怪物と迷宮 (迷宮の怪物1)
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Cクラス支配編
1話
桜が咲き誇り、きらめく陽光の中を穏やかな風が吹く。雲一つなく晴れ渡る空は、まるで神様が新生活の門出を祝福しているかのようでもあった。
東京の埋立地に日本政府が創設した、国の未来を担う若者を育成するための教育機関である東京都高度育成高等学校。そこは希望する進学、就職先をほぼ100%実現できるということで全国的に名高い。今日はその入学式である。
新しき出会いに期待や不安を抱えているであろう若人たちが学校の門をくぐっていく。その中で、一人だけ雰囲気にそぐわない男が校門前に立っているのが見えた。
無精ひげを生やし、
彼はおもむろにポケットの中に手を入れ、取り出したチョコ菓子の包装を乱雑に破り、クチャクチャと音を立てながら食べ始める。口寂しさをいくらか紛らわせると、彼は歳月を重ねて記憶も薄らいできた前世についてぼんやりと意識を向けていた。
前世での箕輪は警視庁の
ただ、虐待を受けていた幼少の頃と最後の戦いの不本意さを除けば、少なくとも彼にとっては合わないというわけではなかった。そして、何の因果か前世の業を背負ったまま、この世に生まれ変わってしまう。
彼がこの学校へ来た理由は単純だ。流されるままに試験を受けた結果、高度育成高等学校の門をくぐる資格を得たというだけの話。
前世でねじ曲がった性質はどうやら今世でも同じらしいと箕輪は食べ物を口に含んだまま、笑いらしいものを口端から漏らす。そうしているうちに食べ終え、ごみをポケットに突っ込むと、校舎に向かって歩き始めた。
面倒で長いだけの入学式を終えた生徒たちは
彼の所属はCクラス。担任の教師が来るまでやることもないので箕輪はざっと教室を見回す。クラスメイト達の大半はこれから充実した学校生活を送るためか、初々しさを見せながらも隣人との交流に精を出していた。そのうちの何人かに鋭い気配を放っている者が存在するが、前世で血に塗れた道を歩んできた箕輪にとっては特に気になるようなものでもなかった。
子供の戯れに興味のない箕輪は机に肘をつき、手に顎を乗せながら暇を持て余す。傍から見ても箕輪の手持ち無沙汰な様子は明らかだが、彼の高校生には見えない異様な
教壇に立つ教師はそう名乗った。眼鏡をかけ、痩身で神経質そうな担任教師は資料を配布する。生徒たちに行き届いたことを確認した彼は学校生活について説明を始めた。
坂上の話によると、東京都高度育成高等学校ではクラス替えは存在せず、3年間同じクラスであり、担任の教師も変わらない。外部との連絡は断たれ、3学年全員が学校の敷地内に存在する寮での生活を義務付けられている。
外からの持ち込みもできなくなっており、現金の代わりにプライベートポイントなるものが生徒たちに配布され、敷地内の売店や施設で使用可能。この学校においてポイントで買えない物は存在しない。これをSシステムと呼ぶ。1ポイントで約1円の価値がある。新入生全員に初回10万ポイントが配布された。これからは毎月一日にポイントが振り込まれるとのことだった。設備環境についても学校生活で何ひとつ不自由なく過ごす事ができるように整えられているそうだ。
話を聞いていた生徒たちは至れり尽くせりの楽園のような待遇に沸き立ち、これからの学園生活に思いを馳せていた。
坂上から解散を告げられた後、交流を深めるために連れだって遊びに行く人たち、これからお世話になる学校を見て回る人たち、まっすぐ寮に帰る人たちで、教室に残っている人はほとんどいない。学校初日のため、残る理由もないからだ。
単に人混みを避けるため、しばらく居残っていた箕輪もようやく帰るのか席を立つ。
「おい」
帰ろうとした矢先に横合いから声をかけられる。箕輪は身体を出口へと向けたまま、視線だけを動かして横目で確認する。そばに立っていたのは長めの茶髪に制服を着崩し、品行方正とはお世辞にも言えないような男だった。
「何か用か? 小僧」
「小僧か……お前が高校受験を何度も失敗した哀れで珍しいおっさん浪人生だったら、その言葉も納得だな」
不良少年は生意気な笑みを浮かべ、返す言葉で悪態をつく。相手にすることを面倒に思った箕輪は空腹を感じていることもあり、早々に話を切り上げる。
「何もないなら、ここでおじさんとさよならだ」
「まぁ、待て。お前に聞きたいことがある」
先ほどまでの人を
「俺の地元はお世辞にも治安が良いとは言えない地域でな。まぁ、クズの展覧会みたいなもんだ。そこで色んな奴を見てきた。……が、お前みたいなのは初めてだ。なんだお前は?」
少年は目を細め、得たいの知れないものを見定めるように怪訝な表情を浮かべた。
「ひひッ……なるほど、鼻は利くみたいだねぇ。だがよぉ、質問が
さきほどまでは押し売りに来た訪問販売者を追い払うような態度の箕輪だったが、彼の表情はニタニタと軽薄なものに変わる。
「あぁ、ところで、お前さんの名前は?」
「龍園だ。お前は?」
「箕輪。……で、さっきの質問に戻るが──」
箕輪はあさってに向けていた身体を不良少年のほうに向きなおし、初めて目を合わせる。
──俺のことが理解できなくて、不安で怖いよぉぉ~って、解釈でいいんだな?
笑みを浮かべ、言葉を発した箕輪の目にはあらゆる
「クク……おもしれぇこと言うじゃねぇか。お前に冗談の才能があるとは思わなかったぜ」
自らを鼓舞するよう
「本来はもう少し後になる予定だったんだが……ありがたく思え、お前は特別だ。ついてこい」
そう言うと間を置かずに、龍園は扉のほうへ向かう。空腹に意識が向き、誘いに応じるか否かを考える箕輪。そうして食欲と興味を天秤にかけた結果、興味に傾いた彼は遅れて龍園の後をついていった。
場所は変わり、二人は学生寮の裏手にいた。辺りに人の気配は無く、何が起ころうとも、第三者が介入してくる可能性は低い。良くも悪くも誰かの助けは期待できないということだ。
箕輪と龍園は互いに距離を置き、向かい合っていた。
「ここなら誰の邪魔も入らねぇ」
「ひひッ……いいのかぁ、邪魔が入らなくて?」
戦意が高まる龍園に対し、箕輪は余計な言動をはさんで挑発的に刺激する。
「あ? まずはその舐めた態度をわからせてやらねぇとなぁ」
「おぉ、怖い、怖い。おじさん怖くて小便が漏れそうだよぉ」
二人の間に
「龍園クン、だったかな? 君の予定とやらが何なのか、さっさと教えてくれないか?」
「優しく言ってる間に舐めた態度を変える気はねぇようだな。……まぁいい、どのみち教えるつもりだったからな」
龍園が対話に応じる姿勢に変わり、
「入学案内と一緒に配布された学校のルールが載っている資料は知ってるな? 俺はそれを事前に頭に叩き込み、今日早めに学校へ来た。色々と調べるためにな」
「ほぉ、不良にしては立派な心掛けだねぇ」
箕輪の茶化すような言葉に龍園は眉間に皺が寄るも、一々それに反応していては話が進まないと無視を決める。
「……で、担任の話を加えて、この学校には違和感を感じる点がいくつかある」
そう語り始める龍園の考察はあくまでも彼の経験と常識から学校を認識した結果、生じてしまった理想と現実の食い違いについてであった。
「まず、何の実績もない高校性に3年間毎月10万ポイントなんてありえねぇ。将来的に大成する可能性を鑑みたとしても、そういうのは学費だとかの必要な経費に援助されるはずだ。生活に必要なものは一律にチケット制を採用して支給すれば済む話。そのほうが管理する学校側にとっては計画的に無駄なく費用を抑えられる。それを生徒が自由に使っていいお金として配られることが不自然だ。
そして、無料の商品の存在がその不自然さを後押しする。どんな馬鹿でも毎月10万ポイントが配られることになれば、足の出ないポイントの使い方ってのを学ぶ。仮にそんなことも学べない無能な生徒が出てくるとすれば、この学校の謳い文句は誇大広告の嘘ってことだ。つまり、無料の商品が存在するのはそれがどうしても状況的に必要になる生徒が出てくると考える方が自然だな」
ある程度は筋の通った話と感じたのか、箕輪は顎をさすりながら黙っている。
そんな彼を見据えていた龍園は親指である方向を指し示した。
「……お前はまだ確認していないだろうが、この学園の敷地内は数多くの施設が存在する。娯楽施設もな。小さな街を形成していると言っても過言じゃない。
ポイントさえあれば、贅沢な学校生活を送ることも可能だろう。だが、一方で無料商品の生活を余儀なくされる者もいるはず。まさに社会の縮図だ。
つまり、物やサービスが平等に支給されないような作りになってる時点で資本主義による競争社会のようなものがこの学園にも存在していると推測できる。
よって10万ポイントは一定じゃない、何かしらの要因で上下するはず」
格差を生み出す階級構造こそが競争の源泉になる。全員が10万ポイントを無条件で毎月受け取れるような恵まれた環境では競争心が発揮されにくい。ゆえに、その厚遇が実力主義を標榜しているこの学校にそぐわないのは自明の理。
推測ではあるが、自分の考えにどこか確信めいた自信を持っている龍園は迷わずに次の話へと移る。
「監視カメラの多さも異常だ。監視カメラってのは本来犯罪の抑止を期待するためのものだが、ここでは少し違うらしい。
この学校は閉鎖的で生徒たちが外に出ることはまずできないが、その逆である外から内に入ることも難しい。不特定多数の出入りが制限されていると言える。中に入ってくる業者やここで働いているヤツも学校側が厳選しているはずだ。
そんな状況で外部からの犯罪を抑止するためだけの目的であの数の監視カメラを設置するわけがない。内部の犯罪抑止ということもあるだろうが、カメラの設置場所を考慮すれば、おそらくは生徒を学校側が徹底的に監視するという目的の意味合いのほうが大きい。
そして、その監視カメラの多さは裏を返せばそれによって関知されない問題に寛容であると捉えることもできる。仮に生徒同士で問題が発生したとき、当事者による自己申告の水掛け論だけで適当に済ませるような学校なら、この数の監視カメラはいらない。
つまり、徹底的に白黒つけるってわけだ。白黒つけるということはカメラに映っていないものについては判断しないことになる。それがさっき言った寛容さというわけだ。もちろん、その寛容さは他に証拠がなければの話だがな」
普通の人間であれば監視カメラの存在にそこまでの考えを巡らせることはまずないが、龍園は普通ではなかった。彼の育った環境と培った経験がなせる特技と言えるのかもしれない。
「まぁ、他にも腑に落ちない点は色々とあるが、要するにこの学校は謎が多く、普通ではない。
普通ではないということは、この学校の生徒の実力の測り方も単なる勉強や運動だけじゃない可能性が高い。それに備えて、俺は動いてるってわけだ。ぬるま湯に浸かりながら何の備えもせず、疑問を疑問にしたまま見て見ぬふりをする奴は食われるだけの弱者でしかない」
話をしているうちに、降って湧いた10万ポイントという大金や不自然な環境に何の疑問も持っていないクラスメイトを思い出した龍園は憮然とした表情をしていた。
「おそらく、この学校の戦いは集団戦がメインになるはずだ。優秀な人材を社会に輩出することが目的であるなら、集団を率いるにしろ、所属するにしろ、組織に属することが前提になる。ということはいくら個人で能力があっても組織でうまくやれない奴など不要。おのずと個人よりも集団に重きを置かれることになる。そして、この学校でわかりやすい集団単位はクラスだ。よって、俺はこれからクラスを支配するために動く」
先ほどとは打って変わり、龍園は恐れ知らずの自信に満ちたような笑みを浮かべ、為政者が演説しているかの如く両手を大きく広げる。
「その手始めに俺は暴力を従える。何を取り繕ったところで、所詮この世界は暴力を中心に廻っている。暴力が最もわかりやすく、手っ取り早いからだ」
矢継ぎ早に言葉を並べ、どれほど話をしたのだろうか、呆れた目で見ている箕輪を余所に長々と
呆れを通り越してしまい、ある種の感心すらしていた箕輪は乾いた笑い声を漏らす。そして、懐に手を入れ、常備されているチョコ菓子を取り出し、口の中でかみ砕く。
「ひひッ……おしゃべりだねぇ、龍園クンは。政治家でも
「クク、まぁ最後まで話を聞けよ。俺だってこんなに喋る自分自身に驚いてるんだ」
なかなかに悪くない気分の龍園ではあったが、彼は気づいていない。目の前の相手に対して感じている無意識の不安が口数の多さになって表れていることを。
「そうかぁ、新しい自分を発見できて良かったねぇ」
「ほざけ、話を戻すぞ。俺がさっき言った推測の続きだが、この学校は世界の真理を理解している。つまり、暴力の余地を残してるってことだ」
そう言い終えると、龍園は体勢を低くし、再び剣呑な空気をまとう。箕輪は食べ終えた菓子の包装を乱雑に握りしめ
「ヒョロヒョロの
「あ?」
箕輪の言葉の意味がわからず、聞き返す意味で龍園は反応した。しかし、その反応に箕輪は返答せず、つぶやきを続ける。
「こっから何が始まるか、予想はつくがぁ──こっちが負ける要素はありませんわ」
首元に手を当て、肩を回しながら、
感じたことのない相手の怖ろしい気配に先手を取られることを嫌った龍園は勢いよく飛び出す。拳を大きく振りかぶり、フッと息を吐きざま、相手に放つ。回避してくれと言わんばかりにその動きは大袈裟だったが、それは相手のタイミングをはずすためのフェイク。すぐさま龍園はコンパクトな打撃に切り替え、連続で繰り出し、相手に反撃の暇を与えない。
龍園の弾幕ともいえる執拗な拳の嵐。明らかに喧嘩慣れしていることがうかがえる動きだった。だが、箕輪は余裕をもって避けていく。そして、タイミングを見計らい、飛んできた拳をがっちりと掴んだ。
即座に反応した龍園は掴まれた拳を振り払おうとするが、意志に反して身体の動きが止まってしまう。
「このままだと……右腕がなくなっちまうぞ? ほらぁ、外してみろ」
抗うことのできない万力のような力で少しずつ、ゆっくりと腕が捻り上げられていく。箕輪との筋力差に振り払うことを諦めた龍園は力を逃がすため、たまらず捻られている方向に体を回転させた。
「おい、足元がお留守だ」
出来の悪い教え子を諭すような口振りの箕輪は掴んでいた手を放し、無防備な龍園の足元を引っ掛けながら、強引に真上へ蹴り上げた。
浮遊感に襲われた龍園の身体は
「どうしたぁ、もうお家に帰る時間か?」
置物状態で倒れ込む龍園に対する箕輪の安い挑発。だが、冷水を浴びせられ火の勢いが弱まった龍園の心を燃やすにはちょうどいい燃料だった。
「ちょうど身体が温まってきたところ……だっ!」
跳ねるように素早く体勢を立て直した龍園は目潰しのために握りしめていた土を相手に投げつけるよう勢いよく振り向く。次の瞬間、龍園の視界に広がったのは真っ暗な闇だった。
それは、動きを読んだ箕輪が上着を龍園めがけて投げつけていたことによるもの。策が読まれ、
「いくぞぉ、龍園クン」
──ドォンッ
空気を切り裂き、ブレザー越しに放たれた箕輪の拳が弧を描いて龍園の
拳が衝突した刹那、龍園の体は紙切れのように薄っぺらく舞い、視界に映る景色は上下左右不規則に流れながら猛烈な勢いで前方に飛んでいく。肺の中の空気は一気に押し出され、体を地面に打ちつけながら転がっていく。ようやく回転が止まっても激痛によって横隔膜が引きつき、新鮮な空気が吸えない。肉体が酸素を求め、悲鳴をあげる。全身が鉛のように重たい。四肢の神経細胞に信号が上手く伝わらない。
龍園が自らの置かれている状況に意識を回すことは困難であった。うずくまる彼を見ながら、箕輪はやれやれといった様子で額に手をあてる。
「おいおい、勘弁してくれ。軽く撫でただけだぜぇー」
玩具を弄ぶかのように彼はそう言い捨て、うずくまる男に悠然と歩み寄る。眼下に苦しむ龍園をとらえた箕輪はしゃがみながら相手の耳元でささやく。
「まぁ、殺しはしないから安心しな。今からゆ~っくりと締め落としてやる。気持ちいいぞぉー」
気味の悪い笑みで歪んだ表情の箕輪は、まるで赤子を抱き上げるかのような、それが自然とも言える動きで二本の
龍園という男は小学生の頃に相手を屈服させる快感を覚え、中学生の時には恐怖を知らないがゆえに心が折れるということがなく、どんな相手も最終的に降伏させれば勝利できるということを学んだ。卑劣、非道な手段で陥れられても、学習してやり返し勝利を掴んできた。
その経験の積み重ねか、龍園は倫理的、道徳的に問題のある方法を躊躇なく実行できたが、心の奥底で感情の揺らぎは存在した。これまで自らの前に立ちはだかり、倒れていった幾多の相手にも同じことが言えた。
だが、この男の目は何だ? どれとも違う。この相対している男は理解できない。黒い澱みからかき集めたような狂気だけが存在していた。自分とは違うステージに目の前の男は立っているのか?
抗うことのできない
「お疲れ様だぁ、龍園クン」
──意識が途切れる、その瞬間まで。
日が落ち、あたりが暗くなった頃に龍園はゆっくりと目を覚ました。
「フゥー、ようやく居眠り小僧のお目覚めか」
そう呟いた男は壁にもたれ掛かりながら、チョコ菓子を
前後の記憶が曖昧で状況を把握できないのか、龍園はしばらく静止したままであった。そのうち、ようやく思い出したのか、彼は緩慢な動きで身体を起こすとふらつきながらも立ち上がる。
「お前、今まで何人殺してきた?」
「……なんだってぇ?」
「殺しの経験があるのか?」
「それ聞いてどうすんの? 殺してないと言えば、お前さんは納得するのかぁ?」
わかりきっていると言わんばかりの箕輪の返答に、短い時間で考えを
「たしかに聞く意味はないな。どちらにせよ、お前に対して俺は手も足も出なかったという事実があるだけだ」
龍園は短い時間のやり取りで気づく。ついさっきまで自分自身が知りえなかった感情こそが恐怖であると。並みの人間なら生物の本能によって精神が恐怖に支配されたかもしれないが、龍園自身は恐怖というものに盲目的に囚われているわけではなかった。むしろ、何年も完成していなかったパズルのピースがはまったような、それでいて不思議と新鮮な感覚があった。
「それで……プライドを叩き折られたお前さんは布団に
「クク、笑わせるな。別に負けたのは今回が初めてじゃねぇ。
龍園はこれまでに今回のような圧倒的な敗北と恐怖の経験はなく、大いに戸惑った。自分が今までに屈服させてきた相手も似たような感情を抱いていたのではないかという思いを巡らせもした。そして、束の間の思考の後に結論が下される。
──だからどうした。
こんなところで挫折して立ち止まっても無意味。これからもやるべきことは何ひとつとして変わらない。道の先に多くの困難が立ちはだかるのなら歓迎しよう。龍園翔が誰よりも高く飛翔し、次の高みへ到達するための糧として。
「てめぇを手駒にする予定だったが、今回は
そう吐き捨て、
「まぁ、条件次第じゃあ、お前さんの暴力ってやつになってやってもいいぞ」
「……口だけが一丁前の張り子のトラを
「ほへぇ~、つれないねぇ。ここはどうだい? お互いに駆け引きはやめにしようや」
もたれ掛かっていた壁から離れ、箕輪は龍園との距離をつめる。
「実はおじさん困ったことがあってねぇ~。それを解消してくれるなら手駒になろう。圧倒的な暴力、欲しいだろぉ?」
龍園は無言のまま、
「俺の条件は俺の食費を龍園クンが負担する。ただそれだけ」
「食費だと? それのどこが憐れみじゃねぇのか説明してみろ」
箕輪の言葉にやはり同情だと感じたのか、龍園の視線が鋭くなる。
「そう熱くなりなさんなって。俺に必要な摂取カロリーは成人男性平均の5倍。つまり、食費も5倍。これが馬鹿にならん負担になるわけだ」
相も変わらず軽薄な態度を崩さない箕輪に対し、何か裏があるのかと心中を見透かすように圧迫感を持った視線を龍園は向けるが、彼は少しも揺らがない。推し量ることは困難なようだ。
しかしながら、昼食や夕食を共にすればすぐにバレてしまうような嘘をつくメリットが見当たらない。本当のことだと龍園は結論づけた。
「冗談言ってるわけじゃなさそうだな。……その摂取カロリーはお前のふざけた身体能力に関係があるのか?」
龍園は箕輪との戦いにおいて普通では説明のつかないような
龍園が自分の推測を言い終えると僅かな間をおいて、ぱちぱちと締まりのない音が静かにあたりへ響く。いまひとつ捉えどころのないニヤつく表情で、箕輪は手を叩いていた。
「流石、龍園クン。頭いいじゃない」
「その気に障るような言い方はやめろ」
不愉快そうに龍園は顔をしかめる。
箕輪の体格は特別大きいというわけではない。体重など重く見積もっても70キロほどにしか見えない。大量の摂取カロリーが必要であるという彼の言い分に龍園が疑いを持ったのも当然のことだと言えた。だが実際、箕輪の体重は──100キロを軽く超えている。
原因はその男の遺伝子、DGF‐8ミオスタチン関連の異常にあった。ミオスタチンの異常を持つ人間は世界にも少数ながらいるが、彼の異常はその中でもさらに特別なもの。通常、筋力や筋量に比例するはずの筋肥大が見られなかったのである。その特異な異常が引き起こされた結果、彼が手にしたのは高密度に圧縮され、天与の強度と伸縮性も兼ね備えた筋骨。箕輪の肉体は
そして、生まれてから全くトレーニングをせずとも休みなく発達し続けてしまう天性の筋骨は、いわばその巨躯によって滅び去った
まさに超人
昔話で語り継がれた超人伝説の正体は彼のような存在なのかもしれない。
しかし、その規格外の肉体は超人的な身体能力という恩恵を彼に与える一方で、その生命維持のために莫大なエネルギーを必要としていた。常人であれば、食物によるエネルギーの摂取がなくとも3週間ほどは生存できると言われているが、彼の場合は1週間も耐え切れないだろう。箕輪にとっての食事の価値は並みの人間を大きく上回り、文字通りの生死に直結する重大な問題であった。
「俺は金が欲しい、お前さんは暴力が欲しい。対等な取引だろ?」
しばらく、顎をさすりながら考えていた龍園はゆっくりと箕輪に顔を向ける。
「お前から持ちかけた取引ってとこが気に食わねぇが、それを差し引いても余りある暴力だ。だが、計画の目途が立つまでは食費を節約しろ」
「……はぁ~。いきなり暴力の前借とは気が滅入るねぇ、まったく」
話が終わりかけたとき、ふと思い出したように箕輪は口を開く。
「おっと、もうひとつの条件をうっかり忘れてたなぁ」
龍園は眉根を寄せながらも、箕輪の目を見て無言で話を促す。すると、箕輪の気安い雰囲気は消え、その目にはどす黒い渦が巻いていた。
「もし、俺に知らされていない計画や罠によって、俺が被害を受けたときは──」
お前の身体に刻むことになる、報いをな
龍園は一瞬、自分の首元に死神の鎌をあてがわれているかのような幻影の感にうたれる。しかし、瞬きひとつした後に命を握られるような張りつめた空気は霧散していた。
「気をつけろぉ」
そう忠告する箕輪は数瞬前と同じ
「安心しろ。計画の全貌は話す。でなきゃ不測の事態に対応できないからな」
「そうかい、それなら安心だ。龍園クンがやさしいから、おじさん助かるよぉ」
「……ちっ、ふざけた野郎だ」
ようやく話を終えた二人は文句を言い合いつつも、満更でもない雰囲気でこの場をあとにした。
夜も深い窓の外から弱々しい月の光が差し込む。電気もつけず、月明りだけが頼りの自室で龍園は椅子に腰掛けていた。
人というのは
その男が教室に足を踏み入れたとき、臭いを嗅ぎ取った。嗅いだことのない猛烈な異臭だ。生徒たちが集う教室という場所にその男の存在はふさわしくない。強烈な違和感を抱いた龍園だが、周りを見渡しても、それに気づいたような人は見当たらない。
突如、興味が龍園の中で膨れ上がる。好奇心を止められなかった彼は自ら動き出した。結果、かなりの痛みと屈辱をともなったが、手に入れたものは想像以上に大きかった。
しかしながら、手に入れたそれは禍々しく、持ち主を破滅させる可能性を秘めている。怪しい光に吸い寄せられて飛び回る羽虫の末路を
「やってやるよ」
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2話
多くの楽曲が収録され、その中から好きなものを選んで歌い、飲食も楽しむことができる場所、それがカラオケルームである。
しかし、使い方によっては防音が完備され、外から見えない部屋、完全に外界から隔絶された陸の孤島、すなわち、基本的人権との隔絶を余儀なくされる場所へと
部屋の中では床に二人の生徒が転がっている。彼らの口元には音量を上げ、エコーを強くかけたマイクが置かれていた。痛みに
倒れている二人を
龍園は机の上に足を置き、尊大な態度を崩さず石崎に問いかける。
「で、手駒になる覚悟は決まったか?」
腫れた顔を下に向けたまま、無言を貫く石崎。普段の彼は力強く鋭い目をしているが、今は怯えたような色が広がっていた。
彼の態度に痺れをきらしたのか、龍園は交渉相手の背後に控える人物に顎で合図を送る。意図を汲んだ箕輪はゆっくりと手を伸ばし、石崎の肩をポンポンと軽く叩いた。
「鎖骨」
「……え?」
箕輪の発した言葉の意味が一瞬わからなかった石崎だが、人体を構成する骨のうちの一つであることを遅れて理解した。しかし、その発言の意図までは察することができず、疑問が音となって思わず自分の口から漏れてしまう。
「
ドスンッ、石崎の肩が急激に下がった。空いている肩に箕輪のもう一方の手が置かれ、圧力が強まったからだ。鉄の首かせが嵌められ、重い鎖が肩に何重にも巻かれたような感覚におそわれる。
「俺のオススメは鎖骨だ。お前さんの肩を掴んでいる手にそのまま力を込めれば3秒もかからない」
男の平坦な声が石崎の鼓膜を震わせた。
中学時代、石崎はそれなりの不良として名を売っていたが、さすがに一片の躊躇もなく相手に危害を加えられるということはなかった。もし仮にできるとすれば、それは”怒り”や”恐れ”といった感情の発露が相応にともなう状況となるだろう。
だが、背後にいる男の声からは何も感じられない。今から散歩にでも出かけるような気安いものであった。平然として揺るがない箕輪に呆然とする石崎。
「ヒヒッ……安心しろ。確実に握りつぶして粉砕してやるよぉ」
そう言いながら箕輪は顔に白い歯の亀裂を走らせ、クシャクシャとさせた。尊き命を
そして、床に転がる二人の友人を軽々と一蹴した彼の暴力、肩に置かれた箕輪の手から感じる危険な圧力はその言葉を現実にするだけの説得力があった。
なぜこんなことになったのか。どうして俺がこんな目に遭わなければならない。石崎の頭には後悔の念だけが壊れたラジオのように繰り返し流れていた。
そんな彼の様子を見て、説得という名の恫喝に効果を感じたのか、龍園が追い詰めるように返事を促す。
「俺の支配を飲むか、こいつの
どちらを選んだとしても楽しく快適な学校生活が送れることなど、まるで想像できない石崎は返事を
「心配するな。俺の命令は絶対だが、そこまで悪いようにはしない。当然美味しい思いもさせてやるさ」
地獄の釜の底に突然、天から弱々しく頼りない白い糸が垂れてきた。そう錯覚する石崎。龍園の言葉には何の保証も説得力もない。返事を促すためだけの嘘かもしれない。だが、石崎は
「……わかりました。龍園さんに従います」
大部分の人間はつらい現実を受け入れられるほど強くはない。見たくないものには
すっかり日も暮れ、夕食を目当てに行き交う学生で賑わう食堂。ポツンと一か所だけ空白地帯のように人が寄り付いていないスペースがあった。それなりの大きさがある机には重ねたお皿が所狭しと並べられ、手を置く場所もない。
「おい、いつまで食うつもりだ」
もう食べ物を見るのもうんざりとばかりに不機嫌そうな顔を隠しもしない龍園。ぶっきらぼうな口調で箕輪に言い放った。
「お前さんが食費の節約を約束させたんじゃないのか? そのおかげで、俺はカロリーの低い
当初、約束したとおり龍園はポイントの目途が立つまで何も支払うつもりはなかった。そうすると、箕輪は野菜が多めの無料定食の数をこなさなければならなくなる。必然的に時間もかかるというわけだ。箕輪の言い分は正当な主張であり、龍園の文句は言いがかりに等しい。
「一度に食べられる量は限られるから、時間を空けてまた来ることになる。君にこの俺の苦しみは理解できないだろうねぇ~」
「できるわけねぇだろ。俺はお前じゃないからな」
そう言い捨てた龍園は手に持った飲み物を
すると、ようやく食事が一段落したのか、箕輪は料理に向かっていた手をおいた。そばに置いてある紙ナプキンを何枚か雑に束ねて口元をぬぐうと顔を上げる。
「しかしねぇ、次の手駒は体のデカいアメ公だと思ったんだがなぁー」
「アルベルトのことか。本来なら、ヤツが最初の手駒になる予定だったが、お前がいたからな」
箕輪の疑問に答える気があるのか、龍園は飲み干した空のコップを机のすみに置き、視線を向けた。
「石崎を選んだのは、お前と俺とアルベルトを除いたクラス内の男でいちばん強いと見当をつけたからだ。あとは不良だったことも知ってたからな。そういう奴には力を見せつけ、特別扱いしてやれば簡単に
「んー、特別扱い?」
「お前を除いたCクラス全員まとめて支配下に置く方法はあったが、あえて石崎だけは個別に仕掛けてやったからな。特別だろ?」
まとめてその他大勢として支配されるのと、形だけであったとしてもわざわざ交渉しにくるのとでは、やはり印象の受け取り方は違ってくるものだ。自分は評価されたからこそ、先んじて声をかけてもらえたと思える。思い込みによって都合のいいように解釈しがちな人間の性質は侮れない。
「まぁ、石崎は頭の回転が遅いから気づくのに時間がかかるだろうがな。奴が気持ちよく服従するための芽だと思えばいい」
「てぇことは、あの場にいた石崎以外の二人のガキは邪魔だったってわけだ」
「そうだ。だが、わざわざ引き離すのも煩わしいからお前に任せた。問題なかっただろ?」
「まったくないねぇ」
箕輪が前世でこなしてきた仕事を思えば、高校生の
「で、残りのCクラスの奴を支配する方法だが、お前とアルベルトをクラス全員の目の前で戦わせる」
「理由は?」
「人はギャップに弱い。自分が想像していたものとの落差が大きければ、大きいほど強烈な印象を植え付けられる。良くも悪くもな。外国人やハーフの中でも、ひと際大きな体格のアルベルトが強そうなのは誰でも見ればわかることだ」
龍園は肘をつき、食器で片付かない机の上に身体を乗り上げる。
「だが箕輪、お前は違う。日本人にしては平均以上の体格と言えるが、誰もが見て強いと納得するほどではない。多少でも腕に覚えがある奴なら、何とも思わないレベルだ」
アルベルトの身長は190cmほどあり、子供でも見た目から強さは簡単に推測できる。対する箕輪は平均を上回るものの180cmもない。特筆するほどの体格ではないのだ。
勿体つけるように少し間を置きながら、龍園は話を続ける。
「そんな奴がわかりやすく強そうなアルベルトをクラス全員の目の前で
最後の言葉に箕輪が反応する。
「ほぉー。で、その一人は?」
「クク、今言う必要はねぇな。その時がくれば、わかることだ」
その返答に周囲の空気が異様に張りつめた。身を抉られるような目つきに豹変したのを龍園は目の前の相手から感じた。
「龍園ク~ン、忘れてないよなぁ? 俺との約束」
恐怖か、はたまた緊張によるものか、自らの額から顎にかけて滴り落ちる汗の感触を龍園は意識させられる。だが、その意識を振り払い、余裕があるかのように笑みを浮かべた。
「あぁ、忘れてないぜ。計画の"
二人の間に沈黙の
「あちゃ~、おじさん一本とられちゃったねぇー」
自分の頭を軽く叩きながら、箕輪はおちゃらけた雰囲気に戻る。
「まぁ、全部話されても、つまらないだろ? 誰がその一人なのか、予想でもして楽しみにしていろ」
「ヒヒ……お言葉に甘えようかね」
話は終えたとばかりに皿を片付け始めた箕輪に龍園は忠告する。
「それと、この計画の唯一の弱点は箕輪、お前の暴力がアルベルトの暴力よりも上という前提に立っていることだ。この前提が覆れば計画のすべてが台無し。いけるのか?」
箕輪は片付ける手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
「こういう事が仕事だからねぇ。まぁ、どうということはないわな」
そう言った箕輪の言葉は静かながらも、確固たる自信を端々から
入学から約
担任教師の坂上から説明された新たな学校のシステム。それは、Aクラスで卒業しないと希望の就学先や就職先は望めないこと。そして、クラスの成績がクラスポイントというシステムに反映され、ポイントを各クラスで競い合い、最終的にAクラスを目指すことになるというもの。
クラスポイントは入学時に各クラス1000ポイントに設定されており、私語や遅刻などでCクラスのポイントは490ポイントまで減点されていた。月の初めに各クラスのクラスポイントが評価され、クラスの入れ替えとプライベートポイントの配布がなされる。1クラスポイントに応じて100プライベートポイントに換算されるため、今月のCクラスのプライベートポイントの配布は49000ポイント。
説明を終えた坂上が教室から退出した後、聞き終えたCクラスの生徒たちは困惑するように顔を見合わせる。しばしの沈黙を挟むと、教室内でざわめきが広がっていく。これからの学校生活に対しての不安で落ち着かない様子であった。そんな中、三人の生徒が教壇に向かう。
──バンッ
教卓を思い切り叩き、場を鎮めさせる。静かになったことを確認した龍園は堂々とした態度で話を切り出す。
「よく聞け。俺の名前は龍園。今日をもってこのクラスは俺が支配する」
いきなりの宣言に対して話についていけないのか、ざわつくクラスメイト。中には反抗的な目つきをする者もいた。
「俺の目的はただ一つ、Aクラスに上がることだ。そのためにも俺の命令は絶対。命令が聞けない奴は必要ねぇ。反対する奴は手を挙げろ。
龍園や背後に控えている箕輪と石崎の凶暴な雰囲気にあてられたのか、半分ほどの生徒は静まりかえり、視線を逸らし、身を縮こませる。
しかし、もう半分はそうではなかった。唐突に場を仕切りだした龍園に対し、不快感や不満を抱いていると感じさせる態度で自らの意思を示すために手を挙げる。
想定よりも数が多い面々を見渡す龍園は馬鹿な奴らがよくも集まったもんだと呆れる。と同時に、率いる予定のクラスとしては悪くないと感心もしていた。
知らず知らずのうちに挑発的な笑みを浮かべる龍園だが、ひと通り見まわした後に彼の笑みは消えることとなる。なぜなら、挙げられた手の中に肝心のアルベルトのものがなかったからだ。龍園はアルベルトにつかつかと歩み寄る。
「お前、手を挙げてないってことは賛成で間違いないんだな?」
表情を変えずにアルベルトは無言で頷く。
「ハハッ、そうか。嬉しいぜ。なら早速で悪いが命令だ。──俺の靴底をなめろ」
何気ない日常の一幕であるかのように自らの靴を指差し、そう告げる龍園。
その命令内容にアルベルトは一瞬唖然とするが、正気に戻ると怒りがこみ上げ、龍園の胸倉に掴みかかる。
「……おい、賛成じゃなかったのか?」
「Fight me」
「ファイト? オーケー、オーケー。だが、戦うのは俺じゃねぇ」
掴まれた胸倉を振りほどき、龍園はCクラスの人間をざっと見渡しながら叫ぶ。
「クラスの支配を賭けて、アルベルトと俺の配下の箕輪が決闘する。全員参加だ。アルベルトが勝てば、支配は取り止める。だが、この場で決闘するわけにはいかねぇし、このまま場所を移しても大移動は目立つ」
龍園はゆっくりと教壇に戻る。
「よって今から、お前ら全員の連絡先を寄こせ。俺の支配に反対している奴もだ。異論があるなら、それぞれに反抗の機会を今回とは別で設けてやる。これに応じない奴はこの先安心して学校生活を送れると思わないことだ」
最初から逆らう意思のなかった生徒たちが列を成していく。反対の立場の人も提案を懐疑的に思っていたが、アルベルトに勝てはしないと高を
「これからお前たちに決闘の場所と時間を指定したメールを送る。そのメールを確認できた奴から解散だ。メールが来てないなんて言い訳は通用しねぇ。時間に遅れるなよ」
クラスポイント表
Aクラス 940
Bクラス 650
Cクラス 490
Dクラス 0
日が沈み、夜の闇が広がってからしばらく経ったころ、人通りもない外のある一角に人だかりが出来ていた。行き交う生徒たちの喧騒に包まれていた昼とは打って変わり、あたりは薄暗く物寂しくあった。
しかしながら、明々と周りを照らすいくつかの街灯のおかげで視界に困るということはない。普段では大勢で集まることのない時間帯だからか、一部の人たちには気持ちが高まり、はしゃいでいる様子も
「ちッ、一人だけ来てねぇ馬鹿がいやがる」
乱暴に携帯端末をしまいながら不機嫌さをあらわにした龍園は毒づく。その独り言を拾った箕輪は龍園のほうへと顔を向けた。
「誰が来てないんだ?」
「
面倒だと言わんばかりの表情で龍園は吐き捨てるように答えた。それを耳にしていた石崎が拳を手のひらで握り込み、骨を鳴らす。
「生意気な奴ですね。俺が今から締めに行きましょうか?」
「……余計なことはするな」
短絡的な石崎の言葉に気が抜けたのか、迷惑そうに忠告する龍園。
「ボケてやがるのか、無頓着なのか知らねぇが、まぁいい。自分に
「具体的には?」
「Cクラスで椎名に近い趣味を持つ同性を何人か見繕って友人にさせる。椎名が友人と認識したころに、その友人を人質にしてやればいい。命令を聞かなきゃ友達が傷つくぞってな」
「龍園クンは性格悪いねぇ。お近づきになりたくない人種だな、こりゃ」
「お前にだけは言われたくねぇな」
やれやれと首を振る箕輪にぶっきらぼうな返答をした龍園は両手を広げて肩をすくめた。
「俺と龍園クン、どっちの性格が悪いかは置いといてだ。そのやり方が通用しない冷血女だったらどうするんだい?」
「色々あるが、暴力を使うのは最後のほうになるな」
龍園はおもむろに時計を確認すると、箕輪に顔を向ける。
「そんなことより、てめぇの心配をしたらどうだ?」
「心配になるような状況じゃないからねぇー」
箕輪は肩に手をかけながら、首を回す。
「そうか、それは頼もしいかぎりだ。……時間だぞ」
「箕輪のアニキ、頑張ってください」
「……アニキって柄じゃないんだよねぇ、おじさんは」
龍園と石崎の激励を受けた箕輪は生徒の輪の中心に進み出ていく。その中心にはすでに黒い巨体が待ち受けていた。服を張りつめさせ、下から突き上げる筋肉がアルベルトの頑強さをうかがわせる。
「ほへぇー、改めて向かい合うとデカいなぁ~、アメ公」
「……Not American」
アルベルトと箕輪が向かい合う。二回りほど違う体格はまるで大人と子供。周りのクラスメイトもそれを見て、勝負の結末を悟る。しかし、そんな大多数の予測を尻目に鋭い眼光で場を注視する者がいた。
彼女の名は
アルベルトは確かに大きいが、立ち振る舞いは素人そのもの。だからといって侮っているというわけではない。ボクシングの階級で体重が細かく刻まれているとおり、戦いにおいて体重や体格がかなり重要なファクターであることは否定できない。体が大きいということはそれだけで有利ということ。野生動物の争いにおいても基本的には同じことが言える。
考えに
「
「モンキーねぇ……否定しねぇよ。おじさんは日本原産のお猿さんだ」
身体の大きいアルベルトの威圧感に対し、臆病風に吹かれることなく、箕輪は上着を脱ぎ捨てる。シャツの胸元のボタンを2,3個外すと手をポケットに突っ込みながら堂々と前へ進み出る。
「その猿に今から血祭りにあげられるわけなんだけど、気分はどうだい? 今のうちに聞きてぇなぁ。勝負の後だと、体中の色んな穴から液体垂れ流して、それどころじゃないだろうからねぇ」
箕輪の口元が歪み、歯を剥き出しにした笑みがこぼれる。
「Fuck」
そう言い捨てたアルベルトは箕輪に向かって走り出した。巨体で突進する
しかし、箕輪は微動だにしない。脱力するように立ち、戦闘態勢をとらない。
アルベルトは箕輪の様子に少しの疑問を抱くものの、些末なことだと考え直す。かたく握りしめた拳を大きく振りかぶり、荒々しく相手に打ち下ろした。
黒い暴威が箕輪に襲いかかる。まともに食らえば、骨折は免れないかもしれない。この場合は安全マージンをとって、大袈裟に避ける。一撃離脱を繰り返し、長期戦を狙う。それがセオリーだろう。戦いを見守る周囲もそう考えていた。
だが、周囲の予想を裏切り、箕輪はあえて前方に踏み出した。あり得ない角度で上体を反らし、拳を
「ほぉら、プレゼントだ」
──ボォッ──
空気を破裂させ、相手を破壊せんとする狂気をはらんだ暴が目にも止まらぬ速度で放たれた。
背後から聞こえた声にアルベルトが反応する。即座に急旋回するが、間に合わなかった。とてつもない衝撃が彼の背中を襲う。岩のような巨体がボウリングのピンのように勢いよく
周囲の人間と比較しても遥かに大きな自分の身体が容易に飛ばされてしまったという経験のない異常事態に、彼は自らの心の弱い部分が恐怖に侵食されていくのを感じていた。
痛みと制御しきれない心の動揺で動けないアルベルトに箕輪は軽快な動きで詰め寄ると後頭部をわし掴む。
「こんなところに丁度いいボールがあらぁ」
躊躇なく顔面を思い切り地面に打ちつけた。
──パキィィン──
静寂の場に似つかわしくない甲高い音が鳴り響く
地に激突し、跳ねたアルベルトの顔から血が溢れ出す。周りのギャラリーからは、けたたましい悲鳴が上がった。
「次、悲鳴上げた奴は容赦なく殴り倒す」
龍園が戦いに視線を向けたまま、周りにそう言い放った。それほど大きな声ではなかったが、実感をともなった言葉はその場にいるクラス全員に届いたようで静まりかえる。
「Give……up……」
見慣れない血の量と骨の破壊音が鳴り響いたことによって、自らを支え、奮い立たせるための精神の柱がポキリと折れてしまった。弱々しく降参宣言をするアルベルト。
「ん、ギブミーだってぇ? まったく、欲しがり屋さんだなぁ」
頬を深く裂いたような笑みで近づく箕輪。
「No……Nァゴッ」
アルベルトの懇願する言葉を箕輪の暴力が
「……Please……Please」
ただひたすらに野蛮な暴力から逃れるためにアルベルトは声を振り絞って懇願する。
――圧倒的な暴力。
その無慈悲な箕輪の暴虐は場の空気を凍りつかせ、皆の肺を冷気で満たし、周りの者の鼻孔を震わせた。
「ひへッ、思ったより頑丈じゃないの。おじさん嬉しくなるねぇ」
まるで準備運動が終わったように肩を回し、喜色満面の笑みを浮かべ、箕輪は歩み寄る。しかし、彼の前に立ち塞がる者がいた。
「もういい、終わりだ。これ以上やれば死ぬ可能性もある」
神妙な面持ちで龍園はそう告げた。歩みを止めた箕輪は考えるように宙を眺めた後、がっちりと握り込んだ拳を緩慢に
「……へっ、命拾いしたなアメ公」
箕輪は気だるそうに片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で拾った上着の汚れを乱雑に払うと肩にかけた。戦いを見守っていた周囲を龍園が見渡せば、恐怖に顔が引き
「勝負の結果は箕輪の勝ちだ。今日から俺がこのクラスを支配する。異論があるなら、俺のところへ直接来い。まぁ、今日の戦いを見てもやる気があるならな」
そう言い捨てると龍園は倒れ込んでいるアルベルトのほうへ近づく。
「石崎、アルベルトに肩を貸してやれ」
「了解です」
石崎がしゃがみ、アルベルトの様子をうかがう。それを横目に龍園は学校側に連絡をしていた。
「景気よく血は流れているが、折れてるのは鼻くらいのもんだ」
普段と変わらない様子で箕輪はそう言いながら、懐から取り出したチョコ菓子を食らう。連絡を終えた龍園は石崎に指示を出し、それを聞き終えた彼はアルベルトに肩を貸しながら、この場を離れた。
龍園と箕輪以外のクラスメイトを解散させて先ほどまでの惨劇が収拾されると、辺りは静寂に包まれていた。残った二人が会話を交わす。
「龍園クン、聞きたいことがあるんだが」
「なんだ?」
「アメ公にあそこまで挑発する必要があったのかい?」
チョコ菓子のごみを仕舞いながら、箕輪は続ける。
「過度な挑発をしなきゃ、アメ公は素直に従ってただろ。やたらと体のでかいアメ公が味方になるなら、反対してた奴も委縮したはずだ。わざわざヤる必要はなかったんじゃないの?」
その疑問に対して、龍園は即座に否定する。
「仮に、教室でのアルベルトの
龍園は大きく息を吐き、少しの間を置いてから話を続ける。
「そして、こっちが主導権を握るためでもある。相手の善意に任せるような状態はシーソーの上で生活するようなものだ。よくあるだろ。犯行現場を見られた犯罪者が誰にも言いませんからと助けを乞う目撃者を殺す。あれも同じだ。目撃者が話す、話さないはどうでもいい。重要なのは他人に見られた事実とそれが他人の意思に委ねられる状態が不安定
龍園は自分が無意識に握りしめていた拳に視線を落とすと、力を抜いた。
「だから、あの戦いを起こすために到底従うことのできない命令がアルベルトに対して必要だった」
「アメ公がその命令に従うような変態だったら?」
「別に何もしない。そのまま受け入れる。そんな腰抜けの変態に反抗の加担を期待できるほどの楽観的な馬鹿はいないし、普通は近づきたくもないだろ」
「なるほどねぇ」
箕輪は部分的には納得しつつも、まだ疑問が晴れないのか龍園に問いかける。
「そもそも反抗の芽を潰すことが目的なら、アルベルト君を石崎クンと同じように最初のほうで仲間にすればいいんじゃないの? それだったらアルベルト君が表面的に従ってるなんて考えはしないだろうし、反抗の芽が出ることもない」
箕輪の問いかけに龍園はくつくつと笑う。
「それだとできねぇだろ」
──クラス全員にお前の異常な
薄暗い闇の中で龍園の目は妖しくも
「ひひッ……龍園クン、とんでもなく悪い顔してるぞぉ」
「クク、人聞きの悪いことを言うな。お前ほどじゃねぇよ」
その言葉を最後に、辺りは再び静寂を取り戻した。
モチベ維持のため、よろしければ、評価と感想をお願いします。
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3話
独自設定、解釈もあるので、ご了承の上でご覧ください。
──ありえない。
──普通じゃない。
──理屈に合わない。
──非合理だ。
信じていたものが崩壊していくような、どうすることもできない無力さと苛立ちにも似た感情の叫びが
何をどう見ても体重差がありすぎる。二回りほど違う体格や筋肉量を考えれば、不可解な事態。巨体のアルベルトにパワーで勝る理由がない。先日に行われた箕輪とアルベルトの戦いがあった日から今日まで彼女は学校の授業も上の空で考えを巡らせている。
伊吹は幼いころから武術を学んできた。性別関係なく周りに敵はおらず、彼女は自分の強さに自信と誇りを持っていた。
しかし、年齢を重ねるにつれて男女における体格や身体能力の差が少しずつ浮き彫りになっていく。同時に、苦汁をなめさせられる機会も自然と増えていく。
競技自体は男女で分けられているものの、実戦においては男女など関係ない。女性という枠の中での強さなど伊吹にとってはなんの慰めにもならなかった。プライドの高い彼女はその現実を受け止められず、心の底から噴き出るような屈辱と憤怒をついに制御できることはなかった。伊吹は中学の途中から武術と距離を置くようになる。
きっと時間が解決してくれる。そう思っていた彼女であったが、それでも思うようにはプライドを捨てきれない。そんな中で伊吹は見てしまった。アルベルトと箕輪の一戦を。
柔よく剛を制す。
なにかアルベルトのパワーを覆せるような技術があるのではないか。だとすれば、どういったものなのか。
考えても、考えても、思考が前進せず、深みにはまる。答えの出ることのない問いかけに彼女は
しかし、外の景色を見る前に、自分を苦しませている原因の人物がチラリと視界のわきに入ってしまう。箕輪はいつも通りのニヤニヤと何食わぬ表情を張りつかせながら、背もたれに身体を預け、授業中であるにもかかわらず、存分にくつろいでいた。
その姿を見た伊吹は気分転換どころではなく、かえって気分を害してしまい、目線を窓に向けるのを中断した。
謎めいた強さもそうだが、龍園と共にクラスを支配して当然といった箕輪の態度も彼女の癪にさわっていた。他の臆病な奴らと違い、わたしは思い通りになってやらないという気持ちも彼女の中ではくすぶっている。伊吹は姿勢を変えて頬づえをつきながら、軽くため息を吐く。
「このまま悩んでても仕方ない……か」
無為に堂々巡りを続けていても
退屈な午前中の授業を終え、昼休みが始まる。食料争奪戦に勝利するため購買部へ急いで走る者、友人と食堂へ向かう者たちと教室内が慌ただしくなる中、伊吹はあらかじめ用意していた昼食にありつく。一人で黙々と速やかに食べ終え、片付けると席を立ち、目的の場所に向かう。彼女の視線の先には龍園と箕輪がたむろしていた。伊吹は到着すると気が
「ねぇ、ちょっといい」
「何か用か?」
目的の人物である箕輪──ではなく、そばにいる龍園が反応した。
「あんたに用はない。邪魔しないで」
「クク、相変わらずつれないなぁ、伊吹」
顔も向けず、涼し気な表情で突き放すように言い放った伊吹に余裕の笑みを崩さない龍園。するとそこへ、昼食を買いに行かされていた石崎とアルベルトが合流する。
「龍園さん、アニキ、買ってきました」
石崎がそう言いながら差し出した袋には大量のパンやらおにぎり等の食べ物がこれでもかと詰め込まれていた。
「んー、ご苦労さん」
袋を受け取った箕輪は久しぶりのまともな食事に満足気に頷くと、すぐさま食べ始めた。
「……あんた、どんだけ食べんの?」
まるで大食い選手のような量とペースの速さに驚かされた伊吹は思考が一瞬止まるが、すぐさま現実に戻ると湧き上がった疑問をぶつけた。
反応せず、黙々と箕輪は食べ続けている。問いに答える義務も義理もない彼は伊吹という存在を少しも気にすることはなく、食べることに集中していた
「箕輪の食事の邪魔はするな。俺が代わりに聞いてやる。で、なんの用だ?」
再び横から話に割り込んできた龍園はどうやら箕輪の代役として話を聞くつもりのようだ。
食事に夢中でこちらに関心を持たない箕輪を
「私と戦って欲しいんだけど?」
「おいおい、本題に入るにしても飾り気が無さすぎるぜ。さてはお前、コミュニケーションが下手だな?」
人を小ばかにするような含みのある龍園の言葉に反応せず、伊吹は面倒だと呆れたような表情で息を吐く。
「そんなことはどうでもいい。戦うの?」
「ったく、仕方ねぇな。俺が場を用意してやる。今日の放課後だ」
話がまとまる中、石崎が意気揚々と横から話に割り込んだ。
「女子がアニキに挑む? 無理無理、無謀過ぎるだろ」
石崎はアルベルトと机を囲み、食べ物のカスを口から飛ばしながら、行儀悪くののしった。
「龍園の
「なんだとっ!」
「何よ、ただの事実でしょ」
伊吹に言い返され、
「……わかったよ。おっ、なんだそれ美味しそうじゃん。アルベルト、スパゲッティ プリズン」
機嫌を良くしたのか、楽しげに石崎はアルベルトに食べ物をねだる。それを冷ややかに見ていた龍園は無言で石崎が座る椅子を蹴り倒した。
「どわぁっ! いきなり何なんすか、龍園さんっ!?」
突然の所業に石崎は焦りながら呼びかける。そんなことは気にもせず、龍園は続ける。
「お前、プリズンって何だ? それを言うならプリーズだ。プリズンは刑務所だろぉが」
「……やだなぁ、龍園さん。シャレですよ、シャレ」
「そういやお前、英語の小テストの結果すこぶる悪かったよなぁ。今日から放課後、お前は金田と付きっきりで勉強会という名の刑務作業に
「ええっ、そんなぁ。許してくださいっ、龍園さん!」
「好きなんだろ? 刑務所」
そんな龍園と石崎の間抜けなやり取りを見ていた伊吹は首を軽く横に振り、呆れた顔をしながら黙って
時は進み、本日最後の授業。入学
しばらくして、静けさを破るように鐘の音が鳴り響く。学生にとっては苦行でしかない授業がようやく終わりを告げたのだ。伝達事項を話し終えた教師が退出すると、生徒たちは伸びをしたり、隣人とのおしゃべりに興じたりと、解放的な雰囲気を漂わせていた。
ある女生徒が席を立つ。周囲の空気とは裏腹に鋭い気配を放ちながら、まっすぐ目的の人物へ向かった。くだんの女生徒である伊吹は箕輪の席の前に到着すると、腕を組みながら見下ろす。
「話、通ってるよね」
「……そんな鼻息荒くして目の前に立たれても困るねぇ」
「ふざけんな!」
箕輪の不真面目な態度に、伊吹は机に思いきり手を叩きつける。そのやり取りの最中、横から笑い声が聞こえた。伊吹がさっと目をやると、龍園がいた。
「焦るなよ。昼間の話をもう忘れたのか?」
「……だったら早くしてよ」
「注文の多いお嬢様だ」
箕輪の机に腰をおろすと、龍園は話を続ける。
「一応確認だが、本当にヤるんだな?」
「さっきから言ってるでしょ。何度も同じこと言わせないで」
「アルベルトが手も足も出なかった奴だぜ?」
「やってみなきゃわかんない」
そう言った伊吹はこれ以上無駄話をするつもりはないといった様子で、あさってのほうへ顔を向ける。
「クク、まぁ好きにしろ。気が済むまでな。死ぬ前には止めに入ってやるさ」
頭上を飛び交う話に痺れをきらしたのか、箕輪が話に加わる。
「話は終わりか?」
「ああ、終わりだ。伊吹、ついてこい。お待ちかねの戦いだ」
座っていた机から立ち上がると、龍園は教室の出口へ向かう。遅れて伊吹と箕輪が後に続いた。
3人は教室を出て、ある場所へと向かっていた。帰宅する者、部活動に向かう者、友人とくだを巻く者でごったがえす校舎を抜けていく。
目指す場所は特別棟。家庭科室や視聴覚室、多目的ルームなど特別な授業で使用される部屋が集まっており、普段は頻繁に利用されない施設だ。放課後になれば人の気配はほとんどなく、監視カメラのない廊下は無法者にとって絶好の狩場となる。だが、今は狩場としてではなく、武の求道者が狂気まとう怪物に挑む修羅場と化していた。
まるで親の敵のように
「あんたに聞きたいんだけど」
真正面の相手に伊吹は問いかける。
「なんで、あんたがアルベルトに勝てるわけ?」
「あー?」
「どう考えても勝てる理由ないでしょ」
「それはだねぇ、おじさんがすぅんごく強いからかなぁ」
伊吹の真剣な疑問に対し、真面目に答える気がない箕輪。額に青筋を浮かべながら伊吹は続ける。
「ふーん、あんたは特別ってわけ?」
「そうだねぇ、選ばれし人間ってやつなんじゃないかぁ?」
「……そう、腹の中で私を見下してるってわけね。龍園も嫌いだけど、あんたも嫌い」
伊吹がそう言いきると、二人の間に漂う空気が張りつめていく。
「あんたってさ、いじめられたことないだろ?」
伊吹は
「まぁ、思い当たることはないねぇ」
「じゃあ、私が初めての経験させてやるよ。いじめってやつをね」
「ふへっ……おもしれぇ。だが、するもんじゃねぇなぁ──子猫が
相手の感情を逆なでるためか、戦意を引き出すためか、お互いに挑発の応酬。
「今からヤるわけだけど、ルールはどうするの? 勝敗は相手が降参するまで? それとも行動不能?」
あとでケチをつけられてはたまらない。勝敗について正しい認識を共有したい伊吹はこの決闘の取り決めを
「んー?」
箕輪はのぞきこむように相手の背後へ目をやる。誰か部外者でもいるのか、それにつられた伊吹も顔だけを動かし、後ろを向いて視線を移した。
その瞬間、伊吹に悪寒が走る。何の根拠もないが、彼女は自分の直感に迷うことなく従い、素早くしゃがみこむ。同時に彼女の頭上を肌の
「なっ!?」
伊吹は考えるのを後にし、弾かれたように飛びのいて距離をとる。安全圏に逃れてから視線を前にやると、腕を振り抜いたままの箕輪が立っていた。
「……何してんの」
「ひひッ、これで終わると思ったんだけどねぇ」
伊吹の問いかけを無視して、そう
「何してるって聞いてんだよっ、この卑怯者!」
しばらくして、黙ってやり取りを見守っていた龍園が口を開く。
「おい、相手を卑怯だとのたまって、自らの正当性を主張するのは気分がよかったか?」
「あんたには聞いてないっ!」
伊吹の
「さて、箕輪を卑怯だと言っていたお前は色んな武術かじってるみてぇだが、それは卑怯じゃねぇのか? それとも素人相手には武術を使わないのか?」
「私の武術は私が努力して掴んだもの。どう使おうが卑怯と言われる筋合いはない」
「その通りだ。だが、それならさっきの不意打ちもお前の武術と同じもんだろ。ルールを決めてから闘う、なんていうお前の思い込みを利用した立派な戦術だ。間抜け
「…………アルベルトのときはそんな真似してなかった」
伊吹の言葉に龍園は呆れ顔で溜息をつく。
「それはただの演出だ。アルベルトとの闘いは誰から見ても真正面から奴を叩き潰したという実績がこちら側に必要だった。ただそれだけの話。ルールなんざ決めてない」
伊吹の反論を龍園はすぐさま
「結局、卑怯なんて価値観は人それぞれ。極論で言えば、人は生まれたときから法というルールによって、すでに有利な奴らに支配を押し付けられている卑怯な状態とも言えるだろ」
龍園は
「話が
静かに龍園が問いかける。
「勝ちたいんだろ? だったら、つまんねぇーことに
黙って耳を傾けていた伊吹は眉をしかめて酷く不満そうな顔を隠さない。彼女は龍園の言葉を理解はしていた。一理あるだろうと。だが、彼女の感情が嫌いな相手の言葉を素直に受け取るようなことをためらわせた。
伊吹の様子を黙って見ていた箕輪は軽薄な態度を変えずに提案を投げかける。
「駄々をこねる小娘だ。卑怯だと言うなら、お前さんに30秒やろう。30秒間、俺は手を出さない。そうだなぁ……俺の名前の頭文字をとって
箕輪は膝に両手をつき、中腰の姿勢で伊吹の顔を下から覗きこむように首を傾げる。
「Mタイム30秒だ。ひひッ、女子高生とMタイム。やらしい響きでおじさん興奮してきちゃったなぁ」
「……なめやがって」
相手にならないとでも考えているのか、箕輪の侮った言葉に伊吹は殺気立つ。
「おじさんが迷える君のすべてを受け止めてあげよう。なに、心配す──」
──ビュッ──
箕輪の言葉を中断するように伊吹の蹴りが頭部へ勢いよく襲いかかった。
箕輪は苦も無く、首を傾けて
「あれぇ? 卑怯なことは許せないんじゃなかったの?」
「うるさいっ!」
かまわず伊吹は二撃、三撃と移り、拳と蹴りのコンビネーションを流れるように打つ。体力の配分などお構いなしとでも言うように絶え間なく動き続ける。
「おいおい、もう少し考えて組み立てねぇと
容易に避けていく箕輪に30秒というチャンスタイムが
「あーあ、言わんこっちゃない」
伊吹の柔軟さとバネを兼ね備えた肉体から生み出される
「くッ、この化け物がッ」
自慢の蹴りが
「……さて、もうお遊びの時間は終わりだ」
歯を剥き出し、歪められた口元がつくり出した箕輪の不気味な笑み。猛烈な暴の気配を感じた伊吹は全身が硬直する。
しかし、
──ドォッゴォォ──
極限まで伸び切ったゴムが高い弾性力で鋭く弾かれるが
暴威を
「いっ……つぅ」
激しい痛みで言葉にならない伊吹は直撃した部分をそっと
「
伊吹は恐怖で足が
「さっきのやり合いで理解しただろぉ? 何だ……この力は……これはっもう終わりだ。絶っ対に助からない……ってねぇ」
箕輪はゆっくりと語る。
「そして、その顔が恐怖に引き
箕輪は薄笑い、何かを見透かすような嫌な笑みを浮かべた。
「どうする? 続けるか? おじさんが怖けりゃ、断ってもいいんだけどねぇ」
邪悪な笑みで
そして、もう一つの事実を彼女は理解する。アルベルトに勝ったのは隠されたテクニックなどではなく、単純に圧倒的な身体能力だった。伊吹が期待したものなどどこにもなかったのだ。
自分は何をしているのか。そんな思いが彼女の胸中を支配し、思わず呆れた笑い声が漏れる。
──それでも……
同時に惨めな自分に対しての怒りも胸の内からふつふつと湧き上がってきていた。こんな下品な暴力野郎に見下され、自らの身を小さく
少しでも賢い者であれば、戦いの結末を察し、媚びへつらいの表情を浮かべながら相手に向かって地に
だが、伊吹は怒りで無理矢理に本能を押さえつけ、自分の
「幼稚な暴力に、私は己を変えたりはしない」
自身に言い聞かせるように彼女はぼそりとつぶやく。深く息を吐き、全身の細胞に酸素を行き渡らせるよう新鮮な空気を取り込んだ彼女は力の入らない傷ついた腕をぶら下げ、身体の面を隠すように半身になって構える。
「幼稚な暴力……ねぇ。そもそも暴力に正当や不当、幼稚さなんてものはないだろうに。そんなこ──」
箕輪の言葉が終わる前に伊吹は動き出す。距離もつめずに彼女は無造作に足を突き出していた。突如、箕輪の目に映ったのは伊吹の靴。
奇をてらったのかもしれないが子供だましの類だ、箕輪はそう結論づける。動揺することなく、彼は飛んできた靴を片手で払った。が、間を置かずに靴の影から現れたのは肉薄する伊吹の姿だった。
靴を放ると同時に走り出していた彼女は重心を移動させて全身を傾けながら飛び込み、
伊吹は半身になったときに相手の視線から隠れた後ろ足の靴を脱ぎ、それを足で飛ばす事で相手の意識をそちらに向けさせた。そして、箕輪が靴を払った手の側へと放たれた彼女の蹴り。それは靴を払うことに使った手でガードすることができない。つまり、相手の意識をワンテンポ遅れさせ、同時に防御を難しくする彼女の戦術。
決まった、そう確信する伊吹。
──メキッ──
伊吹の足に箕輪の
彼女の決死の蹴りを、靴を弾いた手と反対側の手で
「ぐがぁッ」
身体の芯まで響く衝撃に思わず伊吹から
「悪くはなかったんだがなぁ。悲しいくらい圧倒的に足りないねぇ……力が。おじさんにとっちゃ、蚊に刺されたようなもんだ」
箕輪の声も遠くなり、痛みで意識が
彼女は止まらない。いや、止まれない。伊吹は本能に逆らう。自らの矜持を守り抜くために。
彼女は力を振り絞って走り出し、跳躍し、箕輪へと
「ぅあああっ!」
そんな伊吹の決意を
「必死……だねぇ」
──ゴギャッ──
全てを巻き上げ、破壊する暴風が荒れ狂う。
箕輪は地を震わすかのように踏み込むと同時に伊吹の
一瞬のうちに繰り出された箕輪の暴力に彼女は
「……ち……くしょう」
痛みと疲労によって失われていく意識の中、伊吹は涙を流していた。全てを投げうっても相手にかすり傷一つ付けられない。その悔しさが涙に変わっていく。
しかし、彼女は涙を流しながらも結んだままの唇にかすかな笑みを浮かべていた。何もできなかった無力感とともに、恐怖に対する己との闘いに打ち勝ったという確かな満足感も彼女の心の中に広がっていたからだ。
複雑な感情を胸に抱く伊吹は鳥が羽休めで翼をたたむように、美しく揃った長い
龍園がCクラスの女生徒を何人か呼び出し、動けなくなった伊吹を保健室へ運ぶよう指示を出す。伊吹の状態にやってきた女生徒たちは
「クク、酷い目に遭った奴を見て、自分はマシだと安心し、悦に浸り、ほくそ笑み、心の中で蔑む。実に人間らしい振る舞いだ」
笑みを浮かべてはいるが、どこか気分が優れないような雰囲気の龍園。
「言葉のわりに楽しんでいるようには見えないなぁ、龍園クン」
そんな彼に、肩を回しながら近づいてくる箕輪が冷やかすような口調でからかった。
「……ほっとけ。お前が気にすることじゃない」
龍園から笑みが消え、表情を失った顔つきになった。
「余計なお世話ってか? なら黙っておくとしよう」
「ああ、そうしろ」
もうここに用はないのか、出口へと龍園が歩き出す。箕輪も
「クラスで一人、逆らう馬鹿な奴の正体があんな小娘とはねぇ」
「正確には自分のプライドのためだろうがな。Cクラスに俺が必要なことくらいは何となく理解してる。心情的に納得してないだけだ」
龍園は時計を確認すると話を続ける。
「伊吹は喧嘩っ早くて口も悪く、おまけに素直じゃない。一見すると直情的な奴に見えるが、意外と冷静な部分も持ち合わせている」
今までの伊吹の行動からどういった性格なのか傾向を読み取っていく龍園。
「もし、あいつが石崎みたいに直情さしか持ち合わせていないような奴なら、教室での俺の宣言を聞いたその場ですでに喧嘩を売っていたはずだ。自分の腕にも自信があったみたいだしな」
少しだけ意地の悪さを感じさせるような笑みで龍園は言った。
「そぉかい。よくそんなこと考えるねぇ」
面倒さを隠さない口ぶりで箕輪は
「だが、賢くはねぇ。お前の暴力を目の当たりにしても挑んでくるあたりがな。自分のプライドに関わることとなると冷静さを失う。……が、今回の件でいくらか学んだはずだ」
そう言いながら龍園は足を早め、行き先を告げる
「まだ時間はある。図書館に向かうぞ。ひよりに会いにな」
閉館まで1時間を切っている放課後の図書館。現在ほとんど人のいない館内で一人の少女が静かに本のページをめくっていた。深窓の令嬢を思わせるような彼女は
しかし、その心地よい彼女の静寂を
扉が勢いよく開かれ、龍園と箕輪は図書館に足を踏み入れる。館内をしばらく探索した龍園は目当ての人物を見つけ出し、笑みを浮かべた。
「よぉ、ひより。随分と楽しそうじゃねぇか」
そばに寄って来るやいなや、本が積まれてる机の上に座る龍園。
それを横目で確認し、気づかれないように小さく溜息を吐きながらも椎名は応じる。
「龍園くんですか。はい、楽しかったです。先ほどまでは」
「クク、ご機嫌な返事で嬉しいぜ」
「龍園くん、ここで私語は禁止ですよ」
「気にするな。俺は気にしない」
椎名の少々とげのある言葉を気に
「あなたがここに来たということはCクラスの掌握が終わったんですね。私を除いて」
「ほぉー。わかるのか?」
「こう見えて、洞察力に優れているんです。私」
感情の乏しい表情でそう口にする椎名。その言葉に龍園が目を細める。
「この状況で自分を売り込むとは、中々したたかな女だな」
「私は決闘に参加しませんでしたから。それを見逃してもらうのと、今後も暴力的な争いごとは免除してもらうためです」
龍園の目をしっかりと見たまま椎名は答えた。
「肝もすわってるってわけか。……で、それ以外は俺の命令を聞くって解釈でいいんだな?」
「はい。争いごとは嫌いですが、この学校のシステムでは避けて通れないみたいなので。それに……」
椎名は言葉を切り、箕輪の方へちらりと視線を向ける。
「悪意が剥き出しの彼に何をされるか……わからないですから」
「悪意なんて酷いねぇ。野蛮なことは気が進まない
箕輪の心にもない言葉をじっと聞いていた椎名。
彼女は今まで目立った友人はおらず、本が友達だと言っても過言ではないほど、大半の時間を読書で過ごしてきた。したがって、暴力が蔓延るような世界とは無縁であり、あったとしても創作物の中で触れる程度でしかない。
だが、彼女は優れた洞察力で感じ取っていた。箕輪の
彼女は予感していた。少しでも反抗していれば、容易にその凶悪な
椎名は悲観的な思考の深みに
「まぁいい。特別扱いしてやる。その洞察力と、先日の小テストの結果で判明した学力の高さをこれからも発揮すればな」
「……はい」
彼女もまた伊吹と同様に納得しないまでも理解していた。この学校のシステムにおいて、Aクラスに上がるという目的のためにクラスがまとまるには龍園という
夕暮れ時の学校。時刻は18時に近いこともあり、部活動以外ではほとんど人がいなくなっている校舎。箕輪と龍園の二人の姿は屋上にあった。
「椎名クンには偽の友人を与えて、弱みにするんじゃなかったのか?」
箕輪の当然の疑問に龍園は間を入れずに答える。
「それをするにしても一度は個人的に会いに行かないと不自然だろ。俺の性格を考えて命令に反した奴を放置するなんて普通に考えればありえない。馬鹿じゃなきゃ何か裏があると察する。その状況で友人をあてがっても、不信感を抱くだけだ。そして、ひよりは洞察力が高い。おそらくはこの俺よりもな」
龍園の命令に逆らった状況を逆手にとって自分の能力を売り込む機転。Cクラスに不足している高い学力を有した生徒という自分の価値を理解している立ち回り。龍園といえど椎名ひよりを侮ることはできない。
「よって、その計画はひよりの洞察力の高さでお陀仏になってしまった。……が、逆にその洞察力の高さで手間が省けた。お前の異常性をちらつかせることなく理解してやがったからな。あとは俺の必要性についてもだ」
結果論ではあるが、自分の望んだとおりの状況に満足気な龍園。それを横目に箕輪は話を変える。
「さて、龍園クン。クラス内のことは終わったわけだが……これからはこの学園の本格的な戦いが始まるってぇことかい?」
「ああ。今まではCクラス内のことだから、お前に手加減させていたが、……他クラスを遠慮する必要はねぇ。必要な時には壊しても問題ない」
「ヒヒ……それは朗報だ」
笑って肩をすくめる箕輪。微笑の
しばしの沈黙が流れ、思い立ったように箕輪がそれを破る。
「他のクラスにお前のような奴がいれば、そう簡単にはいかないだろうよ。……まぁ、頑張んな」
言葉とは裏腹に心配している素振りなどまるで感じられない、他人事のようにどこを吹く風といった様子で、彼はチョコ菓子を食らうために
「やれるさ、俺とお前ならやってやれないことはねぇ」
優越感が
「その思い上がりを叩き潰すようなことが待ち構えているかもしれないなぁ?」
沈みゆく陽の光に手をかざし、握りつぶすように拳に力を加えながら龍園は不敵な笑みで告げる。
「その時は盤上をひっくり返してやればいい──その常軌を逸した
箕輪の暴力は容易に人間の生存本能を刺激する。それこそ常人であれば、ちらつかせただけで恐怖に身動きがとれなくなるほどに。龍園はそのことを身を以ってよく理解していたが、同時にその絶大な力に
箕輪勢一のステータス
クラス 1年C組
【学力】 C+
【知性】 C+
【判断力】 B
【身体能力】 A
【協調性】 D
モチベーションに大変影響するので、評価と感想をよろしければお願いします。
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Dクラス謀略編
4話
5月の末に中間テストを控えた生徒たちは夜な夜な寮で勉強に勤しんでいた。眠気と格闘しながら勉強漬けの夜も明け、朝日が東のほうから顔を出す。しばらく経つと、寮では学生たちが登校するためか、どやどやとした足音や挨拶を交わす声が聞こえ出し、にわかに騒がしさに包まれていた。1階のエントランスホールでは階段やエレベーターから降りて学校に向かう者たちで賑わっている。
そんな中、ホールの一角に設置されている大きなソファにどっかりと座る男がいた。箕輪勢一である。朝の忙しないときに一人だけ流れている時間が違うかのようにゆったりとしていた。
「誰、あいつ?」
「何あれ、やばくない?」
「マジでありえないんだけど」
ソファの背もたれに腕を回しながら体を預け、行儀悪く足を放り出し、クチャクチャと耳障りな音を立ててチョコ菓子を頬張る。その様子に、登校する生徒たちは怪訝な表情を浮かべ、チラチラと横目で見ながら、話題にしている本人のもとに届くか届かないかの声量で非難していた。
しかし、当の男は周りの声を意に介さず、泰然自若といった様子で
しばらくして始業時間も近づき、そんな男を気に留める余裕がなくなったのか、反応することなく生徒たちは忙しく学校に向かう。時間とともに1階のエントランスを通る生徒たちの数も少なくなっていった。
あらたにエレベーターが到着する。中から一人の男子生徒が出てきた。中肉中背の体格にブラウンの髪色で地味に顔立ちが整った男子生徒だった。名前は綾小路清隆。彼は焦ってもいい時間にもかかわらず、そんな色合いを感じさせない動きで寮の出口へ向かう。その途中、ソファで寛いでいる男が視界の隅に入った。
5月の初めに学校の新たな仕組みが判明して以来、綾小路が見た範囲ではあるが、どのクラスの生徒も例外なく私語や遅刻は気をつけるようになっていた。その現状を踏まえて、一時限目開始時刻が迫っているとは思えない男の行動に少しの疑問と興味を持った彼はわずかな時間迷った末に声をかける。
「あんた、このままだと遅刻するぞ」
声をかけられた箕輪は何の反応も示さず、手に持った菓子を黙々と食べていた。
無視されたことに若干傷つき、声をかけたことを後悔する綾小路。じっとしていも仕方がないのですぐに気を取り直し、出口に向かう。
「おい、名前は?」
箕輪が急に呼び止めた。綾小路は立ち去ろうとした動きを止めて、ゆっくりと相手の男に向き直る。
「綾小路だ」
「……ほぉ。クラスは?」
「Dクラスだ」
その返答に対して箕輪はあからさまに品性の欠ける
「ほぉー、そいつぁ災難だなぁ」
その相手の表情と言葉から、歴代史上最低クラスポイントである0ポイントを叩きだしたDクラスを
「確かに当分は苦しい生活を強いられるだろうが、まぁ何とかなるはずだ」
当たり障りのない他人事のような綾小路の返事。聞いていた男は含み笑いを浮かべて首を横に振りながら菓子のゴミをくしゃりと手で丸めポケットに突っ込む。
「そういう意味じゃ……ないんだけどねぇ」
自分の返事に対して、気のない励ましか、明らかな侮蔑かのどちらかの返答になると予想をしていた綾小路は予想外の言葉に困惑する。そして、情報が少なすぎると判断した彼はわずかな間を置いて問いかける。
「じゃあ、どういう意味なんだ?」
「……」
これ以上会話をする気がないのか、綾小路の言葉に反応せずにニヤついた表情で箕輪は虚空を黙って見つめていた。
しばらく様子を見ていた綾小路はこれ以上話が進展することは無さそうだと悟る。軽く溜息をつくと身をひるがえし改めて寮の出口へと向かった。
寮を出ると、穏やかな風を感じながら舗装された並木道を進んでいく。とくにやることがない綾小路は先ほどのやり取りについて考えてみる。Dクラスに所属していることを聞いた相手はそれを災難だと口にした。綾小路が汲み取った意味とは別の意味で。
しばらく思案していた彼だが、やはり情報が少なすぎると判断し、考えることを止めた。そして、綾小路はふとあることを思い出す。そういえば相手の名前とクラスについて聞くのを忘れていたと。
彼は軽く頭を掻き、自分の他者に対する無関心さと社交性の不足に自己嫌悪しながら、覇気のない足取りで校舎へと向かった。
ほとんどの生徒が登校し終え、授業開始前に友人同士で挨拶や軽く話をしている中、Cクラスの教室を大きな笑い声が響き渡る。
「ぎゃははは! 伊吹、お前大口叩いてたくせにボコボコじゃねぇーかっ!」
それ見たことかと大声で笑う石崎の目の先には、左腕を添え木で固定して首からぶら下げ、眉間に
「いってぇ! 何しやがるっ」
「あんた笑った、わたし蹴った。おっけー?」
「オッケーなわけねぇだろ! つーかその言い方なんなんだよ」
「あんた頭悪いから、これくらい噛み砕いて言わないと理解できないでしょ?」
綺麗に直撃してしまった
そんな彼を見て同情したのか、背中をポンポンと叩きながらなだめるアルベルト。
「
「俺はいつだって冷静だぜアルベルト」
目を血走らせて鼻息を荒くする石崎にその言葉の説得力はなかった。
外野から様子を見守っていた龍園はニヤリとした表情を浮かべ、横やりを入れる。
「ほぉ、アルベルトの言葉が理解できたのか? 勉強の甲斐があったな石崎」
「ちょっと龍園さ~ん、茶々入れないでくださいよぉ」
彼には逆らえないのか、それまでの怒りの形相がたちまち霧散した石崎はおねだりする犬のように龍園へと泣きついた。
石崎の姿に情けなさを感じた伊吹は鼻を鳴らす。
「ほんと、犬の
伊吹の誹謗を聞き逃さなかった石崎は頬をぴくぴくと引き
「伊吹ィ、吐いたら息は吸えんぞぉ」
「それ、ただの呼吸困難だから。正しく言うなら、吐いた唾は飲めないでしょ。……はぁー、あんたって国語の勉強も必要なの?」
大袈裟に肩をすくめて呆れたことをアピールする伊吹。石崎も意地になっているのか、攻撃的な姿勢を崩さない。
まだやりとりが続きそうな二人に対し、龍園は制止を促す。
「おい、痴話喧嘩もそこまでにしとけ」
「誰がっ!」
痴話喧嘩という言葉に反応した伊吹と石崎の言葉はハーモニーのように重なった。
しかし、次の瞬間ハッと正気に戻った石崎は思わず偉そうな突っ込みを龍園に挟んでしまったことを後悔する。石崎はチラッと様子をうかがう。龍園は気にする素振りもなく、薄い笑みを浮かべていた。
「クク、なんだ、否定する割には仲良いじゃねぇか」
からかうことをやめそうにない雰囲気の龍園に、溜息を吐いて否定することをあきらめる二人。
突如、ガラッと教室の戸が開かれる。教師が来たと思った石崎と伊吹は急いで席に戻ろうとするも、入ってきたのは品のないヘラヘラとした笑みでポケットに手を突っ込みながら歩いてくる箕輪であった。
その姿を目にした瞬間に腕の痛みが走った伊吹は怪我の原因である蹂躙劇を思い出して体が硬くなる。伊吹はあの特別棟での戦いで箕輪に言い訳の余地もなく捻じ伏せられたことを認めていた。しかし、彼女は心まで敗北したことは認めない。ここで認めてしまえば、心を折らず立ち向かうために費やした勇気と覚悟の意味が失われてしまうからだ。恐怖で動けなくなったら負け、そう自分に言い聞かせながら彼女は深呼吸をする。そして、こちらへと近づいてくる箕輪の正面に向いて立ち、臆することなくその目を見据える。
「随分とギリギリの登校ね。遅刻はクラスのポイントに響くんだから気を付ければ?」
伊吹の忠告を聞いているのか、いないのか、どちらとも言えないような態度で歩いてきた箕輪は目の前で立ち止まると彼女の顔から下の方へ視線を落とす。それに気づいた伊吹は我が意を得たとばかりに言葉を
「ほら、あんたのせいでこんな怪我になったんだけど?」
伊吹は努めて平静を装いながら、添え木で固定された腕を体の前に差し出して、その痛々しさを主張する。
その突き出された伊吹の腕から視線をはずした箕輪は
「よかったんじゃないの? いい経験ができて」
「この怪我がいい経験だって言うなら、あんたにも味わわせてあげたいところだけどね」
強い言葉とは裏腹に伊吹の足がかすかに震えているのを目にした箕輪は砕けた調子でお手上げというように両手を上げた。
「はぁー、懲りないねぇ。その涙ぐましい反骨心だけは認めてあげよう」
やれやれと上げた手を降ろすと箕輪は歩みを再開する。
殊勝な言葉が返ってくることを一ミリも期待していなかったとはいえ、伊吹は自分の強がりを見透かされたのも相まってか、不満気な表情を浮かべた。そして、横を通り過ぎた箕輪を目で追いながら彼女は問いかける。
「あんたの強さは異常。今まで見たことないくらいに。どうやったらそんな強くなるわけ?」
伊吹の疑問に後ろを振り返ることなく箕輪は立ち止まった。
「……言ったろ。俺の身体は特別製、要するに天性の才能ってやつよ。……まぁ、不自由でもあるがな」
最後の言葉は小さくて聞き取れなかったが、箕輪のどこか哀愁を感じられるような雰囲気に伊吹は今度こそ自分の問いに対して真剣に答えてくれた気がしていた。
「本当ならあんたみたいな奴とは金輪際関わりたくないところだけど、同じクラスだからそういうわけにもいかないし、その強さだけは認める。嫌いだけどね」
そう言うと伊吹は確かな足取りで、そのまま一度も振り向くことなく自分の席へと戻っていった。
「ヒヒ……別に認めてもらう必要はないんだけどねぇ」
表情を変えずにそれを見届けた箕輪は来た時と同じような歩みで龍園の席を横切る。すると何かあるのか彼が箕輪に声をかけてきた。箕輪は立ち止まり、それを黙って聞く。
「6月から動き始めるぞ」
「……クク、ようやくってわけか」
箕輪は笑みを深くしながら、そうつぶやいた。
Dクラスでは
「よぉ、ひより。俺に付き合え。放課後デートといこうじゃねえか」
相手の事情などお構いなし。陰りを見せることのない傍若無人な振る舞いの龍園が傍に寄って来ていた。
「……龍園君、誤解されるような言い方はやめてください」
「わざとだ。お前の反応を見て楽しんでるんだよ」
先ほどまでの椎名の楽しみは儚くも無残に散っていく。晴天の霹靂のような感情の移り変わりに思わず帰るための準備の手が止まっていたが、彼女は少しの時間で何となく事態を察して帰り支度を再開する。
「私の力が必要ということですか?」
椎名の察しの良さに、話が早いと機嫌を良くする龍園。
「そういうことだ。残念だが、これから1週間は図書館には行けないな」
「元々そういう約束ですから、仕方ありません」
不満をおくびにも出さない澄ました顔で椎名は答え、帰る準備が整うとすぐに龍園と連れ立って教室を出ていった。
同じ教室で遠くからその様子を眺めていた石崎は箕輪の席へと近づきながら意外そうにつぶやく。
「龍園さんのタイプって椎名みたいな女子だったんだ。まぁ、確かに可愛いけど」
間の抜けたような顔で思慮の欠けた発言をする石崎に少しの苛立ちを感じた伊吹は片手で雑に教科書を鞄に仕舞いながら、そちらに顔を向ける。
「そんなわけないでしょ。龍園がそんな平凡な恋愛脳してると思ってんの? まず間違いなく何かやらかす気だよ、あいつは」
「伊吹……お前妬いてんのか?」
「はぁっ!?」
石崎の見当違いな言葉にいつものクールな表情が崩れる伊吹。次第に心の中で広がる苛立ちが怒りに変化していく。
「冗談言わないで! 龍園は嫌いって言ってるでしょっ」
「でも、嫌よ嫌よも好きのうちって言うしなぁ」
「……ああ、わかった。あんた喧嘩売ってるんでしょ? 来なさいよ。いつでも叩き潰してあげるから」
「おぉ、なんだやる気か? いいぜ、CクラスNO.4決定戦だ」
「……ちょっと待って。NO.4って何?」
耳に入れたくないような単語が聞こえ、訝しげに伊吹は眉をひそめた。
「NO.1が龍園さんで、NO.2がアニキで、NO.3はアルベルト。で、空白のNO.4を決めようって話だ」
「そんな話聞いてないから! ていうか、そんなのいらないっ」
「今決めた話だぜ、伊吹」
もはや定番のじゃれ合いのようにしか見えない、いつもの二人のやり取りを困ったように見守るアルベルトは溜息をついた。すると、静かに椅子を引き、鞄を片手で背負った箕輪が立ち上がるとアルベルトへ近づき軽く肩を叩く。
「大変だなぁ、アルベルトくんは」
肩を叩かれたアルベルトは一瞬電気が走ったように身体をビクッとさせると怖々と振り向く。
それを見た箕輪は片側の口端を引き上げて笑う。
「ヒヒ……傷つくねぇ。そんなに怖がらなくてもいいじゃないの。俺は仲間には手を出さない
脅しともとれるような発言を置き土産に、石崎と伊吹が教室で事を起こさないようにアルベルトへと忠告すると、何食わぬ顔で箕輪は教室を去っていった。
その一連の流れを見ていた石崎と伊吹は気が削がれたのか、先ほどまでの空気は霧散していた。
「アニキって何考えてるかわからないから、時々怖いんだよな。なんか後ろから刺されるような気配がするっていうか、味方のはずなんだけど」
「
普段は表に出すことのない箕輪に対する石崎の感情の吐露に、アルベルトも同じ気持ちなのか同意する。
それを横で耳にしていた伊吹も内心では同意するが、負けん気の強さゆえに弱音のようなものを吐く気はなかった。
「まったく、あんたってビビりね」
「……正直、お前はすげぇよ。3日も休むくらいにアニキから酷い目にあったのに強気な態度とれるんだからよ。俺が同じ目にあったら無理だろうな」
石崎の突然の殊勝な物言いに対して、伊吹は調子が狂ったのか次の言葉が思い浮かばず、しばらくしてから鞄を持って教室の出口へと向かう。
「……戦場とかだと臆病者の方が生き残れる確率高いらしいし、別にいいんじゃないそれで」
そう言い残すと伊吹は帰っていった。
彼女の不器用な言葉に石崎とアルベルトが不思議そうに顔を見合わす。
次の瞬間には二人とも笑いあった。
「なんだよあれ、励ましてるつもりかよ。どんだけ会話下手なんだっつーの」
石崎は満更でもない笑みを浮かべていた。
「おい、あそこで何かやってるみたいだぞ」
ある日のお昼休み。校舎の1階に存在する食堂やカフェ、購買部につながる大広間のような広々とした廊下で大勢の人垣ができていた。
そこでは、人だかりの中心に置かれた円柱の台に乗って向かい合う二人の人間が相手を台から落とそうと押し合っている。いわゆる手押し相撲である。
「後ろの人が見えなくなるので、前の方で観覧する人は座って見てくださーい」
「参加料は1回1000ポイントで何度でも挑戦可能です。賞金はなんと100万ポイント! 勝てば1回の参加料が1000倍になって返ってきますよー」
「イベント期間は本日より1週間だけです! 是非この機会を逃すことなく、奮ってご参加くださーい」
「参加登録の受け付けはあちらでお願いしまーす」
イベントを開催しているスタッフの威勢の良い声が響き渡り、それを聞きつけた人たちが興味本位で続々と集まる。中間テストも終わって緊張の糸が緩まり、弛緩した空気が学校を漂っている中、こういう娯楽的なイベントは格好の話題提供となっているらしく男女問わず見世物として盛況さを見せていた。
その盛り上がりの隅の方で正反対の雰囲気を醸し出しているのは受付に座っている伊吹である。
「何で私がこんなことを……」
一人愚痴る伊吹に対して、それを聞きつけた椎名が申し訳なさそうに近づいてくる。
「すみません、伊吹さん。龍園くんから参加の受付は可愛いらしい女の子に限定するようにと言われていたので」
「私がそれに該当することに疑問があるんだけど」
「その通りよ、伊吹さん。あなたにしてはわかってるじゃない」
突然、伊吹と椎名の会話に割り込むようにして一人の女子が話に加わってきた。
伊吹に良い感情を持っていないことは傍目に見ても明らかな同じCクラスの少女、真鍋志保は腕を組みながら彼女に対して見下すように視線を投げる。
「伊吹さんはこの場に似合わないし、椎名さんももう少し見る目を養わないと自分の評価が下がっちゃうわよ」
それだけを言い捨てると真鍋は自分の持ち場へと戻っていった。
普段であれば感情の乏しい顔の椎名に困惑と悲しみの混ざり合った表情が浮かぶ。
「重ね重ね申し訳ありません、伊吹さん。私が巻き込んでしまったばかりに……」
「別にあんたのせいじゃない。元からあいつは私のことが嫌いなだけ。私を罵倒できるなら何でも食いつくダボハゼみたいなもの。気にしても仕方ないし、あんたが謝る必要はない。むしろ私が巻き込んだようなものでしょ」
真鍋の罵りの言葉に何ら
それを横目で窺っていた椎名は伊吹の返答に菩薩のような慈愛に満ちた穏やかな表情へと変わっていく。
「伊吹さんは優しい人ですね」
「……何でそうなるのよ。私は事実を言っただけ」
「それでも優しいです」
変わらない笑みのまま
渋々と何人かの受付を済ませると、ふと疑問が湧いてきた伊吹が椎名の方へと顔を向ける。
「そういえば、あんたさ──」
「ひより……と呼んでください」
伊吹の話を中断して、椎名は自分の名前を呼ぶようにお願いする。しかし、お願いというには
「いや、私は誰ともつるむ気ないんだけど」
「それにしては龍園くん達と仲が良さそうに見えますよ?」
「それは不可抗力っていうか──」
そう言いながら伊吹は椎名と視線を合わせる。すると悲哀に満ちた彼女の瞳から道端に捨てられた哀れな子犬を幻視させられた。
何とも言えなくなった伊吹は話を止めてからしばらくの間を置いて、頬をポリポリと掻き、息を吐く。
「……ひより。これでいいでしょ?」
「はい」
先ほどよりもわかりやすく嬉しそうな雰囲気の椎名に、この子の頑固さには勝てないだろうなとぼんやり感じていた伊吹は気を取り直して自分の疑問を続ける。
「で、さっきの続きなんだけど、龍園と放課後何してたの?」
「賭け試合にお付き合いして頂けそうな部活を見繕っていました」
「賭け試合?」
「はい。100万ポイントを賭けての試合を行ってくれるような部長さんが所属する強くて大所帯の武道系といくつかの運動系の部活を探していました。人数が多いと支給される部費が多いみたいですから賭けに乗ってくれる可能性も上がります」
「そんな賭けに部長の一存で部費出せるの?」
「部費の使い道は部長が決めていますから。ただ、部長個人が悪用できないように部活動専用のポイント端末があるみたいです。部費については生徒会の会計上の監査も入りますし、抜き打ちで部室や備品のチェックもありますから厳しいですね。今回の賭け試合はその部活動の競技で勝負しますし、投資活動の延長のような感じでポイント使用が認められました。実際に個人間での賭けごとはそこそこあるらしいです。今回のような大きなポイントを賭けて部に挑むような個人は初めてらしいですけど」
「へぇー。で、どんだけの部活が応じてくれたわけ?」
「2つだけです」
「てことは200万ポイントも稼いだってわけね」
「Cクラスの方々から毎月徴収しているものを合わせると現在のポイントは400万を超えています」
その額の大きさに呆れたような顔をした伊吹を不思議そうに見やる椎名。
「こちらが負けてしまった可能性は考えなかったのですか?」
「やったの箕輪でしょ? 負けるイメージが全然浮かばないんだけど」
「はい、箕輪さんです。武道系の部活ではアルベルトさんだと皆さん難色を示していましたが、箕輪さんには快く応じてくれました」
「まっ、見た感じだとアルベルトのほうが強そうだからねー。それで痛い目見たってわけか」
箕輪の体格を見て高を
「で、その噂のスーパー箕輪マンはあっちでも頑張ってるみたいだけど」
「はい。龍園くんも自信満々に箕輪さんが遅れをとることはないと豪語していましたから」
会話を終えると、期せずして同時に2人は活気のある戦いの場の方へと視線を向けていた。
男子4人組が連れ立って食堂へと向かっている途中に何やら賑わっている場所が見える。
「なになに? 楽しそうだな。何かやってんの」
「ちょっと行ってみようぜ」
最初に声をあげたのは楽天的で調子の良さそうなDクラスの池寛治。女の子が好きでイケメンが嫌いな男。
もう一人興味津々の男はDクラスの山内春樹。こちらも女の子好きで自分を大きく見せたがる虚言癖の男。
4人が近づくと、人だかりの中心には3つに分けられたグループがあり、1グループ二人の人間がそれぞれの台に乗って向かい合って押し合っている様子が窺えた。池は詳細が記載されている宣伝用の立て看板を見る。
「えーと、参加には1000ポイントで賞金は100万ポイントっ!?」
「へへっ、面白そうじゃねぇか」
その賞金の額の大きさに驚きを隠せない池。それを余所に不敵に笑う赤い髪色で短髪の男は須藤健。バスケ部に所属する183㎝の大柄な体格の持ち主。自身の高い身体能力に余程自身があるのか勝負に挑戦する気のようだ。
「手押し相撲か~。ここだけの話、おれ相撲やらないかってスカウトされたことあるんだぜ」
「それスカウトじゃなくて、ただの部活勧誘だろーが」
意味のわからない山内の自慢話に楽しそうに突っ込みを入れる池。3人が周りの雰囲気に当てられ、はしゃいでいる様子を黙って見守っていた残りの一人である綾小路は彼らの浮かれ具合に水を差すように忠告する。
「意気込むのはいいけど、お前らポイントは持ってるのか?」
現在のDクラスはクラスポイント0。したがって、毎月の一日に振り込まれるプライベートポイントも0ポイント。
無慈悲な現実を突きつけられた3人は仏に縋るような目で綾小路を見やる。
「頼む、綾小路。ポイント貸してくれ。すぐに倍にして返してやるからよ」
「頼むよー。友達だろ?」
「今度一緒に女の子連れて遊びに誘ってやるからさ」
何の保証もない3人の都合のいい言葉に呆れながらも綾小路は須藤を退学から救うためにプライベートポイントを使い果たしたので3人と同じように0ポイント。ない袖は振れないので正直に答える。
「悪いな。俺も0ポイントなんだ」
それを聞いた3人はすぐさま態度を翻し、何一つとして悪い点のない綾小路を蔑んだような目で見て悪態をつく。
「ちっ、使えねぇな」
「そんなんだからモテないんだぞ、綾小路」
「まったく、貸してるポイントさっさと返せよな」
自分のことは見事に棚に上げて何食わぬ顔の3人。しかも最後の一人は嘘をついてるというおまけつき。綾小路は
「なぁ、ポイント貸してくれるみたいだぞ」
その業務を行っている受付へ綾小路は指をさす。その指につられるように視線を移した3人は急いで受付へと駆け込んだ。挑戦する気もなく、自分には関係ないとばかりに離れたところで佇んでいた綾小路は3人の様子をしばらく傍観していた。すると、受付をしている池がこちらを向いて手招きをしていたので嫌な予感を抱きつつも綾小路はそちらへと歩を進める。
「何やってんだよ綾小路。お前も借りて参加するんだよ。そんで4人のうち誰か1人でも勝てば100万山分けなっ」
「いいじゃん、リスク分散ってやつだろ」
「俺は1人でやるから、お前ら3人でやっとけよ」
池の提案に山内は同意するも、拒否した須藤は3人を置いて参加者の列のほうへと消えていった。
「独り占めかよ」
「ちぇっ、須藤の奴ケチだよな」
須藤のことを当てにしていたのか池と山内の2人はブツブツと愚痴っている。人のことをとやかく言う資格もなく、まったく己を省みない姿勢に清々しさすら感じ始めて感覚が麻痺してきた綾小路は強制的に契約させられた借用書の写しを見ていた。
そこには、貸与が無利子で返済期限は契約した日から次の月の一日まで。期限までに返済できなかった場合は返済する義務が消滅し、代わりに貸主の質問に1回だけ真摯に誠実に答える義務が発生する。そして、回答した情報に瑕疵があると判断された場合は情報共有者に確認することができる、と書かれていた。
綾小路は返済の代わりの義務に怪しさを感じていたが、池と山内は質問に答えるだけで返済しなくていいことを喜んでいた。あの2人に付ける薬はないだろうなと綾小路は心の中で独り言ちると、堀北という同じクラスの女子から1000ポイント借りてさっさと返すことを心の中で決めた。
登録には氏名と生年月日、学年、クラス名、連絡先が必要だった。連絡先をむやみに教えることをためらった綾小路は記載しなくていいか受付に質問すると、賞金は後日に支払われるらしくそのために連絡先は必要だと言われたので仕方なく書くことにした。3人とも無事に登録も終わり、名前を呼ばれるまで周りで待機していた。
この手押し相撲のルールは人間1人が乗れるくらいの円柱の台に乗り、手のひら同士で押し合って相手を台から落とすと勝ち、自分が落ちると負け、相手の台に乗るのも負けというシンプルなもの。距離は手を伸ばせば相手の肩に届くくらいに近い。10秒につき一度は相手と自分の間に引かれている中央のラインを越えて腕を伸ばし攻撃をしなくてはいけない。30秒以降は手と腕の部分のみ掴み合いが解禁になる。
戦いの場は3か所あり、100万ポイントと50万ポイントの2か所は無制限に参加可能。残りの1か所は3000ポイントとかなり少ない賞金額になっているが、参加料は100ポイントとワンコイン相当でジュース代よりも安い額に設定されている。しかも、女子限定で不平が無いように対戦相手には女子を割り当てるなど積極的に女性の参加を促している。ただし、一人一回だけしか挑戦できないようだ。
「決めたぜ。俺は100万ポイントのやつにする」
「つーか、それしかないだろ。見ろよ、あの黒光りした巨体。ハーフらしいけど黒人の血が入ってるってことは身体能力は折り紙付きってことだろ。ポイントも半分になるしな。現に人気ねぇーじゃん」
「それより周り見ろ。女の子多いぜ。ここでかっこよく勝利して100万ゲットすれば群がってくるぞ」
「俺は年上でもスタイルが良くて可愛ければ構わないぜ」
池と山内は既に相手を決めて脳内では勝利しているのか、観覧している女子についての談義に花を咲かせている。
それを気にも留めずに綾小路は箕輪という男にどこか見覚えがあり、それを思い出そうとまじまじと見つめていた。そうこうしているうちに箕輪の相手として須藤が台の上に上がる。
「あー馬鹿っ、須藤のやつ俺たちの獲物を」
「自信あんなら見るからに強そうなアルベルトって奴にしろよ、意気地なし」
本人が目の前にいたら口が裂けても言えないようなことを平気で垂れ流す池と山内。
綾小路は100万ポイントを背負って勝負する箕輪に何かあると感じているのか、須藤との闘いを少し楽しみに見据える。
「へっ、こりゃ楽勝で100万ポイントゲットだな」
目の前の対戦相手である箕輪を間近で見て、勝利を確信する須藤は手のひらで拳を打ち鳴らすと威勢よく挑発した。
「片手だ」
「あ?」
「片手で十分だ。赤毛猿クン」
意地の悪い歪んだ笑みを浮かべ、箕輪はポケットに突っ込んでいた片側の手をゆらりと須藤の目の前にかざす。
「……上等だ、後悔すんなよ」
わかりやすく自分をコケにした相手の発言で腹に据えかねた須藤は鋭い眼光で箕輪を睨みつけた。
「ハンデついでに、妙な駆け引きはやめて……純粋な勝負をやらねぇか? お互いに30秒以降の純粋な力勝負で決着をつけよう。まぁ、怖けりゃ断ってもいいんだけどなぁ」
「いいぜ。こっちもそのほうが手っ取り早い」
箕輪の煽るような提案に対して、自分の勝利を疑わない須藤は即座に承諾の意を示す。
そのやり取りの後、無言で対峙する中、審判により勝負開始の合図がかかった。当初の約束通り2人に動きはない。
しかし、10秒に一度は中央のラインを越えて攻撃しなければならないので、須藤は形だけの攻撃のために相手へと手を伸ばす。
その瞬間、箕輪は並外れた腕力と全身のバネを使って風を切るように振り出した手を須藤の伸ばされた手へと合わせる。
バチィッと大きな音をさせると予想外の箕輪の行動に呆然としたままの須藤は勢いよく弾かれた自分の手に身体を引っ張られ、バランスを崩し後ろに倒れ込んでしまった。しばらく腕の痛みに動けなかった須藤は痛みが治まるとすぐさま箕輪に詰め寄り、胸倉をつかむ。
「てめぇ、どういうことだ!」
「んー、何のことかわからないなぁ」
「とぼけんじゃねぇ、勝負は30秒過ぎたらだろーがっ!」
「あれぇ~、10秒じゃなかったけぇ? 悪い、悪い……聞き間違いだぁー」
その言葉を聞き終えるや否や、会話は不要とばかりに素早く拳を振り上げた須藤は後ろからがっしりとその腕を掴まれる。
「やめとけ、須藤。こんな観衆の前で暴力振るったら言い訳できないぞ」
いつの間にか傍にいた綾小路は須藤の暴挙を阻止しながらも冷静に諭す。短い時間そのままで微動だにしなかった須藤は感情と理性の間で揺れ動きながらも状況を理解したらしく、掴まれた手を雑に振り払うと身を翻し、額に青筋を張りながら憤怒の形相で振り返る。
「お前覚えとけよ。そん時があればボッコボコにして顔面潰してやる」
「負け犬の何とやらは聞くに堪えんなぁー」
箕輪の挑発を内心で必死に無視した須藤は観衆の中を押しのけるように荒々しく立ち去っていった。束の間、場を静寂が支配する。しかし、次の相手が現れて勝負が始まるとすぐに元の喧騒を取り戻した。
少しの間佇んでいた綾小路も待機場所へと引き返す。そして、順調に試合が消化されて池と山内の2人も予想通りに瞬殺されるとついに綾小路の順番が回ってきた。先の須藤のトラブルがなかったかのように綾小路は平然たる態度で台の上へと上がっていく
「綾小路ー、頼んだぞー!」
「お前だけが頼りだっ」
2人の我欲に
「久しぶりだねぇ、綾小路クン。なんせ他クラスで唯一俺に話しかけた奇特な奴だったから覚えてるよ」
「そうだな。寮のエントランスホールで話をして以来だ。でも、あんたのクラスと名前は聞いてない」
綾小路は箕輪との寮での邂逅を思い出していた。
「そりゃ、失礼したねぇ。Cクラスの箕輪勢一だ」
どこかで聞き覚えのある名前に思考がそちらへと向かいそうな綾小路であったが、寮で会話したときに自分の質問に答えてくれなかったことを思い起こし、期待半分で箕輪に問いかける。
「あの時、あんたはDクラスにいることが災難と言っていたが、どういう意味だ」
「それはお前さんが自由に考えな」
考える暇もなく、2人の会話を中断するように勝負が開始された。すばやく思考を切り替えた綾小路はこの場で本気を出すつもりは毛ほどもなく、どういう風に自然な負けを装うかを考え始めていた。
綾小路が10秒以内に一度の攻撃をしてみるも、箕輪は須藤の時のように反応することはなく、30秒以降でケリをつけるつもりのようだ。時間が迫るにつれて知らず知らずのうちに緊迫した空気へと変わっていく。そして、30秒の制限時間を過ぎたとき、頬を深く歪めた凶暴な表情の箕輪と綾小路の視線がぶつかった。突如、全身の血が引いていくような不気味な冷たさが綾小路の背筋に走る。自分自身に向かって唸りをあげ襲い来る箕輪の凶悪な
「勝者、箕輪勢一」
戦いの余韻に浸ることなく、綾小路はすぐさま踵を返してその場を離れる。その様子を箕輪は顎をさすって笑みを浮かべながら、じっと見つめていた。
「何やってんだよぉ、綾小路~」
「せっかくのチャンスが台無しだ」
叶わぬ欲望に未練があるのか、落胆したような取り巻きの2人は
箕輪と視線が合ったときの感覚。まるでお互いの心の臓を握りあったような、いまだかつてないその感覚に一瞬ではあったが、綾小路は反射的に本気を出してしまった。おそらく箕輪はある程度まで彼の力を推し量ることができただろう。それに箕輪勢一という名前、同姓同名の別人ではなく綾小路の記憶に該当する人物であったなら、”ホワイトルーム”をもってしても規格外の怪物と呼べる存在ということになる。
綾小路はもう一度だけ人だかりの方へ視線を向ける。すると、不気味な笑みを浮かべた箕輪がこちら見つめていた。その得体の知れなさと彼が
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5話
放課後のカラオケルームのある一室。穏やかで品のあるBGMがオーディオ機器から流れる部屋に男女合わせて6人がソファに座っていた。その中において中心人物である龍園はテーブルの上に足を置きながらパラパラと紙をめくり、記載されている内容に目を通す。
「なかなか情報が集まったようだな」
「そうですね。特に女の子は予想よりも多かったですよ」
予定通りといった様子で満足気な龍園の言葉に返答した椎名はほんの少しだけ意外そうな表情をしていた。
「そうでなきゃ困る。そのために女子限定で赤字覚悟のポイント設定にしてやったんだからな」
2人の会話は先日の手押し相撲のイベントについてであった。お昼休みに1週間開催されたその興行は最終日まで盛況さに陰りを見せることはなく、無事に終了。女子限定の賞金3000ポイントの方では参加料の採算ラインを大きく割ってしまったものの、それは元から織り込み済みであり、賞金50万ポイントと100万ポイントの参加料を合わせると全体の収益では10万ポイント強の黒字となっていた。この催しのある部分について納得のいっていない石崎は二人の会話に割り込む。
「龍園さん、なんで女子だけ100ポイントで参加できるやつがあるんスか? 男女差別ってやつですよ」
「……そんなのは人を集めるために決まってんだろ。100万ポイントと50万ポイントの相手は箕輪とアルベルト。男子相手に挑戦する女子はそんなにいねぇ。だから特別に女子だけチャンスイベントを用意してやった。100ポイントなんざ、その日ジュース1本我慢すれば捻出できる。そのうえ対戦相手は同じ女子。100ポイントで3000ポイントが手に入るならお得だ、やってもそれほどの損はない。そして、女子が集まれば男子は勝手に集まってくる。それが悲しい男の
女という光に
「たしかに、女子がやってる周りでやたらと大勢の男子が騒いでた。そういえば、石崎なんか地面に手を突いて見てたっけ? 何を盗み見ようとしてたんだか……あー考えるだけで鳥肌が立つ」
「ちょっ馬鹿、お前。俺はだなぁ……あれだ、周りに危ないものが落ちてないか確認するために奉仕の心で
ケダモノを見るような軽蔑の眼差しを向ける伊吹に、石崎はチラチラと同席している椎名を
「で、今回のイベントはその情報が目的だったんだろ?」
「ああ、ポイントはおまけ程度。情報はどんな形で役に立つかわからないからな。手に入れられるときに手に入れる。入学したての警戒心の薄いこの時期だからこそやりやすい。これからクラス間での競争が激しくなると情報の入手は難しくなるはずだ。それに交流のない上級生の情報は貴重だしな」
箕輪の確認に同意をする龍園。それを聞き終えた箕輪はカロリー補給のために大皿の上の大きなピザの切り身を3枚重ねて豪快に食らう。アルベルトはテーブルの上を一瞥し、置かれている料理の品数が少なくなっていると判断して部屋に備わっている受話器を手に取り、箕輪のために甲斐甲斐しく注文を追加した。小腹が空いた石崎もそれに便乗する。しばらくしてリストをチェックし終えた龍園はテーブルの上の飲み物に手を出しながら、ある程度砕けた雰囲気でお互いに接している椎名と伊吹の様子を見て、距離が縮まっていることを感じ、それとなく伊吹に水を向ける。
「クク、それにしても意外だ。素直に伊吹がこの場に来るとは思わなかったぜ」
「……私だって好きで来てるわけじゃない。ひよりがどうしてもって言うから……」
「そうか。それは仲が良くて何よりだ」
知らぬ間に机をトントンと指で叩いていた伊吹は上から目線の龍園の言葉に内心で何様だと苛立つ。しかし、人を見下してからかうことが生き甲斐のような龍園という男に対して怒ったところで何にもならないどころか、口を開けた雛鳥に餌をやるようなものだと思い直した彼女は反応せずに鼻を鳴らすと黙り込んだ。
それを最後に室内には沈黙が降り、少しだけ
「そういやぁ、来月期末試験だよなぁ。……また金田と勉強会かよ」
石崎はガックリと項垂れていたが、しばらくすると心境の変化でもあったのか急に立ち上がる。
「まっ、それが終わった後は夏休みに学校がお楽しみのバカンス連れて行ってくれるみたいだし、やるぜ俺はっ!」
落ち込んだかと思えば、意気込んだりと忙しのない石崎。そんな彼に対し、どうせ水着姿の女子を頭に思い浮かべているのだろうと呆れた顔をしている伊吹はふと4月にあった屋内のプール授業を水着から連想し、そのときに箕輪が見学していたことを思い出していた。
「ねぇ、あんたさ、プールの授業見学してたけど、もしかして……いや、ないとは思うけど、まさか泳ぐの苦手?」
ようやく相手の弱みを見つけたと意地の悪い期待に胸を膨らませて伊吹はかみついてきた。特別棟での戦い以降、ことあるごとに突っかかってくる彼女を
「得意か、得意じゃないかと言えば、得意じゃないねぇ。水に対して筋肉と脂肪の比重は1.1と0.9だ。極端に体脂肪率が低く、筋骨の密度と質が違う俺は常人よりも遥かに重い。当然浮きにくい。……だが、泳げないわけじゃねぇ。泳ぐ行為そのものが浮力を生むからだ。単に水泳に向かないってだけの話よ」
「体育の着替えで見たんですけど、アニキの
「
石崎とアルベルトは出会った当初の箕輪の怖さも随分と薄らいで、男として強いものに対する
「ご苦労。今日はこれでお開きだ。これから手始めにDクラスをヤる。いい働きを期待してるぜ」
そう告げる龍園の眼には自分の未来における企みの成功がありありと見えていた。
「かんぱーい!」
ささやかな宴の始まりを告げる音頭とともに、なみなみとジュースが注がれたグラスをそれぞれお互いに軽く打ち鳴らす。
テーブルクロスで飾り付けられた可愛らしい丸テーブルの上には色鮮やかなグミや一口サイズのチョコレート、食欲を刺激する狐色の焼き菓子などが彩るように広げられていた。
「美味しいー!」
そのうちの1つを手に取って口に放り込むと、舌に広がる甘みに思わず頬に手を当てながら満足感をにじませる女の子がひとり。その女の子の名前は軽井沢恵。ハイトーンのミルクベージュ色の髪をポニーテールで高くまとめた可愛らしい外見だが、恋愛に疎い者にとっては近づき難いギャルを彷彿とさせる人物である。
「久しぶりだよねー。こうやってお菓子食べるの」
「うちのクラスどん底だし、ホント勘弁してって感じ」
4月までは当然の日常であったものが、5月以降は贅沢な
「でもさ、ラッキーだったよね、あのイベント。おかげで臨時のポイントが手に入っちゃった」
思いがけない幸運を手に入れた喜びを思い出し、声を弾ませるのは佐藤摩耶。ピンクベージュの長い髪の女の子。
寮の一室で開かれた女子会を楽しんでいる4人は運動が得意というわけもでないのに、先日のCクラスが開催した手押し相撲のイベントで偶然にも全員ポイントを勝ち取っていた。
「あれ開催したのCクラスだよね? あのクラスあんまりいい噂は聞かなかったからさ、ポイントもらえるにしてもすぐにもらえないかもって思ってた。支払い期日とか書いてなかったし。でも、すぐに連絡きてポイントもらえたからイメージ変わっちゃったな」
普段から素行の悪い不良が何か善行を行うと、途端に悪い印象は覆り、良い印象が強まるような心理現象をハロー効果によるゲイン効果と言う。それと同じものを松下はCクラスに感じているみたいだった。
「女子に対しての扱いもわかってるみたいだし、ホントCクラス様様」
松下の意見に調子を合わせ、うんうんと頷く篠原。女子だけ特別に設定された参加料100ポイントで賞金3000ポイントの獲得機会。単純に考えて賞金に対する参加料の比を比較すれば、50万ポイントと100万ポイントのほうが遥かにお得ではあるが、参加料の手軽さと対戦相手の難易度を考えると特にポイントのない者にとってはメリットがあった。
「でも大丈夫かな? ポイント借りちゃったけど、返さなくて」
良心の
「大丈夫だって。質問に答えるだけで返さなくていいんだから。別に聞かれても困ることなんてないしー」
実のところ軽井沢には過去に苦い経験があり、聞かれると困ることがあるにはあった。しかし、この学校に彼女の過去を知る者が存在しないことはある程度確認済み。現在、彼氏持ちの順風満帆な学校生活を送っている軽井沢は自分の輝かしい新生活にそんな不安は相応しくないと安易に切り捨てた。
「まぁ、大丈夫なんじゃないかな。学校もそこまで酷いことは許さないでしょ?」
「だよねー。あっ、でもスリーサイズとか聞かれたらどうする?」
「ソッコー通報で警察に連れてってもらう」
「アハハ、うちのクラスの平田くん以外の男子とかだったらマジでそれ以上のことやりそー」
「プールの授業の時キモかったもんねー」
先ほどの心配事なんてどこ吹く風と楽しそうにはしゃぐ3人を目にした佐藤は硬くなっていた表情を緩ませ、その輪に加わる。
「それよりも掲示板のこのイケメンランキングってさ……」
様々な要因が重なり、合理的でない認識や判断を下してしまう認知心理学の概念を認知バイアスと呼ぶ。
その中の1つであるリスキーシフトとは集団の中で極端な言動が注目されやすくなるという特性によって、リスクの高い意思決定に加担してしまう心理のことだ。
わかりやすい例を挙げるとするなら、誰でも一度は耳にしたことのあるフレーズ『赤信号、みんなで渡れば怖くない』。
彼女たちのリスク選択がそれに該当するかは現時点で評価できない。しかしながら、それほど遠くない未来でその選択の是非が問われるであろうことは想像に難しくなかった。そして、彼女たちは笑う。無意識領域の片隅で息づいている不安を無自覚に振り払うように。彼女たちの
放課後の特別棟。築10年目とは思えないほど管理が行き届いているその施設は現在の時間帯により、全くひとけのない場所へとなっている。そこにはまるで人が寄り付くことのない廃墟のような薄気味悪い静けさだけが広がっていた。そんな校舎の3階の廊下に待ち人でもいるのか、ポツンと突っ立ている1人の男がいた。Dクラスの須藤健だ。
「あいつら……人を呼び出しておいて、どこほっつき歩いてんだっ!」
同じバスケ部所属であるCクラスの小宮と近藤にこの場所へと呼び出された須藤。部活の練習も終わり、さっさと帰宅して休息をとりたい彼は傍に誰かがいれば掴みかかりかねないほどの怒りをにじませた形相を隠そうともしない。
これが聖人君子のような人物のことであれば周りに恨まれることもなく祝福されただろうが、須藤は正反対の
だから須藤は想像していなかった、今から己の身に降りかかることを。彼は考えていなかった、その身に凶刃を突き立てる存在を。
しばらくしてカツン、カツンと廊下を歩く音が響く。ようやく来たかと須藤が振り向くと、廊下の先には揺れ動く人影が見える。窓から差し込む陽の光の
「誰かと思ったら、インチキ糞野郎じゃねぇか。小宮と近藤はどうした」
「……ひひっ……代理だ。おじさん、2人に頼まれちゃってねぇ~」
「チッ、ビビりやがって根性なしどもが。そんで……お前が代わりにボコられにきたのか?」
須藤は肩から引っかけるように担いでいたボストンバッグを床に置くと、バシンッと大きな音を鳴らして、
しかし、全く揺らぐことのない様子の箕輪を見るに、彼の威嚇はそれほどの効果を上げることはなかった。
「クク……芸達者な猿だ。なかなか面白い冗談だったぜぇ?」
「あ? 冗談で済むうちにさっさと土下座しろ。こっちは部活で疲れてんだ。それで手を打ってやる」
挑発的な箕輪に対して須藤は火を噴くような鋭い眼光を放つ。
「ふへっ、喧嘩自慢は伊達じゃないみたいだねぇ。そうやって威嚇して避けてきたわけだ、喧嘩を」
「……てめぇ、もう一度言ってみろよオイ!」
今すぐに飛びかかってきてもおかしくない様子の須藤。それを意に介さず、箕輪は彼の周りをゆっくりと歩き始めた。
「ここがどういう場所かわかるか?」
「は?」
「他に誰もいない、監視カメラもない、何が起こってもそれを認識する奴はいねぇ。あれだ、よく言うだろ? 誰もいない森の中で木が倒れたら音はするのかってな」
「……何が言いてぇんだ?」
「この場所を指定して呼び出されたことの意味も考えず、そこにのこのことやってくる人間は2種類しかいねぇ。敵地で
歩みを止めた箕輪はポキポキと首を鳴らしながら、好戦的な笑みを浮かべる。そんな相手を見据える須藤は話を半分も理解できていなかったが、無事に帰す気がないことは張りつめた空気から察していた。そして、須藤は自分が辛うじて話の中で拾った『弱者』、『強者』、『どっち』という3つのワードから問いかけに対して返答する。
「当然、強者に決まってんだろっ!」
彼はそう言い捨てると、バスケで鍛えられた脚で床を蹴りつけて相手との距離を一気に潰し、間髪いれずに殴りかかった。箕輪は顔面に向かってくる拳の軌道を容易く読み、躱しながら相手の振り抜かれた腕と自分の腕を交差させると引っかけるように組み合う。
「力比べと行こうかぁ」
ニタニタと下卑た表情で挑発する箕輪。自慢の拳を躱された須藤は己の腕と
「え?」
まるで
骨がたわみ、息が止まる。
衝撃でほんの一瞬だけ気を失っていた須藤が意識を取り戻して目を開けると、そこには校舎の天井が広がっていた。自分の背に床の硬い感触を感じながら須藤はありえないはずの事態に何が起こったのか理解が追いつかない。そんな彼を見下ろしながら、箕輪は余裕の笑みを浮かべる。
「さっきのお前の答えな……残念ながら外れだ。お前は頭の足らない弱者ってぇわけよ」
負ける要素なんて何もない、いつも通り自分が勝って終わり。そうどこかで楽観的に考えていた須藤の頭の中で箕輪の言葉が虚しくも
「おいどうした、ボコボコにして顔面潰すんじゃなかったのか?」
「ぐっ、うるせぇ……勝負は……こっからだ」
目の前でニタリと
「おらぁっ!」
壁を支えに立ち上がり、息を整えた須藤は力の入らない足に鞭打って、
「ヒヒッ、どうしたぁ? それで精一杯か?」
狂気渦巻く眼で須藤を覗き込む箕輪。
「……な、何なんだよ……お前……」
人を笑って殺す、そんな残虐性を張り付けた表情の箕輪に須藤の中で得体の知れない恐怖心が腹の底からこみ上げてくる。
「クク……理解しただろぉ? 相手の力量を測り違えたってなぁ。だが悲観することはねぇ……俺と向かい合った時点で誰であっても
動揺を抑えられず、身体に力が入らない須藤。致命的な隙を見せる彼を容赦などするはずもなく、箕輪は無造作に相手の胸倉をむんずと鷲掴む。そして、ミチッ、ギチッと異音が聞こえてくるほど握り込まれた拳を振り上げ、一気にその凶悪なエネルギーを解き放った。
──メッキィィィ──
空気を切り裂き、無慈悲に対象物を粉砕する
意識が消し飛びかねない程の一撃で須藤は回転しながら床へと滑るように倒れ込み、勢いよく壁に激突。そして、身じろぎ一つすることもなく、冷たい床にダラリと力なく沈んでしまった。周辺には重苦しい圧迫感を伴った静寂が舞い戻る。
しばらく様子を窺っていた箕輪はゆらりと彼が倒れている場所へ近づくと相手の腹を軽く蹴りつける。
「ゥブッ」
計画に支障が出ない範囲でやれと龍園に念押しされていることもあり、須藤の意識と呼吸を手荒く確認した箕輪は独り言のように語り始めた。
「今頃、お前を罠に嵌めた奴らは寮で好きなおやつでも食いながら、ゆっくりと思い思いに
ポケットから携帯を出した箕輪は仰向けになるよう須藤を蹴り転がすと写真を撮り始めた。無機質なシャッター音が廊下に鳴り響く。
「いい顔だねぇ。鼻から血を吹き出し、歯が欠けた間抜け面だ」
気は済んだようで携帯を仕舞うと、箕輪は話を続けた。
「この世にはなぁ、善意で満たされた白い世界と悪意が
箕輪はポケットに手を突っ込み、もう用はないと背を向ける。
「今回はその愚かさの
それだけを言い残すといやに響く靴音とともに彼の姿は消えていった。
「……どうすれば……いいの……?」
今日この時間、この場所は彼女にとって最悪のタイミングだった。彼女の名前は佐倉愛理。
大人しく引っ込み思案、人とのコミュニケーションが苦手でDクラスでも目立たない存在。そんな彼女がなぜ放課後の特別棟にいるのか。それは趣味である自撮りを行うために、ひと気のない良さげな撮影ポイントを探していたからだ。
そして、場所探しに夢中になっているときに不運にも争いの場面に遭遇してしまった。そこには顔を血塗れにしたクラスメイトである須藤が倒れていて、傍には拳に血を
しかし、彼女は己の中の恐怖とは裏腹にその情景をカメラに収めるべく無音でシャッターを切る。いくらか撮影した後に我に返った佐倉は何をやっているんだと自問自答をしつつも混乱で思考がまとまらない。そうこうしているうちに例の男が事を済ませたのか、彼女のほうへと近づいてきていた。佐倉が考えなしに隠れていた場所は鍵で施錠された扉に囲まれている袋小路。男の足音が近づくにつれて心臓の鼓動が激しくなり、全身でその拍動を感じ取れるほどの絶体絶命の状況。その中で彼女の下した選択は視界からはずれるようにできるだけ姿勢を低くし、目一杯壁に身体を張り付かせて壁になりきることであった。
際立った一部の身体的特徴が壁に擬態することを阻んでいたが、それについて考えることを諦めた彼女は自分が壁であると一生懸命に心の中で何度も念じるほかに選択肢はない。時間の流れが非常に遅く感じられるほど張りつめた空気が漂う。そんな中で彼女の祈りが届いたのか、何事もなく男は階段を下りていき、気配は遠ざかっていった。
それを見届けて安心した佐倉は壁を背に力の抜けた腰を下ろす。しばらくして、身体を動かせるようになった佐倉は
「
口を開けたまま茫然自失といった様子の佐倉のほうへ壁にもたれて待ち受けていた男は静かに歩み寄ってくる。
「あれで隠れてやり過ごしたつもりか? 短い時間だったなぁ、良い夢は」
恐怖で思うように体が動かない佐倉はぎこちなく後ずさり、下ってきた階段に引っかかるとそのまま尻もちをついた。男は傍まで来るとしゃがみ込み、佐倉の顔を覗き込むように視線を合わせる。
「こんなとこで何やってたんだ? ひとけのないところでウロチョロしちゃあいけないよって母ちゃんや父ちゃんに教わらなかったのかぁ?」
ただでさえ人とのコミュニケーションが苦手な佐倉は威圧感を発する男の言葉に反応できるわけもなく、無言で顔を下向けながら身を縮こませる。そんな彼女にどうするかと頭をポリポリと掻く男は名案でも思い付いたのかニヤリとしながら、相手の髪を掴み顔を無理矢理上げさせる。そして、
──パァッン──
場に似つかわしくない乾いた音が廊下に響いた。頬をはたかれた衝撃で佐倉の視界は揺れながらチカチカと明滅し、頭の中は真っ白になる。しだいに状況を理解していった彼女は自分が感じた物理的な痛みよりも頬を平手で張られたという事実に何倍もの精神的なショックを受け、それが頭の中を瞬時に駆け巡った。目じりにたまり始めた涙は表面張力のはたらきを上回って決壊すると後から後からとめどなく溢れてくる。
「携帯と学生証、それからデジカメを渡せ」
無言で震えながら手渡された佐倉の私物を男が確認していく。
「Dクラス、佐倉愛理。携帯に写真はねぇな。カメラは……何だぁ? ほとんど自分の写真じゃねぇか。こんなナルシスト初めてだぜ。 ひひ、そりゃ何もせず逃げるわなぁ。なんせ自分の身がいちばん大事な、自分大好き人間なんだからよぉ」
箕輪の心無い言葉に我慢していた
「……ちっ、余計なもん何枚か撮ってやがるな。手間かけさせやがって」
男はデータが保存されているデジカメのSDカードを抜きだして人外の握力でそれを握りつぶした。
そして、粉々になったSDカードの残骸を握りしめ、彼女の頭上にかざすと振りかけるように手のひらを開く。
「おい小娘、覚えときな。お前みたいな一人もんがひとけのないところを興味本位で散策するもんじゃねぇ。今日は時間がないから見逃すが、次に同じことがあれば容赦しないぜぇ、俺は」
そう言って彼女を脅した男は学生証と携帯を離れたところに放り投げ、デジカメは足元に落としてからガンッと思い切り踏みつけた。彼女が高いポイントで購入した大事なカメラが砕け散る。
「散らばってるのはお前のゴミだ。しっかり掃除してから帰るんだぞぉ―」
男の姿は消え、あたりに虚しく響くのは佐倉の嗚咽と苦しみで
誰にでも一度は経験がある休み明けの憂鬱な朝。そんなことは知らないとばかりにDクラスではいつにも増して浮足立ち、騒がしかった。その理由は教室に入ってきた須藤の痛々しい姿を登校しているクラスメイトの多くが目にしたからだ。彼の顔は大きく腫れ上がり、鼻にはギプスのようなものが固定されている。
「何があったんだ?」
「喧嘩でもしたんだろ。自業自得だ」
「どしたんだろ? 怖いよね」
「クラスに迷惑かけんなよ」
クラスメイトのこそこそと囁くような話声を無視し、須藤は自分の席へ着席すると黙って俯いていた。そんな様子を見ていた好青年でクラスの中心人物でもある平田洋介は心配な面持ちで須藤に何があったのかを聞くために彼の席へと近づいていく。しかし、その行動は乱入してきた他クラスの生徒によって中断されることになる。
「おい、須藤はいるか?」
「おっ、元気そうじゃねぇか須藤」
Cクラスの小宮と近藤がDクラスへと足を踏み入れる。
「おい、お前ら勝手に教室入んなよな」
他クラスの生徒が無断で入ってくることを良く思わなかった池は2人に対して咎めるが、小宮と近藤はそれを無視して須藤の傍へと寄っていく。そして、周囲に聞こえないように近藤が須藤へ耳打ちをする。
「特別棟ではお疲れ様だったな。レギュラーに抜擢されたお前へのお祝いだ。楽しんでくれただろ? それと写真な、傑作だったぜ。鼻垂れのアホ面なガキみたいでよ、腹が
黙って聞いている須藤の身体が小刻みに震える。それは火山噴火の前兆現象として見られる地表の揺れのように見えた。
「で、提案なんだけど、あの間抜けな写真を全校生徒に配ろうと思うんだ。もちろん名前もちゃんと書いてな。やっぱ面白いことはみんなで共有しないと。お前もそう思うだろ、須藤」
──ブチッ
頭の中で何かが切れた音がして視界が赤く染まった須藤は遠くに平田の声が聞こえたような気がしていた。
しばらくして彼が正気に戻ると、周りの机や椅子はひっくり返っていて、その中で近藤は鼻血を出しながら倒れている。
「……やっちまったなぁ、須藤っ! 言い逃れはできないぜ。教室のカメラでばっちり撮られてんだからよ」
自分の血を
「少し待ってくれないか近藤君。君が須藤君に殴られたのはDクラスの一員として謝るよ。けど、君にも何か原因があるんじゃないかな?」
「原因って何だよ、平田。わかってんのは須藤が俺に暴力を振るったっていう事実だけだぜ」
「須藤君が手を出したことは悪いと思ってる。でも、喧嘩というものは何かが対立して起こるものだよ。近藤君に全く否がないとは言えないんじゃないかと思う」
「何言ってんだ、これは喧嘩じゃねぇ。一方的な暴行だ。俺は絶対に許さねぇからな」
平田と近藤の話し合いは平行線をたどり、交わる気配は全くない。緊迫した空気がDクラスを包んでいく。それを少しでも和らげようとDクラスで男女関係なく憧れの存在である
「近藤くん、今回のことは大目に見てもらえないかな? 須藤くん、今朝からずっと辛そうにしてて虫の居所が悪かったと思うの」
「……いくら櫛田の頼みでもそれは聞けないな。まぁ、お前が俺の彼女になるなら考えないでもないぜ」
そんな近藤の理不尽な交換条件に対し、櫛田に想いを寄せる池は怒りを露わにする。
「お前っ、調子に乗りすぎだろ! そんなの櫛田ちゃんが飲むわけないだろーがっ」
「雑魚は黙っとけって」
一日を楽しく始めるための朝が混迷を極めることになったDクラス。収拾のつかない雰囲気で教室内のざわめきが頂点に達しようかというとき、バンっと叩かれる音が響いた。一気に静まり返る教室。その音の出所は教室の扉に肘をつき寄りかかる箕輪であった。
「お前ら何チンタラしてんだ? さっさと戻れ」
「箕輪さん……」
「わかりました」
小宮と近藤がDクラスからすごすごと退散していくと、去り際に箕輪がニタリと笑みを浮かべ、
「うちのもんが失礼したねぇ」
それだけを言うと扉を閉めて、帰っていった。
急速に事態が鎮静化されて波打つように沈黙が広がっていくが、それも束の間でまた元の騒々しさを取り戻す。
そんな朝の出来事を露程も知らない綾小路は教室の後ろ側の扉を開けて、まっすぐに自分の席へ向かい、座る。
いつも以上の騒がしさと、散らかっている机と椅子を片付けるクラスメイトを
「なぁ堀北、何かあったのか?」
「本当にあなたは呑気ね。……今朝、須藤くんがCクラスの生徒に暴力を振るってしまったのよ。遅かれ早かれ起こることだとは思っていたけれど」
綾小路の隣人である
その彼女に現状の説明を受けた綾小路は特に驚きもせず、返事をする。
「そうか」
「それだけ? いくらあなたに会話をする能力がないからといって、あまりにもお粗末すぎる返答ね」
「情報が無さ過ぎてな……それに、向こうの出方次第だろ? 結論が出ないうちにCクラスを刺激するような行動は控えるべきだろうし、須藤にしても話をしてくれる雰囲気じゃなさそうだ。こっちからアクションを起こせることはないな」
「……それもそうね」
綾小路の言い分に納得した堀北は少し不機嫌そうになりながら、自分の愛読書に目を落とし、それ以降は黙り込んでいた。
数分後、教室へと入ってきたのは、背中の中ほどまである長い髪をポニーテールにまとめた女性だった。つり目がちで鼻梁は細長く、整った顔立ちが冷ややかな印象を際立てている。Dクラスの担任教師である
「まったく、今年の1年生は元気がいいみたいだな」
そう独り言ちると茶柱は教卓に腕を突きながら、生徒たちを見渡す。
「これより朝のホームルームを始める」
今朝のトラブルなど何も無かったように無慈悲に日常が流れ始めた。
評価、感想は作者の活力となりますので宜しければお願いします。
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6話
Cクラスの小宮、近藤とDクラスの須藤の間で起きた
その期待が現実になることを待ち望んでいる生徒たちの人数分の声と熱が合わさり、教室内は殺気立っていると言っても差し
「おはよう諸君、今日はいつにも増して落ち着かない様子だな」
ホームルーム開始の合図である鐘の音とともに、担任である茶柱が入室してきた。
「佐枝ちゃん先生! 俺たち今月も0ポイントだったんですか? 朝チェックしても振り込まれてなかったんですけど!」
「俺たち頑張りましたよ。中間テストも乗り越えたのに0ポイントはいくらなんでもあんまりです」
「いつになったらクラスポイント獲得できるんですか?」
池を筆頭にした生徒たちの食い気味で矢継ぎ早の質問に茶柱は少しの苦笑いを浮かべながら答える。
「勝手に結論を出すな。お前たちの頑張りは当然理解している。そして、今月のクラスポイントだが……Dクラスは87ポイントだ。つまり、8700のプライベートポイントが支給される予定になる。だが、今回のクラスポイントは中間テストを乗り越えた全クラスにご褒美として支給されたものに過ぎない。勘違いするなよ」
茶柱の言う通り、Dクラスだけでなく他クラスにも100ポイント近く支給されていた。クラス間の競争という意味では差がつかない。とはいえ、プライベートポイントの支給がDクラスにとって、ありがたい事実であることに変わりはない。久しぶりのポイントにDクラスの生徒たちは喜びに沸き立つ。今回の発表で判明した情報としては四月、五月に頻発していた私語や遅刻がクラスポイントへの潜在的なマイナス要素として累積しないことが挙げられる。
しかし、そうなると当然浮かんでくる疑問もある。しばらくして、それに思い至った平田が茶柱に質問を投げかけた。
「ですが先生、ポイントが振り込まれていないのはどうしてですか?」
ようやくその質問が来たかと冷笑を含んだような目つきで茶柱はDクラスにとって厳しい連絡事項を告げる。
「それはお前たちも知っている通り、昨日の揉め事によるものだ。教室内で須藤がCクラスの生徒に暴力を振るった。そして、その件でCクラスから訴えがあった。しかし、その訴えに対しての結論はまだ出ていない。よって1年生だけではあるが、ポイントの支給は一時的に保留されている」
それ以外にも担任の教師から説明を受けた補足内容を述べると、まず、Cクラスの訴えによってDクラスが受けるペナルティは須藤の二学期開始前日までの停学とクラスポイント削減の二つ。次に、結論が出ずに保留されている理由はCクラスからDクラスへある提案を持ちかけられているからであった。
そして、Cクラスはその提案をDクラスが受け入れるのなら今回の訴えを取り下げると主張している。その提案内容とは──
「Dクラスが月の初めに支給された生徒全員分のプライベートポイントの総額40%分を同日中にCクラスに支払うこと。それが卒業まで行われるということが条件だそうだ。今回の訴えに対しての反論や提案に対する検討の準備期間として学校側は1週間を設けた。そして、その1週間を終えた翌日の放課後に審議の場が設けられ、最終判断が下される。条件を飲むにしろ、戦うにしろ、どちらでも好きなように決めるがいい」
話し終えた茶柱は唖然とする生徒たちをひとしきり眺めた後、自分の担当しているクラスが悲劇に見舞われているとは思えないほど普段通りの様子で教室から出ていった。
「須藤のせいで今月も0ポイントになるかもしれねぇーのかよ」
「最っ悪。欲しいものあったのにー」
「0ポイントになるぐらいなら条件飲んだ方がよくね? 40パー取られても5000はもらえんだからよ」
「ちっ、ふざけんなよ」
たちまち教室では須藤に対しての不満が爆発して
「何も知らねぇ奴らがギャーギャー騒いでんじゃねぇよっ!」
開ききった目を血走らせた彼の怖ろしい剣幕にクラスメイトたちは気圧され静まり返った。しかし、そこへ思わぬところから須藤に対して遠慮のない物言いが飛んでくる。
「君の存在は美しくないな。いや、醜いと言っていいだろうねぇ。テストのときに退学しておいた方が良かったんじゃないかな、レッドヘアーくん?」
唯我独尊という言葉が人の形を成して
「……あ? もう一回言ってみろオイ」
「フッ、何度も言わせるとは物分かりの悪い。君にその自覚があるのなら、特別にもう一度だけレクチャーしてあげても構わないが?」
高円寺の挑発ともとれる言葉を耳にした須藤は無言で彼の席へと近づいていく。
その最悪の状況の中、平田は二人を止めるために間へと割って入る。
「そこまでだ、二人とも。落ちつ──」
言い切る前に平田は須藤の馬鹿力で突き飛ばされた。椅子や机を倒しながら他のクラスメイトを巻き込んで平田は倒れ込む。周囲の人は争いに巻き込まれないように慌てて教室の端へ避難し、女子からは悲鳴が上がった。
「止めろなんて頼んでねぇーだろ。雑魚のくせにゴチャゴチャうるせぇんだよ」
「おやおや、最後のボーダーラインを自ら踏み越えるとは。君の愚かさはとどまるところを知らないようだ、レッドヘアーくん」
「もう殴っちまったんだ。二発も三発も変わらねぇよ」
理性の
あと一歩進めば互いに相手へ手が届く距離になろうとした、その瞬間──
「やめてぇぇぇ! 」
耳を
「わたしたち、同じクラスの友達同士だよ……喧嘩なんて見たくないよ……」
言い終えた櫛田は
「プリティーガールに救われたねぇ、レッドヘアーくん」
そんな無秩序なクラスの様子を終始にわたり黙って見守っていた綾小路は隣の堀北へと話しかける。
「で、どうするんだ?」
「どうするも何もないわ。もう既に決着はついているじゃない。教室にカメラがついている時点で言い逃れできないわ」
「へぇー、教室にカメラなんてあったのか。気づかなかった」
「……白々しい態度ね。とりあえず今回の件は須藤くんの身から出た
「いいのか本当にそれで?」
「どういう意味?」
堀北は本を閉じて、
「Cクラスの条件を飲まないということは須藤を切り捨てるのと同じことだ。須藤が二学期まで停学になるその期間、当然部活動はできない。暴力沙汰を停学という罰で
「……それはあなたの憶測でしょ?」
「そうだな。だが堀北、お前は今回に限ってクラスポイントを諦めればいいと安易に考えているのかもしれないが、そのポイントを手に入れる機会がいまだに判明していない現状において今回のポイントは貴重と言えるんじゃないか?」
綾小路の問いかけに思い当たる節があるのか黙り込む堀北。
「今回手に入ったクラスポイントはただのご褒美。ということは定期試験だけでクラスポイントは大きく動かない可能性が高く、かと言ってクラスポイントの差がこのまま縮まらない状況が続くとは考えにくい。じゃあ、どこでポイントが動くのか。おそらく夏休みに南の島で行われるバカンスが重要な分岐点になるだろうな。
そして、そのイベントは単純な学力を測るようなものではない。学力なら定期試験で十分だからな。そのときにDクラス随一の運動能力を誇る須藤が停学で参加できなければ、Dクラスが勝つのは難しくなるかもしれない」
椅子にもたれる綾小路を堀北は見極めるようにじっと見つめている。
「別にお前の選択が間違ってるってわけじゃないぞ。
「……事なかれ主義のくせに、今日はえらく
「人間なんて大なり小なり矛盾する生き物だぞ」
綾小路の答えに呆れたように堀北は肩をすくめた。
「わかったわ。そこまで言うのならあなたにも協力してもらいましょうか」
「え? ……いや、俺は陰に生きる者として──」
堀北は綾小路のくだらない言い訳を無視して話を続ける。
「昨日起こった出来事の中でCクラスの箕輪くんが登場してから不自然な点が二点あったわ。一つは須藤くんの青ざめた表情と異様な雰囲気。もう一つは佐倉さんが震えながら目を伏せていたこと。この二人は箕輪くんに対して他のクラスメイトと様子が違っていた」
堀北はあの日の混乱していた状況でクラスメイトをしっかりと観察していた。
「……箕輪?」
教室内で起こったトラブルについて昨日の堀北の説明では出てこなかった名前がいきなり登場し、それが自分の警戒している人物であったことに綾小路は少しだけ面食らう。
「他に手がかりもないようだし、あなたには佐倉さんを担当してもらうことにしましょう。よろしく」
「ちょっと待ってくれ、俺のコミュニケーションスキルで佐倉は難しすぎる気が……」
話は終わったとばかりに本を開いて視線を落とした堀北を見て、綾小路はいさぎよく彼女への
クラスポイント表(暫定)
Aクラス 1025
Bクラス 730
Cクラス 543
Dクラス 87
放課後、堀北は須藤に話し合いの
本当なら関わり合いになることを避けたい綾小路だが、言い出しっぺの彼が今更尻尾を巻いて逃げ出せば、無表情でコンパスを振り下ろしてくる堀北に文字通りハチの巣にされるであろうことが容易に想像できる。小さな穴の集まりに嫌悪してしまう集合体恐怖症の人も真っ青な怖ろしいイメージに綾小路は思わず身震いをした。
このまま思考を続けているだけでは
「綾小路くん」
悲壮な覚悟を背負う戦士となった綾小路に後ろから声が掛けられる。彼が振り返るとそこには優し気な微笑みを浮かべた天使、
「堀北さんと朝に何の話をしてたの?」
櫛田の質問にモテる男は困るなと場違いな妄想を一瞬だけ楽しんだ綾小路はすぐに気を取り直すと、ふと疑問が浮かんだ。泣いていたはずの櫛田がなぜ堀北と話をしていたことを知っていたのか。
しかし、彼の疑問もすぐに氷解した。腹黒い櫛田のことだから泣く演技をしながら周りの様子を
それを理解している彼女は緊張気味な様子で、静かに帰り支度をする佐倉の元へと歩いていく。
「佐倉さんっ」
「……な、なに……?」
声をかけられるとは思っていなかった佐倉はいきなり呼びかけられて混乱しているようであった。
「須藤くんの件で佐倉さんに聞きたいことがあるんだけど……」
「ご、ごめんなさい、私……この後予定あるからっ」
佐倉は罰が悪そうに視線を逸らし、荷物をまとめると駆け足で教室を出ていく。急ぐあまりに周りを見ていなかった彼女は廊下で出会いがしらに人とぶつかってしまい、床へ転がってしまう。
「ご、ごめんなさいっ」
なぜ自分はいつもこうなんだと自己嫌悪しながら彼女は顔を上げる。そこには今までの人生で最も会いたくない相手である箕輪勢一がいた。
「おやぁ、そんなに急いでどこへ行く気だ、ん?」
「や、やめて……」
佐倉の頭の中では特別棟での酷い出来事が鮮明に思い出され、顔は青ざめて身体が震える。尋常でない彼女の様子を見ていた綾小路は急いで彼女の元へ駆け寄ると箕輪の視線から遮るように彼女を自分の背に隠しながら立ち
「あのね、箕輪くん。佐倉さん急いでて、わざとじゃないから許してあげて欲しいの」
そう申し訳なさそうに声をかける櫛田のほうへ反応することなく箕輪は綾小路を興味深げに見ていた。
「誰かと思えば綾小路クンじゃないか。どうしたぁそんなに慌てて。別に取って食ったりするつもりはないんだけどねぇ」
「いや、そういうふうに思っていたわけじゃないんだが……不快に思わせたならすまない」
そう言いながら綾小路はチラリと後ろの佐倉を窺う。箕輪との間に壁ができたことにより、彼女は幾分か落ち着きを取り戻しているようであった。佐倉の様子を確認し終えた綾小路は目の前の相手に向き直る。
「彼女も色々あって混乱してたんだ。ぶつかったことは代わりに謝罪する」
「ひひ……別に構わねぇよ。もう貰うもんはもらってる。卒業までポイント頼むぜぇ」
箕輪は綾小路の肩を軽く叩くとそのまま通り過ぎる。綾小路は叩かれた肩に違和感を覚えながらも声をかけることなく、その姿が消えるまで静かに眺めていた。
「あ、あの……」
佐倉が呼びかける声で彼女の存在を思い出した綾小路はそちらへと振り返る。しかし、佐倉は何か言いたそうにもじもじとしたまま口を開かない。その様子にハッと気づいた綾小路。
「悪い、名前わからないよな。綾小路だ」
「綾小路くん……ありがとう……ございました。櫛田さんも……」
ペコリと綾小路に向かってぎこちなくお辞儀をした佐倉は櫛田にも同じようにする。
「私にお礼はいらないよ、佐倉さん。全部綾小路くんのおかげだし、そもそも急に私が話しかけちゃったから起こったことだし、ね」
少しだけ悔しそうに櫛田は落胆する。それを見ていた佐倉はふるふると否定するように首を振った。
「違います……不注意だったのは……私ですから……」
床に落ちていた鞄を拾うと佐倉はさよならと言って、背を向ける。その彼女の背中に向かって綾小路は声をかけた。
「佐倉、その……何か困ったことがあれば遠慮なく相談してくれ。どこまで力になれるかわからないが手を貸す」
綾小路のどこか不器用さを感じさせるも力強く思いやりのこもった言葉によって、佐倉は恐怖で硬く凍てつき闇に覆われていた心へ陽が差したような心地の良い温かさを感じていた。
背を向けたまま顔だけを覗かせた佐倉はおそるおそる綾小路と目を合わせる。彼の眼差しからは嫌な気配が全くなく、波紋一つない
「その時は……よろしくお願いします……綾小路くん」
佐倉はそれだけ告げると逃げるように駆けていった。それをしばらく見送っていた綾小路は黙り込んでいる櫛田の様子がふと気になり、顔を向ける。それに気づいた櫛田はニッコリとした表情で笑みを見せた。
「すごいね、綾小路くんは。私を無視した箕輪くんとも普通に話してるし、佐倉さんも説得しちゃったしね。私必要なかったかな」
彼女の笑顔とは裏腹に言葉の端々から黒い負のような何かが
「そんなことはない。櫛田が話しかけてくれなければここまで上手くいかなかった。佐倉も櫛田がこの場にいてくれて救われた部分はあるはずだ」
「……ふぅ~ん、慰めてくれてるんだ? ありがと」
疑うような、そして面白がるような声で感謝を述べた櫛田は
「綾小路くんはさ、箕輪くんが言ってたことどう思う?」
「……さぁな。俺にもよくわからない」
箕輪の言葉に疑問を持った櫛田の問いかけを綾小路は無難にかわす。その彼の様子をじっと見ていた櫛田は期待しているような回答を得られず、さっと身を翻して教室へ自分の荷物を取りに行き、バイバイと手を振って廊下の先の方へと消えていった。
静かになった廊下で一人佇む綾小路。さきほど、櫛田は綾小路の感謝を慰めと捉えていたが、彼は単におべっかを使ったわけではなく本当に感謝していたのだ。偶然にも佐倉の信用を得ることと、箕輪に対する彼女の反応を直接見ること、この二つの成果を一度の機会で手に入れたことを。
綾小路は教室に戻り、荷物をまとめながら先の箕輪の発言を思い返していた。”貰うものはもらってる” これは策略が上手くいったこと、つまりCクラスの生徒によって誘発された須藤の暴行のことを暗に
いや、そうではないと綾小路はその考えをすぐに否定した。Cクラスの条件によって減ってしまうとはいえ、一度目の前でぶら下げられたポイントを拒否できる人間はどれだけいるだろうか? これまで2か月以上の強制的な我慢を強いられ、クラスポイント獲得という明確なゴールの見えないままこの先で頑張れる人間はそういない。Cクラスの条件を飲みさえすれば、Aクラスへ上がるためのクラスポイントはとりあえず手に入る。そして、プライベートポイントをお小遣いとしてしか捉えていないDクラスの面々を考えれば8700のうち40%搾取された後の5000ポイントでも十分だと考える可能性は高い。
それに、Cクラスの開催したイベント以降、少しだけ羽振りが良くなったDクラスの女子。おそらくはそのイベントでポイントを手に入れたのだろう。CクラスがDクラスを狙い打ち、あえてポイントを獲得させたことも考えられた。ポイントの味を思い出した女子が果たしてCクラスの条件を拒否して今後も我慢生活をよしとできるだろうか。
どうやらCクラスの黒幕は相当に性格が悪いらしいなと綾小路は推測する。そして、その黒幕についても今までのCクラスの行動からある程度当たりをつけていた。手押し相撲イベントのときに行われていたポイントの貸付。そこで貰った怪しい借用書には貸主として龍園翔という名前が記載されていた。発案者でなければ使いこなせないような権利が付与されている借用書の貸主に発案者以外を
考えることが多いなと綾小路は疲れたように溜息をつく。まだ須藤を切り捨てるかどうかも決まっていないので、彼はとりあえず条件を飲む方向で考える。どうやってCクラスに譲歩を引き出すか、綾小路は教室を出て帰路につきながら冷静に思索に
綾小路が佐倉と接触し、攻略の糸口を探っていたのと同じ頃、学校の敷地内に存在する自然と人工的な施設が共存したような公園に堀北と須藤の姿が見えた。生い茂った緑が幾分か遮ってくれているとはいえ夏真っ盛りの照りつけてくる日差しはきつく、部活動を行っている時間帯でもあり、公園は閑散としている。
本来なら須藤も部活動へ参加している時間だが、怪我で二週間休む予定になっていた。そして、彼の置かれている状況次第では二学期まで伸びてしまうことになる。
黙ってベンチに座っている須藤へ堀北は近づくと冷たい水の入ったペットボトルを彼に差し出す。堀北がそんなことをするとは想像もできなかった須藤はキョトンとした表情を緩め、それを受け取った。
「……サンキュー、堀北。ありがたくもらうぜ」
「ここであなたに熱中症で倒れられても困るから渡した、それだけよ。それに、この場所を指定したのは私だから」
この場所を堀北が選んだのは人が少ないほうが須藤も話しやすくなるだろうという意図があってのもの。それ以外に他意はないのだが、須藤は手渡された物を素直に感謝しているようであった。
「相変わらずつれねぇーのな。……でも、他の奴らよりお前だけは信用できる」
須藤は教室でのクラスメイトたちによる罵詈雑言を思い返していた。事情を何も知らない奴らが殴った場面だけを見て、知ったふうな口を利くことが我慢ならないようで拳を力強く握りしめる。その様子を見ていた堀北は呆れたように息を吐くと単刀直入に話を切り出す。
「それで、何があったのかしら須藤くん。その酷い顔と教室での出来事は関係があるみたいだけれど」
何となくトラブルの関係性を予想できていた堀北はそう問いかけるが、須藤は口を一文字に結んだまま動かさない。
「もし、やられたことが格好悪いとか考えているのなら今更よ。あなたの顔を見れば手酷くやれらたことなんて想像つくから」
開き直れるように助け舟を出したつもりの堀北だが、その言葉は配慮のない手厳しいものであった。ややあって須藤は重い口を開く。
「そうじゃねぇんだ。ただ怖ぇんだよ、あいつが。名前出しちまったら……報復されんじゃねぇかって」
「箕輪くんのことね」
確信をもったような堀北の発言に須藤は驚いた。
「あなたの表情を見ていればわかることだわ。気づいていないの?」
「……そんなビビってたのかよ、俺は」
「いつもは威勢の良いことばかり言っているくせに情けないわね」
「堀北は実際にやり合ったことがないからわかんねぇんだ。あいつは今まで会ったどんな奴より強ぇ。強ぇなんて言葉じゃ足りないくらいにな。……一瞬だけどよ、殺されちまうかと思った」
膝の上で握りしめられた須藤の拳が震える。
「まだ頭の中に焼き付いてやがんだ……あいつの笑った顔がよ」
何かを恐れるように手のひらで顔を覆い隠す須藤。負けず嫌いで自信満々なはずの彼が一人の人間に恐れを抱いて苦しみ囚われる姿を目にした堀北はなぜか自分の影が一瞬重なったように見えた。そのイメージを否定するように彼女はかたく目を
そんな堀北を余所目にいつもとは違って覇気のない弱々しい態度の須藤はポツリと語り始めた。
「あの日、Cクラスで同じバスケ部の小宮と近藤に特別棟へ呼び出された。あいつら俺がバスケのレギュラーに選ばれたから嫉妬してたんだよ。で、そこで待ってたら箕輪が来て……後は言わなくてもわかるだろ? そんで次の日教室で小宮と近藤が全校生徒にボコボコになった俺の顔写真を配るって言ってきやがったんだ。あいつら、俺から逃げやがった卑怯者のくせにっ……。それに我慢できなくて殴っちまった。それだけだ」
須藤の事情を聞き終えた堀北は彼の思慮に欠ける行動に対し、呆れを通り越して憤りを覚えていた。
「本当にあなたはどうしようもないわね。写真を配って回るなんてことするわけないじゃない。それをしてしまえば須藤くんへの暴力事件に関わったという証拠を全生徒に示すことになるのだから」
「んなこと言われてもな。怒りでそれどころじゃなかったしよ」
言い訳にもならない自己弁護で悪びれる様子もない須藤。
「……それに、そもそもの話として箕輪くんに殴られたことをなぜ学校側に報告しなかったの?」
「だから言ったろ、報復されんじゃねぇかって。それがなくても学校側に泣きつくなんてマネはダサすぎてできねーよ」
須藤は普段から喧嘩自慢を吹聴して回っていたために、負けることは兎も角としても情けなく学校に助けを求めるなど彼のプライドが到底許すはずもなかった。そんな彼に対して自省をまったく期待していなかった堀北は今後の方針を問いかける。
「それで、あなたはどうするの? そのまま情けなく怖がって
「……どうしろってんだよ。悪いのは先に喧嘩を吹っかけてきたあいつらだろ? 折れた鼻のせいで部活もできねぇし、口で息するから寝づらくてしかたねぇ。寝れたと思ったら、箕輪にボコられる
心が黒雲に覆われていると感じられる沈んだ顔で
「あなたの言っていることが本当の話なら、あちらが悪いのは事実よ。でも、あなたも悪いわ、須藤くん。今回の事はあなたの普段の行いが招いたことよ。それが改善されない限り根本的な解決にはならないわ」
「……お前までそんなこと言うのかよ、堀北」
周りから見放されてどうすればいいかわからない状況、それでも自分を肯定してほしいと救いを求めるような須藤の目を見た堀北。その時、彼女は彼に対して再びあるイメージを無意識に重ねてしまった。己の存在を認めてくれない兄に情けなく
「笑わせないで。わたしはあなたから事情を聞くために呼び出しただけ、慰めるためじゃないわ。反省している様子もないようだし、もうこれ以上話すことはないようね。……さようなら」
「おい待てって。助けてくれねーのかよ、堀北」
須藤の呼び止めを堀北は無視し、この場から一刻も早く立ち去りたいかのように早足で公園の出口へ向かう。
「仲間じゃねーのかよっ! 堀北っ、堀北っ!」
須藤の必死の声も虚しく彼女の姿は遠くの方へ消えてしまった。
「なんなんだよ……くっそぉぉぉおおお! 」
怒りと悲しみが混じり合った須藤の咆哮は周りの木々から降るように鳴き続ける蝉の声へまぎれ、かき消えてしまった。
お話がDクラスメインになってしまいましたね。次の話では龍園と箕輪出てきますのでご安心を。
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7話
「で、どうだったんだ?」
今日一日の授業も終了し、帰るために教科書を鞄に仕舞っている堀北へ綾小路は声をかけた。
「……何のことかしら? 言い方が
「須藤のことだ。昨日の今日でわからないはずないだろ」
須藤の件について堀北が話し出す機会を綾小路は一日中待っていたが、放課後になっても一向にその機会が訪れる気配を感じられなかったので仕方なく彼から話を切り出したのであった。
「特に収穫と言えるものはなかったわ。わかったのは須藤くんが反省もできない情けない人物だったということを再認識した、それくらいね」
「……言い争いでもしたのか?」
「馬鹿言わないで。私と須藤くんとの間で言い争いは起こりえないわ。なぜなら、私が一方的に言い負かしてしまうからよ」
「争いよりも酷くなったな」
余計な一言だったと反省した綾小路はとりあえず須藤のトラブルの詳細を説明してくれるように堀北へ頼んだ。しかし、彼女は昨日の須藤との話し合いで既に彼を見限っているらしく、今更説明なんて無意味なことはしたくない様子であった。それでも何度か綾小路がお願いをすると、堀北は彼を協力者として巻き込んだことに少しは責任を感じているのか、それとも彼の発想を期待しているのかはわからないが、渋々と話を始める。
それを一通り聞き終えた綾小路は何かしら手がかりが残されている可能性のある現場を検証するために特別棟へ行くことを決めた。その検証に堀北にも同行してもらおうと考えた彼は彼女へ視線を向けると、そこには心の中の天気図が低気圧であることを容易に予測できる堀北がいた。一方的な話の要求に責められていると感じていた彼女は綾小路へ反撃を開始する。
「さっきから私ばかりに話をさせているけれど、あなたはどうなのかしらね。綾小路くん?」
「……佐倉のことか?」
「それ以外に何かあるの? 昨日の今日でわからないはずないでしょ」
綾小路は今のやり取りにどこかデジャブのようなものを感じながらも、とりあえず目の前の相手を落ち着かせるために自己弁護に走る。
「佐倉とは順調に信頼関係を構築中だ」
「それはよかった。ところで、今日を含めて期限まであと六日しかないことは当然頭の中に入ってるわよね?」
「大丈夫だ……と思う」
「あなたの中の”順調”の定義を聞いてみたいものね。それに、手がかりが他にないとは言っても、同じクラスの事件関係者にどれほど価値があるのかは依然として疑問だわ」
攻守が逆転した堀北と綾小路の絵面はまるで刑事責任を追及する検察官と返答に
そこへ突然、二人の話し合いの間へ入り込むように声がかかる。
「ねぇ君たち、ちょっといいかな?」
綾小路と堀北が声の聞こえた方へ振り返ると、ストロベリーブロンドの髪色をしたロングヘア―の美少女がこちらを向いて立っていた。彼女の目元からは人懐っこさと優しそうな人柄が自然と感じられる。
二人とも直接面識があるわけではないが、優秀さと容姿の可憐さによって一年生の間でもよく噂される彼女、Bクラス所属の
「ごめんね。急に呼び止めちゃって。須藤くんのお話が聞こえてきたから私も事情を聞かせてほしいなーって。駄目かな?」
「駄目も何もDクラスじゃないあなたには関係のない話でしょ」
他クラスの一之瀬に対して警戒心を剥き出しにする堀北は彼女のお願いを拒絶する。
「んー、たしかに関係はあんまりないね。でも気になることがあって……実はうちのクラスとCクラスの生徒の間で一度だけちょっとした喧嘩があったの。ほとんど向こう側の言いがかりみたいなものだったから何ごともなかったけど、なんか不自然な感じで釈然としなかったんだよね。それでCクラスとDクラスで争いがあったって聞いたから、何か掴めるかもと思ってDクラスの友達に聞いて回ってるときに二人の話が聞こえてきたんだよ。あっ、でもCクラスの皆が悪いってわけじゃないよ? 仲いい子たちもいるから」
一之瀬の話では純粋な興味本位というよりも、自分の中のちょっとした疑問を解消するために事情を聞きに来たことが窺えた。しかし、それを鵜呑みにするはずもない堀北は一刀両断で切り捨てる。
「それで話を聞きにきたと言われても、裏があるようにしか思えないわね」
「裏って? DクラスとCクラス両方を妨害するみたいな感じの?」
心外だなぁと言いたげな愛想笑いを浮かべた一之瀬。そのやり取りを見ていた綾小路はこのまま堀北と二人だけで事件を捜査していても状況は変わらない可能性が高いと考え、条件付きで彼女に助け舟を出すことを決めた。
「堀北、CとDの争いを利用して妨害するメリットがBクラスにはあまりないんじゃないか? 下手に首を突っ込んでかき回した挙句、それがバレてしまえば学校側からペナルティを受けることになる。仮に上手くいったとしても労力に見合った対価が得られるとも思えない。……まぁ、とにかく興味本位みたいなものだろう。大丈夫なはずだ」
「私は他人の興味本位に付き合うつもりはないから勝手にすれば」
そう言い捨てた堀北は鞄を肩にかけると教室の出口へと体を向けるが、綾小路に止められる。
「まぁ待て堀北。これから事件現場へ行こう。何かあるかもしれないし、須藤の話も目で確認したいからな」
耳打ちされた内容を聞いた堀北は動きを止めたまま黙って綾小路へ視線を寄こした。それを彼女なりの承諾の意と捉えた彼は一之瀬のほうへ振り向く。
「一之瀬、俺たちはこれから事件現場へ行く。そこで話をしよう。ただし、話を聞くからにはDクラスへ協力してもらうことが条件になる、と堀北が言っている。それでもいいのか?」
「うーん、そうだね、あんまり無茶なことはできないけど、それでもいいなら大丈夫だよ。えーっと……」
「綾小路だ。で、こっちが──」
「堀北よ」
「私は一之瀬。よろしくね、綾小路くんと堀北さん」
こうして、綾小路の提案によって三人は特別棟へ足を運ぶことになった。
人の気配が感じられない物寂し気な特別棟。須藤が暴行されたという校舎三階の廊下に三人はいた。ここに向かう道中であらかた事情を聞き終えた一之瀬があたりを見回すも特に普段と変わった様子はない。
「ここで箕輪くんに酷いことされたんだよね……あの須藤くんが。それって、箕輪くんは手段を選ばない凶暴性とそれを実行できるくらいの暴力性も秘めた危険な人ってことになると思う。Bクラスも気をつけないと……ね」
「用心するに越したことはないけれど、箕輪くんについてはあくまで須藤くんの主観的な話を聞いただけだから参考程度にしておいたほうがいいわ。敗北した自分を肯定するために相手を過大評価する行為は別にめずらしいことでもないから。それに、彼は一種のパニック状態に陥ってるようなものよ」
一之瀬と堀北のやり取りを
「残念ながら監視カメラはないな」
「当たり前よ。須藤くんに殴られたCクラスの生徒がカメラを意識した発言をしていたのだから、この場所のカメラの存在も当然確認しているに決まってるでしょ」
「そんな発言をしてたなんて俺は聞いてないぞ」
打つ手もなく負けが決まっている事を悟っているらしい堀北は全ての行動に積極性が見られない。かくいう綾小路も教室の暴行現場をカメラ映像として記録されている時点でほぼ負けを確信しているし、事情を聞いた一之瀬もかなり難しいと感じていた。残る頼みの綱は佐倉愛理という希望と呼ぶには
「今回の件で須藤くんの無実を証明することはできないわ。彼がCクラスの生徒を殴ったことは事実だし、できることと言えば、箕輪くんの暴力を証明して須藤くんへの訴えを取り下げさせることだけよ。まぁ、それもほとんど不可能でしょうけど」
「須藤くんが暴力ふるわれたことを訴えてたら、何か違ったのかな? 怪我してるのは見たらわかるし」
純粋な一之瀬の疑問に堀北は疑わし気な表情で肩をすくめる。
「どうかしら。普通の学校であれば大怪我している生徒が登校すれば事情の一つでも聞くものよ。でも、この学校は何も聞かない。まるで自分たちで解決しろと言わんばかりにね。期待しないほうがいいわ」
それを最後に会話もなくなり、三人はしばらくの間うろうろとしていたが、得るものはなく時間だけが過ぎていく。
これ以上時間をかけても無駄になると考えた綾小路は自分が誘ったこともあり、切り上げることを提案する。
「限界だな。終わりにしよう」
「そうだね。あとはクラスの皆に聞き込みすることと個人的に調査するくらいかな。あんまり協力できることがなくて、ごめんね」
「そんなことはないぞ、一之瀬。十分助かる」
言葉では感謝している綾小路ではあるが、この学校で目撃証言がどれだけの意味をもつのか甚だ疑問に思ってもいた。先ほどの堀北の発言を考慮すれば、普通の学校の対応とは程遠いらしく、一之瀬の協力も焼け石に水と言える。
「そういえばDクラスの他の子は協力してくれないの?」
「……まぁ色々とあってな」
須藤の事情について知っているのは本人から話を聞いた堀北とその彼女から伝え聞いた綾小路だけ。櫛田は佐倉説得の協力者として頼んだ時に綾小路が少しだけ話をしたが、詳しいことまでは説明されていない。そして、須藤が他の人に状況を説明するつもりもなく、Dクラスの生徒たちが須藤の暴力性を目の前で見過ぎていることを考えれば、協力を得るのは難しかった。
「そっか……ごめんね、なんか変な事聞いちゃって」
「いや、他クラスの一之瀬からすれば当然の疑問だ」
「……綾小路くんは優しい人だね」
唐突な一之瀬の賞賛に綾小路は少しだけ困惑したような顔を彼女に向ける。
「……そうなのか? 自分ではそうは思わないけどな」
「余裕のないときに他人を気遣うのってさ、すごく難しいんだよ。Dクラスは今苦しい立場にいるけど、それでも綾小路くんは他人を気遣えるから優しい人だと思う。……それともこの状況でも余裕があったりするのかな?」
一之瀬から問いかけられた綾小路は自分を探っているのかと不審な目を向けたが、彼女の目はただただ純粋な輝きを放っていた。
「……いや、余裕がなさすぎて今日の朝何を食べたのか思い出せないほどだ」
「あははは、綾小路くんって面白いね。そう思わない、堀北さん?」
「そうね。滑稽な存在という意味では面白いと思うわ」
先ほどまで暗くなっていた雰囲気が薄れ、明るさを取り戻していた。
「じゃあ、今後も円滑に物事進めたいし、連絡先交換しよっか」
そんな一之瀬の提案に乗り気ではない堀北は視線で綾小路に指示を出す。
「俺でよかったら交換しよう。何かあれば対応する」
「うん、わかった」
Cクラスから訴えられて2日目。Dクラスの収穫は一之瀬との繋がりのみ。視界の先で広がる霧が晴れることはなかった。
「……なんでっ……どうして」
彼女の名前は白波千尋。Bクラスに所属している1年生だ。ショートカットに整えられている髪型はボーイッシュな印象を与えるも、ワンポイントとなっている髪飾りが可愛らしさを演出している今時の女の子。
なぜ彼女が目を腫らしながら走っているのか。それは、彼女が好意を寄せる相手に想いを告げ、あえなく断られてしまったからだ。
白波にとって、その想い人は常にキラキラと眩しい笑顔でクラスの友人たちを明るく照らし、堂々とした振る舞いと
──鮮烈で抗うことのできない"恋"という感情を
何を間違ったのか、どこで間違ったのか。白波の頭の中では巻き戻ることのない過去が堂々巡りを続ける。そうして辺りに対して注意散漫となっていた彼女は見知らぬ誰かに勢いよくぶつかってしまった。白波は地面に尻を突きながらも、泣き顔を見られたくないのか、顔を伏せて謝罪の言葉を口にする。
「すみません、周りを見てなくて……」
白波はそれだけを告げると足早にこの場を離れようとするが、
「見てたぜ。お前の告白」
突然、聞き逃すことのできない言葉を耳にした彼女はぴたりと動きを止めた。そして、緩慢な動きで身体の向きを変えると彼女は恐る恐る少しだけ顔を上げる。そこには肩にまで届きそうな長い茶髪の不良然とした男がいた。
「想いは届かず……か。残念だったなぁ」
知った風な口で軽々しく語る相手の一言で白波の表情はかっと険しくなった。
「……誰なんですか、あなたは。わざわざ私を馬鹿にするために来たんですか?」
「Cクラスの龍園だ。別に馬鹿にしに来たわけじゃねぇ。お前にある提案をしようと思ってな。……一之瀬を手に入れる方法、知りたくないか?」
白波が望んでやまない願いを簡単に口にする龍園。彼女は良い噂を聞かないCクラスに所属している龍園を訝しく思いつつも、心の奥底では芽生えた希望を拭えずにいた。抵抗感と期待感でない交ぜになった彼女の目の奥には欲望に対する執着心が垣間見える。それを読み取った龍園は彼女が期待を裏切らない駒に成りえることを感じていた。
「本題に入る前に言っておくが、この提案を受け入れるも、蹴るもお前の自由。そして、この場限りのものだと思え。チャンスはそう都合よく転がってはいないからな。返事は声に出すか、頷くかはっきりしろ。沈黙は肯定とも言うが、この場ではきっちりと意思表示してもらおうか」
睨みつけるように龍園を見ていた白波はわずかに首を縦に振る。
「よし、話を戻すぞ。お前が一之瀬を手に入れる唯一の方法、それは……Bクラスを潰して一之瀬を精神的に破壊し、お前に依存させることだ」
「ちょっと待ってくださいっ。そんなことできるわけ……」
「黙って聞け。お前の無意味な感情論なんてどうでもいい。お前ができるのは提案を受け入れるか、蹴るかの二択だ」
龍園の有無を言わさない圧力を持った言葉に白波は開いていた口を閉じた。
「Bクラスのお前に言うのもなんだが、一ノ瀬はBクラスのリーダーのような存在だ。クラスが堕ちていけば当然、奴は相応の責任を感じる。最下位なんてなった日には想像を絶するプレッシャーだろう。まして、あの人の良さそうな性格なら尚更な。
そんな状況になれば、全体の仲が良好で団結力のあるBクラスといえど余裕が奪われ、雰囲気も悪化し、どこかしらから
人間上手くいかないときは何かに
黙って話を聞いていた白波はこわごわと龍園の顔色を窺いながらも言葉を発する。
「……少し質問いいですか?」
「なんだ?」
「Bクラスがそれでも
「そうならないように俺がかき回してやるよ。そうだな……一之瀬の醜聞を流すなんてのはどうだ?」
「お前っ──」
「そんな噂で離れていくような奴ら、一之瀬の傍にいてほしくないだろ? 周りのゴミ掃除と一之瀬の追い込みで一石二鳥だ」
スカートの裾をぎゅっと掴んだ白波は憮然とした表情で質問を再開する。
「……CクラスのメリットはBクラスが堕ちていくことですか?」
「そうだ。勿論お前にはBクラスを嵌めるために
話を聞いていた白波の心の中では良心と疑念の波が揺れ動く。龍園の言っていることには何の根拠も信用性もない。だからといって白波に他の方法が浮かぶわけでもない。できることと言えば潔く諦めることただそれだけ。フラれたままの彼女であれば時間がかかったとしても、全てを諦め、悟り、一之瀬の友人Aとしての現実を受け入れていただろう。
だが、龍園の話を聞き、ほんの微かな希望を
「何を悩んでるかは知らねぇが、愛のカタチなんて色々だ。依存もその一つに過ぎない。自分の中の良心が許さないというのなら、そのクソみたいな良心とやらがお前に何を与えてくれるのか考えればいい。クラス替えもなく、手が届くことのない相手の気まずそうな愛想笑いを登校するたびに毎日拝むことになる。そして、心の中で癒えることもない
彼の言葉によって暗い未来を脳裏に思い浮かべた白波は自分の視界が狭くなったことを感じ、焦燥感からか鼓動が早鐘を打つ。
「お前の一之瀬を誰かに汚されてもいいのか? こうしている間にも一之瀬を狙ってる男が一歩一歩近づいているかもしれないぞ」
白波は思い出していた。告白の場に到着したとき、一之瀬の隣に一人の男子生徒がいたことを。その
「難しく考えるな。程度の差こそあっても所詮人間のすべての行為は自分自身の
「今のお前の存在なんてのは一之瀬にとっちゃ
龍園が言葉を発するたびに彼女の瞳からは光が失われていき、既にドロリとした闇で
「お前、名前は?」
「……白波です」
生気が抜け落ちていくかわりに狂気を帯び始めた白波へ龍園は歩み寄る。
「一緒にBクラスを潰そうぜ、白波。お前の欲しいものはその先にある」
白波の耳元に顔を寄せ、そう
夜も更け、凛とした静けさが舞い降りた時分。天で瞬く星々と
彼が深夜の公園にいる理由は日課としている武術の型稽古に励むためだ。今日は生徒会の業務やクラス運営のこともあり、このような時間になっていた。堀北はゆっくりと息を吐きだしながら流れるような動きで技を繰り出していく。一切のブレもなく安定した技と力強く流麗な動作は彼が武術の熟練者であることを窺わせた。もうかれこれ一時間ほどを鍛錬に費やした堀北はそろそろ終わりにするかと考え、近くのベンチへ歩み寄ると腰を下ろし、横に置かれているタオルへと手を伸ばす。
「こんな夜更けに鍛錬とはな。生徒会長さんは随分とお忙しいみたいだ」
突如、背後の闇から声が飛んでくる。何が起きても対処できるように視線を声の方へ向けながら、堀北はベンチから立ち上がる。それが合図となったのか、陰の中から二人の男がゆっくりと姿を現した。
「1年Cクラスの龍園と箕輪か」
東京都高度育成高等学校には全学年を合わせて400人ほどが在籍しているにもかかわらず、どうやら堀北は学年の違う二人のことを知っているらしい。そのことに少しの疑問を抱いた龍園は堀北へそれとなく水を向ける。
「生徒会長に顔を覚えてもらってるとは思いもしなかったぜ。光栄だな」
「入学したばかりの1年生が随分と派手なイベントを開催していたからな。生徒会長として中心人物くらいは頭の中に入れている」
「その割には参加してもらえなかったみたいだが?」
「興味がなかったからな」
和やかとは言い難い会話が飛び交い、ぶつかり合った両者の視線には火花が散っているようにも見えた。
「ところで、お前たち二人はこんな時間にここで何をしていた?」
「それを答える義務も義理もこっちにはねぇな」
堀北の質問に対し、龍園はおどけるように両手を広げて肩をすくめた。普通の人なら憤りを感じてもおかしくはない彼の振る舞いに堀北は表情を少しも変えることはない。
「確かにお前の言う通りだ。だが、目上に対する言葉遣いは改めた方がいい。社会に出てから苦労することになるぞ」
「言葉を飾ることに興味はねぇし、悪いが敬う気もないんだ」
「敬う、敬わないの問題ではない。敬語というのは他者との距離感を調節できる便利なツールであり、円滑な人間関係を築くためのものだ。社会においては場面に相応しい言葉の使いわけができない者など信用されるはずもない」
「求めてないご高説をどうも。ありがたすぎて眠くなっちまったじゃねぇか」
この場を見ている限りでは堀北と龍園、この二人を表す言葉は”水と油”と言っていいだろう。どこまでも平行線で分かり合うことはない。
「それは悪いことをしたな」
敬語の
「友人を背負って帰る準備はできているか?」
「ふへっ……そりゃどういう意味だ?」
「先輩として後輩に教示してやろうと思ってな……相手の了解を得ずとも情報を聞き出す手段と、ひと気のない夜に外を出歩くことの危険性をだ」
そう言い終えた刹那、堀北の身体がブレる。そして次の瞬間、龍園の目には飛んでくる拳が映った。映像を何フレームかすっ飛ばしたように見えたのは人間の目の残像特性を利用した堀北のフェイントによるもの。ただでさえ速い拳が彼の
相手の意識を容易に刈り取る力を内包したその打撃に龍園は動けない。──いや、
「ひひ……そいつぁあれか? お前さんが自分の身を犠牲にして教えてくれる優しい先輩って解釈でいいのかぁ?」
堀北の拳が龍園に到達することはなかった。横から無造作に伸ばされた箕輪の手に掴まれ、阻まれる。堀北が腰を落とし力を入れて押し込もうとするが、微動だにしない。まるで頑丈なコンクリートの壁に拳を押しつけているように錯覚させられる。
「へへっ、血の気の多い生徒会長さんだ。ボランティアは趣味じゃねぇが、この公園きれーいに掃除しちまうか。目の前にどでかい生ごみもあるみたいだしなぁ」
堀北の拳を掴んだ指へ箕輪はゆっくりと力を加えていく。圧力が強まっていく中、箕輪の目にどす黒い光が宿り頬肉が唇に引き寄せられ不気味に歪む様を見た瞬間、堀北は脳裏によぎってしまう。理に適っていない不自然な膂力によって、自分の拳がグシャリと握り潰されるイメージを。
「いでっ」
確証はないが、確信に近い不穏な予感を
「ほへぇ~、つれないなぁ。繋いだ手と手は友好の証なんだぞぉ。そんなことでは社会に出てからやっていけないなぁ、堀北クン」
箕輪は小馬鹿にしたような口調で堀北を煽る。しかし、当の堀北は反応する余裕もなく、何かしら得体の知れない怪物に睨みつけられているような不快感を覚えていた。彼は険しい顔のままに額から流れ出る脂汗を拭いもしないで箕輪の一挙手一投足に注意するように視線をそそぐ。
両者の間には異常に緊迫した空気が漂っていたが、それをものともしない龍園が箕輪を制するように前へ進み出た
「生徒会長さんよぉ、俺らはあんたと事を構えるつもりはない。
龍園の行動と言葉によって堀北は少しだけ警戒を緩める。
「今は……か」
「そうだ。状況次第によっちゃ変わるぜ。まぁ、今はまだ始まったばかりだ。色々把握してもいないうちに他学年に手を出すつもりはない。ましてや現生徒会長を敵に回すつもりもない」
「その割には友好的とは程遠い対面だった気がするがな」
「こんなのは挨拶みてぇ―なもんだ。それに、先に手を出してきたのはお前だぜ。このままやり合うっていうなら付き合ってやってもいいがな」
肩に手を当てながら首を回している箕輪へと龍園が目配せをする。その意図を察した堀北。
「……いや、やめておこう。この場はどうやら分が悪いらしい。今回のことは自分への
「さすがに生徒会長だけはあるな。下手なプライドで形勢を読み誤ったりはしないようだ」
二人程度なら問題ないと自らの力を過信し、浅慮な行動に出た過ちを認める堀北。常ならば起こり得ない彼の行動はある一年生との
「先ほどの敵に回すつもりはないという話だが、それは協力する余地も残されているということだな?」
「話による」
顎に手をやりながら考え込んでいた堀北はしばらくして視線を龍園たちのほうへ戻す。
「どうやら今年の一年生は面白そうなやつが多いらしい」
「その面白そうな奴とやらを参考までにお聞かせ願いたいものだな」
「それは自分の目で確かめるといい」
その言葉を最後に堀北は自分の荷物を片付けて背負うと龍園の横を通り過ぎ、夜の闇へと消えていった。
偶然の堀北生徒会長との遭遇に少しだけ楽しめた龍園は空いたベンチへ歩み寄ると落下するように座り、背もたれに体重をかけながら足を組む。それを見ていた箕輪はからかうような笑みを浮かべた。
「くくっ、ここで何してたのか……誰にも言えんわなぁ。こんな時間に俺と喧嘩の特訓してたなんて」
「特訓じゃねぇ。お前のにやけ面に一発ぶち込まないと気が済まないだけだ」
「龍園クン、そりゃ無理だ。あの生徒会長のレベルでも君だけだったらやばかったんだぞぉ。いい加減諦めてくれないかねぇ」
「……ちっ、考えておいてやるよ」
箕輪の指摘を龍園はよく理解していた。もし、生徒会長と龍園が一対一で闘り合えば間違いなく負けていただろう。しかし、理解できることと納得できることは別の問題。龍園は機嫌を損ねた表情を隠してはいなかった。
「ところで、Bクラスの手駒はしっかり機能するのかい?」
「白波のことか。メールのやり取りが残ってるから今更辞めますなんてのは受け付けない。まぁ、こんな閉鎖的な学校で同性に告白するリスクを冒すような奴だから、その心配もいらないと思うがな。俺が期待した通りだったよ」
「一之瀬とかいう小娘を見張ってた甲斐があったってわけだ」
「ああ。携帯に友人同士で位置情報を閲覧できるサービスがあったから、それを利用して探らせていた。弱みを握るためにな。今回はそれが功を奏した形だ。だが、もうそろそろ使えなくなる。一之瀬が何やら嗅ぎまわってるようだからな。Cクラスがどういうクラスなのか調べていくうちに理解するだろうぜ」
白波をBクラスのスパイにさせるために彼女と交渉した龍園だが、勿論約束なんて守る気は毛頭ない。利用するだけ利用した後に捨てるただの都合のいい駒。二人の立場の差を利用した奴隷契約であった。
「Aクラスは?」
「あそこは何やら対立してるようだから放置だ。下手に手を出して団結されたら馬鹿みたいだろ? しかるべき状況のときに仕掛ける」
多少の疲れを感じた龍園はベンチの背もたれに頭をあずけ、重くなった
「なぁお前、
「……さぁーてな。突然どうした、龍園クン」
「そいつは俺とは違う地元なんだが、それでもその悪名高さは俺の耳にも入ってくるような
箕輪の一挙一動を見逃さないために観察する態勢をとった龍園は語り始める。
その日、宝泉は十人ほどの不良たちに呼び出された。その不良たちはいずれも自身の地元では札付きとして有名で共通することは宝泉を目の敵にしていること。舞台となる場所は地元では誰も寄り付かない不良のたまり場となっている廃工場が連なった跡地で、宝泉は十人という数に怯むことはなく寧ろ嬉々としてその誘いに応じる。
そうして喧嘩するために一つの場所に集まった不良たちが
普通なら何もできずに場数を踏んできた不良たちによって大怪我を負わされる場面だっただろうが、結果は違った。なぜなら、その男が人間の想像の域を遥かに凌駕する暴力を有していたからだ。
色々と悪さを働いていた不良たちは痛い腹を探られたくないので警察沙汰にはできない。そのうえ武器を使っても歯が立たなかった相手の
一通り話を終えた龍園だが、箕輪の様子は変わることなく笑みを浮かべたまま。こうして話を続けていても膠着状態を脱することはできないと判断した龍園は彼へ直接問うことを決めた。
「……しっかし、宝泉も運が悪い。なんせ今お目当ての人物は三年間外部と遮断された特殊な学校にいるんだからな」
ベンチから立ち上がった龍園は箕輪の傍へと近づいていく。
「そうだろ、箕輪? さっき
「ひっ……ひひっ、中々面白い話だったぜぇ、龍園クン」
両手をポケットに突っ込んだ箕輪は龍園の横を通り過ぎると寮に向かって歩き始めた。龍園はそれを黙って見送る。
「そういやぁ、龍園クン」
そう呟いた箕輪は立ち止まると、背中越しに顔だけを向ける。
「夜道には気をつけた方がいい。いけすかねぇ生徒会長みたいな野郎がいるかもしれねぇからなぁ」
いつもの
「フッ、そのセリフ……俺にはお前が襲いかかってくるようにしか聞こえなかったんだが?」
「ひひっ、俺は心配してるだけだぜぇ」
単純に龍園を心配したのか、それとも過去を詮索するなと警告しているのか。どちらとも取れるような言い回しであったが、龍園は後者だと確信している。
彼の様子に満足気な箕輪はそのまま
「……クク、情けねぇな。一度染みついた恐怖ってのは簡単には拭えねぇらしい」
震える手を抑えるためにもう片方の手で掴みながら、自嘲のような薄笑いを浮かべた龍園は自らを落ち着かせるために再び近くのベンチへと腰を下ろす。背もたれに力なく身を委ねた彼が空を見上げると、星々の光が瞬く光景が視界の端から端まで広がっていた。
自分のちっぽけさを肌で感じ、いくらかの平静さを取り戻した龍園は箕輪について考える。自分と同じ年齢とは思えないような威圧感と得も言われぬ不気味さ。異常な身体能力が生み出す圧倒的な暴力とそれを使いこなすことができるだけの胆力。いったいどういう修羅場を潜り抜けてくれば身につくのか到底理解できない。仮に龍園と同じような不良であるなら、名が知られていないことが不自然だった。そして、箕輪がただの一般人というのはあり得ない。
しばらく考え込んでいた龍園だが、満足できるような結論が出せるはずもなく、結んでいた口を開いて、ひとつ大きな息を吐いた。
「お前は何者なんだ……箕輪」
ぽつりと
評価と感想は作者の血肉となり糧となります。宜しければお願いします。
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8話
最終投稿日が昨年の9月と、かなりの時間が空いてしまったことをお詫びいたします。
本来は謀略編を完成させて一気に数話投稿する予定でしたが、生存報告の意味で8話を投稿します。
未明頃から降り出したパラパラ雨の雫が音をたてて窓を打つ。雨足の強さはそれほどでもないが、当分は降りやみそうもないしつこさを予感させる。雨音以外は何も存在していない閉め切られた暗い部屋の片隅で佐倉愛理は布団にくるまっていた。彼女の頭の中では数日前の出来事が鮮明な映像として繰り返し流れている。暮れなずむ中でひっそりとする特別棟。顔から血を流し倒れる須藤。黒い笑みを浮かべる箕輪。
佐倉は特別棟と教室での事件が関連していることを知らない。自らの告発が須藤を救う一助につながるのを理解していない。ひとえに彼女が苦しんでいるのはクラスメイトが被害を受けた暴力沙汰を自分の中にしまっておくことへの罪悪感だ。
では、なぜ彼女は事件を明らかにしないのか。理由は3つある。
1つ目は目立つことを嫌い、避けてしまう彼女の引っ込み思案な性質。事件を公表するとなると矢面に立たざるをえなくなり、衆目にさらされる可能性が高い。
2つ目は写真という決定的な証拠の隠滅。部屋に置かれている棚の上には購入時の面影もない破壊されたカメラの残骸がある。
3つ目は箕輪への恐怖。異性からはじめて受けた暴力という衝撃にうちのめされ、佐倉の心はいまだ少しも立ち直っていない。もしも事件を表沙汰にしようものなら、ただでは済まないはず。彼女がそう考えることは自然な思考の流れだ。
秘匿すれば罪悪感が、つまびらかにすれば恐怖が。佐倉の中で生み出される葛藤は日増しに大きくなり、のどをしめあげていく。このことだけでも身と心は随分とすさんでいくが、彼女はもうひとつ別の問題をかかえていた。部屋の真ん中に位置する机の上には手紙の入った封筒の束が無造作に積まれている。自分では対処しようのないふたつの問題で気が狂いそうになる佐倉は我知らずに顔を上げると、夢遊病者のようにゆっくりと室内を見廻し始めた。救い主を捜し求めて視線を隅々まで這わせる。
誰かがいるはずもなかった。
目の前には
──誰か助けて
そんな思いが胸中を支配する中、佐倉の脳裏には不意にある男の背中が映る。男はクラスの中でも目立つような存在ではなく、積極性に欠け、どちらかと言えば彼女と同類だろう。名前すら覚えてはいなかった。だからこそ、その男が自分の窮地に颯爽と現れたことが佐倉にとっては理解しがたく、同時に鮮烈だったのだ。奇異に映った男の行動を彼女は疑った。何かしら下心あってのことではないかと。しかし、佐倉の予想に反して彼の澄んだ瞳には何の
「……綾小路くん」
頬につたう涙を拭いながら、閉ざされた救いの道を照らす一筋の光明となるよう願いを込めて彼女はつぶやいた。
誘惑という言葉がある。
辞書を引くと、人の心を迷わせて悪い道に誘いこむこと、と記載されており、あまり良いイメージの言葉とは言えない。だが残念なことに、この世界は誘惑で動いてきた。
ベルリンの壁が崩壊したのは西洋諸国の物質的な豊かさをテレビで目の当たりにした人々が誘惑され、現状に不満を抱いたからだ。
悪徳商法が
商品が機能性よりもデザインや個性で売れるのは人々の感性に訴えかけ、本来の商品価値とは別に新たな付加価値を過大に創造して誘惑するからだ。
ヒトラーが指導者として君臨できたのは人々の願望を部分的に実現して夢を見せることで巧みに誘惑し、民意を誘導したからだ。
テクノロジーが発達した豊かな現代では、ひと昔前の人間が想像もしなかった様々な欲が生み出され、多種多様な誘惑がその欲を解放せんと手ぐすねを引いて待ち構えている。そして現在、綾小路の目の前にも誘惑によって突き動かされている人間がいた。
「デュフッ、デュグッ、良いでござるよ~」
真顔で不穏な声を漏らしている彼の名前は外村秀雄。小太りの眼鏡をかけた男で、Dクラスの男子からは”博士”と呼ばれ親しまれている。外見からイメージされるのはいわゆる”オタク”であり、中身も外見どおりのもの。歴史や機械に詳しいといった一面を持つ。
Dクラスの猶予期間4日目。明け方まで降っていた雨は今朝には止み、登校する生徒たちの足運びも自然と軽やかになる。真剣な表情の外村は寮から学校へ続く道を歩いている生徒たちにカメラを向けていた。よくある何気ない学校風景ではあるが、3年という限られた学校生活の一部を記憶だけでなく、記録として残す。そういうことなら一般常識に照らし合わせて理解できなくもないと綾小路は思った。しかし、ありのままの風景を撮っているにしてはカメラの向いている先が女性に偏っており、なおかつ下方向ばかりというのはどうだろう。外村の
彼の様子をしばらくうかがっていた綾小路はあることに気づいた。外村の不審な行動を
──善人の無作為こそが、悪を栄えさせる
英国の思想家エドマンド・バークの言葉が綾小路の中で思い起こされるが、それは少々おおげさだと思い直す。彼は違和感のある状況を憶測ではあるものの、こう結論付けた。外村の姿が悪びれもせず、あまりに堂々としているものだから逆に人間心理の意表をつき、疑いの目を逸らしているのだろうと。狙ってやっているとすれば大したものだ。ある意味で感心する綾小路ではあったが、それでも
「おはよう、外村」
「おお、これは綾小路殿、おはようでござるな」
不法行為を行っているとは思えない生き生きとした声色の外村。
「朝早くからこんなところで何をやってるんだ?」
「見ての通り、崇高な芸術活動に勤しんでいるでござるよ」
「さっきから見てると女生徒ばかり撮っているようだが……大丈夫なのか?」
「……フフ、よくぞ見破った。拙者としては被写体を特定されぬよう自然に振る舞っていたつもりでござったが、中々の観察眼であるな綾小路殿? 普段の
おそらく彼は自分の中で生み出したキャラクター設定を演じているのだろうが、偶然にせよ綾小路の本質に即した発言は警戒せざるをえない。人間、耳にした偶然の発言から違う角度で思考が始まることもあるからだ。外村と話すときは多少の注意が必要だと綾小路は思った。あと、人様に昼行灯と言うのは大変失礼なことである。
「いや、バレバレだったぞ。声をかけられたらどうするつもりだったんだ?」
「グフフ、ご安心めされい。拙者、機械に多少詳しいでござるからして細工を少々」
そう言いながら外村がカメラから取り出したのはデータを保存するためのSDカード。
「綾小路殿には何の変哲もないSDカードに見えるでござろうが、実はある機能がついた優れものですぞ。綾小路殿には何かわかりますかな?」
「……無線機能か」
「なんとっ、これはご明察。まさか、綾小路殿も?」
「やめてくれ。知識として知っているだけだ」
同好の士だと思われてはたまらない綾小路は一考の余地も生まれないよう即座に否定した。
「本来であれば無線機能がついたカメラを買えばよいでござるが、高いポイントを代償とせねばならぬので、こちらを代用しているというわけでござる」
見た目ではわからないが、小さなカードに無線LANが内蔵されている。
「ネット環境が充実した学校の敷地内でこのカードと専用アプリを使えば、この場で撮った写真を離れた他の端末に自動転送できるというわけでござる。勿論、カード本体にデータを残したまま、バックアップとして別の端末に自動転送することも可能ですぞ。そして、拙者が設定しているのは前者。つまり、写真データが手元に残らない。女生徒の盗撮を疑われ、カメラの中身を見ようとも何も写真は残っていないのである。ま・さ・に・完全犯罪!」
両手を広げ、自らの罪を高らかに告白する外村。自分の得意分野にこれだけ頭を回せるなら同じくらい勉強を頑張ればいいのではと思うが、そううまくいかないのが人間。彼はバスケ一直線の須藤と同じタイプのようだ。
「おーい」
遠くから声がする。綾小路が視線を移すとこちらに駆けてくる少女がいた。
「おはよう、綾小路くん。早いんだね」
綺麗な長い髪をたなびかせ、元気に朝の挨拶を交わすのは一之瀬。いつもは周りに友人が絶えないが、今日はめずらしく一人での登校らしい。
「おはよう、一之瀬。今日はなんとなく早く目が覚めてな。普段はもう少し遅いぞ」
「あはは。なんか綾小路くんらしいね。えっと、それから──」
そう言いながら一之瀬は外村に目をやった。
「たしか君は……外村くんだよね? おはよう」
「お、おはようでござる。まさか、拙者の名をご存知とは」
「できるだけ同じ学年の生徒の名前は覚えておくようにしてるからね」
細やかな気遣いや配慮、そういったものの積み重ねが一之瀬の人徳につながっているのだろう。感動に打ち震える外村の様子が物語っている。彼の喜びように大したことはしていないと恐縮ぎみな一之瀬は外村が片手に持っているカメラに気づいた。
「外村くんは写真を撮ってたの?」
「そうみたいだな。ずいぶんと熱心に撮ってたぞ」
綾小路は外村の完全犯罪を試すためにこの絶好の機会を利用する。クラスメイトの思いがけない裏切りに、ぎょっとする外村は何かを伝えようと目配せをするも綾小路は無視した。
「どんな写真撮ったのか見せてもらえない?」
「えっと、それはその……」
先ほど外村が綾小路に説明したとおり、カメラに写真のデータは残っていない。しかし、撮っていたはずの写真がカメラにないというのは一之瀬にどういう印象を与えるのか。明らかに不審がられるだろう。写真をパソコンで編集するために無線で自動転送してデータ移動の手間を省いているから無いのだと言えば、なんとか取り繕えるかもしれない。だが、外村は言葉を紡げない。一之瀬という麗しい少女を前に彼の情報処理能力は著しく低下していたのだ。
「いいよ、いいよ、無理しないで。見せたくないことだってあるもんね」
「いや、外村、遠慮する必要はない。一之瀬は
「貶すなんてとんでもないよ。私は誰かの写真を評価できるほど芸術に
言葉を切った一之瀬は通学路のほうへ顔を向け、微笑を浮かべる。
「写真を撮りたくなる外村くんの気持ちもわかるんだよね。だってさ、考えてもみてよ。人類の長い歴史の中で、80億人もいる世界の中で、同じ時代に同じ場所で過ごす。何かが少しでも違っていれば出会うことはなかった。人と人との出会いって当たり前なんかじゃなくて、奇跡なんだって思うと、今のこの一瞬を写真にしたいって思えるもんね」
咲いた花のよう、そんな表現が陳腐になるほど一之瀬の笑顔は美しかった。まばゆい後光が差していると感じられる彼女の存在は外村に自らの行いがどれほど卑小であったかを痛烈に実感させる。下種な欲望への後ろめたさが彼の胸中を支配していた。
「もちろん、綾小路くんと外村くんに会えたことも私にとっての奇跡だよ」
この言葉がとどめとなった。
「すみませんでしたあああああ出来心だったんですううううう!」
突如、罪の意識に耐えられなくなった外村は特徴的な武士語を忘れて標準語で叫びながら、脇目も振らず逃げ出した。去り行く彼の後ろ姿を呆然と見つめる一之瀬となんとなく結末を予想していた綾小路は立ちつくす。
「ありゃりゃ、行っちゃった。追いつめるつもりはなかったんだけど」
一之瀬の発言は外村がなぜ逃げたのかという疑問ではなく、彼の行いを察知しているものだった。そのことに疑問をもった綾小路は彼女へ問う。
「外村が何をしていたのか一之瀬はわかってたのか?」
「うん、なんとなくだけどね。外村くんがわたしに写真を見せたがらないし、綾小路くんへの反応もおかしかったから。外村くんには自分の中で改心してほしかったんだけど、やりすぎちゃったかな?」
外村が一之瀬の登場に動揺して挙動不審だったとはいえ、どういう写真を撮っていたかに当たりをつける彼女の感覚は鋭いといって良いのかもしれない。
「いや、ちょうどいい薬になるんじゃないか? 良薬は口に苦いと言うからな」
「……うーん、そうだといいけど。綾小路くん、できれば彼のフォローお願いできないかな? 厚かましい頼みごとだと思うけど、クラスが違う私だと見てあげられないから」
視線を外村が去った方向へと固定したまま、あきらかに心配そうな様子を見せる一之瀬。他クラスの生徒にまで心を砕く姿は聖母マリアと言っても過言ではないだろう。とりあえず彼女を安心させるために綾小路はフォローすることを肯定する。
「一之瀬が心配と言うなら一応見ておこう。たぶん大丈夫だと思うけどな」
むしろ、外村は1、2週間もすればまた同じことをやっていそうな気さえする。時間というのは優しくも残酷に記憶を薄れさせていくのだ。
そんなことよりも綾小路が気になったのは一之瀬の説得方法。事実を指摘して悪人だと糾弾するよりも、善人として相手を信じることのほうが心に響く場合があるというのを目の前で見せられた。ほんの少しでも後ろめたさを感じている人間には効果的なのかもしれない。
「それにしても流石は一之瀬だな。ああいう説得の仕方があるのか。俺には真似できないな」
「説得っていうよりも信じてただけだよ。人間だし、多感な時期だから色々とあるかもしれないけど、それでも心の中に他人を思いやれるものがあるって。素直に自分の気持ちをぶつけたから外村くんも理解してくれたんだと思う」
そう言った一之瀬の横顔にはどこか憂鬱そうな影があった。その様子を不思議に思う綾小路は彼女を眺める。彼の視線に気づいた一之瀬はなぜか少しだけ、ばつがわるそうな顔をしていたが、すぐに消えた。そして、嬉しそうに綾小路の顔をじぃっとのぞく。
「取りつくろったり、嘘を言うんじゃなくて、真摯に相手と向き合うのが大事だって綾小路くんが教えてくれたことだよ?」
一之瀬が言っているのはクラスメイトの白波に告白され、綾小路を偽の彼氏として断ろうとしていたときのことだ。一之瀬なりに相手のことを考えて心情に配慮した方法のつもりだったが、綾小路はそれが間違いであると諭した。本気の想いには、嘘偽りのない正直な気持ちでこたえたほうがいいと。
「そうだったな。今回は一之瀬に教えられたよ」
「あはは、どういたしまして、かな? ……なんか、こういうのっていいね。クラスが違っても教わり合う関係みたいなの」
二人の間にはなごやかな空気が流れていた。これが青春というものだろうか。綾小路は自分のクラスでは決して味わえない貴重な経験をかみしめる。
「あっ、そうだ」
思い出したように声をあげる一之瀬。
「綾小路くんは今日のお昼休み時間あるかな?」
「全然問題ないが、どうかしたのか?」
「須藤くんの件で力になってくれそうな人に声をかけておいたんだよね。神崎くんっていうんだけど、その神崎くんを交えて話をすれば何か良い案が浮かぶんじゃないかなーって」
「一之瀬がそこまで推すということはかなり有能で信頼できる人物ってことか」
「うん、私なんかよりも全然すごいよ。だから堀北さんも呼んで4人会議をやろうと思って。どうかな?」
「わかった。堀北にも話を通しておく」
「ありがとう、綾小路くん」
「いや、礼を言うのはこちら側だ。他クラスのことなのにここまでしてもらってるんだからな」
「困ってるときはお互い様だよ」
お礼を言うのは事件解決に協力してもらっているDクラス側だというのに、あくまで謙遜する一之瀬。バファリンという解熱鎮痛剤の半分は優しさでできているらしいが、彼女はそれ以上だ。
「あっ、もうこんな時間」
取り出した携帯端末で時刻を確認した一之瀬は時間の経つ早さに驚いた。
「遅れるといけないから学校行こっか、綾小路くん」
「お、おう」
BクラスとDクラスのささやかな合同会議は果たして実りあるものとなるのか。綾小路は神崎という存在が何をもたらすのかを期待し、一之瀬は良い未来を待ち望む。それぞれの思いを胸に二人は一緒に学校へと向かった。
「申し訳ないが、期待に応えることはできそうもない」
対面に座っている綾小路と堀北にそう告げたのは涼しげな切れ長の瞳が印象的な男、神崎隆二だ。彼は一之瀬と同じBクラスに所属している。
現在、彼らがいるのはお昼時で混み合う食堂。一之瀬の紹介で来た神崎は初対面である綾小路と堀北との挨拶を手短に済ませ、さっそく本題へと入っていた。まだほとんど話をしていないというのに、いきなり否定的な結論に入った彼に対して堀北は眉間にしわを寄せて苛立ちを
「私は話し合いだと聞いていたけれど、どういうことかしら?」
「驚かせてしまったか。すまない、気を悪くしないでくれ。だが、時間は限られている。無為に話を重ねて時間を浪費するのはお互いに得をしないと判断した」
Dクラスに残されている猶予はあと4日間。そして、昼休みは1時間。決められることは決めて素早く行動に移せる状態にしないと遅きに失してしまう可能性もある。神崎が言うことはもっともだった。心配そうに見つめる一之瀬と表情の変化に
「あなたが何もできないと考える理由を説明してもらってもいいかしら。説明できないのなら私の中であなたを能力のない人物として決定することになるわ」
彼女の言葉を横で聞いていた綾小路は、じゃあ何の対抗手段も思いつかないお前はどうなるんだ、と思ったが、口には出さない。自分がDクラスに所属していることを何かの間違いだと未だに思っているあたり堀北という人間は相当にプライドが高く、他人を見下す傾向がある。ゆえに、自分よりも上のクラスに所属している相手に対して無意識のうちに対抗心を持っていて、それが言葉の
頼んでいる側としては失礼な堀北の言い方に何ら気分を害したような素振りを見せない神崎は冷静に回答する。
「色々と考えた結果、その中で手間がかからずに最も実行できそうな手段は校内の踊り場にある掲示板や学校のホームページにあるネットの掲示板を利用して有力な情報を集めるという方法だ。特別棟での目撃情報や箕輪に関する過去の素行情報などを期待して行うものだが……おそらくあまり意味をなさないだろう」
大人しく話を聞いている堀北を視界に入れながら神崎は話を続ける。
「どれだけ情報を集めたとしても状況証拠にしかならないからだ。放課後には人の出入りがほとんどない特別棟が犯行現場だということを加味しても、建物の周囲で目撃したからといって箕輪が須藤を暴行したと証明するのは難しいだろう。あとは目撃情報にどれだけの価値があるのかも疑問だ。利益相反が生じない不特定多数が目にしているなら効果はあるだろうが、一人二人なら大した意味はないだろう。もちろん、ないよりはあったほうがいいとは思う」
神崎の考案した手段は彼の説明によると、あまり効果的ではないらしい。しかし、手間もかからないならやってみてもいいのではないか、そう考えた堀北が口を挟んだ。
「効果が薄いにしても、やってみる分に損はないんじゃないかしら?」
「たしかにそう考えることもできる。だが、須藤が暴力を振るった決定的な証拠に対抗できるほどのものが得られるとは思えないし、仮に俺が決定的な証拠を持っている第三者ならDクラスに情報を渡すのではなく、Cクラスと交渉する。そのほうがポイントを大きく手に入れられる可能性が高いからだ。つまり、有力な情報を大々的に募集することはそれだけDクラスが
名前を伏せていたが、事件の鍵を握っているかもしれない存在がDクラスにいることは一之瀬に明かしてある。神崎は彼女から話を聞いていたのだろう。そして、彼は混乱した状況が残された手段に悪影響を与えないか危惧しているのだ。
神崎の言う通り、鍵を握っている人物である佐倉愛理のことを考えれば、やり方には不安が残る。もしも、多くの生徒たちを巻き込んで思惑が
綾小路は横目で堀北を見た。テーブルに目を落としながら彼女は考えている。迷うのも無理はない。このまま頼りない佐倉に期待していて事態が良くなるのかと。だが、彼女に目をつけたのは堀北自身だ。それを否定するということは自分の見る目を否定することにつながる。
ふと、自分に向けられた視線を感じた堀北は綾小路を見やる。何を考えているのかわからない彼の顔を数秒見てから、堀北は前を向いた。
「そうね、やめておいたほうがいいのかもしれない。まだ残された手段があるから。非常に不満ではあるけれど、あとは担当者に任せることにするわ」
混乱にチャンスを見出すよりも、綾小路の不確かな能力に賭けることを彼女は選んだらしい。いや、責任を押しつけると言ったほうが正しいのかもしれないが。4人の会議でわかったことはこれといって良い解決方法が存在しないということだけ。話し合いを提案した身として責任を感じた一之瀬は沈んだ表情で謝罪の言葉を口にする。
「ごめんね、二人とも期待させるようなこと言っちゃって」
そう言った一之瀬は今度は神崎のほうを向く。
「神崎くんもごめんね。私が勝手にハードル上げるようなこと言ってたから重荷背負わせちゃって」
「俺のことは気にしなくていい。そこまで期待されていたというのも悪い気分ではないからな」
一之瀬を配慮する言葉を口にした神崎は薄く笑みを浮かべていた。綾小路と堀北とは違い、かなりの信頼関係であることがうかがえる。
「あなたたちに聞きたかったんだけど、どうして素直に協力してくれるの? 協力を約束させたとはいっても、ここまで自発的に行動するなんて想定外だわ」
自分の価値観に照らし合わせてみると、一之瀬や神崎の振る舞いは堀北にとって理解しがたいものに映っていた。彼女の発言に一之瀬と神崎は少しだけ顔を見合わせると、彼が頷く。どうやら神崎が疑問に返答するようだ。
「安心してくれ。裏があるわけじゃない。ただ、Bクラスにもメリットが存在しているというだけだ。BとCは隣り合わせのクラス。今回の件でCクラスがポイントの恩恵を得られるということはBクラスにとっては喜ばしいことじゃない。妨害する価値はある。それに、ルールに基づく競争なら望むところだが、ルール外の行いは決して許されるものではない。今後を考えれば、放置するという選択は悪手。だから、できるところまで協力しているというわけだ」
神崎の言い分に一之瀬も便乗する。
「神崎くんの言う通りだよ。私たちには何の問題もないし、Cクラスのやり方は褒められることじゃな──」
──誰のやり方が褒められないって?
一之瀬を遮り、頭上から降り注ぐのは異論を認めないような自信に満ちた声。顔を上げると、肩先まである茶髪の髪をセンターにわけた男と笑みを浮かべる無精髭の男がいた。
「龍園くんと箕輪くん……」
そう呟いた一之瀬。堀北と綾小路は箕輪を見たことはあるが、龍園は知らない。自然と彼へ視線が注がれる。
「何やらBとDの馬鹿が群れてやがると思ったら、何のことはない。馬鹿が馬鹿話に花を咲かせてたってだけのようだな。ちょうどいい、退屈しのぎに見物してやるよ。ほら、続けろ」
龍園の行動はBとDクラスへの警戒心からくる牽制ともとれるが、彼の目に浮かんだ笑みがそれを否定している。純粋にこの状況を楽しんでいるようだ。
売り言葉に買い言葉。龍園のひどい煽りに我慢できない堀北が応戦する。
「そんなに私たちの話が気になるの? 随分と気が小さいのね。それに、馬鹿の馬鹿話に興味があるということはあなたもさぞかし馬鹿なんでしょう?」
「それは違うな。馬鹿が馬鹿をやる見世物ってのはどこへ行っても需要があるもんだ。お前にその理由がわかるか?」
机に手を突き、ずいっと堀北の耳元に顔を寄せる龍園。
「見てると心の奥底で実感できるからだ。あぁ、自分は馬鹿じゃなくて良かった……ってな」
吊り上げられた口角が何を意味しているのか、簡単に理解できる龍園の表情に堀北は嫌悪を隠さない。
「初対面だけど、あなたらしいと感じられる下種な思考回路だわ。理解に苦しむわね」
他人を批判的に見下すことはあっても、努力を怠る自分を安心させるために見下すことはない。そんな堀北には理解しがたい考え方だろう。
「そんなことも理解できないようなら先が思いやられるな」
そう言い捨てた龍園は寄せていた顔を引いて元の位置に戻った。
今までの様子を見守っていた綾小路は黙っている箕輪へ視線を移す。不気味な笑みを浮かべたまま介入する素振りがない彼のありようはまさしく他人事のようであった。それを気に食わないと思った堀北が今度は箕輪へとかみつく。
「それにしても、さっきから突っ立ったままニヤついているあなたは何なの? 須藤くんに暴力を振るった張本人のくせして随分とふてぶてしいわね」
彼女の鋭い言葉が箕輪へ向けて放たれたが、彼は表情を変えずに少しも動かない。その状態が数秒つづき、意味が分からないと思った堀北は何の反応もない箕輪を
「……え~とぉ」
何を思い立ったのか、突然話し始める箕輪。
「何だってぇー、堀北クン。え、須藤クンに暴力を振るった? 振るわれたのはうちのクラスだってのに酷いねぇ」
ポケットに手を入れたまま背中を丸め、顔を前に突き出すような姿勢で彼は堀北を否定する。
「違うぞぉ~。君は騙されているんだ堀北クン。本当の悪者は須藤クンなんだよ。あのバスケットマンは君のことが好きで好きで、振り向いて欲しいがために嘘をついているんだぁ。同情できるようなことで気を引いてぇ、君の善意を狡猾に悪用しようとしている」
箕輪の乾いた薄い唇が耳元にまで達してしまうと思えるほど裂けていく。
「気をつけろぉ~」
そう言いながら彼は堀北の顔へと手を伸ばす。彼女に危害を加えるつもりなのか、その魔手はぐんぐんと伸びていく。黙って見ていられなくなった一之瀬が席を立とうとテーブルに手をついたとき、それよりも速く動く影があった。
──パァンッ
神崎が箕輪の手を弾いていた。席を立った彼は龍園と箕輪の両方を視界に入れながら睨みつける。
「龍園、箕輪。お前たちは本当に醜いな。人を蔑み、騙し、陥れようとする。いずれ必ず自らの行いに対する報いを受けることになるだろう」
神崎の言葉を受けた龍園は目を剥き、続いて、くつくつと喉の奥が鳴った。途中から下を向いて
「こりゃ傑作だ。Bクラスには予言者だか、占い師がいたのか? 心底笑えるぜっ」
ひと通り笑い倒した後、一息ついた龍園から笑みが消えた。
「神崎。お前が言いたいのは因果応報のことなんだろうが、そんなものは自分で何もせず祈ることしか能のない負け犬の言葉だ。世の中そんなに綺麗じゃねぇんだよ。悪人が平気でのさばり、天寿を全うするなんてことは珍しくもない。お前の言う通りの世界なら人間を縛るものは何一つ必要ねぇなぁ」
龍園の言っていることは間違いではない。悪いことをした人物すべてに天罰のようなものが必ず下るわけではないからだ。しかし、出来事というものは良くも悪くも何らかの原因と結果で構成されるもの。悪意を振りまけば振りまくほど、敵意を持った人間は増えていく。そうなれば、報復を受ける可能性もおのずと高まっていくことになる。神崎の言い分も極端なだけで部分的には間違っていない。
価値観の相違。そう割り切れるほど目の前の相手に良い感情を抱いていない神崎は黙っていられないのか、抗弁する姿勢を見せるが、それを一之瀬が止める。
「はいっ、もうやめ! これ以上は周りに迷惑がかかっちゃうよ。龍園くんたちも初対面なのに失礼過ぎないかな? これ以上続けるようなら学校側に報告しちゃうからね」
「彼女の言う通りよ。このまま続けても
一之瀬に便乗した形で移動を提案した堀北。それに無言で応じる神崎は席を離れ、綾小路と一之瀬も立ち上がった。席を離れた4人が龍園と箕輪の傍らを通り過ぎる。その瞬間、龍園が言葉を投げた。
──お前ら知ってるか? ここの生徒会長は能力もないのに上級生に
彼の言動に勢いよく振り返った人物が一人いた。堀北だ。
その様子を横目でうかがっていた龍園は薄く笑み、話を続ける。
「単なる噂だと思っていたんだが、
拳を握りしめた堀北は怒っていると傍目にわかる雰囲気で龍園の前へつめよる。静かな怒気を放つ彼女はなかなかの迫力であったが、龍園は平然と顔を突き合わせていた。そして、彼は目の前の相手へ問う。
「どうした? 何を怒っている?」
怒りで我を忘れていた堀北は龍園の言葉と表情にようやく自分が失態を犯したことに気付いた。唇をかみしめ、浅慮な自分の行動を恥じる彼女。佇んだまま打ちひしがれる堀北の様子を龍園は満足そうに眺めていた。
堀北という名字。それだけで親類縁者だと断定できるほど珍しいわけではないが、”佐藤”や”田中”のようにありふれているとまではいかない。生徒会長と1年Dクラスに所属する女の共通する名字から兄妹であることに何となく当たりをつけた龍園は確認のために何かしらの反応を見るつもりで煽った。そこまで期待しているわけではなかったが、予想に反して彼女は良い反応を見せてくれた。この情報は今後何かに使えるかもしれない。
そう思った龍園は馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、堀北に向いていた視線を切り、箕輪を連れ立って、この場を立ち去った。
「……堀北さん」
気まずい空気の中、どのような言葉をかけたらいいのか検討がつかない一之瀬は気遣わしげに彼女の名前を呼ぶ。堀北は顔を向けることなく、自嘲の笑みを浮かべた。
「もうわかっているでしょうけど、生徒会長は私の兄よ。あれだけ優秀な兄に不良品であるDクラス所属の妹がいるとは想像もつかなかったでしょう?」
「そんなことな──」
「気休めはよして。Bクラスのあなたに私の惨めな気持ちがわかるはずもないわ」
一之瀬を遮る堀北。励ましや慰めの言葉は時として相手を傷つけてしまうこともある。精神が不安定な状態の人に対してなら尚更だ。
「……ごめんなさい、醜態をさらしてしまったわね。私から場所を移す提案をしていて申し訳ないけれど、一人にさせてもらえるかしら」
普段の堀北とは違い、力のない弱々しい声は懇願と言っていいほどのものがあった。彼女の胸中に渦巻くのは自分という存在の惨めさと、兄に迷惑をかけることになるかもしれないという不安。
そんな堀北の様子に一之瀬と神崎は顔を見合わせ、綾小路へと視線で合図を送る。意を汲んだ綾小路が頷くと、彼らは静かにこの場を離れていった。
一人残っていた綾小路は堀北を見ていたが、彼女が動く気配はない。そう判断した彼はすぐに体を方向転換させて出口へと向かう。歩きながら時間を確認した綾小路はひどく神妙な顔つきに変わった。彼の思考はある考えにとらわれていたのだ。それは──
……山菜定食、食いそびれたな。
モチベーションにつながるので誤字脱字の報告や評価、感想をよろしければお願いします。
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9話
ルビに関するアンケート結果についてですが、予想以上に拮抗していました。なので、今までよりもルビを少なめにする形で続行しようと思います。
よろしくお願いします。
「──以上だ。ホームルームを終了する。週末だからといって羽目を外し過ぎるなよ?」
Dクラス担任の茶柱が本日の終業を告げた。堅苦しい授業から解放された生徒たちでにわかに騒がしくなる中、綾小路は隣にいる堀北の様子を見ていた。昼休みに龍園たちと一悶着あったせいで精神的にやられてしまった彼女の状態を確認するためだ。淡々と荷物をまとめて帰宅する準備をしているあたり、堀北に問題はないのかもしれない。
「さっきから人のことをじろじろと見ているようだけど、何?」
「いや、大丈夫なのかと思ってな」
「大きなお世話よ。あなたに心配されるまでもないわ」
普通の人なら強がりな発言と捉えることもできるが、不必要にぶっきらぼうで強気な態度は堀北にとっての日常。彼女はいつも通りだった。友人が一人もいなかった環境が強い精神力を育んだのだろう。
席を立ち、鞄を肩にかけた堀北は綾小路のほうを向く。
「神崎くんの言っていたことを冷静にもう一度考えてみたけれど、他に良案もないから彼の案を採用することにしたわ。あなたに任せきりというのも不安になってきたことだしね。有力な情報を提供した人に報酬として与えるポイントはBクラスから借りる。Cクラスの条件を考えれば安い出費でしょうし、使える情報が無ければ、そもそもポイントの支払いが発生しないだけだから負担にはならない」
そう言った堀北は
「ただし、それもあくまで最終手段としての話。神崎くんの案を実行に移すかどうかはあなた次第よ、綾小路くん。もしも上手くいきそうにないなら連絡して。できるかぎり早くね」
自分の言いたいことだけをまくし立てた彼女は相手の返答を待たずに颯爽と教室を出ていった。ひとり取り残される綾小路。彼は溜息をつくと教室を見回す。もうほとんどの生徒は残っていなかったが、いつもなら早々に帰宅する佐倉がいた。
綾小路は佐倉が話をしてくれない場合を想定して、すでに他の解決方法を考えてはいた。しかし、その方法は賭けに近く、須藤や櫛田、Bクラスに協力を求める大掛かりなものとなり、あまり気が進むものではない。実行するかどうかも定かではなかった。そのため、綾小路はできるかぎり佐倉を待つつもりだったが、どうやら今日中に彼女からの接触がありそうだ。
綾小路は荷物をまとめると教室を出る。学校の玄関で靴に履き替え、外に出た彼は通学路とは違う道を行く。あえてひと気のないほうを選んで進んでいくと、ちょうどいいと思える建物の角を曲がり、そばにある壁にもたれかかった。少しの時間をおいて曲がり角から人影が差す。そして、綾小路の後ろをつけていた人物がひょっこりと姿を現した。
「ひゃうっ、あ、綾小路くん!? いや、これは、そのっ、違くて」
いつ話しかけようかタイミングを窺いながら彼を追跡していた佐倉は想定外の状況に混乱する。あたふたとする彼女を落ち着かせるために綾小路は開いた手のひらを相手の目の前まで持っていく。
「大丈夫だ。わかってる。話があるんだろ?」
ゆっくりと紡がれる綾小路の言葉に落ち着きを取り戻した佐倉。
「あの……綾小路くんにお話したいことがあって……今日の夜に私の部屋へ来てもらえませんか?」
たどたどしくはあったものの、やっと言いたいことを言えたのか少しの安堵が彼女から垣間見える。聞く人が聞けば誤解を与えかねなかったが、佐倉の言葉を正しく理解した綾小路は不安を与えないようにすぐさま承諾。彼女は部屋番号と時間だけを告げて足早に去っていった。
「さて、吉と出るか……」
そう呟いた綾小路は通学路から外れた道を修正しながら帰路についた。
ちくたくちくたく。
壁にかけられた大きな時計の休みなく時を刻む音だけが部屋に響く。男女で大きな違いはないワンルームのこぢんまりとした寮部屋に招かれた綾小路は向かいに座っている佐倉が話し始めるのを辛抱強く待っていた。
「あ、あの……箕輪くんのことでご相談したいことがあって。1週間くらい前の話になりますけど」
ようやく話す決心がついたのか、佐倉は特別棟で自分の身に何が起こったのかをポツリ、ポツリと話していく。話をしやすいように適度な相槌をうつ綾小路は話が進むにつれて表情が徐々に歪んでいく彼女の様子を眺めていた。泣き出しそうになるのを必死にこらえているように見える。
「それで……うぅっ、こわぐで。でも、がくすのもづらくて。一人でどうじたらいいのかわからなぐて綾小路ぐんに」
こらえきれなくなった佐倉は目の縁から涙をこぼす。
数秒考えた彼はやはり触れることにした。今の彼女に必要なのはそういう常識ではないと思ったからだ。もし不快であったなら、あとで謝罪しよう。綾小路は気遣うように佐倉をさすりながら口を開く。
「佐倉、とりあえず我慢していたものを今ここで全部吐き出そう。話はそれからでいい」
彼の言葉を耳にした佐倉は勢いよく泣き出す。ここ数日間誰にも打ち明けられず、一人でずっと悩み続けた彼女にとって綾小路の優しさは身に沁みた。
今までためていた気持ちを絞り出すように数分ほど泣き続けた佐倉。しばらくして彼女は冷静になると、近くに異性の顔があり、散々泣いたことで腫れあがった自分の顔を見られている状況に気づいた。
「あ、綾小路くんっ。わ、私ちょっと顔冷やしてくるね!」
急いで立ち上がった佐倉は顔を隠すように洗面所のほうへと駆け込んでいった。それを見届けた綾小路はやることもなくなり、部屋を見渡す。すると、棚の上にあるカメラの残骸が目についたので確認するために歩み寄った。もしかしたらデータを復元できるかもしれない。そんな淡い期待を持っていた綾小路だったが、徹底的に破壊されているそれを近くで見た瞬間に期待は
彼はポケットに手を入れ、携帯端末を取り出す。ひとしきり操作した後、再びポケットにそれを押し込むと綾小路は佐倉が戻るのを大人しく待つことにした。
閑寂の中、時計の秒針だけが一定のリズムで音を鳴らしている。そんな無機質さにどこか懐かしさを感じている綾小路。そうしていると、ようやく顔の腫れが治まったのか、佐倉が戻ってくる。
「もう大丈夫なのか?」
「はい。お待たせしてすみませんでした」
どうやら鬱屈としていた気持ちを全部吐き出せたようで、謝る佐倉の顔は最初よりも幾分かスッキリとしていた。
「落ち着いたみたいで良かった。あと、敬語じゃなくていいぞ。同級生だし、クラスメイトだからな」
「あ……う、うん、わかった。頑張ってみるね」
とりあえず話の続きをできる場が整ったことで早速本題に戻るつもりであったが、綾小路は他でひとつ気になっていることがあった。寮に備え付けられたデスクトップパソコンが置いてある机の上に大量の手紙らしきものがあったのだ。
「少しいいか、佐倉。答えたくなければ答えなくていいんだが、あれは?」
綾小路が指を差すと、つられて視線を移した佐倉の表情が曇る。ややあって彼女はパソコンの前にまで移動すると電源をつけ、あるブログを画面に表示した。
「実はもうひとつ相談事があるの。ごめんね……いっぱい相談しちゃって」
「いや、それはいいんだ。で、もうひとつの相談は?」
「その……信じられないかもしれないけど、わたしアイドルやってるの。あんまり有名じゃないんだけど」
佐倉の話によると、彼女は2年前からグラビアアイドル”
『雫ちゃん、この出会いは運命だ』
『いっぱいお喋りできたね』
『愛してる』
『今日の写真は水玉のバングルと上目遣いが可愛くていい感じだ』
『いつも見てるよ』
『カメラの調子はどうかな?』
『誰も僕らを引き裂けない』
一人のファンによる妄想が行き過ぎたものと捉えることもできるが、それにしては内容が具体的で身の毛がよだつような文字の羅列とも言えた。女性が恐怖を感じるには十分な内容だろう。
この話題に触れたくなさげな佐倉は緩慢に口を開く。
「……綾小路くんも見てわかったと思うけど、ストーカーみたいなことされてて。手紙も1週間前から送られてくるようになったの」
1週間前から送られてきたにしては相当な量の手紙だった。綾小路は佐倉の了解を得て、手紙を手に取り、中身を検分していく。そこにはストーカーの住所や連絡先、愛の言葉、カメラの不具合確認、佐倉の身を案じるような言葉がつづられていた。他の手紙も大体似たような内容だ。文体からしても、ブログに不快なコメントを投稿している者と同一人物であることがうかがえる。
「きっと今もどこかで見てるんじゃないかなって思うと、気持ち悪くて……」
ストーカーへの嫌悪からか、佐倉は自分の身体を抱きしめていた。
そんな彼女を目の端に止めながら綾小路はストーカについて考えていた。彼女につきまとっている人物を特定するのはそれほど難しいことではない。コメントや手紙の内容がたしかなら、この閉鎖された学校の敷地内にいることはすでに確定しているからだ。そして、人見知りの佐倉と接触している人物など限られてくる。綾小路は佐倉にストーカーへの心当たりがないか確認することにした。
「佐倉はストーカーが誰かわかってるのか?」
「……うん、家電量販店の店員さん」
この学校には全国的に有名な家電量販店が敷地内に設けられている。規模は小さいものの、学生が利用する分には十分なものだった。
佐倉はそこでカメラを購入するときにその店員と接触したとのこと。彼女の趣味は写真での自撮りなのだが、カメラについての知識はあまりなく、購入から設定まで父親や仕事の関係者にやってもらっていたらしい。しかし、この学校に入学してからは誰にも頼ることができなくなったのでカメラ購入について途方に暮れていたところ、件の店員に声をかけられたようだ。
家電量販店では学生向けに店員が無料で家電の設定をしてくれるキャンペーンを4月から5月に行っていたので、その流れで佐倉はストーカー店員にカメラの選定から購入、そして設定まで全てをやってもらった。それをきっかけにしてストーカーが始まったのだ。
「佐倉は学校に相談したくないんだろ?」
「……わがままかもしれないけど、あんまり大事にしたくない……から」
今までの彼女の行動や性格を考えれば、簡単に推測できる。おそらく箕輪の件でも目立ちたくないはずだと綾小路は考えた。今回の達成されるべき目標は佐倉を目立たせずに2つの事件を解決すること。言うのは簡単だが、実行することは容易ではない。
ブログを閲覧したり、手紙を見ながら、しばらく思索を深めていた綾小路は一段落ついたのか、佐倉に目を向けた。
「とりあえずストーカーについてだが、一度拒絶の意思表示をしよう。メールか手紙で代わりに俺がしておく。被害者本人が書いてしまうと感情的かつ攻撃的な文章になるかもしれないからな。その後は何もせずに現状維持だ。佐倉は学校が終われば寄り道をせずに帰宅すること。帰り道は堀北に同行してもらうつもりだ。俺だとストーカーを刺激する可能性がある」
同性かつ孤独な帰宅部で格闘術を心得ている堀北はボディーガードとしてはうってつけだ。説得には骨が折れるかもしれないが。
「堀北にも佐倉の事情を話すが、いいか?」
「……しょうがないよね。できれば綾小路くんだけが良かったけど」
「話が漏れることを不安に思ってるなら安心してくれ。俺も堀北も気軽に話をできるような友人はいないし、口も堅いつもりだ」
「えっと……」
不安を和らげるための自虐的なネタなのか、真面目に悲しいことを言っているのか。判断のつかない綾小路の表情に戸惑う佐倉。
そんな彼女に反応せず、綾小路は話を続ける。
「ストーカーからの郵便物は触らずにポストへそのまま放置しておいてくれ。俺が確認する。もしかすると危険なものが入ってるかもしれないからな。そして、ひとけのないところには行かない。ストーカーに対して何らかのアクションを起こすのはもってのほかだ。あと──」
話を中断した綾小路はポケットを探り、携帯端末を取り出す。
「連絡先を交換しよう。何かあったときは遠慮なく連絡してくれ。もちろん、愚痴でもかまわない。ストレス発散は必要だからな」
佐倉の目の前に差し出される綾小路の端末。彼女がこの学校で唯一連絡先に登録しているのは櫛田桔梗ただひとり。それも、櫛田の雰囲気に流されてなかば強引な形で交換されたもの。そのときに佐倉は別段の感慨も抱かなかったが、今は違う。すでに佐倉は綾小路を信頼していたので彼女にとっても嬉しい申し出であった。
「う、うん。ありがとう綾小路くん」
綾小路の連絡先を新たに登録した携帯端末を見る佐倉の頬にはほんのりと赤みが差していた。つづいて綾小路は箕輪について話を切り出す。
「そして箕輪の件だが、何もしなくていい。むしろ、しない方がいい」
綾小路の言葉に佐倉は首をかしげた。
「理由は被害者である須藤がそもそも問題にする気がないからだ。佐倉には理解できないかもしれないが、男のプライドとか美学みたいなものが絡んでいる。だから、告発しないことを佐倉が悪く思うことは何一つとしてない。須藤のことを考えてくれるなら静かにするのが正解なんだ」
綾小路は苦しんでいた佐倉を表に引っ張り出すことを断念した。写真という証拠を隠滅された状況で彼女に協力してもらったところで、大して形勢が良くなるわけでもなく、いたずらに周囲の目を引くだけだからだ。
「ほ、本当に黙ってていいの?」
「ああ。何も悪くないどころか、須藤にとってはありがたいだろうな」
佐倉の苦しみの根源は事件を秘匿することで生まれる須藤への罪悪感。当の被害者が告発を望んでいないというのであれば、その罪悪感は筋違いなものとなる。
完全に解決したわけではないが、ここ数日において佐倉の頭を悩ませた問題がほとんど解消されたといってもいいだろう。肩の荷がおりた彼女は憑き物が落ちたように悲壮感が消え去っていた。ようやく佐倉の辛く孤独な戦いは終わったのだ。
「……ありがとう、綾小路くん」
彼女の感謝を聞き届けた綾小路。疲れたような笑みを浮かべた佐倉が映りこむ彼の瞳には妖しげな揺らめきが宿っていた。
校内の1階にあるカフェ・パレット。学内でも1,2の人気を争うお店は清潔感のある白を基調とした、大きな窓ガラスが開放的な空間を演出するお洒落な内装だ。会話を邪魔しない静かなBGMと適度な空調、他人の目線が気にならないゆったりとしたテーブルの間隔はつい時間を忘れさせるほどに居心地の良さを感じさせるだろう。時間にもよるが、平日でも大抵の場合で席は7~8割ほど埋まっていて、休日の今日はほとんど満席に近いという活況ぶりである。
そんな賑わいを見せるカフェの奥のテーブル席に伊吹がいた。彼女の目を釘づけにしているのは美しい食器にのせられたチーズケーキと蜂蜜の入っている小瓶。伊吹はおもむろに瓶を手に取り、黄金色に輝く雫をケーキへ垂らす。そして、フォークで食べやすいサイズに切り分けて口へと運んだ。
すると、濃厚かつ上品な味わいのチーズと癖のない甘さの蜂蜜が絡まり合いながら崩れ、口の中で踊った。チーズの心地よい豊かな香りが
しばらく余韻に浸る彼女であったが、カチカチと右のほうから聞こえる
「……ちょっと、みっともないからやめてくんない? あんたのせいでケーキが台無しになるんだけど」
隣に座っている石崎に対して伊吹は注意を促す。しかしながら、彼は目の前のスイーツに夢中で反応する様子はない。
「
意味のわからない言葉をつぶやき、一人でうなずきながら納得する石崎。一品目を完食した彼はすかさず二品目のパンナコッタに手を伸ばすも、焦りからか、手元が狂ってしまいデザートの入った容器を倒してしまった。
「俺の
石崎の場違いな大きい声にカフェを利用している生徒たちは奇異な目を向けて迷惑そうな表情を隠さない。彼の悲痛な叫びは”同情”ではなく”ひんしゅく”を買ったようだ。隣で恥ずかしさと怒りを必死に押し殺した伊吹は額に手をあて疲れたように溜息を吐く。
「
石崎の奇行も束の間、夏の暑さを吹き飛ばすような寒いおやじギャグが真正面のアルベルトから聞こえてきた。彼は本当に日本語が不得意なのかという疑念がぬぐえない伊吹。癒される目的でカフェを訪れている彼女はこれ以上自分の体力を浪費させないために、くだらないことを言うなと釘を刺す意味でアルベルトをしっかり睨みつけておく。
「──あ?」
伊吹の絶対零度の視線にアルベルトは小動物のように身を縮こませ、目を逸らしながら紅茶を口に持っていく。
「
左隣に座っている椎名からの気の抜けるような言葉に毒気も抜かれてしまった伊吹は言われるがままに口へと運ばれたケーキを食べる。が、そうじゃないと気を取り直し、椎名の方へ顔を向けた。
「あのさぁ、一緒にカフェに行くのはいいんだけど、なんでこいつらも一緒なの?」
「ティータイムを楽しむ友人は多いほうが良いと思いまして。こうして友人とお茶会を開くのは初めてです。楽しいですね」
相好を崩し、ほんのりと上気させた表情を隠すように椎名はかるく合わせた手のひらを口元へ持っていく。素朴で慎ましいながらも美しさを感じさせる彼女の笑顔に、伊吹は自分自身が小さなことにこだわる狭量な人物のように思えた。ささやかとも言える椎名の幸せを邪魔するのは気が引ける。伊吹は手つかずであったコーヒーを砂糖も入れずに喉へと流し込んだ。
「龍園くんと箕輪くんもお誘いしたんですけど、断られてしまいました。残念です」
椎名からは言葉ほどに沈んだ様子が感じられない。誘いに応じてくれない可能性が高いことをわかっていたようだ。
「まぁ、龍園さんたちはDクラスに仕掛けてる最中だから忙しいだろ。仕方ないんじゃねえか?」
自らの不手際でこぼしたデザートを処理し終えた石崎は空になった容器を恨めしそうに見つめながら返答する。そんな彼とは対照的に、龍園たちが来ないことを知った伊吹は心労が重なることはないようだと安心して体が軽くなった。心なしかケーキを食べ進む調子が上がったように見える。
「これ、良ければ差し上げましょうか?」
不意に、音律的魅力を感じさせる澄んだ鈴の音のような声が響いた。4人が音の方へ顔を向けると、そこには浮世離れした雰囲気をまとう
「ああ、これは失礼いたしました。隣から大きな悲鳴が聞こえてきたものですから、つい。1年Aクラスに所属する
軽くお辞儀をする動作ひとつひとつに気品が感じられ、理知的な光を湛えた力強い瞳は心の奥底まで覗き込まれると錯覚してしまうほどに落ち着かない気分にさせる。彼女が学年の中で最上位に位置するAクラスの生徒であることが判明し、Cクラスの面々はますます警戒心が高まっていた。
「どうぞ」
「あっ、どうも」
坂柳は白魚を思わせる美しい手を差し出し、石崎の近くにそっとデザートを置いた。周囲が非難の視線を投げかける中、自らの悲しみに寄り添って食べ物を恵んでくれる女の子の登場に石崎は淡い感動を抱く。悪いヤツなわけがない、彼はそう思った。彼女に対する警戒心は一瞬で消えてしまう。照れ笑いを浮かべながら気を許す石崎を見ていた伊吹はこの流れをなんとなく嫌い、待ったをかける。
「いまどき小学生だって食べ物で釣られないのに、なに気ぃ許してんの? 毒でも入ってたらどうするわけ?」
「うぇっ!?」
伊吹の思わぬ指摘に石崎は焦る。
「澪ちゃん、それは流石に坂柳さんに対して失礼かと思います」
暴言ともとれる伊吹の発言を椎名はやんわりとたしなめた。
「それに毒で石崎くんを害する理由もないですし、何のメリットもないですよ」
「彼女のおっしゃる通りです。騒ぎを起こすだけで、むしろ不利益を被るのはこちら側ですから」
「……たしかに、石崎なんてCクラスの下っ端をやっても何にもならないか」
女子3人の事実に基づく遠慮のない意見は石崎のガラスの心を容易に砕く。
「ひどい、ひどすぎる、あんまりだ。俺はただ
悲しい現実に気持ちのやり場を失った石崎は顔を机に突っ伏した。アルベルトが慰めるように彼の背中をさする。
「おいおい、茶番やる暇があるなら俺たちを紹介してくれないか、リーダー?」
今に至るまで黙ったまま坂柳の背後に控えていた3人のうち、ひとりの男から声が発せられる。どうやら手持ち無沙汰な立場に居心地の悪さを覚えていたようだ。
「ふふっ。すみませんでした橋本くん。なにぶんAクラスでは起こり得ない新鮮なやり取りだったもので」
謝罪を口にした坂柳は連れている仲間を紹介するような立ち位置に杖を突きながらゆっくりと移動し、到着すると体の向きを元に戻した。
「それではCクラスの皆さん、クラスメイトをご紹介いたします。右から順に、まずは橋本くん」
「よろしく」
軽快な調子の声で挨拶をするのは橋本正義。深めのツーブロックをサイドに入れ、長い金髪を後頭部辺りで束ねている。どこか飄々としたものを感じさせる男だ。
「次に、鬼頭くん」
「……」
無言のまま佇んでいるのは鬼頭隼。男としては風変りと言えるほどの長髪であり、眉毛もなく刃のように鋭い目は異様な相貌といえた。手がかじかむ季節でもないのに黒い手袋をしている姿がさらに異質さを際立たせている。
「そして最後に、神室さんです」
「……どうも」
視線を余所に向けながら愛想の感じられない言葉を発する女生徒は神室真澄。ピンクベージュ色の腰まである長い髪を一部分だけ掬い側頭部で束ねている整った顔立ちの少女。先ほどの挨拶といい、居合わせた時から変わらない不機嫌そうな表情は本人のとっつきにくい性格をわかりやすく表していた。
そうして紹介を終えた坂柳はCクラスに視線を配る。
「では、Cクラスの皆さんも自己紹介をお願いできますか?」
紹介されたなら、こちらも紹介するのがマナーというもの。不信感はあるものの、Cクラスも順番に自己紹介をしていく。ちなみに最後まで渋っていた伊吹は椎名に諭され、仕方なく応じていた。
お互いのやり取りも一段落したところで、伊吹がさっそく本題に切り込んでいく。
「で、あんたたち何なの? 何が目的? ふつーに迷惑なんだけど」
「他クラスと交流を持つというのも学校生活における醍醐味の一つではありませんか?」
伊吹の疑問に坂柳が答えた。
「どうだか。怪しさしか感じないんだけど」
「伊吹さんは……とても臆病なのですね」
「……は?」
「クラス間の競争が前提となっているこの学校で他クラスに一定の不信感を持つことは理解できます。しかし、今は試験が行われているわけではありませんし、常に気を張り続けるというのも非効率なのでは? それに、相手が悪意を持って近づいてきているのであれば、それを見極めて逆に利用してしまえばよいだけのことだと思いますよ。正当な理由もなく、なんとなく怖いから、不安だから遠ざけるというのは”慎重”というよりも”臆病”と言えるのではないでしょうか? 石崎くんはどう思われます?」
突然、坂柳は石崎の方を向いて疑問を提起する。彼としては女同士の戦いに巻き込まないでほしかったが、そうもいかなくなった。石崎は腕を組み、考え込むような姿勢をとる。本来ならクラスメイトである伊吹の味方をするべき場面なのだろうが、坂柳の優しさに触れてしまっている身としてはそうもいかない。しかも、坂柳のほうが正論らしきものを言っているのだから尚更だ。両方からくる圧力で板挟みになりながら、彼は苦しそうに喘いでいた。
「えーと、その……なんだ」
なんとも煮え切らない石崎の態度にイライラを募らせる伊吹は彼を無視して話を続ける。
「そういうあんたもわざわざ他クラスに接触しにくるなんて臆病なんじゃないの? トップにいるんだったら、小賢しいことしてないで偉そうにふんぞり返ってたら?」
「能力に胡坐をかき、研鑽を怠れば、築き上げた地位などすぐに陥落します。トップを維持するということは伊吹さんが考えているよりも優雅なものではないのですよ? ……ああ、すみません。頂の上に立ったご経験のなさそうな伊吹さんに想像を求めることは酷でしたね」
伊吹の煽りを秒で煽り返す坂柳。どうやら言い合いでは伊吹に分が悪そうだ。
思うようにストレスが発散されない状況に怒りが頂点へさしかかった伊吹はゆらりと立ち上がる。
「あんた……杖ついてたら手を出されないとかタカくくってるわけ?」
「そうは思っていません。ただ、この状況で手を出すほど伊吹さんが愚かではないと確信しているだけです」
「そう。ならその確信を裏切ることになるかもね」
不穏な伊吹の言葉に対して、坂柳の隣に控えている鬼頭がいつでも動けるように態勢を整える。
そんな相手の様子を見ていた伊吹は睨みつけながらも、実は困っていた。腹を立てているのは事実であり、殴りつけたい気持ちも嘘ではないが、流石に大勢の人がいる場所で本当に殴り合いの喧嘩をするつもりはなかったからだ。もしもやり合うことになれば、自分だけでなくCクラスに迷惑がかかってしまう。かといって、売り言葉に買い言葉で席から一度立ち上がったのに自分から引くことは格好がつかない。ジレンマに陥る伊吹は内心をおくびにも出さず、なおも相手を睨みつける。
この場になんとも言えない息苦しさを感じた石崎は縋るように椎名へ目を向けた。その眼差しから何を訴えているのか彼女は理解する。椎名はたとえ石崎からの合図がなかったとしても動くつもりであった。調停者が必要な伊吹の状態に気づいていたからだ。
椎名が坂柳に対して顔を向け、苦言を呈しようとするまさにそのとき──
「ヒヒ、こんな茶店で大所帯たぁどうしたよ、揉めごとかい?」
どこかしら物見遊山を感じさせる軽い調子の声が荒れた場を中和させる。
「アニキ!」
「箕輪!?」
石崎は喜色をあらわし、伊吹は戸惑いをあらわにする。そこにはこの場に現れる予定のない人物である箕輪がいた。独特な不気味さを漂わせる生徒の乱入にAクラスの生徒たちも視線を注ぐ。
「なんであんたがここに……」
「ポイントに喧しいのが隣にいたからねぇ。誘いを断ったわけだが、メールをよーく読んでみると奢りって書いてあったもんだからよぉ、こりゃあお呼ばれされないわけにもいかないってなもんでさぁ」
箕輪は伊吹の疑問に答えながらテーブルの上に目をやると、瓶に入った新品のデザートが見えた。不意にテーブルへと手を伸ばす。その行動を見ていた石崎の表情はサッと青ざめるが、彼は何も言えない。箕輪がパンナコッタをつかみ取って口元まで持っていき、傾けて一気に丸呑みするのを断腸の思いで石崎は見つめていた。そんな彼の悲しき視線に気づいた箕輪は空の瓶と石崎とを交互に見比べ、状況を察する。
「これ石崎クンのだった? 悪いねぇ、ご馳走になっちゃって」
「……いえ、貰いものですから。アニキが喜んでくれたならそれで十分です。それよりもアニキはなんで制服なんですか? 今日休日っスよ」
「制服以外の服がないからねぇ」
「ええっ!? 買いに行きましょうよ。俺とアルベルトもついていきますから」
石崎の提案にアルベルトも頷く。聞いていた箕輪はいつものように感情の読めない皮肉気な表情で伊吹のほうを見た。
「なぁ、伊吹クン。俺がおしゃれな店で鏡を前に服をとっかえひっかえしてたら、どう思うよ?」
箕輪は買い物に気が乗らなかったようで、あえて否定的な意見をする可能性の高い伊吹に話を振る。
「……簡潔に言ってキモい」
「ヒヒッ、まったく酷い言い草だねぇ。簡潔すぎて思いやりの欠片もないが、まぁそういうこった石崎クン。着道楽する暇があるなら、食べ物のひとつでもつまんでる方が性に合ってる」
断られた石崎は「ずーっと、制服じゃ不便っスよ」と不満気に言葉を漏らすが、それ以上は追及しなかった。
「まぁまぁ、こっちも鬼頭が制服だし、おあいこってことでいいんじゃないか?」
箕輪が現れてから蚊帳の外に置かれていたAクラスの一人、橋本が話に割って入る。なにが”あおいこ”なのかはよく分からないが、無理に話をつなげたあたり、静観することに痺れを切らしてしまったらしい。
「どうやら待ちくたびれちまったようだな。そんじゃ、あちらさんに話でも聞かせてもらおうか……と言いたいところだが」
箕輪の目がある人物に留まった。彼は顎を擦りながら値踏みするように視線を這わせる。
「しかしまぁ、近くで見るとお人形さんみたいだねぇ。そんな小さな体でAクラスの二大派閥の片側をまとめてるんだから大したもんだ、おチビちゃん」
「……ヒヒッ、本気かい? こんな場所でやろうっての? 忠犬ぶりも度が過ぎるといけねぇなぁ」
相手を鎮める気が微塵もない箕輪を無視して、鬼頭は嵌めている黒い手袋に手をかける。片方の素手が剥き出しとなり、もう片方の手袋を外すために一瞬だけ彼は視線を落とした。その時、いつのまにか距離をつめていた箕輪が鬼頭の手をつかんでいた。
「おい、もじゃ男。その手袋にどういう意味があるのか知らねぇが、よーく考えてから……手を抜けよ」
深い眼窩の奥で、ぞっとするような暗い嫌な光を湛えながら箕輪はじっと目を合わせる。
「お前さんは抜ける人間なのかもしれないが、俺は手を抜けない人間なんだぁ」
そう言うや否や、肌を刺す冷気と錯覚するほどの暴力的な気配が箕輪から漏れ出した。鬼頭はつかまれた腕を動かそうと前後に力を加えるが、岩にくくりつけられたかのように微動すらしない。振りほどくことを諦めた彼は怯むことなく相手を凝視したまま空いている手で握り拳を作り、いつでも打ち込めるように構えた。近距離で視線をぶつけ合う両者の間には隙間がないほど極度に張りつめた重い空気が漂い始める。
相対する二人を見守っているAクラスとCクラスの面々はこんな場所でまさか争うわけがないだろうとは思うものの、肌をひりつかせる一触即発の様相は万に一つの可能性が現実になるのではないかとも思わせる。口を挟みたくとも、何をきっかけに事態が悪化するかわからない。制服の下で冷たい汗が一筋、背中から流れ落ちていくのを伊吹は明確に感じていた。
どちらから先に動き出すか、相手の動向を探るように静かな睨み合いが続く。そんな固唾をのんで見守る状況に椎名は局面が争いへと展開してしまうことを防ぐため、恐れずに言葉を口にする。
「箕輪くんの失言は彼に代わってお詫びします。そして、Aクラスの皆さんにご忠告しておきますが、こちらから箕輪くんを止めることはできません。なのでAクラスの方に引いてもらうしか争いを回避する手段はないということです。Aクラスにとってこの争いに利があるとは思えませんので、そちらから場を収めていただけると助かります」
膠着した状態を利用して、冷静になる機会を提供する椎名。彼女は制御できない箕輪を無理に説得するのではなく、制御できない事実をあえて相手に伝えることでAクラスを脅し、自分の望む流れへと誘導する。振り上げた拳を下ろすのはCクラスではなく、Aクラスであると。伊吹をからかったことへの意趣返しも兼ねていた。
椎名の機転に石崎とアルベルトは感嘆の念を抱き、伊吹は複雑な感情がさざなみ立つように揺れ動く。
「……」
橋本はチラリと視線を動かした。
現在のクラス間競争においてトップを走っているAクラスが問題を起こして得られるメリットは何ひとつなく、デメリットしかない。ただでさえクラス内部で対立してエネルギーを割かれているというのに、現在もDクラスに仕掛けているような揉め事を好むCクラスとやり合うのは手間であり、軍事戦略上の愚である二正面作戦を行うようなもの。Cクラスを共通の敵としてAクラスの派閥がまとまれるのであれば、また話は違ってくるが、それも期待できない可能性が高い。むしろ坂柳派が無用な問題を起こしたとして、これ幸いと葛城派に糾弾されるのがオチだ。
そんなことは他クラスに言われずともわかっていたが、今の鬼頭を止めることは坂柳以外にできない。神室はクラスの一員であるにもかかわらず無関心。表情には出さないが、どうするんだという心情で橋本は何故か今までに動きを見せない坂柳をうかがう。すると、一時的に静止していた動画が再生されるように彼女の口が開かれた。
「鬼頭くん、矛を収めてください」
坂柳の一言で何も言わずに握り込んだ拳を解き、手を下ろした鬼頭。それを見ていた椎名は心配そうな顔をしながら箕輪に声をかける。
「箕輪くん……」
「……ふへっ、冗談だよ、冗談。そう心配しなさんなって」
箕輪はつかんでいた腕を離す。先ほどまでの闘争寸前であった場面など存在していなかった。そう思えるほど箕輪の様子は全くあっけらかんとしていた。
つかまれていた腕の手を開いたり、閉じたりして問題ないことを確かめた鬼頭は距離をとり、当初の位置に戻る。それを確認した坂柳は落ち着いた佇まいで
「少々戯れが過ぎたようですね。お邪魔したお詫びといっては何ですが、ここは私たちがお支払いしておきましょう」
と告げた。彼女は箕輪へと近づき、ポイントを送金する手続きを行う。1万ポイントが振り込まれたことを確認する箕輪。
「悪いねぇ、気を遣わせちまったみたいでよぉ」
「いえいえ、お構いなく。それではご機嫌よう、Cクラスの皆さん。龍園くんにもよろしくお伝えください」
そう言い残した坂柳率いるAクラスは大人しく引き上げていった。
AクラスとCクラスの騒動が終息し、何とも言えないしらけた静寂が訪れる。そんな中、不意に静けさを破ったのは意を決した椎名の声だった。
「皆さん、これよりデザート食い倒れ大会を開催します。今日は箕輪くんだけでなく、皆さんにご馳走しますね。好きなものをいただいてください」
突然の提案に気圧された伊吹は戸惑いながらも疑問を口にする。
「ちょっと、いきなりどうしたの? ひより」
「実は以前に龍園くんから報酬として結構なポイントをいただいていたのですが、私ひとりだと使う機会もあまりなかったのでちょうど良いと思いませんか?」
6月頃、賭け試合を行う部活を選出する作業に協力していた椎名は龍園から報酬をもらっていたのだ。ポイントをあまり使わない彼女は今日までポイントを持て余していた。
「でもそれは……あんたが貢献して稼いだものでしょ? なにもこんな奴らに振る舞わなくてもい──」
伊吹が言い切る前に石崎が彼女の腕をつかんで強引に引っ張った。
「ちょっと、何すんのっ」
「バカお前、椎名なりに悪い空気を変えようとしてんだからここは乗るんだよ。ったく、これだから友達いねぇヤツは」
呆れと小馬鹿が混ざった表情で忠告する石崎。その腹が立つ顔を見ていた伊吹は
──ダンッ
間髪いれずに石崎の足を思い切り踏んづけた。
「いぎぃっ!」
足下から急速に立ち昇る刺激に思わず奇声を出してしまう石崎。彼は痛みを誤魔化すためにぴょんぴょん跳ねながら周囲を回る。伊吹はおもむろに椎名へ近づくと石崎を指差しながらこう告げた。
「ひより、見て。あいつの喜びの舞」
「まぁそんなに喜んでいただけるなんて……提案した甲斐がありましたね」
涙を流しながら跳ね回る石崎の姿を見た椎名は両手を合わせて喜んでいた。
「
アルベルトは遠い眼差しをしながら親指を立てる。
そんな和気あいあいとした彼らのやり取りを意に介さず、箕輪は去っていった坂柳の方向を見ていたが、隣に並んできた人物が彼の注意を引く。
「まさか、あんたが来るなんてね。……でも、まぁ助かった。ありがと」
図らずも箕輪の登場によって、自身の引くに引けない状況を救われる形となった伊吹は彼に礼を言った。
「今一つ礼を言われる状況はわからんが、あの伊吹クンが俺に感謝するなんてねぇ。こりゃあ今夜の天気は荒れそうだぁ」
「言ってろ。あんたに感謝するよりも私なりのケジメっていう意味合いのほうが強いから。そこんとこ勘違いすんなっつーの」
そう言葉を口にする伊吹の声からは満更でもない調子がうかがえたのであった。
Cクラスと別れ、カフェを後にするAクラスのグループは杖を突く坂柳の歩調に合わせて緩やかに移動していた。グループのひとりである橋本は先ほどのCクラスとの接触である疑問を抱いていた。彼はその疑問を坂柳へと投げかける。
「結局のところ、リーダーの目的は何だったんだ? 別に疑ってるわけじゃないんだが、Cクラスの情報を仕入れるならもう少し粘ったほうが良かったんじゃないか? 毛色の違うヤツも途中から来たことだし」
坂柳は一定のリズムで杖をつき、視線を前へと向けながら返答する。
「種をまいていました」
「種?」
話が見えない橋本。
「知ってか、知らずか、人は種をまいて生きています。その種が瑞々しい果実となるか、身を滅ぼす猛毒となるのか、芽を出さずに終えるのか。人と人とが干渉し合い、状況が常に変化していく中でそれを完璧に予測するのはほぼ不可能でしょう。時間の軸が長くなれば、より複雑に絡んでいきます」
「……えーっと、つまり?」
坂柳はかすかな愉悦と恍惚が混じり合った流し目を橋本へと送る。
「つまり、退屈しのぎの些細な遊びということです。それ以上でもそれ以下でもありません。他クラスの動向にアンテナを張るのは重要ですが、それよりもまずAクラスに必要なのは組織の意思を統一させることですから」
「……なるほど」
納得できるような、できないような、煙に巻かれた感のある橋本であったが、それ以上その話を続けることはなかった。その代わりにもう一つの疑問をぶつける。
「話は変わるが、リーダーはあの気味悪いヤツが現れてから穏やかじゃないように見えた。……もしかして知り合いなのか?」
──カツンッ
地面を突く杖の音がひときわ響いた。坂柳が歩みを止めたからだ。
なぜ坂柳は箕輪が現れたときに目立った反応も見せずに静かだったのか。それは、彼を間近に見た坂柳の頭の中で数年前の幼少の記憶が唐突によみがえっていたからだ。
幼い彼女の目の前には、恐怖や混乱をあらわにしながらも必死に職務を全うしようとする複数の警備員らしき人たち。壁となっている人たちの隙間から見え隠れするのは無彩色に閉ざされた世界が熱を持ったかのように赤く染まる光景。彼女の耳を支配していたのはグチャリゴキリと繰り返し繰り返し不気味に響きわたる湿り気の混じった異常な破砕音。あたりに強烈な臭気が立ち込める中、佇む一匹の怪物が無邪気な殺意を向けていた。
まだ……だっ…………りねぇ。ぐっ……いてえ。
幼いながらも自尊心の強い坂柳は泣き喚くような無様な真似を晒すことはなかった。しかし、骨の髄にまで突き刺さる純粋な殺意を向けられた彼女は自分の中で新たに生まれた未知の感情を持て余してしまう。どう処理してよいかわからず、混乱と焦燥からか、幼い坂柳の小さな体は自らの意志に反してブルブルと震えだす。彼女はその日、初めて”恐怖”という名の屈辱を覚えたのだ。
脳裏に刻まれたあの日を再び思い出していた坂柳はしらずしらずのうちに杖を掴んでいる手に力をこめる。神室は今まで見たことのない坂柳の雰囲気に目を見開く。まばたきを忘れてしまった瞳が乾燥による刺激を感じて、痛みが走った頃、我に返った神室は困惑ぎみにまぶたの上下運動を再開した。
「……あんた、どうしたの?」
坂柳の様子を訝しんだ神室が声をかけた。彼女の声で坂柳は意識を過去から現在へ戻すと、先ほどCクラスと居合わせたときにはできなかった思考を始める。
普通に考えれば、箕輪勢一と浮かび上がった過去の人物が一致するということはまずありえない。過去の状況を考えれば、この場に存在していることが不自然過ぎるからだ。一体どういった力学が作用すれば生きていられるのか。箕輪勢一を件の人物だと断定することを彼女の論理が否定している。だからといって自分の直感を蔑ろにできるほど、坂柳は自分の能力に疑問を持っているわけではない。
情報が少なすぎるために、これ以上は思考の海の先を進むことができないと判断した坂柳はとりあえず箕輪勢一という人物を新たな情報として記憶する。情報の処理を終えた彼女は何事もなかったと感じさせる優美な動作で神室に顔を向けた。
「どうしたとは? どうもしませんよ、真澄さん」
「いや、どうもしないって……明らかにおかしかったんだけど」
「先ほども申し上げたとおり何もありません。……もしや真澄さんは私のことを心配してくれているのですか?」
「……そんなわけないでしょ」
「そうですか、それは残念ですね。友人としては悲しいことです」
全く残念さを感じさせない意地の悪い笑みを坂柳は浮かべていた。疑問には答えてもらえず、一部始終を黙って見ていた橋本は「箕輪……ねぇ」と興味深そうにつぶやく。
「ところで」
坂柳は鬼頭に視線を向ける。
「どうでした、鬼頭くん。相手の力量は測れましたか?」
坂柳は気づいていた。本気で殴り合いをするかのように鬼頭が振る舞っていたのは相手の反応や強さを確かめるためであると。人目の多い場所で暴力を行使するほど鬼頭は愚かではない。
「……強いな。少なくとも膂力という点ではどうしようもなかった」
「ひゅー、マジかよ」
口笛を吹きながら驚きを露わにする橋本。Aクラスの中でも体格が大きく、屈指の身体能力を持つ鬼頭がパワー負けするとすれば、Cクラスの黒人ハーフくらいだと思っていたからだ。
「おやおや、鬼頭くんにしては随分と弱気なことですね」
「……俺は事実を言っただけだ。だが坂柳」
言葉を切った鬼頭は坂柳のほうへゆっくりと頭を回転させる。
「お前が望むのであれば、誰が相手であろうと俺が潰す。当然そのための手段は選ばない」
垂れている長い髪の隙間から覗かれる鬼頭の瞳には爬虫類を思わせる冷たさが閉じ込められていた。視線を合わせていた坂柳は満足そうに笑みを浮かべる。
「安心しました。そう簡単に暴力を振るわれるような状況にはさせないつもりですが、万が一ということもあります。この世は往々にして運に左右されることも多いですから。その時がくればよろしくお願いしますね、鬼頭くん」
そう告げる彼女の艶めかしい唇はかすかにも皮肉な形に歪んでいた。
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10話
──暑い
厳しい真夏の陽ざしがあらゆるものの上に降りそそぐ中、龍園は思った。食料品店を出た彼は袋を片手に複数の商業施設が立ち並ぶ綺麗に整備された通りを歩いていく。まだ外に出て数十秒程度しか経過していないにもかかわらず、体からは汗がにじみ、大きな粒となったものが服の下で肌をつたった。
不快だ
体温の恒常性を維持するための健全な生理的反応である発汗活動。それを嫌悪した龍園が空を見上げると、燦然と輝く太陽の近くを大きな雲のかたまりが漂っていた。あたりを埋め尽くすほどの規模だった。風の流れを考えれば、あと数十分で日光を侵食するはず。そう考えた彼は最寄りの商業施設へと避難した。
大きな自動ドアを通り抜けると、途端に冷気が肌をかすめる。気を良くした龍園は手頃なベンチを探すため、あたりに視線を飛ばすと、8人ほど座れそうな大きい長椅子が見つかった。彼が歩み寄ろうと足先を目的地に向けたとき、一人の女がベンチへと座った。
その女は周りに目もくれず、堂々と長椅子の真ん中を位置取ってスラリと長い足を優美に組んでいる。白銀の光沢を帯びた艶のある長い髪に、女性としては高そうな身長、ハッキリとした目鼻立ちは性別を問わず惹きつけることだろう。
龍園は眉間周辺にしわを寄せ、顔を歪ませる。自分が座ろうとしていた矢先に現れた女の存在が気に食わないからだ。龍園はつかつかと椅子の前まで来ると、勢いよく腰を下ろした。我が物顔で背もたれに手をまわし、座っている女と密着してしまうほどの距離で。女の意識が隣の龍園に向く。
「なんだ、ナンパか」
やれやれといった少しの呆れと、異性に言い寄られる状況に疑問を持たない口振りだった。隣の女が自分に話しかけていることを龍園は分かっていたが、あえて反応しない。
「先輩を無視するとは酷いじゃないか、龍園翔」
彼女の言葉を受けた龍園は少しの警戒と好奇を含んだ視線を隣に向けた。そこには美女が薄笑いを浮かべている。
「お前は誰だ、なぜ俺のことを知っている、といった顔だぞ。そうだな……私の質問に答えたなら教えてやろう」
とりわけ、龍園翔という名前を知っている人がいてもおかしいということはない。手押し相撲という大きなイベントを行った1年生として認知している人はそこそこいるからだ。しかしながら、競技者でもない龍園の名前と顔が一致するという人は他学年においてはかなり少なくなるだろう。
1週間あるイベントで彼が顔を出したのは2,3回。顔と名前が一致するような場面、たとえば龍園が誰かに名前で呼ばれているときに見た、といったような偶然は考えにくい。堀北生徒会長のような性格で立場と権限があるならいざ知らず、他学年のことなど何らかの意図を持って調べないと知りえないはずだ。
そう考える龍園は相手の思惑がどうであれ、どうせ日が陰るまで時間を潰さなくてはならない。彼は静かに相手の出方をうかがった。
「あちらを見たまえ」
彼女の声で龍園は目線だけを動かす。おそらく友人同士で遊びに来たであろう団体がいくつか目に入る。
「ペンギンが群れるのは理解できる。彼らは捕食者から身を守り、極寒という厳しい環境を生きていかねばならないからな。だが人間は違う。人は社会と最低限の繋がりがあれば生きていける。それにもかかわらず必要以上に群れたがるのは何故だろうな」
「……いくつか理由は考えられるが、おおかたは一人だと不安だからだろ。群れると安心できる」
行き交う人々を見ながら答えた龍園に対し、若干の失望を瞳に滲ませる女。ありきたりでつまらない、彼女がそう思った理由は暇つぶしに読んでいる書物で龍園の発言と似たような内容を何度か目にしたことがあるからだ。独創性のある意見というものを期待するのは難しいのかもしれない。
平凡な回答ではあったものの、返答してくれた男に彼女も応じなくてはならない。女が事務的に口を開きかけた時、龍園が遮るように話を続ける。
「俺は人間のそういう在り方、好ましいと思うがな」
女は動きを止めた。疑問が彼女の中で湧く。
人間の全てを見た目で判断できるわけではない。しかし、容姿が人物を見極めるための一定の判断材料になっていることも否定できない事実だ。詐欺師も人を騙すために見た目には嫌というほど気を遣うらしい。
彼女から見れば、龍園は健全な学徒には見えない。外見だけではなく、立ち振る舞いからもそれが見てとれる。群れることに対して好ましいという発言と彼の印象が一致しない。いや、少数派のはみ出し者だからこそ、弱者に理解があるのかもしれない。
女はふたたび龍園に少しの興味を抱いた。
「ほぉ、これは意外だ。君とはいま初めて会話を交わしているのだから、君のことを深く知っているわけではない。だが、私から見る君の第一印象と発言のイメージが合わないな。存外に博愛の精神でも持ち合わせていたのか?」
「博愛……か。間違っちゃいないな。愛してるぜ」
龍園は目線を女へ戻す。
「忘れやすく、騙されやすく、流されやすい。群れるだけで安心して思考停止するような
そう言い放った龍園の口元には罠にかかった無知な獣を見下すような冷笑がかすめていた。
「……フフッ、第一印象に反して人間の弱さに理解を示す人格者かと思いきや、弱さにつけ込む利己主義者だったか。質問の趣旨とは違うが、今のはそこそこ面白かったぞ」
先ほどとは打って変わり、笑みを浮かべる女。
「2年の
どうやら鬼龍院はイベントを通じて龍園に関心を持ち、彼のことを調べたようだ。
「感謝だと?」
「そうだ。暇つぶしとポイント欲しさに参加したのだが、良い意味で期待を裏切られたよ。箕輪勢一とやらにまるで歯が立たなかった。面白いほどにな」
鬼龍院はその時を思い出しているのか、充実感のようなものに浸っている。
極めて高い学力や身体能力を有している彼女は学年という枠組みを取り払っても、突出した存在であった。これまでの人生の中で苦労したことなど果たしてあったのかどうか。それゆえに無味乾燥とも言える退屈な時間を過ごすこともそれなりにある鬼龍院だったが、箕輪との手押し相撲では心が躍った。なにせ、何度も挑戦し、どのような戦法を構築しても相手になることはなかったからだ。さながら難解で密度の高いパズルを解き明かす作業のようであった。結局、そのパズルを完成させることは叶わなかったが。
「しかしだな……あれは重すぎないか? 見た目と体重が不釣り合いだ。イカサマをしているわけでもなかったようだしな。何か秘密でもあるのか、実に興味深いよ」
そう言いながら鬼龍院の目は龍園の全身を捉えていた。
「俺から情報を取ろうとしても無駄だぜ。お前が期待しているようなものは持ってないからな」
「そのようだな。それに……これは私の勘だが、あれは普通じゃない。一般的な人生の中で出会う人種ではないと告げている。君も気をつけた方がいい」
「余計なお世話だ」
鬼龍院の忠告を取り合わなかった龍園。彼はおもむろに手のひらを上に向けると、彼女の前に差し出した。鬼龍院はそれをじっと見ながら、龍園の行動の意味を考える。握手を求めるにしては手の向きが不自然なうえに、そもそもそんな殊勝な性格ではないだろう。彼女を異性としてエスコートする気があるのなら立ち上がっているはずだし、ダンスを誘う場でもない。
好奇心と疑問が入り混じる鬼龍院は黙って龍園の様子を探る。すると、彼が口を開いた。
「俺に感謝してるんだろ? なら、何か形のあるもので示してもらおうか」
龍園は感謝に対する見返りを要求していたのだ。一寸の間をおいて、鬼龍院は声を上げて笑った。龍園が清々しいほどに
「いやはや、手ぶらで感謝する私がマナー違反だったかな?」
「後輩に楽しませてもらった先輩としてはどうなんだろうな、
「さっきまでは”お前”と呼ばれていた気がするが……まったく都合のいい」
そう嫌味を口にした鬼龍院は満更悪い気分でもなさそうに見える。
「では、私の連絡先を教えてあげよう……と言いたいところだが、すでに君は知っているしな」
Cクラスが開催したイベントの参加者は漏れなく全員が連絡先を記入している。
「よし、一度だけだ。感謝の印として一度だけ君に手を貸してあげよう」
人差し指を立てながら鬼龍院は言った。龍園はやけに気前のいい提案をする彼女に疑いの眼差しを向けた。まだ話に続きがあるはず、そう判断した龍園は彼女の言葉を待つ。
「……ただし、条件がある。私を説得できれば、だ」
「随分と曖昧で自分本位な条件だな」
「当たり前だろう。この私が助けてやるというのだから、取るに足らないものを持ってこられても興醒めだ。自分を安売りするつもりはない」
そう告げる鬼龍院を横目に数秒思考した龍園は鼻から短く息をもらした。彼女の意図を理解したからだ。
「なるほど、そういうことか。俺に手を貸すという口実を利用して、お前は退屈をまぎらわす機会を得ようとしてるわけだ」
「フフッ、どう考えてもらっても構わないよ」
「見返りとしてはお粗末と言わざるをえないが、まぁいい。どうせ無かった話だ」
「私が手を貸すとすれば、単純に面白そうなものを持ってくるか、君の弁舌で私を言いくるめるかのどちらかだ。期待しているぞ」
鬼龍院が言い終わるとすぐに龍園は立ち上がった。袋を引っさげ、出口へと向かう。施設へ避難してから大体数十分が経過していたので、彼の予測どおりならすでに日は陰っているはずだ。
「いつでも連絡するといい。面白ければ歓迎するぞ、龍園」
快活に聞こえる鬼龍院の声を背にしながら、自動ドアをくぐり抜けた龍園は空を見上げる。期待通りに雲が太陽を覆い隠し、空は鉛色の様相を呈していた。鬱陶しい日光もなくなったので、龍園は学生寮へと向かって歩き出す。そうして歩いているうちに商業区画を抜けた彼は唐突に頬へ何かしらの感触を感じた。指でなぞると水だった。
ポツポツ
それを皮切りにして、水の入った容器の底が割れてしまったかのように雨が降り出した。雨粒がピシャピシャと頬を殴りつけてくる。龍園が日光を嫌ったのは汗によって服が濡れる感触に不快さを感じたからなのだが、土砂降りで服がずぶ濡れ状態になってしまっては晴れているときよりも状況が一層悪くなったと言っていいだろう。
「……チッ」
周囲が突然の雨に小走りで駆け出す中、忌々し気に舌打ちした龍園は片手に持った袋を揺らしながら歩みを再開したのだった。
休日明けの月曜日。
猶予期間最終日となった今日もあっという間に過ぎていき、Dクラスは放課後を迎えていた。明日にCクラスとの審議を控えていることもあってか、流石にまとまりのないDクラスと言えど、皆一様に不安そうな顔をしている。騒ぎこそしていなかったが、普段ならさっさと教室を立ち去る人たちも周囲をうかがいながら理由もなく残っていた。
こういう状況で率先して行動するはずの平田はというと、帰る準備が整ったのか、椅子から立ち上がるとそのまま教室を出ていく。平田の彼女である軽井沢と取り巻きの友人たちはそんな彼の様子に釈然としないようで、急いで後を追いかけていった。
実のところ、平田は早くから皆に呼びかけていた。須藤を救うためにCクラスの条件を承諾しようと。軽井沢を含めた女子の大半は平田を支持していた。プライベートポイントのない生活に我慢できないという本音を隠したまま。しかしながら、須藤の自業自得のためにCクラスから搾取され続けることを認められない人、単純に女子から支持される平田が気に食わない人、そもそも話し合いにすら参加しない人たちもいたことで何も決まらないままに最終日を迎えてしまったのだ。
Dクラスにおいて平田と同じような存在である櫛田も目立った動きを見せない。流石の彼女も暴力を振るったことが明確な須藤を表立って擁護はできないみたいだ。暴力に至った経緯も明かしてくれないのなら尚更だろう。
このクラスで話し合いの場を作ってくれる唯一の人物である平田がいなくなったことで、どうにもならないことを悟ったのか、残っていた生徒たちも次々と教室を立ち去っていく。
あまりにも無情な状況を色の見えない瞳で眺めていた綾小路は朝の挨拶以降、言葉を交わすことのなかった隣人へと声をかける。
「情報収集はうまくいってるのか?」
彼の問いに堀北は恨めしげな表情で答える。
「見てわからない?」
「堀北は普段から不機嫌そうだからな」
「刺すわよ」
いつの間にか堀北の手にはコンパスが握られていた。光を反射する針は獲物を探すように妖しく輝いている。堀北は教室にカメラが設置されていることを忘れているのだろうか。
「すまん。今のは俺が悪かった」
「今? ”いつも”の間違いよ」
「おっしゃる通りです」
正直なところ反論したい気持ちがないわけではないが、それでは話が進まないので綾小路は堀北を肯定しつつ、目的を達成するために話題を変える。
「ところで、物は相談なんだが」
「……ちょっと待って。あなた3日前にも私からポイントを借りたばかりよね?」
「いや、それについては非常に心苦しく思っているんだが、どうしようもなくてな。それに、これは俺のためじゃないんだ」
まるで感情のこもっていない綾小路に反省の色は見えないものの、自分のためではないという言葉が気になった堀北は話を促す。
「それで……何かしら?」
「実は佐倉がストーカー被害に遭ってる。堀北にボディーガードをお願いしたい」
「色々と言いたいことはあるけれど、学校には報告をしたの?」
「いや、まだだが、学校側には報告するつもりだ。ただ、Cクラスの問題を抱えている状態では佐倉が混乱するかもしれない。ほら、お前に連絡しただろ。佐倉はCクラスが引き起こした今回の件と無関係じゃない。幸い、ストーカー行為も危害が差し迫っているわけでもないし、明日にはCクラスとの争いも終わる。保険としてお前に護衛を頼んでるんだ」
ストーカーの正体も判明し、ストーカー行為の証拠も十分に揃っている状態なので学校側に報告すれば対応はしてくれるだろう。ただし、今すぐにどうこうできるわけではないし、悪質で緊急を要すると断定できるわけでもないので職場を解雇されるかどうかも不明。とりあえず警告だけで終わる可能性もある。そうなると状況が悪化することも考えられた。
恋愛感情のあるストーカーは認知がとてつもなく歪んでいる存在だ。自分に都合よく解釈し、強引な考えによって自分が愛しているなら相手も愛するべきだと思い込んでしまう。そんな人物がある日ストーカー認定され警告を与えられるとどう考えるか。相手が自分を裏切ったと被害者意識をこじらせ、何としてでも報復をするべく凶行に走るかもしれない。犯罪の歴史を紐解けば、被害者意識を持つ加害者ほど残虐な事件を引き起こしているのだ。
そのためストーカーには慎重な対応が必要になり、それを含めた話を学校側とするにあたってCクラスとのややこしい問題は解決しているほうがいいだろう。
「自分の身は自分で守るべきじゃないかしら?」
「みんながお前みたいに格闘術を身につけてるわけじゃないぞ。それに個人では限界もあるだろ。相手が武器を持ってたり、複数人だったらどうする」
「もちろん、それを想定した訓練も今までに積んできたわ」
「実戦と訓練は別物だ……って、お前とここで議論するつもりはない。佐倉を見てみろ」
綾小路の言葉通りに堀北は視線を佐倉に向ける。彼女の鋭い眼光に佐倉は胸元で鞄を抱きかかえながら、ビクッと体を震わせた。おそるおそる上目遣いでこちらを見てくる様は狼に追いつめられた子羊を連想させる。
「堀北、お前はあの状態でも一人で戦えというのか? お前の血は何色だ?」
先ほどとは違って強気な綾小路。人権が重視される時代において弱者も振りかざせば暴力となる。さすがの堀北も同情を禁じ得ないのか、諦めたように嘆息した。
「……わかったわ。一緒に帰るだけでいいんでしょ?」
「頼んだぞ」
「覚えておきなさいよ」
捨て台詞を吐いた堀北は佐倉に近づく。
「綾小路くんから事前に話は聞いてるわね? それじゃ、帰りましょうか」
「よ、よろしくお願いします、堀北さん」
堀北の後ろについた佐倉はチラリと綾小路に顔を向ける。綾小路が小さく頷くと、それを確認した佐倉も安心したように頷きを返し、堀北に付き従った。
堀北は扉を開け、廊下に足を踏み出して教室を出る。すると、すぐに横から彼女に声がかけられた。
「よぉ、調子はどうだ? 鈴音」
扉付近の壁にもたれかかっている男がいた。龍園だ。傍には石崎とアルベルトの二人もいる。敵対者の姿を目にした堀北は佐倉を教室内にとどまらせるように手で制した。
「軽々しく人の名前を呼ばないでくれるかしら。不愉快よ」
「器が小せぇな。減るもんじゃねぇだろ」
「今日はまた違った愉快な仲間を引き連れているようだけど、箕輪くんはいないのね」
「お前と違って人望があるからな。箕輪だけを贔屓するわけにもいかないんだ」
「恐怖で従えているだけの奴隷を連れて、人望があると勘違いできる頭はある意味で羨ましいわ」
奴隷という蔑むワードに引っかかった石崎の両目が吊り上がる。
「おい、お前調子に──」
「石崎、俺と鈴音の邪魔をするな」
「す、すみません、龍園さん」
龍園に忠告された石崎はすぐさま怒りを引っ込めた。彼らのやり取りを見ていた堀北は意味のない長話に興じるつもりがないらしく、すぐさま口を開く。
「龍園くん、あなたに一つだけ言うことがあるわ」
彼女の力強い明瞭な言葉を耳にした龍園は本のページをめくるような興味で続きを聞く。
「Cクラスの訴え、これを取り下げるのなら、今回に限って兄さんへの侮辱を大目に見てあげる」
「それはできねぇ相談だな。俺は素直に感じたことを言っただけだ。自分に嘘はつけない」
「そう。なら、今後は覚悟しておくのね。行きましょうか、佐倉さん」
そう告げた堀北は佐倉を連れて立ち去っていった。堀北に対して腹に据えかねるものがあるのか、石崎は馬鹿にするような表情で罵る。
「カッコつけやがって。あんなのただの負け惜しみっスよ。そうですよね、龍園さん。……あれ、龍園さん?」
龍園に声をかける石崎だったが、聞こえていないようで彼は反応しない。龍園の細められた目は堀北たちが去っていったほうに向けられていた。
あたりに濃い闇が広がっている。時折、何か合図をするように弱々しい光が明滅していた。近くに設置されている電灯によるものだった。不備が無いように決められた期間で取り替えられているはずなのだが、なぜか寿命を終えようとしている。別に作為的な仕掛けがあるわけではない。単に不良品だったのだろう。
ざっざっ
誰かが砂利を踏みしめる音が響く。
ざっざっ
しばらくすると聞こえなくなった。目的地に着いたようだ。
点滅する光源はある二つの影を地面に堕としていた。人影だった。二人の人間が対峙している。一方はフードを深くかぶった男で、もう一方は学校の制服を着た男だ。他に人の気配はなく、たまに耳元で聞こえる微かな風切り音があるくらいの息をひそめるような静けさに包まれていた。
不意に制服の男が胸元に手を入れる。内ポケットを探り、一枚の写真を取り出した。人差し指と中指で挟んだそれを相手に向かって、おどけたようにひらひらと振る。
「一応確認しておくが……これはお前が置いていったもんか?」
相手の質問にフードの男は拳を握り込み、わなわなと体を小刻みに震わせ、血走った眼を向けた。
「こ、このストーカー野郎がっ! 雫をどこへやった! お前はっ、お前はどれだけ僕と雫の邪魔をすれば気が済むんだ!」
顔が赤らみ、興奮によって唇を震わせ、ヒステリーを炸裂させる男の姿からは
「……チッ、雫ってのは何だぁ? お前は何を言ってる?」
「とぼけるなっ! 愛理のことだ。お前が愛理に何をしてきたか、彼女からしっかりと聞いてるぞ! それだけでも腸が煮えくり返るが、あまつさえ僕と愛理の逢瀬を邪魔するなんてっ。横恋慕も大概にしろ!」
認識の違いによるものか、まるで会話が成立しない。頭に血が上って逆上している相手では状況が改善する余地も無さそうである。
制服の男はニヤつきながら、顎のざらついた無精ひげを手で撫でる。彼は今置かれている自らの状況を理解していた。
「……なるほど、
「何を言っている。お前が何を言おうと僕には通用しない! 予定ならここで二人の愛を確かめ合うはずだったのにぃ」
血が出るほど唇を噛みしめ、目をぎょろぎょろとさせている男からは殺意が滲み出ていた。最早どれだけ言葉を尽くそうと無駄なことは誰から見ても明白だったが、制服の男は余裕を漂わせながら会話を続ける。
「おい、坊主。ひとつだけ教えておいてやるよ。妄想ってのはな、
「……誰が坊主だって? たかだか十数年生きてきただけの
「自滅か、他人に利用されて破滅するかのどっちかだ。お前は後者だな。くだらねぇ妄想に巻き込まれたこっちの身にもなれってもんよ」
「ただじゃ済まさない。僕と愛理の邪魔をした分だけお前に苦しみを与える。そして、捕らわれた愛理を僕が助け出す。……愛理の忠告通り、持ってきておいて正解だったよ」
愛し気にそう言ったフードの男は身につけたウエストバックからある物を取り出した。男の手元では明滅する光に合わせて氷のような冷たさを感じさせる青白い光が鈍く輝いている。
それを見ていた制服の男は鼻で笑うと、視線を空へと移した。
「いい夜だ。月が雲に隠れてるとよぉ、いい具合に闇が覆い隠してくれるんだわ。……まっ、今回の経験を糧にして次は頑張んな」
──パキッ、パキッ
言い終わった男は親指を使い、人差し指、中指と順番に骨を鳴らしていく。まるで準備運動のようであった。対するフードの男はブツブツと独り言を呟きながら、輝きの矛先をターゲットへと向けている。
「待っててね、愛理。今すぐ助けに行くから」
そう告げた男は敵から無事にヒロインを救い出していることでも想像しているのか、無邪気な笑みをこぼしながら相手に向かって一目散に駆けだした。
その瞬間、チカチカしていた電灯はあたりを一層強い光で照らすと、フッと音もなく寿命を終える。あらゆるものを黒く塗りつぶす闇が覆いかぶさった。
ジリリリリリリリリッ
騒ぎ始めた目覚まし時計の音が心地よい夢から旅人を現実へ引っぱり出す。眠たそうな目をこすりながら女はダンッと乱暴に叩いて止めた。時刻は5時を示している。映画を見ていたせいで夜更かしをしてしまった彼女は眠気が抜けないのか、今日だけはもう一度寝てしまおうかと迷う。が、やはり起きた。
彼女の名前は田中花子。高度育成高等学校の敷地内にあるアパレルショップで働いている。彼女はここの職場を気に入っていた。外よりも変な客がいないため、気楽に働けるからである。
田中は洗面所で顔を洗い終わると、コップ一杯の水を飲み、バナナを食べる。それからTシャツとランニングタイツに着替えた。日課としている早朝のジョギングを行うためだ。一応、アパレルショップで働いているのでスタイルには気を遣っている。
順風満帆と胸を張って言えないものの、特に問題はなさそうな田中。しかし、そんな彼女にはあるコンプレックスがあった。それは自分の名前だ。田中花子という何ともパッとしないというか、華がないというか、ともかく彼女は不満に思っていた。目立った特技や趣味もなかったからか、余計に不満を募らせ、他人と比較して自分を卑下することもままあった。一生懸命に名前を考えてくれた両親に申し訳ないと思いつつ、役所での改名手続きがつい頭をよぎってしまう。そういった日々を送る田中であったが、ある時を境にコンプレックスはいくらか改善することになる。
きっかけは友人たちと映画館に遊びに行った時のことだ。映画は巷でかなりグロテスクと話題沸騰中のスプラッター系。怖いもの見たさで友人たちと選んだのだが、いざ、映像が流れるとあまりにも残酷な描写に友人たちはスクリーンから目を逸らしてしまう。そんな中、田中は平気な顔で画面を見つめていた。その異様さに友人たちは彼女に対して口々に驚きをなげかける。奇異なものを見るような視線に囲まれた田中は今までに感じたことのない気持ちで満たされていた。
──優越
──快感
──特別感
胸に空いた穴が埋まっていくような感覚を覚えたのだ。それ以来、彼女はそういった系統の映画を鑑賞することが趣味となった。昨夜の夜更かしの原因である。
ランニングシューズに履き替えた田中は玄関を出て、階段を軽快に下っていき、1階のエントランスを抜けた。彼女は住んでいる寮の玄関前に到着すると両腕を頭の上で組んで上半身を横に倒したり、屈伸をしたりと入念に動的ストレッチを行う。
東の空が赤く染まり、空の青と調和している景色は体の奥まで清々しい気分にさせ、田中の動きをより一層軽快なものにしていく。
さて、今日はどのルートを回ろうか。
今年入学してきた1年生と同じ時期に配属された田中は敷地内の全てを覚えているわけではない。探索も兼ねてルートを考えていた。田中は辺りを見回す。すると、彼女の視線が止まった。寮の正面玄関に向かって左20メートルほど先に何かが横たわっていたのだ。人間のように見える。
場所が繁華街の路上なら酔っ払いが寝転んでいてもそんなに不思議ではないが、ここは学校の敷地内であり、そういった迷惑行為をしでかす人物がいるとは思えない。いや、もしかすると何らかの病気による発作が起こり倒れ込んでしまったのか。
そう考えた彼女は駆け足で近づいていく。まだ日が完全に出ていたわけではなかったので、遠目では姿をはっきりと捉えることはできなかったが、距離が縮まるにつれ徐々に明らかになっていく。
──あれ、手足の向きがおかしくないか?
通常考えられるような関節の可動域をはるかに超えて捻じれている。下肢は赤く染まった白い突起物が服を突き破っていた。
田中のなかで恐怖心が鎌首をもたげる。それ以上近づくのはやめておいたほうがいいと。だが、同時に湧きだす好奇心を抑えられずに一歩、一歩と距離をつめていく。ようやく全体像を捉えることができる距離まで近づいた彼女の目に飛び込んできたのは──
頭部が潰れ、全身が捻じれた男性の姿だった。
赤黒い染みが同心円状に広がり、破壊された頭蓋からはよくわからない分泌液と赤く染まった肉塊がはみ出している。身体の所々から骨も露出していた。
その凄惨な死体を見て動きが止まっていた田中は気づいた、これは夢であると。スプラッター映画の観すぎで現れた悪夢にちがいないと。彼女は自覚のある夢から目を覚ます方法を知っていた。目を閉じて”目覚めろ”と何度も念じるのだ。
田中は目を閉じ、心の中で唱える。何度も何度も唱える。そうしていると、その場を一陣の風が駆け抜けた。突風というほどではないが、それなりの強さで吹いたそれが頬を撫でていく感触に彼女は思わず目を開けてしまう。そのとき、田中は風に揺れる物体と目が合ってしまった。
そう、
血と粘液が糸のように絡まり、濁っている眼球と。
おそらく頭部が破壊された衝撃で飛び出たのだろう。ピンポン玉大の寒天状の球体が恨めしそうにこちらを向いている生々しい光景に田中はたまらずその場で嘔吐した。
夢じゃない、現実だ。
ようやく現実を認識した彼女に突如として襲いかかったのは恐怖。
事故なのか、
事件なのか、
自殺なのか、
他殺なのか、
殺人事件ならまだ犯人は近くにいるんじゃないか。
田中の思考は混乱していく。
結局のところ、彼女が残酷な映画を平気な顔で見られていたのは、それが作り物であり、自分に危険が及ぶことはないという前提条件があったから。
──とりあえず逃げなければ
田中は震える足を手でたたき、あらん限りの力を振り絞って、寮まで駆けだした。途中で叫ぶことを試みるも、喉が震えてうまくいかない。それでも必死に何度か挑戦しているうちに少しずつ声が出てくる。そして、エントランスに到着した彼女が階段のほうへ姿を消すと、遅れて空気が張り裂けるような絶叫が寮全体に響き渡った。
朝を告げたのは小鳥たちの美しい音色ではなく、甲高い断末魔のような悲鳴であった。
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11話
サイレンの音が聞こえる。遠い潮騒のような引いていく音ではない。
まどろみの中、
高度育成高等学校の学生寮は中程度の防音性があり、隣室の騒音を軽減できる。一定以上の大きな音でないと外から彼女の耳にまでは届かない。そして、学校は本土から離れた人工島全体に敷地が広がっている。
つまり、けたたましいサイレンの音が聞こえてくるということは学校の敷地内に用向きがあることを意味していた。
伊吹のまどろんだ意識が徐々に覚醒していく。
──朝早くから、学校にどのような用件があるというのだろうか
いくつかのサイレン音が重なっていることから緊急走行をしている車両が複数であることはわかる。災害や大事故でもないかぎり、警察である可能性が高い。もしかすると、高度育成高等学校始まって以来の大事ではないだろうか。
ここまでで伊吹の頭は完全に眠りから覚醒していた。
「……まったく」
もそもそと枕から顔を上げる伊吹。もとから愛想のない端正な顔を忌まわしそうに歪め、不満が滲んだ言葉をもらした。
言いたいことは色々とあるものの、個人的な理由でサイレン音を迷惑だと主張するのはクレーマー以外の何物でもない。それに愚痴を零したところで消えてしまった眠気が戻ってくるわけでもない。そう考えた彼女は早く起こされたからには何が起きたのか自分の目で確かめなければ割に合わないと、普段より早めに寮から出ることを決めた。
横になったままで伊吹は思いきり手足を伸ばす。思わず吐息が漏れる。ベッドから抜け出した彼女は雑に衣服を脱ぎ捨て、下着姿になると、一気にカーテンを開け放った。遮るものが何もなく、降りそそぐ優しい光は伊吹のなめらかな肢体の縁に沿って輝いている。しばらく日光浴を堪能した彼女は浴室へ直行し、シャワーを終えると朝食の用意にとりかかった。
そんな中、携帯端末が突然震える。
確認するとクラスメイトである椎名からの連絡だった。内容は一緒に登校しようというお誘い。普段は偶然出会わないかぎり、通学路を共にすることはなかった。それが今日にかぎって朝早くに誘われたことを考えると、椎名の目的は同じかもしれない。
断る理由がない伊吹はエントランスで待ち合わせすることを承諾。手際よく登校の準備を進めていき、服装を鏡でチェックし終えた彼女は玄関で靴を履いて鞄を持つとドアノブに手をかける。
ゆっくりと扉が開かれた。
学生寮全体が浮足立っているかのような騒がしさが耳に届く。時間帯を考えると妙なことであった。やはり他の生徒たちも今朝にあったサイレンが気になっているらしい。
エレベーターが混んでいることも予想されたので彼女は階段を選んだ。女子は学生寮の上層に部屋があり、階段で下りるのは少々大変なのだが、体力のある伊吹にとって苦ではない。テンポよく階段を下りていき、1階に到着した。辺りを見回すと、登校する時間には早いというのに人が多くいる。
人口密度が高く、いつもより狭いと感じられるエントランスを歩きながら椎名を探すために首を振る伊吹。そうしていると、いきなり背後から声がかかった。
「伊吹、こっちだ!」
無駄に大きな野太い声はどう考えても女性のものではなかった。嫌な予感を感じながら伊吹は後ろを振り向く。予感は当たっていたらしく、椎名のそばには石崎とアルベルトの姿も見えた。伊吹は少々重い足取りで彼らへと歩み寄る。
「遅いぜ、伊吹。事件はここで起きてるわけじゃねぇぞ!」
「Exactly (その通り)」
どこかで聞いたような言葉を満足気に言い放つ石崎と、調子を合わせるアルベルト。二人の芝居がかったそれに妙な腹立たしさを覚えるが、鬱陶し気に無視しただけの伊吹は椎名に顔を向ける。
「おはよ」
「おはようございます、澪ちゃん」
「……もう聞くだけ無駄かもしれないけど、一応聞いとく。なんでこいつらが?」
「澪ちゃんを待っているときに偶然会ったんです。おふたりも目的は同じようなので一緒にどうですかと誘ってみました」
どうやら伊吹と同じく石崎とアルベルトも今朝のサイレン音が気になっているようだった。
「目的って、何があったか見に行くってこと?」
「はい。不謹慎かもしれませんが、少し興味がありまして。澪ちゃんは大丈夫ですか?」
「大丈夫。もともと私もそのつもりだったし、ちょうど良かっ……たとは言えないかもね」
歯切れの悪い言葉を漏らす伊吹は視線を横にずらす。その様子を見ていた石崎は不敵な笑みを浮かべ、人差し指をキリッと立てながら左右に振る。
「おいおい、俺たちにそんなこと言っていいのか、伊吹」
「……なに? なにかあるなら、勿体つけないでさっさと言いなさいよ」
「へッ、俺たちはもうすでに問題が起こった場所を特定してるぜ。お前らは場所わかってるのかよ?」
石崎の予測通り、伊吹は場所を特定できていない。というよりはそもそも問題にしていなかった。どうせ野次馬が集まって人だかりができていることが予想できたので、それを見つければ何とかなると楽観的に考えていたからだ。
正直なところ、伊吹にとっては大して重要な情報でないように思えたが、それでも無駄に歩き回ることを回避できるのならそれに越したことはない。
「へぇ、たまには役に立つじゃん。で、その情報はどこから?」
「そりゃあお前、俺の豊富な人脈にかかれば──」
「ありました」
得意げに指で鼻をこすりながら発言する石崎を遮ったのは椎名であった。
「学内のネット掲示板に情報がありました。信憑性は不明ですが、場所は社員寮の近くみたいです。石崎くんもこれを見たんですよね?」
「……ま、まぁな。中々やるじゃねぇか、椎名」
見栄で膨らみ始めた石崎の自尊心という名の風船は椎名の鋭い針の一刺しで急速に萎んでしまった。心なしか、肩を落としているように見える。
そんな彼に容赦なく、伊吹は冷ややかな視線を向けていた。
「ホント、たいした人脈」
「うるせぇなぁ。いいだろ、少しくらい良い気分にさせてくれてもよぉ」
「馬鹿なの?」
「ハイハイ、俺が悪かった。……ったく、そんなだから友達少ねぇんだよなぁ」
最後のほうで石崎は小さな悪態を漏らした。耳聡く聞きつけた伊吹は彼のくるぶし目掛けて足を振る──が、空振りに終わった。
「へへッ、そう何度も同じ手を食うかよ」
得意げに笑みを浮かべる石崎。対して、自然とこめかみに怒張した血管が浮き上がる伊吹。
出し抜いたことで気を良くした彼は伊吹の不穏な気配を感じたこともあり、
「ほら、さっさと行くぞ。俺についてこいっ」
そう告げると寮の出口まで駆けて行った。後ろ姿を恨めしそうに伊吹は見送る。
「仲良いですよね」
隣にいる椎名が伊吹の顔を覗き込んでいた。さきほどまでの二人のやりとりを眺めていたこともあり、彼女はやわらかな微笑を浮かべている。
「冗談はやめて」
嫌そうな素振りを見せる伊吹をよそに、椎名はもう一方の隣に目を向けた。
「アルベルトくんはどう思います?」
「We're friends」
「はい、私たちは仲良しですね」
二人の堂々とした素直な会話に伊吹はどこか気恥ずかしさを覚え、顔を隠すようにそっぽを向く。
「……さっさと来ないと置いてくから」
言うや否や、伊吹は寮の出口へと歩き出す。
残された椎名とアルベルトは顔を見あわせて苦笑し、先へ進む彼女の背中をゆっくりと追った。
そこは敷地内で働く教員や従業員が生活している社員寮のすぐ近くだった。
現場は"KEEP OUT"と書かれた黄色のテープで規制線が張られ、制服警官たちが立ち並び、捜査員と思しき人たちが忙しなく動いている。少し離れたところに集まっている警察車両も赤い回転灯を光らせ、ものものしい雰囲気であった。
一般人と思しき人たちが規制線を越えていく場面も見られるが、おそらく社員寮の住人だ。警察官に声をかければ入れてもらえる。もちろん無関係な人が立ち入ることはできない。現場を上から見ようと考えたのか、ある生徒が社員寮に入ろうとしているのを警察官に止められていた。
ズラリと並ぶ野次馬は生徒たちがほとんどで、現場を遠巻きに囲んでおり、好奇心を顔に張りつけている。新たに到着する生徒の姿も見えることから、時間とともに数が増えていくことだろう。
「来たはいいけどよぉ、なんもわかんねぇな」
むっつりと不満そうな顔で石崎は言った。尋常でない現場の空気に興奮していたのは最初だけで、彼の野次馬的興味を満たすほどのものは見当たらなかったらしい。
「そうでもありません、石崎くん。あちらのほうにブルーシートで覆われている場所が見えると思います。事件か事故かはわかりませんが、おそらくシートの下には亡くなられた方がいらっしゃるはずですよ」
沈痛な面持ちで見つめていた椎名はそっと目を閉じ、両手を合わせる。隣で見ていた石崎も慌てて真似するように両手を合わせた。
腕を組みながら、二人の様子を眺めていた伊吹はつぎに遺体のある現場へ視線を移し、少しだけ表情を険しくする。
「……事故だったらいいけど、事件だったとしたらヤバくない? まだ殺人犯が敷地内にいる可能性高いでしょ」
伊吹はおぼろげに感じていた懸念を示した。
彼女の言葉を聞いていた石崎は今回の出来事を伊吹が怖がっていると考え、胸の中に小さな悪戯心が湧く。さらに恐怖心を煽ってやろうと、悪そうな顔をしながら彼は
「もしかしたら、俺たちの近くに殺人犯がいるかもしれないぜぇ」
と言った。
突如、風切り音とともに石崎の短い前髪が揺れる。
彼の目の前には上段に足を振りぬいたことがわかる姿勢で技を終えた伊吹がいた。まったく反応できなかった石崎は呆気にとられたようで、口が開いている。
「だから何? 襲ってきても返り討ちにすればいいだけ」
素っ気なく言い捨てた伊吹には何の気負いも見えない。本気で撃退するつもりのようだ。
「あっ、危ねぇだろっ!」
「そうですよ、澪ちゃん。いくら武術の経験があるからといって、凶器を持っているかもしれない相手は危険すぎます」
自分に向けて放たれた蹴り技の危険性ではなく、伊吹の身の安全を心配する椎名に”そっちかよ”とガックリうなだれる石崎。頭脳明晰な彼女がときおり見せる斜め上の視点についていけない彼は同意を求めるようにアルベルトに顔を向けると、それを察したのか頷きを返してくれた。
「相変わらず血の気が多いみたいだなぁ、伊吹ちゃんは」
どこかで聞き覚えのある軽薄な声がかかる。目を向けると、つい最近、揉め事になりかけたAクラスの橋本と鬼頭がいた。途端に敵意を剥き出しにする伊吹。彼女の様子に橋本は苦笑いしながら、Cクラスの顔ぶれを確認すると、少しだけ落胆の色を見せた。
「あれ、今日は箕輪くんはいないわけ?」
「アニキはいねぇよ。いつも一緒ってわけじゃねぇし、お前らだってそうだろ」
石崎が答えた。
「まぁ、確かにそうだな。龍園くんか箕輪くんがいれば良かったんだけど、残念」
「龍園さんたちに何の用だ」
「なぁに、顔をつないでおこうと思っただけさ。他クラスと違って、AクラスとCクラスは協力し合う余地が残ってるからな」
利害関係を考慮すれば、BクラスとDクラスが組めるように、AクラスとCクラスもまた組むことができる。もっとも、その関係もクラス替えが起きれば、途端に解消される程度のものでしかない。
「だからさぁ、そう睨むのはやめてくんないかな、伊吹ちゃん」
問いかける橋本に表立った反応を見せない伊吹。先ほどから向け続けている警戒するような険しい目つきが変わりそうな気配はない。
彼女の様子に警戒の棘を抜くことはできそうにないと橋本はあきらめる。しかし、自分たちが一方的に悪者扱いされるのには少し納得がいかない。
「まぁ、こないだの件でそういう態度になるのも無理はないかもしれないけどさ、伊吹ちゃんにだって原因があるんだぜ。坂柳の前で遊んでくださいと言わんばかりに隙を見せるから、な」
「あ?」
あえて気に障るような言葉を選んだ橋本に、想定通りの反応を見せる伊吹。拳を握りしめる彼女だったが、その固くなったものを解くようにそっと誰かの手が覆いかぶさった。
「橋本くん……でしたよね。もう終わったことを蒸し返すのはやめていただけませんか?」
頑なな伊吹にこれ以上意固地になって視野を狭めてほしくない椎名は言葉こそ丁寧なものの、話を続けさせるつもりはないという強い意志を感じさせる口調であった。
それを言うなら伊吹の態度も同じようなものじゃないのか──そう思った橋本だったが、幼稚な思考だとすぐに一蹴する。そもそも、今回の目的は相手に協力し合えることを認識させるため。心象を悪くして良いことなど一つもない。突っかかるのはやめるべきだ。
打算を終えた橋本は目尻を下げ、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ごめん、ついムキになった。俺が悪かったよ。おわびと言っちゃなんだが、興味深い情報をひとつ提供しよう。あれについてだ」
橋本が親指で指し示したのは規制線が張られた現場。一生徒でしかない彼が持っているという情報にCクラスの4人は疑問を抱く。
しかし、同時に強い興味を隠せない。
なぜなら、警察が今回の件について部外者に詳細な話をしてくれるわけがなく、この場でただ眺めていても新しい情報が入ってくる可能性はほとんどないからだ。
悪くない反応に橋本はかすかに頬を緩ませ、話を始める。
「これは俺の部活の先輩から聞いた話なんだが、どうやら遺体を直接ご覧になったらしい。先輩は早朝にジョギングが日課で、いつも走っているコースがあるわけなんだが、今日に限ってなぜか変更。そして、運が悪いことに遺体とご対面というわけさ」
愛嬌のある笑みで肩をすくめてみせる橋本。話に一拍を置き、焦らす彼に石崎と伊吹は早く続きをと急かす。先ほどまでの敵対心は一体どこへやらと思うが、彼らのご機嫌を損ねないために話をすぐに再開した。
「死体を見るなんて経験は特定の職業でもないかぎり、普通はない。もちろん普通の先輩はその状況に混乱して、その場から逃げた。だから、まじまじと遺体の様子を見れたわけじゃないんだが、それでも一目にわかるくらい酷い状態だったみたいだ。辺りは血だらけで、頭は潰れて中身が露出、手足は折れ曲がってるときた」
惨たらしく変わり果てた遺体でも想像しているのか、全員が眉をひそめて不快さを露わにしている。
「性別は遺体の大きさと服装から男なんじゃないかって先輩は考えてる。で、ここからは俺の推測だが、遺体の発見場所と状態を考えると、飛び降り自殺か、落下の事故だと思うね」
「事件の可能性はないってわけ?」
「まぁ、誰かに突き落とされたってのも考えられるから、ゼロって断言はできないだろうが、こんなところで事件を起こすのは賢くないだろ。事故か、自殺って考えるほうが自然じゃないか」
伊吹の疑問は予測の範囲内であったらしく、即座に橋本は答えた。”こんなところ”という言葉にあまり得心がいっていない様子の伊吹はやや渋い顔をする。アルベルトや石崎も同じ表情だった。
そこで、橋本の意見に同調するように頷いた椎名が話を補足する。
「この学校の環境を考えると、殺人を実行するのはかなりリスクが高いと思います。人の出入りも制限されているので、被害者の身元の割り出しが容易ですし、そこから周辺の人間関係を探るのも難しくないはずです。なにより、監視カメラも多いですから、この状況下での殺人はよほど衝動的でもないかぎり、ないと言ってもいいかもしれませんね」
「なーんだ、じゃあ心配ないのか。よかったな、伊吹」
茶化す気が満々の表情で石崎が寄ってきた。ジロリと横目で彼を睨みつけた伊吹は無言で肘を相手の脇腹に軽く振りだす。
ぐえっ!? と苦悶の声があがった。
痛みはそれほどでもないが、思いがけない衝撃によって、石崎は無意識に間抜けな声を出してしまう。耳を赤くした彼は恥ずかしさを誤魔化そうと、やり返して得意げな伊吹に恨みがましい視線を送った。
「まぁ、なんにせよ、俺たちがここで話してることは憶測に過ぎない。あとは警察様が無事に解決してくれることを祈るだけだ。あぁ、それと、この話はオフレコな。先輩もあんまり言いふらして警察の耳に入って事情聴取みたいなことになるのは勘弁みたいだから」
「私たちに話されたことは大丈夫なんですか?」
「これは俺の誠意だから問題なし。他のヤツには話してないから他言は無用で頼むぜ」
椎名に対して、橋本は人好きのする柔和な笑みを浮かべる。
部活の先輩も話す相手は慎重に選ぶべきだったなと伊吹は呆れていた。椎名はというと、入部して数か月ほどで先輩から信頼を得ている橋本の手腕に感心していた。
「俺たちはともかくよぉ、そこにいる鬼頭ってヤツは大丈夫なのか? 話聞いてただろ。そいつのせいで話が広まって、俺たちのせいにされるのはごめんだぜ」
「あぁ、鬼頭ね。心配ない。その証拠に、今まで一言も喋ってないだろ。無駄な話はしないヤツなんだ」
石崎に返答した橋本は顔を上げて、アルベルトに目をやる。
「そういう意味じゃ、アルベルトも同じように信用してるぜ」
「Not very happy (あまり嬉しくない)」
アルベルトは頭を左右に軽く振る。橋本に信用されても仕方がないのか、鬼頭と同類扱いが不服なのか、それとも両方なのかはわからないが、歓迎していないことは確かだ。
悪かったよ、と彼の腕を親しげにポンと叩いた橋本はふと視線をずらす。すると、その先に見えたのは社員寮の玄関から出てきた、ある人物だった。
「我らが担任のお出ましだ」
橋本の漏らした言葉を聞いた、この場の全員が彼の向いている方向に目をやった。それと間を置かずして、自然と背筋が伸びる威厳に満ちた声が四方に響き渡る。
「この場にいる生徒諸君、私は1年Aクラスを担当している真嶋だ。もうすでに各自に連絡が届いている頃だと思うが、口頭で連絡事項を伝える」
拡声器を口元で構える男性は堅物の教師で有名な
真嶋は話を続ける。
「まず、今日の午前中の授業については休講となる。寮で待機だ。決して遊ぶ目的で出歩かないこと。そして、その後についてはまた各自に追って連絡がいくので、しっかりと確認をするように。では、警察の方々の邪魔にならないように、すみやかに解散しなさい」
話は終わったようで、真嶋は顔の前から拡声器を下ろした。しかし、一歩もその場からは動かない。生徒たちが解散するのを最後まで確認するために。
野次馬と化していた生徒たちは指示に従って、ぞろぞろと解散に動く。これ以上見ていても仕方がないうえに、ひそかに期待していたものを拝むことはできなかったからだ。真嶋の解散宣言はちょうどいい契機となった。
「さぁて、寮に帰って二度寝でもするかな。行こうぜ、鬼頭。じゃあな、Cクラス」
橋本はそう言って締めくくると、鬼頭とともに歩き出した。
遠ざかっていく2人の後ろ姿を黙って眺める4人。しばらくして、何気なく顔を見合わせると石崎が声をあげる。
「俺たちも帰ろうぜ」
彼の促す言葉に反論があるはずもなく、全員が寮のほうへ足を向ける。
何もすることないし、もう一回寝ようか──伊吹がそう考えていると、背後から風が吹いてきた。彼女の短めの綺麗な髪がたなびく。それと同時に後頭部に違和感を抱く。
頭の後ろへ手をやった伊吹は何かを掴みとると、顔の前まで持ってきた。確認すると、お菓子のゴミだった。彼女の頭の中で、ある人物のことが思い出され、少し顔をしかめる。
「おーい」
後ろから声がかかった。振り返ると、制服を着た警察官が小走りでこちらに寄ってきていた。息を少し切らした警察官は到着するなり、伊吹の渋い表情から怒っていると察して、すぐに謝罪の言葉を口にする。
「いやぁ、すまない。これ自分のゴミじゃないんだけど、本当にごめんね」
言い訳がましい謝罪であったが、話を長引かせるつもりのない伊吹は受け入れた。ゴミを回収した警察官は軽くおじぎをすると、来た時と同じように小走りで立ち去っていった。
「澪ちゃーん、帰りますよー」
大きな声で椎名が呼びかける。珍しいなと思いながら、伊吹は「わかってる」と返事をして、ようやく帰路についた。
ひとけのない廊下を男が無言で歩く。
他に人影が見当たらない理由はまだ午後の授業が始まるには早い時間だからだ。午前中が休講となり、このまま臨時的に終日休みになると期待していた生徒たちの思いとは裏腹に、午後から授業は開始される。全国屈指の名門校はカリキュラムが狂うことを最小限にとどめたいのだろうか。全校集会が開催されることもない。
ある扉の前まで来た男は立ち止まった。金属製の表札には”生徒会室”と書かれていた。
ノックもせず、いきなり扉のドアノブに手をかけると、一気に開け放つ。
ひとりは頑丈そうな机に肘をつき、手を組んでいる生徒会長の堀北学。もうひとりは口を半開きにして、信じられないといった表情をしているお団子頭の可愛らしい女の子、生徒会書記を務める
2人の姿を視認したはずの男はというと、挨拶をすることもなく、何事もなかったように我が物顔で室内を闊歩する。
歩み寄ってくる男に何の敬意も感じられなかった橘は生徒会室という聖域を汚された気がしていた。嫌悪で顔が険しくなる。
「君っ、ノックもせずに入室するなんて、マナー違反ですよ!」
橘の咎める声に、チラリと目をやる男。だが、それも一瞬のことで、視線はすぐに生徒会長のほうに戻された。ほとんど無視に近い行動に、橘は怒りを募らせる。
「聞いているんですかっ、君に──」
「橘」
追及するために口を開いた彼女の動きが止まる。隣から制止する声がかかったからだ。
「彼とは前に一度、礼儀について話し合っている。改めないのは彼の自由だ。もっとも、その自由が将来的に自分の首を絞めることになろうとも俺は知らないがな。矯正してやるほど、俺は優しくない。だから好きにするといい、龍園」
「わざわざ忠告か? お優しいことだな、堀北」
常と変わらない冷静さを保つ堀北に、挑戦的な笑みを浮かべる龍園。
先輩に対するものとは思えない礼を欠いた彼の言葉遣いに橘は憤るが、先ほど堀北に止められたことを思い出してグっとこらえる。
「で、用件はなんだ? つまらない話をするために、わざわざ俺を呼ぶほど生徒会長様は暇じゃないだろ」
龍園が催促すると、堀北は無言で封筒を差し出した。訝しげに受け取った龍園はじっと渡された物を見つめる。そして、少ししてから視線を堀北に向けた。しかし、反応は何もなく、説明をする気もないようだ。
「なんだこれは?」
「ある人物からお前に渡すように頼まれた物だ。中に何が入っているのかは把握していない」
「……誰だ?」
「差出人不明の荷物は受け取れないというのであれば、その旨を伝えておこう」
龍園の二度目の問いかけに、相手は応じる素振りを見せない。答えになっていない返答を最後に堀北は口を閉ざす。自分のすべきことはすでに終えたと言わんばかりだった。
──バンッ
部屋の静けさを破る音が鳴る。龍園が机に手を強く叩きつけた。
突然の大きな音にビクッと肩を震わせた橘は心臓が早鐘を打っていることを自覚する。堀北は表情を崩さず、微動だにしていなかった。
「力づくで聞いてやってもいいんだぜ?」
そう言った龍園の瞳には鋭い光が宿っていた。
彼の様子に本気かもしれないと感じた橘は敬愛する生徒会長を心配そうにうかがう。たとえ暴力沙汰になったとしても、武道の有段者である堀北が一方的に打ちのめされるとは思わない。ただ、場所がまずかった。相手に非があっても、この場で暴れられると堀北の生徒会長としての品位を問われかねない。
彼女の心配をよそに、龍園と視線をぶつけていた堀北はおもむろに瞼を閉じた。
「疑問がある」
「あ?」
「なぜ、封筒の中身を確認しない?」
目をひらいた堀北は力強い眼差しで目の前の相手を射抜く。
普通の人間なら、あまりの迫力と圧迫感に目を逸らしてしまうが、龍園は視線を外さなかった。堀北がどう出るのか、黙って様子を探る。
「普通であれば、まず中身を確かめるはず。だが、お前はしなかった。それは封筒の中身に見当がついているからだ。そして、封筒を突き返さないのはよほど重要なものが入っているとも考えられる」
「それで? だから何だ」
「この場で封筒の中を確認しないのは、万が一にもここで露見してしまうような望ましくない状況になることを避けるため。違うか?」
堀北の問いかけに答える素振りを見せない龍園。しかし、彼の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいるように見えた。
「さきほど、お前は差出人について尋ねていたな。教えてやる義理はないが、ここでお前に譲歩し、差出人の正体について明かしてもいい。ただし、こちらも封筒の中身を確認させてもらう。俺の推測が間違いなら、問題はあるまい。対等な交換条件といこうか」
形の上では条件をお互いにやり取りするという意味でたしかに対等だ。しかし、立場や内容が同等であるとは言えない。
堀北の推測通り、封筒の中身について龍園はだいたいの予想がついていた。そして、それは生徒会長に知られて良いものではない。当然、交換条件など飲めるはずもない。
「これでもまだ不十分だと、幼子のように駄々をこねるのであれば、こちらも対処しなければならない。暴れるというのなら勝手にしろ。だが、今日とあの日とでは状況が違うぞ」
堀北が言っているのは箕輪の不在についてだ。先日、夜の公園で箕輪に止められた拳に龍園が反応できていなかったことを彼は見抜いていた。たいていなら、箕輪という逸脱した暴力に注意を引かれ、周囲への観察がおろそかになってもおかしくないが、堀北という男は怠らなかった。龍園の力量を正確に見抜いていたのだ。
龍園の目論見は潰える。いや、目論見というほどのものではない。もともと無理があった。脅しでどうにか上手くいけば、儲けもの程度の考えでしかない。仮に暴力を振るったところで、前回と真逆の結果になることは良く理解している。箕輪にも忠告されていた。暴れたところで何の利益もなく、損なだけだ。
安い脅しが通用するほど、生徒会長は甘くなかった。
「……ククッ、どうやらお前のことを甘く見ていたようだな。評価を上げてやるよ、
「まだ入学してから4カ月ほどだが、俺もお前のことはある程度評価している。粗さは否めないがな」
「一言余計だ」
封筒を携えた龍園はそう吐き捨てると、話は終わったとばかりに、扉のほうへ身をひるがえし歩いていく。それを黙って見送る堀北と橘。
不意に龍園が歩みを止めた。肩越しに振りかえった彼は堀北に問いかける。
「生徒会に入った1年Bクラスの一之瀬、お前はどう見る?」
「まだ入ったばかりで仕事ぶりなど評価できない。だが、能力はあるだろうな」
「そのわりには面接に落ちてたらしいが?」
「適性があっても、適正であるとは限らない。面接では俺が落とした」
堂々とこたえる堀北に少しも悪びれた様子はない。上に立つ者はときとして冷酷に切り捨てる判断も必要ということだろうか。
「誰が拾った?」
「副会長の南雲だ。さきほどからの質問といい、生徒会に興味でもあるのか? そうであるなら俺が席を用意しても構わないが」
「会長っ!」
龍園と堀北の会話に橘がたまらず割り込む。その声には抑えきれない否定の意が含まれていた。
無視した龍園は堀北と会話を続ける。
「おいおい、冗談だろ?」
「冗談だ」
涼しげな顔で堀北は戯れであることを肯定した。
「……チッ、冗談のセンスはねぇようだな」
再び背を向けた龍園は今度こそ振り返ることなく、荒々しく扉の音を立てて部屋を出ていった。
彼の姿が扉の向こう側へ消えたことを認めた橘は結果的に何事もなく終わり、ホッと胸をなでおろす。
「あれが噂の龍園翔くんですか。噂通りの横柄な人でしたが、さすがにこの場所で暴れるほど短絡的ではなかったみたいですね」
3年Aクラスの同級生二人だけになった空間であっても、橘は丁寧な言葉づかいをやめない。生徒会の書記という公的な立場で仕事をしているためだ。もちろん、生徒会長を立てるためでもある。
安心する橘に、堀北は目を向けた。
「橘、重大なリスクを理解していても、それを度外視する輩は存在する。自分の杓子定規で相手を理解した気になるのは危険だ」
「……申し訳ありません、浅慮でした。以後気をつけます」
堀北に忠告された橘は自分の未熟な考えを恥じつつ、彼の言葉を噛みしめるようにゆっくりと力強くうなずいた。
彼女の様子を確認した堀北は机の上で肘をついて手を組んだまま、閉じられた扉にふたたび視線を戻し、じっと見つめる。
堀北は1年のCクラスとDクラスで起きている問題を把握していた。生徒会として審議に立ち会うことになるからだ。そして、審議は本日に執り行われる。何も起きなければ、Dクラスに抗う余地などないだろう。
「争いの結末、見届けさせてもらおうか」
つぶやいた堀北の顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。
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12話
どこかおかしい。やっぱり変だ。
軽井沢恵は
しかし、軽井沢にとっては違った。すぐさま蝉の鮮明な姿、形が浮かびあがる。それどころか、生理的嫌悪を呼び起こす濁った羽音とともに、甲高い笑い声も聞こえてくるようだった。
ある時を境に、暑い季節が来るといつもそうだった。生まれてこなければ良かったと卑屈さに苦しめられる。
軽井沢は震える手で喉を少しかきむしった。
そんな彼女も、地元から遠く離れた高度育成高等学校に入学してからは苦しみに
過去を思えば、考えられなかったほどの恵まれた生活を送り、彼女にとっては穏やかな日々が訪れることになる。夏を迎えても気になるようなことは何もなかった。
──
ぶり返しの原因は彼氏である平田洋介。彼は須藤を救うためにCクラスの条件を受け入れるべきだと、連日クラスのみんなに呼び掛けていた。にもかかわらず、昨日は何もせずに教室を出ていった。応じないクラスメイトに呆れてしまったのか、怒ってしまったのだろうか。慌てて追いかけていった軽井沢は平田に追いつくと、
「平田くん、どうしたの? 何かあった?」
そう尋ねた。彼はどこか困ったような笑みで、「何もないよ」と首を振る。
──嘘だ。
内心で思った軽井沢だったが、それ以上問いつめることはしなかった。一緒に追いかけてきた友人たちが近くにいたからだ。もしも二人きりであったなら、しつこく追及していた。たとえ彼自身のプライバシーに関わることで、恋人と言えど、それに干渉する権利がなかったとしても。
平田は最後に「じゃあ、僕は部活に行くから。みんな、また明日」と言って、去っていった。周りの友人は普段と違う様子の平田に戸惑いつつも、彼の人間性を信用し、大丈夫だと結論づける。
──全然大丈夫じゃない。
軽井沢が本当に心配していたのは”彼”ではない。自分と彼との間で結ばれた”約束”がしっかりと果たされるのかどうか、ただそれだけ。その約束が現在の彼女を支えている。平田がおかしな様子だと、軽井沢も精神的に不安定になってしまう。
その日の夜、平田に連絡をいれた軽井沢は昼間の続きで問いただすが、「何もないから心配はいらないよ」という一点張り。自分との約束を持ち出しても、平田は必ず守ると言うだけで、軽井沢の心が晴れることはなかった。
まただ。重なり合うような、うごめくような、うねるような蝉の鳴き声が耳に入ってくる。
彼女はお腹に力を入れて、思いきり叫びだしたくなった。”お願いだから、もうやめてくれ”と。
「──さん、──井沢さん、軽井沢さんっ!」
はッと顔を上げる軽井沢。
目の前には同じDクラスの友人である篠原さつきが心配そうな顔をしていた。そばには同じくDクラス所属の松下千秋や佐藤麻耶もいる。
「軽井沢さん、もしかしてこういう話は苦手だった?」
「……ごめん、聞いてなかった。こういう話って?」
「今朝にあった警察の話。なんでも人が死んじゃったらしいよ。現場に行った友達がそう言ってたんだよね」
篠原は好奇心に満ちた、噂話を好む目になっていた。
報道番組でよく目にする死亡関連の事件や事故。ありふれていると言っても過言ではないが、身近で滅多に出くわすことはないだろう。経験のない事態に心が浮ついているようだった。
今朝にあった警察についての話題はもちろん軽井沢の耳にも入っていたが、そこまで関心はなかった。関係のない、どこの誰かが死んでしまっても彼女には何の影響も与えない。目下のところ、気になっているのは平田のことだけだ。
「そうなんだ。別に苦手なわけじゃないけど、ちょっと朝から調子悪くてさ。先に教室に行ってるね」
断りをいれた軽井沢はそそくさと手洗い場から出て行ってしまった。
「……軽井沢さん、やっぱり昨日のこと気にしてるのかな」
「昨日の平田くん、なんか様子が変だったもんね。彼氏を支える彼女としては気になるのかも」
出入り口を見ながら、佐藤と篠原が言った。
「平田くんが変な原因って、須藤くんのことでしょ。Cクラスの条件を受け入れるかどうか決まってないわけだし。でも、それも今日で終わるしねー」
言いながら松下は洗面台に歩み寄り、小物が入ったポーチを鞄から取り出すと、鏡に向き合って髪と顔を整え始める。彼女の話を聞いていた篠原は嫌なことを思い出したように溜息をはき、軽く首を振った。
「ほんと、須藤くんって迷惑。何もなかったら、プラべ1万くらいもらえてたのに」
本来ならDクラスは今月のクラスポイント87を得て、プライベートポイント8700を手にすることができた。しかし、須藤が発端であるCクラスとの争いによって受け取れるポイントは良くて5000ポイントにまで減額。
「結局、どうなるのかな」
「いや、さすがに条件受け入れるしかないでしょ。これ以上ポイントなしの生活は耐えらんないし」
「でも、堀北さんとか他にも反対してた人いたよ」
「あー、堀北さんね。あの人ってなんか好きになれないんだよねぇ。”私はあなたたちと違う”って感じで見下してるっていうか。同じDクラスなのに、ホント笑える」
佐藤に返答した篠原の表情には疎ましさが見え隠れしていた。
整え終わったのか、ポーチを鞄にしまった松下は二人のほうへ顔を向ける。
「まぁ、はっきりと反対してる人のほうが少ないし、多数決的に受け入れで決まりじゃない? ていうか、待たせてゴメン。終わったから教室行こ」
「大丈夫……なはず。うん、きっと大丈夫」
手洗い場から出てきた軽井沢は自分を安心させるために、下を向きながら、うわ言のように何度も言い聞かせていた。精神的に不安定だからか、足取りもまっすぐではない。注意散漫な状態だった。
廊下の向かい側から人が来る。しかし、彼女は気づかない。すれ違いざまに身体がひっかかった軽井沢はバランスを崩し、床に転倒した。何が起こったのかわからない彼女は声を出すこともなく、気が抜けたようにぼんやりと床に座り込む。
「大丈夫か?」
上から声が降る。見上げると手を差し出す男子生徒がいた。同じDクラスの綾小路清隆だ。印象は薄いが、クラス内でも孤立していることがよくある彼に、平田が積極的に声をかけていたから覚えていた。
差し出された手をつかもうと彼女は無意識に手を伸ばす──が、その動きは途中で止まった。手をひっこめた軽井沢はすばやく立ち上がると、目の前の相手をにらみつける。
「どこ見て歩いてんのよ! ホント信じらんない」
そう言い捨てた彼女は綾小路の返答を待たずに行ってしまった。
手を差し出したままで固まる綾小路。
──理不尽だ
そんな思いが彼の胸の中で自然と湧きだす。
そもそも、衝突の原因は軽井沢にある。向かい側からやってくる彼女の姿を認識していた綾小路はぶつからないように進行方向をずらしていた。しかし、その動きを追尾するかのように軽井沢が歩いてきたので、ひっかかってしまったのだ。まさに当たり屋と言っていいだろう。
とりあえず、他人の目もあるので、手を差し出したままの無様な格好をやめた綾小路は普段と違う様子の軽井沢について考えはじめる。差し出した手をつかもうとするまでの彼女は明らかに弱々しく、世界が自分を中心に回っているといった傲慢な振る舞いは鳴りを潜めていた。何かあったのだろうか。
「よっ! 見てたぜ、綾小路」
考え事をしていた綾小路に声がかかる。目をやると、いかにも満足そうにニヤニヤとしている池寛二と山内春樹がいた。いつもはDクラスの三馬鹿と言われるくらいにセットでいるはずの須藤の姿は見えない。
「神風アタック、ご愁傷様」
「お前のその無謀な勇気だけは認めてやるぜ」
何を勘違いしているのか、見当はずれの言葉を二人は口にした。たしかに、ぶつかりはしたが、アタックの意味が違うだろう。弁明するために綾小路が口を開くと、「言い訳は情けない」だの「男らしくない」だのと言いがかりに終始していた。どうやら、フラれたということを既成事実化させたいようだ。
「それにしてもよくやるよなぁ。彼氏持ちだぜ? 俺ならありえないな。中古はゴメンだ」
山内が腕を組み、やれやれと首を振りながら言った。それを聞いていた池は悪戯っぽい視線を山内に送ると、質問を投げかける。
「とか言ってお前ぇ、迫られたらどうすんだよ。断んのか?」
「……そりゃあ、お前、男として断るわけにはいかんだろ。据え膳食わぬは男の恥ってな」
「だよな!」
肩を組みながら、「ウェーイ」と拳を合わせる山内と池。大きな声で楽しそうにしている二人だったが、そこに冷ややかな声が入ってくる。
「キッモ。ありえないっつーの」
「あーあ、なんでうちのクラスってバカばっかりなんだろ」
通り過ぎざまに、汚物を見るような視線を向けてきたのは篠原と松下だった。池と山内の顔が青ざめる。ただでさえ、女子からの好感度が低いのにこれ以上はヤバい。
「池くんと山内くんさぁ、そういう話をしたい年頃なのはわかるけど、場所もっと考えた方がいいよ」
佐藤はそれだけを言い残すと、二人の後を追っていった。
池たちが大きな声で話をしていた場所は女子トイレから5mほどしか離れていない。トイレから出てきたらすぐに聞こえる。迂闊なことを言うべきではなかっただろう。
──終わった
池と山内、二人は同時にがっくりうなだれる。しばらく放心していた彼らだが、ふと違和感に気づく。綾小路もいたのに、なぜ二人の名前しか呼ばれなかったのか。
池と山内は同時に辺りをキョロキョロと見回す。隣にいたはずの綾小路の姿が見えない。おそらく、彼は女子トイレの近くであることに気づいていたのだろう。そして、小賢しい知恵を働かせ、池と山内が展開する話を予測し、静かに、この場を離脱したのだ。
「この裏切り者ォ!」
池と山内の魂の叫びが廊下にこだました。
男子トイレで用を足した綾小路は洗面台で手を洗っていた。池と山内については頭からすっかりと抜けており、もっぱら彼が意識を向けていたのは今朝の警察沙汰についてだ。彼が寮から学校に来るまでに耳によく入ってきたそれは用を足している間も、隣で他の男子生徒たちが話をしているほどだった。
自分と無関係なことについて積極的に関心を抱かない堀北鈴音のような生徒はあまり興味ないだろうが、多くの生徒は自分の知らない情報に触れようとしている。知の空白を埋めたいという好奇心は人間に備わっている生来的な欲求なのだから、無理もない。しかし、綾小路はそれをする必要がなかった。
なぜなら、
洗い終えた綾小路が蛇口から手を離すと、水は自動的に止まった。ポケットから出したハンカチで手をふく。
だが、そんな彼にも疑問があった。警察が介入する事態は想定していたものの、実際にそうなる確率は高くないと踏んでいたからだ。なぜ、ヤツはそこまでやったのか。自分の首を絞める行為だと理解できないほど、
リスクが高いと分かっていながらも、そうせざるを得なかったのか。それとも、警察でさえ彼にとっては問題がなかったのか。後者についてはあまり現実的とは言えないだろう。
最先端技術によって現場に残された微細な証拠を分析し、真実を追究する警察の科学捜査は高精度であり、逃げ切るのは困難を極める。まして、この学校の環境を考えれば尚更だ。
ハンカチをポケットに仕舞いこんだ綾小路はとりあえず警察の捜査が終わってから続きを考えることにした。今回の件を引き起こした張本人とはいえ、一部始終を知っているわけではない。予測はしているが、最終的にどんな結末になるのかは断定できない。ただ、警察が介入したことにより、佐倉愛理にとっては辛い現実に直面する可能性があった。
洗面台の大きな鏡に綾小路の姿が映り込む。虚像の世界に浮かぶ彼の瞳にはかけらの罪悪感すら浮かんではいなかった。
がやがやとした声が聞こえる。午後からの授業へ出席するために教室へ続々と集まる生徒たちのものだ。騒々しいというよりは賑々しいといった表現が妥当なほど、交差する声には愉快さが感じられる。
「朝に起きた話、聞いたか?」
「なんか事件らしいぜ」
「マジで!? 殺人とか? ヤバいな」
「いや、殺人だったら授業なんてしてる場合じゃないだろ」
「どうなるんだ、この学校」
もうすぐ始業する時刻だというのに、好き勝手な憶測がCクラスの教室で飛び交う様子は止みそうにない。生徒たちの関心は今朝の件でもちきりだった。
雑多な噂話があふれている中、まるで自分は関係ないというように、伊吹はぼんやりと喧噪を眺める。実際に現場へおもむき、Aクラスの橋本から話を聞いた彼女としてはすでに関心は薄らいでいた。伊吹とともに行動していた椎名や石崎、アルベルトも似たような感じだ。
伊吹は騒がしさからチラリと視線を移す。対象は日当たりのいい窓の縁に片腕をひっかけ、もう片方の手で本を開いている龍園翔だ。いつもはホームルームが開始される10分くらい前にしか登校してこないが、今日は伊吹が教室に到着した時点ですでに着席していた。
龍園も今朝のことについて関心を持っているから、早めに来て噂話に耳を傾けていたのだろうか。それとも、今日の放課後に行われるDクラスとの審議に多少の緊張でもしているのか。いや、最後のはない。緊張なんてするたまじゃない。
考えるのをやめた伊吹は教室の時計を確認する。もうすぐ開始時刻だった。残り時間は1分もない。そろそろ担任の教師が来るはず。
クラスの席は1つを除いて埋まっていた。まだ来ていないのは箕輪だ。普段から時間ギリギリだったが、今日はもうその時間も残されていない。
──何やってんの、アイツ
伊吹の視線は部屋の入り口へと注がれる。どちらが早いか、はたして間に合うのか。
教室の戸が引かれた。現れたのは担任の坂上だった。時間通り几帳面に服装の乱れもなく、教室に入ってくる。普段よりも騒がしい様子であるにもかかわらず、坂上は一瞥をくれることなく、まっすぐに教卓に向かった。彼が到着すると、我慢できないといった風の生徒がひとり質問を投げかける。
「先生、今朝の警察の騒ぎ、あれは──」
「それを今から説明します。と言っても、そこまで話すことはありませんが」
坂上は生徒の話を途中でピシャリと遮った。片手で眼鏡を軽く押し上げ、無関心としか言えそうにない顔で、淡々と説明を始める。
「もうすでに皆さんはご存知でしょうが、今朝の警察沙汰についてです。敷地内の施設で働く従業員の方がひとり亡くなられました」
生徒たちに新たなざわめきが走る。学校からの通達によって、一人の人間の死が確定した。
「警察の話によると、現段階で事件性は低いとのことですが、一応は何名かの警察官が敷地内の巡回を調査期間内にわたって行うようです。幸いにも、事故現場は社員寮の近くということで学校運営に支障はありません。授業は明日から通常どおりなので間違わないように。今朝の件については以上です。それでは、亡くなられた方の冥福を祈るために1分間の黙祷を捧げます。黙祷」
厳粛な声がかかり、教室内を小さな沈黙が訪れた。ほとんどの者が瞳を閉じ、なかには手を合わせている人もいる。
龍園はというと、背もたれに身体をあずけ、窓の外を見ていた。そんな彼の姿を多くの人は非常識だと思うかもしれない。しかし、黙祷では目を閉じる必要も、手を合わせる必要もなく、ただ黙って祈れば良いのだ。そして、祈りとは心で行われるもの。龍園が胸中で何を思っているのかなど余人が知るはずもなく、彼の姿だけで非難することはできない。もっとも、龍園が名前も顔も知らない故人について、思いをはせている様子など想像もできそうにないが。
「黙祷を終えてください」
声を合図に祈りの時間は終わった。しかし、生徒たちが黙祷前の騒がしさを取り戻すことはなく、鳴りを潜めたままだった。
続いて坂上は電子タブレットを取り出し、出欠確認を行う。個別に生徒の名前を呼ぶわけではなく、教室を見渡すだけだ。視線を配ると、1つだけ席が空いていた。席の主は箕輪勢一。よく龍園とつるんでいる生徒だった。
坂上は彼について含むところはなかった。高校生離れした容姿に、何を考えているのかよく分からない笑みを絶えず浮かべている様子は教師から見ても不気味だが、遅刻することもなく、テストの成績も悪くはない。学校のデータでも不穏な点はなく、突出した身体能力の評価はCクラスに大きな貢献をもたらすことを予感させるものだった。ただ、今日の連絡がないところを見ると、問題がないとは言えないのかもしれない。
とはいえ、坂上としては自分がAクラスの担任となるために役立つ生徒であるなら、多少の問題は黙認するつもりだった。公平中立な教師という立場をできるだけ逸脱しない範囲で。
「箕輪くんが欠席しているようですね。私に欠席の連絡は来ていませんが、彼から理由を聞いている人はいますか?」
生徒の顔を見回すと、坂上はそう尋ねた。
「お前知ってるか?」
「知るわけないだろ」
「てか、本当に休みなのか」
「あの箕輪が?」
「……ずっと休んでればいいのに」
ふたたび教室に雑然とした騒がしさが戻っていた。お互いに顔を見合わせ、口々に言葉を交わす生徒たちにはかなりの困惑と動揺が見られる。
それは当然のことだった。箕輪は抗うことのできない理不尽な暴力を彼らに披露し、簡単には振り払えない恐怖と狂気を脳裏に刻みつけたのだから。
周囲と同様に伊吹も内心では驚きを隠せない。坂上が話を始めてから数分遅れて姿を現すだろうと踏んでいたが、まだ来てない。アレが体調不良なんてありえないだろう。一体どういうつもりなのか。
このCクラスの中でもっとも箕輪の事情に通じているであろう龍園に彼女はすぐさま目を向ける。同じことを考えていたのか、伊吹の視界の端に顔を後ろへ向ける石崎の姿が映っていた。それを皮切りにして、他の生徒たちの視線もいっせいに龍園に注がれる。室内がきゅうに静かになった。
大勢の人間の目が集中すると圧迫感が生まれる。いくら鈍感な人間でも気づくそれに、龍園が気づかないわけがない。しかし、彼は頬杖をつきながら、机の上に置いた携帯端末を操作しているだけだった。しばらくしても、顔を上げる気配は見られない。
彼の姿に周りは違和感とじれったさを感じていたが、それを表明することはできなかった。クラスの支配者である龍園に意見などすれば、どうなるか分かったものではないからだ。
黙って見守っていた坂上はこのまま状況が変化することはないと判断し、欠席理由については後日、本人に直接確認をとろうかと考える。すると、突然、龍園が白い歯を出して笑った。
「どいつもこいつも物乞いみたいな視線を寄こしやがって。そんなに知りたきゃ、アイツの連絡先教えてやるぜ」
見下すような笑みを浮かべ、顔を上げた龍園から視線を逸らすように生徒たちは顔をそむけた。坂上は彼の言葉から、欠席の事情を知らないと悟り、荷物をまとめる。
「では、ホームルームを終了します」
そう告げると、足早に教室から出て行った。担任の坂上の姿が消えるやいなや、伊吹は龍園の席まで詰め寄る。
「龍園、あんた本当に──」
言いかけた彼女の言葉が止まる。視界に龍園の携帯端末が入った。画面にはチャットが映っており、相手は箕輪だった。今日の欠席についてメッセージを送っていたが、返信はない。つまり、龍園も箕輪が休むことを本当に把握していなかったことになる。
しかしながら、欠席理由がなんであれ、連絡の一つも寄こさないのは伊吹にとって不自然に思えた。疑問が彼女の中で膨らんでいく。それと同時に携帯端末を見ていた伊吹の頭の中であることが思い浮かんだ。
位置情報サービスのことだ。
連絡先を登録した相手の許可があれば、正確な位置情報がマーカーで表示される。箕輪が龍園に許可していたとして、連絡すらできないほど体調不良であるなら、マーカーは学生寮で表示されることになる。
だが、寮で表示されたからといって、体調不良であることが確定するものではない。聞いてみる価値があるかは微妙なところだが、興味本位で伊吹はたずねる。
「あんた、箕輪の──」
「伊吹、さっさと席に戻れ」
龍園の発した声にはクラスの支配者として命令することが当然といった、有無を言わさない貫禄があった。思わず動きが止まってしまった伊吹は自分自身に対し、じりじりとした怒りがこみ上げるが、それをおさえつける。
だいたい、自分が思いついたことを龍園が考えていないはずがない。位置情報が許可されていたとすれば、おそらくは確認済みだろう。そう考えた伊吹は中断された言葉の続きを口にすることはなかった。しかし、素直に命令に従うことも癪なので、軽く舌打ちをする。彼女なりの抵抗感を示し、龍園の席から離れた。
自分の席に戻った伊吹の表情は優れない。何か言い知れぬ不安を感じていた。Dクラスとの審議当日に警察沙汰、そして、原因不明の箕輪の欠席。これは偶然なのだろうか。何か関係があるのかと疑っても、関連性を見出すことはできそうもない。
伊吹は軽く溜息をつき、眉間のあたりを指で触る。慣れない思考に注力するのを諦めた彼女はおとなしく授業の準備にとりかかった。
──結局、力になれなかったなぁ
なかば上の空で教科書を眺めながら一之瀬はDクラスについて考えていた。正確に言えば、Dクラスに所属する綾小路のことだ。
同じBクラスである白波千尋から告白された件で、一之瀬は彼に借りがあった。綾小路自身はおそらく貸しだと思っていないだろうが、それでは彼女の気が済まない。だからこそ、Dクラスが困っている現在の状況で、問題解決の一助になればと──もちろん、Bクラスにもメリットがあるため──積極的に協力していたが、求めていたような成果を得ることはできなかった。Cクラスが仕掛けた罠は成功した時点で勝敗が決しているような巧妙なものであり、覆すには至らなかったのだ。
無法な暴力と心理につけこむ狡猾な手段を平気で弄する、そんなクラスがBクラスのすぐ後ろにいることも一之瀬を憂鬱な気分にさせていた。学校生活はまだ序盤の段階であり、これから2年と半年以上もある。クラスの仲間を守りきれるだろうか。
教科書に目を落としていた彼女は、ふぅ、と静かにため息を吐く。
「一之瀬、授業はすでに終わってるぞ」
かたわらから声が投げられた。一之瀬が顔を上げると、そばには神崎が立っていた。彼はいくらか憂慮しているような表情を向けている。
神崎から視線を外した一之瀬は周囲を見渡してみる。教壇には教師の姿は見えず、自分の席を離れて談笑する生徒たちもいた。いつの間にか授業と授業の間にある休み時間になっていたようだ。
「あはは、ちょっとだけ気が抜けてたみたい。でも、平気平気」
椅子に座りながら腰に手を当て、背筋を伸ばし、胸を張る一之瀬。それでも、彼女を見ている神崎の目つきから心配している色はなくならなかった。
「……Dクラスのことか?」
核心をつく彼の言葉に一之瀬は一瞬驚くものの、神崎の能力の高さは彼女だけでなくBクラスにおいても定評があり、Dクラスの事情についても詳しく知っているため、すぐに納得した。
観念した一之瀬が口を開く。
「やっぱり、神崎くんにはわかっちゃうかぁ」
「たしかに、今回の件でDクラスに協力した立場として一定の無力を感じるのは当然だと思う。Dクラスとの契約でCクラスがアドバンテージを得るのもBクラスとしてはおもしろくない。だが、あくまでも他クラスのことだ。そこまで自責を感じる必要はないように思う」
神崎の言葉は一之瀬の心情と少しだけズレていたが、白波の件を知らない彼には無理もないことだった。神崎が話を続ける。
「Cクラスが卑劣ということもあるが、そもそも罠にかかった原因はDクラスの団結力の無さにある。ひとりひとりがクラスの一員としての自覚を持てなかった結果、その綻びをCクラスによって狙い撃たれた」
冷たい指摘だったが、おおむね正しいと言えるだろう。以前にBクラスもCクラスから、ちょっとした難癖をつけられていた。おそらく、Bクラスがどういう反応をするのか品定めしていたはず。場合によっては、Bクラスが標的になっていたかもしれない。
「だがな、一之瀬、それはDクラスだから通用したんだ」
神崎は自信に満ちた表情をしていた。
「俺たちBクラスは違う。どのクラスよりも団結力がある。いくらCクラスが姑息な手段をとろうと揺らぐことはないはずだ。それに──」
言葉を切った神崎はさりげなく視線を周囲へ配る。一之瀬も彼にならって見てみると、多くの生徒たちが話をしながらもチラチラとこちらの様子をうかがっていることに気づいた。どうやら、一之瀬が普段と違う様子であることを気にかけていたようだ。クラス一の人気者であり、中心人物である彼女を放っておけないのは道理だろう。
「みんなも心配している。油断は禁物だが、まだ戦いは始まったばかりだ。必要以上に相手を大きく見てしまうと勝てるものも勝てなくなる。適度に肩の力を抜くことも必要だ」
「……うん、そうだよね。ちょっと弱気になってたかも。ありがとう、神崎くん」
神崎の言葉をひとつひとつ反芻するように何度か頷いていた一之瀬は自分の頬を両手でピシャリと叩く。そして、次の瞬間には快活な笑顔を見せていた。全身に生気がよみがえる。いつも通りの一之瀬帆波の姿がそこにはあった。
唐突な彼女の行動に、自然体をよそおいながら観察していた周囲の生徒たちは少し驚く。が、元気を取り戻した様子の一之瀬に、どうやら神崎がうまくやったみたいだと一安心した。そして、各々が競うように席を立つと、一之瀬の席へ殺到し、笑みを浮かべながら口々に言葉を投げかける。
一度に複数の人が話し出したので、一之瀬は対応できず、慌ててたしなめるものの、みんなの気持ちを嬉しく思っていた。
「みんな、心配かけてごめんね」
一之瀬は改めて自覚する。Bクラス独自で学級委員を決めたときに、自分が委員長として支持されたという事実がどういうことなのか。安易に弱さをさらけ出してはいけないリーダーとしての役割を。
この学校は普通ではない。おそらく、これから長く厳しい戦いが始まるだろう。それは、一之瀬が生徒会絡みの仕事で上級生の教室に顔を出したとき、クラスの人数が少なかったことからも明らかであった。
けど──
談笑しながら、一之瀬は周りを見回す。そこにはBクラスの頼もしい仲間たちの顔ぶれが揃っていた。能力で言えば、Aクラスにだって引けを取らない。そこへ他クラスにない団結力が加わるのだから、やれないはずがない。たった今、一之瀬はそう確信していた。
しかしながら、彼女は気づかない。盛り上がる集団の外から、人だかりで姿が隠れている一之瀬をまるで見えているように捉えて離さない視線に。絡みつくようなドロリとした仄暗い視線に。
「大丈夫だよ、帆波ちゃん。わたしが助けてあげるからね」
誰にも拾われることのない言葉は人知れず虚空に溶け込んでいった。
「そういや、今日だったっけ? 警察の騒ぎで完璧に忘れてたぜ」
はぁ、とため息をつきながら、諦めたように机に突っ伏す山内。
最後の授業も終わり、あとはホームルームを残すところとなったDクラスに解放感はない。なにしろ今から頭の痛い問題がやってくるのだから。
山内のひとり言を最後に、沈黙に
しばらくその状態が続き、痺れを切らした池は無造作に頭を掻くと机に手をついて立ち上がり、
「なぁ、どうすんだよ? このまま黙ってても
みんなに呼びかけた。
普段は三馬鹿と
「俺はCクラスの条件受け入れに反対だ。メリットがなさすぎる」
停滞していた空気を破ったのは
幸村は話を続ける。
「条件を受け入れれば、卒業するまで毎月得られるポイントの40%をCクラスに取られるだけだ。この先、クラス間での競争において、それは大きなハンデにしかならない。今回はクラスポイントを諦めて、次に備えるのが当然だろ。幸いと言っていいのか、Dクラスが得られるポイントは少ないからな。今後で挽回すればいい」
強い口調で言い切った幸村の言葉尻には賛成派を馬鹿にするような調子があった。
言外に馬鹿扱いされていることに気づいた賛成派筆頭の篠原は聞き流すことができなかったようで、幸村のほうへ顔を向ける。
「幸村くんはさぁ、須藤くんがかわいそうだとは思わないわけ?」
「かわいそう? 理解不能だ。今回の件はそもそも須藤の自業自得だろ。それに──」
幸村は嘲笑するようにふんと鼻をならす。
「本当にそう思ってるなら、須藤に声の一つや二つかけてやるもんじゃないのか? 俺が見た限りでは平田に櫛田、堀北だけだったぞ。他のヤツは腫れ物として遠ざけてただけだ」
「あー、そっかぁ。幸村くんは勉強ばっかりしてるからわからないんだ。人にはそっとしてもらいたい時があるんだよ。声をかけることだけが優しさじゃないから。ひとつ学べてよかったね、幸村くん」
篠原の挑発的な物言いに嫌悪を覚える幸村。不愉快さをたたえた彼はゆっくりと席を立った。
「もし、本当にそう思ってたとしても、感情論であることに変わりはない。条件を受け入れた結果、Dクラスが負ってしまうハンデの大きさを理解してるのか? いや、理解できる頭があれば、そもそも感情論で話さないか 」
幸村は対抗するように煽り返した。篠原も席を立つ。
「ちょっと勉強できるからって何様なわけ? 自分が特別だとでも勘違いしてるの? おあいにくさま、同じDクラスだから。現実見ようよ」
「……これだからポンコツは困る。すぐに議論から脱線しようとするからな」
「学力だけで人を判断するような幸村くんにポンコツって言われたくないなぁ」
「そういうセリフは勉強をしてから言わないと言い訳にしか聞こえないぞ」
「うわぁ、マジでドン引き。友達が一人もできない理由がわかったっていうか。かわいそ」
「何だと?」
「何よ?」
二人の間で行われる話し合いは過熱していき、言い合い合戦の様相を呈していた。誰も止めなければ、このままずっと続くのではないかと思わせるほどに譲り合う気配は微塵もない。彼らには仲裁が必要だった。そして、その役回りは池にあった。二人の争いを眺めていた彼は気が重たいながらも、話に割って入る。
「まぁまぁ、二人とも、いったん落ち着こうぜ」
席を立った池はどうどうと
「ぶっちぎりの性犯罪者予備軍のくせに常識人ぶるのやめてくんない? すっごいムカつくから」
篠原の言葉に池の表情が固まる。そして、次の瞬間──
「誰が性犯罪者予備軍だっ。お前みたいなブスに興味ねぇよ! 」
池も参戦。
そして、ブスという彼の暴言に反応した女子たちが篠原を援護するために次々と口を開き、容赦のない言葉を浴びせ、ついには平田をのぞく男子全体を否定し始めた。黙っていられなくなった男子たちも応戦する。
もはや、賛成派、反対派に分かれての議論ではなく、男女にわかれて日頃の不満をぶつけ合う場へと変わっていた。
目の前の騒がしさによって、読書に集中できなくなった堀北は本を閉じると隣に目を向ける。
「あなたは参加しないのかしら、綾小路くん?」
時間を空費するようにぼんやりと前を向いていた綾小路はそのままの姿勢で返答する。
「雑兵がひとり増えたところで戦況に変化はないだろ。流れ弾に当たりたくないしな」
「相変わらずあなたらしい卑小な考え方ね。ところで」
話を切った堀北は平田を見る。ここまでクラスが荒れていても介入する素振りが彼から見られない。堀北は不自然に思っていた。
「あなたは平田くんの様子をどう思ってるの? 彼、昨日から様子が──」
「堀北」
綾小路が話を遮った。途中で口を挟まれた堀北はむッと眉をひそめたが、「なにかしら?」と問い返す。
「確認するが、お前はAクラスを目指すんだよな?」
「ええ、そのつもりよ」
「なら、この統率のとれていないDクラスをお前がまとめないといけないのは理解してるのか?」
「最大限の努力はする。でも、限度があるわ。須藤くんのように中間テストで改心したと思えば、またすぐに問題を起こす生徒がいるもの。そんな努力は不毛でしょ? 最悪、私ひとりでどうにかするわ」
何の根拠もなく息まいている堀北を見る綾小路。彼の瞳には路上で行われている芸事に気まぐれな視線を向けるのと同じくらいの冷たさがあった。
「すごい自信だな。Cクラスの罠に対応できなかったとは思えないほどだ」
「ッ、それは……」
反論するために口を開く堀北だったが、言葉が続かない。綾小路が指摘していることは正しかった。自分の能力を過信しているのか、彼女はやる気だけが先行している。
「いいか、堀北。お前はまず自分の立ち位置を把握したほうがいい。はっきり言ってDクラスの中でお前に良い印象を持っているヤツは須藤くらいだ。もっとも、その須藤も今はどう思ってるかわからない。Dクラスのリーダーとして機能する最低限の人望すらない状態だ」
立て続けに
「……さっきから、随分と偉そうに言ってくれるわね。そういうあなたはどうなのかしら? 人を諭すほどのものがあるの?」
「俺は別にAクラスを目指すつもりはない。ただの一時的な協力者だ。そもそも、お前とは立場が違う。それに、ただ事実を言ってるだけだろ? 間違っていると思うなら、指摘してくれ」
綾小路の言葉に、またもや口を閉ざす堀北。感情的に怒鳴り散らさないだけ、事実を受け入れる度量はあるようだった。
綾小路が話を続ける。
「まぁ、俺が言いたいのは、お前がAクラスを目指すなら、Dクラスの生徒から信用を勝ち取る機会を無駄にせず、上手くやれってことだ。臨機応変にな」
その言葉を最後に綾小路は再びぼんやりと前を向いた。話をする気配はない。
結局、何がしたかったのかいまいち理解できない堀北は不審そうに綾小路を見つめるが、彼が反応を示すことはなかった。
──ガラガラッ
大きな音を立てて教室の扉が引かれる。同時にDクラスで巻き起こっていた喧噪もピタリと止まった。
部屋に踏み入った担任の茶柱は呆れた表情を隠すこともなく、生徒たちに向けていた。
「随分と大きな声で騒いでいたようだな。防音性があるはずの教室から騒がしさが外にまで届いていたぞ」
教壇に上がりながら、茶柱が話す。立ち上がっていた生徒たちは罰が悪そうに静々と着席していた。教卓に着いた茶柱は生徒たちの顔を見回す。
「まったく。最近は見違えるほど頑張っているかと思えば、このありさまなのだから、ほとほと評価しづらいクラスだ。まぁ、言い換えれば面白いとも言えるのか」
若干ではあるが、いつもよりも機嫌が良さそうに見える茶柱。これからDクラスに少なくない損失を与えるCクラスとの審議が控えているというのにどういうことなのか。生徒たちは不思議そうな顔をしていた。
「お前たちに朗報だ。さきほど、訴えていたCクラスの生徒たちから今回の件が取り下げられた。つまり、滞りなくクラスポイントが加算される」
──え?
誰とも知らない間の抜けた声が上がる。茶柱の言葉に理解が追いつかないDクラス。ぽかんと口を開けたまま呆けている姿が数人に見られた。
笑みを深めた茶柱は話を続ける。
「何をしたのかは知らんが、お前たちの反応を見るに一部の人間が行動を起こしたようだな」
茶柱の視線が綾小路をとらえる。が、それは一瞬だけで、すぐに正面を向いた。
「いずれにしても、お前たちにとっては望ましい結果でなによりだ。今日のホームルームは以上で終了とする。あまり騒がしくするなよ」
そう忠告して締めくくった茶柱はゆうゆうと教室を出て行った。脱力したような沈黙がDクラスを支配する。
「俺たち勝ったってことだよな?」
切り込み隊長の池がポツリとつぶやく。それを契機に生徒たちはお互いに顔を見合わせながら声をあげる
「卒業までプライベートポイントがとられることはなくなったってことか」
「ゼロポイント生活ともおさらばになる」
「なんか知らねーけど、やったぜ!」
「これで欲しかったもの買えるね!」
「よっしゃー!」
「ざまぁみろ、Cクラス」
「これが俺たちの底力だ」
Dクラスに再び騒がしさが舞い戻る。しかし、さきほどとは違って喜びの様子を見せていた。不思議がったり、感心したりと忙しそうに表情を変えている。
「……どういうこと?」
すでに審議のことを考えていた堀北は突然の知らせに戸惑いを隠せない。いったい、何が起こったのか。疑問をくすぶらせる彼女は素直に喜べない。眉をひそめて考え込んでいた。しかし、事態はそんな彼女に追いうちをかけるように動く。
今まで動きを見せていなかった平田が立ち上がった。歩き出した彼は教卓に到着すると、すぐさま話を切り出す。
「みんな、話を聞いてもらってもいいかな? 大事なことなんだ」
相手にお願いするような形で平田は呼びかけるが、その声は力強く、自然とクラス中が話を聞く態勢になっていた。
「詳しいことはあとで説明するけど、まずはじめに、僕はCクラスが訴えを取り下げることを事前に知っていた。そのことについて、みんなに謝罪したい」
平田はクラス全員に対して頭を下げた。状況を理解できないクラス一同は言葉を失っている。しばらくして顔を上げた平田はふたたび口を開いた。
「そして、今回、Cクラスの脅威を退けてくれたのは──堀北さんだ」
平田の言葉にどよめきが走った。クラス中の視線が堀北へ一斉に集まる。その視線には驚きや疑問、感動といった感情が入り乱れていた。
身に覚えがない話と不躾な視線にさらされ、今までに経験したことのないような不快感に襲われる堀北。訴えが取り下げられた理由も見当がついていないのに、現在の状況が駄目押しのように頭の中をぐちゃぐちゃにしていく。彼女は必死に頭を回転させるが、散らかった情報が収拾することはなさそうだ。
表面上は冷静さを保っているものの、気を抜くと焦りが表情にでてしまいそうな堀北は何を思ったのか、ふと隣に目をやる。そこには観察するような瞳をすえる綾小路がいた。
その瞬間、堀北の脳裏にさきほどの綾小路との会話が思い出される。
そして、理解した。この状況を作り出したのは何食わぬ顔をしているこの男であると。臨機応変にこの事態に対応して、クラスの信用をつかみとれ、そう言っていたのだと。
しかし、言うほど簡単な状況ではない。少しでも解決方法について追及されれば、事情を知らない堀北ではすぐにボロが出てしまう。かと言って、単純にだんまりを決め込めば、みんなは納得しないうえに、心象は良くない。
──いったい、あなたは何をやったの。綾小路くん
声にできない叫びが堀北の胸中を支配していた。
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