。

 

 「は、はぁ……」

 

 リリウムは安堵の息を吐いて立ち上がり、背後でずっと聞こえていた足音が緩慢になったのを感じて振り返った。

 

 「リリウム! 無事でよかった!」

 「ウォード……。フィリップも」

 

 軽く肩を上下させ、早歩き程度のスピードで向かってくるウォード。その後ろにはより大きく肩を揺らして息を荒げる寸前と言った風情のフィリップも見える。

 当人としては複雑な話だが、リリウムは二人を見て、また尻もちをつきそうなほど深い安堵に包まれた。

 

 しかし──リリウムの無事を確認して歩調を緩めたウォードだったが、それは間違いだった。

 リリウムが、まさか魔物の逃げ込んだ大穴の縁で暢気に突っ立っているとは思わず、穴の向こう側に逃げられて追跡を諦めたのだと思っていたが故の判断ミス。

 

 「っ!」

 

 今度は悲鳴を上げる暇もなく、リリウムがつんのめったように前のめりに倒れる。

 地面に顔から行く直前で何とか受け身を取ったようだったが、それは彼女の無事を意味することでは全くなかった。

 

 華奢な足首を、穴から伸びた水かきのある青白い手が掴んでいたのだから。

 

 リリウムがそれに気付いて悲鳴を上げた時には、彼女の矮躯は穴の中に猛烈な勢いで引きずり込まれるところだった。

 

 「リリウム!」

 「嘘でしょ!?」

 

 ウォードがヘッドスライディングの要領でリリウムの手を掴み、素早く身体を反転させて足を穴の方に向け、踏ん張る。

 軍学校で鍛えられた男の脚力に人間二人分の体重を加えた抵抗を振り切るほどの膂力は、流石にあのひょろ長い腕にはないらしく、二人は穴に落ちる寸前でどうにか止まった。

 

 「ナイスです、ウォード! そのまま引っ張ります!」

 

 フィリップも素早くウォードの脇下に腕を通し、二人を穴から遠ざけるように引く。

 

 「はなっ……放しなさい、よっ!」

 

 足首を掴まれているリリウムは無駄に悲鳴を上げることも無く、気丈に、もう片方の足で振り払おうと青白い手を懸命に蹴りつけていた。

 

 残念ながら蒼褪めた手は離れる様子がないが、それならそれでいい。

 リリウムの身体は徐々に穴から離れている。手を放さないのなら、手の主をこのまま穴の外に引き摺り出して、フィリップとウォードで切り刻んでやるまでのこと。

 

 ひょろ長い前腕が見え、肘関節で曲がり、髪のないサナダムシのような顔が穴の縁から覗き──ぐん、と、強烈な力で引かれる。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 「っ!?」

 「うわっ!?」

 「しまった!?」

 

 綱引きの相手が急に倍の人数になったかのような勢いに引かれるまま、フィリップたちは一塊のまま穴の中に転がり落ちた。

 

 地面に叩き付けられて死ぬ。

 そんな恐怖を抱くだけの時間もなく、落下はほんの一秒程度で終わる。運良く、或いは運悪く、フィリップたちが落ちた先には深い水溜まりがあった。

 

 盛大に水音と飛沫を上げた三人は、主人を水底へ誘おうとする剣や装備品に負けないよう、なるべく平体で泳いで陸地に上がる。消えたランタンの代わりに、フィリップとリリウムの『ファイアーボール』が応急的な光源となった。

 

 「はぁ、ふぅ……げほげほっ! 大丈夫、二人とも? とにかくまずランタンを付けよう」

 

 陸に上がるまでは一心不乱で、何も考えられなかったフィリップとリリウムとは違い、ある程度の冷静さを残していたウォードがてきぱきと動く。

 ランタンのカバーを外して中に入った水を排出し、オイルの沁み込んだ芯を軽く拭う。魔術の炎を灯して周囲に目を光らせていたフィリップの『ファイアーボール』を火種に再着火すると、蝋燭大の炎とは違う、ガラスが守り増幅した頼りがいのある光が周囲に広がった。

 

 フィリップたちが落ちたのは水の溜まった巨大な陥没孔のようだ。深さは不明だが、もう二度と入ることは無いだろうし知る必要はない。

 穴の周りはそれほど広い空間にはなっておらず、道らしい道は一つだけだ。

 

 所々に蝙蝠のフンが落ちていたが、床を埋め尽くすほどではない。只の通り道なのか、或いはここに住み着いてまだ間もないのか。

 

 「……さっきの奴は?」

 「見当たらない。追撃もしてこなかったし……モニカちゃんたちの方に行ったのなら、今頃ウィルヘルミナさんに倒されてるだろうけど」

 

 上着を脱いで水を絞りながら言うウォードに、フィリップも頷きを返して行動を真似る。その間も二人の目は周囲を見回して一点に留まらない。

 洞窟の中はひんやりと涼しいが、着替えは持ってきていないし、まさか焚火を起こして服を乾かすわけにもいかない。今できるのはこれが精々だ。

 

 それからウォードとフィリップが剣を抜いて水気を拭おうとすると、髪を絞ってからずっと物言いたげな顔をしていたリリウムが呆れたような溜息の後、口を開いた。

 

 「……あっち行ってとまでは言わないけど、せめてあっち向いてくれない? 私も服脱いで絞りたいんだけど」

 「あ、ごめん! そうだよね!」

 

 ウォードが少し照れながら、フィリップも素直に頷いてリリウムに背を向ける。

 少し振っただけで完璧に水気の切れた龍貶し(ドラゴルード)を「便利だなあ」という目で一瞥したあと、フィリップは「あ」と声を漏らした。

 

 「あ、じゃあついでに二人とも、ちょっとあっち向いてて。僕が良いって言うまで。……パンツが濡れてるのって気持ち悪くてさ」

 「わざわざ言わなくていいから! この服で引っ叩くわよ!」

 

 三人は背中合わせに暫くカチャカチャゴソゴソやっていたが、最後にフィリップが「もういいですよ」と言って向き直る。

 

 皆一様に疲れた顔をしていたが、目立った怪我は無いようだ。

 

 「よし。それじゃあ……どうしようか」

 「まあ、二択ですよね。待つか、進むか」

 

 戻る、のは、今は流石に不可能だ。

 フィリップたちは10メートル近く落っこちてきたわけだし、岩肌はごつごつしているが足を懸けられるほどの起伏はないし、壁の傾斜が90度を超えるオーバーハングもある。登攀は現実的ではない。

 

 戻りたければ飛行能力を持つミナが来てくれるのを待つほかないだろう。フィリップが呼ぶという手もあるが、今まさに例の化け物と戦っている最中かもしれない。

 

 幸い、ここから行ける道は一つだけのようだし、進む分には後からミナたちが来てもはぐれることはないだろう。

 

 フィリップは「進む」方向で心が決まりつつあったが、問いの宛先のもう一人がずっと黙っているのを怪訝そうに見遣った。

 

 「……意外ですね。パーカーさんは「進むに決まってるじゃない!」とか言いそうでしたけど」

 「私ってそんなイメージ? そりゃ、さっきはちょっと先走ったけど」

 

 「無知ゆえの愚行を犯すイメージ」とは言えず、フィリップは曖昧に笑う。

 

 しかし先ほどのリリウムは先走ったというか、焦っていたような感じだった。

 特に魔物を殺した数で報酬分配を決める、みたいな話はしていないので、功を焦ったわけではないだろうけれど。

 

 そんなことを考えるフィリップとウォードの前で、リリウムはばつが悪そうにおずおずと頭を下げた。

 

 「……私が先走ったせいで二人を巻き込んだわけだし、その、ごめんなさい。頭に血が上ってて……」

 

 出会って二日のフィリップからすると珍しい素直さを見せたリリウムに、フィリップは意外そうな一瞥を呉れ、ウォードは安心させるように笑いかけた。

 

 「気にしないで。夜襲を受けたりしてビックリすると物凄く攻撃的になる人って、結構いるよ」

 

 ビビッて動けなくなるタイプよりも、実はそういうタイプが死にやすいんだけど、と軍学校の訓練内容を思い出したウォードだったが、口には出さない。

 

 「僕は“進む”に一票です。あいつが残り一匹とは限りませんし、他に居ないか探してブチ殺しましょう」

 「どこでスイッチ入ったの?」

 「こわ……」

 

 首を掻き切るジェスチャー付きで横穴の方を指すフィリップ。

 ウォードとリリウムは、その目の据わり具合に「どこに逆鱗があるか分からないの怖いなあ」と言いたげに顔を引き攣らせる。

 

 「懐中時計が防水じゃなきゃ洞窟ごと吹っ飛ばしてる所でしたよ」

 

 さっきカチャカチャやっていたのはそれか、とウォードは呆れ混じりに納得した。

 

 

 

 



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410

 フィリップたちはウォードを先頭に、リリウムを挟んでフィリップが殿を務める縦列陣形で洞窟の中を進み始めた。

 本当はフィリップが先導したかったのだが、暗闇からいきなり襲われた場合に後ろを守れるのはウォードだ。というかフィリップの戦形や訓練内容だと、咄嗟に避ける可能性の方が高い。

 

 予備のランタンを水溜まりの近くに置いてきたものの、穴の上までは照らせなかったから、上から見たときに目印になってくれるかは疑問だ。

 

 水溜まりの傍から伸びていた横穴は途中で何度か曲がったり、坂を上下したものの、概ねは先ほどフィリップたちのいた村の廃井戸方面へ伸びているようだった。

 

 「……なんか、臭いね」

 

 ぽつりと呟いたリリウムの言葉通り、横穴を進むにつれて空気に臭いが付き始める。

 少しだけ鼻を突く、どことなく酸っぱいミルクのような臭いだ。

 

 「確かに変な臭いはするけど、予想とは違うな。もっとこう……腐臭がするものかと思ってた」

 

 なんで? と首を傾げたリリウムとは違い、フィリップは薄い笑みを浮かべる。

 

 「食べ残さないタイプなんでしょう。蛇みたいに丸呑みするのかも。……まあ、そいつらが子供たちを殺さなかった理由が「食べるため」とは限らないわけですけど」

 

 ウォードは曖昧に笑ってごまかそうとしたが、その気遣いをフィリップが無為に帰す。

 ()()の臭いを予期していたのだと分かったリリウムは顔を顰めたが、特に怯えたりはしなかった。

 

 「それ以外に何か理由ある? 身代金目的に誘拐するって感じじゃなさそうだけど」

 

 肩を竦めたウォードの言葉は冗談だったが、そうならいいと思える希望でもあった。

 身代金が目的なら、子供たちはまだ死んでいない可能性が高いし、知性と「交渉」「交換」の概念を持ち合わせた相手ということになる。

 

 少なくとも「殺す」という行動基準が「食う」に置き換わっただけの、魔物の変異種よりは話が通じるだろう。

 

 「さあ? 案外、人間と仲良くしたくて()()を調べてるのかも」

 「だったら最悪だね。とても仲良くはなれそうにない」

 

 最悪──ではない、それは。

 フィリップが想定する最悪のケースは、子供たちが邪神降臨の贄にされている、というものだ。

 

 勿論、あの魔物モドキが降臨儀式を行うほどの智慧を持っているとは限らないけれど──フィリップが知る数少ない儀式の術法の中には、子供を使うものがある。あれも、そういえば地下空間で執り行う儀式だった。

 

 即ち、ヨグ=ソトースとの交信儀式。

 まあ、あのナントカというカルトは衛士団の目を盗んで王都内で活動する程度には肝が据わっていて、かつ支配魔術の使える優れた魔術師に牽引された、中々に上等な集団ではあった。

 

 ここの魔物モドキが「フィリップより多少マシ」程度の魔術能力しかないのなら、あのカルト共の方が高度な儀式が出来ることになる。ヨグ=ソトースなんて外神の中でも指折りの化け物を呼び出せるかどうかは未知数だ。

 

 そのままでは──独力による求道では出来なさそうだが、魔導書や、“宣教師”の教えを受ければどうとでもなるだろう。

 

 外神である以上、出てきたところでフィリップと敵対することはないだろうけれど──それは相手がヨグ=ソトースだった場合だ。普通に外神と敵対している旧支配者や、特に敵でも味方でもないが顕現しただけで星一個がグズグズに腐敗して壊れるような邪神が出てくると困る。

 

 「新種の魔物だったとしても、変に色気出して生け捕りにしようなんて思わないでくださいね、二人とも」

 「捕まえたくもないわよ、あんなの──あいたっ」

 「おっと。ウォード?」

 

 不意に立ち止まったウォードの鞄にぶつかったリリウムが声を上げ、フィリップは巻き込まれる前に立ち止まれた。

 陥没穴を見つけたときには「全隊停止」と合図していたウォードだ。今のは意図した停止ではなく、立ち竦んだのだと二人にも分かった。

 

 ウォードが釘付けになったのはどうやら進む先の壁のようで、リリウムとフィリップは身体を傾けて覗く。

 軍学校卒業生さえ立ち竦ませる光景を目の当たりにして、リリウムはひゅっと息を呑んだ。

 

 ランタンが温かなオレンジ色の光で照らしたのは、壁のみならず天井部までにもびっしりと書かれた記号の羅列だった。

 茶色い塗料──いや、きっと血文字なのだろう。垂れた跡、滴った跡まで残っている。

 

 「……これ、人間の血だと思う?」

 「どうでしょう。あいつらの血も結構赤かったですけど」

 

 衝撃から回復したウォードの恐々とした呟きに、フィリップは「気色悪いなあ」という顔に似合わず平然と答える。

 

 意外と血やスプラッターは平気なのか、リリウムもすぐに硬直から復帰して顔を顰めた。

 

 「血ってだけで嫌よ」

 「あはは、確かに」

 

 ウォードの横をすり抜け、ランタンを掲げて血文字を検分していたフィリップが笑う。

 

 リリウムは単に「血が嫌」という意図だったが、魔物だってまさか威圧が目的ではないだろうし、人間の血をインク代わりにしているなら、そこには何か意味がある。

 それが魔術的な必要性によるものならまだマシで、「血は水と違って色が付いているから描画に使えるぞ!」みたいな理由だったら知能の方が心配だし、これが同族の血だったら野蛮過ぎる。

 

 だが……どうやら最低限度の知性はあるようだ。

 

 「……どうしよう。戻る? ……フィリップ君?」

 

 これは、本当に()()()だ。

 血で書かれた、文字──体系化された言語に基づいた、文字だ。

 

 邪悪言語と大陸共通語とフィリップも知らない記号が入り混じっていて、読解することは出来ない。だが何かの意味を持った羅列のはずだ。まあ50音表のような、「無意味な意味」である可能性もあるけれど。

 

 「……ここ、王都から馬車で半日くらいでしたよね」

 

 フィリップは深々と嘆息する。

 

 独自の言語体系──それも恐らく邪悪言語を母体とする言語──を持つレベルの知性を有する何かが、そんな身近に蠢いているのは気分が悪い。ずっとこの洞窟から出て来ないのだとしても。

 そしてもしも王都に出てくるようなことがあったら、フィリップはここで駆除しておかなかったことを後悔するだろう。

 

 「二人とも、家族は王都に?」

 「……うん」

 「えぇ」

 

 聞いてから「そういえばそうだった」とフィリップも思い出す。

 ウォードの実家は宿屋タベールナからそう遠くないところにあって、以前にフィリップがヤマンソの制御をしくじって周囲一帯ごと吹き飛ばしたのだ。

 

 リリウムとウォードは家が近所だったと言っていたし、そりゃあ二人とも家族は王都にいるだろう。なんて、フィリップ特に罪悪感を想起されることもなく淡々と考える。

 

 「僕の家族は王都にはいませんけど、あいつらの気色の悪い顔面を見せたくない人が沢山います。二人が戻りたいなら止めはしませんけど、僕は進みます」

 

 最早、懐中時計を壊されそうになった恨みがどうこう言っていられない。

 王都から数十キロ離れた地とはいえ、馬車を使えば半日だ。

 

 対岸の火事、ではある。

 

 だが対岸の火事が火災旋風となって川を渡り、我が家の庭先にやってくる可能性は摘まなければならない。

 あの魔物モドキが地上には出て来ず、地下を掘って移動しないという確証を得るか、ここで殲滅するか。

 

 「……そうだね。魔物じゃないってことは、繁殖する可能性があるってことだ」

 

 確かに、さっきミナが殺した魔物は男性器状の器官を持っていた。つまり、生殖器を。

 胎生なのか卵生なのかは不明だが、雌雄を持ち交配によって繁殖すると考えられる。

 

 地下で脈々と繁殖した奴らが地下を埋め尽くし、ある日遂に決壊して地上へ溢れ出す──なんて地獄絵図は避けなくてはならない。

 まあ、寿命も繁殖力も全く不明だし、これまでにこんな魔物が大繁殖したなんて話は聞いたことがないので、案外放っておいても大丈夫かもしれないけれど。

 

 そんなことを考えながら、血文字の書かれた壁に触れないよう気を付けつつ先に進む。

 四方八方の血痕は嫌な威圧感を放っていたが、ウォードは努めて前だけを見つめ、フィリップとリリウムは気色悪そうに身体を縮めてその後に続く。そして暫く歩いたとき、ウォードがまたぴたりと立ち止まった。

 

 「っ! フィリップ君、これ……!」

 

 ウォードは足元に落ちていた何かを、剣を使ってフィリップの方に転がす。

 

 それは王都外では一般的な、皮と草紐をそれっぽく丸めただけの粗悪な靴だった。

 サイズはフィリップでも履けないくらいに小さく、血の染みがついている。

 

 「靴……?」

 「……服を集めてるオシャレさんだったりしないかな? 子供たちを殺さなかった理由」

 「じゃあ()()は返して欲しいし、人前に出る時にはドレスコードを気にしてほしいですね」

 

 まあ、靴に「中身」が入っていなかっただけ良かったとも考えられるけれど。

 

 「二人とも余裕ね?」

 

 なんて、呆れ顔のリリウムは嘆息するが、そうではない。

 

 二人とも、自分が獣を狩って食べるときに毛皮を剥ぐことを思い出してしまい、現実逃避をしているだけだ。

 厚い毛皮や気候に応じた換毛能力を持たない人間の“毛皮”とは、即ち衣服。布や皮革まで食うような悪食でなければ、野生の獣だって着衣は引き裂いて中身を食べる。

 

 この靴はきっと()()()に違いないと二人は睨んでいた。

 

 食うタイプか、と二人が顔を見合わせた、その時だった。

 

 「うわぁぁぁぁっ!」

 

 甲高い子供の悲鳴が、洞窟の冷えた空気を切り裂く。

 音源はフィリップたちが目指していた方向のようだが、かなり反響して具体的な距離は分からなかった。

 

 そして、悲鳴はそれほど長くなく、二呼吸ほどで終わる。

 助けを求めることも無く、赦しを乞うことも無く、ただ只管に絶叫するだけの悲鳴は、そのどちらにも意味がないと悟った者に特有のものだ。

 

 「……滅茶苦茶嫌なものを聞いた気がする」

 

 血文字がびっしりと並ぶ天井を見上げて顔を覆うフィリップ。

 何かが液状化してぶちまけられたような音が聞こえはしないかと耳を澄ませてみたものの、自分も悲鳴を上げないよう口元を覆ったリリウムの荒い呼吸音以外は何も聞こえなかった。

 

 「……行くしかないよね。子供たちが捕まってる可能性だってあるし」

 「確率的にどうかは知りませんけど、擬態とか囮である可能性の方が高くないですか?」

 「そうだね……。けど、子供たちがまだ生きてる可能性が少しでもあるなら行くしかない。でしょ?」

 

 やだなあ、と明記された顔のウォード。

 自分の実力を正確に把握している彼は、「罠なら踏み潰せばいい」なんて雑な考えは抱かない。罠は避け、強敵は迂回し、どうしても戦わなければならないのなら、まず情報を集めるべき。そんな思想を持っている。

 

 だが──“どうしても戦わなければならない”状況だろう、これは。

 「子供が助けを求めていたけど、敵が正体不明で怖かったので逃げ帰りました」なんて、師匠に言ったら次の瞬間には金玉が斬り落とされている。それが玉無し野郎に相応しい恰好だと踏みつけられる様が目に浮かぶ。

 

 何より──衛士団なら、ここで背を向けて逃げたりなんて、絶対にしない。

 

 腰に佩いた剣の鞘を握りしめ、思考を回して何とか覚悟を決めようとするウォードに、フィリップは陶然とした笑顔を浮かべた。

 

 「……いい表情(かお)しますね、ウォード」

 「男同士でイチャついてないで、急ぐわよ!」

 

 リリウムに急かされるまでも無く、覚悟を決めたウォードと、端から「殺すか、見逃すか」という立ち位置にいるフィリップは出来る限り足音を殺して走り出す。

 

 慌てて二人の後ろに続くリリウムだが、斥候の訓練を受けたウォードと、日々死ぬほど走りにくい姿勢で走るために身体操作の訓練をしているフィリップに比べると、彼女はやはり鈍臭い。

 明らかに靴の音が洞窟内に反響していたが、しかし、通路の最奥部らしき広い空間に到着するまで、虫の一匹にさえ出会わなかった。

 

 最奥部は直径30メートルほどの広いホールで、地面がすり鉢状に陥没している。

 その壁面にも、ごつごつした壁にも、天井から垂れ下がった鍾乳石にさえも、びっしりと血文字が刻まれている。そして空間の中央、すり鉢の底の部分には、まだ鮮やかに赤い血で描かれた魔法陣が描かれていた。

 

 ホールに踏み込む前に通路の壁に身を寄せて様子を窺っていたフィリップたちは、ウォードの合図で姿勢を下げて膝を突いた。

 

 迂闊に突撃するべきではないと、空間そのものが本能へ訴えかける。

 勇気を、決意を、覚悟を、挫きにかかる。

 

 そして、中央の魔法陣を取り囲むヒトガタが、七つ。どいつもこいつも見分けのつかない、サナダムシのような顔だ。

 奴らは等間隔に並び、ひょろりと長い手を取り合って輪になっている。ヌタウナギのような口では当然のことだが、ブツブツと漏れる声は明らかに人間のものではない。

 

 その呟きは魔術儀式の呪文のようで、呼応した魔法陣が赤く輝き、空間を照らし出す。

 フィリップたちがランタンの光では到底照らし出せない空間の全容を把握できたのは、その光のおかげだ。

 

 物理的に発光しているわけではないのか、広い空間をはっきりと照らし出すほどの光量でありながら、フィリップたちは全く眩しいと感じない。

 しかしそれは、あまり嬉しいことではなかった。その所為で、奴らがどういう儀式を行っているのかを明確に見てしまったのだから。

 

 光っていない光に照らされ、魔法陣の上に寝かされていた、フィリップより更に年下の少年を見つける。

 

 服は着ておらず、目も虚ろで生気がないが、目立った外傷はない。

 それは何も知らなければ生贄に捧げられているように見えて、ウォードは即座に剣を抜いて突撃しようと腰を上げた。

 

 しかし、フィリップはそれを避けるために、既にウォードの服を掴んでいた。

 

 「惨く死にたくないなら止まってください、ウォード」

 

 フィリップの魔術能力は下の下。

 魔術発動を見て魔術の内容を見極めるどころか、そもそも魔力を見ることだって出来はしない。

 

 だが──()()()()()()

 

 魔法陣とは魔術の内容が克明に記された、いわば物理的に記述された魔術式。

 暗算ではできない高度な計算を紙に書いて整理するようなものだ。そこには魔術に必要な全ての要素と情報が明記されている。

 

 それが人類領域外の化け物たちが、より高次の存在と交信するために作り上げた別言語であっても──いや、だからこそ、か。

 現代魔術の魔術文字や文法に則って記述されたものであったなら、フィリップが一目で理解するのは不可能だ。まあこれでも魔術学院のAクラス卒業生、それも壊滅的な実践分野を理論分野で補ってきたレアケース。紙と辞書と時間があれば解読できるかもしれない。

 

 だが、邪悪言語であるのなら、フィリップはほぼネイティブレベルだ。

 

 この魔術がどういう作用を持ち、どういう結果を目的とし、どういう力を利用するものなのか。全て、そこに書いてある。

 

 「ねえ、あれ……!」

 

 リリウムが震える指で示す先では、魔術行使が完了し、その結果が現れ始めていた。

 

 魔法陣が蠢き、顔のない杭の頭を持った蛇が鎌首をもたげる。

 蛇の数は七。取り囲むヒトガタの足元が尾となるそれの正体は、奴らの血液だ。

 

 そして──蛇は次々に少年の身体に頭を突き立て、皮膚の内へ、肉の内へ、骨の内へと入っていく。

 ぼこぼこと聞くに堪えない音をたてながら、少年の身体は蠢き、隆起し、蠕動する。田舎の子供にありがちな瘦せ型だった少年の身体は、一時は爆発寸前の水死体のように膨れ上がってさえいた。

 

 しかし、血の蛇は彼を傷つけてはいないようで、血の一滴も零れないどころか、少年は悲鳴さえ上げなかった。

 

 フィリップは咄嗟にリリウムの口を覆ったが、本当に覆うべきは目元だったかもしれない。

 

 惨劇が終わり、少年が立ち上がる。

 彼は痩せ型の体形に戻っていたが、決して元通りなどではなかった。

 

 肌は蒼褪め、手足は体格に不釣り合いなほどひょろ長い。指の隙間にはカエルのように発達した水かきがあり、自分の身体を見下ろす顔はサナダムシのように変形していた。

 

 「元は人間だったってこと……!?」

 

 目に涙を浮かべたリリウムが押し殺した声で呟く。

 眼前の光景への恐怖か、或いは、既にそれらを二体ばかり殺したことを思い出したのか、声だけでなく体までもが小刻みに震えていた。

 

 しかし──怯える少女を慰めている余裕はない。今無くなった。

 

 あれを称する言葉は魔物モドキか人間モドキかは不明だが、子供を攫って変性させる時点で碌な存在ではない。幸い、同族同士の生殖ではなく儀式での変異による増殖なら、無尽蔵に増えることはないだろう。

 

 「でも今は人間じゃない」

 「でもあいつらは「敵」だ」

 

 フィリップとウォードは声を重ね、鞘走りの音を重ね、そして視線を重ねてニヤリと笑う。

 

 二人の心情は一致している。

 即ち──こいつらは、ここで駆除しておかなければならないと。

 

 「流石は実戦経験者、“龍狩りの英雄”」

 「ウォードこそ、いい割り切り方です。流石は僕の師匠。パーカーさんはここで隠れててくださいね」

 

 そして、二人は同時に突撃した。

 

 

 

 

 



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411

 フィリップもウォードも、戦士としてはそれなりに上位だ。

 一対一で相手の攻撃を掻い潜りながら会心の一撃を虎視眈々と狙う単騎型と、相手の攻撃を一身に引き受けて防ぎながら後方支援による掃討を待つ騎士型。戦形に差はあれど、相手を斬り伏せる能力は二人とも高い水準で持っている。

 

 相手が化け物とはいえ、背を向けている個体を不意討ちで狙えば、むしろ殺さない方が難しい。

 

 ウォードの直剣、彼が師匠から譲り受けた()()()()()はひょろ長い化け物の頸を容易に斬り落とす。

 フィリップの龍骸の蛇腹剣、最高級の素材を最高の錬金術師と付与術師が鍛え上げた大業物は、化け物の胴体を逆袈裟に二分割した。

 

 不意討ちは完璧で、残った化け物たちも心なしか驚いたように動きが鈍い。

 もう一体ずつ、欲をかいて良いのならもう二体ずつ獲れる。フィリップがそう確信するほど隙だらけだ。

 

 しかし──ウォードは片手で合図を送りながら、追撃を止めて後退した。

 

 流石に単身で敵の只中に突出するほど馬鹿ではないフィリップもすぐに従うが、顔は不満をありありと表している。

 

 「ウォード?」

 「反応した奴がいた! 後ろの二匹! 何か……何かされたかも!」

 

 どういうつもりで口にしているのかと言いたくなる不明瞭な警告に、フィリップは眉根を寄せてウォードを一瞥する。

 

 しかしフィリップは気付かなかった──斬り伏せて頽れる死骸がちょうど被っていて見えなかったが、ウォードは化け物の群れの中でも特に異質な存在感のある二匹が、フィリップたちの方へ右掌を差し向けたのを見ていた。

 

 何かの魔術を使われた。

 ウォードはそう判断したが、如何せん二人とも魔術適性はゼロだ。一般人と何ら変わりない感知能力しかなく、魔術を使われたことにさえ気付けない。

 

 フィリップも少し考えて意図に気付き、「何か」と呟きながら再びウォードに目を向ける。

 彼の身体が内側から炭になったりしたら、流石にもう笑うくらいしか出来ることは無いが──幸いにして、ウォードの身体自体には何の影響も現れていなかった。

 

 その代わり、腰に吊るしたランタンの光が寒々しい色に変わっていた。

 先の魔法陣が放った光と同じ、輝いていないのに周囲を照らす奇妙な光だ。

 

 「ウォード、ランタンが」

 「っ、フィリップ君、君のも……!」

 

 見遣ると、フィリップのランタンも同じく、その輝きを失っていた。

 熱のない炎、眩しくない光は、目で見ているものが本当に正しいものなのかという疑いを抱かせ、足場が不安定になったかのような不安感を催させる。

 

 だが、そんなことはフィリップにはどうでも良かった。

 

 「領域外魔術……。僕やミナに襲い掛かるような低劣な知性しか持たない劣等種が、なんでそんなものを使えるのか……」

 

 蒼褪めた肌のヒトガタ。目に付く異形は顔と、手足の指間に張った水かき。それから全体的にひょろ長いシルエット。

 

 そんな化け物のことを、フィリップは知らない。それが地球産の原生生物なのか、宇宙から飛来した異星生物なのかも分からない。

 神威を感じないどころか、野生動物でさえ忌避するフィリップの“臭い”に気付かないような、強くもなければ聡くもない劣等存在の知識を、フィリップは与えられていない。

 

 そんな塵芥、シュブ=ニグラスは認知してさえいないのだから。

 

 「それって生まれつき? それとも、誰かに教わったのかな」

 

 言葉を解するかどうかさえ定かではない明確な化け物を前にして、いきなり話しかけだしたフィリップに、ウォードは思わず一瞬だけ敵から視線を切ってしまう。

 幸いにして怪物たちはウォード同様にフィリップを不思議そうに見ていて、明らかな隙を突いてはこなかった。

 

 いや──動けなかった、が正しい。

 蒼褪めた肌色からすると不自然なほど赤い血を流す死骸を挟み、不気味な異形を前にして、フィリップはどこか期待感を滲ませて目を輝かせている。剣先は下がり、表情は僅かに緩んで笑みの形を描いている。

 

 それなのに、激甚な殺意と悪意が全身から噴き出ているようだった。フィリップに剣を教える立場であり、未だ立ち合いでは一度たりとも剣を当てられたことのないウォードが怯えるほどに。

 

 それは化け物たちも同じようで、知性を持たない彼らはむしろ、野性由来の警戒心で殺意に敏感だった。

 

 「“啓蒙宣教師会”って知ってる? 答え次第で殺し方が変わるんだけど──」

 

 フィリップはだらりと剣を下げ、一人一人の顔を順番に見るかのように化け物の群れを睥睨する。

 その視線が一番近くに居た個体に向いたとき、そいつの内側にあった不意の襲撃者に対する恐怖心は限界を迎えた。

 

 「──!!」

 

 悲鳴なのか雄叫びなのか判断の付かない奇声を上げ、水かきを備えた手の鋭い鉤爪で襲い掛かる化け物。

 ひょろ長い貧弱そうな腕だが、あの大穴を登攀するだけの握力と腕力を持っていることは間違いない。

 

 人間の皮膚や血管を引き裂いて致命的な損傷を与えるのに、龍の骸を鍛えた剣なんて必要ない。刃渡り五センチの彫刻用ナイフでだって、人は簡単に殺せる。

 そいつの爪は指先から更に三センチくらい伸びて尖っていて、首筋に当てることが出来れば一撃で人を殺せそうな威圧感があった。

 

 ……だが、それだけだ。

 

 その攻撃が持つ印象は、「当たったら痛そう」程度のもの。

 ミナと相対したときのような絶望感も、エレナと相対した時の底知れない感じも、ウォードやマリーのような堅実な技術も、何も感じない。

 

 そんなのは、棒を振り回す子供と同じだ。

 素手で傷つけないように制圧するのは難しいが──戦闘技術を身に付け、圧倒的格上との戦闘に慣れ、殺傷武器で武装し、端から「制圧しよう」なんて考えを持っていない殺意を剥き出しにした人間にとっては、何ら脅威ではない。

  

 エレナに文字通り叩き込まれた対徒手の動きを、フィリップの身体が勝手に再現する。

 後ろに下がって間合いを外しつつ切り上げで手首を、返しで肘を斬り落とす。腕の無くなった防御の甘い方へ回り込み、心臓と肺を一息に切り裂く。

 

 外皮、筋肉、肋骨──そんなもの、錬金金属に付与魔術をかけた全身鎧でさえ紙のように切り裂く龍骸の剣の前には、何の防御にもならない。

 完璧な角度で刃が入り、完璧な方向に力を受けた刃は、使い手に一切の抵抗を感じさせずに怪物の胴体を横一文字に裁断した。

 

 あまりの手応えの薄さは、まさか外したのかと一瞬戸惑ってしまうほどだ。弧を描いて飛び散る赤い雫を見ていなければの話だが。

 

 フィリップは剣を空振りして血を払い、断末魔さえ上げずに絶命した青白い骸を気色悪そうに見下ろす。

 

 「なに? なんか怒ってる? ……あぁ! そりゃそうだ! さっき不意討ちで一匹ブチ殺したもんね! あははは!」

 

 また剣を下げ、身体を揺らして笑うフィリップ。

 一連の動きを見ていたウォードは「なるほど」と内心納得している。フィリップは奴らに一定の知性と感情を見出し、煽ることで平静を失わせ、数的不利を少しでも緩和しようとしているのだと思って。

 

 「で、質問には答えてくれるの? 元は人間だったんだし分かるでしょ、人語」

 

 早く言えよ、とばかり顎をしゃくるフィリップ。

 相手が人間と同等の知能を持っているのなら、苛立ちか、或いは「こいつは状況を分かっているのか?」という疑問を表情に乗せそうな態度だ。尤も、サナダムシのような顔に浮かぶ表情を読み解くのは、フィリップにもウォードにも難しいけれど。

 

 まるで答えるかのように、一匹が口を開いたのはウォードにとって驚きだった。

 意思の疎通が出来るのかと思ったのも束の間、耳障りないびきのような音を聞いて落胆することになったのだが。

 

 「あー……なるほど。その口じゃあ喋れないか。じゃ、イエスかノーかで──おっと」

 

 会話を試みたヤツとは別の個体が、またフィリップに襲い掛かる。

 

 それは嫌に人間味のある、心の内に溜め込んだ恐怖の感情が閾値を超えて爆発したような動きだった。

 動作は緊張がそのまま動きに転化したようにガチガチに硬く、精彩を欠くどころか、意思と動きにズレがあるような、ついブレーキをかけているような思い切りの無さだ。

 

 ウォードからすると、剣を始めたばかりの素人が他人を傷つけることを無意識に避けているときのような、戦闘以前の話だと思える動き。

 フィリップには覚えのない、見たことも無いような鈍臭い動き。

 

 殺すのに何の苦もない、的みたいな動きだ。

 

 「顔が気色悪すぎるなあ……。中途半端に人間味を残してるからかな」

 

 斬り落とした首が地面に落ちる前に切っ先に突き刺し、赤い血を垂れ流す球体を不機嫌そうに見つめるフィリップ。

 ミナは斬り落とした巻き藁を地面に落ちるまでに四度斬れる速さで手を返せと彼に教えていたが、今のフィリップにはこれが限界だった。

 

 そんな訓練中にやる遊びが出るほどの緊張感の無さは、この場における力関係を端的に示している。

 

 怪物は残り三匹で、そのうち冷静っぽいのは、先ほど魔術を使ってきた異質な存在感のある二匹だけ。

 

 そして、すぐに残りはその二匹だけになった。

 小さいけど怖い方(フィリップ)デカいけど普通な方(ウォード)、どうやらデカい方が与しやすいとでも思ったのか、ウォードに襲い掛かった一匹が当然のように斬り伏せられて。

 

 そりゃあそうだ。武装こそフィリップが勝るが、剣技では圧倒的に負けている。フィリップはウォードに刃を掠めることさえ出来はしないのだから。

 

 「さて、残りは君たちだけなんだけど……」

 「フィリップ君、もう遊びは無しだよ。……こいつらは別格だ」

 

 残るは二匹。

 

 こいつらが、恐らく()()なのだろう。

 ウォードの言う通り、他の個体とは存在感が違う。神威はないし誤差みたいなものだが、棒を振り回している田舎の子供と、町の門番くらいの差はある。

 

 こいつらが子供を攫い、変性させ、同族を増やしていた中核(オリジナル)に違いない。

 

 ……“宣教師会”の影はない。どうやら、ただ単純に人間を変性させて繁殖する、()()()()()()()()らしい。

 

 「つまんないなぁ……」

 

 フィリップは心底面倒臭いというように呟く。

 斬り殺した死骸から流れ出す血溜まりがじわじわと広がり、フィリップはブーツが汚れる前に気色悪そうに数歩下がる。

 

 それだけの動作でさえ億劫だ。

 

 こいつらがカルトに由来するものであったのなら、フィリップは憎悪によって悪意と害意を向けただろう。

 只人に智慧を与え、譫妄に憑りつかれたカルトではなく正しく蒙を啓いた求道者へと導く「カルトを教導するカルト」、“啓蒙宣教師会”が絡んでいたのなら、より苛烈に。

 

 さっきまではその疑いがあったから、少しばかりテンションが上がっていたが──それだけに、違うと分かった時の落差が大きかった。

 

 「カルト絡みじゃないなら、別に、お前たちを()()殺す理由はないわけなんだけど……。いや、その不細工な顔面をルキアや殿下に見せられても困るから、ここで駆除するのは変わらないんだけどね? 要は何が言いたいかっていうと、「勝手に死んでくれない?」ってこと。どうかな?」

 

 眼前の化け物は駆除すべき不快害虫だが──虫の翅と肢を捥ぎ水に落として殺すような、無惨な死を押し付けるべき相手ではない。

 弄んで殺す必要はない。薬剤を撒くとか、殺虫剤入りの団子を置いておくとか、効率を求めて駆逐すればいいだけの、ただの虫。隣にウォードが、上層にモニカたちがいなければ、さっさと邪神を呼んで丸投げしているところだ。

 

 「自殺するのが怖いなら殺し合ってもいいよ。まあ残った方は殺さなくちゃいけないけど、二匹より一匹の方が、勿論楽だしね」

 

 くるくると剣を回して弄びながら、フィリップはぞんざいに告げる。

 外神の智慧は反応せず、フィリップがロングソードで遊び半分に殺せる。そんな面白くも無ければ訓練相手にもならないような存在価値のない相手に、これ以上時間も労力も使いたくないと言いたげに。

 

 しかし──。

 

 「馬鹿、油断しすぎだ!」

 

 叱責が飛ぶ。

 瞬きの後にはウォードはフィリップの目の前にいて、振り抜いた剣が跳躍しようとした化け物を完璧なタイミングで牽制していた。

 

 剣も構えずぼさっと突っ立っていたフィリップでは防げず、回避を強いられていた──避けられないことはなかっただろう。だが、ウォードとフィリップと化け物二匹の二対二ではなく、一対一を二つ、或いは二対一の状況に持ち込まれていた。

 

 怒声の通り、フィリップは油断しすぎていた。

 ウォードはさっきから「別格だ」と言っていたし、フィリップだって、オリジナルと変異した人間では大人と子供くらいの差はあると感じていたのだ。

 

 虚を突いて攻撃してくることくらい、警戒しておくべきだった。

 

 ……一般的な理屈の上ではそうなのだが、フィリップに「一般的な理屈」は通用しない。

 

 「フィリップ君、こいつらは挑発が効く相手じゃない。ちゃんと戦ってちゃんと倒さなきゃ、こっちがやられるよ」

 

 フィリップが“敵”と認識できる範囲は限られている。

 まず、人体が勝手に恐れる、本能的恐怖を抱く相手。単純に自分よりずっと大きい生き物とか、蛇や蜂や肉食獣に似ているとか、遺伝子が刺激されるような相手のことは警戒できる。

 

 それから勿論、智慧が警告を発する相手。

 例えばショゴスや、アイホートの雛、シュブ=ニグラスの落とし仔、クトゥルフの兵など。シュブ=ニグラスが「人間を殺せる」と判断して、愛し子に注意を促す相手。

 

 しかし、ここにはある致命的な不具合がある。

 

 フィリップ自身は智慧を持ち、外神のことを殆ど完璧に知っている。理解や納得は別として、知識としては確かにある。

 三次元存在が外神に抗うことの愚かしさも無意味さも、その不可能性も十分に分かっている。彼らから見た三次元存在は、文字や絵のようなもの。自由に書き換えられて、簡単に消し去れて、その気になればキャンバスや用紙を破り捨てることだってできる。そんな程度のもの。

 

 その智慧があるが故に──他の智慧あるモノもまた、フィリップと同じくらい()()()()()()()はずだと思っている。

 

 その考えは一部正しい。

 ハスターやクトゥグアくらい強大になると、物事が正しく見えるようになる。外神の強さ、圧倒的格差、そしてフィリップの異常性。アザトース──この世界を夢見る盲目であり白痴のモノが、知覚し認知し思考し指向したことの異常性。

 

 そういうことを理解している相手は、フィリップには逆らわないし、外神には楯突かない。そんな無意味な終わりを迎えるほど愚かではない。

 

 しかし、だ。

 「最上級の智慧を持つハスターとクトゥグアはフィリップに敵対しない」という二つの例から、「智慧を持つものはフィリップに敵対しない」という法則へ帰納するのは、流石に強弁が過ぎる。

 

 かつてシュブ=ニグラスの落とし仔がフィリップを生贄に母の恩寵を受けようとしたように、かつてクトゥルフの兵が役目通りにフィリップを殺そうとしたように、反例は出揃っている。アイホートなんか、フィリップを外神の尖兵であると思っていたくらいだ。

 

 「智慧があるものは僕に従うはず」というのは、フィリップのただの勘違いに過ぎない。

 尤も、無意識の根底に「天地万物は僕に従うものである」なんて認識があっては、表層意識でそんな勘違いをしてしまうのも無理はないかもしれないけれど。

 

 「……了解です」

 

 ウォードに言われて漸く、フィリップの目がすっと据わり、魔物の群れを相手にしていた時のように敵全体を見る目になる。

 

 フィリップが敵を正しく敵と認識するもう一つの条件は、「敵であると意識すること」。

 相手が魔物でも、模擬剣を持った訓練相手でも、今にも殴り掛かってきそうなチンピラでも、客観的に見て戦うべき状況だと判断すれば、脳内のスイッチが切り替わる。

 

 誰かに言われた、同行者が戦おうとしている、先制攻撃された。そういう理由があって、その段階に至るまでは、フィリップの世界に“敵”はいない。

 非武装で暗い路地裏を歩いていたら絡まれるかもしれないとか、ジャケットの前を閉めず懐中時計のチェーンを見せびらかしていたら盗まれるかもしれないとか、そんな一般常識的な危機感でさえ持ち合わせない。

 

 しかし、一度敵と認識すれば、フィリップはその優れた攻撃性能を遺憾なく発揮する。

 

 「ウォード、僕に合わせられますよね」

 「はは……勿論!」

 

 じゃらら、と鎖の擦れる音を立てて、龍骸の蛇腹剣がだらりと垂れ下がる。

 フィリップの武器や戦技は一般的な騎士のそれとはまるで違う、連携や耐久を端から視野に入れていない独りよがりのものだ。

 

 だが、そもそもフィリップに戦闘の基本を教えたのはウォードだ。そして二週間ほどだけではあるが、フィリップがどんな訓練をするべきか一緒に考えて、実際に試してみて、更には同じ師に教授された。師であり、同輩であり、戦友だ。

 

 フィリップのフォローには慣れている。

 

 

 

 

 

 

 



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412

 ゾ・トゥルミ=ゴ。

 それが、近隣住民に「子喰いの洞窟」と呼ばれる鍾乳洞に住み着いていた生き物の名前だ。

 

 勿論、人類圏で広く通じる名前ではない。

 行っていない場所は無いと豪語する冒険者も、王国や帝国が膨大な予算を注ぎ込んでいる魔物調査機関も、闇の中に棲みつく奴らのことを知ることはないだろう。

 

 奴らは常に暗闇の中に潜み、決して陽光の下に出ることはない。

 それは完全な闇をも見通す目が、ランタン程度の柔らかな光でさえも正午の日差しの如く苛烈に感じ取るからだ。

 

 また、絶対数も極めて少ない。

 奴らは生殖能力を持たず、フィリップたちが見たように、人間の子供を変性させて同族を増やす。しかし洞窟の外へ出ることが出来ない以上、繁殖のチャンスは、奴らの棲む洞窟に哀れにも子供が迷い込んだ時だけだ。

 

 フィリップの感じた通り、神性に連なるものではない。

 奴らの遠い祖先は地底人と呼ばれた古代種であり、ヒトが地上に栄えるずっと前からこの星に暮らしている原生生物だ。

 

 生態や生息地の関係上、人間と触れる機会が少ないが故に、未だ人類が知らない生き物。

 要は、ただの希少生物でしかない。地底人たちは半生得的に邪悪言語や領域外魔術を使えたから、系譜である奴らもそうであるだけ。

 

 だが──「邪神に連なるものではない」という要素は、「容易に殺せる相手である」という結論を導く決定要因にはならない。

 

 輝きのない炎に照らされた洞窟の中に、ぱっと鮮やかな赤色が舞う。

 身を翻す青白いヒトガタ──ゾ・トゥルミ=ゴを、フィリップとウォードは驚愕の目で見つめる。

 

 フィリップが振り抜いた蛇腹剣は鞭のようにしなり、その先端部は音速を超えて破裂音を鳴らす。革の鞭であればその速度は斬撃にも近しい打擲を齎すが、これは剣。それも金属鎧さえ紙のように切り裂く大業物だ。

 不可避の速度で、防御も叶わない鋭さの刃が襲い掛かる。その刃渡りは四メートルもあり、全身を鞭の一部に見立てる身体操作によって疑似的に五メートル近い射程となる。

 

 初見で避けるのは極めて難しい。

 ルキアやステラはフィリップの動きを見て魔力障壁を展開すれば防げるが、百般の魔術師の魔力障壁であれば、龍貶しは容易に切り裂く。

 

 その、初見殺し性能に長けた一撃を、ゾ・トゥルミ=ゴは右手を斬り落とされながらも致命傷を躱していた。

 

 「っ!?」

 

 獲った、と。

 フィリップだけでなくウォードも確信する、研ぎ澄まされた一撃だったのに──右腕を犠牲に斬線を強引にずらし、頸部を守るという離れ業で防がれた。

 

 それは流石に予想できない。

 ミナは「別に当たっても死なないけれど」と書かれた顔で面倒そうに躱す。エレナはフィリップの動きを見て、剣を振る頃には軌道上から逃れている。

 

 だが、()()()()()()()()()()()相手は初めてだ。ミナはその動きを再現できるが、音速を超える斬撃を見てから避けられる彼女には、その必要性がない。

 

 「下がって!」

 

 意表を突かれたフィリップに、ウォードが鋭く警告する。

 危うく「凄いじゃん」なんて思って足を止めるところだったフィリップは、『拍奪』を使いながら慌てて下がる。その欺瞞した通りの位置を、ゾ・トゥルミ=ゴの鉤爪が切り裂いた。

 

 フィリップを庇う位置に入ったウォードは、二匹同時の追撃を弾き、いなす。

 鉤爪から剣へ、そして腕へと伝わる衝撃はかなりのもので、フィリップでは正面から受け止めるのは厳しそうだと眉根を寄せる。ひょろ長いだけで筋肉があるのかも疑わしい腕をしているくせに、出力は完全に人外のそれだ。

 

 だが──まあ、どうにかなる。

 

 「ふッ──!」

 

 鋭い呼気と共に繰り出されたウォードの斬撃は、攻撃を弾かれて体勢が崩れていたゾ・トゥルミ=ゴの胸元を深々と切り裂く。

 傷を受けた個体は衝撃によろめいたように踏鞴を踏んで下がったものの、特に傷を押さえたり庇ったりする様子はない。右腕を失った個体も同じで、欠損に動じることもなく即座に反撃していた。

 

 フィリップも追撃したいところではあったが、庇ったウォードとの距離が近く、迂闊に蛇腹剣を振り回せない位置だったので泣く泣く見逃した。

 

 なるほど、とウォードは軽く眉を上げる。

 動きはそこそこ速く、力もそこそこある。そして痛覚が無いか無視できる。外見からでは分からない異常は、どうやらこの辺りだ。

 

 魔術を撃ってこないということは、使える魔術は光を変質させる魔術と、闇の繭を作る魔術。他にもあるかもしれないが、直接攻撃系の魔術は無いか、実戦域ではない。

 

 そんな相手、魔物ならいくらでもいる。

 そしてウォードは、そういう手合いを何十匹も倒してきた。そういう手合いを何千匹も倒してきた人に、教えを受けた。

 

 「フィリップ君、一対一で行こう。そっちの方が安定する」

 「了解です」

 

 フィリップが攻撃、ウォードが防御という陣形も悪くはない。

 回避力に長け、射程に優れた防御不能級の武装を持つフィリップは、攻撃に特化した運用が向いている。メンタル的にも、死の恐怖がないアタッカーは脅威だ。一応は単騎駆けも出来るように鍛えているとはいえ、ウォードは基本的に衛士や騎士のように分隊で遅滞戦闘を行い、魔術師による掃討攻撃までの時間を稼ぐ盾役として訓練してきた。

 

 二対二は、二人が得意なことに集中できる陣形といえる。

 

 しかし、先ほどのように同時に攻撃されるのは避けたい。別に凌ぐのにそれほど苦労はしないが、一瞬でも二対一になるのはリスクだ。

 

 フィリップもウォードも単騎性能がそれなりに高いのだから、ここは一対一を二つにすべきだろう。

 さっきはオリジナルのゾ・トゥルミ=ゴが醸し出す「異質な存在感」に当てられて、一対一は避けるべきだと判断したが──攻撃を入れてみて、そして受けてみて分かった。これくらいなら、大丈夫だ。

 

 「フィリップ君、バラけさせてくれる? 僕が右の奴をやるよ」

 「お任せあれ。──ッ!」

 

 フィリップは二匹のゾ・トゥルミ=ゴのちょうど間に踊り出ると、その場で二回転して蛇腹剣を振り回す。

 ただ風切り音が鳴るだけの、鞭の扱いとしては稚拙な振り回し方だが、武器が武器だ。迂闊に軌道上に入れば、腰から上が真横に落ちることになる。

 

 ゾ・トゥルミ=ゴは傷の重さを感じさせない動きで逃れ、二人が意図した通り、二匹の距離が大きく開いた。

 フィリップが龍貶しを器用に振って長剣形態に戻すと、背後にいたゾ・トゥルミ=ゴが当然襲い掛かるが、その時にはウォードがフィリップと背中を合わせるように構えていた。

 

 「今の、凄いね?」

 「思い付きです。良い感じに分断できたでしょう?」

 「あぁいや、そっちは……いや、後でね!」

 

 会話を切り上げ、ウォードは攻撃の予兆を見せたゾ・トゥルミ=ゴに牽制の一撃を入れ、フィリップから離れるように戦い始めた。

 

 彼が褒めたのはフィリップの納刀、伸長した蛇腹剣を身体操作だけで長剣形態に戻した曲芸のことだ。その前の牽制とも言えないような隙だらけの攻撃については、対人戦──戦技を持った相手との戦いでは、隙が大きすぎるからやるなと注意したいくらいだった。

 

 フィリップは首を傾げつつ、自分も隻腕になったゾ・トゥルミ=ゴへ距離を詰める。

 先ほど斬り落とした右腕からの出血は止まっているが、再生する様子はない。この分なら、右側はしばらく攻撃も防御も薄いままだろう。そして重心は左側に寄り続け、ついつい左回りで回避したくなる。

 

 そのくらいはフィリップにでも想像がつく。簡単な相手だ。

 

 ウォードの方もそれほど苦戦はしないだろう。

 肩口から腰に掛けて深々と袈裟に切り裂かれているにも関わらず、出血がもう止まっているのは不気味だが──片腕がまともに動いていないのが見て取れる。鎖骨があるのかは不明だが、それに類する腕を動かす部位が損傷したらしい。

 

 基礎身体能力は人間を上回るようだが、それだけだ。あとは止めを刺すだけの作業。

 

 フィリップとウォードは背中合わせで同じ思考に至り、同時に足に力を込める。

 瞬発力に長けたフィリップが先んじて動き、直後──二人の後ろから悲鳴が上がった。

 

 「助けて! ウォード! フィリップ!」

 

 弾かれたように振り返ると、リリウムが半泣きになりながらこちらに駆けてくるのが見える。その後ろには、四つ足で這うような姿勢で追いかけるゾ・トゥルミ=ゴの姿もあった。

 

 もう一匹いた──いや、ずっと、フィリップたちの後ろに居たのか。

 フィリップたちを崩落穴に引きずり落とした個体。追撃が無かったから、ミナたちの方へ行ったのだとばかり思っていた、初めからその存在を知っていた個体だ。

 

 そいつはずっと洞窟の天井に潜み、一番弱い個体が孤立し、強い個体がすぐには駆け付けられないほど離れ、手が離せなくなる状況を──必殺の状況を、じっと待っていたのだ。

 

 「くそっ──!」

 

 短い罵倒を残し、ウォードが踵を返す。

 深手を負っているとはいえ依然として戦意を残しているゾ・トゥルミ=ゴに背を向けて。

 

 馬鹿だ。その思いは、フィリップよりもむしろ相対していた化け物が大きく抱いていた。

 

 「ぁ、っ──!」

 

 リリウムが何か言おうとして、ここまで全力で走ってきて酷使された肺に拒絶される。

 たった一声、何を言おうとしたのかは分からない。「後ろ」とウォードに警告しようとしたのか、単に「助けて」と乞おうとしたのか。或いは「後ろ」と警告したら、ウォードが足を止めてしまうかもしれないと思って言葉に詰まったのか。

 

 だがどちらにしても、ただ一言分の酸素さえ残っていなかった。

 

 ウォードは振り返らず、全力でリリウムの方へ向かっている。

 背中はがら空きで、背後を守るのは冒険用のユーティリティジャケットだけ。厚手ではあるが、剣を通さないほどではない。その下のシャツなんて誤差だ。ゾ・トゥルミ=ゴの爪と力であれば、きっと骨まで届くだろう。

 

 それを無視して、リリウムを助けようとしている。

 

 敵を前に背を向けるなんて馬鹿だと、フィリップは思う。

 追い付かれたら一撃入れられて、最悪リリウムと纏めて殺される。その後はフィリップがゾ・トゥルミ=ゴ三体に囲まれて磨り潰される。

 

 ここでリリウムを助けに行くのは、馬鹿のやることだ。そして、馬鹿が馬鹿故に死ぬことを、フィリップは悲しいとも思わない。

 

 だが──愛すべき馬鹿、守るべき馬鹿だ。彼は。

 誰かのために必死になれる、文字通り自分の命を賭け金にできる人間性を、フィリップは何よりも尊重する。

 

 馬鹿と笑う。愚かと嘲る。無意味と蔑む。

 

 しかし、讃えよう。その在り方は美しいものだ。

 

 「行けッ!」

 

 僕がフォローします、とまで言い切る余裕はない。

 端的な叫びに込められた意図を汲めたか、それとも気にしている余裕さえないのか、ウォードは振り返らない。だが、フィリップはウォードの口角が不敵に吊り上がった気がした。

 

 とは言ったものの、切り結ぶ距離にいる相手と自分から離れていく相手を同時に相手取るのは物理的に不可能だ。かと言って、ウォードを追う個体をフィリップの位置から牽制するには、蛇腹剣を伸ばして、腰から上を鞭の一部のように見立てる身体操作を使い、最大射程を実現するしかない。

 だが、それではフィリップまで目の前の相手に背を向けることになる。

 

 ──致し方ない。

 

 「練習しておいて良かった──!!」

 

 フィリップは右手で剣を振って目の前のゾ・トゥルミ=ゴを牽制しながら、翻ったジャケットの内側に左手を入れる。右の脇下辺りへと。

 

 きん、かち、と小さな金属音が連続する。

 そしてシューッと空気の抜けるような音が一瞬だけ鳴り──直後、耳が痛くなるような大きな炸裂音が鍾乳洞に木霊した。

 

 思わず身を竦ませたリリウムが悲鳴と共に転倒し、ウォードを追っていたゾ・トゥルミ=ゴが横合いから殴られたように倒れる。そしてウォードは勢いのままに走り抜け、今まさにリリウムに爪を振り下ろそうとしていた化け物の頸を斬り落とした。

 

 ジャケットの背中に小さな穴を開けたフィリップは、目の前でいきなり破裂音を立てられて硬直したゾ・トゥルミ=ゴから大きく距離を取る。その動きに、白煙と火薬の臭いが尾を引いた。

 

 そして──『拍奪』による相対位置認識欺瞞と、伸長され真の力を発揮した蛇腹剣によって、ゾ・トゥルミ=ゴの最後の一匹は両手と片足を切り飛ばされた後、危なげなく処理された。

 

 フィリップのジャケットの内側では、木と鉄が組み合わされた機械──フリントロック・ピストルが革のホルスターに収められ、銃口から白煙を立ち昇らせていた。

 

 

 



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413

 蛇人間が栄華を誇った古い時代、彼らは雷撃にも等しい高電圧を放つ電気銃を発明していた。

 そして数千万年の時が経ち、現代で目覚めた一匹の蛇人間は、伝承の中にある古い武器を──かつての栄華を象徴する文明を取り戻すため、大前提となる武器を作った。

 

 火薬を使って鉄礫を撃ち出す、大砲の超ミニチュアモデルとでも表すべき武器。火打石を使って炸薬に着火する、燧発式拳銃(フリントロック・ピストル)

 

 そして彼は殺され、彼を殺した者が興味本位で持ち帰ったそれは、当代最高と称しても過言ではない錬金術師の手によって再現される。

 

 人類圏外から持ち込まれた武器を手にした彼は──フィリップは、冒険者デビューを果たすほんの二週間ほど前にそれを手にして、意気揚々と教会へ向かった。

 

 投石教会は珍しく──いつもフィリップが来るときのように、他の信徒が一人もいない。

 その代わり、教会の管理者であり超絶美形であるとご近所に人気の神父だけでなく、こちらも超美形ながら滅多に会えないという喪服姿の大修道女の姿もあった。

 

 「おはよう、フィリップ君。今日も会えて嬉しいわ」

 「おはようございます、フィリップ君。荷物と外套をお預かりしましょうか」

 「おはようございます、マザー。あ、ナイ神父、丁度いい位置です。そこで止まって立っててください」

 

 ちょうどフィリップが玄関扉を開けたタイミングで信徒用の椅子から立ち上がったマザーに挨拶を返し、どことなく嫌な存在感を放つ頭部のない聖女像の前に立っていたナイ神父を片手で留める。

 

 そしてフィリップは肩掛け鞄をゴソゴソと漁り、既に装填が完了しているどころか、火皿に火薬を入れ終えているフリントロック・ピストルを取り出した。

 

 フレデリカモデルのフリントロックは、フィリップが冒険に持って行くことを想定して設計されている。

 先込め式ではあるが、フリズン──薬室内の炸薬に着火するための点火薬が入った火皿の蓋で、火打石が火種を作るために擦れる打ち金を兼ねている──が高い密閉性を持っており、持ったまま走ったり跳んだりしても火薬が零れたりしないようになっている。

 

 また、火打石のついた撃鉄はフルコック状態──引き金を引くだけで撃てる状態──でロックできる安全装置が付いており、射撃準備が完了した状態でも安全に持ち運ぶことが出来るようになっている。咄嗟の時には親指で安全装置を外せば、あとは引き金を引くだけで撃てるわけだ。

 

 「新しい武器を見せびらかしに来ました」

 

 真っ直ぐ持てば指を差した位置辺りに弾が飛ぶことは、蛇人間が持っていたもので検証済みだ。

 照星も照門もない原始的な銃器だし、フレデリカモデルを撃つのはこれが初めてだが、そう勝手が変わることはないだろう。

 

 大きな炸裂音が閑静な聖堂の中に響き渡り──ぴん、と、軽く硬い音を立てて、ナイ神父が()()を弾いた。

 フィリップは勿論、弾丸を目で追うことなんて出来ないが、ナイ神父が中指で爪弾いた鉄の礫は真っ直ぐにマザーの左胸に吸い込まれ、そして豊かな膨らみが衝撃で歪んだかと思うと、ぽよんと跳ねて床に転がった。

 

 カーペットの敷かれた床に落ちた鉄球は音を立てることもなく、少しだけころころと転がって止まる。

 

 ミナが握り止めたときとは違い、原型を留めた弾丸を見て何が起こったのかを概ね察したフィリップはなんとも言えない気持ちで銃を下ろす。

 マザーが落っこちた弾丸を拾って「はい」と手渡してきた時には、もう「はい……」と受け取るしかなかった。

 

 「燧発式拳銃とは、またくだらない玩具(オモチャ)を……。対神格用炸裂徹星弾でも作って差し上げましょうか?」

 

 珍しく呆れを滲ませるナイ神父だが、それが嘲弄を隠すための仮面だと、フィリップはきちんと分かっている。

 ここで「なにそれすげえ!」と飛びつくと、物凄い量の嫌みと諫言と説教が飛んでくることになると。

 

 命中すれば一撃で邪神を屠るような弾丸は、そりゃあ外神なら簡単に作れるだろうけれど──そもそもフィリップが邪神相手に発砲できる可能性が極めて低い。

 まあ何となく仮想敵にハスターを据えると、銃を抜いて撃つまでに5回は死ねる。それに、ミナやエレナが避けられるのだから、邪神だって簡単に防ぐなり避けるなりするだろう。

 

 「結構です。邪神相手に武器戦闘をする気もないですし。……練習場所を貸してほしくて。ここなら周りに音が漏れないように出来るでしょう?」

 「えぇ、勿論。ついでに練習中は外の時間を止めておくわね。あと……貴方の体調も固定する? 喉が渇いたりお腹が減ったりするのって不便でしょう?」

 

 即答するマザーに、ナイ神父は僅かに眉根を寄せた。

 フィリップは「マザーが人間のことを理解している……」なんて、ちょっと驚きつつ感動している。

 

 「前々から思っていましたが、君は意外と勤勉ですね。玩具を手に入れた興奮のままに振り回して遊ぶものかと」

 「新しい武器を習熟前に実戦投入するわけがないでしょう。いきなり使いこなせると思いますか? ウルミで散々自傷(ケガ)してきたこの僕が!」

 「以前にも申し上げましたが、無能を武器にして振り翳さないでください。反論に困りますので」

 

 大声を上げるフィリップに、ナイ神父は明らかな嘲笑を向ける。

 マザーはニコニコしていたが、愛玩の情が明らかな冷笑だったし、ふと目を向けた窓の外で鳥の群れが空中で静止していたので、あまり空気は弛緩しなかった。

 

 というか、本当に外の時間を停めたらしい。

 人間が個人で時間を移動するときにはティンダロス領域に触れないよう気を配る必要があるが、曲がった時間でも尖った時間でもない「外側」から干渉する分にはノーリスクだ。よしんば猟犬が出てきたって、ナイアーラトテップとシュブ=ニグラスの目の前だ。どうとでもなる。

 

 「……練習というと、具体的には何を? まさかとは思いますが、長距離から静止標的を撃つ、だなんて仰らないでくださいね?」

 「駄目なんですか? そういう武器だと思うんですけど」

 

 トリガーガードに指を引っ掛けてフリントロックをクルクル回していたフィリップが尋ね返すと、ナイ神父は浮かべた嘲笑をより深くした。

 

 「……低質な火薬に鉄を丸めただけの弾丸、滑腔の銃身。長距離精密狙撃なら弓の方がまだマシですよ。弾丸自体は200メートルくらい飛ぶでしょうが、そもそも拳銃の交戦距離は7メートル程度です。第一、剣を使う君の交戦距離は長くても四メートル程度でしょう? のんびり構えて撃つ余裕がおありですか?」

 「……無いですね」

 

 仮想敵が誰であれ──フィリップがイメージトレーニングで使うラインナップの中で一番弱いウォードでさえ、フィリップが足を止めた時点で好機と見做して詰めてくる。

 鞄に入れておくのは論外だとしても、剣を左手に持ち替えて右手でベルトに挟んだ銃を抜き、安全装置を外しながら狙いを付けて発砲……その頃には右手か、さもなければ首が落ちているだろう。

 

 「再装填に足を止めた状態で約20秒。無防備な状態で凌げる耐久力はお持ちですか?」

 「……いいえ」

 

 平時ではなんてことのない時間だが、戦闘中の二十秒は極めて長い。

 というか、二十秒くれるなら弾込めなんてせず邪神召喚をぶっ放す。

 

 (これ)はあくまでも領域外魔術の効かない相手、そして確実に殺したい相手への奇襲用の武器でしかない。大っぴらに使うことも出来ない、サブウェポンとも呼べない隠し玉だ。

 

 「君がそれを使う上で必要な要素は二つ。剣の距離で咄嗟に撃てる素早さ、そして第二射を必要としない正確性です。これは同時に備えなければなりません。それに、先程のように腕を伸ばして慎重に狙っていては、銃を知らない人間でもそれが武器だと分かってしまいますよ」

 「つまり、どうしろと?」

 

 狙ってはいけない。そんな時間がある戦形ではないから、それは分かる。

 だが必中でなくてはならない。第二射が期待できる武器ではないから、それも分かる。

 

 しかし狙わず当てろというのは、フィリップにはあまりピンと来ない言い回しだ。

 錬度の高い魔術師や弓兵であれば、なんとなく言わんとしていることが分かるのだが。

 

 フィリップに求められるのは200メートル先の動く人間の脳幹部をブチ抜く精密狙撃ではなく、蛇腹剣の射程外にいる的へ致命的なダメージを与えるか、止めを刺す隙を作ること。

 7メートル先にいる敵の、頭部か胸部に当たれば十分だ。脳幹や心臓を精密に狙う必要は無い。最悪、腹部や足にでも当たればいい。

 

 ただし相手も自分も戦闘機動を取りながら、剣を握ったまま──或いは伸長した状態の蛇腹剣を振り抜いた状態からでさえ、相手に遠距離攻撃が来ると悟らせない速度で撃つ必要がある。

 

 「そもそも鞄に入れて持ち歩くのが間違いです。ホルスターを付けて、クイックドロウとドロウレスの練習をしましょう。勿論、剣を持つのとは逆の、利き腕ではない方の手で」

 

 ホルスター? とフィリップは首を傾げる。

 ずっとクルクル回していたフリントロックの銃身が冷えたことを確認すると、無造作にベルトに挟み込んだ。

 

 「簡単に言えば鞘のようなものですよ。素早く抜いて素早く撃つのがクイックドロウ、抜かずに撃つのがドロウレスです。……こちらをどうぞ」

 

 ナイ神父は何処からともなく革製のベルトのようなものを取り出すと、フィリップに恭しく差し出す。

 それはよく見ると輪が二つあり、片方には銃を入れるための鞘のような部品がある。所謂ショルダーホルスターという奴だ。

 

 「ナイフの鞘に近い感じですね。脱落防止のベルトがあって……。わあ、サイズもピッタリ。僕にも武器にも。気持ち悪……」

 

 ナイ神父の手を借りて着けてみると、全く調整しなくていいほど完璧なサイズだった。

 

 「おや、敢えてズラしておいたほうが良かったですか? わざとらしく調整し直す手間が省ける方がお好みかと思いましたが」

 「そこまで正解なのが本当に気持ち悪いですね。知っててもなお」

 

 ぶつくさ言いつつも右脇の下にあるホルスターへ銃を仕舞ってみると、銃口は斜め下を向くようになっていた。

 仕舞うときに銃口がフィリップの胸を横切ったのを見て、ナイ神父はフィリップにも分かる明らかな嘲笑を浮かべる。

 

 「あぁ、そうそう。銃口の向きには常に気を配ってくださいね。ご自分を撃ち抜いたら、なるべく痛い方法で治しますので」

 

 痛くない方法で治すことも、怪我をする前に時間を戻すことも出来るのに何故、と胡乱な顔をするフィリップだったが、続く言葉に対する反論は出ない。

 

 「君は痛みを伴う経験が一番覚えやすいでしょう?」

 「……まあ、そうかもしれませんけど」

 

 確かに、とフィリップは納得しつつも悔し気に目を逸らす。

 ウルミの怪我が悶絶するほどの痛みを伴っていなければ、もう少し習熟に時間がかかったかもしれない。

 

 「それじゃ、的を作ってあげるわね。……貴方と同じサイズくらいの方がいいかしら」

 

 言って、マザーは手を一振りして黒い泥の人形を作り出す。

 目鼻や手指のようなディテールは無く、身体から滴り落ちた闇の色の泥が足から吸収され、また身体の表面に浮き出ては滴る。きっと体内へ入った弾丸を排出するための仕組みだ。

 

 マザーは満足そうに頷くと、「どう?」とフィリップを見遣る。フィリップは二度見──というか、視線がマザーと泥人形を忙しなく行き来する。

 ちょっとやそっとでは壊れないように頑丈に作った……くらいのつもりなのだろうが、感じる神威はハスターをも上回っていた。これ一匹に自我を与えるだけで一個星系を支配できるのではないだろうか。

 

 「では、まずはビヤーキー程度の運動性能の相手に当てられるようになりましょうか」

 「え? まずは動きの練習とかじゃ?」

 

 しかもビヤーキーはまあまあ動きが速い部類の神話生物だ。

 馬のような体躯は的としては大きいが、空を飛ぶし、並みの魔物なんかよりずっと俊敏だ。第一歩目としては不適切ではないだろうか。

 

 そんなことを考えるフィリップに、ナイ神父はまた分かりやすい嘲笑を向けた。

 

 「静止目標相手に、止まった状態でですか? フィリップ君、私の話を聞いていましたか?」

 

 いや確かにそんな話はされた。たった今。

 しかしそれは最終目標くらいの認識で、ウルミやロングソードだってまずは身体の正しい使い方から教わったのだから、銃の抜き方から練習するものだとばかり思っていたのだけれど。

 

 「……なんか、ナイ神父のテンション高くないですか?」

 「あの化身で貴方に物を教えるのが久しぶりだからじゃない?」

 

 マザーに身を寄せてひそひそと話すフィリップに背を向け、ナイ神父はマザーの作り出した泥人形に命と知性を与え、教会の中を走り回るように命じた。

 命じられた通りのことをする──しかも、きちんと並の魔物より少し早いが決して目で追えないことはない程度の速度で──泥人形に、フィリップは胡乱な目を向ける。

 

 聖典に描かれる神の御業みたいなことをする、とか、三次元存在の邪神の中でもトップクラスの“的”だけど(コレ)は効くのだろうか、とか、そんな益体のない疑問が頭の中をぐるぐる回っていた。

 

 「まずは正面の相手にはクイックドロウ、背後の相手にはドロウレスで百発百中になりましょう。一射当たり0.02……とまでは言いませんので、0.5秒を切るくらいはしてくださいね。静止目標相手の精密射撃はその後でも十分です」

 「0.02秒なんか着火から発射までのラグ分ですよ」

 

 何を想定して何を求めてるんだコイツ、と、フィリップは久々に中指を立てた。

 

 「なに、時間はたっぷりあります。心行くまで練習なさってください」

 「そりゃ時間は止まってますからね」

 

 便利なことで、と思いつつ、フィリップはさも当然のように鞄と銃本体をナイ神父に渡す。

 彼も当然のようにそれを受け取ると、熟達した手つきで素早く弾を込め、恭しく捧げ持ってフィリップに返した。

 

 そして、空腹も喉の渇きも睡眠不足も時間経過も、何の言い訳も通用しない、目標水準到達まで絶対に終わらない、地獄のような訓練が始まった。

 

 銃口管理の甘さによる自傷が数回あったものの、それは別に地獄要素ではない。

 問題が起こったのは、ナイ神父に「お手本の動きを支配魔術で教えて欲しい」と言った時だ。ナイ神父は「絶対に嫌です」と固辞し、マザーは「いいじゃないそのくらい。やってあげなさいよ」と眉を顰め──それはもう地獄のような殺し合いが始まった。

 

 化身同士、不死身同士の死ぬほど不毛な殺し合いを他所にフィリップはちまちまと練習を続けていたのだが、撃ち終えた銃を誰もいない隣に差し出すと、毎度毎度タイプの違う美男美女が出てきて弾を込めて手渡してくれたのがいやに記憶に残っている。

 しかも偶にアドバイスをくれるし、集中が切れた頃にはジュースを持ってきてくれたりした。その直後に漆黒の触手が飛んできて、ぐちゃぐちゃの死体に変わったことも一度や二度ではない。

 

 フィリップも初めは「これ流れ弾一発で僕も死ぬなあ」なんて戦々恐々としていたが、生来の真面目さと視座由来の図太さで真剣に練習していると、爆音も無音も気にならなくなる。

 しかし、良い感じに身体が覚えてきたタイミングで射線を横切った、明らかに人間ではない肉塊に集中を掻き乱され、遂には「お前の主義主張なんかどうでもいい!」と怒鳴ることになった。

 

 なお、その後ナイ神父は被虐の快楽に満ち満ちたような表情で背筋を震わせ、一転してノリノリウキウキで支配魔術だの領域外魔術だのを使い、フィリップの要望を叶えた。

 

 

 



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414

 フィリップが最後の一匹を斬り伏せて蛇腹剣を長剣形態に戻し、鞘に納めると、背後から大きな溜息の音が聞こえた。

 空間内にいた全てのゾ・トゥルミ=ゴの沈黙を確認したウォードと、戦闘の終息を理解した瞬間に腰が抜けてへたり込んだリリウムが、全く同時に深々と安堵の息を吐いたのだった。

 

 二人は顔を見合わせて、照れと安堵が綯い交ぜになった笑みを交わす。

 

 それから「服がケムい……」「でも脱いだらモロに見えちゃうしなあ……」とぼやきながらジャケットをぱたぱたと振っている──無駄な抵抗をしているフィリップの方にやってきた。

 

 「ありがとう、フィリップ君。助かったよ……。さっきのは一体? 何かの魔術?」

 

 いえ、と素直に否定しかけたフィリップは、ギリギリのところで「まあ、そんな感じです」と頷くことに成功した。

 邪神の死骸が無数に転がった地獄のような場所で、時間の感覚を失いながら身に付けた、銃を抜かず背後の敵を撃つ(ドロウレス)技術は魔術と言うより曲芸みたいなものですけど。なんて軽口も思いついたが、そもそもフリントロックについて明かすことが出来ないのでボツだ。

 

 「凄い音だったし、あいつを一撃でやったのよね……? どんな魔術なの? っていうか、そんな魔術が使えたの?」

 

 とリリウム。

 魔術と訊いて好奇心と対抗心を抱いたようだが、どちらかと言えば錬金術だ。それに正規の戦闘魔術師なら初級魔術でも同等の威力が出せるし、もっと静かだし、何より煙臭くもならないので、素直に自己研鑽に努めてほしい。

 

 ……まあ、才能の伴わない努力では意味がないのだけれど。

 

 「確か、フィリップ君の魔術も魔物相手には効かないって言ってなかった? あぁ、でも魔物って言っても耐性が弱いヤツもいるもんね」

 「んー……、内緒です。国の偉い人に言われてるので」

 

 薄い笑みを浮かべるフィリップに、リリウムは言い知れぬ恐怖を感じて息を呑む。

 

 「偉い人……」

 

 慄いたように呟くウォードの脳裏に閃いたのは、ルキアとステラのどちらだろうか。

 正解は代替わりのタイミングで侯爵位から公爵位になるとされている大貴族レオンハルト家の御令嬢、次期当主にして当代随一の錬金術師と名高いフレデリカ・フォン・レオンハルト卿なのだが、それも言えない。

 

 ミナはそれが動作するところを見ただけで凡その仕組みを理解していたから、「これです」と見せるのも大きなリスクだ。

 

 「もしかして、例の魔術事故に関係した話? 聞いたら牢屋に入れられたりする?」

 

 意外と鋭い直感で「踏み込み過ぎるのは不味いらしい」と気付いたリリウムが、恐る恐るといった風情で尋ねる。

 

 「さあ、どうだろう。でも僕がパーカーさんたちが“それ”を探り当てたと感じたら、エルフの超すごい自白剤を使って尋問することになるかな」

 

 いや、エルフが自白剤を作れるかどうかは知らないし、何ならエレナは「仲間なんだから大丈夫だよ!」とか言いそうなので、実際はミナの『契約の魔眼』かステラの支配魔術を使うことになると思うけれど。

 

 「フィリップ、偶に怖いこと言うわよね……。まあ、「バレたら殺す!」とか言われなくて良かったけど」

 「ははは……」

 

 そりゃあそうだ。その場で即座に殺したら、もし他人に情報が流れていたときに気付けない。だから尋問して情報の流出域を絞り込んでから殺す。

 

 そこまでやる必要性は、正直、分からない。

 だがフィリップはフレデリカの頭脳を、ステラの判断能力を、自分の思考なんかより余程信頼している。二人が「そうすべきだ」と言うのなら、フィリップは「そうすべきだ」と信じよう。

 

 エレナも今のところはフレデリカの言葉を信じているし、何より大元の出処を聞かれた時に困るから、彼女もウォードたちには黙っている。

 時間の問題かもしれないとフィリップは危惧しているものの、エレナだって馬鹿ではない。ルキアやステラを危険に晒す技術がエレナから漏出したのなら、フィリップが、延いてはミナまでもが殺意を向けてくることなど、少し考えればすぐに分かる。

 

 「……こいつら、なんだったの? 倒したのに死体が消えないし、魔物じゃないの? さっきは人間が……」

 

 単に話を変えたのか、或いはフィリップの“魔術”なんかよりそっちが気になるのか、リリウムは少し離れた地面に転がった死骸を一瞥する。

 ひょろりと長い四肢は完全に脱力し、蒼褪めた肌からは想像できないほど鮮やかに赤い血を垂れ流す、ゾ・トゥルミ=ゴの死体。それはどう見ても人間ではないのに妙に人間味があって、形容しがたい忌避感と嫌悪感を催させた。

 

 「さあね。魔物の研究者でもない駆け出し冒険者の僕らが、ちょっと考えて分かるような相手じゃなさそうだけど」

 「うん。今はとにかく、他の皆と合流しよう。ウィルヘルミナさんはこの洞窟にこいつら以外の魔物はいないって言ってたけど、こいつらで全部とは限らない。伏兵に注意して、さっきみたいに誰かが孤立しないように動こう」

 

 先程はエレナと意味ありげな会話をしていたフィリップも何も知らないと分かり、リリウムは落胆したように肩を落とす。

 

 しかし、知らないことを責めたり「じゃあさっきの会話は何?」と問いを重ねる好奇心より、この洞窟から出たいという思いが勝った。

 

 「でも、合流って、どうやって? 穴のところまで戻っても登れないわよ?」

 「確かに。まだあいつらがいるかもしれないから大声は出したくないし、ミナを呼ぶのも、モニカが危なくなるかもしれないし……」

 

 リリウムとフィリップの言葉に、ウォードも「確かに」と頭を捻る。

 フィリップたちが落ちた陥没穴は、深さは大したことはない──体感的には5メートルほどだった──けれど、陥没穴と下の池は断面図で考えると壺型だ。剣だのリュックだのを持って、登攀補助装備ゼロでオーバーハングを超えるのは不可能だろう。

 

 そこまで考えて、ウォードはフィリップの「呼ぶ」という言葉が「呼びかける」ではなく「呼び出す」というニュアンスだったことに気が付いた。

 

 「呼ぶって、もしかして召喚魔術?」

 「いえ。あー、いや、うん、そんな感じです。でも、ミナとエレナはモニカを守ってるわけだし、あんまり迂闊なことは出来ないですよ」

 

 召喚、ではある。

 ただし一般的に使われている使役術やら何やらとは全く違う、強制拘束術式だ。それに、そもそもフィリップの魔術ではなくルキアとミナの合作で、フィリップは魔術式も作動機序も何も知らない。

 

 だが、そんなことを魔術学院生でもない二人に言ったって何にもならないし、「ふーん」と無理解なりの相槌を貰うのが精々だろう。

 

 そんなことを考えていたフィリップだったが、ウォードの関心は魔術そのものではなく、それが脱出の足掛かりになるかどうかだ。

 

 「……戦ってみた感じだと、エレナさん一人でもどうにかなりそうじゃなかった? 滅茶苦茶強いでしょ、あの人」

 

 確かに、エレナは強い。

 単純にフィジカルの出力が人間を遥かに凌駕していることもあるが、身に付けている技術が多彩で繊細なのが強い。パンチと一括りで言っても、骨で打つとか筋肉で打つとか体重で打つとか脚力で打つとか、フィリップが覚えきれないくらい種類が豊富だ。

 

 だからミナを召喚できるなら召喚すべき、と言いたいのだろうが、ミナの都合を無視して強制的に呼び出す関係上、迂闊に使うと致命的なことになる。

 

 例えば彼女がエレナとモニカを抱えて空を飛んでいるタイミングで召喚術式を作動させると、ルキアの魔術はミナの耐性を食い破り、その身柄をフィリップの影の中に縫い留める。抱えていたエレナとモニカは上空に置き去りだ。

 

 流石に洞窟の中で致命的な高度を飛行することはあるまいが、例えばミナがモニカを庇って戦っている最中だったり、彼女がいるから魔物が手出しできないという状態だった場合、抑止力が唐突に消失した後の混乱は計り知れない。敵味方共に。

 

 「僕らの中だと二番目、ミナの次に強いですけど、戦闘中かもしれないので……ん?」

 

 リリウムとモニカを任せてきたのだし、そちらに注力していてほしい。

 

 そんなことを思いつつ、ふとフィリップたちが来た横穴の方に目を向けると、ちょうどミナが姿を見せた。

 魔力視でフィリップの位置は分かっていたのだろう、角を曲がった時の足取りに迷いはなく、フィリップを見ても「見つけた」という反応はしない。

 

 驚いたのはフィリップの方だ。

 相手の素性も数も分からないから、最大戦力である彼女と次席のエレナをモニカの護衛に付けたというのに、どうしてこんなところに居るのかと。

 

 「何をしているの、フィル。こんな汚いところで」

 「ミナ!? モニカとエレナは!?」

 

 「こんなところで何をしているの」はこちらの台詞だとばかり愕然とするフィリップ。

 いや、ミナがフィリップのオーダーに従う理由は無いし、ペットのおねだりも面倒さが勝てば拒否するのは知っている。だが、モニカとエレナと一緒にいるのも襲ってくる魔物を倒すのも、彼女が面倒だと判じるほどのことではないと思っていた。

 

 判断を間違えたかと眉根を寄せたフィリップだったが、彼女は庇護対象ではない相手の護衛という面倒事を、丸ごと放り投げてきたわけではなかった。

 

 「上の村よ。あいつらは光に弱いみたいだし、洞窟の外なら安全でしょう」

 

 何か確信があるかのように言うミナに、三人は揃って怪訝そうな顔をする。

 

 「ミナ、あいつらのこと知ってるの?」

 

 さっきはそんな素振りは全く見せなかったのに。

 そう思った三人だったが、ミナの判断は知識ではなく洞察によるものだ。

 

 「見ていれば分かるじゃない。態々攻撃の前にランタンの光を魔術で妨害したり、攻撃能力皆無の火球なんかで逃げ出すほど怯んだり」

 「なるほど……」

 

 言われてみれば確かに、とフィリップとウォードは頷く。

 リリウムとウォードは少しだけ悔しそうだが、その理由は二人で違っている。リリウムは「私の魔術はやっぱり効いてなかったってこと?」と拳を握り絞め、ウォードは「落ち着いて考えてたら……いや、自惚れか?」と腕を組んで考え込んでいた。

 

 フィリップは相手の弱点を探るという思考に、そもそも至っていなかった。

 敵なら殺す。問題になるのはその害の程度、ルキアやステラや衛士たちに、どの程度の影響を及ぼし得るか。気にしていたのはそれだけだ。

 

 「そんなことはどうでもいいのよ。フィル、早くしなさい」

 「あ、うん。ごめんなさい」

 

 周りの血文字──吸血鬼からすると、長く放置されていた残飯──に、ミナは辟易とした一瞥を呉れる。

 

 「それと──」

 

 ミナが言葉を切ったかと思うと、直後、倒れ伏していたゾ・トゥルミ=ゴの一体が地中から生え出でた血の槍に貫かれた。

 磔にされた死骸の内から放射状に穂先が生え、痙攣していた標的を完膚なきまでに殺し尽くす。

 

 唐突な魔術行使に目を瞠るフィリップたちだが、ミナはフィリップに呆れたような目を向けた。

 

 「暗がりで目が利かないなら、少し過剰なくらいに殺しておきなさい。止めを刺し損ねるよりマシだから」

 

 どうやら殺し損ねていたらしい個体は、フィリップがフリントロックで撃ったヤツだった。

 生物相手に撃ったのは──マザーが作り出した化け物を除いて──これが初めてだから、威力を見誤ったのかもしれない。心臓か肺を撃ち抜いたはずだが、肉と骨で弾道が曲がったか。一応、射撃毎の弾道誤差が少ない距離だったはずだし。

 

 まあ、それは帰ってからナイ神父にでも聞けばいいだろう。銃に問題があるならフレデリカに改良して貰えばいい。

 

 今は洞窟を出るのが優先だ。

 そう思ってミナと一緒に元来た方へ足を向けたフィリップだったが、後ろについてきたのはリリウムだけだった。

 

 「……ウォード?」

 

 リリウムが不思議そうな声を上げ、フィリップもウォードが反対方向、ホールの奥に足を向けていることに気付く。

 呼びかけられたウォードは何をするのかと胡乱な顔の二人に振り返り、神妙な顔で肩を竦めた。

 

 「……子供たちの遺品だけでも、持って帰ってあげない? 多分、あれがそうだと思うんだけど」

 「えっ……まあ、いいんじゃないですか? 僕は手伝いませんよ」

 

 それは感傷で、自己満足だ。

 遺品を持ち帰ったところで、子供たちがどんな死に方をしたのかさえ伝えることは出来ない。少なくとも真実は教えるべきではないだろう。

 

 真実にしろ嘘にしろ、教えたってどうにもならない。それで死人が生き返るわけでも、喪失の悲しみが癒えるわけでもないのだから。

 

 フィリップが言い淀んで呑み込んだ言葉を、ウォードはそういう批難だと受け止めて俯いた。

 

 「あぁ。こういうのの考え方は人それぞれだからね。フィリップ君の言いたいことも分かる。けど僕は、何も知らないまま待ち続けて、じわじわ絶望していくよりずっとマシだって思うから」

 

 言って、ウォードはゾ・トゥルミ=ゴたちが一か所に纏めて放置していた子供たちの衣服やランタンなんかを検分し始める。子供は四人攫われたと言っていたし、一人につき一種類ずつ、服の血の付いていない部分の切れ端だけでも持ち帰ってあげたいらしい。

 ナイフを取り出して汚れた服を裁断している彼の所へ、リリウムも何も言わずに近づいて行って手伝い始める。

 

 なんか汚い感じがするから触りたくない、と言う理由で協力を断ったフィリップは、ミナと共に二人の背中に物言いたげな一瞥を呉れた。

 

 「石鹼、テントに置いてきちゃった……」

 

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ17 『子喰いの洞窟』 グッドエンド

 技能成長:【拳銃】+50

 特記事項:『エレナ』『ウィルヘルミナ』『ウォード』『モニカ』『リリウム』が同行者に固定されました


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White Out
415


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ18 『White Out』 開始です

 必須技能は各種戦闘系技能、【クトゥルフ神話】です。
 推奨技能は【サバイバル】等の野外探索技能、【科学(気象学)】です。

 また、寒冷地用装備の携行と、【サバイバル】【自然】【医学】等、極限環境における生存を補助する技能の取得が強く推奨されます。


 『子喰いの洞窟』での遭遇災害から数日。

 王都に帰ってきたフィリップたちは、休養期間を終えて再び依頼を受けようという話になっていた。

 

 今日は休暇の最終日だ。

 各々、装具の確認や携行品の補充を済ませている者もいれば、今日になって漸く重い腰を上げた者もいる。いや、エレナは単に一日あれば終わると経験的に分かっているだけなのだけれど。

 

 フィリップはというと、ずっと忙しそうにしていたが、ギリギリで予定に都合が付いたフレデリカの家にお邪魔していた。

 いつものようにお菓子持参で、お茶会に……というのは目的の半分。本題は、ティーセットの隣に置かれた無骨な鉄と木の複合機械、フリントロック・ピストルについてだ。

 

 「実際に魔物相手に撃ってみて、どうだった? 一応、飛距離と精度の実験だけはしたんだけど」

 

 二口ほど飲んだカップをソーサーに戻し、フレデリカがテーブル上の銃器を示す。

 青い双眸に宿るのは製作者としての義務感と、いち学徒としての好奇心。未知の武器が、実際にはどの程度の威力──攻撃性能ではなく、全般的な実戦性能──を誇るのか、彼女も気になるようだ。

 

 「そうですね……。威力不足は感じました。もっと一撃で確実に殺せるくらいのパワーが欲しいです」

 

 先日の洞窟での戦闘で、フィリップはあのゾ・トゥルミ=ゴに──後からナイ神父にその名前や生態を聞いた──発砲し、命中させた。

 しかし、止めを刺したのはミナだ。フィリップはそいつがまだ生きていることにも気付かなかった。

 

 倒れたということは、衝撃か、或いはショック系のダメージを与えることは出来たはずだが、死には至らなかったのだ。

 

 「カーター君……これはそういう道具じゃないよ。あくまでも鉄礫を飛ばすだけの装置なんだから」

 

 困ったように言うフレデリカだが、それはフィリップも分かっている。

 これはあくまでも大砲のミニチュア版だ。現代の戦術理論に於いて、一般の戦闘魔術師に汎用性で劣り、上位の魔術師には威力さえ劣るという無用の長物であるとされる大砲の、さらに威力に劣る下位互換品。

 

 ルキアやステラやミナのような、ワンアクションで敵を吹っ飛ばすような極大火力が望めるものではない。精々、強弓の一射をワンアクションで再現する程度だろう。

 

 「要は一撃で相手を仕留める場所を狙えばいいだけのこと……なんだけど、それはキミの腕次第だね。今更ながら一応教えておくと、狙うべき場所はここと、ここと、ここだ」

 

 言って、フレデリカは自分の眉間辺りと、胸元、そして鳩尾の横辺りを指した。

 

 「まずは脳幹部。ここを矢が貫通した人間は例外なく即死している。先生が言っていたけれど、指をピクリと動かす暇もないそうだ」

 

 再び眉間辺りを指したフレデリカが語る。

 脳幹部。ルキアやステラから真っ先に教わった、大抵の相手に通じる急所だ。ごく一部の魔物を除き、ここをブチ抜かれて戦闘を続行できる存在はいないと。

 

 「次に心臓。血液によって生命を維持する全ての生物は、心臓が止まったら数分で死ぬ。ただし、戦闘状態や薬物中毒などで極度に興奮している場合、その数分間は戦闘を継続できるから注意すること。まあ、古龍相手に逃げ回れるキミの回避力なら問題ないかな」

 

 揶揄でもなんでもなく、心の底からの信頼を感じさせるフレデリカに、フィリップは曖昧な苦笑を浮かべる。

 

 そりゃあ『拍奪』の性質上、よく狙って攻撃してくれる相手はカモ同然だが、恐慌状態で手当たり次第に乱雑な攻撃をばら撒く相手は天敵だ。

 そして心臓をブチ抜かれた相手は、まあ十中八九後者の振る舞いをすることだろう。あまり回避能力を当てにできそうにない。

 

 フレデリカは最後に、鳩尾の横辺りを示した。

 

 「最後に腎臓。肋骨の守りのギリギリにあって、特に背中側から狙いやすい。動脈もあるけど、血液の循環に関わる重要な役割を持っている。傷付いたところで即死はしないけど、ショック死しうる大出血は見込めるし、血液の循環に問題が出て遠からず死ぬ」

 

 その言葉に、フィリップは薄く笑みを浮かべる。

 生死の懸かった──相手に一手でも与えたらこちらが死ぬような、切迫した殺し合いの中では狙いにくい。だが、殺し合いではなく惨殺する目的なら、そういうじわじわ死ぬタイプの攻撃の情報はとてもありがたい。

 

 今度カルトに遭ったら試してみよう。

 

 「勿論、私は戦闘には詳しくないし、その武器を実戦で使ったことも無い。これは医学的知識に基づく、ただの提案だよ。キミが実戦的でないと判断したのなら、無理に従う必要は無い」

 「いえ、参考になりました。流石、僕の知る人間の中で二番目に頭がいいだけあって、凄く頼りになりますね、先輩」

 

 フィリップの礼も賛辞も、心の底からのものだ。

 「人間の中で」なんて言い回しになったのは無意識だが、フレデリカは単に「知っている人の中で」という意味に受け取った。咄嗟に「ヒト種の中で」という意味だと思うには、フィリップのことをもう少しよく知っていないと無理だろう。

 

 ちなみにヒト種トップはステラだ。

 薬学や錬金術の知識量ならフレデリカやステファン先生が勝るだろうが、単純に「思考能力が高い」という意味で、フィリップが一番だと思うのは彼女だった。

 

 「いやいや、キミの知人を考えると、私はどれだけ高く見積もっても四番目だよ。それに、私は君と面識がないだろう大勢の人から沢山のことを学んできた。今は文字の中にしかいない、偉大な先人たちからもね。私なんて、まだまだ愚昧だよ」

 

 フレデリカの答えを聞いて、フィリップは今度は優し気に笑った。

 

 「蒙昧であることは悪いことじゃないですよ。それを啓くことが、必ずしも良いことだとも限りません。重要なのは、自分が蒙昧であると理解していることです」

 

 いや、きっとそれこそを“啓蒙”と言うのだとフィリップは思う。

 自らが無知であると知ることから、智への探求が始まるのだから。どこぞの悪魔や天使のように、自分が全能であるなどと思って立ち止まっているうちは、智慧への道は拓かれない。

 

 「……古い賢人の言葉だね。読書家なのは知っていたけれど、歴史に興味があったとは知らなかった」

 「僕の言葉のつもりだったんですけど……。尊敬できそうな人が居たんですね」

 

 或いはフィリップやルキアたち同様に、一度触れて帰ってきた類の人間か。

 それならその思想に至るのも納得だが、したり顔で語ったことが既に別の人に──それも「古い賢人」などと呼ばれるレベルの人物に語られていたというのは、なんとも気恥ずかしいと、フィリップも思わず苦笑を浮かべる。

 

 ちょうどそんな時だった。

 コンコンコン、と硬質な音が耳に入る。フィリップもよく知る音、このレオンハルト邸のドアノッカーの音だ。つい十数分ほど前に、フィリップも鳴らした。

 

 来客の予定があったのかとフレデリカを見遣るが、彼女は不審そうな顔で、そして僅かに怯えてもいた。

 

 かつてこの家が彼女の祖父の住まいだった頃、訪れた招かれざる最悪の客のことを思い出したのだろう。いや、思い出したという言い方は不適切か。

 彼女は片時もそのことを忘れたことはない。フィリップやエレナが遊びに行くと約束していても、玄関に迎えに出る時には必ず気化毒の入った小瓶を後ろ手に構えているのだから。

 

 警戒と恐怖を映した瞳が揺れるのを見て、フィリップはテーブルに置かれたフリントロックを取って立ち上がった。

 木と鉄の外装だけではない、中身の詰まった重みを掌に感じる。フィリップは銃を、常に装填した状態で持ち歩いてる。感覚的には、剣を常に研いでおくのと同じだが──今のところ、フィリップもフレデリカも暴発の恐怖を知らないが故だ。

 

 「……僕が出ます」

 「えっ、いや、私の家──」

 「もしかしたらエレナかもしれませんし」

 

 内心を覆い隠す仮面のような笑顔を貼り付けたフレデリカを片手で制し、フィリップはそれ以上の問答を立ち上がって拒否した。

 

 フレデリカには「エレナかも」なんて笑ってみせたが、違うだろう。

 彼女は今日、明日からの冒険の準備をしている最中だ。何か薬品が欲しくてここを訪れることはあるかもしれないが、前回の冒険で彼女の製薬技術が揮われなかった以上、薬が不足しているなんてことは有り得ない。

 

 銃をホルスターに仕舞い、ジャケットの前を開けたまま広い廊下に出る。

 正直、ツーマンセルの“使徒”だったら、単発銃一丁ではどうしようもない。勿論、これは人類にとっては未知の武器だし、フィリップもクイックドロウの腕前はナイ神父に仕込まれて相当なものだ。

 

 だが、一発しかない。

 教わった通りに脳幹部を撃ち抜けても、殺せるのは一人だ。

 

 そしてその後は、対魔術師戦を想定して動く“使徒”が、余裕も侮りも何もかも捨てて本気で殺しに来る。まあ単体攻撃をメインにしている内は避けられるし、王都でドンパチしていたら衛士団がすっ飛んで来るだろうけれど、初手から範囲攻撃が来たら詰みだ。

 

 どうするか。

 龍貶し(ドラゴルード)は持ってきていない。というか、依頼を受注していない状態では、冒険者は武装して王都内を歩けない。

 

 最悪の展開に対する答えを出せないでいると、再度のノック。

 

 フィリップは諦め交じりに──最悪、また王都の一部を吹っ飛ばすことになるという諦め──ドアノブを回した。

 

 「はーい、どちら様で……え?」

 

 玄関先に立っていたのは、顔に影を差すほどつばの広いスラウチ・ハットを被った女性だった。

 「やっと出てきたか」と言わんばかりに腰に片手を当てているが、立ち姿からは横柄さではなく、むしろ威厳が感じられる。彼女の内にある絶対的な自信が、気品と威厳となって放出されているかのようだ。

 

 ……ただ、フィリップはそのオーラに気圧されて言葉を呑んだわけではなかった。

 

 陽光を編んだ金糸のような髪に、蒼玉の如き双眸、パンツスタイルのジャケット姿でも分かる女性的魅力に溢れた肢体、帽子の影が差してなお輝くような美貌──どれもこれも、意識にすら上らないほど見慣れていて、どれもこれも、フィリップに親愛と安堵を齎すもの。

 

 既知の人物、いや、親愛なる友人。只一人、フィリップを理解し、フィリップが理解する大切なひと。

 

 ……ただし、王宮を出て二等地をフラフラしていていい人物ではない。

 

 「……何してるんですか、殿下?」

 「お前を誘いに来た。少し付き合ってくれるな?」

 

 揶揄うように悪戯っぽく、しかし絶対的な自信を滲ませて不敵に笑うステラに、フィリップは「ホントにこんなところで何してるんだ王女殿下(この人)」という疑問を一旦横に置いた。

 

 「くれるか? とは聞かないんですね。いいですけど」

 

 軽く応じて、フィリップは半身を切ってステラを招き入れる。

 

 ステラと一緒に出掛けるのは構わないし楽しめそうだが、今はフレデリカとのお茶会の最中だ。心配させてしまうし、流石に黙って出て行くわけにはいかない。まず事情を説明しなければならないが、ステラが一緒に居たらスムーズだろう。

 

 そんな考えは、まあ、正しい。

 正しいが、フレデリカからすると、いきなり第一王女が護衛も無しにやってきたどころか、リビングドアの前で身構えていたら「邪魔するぞ」なんて言いながら入ってきたわけだ。

 

 彼女は危うく龍血入りの強烈な気化毒の入った小瓶を取り落とすところだった。

 

  

 

 



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416

 ステラも一緒にお茶会を楽しんだ後、レオンハルト邸を後にしたフィリップとステラは、そのまま二等地の大通りへ出た。

 王城とサークリス公爵邸、どちらも一等地だし帰路は同じだが、二人の進む方向は微妙に遠回りだ。まだ日も高いし適当にぶらぶらしようと──もっと一緒に過ごそうという思いを、二人は言葉も無く共有していた。

 

 フィリップが今更王都の店に目を惹かれることはない──なんてことはなく、いつも新たな発見があるのがこの王都だ。

 昨日はなかったものが今日は店先に並び、明日にもあるかは運次第。昨日作られたもののアップグレード版が今日売られている。技術と文明の湧出地である王都は、そんな場所だった。

 

 良いものしかない。

 悪いものの混ざる余地がなく、半端なものは即座に淘汰される。

 

 その確立されたシステムと安心感が王都の市場としての価値を高め、「王都で通用する品である」というステータスを求め、王国中──時には国外からさえ自信を持った商人や職人がやってくる。それが王都に相応しいものであれば定着し、相応しからぬものであれば当然、淘汰される。

 

 安穏とした平和な空気の漂う大通りの裏では、そんな熾烈な競争が日夜繰り返されているから、王都に慣れたフィリップでも見慣れないものの一つや二つはいつでもある。

 

 「……お?」

 「どうした?」

 

 鍛えられた体幹を感じさせる動きでぴたりと止まったフィリップ。手を繋いでいたステラは手が引かれる前に、その動きを察知して止まる。一歩先行する前に反応している辺り、やはり尋常な反射神経ではない。

 

 「なんか珍しいもの売ってますよ、あそこ」

 

 フィリップが示した先には、周囲のように建物を構えた店ではなく、出店などで使う移動式屋台があった。

 手書きの看板──王都でも二等地の大抵の看板は手書きなのだが、プロの装飾職人の手に依るものが多い。しかし、フィリップが見つけたそれは素人感丸出しの、単純で無骨なものだ。

 

 看板には『ハーフフェイス・ガスマスク』とある。

 

 「……ガス用マスク? 王都で?」

 

 と胡乱な顔をするステラ。

 戦術兵器としての毒ガスさえ実用化・実戦投入されていない現代に於いて、ガス用のマスクは対魔物ガスを扱うときか、鉱山や火山などの有毒ガスの危険がある場所へ赴くときくらいしか使わないものだ。

 

 どちらも王都では需要に欠ける。鉱山地帯にでも行けば大きな需要があるだろうに、と。

 

 しかし、フィリップは思いっきり食いついていた。

 

 「二つ買うとオマケで一つ無料で、しかも単品価格が普段より1割ぐらい安い! 滅茶苦茶お買い得ですよ! すみません! これ四つ買ったらオマケは二個ですか!?」

 

 なんでこいつは普段の単品価格を知っているのだろう、とステラはぐいぐい手を引いて屋台の方に行くフィリップに怪訝そうな一瞥を呉れる。

 

 ちなみに、単純にかっこいいからだ。

 ファッションで買って着けるには高いから──勿論、龍狩りの報奨金総額からすると何百個買おうが誤差みたいなものだけれど──手を出していなかったが、今は買うには十分な大義名分がある。

 

 既に財布を取り出して買う気満々のフィリップを見て、無骨な職人然とした壮年の店主は顔を綻ばせた。

 

 「おぉ! 買ってくれんのかい、坊ちゃん! そうだな、オマケは二つ……六つも持ってってくれるなら、四つも二割引きでいいぞ!」

 

 ほう、とステラは屋台に張り出されたガスマスクのスペックシートを眺める。

 幾つかステラの知らない評価基準があるが、概要としては鉱山作業用の防毒・防塵用マスクらしい。目を守るゴーグルとは別にすることで気密性を最大限に高めたハーフフェイス型、だそうだ。

 

 王宮の課した対ガス・対粉塵性能評価検証スコアについても書かれているが、流石にステラの専門範囲外だ。しかしまあ、王国が認めたのなら性能に関しては問題ないだろう。

 

 そう思って頷いたステラだったが、フィリップは露骨に顔を顰めて財布を仕舞った。

 

 「……いや、やっぱりいいや」

 「いや待ってくれ! 確かに今のは怪しいが! 詐欺でも粗悪品でもないから!」

 

 あーはいはい、と適当に手を振って立ち去ろうとするフィリップ。

 安かろう悪かろうは王都外では常だし、学院の冒険者コースでも教わった言葉がある。

 

 『防具の値段は命の値段』だ。

 

 そりゃあ自分の命にも他人の命にも価値なんてないが、フィリップが安い粗悪品を買ったせいでパーティーが全滅しました、なんてのは寝覚めが悪すぎる。

 それに、ガスだろうが何だろうが、毒ならきっと苦しいだろう。フィリップにはもう希死念慮はないし、そうでなくても苦しいのも痛いのも嫌だ。

 

 まあ、自分から「詐欺」だの「粗悪品」だのと大声で、こんな往来で叫ぶような間抜けな詐欺師もいるまいが──なんて考えていると、そんな如何わしい叫びに気を取られて足を止めた人の一人が、ニコニコ笑って手を振りながらやって来た。

 

 「おーい! フィリップ少年じゃないか。久しぶりだな!」

 「ん? え? 先代!? お久しぶりです!」

 

 王国人にありがちな金髪に青い瞳の、壮年の男。フィリップも知っている、先代衛士団長だ。

 顔には年齢を映す皺が刻まれているが、獰猛な笑顔のせいで年季や落ち着きより野性を感じさせる。平服姿でも威圧感を醸し出すほど鍛え上げられた筋肉が、簡素な半袖シャツの下で激しく主張していた。

 

 「王都にいらっしゃったんですか」

 「あぁ、弟子の一人が最近独り立ちしてな。顔を見に来たんだ」

 

 弟子、というと、衛士の誰かだろうか。或いは新しく衛士団に入った誰かとか。

 そんなことを考えるフィリップと先代は笑顔で握手を交わす。そして先代は表情に苦笑の成分を混ぜ、ガスマスク屋の店主を親指で示した。

 

 「で、コイツだが、心配しなくていいぞ。ついこの前、金山が一つ閉鎖になってな。そこに卸すはずだったモンだよ、これは。正真正銘王都製の、命を預けられる逸品だ。まあ、王都内で売れるはずのない代物でもあるんだが」

 「鉱山の連中以外に売る伝手もねぇのに、どうしろってんだクソが」

 

 先代と店主は以前から知り合いなのか、揶揄う先代にも中指を立てる店主にも、友人同士に特有の気安さがあった。

 

 フィリップは「ふむ」と暫し考え、再び財布を取り出した。

 

 「……じゃあ四つください!」

 「まいどあり! ……ところで六つも何に使うんだ?」

 

 鉱山の作業員や管理者に売るときはダース単位だが、逆に個人で六つは不自然に多い。それが十歳そこらの子供なら尚更だ。

 不思議そうな店主に、フィリップは端数の小銭を探しながら答える。

 

 「僕、冒険者なんです。パーティーメンバーに配ろうかと」

 「冒険者! そうか、その手があった! ギルドに置いて貰えないか交渉してくる!」

 

 言って、店主はフィリップに紙袋を渡した後、屋台を引いて元気よく走り去っていった。彼も彼で、中々外見からは想像の付かないバイタリティだ。

 冒険者だってガス地帯まで出向いたり、魔物駆除にガスを使うようなのは一部だろうけれど……二等地の大通りで野菜だの香辛料と並ぶよりはいい売り場だろう。

 

 「……五つで良かったんじゃないか? ヴァンパイアは呼吸しなくてもいいだろ?」

 「あ……まあ、貰えるものは貰います」

 

 先代の言葉で、フィリップは今更ながらミナがアンデッドであることを思い出した。

 というか彼女に効くレベルの毒を使ってくるような魔物は、それこそドラゴンとか、後は魔王の支配域である暗黒大陸に生息する超上級の魔物くらいだろう。毒が効かないなら普通に殺せばいいじゃない、を実行してくる化け物ばかりだ。

 

 「ところで、そっちのお嬢さんは君の……え?」

 

 水を向けられたステラは帽子のつばを上げ、先代と目を合わせる。

 直後、「恋人か?」なんて揶揄おうとして悪戯心に満ちた笑みを浮かべていた先代の顔が、“拘束の魔眼”でも喰らったのかと思う勢いで硬直した。

 

 「ステラ王女殿下? ななな何故こんなところに、碌な護衛もお連れにならずに……?」

 「護衛ならいるだろう?」

 

 当然のように応じるステラに、フィリップはきょろきょろと辺りを見回すが、それらしい人影はない。 

 だが、もしかして僕のことじゃないよな、と思ったのは一瞬だ。

 

 「五人ぽっちではありませんか。私が仕込んだ者もいるようですが、警備は分かりやすく威圧する方が効果的です。もっと馬鹿にでも分かるくらい大袈裟なら言うことはありませんな」

 「友人と出掛けるのに一個中隊を引き連れていられるか」

 

 五人? とフィリップは再び周囲を確認するが、やはりそれらしい人影はない。

 二等地の大通り、それも平日の昼下がりということもあって人通りはかなり多く、店先以外で立ち止まっているのは井戸端会議中の御婦人方くらいだ。

 

 隠密護衛──それも恐らく、怪しげな人物を見つけたら、往来の誰にも気付かれずに排除できるような、暗殺者のような護衛だ。つまり隠形のプロ。フィリップがちょっと探した程度で見つけられるものではない。

 

 それに、フィリップにはそんなことより、もっと気になっていることがあった。

 

 「……話は変わるんですけど、金山が閉鎖って、なんでですか?」

 「ん? あぁ、近くの山が消し飛んだから、作業員の安全のために一時封鎖するんだ」

 

 平然と語るステラに、フィリップは思わず「へぇ」なんて相槌を打ちかけた。

 

 だが、流石に聞き流せない。

 

 「……はい? 山が? 消し飛んだ?」

 

 フィリップが知る中で最大の火力を持つ魔術は、ルキアの『明けの明星』。光をエネルギー化して槍のように撃ち出し、射線上のあらゆる全てを破壊する。最大射程と貫通力に優れ、そして極大のエネルギーが引き起こす二次爆発も甚大な威力となる。

 今のルキアが全力でアレを撃ってどのくらいの威力が出るのかは知らないが、山一個を消し飛ばすのに、まさか一撃ということはないだろう。

 

 山を消し飛ばす、なんて、ルキアでさえ切り札を複数回行使するような馬鹿げた行為だ。

 

 だが──例えばクトゥグアなら、多少大きめの化身で来るだけで、山の一つや二つ消し飛ぶだろう。

 

 つまり、人間なんかより、邪神がやった可能性の方が高いということだ。

 

 そう考えて眉根を寄せるフィリップに、ステラは安心させるように笑いかける。

 

 「お前が心配するようなことじゃない。王龍が気紛れを起こしただけだ」

 「……原因が分かってるなら早く言ってくださいよ」

 

 焦って損した、と嘆息するフィリップだが、その新情報も手放しで安堵できるものではなかった。

 

 「王龍って、最上級のドラゴンですよね? なんでまた?」

 「さあな。だが、数十年も眠っていた王龍が寝惚けて山を抉るとか、町一個を巨大なクレーターに変えるなんてことは、歴史を見れば珍しくもないことだぞ」

 

 淡々と語るステラに口調には、特別な感情は何も乗っていない。

 基本的に、龍種による被害は災害と同じだ。地震、噴火、大雨、竜巻、その手の自然災害と同じく、発生そのものを止めるのは不可能だと分かり切っている。

 

 「傍迷惑な……」

 「全くだ。とはいえ、王龍は流石に手に負える相手じゃないからな……」

 

 苦笑するフィリップに、先代も深々と頷いて同意を示す。 

 一応、二人とも龍種と戦ったことのある身だが、先代は自分の経験から、そしてフィリップは知識から、王龍と戦うのは無理だと分かっていた。

 

 王龍にも種類というか、個体差はある。全部で何匹いるのかは知らないが、一匹や二匹でないことは確かだ。

 そしてそのうちの一体は、あのミナに剣術を教え、そしてあのミナが10000回戦って1,2回勝ち、2,3回引き分けるのが精々だという化け物以上の化け物だ。

 

 多分、フィリップは1億回戦っても一度も勝てない。邪神を呼ぶ暇もないだろう。

 

 そんなことを考えるフィリップの横で、ステラも顎に手を遣って考え込んでいた。

 

 「金山は他に幾つもあるし、王国としては痛くも痒くもないんだが……道具職人の手が空くのか。何かに使えそうだな……」

 「……そういえば殿下、どうして突然会いに来たんですか?」

 

 公務の息抜きに出てきたのかと思っていたが、そんなことを考えているということは違うのだろうか。或いは単にワーカホリックなのか。

 後者だったらルキアに告げ口して休ませよう、なんて考えていたフィリップの頭に、ステラの手がふわりと乗った。

 

 「お前があの二人以外とパーティーを組んだと聞いて、どんなものなのか、お前の所見を聞いてみたかったんだが……上手くやれているようで良かったよ」

 

 そりゃあ、パーティーメンバー分もガスマスクを買い揃えるなんて、仲良くなければしないけれど……そんな母親みたいな心配をされるとは。

 

 「余計なお世話、とは言わせないぞ?」

 

 ステラが先代という他人がいるから「お前はルキアと同じで対人認知能力に問題があるからな」という言葉を飲み込んだことをフィリップは鋭敏に感じ取り、頭を撫でられたまま器用に顔を背けた。

 

 

 

 



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417

 翌日。

 フィリップとエレナとミナは、再び冒険者ギルドを訪れていた。

 

 初日のように酔っぱらいに絡まれることはなく、六人掛けテーブルについて待っていると、残りのパーティーメンバーであるウォードとモニカとリリウムも揃う。

 

 挨拶や雑談もそこそこに、次に受ける依頼を探しに行こうとした時だった。

 きっちりとした制服に身を包んだ女性がフィリップたちのいるテーブルにやってきて、声を掛けてくる。彼女にはこの場の全員が見覚えがある。ギルドで依頼受注に関わる手続きを担当している受付嬢だ。

 

 手元にバインダーを持っており、フィリップは「授業視察に来た学院長みたいだ」なんて感想を抱いた。

 

 「Dランクパーティー『エレナと愉快な仲間たち』ですね? あなた方に指名の依頼が届いています」

 「指名? 誰から、どんな依頼ですか?」

 

 「ねえ何その冗談みたいな名前! ヤなんだけど!」「名前変えるの忘れてた!」と騒ぐリリウムとエレナを無視して尋ねるフィリップ。

 

 受付嬢は「名前の変更はいつでも可能ですよ」と苦笑しつつ、手にしていた依頼票をテーブルの上に置いた。

 

 赤カード。

 報酬が比較的に高額になりやすく、受注側にも多様な知識や臨機応変な対応力が求められる委任依頼だ。

 

 「……調査系の委任依頼です。アーバイン伯爵領のシルバーフォレストという森で発生している異常気象の原因究明、及び解決。既にBランクパーティーが二組失敗しており、相当に高難度であることは明白です」

 

 Bランクパーティーが? とエレナとミナを除く人間組が眉根を寄せる。

 冒険者ギルドの評価基準は基本パーティー単位とはいえ、CランクからBランクに上がる時には個人の戦闘・探索能力も査定されるという話だ。

 

 Aランクに至る可能性を認められた、並みの冒険者から一歩抜きんでた強者たち。

 それが二組も失敗したということは、要求されているのは単純な強さや一般的な調査能力ではなく、もっと専門的な知識や経験なのではないだろうか。

 

 それこそ、あの緑色に濁った湖の例に倣って、研究職の魔術師が送り込まれるような案件のはずだ。

 

 「それがどうしてボクたちに?」

 「確かに。そういう依頼って、普通は国に報告して研究者が出向くようなものなんじゃ?」

 

 湖の一件を覚えていたエレナとフィリップが尋ねると、受付嬢は「はい」と頷いて肯定する。

 

 「はい。その結果、あなた方に依頼すると返答がありました。『森の専門家が一人、戦闘の専門家が一人、異常現象の専門家が一人、森そのものみたいなのが一人。非戦闘員の研究者を送り込むより良い結果を持ち帰ってくれるだろう』……だそうです」

 「殿下だ……」

 「ステラちゃんだ……」

 

 じゃあ僕たちが行くのが最適解なんだろうなあ、と、フィリップとエレナは顔を見合わせる。

 

 実際、現場が森であるのならシルヴァ一人で調査は終了、問題解決に武力が必要ならミナ一人で大抵は片付くし、ミナでも勝てないような相手ならフィリップが邪神を呼べばどうにかなる。シルヴァの視点からでは気付けない細々としたことも、エレナなら気が付くだろう。

 

 変に研究者を送り込んで時間を、或いは人員をも無駄にするよりは賢い選択だろう。

 

 「報酬額は大元の依頼者であるアーバイン伯爵が提示した金額に加え、かの方より、その倍額が加算されています。つまり、元の三倍……実数値ですと、こうなります」

 

 受付嬢は依頼票の報酬欄に二重線を入れて消し、桁が一つ増えた数字を新たに書き入れる。

 覗き込んだウォードとリリウムが見慣れない額に「うわ」と声を漏らし、フィリップも「流石、太っ腹だあ」と呻く。人類の金銭感覚に疎いミナとエレナは平然としていて、同程度の額を宿屋の帳簿で見ているモニカは「依頼一回で……」と愕然としていた。

 

 「これ三回で二等地に家が建ちますね、家具付きで。まあ山分けなので、一人当たりは六分の一ですけど」

 「……“森の専門家”っていうのは、エレナさんのことよね? ミナさんが“戦闘の専門家”で、えーっと、ナントカシステムのシルヴァちゃんが“森そのものみたいなの”。……フィリップ、“異常現象の専門家”だったの?」

 

 いつの間に? と首を傾げたモニカに、フィリップは「実は初めて会った日から」とは答えず、誤魔化すように笑う。

 

 「それは多分ジョーク。僕が何でもかんでも知ってるわけじゃないことは、殿下だって分かってるしね」

 

 確かに異常現象に慣れてはいるし、どんな異常存在に出くわしても発狂することはない。それこそ山一つを消し飛ばしてしまう邪神が現れたとしても、フィリップなら交渉のテーブルに着かせることも、或いは可能かもしれない。

 まあ旧支配者だったら「おのれ外神の尖兵め、ここで死ね!」みたいな反応をして殺しにかかってくる可能性もあるけれど。

 

 だがどちらにせよ、死ぬことはないだろう。

 それこそ山を一個消し飛ばしても、パーティーを全滅させても、何が何でもフィリップだけは帰ってくる。その時には問題は解決されているか、消滅しているかだ。

 

 ステラが求める二つの要素は、必ずクリアされる。

 

 「? どういうこと?」

 

 意味が分からないと言いたげに眉根を寄せたモニカに、フィリップは少し考えて答える。

 

 「……ナイ神父とマザーに色々と教わった、ってこと」

 「そっか! それなら大丈夫ね!」

 

 案の定と言うべきか、二人の名前を出した瞬間に無条件で納得したモニカに苦笑する。

 ウォードとリリウムはまだ疑問顔だったが、その疑問を口にする前に、ミナが別の質問を投げた。

 

 「……ところでフィル、その大荷物はなに?」

 

 冒険用のあれこれが入ったリュックの他に、フィリップがもう一つ持っていた大きな紙袋。

 そこにはステラと一緒に出掛けた時に買ったガスマスクが入っている。

 

 「あ、そうそう。ガスマスクが安かったから、皆の分も買ってきたんだ」

 「ガスマスクが安かったって、日常的なのか非日常的なのか判断に困る台詞ね……」

 

 はいはいはい、と手早く配るフィリップに、リリウムが苦笑を浮かべた。

 

 流れでミナにも渡そうとすると、彼女は怪訝そうに眉根を寄せる。

 

 「私は要らないわよ」

 

 私が何者か忘れたの? とでも言いたげな一瞥に、フィリップは「まあそうだよね」と言いたげな顔をした。

 

 「……やっぱり? 一個余った……まあ、予備で僕が持っておくよ。誰か、壊れたりしたら言ってね」

 「言える状態だといいね……」

 

 苦笑するウォードに、フィリップも「確かに」と思いつつガスマスクをリュックに詰め直す。

 もし強力な毒ガスの充満した空間でマスクが不具合を起こしたら、「あ、壊れたみたい。予備貰っていい?」なんて言っている余裕なく死ぬだろう。

 

 「ともかく、まずはその森についての情報を確認して、装備を再確認しよう。……あ、一応確認だけど、受けるよね?」

 「当然よ! 指名の依頼なんて、私の力を示す絶好の機会だもの!」

 

 リリウムが間髪入れずに答えるが、他の誰も異論はないようだ。

 フィリップとエレナは「ステラが言うなら」と受け入れ態勢だし、ウォードとモニカはニュアンスが違えど「王女様直々の依頼なら」と意気込んでいる。ウォードは緊張と使命感で、モニカは興奮だが。ミナはどんな依頼でもいいというか、どうでもいい。面倒ならフィリップを連れて帰るだけだからだ。

 

 「ところで、異常気象ってどんなの? カエルが降ってくるとかだったら、水辺に棲んでるドラゴンの羽ばたきが原因のことが多いけど」

 

 エレナの言葉に、ミナを除く一同が「へぇ」と声を揃える。

 そもそも空からカエルが降ってくる現象の存在をたったいま聞かされたのだが、ドラゴンの仕業なら納得だ。特にフィリップは、つい昨日にドラゴンが山一つを消し飛ばした事件を聞いたばかりなのだし。

 

 「確か、聖典にもあったわよね。空からパンが降ってくる、みたいな話」

 「砂漠を進む聖人に神が与えた聖餅の逸話ね! 神父様に教えてもらったわ!」

 

 リリウムとモニカの会話に、フィリップは「ナイ神父が神父様みたいなことしてる」と内心ちょっと面白がっていた。

 

 やや弛緩した空気を纏うパーティーに不安そうな顔をしつつ、受付嬢はエレナの問いに答える。

 

 「いえ、それが──雪が降っているそうなんです」

 

 へぇ、とエレナとフィリップの声が揃う。

 もう春も盛りを過ぎ、季節は夏に向かい始める頃だというのに、雪。それは中々の異常気象だが、雪が降る原因なんて「寒いから」以外には思いつかない。少なくともカエルが降ってくるよりは原因が明瞭なように思える。

 

 いや、逆か。

 

 カエルが降ってくるのはドラゴンの羽ばたきで吹き飛ばされたから。その因果関係は、ドラゴンの存在を確認すれば概ね立証される。

 

 しかし、春も終わろうかという頃に雪が降るレベルで寒い理由は、流石にぱっとは思いつかない。

 気候操作の魔術なんてものがあるのかは知らないが、あったとしても相当な大魔術だろう。王都の魔術師でも何人が使えるかとか、そんなレベルのはずだ。……まあ、それは後でミナに聞いてみるとして。

 

 「もうそろそろ春も終わろうかというこの時期に? アーバイン伯爵領って、そんなに北の方なの?」

 

 王国の地理定義に明るくないエレナが尋ねる。

 もしかしたらエレナは過去に訪れたことがあるかもしれないが、エルフと人間では物の名前から場所の呼び方まで違う。

 

 「いえ、王国中部では北の方、くらいでしょうか。基本的な気候は王都と然程変わらないはずかと」

 

 受付嬢は少し考えてから答える。

 

 王都と同じ気候となると、降雪自体がそれなりに珍しい。

 冬の特に寒い日には雪くらい降るが、年に一度積もるかどうかだ。積もった日には子供たちが大はしゃぎで雪だるまを量産している。王都北部の豪雪地帯では逆に見られない光景だ。

 

 そんな気候の場所で、この時期に雪。

 なるほどそれは、「異常気象」と呼ぶに相応しい。

 

 ……氷河に立ち込める白き雲のような邪神、吹雪と共に現れ風と共に歩むもの、イタクァとか居たら、フィリップが行った瞬間に襲ってくるか、逃げるかの二択だ。ちなみに逃げるのはイタクァの方。吹雪の速度を持つイタクァから、フィリップが逃げ切れるわけがない。

 

 「雪以外には、何か情報はないですか? 先行したっていうBランクパーティーからの報告とか」

 「どちらも概ね同じ報告を上げています。猛烈な吹雪で視界も行動も著しく制限され、危険と判断し撤退した、と」

 

 ウォードの問いに、受付嬢が手元のバインダーを見ながら答える。

 

 想像以上の異常気象に、ウォードは「吹雪? そりゃいよいよ異常ですね」と苦笑気味だ。

 

 「……他には? 何か特異な魔物がいたとか、変なものを見たとか」

 

 フィリップが問うと、受付嬢より先にエレナが長い耳をぴくりと震わせて反応する。

 「いえ、特にそういった報告は受けていません」という答えを得ると、彼女はフィリップと同時にほっと胸を撫で下ろした。

 

 「皆、もう質問はない? ……よし、じゃあ取り敢えずは、防寒具の準備だね。寒冷地用の装備を整えて、出発は明日に変更、でいいかな?」

 

 エレナがパーティーリーダーらしくそう言うと、一同は一斉に頷いて肯定した。

 「寒いところって苦手なのよね。師のいた山を思い出すから」とぼやいたミナを除いて。

 

 

 

 



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418

 王都から馬車で二週間ほどかけて、フィリップたちは王都から街道沿いに600キロの道のりを経てシルバーフォレストに到着した。

 

 何もないところだ。

 アーバイン伯爵の邸宅があるという町からは馬車で二日ほど。領内の外れも外れで、周りは手入れのされていない草原だか藪だか分からない荒地。集落どころか、小屋の一つも見当たらない。

 

 元は高級家具などに使われる良質な木材を多く産出し林業が盛んだったそうだが、もっと王都に近い場所でも同等の木材が採れるようになり、輸送コストのせいで価格競争に敗北。今では銀山にも並ぶ価値がある森、「シルバーフォレスト」という名前だけが虚しく残っている。

 

 馬車が森に近づいていくと、一行は不愉快な寒気を感じた。

 単純に気温が下がったとか、日が陰ったような感覚ではない。地下室や氷室の扉が開けっ放しになっていたり、魔術で撃ち出された氷の塊が傍を通り過ぎたときのような、不自然な冷たさだ。

 

 寒い、とか、涼しい、ではなく。ただ冷たい。

 気温は初夏に相応しく暖かいのに、空気だけが異様に冷めている。そんな感じだ。

 

 「……嫌な感じ。あったかいのに冷たい」

 「そうだね。各自、体温調節に気を払っていこう」

 

 上着を着たままでいるべきか脱ぐべきか測りかねた顔で呟いたモニカに、ウォードが応じる。

 

 それから暫くして森のすぐ傍に馬車が止まると、御者役だったエレナが「着いたよ」と声を掛ける前に、フィリップとモニカ、そしてリリウムが我先に馬車を降りた。

 

 「す、すっごーい! 雪が積もってる!!」

 「雪だるま作りましょ、雪だるま!」

 

 長旅のせいもあるだろうが、やたらとテンションの高いモニカとリリウムが歓声を上げる。

 その言葉の通り、森には雪が積もっていた。

 

 それも、足元が白く染まる程度ではない。

 地面の雪は脛まで埋まるほどだし、木々の枝葉にも重石のように積雪している。迂闊に下を歩いたら、落ちてきた雪に埋もれてしまいそうだ。

 

 「ユグランスの亜種かな。かわいそうに、冬だと錯覚して葉っぱが沢山散っちゃってる」

 

 エレナが木の幹に手を触れながら痛ましげに呟く。

 

 雪の森と言えばシャープなシルエットの針葉樹林のイメージだが、この森は広葉樹が多い。まあ元は雪国ではないので当然と言えば当然なのだが、幅広の木々と、それを白く染め上げる雪は風景としてちぐはぐだった。

 

 「──ふぃりっぷ」

 「ん? ってシルヴァ、いつの間に出てたの!?」

 

 体重の軽いモニカでさえ脛まで埋まる雪の上を、そこが地面であるかのように走ってきたシルヴァ。

 彼女はさも当然のように、森の中から現れた。つまり、いつの間にか勝手に出てきて、いつの間にか森の中に入っていた。

 

 まあシルヴァに限って森で迷子になるなんて有り得ないし、その気になれば自分で勝手に送還されて、フィリップの傍で再召喚すればすぐに帰還できるから、特に咎めることはないけれど。

 

 ぽてぽてと近づいてくるシルヴァを「かわいいなあ」なんてほっこりしながら眺めていると、フィリップは背後からふわりと抱きしめられた。

 首筋の臭いを嗅がれる感覚が無かったとしても、そんなことをする人物を間違えるわけがない。ミナだ。

 

 「きみは作らないの? 雪だるま」

 

 ミナはフィリップを抱きしめたまま向きを変え、大はしゃぎで本当に雪だるま作りを始めているリリウムとモニカの方にフィリップを向けた。

 

 視界の端には、馬車からテントやベースキャンプ設営に使う工具なんかを下ろしているエレナとウォードの姿もある。二人ともリリウムとモニカに「困ったなあ」という苦笑気味の一瞥を呉れていた。

 

 「……後でやる。流石にエレナとウォードだけにベース設営を任せたら、後で怒られそうだし」

 「そう。じゃあ、私は──」

 

 食料を取ってきてくれるのだろうか、と思ったとき、フィリップの服の裾がちょいちょいと引かれた。

 

 「──ふぃりっぷ」

 「あ、ごめんごめん。呼んでたね。なに?」

 

 シルヴァの頭を撫でながら問うと、彼女は心地よさそうに表情を綻ばせ、そして。

 

 「かるとがいる」

 

 そう、なんでもない事のように報告した。

 

 事実、シルヴァ()にとって、カルトの存在など何でもない。

 彼らが森一つを完全に汚染し切ったとしても、そこに森があることは変わらない。彼らが邪神を呼び森一つが消し飛んだとしても、この星から森が消えるわけではない。

 

 しかし、シルヴァはフィリップに「異常があったら報告してね」と言われているし、何より、その情報はフィリップにとって──。

 

 「素晴らしいニュースだ」

 

 ──とても望ましい。

 

 

 ◇

 

 

 ミナが馬車の方に戻ると、テントを設置し終え、折り畳み式の椅子に座って一息ついていたエレナは不思議そうな顔を向けた。

 少し離れたところでは、雪だるま作りに興じていたリリウムとモニカがウォードに怒られている。

 

 「あれ? 姉さま、食料を獲りに行ってくれたんじゃないの?」

 「そのつもりだったけれど、あの子がカルト狩りを始めたから。魔力視も使えないし、帰ってくるまで待つわ。雪の積もった森を獲物を探して練り歩くなんて嫌だもの」

 

 シルヴァがいれば手頃な獲物のところまで案内してもらえるが、今はフィリップのナビ中だ。

 きちんとカルトのところまで連れて行って、キャンプまで連れ帰って貰わねばならないから、ミナも「置いていけ」とは言わなかった。

 

 ミナは「待っている間は暇ねえ」なんてぼやきながら、エレナが置いた別の椅子に腰を下ろす。

 直後、まるでシーソーのようにエレナが立ち上がった。

 

 「カルト狩り……って、フィリップ君を一人で行かせたの!? 駄目だよ姉さま!」

 

 一人で行かせた、というか、勝手に一人で行ったのだが。

 しかしミナとしても追うつもりはなかったので、「行くのを許した」という意味では「行かせた」という言葉は間違いではない。

 

 肩を怒らせて森の方へ向かうエレナの背中に、ミナは億劫そうな溜息と共に声をかける。

 

 「……何処に行くつもり?」

 「フィリップ君を連れ戻すんだよ! まだ何が起こってるかも分からないし、そもそも初めて入る森なんだから、これでもかってくらい慎重に動かなきゃ!」

 

 振り返ることなく答えるエレナ。

 その足取りはどんな言葉でも止められないだろうと思わせる強いものだったが、しかし。

 

 「駄目よ」

 

 面倒臭そうな溜息交じりの、その一言で止まる。

 

 いや、正確には、その一言さえ不要だ。

 ただの一瞥、視界に入れるだけでいい。

 

 「ねえさま……っ!」

 

 苦し気な声が漏れる──つまり、“拘束の魔眼”ではない。肺が、声帯が、口が動くということは。

 しかし足は動かない。森に向かおうとする身体は、不可視の枷に雁字搦めにされたように、ぴくりとも動かせない。

 

 ミナが持つもう一つの魔眼。対価を支払い、それに応じた制約を相手へ強制する、“契約の魔眼”だ。

 動きを止めるだけなら別にどちらでもいいのだが、前者だと鼓膜の振動さえ止まるから、会話どころか声さえ届かなくなってしまう。話すことがあるなら、使うのはこちらでなくてはならない。

 

 「あの子は城で「カルト狩りを見たら殺すことになる」と言った。勿論、ペットに獲られるほど私の首級は安くないけれど、ペットが飼い主の喉笛を狙わなくてはならない状況を自ら作るなんて、飼い主失格だもの」

 

 正確には、フィリップは「見たら死ぬし、死ななくても僕が殺すことになる」と言った。

 邪神を呼びカルトを甚振り嬲り惨殺する現場を見たら、いくらミナでも発狂する。そして、フィリップは狂人に対して一つの感情と一つの意思を向ける。

 

 感情とは嫉妬。

 自分が決して至れない精神の死、或いは精神の安寧を得た者を羨む。

 

 そして意思とは善意──善意に満ちた殺意。

 「そんな状態で生きさらばえるのは苦しいだろう。殺してあげるよ」という、悪意も害意も孕まない純粋な殺意だ。

 

 フィリップは城に居たときからミナが好きだった。

 ハーフエルフ・ハーフヴァンプの魔剣使い。それも二刀流。そして何処かマザーを彷彿とさせる冷たい夜のような匂いと、人間とは絶対的に隔絶した化け物の振る舞い。カッコいいし、一緒に居て心地いい。

 

 だからなるべく死なないように、少し強めに制止しただけだ。

 「殺すほど見られるのが嫌」というわけではないのだが、ミナはそういう風に解釈していた。

 

 「だったらボクが行くから、これっ、解いてよ……! 姉さまの魔眼でしょ!?」

 「えぇ、そうよ。というか貴女、本当に魔力耐性が貧弱ね? “契約の魔眼”の対価がこれっぽちの魔力で済むなんて」

 

 そもそも魔眼は系統的に呪詛に分類されるだけあって、耐性貫通力がかなり低い。“契約の魔眼”のような複雑なものは特に。

 同じ制約をルキアやステラに課そうとしても、きっと魔力だけでは済まないだろう。自分の行動を制限するとか、片目の視力とか、そのレベルの対価を支払わなければならないはずだ。そもそも耐性に阻まれるから、検証のしようもない推測だが。

 

 それがエレナ相手だと、魔力を多少支払うだけで、あっさりと効果が出た。耐性がどうかは知らないが、魔力の消費具合はフィリップを対象にしたときと同じくらいだ。

 

 「別に、貴様があの子に嫌われようと、あの子に殺されようと、それ自体はどうでもいいのよ。けれど、あの子が飼い主に牙を剥くほど嫌がることをすると言って……それを私が許すと思う?」

 

 ミナの二人称が変わり、エレナはぐっと息を詰まらせる。

 ミナは何もしていない。剣も抜いていなければ、魔術を使ってもいない。だが、分かる。

 

 ──聞き分けなければ、足を落とされる。

 

 視線にも、姿勢にも、手の動きにも、ミナの動きのあらゆる全てには敵意や悪意が微塵もない。

 ミナは自分の言葉を、ただ実行するだけだ。そこに敵意も悪意も必要ない。害意も殺意も無く、ミナはエレナを蹂躙できる。

 

 「……分かった。フィリップ君を探しには行かないから、魔眼は解いて。フィリップ君が帰ってきたとき、焚火も無いんじゃ可哀そうでしょ」

 

 エレナが諦めて言うと、全身を戒めていた不可視の枷が解けて消えた。

 

 「薪拾い?」

 「うん。信じられないなら、姉さまが代わりに行ってくれてもいいよ」

 

 少しむくれたエレナが言うと、ミナは低質な冗談を聞いたかのように苦笑する。

 

 「やぁよ、面倒だもの……と言いたいところだけれど、流石に待っているだけというのも退屈だし、一緒に──、?」

 

 ミナの表情が緩んだことに安堵したエレナだが、それも一瞬だった。

 言葉を切り、白く染まった森の奥を真っ直ぐに見つめるミナにつられて意識を向け、絶句する。

 

 ミナは魔力視を使っていない。つまり、素の感覚だけで分かるもののはず──そう考えたエレナは正しい。

 

 だが、そもそもそれは、エルフやヴァンパイアの人間離れした感覚に頼る必要もないような、見ればわかる異変だった。或いは見なくても。

 

 「……っ!? 姉さま、何か来る!」

 「分かって──」

 

 ほんの数メートル先で会話していた相手の声が完全に途切れ、姿を見失う。

 

 視界が白一色に染まり、肌感覚が冷たさと風圧を伝えてくる。耳に入るのは轟々と鳴り響く風の音だけ。それも長く目を開けていたら涙が凍りそうな、冷たい風。耳の先から凍っていって、取れてしまうのではないかと心配になるほど、冷たくて、痛い。

 

 吹雪だ。

 

 そして──。

 

 「──!!」

 「──!?」

 

 暴風の音に、悲鳴が僅かに混じる。

 

 ウォードのものらしき低い怒声、リリウムとモニカのものらしい甲高い悲鳴。エレナとミナの聴覚を以てしても、それを聞き分けるのがやっとだ。こうも雑音が煩くては、言葉を聞き取ることなど叶わない。

 

 「姉さま──!?」

 

 前後不覚に陥るほどの、白一色の世界。

 吹き荒ぶ凍てつく風は目を開くことさえ拒絶するかのようだが、エレナは両手で顔を庇いながら必死に周囲を見回す。

 

 つい数秒前に話していた相手を見失う経験は初めてだが、これは所詮、吹雪だ。雪の混じった風でしかない。ミナなら鬱陶しそうに顔を顰めて、そこにいるはず。

 

 そう思って、気配を感じた方へ振り返り──思えば、気配を感じた時点で、不審に思うべきだったのだ。

 

 人間一人分の存在を簡単に覆い隠す白いヴェールの中で、もしも気配を放つものがあるのなら──それは、人間なんかよりも、ずっと存在感のあるものだ。風を受ける体躯が、面積が、人間では有り得ないほどに大きいものだ。

 

 「あ、ぇ……!?」

 

 熊だ、と、エレナはまずそう思った。

 白く飛ぶ視界の中ではシルエットしか見えないが、毛むくじゃらで、二本の足で立っている。手には鋭い爪の影があり、と、そこまで見て、違うと気付いた。

 

 手が、二つ──片側だけで、縦に二つある。足を入れて、三つ。つまり左右で六つ。

 

 何かの勘違いだ。

 そう思って、腕を遡り、視線を肩へと上げ、上げ、上げ──そこで、異常なほどの大きさに気が付いた。

 

 一本角のある頭のシルエットは、首を伸ばして見上げた先、遥か五メートルほどの位置からエレナを見下ろしていた。

 

 

 

 

 



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419

 「ふんふんふーふー♪ ふんふふふーふ♪」

 

 ざく、ざく、と降り積もった雪を踏みしめる。

 雪が無ければスキップでもしていそうな、歓喜に満ちた鼻歌と共に。

 

 フィリップは意気揚々と、雪景色の広葉樹林を進む。

 その周りをぽてぽてと歩き、時に雪玉を作って投げたり、雪玉を転がして大きく育てていたりするシルヴァも、フィリップと同じくらいに楽しそうだ。

 

 「シルヴァ、こっちで合ってる?」

 「ん! もうちょっとでつく!」

 「りょうかーい」

 

 期待に満ちた笑顔のフィリップが目指す先は、シルヴァがこの森にいるというカルトのところだ。

 勿論、この森を白く染め上げた異常気象の原因を突き止めるため……などではなく、襲撃し、拷問し、惨殺するために。季節外れの雪景色の原因がそいつらならそれで善し。違うのなら、それから調査開始だ。

 

 カルトが何をしているか、何を企んでいるかなんて、割とどうでもいい。

 悪いことをしているから殺す、とか、人類領域を──ルキアやステラを害する危険があるから排除する、とか、そんな真面な理由や理屈はない。

 

 カルトが大真面目に、人類を飢えや病気や災害から守るために活動していたとしても、カルトであると判断したなら惨殺する。

 悪意、害意、敵意、殺意、ありとあらゆる死に至らしめる悪感情を向け、なるべく惨たらしく殺す。

 

 嫌いだから、と、ただそれだけの理由で。

 

 フィリップはそれを悪いことだとは思わない。

 それを、善悪で判断しない。自分の行動を、人間的善悪で区分しない。

 

 そしてシルヴァもまた、それを悪いことだとは思わない。

 彼女はそもそも人間ではないし、殺人が悪であるという人間の基本的価値観──種の保存本能に基づく同族殺しへの忌避感というものを、当然持っていない。

 

 発生からたかだか700万年程度の種族に、4億年の存在歴を持つヴィカリウス・シルヴァは、森は、気を払わない。

 

 だから「シルヴァ」という個体も、フィリップがカルトを生かそうが殺そうがどうでもいい。

 ただ、その存在を教えるとフィリップが喜ぶから教えただけだ。

 

 シルヴァは賢い。

 フィリップが何を望んでいるのかを、心を読む機能無しになんとなく察している。

 

 フィリップはいま、カルトを惨殺することだけを望んでいる。

 

 ……だから、報告しない。

 

 カルトと同じ場所にいる、この星のものではない生き物のことを。

 それとはまた別の、この森に棲みついている、()()()()()()異常ではない生き物のことを。人類が知らない、人類圏外の生き物のことを。その状態も、その位置も、その存在さえも。

 

 だってフィリップは、そんなことはどうでもいいのだから。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 楽しそうに、降り積もった雪が歩みを妨げることさえ気にならないかのように、満面の笑みで歩くフィリップを、シルヴァも嬉しそうに見つめる。

 

 そして数百メートルほど森の中を進んだとき、フィリップはふと足を止めた。

 ざく、ざく、と雪を踏みしめる音が鳴り止み──また別の音が耳に入る。

 

 「……ん? なんか音するね?」

 

 それは擬音にすると、どす、とか、ぼす、といったような、何か鈍く重いもの同士がぶつかるような音だった。

 森の中はただでさえ木立に音が吸われるが、地面や木々に積もった雪がそれを更に引き立てている。人の声もするような気がしなくもないが、錯覚かもしれない。

 

 罵声と怒声、そして何か柔らかいものを繰り返し殴打する音の聞こえる方へ、フィリップは気持ち静かめに向かう。

 といっても、鼻歌を止める程度だ。足元に積もった雪を消し去ることはできないし、ざく、ざく、と踏みしめる音は続いている。

 

 少し拓けた場所の雪が乱雑に掻き除けられ、焚火や幾つかのテントが置かれているのを木立の隙間から確認したフィリップは、木の陰に身を隠しながらより一層の注意を払って近づき、覗き込んだ。

 

 「……?」

 

 そこには10人ほどの人間がいて、そのうちの6人が何かを取り囲んで殴る蹴るなどの暴行を重ねていた。残りはシャベルで雪かきをしていたり、テントの前でぼーっと座っていたり、焚火で温まっていたりだ。

 皆一様に、迷彩防寒具らしきグレーのローブに身を包んでいる。何人かはフードを被っていて人相が判然としないが、大抵は王国人にありがちな金髪と青い目を持っていた。

 

 罵声は「オラ」とか「クソが」といった意味のないものが大半だったが、「よくもアイツを殺しやがったな」という理由を教えてくれるものもあった。仲間を殺した誰かがリンチされている……のだろうが、フィリップの目には、男たちに囲まれてボコボコにされているモノが人間には見えなかった。

 

 ヒトガタではある。

 二つの腕に、二つの足。肩の上に頭があり、身体を丸めて暴力から腹部を守る様も人間味がある。顔は伏せていて見えないが、鮮やかな赤毛を長く伸ばしていることと、襤褸切れのような着衣から見え隠れする身体の起伏からみて、女性なのだろう。

 

 しかし、手足の先は肘と膝の辺りまでがグローブやブーツのように赤黒い鱗で覆われており、背中には蝙蝠とも昆虫ともつかない翼膜のある翅を生やしていた。

 

 「ねぇシルヴァ。あれって何か分かる?」

 

 該当するものは、智慧にも、フィリップ自身の知識にもない。

 しかし森の中にいる以上、シルヴァの把握から逃れることはないはず。そう思って尋ねると、彼女は「なんでしらないの?」とでも言いたげな不思議そうな顔でフィリップを見上げて答えた。

 

 「ん。あれはみ=ご。べつのほしからきた……きのこ」

 「キノコ?」

 

 あの殴られてるヤツだよ? と再確認するフィリップに、シルヴァは「ん」と頷く。

 

 「せいかくには、そのへいき。……み=ごはなるらとてっぷとしゅぶにぐらすをしんこうしてる、いせいのはんせいぶつ」

 

 反生物……いや、菌糸類(キノコ)ということは、半生物、か。

 ナイアーラトテップを信仰するということは、多少の智慧はあるらしい。そして別の星から飛んで来るだけの、極低温と極高温、真空と磁場、重力と無重力の入り乱れる絶対死の宇宙空間を移動するだけの能力を持ち合わせている。

 

 と、そこまで考えて、フィリップはもう一度リンチ現場を覗き込んだ。

 

 人間数人に殴る蹴るの暴行を加えられているミ=ゴの兵器とやらは、相変わらず無抵抗で、身体を丸めて急所を守っているだけだ。

 

 「……別の星から来たってことは、少なくとも星間航行能力を持った神話生物なんでしょ? なんであんなにボコボコにされてるの?」

 「……さあ?」

 「……まあ分かんないよね、そりゃ」

 

 今のは僕の質問ミス、とフィリップは肩を竦める。

 シルヴァは森の中で起こった事象の全てを過去現在問わず観測しているが、それは「誰が何をした」という客観的事実までだ。行動の理由、個体の感情や論理までを掌握する能力は持っていない。

 

 「いいや。カルトってあいつら?」

 「ん! いたかのかると。うぇんでぃごのしもべたち」

 

 元気のよい返答に、フィリップは思わずにっこりと笑い──すぐに真顔になった。

 

 「イタクァ? ここにいるの?」

 

 それは多少不味い。

 イタクァはこの前のゾ・トゥルミ=ゴや、ちょっと名前の似た、しかしルーツを聞くに全くの別物らしいミ=ゴのような生き物とは訳が違う。正真正銘の神格、グレート・オールド・ワンだ。

 

 まあこんなド辺境の田舎惑星一つ制圧できていない時点で、程度は知れるけれど──それは「ハスターやクトゥグアより弱い」というだけであって、智慧には確かに載っている。外神の視座から見て、「人間を殺すには十分である」という評価を下されている。シュブ=ニグラスが、見つけられている。

 

 蛇腹剣だのフリントロックだので太刀打ちできる相手ではない。

 

 カルト狩りもまだなのに、と顔を顰めたフィリップだったが、シルヴァは頭を振って否定する。

 

 「いない。もっとむこう、きょくほくちたいにふうじられてる」

 「それはよかった。……じゃ、暫く戻ってて」

 「んー」

 

 ふっとシルヴァの姿が掻き消え、シルヴァとの魔術的なつながりが別空間に続いていることを確認すると、フィリップは身を隠していた木の陰から意気揚々と踏み出した。

 

 息を荒げて「ミ=ゴの兵器」とやらを蹴っていた奴らも、姿を晒した人間に気が付かないほど集中していたわけではなく、弾かれたようにはっと目を向ける。

 

 「……なんだお前? おいガキ──ごぼっ!?」

 

 家の廊下を歩くような調子で向かってくる子供を威嚇して、追い払おうとでもしたのだろう。

 その時点で、フィリップはこの集団に一定以上の興味を向ける必要を感じなくなった。フィリップ・カーター、魔王の寵児という存在を知る、“啓蒙宣教師会”の一員ではないと判断して。

 

 仲間が海水を吐きながら倒れ伏し、集団に緊張が走る。

 流石にリンチどころではなく、全員が慌ててフィリップから距離を取ろうと後退った。

 

 「《深淵の息(ブレスオブザディープ)》……。もしかして、あんまり戦闘慣れしてない? こんな体格に劣る魔術師っぽいやつから距離を取るのは愚策だと思うんだけど……」

 

 或いは腰に佩いた龍貶し(ドラゴルード)の存在を重く見ているか、逆に、フィリップの立ち方や歩き方から特異な歩法を身に付けていることを察する程度には戦闘に慣れているのか。

 

 「ま、どうでもいいけどね。僕はお前たちと戦う気はないし」

 

 あっけらかんと言い放ったフィリップだが、その右足は地面をのたうち回るほどの溺水の苦痛に苛まれている男の頭を踏みつけている。

 敵意が、悪意が、害意が、殺意が、全身から噴き出す悪感情が目に見えそうなほどだ。

 

 「は、はぁ!? ふざけるなよお前、いきなり攻撃しておいて──あ? あぁ!? うあぁぁぁぁっ!?」

 

 食って掛かった別の男が、胸を押さえて蹲る。

 だが、声が出ている。海水で埋められた肺では、出来ないことをしている。

 

 「どうした!?」と駆け寄った仲間の前で、そいつは全身を炭に変えて絶命した。

 

 「《萎縮(シューヴリング)》……。意図が伝わらなかったかな。「抵抗は認めない。苦しんで死ね」って意味だったんだけど」

 

 困ったなあ、と腕組をするフィリップ。

 視線を思いっきり他所に向けて、「智慧がないどころか言語コミュニケーションもちょっと怪しいぞ」なんて呟いている。

 

 その隙に、カルトたちはわらわらと一か所に集まり、なんとなく二列横隊のような形になる。どうやら、男が女を庇っているらしい。

 

 「こ、こいつ、普通じゃない! お前ら、逃げ──うわぁっ!?」

 

 先頭にいたリーダーらしき男の声に、フィリップが過剰に反応する。

 『拍奪』による相対位置認識欺瞞を全開に、全速力で距離を詰めて、男の両膝から下を切り飛ばした。

 

 錬金金属製の鎧さえ紙のように切り裂く龍骸の剣は、一切の抵抗なく肉と骨を断つ。もし男が完璧な姿勢で直立していたら、きっと切断面が一ミリもずれることなく、そのまま立ち続けることだってできただろう。

 

 だが急接近したフィリップに慄いてのけぞっていた彼は、失敗した達磨落としが崩れるように地面に落ちた。

 

 「あ、あぁ、あし、俺の足がっ!? うっ!?」

 「多分その辺だよね、腎臓って。最近教わったんだけど、傷つくと苦しんで死ぬ臓器らしいよ」

 

 恐怖のあまり動くことさえできないカルトたちの前で、フィリップは地に落ちた胴体に剣を突き刺す。教わった通りの、肋骨ギリギリの辺りに。

 

 そして止めを刺すことなく、別の標的に視線を移した。

 

 「な、なんなんだお前!? なんでこんなことをする!?」 

 「んー?」

 

 次の獲物と見定めていた男から、大声を上げた男に視線を移す。

 会話をするときには相手の目を見る、なんて、そんな礼儀正しい振る舞いは、襲われたカルトたちにはむしろ異常に映った。それ以外の全てが異常なのに、そんな人間的な礼節が垣間見えるのが、どうしようもなく歪で恐ろしい。

 

 狙われていた男は、極限の緊張から解放され、咄嗟に踵を返して逃げ出した。

 群れを、仲間を捨てる判断は、どうやら繋がりの強いらしい彼らにとってはとても辛い決断だろう。

 

 そして──その背中を、伸長された蛇腹剣が横一文字に切り裂いた。肋骨も、脊椎も、内臓も、何の手応えも返さないほどの鋭利さで以て、一刀の下に。

 

 「切れ味が良すぎて手応えが分かんないなあ。ちゃんと肺だけ斬れた? 心臓までイっちゃったかな」

 

 肺だけ斬ったとしても、即死はしない。相手を殺したければ心臓を斬る方が確実なはず。

 戦闘行為に慣れていない、ただの宗教集団でしかない「ウェンディゴのしもべ」たちでさえ、そのくらいの知識はある。

 

 それ故に、理解してしまった。

 

 「「ウェンディゴのしもべ」だっけ? お前たちがどういう教義の、どういう集まりかは知らないけど、僕はカルトが嫌いなんだ。だから死ね。惨く死ね」

 

 こいつは本気で──「惨殺する」ことを求めている。

 

 「このっ、狂人め……!! 『いあ いたくぁ いあ──」

 

 カルトの全員が背に庇っていた、女のカルトが絶叫する。

 初めは人語で、そしてフィリップのそれと同じく歪で拙いながらも、間違いなく邪悪言語の音を発し──乾いた炸裂音を最後に、のけぞるように倒れた。

 

 「誠に遺憾で残念だけど、正常なんだ」

 

 銃口から白煙を立ち昇らせるフリントロックを差し向けていたフィリップが、本当に残念そうに呟く。

 込められた心情は「狂えなくて残念」という会話に即したものと、脳幹を狙わざるを得なかった──即死させてしまった後悔とだ。

 

 「いやあ、でも今のは危なかったな。流石にこんな玩具じゃ邪神は殺せないからね」

 

 ジャケットの内にフリントロックを仕舞いながら、フィリップは肩を竦めて笑う。

 フレデリカに作って貰った、彼女としては大真面目に命の懸かった一瞬を勝ち取るための武器として作ったものを、玩具呼ばわりすることに多少の罪悪感はあるが、事実なので仕方がない。

 

 「邪神だと!? 我らの大いなる父を、そのような──ごぼっ!?」

 

 悲鳴なのか怒声なのか判別のつかない声を上げたカルトが、肺に海水を抱いて頽れる。

 地面を引っ掻き、爪が剥がれるほど苦しみ藻掻く姿を、フィリップは満足そうに一瞥する。そしてただの一瞥だけで、もうそいつに対する興味を殆ど失っていた。

 

 「……あぁ、あと五人しか残ってない」

 

 残念そうに呟くフィリップの前で、彼らは腰を抜かしてへたり込み、或いは赦しを乞うように跪き、死神の前に首を垂れた。

 

 

 

 



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420

 「ごめんなさい」と謝った者も、「許してください」と乞うた者も、「俺たちは何もしていない」と説いた者も、絶望して黙り込んでいた者も、イタクァの偉大さについて語り出した者も、皆死んだ。

 三人は地上で溺死し、二人は内臓からじわじわと炭化して。

 

 カルト狩りを満喫し、心なしか肌ツヤの良くなったフィリップは、ずっと丸まった姿勢でぴくりとも動かなかった「ミ=ゴの兵器」の傍らに立った。

 

 「おーい、生きてる?」

 

 龍貶し(ドラゴルード)の鞘の先でツンツンつつきながら呼びかけると、襤褸切れを纏った赤毛の少女のようなヒトガタ、シルヴァが「ミ=ゴの兵器」と呼んだモノは、ぴくりと震えて反応した。

 

 「おぉう、びっくりした……」

 

 見ていた限りでは殴られようと蹴られようと微動だにしなかったモノがいきなり動き、フィリップは肩を跳ねさせる。

 

 そんな彼の前で、それは腹を抱えて蹲った姿勢からむくりと上体を起こし──ぺたりと座り込んだまま、きょろきょろと左右を確認した。

 なんだか寝起きみたいな反応だと、フィリップは呆れたように苦笑する。ちょうどフィリップに背を向ける形で顔は見えないが、寝ぼけ眼で欠伸でもしていそうだ。

 

 それは左右だけでなく、上と下を確認して、最後に漸く振り返った。

 

 「っ!?」

 

 フィリップは自分の方を振り向いた顔を見て、思わず瞠目する。

 

 どことなく気弱そうな垂れ目と、怯えたような光を湛える赤い瞳──人間と同じカタチをしているのは、そこまでだった。

 

 鼻というパーツはなく、顔の下半分は四つの花弁を持つ花のような大顎になっていた。唇はなく、親指ほどもある牙が左右交互に嚙み合わさっている。

 その大顎が頬が剥がれるようにして開くと、その内には縦に開く咽頭顎のような第二の口があり、大顎のものよりは小ぶりな牙がきっちりと並んでいた。こちらは人間の口のように、上下の歯が合わさるように閉じられている。

 

 あからさまな化け物だ。

 だが、それ故に、フィリップは多少の好奇心を抱いた。

 

 シルヴァが「ナイアーラトテップを信仰する種族」と言ったこいつ──正確にはその製作者か?──は、どれほどの智慧を持っているのかと。

 

 意外にも表情筋があるらしく、それはフィリップを見ると、目が零れ落ちそうなほどに瞠目し、勢いよく立ち上がった。

 戦意は無いが、そもそもフィリップの戦意や殺意を感じ取るセンスは壊滅的だ。状況によっては蛇腹剣を抜き放ちながら全力で距離を取るような、危険な動きだが──フィリップは動かなかったし、動く必要は無かった。

 

 フィリップより少し小さい背丈のそれは、黒い鱗に覆われた両手を高々と掲げる。降服のボディランゲージと言うよりは、遠くの人に呼び掛ける時の仕草に近い動きだ。

 

 そして──。

 

 『しゃめっしゅ! しゃめっしゅ! にゃるらとてっぷ、つがー! しゃめっしゅ!』

 

 ナイアーラトテップを讃える言葉を、()()()()()()向けた。

 

 「は?」

 

 僕ってこんな声出るんだ、と自分で驚くくらいの暗い声に、世界の軋む形容しがたい音が重なる。

 唐突にぶん投げられた、五、六発殴っても誰も文句は言わないだろうという暴言に、最も苛烈に反応したのは外神だった。

 

 「フィリップ君、こいつは殺しましょう。君と会話するに相応しい知性を持ち合わせない■■……失礼。原核生物にも劣る劣等種です」なんて聞こえてきたのは幻聴だろうか。それとも。

 

 いつぞやシュブ=ニグラスが望外の張り切り具合を見せたときなんかとは比にならない、まだこの世界には存在の一部分すら入っていない外神たちの神威が、フィリップの心身に同時に叩き付けられる。

 

 これは、一柱やそこらではない。

 十や百では足りない。千や万でもまだ怪しい。怒り狂った外神の群れが、あの悍ましい宮殿から雪崩出ようとしている。

 

 世界が軋む。

 時間と空間が極彩色に揺らぎ、泡の表面のように流れる。

 

 「ひぇ……な、なんですかこれ……」

 「……あ、不味いな」

 

 起こっている現象を理解できないでいる「ミ=ゴの兵器」と、()で何が起こっているのかまで大体のことを察したフィリップが同時に呟く。

 その声に込められた感情は、二人で違う。無理解故の恐怖、未知への恐怖と──このままだと世界は致命的破綻を迎えることになるが、それを回避するだけの力を持ち合わせないことへの諦観。

 

 終わったか、世界。

 シュブ=ニグラスだけでなく、ナイアーラトテップ本人までブチ切れているし、もっと上位の奴まで宮殿の門(ヨグ=ソトース)に詰め寄っている。その喧噪でアザトースも目を覚ましそうだ。いや、あの聞くに堪えない狂ったフルートと調子の外れた太鼓の音、無聊を慰める踊り子たちの舞いの中で目覚めないなら大丈夫だろうけれども。

 

 まあ、それならそれで仕方ない。

 外神が感情に素直なのは今に始まったことじゃあないし、“魔王の寵児”とナイアーラトテップ()()を見間違えた愚物をこの世から消し去ろうとするのも、まあ分かる。その余波で世界が崩壊するのも、規模を考えれば仕方ないことだ。

 

 フィリップはそう、落胆の息を吐く。

 

 ──しかし。

 

 「じゃあ、世界が滅ぶ前に僕から君に一言。……次に僕をナイアーラトテップ呼ばわりしたら、目を抉って口を縫い合わせるからね」

 

 どうせ、世界は泡なのだ。

 外神が入ってくるだけで崩壊するこの三次元世界も、その外にいる外神たちも。

 

 そんな諦観に溺れ切っているフィリップにとっては、世界が壊れることに特別な感情はない。

 

 いつものようにそう考えて、いつものように気に入らない相手に中指を立てると、どうしたことだろう。世界の軋みはすっと収まり、周囲は何事も無かったかのように雪景色と似合いの静けさを取り戻した。

 

 意外そうに天を仰ぐフィリップは、「あぁ、ヨグ=ソトースが勝ったのか」なんて単純に考える。

 そりゃあ、ナイアーラトテップやシュブ=ニグラスといった邪神も、ヨグ=ソトースに存在格で優る“真なる闇”や“無名の霧”をも内包するのがヨグ=ソトースだ。競って勝てない相手はいないというか、誰と競っても自分と競っているというか、とにかく彼の守りは万全だ。

 

 「へ……? あ、あの、もしや我らが無貌の大神ではなく、その巫女様か何かで……? はっ!? いやこの気配は、まさか豊穣の大地母神様の化身!」

 

 信仰を示すポーズなのか、赤毛の少女じみた怪物はまた両手を掲げる。

 

 しかし先の言葉よりマシとはいえ、今度もまたフィリップの神経を逆撫ですることを言う。

 

 「目は節穴、智慧も無い、口を開けば僕を不快にさせることばかり。首から上は要らないということでいいのかな」

 「ごごごごめんなさい!! ゆるしてください! というか、じゃああなたは何なんですか!!」

 

 フィリップが遂に剣を抜くと、少女型の怪物は慌てふためいて頭を下げたかと思うと、今度はぴしっと指を突き付けて逆ギレしてきた。

 

 「……いや別に、ただの人間だけど」

 

 智慧がないどころか、こいつさては馬鹿だな? と、そう思ってしまうと、フィリップの肩から力が抜ける。

 

 馬鹿が馬鹿なことを言うのは、仕方ない。馬鹿なのだから。

 その馬鹿の馬鹿な発言に一々目くじらを立てるのも、怒るのも、怒りに任せて首を刎ねるのも、同じくらいに馬鹿馬鹿しい労力の無駄遣いだ。

 

 「……さっきのは?」

 

 フィリップが何者かまでは分からないようだが、流石に「ただの人間」は嘘だと分かったらしい馬鹿が問う。

 

 「さっきのって?」

 「三次元世界が崩壊しかかったじゃないですか! あなたも「不味いな……」とか言ってましたよね!? あなたの御業では!?」

 

 姿を見ないように目を瞑れば「可愛らしい声」と思える少女らしい高い声を低くして、顎に手を遣ってキメ顔で言う馬鹿。

 フィリップはそんな「しかし対処法は隠し持っている」みたいなカッコイイ言い方はしていない。

 

 「さ、さあ、何のことかな……。僕の仕業でないことは確かだけど……というか君、共通語上手いね?」

 

 流石に「魔王の寵児です」と自己紹介するのは気が引けたフィリップは──他人から言われるのもそこそこ嫌なのに、自称したらいよいよ認めたみたいで本当に嫌だ──適当に話を逸らす。

 

 しかし純度100パーセントの逃げではなく、好奇心も多分に含まれている。

 こいつはさっきから、流暢な大陸共通語──人語を話している。大顎は動いていないから、その下にある第二顎、咽頭顎じみたパーツを使っているのだろうか。

 

 構造も気になるが、そもそもこの星のものではない生き物のはずだ。人間の言語を解析し、理解し、使用するとなると、あまり馬鹿にしているのは失礼かもしれない。──危険かもしれない、とは思わない辺りがフィリップだった。

 

 「いまこの星で最大の勢力を誇るのはヒトですからね! 情報収集やコミュニケーションには必須の能力ですよ!」

 

 ふふん、と彼女は自慢げに胸を張る。

 身に纏っているのは服とは言えないような襤褸だ。腕は肩まで、脚は太腿のかなり上の方まで、大きくはないが小さくもない胸周りもかなり大胆に見え隠れしているが、フィリップは特に指摘する必要を感じなかった。

 

 相手がたとえ付き合いの浅いリリウムでも「その恰好はちょっと」とジャケットを差し出すくらいには、フィリップも紳士とは何たるかを知っているのだが、そもそも未だ敵か味方かもはっきりしていない相手だ。

 ジャケットの下に隠されたフリントロックを見せたくはない。

 

 「……それに、感情の再現も上手い。恐怖したり怒ったり、まるで人間だ」

 

 ここぞとばかり、邪神呼ばわりされた意趣返しをする。

 感情を持つのが人間ばかりでないことなど、フィリップは十分に知っている。そもそも外神の行動基準の多くを占める要素は「自分の感情」だ。

 

 しかし星間航行能力も持たない劣等種(にんげん)呼ばわりは、彼女に対して効果を発揮しなかった。

 

 「そりゃあ、私の思考プロセッサは人間の脳を改造・改良したものですから! そこに気付くとは天才ですね、えーっと……人間さん!」

 「へえ。もう少し詳しく君のルーツを聞かせて貰っていいかな、化け物さん」

 

 言って、フィリップは先ほど皆殺しにした「ウェンディゴのしもべ」のテントの方に向かう。

 焚火やベンチがあったから、有難く使わせてもらおうと考えて──いや、そこまでは考えていない。「焚火とベンチがあった」までだ。

 

 「もー、今のは名前を尋ねたんだってことくらい察してくださいよー。人間はこの星では珍しい、言語コミュニケーションが可能な種なんですから!」

 

 「こいつ、人間()に“人間”を語ったぞ」とちょっと面白くなったフィリップは、なんだか彼女のことが好きになり始めていた。馬鹿だが、ウォードやエレナとは別ベクトルで愛すべき馬鹿なのではないかと。

 

 「……まあいいか、会話くらいなら出来るみたいだし。フィリップ・カーターだよ、よろしくね」 

 「名乗られたなら名乗り返すのが礼儀ですよね! 私はユゴスの住人ミ=ゴの作り上げた環境整備用兵器、原住生物殲滅用生物複合戦闘機・タイプ1・試作実験機です!」

 

 握手でも求めてきそうなテンションで、また鱗に包まれた両手が天を衝く。

 

 フィリップは愛想笑いを浮かべてちょっと考え。

 

 「……なんて?」

 

 「名乗り返す」という言葉が含んでいるはずの「名」はどこだ? と首を傾げた。

 

 

 



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421

 ははっ。おもしれー女


 それからフィリップと「ミ=ゴの兵器」は、カルト「ウェンディゴのしもべ」の残骸で焚火を作りながら話をした。

 元々彼らが作っていた焚火に、テントや、その中にあった日用品から魔導書までを分け隔てなく放り込んで作ったキャンプファイヤーだ。

 

 死体はまあ、そのままでいいだろう。身包みだけ燃やせば、残りは獣が食うか、腐って朽ちる。

 

 「ミ=ゴの兵器」曰く、彼女はミ=ゴが地球で作ったキメラらしい。

 星間航行能力を持つ生物の内臓、高い戦闘能力を持つ生物の外装、ミ=ゴの太陽系随一の科学技術、そして「想像力」という優れた能力を持つヒト種の赤子の脳を培養し改造した生体演算処理装置を積載している。と本人が自慢げに語った。

 

 具体的には、ビヤーキーの内臓と磁気感知器官、グラーキの破片を培養した反応刺胞装甲を全身に備え、骨格・牙・爪・筋肉は全て古龍の組織を培養して作ったものだそうだ。

 

 聞く限り、物凄く強そうではある。あるが。

 

 「で、なんでカルトなんかにボコボコにされてたの? あいつら戦闘魔術師どころか、戦闘慣れさえしてない宗教家だったよ? ……あぁいや、一人だけ、ちょっとヤバそうなのはいたか」

 「わ、私だってただボコボコにされたわけじゃありませんよ!」

 

 心外だと言いたげに柳眉を逆立て、彼女は詳しい事情を語る。

 

 そもそも、彼女を含むミ=ゴの一団は、もっと北方の山岳地帯に棲んでいたらしい。しかしコロニーにしていた山が突如として丸ごと消し飛び、その消滅に巻き込まれずに済んだ一部のミ=ゴと彼女は、別な拠点へと向かって移動していたそうだ。

 

 目的地は大陸南部、魔王支配下の暗黒領だったらしい。

 ここに彼女がいる事実が示す通り、到達はしていない。道中で無益な戦闘(消耗)を避けるため高高度を飛行していたところ、自律飛行で輸送中だった「試作実験機」がエネルギー枯渇で墜落。ミ=ゴたちは()()()()()を避けるため、それを破棄していった。

 

 「落下地点付近に人間(エサ)がいたので、それを捕食してエネルギーを補給し、墜落時に傷付いた内臓組織の補修のため、休眠モードで自己修復を加速していました。あなたが見つけたのはその休眠中の私をボコボコにしている人間たちであって、私があいつらに負けたわけではないです!」

 「ふーん……。強いんだ?」

 

 彼女が語った単語は所々分からないものがあったが、概ねグラーキの装甲に、古龍の爪牙を持ち合わせた化け物ということだろう。

 

 それに何より、「原住生物殲滅用兵器」だ。コンセプトからして強く作られているのは間違いない。

 

 「勿論です。あんな人間、ちょちょいのチョイですよ!」

 

 しゅっしゅ! と風切り音を口で言いながらシャドーボクシングなどする「生物複合兵器」。

 このバカっぽい振る舞いも、人間のような知性を持った相手──“油断”という機能を持った相手に付け込む演技や擬態なのかもしれない。

 

 ……いや、違うか。少なくともフィリップを本気でナイアーラトテップやシュブ=ニグラスの化身だと思う程度には馬鹿だ、こいつは。

 

 そんなことを考えて胡乱な目をするフィリップの脳裏に、ふと閃くものがあった。

 「山が消し飛ぶ」なんて現象、早々起こるものではないだろう。……もしや。

 

 「……山が消し飛んだって、もしかして王龍にやられたの?」

 

 問うと、彼女は意外そうに片眉を上げた。

 

 「あ、そうです! 意外と情報通なんですね?」

 「暴れてるって話だけはね。……意外と?」

 「いやあ、困りますよね。まあ私たちのせいではあるので、因果応報と言えばそうなんですけどね!」

 

 あははは! と明朗に笑う、横開きの大顎を持つ化け物。

 顎は閉じられたままなのに、笑い声はよく通るのは不思議だが──そんなことよりもっと聞き逃せないことがあった。

 

 「……ん? 君たちのせい?」

 

 どういうこと? とフィリップが首を傾げると、彼女は「やれやれ」とばかり両掌を上向けて語る。

 

 「いえね? ミ=ゴは私という実験機の素晴らしさを見て、いざ本番と製作に取り掛かったのですが、ここで素材の不足が発覚! しかし丁度良いところに古龍がいるし、古龍を倒した経験もある。「これで問題解決!」と襲い掛かり、これは実際に勝ったのですけれど……それがどうやら、王龍の配下だったらしく」

 「報復されたのか……」

 

 どうして事前に調査しなかったのか。

 次元断の魔剣も、シュブ=ニグラスの血を受けた武器も無しに古龍を倒せるのだから、ミ=ゴはかなり強いのか?

 

 いや、この話せば話すほど馬鹿っぽい──人間のような生物複合兵器を作ったというのだから、とんでもない技術力を持った種族なのだろう。反面、兵器に戦闘を任せるということは、種族それ自体はそれほど強くないと考えられる。

 

 「っていうか君、王龍に負けたの? 「原住生物殲滅兵器」なんでしょ?」

 「いやあ、神に片足突っ込んでるようなのはちょっと……。私はあくまでミ=ゴが拠点にする場所の安全を確保する、一個エリアを制圧するための兵器ですから」

 

 なるほど、とフィリップは彼女との会話で初めてかもしれない納得に落ちた。

 彼女の言い訳に納得しただけであって、「名前負けがすごいな」という不満はあるけれど。

 

 「ふーん……。ちなみに、聖痕者には勝てる?」

 

 将来、もしもミ=ゴが人類に敵対したときのために──ルキアやステラの前に立ちふさがった時のために聞いておく。

 グラーキの反応刺胞装甲とやらは接近戦用の器官だとしても、古龍の素材が使われているなら、或いは強力な魔術耐性を持っていたりするかもしれない。

 

 流石に空も飛べない劣等種と比較されるのは気に障ったのか、「原住生物殲滅兵器」はむっと眉根を寄せた。

 

 「勝てますよ! 馬鹿にしないでください! ……まあ、条件次第ですけど!」

 

 座ったまま足をばたつかせ、全身で不満を表現する少女型兵器。

 条件付きなのによくもまあ「舐めんな」って顔できたなコイツ、とフィリップは呆れ顔だったが、答え自体は賞賛と警戒に値するものだ。

 

 「いやいや、条件付きでも勝てるなら大したものだよ。ちなみに条件ってなに? ……あ、「魔術を使われなければ!」とか言ったらブン殴るからね」

 

 こいつなら言いかねないぞ、というフィリップの警戒は、まあ正しかった。

 正しかったが──フィリップの警戒がぴったり適当だった例は数少なく、今回もまた不足していた。

 

 「宇宙空間でなら勝てます!」

 「……あの、ごめん。僕、お兄ちゃん以外と喧嘩したことないからさ、喧嘩売ってるならそう言って貰える?」

 

 自慢げに胸を張る馬鹿に、フィリップはびっと中指を立てた。

 

 ミ=ゴの作法なのか知らないが、まだるっこしい。

 いや正面から「喧嘩しよう」と言われたら、きっとその時はその時で「こいつ馬鹿か?」と冷笑するけれど。というか、フィリップは自分に敵対する者は例外なく馬鹿だと思っているけれど。

 

 「ひぇっ!? ととととんでもないです! あなた見た目は弱そうですけど、外なる神の臭いがべったり付いてますし、タダモノじゃないですよね!? 見た目は弱そうですけど! 騙されませんよ!」

 「弱そうって二度も言う必要あった? いや、確かに弱いけどさ」

 

 弱いのが事実で、そして自覚があって良かったな、とフィリップはまた中指を立てる。

 言葉の内容自体には反論の余地がないし、そもそもどれだけ馬鹿にされようが自他共に泡なので、誰に何を言われても暴言の内容自体が突き刺さることはない。

 

 だが、単純に「暴言を吐かれた」「喧嘩を売られた」ことに対する苛立ちはあった。

 

 「……あの、本当に神の化身じゃないんですか?」

 

 恐る恐るといった風情で尋ねる少女の姿に、フィリップは魔術学院に編入したばかりの頃を思い出した。

 

 「違うってば。ただ……近所の教会にナイアーラトテップとシュブ=ニグラスがいるだけで」

 「……え? ……は? はい? 月に吼える無貌の神と、星を変生させる大地母神が? 同時に? こんなド田舎の星に? どういう冗談……いやでも、この気配の濃さは……」

 

 確かに冗談みたいな話ではあるけれど、ここに関して嘘はないので信じてもらうしかない。

 ……いや、まあ、フィリップが逆の立場だったら「物凄い幻覚見てるなこいつ。殺してあげるか……」と憐憫を以て首を刎ねるところだけれど。

 

 「……まあ、確かにね。はぁ……やっぱり馬鹿と話すと疲れるな。僕はそろそろ行くよ。目的も達成したしね」

 「え? あんまり迂闊に動かない方がいいですよ! ここ、ノフ=ケーの縄張りですし、しかもあいつら、なんかおかしいですし」

 

 立ち上がったフィリップの後ろを、馬鹿呼ばわりに気付かなかった馬鹿がトコトコ付いてくる。

 何を言われても適当に流そうと思っていたフィリップだったが、忌々しいことに、馬鹿の言葉が頭に引っかかった。正確には、外神の智慧に。

 

 「ノフケー? 旧支配者ゴ=ナプ=シスのこと?」

 

 それこそもっと北方、イタクァ支配領域並みの超寒冷地帯を縄張りにする神格のはずだ。

 地球原産の旧支配者で、厚く硬い氷の中に封印されているはず。それを為したのは多分、旧神か何か──残念ながらシュブ=ニグラスは理由にまで興味を持ってくれなかった──だが、復活し戦闘になったのなら人間一匹くらい殺せる存在だと、智慧にはある。

 

 だが、この森の中に神威を放つモノはいない。或いは復活直後で、感覚の肥えたフィリップが分からないほど弱っているのか。

 

 ──だとしたら不味い。

 

 と、フィリップは今度は顎に手を遣って、「最悪ハスターか」と切り札のことを考えながら呟く。

 

 「ひえぇ……。あ、あの、さっきからずっとですけど、神の名前を軽々に音に乗せないでください……。そうではなくて、ノフ=ケーという種族のことですよ。ご存じないですか? おっきい毛むくじゃらの……立ったら五、六メートルくらいある、六脚の熊みたいなのです。冷気を起こしたり、吹雪を呼んだりするんですよ」

 「知らない。何それ、怖……。熊ってだけでも怖いのに」

 

 いやそもそもフィリップの知る熊は、立ち上がっても二メートルそこらだ。

 エレナからなんとかホリビリスとかいう巨大で獰猛で強靭な熊の話は聞いたが、それでも最大三メートル弱だそうだし。

 

 「ぷーすす、知らないんですか? 不意の吹雪は奴らの仕業なんて、雪山じゃ常識ですよ?」

 「雪山の常識を雪山の外の人間に振り翳すのやめて? あと君、いまシュブ=ニグラスのこと笑ったよ」

 

 しかも「ぷーすす」とか舐めた笑い方で。

 当人──当神?──は劣等種の嘲弄なんて気にならないだろうけれど、フィリップは多少不快だった。まあ外神のトップがアレだし、強くなればなるほど無知になることも疑似体感として分かっているけれど。

 

 「? まあ、折角ですから一緒に行きましょうよ。さっき言った通り、地球原生の生き物なら大抵は殺せますよ、私!」

 「そんなこと言ってた? 王龍に住処を吹っ飛ばされたことと、人類最強の魔術師にも勝てないってことは聞いたけど」

 

 ふい、と目を逸らす「原住生物殲滅兵器」。

 

 「というか、なんで一緒に? 君の目的地は暗黒領でしょ? さっさと飛んでいけばいいじゃん」

 

 体長五メートルの熊相手でどこまで戦えるのかは現状不明だが、少なくとも空を飛べることは確実なのだから、さっさと飛んで逃げればいいだろうに。

 

 彼女がフィリップを守る理由は無いし、フィリップだって守ってもらう必要は無い。

 いや、さっきカルト相手にはしゃぎ回ったせいで、ちょっと魔力枯渇気味ではあるけれど、即座にぶっ倒れるほどの消耗ではない。召喚術一回分くらいの魔力は残っているし、相手が非神格なら一発で十分に片が付く威力だ。

 

 お互いに、一緒に行動する必要は無いはず。そう考えるフィリップに、彼女はそれがさもフィリップにとっても名案であるかのように、ぴっとサムズアップして言う。

 

 「いえ! 私たちの信仰する二柱が化身を顕現されておられるのであれば、是非お会いしたいと思いまして! 案内と紹介をお願いします!」

 

 暫し、沈黙。

 何を言われたのか分からないと瞠目していたフィリップは、世界の軋む音をBGMに思考を回し、そして。

 

 「ふふふっ……あははは! この僕を、外神へのアポイントメントに使うのか! あはははは!」

 

 腹を抱えるほど大笑いしていたフィリップは天を仰ぎ、いつからか三つあった太陽──燃える三眼、ナイアーラトテップの化身に適当に手を振る。

 「あっち行ってろ」というジェスチャー一つで、空は元通りの姿を取り戻し、ヨグ=ソトースとナイアーラトテップ真体との戦いは終結した。

 

 「はーあ……ははは……。うん、いいよ。一緒に王都まで行こう」

 

 駄目だ、とフィリップは一人、頭を振る。

 こいつは殺せない。面白過ぎる。

 

 「段々君のことが好きになってきたよ、僕」

 

 

 

 



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422

 カルト狩り直後のハイテンションも収まり、襲撃前に隠しておいたリュックを回収したフィリップ。

 中身をゴソゴソ漁ると、まず小ぶりなポーチを取り出し、それから両手に収まるくらいの黒い塊を新たな同行者へ投げ渡した。

 

 「……これは?」

 「ガスマスクだよ。あげる」

 「むっ。それくらいは見れば分かりますよ! ミ=ゴの技術力を馬鹿にしないでください!」

 

 フィリップが彼女に放ったのは、王都で買ったガスマスクの余りだ。

 口と鼻を覆い隠すハーフフェイスタイプで、防毒防塵用のキャニスターが左右に一つずつ付いている。

 

 「一旦僕の仲間と合流するから、それ着けといて。手足とか羽もアレだけど、一番隠すべきは口元だから」

 

 というか、手足と羽はもう隠しようがない。だが幸い、ごつごつした鱗に包まれた腕はヒトガタで五指だし、羽も蝙蝠のそれにやや近い。明らかに人間ではない様相ではあるが、常識外れの外観ではない。

 

 問題はやはり、二重の口元だ。

 外顎は開き方からして禍々しいし、開いたときに口の内部粘膜が見えるのも気色悪い。第二顎は一見して人間のそれに似ているが、こちらも粘膜のすぐ下に筋肉と骨があるのが分かる、いやに生々しいものだ。

 

 フィリップでさえ、一目で化け物であると──魔物ではなく、人類領域外の存在であると判断する外見だ。ビヤーキーやショゴスや、ゾ・トゥルミ=ゴの同類だと。

 

 しかし重ねて幸いなことに、口を閉じた状態なら、顔の輪郭自体は人間のそれと変わらない。ガスマスクは問題なく着けられるはずだ。

 

 「隠す? ……それは? 火薬と、鉄球ですか?」

 「武器の準備。そのノフ=ケーとやらに遭遇した時に、すぐ戦える状態にしておかないと」

 

 取り敢えず敵ではないという判断をしたフィリップは、先込め式銃の定めである面倒な再装填作業に取り掛かる。

 銃身内の火薬ススをクリーニングロッドで拭い、装薬を入れ、弾をロッドで押し込んで搗き固める。それから火薬漏れ防止の燃焼性に優れた紙を詰め込んでまた押し固める。火皿に点火薬を入れ、フリズンを閉めて密閉を確認。火打石の摩耗と角度を確認して、撃鉄を起こし、安全装置を掛けて完成だ。

 

 作業をじっと見ていた「ミ=ゴの兵器」は、フィリップがホルスターに仕舞った銃器を指して笑う。

 

 「ぷーすす! フリントロックピストルなんて、やっぱりこの星の文明は遅れてますね! 時代は電気銃ですよ!」

 「中々興味を惹かれる名前だけど……君、口元隠したら可愛いね?」

 

 意外──でもないか。

 直立二足歩行を想定するなら左右のバランスには気を配るだろうし、顔を含む身体の均整が取れているのは当たり前かもしれない。

 

 人間基準の「可愛い」という評価をどう捉えるべきか測りかねたか、彼女は垂れ目がちな双眸を怪訝そうに細めた。

 

 「え? はあ、ありがとうございます……?」

 「それじゃ、行こうか。シル……あっ、君の名前もそれっぽいの考えないと。「原住生物殲滅兵器云々」とか、そもそも長すぎて呼び辛いし」

 「ほう。ではお手並み拝見といきましょうか! 兵器っぽくてカッコイイのをお願いしますよ!」

 

 何か案は? と水を向ける前に、先に彼女がぴっとフィリップの顔を指差した。

 甲殻に包まれた指の先端には鋭利そうな爪があるし、そもそも普通に失礼なのでやめろと言いたいところだったが、「何視点のどういうテンションなのさ」という突っ込みが先に口を突いた。

 

 兵器らしくてカッコイイ? とフィリップは素直に首を捻る。

 そもそも何かの名前を付ける行為自体不慣れだというのに、妙な追加注文まで付けないで欲しい。古龍を殺して腑分け取った素材で作った剣を「龍貶し(ドラゴルード)」と名付けたのはフレデリカだし、フィリップの実績と言うと「エレナと愉快な仲間たち」くらいのものだ。まあ、あれはふざけ半分だけれど。

 

 「兵器……兵器?」としばらく唸って、ふと閃いた。

 

 「……“カノン”」

 

 名案でしょ、と指を弾いたフィリップに、ガスマスクで目元しか見えない少女はにっこりと笑い。

 

 「なんですか、私が無駄に金属資源と火薬と人員を使うだけ使って、そのくせ魔術師一人分の火力も出ないかもしれないポンコツ兵器だって云うんですか!」

 「うわ、バレた!? クソ、この星の兵器事情に詳しいなこのポンコツ……」

 

 威嚇するように両手を振り上げたかと思うと、フィリップの肩を掴んでがくがくと前後に揺する。

 フィリップは意図した皮肉がきちんと伝わったことにちょっとした喜びを感じ、言葉に似合わない愉快そうな笑みを浮かべた。

 

 「あ! ポンコツって明言しましたね!? ゆ、ゆるせん……!! こうなったらジャンケンで勝負です! はいじゃんけんぽん!」

 「は!?」

 

 「ミ=ゴにもその文化(ジャンケン)あるんだ!?」という異文化交流による衝撃と、「いきなり何!?」という単純な驚きに襲われつつ、フィリップは鍛えられた反射神経で咄嗟に手を出す。

 

 結果……フィリップはパー。鱗に覆われたゴツい手はグーだった。

 

 「……え? こういう時ってパー出すのが定石じゃないの? ミ=ゴは違うの?」

 

 確か、いきなり早口で捲し立てられて力んだ人間は、つい咄嗟に力が入りやすいグーを出してしまうから、仕掛ける側はパーを出せば勝率が高いとか、なんとか。

 フィリップが何度か兄に仕掛けられ、仕掛け返したこともある、割と有名な話だ。

 

 「し、しまった!?」

 

 ついうっかり! と自分の両手を見下ろすポンコツ兵器。

 

 鋏の手を持つミ=ゴは、開く(チョキ)閉じる(グー)の二択が殆どだ。

 人間の手指以上に複雑で器用な作業用付属肢を持つ個体もいるが、そういう個体はそもそも試作実験機と遊ぶことをしなかった。つまり──彼女はグーを出せば絶対に負けない環境にいたのだった。

 

 ほぼ勝ち確の勝負だと思って仕掛けたら、咄嗟に慣れで対応しただけの相手に負けた。

 

 「……ねえポンコツ、まだ何か文句ある?」

 「ありません……。機体固有名“カノン”で結構です……」

 

 がっくりと肩を落とした「ミ=ゴの兵器」改めカノンに、フィリップは愉快そうに笑った。

 

 「よし。それじゃシルヴァ、案内お願いね」

 「ん! どちらまで?」

 

 フィリップの足元からぴょこりと出てきたシルヴァ。口調は貸し馬車の御者の真似だろうか。

 

 「キャンプまで……キャンプ出来てるかな。いや流石に出来てはいるか……」

 

 リリウムとモニカは放っておいたら雪合戦とか始めそうなテンションだったけれど、エレナとウォードがいれば問題ないだろう。

 

 ただ、こうも雪の酷い環境だと、良い感じの薪がなさそうだ。

 火のないキャンプは流石に想像がつかないが、辺り一面雪景色で、明らかに平常な気温ではない。毛布や防寒具の追加はあるが、焚火無しは流石に厳しい。

 

 それでもエレナは冒険経験の豊富なスペシャリストだし、ウォードもきちんと野営の訓練を受けたはずだ。どうにかしてくれるはず……どうにかしてくれてるといいなあ、と、半ば現実逃避気味の期待を口にするフィリップ。

 

 しかし残念ながら、シルヴァは頭を振って否定する。それ以前の問題だと。

 

 「もりのそとだからわかんない。……けど、たぶんできてない」

 「え、嘘? なんで?」

 「みんなもりのなかにいる。……のふけーにおそわれたのかも」

 

 森の外で戦ったのなら、シルヴァの掌握圏外だ。

 かも、というふわっとした言い方になるのも無理はない。だからそれは別にいいのだが、無視できないこともある。

 

 「ミナがいて負けた──敗走したってこと?」

 

 だとしたら不味い。物凄く不味い。

 ミナのトップスピードはフィリップの動体視力を容易に振り切り、邪神召喚を使う間もなく首を刎ね飛ばせる。

 

 そのミナが負けた……とまでは言わずとも、圧勝できない時点で、敵の脅威度は窺い知れる。

 いやまあ、ミナは余程のことがない限り面倒臭がって本気を出さないし、そもそも本気で戦わなければならないような相手からは逃げる。そんなかったるいことはしていられないと。

 

 「まあ、ノフ=ケーは自分の周囲半径100メートルに吹雪を起こして、その中を泳ぐみたいに近づいてくる狩人ですからね。こちらの最大視程は3メートル。碌な身動きも取れない風圧に、叩き付ける雪の礫、そして指先からじわじわ凍り付いていくような低温環境……。人間の戦士は目を潰されても研ぎ澄まされた肌感覚で空気の流れを感じ取り、聴覚と組み合わせて“気配”を把握しますけど、吹雪によるホワイトアウトは視界だけでなく聴覚と肌感覚も奪います。人間が勝てる相手じゃないですよ」

 「うーん……?」

 

 同じ寒冷地の生き物だけあって詳しいカノンが言うが、フィリップは納得しかねたように首を傾げる。

 

 列挙された環境要素はフィリップや、或いはエレナにさえも強烈な悪影響を与えるだろうけれど、ミナの敗北要素になるかと言われると怪しい。いや、ノフ=ケーが、その分の弱体化がミナの敗北要因になる程度には強いのか。

 

 ……本当に? 成龍を単身相手取り「まあまあ楽しめた」なんて言い放つ、化け物中の化け物である彼女が?

 

 いや、そもそもミナ相手に喧嘩を売ること自体、かなり異常だ。

 

 「……ノフ=ケーってこの星の生き物なんでしょ? 僕とかミナの臭いなんか、近付きたくもないレベルのはずなんだけど」

 「え? フィリップさん、すごくいい匂いですよ? まあ、ちょーっと匂いが強すぎるというか濃すぎるというか、香水樽にでも入ったの? って感じですけれど」

 「香水樽に入った人を見たことないから分かんないけど、同じ空間に居たくないレベルなのは分かった」

 

 そりゃあナイアーラトテップとシュブ=ニグラスを信仰しているのなら、そしてその神威を知っているのなら、フィリップの臭いは最高級の香水みたいなものだろう。

 

 だがこの星の生き物にとっては悪臭だ。野生動物は逃げ出し、ドラゴンでさえ駆除のためにブレスを使うほどの。

 それは「夜の香り」や「月と星々の匂い」と呼ばれるものに似ており、吸血鬼に特有の気配とも多少似ている。フィリップもミナの匂いの中に、マザーのそれと通じる何かを感じる。

 

 状況が判然としない。

 カノンはさっき「ノフ=ケーはなにかおかしい」と言っていたが、その異常はこれか?

 

 気にすべきこと、考えるべきことは山ほどあるが──まずはどう動くべきか、何を目的として動くべきかを決めなくてはならない。

 

 最優先事項であるカルト狩りは達成したから、次点は依頼目標である「異常気象の原因解明と解決」か? いや、原因はノフ=ケーだろうし、解決といっても殺せば終わりだろう。

 ミナを森の中に追い立てるような化け物だと仮定すると、見つけてから邪神を呼んでいる暇はない。森の中にいるというパーティーメンバーを全員回収し、森の外へ退避させ、その後ハスターに丸投げ……というのが最適解に思える。

 

 となると、第一の目標は。

 

 「一先ず、皆と合流しよう。シルヴァ、ノフ=ケーに遭遇しないルートを探せる?」

 「よゆう」

 

 ぴっとサムズアップするシルヴァに、「お願いね」と頷きを返す。

 カノンは「おや」「これはこれは」と呟きながらシルヴァの周りをぐるぐると三周し、最終的にフィリップの後ろに隠れるような位置で止まった。

 

 「それ、ヴィカリウス・システムですか? ほえー……星の表層って聞いてましたけど、人間なんかに懐くんですねえ」

 

 ヴィカリウス・システムのことを知っているのか、とフィリップは軽く眉を上げる。その前で、シルヴァもこてんと首を傾げた。

 

 「いがいとものしり? にんげんなんかをかみとみまちがえたふしあなにしては」

 「う゛っ……!!」

 

 カノンが身体をくの字に折り曲げ、鈍い呻きを漏らす。

 まるでシルヴァの言葉が質量を持って鳩尾に突き刺さったようだ。

 

 かと思うと、フィリップの後ろに隠れ、ぴっとシルヴァを指差して「フィリップさん、生意気ですよこの子! ちゃんと躾けてください!」なんてキャンキャンと吼える。

 

 「うるさいよポンコツ。というか存在格差を考えるなら、生意気なのは君の方でしょ」

 「ポンコツって呼ばないでください! せめてカノンって呼んでください!」

 

 気に入ってくれたようで何よりだと笑ったフィリップは、何も言わずに歩き始める。

 シルヴァは先導するように少し前に出て、カノンは「無視しないでくださいよ!」などとギャーギャー吼えつつも、フィリップの後ろに従った。

 

 

 

 

 



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423

 「どっちとごうりゅうする?」

 

 フィリップたちを先導して歩き出したシルヴァは、足を止めずに振り返り、後ろ歩きで進みながら問いかける。

 足元の雪に薄く足跡を残してはいるが、足を取られるような素振りは微塵もない。流石の運動神経だ。

 

 「どっちって?」

 「みなとえれな。べつべつにいる」

 

 あっちとあっち、とシルヴァは左右をそれぞれ示す。

 どうやらフィリップたちはちょうど二人の間にいるらしい。ノフ=ケーから逃げる時に散り散りになってしまったのか。

 

 「……ん? 待って? 他の三人は?」

 

 何故、ミナとエレナの二択なのか。

 というか戦闘能力的に、むしろ優先すべきは他の三人だ。特にモニカとリリウムは、戦闘能力が無いといっても過言ではないのだし。

 

 まさか、もう既に死んでいるのか? なんて心配になったフィリップだったが、そうではなかった。

 

 「ん? うぉーどともにかがみなといっしょ。りりうむはえれなといっしょ」

 「あぁ、そういうこと? それなら……」

 

 フィリップは暫し黙考する。

 

 この場合の最適解とは何だろうか。

 取り敢えず前提として、全員と合流してまず森を出る。ノフ=ケーとやらの駆除はその後、ハスターにでもやらせればいい。いま、皆が森の中にいる状態で邪神を呼ぶのは危険だ。

 

 どちらと先に合流するべきか。考えるのはそこだ。

 

 戦力的に心許ないエレナとリリウムの方に先に合流し、その後戦力的に余裕のあるミナたちと合流するのが案A。

 こちらは安定択だが、ミナがウォードとモニカを守ってくれるかは正直、微妙だ。彼女は常々、「面倒な相手が出てきたら()()()()()()()()()飛んで逃げる」と言っている。シルヴァが言うには今のところウォードとモニカを捨て置いてはいないようだが、なるべく早く合流するに越したことはない。

 

 ではそちらと先に合流し、エレナとリリウムを後回しにする案Bにするか。

 いや、ノフ=ケーの戦闘能力を暫定的にミナと同等とすると、二人の方が危険だ。最悪ミナたちの方がノフ=ケーの襲撃を受けたとしても、ミナが応戦してくれて無事に終わる可能性がある。しかしエレナとリリウムの方が襲われた場合、為す術もなく死ぬ可能性が高い。

 

 ミナがさっさとフィリップの方に飛んできて、さっさと飛んで帰ろうとしないうちは、まだ余裕がある──ウォードとモニカを見捨てるほどの面倒臭さは感じていないようだし、ここは案Aでいいだろう。エレナとリリウムを優先だ。

 ……と、その決定を下す前に最終確認。

 

 「シルヴァ、ミナはどのぐらいイラついてる? ウォードとモニカは大丈夫そう?」

 

 いや、ウォードは多分大丈夫なのだが、モニカは意外と物怖じしないところがある。──悪く言えば、身の程を弁えない向こう見ずだ。

 「フィリップを助けに行くわよ!」とか「皆を探しましょう!」とか言い出しかねない危うさがある。迂闊に動いてノフ=ケーと遭遇した時、一番危ないのは彼女だというのに。

 

 「わかんないけど、まだいっしょにいる。まりょくしがつかえないから、ふぃりっぷがごうりゅうするまではにげられないっていってた」

 「魔力視が? ……あっ、あー……そうか、そうだった。全員ブチ殺して満足して忘れてたけど、カルト狩りに行ってくるって言って出てきたっけ」

 

 魔力視は使わないで、とは言ったし、見たら死ぬし死ななくても殺す、みたいな話も、城にいたときにしたような気がする。

 

 「……まあ、それなら好都合か。先にエレナとパーカーさんを保護しよう」

 

 りょうかい、と言って、シルヴァは少しだけ進行方向を変える。

 

 フィリップはその後に続きながら、「こいつがもうちょっと人間っぽい外観だったらなあ」と、口惜しげにカノンを見遣る。

 

 鱗のある甲殻に包まれた四肢、蝙蝠のような翼膜のある翅、そしてガスマスクに隠された異形の口──並みの魔物なんかより余程異形だし、もしかしたら多少正気を損なうかもしれない。魔物として対峙する分には「気持ち悪いなあ」くらいだろうが、いきなりマスクを取って顔を見せられたりしたら、フィリップでも物凄くビビるだろう。

 

 彼女がもう少し人間らしい見た目だったら、エレナとリリウム宛ての言伝でも持たせて、フィリップはミナたちの方に行く、という別行動案もあったのだけれど……無理だ。ミナの目に留まった瞬間に、妙な魔物として殺されるだろう。

 

 ノフ=ケーの動向を完璧に把握できるナビ役のシルヴァをお使いに出すわけにもいかないし、フィリップたちも固まって動くほかない。

 

 「そういえばフィリップさんは、どうしてここに? さっきは王都にお住まいだって言ってましたけど」

 「異常気象の原因調査と解決。確認だけど、雪とか吹雪の原因はノフ=ケーってことでいいんだよね?」

 

 宛先を絞ることなく聞くと、二人ともが「そうですよ」「ん」と肯定を返してくれる。

 

 となると、原因解明はクリア。あとは解決──ノフ=ケーの排除。

 殺すか、森から追い出すか、具体的な手段はまだ決めていないが、まあどうでもいいし殺すことになるだろう。

 

 しかし、今すぐ「じゃあよろしくね」というわけにもいかない。森の中にはパーティーメンバー五人がいる。

 

 「まずエレナたちと合流してから、ミナたちを回収してノフ=ケーを避けながら森を出る。その後、ハスターを呼んで駆除だ。何か意見は……あ、いや待って? ノフ=ケーって雪山の生き物か。じゃ君の仮想敵でしょ? 駆除できるよね?」

 

 カノンの強さは今一つ不明瞭だが、ミ=ゴが棲む場所の確保──()()()()()の制圧と排除を目的として作られているのだから、雪山に棲む生物の大半は相手取れるようになっているはずだ。

 オオカミ、クマ、大型のシカなんかは勿論だが、ノフ=ケーだって同じ環境に棲息しているのだし、当然仮想敵の一種として想定されているはず。フィリップならそうする。

 

 その推測に間違いはないようで、カノンはぐっと拳を握ってドヤ顔を浮かべ──ふい、と視線を逸らした。

 

 「勿論です! ノフ=ケーなんかちょちょいのちょい──と言いたいところですけれど、あれはちょっと厳しいですね。明らかに暴走してたので、ちょっとやそっとの攻撃や痛みは意にも介さないと思いますし」

 「……このポンコツ、人しか殺せないのかな。原住生物殲滅兵器の名が泣く声が聞こえそうだよ」

 

 さっき「古龍を殺した」とは言っていたが、「自分が」とは言っていなかったし、いよいよ名前負け感が強くなってきた。

 何もあらゆる原住生物の始祖にして終末因子であるウボ=サスラを殺せとまでは言わない。ルーツを辿れば外神ザズル=コルース、そしてアザトースに至る、あのツァトゥグアを殺せというのも無理だと分かっている。他の旧支配者や旧神もだ。

 

 王龍が神格に片足を突っ込んでいるなら、まあ、それも例外として認めよう。

 

 でも神格と何ら関係のないノフ=ケーとかいうただの原住生物まで殺せないのなら、それはもう原住生物殲滅兵器の名を返上すべきだろう。キメラ番犬、とかで十分だ。

 

 「ポンコツって言わないでください! ……というか今、アルデバランの王を呼ぶって言いました? 邪悪の皇子にコネなんかあるんですか?」

 「まあ、ちょっとね。……暴走?」

 

 口に出てたか、と苦笑したフィリップは、笑ってばかりもいられないワードに眉根を寄せる。

 

 どういうこと? と視線を向ける先は、カノンではなくシルヴァだ。

 

 「たべたどうぶつがきょうぼうかするきのこがある。それのせいかはわかんないけど」

 「……あ、この前エレナが言ってたやつ!?」

 

 尋常ならざる毒性を持つキノコについては、頭の片隅に引っかかった知識があった。もうあの時エレナがなんて言っていたかは殆ど覚えていないが、確か、強力な幻覚作用と鎮痛作用があるとか、なんとか。

 

 「凶暴化するキノコ? あー……メス・オピ系モリモリのアレですか。確かに、こんな環境なら育つかもですね」

 

 メスとかオピとかはフィリップには分からないが、雪山に棲んでいたカノンも頷いている。恐らく、低温環境下でのみ繁殖するのだろう。

 

 凶暴化──エレナは何と言っていたか。幻覚と鎮痛がどうとか、バーサク化がどうとか。

 フィリップはしばらく思い出そうとしたが、ややあって、「まあいいか」と諦めた。どうせハスターに丸投げするのだから、自分には関係ないことだと。

 

 「凶暴化してたらミナの臭いも僕の臭いも知ったことじゃないってわけか。……ところでちょっと聞きたいんだけど、ノフ=ケーってもふもふ?」

 「もふもふ? 毛並みの話です? さあ、感触を気にしたことはないですけど、ナイフくらいなら弾きますよ」

 「……ごわごわ」

 

 振り返って「こいつ正気か?」という一瞥と共にシルヴァがくれた答えは、残念ながらフィリップの気に召すものではなかった。

 そして重ねて残念ながら、フィリップは絶対に正気だ。

 

 「……そっか」

 

 じゃあハスターに野生の獣の毒抜きと躾を頼む必要はなさそうだ、と、フィリップはしょんぼりと肩を落とした。

 

 それからしばらく雑談しつつ歩いていると、木立の合間に不自然な煌めきを見つけた。

 ほんの一瞬だが、雪や水滴の輝きではない。緑と茶色と白の混ざり合った視界に、眩く輝く金色だ。

 

 目を向けても何も見当たらず、気のせいかと思ったフィリップだったが、シルヴァが向かう先もちょうどそちらだ。ややあって、フィリップは木の枝や雪を被せて藪のように偽装されたテントを見つけた。

 

 「とうちゃく!」

 

 シルヴァが雪の上でぴょんと跳ねてテントの上に乗ると、一つの人影がテントの中から慌てたように転がり出てきた。

 

 「……フィリップ君! 良かった、合流出来て!」

 「エレナこそ、無事でよかったよ。パーカーさんは?」

 

 輝かくような笑顔を浮かべるエレナの髪が、梢から差し込む薄い陽光を受けて煌めく。フィリップがさっき見たのはそれだ。

 

 リリウムはテントの中にいるのだろうが、出て来ないのは少し不思議だった。

 

 「それが……って、それ何?」

 

 エレナは初め、フィリップが少女を連れているのだと思った。

 カルト狩りに行った道中や最中に出会ったとか、或いはカルトに囚われていた子を助けたとか、カルトの一人と何かの理由で仲良くなったとか。そういう具体的な理由には見当が付かなかったが、とにかく「誰か」と一緒だと。

 

 しかし、改めてその人影に目を向けると、およそ人間とは思えない特徴を多数備えていることに気が付く。

 

 ごつごつした鱗のある手足、背中でぱたぱたと動く翼、立ち方と歩き方から見て、骨格と筋肉の配列か内臓配置のどちらか──或いはどちらともが、人間やエルフのそれではない。

 

 見た目も、そして恐らく内側も、人間ではない。

 

 エレナが僅かに立ち方を変えたことに気付く者はいない。

 その動きが攻撃の準備動作であることにも、当然、誰も気付かない。妙な動きをしたら、エレナの長い足はそのリーチを最大限活かした槍のように繰り出され、謎の存在の頭蓋を熟れた石榴のように弾けさせる。

 

 しかし。

 

 「それとは失礼な! ……とか言ってみちゃったりして! 代名詞とか助数詞なんて言語間で全然違いますし、なんでもいいですけどね!」

 

 カノンがけらけらと明朗な──状況を全く理解していない馬鹿っぽい笑い声を零すと、エレナは愕然として目を見開いた。

 

 「喋った!? な、なに? 上位の魔物?」

 

 普通、魔物は言葉を解さない。

 それは吸血鬼や人狼や悪魔のような、優れた知性を持つ上位の魔物──場合によっては「魔人」や「魔族」と称される、ごく一部の種にのみ見られる特徴だ。

 

 正確には、大半の魔物は知性どころか明確な意思を持たない。戦闘本能と殺人本能に突き動かされ、衝動によって動く野獣ともいえる。

 言語を解するだけの知性も、言語を介して伝えるような意思も、魔物は持ち合わせていない。

 

 明確な人外でありながら、明らかに人語を解し使用している。それは眼前の存在が、一般的な魔物の範疇外にあることを示していた。

 

 しかし、フィリップは「うーん?」と首を傾げる。

 

 「……まあ、そんな感じ? 上位かどうかは別として、知性は……会話するぐらいの知能はあるよ。王都の神父様に用があるらしいから、帰り道を一緒に付いてくるんだって」

 「なんで言い淀むんですか! 知性に疑う余地は無いと思いますが!」

 「本当に知性がある人はね、カノン、自分の知性を疑うものなんだよ」

 

 フレデリカを思い浮かべながら言うフィリップに、カノンは「そ、そうなんですか……」と真剣に頷いている。

 フィリップが「どうして言い淀むのか」という自分の問いに答えていないことに、誤魔化された馬鹿は気付かなかった。

 

 「……悪い子じゃなさそう、かな? カノンちゃんって言うんだ。ボクはエレナ。よろしくね」

 

 軽く手を振るエレナに、カノンも「どうも!」とフランクに手を振り返す。意外と波長が合うのだろうか。

 

 エレナはにっこりと笑っていたが、すぐに表情を引き締めてフィリップを見据える。

 

 「それで──シルヴァちゃんからどこまで聞いてる?」

 

 

 



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424

 問われて、フィリップはほぼ全てを話した。

 森の異常気象の原因がノフ=ケーという人類が知らない生き物であること、謎のキノコを食べて凶暴化していること、それから、カルトは全滅させたこと。

 

 唯一隠したのは、カノンの正体くらいだ。カルトにボコボコにされていた魔物の変異種で、カルトを皆殺しにしたフィリップが偶々助けた形になり、妙に懐かれたということにしておいた。

 

 「へぇ。ノフ=ケーって言うんだ、あいつ」

 

 人間が知らないはずなのに、なんで名前が付いてるの? という面倒な質問は、幸いにして飛んで来なかった。

 まあ聞かれたところで、シルヴァは人語からエルフ語、邪悪言語まで、森の中で使われたあらゆる言語を解するマルチリンガルだ。例えば蛇人間のような、人類圏外の存在が名付けたことにでもすればいい。

 

 実際にそうかもしれないが、正直、フィリップにはどうでもいいことだ。

 

 「そのノフ=ケーが吹雪の中でいきなり襲ってきたんだよ。それでリリウムちゃんがパニック起こして逃げ出しちゃって、他の子を姉さまに任せてボクが後を追ったんだけど……」

 

 言って、エレナはテントの入り口をさっと開く。

 中には寝袋が一つ置かれており、もこもこのそれに包まれたリリウムが苦しげな寝息を立てていた。

 

 悪く捉えるとノフ=ケーを──初見の魔物の相手をミナに押し付けたようにも聞こえるが、一番強いミナにその場を任せた判断は正しい。

 

 「走ってる途中で、木に積もってた雪が落ちてきて下敷きになったんだ。さっきテントを立てて着替えさせはしたけど、今は様子見かな」

 

 「そうなんだ」と頷いたフィリップは、脳裏に浮かんだ「どうしてミナたちに合流しなかったのだろう」という疑問を「まあいいか」と放り捨てた。

 

 リリウムの症状は、軽微な脳震盪と冷温によるショック、そして軽微な低体温症だ。

 エレナのフィジカルも大概人間離れしているから、彼女が雪に埋もれてからエレナが掘り返すまで、吹雪の妨害の中でもそれほど時間はかからなかった。

 

 だから致命的な体温低下には至っていないが、吹雪の中を歩いたりはできないし、エレナが担いで吹雪の中で戦っていたミナたちの方に戻る、なんてのは論外。

 

 本当なら今のように寝かせているのもよろしくない。まだ嗜眠状態のようだが、眠ってしまうと代謝が低下し、体温が上がらなくなる。とはいえ相手は脳震盪患者。叩き起こすわけにもいかないし、今はとにかく体を温めながら様子を見るしかない。起きて、何か温かい飲み物でも飲んでくれたらいいのだが。

 

 「……しばらく移動できないか。なら、火でも起こす? パーカーさんもだけど、エレナも僕も体温はじわじわ下がってきてるはずだし。シルヴァ、火が付きそうなものってある? できればこの近くで」

 

 残念ながら、カルトが集めていた薪の類は、そのテントや装備品の類を燃やすときに全部使ってしまった。

 まさか魔導書をそのまま残していくわけにもいかなかったので、やったこと自体は後悔していないが……こんなことになっているのなら、あっちはクトゥグアに任せても良かったかもしれない。カノンが発狂するとは思えないし。

 

 幸いにして、シルヴァは「たいまつのきがある。じゅえきがよくもえるやつ」と言ってフィリップの手を引いてくれた。

 

 「じゃ、樹液取ってくる」

 「うん、お願い。あ、いきなりカルト狩りとか言って単独行動したことに関するお説教は後でね」

 

 僅かに怒気を滲ませて言うエレナに、フィリップはむっと眉根を寄せて立ち止まる。

 

 「は? 別にエレナに怒られるようなことはしてないでしょ」

 

 いや──思えば、エレナは前々からそうだ。フィリップがカルトを殺すことに、苛烈な悪意を向けることに否定的だった。

 ここらで一度、ビシッと言ってやるべきかもしれない。

 

 邪魔になるだけならいいが、邪魔をするなら殺すと。

 

 「ボクも別に、あなたがカルトを憎むこと、殺そうとすることに怒ってるワケじゃないよ。思うところはあるけど、あなたはもっと大きな経験をして、もっと大きな感情を持ってるんだと思うから。……でもね、フィリップ君」

 

 不愉快そうに表情を歪めるフィリップの頭を、エレナは宥めるように撫でる。

 そして手は一度離れ──鉤のように曲げられた指が、両の蟀谷を穿つように掴んだ。

 

 「“パーティー”って言葉、ご存知かな? もしくは“団体行動”。言葉合ってる? ボクってエルフ語が母語だからさ、人語はよく分からないんだけど、もしよかったら意味とか教えてくれるかな」

 

 きりきりと万力のような力で頭蓋骨を締め上げられ、フィリップは慌ててエレナの腕を何度もタップする。

 

 ぴき、と鳴ったのはエレナの指関節か、或いは。にっこり笑顔のエレナがとても怖い。

 

 「痛い痛い痛い!? そ、そうだね! うん、単独行動したことはごめんなさい! 今度はエレナにも一声かけていくから許して!」

 

 フィリップの悲鳴を聞いて、エレナは「うーん?」と暫く悩んだ後──その間も指の力は全く緩まなかった──「まあ、一先ずはそれでいいよ」と解放した。

 「痛ったぁ……」と呻きながら頭を擦るフィリップに、エレナは「あ、ご、ごめんね? ちょっとやり過ぎた?」なんて慌てているが、加減を間違える可能性があるなら二度とやらないで欲しい。

 

 ともかく燃料になる樹液を集めるべく、エレナから小瓶を手渡された時だった。

 

 ふと、耳や指先といった末端が冷えていく感覚を味わう。

 木々の間を通り過ぎていく森と雪の匂いを持った風が、不意にその温度を10度ほども下げたようだ。

 

 直後、エレナが咄嗟にテントを掴み、逆の手でフィリップの腕を捕まえた。

 

 「何──ッ!?」

 

 直後、何? なんて単純な疑問を口に出す暇もなく突風が吹き、すぐに冷たい礫のようなものが混じる。

 視界は白く染まってから、それが漸く雪だと分かるほど突発的な気象変化。明らかに普通ではない吹雪の襲来だ。

 

 人が風に煽られて飛んでいく、ということはない。そんな竜巻みたいな風速・風圧ではない。

 だが──これは、確かに腕を握って正解だ。腕を握られている感覚が薄れていくほど全身に絶え間なく雪の粒が打ち付けられ、耳元で轟々と唸る風の音が手を握る距離にいるエレナの声を掻き消している。

 

 エレナに掴まれていなければ、そして恐らくエレナもテントを掴んでいなければ、方向感覚を失い、何もかも見失ってしまうだろう。

 

 「──!!」

 

 何事か叫んだエレナがフィリップの腕を引き、テントに放り込むようにして風から守る。そのまま彼女も転がり込み、最後にカノンが続いた。

 シルヴァは前触れの突風が吹いた時点で飛んでいきそうになっていたので、フィリップが咄嗟に送還した。尤も、飛んでいったところで森は彼女の掌というか、彼女が森だ。どうってことはないのだが。

 

 「ノフ=ケーが近くを通ってるみたいです。静かに……」

 

 カノンの言葉に、フィリップとエレナは同時に頷く。

 話によれば、ノフ=ケーが展開する吹雪は自身を中心として半径100メートルにも広がる。フィリップたちを目的として接近してきたわけではなくても、近くを通るだけでこの有様だ。

 

 「……リリウムちゃんも、おはよう。目が覚めたみたいで何よりだよ。ちょっとだけ静かにしててね」

 

 暴風の音か、テントに飛び込んできた人の気配でか、飛び起きたリリウムの口を覆ったエレナが優しく諭すと、彼女はこくこくと頷いて理解を示す。

 何を言われたのか、何をすべきか、何が起こっているのかが理解できているのなら、脳震盪や低体温の影響はかなり抜けているとみていいだろう。

 

 風に叩かれてばさばさと音を立てるテントを内側から押さえながら、エレナはほっと安堵の息を吐いてリリウムの口から手を放した。

 

 「リリウムちゃん、大丈夫? 寒くない?」

 「だ、大丈夫……じゃないかも。足元が寒い……」

 

 少しだけ震えながら言うリリウム。

 もこもこの寝袋に包まれた足元は見えないが、もじもじと足先を擦り合わせて少しでも温めようとしている動きは分かった。

 

 「寒いって感じてるうちは大丈夫なんだっけ?」

 「寒いって感じてるうちに()()()()()、ね。それ以降だと、厚着したぐらいじゃ体温が上がらなくなる」

 

 フィリップの危うい覚え違いをエレナが鋭く訂正する。

 魔術学院の冒険者コースでやった応急処置の授業で習ったはずなのだが、フィリップにしては珍しくうろ覚えだった。授業中に「低体温症ねえ……。ホントに記憶にないんだけどなあ……」なんて考えていたのが主な原因だ。

 

 「……エレナ、ビーカー出して。飲めるやつ。お湯沸かそう」

 「テントの中で火は……とも言ってられないか」

 

 フィリップが要求したコップ代わりのビーカーをリュックから出すと、エレナは次にシャツの裾をぺらりと捲り、眩いほど白い肌を露にする。

 テントが守ってくれているとはいえ、この吹雪の荒れ狂う中で服を脱ぐつもりなのかと思ったフィリップは、目を背けることも忘れて正気を疑うような目を向けた。

 

 しかしそんなわけはなく、エレナはシャツの中に手を入れると、水の入った革袋を取り出した。

 

 「はいこれお水。……なにその顔。こうしてたら水が凍りにくいんだよ」

 

 物言いたげなフィリップとリリウムに、エレナが弁明するように講釈する。

 リリウムは「はしたないわよ」と言ってエレナのシャツを引っ張って戻し、フィリップは「なんか生温いし湿ってる……」と複雑な表情をしていた。

 

 エレナの汗なんか訓練中に散々触っているし、何ならほぼ初対面の時分に血に触れている。今更触りたくないほど気持ち悪いとは思わないが、触っていて気持ちのいいものではなかった。

 

 「ま、まあ、いいや。《ファイアーボール》……。これなら最小限のリスクで済むでしょ」

 

 蝋燭大の小さく頼りない炎だが、それでも炎だ。何かの間違いでテントに火が付く可能性はある。だが少なくとも薪だの樹液だのを燃やすのと違って、煙は出ない。

 

 問題は蝋燭レベルの炎で何分間加熱すればいい感じに温まるのか、いや、そもそも水を温めるだけの火力はあるのかという話だ。あまり長々と魔術を展開するだけの魔力はない。

 

 「ちっちゃ……。これ煮沸できなくないです? ぷすす、フィリップさん、魔力の方はお粗末なんですアッツゥイ!?」

 

 フィリップは指先に灯った小さな火を、顔の下半分が見えないのに妙に腹の立つ笑顔を浮かべたカノンの額に押し付けた。

 悲鳴を上げて跳び上がったカノンだったが、ただの反射だったようで「いやあんまり熱くない? でもちょっと熱い……」と傷一つない額を不思議そうに擦っていた。突然の暴行に「何してるの!?」と非難の声を上げたエレナとリリウムも、カノンが平然としているのを見て浮かせた腰を戻す。

 

 肉の焼ける臭いがしないどころか「ジュッ」とも言わなかったので、本当に“ちょっと熱い”程度なのだろう。

 

 「温度は十分みたいだし、これで加熱しよう。味のしないぬるいお湯にしかならないけど、こういう時は身体の内側から温めたほうがいいよ」

 

 ビーカーの底に触れるようにして中の水を温め始めたフィリップは、魔力欠乏の予兆である不意の眠気から来た欠伸を噛み殺す。

 思えば、今回のカルト狩りは少し充実し過ぎていた。戦闘魔術師や戦士、神話生物の類がおらず、招来魔術らしきものを使えたのもどうやら一人だけ──いや、神格との交信ならともかく、招来術式なんて相当気に入られていないと授けられないし、魔導書か何かで会得しても神格側が応えてくれないから、使い手がそもそも滅多にいない魔術だけれど。あれはもしかしたら本物の巫女だったのかもしれない。

 

 ともかく、フィリップが一方的に狩り殺せる弱者ばかりだったから、ちょっと遊び過ぎた。

 魔力の低下は身体機能の低下。元々の魔力総量も回復力も貧弱なのだから、こんな寒冷環境ではっちゃけるべきではなかったのに。……まあ、べき論なんかで止まるような安い憎悪は持っていないのだけれど。

 

 「フィリップ、医学の知識もあるの?」

 

 そんな益体のないことを考えて脳を回転させ、眠気を飛ばしていると、寝袋に包まったままのリリウムがぽつりと呟く。

 

 医学? と首を傾げたフィリップは、リリウムがフィリップは低体温症の治療法を熟知しているのだと勘違いしていることに気付いた。

 

 「いいや? 風邪ひいたときにお母さんが言ってた。間違ってる?」

 「ふふふ……。ううん、合ってるよ」

 

 水を向けられて、エレナは存外に可愛らしい知識源にくすくすと笑う。

 

 そんなことをしているうちに、テントの外が俄かに静けさを取り戻す。

 吹雪は襲来と同じくらいの唐突さで過ぎ去ったようだ。

 

 ちょうど、ビーカーの水もやや冷めた紅茶くらいの温度にはなっている。沸騰する気配は一向に無いが、そもそも飲み水だし、煮沸する必要はない。これで十分だろう。

 

 「こんなものかな。流石に……っていうのも恥ずかしい話だけど、魔力がカツカツだ。これ以上やったら戦えなくなる。さっき言ってた樹液を探してくるよ」

 「あ、ありがとう……」

 「よろしくね、フィリップ君。くれぐれも気を付けて……って、シルヴァちゃんがいれば大丈夫か」

 

 リリウムにお湯を渡し、エレナに断りを入れてテントの入り口を潜る。

 「じゃあ私も」とついて来ようとしたカノンは「いや要らない。二人を守っ……まあ盾ぐらいにはなるでしょ」と押し戻した。

 

 「あーあ。なんでこう現代魔術ってのは魔力効率が悪いんだ? 領域外魔術を見習ってほしいよね」

 

 少し先を歩くシルヴァに向けたわけではなく、単にじわじわと全身に広がっていくような倦怠感を誤魔化すために愚痴を声に乗せる。

 

 フィリップの魔力総量を100とすると、『萎縮』や『深淵の息』は一発あたり3くらい消費する。『ハスターの招来』『クトゥグアの招来』は15くらいだ。

 蝋燭のような火を灯す『ファイアーボール』一発が食う魔力量は、約25。どう考えても威力と消費魔力のバランスが取れていない。

 

 まあその代わり、現代魔術には汎用性とか拡張性とか利便性とか、フィリップの喉から触手が出そうなくらい欲しい要素を持っているけれど。

 手持ちの領域外魔術で火を出そうと思ったら、クトゥグア一択なので最悪森一個が消し飛ぶ。利便性もクソも無い。

 

 しばらく歩くと、シルヴァが一本の木の傍らで足を止め、その幹をぺちぺちと叩いた。

 薄い鱗状の樹皮を持つ針葉樹で、実が良い感じの焚き付けになると野営訓練の時に教わった木だ。

 

 「ふぃりっぷ。このき」

 「あー、これね。オッケー。ドライアドさんすみません、けど命が懸かりそうなので……ッ!」

 

 龍貶しを一閃し、切っ先を僅かに徹す。返す刀でもう一太刀入れると、樹皮の一部がくの字型に切り取られてぽろりと落ちた。

 

 じわじわと染み出す樹液を小瓶に移しながら、フィリップはふと樹上を見上げて問いかける。

 宛先は暇を持て余して木に登って遊んでいるシルヴァだ。

 

 「そういえば実際のところ、ドライアドってどこまでやったら怒るの?」

 

 迷子防止に樹皮に傷をつけるくらいなら大丈夫とは知っていたが、樹液が出るくらい深々と傷つけても大丈夫のようだし、意外と寛容なのだろうか。

 

 シルヴァはそんなことを考えるフィリップを呆れたように見下ろしたかと思うと、木登りを再開しながら「……さあ?」と適当に答えた。

 

 実際、知るわけがない。

 フィリップが森に入った瞬間に崩壊が始まり、例外なくぐちゃぐちゃのどろどろになる劣等存在が、どうやって「怒る」なんて余裕を持つのか、シルヴァには知りようがない。

 

 だが、まあ、フィリップ相手に「怒る」ことができたなら、その時はきちんと、フィリップに“異常”として報告しよう。

 

 そんなことを考え、シルヴァは一人くすりと笑った。

 

 「森」にとって、ドライアドは人間よりずっと付き合いが長いし深いし、ドライアドはいるが人間がいない森なんてのは、この地上に、それこそ森の木々の如く沢山あるけれど──いつの間にか、ヴィカリウス・シルヴァの中ではドライアドがいることの方が「異常」になっていた。

 

 

 

 



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425

 「……さっきから気になってたんだけど、それ、その子は何?」

 

 フィリップがテントを出て行ったあと、リリウムはビーカーのお湯をちびちびと啜りながら尋ねる。

 両手はしっかりとビーカーを包んでおり、向けられているのは視線だけだが、意図を測りかねる方が難しい問いだ。

 

 視線の先にいたカノンは「私ですか?」なんて惚けたことを言っているが。

 

 「カノンちゃん。ボクもよく知らないんだけど、フィリップ君が拾ってきた魔物……?」

 

 拾ってきた? とリリウムは思いっきり怪訝そうな顔をするが、エレナだって詳しい説明を受けたわけではない。リリウムの処置や吹雪の襲来で、敵意の有無を推し量るくらいの余裕しかなかった。

 

 見た限り、ヒトガタではあるが格闘技術を身に付けている様子はないし、大人しくしている。

 手足と翼はかなり異質に映るし、この雪の積もった森で襤褸切れ一枚なのも不自然極まるが、それ以外の部分や立ち居振る舞いは人間と然程変わらない。フィリップが炎を押し付けたときは、思わず「女の子の顔に何してるの!?」なんて怒りそうになったくらいだ。

 

 「なんだか怯えさせてしまったみたいですけれど、私は特にあなたたちに危害を加えるつもりはありませんよ! 一時的とはいえ同道させて貰う身ですからね!」

 

 宣誓するように片手を挙げて言うカノンに、リリウムは「魔物……?」と首を傾げる。

 外見はどう見ても()()()()()()が、かと言って、一目で魔物だと判別するには人間味がありすぎる。……一見したら人間で、よく見てもエルフな超上位の魔物がパーティーメンバーにいるので、外見情報があまり信用できないことを、彼女は知っているはずなのだけれど。

 

 「同道? 一緒に来るの?」

 「はい! フィリップさんが王都まで案内してくれるそうなので!」

 「え? なんで……?」

 

 それが嬉しいとか嫌だとか、そんな感情が湧き上がる前に噴出した疑問がリリウムの口を突いて出る。

 

 エレナもそこは引っかかっていた。

 あのフィリップが──ルキアやステラや衛士団を何よりも大切に思い、人類領域外の存在を苛烈なほどに警戒するフィリップが、こんな得体の知れない魔物を彼らの傍へ近づけるのは不自然だ。

 

 「確かに会話は成立するし、敵対的でもないみたいだけど……」

 「それは多分……」

 

 顎に手を遣って考えるカノンの仕草も、視線を斜め上に彷徨わせるところも、何もかもが人間らしい。

 その手は黒っぽい鱗に覆われてガントレットのようなのに、背中では蝙蝠のような翅がぱたぱたと軽く動いているのに、目につく動作や所作が全て人間味を帯びている。

 

 分かりやすい動きを目にしたエレナやリリウムが、“人間”の動きを目にしたと錯覚してしまうほどに──目の前のそれが魔物であるという意識を薄れさせるほどに。

 

 その一挙手一投足が、二人から警戒心を奪っていく。その一挙手一投足を目にするごとに、人間であると錯覚していく。

 

 そして。

 

 「多分、フィリップさんが私のことを好きだからですね!」

 

 その言葉は、二人の警戒心を一旦棚上げするほどの強烈なインパクトがあった。

 

 「……は?」

 「えっ!?」

 

 エレナらしからぬ低い声と、色めき立ったリリウムの声が重なる。

 エレナは「そんなわけないと思うけど」と胡乱な顔だが、リリウムは不意に降ってきたパーティーメンバーの恋バナに興味津々だった。

 

 「いやあ、私だって人間なんかに好かれたって困っちゃうんですけどね! でも「好きになった」と明言されてしまったからには、流石に自覚くらいはしておかないとフィリップさんが可哀そうですしね!」

 

 仕方ないですねえ、と腕を組んで頷くカノン。

 確かにフィリップは「段々好きになってきた」とは言ったし、実際、好きか嫌いかで言えば好きな方だ。まあ、この発言を聞いていたら二度と喋れないように喉を切っておくくらいしそうだが。

 

 神話生物を野放しにして後々衛士たちが見つけたりしたら厄介だし、殺しておこう……と、転ばぬ先の杖的に殺さない程度には好きになった、というだけだ。

 

 そんなことは知らないエレナとリリウムは、片や憂鬱そうに顔を背け、片や大興奮で詰め寄る。

 

 「王都には行かない方が良いんじゃないかなあ……。ルキアちゃんとかステラちゃんとか、絶対怒るし……。お互い以外に負けるのは絶対に許せないってタイプだよ、あの子たち」

 「フィリップに口説かれたってこと!? じゃあ一目惚れ!?」

 

 視線を背けたエレナの控えめな制止はリリウムの興奮に掻き消され、いやあどうでしょうね、とカノンは照れたように頭を掻く。

 

 「魔物としては知性があるだけ上位だと思うけど、流石にあの二人には勝てないだろうし、ボクも流石にフィリップくんが魔物と恋仲になるのはなあ……。姉さまだって嫌がりそうだし……」

 

 というか、ペットがソドミストになったりしたら、ミナはあれこれ悩んだ挙句にフィリップを去勢しかねない。

 そしてそんなことをすれば、ルキアとステラも黙ってはいない。良くて一撃必殺の神罰術式が炸裂、最悪、王都全域を巻き込む大戦争(喧嘩)だ。

 

 悲しいかな、エレナにはそれを止める力が無い。どころか、戦域にいたら巻き込まれて誰にも気付かれないまま死ぬ。

 

 「プレゼントも貰ったんですよ!」

 

 自分の頬を両手で挟むようにしてガスマスクを示したカノンに、リリウムはますます興奮したようにビーカーに残ったお湯を一息に飲み干し、目を輝かせてカノンに更に詰め寄る。

 

 「そのマスクね! プレゼントのセンスはどうかと思うけど、確かに似合ってる!」

 

 リリウムの言葉に、カノンは「えへへ」と照れたように笑う。

 口元の動きは見えないが、垂れ目がちな目元が柔らかく細められ、本当に嬉しそうだ。「嬉しそうに笑っている人間」のように、見える。

 

 「えへへ。私は口元を隠すと美人だって、フィリップさんも言ってましたからね! まあ人間の美的感覚なんて……どうしました?」

 

 カノンは言葉を切り、不思議そうに尋ねる。

 

 リリウムは思いっきり眉根を寄せて不愉快そうだし、エレナも「うわあ……」と呆れと苦笑の混じった微妙な表情だ。

 

 「……それ、フィリップに言われたの?」

 「フィリップくんが……? いや、言いかねないけど……」

 

 フィリップは意外と他人を褒め慣れている、というか、慣れ過ぎている。

 ルキアとステラと、ミナ──正確にはディアボリカのせいで。特に何も考えることなく、平均以上なら「可愛い」とか「綺麗」とか、普通なら照れてしまうような誉め言葉をストレートに口に出せる。

 

 心の奥底で「まあマザーには到底及ばないけど」とか、「ミナはともかく、ルキアと殿下にもまだまだ敵わないけどね」とか、失礼な比較をしていても。

 

 そして確かに、ガスマスクで隠れていない部分、垂れ目がちな双眸は笑うと柔和に細められ、可愛らしくはあるとエレナも思う。

 

 しかし──。

 

 「有り得ない! 口元隠したらとか、失礼過ぎ! カノンさん、それ取って!」

 

 ばたばたと手足を暴れさせるリリウムの言う通り、失礼過ぎる物言いだ。

 どれだけ仲良くなってもルキア相手に敬語を使い続け、ステラのことを、敬意も隔意もない渾名のような調子ではあるが「殿下」と呼び続けているフィリップらしくない。基本的な礼儀を、彼は確かに知っているはずだ。

 

 なんてエレナは考えているが、フィリップにとって「礼儀」が適用されるべきは人間と、後は精々その領域内にいるモノ。上位者である吸血鬼や龍、精霊くらいまでだ。

 

 その範疇外である「ミ=ゴの兵器」に、智慧を持つモノに、フィリップは礼儀を尽くす必要性を感じない。むしろその逆ですらある。

 

 「あのクソバカ、帰ってきたら説教──、……えっ?」

 

 ヒートアップしていたリリウムの声が途切れ、殆ど呼気だけのような驚愕が漏れる。

 その視線は、彼女の言葉に従ってガスマスクを外したカノンの顔に釘付けになっていた。

 

 顔──顔面部、という意味では、辛うじて“顔”と言える。

 

 人間は人間の顔を、同族の顔を認識する能力に長けている。長け過ぎている。それは人間と同じ顔の造りをもつエルフも同じだ。

 そして過ぎたるは猶及ばざるが如し、という言葉の通り、人間の顔認識能力は高すぎるあまり正確性に欠ける。点が三つ逆三角形に並んでいるだけで、それを顔であると認識してしまうほどなのだから。

 

 そんな人間の目と脳は、眼前のそれを同族の顔と認識しなかった。ゆっくりとマスクを取ったカノンの顔を。

 

 窮屈で不必要な防毒装備に押し込められていた第一顎を解放し、籠った熱を放出するような熱い吐息が漏れるのは、ほんの僅かに人間のそれに近しい形状の第二顎。生々しい口内粘膜は涎で濡れて妖しく光り、並ぶ牙の鋭さを誇るように見せつけていた。

 

 人間では有り得ない構造。人間では有り得ない表情。人間では有り得ないモノ。

 

 分かっていたはずだった。

 眼前のそれが人間ではないことなど、見れば分かり、見て分かっているはずだった。

 

 鱗のあるモノ。

 翼のあるモノ。

 

 喜怒哀楽を持ち合わせ、身振りや表情で表現するモノ。

 

 思い出すときに上を向いて、思考するときに俯く癖があるモノ。

 

 垂れ目がちな双眸をふにゃりと細めて笑う、柔和な笑顔が可愛らしいモノ。

 

 それが人間ではないと、外見だけで分かっていたはずなのに──その飛び抜けた異形の部位を目の当たりにして、二人はそれが人外であることに初めて気が付いたような、甚大な衝撃を受けた。

 

 「な、ん……」

 「あ、ぇ、えっ……?」

 

 驚きの余り、エレナもリリウムも声を失う。

 

 思わず後ずさりしようとしたリリウムは、動きを妨げる寝袋を慌てて脱ぎ去り、身体の前で抱きしめる。その柔らかで厚い布と羽毛が、眼前の化け物から守ってくれると信じているかのように。

 

 エレナはしばらく呆然としていたが、ゆっくりと開きっぱなしだった自分の口を覆い、昏く淀んだ目を伏せた。

 

 「あれ? どうしました?」

 

 カノンは不思議そうに首を傾げる。

 その人間らしい所作が、怪訝そうに細められた目元が、いやに人間らしく。それだけに、目から下の異形がいっそう際立って見えた。

 

 「もしもし? ど、どうしよう、何もしてないのに壊れたー、なんて、フィリップさん信じてくれるかな……」

 

 カノンはあわあわと慌てる。

 フィリップ本人は「邪神が近くに居るだけの人間だ」なんて言っていたが、そんなはずはない。外神が顕現しようとして平然としている人間など、いるはずがない。

 

 神官か、それに類するナイアーラトテップかシュブ=ニグラスの寵愛を受けるものだとカノンは睨んでいる。

 彼自体はそれほど脅威ではないが、絶対に怒らせるべきではない存在だと。

 

 「うーむ。無実の罪で叱られるくらいなら、ホントに殺して怒られた方が得かなあ……。いやこのヒトたちを殺す必要は別にないんだけど……」

 

 どうせ怒られるなら、やっていないことで理不尽に怒られるより、やって怒られた方がいいのでは?

 そんな危うい思考を走らせていたカノンの前で、エレナがすっと視線を上げる。

 

 そして──甲高い金属音が鳴り響いたかと思うと、テントは内側から破裂するように引き裂かれた。

 

 

 

 

 



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426

 時間を少し遡る。

 六脚の熊が出たとき、ミナは思わず飛んで逃げるところだった。

 

 吸血鬼の目は完全な闇をも見通すが、それはあくまで光源無しに物が見えるというだけ。大量の雪が物理的に視界を遮る猛吹雪の中では、人間同様に3メートル程度の視程しかない。

 魔力のチャンネルを物質から魔力へシフトさせれば、或いは見通せるかもしれないが、この吹雪は魔術で作られたものだ。魔術的な煙幕のように働く可能性もあるし、そもそも、魔力視を使うこと自体をフィリップが嫌がっている。

 

 となると、ミナには周囲三メートル外を把握する術がなく、相手はミナの索敵圏外から吹雪とほぼ同等の速度で襲い掛かってきた謎の存在。

 

 嫌になるほど面倒な状況だ。

 

 「はぁ……」

 

 方向感覚の失せ始めたミナは深々と嘆息すると、記憶を頼りにウォードとモニカがいた方向に足を向ける。

 

 ミナ自身はどうでもいい、食欲も催さないくらい本当にどうでもいい相手だが──フィリップが安否を気にするのはこの二人だ。最優先がモニカ、次点でウォード。

 

 この森に来るまでの道中、何度か魔物の襲撃に遭ったが、フィリップは戦闘前や戦闘中、よくモニカの方を見ていた。

 自分で守ろうとするのではなく、視界に入ろうとするわけでもなく、エレナかミナかウォードがモニカを守る位置にいることを確認するだけだ。誰もいないことは一度もなかったが、もし誰もいなければ自分で守りに行っただろう。

 

 ミナは初め、フィリップがパーティー内で一番の弱者を気にしているのだと思っていた。

 だが、フィリップをよく見ていれば違うと分かる。フィリップがモニカに向ける視線には親密さや、時には適当な兄姉に対する呆れのような感情が濃く出ている。しかし、ふとした瞬間に青い双眸を過るのは、ルキアやステラに対するものとよく似た色だ。

 

 庇護欲、と言うのだろうか。あれも。

 ミナがフィリップに対して抱くものと、部分的には近い。可愛いもの、弱いもの、好きなものに対する庇護欲求ではなく、飼い主としての義務感の方に。

 

 ウォードに向ける目は、それよりずっと分かりやすい。

 剣の一人目の師匠である彼に、その技術と強さに向けるべき信頼と憧れ。そして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()冷笑と庇護欲。ミナがフィリップに向けるものの、また一部だ。

 

 そう考えるとペットが飼い主を真似ているようにも思えて、ミナの思考が止まって緩む。

 ペットは何をしていても、何もしていなくても、ただそこにいるだけで可愛いものだが、自分を真似るなんて可愛すぎる。この場に居たら抱きしめているところだ。

 

 ──なんて、そんな緩んだ思考が、急速に冷える。

 

 視覚と聴覚と肌感覚。

 戦闘中に使う外界認知能力のうち、視覚以外はほぼ完全に死んでいる。聞こえるのは吹雪の吹き荒ぶ轟々という音だけ、肌に感じるのは雪混じりの強風だけ。

 

 しかし、三メートルより先はただの白い空間にしか見えない視界の中に、一瞬だけ黒いものが混じる。

 

 直後、甲高い剣戟音が風の音を切り裂いて鳴り響いた。

 

 「……凄まじい奇襲性だけれど、肝心の不意討ちを防がれるようでは落第点ね。あの二人なら私を仕留めていたでしょうに」

 

 ペットのことを考えて口元を緩ませていた、子煩悩な飼い主の姿は最早無い。

 白一色の中でも眩く輝く白銀の断頭剣を手に、振り下ろされた四つの剛腕を一太刀で打ち払ったミナの双眸には、雪よりも冷たい殺意の光が宿っていた。

 

 「──!?」

 

 白い世界にぱっと赤が咲き、低い咆哮が風の音に混じる。

 その声には痛みと、不可避のはずの奇襲が容易く防がれ、反撃までされたことに対する驚愕が籠っていた。

 

 ミナの言葉の通り、ノフ=ケーの奇襲性は驚くほど高い。5メートル以上の巨体にも関わらず、風圧をものともせず俊敏に吹雪の中を泳ぐように移動し、何処に居るのかがまるで分からない。

 急接近してくる吹雪には気付けたミナも、三メートルに狭められた認知圏の外を知覚することは出来ない。ノフ=ケーの位置を把握して構えることは不可能だ。

 

 だから、()()()()()()()

 

 攻撃態勢で接近してきたノフ=ケーが半径三メートルに入った瞬間に剣を構え、防ぎ、反撃を入れただけ。

 攻撃の予備動作を観察し、相手の動きに反撃を置いて合わせる、所謂“後の先”とは違う。ただ速さに任せて無理やり間に合わせ、無理なタイミングで差し込んだが故の体勢不利を力技で押し返し、最低限の術理だけ加え殆ど得物の鋭さに任せて切り裂いた。

 

 身体性能に物を言わせた無理やりの、拙い防御。

 そんなものが通じる辺り、ミナとノフ=ケーの性能差は著しい。吹雪も地面の積雪もないフラットな地形・環境で戦えば、ミナが瞬殺するだろう。……とはいえ、それは人間と宇宙空間で戦おうとする星間航行生物のようなもの──とまでは言わずとも、羽を捥がれた鳥と戦うようなものだ。

 

 だからこそ、ミナは苦々しく舌打ちする。

 

 「面倒な……」

 

 苛立ちを多分に含んだ独白は、吹雪の中でなければ自分の前に立つ資格も無いような弱者が、わざわざ吹雪を起こしてまで絡んできたことに対するもの。

 そして、そんな雑魚を殺し切る有効な手段を持たない自分への苛立ちも含まれていた。

 

 いや、手は幾つかある。

 例えば魔術の届く限り、全周を血の槍で埋め尽くす。例えば魔剣『美徳』の全力を解放し全周を粛清の光で薙ぎ払う。

 

 ……広範囲攻撃しかない。

 

 それは駄目だ。それではモニカとウォードまで巻き込んでしまう。

 いや、それぐらいなら最悪ペットの機嫌を損ねる程度で済むが、もしフィリップが戻ってきていて巻き込んでしまったら最悪だ。ミナはどちらかと言えば一対一に向いた性能だが、範囲攻撃でも、不運にも巻き込まれた人間一匹を血の治癒が間に合わない速度で殺し尽くすくらいの威力は出る。

 

 吹雪を起こしている魔術を解析して干渉する……なんてことは、あの二人なら可能だろうが、ミナは自分には無理だと自覚している。

 こと魔術センスにおいて、あれらはミナ以上の化け物だ。その化け物同士が十年、お互いを仮想敵に据えて研鑽してきたというのだから、そりゃあ化け物も敵わない化け物に育つだろう。

 

 魔術的アプローチだと、他にも「魔力障壁を広範囲に展開して吹雪を遮る」とか「血の繭を作る『ブラッドコフィン』で隔離空間を作る」とか、色々と吹雪を防ぐ術は思いつくが、前者は魔力障壁という魔力効率の悪い代物を長時間展開する負担が、後者はどちらにしろ外界を見通せない性質がネックだ。

 

 それに──愚かにも喧嘩を吹っ掛けてきた劣等種を相手に、殻に籠って守りに入るのもつまらない。そもそも籠城戦に良い思い出もないのだし、敵は殺すに限る。

 

 こうなると、多少、いやかなり面倒だが、保護対象の二人を手の届く距離に収めるのが先決だ。

 

 そう思い、再び吹雪の中を歩き始めた直後、また三メートルの制空権に踏み入る気配を察知する。

 先の5メートルの巨躯ではない。身長160センチくらいのヒトガタだ。

 

 ミナは深々と嘆息し、顔を両腕で隠して吹雪を凌ぎながらという迂闊極まる動きで突っ込んできた従妹の額を、そこそこの威力で爪弾いた。

 ぱちん! と小気味よい音と悲鳴が重なり、エレナが仰向けにひっくり返る。やがて額を押さえながら立ち上がった彼女は、ミナの冷たい目に怯むことなく何事か叫び──風の音に負けて全く聞こえない。

 

 「……《ブラッドコフィン》」

 

 ミナの魔術が一つの部屋のような巨大な血の棺を作り出し、エレナとミナを吹雪から隔離する。

 風の音と雪の礫が肌を打つ感覚が消え、俄かに快適になるが──ミナの表情は未だ硬い。

 

 「──から、とにかくボクがリリウムちゃんの方に行く! 姉さまはウォードくんとモニカちゃんをお願い! 守ってあげて!」

 「……まあ、それは構わないけれど」

 

 エレナに答えながら、ミナの関心は自分の展開した魔術に向いていた。

 

 流石は気候操作魔術、と言うべきだろうか。

 打ち付ける雪の礫の一つ一つ、風の一撫でさえもが、じわじわと血の棺を削っている。勿論ミナの魔術能力も大概規格外だし、即座に破壊されることはない。精々、展開時間が2割減るくらいだ。

 

 それ自体は問題ではない。問題になるのは、雪が魔力を持ち、魔術に干渉してくることだ。

 

 つまり、その全てが()()()()()()

 

 これは物理的な雪のスクリーンであるだけでなく、魔術的な煙幕でもあるのだ。

 

 「二人は多分、森に入ってるはず! ウォード君はさっきまでモニカちゃんと一緒だったし、吹雪は森の中なら多少マシになるって知ってると思うから! よろしくね!」

 

 言いたいことだけ言って駆け出していくエレナの背を一瞥し、ミナは魔術を解除して踵を返す。

 

 別に、言われずとも元々そのつもりだったから、ペットでも非常食でもない人間を守るくらい構わないが──()()()は面倒だ。

 

 二度、剣戟の音が連続する。

 吹雪の中を異常な速さで動き、ミナの索敵圏を一秒と掛からず走破したノフ=ケーの攻撃を、ミナの双剣が弾いた音だ。

 

 体長五メートル、体幅二メートルはあろうかという巨躯から繰り出される、剛腕によって挟み潰す二連撃。

 弾いた腕は都合四本のはずだが、初撃の腕二本を全く同時に防ぎ、追撃もそれに倣い、剣戟の音は二つしかなかった。

 

 しかし、それだけの技を持つミナでさえ、反撃に出る前にノフ=ケーの巨体が索敵圏外に出る。奇襲性が高いだけあって、撤退性能も同等のようだ。

 

 魔眼で停まるだろうか。

 身体の一部でも視界に入れば『拘束の魔眼』の発動条件は達成だが、呪術に属するだけあって、魔眼の耐性貫通能力はかなり低い。気象操作なんて高度な魔術を使えるなら、魔術耐性も相応に高いだろうし、試すだけ無駄になりそうだ。

 

 とは考えつつも、一応試してみるつもりでいたミナだが、襲撃はそれ以降一度も無かった。

 吹雪が去らない辺り、まだこちらの様子を窺ってはいるのだろうが、安全圏──ミナの索敵圏外からだ。

 

 これでは魔眼を試すどころか、具体的な位置さえ分からない。

 

 警戒しつつ歩を進め、ミナは遂に森の中へと踏み入る。

 確かにエレナの言葉通り、木々が風の流れを変え、枝葉が雪を捕らえ、吹雪が和らいだように感じる。ミナの索敵圏も大きく広がるが、それでも万全とはいかないし、ノフ=ケーも狭い木立の間を泳ぐようにすり抜けて移動している。

 

 あの巨体でよくもまあ、器用なことだと、ミナは敵ながら感心する。

 

 広がった索敵圏が捉えたのは、遠巻きに獲物を品定めする肉食獣のような動きをする気配だけでなく、近くの木陰で身を寄せ合って震えている、ひ弱な小動物(ニンゲン)もだ。

 

 牽制代わりに殺気を撒き散らしてみるも、森の中を這い回る気配に変化はない。

 天敵知らずのグリズリーでさえひっくり返って逃げ出すような、多少なりとも野性本能を持つ生き物なら恐れずにはいられない濃密な殺気だ。たとえ眠った古龍でも、これを浴びれば目を覚ます。

 

 しかし気配が警戒に揺らぐこともないとなると、存外に鈍感らしい。

 ミナと打ち合うのは下策だと察する程度には知性があり、しかし気配を察知する能力は低い獣。……妙な感じだ。

 

 そんなことを考えながら、怯えて震える小動物の方へ向かう。

 人間二人が身を寄せられる程度には頼りがいのある木の陰を覗き込むと、恐怖に満ちた目が二対、ミナを見上げて見開かれた。

 

 「う、ウィルヘルミナさん……。良かった……」

 

 ミナの放つ殺気に当てられていたのか、足を震わせながら剣を構えていたウォードがへたり込んだ。

 モニカは木の幹に背を預けて座り込み、すっかり放心状態だ。パーティー内最強と合流できて気が緩んだのか、口がぽかんと開いている。

 

 「び、びっくりした……。吹雪の中でいきなり出てくる吸血鬼、怖すぎ……」

 「いきなりって、気配は撒き散らしながら──、っ!?」

 

 来たでしょうに、と、ミナは言おうとした。

 吹雪の音に掻き消される声よりも、ずっと遠くまではっきりと届くシグナルだと。

 

 種族的に人間離れした感覚を持つ吸血鬼とは違い、ちょっと護身術を習った程度の人間に並の殺気を感じ取ることはできないが、ミナの殺気は並ではない。

 

 しかし、そんな考えを声に乗せ切る前に、ミナは思わず首を竦めて言葉を切った。

 

 「奴ですか!?」

 

 弾かれたように振り返ったミナの動きに、ウォードは一瞬遅れで従う。抜いたままだった剣を構えてモニカを庇うが、先に反応したはずのミナは抜剣しておらず、あろうことか踏鞴を踏んで下がった。

 

 ウォードとモニカは目を瞠る。

 特に、ウォードの方が驚愕は大きい。

 

 単身で成龍を殺したというウィルヘルミナさんが、怯えた? なんて愕然とするウォードの横で、ミナは思いっきり眉根を寄せて片手で口元を隠し、一言。

 

 「臭い……」

 

 気分が悪そうに吐き捨てた。

 

 「……え? すみません、もう一度お願いします! 奴は何処です!?」

 

 吹き荒ぶ吹雪の音に攫われた呟きはウォードの耳に届かず、半ば怒鳴るような大声で聞き返す。

 

 ミナは彼を鬱陶しそうに一瞥すると、「離れていくわ」と答える。

 普通の声量──落ち着いたを通り越してダウナーな声だったのに、ウォードはそれを普通に聞き取ることが出来た。

 

 気が付くと、吹雪は訪れたときと同じように唐突に弱まっており、すぐに完全に収まった。

 

 

 

 

 

 




 読者の皆様には1年間大変お世話になり、心より感謝しております。お陰様で今年も大変楽しんで執筆することが出来ました。

 昨年の今頃には240話辺りを書いていたようですが、早いもので、もう400話を過ぎていますね。光栄なことに更新速度をお褒め頂くことが多いですが、感想と評価という良質な燃料があってのモチベーションです。読者の皆様には常々感謝しておりますが、今日この場をお借りして改めてお礼を申し上げます。今後ともよろしくお願いいたします。

 また来年もご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。


 いつも感想・高評価ありがとうございます! よいお年を!


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427

 明けましておめでとうございます! 今年も本作と作者志生野柱をよろしくお願いいたします!


 吹雪の去った森の中で、ミナたち三人は木の根や枝に腰を下ろして簡単な休息を取っていた。

 いつまた吹雪と共に怪物が現れるか分からない以上、テントや焚火の設置は下策と判断して、水分補給くらいしかしていないが。

 

 誰も負傷したり低体温症になったりはしていないし、体力の消耗もそれほどではない。これで十分だ。

 

 「……臭い」

 「え!? 私、臭い!?」

 

 苛立ちを多分に含んだミナの独白を受けて、モニカが弾かれたように距離を取った。

 ふんふんと鼻を鳴らしながら自分の臭いを嗅ぐ間抜けな姿に、ミナは呆れと怪訝さの混じりあった一瞥を呉れる。視界の端に「僕か?」とばかり同じ動きをしているウォードが映り、呆れは倍増だ。

 

 「は? はぁ……人間の感覚ってそこまで鈍いの? 森の奥に凄まじい臭気の塊があるでしょう?」

 「でしょう? って言われても、分かんないです……」

 「……そう」

 

 まあ、こればかりは種族差だ。

 自分の身体性能が優れていることは変えようがないし、変える必要も無い。それによって不利益が生じるのも仕方のないことだし、その苛立ちを他人にぶつけるほどではない──いや、その苛立ちをぶつける相手になるほど、人間は強靭ではない。

 

 「……ちなみに、どのぐらい臭いんですか?」

 「私一人だったら……貴様らがいなければ、飛んで逃げているくらいには。と言っても、どうせ逃げられないのだけれど」

 

 これまでに嗅いだどの臭いとも違う──いや、もはやこれは“臭い”とは呼べない。

 吹雪より冷気よりもっと全身を打ち付けるような、強い“圧”だ。

 

 それを感じてなおフィリップを回収して飛び去っていない理由は二つ。

 その“圧”の中に、フィリップが投石教会に赴いた後で漂わせているような強すぎる香水の匂いにも似たノートを感じたこと。そして、もしフィリップがここにいたとしても、この森から出られないこと。

 

 先刻、吹雪が消え去った後に森を出ようとしたミナたちの前に、透明な「壁」が立ちはだかったのだ。

 それはミナの魔術や剣による攻撃を受けてもビクともせず、その上どうやらドーム状になっていて、ミナが飛び越えることも出来なかった。

 

 「あの透明の壁が無ければ、森の外に逃げられたのにね……」

 「魔力視が使えないから手応えからの推測だけど、あれを破りたければ術者を殺すしかないわ」

 

 ミナが語った内容は、ほぼ正解だ。

 

 隔壁力場の創造。

 一度森を出ようとした三人を阻んだのは、そう呼ばれる領域外魔術だ。

 

 術者はその内側に居なければならず、発動後に拡張や縮小ができず、壁の内から外への干渉は出来ないくせに外から内へは素通しする。つまり、盾にはならない。ついでに言うと魔力消費が死ぬほど──文字通り、長時間展開し続けると魔力を食い潰すほど──多い。

 

 しかし制限に見合うだけの強度はあり、術者による解除か、術者の死以外に突破する術はない。

 

 狩り場を作り出すには魔力消費が大きく、盾にできる性質は無く、何に使うのかよく分からない魔術設計だが──このように、魔力視を封じた状態の相手や魔力を見ることが出来ない相手であれば、()()()()()()()()()そこに壁があると勘違いし続け、「逃げる」という選択肢を自発的に放棄してくれる。

 

 「……その、無礼とは思うのですが、ウィルヘルミナさんならアレに勝てるのでは? 探して殺すのはどうでしょう?」

 

 無礼と断ったのは、「勝てないの?」という問いだからではない。「勝てるだろうから探して殺してくれ」という懇願だからだ。

 

 とはいえ──今のミナには枷がある。

 フィリップのように、自らに課した戒めが。

 

 「えぇ、勿論。殺すだけなら簡単よ。けれど、私の剣は“女王の剣”だもの」

 

 肩を竦めて言うミナに、「……なるほど」と納得を示したのはウォード一人。

 モニカは「……どういうこと? そういう流派?」とウォードに身を寄せてひそひそ訊いている。

 

 「いや、流派というより傾向かな。技とか戦形を一言で言い表したものだよ。僕の剣術は“騎士の剣”。軍の一員として大多数と連携して他人を守る、そういう戦形で、そのための技を身に付けてる。対して“女王の剣”は、眼前敵の処刑を第一にした戦形で──自分以外が全員敵、っていう状況を想定してる」

 

 軍学校では悪い戦形の例として、蔑称のように使われていた表現だ。

 近衛騎士が全員殺されて漸く剣を執る女王のように、仲間が全員殺された後のことを考えている軟弱者の剣だとか、仲間が死ぬまで自分は戦わないつもりの臆病者の剣だとか、概ねそういう意味で。

 

 だが本来の意味は違う。

 

 味方を守るとか、連携するとか、そういう余分な思考を一切排し、敵を殺すことに特化した処刑の剣技。一対一か、一対多、単騎戦に主眼を置いた戦形のことだ。城塞のように、玉座に坐す王者のように動かずに。

 

 カバーに動くとか、庇いながら戦うとか、そういう技術が無い。

 勿論肉体の基礎スペックに物を言わせて、やってやれないことはないだろう。しかし、そこに磨き上げた技は無く、なんとなくそれっぽいだけの動きになる。

 

 「なるほど……? つまり、どういうこと? 勝てないの?」

 「いいえ? 力も技も速さも私が上よ。私が戦って負けることはまず有り得ない相手。……けれど、あの奇襲性は厄介ね」

 

 どういうこと? と首を傾げるモニカに、ミナも同じく「いま説明したでしょう?」とばかり首を傾げる。

 流石に殆ど剣士の間でしか通じない表現を使ったのは不親切だったと感じたのか、追加で説明をくれるが……モニカの首は傾いだまま、眉根は寄ったままだ。

 

 「……つまり、あの熊モドキみたいなやつは吹雪の中から急に現れるから奇襲に優れてて、単騎戦特化のウィルヘルミナさんは自分の身を守るだけなら簡単だけど、僕たちを狙われたら守るのは難しいってこと」

 「おぉ、分かりやすい……」

 

 難しい、という表現に気遣いを感じ、ミナは僅かに眉根を寄せる。

 人間風情が自分の戦力を評価すること自体が既に多少腹立たしいが──戦力評価をするなら正確にすべきだ。

 

 ()()()、と。

 

 吹雪の中で、ミナは自分の全周三メートルに入った相手を知覚し、そこから防御を差し込んで間に合わせられる。

 しかしそれは、その場で自分を守るという、ミナの戦形や身に付けた技に適したことだからだ。

 

 誰かを庇い、守る動きをして、間に合わせるのは不可能だ。

 

 初めから魔術で守っていればいいのだが、ミナは基本的に、魔術より剣技を信頼する傾向にある。魔術による防御より、自分で動いて守った方が確実だと。

 実際、魔力障壁や血の繭を作る魔術は、ミナ自身の剣戟で簡単に壊れる。ノフ=ケーの攻撃で破れるかどうかは五分五分だが、変な賭けはしたくない。

 

 「……ウィルヘルミナさん、意外と仲間思いなのかな?」

 「あー……どうだろうね。吸血鬼が人間に仲間意識を持つとは思えないけど」

 

 ひそひそと声を潜めていた二人だが、ミナには筒抜けだった。

 

 「えぇ、そうね。けれどあの子が気に掛けている人間二人くらい守らないと、飼い主として薄情というものでしょう?」

 

 聞こえていないと思っていた相手から平然と返され、二人の肩がピクリと跳ねる。

 聞かれて困る会話はしていないが、それは驚きの強さに影響しなかった。

 

 「……フィリップが、って言うなら、やっぱりエレナさんの方に行くべきじゃない? ここでこうして待ってても、何も変わらないし」

 

 フィリップがパーティーの中で一番懐いているのはミナだと誰もが分かっているが、二番目は意見が分かれる。

 モニカはそれがエレナだと思っての発言だったが、ウォードは「ん?」と疑問顔だし、ミナは呆れ混じりの溜息を吐いていた。

 

 「はぁ……。あの子を理解しているわけでもなく、あの子に何か恩恵を与えるわけでもない。なのにどうして……」

 

 数秒ほど悩む様子を見せていたミナだが、やがて「まあいいわ」と肩を竦めて疑問を全て脇に置いた。

 いや、置いたのは自分の疑問だけでなく、モニカの疑問と質問に対する答えもだ。訊かれたことは覚えていたが、答える義務も義理もないし、面倒だからもういいや、と。

 

 「あははは……。モニカちゃん、この森に来るまでの道中、何回か魔物に襲われたでしょ? その時ずっと、フィリップ君が真っ先に安全確認してたのはモニカちゃんだよ」

 「え? そう?」

 

 ウォードは「だと思う」とか曖昧な言葉を使わず断定したが、モニカは懐疑的だった。

 だが無理もない。ちょっと護身術を習っている程度の人間と、連携訓練を積み重ねてきた軍学校卒業生では見えているものが違う。

 

 「うん。フィリップ君が自分で守ろうとしてなかったから気付きにくかったかもしれないけど、視線と立ち位置を見れば分かるくらいには露骨だった」

 

 戦闘開始前に一瞬、戦闘中に何度か、戦闘終了後に一瞬。

 モニカの前にエレナかウォードがいること──誰かに守られていることを常に確認し、最後には怪我がないことを確認していた。

 

 同質の視線をリリウムにも向けるなら、パーティーの弱い部分を気にしているだけかもしれないが、あくまでモニカにだけ。しかし自分で守ろうとしないし、モニカの視界に入ろうとするわけでもない辺り、好意や下心からの行為ではない。

 

 ウォードはその謎の庇護欲のようなものがずっと気になっていたし、ミナも理由は知らないがペットの大切なものとして認識していた。

 

 モニカには、ウォードの言う立ち位置や視線に心当たりはない。

 しかし──フィリップから向けられる視線に、何か重いものを感じることはあった。パーティーを組んで一緒に冒険をする前から、ずっとだ。

 

 「あー……、フィリップって、ちょっと過保護なところあるから。丁稚してた頃も、私が近くの教会に行くってだけで絶対ついてきたし」

 

 呆れ口調を装ってはいるが、痛ましげな表情は取り繕えていない。

 モニカの表情の意味を測りかね、ウォードだけでなくミナも再び会話に参加する。

 

 「同族意識の希薄なあの子が気に掛けるのは、強い人間ばかりだと思っていたけれど」

 

 フィリップは確かに、偶に過保護になる。

 交流戦の折には自分より遥かに強いルキアやステラを部屋に押し込めて自衛しろと強く言い聞かせていたし、戦士としてはミナから見ても多少は上等な部類に入る衛士団を死なせたくないから、なんて理由で龍狩りに行くと言ったほどだ。

 

 強い人間に惹かれるのだろうな、なんて、ミナはなんとなく考えていたが──モニカはどう考えても、どの要素を考えても強くない。

 

 意外そうな顔のミナに、モニカは苦笑を返す。

 

 「気に掛ける、って言っても、私は別にフィリップに好かれてる訳じゃないですよ。そりゃ、嫌われてはいないと思うけど……。庇護欲……ううん、“守らなきゃ”っていう義務意識みたいなものだと思う」

 

 ほう、とミナから感心の息が漏れる。

 モニカとフィリップの付き合いは古くはあっても、そう長くないと聞いていたが、意外にフィリップをよく見ているらしい。

 

 「……前言を撤回するわ。存外、あの子のことを分かっているのね」

 「一緒に居た時間はそんなに長くないけど、でも、フィリップが私のことを守ろうとしてるなら、その理由くらいは分かるつもり」

 

 どこか挑戦的にも聞こえる声。モニカの心中にある自信がそうさせるのだろうか。

 

 ミナは僅かな苦笑と共にそれを聞き、無言で先を促した。

 

 「フィリップは……まだ、あの地下牢から抜け出せてないんだと思う。吹っ切れてるように見えるけど、心のどこかを縛られて、囚われたままなんだよ」

 

 地下牢? とミナとウォードが同時に眉根を寄せ、首を傾げる。

 二人ともフィリップとはそれなりに親密だと思っていたし、ミナは特にそうだが、それでもフィリップとした会話で思い当たるもののないワードだ。

 

 ミナはこれまでを数倍する興味をモニカに向ける。正確には、モニカの話す内容に。

 

 「私に対して過保護だったのも、今も守ろうとしてくれるのも、それのせい。私を守ることで、地下牢に居た自分を守ってるような気になってるだけ」

 

 フィリップにとってモニカは、同じ地獄を共有した相手──では、ない。

 自分が地獄を味わっているとき、幸運にも一人で助かった相手だ。裏切り者、と、そう思われていても不思議も無理もない。

 

 けれどモニカも同じ無力な子供で、奉公先の娘という距離を置くことも出来ない相手で、それに初めのうちは見当違いな親近感や義務感からあれこれ絡みに来て。

 

 だから恨みをぶつけることも、逃げることも出来なくて──せめて最後まで無事でいられるように、「あの地獄は無駄ではなかった」「モニカを救うことは出来た」と思うために、ただ教会に行くだけのサボリにまで付いてきたのだろう。道中で危険な目に遭ったりしないように。

 冒険中によく目を向けているというのなら、それが今もまだ続いているというだけのことだ。

 

 「だって──だって、そうじゃなきゃ、フィリップが私を許せるわけないもの」

 

 木の根に三角座りしたまま、モニカは自分の足を強く抱いて縮こまる。

 その姿は神罰を前に身震いする罪人のようにも、告解の昏い喜びに打ち震える信徒のようにも見えた。

 

 「私とフィリップはただの順番で、地獄を見る方と助かる方がはっきり分かれた。ただの順番で、助けが来るまでの間に、ほんの三十分の間に、あんな──あんな目、見たことない!」

 

 モニカの語りが殆ど悲鳴のようになり、ウォードがびくりと肩を震わせる。

 

 モニカは未だに、あの日のことを夢に見る。

 路地裏で魔術をかけられて眠らされたことより、目が覚めたら地下牢で鎖に繋がれていたことより、フィリップがカルトの男に連れて行かれたことより、もっとずっと怖かったことを。

 

 二人の神官に助け出されたフィリップが、モニカの無事を確認して浮かべた安堵の顔。フィリップを、そして助けを呼び続けて喉を痛め、咳き込んでいたモニカに向けた心配そうな顔。鉄格子の扉を開けようとした時の慌てた顔と、鍵が無いことに気付いて呆然とした顔。

 ころころと表情を変えるのが幼くて──二才しか違わないが──可愛いと、そう思った直後だ。

 

 フィリップの目が、見たことのない感情で昏く淀んでいることに気付いたのは。

 感情に応じて表情を変えているし、その仕草は自然で作られた感じは全くしなかったのに、目だけがずっと同じ色に染まっていた。

 

 「……モニカちゃん、落ち着いて?」

 「フィリップは私を恨まなかった。羨まなかった。そんなこと有り得ないのに……あの状況でそんなこと……!」

 

 ウォードがモニカの様子がおかしいと気付いたときには、彼女はもう完全にヒートアップしていた。息は荒く、心拍まで加速しているのか顔が赤い。

 

 ミナは腰掛けていた枝から飛び降り、木の幹を何度かノックして力加減を確かめる。

 それがパニック状態から無理やり引き戻すためにぶん殴る前の、頭蓋をふっ飛ばさないための調整であると察したウォードは、少し慌ててモニカに語りかける。

 

 「落ち着いて。こんな状況でパニックになってトラウマが刺激されてるんだ。ちょっと怖いことを考えちゃってるだけだよ。フィリップくんの身に何があったかは知らないけど、あの子は善良だ。確かに異質な空気を纏う時もあるけど、それもサークリス聖下や王女殿下の身の安全を守るためだった」

 

 「……らしい。詳しくは知らないけど」と最後に続くはずだった部分を喉元で押し留め、ウォードは別の言葉を続ける。

 

 「君とフィリップくんが怖い目に遭ったのは分かった。けれど、今は二人とも平穏に暮らしてるし、こうして一緒に冒険してる。フィリップくんなんて、今や龍狩りの英雄だよ? 過去を忘れてはいなくても、今はきっと幸せなはずさ」

 

 努めて明るいことを言うウォード。

 その穏やかで優しげな笑顔に宥められたように、モニカの過剰なほどに加速していた心拍と呼吸が落ち着きを取り戻す。

 

 荒れ狂う吹雪の中、ウォードとモニカがどこまで同じものを見ていたか定かではないが、同じものを見たのだとしたらこの反応も無理はないとウォードは思う。

 二等地の民家かと思うサイズのシルエットが雪をスクリーンに映し出され、厳つい角のある頭が獲物を探して動くさまは、その視線がこちらに向いていなくても腰が抜けそうなほどだった。

 

 具体的な色や形、細部なんかは見て取れなかったが、自分より遥かに大きい生き物がすぐ傍で動いているだけで、本能的に恐怖を抱いてしまう。

 

 異常事態に晒された瞬間ではなく、こうして落ち着いたタイミングで少し遅れたパニックがやってくるのも、ウォードは軍学校の演習で何度か見た。ウォード自身も、対夜襲訓練が完全に終わり、皆で紅茶でも飲もうかという時になって手が震え出したことがある。

 

 落ち着いたならもう大丈夫──そう思ったウォードだったが、残念ながら、()()はモニカの精神状態にまで気を配ってくれなかった。

 

 「今のはもしかして、カルトに関係した話かしら?」

 

 好奇心に従うミナに、ウォードは物言いたげな目を向ける。

 不満そうな顔をするだけで内心を口に出すわけではない物分かりの良さ、というか、分の弁え方は、ミナも気に入っているところだ。

 

 「……フィリップから聞いてないんですか?」

 

 黙り込んでしまったウォードと興味をそそられたらしいミナを交互に見て、モニカは不思議そうに首を傾げる。

 

 二人とも親密そうなのにフィリップが言っていないなら、もしかして言いたくない──知られたくないのではないだろうか。そう思い至ったのはいいが、残念、それはミナの関心を買う前でなければ意味が無かった。

 

 「えぇ。だから詳しく聞かせて」

 

 言っていいものかと悩むモニカに向けられたミナの双眸が、血よりも赤く輝いた。

 

 

 

 

 

 



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428

 「……これぐらいでいいか。シルヴァ、そろそろ戻るよ」

 

 ドロリとした樹液を小瓶に半分ほど採集したフィリップは、それを手ごとポケットに突っ込んで温めながら天を仰ぐ。

 見上げた先の梢を走り回って遊んでいたシルヴァが「わかった」と応じて飛び降り、ぱす、と軽い音を立てて雪の上に着地した。

 

 彼女はぽてぽてとフィリップの傍まで来ると、ぽかんと口を開けて明後日の方向を見つめた。

 大小二つの足跡が残るテントの方角ではなく、反対側の樹液を採取した木の方でもない。どちらかと言えばテント側だが、妙に斜め向きだ。

 

 「……ふぃりっぷ」

 

 どうしたの? と尋ねる前に、シルヴァがちょいちょいと服の裾を引く。

 引っ張られて開いた襟元から冷たい風が入り、フィリップはぶるりと身を震わせた。

 

 「ん? なに?」

 「えれなとかのんがたたかってる」

 

 テントの方をぴっと指差し、シルヴァは抑揚のない声で言う。

 

 エレナとカノンが戦っている。

 そう聞いて、フィリップは考える時間を殆ど要さず「ノフ=ケーと戦っているのだ」と理解した。

 

 しかし、それはそれで疑問が生じる。

 

 「えっ!? でも、吹雪は出て──いや、吹雪を起こさずに行動できるのか。だけどカノンはともかく、エレナが気付かなかったの!?」

 

 ここまで体感的には百メートル程度しか歩いていないが、木立と雪のせいでテントは見えないし、様子も分からない。

 「戦っている」ということは、奇襲を受けて壊滅とまではいかなかったらしいが、奇襲を受けたこと自体驚きだ。吹雪に阻まれなければ、森に慣れたエレナの索敵力は相当に高いはずなのに。

 

 フィリップはノフ=ケーの実物を見ていないし、カノンから得た情報でも「吹雪を起こすデカいやつ」程度にしか知らないが、エレナの感覚の鋭敏さは知っている。

 彼女の索敵力は視覚に頼らない。聴覚や肌感覚、更には直感などという曖昧な代物まで使い、“気配”を感じ取るのだ。恐らく、魔術で透明化できるルキアやステラでさえ、接近しての奇襲は難しいだろう。

 

 その知識故に、フィリップの受けた衝撃は足を止めるほど大きいものだった。

 

 「う? まちがえた? えれながかのんとたたかってる」

 

 そんなに驚く? とばかり、シルヴァがもう一度繰り返す。

 自分が人語を間違えたと思ったようだが、言葉の内容は殆ど同じだった。

 

 「分かって──えっ?」

 

 思わず笑いそうになったフィリップだが、脳裏に嫌な閃きが走る。

 エレナとカノンが戦っている。エレナがカノンと戦っている。……前者は「ノフ=ケーと」という目的語が欠落しているのではなく、後者は「と一緒に」という修飾語が欠落しているのではなく、どちらも言葉そのままであるとしたら。

 

 「……もしかして二人とノフ=ケーが戦ってるんじゃなくて、その二人が戦ってるの?」

 

 嫌そうな顔をしたフィリップの問いに、シルヴァは軽く頷いた。

 

 「そう。……りりうむはにげてる。あっち」

 「逃げてるし戦ってる? ……なんで今?」

 

 リリウムはいきなり戦闘が始まって逃げたと考えられるが、そもそも二人が戦いだした理由が謎だ。

 

 二人ともに、戦いの火蓋を切る動機が無い。少なくともフィリップには思いつかない。

 カノンのことを魔物だと思っていたエレナだが、知性を認めて会話していたから、他の大半の魔物と同じように「安全確保のために問答無用で排除すべき」とは考えないはず。

 

 そして、カノンが今になって牙を剥いたとも思えない。

 あのバカみたいな振る舞いが油断させるための演技、擬態で、懐に入り込んでから大暴れするためのものだった可能性はある。あるが、エレナを殺す理由が分からない。

 

 “魔王の寵児”については知らないようだが、それでも、どう考えても外神と何かしらの繋がりがある謎の子供だ。そんな奴と敵対するなんて、フィリップならどんな理由があれ御免だし、智慧があるなら同じ思考になるだろう。

 

 ……いや。カノンの中で「エレナと敵対する」ことが「フィリップと敵対する」こととイコールで結ばれていない可能性はあるけれど。

 

 「……とにかく戻ろう」

 

 思考を切り上げ、自分の足跡を辿って走り出す。

 

 理由について考える必要は無い。考えるべきは、止め方だ。

 

 エレナはフィリップが模擬戦の中で一太刀も入れたことのない白兵戦の専門家、カノンはその彼女と「戦う」ことが出来る程度には強い。

 一対一ではなく一対一対一の乱戦にはなるだろうけれど、「ならエレナにも勝てるな!」と楽観できるような戦績ではない。なんせ無勝全敗だ。向こうは全力を出さないというハンデ付きで。

 

 しかもエレナには戦形どころか癖までバレているし、カノンにも奥の手にして隠し玉であるフリントロックを見せてしまっている。

 

 無傷で制圧なんて贅沢を言うつもりは端から無いが、そもそもフィリップが真っ先に脱落しそうだ。それも手も足も出ないままボコボコにされて。

 

 テントまで残り半分くらいといったところで、フィリップを追い抜いて走っていたシルヴァが急にルートを逸れる。

 ここまで木を避けつつも真っ直ぐに来たはずで、足跡もくっきりと残っているからそちらが早いということはないはずなのだが、まさか二人とも移動しながら戦っているのか。いつどこからノフ=ケーが現れるか分からない、この森で。

 

 そう思って眉根を寄せたフィリップだったが、シルヴァが木立の間に消える前に「ふたりはそっち! りりうむひろってくる!」と言い残したことで、無駄に後を追わずに済んだ。

 

 「……ノフ=ケーに遭わないようにね!」

 

 返事は聞こえなかったが、声は届いただろう。

 音声そのものは届かなくても、「フィリップがこういう言葉を発した」という情報は伝わっている。それで十分だ。

 

 フィリップが足跡を辿り切ったとき、木の枝や雪で偽装されたテントは最早無く、枝葉や雪と一緒に打ち捨てられた布の塊があるだけだった。

 

 その残骸よりもまず真っ先に目に付いたのは、襤褸切れを纏った少女の背中だった。それから、そこに生えた翼膜のある翅。

 彼女はファイティングポーズのエレナと十五メートルほど開けて相対している。

 

 二人とも無手の戦闘にしては遠すぎる距離だが、それは「人間基準なら」という但し書きが付く。エレナが本気で殴り、カノンがバックジャンプで勢いを殺したら、このくらいの距離は簡単に開くだろう。

 

 「……カノン」

 「あ、フィリップさん! あのエルフを止めてくださいよ! 急に殴り掛かってきたんです!」

 

 文句を言いながら振り返ったカノンに、フィリップは思わず肩を跳ねさせる。

 彼女は顔の下半分を隠していたガスマスクを取り去り、明らかな異形を陽光の下に晒していた。

 

 エレナの表情は距離のせいで判然としないが、カノンだけでなくフィリップにも敵意の籠った目を向けているような気がする。

 

 「……ふーん? それって君がマスク外した直後だったりする?」

 

 不機嫌そうに尋ねるフィリップに、カノンは同じくらい眉根を寄せた。

 

 「見てたんですか!? だったらもっと早く止めに来てくれてもいいじゃないですか!」

 

 悪びれもせず、剰え文句を垂れるカノン。

 化け物の感情を上半分しかない顔に浮かぶ表情や目の色から推察するなんて馬鹿馬鹿しいが、なんとなく、誤魔化しではなく本気で言っているのだと思えた。

 

 フィリップは深々と嘆息し、天を仰ぐ。

 

 「……これ、僕のミスか」

 

 自分に言い聞かせるように、口を動かして声を出す。自分の声を耳に入れ、脳に染みわたらせる。

 そうでもしないと、「だから口を隠させたんだよ!」なんて怒鳴ってしまいそうだった。

 

 実際、自責の念はある。

 カノンはヒトガタではあるが、人間ではない。それは重々分かっていたのに、彼女の容貌が人間の目にどう映るかを説明しなかった。化け物を相手にしていたのに、“人間のことを理解しているだろう”なんて馬鹿げた意識を持っていた。

 

 化け物は所詮、化け物でしかないと知っていたはずなのに。

 

 ナイアーラトテップを筆頭に外神たちの化身の精度を知っているから──より上位の存在が人間をほぼ完璧に模倣しているのを見ているから、油断した。まあ、あれはあれで美形すぎるので「人間に見えるとギリギリ言い張れないことも無い」という化身ではあるのだけれど。

 

 そんな益体のないことを頭の片隅に思い浮かべながら、フィリップはすっとカノンを庇う位置に進み出る。エレナに「落ち着け」と言葉とボディランゲージを向けながら。

 しかし──。

 

 「エレナ、落ち着いて──ぐぇっ」

 「危ない! 鱗も無い場所にあんなの喰らったら、肉が飛び散っちゃいますよ!」

 

 襟首を掴んで引っ張り戻され、潰れたカエルのような声が漏れる。

 その目と鼻の先を、一瞬で距離を詰めたエレナの爪先が通り過ぎた。

 

 肉が飛び散るだなんて、とんでもない。肌に感じた風圧は剣閃にも等しい鋭さだ。カノンがフィリップを引き留めなければ、エレナの脛がフィリップの頸を斬り落としていただろう。

 

 これは多少──いや、かなり不味い。

 カノンの顔を見て「こいつはヤバい魔物だ」と思って襲い掛かった、なんて、そんな甘い状況ではないらしい。

 

 「エレナ、よく見て。僕だよ。フィリップだよ」

 「知ってるよ、五月蠅いな。今更会話なんかしない」

 

 吐き捨てるような言葉に、フィリップは思わず瞠目する。

 普段のエレナらしからぬ邪険な態度もそうだが、言葉の内容も目を瞠るべきものだ。

 

 「今更? 今更って何?」

 

 フィリップはここに来たばかりで、エレナとカノンが戦っている理由すら聞いていない。推察こそ出来ているが、確証が得られていない。

 「今更」というか、むしろ「今から」情報を集めて仮説の裏を取り、それから対処法を考えるという状況のはずだが──エレナの中では違うらしい。彼女の声は、まるで積年の恨みが籠ったように重々しいものだった。

 

 「あなたがボクを殺そうとしてたことは分かってる。……この他に、まだ何か言葉が──必要ッ!?」

 

 言葉を終える前に、エレナの長い脚が折り畳まれ、バネのように撃ち出される。

 心臓狙いのサイドキック。直撃すれば胸骨どころか肋骨の大半を砕いて内臓を潰し、中途半端に防いでも衝撃による心臓震盪で昏倒させる、本気の一撃だ。

 

 先の回し蹴りとは違い、距離を詰める一動作が無い分、動きは数倍も早く感じた。カノンが庇おうと動いたときには、フィリップの胸にブーツの硬い靴底がめり込んでいたほどに。

 

 「っ!?」

 

 しまった、とでも言うように、カノンの双眸が見開かれる。

 エレナの蹴りは人外の身体能力に優れた技量が合わさり、人間程度の脆弱な種族であれば一撃で仕留めうるものだ。

 

 骨を砕き、内臓を潰し、或いは背中から噴き出させる。砲弾じみた蹴撃。

 

 ──いや、それにしては()()()()()()

 

 「──っぶな!?」

 

 咄嗟に拍奪の歩法で相対位置を誤魔化し、すんでのところで攻撃を透かさせたフィリップは、声を漏らしながら慌てて十メートル以上も後退した。

 白兵戦の距離ではない。蛇腹剣を伸ばしても届かないどころか、フィリップがフリントロック・ピストルを必中させられると自信を持っているのは七メートル。完全に交戦圏外だ。

 

 エレナが距離を詰める動きを見てから反応して、どうにか回避や防御を間に合わせられる距離だ。

 

 「なんですか今の!? 当たったように見えましたけど、無事なんですか!?」

 

 連続する剣戟のような音に混じって、カノンの能天気な感嘆が聞こえる。

 目を向けると、エレナとカノンが拳打主体の攻防──なんてお上品なものではなく、足を止めての殴り合いをしていた。

 

 カノンの大振りをエレナが防ぐと、長剣同士が打ち合わされたような金属音が鳴り響く。

 両腕の肘から先がごつごつした鱗に覆われているカノンは分かるが、エレナの鍛えられているとはいえ少女の細腕からは想像も付かない音だ。フィリップとの模擬戦では一度も使ったことのない、自己強化魔術だ。

 

 フィリップ相手では攻撃を当てられることが無いからだろうが、カノン相手にはそれを使い、そしてカノンもエレナに攻撃を防がせている。相手の攻撃を受け止めると、押し負けたり追撃を受ける可能性があるからと、より安全な回避や受け流しを好むエレナに。

 

 「まあね。というか君、結構戦えるね?」

 

 フィリップの賛辞に、カノンは「ふへへ」と妙に気色の悪い照れ笑いを零す。

 しかし、それは流石に余裕を見せ過ぎだ。

 

 剣戟じみた金属音が素早く連続したかと思うと、エレナの姿がふっと掻き消える。

 フィリップが目を瞠ると同時──いや、それに先んじて、鈍い衝突音が森の空気を揺らした。パンチやキックで出る音ではない。しかし、フィリップが知っている音だ。

 

 瞬時に姿勢を落とし、体重を臍下丹田に集束させる技法。特徴的な踏み込みから“震脚”と呼ばれる予備動作。

 集めた体重は肘先の一点に乗せられ、そのままカノンの胸骨へ()()()()()。“突く”でも“振り抜く”でもなく。

 

 腕や腰を振る、所謂「肘打ち」ではない。

 それは突撃。肘の一点に全体重を集め胸骨に乗るが如き、いやそれ以上の重さを発揮する頂心肘。

 

 咄嗟に羽を広げて後ろへ飛んでいなければ、カノンの人外の内臓組織でさえ無事では済まなかった。

 

 「あ、あっぶな!? いま一瞬体重10倍ぐらいになりましたよあのエルフ!!」

 「そんなわけ……いや、有り得るか……?」

 

 フィリップのすぐ傍まで後退してきたカノンが、胸を押さえながら慌てふためく。

 その慌てようを見るに、まともに喰らったら大きなダメージがあったのだろうと察せられた。

 

 「……ねぇエレナ。僕を殺すのはいいんだけど、その後はどうするの? ミナにバレたら確実に殺されるし、殿下とマ──レイアール卿が知れば、いよいよ国家対エルフの問題になる。最悪、戦争だよ」

 

 まともな思考を残しているのかは不明だが、一応言ってみる。

 “一応”とはエレナに伝わるかどうかという意味だけでなく、言葉の内容自体もそうだ。報復なんて面倒で非合理的なことをする顔ぶれではないし、レイアール卿に至っては「エルフなんていなかった」ことにだって出来る。

 

 エレナは答えない。

 ただ真っ直ぐに、フィリップとカノンの両方を観察する広い視界を向けていた。

 

 不味い。

 エレナはかなり本気だ。魔物のような人語を解さない相手と戦う時でさえ、自分を鼓舞するように言葉を発するエレナが完全に無言になっている。戦意の冴えも、模擬戦の時とは比にならない。

 

 いや、模擬戦どころか、あの緑色に穢れた湖でグラーキに呼ばれた時よりも、もっとだ。

 今の彼女にとって、フィリップは道を妨げる邪魔者どころか、明確な敵──強烈な殺意を向けるべき怨敵に映るらしい。

 

 「……仕方ない」

 

 と、言葉に似合いの軽い溜息を吐いて、フィリップはファイティングポーズのエレナに左手を向けた。

 

 「《(シューヴ)──、あ、いや待てよ? これって殿下の責になったりするのかな」

 

 脳裏に閃いた悪い予感に従い、弾かれたように手を引っ込める。

 

 フィリップは外交や政治のことはよく分からない。

 エレナはこれでもエルフの種族王の娘、王女様だ。それが王国内で、王国民であるフィリップの手で殺された場合、かなり大きな外交問題になりそうな気がする。

 

 フィリップ個人がエルフから恨まれるくらいならどうでもいいが、フィリップのせいでステラが怒られるのは申し訳ない。

 

 故にエレナには悪いが、狂気への逃避も、フィリップの手に掛かるなんて穏当な死も認めない。許さない。

 

 ──この無価値な泡沫の世界で、もう少しだけ生き続けて貰う。

 

 「()()()()()()()()()()()。《深淵の息(ブレスオブザディープ)》」

 

 発動すればまず助からない、内臓を脱水炭化させる『萎縮』ではなく、即座に的確な処置を施せば助かる可能性のある『深淵の息』を発動する。するが──残念ながら魔術耐性に阻まれたようで、エレナは口から海水を流して苦しむ様子もなく、怪訝そうにフィリップを見ている。

 

 しかし、フィリップの口元は苦々しく歪むどころか、むしろ僅かながら愉快そうに吊り上がっていた。

 

 「……ん?」

 

 この感じには覚えがある、と、フィリップは懐かしむように自分の掌に目を落とす。

 身体の全てが魔力で構成されているが故に高い魔術耐性を持つ魔物を相手に撃った時とは、明らかに手応えが違う。

 

 この感じは。

 

 「……10メートルか」

 

 久しぶりに()()()()実戦使用できそうだと、フィリップは愉快そうに笑った。

 

 

 

 

 



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429

 エレナは自己強化系の魔術を使える分、フィリップより魔術適性に長けている。

 しかしどうやら、耐性の方はお粗末だ。勿論『深淵の息』が耐性貫通能力に長け、魔力の貧弱なフィリップでもある程度の相手までなら効かせられるというのもあるだろうが。

 

 とはいえ、魔術の貫通性能も術者が弱くては弱体化する。

 並大抵の魔術師相手なら十メートル以内で撃たないとほぼ弾かれるし、魔物くらい耐性が強いとゼロ距離でもレジストされてしまう。

 

 手応えからすると、エレナには効く。効かせられるが、しかし。

 

 ──10メートル。

 

 格闘技術と人外の運動性能を併せ持つ化け物を前にそれは、あまりにも近すぎる。

 

 いや、万全を期すなんて贅沢を言うのなら密着だ。

 あのエレナとの白兵戦を制し、彼女の制空権を突破して、肺の真上、彼女の胸に触れた状態で詠唱したい。

 

 「カノン、僕を援護して彼女を殴れる距離まで近付けて」

 「それは構いませんけど、フィリップさん、あんなパンチ喰らったら爆発しますよ? ばっちゃーん! って」

 

 さも簡単なことのように言うフィリップだが、カノンは難色を示すを通り越して正気を疑うような目を向ける。

 

 水溜まりに飛び込んだみたいな擬音だが、多分、比喩抜きでそんな音がするのだろう。その音が伴う光景も想像がつく。

 

 「「僕を援護しろ」って云うのは、その冗談みたいなパンチを僕に当てさせるなって意味だよ」

 「えー……。もう、仕方ないですねえ」

 

 当たっても文句は言わないでくださいね、とカノン。

 エレナの本気の攻撃が当たったら、文句を言う暇もなく死ぬ。それこそ「ばっちゃーん!」という音を鳴らすことになるだろう。

 

 援護しろ、とは言ったものの、フィリップに距離を詰める策はない。

 『拍奪』を全開にして突っ込むのは一案だが、それだと詰めた後がない。後が無いというか“先”が無いというか、とにかく至近戦闘でエレナに圧倒されて詰む。

 

 エレナの最大射程は足の長さ、70~80センチ。

 フィリップの最大射程は腰から上プラス伸長された蛇腹剣の5メートル。だが加減の効きやすいロングソード形態なら腕プラス剣形態で最大2メートル。実戦可用域なら一メートル強。

 

 間合いだけならフィリップが勝るが、白兵戦の技量はエレナが圧倒的に上だ。

 剣対素手の模擬戦で一度も勝ったことがない以上、武装差があるからと迂闊に突っ込みたくはない。

 

 「──ッ!」

 

 フィリップがジャケットの前を開けた動きに反応し、エレナが大きく下がる。

 それがクイックドロウの前準備であることを、彼女はきちんと理解していた。

 

 「行くよカノン。僕に一撃も当てさせず、エレナに触れる位置まで連れていけ」

 「わあ、面倒なオーダー。でも逆らってはいけない気がするのはどうして……?」

 

 その会話を最後に、膠着が崩れる。

 

 エレナは前に。

 一息に二十メートルを跳躍する脚力は爆発的な加速を生み、フィリップの望む交戦距離である十メートルに踏み入ると、次の瞬間にはエレナの交戦距離である一メートルにまで詰め寄っていた。

 

 フィリップは後ろに。

 カノンを盾にしながら必死に下がり、エレナの手足の間合いからどうにか逃れようと試みる。

 

 自分から距離を詰めるつもりだったから、エレナの接近速度や予備動作の無さ以上に、自分から接近してきたことに意表を突かれてしまった。

 

 慌ててエレナの間合いを逃れるフィリップの眼前で数度、剣戟のような金属音が連続する。

 人間の頭蓋を容易く砕く威力のパンチは甲殻に包まれた腕に弾かれ、邪魔者を排除するために繰り出された貫手は喉の寸前で払われる。

 

 流れた姿勢を利用したハイキックに首を刎ねられそうになり、カノンは「ひょえ」と不安になる悲鳴を上げた。

 

 だが防げている。……エレナからすると、防がれている。

 

 「……っ」

 

 エレナは苦々しく表情を歪め、フィリップへの追撃を諦めてカノンへ意識を集中した。

 

 効果が出なかったらしいとはいえフィリップが何か魔術を使った以上、遠距離で戦うのは愚策だ。

 

 フィリップは独り言のつもりだったようだが、自信ありげな「十メートル」という呟きも、エルフの優れた聴力で聞き取っている。十メートル。それが魔術の効果圏なのだと、エレナはそう判断した。

 

 本当なら石でも拾って投げつけて、アウトレンジで仕留めたいところだが、相手はフィリップだ。

 「拍奪」はミナ相手でさえ効果を発揮する攻性防御だし、得物「龍貶し(ドラゴルード)」はミナの魔剣にも匹敵する特上の業物。そしていつの間にか熟達していた遠距離攻撃武器フリントロック・ピストルを持つ。

 

 戦いの主導権──より正確には、間合いの決定権を渡していい相手ではない。

 

 そしてフィリップも、エレナが懸念している自分の優位性は理解している。

 エレナはパンチやキックで戦う以上、距離を詰めるしかない。対してフィリップは至近戦ではロングソード、中近距離ではソードウィップ、そして遠距離ではフリントロックという多彩な手札がある。

 

 しかし。

 

 「──ふぅ。流石に詠唱する隙が無いな」

 

 カノンがエレナを妨害している隙に間合いから逃れたフィリップは、翻ったジャケットを正しながらぼやく。

 たった一度の攻防で──ではなく、これまでの何十、何百回もの模擬戦の記憶から、エレナに触れながら魔術を詠唱することの難しさは十分に理解していた。

 

 見守る先ではカノンが羽を動かしてその場で滞空し、両足を揃えたドロップキックでエレナを大きく後退させながら、自分も宙返りしてフィリップの傍まで下がってきた。

 

 彼我の距離は十と三、四メートル。

 エレナとカノンは一足で詰められる距離だが、フィリップはそうはいかない遠距離だ。

 

 ちょっと詰めれば魔術の効果圏かもしれないが、そろそろ魔力残量が本格的に怪しい。

 いざという時のために『エンフォースシャドウジェイル』と『ハスターの招来』をそれぞれ一発分。それらを使った上で、脱力や眩暈、吐き気などの最低限の自衛戦闘に支障を来す魔力欠乏症状が出ない程度には魔力を残したい。

 

 『深淵の息』は魔力消費量が少ないとはいえ、それでも下手に試して一発分無駄にするよりは、多少無理をしてでも距離を詰め、ゼロ距離で撃ち込みたいところだ。

 

 「それで切っちゃえばいいじゃないですか。それともその剣、飾りですか?」

 

 人の手にあらざるもの(クリエイテッド)の魔剣のように特殊な能力こそないものの、それでも魔剣と打ち合える大業物に随分な言い種だ。

 戦闘中でなければ先っぽをちょっと突き刺してやりたいところだが、エレナから視線を切るのは流石に怖い。

 

 「古龍と成龍の素材で作った剣だから、君の親戚みたいなものだけどね」

 「わあ、よく見たら凄くカッコ良くて性能も高そう! まるで私みたいですね! ……って何言わせるんですか! 剣なんかと一緒にしないでくださいよ!」

 

 冗談だと思ったのか、カノンはフィリップの警戒も知らず笑いながらバシバシと背中を叩く。

 加減はしているようだが、エレナと打ち合えるだけあって馬鹿力らしく、かなり痛かった。

 

 「イタッ、痛い……何も違わないでしょ?」

 

 叩かれながらも、なんとかエレナに切っ先を向け続けることに成功したお陰か、彼女がカノンの隙を突いて攻めてくる気配はない。

 

 「大違いです! そんなこと言い出したら、水分とタンパク質で出来てる人間は牛乳の親戚──ってフィリップさん、前!」

 「──っと!」

 

 警告と同時に慌てて顔を逸らすと、耳元で鋭い風切り音が鳴った。

 エレナが予備動作なく足を振り、小石をフィリップの顔面目掛けて蹴り飛ばしたのだ。

 

 姿勢が崩れたその隙を突き、エレナが雪煙を上げて突っ込んでくる。

 

 流石、自分の勝ち筋をよく理解している、とフィリップは後退しながら苦々しく顔を歪めた。

 庇う位置に躍り出たカノンが構えると、エレナは速度や慣性を殆ど感じさせない動きでバックステップを踏み、間合いを取り直してナイフを抜く。

 

 そして逆手に持って背に隠すと、そのまま急加速して再接近し、踊るような動きで斬りかかった。

 

 間合い隠し(コンシール)。エレナは距離感覚に優れた肉食獣や魔物との戦いで身に付けた技だが、人間の中ではむしろ暗殺者の技術として一部に認知されている技法だ。

 交戦、いや相手が防御する直前まで刃渡りを隠し、防御や回避を困難にする。下手に小さく避ければ刃が当たり、大袈裟に防げば隙が生じる。基礎的な格闘能力があってこその搦手と言えるだろう。

 

 エレナはカノンの突破を諦め、まず彼女から処理することにしたようで、左脇を狙ってナイフを隠した右手を振り上げる。

 

 カノンは甲殻に覆われた左腕で難なく防ぎ──甲高い金属音と共に左腕に手応えを感じたときには、エレナのナイフは喉元を狙って突き出されていた。

 防がれた反動を利用し、そして「防いだ」というカノンの意識の虚を突く二段構えの攻撃。それも脇下という急所狙いの攻撃をブラフに、喉というより危険度の高い急所を狙うとは、フィリップも傍目に見ている分には感心してしまう連撃だ。

 

 標的になっていたカノンは感心どころではなく、「ひょえぇ!?」なんて間抜けな悲鳴を上げる。

 咄嗟に右手でナイフを掴み、鉄製の刃をぐしゃりと握り潰すと、得物を失ったエレナは柄を手放して大きく後退した。バックステップに石を蹴る動作を忍ばせていたが、流石にそのくらいはカノンにも見えて、フィリップ目掛けて飛来した石は難なく弾かれる。

 

 「大丈夫? 生きてる?」

 「な、なんとか! いやあ、凄い。速いですね! 目で追いきれませんでしたよ!」

 

 カノンはエレナの動きにギリギリ付いて行ったようにフィリップには見えたが、本人がそういうのならそうなのだろう。

 胸を撫で下ろし、一息ついたカノンは、今度はマチェットを抜いたエレナを真っ直ぐに見据えた。

 

 「……?」

 

 カノンの纏う空気が変わる。

 フィリップには分からない変化だが、エレナにははっきりと感じ取れる。

 

 それは殺気だ。

 

 獣、魔物、人間、吸血鬼。

 様々な種族と戦ってきたエレナには、同族であるエルフ以外の殺気をも感じ取る鋭敏な感覚が備わっていた。

 

 「では──」

 

 徐に呟いたカノンの目が開く。

 瞼が、ではない。

 

 赤い瞳と白目が瞬膜のように目尻側へ収納され、本当に文字の通り目を開き、その下にあったものを露にする。

 それは言葉の通り、「目を開ける」ことでもあった。

 

 そこにもまた、目があった。

 目があった。目が、目が、目が、目目目目目目目──数える気にもならない無数の、米粒大の眼球が、眼窩にぎゅうぎゅう詰めになっている。

 

 超ミニチュアサイズの人間の眼球がびっしりと並んだそれを、昆虫の複眼と同列に語るのは憚られる。何故ならカノンのそれは、眼球の一つ一つが独立して動いているからだ。

 

 「さあ、続けましょうか。これでもう振り切られたりは──ん? どうしました、フィリップさん。ちゃんと前見てないと危ないですよ」

 

 両目と、口と。

 人間が顔を認識する三要素のうち、口は完全に人外のもの。一見してそれが口であると認識する方が難しい、花弁のような形状の大顎だ。

 

 そして目もそのはずだ。眼窩に無数の眼球が詰まった人間など、フィリップは見たことがない。

 だが眼窩の位置が変わらず、大顎の下にある第二顎が人間のそれとよく似ているせいか、一見した印象は()()()()()だった。もっと振り切れた、獣や爬虫類っぽい顔とか、頭蓋骨が剥き出しになったスケルトンくらい、明らかに魔物であってくれたほうがまだ精神への負担が少ないと思える外見だ。

 

 「あぁ……うん、そうだね……」

 

 こいつ自分の顔面でエレナの正気を吹っ飛ばしたこと、もしかしてもう忘れたのか? とフィリップは怪訝を通り越して愉快そうな目を向ける。

 

 「一応確認しておくけど、エレナを殺しちゃ駄目だからね?」

 「……え? あ、も、勿論分かってますよ! フィリップさんのお仲間ですもんね! ……なるほど、だから剣を使ってなかったんだ」

 

 最後の呟きまでばっちり聞き逃さず、フィリップはこいつマジかと言わんばかりの愕然とした表情を浮かべる。

 前提ともいえる条件を共有できていなかったこともそうだが、何より、今の今までエレナを殺す気だったのに殺せていないことの方がショックだ。

 

 フィリップもそれなりに戦闘慣れしてきたから分かるが、殺す気で戦って殺すのは簡単だが、殺さないように制圧するのは難しい。

 先のカルト──戦闘慣れしていないほぼ一般人みたいな相手でも、逃げ出されると加減を間違えた。

 

 だからエレナとカノンが戦って、殺す気のエレナと加減しているカノンだったら、まあエレナが勝つのも已む無しと思っていたけれど……。

 

 「そ、そんな顔しないでくださいよ! 分かってましたってば! ……複眼も解放してませんでしたし、反応刺胞装甲も使ってませんでした! ほら、全然本気じゃない!」

 

 叱られた子供が言い訳するように並べ立てるカノン。

 全力ではなかったらしいが、それは本気ではなかったことを証明しない。

 

 「ちなみに僕を守りながらって制限が無ければ、エレナを殺さず制圧できる?」

 

 問うと、カノンは複眼を一斉に明後日の方向に向けた。口の形状が人間と同一なら口笛でも吹いていそうな白々しさだ。

 

 フィリップは乾いた笑いを零すと、深々と嘆息してエレナに視線を戻した。

 距離を詰めかねているのはフィリップだけでなくエレナも同じようで、彼女はフィリップたちの隙を探して足を止めている。

 

 「……反応刺胞装甲って、刺さったら即死する?」

 

 フィリップは苦々しい表情で問いかける。

 グラーキの細胞を培養して作られたという情報だけで──あの湖を汚染していた存在に由来するもの、刺した相手をアンデッド化させる棘をベースにしているというだけで、使いたくない気持ちで一杯だが、そうも言っていられない状況だ。

 

 出し惜しみすれば二人ともボコボコにされる。

 いや、擬音が不適切か。「ばっちゃーん!」されて、高所から落とした水袋のような死骸を晒すことになる。

 

 「いえ、傷口が腐敗するので放置すれば死ぬと思いますけど、攻撃自体はただの棘ですよ?」

 

 幸いと言うべきか、残念ながらと言うべきか、カノンは「何言ってんの?」と言いたげな声色で否定した。

 

 「腐敗かあ……。まあエレナなら薬とか作れるだろうし、最悪ミナに頼ればいいか……。よし、手足の先に当てるだけならそれ使っていいよ。それなら勝てる?」

 

 大譲歩だと言わんばかりのフィリップの問いに、カノンは「……頑張ります!」と両の拳を握った。

 「馬鹿にしないでください!」と言われる想定で「ごめんごめん」と適当な謝罪を喉元に用意していたフィリップは、その言葉の代わりに呆れ笑いの溜息を零す。

 

 事が終わったら「原住生物殲滅兵器」という言葉が誤訳ではないか、そして彼女との意思疎通が本当に正しく出来ていたのか、確かめる必要があると強く思ったフィリップだった。

 

 

 

 



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430

 反応刺胞装甲が具体的にどんなものなのか、実のところフィリップはよく分かっていなかった。

 なんとなく「相手の攻撃に反応して棘が飛び出るんだろう」と想像は付くが、それは「反応装甲」という名前とグラーキの甲殻をベースにしているという情報からだ。それも割合としては、全体に棘のある巨大な甲殻を持つ邪神グラーキの外見からの連想が半分以上だ。

 

 “刺胞”という単語を、フィリップは知らない。

 それが一部の海生生物などが持つ防衛器官であることや、時に強烈な毒を伴うこと、その尋常ではない射出速度のことも、何も知らない。

 

 それはエレナも同じだった。

 優れた聴覚で聞き取った二人の会話から、カノンが何か特別な装甲を持っていること、それが攻撃に反応するものであることは察せられる。

 

 だがそこまでだ。

 イソギンチャク、クラゲ、サンゴ……そういった刺胞動物のことを、彼女は知らない。

 

 彼女がこれまでに対峙した魔物の中にはローパーやゲイザーといった、触手を持ち、そして同種の能力を持つ種もいる。しかし、それらは一般に、そしてエルフにも「触手に毒がある」とだけ認知されていた。

 触手の表面に0.5~1ミリメートルという極小の毒針を内包する器官が無数に並んでいることなど、知りようがない。魔物は死骸が残らないのだから、解剖さえできない。

 

 故に予めその攻撃の名を、体を表す名前を知っていたエレナにも、その攻撃は奇襲となった。

 

 「──ふッ!」

 

 また迎撃の隙も与えないほどの高速で距離を詰め、鋭い呼気と共にエレナの左手が突き出される。

 マチェットはない。本命は背中に隠した右手だ。

 

 しかし、空の左手を無視できるわけではない。喉元を狙って伸びた左手は鉤のように曲げられており、パンチや手刀ではなく握撃系の攻撃だと分かる。

 

 カノンは咄嗟に上体を逸らしながら右手で払おうとしたが、触れられない。

 複眼によって動きは完璧に見切っているが、それはあくまで動きが追えるだけ。

 

 虚実を使い分け、言語や術理を解さない獣や魔物を動きによって騙すエレナを相手に、動きが見えるだけでは駄目だ。

 エレナとカノンのトップスピードが同じで、カノンがエレナの動きを完璧に把握できるとしても、エレナは相手の呼吸や意識の虚を突いて動きを変えたり切り返して翻弄する。一つの挙動で、カノンが一歩以上遅れていく。

 

 それでは駄目だ。それでは永遠に追い付けない。

 

 首を狙った攻撃を防ぎ損ねたと思ったカノンは、半ば反射的に肩を上げて首を竦める。

 

 しかし──エレナの狙いは首ではなかった。

 

 右手が伸び、手の内でマチェットの柄が180度回転する。

 道を阻む枝を斬り落とすための大振りな刃が妖しく光り、脇下を目掛けて突き上げられた。

 

 脇をブラフに喉を狙った先の攻防の逆。

 「喉を狙って仕留めに来る」という意識を逆用するだけではない。エレナはもう、カノンが脇を狙われた時にどう防ぐかを知っているのだ。

 

 ほんの一瞬以下の時間だけ腕を止め、打ち払うような防御を透かしたマチェットが脇下へ突き立ち──鉄の刃が外皮を貫くその直前の、もう意味のないタイミングでカノンの手がエレナの腕に触れた。

 

 力を込められる位置や姿勢ではないカノンと、勢いのままに力を込めれば腕を落とせるエレナ。どう見てもカノンがピンチという局面のはずだが、しかし、エレナは咄嗟にマチェットから手を放して全力でバックステップを踏んだ。

 

 反応装甲。

 その言葉を覚えて、警戒していたからだ。攻撃に反応してカウンターをしてくるはずだと。

 

 警戒は正しい。だが、不足だ。

 カノンに触れたら即座に離れるよう強く意識して、反射に等しい速度で反応したとしてもまだ足りない。

 

 エレナがバックステップを踏む時には、既にカウンターは終了していた。

 

 身構えていたエレナの虚を突いたのは、圧倒的な速度だ。

 

 完全展開に要した時間は0.45秒だが、反応から展開までは0.7マイクロ秒。

 エレナが攻撃を防がれ、反射で腕を引くのに50ミリ秒──マイクロ秒換算で、50000。

 

 反射したときにはもう、針のように細い棘に腕を貫かれていた。

 

 「いっ──!?」

 

 苦悶の声が漏れたときには、カノンの左前腕部辺りから長さ一メートルほどの棘が無数に生え出で、エレナの右腕を滅多刺しにしていた。

 マチェットは手を離れ、くるくる回って少し離れた地面に突き立った。

 

 棘自体はそれほど硬くないようで、エレナが反射的に後退するとポキポキと折れる。そのせいで、エレナはカノンから距離を取った後も右腕の前腕部を黒々と染めている。

 

 ヤマアラシに喧嘩を売ったってそこまで深くはならないだろうと思えるほどの深手を負い、しかし、エレナは半泣きになる程度で済んでいた。

 目尻に涙を浮かべながらも、昏い憎悪を宿した瞳はフィリップとカノンの一挙手一投足を見逃さないよう油断なく眇められる。右手の負傷には一度目を遣ったきりで、ポケットから取り出した鎮痛剤らしき錠剤を嚙み砕いて飲んだあとは一瞥もしない。

 

 しかしファイティングポーズに構えられた右手には、刺胞装甲を収納したカノンの代わりのように黒い棘が残り、黒く腐敗した血液を滴らせている。

 見ていてとても痛々しいし、痛みを嫌うフィリップは見るだけで自分の腕まで痛むとばかり表情を歪めていた。

 

 「ほら、やっぱりボクを殺すつもりだったんだ。さっきからずっと、少しも躊躇しないもんね、フィリップ君」

 

 責めるような色を孕むエレナの言葉に、フィリップは胡乱な視線を返す。

 今更何を言っているのか。フィリップが敵相手に躊躇するような、人を殺すことに躊躇いを覚えるような甘い性格ではないことくらい、彼女はとうに知っているはずだ。

 

 しかし「やっぱり」というのは気になる。さっきも「今更」とか言っていたし、フィリップがエレナを殺そうと目論んでいたみたいな糾弾もされた。

 支離滅裂な言動は狂気の常と言うか、一番オーソドックスな形の狂気だと思って聞き流していたけれど。

 

 「被害妄想? なら説得できる……か? 殴り掛かってくる相手に説得なんてまだるっこしいコトしてられないけど」

 

 思考や感情が全部吹っ飛んで殺戮機械になったとか、廃人化にも等しい重篤な狂気だと説得の余地はない。

 しかし妄想くらいならどうにかなるかもしれない。「もしかしたら」という但し書きは要るけれど。

 

 「ん? あぁ、偏執病ですよ。周りが全部敵に見えて仕方ないってヤツです。さっきはちっこい方の子を優先して狙ってて大変だったんですよ?」

 

 説得とかまず無理ですよ、とカノンは心なしか胡乱な表情に見える。目元以外の表情なんてあってないようなものだけれど。

 

 しかし言葉の内容は、フィリップに落胆ではなく感心の念を抱かせるものだった。

 

 「……パーカーさんを逃がしてくれたの? いい判断だよ。ありがとね」

 「……まあ、はい」

 

 見直したよ、なんて微妙に失礼なことを言うフィリップに、カノンは歯切れの悪い頷きを返す。「もっと褒めてくれてもいいですよ!」なんて言いそうなものだが。

 

 逃がした、というか、リリウムはカノンに怯えていたらエレナとカノンが戦いはじめ、エレナが守ってくれているのかと思えばそのエレナに攻撃され、逆にカノンに庇われたわけだ。

 ただでさえカノンの異形の顔面という大きなショックを受けた直後だったのに、一目で理解できない状況を見せられて、リリウムは()()()()逃げるという選択をした。カノンもまた、リリウムがこの危険な森の中を一人で逃げ回る原因の一つだった。

 

 カノンの妙な態度を不審に思いつつ、フィリップはより重要なことに思考の焦点を当てる。

 

 「偏執病ねえ……。じゃあ何をしても、何もしなくても、エレナは僕らのことを敵だと思い込むってことか。……というか、そりゃあ僕も多少は狂気について勉強したけど、君はなんでそんなに詳しいの?」

 

 勉強したと言っても、図書館で何度も寝落ちしながら学術書を読み漁ったくらいだ。

 修道院や病院のような実地で学んだわけではないし、読んだ──というか、言葉の意味を調べながら読んで理解できた本の総数は10にも満たないから、「多少の知識がある」程度。

 

 しかしそれでも、まさか人ならざる化け物に人間のことで負けるとは思わなかった。

 

 「ふっふっふ……ミ=ゴは人間の脳に特に強い興味を持っていますからね! その働きや異常動作についても深い知見があるのです!」

 「へぇ……。……えっ?」

 

 そういえばさっき、「人間の脳を培養・改良した」とか言っていた……なんて考えて、フィリップは思わず視線を顔ごとカノンの方に向ける。

 人間の脳について深い知見があるのに、その人間の前でマスクを取ったのかこいつ、と明記された顔を。

 

 いや、おそらく知識として「人間はある状況下で精神病的症状を呈する」と知っているだけで、まさか自分の顔面を目にすることが「ある状況」の一つであるとは思わなかったのだろう。

 

 そう考えると猶の事、「お前の顔面は人間には害になるから隠そう」と言わなかった怠慢や、「まあ言わなくても分かるだろう」「智慧があるなら僕の意に沿うだろう」という思い込みが悔やまれるけれど……悔やむのなら、今はエレナから視線を切った愚行を悔いるべきだ。

 

 「しまっ──!?」

 

 エレナが爆発的な加速で距離を詰めてくるのを視界の端で捉え、フィリップは慌てて剣を構え直す。

 防御自体は流石に間に合うが、技量でねじ伏せられる可能性が高すぎる。打ち合うこと自体を避けるべきだ。

 

 だがステップバックは間に合わない。

 

 「……っ!」

 

 仕方がない。

 覚悟を決め、迎撃態勢を取る。

 

 守るべきは頭と左手。即死箇所である脳幹部と、照準補助に使う左手だけでいい。

 

 相討ち覚悟で『深淵の息』を撃ち込み、あとは心臓が止まろうが腎臓をブチ抜かれようが、最優先で『エンフォースシャドウジェイル』を発動。ミナに治療を任せる。これしかない。

 

 フィリップが負傷すれば勿論、エレナへの救命措置は遅れる。

 溺水の応急処置は数秒の遅れで助かる確率が下がり、後遺症が残る可能性が高まる時間との戦いだが、生きていれば取り敢えずそれでいいだろう。他に問題が生じたら、それについては後から考えよう。

 

 エレナの右手が動き──やばい、と、フィリップの背筋が直感に凍る。

 

 エレナの視線はフィリップの右手、現時点で最も警戒すべき武器である龍貶し(ドラゴルード)に向いている。ズタズタの右手はまともに握ることも出来ていないが、棘のせいで、ただ振り回すだけでも十分に凶器だ。その狙いはフィリップの頸。

 

 これは問題ない。攻撃の位置と向きからして、頭部を守るつもりで構えた剣で防ぐことが出来る。

 

 エレナの攻撃は続き、無傷の左手が喉を目掛けて伸びてくる。

 フィリップの剣は初撃を防いで流れている。片手ではエレナの腕力に対抗できないから、両手持ち──魔術もフリントロックも撃てない状態だ。どんな防ぎ方をしても、確実に押し負けて、剣を、防御を押し退けられる。

 

 喉狙いの追撃を防ぐ術がない。

 

 喉を潰されたら、無詠唱や、指を弾くなどの代替詠唱を習得していないフィリップは魔術を使えなくなる。

 顎を引いて防いだって、エレナの握力なら顎骨を握り割れるだろう。迎撃態勢だったから、咄嗟に「拍奪」を使ってもずらしが足りずに捕捉される。

 

 詰む。いや、詰んでいる。一秒後から始まる攻防で、フィリップにも分かるくらい明確に詰まされる。

 

 ──一対一だったら、詰んでいた。

 

 「はいはい、横から失礼しますよっと!」

 

 ぎっ、と軋む音を聞く。

 それはフィリップの顎骨が握り砕かれる音ではなく、エレナの右腕がカノンの蹴りを防ぎ止めた音だった。

 

 カノンはエレナの左側にいたが、エレナは態々フィリップを諦めて向き直り、態々右腕一本で防げるように立ち方まで変えていた。

 

 かなり無理な姿勢だが、しかし。

 

 「うわ凄い!?」

 

 カノンが驚愕の声を漏らす。

 エレナの腕に接触した脛部の反応刺胞装甲は起動していたが、その大半はエレナの腕に残った棘に阻まれ、殆ど刺さっていない。全て防げたわけではないが、右腕がそもそも死に体だったことを考えると、実質的には無傷で防いだと言ってもいいくらいだ。

 

 しかし、フィリップの目の前で隙を見せたのは致命的だった。

 

 「っ!?」

 

 蹴りを防ぎ、未だ腕と足の交錯しているエレナとカノンの間に、地面を這う蛇のような超低姿勢のフィリップが突っ込んでくる。

 普通は入れない隙間だが、そんな姿勢でもそれなりの速度を出せるよう常に訓練しているフィリップにとっては、十分に“道”だった。

 

 「しまっ──!?」

 

 先のフィリップと同じ呟きを漏らし、エレナは咄嗟に下がろうとする。

 しかし、腕にはカノンの足の重みがずっしりと乗っている。下手に姿勢を崩せば押し切られ、あの恐ろしい棘がバイタルゾーンに突き刺さると確信させるだけの重みが。

 

 エレナは苦し紛れに片足を振り上げる。

 普段ならそれを蹴りとは呼ばないような、術理も何もない悪足掻きだが、エルフの身体能力なら人間一人程度容易く吹き飛ばせる。

 

 だが──振り上げた足はフィリップの頭部をすり抜けた。

 

 「拍奪」の相対位置認識欺瞞。

 そう思った時には、目で見た位置より一歩後ろに居たフィリップの掌底が壇中へと叩き込まれていた。

 

 咄嗟に腹筋を固めたエレナだが、筋肉の薄い胸骨を狙われては意味が薄く──そもそも、フィリップの掌底はただの照準補助だ。たとえ全身鎧を着ていても意味がない。

 

 「《深淵の息(ブレスオブザディープ)》!」

 

 詠唱が完了した直後、フィリップは魔力が失われていく感覚を自覚する前に、全速力で距離を取った。

 魔術が発動していたとしても、あのエレナが即座に行動不能になるとは考えにくい。胸の中に突如として2~3キロの重りが生じ、呼吸できなくなった……だから何? 二分ぐらいは死なないでしょ? と殴り掛かってきそうで怖かった。

 

 しかし流石にそんなことはないようで、エレナは口から大量の海水を垂れ流しながら膝を突き、頽れる。

 

 「……効いた?」

 「……みたいですね。うぅ、目が乾きました……」

 

 カノンは人間の目と同じ外観の瞬膜を何度か開閉し、やがて閉じた状態で瞼を開閉する。

 その動作を「瞬き」と表現していいものかは疑問だ。エレナが一連の動作を見ていたらまた発狂しそうな程度には気色悪かったが、フィリップは「うわぁ」と表情を歪めて、それきり興味を失った。

 

 「……さて、それじゃ」

 

 



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431

 溺水時の応急処置方法は学院の授業で習ったし、きちんと覚えている。

 胸骨圧迫による心拍補助は心停止時のみで、最優先は人工呼吸。肺に溜まった水を排出する必要はないと教わったときは意外だった。なんでも、その過程で嘔吐すると後遺症や死亡リスクが格段に高まるし、とにかく少しでも多くの酸素を取り入れさせることが大切なのだとか。

 とはいえ肺に水が溜まっていては呼吸も何もないだろうと思っていたのだが、人工呼吸は水中でも可能らしい。

 

 エレナが「ぬかったねフィリップ君!」と跳ね起きないことを確認し、エレナの頭側に膝を突いて下顎を持ち上げる。そしてフィリップは何の躊躇いもなく唇を重ねた。

 

 「わあ、ちゅーするんですか! 私は見ない方がいいですよね!」

 

 などと言いつつ、カノンは顔を覆った指の隙間からガン見している。

 カノンにも後で『深淵の息』を使って窒息させ、助けを乞うその目の前で「で、でもちゅーすることになっちゃうし……」と照れてみせようか、などと邪悪なことを考えつつ、フィリップの動きに淀みは生まれない。

 

 繰り返し息を吹き込みつつ、時折胸に耳を当てて心拍を確認する。確認は最小限に済ませ、また人工呼吸を再開する。

 本当に水の中で溺れたのなら服を脱がせたり水気を拭ったりしなければならないが、このケースでは当てはまらないだろう。とはいえ、そもそもが寒冷化した環境なのだし、気絶すると体温は下がる。加温は必要か。

 

 「馬鹿言ってないで火を起こして焚火作って。これ燃えやすいっていう樹液ね」

 「焚き付けだけ渡されても困るんですけど!? もう……良さげな薪を探してきます……」

 

 なんだかんだ言いつつ、トボトボと哀愁漂う背中で去っていくカノン。心なしか背中の羽も項垂れているように見える。

 

 「うん、よろしく。……あ、ちょっと待って! マスクは!?」

 

 エレナが目を覚ましたあとどんな状態かは未知数だが、発狂前の記憶を失くしていた場合、戻ってきたカノンを見て再発狂、なんて冗談にもならない事態に陥りかねない。

 それに、これからフィリップたちはミナたちとの合流を目指す。モニカとウォードまで発狂したら笑えないし、ミナが発狂したら最悪全滅だ。

 

 「あー……、戦闘のドサクサでどっか行っちゃいました」

 

 すみません、としおらしく謝るカノン。

 至近距離でエレナに奇襲されたのなら仕方ないと、フィリップは理解を示すように苦笑した。

 

 「だよね。僕のあげるから、僕がいいって言った時以外取っちゃ駄目だよ。君の顔面、パンチ力高めだから」

 「あ、やっぱりさっきのって私のせいですか……フィリップさんが平気だったので大丈夫かと」

 

 言い訳を残して薪探しに行ったカノンを見送ることなく、フィリップは救命措置を続ける。

 魔術の効果はとっくに切れているはずだが、エレナの意識が戻らない。心拍こそ途切れていないが、人工呼吸を怠れば死ぬだろう。

 

 フィリップがエレナの肺代わりになって数分。いい加減海水の味にも慣れてきた時だった。

 

 「──ごぼっ!?」

 

 何の前触れもなくエレナが咳き込み、胸に耳を当てていたフィリップはびくりと跳ねて飛び退いた。

 

 彼女は四つん這いになると、すぐ傍にフィリップがいることにも気付かないほど必死に咳き込み、吐き戻すようにして肺の中の海水を排出する。

 

 「……おはようエレナ。僕と会話する気はある?」

 

 フィリップは構えもせず、腰に佩いた剣を抜きもせずに語り掛ける。

 無いならもう一発、なんて考えていることが丸分かりの声なのに、立ち上がりさえしない非戦闘態勢なのが逆に不気味だ。

 

 エレナは肺の中の水を全て吐き出したあと、水っぽい咳をしながら頭を下げた。

 

 「ふぃ、フィリップ君、あの、ごめんなさい! さっきまでのは、ボクにも何が何だか──」

 「あぁ、うん。それはいいよ。それより、エレナは自分の傷をなんとかして……何とかできそう?」

 

 フィリップは焦って早口になっている謝罪ではなく、恐怖と苦痛で涙目になった翠玉色の双眸を見てにっこりと笑った。

 狂気の色は消えているし、譫妄に駆られて襲い掛かってくることもない。偏執病はあくまで他者への不信感を励起するもので、演技力を底上げするものではないから、いつものエレナが戻ってきたなら狂気は治ったとみていいだろう。

 

 それより問題は、カノンが腐敗毒があるといった棘の傷だ。

 エレナの右前腕部はボロボロで、少し変な臭いもする。滴り落ちるものが血か毒液かも分からないどす黒い色なのも不安だった。

 

 フィリップの問いに、エレナは苦い顔で腕を見下ろす。

 

 「鎮痛剤と化膿止めは入れたけど、物理的な傷はちゃんと処置しないと不味そうかな。……一応、手持ちの薬だけで何とかなると思う」

 

 ほう、とフィリップは感心したように目を瞠る。

 フィリップなら諦めて腕を斬り落とし、ミナに泣きつくような大負傷だが、エルフの薬学は流石だと。

 

 「……ボクたち用の薬だから、人間には使えないからね? ボクを当てにして無茶しちゃだめだよ?」

 「あ、そうなんだ……」

 

 フィリップの思考を見透かして苦笑するエレナ。

 エルフ用の薬が人間には使えないのはちょっと考えれば分かることだ。体重こそ人間とほぼ同じだが、身体強度が段違いなのだから。

 

 「腕はともかく、失神するレベルで窒息したわけだし、帰ったらステファン先生に診て貰おう。……あ、いや、帰り道でエルフの里に寄る? ミナに頼めばどうにかなるかもだけど、肺とか脳は難しそうだし」

 

 溺水は時に重篤な後遺症を残すと習っていたフィリップは、その教えを授けてくれた応急処置の授業担当、王国随一の医師であるステファンの顔を思い出しながら言う。後遺症と言っても植物状態から呼吸器の軽微な異常まで幅広いが、無いに越したことはないだろう。

 

 吸血鬼の血は腹どころか内臓まで切り裂かれても治すほど強い効果があるが、残念ながら病気には効かない。食べすぎや食あたりもそうだ。これは実証済みなので間違いない。

 脳震盪のような外傷ならともかく、窒息による内的損傷に効くかは怪しいところだ。

 

 「うん……溺水となると、人間の方が知見がありそうかな」

 

 エルフは基本的に山や森の中で暮らしている。

 川や湖のような大きな水源があり、溺れるだけの場所はあるが……身体能力的に、普通に滑落した程度で溺れる方が難しい。後遺症の症状そのものについての知見はあるだろうが、溺水それ自体への知見は薄いだろう。

 

 身体能力に優れた種族故の、思わぬ欠落だ。

 

 「そうなの? じゃあステファン先生に。今は取り敢えず腕の応急処置だけでもしよう。手伝いが必要なら何でも言って」

 

 片腕の潰れたエレナでは包帯を巻くどころか、鞄から薬を出すのも一苦労だろう。

 そんな善意からの申し出に、エレナは微妙な苦笑を浮かべる。怪我も溺水もフィリップとカノンのせいだが、それはエレナが発狂したせいだ。ではなぜ発狂したのかと言えば、やっぱりカノンと、フィリップの伝達不足のせい。過失の割合はフィリップが4でエレナが6ぐらいだと彼女は思っていた。

 

 「ありがと。じゃあ取り敢えず──っ! フィリップ君、リリウムちゃんは!?」

 

 苦笑を浮かべていたエレナは言葉を切り、明後日の方向へ鋭い視線を向ける。

 フィリップは「カノンが帰ってきたのかな」なんて甘いことを考えながら視線を追うが、雪の積もった木立の中に人影はない。

 

 「シルヴァが拾いに行ったよ。一緒にいるなら、100メートルくらい向こう──ん?」

 

 雪景色にはもう慣れたフィリップも、数秒程で異変に気が付く。

 

 木立の間から見える、少し離れた場所が異様に白い。──いや、その地点から向こうに、木立が見えない。まるでそこに、白いスクリーンがあるかのように。

 

 雪の壁──いや、吹雪の壁がある。

 吹雪は見えない壁に遮られたかのように広がらず、明らかに自然のものではない挙動だった。

 

 ノフ=ケーの気候操作に間違いない。

 

 「不味いよ。助けに行こう!」

 

 エレナがさっと──魔力欠乏による強い眠気に襲われているフィリップより余程俊敏な動きで立ち上がる。

 右手に突き刺さったままの棘同士が擦れて耳障りに軋むが、鎮痛剤が効いているらしく、エレナは全く無頓着だった。

 

 「怪我の具合は?」と尋ねてみると、「大丈夫だよ!」という全く大丈夫そうではない外見とは合致しない答えが返される。

 

 フィリップは腕を組み、その動作でジャケットの内側に左手を入れる動作を隠した。

 

 「……僕がエレナとパーカーさんを二人とも守りながら戦わなくちゃいけないような状況にはならないんだね?」

 「そうなったら見捨ててくれていいから!」

 「……あのねえ」

 

 エレナを殺したり死なせるのは不味いと判断して、態々『深淵の息』を使い、応急処置までしたのだ。

 万全の状態なら熊でも殴り殺せるエレナだ。デカい熊でも問題ないかもしれないが、窒息と失神から回復した直後で、さらに負傷していて、本人も「守られるような状況にはならない」と断言できない状態。

 

 流石に、他人を助けに行けるコンディションではない。

 

 足の何処に穴を開ければ動けなくなるだろう、と冷たい目を向けていたフィリップだったが、クイックドロウを披露する前に暢気な声が聞こえてきた。

 

 「戻りましたよーフィリップさん! 薪は大量、良い感じにしっとりしてます! 燃える気は全然しませんね!」

 

 言葉の通り大量の木の枝を両手で抱えたカノンが、折よく帰還した。

 

 「あぁ、丁度良かった。カノン、エレナを見張ってて。傷の手当てが終わるまでノフ=ケーの方に来させちゃ駄目だからね!」

 

 言うが早いか、フィリップはざくざくと雪を踏みしめながら木立の中に姿を消してしまった。

 

 「え? あ、ちょっと!?」

 「えぇぇ!? ちょっとフィリップさん!?」

 

 フィリップは吹雪の中でもシルヴァの位置を頼りにリリウムを探せるが、エレナには三メートル程度の視界しかない。フィリップが先行した時点で、エレナにはリリウムを救助するどころか、探す術さえ無くなる。

 

 更にその上、白兵戦等能力が拮抗しているカノンに監視されているとなると、後を追うことも出来ない。カノンを出し抜いたところで、吹雪の中で出来ることも無い。

 

 呆然とフィリップの背に手を伸ばしていたエレナは、「……足もイっときます?」という不穏な呟きに慌てて両手を挙げた。

 

 「わ、分かった分かった、大人しく治療に専念するから傷を増やすのはやめて……」

 

 今のは牽制じゃなくて本気の声だった、というエレナの直感の正誤を確かめる術はないが──正しかったと記しておく。

 

 

 

 



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432

 森の中というのは存外、方向を見失う。

 同じような木々が不規則に並び、目印になるものがないのに、木や藪を避けるせいで真っ直ぐ進むことも出来ないからだ。

 

 テントが弾け飛んだかと思うと、目の前でエレナとカノンが殴り合いを始め、しかも明らかに化け物といった外観のカノンに庇われたことで、リリウムは軽くパニックになった。

 それでも「とにかく逃げて、このことをフィリップに知らせないと」と考えて走り出せたのは重畳だろう。下手にエレナを止めようとしたら、いや、カノンがワンミスするだけで死んでいたのだから。

 

 しかし、フィリップの足跡はカノンのずっと前、エレナの後ろへ続いていた。

 いまそちらへ走ればエレナに殴り殺されることを、リリウムは直感的に察知している。そこで彼女は一旦後ろ向きに大きく進み、木立に紛れながら二人を迂回することにした。

 

 幸いにして二人に引き留められたり、追撃されたりはせず、剣戟のような音から逃げるように走ることは出来た。出来たが──案の定というべきか、フィリップの足跡を見失った。足跡の位置を12時として、初めに6時方向へ進むつもりが木を避けるうちに4時方向へずれ、そこから大きく広がりつつもなんとか弧を描くように移動するが、9時辺りで「まだだろうか。もしかして見落として通り過ぎたのでは?」と心配になり、遂に10時辺りで「見落としたに違いない」と確信して戦闘音の真反対へ走り出した。

 

 彼女のルートは残念ながら、フィリップの足跡と概ね平行になっていた。

 どこまで行っても探すものと交わることのない足跡を残しながら、リリウムは必死に走る。雪と枝葉に音を吸われていることにも気付かず名前を呼び続け、酸素を浪費しながら。

 

 そして──ぽふ、と、目の前の雪に何かが降ってきた。

 木から雪崩落ちてきた雪に埋もれた経験がある……というか、ついさっき経験したリリウムは、ばっと大袈裟に距離を取り、落ちてきた緑色の物体をじっと見つめる。

 

 柔らかな新雪にも埋まらない軽さのそれは、胡乱な顔でリリウムを見上げていた。

 

 「……どこいくの?」

 

 無機質な声なのに、呆れの感情が妙に強く滲む。

 馬鹿かこいつ、と明記された顔は、リリウムにも見覚えのあるものだ。

 

 「シルヴァ、ちゃん……?」

 

 ヴィなんとかという種族名や詳細について聞いてはいるが、今一つ理解も実感も出来ていなかったリリウムは「どうして一人で? 危ないじゃない」と訝しむ。

 

 そんな内心はシルヴァには伝わらないし、彼女にとってどうでもいいことだ。

 

 「ふぃりっぷはあっち。にげてもいいけど、こっちはだめ。のふけーがいる」

 

 淡々と、事の重大さを全く感じさせない声で語られて、リリウムは怪訝そうな顔のまま首を傾げた。

 

 「……のふけーって何?」

 「う?」

 

 問われて、むしろシルヴァの方が困惑する。あのフィリップでさえ「それは不味い」と判断することなのに、妙な反応だと。

 

 そう言えば、とシルヴァは自身の記憶と、森の記録情報の二つを遡る。

 そう言えば、フィリップもエレナもカノンも、リリウムにはノフ=ケーについて何も教えていない。その能力や生態だけでなく、名前すらも。

 

 エレナに話したときにリリウムはテントの中で微睡んでいたのも理由の一つだ。

 だが最大の理由は、シルヴァとカノンはともかく、フィリップとエレナはリリウムを戦闘要員としてカウントしていないことにある。フィリップがそもそも情報を広く開示するタイプではないというか、死ぬなら何も知らず幸福に死ねというスタンスなのも大きいかもしれない。

 

 「……でっかいくま。うでがむっつあるやつ」

 

 両手を挙げて「がおー」とでも言いそうなジェスチャー付きで説明され、リリウムは逆に理解までに時間を要した。

 

 「あ、さっき森の外で襲ってきた魔物のこと!? 嘘!? は、早く逃げないと! シルヴァちゃん、フィリップはあっちだっけ!? 大変なのよ、今エレナさんと魔物が戦ってて! でも魔物って本当の魔物じゃなくてカノンって子なんだけど、そもそもフィリップはあれを──」

 「りりうむ」

 

 パニックからか早口に捲し立てるリリウムに、シルヴァは無機質な声で呼びかける。

 それは既知の情報を垂れ流す無意味な時間を終わらせるためではない。この場から一刻も早く逃げなくてはと警告するためでもない。

 

 「知って──何!?」

 

 ──()()()()

 

 「みつかった」

 

 シルヴァの声は、やはり内容に反して淡々としている。し過ぎている。

 相手と危機感を共有するために早口になったり、トーンを上げたりといった感情表現が全くない。そのせいで、リリウムは何を言われているのか即座に理解できなかった。

 

 「……え?」

 

 困惑するリリウムの手を、シルヴァがきゅっと掴む。

 手を繋ぐ、というよりは、リリウムの手に両手で掴まったような感じだ。

 

 「ふぶきがくる。ふぃりっぷはしるばをさがせるから、もってて」

 「えっ!? ちょっ──、っ!」

 

 無感動な声に応じる暇もなく、発したはずの自分の声が掻き消える。握ったはずの小さな手の感触を見失う。

 

 暴風。暴圧。

 吹き荒ぶ風と打ち付ける雪に身体が攫われてしまったと錯覚するくらい、外界把握が希薄になる。視界は真っ白に染まり、聴覚は耳元で轟々と鳴り続ける風音に妨害され、肌感覚が「冷たい」のか「痛い」のかも曖昧だ。

 

 リリウムは自分の顔と、風圧で飛んでいきそうになっているシルヴァを守ろうと雪の上に蹲る。

 腕の内に包んだシルヴァが「むぎゅ」と呻いたが、リリウムに姿勢を変えるほどの余裕はない。

 

 もう一歩も動けない。

 吹雪の風圧、気圧に押し潰されているわけではない。風の勢いだけで言えば、特にフィジカルに優れているわけではないリリウムが、風に逆らって歩くことができる程度だ。

 

 だが動けない。

 体が竦み、精神が萎え、恐怖に釘付けられて。

 

 「んー……」

 

 どうしよう、とシルヴァは頭を悩ませる。

 ノフ=ケーの動きは人間を襲う時のそれだ。方向から言って間違いなくリリウムを捕捉し、狙っている。

 

 このままではリリウムは確実に死ぬ。

 

 だが──正直、シルヴァにはどうでもいいことだ。

 フィリップに「リリウムを拾ってくる」とは言ったが、無理だったとしても怒られはしないだろうし、シルヴァ自身もリリウムに守るほどの価値は感じていない。

 

 シルヴァは再発生から約四年。

 ヴィカリウス・システムとしての権能は未だ殆ど取り戻していないし、戦闘能力は皆無だ。ノフ=ケーが何をしようが傷一つ付かないが、シルヴァにもノフ=ケーと戦う術はない。というか、吹雪の風圧で飛んでいく。

 

 だから能力的にも、そもそもリリウムを守って戦うことは出来ない。

 戦う力も、戦うつもりもないシルヴァは、抱きしめられたまま退屈そうな溜息を零し──どうやら間に合いそうだと無感動に思った。

 

 

 ◇

 

 

 雪を踏みしめる足音が鋭く、そして素早く連続する。深い木立の中を進んでいるとは思えないほどの速度だ。

 段々と、なんて言葉が鈍重に思えるほどの速さで接近してくるその音にリリウムが気付いたときには、もう目と鼻の先にいた。

 

 「──、っ! フィリップ!」

 「木の傍に! 早く!」

 

 フィリップはシルヴァとリリウムが一緒にいるのを確認すると、リリウムの腕を強引に引いて立ち上がらせる。

 怯えている女の子に対する気遣いなんてものは一片も無く、握られた腕が痛むほど力任せに引っ張っているが、リリウムの動きは鈍重だった。恐怖で竦んでいるのも理由の一つだが、吹雪の中でじっとしていたせいで筋肉が冷え固まっていた。

 

 「急いで! せめて背中は壁にしないと!」

 

 リリウムを急かしつつ、シルヴァを送還して非実体状態にする。

 ノフ=ケーが情報通り大きいだけの熊ならヴィカリウス・シルヴァを傷つけることなど不可能だろうけれど、それはそれだ。

 

 幸いにして、足元の雪はかなり薄く、積雪量は一センチそこらだ。濡れた下草を踏んで滑りさえしなければ、問題なく“拍奪”が使えるが──拍奪はその性質上、相手の位置や間合いを把握していなければ意味がない。最悪、範囲攻撃に自分から突っ込んでしまうことになる。

 

 視界が限りなく制限された中で走り回ること自体も大きなリスクだ。正直、棒立ちの方がまだマシなのではとフィリップは思う。滑ってコケるとか、木にぶつかるとか、間抜けな自滅をすることはなくなるだろうし。

 

 「ちょっと、痛いって!」

 「ごめん我慢して! 今走らなきゃここで死ぬよ!」

 

 震える華奢な腕を無理やりに引いて走らせ、手近な木の幹にリリウムの背中を押し付ける。

 フィリップはリリウムを背に龍貶し(ドラゴルード)を抜き放つが、相手が普通の熊でも剣で戦うのはかなりの愚行だ。熊は首を刎ね飛ばせば死ぬが、それは人間も同じ。そして人間には首を刎ねるための剣と技があり、熊には剛腕と鋭利な爪がある。これを互角と強弁するのなら、体重と敏捷性、そして厚い毛皮という装甲で勝る熊が有利だ。

 

 聞けばノフ=ケーは体長5メートルを超えるという。

 普通の熊なら立ち上がってもギリギリ首に剣が届くけれど──斬り飛ばせるかどうかは別としてだが──、5メートルとなると蛇腹剣を伸長してやっと届くレベルだ。

 

 そして蛇腹剣を最大に活かすのは鞭の動き。横振りだ。斜め上くらいまでなら対応できるが、5メートル上に届かせるとなるとほぼ直上。狙えないことはないが、最大威力は出ない。

 

 いや──そもそも、そんな足を止めて斬り合う圧倒的に人間が不利な想定でさえ楽観的すぎる。

 

 「……シルヴァ、ノフ=ケーはどこ?」

 

 非実体状態のシルヴァに魔術的な繋がりを通じて問いかける。

 フィリップは声を出す必要があるが、シルヴァの側からは意思を直接返答できる。つまり、声を介した会話よりも発声分のラグが減る。

 

 ヴィカリウス・システムの基本機能の一つ、環境内の完全掌握をそのまま垂れ流すことが出来ればそれで良かったのだが、それは実験済みであり、不可能だという結論が出ている。刻一刻と変化し続ける非言語的情報が大量に流れ込み、認知活動の根幹を言語的解釈に依存する人間の脳は結局、それを情報として把握出来なかった。

 

 脳のキャパシティが一瞬で埋まり、なんとか理解しようとした情報は次の瞬間には別な事を言っている。一つの情報が無限に更新され続け、それが無限に連なっているせいで、脳が何も処理できない。処理を終えられない。どんな要因であれ狂気に至ることのないフィリップでさえ、理解できない情報の大洪水に襲われて嘔吐したほどだ。

 

 だからシルヴァも、得た情報を人間の使う尺度に変換して伝える。

 

 『真正面』と。

 

 平地なら視界を3メートルにまで狭める吹雪だが、木々に遮られてそれほどの強さは失っている。しかし、それでも視界は10メートル以下だ。

 

 フィリップは左手をジャケットの内側に入れ、木と鉄の感触を確かめる。

 

 熊と斬り合うなんて馬鹿なことはしない。

 接敵した瞬間、脳天に弾丸を撃ち込んで終わらせる。

 

 ──でなければ、死ぬのはこちらだ。

 

 方針を決めた直後、自然現象では有り得ない唐突さで吹雪が終わる。

 雪が顔に打ち付けるのを庇いもせず目を細めて堪えていたフィリップは、不意に訪れた解放感に浸る間もなく絶句し、瞠目する。

 

 眼前5メートル。

 そいつは図体に見合わぬ隠密性で吹雪の中を気付かれることなく進み、いつの間にかそんなところまで近づいていた。

 

 二つ肢で立ち、四つの腕を生やした毛むくじゃらの怪物。

 熊と言われれば、なるほど、厚そうな毛皮や太い腕、その先にあるマチェットのような爪は、確かに熊にも似ている。

 

 だがこいつの前では、たとえグリズリーだってテディベアみたいなものだ。軽く抱き上げられ、引き裂かれて中の(ワタ)を散乱させることだろう。

 

 「──!!」

 

 太く、鈍い咆哮が上がる。

 肉食獣の唸る声は原初の恐怖の一つだ。人間を含む大抵の生き物の遺伝子に、それを畏れるようプログラムされている。

 

 フィリップも身体が勝手に硬直するが、精神的な、“本物の”恐怖はない。

 こんなド辺境の星の原生生物の威嚇に怯えるほど、可愛らしい精神はしていない。

 

 鈍重になる身体を苛立ち混じりに動かし、フリントロック・ピストルを抜きざまに引き金を引く。

 シュッと短い風を切るような音は、火皿に注がれた点火薬が薬室内へと火種を運ぶ音だ。そして乾いた炸裂音が森に響き──狙い過たずノフ=ケーの額へ吸い込まれた弾丸は、キン、と金属質な音と共に火花を散らした。

 

 シルヴァやカノンから聞いていた話の通りノフ=ケーの頭には小さな角があるが、きちんとその下を狙って、当てた。

 

 今の銃撃を弾いたのは角ではなく、毛皮だ。

 

 「──!!」

 

 ダメージは無さそうに見えるノフ=ケーだが、何かをぶつけられた程度の刺激はあったらしく、今度は威嚇ではなく怒りの籠った咆哮を上げ、六つの足全てを地に着けて突撃態勢を取る。

 

 フィリップは応じるように銃を仕舞って剣を構え、ふと気づいて苦々しく顔を歪めた。

 

 「……嘘でしょ? 無傷?」

 

 驚愕の声は、銃弾を弾いたことに対するものではない。

 フレデリカが再現してくれた火薬は、現在の人類文明で開発可能な最大威力のものではない。手元で扱い、携行可能な厚さの鉄筒の内部で燃焼させ、火薬それ自体もある程度の量を持ち運ぶ。勿論、安静にではなく、極めて激しい運動を課すこともある。そんな想定をしているから、高威力だが刺激に弱く暴発しやすい火薬は使えないのだ。

 

 ナイ神父が語った通り、低質な火薬に鉄を丸めただけの弾丸、滑腔の銃身では射程も威力もまだまだ未発達といえる。

 フィリップも威力検証実験のとき、鉄製のプレートアーマーくらいなら距離次第で貫通できるが、錬金金属製のフルプレートは至近距離でも貫けないことを確かめているから、銃弾が跳ねたって「うわあ硬いなあ」と小さな感心を抱く程度。

 

 だが──エレナの話によれば、こいつはミナと戦っているはずだ。

 

 ミナと戦って無傷で済んだのか、ミナから無傷で逃げおおせたのか、高い再生能力を有しているのか、それはまだ分からないけれど──どうであれ特大のバッドニュースだった。

 

 

 

 

 

 



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433

 咆哮を上げた大熊が突進する。

 龍貶し(ドラゴルード)で受け止めるとか受け流すとか、そんな発想も浮かばない重圧だ。踏み締められた地面が大きく抉れて湿った土が派手に飛び散り、身体が擦れた木がごっそり削れて大鋸屑を散らす。

 

 落ちてきた雪を跳ね飛ばし、最前面の腕を大きく広げてフィリップとリリウムを叩き潰すつもりだ。

 

 体長が2.5倍なら体積と重さは15倍。概ね熊と同じ身体組成だとすると、突っ込んでくるノフ=ケーの体重は約3トン。速度を加味すると、突撃の威力はとんでもないことになるはずだ。龍の尾の一撃よりはマシかもしれないが、人間を殺すには十分すぎる。

 

 「やば──、っ!」

 

 突っ込んでくるのは白い壁だ。横方向に逃げて間に合うはずもない。

 

 考えるまでも無く見て取り、フィリップは背後のリリウムを乱暴に引っ張って木の裏に回り、盾にしながら一直線に距離を取る。

 

 ぶつかって止まれば最高だが、迂回して距離が稼げれば御の字。

 そんな甘い考えは、振り返った瞬間に否定された。

 

 たぁん! と甲高い音が響き、これから鍋に入る根菜のようなものがばらばらと飛んでいく。

 ノフ=ケーの片手、五つの指先にあるマチェットのような爪が乱雑に振るわれ、その行く手を阻む若い広葉樹が根元を輪切りにされて倒れた。

 

 突進速度も、コースも、何も変わっていない。

 

 それが分かった時には、ノフ=ケーはもう十分に間合いを詰め切っていて、つい数秒前に木の幹をバラバラに切り裂いた剛腕を振りかぶっていた。

 

 死んだ。

 

 驚くほど客観的に、フィリップはそう思った。

 防御はまず不可能だ。龍の一撃さえ受け止めた衛士団長なら防げるかもしれないが、フィリップが同じように剣を構えたってペシャンコになるだけだ。龍骸の蛇腹剣はマチェットじみた爪を受け止めてくれるだろうけれども、斬撃を防いでも衝撃か重量で死ぬ。吹っ飛んで、潰れて、終わりだ。

 

 「《ファイアーボール》!」

 

 死に物狂い、或いは苦し紛れと言うべきか、フィリップの背後でリリウムが絶叫する。

 殆ど悲鳴と言ってもいい詠唱に従って、魔物相手では耐性に阻まれて威力が落ちるような低級の魔術が飛んでいく。赤い火の玉、横を通り過ぎても殆ど熱くない、悲しい威力の火球が。

 

 しかし──ノフ=ケーは突進の威力を目の前の地面に叩き付け、慣性を無理矢理に殺して横向きに跳んだ。

 大袈裟な、見間違えや勘違いのしようがない、明らかに怯えた動きの回避だ。

 

 「──っ! なるほど!」

 

 そうだったのか、とフィリップは脳内で点と点が不意に繋がった快感のあまり声を上げてしまう。

 

 さっきフィリップが惨殺したカルトが、何故暢気に「ミ=ゴの兵器」と戯れていられたのか。あんな戦闘能力皆無の宗教家集団が、暴力の化身じみた巨大な熊に襲われなかったのか。

 何か魔術的な対策でもしていたのだろうと思っていたが──違う。あのキャンプには焚火があった。ノフ=ケーはそれを恐れていたのだ。

 

 炎は、大抵の生物が本能的に恐れるもの。遺伝子にそれを恐れよと刻まれているものだ。

 極高温に耐性のある星間航行生物ならともかく、所詮はこの星の生き物でしかないノフ=ケーもその埒外ではない。

 

 まあ、当たっても死にはしないどころか、毛先を焦がせるかどうかも曖昧な威力ではあるけれど──そんなことは外観からは分からない。炎を恐れる生き物としては、紛れもなく炎ではあるリリウムの《ファイアーボール》も恐ろしいのだろう。

 

 現にノフ=ケーは大きく後退し、10メートルほどの距離を開けてリリウムを睨みつけている。剣で武装し、彼女を庇う位置にいるフィリップより警戒すべき相手になっている。

 

 とはいえ──あんなのは虚仮威しに過ぎない。

 今は避けたから、その威力を知らないから怯えているが、効かないことが分かればもう突進を止めることはないだろう。「もしかしたら効くのでは?」という楽観が脳裏を過ったが、そんな程度の相手ならミナが殺していると思い直す。

 

 「っ! 今のうちに!」

 

 リリウムが叫ぶ。

 言われるまでも無くフィリップはノフ=ケーから一直線に距離を取ろうと踵を返すが、その腕をリリウムが掴んだ。

 

 「違う! ウィルヘルミナさんを呼べるんでしょ!? 早く!」

 

 言われて、フィリップは眉根を寄せる。

 エレナの言によれば、ミナはいまウォードとモニカと一緒にいるはずだ。ノフ=ケーがここに居る以上戦闘中ということはないにしても、例えば二人を抱えて最寄りの街まで飛んでいる最中だったりしたら、仮に低空飛行でも二人はミナの飛翔速度の慣性を残したまま急に放り出されることになる。

 

 それに、魔力残量は相当に少ない。

 ミナを影の中に強制拘束する『エンフォースシャドウジェイル』はルキアとミナの合作で、召喚プロセスに必要な魔力の殆どはミナが負担する。フィリップは影の中に仕込まれた刻印魔術を起動するだけでいいのだが、その起動分の魔力だって惜しいくらいだ。

 

 即時昏倒するレベルではないが、眩暈か、吐き気か、強烈な眠気か。戦闘行為に支障を来す症状が出るのは間違いない。カノンのところまで走って逃げて押し付けるのが一番楽なのだが。

 

 ……なんて、贅沢を言っている場合ではない。

 

 一瞬の逡巡の後、フィリップはいつもの癖で左手を伸ばした。

 

 「《エンフォースシャドウジェイル》、起動!」

 

 詠唱と同時に魔力がごっそりと減る。『ファイアーボール』や『ウォーターランス』ほどではないが、これまでの蓄積もあって強烈な眩暈に襲われる。

 

 よろめいたフィリップの影がその色を濃くした次の瞬間、ミナはフィリップの影を踏み、不愉快そうに顔を顰めていた。

 

 「……」

 

 彼女は無言のままフィリップを見下ろし、一本指を立てる。

 上を見ろ、という仕草だと思ったフィリップとリリウムは素直に顔を上げ──ミナが指を下ろすと同時に降ってきた大量の水を頭から浴びた。

 

 「ごぼっ!? げほげほっ!?」

 「きゃっ!? 冷たい!? いきなり何なの!?」

 

 流されるほどの水量は無く、精々バケツ数杯分だ。

 しかしそれでもいきなり頭から被れば驚くし、そもそもここは季節外れの雪が降る低温環境。熱湯が即座に凍る極低温とまではいかないが、気温は真冬のそれだ。常温の水だって十分凶器になる。

 

 喉の奥にある不快感を咳き込んで吐き出そうとしているフィリップに代わってリリウムが不満を表明するが、ミナはその鳴き声を完全に無視した。

 

 「……フィル、きみ、今まで何をしていたの? 凄まじい悪臭よ」

 

 咳き込みながら、フィリップはミナの言う悪臭の原因にすぐさま思い至る。

 外神の気配の残滓。合計で何柱の外神がこちらに出てこようとしたのかは不明だが、フィリップをナイアーラトテップと間違えた蒙昧のせいで、相当な数の外神の神威をほぼ直接浴びたのだ。教会で化身二人に会ったときとは比較にならない濃度だろう。

 

 今のフィリップはカノン曰く、香水樽に浸かった後だ。

 そんな状態のフィリップにいきなり呼び出されたのだから、そりゃあ水洗いもしたくなる。

 

 それは分かる。分かるけれど。

 

 「それはごめん! けど、いま水はホントに死ぬよ!」 

 

 服にじわじわと水が染み込み、体温を奪っていくのが体感できる。

 ただでさえ魔力欠乏で身体機能が低下しているところにこれは、本気で命が危ない。フィリップを飼い始めてから人間の生態について調べていたはずだが、低温環境でのサバイバルについて載った本は読まなかったらしい。

 

 「寒いの? なら──」

 

 ミナは言葉を切り、踵を返して手中に剣を現す。

 二振りの魔剣、『悪徳』と『美徳』。彼女は手加減する時には利き手の右に白銀の断頭剣を持つが、今は漆黒の長剣を握っていた。

 

 「──熱い血と毛皮を用意するわ」

 

 勝った、と確信できる、余裕綽々の宣言。

 しかし普段ならミナと似たような態度を見せるフィリップに、いつもの余裕はない。 

 

 「危機感が共有できてない……。あ、風が吹くと寒すぎる……。たすけて殿下……」

 

 ステラと手を繋いだ時の温かさを──手を繋ぐだけで相手の深部体温を適温に操作できるという超絶技巧を思い出し、思わず泣きごとを漏らす。

 そもそも蝋燭大の炎を灯すくらいしか出来ないフィリップだが、今や魔力は底を突きかけている。魔力消費の大きい『ファイアーボール』なんて使ったら失神するレベルだ。

 

 血と毛皮云々は冗談だろうが、そんな汚らしい暖でも欲しいくらいだった。

 

 「震えてないでこっち来なさいよ! 火出してあげるから! ほら、《ファイアーボール》!」

 「あ、ありがとうパーカーさん! 助かったぁ……」

 

 歯をかちかち鳴らして震えているフィリップを、リリウムが見かねたように呼ぶ。

 彼女の魔術はどちらかといえば弱いというか、魔術が本来持つ威力を完全に再現できない程度のものだが、それでも『ファイアーボール』のサイズはフィリップのものの倍以上ある。横を通るだけで肌が焼けそうなステラの魔術には遠く及ばないが、間近で手を翳して暖を取るくらいはできた。

 

 「……構えてなくていいの?」

 

 ミナとノフ=ケーに完全に背を向けて火に当たり、服を脱いで水気を絞っているフィリップに、リリウムは怪訝そうに問いかける。

 ノフ=ケーが弱いやつから仕留めようと動いても、即座に反応することはできないだろう。それが戦闘の素人である彼女にも一見して分かるほど、今のフィリップは無防備だ。

 

 しかし、その心配はフィリップに言わせれば杞憂だ。

 

 「いや、さっきの突進の速さ見たでしょ? あんなのミナなら瞬殺だよ」

 

 遭遇直後はミナ相手に無傷でいられたのかと戦慄したが、突進を見て分かった。

 あの程度の運動性能なら、吹雪による視界妨害無しでミナが捉えられないことはないとフィリップは確信している。

 

 果たして──剣戟の音は、一度も鳴らなかった。

 その代わり、リリウムが「嘘でしょ」と呆然と呟いた声が戦闘終了を知らせてくれる。

 

 ハイヒールが雪を踏む音が近づいてきて、絞っても微妙に湿っている服を火に当てて乾かしているフィリップの隣で止まった。

 

 「終わったわよ、フィル。……本当に毛皮が必要なら剥いであげるけれど?」

 「いや、生きてるもふもふならともかく、死んだごわごわは要らないかな……」

 

 振り返ると、ノフ=ケーの巨体は変わらずそこにある。変わらず二つ足で立ち、四つの腕をだらりと下げている。

 ただ、背丈が頭一つ分低くなっていて、白い毛皮は首元からじわじわと赤く染まり始めていた。

 

 「そう? なら、早く戻らないと。きみの大事な二人を置いてきてしまったのだし」

 

 内容にそぐわぬ安穏とした声で言うミナだが、フィリップの反応は早かった。

 

 「え? どういうこと? 王都で何かあったの?」

 

 一瞬で片付いた戦闘や瞬殺された生き物への興味は完全に失せ、王都に居る二人、ルキアとステラに対する心配が心中を埋め尽くす。

 

 王都で何かトラブルがあったのなら──二人や衛士たちに危険が迫っているのなら、依頼なんか放り出して今すぐに帰らなくてはならない。フィリップが居たところで出来ることは少ないというか、むしろ街中では何もしない方がいいのは分かっているが、二人に比べたら街なんかどうでもいい。必要とあらばハスターに乗って帰るつもりだ。

 

 しかし、流石のミナも手駒無しに遠く離れた王都の様子を知る術はない。彼女が言う「二人」と、フィリップが真っ先に思い浮かべた「大事な二人」は別だ。

 リリウムもミナの意を正確に汲んでいたから、フィリップに向けられた怪訝そうな視線は二人分だった。

 

 「え? 何で王都?」

 「あの二人ではなく、一緒に来たほうの二人よ」

 

 名前が出てこない辺り、ペットが好きな玩具程度の認識らしいが、一応は「早く戻ろう」という意識くらいは持ってくれるらしい。

 

 エレナから「ミナがウォードとモニカを守っている」と聞いていたフィリップだったが、二人は安全だと確信した上でミナを呼んでいる。リリウムが「そっか! ウォードとモニカちゃんが!」と焦る横で「あぁ……」なんて緩慢な相槌を打つだけだった理由の一つはその安心感だ。

 

 フィリップはもう、何もかも終わった気でいる。ノフ=ケーを倒したから、これで解決だと。

 しかし、この異常気象の原因を知っているのは、この場に於いてはフィリップ一人だけだ。

 

 「ノフ=ケー……そいつはもう倒したんだし、平気でしょ。そういえば、吹雪なんかの異常気象の原因はそいつだよ」

 「そうなの?」

 「? 本当に?」

 

 そういえばエレナにしか言っていなかったと笑うフィリップ。

 リリウムは「なら二人はもう安全なのね」と胸を撫で下ろしているが、ミナは「そうだったのね」と笑い返しはせず、怪訝そうに眉根を寄せる。

 

 「だったらどうして、いま吹雪を出さなかったの? 一度は私から逃げおおせたのだし、普通は同じことをするでしょう?」

 

 まあ同じことをしたところで、迂闊に範囲攻撃を使えなかったさっきとは違う。剣を振り斬撃を飛ばして首を刎ねるより面倒ではあるが、魔剣『美徳』なり血の槍の花畑なりで、広範囲に“死”を押し付けてしまえばいいだけの話だ。

 

 しかしだからといって、それはノフ=ケーには分からないことだし、自分より強い相手だから諦めてただ斬られるような殊勝さはないだろう。

 

 今ミナが斬ったノフ=ケーは、吹雪を出せなかったか出さなかったかのどちらかだ。

 単純に魔力切れで魔術が使えなかった可能性もある。だが、ミナはそうではないと思っていた。こいつは吹雪を「出さなかった」のだと、根拠は無いがそう思う。戦士の直感か、化け物の嗅覚か、あるいは別の何かが、そう訴えかけていた。

 

 勿論、降伏したわけではない。フィリップとリリウムを相手に吹雪を使わなかったのと同じ理由──使うまでもないと判断してのことだろう。

 一度でもミナと戦ったことがあるのなら、まず出来ないはずの判断だ。

 

 「え? あぁ、そう言われると……」

 「まあ、吹雪の魔力パターンを()()いないから、この個体が術者ではないと断言する材料はないのだけれど……私の観察眼に間違いが無ければ、これは私が戦ったのとは別な個体よ?」

 

 ミナの言葉に、「え?」とフィリップとリリウムの声が揃う。

 

 人間の顔認識も多少曖昧なミナだ。

 熊の顔なんて見分けようがないが、いま斬り殺した個体はミナの記憶にあるノフ=ケーより小さい。体格もそうだが、角も小ぶりだし、腕を斬ったはずだが傷一つない。

 

 まあ吹雪の中で数合交わしただけだし、サイズ感覚は曖昧だ。腕の傷だって単に治っただけかもしれない。ミナ自身が不死身で急速再生能力を持っているから、その可能性をフィリップやリリウム以上に高く見積もることが出来る。

 

 それを加味して、やはり、先の行動の不自然さが引っかかる。

 

 ミナは自分の戦術眼に自信を持っている。

 自分とノフ=ケーが平地で吹雪などの環境要因を抜きにして戦えば、自分が一瞬で勝つことを確信している。──そしてそれは、吹雪の中で襲ってきたノフ=ケーも分かったはずだ。ヒットアンドアウェイに徹し、一度怪我をしてからは不用意に距離を詰めることさえ無くなった、野性の獣じみた危機察知能力を持つあいつは。

 

 「こいつが見た目通り熊の親戚なら、親子や番で行動するのではないの? というか、きみのペットに聞けばいいじゃない」

 「あ、それは確かに。シルヴァ?」

 

 呼ぶと、シルヴァがぴょこりと現れる。

 フィリップの問いに、彼女は怪訝そうな表情を返す。

 

 ()()()と言わんばかりに。

 

 

 

 



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434

 リリウムをエレナとカノンに預け、ミナと共にウォードとモニカの方へ向かう。

 シルヴァの案内があれば探し回る必要などなく、一点を目指して歩くだけでいい。

 

 そして十数分後。

 代わり映えのしない褪せた緑と白の視界が不意に華やいだ。

 

 「……」

 

 フィリップは小さく嘆息し、道標のように点々と続く赤色を辿る。

 そしてすぐに、赤い水溜まりを見つけて立ち止まった。

 

 そこには、もう華やかとは呼べない汚らしい色が散らばっていた。どす黒い赤、濁ったピンク、茶色っぽい何か、黄ばんだ何か、雪とは違う白色。

 

 「まあ、当然よね。私という抑止力が消えたわけだし。間に合わなかったのは残念ね」

 

 散乱した残骸、食い散らかされた残飯を不愉快そうに一瞥して、ミナはそれきり興味を失う。残念と言ってはいたが、ミナの声に特筆すべき感情は籠っていなかった。

 

 フィリップは呆然と、汚泥の中に転がった残骸の中でも真っ先に目に付いた塊をじっと見つめる。

 人間の認識能力の中で最も優先されるもの。両目と口のついた部位──胸から上と両腕が残ったものと、首から下は左半分しか残っていないものを。

 

 「……脳味噌は食わないのか」

 「独特の苦みがあるし、血も少ない器官だもの。吸血鬼でも好みの分かれる部位よ」

 「そうなんだ……」

 

 お気に入りの玩具を失ったペットを慮ってか、ミナが独り言に返事をくれる。

 使いどころのない知識が二つも増えた、とフィリップは薄く笑みを浮かべた。

 

 「……ふぃりっぷ、おこってる?」

 「ん? ううん、怒ってないよ」

 

 姿を現し、恐る恐るといった風情で問いかけるシルヴァに、フィリップは安心させるように笑いかける。

 

 ミナはどうしてもっと早く言ってくれなかったのか、とか。

 シルヴァは何故警告してくれなかったのか、とか。

 

 そんな恨み言は、思考の片隅にさえ浮かばなかった。

 

 当然だ。()()()()()()()()()()

 

 恨みは、悲しみや後悔から生まれるもの。そのどちらも無いフィリップの心に、恨みが芽生える土壌はない。

 

 しかし、自分の眉根が寄っているのは分かっていた。

 フィリップは考えていたのだ。

 

 「ただちょっと、なんていうか……不味いなって」

 

 二人が──ウォードとモニカが死んだことに、それほど感慨はない。

 

 パーティーメンバーが死んだわけだし、普通は悲しみや怒りを覚えるものだろう。ウォードやモニカとはパーティー結成以前からも親交があったし、心が激情で埋め尽くされたっていいはずだ。

 

 しかし、フィリップの心は殆ど凪いでいる。僅かに立つ漣は、ぶちまけられた血と臓物と、食べ残しへの不快感と嫌悪感。

 『気持ち悪いなあ』、と。フィリップは同族の、仲間の骸を前にして、それだけしか思わなかった。

 

 それ自体が不味いことだという自覚はある。あるが、だからと言って特定の感情を随意に抱くことなんて出来るはずもない。

 

 「……死体、ここに埋めていく方がいいよね? ミナの魔術で氷漬けにするとか、エレナが薬品で腐らないように処理することは出来るだろうけど……」

 

 こんな無惨な死骸、持ち帰ったって誰も喜ばないだろう。

 ウォードの家族構成は知らないが、モニカの両親──宿屋タベールナの主人と女将のことは知っている。モニカを家族同然に可愛がっている従業員たちや、そこに泊まっている衛士たちのことも。彼らにこんな、見るも無残な死骸を見せたくはない。

 

 遺品だけ持ち帰って、遺骸は埋めていくべきだ。

 

 そんなことを考えるフィリップに、ミナは思案気な一瞥を呉れる。

 

 「アンデッド化させて連れ帰る? 下位の吸血鬼でも自己再生能力くらいはあるし、欠損を直すことは出来るけれど」

 「それは駄目だよ」

 

 フィリップは即答する。

 

 ノフ=ケーは人類に知られておらず、魔術能力を有するとはいえ、この星に住む生き物だ。

 ウォードとモニカは言うなれば、強い魔物に殺されたようなもの。それは平凡で、平常で、平穏な死だ。幸せな死に様ではないだろうが、異常な死に様でもない。

 

 ならばその死は尊重されるべきだ。その安寧は守られるべきだ。

 

 強い否定に、ミナは「そう」と軽く応じる。

 彼女にとって二人は、ペットが大切にしている玩具くらいの価値しかない。壊れたから直して欲しいと言われれば余程面倒でない限り応じるが、それが壊れたこと自体には何の感情も抱かなかった。

 

 「取り敢えず、僕は──」

 「──フィル。こっちにいらっしゃい」

 

 言葉を遮って呼ばれ、何だろうと思いつつもフィリップは素直に従う。

 ミナはトコトコ近付いてきたフィリップにペットに向けるに相応しい慈愛の籠った一瞥を呉れると、やや強引に腕の中へ抱き寄せた。

 

 直後、二人は強烈な風圧と視界を覆い尽くす白一色に襲われる。

 

 「……ノフ=ケーだ」

 「えぇ、そうね」

 

 面倒そうな声が二人分、吹雪の音に混じる。

 

 フィリップが気付かなかった“もう一体”。ウォードとモニカを殺した相手。

 そう考えても、フィリップの心に「面倒だなあ」という以外の感傷は湧かない。大型肉食獣に対して抱くべき本能的恐怖も、檻にも勝る安心感を与えてくれるミナの腕という守りの中では無縁のものだ。

 

 程なくして、吹雪は収まる。

 ノフ=ケーが襲い掛かってくることは無く、フィリップがその気配すら感じ取れないでいるうちに。

 

 取り戻した視界は白と緑と、他に先駆けて認識された目に痛いほど鮮やかな赤色だった。

 

 「きみの位置が分かっていたら、最初の遭遇でこうして片を付けられていたのだけれどね」

 「ま、巻き込まれたら血の治癒も間に合わないぐらいの即死だね、これは……」

 

 淡々と語るミナに、フィリップは苦笑と共に返す。

 目に映る森は数秒前の静かな雪景色とは打って変わり、地面から生え出でた血の槍が乱立する生存拒否空間へと変貌していた。

 

 いつぞや悪魔の大軍勢を磔にした、整然とした処刑の様相ではない。

 眼前にあるのは敷き詰められた絨毯の如き花畑ではなく、風に吹かれて穂並を乱し、並び、交差し、中には槍同士が激突して折れたものすらある嵐の後の姿だ。

 

 赤く塗られた領域の中心には、腕が千切れ、腹が裂けて内臓が飛び散り、周囲の木を赤く汚して絶命したノフ=ケーの残骸がある。

 しかし、それはフィリップとミナから無感動な一瞥以上の行動を引き出すものではなかった。

 

 ミナはフィリップの首筋に顔を埋めて深呼吸しているし、フィリップはミナの柔らかさと匂いに包まれて微睡み始めている。

 

 しかしフィリップの意識が完全に眠りの淵へ落ちる前に、遠くから木立を縫って二人を呼ぶ声が届いた。

 

 「フィリップ君! 姉さま! ……っ!?」

 「……っ! 嘘でしょ、ウォード、モニカ!?」

 

 雪景色を彩る赤色を目にした二人が怯えたように息を呑み、元々速足だった歩調を全力疾走にまで早める。

 

 近付くまでも無く優れた視力で死体の状況を見て取ったエレナは、途中で歩調を緩め、やがて完全に立ち止まる。

 リリウムもそれなりの距離から状況を理解していたはずだが、彼女は自分自身の思考を現実が否定してくれると思ったかのように一心不乱に走り、二人の血で雪が染まった辺りまで近づく。だが、現実はそう優しくはない。断固たる事実を理解すると口元を押さえて膝を突き、そのままへたり込んで泣き出してしまった。

 

 「……フィリップ君、もしかして、姉さまのこと呼んだ(召喚した)?」

 

 エレナは二人の為に黙祷したあと、物言いたげな声でそう問うた。

 特に何も考えることなく「うん」と端的に答えたフィリップだったが、会話をそこで終わらせる前に、エレナの言葉には含まれなかった棘を台詞の内容から汲み取った。

 

 「……うん? 僕の所為で二人が死んだって意味?」

 「あっ! ごめん、そういうつもりじゃなくて、ただ確認しただけ! フィリップくんの行動は自分やリリウムちゃんを守ろうとしてのことだし、責めたりなんかしないよ!」

 

 エレナの言葉通り、彼女に怒りや糾弾の意図はない。

 だからフィリップがその色を感じ取ったのは、フィリップ自身の内側にそういう意識があるからだ。フィリップは自分の行動でモニカとウォードを死なせたことを、エレナに言われるまでも無く分かっている。

 

 しかし。

 

 「いや、別にいいけどね。僕のせいだと言われても否定はできないし、否定するつもりもないよ。二人がノフ=ケーに襲われたのはミナという抑止力が居なくなったから、僕がミナを召喚したからだ」 

 

 ミナの腕から抜け出したフィリップが欠伸交じりに言う。

 自罰的な言葉だが、フィリップに自覚以上の自責はない。「お前のせいだ」と言われても、「そうだね」とだけしか思えない。

 

 むっと眉根を寄せたエレナからどんな責めの句が飛んで来るのかと身構えるが、彼女の双眸はむしろ心配そうな光を湛えていた。

 

 「……フィリップ君、自分が例の“捨て身アタック”を使えばよかった、とか思ってる? それは駄目だよ。誰かのために死地に立つことと、誰かの代わりに死ぬことは全くの別物なんだから」

 「そうね。それに、敵を前にして自分自身さえ守れない者が他人を守れると思うのは、傲慢とも言えない愚考よ?」

 

 これをきっかけにフィリップが自分を召喚することを躊躇っては面倒だと思ったのか、ペットのメンタルケアのつもりなのか、或いはただ単純に思ったことを口にしただけなのか、エレナだけでなくミナも言葉を重ねる。

 

 「フィリップくんとリリウムちゃんは助かった。ウォードくんとモニカちゃんは死んだ。それはそれで、これはこれ。二人が助かったのはあの子たちのおかげじゃないし、あの子たちが死んだのはフィリップくんの所為じゃないよ」

 

 エレナは滾々と語る。フィリップはそれを黙って聞いていた。

 

 確かにあの局面に於いて、フィリップはミナを呼ぶ以外の選択肢を持ち合わせなかった。

 邪神召喚に長々とした詠唱を要する以上、咄嗟に使うにはほんの二節の詠唱で済む『エンフォースシャドウジェイル』が向いている。体長5メートルの熊相手に剣で立ち向かうわけにもいかないし、ミナを呼ばなければ、フィリップとリリウムが今のウォードとモニカのような死にざまを晒していた。

 

 そしてその選択時点で、フィリップがノフ=ケーが複数体存在することを知っていたとしても、状況は変わらない。フィリップは一人ではどうしようもない状況にいて、ミナを呼ぶ他に選択肢を持っていない。

 リリウムか、ウォードとモニカか。どうせ、どちらかを捨てなければならなかった。

 

 「……その二択なら、二人だったな」

 

 フィリップはエレナとミナに聞こえないよう、口の中だけで残念そうに呟く。

 ミナとウォードが気付いていた通り、三人の中で最も優先度が高いのはモニカだった。次点でウォード。フィリップの人間性を補強してくれるわけでも、羨望や嫉妬の念を抱く相手でもないけれど、そういう損得勘定抜きに、感情的に守りたかったのだが。

 

 だが、まあ。

 

 「あまり気に病む必要は無いわよ。だって、人は死ぬものでしょう?」

 

 至極当然のことを言ったミナに、フィリップは返答代わりに口角を上げた。

 

 

 

 



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435

 「……さあ、遺品を集めるなら早くしなさい? 依頼は達成したのだし、帰るわよ」

 「あ、うん」

 

 ミナに言われて、フィリップはやや億劫そうに二人の死体の方へ向かった。

 まだリリウムが泣きじゃくっている死体の傍ではなく、なんとなくその周りを歩いて良さげな遺品を探す。

 

 ほんの少し歩くだけで、フィリップは求めていた物を見つけられた。

 

 剣だ。

 

 ウォードが持っていた、王都製の()()()()()。程よく切れて程よく頑丈な、よく手入れされた逸品。

 それが刃の中ほどで砕けるようにして折れ、柄側の半分だけが雪に刺さるようにして落ちていた。

 

 拾い上げると、柄に巻かれた革がかなり新しい物であることに気付く。刃には研磨と修繕の跡が数多く残り、古強者のような風格を醸し出しているのを見ると、まだ少しだけ光沢のある柄革はちぐはぐだ。ウォードがこれを大切に扱っていたことの証だろう。剣がここまで摩耗するほどに使い込み、何度も何度も柄革を擦り切れさせて、その度に巻き替えて使い続けていたのだ。

 

 その最期が、主人より先に折れたのか、それとも主人を守って折れたのかは分からないが……ウォードの遺品にこれ以上のものはないと思える。

 

 「ウォードのはこの剣でいいとして……モニカはどうしよう」

 

 剣士だったウォードとは違い、モニカには彼女の在り方を示す物品がすぐには思いつかない。

 いや──フィリップの中で、彼女は数年前の姿のままで止まっている。困ったことにサボリ癖があって、更に困ったことにナイ神父に懐いてしまった、二つ上のお姉ちゃん。

 

 肉体的にも精神的にも成長して、聞くところによると衛士たちから護身術を教わっていたらしいけれど、結局、技の一つも見せて貰う前に死んでしまった。

 

 二人とも、フィリップはそれなりに大切に思っているつもりだった。

 仲は良かったし、話も合った。ウォードには色々なことを教わって尊敬していたし、モニカのことは守らなければならないと思っていた。

 

 けれど──いざ死なれると、思っていた以上に何の感情も湧かなかった。

 そのことが、何度も何度も、数十秒おきに頭を過って刺していく。刺されている、はずなのに──自覚している自責でさえ、心に何の痛痒も与えない。

 

 「……血を小瓶に入れて持ち帰るというのはどう?」

 「うーん……? ちょっと違うかな……。死んだ人を想うための、思い出の品みたいな感じのものがいいかも。オーソドックスなものだと、十字架とか。まあ、どうせ身体の代わりに埋葬するんだけどね」

 

 とは言っても、あまり適当なものだと遺族に叱られてしまう。

 

 そんなことを考えて──仲間が死んだというのに叱られることなんかを気にしている自分に気付いても、何の感情も抱かない。

 

 「……フィリップ君、死体は死んだ場所に埋めていいの? 人間式の埋葬方法とかってある?」

 

 問う声のした方に目を向けると、こちらを向いたエレナの向こうでリリウムがしゃくりあげながら穴を掘っていた。服や手袋が汚れるのにも構わず、雪を掻き分け、泥を掘り除けて。エレナは左手だけで器用にシャベルを使い、リリウムを手伝っているようだ。

 

 「え? あ、いや、それでいいかな。……意外と早かったね、復帰」

 

 そんな益体のない興味に、自問も自責も掻き消される。

 

 結局のところ──二人の死は、泡が弾けた程度のイベントに過ぎなかった。

 

 「そうかな?」

 「もっと悲しみに浸るものかと思ってた。いや、前の……テレーズの時も立ち直るのは早かったっけ」

 

 言いながら、フィリップは少しだけ焦る。

 エレナが思ったより早く立ち直ったことは関係ない。テレーズの名前を思い出すのに若干の時間を要したことに焦ったのだ。

 

 「お別れするのは寂しいし悲しいけど、くよくよしてたって死んだ人は生き返らないでしょ? 生き残ったボクたちが考えるべきは、二の轍を踏まないようにすることだよ。それが最大の弔いだもん」

 

 淡々と、とは言えないまでも涙の色を感じさせない声で語るエレナに、フィリップは意外そうな目を向けた。

 

 「……? な、なに? 何か変な事言った?」

 「いや、意外とポジティブな死生観で驚いただけ……」

 

 ポジティブというか、むしろ本能的と評すべきだろうか。

 知的生物が同族の死骸を忌避するのは、それが警告になるからだ。捕食者や異常環境などの脅威があることを知らせる標示に。

 

 エレナの考え方は、その本能的認知によく即している。

 フィリップがカルトの死体を足蹴にすることを嫌がったかと思えば、こういうところはドライだ。死者への敬意と、生死の間にある絶対的な隔絶を同時に知っている、ということだろう。

 

 森の中という自然の中で、しかし高度な社会性を持つ文明を築いて生きているエルフらしい価値観だ。

 

 「……正直、「連れて帰らなきゃ!」とかゴネるかと思ってた」

 「ボクのこと何だと思ってるの? フィリップくんやリリウムちゃんが病気になるようなリスクは持ち込まないよ」

 

 エレナに胡乱な目を向けられ、フィリップは曖昧に苦笑して誤魔化す。

 彼女は更なる追求をしようと口を開くが、その前にリリウムが話しかけてきて機を逃した。

 

 「……ねえフィリップ、スコップ無い? 私の荷物、森の外に置きっぱなしなの」

 

 見ると、リリウムは革の手袋や服の袖を泥だらけに汚していたが、掘られた穴は人間の上半身が入るにはまだまだ不足だった。

 泥の下には早くも硬い土があり、手では限界が来たようだ。

 

 「あぁ……。いや、僕も使うんだけど。……まあいいや、ミナに作って貰うよ」

 

 言って、フィリップはリュックから折り畳み式のシャベルを取って渡した。

 野営時にはテント設置のための簡易整地からトイレ掘りにまで幅広く使っている小ぶりなものだが、王都製だけあって鋭利で頑丈だ。少女の力でもすいすい……とまでは行かないが、それなりの効率で掘り進められるだろう。

 

 魔術を使わないのは土属性に適性が無いのか、墓穴は手で掘りたいという感傷か。

 

 「埋めちゃうんですか。食べちゃ……駄目ですよね! ごめんなさい! 黙ります!」

 

 フィリップとエレナに睨まれ、論外なことを言ったカノンが慌てて両手を挙げる。人間が一般的に使う降参を示すポーズではなく、高々とY字に。

 

 「フィル。これは何? 一見魔物みたいだけど、魔力がないし別物よね?」

 「ん? あー……、説明が難しいんだけど、そうだね、魔物モドキって感じ」

 

 興味深そうにカノンを見つめるミナだが、目の中に友好的な光はない。

 あるのは珍しい虫を観察するような冷たい感情。その虫が害虫ではないか、針や毒を持たないかを見定め、必要とあらば靴底の汚れに変えるという冷たい殺意。

 

 「……敵ではないの?」

 「うーん……」

 「うぇ!? 悩まないでくださいよ!? というか、敵対するなら私も抵抗しますよ! 王都まで行かないといけないので!」

 

 格闘戦の構えを見せるカノンだが、フィリップとミナの目は冷ややかで、応じるように構えたりもしない。

 抵抗も何も、エレナ相手に圧勝できないカノンが、ミナ相手に抵抗らしい抵抗を出来るはずがないのだ。今ここで戦闘が始まったとしても、カノンは秒殺される。

 

 「王都に?」

 「あぁ、うん。ナイ神父とマザーに会いたいんだって。案内してくれって言われて、どうせ帰り道だし、面白い子だしいいかなって」

 

 フィリップの言葉に、ミナは「そう……」と呟く。

 一応同道を認めてはくれるようだが、ナイ神父とマザー──フィリップに悪臭を擦り付けていく原因と思しき二人に、態々会いに行くというカノンには気持ち悪いものを見る目を向けていた。

 

 

 ◇

 

 

 フィリップたちが王都に戻ってから一週間もしないうちに、ウォードとモニカの埋葬式があった。

 初夏のよく晴れた、気持ちのいい日だ。二等地の外れにある墓地に、フィリップとリリウムは喪服姿で赴いていた。エレナは埋葬式という文化が肌に合わないと辞退し、ミナはそもそも弔意がないのでパス。

 

 墓守が掘った深い穴に収められる棺の中に、死体はない。

 殆ど空の木棺の中には、それぞれ柄から数センチしか残っていない壊れた剣と、鳥の意匠の髪飾りが静置されている。

 

 「親愛なる兄弟姉妹たち、我々は今日、勇敢な冒険者であったウォード・ウィレットとモニカ・カントールの魂を神に捧げるために祈ります。彼らはこの世を去りましたが、いずれ来る復活の日に新しい命を得るまで、天国で長い安寧の時を過ごします」

 

 モニカが生まれたときに洗礼を施したという、二等地ではそこそこ大き目の教会の神父が、厳かに弔辞を述べる。

 

 普通、埋葬は同じパーティーの仲間であっても同時には行わない。

 

 そもそも送別に立ち会うのは家族と、後は精々特別に仲の良かった数人程度。参列者は多くても十数人に留めるのが一般的だ。

 

 一神教に於ける“死”は悲しむべきものではないとされる。

 死者はいずれ来る審判の日に神と共に地上へと再臨するのだから、別れは一時的なものに過ぎない。死者が旅立ち、会えなくなってしまうことは寂しいことではあるが、神の元へ行く死者に悲しみを向けるべきではないと。

 

 だから別れを告げる儀式である埋葬式も、そう大仰である必要は無い。

 神父が弔辞を読み上げて、遺体を納めた棺を埋めて終わり。特に別れを惜しむ家族や仲間だけがいればいいし、それ以上は過剰だ。

 

 ウォードとモニカの葬儀は、その“一般”の枠から外れていた。

 

 モニカはこれまでのカントール家の人々と同じ墓地の、祖父母の墓の近くに葬られる。正確には「彼女の遺品は」だが。遺体は王都から遠く、シルバーフォレストに埋まっている。

 彼女の両親、アガタとセルジオはフィリップの斜め前で身を寄せ合って涙を流している。その周りにはタベールナの従業員が数人と、親戚だという夫婦が一組いた。

 

 「彼らは生涯を神と人々に仕えることに捧げた勇猛な冒険者であり、多くの人々に一時の安らぎを与える宿屋の子でありました。彼らの善行と信仰は、我々の心に深く刻まれています」

 

 神父が読み上げる弔辞は、フィリップの耳を滑って流れていく。

 その視線は、モニカの墓の隣、ウォードの墓に向いている。その墓前にいるのはフィリップとリリウムの二人だけだった。

 

 「我々は彼らのために、また彼らの遺族のために、慈悲深い唯一神に祈り求めます。神よ、あなたの子であるウォード・ウィレットとモニカ・カントールの魂を、あなたの栄光のもとに迎え入れてください。彼らに永き眠りと平和を与えてください」

 

 死後生か、とフィリップは雲一つない快晴の空を見上げる。

 もしも本当に天国や地獄や辺獄というものがあるのなら、そこが現世と絶対的に隔絶されていることを願うばかりだ。

 

 死後に意識など無く、そこが生命・魂魄の終焉であればそれがいい。だが霊魂が尚も存在し続けるのだとしたら、せめて現世を、フィリップとその周囲の邪神たちを目にしないでいて欲しい。

 

 まあ、どのような隔絶であれ“外側”からの干渉に耐えうるものではないだろうけれど、それでも、死後くらいは平穏であることを願おう。

 

 「……僕のせいで死者が二度死ぬなんて、流石に夢見が悪いからね」

 

 フィリップの呟きは誰に届くことも無く、気持ちのいい初夏の風に攫われた。

 

 そして、埋葬式は恙なく終わる。ウォードの家族は最後の最後まで姿を見せなかった。

 

 埋葬式を終えた帰路。

 リリウムと別れて歩いていたフィリップの前に、複数の騎兵に護衛された大ぶりな馬車が停まった。錬金術製の装甲板に覆われ、王家の紋章を掲げたクーペだ。

 

 フィリップの臭いに怯える立派な軍馬を御者が苦労して宥めると、随行していた騎士が馬を降り、その扉を恭しく開けた。

 

 「お乗りください」

 

 促され、中で待つ人物に一人しか心当たりのないフィリップは騎士に会釈して素直に従う。

 当然ながら、フィリップの前に座っていたのは予想通りの人物、ステラだった。

 

 

 

 



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436

 二等地の外れにあっては場違いな存在感のある馬車に乗り込んだフィリップは、促されるがままステラの対面に座る。

 馬車の座席は長時間の移動も苦にならないような柔らかさで、普通に座っただけのフィリップの口から思わずと言った風情の感嘆の息が漏れた。

 

 「こんにちは、殿下」

 「あぁ。久し振りだな、元気そうで何よりだ」

 

 いつぞやのように自己嫌悪に溺れているということもなく、平然と笑っているフィリップにステラも安堵の笑みを浮かべる。

 彼女は勿論、フィリップがパーティーメンバーを死なせた程度で悲しんで落ち込むとは思っていない。だが、それを()()()()()()()()()()()可能性は気に掛けていた。

 

 その悲哀も数日の旅路で完全に霧散しているようで、ステラとしては安堵するところだ。本人がどう思うかはともかく。

 

 「……ご用件は?」

 

 馬車が動き出さないことを察し、フィリップをどこかに連れて行くことが目的ではないと気付いて尋ねる。

 

 ステラは顎に手を遣って何事か考えたあと、端的に言った。

 

 「警告だ」

 

 と、不穏なことを。

 

 フィリップは眉根を寄せ、首を傾げる。

 ステラがフィリップ相手に何かを警告するとき、大抵は王宮に関係した内容で、かつ彼女の領域であるはずの宮廷に於いて絶大な権力を持つステラではなく、フィリップ自身が気を配らなくてはならないほどのことが起こっている。

 

 王様が呼んでいるからどうにか取り繕えとか、貴族がフィリップの家族を狙っているから注意しろとか、これまではそんな内容だった。

 ただ一人彼女の上に坐す国王の言葉に抗うことは出来ないし、誰かと接点を持つために先ず家族へ接触を試みるというのは普通に使われる手法だ。これを咎める法はない。

 

 今回もまた、そういうケース──ステラではどうしようもなく、フィリップ自身がどうにかするしかない事例だ。

 

 「今回の一件は王国にまで報告が上がってきた。王国が斡旋した依頼だから当然と言えば当然だが、通常、王国は冒険者の生死にそれほど関心を持たない」

 

 今回の一件とは、ステラが“エレナと愉快な仲間たち”に依頼を出し、犠牲を出しつつ失敗したことだろう。

 フィリップは言われるまでもなくそう理解し、頷いて先を促す。「頼んでおいて何なんだ」とは思わなかった。

 

 「だが、お前は違う。今回の一件は王家を含む中枢で、それなりに問題視されている」

 

 「問題視?」とフィリップは眉根を寄せる。

 ミナに襲い掛かった冒険者にミナが反撃して殺し、フィリップが責任を問われ、超法規的裁判である御前論奏にまでなったことは覚えている。

 

 尤も、そういう事があったと覚えているだけで、誰を殺して誰が怒っていたのかは、とうに忘れたけれど。……ともかく、「問題視される」ことが「面倒」に繋がることは覚えていたフィリップは、またあんなことになりませんように、と宛ても無く祈った。

 

 その祈りが誰かしらに届いたわけではないだろうが、ステラの声にあの時のような硬さはない。あくまで警告段階の話のようだ。

 

 言葉は続く。

 

 「お父様はお前の冒険者活動のことを……まあ、困った趣味程度に考えていた。お前が望むなら、そして危険が無いのならやらせておいても問題ないだろうと。どうせ15歳までは叙勲しない方針だし、お前とミナに限って万が一もないだろうと、そう考えて」

 

 そりゃあそうだとフィリップは深く頷く。

 叙勲が決定事項のように語られるのは不満を通り越してちょっと怖いけれど、少なくとも今のフィリップは一介の平民に過ぎない。貴族のように生き方を定められていない自由な身分のはずだ。

 

 勿論、貴族であれ平民であれ王の命令に逆らうことは出来ないし、「冒険者を止めろ」と言われたら従うしかないのだけれど、そもそも王が平民を相手にそんな命令を下すこと自体が異例だ。だから今のところ、フィリップの活動には何の口も出されていない。

 

 「だが、覚えておけ。お前は事情を知る魔術師にとって命の恩人だし、王宮には魔術師が多い。お父様にも私にも前々から上申はあったが、今回の一件でかなり増えた。私も……私はお前が大怪我をしない限りは庇ってやるが、お父様はお前のアレを知らない。今回のようなことはあと一度か二度が限界だと思っておけ」

 

 アレとは単一のものではなく、邪神絡みの全てを指しているのだろう。

 邪神召喚という強力な切り札のこと、フィリップを守護する別格の邪神たちのこと、フィリップの異常な精神性のことだ。

 

 仲間が何人死のうが知ったことではなく、むしろ全滅してくれた方が心置きなく切り札を使えるし、切り札が発動すればフィリップの生存は確定する。そういった諸々を知っているのは、ルキアとステラだけだ。

 

 それを知らない相手にでも一度か二度は説得を通せる辺り、ステラの人望と交渉能力は破格だが、やはり限界はある。

 

 「……それは、つまり」

 

 苦々しい表情で尋ねるフィリップに、ステラは真剣な面持ちで頷く。

 

 「冒険者活動の強制終了。いや、正確には叙勲し、土地を宛がって封じ込めると言った方が正しい。お前が危険なことをしないよう、お前に危険が及ばぬよう、綺麗な館と多数の使用人で守ってしまえということだな。統治能力の不足を鑑み、宰相は自らの次女──つまりルキアを補佐に付けると言っている。我が国の宝であり強大な戦力でもあるお前たちを一か所に纏め、戦いやすく守りやすくするのは良い戦略だ」

 

 それは、とフィリップは嘆息して馬車の天井を見上げる。馬車に窓は無く、外を見るのは不可能だった。

 

 危ないとか守るとか、正直、余計なお世話だとは思う。

 ()()()()()何を言っているのかと、嘲笑と軽蔑が脳裏をよぎる。

 

 しかし、好意や善意からの行動だと思うと、どうにも怒る気になれなかった。

 

 「……まあ、パーティーを組まなければいいだけの話ですよね?」

 

 元々、フィリップはミナとエレナと三人で冒険者活動をするつもりだった。ウォードたちと組んだのは成り行きだ。

 今回の件でリリウムはフィリップたちと一緒に冒険するのを嫌がるだろうし、戦闘能力に欠ける余分は省ける。問題はエレナだが、彼女はフィリップが心配するなんて烏滸がましい程度には強い。精神面に若干の不安はあるが、見ただけで発狂するような手合いは、そもそも易々と遭遇できるようなありふれた存在ではない。余程のことがない限り大丈夫だろう。

 

 そんな甘い計算を、ステラは半笑いで否定した。

 

 「楽観的だな。今回の件、宮廷の者を不安がらせたのはお前のパーティーが半壊したことではなく、お前とミナがいて犠牲が出たことだ。人間の感情とは時に不合理で、理不尽だ。お前が赴いた先で全く関係のない人間が死んだだけで、不安を爆発させるかもしれないぞ?」

 「えぇ……」

 

 フィリップは不満そうに眉根を寄せる。

 

 いや、まあ、気持ちは分かる。

 フィリップだって「二人を置いてきたから早く戻ろう」というミナの言葉を「ルキアとステラが危険だ」という意味に誤解した時は、何もかも投げ出して飛んで帰るところだった。ハスターに乗って、道中で何人狂死するかなど気にも留めず。

 

 フィリップ自身がそこまで大切にされる理由は“龍狩り”の件なのだろうけれど、正直、あまり実感はない。その「宮廷の者」たちと大した面識もないのだから尚更に。

 

 「それじゃつまり……」

 「そう。「なるべく人を死なせてはいけません」ということだ。難題だな?」

 

 本当に難題だと苦々しく表情を歪めたフィリップを見て、ステラは鈴を転がすように上品に笑った。

 

 

 ◇

 

 

 公爵邸まで送るというステラの申し出を残念そうに断ったフィリップは、馬車を降りて二等地を歩いていた。

 

 用があるのは宿屋タベールナ……ではなく、投石教会だ。

 墓地のある外れから見慣れた通りまで戻ってくると、見慣れた顔を見つけた。いや、彼は──先代衛士団長はそこで、フィリップを待っていた。

 

 「フィリップ少年。少し、時間を貰えないか」

 「あ、先代。お久しぶりです。勿論いいですよ」

 

 神妙な面持ちの先代に、フィリップは朗らかに笑いかける。

 まだ喪服の、埋葬式の帰り道の人間が浮かべるには不似合いな笑顔だが、先代は然して気にした様子は無かった。

 

 「パーティーのことは聞いた。残念だった」

 「あ、どうもご丁寧に」 

 

 頭を下げた先代に、フィリップも礼を返す。

 お悔やみを言いに来ただけならそれこそご丁寧なことだが、彼の用事はそれだけではない。

 

 「それで……君に渡すものがあってな」

 

 そう言った先代がフィリップに差し出したのは、王都製の真っ白な紙で作られた封筒だ。

 表面には「親愛なるフィリップへ」と宛名が、裏面には「ウォード・ウィレット」と署名があり、一見した印象通り手紙であることはすぐに分かった。

 

 「……先代、ウォードと知り合いだったんですね」

 「あぁ。あいつは俺の弟子だ」

 

 ほう、とフィリップは興味深そうな吐息を漏らす。

 

 「そうだったんですか。……ウォードの強さの理由が分かりました」

 「強さ、か。生き残った君が……すまん、詮無いことを言った」

 

 白髪混じりの頭をガシガシと乱暴に掻いた先代に、フィリップは曖昧な笑みを返す。

 

 生き残ったフィリップがそれを言うのか、という謗りは、残念ながら的外れだ。

 フィリップが生き残ってウォードが死んだのは、フィリップの方が強かったからではない。分け目になったのは、あの森で一番強かったミナの庇護を受けられたかどうか。人間程度が強さを競ったところで、体長5メートルの熊と、10万の命を持つ最上位吸血鬼の前ではどんぐりの背比べ。意味はない。

 

 相手がその二者の間にも割って入れそうな、成龍を撃退したという先代でなければ、内心をそのまま口にしているところだ。

 

 フィリップは頭を振って思考を切り替え、封筒を開ける。中には手紙が一通、それだけだった。

 

 内容に目を落とした直後、フィリップの口から深々とした溜息が漏れた。表題しか読んでいないが、表題だけで気が滅入って読む気が失せる。

 

 ……『遺書』などと言われては。

 

 『もし君が僕のことを友達だと思ってくれているなら、若しくは、僕の家を焼いたことを気に病んでいるのなら、僕の妹のことを頼みたい。余裕があったらで構わない。君はこれから貴族になって、お金も権力も手にすることになると思う。これを読んでいるということは、僕はもう死んでいて、妹のことを守ってやれないのだろうから、使えるものは何でも使わせてもらうよ。君との友情や君の善性も、大いに利用させてもらう。

 

 僕のことを卑怯者と罵ってくれていい。妹にも、僕は君の罪悪感を利用したクズ野郎だと言っていい。けれどどうか、あの子が自立して一人で生きていけるようになるまで、見守ってあげて欲しい。

 勘違いしないように言い添えておくけれど、何も「責任を取れ」と言っているわけじゃないんだ。ただ、妹の後見人にするなら、僕の友達の中で一番偉くなって、一番お金持ちになるであろう君を選ぶのは賢い選択だと思ったからだ。

 

 僕は君が衛士団と一緒に悪魔と戦ったことを、今でも凄いと思ってる。家には父さんとの思い出もあったけど、父さんだって、僕たちが無事ならそれで善しと笑ったはずだから、気にしてない。

 

 これを書いている時点で君と過ごした時間は、きっと全部合わせても二か月くらいにしかならない。けれど僕は、君のことを尊敬しているし、友達だと思っている。君と過ごした時間は楽しいことばかりじゃなくて、怖い体験も、死ぬかと思ったこともあったけど、君と友達になれてよかったと思ってる。合理じゃなく心情から言っても、君に僕のたった一人の家族を託したい。

 どうか、頼む。

 

 それから、君はきっとずっとサークリス聖下と一緒にいると思うけれど、彼女は絶対に怒らせちゃ駄目だ。』

 

 読み終えると、フィリップは口元を僅かに歪めて笑おうとしたが、笑いきれずに重苦しい溜息を吐いた。

 

 冒険者に限らず、衛士や騎士は戦地に赴く前に遺書を認めるという。むしろ、身の丈に合わない依頼を受けなければいいだけの、自分の意思で死のリスクを排除できる冒険者の方が、遺書を書く習慣は無い。

 

 これは衛士を真似たものだろうな、なんて思っても、まだ笑えなかった。

 

 最後の一文は、ただの冗談だろう。

 これを書いた時点で、ウォードは死ぬつもりなんて全くなかったはずだ。大真面目なことを書いて気恥ずかしくなったのか、自分が死ぬ前に見られた場合のことを想定して笑いどころを作ったのか、それは分からないけれど……全然全く、これっぽちも笑えなかった。

 

 「……先代は、中身を?」

 「いや、まだだ。見てもいいのか?」

 

 フィリップは無言で頷き、手紙を渡す。

 先代はそれなりに時間をかけて読み終えると、フィリップ以上に重々しく嘆息した。

 

 「確かに、あいつには妹がいる。今は俺が保護者だが、うーむ……?」

 

 腕を組み、難しい顔で視線を彷徨わせる先代。

 ウォードの遺言の是非を考え込んでいるように見えたが、そうではなく、彼はその可否について考えていた。

 

 「俺の記憶が正しければ……、つまり、大体50パーセントぐらいの確率でなんだが、後見人になるには15歳以上だか20歳以上だかの制限があったはずだ」

 

 へえ、とフィリップは頷くことしか出来ない。

 ステラがまだ居てくれたら「そうなんですか?」と聞くだけで、先代の言葉の正否からフィリップが応じるべきかどうかまで教えてくれただろうが、残念ながらフィリップの法知識はほぼゼロだった。

 

 法的拘束力のない、口約束的な「後見人」になることは出来るだろうけれど、もしもその“妹”が魔術学院や軍学校に入学する場合、書類上の保護者でなければ差し障ることが出てくるだろう。

 レイアール卿からのお小遣いは完全に手付かずだし、誰かを支援するどころか、養うことだって可能だ。金銭的には、という但し書きは必要だが。

 

 今のフィリップはただ金銭的に裕福なだけの、責任能力のない子供でしかない。

 

 「まあ、すぐにどうこういう話じゃない。あいつも俺の弟子だし、まだまだ教えなくちゃいけないことだらけだ。しばらくは俺のところで預かっておく。君が爵位を貰ったら、そしてその時に応じるつもりがあったなら、改めて連絡をくれ」

 「……その時が来たら、ルキアと殿下に相談してみます」

 

 努めて明るい声を出した先代に、フィリップは難しい顔で頷いた。

 

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ18 『White Out』 ノーマルエンド

 技能成長:なし。或いは使用技能に妥当なボーナスを与えてもよい。

 特記事項:同行者『ウォード』『モニカ』死亡。
      ヨグ=ソトースが介入。世界の連続性が消失。正常性が一定値減少


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漁村
437


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ19 『漁村』 開始です

 必須技能はありません。
 推奨技能は各種戦闘系技能、【クトゥルフ神話】、【水泳】です。


 ウォードとモニカの埋葬式から数日。フィリップは再び冒険者活動を始めた。

 

 “龍狩りの英雄”と最上位吸血鬼を擁するパーティーから犠牲者が出たことは、冒険者たちの間で話題に──などなっておらず、ギルドに入った時には「あぁあいつらか」とただの顔見知りを見る目が大半だ。情報統制でもされたか、単純にどうでもいいのか。

 

 ギルド側から何か警告や処分が下ることも無かった。結局のところ冒険者やギルドにとってあの一件は、「初心者が不運にも強い魔物と遭遇して死んだ」という頻繁ではないが稀でもない程度の出来事に過ぎなかった。

 

 元々全く精神的ダメージの無かったミナはともかく、意外な割り切りの良さを見せたエレナもさっぱりと吹っ切れている。ギルドに向かう道すがらも、ギルドに着いてから一旦腰を落ち着けて「次の依頼どうしよう?」と話している間も、いつも通りの明朗さだ。つい最近パーティーメンバーが二人減ったことなど微塵も感じさせない。

 

 待つこと数分。

 パーティー最後の一人であるリリウムがギルドの扉を開け、きょろきょろ見回してフィリップたちを見つけると、神妙な面持ちでテーブルまでやって来た。

 

 「……あの」

 

 リリウムの纏う真剣な雰囲気に当てられて、フィリップとエレナはつい沈黙を返してしまう。

 集合早々にしては重すぎる空気のなか、ミナだけが退屈そうに受注候補の依頼票を眺めて吟味していた。

 

 「……僕たちはパーカーさんの意思を尊重するよ。パーティーを抜けたいなら止めないし、これからも続けたいなら歓迎する」

 

 フィリップは努めて穏便に、「お前要らないよ」という意味に取られないよう気を配りながら言う。

 ステラの警告を考えるとリリウムの存在は重い枷でしかないが、それを理由にリリウムを辞めさせるのは身勝手だ。そう考えて。

 

 とはいえ、いない方が動きやすいのもまた事実なので、彼女が「辞めたい」と言っても引き留めることはしないつもりだ。

 

 そして、リリウムは強い決意の籠った眼差しでフィリップを見つめ返した。

 

 「私……まだこのパーティーで冒険したい。だって、ここ以上にAクラスに近いパーティーなんてないもの」

 「そっか。よし、今後ともよろしくね。……ところで、そんなにAクラスに拘ってたの?」

 

 喜んで握手しているエレナとどうでも良さそうなミナを一瞥し、異論は無さそうだと判断したフィリップは、自分の疑問を口にする。

 確か、Aクラス──その先にある衛士団を目指していたのは、フィリップとウォードだけだったはずだ。モニカとエレナは遊び半分、ミナはペットの監督なので、冒険者活動そのものに対して真摯だったのは二人だけだった。

 

 リリウムの動機は、確か、魔術学院に入学出来なかった──適性審査を通らなかったことへの反発。

 

 フィリップのその記憶を、リリウムは頷いて肯定する。

 

 「別に、私は私の才能を示せたらそれでいいわ。けど……ウォードの夢だったでしょ、Aクラス。それに、魔術学院の出身じゃない魔術師がAクラスになったら、結構有名になるんじゃない? 魔術学院にも届くくらい。だからついで……いや、ただの手段の一つよ! だから、私もAクラスを目指すことにしたの!」

 

 リリウムが声高に宣言すると、周りから「うるせえな」という険の籠った視線が集まる。

 フィリップは「すみません騒がしくて」と会釈で受け流し、リリウムにはエレナと共に感心したような目を向けた。

 

 「……思ったよりいい人だね、パーカーさん」

 

 リリウムとは一緒にパーティーを組んで、まだそれほど長い時を過ごしたわけではない。フィリップは彼女に然したる興味も持っていなかったから、場の流れに沿った会話はしても彼女個人に興味を向けることは無かった。

 幼馴染のウォードと、同性のモニカとエレナとはそれなりに仲の良かったリリウムも、年下の異性と積極的に話す必要性を感じなかったから、二人の交流はそれほど盛んではなかった。だからこそ、彼女の見せた善性はフィリップにとって意外に映った。当人は「思ったよりって何よ!?」なんて眦を吊り上げていたけれど。

 

 ふい、と目を逸らしたフィリップに彼女が追及を重ねる前に、ミナが手にしていた依頼票の束を机の上に投げ出した。

 

 「薬草採取に低級魔物の駆除、害獣除けの罠設置と薬品散布、狂暴化した軍馬の鎮静化……? フィル、別の依頼にしなさい」

 

 確かに、エレナとフィリップで候補に挙げた依頼はどれも簡単なものだ。Cクラスの冒険者に割り当てられるものとしては普通だが、ミナどころか、エレナやシルヴァが出る幕も無いだろう。軍馬の鎮静化なんか、多分フィリップが近づいただけで達成だ。予後はともかく。

 

 「つまらなさ過ぎるわ。これなら図書館で本を読んでいた方がマシよ」

 「まあ、確かにそうなんだけど……」

 

 ミナが退屈そうに言うが、フィリップは悩ましげに眉根を寄せる。

 Cクラスの依頼なんて、大概はこんなものだ。ゾ・トゥルミ=ゴと遭遇したのは洞窟調査の過程、単なる偶然だったし、ノフ=ケーとの遭遇もそうだ。端から神話生物──“謎の魔物”との邂逅を目的としていたわけではなかった。

 

 「謎の魔物の調査」を目的とした依頼は偶に掲示されているが、大抵はBクラス以上を対象にしている。ノフ=ケーと遭遇した『異常気象の調査』だって、元はBクラス向けの依頼で、何度か達成されなかったからステラ経由でフィリップに任されたものだった。

 管理上はCクラス冒険者でしかないフィリップたちが、ミナの思う面白そうな依頼を受注しようとしたって、ギルド側に突っぱねられるだろう。

 

 どう説得しようかとフィリップが考え始めたときだった。

 

 「──お話し中のところ失礼します。冒険者パーティー“エレナと愉快な仲間たち”のエレナさんとカーターさん、ご来客ですので、上階の応接室までおいで下さい」

 

 テーブルの傍に来たギルドの事務員が、どこか硬い口調でそう言った。

 フィリップたちと面識のある職員で、パーティー名にくすりと笑う程度には肝が据わっている人なのだが、今日はなぜか緊張しているようだ。

 

 「……?」

 

 リリウムと話していたエレナと顔を見合わせ、言われるがままに付いていく。

 ギルド本部は四階建てだが、大半の冒険者は一階にしか入らない。三階以上はギルドの事務的機能が集中しているため原則立ち入り禁止とされている。しかし、フィリップたちが通された応接室は四階だった。

 

 「フィリップくん、心当たりは?」

 「いや……ギルドに来たってことは依頼者でしょ? 僕に何か頼みそうなのって、ルキアと殿下と、あとはレオンハルト先輩くらいだよ」

 「じゃあ直接言うよね……」

 

 事務員はやたらと丁寧なノックと入室確認のあと、最大限の丁寧さで扉を開けてフィリップたちを通した。

 応接室は貴族の来訪を想定してデザインされたようで、壁や床の材質からして高級感のある部屋だった。部屋の中央には四人掛けのソファが二つ対面して並び、その間にはぴかぴかに磨き上げられた石製のローテーブルがある。過剰にならない程度に調度品も置かれ、どことなく物騒な空気の漂う一階とは全く違う空気が漂っていた。

 

 部屋の中には重武装の鎧騎士が六人もいて、中の様子を見た瞬間に回れ右して帰りたくなるような威圧感を放っている。実際に、事務員はそうして退散した。

 彼らを直感的に()()だと思ったのは、長距離移動や探索をすることの多い冒険者は、彼らが身に着けているような鈍重なフルプレートメイルを好まないからだ。それに、鎧のデザインや意匠が統一されている。同一の部隊に属する正規兵だ。

 

 ならば、その彼らが守っているらしい、上座のソファに座った金髪の青年は。

 

 「……誰? 知ってる、フィリップ君?」

 「いや、知らない……。どこかで見たことある気もするけど」

 

 フィリップとエレナは顔を寄せ合い、ひそひそと囁き合う。身長差から、エレナは少し屈んでいた。

 

 青年は王国人にありがちな金髪と青い目を持っていたが、顔立ちは非凡なほど整っている。

 年は15歳くらいだろうか。フィリップより少し年上のように見えるが、座った姿勢で組まれた足はすらりと長く、立ち上がったらかなりの上背だろうと察せられた。

 

 彼はすっと立ち上がるが、自己紹介する代わりに傍に立っていた騎士を一瞥する。

 その堂々たる仕草、自分が何者であり、どう振舞うべきかを知り尽くしている者の所作は、フィリップに強い既視感を与えた。

 

 視線の意図を汲み、騎士はフルフェイスヘルム越しにもよく通る声で、自らの主人の素性を明かす。

 

 「この御方は我らがアヴェロワーニュ王国第一王子、カール・セクンド=マーニャ王子殿下であらせられます」

 

 恭しい紹介に、「じゃあ殿下の弟かぁ」なんて考えていたフィリップは「へぇ」と頷きかけて慌てて跪く。

 普段その単語を口にする時には親しみが籠っていて、フィリップの中で「殿下」はステラを指す渾名のようになっていたが、本来は違う。それはどこの国でも相当に上位の人間にしか付かない敬称だ。彼自身が「殿下」と呼ばれる、血統序列に於いて最上位層の人間だった。

 

 「失礼いたしました」なんて咄嗟に口走るフィリップだが、本来なら赦しを得ず口を開くことすら咎められる。王族とはそういう相手だ。

 エレナは「そうなんだ。初めまして!」なんて明朗に笑っていたが、彼女はそもそも王国民ではないどころか人間ではないし、種族王の娘、所謂王女様だ。関係性は概ね対等だろう。

 

 「あぁ、頭を上げてください。命の恩人にそんな恰好をさせるほど、俺は恩を知らない人間じゃありません」

 

 慌てたような足音が近づき、フィリップの肩に手が触れる。

 フィリップは一応、いつぞや「国王陛下に「面を上げろ」と言われても、もう一度促されるまで頭を上げては駄目よ」とルキアに教わったことを覚えてはいた。いたが、ではその法則が国王ではなく王子にも適用されるのかという問いには、フィリップの知識では答えが出せなかった。

 

 結局、カール王子に「さぁ、どうぞお掛けになってください。交渉を始めましょう」と言われたのを二度目の催促と捉えて従うことにする。もしかしたら、王子はフィリップの逡巡を察してくれたのかもしれない。

 

 示されたソファに腰掛けながら、フィリップとエレナは「交渉?」と声を揃えた。

 王子は「仲がよろしいのですね」と愉快そうに笑い、その笑みを残した明朗な表情で話し始める。

 

 「あなたのような強大な戦力を、C級冒険者などという小さな器に収めておくのは不合理です。姉上はあなたに配慮して強行されないが、本当なら北東部の要所を所領として与え、聖国に対する牽制とするか、王直属の特別な騎士とするところですよ」

 「そうなの? でも、だったらあなたがフィリップ君を私有武力化するのは不味いんじゃない?」

 

 王子はまだ交渉の内容について口にしてはいないが、先んじて察したエレナが怪訝そうに尋ねる。

 フィリップの、そして恐らくミナの私戦力化。或いはそこまで行かずとも、その武力を利用しようとしていることは分かった。

 

 別にエレナとしては、カール王子が強大な武力を持とうが、その力でステラの足元を脅かそうがどうでもいい。王国の内情に関わるつもりは毛頭ないし、ステラとカールのどちらがエルフにとって益となる存在か見極めるだけの知識も経験もない。

 

 しかし、フィリップはミナのペットだ。

 そしてミナは自分のペットに他人が新たな首輪を付けることも、ペットを介して自分を操ろうとすることも許さないだろう。

 

 吸血鬼が人間を殺すことに否やは無い。それはこの世界の在り方として正しく、自然なことだ。木は土の栄養を吸い、虫が木の葉を喰い、虫は鳥に喰われ、鳥は大型の獣に喰われ、彼らは死して土に還る。食物連鎖、弱肉強食の摂理に即している。

 

 しかし、王国に滅亡されるのは困る。ここはエルフが唯一、正式な国交を回復した人間の国なのだから。

 

 警戒も露なエレナに、カール王子は困り笑いで頷いた。

 

 「勿論、次に王冠を戴くのは姉上です。姉上がやっていないことを、俺が勝手にやるわけにはいかない。そこで、こういった形をとることにしました」

 

 王子が視線で合図すると、傍に控えていた騎士が一枚の紙をローテーブルの上に置いた。

 フィリップにもエレナにも見覚えのある、実行依頼の依頼票だ。

 

 「俺が個人的に、あなた方“エレナと愉快な仲間たち”という優れた冒険者に依頼を出します。出来ることの幅はかなり狭くなりますが、それ故に、姉上もこの形式であればと許してくださいました。当然、あなた方にも依頼を受けない自由があります」

 

 ホントかなあ、というフィリップの内心は、素直な表情筋に速やかに反映された。

 王子の命令は国王の言葉と違って、絶対性は無い。だが、それは「より上位の命令によって破棄される」というだけで、フィリップが勝手に無視していいということではない。

 

 まあステラが許可した以上、フィリップやその周囲に害をなすような人物ではないのだろうけれど。

 

 「とはいえ、俺もこの国の為を思ってのこと。姉上に色々と教えて頂きました」

 

 ふむ、とフィリップは興味深そうに頷く。

 フィリップが揺れ動くような説得が出来る程度に入れ知恵しているのなら、彼の申し出は受けてもいいとステラが判断したということだ。逆にそうではないのなら、その時は対処を考える必要がある。

 

 「大前提として、人間は利が無ければ動かない。それが実利であれ心情的なものであれ」

 「……それで? 何を提示して僕を買収するんです?」

 

 金か、爵位か、土地か? どれも要らない、というか、どれも押し付けられることが確定している。

 そしてフィリップが──法律や内政の勉強は自分には無理だと確信しているフィリップが、逃げられないなら仕方ないと諦めているのは、その上にステラがいるからだ。

 

 彼女になら傅ける。首へ添えた剣の柄を、彼女になら差し出せる。

 彼女がそれが最善だと言って、そして勉強しなくていいのなら、貴族として生きてもいい。

 

 ステラ以外を主と仰ぐことはない。

 

 だが、これはステラに直接言ったことのないフィリップの心の内だ。

 だからまあ安直に、「応じている限り叙勲は延長してやるぞ」とか、そういうシンプルに嬉しい提案が来るだろうというフィリップの予想は、しかし、微妙に外れる。

 

 王子、延いてはステラが提示した報酬は、確かにフィリップが望む嬉しいものではあった。

 

 「依頼を受けて頂けるのであれば、今後、王国がカルトの情報を掴んだ場合、教皇庁より優先してカーター様にお伝えする。というのは如何でしょう。勿論、カーター様が──」

 「いい取引です。是非よろしくお願いします」

 

 即答し、握手を求めて手を伸ばすフィリップ。

 隣でエレナが「即決だ……」と呆れていたが、フィリップは気にも留めなかった。

 

 カルト狩りは基本的に秘密裏に行われる。それを実行するのが教皇庁の特殊部隊“使徒”か、衛士団か騎士団か、領主軍かは不明だが、民間人に情報が下りてくることは無い。興味本位や信仰心で接触されると、それはそれで異教の情報が拡散する恐れがあるからだ。

 

 その秘匿情報が、恐らく最速でフィリップのところに流れてくるようになれば、カルト狩りはとても捗ることだろう。

 

 「……流石は姉上。こちらこそ、よろしくお願いします。ああ勿論、依頼報酬は相場より多めに設定していますので。では、私はこれで」

 

 にこやかに挨拶を交わして王子が立ち去ったあと、エレナは物言いたげな顔でフィリップを見つめた。

 

 「……フィリップ君、なんか良いように使われてない? あれって、「ついでにカルトの処理もしろ」ってことじゃないの?」

 

 そうかもしれない。

 ステラの個人的感情を排除してフィリップを評価するのなら、「絶対に反転カルト堕ちしないモチベーションと、絶対に鏖殺して生還する戦力を兼ね備えた個人」。単独でなければ運用の難しい性能ではあるものの、戦力としてはこれ以上なく便利だ。

 

 ステラは王子の依頼という形で一定の国益を得つつ、カルト狩りを確実なものとしながら教皇庁の国内活動を縮小させられる。彼女らしい、一つの石で多くの利益を上げるような選択だ。

 

 そしてフィリップとしても否やは無い。

 ステラの役に立てて、その上カルトまで殺せるというのだから。

 

 「それが僕にとっては最高の報酬だって、殿下は分かってるんだよ。……ん!?」

 

 嗜虐心に満ちた笑みを浮かべていたフィリップは、何の気なしに取り上げた依頼票を見て目を丸くする。

 

 報酬額はCクラス依頼の相場の十倍以上あった。

 

 「……もしかして、依頼そのものの難易度が結構高い?」

 「そりゃそうだよ! だって、“龍狩りの英雄”と姉さまに宛てた依頼なんだよ? ……もしかして、分かってなかったの?」

 

 エレナに呆れたような目を向けられて、フィリップは目を合わすまいと顔を背けた。

 

 

 

 

 



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438

 フィリップたちは王子の依頼を受けることをパーティー内で共有し、異論がないことを確かめた後、一度荷造りの為各々の拠点へ戻った。

 リリウム以外はサークリス公爵邸の自室で、必要なものを長距離移動用の大型バッグに詰め込んでいる最中だ。

 

 『セイレーンの血の収集』。

 カール王子からの依頼は、その実行依頼だった。何処へ行けばセイレーンがいて、どうやれば収集できて、セイレーンの何が脅威なのか。そういった情報が全て依頼票に載っている、調査の必要が無い依頼。冒険者としては有難い形式だ。

 

 セイレーンとは海棲の魔物で、人間の女の上半身と猛禽の下半身、海鳥の翼を持つ。

 陸地や船上のみならず、空中戦の能力もそれほど高くないため、直接戦闘での危険性は低い。戦闘に長けた冒険者でなくとも、屈強な船乗りが櫂でぶん殴れば倒せるだろう。

 

 戦闘能力だけなら、『龍狩りの英雄をC級依頼なんかで無駄遣いするのは不合理だ』と言った王子が持ち込むほどの難易度ではない。

 

 セイレーンの脅威は戦闘能力ではなく、その歌声にある。

 作用機序は不明ながら魔術耐性をある程度無視する精神支配能力を持つ歌声を発し、船乗りたちが自ら海へ身を投げるように操ってしまうという。

 

 対抗手段は現在、三つ発見されている。

 

 一つは耳栓。音を介した精神干渉なら音を遮断すればいいというのは、魔物についての研究が発展する前から経験則的に分かっていた。

 

 一つは先制。歌が聞こえてくる前にセイレーンを見つけ、遠距離魔術攻撃で仕留める。

 

 一つは抵抗。歌声は魔術耐性を完全に無視するわけではなく、また強靭な精神力によっても自死衝動に抵抗できることが判明している。魔術的なものか根性かは人によるが、要は歌を聞いても我慢するということだ。

 

 フィリップたちに──正確には、カール王子が戦力と見込んでいるであろうフィリップとミナに期待しているのは、恐らく「先制」と「抵抗」。

 自ら龍殺しに名乗りを上げる強靭な意思の持ち主であるフィリップと、ルキアやステラでさえ警戒する魔術能力の持ち主であるミナであれば、問題なく事を進められるはずだと。

 

 まあ耳栓をしてしまえばいいだけの話なので、やっぱり難易度はそれほど高くない。

 これは試金石だ。今後、より難度の高い相手を任せられるかどうかを測る試験なのだろう。

 

 そんなことを考えながら荷造りを進めていると、トランクの底から見覚えのある紙束が出てきた。

 

 「……ん? うわ、懐かしい」

 

 もう三年ほど前になるか。

 フィリップが魔術学院に編入した直後、ナイ神父から送られてきた手紙の束だ。フィリップが特定の状況に陥った時にのみ開封できるようになっており、その中の一つはフィリップに『深淵の息』と『萎縮』を覚えさせた魔導書の類だった。

 

 残る手紙の表題は『逃げ出したいときに開く』『守るべき者の前でのみ開く』『大切な者を失くした時に開く』。

 なんとなく『大切な者を失くした時に開く』の封筒を取り、龍貶しの刃に滑らせてみたが、封は開かなかった。

 

 「……開かないか」

 

 まあそうだろうな、という端的な納得で興味を失ったフィリップは手紙を纏めて机の引き出しに仕舞い、思考を荷造りの方に戻した。

 

 「えーっと、あとは……浮き輪? いや要らないか……」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 出発する時、ルキアはオリヴィア公爵夫人と何事か難しそうな話をしていたが、態々中断して玄関まで見送りに来てくれた。

 お互いに心配そうな顔を向け合うフィリップとルキアを、エレナは呆れ混じりに、ミナは欠伸混じりに待っている。

 

 「ステラの警告なんて気にしないで、貴方の心身の安全を最優先に考えてね、フィリップ」

 「はい。やらかしちゃってもルキアが補佐してくれるって聞いてますから」

 

 ルキアを安心させるための完全な嘘というわけではなく、フィリップはそれなりに心を込めて頷く。

 あの湖での一件以来、フィリップは死への憧れを持っていない。ルキアとステラの為に、この無価値な泡沫の世界で生き続けようと思えている。

 

 「行ってきます」「行ってらっしゃい」と手を振り合って公爵邸の敷地を出ると、フィリップたちは取り敢えず二等地へ向かう巡回馬車に乗った。

 

 「それじゃ、今度はカノンを取りに行こう……僕が行ってくるから、二人は先にパーカーさんと合流してて。ついでに馬車も借りておいてくれるとスムーズ」

 「オッケー」

 「あまり長居しないようにしなさい」

 

 嫌そうにを通り越して不愉快そうに眉根を寄せたミナに苦笑し、フィリップだけが投石教会に向かう。

 あまり良い出会い方をしなかった、あの(自称)環境整備用兵器、原住生物殲滅用(誤訳の可能性あり)生物複合戦闘機は、今は投石教会に置かれていた。

 

 

 

 帰ってきたとき、勿論、甲殻と翼を持ち襤褸切れだけを身に付けた、あからさまに人間ではないカノンは王都に入る前に衛士に止められた。

 

 「あー……、フィリップ君、ソレはちょっと中には入れられないな。使役下にあることを証明するか、専用の檻に入れて貰わないと」

 

 フルフェイスヘルム越しでも困り顔が透けて見えそうな声で呼び止められ、フィリップもそう言えばそうだったと思い出す。

 王都内に魔物を入れる場合の規定は、何もミナのようなとびきり強大な相手にだけ適用されるものではない。蹴飛ばして潰せる下級のスライムであろうと、聖痕者が立ちはだかるまで暴虐の限りを尽くせる最上位吸血鬼であろうと、同じ“魔物”という括りだ。

 

 「は? なんですか、このヒト。ここまで来てお預けなんて絶対イヤなんですけど、殺していいですか?」

 

 不愉快そうに言うカノンに、衛士は苦笑しつつも律儀に剣の柄に手を掛けて「動くな」と警告する。

 彼とカノンの一対一なら、反応刺胞装甲の不意討ちが決まればカノンが勝つ。しかし、王都の外壁上から魔術型の衛士が二人、既に上級攻撃魔術の照準を完了していた。

 

 待機状態の魔術がカノンを殺して余りある威力だと見て取ったミナは、衛士を殺すのと、フィリップを引っ張って余波の範囲から逃がすのと、どちらが楽だろうかと考える。

 

 そしてフィリップは何の躊躇も警告もなく剣を抜き、カノンの胸元へ突き立て──その寸前で、カノンの姿が反転した。

 上下に。足を上に、頭を下にして。

 

 人外の外皮を貫くつもりで本気で突いた剣の先は、細くしなやかな浅黒い手指に挟まれて止まっていた。

 

 「──フィリップ君は既に、君に警告していましたね。あぁ、数々の不敬を重ねた君が、今更彼に二度同じことを言わせた程度で私は怒りませんよ。ええ、絶対に。なんせこの化身からは“怒る”という機能を取り除いてありますので」

 「本体、というか真体の方がブチ切れてませんか? それ……」

 

 カノンの足を掴んで吊るしたナイ神父が、温厚な笑顔に似合いの穏やかな声で言う。

 

 その突然の出現に、フィリップを除く全員がびくりと肩を跳ね上げ、ミナに至っては吐きそうな顔で口元を覆う。今にも斬りかかりそうだったので、フィリップは慌てて抱き着いて自分の身体を枷にした。

 

 ミナがフィリップを傷つけないギリギリの力で振り払って飛び去った直後、逆さ吊りにされたカノンの声が「しゃめっしゅ! にゃる゛っ!?」と中途半端なところで途切れる。

 見遣ると、彼女の頭が完全に地面に埋まっていた。

 

 「コレは私が監督します。あ、これ書類です」

 

 ナイ神父は丁寧に巻かれて封蝋の押された白い紙を衛士に手渡す。

 いきなり現れたかと思えば人間離れした腕力を見せつけ、謎の魔物を完全に沈黙させたナイ神父には流石に驚いたらしく、紙を受け取る衛士の声は「は、拝見します」と震えていた。

 

 「……っ! なるほど、そういうことであれば、我々に異存はありません。お任せします。通っていいよ、お帰り、フィリップ君」

 

 書類に目を通した衛士が目を瞠り、ナイ神父へ敬礼する。

 フィリップは「ただいまです」とフィストバンプを交わしつつ衛士の様子を窺うが、特に様子のおかしい感じはしない。

 

 「……何したんですか?」とナイ神父に問うと、「書類手続きを少々」という胡乱な答えが返ってきた。

 

 

 あれから数日。

 ルキアと一緒にステラのところに遊びに行ったり、フレデリカとお茶会をしたりしてそれなりに忙しかったフィリップは、久しぶりに投石教会を訪れる。

 

 代わり映えのしないバシリカ型教会の玄関扉を開けると、相変わらず眩いほどの美形が二人、フィリップを出迎えた。 

 

 「やあ、こんにちは、フィリップ君」

 「久しぶりね、フィリップ君。今日も会えて嬉しいわ」

 

 淑やかに、しかし歩調とは明らかに異なる速度で近づいたマザーに抱きしめられ、そのまま長椅子に座った彼女の膝上に抱かれる。

 柔らかさと温かさと匂いと、最早嫌悪感を覚えなくなってしまった彼女(シュブ=ニグラス)特有の気配に包まれて、これから冒険に出かけるというのに眠ってしまいそうだった。

 

 「確かに君は耳栓を買う必要はありませんが、パーティーメンバーに不信感を抱かせない方がよろしいのでは?」

 

 言って、ナイ神父はケースに入った耳栓を差し出す。

 耳栓それ自体は何の変哲もない代物のように見えるが、高級感のある光沢を放つ黒いケースを見るに、そうではないのだろう。

 

 それを差し出したのがルキアやフレデリカだったら値段を気にするところだったが、フィリップは「どうも」と端的に礼を言って、耳栓をポケットへと無造作に突っ込んだ。

 

 「それで、カノンの調整は終わったんですよね?」

 「はい、恙なく。アレの不具合は製造後の教育の過程で生じたものですので、私の方できちんと教育し直しておきました。勿論、ミ=ゴの方もね」

 「ミ=ゴはどうでもいいです。カノンを連れて行きたいんですけど?」

 

 教育と聞いて、フィリップは王都に帰ってきた直後のことを思い出す。

 ただでさえ不意討ちで見たら精神的ショックを受ける顔だったのに、今のカノンはそこから更に顔面か頭部が陥没していたって不思議はない。尤も、その方が見られる顔である可能性はあるけれど。

 

 「えぇ、存じております。既に準備も完了していますよ。すぐに持って来ましょう」

 「流石……」

 

 話が早くて結構なことだと苦笑し、フィリップはマザーの手が自分を抱き寄せ、頭や身体を撫でるのに身を任せた。

 

 「マザーは、カノンに対して怒ってないんですね」

 「うん? えぇ、そうね。もう怒っていないわ」

 

 シルバーフォレストではシュブ=ニグラスも相当にご立腹だったが、もう怒りが収まったのだと思っているフィリップ。

 対してマザーの答えは「十分に発散したから」という一節が抜け落ちていたので、微妙にすれ違っていた。

 

 その勘違いが正される前に、礼拝堂奥の居住スペースへ続く扉からナイ神父とカノンが姿を見せた。

 カノンは以前に見た襤褸切れではなく、罪人か巡礼者のような白い貫頭衣を身に付けている。だが、フィリップがあげたガスマスクはそのままだ。

 

 彼女はフィリップの前まで来ると、折り目正しく一礼した。

 

 「原住生物殲滅用生物複合戦闘機・タイプ1・試作実験機・機体固有名“カノン”です。人格形成段階で外的なミスがあったことにより、フィリップ様には大変なご迷惑をお掛けしました。大変なご無礼を働いたことと併せてお詫びいたします」

 

 機械的で無感情な声に、フィリップは思わず目を瞠る。

 以前の彼女とは全く違う。なんというか、今の彼女には以前まであった「性格」のようなものが感じられない。個性や性格と言った個人を完全に排した機械のような印象を受ける。

 

 「……だ、だいぶ性格変わったね?」

 「はい。ミ=ゴたちは私という装置に性格を設定せず、単に命令を実行する道具として設計しました。この時点に於ける私は、戦闘行為に最適化された肉体や優れた技術力に基づく強力な武装を持った兵士個体のミ=ゴと連携することを前提とした、自律思考する盾でした。しかし、複数体のミ=ゴが性能を飛躍的に向上させ得るブースターとして「感情」を導入したことにより、私は自己意識ではない強固な自我を得ました。これは自律兵器としてより進んだ形であるとされ、私は連携ではなく投入し暴れさせる形の鏃型単独行動兵器としての運用を視野に入れた改造計画が持ち上がるほどでした。フィリップ様に初めて拝謁した時の私はこの状態です。残念ながらハードウェアの性能が追い付かず、運用方法を改めるまでには至りませんでしたが。対して現在の私はナイアーラトテップのオーバーホールにより、道具・兵器としてより純粋な形のソフトウェアを──」

 「──ごめん、ちょっと分かんない。もうちょっと簡単に、端的にお願い」

 

 意味の不明な単語複数を含む情報の洪水に押し流され、フィリップは両手でカノンを制する。

 彼女はちょっと考える素振りを見せ、最終的に「要は、あるべき姿に戻ったということです」と至極単純に纏めた。

 

 「ふーん……。性能は変わってない? 「使い捨てられるエレナ」ぐらいの働きは期待したいけど」

 「戦闘能力は弄っていません。ですが、色々と知識と機能を追加しておきました」

 

 フィリップはカノンに聞いたつもりだったが、答えたのはナイ神父だった。

 かなり酷いことを言われたはずのカノンは全く動じていないようで、フィリップとしては少し寂しい。以前までの彼女なら「エルフと同列にしないでくださいよ!」とか、食って掛かってきそうなものなのに。

 

 「へぇ。例えば?」

 「どのような種類、サイズ、調理台であっても、完璧なミディアムレアに仕上げることが出来ます」

 

 ふーん、と頷きかけて──戦闘能力が据え置きな時点で、どんな追加変更でも大して意味がないから半ば聞き流すつもりで訊いたからだ──用意しておいた適当な相槌すら出せなかった。

 

 「は? いや、確かに僕の好みの焼き加減ではあるけど……。他には?」

 「ミルクティーの淹れ方のデフォルトが「ぬるめ、砂糖多め、ミルク少な目、紅茶濃い目」で設定されています」

 「僕好み──、え? 食方面に特化したの? 嘘でしょ? 」

 

 元は仮にも「原住生物殲滅兵器」であったはずだが、これではただの……いやかなり優秀な、給仕かシェフだ。

 まあ、元々名前負けしていたというか、所詮は支援兵器、ミ=ゴが拠点にする洞窟や峡谷の周辺から害獣を駆除する番犬でしかなかったけれど。

 

 「ほ、他には?」と僅かに声を震わせながらフィリップが問う。その震えは戸惑いばかりではなく、笑いの成分も多分に含んでいた。

 

 「フリントロック・ピストルの装填及びメンテナンスが可能です。装填速度は停止状態のフィリップ様のおよそ1.5倍です」

 「君はどう考えても装填役じゃなくて前衛でしょ?」

 

 エレナと互角程度に戦える格闘能力と反応刺胞装甲がある以上、敵の群れに単身突っ込ませる方が運用として正しい気がする。

 少なくともフィリップの隣でフリントロック・ピストルを撃つまで待機させるよりは、ずっと有用だ。

 

 「他には?」とフィリップは問いを重ねる。今度は戸惑いも笑いもなく、むしろ落胆の空気を漂わせていた。

 

 「ナイアーラトテップがフィリップ様には不要と判断した知識、シュブ=ニグラスの視座では知覚し得ない劣等存在の情報を与えられています」

 「おぉ! いいね、そういうのを求めてたんだよ!」

 

 直接教えてくれとは思うものの、確かに、フィリップが求めていたものではある。

 シュブ=ニグラスがフィリップに与えた知識は、外神と、外神から見て人間を殺すのに十分であるモノ。外神の目に留まったモノだけだ。

 

 面倒なことに、これは「智慧に無いものは智慧にあるものより弱い」という意味ではない。

 かつてゾス星の住人であったダゴンとハイドラの末裔である「深きもの」と、先日遭遇した吹雪を呼ぶ大熊「ノフ=ケー」。前者は智慧にあり後者は無いが、一対一で戦えば勝つのは後者だろう。

 

 だからフィリップが知らないことを補完してくれる存在は有難かった。特に、もうなるべくパーティーメンバーを殺さないようにと意識した今では。

 

 「ありがとうございます。また、最上位命令権保有者はフィリップ様に設定されています。主要な変更点は以上です」

 

 淡々と説明を終えたカノンに、フィリップはマザーに抱かれたまま頷きを返す。

 総じて微妙、という感じだ。「主要でない」変更は細々とあるのだろうが、どうせ「猪より鹿を優先して狩るように設定されています」みたいな、割とどうでもいいものだろう。

 

 そんなことを考えて、フィリップはふと閃いた。

 

 「ん? つまりミ=ゴを絶滅させろって命令したら従うの?」

 「えぇ、勿論です」

 

 カノンは淡々と、自らの造物主に何ら思うところが無いかのように頷く。

 彼女はミ=ゴの技術力に対してそれなりに誇りを持っていたはずだが、それが単に自尊心のようなものだったのか、帰属意識から来るものだったのかは不明だ。変化、と一概には言い切れない。

 

 まあ、一個種族を絶滅させるのにカノンなんか使わないので、ただの興味本位の質問だ。

 興味ついでに、フィリップはもう一つ訊いてみる。

 

 「ナイアーラトテップを殺せ、とかでも?」

 「えぇ、勿論です」

 

 実現可否は分かり切っているが、実行できるかどうかは別だ。

 信仰対象へ攻撃できるかという意地悪な質問に、カノンではなくナイ神父がにこやかに答えた。

 

 

 

 

 

 



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439

 カノンはナイ神父の管理下にある魔物という扱いで王都に入ったが、出歩くのにナイ神父の同行は必要ない。申請段階でフィリップのパーティーに()()()()として同行させる旨を伝えてあるらしく、依頼受注時に限り、フィリップたちの“武器”として扱われるようになっている。

 

 これは知性を持たない魔物を使い魔にした時と、概ね同じ扱いだ。魔物が暴走して物や人を損壊した場合、責任は使役者にある。

 

 自律思考し行動可能な武器なんてどう扱えばいいのか分からないが、責任の所在はフィリップではなく、ナイ神父とレイアール卿にあるらしいので、あまり気にしなくていいだろう。問題が起こったら丸投げすればいい。

 

 カノンを回収したフィリップは二等地の大通りまで戻り、三等地方面へ向かいながらエレナたちを探す。

 途中、宿屋タベールナの前を通ったとき、女将であるアガタがちょうど玄関先の掃除に出てきた。

 

 「──あぁ、フィリップ! おはよう!」

 「ん? あ、女将さん! おはようございます!」

 

 近所の人ならいざ知らず、一時は彼女の下で働いていたフィリップは咄嗟に足を止め、きっちりとした礼を返す。

 心なしか不思議そうにしていたカノンだったが、会話を妨げる気はないようで一歩下がって静かに控えた。

 

 「もう次の依頼かい? 気を付けるんだよ!」

 

 アガタはいつも宿泊客の衛士たちにそうするように、気持ちのいい笑みと共に見送ってくれる。

 これまでのフィリップには何の感動も齎さないものだが、彼女の一人娘であるモニカを死なせた負い目があるのか、フィリップは無意識に視線を落としてしまった。

 

 「……はい」

 

 笑えていないことを、表情が硬く暗くなったことをフィリップは自覚する。

 応じる声も自分で思ったよりずっと小さく、細かった。

 

 自分でそれを察した後、フィリップはつい「しまった」と思った。そしてその時には、フィリップの両頬はアガタの片手で掴まれ、ぐい、と顔を無理矢理に上向けられていた。

 

 「……前向いて、笑顔!」

 「むぎゅ……す、すみません!」

 

 丁稚時代、寝起きや魔術訓練が原因の精神疲労で表情が暗かった時に、こうして怒られていたことを思い出す。

 そういう時に限ってモニカが近くに居て、アガタからは見えないところで変顔なんかしてきたものだ。大概はバレて、フィリップの五倍ぐらい怒られたのだが。

 

 そんなことを思い出すと、無理やりに作った笑顔が強張るのが分かる。そしてそれは当然フィリップの目の前にいるアガタにも見えて、彼女は呆れたような溜息を吐いた。

 

 「モニカのことはアンタのせいじゃない。いつまでもシケた顔してちゃ、お客さんと目も合わせられないでしょうが! そんな風に教えたつもりはないよ!」

 

 二等地屈指の宿を取り仕切る女将の喝破が大通りに響く。

 道行く人が「おっ、懐かしいな」なんて呟いていたのは、怒られていたフィリップには聞こえなかった。

 

 「はい! い、行ってきます!」

 

 フィリップはここまで怒られるのは何年ぶりだろうなんて考える余地も無く必死に答え、顔面が解放されると一礼して慌てて走り去った。

 後に残されたカノンはフィリップの背中とアガタを交互に見て、無言でフィリップの後を追う。

 

 そして二人ともがいなくなって少しすると、宿の玄関からタベールナの主人にして料理長、モニカの父であるセルジオが姿を見せた。彼は何かの作業をしていたらしく、まだ微妙に濡れた手をタオル拭いている途中だった。

 

 「……フィリップは、もう行ったのか?」

 「えぇ。まあ、走れば追い付くかもしれないけど?」

 

 閉まりそうな玄関扉を肩で支えながら問うセルジオに、アガタは揶揄うように大通りを示す。

 夫の運動神経の鈍さを、彼女は何十年も前から知っている。意外なほどの健脚を発揮したフィリップに追いつくのは不可能だろうと顔に書いてあった。

 

 「……いや、いい。今はまだ……顔を見たら、冒険者を辞めろと言ってしまいそうだ」

 「あの子も気に病んでるみたいだし、今そんなこと言ったら責めてると思われるわよ」

 

 セルジオは自嘲するような笑みと共に溜息を吐き、表情を切り替えて厨房に戻る。アガタもその背中に呆れたような笑みを向けると、玄関前の掃除を再開した。

 

 

 ◇

 

 

 セイレーンは海ならどこにでも出没するというわけではなく、それなりに沖の方へ出ないと遭遇出来ないらしい。

 効率を求めるなら、ミナとカノンが飛んで行ってセイレーンを生け捕りにし、エレナが血を採取した後に検体を処分すればいい。フィリップとカノンはそう提起したが、エレナとミナはそれを否定した。

 

 意外にも否定派の二人の意見は「そんなのつまらない」という大枠で一致していた。

 ミナはセイレーンと戦ったことが無いから試してみたいと言い、エレナはそれは作業であって冒険ではないという主張だったが。

 

 ともかく、フィリップたちは海を目的地として王都を発った。

 どこか港町に行って宿を取り、船を借りるか相乗りするかして沖まで出て、そこからセイレーン狩りをするというのが当初の予定だった。……のだが、出発から10日。フィリップたちは事故に遭った。

 

 「……いや、これは絶対正規の道じゃないでしょ。ほぼ崖じゃん」

 

 フィリップたちは二頭立てのキャラバン型馬車から降り、元来た道を振り返る。

 いや、そこに道と呼べるものはなく、ごつごつした岩肌の露出した崖があるだけだ。勾配は恐らく70度以上、高さも10メートル以上はある。

 

 そして前も横も深い森だ。幸運にも少し拓けた空間に落ちたから枝葉で怪我をすることは無かったが、馬車で走破するのは不可能だろうと見ただけで分かった。

 

 一応、街道沿いの駅宿で「港と宿のあるいい感じの街」を紹介して貰って目的地を定め、国の整備した街道を逸れて地元の道を使うということで地図まで描いて貰ったのだが……この逸脱は流石にリカバリー出来ない。いや、ミナが馬車を持ち上げて飛ぶという解決策はあるにはあるけれど、どうせ「嫌よ」とにべもなく断られるのは目に見えている。

 

 「ご、ごめん……。馬たちがさも当然みたいに行くから、ボクの位置からじゃ見えないけど道があるものだと……」

 

 落下前に御者をやっていたエレナが恐縮して頭を下げる。

 フィリップに御者の経験は無いが、単純に馬が前で御者席が後ろにある関係上、視野が劣るのは仕方のないことだと分かった。

 

 「……というか、ここを駆け降りて無傷なの凄いね君たち」

 

 二頭の馬はこれまで会った馬の例に漏れずフィリップに嫌そうな目を向けているが、馬車を曳きながら崖を駆け降りたというのに平然としている。

 フィリップが同じことをしたら一歩目から躓いて転げ落ちそうな悪路だし、そもそも勾配と呼ぶのも躊躇われる傾斜なのだが、タフなのか幸運なのか。

 

 無傷なのは馬だけではなく、馬車に乗っていた五人全員もそうだ。

 馬車が浮遊感に包まれた瞬間にフィリップを抱いて脱出したミナ、それに倣ってリリウムを抱いて飛んだカノン、全員の脱出を確認した後に御者席から跳んで8メートル下に平然と着地したエレナ。五人中三人が人外のフィジカルを持っていて良かった。

 

 「ありがとう、ミナ。お陰で無傷だよ。パーカーさんは大丈夫?」

 「な、なんとかね……。びっくりしたぁ……」

 

 ミナに横抱きにされたまま尋ねるフィリップに、カノンの腕から降りたリリウムが答える。

 フィリップの状態に突っ込むことが出来ない程度には動揺しているが、怪我をしている様子はない。カノンは「意外と使えるなこいつ」という感心の籠ったフィリップの視線を受け、機械的に一礼した。

 

 「すぅ……」

 「あ待ってそれはくすぐったい……はは、あははは!」

 

 ミナがフィリップの腹に顔を埋めて深呼吸を始め、フィリップは笑いながらジタバタと暴れてミナの腕から逃れる。

 その程度のスキンシップなら一緒に馬車に乗っている時間でとうに見慣れた一行は、「余裕だなあ」と呆れた顔をしていた。

 

 実際、状況はそれほど切迫していない。

 

 傍から見れば馬車ごと道を外れて滑落した、紛うことなき遭難だ。

 だがミナとカノンがいれば馬車を持って崖上まで飛ぶことも出来るだろうし、シルヴァとエレナがいて森の中で死ぬことはまずない。……二人から逸れたタイミングで魔物に襲われたりしなければ。

 

 「地図上だと、森を抜けたら海があるみたいだけど……船が無いんじゃ沖まで出られない」

 「……イカダとか作ってみる?」

 

 意気消沈したエレナを元気づけようと、リリウムがそんな冗談を言う。

 

 「いや、確かに木は沢山あるから作れそうだけど、僕たちは海そのものじゃなくて、拠点にできそうな港町を目指してたんだよ?」

 

 フィリップはポケットから駅宿で描いて貰った地図を取り出し、現在地を確認する。

 道を見失いそうな急カーブは見当たらないけれど、道沿いに行くことを前提に描かれた大雑把な地図だし無理もない。しかし空気に僅かながら潮の香りが混ざっていることを鑑みても、ここが地図上のどの森のどの辺りなのかは判別出来なかった。

 

 馬車に乗っていた時間から概ねの位置を割り出そうかとも思ったが、止める。面倒だし、街道から目的地の街までは概ね北上するだけでいい。ここが何処であれ、とにかく北を目指せば街には辿り着く。それこそ、筏で海路を行ってもいい。海路を「行く」というか、むしろ「拓く」に近い結構な冒険になる可能性はあるけれど。

 

 「……ミナ、イカダを作るための木を伐るのと馬車を上まで持ち上げるの、どっちが面倒?」

 

 どっちも嫌、とでも言いそうに眉根を寄せたミナが表情通りの返事をする前に、フィリップの足元からシルヴァがぴょこりと姿を見せた。

 彼女は小さな手でちょいちょいとフィリップの袖を引き、森の一方を指差す。

 

 「ふぃりっぷ。あっち、まちがある。たぶん」

 「え? そうなんだ? 駅宿の人、知らなかったのかな……」

 

 フィリップはシルヴァの示した方向を見遣り、「多分?」と首を傾げる。環境内の全情報を把握するヴィカリウス・システムにしては曖昧な物言いだと。

 

 シルヴァの案内に従って森を抜けると、本当に集落があった。森の外だったから確信が持てなかった──不定期に森に入る人間がいるとか、「集落がある」という直接的な情報以外から推測したのだろう。

 

 全部で二十棟くらいしか建物のない、小さな村だ。砂浜に木の床を敷いた上に木造の小屋を建てたような家ばかりで、質素だとか貧相だとかいった感想よりも先に、倒壊しないのかという心配が湧き上がる。

 しかし集落内は意外にも活気に満ちていて、井戸端会議に興じているらしい奥様方の笑い声や、子供たちのはしゃぐ声、男の喝破のような怒声と応じる若者の声が聞き取れた。内容までは分からないが。

 

 空気は常に潮の香りを纏っているが、偶に生魚のような青臭さも感じられた。フィリップはあまり好きではない臭いだが、風が吹くと流れていく。

 

 なんとなく臭いの元を探して見回すと、家と家の隙間から出てきた子供たちと目が合った。

 鬼ごっこでもしていたのか、息を切らしながらも楽しそうに表情を綻ばせた男の子と、彼より少し余力がありそうな女の子だ。どちらも10歳にも満たないだろう。

 

 二人はフィリップたちを不思議そうに見つめていたが、ややあって、後ろから追いかけてきた女の子に抱き着くようにして捕まえられた。

 

 「二人とも捕まえた! なんで止まってたの? ……お姉さんたち、だれ?」

 「ボクたちは冒険者だよ。こんにちは、元気良いね」

 

 微笑ましそうに三人を見ていたエレナが進み出て、片膝を突いて視線を合わせて応じる。

 

 その後ろで、フィリップは夏物のジャケットの前をそっと開けた。

 

 「フィリップ様」

 「分かってる」

 

 警告にしては平坦な声を上げたカノンを、フィリップは小さく鋭い声で黙らせる。

 誰に言われずとも、フィリップに与えられた智慧が教えてくれている──眼前の子供は人間ではない、と。

 

 

 

 



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440

 「冒険者? でも、そっちの人は魔物みたいに見えるよ?」

 「……うん。僕たちは冒険者だよ。これは王都にいるなんかすごい神父様の、なんかすごい祈りの力で仲間になった魔物なんだ」

 

 子供の一人がカノンを指し、不思議そうに問いかける。

 神話生物が魔物を気にするのか、と少し笑いそうになったが、エレナとリリウムは彼らのことを人間だと思っている。ならばフィリップもそのように振る舞うべき──二人の中にいらぬ疑念や恐怖を生むべきではない。そう考え直して、フィリップは適当に返した。

 

 「ふーん、そうなんだ! 凄い神父様なんだね!」

 「お姉さんたち、もしかして「旅の冒険者」? 魔王を倒しに行くの!?」

 

 興奮気味な少女の言葉に、フィリップは僅かに苦笑する。

 魔王を倒せるのは勇者だけ──正確には勇者のみが扱えるという聖剣による一撃無くしては、どんな攻撃も無効化されるという。しかしこの話は、学院の特別授業でヘレナに聞いたことだ。一般にはあまり知られていない。

 

 だから「魔王を倒しに行く冒険者」というモノは、居てもおかしくはないが、可笑しくはあった。

 

 「え? いや、魔王は100年前に封印されたでしょ? ボクたちは依頼の途中で……そうだ、ここって宿とか船はある?」

 「宿は無いけど、船なら山ほどあるぜ! 船が無いと俺たち、海藻しか食うもの無くなっちまうじゃん! あははは!」

 

 男の子が愉快そうに笑う。

 どうやらこの村は自給自足が成り立っているらしく、町へ買い出しに行く習慣はないようだ。或いは、船を使って別な町まで買い物に行くのかもしれない。

 

 そんなことを考えたフィリップは、一呼吸置いてからエレナに胡乱な目を向けた。

 

 「船と宿……ってエレナ、ここをベースにするの? 見たところただの漁村だし、もう少し大きめの街の方が補給しやすい……あれ? ミナは?」

 

 援護射撃を求めて飼い主を探した視線が周囲を一周し、ヒール込みで190センチを超える長身を見つけ損なって戸惑いに揺れる。

 

 ここでミナと逸れるのは不味い。

 眼前の子供も含めて、これまで目に付いた村人はどいつもこいつも人間ではない。外見こそヒトじみているし、王国人にありがちな金髪の個体が殆どで、注意して見たところで彼らを人外だと判別するのは難しいだろう。

 

 しかし、誰もが奇妙に似通ったやや魚っぽい縦長の顔をしていて、誰もが例外なく緑色の目をしているのは不自然だ。閉鎖的で小規模な村が代を経ると親戚ばかりになるケースはあるが、ここは違う。

 

 彼らは「深きもの(ディープワン)」。

 以前にステラと共に閉じ込められたナイアーラトテップの試験空間にもいた、旧支配者クトゥルフやダゴンの末裔であるとされる、ゾス星系にルーツを持つもの。

 

 ここにいる個体──例えば目の前の、10歳くらいの子供たちなんかは、きっとこの星で、この村で生まれ育ったものだろう。だがその本質、その遺伝子は間違いなくこの星の外から齎されたものだ。

 

 そして──フィリップに分かるのはここまでだ。

 彼らが人間に擬態しているのか、人間と交配した果てに生まれて人間状なのかは分からない。後者であるとして、身体・魔術性能がどれほどのものか、一生涯人間的外観なのか、それとも何かを切っ掛けにあの魚人じみた外観を取り戻すのか。何も分からない。

 

 そんなことを、シュブ=ニグラスは気に留めていない。智慧はただ、微かなダゴンの神威の残滓を感じ取り、その存在履歴を小さく訴えているだけだ。

 

 それはともかく、ここは明確に人外の領域と言っていい場所だ。

 恐らく彼らの信仰するダゴンやクトゥルフに関する儀式場か祭壇のような場所が、人里の教会くらい堂々と置かれているだろう。

 

 何かの間違いでミナがそこに興味を持ち、触れて、発狂してしまえば──そして以前のエレナのように敵対してしまえば、後に待つのは大虐殺だ。それに、その危惧を抜きにしても、なるべくミナには発狂してほしくない。

 

 今すぐにミナを“呼ぶ”べきかと真剣な表情で自らの左手に目を落としたフィリップに、エレナは不思議そうに首を傾げた。

 

 「姉さまなら、さっき飛んでったよ? 「磯の臭い……と言うのかしら。これ、嫌いだわ」だってさ」

 「えぇ……!? ついさっきまでセイレーンと戦いたそうにしてたじゃん……」

 

 前にもこんなことがあったような、と頭を捻るまでもない。グラーキの──正確にはその破片の──いた湖でも、彼女は臭気に堪えかねて飛び去った。

 恐らく、フィリップについた外神の気配の残滓を感じ取るのと同じで、空気中に漂う邪神の気配を嗅覚刺激として感じ取っているのだろう。神威(非物質)が臭い分子を持つわけが無いし、錯覚の一種だ。

 

 しかしまあ、フィリップとしては好都合だ。

 昨日はミナに血をあげていないので、もしかしたら彼女が飛び去った先で吸血鬼の襲撃事件があるかもしれないけれど……フィリップの知らないところで知らない人がどんな死に方をしようと、そんなことはどうでもいい。

 

 「……空を飛ぶ魔物相手に有効打を持ってるのがカノンだけって、結構キツくない?」

 

 思わず漏らしてしまった安堵の息を誤魔化すように、フィリップは困ったような表情を作って言う。

 

 実際、空から音響攻撃を仕掛けてくるというセイレーン相手に、フィリップはフリントロック・ピストル以外の対抗手段を持たない。エレナは、もしかしたらジャンプでどうにかなるかもしれないけれど。

 

 「ちょっと! 私のこと忘れてない!?」とリリウムが甲高く吼え、「いやいや、ははは……」と誤魔化し笑いを零すフィリップは、彼女のことを本気で忘れていた。

 危なかった。ステラの警告まで忘れていた。そういえば──人を死なせてはいけないのだった。

 

 「まあ吸血鬼が人を喰うのは仕方ないこととして……」

 

 フィリップは口元に手を遣り、独り言ちながら思考する。

 さて──もしもこの村で何かしらの問題が発生した場合、村人を全員消し飛ばしたら猶予カウントは減るのだろうか。

 

 “人”は殺さない。ここにいるのは人外か、人外と人間の交雑種。フィリップに言わせれば、どちらであれ純粋な人間ではない。

 しかし、そう説明したところで理解してくれるのはステラくらいだろう。フィリップが説得しなくてはならないのは彼女ではなく、何も知らない宮廷の人間だ。

 

 そしてフィリップに、無知な人間に人類領域外存在のことを明かして説明するという選択肢はない。無知な者は、そのまま幸せに死ぬべきなのだから。

 

 まあ最悪の場合はハスター辺りに大波でも起こさせて、「村が存在した痕跡」ごと海の底に沈めてしまえばいい。

 フィリップがそんな投げやりな結論を出したとき、近くの家から杖を突いた老人が出てきてフィリップたちに目を留めた。

 

 「んん? 外の方ですか。これは珍しい!」

 

 好々爺然とした笑顔を浮かべた、白髪頭のお爺さんだ。

 子供たちは「こんにちは村長!」と挨拶し、二言目には「村長おやつ!」と群がっていた。村長は笑いながらポケットから煮干しを取り出し、子供たちに与える。フィリップからすると「おやつ感」のないメニューだが、三人ともパリパリと小気味の良い音をさせて幸せそうだ。

 

 フィリップは村長の顔を不愉快そうに観察し、エレナは真剣な表情で同じものを見ている。

 村長の両頬にはっきりと浮かぶ、魚の鱗のような異物を。

 

 「おじいさん、それ、『魚鱗癬』……うわ、これって人語でなんて言うの?」 

 「そのエルフ語がまず分かんないんだけど……」

 

 唐突にエルフ語を挟まれ、フィリップは苦笑交じりに肩を竦める。

 彼女が何に気を留めたのかは察しが付くが、それが取るに足らない、何の変哲もないただの病気であると説明するには、フィリップには医学知識が乏しすぎた。そんな症状を呈する()()()()()を、フィリップは知らない。

 

 「あぁ、これのことですか。お目汚しでしたかな」と、村長は頬の鱗を掻いて苦笑する。

 

 「あ、ごめんなさい。そういうつもりじゃないよ! ただ、ボクは薬に詳しいから、もしかしたら力になれるかも」

 

 エレナは慌てたように手を振って弁解する。

 フィリップは子供たちに囲まれて一緒に煮干しを食べているリリウムを一瞥し、あちらは平和そうだと判断して視線を戻した。

 

 エレナが本格的に検分を始めたら面倒だ。

 彼女の知識と観察眼、そして経験を以てすれば、村長の頬に浮かぶそれが皮膚病などではなく、本物の魚鱗であることが分かるだろう。

 

 勿論、その前に村長の方から正体を明かす可能性はあるけれど──そうなったら、彼の脳幹部に風穴を開けるだけだ。人間だろうが魚だろうが、そこをブチ抜けば活動は止まるはずだと信じて。

 

 そんな投げやりな殺意とジャケットの前が開いている意味に気付いたわけではないだろうが、村長は心配無用と断った。

 

 「生まれつきで、痛みは無いのでお気になさらず。それより、冒険者とお見受けしますが、この村にはどういった御用で? 見ての通り小さな村で、ギルドの支部なんぞもありませんが」

 「……セイレーンの血を集めるのに沖に出なくちゃいけないから、港町を探してたんだ。もし使ってない船とかがあったら貸してくれない?」

 

 患者の意見を尊重したのか、エレナは治療に拘りを見せなかった。

 それはフィリップとしても有難いが、どうやら本気でこの町を拠点にするつもりのようだ。

 

 「使っていない船、は流石にありませんが、そういうことなら誰かの漁に付いていくのが良いでしょう。私たちは海に生きる民、毎日誰かは海へ出ますから」

 

 やった! とエレナは暢気に喜ぶ。子供たちに魔術を見せて一躍人気者になっていたリリウムも「じゃあテント張らないとね!」と乗り気だ。

 

 フィリップは二人を順番に見遣り、小さく嘆息した。

 別に、何が何でもこの村を離れたいわけではない。二人がここでいいのなら、それに従おうと。

 

 「……如何なさいますか、フィリップ様。あまり智慧のある個体ではないようですが」

 「如何も何も……害意が無いなら見咎めはしないよ。王都からも遠いしね」

 

 カノンの問いに含まれた「殲滅するか」という疑問を正確に汲み、フィリップは苦笑と共に棄却する。

 人類領域外の存在だからという理由で殺すほど、フィリップは狭量ではない。

 

 とはいえ。

 

 「……でも一応調べておこうかな」

 

 調査は必要だ。

 彼らが本当に害意を持っていないのか。この辺境の漁村でただ生きているだけなのか、いずれ人類領域へ進出していくつもりなのか。或いは、もっと別な人類社会を損なうような計画を持っていないか。

 

 恭しく一礼して了承の意を示したカノンに興味薄な一瞥を呉れたフィリップは、リリウムが「調べるって、何を?」と問いかけるまで、彼女が自分のすぐ後ろに来ていることに気付かなかった。

 

 「ん? あー……この村にどういう文化があるのかとか、成り立ちとか、気になってさ」

 「ふーん……」

 

 100パーセントの嘘ではなく、むしろ本当に疑問だったことを例示して言うと、リリウムは興味を失ったようだった。顔に「つまらなさそう」と書いてある。

 

 フィリップだって、学院の社会科目で習ったような地方文化や歴史に興味があるわけではない。むしろ、その手の授業は退屈に過ごしてきた。

 だが──もしもここが、あの憎たらしい“啓蒙宣教師会”に関係した集落であるのなら、そんな場所を拠点にすることはできない。場合によっては何泊かして、何食か口にすることになる。そんなことは、できない。

 

 もしもそうであるのなら、依頼も警告も無視して虐殺することになる。

 

 「まあ、あいつらが絡んでる可能性は低いだろうけど」

 

 自分を落ち着けるように、フィリップは小さく呟く。

 “宣教師会”は智慧なき者に智慧を授けることを目的とした、「カルトを教導するカルト」だ。多少なりとも智慧を持ち、正しく智慧を使う神話生物に対して干渉することはないだろう。

 

 最優先で確認すべきは、この村に邪神を祀った祭壇のような、エレナやリリウムを迂闊に近づけるべきではない劇物が無いかどうかだ。

 

 「カノン、エレナとパーカーさんを……いや、待てよ? 嫌なこと思い出した……」

 

 言いかけて、数週間前の冒険が脳裏に閃いた。

 発狂と戦闘。死ぬほど面倒なことを乗り越えて、その先には報酬どころかパーティーメンバーの死があったこと。

 

 「……ここは一緒に──あれ?」

 

 結局、フィリップはカノンにエレナとリリウムを任せて単独で調査することは諦める。

 しかし振り返ると、そこにはエレナもリリウムも、村長も子供たちもいなかった。

 

 視線を遠くに投げると、皆、少し離れたところで手を振っていた。

 

 「フィリップ君、何してるの? 早く早く! 子供たちが村を案内してくれるんだって!」

 

 楽しそうなエレナの声に、フィリップは同質の感情を含む苦笑を浮かべる。

 

 「……まあ、害意は無いっぽいしいいけどさ」

 

 何が正解なのやら、フィリップには判断しかねる。

 フィリップは過去に「深きもの」と遭遇した経験がある。人間とは明らかに違う、立ち上がったカエルと魚が交わったような気色の悪い姿を、本来の姿をした個体とだ。ナイアーラトテップの用意した試験空間で。

 

 その記憶に照らすと、彼らは正しく智慧のある種族だ。外神や、宇宙に犇めく様々な旧支配者のことを知っていながら、「種族の伝統だから」「恩恵がありがたいから」とクトゥルフやダゴンを信奉している。

 智慧の使い方に正解も不正解も無いだろうとフィリップは過去に言ったが、彼ら「深きもの」は智慧を正しく“使っている”。自分たちが恩恵を受けるために活用しているのだ。

 

 カルト染みているとは思わない。

 彼らにとっては祖霊・先祖を信仰しているようなものだし、恩恵目当てならある意味では道具のようなものとも言える。フィリップだって利便性を求めてハスターやクトゥグアを使うのだし、「深きもの」たちが豊漁を願ってダゴンに仕えたって咎めはしない。

 

 勿論、信仰の徒たる彼らに言わせれば、フィリップと彼らの在り方は全く似ていないのだけれど。

 

 ともかく、彼らにとっての邪神信仰はただの日常生活だ。そして人間やその社会について知っているのなら、フィリップたち村の外の人間には隠そうとするくらいの知恵はあるだろう。

 フィリップたちの排除や、それに類する傷害行為に及ばないのであれば、フィリップが即座に邪神召喚を切ることは無い。そして彼らがここで慎ましく生きていくだけなら、フィリップはそれを許容する。

 

 「……彼らの態度が演技であった場合、エレナとリリウムの心身に危険が及ぶ可能性があります。それはフィリップ様の危惧する冒険者活動の即時終了に繋がるのではありませんか?」

 

 危惧を示すには平坦な声で紡がれたカノンの言葉に、フィリップは冷たい値踏みするような目を向けた。

 

 「そうだね。だから、エレナとパーカーさんの心身を守らなくちゃいけない。ナイアーラトテップの“教育”の成果、見せて貰うよ」

 

 

 

 

 



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441

 村は井戸のある広場を中心に、円形に二十棟ほどの家が並んだ小規模なものだ。

 家々はどれも高床になっている。砂地という不安定な地盤を直接使うことなく、更には万が一高波が来た時にも多少は対応できるようにだろう。海に向かってなだらかな下り坂になっている浜でありながら、全ての家が同じ高さで建っているのも、そのおかげだ。

 

 三人の子供たちはそれぞれエレナとリリウムとフィリップの手を引き、村の各所の説明を口々にくれる。

 しかし三人とも行きたい方向がバラバラで、フィリップたちは苦笑を交わしながら各々の手を引く子供たちについていくことにした。

 

 村の中で一番大きい建物は、浜に一番近い位置にある船造りの工房。と言っても王都二等地の民家と同じくらいのサイズで、外観も、恐らく内装も比べるべくもない代物だ。

 

 二番目に大きい建物は、工房と反対側にある礼拝所。

 これはフィリップが一見して教会のようだと感じる尖塔のある背の高い建物で、十字架まで掲げられている。

 

 「あれね、ラグーンにある神殿と同じ形なんだよ! 双子の建物は共鳴して、そこに居なくてもお祈りが届くんだって!」

 「へぇ……。魔術的な意味があるんだね」

 

 フィリップはにこやかに頷き、「礼拝所とラグーンの神殿」と調査すべき場所を心のメモ帳に書き記す。

 

 「それで、あそこが村長のおうち! 村長、燻製を作るのがとっても上手なの! あっちがね──」

 

 顔も知らない村人の家がどれで、その人はどんな人で、という無意味な説明が続く。

 フィリップは殆ど聞き流しながら不都合な情報が聞こえてこないかを頭の半分で処理しつつ、頭の残り半分と目はエレナとリリウムに向いていた。

 

 二人ともフィリップと似たような状況だが、エレナは真面目そうな女の子にあれこれ質問している。内容までは分からないが、二人とも海の方を向いて、時折沖の方に指を向けたりしているから、もしかしたらセイレーンの出没位置なんかを聞いているのかもしれない。

 リリウムはというと、男の子にせがまれて魔術を披露している。フィリップはともかく本職の魔術師は鼻で笑うような初級魔術の劣化版だが、村長は「外の人間は珍しい」とまで言っていたし、現代魔術を見るのは初めてなのかもしれない。

 

 「──で、あの子はネア。たまに怖いときもあるけど、でも優しいの! あの男の子はサリィ。足がすっごく速いんだよ!」

 

 一通り説明を終えたのか、手を握ったままの女の子はフィリップを見上げ、にっこりと笑う。

 「何かご質問は?」とでも言いたげな視線に押されて、フィリップは少し考えたあと、一度手を放した。

 

 「君の名前は? 僕はフィリップ。フィリップ・カーター」

 「えへへ、苗字がある名前って、なんかおかしーね! 私はルティ! 本当はアルティヴェリスっていうんだけど、長いからみんなルティって呼んでる!」

 

 女の子──ルティは無邪気に笑って言った。

 姓という慣習のない地域があると知ってはいたが、フィリップは僅かに眉根を寄せる。

 

 初対面でいきなり「お前の名前って変だね」と言われていい気はしない。とはいえ、フィリップは異常なほど異文化に対して寛容だ。彼女が人間であれば、その些細な表情の変化さえ無かっただろう。

 

 むしろ、フィリップの後ろに控えたカノンがぎちぎちと謎の音──恐らくガスマスクの下で大顎を咬み合わせた威嚇音──を鳴らした反応の方が、ずっと大きい。

 

 「魔物さん、どうしたの? お腹空いた?」

 「……いや、気にしないで。よろしくね、ルティ」

 「うん、仲よくしようね!」

 

 その文化はあるらしく握手を交わすと、ルティはそのまま再び手を繋いだ。

 

 「フィリップ、どこか見てみたいところはある? 案内してあげる!」

 「うーん……じゃあ、礼拝所の中を見てみたいな」

 

 思考は一瞬。

 そもそも礼拝所と神殿くらいしか見るべき場所は無く、どうせどちらも確認する。ならば近い方から順番に、という単純な結論を出すのに、一瞬以上は掛からない。

 

 「いいよ! 行こ!」

 

 特に入るのに制限があるわけではないのか、ルティはフィリップの手を引いて平然と礼拝所の扉を開けた。

 

 「カノン、外で待ってて。エレナとパーカーさんが入ろうとしたら、それとなく止めて」

 「畏まりました」

 

 先導するルティに聞こえないよう背後のカノンに囁き、フィリップだけが礼拝所の中に入る。

 「教会のようだ」と思った外観の印象は間違っていなかったようで、内装もバシリカ様式の教会に近しいものだった。信徒用の椅子が並ぶ回廊を奥まで進むと講壇と書見台があり、最奥には聖女像がある。

 

 ただ、壁や柱は言うに及ばず、信徒用の椅子や神父が使う書見台までもが低質な木材で作られており、触ると棘が刺さりそうなほどだ。装飾性に乏しいという言葉がお世辞になるほど質素、というか、殆ど整備されていないように見える。

 ステンドグラスもなく、中はガラスも嵌っていない窓から差し込む光と、幾つかの燭台で照らされているだけだ。これでは雨や曇りの日には相当に薄暗いことだろう。

 

 「さあ、どうぞ入って!」

 「……うん」

 

 ルティに促され、フィリップは講壇のある奥まで歩く。

 燭台の蝋燭はつい先ほど換えたばかりなのか、どれもこれも殆ど減っていない。一見して低質そうだと思った信徒用の椅子は、やはり使い込まれて古くなっているが、遠目からの印象に反して手入れは行き届いているようだ。押してみると少し軋むが、埃を被っていたり、棘が出ていたりはしなかった。

 

 「礼拝所はよく使うの?」

 

 何を言っているんだと、人間相手なら笑われる質問をするフィリップ。それは自覚しているのか、口元が微妙に綻んでいた。

 一神教に於いて、毎週日曜日に礼拝が行われるのは常識だ。朝からだったり正午からだったりと地域によって差異はあるが、教義上、日曜日に礼拝をすることは決まっている。

 

 そして──彼らがその習慣に倣っていようと、無視していようと、どうでもいい。

 彼らが人外であることは確定している。彼らの信仰が何処に在ろうと、どんな形であろうと、この期に及んでは特に重要ではない。

 

 ルティはその質問がおかしなものだとは思わなかったのか、楽しそうに答えてくれる。

 

 「うん! あのね、ラグーンの神殿は特別な儀式とお掃除の時にしか入っちゃいけないから、普段はここでお祈りするの!」

 「へぇ……。ん?」

 

 なんとなく書見台を覗くと、そこには一神教の聖典が置かれていた。

 王都製らしき紙製の本。しかも、教会に普通置かれるハードカバーの大判本ではない。コンパクトに製本された持ち運び用のものだ。誰かの置き忘れか、貰ったか、奪ったか。どれでもいいが、それは書見台の収納部で埃を被っていて、どう見ても本懐を遂げられていなかった。

 

 なんとなく置いてあるだけなのか、フィリップたちのような稀に訪れる余所者に対するカムフラージュなのか。

 

 「……神父様はいる?」

 「ううん。お祈りの時は村長が司祭さまだよ」

 「お祈りって、どんなの?」

 

 ダゴンとハイドラの存在を知ってはいるが、関連する儀式の内容や、与えられる恩恵に詳しくないフィリップは興味本位で問いかける。

 もし危険で邪悪な──例えば村に入った人間を同族へ変貌させるような──ものなら今すぐに村を消し飛ばすことになるという意識はあったが、あくまで興味が先だった。

 

 「うーん……どんなのって言われてもなあ……。そうだ! ちょっとそこに座ってみて!」

 

 やや警戒しつつ、フィリップは言われるままに信徒用の椅子に座る。

 ルティは入れ替わりに講壇に立つと、書見台と殆ど同じくらいの身長故にフィリップが見えず、諦めて横に立った。

 

 「皆はそこに座ってね、それで村長が呪文みたいなのを唱えるんだけど、えーっと……いあ、なんとか、なんとかって」

 「え……!?」

 

 平然と──頑張って思い出しながらではあるが、隠す様子のない語り口調に、フィリップは半笑いで驚く。

 それはどう考えても邪悪言語による祝詞、神へ届けるための言葉であるにもかかわらず、ルティはその内容を覚えていないようだ。神話生物「深きもの」──クトゥルフやダゴンの末裔、惑星外にルーツを持つ異種族であるというのに。

 

 「幼体だから? それとも……」

 

 話してみた感覚だと、ルティは外見通り十歳前後の精神年齢だ。実年齢は不明だが、深きものは不老存在ではないし、概ね外見と一致しているだろう。

 

 まだ幼く、信仰というものを理解していない可能性はある。

 いつぞや遭遇した深きもののように「恩寵を求め、伝統を重んじる」なんて意識は無く、むしろ一般的な人間の子供と同じで「よく分からないけどそういう習慣だから」祈り、信仰しているかのような行動を取っているだけかもしれない。

 

 或いは、フィリップが即座に思いつかない人外的な理由かもしれないけれど。

 

 「君たちが信仰してる神様の名前は?」

 

 フィリップはまた半笑いで問う。

 ちなみに一神教に於ける神である唯一神に名前は無い。強いて言うのなら「唯一神」というのが名前だ。他と区別する必要が無い唯一絶対の存在に名前は必要ないらしい。

 

 カノンは「神の名前は軽々に音に乗せるな」と言っていたし、ずっと前に、シュブ=ニグラスにさえ「邪神の名前は毒になる」と教えられた。フィリップ自身も他人の前で邪神の名前を出さないように気を配っているくらいだ。

 

 他「人」と云うだけあって、ミナとエレナを除く人外はその範疇に入らないわけだが。

 

 どんな反応をするのだろうと興味を抱いたフィリップに、ルティはにっこりと笑って平然と答える。

 

 「ダゴン様とハイドラ様! 五年に一度の儀式の日だけ会えるんだよ!」

 

 平然と──それを聞いたのがフィリップ以外であったのなら、どんなことになるか考えたこともないような笑顔で。

 

 フィリップはちらりと教会の玄関扉に目を遣り、しっかりと閉まっていることを確認する。

 カノンが暴れている気配もないし、エレナとリリウムはまだ他の子供たち──ネアとサリィと言ったか──と戯れているのだろう。

 

 ここにいたのが彼女たちだったら──という意味ではない。

 邪悪言語で紡がれたわけではない以上、邪神の名前が即座に精神や正気へダメージを与えることはない。

 

 だが、間違いなくカルトとして報告されるだろう。

 腕に覚えのある冒険者だったらこの場で殺されている可能性だってある。ルティだけでなく、他の村人たちも全員纏めてだ。

 

 「……それ、僕に言ってもいいの? っていうか、大人とか村長とかに「村の人以外に言っちゃ駄目」って──」

 「──あっ!! そ、そうだった!!」

 

 フィリップに聞かれて漸く、ルティは「しまった」という顔になる。

 

 同じことをしたのがカノンだったら「こいつホントに馬鹿だな」と愉快そうに冷笑するところだが、フィリップはむしろ安堵したような穏やかな笑みを浮かべた。思ったよりちゃんと子供だと。

 

 彼女は「神話生物の幼体」ではなく、人間同様の知性を持ちつつ未だ発達段階にある、幼子だ。

 そう認識を改めて、フィリップは安心させるように笑いかけた。

 

 「大丈夫、誰にも言わないし、僕も怒らないよ。教えてくれてありがとう」

 「うん……!」

 

 ほっとしたように笑顔を返すルティ。

 フィリップは頷き、五年に一度だけあるという儀式──降臨か招来か接触かは不明だが、とにかく邪神を呼びだす儀式に興味を戻した。

 

 「ダゴンとハイドラか……。どんな儀式なの?」

 

 フィリップは呪文詠唱のみで、魔力消費も殆ど無く邪神を呼びだすことが出来るが、これはかなりのレアケースだ。

 シアエガを召喚しようとしていた司祭は魔法陣を設置し、人間の眼球や人間以上の寿命を捧げて漸くだった。黒山羊でさえ、一応は母親に当たるシュブ=ニグラスを呼びだすのに生贄や儀式を必要とした。普通はそうだ。強大な存在を顕すだけの、複雑で面倒な手順を踏まなくてはならない。

 

 呼べば来るような、身近で都合のいい邪神はいない。

 仮にも神だ。呼びかけ、代償を支払い、相手の機嫌が良ければ気紛れに報酬や恩寵を頂ける。それが上位者と劣等存在の正しい関係性だ。

 

 だから。

 

 「えーっと、神殿に生贄を捧げて、村の皆でお祈りするの!」

 

 ルティのその答えに、フィリップは然程驚かなかった。

 

 

 

 

 

 



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442

 「生贄? それって人間だったりする?」

 

 邪神召喚の儀式に生贄が要る──そんなことに今更驚かなかったフィリップは、より気にするべきところを尋ねる。

 生贄が人間であり、村長や他の村人たちがフィリップやリリウムを生贄にしようと考えているのなら、早急に方針を決めなくてはならない。

 

 脱出か、殲滅か、或いはギリギリまで泳がせてダゴンとハイドラにハスターをぶつけるか。

 最後の選択肢はふと思いついたにしては面白そうな案だが、それには同行者の二人が邪魔だ。安直に脱出することになるだろう。

 

 内心で残念そうに溜息を吐いたフィリップだったが、ルティは「えっ?」と怪訝そうな声を上げた。

 

 「えっ? ううん。生贄は海の生き物じゃないといけないんだよ。それからね、神様に捧げるに相応しい供物じゃないといけなくて、五年間儀式をしないと神様に叱られるんだよ」

 

 素っ頓狂なことを言った子供に教え聞かせるように──もしかしたら彼女が普段されているように──ルティは丁寧に教える。

 どうやら、人間は贄として不適らしい。ダゴンやハイドラ如き劣等存在にはお似合いだと思ったのだが。

 

 年下の子供の「何言ってるの?」と言わんばかりの怪訝そうな目に苦笑を浮かべつつ、フィリップは暫し黙考する。

 加護の持続期間は五年間。だが恐らく、与えられた時間は温情ではなく猶予期間だ。供物に適不適があるから、「五年やるから神が受け取るに相応しい贄を用意しろ」という意図だろう。

 

 「叱られる」というのは曖昧な言い方だが、まさか邪神が「コラ!」なんて声を上げたりしないだろうし、単に加護が消失するだけのような生温いものではなく、罰則を伴っていると考えられる。

 

 「そのラグーンの神殿? っていうのはどこにあるの?」

 

 そりゃラグーンにだろ、と突っ込まれそうな質問をするフィリップだが、ラグーンが何処にあるかを知らない以前に、フィリップはそもそもラグーン(潟湖)が地形であることを知らない。

 「ラグーンの」が所在地を示すと分からない以上、作り手の名前かもしれないし、何かの称号かもしれないし、智慧に無い邪神の名前かもしれないという思考に至るのは無理からぬことだった。

 

 普段は村人たちでさえ立ち入りが制限されているという場所だけあって、問われたルティは「うーん」と逡巡する様子を見せる。

 しかしそれも数秒で、すぐに講壇からぴょんと降りてフィリップの手を握った。

 

 「まあ、いいか! フィリップにだけ特別に教えてあげる! 皆には内緒ね!」

 

 礼拝所を出ると、言いつけ通りに門番をしていたカノンが振り返る。

 エレナもリリウムもフィリップが建物の中に入ったことに気を払っていなかったようで、彼女が役目を果たした形跡は無かった。

 

 「カノン、二人は?」

 「エレナはあそこです。リリウムは子供の一人と遊んでおり、現在はあの家の向こう側にいると推測されます」

 

 カノンが甲殻に包まれた指で示す先で、エレナがネアという子供に手を引かれて連れ回されている。ネアはどうやらどの家にどんな人物が住んでいるかまで詳細に教えているようで、連れ回されているエレナは困り顔だ。

 リリウムともう一人の子供、サリィが居ないのは少し気になるが、ルティの様子を見るに子供たちに害意はなさそうだ。フィリップがしばらく離れても大丈夫だろう。

 

 「そう。……僕のことは良いから、二人を守って」

 

 実現可否には気を払わず、出来る前提でぞんざいに言い放つ。

 カノンにエレナとリリウムを預けるのはトラウマ的な忌避感があるが、今のカノンはナイアーラトテップの手によって教育されている。フィリップが便利に扱えるようになっているはずだ。

 

 「えっ?」

 「え?」

 

 間抜けな声が聞こえた気がして、フィリップはカノンの方を振り返る。

 しかしガスマスクによって下半分の隠れた顔はそこに無く、彼女は折り目正しく頭を下げていた。

 

 「畏まりました」

 「……気のせいか。頼んだよ」

 

 フィリップは適当に手を振り、ルティに案内されるままに村を囲む鬱蒼とした森へ入る。

 村の中に漂っていた潮の臭いや、少し鼻につく魚っぽい臭いが土と木の匂いに紛れ、また強くなる。森の中にはラグーン──殆ど外海と繋がっておらず水深の浅い、殆ど湖か沼地のようになった湾──があった。

 

 外海までは大雑把な目測で300メートルくらいで、幅はその半分くらいだろうか。遠目に砂州と、外海に繋がる狭い水路が見える。

 

 ラグーンのほとりには確かに、神殿としか形容できない見事な建物があった。

 村にあった礼拝所同様の教会然とした建物だが、その装飾性は簡素な木造だった礼拝所とは比較にならない。大部分は緑色の石材で構成されているが単調ではなく、ゴシック様式の建築と精緻な彫刻とが複雑な陰影で外観を飾っている。

 

 「これは……人間が作ったものじゃないな」

 

 フィリップは神殿を見上げ、苦笑する。

 建築の美醜、建材の貴賤に詳しいわけではないが、直感的に理解できた。

 

 接合部のない石造りの建物なんて、王都でも王城だけだ。

 極めて高度な魔術か錬金術によるものという可能性もなくはないが、それならこの村はもっとマシな住環境をしているだろうし、恐らくは“人の手にあらざるもの(クリエイテッド)”。ダゴンかハイドラによって齎されたものだろう。

 

 フィリップの独白を賞賛と受け取り、ルティは「うん! 凄いでしょ!」と無邪気に笑った。

 

 「今日はお掃除の日じゃないから、中には入れないの。でもね、こっちにすごいのが居るんだよ!」

 

 言って、ルティはまたフィリップの手を引く。

 ラグーンの水面上に半分ほどせり出して立った神殿の横に回り込むと、水面から黒っぽい物体が飛び出しているのがすぐに分かった。数秒の観察で、それが巨大な檻の一部だとフィリップは理解した。

 

 水に沈んでいるため高さは不明だが、横幅と奥行きは10メートル近くある。

 「凄いのが居る」というルティの──深きものの言葉に釣られて檻の中を覗き込んだフィリップは、好奇心に満ちた笑みを凍り付かせ、やがて歓喜に顔を輝かせた。

 

 「にっ……!?」

 

 檻の中、水面下からこちらを見つめ返していたのは、人間の顔だった。

 波に揺れるインディゴブルーの長い髪、どこか冷たい印象を受ける人間以上に整った顔、白く透けそうな喉元、細くしなやかな肩や腕、豊かな胸のふくらみ、芸術品じみて均整の取れた腰。

 

 そして──その下に、人間的要素は無かった。

 上半身の真っ白な陶磁器のような肌とは一転し、背面が黒く腹面が白いつるりとした肌。尻尾のような位置に生えた大きな背鰭、二つに分かれていない脚──尾鰭。

 

 一見して、それは人間の上半身と魚の下半身を持ち合わせていた。

 

 「人魚だーっ!? うわぁ凄い!! 本物だよね!? 実在したんだ!!」

 

 満面の笑みを浮かべたフィリップのテンションが振り切れる。

 フィリップのみならず大抵の人間にとって、人魚は御伽噺の中の存在だ。その存在が語られることはあるものの、大抵は海面に映ったセイレーンの姿を見間違えただけだと相手にされない。

 

 冒険譚の名悪役であるドラゴンや、勇者を手助けしてくれる神秘的な存在である精霊(ドライアド)のような、実際に存在するものとは訳が違う。フィリップにとって人魚は完全な創作物であり、会えるはずのない、居るはずもないフィクションのキャラクターだった。

 

 それが今、目の前にいる。

 小さなころに読んだ御伽噺のキャラクターが、手の届く距離に実在している。その光景は、フィリップから冷静さを奪い去るには十分な威力を持っていた。

 

 「あ、す、すみません、急に大きな声を出して! あの、僕、フィリップ・カーターです。えっと……握手してくれませんか!」

 

 檻にしがみつく勢いで言うフィリップに、人魚は怪訝そうな目を向ける。

 

 彼女は明らかに村人に捕まっている様子だし、実際、ルティには警戒心や敵愾心の籠った目を向けている。しかし「深きもの」ではなく、どうやら好意的らしいフィリップに興味を惹かれたのか、檻の中で水面から顔を出してくれた。

 

 水上に出て光の屈折というフィルターが取り払われた人魚の顔は、怖気を催すほど美しい。人外の美貌に慣れたフィリップでなければ一目で心奪われるだろう。

 しかし。

 

 「──?」

 

 ぱくぱくと開閉される彼女の口からは、フィリップやルティが聞き取れる音は発せられなかった。

 

 「……人魚って喋れないの? 物凄く綺麗な声をしてるって聞いてたんだけど」

 

 フィリップは可笑しそうな顔をしているルティを振り返り、尋ねる。

 本には人魚の声は天上の音楽にも勝ると書いてあったのだが、彼女の口からは息の漏れる音さえ出ていない。

 

 問われたルティは頭を振って否定するが、続く答えはフィリップの期待に副うものではなかった。

 

 「ううん、喋れるよ。でも、言葉が違うの。人魚語? なんだって」

 

 そりゃあそうか、とフィリップは納得と落胆を同時に抱く。

 エルフと人間は同じ大陸内に住んでいながら、言語は完全に乖離している。森という、装備と知識があれば踏破できないこともない程度の隔絶によって隔てられた二種間で、全く異なる言語体系が築かれている。陸と海ともなれば、その差異は大きくなるものだろう。

 

 そして人魚は普段、水中で生活しているとされる。

 空気中で音が伝播しないとか、空気中では発声が困難だとしても驚きはなかった。

 

 「──、──」

 

 今度はきゅーきゅーと甲高い、甘える子犬のような鳴き声が漏れる。

 発声に成功したのか、別種の言語や発音を試してみた結果なのかは分からないが、どちらにせよ意味は伝わらなかった。

 

 「うーん……、まあ、そりゃあそうか。そうだよね……」

 

 言って、フィリップは檻から離れる。

 先ほどの大興奮はどこへやら、すっかり意気消沈していた。

 

 しょんぼりと肩を落とし、「もういいの?」と問うルティに答える声にも覇気がない。「うん……」とか細い声で応じ、村の方へと踵を返す。

 

 神殿と檻に背を向けた、その時。

 

 「──『助けて』」

 

 その声は、フィリップの脳に電撃を走らせた。

 深さが分からないほど透き通った清涼な海を思わせる、心を揺さぶる声。耳から脳味噌が溶け出してしまいそうな、美しい音。

 

 だがフィリップの脳は快感と同時に、強烈な警戒心を抱いた。

 フィリップが聞き取れる、理解できる言語は二つ。しかし今の声は人語──大陸共通語ではなかった。

 

 今のは、邪悪言語だ。

 

 「っ!?」

 

 弾かれたように振り返ったフィリップは、今度は慎重な足取りで檻へ近づき、片膝を突いて水面へと視線を下げる。

 

 「……お前」

 

 言葉が汚くなる──智慧ある者かと思い、憧れのキャラクターではなく神話生物を前にしたときの態度が出る。

 しかし水面から顔を出した人魚は言葉が通じた安堵と期待だけでなく、その言葉が通じたことに対する驚愕も抱いているようだった。

 

 「フィリップ、どうしたの?」

 

 胡乱な顔のルティだが、フィリップの興味は完全に人魚へと移り、幼体とはいえ明確に人外である深きものへの警戒心や冷笑は吹き飛んでいた。

 

 「んんっ……、『この言語を解せるのか』」

 

 咳払いと喉への圧迫で調子を整え、いや、狂わせ、喉から絞り出すようにして無理やりに邪悪言語を発音する。

 聞き取りと理解だけは完璧な脳が「物凄く訛っているし片言だ」と我が事ながら冷笑するが、そんな思考は数秒で喉の痛みに掻き消された。

 

 「『少しだけ。海にいると、頭の中に話しかけてくるモノがいるのです』」

 

 なるほどと頷きながら、フィリップの頭の半分は別な事を考えていた。彼女の、耳から脳を侵すような美しい声のことを。

 

 耳触りの良い、聞いているだけで心が安らぐような声だ。

 それだけに、その涼やかで透き通った海の如き声が、発せられる邪悪な言語で穢されている気がして不愉快だった。

 

 それに。

 

 「『喉の負担は? 正直、僕はかなりキツい。人語は分かるか』」

 

 邪悪言語は人間が作ったものではない。

 人間には理解できない単語や文法もあるし、何より、声帯や口といった人間の発声器官では発音が難しかったり、不可能だったりする。

 

 外見上は人間と同一の上半身を──口や喉を持つ人魚にも、それは同じなのではないだろうか。

 その推測を、彼女は頷いて肯定した。

 

 「『私もです。ですが私には人の言葉が分かりません』」

 

 フィリップは頷き、言葉を重ねようとした人魚を片手で制する。

 興味深そうな顔をしたルティが近づいてきたのを、足音だけで察知したからだ。

 

 「なんか儀式の言葉みたい。フィリップ、もしかして人魚語を話せるの? すごいね!」

 「ははっ……」

 

 困ったように笑い、人魚の方に向き直るフィリップ。

 村を訪れてから抱いていた興味も警戒も冷笑も、人魚に対する好奇心で完全に吹き飛んでいた。

 

 しかしフィリップが再び言葉を交わすべく喉の調整を終える前に、背後から鋭い怒声が突き刺さった。 

 

 「──コラ、お前たち! 何やってるんだ!」

 

 左手を腰に佩いた龍貶しへ添えながら立ち上がり、振り返る。

 フィリップは普段は接近禁止だという位置で見つかったからではなく、劣等生物が自分の邪魔をしたことに苛立っていたが、その怒りを自覚してはいなかった。その愚昧を処刑しようと思っていることもまた。

 

 「あ、しまった!」

 

 見つかった! とばつの悪そうな顔をするルティ。

 怒声の主はよく日焼けした青年で、槍の柄のような長い棒を持っていることから、神殿か人魚を守る役目を帯びているのだと察せられた。

 

 「しまったじゃない! ルティ、お前はまた……。あー、冒険者の子、ここは特別な儀式の日以外は近付いちゃいけない神聖な場所なんだ。すぐに村に戻ってくれ。でないと──」

 「でないと?」

 

 酷薄な笑みを浮かべ、言葉を返して問うフィリップ。

 フィリップたちはセイレーンを狩るために海を目指してここに辿り着き、この村で船を借りることした。だが──別に、神話生物に対して礼儀を払う必要は無いし、彼らが存在している必要も無い。

 

 人里離れた場所でひっそりと暮らしているのだし、その生存に目くじらを立てたりしないつもりだったが、牙を剥くなら話は別だ。

 エレナとリリウムの目に付く可能性があるから邪神を呼ぶまではできないが、クイックドロウで青年の脳幹に風穴を開け、フリントロックを目撃することになるルティの首を刎ねれば一先ずは解決する。

 

 死体の処理とか銃声は隠せないとか色々と問題はあるが、どうせ面倒になったら全員殺すのだし、露見したら運が悪かったと思って貰おう。

 フィリップが「面倒だから」という理由で殺すのを躊躇う人間ではなかった、人間に生まれなかった自分は運が悪かった、と。

 

 そんなことを考えながらジャケットの前を開けたフィリップだったが。

 

 「俺とルティが村長にしこたま怒られる。頼むよ、この通り!」

 

 青年は明朗に、ウインクと共に片手で拝む。

 敵意や害意、戦意といったものが微塵も感じられない態度に毒気を抜かれたフィリップは、ジャケットのボタンを留め直して檻の方を振り返った。

 

 「……『あとでね』」

 

 人魚は傷付いたように曖昧な笑顔を浮かべ、全身を水の中に沈めた。

 

 

 

 



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443

 フィリップとルティが村まで戻ってくると、エレナとリリウムが村人と何事か話していた。

 エレナはなんだか困り顔で、相手は屈強な体躯を持ちよく日焼けした、見るからに腕の立つ水夫か熟練の漁師といった風情だ。魚鱗に覆われた両腕を組み、厳しい顔でエレナを見下ろしている。

 

 何かのトラブルだろうか。

 一見するとピンチなのは女子二人だが、深きものの交雑種は人間の姿をしているうちは、身体性能は人間と然して変わらない。殴り合いにでもなれば、エレナは彼を一瞬かつ無傷で制圧できる。それに、一歩下がったところでカノンが待機している。何か異常な手段で攻撃されても彼女が対処するだろう。

 

 特に慌てもせず興味本位で近づいていくと、フィリップに気付いたエレナが困り顔を向けた。

 

 「フィリップ君、どうしよう。今日は船を出せないんだって」

 「え、なんで?」

 

 報酬関係のトラブルという空気ではないし、それなら「今日は」という言い方はしないだろう。

 怪訝そうな顔を向けるフィリップに、その村人は深い溜息を吐いた。

 

 「さっきその子にも説明したんだが……。今からセイレーンが出没する海域まで出ると、帰り路の海流が複雑になる上に暗くなる。別に座礁しようが転覆しようが、俺は泳いで帰れるが……あんたら、海で泳いだことあんのか?」

 

 フィリップとエレナは顔を見合わせ、「ない」と声を揃える。リリウムも「私も」と続いた。

 

 「だろうな。言っとくが、生半な泳ぎじゃ死ぬまで泳いだって何百メートルも進まねえぞ。それに、人だってお構いなしの獰猛なサメもいる」

 「サメ?」

 「デカい肉食の魚だ。5メートルぐらいあって、泳ぐのも凄まじく速い。言うなれば、この辺りのヌシだな」

 

 川魚しか知らないフィリップは「5メートルの魚」と言われて、脳内で巨大なトラウトを思い浮かべる。

 脅威なのかどうか微妙に分かりづらいが、結局、デカいなら強いかと端的に納得した。

 

 「なるほど……」

 「どうする、フィリップ?」

 

 他の漁師に頼んでみるかという意図なのか、交渉の強度を上げようという提案なのか、リリウムが不明瞭な問いを投げる。

 フィリップは一瞬だけ黙考し、穏やかに頭を振った。

 

 「どうするも何も、地元の本職が無理だって言ってるんだから無理でしょ。今日はここに泊まるしかないよ……おじさん、朝なら行けるんだよね?」

 「あぁ。どうせ明日は朝から漁に出るし、その時なら連れてってやるよ。日の出前に起きられるならな」

 

 「早起き出来るか?」とばかりニヤリと笑った漁師に、フィリップも応じるように口角を吊り上げる。

 

 「それでお願い。いいよね、エレナ」

 「うん、そうしようか。よろしくね、おじさん」

 

 遅ればせながらパーティーリーダーに確認を取るが、彼女は気を悪くした様子も無く明朗に笑う。

 エレナも端からフィリップと同意見──専門家の意見には従うべきだと思っていたから、むしろ意見が一致したことを喜んでいた。

 

 パーティー内で頷き合って方針を共有確認していると、話を聞いていたルティがフィリップから離れ、漁師の服の裾を引いた。

 

 「お父さん、それ私も行きたい!」

 「駄目だ。この人たちは魔物を狩りに行くんだから、漁より危ない」

 

 即答で否定され、ルティが頬を膨らませて不満を表明する。

 援護射撃を求めてフィリップを振り返るが、パーティー全員が同意見だ。ルティが魔物に殺されようが溺死しようが知ったことではないフィリップでさえも。

 

 「うん……、お父さん?」

 「あぁ、ルティの父のオスメロイだ。ルティと遊んでくれてありがとう」

 

 話を逸らす目的もあって目を向けると、彼は友好的に右手を差し出した。

 フィリップは反射的に、身体に染みついた習慣でその手を握る。

 

 「あ、どうも。フィリップ・カーターです……」

 

 深きものの交雑種──劣等生物に名乗り、握手を交わしていることに笑いが込み上げてきたが、フィリップ以外の全員はそれを社交辞令的な愛想笑いだと思って気に留めなかった。

 

 「えーっ……じゃあ、今日うちに泊める! それならいいよね?」

 「は? まあそりゃあ、テントよりはマシかもしれんが……」

 

 どうする? とオスメロイはフィリップたちを見遣る。

 

 だが、間違いだ。王都製のテントを知らない以上無理もないことではあるけれど。

 以前にミナは、この村よりずっとしっかりした石造りの建物でも「テントの方がマシ」だと評したし、実際、居住性と快適性は王都外の安普請を上回る。上等な生地の一枚布だけあって、雨漏りや隙間風もない。

 

 というか、深きものの住居なんかで一夜過ごしたくないのだが……普段のフィリップは()()()()()()()、善意を無下にはしない。ここで断ると、リリウムはともかくエレナが不信感を持つ可能性は十分にある。

 答えは一つしかなかった。

 

 冷たく観察するような目を向けながら中へ入り、フィリップはぐるりと家中を見渡す。

 案内された家は外見通りに簡素なもので、キッチンとダイニングテーブルと、薄い布の敷かれた寝床しかない。トイレは共用、風呂どころかシャワーも無し。明かりは自然光と蝋燭だけで、じき夕暮れとなる今でも既に薄暗い。

 

 だが、そんな建物は田舎の方なら珍しくはない。いや、暖炉が無いのは珍しいけれど、それ以外は特に何も──エレナやリリウムの目から隠さなければならないようなものは無さそうだ。

 

 「食事くらいは用意してやれるが、見ての通り何もない家だ。悪いが、夜は寝袋を使ってくれ」

 「あ、ううん、ボクたちは携帯食料があるから。調理場だけ貸して貰おうかな」

 「そうか? まあ、あんたらの好きなようにしてくれ」

 

 それからフィリップたちは馬車から荷物を運んだり、夕食を摂ったりして、あっという間に日が沈んだ。

 

 エレナとカノンが馬の世話をすると言って家を出た後、ルティたちが食卓に着いた。

 二人の食事は海藻類と生魚が主で、火を通していないものを食べること自体が珍しいフィリップとリリウムは興味深そうな視線を向ける。

 

 オスメロイが苦笑交じりに「食べてみるか?」と皿を差し出したが、フィリップとリリウムは揃って激しく頭を振った。

 苦しい死に方をしたくなければ、取り敢えずナマモノとキノコを避けるのは鉄則だ。二人がそれを日常的に食べていて、体に変調を来していないことはなんとなく分かるが、試してみる気にはならない。

 

 彼は肩を竦め、両手を組んで祈る姿勢を取った。ルティもそれに倣う。

 

 「父なるダゴン、母なるハイドラ、大いなるクトゥルフよ。お恵みに感謝します」

 「感謝します」

 

 胃腸の性能が違うのだろうか、なんて考えていたフィリップは、その祝詞を一度は聞き流す。

 彼ら深きものが口にする祈りとして何ら不思議はない、自然な行為だと。

 

 しかし、それを聞いているのはフィリップだけではなかった。

 

 「……なに、それ?」

 

 硬い、血の通っていない声。

 振り返ると──さっきまで隣にいたリリウムは、今はフィリップの二歩ほど後ろで青い顔をしていた。眉根は寄せられ、双眸には明らかな嫌悪感が宿っている。

 

 「お祈りだよ。神様のお庭から食べ物を分けて貰ったから、そのお礼をするの!」

 「そういや、この村以外じゃ珍しい信仰かもしれんな」

 

 悪びれた様子も隠し立てする気配も無く、ルティは天真爛漫に、オスメロイは思い出したように言う。

 答えを受けて、リリウムは「それって」とフィリップに確認するような、或いは縋るような目を向けた。

 

 カルトなのか。いやカルトだろう。だがどうすべきか。

 言わんとしていることは分かるが、フィリップの意見は違う。

 

 「村の外の人間がいる時には、その人にバレないようにやるべきですね。カルトと間違われて虐殺されたくなければ」

 

 それより生魚が気になるとばかり、フィリップの視線は皿の上に戻る。その適当さ加減が、むしろリリウムに落ち着きを取り戻させた。

 

 「間違われて、って……カルトじゃないの?」

 「……いや、別にあんたらに強要しちゃいないし、危害を加えてもいないだろ?」

 

 “虐殺”という強い言葉に警戒心を抱いたオスメロイが弁解するように言う。

 

 だが、その思考は甘いと言わざるを得ない。

 

 「“使徒”──一神教のカルト狩り部隊はそんなこと気にしませんよ。というか、精神汚染を避けるために調査無しで範囲攻撃をぶっ放す可能性もゼロじゃない」

 

 というか、フィリップも一緒に来たのがルキアやステラだったらそうしている。

 或いは彼らが人間であったのなら。

 

 そんな思考が顔に出たのか、オスメロイが両足に力を込めていつでも立ち上がれるように備えたのが分かった。

 彼の表情は強張り、視線はフィリップの荷物に──黒鞘のロングソードに向く。空気の変化を感じ取り、ルティは怯えたようにフィリップと父親を交互に見遣る。

 

 「……怖い顔だなあ。説得力はないかもしれないけど、僕はカルトが大嫌いなんだ。君たちをカルトだと判断したのなら、村人全員、今頃ゲロと汚物に塗れて死んでるよ」

 

 殺気を放って威圧するなんて芸当を身に着けてはいないフィリップだったが、言葉に含まれたどろりとした何かが、三人に息を呑んで硬直することを強いていた。

 

 子供の戯言。粋がった妄言。

 普通はそう切り捨てるところだが、フィリップの声には無視できない真実味がある。既に何人ものカルトを惨殺してきた経験がその所以だろうか。

 

 「……まあ、チクろうって奴は子供と遊んだりしねぇか」

 

 僅かに震えた声で呟いたオスメロイが肩を竦め、納得したと示す。

 単なるアピールかもしれないが、一先ず、それでフィリップが放つどろりとした気配は霧散した。

 

 しかしそれは彼が口封じや先制に出ないというだけで、部屋の中に立ち込めた剣呑な空気が解消されるわけではない。事の発端であるリリウムは、まだ納得していなかった。

 

 「カルトじゃないの? 確かに、村の人は皆いい人だったけど……」

 

 リリウムは半信半疑といった風情でフィリップに問う。

 

 いい人であることとカルトであることは、別に、同居しない要素ではない。

 善人が、例えば人助けのために邪法に手を出した場合でも、“使徒”はそれを殲滅対象として認識するだろう。

 

 だがリリウムの中で、カルトは悪い人だというイメージが強いようだ。これなら、まだ説得の余地はある。

 

 「パーカーさん、生まれも育ちもずっと王都? 田舎の方じゃ、自然信仰とか偶に見るよ」

 

 以前に訪れた禁書庫の記録を思い出し、さも自分の目で見たことのように語る。

 実際にフィリップが目の当たりにしたのはカエルをふんわり有難がっている村の一例だけだが、既に“使徒”によって滅ぼされた異文化を、フィリップは知識として知っていた。

 

 「それ、いいの?」とリリウムは怪訝そうに尋ねる。

 良くはない。あれも“使徒”にバレたら村ごと焼かれるだろうし、フィリップが教会に報告していないことだって問題視されるだろう。

 

 それを分かった上で、フィリップはなんでもないことだと言わんばかりに肩を竦めてみせる。

 

 「度を越したら“使徒”が送り込まれるだろうけど、前に行った村じゃ、司祭がお目こぼししてた。ちょっと文化が違うからって目くじら立ててたらキリがないよ。エレナだって……というか、エルフだって一神教徒じゃないしね」

 

 それは確かに、とリリウムは頷くが、「でも」とだけ言って口を噤んだ。

 

 アンデッドであるミナだって、一神教からすると優先駆除対象だ。それ以前に人食いの化け物なので、人類の天敵だが。

 だがリリウムはこうして一緒に冒険しているし、最近では恐ろしく気持ちの悪い外見をマスクで隠した魔物、カノンまでパーティーに加わった。それが許せて、土着信仰が許せないことはないだろう。

 

 今はただ少し驚いているだけだ。

 そう信じて、フィリップは言葉を重ねる。

 

 「住む場所が違えば生活が変わる。生活が変わると思考が変わる。そして思考は思想や信仰に繋がる。山の近くに住んでる人は獣や地滑りを恐れ、警戒し、それを遠ざけてくれる神様を求める。農家の人たちは害虫を嫌って雨を望むから、虫を遠ざけて雨を呼んでくれる神様を求める。……それと同じで、海の近くに住んでる人は、食べ物を海に求めるから、漁を成功させてくれる神様を求める。それって、自然なことじゃない?」

 「……うん」

 

 ゆっくりと頷くリリウムが心の底から同意しているのか、相槌的に頷いただけなのかは分からない。それを見極めるだけの目をフィリップは持っていないし、これ以上の説得の言葉もまた持ち合わせていない。

 

 だが、何も彼女を説得する必要はないのだ。

 彼女が彼らをカルトであると思っていたって、フィリップには関係のない話だ。彼女が王都に帰って教会に告げ口し、この村が殲滅対象になったって構わない。

 

 フィリップはへらりと笑い、講義か説教じみた会話を締めにかかる。

 

 「まあ、気持ちは分かるよ。カルトはただカルトであるだけで気色が悪い。奴らは存在してしまったことを後悔しながら死ぬべきだ。なるべく惨たらしく、なるべく苦しんでね」

 「そこまで言ってないわよ!?」

 

 冗談めかした言葉を、リリウムは完全な冗談と受け取って突っ込む。

 その勘違いを正すつもりのないフィリップは、リリウムが浮かべたものより明朗な笑顔を作った。

 

 「あはは。まあ、何が何でもここを拠点にしなくちゃいけないってわけじゃないんだ。パーカーさんがどうしても二人が嫌いだって言うなら、今からでも外にテントを張って寝て、明日の朝に村を出よう」

 「私……大丈夫。信仰のことは理解も共感も出来ないけど、でも、村の人たちのこと、人間として嫌いなわけじゃないから」

 

 言って、リリウムは二人にばつの悪そうな、けれど確かな笑顔を向ける。

 そのルティとオスメロイは人間ではないのだけれど。

 

 

 



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444

 フィリップとリリウムがカルトについて話し合っているとき、エレナとカノンは馬の世話をしているところだった。

 辺りは既に夜闇に沈み、明後日には新月を迎える細い月の明かりは森の中までは照らしてくれないが、二人とも明かりは持っていない。

 

 「ボクだって姉さまほどじゃないけど夜目は利くんだし、ついてこなくても良かったんだよ?」

 「いえ、フィリップ様の御命令ですので」

 

 邪魔ってわけじゃないけど、と付け加える気遣いを見せるエレナに、カノンは無感動に答える。

 

 「変わったよね、カノンちゃん。神父の魔物用支配魔術が人格にまで影響を及ぼしたとかで、感情が希薄化したんだっけ?」

 

 初対面の時とは別人のような態度には、勿論、変化してから初めて会った時にはエレナもリリウムも驚いていた。それから十日ほど同じ馬車に揺られて、今なおこうして触れてしまうくらいに。

 

 フィリップに受けた説明は覚えていたが、エレナは確認するような口ぶりで──どこか疑念を滲ませて尋ねる。

 当然、カノンは「はい」と淡々と肯定するが、その答えを受けたエレナの顔からは明朗な笑顔が消え、代わりに翠玉色の双眸がすっと細まった。

 

 「嘘だよね」

 「えっ」

 

 鋭い声に、間抜けな声が返される。

 僅かながら肩まで跳ねさせたカノンの反応を見て、エレナはいつもの彼女らしい明るい笑顔を浮かべた。

 

 「あはは。ほら、今も「ぎくっ」って聞こえそうな反応してる。前のカノンちゃんだ」

 

 けらけら笑っているエレナに、カノンは恨めしそうな目を向ける。

 別にバレたところで問題は無い。フィリップや外神に「そうしろ」と命じられたわけではないし、元の性格通りに振舞ったってナイアーラトテップの「教育」に反することもない。

 

 ただ演技を見破られたことに対する、多少の悔しさがあるだけだ。

 

 そしてエレナも、カノンが演技をしていることを見咎めたわけではない。

 

 「そのこと自体にどうこう言うつもりはないよ。カノンちゃんがどういう振る舞いをするかは、ボクが口出しすることじゃないから」

 

 じゃあ触れないで欲しかったと眉根を寄せるカノンだが、エレナの言葉は「でも」と続く。

 

 「でもカノンちゃん、フィリップ君のことを怖がってない? もしフィリップ君と喧嘩したとかそんな理由で演技をしてるんだったら、ボクから──」

 「喧嘩ぁ? ぷーすす、その勘違いは流石にちょっと蒙昧に過ぎ──あ゛っ」 

 

 演技を忘れ、素で笑ってしまったカノンが慌てた声を漏らす。

 その表情はガスマスクで半分が隠れていてもはっきりと分かるほどころころと変わっていて、遅かれ早かれ演技が破綻していたことを確信させた。

 

 「あ、戻った。そっか、喧嘩したわけじゃないんだ……」

 「……まあ、はい」

 

 バレたものは仕方ないと開き直ったのか、カノンは目を逸らしながらも頷く。

 

 「でも、じゃあどうしてフィリップ君のことを怖がってるの?」

 「私からすると、あの方を畏れずにいられることの方が不自然ですけどね……。はっ! いやいや、これも多分言っちゃ駄目なことだ……!」

 

 ぶんぶん激しく首を振るカノン。

 フィリップがいれば道端に吐き捨てられた痰でも見るような一瞥を頂くところだが、エレナは興味深そうに首を傾げた。

 

 「どういうこと? フィリップ君って、実はなんか凄い人なの?」

 「そ、それはもう……。あの方を守る存在を考えれば、粗相一つで首が百回飛ぶんですよ!? あの吸血鬼もそうですけれど、聖痕者に、神官に……」

 

 あわあわと言い訳を重ねるカノンだったが、なんとかエレナに「……確かに?」と納得させることに成功する。

 しかし安堵の息を吐いたのも束の間、「でも、カノンちゃんが恐れてるのはフィリップ君本人だよね?」と追撃されて、カノンは「んぐぐ、鋭い……」と唸った。

 

 だがフィリップのことについて──ナイアーラトテップから“教育”されたことについて他人に語ることは制限されている。

 罰則規定によって禁止されているわけではなく、そもそも口外できないようにプログラムされているのだから話しようがない。

 

 「本人に言いにくいようなことなら、ボクからそれとなく伝えてあげるよ?」

 

 エレナは100パーセント善意からそう言うが、カノンは暫しぽかんと呆けた後、目元だけで分かるほど明らかな苦笑を浮かべた。

 

 「いやぁ……フィリップ様に言ってもどうにもならないことというか、エルフがエルフであることにケチ付けたって仕方ないというか……」

 

 フィリップが“魔王の寵児”であることも、「その先」も、全てはどうしようもないことだ。

 エレナは勿論、カノンにも、フィリップ自身にも、あのナイアーラトテップやシュブ=ニグラスにさえ。たとえ三次元世界が滅びようと、上位次元の全てが平面化されようと、この夢が弾けるまでは何者であろうと変えられない。天地万物そのものであるヨグ=ソトースにさえも。

 

 だからカノンの言葉の意味を測りかねて「うーん?」と唸っていたエレナが、

 

 「よく分からないけど、何か問題があったら相談してね!」

 

 と会話を結んだときには、化け物らしからぬ乾いた笑いを零す他なかった。

 

 

 ◇

 

 

 皆が寝静まった夜中。

 眠ってしまいそうなのを必死に堪えていたフィリップは、誰も起きていないことを確認してこっそりと家を抜け出した。

 

 目指すは森の中に隠されたラグーン、その畔に立った神殿だ。

 ここで行われている儀式の内容には察しがついているが、人類領域や社会を侵害する術法ではないことを確認しておいた方がいいだろう。

 

 それから、「あとで」と言って別れた人魚のことも気になる。

 

 トイレに行く振りをして村の中を少し歩き、起きている村人がいないことを確認してから森へ入る。

 それほど木立が深くない森だったのと、ラグーンまでそれほど遠くないおかげで、シルヴァの案内無しで昼間と同じルートを辿ることが出来た。

 

 しかし、どうやら神殿には見張り番がいるらしく、微かに話し声が聞こえる。

 木立の合間から篝火の光が見えた直後、フィリップは慌ててランタンの火を消した。

 

 「──で、村長に怒られてさ──」

 「ははは、そりゃお前──」

 

 まだ遠い話し声を聞きながら、フィリップは躓いたり枝葉を踏んで音を立てたりしないよう細心の注意を払いながら歩を進める。

 徐々に話し声が鮮明になってくると、フィリップは木の幹に身体を隠してそっと覗き込んだ。

 

 見張りは二人。昼間ルティとフィリップを叱った青年と、近い年頃の若者がもう一人だ。

 どちらも槍の柄のような長い棒を携えているが、余所者を阻む厳戒態勢という空気ではない。棒を地面に置いて座り込み、篝火の光の中で談笑している。

 

 「村長と言えば、村長の判断、どう思う? 儀式の期限も近いってのに、余所者を村に泊めるなんて」

 「仕方ないんじゃねぇか? あの子供が魔物だって言ってたの、ありゃあユゴスの連中の玩具だぜ」

 「だから何だよ。ナイアーラトテップの加護でもあるってか? 馬鹿馬鹿しい」

 「まあ、焦る気持ちは分かるよ。今年で五年目……今年も儀式が出来なきゃ、俺たちは……」

 「……」

 

 重々しい溜息を最後に会話が途切れる。

 フィリップは左腰に佩いた蛇腹剣と、右脇に吊られたフリントロックを確かめ、しかしどちらも使わないことに決めた。

 

 深きものだろうと人間だろうと、その命に対する価値認識はゼロだ。

 だが、「邪魔だから」という理由で殺す状況には、まだない。今彼らを「無価値だから」「邪魔だから」と殺すのは、流石に非人間的すぎる。

 

 ここは穏便に、静かに済ませるべきだろう。そう考えるだけの冷静さを、今のフィリップは持っていた。

 

 「シル──」

 「──フィリップ様」

 

 見張りの方に視線を戻し、森の支配者とも呼べるシルヴァを召喚しようとした直後、背後から呼びかけられる。

 耳に馴染みのない声に飛び上がりかけたフィリップは、ジャケットの右脇に手を入れて指先で声のした方を指しながら、すんでのところで引き金を引かずに留まった。

 

 「ッ!? びっくりしたぁ……!」

 

 光源も音も無く忍び寄ってきたのは、怪訝そうな目をしたカノンだった。

 フィリップは急加速した鼓動を胸に当てた手から感じながら、安堵と呆れの綯い交ぜになった溜息を吐いた。深々と、喉元まで上がってきた怒声を散らすように。

 

 「こんな夜更けに何をされているのですか? ちゃんと寝ないと背が伸びませんよ」

 「五月蠅いなあ……。まあでも丁度いいや。ちょっとあっちの方で物音を立ててくれない?」

 

 なんでちょっと煽ったんだコイツと思いながら、フィリップは適当に遠くの方を指す。

 

 「え? あ、いえ、畏まりました」

 「……なんかちょっと戻ってる?」

 

 戸惑いを見せつつもぺこりと一礼して、カノンは夜闇の中に去っていく。

 そして数秒後、こぉん! と、大木に斧をフルスイングしたような甲高くも小気味の良い音が夜の静寂に響き渡った。

 

 「……なんの音だ?」

 「分からん。……魔物だったら嫌だし、一緒に見に行かないか?」

 「賛成……」

 

 言って、二人は並んで離れていく。

 

 その後ろに回り込む形で神殿へ近づき、フィリップは緑色の石材で出来た重厚な門扉を押してみた。

 馬鹿正直な挑戦はやはり、無意味に終わった。外見通り二人以上で押さないとビクともしないくらい重いのか、内側に閂でもあるのか、はたまた魔術的な錠でもあるのか。

 

 側面に回り込んでみると、窓には薄いガラスが張られている。精緻な装飾の施された彫刻ガラスで、割るのに苦労はなさそうだが、やるなら明日だ。

 まだ船を借りなくてはいけないのだし、いま村人たちと敵対するのは賢い行いではない。

 

 フィリップは神殿内部への侵入をさっぱり諦め、海から上部が飛び出ている檻の方へ向かった。

 

 「ねぇ、起きてる?」

 

 篝火の光が僅かにしか届かない暗がりの水面に向かって囁くと、インディゴブルーの髪が飛沫を殆ど立てずに現れ、同色の瞳がフィリップを見つけて見開かれた。

 「あとで」と言い残して別れたはずだが、まさかこんな時間に来るとは思わなったのだろうか。

 

 「『助けて』」

 

 喉を締め付け咳き込むようにして無理やり発音された邪悪言語。

 命の危機に瀕して無理矢理に捻り出した声なのに、思考が一瞬止まるほど美しい。

 

 フィリップは唇の前で指を立て、人間相手には「静かに」という意味で通じるジェスチャーを送る。

 

 「『喉を痛めるよ。僕が話す。肯定なら頷いて否定なら首を振るんだ』」

 

 言うと、人魚は少しのラグ──恐らく邪悪言語を脳内で翻訳する時間を挟んだ後、これでいいのかと確認するような目をして頷いた。

 

 「『それでいい。綺麗な声なんだから大切に──げほげほっ!」

 

 無駄話をするなとばかり、本来とは違う発声を強いられていた喉が咳と痛みで主張する。

 フィリップは自分の身体の反抗を素直に受け入れ、本題に移る。今の咳は自分で思っていた以上に大きな音が出たし、聞きつけた見張りが戻ってくる前にここを立ち去らなくてはならない。

 

 「『助けてもいい。だけど今日は、今すぐは駄目だ。僕たちにもやることがある』」

 

 端的に言うと、人魚は裏切られたような顔をして口元までを水に沈めた。

 水面にぶくぶくと泡を立てながら恨めしそうな目だけで不満を伝える彼女に、フィリップは愉快そうな視線を返す。囚われのお姫様にしては子供じみた振る舞いだと。

 

 「『大丈夫。奴らは僕たちがいるうちは儀式をしない。……はずだ。まあ、僕やパーティーメンバーがいるのに大っぴらに儀式を始める間抜けなら、殿下の国の片隅に存在されても困るんだよね。その時は全員仇敵の触手で絞め殺される。どちらにしても君は助かるよ』」

 

 半笑いで告げられた、殲滅の執行猶予。

 「馬鹿なら殺す」と、端的に換言すればそうなる傲慢な言葉に、人魚は何も返せなかった。

 

 目を瞠り、浮かびかけた疑いの眼差しを瞬きで消し、頷く。

 

 「信じてくれるんだ?」と邪悪言語で問うフィリップに、彼女は困ったように笑った。「信じる他にありませんもの」と邪悪言語で、揶揄うように言い添えて。

 

 「そりゃあそうだ……」

 

 フィリップは間抜けなことを聞いたと笑う。

 確かにこの状況に於いて、彼女にフィリップの言葉を信じる以外の選択肢はない。いや疑っていたとしても、どの道、囚われの身である彼女に出来ることは無い。

 

 「『御恩は必ずお返しします。どうか──』」

 

 どうか、の後に続く言葉に、フィリップは興味を持たなかった。

 また人差し指を唇に添え、「静かに」と無言で示す。その視線は人魚ではなく、自分の真横──耳元を見るように傾けられていた。

 

 そこには誰もいない。見張りの村人も陽動に出したカノンも、まだ戻ってきてはいない。

 

 しかし、そこには音があった。

 フィリップの聴覚を常に保護し、悪魔の音声を介した支配術を撥ね退け、たとえすぐ傍に雷が落ちたとしても一時的な失聴さえ起こさない完璧なイヤーマフ。

 

 アザトースの無聊を慰める踊り子と楽団たちの指揮者にして、自らも楽器である()。化身も実体も持たない外神、音そのものであるトルネンブラだ。

 

 「め、珍しいですね。あなたが僕に歌いかけてくるなんて」

 

 言語を介さず、音のみで構成された意志が耳朶を打つ。

 大陸共通語と邪悪言語しか知らないはずのフィリップは、唸り声や鳴き声よりもさらに古く原始的な波形から、彼の存在が意図するところを正確に汲み取っていた。

 

 「僕のための「生きた楽器」? いや、要らないです……」

 

 フィリップは苦笑と共に頭を振る。

 いきなり独り言を零し始めたようにでも見えたか、人魚は怪訝そうな顔でフィリップの一人語りを見つめる。

 

 「確かに凄く綺麗な声をしているとは思いますけど……」

 

 人魚には伝わらない人間の言葉で言い、視線を檻の中へ戻す。

 しかしそれも一瞥程度の時間だけで、彼はまた隣の虚空へ向き直った。

 

 「まあ、そうですね。この声をダゴンなんかに渡すのは、確かに惜しい」

 

 顎に手を遣り、フィリップは真剣に考えこむ。誰に何を言われたわけでもないはずなのに──耳元で囁く者などいないはずなのに、大真面目な顔をして。

 そして何か面白いことを聞いたように、顔全体に愉快そうな表情が浮かぶ。

 

 「え? それこそ冗談でしょう? 僕は音感もリズム感覚も人並みですけれど、アザトースよりマシですよ」

 

 ──沈黙。

 フィリップのその独り言に、返す者は誰もいない。森の木々が揺れる音、寄せては返す波の音、潮の香りを孕んだ風の音さえも。

 

 そして、きっと彼の耳元に居る何かが、気の利いた冗談でも返したのだろう。

 

 フィリップは気の置けない友人と軽口の応酬でもしたように、楽しそうに破顔する。

 

 「はははは……! じゃ、そういうわけだから……おっと、『近いうちに助けに来るよ』」

 

 最後に囚われた人魚へ邪悪言語で言い残して手を振り、彼は笑いの余韻に肩を震わせながら夜闇の中へと戻っていった。

 

 

 

 



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445

 翌朝。

 フィリップたちはオスメロイに連れられて、未だ日も登らぬ時刻から船着き場を訪れていた。

 

 幾つもある桟橋には、また幾つもの船が泊まっている。どれもこれも帆のない手漕ぎ型で、小さいものでは二人乗り、大きくても六人乗り程度のサイズしかなかった。

 オスメロイの船は全長6メートルくらいで、六人ほど乗れそうな比較的大きめのものだったが、櫂は一セットしかない。普段は一人でそれを操っているのだろう。

 

 一行は促されるまま続々と船に乗り込んだが、オスメロイは桟橋に残り、何をしているのかと見遣るフィリップたち四人の前で大振りのナイフを取り出した。

 徐に振りかぶられたそれは一回、二回と振り下ろされ、彼の腕の肉の一部を海へと削ぎ落とした。

 

 リリウムが悲鳴を、エレナが制止の声を上げるのに構わず、オスメロイは跪いて祈るように両手を組んだ。

 

 「“現在”を捧げ“未来”を拝領する。私の血肉は子の糧である。我が神よ、私の献身があなたと我が子を助けますように」

 

 「いあだごん、いあはいどら」と呪文を結び、オスメロイは予め用意していたらしい薬と包帯で自分の傷を手早く処置する。

 一連の動作をエレナの後ろに隠れながら見ていたリリウムが「うわあ……」と複雑な感情の籠った声を漏らした。

 

 「フィリップ君──」

 「……いや、警戒しすぎだよエレナ。僕が邪教と見るや飛び掛かる狂犬だとでも思ってる? “使徒”じゃあるまいし」

 

 エレナはオスメロイの儀式的な動きを呆然と見ていたが、復帰した次の瞬間にはフィリップに確かめるような目を向ける。

 

 応じるフィリップは苦笑気味だ。 

 この程度の儀式的術法が使われていることくらい、この村の住人の正体に気付いたときから半ば確信を伴って想定していた。深きものがクトゥルフやダゴンを信仰するのは、種族的に自然なことだ。そんなことに、一々目くじらを立てたりしない。

 

 「あ、ごめん……」

 

 気にするなとエレナに手を振って示し、フィリップは船に乗り込んだオスメロイに興味深そうな目を向けた。

 

 「今のは何?」

 「漁で狙った獲物に出会える(まじな)いだ。尤も、出会ったことに気付くかは経験次第だし、気付いたところで釣り上げられるかは腕次第だが」

 

 それは便利なのだろうか、とフィリップとエレナは怪訝そうに顔を見合わせる。

 経験と技量さえあれば狙った獲物を必ず仕留められると考えると、狩猟に於いては正しく神の加護のような代物なのだが、二人とも食料探しでは適当に見つけた獲物を狩っているからピンと来なかった。

 

 「へぇ。それ、魔物にも使えるの?」

 「どうだかな。まあ、魔物はどうせ殺戮本能で生きてるんだ、こっちを見つけたら勝手に寄って襲ってくるさ」

 

 肩を竦めるオスメロイだが、彼は魔物にも効果があると確信しているだろう。

 彼の腕には漁の最中に負ったと思しき怪我の跡はちらほら見受けられるが、刃物で削ぎ落したような大きな傷跡は、すっかり治ったものしか見受けられない。この儀式は日常的に行われているものではないと、簡単に察しが付く。

 

 昨日の夜に神殿の見張りが話していたことと併せて考えると、ダゴンとハイドラの接触儀式が近く控えているから、フィリップたちになるべく早く目的を達成して村を出て行って欲しいのだろう。

 フィリップとしても──船が出たあと、ずっとオスメロイから離れた位置にいるリリウムとしても、この村はなるべく早く出たいので、有難いことだけれど。

 

 オスメロイの操る船に揺られて沖へ出て、セイレーンが出没するという海域へ向かう道すがら。

 紺碧の水面を顔を輝かせて見つめていたエレナが、ふとはしゃいだ声を上げた。

 

 「うわ、フィリップ君、リリウムちゃん、見て! なんか凄いのが浮いてる!」

 

 エレナは船べりから身を乗り出し、ばしゃりと水音を立てて海中から何かを掬い上げた。

 白い半透明の、キノコのようなモノだ。全長はエレナの胴体くらいだろうか。柄の部分が複数の触手のように分かれていて、傘の部分は飾りガラスのように透明な中に白い模様がある。ブヨブヨしていて、とても触ってみたいとは思えない外観だ。

 

 「うぇ、なにそれ……?」

 「なんか気持ち悪いわね……」

 

 フィリップとリリウムは顔を顰め、両手で柄と傘の部分を持ったエレナから距離を取る。

 エレナが手にしたモノを見て、気持ち悪がるのではなく驚いたのはオスメロイとカノンの二人だ。

 

 「あ? おい馬鹿! そいつは殺人クラゲだぞ!」

 「うわ、キロネックスじゃないですか。えーんがちょ。フィリップ様に触る前にちゃんと手を洗ってくださいね」

 

 慌てたオスメロイが櫂を取り、間違ってもエレナが自分の方に近寄らないように牽制する。

 カノンはフィリップを背に庇い、エレナに足を向けて追い払うように振った。

 

 「え? ……あ、ホントだ、こいつ毒ある。二人とも触っちゃ駄目だよ」

 

 気が付いたように呟いたエレナは、手にしていたクラゲを海へ放り投げた。

 ぼちゃん、と水の弾ける音が虚しい。

 

 「んー、この感じは……ふむふむ……」

 「お、おい、大丈夫なのか? 今の、見間違いじゃなきゃこの辺りで一番毒が強いヤツだぞ。刺されなかったのか? 痛みは?」

 

 今の今までクラゲを持っていた手を開閉しながら、虚空に視線を投げて唸るエレナ。

 痛みや苦しみを感じているようには見えないが、オスメロイの慌てようとカノンの反応を見るに、本当に強力な毒があるのだろう。

 

 しかし、エレナはにっこりと笑って掌を見せる。

 

 「うん、大丈夫! このぐらいの量なら効かないかな」

 

 言葉通り、彼女の白い掌には傷も、ほんの僅かな腫れさえも見当たらない。

 

 「……ちなみに人間が触るとどうなるの?」

 

 興味本位のフィリップの問いに、エレナは今なお体内を駆け巡っている猛毒の感覚に集中し、過去に体験した毒と照らし合わせて推理する。

 

 「ボクでもちょっと痛いから、多分気絶するんじゃない? 複合毒みたいだから詳しいことは分かんないけど、ボクの体感が正しければ数分で呼吸と心臓が止まって死ぬ」

 「こ、呼吸と心臓が止まって死ぬ?」

 

 リリウムがオウム返しする声は完全に震えていた。

 蜂だの蛇だの蜘蛛だの、毒のある生き物はそれほど珍しくはない。だが数分で死ぬレベルの猛毒は、陸上の生物ではかなり稀だ。少なくともリリウムはそんな生き物を見たことも聞いたことも無かった。

 

 「あとは外皮の壊死とか、血液の機能不全とか。簡単に言うと……死ぬ」

 「馬鹿でも分かる簡単な説明だ……」

 

 フィリップは引き攣ったような苦笑を浮かべる。

 呼吸と心臓が止まるのを「死ぬ」と表現することを考えると、呼吸と心臓が止まる毒は正しく「死ぬ毒」だ。

 

 海の美しさに惹かれてフィリップの中に芽生えていた「飛び込んでみたい」という欲求が、一瞬で完膚なきまでに枯れ果てた。

 

 「サメもいるらしいですし、落ちたら結構危ないですね」

 「そのサメっていうのも今一つピンと来ないんだけど……」

 

 今乗っている船が六メートルくらい。件のサメとやらが五メートルくらいという話なので、サイズ感的にはフィリップやエレナが上に乗っかれることになる。

 フィリップの脳内でサイズを補正されたトラウトの姿がぼんやりと想像されるが、やはり脅威は感じなかった。

 

 と、そんな時だった。

 

 「おい、見ろ! セイレーンだ!」

 

 オスメロイが叫ぶ。

 彼の指が示す方向を見ると、確かに、鳥にしてはいやに大きい生き物が群れをなして飛んでいる。まだ黒っぽい塊にしか見えない距離だが、地元の漁師が海鳥ではなくセイレーンだと言うのならそうなのだろう。

 

 「よし、皆、耳栓を付けて! ハンドサインは覚えてるよね?」

 

 エレナの号令に従い、カノンを除く船上の全員が一斉にポケットや鞄を漁って聴覚防護用の装備を取り出す。

 フィリップとエレナは耳孔に入れるタイプの耳栓で、リリウムとオスメロイは耳全体を覆うタイプのイヤーマフだ。白兵戦型の二人は頭が重く動かしにくくなるのを嫌った故のチョイス──いや、フィリップはトルネンブラ任せで耳栓のことを忘れていて、ナイ神父に貰ったものをそのまま付けているのだが、エレナは「お、分かってるね!」と上機嫌だった。

 

 そんな声も、カノン以外には聞こえない。

 フィリップとリリウムは事前の取り決め通りサムズアップで『準備完了』と示し、それを見たオスメロイも倣う。

 

 その数秒後、接近する人間に気が付いたセイレーンの群れが一斉に移動を開始し、同時に、周辺海域へ自死衝動を引き起こす魔の歌声が響き渡った。

 

 「わぁ……、こんなのが美しい歌声なんですか? 人間の価値観って変わってますねぇ……」

 「いや、これならあの人魚の声どころか、モニカの鼻歌の方が余程──、ん?」

 「……え?」

 

 フィリップはごく自然にカノンと言葉を交わし、一瞬遅れで顔を見合わせる。

 耳栓をしていないカノンはともかく、フィリップまで平然と会話しているのはおかしい。その両耳には、ナイ神父から貰った耳栓がきっちりと詰まっているのだから。

 

 「……聞こえてるんですか?」

 「うん。普通に……っていうか波の音とかが小さくなって、むしろカノンの声が滅茶苦茶クリアに聞こえる」

 

 それだけでなく、セイレーンの歌声──いや、金切り声もしっかりと。

 酷い音だ。ガラスを釘で引っ掻いたような、ただひたすらに気分を害する耳障り極まりない声。歌と呼ぶには音階が存在しない、単なる叫び声だ。

 

 聞いていた話と違う。

 精神影響が取り払われているからだろうか。

 

 「えぇ……? だ、大丈夫なんですか……? サメだのクラゲだのがいるんですから、身投げなんかしないでくださいよ?」

 「害ある音はトルネンブラが遮断してくれるから、そっちは大丈夫。問題はこのクソ不愉快な音の方だよ。今すぐ殺したいぐらいだ」

 

 とはいえ、だ。

 魔物の死骸は黒い灰状粒子になって消滅するが、流れ出た血や切り落とした部位もその法則の例外ではない。低確率で死後にも消滅せず形や性質を留め続ける、所謂ドロップが残る場合もあるが、船底にぶちまけられた血を持って帰るわけには行かないのだ。

 

 エレナ曰く、セイレーンの血は滋養強壮剤の素材として利用されることがあるらしい。王子が何を目的にこの依頼を出したのかは定かではないが、薬になるなら採取時の衛生状態に気を配っておくべきだろう。

 

 生き血を取り、その後で殺す。それでも採取した血が一定確率で消えることを考えると、魔物素材の収集は籠で水を汲むような作業だ。

 

 待ち受ける面倒な作業に溜息を吐いたフィリップは、青白い光を放つ蛇腹剣を抜き放ちながら、ふと思い出したようにカノンに向き直った。

 

 「……ところでカノン、人格が戻ったの?」

 「……あっ」

 

 しまった、と明記された顔を明後日の方向に向けるカノン。

 迂闊で間抜けな以前の彼女らしい所作に、フィリップは愉快そうに笑いながら鷹揚に手を振った。

 

 「良かった、そっちの方が面白くて好きなんだよね。ポンコツピエロっぽくて」

 「ぽ、ぽんこつピエロぉ!? ゆ、ゆるせん……! フィリップ様、ご自分が魔王の寵愛を受けていることに感謝してくださいね! でなきゃサメの餌にするところですよ!」

 

 キャンキャンと吠え立てるカノンに、フィリップは懐かしむような笑みを浮かべる。

 古い友人に再会したかのような笑顔はしかし、目だけが全く笑っていなかった。

 

 そう言えば、と懐かしむ。

 そう言えば──こいつは初対面でも僕の逆鱗に触れていたと。

 

 「ははは……、次それ言ったらお前をバラして黒山羊の餌にするぞクソ劣等種」

 「ひぇ、ご、ごめんなさい……」

 

 中指を立てると、カノンは慄いて身を竦める。

 馬鹿の言うことに気分を害することこそ馬鹿らしいとは思うけれど──それだけは、馬鹿の言葉だろうと認めるわけにはいかなかった。 

 

 そんなことをしていると、セイレーンの群れがいよいよ近づいてくる。個体の姿が鮮明になるほどにまで近づくと、船首にいたエレナが大きく腕を振って合図した。

 

 『戦闘開始』、と。

 

 

 

 

 



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446

 暗い色の羽毛を持つ鳥の下半身に、人間の女性と外見的に同一の上半身を持つ魔物、セイレーン。

 数十羽からなるその群れは、極めて低い位置に形成された暗雲のようだった。

 

 個体ごとに顔や体形にはそれぞれ違いがあり、個性のようなものが見受けられるが、低位の魔物──殺戮本能のみを行動指針とする獣らしく、目に宿るのは知性ではなく野性的殺意の輝きだ。話が通じる気配はない。

 

 群れはしばらく船の上空を飛び回りながら不思議そうに見下ろしていたが、誰も海に飛び込まないことを察して怒ったような金切り声を上げた。

 尤も、その声を聞いているのはフィリップとカノンだけで、そのどちらも「人間の精神に影響する音」の効果対象ではないのだけれど。

 

 「五月蠅い、なぁ……ッ!」

 

 剣の届かない上空──そう思っていたセイレーンが居たその場所を、四メートルにまで伸びた蛇腹剣が薙ぎ払う。

 苛立ち混じりでも脱力した鞭の動きで振り抜かれた先端部は、音速を超えて独特の炸裂音を鳴らし、不幸にもフィリップに狙われたセイレーンの人間の部分と鳥の部分を綺麗に分割した。

 

 赤黒い血が噴出し、海鳥にしては大きな死骸と共に船の上へぶちまけられる。

 そして数秒程でその全てが黒い粒子となり、風に吹かれて消えた。

 

 「ぷーすす、フィリップ様、ちゃんと手加減しないと駄目じゃないですか」

 「今のは黙らせただけだよ。……まあ、間違いなくミスではあるけど」

 

 血を取るどころではない瞬殺具合にカノンが指を差して笑い、甲殻に包まれ鋭利な爪を備えた指先を向けられる不愉快さとは関係なく、フィリップは苦々しく表情を歪める。

 

 今のは良くなかった。

 仲間を殺されたセイレーンがフィリップの間合いを学習し、五メートル以上の高さを保って飛ぶようになってしまった。

 

 まあ幸い、所詮は知能が低く殺意は高い魔物だ。逃げ出す様子は無く、むしろフィリップの隙を突いて爪で引き裂こうと狙っているのが下から見ても分かる。

 

 「そんな劣等種にフィリップ様を見下ろさせたとあっては、ナイアーラトテップに叱られてしまいますね! というわけで……ッ!」

 

 カノンが翼を広げて飛び上がり、驚愕に目を見開いているセイレーンの頭頂部をさらに上からぶっ叩く。

 セイレーンは直下スパイクじみた弾丸軌道で落下してくるかに思えたが、叩いた瞬間に羽と血を飛び散らせながら破裂した。

 

 「うわ、脆い!?」

 「いや、加減はしなよ……」

 

 船のところまで血の一滴も降って来ない即死具合に頬を引き攣らせ、フィリップはカノンをおちょくる目的でマッサージをさせるのは止めようと心に深く刻んだ。

 

 カノンが上空で、船上ではエレナがロープを投げ縄のようにして、リリウムが魔術を使って、それぞれ試行錯誤を重ねている。

 その後ろで、フィリップはセイレーンが下りてくるのをじっと待っていた。

 

 普通、武器の精度──手加減のしやすさは、手元からの距離と概ね反比例する。

 リーチの長い武器ほど力加減が難しく、短ければ調節がよく効く。カノンは例外らしいが、例えばロングソードと鞭形態の蛇腹剣では前者の方が威力を調節しやすいし、完全に手を離れる投石やフリントロックに威力調節は不可能だ。

 

 蛇腹剣の扱いには十分に慣れているが、それでもロングソードの間合いで戦った方が手加減を確実なものに出来る。

 

 遠巻きに隙を窺うセイレーンの群れ。

 リリウムの魔術が群れに穴を開けて空へ消えたり、エレナの投げたロープが何にも当たらずに海へ落ちたり、カノンが水風船で遊んだりしていると、自衛用のオールを持って船尾で身構えていたオスメロイが不意に叫んだ。

 

 「不味いぞ、グリゼーオだ! お前ら、絶対に船から落ちるんじゃねぇぞ!」

 

 彼の示す先には、海面から飛び出た三角形の物体があった。

 悠々と船に近づいてくるそれが水面下を泳ぐ魚の背鰭であるとフィリップが気付いたのは、澄んだ水の中に巨大な魚影を見てから漸くだった。

 

 光の屈折のせいではっきりとは分からないが、トラウトなんかとは違う厳つい顔をした巨大な魚だ。

 

 全体的に鋭利なフォルムをしていて、全長は3~4メートルと言ったところか。話に聞いていた5メートルには届かなさそうだが、天敵など存在しないとでも言いたげな堂々たる姿と濃密な捕食者の気配は、確かに大きさを誤認させるほどだ。

 

 オスメロイの顔には色濃い警戒が浮かんでいて、自分が意味のない警告を叫んだ──全員が耳栓を付けていることを忘れるほどだった。

 

 「ん? うわ、凄い……。もしかして、あれがサメってやつ?」

 「はい? うわ、オオメジロザメですね。しかもでっかい……。ボートの上に居れば大丈夫でしょうけど、落ちたら噛み千切られますよ」

 

 カノンを呼び寄せて尋ねると、そんな答えが返ってくる。

 セイレーンの近くに居れば人間が食えることを理解しているのか、そいつは魔物が海面へ落とす斑な影の周りをぐるぐると回遊していた。

 

 「そんな感じの顔だね……。僕の臭いで逃げると思う?」

 「臭いには敏感だと思いますけれど……試しちゃ駄目ですよ?」

 「試さないよ──、おっ」

 

 フィリップが声を上げた先、青空を背景にすると良く映える、オレンジ色の火球が飛んでいく。

 

 飛行型の魔物を相手取るときに最も恐るべき魔術爆撃をしてこないことから、セイレーンの魔術性能はなんとなく察せられる。

 その推察通り魔術耐性もかなり低いらしく、リリウムの放った初級魔術『ファイアーボール』は数十羽の群れの中を掻き消えることなく貫いた。……残念ながら直撃を許すほど弱い耐性でもないようで、火球は何に当たることも無く射程限界を迎えて消えたけれど。

 

 しかし効果はあった。

 恐らく当たったところでそれほどダメージのない『ファイアーボール』を避けようとしたセイレーンが、急旋回したせいで仲間と激突して船の上に落ちてきたのだ。

 

 「よっし! 落ちたわよエレナさん!」

 「ナイス! じゃなくて……!」

 

 全員耳栓をしていることを忘れて叫んだリリウムに、エレナも聞こえているかのように喝采する。その後、リリウムの耳を覆う、もこもこのイヤーマフを見て照れ笑いを浮かべながらサムズアップしていた。

 

 「威力不足が良い方向に働きましたねぇ。まあ、普通の魔術師はそういう威力調節も出来る上で、火力の上限がもっと高いわけですけど」

 「ね。手札が多くて羨ましい限りだよ」

 

 カノンとフィリップが笑いながらエレナの方に向かうと、「あっ……」とか細い声が聞こえた。

 

 「どうしたの? ……うわ、消えたのか」

 

 エレナが持っていた試験管は空で、新品同様だ。

 落ちてきたセイレーンに止めを刺すまでは確かに入っていた血液が、今や跡形もない。

 

 意外と早く片付いたなんて思っていたフィリップと、自分の魔術でセイレーンを撃墜したとご満悦だったリリウムが、二人揃って肩を落とす。

 対して魔物素材収集の辛さを知っているエレナとカノンは「じゃあ次」とばかり、もう攻撃態勢だ。

 

 「面倒だなぁ……。さっきの、殆ど偶然だったのに」

 「ふっふっふ……ではお見せしましょう、私の妙技を!」

 

 言うが早いか、カノンはデコピンでもするように曲げた中指を親指で押さえた形の右手をセイレーンの群れに向けた。

 石でも弾けそうなゴツい手指だが、手の内は空だ。弾丸になりそうなものは持っていないし、さて何をするのだろうとフィリップは興味深く注視する。

 

 そして中指がバネのように溜めた力を解放すると、そこから殆ど目視不可能な速さで何かが撃ち出された。

 

 射出された何かはスリングショットにも匹敵する速度でセイレーンの群れへ飛び込み、狙い過たず突き立つ。

 フィリップが目を凝らして確かめた弾丸の正体は、黒い、一メートルほどの棘だ。

 

 反応刺胞装甲。グラーキの棘を培養して作られたミ=ゴの兵装。星外文明の産物。

 

 秒速24メートルもの展開速度にデコピンの威力を足し合わせ、風を切り裂いて飛翔したそれは、セイレーンの眉間をブチ抜いて青空に溶ける。

 体内構造がヒトと同じはずもあるまいが、人間なら脳幹部があるその辺りはセイレーンにとっても急所だったらしい。撃ち抜かれた個体はぴくりと痙攣する間もなく絶命し、空中で黒い粒子になって消えた。

 

 「……ナイスショット。確かに妙技だ」

 

 フィリップは手を叩き、心の底からの賞賛を送る。

 今のは正しく技の妙。フリントロック以上の隠密性を持ちながら、魔力も火薬も要さぬ遠距離射撃だ。

 

 ──で。

 

 「で、僕はお前に、もう一度目的を話して聞かせた方がいい? それとも単に外しただけ?」

 

 難があるのは命中精度か、頭の方か。

 胡乱な顔で問いかけるフィリップに、カノンはびくりと肩を跳ね上げるほど慄いた。

 

 「は、外しちゃっただけです! ホントは羽を狙ったんですけど! もう一回! もう一回やらせてください!」

 

 必死に言葉を重ねるカノンに、フィリップは肩を竦めて「どうぞ」と片手で示す。

 彼女はかなり怯えているが、別に、その程度のミスでカノンを殺したりはしない。ついうっかり目的を忘れてしまうことも、狙った場所とは違うところに攻撃が逸れることも、フィリップにそれほど大きな感情の起伏を齎すものではない。

 

 少なくとも、さっきの戯言よりは。

 

 まあ、いつぞやのナイアーラトテップのように「フィリップ君に二度同じことを言わせるなど」と、怒る外神が居る可能性は十分にあるけれど、フィリップが許したのなら彼らも許す。──その思考の不自然さ、いや()()()()()()()()に気が付く前に、フィリップの意識は別の気付きに引っ張られた。

 

 「……質問、っていうか確認なんだけどさ、刺胞装甲って腐敗毒あったよね? 血液が汚染されたりはしないの?」

 「あ……」

 

 問いかけた直後、翼に黒い棘が突き刺さったセイレーンが落ちてくる。

 それを見たエレナが「ナイスだよカノンちゃん!」とまた口で言いながら近づいてきたが、しかし、その笑顔は痙攣しているセイレーンを見た時点で怪訝そうに強張り、血を採取した時には困ったような笑顔に変わっていた。

 

 試験管に採取された血液は明らかにどろりと粘度を増し、黒く濁って腐臭を放っている。

 薬学には明るくないフィリップでも、これは元の血液と同じ性質を持ち合わせてはいないだろうと一見して分かった。

 

 「……素直に力加減を調節しなよ」

 「はい……」

 

 フィリップの呆れ口調に、カノンはしょんぼりと肩を落としてまた飛び上がる。

 

 結局、エレナが規定量の血を採取できたのは太陽が天頂を過ぎ、傾き始めた頃だった。

 

 

 

 

 

 

 



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447

 村に帰り着いたときには、既に西の空が赤く染まり始めていた。

 

 馬もエルフも夜目が利くとはいえ、夜になると動きが活発になる獣や魔物が多いことから、フィリップたちも大多数の旅人の例に漏れず夜間の移動は避けている。

 もう一晩だけ泊ってもいいかと尋ねると、船を係留して軽く掃除していたオスメロイはちょっと考えて頷いた。

 

 「まあ、この時間から出てけってのも酷な話だし、いいけどよ。あんたらの分までご馳走があるかは分かんねぇぞ?」

 「ご馳走?」

 「そこで止まんないで!!」

 

 リリウムがオウム返しに尋ねると、フィリップが悲鳴に近い怒声を上げる。

 二人はオスメロイがセイレーン出没海域からの帰路で何度か投げた網にかかった、それなりの数の獲物が入った水槽を船から桟橋に移している最中で、彼女が興味を惹かれて止まったのはフィリップに重量の大半が乗るタイミングだった。

 

 「……あぁ、言ってなかったか。今日から感謝祭なんだよ。えっと……」

 

 オスメロイは一瞬だけ言葉を切り、腕が痛いと手を振っているフィリップに目を向ける。

 その視線に恐怖にも近しい色が乗っていたことに、フィリップたちは誰も気が付かなかった。

 

 「まあ、あれだ。大漁感謝、みたいな」

 

 端的に言った後、オスメロイは言葉が少なかったと思ったのか、追加で説明をくれる。

 今日と明日がその「大漁感謝祭」の日で、今夜は所謂前夜祭、本番は明日らしい。エレナは興味深そうにしていたが、リリウムがあまり乗り気ではないことと、オスメロイが「村の伝統で、明日の本祭に参加できるのは村の人間だけなんだ」と言ったことで、「ボクたちも見てっていい?」と聞くのはやめた。

 

 説明を聞きながら、フィリップは脳内で祭りのクライマックスであろう生贄を用いた交信儀式のことを考えていた。

 より正確には、それを台無しにすることを。

 

 村人たちが生贄として確保している人魚。

 その解放は即ち、儀式の失敗を意味する。神殿の見張りやルティの言葉から推察するに、それなりの罰が下されることだろう。

 

 だが、そんなのはフィリップが知ったことではない。

 世話になったオスメロイや色々と情報をくれたルティが死んだとしても、それが性格どころか名前さえ知らない、ただ声と顔が良いマーメイドのお姉さんを助けたせいだとしても、どうでもいい。

 

 勿論、本当にいいのかという躊躇はある。

 トルネンブラ──人類も含め“音楽”という文化を持つ種族の中から特に優れた個体を選び、その魂をアザトースの宮殿へと拐かす外神。それに認められてしまったあの人魚は、もう無知ではいられない。

 

 彼が提示した人魚の末路は三つ。

 一つはここでダゴンとハイドラへの供物として死ぬこと。しかし、それを厭い助けたところで、平穏無事に過ごすことは出来ない。

 

 残る二つ。

 一つはアザトースの無聊を慰めるトルネンブラの楽団、「生きた楽器」の一員として無為な音楽を奏で続けること。

 

 もう一つ──トルネンブラがフィリップへ持ち掛けた、謎の提案。()()()()()()()()()「生きた楽器」にするという未来。

 

 宮廷楽団の指揮者にして筆頭演奏家、兼、最上の楽器であるトルネンブラの寵愛の形は、かなりプロ気質だ。最上の音楽を捧げることを第一にしている。

 

 彼が生きた楽器に相応しいと決めた以上、逃れるには死しかない。助けたのなら、あとはフィリップが「要る」と言うか否か。フィリップが「逃がしてやれ」と命じたところで、それは彼のプロフェッショナルを曲げる理由足り得ない。

 

 あの聞いているだけで快楽物質が出るような声は、確かに、盲目白痴にやるには惜しい。だがフィリップが「生きた楽器」を求めているかと言うと、そういうわけではない。

 

 「助けて、助けなかった場合より酷い未来を見せるか。助けず、クソみたいな死で終わらせるか。……僕がここで殺してあげるのが一番優しい答えなのかな」

 

 獲物が入った水槽を言われた通りの場所に置いたフィリップは、神殿のある森の方を眺めながら呟く。

 

 もしもトルネンブラに見初められたのがルキアやステラだったら、ある程度まで事情を明かして本人の意思を尊重しただろう。

 しかしあの人魚に、フィリップはそこまでの重きを置かない──そこまでの価値を感じない。彼女の考える幸せな死ではなく、フィリップが考える幸せな死を押し付けることに拒否感を覚えない。

 

 そんなことを考えながら佇んでいると、村中心の広場の方から喜色満面のルティが走ってきた。

 

 「フィリップ! お祭りの料理、村長が食べても良いって!」

 「そうなの? ……じゃあ、頂こうかな」

 

 何の因果か祭りに遭遇する頻度が多いと笑いながら、フィリップはルティに手を引かれて広場へ向かう。

 

 広場の真ん中あたりには長いテーブルが幾つか連なった食卓があり、そこに様々な料理が乗っている。既に村人たちは手を付け始めているようで、あちこちで乾杯の音頭が上がっていた。

 

 「わーい! わ、フィリップ君、見てよコレ! すっごく大きな魚だよ!」

 

 エレナのはしゃぎ声に引かれてそちらに向かうと、確かに、とても大きな──二メートル以上ある魚の丸焼きがあった。

 というか、それだけはテーブルに載らなかったらしく、今の今まで原始的なオーブンになっていただろう炭が散らばった地面の上に置きっぱなしだ。

 

 「キハダですねぇ。これ、私は食べちゃ駄目なんですよね?」

 

 ガスマスクの中でじゅるりと涎を啜る音を立てながら、カノンが物欲しそうな目で魚を見下ろす。

 

 「あー……、まあ、いいよ。でも誰にも顔を見られないようにね」

 「やったー!!」

 

 言うが早いか、カノンは二重構造の化け物然とした口を露にして、数百キロはありそうな肉塊を持ち上げてかぶりついた。

 

 「兵器のくせに食い意地張ってるなあ……」

 「何言ってるんですか。運動する全てのものはエネルギー補給が大前提ですよ。もぐもぐ……」

 

 喋りながらでもみるみるうちに減っていく肉を見ていると、フィリップとエレナの腹の虫が同時に羨望を訴えた。

 

 マグロ一匹を一人で平らげる勢いのカノンを殴るべきかと考え出したフィリップだったが、折よく、後ろからリリウムが声を掛ける。

 

 「ねぇ二人とも、こっちのソテー食べた!? 滅茶苦茶美味しいわよ!」

 

 フィリップとエレナは顔を見合わせ、肩を竦めて声のした方に向かった。

 

 それから暫く色々な料理を食べ、その殆どが魚料理だったせいで飽きを感じ始めた頃。

 村人の女性が、小ぶりな深皿を持ってフィリップの肩を叩いた。

 

 「冒険者くん、これ、もし良かったら」

 

 笑顔で差し出されたのは、どうやら魚介系のスープだ。キノコと少しの野菜も入っているが魚の肉は入っていないようで、質素というか、病人食のような印象を受けた。

 

 「あ、どうも。頂きます」

 

 愛想笑いで皿を受け取り、なんとなく視線をテーブルの方に向ける。

 少し離れたところでリリウムが同じものを勧められていて、村長の「スープが出来たぞー」という声で村人たちが鍋の方にぞろぞろと集まっている。驚いたことに、そのすぐ後ろでカノンがテーブル上の料理を吟味していた。さっきの大きな魚は骨も残さず平らげたようだ。

 

 そして、スープ鍋の列に並んでいたエレナがニコニコ笑顔を凍り付かせたかと思うと、思いっきり眉根を寄せながら肩を怒らせてフィリップの方へ向かってきた。

 ぬるめのスープを啜っていたフィリップは、なんとも言えない味のせいで寄っていた眉根を更に怪訝そうに寄せ、何故か滅茶苦茶怒っているように見えるエレナに「何?」と目線で尋ねる。

 

 しかし、彼女は何も言わずにフィリップが持っていたスープ皿を叩き落とした。

 

 「ちょっ──!?」

 「──吐いてッ!」

 

 エレナの掌が鳩尾に触れたかと思うと、踏みつけられたかのような強烈な圧迫感が加えられる。

 既にそこそこお腹いっぱいになるまで料理を食べていたフィリップは、堪らず膝を突いて胃の内容物を砂の地面に吐きだした。

 

 リリウムと村人たちが悲鳴を上げたことに、ゲロを吐くのに忙しかったフィリップは気が付かなかった。

 

 「おえぇっ……」

 

 ただ腹を殴られて反射で吐いたのとは違う内臓が痙攣するような感覚に襲われ、胃の中身を完全に吐き戻す。

 鼻を突く臭いと口の周りに跳ねた胃液と、嘔吐そのものの不快感が殺意さえ励起する。こんなに食べただろうかと疑問を覚えるほど大量の吐瀉物を見下ろし、フィリップはエレナの方に向き直った。

 

 何が何やら分かっていないのはフィリップだけでなく村人たちも、リリウムもそうだ。

 逆に、おろおろと狼狽えていないエレナとカノンの二人は、二人ともが村人を締め上げていた。

 

 エレナはフィリップにスープを渡した女性の胸倉を掴んでいるだけだが、カノンはリリウムにスープを渡していた男性の首を片手で掴み、持ち上げている。彼がじたばたとばたつかせている足は、ぎりぎり地面に届いていない。

 

 「カノンちゃん、止めて。どういうつもりか聞き出すまでは殺さないで」

 「……如何なさいますか、フィリップ様」

 

 拳を握り、男の顔面を吹き飛ばそうとしていたカノンが一応止まる。

 しかしそれは一時的なもので、フィリップが一言許すだけで攻撃を終えることが出来る体勢のままだった。

 

 「まずは僕にゲロを吐かせた理由と、お前がそいつを締め上げてる理由を説明して貰える? 毒とかだったらそいつらを殺す。エレナの勘違いだったら同じだけ吐いて貰う」

 

 あんな風に痛みなく吐かせる技をフィリップは持っていないので、腹を思いっきり殴ることになるけれど。と、そんなことを考えていると、突然の惨事に呆然としていた村長が慌ててフィリップたちの方に──エレナの方にやってきて、「落ち着け」という身振りをする。

 

 「お、お待ちください。これは何か、不幸なすれ違いです!」

 

 悲鳴も上げられずにいる掴まれた女性の代わりに、村長が弁明を試みる。

 

 しかし、エレナの目はフィリップがこれまでに見たことも無いほど冷たかった。

 

 「さっきまでずっと嗅いでて慣れちゃったから気付くのが遅れたけど、これ、セイレーンの血が入ってるでしょ。いや、それだけじゃない。セイレーンの血は上手く使えば滋養強壮に効く薬になるけど、これはそんな生易しいものじゃない。……もう一度訊くよ、どういうつもり?」

 

 こつ、とエレナの靴が地面に転がったスープ皿を蹴飛ばす。

 

 「ボクは立場上、エルフの中でも秘中の秘に類する薬を知らされてる。知ってる? 薬は製法や材料が違っても、最終的な生成物の成分次第では同一の薬と見做すんだ。当然、成分が同じなら形態や服用方法が違っても作用機序も効能も同じだからね」

 

 フィリップがこれまで聞いたことも無いような、冷たく、それでいて苛烈なほどの怒りが込められた声でエレナは語る。

 その気迫たるや、何が起こっているのか分かっていないリリウムだけでなく、無理矢理に嘔吐させられて不機嫌の絶頂だったフィリップでさえ口を挟めないほどだ。

 

 「気色の悪い……。ボクがこの世で嫌いな薬のトップ5がみっつも入ってる」

 

 彼女自身は舐めてさえいないというのに、エレナは断定形で語る。

 

 「勃起剤、排卵誘発剤、アンフェタミン系のエクスタシードラッグ、シロシビン系の共感トリップドラッグ、それと──」

 「短期的に遺伝子を変容させ異種間交配を可能にするクソみたいな薬。ボクたちのご先祖様が学術的意義とやらで知的好奇心を飾って作った、自然を愚弄し生命を冒涜する最悪の薬剤だよ」

 

 混入している薬品を羅列するカノンから引き取ったエレナの言葉は、彼女らしくなく荒れていた。

 

 二人の言葉の意味が殆ど分からなかったフィリップは、ミ=ゴの──地球圏外の知性体に匹敵する薬学知識を持つエレナが凄いのか、薬学の専門家であるエルフ並の知識を「環境整備用兵器」に搭載する基礎知識としてインプットしたミ=ゴが凄いのかなんて、益体のないことを考える。

 

 「そもそもこの手の無理矢理に快楽物質を爆発させる薬は嫌いなんだ。脳機能が慢性的に低下するし、依存性も高い。他人が使ってるだけでも気分が悪いのに、ボクの仲間に盛るなんて」

 

 ぶつぶつと苛立ちを呟くエレナ。

 そんな姿を初めて目にしたフィリップとリリウムは、知らず同じ位置──エレナの死角で身を寄せ合っていた。

 

 「え、エレナさん……?」

 「……凄いな。僕が狙われてるわけじゃないのに、この前よりずっと怖いや」

 

 慄いたように呼び掛けるリリウムと、口ではそう言いつつもへらへらしているフィリップは対照的だ。

 とはいえ、フィリップの態度は半分わざとだ。エレナが本気になり過ぎないように、そして自分がエレナに当てられて怒りや殺意を錯覚しないように、敢えて軽薄に振舞っている。

 

 それが出来るくらいフィリップを冷静にさせるほど、エレナの憤怒は激しかった。

 

 「ち、違います、これは──」

 

 言い募ろうとした村長が気迫に呑まれ、言葉が尻すぼみに消える。

 

 エレナは温厚だ。

 平和主義で安穏としていて、フィリップやミナのように最短最速の解(面倒だしブチ殺そう)を選ばず、迂遠で平和的な解決策を模索する。

 

 ……一見すると、そう見える。

 

 だがエレナは自然の中で生きる種族、エルフだ。

 会話に応じる知性は無く、しかし相手を殺すに足る野性を持った獣を普段から相手取っているだけあって、敵と判断した時には容赦がない。殺さなければ殺される──そういう状況が、その摂理が、生きる中で身体に染みついている。

 

 また、エルフは同族意識や縄張り意識が強い。

 エレナは無謀にもドラゴンに挑んで壊走しかかった人間の群れをエルフの首都に招く程度には縄張り意識が希薄だが、一度仲間と認めたものに対する情の厚さは、彼女自身の気質だけでなく種族的なものも相俟ってかなりのものだ。

 

 そして今、エレナが最も嫌う──殺すことを目的に作られた、ただ殺すだけの効果しかない毒より、一層の嫌悪感を催す類の薬物を仲間に盛られて、彼女はスープを持ってきた二人と庇い立てする村長を“敵”と認識しつつあった。

 

 フィリップもミナも、或いはルキアやステラでも、毒を盛った敵だと確定した直後には殺していることを考えると、エレナはまだ温和な方だ。

 ……単純に殺傷能力の問題で、ノータイムで塩の柱に変えたり磔にしたりするだけの、桁外れの攻撃性能を持ち合わせていないからかもしれないけれど。

 

 「どういう調合? 聞く限り、僕とパーカーさんにソドミーを……ああいや、間抜けなことを聞いた。今のナシ」

 

 カノンを呼び寄せて訊こうとしたフィリップは、半笑いで質問を取り下げる。

 

 ()()()()()()()()()()()()なんて、使用目的は、そりゃあ一つしかないだろうに。

 

 「僕とパーカーさんをお前たちと交わらせようとしたってことか。うーん……気色悪いなあ……」

 

 殺すか、とフィリップは腰の剣に手を添える。

 しかし、その柄頭はエレナの手で押さえられた。

 

 「違うよ、フィリップ君。よく考えて。二人を襲うだけなら、適当な媚薬でも盛ればそれでことは足りるでしょ」

 「は? ……あぁ、そうか、そうだね、うん」

 

 エレナの制止に「何言ってんだコイツ」と言わんばかりに冷たい声を出したフィリップだったが、そう言えばと思い出す。

 そう言えば、エレナは彼らを人間だと思っていて、フィリップがそれを望んで情報を隠していたのだったと。

 

 まあ、それももうどうでもいい。

 

 彼らが人間か人外かなんて関係ない。

 

 「ま、待ってくれ、二人とも。何か勘違いをしてる」

 

 オスメロイがエレナとフィリップから村長を庇う位置に立ち、両手を挙げて敵意が無いことを示しながら弁明を試みる。

 フィリップが五メートル上空のセイレーンを一撃で両断する攻撃範囲を持っていることを知っている彼は、ちらちらとフィリップの剣を気にしていた。

 

 「……どいてよ。あなたには船を貸して貰った借りがあるから一度だけ警告するけど、まだ庇うならあなたもグル──敵だと判断するよ」

 「まだるっこしいこと言わないでよエレナ……」

 

 エレナの手が柄頭に掛かっているのを見て、彼は少しだけ肩の力を抜く。その状態なら、少なくともエレナが許すまでは剣を抜けないと思ったのだろう。

 

 だが──それは間違いだ。

 

 

 

 

 

 



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448

 「腐ったリンゴは箱ごと捨てなきゃ……!」

 

 腰を回して鞘を引き、剣を抜くのではなく鞘を外すようにして抜刀する。

 柄頭の位置を変えずに刃が抜き放たれ、エレナは剣ではなくフィリップの身体へ手を伸ばして動きを制さなければならなかった。

 

 「駄目。というか、それは上に立つ者としてはあまりにも怠惰な考え方だよ、フィリップ君。毒のある生き物だって毒を除けば食べられる。全てが毒のキノコにだって薬としての使い道がある。敵を殺すことに否やは無いけれど、誰が敵なのか、そしてその目的くらいはきちんと見極めるべきだ」

 

 大真面目な顔で甘いことを言うエレナに、フィリップは面倒臭そうな一瞥を呉れる。

 確かにエレナの視点からは、薬物を混入させたのがスープを持ってきた二人の独断なのか、鍋を持ってきた村長も関わっているのか、或いは村全体の悪意の結晶なのかが分からない。

 

 それに、悪意の形も不鮮明だ。

 盛られたのが致死性の毒物だったのなら──向けられたのが単純な殺意だったのなら、エレナも殺意を以て応報することに否やは無い。だが、それにしては混入した薬物が不自然だ。

 

 その理由を確かめるまで、エレナは怒りに任せて村人たちの頭蓋を殴り壊し、頚椎を蹴り裂くことはしない。殺意にも近しいほどの怒りを、自制心で制御する。

 そして同じことを、フィリップにも強いる。説得は、実のところそれほど難しくはない。

 

 「……ステラちゃんだって、きっとボクと同じことを言うよ」

 「うわ、確かに言いそう……!」

 

 フィリップは色濃い苦笑を浮かべ、剣を下げる。

 

 殺した場合のメリットより、活かして利用した場合に生じる利益の方が大きければ、ステラは自分の首を狙った暗殺者でも見逃すだろう。

 彼女がいまこの場に居たらと想像すると、確かに、「その選択肢は拙速に過ぎるぞ、カーター」なんて苦笑されそうではある。

 

 そしてフィリップの中で、ステラの判断は大抵の場合に於いて正しい。それが所詮仮定に過ぎないとしても、「ステラならこうする」という意見はフィリップの意思決定に大きな影響を与えた。

 

 ──()()()()

 

 苦笑も戦意の収束も演技だ。

 声や仕草はわざとらしく、目の奥に宿る光は変わらず剣呑な殺意の色を湛えている。ルキアやステラなら間違いなく看破するし、普段のエレナでも簡単に見破れる。しかし今の彼女は、自分自身の怒りを制御するのに忙しかった。

 

 フィリップにしてみれば、悪意の量も形も鮮明だ。

 即ち「深きもの」の繁殖を目的とした、村人全員がフィリップとリリウムの生殖細胞を狙った結果。悪意ではなく本能や義務感から来る行動かもしれないし、もしかすると村人全員ではなく一部個体の暴走かもしれないが、動機なんてもうどうでもいい。

 

 気色が悪い。だから殺す。

 衛生害虫を捕食する益虫であるゲジや蜘蛛を踏み潰すのと同じだ。

 

 フィリップがエレナの隙を探って止まったのを好機と見たか、オスメロイが再び説得を試みる。

 

 「酷い言われようだが……聞いてくれ。そのスープはこの村じゃ伝統的な薬膳で、祭りの時には皆飲んでるんだ。なあ、ルティ?」

 「う、うん、そうだよ! 全然美味しくないけど、お腹が痛くなったりとか、そういうのは無いもん!」

 

 邪気の無さそうな子供の言葉。

 そしてこれまでフィリップに数多くの情報をくれたルティの言葉。

 

 そんな付加情報に、最早価値は無い。

 

 しかし──フィリップは訝るような顔を作って「そうなの?」と尋ねる。まるで、二人の説得で心が揺れ動いたかのように演じる。

 

 「まあ確かにシモの調子は良くなるが、スタミナも付くし、元気なのは悪いことじゃあないだろ?」

 「……」

 

 オスメロイが更に言葉を重ね、エレナはどうすべきか決めあぐねたように、困り顔でフィリップの方を見る。

 人間とエルフと吸血鬼と、全く異なる価値観や生活、文化を知る彼女には、これが悪意なのか、僻地で生まれた異文化なのか判断できなかった。

 

 だが、それはフィリップも同じだ。

 いくら深きものについて多少の智慧があるとはいえ、その生活様式や文化なんてものをシュブ=ニグラスが関知しているはずがない。

 

 外の血を取り入れる目的で──交配目的で薬を盛ったという推測も、異種族が儀式の前に群れの皆で薬をキメてハイになる習慣があると言われても、どちらも同じくらいの信憑性だ。

 

 「薬膳を作る過程で、その……なんだっけ? トリップドラッグ? とかソドミードラッグが混入する可能性はどのぐらいあるの?」

 

 フィリップはごくさりげなく、エレナを誘導する。

 彼女が村人たちの言い分を信じるように──どうせ、村人全員を虐殺するなんて答えを出さないであろう彼女が、適当に納得して村を去るように。

 

 フィリップ自身の殺意を満喫できるように。

 

 「自然抽出物だし、無くはないよ。それに、世代を経るごとに薬物への耐性が強まっていく可能性はボクたちの中でも研究されてた。村の人は誰もトんでないみたいだし、信憑性はある、のかな……?」

 

 あるかもね、とフィリップは適当に答える。

 実際、昨日からルティの態度には一切の隔意や悪意を感じなかったし、彼女が嘘を吐いている可能性はかなり低い。彼らは本当に毎年ドラッグスープを飲んでいて、今年は偶々フィリップたちが村にいたせいで問題になっただけかもしれない。

 

 それにしては混入している薬がいやに恣意的だが、この近辺の植生や普段の彼らの生活を知らないエレナには、それが偶然の産物である可能性を評価できない。

 普通はヒトに麻薬レベルの効果を発揮する材料は、遺伝などによって耐性を持った彼らには多少の高揚感しか与えないかもしれない。勃起剤や排卵誘発剤となる材料も、彼らには血行促進や月経不順を改善する効果のある薬草程度の認識かもしれない。

 

 そんな沢山の「かもしれない」が、エレナの憤怒を鎮めていく。

 

 本当に敵意が無くて、エレナたちが過剰に反応しただけ──彼らが人間であったのなら、異種間交配用の薬という不自然なものを態々入れる必要が無いことからも、そんな言い訳を通せただろう。事実、そう考えているエレナには通る。

 

 「……材料を全部ここに持ってきて。それから使用用途と作り方をなるべく詳しく教えて」

 

 エレナは有無を言わせぬ口調で村長に言う。

 外見的に細身の少女でしかないエレナではあるが、ほとんど触れるだけのような動作でフィリップに盛大にゲロを吐かせた現場を見ていた村長は、何ら言い募ることなく家に走っていった。

 

 「ね、ねぇ、さっきから二人とも、ちょっと過激すぎない? ほら、私もフィリップも最終的には飲んでないわけだし……そもそもぼっ……そんな薬、私たちに盛る意味がないじゃない」

 

 エレナとフィリップが落ち着いたタイミングを見計らい、リリウムが僅かに声を震わせながら擁護する。

 

 「あぁ……。うん、そうだね。言われてみれば、確かに。故意じゃなかった、のかな……?」

 

 もっと詳しい情報を集める姿勢になったエレナに、フィリップは満足そうな一瞥を呉れる。

 

 心優しいエレナのことだ。

 どうせ、リリウムを過剰に怖がらせないようにと慮って、明日の朝にはここを出るのだからと甘い裁定を下すに違いない。最も過激な展開でも、実行犯の二人を殺すくらいだろう。

 

 それでいい。

 エレナとリリウムは「あれは結局何だったのだろう」と首を捻りながら村を出て行けばいいのだ。 

 

 「……フィリップ様?」

 「……カノン、ちょっと来て」

 

 正気を疑うような目をしたカノンを呼び寄せ、エレナの人外の聴力でも聞こえない程度の距離を空ける。

 二人は肩を組んで顔を寄せ、秘密の作戦会議の姿勢になった。

 

 「……あいつら、間違いなくフィリップ様の遺伝子を狙っていましたよ。子供たちは全員交雑種みたいですし、リリウムの子宮も使うつもりだったに違いないです。いやそっちはどうでもいいですけど、フィリップ様の子種を狙う不逞の輩を野放しにしたとあっちゃ、私がナイアーラトテップとシュブ=ニグラスに叱られてしまいます」

 「分かってるから声に出さないで言葉にしないで。鳥肌で刺胞装甲みたいになってるから」

 

 村人に対する疑念の強さが変動しているエレナと違い、フィリップとカノンの意見は一貫している。即ち、先のスープは繁殖目的であると。

 

 ルティの言葉は恐らく、嘘ではない。村には本当に伝統的な薬膳があるのだろう。薬の混入はスープを持ってきた二人の手によるもので、他の村人は混入それ自体については関知していない可能性もある。

 

 「薬を盛るとは思わなかった」と言う意味ではなく「自分はそのつもりがなかった」というだけで、来訪者に繁殖用餌を与えて利用する行為は、この祭りとは関係なくあるはずだ。

 

 ルティはともかくオスメロイからも悪意は感じなかったが、それは単純に彼が悪意を持っていないからだろう。

 男なら精子を、女なら子宮を、まあ良くて“借りる”くらいの認識のはずだ。人間という劣等種の生殖細胞を、集落存続のために仕方なく“使う”くらいの認識だって可笑しくはない。

 

 「どうするんですか? あ、いや間違えました。あいつら全員ブッ殺しましょう」

 

 喉首を掻き切るジェスチャー付きで、カノンは強く主張する。

 

 フィリップは緩く頭を振り、否定を示す。

 しかしそれは、「殺さない」という意味ではなかった。

 

 「質問と提案を間違えることある? エレナとパーカーさんにあいつらが人外だって気付かせたくないし、今すぐは駄目。明日の朝にここを出るんだから、その後だ。……折角だしナイ神父とか呼ぶ?」

 「呼ぶならシュブ=ニグラスにすべきかと。ナイアーラトテップはフィリップ様のご意思を尊重して不平も不満も呑み込みますけれど、彼女は拗ねますよ? というか──」

 

 カノンは続く言葉を持っていたようだが、フィリップの表情を見ると呆れ顔で言葉を切り、胡乱に眉根を寄せる。

 

 「……ちょっと、「へぇ、ちょっと見てみたいなあ」って顔しないでくださいよ。好きな女の子へのアプローチが分かんないガキですか? でなきゃヤバめの嗜虐性癖か独占欲持ちですよ」

 「うるさい。……それより、何か言いかけてなかった?」

 「あ、はい。えっと……私がご無礼を働いたときのようにはならないんですね? 正直、意外です」

 

 ご無礼を働いたとき、と言われて、フィリップはすぐに彼女の言わんとするところが分かる。

 初対面のとき──フィリップをナイアーラトテップの化身と誤認して、外神たちが盛大にブチ切れて三次元世界へ一斉に干渉しようとした時のことだ。

 

 「あぁ……あの時は殺すかどうか決めかねてたから、今のカノンみたいに「殺そう」って言いに来たんだよ、多分だけど。けど今は違う」

 

 フィリップはもう、「殺すか?」なんて甘い思考を持っていない。

 

 彼らがダゴンやハイドラやクトゥルフを信仰することは、種族として普通だ。

 黒山羊がシュブ=ニグラスを畏れるように、ハスターがヨグ=ソトースを畏れるように、蛇人間がイグを畏れるように。或いは、人間が唯一神を畏れるように、彼らもそうしているだけ。

 

 それをカルト的であるとか、異常なものとして糾弾するつもりはない。ルキアやステラの目に触れる可能性があるなら抹消するが、僻地で細々と生きているなら構わない。

 

 だが──もうダメだ。

 フィリップはもう、彼らを“気色の悪いもの”として認識してしまった。それも、かなり重篤に。

 

 カルト相手のような発作的殺意の噴出は無い。

 しかしそれだけに、フィリップの心中で鎌首をもたげた殺意は、アリの巣に水を流し込んで殺すような、ネズミの餌に巣穴に持ち帰った後で効果を発揮する遅効性毒物を混ぜておくような、陰湿で徹底したものだった。

 

 「僕はもう「後で殺す」と決めてるからね。シュブ=ニグラスはともかく、僕が決めたのなら外神たちもそうする」

 

 言い切ったフィリップに、カノンは恭しく頭を下げて了解の意を示した。

 

 



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449

 その夜。

 一行は森の中に停めた馬車の中で寝泊まりしていた。

 

 エレナは結局、誰も殺さなかった。

 あのドラッグスープが悪意を含んだものなのか、彼女はフィリップにもリリウムにもカノンにも明かしていない。そしてフィリップも、「どうせ明日の朝には村を出るんだし、気にすることないよ」と言った彼女に反駁しなかった。

 

 彼女の言う通り、気にすることはない。

 

 村人は全員、明日の朝には死んでいるのだから。

 

 フィリップは寝袋に入ったあと、眠ってしまわないよう気を張り続けた。時折懐中時計を確認しながら、待ち遠しそうに。

 そしてエレナとリリウムだけでなく村人たちも寝静まったであろう深夜になると、モゾモゾと起き出して馬車を降りた。

 

 虫除け代わりの焚火の傍では、不寝番を言いつけたカノンが座って……座ってはいたが、うつらうつら舟を漕いでいる。焚火に顔面を蹴り込んでやろうかと頬を引き攣らせながら、フィリップは肩を叩くに留めた。

 

 「ちょっとカノン、それ寝てない?」

 「はっ! い、いや寝てませんよ! 確かに私の処理装置は人間の脳ベースなので休眠は必要ですが、一月くらいは不眠不休で活動できます!」

 「寝てた時の言い訳の仕方だよそれは」

 

 呆れ笑いで溜息を吐き、フィリップはそのまま森へ入る。

 背後からの「どちらへ?」という問いには、「探検」と適当に答えた。

 

 適当ではあるが、嘘ではない。

 昨日は村人との間に不要な軋轢を生むべきではないと断念した、ラグーンの神殿への侵入を試みるつもりだからだ。

 

 覚えのある道順に沿って森を進むと、星明りを映して輝く潟湖と、緑色の石で作られた荘厳な教会が目に入る。見張りはまだ来ていないのか、昨日の若者たちはおらず、篝火も焚かれていなかった。

 

 これ幸いと神殿の側面へ回り、精緻な彫刻の施された飾りガラスへ躊躇なく龍貶しの柄を叩き込む。

 魔術的な防護でもあるかと思っていたが、ガラスは涼やかな音を立てて崩れ落ちた。

 

 神殿内部は信徒用の椅子を取り払い、回廊の中心に祭壇を置いたおかしな教会と言えば、概ね語り終える程度の簡素なものだ。壁には戯画的でありながら儀式の様子が描かれていると分かる、複数枚の絵が流れに沿って飾られていた。

 

 そして神殿の最奥、普通は聖女像かそれに類するものが置かれている場所には、やはり巨大な像がある。

 人骨と思しき大量の骨の上で、魚と蛙の合いの子のような異形「深きもの」が台座を支えている。その上に跪き天を仰ぐのは、数十倍の体躯を持つ巨大な深きものが二体……ダゴンとハイドラだろう。仰ぐ先には、より明らかな異形──蛸のような触手を備え肥大した頭部と蝙蝠のような羽を持つ巨人、クトゥルフであろうものが玉座に坐している。

 

 「……なんか、思ったより何もないな」

 

 フィリップはつまらなさそうに呟き、邪神像に対する興味を失う。

 人間の集落に置いてあったら即刻焼却を決める代物だし、目にしたところで即座に発狂することはなくてもルキアやステラに見せたくはないモノだが、この村に置いてあるのは何ら不思議ではない像だ。というか、まあそんな感じの物はあるだろうと思っていた。

 

 それよりは、大雑把ながら儀式の内容が分かる壁の絵の方が気になった。

 絵は全部で五枚。どれもこれもフィリップが一人では持てないほど大きく、戯画的だが具体的で、内容が直感的に理解できる。

 

 一枚目の絵は、深きものが自分の腕を切り落として海へ投げ入れている絵だ。漁で狙った獲物に遭遇できるという儀式を描いたものだろう。贄を探す方法を表しているようだ。

 

 二枚目の絵は、深きものが幾つもの獲物を獲ってきた場面で、贄となる獲物の種類を示しているようだ。絵の通りなら、贄に適しているのは十数メートルはありそうな巨大な魚と、蛇のように細長い魚、人魚、そして龍。いや、水棲の龍なんているのかどうかは知らないが、描かれているのは龍としか形容できない、長い首を持った爬虫類っぽい生き物だ。手足が魚の鰭のようになっており、首の長い亀に見えなくもないが、深きものとの対比を考えると3メートルはある。

 

 三枚目の絵は、深きものどもが黒い月──恐らく新月を示している──の下で贄を解体し、その心臓を天に掲げている。これは見たまま生贄の儀式だろう。

 

 四枚目は、跪く深きものどもの見つめる先に一対の巨大な個体──ダゴンとハイドラだろう──が降臨し、魚の雨を降らせている絵だ。不漁を避ける加護か何かを授けてくれるのだろうと察せられるが、流石に詳細までは分からない。

 

 五枚目──ダゴンとハイドラは神殿のあるラグーンへ帰っていく。その時ラグーンの水面は、城があり複数階層の建物が並ぶ大きな都市を映している、という絵だ。都市の建物はどれも緑色で、このラグーンの神殿とよく似たデザインに見える。

 

 「……意外なほど意外性が無いな」

 

 何から何まで予想通り過ぎて、逆に怖い。

 地下に続く隠し通路とか、ルルイエに繋がる異空間の門とか、隠されていたりしないだろうかと不安になる。

 

 「実は像の下に隠し階段が……無いか。絵を外すとスイッチが……無いな。祭壇の下に……っ! あ、釘で固定されてる……」

 

 像の周りを一周してみて、壁に掛かった絵を全部外してみて、祭壇を思いっきり押してみて、それでも何も見つからない。

 

 そして結局、フィリップはあるかどうかも分からない隠された秘密を探すのは止めた。

 どうせ村人は全員殺す。その後でまだ神殿が気になるようなら、地下ごとひっくり返してペシャンコに潰せばいいだろう。

 

 フィリップは人魚のいる側、入ってきた場所とは違う窓を態々割って、そこから外に出る。

 ガラスの割れる音に驚いて水面から顔を出した人魚と、窓枠を乗り越えている最中のフィリップの目がばっちりと合った。

 

 「やあ。『助けに来たよ』」

 

 喉を締め付けるような邪悪言語で言いながらにっこりと笑ったフィリップに、人魚は胡乱な目を向ける。

 どうしてそんなところから出てきたのかと顔に書いてあるが、口元は期待に満ちた笑顔の形だ。それを歪める必要を感じなかったフィリップは、檻の前に立つと龍骸の蛇腹剣を抜き放ち、金具を操作して鞭形態へ伸長する。

 

 素材になった古龍の気配か、王国トップクラスの錬金術や付与魔術に気が付いたのか、或いは剣がだらりと垂れ下がったことに驚いたのか、人魚が目を見開いた。

 

 「『頭を低くしてて』」

 

 言って、フィリップは全身を大きく使う鞭の動きで檻の天井部を開けるように切り裂く。

 幅も奥行も10メートル近い檻を一撃で開けることは出来ないから、何度も切りつけて穴を作るつもりだ。

 

 しかし、彼女にはその程度の損傷で十分だった。

 

 けたたましい音と激しい波がほぼ同時に上がり、フィリップは思いっきり水を被って踏鞴を踏んで下がる。濡れた顔を拭い、何事かと目を戻したとき、檻の天井部は内側から凄まじい力が加わったように歪み、大口を開けていた。

 

 人魚はと言うと、檻から離れたところを自由を喜ぶように泳いでおり、時には水面から五メートル以上も飛び跳ねている。

 目を瞠るような速度で泳ぐ彼女にとって、一辺十メートルの檻は窮屈に過ぎただろう。それが傍目にも分かる、解放感を全身で表現する舞踏のようだ。星明りを映す飛沫が、人間の上半身の艶めかしい色香と、魚の下半身の強靭な生命力を煌きで彩った。

 

 彼女はそのまま外洋へ泳ぎ去るかに思えたが、フリントロックが濡れてしまったと苦笑しているフィリップのいる岸辺に戻ってくると、スカートの代わりに両手を広げるような独特の礼を見せた。

 

 「『この御恩は絶対に忘れませんわ、優しい御方。どうか、お名前を頂けませんか』」

 「『……フィリップ・カーター。と言っても、忘れ……いや、君は?』」

 

 忘れた方が幸せになれる。そう言おうとして、止めた。

 今はまだ精神面の変化はないようだが、トルネンブラが認めた以上、遅かれ早かれ変容が始まる。それはフィリップにも、誰にも避けようのないことだ。彼女が、いやフィリップがどれだけ望もうとも。

 

 代わりに名前を尋ねると、彼女は自信を感じさせる目で静かに笑った。

 

 「『アンテノーラ。もしも再びお会い出来たら、貴方様の為に歌わせてくださいませ。それでは、ごきげんよう』」

 

 言って、アンテノーラは水中に身を沈めて泳ぎ去る。

 ラグーンと外洋を繋ぐ小さな水道を越えて見えなくなるまで、彼女は何度もジャンプしたり、振り返って手を振ったりしてくれた。

 

 そんな程度のことでも、フィリップにとって人魚は御伽噺の登場人物だ。思わず笑いながら手を振り返してしまうくらいには嬉しかったが、それだけに、後悔もひとしおだ。

 

 結局、彼女を殺せなかった。

 彼女の為を思えばこそ殺すべきだったのに、あの声がこの世から失われることを惜しんでしまった。

 

 「でもホントにいい声だったしなあ……」

 

 じわじわと、「やっぱり逃がしてよかったんじゃないかな」という思いが後悔を拭い去っていく。

 そんな自分に呆れ笑いを零していると、ふと声なき意思が届いた。

 

 トルネンブラではない。聴覚を介さず、もっとフィリップ自身の深いところから直接語り掛けてくるような感覚は、シルヴァだ。

 

 内容はいつもと同じ、警告未満の報告。

 森の中をこちらに向かって近づいてくる人外が居ると。

 

 言われた方向に向き直ると、棒を持った二人の若者──神殿の見張り役の二人が、木立の中から血相を変えて飛び出してきた。

 

 「お前……あれを逃がしやがったのか!?」

 

 拉げ、大口を開けた空の檻を見て、若者が叫ぶ。

 

 思ったより早く見つかってしまった。だが、最早どうでもいいことだ。

 フィリップはもう、村人は全員殺すと決めている。

 

 エレナやリリウムを逃がした後、最終的に邪神を使って掃除することまで想定しているから、逃げられても問題ない。自分の手で殺す必要も、凄惨に殺す必要も無い。

 

 これは楽しい楽しいカルト狩りとは違う。面倒極まる害虫駆除だ。

 

 退屈そうな溜息と共に龍貶しの柄へ手を掛け──その時点で、フィリップの敗北は決定した。

 物理的耐久力だけでなく魔術耐性も貧弱なフィリップは、先手必勝を選ばないのであれば、取り敢えず『拍奪』による攻性防御を展開するべきだったのだ。

 

 「このっ……! 《深淵の息(ブレスオブザディープ)》ッ!!」

 「ごぼっ──!?」

 

 先手初撃での魔術攻撃。 

 棒を持っていたから近距離型だと思い込んだ──というわけではなく、そもそも眼前の劣等生物が自分の敵になるなど思っていなかった。害虫を踏み潰す程度の意識では、向けられる全ての攻撃が意識外からのものになる。

 

 突如として肺の中を満たした大量の海水。

 重りであり枷であるそれが息を詰まらせ、フィリップは喉を押さえてよろめいた。

 

 意外にも、肺に痛みは無かった。しかし気道や喉、鼻の奥が海水によって刺激され、反射的に咳き込もうとするのに息が吸えない。その状況はフィリップを一瞬でパニックに陥らせるには十分だ。

 

 正常な思考を失ったフィリップが真っ先に思い浮かべたのは、「怒られる」という心配だった。

 魔術師相手に照準妨害の『拍奪』や、フィリップが持つ最速の遠距離攻撃であるフリントロック・ピストルのクイックドロウを使わなかった時点で、ルキアとステラに滾々と説教されるレベルの大失態だ、なんて。

 

 手足の力が抜け、剣を抜くことさえ出来ずにいるフィリップへ、魔術を撃ち込んだ男がずんずんと近寄る。

 そして持っていた棒を振りかぶると、フィリップの横面を思いっきりぶん殴った。

 

 もんどりうって倒れたフィリップだったが、エレナやミナとの白兵戦訓練が効いている。身体に染みつかせた接近戦の動きが、寸前で身体を流して辛うじて直撃を避けた。それでも棒は側頭部を掠め、頭皮がぱっくりと割れて血が噴き出す。

 

 「この、人間風情が!! お前のせいで俺たちはッ!!」

 

 怒声と共に、頭の痛みに気を払うこともできないほどの溺水の苦しみに藻掻いているフィリップへ、何度も何度も蹴りが入る。腹、頭、腕、顔と、滅茶苦茶に蹴られて踏みつけられて、それでも何も感じないところまで、窒息が進行していた。

 

 いや、もし痛みを感じていたとしても、苦悶の声さえ上がらない。

 口から出るのは海水と、肺が絞り出した呼気の泡だけだ。

 

 そして度重なる暴行はフィリップの矮躯を徐々に動かし、遂に海へと蹴り落とした。

 

 サンドバッグを失った男は大暴走がぷっつりと途切れ、力を使い果たしたかのようにへたり込み、泥濘で汚れるのにも構わず地面に頭を付けた。何度も何度も、泥と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら。

 

 「終わりだ……。俺たちは、もう終わりだよ……」

 

 ぶつぶつと終末を呟く男。

 ややあって、初めに怒声を上げてからずっと放心状態だった片割れが多少の理性を取り戻し、よろよろとラグーンへ歩み寄る。

 

 「……おい、あいつは何処だ?」

 「たった今俺が蹴り落としただろうがよボケカス。その辺に浮いてなきゃ沈んでるんだろ」

 

 力のない声に、涙声の罵声が応じる。

 

 そして、片割れは呆然としながら頭を振った。

 

 「……死体が無い」

 

 ラグーンの、底が見えるほど美しい水の中に、人の影は無かった。

 

 

 



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450

 目が覚めた。

 フィリップはそう自覚した後、自分が硬い地面に横たわっていることと、自然に呼吸していることを知覚する。殴られた頭も蹴られ踏みつけにされた体も、どこも痛まなかった。

 

 「んん……、……えっ?」

 

 地面がいやに硬い。

 ラグーンの傍の柔らかい土でも、水の中やボートの上でも、どこかの浜に打ち上げられたというわけでもない。目を開けると、緑色の石が規則的に敷き詰められた石畳の道が見えた。

 

 身体を起こして周囲を見回すと、同じ石で作られた建物が整然と並んでいる。ただし建物それ自体は奇妙に歪んでおり、柱や屋根の線を辿っていくと有り得ない部分と交わるような、空間が歪んだ形状をしていた。

 

 ここは、街だ。だが確実に、人間が住む場所ではない。人間に、歪んだ空間に立体物を建造するような技術力はない。

 

 改めて注意深く周りを見渡してみると、周りの建物の窓や影から、幾つもの人影がこちらを遠巻きに観察していることに気が付く。

 それらは皆一様に、人間の姿をしていなかった。魚と蛙が交わって生まれたような二足二腕の存在。鱗に覆われた身体は共通しているが、その色はくすんだ灰白色や鮮やかな緑色、煌びやかな水色まで様々で、魚のような細長い顔にも個性がある。

 

 深きもの(ディープワン)

 ──それも、フィリップにもはっきりと分かるほど存在感が濃い。後天的に変わったものや血が目覚めた交雑種ではなく、ダゴンやハイドラ級の原種だ。クトゥルフの故郷であるゾス星系に棲んでいたものか、その三世以内の個体。千年もすれば神格を手に入れてもおかしくない、半分上位者だ。

 

 そんな彼らは道のド真ん中に寝ていたらしいフィリップに、警戒の色濃い目を向けるばかりだ。近づいてくる気配も、攻撃の意思も、害意や敵意さえも感じない。

 

 「……え? もしかしてルルイエ? なんで……?」

 

 ルルイエ──旧支配者クトゥルフと、その最も忠実にして精強な下僕たちが住まうという都市。大昔に海底に沈み、今や人間が海底であると思っている場所よりも更に深い海溝の底に眠っているという、人類領域外の場所。

 

 足を踏み入れた記憶が無いどころか、具体的な位置すら知らないところだ。

 

 フィリップは困惑交じりに笑おうとして、失敗した。

 感情は閾値だった。これ以上の感情が生まれる余地が無いほど、一色に染まり切っている。憤怒と憎悪を混ぜ合わせた、昏い黒の一色に。

 

 「……ふむ」

 

 小さく息を吐き、フィリップは迷うことなく道を進み始めた。

 目指す先は分かっている。町の中で一等大きく、恐らく中心部であろう場所にある、城のような宮殿だ。非幾何学的な造形でありながら荘厳さを感じさせるそこに行けば、概ね解決するだろう。

 

 頑なに道へ出て来ない深きものどもは、どうやらフィリップを避けているようだ。

 建物の影からこちらを窺う彼らの、恐れに満ちた囁きが時折フィリップにまで届く。

 

 「『盲目白痴の魔王の■■』」

 「『外神の■■』」

 「『悍ましき■の■■』」

 

 人間の脳では理解できないレベルの邪悪言語が入り混じり、フィリップは不愉快そうに眉根を寄せる。

 その感情さえ、より膨大な憎悪に押し流されてすぐに消えた。

 

 ややあって、フィリップは目指していた壮麗な宮殿に辿り着いた。

 門扉も入口も十メートル以上ある巨人サイズで、門の両側にはいつぞや遭遇したゾス星系よりのもの──クトゥルフの兵が警衛に立っていた。液体とも金属ともつかない物質で形作られた鎧を身に纏い、歪に曲がりくねった槍のような武器を携えている。

 

 兵士個体──いや、以前に遭遇したものよりさらに上位だ。言うなれば騎士個体。

 

 遠目からはその二人しか見えなかったが、彼らの正面に立つと、宮殿は等間隔に並んだ彼らによって包囲されていることに気が付いた。

 巨大な宮殿の全周を守っているのだとすれば、総数は百では済まないだろうと察せられる。

 

 大量のクトゥルフの騎士に、原種級のディープワン。もしもルルイエが浮上すれば、文明を構成する全人類が駆逐され、地上における文明構築者はヒトから彼らへとシフトするだろう。それだけの戦力が、存在が、ここにはあった。

 

 ……()()()()()()()()()()()()

 

 「ここを開けて僕を通せ。でなきゃお前たちの主人をここに連れて来い」

 

 宮殿の門前に立ち、フィリップはクトゥルフの兵を見上げることも無くぞんざいに命じる。

 声を張ってさえいない呟くような命令に、当然、彼らは何の反応も見せない。

 

 フィリップは億劫そうに溜息を吐くと、門に向かって一歩踏み出す。

 

 そして──その眼前に、巨大な槍の石突きが叩き付けられた。フィリップは足を止めるが、しかし、それは制止に従う意思によるものではない。

 

 「……ねぇ、肺に海水を抱かされて、頭を思いっきり殴られて、お腹を蹴られて踏みつけられた挙句、海に落とされたことある? 僕はあるよ。どんな気分だと思う? 僕は今、どんな気分だと思う?」

 

 疑問形の言葉ではあったが、フィリップは眼前の劣等種に答えを求めたわけではなく、そもそも会話をする意思も無かった。

 

 「……僕は今、死ぬほど気分が悪い。僕は今、死ぬほど機嫌が悪い。……まあ、死ぬのはお前なのだけれど」

 

 静かに。淡々と。機械的にも感じるほど無感情に。

 クトゥルフの兵に一瞥も呉れず、フィリップは吐き捨てる。

 

 そして次の瞬間、フィリップの行く手を阻むように突かれていた巨大な槍がゆっくりと傾ぎ、巨躯もそれに続いた。

 膝から頽れ、ゆっくりと倒れ伏すクトゥルフの兵によって石畳が割れる。横倒しになった神話生物の骸に、フィリップは気色悪そうな目を向けた。

 

 死んだ。

 

 何の前触れも無く、一切の外傷も無しに即死した。

 ゾス星系のものは基本、寿命を持たない不老存在だ。実は極度に老衰していたとか、病に侵されていたということはない。

 

 本当に、ただ死んだ。心臓が止まり、呼吸が止まり、脳活動が止まり、細胞機能が止まり、生命活動の全てが完膚なきまでに完全停止した。

 否──()()()()()()()()()()()()()()

 

 その不自然極まる死に眉根を寄せて、フィリップの反応はそれきりだった。

 

 「……聞こえてるかな、クトゥルフ。差し支えなければ、僕を元居た場所……は不味いか? まあ、適当に安全な場所に戻して欲しいんだけど、出来るかな?」

 

 返事は無い。勿論。

 フィリップもそれは分かっている。今は死にも等しい眠りの中に封じられたクトゥルフの力が復活するには、地球も含む数多くの天体が特定の配列になる──星辰が揃う必要がある。

 

 その時を迎えていない現状、彼に出来ることは精神波によって交信することくらいだ。あとは精々、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()程度。

 

 フィリップは怒りに満ちても絶対に理性を失えない頭で冷静に思考し、語る。

 

 「……お前の信者が怒りに任せて僕を殴った責任を、お前に押し付ける気はないよ。いや、あの状況で僕を殴った事だって、悪いことだとは思ってない。敵が居たら攻撃するなんて、当たり前のことだしね」

 

 まあ害虫が大人しく駆除されず、変に抵抗してきたことに対する嫌厭はあるけれど。

 

 そんな自覚は、事実に全く即していない。

 

 「僕は殴られたから殴り返そうとしてるだけ……、うん、それだけなんだ。その当たり前のことをするために、帰らなくちゃいけない。帰る必要がある」

 

 必要。そう語る。

 『神がそれを望まれた。故にそれは必然である。』──そんな聖典の一節を捩った洒落だと気付く者は、流石にこのルルイエにはいないだろうけれど。

 

 端的に言って──フィリップはブチ切れている。

 精神防護が狂気的な激情と理性を分け隔て、身を焼き焦がすほどの憤怒と、それもまた泡沫だと諦めを以て静観させる理性を同居させているだけだ。

 

 数秒ほど待っても返事は無く、フィリップは小さく肩を竦めた。

 

 「……無理か。じゃあいいや。ごめんね、寝てたのに。助けてくれてありがとう」

 

 フィリップはにこやかに、緑色の宮殿に笑いかける。

 そして踵を返し。

 

 「いあ いあ はすたあ くふあやく──」

 

 何の躊躇も無く、クトゥルフの天敵にして最大の敵対者であるハスター召喚に方針を切り替えた。

 

 ここがクトゥルフの目と鼻の先であるとか。そのクトゥルフはなけなしの力でフィリップを安全な場所に匿ってくれたのだとか。もしもここにハスターを呼べば、彼は自身の憎悪に従ってルルイエを破壊し大虐殺を引き起こすだろうとか。そんなことは全く気に留めなかった。

 

 そして──視界が白く染まる。

 閃光を浴びたかのような、しかし全く眩しくはない白さに目を瞑る。

 

 再び目を開けたとき、フィリップは目と鼻と頭と腹が──もうとにかく「痛い」という情報で混乱するほど、全身のありとあらゆる場所が痛んだ。

 

 しかし最優先で処理された情報はどの場所の痛みでもなく、顔表面の水没。本能が発する窒息や溺水への危険信号だった。

 

 「──ごぼぼぼぼ……っ!?」

 

 足の着かない、昏い水で底が見えもしない水中で、フィリップは我武者羅に水を蹴って藻掻き、無意識に上を目指す。

 幸い三半規管に異常は無く、動揺のあまり半分以上無駄に吐き出してしまった酸素が底を突く前に、顔が水面を突いた。

 

 「ぷはっ!? なんで海の中──、っ!」

 

 左腰に佩いた剣が主人を水底に誘うのに抗いながら、どうにか立ち泳ぎから背浮きの姿勢に移行する。

 浮力を十分に得られる安定した姿勢になって一息つくと、側頭部が激しく痛んだ。

 

 手を遣ると、海水ではないぬるりとした触感が返る。だが見て確認するまでも無く、潮の匂いに血の臭いが混ざっていた。

 傷が治っていない。ルルイエに居たときには治っていたはずなのに。あれは夢──いや、精神体だけが隔離されていたのだろうか。

 

 そんなことを考え、暢気なほど美しい星空に目を向ける。

 

 岸を目指すでもなく──そもそも見渡す限りの黒い海で、ここは何処なのかさえ判然としない──ぷかぷか浮かんでいると、夜空と海面の間を何かが横切った。黒っぽいが夜の空より明るく、茶色に近い小汚い色をした何か。

 不審そうに目を凝らしていたのはフィリップだけではなく、その黒いものも同じだった。そしてフィリップが同じものが複数体いると気付いたとき、上空のそれらは海面に人間が浮いているのだと理解した。

 

 直後、周囲に自死衝動を引き起こす魔の歌声が響き渡った。

 

 「セイレーン!? ってことはあの辺り……!?」

 

 フィリップは咄嗟に潜り、海面すれすれまで急降下してきたセイレーンの攻撃を躱す。

 最悪の遭遇だが、おかげで現在位置に見当がついた。今朝にオスメロイの船で出てきた辺り──船を使っても一時間以上かかる、かなりの沖合だ。

 

 泳いで村まで戻ることはできない。そう確信出来る位置。

 

 頭の傷はそもそも派手に血が出るうえに、定期的に水没していては止血もクソもない。失血による失神は陸地でもかなり危険だが、泳いでいる最中だったらそれはもう死を意味する。

 幸い、海は意外にも温かく、低体温症よりはスタミナ切れの方が早そうだ。

 

 水面下を懸命に泳ぎ、セイレーンの目を一時的に誤魔化すことに成功したフィリップは、見当違いの場所を探している馬鹿な鳥から離れようと試みる。

 そして、自分がどちらを向いて泳ぐべきか分からないことに、漸く思い至った。

 

 ここが何処かは、確証はないにしても予想は出来た。

 では漁村はどちらかと言うと──前後左右、どちらを向いても黒い海と黒い空しかない。星の並びから方位を測定することは可能だが、そもそも東西南北どちらに村があるのかが分からない。

 

 「はぁ……。っていうか、さっき嫌なものが見えた気がするんだよね……」

 

 フィリップは心底嫌そうな溜息を吐き、頭が完全に沈む程度に潜る。

 

 そのほんの数メートル前方に、白いキノコのような物体──カノンがキロネックスと呼び、オスメロイが殺人クラゲと呼んだモノが漂っていた。

 

 ……いや。

 その後ろに、横に、フィリップの下に、後ろに、そこら中に──この海域の至るところに、星明りを受けて淡く光る儚げな死神が浮かんでいる。

 

 賢いなあ、とフィリップは思わず笑ってしまった。

 

 セイレーンの喚声は自死衝動を引き起こし、船乗りを海へ身投げさせる。

 しかしそれは耳栓で防ぐことができ、また屈強な船乗り同士であれば身投げする前に妨害することも出来る程度の、強制力の低いものだ。もし海に入ってしまっても、すぐに引き上げれば問題なく助かる。

 

 ──このクラゲの群れが居ない場所でなら、という但し書きは付くけれど。

 ほんの一瞬、足の先が海に入っただけだったとしても、そこにクラゲが居たら終わりだ。触れた瞬間に心拍と呼吸を止める猛毒に曝露し、死ぬ。

 

 セイレーンが自らの能力を十全に活かすために、クラゲのいる海域を選んで縄張りにしたのか。或いはクラゲの方が、死骸漁りの小魚を狙ってセイレーンのいる海域に寄ってきたのか。

 生物と魔物の共生。人によっては興味をそそられるテーマだろうが、危険の只中にいるフィリップにとって重要なのは、学術的意味ではなく脱出の方法だ。まあ、それが思いつかないから「賢いなあ」なんて現実逃避気味に考えたのだけれど。

 

 「僕は「安全な場所に戻せ」と確かに言ったはずだし、ハスターを呼んだ気もするんだけど……まあいいや」

 

 もう一度呼べばいいだけのことだと、フィリップはもう一度背浮きの姿勢になって浮力を確保し、詠唱に備える。

 幸いにしてクラゲは攻撃的ではなく、動きが速いわけでもないから、ハスターを召喚する余裕は十分にあった。

 

 「漁村まで戻るのは不味いよね。エレナもパーカーさんもまだいるだろうし……一旦ラグーンの方に戻るべきか」

 

 そんなことを考えていたフィリップは、近くの水面に影を見た気がして静かに潜った。フィリップを探すセイレーンが近寄ってきたのだと思ったからだ。

 

 しかし──それは影は影でも、空から海面に投げかけられた影ではなかった。

 影の主は潜った先、水面のすぐ下にいた。それは魚影だったのだ。全長四メートルもの巨大な魚影。オスメロイがグリゼーオと呼び、カノンがオオメジロザメと呼んだ、トラウトなんかとは比較にならない捕食者の顔をした魚が、そこにいた。

 

 そして、彼はどうやらフィリップを餌と認識しているらしかった。

 

 フィリップの周りを悠々と泳いでいたそいつは、フィリップの頭の傷から流れ続けている血の臭いを嗅ぎ続け、もう我慢の限界とばかり鋭角に方向転換して急接近してくる。

 

 鋭利で大きな歯が乱雑に並んだ口を大きく開け、慌てて剣を抜こうとする雑魚の肉を食い千切ろうと。

 

 

 

 

 



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451

 そして──フィリップは凄まじい水流に揉まれ、水面上まで持ち上げられた。

 顔に付いた水を拭い、何が起こったのかと確認して最初に目に飛び込んだのは、きりもみしながら宙を舞う魚影だった。

 

 飛んでいる。

 そう錯覚するほどの滞空時間。

 

 灰色の肌を持つ捕食者が落下を始めるまで、フィリップは呆然と空を見上げていた。

 

 「サメって空飛ぶの? 凄いな海の魚……!」

 

 川の魚も、そりゃあちょっとは跳ねるけれど、あれは二十メートルは飛んでいる。

 翼も無く、恐らく魔力も無しにそれだけ飛べる生き物は、フィリップの知る限りでは一種もいない。

 

 ……勿論、サメは飛ばない。

 

 フィリップを狙ったオオメジロザメは、300キログラムを超える巨躯を打ち据えられ、内臓をぐちゃぐちゃにしながらも外見を保ったまま、()()()()()()()のだ。

 

 既に絶命している上空の死骸は放物線の頂上に至ると、重力に引かれて落ちてくる。

 フィリップから少し離れたところに着水すると、その巨躯と重量を表すように盛大な水柱が上がった。そしてもう一度、控えめな飛沫が上がる。何かが死骸に嚙みついたような──噛みついて、食い千切ったような、赤の混じった飛沫が。

 

 「えっ……!?」

 

 何事かと目を瞠った先、腹を上にしたサメの死骸がぷかりと浮かび上がった。

 

 話が違う、とフィリップは頬を引き攣らせる。

 確か、あのサメはこのあたりのヌシ、頂点捕食者だという話だったのに。

 

 逃げるべきか。

 四メートルもの巨躯を持つ魚を殺す化け物が、どうやらいるらしい。しかし、迂闊に動けば殺人クラゲに触れて毒にやられる可能性が高まる。

 

 結局その場に留まることにしたフィリップは、剣を抜き顔を沈める。

 セイレーンに、クラゲに、サメ。今度は一体どんな怪物が現れたのか、即刻ハスターを呼ぶべきなのか、それを確かめようと星明りの差す海中で目を開き──暗い海の色をした瞳と、目が合った。

 

 波に揺れるインディゴブルーの長い髪、どこか冷たい印象を受ける人間以上に整った顔、白く透けそうな喉元、細くしなやかな肩や腕、豊かな胸のふくらみ、芸術品じみて均整の取れた腰。

 

 そして──人間的なのは、そこまで。

 上半身の真っ白な陶磁器のような肌とは一転し、背面が黒く腹面が白いつるりとした肌。尻尾のような位置に生えた大きな背鰭、二つに分かれていない脚──尾鰭。

 

 呆然としているフィリップを、同じく呆然と見つめ返していた彼女は、手にしていた白っぽい塊──抉り取ったサメの内臓、その最後の一口を隠すように口に含み、何度か咀嚼して嚥下した。

 

 二人は同時に海面から顔を出す。

 フィリップはすぐ真上に浮上しただけで、彼女──アンテノーラはフィリップのすぐ目の前まで来てからだったのに、頭を上げたタイミングは同じだった。

 

 その驚異的な泳力に驚く暇も無く、フィリップは更なる驚愕に襲われる。

 

 「……こんなに早くお会いできるとは思いませんでしたわ。いずれ私の方からお礼に伺おうと思っていましたのに」

 

 耳朶を打つ、耳触りの良い声。

 冷たく澄んだ海のような、よく通って、それでいて五月蠅いとは感じない、脳の奥底まで染み入るような。心に安らぎを与えてくれる、マザーの穏やかな声によく似ている。

 

 これまでは無理矢理に邪悪言語を発声したときの声しか聴いていなかったから、彼女の本当の声を聴くのはこれが初めてだが──ただ話しているだけで、脳が耳から溶けだしてしまいそうだ。

 その上、トルネンブラが認めるほどの音楽の才能を、つまり当代屈指の才を持っているとなれば、その歌声への期待も否応なく高まる。

 

 だが、それはともかく、だ。

 それはともかく、フィリップが驚いたのは鈴の音でさえ恐縮する美声ではなく、語られた言葉。より正確には、言葉を紡いだ言語に。

 

 邪悪言語ではないし、フィリップに聞き取れない人魚語でもない。彼女が使えないと言ったはずの人語、流暢な大陸共通語を喋っている。

 

 怪訝そうに眉根を寄せたフィリップだが、目の前でアンテノーラも同じ表情をしていた。

 

 「……あの、どうしてこちらに? それに、その頭の傷はどうなさいましたの?」

 「いや君こそ、なんで人語……ん?」

 

 心配そうな顔でフィリップの側頭部、今もなお血を流し続けている傷を見遣るアンテノーラ。

 フィリップは間違いなく彼女の言葉を人語と認識し、難なく理解していたが、彼女の口元に僅かな違和感があった。

 

 「あの、差し支えなければなんだけど、手を握って貰ってもいい……ですか? 実は立ち泳ぎがそろそろしんどくて……」

 

 違和感の正体を確かめるためばかりではなく、フィリップはそこそこ焦りながら言う。

 実際、手も足もじわじわと疲労が溜まって力が入らなくなってきている。波のある海で長時間の立ち泳ぎ、それも腰に長剣という重りを付けてとなると、これが初めての経験だ。

 

 ただし、言うのは邪悪言語ではなく大陸共通語でだ。

 通じなければ邪悪言語で言い直すつもりだが、フィリップはその必要は無いだろうと半ば確信していた。

 

 そして、その確信自体は間違っていなかった。

 彼女はフィリップの予想通り、人語を聞き取ってくれたのだが──フィリップの希望を聞き入れてはくれなかった。

 

 「あら、それでしたら……」

 「ん? うわっ!?」

 

 アンテノーラは水面のすぐ下で仰向けになり、フィリップを易々と抱き上げて腰の上あたりに乗せてくれた。人間一人分に水をたっぷりと含んだ服の重さはかなりのものだろうに、軽々とした所作で。

 

 「お、おっきい……」

 

 フィリップは思わず呟く。

 アンテノーラの上半身、人間部分はヒトの女性と変わらない。しかしフィリップが感嘆の声を漏らしたのは、仰向けでもその大きさがはっきりと分かる胸のふくらみに対してではなく、彼女の下半身──魚の形をした部分に対してだ。

 

 大きい、と、本能が微かに戦慄するほどの体格。

 頭の先から尾鰭の先まで、およそ五メートル。フィリップが上に乗ってもどっしりとした安定感があり、触れてみると強靭でしなやかな筋肉がぎっちりと詰まっているのが分かる。予想に反して、鱗のざらざらとした手触りは無かった。

 

 「ずっと気付きませんでしたけど、人魚って意外と大きいんですね……」

 

 いや──単純に大きいだけではない。

 身体が勝手に怯える、この感覚。飢餓状態寸前のミナに相対したときのような、絶対上位の捕食者を前にしたときの不随意反応だ。

 

 そのことに対する疑問は、続くアンテノーラの言葉で生まれた、より大きな疑問に飲み込まれた。

 

 「確かに私たちの種族は、マーメイド属の中でも大きい方ですわね」

 「? 人魚って、一つの種族じゃないんですか?」

 

 そもそも人魚が実在したこと自体、フィリップにとっては驚愕の事実だ。

 嬉しい驚きだし、会えたことはもっと嬉しいが、つい昨日までは創作の産物だと思っていた。

 

 そしてなんとなく無意識に「人魚」というのは一個の種族、「ヒト」「エルフ」「マーメイド」と区分されるという認識だったのだが。

 

 首を傾げるフィリップに、アンテノーラは淑やかに笑う。

 

 「ふふ。魚だって、「魚」という一種類だけではありませんでしょう?」

 「あぁ、そういう……人魚の中にも種類があるってことですか。アンテノーラさんは何族なんですか?」

 

 数種類の川魚と、あとはサメくらいしか知らない──調理後なら、海魚も何種類か見たけれど──フィリップの浅い知見の中に、アンテノーラの下半身の特徴と一致する魚はない。

 人間の上半身とはアンバランスに大きく、全長の八割を占めるそこは、背中が黒くて腹側が白く、鱗が無い。本当に魚なのか疑わしいくらい、すべすべだ。

 

 丁寧に話している余裕も無かった邪悪言語の会話と違い、一見してルキアやステラと同じくらいの年齢に見えるアンテノーラに、フィリップは半分癖で畏まる。残りの半分は、自分より大きな生き物に対する本能的な萎縮によるものだ。

 

 邪悪言語で話していた時とは打って変わった態度のフィリップが可笑しかったのか、アンテノーラは品のある仕草で口元を隠して笑った。

 

 「そう畏まる必要はありませんわ。確かに私の方が年上ですけれど、貴方様は私の()()()ですもの」

 

 所有者。

 そう聞いて、フィリップはぴくりと眉根を寄せた。

 

 『命の恩人』の誤訳かと思ったが、違う。

 さっきからフィリップは人語を、アンテノーラは人魚語を話している。にも拘らず、全く違和感を感じないレベルで会話が成立しているのは、トルネンブラがリアルタイムで両者の言葉を訳しているからだ。

 

 それも恐らく、言語ではなく、音に乗せられた意図を訳している。別言語を無理矢理に訳した時の、独特の違和感が微塵も無い。今更、言葉の意味を間違えるとは思えなかった。

 

 「……どこまで知ってる?」

 「私が貴方様の無聊を慰める楽器であること。それだけは、確かに」

 

 深々と嘆息したフィリップの問いに、アンテノーラは淀みなく答える。

 自分の言葉がどういう意味で、どれほど恐ろしいことなのかを理解しているとは、まるで思えない声で。

 

 「……そう、か」

 

 フィリップの態度から習慣づいた丁寧さが消える。

 その代わりに表れるのは、智慧を持った者に対する傲慢さだ。

 

 「困ったなぁ……。君の声は正直、魅力的に過ぎる。殺してあげたいのは山々だけど──ごめん、惜しい」

 「あら、ふふ──殺して()()()だなんて。それは些か不正確な表現ですわね」

 

 神妙な表情で心の底からの謝意を伝えるが、フィリップを見上げるアンテノーラは可笑しそうに口元を綻ばせる。

 そして徐に身体を沈めると、フィリップを水面に残して潜ってしまった。

 

 怒ったようには見えなかったが、気分を害してしまったのだろうかとフィリップが不安になった、その瞬間。

 

 「え? うわ──ッ!?」

 

 下方向へ押さえつけるような強烈なGを感じたかと思うと、直後には浮遊感に襲われる。

 反射的に硬く瞑っていた目を開け──水面を、遥か下に見た。周りに何もない海上では高さを測りにくいが、アンテノーラの表情が見て取れないどころか、夜の暗い海面に紛れて見えなくなるほど高い。

 

 二十メートル、いやもっとか。

 さっき飛んでいったサメなんかよりもっと高い位置に、フィリップは放り上げられていた。

 

 そして、翼の無いフィリップはもう、後は落ちるしかない。

 痛いでは済まない衝撃を与えるだろう、石の硬さになった水面へ向かって。

 

 不味い。それは分かるが、思考がそこで止まる。これは流石にハスターを呼ぶしかないと思い至った時には、もうハスター召喚の呪文を詠唱する暇はないところまで落ちていた。

 

 落ちたら死ぬだろうか。死ななかったら滅茶苦茶痛いだろう。

 そう考えて思わず目を瞑ると、予期した激痛ではなく、むしろ心地良いふわりと抱き上げられるような浮遊感に包まれる。空中でフィリップを抱き留めたアンテノーラは、背中で水面を叩くブリーチングの動きで着水した。

 

 一度深く潜った二人は、もう一度先ほどと同じ姿勢で浮上する。

 姿勢だけで言えば、フィリップがアンテノーラを組み敷いたマウントポジション。そしてフィリップの腰には龍骸の蛇腹剣があり、彼女は丸腰だ。服さえ着ていない。

 

 しかし──フィジカルが、あまりにも違い過ぎる。

 今のは浮かせるようにしてくれたから、フィリップは飛んで落っこちるだけで済んだのだ。遊んでくれたから、弄ばれるだけで済んだのだ。

 

 サメを、人間を、水の抵抗をものともせずに吹っ飛ばすだけの筋力が、もしも純粋な打撃に使われたら、人体なんて簡単にバラバラになる。エレナのパンチを喰らったときにそうなるというカノンの言葉を使うなら、「ばっちゃーん」だ。

 

 残念ながら、フィリップが殺してあげられる相手ではなかった。不意討ちなら可能性はあるかもしれないが、正面戦闘では邪神召喚以外の勝ち筋が見えない。

 

 「私は貴方様の所有物。所有者である貴方様が不要であると仰るのなら、捨てられることも受け入れましょう。けれど──」

 

 アンテノーラは組み敷かれた姿勢のまま手を伸ばし、フィリップの頬を優しく包み込む。

 冷たい印象を受ける美貌に浮かぶのは、蠱惑的で挑発的で煽情的な、劣等生物に向けるべき愛玩の情を含んだ冷笑だった。

 

 「けれどその時は、私が貴方様に()()()()()()()()()のですわ」

 

 フィリップが息を呑んで硬直するほどの、背筋が凍るような美しい笑みを浮かべ、アンテノーラが囁く。

 

 そして──フィリップはなんだか物凄く居た堪れない顔をして、水を掬って顔を洗った。

 そういう化け物っぽいことを言うのは止めて欲しい。好きになる。ただでさえ美人に弱いことを自覚しているというのに、ミナと近しいものを感じるほどの上位種ともなれば尚更だ。

 

 「けれど、声を褒めて下さったことは光栄ですわ。……竪琴もないソロなんて、お嫌いかもしれませんが」

 

 言って、アンテノーラは歌詞の無い独唱曲をソプラノ・リリコで歌い始める。

 特に音楽への造詣が深いわけではないフィリップは、歌唱技術の巧拙は分からない。しかし、数個のフレーズを繰り返す三十秒ほどの短い曲で、フィリップが言葉を失い心を奪われるには十分だった。

 

 しかも、それだけではない。

 

 「……っ!?」

 

 側頭部の傷がじわりと熱を持ち、気付いたフィリップが手を遣った時には血が止まり、傷口も完全に塞がって薄く跡が残っているだけだった。

 じわじわと痛んで存在を主張していた胴体の打撲も完全に消え、慣れない立ち泳ぎで疲れていた手足にも力が漲っている。

 

 素晴らしい歌を聞いて精神的に充足したとか、そんな心情的なものではない。傷だけでなく疲労をも癒す回復魔術はとても高度なものだと習ったが、これはその域だ。

 

 「凄い……」

 「人魚の歌は魔術耐性があると効きが悪いのですけれど……つい本気で歌ってしまいましたし、むしろ竪琴が無くて良かったかもしれませんわね」

 

 思わず呟いたフィリップに、歌い終えたアンテノーラが悪戯っぽく笑う。

 その口ぶりからすると、効果過剰による副作用、エレナの言うオーバードーズに似た危険があるのだろうが、精神的にも高揚しているフィリップは気に留めなかった。

 

 「あの、治療して貰っておいて厚かましいとは思うんですけど……さっきのラグーンまで僕を連れて行ってくれませんか?」

 「それは構いませんけれど、見ての通り、私は陸上戦ではお役に立てませんわよ? 勿論、海に逃げた相手を追いかけて殺す程度であれば、喜んで協力いたしますが」

 

 嗜虐的な笑みを浮かべるアンテノーラに、フィリップはぞくりと背筋を震わせる。

 ミナやマザーにも似たその表情はただでさえ刺さるのだが、声から感じる報復への渇望が、フィリップの内心とちょうど一致しているのも大きな理由だ。

 

 「それこそ構いませんよ。第一──報復は、もう始まってるので」

 

 鏡写しの表情を浮かべたフィリップに、アンテノーラは僅かに怪訝そうに眉根を寄せて首を傾げたが、何も訊かずに身体を反転させて泳ぎ出した。

 

 背中に乗る形となったフィリップは振り落とされないように足に力を込めつつ、気を抜けば攫われてしまいそうな水の抵抗と、それを生むアンテノーラの航行速度に目を瞠る。

 船の比ではない。というか、整えられた芝生を走るフィリップどころか、馬の襲歩にも匹敵する。抵抗の大きな水中でこれだけの速さは驚異的の一言だ。

 

 「ところでアンテノーラさん……アンテノーラは、なんで深きものなんかに捕まったの? 滅茶苦茶強いと思うんだけど」

 

 防御力はともかく、これだけ筋力があるなら攻撃能力も高いだろう。

 深きものが使っていた漁網なんか、簡単に千切れるはずだ。流石に魔物用の檻は破れなかったようだが、それも亀裂さえあれば強引に曲げていたし、脱出するには一手足りなかったのだとしても、そもそもどうして捕まったのかが謎だ。

 

 フィリップがそんな疑問を投げると、彼女は少しだけ言い淀んだ。

 

 「……恥ずかしながら、少し油断を。私は魔術耐性があまり高くないので、普段は歌で強化をしてから戦闘に入るのですけれど……あの日は竪琴が壊れて気が立っていたので、つい」

 「なるほど。……ちょっと親近感湧くなあ」

 

 耳を赤くして本当に恥ずかしそうに答えたアンテノーラに、フィリップは少しだけ嬉しそうに笑った。

 

 

 

 



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452

 エレナとリリウムが眠る馬車に、二つの足音が近づく。

 それをカノンが察知したのは、眠っていたエレナと同時だった。

 

 「……リリウムちゃん、起きて。カノンちゃん、気付いてる?」

 「まあ、そりゃあ。足音を殺すことも忘れてる様子ですからね」

 

 焚火の側に座っていたカノンは面倒くさそうに──或いは眠たそうに立ち上がり、馬車を庇う位置へ移動した。

 エレナがもう一度揺り起こして漸く目を覚ましたリリウムは、むにゃむにゃと不明瞭な呻きを漏らしながらも、どうにか目を開けて自分の足で立つ。

 

 「リリウムちゃん、万一の時は戦うんだから、ちゃんと起きて」

 「んー……? なんなのよ、まだ真っ暗じゃない……」

 

 今まで包まっていた寝袋を大事そうに抱きかかえたリリウムは、状況を全く理解していない。

 どう見ても戦える状態ではないが、エレナはともかく、カノンは端からエレナやリリウムを戦力に数えていない。彼女が使い物にならないことに、今更特別な感想を抱くことは無かった。

 

 「……カノンちゃん、フィリップくんは何処? さっきトイレに起きたのは知ってるけど、まだ帰ってきてない?」

 「さぁ? さっき、遊びに行かれましたけど」

 

 ──沈黙。

 あっけらかんとしたカノンの答えを即座に理解しかねたのか、エレナは数秒の黙考の後、「……はっ?」と素っ頓狂な声を上げた。

 

 そりゃあ、そんな反応にもなる。

 一応フィリップが夜中にゴソゴソ起き出したのを察知してはいたようだが、「トイレか」と勝手に思ってすぐ寝付いたらしく、カノンとフィリップの会話は聞いていなかったようだ。

 

 夕方にあれだけ警戒心と殺意を振りまいていたフィリップが、まさか夜中に単独行動するとは思わなかったのだろう。

 フィリップが同行者を守るために単身突撃するタイプであることは、エレナも重々承知しているはずなのだが。

 

 やばいどうしようとエレナが頭を抱える暇も無く、カノンは足音を聞いた方角に向かって声を掛ける。

 

 「馬車に近づいたら殺すって、言いませんでしたっけ? ……あ、言ってないですね。でも今言ったので、それ以上近づいたら殺します」

 「……ちっ、バレてるか」

 

 舌打ち交じりに、木の陰から二人の村人が姿を現す。

 警告に従わず距離を詰めた二人を見て、カノンはガスマスクを外して人外の口元を露にする。しかし、その二人は何ら怯えた様子を見せなかった。

 

 「なあアンタら、ガキの躾けはちゃんとしてくれなきゃ困るぜ。お陰で俺たちは破滅だ。……その憂さは、晴らさせてもらう」

 

 棒を持ち、全身から怒気を放つ男二人に、寝ぼけ眼だったリリウムも流石に目を覚ます。

 エレナの後ろに隠れながら魔術照準をするまでは、意外にもかなり早かった。

 

 「何のことかな。それより、ボクはちゃんと警告したよね? あなたたちのことは信用できない、馬車に近付かないでって」

 「知るかよ。お前らの仲間のクソガキが、俺たちが必死こいて用意した生贄を逃がしやがったんだ。監督責任は命で果たせ、クソ野郎」

 

 二人は棒を構え、主にカノンを警戒して先端部を向ける。

 

 彼らの言葉を咀嚼していたエレナは、まだまだ足りない情報を推測で補い、今がどういう状況なのかなんとなく当たりを付けることに成功した。

 

 「生贄? あっ、あー……。そういう……」

 

 頭痛でもするように眉間を押さえるエレナ。

 生贄という穏やかならぬ単語。フィリップの不在と、彼のカルトに対する甚大で苛烈な害意。

 

 フィリップがカルト狩りに繰り出し、その中で彼らの「生贄」を逃がしたのだろうという推察は、殆ど正しかった。

 

 「あー……、なるほど。それで夜までは穏便に。人質とか儀式の前倒しとか、されたら面倒な事多いですもんねぇ」

 「フィリップくん……」

 

 エレナは深々と嘆息する。

 

 カルト狩りそのものを止めることは、エレナはもう半ば諦めている。

 だがついこの前、「無断の単独行動はやめろ」「やるなら一声かけろ」と怒ったばかりで、約束したばかりだというのに。

 

 「気を付けろ、ミ=ゴの玩具だ。訳の分からない武器を使ってくるかもしれんぞ」

 「エルフの動きにも気を配れ。人間なんかとは筋肉の出力からして違う生き物だ」

 

 小声で交わしたつもりであろう二人の村人の会話は、ヒトより優れた聴覚を持つエレナとカノンだけでなく、リリウムにまで聞こえていた。

 

 「おっ、その警戒は正解ですよ。まあ存在からして不正解なので、今更多少の加点があっても不合格ですけどね」

 

 完全にいないものとして扱われたリリウムがむっと眉根を寄せ、カノンは可笑しそうにけらけらと笑う。

 格闘戦の構えさえ取っていない彼女もエレナも隙だらけだが、リーチの長い得物を持っているはずの二人は全く動けない。

 

 彼らも獣や魔物と多少は戦える程度に強いが、それだけに、高い格闘技術を持った二人の間合いに踏み入る危険を、半ば直感で察知していた。

 

 二人が動かないのを見て、カノンは「そういえば」と言葉を続ける。

 

 「フィリップ様はどうしたんです? 捕まえて拷問……は、無理ですね。痛いのも苦しいのもお嫌いですし、拷問されるぐらいなら周囲一帯を消し飛ばす方をお選びになるでしょうから」

 「はっ、死んだよ」

 

 突き付けるように、そして勝ち誇ったように放たれた言葉に、衝撃を受けたのはリリウム一人だけだった。愕然とした「なんですって!?」という叫びは、場違いなほど虚しく響いた。

 

 「嘘だね。死角から広範囲攻撃魔術で不意討ちでもしなきゃ、フィリップ君は獲れないよ。けど、そんな戦闘音はしなかった」

 「ははは……。まぁホントなら、フィリップ様は今頃大喜びですけれど……」

 

 自信満々に即答するエレナと、苦笑を浮かべるカノンは対照的だ。

 しかしどちらも、フィリップは死んでいないと確信している。

 

 実際に、フィリップが本気で殺意を持っていたら、そこいらの村人どころか、そこそこ大きな町の衛兵だって二対一程度の戦力差では対応できない。いや、一方的に惨殺されるだろう。

 

 フィリップを白兵戦で下すにはかなりの力量が求められるし、相手が魔術師でも、初手で個人相手に広範囲攻撃を撃つような手合いは稀だ。具体的には、魔力消費を気にしなくてもいい実力者か、後先考えない馬鹿か。

 

 そして、狙って撃つ点攻撃は、拍奪使いには当たらない。初見の相手に対して、フィリップの対魔術師性能は跳ね上がる。

 

 また、エレナの見立て──村人の筋肉の付き方や重心位置、手の傷などを観察した推論──によると、彼らの戦闘技術は下の上か中の下といったところ。中の上程度には食らいつけるフィリップを、接近戦で下せる技術は無い。

 

 そして王国では魔術師の囲い込み政策が敷かれているから、王都外で高い実力を持った魔術師に遭遇することは稀。

 

 二つの要素を合わせて考えれば、彼らの言葉はただのブラフだと判断できる。

 

 ……まさか、駆除しに行った害虫の反撃に遭ったなんて、即座に想像するのは難しいだろう。

 

 エレナの自信は、戦闘能力を評価した場合には正しい。

 フィリップに脅威軽視や油断の悪癖があることを、もっと重く捉えるべきだったというだけで。

 

 そしてカノンは彼らの無知を嗤いながら、同時に恐れてもいた。

 

 「でも、殺したつもりで中途半端に痛みを与えただけだったら……これから起こることは“駆除”ではなく、もっと陰惨な“報復”になっちゃいますね」

 

 言って、カノンは既に、恐れていたことが現実になっていることに気が付いた。

 息を呑み、今にも襲い掛かってきそうな村人には最早なんの興味も無いかのように視線を切り、背を向ける。

 

 慌てふためきながら跪き、深々と頭を下げた先は焚火の傍らだ。

 

 「カノンちゃ──、っ!?」

 「きゃっ!? い、いつから……!?」

 

 エレナはいきなりどうしたのかと問う前に、その人影に気が付く。少し遅れて、リリウムも。

 

 揺れる炎のオレンジ色の明かりの中、喪服姿の女性が、伏せて眠る黒い山羊の背に腰掛けて佇んでいた。

 

 いつから居たのか。

 反射的に記憶を遡ったリリウムは、その走査が終わらないことに気が付く。フィリップが死んだと言われた時には、もう居る。フィリップが生贄を逃がしたとかいう話をしている時にも、もう居る。リリウムが目を覚ました時にも、既にそこに座っている。

 

 記憶を遡っても遡っても、彼女はその瞬間に現れている。彼女は()()()()()()現れた。

 それを理解した瞬間──否、三次元的な思考しかできない脳はそれを理解できず、しかしどれだけ思い出しても「いる」という事実もまた否定できず、しかしそれが有り得ない事象だということだけは理解した瞬間、彼女は思考を放棄した。

 

 何かの間違い。そんなことがあるはずがないと。

 

 「なに、こいつら……?」

 

 白銀とも黄金ともつかない月光色の髪を持つ、ヴェールで顔を隠した喪服姿の女。

 その戦闘能力が()()()()()と感じたエレナの関心は、彼女が椅子代わりにしているのと同じ黒い山羊が、いつの間にかエレナたちを取り囲んでいることに向けられた。

 

 いつから居た、と、エレナもリリウムと同じ疑問を持つ。

 木立の合間からこちらを窺う、無数の黒い山羊。エレナの知覚力を完全にすり抜けて接近してきたにしては、数があまりにも多すぎる。これほどの群れの接近を感知できないほど、エルフの感覚器は鈍くない。

 

 鳴きもせず、敵意も逃走の意思も感じさせず、ただじっとエレナたちを見つめるだけの黒山羊の群れは、エレナが背筋に冷たい汗を感じるほどに不気味だった。

 

 そして──木立の間を埋める夜闇から滲み出るように、新たな人影が進み出る。

 それは一人ではなく、二人、三人と増えていく。浅黒い肌に黒髪と黒い目を持つ長身の神父、異国風な黄金の飾りを身に付けた威厳のある男、赤いドレスを身に纏うグラマラスな美女、幾つものレンズが付いた拡大眼鏡を付けた時計職人の老人、また別の異国風のドレスを着たスレンダーな女性、猫の耳と尻尾を持つ幼い少女。

 

 その内の二人に、エレナは見覚えがある。奇しくも同じ「ナイ」という名で呼ばれる、フィリップと関わりのある人物だ。

 

 「ひ──」

 

 リリウムは自分の口を押さえ、溢れそうになった悲鳴を必死に堪える。

 彼らの放つ存在感は、悲鳴という不随意の反応ですら咎められ、次の瞬間には首を刎ねられそうなほどだった。

 

 抱いた恐怖を比べるなら、エレナの方がリリウムより大きい。

 彼女は何の根拠も無く、しかし本能的な確信を持って、この場に現れた人型のモノと取り囲む黒山羊の全てが、ミナ以上の化け物であると感じていた。

 

 「な、ナイ──」

 「なんで──」

 

 二人の村人が声を震わせる。

 いや、震えているのは声だけでなく、足も、手もそうだ。今すぐに棒を放り出してこの場から逃げ出したいのに、手に力が入って指を開くことさえ出来ない。不随意に震える腕と足、漏れ出てしまった声、何もかもが現れた化け物たちの神経を逆撫でしそうなのに、自分の身体の何もかもが思い通りに動かない。

 

 身体を動かそうなんて意識さえ、恐怖に溶けて消えていく。

 

 そして──空が裂けた。

 雲一つない星空から一等星が落ちてきた。そう錯覚するほど眩い光が閃き、直後に脳を揺さぶる轟音が衝撃を伴って肌を叩く。

 

 それが極大の雷が村に落ちたことによるものだと、一瞬で失神したリリウムとは違い、エレナは気を失う直前にどうにか理解し、そして意識を手放した。

 

 「な、なんで外神が……。それも、こんな……」

 

 どういうわけか──、なんて、繕う必要は無いだろう。

 外神たちの意思に従い、失神することなく、しかし逃げ出すことも出来ずにいる村人の片割れが呟く。

 

 以前のカノンだったら、そしてこの場に同席していなければ、彼らの口走った驚愕に、「確かに」と同情するところだ。

 確かに、シュブ=ニグラスにナイアーラトテップ、おまけにマイノグーラまでもが明らかな敵意を持って現れるなんて、智慧があればある分だけ驚きが増すだろう。

 

 それ以上のことを知っている今のカノンは、跪いた姿勢でただ震えていることしか出来なかった。

 

 

 

 

 



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453

 サバト──そんな言葉では到底足りない、邪神たちの会合。

 参加者最後の一人であるマイノグーラの化身、黄金の鎧を纏ったレイアール卿が、黒煙を上げて燃え盛る村の方からやってきた。

 

 彼女の手には、金剛杵とそれを掴む手の骨のような意匠のある魔剣『インドラハート』が握られている。

 周囲には雷撃に伴うオゾンの臭いと、それを包み隠して余りある焼け焦げた臭いが立ち込め、背後の炎と黒煙と合わせて彼女を鮮烈に彩った。

 

 「言われた通り、死体が残る程度に焼いておいたわよ。あれはオマケね」

 

 レイアール卿が振り返りもせず肩越しに背後を示す。村ではなく、上方、星の瞬く夜空を。

 

 正確には、そこに浮かぶ二つの十字架を。

 血と海水を雨の如く滴らせる、巨大なヒトガタ。魚と蛙を掛け合わせて人間の胎で育てたような巨人──かつてゾス星系の住人であった、地球外より飛来した邪神。深きものどもの先祖であり神、ダゴンとハイドラだ。

 

 両腕を大きく広げた身体に、目に見える傷は無い。にもかかわらず全身から血を流している光景は奇妙だが、その奇妙さに首を傾げる者は、この場には居ない。その理由を知っており容易に再現可能な者と、理由なんて気にしている余裕がない者の二種しか、この場には居ない。

 

 「……主人の望まないことまでするのは、優れた従者とは言えませんよ。マイノグーラ」

 

 微笑の仮面で嘲笑を隠した、浅黒い肌の神父が嗤う。

 黄金で身を飾った古いファラオと、深いスリットから瑞々しい太腿を覗かせるチャイナドレス姿の女が、同意を示すように頷いた。

 

 ある意味では一人芝居と言える彼らの動きに、レイアール卿は兜の下で鬱陶しそうに眉根を寄せた。まあ、彼らにとって三次元世界の中で化身が行動していること自体、人形芝居のようなものではあるのだけれど。

 

 「あら、彼は喜んでくれているわよ?」

 「呆れ笑いを“喜んでいる”って捉えられるんですかぁ? わぁー、長い化身生活でなにも学んでないんですねぇ。上手におねだりできたらぁ、先生が教えてあげますよぉ?」

 

 けらけらと、明らかな嘲弄の笑い声を上げるのは猫耳の少女だ。

 レイアール卿の右手が霞み、直後、少女の柔肌に刃が通らなかった魔剣が半ばで折れて飛んでいった。

 

 「彼の子に害を為した愚物を膺懲する。我らが為すべきはそれまでだ」

 

 同一存在の別化身が斬り付けられたことに一切頓着せず、黄金のファラオが威厳に満ちた声で語る。

 「骨粗鬆症ってやつですねぇ」とけらけら笑っていたナイ教授が笑いの質を変え、嗜虐心に満ちた顔を村人たちに向けた。レイアール卿の魔剣は確かに折れていたはずだが、彼女が溜息交じりに鞘へ戻す時には刃毀れ一つない状態だった。

 

 「左様ですなあ。というか、やり過ぎると「やられる前にやってまえ」いう阿呆が沸くんや。その阿呆があん子に手え出したら、その時はお前様の所為ってことでええんか?」

 

 煙管を吹かし紫煙を燻らせていたチャイナドレスの女が、気怠そうに言う。赤い唇から吐き出される煙は、毒々しくも鮮やかな青色だった。

 

 「鬱陶しいわね。どれか一体だけに喋らせなさいよ」

 

 レイアール卿は空を見上げ、三つ並んだ赤黒い月に言う。

 燃え上がる三つの目は嘲笑の形に歪むだけで、何も答えなかった。その代わり、偏屈そうな時計職人の老人がしわがれた声で叱責する。

 

 「グダグダ言わずあれを下ろさんか、馬鹿者が。どうせ、俺に言われてるうちに下ろすか、寵児に言われて下ろすか、どっちか選ぶことになるんだからな」

 「……あーあ、折角用意した余興だったのに」

 

 繰り返しの勧告に、レイアール卿は大袈裟に肩を竦めた。

 夜空に浮かんでいた生きた十字架は外され、盛大な水柱を上げて海に返される。噴き上がった海水は雨となって村の跡地に降り注ぎ、落雷による火災を消し止めた。

 

 「……さぁ、我らが寵児のご帰還です」

 

 黒髪の神父の言葉に、喪服の女と黄金の騎士以外の全員が膝を折り、首を垂れた。

 二人の村人の膝は、関節の稼働で「折れた」というか、外部から凄まじい力が加わって「捻じれ折れた」と表現すべき有様ではあったけれど。

 

 

 ◇

 

 

 アンテノーラの背に乗ったフィリップが村の近海まで帰ってきたとき、二人は揃って空を見上げていた。

 素性は定かではないが、口調や所作の上品なアンテノーラまでもが口をぽかんと開けて、呆けた顔で。

 

 「なんですの、あれ。マーマンにしてはクジラくらい大きいですし、変異種……?」

 「なんかダゴンとハイドラが浮いてる……」

 

 素直に疑問を口にするアンテノーラと、得も言われぬ表情で呻くフィリップ。

 

 何故、とは、フィリップは思わなかった。

 まだハスターを召喚していない以上、あんな()()をするのは外神に決まっている。いや、他のクトゥルフに敵対的な邪神の仕業という可能性も無くはないが、状況を考えると、そいつらが唐突に介入してくるよりは外神が出張ってきたと考える方が自然だ。

 

 「……邪神だよ。トルネンブラはこの手の知識を与えないだろうし、重要な部分だけ教えておくと、君が海の中で聞いた“声”は、あいつらの親玉のテレパシーだ。ついさっき飛び起きて、今は二度寝の真っ最中だろうけどね」

 

 どうせそのうち、トルネンブラが最低限の智慧を与えてしまうのだ。ここで多少喋り過ぎたって、何も変わらないだろう。

 そう割り切って、フィリップはカノンやシルヴァに対するときのように配慮を捨てる。

 

 「邪神……。もしや、オットーモグと何か関係が? マーマンもどきが信仰していた、気色の悪い怪物なのですけれど」

 

 マーマン──フィリップは実際に遭遇したことは無いが、学院の授業で習った。

 海棲の魔物で、二足二腕だが体表面に魚の鱗やえらを有し、深きものと似た特徴を持つ。ディープワンより人間的特徴が強いが、完全鰓呼吸のため陸上では生存できない。そして魔物であるため、殺すと身体組織が魔力に還り、消滅する。

 

 その“擬き”、きっとディープワンだろう。

 深きものが信仰する「オットーモグ」、海棲の邪神とくれば、邪悪言語を聞き覚えて無理やりに再現した発音からでも、その正体には察しが付く。

 

 「旧支配者ゾス=オムモグ……クトゥルフの末裔だね。知ってるの?」

 

 ゾス=オムモグ。旧支配者の一柱で、円錐形の身体と、角があり、四つの目と多数の触手を備えた爬虫類のような頭部を持つ。

 不死身であり、殺しても数十年で復活するが、神格としてはそれほど強くない。目視が即発狂を意味する相手ではないし、ルキアやステラ級の火力が用意できれば人間でも殺せる……はずだ。存在格の隔絶、干渉無効化能力を持っていなければ。

 

 「えぇ。私の所属していたポッド……群れのトップが活発なお方でして。数年前に、怪しげな儀式をしている気味の悪い集団がいたので、戯れに襲撃したことがあるのですわ。その時に召喚されたのが、確かそのような名前だったかと」

 「遭ったんだ? まあ、そんなに強い相手じゃないし、この速度なら逃げ切れるだろうね」

 

 ゾス=オムモグは動きが素早いタイプではない……というか、支配個体であるクトゥルフの継嗣だけあって、自ら戦うタイプではない。戦闘を想定した身体をしていないのだ。

 

 特に好戦的であるという智慧もないし、船なんかよりずっと速いマーメイドの航行速度であれば、容易に振り切れるだろう。

 

 そんなフィリップの予想を、アンテノーラは頷いて肯定する。

 

 「そうですわね。私たちなら、きっと容易く。けれどあの時は、何人かが狂ったように敵意を剥き出しにしていて、私たちもつい引っ張られてしまって……15人が12人になってしまいました」

 「そっか……」

 

 フィリップは神妙を装った相槌を打つ。

 いくら人魚が御伽噺の登場人物とはいえ、面識も無い相手を悼むことが出来るほど、フィリップは優しい人間ではない。それがアンテノーラの家族であってもだ。

 

 それに、不運にも発狂したか、ウォードが言っていたようにパニックを起こして攻撃的になったのかは不明だが、逃げようとしない奴が──馬鹿が馬鹿なことをして死ぬのは、それは仕方のないことだ。むしろ馬鹿に足を引っ張られながらも、生還出来たことを褒めてやるべきだろう。

 

 そんなことを考えていたフィリップだったが、アンテノーラが悔しそうな理由は「全員で逃げられなかったから」ではなかった。

 

 「皆が冷静なら、一人も欠けずに殺し切れたでしょうに」

 「うん……ん? え? 最終的には勝ったの?」

 「はい。ですが三人もの犠牲が……」

 

 アンテノーラは痛ましそうに言う。

 しかし、フィリップは半笑いだ。苦笑いとも呆れ笑いともつかないし、愉快そうでもあったが、アンテノーラに気遣って笑いを堪えている風ではない。

 

 引き攣った笑顔は、アンテノーラの語った内容と、彼女自体に向けられたものだ。

 

 存在格差は、数では覆せない。

 人間の中では最精鋭の兵士である衛士団が、魔術師抜きとはいえ数十人規模の古龍討伐隊を組み、それでも魔剣を手に入れるまで傷一つ付けられなかったように。或いは数では覆せない差があるからこそ、存在の格に隔絶が生じるのかもしれないけれど。

 

 そんなことはどうでもいい。

 つまり──彼女らマーメイドは、数さえいれば旧支配者を打倒し得る程度には上位の存在格を持っていることになる。或いは、ゾス=オムモグがただの生物との間に存在格の隔絶を持たない、劣等生物であったかだ。

 

 流石に、古龍以下ということはない……と、思うのだけれど。

 

 「クラゲといいサメといい、君たち人魚や邪神といい……海って怖いところだね」

 「意外ですわ。あれを見ても動じない貴方様にも、恐れるものがあるのですわね」

 

 揶揄い交じりに言うアンテノーラ。

 進行方向を向いたその表情はフィリップの位置からは見えないが、きっと声色通りの悪戯っぽい笑みを浮かべているのだろう。

 

 軽口に真面目に返すこともないだろうと、フィリップは小さく肩を竦めた。

 

 「沢山あるよ? オバケとかね」

 「あら。ふふっ……お可愛らしい」

 

 それから少し他愛のない話をしていると、星明りの中に海面以外のものが映る。

 見覚えのある海岸線、桟橋、船──しかしその奥にあるはずの質素な木造建築群は、もうもうと上がる黒煙に遮られて見えなかった。空中に浮かんだダゴンとハイドラといい、大火事にでも遭ったかのような村の様相といい、フィリップが謎の転移をしている間に全部終わってしまったようだ。

 

 「あれが邪神召喚の儀式、なのでしょうか? 私が生贄にされかかった……」

 「いや……あれはサービスだよ。まあ、顧客の求めていないことをするのは、サービスじゃなくて余計なお世話なんだけどね?」

 

 フィリップの言葉に、アンテノーラは含蓄のある言葉を聞いたとばかり深々と頷いた。宿屋の丁稚だった頃、偶に言われたことなのだが。

 

 それから二人はラグーンと外海を繋ぐ水道を通り、神殿の傍まで戻る。

 フィリップがその背中から降り、暴行を受けたまさにその場所に上陸すると、彼女は数刻前にそうしたように恭しく一礼した。

 

 「それでは、ごきげんよう。またいつか、必ず」

 「うん、まあ、多分会えると思うよ。トルネンブラがそうするはず。……それまで元気で、もうディープワンなんかに捕まらないようにね」

 

 今度はフィリップが揶揄い交じりに言う。

 まあ、そもそもちゃんと戦えば──気が立っているからと暴走気味に戦ったりしなければ、彼女が深きものなんかに負けるとは思えないけれど。

 

 「はい。貴方様も、どうかお元気で」

 

 アンテノーラは数刻前と同じように、度々振り返って名残惜しそうに手を振りながらラグーンを横切り、やがて見えなくなった。

 

 こちらも数刻前と同じように、見えなくなるまで手を振り返していたフィリップは、一息つくと不愉快そうに鼻に皺を寄せる。

 周囲には潮と森の臭いだけでなく、火災を警告する焦げた臭いと、腐臭にも似た鼻に纏わりつくような臭気が漂っていた。

 

 「さて、と……。なんか臭い……なんだっけ、この臭い? どこかで嗅いだんだけどなぁ……」

 

 首を傾げながら、フィリップは馬車の方へ戻る。

 途中、馬車を囲う黒山羊の一匹がフィリップの臭いを嗅ぐように鼻を鳴らしたが、一歩近づいた途端、フィリップの冷たく咎めるような視線に射貫かれて怯えたように頭を下げ、へたり込むようにして伏せた。

 

 跪き首を垂れるナイアーラトテップの化身達が傍に控える道を、フィリップは驚きもせず、初めて見る化身に興味の一瞥を呉れることもなく、平然と歩く。

 

 道の途中にはカノンも跪いていたが、彼女は大量の外神に怯えて畏縮しきり、もう震えることすらできない有様だ。

 

 焚火の側でフィリップを待つマザーの所へ向かう道すがら、黄金の騎士の前で足を止めた。

 

 「あぁ、マイノグーラの魔剣か……。この臭い、毒って言ってなかった?」

 「はい。風のある場所ですので、ヒトの身でも影響はないかと」

 

 跪いたまま顔だけを上げ、黄金の騎士は僅かに陶然とした表情で答える。いつの間にか、顔を覆うフルフェイスヘルムは取り払われていた。

 

 「そう。駆除は済んだみたいだけど、もう報復まで終わっちゃった?」

 「とんでもない。フィリップ君、私は勿論、君が最早“駆除”などという甘い裁定を望んでおられないこと、理解していますよ」

 

 フィリップの問いは宛先を明確に持っていなかったが、ナイ神父がすぐに答える。

 

 薄い笑みを浮かべたフィリップは、近くの木に見覚えのある顔が三つ、縛られていることに気が付いた。木の幹に身体を縛り付けているのはロープではなく、捻じれ、細長く伸長された自らの四肢だ。

 

 「ショーはこれからです。どうぞ、特等席でご覧ください」

 

 ナイ神父が恭しく示した先で、黒山羊に腰掛けたマザーが自分の膝をぽんぽんと叩いた。

 

 確かに特等席だ。だが。

 

 「どれだけ面白い演目でも五分で寝ちゃいそうですね……」

 

 村人たちがどんな末路を辿るのか──外神がどういう“報復ショー”を見せてくれるのか、見てみたい気持ちは、まあ、ないわけではない。

 だが、その興味は眠気を押すほどかというと、そこまでではない。

 

 劣等生物がどう苦しんでどう死ぬかなんて、フィリップが知った事じゃあない。

 自分の命令がどんな結果を齎すのか、どんな地獄を作り出すのかなんて、どうでもいい。

 

 言葉通り、フィリップはマザーの抱擁を受けてから僅か三分で眠りに落ちる。

 

 しかし、外神たちの夜宴は終わらず、フィリップの眠りを妨げぬよう音を殺された悲鳴は夜通し響き続けていた。

 

 そして翌朝──外神がいた痕跡などは一つもなく、村の()()()()は、不愉快な思いをさせて申し訳なかったと丁寧に頭を下げて、一行を見送る。

 

 馬車の中で寝袋に包まった状態で目を覚ましたエレナとリリウムは、内容は覚えていないが悪夢を見たと、揃って今にも吐きそうな顔色をしていた。

 

 

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ19 『漁村』 グッドエンド

 技能成長:【水泳】等、使用技能に妥当な量のボーナスを与える。

 特記事項:なし


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それは“呪い”か?
454


 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ20 『それは “呪い”か?』 開始です

 必須技能はありませんが、高い魔術能力と知識の保有、またはそれを有する同行者の存在は強く推奨されます。
 推奨技能は各種戦闘系技能、調査系技能です。


 ある日の昼下がり。

 気怠い夏の空気のなか、フィリップは高級そうなアンティークのティーテーブルに着き、漸く慣れてきた高い茶葉と茶菓子に舌鼓を打っていた。

 

 部屋は単に室内であるという理由だけではない、不自然ながら快適な室温に保たれている。

 

 「カール殿下から聞いてるよ。最近、すごく充実しているみたいだね」

 

 フィリップの正面に掛けたこの家の主、フレデリカが我が事のように嬉しそうに言う。フィリップは一瞬だけ、彼女の交友関係を意外に思ってしまった。侯爵家の跡取りであり、救国の賢者と称される彼女が王子と親密でも、何らおかしなことは無いというのに。

 

 「はい、お陰様で。先輩が作ってくれたフリントロックも重宝しています」

 

 冗談めかして上機嫌に、しかしリップサービス抜きで心の底から、フィリップは「お世話になっております」と頭を下げた。

 

 漁村での一件から数か月。

 

 冒険者パーティー“エレナと愉快な仲間たち”はC級の依頼を片手間に、カール王子から持ち込まれる高難易度の依頼を複数回こなし、着実に実績を積んでいる。彼が報酬として開示してくれたカルトを、フィリップ個人が狩って回ることも、パーティー内で認められてきた。

 

 勿論、その大半は魔王や悪魔を崇拝するありがちで蒙昧なもので、偶にフィリップが手を下すまでもない自然な信仰まで混じっていた。この世のカルトは大抵そんなものだし、特に期待外れではなかったのだが、一度だけ“啓蒙宣教師会”の絡んだ本物がいた。

 

 彼らの末路は、まあ、語るまでも無いだろう。フィリップは彼らとの遭遇をとてもとても喜んだ。

 

 特に普段の依頼の中で予期せぬ人死にや人類領域外の存在との邂逅があったりもせず、フレデリカの言葉通り、この数か月はとても充実していた。

 

 「そんな君に、私からも一つ依頼だ。実質無報酬、非公式だから実績にもならない。どうかな?」

 「なんでやる気を削ぎにかかるんですか。先輩の困りごとなら、タダでもしんどくっても力になります」

 

 フリントロック・ピストルの整備や弾薬の補給だけでなく、蛇腹剣『龍貶し(ドラゴルード)』のメンテナンス、冒険の中で使う応急処置キットや異常環境下で活動するための特殊な薬品の調達、ミナの血を使うまでも無いちょっとした怪我の治療まで、彼女には普段から頼り切りだ。

 

 勿論その都度報酬は支払っているが、それも殆ど材料費くらいだったし、恩を返す機会があるなら是非にといったところだった。

 

 「……嬉しい言葉だけど、安請け合いは頂けないな。勿論、君を安く買うつもりはないけれどね」

 

 言って、フレデリカは一度席を立ち、両手サイズの木箱を持って戻ってきた。

 

 彼女は少しだけ勿体ぶった手つきで蓋を開け、中を見せる。

 緩衝材に包まれた中身は、どうやらフリントロック・ピストルの親戚だ。握把の部分以外が金属で、銃身部が倍近く太くなっている。しかし許可を得て持ち上げてみると、重さは少し増した程度だ。

 

 「……これは?」

 「フリントロック・ピストルの改良……いや、改造版、だね。その試作品だ。ふと思いついて作ってみたはいいものの、私には実戦下での使い勝手がよく分からなくってね。君にはそれをテストして、レポートしてほしい。気に入ったのならそのまま使ってくれていいよ」

 

 改良ではなく改造と言い直したことに、フィリップは多少の疑問を持つ。

 しかしそれより、もっと大きい疑問点があった。

 

 「それは構いませんけど……どうしてこれを? 先輩も冒険者になるってわけじゃないですよね?」

 

 フリントロック・ピストルは過去に彼女が言った通り、()()、火薬の力で鉄礫を飛ばすだけの道具だ。

 投石紐より扱いが簡単で狙いが付けやすく、習熟すれば1秒以下で攻撃でき、携行性と奇襲性に極めて優れているが……突き詰めれば、ただの発射装置でしかない。フィリップが思いつく使い方は、人を殺すか魔物を殺すか獣を殺すか、後は物を壊すくらい。

 

 錬金術や薬学、医学に使える類の道具ではないだろう。

 

 「勿論。道楽で冒険者の真似事をする貴族は偶にいるけれど、大抵は怪我をするか、怖い目に遭って止めるからね。それに、私はそこまで暇じゃない。ただ……私たちのような学徒、研究の徒は、良くない癖があるんだ。仮説検証癖……思いついたら確かめてみたくなる、という悪癖がね」

 「あはは……」

 

 過去、フレデリカが王宮の宝物庫に納められていた龍の心臓を、発明品の試作機に使った挙句「じゃあ本番なのでもう一個下さい」と言いに来た──なんていう逸話をステラから聞いたことを思い出し、フィリップは苦笑するほか無かった。

 

 尤も、そのお陰で“眠り病”は早期に解決でき、この国のみならず大多数の魔術師が救われたわけだが。

 

 「じゃあ、仕様説明に移るよ。基本的な操作方法はフリントロック・ピストルと同じで、先端から火薬と弾を込めて、トリガーを引くと撃鉄が落ち、火打石が火種を作る。そして発射だ」

 「えっと……どれが銃口ですか?」

 

 言われて、いつもフリントロック・ピストルに弾を込めるときのように銃口側を上向けにして持ったフィリップだったが、銃口らしき穴が六つ、円形に並んでいるのを見て眉根を寄せた。

 

 「全部だよ。それが今回の変更点その1で、最大の変更点だ。()()()()……フリントロック・ピストルの難点である連射性の低さを補えると思ってね」

 

 戦士ではなく研究者の、謂わば机上論的な思考であることは自覚しているのか、語るフレデリカの声には僅かながら不安感がある。

 

 だが問題ない。

 フリントロック・ピストル最大の弱点は、その装填速度の遅さだ。特に「これを見たものは必ず殺さなくてはならない」という縛りがある現状で、一撃外した場合の不利は凄まじい。フィリップは蛇腹剣や領域外魔術、最悪の場合でも邪神召喚と他に手札があるから、その弱点を無視できているだけだ。

 

 いや、他に手札があったから、これを持ち歩いているというべきか。これ一本で戦うことを、端から想定していないから。

 

 しかし六連射できるのであれば、或いはこれ一丁でも十分に戦えるかもしれない。勿論、相手との距離や武装にもよるけれど。

 

 「引き金を引くと、その丸い部分が回転するんだ。複数の銃身は回転することで順番に射撃位置に付き、順番に発射される。弾は入っていないから、動きだけ試してみて」

 

 フレデリカの言葉に素直に従うと、装填されていないそれは金属的な動作音を立てながら、銃身部が段階的に回転する。さながらコショウ挽き(ペッパーボックス)のように。連動して、銃上部にある撃鉄らしきパーツが硬質な音を立てて落ちる。

 

 引き金に連動して撃鉄が動くダブルアクション。

 自分の手で撃鉄を起こしてからでなければ引き金を引いても意味が無かったフリントロック・ピストルとは、それだけで連射性能に差がある。

 

 「凄いですね……。あれ? 導火薬はどこに?」

 

 フリントロック・ピストルは銃身内部、薬室の炸薬に、銃の外側にある火皿へ注いだ導火薬を使って点火する。

 しかしこれには、その火皿にあたる部分が見当たらない。

 

 「それが変更点その2。調合を少し変えて、火打ち石の火種から直接着火できる反応性の高い火薬にした。撃鉄の真下にある穴から、炸薬へ直接火種を落とすようになっている」

 

 撃鉄を起こして覗いてみると、確かに、銃身部に穴が開いている。

 射撃順以外の銃身の開口部は銃自体の構造で蓋がされるようだが、そのせいでパーツ同士の噛み合わせがかなりタイトだ。日々のメンテナンスを怠れば、途端に主人に牙を剥くだろうと察せられた。

 

 「ただ、撃鉄位置の関係で照星と照門を付けられなかったんだ。殆ど狙わずに撃っているって聞いたから、問題ないかと思ったんだけど……どうかな?」

 

 使用者のことをよく理解していると、フィリップは賞賛の意を込めて「大丈夫です」と応じる。フレデリカは「良かった」と頷きを返すが、まだ不安点があるのか、笑顔は微妙に硬かった。

 

 「それから……これは変更に伴って生まれた()()()なのだけど、連装化と携行性を両立させようとした結果、弾丸のサイズがかなり小さくなった。キミが以前から言っていた威力不足は、むしろ酷くなった……かもしれない」

 「かもしれない?」

 

 妙な言い方だと首を傾げるフィリップ。

 弾丸の大きさはつまり、破壊範囲と同義だ。そして破壊範囲が大きい方が、勿論、威力は大きい。弾丸が小さくなったのなら威力は下がるはずだ。

 

 そんな疑問を顔に明記したフィリップに、フレデリカは説明を重ねる。

 

 「連装化したことで熱伝導による暴発の危険や、暴発時の安全性に難があったんだけど、解決策を考えているとちょっと楽しくなっちゃって……フレームに最高級の錬金金属を使ったからね。火薬の威力も上げられたから、爆発の威力自体はむしろ上がっている。金属板標的への貫通性能は以前と同等なのだけれど……」

 「生物相手へのダメージ……破壊範囲はどうしても小さくなる。なるほど、その変化が実戦下でどう影響するか、それを確かめればいいんですね」

  

 漸く手の内の代物の性能に大方の想像がついたフィリップは、どんな結果になるのか想像を巡らせながら言う。

 

 弾丸サイズは半分ほどまで下がり、重量も比例している。しかし炸薬の威力が上がったことで貫通能力は据え置き、連射性能は大幅に向上。

 

 極論、どんな状況からでも一撃で脳幹部をブチ抜けるなら、六人連続で殺せるこちらの方が有用だ。

 しかし勿論、戦闘とはそこまで単純な局面ばかりではない。敵に背を向けた馬鹿を守るため、敵の動きを素早く確実に止めるとき、クイックドロウで脳幹を狙う余裕なんてない。最速のドロウレスで胴体のどこかに当てる。

 

 フリントロック・ピストルの口径であれば、胴体に当てればゾ・トゥルミ=ゴが倒れるくらいの衝撃力(ストッピングパワー)があった。しかし、これはどうか。

 

 「連射性というメリットが単発威力の低下というデメリットを上回るか……。いや、キミが使う上で、どちらがより役立つか。それを確認してほしい」

 「でも、僕の戦闘スタイルってかなり……あぁ、いや、そうですね」

 

 かなり特異な戦形をしている自覚のあるフィリップは、果たして意味のあるレポートになるのかと疑問を抱くが、それはすぐに霧散した。

 

 「うん。この武器を使うのはキミだけだ。念のために再確認しておくけれど、この武器のこと、仕組みや入手方法、製造者、その他全ての情報は絶対に秘匿するんだよ」

 「はい、勿論。ルキアも殿下も、勿論先輩のことも、守りたいですから」

 

 銃器という、仕組み自体は極めて簡易でありながら、奇襲性と携行性に優れた武器──暗器。

 その蔓延が社会へ与える影響、いや悪影響を及ぼす可能性を、フィリップはフレデリカにしっかりと教わっている。そしてステラも、その危険性には同意していた。

 

 それだけで、フィリップがこの武器の秘匿に全力を尽くすには十分だ。

 

 「分かってくれているならいいさ。あぁ、そうだ、これも見て欲しいな」

 

 フレデリカはもう一度立ち上がり、今度は一枚の紙を持って戻ってきた。

 何も書かれていない真っ白な、王都製の錬金紙に見える。王都外なら珍しいが王都内ではそれほどでもないし、フレデリカのような優れた錬金術師にしてみれば手慰みにもならない製品だろう。

 

 「えっと……紙、ですか? 薄いし、白くて綺麗ですね……?」

 「そう、紙だよ。ただし、成分が違う。これは言うなれば、紙状の火薬……あぁいや、そう警戒しないでいいよ。流石に火種も無く爆発したりしないし、単純に燃えやすくて、燃やしたときに灰や煤が出ないってだけだから」

 

 片手で適当に、普段メモやプリントを取るときのように持ち上げようとしたフィリップは、火薬と聞いて両手で、そして慎重に取り上げた。

 その様子が可笑しかったのかクスクスと笑うフレデリカだが、その笑みも相俟って揶揄われているようにも思える。そのくらい、何の変哲もない紙だ。

 

 「連射性の向上に、別方向からアプローチ出来るんじゃないかと思ってね」

 

 

 

 

 

 



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455

 フィリップがコショウ挽きのような(ペッパーボックス)ピストルを受け取ってから、実時間では二日後。

 ……投石教会で習熟訓練をしていたフィリップの体感ではもう少し長いのだが、それはともかく、冒険者パーティー“エレナと愉快な仲間たち”は、王都近郊での魔物駆除という特段面白みのない依頼をこなし、王都の公爵家別邸に戻ってきた。

 

 夕食も風呂も済ませて、しかし寝るには少し早く、談話室のソファで本を読んでいたフィリップは、鼻を擽る石鹸と花のような香油の匂いに引かれて振り返る。

 

 毛足の長い高級な絨毯の上とはいえ足音も気配も無くソファの後ろまで近づいていたルキアが、突然の動きに驚いたように肩を跳ねさせる。フィリップはその動きに驚き、彼女と全く同じ反応をしてしまった。

 

 「……こんばんは、フィリップ。少し時間を貰えないかしら」

 「勿論いいですよ」

 

 何事も無かったかのように美しい笑顔を浮かべたルキアに、フィリップは照れ臭そうに笑いながら座る位置を横にずらす。三人掛けソファの真ん中にいたので、別に移動の必要は無かったのだが。

 隣にルキアが座ると、また石鹸と香油の匂いが鼻先に届いた。どうやら彼女も風呂上りらしく、黒いゴシック調のワンピース姿──つまり普段着ではあるが、抜けるように白い肌が少しだけ紅潮している。

 

 時間があったので駄弁りにきた……という、いつもの感じではない。雑談するのに「時間を貰えないか」なんて尋ねるほど、ルキアとフィリップの間柄は堅苦しいものではない。

 

 妙に改まったルキアの雰囲気は、彼女が提起した話題に相応しいものだった。

 

 「“呪い”について知っていることがあったら、可能な範囲で教えて欲しいのだけれど」

 

 呪い──穏やかではない言葉だ。

 

 「え? うーん……僕が知ってるのって、精々“拘束の魔眼”と“契約の魔眼”を喰らった時の感覚ぐらいですよ? なんせ“眠り病”にも感染しなかったほどなので」

 

 強い魔術耐性の持ち主であるルキアと違い、フィリップには魔眼がほぼ無抵抗で通る。そしてその魔術適性の無さ、魔力への感応性の低さ故に、魔力を感染経路とする“眠り病”はフィリップに感染しなかった。

 

 現代魔術とは別の魔術体系である“呪詛”のことを指しているのだとしたら、フィリップは殆ど役に立たない。というか、どちらかといえばルキアの方が専門だろう。

 

 「ん? あぁ、ごめんなさい、言葉が曖昧だったわね。魔術の一体系、一つの技術として確立している“呪詛”ではない、物理法則や魔術法則の埒外にある怪奇現象、不確定事象としての“呪い”のことを言いたかったの」

 

 “呪い”という言葉が持つもう一つの意味。

 魔術系統の一つを指す俗称ではなく、本来の意味での“呪い”。人か人外──主に霊的存在や悪魔などによる、精神的アプローチでの非直接的加害行為。

 

 遺跡に入った冒険者が「呪い」によって不可解な死を遂げる展開は、冒険譚などでは珍しくないが、現実では全く聞かない。死人に語る口は無いので、当然と言えば当然だが。

 

 「どちらにせよ、ですけど……。何かあったんですか?」

 「実は……」

 

 ルキアは公爵領のある街で行われている大規模な工事が、不規則ながら連続的に発生した人身事故によって、大幅にスケジュールが遅れていることを語った。

 それから、大抵の場合に於いて事故の原因が判然とせず、また原因が分かっても不自然なものだったりすることから、作業員たちの間で「呪い」という言説が流れていることを。

 

 ルキア自身の主観や感情を交えず淡々と情報を並べてはいたが、僅かながら「呪い」に対する恐怖が感じられた。

 彼女が特別怖がりだというわけではない。ルキアの過去の経験や、呪いなのかもよく分からない特異性に塗れたフィリップという実例を知っていることは、「呪い」に対する忌避感とあまり関係は無い。

 

 なぜなら、「呪い」は実在するからだ。

 

 「なるほど……? 幸運を操るとか、確率を操作するとか……? それは確かに、物理でも魔術でもない謎の技術ですけど、まさか土木屋さんがドラゴンスレイヤーの集団ってことはないでしょうし」

 「そうよね……」

 

 魔術的作用では説明のつかない事象を引き起こす“呪い”を受けた人物を、フィリップは既に知っている。

 古龍を殺し、呪いによって寿命の半分を失った衛士団長。そして王龍を殺し、同族を喰らわなければ生きられない醜いモノに変えられたという、吸血鬼の始祖。フィリップが知っているのは、それを殺して喰らい同じ存在となったディアボリカと、その娘であるミナだが。

 

 そして同じく魔術的作用では説明のつかない「霊的存在や悪魔などによる、精神的アプローチでの非直接的干渉」の例として、「加護」がある。

 「祝福」と呼ばれることもあるそれは、本質的には呪いと同じものであり、益となるか害となるかの違いだと考えられている。そしてルキアは、唯一神の祝福を受けた聖人だ。

 

 ()()()()()()として、むしろ呪いや祝福を普段意識していない一般人より身近にある。鏡を覗けば、目の中に見えるのだから。

 

 勿論、邪神のことを──人間の知識や能力では説明も理解も出来ない存在のことを知っているだけに、「異常現象」に対して神経質になっているのもあるだろうけれど。

 

 「家の者を調査に遣ったのだけど、何も分からず仕舞いで。今度、私が自分の目で確かめようと思っていて……フィリップにも付いてきて欲しいのだけど、お願いできるかしら? その、万一の場合に備えて、“異常現象”の専門家として」

 「勿論いいですよ。……まあ、専門家としてというか、万一の場合にルキアを守るためにですけど」

 

 二つ返事で頷くフィリップだが、求められている通りの役割を果たせるかは疑問だ。

 

 残念ながら、或いは当然ながら、フィリップは領域外魔術や邪神絡みのあらゆることを知っているわけではない。

 呪いと聞いて思い当たる邪神はゼロではないが、邪神が出現したなら工事が遅れる程度の被害では済まないだろう。となると邪法やカルト、或いは智慧にない神話生物の関与が疑われるが、どちらにしてもフィリップはその対策方法を知らない。

 

 「術者や原因を見つけてブチ殺す」以外の解決策を知らない、と言うべきか。

 まあ反対魔術とか抵抗魔術とか、そんなものがあったとしても、フィリップには使えないか、使っても魔力が貧弱過ぎて対抗できないかのどちらかだ。

 

 ともかく、その正体が何であれ、「呪い」と聞いては、あまりルキアを近づけたくはない。

 邪神やカルト絡みでなくても、彼女は一度、悪魔の残した呪詛である“眠り病”によって死にかけているのだから。

 

 もしかしたら今回も悪魔の仕業で、案外、ルキアの神域級魔術一発でカタが付く程度のことかもしれないけれど、それならそれでいい。公爵領までちょっとした旅行に行くだけだ。

 

 「……ありがとう、心強いわ」

 「役に立てるかは分かりませんけどね。ルキアは、その“呪い”が()()()()のものだと睨んでるんですか?」

 

 嬉しそうに、そして安堵したように穏やかな笑みを浮かべたルキアに、フィリップは少しだけ照れ笑いを浮かべる。

 その笑顔を数秒程で引っ込めて真面目な顔で尋ねると、ルキアも同じ表情を浮かべて頭を振った。

 

 「いいえ、そこまでは、まだ。でも、家の抱える魔術師でもそこそこ目の良い者を送ったのに、魔力残滓の一つも見つけられなかった。それも一人ではなく、三人も。……この程度で何か特異なことが起こっているかもしれないと警戒するのは、フィリップにしてみれば杞憂かもしれないけれど──」

 「いや、いい警戒です。勿論、何から何まで疑うべきだとは言いませんし、過剰に怖がるぐらいなら無知である方がマシかもしれませんけど」

 

 フィリップは今度は上機嫌な、よくやったと褒めるような笑みを浮かべる。

 

 過剰な恐怖は狂気の元だが、恐怖の不足は死に繋がる。

 ルキアが抱いている恐怖の量は、そのちょうど中間くらい──警戒として正しい分量だ。まあ相手によっては恐怖の強さなんて関係なく、出会った瞬間に発狂するか死ぬかの二択を押し付けてくるので、正しく恐れていれば安全というわけではないのだが。

 

 しかし、だ。

 

 「けど、ルキアと殿下には僕がいますからね」

 

 恐怖を拭い去る方法が、ここに在る。

 絶対に発狂せず、出会ったら死ぬか発狂するレベルの神格の知識を持ち、対抗可能な存在の召喚やその特異な存在故に相手の方が退くという、二つの対抗策をも持ち合わせるフィリップが。

 

 ステラが国内のカルト掃除に使うくらい優秀な猟犬だ。こんな人材、そうはいない。

 

 「今回だけじゃなくこれからも、怖いと思ったら……いえ、怪しいとか不自然だと思ったら、すぐに僕に教えてください」

 

 ヤバいと思ったら突っ込ませれば、全部殺して帰ってくる。

 怪しいところに突っ込ませて、邪神絡みだったら解決して帰ってくるし、敵が普通の魔物でも逃げ帰るくらいの強さはある。敵が普通の魔物なら──見ても問題のない相手なら、ドラゴンのようなとびきりの化け物以外、一撃で消し飛ばせるルキアやステラが対応すればいい。

 

 ステラはそれがフィリップの最適な運用方法だと分かっているし、フィリップもそうあることを望んでいる。お互いに、頼れる部分では頼ればいいのだ。

 

 そして普段から二人に頼ることの多いフィリップとしては、この数少ない恩返しの機会に全力で当たるつもりだった。

 

 全力……となると。

 

 「万が一に備えて、エレナたちは置いて行ってもいいですか? 毒物が絡んでいた場合のことを考えると、彼女は滅茶苦茶頼れるカードですけど……邪神を仮想敵に据えると枷でしかないので」

 

 漁村ではエレナの知識と感覚に助けられたが、そもそも漁村の事件はフィリップが「まあいいか」なんて甘い判断を下したところから始まった。「神話生物だが、ルキアやステラの目に触れない場所でひっそり生きているくらい、まあいいか」と。

 

 だが今回は違う。公爵領内の街ということは、ルキアが触れてしまう可能性が十分にある場所だ。初めから駆除を前提に、場合によっては最も隠密性に長けた邪神であるナイアーラトテップを投入することも視野に入れて動く。

 まあ、本当に頼ったら死ぬほど煽られることになるだろうから、結構な最終手段にはなるけれど。

 

 パーティーメンバーの残りの二人、特にリリウムは論外だ。

 ミナは戦力としても回復役としても非常に心強く、居てくれるとありがたいが、発狂した時に一番怖い相手でもある。ノフ=ケーのいた森でパラノイアを患ったのがエレナではなく彼女だったら、間違いなく全員死んでいた。

 

 カノンも一応パーティーメンバーに入るが、ルキアには接触というか接近すらさせたくないので、リリウムとは違った理由で論外。投石教会に置いて行く。

 

 フィリップの本気度が声色や表情から伝わったのか、ルキアは少しだけ嬉しそうにしながらも真剣に頷いた。

 

 「貴方に任せるわ。何か用意するものとか必要な人間がいたら手配するから、何でも言って」

 

 主従の逆転したような──フィリップの調査をルキアが手伝うかのようなことを言われて、フィリップは可笑しそうに頷きを返した。

 

 

 

 



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456

 旅の準備やパーティーメンバーへの説明を終えたフィリップは、王都から馬車で街道沿いに十日以上かかる公爵領へ向けて出発した。

 

 フィリップたちが乗る馬車の他に、護衛の騎士や従者などが連れ立ち、馬車数台に騎兵十数名、総勢五十人以上の大所帯だ。

 

 そして数日後。

 視界の開けた街道を進む馬車の中にはフィリップとルキア、オリヴィア公爵夫人、そしてフィリップの肩を抱き寄せて愛玩しているミナがいた。

 

 「……フィリップは貴女に「ついてくるな」と言ったはずだけれど」

 

 不機嫌さを隠し切れていない声でルキアが問う。

 問うというか、もう殆ど存在否定じみた冷たい声だ。

 

 一応、出発から数日の間、ミナは居なかった。

 ところが昨夜、宿のフィリップの部屋にふらりと飛んできたかと思うと、血を吸ってそのまま同じベッドで眠り、今もこうして同行している。

 

 「そうね。「一人で行く」とは言っていたけれど」

 「「王都に居ても退屈だったのよ」と言われたので」

 「「そう? それじゃあ」って、すぐ納得したわね」

 

 フィリップがミナの言葉を、ミナがフィリップの言葉を再現して語られたのは、あまりにも単純な会話だった。

 その会話がされた当時にフィリップが感じていた眠気の強さが窺えるが、もし吸血直後の酩酊感が無かったとしても、どうせ似たような会話の展開だっただろう。

 

 フィリップは最重要事項以外、ミナの行動を縛らない。

 人間は吸血鬼の行動を縛れないし、フィリップ自身が人間であるために、その一般的な常識に沿うよう行動する。

 

 ルキアもそれを薄々感付いているから、「そう。まあ、フィリップが良いならいいけれど……」と不機嫌ながらも許容した。

 神罰術式という対邪悪特攻、10万の命を持つミナでさえ一撃で塩の柱に変える切り札を持つルキアは、食人の化け物と同じ馬車でも然程のストレスはない。

 

 しかし、ルキアほど傑出した戦闘能力を持たないオリヴィア公爵夫人は、穏やかな微笑の仮面を一瞬だけ崩した。

 

 フィリップがそれに気付いたのは偶々だったが、気付かないふりをするよりはマシだろうと、気を紛らわせるような話題を探す。年齢も性別も何もかも違う相手なので、会話にのめり込めるような話題は無いだろうが、黙ってミナを注視し続けるよりは健全だろう。

 

 「公爵領って、王国東部ですよね。高難易度のダンジョンが幾つもあるとか」

 

 特に宛先を示したわけでもない言葉だったが、フィリップの顔の向きと気遣うような視線で意図を察したルキアは、黙って隣に座った母親に目を向けた。

 

 夫人は気遣われたことを察していたが、今度は内心の自嘲や気恥ずかしさを完全に制御し、完璧な微笑と共に頷く。

 

 「えぇ。王国の首都である王都と、帝国の首都である帝都、聖国の最重要都市である教皇領。これらを繋ぐ二つの主要街道で、それぞれ最も国境に近い関所を有する城塞都市。複数の金山と農産地帯、そして大陸最大のダンジョンである“ペンローズの(うろ)”を含む複数の大型ダンジョンを領内に持つ、王国東部の統括者。それが、私たちサークリス公爵家よ」

 「ペンローズの虚……カッコいい名前ですね」

 

 目を輝かせたフィリップの少年的感性には同意しかねたのか、ルキアと夫人は「そうね」と愛想笑いで応じた。

 

 「現在領地を持つ貴族のうち約2割が、国王から与えられた土地ではなく公爵領の一部を行政委任という形で分け与えられた、()()()臣下……でしたよね、確か。あれ、2割でしたっけ? 学院で習ったはずなんですけど……」

 「学院では3割と教えられたわね。実際は概ね3割強かしら」

 

 ふわふわしたことを言うフィリップに、ルキアも微妙にはっきりしない答えを返す。

 

 そもそも国土の表面積が厳密に算出されていないし、所領がどこからどこまでなのかもそれほど厳格に定義されていない。「この街道に沿って」とか「この山や川が境界で」と決めているところもあるが、大抵は「こっちの街はA領で最寄りの街はB領。間はまあ、なんとなくね」くらいの緩さだ。

 

 緩い方が、貴族には都合が良い。

 

 領地は広ければ広いほどいい、というわけではない。

 その最たる理由は、金だ。特に防衛・保安費。領主には所領の防衛義務や魔物の駆除義務があるから、領地が広ければ必然的に防衛費の負担が大きくなる。盗賊や他国の違法商人──特に奴隷商、そしてカルト。領主が駆除しなければならない敵は数多くいる。万が一にも「居たのを知りませんでした」なんて言い訳をしようものなら、それはもうとんでもない罵詈雑言が四方八方から飛んで来るような敵が。

 

 しかし街中や街道近辺はともかく、人のいない山中や森、荒野の類は、その手のアングラな輩が住み着きやすく、保安の手が行き届きにくい。なんせ通報する人間がいないのだから。

 

 だからそういう場所は敢えて所有権──保安責任の所在を不明瞭にして、万一の場合に言い訳が立つようにしてあるのだ。

 

 王国としても、人間の集合である以上犯罪者が湧くのは仕方がないことだと分かっているし、魔物が湧くのは誰かのせいではないと分かっている。どうしようもない自然災害のようなものだ。

 大規模な被害が出るまで放置していたとなれば話は別だが、優秀な貴族をつまらない理由で罰しなくて済むように、「それなら仕方ない」と言える言い訳を黙認している。尤も、言い訳が認められるかどうかは王の裁量──その貴族の存在が国益となるかどうかによるけれど。

 

 「……覚えました。そういえば、ミナも領主だったんだっけ?」

 

 何かオリヴィア夫人が親近感を覚える話題でもないかと探るフィリップ。

 夫人はむしろ、その気遣いの方に心を和ませていた。

 

 ミナは少しの間、フィリップの質問に思考を巡らせる。イエスかノーで答えられる簡単な質問のつもりだったフィリップだが、実際はそこまで単純ではなかった。

 

 「領地を持っていたかという意味ならイエス、領地の運営をしていたかという意味ならノーよ。“防衛”なら、イエスだけれど」

 

 答えの意味を測りかねて、フィリップは出会ったばかりの頃のミナを思い出す。

 “最も正統な吸血鬼”。そう呼ばれ、100人の配下を従えて、荒野を行く全ての人間に、古城へ接近するあらゆる外敵に、分け隔てなく死を与えていた時分を。

 

 あれは、なるほど、確かに「防衛」ではあっても「統治」ではなかった。実際、実務は殆ど配下に丸投げしていたし。

 他の吸血鬼を統括する立場ではあったようだが、その吸血鬼も臣民というより従僕と言った方が正しい関係だろう。

 

 「ミナは聞く限り、お父様に近いわね。魔王から授かった領地を更に配下に分け与えて、統治させていたのでしょう?」

 「えぇ、そうよ。というか……私より古い()()の吸血鬼やら、目と頭の悪い悪魔やらを向かってくる端から撫で斬りにしていたら、いつの間にか吸血鬼のトップで魔王の配下ということになっていたのよね」

 

 昔を懐かしむ目で語るミナに、人間三人は「あぁ……」と納得顔だ。

 今はペットを抱いて頬ずりなんてしているが、彼女は何ら否定する余地のない化け物だ。「そこに居たから」人を殺すし、「面倒だから」血を分けた配下でも見殺しにする。

 

 その彼女が自分から魔王に傅くところを想像するのは、少し難しかったのだが……「気が付いたらそうなっていた」ところは、簡単に想像できた。配下の吸血鬼が「その方がいいですよ」と彼女を説き伏せるところも、魔王の軍門に下る際にあったであろう雑事を全て引き受けるところも。

 

 「へぇ……、っと!?」

 

 ミナの言葉で新たな疑問を抱いたフィリップだったが、それを言葉にする前に、がくんと身体が前傾する。

 急停止した馬車の慣性を喰らったのはフィリップだけで、進行方向に背を向けて座っていたルキアとオリヴィア夫人は多少の嫌悪感を露にする程度、ミナに至ってはフィリップを抱き寄せて転倒を防いでなお余裕の表情で座っていた。

 

 「……魔物ね。護衛に任せてもいいけれど、少し運動する?」

 

 ルキアが窓を覗き、相手を確かめてから言う。つまり、フィリップが「少し運動」出来る程度の相手ということだ。

 ちなみに、ただの馬車ならルキアは窓を覗くまでも無く魔力視で外を確認できるが、この馬車では無理だ。外部からの魔術攻撃対策に、魔力視を阻む特殊な素材が使われている。

 

 「いいですね。実はちょうどお尻が疲れてきたところだったんですよ」

 

 言って、フィリップは馬車の扉を開けてタラップを飛び降りる。

 

 どんな魔物なのだろうと護衛の騎士たちの視線を追うと、大きく発達した二つの牙と一本角を持つイノシシ型の魔物、トライスピアだ。

 一般的なイノシシと同サイズの通常個体が数匹と、ひときわ大きいボス個体が一匹。ボスは体高約1.5メートル、体長2メートルといったところだ。体重も相応にあるだろう。厚い毛皮は並の弓矢を弾き、鉄の剣をも跳ね返すことがあるという。

 

 学院の冒険者過程で習ったデータによれば、魔術攻撃能力のない純近距離型。勿論、身体の全てが魔力で構成された魔物だけあって耐性は高く、フィリップの魔力では耐性貫通力に長けた『深淵の息』でさえ、密着した状態からでもレジストされるだろう。だが魔術攻撃は飛んで来ない。

 

 そして見て分かる通り、目は二つ。鼻は利くだろうが、こちらの具体的な位置を正確に割り出せるとは思えない。

 

 蛇腹剣一本で、十分に殺せる相手だ。

 

 「カーター様、我々で十分に対処可能な魔物です。お下がり──っ、いえ、失礼いたしました」

 

 慌てたように駆け寄ってきた騎士が、オリヴィア夫人の身振りのみによる指示を受けて下がる。

 

 フィリップが剣を抜くのと、車列の最前と最後にいた馬車から数名の魔術師が降り、魔術砲撃を準備するのは全くの同時だった。

 

 「えっ」と小さく声を漏らしたのはフィリップだけではない。

 フィリップは迂闊に突っ込んだら巻き添えを喰らって吹き飛ばされると確信して止まり、魔術師たちはキルレンジに突っ込みそうな要人を見て止まる。

 

 魔力を読む力を持たないフィリップではあるが、生成された砲弾──火球や岩塊のサイズを見れば魔術の等級や概ねの威力は分かる。伊達にAクラスで戦闘魔術師の卵に囲まれて育っていない。

 

 「魔術攻撃中止! 各自、照準状態で待機せよ!」

 

 態々車列を止めたのは「念のため」程度の安全策でしかなく、本当なら走りながら魔術砲撃で魔物を駆除できただろうと察せられる。

 それを妨げる命令を出させたのが自分だと分かって、フィリップは大いに慌てた。プロの邪魔をするのは本意ではないのに、と。

 

 「え、あ、そこまでしていただかなくても……。なんかすみません、すぐ終わらせますので……」

 

 フィリップは車列の前後にぺこりと頭を下げ、足早に魔物の群れの方へ向かう。

 魔術砲撃の予兆に怯んで動かない今なら、言葉通りすぐに片づけられるだろう。

 

 その確信と共に突撃したフィリップは、想定通りに通常個体のトライスピアを半分、撫で斬りに倒す。正しい角度と正しい力、そして正しい脱力の下に振るわれた龍骸の蛇腹剣は、鉄鎧にも等しい高度の毛皮を難なく断ち切った。

 

 それだけ殺されて漸く再起動した群れの残り半分は、咆哮を上げるボス個体の後ろに隠れる。

 しかしその時にはもう、フィリップはボスのすぐ傍で蛇腹剣を伸長させて振りかぶっていた。

 

 「ふ──ッ!!」

 

 鋭い呼気で力みを散らし、抜力した鞭の動きで蛇腹剣が振るわれる。

 刃渡り四メートルにまで伸びた刃は、突撃のため短く太く強靭なイノシシの頸を殆ど無抵抗に通り抜け、落とした。

 

 フィリップは噴き出す血飛沫を避けて大きく下がり、曲芸じみた動きで蛇腹剣を直剣形態へ戻す。再突撃の前にちらりと後方へ視線を向けると、残った魔物はその隙を突くように攻勢に出る。

 

 相手が獣なら、群れの半数とボスが殺されたら、生存本能に従って一斉に逃げるだろう。

 しかし相手は殺戮本能のみで動く魔物。逃げるという選択肢は端から無く、思考は「殺す」一辺倒だ。

 

 トライスピアはそれほど上位の魔物ではない、というか、駆除依頼がC級冒険者に割り振られる程度の相手。止まっていなくても、動きの読みやすい突撃状態なら十分に仕留められる。

 

 フィリップは魔術砲撃による支援を目礼で断り、残った魔物も全て斬り伏せた。

 

 「お見事です」

 「あ、いえ、あれぐらい魔術攻撃なら3秒で終わっていたと思いますし……。なんかホントすみません……」

 

 オープンフェイスのヘルムを被った騎士はにこやかに賞賛してくれたが、フィリップは居た堪れない表情でまた頭を下げた。

 

 

 

 

 

 



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457

 王都を出てから約二週間。

 フィリップたちは目的地である公爵領内の街『ミュロー』に到着した。

 

 町外縁を守る石の外壁があるのは、中規模以上の都市には普通のことだ。しかし、その開口部が他の街と比較して異常なほど大きく、道と並んで大きな川が流れているのは特徴的だった。運河だろうか。水を通し船を阻む格子状の水門、道を遮る木と鉄で出来た門の二つを擁する外壁となると珍しい。

 

 道幅もかなり広く、馬車や人が数多く行き来するのだろうと分かった。

 

 門を守る衛兵が荷物や乗員の確認をしたときに、ルキアとオリヴィアを見て硬直するという一幕こそあったものの、それ以外は何事も無くスムーズに街に入る。

 

 石造りの建物が整然と並び、大通りの横には運河の流れる大規模な町だ。

 王都ほどではないが人口も多そうで、通りにも店先にも活気がある。運河には荷物を載せた船が上り下りですれ違い、人員輸送用のゴンドラ船から停留所に飛び移る腕白な子供の姿も見えた。

 

 町中に大きな川が流れているのは珍しいが、それ以外の部分、道路整備や並んだ建物自体は、それほど特異なものではない。

 

 「……思ったより普通ですね? いや、都会ではあるんですけど、王都ほど華やかじゃないというか。建物も普通に石とか煉瓦みたいですし」

 

 建築技術も建材も何もかもがトップクラスの王都と、それ以外の都市を比べること自体がナンセンスではある。

 しかしそれを抜きにしても、町並みはやや古めかしい印象を受けた。建材や建築様式が流行に乗っていない、というか、はっきり言うと古臭いデザインだ。

 

 フィリップの言葉にミナは「そう?」と首を傾げていたが、ルキアは「そうね」と軽く頷く。

 

 「えぇ、そうね。というか、国境付近の街は壊しやすく直しやすいようになっているのよ。古い防衛政策の一環でね」

 

 言われて初めて、フィリップはここが国境の近くなのだと知った。

 長く馬車に揺られてはいたが、現在位置を全く気に掛けなかったのは、多くの旅慣れた護衛を擁する車列の一員である安心感が大きな理由だ。また街道から離れて移動することも無く、迷子になる心配がなかったこともある。

 

 要は、慣れた人間に丸投げしていたのだ。

 

 それに、王都から遠く離れているなら、人類社会を汚染するような何かと遭遇したとき、余裕を持って対処できる。流石にルキアの実家が持っている領地なので、前回のように見逃すことは無いけれど。

 

 フィリップが道中で意識を向けていたことは、専らルキアのことだった。

 別に彼女が今にも“呪い”で倒れるのではと怖がっていたわけではない。単純に一緒に居た時間と会話時間が長く、それ以外でも彼女の安全に気を払っていたというだけだ。

 

 万一の場合、邪神を召喚しつつ彼女を守る方法はないだろうか、という問題には、どれだけ考えても終ぞ答えは出なかったけれど。

 

 「直しやすくするのは分かりますけど、壊すのも簡単でいいんですか?」

 「いくら城塞都市とはいえ、私やステラなら魔術砲撃数回で焦土に出来るし、それは他の聖痕者も同じことよ。城塞都市とはいえ基本的には長期防衛に向いていない──聖痕者が戦線投入された瞬間、その戦略は瓦解する。だから街を放棄することを初めから想定して、敵に利用されないよう破壊できるように作ってあるらしいわ。この辺りに火山はないから、地震も稀だしね」

 「……へえー」

 

 もう町の人間を全員どこかに移動させて、ルキアが一旦街を全部更地にしてしまえばいいのではないだろうか。

 そんな考えがフィリップの脳裏をよぎる。

 

 今のところ神威は感じないし、邪神の気配を悪臭として知覚するミナも無反応だ。邪神はいないと思っていいだろう。

 であれば、“呪い”の正体がなんであれ、ルキアの最大火力『明けの明星』であれば消し飛ばせるはずだ。過去にはシュブ=ニグラスの落とし仔を瀕死に追い込み、アイホートの雛をダンジョンごと消滅させた実績がある。

 

 「この町にあるのも公爵家の別邸の一つだけど、直轄地の中では五指に入るくらい重要な町ね」

 

 フィリップの物騒な思考を読み切ったのか、ルキアは苦笑交じりにそう語る。

 案を口に出す前にやんわりと否定された形のフィリップは窓の外に目を泳がせ、街の外に見える丘に小さな塔が建っており、街から石畳の道が伸びていることに気が付いた。

 

 「……そう、あれが重要な理由。あれは監視塔兼防衛砦よ。あの中に囲われた“ペンローズの虚”から出てくる、強力な魔物を駆除するためのね」

 

 ほう、とフィリップは関心を吐息に乗せ、道を行く人々の装いを観察する。

 

 予想通り、町人や商人に武装した冒険者が混じっていた。

 

 「なるほど、つまりここは大陸最大のダンジョンに挑むような、腕に覚えのある冒険者が拠点にする町ってことですか。……“ペンローズの虚”って、地下ダンジョンなんですか?」

 

 「入口が塔の中に囲われている」「偶に魔物が出てくる」という情報からの推測は、論理的におかしなところはない。

 しかし、ルキアは首を横に振り、明確に否定を示した。

 

 「いいえ。……屋敷に荷物を置いたら、見に行ってみましょうか。勿論、疲れていなければだけど」

 「いいんですか? じゃあ是非。ミナはどうする?」

 「いいわね。面白そうだわ」

 

 否定するだけで正解を教えてくれなかったルキアに、フィリップはより一層の興味を引き立てられた。

 「自分の目で見て」という意図なのだろうが、説明が難しいわけではなく、見た方が面白いからだろう。彼女はそんな、悪戯っぽい蠱惑的な笑顔を浮かべていた。

 

 “ペンローズの虚”。フィリップのような駆け出し冒険者にはその存在も名前も聞こえなかったほどの、恐らく超高難易度のダンジョン。

 勿論、ダンジョンはその形状や系統のみならず、サイズを見ても難易度がはっきりと分かるわけではない。総面積が家一棟分でも猛毒が充満していれば難易度は高くなるし、森一つが丸ごとダンジョンになっていても、出てくる魔物は雑魚ばかりということもある。

 

 最大は最難を意味しないが、しかし、街を歩いている冒険者を見れば、その難易度にも察しが付く。

 

 どのパーティーも当たり前のように魔術師を擁し、オーパーツらしき特殊な武器や、魔剣と思しき燐光を放つ剣なんかで武装している。誰も彼もB級以上、A級冒険者だって居るだろう。志次第では衛士にだってなれるかもしれない強者たちが、そのダンジョンを目的に集まっているのだ。

 

 どう考えても広いだけのダンジョンではない。

 

 ……しかし、だ。

 

 「……ルキアとミナが居れば、何なら今日中に攻略出来るんじゃないですか?」

 

 人類最強の後衛に、人類以上の前衛がいる。

 まあフィリップというオマケ(ハンデ)もいるけれど、そもそもハンデを意識しなくてはいけないような状況に、この二人が陥るかと言う話だ。敵は視界に入った瞬間、エネルギー変換された光か血の槍に貫かれて死ぬ。

 

 そんな舐めた思考をしていたフィリップだったが、ルキアは一瞬も悩まず頭を振った。

 

 「流石に不可能だと思うわ。“ペンローズの虚”は広大なフロアが100層以上連なる、縦にも横にも広いダンジョンだし……100層あるという情報だって、何百年か前の聖痕者三人と、三百人の聖騎士からなる聖国の遠征部隊が数年がかりで得たものよ? しかも、帰ってきたのは聖痕者一人と騎士数名だけ。……まあ、古い文献の情報だし、間違っている可能性も無くは無いけれど」

 「な、なるほど……?」

 

 聖騎士の実例は知らないが、聖国が擁する対魔物・魔王勢力を主任務とする武装組織であることは知っている。王国で言う衛士団に似た組織だと考えると、その強さにはおおよその見当がつく。

 そして、その頂点に君臨するのは、黄金の騎士王レイアール・バルドル卿──邪神マイノグーラだ。健全な精神(美味なる魂)は健全な肉体に宿る、という言説を信じるのなら、きっと彼女好みの美味な魂、屈強な戦士が揃っていることだろう。

 

 聖痕者の強さは、既に目の当たりにしている。

 過去の聖痕者がルキアやステラと比べて強いか弱いかは不明だが、戦時下でさえ地図を描き直すのが馬鹿らしくなるほどの大規模破壊を齎す、圧倒的な存在であったことは間違いない。

 

 過去の攻略部隊をなんとなく、ルキアとステラとヘレナが衛士団を伴っていたくらいの戦力だと考えて……何をどうやったら壊滅させられるのか分からない。古龍の群れでも出てきたのだろうか。

 

 そんな話をしているうちに、車列は街の中心部にあるひときわ大きな屋敷に到着した。

 他の建物の例に漏れず石造りで古めかしい外観だが、三階建てで、よく見ると精緻な飾り彫刻があったり、雨樋がガーゴイルになっていたりと、所々に細やかな装飾が見て取れた。

 

 町並みの中で悪目立ちすることなく、しかしその威容と細部の精緻な装飾を好む美的感覚で、住人の格を知らしめている。そんな邸宅だ。

 

 馬車を降り、使用人の開けた扉を潜る。

 玄関は広いホールになっており、華やかな装飾の施された壁や、輝くガラス細工のシャンデリアなどが空間そのものを煌かせる。

 

 二階へ続く階段には、数多くの使用人が整然と並んでフィリップたちを出迎えていた。

 

 「お帰りなさいませ、奥様、ルキアお嬢様。我々ミュロー別邸一同、お嬢様が魔術学院にご入学されて以来、再びお迎え出来る日を心待ちにしておりました。……そちらの方が?」

 「えぇ、そうよ」

 

 総白髪が威厳を感じさせる老婦人が使用人の列から進み出ると、ルキアとオリヴィア夫人の前で折り目正しく一礼する。

 普段ならフィリップの目を奪うほどに洗練された所作ではあったが、フィリップの関心は彼女の背後、並んだ使用人たちにあった。

 

 整列した使用人の出迎えは、物語の中ではありがちだ。

 しかし現実には、相当な高級宿でも最上位の客相手にしかやらないような、かなり手間のかかるパフォーマンスだった。元宿屋の丁稚としては「待ってる時間にアレとコレは終わらせられそうだよね……」と夢の無いことを考えてしまう。

 

 そんなことを考えていて、フィリップはルキアと使用人たちの視線が自分に集まっていることに、なかなか気付くことが出来なかった。

 

 「……あ、初めまして。フィリップ・カーターです」

 「旦那様方からよくお聞きしております。ようこそ、サークリス公爵家ミュロー別邸へ。私はこの屋敷の使用人統括、サマンサ・フォン・アルマンと申します。ご滞在が快適なものとなるよう、誠心誠意お仕えさせていただきます」

 「よろしくお願いします」

 

 ついうっかり握手を求めて彼女を困らせたりしつつ、一行はそれぞれ私室と客室に向かう。

 

 途中、使用人の中に見覚えのある顔を見た気がしたフィリップだったが、振り返った時に彼女は居なかった。

 

 どうしたの? とルキアが尋ねたときには気のせいと結論を出していたフィリップは、別の疑問を口にする。

 

 「……あの出迎えって、ルキアが言いつけたことだったりしますか?」

 「言いたいことは分かるわ。私も子供の頃に「時間の無駄じゃない?」って聞いたけど、必要なことだと言われたのよ」

 

 本当にフィリップの言わんとしていることを理解して、ルキアは苦笑交じりに答える。

 

 まあ、ここは彼女の家で、あれは彼女の使用人だ。

 どう使おうと彼女の勝手ではあるので、どちらにせよ「やめなよ」なんて言うつもりは無かったのだが、ルキアが過去に同じ疑問を持っていたと聞いて、フィリップは少しだけ親近感を抱いた。

 

 「必要……? まあ、屋敷の使用人と宿屋の従業員じゃあ色々違うんですかね?」

 「さあ、どうかしら。でもどちらにせよ、そのことで不利益を被らないのなら、偶には使用人の我儘を聞いてあげるのも良い主人と言うものよ」

 「……覚えておきます」

 

 貴族になった後で役立つ話をされて、フィリップは何とも言えない気分になった。

 

 

 



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458

 部屋に荷物を置いたあと、フィリップとルキア、そしてミナは、話していたとおり“ペンローズの虚”へ入ってみることにした。

 

 街を歩いていると、ルキアに気付いた町人が深々と頭を下げたり、祈りを捧げたりする場面が何度かあった。

 それより頻度は少ないが、冒険者がミナの正体に気付いて驚いたように武器に手を添え、子供を挟んで歩いているルキアに気付いて混乱し切った様子で矛を収めることも何度か。

 

 ミナに斬りかかるのが自殺行為でしかないと分からない蒙昧はおらず、ルキアとしては一安心といったところ。

 そんな手合いに馬鹿を見る目を向けそうなフィリップはというと、道の真横を流れる運河という珍しいものに視線を奪われており、完全に観光に来た子供といった風情だ。

 

 上位の冒険者──特に剣術に長けた者が数人、フィリップがその外見や振る舞いとは裏腹に、特異な流派の技術である『拍奪』を使えることを見て取り、いっそう混乱していた。

 

 「……明日からフィリップと一緒に調べるのは、この運河の拡張工事をしている場所よ。でも、今日はこっちね」

 

 ルキアの案内に従って、一行は運河に沿った大通りを外れる。

 そして外壁を抜けて丘を登り、小ぶりだが石造りの頑健そうな塔へ入った。門番がいたが、公爵家が手配した人員らしく、ルキアが何も言わなくても恭しく門を開けて通してくれた。

 

 塔は中庭を囲むような筒状構造だ。外壁には無かった魔術砲撃用の小窓が、中庭に面した壁には等間隔に据えられている。それだけでなく、バリスタに油壷まで、全て中庭側を向いていた。

 

 厳重な警戒が敷かれた中庭にあるのは、空中に浮かぶ青黒い渦──見るからに「空間の歪み」と分かるモノだけだ。

 それが何なのか、具体的にどういう形をしているのか、何も判然としない。

 

 輪郭すら曖昧なそれを木や石の枠で飾ることも無く素のままで置いているのは、枠を作ったところで頻繁に壊してしまうからだろう。壁の狭間には魔術砲撃の余波と思しき、まだ新しい焦げ跡が見える。それに、渦の周りにはバリスタの鏃と思しき金属片が散見された。

 

 「……これが?」

 「“ペンローズの虚”……その入り口よ。“虚”は異空間にあるダンジョンなの」

 「へぇ……! 凄いですね!」

 

 興味津々なのはフィリップだけではなく、ミナも珍しく目を輝かせている。

 まだ中に入ってさえいないが、何か楽しめる気配を感じたのだろうか。

 

 率先して「渦」に触れたミナが吸い込まれるように姿を消し、不死身ゆえの思い切りの良さに呆れ混じりの苦笑を浮かべたフィリップが、ルキアに手を引かれて続く。

 

 一瞬だけ強烈な眩暈を感じた後、視界は無骨な中庭とは全く違うものに変わっていた。

 

 そこは殆ど黒に近い灰色の石で出来た、薄暗い廊下だった。背後にも道、正面にも道、両側は壁で、完全に廊下の途中にいるようだ。

 光源らしきものは見当たらず、具体的にどこが明るいということもないのに、不思議と道の奥までが見渡せる。振り返るとさっき触れた渦があり、もう一度触れれば元居た場所に戻れるのだと察しがついた。

 

 突っ立っていても始まらないだろうと突き当りまで進んでみると、T字に分岐しており、さらにその先にもY字の分かれ道が見える。

 部屋らしきものは見当たらず、道順を示すようなものも見つけられないことから、フィリップはこれが迷宮型のダンジョンなのだと思った。

 

 「迷宮型なんですね。これが100層も……?」

 

 半ば反射的にルキアとミナの手を握って自分の方に引き寄せながら、フィリップは注意深く周囲を見回す。

 迷宮と言えば、と連想されるくらいには、アイホートの雛との遭遇は印象に残っていた。どちらかといえば、その後にルキアがダンジョンを一つ丸ごと消し飛ばしたことの方が鮮明だが。

 

 しかし、ルキアは「ここは、そうね」と限定的な肯定をした。

 

 「階層によって形態が異なるらしいわ。中には高山や雪原のような層もあって、最深部を目指すには様々な環境に適応するための装備が必要になるの。それも、このダンジョンが最高難易度とされる理由の一つよ」

 「なるほど──おっと」

 

 相槌を打つと、ちょうどフィリップが見ていた方のY字路から、一匹の魔物が彷徨い出てきた。

 立ち上がった白骨死体、ゾンビと並んで最低級のアンデッドとされるスケルトンだ。何処で拾ったのか、右手に錆びてボロボロになった長剣を持っている。

 

 十メートル以内なら『萎縮』が通るような、弱い魔物だ。

 高難易度のダンジョンは出現する魔物も強力なことが多いが、流石に百分の一層目ということで、弱い魔物から順番に出てくるのだろうか。

 

 そんなことを考えているフィリップだったが、ミナは「武装したスケルトン、という出で立ちだけれど……」と顎に手を遣って観察しているし、ルキアも「あれも、難易度が高い理由の一つよ。フィリップ──」と警告しようとしていた。

 

 とはいえ、相手は骨だ。

 それも、身長180センチくらいの人間の。

 

 「あ、ちょっと待っててください。先にあれを退かしちゃいましょう」

 

 言うが早いか、フィリップは龍貶しを抜いて走り出す。

 流石にルキアが「注意して」と続けようとしていたことは分かったから『拍奪』を使ってはいるものの、蛇腹剣はロングソード形態のままだし、明らかに本気ではない。

 

 最低級の魔物相手と考えると、あながち舐めすぎとも言い切れない対応ではある。鉄鎧に等しい硬度の毛皮を持ちイノシシの速度で突進してくるトライスピアの群れだって、簡単に相手取れる程度にはフィリップも成長しているのだから。

 

 フィリップが振りかぶった剣に反応し、スケルトンは盾を持っているかのような動きで左手を掲げる。

 

 その腕ごと頭蓋骨を真っ二つにしようと、防御の構えに気を払うことなく剣を振り下ろし──こっ、と硬質な音がした。人骨どころか鉄の剣でさえ殆ど無音で、水に通すように切り裂くというのに。

 

 ──防がれた。

 古龍素材をふんだんに使い、王国最高の錬金術師が作り、宮廷魔術師の付与魔術で強化された、魔剣にも匹敵する武器の一撃が。

 

 鎧も肉も無い腕の、細く頼りない尺骨を断ち──橈骨へ僅かに食い込んで、そこで止められた。

 

 「え、──ッ!?」

 

 驚愕の声が漏れる。

 声を出す暇があるなら動け、酸素を無駄にするなとエレナにもステラにもミナにもウォードにもマリーにもソフィーにも、教えを受けた全員に言われてきたが、きっと何人かは同じ反応をするだろう。

 

 特に、自分の武器や技に自信がある者ほど。

 

 腕力より肩から先の柔軟性を重要視し、敢えて筋肉量を抑えてきたフィリップではあるが、その分全身の連動には長けている。斬撃の威力が低いなんてことは無く、脚力から腹筋力、抜力まで使った技巧の一撃だ。

 なのに──細い腕の骨たった二本を、纏めて切り落とせない。錬金金属製の鎧さえ断ち切る、人造の魔剣を以てしても。

 

 「フィリップ、動かないで」

 

 カウンターを繰り出そうとしていたスケルトンが、ルキアの警告とほぼ同時に展開された無数の光弾に撃ち抜かれてバラバラになり、黒い粒子となって消える。

 

 リリウムやミナとは違い安心感と火力を両立した援護に礼を述べ、フィリップは素早く二人のところまで戻ってきた。

 

 「体感できたでしょう? 攻略難度を上げる理由、その2。……ここの魔物、異常に硬いのよ」

 

 悪戯っぽく笑うルキアに安心させられて、急上昇していたフィリップの心拍数がじわじわと落ち着いていく。

 

 「硬い」という彼女の表現は的確だ。

 今のスケルトン、動き自体は一般的なアンデッドの例に漏れず鈍かった。所詮は技術を持たない魔物だけに、攻撃能力も程度が知れる。フィリップの斬り下ろしを受け止める程度の力はあるが、単純に力が強いだけなら、足を止めて殴り合いでもしない限り脅威にはならない。

 

 だが硬い。防御能力が通常の個体とは桁違いだ。

 

 「体を構成する魔力の質が、普通種とは段違いね。それに応じて、魔術耐性も」

 「なるほど。……よし、出ましょう」

 

 ミナの言葉に、フィリップは元来た道を指す。

 

 これはちょっと、遊ぶどころではない。遊べるところではない。

 相手の動きが速いとかならまだ練習になるが、ただ硬いだけの相手ではあまり意味がない。「素振りや静止目標への打ち込みより、実戦形式の方が多くをよく学べる」とはウォードとソフィーの統一見解だったが、そのセオリーに従って強くなってきたフィリップも同じだ。

 

 硬いだけの敵相手の戦闘は、まあ素振りみたいなものだろう。

 

 「ちなみに出口はこの一つだけで、迷宮階層は不定期にその構造を変えるわ。つまり、100階層まで進むだけなら、もしかしたら簡単かもしれないけれど、疲れた帰りは死ぬほど難しいのがこのダンジョンの特徴というわけ。“死ぬほど”というのは、比喩抜きでね」

 「すごいですね出ましょうすぐ出ましょう」

 

 早口に言って、フィリップはミナとルキアの手を引いてダンジョンを出る。

 幸い、その数分でダンジョンの内部構造が変わることは無かった。

 

 その日の夜、夕食を終えて部屋に戻るとミナがいた。

 彼女にも個室が与えられているはずだが、さも当然のようにフィリップのベッドに腰掛けていたし、フィリップも平然と受け入れてベッドに飛び込んだ。

 

 道中は野宿など一度も無く、街道沿いの宿でも高級なところに泊まっていた。

 冒険の途中とは比べるべくもない贅沢三昧、というか、高級宿をハシゴして疲れているようでは冒険者などやっていられない。

 

 ……なんて、出発前には思ってはいたものの、流石に長期間馬車に揺られていると疲労は溜まる。

 ここでは暫くゆっくりできそうだという安心感から、行儀悪くベッドの上をごろごろ転がって寛いでいた。

 

 「フィル、ここにはどのくらい滞在するの?」

 

 言いながら、ミナはフィリップの方に身体を向けると、痛みを与えないよう優しく、しかし逃れられない人外の膂力を以てフィリップを捕まえ、覆い被さった。

 

 襲い掛かる獣のような動きに、フィリップは僅かに姿勢を変えるだけで抵抗しない。

 

 「わかんない……。ルキアの言う“呪い”の問題が解決するまでは確実に。一日二日で終わったら、その時は観光でもしてから帰ろうかな」

 「そう。明日は呪いの現場を見に行くのよね? もし長引きそうなら、そして安全そうなら、私はさっきのダンジョンで遊んで来るわ」

 

 ミナはフィリップの首筋に顔を寄せ、匂いを嗅ぎ、唇を触れさせる。

 生きた体温の無い冷たい舌が、肩と首の中間、肩井の辺りを這う。ミナの右手がフィリップの腕をなぞり、手首を捕らえる。左手は頬を優しげに撫で、唇に触れ、髪を梳いていた。

 

 甘やかな愛撫、身体の至る所に感じるミナの柔らかさ、鼻を擽る夜の匂い、夏の夜の熱気を払う病的に低い体温。なにもかもが、フィリップの意識を蕩けさせる。

 

 「うん……分かった」

 

 殆ど寝惚けているフィリップの返事を聞き終えて、ミナは鋭く発達した犬歯を、未だ子供の柔らかさが残る肌へと突き立てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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459

 翌日。

 いよいよ“呪い”の調査に取り掛かることにした三人──フィリップとルキアとミナは、ルキアの護衛兼従者であるアリアを伴って町に出た。

 

 はじめはルキアが自分で持っていた日傘は、フィリップと手を繋いで歩くのに邪魔になり、早々にアリアの手に渡った。

 

 向かう先は取り敢えず、今も工事が行われている現場だ。

 運河の拡張・流域制御は大事業だ。秒間65立方メートルもの水が流れるための道を掘り、たとえ雨で流量や水勢が増しても崩れることが無いよう護岸しなくてはならない。それも、何百メートルもの長さを。

 

 上流付近はそれなりに完成して、今は中間部付近の作業中……いや、上流付近の作業中に起こり始めた“呪い”のせいで、とうとう作業が止まったのが中間部付近なのだった。

 

 ここで魔力残滓でも見つかればほぼ解決、邪神や神話生物絡みの何かやカルトに繋がるものが見つかった場合はやや面倒だが解決はする。何も見つからなければ、その時は本格的に調査開始だ。単純に増員するとか、王都から薬学の専門家や錬金術の専門家を呼ぶという手もある。

 

 「なんだか嬉しいです。まさか、ルキアが僕を頼ってくれるとは思わなかったので」

 

 現場に向かう道すがら、フィリップはそんなことを言って笑う。

 まあ彼女がフィリップなんかの手を借りなくてはいけないようなこと自体が稀だ。邪神絡みのことを除き、ルキアに出来ないことがフィリップに出来るわけがないのだから、当然と言えば当然だけれど。

 

 「確かに、フィリップの手を煩わせるのは遺憾ではあるわ。けれど、解決手段に心当たりがある問題を、意地で長引かせるのは美しからぬことだもの。その問題が所領のことであるなら、貴種として尚更に」

 

 ルキアらしい物言いに、フィリップは昔を懐かしむような、ここではないどこかを見る目をして笑った。

 

 町の東側に入ると、まさに工事の真っ最中らしき光景が見られた。

 道のド真ん中の石畳が広範囲に亘って剥がされ、深い壕が掘られている。そこがおそらく運河に変わるのだろうが、水のない川、まだ本流と接続されていない支流は、ただの堀、穴でしかない。

 

 しかし珍しくはあり、なんとなく眺めながら歩いていると、その下に作業員らしきガタイのいい男が数人いるのを見つけた。

 

 彼らは町人らしき仕立ての良い服を着た数人と何事か言い争っており、近付くにつれて怒声の内容がはっきりと聞こえてきたが、それは単純に距離が近づいているだけではない。彼らがヒートアップしてきて、語気が強まっているのだ。

 

 「だから! そんな話、聞いたことねぇって言ってるだろうがよ! こっちも毎日お前らの喧嘩を聞くために喧しい工事を我慢してんじゃねぇんだぞ! やるならやる、やめるならやめるでさっさと決めろ!」

 「だから! 俺はただの作業監督だっての! やるもやめるも公爵様次第に決まってんだろ!」

 

 筋骨隆々の作業員らしき男に、仕立ての良い服を着た町人は怯むことなく食って掛かる。

 それだけ鬱憤が溜まっているのだろうが、作業員の男もそれは同じようで、顔が赤くなるほどの勢いで言い返す。なんとなく、フィリップは彼も本当は工事を辞めたいのではないかと思った。

 

 しかし彼の言葉通り、それを決めるのは工事業者でもなければ町人でもない。その決定権を持つのは町の所有者であると同時に、彼ら領民の所有者でもある公爵だ。正確には、この件を委任されている公爵夫人だが。

 

 「……アリア」

 「はっ」

 

 溜息交じりに呼ばれ、意図を察したアリアが堀の縁に立つ。そして大きく息を吸い。

 

 「──全隊傾注!」

 

 男二人の怒声が霞むような、空気を震わせる鋭い号令が響き渡った。

 

 ミナが鬱陶しそうに眉根を寄せ、堀の中の男たちと同じようにびくりと肩を跳ね上げたフィリップは「なるほど、軍学校の出だったんですね」と一人納得する。

 

 何事かとアリアの方を見た男たちは、その声が侍女服の女から発せられたものだとは思えなかったようで、戸惑ったように堀の上を見回す。

 そしてルキアを見つけ──この町を統治する公爵家の一員にして、この世で最も尊い聖人の姿に、一瞬以上の時間放心していた。

 

 硬直から復帰した一人が慌てて跪き、その動きを切っ掛けとして全員の意識がクリアになり、初めの一人に倣う。全員が首を垂れ、そして黙ったことを確認して、アリアはすっと静かな動きでルキアに場所を譲った。

 

 「……工事中に複数回の事故があり、作業員の士気が低下していることは知っているわ。けれど、ここは外からも多くの冒険者が訪れる街よ。双方、公爵領の品位を損なわぬよう、振る舞いには注意なさい」

 「はっ! お見苦しい所をお見せしてしまい、申し訳ございません!」

 「お耳汚し、大変失礼いたしました、聖下!」

 

 冷たい、虫にでも語り掛けるかのような声で叱責するルキアに、自分が怒られているわけでもないフィリップの首筋に鳥肌が立つ。

 町人の代表者と作業監督がそれぞれ謝罪を述べたが、その声は先の怒声とは違い、無理やり絞り出したようにか細く震えていた。

 

 「作業監督以外は仕事に戻りなさい。ただし、“呪い”と思われる事象が発生した場合は知らせるように」

 

 公爵や国王が醸し出す威厳とは違う、しかし有無を言わせぬ雰囲気を纏ったルキアの言葉に、誰もが一斉に従う。蜘蛛の子を散らすように、なんて言葉が似合うほどだ。

 

 「はぁ……。ごめんなさい、フィリップ。見苦しい所を見せたわね」

 「え? いや、かっこよかったですよ、ルキア」

 「いえ、私じゃなくて……。まあ、いいわ、ありがとう」

 

 苦笑に喜色を混ぜ、ルキアは相好を崩す。

 しかし呼ばれた作業監督が梯子を使って壕から上ってくると、仮面でも被ったように冷たい表情に戻る。それが仮面ではなく本心の、無関心の表出であることを、フィリップは言われずとも理解していた。

 

 「先ほどは大変失礼いたしました、サークリス様」

 「謝罪はもう結構よ。それより、“呪い”について知っている限りのことを話しなさい」

 

 冷たい声に、作業監督の男は僅かに怯んだ。

 しかしまさか問われた身で黙ることもできず、必死に口を動かす。

 

 「はっ。俺、いや私が存じ上げているのは、呪いのせいっぽい事故の現場と内容ぐらいのもので……」

 

 そんなのでいいのか、という無言の問いに、ルキアは無言の一瞥で続きを促す。

 

 「……工事を始めて以来ずっと、妙な事故が多いんです。ベテランの職人が測量中に運河に落っこちたり、雨も降ってないのに梯子の足元だけが泥濘になってて倒れたり、酷いヤツは振り上げたツルハシの柄が折れて、ケツに刺さっちまった。他にも、ヘマしたとかじゃ説明のつかねぇものばかりで」

 

 尻の何処に刺さったのだろう、なんて益体の無い疑問を抱いたフィリップだったが、流石に空気を読んで黙っている。

 ミナは「呪い……? 魔力残滓すらないけれど……」と、意外にもフィリップより真面目な疑問を呟いていた。まあ、彼女はフィリップの安全を確認して、早く高難易度ダンジョンで遊びたいだけかもしれないけれど。

 

 「それで、これはきっと呪いだって言い出した奴がいて……それが広まって、この有様です」

 

 事故が起こった瞬間を想像しながら、ルキアは語られた状況の再現性を検討する。

 結論は一瞬で出た。

 

 「……聞く限り、物理的・魔術的な細工で再現できそうな事故ばかりだけど。誰かの妨害という可能性は?」

 「そりゃあ無いと思います。確かに今でこそ「やめちまえ」なんて言われちゃいますが、始めたときには「遂にこっちの道にも運河が来てくれる」って、大歓迎だったんですから」

 

 妨害と聞いて真っ先に近隣住民が犯人である可能性を考える程度には、町人との衝突があるらしい。

 

 しかしルキアが想定している犯人像は、もっと広範囲だ。

 公爵領の治水工事という大きな実績を作ることになる同業他社を妬んだ末の犯行とか、愉快犯による悪戯とか、或いは業者ではなく公爵家に恨みを持つ者による妨害という可能性だってある。

 

 「それより、ここ何年か、ちと物騒な噂を聞きますからね。やっぱり呪いの可能性の方が高いんじゃないかと──」

 「──可能性の評価は私たちがするわ。主観を交えず、情報を正確に教えなさい。……噂というのは、具体的に何のこと?」

 

 脳内に浮かぶ容疑者リストを可能性順に検討するルキアに、現場監督はさらに言葉を重ねる。

 しかし、それは彼の分を超えた行為だったし、語った内容も然して重要ではなさそうだった。

 

 「加護」が存在するのと同じで、「呪い」もまた存在する。それはミナや衛士団長という生きた証拠が──アンデッドは生きていないが──ある以上、証明が済んでいることだ。

 

 だが、流石に「工事を遅らせる呪い」なんて下らないものは聞いたことが無い。しかも、「幸運を奪う」「寿命を奪う」といった魔術の域を逸脱した超常現象ではなく、地面を一か所だけ泥濘に変えるとか、ツルハシの柄を折るとか、使い方を工夫すれば初級魔術でだって再現できそうなもの。

 

 工事の邪魔をしたい人物、或いは勢力が存在するのなら、簡単に実行できそうな妨害工作だ。

 

 そういう手合いに繋がる「噂」を期待しての問いだが、しかし、現場監督が聞いたのは“呪い”に関する噂だった。

 

 「は、はい。サークリス様がダンジョンごと吹っ飛ばさなきゃいけないような魔物の出現に、“眠り病”に、最近じゃ北方で王龍の動きが活発化したとか。そういうのは全部、魔王が復活したからなんじゃねぇかって、そういう噂です。魔王の呪いなんじゃないかって」

 

 監督の言葉に、アリア以外の全員が呆れ混じりの苦笑を浮かべる。

 フィリップと顔を見合わせたミナの表情は、「こいつは何を言っているの?」と雄弁に語っていた。

 

 「魔王の復活? 教皇庁は何も発表していないはずだけれど?」

 「あ、はい。そりゃそうなんですが、そういう噂で──」

 

 魔王が復活した場合、魔王の預言者である先代闇属性聖痕者を捕らえている教皇庁が、いち早くそれを知り、警告を発するはずだ。それは予想ではなく、教皇庁が魔王の復活に備えて用意したシステムであり、国際的な取り決めであり、人類を守るための決定だ。

 

 しかし現状、聖痕者であるルキアにも、王国の中枢である公爵家にも、そんな知らせは来ていない。王国に、そんな情報は届いていない。

 

 それに、魔王は聖痕者や勇者を擁する精鋭パーティーを壊滅させ、殺すのではなく封印することしか出来なかった、超の付く強者だ。当時の聖痕者の魔術も効きが悪かったと、その当時の聖痕者である学院長から教わった。それほどの相手が使う呪いが、「工事が遅れる」とか「怪我をする」程度で済むはずがない。

 

 そんなことを考えているフィリップとルキアだが、その魔王についてもっと詳しい人物の意見は、威力がどうこうではなかった。

 

 「……? 魔王が復活したのって、私がフィルに会うより前のことよ?」

 「……えっ?」

 

 フィリップの頭を撫でながら、なんでもないことのようにミナは言う。

 今更何を言っているのか、なんて顔に書いてあるが、何を言われたのか分からないのはフィリップもルキアもアリアも現場監督も、全員がそうだ。

 

 「……え? 魔王ってもう復活してるの?」

 「えぇ、そうよ?」

 

 ギリギリ言葉を絞り出せたのは、フィリップ一人。

 いや、フィリップでさえ声を出すのに苦労するほどの衝撃的事実だった、という表現の方が正確か。

 

 「ホントに?」

 

 なんて、ほとんど意味のない確認を重ねるフィリップに、ミナは不思議そうに眉尻を下げた。

 

 

 



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460

 「……あ、ミナ、魔王陣営の偉い人なんだっけ?」

 

 ほんの一瞬、「なんで魔王が復活したなんて知っているのだろう」と考えてしまったフィリップは、そう照れ笑いを浮かべた。

 彼女とフィリップが出会った──正確には引き合わされたのは、魔王の領地である暗黒大陸内のこと。ディアボリカがわざわざ人類領域から人間を拐かした理由の一つが、「ミナの結婚相手は魔王陣営の政治的理由によって、暗黒領外の者でなくてはならない」なんてふざけたものだったことも思い出す。

 

 「魔族」や「魔人」と呼ばれることもある高度な知性を有する魔物、吸血鬼や人狼や悪魔などを束ねた魔王の軍勢。

 ミナはその中で、人類領域にほど近い場所を守護する役割を帯びていた。本人も言っていた通り、ミナがしていたのは「防衛」ではあっても「統治」ではなく、政治的なことは配下に任せていたようだけれど。

 

 そんな重要なことを、フィリップは今になって思い出した──いや、その事実は覚えていたのだが、その重要性を全く意識していなかったのだと、ルキアにもミナにも分かる。フィリップはそんな声と顔をしていた。

 

 「そうね。“ヒト”ではないけれど。魔王領域である大陸南部地域、その最北端……分かりにくいわね。つまり魔王領と人類領の境界地帯を縄張りとする吸血鬼の棟梁。魔王城に至る道を阻む第一の壁、それが私だった」

 

 苦笑交じりに語るミナに、フィリップは何日か前に馬車の中でした会話と、その時に生じて、結局聞き損ねた疑問を思い出す。

 

 「……そういえば魔王ってさ、ミナより強いの?」

 

 面倒を嫌うミナが、成り行きとはいえ魔王に傅いた。

 それはつまり、配下に加わることを拒否して魔王を殺すことよりも、軍門に下ることの方が──吸血鬼陣営の統治者になることの方が面倒ではなかったということだ。

 

 悪魔の大首魁とされる魔王に、果たして魔剣『美徳』の断罪攻撃が通用するのかという問題はあるが、武装を抜きにしてもミナの戦闘能力は破格だ。ルキアやステラでさえ、彼女の間合いで殺し合いをするなら不意討ちが前提になるほどに。

 

 そもそもミナは他人に従属するタイプではない。いや、他人に価値を感じないとすら言える。

 フィリップのように自他の区別なく無価値なのではなく、ルキアやステラと同じ「他の全てが弱すぎる」という、孤独感にも似た価値観ではあるけれど。

 

 しかし彼女には、出会った時から一貫して強者と認める存在がいる。

 

 「えぇ、強いわね。というか、私の知る限り、本体を倒せるとしたら師くらいのものよ」

 

 ミナの剣術の師匠。帝国の山岳地帯に棲むという、剣師龍ヘラクレス。

 「可能性を実現する剣技」をはじめとした常識外の剣術を作り上げ、弟子を取って技術を継承しているという規格外の王龍。ミナですら10000戦して2,3回勝てるかどうかという、とびきりの化け物。

 

 ……しかし、魔王がその域だとしたら、辻褄の合わないことがある。

 

 そんなレベルの相手は、聖痕者と勇者の連合パーティーなんかでどうにかできるものではない。

 仮に勇者が持つという聖剣が存在格の隔絶を破壊できるほどの業物、あの魔剣『ヴォイドキャリア』に並ぶ武器なら……なんて仮定も立たないほど、戦力差は圧倒的だ。

 

 そこまで考えて、フィリップはミナの言葉に限定的なニュアンスがあったことに気が付いた。 

 

 「本体?」

 

 まるで魔王が分身や化身を持っているかのような言い方に、フィリップだけでなくルキアとアリアも不思議そうにしている。

 

 史実を元とした英雄譚も、実際に魔王と戦った学院長も、魔王は巨人のような悪魔だと語っていた。

 漆黒の身体と山羊のような角を持ち、豪奢な鎧と大業物の魔剣で武装し、聖痕者と撃ち合うほどの魔術能力すら持ち合わせた悪魔の王だと。

 

 聖典の中では漆黒の蛇や美しい天使の姿が語られることもあるが、それが本当に魔王なのか、或いは魔王の遣わした使い魔や配下のような存在なのかは判然としていない。神学者や歴史学者の中でも意見が分かれている。

 

 「きみ、偶に変に疎いわね。魔王の本体──つまり、七の頭と十の角、七の王冠を持つ龍、魔王龍サタンに決まっているでしょう?」

 「……ん?」

 

 私は吸血鬼できみは人間でしょう? とでも言うように、それがさも当然であるかのように、ミナは言った。

 しかしフィリップもルキアもアリアも、誰も、言葉の内容を即座に理解できないでいる。

 

 「魔王って龍なの?」

 「そうよ。美しい堕天使のような姿、巨大な悪魔のような姿も持っているけれど、アレの真体は龍。それも数十万年の存在歴を持つ、ね。──師はアレのことを、光を齎したもの(プロメテウス)と呼んでいたわ」

 

 沈黙。

 辛うじて疑問を口に出せたフィリップも、先ほどから驚愕のあまり口元を隠して放心しているルキアとアリアも、一言も発さずにいる。

 

 人類陣営を惑わす偽情報……では、ないだろう。ミナはそんなまだるっこしいことをするタイプではないし、今の彼女は魔王陣営とは関係が無い、ただの吸血鬼だ。

 

 つまり本当に、魔王は龍だということになる。

 古い壁画に歴史が記され始めてからの数万年、人類が戦ってきた魔王は、ただの化身でしかなかったということになる。

 

 ただの化身に、時には人口を半分にまで減らされ、当代最強の戦士や魔術師を動員し、死力を尽くして封印して。その一挙一動に怯え、戦局の動向に一喜一憂していたということになってしまう。

 

 「……どうしたの?」

 

 と怪訝そうなミナに、フィリップは薄い笑みを浮かべた。苦笑の色が濃い、自嘲の笑みを。

 

 今のは驚くようなことではなかった。

 そうだった。……人間は、存外に無知な生き物だ。フィリップが知っていることの何割が正しく、それが世を満たす事実事象、森羅万象の何割を──何滴を網羅しているのか。

 

 思わず「そんなの聞いたことが無い」なんて……愉快なことを口走るところだった。

 

 「……今ね、ミナ。人類側が持ってる魔王の情報が、多分、根底から覆ったよ」

 「……アリア、屋敷に戻って、ステラに手紙を出して。今の情報をそのまま伝えなさい」

 

 既に価値観の崩壊を経験した二人が、アリアに先んじて放心状態から復帰する。

 常人の数倍の思考速度を持つルキアより早かったフィリップが凄いのか、世界の見え方すら一変するほどの価値観崩壊を過去に経験したフィリップに、一秒程度しか遅れなかったルキアが凄いのか。

 

 「まあそういうこともあるだろう」なんて、半ば慣れてさえいる二人とは違い、主人の命令を受け即座に再起動したアリアが、実は一番凄いのかもしれない。

 

 「しかし、それではお嬢様の護衛が」

 「貴女の足ならそう時間もかからないでしょう。魔王の正体なんて、ことここに至っては些事よ。アリア、状況を理解なさい」

 

 護衛が主人の傍を離れるのがどれほど勇気がいることか、フィリップには想像しか出来ない。

 ルキアがアリアより強く、護衛などなくとも自衛できることは、この場合、何の慰めにもならない。彼女が襲撃者に対して自ら対応した時点で、アリアの任務は失敗と言ってもいいのだから。

 

 しかし、彼女にもミナがいま語った内容の重要性は分かる。

 

 魔王の正体は、この際、然したる問題ではない。

 それが化身だろうと本体だろうと、封印して魔王の軍勢の動きが止まるなら──人類領域への攻撃が止まるなら、それでいい。そいつを殺して戦争が終わるなら、今まで魔王だと思っていたものが単なる将軍に過ぎなかった、なんて展開でも、まあショックはあるが別にいい。

 

 だが──そいつの封印が解かれ、行動可能な状態となれば話は別だ。

 即座に全世界へ公開するわけにはいかないが、国の中枢には絶対に伝えなくてはならない。それを知っているはずの教皇庁が、どういうわけか沈黙していることを、伝えなくてはならない。 

 

 数秒の逡巡を経て、アリアは折り目正しく一礼した。

 

 「……畏まりました。私が戻りますまで、どうかお気を付けください」

 

 言うが早いか、アリアは金色の髪を残光のように靡かせて走り去る。

 侍女服の厚いロングスカートなのに、フィリップが追い付けないほどの健脚だ。屋敷からそれなりに歩いたが、あの足なら十数分で帰ってくるだろう。

 

 彼女がずっと持っていた日傘がルキアの手に戻り、フィリップは骨の先端部を避けて半歩ほどルキアから離れた。

 

 「それで、他に何か質問は? 無ければ、フィルに危険も無さそうだし、そろそろ遊びに行きたいのだけれど」

 「あぁ、うん。……いいですよね?」

 

 ミナはフィリップに対して問いかけていたが、フィリップはルキアに確認を取った。とはいえ一応聞いておく、程度の意味しかない。

 彼女が公爵領まで付いてきたのは、ただの退屈しのぎだ。“呪い”がペットを汚染しない──人間の妨害工作、ただの偽装情報(カバーストーリー)であると分かった以上、人外の強者である彼女に警戒心を抱かせるルキアが一緒なのだから、ペットの監督も必要ない。

 

 ルキアが「行け」と言おうが「行くな」と言おうが、フィリップが止めない限り、ミナは自らの愉悦を第一に動く。

 

 「構わないけど、貴女、ダンジョンの中で冒険者に遭ったら、まず間違いなく敵対する魔物だと思われて攻撃されるわよ。……相変わらず、人の話を聞かない化け物だこと」

 

 ルキアの答えなど待たず、踵を返したミナは伸びなどしつつダンジョンの方に向かう。

 

 あの様子だと今夜は帰って来ないな、とフィリップはなんとなく察しがついた。飢餓衝動に襲われる前には戻ってきてくれないと、本当に最高難度ダンジョンに棲む高位の魔物になってしまうが、まあ、ダンジョンの中にも餌はいる。いまルキアが語った通り。

 

 「まあ、ダンジョン内で魔物に出会って死ぬなんて、冒険者からすれば予想しやすい結末でしょうね」

 

 運次第だがダンジョン内で非常食料が確保できると考えると、ちょっと羨ましくなるフィリップ。脱水はともかく飢えたことはないものの、非常食料が荷物を増やすのは基礎筋力に欠ける身には悩みの種だ。

 

 「さて、と。……僕たちはどうしますか?」

 「ステラから返事が来るまで一日くらいかかるでしょうし、調査を続けましょう。いえ、呪いではなく妨害工作である可能性が濃厚なのだし、防止策を張るべきかしら。今日は一先ず、作業中の場所を巡回しておきましょう」

 「了解です」

 

 魔王が復活していた。

 そんな情報を聞いた直後とは思えない冷静さで、フィリップとルキアは日常に戻る。

 

 重大なニュースを幾つも間近で聞かされて酷く憔悴した様子の現場監督には緘口令を敷いたものの、それがいつまで持つかは疑問だ。

 

 まあ、聖人直々の命令をうっかりにしろ故意にしろ破るような不信心者ではないと思うけれど。

 

 さておき、魔王復活は人によっては絶望を感じるニュースだが、歴史を学べば、即座に首を括る必要は無いと分かる。

 

 歴史上、魔王は封印と復活を繰り返しているが、どの時代に於いても人類は勝利してきた。それに、魔王が復活したからといって、即座に世界が弾けたり、人類の半数が死んだりはしない。

 

 魔王の復活が意味するのは、精々、敵勢力の指揮官着任。或いは宣戦書類に捺す印璽の用意が出来た程度の状態だ。

 

 危険ではある。

 人間と人間、国家と国家の戦争には、最低限度のルールがある。「始まり」と「終わり」が。宣戦布告と降服が、両極に存在する。

 

 しかし魔王陣営との戦争にそれはない。

 魔族を統べ魔物を支配する王と、人類との戦争。それは最早外交手段の一つなどではなく、本能をぶつけ合う絶滅戦争だ。「殺したい」魔物と、「生きたい」人間との。

 

 ある時突然始まって、魔王を殺すまで終わらない戦い。歴代の勇者や聖痕者が魔王を殺せず、100年の封印に閉じ込めるだけだったから、まだ戦争は続いている。勿論、平和な期間の方がずっと長いし、そんな風に意識している人間はかなり少ないだろうけれど。

 

 しかし、だ。

 戦争が始まったからと言って、即座に全人類の生活が一変するようなことはない。

 

 魔王の領域は大陸南部。必然、その軍勢は南からやってくる。

 人類側は南側の防御に注力し、一部、高い機動力を持つ敵による防衛線内への奇襲──いつぞやディアボリカが王都を襲撃した時のような──に警戒していれば、平時と殆ど変わらない生活が出来る。

 

 まあ食料品や金属製品が多少品薄になったりはするが、基本的に戦場に立つのは職業軍人ばかりだし、義勇兵に名乗り出たり、変な正義感で暗黒領に乗り込む馬鹿な冒険者でもない限り、民間人にはあまり関係のない話だ。

 

 「魔王、魔王かぁ……」

 

 フィリップはルキアと並んで歩きながら、ぼんやりと呟く。

 

 ハスター辺りに丸投げすれば、まあ、殺せるだろう。それも隣家に害虫が出たくらいの、もしかしたら騒いでいるのが聞こえるかもしれない程度の騒動だ。その正体が悪魔か龍かなんて関係ない。

 

 しかし──その必要性は感じない。

 というか、無闇に手を出すべきではない。そのくらいはフィリップにも分かる。

 

 人類の敵だとか神の敵だとか言われてはいる魔王だが、今のところフィリップの敵ではない。そういう相手に自分から喧嘩を売り過ぎると、「やられる前にやっちまえ」と考える馬鹿が出てくるから困るのだ。

 

 それが龍くらいならまだマシで、旧支配者レベルの相手が絡んで来たら面倒極まりない。そういう馬鹿のせいで、人類社会やルキアたちが汚染されることは避けなくてはならない。

 

 余程のことが無い限りは様子見でいいだろう。

 そんなことを考えていたフィリップは、ルキアに手を引かれて立ち止まった。

 

 振り返ると、彼女は少しだけ言い淀んだあとで口を開いた。

 

 「……一応聞いておきたいのだけど、ナイ神父が貴方に言う“魔王の寵児”の魔王は、また別なのよね?」

 「え? あぁ、はい、勿論……」

 

 フィリップは気の利いたジョークでも聞いたように笑いながら頷く。

 本気でそう思っていたわけではない、ただの確認だ。問いかけたルキアの口調や声色から、それは分かる。

 

 それでも思わず笑ってしまうような同一視だが、フィリップは面白さ以上に嬉しさを強く感じていた。

 悪魔だか龍だか知らないが、そんなものとアレを一瞬でも並べられるのなら、彼女はまだまだ()()()だと。

 

 



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461

 工事現場を運河の本流に向けて遡って歩いていると、フィリップは道沿いに面白いものを見つけた。

 

 「うわ……! ルキア、ウルミが売ってますよ! こんなお上品そうなお店なのに!」

 

 足を止め、思わずルキアの手を引いて指を差す。

 その先は錬金術製の薄いガラスを使ったショーケースのある、上位冒険者向けらしき武器店だ。ショーケースの中には、フィリップが以前に使っていたものより幾らか綺麗な鉄の鞭が飾られていた。

 

 王都で一瞬だけ爆発的に流行り、その習熟と使用があまりに難しく、大量の怪我人を出した挙句誰も使わなくなった武器だ。マイナー武器の伝道師こと武器百般の使い手であるマリーに教わった身でさえ自傷事故と無縁ではなかったのだから、フィリップも先駆者としては苦笑するところだった。

 

 もう王都の店では見なくなった武器だが、それがまさか、こんなところでお目に掛かれるとは。

 

 「ふふっ……」

 

 懐かしさと、なんだかんだ思い入れのあるマイナー武器が広く知られ始めていることにちょっとした喜びを感じているフィリップの隣で、ルキアは口元を隠して上品に笑う。

 

 直前の自分が少し子供っぽかったことと、いよいよ本当にマイナー武器の伝道師みたいな喜び方をしてしまったことを自覚していたフィリップは、ルキアに苦笑を返した。

 しかし、彼女が笑ったのはフィリップではなかった。いや、フィリップではあるのかもしれないが、本人ではなかった。

 

 「龍狩りの武器、英雄の武器。……ですって。間違ってはいないわね」

 

 ルキアは笑顔のままショーケースの片隅を指す。

 そこには『龍狩りの英雄と救国の賢者』という表題の本が飾られており、表紙には巨大な龍に対峙する筋骨隆々の美丈夫と、手に握られた鉄鞭が描かれていた。それからルキアが言った通りの売り文句が書かれたポップもある。

 

 「何から何まで間違ってるんですよ。なんですかこのムキムキの美形。肩の筋肉をこんなにつけたら、むしろ鞭の威力は落ちるし、そもそも古龍相手にウルミが通用したわけじゃないんですよね。あの戦いで一番重要だったのってエルフの魔剣と衛士団長だし、付与魔術もかけてないウルミなんかでどうにか出来る相手だったら、本気装備の衛士一人が欠伸交じりに倒せるんですよ」

 

 恥ずかしい、と、フィリップは普段の気配りを忘れてショーケースのガラスに手をついて嘆息する。

 

 いや、分かってはいる。

 この本はあくまでフィクション、実話を基にした創作だ。王国中枢はフィリップの年齢に配慮して素性なんかは徹底的に隠すと言っていたし、これも情報偽装の一環なのかもしれない。

 

 この本に描かれた『龍狩りの英雄』は、フィリップ・カーターではないのだ。

 

 それに、英雄譚の類は盛り過ぎなくらい、考えなし過ぎるくらいで丁度いい。

 ある日突然神から魔剣を与えられ、不思議な力で強くなった英雄が国を脅かしていた龍を殺し、王女様と結ばれる。そんな王道のド定番、頭を空っぽにして読んでも楽しいものが、結局、子供には一番ウケがいいのだ。その英雄譚好きの子供であるフィリップには分かる。

 

 「そもそも古龍を殺したのは衛士団長だし、ミナなんか成龍を一人で──」

 

 顔を赤くしてぶつぶつと文句を垂れるフィリップを、ルキアは愉快そうに見ている。

 しかし、“龍狩りの英雄”はAクラス冒険者に上り詰めるような優れた魔術師を、魔力感染という特異な能力を持つ“眠り病”から救った存在。……当人の顔を知らずとも感謝の念はある、という人間は、パーティー内に魔術師を擁する上位冒険者にも多い。

 

 最高難度のダンジョンである“ペンローズの虚”に挑むため、この町を訪れた冒険者の中にも、勿論。

 

 道を歩いていた冒険者らしき装いの男女が足を止め、一度は素通りしたフィリップたちの方に振り返る。

 

 「……ねえ君。あまりこの町で彼のことを悪く言わない方がいいわよ」

 「あぁ。公爵様もこの国の魔術師たちも、彼には大きな恩がある。……どこの坊ちゃんか知らないが、お前みたいな世間知らずのクソガキが貶していい人じゃ──」

 

 女性の方は不機嫌そうに眉根を寄せているだけだが、男性の方は連れよりも更に語気が荒い。単にそういう気性なのか、或いは、龍狩りの英雄に憧れでもあるのか。

 しかし、感情の制御を誤ったのだとしても、救国の英雄を馬鹿にする馬鹿な子供のためを思って、敢えて強い態度を取っているのだとしても、言葉は慎重に選ぶべきだった。

 

 フィリップは気恥ずかしそうに「す、すみません」なんて謝ってその場をやり過ごそうとしている。

 「僕がその龍狩りの英雄で~」なんて言ったところで信じられるかは怪しい、というか、龍貶しを抜いて見せても信じるかは五分だ。そもそもそんな小恥ずかしい二つ名を往来で堂々と名乗れるほど、フィリップはあの一件を自慢に思っていない。

 

 フィリップを咎めた彼らが硬直したのは、フィリップの愛想笑いが原因ではない。

 その後ろに立っていた少女が振り返り、日傘で隠れていた特徴的な容姿が露になったからだ。

 

 「──誰がクソガキですって?」

 

 色素の薄い肌、銀色の髪、赤い瞳。そしてその内に輝く、左右で意匠の違う聖痕。

 ただ立っているだけなのに、思わず気圧されるほど美しく気品のある立ち姿。

 

 そして、静かな笑顔のまま発散される、膨大な魔力。

 

 「せ、聖下!? た、大変失礼いたしました!! サークリス聖下のお連れの方とは思わず……!」

 「あぁ、いえ、大丈夫です……。もう行きましょう、ルキア」 

 

 見ていて可哀そうになるほどの焦りように、フィリップはルキアの手を引いてその場を離れた。

 悪意で絡んできたならともかく、恐らくだが善意で、それも他人の名誉のために怒った彼らを責める必要は無いだろう。

 

 「……日傘があると、意外とバレませんね」

 「そうね。でも、これだと少し小さいわ」

 

 言うと、ルキアは日傘を畳んでフィリップの横に並び、いつものように手を繋ぐ。

 確かに、公爵家のミュロー別邸に置かれていた日傘は微妙なサイズだ。並んで歩くのには邪魔で、かと言って二人で入ると狭い。

 

 だが先天的に肌の弱いルキアにとって、レースで装飾された日傘は単に美容に気を遣ったものではないし、フィリップの「日焼けしますよ?」という心配も、日焼けそのものではなく体調不良に対するものだ。とはいえ。

 

 「光量制御は慣れているから平気よ。フィリップも暑かったら言ってね」

 

 自分に当たる陽光を減衰させ、ルキアは移動する日陰を作り出す。

 彼女にとっては日傘を持つのと同じくらいの労力だと以前に語っていたが、ではなぜ普段は荷物になる日傘を使うのかというと、すれ違う魔術師の半数が二度見していくのが理由の一端だ。

 

 光量制御の難易度はそれほど高くないものの、長時間展開するには魔力消費が激しい魔術だ。魔力総量も回復力も桁違いのルキアでなければ、日傘代わりになんて使えない。それが分かる魔術師ほど、「うわ怖」という顔で彼女を見るのだった。

 

 過去に事故のあった場所を幾つか見て回り、もう魔力残滓が残っていないという予想通りの確認をしたあと──一応、人外の魔力や神話生物の痕跡などがないかを調べる目的だったのだが、それも無く──フィリップとルキアは一旦昼食を摂ることにした。

 

 「この辺でお勧めのお店ってありますか?」

 「ディナーなら幾つか、家が面倒を見ている商会系列のものがあるけれど……この町は昼間はダンジョンにいる冒険者が多いから、ランチの需要は薄いのよね」

 

 ルキアの言葉に、フィリップは「へぇ」と相槌を打ちつつ周囲を見回す。

 並ぶ家々や商店の中に、飲食店らしきものは確かにある。しかし営業中のものは少なく、むしろ携帯食料を売る冒険者用品店の方が多く目に付いた。

 

 きょろきょろしながら少し歩くと、運河の上にせり出した小さな建物があった。運河の流れやそれを使う船を妨げないよう、納涼床は街の法で規制されているという話なのだが。

 

 「……あれは?」

 「公衆用のトイレよ。……そういえば、王都には無かったわね」

 

 ほう、とフィリップは興味深そうに視線を戻す。

 

 「誰でもいつでも使えるトイレってことですか? へぇー……。ちょっと行ってきていいですか?」

 

 田舎にも、王都にも無かったシステムだ。

 誰が掃除するのだろう、というちょっとした疑問と共に、どんなものなのだろうという好奇心を抱いたフィリップは、ルキアに断ってからドアの無い入口の方に向かう。

 

 尿意ではなく好奇心でトイレに入ったフィリップを物言いたげに一瞥して、ルキアは近くにあった公爵家と関わりのある商会が運営しているレストランに入り、軽食を包むよう命じる。

 フィリップの後から更に数人の男が後を追うように公衆トイレに入ったことに、ルキアは全く注意を払っていなかった。

 

 

 



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462

 公衆トイレという珍しいモノを初めて見るフィリップは、およそ便所に向けるものではない好奇心に満ち溢れた目でそこに入ると、何とも言えない顔になり、その顔のまま用を足した。

 誰でもいつでも使えるという部分が画期的なだけで、その他は何の変哲も無い落下式のトイレなのだから、何かを期待することの方が間違っているのだが。

 

 しかし流石は公爵領の建物と言うべきか、手洗い場にはタンク式の水道があった。

 ミナの城にもあった、屋根の上に据えられたタンクに入った水が水道管を通って蛇口から出てくる、王都の上下水道システムより原始的だが簡単なものだ。フィリップの田舎のような大半の町には、未だこのレベルのものさえ普及してはいない。

 

 とはいえ、それもフィリップの落胆を拭うほどの代物ではなく。

 なんとも言えない顔のまま手を洗っていたフィリップは、鏡で自分の後ろに人が並んでいるのを見つけて手早く済ませた。

 

 そして。

 

 ぱん! と頭を叩かれて振り返ったフィリップは、驚きに満ちた顔を苦痛に歪める。後ろを向いた瞬間、今度は鳩尾に拳を入れられたからだ。

 油断してはいたが、それでも避けられない速さではなかった。しかし流石に不意討ち過ぎて、無感動に見送ってしまった。

 

 「……!?」

 

 目の前には嘲るような笑みを浮かべた男が三人。

 一人、恐らくフィリップを殴ったのだろう男がそのまま胸倉を掴み、トイレの壁にフィリップを押し付けた。

 

 何が何だか分からないフィリップは、それでも懸命に状況を整理し、「強盗だろうか」なんて当たりを付ける。

 しかしそれにしては、男たちの身なりは整っていた。仕立ての良い服を身に付け、腰には装飾華美な直剣を佩いている。少なくとも金銭目的の強盗ではなさそうだが、突然の痛みで思考が鈍っているフィリップはそこまで考えられなかった。

 

 それなりに大きな町で、武装した冒険者がそこら中にいるから、てっきり治安もいいものだと思い込んでいたけれど……そうでもないのかもしれない。

 

 そんなことを考えながら、フィリップは取り敢えず「昼食代以上のお金は持ち歩かない主義だけど」と言ってみた。

 実際に、財布にはそのくらいしか入っていない。問題は換金不可能なレベルで価値の高い武器と懐中時計に加えて、見た者は全員殺さなくてはならない特殊な武器まで持っていることだ。

 

 まあ、どれを盗ろうとしたところで、既にフィリップは痛みの分、きっちりとやり返すつもりでいるけれど。

 

 しかし、男たちの中で一番年若い者が、フィリップの言葉に苦笑を浮かべて頭を振った。

 

 「見て分かると思うが、俺たちは別に金に困っちゃいない。……なに、俺たちの言うことを聞いてくれたら、これ以上痛いことはしないさ」

 

 凄むような笑みで、若い男が言う。

 ある程度の冷静さを取り戻してきたフィリップは、彼以外の二人が特に強面で年を取っていることに気付き、どこぞのお坊ちゃんと用心棒のようだと感じた。

 

 「聖痕者様と一緒にいるところを見てなかったとしても、その恰好を見れば分かる。お前、公爵様のところで可愛がられてるみたいだな?」

 

 言われて、フィリップは正気を疑うような目になる。

 公爵のお気に入りと考えると確かに金は持っていそうだが、どう考えても手を出すべきではないだろう。手勢だけでも相当な捜査力と武力を持っているし、下手をすれば国家規模の報復が降りかかる可能性があるのだから。

 

 しかし金目的ではないと言っていたし、報復の危険を許容するほどの大望があるのか。

 

 多少の興味を惹かれたフィリップは、殺すのを少し待ってみることにした。

 強盗でも狂人でも、なにか秘めた野望のため暴力すら辞さない決意ある人物でも、どうせ殺すのだが──余程のことが無い限りは殺すのだが、善性由来の行動だったら見逃してもいい。たとえば、フィリップの異常性に気が付いて、ルキアから引き離そうとしているとか。

 

 まあいつかのように「嫌です」と切り捨てて、殴られた分やり返して、命だけは助けてやる、という意味の「見逃す」だが。

 

 「そのお前を見込んで頼みがあるんだ。……運河の拡張工事を中止するよう、公爵様に伝えてくれ」

 「いや、僕にそこまでの発言力は……そもそも僕は──うっ!?」

 

 反駁しようとすると、また胸倉を捕まえている男に脇腹を殴られ、フィリップは半笑いで呻く。

 強面で屈強な男のパンチは、エレナのジャブよりずっと軽かった。男のパンチも痛いが、普段の訓練ではもっと痛いのを喰らっている。それに比べれば、重心を動かして衝撃をいなすだけの時間と技量の余裕がある、生温い攻撃だった。

 

 じわじわと、フィリップの中にあった驚きと警戒が薄れていく。

 じわじわと、「なんだこいつら」という興味が薄れ、普段通りの悪意も害意も無い殺意が、無価値なものを価値の無さゆえに殺す殺意が鎌首をもたげる。

 

 「お前、“呪い”について調べてるんだろ? それが本物だってことにすりゃあいい。魔王の呪いでも悪魔の呪いでも、あの“ペンローズの虚”のせいでも何でもいい、とにかく呪われた土地だってことにすりゃあ、話は通るさ」

 

 リーダー格のお坊ちゃんっぽい男は、確信に満ちた声で言う。

 しかし、フィリップからすると大いに疑問だ。

 

 「通らないと思いますよ……? そもそも僕は魔術や信仰方面に詳しくないので、公爵様を説得できるとは……」

 

 というか、既にルキアとミナが「呪いの兆候ナシ」と半ば結論を出している以上、フィリップがこれは呪いだと主張したところで通るとは思えない。

 いや、相手がルキアやステラ、或いはエレナ辺りなら──つまり、フィリップの()()()()を知っている人物になら、もしかしたら通るかもしれないが。

 

 そもそもフィリップがこの件を──いきなり殴られて馬鹿な要求を吹っ掛けられたことを公爵に報告すれば、公爵家の捜査力ならほぼ確実に彼らに辿り着くだろう。

 

 ああ、いや、それも含めて“脅し”なのか。

 公爵に対し、「お前が可愛がっている子供が危ない目に遭うぞ」という脅迫を、彼らはかけているつもりなのだ。

 

 「違う違う、通すんだよ、お前が。どうやってかは、お前が考えることだ」

 「無理でしょ……。今更「これは呪いだ」なんて言ったって、まずルキアが納得しませんし」

 

 淡々と、余裕そうに語るフィリップが気に入らなかったのだろう、男はむっと眉根を寄せる。

 しかしすぐに、なにかフィリップの余裕を崩す名案を思い付いたようにニヤリと笑った。

 

 「そうだ。それを預かっとくよ。お前が言う通りに工事を止めれば──」

 

 リーダー格の男の意を汲み、フィリップの胸倉を掴む男のもう片方の手が腹部へ伸びる。

 正確にはベストのポケットに入った、白銀の輝きを放つ懐中時計に。

 

 ジャケットの中へ手が入り、白金製のチェーンに指が触れる。その、直前。

 

 「──それに触るな」

 

 冷たい声とほぼ同時に、フィリップに掴みかかっていた男の視線ががくりと下がる。

 彼が自分の膝から下が分離していることに気が付くのと、それを為した龍骸の刃が音も無く頚椎を断ったのは、殆ど同時のことだ。どちゃ、と湿った音を立ててトイレの床を転がった頭部は、失くした首から血を噴き出す自分の身体を見て、驚愕に目を見開いた。

 

 「……えっ?」

 「う、うわぁぁあ──、っ!?」

 

 リーダー格の年若い男は、自分の顔や手が赤く濡れていくことが理解できないというように、呆けた声を上げる。

 もう一人の男は用心棒ではなかったのか、或いは単に臆したのか、悲鳴を上げて逃げ出そうとした。残念ながら、三歩ほどで身体が内側から炭化し、それきり声を出すことも出来なくなったが。

 

 人間二人を半ば反射的に殺したフィリップは、腰を抜かしてトイレの床にへたり込んでいる男に背を向け、手洗い場でハンカチを濡らす。そして顔や服についた返り血を拭いながら、再び男に向き直った。

 

 「公爵の関係者で、かつ一番弱そうに見える……まあ実際一番弱いわけなんだけど、その僕を狙ったのは判断として間違っちゃあいない。それに、確かに僕は、僕が住んでるわけでもない町の工事なんかより、懐中時計の方がよっぽど大事だ」

 

 苛立ちの露な声で、フィリップは淡々とするよう心掛けて語る。

 そもそもいきなり頭を叩かれた時点で不快感はあった。そしてその時点で殺していても何ら不思議はないくらい、フィリップにとって他人の命は軽い。

 

 そうしなかったのは、いきなり殴られた衝撃で混乱していたのと、彼らの語る内容と目的に多少の興味があったからだ。

 フィリップは彼らに、興味と好奇心ぶんの価値を感じていた。

 

 数値化すると──ゼロだ。

 殺してもいいし、殺さなくてもいい。その程度。

 

 しかし懐中時計(大切なもの)に手を出そうとした瞬間、彼らの存在価値はマイナスになった。生きていてもいいし死んでいてもいい、どうでもいい存在から、殺さなくてはならない害悪になった。

 

 「それに、さ。僕は確かに、ルキアと比べたら雑魚も雑魚、彼女と戦うことさえ出来はしない雑兵だけど──武器を持っただけの一般人に負けるほど、僕を鍛えてくれた先生や環境は低劣なものじゃあない」

 

 強盗だって剣を持った相手なんか好んで狙わないだろうに、それでもこうして暴力を威しに使ったのは、彼ら自身のようにファッションだと思ったのだろう。

 

 フィリップには暴力と懐中時計が、公爵に対してはフィリップが、それぞれ脅迫材料になる。いわば二重の人質構造を作り、脅し、交渉する。

 

 善悪はともかく、効果を考えると悪くない手段だが──その構造がきちんと動作するためには、絶対的に必要な条件がある。

 

 前提として、暴力の質と量、そして暴力行使に係る枷が、脅す側の方が優位でなくてはならない。

 或いは脅される側が、殺人行為に大きな抵抗感を持っていなければならない。

 

 でなければ、脅された側の選択肢に、最短最速の解が入ってしまう。

 

 「で……お前たちはどうして、自分が懐中時計や工事よりも価値が上だと……僕に大切にされると思ったんだ?」

 

 フィリップは不機嫌そうに、そして怪訝そうに眉根を寄せて尋ねる。

 

 脅された。殺そう。

 そういう思考の帰結に至らないと、どうして無邪気に信じられたのか。

 

 フィリップにとって懐中時計の価値は、値が付けられないほど高い。

 眼前の命三つの価値なんかより、ずっとだ。

 

 「ちょ、ちょっと脅かしただけじゃないか! 殺すことは無いだろっ……!?」

 

 命乞い。

 恥も外聞もなく、勿論自分が吹っ掛けた喧嘩という意識もなく、そして脈絡もなく口を突いただけの言葉だ。

 

 しかし、フィリップはそれを質問に対する答えと受け取った。

 「脅しただけだから、まだ殺されるほどではないはずだ」という、蒙昧極まる答えだと。

 

 「君の価値観だと、初対面の相手にぶん殴られて、自分の一番大切な宝物を取られそうになって、ついでに脅されたくらいじゃあ殺したりはしないんだ。そう。器が大きいのはいいことだと思うよ」

 

 金銭目的ではないだけで、やっていることはほぼ強盗だ。

 そして強盗に遭ったとき、普通、選択肢は二つしかない。従うか、戦うかの二つ。

 

 しかし──「戦う」なんて思考は、対等な相手か格上相手にしか持てない。

 

 ()()と言うのだ、害悪となる劣等生物を殺すことは。

 

 そこに罪悪感や躊躇といった感情が挟まることは無く、機械的に、そして当然のように、無感動に、ただ殺す。

 

 もし何か感情を抱くとすれば、それは不快感だろう。劣等生物が自分の手を煩わせることへの、倦怠的不快感。()()()()()と。

 

 それを感じさせる気だるげな声で、フィリップは淡々と語る。

 

 「でも、世の中には色々なやつがいる。人間のことをパンか何かと同じに見てる美人のお姉さんもいれば、“気色が悪い”“僕が嫌い”という理由で何百人も殺すような、どうしようもない奴もいる。仕立ての良い服を着たガキが、ルールを破ることへの躊躇いを「不愉快だから」なんて理由で振り切る、感情的な馬鹿野郎かもしれないと、ちゃんと考えて行動しなくちゃ」

 

 なんて、フィリップは自虐的な冗談を言って一人で笑う。

 

 人を殺すことへの忌避感が無く、「人を殺してはいけません」というルールを破ること、そして怒られることへの忌避感が殺人行為のストッパーになっている。

 そう自ら語ることも、それ自体も、男の目には異常に映った。尤も、彼の恐怖を引き立てた最大の要素は、フィリップの笑顔に狂気的な色が全く見えず、友人に冗談を飛ばした子供の笑顔そのものだったことだが。

 

 「君は自分のことを誰も敵わない悪人だとでも思っているのかもしれないけれど、上には上がいるものだよ。僕は人間を殺すことと虫を殺すことに差異を感じられない悪人だけど、自分が邪悪の頂点に君臨してるなんて思ったことは無いし、自分の程度の低さも理解してる。……何でこんな話をしてるんだっけ?」

 

 フィリップは再び男に背を向け、手洗い場でハンカチを洗い、きつく絞ってポケットに突っ込む。

 その隙を突いて逃げたかった男だが、残念ながら、彼の足は震えて使い物にならなかった。

 

 そして鏡で身嗜みを確認したフィリップは、鞘に納めていた蛇腹剣をもう一度抜き放ち、切っ先を男の喉笛に向ける。

 

 「あぁ、そうそう……殴ったら殴り返される、なんてのは当然のことだけど……「一発には一発だけ返せ」なんて優しいルールを守るお行儀のいい相手ばかりじゃないことくらい、ちゃんと想像すべきだって話だ」

 「わ、分かった、悪かっ──」

 

 殴られた分、そして不快感の分にしては過剰な報復を終えて、フィリップは用を足したあとのようにすっきりした顔で公衆トイレを後にした。

 

 

 



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463

 フィリップが公衆トイレを出ると、公爵邸まで戻ったはずのアリアがルキアと合流していた。

 髪や服を濡らしているフィリップに、主従揃って不審そうな目を向ける。

 

 「フィリップ。……どうしたの、何かあった?」

 

 魔術でフィリップの服に付いた水分を飛ばしていたルキアは、拭いきれていなかった血痕を見つけて柳眉を逆立てる。

 しかしフィリップの魔力情報からは負傷や体調不良の兆候は見て取れず、ルキアはその正体を察した。

 

 案の定というべきか、フィリップはルキアから受け取ったサンドイッチを齧りながら、なんでもないことのように「ちょっとトラブっただけです。もう解決したので──」なんて適当に流そうとする。

 

 しかし、この町には人が多い。公衆トイレを利用する人間もまた。

 

 「──うわぁぁ!? ひ、人が死んでるぞ!? 誰か来てくれ!!」

 

 背後、ついさっきフィリップが出てきた公衆トイレの中から悲鳴が響く。

 近くを歩いていた人々が一斉にそちらを向く中、「まあそうだろうな」なんて顔で平然としているのはフィリップ一人だけだった。

 

 「……もう解決したので、平気です」

 

 サンドイッチの最後の一口を嚥下し、フィリップはそう言い切る。

 

 死体が発見されてなおどうでもよさそうなフィリップだが、ルキアもアリアもフィリップが意図して話を流そうとしているわけではないと分かっている。

 

 本当にどうでもいいことだと思っているから、そういう反応しか出来ないのだ。ルキアがそうであるように、アリアの同僚であるメグがそうであるように、殺人行為を誇りも恥じ入りもしない。路傍の蟻を踏み潰したことを誇りも隠しもしないように。

 

 しかし、それはあくまで超越者の、或いは異常者の視点だ。

 死体が見つかれば騒ぐし、警察組織──この町では衛士ではなく衛兵がそれにあたる──への通報と調査も行われる。

 

 まあ、公爵家から一言言っておけば、そちらは何の問題も無く片が付く。

 問題は理由だ。いくらフィリップが感情で人を殺すくせに、人死にに対しては無感情な殺人鬼じみた一面があるとはいえ、理由も無く人を殺すほど社会性に欠けるわけではない。

 

 というか、フィリップはどちらかと言えば温厚なほうだ。

 ルキアは彼が本気で怒ったところを見たことがないし、それに近い状態も、ナイ神父がカルトに与したと思ったときの一回しか知らない。「ちょっとトラブった」程度で人を殺すのは、少し想像が難しかった。

 

 「何があったの……?」

 

 問われて、フィリップは公衆トイレの中で起こったことをありのまま話す。

 殴られたからやり返した──と言うには過剰だったと、冷静になって考えるとそう思ったフィリップだったが、「労力を無駄にした」という意味での反省だ。失われた、フィリップが奪った命に対する後悔ではない。

 

 終始表情を変えず冷静に聞いていたアリアと違い、ルキアはそれなりに感情を露にした。

 唐突に殴られたというところでは柳眉を逆立て、フィリップを使って公爵を脅そうとしたところでは不愉快そうに顔を顰め、懐中時計を取られそうになったところでは冷たい殺意を湛えた目をして。フィリップが「で、全員殺しました」とどうでもよさそうに結ぶと、「まあそうなるな」とでも言いそうに頷いた。

 

 死ぬべきものが然るべきように死んだ。

 そんな納得感すら見せている。

 

 しかし、フィリップに手を挙げた愚昧が死ぬことと、彼らが持っていたはずの情報が失われたことはまた別の話だ。

 

 「……お嬢様」

 「分かっているわアリア。でも、殺してしまったものは仕方ないでしょう」

 

 一部始終を聞いたルキアとアリアは互いに顔を寄せ、ひそひそと囁く。

 ルキアが他人の命に価値を見出すことなど珍しく、そんな反応を予期していなかったフィリップは慌てた。

 

 「あ、すみません。もしかして殺しちゃ駄目な人でしたか?」

 

 もしや重要人物だったのだろうか、なんて考えるフィリップだが、もしそうだとしても、それを予め知っていたとしても状況は変わっていなかった。

 いきなり殴られたその時点で、彼らの処遇はほぼ決定している。どうでもいい相手を害悪と見做して殺すか、殺してはいけない相手を殺して怒られることを厭いながら殺すか、その程度の差異だ。

 

 幸い、ルキアはフィリップが彼らを殺したことを咎めるつもりはないようだった。

 

 「いいえ。貴方に危害を加えようとしたのだもの。それに、反射的に殺してしまうほど、懐中時計を大切にしてくれて嬉しいわ」

 「そりゃあ、僕の一番大事な……んん、落っことしただけで王様が殴られるような代物ですからね」

 

 ポロリと本音を漏らしそうになり、フィリップは咳払いで誤魔化そうとする。

 無論そんなものがルキアに通じるはずも無いのだが、彼女は悪戯っぽく微笑み、それ以上の追及はしなかった。……本人はそのつもりだった。

 

 「初めになんて言おうとしたのか、物凄く気になるけれど……フィリップが言いたくないなら聞かないわ、勿論。勝手に想像して、勝手に喜んでおくことにするわね」

 

 懐中時計の贈り主であり、フィリップが利便性や金銭的価値を抜きに懐中時計を大切にする理由であるルキアにそう言われては、流石のフィリップも誤魔化すことに罪悪感を覚える。

 

 そもそも、フィリップはルキアに対する隠し事が多い。

 ステラにもミナにもエレナにもそうだが、智慧なき幸せ者から無知という心地良いブランケットを奪うつもりはない以上、それは仕方のないことだ。

 

 しかし、無知である幸福さを知っているステラと違い、ルキアは未知に対する恐怖心がまだ大きいはずなのに「言いたくないなら聞かないし、どんな嘘でも信じる」とまで言ってくれる。そんな彼女に嘘や誤魔化しを口にするたびに、フィリップは多少の罪悪感を抱いていた。

 

 勿論、それが必要な事なら仕方がない。ルキアを守るための嘘なら、独善的な罪悪感なんか鼻で笑って欺瞞を通す。

 

 だが、今は違う。

 これはフィリップが一人で気恥ずかしくなって言い淀んでいるだけの、隠す必要のないことだ。正気を守るためなら彼女の気質でもなんでも利用するが、今は、それは駄目だろう。

 

 そんなことを思ってしまっては、フィリップに誤魔化し通すという選択肢は無くなった。

 

 「……一番大事な人に貰った、一番大事なものなので」

 

 照れ交じり、というか、照れ切った様子で目も合わせられずにどうにか絞り出された本心。

 それはルキアを赤面させるには十分な威力を持っており、二人は揃って互いから目を逸らす。

 

 「む、無理に聞き出すつもりはないと言ったのだけれど……」

 

 普段なら道行く人に微笑ましそうな目を向けられそうな、初々しくも甘やかな沈黙が流れる。

 しかし二人の会話が聞こえていた一部の人間は、みな一様に正気を疑うような目を向けて、一行から足早に離れた。

 

 死体が見つかったと騒いでいるすぐ近くでイチャついている異常者に向けるには、まあ、相応しい視線だろう。

 

 フィリップとルキアの価値観を知るアリアが唯一、戦慄ではなく呆れの感情を滲ませていた。

 

 「お嬢様。照れている場合ではありません。その三人、“呪い”に関係している可能性が高いと思われます」

 「え、えぇ、そうね。アリア、死体の人相を確認してきて……出来るかしら?」

 

 死体を遺さない殺し方を多用するルキアが、凄惨な殺し方に定評のあるフィリップに問う。

 二人とも何も考えず手癖で殺すとそうなるだけなのだが……いや、そもそも「手癖で殺す」という言葉が出てくる時点でおかしいのだけれども。

 

 叩き潰した羽虫の死に様を思い出すことに成功したフィリップは、ルキアだけでなくアリアにも頷いてみせる。

 

 「一人は炭の塊にしちゃいましたね。残り二人は、顔を壊した記憶は無いですけど……」

 

 答えを受けたアリアは「確認して参ります」と一礼して、人混みの中に消えた。

 さっきはルキアの傍を離れるのを多少渋っていたのだが、今回は一瞬で済むから抵抗が少ないのだろうか。

 

 そんなことを考えた、その直後。

 

 「──誰か医者を呼んでくれ! 工事現場で事故だ!」

 

 遠くからの叫び声に、死体騒ぎで集まっていた人間が「またかよ!?」なんて言いつつ半分ほどがそちらに向かう。

 

 フィリップとルキアは顔を見合わせ、まだ死体の確認をしている護衛を放って駆け出した。

 

 工事現場の人だかりが出来ている辺りに向かうと、頭から血を流している男が担架に乗せられて運ばれていくところだった。

 幸いにしてそれほど重傷ではないようで、別の場所の作業を見ていたらしい現場監督が駆け寄ると、彼は担架の上で上体を起こす。

 

 「どうした、何があった!?」

 「ま、まただ……。また、梯子の足元だけ泥になってた……。下から土嚢を渡そうとした拍子に、梯子が滑ったんだ……。監督、やっぱりこれは呪いなんじゃないのか……? 公爵様に止めるよう進言すべきだろ……」

 

 負傷した男は現場監督の胸倉を掴み、恨みの籠った声で言う。

 語られた内容を聞いてフィリップがルキアの方を向いたときには、彼女は既に視界のチャンネルを魔力の次元へ切り替え、工事現場の倒れた梯子の周辺をじっと見つめていた。

 

 「っ、ルキア」

 「……人間の魔力残滓があるわ。あるけれど……微弱過ぎる。個人を特定するのは無理よ」

 

 視界を物理次元へ戻し、ルキアは少しだけ悔しそうに言う。

 しかし、たったそれだけの情報でさえ、事前に聞いていた情報とは微妙に食い違っている。

 

 「確か、これまで魔力残滓は見つからなかったんじゃ?」

 

 ルキアは出発前に、公爵家の抱える魔術師を調査に出し、魔力残滓さえ見つからなかったと言っていた。だから「呪い」である可能性を考え、フィリップが支援に来たのだ。

 しかし「呪い」にしては起こる現象がくだらないこと、どの現象も魔術的・物理的な手段で再現できそうなことは分かっていた。そして現場に来てみて、工事を妨害されても不思議はない状況だとも。

 

 「えぇ。ここまで微弱なら、常に自分の魔力と他の魔力がどういう状態にあるかを意識していないと、日常的に発散する魔力で吹き散らしてしまうでしょうね」

 「……ルキア、そんなことしてたんですか?」

 

 平然と語られたことが凄い技だと理屈の上では理解できたフィリップが、尊敬と驚愕の綯い交ぜになったような顔でルキアを見つめる。

 

 魔術師だけでなく魔力を生み出すあらゆる存在は、常に魔力を発散している。人間であればそれは呼吸や、体表面の汗が蒸発するようなものだ。

 呼気や水蒸気と違って魔力は視覚的に把握できるとはいえ、人混みの中で自他のそれを区別して認識し続けるのは生半なことではない。魔力感知能力や把握能力もそうだが、それを続けていた集中力と、それでいて難なく会話や移動が出来ていたマルチタスクぶりが、やはり常人とは一線を画している。

 

 「今回だけよ。“呪い”と聞いたら、流石にね」

 

 ルキアが以前に受けた“呪い”、正確には呪詛に種別される“眠り病”は、魔力を感染経路とする感染性呪詛だった。()()()は発散する魔力が汚染され、魔力に対する感受性が高い人間ほどその汚染を受けやすく、故に、感染者の大半が優れた魔術師だった。

 

 それに対する警戒として、ルキアの取った手段──自他の魔力を常に監視するという方法は、能力や労力面で実行が極めて難しいという点に目を瞑れば最適解だ。

 

 「流石です。でも、魔力の残滓があって、それが人間のものってことは、つまり──」

 「超常現象ではない。何者かが干渉し、故意に事故を起こしていた……。フィリップを襲ったという三人、工事を中止させたがっていたのよね?」

 

 顎に手を遣り、真剣な表情で考えるルキア。

 フィリップが殺した三人は、確かに、工事の中止を公爵に求めるために蛮行に及んだ。

 

 しかし、彼らはもう死んでいる。

 

 「……滅茶苦茶怪しいですね。しかも、殺してから事故が起こったってことは」

 「えぇ、そうね。設置型魔術であっても術者が死ねば解除される。つまりその三人ではない誰かが、“呪い”の……いえ、事故を誘発した犯人。これは明確な犯人がいる、事故に見せかけた妨害工作よ」

 

 妨害工作が魔術的なものだった以上、死んだ三人の置き土産という可能性は消える。

 物理的・機械的なものだったのなら死ぬ前に仕掛けておくこともできるが、魔術は術者なしでは発動しない。

 

 それに、この町にはルキア以外にも上位冒険者の魔術師がそれなりにいて、魔力残滓が彼らの発散する大量の魔力ですぐに吹き散らされる。ルキアが魔力残滓を発見できたということは、魔術が使われてから時間は殆ど経過していないということだ。

 事故発生が叫ばれてから、まだ数分しか経っていない。つまり、工作が行われたのは事故の直前しかない。

 

 「魔力規模が小さいってことは、魔術能力が低い? なら射程も短いし、犯人はまだ近くに居るってことですよね!?」

 

 自分がそうであるからか、フィリップの言葉は断定的だ。

 魔術行使がほんの数分前で、射程もそれほど長くない。であるなら、犯人が逃げていても追い付ける距離のはず。

 

 その推理自体に論理破綻は無い。しかし、ルキアは眉根を寄せて首を傾げた。

 

 「……どうかしら。確かに、魔術戦が出来るような相手ではないと思うけれど、私の近くに残り続けるほどの馬鹿なら、こうも見つからずに何度も、それもこんな往来で魔術を撃てないでしょうね。撃ってもすぐに見つかるはずでしょう? すぐに隠れられる場所から……いえ、移動しながら撃ったはずよ。馬車か徒歩かは分からないけれど、もう近くには居ないと思うわ」

 

 ルキアの推理に、フィリップも「確かに」と頷く。

 この町には魔術師が多い。それも上位冒険者の、相当に戦闘慣れした魔術師が。

 

 彼らの存在は魔力残滓を隠すにはもってこいだが、同時に、妨害者にとっては衛兵なんかより余程恐ろしい監視者のはずだ。身を隠していたとしても魔術を撃てばほぼ確実に察知され、場合によっては自分に対する攻撃と誤認されてボコボコにされる──いや、殺される可能性だってある。

 

 戦闘魔術師が攻撃と判断せず、しかし彼らの魔術耐性で照準が狂わない強度で、かつ魔力残滓が速やかに消える程度の魔術を正確に使っている。

 

 狙ってのことなら、それこそ戦闘魔術師級の能力だ。魔力操作能力は魔術学院生の中でもBクラス相当か。

 リリウムにはできないし、フィリップにもできない。逆にルキアやステラのような強力無比な魔術師でも、再現にはかなりの技量が求められるだろう。

 

 もしかしたら、かなりの曲者かもしれない。

 だが「呪いが人為的なものなら解決したも同然」と思っていた通り、状況は解決に向かっている。

 

 あとは公爵家から監視要員を出すなり、報奨金なんかを使って冒険者たちをも監視に就かせてしまえば、妨害工作は止まるだろう。

 流石に監視に気付かず捕まるほど間抜けな相手ではないだろうが、工事が完遂できればそれでいい。

 

 今回の敵は、執拗に探し出して惨死させなくてはならない相手ではないのだから。

 

 

 



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464

 私の誕生日を覚えていて下さった方、ありがとうございます! 兄貴姉貴に頂いた祝辞とエナドリのお陰で467話が爆速で書きあがりました!


 「呪い」が人為的なもの、妨害工作であると判明した以上、フィリップたちが巡回する必要性は薄まった。

 魔王や上位の悪魔が絡んでいるならルキアでなければ対処できない可能性もあったし、神話生物絡みならフィリップは率先して対処に繰り出すが、どちらでもないのだからどうでもいい。

 

 「家に戻りましょう。あとはお母様に任せれば、一番綺麗に終わるはずよ」

 

 ここから先は人海戦術が効く。

 まだ妨害者の正体が人間だと分かっただけなので、人海戦術を展開しても安全だという確証を得るための調査のようになってしまったが、成果としては十分だ。

 

 戻って公爵夫人に報告すれば、あとはどうとでもなるだろう。

 どうとでもできるだけの人材も資金も、公爵は持ち合わせている。

 

 ──と、人を使うという思考が出来るのはルキアだけだ。

 

 外神の視座の影響やナイ神父の教育の甲斐あって、邪神を()()()ことには慣れてきたフィリップだが、人の上に立ち人を使うことには慣れていない。というかむしろ、フィリップはこれまで使われる側だった。冒険者も「使われる側」であることを考えると、今でもそうだ。

 

 フィリップは「自分の仕事を人に押し付けるようで気が引ける」と明記された顔をしていた。

 

 とはいえ、フィリップはあくまでルキアの護衛に過ぎない。調査は元々ルキアが買って出た役目で、フィリップは神話生物絡みの事案だった場合のバックアップ。ルキアが主で、フィリップが従だ。

 

 調査の方針を決めるのも、決めるだけの知識やノウハウがあるのもルキアなのだし、フィリップは従うほかない。

 

 「……了解です」

 

 内心の不満を制御しようという気概は認められる。感情制御は35点。

 

 そんな声で、フィリップは了承した。

 

 まだ目的は完遂されていないのに途中で切り上げるようで、不満はある。

 魔術行使の痕跡を見つけたのはルキアだし、フィリップがやったことといえば……強盗モドキを三人ばかり殺したくらいか。しかもどうやら、そいつらは生かしておいた方がよかったらしい。

 

 ギリギリ邪魔にはなっていないはずだが、ルキアの手助けになったかというとそうではない気がする。

 とはいえ、ここで「いや僕がやります」と出しゃばると、またいつぞやのようにプロの邪魔をすることになりそうだ。ここは大人しくしておくべきだろう。

 

 そもそも魔力を見る役目はルキアにしか出来ないのだし、是非も無い。

 

 フィリップは多少の未練を見せつつも頷き、二人は一先ず公衆トイレの辺りまで戻ることにした。

 さっきは事故発生の報に思わず移動してしまったが、アリアを死体の身元確認に向かわせたきりだ。確認はとっくに終わって、帰ってきたらルキアが居ないわけだから、相当に焦っているかもしれない。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、道行く人が二人の頭上を指して叫んだ。

 

 「おい、危ないぞ!!」

 

 ルキア相手に「おい」なんて言ってしまうほどの焦りようで、明らかにただ事ではないと分かる。

 指の示す先に視線を向けたときには、もう殆ど間に合わないタイミングだった。

 

 見上げると、道沿いの家のベランダから片手サイズの植木鉢が落下していた。一見して陶器製のそれは、恐らく土や水も含めて総重量2,3キロ。その直下、落下地点にはルキアがいる。

 

 「っ!?」

 

 猶予は一秒も無く──しかし、フィリップはルキアを押し退けることに成功した。

 舞踏術や美しい所作を身に付ける中で磨かれたルキアの体幹は、フィリップが片手で押した程度では動かせない程度には強靭だ。しかしミナやエレナのように、体重を数十倍に錯覚させるほどの身体操術はない。体重をかけて身体で押せば、フィリップでも十分に押し退けられる。

 

 むしろ重要だったのは反射神経の方だが、自由落下物の速度なんか、エレナのパンチやらミナの斬撃を普段から見ているフィリップには遅い。

 自分の頭に向かって落ちてきたのだったら、もしかしたら無感動な一瞥を呉れて、「当たったら痛そうだなあ」なんて思ってから漸く回避していたかもしれないが、ルキアは最優先庇護対象だ。考えるより先に身体が動いた。

 

 身体で押し退けた以上落下位置にフィリップが入るが、何も問題は無い。回避するだけの余裕はある。

 

 フィリップのその思考は正しい。

 そもそも体幹や反射速度、動体視力といった回避能力を重点的に鍛えているうえに、訓練ではルキアやステラの魔術だって避けていた。今更、ただ直線で落ちてくるだけの物体が避けられないことはない。

 

 しかし──靴底にあった硬い石畳の感覚が消え、ずる、と足が横滑りする。

 

 「っ!?」

 

 転倒。そして体勢が崩れたところへ、植木鉢が直撃する。

 エレナのパンチよりマシ。ミナの斬撃よりマシ。だが──人間の肋骨くらい、きっと簡単に折れる。

 

 二回分の痛みを覚悟して身体を強張らせたフィリップだったが、幸い、痛みは一度も来なかった。転倒分の痛みも、衝撃さえも。

 

 「……大丈夫? 怪我はない?」

 

 心配そうなルキアの声に、フィリップは痛みに備えて硬く瞑っていた目を開ける。

 90度ほど回転した世界のなか、ゆっくりと地面に向かって落ちていく自分の身体と植木鉢を見て、フィリップは闇属性魔術の中でも特に難易度が高いとされる重力操作のことを思い出した。

 

 「だ、大丈夫です。足が滑りました……」

 「そのようね」

 

 先のフィリップを慮るような声からは一転し、他人──いや敵に向けるときの冷たい声になるルキア。

 いやに軽い体で立ち上がり、植木鉢を掴むと、途端に体の感覚が戻る。ルキアが不愉快そうに見つめる先へフィリップも目を向けると、石畳の上、ちょうどフィリップが立っていた場所に、薄く引き伸ばされた泥の跡があった。

 

 横に伸びているのは、そりゃあ、フィリップが滑ったからだ。

 だがそもそも、石畳の上に、それもここだけにピンポイントで泥が落ちていること自体が不自然だ。

 

 「土属性中級魔術『マッドスワンプ』ね。本当はもっと広く深い沼を作り出す魔術だから、失敗しているけれど」

 「……失敗でも使い方次第じゃ十分道具にはなりますよね。僕の『水差し』や『火種』のように」

 

 飛びもしない水の槍を水差しにするように、拳大どころか指先サイズの火球を火種にするように、魔術能力不足で失敗したものにも使い道はある。

 フィリップが踏んだ“沼”は、深さは2ミリあるかどうか、広さも直径30センチ程度のもの。沼というか、もう泥濘と呼ぶのも躊躇われる水溜まりだ。しかし、そんなものでもいきなり現れれば、文字通り足元を掬うくらいはできる。

 

 引っかかった相手は精々滑って転ぶくらいの、悪戯程度の結果しか齎さない魔術だが──今のような急いで移動しなければならない状況や、或いは重い資材を持った作業員が昇っている梯子の足元なんかに出せば、結果としての威力は数倍に跳ね上がる。

 

 「……術者の位置は分かりますか?」

 

 植木鉢が落ちてきたベランダは無人だ。もしかしたら風属性魔術で落としたのかもしれないが、ただの偶然の可能性もある。

 しかし、足元に魔術を撃って回避を妨害したのは、明らかな攻撃だ。まあただの悪戯という可能性も完全に棄却できるわけではないが、検討に値しない程度には低い。

 

 工事を妨害する何者かによる、かなり直接的な攻撃だ。

 

 いや、フィリップは別に、工事の妨害なんかどうでもいい。

 ここに来たのはルキアに頼まれたから、そして万が一“呪い”が神話生物由来のものであった場合に駆除するため、ルキアを守るためだ。

 

 工事を妨害していたのが人間だったと判明した時点で、フィリップのモチベーションはかなり萎んでいた。

 まともな人間なら、聖人であるルキアに危害を加えようとはしないだろう、なんて高を括っていたこともある。

 

 しかし今、その余裕は揺らいだ。

 

 植木鉢の落下が作為的なものなら、それはルキアに対する攻撃だ。

 フィリップがルキアを庇った直後の完璧なタイミングで魔術を撃った辺り、もしかしたら初めからフィリップを狙ったのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。重要なのは、ルキアが怪我をするかもしれなかったことだ。

 

 まあ、冷静になって考えれば、重力操作や魔力障壁で簡単に防げただろうけれど、それはそれだ。結果として無傷だったことも、簡単に防げる程度の攻撃だったことも、攻撃したという事実を打ち消す要素ではない。

 

 「見つけてぶっ殺しましょう」

 

 完全にスイッチの入った顔で喉笛を掻き切る仕草をするフィリップに、ルキアは下品な手振りだと咎めるように眉根を寄せる。とはいえ、彼女が咎めたのはフィリップのジェスチャーだけで、言葉の内容自体には賛成だった。

 

 というか、ルキアが助けなければフィリップは大怪我をするところだったのだ。そんな相手を、ルキアが見逃すはずがない。ステラに「強さゆえに他人の命が軽い聖痕者の中で、一二を争うほど手が早い」と言われる彼女が。

 

 「もう見つけたわ。まだ生きているかどうかは、当人の生命力次第だけど」

 

 氷のような声で言ったルキアに、フィリップは苦みの強い笑みを浮かべる。

 彼女がいつどのように攻撃したのか、魔術師ならざる身には全く分からなかった。

 

 

 



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465

 フィリップとルキアはアリアと合流した後──探させてしまったようで、流石にちょっと怒られたが、とにかくルキアの守りを盤石にしてから、彼女が見つけた攻撃者のところに向かった。

 まあ守りを固めたと言っても、ルキア本人が重装の要塞みたいなものだ。立哨が二人増えたところで誤差ではあるけれど。

 

 ルキアが見つけたという、そして既に攻撃を完了したという三十メートルほど離れた路地裏へ入ると、年若い男が一人、地面の上でうつ伏せになって呻いていた。

 

 「お、ちゃんと生きてますね。流石です」

 

 男はフィリップたちの気配に反応して顔を向けようとするが、動きが極めて鈍い。

 フィリップも訓練の中で喰らったことのある、重力増加魔術『ハイグラビティ』による拘束下にあるときの様相に似ている。

 

 だが明らかにフィリップが喰らったものより威力が高い。

 フィリップのときは全身鎧を重ね着したくらいの負荷が掛けられ、動くのに必要な力が数倍から十数倍になったが、身体へのダメージは無かった。だが彼は、なんというか、()()

 

 「そんなに潰れて大丈夫なの?」と疑問になるくらい、胴体も頭部も四肢も平らになるほど押し付けられている。血が出ているようには見えないが、流れ出るべき血液を体内に押し留めるほどの重力が加わっているだけではないだろうか。

 

 だが、生きている。

 人間を殺すことに何ら抵抗が無く、敵を殺すときには死体を遺すことさえ稀なルキアにしては珍しい。

 

 流石と言ってはいるが、正直なところフィリップは意外だった。

 

 「フィリップに教わったようなものよ」

 

 賛辞を受け、ルキアは穏やかに笑う。

 

 勿論、殺さないよう威力を調節するだけの技量はある。彼女はフィリップとは違う、小を兼ねるタイプの大だ。

 しかし、どのくらいの威力で人間が死ぬのかという知識が薄い。幼少期からずっと、敵は過剰なくらいの威力で殺し尽くしていたのだから。

 

 その彼女が手加減を本気で覚えたのは、魔術学院に入学してからだ。それ以前も家族や戦闘職の宮廷魔術師、そしてステラと模擬戦闘をする中で多少の加減はしていたが、それは半ば義務的なものだった。

 

 魔術学院に入学してから少し経って、野外行動訓練があり──そこで出会ったフィリップが編入してきて、漸くだ。

 うっかり殺すと面倒な相手だからではなく、万が一にも傷つけたくない相手の為に、相手を慮って手加減することを覚えたのは。

 

 そしてフィリップの戦闘訓練を続けるうちに、彼女は人体の強度を概ね理解した。

 どの程度までは威力過小で、どの程度であれば怪我無く制圧できて、どの程度から怪我をするのか。どこまでが死なない範囲か。

 

 その知識を使って加減する相手は、普段はかなり限られているが──知らないわけでも、出来ないわけでもない。

 

 フィリップとルキアのどちらを狙ったのかは不明だが、とにかく攻撃者を捕らえたルキアは彼を無感動に見下ろし、それから自分の従者を一瞥する。

 

 「さて……アリア、貴女、尋問の訓練を受けていたわよね」

 「はい。耐性を付ける訓練が専らで、()()()は不得意ですが……」

 

 剣術用と思しき革手袋を外し、ぽきぽきと手指の関節を鳴らしながら、アリアは倒れた男の傍へ近寄る。

 初めて見る彼女の手は、掌にも拳にも胼胝はない。しかし拳の部分の骨は硬いものを殴って壊れては治癒してを繰り返した結果、握り込んでも浮き上がらないくらい滑らかに潰されている。掌は胼胝を潰して均すほどの訓練の結果、皮が厚く張って白くなっている。

 

 人形じみて整った容姿からは想像できない、戦士の手だ。

 フィリップだって掌に肉刺や胼胝くらいあるが、アリアの手と比べれば赤子のそれに等しい。

 

 というか、あの手は凶器だ。

 

 驚愕と感嘆の目で見つめるフィリップの隣で、ルキアはアリアに背を向け、フィリップの背に手を添えて同じようにさせる。

 そして、繰り返し殴打するという極めて原始的かつ単純な拷問が始まった。

 

 「では──手始めに──自己紹介を──して──いただけ──ます──か?」

 

 言葉を区切り、その度に鈍い欧打音と湿った音が挟まる。

 名前を聞くまでにもう六回も殴っていては、名前、所属、目的と聞くころには死んでいたっておかしくない。

 

 「ちょ、ちょっとやり過ぎでは……?」

 

 プロの邪魔をすべきではないという思いも忘れ、フィリップは思わず振り返って制止する。

 仰向けになった男に馬乗りになり顔面を執拗に殴っていたアリアは、フィリップの方に振り返る。ルキアを攻撃されて怒っているのかと思ったが、彼女は至って冷静で、人形のような表情を崩してもいなければ、頬を紅潮させたりもしていない。

 

 涼しい顔のアリアは汗の一滴もかいていないが、男の顔面は既にボコボコで、歯が数本地面に転がっていた。

 

 「いえ。人間、喉と脳さえ潰さなければ、心臓が止まっても口は利けますので」

 「そんな考え方だから不得意なのでは……? あ、いえ、なんでもないです……」

 

 心停止した人間が何秒間意識を保てるのかは知らないが、ただ意識があるだけでなく、質問に答えられるだけの思考と恐怖心を保てるかどうかは甚だ疑問だ。

 ……と、素手で人間をぶん殴って歯を折っておきながら拳が赤くなってさえいない人物に、正面から言える人はそういないだろう。いや、フィリップもルキアも間違いなく「言える」のだが、フィリップは他人の仕事を邪魔することを避け、ルキアは自分の従者の能力を信じて黙っている。

 

 そして結局、アリアは与えられた任務を存分に果たした。

 

 

 ◇

 

 

 当初の予定通り──と言うには多少のトラブルがあったものの、ともかく、三人は公爵夫人に調査結果を報告すべく公爵邸に帰ってきた。

 

 夫人の執務室へ通されると、紅茶とお菓子で労われる。

 フィリップは多少恐縮しつつ嬉しそうにしているが、ルキアは母親に苦笑を向けていた。

 

 ルキアが自分の仕事をこなしただけの時にはお菓子なんか出さないし、出されたってルキアも困るし困惑するので、夫人がフィリップのために用意させたものであるのは間違いない。

 

 ルキアとしては、フィリップを子ども扱いしているようで少し不満だ。お菓子を摘まんでいる本人が幸せそうなので何も言わないが。

 

 「なるほど。「呪い」の件は殆ど解決したと、そういうことね」

 

 フィリップとルキアが得た情報を伝えると、夫人は安心したような穏やかな笑みと共に頷いた。

 

 「そのはずです。シューヴェルトさんがボコボコにした人が、一連の妨害工作の実行犯だって吐きましたからね。あとはまだ喋ってない、彼の雇い主を吐かせるか、他の方法で見つけるかして、そっちを何とかすれば万事解決です」

 

 結局、アリアによる原始的で単純な尋問は、男の所属や名前から今回の仕事に支払われる報酬額までを引き出し、しかし、彼の最後のプライドを──雇い主の名前だけは死んでも吐かないという根性を、遂に突破できなかった。

 

 それは単調な拷問シーンにフィリップとルキアが飽き始めたからでもあるし、アリアは雇い主の正体に大方の察しがついていたのも理由の一つだ。

 

 「奥様、その件についてご報告が」

 

 言いつつ、アリアは一瞬だけフィリップに目を向ける。

 視線を受けたはずのフィリップ本人が気付かず、ルキアとオリヴィアだけが辛うじて気付く程度の一瞬だ。

 

 従者の意を汲み、夫人はフィリップに明るく笑いかけた。

 

 「分かったわ。フィリップ君、今回は手伝ってくれてありがとう。あとは家で対処するわ」

 「え? あ、はい……。また何か力になれることがあったら、いつでも呼んでください」

 

 アリアの視線には気付かなかったフィリップだが、夫人が言外に席を外せと言っていることに気付けないほど鈍感ではない。紅茶を飲み干し、夫人と同じくにこやかに笑って席を立つ。

 

 ここまで来て最後の最後に仲間外れとは、と寂しく思う気持ちもないではないが、納得はしている。フィリップは公爵家の内々の話に混ざれる立場ではないし、何か難しい話をするのなら、十中八九付いていけないだろうフィリップに気を遣わせて、話が冗長になってしまう。

 

 「ありがとう」

 「また後でね」

 

 夫人とルキアが声を掛けて、アリアが一礼して、部屋を出るフィリップを見送った。

 そして──フィリップは部屋を出ると、周りに使用人がいないことを確認して立ち止まり、たったいま出てきたドアに耳を付けた。

 

 明らかな盗み聞きの姿勢になったのは、何も好奇心ばかりが理由ではない。

 まだ自分に出来ることが何かあるのではないかと思ってのことだ。

 

 「聞きましょうか。拘束した男は雇い主について頑なに口を割っていないそうだけど、証言以外の確たる証拠でも見つかった?」

 

 扉は厚いが、耳を付ければ中の声が聞こえる。

 淡々と、フィリップに向けていた声より1オクターブ低い身内向けの声で問いかけたのは公爵夫人だ。

 

 「はい。カーター様を襲った三名の身元が判明致しました。街の東部を主な営業圏とする運送屋の跡継ぎと、その身辺警護を担当していた従業員のようです」

 

 ほう、とフィリップは初耳の情報にいっそう耳を傾ける。

 分かっていてフィリップに教えなかったということは、フィリップが知る必要はない──公爵家が対応するということだろう。

 

 フィリップは潰した虫の名前や性質を気にするタイプではないし、知りたいとも思わなかったので別に構わない。知っていたとしても「じゃあ全員ブチ殺して解決ですね!」なんて言わなかったので、短絡的解決になることを危惧してのことなら遺憾だけれども。

 

 室内での会話は続く。

 

 「運送屋……陸運よね? 運河延長による事業縮小を嫌がったのかしら?」

 「理由までは不明です。それと、捕らえた男は自らを「アズール・ファミリー」のメンバーであると供述していました」

 「アズール・ファミリー。帝国のマフィアね。その構成員はラピスラズリの付いたアクセサリーを仲間の証にしていると聞くけれど、これがそうなの?」

 

 今度はフィリップも知っている情報が語られる。

 アリアが尋問の中で聞き出した情報だから傍で聞いていた。フィリップは帝国のマフィアには詳しくなかったが、同じく傍に居たルキアが教えてくれた。

 

 「指輪の真贋は分かりませんが、石自体は本物かと」

 

 今は夫人の机に乗っているらしい指輪だが、それが本当に『アズール・ファミリー』構成員の証かどうかは分からない。夫人も「そうね」と肯定しているから、真鍮細工の指輪を飾る青い石は、本物のラピスラズリに間違いないのだろう。しかし、それがただの“ラピスラズリの指輪”でしかない可能性もある。

 

 ミュローは国境沿いの、それも国の内外から数多くの冒険者が集まる街だ。

 帝国を主な縄張りにするマフィアが紛れ込んでいても気付かない程度には、人の出入りが激しい。住民が朝起きて窓を開け、初めに見つける人間は大抵が初めて見る顔なくらいに。

 

 本当にマフィアである可能性もあるし、ただのハッタリである可能性もある。顔の形が変わるほどの暴力を押し付けられて、虚勢を張る根性があるかは別として。

 

 しかし、まあ、どちらでもいいというのが正直なところだ。

 ルキアも夫人もアリアも、公爵家を知る者なら誰もがそう言う。フィリップも含めて。「どちらにせよ罰する」と。

 

 「この状況で嘘を吐く意味なんてないでしょう? 公爵家(私たち)が国外マフィアに怯えて手出しを控えると、そこまで甘く見られているのなら……少しばかり苛烈に見せつける必要はあるけれど」

 

 やや不機嫌そうなルキアの声を聴きながら、フィリップは廊下で一人状況を整理する。

 

 『呪い』が生まれた構図は見えた。

 今まで運河が無かった地域で発展してきた陸運業社が、運河延伸とそれによる水運業者の拡大、事業規模の縮小や競争激化を厭った。国外マフィアを使い工事を秘密裏に妨害する過程で、作業員たちが姿の見えない妨害者を恐れるあまり「呪いだ」と言い出した。そんなところだろう。

 

 あとは全員殺してお終い……なのだろうか。

 領民が領主の企図した工事を妨害したと考えれば、叛逆的行為──悪辣なものなら死罪だ。そして他の領民を「魔王の呪い」なんて口走るほど怯えさせ、多くの領民に利を齎す運河の拡張を妨げた行為は、十分に悪辣と評せる。

 

 ただ、『呪い』という言説が流れてしまった以上、それを拭い去るには大きなインパクトが必要だ。

 ただ単に殺すだけ、「犯人を処刑した」と発表するだけでは足りないかもしれない。例えば妨害者を捕らえて、市中引き回しの後に磔刑に処すとか。

 

 ルキアが「苛烈に見せつける」と言ったのは、そういう意味だろう。

 

 「……一応言っておくけど、貴女の仕事もここでお終いよ? 運び屋とマフィア、どちらも潰すことに変わりはないけれど、貴女が出張り過ぎるのは良くないわ」

 「分かっているわ、お母様」

 

 まあそうか、とフィリップも扉の外で一人頷く。

 マフィアが全部で何人いて、どの程度の戦力なのかは分からないが、ルキアが動く必要は無いだろう。そして彼女の仕事がここまでなら、フィリップが護衛をする必要も、「面倒だから全員生きたまま僕の前に並べて」とハスターに頼む必要も無い。

 

 しかし──。

 

 「でも、ルキアが動いてくれたお陰で、作業員はかなり安心したはずよ。お疲れ様」

 「当然のことをしただけよ」

 

 希薄ながらも達成感を滲ませたルキアの声。

 

 扉を隔ててそれを聞いているフィリップの表情は、どこか退屈そうで不満げなものだった。

 

 

 

 

 



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466

 部屋を出されてからずっと聞き耳を立てていたフィリップは、音を立てないよう気を配りながら、扉からそっと離れた。

 

 どうやら、本当にこれで終わったらしい。

 少なくともフィリップの役目は、完全に。

 

 フィリップがここに来たのは、ルキアを守るためだ。

 「呪い」が神話生物やカルト絡みのものなら、彼女の目に触れる前に、彼女が触れてしまう前に処理するために。

 

 その懸念は晴れ、あとは公爵家が片付けるだけとなった。

 ルキアが動くまでも無く、夫人が執務室から幾つか命令を下すだけの、簡単な幕引きが待っている。

 

 そしてルキアが動かないならフィリップが護衛をする必要は無く──まあ、元より彼女に護衛など必要ないのだけれど──、運び屋とマフィアを本職の兵士が捕らえるだけの作業に、フィリップが首を突っ込む必要も無い。いや、むしろプロの邪魔をしないよう、大人しくしているべきだろう。

 

 「……でもなあ」

 

 ──そんなことは分かっている。

 だが、このままではここに来た意味がないという思いもあった。

 

 フィリップがミュローの町を訪れてからしたことと言えば、ダンジョンを覗いて、工事現場を見学して、あとは便所虫を三匹ばかり潰したくらいだ。呪い調査に関しては殆ど何もしていない。

 

 それに、フレデリカに頼まれていた新型フリントロック、もとい、ペッパーボックス・ピストルの実戦運用データも取れていない。

 

 いやまあ、期限は設定されていないし急ぐようにも言われていない、そもそも正規の依頼でさえない頼まれごとだ。躍起になる必要は無いが、タイミングを逃すとかなり冗長になる。

 

 王都に帰るまでの道で使おうにも、また出しゃばって護衛の邪魔をするのは嫌だし、公爵家の人間でも見せない方が良いだろう。かといってダンジョンで使おうにも、他の冒険者との不意の遭遇が怖い。

 

 ここを逃すと、王都に帰ってから適当な依頼を受けてから漸くになる。

 それでも別に構わないが……()()()()のなら、ここで済ませてもいいだろう。それで普段お世話になっている公爵家の手間が省けるなら、一石二鳥だ。

 

 しかし、フィリップに捕縛術の心得は無い。

 全員殺せばいいだけなら、まあ、どうにかなる。しかし、公爵家としては『呪い』への恐れを払拭するため、一連の事故が人為的な妨害であることを知らしめた上で処断したいところだ。

 

 つまり手駒に過ぎないマフィアの方はともかく、首謀者の運送業者の方は生かして捕らえる必要がある。……跡継ぎの男は既に殺してしまったが。

 

 では実行犯のマフィア、手駒の方はというと、総数不明、戦力規模不明だ。

 勿論、公爵家の抱える手勢は精強だ。国境沿いの、それも冒険者という武装した人間が数多く流入する街を無防備な状態で置いておくわけもないし、その気になれば相当な数の領主軍を即座に動員できることは想像がつく。

 

 公爵家がマフィア風情に後れを取るわけがない。

 

 となると、迂闊に「マフィアの掃除は僕に任せてください!」なんて言おうものなら、公爵家の邪魔にしかならないだろう。フィリップの顔を立てて任せてくれるかもしれないが、数の揃った本職の兵士が事に当たるより、絶対に拙い結果しか持ち帰れない。

 

 そこまで考えて、フィリップの脳内に閃きが走った。

 

 「……いや、でも拙速ではあるよね」

 

 フィリップは勿論、本職の兵士より捕縛能力に劣る。

 しかし部隊ではなく個人である分、素早く動くことができる。その気になれば今すぐにでも。

 

 そして殺傷能力だけなら、本職の兵士にも引けを取らない自信がある。特に、奇襲なら。

 

 ここは黙って、かつ公爵家の手勢が動き出す前にこっそりと、素早く取り掛からなければならない。それなら万が一失敗しても、公爵家が予定していた通りに事が終わるだけだ。

 

 とにかく行くだけ行ってみよう。先行偵察というか、第一次部隊というか、そんな感じの「失敗しても全然構わない、後からガチガチの本隊がやってくる捨て駒」くらいのスタンスで。

 そう決めて、フィリップはその日の夜、皆が寝静まった頃合いを見て屋敷を抜け出した。

 

 

 ◇

 

 

 ……残念ながら、或いは当然ながら、「誰にも気付かれずに」とは行かなかった。

 

 ベッドを抜け出して外出の準備を整え、意気揚々と部屋を出た瞬間に、扉のすぐ傍に立っていたメイドに「何かありましたか?」と声を掛けられて一敗。使用人も大半が眠っているものの、部屋付きと見回りの数人が起きていて、玄関に着くまでに六敗。玄関を出たところと庭を抜け門を通ったところで、それぞれ衛兵に見つかって二敗。門に至っては彼らが開けてくれた始末。

 

 庭やバルコニーにいる衛兵に見つかったことに、フィリップは気付いてさえいない。 

 

 日付も変わった深夜、これから朝へ向かおうかという時分に外出しようとするフィリップだが、誰にも引き留められない。その不自然さに気付かず、幸運とさえ思わず、フィリップは門番の「お気をつけて」という見送りに居た堪れない気分になりながら公爵邸を出発した。

 

 その後ろをついていく人影に、フィリップは気付かない。

 誰にも止められずに公爵家を出られたのは、メイド服を着た彼女が付いていたからなのだが。

 

 あらかじめ町の地図で確認しておいた道を辿り、件の陸運屋の事務所へ向かう。家々から漏れる明かりもすっかり失せ、月と、屋敷から持ち出したランタンの明かりを頼りに歩くには、フィリップはミュローの町のことをよく知らない。地図が無ければ迷子になっていた。

 

 家の壁や店の看板を逐一確認しながら進むこと約三十分。

 そろそろ目的地に着こうかというとき、少し遠くで鈍い音がした。具体的に何の音とまでは判然としないが、重いものを何かにぶつけたような、或いは落としたような。

 

 何事かと足を速めるフィリップ。そして目的地が見えたとき、複数のランタンに照らし出された音の主も同時に見えた。

 

 馬車だ。

 それも大きなキャラバン型の、商隊とか軍隊が使うやつ。数人の男が黙々と、大きな荷物や家具なんかを積み込んでいる。

 

 やっていること自体は、運び屋としておかしくない。日常的な荷物の運送だけでなく、引っ越しのような大規模輸送も請け負っているのだろう。だが自分たちの事務所から家財道具まで運び出すのは、普通の仕事ではないはず。それもこんな夜中にとなれば、不自然だ。

 

 そもそも夜中に馬車で移動するのはリスクが大きい。

 馬は夜目が利く生き物だが、それは狼や熊のような旅の脅威となる動物もそうだし、夜行性の魔物は数多い。まあ町の中を移動するだけなら問題ないが、そのくらいの距離ならあんな大荷物を一度に運ばず、小分けに何往復かする方が一般的だ。

 

 あれはそう易々と往復できない距離を移動するつもりに違いない。少なくとも別の町くらいには。

 

 引っ越し……ではあるのだろう。正確には()()()だが。

 

 マフィアの一人が捕らえられ、雇い主である運送屋が公爵家に捕捉されたことを察知したのだろう。

 

 素晴らしい判断速度だ。

 明日には公爵家の捕縛部隊が派遣されることを考えると、今夜中に逃げ出すしかないのだから。

 

 まあ普通に街の入り口で止められるだろうが、門番も壁上の武装も町へ向かってくる魔物や軍隊を迎撃することを想定している。逃げ出していく犯罪者を追撃することは求められていない。

 

 捕縛部隊か、門番か。

 数で考えても、意表を突くという意味でも、能力を見ても、突破しやすいのは後者だ。

 

 「……どうしよう」

 

 無造作に歩を進めて近づきながら、フィリップはさっと思考を回す。

 引っ越し作業をしている男が三人、馬の傍にも一人いて、フィリップの匂いを嗅ぎ取って怯える馬を宥めている。加えて、事務所の中から微かに話し声が聞こえるから、プラス何人か。

 

 最低でも五人。

 

 屈強な運び屋だろうと五人くらいなら撫で斬りにできるが、フィリップがここに来たのはマフィアを的にしてペッパーボックス・ピストルの実戦データを取るためだ。運び屋の従業員を殺す必要はない。

 

 どいつがマフィアか──。

 

 マフィアと運び屋を見分けるのは簡単だ。

 話によれば、アズール・ファミリーの構成員は青い宝石のついた指輪をしているという。フィリップも実物を見たが、石はともかく台座は真鍮製で、安っぽい光沢があった。月明かりの下でも十分に見つけられるだろう。

 

 そんなことを考えながら道の真ん中をふらふら歩いていれば、当然、揺れるランタンが相手に見つかる。

 

 作業音が止まり、道には夜の静寂が満ちる。

 男たちが使っていたランタンが次々に消え、フィリップも気付かれたことに気付いたが、歩調は緩まない。

 

 月は雲の中に消え、暗い道の上にフィリップの持つランタンの明かりだけが浮かび上がる。

 

 手にしたランタンの明かりが作業をしていた男たちの顔をフィリップに、フィリップの顔を男たちに見せる距離まで近づくと、フィリップに一番近い位置にいた男がぽつりと呟く。

 

 「……子供? こんな時間に?」

 

 町中とはいえ、真夜中に一人で歩いている子供は不自然だ。

 それも暗闇や悪人に怯えることなく、薄ら笑いを浮かべて。公爵領外で浮浪児を見たことのある男たちだが、整った身なりと手にしたランタンの精緻な装飾を見れば、その類ではないと分かる。

 

 怪訝そうな声だが、警戒心はなさそうだった。

 馬車に大小様々な荷物を積み込んでいた男たちは、全部で六人。殆どが強面で、鍛えすぎて肥大した筋肉の持ち主だ。不審な子供一人くらい、直剣を持っていても大した脅威にはなり得ないと思ったのだろう。

 

 ただ一人だけ、正しく鍛えられた──関節の可動域を制限しないよう、必要以上に肥大させない戦闘用の筋肉を備えた細身の男がいる。馬車の傍で、積み込み作業の指示をしていた者だ。

 その一人だけは、フィリップの一挙手一投足を見逃すまいとするかのように注視している。

 

 フィリップはそのどれにも目を留めることなく、愉快そうな笑い声を上げた。

 

 「あはは。怪談話の犠牲者みたいな台詞だ。子供の姿を真似た怪物に襲われる寸前の、ね」

 「……はっ。確かにな」

 

 男たちが困惑する中、細身の男だけが静かに笑う。

 彼は馬車から離れると、薄氷の上を歩くが如く慎重な足取りでフィリップに近づく。手中が空であることをアピールするように、わざとらしく両手を挙げて呆れたようなポーズを取りながら。

 

 「だが、明かりを持っててもお化けは寄ってくるぞ。お前も襲われないうちに家に帰りな。というか、こんな時間に出てきたら親が心配するぞ?」

 「ご心配どうも。おじさんはいい人そうだね」

 

 言いながら、フィリップはランタンを右手に持ち替え、左手でジャケットの前を開ける。

 短剣でも取り出しそうな動きに男たちは全員身構えるが、フィリップが何もしないのを見て力を抜いた。

 

 細身の男は立ち止まり、フィリップの全身を俯瞰するような目を向ける。エレナが格闘戦の時にする、敵の動きを見逃さないための目付きだ。

 

 足を止めた位置は、剣を抜いて一歩踏み込んだとしてもギリギリ届かない場所だった。……直剣形態なら、という但し書きは要るが。

 

 「そうか? 実は悪い人かもしれないぞ? ほら、さっさと帰れ」

 

 あっち行け、と手を振る男。

 その指に真鍮の輝きと青い宝石の煌めきを見て取ったフィリップは、探し物を見当を付けた通りの場所で見つけたときの、歓喜と納得感の混ざった笑みを浮かべる。

 

 夜闇の中でランタンの炎に照らされたその笑みは、男たちには裂けたようにも見え、何人かが震えを誤魔化すようにわざとらしく肩や首を回した。

 

 「あぁ……そうみたいだね。おじさん、アズール・ファミリーって組織のメンバーなんでしょ? その指輪、さっき見たよ」

 「ほう? ……組織の名前もメンバーの証も、相当調べないと出ないはずの情報なんだがな。……お前、何だ?」

 

 そうなのか、とフィリップは新たな情報に眉を上げる。

 アズール・ファミリーはどうやら公然と活動しているのではなく、秘密組織的な色の強いマフィアらしい。

 

 まあ、そんなことはどうでもいい。

 フィリップの目的はアズール・ファミリーの壊滅ではなく、後に派遣される公爵軍の露払い……という名目で自己満足感を高めつつ、ペッパーボックス・ピストルの実戦データを取ることだ。

 

 「何だって聞き方はどうなの? 流石に、子供に化けた怪物じゃあないよ」

 

 フィリップはまた面白そうに口元を緩める。

 男たちが荷物を置き、じりじりと自分を取り囲むように動くのを見ながら、剣に手を掛けることもなく平然と。

 

 「どうだかな。お前はどうにも鉄臭い。姐御や始末屋の連中を思い出す」

 

 男の語る「姐御」がどんな人物かは知らないが、「始末屋」の方は察しが付く。殺し屋の類だろう。

 人を選んで殺す暗殺者と、カルトと見れば皆殺しにする虐殺者。その匂いの違いまでは嗅ぎ分けられないらしいが、まあ本質は同じだ。血の臭い、殺人者の臭い、人間の命に重きを置かない悪人の気配。

 

 男がフィリップから感じ取ったそれを、フィリップも同様に男から感じ取っていた。

 

 臭いなんて言ったが、決め手になったのは目だ。

 二人とも、眼前の生命に対する尊重が全く感じられない、羽虫を叩き潰すときの目をしている。片や人間を殺すことに慣れ、片や端から躊躇が無い、虫を殺すことと人を殺すことに差異を感じられなくなった破綻者の目。鏡を覗けばそこにあり、友と目を合わせればそこにある、見慣れた目だ。

 

 男はその目でフィリップをじっと見つめ、フィリップはランタンを掲げて自分を取り囲む男たちを順番に照らした。

 夜闇に慣れた目を惑わせようとしてのことではない。そんな戦術的な理由ではないことは、重点的に照らされたのが顔ではなくそれぞれの手の辺りだったことから分かる。

 

 「これで全員? みんなマフィアで間違いない?」

 

 六人の男。

 誰も彼も威圧的なまでの筋肉を備え、体格に恵まれた強面だ。

 

 彼らが揃いの指輪をしていることを確認して、フィリップはランタンを地面に置いた。私物ではなく公爵家から持ってきたものなので、傷付けないよう慎重に。

 

 光源の位置が下がり、フィリップの表情が夜闇に隠れる。

 月が再び姿を見せて投げかけた光に照らされたとき、フィリップの顔から遊ぶときの色は消え、それなりに真剣なものになる。小テスト直前に暗記項目を思い返している時のような、或いは昨夜の献立を思い出しているときのような。

 

 「……この状況でビビらねぇ時点で、ただのガキじゃないことは分かるな? 後味は悪いだろうが……殺すぞ」

 

 命令を受け、フィリップを取り囲む男たちがはっきりとした殺意を纏う。

 他人の命令で人を殺せる彼らは、きっとそれなりに場数を踏んで、それなりの戦闘能力──殺人能力を持ち合わせているのだろう。

 

 素晴らしい。

 

 「間違いなさそうだね。じゃあ、うん……よろしくね、的役」 

 

 ──素晴らしい()になる。

 

 

 

 

 



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467

 フィリップを取り囲む男は全部で六人。

 真正面にリーダー格の細身の男がおり、あとは二時、四時、六時、八時、十時方向。

 

 斜め前方の二人が懐や背中からそれぞれ大きさの違う刃物を取り出したとき、後方の三人は一斉に距離を詰めていた。

 後ろの三人が走り出すと同時に刃物を抜くのと、抜刀したフィリップが龍貶しを鞭形態へ伸長しながら振りかぶるのはほぼ同時。

 

 そして。

 

 「っ! 下がれッ!」

 

 刃渡り四メートルにまで伸びた龍骸の蛇腹剣は円を描くように振り抜かれ、取り囲む男たちの頸を刈る。

 横一線ではなく鞭のしなる動きが描く複雑な軌道は、先端部が音速を超えていなくとも回避が難しい。そして都合14の節に分かれた刃は、その全てが斬鉄の鋭さ。

 

 回避困難。防御不可。

 

 人間六人の頚椎を一息に斬り飛ばす一閃は、しかし、その直前に放たれた警告によって空振りに終わった。

 

 六人がばらばらに、しかし致命的に遅れた者は一人もおらず、端的で唐突な指示に忠実に回避した。

 一糸乱れぬ動きとまではいかず、「まるで脳と手足のような」という比喩は過言になる。だが、フィリップの攻撃から仲間を守るには十分な指揮体系が築かれていることは間違いない。

 

 ()()()()()()()()()()

 

 ぱん、と乾いた炸裂音が夜の静寂を打ち破る。

 フリントロック・ピストルの銃声よりも明らかに小さく、響かないが、酷く似通った薄ら寒い音だ。

 

 ちょうど一回転して止まったフィリップの真後ろ、六時位置にいた男が、蛇腹剣による一閃を回避して体勢を整えた直後に倒れる。

 眉間から血を噴きながらのけぞり、立ち方を忘れた人形のように仰臥して、それきりピクリとも動かなくなった。

 

 剣を振り抜いた右手。

 その開いた脇、前を開けたジャケットの懐に入った左手は、ホルスターに収まったままのペッパーボックス・ピストルを掴んでいた。

 

 ホルスターから銃を抜かず、自分の背後へ空間把握力だけを頼りに射撃するドロウレス。

 

 攻撃位置もタイミングも道具も、何もかもがジャケットに隠された突然の死。

 前触れの無い大音響と仲間の死に、攻撃とは分かってもその方法が分からない男たちの動きが鈍る。

 

 しかし先の攻撃といい、回避指示への従順さといい、彼らも戦闘慣れしていることは間違いない。

 

 視界内の二人が大仰に刃物を取り出して気を引きつつ、後方三人が最速で接近し攻撃。驚くべき連携ではないが、後方からの奇襲ということに慢心せず一人ではなく三人同時に襲い掛かり、それも何の合図も無く連携できる辺り、フィリップも舐めていると痛い目に遭いそうだ。

 

 それに、青白い燐光を放つ直剣がいきなりだらりと垂れ下がったのを見て、即座に回避指示を出したリーダー格の男。

 彼には相応の警戒を払う必要がある。過去に蛇腹剣を見たことがあるのか、或いは優れた戦闘センスの持ち主だ。

 

 勿論、他も全員が初見で的確に蛇腹剣の射程圏外へ逃げている辺り、軽視はできない。単純に大仰に避けただけかもしれないが、それが出来る警戒心は賞賛に値する。

 

 「……ふむ」

 

 フィリップは振り返り、狙い過たず脳幹部を撃ち抜いた男を見下ろす。

 フレデリカの言っていた通り、貫通力自体はフリントロックと同等程度にはある。蛇腹剣の攻撃範囲外、五メートル程度離れた位置から人間の頭蓋骨を破壊できている。

 

 その虫を観察するような目を見てしまった一人が怯むが、彼が何かする前に、馬車の方から叫び声が上がった。

 

 「な、何の音だ!?」

 

 御者席にいた男が地面に転がり落ち、慌てふためきながら後方、つまりフィリップたちのいる方を見る。

 彼はフィリップを囲む男たちとは違い、ガタイは良かったが戦闘に慣れている風ではない。勿論、外見と戦闘能力にそれほど相関関係が無いことを、フィリップはよく知っているけれど。

 

 「襲撃だよ馬鹿が! 寝惚けてんじゃねぇ! さっさと行け!」

 

 包囲陣の中で特に体格のいい男が吼えると、彼は悲鳴に近い了解を返し、慌てて馬車に乗って鞭を入れた。

 漸く悪臭から離れられるとばかり、二頭の馬は荷物を満載したキャラバン型馬車もなんのその、弾むような足取りで駆けていく。

 

 「彼が呪い騒ぎの首謀者? おじさんたちの仲間っぽくはないけど」

 

 特に追撃する様子を見せないフィリップへ不審そうな視線を注ぐ男たちに、フィリップは先んじて問いかける。

 

 質問に好奇心以上の意味は無い。

 彼はペッパーボックスを見ていないから、要殺害対象ではない。彼が首謀者の運送屋なら、どうせ町を出る門で捕まる。マフィアでも、あの様子なら公爵家の捕縛部隊の前に敵として立ち塞がることはないだろう。

 

 それに。

 

 「俺たちがペラペラ喋ると思うか?」

 「そりゃあそうだ」

 

 軽い答えに、フィリップも肩を竦めて軽く返す。予想通りの答えだと。

 彼らアズール・ファミリーの口の固さは大したものだ。拷問されても依頼者については終ぞ口を割らなかったのだから。

 

 「それより、今のは魔術か? そんな素振りはなかったように見えたが」

 

 仲間を一人殺された後にしては淡々とした、冷たくも感じる問い。

 それは仲間への情に欠ける冷酷さではなく、戦闘に際した冷静さによるものだ。

 

 対して、人間一人を殺したフィリップは無関心故の冷酷さで、しかし口元を愉快そうに歪めて応じる。

 

 「……手の内をペラペラ喋ると思う?」

 「はっ……そりゃあそうだ」

 

 意趣返しを察し、細身の男は肩を竦めて笑い返す。

 そしてポケットから折り畳みナイフを取り出すと、弾くように刃を露出させて構えた。

 

 フィリップの持つ直剣どころか、他の男が持つナイフと比べても小ぶりで威圧感に欠ける得物。であるのに、フィリップも含めた誰よりも濃密な存在感を放っている。

 

 間合いに近づかれたら終わりだ。

 フィリップは、それを経験則的に感じ取った。エレナとの戦闘訓練の記憶、幾度となく彼女に投げ飛ばされ、殴り飛ばされ、蹴り飛ばされて地面に転がってきた経験から。

 

 「ふっ──!」

 

 鋭い呼気で力みを散らし、再び伸長した蛇腹剣を振って間合いを誇示する。

 

 夜闇の中で淡く光る人造の魔剣が、男たちに死線を視覚的に意識させる。

 青白い残光は、剣の動きに置き去りにされた音よりもずっと華やかだ。

 

 軌道上へ踏み込むことはできない。

 

 指揮棒(タクト)のように剣を、いや鞭を振るうフィリップの周囲は、既に処刑場。それも断頭台の上、首を斬られる罪人だけが存在する特等席だ。

 

 踏み入れば間違いなく死ぬ。

 直感でも予感でもなく、木を離れたリンゴが地面に落ちるように、常識としてそれが分かる。

 

 立ち止まった男たちの判断を、怯懦と呼ぶことは出来ない。正常な人間であれば、いや知性の無い動物でさえ、音速突破による破裂音が断続する空間へ踏み入りはしないだろう。

 

 故に、フィリップの次なる攻撃は半ば必中だった。

 

 誰にも邪魔されず、しかし一切の遊び無く最速でホルスターから抜き放たれたペッパーボックス・ピストルは、流れるような動きで三人の男を順に指向する。

 四時方向と二時方向へ流れのままに、そして銃を保持した左手を右脇へ滑るように差し入れ、八時方向にいた男も。銃口がぴたりと合ったその一瞬を逃すことなく、乾いた炸裂音が連続する。

 

 三人の男は心臓か頭を撃ち抜かれ、殴られたような挙動で倒れた。

 

 銃に触れてから三発目が発射されるまで、一秒以下。

 照準を手癖や空間把握力に任せきった射撃だが、ナイ神父仕込みの技術は完璧なパフォーマンスを発揮した。

 

 しかし、やった当人は感嘆したように口笛を吹いた。

 

 「……レスポンスいいなあ。今のに反応してくれるんだ」

 

 ペッパーボックス・ピストルは複数の銃身を束ねたシリンダーが射撃毎に回転するという機構で、六発の連続射撃を可能にしている。

 そしてフリントロック・ピストルとの大きな違いは、火打石が作る火種が導火薬を介さず、シリンダー内の炸薬へ直接落ちることにある。それによって、導火薬が火種を薬室内へ導くコンマ数秒のラグが無くなり、射撃一発に係る時間そのものが短縮されているのだ。

 

 そして引き金を引くと連動して撃鉄も起こされるダブルアクション。コッキングの手間が無い、トリガー操作のみで連続射撃の可能なデザイン。

 何より、内部で火薬を爆発させる強靭さが求められる機械でありながら、一秒以下の連続射撃に堪えるシビアな設計。

 

 “救国の賢者”フレデリカ・フォン・レオンハルトの頭脳が、叡智が、結晶したような武器だ。

 

 「完璧だ。弾丸が小さくなったとはいえ、今まで通り急所に当てれば一撃で殺せる。連射できるだけでここまで──、おっと」

 

 フィリップは感心のあまり、そして六人中四人を倒したことで思考に集中してしまった。

 

 その隙を逃さず、残る二人が即座に距離を詰める。

 逃げないのは賢い。四人を殺した攻撃の正体が分からずとも、魔術じみた遠距離攻撃であることは間違いない以上、逃げ出したところで背中を撃たれるのは明らかなのだから。

 

 だからナイフの間合いに近づくしか、近付いてフィリップを殺すしか、彼らに活路は無い。

 

 「シッ──!」

 「おっと!?」

 

 彼らがフィリップの腰と首を狙って振った刃は空を切る。

 フィリップが伏せるような動きで身体を落として回避したからだ。二人は至って冷静にそれを追撃する。

 

 フィリップは身体を落とし過ぎている。転倒寸前、手を伸ばすまでも無く地面に触れそうなほど。

 だが無理も無い。両サイドから挟み込むように首と腰を狙われては、かなり大仰に、殆ど伏せるような位置まで姿勢を下げなくてはならない。持っているのが直剣なら防御や迎撃も可能だろうが、蛇腹剣は14の節を解放してだらりと垂れ下がっている。

 

 そんな状態で追撃を躱したり、大きく移動して間合いを取り直すことは不可能だ。

 

 それを狙っての初撃。

 それを見越しての追撃。

 

 しかし──地面すれすれにまで頭を下げた蛇のような姿勢は、フィリップの最適な戦闘体勢だ。

 

 二つの追撃を透けるように躱し、ペッパーボックスを向ける。

 一瞬だけ考え、フィリップは細身の男に向けて引き金を立て続けに二度引いた。

 

 ぱん、と乾いた炸裂音。

 腕に返る発射の衝撃。

 夜闇に映える発射炎(マズルフラッシュ)

 

 ──それが、()()()()

 

 二度目のトリガープルに返ってきたのは、撃鉄が落ちる小さな金属音だけだった。

 

 「……!?」

 

 不発。

 

 思い通りの攻撃が為されず、予期した反動も音もなく、フィリップの思考に一瞬の空白が生まれる。

 

 そして衝撃から立ち直ったとき、フィリップの脳内に浮かんだ文字列は「何故」だった。戦闘中であることを忘れ──まあ、そもそも戦闘ではなく「実戦試験」という認識ではあったけれど──、敵ではなく、手中の武器に意識を向ける。

 

 どうして不発だったのか。

 総弾数六発中、五発は正常に発射できた。三発の連続発射も出来たのだから、今更二発で動作不良を起こすとは考えにくい。

 

 では機械ではなく火薬の方か。それとも火打石が摩耗していたか。

 

 そんなことを考えていれば、当然、動きは大きく精彩を欠く。

 

 その隙を見逃さず、最後の一人が詰め寄るが──いくら何でも、一対一では無理がある。

 包囲されていたころならいざ知らず、今はもう縦横無尽に走り回り、相対位置認識欺瞞を全開に出来るのだから、攻撃を当てることさえ出来はしない。

 

 結局、フィリップは残った一人を拍奪プラス蛇腹剣による真っ当な戦闘で斬り伏せた。

 

 「……ふぅ」

 

 それほど荒れてもいなかった呼吸を整え、剣を納めたフィリップは、被弾した腹を押さえて倒れている細身の男へ歩み寄る。そして、傍に転がっていたナイフを適当に蹴っ飛ばして遠ざけた。

 

 男が押さえた腹の傷からは、早鐘を打つ心臓の鼓動に合わせてドクドクと血が流れ続けている。

 その様子に虫を観察するような一瞥を呉れて、フィリップは置きっぱなしだったランタンを取って戻ると、男の傍にしゃがみ込んだ。

 

 実戦試験の確認項目は、あと一つだ。

 

 



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468

 まだ息のある男の傍にしゃがみ込んだフィリップは、ランタンの明かりで懐中時計を確認し、石畳の地面にべたりと尻を付けた。

 

 「あぁ……、まあ、遠くないうち死ぬだろうとは思ってたが……まさか、王国で死ぬことになるとはな……」

 「相手が悪かったね。ルキアが常に周りの魔力を把握し続けるなんてことをしてなきゃ、多分バレなかったし……僕が遊びに来なきゃ、もしかしたら門兵から逃げ切って街を出られたかもね」

 

 弱々しい言葉に答えながら、フィリップはジャケットの裾を翻し、腰に着けていた小さなポーチを漁る。

 取り出したのは紙の筒だ。王都外では高い値の付きそうな、真っ白な紙の。小指ほどの大きさだが、フィリップの掌で転がる様子を見るに、ただ紙を丸めただけの重みではない。

 

 それも当然。

 紙自体、ただの繊維ではなく特殊な物質を素材として作られた錬金術製の代物だ。それを筒ではなく、包みにしている。中身は鉄より比重が大きい鉛の玉と、こちらも錬金術製の高威力な火薬。

 

 所謂、紙薬莢。

 まあ「所謂」なんて言っても、通じる相手はごく一部だが。

 

 まず銃身に火薬を入れて棒でポンポン、弾を入れてもう一度ポンポン、最後に漏れ防止の紙を入れて押し固めて……なんて面倒な再装填作業を、コレを入れて棒で押し込むだけでいいまでに簡素化した、画期的発明。

 

 これを作り出したフレデリカと、そもそも唯一の銃器使用者であるフィリップと、あとは人類以上の技術文明の産物であるカノン。邪神を抜くと、フィリップの知り合いで「薬莢」なんて単語が通じるのはこの三人くらいだ。

 

 「さて……」

 

 五発分の再装填を終え、さっき不発だったチャンバーを発射位置に合わせる。

 

 「なんでこれは不発だったん──うわっ!?」

 

 銃口を適当に空に向けて引き金を引くと、乾いた炸裂音と共に腕に衝撃が返ってきた。

 

 なんか撃てた。

 何故かは分からないが、さっきと違ってちゃんと撃てた。

 

 自分で撃っておいて予期せぬ大音響に肩を跳ねさせたフィリップは、トリガーガードに指を掛けてクルクル回し、銃身を冷却してから再装填する。

 

 「着火不良だったのかな……?」

 

 撃鉄が落ちないよう指を噛ませて火打石を弄るフィリップに、仰臥したままの男は興味深そうな、しかし小さく弱々しい声をかける。

 

 「火薬くせェ……。それは……さっきの攻撃か。なんだ……小さい大砲みたいなモンか?」

 

 ほう、とフィリップの口から感心の息が漏れる。

 既に銃弾の撃ち込まれた後で、真横で発射の瞬間を見たとはいえ、仕組みまで分かるのは凄いと。同じことをしたのが、フリントロックの仕組みを初見で見抜いて銃弾を掴み取ったミナだけということもあるが。

 

 無論、感心してばかりではいけない。

 銃器の恐ろしさの一端は仕組みの簡易さと再現性にあると、フレデリカから教わっている。見た奴は全員殺せと、そう教わっている。

 

 「……素晴らしい洞察力だね。まあ気付いても気付かなくても殺すわけなんだけど……トドメは要る?」

 

 とはいえ、彼は死に体だ。

 ダブルタップの二発目で心臓を狙い、その二発目が不発に終わったせいで、銃弾は一発、腹の真ん中あたりになんとなく当たっただけ。だがどうやら、太い血管を傷つけたらしい。

 

 腹の傷を押さえてはいるが、銃弾が貫通した背中の傷からも大量に出血している。放っておいても勝手に死ぬだろう。

 

 慈悲の一撃の要否を問うと、彼は血の気の失せ始めた唇を愉快そうに歪めた。

 

 「……意外と優しいんだな。マフィアは嫌いかと思ってたぜ」

 「今回は憎悪で動いてないよ。ただ、公爵家が好きなだけ。何処の誰とも知らない他人を、武器のテストのために殺すくらいにはね。……おじさんがカルトだったら、もっと惨く殺してる所だけど」

 

 意外にも、数分前まで殺意をぶつけ合っていた二人の声には、険悪な色が一切無かった。

 二人とも悪意も害意も無い殺意を理由に事に及ぶ、他人の命を片手間に蹴飛ばせる、手慣れた殺人者であるが故だろうか。或いは二人ともがそれを感じ取り、シンパシーでも抱いたか。

 

 まあ、フィリップがその程度の共感で態度を軟化させるはずもなく、ただ単に普段通りなだけだ。

 

 普段通りに、どうでもいい命を自身の必要論で侵害して、それを自覚した上で平然としている。

 

 その性格を知ってか知らずか、倒れた男は興味深そうに頷いて、また笑った。

 

 「はっ……、カルトは嫌いか。なら、帝都に行け。そこの裏社会に、クソッタレのカルトが潜んでやがる」

 

 土気色の顔で呟かれた言葉は、フィリップの軽口に応じるばかりではない。

 フィリップの興味を強烈に引き、試験の解答も見直しも終えた後のような倦怠感を完全に拭い去る。

 

 ペンを回すか紙の片隅に落書きでもしそうな空気は跡形もなく消え失せ、床を這い回るゴキブリを見つけたときの目をしたフィリップは、ややあって静かに笑顔を作った。

 

 「……ふぅん? カルトの名前とか性質とか、分かる?」

 

 虫を見るような視線は一転、期待に満ちたものに変わる。

 実のところ、それはあまり良いことではない。つまりはフィリップに、失望する余地を与えてしまったということなのだから。

 

 「いや……俺たちと同じ……秘密組織だ。だが名前は──」

 

 男が齎した情報は、か細い声で囁かれた名前が一つ。それだけだ。

 

 帝都。

 大陸西部の支配者であるアヴェロワーニュ王国と並ぶ、大陸東部の征服者ウルタール帝国の首都。

 

 帝国に足を踏み入れたことも無いフィリップは、勿論、行ったことのない場所だ。

 学院の修学旅行で訪れた教皇領と同じくらい、王都から離れた土地。街道が繋がっているとはいえ、行って帰ってくるだけで結構な額になる。

 

 カルト狩りのためなら退屈な旅路だろうと、たとえ徒歩でも足を止めない所存だが、いつものように「ちょっと遊びに行ってくる」とはいかない距離だ。

 

 名前と居所を聞いたって、フィリップにはあまりメリットがないはず。なのに、フィリップは満面の笑みを浮かべている。

 

 つまり、男の齎したたった一つの簡単な情報は、フィリップを失望させるものではなかった。

 

 その代わり、新しく小さな疑問が芽生える。

 

 「へぇ? ……情報は有難く頂いておくよ。でも、なんでそんなこと教えてくれるの?」

 「──俺たちはずっと、そいつらを潰そうとしてるんだ。お前みたいな腕利きなら……きっと、役に立つ。お前の腕を、兄貴や姐御はきっと高く買う」

 

 不思議そうな問いに、男は細く長く息を吐き、それから弱々しい声で語った。

 

 「うん……?」

 

 フィリップは面食らったように瞠目する。

 そして彼の言葉に、何か別の意味があるのではないかと数秒ほど考え、何も思いつかず、困ったように、そして呆れたように笑った。

 

 「ははは……僕は殺し屋じゃあないんだけどな……」

 

 フィリップは別に、殺人技術を売っているわけではない。

 高値を付けられるのは冒険者としては有難いことだが、どんな仕事を受けるかは自分で決める。気に入らない相手やよく知らない相手に、買い叩かれるがままにはならない。

 

 まあ、公爵家に雇われた殺し屋だと考えると、タイミングや所業に辻褄が合うといえばそうなのだけれど。

 

 「下手な冗談だ……。……あぁ、クソ、寒くなってきた。介錯を……頼めるか……?」

 

 大量の(ねつ)を吐き出した身体をぶるりと震わせ、男は呟くように乞うた。

 

 フィリップは再び懐中時計を取り出してハンターケースを開け、すぐに仕舞って頷いた。

 

 「うん。さっきトドメは要るかなんて聞いたけど、実は被弾から何分で死ぬか見てようと思ってたんだ。だけど……いいよ。素敵な情報のお礼。言い残すことは?」

 「はっ……恐ろしい奴だな。……殺し屋に言うことじゃねぇが、お前、マフィアに向いてるぜ。腰を落ち着けたくなったら試してみな」

 

 今際の際。

 自らをそこへ追いやった張本人に向けるには、随分と穏当な言葉だ。

 

 ここはもっとこう、「ふざけるな。殺してやる」とか、せめて「先に地獄で待っている」くらいの憎悪を見せる場面だろう。

 

 意外──でも、ないか。

 フィリップが僅かながら感じていた共感の通り、自分の命にも拘りがないらしい。

 

 「もう。だから、僕は殺し屋じゃないってば」

 

 笑いながら立ち上がり、銃口を向ける。

 男が静かに目を瞑ると、フィリップはその脳幹部へ正確に銃弾を撃ち込み、速やかに苦しみから解き放った。

 

 「……」

 

 人間を殺すことに感傷なんて催さないが──奇妙な後味、余韻が残る。

 ガンスピンをして銃身を冷ましながら、フィリップはそんなことを考えた。それもほんの十秒ほどで、銃をホルスターに仕舞う頃には次のことに置き換わっていた。

 

 次──死体の処理、ではない。

 

 どちらかと言えば、死体の増産だ。

 

 「帝都かあ……。うーん……」

 

 腕を組んで独り言ち、眉根を寄せて唸る。

 

 ミュローの町は国境付近だというが、それでも帝都までは三週間くらいかかる位置だ。

 関所越えも国外移動も一人では初めてだし、流石のフィリップも心細い。

 

 が、都合よく旅慣れしていて、付いてきてくれて、しかしカルト狩りに口を挟まない理想的な同行者に心当たりはない。

 

 その条件だけならミナが該当するが、そもそも吸血鬼同伴で街に入るのが難しい。

 

 関所や城壁を飛び越えたとしても、衛士団が入り口で説明してくれる王都でさえ、彼女を攻撃する馬鹿が不定期に湧く。そして帝国は王国と違い、フィリップやミナに恩義を感じていない。

 

 「馬鹿が馬鹿故に死んだのは馬鹿のせいだ」──なんて言い訳をする余地も無く、帝国最強の魔術師部隊、聖痕者が率いる騎竜魔導士隊が出てきて終わりだ。

 多数の魔術師による絨毯爆撃はともかく、聖痕者の神罰術式はミナをも一撃で仕留める。だろう、なんて予測の余地なく、確実に。

 

 ルキアとステラは「旅慣れしていて」「フィリップのカルト狩りに口を挟まない」という二つの条件を満たすが、二人を巻き込むくらいなら一人で行く。

 というかルキアはともかく、ステラに「帝都に行きたいから付いてきてくれませんか?」なんて言うのは、以前フィリップに「ナイアーラトテップとシュブ=ニグラスのところまで案内してください」と言ったカノンと同レベルのことだ。いや、ルキア相手でも全然ダメなのだが。

 

 「ふぁ……。運動したら眠くなってきた……」

 

 大きな欠伸をして、浮かんだ涙を拭う。

 どうしようかと悩みつつ、フィリップは取り敢えず公爵邸に戻ることにした。

 

 もう夜も遅い。

 相手は一か所に根を下ろし、勢力を拡大しているカルトだ。つまり、慌てずとも逃げられる心配がないということ。

 

 今日明日で必ず殺さなくてはならないわけでもなし、今日は帰って眠ろう。

 

 そうして振り返ったフィリップは、不発弾が暴発したときのようにびくりと肩を跳ね上げた。

 

 「……っ!」

 

 道の真ん中に人影があった。

 月明かりの下、金糸の如き髪を肩の上で揺らし、夜闇より黒く浮き上がる侍女服を風に靡かせる女。 

 

 音も無く、気配も無く、影のように存在感が希薄だ。目を向けた今でさえ、そこに居るという実感が薄いほど。

 

 「びっ……くりした……! 驚かさないでください、メグ……!」

 

 咄嗟に剣の柄に掛けていた手を放し、咎めるような目を向けるフィリップ。

 その抗議に、深窓の令嬢のように儚げな美貌を持つメイドは困ったような微笑を浮かべた。

 

 

 

 



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469

 「……メグ、いつからそこに?」

 「この場所に、という意味でしたら数秒前に。いつから見ていたのか、という意味でしたら、カーター様がお屋敷を出られる少し前からずっとです」

 

 驚きの後にフィリップの脳内を埋め尽くした焦燥など、知ったことではない。

 そんな安穏とした返答に、フィリップは深々と嘆息した。

 

 メグはあまりにも平然としている。

 

 フィリップが彼女に向けて銃撃していないのは、彼女がルキアの所有物だからだ。

 彼女の価値が、本人以外の要素によって担保されている。その危うさに、全く気が付いていないかのよう。

 

 「……僕が使った()()()()()に関して、ルキア以外には口外しないでくださいね。こんな間抜けなことは言いたくないんですけど、誰かに情報が漏れたら、メグも含めてその範囲は全員殺さなくちゃいけないので」

 

 ブラフを交えて牽制しつつ、フィリップは自嘲の笑みを零す。

 口外したら殺す、なんて、なんと間抜けな警告なのだろうかと。

 

 道化の口にする冗談だって、もっと気が利いている。

  

 フィリップに彼女を常時監視する手段は無く、フィリップは彼女の交友関係や行動範囲を全く知らない。

 情報が漏洩したことを知るのは、状況が致命的なものになった後だ。自分か、ルキアかステラ(大切な人たち)に銃口が向いた後。或いは、誰かが凶弾に斃れた後。

 

 誰の目にも留まらないところで自分一人が撃たれようと、衆目の中で暗殺が行われようと、フィリップはその時点で、フレデリカの語った最悪の状況に陥ったと判断する。

 

 蛇人間文明の産物(銃器)が、人類社会を汚染したと判断する。

 人類が皆、ワンアクションで人を殺せる状態に陥り、人命の価値がデフレーションする最悪の状況に陥ったと。

 

 それはルキアもステラもフレデリカも、誰もが安心して外を歩けない世界。

 

 その社会は、フィリップが望むものではない。

 

 そうなれば、フィリップはこれまで避けてきた最悪にして最速の解決策を持ち出すしかない。

 

 即ち、外神の介入による現実改変。

 あらゆる人間の記憶、あらゆる媒体の記録、この世界が辿ってきた軌跡、ありとあらゆる痕跡を改竄する。

 

 銃器を知る全ての人間を抹消することも、メグがそれを目撃したという事実だけを消すことも、なんでもできる。

 

 万能の解決策。

 なんでもありのご都合主義(デウス・エクス・マキナ)

 

 そして──その後の世界を、フィリップがこれまで通りに認識できるかは未知数だ。

 この無価値な泡沫の世界に、全ての人々、天地万物に、外神の手が加わって──それを、フィリップは大切に出来るだろうか。その中で生きて居たいという今の思いを、持ち続けられるだろうか。

 

 NOだ。きっと。

 

 ルキアとステラの安寧を守るために世界を変えて。そして、ルキアとステラを含めた世界全ての価値が暴落する。

 

 ゼロからマイナスへ。

 どうでもいいものから、汚らしい忌むべきものへ。

 

 自分のいるべき場所はここではないと、ちゃちな三次元世界を蹴っ飛ばす。

 

 だから──ペッパーボックス・ピストル(これ)を見た者は、その場で速やかに殺さなくてはならない。

 人類社会を守るために。ルキアとステラだけでなく、フィリップ自身の安寧のために。

 

 「畏まりました。と言っても、信用できないでしょうし……お屋敷に戻ったら、一緒にルキアお嬢様にご報告しましょう。私が信用に値しない場合は、お嬢様が処分されると思いませんか?」

 「……そうですね。ルキアが自分の傍に置いてるってことは、信用できるんでしょうけど……」

 

 そう思うからこそ、フィリップにはメグをここで殺すという最短最速の解決を図れない。

 ルキアの持ち物を勝手に壊すことを、合理ではなく感情が拒む。

 

 結局、フィリップはメグの言う通りにすることにして、促されるまま公爵邸への道を戻る。

 気が付けば夜空からは雲が消え、星と月の光はランタン無しでも難なく歩けるくらいに明るくなっていた。

 

 「……メグ、裏社会には詳しい方ですか?」

 「えぇ、まあ人並みには。ご興味が?」

 

 明日には殺されているかもしれない女性と、明日には彼女を殺しているかもしれないフィリップ。

 だが二人とも、声も表情も至って普通だ。結局のところ、二人とも自分の命にも他人の命にも然したる価値を見出さない異常者(どうるい)だった。

 

 平然と問いかけたフィリップに、メグも平然と微笑みかける。

 

 「今回の件は、運河拡張による事業縮小を嫌がった運送屋が、マフィアを雇って妨害工作をさせた……っていう構図ですよね」

 

 はい、とメグは端的に肯定する。

 

 「僕の知識が正しければ、マフィアっていうのはつまり、高度に組織化された犯罪集団ですよね」

 「そうですね。高利貸しや違法賭博、人身売買なんかに始まって、暴行、恐喝、殺人、拷問、死体の遺棄までやる、万能な犯罪屋です」

 

 かなり具体的なメグの言葉に僅かな引っ掛かりを感じたが、フィリップはその微小な疑問をどうでもいいことだと流す。

 彼女の素性が──ルキアの護衛になる前のことが気になるなら、本人よりルキアに聞いた方が確実だ。なんというか、メグに聞いても適当にはぐらかされるという確信めいた直感がある。

 

 「学院でもそう習いました。近づくべきじゃない危険な組織だと。……でも、背信者であるとは習いませんでした。ルキアに危険が及ぶような攻撃を仕掛けてきたってことは、それはつまり聖人に対する、延いては唯一神に対する反逆でしょう? それに僕が何人殺しても、最後の一人になっても逃げ出さなかった。逃げられないと観念しただけかもしれませんけど……ちょっと、なんというか……()()()()()()()()

 

 そうですね、とメグはまた静かに頷く。

 

 「連中の恐ろしいところはそこですね。アズール・ファミリーは請け負った仕事を必ずやり遂げるんです。たとえ一欠片のパンしか買えないような端金でも、請け負う以上は親でも殺す。後から皇帝や神父に何億積まれようと、その契約を反故にすることはありません。彼らの最大の掟、血の宣誓にも通じる契約の重さ……冷酷で残忍、でありながら、約束事にはどこまでも真摯で忠実。単なる犯罪組織との最大の違いはそこです」

 

 立て板に水の説明に、フィリップは「うわあ」と呻く。

 

 「金で動くだけのチンピラとは違うってことですか。金を受け取った以上、背信行為でも、自殺行為でもやり遂げる……」

 

 常識にも、社会規範にも、信仰にも囚われない集団。

 金のためならなんでもやる、というありきたりな異常性には当てはまらない。その枠さえ逸脱した、卓越した異常者たちだ。

 

 きっと彼らにとって、金はサインに過ぎない。

 契約書に名前を書いて血判を捺す代わりに、金を受け取っているだけだ。そして勿論金を受け取って(サインして)契約を結んだ以上、他人の(サイン)では覆せない。

 

 その在り方は、フィリップから見ても異常に映る。

 

 だって──いくら積まれようと、死ねばそこで終わりだ。

 どれほど金が大事でも、どれほどの金を積まれても、フィリップはともかくルキアに挑むのは馬鹿げた行為だ。

 

 その愚行には先が無い。

 信仰を裏切って聖人に害意を向け、一神教を、一神教徒を──即ち人類の大半を敵に回して、そのことを体感する間もなく殺される。

 

 聖痕者の目の良さや守りの堅牢さは知らずとも、それは仕方ない。

 挑めば死ぬし、試しても死ぬ。敵意からでも、好奇心からでも、試した後に生きて居たければ乞うしかない。彼ら彼女らの前に首を垂れ、殺さないでくれ、その力の一片だけでも見せてくれと願い、強者が気紛れを起こすことを望むしかない。

 

 だが、彼らの強さは歴史が語る。

 

 かつての聖痕者は、戦争中でありながら地図の編纂を諦めさせるほどの大破壊を為した。

 飽きるほどの大破壊と、呆れるほどの大殺戮とで以て、彼らが強さを大地と歴史書に刻んでいった。

 

 ルキアとステラも、既に。

 かつて王国の重鎮だった男の反乱を、殆ど二人だけで鎮圧した。ルキアは二発、ステラは一発。たったそれだけの魔術行使で二万の兵を殺し尽くし、『明けの明星』と『恒星』の二つ名を与えられている。

 

 ルキアに関して言えば、敵対者の悉くを塩の柱に変えてきた『粛清の魔女』との呼び声もある。

 

 そんな相手が出てきても、尚も契約に従い続ける──尋常な精神力で出来ることではないし、金を積まれて出来ることでもない。

 どれだけ金を持っていても、死んでしまえばそれまでなのだから。

 

 戦慄するフィリップに、メグは意外そうな一瞥を呉れる。

 その視線に首を傾げられて、彼女は平然と話を続けることで誤魔化した。

 

 「はい。ですが、本当は組織の名前も、自分が構成員であることも秘密のはずです。たとえ逮捕尋問されようと、組織や仲間のことを口外してはならない。……その血の宣誓があればこそ、アズール・ファミリーは広く知られず秘密組織として活動できているわけですから」

 「え? でも、そこは普通に吐きましたよね? 捕まえた人が死守したのは雇い主の情報だけで」

 「まあ、『拷問』ですので。吐いてはいけない情報かどうかを激痛に襲われながら判断するのは難しいですし、そもそも苦痛は意思に優越しますから」

 

 恐ろしいことを平然と語るメグに、フィリップも平然と、まあそうかと納得する。

 幸いにして拷問を受けた経験は無いフィリップだが、自分が拷問用──苦痛を与えるために使う魔術の威力は、不本意ながら体感した。

 

 あれほどの苦しみに断続的に襲われるのが拷問なら、そりゃあ、自分が何を口走ったのかさえ判然としないだろう。雇い主について口を割らなかっただけでも、尊敬してしまうほどの根性だ。

 

 「なるほど……。あ、そうだ、雇い主っぽい人を逃がしちゃったんですけど、大丈夫ですか? 流石に門兵に捕まると思って見逃したんですけど」

 「はい。そちらは恙なく。今頃はアズール・ファミリーと接触した方法について尋問されている最中かと」

 「そうですか。なら良かった」

 

 流石の手際だ。

 死兵となって時間を稼ぐマフィア連中が同行していたら、どうなっていたかは分からないが──なんとなく、それでも大丈夫だったろうと思う。

 

 これで一件落着、万事解決だ。

 と、肩の荷を下ろすように深く息を吐いたフィリップに、メグは微妙な表情を向ける。物言いたげな、少しの同情と憐憫も感じるような。

 

 「ここからは私たちの仕事ですので、カーター様のお手を煩わせることはないかと。と、言いますか……」

 

 言い淀んだメグに、フィリップは彼女らしくない態度だと首を傾げる。

 彼女らしさを語れるほど、メグのことを知っているわけではないけれど。

 

 黙って言葉の先を待つフィリップに、彼女は困り笑いを浮かべて続けた。

 

 「カーター様がお考えになるべきは、適切な謝罪の言葉と言い訳かと。単独行動はともかく、奥様方の話を盗み聞いていた件に関しては、きっとお叱りがあるかと思いますよ?」

 「え? あ、そうか、そりゃバレますよね……」

 

 一応、フィリップは一連の妨害の主犯が運送屋であると知らないことになっている。

 別に知られて困ることではないだろうし、ルキアに聞けば普通に教えてくれたとは思うが、そのアリバイは作っていない。

 

 不味い。

 何もかも不味いが、盗み聞きという美しからぬ行為に関しては、ルキアからの援護が殆ど望めないのが本当に不味い。

 

 「他所のお母さんに怒られるとか、丁稚の頃以来ですよ……」

 

 なんかいい感じの言い訳がないだろうか、と、フィリップは欠伸を噛み殺しながらぼんやりと考えた。

 

 




 キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
 シナリオ20 『それは“呪い”か?』 グッドエンド

 技能成長:【拳銃】等、使用技能に妥当な量のボーナスを与える。

 特記事項:なし


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