アルベドになったモモンガさんの一人旅【完結】 (三上テンセイ)
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第一章 凝着
1.転移
拙い点多々あると思いますが、何卒よろしくお願いします
四期が楽しみです
「そうだ、楽しかったんだ……」
ナザリック地下大墳墓。
その最奥にて、
恐ろしい威容の骸骨の眼窟に灯る赤い目が、今は儚げに揺れている。
隆盛を極めたDMMO-RPG『ユグドラシル』
十二年もの間続いたサービスも、あと五分もしない内に終了する。時間も、金も、青春も、鈴木悟の全てを費やしたこの掛け替えのない世界が終わってしまう。
側に控えている美女──NPCのアルベドは、デフォルトである微笑の表情のままにモモンガを見つめていた。
先程ちょっとした悪戯心でアルベドのビッチ設定を『モモンガを愛している』という一文に書き換えた彼だったが、結局何の慰みにもなりはしなかった。
「最後は結局俺一人か……」
そんな虚しい呟きが、虚空に消えていく。
『ちょっと勝手にアルベドの設定書き換えちゃダメですよー』と、仲間の誰かに叱ってもらいたかった。ユグドラシルの最後くらいギルメンの誰かと思い出話に花を咲かせたかった。
そんなささやかなモモンガの寂しい思いに気づく者は誰もいない。配下のNPC達を玉座の間に集めたはいいが、結局彼らは心を持たないデータでしかないのだから。彼はここで独り寂しくユグドラシルの終焉を待つばかりだった。
コンソールを開いて時刻を確認すると、日付変更まで残り一分を切っていた。
「あーあ、明日も仕事か……サービス終了見届けたらすぐ寝よ……」
楽しかった時間も、いつか終わりがやってくる。死の支配者は玉座に更に深く身を沈めて、残り三十秒のこの世界の終わりを気重に待ち続けた。
「え……?」
モモンガの頭上に、大量の疑問符が浮かび上がった。
ユグドラシルのサービス終了のまさにその瞬間まで自分は玉座に座っていた。そのはずだった。
「……」
思いがけず、絶句する。
気づけば森の中にいたのだから当たり前だ。
森。それ以上にもそれ以下にも例えようのない光景がモモンガの視界一杯に広がっていた。
青々と茂る森の木立の上には、穏やかな蒼穹が揺蕩っている。時折土と緑の香りのする風が頬を撫ぜ、陽だまりの暖かさがここがゲーム内ではなくリアルであるとモモンガに直感させた。
(いや……そんなことはあり得ない)
モモンガは否定の意味合いで首を横へ振る。彼の知る現実世界の自然は環境汚染がいくところまでいっており、特殊なマスクなしでは外に出られない程の地獄なのだから。
ここが現実世界──日本ということは、あり得ない。
(俺は……夢でも見ているのか?)
しかしここが電脳世界ではないことを決定づける理由も確かにある。
ここがユグドラシル──ひいてはフルダイブ型のMMOの世界であるならば、法律によって視覚と聴覚以外の五感に訴えられるようなものは規制されているからだ。しかしここは自然の鬱蒼とした青の香りもあれば、頬を滑る風の感触もある。
そして何よりこの森一帯に満ち溢れる命の息遣いが、本能的に現実であると訴えてくる。
「…………」
試しにその辺の草を千切って食んでみると、青臭い味が広がった。実験の結果に後悔したモモンガの顔が、顰めっ面へと変わる。何が悲しくて雑草なんか食わなきゃならないのか。
しかしこの実験は意義のあることだ。
その辺にある草は背景の一部のテクスチャなんかではなく、引っこ抜けば根もあるし噛んでみれば味もある。
……ここは仮想現実なんかじゃない。
確かな現実として、モモンガの前に広がっていた。
(まさか……え? 本当にそうなのか? ここが現実、だと……?)
モモンガは狼狽しながらも自身でも驚くほどの速度で、彼を取り巻いている状況への理解が進んでいた。まるで凡人の頭脳の演算能力が天才のそれとすげ替えられたかのように。
しかし何よりもモモンガの興味を引く現実が一つ存在している。
(これ……アルベドの体だよな……)
自分の体を確認するように下を見れば、自分の足元が確認できなかった。豊かに実った乳房が圧倒的な存在感を放っているからだ。ノースリーブのドレスから露出した肩も見てみれば初雪にも白磁にも例えられる程に穢れを知らぬ白さを誇っており、オペラグローブをつけた細指のシルエットは最早至高の芸術だった。見覚えのある純白のドレスはまさにアルベドが玉座の間で纏っていたそれであり、自分の肉体が彼女のものであると結論づけるには十分過ぎるほどの証拠材料だった。
カラクリなどひとつも理解できない。
しかし自分の肉体が、アルベドになっている。
鈴木悟のものでもなく、モモンガのものでもない。至高の四十一人の一人、タブラ・スマラグディナが創造したナザリック地下大墳墓守護者統括たるアルベドのものになっているのだ。
それは紛れもない事実。
そしてその体のまま、現実世界ではないどこかの『リアル』に転移してきている。
(一体どうなってるんだよ……)
全くもってわけが分からない。
モモンガは許容量を超えるトンデモ現実にガックリと肩を落とすと、近くの切り株に腰掛けた。
分からないことはまだまだ多い。
しかしこの体がユグドラシル産のものであるならば、まず確認しなければならないことがある。
様々な確認。それから状況の整理。
最後に行動指針を決めるべきだろう。
かつての仲間たる知将……ぷにっと萌えさんならきっとそうするだろうから。
「まずは現状把握から、だな」
ここが現実で、
しかしその理解とは別に、ユグドラシル的感覚も存在しているのは確かだ。
コンソールこそ開けないが、自身の内側に意識のベクトルを向ければ分かる。インベントリ内の所持アイテム。取得している職業・種族レベルの内訳。使用可能なスキル、魔法……そしてそれに関連するリキャストタイム。自らに流れるMPの総量。
(分かる……分かるぞ)
モモンガは様々なデータを確認しながら、少なくない高揚を得ていた。
だって、仮想現実は結局仮想現実。ユグドラシルでどれだけ強い魔王を演じても、どれだけ強力なスキルを習得しても、現実では何の役にも立たない。
だが今は違う。
あの強い自分が、虚構ではなく現実となっている。社会的にも肉体的にも弱者でうだつの上がらない鈴木悟ではもうない。
モモンガはスーパーマンになった。
いや、最早それ以上の話だ。
そしてモモンガは、自らのステータスの明らかな異常を見過ごすことができなかった。
(うわ、え……? どうなってんのこれ。バグってるってレベルじゃないぞ)
モモンガは自分の内に意識を向けながら、分かりやすく困惑した。
……強い。
強すぎるのだ。
ステータスが、取得しているスキル構成が、とんでもないことになっている。
総合レベルにして200。
そう……これはモモンガとアルベドの種族・職業レベルをそのまま足し算にしたステータスなのだ。そしてその両方で取得したスキルや魔法も当然の様に扱うことができる。
HPと防御に特化した鉄壁の近接職が、死霊系に完全特化した魔法攻撃を繰り出してくることを想像してみて欲しい。
最早チートなんて言葉さえ陳腐に思えるほどのインチキステータスだ。強さを表すレーダーチャートが、全て最大値を取った綺麗で大きな六角形になっているようなものだろう。
こんなの、PvPで負けようがない。
明らかなバグか不正であり、こんなステータスでマップを歩いてたら運営に即刻BANされることだろう。
あのアインズ・ウール・ゴウンが誇るワールドチャンピオン……たっち・みーですら相手にならない。
「こんなのせこすぎるだろう……」
美しい声で呟くモモンガは、しかしその言葉とは裏腹に興奮していた。全能感とは、まさにこういうことなのだろうから。
しかし代わりに失った物もある。
それは、モモンガがナザリックに溜め込んでいた大量の課金アイテムだ。
結局今の手持ちはモモンガとアルベドの保有していたアイテムボックス内の物しかなかった。霊廟の奥にある二十と呼ばれるワールドアイテムも、宝物殿に溜め込んだ大量のユグドラシル金貨もここにはない。
ガックリと肩を落とすモモンガだが、彼の保有するワールドアイテム……通称『モモンガ玉』と何故かアルベドが持たされていた『
(なんで『
モモンガは左胸に手を当て心臓の鼓動を確かめると、金色に閃く瞳に確かな覚悟の色を宿した。
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2.決意
モモンガは虚空……アイテムボックスに手を突っ込むと、一枚の手鏡を取り出した。取り出した手鏡を覗き込むと、目をパチクリとしてしまう。
絶世の美女の
黄金比で象られた目鼻立ち。僅かに潤んだ蠱惑的な唇。良い香りを纏った黒髪は嫋やかに腰まで流れおち、風が吹くたびにきらきらと光を返していた。
瞳孔が縦に割れた金色の瞳は人ならざる者の証左であるが、僅かに浮かべた微笑は慈愛に満ちた天使さながらであり、見た者はその人外たる瞳の忌避感を上塗りするほどの魅力を感じるに違いない。
傾城傾国とはまさにこのアルベドの美貌のことを表す言葉だろう。
「すごい……綺麗だ」
それほどの美女が、ゲーム内のデータではなくこうして生きていることにモモンガは素直に驚いた。深く呼吸をすれば肺が膨らむし、きりりと睨めば鏡に映るアルベドも睨み返してくる。あー、あー、と声を出せば、鈴木悟の平凡成人男性のものではなく、美しい音が声帯から発せられた。
そうしてるうちにモモンガに悪戯心に似た感情がふつふつと湧いてきてしまう。だから、彼が鏡を見てこう言ったのはちょっとした気の迷いなのだ。
「鈴木悟様……私アルベドは、貴方様をお慕いしております」
…………。
長い静寂が訪れた。
……徐々に鏡の中のアルベドがじわりじわりと紅潮していく。そして茹でタコのように真っ赤に染まったところで、モモンガは手鏡をどひゃーっと放り投げた。
「くふー! わー! わー! 恥ずかし! 何やってんだ俺! ひー!」
ともすればモモンガはその場をゴロンゴロンとのたうち回りたかった。自分でやったこととはいえ、美女に自分宛のプロポーズを言わせた下品な喜び以上に羞恥心が勝つ。それにアルベドの創造主たるタブラ・スマラグディナへの罪悪感もひとしおだ。
ちょっとした童貞心で招いた行動が、ここまでの羞恥を感じる事態になるとは彼自身思っていなかった。
森のど真ん中ですみませんタブラさんすみませんタブラさんと何度も言いながら真っ赤な顔を覆う美女の姿は滑稽そのものだ。
モモンガはしばらく自分の行動に
ここは異世界で、自分の体はアルベドになっていて、森の中で一人。
さて、これからどうしよう。
「ん……?」
ピクリと、モモンガの肩が弾む。
祭り……? 或いは争い事の喧騒を、モモンガの聴覚が捉えた。
多数の人間の声。
怒号、悲鳴……様々な感情が入り混じった多々な人の叫びが、どこか遠くから聞こえてくる。
モモンガは巨木の太い枝に黒翼を使ってひらりと飛翔すると、息を殺して目をゆっくりと閉じた。
「
そう呟くと、閉じた視界に光が満ちていく。魔法によって視覚器官が作り出され、さながら偵察機の様に喧騒の方へと飛んでいき、モモンガと視界を共有してくれる。
(……良かった。魔法も思っていた以上に簡単に使えるみたいだ)
モモンガは魔法を容易に使えたことに一先ず安堵した。何をどうやって魔法を使えたかというのは彼にも理論的に説明できないが、感覚的且つ直感的に使用することができる。これはユグドラシル内に於いてショートカットのコマンドに設定していた魔法を扱うよりもずっと簡単なのが嬉しい誤算だった。
(これは……あまり面白いものではないな)
小さな娘を連れて庇う様に逃げる少女……そしてそれを追う、鎧を纏った騎士風の男二人。そう遠くない場所の光景だ。
(装備を見るに野盗の類ではなさそうだが……? なぜあの無垢そうな少女達を……?)
騎士達は人をきちんと殺害できる実剣を握っており、力なき少女達を追い詰める様は狩りを楽しんでいるようにも見える。
「…………」
うら若い少女達が殺人鬼に追い詰められているというのに、不思議とモモンガの心は波立たなかった。可哀想という気持ちはあるが、蛇がネズミを捕食しようとしている映像を見ている程度の憐れみしか湧いてこない。
(……どうする?)
はっきり言って無関係を決め込みたい。
『遠隔視』の魔法だけではあの騎士が扱っている剣や鎧のデータ量は判断できかねるし、何よりこの世界の人間達がユグドラシルプレイヤー程度の強さを持っている可能性を考慮するなら、薮の中の蛇を突くような真似は禁物だ。
モモンガは現在総合レベル200だが、大勢のレベル100プレイヤーに囲まれて課金アイテムを大量投入されてしまえば流石に生きて帰れる保証はない。
「すまないな」
あの少女達を見捨てることを決めたモモンガは、せめて謝罪の言葉だけは溢した。
妹なのだろうか、小さな女の子が転んだ。
姉の方が庇う様に妹を抱き込むが、もう遅い。騎士達が追いついた。彼らはヘラヘラと笑いながら、剣を振りかぶっている。
「…………っ」
瞬時、モモンガの脳裏に純白の騎士の幻影が過った。かつての仲間の、あの時の、あの言葉が蘇る。
『困っている人がいたら、助けるのは当たり前』
それは、異形種の体となったことで知らず知らずのうちに失われたモモンガの人としての倫理観を呼び起こした。
モモンガは自嘲気味に笑むと、額を押さえてこう零す。
「……たっちさん。貴方への恩は返します」
たっち・みーの勇姿を誇る様なモモンガの口調は、軽かった。口を真一文字に引き結び、モモンガは少女達の下へ向かうべく魔法を唱える。
「
さぁ、この世界で初めての接敵だ。
緊張と、自嘲と、誇りを持って、モモンガは転移門の中へと身を投じた。
【補足】
本作のモモンガさんはアンデッドではないので精神の沈静化はありません。
また骸骨の肉体と違ってきちんと血肉がある肉体なので、カルマ値は極悪ですが原作ほど人間性は失われていません。
モモンガ(骨)
『初対面の人間は虫けら程度にしか思えないけど、話してみたりすると小動物に向ける程度の愛着は湧く』
モモンガ(アルベド)
『初対面の人間は小動物程度にしか思えないけど、話してみてようやく人間だと思える様にはなる』
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3.天使
息を切らして、森を駆け抜ける。
銅鑼を鳴らすような激しい心臓の拍動に突き動かされ、カルネ村の少女エンリ・エモットは幼い妹の手を引きながら追手から逃げていた。
村に突然現れた帝国軍を名乗る騎士達に村を襲われたのだ。凶刃から文字通り命を懸けて逃がしてくれた父の雄姿を、エンリは忘れない。
「きゃっ!」
「ネム!」
妹のネムが木の根に足を引っ掛けた。幼い体なのだ。無理もない。しかしそうこうしている内に、カルネ村を滅ぼしにやってきた騎士達が、血濡れの剣を持ってやってくる。
「ネム……!」
エンリは妹の小さな体を覆う様に、ネムを抱き込んだ。
そんな力なき姉妹の背を見つめる騎士達の表情には、慈悲の色はなかった。王国の様々な村で殺してきた百を超える屍の山に、また二つ積み重ねるに過ぎないのだから。
──しかし、騎士達の剣が振り下ろされることはなかった。
「なんだ……!?」
その代わりに、彼らからは未知の恐怖に晒されたような声が上がった。
「え……?」
何事かと振り返ると、騎士達はエンリのことなど見ていなかった。
見ているのは、エンリの背後。
突如出現した、闇を溶かしいれた鏡の様な空間。
それは魔法的に作られたものに違いないが、騎士達にもエンリにもそれが何であるのか理解できない。
未知なるものに対峙し、身が竦んだ騎士達は怯んだように一歩後ずさる。
そして彼らの後退に示し合わせた様に、闇の鏡から何かが姿を現した。
「ひっ」
騎士が小さく悲鳴を上げた。
禍々しい空間から姿を晒すのは鬼か、蛇か。
背筋に氷の様な冷たい恐怖を覚えながら騎士達は剣を握りしめ──
「な……っ」
──そして思いがけず、思考と言葉が詰まる。
現れたのはこの森にはとても似つかわしくない耽美な白いドレスを纏ったあまりにも美しい女だったからだ。
「わぁ……」
美しいという言葉さえ置き去りにするほどの美。
姿を現した美女──モモンガの姿を認めた村娘エンリ・エモットも、自分の危機を忘れてその超位的な美貌に目を奪われていた。
造物主たるタブラ・スマラグディナはアルベドを天使や女神と見紛うほどの容姿だと設定し、創造した。故に彼らの反応は至極当然と言えるだろう。騎士にとってはモモンガが自分の行動を咎めにきた女神に、エンリにとっては憐れな村娘の窮地を救う慈悲深き天使に見えているに違いない。
まさに美の化身であり、高潔な上位存在。
……しかしその印象は、モモンガの頭部から生えた一対の角と、腰から伸びた黒翼によって逆転する。
「異形種……!?」
あの角と翼を見過ごすわけにはいかない。目の前に現れた存在がどれだけ美しかろうと、異形種と分かれば敵対する理由が彼らにはあった。
「
そう唱えて、モモンガの右手が何かを握りつぶす。
その瞬間、モモンガの視線を受けていた一方の騎士が、一度低く呻いてその場で屍を晒す結果となった。
「……」
騎士の死を見届けたモモンガは、先程の感触を確かめる様に右手を開いて閉じてを繰り返し、細く息を吐いた。彼女にとっては先程握り潰した何かの感触はあまり良いものではなかったらしい。僅かに顔を顰めているのがその証拠だ。
「この世界の人間達に私の得意とする死霊系……その中でも高位の第九位階魔法が効かなければ、流石に逃げるしかないと思っていたが……どうやら問題はない、ということのようだな」
「ば、化け物……!」
一瞬にして仲間を絶命させた悪魔に、騎士は喉の奥で小さく悲鳴を上げた。しかしモモンガはその様子に対して興味がなさそうに『実験』の結果を確認している。
「人を殺めても思っていた以上に動揺の波が薄い……これはカルマ値の影響か? 何にせよ、この
整理の為の独り言だ。
モモンガは言いながら視線を返すと、ゆったりと残りの騎士に歩み寄る。決定的なレベルの違いを本能で思い知った騎士は、裏返った声で「化け物」と叫びながら背を向けて逃げ出した。
「年端もいかない女子供は追いかけ回せるのに、強者に立ち向かう度胸はないか……折角来たんだ。無理矢理にでも実験に付き合ってもらうぞ」
モモンガはそう言って、騎士の背中を指さした。その指の先に、蒼い雷の力が集約していく。
「
次の瞬間、モモンガの指先から稲妻が迸った。蒼く、鋭く、雷が嘶く。
雷の魔法は逃げる騎士の背中に直撃するや、いとも容易く肉体を鎧ごと焼き切った。絶命の瞬間は一瞬だったに違いない。騎士はぐるりと白目を剥くと、雷撃の力に逆らわず地に墜ちた。
肉と鉄の焦げた臭いが、風に乗ってやってくる。
「弱っ……まさかとは思ってたけど、第五位階魔法でも簡単に死ぬなんて……」
術者のモモンガは龍雷一発で殺せたことに目を見開いた。こんなのユグドラシルであれば魔法の威力の殆どを装備品だけで軽減されるくらいのものだというのに。
(まぁ……想定を下回るレベルなぶんには何の問題もない)
驚きと、安堵と、呆れが、それぞれ波状的にモモンガの心に波を打つ。強者の存在も警戒するに越したことはないが、現地の武装した兵士に化け物と比喩されるほどの力はあるらしい。
慌てて駆けつけたせいで
(総合レベル200に浮かれて、この世界の人間が平均500レベル以上でしたなんて結果だったら目も当てられなかったからな……)
未知なる敵に対して油断や驕りは天敵であると、かつての仲間のぷにっと萌えも口酸っぱく言っていたのをモモンガは思い出していた。石橋は叩いて叩いて、スケルトンを歩かせて、マジックアイテムも用いてから歩くくらいが丁度よい。初見攻略で調子にのって重課金アイテムをロストしたときの忌々しい記憶は、モモンガの脳裏に今もこびりついている。
(さて)
モモンガはある程度の整理を終えると、エンリに向き直った。
「……あっ」
エンリは思わず声が出た。
あの金色の瞳が自分に向けられたからだ。モモンガがゆったりと、美しい黒髪を揺らしながら歩み寄ってくる。
「大丈夫でしたか?」
労りの言葉を紡ぐ声は、優しかった。
目線が同じ位置になる様に屈んだモモンガの顔が余りに近くて、余りにも美しくて、余りにも慈愛に溢れている微笑を湛えていたから、エンリは一瞬で赤面した。相手が同性とか、異形種なんてことすら最早エンリにとっては些細なことだった。
「は、ひゃい! だ、大丈夫でし、です!」
「そうですか。大事がなくてよかったです。そちらの子も特に怪我は……なさそうですね」
心臓は不規則に暴れるし、言葉も噛む。顔も火傷しそうなくらいに熱い。
しかしこれほどの美女に声を掛けられた者なら誰だってそうなってしまうと、エンリは確信していた。
(睫毛、長っ……何か、すごく良い匂いもするし……!)
エンリがドキドキと胸を高鳴らせていると、背に回していたネムがひょっこりと顔を覗かせた。
「お姉さんは……もしかして天使なの?」
──いや、違うぞ。
余りにも的外れな質問にモモンガはツッコミ半分でそう返そうとして、言葉を引っ込めた。
殺す予定の相手ならいざしらず、対話するべき相手に対して今の自分の姿で元々の男口調を扱うのはそぐわないと思ったからだ。何よりタブラが手塩にかけて創造したアルベドの肉体を、自分の口調一つで汚すようなことをしたくなかった。
アルベドの容姿に合うよう、なるべく綺麗で丁寧な言葉を心掛ける。これは今決めたこの世界でのルールであり、ユグドラシルを去ったタブラへのせめてもの手向けでもあった。
「いえ、違いますよ」
咳払いをひとつだけして、モモンガは言葉を整えてネムに微笑む。
その微笑みは彼が意図したものではない。創造主がそうあれと設定したせいか、気を抜くと
綺麗な口調、美しすぎる容姿、柔和な物腰と優し気に湛えられた微笑……今まさに否定されたばかりだというのに、ネムはやはりモモンガを天使だと強く思った。それは姉のエンリにとっても全く以て同意することだ。
「天使様、どうかお願いします。私達を救ってくださったばかりで厚かましいとは承知の上なのですが……どうか、どうかそのお力で私達の村を救ってくださいませんか……!?」
縋るエンリ達の不安な気持ちを溶かす様に、モモンガは頷いた。まるで慈母の様に微笑む彼女に、エンリ達は赤面し、泣きそうにさえなった。
「困っている人がいたら助けるのは当たり前、ですからね」
だって自分達をお救い下さる天使様はこんなにも優しく、強く、美しいのだから。
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4.欲望
阿鼻叫喚の地獄絵図。
カルネ村を地獄に変えた帝国騎士団──を騙るスレイン法国の部隊を任されるベリュースは、苛立ちを隠そうともせず足元に転がる死体を蹴とばした。
恐怖に怯える村娘をいたぶろうとした矢先、今や死体となったこの男がベリュースの体に取り縋って邪魔してきたのだ。娘の父親だったのだろうが、彼にはそんなことは関係ない。折角の自分の楽しみに水を差されたことが苛立たしくて仕方なかった。見目の良い女を乱暴するのが好きなベリュースにとって、その時間を下等な農民に邪魔されることは腹立たしいことでしかない。
「俺の手を煩わせやがって……」
村娘が逃げた森を睨みながら、ベリュースは唾を吐く。
ちなみに先の父親と取っ組み合いになったとき、彼は悲鳴を上げながら周りの部下へ助けを求めるという余りにも情けない痴態を晒してしまった。自尊心だけはアダマンタイト級の彼のプライドを傷つけたのも、苛立ちの大きな要因の一つと言えるだろう。
あの村娘の骸を部下が連れてきたら、父親の死体の前で踏みつけてやろうと密かに決心するベリュースは、紛れもない屑だった。
そしてそんなベリュースを苛立たせる事態が、もう一つ起きる。
「あ……?」
見渡せば、部下達の手が明らかに止まっているのだ。
手当たり次第虐殺せよと命令しているにも関わらず、だ。彼らは一様にどこか呆けた様な表情をして、一点を見つめている。まるで時が凍ったかの様に。
「お前達、一体何をして──」
怒りに任せた怒号を上げようとして、ベリュースの声が瞬間的に詰まった。怒気もどこへやら……彼もまた、部下達と同じような呆けた顔へと変わってしまった。
「お──」
ベリュースの手を逃がれた村娘が逃げた森の方角。
そこから一人の女がやってきている。しかしただの女ではない。女の容姿を例えるのなら、女神。あるいはそれに連なる神聖な何か。
目を疑う様な美女はひと目で分かるほど上質な純白のドレスを纏っていた。鼠径部の辺りから太ももに至るまでのスリットから艶めかしい白肌が見える。豊かに膨らんだ乳房を惜しげもなくひけらかす蠱惑的なドレスだというのに、下品という印象はまるでない。むしろ美女の容姿も相俟って、至高の芸術に昇華していた。慈愛の女神というのはこういうことを指すのだろう、というのを現実に起こしたようだった。
誰もが美女に見惚れていた。
騎士も、村人も。今まさに心臓を剣で貫いている者も、半死半生の者でさえ。
そして気づく。
あの悪魔の証明たる角と翼に。
「お──」
一陣の風が吹く。
美女の黒髪が揺れる。美女はカルネ村の様子を見渡しながら、桜色の唇に掛かる髪を自然な仕草で耳に掛けた。風下にいるベリュースの鼻腔を、美女の甘い香りが擽る。
それが余りにも男の理性を溶かす性質の甘さで、ベリュースの股間はやにわに膨らんでいく。そして次の瞬間──
「──お、お……お前達ぃぃぃぃぃ!!!!!」
──ベリュースの叫びが、凍った時間を穿った。
「あの異形種を捕らえよぉぉぉぉぉ!!! そして、そして俺の下へ連れてこいッ!!!!! 顔と五体は傷つけるな!!!! と、飛んで逃げられぬように翼は切り捨てよ!!! 何をやっている早く、早くせんかぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」
欲望丸出しの絶叫。
ベリュースの命令は、誰が聞いても真意が理解できた。異形種を討つ為とか、人類を護るスレイン法国の意志に添う為とか、そんなものとは全く以て縁遠い感情から由来した命令だと。
余りの美しさに面食らっていた騎士達だったが、今なお唾を飛ばしまくって絶叫するベリュースに発破され、各々に美女に剣を向けた。当然、彼らの目にも欲望の色が宿り始める。相手は異形種なのだ。元より人権などない。ならばどう扱おうが、彼らの勝手だろう。むしろ"懲らしめてやる"ことで、人類の繁栄を知らしめてやるのだという身勝手な大義名分まで芽生えるくらいだった。
そんな騎士達の視線とベリュースの欲に塗れた怒号を受け、
「……良かったよ。この世界での自分の戦闘能力を計る最初の実験台が、お前らの様などうしようもない屑で」
美しい声の呟きは、誰にも聞こえることはない。
仙姿玉質の悪魔は
「ぉわ……っ」
悪魔の一番近くにいた騎士が、驚愕の余りにたたらを踏んだ。悪魔が美しすぎる故、更に戦闘とは縁遠い見事なドレスを身に纏っているせいで、戦闘能力を有しているとは思っていなかったのだ。
悪魔はあのティーカップしか持ったことがない様な美しい細指を斧の柄に絡ませると、片手で事もなげに大質量を振り回した。余りにも軽快に振り回すものだからあの戦斧が小枝ほどの軽さしかないのかと錯覚するが、あの空を切る荒々しい風音が、"本物"であると証明している。
「捕らえたいというのなら、お好きにどうぞ」
悪魔はそういって、微笑んだ。
この宝玉の様な微笑みが最期の光景ならば、男にとっては幸せなのかもしれない。
──……一閃。
武に心得がない者なら閃光がチカリと瞬いたか、としか思えないだろう。
悪魔の近くにいた騎士四名の頭が、
「……さぁ、どこからでもかかってきなさい」
悪魔はそう言って、斧の刃にこびりついた血を振り払った。
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5.慈母
手に馴染む、とはこのことを言うのだろう。
モモンガ──鈴木悟は、当たり前だが斧の扱いを知らない。現実世界で使ったなら、薪の一つすら満足に割るのが難しい次元だろう。しかし今の彼が操る斧は、見事なものだった。
レベル100の純粋な
それが、とかく面白い。
何の才も持たない平凡な男が、ある日自在にピアノを弾けるようになったら、ある日時速160キロの白球を投げられるようになったら、ある日プロ並のイラストを描けるようになったら……そんなの楽しいに決まっている。
モモンガは踊るように騎士達の首を刈り取りながら、次の実験への準備を進める。騎士達の所業は遠くから見ていた。もとより遠慮などするつもりはない。
「
指先から雷の魔法が放射される。
先程使用した第五位階魔法よりも劣る第三位階に位置する魔法であり、それを三つ同時に放つだけのものだ。
三叉に分かたれた電雷の槍がそれぞれ騎士に命中するや、彼らは甲冑の中で絶叫しすぐに息絶えた。見た目だけはご立派な甲冑だが、何の耐性効果もないのなら意味がない。
(第三位階魔法でも死ぬか……いよいよ俺の杞憂だったらしい。この世界の人間はユグドラシルプレイヤーどころか、『鈴木悟』と比べられるほどの戦闘能力しかない)
人間としての強度レベルもそうだが、装備の類も程度が低い。殺した騎士の剣を密かに
(初めての接敵だと息まいていた自分がちょっと恥ずかしいレベルだな)
モモンガにしてみれば肩透かしもいいところだ。
本隊と接触──それも隊長と戦うともなればもう少し良い物差しになると思っていたのだが、エンリを助けるときに倒した二人の騎士とどんぐりの背比べだった。しかも魔法を使おうとする感じもしないのだから、レベル200のモモンガからすれば動く案山子も同然だ。
しかし折角これだけ大量の
自身の近接職としての技能。通用する位階魔法の確認。ある程度のスキルの使用感。ひとつひとつを、
次々と。淡々と。
騎士達の命を燃やしながら、黙々とモモンガの中のこの世界でのチュートリアルを終えていく。
「ば、化け物……!」「ベリュース隊長ッ! て、撤退の許可を!」「勝てるわけねぇ……」「撤退の許可を!」「我々このままでは……!」
モモンガに欲望の眼差しを向ける者はもういない。
彼らの瞳に宿るのは並々ならない恐怖だけだ。大の男を鎧ごと縦に真っ二つに引き裂く膂力に加え、見たこともない魔法の数々を連発してくる化け物とくれば、その皮がどれだけ美しかろうが関係ない。彼らにとってモモンガは畏怖するべき、恐怖の権化だった。
「ぐ、うぅぅぅっ……撤退! 撤退しろぉぉぉ!!!!」
部下達に捲し立てられたベリュースがようやくそう叫ぶと、騎士達は蜘蛛の子を散らす様にカルネ村から背を向けて逃げ出した。剣も盾も、重みとなる
(殺してもいい屑だと思っていたが、裏を返せば殺す価値もないゴミということか……)
静かに、モモンガは息を吐いた。
興味が失せた。興が削がれた。そんな表情を彼はしている。
最強の肉体と魔法を使えたところで、相手が雑魚ばかりでは何の面白味もない。はっきり言ってしまえば、騎士の半数を磨り潰したところでモモンガは彼らを殺すことに“飽き”を感じ始めていたのだ。
「……
まぁ、この肉体に向けてはっきりと下卑た台詞を吐いたベリュースをおめおめと見逃すほどモモンガは温くはないのだが。
「……っかぁ……!」
魔法の効果の直後、ぐるりと白目を剥いてベリュースは膝をついた。そんな死の際の隊長の背を、頭を、必死に逃げる部下達の逃げ足が遠慮なく踏みつけていく。
この一幕だけでも隊長が慕われていなかったことくらいはモモンガにも理解できたし、彼の惨めな人生の幕引きを滑稽に思った。
「……ふー」
騎士達の背が見えなくなった頃、モモンガは細く長く息を吐いた。
3Fを新体操のバトンの様に振り回し、血を払う。そうして元のアイテムボックスの中へと3Fを収めた。
その行為で、カルネ村の地獄が終わったのだと村民は理解できた。
緊張の糸がほつれていき、次第に空気が弛緩していくのをその場の誰もが感じていた。
「あ、貴女は……貴女様は……」
髭を生やした男が、カルネ村を代表したようにモモンガの背へと声を掛けた。周りの顔ぶれとの年齢を鑑みるに、恐らく村長なのだろうと、モモンガはアタリを付ける。
恐る恐るといった声音の村長の不安を和らげるように、モモンガは努めて優しい口調と微笑みで返した。
「この村が襲われていたのが見えたので、勝手ながら助けさせていただきました」
「おぉ……」
やりとりを見守っていた村民達からも、村長と同じような安堵の溜息が漏れた。顔を見合わせ、彼らは分かりやすく喜色を現している。
「あなた達はもう安全です。安心してください」
カルネ村の誰もが欲しかったその言葉を、天女の様な美女が告げる。
女神か、と誰もが思った。
この憐れな村をお救い下さろうとする、神の使いなのか、と。
しかし……。
「……?」
村民達の表情に、まだ翳りが残っている。皆僅かに眉を顰めて、不安そうに顔を突き合わせている。
何故なら相手は異形種と呼ばれる存在。魂か生贄を寄越せという可能性も、億が一にも残っているのだ。営利目的なく人間を助けることなどあるのだろうか。そんな彼らの不安に、モモンガは気づけない。
「アルベド様ー!」
「こら、ネム! 待ちなさい!」
モモンガが小首を傾げていると、森の方からネムが走ってきた。追いかける様に、エンリも駆けてくる。
「わ」
ネムは小さい体を目いっぱい弾ませて、一直線にモモンガの膝に飛び込んできた。受け止めるモモンガの体幹が強靭すぎて、全く揺らぐことはなかったが。
次いで、息切れの激しいエンリがモモンガの前までやってきた。
「アルベド様すみません……この子、アルベド様が心配だったみたいで、いてもたってもいられなくなったみたいで……飛び出して、その……魔法まで使っていただいたのに……!」
恐縮しているエンリはそう言って何度も何度も頭を下げた。彼女を制すようにモモンガは柔らかく声を掛けて、ネムの小さな頭を撫ぜた。
「大丈夫ですよ。もう全て終わったので。むしろ心配をお掛けした様で、申し訳ないです」
「そ、そんな……アルベド様が謝ることなんて……」
ますます小さくなるエンリが可笑しくて、モモンガは小さく笑った。自分でも分かるくらい慌てて、恐縮して、しどろもどろなところを優しく笑われて、エンリはなんだか恥ずかしくなった。こういうときこそ、しっかり自分の気持ちを率直に伝えられる口があったらどれだけ良いか。
「す、すみません……」
「ふふ。良いんですよ」
「それより、この村をお救いくださって本当にありがとうございます……アルベド様がいなかったら私も、ネムも……。本当に、本当に……」
目に涙を浮かべるエンリに、モモンガは首を横へ振る。
感謝などいらないと、彼女はそう言わんばかりだった。
何故なら──。
「だって『困っている人がいたら、助けるのは当たり前』……ですからね」
そう言って、モモンガはデフォルトの慈愛の微笑を浮かべた。
膝に抱きついているネムの頭を撫でるモモンガの姿は本当に美しくて、慈しみに溢れて、聖母の様で……。その様子を見ていたカルネ村の村民達は、僅かにでもモモンガのことを疑っていたさっきまでの自分達に対して張り手をしたい気持ちに駆られていた。
困っている人がいたら助けるのは当たり前。
これを何の裏もなく有言実行できる人間が果たしてこの村に、いや……この世界に何人いるというのか。毎日を必死で生きるばかりに、こんな単純で難しいことを誰もできなくなっていた。
見目以上に、こんなにも心が美しい御方がおられる。自分達の薄汚れたフィルターを通してこの御方を見ていたのが、心底情けない。皆が皆、己を恥じた。
カルネ村にモモンガを疑う者などもういない。
村長は改めて心からの歓迎と感謝の意を、村を代表してモモンガに伝えた。
モルモットで遊んでたら神格化されていた
何を言ってるのかわからねーと思うがモモンガさんもよく分かってない(かわいい)
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6.把握
カルネ村には朗らかな空気と、悲しみに暮れる空気の二つが、マーブル調となって流れていた。
我々は助かったのだという安堵と、家族や隣人を失った悲しみ。そのどちらの感情も大きく、抗いがたい。村に転がる遺体を弔いながら、我々村民はアルベドと名乗る有翼の女神に強い感謝の念を抱いていた。あの御方がこなかったら、我々も、もうこの世にはいなかったのだろうから。
『困った人がいたら助けるのは当たり前』という、無償の愛でお救い下さった女神に対し、我々は村を上げては捧げられるだけの謝礼金を献上した。要らないと突き返されるかと心配したが「貰えるものなら」と快く受け取ってくれたことに我々村民は喜んだ。我らはどうにかして感謝の気持ちを言葉だけではなく、何か形として受け取ってほしかったからだ。とはいえ建て直しも見込まれるこの村で工面できる程度の金だ。アルベド様の偉業を思えば、本当に少ない額ではあるのだが。
感謝の域を超えて信仰しているのではないかと言われたら、我々はそれを否定できない。それほど皆がアルベド様に深い感謝を抱き、あの御方の美しい御心と端麗な容姿に心酔しているのだから。老いも若きも、男も女も、だ。逆に尊敬の念を抱くなというほうが無理だろう。
特にネムはアルベド様に首ったけだ。
今もずっとアルベド様のお側を離れようとしない。両親を失くし、あの英雄と聖母を足し合わせた様な尊き存在に惹かれてしまっているのだろう。子供は純粋ゆえに、人の心を見抜く力がある。清流の様に心清らかなアルベド様は、子供に懐かれて当然の存在といえるだろう。子を撫でるあの御方の姿は、それだけで聖画のようだ。
ちなみに村長がアルベド様に実は本当に女神の化身ではないのですかと聞いたら、あの御方は「いいえ悪魔です」と仰っていた。傷心の我々に気を遣って分かりやすい冗談を言ってくれた心遣いが嬉しく、我々が温かな気持ちになったのは言うまでもない。失礼なのでそれ以上の詮索は誰もが控えたが、天使や妖精の類がやはり遠からずといったところだろう。異形種と一括りにして忌避するのは間違いだと、人生の学びになった。
「ユグドラシル? ナザリック……? 残念ながら、聞いたことはありませんな」
「そうですか……」
聞けばアルベド様はユグドラシルという大陸? のナザリックという国家? からここへ突然転移してきたらしい。なんとおいたわしいことか。故郷から独り見知らぬ土地に飛ばされた直後で不安だっただろうに、アルベド様はカルネ村へ手を差し伸べてくれたというのだ。我々の誰もが感謝の念で目頭を熱くさせた。
それにしてもアルベド様がおわしたというナザリックとはどんな黄金郷なのだろう。
今こうして現地で流通しているという金貨を皆に見せてくれているのだが、誰も見たことがなかった。王国の金貨と比べて明らかに価値が高いと分かる代物の為、見たことがあれば流石に記憶しているはずだが。アルベド様のお役に立てず、我々はただただ悔しかった。
「それではここら辺の国の情勢や価値観など、アルベド様は何も知らないのでは?」
誰かがそう言って、皆がおお! と声を上げた。
我々にもアルベド様のお役に立てることがある。そう思うと、心が弾んだ。それはこの村の誰しもがそうだった。皆がアルベド様のお役に立ちたいという一心なのだ。
「そうですね。良ければ無知な私に、色々教えてくださると大変助かります」
アルベド様はそう言って、微笑んでくださる。
我々はあのアルベド様の微笑みが大好きだった。そうしてアルベド様を取り囲んでいる我々は、我先にと周辺国家やこの地の常識などを口々に教えるのだった。
(リ・エスティーゼ王国、バハルス帝国、スレイン法国、ローブル聖王国……)
モモンガは村人達に濁流の様に注ぎ込まれる情報を噛み砕きながら、聞き入っていた。鈴木悟の頭であれば何度も聞き返すようなことなのに、アルベドの頭脳は本当に優秀で、一度聞いたことやそれに関連する情報をすんなりと理解することができた。我ながらやはり脳の演算能力が上がっていると、モモンガは自覚する。
雑把な知識は置いておくとして、モモンガが懸念すべき重大な情報がひとつあった。それは所謂人間種の生存圏において、異形種や亜人種は忌避される存在だということだ。カルネ村の人間と初めて接触したとき、なんとなく心の隔たりを感じた理由がやっと理解できた。ユグドラシル気分が抜けていなかったモモンガにとって亜人や異形なんてありふれた存在であった為、そこの常識の擦り合わせがこの段階でできたのは良かった。この身のまま街に行けば衛兵に捕まるのはまだいいとして、突然斬りかかられる危険もあるというのだから。
(まぁ普通の人間からしたら悪魔は勿論、男性器みたいな形したピンク色の異形とか恐怖でしかないよなー……)
異形種ギルドで最も酷い見た目の仲間を思い出しながら、モモンガは人間達の価値観を嚥下した。郷に入っては郷に従えという先人が残した言葉もある。これからはこの角と翼は隠して行動しなければ──と決意した矢先、遠くから騎馬の集団がやってくるのが見えた。
(あ、やべ)
角と翼を隠そうとしても、時すでに遅し、だ。
騎馬の先頭は既にモモンガの容姿をはっきり視認できる位置まできている。また面倒ごとかとモモンガは額を押さえて息を吐くと、不安そうな表情をしている村民達へ指示を出した。
「みなさんは至急家の中へ。村長はこのまま私といてください。あれらが仮にまた村を襲おうとしてきたなら、私が撃退するとしましょう」
「は、はい!」
カルネ村の皆の不安を払うモモンガのその言葉がどれだけ心強いか。彼らは一様にモモンガへ熱い感謝の言葉を述べると、慌てて家の中へ入っていく。
「アルベドさま……」
ドレスの裾を摘まんでいるネムが、不安そうにモモンガを見上げていた。モモンガは笑顔を作ると、ネムの頭を撫でてやった。
「私は大丈夫です。何かあれば、村のみんなやネムのこともきっとまた護ります。ほら、お姉さんが待ってますよ」
「うん……」
「お行き」
屈んで、エンリの方へ向かせてやると、ネムは名残惜しそうにモモンガの手を離れた。そんなネムの様子に彼は少しだけ庇護欲というか、母性の様なものを内に感じてしまう。
(悪魔になったせいで人間性の大部分を失っている感覚はあるけれど、やっぱり関わりが大きくなる相手ほど人間らしい感情が芽生えてくるな……。これは自分の精神まで完全に異形化しない為に、積極的に人と関わっていく必要があるかもしれないな)
ネムの背中を見送りながら、モモンガは細く息を吐いた。ネムの手を取ったエンリがぺこぺこと頭を下げている。モモンガは手をひらひらと振って、騎馬の集団の方へ居直った。
「さて……」
折角手間を掛けて救ってやったこの村を見殺しにするつもりは毛頭ない。モモンガは次のモルモット(仮)を何の実験に使うか、候補をいくつか上げながら到着を待った。
応援してくださる皆様のおかげで日間一位を取ることができました
ポイント等々も嬉しいですが、感想に励まされる日々です
皆様本当にありがとうございます
4期や新刊発売前に、こんな二次創作でほんのちょびっとだけでもオバロ界隈の盛り上がりに貢献できたらファンとしてそれ以上嬉しいことはないです
【補足】
モモンガさんはアルベドの頭脳を手に入れましたが、アルベド程の知能はありません。世界最高のF1マシンを手に入れても、ドライバーが素人だと十全に性能を発揮できないようなものと思っていただけたら幸いです。
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7.緊迫
日の暮れが近い。
空に僅かに橙が差す頃、その戦士団はカルネ村にやってきた。
「私はリ・エスティーゼ王国、王国戦士長ガゼフ・ストロノーフ。この近隣を荒らしまわっている帝国の騎士を討伐する為に、王のご命令を受け、村々を回っている者である」
その先頭に立つ屈強な男──ガゼフは、村長とモモンガの前に馬をつけると、下馬することなく話しかけてきた。モモンガを見下ろす彼の視線は、予断を許さない雰囲気を醸している。はっきり言えば、
対するモモンガは、僅かに安堵していた。
自分の味方かどうかはわからないが、この国の戦士長ということはとりあえずはカルネ村の味方ではあるからだ。戦闘と逃走のカードのうち、前者の札を脳内で消すこととした。
ガゼフは硬い声音のまま続ける。
「この村の村長だな。横にいるのは誰なのか、教えてもらいたい」
「この方は──」
「──それには及びません」
説明を任された村長を透き通った声で制して、モモンガは真っすぐにガゼフを見た。人外たる金色の瞳の視線を受けても、ガゼフは小揺るぎもしない。
「初めまして、王国戦士長様。私はアルベドと申します。この村が襲われておりましたので、助けにきた者です」
「……っ」
モモンガの自己紹介を受けたガゼフの目の色が変わった、様に見えた。彼は馬から飛び降りると、改めてモモンガへ居直った。ガゼフから醸される剣呑とした雰囲気が、どこか和らいだようにも感じる。
「この村を救っていただき、感謝の言葉も──」
彼は真っすぐにモモンガを見据え、不用心に近づいてきた。
「戦士長!」
そんなガゼフを咎める様に、帯剣した彼の部下が鋭く叫ぶ。
「何だ」
鷹揚に振り返ると、部下の兵士達……そう、一人じゃない。多くの部下達が、剣の柄に手を当て、ガゼフとモモンガの間に割って入った。
「角と翼が見えていないのですか。この女、見た目は美しいですが異形種です」
ぴり、と。
先程まで和らぎかけていた空気が再びささくれ立つ。彼らの言うところは尤もなことだ。気心の知れない異形種に心を許せというほうが難しい。美しい女性の皮で人を魅了し、間合いにはいったところでガゼフの首を切る……という可能性は大いに有り得る。
「別に私は──」
「口を開くな!」
弁明しようと口を開こうとするモモンガを、彼らは許さない。言葉で人を操る悪魔もいるという。
好きに喋らせるのは得策ではないだろう。ガゼフの部下達は、終ぞ抜剣してモモンガの前に立ち塞がった。
(ああ……こういう展開、ね)
想定しうるケースのうち最悪ではないが、それでも下から何番目といった感じの展開にモモンガは肩をすくめた。一応いつでも時間停止で逃げられるよう準備は済んでいる。警戒レベルを上げながら、彼は一歩後ずさった。カルネ村とは懇意にしたかったが、どうやらそれは無理な話のようだ。
(まぁ、仕方ないか……)
元々異形種が受け入れられない土地柄なのだ。
こうしてカルネ村に溶け込もうとするほうが、土台無理だった。
……しかし、事態はモモンガの思いもしない展開を迎える。
「アルベドさま!」
「ネム!」
緊迫の最中、両者の間に割って入ったのはネムだった。やり取りを見ていて家を飛び出してきたようだ。
「ネム! 危ないから戻ってきなさい!」
「いや!」
遠くでエンリが叫んでも、ネムは頑として首を横へ振った。手を大きく広げ、小さな体を目いっぱい使って勇敢にモモンガの盾となろうとしている。
「子供……?」
呆気に取られる兵士達。それらから庇う様に、モモンガはネムを抱きしめて後ろ手に回した。
「ネム、なんできたんですか! エンリさんと一緒に待って──」
「──いや! いやったらいやなの!!」
ネムは殆ど絶叫していた。泣きながら、鼻水を垂らして。
……トラウマが呼び覚まされたのだ。エンリに連れられてカルネ村を脱する時、両親が剣で貫かれているのを彼女は見ていた。
剣。
あの鋭利で、鉛色に輝くあの凶器。大切な親を奪った、あの恐ろしい代物。ネムの父はあれのせいで、今まで見たことがない苦痛の表情を浮かべていた。そんなものの切先が、大好きなアルベドに何本も差し向けられている。
そんなの、耐えられない。
例えアルベドが強大な力を持っていると理解していてもだ。体が震える。涙が出る。万が一あの剣がアルベドの腹を貫いたらと思うと、耐えられない。
ネムは涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら、尚もアルベドの盾になろうと叫んでいる。
「剣を収めないか馬鹿者共!!!!」
血管が毛ば立つ様な、腹に響く怒号だった。
空気を叩く太い声一本で、それまでの喧騒が嘘の様に静まり返る。やがて穏やかな風の音が聞こえる頃、ガゼフは静まった兵士達に視線を投げ掛けると、彼らにこう問う。
「お前達にはこの御仁が何に見える」
静かで、穏やかで、厳かな声だった。
しかしその声には、様々な思いが入り混じっていることは、誰もが分かる。
ガゼフは兵士達の間を割って、前に進む。
「お前達はこの子の姿を見て何を思う。この村の様子を見て何を感じる」
そう問われた兵士達は、何も言い返せない。ガゼフは質問を続ける。
「お前達にはこの御仁が人類の生存圏を脅かす悪の権化に見えてるのか? それとも人を誑かして魂を喰らう悪魔か?」
ガゼフは問う。
その問いに答えられる者は誰もいない。兵士達はばつが悪そうに、俯くだけだった。
「俺の目にはこの方は村を救ってくれた勇敢で、慈愛に満ち、そして……可憐な容姿を持つ女性にしか見えない。角と翼を有しているだけの、な」
幼な子を後ろ手に回して守ろうとするモモンガの姿は、まるで子を守る母の姿にしか見えない。周りを見ると不安そうに事態を見守っている村人達がいる。ならばそれに剣を向けている男達は、何に見えるというのか。ガゼフの部下達は平静を取り戻すと、自分達が不健全なことをしているとはっきりと自覚した。
「お前達が俺を心配してくれた行動だということはよく分かる。だが、見た目や種だけで村を救ってくれた恩人を愚弄することは許さん」
はっきりと、ガゼフはそう告げる。王国戦士長らしい……いや、一人の男として、芯のある言葉だった。そんなガゼフに英雄像の影が重なり、モモンガは好印象を抱いた。
「我々の使命とはなんだ」
「……この国の平和を守ることです」
「そうだ。そしてそれはつまり、この国に生きる子供達の笑顔を守るということだろう。我々が、あの子の笑顔を奪ってどうする。子供が泣きながら身を呈して守ろうとする女性に剣を突きつけることが俺達の仕事か?」
「戦士長……」
「この村を、そしてこの子の笑顔を守ってくれたのはこのアルベドという御仁だ。……間に合わなかった我々に代わってな。ならば我々がまずせねばならないのは、感謝の意を述べることだろう」
ガゼフは今一度、モモンガへと向き直る。
その瞳には謝意の色が濃く出ていた。
「見苦しい真似をして申し訳ない。できることなら、どうか許して欲しい。あいつらも悪気があってやったわけじゃないんだ」
ガゼフはそう言って、深々と頭を下げた。
異形種にそう易々と頭を下げられる立場じゃないだろうことは、モモンガも察することができる。しかし彼は、躊躇う余地もなくこうして頭を下げている。モモンガはもちろん、快く頷いた。
「彼らの仰ることは尤もです。私の見目はどうひっくり返っても人間種ではありません。彼らの反応は当然でしょう……ですが私は、無闇に人を傷つける様な存在ではないことをご理解いただけますでしょうか?」
「そう言ってくれて本当に有り難い。無論、貴女のことは村を救ってくれた敬意を払うべき恩人として扱わせてくれ」
お前達もそれで良いな?
ガゼフがそう彼の背に控える部下達に問うと、彼らは深々と頷いた。
(衝突はなんとか避けられたか……)
弛緩していく空気の中、モモンガはゆったりと一塊の空気を吐いた。
平民出身というだけで貴族からやりたい放題言われてる毎日を送ってるガゼフにとって、偏見や差別に対する配慮は人一倍あるんじゃないかなと思います
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8.融解
村々で虐殺行為を繰り返している帝国騎士を討伐する……という仕事がなくなった王国戦士団は、カルネ村に未だ転がっている遺体を、村民と一緒になって弔うこととなった。それはモモンガへ働いた非礼への罪滅ぼしという側面もある。
遺体を運び出し、土葬し、簡素ではあるが墓石を建てる。それらの一連に労働力が増えたことは嬉しいが、村民達の兵士達への風当たりは最初は強かった。彼らが敬愛して止まない
カルネ村の村民は兵士達を叱責した。それからアルベドという女神が如何に女神であるかを、嫌になるほど言って聞かせた。鬼人の如き強さもそうだが、『困っている人がいたら、助けるのは当たり前』という深海よりも深い慈悲をもった精神性の女性であるということを。身振り手振りを交えて語る彼らの姿は、やはり敬虔な信徒に近いだろう。
カルネ村の人間から聞かされる女神伝説に、兵士達は自分達のしでかしたことを猛省した。ガゼフに諭された以上に、自分達が救わなければならなかった民達の声が心に響いたのもある。
その後、あの時剣を抜いた兵士達が頭を並べ、改めてモモンガへ謝罪を告げにいくと、彼は本当に何でもないというようにケロリと兵士達の過ちを許した。私は気にしていませんよ、あなた達はあなた達の仕事を立派に務めただけですよね? と、優しい声音で、あの女神の様なデフォルトの微笑で。
その場にいた兵士達は皆、爪先から頭の先まで真っ赤になるのを自覚した。そしてカルネ村の人間が口々に言っていた『アルベド様は女神だ』という発言の意味を、真に理解する。常軌を逸した美貌だということはひと目見ただけで知っていた。しかし異形種だからという色眼鏡が取れた状態で、自分達の非をあそこまで優しく美しい微笑みで許されると、惚れない男などいない。なんか近づくとすごい良い匂いするし。谷間も見えるし。
まあ実際は
そんなこんなで険悪な対面を果たした王国戦士団は、いつの間にかモモンガの魅力に篭絡されていた。ちなみに村民の刷り込みもあり、モモンガは異形種の中でも天使にあたる種族だと勘違いされることと相成る。本人はまあそれでいいやと、流しておくこととした。
「お前らな……」
いつの間にか骨抜きになっている部下達に苦い笑みを浮かべ、ガゼフは後頭部をがしがしと掻いた。遠くで、瓦礫を運び出している兵士が小さく手を振っている。ガゼフの横にいるモモンガが微笑みを返すと、さっきの兵士は小躍りした後、他の兵士に頭を叩かれていた。
「王国の戦士の方々は賑やかな方が多いのですね」
「普段は自慢の奴らなんだが……」
言葉を続けようとして、ガゼフは大きく息を吐いた。普段の自慢の奴らの姿は、今は見る影もない。
「腑抜けたところを見せて申し訳ない」
「いえ、構いません。兵士が腑抜けられる時間があるというのは、それだけ今は平和ということですから」
モモンガは暮れかけの西日を受けながら、微笑んでいる。そんな横顔を見て、ガゼフはほんの僅かに心奪われていた。容姿に関しては『黄金』と称される第三王女ラナーの右に出る者はいないと思っていたが、それは間違いだったことを思い知らされる。ガゼフは少しの時間だけ部下のように腑抜けていた自分に気がつくと、彼の内の邪気を払うように咳払いをしてモモンガに向き直った。
「何度も重ねてにはなるが、本当にこの村を救って頂き、アルベド殿には感謝している」
「いえいえ。私は当然のことをしたまでですから」
「『困っている人がいたら、助けるのは当たり前』……か」
「戦士長様も実践されていることではないですか」
「……どうかな。私もそうしたくても二の足を踏むことは多い。戦士長という立場にありながら……戦士長という立場が故に柵に囚われ、剣を抜けなかったことが何度もある。私は……いや俺は、アルベド殿に心から感服している。困っている人がいても何の見返りも求めず手を差し伸べるというのは簡単な様で、この世界で生きるには最も難しいことのひとつだろう」
ガゼフは目を細めて、自分を戒める様にそう言った。握り拳が震えたのが見える。モモンガは高潔なガゼフの心持ちに触れ、僅かな罪悪感が芽生えた。
(俺がカルネ村を救ったのは、別に善意でもなんでもない。ただ魔法やスキルの実験がしたかったから……たっち・みーさんの言葉があったから……。こう持ち上げられてばかりだと少し心苦しいな)
モモンガは、苦い笑みで応えた。
「……私は人より少しばかり力があるから自由に振舞えるだけです。『困っている人がいたら、助けるのは当たり前』なんて言ってますが、きっと自分の身が危険になればすぐ逃げてしまうでしょう。本当にすごいのは、自分が死ぬかもしれないのに人の為に剣を抜くことができる戦士長様や、兵士様方ですよ」
「いや俺達は、王に仕える戦士として当たり前のことをやっているだけで……」
なんとなく照れくさそうに頬を掻くガゼフに、モモンガは小さく笑った。
「な、なぜ笑う……」
「ほら、自分で今仰ったじゃないですか」
「何を」
「王国戦士として当たり前のことをやっている、と。『困っている人がいたら、助けるのは当たり前』……実践されているじゃないですか」
言われたガゼフは目を丸くすると、分かりやすく相好を崩した。
「……全く、貴女という人には敵いそうもないな。会って間もないカルネ村の人間や
「……戦士長様は私のことは好きではないのですか?」
きょとんと聞くモモンガに、ガゼフは思いっきりむせた。これは何というか、モモンガのちょっとした悪戯心。ユグドラシルに人生の全てを注ぎ込んだダメ人間の自分と真反対の、人間の鑑みたいな彼をちょっとからかってみたくなっただけだ。
モモンガはくすくすと笑いながら、未だにむせているガゼフの肩をポンと叩いた。
「冗談ですよ」
「……お転婆な女神もいたものだな」
ガゼフの皮肉に、モモンガは悪戯成功と笑んだ。
何となく、二人はこの会話で打ち解けた様な気がしている。お互いの性格や人となりも、なんとなく分かった。特にガゼフは、種族の差異による壁など、実際は大したものではないのだと、己の中の価値観が少し変わったように思えた。
そんな二人の和やかな時間は終わりを迎える。
慌ただしく駆けてきた一人の兵士が、息を切らして報告を告げる。
「戦士長! 周囲に複数の人影! 村を囲むような形で、接近しつつあります!」
モモンガとガゼフは顔を見合わせると、互いに頷きあった。
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9.準備
「確かにいるな……」
ガゼフは声を潜めて、窓の外を睨んだ。
見れば、
「一体彼らは何者なのでしょう」
モモンガが訝しんで問う。ガゼフは油断なく外を見やりながら、それに応えた。
「これだけの
「では先程、村を襲った人達は……」
「装備は帝国のものだったが、どうやらスレイン法国の偽装だったようだな」
「なるほど……しかしこの村にそんな価値があるのでしょうか」
「人類至上主義を掲げ、他種族を排斥する法国にとってアルベド殿は討伐の対象……とはいえ、つい先程この地に転移してきた貴女が目的という線はほぼほぼないだろう。……つまり、答えは一つだな」
スレイン法国の話はモモンガもカルネ村の人間から聞いている。
人類の守り手として、他種族狩りを長年に渡り続けている国家だと。人類こそ至上、他種族は殲滅すべしという理念を掲げているとも。つまり、異形種のモモンガにとって絶対に関わりあいになってはいけない国だ。村民にも口酸っぱく注意されたから、並べられた国名の中でも特に印象に残っている。
「なぜ人類の守り手が、戦士長様を……?」
「国対国の問題というのは我々の想像している以上に複雑なものということらしい。本当に困ったものだ。スレイン法国にまで狙われているとは」
外をみるモモンガの目が細ばんだ。あれは……あの
(なぜユグドラシルと同じモンスターがこの世界に……?)
思案に埋没しそうになるモモンガの意識を掬うように、ガゼフが声を掛けた。彼はまっすぐな顔をして、モモンガの金色の瞳を射貫いている。腹の中で何か覚悟が決まったような面構えだと、モモンガは思った。
「アルベド殿。貴女を私以上の強者と見込んで頼みたい。わがままを言うようだが、この村が襲われたらもう一度だけ守ってやってほしい。今差し出せるものはないが……何卒、なにと──」
頭を下げるガゼフの肩に、モモンガの硝子の様な手が置かれる。ハッと見上げる彼に、モモンガは首を横へ振った。
「そこまでされる必要はありません。村人は必ず私が護りましょう」
そう言われ、ガゼフの顔が遅れて喜色ばんだ。
なんというか、憂いや迷いが晴れた様な清々しい顔だった。
「ならば、後顧の憂いなし。私は前のみを見て進ませていただこう」
「……私に一緒に戦おうとは言われないのですか」
「可憐な女性を戦わせるわけにはいかない……と格好つけたいところだが、相手は法国だ。万が一アルベド殿が俺達と一緒に戦ってる姿を上層部に報告されれば、奴らは貴女の命を狙うようになるだろう。それに……」
続けようとして、ガゼフは口を噤む。言いにくいのだろう。モモンガはその気持ちを酌み取って、彼のセリフを継投した。
「異形種の私と王国戦士長が手を取り合っているのを知られたらマズイ、ということですね。
「……すまんな。そういうことだ」
ガゼフは重い面持ちで頷いた。モモンガのことを異形種と呼ぶのが躊躇われたのだ。法国は勿論、王国にも差別的な目はある。人類の敵と手を組む姿を今見られるのは少々まずい。ガゼフ自体が非難されるのはまだいい。しかしその悪評は、彼が仕える王にまで及んでしまう。それだけは避けねばならないことだ。
「ならば、その剣を見せていただけますか」
「え? あぁ……」
代わりに、といった風にモモンガが壁に立てかけてあった剣に指を差すと、ガゼフは訝しみながらそれを渡した。受け取ったモモンガが剣を鞘から引き抜いて鑑定してみると、装備のあまりの貧弱具合に顔を引き攣らせた。
(……うわ、しょぼ。この人一応、国の戦士長なんだよな? なんでこんな見窄らしい装備しか持ってないんだ)
モモンガから言わせてみればただのナマクラだ。何の
モモンガは手を
「そ、その剣今どこから……」
「
ガゼフを無視してモモンガは魔法を唱えると、指先で剣の腹をゆったりとなぞっていく。すると、僅かに透ける刀身に、青白い炎の力が宿っていく。天使に純粋な物理攻撃は期待薄だ。こうして魔法効果を込めた武器でなければ、余程のレベル差がない限りはまともに戦うのも難しいだろう。
「……よし」
「これをあなたに預けます」
「アルベド殿。こ、これは……」
「奴らが従えているのは
「幾らかは、マシに……」
見ただけでガゼフにも分かる。
これはリ・エスティーゼ王国に伝わる五宝物と同等の価値がある代物だと。透き通るようなブルークリスタルメタルの剣身は芸術品のようで、神懸かっている。それに何でもないというように魔法付与を施したモモンガの姿にも舌を巻き、その底知れぬ力に背中が粟立つのを感じた。これほどの魔法を行使し、これほどの宝をホイと貸しつけられるこの方は一体何者なんだと、思わずにはいられない。
しかし実際にはこのブルークリスタルメタルの剣は、モモンガにとってはアイテムボックスを謎に圧迫していた
「いいのか」
「いいですよ」
こんな宝を貸していただいてもいいのか。
使わないゴミだからいいですよ。
両者の間に齟齬はあるが、ガゼフは有り難くそれを受け取った。
「この宝、必ずアルベド殿に返しにここへ帰ってくる」
「別にあげてもいいんですが……そうですね。必ず、帰ってきてください。それと、良かったらこちらもお持ちください」
そう言って差し出されたのは、ガゼフにはただの木彫りの人形にしか見えないアイテムだった。効果も何も分からない。しかし彼は、なんの疑いもなくそれを受け取った。
「貴女からの品だ。有難く頂戴しよう」
ガゼフは清々しい顔をしていた。
これから命の奪い合いをしてくるのだというのに。
しかしこれ以上の会話は貴重な時間をふいにするだけだ。彼は目礼だけして、立ち上がった。
「では」
「……ご武運を」
それだけ言って、モモンガはガゼフの背を見送った。
「…………」
シンとした静寂が、耳に痛い。モモンガは余計なお節介をしたかと半分後悔した。王国と法国の戦争に、自分の様な外来種が僅かでも力を貸したのは不味かったかと。
部屋にはモモンガを残し……静寂と、ガゼフの残り香が漂っている。
はっきり言ってガゼフは臭かった。
汗と、男の臭い。それは彼に追従している兵士達にも同様のことが言えた。土に塗れ、風に吹かれ、彼らはお世辞にも綺麗とは言えない身なりをしていた。
……しかしモモンガはそんなガゼフ達を笑わない。顰めた面も見せることはない。
いくつもの村々を回ってきたのだろう。その度に滅ぼされた村を見て、拳を震わせたのだろう。次の村には間に合う様にと、休む間も惜しんで馬を走らせたのだろう。
『困っている人がいたら、助けるのは当たり前』
あの言葉を、汗を流し、命を賭し、己の垢を落とす間も惜しんで体現している気高い男達のあの臭いを、どうして笑えようか。
王国戦士長という易々と人に頭を下げられない立場と察せられるガゼフが、モモンガに深々と頭を下げて感謝していた。一言一句、言葉の端に気持ちを乗せた感謝の言葉を送ってくれた。本当に出来た男だと、モモンガは思った。
ガゼフが行っていることを自分はできるのだろうかと問いかければ、答えは否だ。モモンガがカルネ村を救ったことだって、自分が他者より強者という安全マージンを確保していたからこそできたことに過ぎない。所詮モモンガがやったことなんて
名前も知らない他者の為に、命を落とすかもしれない戦に身を投じるなんて、とても、とても……。
今だってそうだ。
スキルや魔法を行使し、隠密に特化すればガゼフ達に力を貸そうと思えば貸せた。なのに彼は自分の身が可愛くてそれを言わなかった。卑怯者と言われても仕方がない。未知数の敵と国の前に出るのは、モモンガには憚られた。
だから敬意と好意をガゼフに持つ。たっち・みーに重なる英雄像を示してくれた彼に、モモンガは人として一定以上の尊敬の念を抱く。
自分の持たない輝きを持つ者に、人は惹かれていく。
自分の方が何倍も強いとか、比較にならないくらい強力なアイテムを持っているとか関係ない。
「……頑張れ、戦士長」
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10.混戦
スレイン法国を筆頭に挙げられる王国、帝国、聖王国などの人類種国家の群は、実際は大陸の端にいる極小さな勢力に過ぎない。大陸中央部では人間種より肉体能力に勝る亜人種の六大国家が覇権争いを続けており、一般的にこの世界の人間は餌か、良くて奴隷の扱いを受けているのが常だ。
人間は弱い。
他種族に比べれば肉体能力も劣っており、寿命も短い。長い歴史を見ても人類はどの種族にも虐げられており、滅びの一途を辿るのみだった。しかしそんな絶望の人類を救ったのが、六百年前にこの世界に現れ、スレイン法国を建国した六大神だ。
六大神は多くの人類種に希望を残し、この世を去った。亜人や異形に対抗できる大いなる秘宝の数々を遺して。
それ以来、神の意志を継いだスレイン法国は六百年もの間人類の生存圏を牽引してきた。見守り、施し、導いてきた。亜人や異形は今なお、肥え太った人類種国家を食らおうと涎を垂らしている。六百年、人類は法国のおかげでギリギリの均衡を保ち、絶滅を免れてきた。
スレイン法国が人間以外の種を憎み、排除の思想が根深いのはそういう歴史的な背景と、今なお続くギリギリな状況が原因なのだ。
話は変わり、リ・エスティーゼ王国という周辺国家にも土地にも恵まれた豊かな国がある。スレイン法国も二百年前の当時建国を手助け、人類種の国の中で安全で肥沃な土地を持つ王国に、勇者達が現れるのを期待していた。
……しかしそうはならなかった。
国の豊かさは次第に堕落を招き、勇者は育つことなく、犯罪組織と薬物が蔓延る有様となった。国力は落ち続け、貴族派閥と王派閥で醜い争いを繰り返し、彼らは衰退から破滅の文字へと国の未来が代わり始めていることに気づいてもいない。
そうしてスレイン法国は堕落したリ・エスティーゼ王国を見限り、活気あるバハルス帝国に併呑してもらおうと動き始めている。ガゼフ・ストロノーフ抹殺の任務は、その第一歩の足掛かりに過ぎない。
「ガゼフ・ストロノーフ……王国の無為な延命に寄与する癌、か」
ニグン・グリッド・ルーインは、暮れはじめる穏やかな平原で、誰に聴こえるともなく呟いた。特徴のない顔と、無機質な印象の男だ。彼は四十四名もの部下を引き連れて、カルネ村を睨んでいる。
スレイン法国が誇る特殊工作部隊、六色聖典が一つの陽光聖典。亜人殲滅を得意とする彼らの今日の使命は、ガゼフ・ストロノーフを抹殺すること。
「各員傾聴! 獲物は檻に入った。汝らの信仰を神に捧げよ」
ニグンの無機質な瞳に、無慈悲な光が宿った。
橙に染まる平原にて、ぶつかる二つの勢力。
王国最強と名高いガゼフ・ストロノーフ率いる王国戦士団。そしてガゼフ抹殺の任務をスレイン法国より与えられた、ニグン・グリッド・ルーイン率いる陽光聖典。
戦局は、混戦を極めた。
「武技・六光連斬!!!!」
王国最強の戦士、ガゼフ・ストロノーフが吠えた。両の手にしかと握りしめるのは、粗野な彼には似つかわしくない程に美しい長剣だ。透き通る剣身に、青白い炎の波動が淀みなく行き渡っている。彼は木の幹ほどに筋肉を蓄えた腕でそれを上段に構え……一閃。
上段から振り下ろされたブルークリスタルメタルの長剣が焔の軌跡を空に残すと、彼に迫りくる六体もの天使を一挙に両断せしめた。ガゼフの掌に返ってくる感触は軽い。天使の肉体をバターの様に切り崩せる宝剣の威力に彼自身驚きながら、再び吠える。
「武技・即応反射ァ!!!」
時間を巻き戻したように、ガゼフの崩れた姿勢が攻撃前の構えに隙なく戻る。鷹のような目が、鋭く戦局を睨んだ。追撃の天使は、四体。
「流水、加速ッ!!!!」
跳躍したガゼフの体が、独楽の様に鋭く回転した。武技を絡めた苛烈な一撃は、彼の周りに飛び込んだ四体の天使を容易く切断する。
戦闘不能となって光の粒子に還る天使を見送り、ガゼフは肩で息をしながら口角を上げる。一騎当千の戦士長の活躍に、彼の部下達も大いに沸きたった。
相対するスレイン法国特殊工作部隊陽光聖典。その隊長であるニグンは、苦虫を噛み潰したような顔で舌を打つ。
「見事だ、ガゼフ・ストロノーフ。これほどの武技を使いこなすとは……」
しかしそれだけだ……とは続かない。
ここまで召喚した天使達は悉くガゼフに切り伏せられている。有利相性を盾に、天使の数で圧迫する手筈だったが、それがどうにも上手くいかない。ニグンの額を、汗が伝う。
(どうなっているのだ……十分な装備は持ち出せないと報告が上がっているはず)
ニグンの目が、ガゼフが操る長剣を睨む。
あれはどう見ても
(まさか我々の行動を読んで……? いやそんなことはあるはずがない)
首を横へ振ってその可能性を否定する。
法国の動きが気取られるようなことは一切してないし、何よりあのガゼフがこの時の為に
ニグンは舌を打った。
今もなお、多くの天使がガゼフとあの宝剣に屠られている。四十四名いた隊員も既に三十名程度に数を減らしてしまっていた。
「全天使でストロノーフに一斉攻撃を仕掛ける! 他の雑魚に構うな! 好きにさせておいてもどうとでもなる! 奴のスタミナは有限だ! 急いで取り掛かれ!」
ニグンの号令が鋭く飛ぶ。
統率された陽光聖典の動きは早い。部隊として練度の高い彼らは、一斉にガゼフを取り囲む様な陣形に変異し、天使達をけしかける。
全方位から突進してくる天使達の姿にガゼフは歯を食いしばると、宝剣を振りかぶって咆哮した。
「う、るあああああああああああああッ!!!」
四方八方から殺到してくる天使達を斬って斬って斬りまくる。まさに鬼神が如き剣技と気迫に、ニグンの喉が鳴る。敵ながらに称賛を送りたい程だ。
斬っては切り返し、叩き伏せては切り返し。ガゼフのスタミナと集中力が保つか、陽光聖典達のMPが保つか、勝負は苛烈な持久戦の様相を呈した。
……しかし、戦場に於いてはたった一度のほつれが命取りになる。三方の天使を斬り伏せた矢先、死角からの一撃にガゼフは対応できなかった。
「ぐ、うぅっ……っるあぁぁあ!!!!」
背に突き立てられた刃の痛みに耐え、斬り伏せる。しかしまた別の方向から剣を突き立てられた。それに対応する。その繰り返し。
ガゼフはとうとう、地に伏した。
出血が激しい。致命傷は避けられているが、全身の至る所を斬られ、突かれた。彼は朦朧とし始める目で、ニグンを睨んだ。
対するニグンは、額の汗を拭いながら笑んでいた。勝利を確信した時の笑みだ。
「こちらも想定以上の被害を受けたが、トドメだガゼフ・ストロノーフ」
言いながら、部下達に視線を配る。
「油断するな。数体で確実に仕留めるのだ」
ゆらり、と。
天使達が、陽光聖典が、死に体のガゼフとの距離を詰めていく。
ガゼフの脳裏に浮かぶのは、死のイメージ。
今まで感じたことがない死神の気配。“死”は、既に彼の耳に息が触れるまで近くにやってきている。
(俺は、俺は……ッ!!!!)
走馬灯というのか。
ガゼフの脳を、血液を、細胞を、様々な記憶が駆け巡る。
王国に住まう護るべき民達の笑顔。ここまでよく付いてきてくれた誇るべき部下達との日々。自分を拾ってくれた、仕えるべき王の姿。
そして──宝剣を授けてくれた、アルベドの美しい微笑み。
「…………ッ!!!」
瞬間、消えかけていた命の灯火が、一気に噴き上がる。
「な、め……る、なぁぁぁぁぁあ!!!!!」
吐血し、ドボドボと腹から血を流しながらも、ガゼフは吠え、立ち上がる。その瞳には、生きるという覚悟が閃光のように瞬いていた。
「俺は王国戦士長! この国を愛し、守護する者! 王国を穢す貴様らに、負けるわけにいくかァ!!!」
剣を構え、自分を奮い立たせる様に叫ぶ。
そんな彼を見るニグンは、まるで憐れなものでも見るかの様に、冷ややかだった。
「そんな夢物語を語るからこそ、お前はここで死ぬのだ。ガゼフ・ストロノーフ……その体で何ができる」
ガゼフを小馬鹿にする様に、口角が上がっていく。
「お前を殺した後、村人達も殺す。無駄な足掻きを止め、そこで大人しく横になれ。せめてもの情けに、苦痛なく殺してやる」
ニグンは、とうとう笑っていた。
何もできない体に鞭打ち、それでも立ち上がろうとするガゼフを嘲るように。
しかしその言葉を受けたガゼフは、緊迫した表情を俄かに解き、喉を鳴らして笑った。その挙動に、ニグンは気に入らないといいたげに眉を顰めた。
「……何が可笑しい」
「愚かなことだ。あの村には、俺より強い御仁がいるぞ」
「ハッタリか? ……天使達よ、ストロノーフを殺せ」
ニグンはガゼフの言葉を一笑に付した。
そしてもう、興味もなくなった。彼は部下達に、ガゼフ抹殺の最後の命を下した。
「くっ……!」
天使達が動き出す。ガゼフは鉛のような体を動かそうとして──
『戦士長様。あなたはよく頑張りました。そろそろ、私と交代です』
──彼の意識の奥に、美しい声が囁いた。
それと同時に、景色が一瞬にして変わる。
夕暮れの平原ではなく、どこかの屋内……倉庫だろうか。見れば、カルネ村の住人達が、身を寄せ合っている。
「こ……ここは……?」
目を白黒させるガゼフに、村長が答えた。
「ここは村の倉庫です。アルベド様が魔法で防御を張られています」
「……アルベド殿は?」
兵達も、ここに転移させられたようだ。負傷した者も、そうでない者も、皆倉庫の中でキョトンとしている。
「それが、戦士長様と入れ替わるように……姿がかき消えまして……」
「…………」
思い出したように、ガゼフはアルベドから貰った木彫りの人形を取り出した。するとその直後、木彫りの人形は戦闘不能となった天使と同じように、光の粒子となってかき消えていく。
「そう、か……」
何もなくなった掌を見つめながら、ガゼフはその場に倒れ伏した。
「……初めまして、スレイン法国の皆さん」
陽光聖典の前に、悪魔が現れた。
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11.慈悲
「……何者だ」
ニグンはそう問わずにはいられない。
ガゼフ・ストロノーフと、その部下の兵士達の姿が消え、代わりに現れた一人の
一目で分かる豪奢なローブにすっぽりと身を包み、顔には赤色の面妖な仮面をつけている。そして何より目を引くのが、白肌を惜しげもなく晒した胸部だ。鎖骨の辺りから臍までがっつりとローブが開かれており、下着を付けていない豊かな双丘に薄布が引っかかっているだけ……の様な状態なのである。
(女……
ニグンの目にはそれ以上の情報は得られない。一陣の風が草原に淡いさざ波を作ると、仮面の女は美しい声で答えた。
「……初めまして、スレイン法国の皆さん。名乗るほどの者ではないので、名前は覚えてもらわなくて結構」
陽光聖典を前にして、堂に入った語り口だとニグンは思った。それほどの強者か、ただの馬鹿か。
「あの村とは少々縁がありましてね」
「村人の命乞いにでもきたのか?」
「いえいえ。実は──お前と戦士長の会話を聞いていたのだが、本当に良い度胸をしている」
ゾワ……。
途端、ニグン達の背中が粟立つ。女が纏う雰囲気が、決定的に変わった。まるでドラゴンに睨まれた様な……あるいはそれ以上の、戦慄。女は恐ろしい雰囲気を纏ったまま、続ける。
「正直、お前達法国と王国がいくら戦争しようが“俺”からすれば非常にどうでもいいことなんだよ。その結果、良い魂をもつ人間が死のうと仕方があるまい。戦争をやるとひと口に言っても、その裏には様々な思惑があるからな。宗教的価値観だったり、自国の領土を侵犯されないよう楔を打つ為だったり、凡人の俺が想像にも及ばない様々な狙いがあるのだろう。人類を導く立場にある法国は特にな」
自分は無関係な人間だからと線を引く女からは、確かに王国への愛着のようなものは感じることができない。しかし滔々と語る仮面の女の語気に宿るのは、無関心と怒り。その相反する二つの感情がありありと滲み出ていた。女は静かに、言葉を続ける。
「……だが、お前達は
「なに……?」
「何か目的があってガゼフを付け狙うのは戦争の範疇だろう。しかし人類の導き手を自称しているお前らが、カルネ村を守ろうと立ち上がるガゼフ・ストロノーフのあの姿を嘲笑うのは一体どういう了見なのかお聞かせ願いたいな」
「……彼奴は腐り切った王国を生かし続ける癌だ。生かしておけば王国に更なる膿を作り続け──」
「言い訳などどうでもいい。人類の為だかなんだか知らんが、国に住まう無辜の民の笑顔を守る為、隣人の明日を守る為、命を賭して立ち上がるあの勇者を嘲笑う資格がお前らのどこにあるというんだ。なあ……?」
「貴様はどうやら我々のことが気に入らないらしいな。しかし、だとしたらどうするというのだ? えぇ!?
ニグンが吠える。
しかし頭は冷静だ。彼は部下達に視線を配ると、天使達に裏から突撃させるよう暗に命令を下した。
「やれやれ」
仮面の女は、呆れたように首を振っている。おそらく背後から近づいている二体の天使に気がついていない。ニグンは内心、半殺しにした後あの仮面を剥いて顔を見てやろうとほくそ笑んだ。
二体の天使達はゆるりと、仮面の女の背後を取り……そして串刺しにした。
「……はは」
その呆気なさに、ニグンが笑う。いくら強者のフリをしようが、化けの皮を剥がせばこんなもの。
「無様なものだ。この私に説教などと──ぇ?」
「俺に……何かしたか?」
女はゆるりと振り向くと、天使の顔をむんずと掴み、草原に叩きつけた。それだけのことで、ガゼフ・ストロノーフでさえ撃破に苦労した天使達が一瞬にして消え失せる。
「……馬、鹿な」
「図に乗るなよ
怒りの色が濃く滲み出た声だった。
陽光聖典は、直感する。もしかして我々は、怒らせてはいけない相手の怒りを買ったのではないかと。
女は天使達に付けられた埃を払う様な仕草を取ると、ゆっくりとした足取りで距離を詰めてくる。
「六色聖典だかなんだか知らんが、お前達にはガゼフを笑う資格もなければ、カルネ村を滅ぼす理由もない。人類を導くという大義名分に酔いしれてるだけの、ただの快楽殺人集団だよお前らは」
「く、口だけは立派なものだな
女はやれやれと首を振る。児戯につきあうこちらの身にもなれと言わんばかりに。
「……やれ。我が
「へ?」
女が指を鳴らした瞬間、ニグン達の体が草原に力を失った様に倒れ込んだ。まるで、糸が切れた傀儡の様に。倒れ伏したニグンが起き上がろうとしても力が入らない。麻痺系統の魔法か。彼は草原の土で頬を汚しながら、女を睨んだ。
「貴様! 一体我々に何をし──」
吠えながら、ニグンは気づく。肩口が熱い。両腿の付け根が熱い。遅れてやってきた、烈火に炙られるような熱さ。……そして、彼の目の前に転がる自分の四肢。
「ひぃっ──あああああああああああああああっ!!!!!」
痛い、熱い、寒い。
ニグンは、彼自身気がつかぬ内に両手両足を切断されていた。それは彼一人じゃない。生き残った陽光聖典の隊員全員が、四肢を失い、草原をのたうち回っている。気がつかなかった。気がつかない内に、切断されていた。
「
「な、何を言って──ひぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいい!!!!」
ゆるりと近づいてくる女の周りに、次々と悍ましいアンデッドが現れる。ニグン達が見たこともない、強大で悍ましい異形の数々。まるで最初からそこにいて、透明化の魔法が解けたかのように、彼らは女に付き従っている。
奴らは皆、生者に恨みを持つような光を眼窟に灯していた。ニグンの体に、夥しい量の汗が噴き出す。あれは、あれらは、人類が敵う様な存在ではない。そして今からあれらに、何をされるというのか。
「ひぃぃい、ああああああああああ!!! やめ、やめてくれ!!!! わかった!!! わた、私が悪かった!!!!!! 望むものを用意する!!! だ、だから!!! 私!!! 私だけでもい!!! 私だけにでも、じ、ご慈悲を!!!!」
女が近づいてくる。化け物共が近づいていくる。
近くなる度、化け物共の解像度が上がっていき、陽光聖典は喉が破れる様な悲鳴を上げた。
「……慈悲だと?」
女が、はてと首を傾げる。
異なことを申された、とでも言わんばかりだった。ニグンはそんな彼女の心に取りすがろうと、必死に絶叫して慈悲を乞う。恥も外聞もない。何もかも投げうって、額を地に擦り付けた。そんな彼を蹴とばし、胸板を踏みつけると、女は底冷えのする声でこう言い放った。
「勘違いするなよニンゲン。俺は、悪魔だ」
仮面を消し、頭を覆うフードを下ろす。
ニグンの目に映ったのは世にも美しい女の
『あの村には、俺より強い御仁がいるぞ』
瞬間、ガゼフの言葉がフラッシュバックする。
ふざけるな、と声を大にして言いたい。強いなんて次元じゃない。あんなアンデッドを大量に従える悪魔など、法国が擁する最強の部隊・漆黒聖典でさえ──。
「お前達はもはや俺や俺の僕達が手を下す価値もない。その体のまま、装備の一切を剥かせてあの森の奥地で獣の餌にでもするとしよう」
女が指さした先は、トブの大森林。
強大なモンスターが棲息していると言われる、魔の森だ。陽光聖典は、ニグンは、自分達の未来を想像し、再び絶叫した。
「お、慈悲ぃぃぃ!!!! お慈悲!!!! お慈悲をぉぉぉぉ!!!!!!」
「……耳障りだな。後で声も奪わせるか」
女が視線を配ると、彼女の傍に控える化け物は「御心のままに」と傅いた。
「お前達が今まで滅ぼしてきた村の恐怖、そして苦痛を味わうんだな」
「まっ、待って……待ってください!!! 待って!!! 待──」
女は言うだけいって、姿を消した。
草原に残されたのは達磨と化した陽光聖典と、見るも悍ましい化け物達の群れ。今夜は彼らにとって最も長く、最も苦しい、最期の夜となった。
ちなみに覗き見しようとしてた風花聖典の巫女も爆発した(無慈悲)
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12.朝焼
──……朝。
朝日が山の稜線を越えはじめる頃、ガゼフは飛び上がる様に眠りから目覚めた。額に浮かぶ大粒の汗。早鐘を打つ心臓。乱れる呼気。震える手を見つめ、そこに血が通っていることを確かめると、ひと塊の息を肺から長く押し出した。
(……情けない。まるで新兵だな)
汗ばんだ体から、蒸気の様な熱気が放出されている。悪夢にうなされていたらしい。未だ覚醒しない頭で、ガゼフは昨夜のことをゆっくりと思い出していた。陽光聖典と対峙したこと、敗北したこと……そしてアルベドと入れ替わり、意識を失ったこと。
(生きて、いるのか……)
ここはどうやら昨夜転移させられてきた倉庫の中らしい。彼の部下達もいる。皆、昨夜蓄積した緊張と疲労に抗えないのだろう、平和ボケした大いびきをかきながら眠っている。
農村の朝は早い。倉庫の外では、既に雑多な生活音がしている。ガゼフは部下達を起こさぬようそろりと起き上がると、倉庫の外へと出た。
「……」
澄み渡った空気。蒼と橙、紫色にグラデーションがかった空が、今日は一段と美しく目に映った。何か自分が生まれ変わりでもしたかのような清々しさだった。
「おはようございます。王国戦士長様」
「……ああ、おはよう」
いつもの日常。代り映えのない毎日のひとつ。村長はそんな様子でガゼフに挨拶をしてきた。村を見渡せば、農作業の道具を担ぐ者、井戸から水を汲み上げている者、家畜に餌を与える者……それぞれの人間が、それぞれに村の営みに勤しんでいる。この掛け替えのない日常を護ったのは彼ではなく、アルベドだ。
「……アルベド殿は?」
「アルベド様ならあちらに」
「ありがとう」
村長が指をさした方を見やれば、確かにいた。村の少し離れた場所に立つ木の下で、毛布にくるまったネムに膝を貸している。離れていても、彼女は輝く様な存在感だった。最早異物感というのだろうか。どどめ色の世界に、一粒の黄金が混じった様な、そんな印象を抱く。ネムの髪を梳き、頭を撫ぜるアルベドの姿はやはり聖母さながらだった。
ガゼフはひとつ呼吸を置いて、彼女達の下へ歩み寄っていく。
「アルベドど──」
ガゼフに気づいたアルベド──モモンガは、桜色の薄い唇に人差し指を置いて「静かに」とジェスチャーをする。ハッとしたガゼフは、ネムが小さく寝息を立てていることに気づくと、声のボリュームを落とした。
「おはよう。隣、よろしいか」
「おはようございます。どうぞ」
ネムを起こさぬよう、モモンガの隣にそろりと腰を下ろす。二人の間に、穏やかな風が流れた。
「……陽光聖典は?」
「追い払いました」
モモンガは事もなげに言いながら、寝息を立てるネムの頭を撫でていた。スレイン法国が誇る六色聖典の一つを、まるで庭に訪れた野良猫を追い払った様な……そんな日常の一つであるかの様な物言いに、ガゼフは不思議と驚かない。彼女ならそれほどのことをやってくれるという不思議な信頼と、底知れなさがあったからだ。
「…………」
紫を照らす鮮やかな蒼の上を、鳥が西から東へ滑っていく。それをぼんやりと目で追いながら、ガゼフは呟くようにモモンガに問いかけた。
「奴らは強かったか?」
「それほどでした」
「……凄いな」
「強いですから。私は」
モモンガの横顔は、やはり美しかった。鼻筋が整っていて、大きな目の上に蓄えた睫毛は影を落とすほどに濃く長く、横髪は風にさらわれる度にキラキラと光を溢している。腰から伸びる黒翼も彼女の黒髪の様にあで艶があり、出来ることなら触れてみたいという欲求さえ沸き出した。
ガゼフがそんな美しい横顔をじっと見ていると、モモンガは少し気恥ずかしそうに「何か?」と問う。
「アルベド殿の種族は、皆貴女の様に強いのか?」
横顔が美しかったから見惚れていたと、ガゼフは言えなかった。モモンガはああと相槌を打つと、ふるふると顔を横へ振った。揺れた髪から、春の花のような匂いが薫る。
「私が特別なんです。多分」
「そうか」
照れ隠しで咄嗟に聞いただけで、別に聞きたかったわけではない。ガゼフはモモンガに伝えたいことがたくさんある。彼はひと息置いて整理をつけると、語りかけた。
「……アルベド殿には本当に助けられてばかりだ。我々も、カルネ村も、貴女がいなければ皆こうして新しい一日を迎えることはできなかっただろう。本当に、どう感謝したらいいのか私には分からないが、出来る限りの報償は用意させてもらうつもりだ」
「いえ、別に私は──」
「『困っている人がいたら、助けるのは当たり前』……貴女はそう言いたいのだろうが、陽光聖典を退けるというのは、全く当たり前じゃない。アルベド殿を客人として堂々と王宮に迎え入れられないことが俺は悔しくて仕方がない」
感謝と謝罪を交互に繰り返すガゼフの姿に、モモンガは困った様に微笑んでいた。彼はネムを撫ぜながら、吐露するように言葉を吐き出した。
「実は『困っている人がいたら』……というのは昔、弱い頃の私を救ってくれた純白の鎧を纏った騎士の言葉なんです。殺されそうな私を助け、居場所を作ってくれた強くて温かい人でした。だから私は、彼の言葉を受け売りしているだけなんですよ。あの人は私の知らないどこか遠くのところへ行ってしまいましたが、彼の言葉を胸に行動すれば私の中で生き続けてくれるような気がして……なんて。はっきり言って自己満足、ですね」
「……アルベド殿にとってその騎士とは、大切な存在なのだな」
「ええ。私にとって彼は掛け替えのない仲間の一人で、憧れの存在なんです」
嬉しそうに……もしくは寂しそうに純白の騎士のことを語るモモンガに、ガゼフは胸の奥に名状しがたい痛みを覚えた。想い人だったのだろうな、とガゼフは思う。そしてその純白の騎士は、何らかの理由があってもうモモンガの前には現れないのだろうとも。彼は胸に抱えた痛みの違和感に気づかないフリをして、言葉を返す。
「その騎士のことを探しているのか?」
「どうなのでしょうね。また会えればすごく嬉しいですけど、心のどこかではもう会えないと分かっている自分もいるんです」
モモンガはそう言って、寂しそうに笑った。
「カルネ村を守ったのは彼の言葉に従ったから。そして戦士長様を守ったのは、貴方があの人に似ていたから……だから本当に、結局全て自己満足なんですよ」
「似ている? 俺が、その騎士に……?」
「ええ。声とか外見なんかは全然違うのですけど、心の芯みたいなところが」
「そ、そうか……」
ガゼフは妙な居心地の悪さを覚えた。何か勘違いしてしまいそうで、彼は戒めの意味を込めて自分の頬をぴしゃりと叩く。そんなガゼフを見て、モモンガは目を丸くした。
「どうしたんですか、いきなり」
「いや、何でもない。忘れてくれ」
「……?」
きょとんとしているモモンガの目から逃れる様に、ガゼフは腰に差していた剣を鞘ごと引き抜いた。借り受けていたブルークリスタルメタルの剣だ。
「そういえばこれを返さなくてはな。必ず生きて帰るという約束は俺が弱いばかりに反故にしてしまったが……これが無ければもう少し早く倒れるところだっただろう。感謝する」
「……それは差し上げますよ」
「いや。いやいやいや、そうはいかないだろう。これほどの秘宝だ。おいそれと無償で譲り受けるわけにはいかん」
「だってそれ私にとってはただのボックスの肥やし──ゴホン。私が持っていても意味のないものですからね。剣も振るわれてこそ喜ぶと思いますし」
「しかし……」
ガゼフは言い淀む。
彼は貯金が趣味だが、全財産はたいても買えるか分からない価値の代物だ。助けられるばかりか、こんなものまで貰っては立つ瀬がなさすぎる。そんな彼を見て、モモンガは小さく息を吐いた。
「なら、それは戦士長様にはあげません。貸しておきます」
「え?」
「戦士長様はまだまだ弱いですから、下手な装備でいられて死なれると寝覚めが悪いんですよ。だから……いつか私を守れるくらい強くなったら、その剣を私に返しにきてください」
そう言って、モモンガはガゼフへ剣を押し返す。
そんな彼を見てガゼフは呆気に取られ──そして、笑った。
「まだまだ弱い、か……ハハ。そうだな、俺はまだまだ、弱い。弱すぎるくらいだ。きっと……いつかきっとアルベド殿を守れるくらい強くなったら、強い男になったら、その時はこれを返しに貴女の下へいこう」
「ええ。楽しみにしておきます」
モモンガはそう返して、微笑んだ。ガゼフも笑う。何かが吹っ切れた様な、生命力溢れる笑みだった。
「アルベド様! 戦士長様! 朝餉の用意ができました! ご一緒にいかがですか!」
村の方からエンリが駆け寄ってくる。
ガゼフはしばらく何も口にしていないことを思い出すと、急に腹の虫が鳴いた。
「是非もない。我々もご相伴に与ろう。アルベド殿、よろしいだろうか」
「ええ、勿論。ほらネム、朝ごはんの時間ですよ」
「んー……やー……」
モモンガはそう言って、ネムの頬をぷにぷにと突いた。ネムは少し擽ったそうに、嬉しそうにしている。
「……」
そんな二人を見ながら、ガゼフは後頭部をガシガシと掻いた。
あの時──ニグン達に追い詰められ、走馬灯を体感した時だ。彼は様々な記憶を見たことを思い出す。村の民、行きつけの酒場の連中、自慢の部下達……そして最後に見たのは、彼が剣と忠義を捧げる国王陛下ではなく、何故かアルベドの顔が浮かんでいた。
その理由をガゼフは何となく分かっていて、しかし彼は今、その気持ちに蓋を閉じた。その気持ちに素直になるのは、何もかもが中途半端だと分かっているからだ。
リ・エスティーゼ王国王国戦士長ガゼフ・ストロノーフは、大きく深呼吸をした後に空を仰いだ。澄み渡った蒼穹には、相変わらず鳥が平和そうに飛んでいる。
今まで以上に強くなる。そう決心した彼の瞳には、覚悟の色が濃く滲み出していた。
一章終了です。
お付き合いありがとうございました。
次回オマケを掲載して、二章に移ります。
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おまけ
この日のカルネ村の朝食は、村の中心で全員が輪を描く様に座って摂ることとなった。昨日のこともあり、死んだ村人の穴埋めやこれからのカルネ村の行く末をどうしようかという会議としての側面もある。
皆は各々に土の上に腰を落としているが、モモンガの前には比較的綺麗なテーブルと椅子が差し出された。それは女神に対して地べたに座せというのは村民にとって不敬なことであり、見事なドレスに土をつけるのは不味いという配慮でもある。
「簡素なもので申し訳ないですが……」
食事を配膳してきたのはエンリだ。
盆の上にはスープが入った木製の椀と、丸いパンが乗っていた。草臥れた野菜と、気持ちばかりの干し肉……それらに塩を振っただけのスープをモモンガに食べさせるのはカルネ村の皆が心苦しい思いだったが、それでも彼女達が精一杯心を込めて作ったものだ。
「ありがとう」
モモンガはそれを受け取って、微笑んだ。
腕の中の湯気が香る。良い香りだと彼は思った。本物の野菜や肉の入ったスープなんて、モモンガは今まで食べたことがない。
(……思えばこの世界にきて初めての食事だな。
モモンガ──鈴木悟の生きる地球は死の星と化している。きちんとした野菜や肉は最早一部の上流階級しか口にすることはできなかった。
モモンガの常用食は栄養を摂るためだけのゼリーや、粘土の様なエネルギーバー、それとサプリメントが主だ。生まれてこの方、食事を楽しいと思ったことはない。ただ胃を膨らませてエネルギーを詰めるだけの煩わしい作業としか思わなかった。
モモンガは木匙でスープを掬うと、そこに浮かぶ葉物をじっと眺めた。野菜。ほわほわと湯気を立てている。ゲームのグラフィックでも何でもなく、水と太陽で育った緑色の食べられる植物。それをまさかこうして口にできる日が来るとは彼自身思わなかった。
「いただきます」
まああの食事が、こんなヒラヒラした草みたいなものの汁に変わったところでそう大差があるわけもなく──
「…………!!!?!?!!」
──その時モモンガに電流が走る。
スープに口をつけた瞬間、全身の細胞が沸いたようだった。
野菜の甘味。塩気。干し肉から滲む滋味。僅かに汁に浮かぶ肉の脂。申し訳程度に振られた香辛料の香り。そのひとつひとつが、彼の中に眠っていた味覚という感覚を呼び起こす。
(う──)
モモンガの瞳に、いくつもの流れ星が瞬いた。
ぱちぱちと目の奥で火花が弾け、背筋を知らない感覚が駆け抜けていく。
その瞬間を見ていたガゼフが、エンリが、ネムが、カルネ村の人間が、モモンガの雰囲気が劇的に変わったことを察知した。
(う──)
何というか、モモンガは彼らにとって神性的な存在であった。比肩する者がいない程美しく、穏やかでありながら妖艶で、慈悲に満ち、卓越している上位存在。何か自分とはかけ離れた様な、御伽噺の中の人物といった感じだ。
しかし今……そう、この瞬間だけ、その雰囲気が一気に様変わりした。なんというか、幼児がプレゼントの封を開けているときのような、ああいった無邪気さや壁の無さが滲み出ている。
女神というより、どこにでもいる様な可愛らしい少女の存在感に近いかもしれない。どこを切り取っても聖画の様なモモンガの雰囲気が、ふんにゃりと軟化したのだ。
(うまー!!!!)
モモンガは天を仰いだ。
美味しいという感覚を知らなかった。これほどまでの感動。これほどまでの衝撃。もはや受け止めきれない。
「美味しい!? アルベドさま美味しい!?」
嬉しそうにネムがぴょんぴょんと弾んで聞くと、モモンガはこくこくと何度も頷いた。
「美味しい!」
「ほんと!? やったー!」
エンリとガゼフは呆気に取られていた。顔を突き合わせて、お互いの驚愕を確認しあっていた。だって、本当になんでもない野菜のクズをかきこんだだけのスープだ。貧しい村が貧しい村なりに作った程度の食事に過ぎない。
それがあの女神をあそこまで変容させるとは思いもよらなかった。空腹の浮浪児に食べさせても、あそこまでの感動はないだろう。モモンガの瞳には今もなお流れ星が飛び続けている。
ならばと、モモンガは横に供えてあるパンに手を伸ばした。軽い。軽くて硬い。口元に持ってくると、確かに薫る小麦の匂い。彼は小さな口を開くと、パンに齧りついた。
「〜〜〜〜〜〜!!!!!」
美味い。
これも美味い。相当に硬いが、齧ると小麦の香りが鼻腔を抜けていく。あの無味無臭の塊を食道に流し込む食事とは、余りにも違う。その様子を、ネムはニコニコと見ていた。
「アルベドさま! パンはね、こうやってね、スープに浸して食べると柔らかくなって味もついて美味しいんだよ!」
天才か? とモモンガは思う。
目から鱗とはまさにこのことだろうと。彼は横でそうして食べるネムに倣ってパンを汁に浸すと、少しふやけたそれを小さな口に放り込んだ。
(う、うま──!!!!)
先程感じた美味しいの次元をひとつ突破した。モモンガは心の中でネムに感謝しながら、夢中で食事にありついた。
「おいしっ、おいひっ」
もはや今のモモンガは、ちょっとふやけているといってよい。そんな彼の様子をカルネ村にいる人間が少し呆気に取られて見ていた。
「アルベド様、そんなにお腹が空いていたんですね」
食後。
目をまんまるにしているエンリに言われ、モモンガは顔が赤くなるのを感じていた。
(しまった……美味すぎて夢中で食べてしまった……ふ、普通に恥ずかし……)
隣を見ればガゼフも……いや、周りを見てみればカルネ村の誰もが目を丸くしていた。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。隣のネムだけはニコニコとしているが。
「す、すみません。ちょっとはしたなかったですよね……」
「いえいえ全然そんなことありません! むしろこんな粗末な食事で申し訳ないくらいで……」
「全然粗末なんかじゃありません! その……とても美味しかったです」
ふるふると顔を横に振るモモンガは、自分ががっついてしまった理由を彼らに話そうと思い至る。食欲に負けた自分のはしたない姿を見られたという羞恥を、少しでも軽減する為に。
「わ、私がいた世界……いや、国は環境汚染がとても進んでいたところなんです。空はスモッグに覆われていて、外に出ようと思ったら防護マスクがないとたちまち病気になるくらい酷いところで、鳥や魚……虫も生きられないくらいの死の土地だったんです。食べ物といえば人工的に作り出した、食べ物といえないくらい無機質なものばかりで……」
ぽつりぽつりと語るモモンガの話に、カルネ村にいる全員が聞き入っていた。そして決して少なくない衝撃を受けることになる。これほど美しい女性が、自分達が女神と讃える村の救世主が、そんな過酷な場所で生きていたことに驚きを隠せなかった。だから、と付け加えてモモンガは続きを語る。
「こんなに美味しい食事初めてだったんです。きちんとした野菜やお肉を食べられるなんて……その、美味しいなんて感覚生まれて初めてでした……。カルネ村の皆さん、ご馳走様でした」
話を聞き終えた者達はみんな衝撃を受けているようで、僅かの間沈黙が流れた。啜り泣いている者さえいる。こんな粗末なスープに感動した女神の過酷な生い立ちに触れ、彼らは動揺を隠せなかった。
「アルベド様、おかわりはいりませんか」
誰かがポツリとそう言った。
誰かが言って、誰もが我に返った。そうだ、今まで食事の楽しさを知らなかったのなら、我々がもてなせばいい。この村にいる間は、我々が決してひもじい思いなどさせないと。彼らは口火を切ったようにモモンガに詰め寄った。
「アルベド様! 是非私の分のパンもお食べになってください」「私の家にチーズがあるのでそれも是非!」「おい誰か! 森までいって適当な果実を取ってこい! 俺は果実水を作ってくる!」「夜には鶏を出すか。今のうちにお前んちの倅に血抜きさせとけ」「酒はどうだろう。初心者にはちときついか?」「馬鹿野郎まだ朝だぞ」「アルベド様、わたし実はパイを作るのが得意でしてね。あっ、パイというのは──」
逆に次はモモンガが目をまんまるにさせる番だった。
彼らは我先にと、家から食べ物を持ってきてモモンガに差し出してくる。何やら昼と夕方には特別な料理でもてなしてくれるそうで、村は何やらちょっとしたお祭りの様相を呈していた。
モモンガはこの日、食事の楽しさを知り、食事の醍醐味を知る。そして食事を知った彼がこう思う未来はそう遠くないだろう。
『未知の美味しいご飯を食べる為に、この世界を一人旅してみようかな』
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第二章 漆黒
1.到着
──リ・エスティーゼ王国、国王直轄領エ・ランテル。
三重の城壁に守られたこの城塞都市は、王国にとって様々な機能を果たしている。まず何といっても食糧生産に優れていることは特記すべきだろう。近郊にアンデッドが発生するカッツェ平野があるものの、堅牢な城壁に街を囲われている為モンスターの被害も少なく、土地柄がいいこともあり比較的安全かつ安定的に作物を育てることができるのだ。また、高名なアダマンタイト級冒険者チーム『蒼の薔薇』を擁する王都に次いで優秀な冒険者達がこのエ・ランテルを拠点としていることも一役買っているだろう。
そしてエ・ランテルは隣国のバハルス帝国とスレイン法国の領土に面している。そのおかげで交通量が多く、人、金、物資など、様々なものが大量に行き交っている為、リ・エスティーゼ王国でも随一の繁栄を極めている都市と言ってよいだろう。王国で商いをするなら、まずエ・ランテルは押さえておくべきだ。
しかしながらバハルス帝国とは現在戦争中ということもあり、帝国と面したこの都市の検問所は平時以上に検問の目が厳しくなっていた。今朝も既に、開門から一時間も経過しているというのに、最初に形成されていた行列が消化できずにいる。長く待たされている商隊や旅人達からは既に多くの
検問所に配属された衛兵達は、今日も今日とて交通の検問に四苦八苦のてんやわんやだった。
「次の方、どうぞー」
配属されたばかりの衛兵は気だるげに検問所にある別室への入室を促した。ここはちょっとした身元や荷物の確認をする為の部屋。つまり列の中で怪しい人間を見つけたら少し確認させていただきますよ、と荷物や身元を検める場所ということだ。
眠い上にだるい上にキツイ。若衛兵は先程も尊大な態度の肥え太った商人に「無駄な時間を取らせるな」と必要以上に罵声を浴びせられたばかりだ。よくも朝からあれだけ人に怒鳴り散らせるなという感心と呆れに裏付けされた苛立ちを、まだ青い彼は隠すことができない。
「失礼致します」
返ってきたのは女の美しい声で、若衛兵はハッとした。これは彼にとって嬉しい裏切りだった。脂ぎった中年男クレーマーか、見るからに浮浪者だろという怪しい男ばかりの応対が常なこの仕事にあって、若い女性に対応できるというだけで心のオアシスなのだ。先程の苛立ちもこの時ばかりは軽減された。
(可愛い人なら尚更ラッキーだが)
老朽化した開き戸が悲鳴を上げて開かれる。
さあ、どんな女の面なのか拝見させてもらおう──と、したところで彼は目を丸くした。この別室に控えている他の衛兵達も同様だった。入ってきた女は漆黒の
まるで英雄譚から飛び出してきた様な風体の女戦士の登場に、部屋の空気が明らかに硬く変化していく。
「……エ……エ・ランテルへようこそ。お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「モモンと申します」
「で、ではモモンさん。身元をお伺いしましても?」
「旅の者でして。各地を放浪しており、カルネ村を経由してここまでやってきました」
女──モモンはそう言って、一枚の紙を取り出した。カルネ村の村長がしたためた推薦状だ。モモンの身元の保証を記した文が、そこには書かれている。衛兵はそれを受け取ってしげしげと読んだ後に、ちらりとモモンを見た。
「なるほど確かに。それでは念の為にお顔を拝見させていただいてもよろしいですか」
「…………」
モモンと名乗る女は衛兵の言葉に、少し逡巡した様に動きを止めた。僅かな空白が両者の間に訪れる。……そしてモモンはおずおずと、遠慮がちにこう切り出した。
「……あの、やっぱり兜は脱がなきゃ駄目ですか?」
「え? ええ、まあ。規則ですので」
「…………………………分かりました」
返答は長い沈黙の後だった。歯切れの悪い態度だ。
その反応に衛兵達は目だけを動かし、サインを送り合う。こうやって検閲に対して渋る相手は大抵“ワケあり”だ。素顔や荷物を見せろといって碌なことになった試しがない。それにこれだけ豪華な装備で身を固めているのだ。警戒して然るべきだろう。モモンの背後を取る衛兵達は、悟られぬ様にそろりと槍に手を伸ばした。
モモンは渋々……本当に渋々と言った様子で、兜に手を掛けた。そして、ゆっくりと兜を脱いでみせる。
「おぉ……」
衛兵達は一様に、腑抜けた声を出していた。しかもそのことに彼ら自身気づいていない。心より出た感嘆とは、無自覚のうちに出るものらしい。
兜を脱いで晒されたモモンの顔は、美しかった。いや、美しすぎた。もはや美しいという言葉以外の適当な表現が彼らには見当たらない。一流の
腰ほどまで流れる濡羽色の黒髪。初雪を思わせるきめ細かい無垢な白肌。控えめな肉感の唇は淡い桜色を湛えており、目鼻立ちはまさに黄金比で象られている。優しく垂れる目に収まる瞳はエメラルドを想起させる“翡翠の色”をしており、今は不安そうに揺れていた。
(すっげ……)
静まり返る部屋に、誰かが喉を鳴らす音が嫌に大きく聞こえた。それほどの衝撃だった。これほどの美しい淑女は、世界広しといえどそうはいない……いや、いないと断言してもそれに異を唱える者はいないだろう。
「あ、あの……」
「し、失礼しました。どうぞお掛けください。エ・ランテルには観光に?」
先程まで剣呑としてた衛兵達の態度はすっかり軟化している。兜の中身が想像以上の美女であるということが一番の要因であるが、不安そうに……或いは困ったようにしているモモンへの配慮だ。
(そりゃあこんな可憐な女性が密室で、武装したむさい男達に囲まれてたら不安になるよな……)
自分達より余程立派な武装をしているということはすっかり頭の外だ。衛兵達はすっかりデレデレになっている。モモンもまた軟化した態度の衛兵にホッとしたようだった。彼女の顔からもまた、固さが取り消えていく。可愛い。
「観光の目的もなくはないのですが、実はエ・ランテルで冒険者の登録をしようと思いまして」
「……あ、貴女が?」
「何かいけなかったでしょうか?」
「いえいえ! ……し、しかし貴女のような可憐な女性が冒険者というのは……」
「これでも私、腕が立つんですよ?」
モモンはそう言って微笑むと、力こぶをつくる仕草をしてみせた。しかしそうは言われても、装備は確かに立派だがどう見繕っても戦場よりも夜会や舞踏会が余程似合う女性には違和感ある台詞だ。世間知らずなのだろうか、と衛兵達は思う。有名モンスター筆頭のゴブリンに敗北した女冒険者の末路を知っていれば、そう易々と冒険者になりたいと女性は思い至らないのだから。若衛兵は、老婆心でモモンに語り掛ける。
「……いやしかしやはり危険な仕事ではありますし、貴女であれば何も冒険者稼業なんてせずとも他にも色々と──」
立ち入った話をしようとしたところで、先輩らしい衛兵が大きく咳払いをする。これ以上踏み込んだ話は守衛としては御法度だ。エ・ランテルへの活動目的は聞いても、そこにあれやこれやと言う必要など全くない。それが何であれ、だ。
「──申し訳ありません。観光と冒険者登録が目的のモモンさんですね。怪しい物も特に持っていなさそうなので、大丈夫です。お気をつけて」
「そうですか……よかった」
モモンはホッと胸を撫でおろしていた。
彼女の微笑んだ美しい顔に、衛兵達はやはり心奪われてしまう。冒険者登録予定の女戦士を相手にしているというよりは、他国の慈悲深き王女を相手にしているような気にさえなった。それほどにモモンの薄い笑みというのは魅力的で、蠱惑的で、尊い。
「モモンさん、ようこそエ・ランテルへ。よい滞在になりますよう心よりお祈りしております」
彼が淀みなくそう言えたのは、守衛としての務めを果たそうと思うささやかな責任感とプライドがあったればこそだ。微笑まれ、内心激しくドギマギしているのは表には決して出さない。
「皆さま方、お手を煩わせました。ありがとうございました」
モモンはそう言って席を立つと、ぺこりと頭を下げて退室した。ひとつ前に応対した肥満商人の尊大な態度とは比較にもならないくらい謙虚で優雅な振る舞いに、彼らは心が温かくなった。心の清らさと見目の麗しさは比例するのだと思ってしまうほどだ。
「……」
モモンが退室して、しばらく静寂が流れる。
衛兵達はギギギと油の差してない人形の様に首を回すと、一斉に静寂を切り裂いた。口々に語るのは、やはりモモンについてだ。
「おい見たか!」
「ああ、俺は見たぜ。本物の天使ってやつを」
「モモンさん……かぁ……」
「可憐だ……」
「おい、冒険者だってよ」
「本当はやんごとない身分のご令嬢じゃないのか?」
「確かにあの気品ある風格はただの平民にはあり得ないな」
「遠い地の王族か、貴族か……可能性はあるな」
「冒険者になるっていうのも、戯れか?」
「ていうかあんなデカい盾と剣振り回せるのだろうか」
「きっと軽量化の魔法が掛けられた武器なんだろう」
「残り香が……まだ部屋の中すげぇ良い匂いしてる」
「お前変態かよ……いや、すごくわかるが」
「目が合っただけで惚れちまった……」
「お前嫁さんが……いやあれは仕方ねぇよ」
「登録が本当だとしたら、冒険者組合ちょっと荒れるぞ」
「……あの容姿じゃあな」
「冒険者の糞野郎共の目にモモンさんが汚されちまう」
「その為のあの鎧なんだろ」
「顔見られるの相当渋ってたしな」
「待てよ。一人で冒険者やるって普通は無理だよな」
「つまり今モモンさんにチーム組もうと言えば……」
「辞表出してくるわ」
「一時の恋で身を滅ぼすなアホ」
「モモンさんと一緒のチームになれるかどうかなんだ。やってみる価値はありますぜ」
わいのわいのと、衛兵達は仕事も忘れて話し込んでいた。その後に部屋を通された商人に怒鳴り散らされたのは言うまでもなく、自分達が悪いとはいえ、美しく謙虚なモモンと青筋を立てた小汚い商人の落差に彼らはげんなりした。
「城塞都市エ・ランテルか……」
モモン──モモンガはそうしてエ・ランテルの地を踏んだ。
検問は一番の懸念点だったが、何とか乗り越えられた。
一応角と瞳は魔法を掛けて隠蔽している。翼はこうして鎧を纏っていればバレることはない。……とはいえ、これを看破できる
しかし門を潜って仕舞えばこちらのものだ。
モモンガは一つ伸びをすると、眼前に映る光景に胸を高鳴らせた。
目の前に広がるのは異世界情緒溢れる街並み。そしてその地に根づく人達の生活、息遣い。馬車がモモンガの側を横切る。鎧に身を包んだ者達が屯している。商人が見たこともない果実を露店で売っている。それらが形作る街の人波、喧騒。
モモンは兜の下で爛々と目を輝かせた。そう……これは誰の為でもない、自分だけの、彼だけの、何に気を遣うこともない未知の冒険の始まり。
物語の一頁目をめくったとき、或いは新品の精密機器を買ったとき、或いは……初めてユグドラシルのワールドを踏んだとき。あの時の高揚が、彼の中で甦る。
「冒険者登録もしたいが、まずは宿の確保から……だな!」
言っててなんというか、ファンタジー小説っぽい! と、モモンガは内心ご満悦だった。カルネ村の日々も良かったが、せっかく異世界にきたのならこうでなくては。
彼にとって重荷になるようなものはこの世界にはない。この身ひとつでどこへでも行ける。どこに行っても咎められない。世界征服をする必要も、魑魅魍魎を束ねる至高の支配者と偽る必要もない。
この世界にきてから一週間。モモンガはなんだかんだこの世界での生活を満喫しつつあった。
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2.誤算
モモンの漆黒の鎧とグレートソード、カイトシールドは原作のモモンと同じ上位道具創造で作り出したものです。見た目は原作モモンに近しいですが、胸部が膨らんでいたり肩幅が狭かったりするので注意深く見る人であれば声を聞かずとも女性と判断できます。
また戦士職と魔法職のスーパーハイブリッドなのでこの状態でも全ての魔法が使用可能です。
神器級アイテムのヘルメス・トリスメギストスは価値が高すぎて揉め事に巻き込まれそうなのでグレードを落とした装備にしてます。
「やっちゃうか……贅沢!」
雑踏に混じるモモンガは鎧の中で一人、誰にともなく宣誓した。囁くほどの声の宣誓は、弾んだ声だった。
モモンガの所持金は多くない。しかしそれは決して少ないという意味ではない。人ひとりが暮らしていく分には少ないが、小旅行程度であれば十二分に楽しめる金額といったところか。
カルネ村とガゼフから貰った金貨袋の重みを確認して、モモンガはそれを
正直なところ、モモンガに金銭は必要ない。
宿は拠点作成系のアイテムで事足りる上に、
だが、モモンガがこの世界に求めるのはあくまでも未知なる体験と食道楽だ。平穏に暮らすのは第一だが、心を豊かにする為に金は多少はいる。無駄遣いは極力避けるべきだろう。
しかし多少贅沢したところで、モモンガにはそれを取り返すアテがあった。それは言うまでもなく、彼の体だ。
このユグドラシル運営も真っ青な最強の肉体が資本なのだ。多少の贅沢をしたところで、庭の草を刈る程度の要領でドラゴンの百体や二百体軽く首を刎ねてきて報酬を貰えばいいだけだろう。そう高を括っているモモンガは、引き寄せられるようにある建物の前に立っていた。
黄金の輝き亭。
現地では言わずと知れたエ・ランテルの最高級の宿屋だ。歴史と気品を感じさせる外観と内装だけではなく、その格式高さとサービスの手厚さによって多くの富裕層から支持を得ている。また、魔法によって鮮度を保たれた食材を超一流の専属コックが調理するという一階部のレストランも大変に評判が良いらしい。
モモンガがそこを訪れたのは偶然といえば偶然だし、必然といえば必然のことだった。何せ黄金の輝き亭はエ・ランテルでも最も気品ある──もとい目立つ建築物であるともいえ、更には大通りからすぐにアクセスできることから、普通に街を練り歩いていたら辿り着いて発見できるような宿なのだ。
贅沢できそうな宿を探していたモモンガにとってこれは渡りに船だ。見てくれだけで最高級の宿だとは彼にも分かる。そして分かっているから、そこへ揚々と入っていく。冒険者デビューの贅沢のつもりだ。最初くらい景気よくいこうじゃないかと、短絡的に彼は思うわけだ。
気が大きくなっているモモンガは、真紅の外套を揺らしながら
「いらっしゃいませ。黄金の輝き亭へようこそ」
身なりをぴちっと整えた受付嬢がしっとりと頭を下げる。モモンガの目を見張る様な装備を見ても動じないのは、やはりここがそういう格式高い場所だからだろう。街を歩いてると奇異な目に晒されることが多かったモモンガは、内心で少し感心した。
受付嬢はにこやかな笑顔で面を上げると「ご宿泊でいらっしゃいますか?」と丁寧な物腰で聞いてくる。モモンガはうんと頷いた。とりあえず一泊分お願いできますかと問うと、受付嬢は少し困ったように返答した。
「申し訳ございません。現在ロイヤルスイートしか空き室がない為……」
「構いません。その部屋で一泊お願いします」
即答である。モモンガは全く構わないという雰囲気でそう言い放った。
(……ふふ、一人でロイヤルスイート。いいじゃないか。気分はまさにセレブだな)
即答できる自分にモモンガは少し酔う。
なぜならこんなこと、底辺ブラック企業所属の社蓄時代では到底無理なことだったからだ。この即答には受付嬢も一目置いたことだろう。彼女は先程以上に恭しく頭を下げた。
「かしこまりました。当黄金の輝き亭をご利用いただき誠にありがとうございます。つきましては料金前払い制となっておりますので──」
……え?
モモンガの目が、鎧の中で点になった。
一泊一食付きの宿代。受付嬢が提示してきた額は、たったのそれだけで手持ちの金が全て吹き飛ぶ額だった。流石に嘘だろ? と彼は慄く。贅沢したいとはいえ、宿代を払った後に余った金で彼はエ・ランテルを満喫するつもりだったのだ。
受付嬢は百点満点の笑顔で支払いを待っている。これ以上沈黙を続けていると周りの目が痛くなりそうだった。モモンガはせめてもの冷静な態度を取り繕うと、
「ごゆっくりどうぞ」
ベルガールに部屋を案内されたモモンガは一人になると、ロイヤルスイートでがっくりと膝を突いた。
「うわああああああああああああ…………」
部屋がめちゃくちゃ広いとか、モダンな雰囲気が素敵だとか、ベッドが巨大すぎるとか、花瓶に差された絢爛な花のおかげで部屋が落ち着いた匂いだとか、そんな感想を抱く前にモモンガは頭を抱えた。
(流石に高級宿とはいえ、高級が過ぎるだろ……!)
まさかエ・ランテル到着後に無一文になるとは思わなかった。何より新しい旅に浮かれていた自分が恥ずかしい。モモンガは
ベッドの中へ細身を沈めながら、モモンガは深く溜息を吐いた。胸で存在感を発揮している巨大な双丘が、膨らんでは沈んでいく。天蓋の見事なレース生地を眺めながら、彼は再び大きく息を吐いた。
「あーやっちゃったな……今日は観光だけが目的でゆっくりするつもりだったけど、今日のうちに組合に寄って登録の方は済ませておくか? 金ないもんなぁ……うわぁ、俺の馬鹿馬鹿馬鹿! 一日で有り金全部溶かす馬鹿がいるかよ本当にもー……。ぷにっと萌えさんだったらもっと慎重に動いてたはずだろう……」
ここに来るまでに見たあの露店通りとか、行きたかったけどなぁと一人ごちる。
……だが、まぁよろしい。やってしまったことは仕方がない。冒険者になって強いモンスターを狩りまくればすぐに金は取り返せるはずだ。モモンガはむんと起き上がると、再び漆黒の鎧を魔法で編み込んだ。善は急げ、だ。
「できればこの組合で最も難しい依頼を受けたいのですが」
胸元に光る
それを首からぶらさげるモモンガは縋る気持ちでそう申し出た。しかし受付嬢のイシュペン・ロンブルは困った様に眉を曲げるばかりだった。
「申し訳ありません。規則により、銅級の冒険者様は銅級の依頼しか受けることはできないのです」
「……私は見てのとおり本職は戦士ですが、第三位階魔法の使い手でもあります。商人の荷物運びなどで遊ばせておくには勿体ないとは思われませんか」
遠くで耳を傍立てていた冒険者達が、わかりやすくどよめいた。元よりモモンガの見事な
「すみませんが、規則ですので」
「そ、そうですか……」
規則ですので、と言われたら取り付く島もない。
モモンガは内心で頭を抱えた。銅級冒険者の仕事は日当で銅貨何枚といったところだろう。すぐに無駄使いした資金を回収してやるぜと息を巻いていたが、アテが外れてしまった。
「……申し訳ありません。それでは明日また出直してきます」
その言葉は、やはりどこか気落ちしているように感じる。
(いやまぁ、普通に考えたらそうだよな……新人が何言ってんだって話だし。ああ、俺って本当に間抜けだな……)
モモンガは外面では毅然とし、内心ではぐったりと肩を落として組合を後にした。彼が去った後の冒険者組合はやはり喧噪に包まれた。話題はもちろん、第三位階魔法を扱えるという女戦士モモンのことだ。
「今日はなんだか騒がしいな……?」
その後何も知らない冒険者組合長のアインザックが組合に戻ってくると、事の経緯の詳細をイシュペンに全て聞かされることとなる。
モモンガは気晴らしと思索目的でトボトボとエ・ランテルの街中を練り歩いていた。道中食欲をそそる料理の香りが何度も彼を誘惑したが、無論彼は一文無し。指を咥え、肩を落とし、その場を去るのみだ。
(どうするかなぁ……まぁ銅からコツコツ頑張るしかないか? 大金稼いで美味しいお土産買って帰るっていうネムへの約束を果たすのは少し遅れそうだな……)
罪悪感から、心の中でモモンガはネムに頭を下げた。彼がカルネ村を離れてエ・ランテルに行くといったとき、ネムは顔を梅干しのようにしわくちゃにして泣いた。今生の別れになると思っていたそうだ。慌てて弁明したが、結局寂しいことには変わらない。モモンガは出立当日まで散々ネムに渋られ、泣かれていたのだ。定期的にカルネ村に帰ることを約束してなんとかモモンガの手を離れてくれたが、ネムはモモンガの背中が豆粒ほどになって見えなくなるまで、村の出口で見送ってくれた。あの時の辛そうな顔は、今でも鮮明に思い出せる。
(子供のお土産といったらやっぱり甘いお菓子とかがいいのかな……)
ぼんやりと考えながら歩いていると、モモンガは毛色の変わった区画にでたことを自覚する。なんというか、匂いが変わった。この独特の匂いは、彼の記憶の中で最も近いのは薬品だった。モモンガはいつの間にか大通りを離れ、薬師組合がある薬師の区画へとやってきていたらしい。そこかしこの店や工房から、滋養のありそうな薬草の匂いがほんのりと香ってくる。
そしてモモンガは薬師といえばでひとつ思い出した。
(そういえばエンリの友達がここらへんで仕事をやっているとかなんとか)
話を聞く限りエンリに好意を寄せてそうな薬師の少年のことを思い出した。エンリはエ・ランテルでポーションを買い求めるなら是非彼の店でとよくカルネ村でお勧めしてくれていたのだ。エンリはその少年の好意に全く気がついてなさそうだったのが残酷だったが。
(確か名前は……ンフィーレア・バレ……バレ……)
バレアレ薬品店。
記憶を辿るモモンガに回答するように、その店の看板が彼の目に飛び込んできた。
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3.淑女
(金はないけど入ってみるか。エンリのこと好いてそうな少年も気になるし。変な男だったらパパ許しませんからね、とか言っちゃったりして……あれ? 今だと俺ってママか?)
モモンガは至極どうでもいいことを考えながらバレアレ薬品店の戸を開いた。ドアベルの涼しげな音を鳴らし、年季の入った木床を踏みしめる。すぐに見渡せる程度の手狭な店内には所狭しと薬瓶が陳列されており、薬品店独特の香りがモモンガの鼻腔を撫ぜた。
「いらっしゃいませ」
控えめな少年の声。
ドアベルの音に慌てたように、奥から店番らしき少年がやってきた。細く、少し頼りなさそうな印象だ。
「どうも」
モモンガがそう返して会釈すると、少年は少し驚いたように目を丸くした。
(……この子が例のンフィーレアっぽいな。エンリが言ってたとおり、少し大人しい感じだ。第二位階魔法の使い手、天才錬金薬師か……)
エンリの話の通りなら、ンフィーレアという存在は現地では相当に特別な存在だ。何より驚くべきは『あらゆるマジックアイテムを発動制限を無視して使用可能』という
まあ別に、この世界にモモンガ以上の強敵が現れたところで彼に敵対する理由がないから警戒レベルを引き上げる必要も特にない。街中でボクサーや力士を見ても身構える必要がないのと同じだ。
「本日は何かお求めですか?」
存外、爽やかな声だ。
長く垂れる前髪から覗く目は端正であり、ンフィーレアという少年はパッと見以上に器量が良かった。モモンガはンフィーレアの問いに浅く頷いた。
「ええ、ポーションをと思ってここへ来たのですが……財布を忘れたことに今気がつきましてね。冷やかしになって申し訳ないです」
「そうですか……ポーションならこちらの棚になります。どうぞ見ていってください」
「ありがとうございます」
財布を忘れたというのは当然嘘だ。いい大人が銅貨一枚も持ってないとは流石に恥ずかしくて言えない。ポーション棚に連れられたモモンガは、棚に並ぶ薬瓶を見て違和感を覚えた。
(……妙だな。ポーションなのに青い……?)
彼の知るポーションは血の様な赤色だ。
しかしここに並ぶものはどれもこれも深い青色。その差異にモモンガは戸惑った。
「少し取って見ても?」
「どうぞ」
モモンガは礼儀正しく整列している薬瓶の中の一本を取って、中身の青い液体を揺らした。
これは安物のポーションなのか、それとも……。モモンガは素直にンフィーレアに疑問を投げかけた。
「ここにあるポーションは青いものばかりですが、赤色のポーションはないのですか?」
「赤色……? いえ、ポーションは一般的に青色でして、赤色のポーションというのは見たことがありませんね」
「……そうですか」
モモンガは静かにそう返して、薬瓶を陳列棚に戻した。
(……ユグドラシル製の
ユグドラシル金貨と違いこちらは現地の人間にも価値がわかる分、取り扱いに注意しておいたほうがいいだろう。赤いポーションの製造方法を巡って多くの人間の血が流れることなど、モモンガにも容易に想像できる。
モモンガは思考の海から引き上がると、ンフィーレアに向き直った。
「見せて頂いてありがとうございました。良い仕事をされてますね。ポーションが必要になったら是非こちらに立ち寄らせていただこうと思います」
「あ、ありがとうございます! 是非、ポーションはバレアレ薬品店で!」
「それでは失礼致します」
モモンガはそう言って軽く頭を下げると、バレアレ薬品店を後にした。その威風堂々とした背中たるや、まさか一文無しの素寒貧とはンフィーレアも思うまい。
……それから程なくしてモモンガと入れ替わるように、バレアレ薬品店の店主にしてンフィーレアの祖母──リイジー・バレアレが店の戸を開いて帰ってきた。
「おばあちゃんお帰り。遅かったね」
「はいよ。薬師組合の連中は話だけが長くて困っちまうよ。何か変わったことはあったかい?」
リイジーは腰を叩きながら店の奥のベンチに腰掛けた。疲弊した顔に刻まれる皺が増えてきたなと、ンフィーレアは少しばかり寂しい気持ちを抱く。
「……それが聞いてよ。物凄い高価そうな鎧で身を固めた女の人がきてさ、
「銅級? どうせ冒険者の英雄譚に憧れて組合に登録してきた見た目だけのボンボンさね。余程世間知らずの女なんだろう。そういうのは見た目から入りがちだからね」
「それはどうか分からないけど……あの人、妙なことを言ってたんだよね。それが少し気になって」
「妙なこと?」
「この店にはなんで赤いポーションがないんですかって……」
「赤ァ? はん、ポーションの色を知らないなんてやっぱりただの──はて。赤……赤色……? そんなものは……いや、待っとくれよ……? ま、まさか……いやそんな……」
「お、おばあちゃん?」
それからぶつぶつぶつぶつと何かを呟きだしたリイジーの目が、突然クワと見開かれた。ぎょろりと剥かれた目から目玉がころりと落ちそうな程で、見ていたンフィーレアの産毛が逆立つ。そして彼女は、鬼気迫る表情でずんずんと愛孫の下へ歩み寄った。
「その鎧の女の話、詳しく聞かせとくれッ!!!」
老婆とは思えぬ程の力で両肩を掴まれ、ンフィーレアは並々ならない事態を予期し、ゴクリと唾を飲み込んだ。
モモンガはそうしてエ・ランテルの街並みをぐるりと練り歩いた。もちろん金がないので何もできていない。
気がつくと空は橙に焼けており、一日の暮れを示していた。結果としてこの日は、特に収穫がない空っぽの一日だった。
(……帰るか)
空虚な気持ちにさえなる。金がなくて困るとは思っていなかった。
しかし彼にはまだ楽しいイベントがまだ一つ残っていた。大枚を叩き、全てのイベントをスキップして得たたった一つの楽しいイベントが。
「おかえりなさいませモモン様」
黄金の輝き亭に戻ると、フロントの受付嬢がやはり恭しく頭を垂れた。彼女は品のある笑顔で、モモンガへ言葉を掛けてくる。
「ディナーの時間ですが、ご予約された予定時間が十分後となっておりますが変更ございませんでしょうか」
ディナー。
モモンガは鎧の中でにんまりと笑った。『夜ごはん』なんてものじゃない、超高級宿で頂く『ディナー』だ。これこそが本日最大のイベントなのだ。彼は平静を装って、受付嬢に首肯した。彼女は鎧の着脱の時間を心配してくれたのだろうが、魔法を解けば勝手に脱げるのだ。この世界で鎧の早着替えでモモンガの右に出る者はいないだろう。
レストランの利用者に鎧の中身を晒すという心配もあるが、検閲場の様に見た目を魔法で誤魔化せばいけるだろう。万が一の時のために、一応の対策は施してある。心配はあるが、心配はいらない。モモンガはうきうきで自分の部屋へと戻った。
黄金の輝き亭は国内外問わず様々な富豪が集まる宿である。
その中にあるレストランは王侯貴族や大商人達から高い評価を得ていることで有名であり、生半な身分の人間では到底来ることが叶わないだろう。
何が言いたいかというと、格式と敷居が非常に高い場所なのだ。
要求される額は勿論、ドレスコードも必要とされる為、ここを利用する客は一定以上の水準が必要とされる。テーブルに着いたところで草臥れた衣装だったり清潔感のない体をしていれば、周りの人間から白い目で見られることは必至。また、そういう目というのは言葉遣いや端々に感じられる教養というものにも光らせてあるものだ。
身分が高く、潤沢な資金を持っており、教養があり、誰に見せても恥ずかしくないドレスコードができる者が集まる黄金の輝き亭のレストラン。誰もが気品溢れ、自らの身分を誇示する様な見事な衣装を身に纏っている中にあって──。
「……おぉ……」
比肩できる者など想像もつかない程に美しい淑女が一人、高いヒールを鳴らしてテーブルに着いた。彼女が過ぎた後に、甘くて高貴な匂いが香る。その淑女を目にした全ての者が感嘆を漏らしていた。女性でさえ、悩まし気な深い溜息を零している。淑女は椅子を引いてくれた給仕の男に慈しみを帯びた微笑を見せ、艶やかな声でありがとうと伝えていた。あの声と吐息で耳朶を揺らされれば、男ならどんな要求にさえ首を縦に振ってしまうだろう。それほどに美しい声をしている。
嫋やかな黒髪。翡翠色の瞳。薄い桜色の唇。縫い目のない天衣の様な純白のドレスにグラマラスな身を包み、淑女は毅然とした態度で席に着いている。
ここは、黄金の輝き亭。
この国で最も尊い身分の人間が集まる場所の一つ。貴族だって、大商会の会長だっている。それらに連れられ、煌びやかに自らを飾り立てている淑女達もだ。
しかしその中にあって、この謎の淑女は目に映る全てのものを嘲る様な隔絶された美を誇っている。全ての者は手を止め、食事や談笑の時間を忘れ、ただこの美しい淑女の存在に釘付けにされていた。
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4.美食
モモンガはこの世界にきた時から、タイトなドレスを身に纏っている。ヒールの高い靴を履き、舗装されてない地を悠然と歩いてきた。頭に数冊本を乗せて歩いても、決して落とさない様な綺麗な歩き方だ。座る時に胡座をかくこともない。椅子に腰掛ける時には自然と股を閉じ、背筋をしゃんと伸ばして綺麗に座す。
笑うときもそうだ。
大口を開けず、口元に手を添え、決して下品なところを見せることはなかった。
モモンガが意図してそうしているわけではない。これは歩くとき、座るとき、笑うとき、全てがアルベドの肉体に宿る淑女たれという『設定』にトリミングされ、強制された結果だ。或いはアルベドの基本モーションに引っ張られているといえばいいのか。彼が意識しないでいると、女神の様な微笑みに表情を変えてしまうのもそれが原因だ。
モモンガという存在は自然体であればあるほど
『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』
モモンガが意識せず振る舞うだけで、この言葉が体現されてしまうのはもうお分かりいただけただろう。意識から行動へ移る手順の中にアルベドの設定というフィルターが挟まれるおかげで、彼はどうしようもなく淑女の所作をとってしまうことが。
故にこの黄金の輝き亭の誰もが、モモンガが貴い身分だということを疑わない。頭の先から指の先まで、彼の取る行動の一つ一つに気品が宿っているからだ。意図せず表れる品というのは、“本物”にしかできない芸当でもあるのだから。
(確かカトラリーは外側から使っていく、だったか?)
モモンガは所謂テーブルマナーというやつを思い出していた。そういう食事の機会のあるたっち・みーに一度話のネタの一つして教えてもらったことがあったのだ。きちんとした食事にすら全く縁がなかったモモンガにとってその話はとても新鮮だったので、強く脳にこびりついていた。その際横で聞いていたウルベルトが『金持ち自慢ですか』と皮肉を言い始め、一触即発の両者の間をモモンガが取り持ったのはご愛嬌。
その後にやってきたペロロンチーノがさも当然の様にテーブルマナーを知っていたことにもモモンガは驚いた。まあ蓋を開けてみれば、エロゲー内のお嬢様ロリ攻略の為に不必要な知識を蓄えていたというだけの話だったのだが。その後に他のギルメンも合流し、あまり耳慣れないテーブルマナーの話題でその日の語らいは盛り上がっていたのを今でも覚えている。
(しかし……)
モモンガがテーブルを見渡してもカトラリーの群はない。清潔なクロスの上に、水の入ったグラスが一つ置かれているだけだ。
「お待たせ致しました」
困惑して待っていると、清潔な服を纏った給仕の男がワゴンを押してやってきた。そしてモモンガの前に、所狭しと料理を並べ始める。籠いっぱいの焼き立てのフカフカな白パン。スパイスソースの香りが湯気から登りたつ分厚いステーキ。酸味の漂う青々とした新鮮なサラダ。
コース料理の形式ではなく、一気に料理が並べられてしまった。置かれたカトラリーも、ナイフとフォークが一本ずつ。それからバターナイフがパン籠の横に添えられているだけ。もしかしなくても、この世界のテーブルマナーというやつは現実世界のものよりも楽なのだろうと推測が立った。
(じゃあ、行儀よくしてれば結構好きに食べてもいいのかな?)
これははっきり言って嬉しい誤算だった。
赤と白の葡萄酒が、二つのグラスに注がれる。宝石の様な、綺麗な色だ。期待値がグングンと上がっていく。モモンガはまだかまだかと給仕の男の準備を待った。口内はもう、涎で塗れている。
「失礼致しますモモン様。こちらから──」
しかしそれから給仕の男の説明が始まってしまった。産地だとか、肉の種類とか、どこにこだわったとか、歴史上のどの人物が好んだとか、そういう話だ。
モモンガは品の良い笑顔を浮かべて聞いているが、内心ではもう完全に『待て』を食らってヨダレを垂らしている大型犬のそれだ。肉の匂いがとにかく食欲を刺激してくる。
(は、早くしてくれぇ……生殺しすぎる……)
優雅に泳ぐ白鳥の水面下の如し。
女神の様な外面を保ちながら、モモンガは心の中で五体を床に投げ出してのたうち回っていた。はよ食わせろという一心で。
しかしそれもそのはずだった。
この品の良い給仕の男、モモンガの美しさに惚れるあまりにいつもより冗長に説明しているのだ。格式ばった物言いで遠回りをし、蘊蓄を交え、引き伸ばす。そうしている時間はモモンガの微笑みを彼だけが独占できていると思えば、この引き伸ばした時間は黄金よりも勝る価値があると言えるのかもしれない。
「──ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
永遠と思われた蘊蓄説明に終止符が打たれる。
その一言をどれだけ待ち侘びたか。
ありがとうと伝えるモモンガは、微笑みの仮面の下で食欲を爆発させていた。これだけの料理を前にしておあずけを食らう身にもなれという話だ。
「いただきます」
モモンガは早速ステーキに被りつこうとナイフに手を伸ばそうとして──
(うっ……)
──周りの目に気づく。
皆が皆、モモンガに注目していた。
彼が視線を辺りに散らすと、全員がその視線から逃げていく。見ていませんよと態度で取り繕われても、そんなものすぐ気がつくに決まっている。
(食い辛い……)
何といってもアルベドの体だ。
こんな美人が現実にいたらそりゃ俺も見るよとモモンガだって思う。彼らは悪くない。しかし本人としては居心地が悪いのは否めなかった。
(いきなり肉に行ったらはしたない女だと思われちゃうよな……)
モモンガは断腸の思いでナイフを取る選択肢を取りやめた。獣の様な食欲に、鋼の理性がバックドロップをかました。
このアルベドの肉体はタブラ・スマラグディナから借り受けているようなものだ。モモンガはこの大切な体に恥を掻かせないと誓っている。この体に『腹が空きすぎて肉にがっつく女』という不名誉なレッテルを貼られるわけにはいかない。だから彼はフォークを取り、サラダについと突き刺した。
(確かたっちさんが言ってたコース料理の順番だとスープ、野菜、魚、肉……? 待てよスープの前に前菜があったんだっけ? やばいそこまでは覚えてないよ……まあでも、初手ステーキは多分悪手のはず。スープはないから、野菜からいくのがセオリーだろ。ここの世界のマナーはそこまでのもの求めてない様な気もするけど……)
サク、と繊維質な音が鳴り、磨き上げられたフォークの先端で青々とした葉野菜がドレッシングを滴らせている。
(美味そう)
カルネ村で見た野菜と随分見た目が違うものだ。冷えていて、痩せてない。生野菜ではなくこれが『サラダ』であると、ドレッシングの掛かった野菜の面構えで分かる。
周りの目も気になるが、食欲にはもう抗えない。モモンガは小さい口で、サラダを迎え入れた。
(わぁ……っ、美味し……!!!)
シャキシャキとした生命力ある歯応え。酸味の効いたドレッシングには果汁の様な爽やかさもある。なるほど、なるほど、これがサラダかと、モモンガは理解した。
大釜で熱せられた様な灼熱の食欲をひとまず落ち着かせる爽やかな清涼感。それと同時に
サラダを食んだモモンガは薄らと上気し、見るからに口角が上がった。目を細めてサラダを楽しむ様子に、厨房から亀の様に首を伸ばして見ていた料理長がガッツポーズをしていることには誰も気がつかない。
モモンガは昔の子供は野菜を嫌うとどこかで聞いたことがあるが、とんでもない。こんなに美味しいもの嫌う理由がないと彼は断言できる。
モモンガはサラダをいたく気に入った様子だった。そしてサラダを楽しんだ後は勿論お待ちかねの肉だ。
(おおおおお……これは、テンション上がっちゃうなぁ……!)
突き刺したフォークと、切り分けるナイフから伝わる肉の感触が柔らかい。繊維がきめ細かく、熱したナイフでバターを切るが如く抵抗が少なかった。断面からじわりと溢れ出る透明な肉汁がソースと混ざりあい、それはもう蠱惑的な香りがモモンガの鼻腔を刺激してくる。アルベドの口に合うよう小さく切り分けると、肉の断面はまるでルビーの様な鮮やかな赤色をしていた。
(いただきます)
ほわほわと湯立つその見た目に、モモンガはもう辛抱ならない。恐る恐る、彼はそれを口の中に運び入れた。
──そして、衝撃が訪れる。
(う、んまああああぁぁぁ……!?)
モモンガの翡翠色の瞳に、爛々と星が瞬いた。
彼の頭頂から巨大なエクスクラメーションマークが飛び出したのを、見ていた者達は錯覚したことだろう。或いは、モモンガの後ろに何万本もの向日葵が咲き乱れた錯覚か。
舌に触れる脂の質は、甘く滑らかだ。
噛めば汁が溢れ、肉の力強い味が主張してくる。そして肉に合うこの香辛料の効いたソースがまた憎い。辛味はあくまでも肉の旨味を引き立たせる一助に過ぎない。スパイスの独特な風味は肉の香りを損なわない程度に抑えられ、しかし舌に絡むこの刺激が食欲を一層に煽ってくる。
モモンガは、少女の様な無垢な笑みを見せた。不純物や添加物の混じらない、満点の笑顔を。
「おいしー……!」
誰にも聞こえないような小さな声だった。後ろで耳を傍立てていた給仕の男だけがそれを聞いていた。モモンガはとろけ落ちそうになる自分の頬袋を心配しながら、付け合わせの人参にもフォークを伸ばす。甘い。これも甘くて美味しい。ソースにもよく合う。パンはどうだ。ひと口千切ると、まるで綿の様に柔らかい。石みたいに硬いカルネ村のそれとは全く別の食べ物だ。食むと仄かに甘く、小麦の豊かな香りが広がっていく。
「……」
モモンガは目頭の奥に熱を帯びていくのを感じていた。
カルネ村の食事も勿論美味しかった。
しかしあれはあくまでも寒村の飢えを凌ぐための食事だ。『美食』の世界に足を踏み込むと、こうも違うのかと溢れ出る感動を抑えきれない。赤い葡萄酒に手を伸ばす。この渋みとアルコール感にはまだ慣れないが、それでもやはり上質のものを頂いているという感は彼にも感じられる。
ニコニコと微笑みながらワイングラスを傾けるモモンガの姿に、周りの客は何だか温かい気持ちになっていた。彼らが足元にも及ばないような気品ある風格と美を湛えながら、その心持ちは初めて高級レストランに連れてこられた童の様。最初はあの全ての不浄を拒絶するような美に圧倒されていたが、次第に庇護欲のようなものさえ湧いてしまう始末だった。
美味しそうに、そして行儀よく食事を頂いているモモンガの姿に、彼らはより一層に虜になってしまうわけだった。男性客は勿論だが、特に高齢の客は若くて美しい娘が料理を美味しそうに食べているのがクリティカルだった。
モモンガの眼中に既に他の客の姿はない。
彼は目の前の料理を無我夢中に、
「美味しかった……」
食後の美酒で口を湿らせて、モモンガは浅く息を吐いた。
美味しすぎた。美味しすぎて、食事の時間は一瞬で終わったように思えた。皿やパン籠の上に食べ残しなど一切ない。モモンガは綺麗に平らげて、充足感に身を委ねていた。
そしてしんみりと思う。
この幸せを誰かと共有したい、と。
(ギルメンの皆も連れてきたいな……たっちさんもきっと、こんなに美味しい料理は食べたことないんじゃないのかなぁ。四十一人のみんなでこの店貸し切ってさ……アインズ・ウール・ゴウン復活記念に! って……きっと騒がしくしちゃうんだろうな。みんな、賑やかな人達だから……)
有り得ない幻影を瞳に映して、モモンガは細く笑んだ。
そんな未来は、もう永劫こない。自分だけこんな異世界にこんな姿で飛ばされて、かつての仲間達に会えるわけがない。
それに……ユグドラシル最終日に現れたヘロヘロの言葉が、今でもモモンガの胸に突き刺さっている。
『まだナザリック地下大墳墓が残っていたなんて思ってもいませんでしたよ』
あの無垢な一言は、今思い返してもモモンガの心に重たい痛みを与え続けてくる。自分だけがアインズ・ウール・ゴウンにしがみついていたようで、虚しさと悲しさと、そしてぶつけようのない怒りが彼の中に滲んだのだ。
わかっている。
誰もアインズ・ウール・ゴウンを捨てたわけじゃない。
みんな夢があって、生活があって、家庭があって、様々な理由があってナザリックにこられなくなったのはモモンガだって理解できている。好きでアインズ・ウール・ゴウンを捨てたわけじゃないんだと。
しかし黄金の輝き亭で美味しい料理を頂きながら、また取り留めのない話を語らえられたなら、それはどんなに素敵なことだろうとモモンガは思わずにはいられない。
アインズ・ウール・ゴウン。
それは、彼の全て。
どれだけ美味しいものを食べても、美しい景色を見ても、勝ることのできない黄金の記憶。かけがえのない仲間達。
例え仲間達がナザリックのこともモモンガのことも忘れようとも、モモンガは決してあの日々を忘れない。忘れることなんてできない。
(……酔ったせいか少ししんみりしちゃったな)
上気した顔で、葡萄酒をグラスの中で遊ばせる。そもそもアンデッドの特性も引き継いでいる体のおかげで酔うことはないのだが、彼は今抱えている寂しさをアルコールのせいにした。モモンガはひと塊のため息を吐いて、グラスを空にした。
(……楽しい時間は終わり。さぁ、明日から気合い入れて働かなくちゃな。ネムも寂しがってるかもしれないし)
モモンガはごちそうさまと手を合わせて立とうとして──
「初めましてお嬢さん。一杯いかがかな」
──行手を塞ぐように、ボトルを持った男が現れた。
サイズの合ってない草臥れた貴族風衣装を着込んでいる男は、見るからに見窄らしいという印象だ。彼はモモンガの前にどんとワインボトルを置いて、自前のグラスをテーブルに置き始めた。
誰も一緒に飲むとは言ってない。
しかし男は、覚えたてみたいな下手くそなお辞儀をして勝手に名乗り始めるのだ。
「私の名は、フィリップ・ディドン・リイル・モチャラス。是非お見知りおきを」
自信満々にそう言い放つフィリップの印象は、モモンガからしたら最悪だった。
【補足】
メニューは原作の黄金の輝き亭でソリュシャンが不味いわと言い放ったあれと同じものを出してます。見た感じコース料理ではなさそうだったのかな。
【お知らせ】
いつも沢山の感想や応援ありがとうございます。
正直感想を燃料に書いているところがあるのでとても嬉しいです。
ですが感想の返信の時間を執筆に当てた方が、より早く物語の続きを提供できると思いますし、返信よりもそれを望んでいる方も多いと思うので、感想の返信を締め切らせていただこうと思います。申し訳ありません。
感想を食べて生きてるので、これからも遠慮なくドシドシ書いていただけたら幸いです。
質問やご指摘系統の感想には返信させていただく予定です。
今後ともよろしくお願い致します。
三上テンセイ
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5.女王
(なんか、嫌いな人種だなーこの人……)
モモンガは欠伸を噛み殺しながら、近くに座るつまらない男の話を笑顔で聞き流していた。
男の名はフィリップ・ディドン・リイル・モチャラス。
下級貴族のモチャラス男爵家の三男坊の彼は、自分の誕生月をいいことに、親に無心してここエ・ランテルまで観光にやってきたらしい。曰く、家督を次ぐ長男や父より先進的な価値観を持っているらしく、モチャラス領が上手く回っているのは全て自分の助言のおかげだとかなんとか。今回黄金の輝き亭を訪れたのは、そんな自分へのご褒美らしい。家督を有能な自分に継がせてくれたなら、素晴らしい領地経営ができるとフィリップは今まさに熱弁を振るっているところだ。
男の贔屓目の自分語りほどつまらないものはない。モモンガは既に退屈していた。それになんというか、語りながらちらちらと胸元に視線がいっているのが丸わかりだった。女性は男性のそういった視線に敏感だとモモンガも聞いたことがあるが、実際にその身になってみると本当に分かりやすい。どうせアルベドの体が目当てなのだろうということは、容易に分かった。
(……ハズレだな)
モモンガは内心で溜息を吐いた。
貴族だから邪険にもしにくい。コネクションになればまぁ儲けかと、少しの間なら席を共にしてもよいと言ったことを激しく後悔した。
フィリップから聞かされるのは自分が如何に有能であるかとか、親兄弟は奴隷根性が染みついていてああはなりたくないだとか、自分が王国を治めたらならこう回すという絵空事じみた自論の展開だとか、それはまあ聞くに値しないことばかりだった。
『自分の知能指数を理解できず、周りの人間を侮っている馬鹿貴族』
モモンガのフィリップに対する総評としてはこんなところだろうか。
この男と会話している時間がこの異世界にきてからぶっちぎりで意義がなさすぎて、モモンガはどこで区切りをつけて部屋へ戻ろうか困っていた。
「であるからして──おおそうだ! 貴女の名前はなんと仰るのですか。いやはや、聞くのが遅くなり申し訳ない」
フィリップが思い出したように質問をぶつけてきた。
呆れたことにこの男、自分語りに熱が入り過ぎてモモンガの名前すら聞くことを忘れていたのだ。モモンガは内心で深いため息を吐きながら、質問に返した。
「……モモンと申します」
「ほう、モモン殿……ですか。姓をお聞きしても?」
「いえ、特に姓とかは……私は平民ですので……」
「……なるほど。ということはどこかの大商会のご息女であらせられるとかですかな? 立派なドレスを着ておられることですし」
「いえ。実は私、冒険者なんです」
「は、え、ぼ、冒険者?」
「ええ。今日登録してきたばかりなので、
そんなわけあるか! と、黄金の輝き亭でモモンガらの話に耳を傍立てていた紳士淑女達が一斉に内心で突っ込みをいれた。あの立ち振る舞い、あの気品、あの美貌で、ただの平民の銅級冒険者などあるわけがない。仮にそうだとしても、姓のない名前や銅級冒険者というのは世を忍ぶ仮の姿ということでしか有り得ないだろう。
平民冒険者というのは鵜呑みにはせず、何故そういう低い身分を語るのか──と、普通の人間……少なくともこの場にいる全員がそういう思考にシフトしていく。それはモモンガを見ていた者なら当然の反応であり、正常な思考回路を有しているものであれば普通考えつくはずだ。
……しかしこのフィリップという男は、そうではなかった。
「なんだ。平民の、しかも一介の弱小冒険者であったか」
コロリとモモンガの言葉をそのまま飲み込んでしまった。
しかも相手の身分を侮り、敬語も取りやめてしまう始末。周りで見ていた紳士淑女は、フィリップの馬鹿さ加減にほとほと呆れていた。そして彼はこう続ける。
「ならば金に苦労しているのではないか? 銅級の冒険者が稼げる額など、程度が知れているだろう」
自分がモモンガよりも上位者であると結論付けたフィリップの声は軽い。
それに、さも平然と言ってのけるこの台詞も突っ込みどころ満載だ。
そもそも普通の銅級冒険者ならこんなところにいないし、この様な見事なドレスを例えレンタルでも纏えるはずがないのだから。ええ、まぁ、と苦々しそうに頷くモモンガの姿に周りの客は心苦しくなった。他の客が黒服に目を向けても『諦めろ』と首を横へ振る。この会話は一応同意の下に行われていることだ。モモンガからヘルプの指示が無ければ、動くことはできない。
フィリップは、更に調子づいた。
「そうか、そうか。ならばこれも何かの縁だ。俺の妾になるのはどうだ。今よりずっと良い思いをさせてやろうではないか」
「いえ、別に私は……」
「よいではないか。別に悪い話じゃなかろう? 何を遠慮して──ああ、そうか。恥ずかしいのだな」
フィリップはこれでも、心からの台詞を言っているのだ。
自分なりの思考をもって、自分なりの結論をもって。
モモンガがフィリップの申し出を断ったのは、この様な公の場でそういったことを話すのは恥ずかしいからだろうと思い至る。何故ならこの女は金を持たぬ平民。貴族の自分が娶るといったら泣いて喜ぶのは間違いないのだから。フィリップは得心したとばかりに笑みを作ると、椅子をぐいと寄せてモモンガの耳元に近寄った。
「この近くにいい場所を知っているのだ。そこでなら個室で、二人きりでゆっくり話せる。酒を飲み直しながら、今後についてゆっくり話そうではないか」
「ち、ちょっと……」
「よし、決まりだな」
フィリップはそう言って、モモンガの手を取ろうとした。フィリップの小汚い手が、白魚の様な細い指に迫る。これには周りで見ていた客達がもう黙ってはいられない。彼らは示し合わせた様に、激しくその場から立ち上がる。
「おい貴様! 先程から黙って聞いてい、れば……──」
一人の紳士が威勢よく吠えようとして──意外な光景に勢いを削がれた。
「な、な……」
その場で一番呆気に取られているのはやはりフィリップだろう。
彼はいつの間にか顔と一張羅が、ずぶ濡れになっていた。前髪からポタリと、アルコール臭い葡萄色の雫が垂れていく。
先程までの空気が嘘の様に、黄金の輝き亭は冷たい静寂に包まれていた。
「少しは頭が冷えましたか?」
空のグラスを弄ぶモモンガは、救い難いものを見る様な冷ややかな表情をしていた。
フィリップが自分の身に何が起こったかを把握するのに、五秒ほどの時間を擁する。『目の前の平民の女が、注いでやった高い酒を公衆の面前で俺様の顔に浴びせやがった』という事実を、彼はやっとのことで理解した。
「き、き、貴様ぁぁぁぁぁ!!!!!」
表情が、面白い様に切り替わる。
怒髪天とはまさにこのことだろう。ヒヒイロカネ級のプライドを傷つけられたフィリップは、顔を真っ赤にしてモモンガに叫んだ。彼にとってみれば平民の冒険者という卑しい身分の女が、王国の未来を担う自分に恥をかかせるなど言語道断の出来事だった。
許せない。許せるものか。
この女は絶対に、泣いて俺の慈悲を懇願するまで辱めてやると、フィリップの怒りの炎が轟々と猛り狂う。
「このフィリップ・ディドン・リイル・モチャラス様に向かってなんたる狼藉! し、しかも斯様な場で、恥をかかせるなど、到底許されるものではないぞ! 分かっているのか女!!」
フィリップは毛細血管を千切れさせながら、モモンガに向かって叫び散らした。
……しかし、勘違いも甚だしい。
怒り狂ってるのは、何もフィリップだけではないのだ。
モモンガはフィリップと対比になる様に席から離れず、翡翠の瞳で睨み上げる。その瞳には、死を連想させるほどの凍てつく波動が宿っていた。その眼光に射竦められ、フィリップの心の劫火は一瞬にして消え去った。
蛇に睨まれた蛙、などという表現は最早生温い。
フィリップの首筋に確かに今、死神の鎌の刃が伝った。身動きすれば比喩表現なく死ぬと、フィリップの小さな脳味噌でも理解することができた。
この体は、タブラの娘のような存在。
そんな大切なものに穢れた手で触れようなど、モモンガにとってみれば万死に値する行為だ。
モモンガの口から、鋭利な言葉が発せられる。
「お前のような小汚い下郎がこの体に触れようなどと、恥を知りなさい」
剃刀の様な声色だった。
フィリップを見上げる目にあの慈しみに溢れた聖母の様な気配はない。まるで糞に塗れた豚を蔑む様な、上位存在が下等生物を見る冷ややかな色をしている。
フィリップの背に寒気が走った。
今、自分は何と会話をしている?
今、自分は何と対峙している?
あの瞳の仄暗い光の中に化け物の片鱗を垣間見たような気さえし、フィリップは一歩後ずさった。
「げ、下郎……? こ、この俺に向かって、小汚い下郎だと……? へ、平民の女風情が、栄えあるモチャラス家の、き、貴族の俺に向かって……」
絞り出した憎まれ口は、震えている。気勢は完全に削がれた。ここまでの圧を喰らい、それでも反論できるのは見上げた根性なのかもしれない。もしくは、これでもなお事態を理解できない愚か者なのか。
モモンガは蜃気楼のような静かな怒気を仄立たせ、生まれたての子鹿のような戦意のフィリップを嘲笑う。
「モチャラスだかなんだか知らないですけど、周りを見なさい。皆、貴方の様な見窄らしい姿と違って素敵な装いをしていらっしゃいます。何が栄えある、ですか。この私を……いえ、女性をエスコートしたいなら彼らのようにもっと身なりを整え、清潔にしなさい」
はっきり言って不快です。
そうきっぱりと言い放つモモンガに、周りの紳士淑女達は胸がすく思いだった。身なりを褒められた男達は、少しだけ得意そうに頬を緩める。
女性達にクスクスと笑われ、フィリップの頭に再び血が昇っていく。
「女……そこまでこの俺に言って無事に──ヒッ」
反論の頭を、あの氷の視線で黙らされた。
モモンガは呆れましたと言わんばかりに肩をすくめて溜息を吐く。
「……ここまで言ってまだ分からないのですか? 早くここを立ち去りなさい、と申し上げてるのです。これ以上ここでその何とかという家名に恥を上塗りしたいのであれば、ご自由になさっていただいても構いませんが」
「ぐっ……こ、の……!」
周りの冷たい視線が、フィリップの肌に纏わりつく。
ピリピリとした気配に彼は慄いた。特に周りの男達は、これ以上は許さないと言わんばかりに怒気を露わにしている。恐らくここでまたモモンガに突っかかっていけば、彼らが黙ってはいない。
圧倒的不利をようやく察したフィリップはその場で子供の様に地団駄を踏むと、捨て台詞と言わんばかりにモモンガの顔へ罵声を浴びせた。正直興奮が行きすぎて何を言ってるか誰も分からなかったが、これが彼なりの最後の精一杯の抵抗らしい。
フィリップは黒服に肩を掴まれると、相変わらず言葉にならない叫びを上げて、退場していった。その姿はやはり、要求の通らない子供さながらだった。
「……」
──黄金の輝き亭に、静寂が帰ってきた。
シンとした空気に、モモンガはハッと顔を見上げる。
周りの客達が、皆モモンガのことを見ている。
(やばい。ちょっと目立ち過ぎた……普通に恥ずかしい)
彼は生粋の日本人。
仕事でもなければ、大勢の人間にこういったことで注目されるのは恥ずかしいことでしかない。
モモンガは熟れたトマトの様に顔を赤らめると、小さくなりながら周りにぺこりと頭を下げた。
「た、楽しいお食事のところお騒がせして申し訳ありませんでした。皆さま、失礼致しました!」
その言葉、その所作のところに、先程の氷の女王の様な気配はない。寧ろ赤面して焦っているところなどはもはや町娘の様だ。親しみやすさすら感じられる。
……モモンガの謝罪はすぐに、拍手となって返ってきた。
顔を上げると、皆温かい目でモモンガのことを見てくれていた。彼らの気持ちは、ひとつだった。勘違いした馬鹿貴族にあれほどあけすけに物言いができるモモンガを見て、すっきりとした痛快さを感じていた。これほどの美しい容姿を持ちながら、自分の意思をもってはっきり拒絶できる芯のある姿に、彼らは敬意と親しみをモモンガに持ってくれたのだ。
「素晴らしい!」
「すっきり致しましたわ」
「あと少しで俺の拳が出るところでしたよ」
「これほど可憐な女性にあれは中々できることではありませんぞ」
「あ、ありがとうございます……」
モモンガはやはり恥ずかしくなってありがとうございます、ありがとうございますと、赤面したままぺこぺこと頭を下げ続ける。そうして何だかこの空気にいたたまれなくなって、彼は逃げる様に自室へ引っ込んでいった。その際も、拍手は止むことがなかった。
高貴なる身分と推定できる新人冒険者のモモン。
その美貌、立ち振る舞い、そして身分を偽るミステリアスさ。この一幕は、翌日から実しやかな噂となって王国中の上流階級に知れ渡ることとなる。
「あの女、モモンといったか……必ずこの報いは受けさせてやる。このフィリップに恥をかかせたこと、絶対に後悔させてやるぞ」
黄金の輝き亭の外につまみだされたフィリップは、怨嗟に身を震わせて拳を握り込んだ。その目には悔しさと羞恥と怒りで、涙さえ滲ませていた。
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6.出勤
「モモン様、ご利用ありがとうございました!」
──……朝。黄金の輝き亭。
チェックアウトを済ませたモモンガに対する受付嬢の対応は、朝だというのに無駄に溌剌としていた。笑顔が太陽の様に眩しい。なんというか、訪れた時より声と視線に熱が篭っている様な気もする。
ちら、とモモンガが辺りにいる別の受付嬢を見やると、彼女らの背筋も必要以上に伸びた。
どうやら昨夜の一件が効いているようだ。
セクハラ男を撃退する女性は、いつの世も女性にとってのヒーローということらしい。そのヒーローの容姿が端麗なら、憧れも尚更だろう。受付嬢達がモモンガへ送る視線は、女子校の生徒達が校内の王子様系女子に対して送るようなあれだ。
しかし今女性にモテたところでモモンガのモモンガは消失しているし、何より彼はこのアルベドの体を穢すようなこともしたくない。モモンガは受付嬢達の熱烈な視線を背中に浴びながら、なんだかなぁという思いに駆られながら黄金の輝き亭を出た。
「……さて、いい依頼が入ってればいいな」
一つ伸びをして、首を鳴らす。
昨日が入社式であれば、今日が初出勤日だ。
正すネクタイも襟もないが、ちゃり、と冒険者プレートを指で弾き、モモンガは空を仰いだ。朝日を受けた漆黒の鎧が、鈍い光を照り返している。
冒険者組合所の扉を開く。
昨日の話題の中心となった女戦士の登場に、屯していた冒険者達の視線が一斉にモモンガの下へ集まった。第三位階魔法を扱える謎の戦士ともなれば、その注目度は言わずもがなだ。
「……」
モモンガはその視線の一切を相手とることなく、依頼が張り出されている掲示板へと進んでいく。ザッと目を通してみるが、日本語でも英語でもない異界語の張り紙など、モモンガに内容が分かるわけもない。
しばらく腕を組んで悩むフリをして、モモンガは何も取ることなく受付へ進んでいく。受付には昨日対応してくれたイシュペンが座っていた。彼女はモモンガの姿を認めると僅かに硬直したが、直ぐに元の表情へと変わった。
「おはようございます。依頼を受けたいのですが、今あるものはあの掲示板のもので全てでしょうか?」
「全てというわけではありませんが、あちらにあるのが今日、今からでも受けられる依頼です」
「……そうですか。なら
「かしこまりました。少々お待ちください」
イシュペンは頭を下げて、手元の書類をいくつか調べ始めた。
待っている間手持ち無沙汰になったモモンガは、どこかでこの世界の文字を学ばなくては──と、思案したところで。
「もしよろしければ、私達の仕事を手伝いませんか?」
横から、声を掛けられた。
「え?」
そちらを見やると、四人組の冒険者チームがモモンガのことを見ていた。青年が二人。髭を蓄えた大男が一人。それから
「よければお話だけでもどうですか?」
リーダーらしい金髪碧眼の青年が、そう尋ねてくる。謙虚で爽やかな物腰がモモンガには好印象だった。
「是非、お聞かせください」
「ありがとうございます。組合の二階に席がありますので、そちらで腰を落ち着けて説明しますね」
モモンガがイシュペンを見やると、彼女は承知と言わんばかりに頷いた。
モモンガは四人に連れられ、二階席でまずは自己紹介を受けていた。
四人組のチーム名を『漆黒の剣』というらしい。
好青年の印象を与えるリーダーのペテル・モーク。調子の軽いレンジャーのルクルット・ボルブ。大きいドワーフという印象を抱かせる
そしてペテルから『チームの頭脳』『
(常に経験値獲得二倍キャンペーンって何それすごい)
ンフィーレアのタレントも勿論破格の性能だが、単純に魔法詠唱者として生きるならこれ以上ないタレントだろう。モモンガは単純にニニャの持つタレントの凄まじさに驚いた。
……そして『漆黒の剣』の視線はやがてモモンガの下へ集まった。次は自分の番、ということだ。
「……改めまして、私はモモンと申します。先日この地に流れ着いたばかりの流浪の戦士です。それで、私に手伝って欲しい仕事とは何なのでしょうか」
「よろしくお願いしますモモンさん。それで仕事というのはですね──」
代表してリーダーのペテルが説明をしてくれた。
何でも別に組合から依頼された仕事というわけではなく、エ・ランテル周辺のモンスターを狩るのが目的らしい。組合が仕留めたモンスターに応じて報奨金を出してくれるので、今回はそれが狙いということだ。
クエスト受注ではなく、マップ上のモンスターを狩ってドロップアイテムで金策するようなものかとモモンガは納得した。しかしまあ冒険者らしいとは言えない稼ぎ方ではあるが──
「糊口を凌ぐ必要な仕事である!」
──と、ダイン。
「だけど俺達のメシの種にはなる。周囲の人間は危険が減る。損をする人間は誰もいないって寸法さ」
──と、ルクルット。
「そういうわけでここから南下した森の周囲を探索することになります。どうでしょう、私達に協力してもらえますか?」
締めるペテルの問いに、モモンガは快く頷いた。何より仕事の糸口がない彼にとってこれは渡りに船だ。銀級のプレートを下げる先輩冒険者の話も聞けることだし、断る理由がない。
「ええ、こちらこそよろしくお願いします」
モモンガの快諾に『漆黒の剣』は顔を合わせて喜色を表した。そしてモモンガはついでにと、一つ言葉を続ける。
「それなら……共に仕事を行うのですし、私の顔を見せておきましょう」
モモンガはそう言って、
彼は徒に顔を晒していくつもりは毛頭ないが、共に仕事をこなした『漆黒の剣』に『モモンの中身は人間の女性』だと触れ回ってもらえれば、この街の人間に異形種の容疑を掛けられるリスクも減るだろう。彼らに素顔を見せるのは、そういった狙いからだ。
「……ふぅ」
頭鎧を脱いで一息つくモモンガの素顔を見た『漆黒の剣』の面々は、見るからに凍りついた。時が止まったといえばいいのか。
正直彼らはモモンの素顔について、期待の様なものはしていなかった。綺麗な女声だとは思っていたが、重装備の女戦士といえば『蒼の薔薇』のガガーランを筆頭に、男性ホルモン溢れる雄々しい容姿と相場は決まっているのだ。巨大なカイトシールドとグレートソードを背に差す女戦士ともなればその例の極地だろう。
中身はどうせ、岩の様な顔だろう……そう思っていた。
しかし晒されたモモンの素顔は『美』そのものと言ってよいものだった。粗野な冒険者組合ではなく宮殿の深窓に在るべき容姿であり、その身は重鎧でなくコルセットとドレスに包まれているべき儚さだ。
溢れるような睫毛に影を落とされた翡翠の双眸が『漆黒の剣』を見渡すと、彼らは一様に身を固くした。
ダインの糸目が見開かれ、ニニャとペテルが赤面し──そしてルクルットが勢いよく立ち上がった。
「俺と結婚を前提にお付き合いしてください!」
直角に腰を折り、ルクルットはモモンガに手を差し向ける。『漆黒の剣』の残された三人は、ルクルットの奇行にポカンと口を開けていた。
……暫しの静寂。
モモンガは咳払いを一つすると、抱えていた頭鎧を被り直した。
「……こういうことですので、普段は鎧で姿を隠してるんです。いらないトラブルに巻き込まれることが多いので」
「な、なるほど……」
下げられたルクルットの後頭部を指差しながら言うモモンガの言葉に、彼らは酷く納得した。これだけ分かりやすいサンプルを目の前で見せられたのだ。
『私美人すぎるので素顔隠してます』なんて台詞、どう捉えても鼻にかかるものだが、正直あれだけのものを見せられて納得いかない者はいないだろう。何よりモモンガの言葉の端々には謙虚さが見受けられ、驕りの様なものは一切感じられない。この容姿だけで国を傾かせられることすらあり得るというのは、今見た彼らにとっても想像に難くなかった。
「し、しかし驚きました。まさかこんな見事な鎧の戦士が、こんなにお綺麗な人だったとは……」
「驚きである!」
ペテルとダインに賛辞されるモモンガは、鎧の中で決して悪くない気分で笑んだ。
この体は仲間が心血を注いで創り出した至高の造形なのだ。綺麗なのは当たり前。しかしアインズ・ウール・ゴウンの一端を褒められるのは決して悪い気分にはならない。しかし彼はそんな態度をおくびにも出さなかった。容姿に自信をもつ人間が鼻持ちならないことを、凡人の鈴木悟はよく知っているからだ。
「……モモンさんは、もしかして貴族の方なのでしょうか」
そう聞いたのはニニャだ。
なんというか、言葉の裏に何か棘の様な、小さくささくれだったものがあるように感じるのは気のせいだろうか。
モモンガが首を振って違いますと否定すると、先程まで感じた剣呑とした気配がニニャから霧散したように思えた。
「すみません。ニニャは事情があって貴族が嫌いなんですよ」
「いえいえ。私もこの国の貴族と言えば……あまり良い印象は持っておりませんから」
思い出されるのはフィリップの顔だ。
絵に描いたような馬鹿貴族の愚かさが脳裏に蘇り、モモンガは内心げんなりする思いだった。貴族全員がそうだとは限らないだろうが、仮にリ・エスティーゼ王国の貴族がフィリップだらけだったらガゼフも相当苦労するだろうと、彼は同情せずにはいられない。
そしてモモンガの言葉を受け取ったニニャはやはり、表情が明るくなった様な気がする。貴族です、もしくは貴族が好きですと言ったルートを選ばなくて良かったと、モモンガは内心で胸を撫で下ろした。
──それから顔合わせと雑談もそこそこに、モモンガと『漆黒の剣』は出発の為に席を立った。
お互い用意はできている。となればいつまでも話しているのは時間の無駄だ。歩合制の仕事なら尚更時間を浪費するべきではないだろう。ちなみに直角の姿勢のままずっと返事を待っていたルクルットを置いていこうとしたら突っ込まれた。
モモンガは階段を降りながら異世界初の仕事に思いを馳せ、少しだけワクワクしていた。仮ではあるがパーティを組み、モンスター討伐に出掛けるなんてちょっと冒険者っぽいことをしてるじゃないかとテンションが浮ついてるのだ。
(ようやく冒険者としての初仕事かぁ。ペテルさん達はゴブリンやオーガ狙いらしいけど、運よくドラゴンと鉢合わせたりできないものかな……いやいや、小さなことからコツコツと!)
金は必要だが、そうは言っても急ぐ旅でもない。女性一人分の腹を満たせる食費さえ稼げれば今はそれでいいのだ。無理にアダマンタイト級を目指す必要もなし。モモンガの必要な金銭を思えば
「モモンさん」
小さな握り拳を作って『がんばるぞい!』していたモモンガに、思い掛けず声が掛かる。イシュペンが、受付から出てきて彼を訪ねてきたのだ。何事かと思えば──
「ご指名の依頼が入っております」
──まさかの指名依頼。
モモンガはペテルと顔を見合わせた後、イシュペンに向き直った。
「指名の依頼? どなたからでしょうか」
「ンフィーレア・バレアレさんです」
依頼者の名に『漆黒の剣』が騒ついた。
ンフィーレアはエ・ランテルでは相当に名の通った薬師であるとエンリが言っていたからそういう反応なのだろう。まあ、あれだけのタレントを持っているなら当然か。
「どうも」
イシュペンの影から出てきた少年は、やはり昨日バレアレ薬品店で見た少年と同じだった。
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7.疑問
漆黒の剣とンフィー合流は原作と展開が変わらないので駆け足で展開させていただいてます
「では私はンフィーレアさんの依頼を受け、手が足りないので『漆黒の剣』の皆さまを雇い、警護の任務に同行願う……ということでよろしいですね」
取り纏まった話を『漆黒の剣』とンフィーレアに確認すると、彼らは深く頷いた。
ンフィーレアからの指名依頼は、カルネ村近くの森にある薬草採取の警護というものだった。なぜ新人冒険者のモモンを指名したのかというと、昨日店で見たモモンの姿を見てこの人であればということで指名したということらしい。まあ
しかしモモンガは個としては最強であっても、弱者を警護するという繊細な場面に於いては聊か不安が残る。ということで
今回の依頼を達成しても結局モモンガの取り分は全くないが、銀級冒険者の仕事ぶりを見たり、話を聞けたりするのでそれほどメリットがないわけではない。彼には目先の小銭よりも投資先を考えられる程度の余裕はあるのだ。先に依頼をしてくれた『漆黒の剣』を蔑ろにするわけでもないし、モモンガは我ながら妙案だと自画自賛した。
そうして『漆黒の剣』とモモンガ、そこにンフィーレアを交えた一団は、正午の鐘がなる前にさっさとエ・ランテルから旅立っていく。一先ず目指すのはカルネ村だ。
──モモンガ達がエ・ランテルを出立して数刻後。
冒険者組合長のプルトン・アインザックは、執務室で雑務を片づけながらある人物の来訪を待っていた。机に並ぶ書類の束は厚く、それだけで彼の仕事量が察せられるようだった。
しかしここで消化できる仕事など、彼の業務の一端に過ぎない。アインザックは冒険者組合の長として多忙な日々を送っていた。
(……謎の女戦士、モモンか)
そんな彼が……というよりも、エ・ランテルの冒険者組合に連なる人間であれば気になるトピックが一つある。
それは、昨日
アインザックはモモンの姿をまだその目で確かめていない。昨日も今日も、奇しくも組合をモモンと入れ替わる様にして訪れてしまっているからだ。自分とモモンの間の悪さに舌打ちしたい感情を覚えながら、彼は羽根ペンを机に転がした。
(今モモンと一緒に行動しているのは『漆黒の剣』……彼らほど慣らしている冒険者であれば、モモンが『本物』か『贋作』かの見分けはつくだろう)
正直アインザックにとってもモモンのカタログスペックは俄には信じ難い。何十年と数多の冒険者の隆盛をその目で見てきた彼が信じ難いというのだ。それが如何程のことなのかは、想像に難くない。
「エ・ランテルに生まれる新たな英雄か、それとも見てくれだけのペテン師か……」
グレートソードを片手で振り回せる魔法詠唱者。若しくは第三位階魔法を行使できる重戦士。どちらでも構わないが、仮に本当にそうだとしたら、近い将来ここエ・ランテルで新たなアダマンタイト級冒険者の誕生を目の当たりにできるかもしれない。
どちらにせよ『漆黒の剣』の報告待ちだ。
これだけ注目度が高い話題であれば、何もせずとも彼らの話は噂となって耳に入ってくるだろう。モモンがハリボテか本物かが気になっているのはアインザックだけではない。帰還した『漆黒の剣』を根掘り葉掘り聞きたい人間は数多くいる。
「ふー……」
アインザックが思考を止め、再び羽根ペンを取ろうとしたところで、執務室のドアをノックする者が現れた。恐らく予想通りの人物だろう。壁に掛かった時計を見やれば、予定時刻五分前だ。
「やぁアインザック」
「久しぶりだなラケシル。元気そうで何よりだ」
執務室に入ってきた人物と顔を合わせると、彼らは互いに相好を崩した。
訪れたのはエ・ランテルの魔術師組合長を務めるテオ・ラケシルだった。筋肉質なアインザックと違い、ローブに身を包む彼の線は細い。
アインザックとラケシルは元冒険者チームの仲間という旧来の友人でありながら、違う畑の組合長を務めているという今なお切磋琢磨できる仲だ。
彼らはガッチリと握手を交わすと、来客用のテーブルに向かい合って着いた。組合の長として、かつて命を預けあった仲間として、そして気が置けない親友として、アインザックとラケシルは微笑みを交わした。
紅茶を出されたラケシルは、部屋の有り様を見ながら細く息を吐いた。
「相変わらず忙しそうだな」
「まあな。しかし多忙さで言えば魔術師組合も変わらないだろう」
「ああ、こっちはこっちで色々と面倒なこともあるからな」
「その老けた顔を見ればある程度は察することができるよ。それで火急の相談ということらしいが、どうしたんだ」
「久しぶりだというのに早速本題とは、アインザックらしいな」
ラケシルは苦笑を交え、出されたカップに口をつけた。紅茶の豊かな香りが、男臭い彼らの間にそよぐ。対するアインザックも笑いながら、肩をすくめた。
「あの机の上の紙の束を見てみろ。私だって雑談に花を咲かせたいところだ」
「ああそうだろうとも。すまないな。時は金なりと言ったものだからな。……だが本題に移る前に、一つ聞きたいことがあるんだ」
「なんだラケシル。言っておくが、珍しいマジックアイテムは入ってきてないぞ」
「ああ、いやそれは……まあ普通に残念だが、今はそれはいい。私が聞きたいのは、昨日ここで冒険者になったというモモンという女性についてだ」
冒険者モモン。
魔術師組合長のラケシルにまでその名が及んでいたことに、アインザックは目を丸くした。
「おいおい、お前もかラケシル」
「お前も?」
「組合は今やその冒険者モモンの話題で持ちきりだ。漆黒の
「なに?
「モモンの言葉通りならな。実力はまだ計りかねてるが……なんだラケシル、逆に知らなかったのか? 彼女の名を口に出してきた時点で知っているものだと思っていたぞ」
アインザックの疑問は当然だ。
逆にそれを知らないのになぜモモンの名を知っているんだと聞きたい。その質問を解消するように、ラケシルは彼の知るモモンのことについて語り出した。
「実は昨夜、組合の関係でちょっとした接待もあって黄金の輝き亭で食事をしていたんだ」
「はあ、羽振りのいいことだな。最後にあそこで食事したのはいつだったか……。で? その黄金の輝き亭とモモンがどう関係するというんだ?」
「いたんだよ。そのモモン殿が」
「なんだって……?」
アインザックの眉が思わず形を変える。
黄金の輝き亭は一介の銅級冒険者が行ける程敷居の低い場所ではない。意外な結びつきに、彼の疑問が膨れ上がる。
「なぜ彼女が黄金の輝き亭に?」
「まあ待て。逆に聞くが、アインザックはモモン殿についてどこまで知っている」
「どこまでって……さっき言ったことが全てだ。英雄然とした鎧を纏った女戦士だとしか……」
「なら、鎧の中身は知っていないのだな」
「そうか……レストランで見たということは、ラケシルはモモンの鎧の中身を知っているのか。どんな容姿をしていたんだ?」
モモンの素顔は確かに気になるところではある。冒険者組合の連中も、兜に覆われたモモンの素顔は誰も見ていない。山男のような風貌という噂が主流だが、アインザックは真実を知る旧友の口からその評価を聞きたい。
対するラケシルは、一言こう零す。
「……すごいぞ、彼女は」
何か、しみじみとした物言いだった。
漠然とすごいと言われても、何を形容してすごいと言ったのかがアインザックには分からない。それほど筋肉が発達した見た目なのだろうか。はたまた鬼の様に鬼気迫る形相をしているのか。
アインザックはやきもきしながら次の言葉を促した。
「ラケシル、すごいだけじゃ伝わらないぞ。何がすごかったんだって?」
「存在そのものがだよ。あそこにいた全ての者が、彼女の存在感に圧倒されていたと言っても過言ではない」
「ああ、クソ。要領を得ないな。もっと具体的な言葉をくれ」
ラケシルも勿体ぶるつもりはない。
モモンという存在をどう表現しようか、彼も決めあぐねているのだ。どう取り繕った言葉を並べても、彼が見たモモンの存在の輝きには及ばないと分かっているからだ。
ラケシルは紅茶で舌を湿らせると、率直な感想をアインザックに伝えることにした。
「──美しいんだよ。とにかく容姿がとびきり優れている。想像できるか? あの黄金の輝き亭で食事を摂っていた全員が、顎を外して彼女の美貌に目を奪われていたんだ」
そっちか──と、アインザックは予想外の回答に目を丸くした。それは予想していなかった。
巨大な武器を振り回し、高位な魔法を扱えて、見目も麗しい英雄然とした格好の美女。いくら何でも、出来の悪い創作英雄譚の登場人物だ。
……だが、前例はある。
かのアダマンタイト級冒険者チーム『蒼の薔薇』のリーダー、ラキュースは第五位階に位置する蘇生魔法を行使できる神官戦士。貴族たるアインドラ家の貴い血を引き、その身分に違わぬ美しい容姿を持っている。
天が二物も三物も与えたような存在だ。齢十九にして英雄級の実力を持つ彼女は、ゆくゆくは人類史に名を刻む程の大英雄になることだろう。
話は戻るが、ラキュースという前例がある以上、美しすぎる戦士の存在というのは否定できない。
しかし美醜観念というのは個々の趣味によって大きく差異が出るというもの。Aにとっての美女がBにとっても美女とは限らない。
(だが、目の肥えた黄金の輝き亭の人間全員が驚愕するほどの美貌か……)
どれほどの容姿なのだと、アインザックの男としての知的好奇心が騒ぐ。彼は少し前のめりになって、ラケシルに質問を投げた。
「モモンの見た目について詳しく聞きたい」
「輝くような黒髪と、絹のような白肌の淑やかな女性だ。年齢は二十代中頃だろう。こんな歯の浮くような台詞を言いたくはないのだが、モモン殿の容姿を端的に表すなら女神か天使という言葉が必ず出てくるだろうな」
「……女神ねぇ」
「おいおいアインザックそんな目で見ないでくれ。百聞は一見にしかずだ。君も彼女を見れば必ず納得するだろう」
「それほどの美貌か」
「それほどの美貌だ」
きっぱりと言い放つラケシルを前にしては反論の余地もない。アインザックはモモンをラナー、ラキュースと同程度の容姿ということで想定した。実際には更にその上をいく人外の美なのだが、それを想定しろと言う方が酷だ。
ラケシルはあの時自分が目にした光景を蘇らせるように、目を細くした。
「容姿もそうだが更に驚くべきは、モモン殿から溢れる気品だ。言葉遣いも物腰も柔らかで、所作の一つ一つに淑女としての立ち振る舞いが感ぜられるんだよ」
「……つまり平民ではないと?」
「あの場にいた者でモモン殿を平民と思った者がいたなら、それは間違いなく大馬鹿だ。彼女が着用していたドレスも、王族ですら袖を通すのを躊躇われるほどに価値のあるものだと推測できたからな」
「なんと……」
ラケシルの口から飛び出てくる言葉はアインザックの想定を遥かに超えるものばかりだ。しかし友の表情や口ぶりからは、ふざけている気配は一切感じられない。
極めつけに語られるのは、フィリップとの一悶着のエピソードだ。愚かな貴族を相手どり、小揺るぎもせず、フィリップのことを小汚い下郎と吐き捨てたモモンの勇ましくも気高い姿を、ラケシルは身振り手振りでアインザックに語った。
語り終える頃にはすっかり紅茶は冷めていたが、アインザックにとってはそれどころではない。
「すごいな……全てがラケシルの作り話じゃないかと疑ってしまうほどだ」
「ああ。私もあの光景やモモン殿の見目が、己が作り出した幻覚じゃないかと今でも思えてくるよ。しかしそんな彼女が自分は昨日冒険者になったばかりの平民だと言ったことが、一番耳を疑ったがね」
「話を聞く限り疑って当然だ。しかし末端とはいえ仮にも貴族を下郎呼びできるとは……どれだけの身分の人間なら言えるのだろうな」
アインザックが零した言葉に、ラケシルは大きく頷いた。
「そこなんだよアインザック。私はモモン殿は貴族……もしくは王家に連なる人間だと睨んでいる。周辺国家に彼女がいれば必ず知れ渡っているだろうから、我々の知らない遥か遠方の国の貴婦人の可能性が高い。少なくとも、普通に生きていれば冒険者になる必要など全くない地位の人間であるのは確かだろう」
「王族、か。ラケシルの話が全て本当なら十分にあり得るか……モモンの纏う漆黒の鎧や武装も、一国の王家の財をもってすれば工面できる……。彼女の装備を王国五宝物に匹敵すると睨んでいる冒険者も中にはいたからな」
「アインザック、モモン殿の動向は注視しておくべきだ。彼女は只者ではない。少なくとも私には断言できる」
ラケシルの目は真剣そのものだ。
長年冒険者として、そして魔術師組合の長として鍛えられた彼の目に狂いはないだろうし、アインザックも彼の目を信頼している。
だからこそアインザックは額を抑えた。
そんな尊い身分の女性が、なぜ単身でここに冒険者登録をしにきたのか。
「モモン……殿、が、王女だと仮定すると……冒険者になったのは自らの身分を偽る為……? 何かから逃げたり隠れたりしてエ・ランテルへ流れてきたと想定するなら、亡国の王女と仮定するのが自然か……確かに一国の王女が冒険者になるというのは想像しにくい。新たな身分証明も発行できるし、正体を隠すにはうってつけだ。なるほど確かに理に適っている……」
「
「彼女が噂通りの使い手なら、身分と姿を隠しながら路銀を稼ぐには冒険者という職業が一番効率よいだろうからな。しかし黄金の輝き亭で食事を摂っているあたり、金銭面には苦労してはなさそうな気はするが……」
「ああ。冒険者になったことに関して金銭的理由は全く絡んでないと見ていい。モモン殿が値段も聞かずに黄金の輝き亭のロイヤルスイートを宿泊当日に押さえている現場を見た者が多数いるからな」
「値も聞かず、予約もなしにか……! そ、それはすごい……」
組合長の二人でさえ、黄金の輝き亭に一人で泊まるというのは二の足三の足を踏むどころではない。何か特別な記念日に特別な人とでもなければ、無理なことだ。
(……これは、決まりだな)
アインザックは顎をさすりながら、重たい溜息を吐いた。
冒険者モモンは何処かの国の尊い身分の貴婦人で確定。男爵家の人間を袖にできるということから、最低でも大貴族か、やはり王族というのが太い線だろう。そして超一級の装備で身を固められたり、黄金の輝き亭のロイヤルスイートにぽんと金を出せることから、莫大な財力も有していることも推測できる。
謎が謎を呼ぶ、全てがベールに包まれた麗人。
アインザックとラケシルはこう思わざるを得ない。
彼女は一体何者なんだ、と。
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8.道中
「まさに圧巻であったな!」
夜空には満天の星が瞬いている。
モモンガ達の一団は野営の準備を終え、今は焚き火を囲みながら各々の手に夕餉が配られていた。粥の様な野営飯は明らかに質素なのだが、モモンガは椀の中で湯気を立てているそれに『これがキャンプ飯というやつか!』と、内心ちょっとテンションが上がっていた。
高級フレンチには高級フレンチの楽しみ方があるように、キャンプ時のカップラーメンもそれはそれで先のものにはない魅力がある。モモンガはそういった風情を楽しむだけの懐の広さが、食に対してはあった。
そして『漆黒の剣』の面々は先のダインの一声に一様に頷いた。圧巻である、というのはやはり道中で垣間見たモモンガの戦闘のことを指した言葉だろう。
「まさか盾を構えたモモンさんがオーガと真正面から衝突して、そのまま三体も一気に吹き飛ばすとは思ってもいませんでしたよ」
ニニャはそう言いながら、笑えばいいのかどうか分からなくなる。
接敵した時のあの光景は、彼らの目に焼きついて今も離れない。
モモンガがシールドチャージで一気にオーガを轢き殺したかと思えば、残るオーガを面白い様に次々と両断していったのだ。それから恐れ慄いて逃げ惑うモンスター達の背を焼き切る雷魔法の見事なこと。
はっきり言って『漆黒の剣』の出る幕など殆どなかった。
「モモンさんの実力は疑いようもありませんね」
「まさに一騎当千であるな!」
うんうんと頷く彼らに、ンフィーレアが控えめに問いかける。
「やっぱりモモンさんの強さは皆さんから見てもすごいんですね」
「モモンちゃんはすごいなんてものじゃねぇぞ。アダマンタイト級冒険者チームに個で匹敵してると俺は見てるね」
「剣技と魔法、例えどちらか片方でも王国随一である!」
「そ、そんなに……」
ンフィーレアは目を白黒させた。
アダマンタイト級冒険者チームといえば一国の危機を振り払えるほどの大英雄だ。そんな人物とこうして肩を並べられて旅をしていることが、彼は不思議でならない。
話題の中心になってしまっているモモンガは若干の居心地の悪さを感じていた。大絶賛されるばかりというのも立ち位置が難しいのだ。それに彼はなんといっても、話を早く片づけて夕餉にありつきたい。
「私の話はもういいじゃないですか。それよりせっかくの料理が冷めちゃいますし、早くいただきませんか?」
そう言いながら、逸るモモンガは兜を取った。
外気に晒された美しい顔は焚き火の灯りを受け、いつもより色香が増している様な気さえする。
「えっ……」
全く意識していない声が、モモンガの隣にいたンフィーレアの喉奥から湧いた。モモンガの素顔を見た彼のその反応に『漆黒の剣』は顔を見合わせて苦笑した。
「なるほど、バレアレ氏はモモン氏の顔を見るのは初めてであるな!」
「驚いちゃいますよね……あの鎧からこんな綺麗な人が出てきたら」
「くぅ〜っ、モモンちゃんが可愛いすぎて今日の疲れも吹き飛ぶってもんだな!」
どうよ、うちのモモンちゃんは! とルクルットに肩を小突かれたンフィーレアは惚けたような顔で生返事した。
「え、ええ……ほ、本当に、こんなに綺麗な人だったなんて……驚きました……」
思わずドギマギとした反応をしてしまう。
ンフィーレアが女性慣れしていないのもあるが、これだけの美貌を見せられてうら若い男が緊張しないことのほうがもはや不自然だ。
ンフィーレアはエンリに恋しているが、もし今モモンガのあの女体にしなだれかかられて耳元で愛を囁かれたら、一途な彼とてどうなるかは定かではない。それほど神秘的で魔性的な引力が、モモンガにはある。
ンフィーレアは赤いポーションの秘密を探る為にモモンガに指名依頼をし、近づいた。しかしそんなことを忘れてしまうほど、モモンガに関わると次々と驚きに満ちた大波が彼を食らっていく。
これほどの容姿で、あれほどの力を持っていて、真なる癒しのポーションを携帯している可能性がある人物。ンフィーレアはそんな人物をこそこそと嗅ぎ回っている事実に、じわりじわりと途方もない罪悪感を感じ始めていた。
(僕はもしかしてとんでもない人に対してとんでもない無礼を働いているんじゃないだろうか……)
ンフィーレアは大英雄……または一国の主に粗相を働いている様な危機感さえ抱えた。
明朝──空が白みはじめた頃、モモンガ率いる一団はカルネ村を目指して再び動きはじめた。
昨晩は食事のあと、焚火を囲みながら他愛のない会話に花を咲かせた。話題はもちろんモモンガに纏わることばかりだ。謎に包まれた彼の話になるのはごく自然な流れだろう。
モモンガは出自の全てを話したわけではないが、宵闇と食後の余韻もあってぽつりぽつりと自分の境遇を話した。
かつてモモンガが孤独で弱かった頃、純白の聖騎士に命を助けられたこと。そこから掛け替えのない仲間達と巡り逢い、驚きに満ちた大冒険をしていたこと。夢と希望と優しさに満ちた、黄金の日々を過ごしていたこと。
……そして、今はまた独りになってしまったこと。
そのあとにニニャがモモンガに掛けた言葉がいけなかった。
『いつの日かまたその方々達に匹敵する仲間ができますよ』
その言葉を掛けられた時、その場にいる誰もがモモンガの雰囲気の変容を察知した。握られた拳、奥歯が軋んで、翡翠の瞳には翳りがありありと見えた。
怒り、哀傷、無力感……様々な負の色で、あの美しい瞳が濁っていた。
『そんな日は来ませんよ』
ニニャを突き放つ様な怜悧な声音に、一同は黙すしかなかった。
匹敵する仲間など、匹敵するあの日々など、モモンガに来ようはずもない。アインズ・ウール・ゴウンは彼の全てなのだ。それに匹敵する仲間が現れるなど、安易にモモンガに投げ掛けてくれるな。
いつも慈愛に満ちた微笑みを浮かべているモモンガの不興を買った事実に、ニニャだけでなく他の面々も衝撃を受けた。温厚な人間の怒りを買うというのは、それほど温度差に驚くものだ。
言ってしまえばニニャは優しいモモンの数少ない決して触れてはならない場所を無遠慮に触ってしまったということ。それは、到底贖えるようなことではない。ニニャは、昨夜から鉛の様な罪悪感を腹の底に感じてしまっている。
そういうわけもあって彼らの今朝の足取りは重たい。口数も少なく、足音と馬車が揺れる音が嫌によく聞こえる。
(……俺が大人げなかったな)
しかし当のモモンガは別にもう怒っていても悲しんでもいなかった。
彼は子供じゃないし、ニニャの発言の意図が酌めないほど愚かでもない。むしろ仲間を失った自分のことを慮った悪意なき言葉だというのに、昨夜あれほどの激情を発露させた自身を恥じたいくらいだ。
先行くニニャの背中を見つめ、モモンガは目を細めた。
どこかで関係を修復しないとな──とモモンガが小さく息を吐いたとき、視界の先に小さくカルネ村が見えてきた。
「あれ……?」
馬車の手綱を引くンフィーレアが、小さく言葉を零す。それに気づいたペテルがどうしたんですかと聞くと、彼は村を囲むようにして拵えられた柵を指さして『前はあんなものなかったんです』と訝しむように答えた。
(へぇ……多少不格好だけど、立派なものじゃないか)
しかし殿をいくモモンガだけは、あの柵を知っている。カルネ村に起きた悲劇を知り、村の激動の一週間を共に過ごした彼だけは。
やらなければやられる。
そのことを魂に痛いほど刻み込まれたカルネ村は、まさに生まれ変わろうとしている。その変化の分かりやすい表れが、あの防衛柵なのだ。
村の中では村人が弓や剣の稽古をしているに違いない。彼らの窮地に必ず女神が現れるほど、この世界は優しくできていないのだから。
「ンフィー!」
モモンガを除く一団が訝しみながらカルネ村へと進んでいくと、丁度村の入り口辺りを歩いていたエンリが喜色を露わにして遠くから手を振った。ンフィーレアは少しはにかんで、小さく手を振り返している。
若い二人のその様子が何だかちょっと微笑ましくて、モモンガは兜の中で僅かに笑んだ。
「おいおい、隅におけねぇな少年!」
茶化す様なルクルットの声に、空気が和らいだ。
ンフィーレアは耳まで真っ赤にして、わたわたと手を振った。
「ル 、ルクルットさん! ぼ、僕とエンリはまだそういう関係では……!」
「『まだ』?」
「ぁっ……いや、それは、その……!」
初心な反応を見せる彼に、ルクルットはやはりにんまりとした笑みを見せる。
「そういうことかぁ……なるほどな。ぃよしきた! 女を落とすテクならお兄さんに任せな。ルクルット仕込みの妙義を伝授し──いでぇっ! 何すんだペテル!」
「妙なことを教えようとするんじゃない!」
鉄拳を脳天に落としたペテルとルクルットのやりとりはどうやらお馴染みの様だ。ダインとニニャは慣れた様子で笑っている。
その和気藹々とした雰囲気が嘗てのアインズ・ウール・ゴウンを想起させ、モモンガは少し羨ましく思った。あの温もりを思い出す様に鎧の上から腕を摩ったが、殿にいる彼のその仕草を見るものは誰もいない。
モモンガは僅かに拳を握りしめた。
村に入ったらまた色々と忙しくなるだろう。話しかけるなら、今しかない。
「『漆黒の剣』は賑やかでとても良いパーティですね」
「え……?」
ニニャが振り返る。
まさかモモンガから声を掛けられるとは思っていなかったらしい。
モモンガもまた、咳払いをしてニニャの意外そうな視線を受け止めた。
「私のかつての仲間達との空気を思い出させるような、素晴らしいパーティだと思います。ちょっとだけ羨ましいくらいですよ」
「モモンさん……」
「ニニャさん。昨夜は申し訳ありませんでした。私が感情的になってしまったばかりに……」
「そんな、謝らないでください! 謝るのはむしろ僕の方ですよ! モモンさんの過去に土足で踏み込むようなことをしてしまって……」
ニニャはそう言って、申し訳なさそうに目を伏せた。
傲慢な貴族の手によって姉を失った彼は、大切な人を失うことへの理解が人よりも深い。そんな罪悪感で小さくなっているニニャに、モモンガは朗らかにこう提案した。
「であるなら、双方悪かったということで今回のことはお互い水に流しませんか。私はもう全然気にしていないので、ニニャさんがよろしいのであればですが……」
モモンガの提案に、ニニャはぶんぶんと首を振った。返答はもちろん、決まっている。
「もちろんですよ……! あ、ありがとうございますモモンさん……」
「ではこれで晴れて仲直り、ですね」
その印にと差し出された手を、ニニャは迷うことなく握った。
固く交わされた握手を見ていたンフィーレアと『漆黒の剣』に、明るい雰囲気が帰ってくる。
「なぁなぁモモンちゃん。俺とも友好の印として握手しねぇ? よかったら素手がいいんだけ──いってぇ! 痛ぇよペテル!」
「お前は少しは自重しろ!」
「どさくさに紛れたセクハラ行為に鉄槌が下るのは当然であるな!」
モモンガとニニャは顔を突き合わせて噴き出すように笑った。本当に良いチームだと、モモンガはそう思わずにはいられない。
柵に囲まれたカルネ村に足を踏み入れる頃には、彼らのあいだにはすっかりと和やかな雰囲気が帰ってきていた。
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9.下賜
モモンガ、『漆黒の剣』、ンフィーレアがカルネ村に立ち入ると、余所者の気配に村人達は怪訝そうな顔をしていた。何せ辺境の村だ。余所者を見る目というのは厳しくもなる。しかしンフィーレアの顔を見るや、彼らは納得したように表情を緩めていた。こういう反応を見られる辺り、この村にとってンフィーレアはやはり馴染み深い存在のようだ。
しかしそんな村人達でも、
そんなカルネ村の様子を眺めながら、モモンガはようやく違和感に納得した。
(……ああ。そういえば俺、この姿をこの村の人間に見せたことなかったな)
余りにも誰も自分のことを触れてくれないので、正直忘れられてるかと彼は思ってしょんぼりしかけていた。
モモンガの漆黒の鎧は、カルネ村からエ・ランテルへ向かう道中に外装デザインを考えて編み出したものだ。悪魔の角や翼に対する隠蔽魔法は見せたことがあったが、そういえば鎧は誰にも見せたことがない。
(……ふむ)
モモンガは腕を組んだ。
私アルベドなんですけどぉ……と自白するのもなんだか躊躇われる。冒険者モモンとしてエ・ランテルで一稼ぎしてくるという旨は村に伝えてはいるものの、『漆黒の剣』の前でアルベドを名乗るのも呼ばれるのもやはり気まずい。この村の人間以外に自分が帝国偽装兵を討ったアルベドと認知されるのは得策ではないからだ。法国が今もアルベドの存在を睨んでいる可能性は少なくないし、モモン=アルベドと結びつくような情報はなるべく閉鎖しておきたい。
(カルネ村で先に鎧の姿を披露しておくべきだったか……?)
後で村長なりエンリなりにこっそり耳打ちして、自分のことをうっかり女神様だのアルベドだのと言わないように村人に周知してもらうのが最善手だろう。
──しかしそんな理知的な結論は、次の瞬間に立ち消えていく。視界の隅に、ネムを捉えたからだ。彼女は家屋の影に隠れるようにしてこちらを伺っていた。
(ふふ……)
ふつ、と湧き上がる悪戯心にモモンガは抗えない。彼と目があったネムは、小動物の様に家屋の影に引っ込んでいった。誰の目にも留まらないお誂え向きの場所にだ。モモンガは組んでいた腕を解くと、ネムのもとへ歩み寄った。
「そこの少女、立ち止まりなさい」
敢えて低くくぐもった声で、ネムを呼び止めた。さながら歌劇団の男役の様な声だ。
ネムはびく、と肩を跳ねさせて、恐る恐る振り返る。小さな娘からしたら漆黒の鎧は威圧的で怖い。そんな戦士がずんずんと自分に迫ってくるものだから、ネムは少し挙動不審に目を泳がせた。
ふふ、と兜の中でモモンガが笑む。
彼はネムの前で片膝を突いて目の高さを合わせた。
「初めましてお嬢さん」
「は、はじめまして……」
貫頭衣の裾をネムはぎゅっと握りしめていた。人見知りしない性格の彼女も、この時ばかりは緊張を得ていた。
「実は君がアルベドのことを知っていると聞いてね」
「ア、アルベド様……? あなたはアルベド様を知っているの……?」
「ふふ。彼女のことはよく知っているとも。アルベドのことは好きかい?」
「う、うん! 大好き! 優しくて、きれいで……すごくかっこいいんだよ!」
「……そうかい。なら、君に見せたいものがあるのだが」
「な、なに……?」
モモンガはにじり寄った。
当然、ネムは警戒の色を見せる。
モモンガは兜に手を掛け──
「……じゃーん!」
──そんな気の抜けた言葉と共に脱ぎ、顔を露にした。
「えっ……」
ネムは目をまんまるにして……固まった。
「……あ、あれ……?」
暫くの沈黙に、モモンガは少し焦った。
ネムが反応してくれない。
すべったか、もしくはネムに懐かれてるというのは彼の思い違いだったか……それとも自分のことなどとっくの昔に忘れてしまったのか。
……しかしそれはどれも該当しない。
「…………ぁ」
声と吐息の混じり合う音が、ネムの喉奥から漏れた。それは彼女の凍結された思考回路が再び動き出す起動音に他ならない。
怖いと思っていた物騒な人間が、アルベドだった。大好きな大好きな、アルベドだった。それは何の変哲もない辺境の農村で暮らすネムにとって、これ以上ないサプライズだった。
姉と自分と村を救ってくれたヒーロー。
自分を撫でてくれる、優しくて柔らかいとっても綺麗な女神様。
「……ネムさーん……? あの……ほら、私。アルベド……」
そんな女神は、自分のサプライズ登場がただ滑りしてる事態に滝汗を流している……ということをネムは知らない。
……そしてようやくネムの理解が追いついた頃、彼女はようやく大輪の向日葵を咲かせてモモンガの胸に飛び込んだ。
モモンガがこの後めちゃくちゃ安堵したのは言うまでもないだろう。
「なんだか外が騒がしいね」
エンリの家に招かれたンフィーレアが窓の方を眺めてそう零した。ちなみに二人の時間を設けられたのは『漆黒の剣』の計らいだ。ルクルットのしてやったぜと歯を光らせる顔が容易に思い浮かぶ。
「ネムの声みたいだけど、何かあったのかな」
エンリも不思議そうに小首を傾げている。
そんな彼女の目の端には涙の跡があった。お互いの近況を話すのに、カルネ村の惨劇を話すことは避けて通れない。両親を惨殺されたエンリは涙ながらに自分と、この村の現状をンフィーレアに話していた。みんな気丈に振舞っていること。子供達が我儘を言わなくなったこと。欠けた村人の仕事が嵩張っていること。村人達が進んで戦う術を身に着け始めていること。
……それから、カルネ村を救った謎の名もなき流浪戦士の話。
アルベドについての話はカルネ村から流出させるべきではない。それは村長とモモンガと話を擦り合わせた結果であり村の総意だ。エンリは名前や容姿についてある程度ぼやかしながら、ンフィーレアに事の顛末を話した。
ンフィーレアはまだその戦士がモモンガだということに結びつけられないでいた。
──卓上に見えた、
「エンリ! こ、こここ、これは!?」
ンフィーレアは喉が干上がる感覚を覚えながら、机に取りついた。
巧緻な意匠が行き渡った薬瓶の中に、赤い液体が入っている。それが三本、並べられていた。
「ああこれ? 村を救ってくださった方からいただいたの。怪我をしたら飲みなさいって。ポーションらしいんだけど、すごく不思議な色をしているよね」
「み、み、見てもいいかい!?」
「ンフィー……いいけど、目が血走ってて怖いよ……」
ンフィーレアは震える手で、赤いポーションを手に取った。
中の液体がさらりと揺れて、独特な波紋を打っている。
(こ、これは……)
吐息さえ震えてしまう。
間違いない。
これこそ真なる癒しのポーション──神の血だと、ンフィーレアは直感した。王国でも随一と自負する自分や祖母のリイジーでも製造が叶うことがない、究極にして至高のポーション。リイジーをして御伽噺の代物と言われたものの現物が、今彼の手の中にある。
「ふわぁ……」
ごくりと、ンフィーレアの喉が鳴る。
分かるものが見れば、これ一本の為に戦争を起こしても納得できるほどのアイテムだ。
欲しい、と単純に思う。
喉から手が出るほどに欲しいと。
しかし彼の頭の中にはこれと金銭は結びついてはいない。
あるのはどうすればこの神の血を生み出せるのかという貪欲ともいえる知識欲のみ。これを再現することこそ、錬金術の深淵を覗くことに等しいと、彼は異常な興奮を覚えた。
三本あるうちの一本をくすねることもできる。
エンリに強請り、一本譲ってもらうこともできる。リイジーなら或いは、エンリを傷つけてまで強奪しようとするかもしれない。
……だが、ンフィーレアはそんなことはしない。
そんなことはできない。
『こんなもの』の為に、愛する女性を守ってくれた人に対して不義理を働くなど、彼の良心が決して許さない。あるのは、途方もない感謝と敬愛と、畏敬のみだ。カルネ村を……否、エンリを救ってくれた戦士がモモンガだと結びついたンフィーレアはいてもたってもいられなくなった。
感謝を直接伝えたい。
その気持ちだけが、ンフィーレアの体を突き動かす。
「……ごめんエンリ、これちょっとだけ借りるね」
「ンフィー!?」
ンフィーレアはいてもたってもいられなくなり、エンリの家を飛び出した。
血相を変えて飛び出した彼に『漆黒の剣』が目を丸くした。
「モモンさんは!?」
「モモンさん?」
「さっきあっちで子供と遊んでましたよ」
「ありがとうございます!」
ペテルが指さした方へ走っていくと、モモンガがネムを肩車しているのが見えた。仲睦まじい姿は、まるで親子のようにさえ見える。
「モモンさん!」
声量を誤ったンフィーレアに、モモンガとネムは目を丸くした。
「どうしたのンフィー君……そんなに慌てて」
「あ、ああ。いやごめん大きな声出して……。ネムちゃんごめん、モモンさんとお話があるから少しだけ席を外してもらってもいいかな」
「えー……」
渋りそうなネムの気配を察知したモモンガが、優しく彼女を諭すと、ネムは渋々とその場を離れていった。名残惜しそうに手元を離れていく彼女に、モモンガの中の
「……ンフィーレアさん、それでお話とは?」
大人しいンフィーレアが息を切らしてやってきたというのが、火急の用件だと察知させてくれる。一体何事だろうと身構えていると、ンフィーレアは肩で息をしながら、握っているものをモモンガに差し出した。
「このポーションをエンリに渡したのはモモンさんですよね?」
「え?」
見れば、ンフィーレアの手には確かにモモンガがエンリに渡した
「この村を……エンリを救っていただき、本当にありがとうございました!」
「……エンリさんから聞いたのですか?」
アルベドとモモンが同一人物であることは伏せる様にと、村の人間には忠告してある。彼はエンリが友人のンフィーレアなら信頼できるからと口を割ったのかと思ったが、ぶんぶんと首を振られ、それは否定された。
「実は僕は、ある下心からモモンさんを指名依頼させてもらっていたんです」
「……下心? ……もしかして、これですか」
赤いポーションを指さすモモンガに、ンフィーレアはバツが悪そうに頷いた。
「はい……先日うちの店にモモンさんが来られた時、赤いポーションがないことを不思議そうにしていましたよね。これは僕の知る限り、再現性のない至高のポーションなんです」
「なるほど? つまりこれの情報を得る為に私に近づいてきたと……そしてこれがエンリさんの家にあったから、私がこの村に介入したことも推理できたというわけですね」
「仰る通りです。この村を……いいえ、エンリを助けてくれた恩人に対してこそこそ嗅ぎまわる様な真似をして、本当に申し訳ありませんでした……!」
ンフィーレアはそう言って、再び頭を下げる。深く沈む頭は真摯という他なく、モモンガは目の前の少年の潔さに好印象を抱いた。自ら下心を告白し、愛する人を救ってくれた感謝の意に従って行動する彼はよく人間ができている。故に彼のこの行為は、モモンガの好感と信用を買った。
「何を謝る必要があるんですか」
「え?」
「コネクションや新技術を得る為に依頼を発注するのはごく自然のことではないでしょうか。逆にそうやって本心を打ち明けてくれた貴方に、私は感心しているくらいですよ」
「モモンさん……」
「逆に質問なのですが、ンフィーレアさんはこれが手に入ったらどうしようと思っていたのですか?」
「え!? どう、といってもその先は……単なる知識欲の一環だったので、どうしようみたいなことは考えていなかったです……」
本当に何にも考えていませんでしたといった態度に、モモンガは苦笑した。何というか、見ていて可愛げがある。そんな頑張る若者に手を貸してやろうと思い至ったのは、単純な老婆心からだった。
「欲しいのならそれは差し上げますよ」
「え!?!?」
「ただしそのポーションの出所や、私がこの村を救ったものだということを黙秘してくれれば、という注釈はつきますが」
「いいんですか、そんなことで……こ、こんな価値あるものを……」
「正直有り余っているうちの一本なので平気です。私の手持ちで腐っておくより、貴方に泣いて喜ばれるほうがそのポーションも嬉しいはずですよ」
「す、すごい……モモンさん……貴女は本当に……」
モモンという存在のスケールの違いに、ンフィーレアの体が震える。
黄金よりも価値の高いポーションが有り余っているから一つくれてやるという豪胆さ。村を救ったことを敢えて隠そうとするその謙虚さ。そしてそれらが自分にとっては些事でしかないという様な、桁外れたスケール感。
輝く様な容姿と、それに劣らぬ内面性。そしてそれだけでなく、比類なき力をも持ち合わせているという奇跡。
この人は間違いなく神話の中に生きる英雄に匹敵する存在だと、ンフィーレアは思わずにはいられない。
「何度も釘を刺しておきますが、そのポーション周りで絶対に私の名を出さないと約束してください。それから……タダというのもンフィーレアさんの具合が悪いと思うので、何かあれば私に協力していただくことをお約束してもらえますか」
「も、もちろん! もちろんです! モモンさんのお役に立つことができるとは思えませんが、何でも……何でもします!」
「……なら契約は成ったということで」
モモンガはそう言ってンフィーレアの手にポーションを落とした。
その姿は女王陛下と宝を下賜される家来のようにさえ見え、ンフィーレアは震える手でポーションを戴いた。彼とリイジーにとって何にも勝る至宝に、震えが止まるのは少しの時を擁した。
本当はもう少し書いていたんですが、当社比でかなり長くなったので小分けします。
一章がアベレージ三千字くらいだったんですが、最近1.5倍くらいボリューム増えてきて悩みどころです。
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10.接触
「それではこれから森の中へ入っていきます。今日は皆さんがいるのでいつもより森の深部へいこうと思いますが、安全を最優先して行動するつもりです。皆さん準備はよろしいですね?」
ンフィーレアはそう言って各人の顔を見回した。
彼の背には、薬草採取用の大きな籠が背負われている。
『漆黒の剣』……それからモモンガは勿論だと言わんばかりに頷いた。
そう、ンフィーレアのエ・ランテルからカルネ村までの護衛は依頼内容の一端に過ぎない。むしろ本題はここからだ。モンスターの棲息するトブの大森林に足を踏み入れ、そこでしか自生していない薬草の採取が目的だ。
……とはいえある程度薬草がある場所はンフィーレアが知っているし、彼は冒険者を雇って何度も訪れたことがある為、そこまで気負う様な仕事でもない。高位冒険者でしか対応できないモンスターも中にはいるが、そこまでの深部まではいかない予定なので、出くわすこともそうないだろう。
「それでは出発であるな!」
一行を代表するように、ダインが意気揚々と言った。
「頼りにしていますよダインさん」
モモンガがそう言うと、ダインは力強いサムズアップでそれに応えた。
「勿論である!」
「なあモモンちゃん……俺も頼りにされたいなー、なんて思っているんだけど」
「勿論ルクルットさんも頼りにしていますよ。探知系をお任せする為に『漆黒の剣』に同行いただいているんですし」
「よっしゃ! モモンちゃんの頼りにしてる発言いただきました! つまり結婚を前提に──」
「お付き合いしません」
「たっはー! 恋の道は険しいものほどなんとやら!」
ルクルットは平常運転だ。
その後ろでペテルとニニャが額を押さえて溜息を吐いている。
そんな漫才的なやりとりもありつつ、一行は森へと足を踏み入れた。
──数刻の時が経った。
途中何度かゴブリンと出くわしたが、戦闘の結果がどうだったかというのは愚問だろう。薬草が群生している場所へは滞りなく到達し、採取の方も恙なく進行している。ンフィーレアの籠も既に八割強、薬草が入っている。彼曰く、今日は大漁らしい。敵の探知に優れているルクルットとニニャが周りを警戒し、ペテルとダインはンフィーレアの採取を手伝っている。最高戦力者のモモンガはいつでも戦闘に移行できるよう、待機の状態を取っていた。待機とは聞こえはいいが、つまり彼は敵がこなければやることがないプーということだ。
(……暇だな)
足場の悪い森の探索は普通疲れるものだろうが、アンデッドの特性が利いている為に一切疲労を感じていない。モモンガにはもしもの時の為に体を休めておいて欲しいというのが『漆黒の剣』の狙いだが、正直そんな気遣いは彼にとっては不要だ。
腕を組み、大木に背を預けて、モモンガは兜の中で欠伸を噛み殺している。
こんなとき、何か面白い事でも起こればよいのだが──
「誰だ!」
──願いは、意外とすぐに聞き届けられた。
ルクルットの鋭い声が、森を裂いた。
いつもの調子の良い声音ではない。予断を許さない硬さを帯びた声だった。
(モンスターか?)
モモンガもやや警戒した素振りを見せるが、その内心は呑気なものだった。
弓に矢を番るルクルットを見た『漆黒の剣』は先程までの温和な雰囲気を潜め、各々が武器を構えた。その一連の動作が、チームの目と耳であるルクルットへの信頼の厚さが窺える。
敵の気配。
モモンガは組んでいた腕を解き、グレートソードの柄に手を伸ばした。
「やべぇ。ここまで近づかれるまで気配を察知できなかった」
「僕の『
ルクルットとニニャが視線を交わらせる。
こちらを窺っている何者かは想像以上に近くにいるらしい。
互いに危険を予期し、彼らは全員に警戒を促した。二人の警戒網を突破できる強者とあれば、相当な難度のモンスターに違いない。
「……もしかして森の賢王ですか?」
モモンガは言いながら、グレートソードを緩く構えた。森の賢王とはこの周囲一帯を縄張りとする、数百年の時を生きる伝説の魔獣のことだ。白銀の毛皮と蛇の尾を持つと言われるが、見た者は誰も生きて帰ってこれないらしく、その見目の情報は定かではない。これはカルネ村にくる道中にモモンガが『漆黒の剣』から教わった知識だ。
ルクルットは潜めた声で、モモンガに返す。
「……いや、分からねぇ。分からねぇが、万が一そういう可能性もある。森の賢王は魔法も使えるって噂だぜ」
「そうですか……それは、楽しみですね」
伝説の魔獣をして楽しみだと言い張るモモンガの豪胆さに、ルクルットは小さくマジかよと零した。それは彼に限ったことではない。呆気に取られる『漆黒の剣』を尻目に、モモンガは期待に頬を緩ませた。ユグドラシルに存在しない魔獣なら是非とも拝んでみたいというのと、そんな大魔獣を撃退したとあらば冒険者組合でも高く評価されるだろうという思惑があるからだ。
腰を落とし、盾を構え、臨戦態勢を取るモモンガの隙のない威風にペテルは感嘆の息を漏らした。
「モモンさん……あなたは、なんという……」
「ペテルさん。万が一姿を現したのが森の賢王であったなら、ンフィーレアさんを連れて『漆黒の剣』全員で退却してください。森の賢王を相手取ることは厭わないですが、護衛対象を気にしながらの戦闘ではどうなるか分かりませんからね」
「……分かりました」
ペテルが他の面々に視線を配ると、彼らは承知したと言わんばかりに深く頷いた。悔しいが、自分達がモモンと一緒にいたとしても足手纏いになることが分かっているからだ。それにモモンなら森の賢王と対峙しても或いは……という信頼もある。
「モモンさん」
「なんでしょう、ンフィーレアさん」
「もし森の賢王が相手だった場合、殺すのは控えていただけますか?」
「……というと?」
「森の賢王がいなくなることで森のバランスが崩れた場合、カルネ村に危険が及ぶかもしれません。それはできる限り避けたいんです」
「……善処しましょう」
死闘の最中に相手の命を気遣う余裕など一切ない。ンフィーレアの提案に『漆黒の剣』は異を唱えようとしたが、モモンガの有無を言わさぬ気配に口を噤む。
モモンガはンフィーレアの提案を飲み込むと腰をグッと落とし、グレートソードを中段に構えた。睨むは未だ見ぬモンスターの気配。彼はよく通るソプラノの声を発した。
「そこで隠れている者! 姿を現しなさい!」
モモンガの声の後に、僅かに静寂の間が置かれる。
……反応はなし。ならばこちらから打ってでようかと、彼がペテルに目配せしようとしたそのとき──
「これは……」
──思いのほか小さな影が、彼らの前に現れた。
姿を現したのは、木の幹の様な肌をしている少女だった。頭部には深緑の植物のような髪が生えており、一見して一般的な人間とはかけ離れている姿をしている。彼女は恐る恐ると草葉の影から身を現すと、きょろりと目を動かしてモモンガ達を見回した。
「あのー……君達は、人間? だよね……?」
森精霊ドライアード。
彼女は小動物の様にびくびくとしながら、モモンガに声を掛けた。
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11.精霊
読んで字の如くを表したかのような彼女の容姿は、ふと目を離したすきに木の一部に溶け込んでしまいそうなほど、森の景色に融和したものだった。
どんぐりみたいな目をオドオドと泳がせながら、
そんな彼らの様子に、
「ち、ちょっと待って! あたしは別に、貴方達に危害を加えようとかそんなこと一切考えてないよ!?」
「どうだかな……森精霊は魔法も扱えるんだろ? 冒険者の俺らが異形種を警戒するのは当然だぜ?」
ルクルットはそう返して、矢の先の照準を森精霊に狙いつける。森精霊はぎょっとして、ぶんぶんと勢いよく顔と手を振った。
「い、いやいやいやいや! 見てよあたしを! そんな凶暴そうに見えるかい!? っていうか森精霊をモンスター扱いなんて少し無礼すぎやしないか君!?」
「職業柄、これは仕方ないことなのである!」
「弱そうな見た目で油断を誘って、森の賢王の前に差し出すつもりかもしれませんよ」
「冴えてますね、ニニャ。確かに森精霊がわざわざ人間の前に姿を表すのは、少し不自然ですからね」
「おいおいおい! ちょっと勝手に話を物騒な方向に進めるのはやめてくれないかい!?」
ぼんやりと話を見守っていたモモンガは助け舟を出してやることにした。異形種の彼はどちらかといえば森精霊側の人間だ。種族だけでめくじらを立てられている様を見るのはあまり面白くはない。
「待ってください」
モモンガは言いながら、『漆黒の剣』と森精霊の間に割って入る。彼は努めて冷静に、穏やかに、森精霊を庇うように言葉を紡ぐ。
「この
「モモンさん……」
モモンガにそう言われたなら、返す言葉もない。
『漆黒の剣』が武器を下ろしたのを確認して、モモンガは森精霊と視線の高さが合うように屈んで彼女に優しく言葉を掛けた。
「初めまして、私はモモンといいます。こちら冒険者チーム『漆黒の剣』の方々と薬師のンフィーレアさんです。貴女の名は?」
「あ、ありがとう! 私はピニスン・ポール・ペルリア。話がわかる人がいて助かったよー……」
ピニスンはホッと胸を撫で下ろした。モモンガは優しく言葉を続けた。
「それでピニスンさん。貴女は何か話があって私達に接触してきたのでは?」
「あ、そうそう! 実は前にここにきた七人組を探していてね……その人達があたしとの約束を果たしにきてくれたのかと思ったんだよ」
「前に来た七人組?」
「うん。若い人間が三人、大きい人が一人、年寄りの人間が一人、羽が生えた人が一人、ドワーフが一人。全部で七人の人達さ」
「なるほど。私達は六人組ですが、人数的には確かに見間違えそうですね」
ドワーフも年寄りもいないが、羽が生えた人なら確かにいるしな……と、モモンガが内心で誰にも言えない小ボケを挟んでる間に、ピニスンは僅かな期待を瞳に宿して彼らに質問した。
「あの七人組はものすっごい腕の立つ戦士達なんだ。君達、彼らの居場所を知ってないかい? 同じ人間でしょ?」
余所者のモモンガは当然知るべくもない。
『漆黒の剣』とンフィーレアも知らないようだった。
「ごめんなさい……その七人組のことは知らないのですが、どんな約束をしたんですか?」
「ああ……え、と……そうだな……」
途端、ピニスンの歯切れが悪くなる。
何かを渋る様な態度に『漆黒の剣』の気配が鋭さを帯び始めるが、モモンガはそれを手で制して彼女を優しく見守った。
ピニスンは僅かの間うんうんと唸りながら言葉を渋っていたが、やがて「まあ、いっか」とぽつぽつと事情を語り始めた。
「世界を滅ぼせる魔樹を倒してくれるという約束をしてくれたんだよ」
「世界を滅ぼせる、魔樹……?」
『漆黒の剣』が顔を見合わせる。
遠くから見ていたンフィーレアも、僅かに緊張を帯びたようだった。
「……『魔樹』ということは、植物系のモンスターであるか?」
「……うん、そうらしいね。名前は確か……ええと、なんだったっけ……ああ、そう! ザイトルクワエだ! ザイクロなんちゃらの一種だとかなんとか」
モモンガが皆を見渡し、「聞き覚えは?」と聞くが、全員渋い顔で顔を横へ振るのみだ。彼も『ユグドラシル』でその名を聞いたことはない。
……となれば、森の賢王と同じような現地産のモンスターということなのだろうと、モモンガは一先ず納得した。しかし気になるのはやはり──
「──世界を滅ぼせる、というのはどういうことなんですか? それほど強大なモンスターがこの森にはいるのですか?」
「……うん。話はちょっと長くなるんだけどさ──」
ピニスンはこくりと頷いて、緩やかに語り始めた。
──遥か昔。
長命のピニスンが産まれるよりも遥か前のこと。
空を切り裂き、幾多の悪鬼羅刹がこの地に降り立った。世界を滅ぼせるだけの力を宿した化け物達は、この地上を支配する
天は裂け、地が抉れ、いくつもの街がその余波で滅びた。世界そのものが窮地に立たされる天変地異だったのだという。
結果として勝利したのは竜王達だったのだが、彼らはその全てを滅ぼし尽くせたわけではない。敗北を喫した化け物共は地上のどこかで自らを封印し、今なお世界を滅ぼせるその瞬間を虎視眈々と狙っているというのだ。
……そしてその化け物の一体こそが、このトブの森で眠っている魔樹ザイトルクワエだというのだ。ピニスン曰く、最近はその体の一部が時折目覚め、森の中を暴れ回っているらしい。
ピニスンが探している七人組というのは、そんな強大な魔樹の一部が暴れているのを撃退した凄腕の戦士達なのだそうだ。次に来たときは魔樹の本体を倒してくれる約束をしてくれたらしいが、その約束は未だ果たされないまま今に至る。
ピニスンは深刻そうな顔で、こう続けた。
「ちょっと前に、どこからやってきたのか分からない強大なアンデッドの軍団が森の深部まで瀕死の人間を連れて行軍してたんだよ。きっとあれが刺激になったんだろうね。あれ以来、魔樹の動きが活発化してるんだ。今にも封印が解かれそうな……本当に危険な状態なんだよ」
「瀕死の人間を連れた強大なアンデッドの軍団──あっ」
ピニスンの言葉を反芻したモモンガの背中に、どわっと滝汗が流れた。そのアンデッド、身に覚えが有りすぎる。
(それ、俺が何とか聖典と戦った時に召喚したシモベ達じゃん……!)
対陽光聖典戦で召喚したアンデッド達に、トブの森の深部で適当にニグン達を処分してくるように言付けてあったのをモモンガは思い出した。そのアンデッド軍団のおかげで魔樹が目覚めそうになっているということは……。
(……もしかして、俺のせいか?)
もしかしなくても、モモンガのせいだ。
無論彼が関わらなくとも復活は近かった。しかし、その復活を早めた原因の所在はやはりアンデッド──もとい、その上司にあたるモモンガの責任だろう。彼は兜の上から頭痛を覚えた様に額を押さえた。
「そのアンデッド達は今は……?」
妙にか細いモモンガの質問に、ピニスンは小首を傾げて答える。
「さあね……あたしも遠巻きに見てただけだからさ。突然現れて、忽然と消えたよ。魔樹の一部も相当あれらを嫌がってたみたいで、かなり暴れてたね。しばらく魔樹の一部と交戦したみたいだけど、決着がつかないうちに立ちどころに消えてしまったのさ。本当、半端に魔樹にちょっかい出されてこっちはいい迷惑だよ……」
「そう、ですか」
モモンガのシモベ達が森の奥へ意気揚々と入っていったせいで、トブの森全体がおかしくなってしまった。その異様な空気にあてられた魔樹の一部が暴走。アンデッド達としばらく戦闘していたが、召喚時間が過ぎ、アンデッド達は消えてしまった……というのがあらましだろう。陽光聖典をちゃんと始末できたのかという疑問も残るが、それはもはやモモンガにとっては些細な問題だ。
世界滅亡スイッチをうっかり押してしまったかもしれないというやらかしに、モモンガの冷や汗が止まらない。
世界を滅ぼすというワードで彼の脳裏に関連として挙がるのは、やはりユグドラシルに於けるワールド・エネミーの存在だ。仮に魔樹がユグドラシル公式ラスボスと呼ばれる『九曜の世界喰い』と同等以上の存在だとしたら、このモモンガの現在の肉体でさえ必勝とはいかない。
寧ろ復活や予備知識がない分、『九曜の世界喰い』を攻略するより骨が折れるだろう。初見攻略に挑むならせめて
「……」
モモンガは静かに自分の方針を定めた。
仮に本当に魔樹ザイトルクワエが実在するなら、呼び起こしたのはモモンガの責任である。これは彼も認めるところだ。故に自分の手で倒せるのであれば、倒すとしよう。愛着が湧き始めた王国が滅びる様を眺めているのは忍びない。
だがもしモモンガと同等以上……つまり確かな勝算を持てない化け物であったなら……。
(トンズラこかせてもらおう。だって死にたくないし)
モモンガはあっさりとそう決断した。
結局、彼も悪魔ということだ。
こういう場面であっさり王国を手放せるほどには、彼の心も異形化している。まあそうなった時はエンリとネムだけは連れていこうとは考えてはいるのだが。
さて、そうなったならモモンガはまず魔樹のレベルの程度を調べたい。どうやってそういう話に持っていこうと思索しようとしたところで、ピニスンがペテル達に取り縋った。
「それでさ、良かったらさっきあたしが言った七人組を連れてきてほしいんだけど。君達もこの世界が滅びたら困るだろ?」
「……みんな、どう思う?」
リーダーらしく、ペテルが問う。どう、と問われたニニャは眉根を顰めた。
「この話が本当なら確かにとんでもないことですが、俄には信じられませんね」
俺も同意だ、とルクルットが続く。
「やっぱり
「疑惑の目を向けずにはいられないのであるな!」
「お、おいおいおい! ちょっと待ってよ! 世界を滅ぼす魔樹なんだよ!? あなた達なんて鼻クソほじるより簡単に殺しちゃうくらい強大な存在なんだよ!? 早くあの七人組を連れてこないと、本当にえらいことなんだって! 君達は有史以来最大級の大馬鹿者として歴史に名を刻みたいのかい!?」
「いや、そうはいってもなぁ……」
『漆黒の剣』が判断を渋る。
彼らの想像しうる最大難度のモンスターがギガント・バジリスク程度だ。急に世界を滅ぼせるモンスターが復活すると言われても、現実味がない。信じろというほうが酷な話だろう。
「でも、もし……」
そんな中、ンフィーレアがぽつりと発言する。緊張感が彼の表情に張りついていた。小さな声なのによく通り、皆がンフィーレアに注目した。
「もし……この子の言うことが本当なら、カルネ村が危ない」
ンフィーレアはそう言うと、籠の肩紐を強く握り込んだ。
そう、ピニスンの言うことが仮に全て真実であったなら、真っ先に滅ぼされるのはエンリのいるカルネ村だ。万が一を考えれば考えるほど、ンフィーレアは見過ごすことはできない。世界の滅びも恐ろしいが、それよりもエンリに降り掛かる危険の方がもっと恐ろしい。彼は何かを決断したようにモモンガに居直った。
「モモンさん」
「……なんでしょう」
「退治してくれとは言いません。もし良かったら、世界を滅ぼす魔樹の調査を行ってくれませんか?」
おお、とモモンガは内心で静かに喜んだ。
敵対はしないがまず調査はしたいというのは彼の意見とピタリと合致している。よい口実を得たと思ったが──ルクルットがそこに口を挟んだ。
「おいおい! こいつの言うこと信じるのかよ!?」
ぴたぴたとピニスンの頭を叩くルクルットに、しかしンフィーレアの態度は揺るがない。
「嘘かもしれませんね……でも本当かもしれない。嘘ならそれは良かったとしましょう。でももし……もし仮に世界を滅ぼせる存在が本当だったら、ここで何もせずにすごすごとエ・ランテルへ帰るのは余りにも愚かだとは思いませんか……?」
「う……」
ルクルットが喉奥で唸る。
ピニスンが鬱陶しそうに彼の手を払った。
「魔樹の存在が確認できたら皆でエ・ランテルへ向かい、冒険者組合長と都市長に掛け合いましょう。何せ事がことですから組織として見過ごせないはずですし、ピニスンさんの言う七人組にも彼らなら心当たりがあるかもしれません」
ンフィーレアの判断に、モモンガは大きく頷いた。
「私は賢明な判断だと思います。真偽がどうあれ、この目で見なくては分からないことですからね」
「そう! そうだよ君達! 賢明すぎる判断だ! いっやぁー、ほんっと話の分かる人が二人いて良かった! こっちのトンチンカンチームなんかよりよっぽど話が早くて助かるよ!」
「おい、燃やすぞデクの棒」
ンフィーレアは、改めてモモンガ達に向き直る。
彼は真摯に、深々と頭を下げた。
「エンリの命に危険が及ぶ可能性を僕は見過ごせません。モモンさん……そして『漆黒の剣』の皆さん。追加の報酬は必ず支払いますので、どうか魔樹の調査を引き受けてはくれませんか?」
モモンガは勿論快諾だ。
彼は自分自身のやらかしを精算する必要もある。
『漆黒の剣』も各々顔を見合わせると、困ったように笑ってそれを承諾した。ンフィーレアにこれほど頼まれて断るのは、冒険者としての名が廃る。
一行はこうして、魔樹ザイトルクワエの調査に乗り出した。
モモベドさんが原作モモンガさんよりもザイトルクワエを警戒している理由として
・アウラなどの配下による現地モンスターの情報収集がされていない
・原作はアダマンタイト級になってからも暫く月日が経っているのに対し、本作はまだ冒険者になりたてというこの世界で過ごした日数・理解が足りていない為警戒レベルが高い
というのが挙げられます
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12.再臨
魔樹ザイトルクワエの調査を決行することに決めたモモンガ一行は、一先ずンフィーレアをカルネ村へ帰した。その後ピニスンと再合流し、現在魔樹が封印されているという地へ案内してもらってる最中だ。
足取りは良好にして順調。
トブの大森林を知り尽くしている
「モモンさん、少し楽しそうですね」
「え?」
黙々と歩く中、ニニャにそう言われてモモンガは少し驚いた。全身鎧を着込んでいる上に、彼自身今の状況を別に楽しんでるつもりなどない。それなのに何故そんなことが分かるのだろうと思わずにはいられない。
「そ、そうでしょうか? 自分でも気づかなかったのですが」
「僕の勘違いだったら申し訳ないんですけど、モモンさんの雰囲気がエ・ランテルからの警護任務よりもなんていうか……ワクワクしてるような感じがするんです」
足元の小枝を踏み抜くモモンガは『そうなのか?』と自問しつつ、確かにそうなのかもしれないと思い至る。彼が冒険者として本当に望むのはオーガやゴブリンの掃除ではない。真なる冒険だ。未知なるダンジョンを踏破し、未知なる秘宝を得て、その上で未知なる食べ物を食せるような……そんな大冒険を望んでいる。
……いや、それは少し語弊があった。
モモンガが望むのは、かつての『アインズ・ウール・ゴウン』と過ごした日々の再来だ。しかしギルドメンバー無くしてあの日々の再来はありえない。ありえないのだが、未知なる冒険に触れ、あの興奮の一端でも彼の胸に去来してくれたなら、それ以上の慰めはない。
モモンガはあの日の残滓だけでも、今でも追い求めている。だからこの世界に来て冒険者という言葉に触れ、彼は少しだけ興奮したのだ。
ならば今はどうか。
世界を滅ぼせるというフレーバーテキストの魔樹ザイトルクワエの討伐・調査。モモンガは不安や緊張の中に少し、興奮を覚えていないか。自問すれば、自ずと答えは簡単に出てくる。
「……なるほど」
言われて気づく、自分の気持ち。
モモンガは隣を歩くニニャに自嘲気味に微笑んだ。
「ニニャさん。私は貴方の言う通り、少しだけ今の状況を楽しんでいるのかもしれません」
森の賢王のみならず、世界を滅ぼせる存在を示唆されてもそう言ってのけるモモンガに、ニニャはもう驚かない。
「……すごいですね、モモンさんは」
ニニャのその言葉に、モモンガはふるふると顔を横へ振った。
「かつての仲間達といた頃、こういう状況は少なくなかったんです。世にも恐ろしく強大なモンスターに挑み、ボロボロになりながら勝利し、チームの皆を讃え合うあの日々が重なっただけです。ニニャさんが今思っているような、大層な理由はありません。懐かしさを感じていただけですから」
「本当にモモンさんにとってかつての仲間達というのは……そしてその方達と過ごした日々は、大切なものなんですね」
「……ええ。彼らは、そしてあの日々は私にとっての全てと言っても過言ではありませんから」
モモンガは遠くを見つめながら、そう言った。
そんな彼女の様子に、ニニャの胸中が僅かに濁る。なんというか、モモンは未来を見ていないような気がするのだ。見ているのも、大事にしているのも、いつも過去のことばかり。今を生きているというより、まるで生きながらえてしまった時間を惰性で生きているような、そんな気さえする。
(……きっとモモンさんは、昔はもっと沢山笑う人だったんだろうな)
『かつての仲間達』と隣あってた頃は、もっと無邪気な笑みを見せていたのだろうとニニャは思う。自分達と一緒にいるときは微笑みこそ見せはすれど、モモンが本当の素を自分達に見せてくれているかと言えばそれは否だ。
冒険者モモンは気高く、美しく、何よりも強く……そして孤独な人、というのがニニャにとっての総評だった。そんな彼女の助けに……心の隙間を僅かでも埋められる存在になりたいと願うのは贅沢な話なのだろうかと、ニニャはそう思わずにはいられない。
昨夜モモンに激情をぶつけられたニニャだからこそ、殊更強くそう思う。きっとあの時のモモンだけが、あの時のモモンこそが、本質なのだと思うから。何も自分が『かつての仲間達』の代わりになろうなんて思っちゃいない。ただ、モモンが過去への執着を忘れられるほんの一助になればと……ささやかな願いを彼女は抱いた。
「ここだよ」
そんなことを思っているうちに、件の場所に辿り着いたらしい。
ピニスンの声で立ち止まると、誰とは言わず皆が感嘆詞を漏らした。
「……枯れて、ますね。まるっきり」
皆の感想を代弁するように、ペテルが呟いた。
そう……目の前の景色が、枯れ果てている。
先程まで連続していた鬱蒼とした森の景色がぴしゃりと途絶え、まるで湖を前にしたように枯れ果てた景色が広がっていた。植物は死に絶え、これでは動物も近寄らない。瑞々しかった草葉を先程まで踏みしめていたのに、そこへ立ち入るや水気のないくしゃりとした音が立ち上る。青々とした森に突如広がる土気色の光景は、はっきり言って異様だった。
「……こりゃ、ちょっとマジっぽいな」
鼻の頭を掻くルクルットが、静かにそう呟いた。
彼のレンジャーとしての勘が、悪寒を覚える。生命力に満ちた森がそこだけ枯れ果てているというのは、否が応でも何か死に近いものを連想させるのだ。隣のダインも、大きな喉仏を転がして唾を飲み込んだ。
「植物達の悲鳴が聞こえるようであるな」
「モモンさん……」
ニニャが不安そうにモモンの顔を見上げるも、彼女はじっとそこを見つめるばかりで何も返さない。兜の下のモモンが、どんな顔をしているのかニニャには分からなかった。
「みんな、わかってくれたかい? ここが世界を滅ぼせる魔樹……ザイトルクワエが封印されているという場所さ」
この景色が化け物が封印されていると言われれば納得する他ない。
『漆黒の剣』は一様に喉を鳴らした。先程まで魔樹の話そのものが冗談めいたものにしか感じなかったが、ここにきて一気にそれが現実味を帯び始めていく。
「……肝心のザイトルクワエそのものが見当たらないようですが」
平らな声で聞くモモンガに、ピニスンは首を振って答える。
「言っただろ? 深い眠りについてるって。多分この枯れ果てた場所の地中深くに埋まっていると思うんだ」
「なるほど……」
顎に手を当てて、モモンガは考える。
敵のレベルが分からないのでは自身の方針の決めようがない。探知系の魔法も先程から行使しているがどれも引っ掛からないようだし、本当にここにいるかも不確かだ。これは自分達が無暗に触るよりやはり一度エ・ランテルまで話を持ち帰って、然るべき公的機関に調査してもらうのが──と考え始めたときだった。
「な、なんだぁああああああ!?」
ルクルットが叫ぶ。
彼に倣う様に、他の『漆黒の剣』も悲鳴を上げる。
悲鳴を上げたのは彼らだけではない。
大地が、森が、森に生きる全ての生命達が、悲鳴を上げた。
腹の底に重たく響く重低音。
かつて森の一部であっただろう目の前に広がる枯れ果てた大地が、せり上がる。地が激しく揺さぶられる。『漆黒の剣』は尻餅を突いた。ピニスンは甲高い絶叫を上げている。その中にあってモモンガはただ一人、直立のまま目の前の光景をただ見ていた。
「これは、でかいな……」
固い地をいよいよ突き破り、世界を滅ぼす存在が聳え立つ。
──魔樹・ザイトルクワエ。
世界を滅ぼせる悪魔の一体が、再臨せり。
天を穿つほどの威容。要塞を思わせる幹は余りにも太く剛健であり、そこにかっぽりと開いた大口には恐ろしい乱杭歯がびっしりと生え揃っている。太く長く伸びる六本の触手は、女神をさえも絡めとってあの大口へ運んでしまうのだろうという禍々しさがある。
強大にして、巨大。
森に大きな影を落とすほどの巨躯。それだけで、人間とは生物としての格そのものが違う。ザイトルクワエの麓で尻餅を突いている豆粒程度の存在──『漆黒の剣』は、各々に世界の終わりを肌身に感じていた。
ああ、もう終わるんだなと。
この国は……この世界は、終わるのだと、そう思わずにはいられない。
しっかり者のペテルが呆然自失とし──
温厚なダインが足腰立たなくなり──
お調子者のルクルットがガタガタと鳴る歯を止められないでいて──
冷静なニニャが少しばかり小水を漏らし──
そんな
「カルネ村を頼みます」
トブの大森林を覆うほどの巨大な魔樹に挑む漆黒の騎士。真紅の外套を揺らしてザイトルクワエに歩みゆくモモンの背中に、ニニャは英雄の姿を確かに見た。
究極の聖戦が、今まさに始まろうとしている。
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13.仲間
「うわわわわわわわわわわぁぁ……!!! もう、世界は終わりだああああああ!!!」
「あ、ちょ、どこへ……!」
ペテルの声も虚しく、ピニスンは腰を抜かしながら森の中へと消えていった。脱兎の如く、とはまさにこのことだろう。しかしそんな彼女を責めようとする者はこの場にはいない。
「……ひっ」
ペテルの喉奥で、小さな悲鳴が弾けた。
魔樹・ザイトルクワエ。
大地を突き破って現れた推定百メートル以上の怪物は、巨体のあちこちに砂や岩盤の滝を形成しながら、今なお高く聳え立とうとしている。
逃げて当たり前だ。
恐怖に侵されて当然。
『漆黒の剣』だってピニスンの様に今すぐにここから逃げ出したい。しかし足が動かない。震えて足腰が立たないというのもあるが、何より動けばあれの標的になってしまうかもしれないという恐怖が、彼らの心を蝕んでいる。
だが、そんな中にあって平然と魔樹に踏み出す戦士が一人いた。
──冒険者モモン。
彼女は今なお揺れている地盤をしかと踏みしめながら、背に差したグレートソードを抜いた。その堂々とした威風たるや、並大抵のものではない。
そんなモモンは振り返らずに、『漆黒の剣』にこう告げる。
「カルネ村を頼みます」
……小さく告げる、決別の言葉。
その言葉の意味を推し量れないほど『漆黒の剣』は愚かではない。
モモンが振り返ることなく再び一歩踏み出したとき、後ろから彼女の肩が強い力で引っ張られた。たたらを踏みそうになって振り返ると、凄まじい形相のルクルットがそこにいた。肩を掴む手の震えが鎧越しにもモモンに伝わってくる。彼はザイトルクワエの脅威に身を震わせながら、兜の下のモモンを見据えていた。
「……おいモモンちゃん。どこへ行こうとしてんだよ」
ルクルットの声は、か細く震えていた。
彼はそれでも、モモンの肩を掴んで離さない。
「……一体、何をしようとしてんだよ!」
悲壮に満ちた絶叫に近い。
彼は死地へ向かおうとするモモンの両肩をがっしりと掴むと、絶対に離しはしないという意志を瞳に宿した。
モモンのやろうとしていること、向かおうとしている場所。それは『漆黒の剣』の誰もが察していた。グレートソードを抜剣したとき、あるいは彼らに一言声を掛けたときか。いずれにしろ、『モモンがザイトルクワエに立ち向かおうとしている』ことを彼らは察していた。
……そしてそれはかの魔樹を討伐する為ではないのだとも。
きっと『漆黒の剣』とカルネ村の住人を逃がす為の時間稼ぎだ。己が身を犠牲にして、この漆黒の勇者は魔樹に単騎で挑もうとしている。そうとしか彼らには考えられなかった。だって、普通に考えれば分かることだ。あれほどの化け物に勝てるわけがないと。楊枝程度にも満たない剣を振り回したところで、いつか潰されるだけだと。
……故にルクルットはモモンの歩みを許さない。
許すことなど、できるはずもない。彼は縋る様にして、モモンの鎧に取りついていた。
「行かせねぇ! 俺は絶対、この手を離さねぇぞ! 殴ってでも止めてやる!」
モモンはそんな彼のことを不思議そうに見ていた。
何をそんなに必死に、と思っていたが……理解が及ぶと次第に温かな感情に溢れ出した。
(ああ……俺のことを心配してくれているんだな)
ザイトルクワエを見やる。
確かにモモンが
モモンは自身の肩を掴むルクルットを見返した。
彼の手はぶるぶると震えていて、目も若干赤く潤んでいた。全てを投げ出して逃げたいという強烈な生存本能を抑えて、彼は自分のことを引き留めようとしてくれている。そんな姿に、感動にも近い感心を覚える。
……そして、モモンを止めようとするのはルクルットに限ったことではない。
「モモンさん、一緒に逃げましょう!」
ペテルも同じくしてモモンガにそう叫ぶ。
「自らの為に逃げることは決して恥ずべきことではありません! モモンさんは確かに強い! ですが、あれにたった一人立ち向かったところで、どうしようというのですか! 貴女にだって、貴女の命を優先する権利があるはずだ!」
「両名の言う通りであるッ!! モモン殿! 愚かな考えは今すぐ棄てるべきである!」
ダインも続いた。
彼らはザイトルクワエの地鳴りの恐怖に懸命に耐えながら、モモンに叫んでいる。
その心を、モモンは素直に有難いと思う。
自分の為にここまで心配した声を掛けてくれる人がいることに、心が温かになっていく。
「モモンさん……」
ニニャが、杖の支えでようやく立ち上がる。
彼はしっかりとモモンを捉え、震える声で語り掛けた。
「僕たちは、確かにモモンさんのかつての仲間達には遠く及ばない存在なのかもしれません。今すぐにでもここから逃げ出したい臆病者達です。モモンさんの持つ英雄の様な自己犠牲の精神がとても眩しく、そして羨ましくも思います」
ですが、とニニャは続ける。
今にも泣きだしそうな、彼はそんな顔をしていた。
「だけど、それでも僕達は今! この依頼を受けている間だけでも! 『仲間』です! 僕達は、仲間である貴女をみすみす見殺しにするようなことはできません!」
「ニニャさん……」
……仲間。
モモンは自分のことを仲間と呼ばれ、僅かに動揺を覚えた。彼女にとって真に仲間と呼べる存在は、今も昔も『アインズ・ウール・ゴウン』のギルドメンバーのみだ。それ以外の人間に気安く仲間などと呼ばれ、馴れ合われるのは最早寒気が走ることに他ならない。
……だが、モモンはそれに反して自分の中に嬉しいという感情が芽生えていることに気がついた。
真に仲間と言えるのは『アインズ・ウール・ゴウン』だけなのに、ニニャに仲間と呼ばれて、若干の心地よさを覚えたことに違和感を覚える。
これは『アインズ・ウール・ゴウン』のギルド長として恥ずべき感情なのだろうか。それはモモンにも分からない。しかし彼女は、少しでもニニャの言葉に喜びを覚えてしまった。それは否定のできようもない事実。
ニニャは祈る様に、伏してモモンに嘆願する。
「モモンさん、思いとどまってください。どうか自分の死に場所を探す様なことは……やめてください」
涙さえ浮かべる彼に対し、モモンは優しい気持ちになるのと同時に、明らかな温度差を感じていた。
(……そう、見えちゃうよな)
人類が決して勝てない恐怖の権化・ザイトルクワエ。
そこに自らの命すら犠牲にして立ち向かう、過去に生きる孤独な戦士。強大な力を持つ戦士はようやく自分の死に場所を見つけたと死地へ挑もうとしている……と。ニニャにはそう見えているのだろうなと、モモンは思う。
(まぁ、そうだよな)
兜の中で自嘲気味に笑う。
やめてくれ、と思った。自分をそんな英雄を見る様な目で見るのは、やめてくれと。
(俺はそんな大層な人間じゃないんだよ……)
兜の下で、重たい溜息が漏れる。
モモンは『漆黒の剣』から受ける尊敬の眼差しで気持ちよくなれるほど下種ではない。本当の自分は決して誇れるようなものではないことを知っているから。
「……」
じくりと胸が痛む。
仲間と呼ばれて嬉しかった。しかし彼ら『漆黒の剣』が今視ているのは決して
モモンは静かに口を開いた。
「……ご心配ありがとうございます皆さん。ですが、勝算がないわけではないんですよ」
「へ?」
「これを」
モモンはそう言って、外套の陰から拳程の大きさの見事な水晶を取り出した。玉虫色の輝きを放つそれを見た『漆黒の剣』の反応を待たずして、彼女はそれの説明に入る。
「これは第八位階の魔法が込められている『魔封じの水晶』です」
「だ、第八位階……!? し、神話の領域じゃないですか!」
ニニャの言葉に『漆黒の剣』がどよめき、モモンガが頷く。
「……そうです、これが私のとっておきです。そしてニニャさん……そんな大魔法が込められた『魔封じの水晶』を破壊したらどうなるか知っていますか?」
「え?」
「……込められた力が暴走して、周辺一帯を崩壊させるんですよ」
「そ、そうなんですか!?」
嘘だ。
実際はそんな現象は起こらない。しかし第八位階の魔法が込められた『魔封じの水晶』という秘宝を破壊しようなどと思う人間はこの世界には存在しないだろう。証明のしようがなければ嘘もまた事実となる。モモンは水晶を手の中で遊ばせて、力強く台詞を続ける。
「これが私の勝算です。これをあの魔樹の口の中に放り込むことができれば、彼奴も流石に堪えるはずでしょう」
そう言ってモモンは、ザイトルクワエを仰ぎ見る。
魔樹は森に触手を伸ばし、大木を浚ってはあの大口に次々と放り込んでいた。暴食という言葉がこれほど似合う光景もない。一日もすればトブの大森林を平らげてしてしまうのではないかと思うほどだ。そしてそんな大喰らいがここに根を張って動かないということは想像できない。
あれが次なる食糧を求めて人里に移動してきた場合、どれほどの被害が及ぶかなど幼子にも想像できる。今ここで討てるのなら、討つしかない。あの魔樹が次の瞬間、エ・ランテルや王都へ飛ぶ可能性だってあるのだから。
「その水晶をあのクソったれに放り込む役目、俺達にも手伝わせてくれモモンちゃん……!」
そう言ってルクルットが前に出た。
しかしモモンは顔を縦に振らない。
「……それは駄目です」
「な、なんでだよ!」
「貴方達程度の戦力が千や万増えたところで、状況はなんら好転しません。却って邪魔になるだけです」
言い放つモモンの言葉はどこまでも冷酷だ。
しかし彼女の声音に棘はない。事実を事実として、伝えているだけなのだから。寧ろ子を諭す様な柔らかい声音だ。ルクルットが喉奥で小さく音を鳴らした。ぐぅの音も出ないとはこのことだろう。彼が魔樹に立ち向かったところで、たちまちミンチにされる未来しかない。
モモンはザイトルクワエを見上げながら、続ける。
「それに今、カルネ村が危険なはずです。危険を察知したモンスターが森の外へ逃げる可能性も十分あるはずですからね。『漆黒の剣』の皆さんにはその対処に向かってほしいんです」
「で、でもよ……!」
「私はあの魔樹とカルネ村の面倒を同時に見ることはできません。どうか、私に代ってカルネ村を守っていただくことはできないでしょうか?」
魔樹の立てる悍ましい地鳴りと破壊音の中、モモンの語り口は静かなものだった。
静かな願いには、有無を言わさぬ説得力と拒絶がある。しかし、彼女は決して『漆黒の剣』を侮っているわけではない。信用しているからこそ、カルネ村を任せたいのだ。
そんなモモンの心を酌み取ったニニャが、彼女の前へ一歩出る。その瞳にはもう迷いはない。腹を決めた冒険者の、焔の様な意志がそこにはあった。
「……モモンさん。なら……僕達と約束をしてくれますか!?」
ぎゅ、と杖の柄を握りしめ、ニニャは漆黒の勇者を見据える。
勇者はそんな彼の言葉を、母の様に待っている。次に出る約束の言葉が既に分かっているようだ。
「生きて、必ず帰ってくると……!」
「……ええ。お約束致します」
モモンはそう言って、快く頷いた。
魔樹の進撃は近い。地鳴りが、一層強く轟き始めた。
「帰ったらどこか、食事が美味しい店に連れて行ってくださいねニニャさん」
「もちろんです!」
握手はなくとも、交わされた視線がその役目を果たす。それ以上の言葉は、もう要らないだろう。腹を決めた様に『漆黒の剣』は頷きあった。
「ありがとう」
モモンは再びグレートソードを構え直して、魔樹に確かに一歩踏み出した。
「行ってください!」
号令に近いその指示に、『漆黒の剣』の四人が弾かれたように駆けだした。向かうはカルネ村。ンフィーレアやエンリの下まで、飛ぶが如く走りゆく。
──そしてそれと同時に、大気を大きく震わせるほどの、ひと際大きい咆哮が魔樹の口腔から発せられた。
びりびりと空気を叩き、森全体に緑の波を作るほどの咆哮だ。明らかな敵意、殺意。
ザイトルクワエがとうとう、モモン達の存在を認めたようだ。
魔樹は走る『漆黒の剣』の背を撃ち抜く様に、口から八つの巨大な種を弾き飛ばした。大太鼓を力一杯叩きつけた様な射出音が、連続して内臓を揺らす。
「──まずいのである!」
ダインが叫ぶ。
種とはいうが、その一つ一つが大柄なダインの何倍もの大きさを誇っている。空を切り裂いて飛来してくるあれの重々しい風切り音が、その鉛の様な質量を表していた。あれが直撃したらひとたまりもないだろう。『漆黒の剣』はそれぞれが自分達の肉体がトマトの様に磨り潰される未来を幻視した。
あの種は防げるほど軟でもなく、避けられるほどノロマでもない。死はすぐ目の前まで差し迫っている。
(──死ん)
網膜に張り付く走馬灯を切り裂くように、彼らの前に漆黒の勇者が飛びいずる。真紅の外套を揺らして現れた彼女は、グレートソードを種が飛来してくる方向に突き出して叫んだ。
「スキル発動──『ウォールズ・オブ・ジェリコ』!」
モモンが叫ぶや、地を突き破って堅牢な城塞の様な壁が彼らの盾と成る為に聳え立った。驚天動地の魔法──実際はスキルだが──に、『漆黒の剣』が思わず尻餅をついて叫ぶ。堅牢な城壁は射出された巨大な八つの種に対し、その金剛の様な硬さを誇る様に身動ぎ一つせずに受け止めた。まるで火薬が炸裂した様な激突音に、『漆黒の剣』が悲鳴を上げる。
「早く行きなさい!」
モモンの鋭い命令に、『漆黒の剣』が弾かれたように行動を開始する。
全速力で、手足が千切れんばかりにカルネ村へ走る。自分達がいたところで足手纏いだと、あの一瞬で本当の意味で理解できたからだ。魔王の相手は勇者にしか務まらない。そんな当たり前のことを、彼らは本能で理解できた。手伝おうなど、なんと烏滸がましい発言だったか。
『ウォールズ・オブ・ジェリコ』が立ち消えるや、次に飛来してきたのは魔樹の巨大な触手だ。鞭を思わせるしなりを作ったあれが、恐るべき速度でモモンの痩躯を横薙ぎに捉えた。鞭の先端は、音速に迫るという。その先端が、盾を構えた彼女に確かに直撃した。その威力たるや、石像をすら簡単に砂粒の山に変えるほどだろう。
触手をまともに喰らったモモンの体は抵抗なく吹き飛び、近くの大木の幹に激突した。
「モモンさん!」
甲高い悲鳴が混じった声をニニャが堪らず上げる。
喉が裂けて、口内の唾液に鮮やかな血が混じる程の声だった。
死んだ、と誰もが思ったが──その想定を容易く裏切り、漆黒の鎧はむくりと起き上がる。
「振り向いてはいけません! 決して、立ち止まらないでください!」
隙なく立ち上がる英雄の姿のなんと頼もしいことか。両手に握られた剣と盾は今なおその手を離れてはいない。『漆黒の剣』は安堵の息を漏らすと、今度こそ駆けだした。
もう振り返ることはない。
それはモモンに対する非礼だと、もう分かってしまったから。
「モモンさん……!」
ニニャは走りながら祈る。
どうか無事に。また笑顔でモモンと話せる時がきますようにと。彼女は自分の無力さに下唇を噛み締めながら、杖を強く握り込んだ。
「行ったか……」
モモン──モモンガは『漆黒の剣』の背中……そして気配が完全に圏外に出たことを察知すると、グレートソードを持った腕をだらりと垂らした。先程まで良い感じに緊張感を持った戦闘を演じていた彼は、既に丸っこい雰囲気になっていた。少なくとも、世界を滅ぼす魔樹を前にした人間のそれではない。
──デカイなぁ。
眼前に聳え立つ巨大な魔樹ザイトルクワエを見上げ、モモンガは至極当然の感想を抱いた。その時に思い浮かべたのは、そう……たっち・みーに勧められて見た、特撮ものの巨大怪獣のそれだ。しかし恐らくスケール的にはあの変身ヒーローや怪獣の何倍もの大きさはあるだろう。
大きいとは、それだけで原始的な恐怖を小さいものに与えてしまうものだ。大きい生物に小さい生物が勝てないというのは、当然の摂理。巨大なものには危険信号が発せられるように人の体はできている。
海洋恐怖症などもそうだろう。海の余りの広さと深さ、居もしない深海の巨大生物の底知れなさに恐怖を覚えるものも少なくない。大きいとは本当にそれだけで、そこに在るだけで、暴力的な恐怖たり得るのだ。
(……うん)
しかしザイトルクワエを大きく見上げるモモンガに、そういった恐怖の感情は不思議と微塵も湧いてこなかった。彼自身、少し笑ってしまうほどに何も感じない。
何故だろう。
あり得ないくらい巨大なモンスターなのに、モモンガにとってはそこらに落ちてる小枝の存在感とさして変わらない。人の身であれば恐怖を感じて然るべき怪物だというのに。
ザイトルクワエのステータスを調べるべくもなく、モモンガは彼奴をひと目見たときから真面目に相手とることすら馬鹿馬鹿しく思える弱者だと断定した。
(ああ……俺は本当に、つくづく化け物だなぁ……)
モモンガの胸に去来したのは途方もない疎外感だった。ここまで来ると優越感すら感じない。あれほど巨大な生物を見て『何てちっぽけなんだ』と思う自分が恐ろしくすら感じる。
先程からじゃれてくる触手に対しても鬱陶しい程度の感想しか抱けない。モモンガが適当に剣を振っただけで既に何本か吹っ飛んでしまい、六つあったそれも既に二本まで数を減らしてしまっていた。
魔樹ザイトルクワエは推定レベルにして八十五。モモンガの総合レベルの半分にも満たない。仮に彼がレベル百だったなら、もう少しザイトルクワエに見所を見出していたのかもしれないが、レベル二百にもなればあの巨体も紙同然にしか思えなかった。
ステータスがどうとか、レベルがどうとか、スキルとか習得してる職業とか魔法とか……そんなものは最早どうでもよい。本能として、生物の強度として、あれを警戒する必要がないと察してしまった。そんな化け物になったと自覚した彼の心境を察せるものなど果たしているのだろうか。
ニニャ。ペテル。ルクルット。ダイン。
『漆黒の剣』の顔を思い浮かべ、モモンガは疲れた様に笑った。
「ありがとう」
──仲間と言ってくれて。
でもきっと、化け物と人は本当の意味で付き合っていけないだろう。ザイトルクワエを前にして、モモンガはそう悟ってしまった。
『漆黒の剣』と自分の持つリアクションの差に少しショックを感じてしまったのだ。世界の終わりを告げる魔樹よりもっと強い化け物ですと言って、彼らが仲間だと言ってくれる自信はモモンガにはない。
レベル二百の存在になってちょっと浮かれていた自分の能天気さが少し憎らしい。モモンガは自分こそが警戒していた『ワールド・エネミー』なのだと理解できて、寂しい気持ちを抱えてしまった。
「……だが、お前もここでは世界を滅ぼせる程の化け物なのだろう? なら化け物同士、遠慮せず仲良くしようじゃないか」
魔樹に感情などあるのだろうか。
それでもモモンガを前にする魔樹には怯えの様な色が見て取れる。
モモンガは自身の魔法で編み込んだグレートソードを空に還すと、代わりに虚空から
「……お前には試したかった実験に付き合ってもらうぞ」
……いや、試し斬りかな?
そう暢気にぼやくモモンガの兜のスリットから、紅い焔が二つ揺らめいた。彼は次に、魔法名を唱える。
『
総合レベル二百。
そのステータスの全てを戦士レベルに変えたモモンガが振るう力は如何程のものなのか。彼に睨まれた魔樹は、凍りついた様に動きを停止した。
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14.最狂
『
これは使用した
しかしこの魔法は実は欠陥的要素を多く抱えており、『ユグドラシル』のゲーム内に於いて有効に活用されたケースは極稀だったと言ってよい。その欠陥要素としてまず『
プラス要素がない戦士がスキルに頼らない素殴りをしてくるだけ、というのはゲーム的に解釈すれば余りにもしょぼい。どちらかと言えばユグドラシル内に於いては『完璧なる戦士』というのは、ジョーク系の魔法と言ってよいだろう。
……だが、今のアルベドと合体したステータスのモモンガがそれを使うとどうなるのか。
元々百レベルの戦士であるアルベドのステータスに、百レベルの
これは最早ジョークとは言えない。
立派な奥の手と言っても過言ではないだろう。
モモンガはこの肉体を得てから、ずっとこれの実験をやってみたかったのだ。
(……すごいな、これは)
モモンガは自身の身に満ちる力に、驚きを隠せない。
『
「……」
手を握る。そして開く。
まるで高熱の体がたちまち全快した様な清々しさがそこにあった。自らの内にあった魔法詠唱者としての力がごっそり消えた喪失感はあるが、体に満ちる全能感はそれを遥かに凌ぐ。
(今なら、本当にこの体一つで何でも出来そうだ)
エ・ランテルまで一足飛びで到達する自分、ヒヒイロカネを指で千切る自分、全力の殴打を打ちつけて大災害と見紛う程の地震を起こす自分……その想像してみたどれもが容易く行えそうな、それほどの力が彼の身の内に充実していた。
アルベドの翼による飛行は魔法の
モモンガがザイトルクワエを見上げると、びくりと震えた……様に身じろぎした。実際に恐怖したかは定かではない。しかしモモンガが
恐ろしい速度と質量を兼ね備えた触手が左右から迫る。対するモモンガは、瞬き一つすらしなかった。
(遅い)
意識を研ぎ澄ませれば研ぎ澄ませる程に、時の流れが鈍くなっていく。
あの触手が動いてからモモンガの体に到達するまで一秒と掛からないのに、彼は触手のノロマさに僅かな苛立ちを覚えてしまうほどだった。
きり、と戦斧の柄を握り込む。
刃先を揺らして、一閃横に薙ぐ。
甲高い音が劈いた。
重々しい得物を振ったとは思えない、世界が裂ける様な音だった。その音を聞く者がいたなら、鼓膜から脳に長く鋭い針を刺されたと錯覚するものもいるかもしれない。それほど異様で、異常な音が3Fから発せられたのだ。
予備動作を介さない技とも言えぬ暴力によって、ザイトルクワエの二本の触手は切り飛ばされた。ずん、と地を揺らす音が二つ聞こえる。のたうつ触手が、森の遥か遠くで落下した様だ。
「……次はこちらから行くぞ」
それは、ザイトルクワエに告げる死の宣告。
魔樹の死が確定された瞬間だった。
ザイトルクワエの口腔から、大量の種が射出される。彼奴なりの、最後の必死の抵抗だった。
地を蹴る。
ステップ程度のつもりが、ぐんと景色が後ろに吹っ飛んだ。モモンガに蹴られた箇所に円形のクレーターが形成され、衝撃に悲鳴を上げた様に大地が蜘蛛の巣状に罅割れた。
飛び礫の様に加速していくモモンガの視界は、しかし良好そのものだった。これだけの超高速の世界にいるというのに、まるで時空が停滞していく様に世界がスローモーションになっていく。
飛来してくる種の嵐のその最先端。
モモンガにとっては欠伸が出る様な速度の先頭の種に踵を乗せると、彼は雑技団の様に跳躍した。
錐揉み回転しながら跳ぶ様は、最早芸術的な身のこなしと言えよう。
そして、その連続。
モモンガは自身に飛んでくる種を蹴っては後続の種へ飛び移り、そしてまた次の種へと恐ろしい速度で飛び乗っていく。
一つ一つが絶死の弾丸だというのに、彼はものともせずにパルクールを用いて稲妻の様に空を駆ける。
気づけば標高百メートル超の中空。
つまりザイトルクワエの脳天の側まで跳躍していた。
足元にはトブの大森林がミニチュア模型の様に広がっている。しかしモモンガに恐怖はない。この浮遊感さえ、心地よく感じられる。
ヒュ、と鋭く空気を肺に送り込んだ。
上段に目一杯構えたモモンガの両手には、しっかりと3Fの柄が握られている。
病んだ様な鈍い光を湛える戦斧の刃が、陽の光を妖しく照り返す。攻撃準備完了を示す様な光に、ザイトルクワエが絶叫した。
「う──お、りゃあああああああああああッ!!」
モモンガは渾身の力を込めて3Fを縦に振り下ろした。太刀筋には一縷の淀みも濁りもない。ただ真っ直ぐに、愚直に、振り抜いた。この世界にきて初めてと言ってよい、まさしく全力の一撃だ。
──光が閃く。
ザイトルクワエの頭部から根元まで、正中線を淀みなく走った光の軌跡。その裂け目から、劈く様な七色の光が止めどなく乱反射された。
稲光にも似た光の奔流は、日光に照らされる辺り一帯を更なる光量で覆いつくした。
ザイトルクワエの巨躯が、そのダメージ量に耐え切れずに崩壊を始めていく。怒号とも思える低く重たい断末魔が、トブの大森林全域を大きく震撼させた。
そして魔樹はすっぱりと、面白いように真っ二つに左右に分かたれた。竹を割った様な清々しいまでの切り口と切れ味だ。
(……やはり一撃か)
魔樹の麓で柔らかく着地したモモンガはその様子を眺めながら、その結果に我ながら呆れてしまう。スキルやバフ効果の絡まない、いわゆる素殴りの攻撃。力任せに振り下ろしただけの攻撃が、『ワールド・チャンピオン』の『次元断切』を嘲笑う様な火力を叩き出してしまっている。
桁外れのHPを誇るザイトルクワエを一撃とは言うが、実際にはダメージ値のみで言えばかなり余剰分が出ているだろう。
実験の結果は大成功に終わった。
やはりモモンガの目論見通り、『完璧なる戦士』はこの世界……いや、この体に於いてのみ、有用に活用できる。それを知れただけでも、ザイトルクワエと戦った意義はあったと言えるだろう。
血に濡れているでもないのに、3Fを大仰に振り払う。
こういうときに詰まらぬものを斬ったと言うのがマナーだと、モモンガはギルメンの誰かに聞いたことがあった。誰の言葉だったか、と思い出そうとして──彼は予想外の出来事に直面することになる。
「え?」
モモンガの喉の奥から、擦れた声が出た。
彼を覆う様に聳え立つ魔樹・ザイトルクワエ。真っ二つに斬られ、そのまま倒壊するだけの樹木と化したあれに、明らかな異常が発生した。
まず彼奴を象る──線。
輪郭や幹の窪み、葉脈といった、彼奴を視覚的に捉える為の線が狂い始めた。歪み、淀み、撓んで、ぼやけては再生し、それが目まぐるしく繰り返す。まるで水面に映る魔樹に石を投じた様な現状が起こっていた。
それから──音。
モモンガの攻撃を受けた魔樹の体から、数百の女神の断末魔の集合体の様な悍ましい声が森中に拡散されていく。ザイトルクワエ本体からというより、バルディッシュの斬撃を受けたところから発せられているようだ。余りの超音波に雲が砕け、木々がへしゃげ、飛ぶ鳥が墜落していく。
そして──色。
魔樹の明度、彩度、輝度が、目まぐるしく変容している。色を失ったかと思えば目が痛い程の極彩色に変わり、マーブル調に様々な七色に変化していく。
モモンガの目が見開かれる。
兜の中の双眸には、明らかな焦りと困惑の色が滲み出していた。
「お、おい……」
背筋に冷や汗が一筋伝う。
もしやザイトルクワエに第二形態があるのでは、と様子を見ていたがどうも違う。余りにも様子がおかしい。
「おい、おいおいおいおい……!」
俄に滲み出した可能性に、モモンガの心臓がぎわと握られる。かつてない悪寒が背筋を走り回る。彼は踏みしめる大地の頼りなさを感じていた。
(もしかして……)
芽生えた一つの懸念。
見逃せない異常事態。しかし有り得るのだろうか、と思わずにはいられない。
モモンガは拳を握りしめて、ザイトルクワエを見上げている。
これは、もしかして──
(
──バグ。
想定されてないことが起こることで吐き出されるシステムエラー。その可能性。
ユグドラシルに於いて、ダメージというのはかなり複雑な過程を経て弾き出される数値だ。
まずはキャラクターのステータス。それからパッシブスキルや種族特性によるボーナス効果。武器が持つダメージ値、属性、特殊効果。そこから装備品や戦闘エリアの如何によってもかなり数値が変動する。
これらを足し算、掛け算することによってユグドラシルではこのキャラクターが殴ればこれだけのアタック値が出せますよ、というのが算出できる。
ならば、今のモモンガはどうだ。
そもそもがチートでも使用しなければ到達不可能なレベル二百。そしてそのレベルを全て戦士職に回す『完璧なる戦士』の使用。その全力、一撃。
この世界を作った
──宇宙の法則が、乱れる。
「う、おわあああ……!」
モモンガは途轍もない焦りと恐怖を覚えた。
世界そのものの在り様が乱れている。トリガーを引いたのは誰あろう彼自身だ。
最悪の事態が脳裏を過る。
世界がこの過負荷に耐えられず、崩壊していく光景が瞼に張り付いて離れない。
こうなればもう祈るしかない。
モモンガは膝を折って手を合わせ、事態の収束を心から祈った。
……五分程経過した後。
ザイトルクワエの異常はそこで急に掻き消えた。恐らく、異常なダメージ値の演算処理が終わったのだろう。ザイトルクワエは元の真っ二つの魔樹の様相を取り戻し、重力に逆らわずにその体を森の中に堕とした。
「……な……なんとかなった、か……」
モモンガは兜を脱いで、だくだくの額を拭う。
もう『完璧なる戦士』は使用しないと、心の中で固く固く、誓うのだった。次に使用してもまた都合良く収まってくれるというのは、余りにも甘い考えだ。
「ふぅ──…………」
長い溜息の後、モモンガはヘタリと腰を落とした。
力の使い方、そして自身の身の振る舞い方にはもっと気を使わねばならない。彼は疲労を知らない体の疲れを感じながら、猛省を繰り返すのだった。
そんなモモンガの前に、苔みたいな薬草が生えたザイトルクワエの一部がぼとりと都合よく落ちてきたのはちょっとした余談だ。
【補足】
モモンガさん幸運にもザイトルクワエの『どんな病も治せる薬草』を回収。
その後『魔封じの水晶』を暴走させて倒しましたという工作の為に魔法最強化した『核爆発《ニュークリアブラスト》』で自爆。
次回モモンガさんは漆黒の鎧がボロボロに破損した状態で登場します。
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15.帰還
「『
ニニャが高らかに唱えると、杖の先端から光の矢が飛んでいく。
矢は一体のゴブリンの腹に命中し、よろめいたところをペテルの剣が刈り取る。隙のない連携は、異常事態の中にあっても健在だった。
「しばらくは大丈夫そうだな……」
転がるゴブリンの骸を一瞥し、ルクルットは浅く息を吐き出した。
トブの森が見舞われた未曾有の天変地異。
それに影響を受けて森から飛び出してきたゴブリンなどのモンスターは、恐らく我先にと逃げ出した影響なのか単独のものが多かった。恐怖に侵された状態で、単騎撃破となれば『漆黒の剣』でも容易い。依然予断を許さない状況ではあるものの、モモンと比べればその負担の軽さは比ではない。
「うわっ……!」
大地が震える。
大気が爆ぜる。
ニニャの踏む地盤が、確かに大きく揺れた。
それも一度や二度ではない。断続的に何度も、何度も。
天災を思わせる地鳴りは、カルネ村に彼らが到着してからも絶え間なく続いていた。
「モモンさん……」
杖を握る手から、絶え間なく汗が滲み出す。
珠の様な汗が額に張り付き、ローブの中身はじっとりと濡れていた。
奥歯の更に奥から、嫌な味の唾液が分泌されていく。不規則な心臓の拍動はまさにニニャの心の不安定を表している様で、彼は信じてもいない神に祈りを捧げていた。
「信じるのである」
そんなニニャの肩に、
振り向くと、神妙な面持ちのダインがそこにいた。巨岩の様にいつもどっしりとしている彼の手は、しかしその言葉とは裏腹に震えている。
「そうですよ。モモンさんならきっと……成し遂げてくれるはずです」
ペテルのその言葉は本心なのか、もしくはただの願望なのか、ニニャには判別つかない。だが、青褪めた顔を見れば、自分とさして変わらない心情なのだろうということを察することはできる。
魔樹の咆哮はこのカルネ村までも届いている。
今再び、ひと際大きなそれが村の家屋をビリビリと叩いた。聞くだけでも心胆を寒からしめる悍ましい咆哮だった。
避難所となっている村の倉庫から、大きく悲鳴が上がる。
混乱を避ける為、村人には世界を滅ぼす魔樹が復活したとは流石に伝えてはいない。しかしこの天変地異である程度の危機を察し始めてはいるのだろう。カルネ村全体に、不穏な空気が満ちていた。
「……なぁ、俺達は本当にこれで良かったのかな」
森を睨むルクルットが小さく零す。
いつもの明るい彼はそこにはいない。口振りは泥の様に重たく、罪を告白する様な暗澹とした気配がそこにはあった。
「何が、ですか?」
「本当にモモンちゃんを置いてきてよかったのか?」
「ルクルット、その話はもう終わったはずだろう」
刺す様に、ペテルが言葉で制す。
有無を言わさぬリーダーらしい言葉に、しかしルクルットは表情を変えなかった。
「ああ……確かにあの時、俺達は皆が皆カルネ村を守ることが使命だとは思ったさ……今もそう思ってる。だけどあの時、モモンちゃんに行けと言われて安堵しなかったか? あの化け物の攻撃を前に、モモンちゃんを盾にして逃げだせるとほんの僅かでも喜ばなかったか?」
「ルクルット……」
「ちくしょう……俺は、悔しい。こんな時に何の力にもなれないで、何が冒険者だって話だよな」
弓を握る手が、震えていた。
噛んだ下唇からは、重力に従って鮮やかな血が一筋垂れていく。
無力感に苛まれるルクルットに、誰も言葉を掛ける事ができない。何故なら、彼らも同じ心なのだから。
「……それは違うのである、ルクルット」
沈黙を破ったのは、ダイン。
彼は首を横へ振って、諭す様にルクルットに語り掛ける。
「ルクルット、それは我々の様な地を這う
「ダイン……」
「土竜は大鷲にはなれない。しかし大鷲もまた、土竜にはなれないのである。弱者の知る恐怖を強者は知らないままで生きている。ならば、土竜には土竜にしか成せないこともあるはずである」
髭を揉むダインに、ペテルは仄暗い素直な疑問を投げかける。
「あるのだろうか。モモンさんにできないで、僕達にできることが」
「ある、のである」
しかしダインは即答だった。
断言と言ってよい。彼は薄く口角を上げると、『漆黒の剣』を見回した。
「我々にはこの世界の他の誰にも成すことのできない仕事が一つあるのである。それも、あのモモン氏でさえ成せない大役である」
「それって何ですか」
ニニャはそう聞けずにはいられない。
ダインはうんと頷いた。
「我々は知った。そして見たのである。常識的な感覚で、平凡的な感性で……あのザイトルクワエを」
ダインは、静かな口調で続けた。
「世界を滅ぼすと言われる魔樹ザイトルクワエ。巨大な怪物と相見え、一騎打ちを果たす救国の英雄モモン。その死闘を目に焼きつけたのは、誰あろうこの『漆黒の剣』の四名に他ならないのである!」
そう……ザイトルクワエとモモンが実際に対峙した様を見たのは、世界広しと言えどここにいる四名のみである。その希少性……そして彼らが帯びる使命。ダインはそれを知っていた。
「我々は語らねばならない。かの化け物を討つ勇者の勇ましさを。そしてこれから続く平和な日常の全てが、かのモモン氏の伝説の延長線上にあるということを」
比喩じゃない。
全てが事実にして神話を凌ぐ。
ダインは握り拳を、更に硬く握り込んだ。
「担うべきであり、果たすべきであり、そして誇るべきである。英雄モモンの伝説の生き証人……そして、語り部となることを」
それはモモン氏でも、他の英雄達でも果たすことができないことである。ダインがそう締めると、『漆黒の剣』の雰囲気が次第に前向きになった様に思えた。
そうだ、あの心優しいモモンなら今回の事件を丸く収めてもきっと誇らない。言いふらしたりしないし、
……そんなことは『漆黒の剣』は許せない。許せるものか。あの英雄の伝説は、モモンに代わって自分達が語り継がなければならない。
新たな使命を自覚した『漆黒の剣』は必ず生きてエ・ランテルへ戻ると、各々に固く誓うのだった。
──そして、鼓膜が破れんばかりの爆発音がトブの森に炸裂する。
一瞬、空が紅く焼けた様に思えた。
『漆黒の剣』はそれが『魔封じの水晶』の暴走だと、一拍遅れて察知する。今までのどれにもない、強烈な爆発音。まさしく世界が破裂した様な、根源的な恐怖を思わせる音だった。
顔を見合わせる。
先程までの地鳴りが嘘の様に、静寂が世界を支配していた。そよ風の音が鼓膜に触れ、ニニャは大きく喉を鳴らした。
「終わっ、た……?」
声を絞り出せたのは、静寂が流れて一分程の時を擁してからだった。
終わった。
その言葉の意味するところ。誰もが理解できている様で、そうではない。
ザイトルクワエは倒せたのか。
死んだのか、瀕死の大ダメージを与えたのか。
そして何よりモモンの安否は? あれほどの音を生み出す衝撃に巻き込まれて無事で済むわけがない。
『漆黒の剣』は一様に喉を鳴らした。
余りの静寂に、彼らの喉仏が転がる音がはっきりと聞こえた。
「どうする……?」
ルクルットの言葉に三人は顔を見合わせた。
どうする、という簡略化された質問の意味を、彼らは聞かなくとも分かっている。
ここで待つか、モモンを迎えに行く……という名目で、安否を確認しに行くか。
口を開いたのは、ニニャだった。
「待ちましょう」
「でもモモンさんが──」
「モモンさんはッ! ……必ず生きて帰ってくると、約束してくれました。だから僕は……僕は、待ちます。モモンさんの帰還を、信じます」
声は、震えている。
しかしニニャの瞳には確固たる意志が宿っていた。
モモンが自分の帰還までここを守れといったのだ。
ならばその使命を放る真似をしたくはない。
ニニャの発言に異を唱える者はいない。
モモンはきっと生きている。
彼らは各々に武器を構え、森から飛び出してくるモンスターの迎撃を静かに待った。
──……二時間程が経過した。
痺れを切らしたルクルットをニニャが止めようとした、そんな時だった。
トブの大森林から、一人の戦士の影が小さく見えた。
「あ、あ、あ……」
その影を見たニニャの目から、大粒の涙が零れた。
ペテルも、ルクルットも、ダインも泣いていた。しかし彼らの口角は上がっている。
『漆黒の剣』は喜色ばんだ叫びをあげて、戦士の下へ走っていく。
──漆黒の英雄モモン。
彼女の鎧の大部分は破損していた。
右肩は殆ど剥き身になっており、左腿も大きく露出している形になっている。兜も左の側頭部の装甲が大きく割れ、彼女の翡翠の瞳が露わになっている。背に差したグレートソードとカイトシールドはドロリと焼け爛れており、その死闘ぶりを幾億の言葉よりも如実に表していた。
「……ただいま」
モモンは疲れた様に笑って、小さくそう告げる。
割れた兜から見える目尻が、柔らかく下がった。
ただいまと言う場所がある。
おかえりと言う人がいる。
例え自分が化け物でも、例えこれが上辺の関係であっても、そういうやりとりができることに、モモン──モモンガは小さな幸福を感じるのだった。
瞼が開かれる。
ツァインドルクス=ヴァイシオン──
肌を刺す様なプレッシャー。
遥か遠くにあるはずなのに、直ぐそばに在る様な温度感。
この感覚は、知っている。
(
──思考の海に潜ろうとしたところで、彼ははたと気づく。
目の前……とは言っても、巨大な竜王の彼にとっては目の前とも言えないのだが、見下げた場所にローブを纏った老婆が佇んでいた。彼女と目が合った竜王は、静かに相好を崩す。
「……おや、来てたんだねリグリット」
「久方ぶりじゃな、ツアー」
しわがれた声で返す老婆──リグリットは、ツアーの視線を受けて肩を竦めて笑った。
「久しぶりに会いに来たというのに、スヤスヤと気持ちよさそうに寝腐りおって」
「すまないね。それより本当に丁度いいときに来てくれた」
「丁度良い時?」
「強烈な力をたった今感知した」
「……何じゃと? それってつまり──」
「──百年の揺り返しさ」
恐らくね、と付け加えるツアーにリグリットは分かりやすく眉を顰めた。
「そうか……もうそんな時期じゃったか。それで、今回は世界に協力してくれそうか?」
ツアーは僅かに沈黙の溜まりを作ると、首を横へ振る。
「いや……それはまだ分からない。ただ世界級アイテムか、それに似た力を使ったようだね。方角的にリ・エスティーゼ王国の僻地だろう。これは間違いなく『ぷれいやー』の仕業──いや……法国が使った可能性もあるのか」
「……お主はどうする? お主が脅威と感じる力、放っておくわけでもあるまい」
「とりあえずは動くしかないだろうね。暫くは目を外界に飛ばすつもりだよ」
「あそこに転がってる玩具でか?」
リグリットはそう言って、皮肉混じりに笑んだ。
視線の先には、空っぽの白金の鎧が佇んでいる。
「リグリット、まだ怒っているのかい?」
「さあてね」
肩を竦めて、リグリットは悪戯っぽく笑う。
その仕草が出会った頃と変わらなくて、ツアーの網膜にあの頃の景色が淡く蘇った。
「王国での出来事ならどうする? インベルンの嬢ちゃん──『蒼の薔薇』があそこにはいるはずじゃが」
「『蒼の薔薇』……確か君が所属していた冒険者チームだろう? なぜあの娘が」
「儂が引退してあの嬢ちゃんに役目を押しつけたんじゃよ。あの泣き虫、グチグチ言いおるから儂が勝ったら言うことを聞けと言ってボコってやったわ」
にやりと笑むリグリットに、ツアーは無い肩を竦めた。
「そうか……いや、協力者も欲しいけどまずは僕だけで動こうと思う。下手にぷれいやーを刺激すると不味いことになるからね。ぷれいやー想定なら情報はある程度制限しておいた方がいい。それよりもリグリットにも協力してほしいことがあるんだ」
「儂に?」
「ギルド武器に匹敵するアイテムの情報を集めて欲しいんだ。それかユグドラシルの特別なアイテムを。ぷれいやーや組織に悟られないよう、秘密裏にね」
「……なるほど、儂にしかできないことじゃな」
「……頼んだよ。リグリット」
ツアーはそうして、再び瞼を閉じる。
そうした彼と入れ替わる様に、部屋の隅に置かれた白金の鎧が淡い輝きを放った。
ひとりでに動き始めた鎧の姿に、リグリットは懐かしむように目を細める。
──世界の調停者が、今再び動き出した。
第二章終了です。
次回おまけを投稿して第三章に移ります。
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おまけ 2
「これは一体、何があったというのですか……」
──トブの大森林、深部。
ザイトルクワエ復活の地に、十三名の男女が呆然と立ち尽くしていた。
スレイン法国が擁する六色聖典が一つ──漆黒聖典。
隊員の一人一人が英雄級の力を持つ、最強の特殊部隊。強大な装備で身を固めている彼らは、目の前の光景にただただ立ち尽くすしかない。
骸と化した魔樹ザイトルクワエ。
大木を押しつぶす様に横たわるその巨体の中ほどで、巨大な隕石でも落ちたかの様に森ごと身が抉れていた。ぐつぐつと煮える熱波の余波が、離れていても突き刺すように肌を焼く。
「
純白のチャイナドレスを纏う老婆──カイレが、額に汗を浮かべながら小さくそう零す。
──
漆黒聖典第七席次『占星千里』が予知した、世界を滅ぼせると言われる存在だ。近い未来に復活すると予知されたその『破滅の竜王』こそが、今彼らの前で絶命している島と見紛う程巨大な木の怪物なのだろう。
『漆黒聖典』は復活した『破滅の竜王』討伐の為に、遥々この地までやってきた。というのも、時は陽光聖典が滅ぼされた時まで遡る。一つ一つ、順を追って説明していこう。
ガゼフ・ストロノーフ抹殺の任務を遂行していたニグン率いる陽光聖典──その先遣として、王国の村々を滅ぼしていた部隊を覚えているだろうか。ネムやエンリの両親を殺し、カルネ村を恐怖のどん底に陥れたベリュース率いるあの部隊だ。モモンガと遭遇した結果部隊は容易く半壊し、残った隊員は法国への敗走を余儀なくされた。
あの後、モモンガに関する報告が上層部に上がったのは言うまでもない。王国から法国まで中継地点には簡易的な伝達魔法を使える
突如出現した謎の異形種ということで、神官長達は念の為にと風花聖典に陽光聖典の動向の監視の指示を出した。しかしモモンガの動きを覗き見しようとした巫女は彼が巡らせた攻性防壁の魔法に引っ掛かり、爆発四散。神殿もろとも吹っ飛ばされるという凄惨な事件となった。
神官長達はこの異例の事態の数々から『破滅の竜王』復活と判断し、『漆黒聖典』にこれの調査及び撃破の密命を与えた。
密命を請け負った『漆黒聖典』は、
「これが『破滅の竜王』として……一体誰がこれを討ったというのですか」
第五席次──クアイエッセ・ハゼイア・クインティアは、いつもの平静を保てないでいた。『一人師団』と呼ばれる人類最強のビーストテイマーの彼だからこそ、目の前のザイトルクワエの脅威を感覚的に掴めてしまう。
故に鳥肌が止まらない。
クアイエッセは己の寒気を和らげるように腕を摩った。この魔樹と対峙した想像をして、カイレの持つ世界級アイテムや隊長がいなければ生存できる自信が彼には全くなかった。
「人の身で滅ぼしたとは思えない。単に復活時に力が暴走して自爆しただけじゃないのか」
鏡の様な巨大な盾を二つ持つ男── 第八席次『巨盾万壁』が訝しむ様に言う。
「いえ、これは自爆ではありません。間違いなく外部からの力によって絶命に至ってます」
『巨盾万壁』の疑問に異を唱えるのは見窄らしい槍を持つ中性的な顔立ちの男──第一席次の隊長だ。彼は赤色の瞳でザイトルクワエの骸を睨みながら、滔々と語る。
「よく見てもらえますか。『破滅の竜王』の体が、真っ二つに割れてます。一見自然に崩壊してああなったのだと思ってしまいそうですが、そうではありません。明らかに何者かに斬られています」
「斬った……? この巨大な化け物を、ですか」
「ええ。それも、たったの一太刀で」
「そ、んなことが……? 有り得るのですか」
隊長の言葉で、クアイエッセの額にやにわに汗が滲み出した。そんな彼に言葉を掛けたのは、カイレだ。
「不可能を可能とする力。それは確かにある。この『ケイ・セケ・コゥク』がまさにそうではないか」
「まさか、我らが神の秘宝と同じ力を持つアイテムを保有する者が存在すると?」
「……可能性の一つとしてはな」
カイレの纏う『ケイ・セケ・コゥク』……これは如何な精神支配無効の者にも精神支配効果を与えることができるという、六大神が遺した秘宝中の秘宝だ。確かにこれと同程度の力を持つ秘宝を用いたとすれば、『破滅の竜王』撃破も可能となるだろう。
しかしカイレは胸中で、もう一つの可能性を睨んでいた。
神と同じ力を持つ存在──ぷれいやーだ。
六大神がおわしたという世界からやってくる、強大無比の存在。もし百年の揺り返しが起きていたとして、ぷれいやーが降臨しているのであれば確かに『破滅の竜王』撃破も成せるだろう。
……しかし人間種以外のぷれいやーであれば法国にとっては厄介極まりない。可能性としては陽光聖典を滅ぼしたという白い悪魔が挙げられるが、話を聞く限り低位の魔法ばかりを使用していたらしいのでぷれいやーの可能性はなさそうではある。
だが、ぷれいやーか『破滅の竜王』との何らかの繋がりはあると見て良いだろう。これも調査必須の項目か。
(世界を滅ぼす存在を両断できる者、か……)
歳のせいで発汗が薄くなってきたというのに、カイレの体からは否応なく汗が分泌されていく。悪寒が止まらない。
これほどの化け物を下す存在だ。
警戒して然るべきだろう。
しかしもし『破滅の竜王』を討ったのがぷれいやーだとして、人間種又は死の神スルシャーナの様に人間に味方してくれる存在の所業であったなら──。
(人類を導く新たなる神の降臨、と見てもよいのか……)
絶望と希望、二つがカイレの身の内を満たしていく。
『破滅の竜王』の復活──消滅。
陽光聖典を滅ぼした謎の白い悪魔。
現れたかもしれない、ぷれいやーの存在。
「……撤収する」
カイレは静かに、そう告げる。
疑問、懸念、様々なものが錯綜する今、ここに長居は無用。迅く帰り、神官長達と情報の擦り合わせを──
「あれは……」
──と思ったところで、クアイエッセが何かを見つけて指さした。
森の中にある一本の大木。
幹が枝分かれを始める辺りのところに、何かがいる。いや、生物とも物とも判別がつかぬ今は、何かがあると形容したほうが正しいだろう。
『漆黒聖典』の面々が頷き合ってその木の下へ近寄っていくと、次第にその何かの解像度が上がっていく。
「ひ、と……?」
……人。男。
何かは、人の様な何かだった。幹の枝分かれの溜まりのところに、引っかかっている様にしなだれかかっている。しかし人と言うには少し躊躇われる点が多い。
まず、手足がない。
それぞれの四肢が肩口と腿の付け根から無くなっており、傷口はどうにも焼け爛れていた。そして酷く痩せこけている。皮の直ぐ下の骨が浮き出ており、鶏ガラを思わせる程だった。全身の血の巡りが悪いのか、一糸纏わぬ剥き身の肌は蒼白で、死人の様な色をしていた。
誰もがあれを死体だと思った。
モンスターに弄ばれた結果、ああなってしまったのだと。
「なんと酷い……」
カイレが目を伏せ、祈りを捧げようとした時だった。
四肢のない男が、ずるりと木から滑り落ちた。土草の上に落下したそれは、なんと衝撃によって唸り声をあげたのだ。
──生きている。
隊長が駆け寄ると、更に驚愕の事実を目の当たりにする。上向けで倒れたその男の名を、彼は知っている。
「ニグン・グリット・ルーイン……?」
痩せこけ、屍同然と化している陽光聖典の隊長は、それでもか細く呼吸を繰り返していた。
「──もう終わりか?」
ガゼフ・ストロノーフは目に触れる汗すら厭わず、そう言って辺りを見回した。喘鳴する彼の部下達が、死屍累々と芝の上に転がっている。
「戦士長、そろそろ昼の鐘が鳴ります。頃合いかと……」
「お……そうか」
顎髭に伝う汗が、ぽとりと芝に落ちる。
部下の一人にそう言われたガゼフは刃を潰した訓練用の剣を収めると、解散の号令を鋭く出した。日の出からぶっ続けだった訓練がようやく終わり、彼の部下達はほっとした様に喜色ばんだ。
……しかし即座に立ち上がれる者はいない。
足が笑い、腕が引き攣り、呼吸もままならない。
だが、その中にあってガゼフ唯一人が悠々と訓練所を後にする。運動量だけで言えば部下達の倍以上はあったというのに、だ。
そんな戦士長の逞しい背中が、部下達は誇らしい。上裸の肉体から仄立つ汗の熱気が、ガゼフの剣気を表す様に蜃気楼の如く揺らめいていた。
「……最近の戦士長、すごいな」
「ああ、益々剣が冴え渡ってる」
「体もなんだか分厚くなったよな」
「訓練にも身が入ってるってレベルじゃないぞ」
「今の戦士長ならあの時の陽光聖典相手でも勝てるんじゃないか?」
「強くなったよな……明らかに」
「これってやっぱり」
「ああ、アルベドさんと出会ってからだな」
井戸から汲み上げた水を、ざぶりと頭から被った。熱された鉄の様な肉体が、ひやりと冷却されていく。
「ふー……」
自然と深い息が溢れ、疲労感が泡立つ。
全身の筋繊維が、打ち水に喜んでいる様だった。訓練の後のこの瞬間が、彼は好きだった。
ガゼフはゴワゴワの手拭いで乱暴に体を拭うと、午後の国王警護の為の装備へ着替え始めた。急を要する国の戦士として早着替えは必修科目と言ってよい。彼は面白い様に衣服と装備を着脱すると、鏡の前で今一度身なりを整えた。
いつもの動きやすい鎧。
そして腰に差すのは──アルベドから貸し与えられたブルークリスタルメタルの剣。
「……」
剣身の美しさは抜剣しなければ分からないが、それでも鞘がまた美麗だった。巧緻な意匠を凝らされた彫り細工は戦闘用の剣というより寧ろ演舞用の一振りの様で、野性味の強いガゼフの腰に差すと少し浮く。
これを見て、重みを確かめる度に、ガゼフはアルベドを思い出していた。美しい容姿、微笑みは勿論、思い出されるのはあの言葉だ。
『戦士長様はまだまだ弱いですから、下手な装備でいられて死なれると寝覚めが悪いんですよ。だから……いつか私を守れるくらい強くなったら、その剣を私に返しにきてください』
まだまだ弱い。
この宝剣を差す度に、そのことを思い出して身が引き締まる。克己心が高まる。更なる高みへ、更なる強さを。王を守れる強さを、アルベドに並べられる強さを、ガゼフは強く意識することができる。
(アルベド殿……貴女は今、何をしておられる)
もう一度会いたいと思う。
しかしそれは今ではない、とも。
もっと強く、もっと大きく、アルベドに一人の男として見られる程の存在になれた時に、再び相まみえたい。
そんなことをぼんやり思いながら城の廊下を歩いていると、向こうから知ってる男がやってきた。ガゼフは壁に背を向け、ぴしりと背を伸ばすと小さく頭を垂れる。
「ストロノーフか」
「お久しぶりです。バルブロ殿下」
男──リ・エスティーゼ王国第一王子バルブロ・アンドレアン・イエルド・ライル・ヴァイセルフ。弟と違って厚い筋肉を纏う彼は、太い指で顎髭を擦りながら値踏みする様にガゼフを睨んだ。
「聞いたぞ。帝国兵に敗北を喫しそうになったところ、謎の戦士に助けられたそうじゃないか」
「ええ。あの時は本当に危ないところで──」
「たるんでるんじゃないのか? 仮にも王国戦士長の名を戴くお前がどこぞの馬の骨とも分からぬ者に助けられたなどということが近隣諸国に知れ渡ったら、次代の王となる俺のメンツも丸潰れじゃないか」
「……面目もございません」
「ふん……まあいい。精々父上の──おい、なんだそれは」
「は……?」
「その腰に差しているものだ」
バルブロはそう言って、アルベドの剣を指さした。剣に明るい彼は、美しい見た目のそれに興味がそそられているようだ。ガゼフは少し渋って、それに答える。
「これは例の私を助けてくれた戦士から頂いたものです」
「なんだと? どこの馬の骨とも分からぬ者から貰った剣で父上を守ろうというのか」
「……陛下からは了承を得ております」
「まあ、よい。少し興味がある。見せてみよ」
「…………はい」
気まずくならない程度の沈黙の後、ガゼフは腰のそれをバルブロに差し出した。アルベドとの絆に触れられるようで、彼は僅かな嫌悪感を抱いてしまう。
「おお……っ」
バルブロは素直に、感嘆の吐息を漏らした。
芸術品の様な鞘から抜いた剣身は、鞘の美しさにも勝る。
ブルークリスタルメタルを薄く伸ばしたそれは、まるで薄氷に映る青空をそのまま切り出したかの様だ。見定めるバルブロの顔を剣身が鮮やかに映し出し、そして向こう側にいるガゼフも透けて見える。
「美しい……」
「殿下、私はそろそろ陛下のもとへ行かなければならないので──」
「おお、おお、そうか。ならば早く行くがよい。これは私が貰う」
「何ですって」
ガゼフの顔が驚愕に染まる。
……いや、正直彼も見せろと言われた時点で嫌な予感はしていた。
しかしこれはアルベドから貸された、物の価値以上に大事な剣だ。いくら王子の頼みといえど、おいそれと了承はできない。
「で、殿下……お戯れを」
「そうだった、代わりの剣が要るな。ならばこれと交換してやろう。喜ぶがいい。俺がずっと愛用していたものだ」
そう言ってバルブロは腰に差していた剣を抜いてガゼフに押しやった。何の変哲もない剣だ。等価交換がどうこうという次元じゃない。ガゼフの顔が、流石に顰めっ面へと変わる。
「殿下、お戯れが過ぎます」
「何だと? この第一王子……未来の国王となる俺が手ずから剣を与えると言っているのだ。栄誉あることなのに、なんだその言い草は。それとも何か? 俺よりその戦士に貰うものの方が大事だと言いたいのか」
「そういったことを言いたいのではなく──」
「いいや、これはもう決まったことなのだ。このような剣は俺の様な高貴な男の腰に差してこそ映える。それに貴様、有事には『
「し、しかし──」
「話は終わりだ。俺はもう行くぞストロノーフ。父上の警護の務めをしっかりと果た──」
「お戯れがッ!!! 過ぎると言っているのですッ!!!!」
廊下中に日々渡るほどの声。
しん、と辺りが静まり返る。
発言したガゼフはその一秒後、自身の声量を誤ったことを自覚した。しまったと思わずにはいられない。当然の感情とは言え、王子の前でこれほどの怒りを発露させてしまうなど。
「……」
恐る恐るバルブロの顔を見ると、彼は茹蛸の様に顔を真っ赤に染めていた。どうやら、怒りを買ったらしい。
「き、貴様ッ! このバルブロに対し声を荒げるなど、何たる狼藉か! 王族への敬意よりこの剣の方が大事なのか、この卑しい愚か者め!」
「も、申し訳ございませ──」
「謝罪はいらん! 言い訳も聞きたくない! ああ、そうか! やはり王国戦士長といえど、やはり平民の出ということなのだな! よくよく理解できたぞストロノーフ! お前は──」
下げた頭に、散々罵声を浴び続ける。
ガゼフは下唇を噛んだ。一番厄介な相手の不興を買ってしまった。
平民でありながらも任される王国戦士長という立場。発言には重々気をつけていたのに、これだ。
ガゼフは心の中で猛省した。
無論バルブロへの謝罪の為ではない。自分の立場の自覚の無さからだ。
バルブロは今なおヒートアップし続けている。
どうしたものかと苦虫を嚙み潰しているその時……バルブロの剣幕を全く厭わないような可愛らしい声が両者の間に割って入った。
「まあ! どうなされたのですかお兄様、それから戦士長様。お二人とも怖い顔をなされて」
花の様な香りが、二人の鼻腔を擽った。
振り向けば黄金と称されるほどの容姿を持つ第一王女──ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフが、従者のクライムを伴って首を傾げていた。まだまだ少女の身である彼女は、それでもハッとするほどの美貌を湛えていた。
そんなきょとんとした妹の姿を見ても、バルブロは苛立ちを抑えられないでいる。
「誰かと思えばラナーか。聞け、この男が王族の俺に対してとんだ非礼を──」
「素敵な剣……これはどちらの剣なのですか?」
「それは私の──」
「今しがた俺のものになったのだ! これは決定事項で、変わることはないぞ」
「まあ……見せて頂いても?」
にこやかに微笑むラナーに、若干毒気が抜けてしまう。
まあ見せるくらいならと、バルブロはブルークリスタルメタルの剣を鞘に戻して彼女に押しやった。
「とても綺麗……。ね、クライム」
「あ、ええ。私もそう思います」
花の様な笑顔で、ラナーは背後に控えるクライムにも剣を見せた。
対するクライムはラナーが剣を持っているということに、内心のハラハラが止まらない。彼女は十分な観察を終えると、鞘の中に剣を静かに納めた。キン、と涼やかな音が鳴る。
「見終わったか。さあ、それを俺に返せ」
バルブロのゴツゴツとした手がラナーに迫ると、彼女は相変わらず微笑んだ。
「返せだなんて、お兄様も意地悪ですのね。もうこの辺にしておいたらどうですか?」
「何?」
「初めからこの剣を自分のものにしようなんて、思っていらっしゃらないのに」
「……どういうことだ」
訝しむようにバルブロが問うと、ラナーは「またまたぁ」とでも言いたげに、敢えて説明臭く台詞を並べた。
「これは戦士長様を救った程のすごい御方が戦士長様にとご好意でくださったものなのでしょう? そんな御方が戦士長様にあげた剣をこの国の王子に取り上げられたと知ったらどう思うでしょう。きっと、もう王国の為に力を貸してくれることはなくなりますわ」
「あ……」
確かに、とバルブロも気づく。
万が一件の戦士を王国に取り入れようとしたとき、ガゼフではなく自分が剣を差していたとしたら、どう思われるか。
正直バルブロはガゼフのことを好いてはいない。
しかし剣の腕だけは認めざるを得ない。そんなガゼフの窮地を救えるほどの人間の心証を悪くする可能性……それに彼は気づいていなかった。
そしてラナーは無邪気に微笑む。
「でもこれは少し考えれば誰にでも考えつくこと。なのでお兄様は意地悪を言って戦士長様を試されていた、ということですよね?」
ラナーは笑顔を崩さない。
そこまで言われて考えつかなかったと発言するのは、バルブロの沽券に関わる。彼は意地を張って顔を縦に振る他なかった。
「そ……そういうことだ。流石はラナー。俺の思惑に気がついていたとは」
「そんなことはありませんよ。少し考えれば気が付くことですからね」
「それに引き換えストロノーフ。俺の考えに気がつかずに平静さを欠き、剰え怒鳴るとは戦士長として言語道断だ。今度こういうことがあれば、ただじゃおかないからな」
もはや捨て台詞だ。
バルブロはそれだけ言って乱暴に剣をラナーからぶん奪ってガゼフに押し返すと、大股でその場を去っていった。心なしか、いつもより足音が大きかった気もする。
「ラナー殿下……ありがとうございました」
バルブロの背中が見えなくなった頃、ガゼフは心から頭を下げた。
本当に、心から、誠心誠意を込めて頭を下げた。
しかしラナーは何でもないというように首を横へ振る。
「ふふ。礼には及びませんよ。それより散歩の続きに行かなくちゃ。行きましょうクライム」
「え、ええ」
「戦士長様、それではまた」
小走りで去るラナーに追従するクライムは、ガゼフにぺこりと頭を下げて後を追っていった。角を曲がって二人の影が見えなくなる頃、ガゼフは漸く安堵の息を漏らした。
(危なかった……ラナー殿下には今度改めてお礼を申し上げにいかなくては、な)
握るアルベドの剣の重み。
腰に差したこの存在感に、彼は今一度深く息を漏らすのだった。
「戦士長様の剣、とても綺麗だったわねクライム」
王城の中庭で花を手折りながら、ラナーは微笑んだ。
クライムの持つ花籠に、また一輪花が添えられる。色とりどりの鮮やかな香りが、籠いっぱいに広がっていた。彼は実直に頷いて、言葉を返す。
「ええ。ストロノーフ様を救った凄腕の戦士からの贈り物だというのは知っていましたが……あれほどの宝を厚意で贈られるとは……」
「そうね。少なくとも戦士長様より強いみたいだから、本当にすごい人だわ」
「最近のストロノーフ様はその戦士に刺激されて、訓練時にも鬼神の様な強さを発揮していると言われてます。一体どんな方なのか、一目見てみたいものですね」
風が一陣吹く。
ラナーの黄金の髪が揺れる。彼女は天使の様に微笑んだ。なのにその笑みが少し悪戯っ子の様な印象をクライムは抱いた。
「実はその戦士の御方、とっても綺麗な女性の方かもしれませんよ?」
「じ、女性……?」
「だって恋は人を強くするというじゃない。戦士長様も惚れた女性の為に強くあろうとしているのかもしれませんよ。愛する人の為なら強くなれる……クライムもそうでしょう?」
「はい──あっ、いえ、わ、私はその様なことは……あまり分かりません」
「……もう、クライムったら」
ラナーは頬を膨らませて、じとりとクライムを睨んだ。
そんな仕草がとても愛らしくて、どう返せばいいのか分からなくてクライムはしどろもどろに「すみません」と言って小さくなる他ない。
そんな彼の様子がまるで『子犬』の様で、ラナーは笑んだ。
その瞳には重く、粘っこく、仄暗い、異様な光が差していた。
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第三章 英雄
1.憧憬
【お願い】
まだ未読の方も多数いらっしゃるので(私もそう)しばらくは本作の感想欄でオーバーロード最新刊の内容に触れるものを投稿するのは禁止させて頂きます。見つけ次第、該当感想の削除及び投稿者をニューロニストの部屋に連行させていただきます。
「もう──もう! いつまでその話繰り返してるんですか!」
空が紫を帯び始め、星々が輝き始める夕暮れ。
穏やかな平原で荷馬車を進ませる一行の中、最後尾を行くモモンガが頬を染めながら堪らずと言わんばかりに声を張り上げた。その声に振り向いたルクルットは、全く悪びれることなく笑顔でそれに答える。
「そう言うなってモモンちゃん。今良いところなんだぜ?」
「バレアレ氏も目を爛々と輝かせているのである!」
「すみませんモモンさん……でも僕、興奮が冷めやらないんです……! もっとモモンさんの英雄譚を聞きたい……!」
ンフィーレアの童の様な主張に押し流され、モモンガの主張も虚しく結局話は再開されてしまった。
モモンガは額を押さえて、小さく溜息を零す。
何度も繰り返されている話とは、『漆黒の剣』脚本のモモンの英雄譚だ。モモンとザイトルクワエの戦いをその目で見た彼らは、昨日から吟遊詩人の様にカルネ村の人間達にモモンガの雄姿を聞かせているのだ。
それはもう何度も、何度も。
しかもカルネ村の人間達は『漆黒の剣』とモモンガがトブの森に入っている間にネムからモモン・イコール・アルベドということを知らされていた為、聞く姿勢にも弥が上にも熱が入りまくる。
語る『漆黒の剣』は歴史に燦然と名を刻む稀代の大英雄の英雄譚として、聞く村人達は自分達をお救いくださった慈悲深き美神の新たなる神話の一つとして扱い、それはもう異常な熱量の講演会の様相を呈していた。傍から見ていたモモンガに取ってみれば宣教師とカルト信者達の集会の様で、少し距離を取りたいと思ってしまう程だった。
お題目が終わればスタンディングオベーションでの大喝采。そして興奮冷めやらぬままに再び初めから語りだし、それが終われば先のものを上塗りする程の大喝采。語り部を変え、趣向を変え、補足し、身振り手振りで劇の様に語られるモモンの英雄譚。それはもう、夜が深くなっても鬼のヘビーローテーションが続いていた。
しかし皆が皆笑顔だった。
酒と料理もふんだんに振舞われ、どこに見せても恥ずかしくない宴らしい宴だった。
『漆黒の剣』はそうだが、特にカルネ村の村人達がモモンガに向ける視線は最早崇拝の域を少し超えているような気もする。ネムがとても誇らしそうにしていたのが印象的だった。
そして明くる朝、カルネ村を出立してからもンフィーレアに話を強請られた『漆黒の剣』は道中延々と英雄譚を言って聞かせていた。どういう言葉を使えばもっとモモンの凄さを語れるか彼らも研究中の様で、語る都度若干テイストが違うのだから凄い。
(本当、よく飽きないな……)
女神降臨だの、背中に白翼が見えただの、神から祝福される様に空から一筋の光がモモンを照らしただの、割と脚色の色が濃いのだから、傍から聞いている本人からすれば赤面もの以外の何物でもない。もう好きにしてくれと思うところではあるが、正直自分のいないところでやってくれと頭を抱えてしまう。
『漆黒の剣』の語っていることの大半は事実なのだが、当のモモンガはゲームの力がたまたま手に入ったラッキー人間という自覚しかない為、変にヨイショされるとそこらへんがむず痒い。
「すみませんモモンさん。悪気はないんです」
「ニニャさん」
溜息を吐くモモンガに、ニニャが隣り合った。
彼は少し困った様に微笑んだ。
「モモンさん、あまり持ち上げられるの好きじゃなさそうですもんね」
「……まあ、嬉しくはないですね」
あはは……と、ニニャは頬を掻きながら笑った。
「……モモンさんは僕達のチーム名、覚えていますか?」
「え? ええ、それはもちろん。『漆黒の剣』ですよね」
「はい。その『漆黒の剣』というチーム名の由来なんですが、実は御伽噺に出てくる英雄が持っていたとされる四つの魔剣の一振りのことなんです。僕がこれが欲しいと言い出したのがチーム名が『漆黒の剣』に決まったキッカケなんですけど、僕達全員でこの四つの魔剣を手に入れるのが最終目標でして」
「御伽噺の、英雄」
「ええ。ですがこの魔剣というのは実は実在しているものなんですよ?」
「へぇ……そうなんですか」
御伽噺に出てくる英雄の剣……蒐集癖の強いモモンガは心の中で少し前のめりになった。
「その四本の魔剣というのはどこにあるんですか?」
「さあ……全ては分かりませんが、一本はアダマンタイト級冒険者チーム『蒼の薔薇』のラキュースという神官戦士が持っていますね」
「そうですか……それは見てみたいもので──あれ? でも四つの魔剣の内の一本の所有者がもういるということは……」
「……お察しの通り、僕達の目標は潰えました」
ニニャはそう言って、朗らかに笑った。当時は落ち込みましたよと肩を竦めてみせている辺り、既に笑い話になるくらいには当時から時間は経過しているらしい。
「そういうことで、僕達は英雄に憧れてるんですよ。御伽噺の彼らの様になりたくて、僕達は冒険者になったんです。そんな僕らの前に、十三英雄をも凌ぐ本物の英雄の貴女が現れてしまった。本当に、すごいことをやったんですよモモンさんは。『漆黒の剣』の……ううん、僕の貴女に対する憧れを、どうか受け取ってください。僕は、僕達は、モモンさんの様な御人がこの世界にいることを声高に唱えたい。貴女は、この世界の人間全ての誇りなんですから」
紡ぐ言葉はどこまでも透き通っていた。雑味のない、ストレートな主張がモモンガの胸に突き刺さる。ニニャの願いを受け取った彼は、兜の上から顎を触ると、静かに首を横へ振った。
「──嫌、ですね」
モモンガは静かにそう告げる。
ニニャの目が、僅かに見開かれた。返す言葉は、少し震えて。
「……あ、えと……ハハ。そうですよね……はは、何浮かれていたんでしょうね僕ら。考えればそうだ。勝手に祭り上げて、モモンさんもいい迷惑──」
「寂しいじゃないですか」
「……え」
顔を見上げる。
割れた兜から見えるモモンガの翡翠の瞳は、遠くの山嶺を見ていた。
「せっかくニニャさんはあの時私のことを『仲間』だと言ってくれたのに、『英雄』扱いはやっぱり寂しいです」
「……モモン、さん」
「貴方達の尊敬の眼差し……や、ああやって私に纏わるエピソードを外部の人間に謳うのは構いません。ですがこうして話している時は、英雄扱いはやめていただけませんか」
……せっかく仲間になったのですから。
と、少し気恥ずかしそうに言うモモンガに、ニニャはとても気持ちの良い返事で答える。それは先程まで曇天の様な表情をしていたのに、大輪の向日葵が咲いた瞬間だった。
いきなりのニニャの大きな声に、先を行く面々が振り返る。
なんだなんだモモンちゃんと何の話をしてたんだとルクルットが絡み、ニニャが機嫌よくなんでもないですと答えた。私達にも教えてくださいよとペテルとダインも参戦する。そんな様子をンフィーレアは微笑ましそうに見ていた。
エ・ランテルの街がようやく見える頃だった。
エ・ランテルに入る検問所を越えたのはすっかり夜と言えるくらいの日没後だった。衛兵達がボロボロの全身鎧の戦士を見かけたときはかなりギョッとしていたが、中身がモモンだと分かると例の如くデレデレしていた……というエピソードは割愛させていただこう。
「組合への報告は明日の朝やりましょうか」
ガラゴロと荷馬車を進めながら、疲れた様子のペテルが振り返ってそう言った。道中平和なものだったとはいえ、一日掛けてカルネ村からエ・ランテルまで歩いてきたのだ。それは疲れも溜まるだろう。
「私が今からやってきましょうか?」
疲れも空腹も睡眠欲も知らないモモンガが良かれと思って進言すると、ペテルが笑ってそれに返す。
「モモンさん、貴女は今回の旅の最大の功労者なんですよ。そういった雑務は私達に任せておいてください」
「そんな、皆で請け負った依頼なんですし……」
「それにモモンさん、ザイトルクワエについてどういう報告を組合に上げるんですか。あなたのことですから、依頼のついでにトブの森で強い魔樹も倒しました、くらいのことしか言わないんじゃないですか?」
「う、うーん……」
よくよく考えれば『世界を滅ぼす魔樹を倒してきました!』と言うのを憚っている自分は確かに想像できる、とモモンは思った。初依頼をこなしてきたばかりの新人冒険者が何言ってんだ、と受付嬢や他冒険者達に白い目で見られそうというのもあるが、そもそもザイトルクワエ討伐の報告を上げるメリットが彼には少ない。
功績や報酬はもちろん欲しいとはいえ、正直彼に必要な地位や金銭は
『毎日美味しいごはんと小綺麗な宿に泊まれればいいよね。一人暮らしに丁度良い小さい家を買っちゃうのもいいかも』くらいの欲のモモンガが、急ぎアダマンタイトやオリハルコンの冒険者になる必要など全くない。武器やアイテムを買う必要もないので、そもそも生きる為の出費がないに等しいのだから。
それにあまり目立ちすぎると人間じゃないことがバレるリスクも増えるし、できれば小さなステップを踏んで階級を上げていくのが理想じゃないだろうか。
(……うん、確かに俺が組合に報告に行ったら魔樹のことは伏せちゃうかも)
ペテル、鋭い。モモンガは確かにと、彼の推察力に舌を巻いた。
まあモモンが自分の功績を全く誇ろうとしない慎ましやかな女性、という評価の下のペテルの推察であるので齟齬はあるのだが。そんな彼は自信満々に、こう告げる。
「今回のことはしっっっかり、私達『漆黒の剣』が組合に報告させていただきますからね」
何とも爽やかなスマイル。
ペテルは白い歯を見せて、サムズアップをしてみせた。他のメンバーも、とても良い笑顔で頷いている。
「………………よろしくお願いします」
……どうやら逃げ道はなさそうだ。
モモンガの中にあった『ゆっくりコツコツ冒険者プラン』がガラガラと音を立てて崩れていく瞬間だった。
「それでは報告は明日にするとして、とりあえずンフィーレアさんの荷下ろしですかね。このままバレアレ薬品店まで向かいましょう」
「その後はパーッとさ、どこかに飲みにいこうぜ! エ・ランテルの、いやリ・エスティーゼ王国の英雄の誕生を祝して! モモンちゃん、先輩冒険者としてここは俺達が奢るぜ」
「それは良い提案であるな! バレアレ氏もご同行願うのである!」
「えっ、僕もいいんですか?」
「当たり前じゃないですか。エンリさんとの話ももっと掘り下げて聞いてみたいですし」
「昨夜すったもんだな話はなかったのか?」
「ル、ルクルットさん! だから僕とエンリはそういう軽い関係では──」
わいのわいのと、賑やかにくっちゃべりながら一行はエ・ランテルを往く。
道中にある店や通りを話の種にしてあそこの店の酒が美味いだの、あの通りにたまに現れる露天商が当たりだの、雑多で取り留めのない話題ばかりだが、依頼終わりで浮かれているということもあって話は盛り上がっていた。
そこそこ話に加わってきてくれるモモンは何だか、少し明るくなったような気もする、とニニャは思う。割れた兜の隙間から見える横顔に、笑顔が増えた様な気も。ザイトルクワエの一件で確かに育まれた絆を感じてニニャは嬉しくなった。きっと明日にも、モモンは自分達にも手が届かない様な地位の人物になる。寂しくもあり、そして誇らしくもある感情を、彼は心の中で持て余していた。
そうして和やかな空気のままバレアレ薬品店に到着した一行は積み荷の薬草を下ろし、それらを店の貯蔵庫まで運び出そうとして──
「おかえりなさーい」
──猟奇的な笑みを浮かべた猫目の女が、そこにいた。
【バレアレ薬品店モモンガ同行ルート解放】
条件:ハムスケフラグ未回収
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2.狂気
「いやぁ、心配しちゃったよ。何日も帰ってこないんだもの。ずぅっと待ってたんだから」
猫目の女はそう言って、外套のフードを脱いだ。
ゆらめく燭台の灯りが、女の端正な顔立ちを照らし出す。金髪のボブカット。歳は二十前後くらいか。軽薄な笑みを浮かべた女は捕食者の様な瞳で、ンフィーレアを捉えている。仄立つ、只者ではない気配。
「あ、あの……どなたなんですか……?」
ンフィーレアが、恐る恐ると問う。
どうやら彼の知り合いではないらしい。女はクスクスと笑んで、明け透けにこう言った。
「私はクレマンティーヌ。君を攫いにきた怖くて、可愛くて、そんでもって、とっ──ても強いお姉さんだよん」
猫目の女──クレマンティーヌの瞳が、ンフィーレアを射竦めた。その瞳の恐ろしさに、彼の喉から悲鳴が弾ける。蛇に睨まれたカエルとは、まさにこのことだった。
「ンフィーレアさん、下がって!」
ペテル、ダイン、ルクルットが武器を構えて、ンフィーレアを庇う様に前へ出る。しかしクレマンティーヌは臆さない。大の男三人に武器を突きつけられても、彼女は鼻歌でも交えそうな楽観さを保ちながら、唇をべろりと舐めた。
「君のさぁ、どんなアイテムでも使えるっていう『
「え……」
「私達の道具になって、『叡者の額冠』ってやつを使ってくれなぁい? ね、お姉さんの……お・ね・が・い」
妖艶という言葉が果たして似合うのだろうか。
拐かす様な口振りだが、クレマンティーヌの発音一つ一つに危険な香りが付き纏う。
突如の誘拐宣言に、室内の空気がはっきりと硬質化していった。少なくともンフィーレアは、足元から這ってくる夥しい恐怖の影響で大量の汗を額に浮かべていた。
(……なるほどな)
混乱の最中、モモンガだけが得心した様に浅く息を吐いた。彼が違和感を覚えたのはバレアレ薬品店の外装を見たときからだった。店全体に、防音系統の魔法が張り巡らされていたのに彼は気づいていた。前に店に立ち寄った時は、確かこんなものはなかった筈だ、と。
しかしまあ、防音効果という特に害を成すような魔法ではなかった為にモモンガはこれについてンフィーレアに言及はしなかった。ポーションを作る為に何か物凄い大きな音を立てる必要があるのかもしれないし、夜中はそういう魔法を行使する可能性もあったからだ。
(見た感じこのクレマンなんとかは戦士系統……。魔法を使える伏兵は警戒しておくべきだな。それにしてもよく喋る……もう少し泳がせてみるか)
ユグドラシル基準であればこの程度の魔法、魔法詠唱者でなくとも低級のマジックアイテムで幾らでも再現可能だが、警戒にこしたことはない。モモンガは半分鎌をかけるつもりで、沈黙を破った。
「何だか随分と強者ぶっているようですが、お仲間は伏せておくつもりですか。やはりその振る舞いはハリボテ? 本当は弱いのだけれど伏兵を悟られない様にする為のブラフ、とか」
「……あー、活きがいいのが一匹いるねー」
ワントーン、クレマンティーヌの声色が落ちる。彼女は癪に障った、という表情を隠すことなく、モモンガを睨みつけた。彼はなるほどそっちが本性かと思うだけで、一切その眼光に怯まない。
「……ふーん」
クレマンティーヌは自らの殺意を叩きつけられても何の反応も示さないモモンガに興味を抱いた。下から上へ、嬲る様に見定める。胸元に下がる冒険者プレートの色は銅。強靭な心臓の持ち主なのか、または自分の殺気にすら気づかぬ弱者か。彼女の予想は後者だ。
(大層な鎧着てるけど、銅級の
アイテムの力を自分の力だと過信する馬鹿をクレマンティーヌは大勢見てきた。そしてそんな馬鹿の一人が、目の前にもいる。
クレマンティーヌの瞳が残虐な色に濁る。
そういった勘違い野郎を完膚なきまでに叩きのめして命乞いさせるのが、彼女にとっては至上の悦びだ。殺気にすら気づかずのほほんと突っ立ってる鎧女がどういう悲鳴を上げるのか、今から楽しみで仕方がない。
食事を平らげる前の時間を楽しむ様に、クレマンティーヌは先の質問に答えた。
「ここにいるのは私だけだよー。君達の掃除くらい、私一人でわけないしね」
「それではこの家に張り巡らされた防音の魔法は? 戦士である貴女がやったわけではないでしょう」
「あら……そんなナリして魔法も分かる感じ? それともマジックアイテムでも使った? いやぁ、目ざといねー。でもカジっちゃんはもうここにはいないよ。あなた達がくるのがあんまりにも遅いから、先に帰らせちゃった」
先程から行使してる探知系の魔法に引っ掛からないことを鑑みるに、その言に偽りはなさそうだとモモンガは内心で思う。
「だいぶ長い間退屈させてたようですね」
「そだよー。だからさ……その分愉しませてよね」
クレマンティーヌの口が、三日月の形へ変わる。獰猛な笑顔を浮かべた彼女は、フード付きの外套を脱いでパサリと床に落とした。そして露になる彼女の装備に、一同の目が見開かれる。
「……狂ってやがる」
ルクルットが、眉を顰めた。
晒されたクレマンティーヌの軽鎧。ビキニアーマーを思わせるほど露出の多いそれには、いくつもの冒険者プレートが打ちつけられていた。まるで鱗と見紛うほど、何枚も、何十枚も。銅からミスリルから、種々様々なプレートが。
「ハンティングトロフィー……であるか」
ダインの語気に、怒りが宿る。
あのプレートの一枚一枚が光を照り返す度に、クレマンティーヌに命を玩具にされた者達の怨嗟が聞こえる様だ。
そんな『漆黒の剣』の反応にクレマンティーヌは満足を得たのか、ニタリと粘り気のある笑みを浮かべた。
「君達もさー、ここに加えてあげるよ。ちょうど銀色が数枚欲しかったところなんだよね」
そう言って、一歩前へ出る。
体が揺れる。
クレマンティーヌの輪郭が陽炎の様に淡く揺らめいた。手を伸ばしてもスルリと肉体を透り抜けてしまいそうな隙の無さは、まさに戦士として完成されている。
ペテルは思わず息を呑んだ。
剣を握る手が、ぶるぶると震えてしまう。
(まだ武器も構えてないのに、このプレッシャー……!)
強い、と確信する。
それも途方もなく強いと。自分では間違いなく何の抵抗もできずに殺されるくらい、実力の差に開きがある。
「みなさん、下がっていてください」
そんな『漆黒の剣』の横を悠々と抜けて、モモンガは事もなげにそう言い放つ。英雄の頼もしい姿に『漆黒の剣』の緊張が僅かに綻んだ。クレマンティーヌはその様子を見て、怪訝な顔をした。
「おんやぁ……?
「……先輩達の手を煩わせるわけにはいきませんからね」
「やめといた方がいいと思うよー? そこのお兄さん達を盾にしてさぁ、さっさと尻尾巻いて逃げなよ」
「逃がしてくれるほど貴女は優しくはなさそうですが?」
「せーいかーい。仲間を捨てて逃げる人間の背中をドスッッッ!! ……と突き刺すのが最っ高に面白いんだけどなぁ、残念」
クレマンティーヌは猫目を歪めてクスクスと笑う。
「まあさーお姉さん優しいから。みんな一斉にかかってきなよ。そうすれば一秒くらいは寿命が延びるんじゃない?」
「それには及びません」
「……ん?」
「貴女程度なら私一人で問題はない、ということです」
剣も盾も構えず直立するモモンガの姿に、クレマンティーヌの額に青筋が走った。
「誰に喧嘩売ってんのか分かってんのかテメェ」
ドスの利いた声に、『漆黒の剣』とンフィーレアが震えあがった。間違いなく、このクレマンティーヌという女の凄みは人間として一線を画している。
しかしモモンガは涼しげに答えた。
「私は別に、事実を言ったまでで──」
モモンガの言葉の途中。
クレマンティーヌの体が消えた──様に、『漆黒の剣』の目には見えた。
肉体の脱力と緊張。
ふらりと体を落としたクレマンティーヌの加速に、凡人の目は追いつけない。彼女の猫目に灯るテールランプの様な赤い残光のみが、微かに認知できるほどだ。
まさに、電光石火。
クレマンティーヌは恐るべき速度でモモンガの懐へ潜り込むと、刺突武器──彼女の戦闘スタイル象徴するスティレットをホルスターから引き抜いた。ここまで、一秒すら掛かっていない。
刹那、交錯する翡翠の瞳と赤い瞳。
翡翠は冷ややかに赤を捉え、赤は嗜虐の色をありありと浮かべた。
「モモンさん!」
ニニャの声が飛ぶ。それと同時に、銀光が鋭くモモンガの頭を穿った。強烈な火花が散り、聞くも悍ましい甲高い金属音が弾ける。
人の身で成せる究極の刺突を受けたモモンガの首が──飛んだ。
宙に浮かぶモモンガの頭部に『漆黒の剣』が絶望の悲鳴を上げる。暗い室内に落ちたそれは、ガラゴロと重たい……空っぽの金属の音を立てて転がった。
……やがて静寂が場を支配する頃、クレマンティーヌはゆるりと上体を起こした。
「……あら、中身は別嬪さんだったかぁ」
べろり、とクレマンティーヌの長い舌が薄い唇を舐めずる。彼女はモモンガの『兜のみ』を弾き飛ばしたスティレットをくるりと手の中で弄んで、くつくつと笑った。
晒されたモモンガの顔は、相変わらずだった。何の感情に揺れることなく、天上の美を戴いた顔を変化させることはない。燭台に揺らめく橙の灯を受ける彼は、何も言わずに今もクレマンティーヌを見ている。
対するクレマンティーヌは肩を竦めて戯けて見せた。顔には軽薄な笑みが張りついている。
「……なーんか大層なこと言ってたけど、サ。この程度の攻撃にも微動だにできないんじゃ、肩透かしもいいところだよねー」
「当てる気がない攻撃を避ける必要がありますか?」
「……まあ、強がりの理由としては上々ってとこ?」
反論に皮肉で返す。
クレマンティーヌはニヤニヤとしながら、腹の中では苛立ちを覚えていた。先程の軽い攻撃に何の反応も見せられなかった弱者の癖に、口だけはよく回る。
(……このクレマンティーヌ様を前にしてよくもまあ、強気でいられるなこいつ。……いや、そうか。なるほどね。こいつ、『
狂気に満ちたクレマンティーヌという女は、しかし戦士としては
そうでなければ説明がつかない。
このクレマンティーヌ様の刺突をものともしない人間などいるはずがないのだから、と。
(カラクリは見当ついたけど、大見得切ってる意味はなんだ? ハッタリを使って時間稼ぎ……? そんなに後ろのお仲間が大事ってわけ?)
クレマンティーヌはこう考える。
弱者の最期の抵抗なのだと。確かに恐怖に震えているより、ハッタリでも自分を強く見せて注目を集めたほうが数倍時間稼ぎにはなり得るだろう。彼女から見たモモンガの行動の全ては、どうにも『虚勢をはって自分に注目を集め、そのうちに仲間を逃げさせようとしている』ように思えてくる。
(涙ぐましいねぇ)
結論は出た。
クレマンティーヌの口内から、笑いが零れた。ああ、なんて愚かで可愛いんだ、と。その努力を彼女はぐちゃぐちゃに潰したい。『漆黒の剣』を使ったグロテスクな公開処刑を演じ、その後に絶望に顔を歪めたモモンガをゆっくりと甚振りたい。殺さず、あの端正な顔をスティレットを使ってハチの巣にしてやるのもいい。顔の皮を剥ぎ、焼きゴテを押し付け、二度と男に振り返ってもらえない顔にしてやるのも最高だ。
「う、ふっ……くふ……」
想像するだけで笑いが止まらない。涎が止まらない。
クレマンティーヌは自分の体を掻き抱いて、自ら溢れてくる笑いを止める努力をした。だが、笑いが止まらない。やはり人を殺すのって最高だと、思わずにはいられないかった。
「私の顔に何か面白い物でもついていましたか?」
驚くほど優しい声音でモモンガに問われ、クレマンティーヌは首を横へ振った。
「いやいや、ごめんねー。くふっ……それじゃあ時間も勿体ないし、いっきますよー」
「……いつでもどうぞ」
モモンガはそう言って、得物を握らない。
ただ両手をゆるりと広げて構えるのみだった。
クレマンティーヌの眉が一瞬ぴくりと震えたが、彼女はそれを意識の外へ追いやった。追い込まれた雑魚の考えることなど、彼女には理解ができないことなのだから。
クレマンティーヌはゆるりと腰を落とした。
それだけのことで、辺りに異常な緊張感が張り巡らされる。彼女はくるりとスティレットを掌で弄んで──床を蹴った。
瞬間、またクレマンティーヌの体が消える。
常人の目では追いつけない。彼女は再びモモンガの懐へ入り込み、瞳にスティレットを突き立てようとして──その横を抜けていく。
まずは後ろの仲間達を殺戮して、モモンガに自分の無力さ、そして自分の恐ろしさを叩きつける。
きっとモモンガの顔は絶望に歪むはず。
クレマンティーヌは笑いを堪えながら、ペテルの喉元に狙いを定めた。喉にスティレットを突き立てるあの感触を予感し、興奮が焔の様に猛る。
「まずは一匹貰っ──」
──まさにペテルの喉元にスティレットの先端が触れる、その直前。
クレマンティーヌの顔を、金属の塊が柔らかく受け止めた。一瞬、彼女の思考に余白ができる。手甲を着けたモモンガの手だと理解できたのは、少し遅れてのことだった。
──寝てろ。
鼓膜を揺する、囁き程度の低い声。
クレマンティーヌの目が見開く──と同時に、世界が吹っ飛んだ。否、吹っ飛んだのは彼女自身。
クレマンティーヌの体が、硬球の様に飛ぶ。
余りの速度に、彼女は骨から肉と皮が剥がれそうな感覚を覚えた。
理解できない。
何が起こっているか分からない。
クレマンティーヌの痩躰は彼女の理解が及ばないまま、薬瓶が積まれた棚を破壊して、壁に激突した。
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3.怪物
喝采せよ。
4期1話のアルベドの可愛さに喝采せよ。
想像してみて欲しい。
短距離走の選手がクラウチングスタートを切り、トップスピードに乗った矢先に意識の外から巨人に頭を摘まれ、新幹線の運動エネルギーに匹敵する力で進行方向と逆に放り投げられる様を。
……今まさに、クレマンティーヌが体感したのがそれだ。彼女の体は薬瓶が陳列された棚をボウリングのピンの様に弾き飛ばし、壁に激突した。そこに追い討ちをかけるように、破壊された棚の瓦礫がクレマンティーヌの体を埋め尽くしていく。
瞬きのうちに行われた余りにもな衝撃に、沈黙が流れた。
(……すごい)
『漆黒の剣』が抱いた思いは、これほどか、ということに尽きた。彼らはモモンガの強さ、凄さは重々承知しているつもりだった。
しかし彼らが見たのは人対怪物という、少し現実味に欠けるスケール感の戦闘だ。どちらの存在も『漆黒の剣』には強さの底が計り知れない。モモンガとザイトルクワエのどちらが強いかと想像しても、夜空に浮かぶ適当な星を見てどちらが大きいかと論ずる様なものだ。
だが、クレマンティーヌという存在はザイトルクワエとは違う。人の形をしていて、人の究極ではあるものの、人という領域からは逸脱してはいない。だからこそ『漆黒の剣』にも彼女の恐ろしさが分かった。
故に、モモンガの強さをより肌に感じとることができる。クレマンティーヌという物差しによって、モモンガの底のない力をより実感することができてしまう。
彼らがどうひっくり返っても、生涯を費やしても、決して届き得ない究極の戦士・クレマンティーヌ──を、赤子扱いするモモンガとは一体……。
(やっべ……)
しかし当の本人──モモンガは、自分の起こした部屋の惨状に滝汗をかいていた。辺りに散らばる壊れた棚やら薬瓶やら錬金用の金物道具やらが、それはもう目も当てられないことになっている。
モモンガの現在の所持金──……一切無し。
無一文の彼にはどうひっくり返ってもこれを弁償する金はない。
「……」
ちらり、とンフィーレアを見る。
彼は恐怖に収縮、弛緩している胸を押さえるばかりで、部屋の状態にはあまり関心がなさそうだった。まあ命に関わる出来事に比べれば、当然だろう。
モモンガはこれを何とかクレマンティーヌか冒険者組合に補償させる算段を立てようとして──がらり、と音が立つ。
砕けたガラスを踏む様な音が聞こえる。
壁に激突し、薬瓶棚の瓦礫の下敷きになったクレマンティーヌが動き出したことに、『漆黒の剣』がギョッと目を見開いた。驚いたのはモモンガも同じことだ。あれで意識を失って──いや、正直死んでいてもおかしくない。
「貴女の
モモンガのその言葉に彼らはハッとした。
薬瓶棚の下敷きになったということは、ポーションに類する薬品も浴びたということ。ダメージを受けた直後に回復したのならば、立ち上がれることにもいくらか納得できる。
実際はクレマンティーヌが咄嗟に発動した武技──『不落要塞』の効果も手伝っているのだが。彼女の思考を上回る判断の速さは、まさに英雄の領域というべきだろう。
ぱっくりと割れた頭の肉から血を垂れ流しながら、クレマンティーヌがよろよろと立ち上がる。
「はぁー……っ、はぁ……っ」
しかしその有り様は酷いものだ。まるで産まれたての子鹿の様に足取りが頼りなく、目の焦点が定まってない。激しい脳震盪を受けた影響だろう、平衡感覚を保てない彼女はたたらを踏んで別の薬瓶棚に頭から突っ込んでいった。
棚が崩れ、薬瓶が割れる。
薬草や蠍の様な生物が漬けられた液体が辺りにぶち撒けられ、独特な香りが室内に漂った。
そして、吐瀉。
クレマンティーヌの外傷は多少癒えても、脳や内臓に及ぼしたダメージは継続されているらしい。彼女は膝をつき、えずきながら二度三度と胃の中身を吐き出した。
モモンガは内心もっとやれと願った。
店を汚した割合の比重が自分よりクレマンティーヌに片寄れば片寄るほど、彼が弁償しなければいけない印象も軽減されていくのだから。
「……みなさん、今のうちに店の外へ」
芋虫の様に蹲るクレマンティーヌを冷ややかな目で見ながら、モモンガは『漆黒の剣』らに退室を促した。正直もっとクレマンティーヌが部屋を壊す様を見ていて欲しいのだが、護衛対象の安全が最優先なのだから。
言われた彼らはハッとして、慌ててバレアレ薬品店を後にした。自分達がいれば邪魔にしかならない。あの時と同じだ。
モモンガを心配する声を出すものは誰もいない。
英雄はやはり、英雄。彼らが心配することすら烏滸がましいというものだ。
「……お加減はいかがですか?」
モモンガが優しくそう聞いたのは、クレマンティーヌがようやく立ち上がれた時だった。
「て、めぇ……」
定まらぬ瞳で、クレマンティーヌはモモンガを睨んだ。口内には未だ吐瀉物の酸味が残っており、再び嘔吐感が腹の腑から立ち上る。彼女はそれを飲み下して深く息を吐くと、手放さなかったスティレットをモモンガへ、ふらりと突き出した。その先端は、弱々しく揺れている。
「何、しやがった……」
「……?」
「その馬鹿力……一体、どうやって……」
クレマンティーヌの瞳がぶれる。
彼女は必死に探していた。このダメージ量、武技を使った自分に付いていけるあの反射速度、人をああも容易く投擲できるモモンガの膂力の理由を。
一介の
ならば何故あれほどの力を発揮できた? マジックアイテムの力? クレマンティーヌの知らない武技? それともやはりあの鎧の力なのか?
様々な理由を、巡らない頭で模索する。
しかしクレマンティーヌが正解を導き出すことなどできない。肝心の『モモンガがクレマンティーヌを遥かに凌ぐ上位者である』ということを導き出せないからだ。
……だが、それは決して愚かなことではない。
何故なら彼女はクレマンティーヌ。このリ・エスティーゼ王国で最強と名高いガゼフ・ストロノーフに勝るとも劣らない、人間が至れる一つの最高到達点に手が届いた女なのだから。その力は誇るべきであり、驕って然るべきことでもある。
自分に勝る強者など、『漆黒聖典』以外にいるはずがない。クレマンティーヌはそう高を括っている。彼女は自分が立ち上がるまでモモンガが何もせずに見ていたという事実に蓋をして、自らを奮い立たせた。
「……特別なことは何もしてません。ただこの手で捕まえて、放り投げただけですよ」
対するモモンガは当然のことを平然と言って、ひらりと手を見せる。タネも仕掛けもない、と言わんばかりに。
「……オーガの血でも混じってんのか」
クレマンティーヌは皮肉を言いながら、口に溜まった血の塊と歯を吐きこぼした。その皮肉が当たらずも遠からずなことに彼女は気づいていない。少なくともモモンガは、人間ではない。
「……」
くらくらとしていた視界も、なんとか回復してきた。ノイズ掛ったような思考も、次第に明瞭になっていく。クレマンティーヌは脂汗の浮かぶ額を拭いながら、現状を現実的な価値観で整理する。
(……落ち着け。遅れをとったと言っても、不意打たれただけだ。こいつの馬鹿力も目の良さも分かった……それは認める。だけど、命の獲りあいっていうのは総合力の勝負だ。私が本気で注意深く立ち回れば、こいつの攻撃は絶対に届かない。だって私は──)
──英雄の領域に足を踏み込んだ、クレマンティーヌ様なのだから。
目標のンフィーレアがここにいないことはもはや彼女にとってはどうでもいい。目の前のモモンガを撃破することこそが、第一目標に繰り上がった。
「……」
手の甲でグイと口の端を拭い、彼女は低く、深く、姿勢を落とした。それはもはや這う様な、四足歩行の肉食獣を思わせる姿勢だ。モモンガはクレマンティーヌのその姿から、獲物を狙う猫を連想した。そして何より、クレマンティーヌが戦意を失っていないことに彼は素直に驚いた。
「素直に降参されてはいかがですか?」
「……クソが。このクレマンティーヌ様が、テメェみたいな力だけのデクの坊に二回も遅れを取るわけがねぇだろうが」
「余程自信があるようですね」
肌に纏わりつくクレマンティーヌの殺気が心地よい。モモンガは微笑んだ。正直、この世界にきてから彼が誰かと目を合わせる時、それは友好的か、或いは畏怖の感情の篭った視線しかまともに向けられたことがない。
例え仮初でも、自分の力を見てそれでも対等かそれ以下の存在として看做してくれるクレマンティーヌに対し、モモンガは不思議と高揚感を覚えた。
PvPの心構えとは、こうでなくてはいけない。
故にモモンガは、クレマンティーヌの挑戦を快く歓迎する。
──ならば、決死の覚悟で掛かってきなさい。
そう言って、モモンガは諸手を広げた。
その手にはやはり、武器は握られていない。
ギシ、とクレマンティーヌの奥歯が軋む。
──『能力向上』
──『能力超向上』
人の身を超えた身体能力に、更に拍車が掛かる。クレマンティーヌは自身に
「……私は、クレマンティーヌだ」
凡そ独白の様な言葉だった。
彼女は犬歯を剥き出しにして、唸る。
「テメェなんかに……。テメェなんかが、この英雄の領域に踏み込んだ私に勝てるわけ──」
そうして、地を蹴る。
彼女の二つ名は『疾風走破』
風を裂き、今まさにクレマンティーヌは
「──ねェんだよおおおおおおおおッ!!!」
恐ろしく速い。
先程までとは動きが明らかに違う。
受けたダメージをものともしていない速さだ。
快楽殺人者としてではなく、一切の油断を無くした戦士の動きがそこにはあった。
詰まる両者の距離。
モモンガは未だ動かず、クレマンティーヌは旋風を生み出す。
(死ね)
油断も慢心もない。
この空間、モモンガの挙動の全てに、全神経を研ぎ澄ませる。だから分かる。この距離、この速度、このタイミング。クレマンティーヌの握るスティレットは、必ずモモンガの喉元を食い破ると。
目は離さない。
何も見逃さない。
クレマンティーヌは世界最高峰の技術と速度を以って、スティレットを突き出した。その先端、ガゼフすら見極めることは不可能。
スティレットは音を置き去りにするほどの速さでモモンガの喉元へ迫る。もう到達する。彼は未だに動いていない。殺した、とクレマンティーヌは確信できた。
……しかしそうはならない。
肉を突き破る感触がスティレットから返ってこなかった。伝わる感触は、さながら固い岩盤に突き立てたそれだ。
(──え?)
クレマンティーヌの背中が、驚愕によって粟立った。
スティレットの先端を──
手甲を付けた親指と人差し指で、何百人の命を刈り取った凶器の先端をつまんでいる。到底有り得ない離れ業を体現しているモモンガ本人は、涼やかに微笑んでいた。ゾワリと、クレマンティーヌの背に悪寒が走る。
そうしている間にもクレマンティーヌの体は動いている。動揺も厭わず、彼女の思考を待たずに既に手は動いていた。それは戦士としての本能なのだろう。
つままれたスティレットを持つ逆手。
左手が間髪を容れずにもう一本のそれを引き抜き、モモンガの喉を狙う──が、それもまたつままれる。
「ク、ソ、がぁああああああああああッ!!!!」
絶叫。
それはクレマンティーヌが自身の体を奮い立たせる為の咆哮に他ならない。彼女はここにきて漸く、モモンガの異常さに気づき始めていた。恐怖と困惑を振り払う様に、彼女は絶叫する。
つままれたスティレットを、クレマンティーヌはひねった。
その動作を受けたスティレットは、俄かに発光し──右のものは火炎を、左のものは紫電を吐き出した。
モモンガの体を強烈な焔と雷が襲う。
鼓膜を破壊するような雷の音と、目を潰すくらいの熱波が室内を暴れまわった。
直撃だ。
これを受けて生きていられる者など決していない。
アダマンタイト級冒険者ですら、焼けた骸を即座に晒すことになるだろう。この時点で勝負は決したといってもよい。
いくら刺突を防ごうが、スティレットに込められた『
……瀕死になる、はず。
「ヒッ」
クレマンティーヌは彼女自身も聞いたことのないような、怯えた声を喉から鳴らした。
『雷撃』と『火球』の効果は今なお続いている。
絶命に至らせるだけの殺傷力があるはずだ。断末魔を上げ、膝をつき、抗えぬ苦痛にのたうち回るのが自然というもの。
──しかしその中にあって、モモンガは微笑んでいた。
雷と炎に焼かれながら、彼はうっすらと笑んでいる。翡翠の瞳は不気味なほどに優しくクレマンティーヌの瞳を捉えていた。
その姿を見て、クレマンティーヌは一瞬で理解した。してしまった。
『こいつ、人間じゃない』……と。
ゾワゾワゾワと、鳥肌が浮き立つ。
全身の汗腺から、一斉に汗が吐き出される。薄着でも過ごしやすい室温なのに、まるで凍土の世界に放り込まれたように寒気を感じた。
途方もない恐怖。
突然足元に奈落の底が現れた様だった。
「う、わ……」
ガチガチと、歯が鳴る。
竦んで、彼女は自慢の武器であるスティレットを取りこぼした。そんな様子を、モモンガは不思議そうに見ている。
……化け物。
取り繕わず、クレマンティーヌはそう評した。
「うわあああああああああああああ!!!!!」
クレマンティーヌは絶叫して、モモンガに背を向けて走り出した。棚を突き崩し、途中頬から素っ転びながら、彼女は窓ガラスを突き破って逃げ出した。そんな彼女を、モモンガは相変わらずな様子で見ている。
「確か、逃げる相手を後ろから突き刺すのが最高に面白い……だったか?」
モモンガはそう言って、部屋に転がる二本のスティレットを拾い上げた。
escape from……
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4.拷問
モモンガはクレマンティーヌにはまだ用がある。逃がすつもりは毛頭ない。
それは勿論ンフィーレアを攫おうとした真の理由を聞きださなければならないからだ。『叡者の額冠』なるアイテムを使わせて大量のアンデッドを召喚しようとしているのは彼女がべらべらと喋ってくれたが、その真の狙いはまだ聞いていない。
世界を恐怖に染めてやろうなどというコテコテの悪役じゃあるまいし、アンデッドを大量に発生させる何か裏の意図があるはずだ。
それにクレマンティーヌはンフィーレアに『私達の道具になって』と言葉を投げかけていた。裏に何らかの組織がついていると見るのは自然だろう。そこら辺も魔法的に問い質す必要がある。
そして何より一文なしの自分に代わってあのバレアレ薬品店で壊したものを弁償させなければいけない。クレマンティーヌでなくとも、然るべき機関に突き出せば国が補填してくれたり報奨金を貰えるかもしれないし、彼女の生け捕りはそういった面でも必須だ。
必死の形相で閑散とした路地を走るクレマンティーヌを『
スティレット。
ユグドラシルのデータクリスタルでは再現できない、純現地産の刺突武器。低位の魔法を一つ込めることが可能で、刺突の際にひねるというアクションを組み込むことで魔法が発動する。
データ量も耐久値も低い、まさにモモンガにとってはガラクタそのものな武器だが、こういうものに彼のコレクター魂は刺激される。
クレマンティーヌが人気のない路地裏に入った。
モモンガも『
「な、なんだよあの化け物……マジで冗談じゃねぇぞ」
歯を鳴らしながらチラチラと角から視線を配るクレマンティーヌの姿が愚かしい。モモンガは何となく彼女の姿が、感知系の対策を全く施していないユグドラシルの初心者プレイヤーの様に思えてきて若干の愛おしさすら湧いてくるほどだった。
これは
「早く、早くこの街から出ないと……」
クレマンティーヌはまだモモンガから逃げられると思っているようだった。最早彼女を追っている『風花聖典』のことは頭の外だ。どれだけあの化け物から距離を取れるかということで、頭が一杯だった。
だが、クレマンティーヌが踏んだのは大魔王の裾に他ならない。故意であれ事故であれ、これに関しては自身の不運を呪うしかないだろう。
そんな憐れなクレマンティーヌの背中を眺めながら、モモンガはスティレットを握り込んだ。
(……俺がこのエ・ランテルで初めて友好関係を築けた彼らをこいつは徒に殺そうとしたんだ。それ相応の報いは受けてもらうぞ)
未だに路地の向こう側を気にしているクレマンティーヌの背後で、モモンガは『完全不可知化』を解いた。薄暗い闇夜に、ぬるりと美女の姿が現れる。モモンガは全く躊躇うことなく、クレマンティーヌの背中にスティレットを突き立てた。
「──うっ!?」
背から突き刺したスティレットの先が、鮮血に塗れてクレマンティーヌの腹から飛び出した。
きめ細やかな乙女の白肌に凶器を突き立てるその感覚に、モモンガは僅かに顔を顰める。悪魔且つ骸骨の彼だが、こういう倫理観に働きかける咄嗟の反応というのはやはり鈴木悟が出てしまうようだった。
まあそうは言っても、料理をしたことがない人間が初めて魚の首を落としたくらいの動揺しか得られていないのだが。
モモンガはぐり、とスティレットを捻り、クレマンティーヌの身に自分が充填していた魔法を注ぎ込んだ。
「お、おま──」
振り返ったクレマンティーヌが何かを言おうとして、その言葉の先が掻き消える。彼女は今なおモモンガに何かを捲し立て……いや、必死に訴えかけているが、どれだけ叫んでもそれは声にはならない。『麻痺』状態になった彼女は、か細い声を上げながら膝から崩れ落ちた。
「スティレットの実験は成功、か。なるほどこれは暗器としては何かの役に立つかもしれないな」
クレマンティーヌの腹から引き抜いた血濡れのスティレットを眺めながら、モモンガは呑気な独り言を零した。殺してはいけないので、
「……」
そうしてクレマンティーヌの顎を掴み、モモンガの目線と合う様に持ち上げると、彼女は涙を零して顔を横へ振ろうとしていた。そこに強者だったクレマンティーヌの姿は欠片もない。
「……殺しはしませんよ」
言葉が出ないクレマンティーヌの気持ちを酌み取って、モモンガはそう言葉を優しく掛ける。今から『とてもひどいこと』をしようとしている者とは思えぬ、柔らかい口調だった。その不気味さが、クレマンティーヌは恐ろしい。
「でも……貴女はこういう時、沢山、沢山殺してきたんでしょう」
プレートを一枚弾いて、モモンガは耳元で囁く。
「そして、貴女は愚かにも『漆黒の剣』やンフィーレアさんのことも殺そうとした」
クレマンティーヌは分からない。
一体この目の前の化け物が、自分に何をしようとしているのかが分からない。未知とは恐怖だ。彼女の股座から、じわりとアンモニアの臭いが滲み出した。
「なら、少しは怖い思いをしてもらわなきゃ……ね」
微笑むモモンガはそう言って、優しくクレマンティーヌの体を抱き締めた。それは母や恋人の様な、慈愛に満ちた抱擁だった。包み込まれる安心感がこのシチュエーションにはひどく不釣り合いで、彼女はその温度差に心がバラバラになってしまいそうだった。鼻腔に、モモンガの髪の香りが触れる。理性を蕩かす様な甘い体臭に、クレマンティーヌの身がぶるりと震えた。
優しい抱擁というのは、凄絶な人生を生きたクレマンティーヌが産まれて以来初めてのことかもしれない。
一体自分は今から何をされるというのか。一体目の前の悪魔は何をしようとしているのか。震えが止まらない。
「貴女にはまだ試していない私のスキルの実験に付き合ってもらいます。色々聞くのはそのあとで、ね」
子にお使いを頼む母の様な口調だ。
クレマンティーヌは痺れる体を何とか動かして、必死に首を横へ振る。喋れるものはなんでも喋るから見逃して欲しい、という気持ちでいっぱいだった。
……しかしモモンガにその願いは聞き届けられない。彼は優しい抱擁を続けたまま、とうとう実験を開始してしまった。
「絶望のオーラ……レベルⅠ」
そう唱えた瞬間、モモンガの体からぶわりと煙のような暗黒が立ち上った。
絶望のオーラ。
それはモモンガの持つ種族スキルの一つで、レベルⅠからⅤまでの段階がある。Ⅰは恐怖、Ⅱは恐慌、Ⅲは混乱、Ⅳは狂気、Ⅴは即死のバッドステータスを相手に与えるというものだ。
ユグドラシルで以上のバッドステータスを与えられたときは特定のスキルや魔法が使用できなくなったり、行動コマンドを強制的に限定されたりなどの効果はあるのだが、所詮はゲームなので実際に恐怖に冒されたりするということはない。
ならば実際にこの異世界で絶望のオーラを発揮した際、現地人はどういう反応を示すのか、というのがモモンガは知りたかった。
だから
……さて、肝心のクレマンティーヌはどうなっているかというとそれはもう大変なことになっていた。麻痺で体は動かずとも、彼女の体は様々な反応を示してくれている。蚊の鳴くような音で喘鳴し、滝に打たれたかのように汗を噴き出していた。瞳孔は拡大と収縮を繰り返し、瞳からは涙が駄々洩れている。全身の穴という穴から、体液を分泌していた。
そんなクレマンティーヌの背中を、モモンガは優しく擦っていた。優しい抱擁の様に見えるが、彼はクレマンティーヌの纏う夥しい冒険者プレートの感触を確かめているのだ。亡くなった者達の怒りを、感じていた。
「……怖いですか?」
……応答はない。
恐怖の胎の中に仕舞われたクレマンティーヌの耳には、もはやモモンガの声は届いていなかった。涙を流す虚ろな瞳は、屍人の様に濁っている。
「……もう少しいけそうですね」
自我の崩壊寸前のクレマンティーヌの顔を見たモモンガが発した台詞に耳を疑うものは多いだろう。しかし彼は、何ら躊躇せずに絶望のオーラのレベルを一つ繰り上げた。この世界最強と自負する戦士の精神に対し、絶望のオーラがどれだけの効果を及ぼすのかという知的好奇心が、何よりも勝っていたからだ。
「……わあ」
絶望のオーラのレベルを上げた張本人は、そんな呑気な感嘆詞を零した。
クレマンティーヌの体が、まるで悪魔に取り憑かれた様に痙攣を始めた。恐らく麻痺効果が付与されていなければ、それはもう絶叫していることだろう。目は白目を剥き、口からはぶくぶくと泡が吐き溢れている。
クレマンティーヌはその生い立ちから、様々な絶望と恐怖を味わわされてきた。それこそ人を殺すことで快楽を得られるくらいには、性格がねじ曲がるほどに。
そんなクレマンティーヌが体験したことのない恐怖の大津波が、今まさに彼女の身を喰らっている。これほど一秒を長く感じたことも、生きていることに苦痛を感じたこともそうそうないだろう。彼女の身に、そして心に何が起きているのかは、本人しか知ることはない。
絶望のオーラ……レベルII。
モモンガの至近距離で十秒程も浴び続けたところで、クレマンティーヌはとうとう意識を失った。顔面はまさに蒼白そのもので、亡霊に呪い殺されたと言われても納得できる有様だった。
くったりと折れた世界最強に近い戦士を抱えながら、モモンガはさながら自由研究の結果でも推察する様にぶつぶつと考察を並べる。
「うーん、レベルIIで気を失うか……ステータスが上がったことで種族スキルも強化されているのか? それともやはり、これだけレベルの差に開きがあると恐怖効果も増えるのだろうか……?」
白目を剥いて泡を噴くクレマンティーヌの青白い顔をしげしげと眺めながら、モモンガは思考に埋没した。
『
しかしその中でも一番効果を確かめなければならないのはやはり『
正直ステゴロですらこの世界では戦力過多なモモンガにとっては、こういう搦め手こそが今後主に役立つ筈だ。
というところで、視線はクレマンティーヌに戻る。
お仕置きは完了したし、次はやるべきことをやらねばならない。叩き起こし、精神支配した後に全ての情報を吐かせ、『記憶操作』で直近の記憶を消して豚箱にダンクすればミッション完了だ。
人体実験も兼ねた最高のプランだなと、モモンガは自画自賛する。
クレマンティーヌに後ろ盾の組織があることが聞き出せたら、バレアレ家の安全の為に適当にシモベに潰してきてもらうのも良いだろう。
そうしてモモンガがクレマンティーヌを叩き起こそうとしたところで──
「何をしている!」
──静かな路地裏に、男の声が響き渡った。
見れば軽鎧を装備した戦士風の男が二人、慌ててこちらへ駆けてくるところだった。手提げの角灯を持った彼らが近づくにつれ、闇に塗れた空間が温かな橙色に変わっていく。
モモンガは内心で舌を打った。
これからが肝心だというのに、なんと間の悪い。
僅かな苛立ちを覚えているモモンガの気など露知らず、男達は角灯を掲げてモモンガの顔を照らし出した。
「我々はこの辺りを巡回している者であ──……あなたは……モモン、さん?」
男達は言葉の途中で顔を見合わせて、ずばりモモンガの名前を言い当てた。対するモモンガは正直彼らのことを知らない……いや、覚えていないというのが正しいだろう。
事実、男達の顔は分からなくとも、彼らが纏っている鎧は何となく見覚えがある……様な気がしている。
(…………ああ。この人達、エ・ランテルの検問所にいた衛兵達か)
どうでもいいカテゴリの引き出しから何とか記憶を掘り出すと、モモンガは苛立ちを押し隠して相好を崩した。
「ご苦労様です」
兜を被っていない素顔を晒しているモモンガの笑顔に、男達はどきりと顔を赤らめた。そう、彼らはモモンガが初めてエ・ランテルへ訪れたときに検問所の警備にあたっていた兵士達だ。彼らからすれば、これほど高貴な雰囲気を纏った
……しかし、何故検問での仕事が主な彼らがここへ?
「確かあなた方は、検問所の──」
「そ、そうです! よく覚えていてくれましたね。あ、申し遅れました!私の名を──」
なんとなく前のめりだ。
それに聞いてもいないのに名前を語りだした。これだけの美女に記憶されていたことに興奮した彼らは、より一層お近づきになろうとしているようだった。無駄な世間話も始める始末。仕事はどうした仕事は。
男達は一通りのおべんちゃらを終えると、今更きりりと表情を引き締めた。先程までデレデレしていたのに、今は一重が二重になっている。
「モモンさん、それよりお気をつけください。最近このエ・ランテルで通り魔による殺害事件が多発しているんですよ。日毎に刺突武器で残虐に殺された遺体が発見されております。ま、まぁ? 私達が……いや、ゴホン! ……検問からわざわざ駆り出されたエリートの私がここいらを警邏しておりますので、モモンさんには指一本触れさせやしませんがね。はっはっは。しかし何卒夜の一人歩きはお気をつけを……して、その抱えていらっしゃる女性は?」
「あー……多分ですが、その通り魔かと」
「ああ、そうなんですか──ええ!?」
奇々怪々なプレートメイル、そして件の凶器のスティレット。証拠は十分すぎる。衛兵達の話を聞きながら、モモンガはまず間違いなくその通り魔はクレマンティーヌだと思ったのだが──内心で馬鹿正直に言ってしまったことを後悔した。
渡してしまえば『支配』や『記憶操作』の実験もできないばかりか、ンフィーレアを狙った情報も聞き出すことができない。モモンガは自分の短慮さを恨んだ。
「ご、ご協力感謝致します! 通り魔の身柄は、私どもが引き受けます……!」
……しかし街の衛兵達にこう言われて断る理由が特に思い浮かばない。下手に匿えばモモンガにも疑いの目を向けられることだろう。
「……私は当然のことをしたまでです」
そう言って、モモンガは泣く泣くクレマンティーヌの身柄を引き渡した。まあ、ンフィーレアをまた裏の組織が狙うつもりならバレアレ家にシャドウ・デーモンでも忍ばせておけばいいだろう。
モモンガの頼もしく、そして美しい微笑みに、衛兵達は最大限の敬礼で返した。
──エ・ランテル共同墓地。
そこに秘密裏に作られた地下空間に、腰の折れた一人の男が佇んでいた。顔の皮は弛み、深い隈と枯れ枝の様な細さから、一見してその男を老人と見紛う者も多いだろう。
名を、カジット・デイル・バダンテール。
秘密結社ズーラーノーンの十二高弟に名を連ねる死霊系魔法詠唱者だ。
彼は深紅のローブを翻して、手の中の宝珠を固く握り込んだ。
「あの性格破綻者め。一体何をしておるというのだ」
毛髪のない顔に皺を刻み、カジットは忌々しそうに言葉を零す。ンフィーレアと『叡者の額冠』を使い、『死の螺旋』発動に協力すると彼に提案したのは他ならぬクレマンティーヌだ。
そのクレマンティーヌがンフィーレアを攫いに行ったきり帰ってこない。
(失敗した……? いや、あの小娘に限ってその様なヘマはあり得ない。狂人だが、腕はあのガゼフをも凌ぐのだからな。ならば何故帰ってこない。裏切った? いや、互いの利害は一致しているはず……)
そろそろクレマンティーヌが消えてから二度目の日没が訪れる。
これほど待っても帰ってこないということは、きっと何かがあったということだ。
(……まさか『漆黒聖典』がもう奴を嗅ぎつけてきたというのか)
禿げ上がった頭に脂汗が滲み出す。
カジットが推測できる最悪中の最悪を想像し、彼は低く呻いた。
まず事態を把握しなければならない。
カジットは額の汗を拭って──
「誰だ」
──鋭く、睨んだ。
足音が一つ、地上から降りてくる。
ここはカジットに与する者以外は場所を知らないはず。仲間は皆地下にいる。ならばここに降りてくる足音は、一体誰のものだというのか。
「そう睨むな。カジット・デイル・バダンテール」
……現れたのは、刺青を全身に彫り込んだ筋骨隆々とした浅黒い男だった。厚みがある肉体は、痩躰のカジットとはまさに対照的と言って良いだろう。
「なぜその名を知っている……貴様、何者だ」
「八本指──六腕のゼロと言えば分かるか?」
八本指。
もちろんカジットも知っている。王国の裏社会を牛耳る組織の名だ。そして六腕とはその八本指の警備部門の名称。ゼロは、その六腕の長だ。
予想だにしない大物の来訪に、カジットは警戒心を高めた。いつ命の獲り合いが始まってもいいように。そんな彼を見て、ゼロは肩をすくめる。
「そう睨むな。何もお前達を潰しにきたわけじゃない」
「……八本指が我々に何の用だ」
「取り引きがしたい」
「取り引きだと?」
訝しむカジットに、ゼロは野性味のある笑みを見せた。雄臭い笑みだ。
ゼロはとっておきの話だと言わんばかりに、切り出した。
「お前の仲間の女ごと『叡者の額冠』をウチで預からせてもらってる。俺の取り引きに応じるなら、死の螺旋に協力してやるのもやぶさかではない」
カジットの目が見開かれる。
『叡者の額冠』は今の段階では彼には必要不可欠なアイテムだ。再び入手できる手段があるというのなら、話を聞かないわけにはいかない。
「……まずは話を聞こう」
カジットの返答に、ゼロは満足そうに頷いた。
……夜は、更に深くなっていく。
モモベド「このモモンガの絶望のオーラはレベルが上がる度にパワーがはるかに増す……。そのレベル上昇をあと三回も俺は残している。その意味がわかるな?」
クレマン「あ……あ……」
まずは生還おめでとう。
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5.傑物
鎧は治ってます。
──クレマンティーヌを倒した日の、翌々朝。
モモンガは木漏れ日を受けながら、ぐぐぐと背筋を伸ばした。そうすると胸の豊かな双丘が嫌というほど存在感を発揮するのだが、人の目は全くないので問題はない。
トブの大森林に構えた拠点作成系アイテム『グリーンシークレットハウス』を片付けると、モモンガはひらりと大きな木の枝へ飛翔した。余り使うことはないものの、背に生えた翼も今では手足の様に扱うことができるようになった。
「……」
さわさわと木の葉がやわ風に揺れる。
鳥は囀り、朝露の落ちた緑はその生命力を誇示する様に青々と輝いていた。
大森林に一人。
思えばモモンガはこの世界にきてから、常に誰かと時間を共有していた様に思える。それは決して苦痛ではなかったが、それでもこうして一人で森林浴をしていると、こういう穏やかな時間も自分には必要だと思えてくる。
クレマンティーヌを仕置きした日の夜から、モモンガはトブの森に籠っていた。というのも、バレアレ家を警護させておくシモベの召喚・選別・実験を行なっていたからだ。
スキルによって無から生み出したシモベは召喚時間に限りがある。しかし骸を媒介としたアンデッドの創造にはその制限がない。
故にモモンガはトブの森を歩き回り、適当なモンスターの骸を収集していたのだ。転移した先にトロールの巣らしき穴倉があったのは彼にとって幸運だった。友好的な知的生命体の殺生は余りしたくはなかったが、グとかなんとかいうトロールがモモンガに絡んできたどころか食い物にしようと近寄ってきたのが悪い。即座にトロールの巣を殲滅し、その全ての骸を有効活用させてもらった。
そうして生み出したのは隠密能力に長けたアンデッド達だ。これをバレアレ家やカルネ村に常駐させておくだけで、今後それらはモモンガが出向かなくても守ることができる。カルネ村には既に配置させ、残りはこれからエ・ランテルに連れていく為、影の中に潜んでもらっている。
因みにバレアレ薬品店の諸々の補償だが、これはモモンガがクレマンティーヌを捕縛した報奨金を全て充てさせて貰っている。ということで、彼は今も絶賛無一文状態継続なのであった。
「……今日はいい仕事あるといいな」
モモンガはそう言って、銅級のプレートを指ではじいた。飯を食うには金が要る。彼は魔法を唱えて、エ・ランテルへと転移した。
「……ん?」
組合所の扉を開いたモモンガは、はたと違和感に気づいた。
組合に姿を現した彼に一斉に視線が突き刺さる──のはいつも通りなのだが、今日は何かがおかしい。
(……なんだ?)
いつもは自分を訝しむ目ばかりだが、今は様々な感情に富んでいるような気がする。
敵意や懐疑、品定めの様な視線から始まり、憧憬や敬意に満ちた目で見てくるものがいる。
これはやはり……。
(……『漆黒の剣』が俺のこと触れ回りまくった結果だろこれ)
自分のことを嬉々として語りまくる彼らの姿が容易に目に浮かぶ。
しかし『漆黒の剣』の話を素直に受け取った者や、眉唾だと受け入れられない者とがいるようだ。比率的には後者の方がかなり多そうだが。
「モモンさん」
入口で突っ立っていると、受付嬢のイシュペンが小走りで駆け寄ってきた。用件はモモンガにも想像がつく。
「組合長が応接室でお待ちです」
……そらきた。
『漆黒の剣』の語るモモンの英雄譚は結構脚色が多かったりする。案内してくれてるイシュペンの背中を眺めながら、彼は絶妙に居心地の悪い気分になっていた。組合長や他の冒険者達にまであることないこと言ってるのなら、その弁明が割と面倒くさい。今度彼らの語る英雄譚を一回検める必要はありそうだ。
「失礼致します。モモンさんをお連れいたしました」
「入室を許可する」
イシュペンに導かれて中に入ると、冒険者組合長のアインザックが既にテーブルに着いていた。白髭を蓄えているものの、服の下から盛り上がった精強な体つきのせいで、年老いているという印象をモモンガは抱かなかった。
「モモンさん。よく来てくれた。そちらへ掛けてくれ」
アインザックの表情はどこか固い。
口振りこそ尊大だが、一端の冒険者を相手にしているというよりまるで上役を相手にしているような固さがそこにはある。
モモンガは軽く会釈をしてアインザックの向かいの席へと着いた。
「初めましてになるな。私がこのエ・ランテルの冒険者組合長を務めているアインザックだ」
「お初にお目に掛かりますアインザック組合長。先日こちらの組合で登録を済ませたばかりのモモンと申します。それで、若輩者の私に何かご用件があると伺いましたが?」
「うむ……」
アインザックはイシュペンに配膳された紅茶にひと口つけながら、目の前のモモンを注意深く見た。組合長を長らくやってきた彼だが、これほど見事な漆黒の鎧はお目にかかることはなかった。それに確かに兜の中から発声されているものは間違いなく、女性の美しい声だ。
噂に違わぬ、とはこのことだろう。
アインザックは僅かな緊張感を孕みながら、静かに切り出す。
「……早速本題に入ろう。君を呼んだのは、魔樹ザイトルクワエの件だ」
まあそうだろうなと、モモンガは思う。
彼は頷いて、聞く姿勢を保った。
「『漆黒の剣』から君の話は散々聞かされたよ。世界を滅ぼせるだけの魔樹を単騎で打ち倒したという、君の話はね」
両者の間に、紅茶の湯気がゆらりと揺らめいた。
モモンガは何も言わず、静かにアインザックの次の言葉を待っている。アインザックは紅茶にひと口つけると、続きを語りだした。
「本日より、私が選抜したミスリル級冒険者チームの小隊を護衛につけて私自らその魔樹の跡地の調査に向かう予定だ」
「組合長が直々にですか」
「魔樹の話が本当なら、リ・エスティーゼ王国全土を巻き込むほどの大事だからな。組合長の私のこの目で確かめるべき事案だろう」
平坦な声で返すモモンガが、兜の中でどんな表情をしているのかアインザックに知る術はない。彼は僅かに唾を飲んだ。
「……君を疑いたいわけではない。ただ、信じ難いという気持ちも察してくれ。『漆黒の剣』の話を聞いた他の冒険者とて同じ気持ちだろう。空にも届くほどの魔樹をたった一人で打ち滅ぼすなど、誰が信じられようか」
当然の疑問といえば当然の疑問だ。
銅級の冒険者が、アダマンタイト級冒険者チームをダースで用意しても成し得ない偉業を遂げたというのは流石に話に無理が有りすぎる。
しかしモモンガはこれに本当です信じてくださいというのも馬鹿らしく思っていた。誇りたいとも思わないし、自分が口で言ってもどうせ信用足り得ないと分かっているからだ。
モモンガは真っ直ぐにアインザックを見ながら、静かに自分の意見を語り出す。
「私からお伝えできるのは巨大な魔樹を私の手で滅ぼしたということだけです。『漆黒の剣』は正直私のことをかなり……なんというか、英雄視してしまっているので、彼らの話は話半分で聞いてください。組合長自らザイトルクワエとの戦場跡地を見てきてくれるのは非常に助かります」
「……なるほど。身内や自分の言よりも、実際にその目で確かめてくれというわけだな。あくまでも判断は組合に委ねると」
「ええ。それとザイトルクワエを撃破できたのは全て私の実力というわけではないということを考慮していただければ。私はたまたまザイトルクワエを倒せるだけのアイテムを持ち合わせていたに過ぎませんからね。もしもアイテムの助けがなかったら流石に勝つことは無理でした」
「……そのアイテムとは、君の持つ剣のことかね?」
「いえ。これです」
モモンガはそういってどこからか『魔封じの水晶』を取り出して、アインザックの前へ置いた。七色の光を放つそれに、アインザックの目が丸くなる。
「……これは、『魔封じの水晶』か」
「第八位階の魔法が込められています。これと同じものを暴走させたからこそ、私は魔樹を撃破できたのです」
第八位階。
魔法はラケシルの専門分野だが、アインザックにも途轍もない位階魔法だということは分かる。もっと低位の魔法のスクロールでさえ高額で取引されているというのに、第八位階ともなるとその価値は想像もつかない。そもそも、値がつくものなのか。アインザックの背に、冷や汗が滲み出した。
「こ、こんなとてつもない秘宝を使ったというのかね」
「トブの森の近くにはカルネ村があります。人命には代えられませんからね」
事もなげに言い放つモモンガの底が、アインザックには計りしれない。
国がひっくり返るほどの価値を持つ秘宝を、何ら躊躇せずに人命の為に擲つ行動力。そしてそんな秘宝をもう一つ持っているという途轍もない財力。そしてその事に対して誇りも驕りもしない英雄性。
アインザックはなるほど『漆黒の剣』がモモンに惚れるはずだと納得を得た。
不可能を可能とするような力を、確かに目の前のモモンから見い出せる。彼の心が、俄かに熱くなった。自分は今、伝説を見ているのかもしれない、と。十三英雄や六大神の様な存在を、この網膜に映しているのではないのか、と。
君は、一体何者なんだ。
その言葉を、アインザックはすんでのところで飲み込んだ。それは素性や来歴関係なく働ける冒険者を束ねる組合長として、あるまじき発言だ。
「しかし噂通り……いや、噂以上の傑物だな。『漆黒の剣』の話も、あながち間違いは多くはなさそうだ……」
「過分な評価恐れ入ります。しかし組合長が実際に調査に向かわれるなら、これ以上私が語ることもないでしょう。百聞は一見に如かずといいますし、私は『漆黒の剣』が語る様な英雄になりたいわけではありません。一冒険者として、冷静かつ客観的な評価を組合には求めておりますから」
冷静な物言いに、アインザックは強烈な違和感を覚えた。
例えば冒険者にとって最も栄誉あることの一つである
……しかしそういった心の機微をアインザックはモモンガから感じ取れない。
そのことに違和を覚えるのだ。たとえザイトルクワエ討伐が真実でも虚偽でも、自分がやりましたと言い張る筈だ。金にせよ名誉にせよ、何の理由であれだ。
だが、モモンガの口振りは余りにも無味無臭。
はっきり言って人間臭さ──欲を感じ取れない。
ザイトルクワエがモモンにとってはそれほどの存在でしかないのか? いや、それは有り得ない。話だけならザイトルクワエは如何なドラゴンよりも難度が高いのだから。
やはりモモンは金や名声といった私欲の為に動いていないように、アインザックには思える。
(なんにせよ、今見たもの……そして聞き及んでいることだけを精査すると、『比類無き英雄』という評価は妥当だろうな)
滅私奉公という言葉があるが、モモンという冒険者はそれに近いと言えば近いし、違うと言えば違う。しかしながらモモンは私利私欲の為でなく、弱者の為に自分の力を振るうことに躊躇しない強い善性が確かにある、とアインザックの目には映っている。
聞きたいことは大体聞けた。
モモンという人となりもアインザックは評価できた。
後は実際に彼自身がザイトルクワエの戦場の跡地を見て、モモンの戦士としての実力をその目で確かめるだけだ。
……しかしアインザックにはもう一つだけ、モモンについて確認しておきたいことがあった。
「君の素晴らしい人間性はよくわかった。これからもどうかエ・ランテル──ひいては人類の為にその力を振るって欲しい」
「こちらこそ、冒険者の末席に私を加えて頂いて光栄です。ありがとうございます」
「よろしく頼むよ。……それより紅茶は苦手かね? これは私がよく好んで飲んでいるものでね。わざわざいつも取り寄せてもらっているものなのだが……」
それとなく、自然な流れで話題をそちらへもっていくアインザックはしたたかな男だ。結局アインザックもモモンの兜の中身が気になっている。ラケシルも『漆黒の剣』も、モモンは比べられる者がいないほどの美女だと口を揃えるのだから仕方がない。
莫大な財を持つ謎の英傑の素顔など、気になって当然だ。
対するモモンガは、丁度良いと頷いた。
この街の冒険者組合の長に自分のことを人間と認められ、広く周知してもらえば、このエ・ランテルで素顔を隠して行動するのに幾分か動きやすくなるだろう。アインザックに素顔を見せるメリットは大いにある。
「もちろんいただきます。せっかくの紅茶も、冷えてしまっては味も落ちてしまいますからね」
モモンガはそう言って、兜に手を掛けた。
アインザックの喉がごくりと鳴る。イシュペンも若干、身を乗り出していた。ザイトルクワエの話をしていた時とは別種の緊張感が彼の足元から這い上ってくる。噂に聞く美女の素顔を見れるということに、彼は胸を僅かに高鳴らせたが──
「なんと……」
──言葉が、出てしまっていた。
兜を脱いだモモンガの素顔は、アインザックの想像を遥かに超えるところにあったのだ。
兜に溜まった艶やかな黒髪が、はらりと落ちる。
冒険者モモンの美貌のその全容が露わになる。黒髪が揺れて、甘い香りが辺りに漂った。
綺麗、美しい、そんな言葉では到底表すことは叶わない。同性のイシュペンもハッと息を呑んだのを、視界の端で捉えた。
(こ、これほどか……)
モモンの美しさを女神や天使と形容していたラケシルの言葉が、今はすんなりと腑に落ちた。輝くような美しさ。そしてそこに粘性の高い毒液の様な妖艶さが纏わりついている。王国中……いや、大陸中を探してもこれほどの美しい女性はいないと断言できる。
「いただきます」
モモンガの桜色の唇がカップの縁に触れるのを見て、アインザックは唾を飲み込んだ。たったそれだけのことなのに、何か見てはいけないようなものを見ている気がしてしまう。自分はほとほと枯れかけていると思っていたのに、あの唇に触れてみたいという雄らしい好奇心に彼自身動揺していた。
紅茶を飲んだ後に吐いたあの艶めかしい溜息に触れてしまったら、どんな男もモモンガに魂を差し出してしまうのだろう。アインザックの頬を一筋の汗が滑り落ちていく。
(強さばかりに関心がいっていたが、この美貌だけで一国を滅ぼしうるぞ……。確かにこれは、一国の女王だと推察しても納得がいきすぎる……)
素顔を隠す意味が、理屈以外で分かってしまう。
この美貌は、そこに在るだけで他者の人生を大きく狂わせてしまう可能性が大いにある。アインザックはもし自分がもっと若かったらと思うと、僅かに肝が冷えた。
「とても美味しいです」
目を細めるモモンガの静かな笑みに、アインザックは心臓を掴まれた。イシュペンもその拍子にむせていた。
美しい。
余りにも、美しすぎる。
人外の領域の美に触れ、彼らはモモンガの美しさにのぼせ上がるばかりだった。
……それ以降の会話をアインザックとイシュペンは覚えていない。
素顔を晒したモモンガとの会話はまるで白昼夢を見ていた様で、そもそも会話していた記憶が本当に夢だったのではと思う程だ。
モモンガが退室した今、その記憶が現実だと証明するのはこの部屋に未だ芳しく漂う彼の甘やかな髪の香りだった。
「イシュペン」
「……はい」
疲労感を隠さないアインザックはソファに深く腰を落としながら、半分放心中のイシュペンに声を掛ける。お互い、まだ意識がふわふわとしていた。
「あのモモンという女性は、本当に人間か?」
「……女神の化身かと」
全く以て同意だよ、とアインザックは返す。
一体何度モモンに驚かされればいいのかと、彼は疲労感を覚えながら思った。
そして、この後ザイトルクワエの跡地に赴いて実際に魔樹の骸を見たアインザックは、来世の分まで驚かされることになるのだが。
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6.変遷
──アインザックとの会談を経て、十日の時が過ぎた。
『黄金の輝き亭』のベッドに身を落とすモモンガは、天井から吊るされるシャンデリアに透かすようにオリハルコンの小さなプレートを眺めていた。
……あれから色々あった。
モモンガを取り巻く全てが激変したといってよい。
ザイトルクワエの亡骸を調査して帰ってきたアインザックは、まるで前に会った時と比べて別人かの様な形相でモモンガに詰め寄ってきた。
その目には明らかな畏敬の念が燃えていた様に思う。幾億もの賛辞の言葉を以て、モモンガはアインザックから讃えられた。
アインザックの手によってすぐさま発行されて与えられたオリハルコンのプレートと大量の報酬金。オリハルコンといえば、アダマンタイトに次ぐ序列二位の冒険者の地位を意味する。
エ・ランテルには最高でも序列三位のミスリル級冒険者チームしかいない為、この都市においてはモモンガが単独最高位冒険者として名を轟かせることになった。
アインザック曰く、本当はすぐにでもアダマンタイトのプレートを発行したかったらしいが、流石に銅からアダマンタイトともなると
前代未聞の飛び級に伴って懸念されるであろう問題の数々だが、それらはっきり言って全く起こることはなかった。
ザイトルクワエの戦場跡地に行ったのはアインザックに加え、エ・ランテルを代表する当時の最高位であるミスリル級冒険者チーム『天狼』『虹』『クラルグラ』であり、彼らは実際に魔樹の亡骸を見た証人にもなったのだ。
ぽっと出のモモンガに疑惑の目を向けていたプライドの高いミスリル級三チームも、実際にザイトルクワエの亡骸を見てしまったら何の文句も言えない。ぐぅの音もでないとはこのことだ。認めるしかない、モモンガの実力を。
これにより「モモンが倒した魔樹って実際は大したことないんじゃね?」という意見は実際に力を持つ彼らの証言によって封殺され、『漆黒の剣』が語るモモンの英雄譚は詳細な実話としてエ・ランテルに深く浸透することになってしまった。
そんなこんなで、冒険者モモンはエ・ランテルに生きる伝説の英雄として周知されることになったのだ。
最近では街の広場でモモンの英雄譚に関する人形劇や紙芝居を見ることもしばしばだ。酒場では語り部となっている『漆黒の剣』が熱く語る姿もよく見受けられるらしい。
そういうことでモモンガが街を歩けば声を掛けられることはザラだし、組合を覗きにいけば畏敬の視線を一身に浴びることになってしまう。はっきり言って、大英雄の肩書きはモモンガにとっては過分だ。何となく生き辛くなってきた感は否めない。
(人間の英雄として知れ渡ったのはいいけど、逆に見られる目が増えすぎていつか悪魔ってことを看破されそうで怖いんだよなぁ……)
杞憂を胸に、モモンガは浅く息を吐いた。
別に彼は自分の有り余る力で莫大な富と名声を築きたいわけではない。適当な身分証明と路銀を貰えればそれでよかったのだ。
そしてオリハルコン冒険者になったモモンガの生活は……ぶっちゃけ食っちゃ寝生活に変わっていた。
いや、別に日がな一日怠惰に過ごしている訳ではない。街を散策して珍しいアイテムを物色したり、美味しそうな食べ物を買い漁ったり、観光目的としてはそこそこに充実した生活を送っている。
しかしまあ、ザイトルクワエ討伐の報酬が莫大過ぎた。組合からは勿論、王国からも感謝状と謝礼金が下り、それはもう働く気が失せるほどの金を手に入れてしまった。しかも少し遅れてではあるが、トブの森に領土が面しているバハルス帝国からも使者がやってきて、皇帝直筆の感謝状と謝礼金がこちらからも支払われた。まさかの一文なしから億万長者の卵くらいに昇格である。
ぶっちゃけると、モモンガはオリハルコンプレートとこれだけの金があれば当分働く理由が見当たらない。金に関しては『黄金の輝き亭』を拠点にしているので、ひと月ふた月もすれば流石に底をつくとは思うが。
何故また燃費の悪い『黄金の輝き亭』を拠点に? と思う者も数多くいるだろうがこれには浅い理由がある。
金が懐に入った時、モモンガはエ・ランテル郊外で小さな一軒家を買おうとしたり、そこそこ手頃な宿を探したりもした。しかし実際に過ごしてみればまあよくミニマムな恐怖公を見かけるのだ。借家で一晩過ごした時、胸の上でコンニチワしてた彼奴を見た時はすぐ様引き払って『黄金の輝き亭』に飛び込んでいった。
カルネ村で過ごした時には全く出なかったが、村民達がモモンガの為に死ぬ気で清掃してくれていたのだろうと今では思うことができる。
そういうことで、モモンガが『黄金の輝き亭』を拠点に選んだのはそういうわけがあるのだ。金を持っているうちは別の都市に行っても高級宿に泊まることになるだろう。
(……トブの森に毎度転移して『グリーンシークレットハウス』で夜を過ごすのが一番なんだけど、有事のときに都市の最高位冒険者が何処にも見当たらなくて連絡つかないっていうのはあれだしなぁ。毎晩転移してたらいつか見られるかもしれないし)
有名になるというのはそれだけ柵も多い。
エ・ランテルに根を張るつもりは毛頭ないが、滞在してるうちは英雄視してくれている彼らの期待に最低限応えてやりたいという思いもある。エ・ランテルの危機には立ち上がってやるくらいの甲斐性は彼にはあった。
だが、それ以外の細々とした冒険者の仕事はどうにもやる気がおきない。取り急ぎ小銭がいるわけでもないし、アインザックには『オリハルコン級以上の仕事が来た時だけ連絡くれ』程度の事は伝えてある。
しかしモモンガへの名指しの仕事の依頼は多い。というか、馬鹿じゃないのかと思えるくらいには大量にきている。イシュペン曰く、日に数十件は殺到しているそうだ。
しかしこれの殆どは組合に選別してもらい、『モモンは別の仕事で忙しい』ということにしてもらって弾いてもらっている。
何故かというと、その依頼内容の殆どが貴族や金持ちのしょうもない護衛依頼だからだ。これは『モモンの素顔は比肩できる者がいないほどの美しさである』という噂が一人歩きしまくっているのが大きな要因だろう。
誰もが金に物を言わせてモモンを隣に置きたがり、その素顔を見ようと四苦八苦している。しかしその私利私欲に塗れた依頼が通ることは全くと言ってない。金を幾ら積まれようが、その仕事内容はミスリル以下……実際は銀程度の冒険者でも熟せるものだから、モモンガが出張る必要など全くないのだ。
これによって『モモンは人と仕事を選ぶ傲慢な冒険者』という悪評が流れそうなものであるが、市井の評判はその逆をいっていた。
金を積んだ貴族達の依頼は受けず、遍く人々の安寧の為だけにその力を振るうというまさに英雄らしい振る舞いに、主に平民達の評価がかなり高くなっていた。これは街をぶらついているモモンの慈悲深く礼儀正しい姿を多くの人々が見ているおかげでもあるだろう。
街ブラして適当に高級宿でだらけているだけでいつの間にか大英雄モモンの株はストップ高になっていた。何を言っているのか分からないと思うが、モモンガも何をされたのか分からなかった。
今日はそんなモモンガの穏やかにして平凡な一日をご覧頂こうと思う。
「……お、時間か」
ベッドに寝転がって『アインズ・ウール・ゴウン』時代の写真を一つ一つ眺めていた彼は、正午を報せる鐘の音に気づいてむくりと上体を起こした。
『黄金の輝き亭』のアメニティの寝巻きを脱ぎ捨て、モモンガはノースリーブの白シャツと黒のフレアスカートに着替え、ショートブーツに足を突っ込んだ。これらはドレスと鎧しか持っていなかったので、モモンガが洋裁店に出向いて適当に見繕ってもらったものだ。流石に普段使いであのドレスか鎧のままというわけにはいくまい。
「うん」
姿見を確認して、納得いったように頷く。
シンプルかつ落ち着いた装いは、淑女そのもののアルベドの容姿によく似合う。翼を出す為の穴はモモンガ自ら開けたのだが、裁縫が得意という
モモンガはお出かけスタイルの服装に着替えると、
「『
静かにそう唱えたモモンガの姿は、『黄金の輝き亭』から音もなく掻き消えた。
次回日常回です
27万字完結予定だったけど、中々終わりが見えてきません(笑)
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7.用事
ニニャはそわそわしていた。
彼は自分が暮らす小さな貸し部屋の中を、何周も何周も練り歩いていた。表情にはあまり余裕がない。彼はそうしながら、何度も指差し確認をして待ち人を待っている。
お茶の準備ヨシ。
お茶菓子の準備もヨシ。
部屋の清潔感も、彼なりに目一杯掃除したのでヨシ……としたい。
正午を報せる鐘の音がなって暫し、ニニャは固い表情のままずっとモジモジしていた。手鏡を何度もチェックして身嗜みを整えたはずなのに、今日の自分が変じゃないか気になって仕方がない。
憧れの……今となってはエ・ランテルを代表する程の英雄モモンが、自分の家にやってくる。これは決して初めてのことではない。今日でもう三回目のことだ。
(モモンさんは気さくにしてくれてるけど、やっぱり慣れないな……。だってあんなに凄くて綺麗な人……ううん、しっかりしろセリーシア。モモンさんはきっと、そういう対応を僕には求めてない。あの人は僕達のことを仲間といってくれたんだ。なら、あんまりへりくだったり緊張するのは却って失れ──)
「お邪魔しますニニャさん」
「ひゃあ!?」
ニニャは堪らず奇声を上げてしまった。
彼が振り返ると、そこにはいつの間にか部屋に侵入していたモモンガがにやりと笑ってニニャのことを見ている。
「び、びっくりした……!」
「いつもニニャさんをびっくりさせるつもりですから」
「もう……その転移の仕方、もう少しなんとかなりませんかモモンさん……」
未だ心臓がバクバクと激しく鳴っている。
ニニャは重たい溜息をひとつ吐いた。
約束日の正午過ぎのこの時間。
モモンガはマジックアイテムを使って──という体で──ニニャの家に転移してくる。堂々とニニャの自宅なり『黄金の輝き亭』なりに足を運べばいいのでは、と思うだろうが、彼らは一応表面上は異性同士なのだ。こうして度々二人きりで会っていると周りに知られると、男女の逢瀬と見られる可能性は大いにあり得る。故に、転移なのだ。
そしてモモンガは決まって、ニニャの背後にこっそり現れて声を掛けてくる。
これはニニャとモモンガの約束の日のいつものことなのだが、その度にこんな調子なのだ。モモンガは本日も悪戯成功せり、と言いたげに笑顔を浮かべている。そんな英雄のお茶目さがニニャは好きだった。鎧を纏って剣を握っているときはあんなにも頼もしいのに、こうして私服で会うとまるで少女の様な幼さも感じることができる。
(今日も綺麗だな、モモンさん)
清楚極まる落ち着いた私服がよく似合っている。
こうしているとやはり、ニニャはモモンガから戦士の面影を一切感じることはできない。深窓の令嬢然とした麗しい見目のおかげで、いつもこんなあばら屋に招き入れるのが恥ずかしくなってくるほどだ。
「今日もよろしくお願いしますね、ニニャ先生」
そんな美女は、少女の様な笑みを浮かべて頭を小さく下げた。これも、彼らのいつものやりとりの一つだった。
小さな机に、紙とペン……それから何冊かの本が散らばっている。モモンガは数枚の紙とにらめっこしながら、流れる様な筆致で羽ペンを紙上に滑らせていた。
書き記されていくのは、この世界の周辺諸国で使われている文字に他ならない。単語から簡単な例文まで、モモンガは一縷の淀みも詰まりもなくペンを走らせていく。
(いつも思うけど、本当にすごいな……)
ニニャはそれを隣で眺めながら、慣れない驚きに瞠目していた。
モモンガから『文字の読み書きを教えて欲しい』と一週間前に言われた彼は、もちろん教師役を承諾した。
モモンガが何故ニニャを指南役に選んだのかというと、ニニャは他の『漆黒の剣』と比べて教養もありそうだし、あの面子の中ではうってつけだろうと思ったからだ。それにこれは彼の感覚なのだが、ニニャに対してあまり『男』を感じなかったというのもある。ルクルットとこうして会っていたら正直鬱陶しいことこの上ないだろうし、ペテルとダインも善い男達ではあるとはいえ、色々な勘違いの末に間違いが起こらないとは言い切れない。
しかしなぜかニニャだけは、想像でもそういうことは有り得なかった。
これは何の根拠にも基づかないただのモモンガの直感なのだが、ニニャはそういった間違いを起こさないだろうという謎の信頼があったのだ。
──ニニャの本当の性別が女性だということは見抜けていないのだが、こういうことは恐らくモモンガではなく、
それから始まった彼ら二人の関係は、モモンガの狙い通り穏やかなものだった。密な時間が作れる為、もしかしたら今モモンガが最も心を通わせている相手はネムがトップで次点がニニャなのかもしれない。
「この構文の場合、この単語はこう変化する……のでいいんですよね? ニニャ先生」
「はい、流石ですね。さっき教えたばかりなのに……というか、先生はそろそろやめてくださいよ……僕の教えられることなんて本当にもう少ないんですから」
「ふふ」
横髪を細い指で耳に引っ掛けるモモンガを見ながら、ニニャは浅く息を吐いた。
文字を一から教えなければならないというのは、本当にハードルが高い。学習する側はもちろんだが、指南する側も相当に難しい。当初はニニャもどう教えようかと頭を悩ませていたものだ。
……しかしモモンガはそのハードルを悠々と超えていく。ニニャに教わり始めて三日目にして、常用文字は殆どマスターしてしまった。学習スピードが、恐ろしく速い。
モモンガが賢いわけではない。これももちろん
モモンガはこれほど勉強が楽しいと思ったことはない。
今なら一週間の缶詰生活だけで、国内最難関大学の受験くらいなら合格できてしまいそうだ。彼は大学でかつての仲間である死獣天朱雀の講義を受ける姿を想像して、僅かに表情を綻ばせた。そんな世界線もあったかもしれないと思うだけで、なんだかワクワクしてしまう。
(あの時全っ然意味がわからなかった朱雀さんの講義内容の話も、この体なら楽しく聞けそうだよなー)
そんなことを考えながらも、学習スピードは一切緩むことはない。
モモンガはペンを走らせ、時折ニニャに指導を仰ぎながら、濃い時間を過ごした。
肉体の異常ともいえる集中力のおかげか、アンデッド特有の時間感覚の所為か、休憩を挟まないうちにあっという間に二時間が経過していた。
「今日もありがとうございましたニニャさん。いつも本当に助かってます。この世界……いえ、この地域の文字をこれだけ読み書きできるようになったのはニニャさんのおかげです」
「そんな……僕はほんの一助をしているだけですよ。いつも後ろから見ているばかりで、モモンさんが持ってきてくれるお菓子を食べてるだけですし……」
「そんなことはありませんよ。ニニャさんがいなかったら間違った覚え方をしてしまってるかもしれませんしね。本当に有難いです」
モモンガはそう言って、深々と頭を下げた。
何か対価を用意したいと常々思っているのだが、ニニャはそれを受けとろうとしない。なのでせめてもの、こうして感謝の意だけは伝えたい。
「モモンさん頭を上げてください。僕、貴女のお役に立てるだけで本当に嬉しいんです。それに英雄の頭をそんなに安く下げちゃいけませんよ」
「ニニャさん……」
ニニャの目は、真摯そのものだ。
その真っすぐな視線を受け止め、モモンガは改めてお礼を重ねた。
今度は頭を下げない。
ニニャがどういたしましてと笑顔を浮かべて、その日の勉強会は解散となった。
──モモンガは一旦『黄金の輝き亭』に転移して、いつもの漆黒の鎧を魔法で編み込んだ。今日はあと二件、用事がある。
「いらっしゃ──モモンさん!」
「お久しぶりですンフィーレアさん」
ンフィーレアはモモンガの姿を認めると、まるで親鳥を見つけた雛の様に駆け寄ってきた。前掛けのエプロンから僅かに薬草のツンとした臭いが漂っていて、その臭いがモモンガは懐かしい。
モモンガは兜の中で柔らかく笑んで、言葉を掛けた。
「そろそろ頃合いかと思って、例の物を取りに来ました。完成してますか?」
「あ、はい! 一応……なんとか形にはなりました。ちょっと待っててくださいね。すぐ取ってきます!」
例のもの。
ンフィーレアにはそれが何か分かっている。彼は踵を返すと、ぱたぱたと店の奥へと引っ込んでいった。戻ってくるのは、十秒もしないうちだった。
「お待たせしましたモモンさん。こちらです」
ンフィーレアはそう言って小さな箱を持ってきた。彼が恭しく蓋を開けると、中には緩衝材が目一杯詰め込まれており、その中に小さな薬瓶が二本差し込まれている。
「取って見ても?」
「もちろんです」
「……素晴らしい」
一本を手に取ったモモンガは、心からの言葉を零した。
薬瓶の中で揺れる薄い緑色の液体が僅かに発光している。蛍火の様に淡く明滅を繰り返すそれは、ザイトルクワエの一部に苔むしていた『どんな病も治せる』と言われる薬草から抽出したポーションだ。
「……僕とお婆ちゃんはこれを『マスターポーション』と呼んでいます」
「『マスターポーション』……なるほど確かに」
『上位道具鑑定』で効能を確かめると『あらゆるバッドステータスを即座に、それも完璧に治すことができる』と、モモンガの頭の中にテキストが流れてくる。HPやMPを回復できないというポーションではあるが、ここは人の血が通う本物の世界……下位治癒薬よりも明らかに貴重なものだろう。それにこの様なバッドステータスに完全な特効があるポーションはユグドラシルにすら存在しなかった。
(世界にたったの二本だけと思うと、相当な価値だろうなこれは……。例えば面倒な手順を踏まないと解呪できない呪いや不治の病に冒されている人だって、これを飲むだけでピンピンになるわけだろ?)
万能薬とはまさにこのことだろう。
これをポーションの形にしてくれたンフィーレアにはモモンガは感謝しかなかった。いくら自分の肉体が強かろうと、こういった錬金関係の仕事は彼にはこなせない。
良いパイプ……そして友人を持ったと、モモンガは改めて思う。
「流石はンフィーレアさん。よい仕事をしてくれます」
「えへへ……でも、モモンさんが貸してくれた色々な錬金道具のおかげですけどね」
「いえ、道具は所詮道具に過ぎません。私は貴方の腕を高く買ってますよンフィーレアさん。どうか自信を持ってください」
「あ……ありがとうございます!」
比類ない英雄にそう言われ、ンフィーレアは表情が華やいだ。そんな若者の素直な反応に、モモンガもなんだか温かい気持ちになってしまう。
「それではンフィーレアさん、自分はもう行きますね。すみませんこれを取りに来ただけになってしまいまして」
「いえいえ! 全然大丈夫ですよ。むしろこんなことでしかお役に立てなくて申し訳ないです。これからエンリ達と会うんですよね?」
「ええ。できればンフィーレアさんにもご一緒していただきたかったのですが……」
「す、すみませんせっかくお誘い頂いたのに……薬師組合の都合でどうしても立ち寄らなきゃいけない用事ができてしまって」
ンフィーレアは申し訳なさそうに頬をかいている。
そんな彼をまた日を改めて誘おうと、モモンガは固く思った。
「次の機会があったらンフィーレアさんも是非」
「も、もちろんです! ご一緒させてください!」
「それでは私はこれで。ポーション作り、頑張ってくださいね」
「ええ。モモンさんもお気をつけて」
互いに言葉を交わし、モモンガは薬品店を後にした。
真紅の外套を従える背中はまさに英雄然としており、見送ったンフィーレアの表情はやにわに固く引き締まる。
あれほどの英雄と懇意にさせてもらっているばかりか、錬金道具や『神の血』まで下賜してもらっていることに、彼は並々ならない感謝を抱いていた。錬金術師としてこれほど恵まれた立場もそうそうない。
ンフィーレアはその立場に驕ることなく、再び作業場へと戻っていく。『神の血』を再現し、錬金術師としての到達点を目指すのはもちろん……英雄モモンの期待に応えるべく。
いつも感想ありがとうございます
Twitterみたいに、既読しましたの意味を込めたいいね機能が欲しい今日このごろです
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8.歓迎
「アルベ──モモン様!」
エ・ランテルの検問所を越えて、エンリとネムはたった今モモンガと会ったかの様に彼の下へ駆け寄ってきた。
「お二人とも、お久しぶりです」
漆黒の鎧を纏ったモモンガも、ネムの抱擁を受け入れながら、まるで久方ぶりかの様な雰囲気を醸し出す。
……ついさっきまで一緒だったというのに。
というのも、これはモモンガがこの世界では行使不可能とも言ってよい『
モモンガはバレアレ薬品店を出た後、カルネ村へと転移した。それからネムとエンリを連れ、エ・ランテル近くに転移。モモンガは検問所の内へ再び転移し、外の姉妹が検問を越えるのを待っていた──というあらすじだ。
エモット姉妹は『転移門』での移動はこれが初めてなのだが、驚きはしたが恐怖はしなかった。心酔するアルベドの神の御業とも思えば、自然信頼の方が勝る。エンリは目をぱちくりとして「ふわぁ……」と呆けるばかりで、ネムは「すごいすごーい!」とはしゃいでいた。
さて、話は戻る。
鎧のままネムと手を繋いだモモンガは、彼女らを連れてとある場所へと向かっていた。
「アル……モモン様。今日はありがとうございます。私達、本当にお礼されるようなことなんて何もしていないのに……」
「エンリさん。私はこれでも貴女達に大恩を感じているんですよ。この世界──いえ、こちらに飛ばされて初めて会ったのが貴女達でよかったと、心から思っているんです。カルネ村で過ごした日々は、かけがえのない大切な想い出です」
「モモン様……」
「ですから今日は是非とももてなさせてください。これでも私はこの街でそこそこ名が売れる様になりましたから」
そう、今日はモモンガがエモット姉妹を歓待する日なのだ。
初めてこの世界に来て、カルネ村で時を過ごしている時から彼は是非彼女達にお礼をしたいと思っていた。それが今日。プランというほどのプランはないが、それでもモモンガはこの姉妹に満足してもらえる様なものを用意しているつもりだ。
ふふふと笑むモモンガを横目に見ながら、エンリはちょっとだけ居心地の悪さを感じていた。というのも、何もモモンガと一緒にいるのが嫌なわけではない。崇拝するべき女神であるし、憧れの女性でもある。むしろ大好きだ。
しかし鎧の姿のアルベド──モモンは、比喩でもなんでもなく英雄だ。
街を歩けば老若男女問わず声を掛けられ、衛兵達も背筋を伸ばして礼をしてくる。その視線には敬愛と憧れとが入り混じり、生半ではない信頼が置かれている様にも見える。そんな英雄の隣を、何の才能も持たない村娘が歩いていることがなんだかいたたまれないのだ。
(……すごいなぁ、アルベド様は)
アルベドが自分達の手の届かない上位存在だとエンリは知っていたはずなのに、いざこうして村の何十倍もの大きさの街で皆から慕われている女神の姿を見ると、ほんの僅かな寂寥感を覚えてしまう。女神は、自分達だけの女神ではなくなってしまった。気高いアルベドが自分達のコミュニティを離れ、多くの人々が必要となる存在へとなってしまった。
勿論アルベドは多くの人々に崇拝されるべき存在だとは思っているのだが、それと同時に自分達だけがアルベドの魅力を知っているという独占欲を満たせないのが寂しい気持ちは否めなかった。
「どうかしましたか? エンリさん」
しかし女神は、あの日と変わらぬ優しい声音で自分に話しかけてくれる。
エンリは邪念を振り払って、ううんと首を横へ振った。
「なんでもないですよ。それより、どこへ連れて行ってくれるんですか?」
「……エンリさんって、可愛いですよね」
「は──うぇ!?」
「ですから今日は、とびきり綺麗にしようと思って」
「ネムは!?」
「ネムもとっても可愛いですよ」
「えへへー」
手を繋いでいるネムは嬉しそうだ。
逆にエンリは熟れたトマトの様に赤面している。
同性とはいえ、こんなに正面切って魅力があると言われたのはエンリ自身初めてだった。いや、性別さえ超越した次元の魅力を誇るモモンガに言われたから、彼女はこんなにも赤面しているのだろう。じっとりとした、今まで感じたことのない緊張感に彼女は苛まれた。
エンリはドキドキとしながら、モモンガをちらちらと横目で見ていたが、兜の下でどんな顔をしているのかは彼女には分からない。ただ、モモンガはそんなエンリの気など知らずに、楽しそうにネムとのお喋りに耽っているのだった。
モモンガは道中、ネムが興味を持った露店の菓子を二人に与えながら──目的地に辿り着いた。
大通りに沿う、少しばかりファッショナブルな大きな建築物を、姉妹は見上げていた。向かった場所は、エ・ランテル随一と言われる程煌びやかな洋裁店だった。
洋裁店とはいうものの、その実は美容やファッションに全てを網羅している総合とも複合とも言える店だろうか。ドレスコードに沿う衣服をここで販売し、そのままメイクアップもしてもらえるといったサービスを取り扱っている。
この店の既製品を私服として購入したため、モモンガはたまたまこの店のことを知っていたのだ。それに、珍しい付与効果──とはいってもユグラシル基準ではガラクタだが──がある宝石類が入荷してくる為、ときたま彼はここを利用しているという背景もある。
店の中に入ると、絢爛な内装が目に飛び込んできた。
広大なホールの様な店内に華美なドレスを纏ったマネキンが左右に何体も並んでおり、目玉が飛び出る様な価値の宝飾品が展示されたガラスのショーケースも整然と立ち並んでいる。客はやはり貴族然とした如何にも上流階級ですと言わんばかりの紳士淑女ばかりで、エンリは目を丸くし、ネムは目を輝かせていた。
「ふわ……」
エンリは思わず、間抜けた声を出していた。
見上げれば煌びやかなシャンデリア群、見下ろせばふわふわとした絨毯。ただの村娘である彼女は、草臥れた衣服と土に汚れたブーツの所為でその場に立ち入ることすら憚った。明らかに場違いだし、客達の視線が少し痛い。
「ようこそいらっしゃいました! モモン様!」
おどおどとしているエンリをよそに、少し女性味の強い強面の男が滑る様にモモンガの下へやってきた。小綺麗な衣装を纏った男は、少し不気味なくらいには満点の笑顔だ。油でも塗りたくったかのように、青髭の濃い顔がテカテカと光っている。
「本日は何をお求めでしょうか。よい魔法効果のあるエレガントな指輪や宝石が入荷しておりますよ。やはりそちらをお求めで?」
「いえ、今日は私のことは構わなくて結構です。この子達をとびきり綺麗にしてあげてください」
「ほほう」
男の目が鋭く光る。
腿にしがみついてくるネムを、モモンガは優しく撫でた。
「素材としてはばっちりです。ドレスのお買い上げとメイクアップということでよろしいですね? 予算は如何致しましょう?」
「糸目はつけなくて結構。ですが準備が長時間に及ぶと彼女達も疲れるでしょうから、一時間……いえ、三十分で最高級の仕事をしてあげてください」
「糸目をつけずに三十分……承知しました。お前達!」
一礼をした男が柏手を二度打つと、どこからともなく店の人間が大量にやってくる。皆、各々に何か道具を手に持ち、姉妹をあっという間に取り囲んでしまった。
「え、ちょ、モモンさ──」
「はいはいはいはい失礼しますよぉ」「まず採寸」「どのようなドレスがお好みでしょうか」「お嬢ちゃんはこっちへ」「磨きがいがあるわぁ」「メイク班は持ち場へ!」
さながらF1マシンのピットストップだ。
エモット姉妹に大量に群がった店のスタッフは、彼女達に有無を言わせぬまま色々と捲し立てながら奥の部屋へと連れ去ってしまった。
そんな姉妹を、モモンガはひらひらと手を振りながら送り出した。
──きっかりこっきり三十分後。
そこにはやりきった顔のスタッフ群と、ぽかーんと口を開けているエンリ。それから満点の笑顔のネムの姿がそこにあった。
「これ、私……?」
「お姉ちゃん、きれい!」
「ネ、ネムだって……!」
顔を見合わせて、二人は喜色ばんで互いを褒め合った。先程までの、芋っぽいカルネ村の姉妹はそこにはいない。
どこに出しても恥ずかしくない貴族令嬢の様な華やかさがそこにはある。エンリは大人の女性らしい紺色の、ネムは彼女の溌剌さを助ける様な可愛らしい黄色のドレスを宛がわれた。更にセンスの良い宝石のアクセサリー類が女性としての美しさと気品を高めており、特にエンリは鏡に映る自分が自分だとすぐには認識できなかった。
(私でも、こんなに綺麗になれるんだ……)
薄めのルージュが引かれた唇と同じように、頬に朱が差してしまう。
それだけエンリは素材が良かったということだ。彼女自身も少しだけ、持ち合わせていた控え目な乙女の自尊心が満たされる瞬間だった。
……しかし怖い。
自分達が身につけている物の数々の価値が計り知れない。頭の先から爪先まで、一体いくら掛かっているというのか。
モモンガから全て奢りだと聞かされてるエンリではあるが、それでも色々と不安すぎる。ネムは子供ゆえに余り気にしてはなさそうだが……というよりも、これだけの財力があるアルベド様すごいの方向に考えがシフトしている。
「二人とも、とても綺麗ですよ」
そしてそんな姉妹を、モモンガは拍手を以て出迎える。
「モモンさ──」
言葉を出そうとして、そこで声は潰えた。
振り返った先に『美』の概念そのものが人の形をして在ったからだ。
(き……きれい……)
姉妹がメイクされている間に、彼も同じサービスを受けていた様だ。鎧を脱ぎ、深い紫色の落ち着いたドレスを纏った女神の姿に、エンリとネムは「ふぇ」と呆けた声を出していた。彼女達が大好きなアルベドのドレスコードの装いは、こんなにも美しい。
エンリは先程、ちょっと自分もイケてるかもと思ってしまった自分に半端ではない羞恥心を感じていた。
……これぞ美。大人の女性の魅力。
素顔を晒し、淑やかに飾り立てられたアルベドの魅力に、エンリは酔ってしまった。むせかえる程の色気。いつもの純白のドレスも良いが、見慣れない暗色のドレスというのはまたグッとくるものがある。
「モモンさま、綺麗!!!」
「ネムも、とても可愛らしいですよ」
ネムを撫でながら、モモンガは微笑んだ。
そしてその微笑みは、エンリにだって向けられる。
「エンリさん、とても綺麗になられましたね」
「あ、あう……」
エンリは思わず赤面した。
モモンガに見つめられ、柔らかな笑みを浮かべられ、そして綺麗だと。同性なのに、心臓が早鐘を打ってしまう。
「それでは準備も済みましたし、行きましょうか。マドモアゼル達」
「ま、まども……?」
「……お姫様的な意味です。……多分」
伸ばされたモモンガの手に、二人が手を重ねる。
彼女達はモモンガにエスコートされ、中央を堂々と横切って店を後にした。紳士淑女達も、モモンガの輝く様な美しさに目と心を奪われていた様だ。あれだけの人間が店内にいたのに、ゾッとするほどの静寂に見舞われていた。鼓膜を揺するのは、モモンガとエンリの鳴らす高いヒールの音のみ──ネムは子供用のシューズだ──だった。
外に出ると、上品な馬車が三人のことを待っていた。これはモモンガが先に手配していたものだ。
品の良い御者に開かれた馬車内に、三人はステップを踏んで中へ入っていく。車内はやはり、高級感溢れる装いだ。
この馬車の目的地は言わずもがなだろう。
馬車は行く。『黄金の輝き亭』を目指して。
エモット姉妹とモモンガはその後、とても穏やかなディナーの時間を過ごした。尤も彼女達には驚きと戸惑いの連続でもあったが、その様子は初めて『黄金の輝き亭』で食事を摂ったモモンガを彷彿させた。
気がおけない誰かと摂る食事はカルネ村の滞在時以来で、その日のモモンガはいつにも増して優しい笑顔が多く見られたという。
エモット姉妹は『黄金の輝き亭』で一泊し、次の日はエ・ランテルの街中でもう少しカジュアルな接待を受け、その日の夕方にはカルネ村へと返された。
姉妹には夢のような、そしてモモンガにとってはとても有意義な時間を過ごしましたとさ。
【補足】
Q.モモベドさんはどうやって着替えたの?
A.別室にてエモット姉妹同様、凄腕店長一人に着つけとメイクアップをしてもらいました。『人間種魅了』で角翼ありの状態でやってもらい、その後『記憶操作』で異形種→人間という記憶にすり替えました。
Q.無垢な人間に精神支配したけど大丈夫?
A.空白の七日間の内に都市の指名手配犯などをモルモットにしたので、安全は確保されています。
エ・ランテル周りで消化したいサブイベントがあと二、三個あったのですが、本当に大筋の物語が進まなくなるので三章を締めさせていただきます。完結後、ここらへんのエピソードを補完できればなぁと。
ンフィーくんはモタモタしてる場合じゃないですね。
次回おまけを投稿して四章に移ります。
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おまけ3
【一日目】
私は悪夢でも見ているのか……?
気がどうにかなりそうだ……クソ、なんでこんなことになった。
……いや、落ち着け私。
動揺するんじゃない。
……私の名はニグン・グリッド・ルーイン。
法国の特殊部隊である陽光聖典を束ねる指揮官だ。
カルネ村近郊でストロノーフ抹殺の任務を与えられた我々陽光聖典は、あの化け物女に出会った。
……あれが全ての始まりだ。
悍ましいアンデッドを従えるあの女の顔は忘れもしない。
奴のせいで我々はストロノーフ抹殺の任務を失敗するばかりか、奴の従える悍ましいアンデッドの群れによってトブの森の深部まで連れてこられた。……恐らくここで我々を甚振るつもりだったに違いない。
ここは一体どこなんだ。
森に深く入りすぎて距離も方角も分かったものではない。
マジックアイテムがあればまだ何とか把握出来ただろうが、アンデッド達に四肢を切断されたばかりか身包みまで全て剥かれた裸の私達にそれを知る術はない。
ああ、そうだ……。アンデッドの群れに捕まっていたのに、なぜ私がこうして生きているのかを説明しておかねばならないな……。
幸か不幸か、木の触手の様な化け物が突如地中から飛び出し、アンデッド達の前に立ちはだかったのだ。アンデッドはその化け物と戦っている内に消滅し、その化け物もそれで溜飲が下がったのか地中に潜っていった。
我々が今こうして生きているのは、そのおかげだ。
……これは信心深い我らを神がお救いくださったということか? それとも悪魔がまだ私を見世物にしようとしているのか?
……取り残された我々陽光聖典は絶望の只中にある。
四肢を切られた状態でモンスター達が跋扈する大森林の深部に放置されるというこの状況。緊急の救援を要する非常事態なのは間違いない。
とりあえず部下らと『
手も足もないまま火に焼かれる彼らの姿が目に焼きついて離れない。任務を全うする為に命すら懸けてきた私達が、こんな結末はあってはならない。
もうすぐ夜が来る。
……正直生きていける気がしない。悪夢ならどうか覚めてくれ。
体に刻み込んでいたこの『
……とりあえずは異変に気づいた法国が我らに救援部隊を送ってくれる可能性を信じるしかない。
冒険者がここへくる可能性だってある。
我々は希望を捨てない。
六大神の加護があらんことを。
【二日目】
発熱が酷い。
あれだけ出血したのだ、当然だろう。
体の震えが止まらない。
傷口は焼き切ったが、焼鏝を押しつけられている様に酷く痛む。
昨晩は『
我々陽光聖典の得意とする天使召喚ができたならまた違った結果もあっただろう。しかしあの女、我々の命乞いが耳障りだからとアンデッド共に生きたまま声帯を潰させるよう命じたのだ。
声を奪われた状態では天使を召喚することはできない。『
……怖い。
これだけ恐怖したことは今までに一度もない。神に仕えていた我らが何故獣に食われるという凄惨な最期を迎えなければならないのか。
部下達の啜り泣きには同情するが、やめて欲しいという苛立ちが収まらない。獣やモンスターの耳は良い。極力音を抑えよと『
……クソ。
俺だって泣きたい。泣いて楽になるならそうするに決まってる。
しかし泣いたところで事態は好転しない。
寝ても覚めても悪夢が続くだけだ。
本国からの救援が来ることを願う。
六大神の加護があらんことを。
【三日目】
空腹が収まらない。
意識が朦朧とし始めている。
極度のストレスと空腹のせいで、今日は部下達もどこか攻撃的な発言が多く見受けられた。
ここで救援部隊を待つか、『飛行』を使ってこの森を脱出するかで激しい口論が行われた。
……とは言っても『伝言』上であるのだが。
手足がないのが逆に良い方に作用するとはな。もしも五体満足だったなら取っ組み合いに発展していたことだろう。
しかし、そんな口論は論ずる前から答えは分かりきっている。『飛行』での脱出など絶対に無理だ。これだけ生命力が削られている状態で魔法を連続使用するなど自殺行為に等しい。
今も地上に溜まった雨水を飲む為に木から上り降りする程度の『飛行』で魔力が枯渇しかけているというのに。これだけ近い距離の『伝言』でも、消費する魔力量は馬鹿にならない。
ああ、しかし腹が減った。
よく分からない昆虫や雑草、木の皮を這いつくばりながら食べていくのはもう流石にキツい。
ただでさえ栄養が足りていないのに、腹を下して脱水症状を起こすという負のサイクルに陥っている。
……肉が食べたい。真水が飲みたい。
ああ……あの女、必ず殺してやるとも。
今俺を支えているのはこの復讐心だけだ。
【四日目】
……やった。
部下達がとうとうやってしまった。
ストレスと空腹で気がおかしくなっていたのは分かる。しかしまさか『伝言』での口論の末に仲間同士で殺し合うとは……。
『火球』で燃えた部下の、焦げ据えた臭いがまだ辺りを漂っている。なんということだ……。
これで初日を生き残った十名の部下も、今は三名しか残っていない。
皆、この状況の所為で狂人と化している。
……俺とて例外ではない
もう我々は既にあの頃の我々ではなくなったのかもしれない。
イライラが止まらない。
恐怖が止まらない。
たった今、ゴブリンが木の下を歩いていった。見つかれば木に登られるか矢で弓で射掛けられ、殺されるだろう。
ああ……明日は俺も死んでいるのか?
何かの拍子で部下を殺してしまいそうだ。
こうなったのは全てあの女のせいだ……!
生きて帰れたなら、必ず殺してやる……ッ!
……いや、殺すだけじゃ飽き足らない。
俺が体験している今の地獄以上の恐怖を必ず味わわせてやる。
四肢をもぎ取り、ゴブリンの巣穴に放り込んでやるのも良い。
木の上で屍のように何もしていない時間、私はあの女を何億回と殺す妄想をしている。そうしていなければ心が壊れてしまう。
……いや、もう壊れているのか……。
この記録を録っている時だけ、俺は人間らしい自我を保てているような気がしてならない。
………………焼けた人肉は、雑草よりも遥かに美味かった。
神の加護があらんことを。
【五日目】
殺した。
残った三名の部下をぶち殺してやった。
奴ら、こうなったのは全て隊長である私の所為だと罵り、結託して私を殺そうとしてきやがった。
……。
………………。
…………………………。
ふざけるなァ!!!!!
あの救いようもない馬鹿どもが!!!
ここまで生きてこれたのは、私の指示があったからだろうが!!!! 恩知らずのクソ野郎ども!!!
あぁ、苛立ちが止まらない……。
しかし今日はツイているとも言っていい。
これだけの肉が手に入った。
しばらくは食料には困るまい。
法国は俺がこれだけ苦しい思いをしているのに何をしているんだ。あの無能共め。
……今日も女を殺す妄想に耽る。
【六日目】
今日は死にかけた……。
ゴブリン共に目をつけられた。
奴ら、毒を塗った矢を射掛けてきやがった。
何とか逃げおおせることはできたが、肩を掠めた矢の毒が回ってきている。動悸が激しいし、体が痺れ始めてきている気がする。
……怖い。寂しい。
孤独がこれほど辛いものだとは思わなかった。
それに、アテにしていた食料の肉も全て奴らに奪われた。
もう俺は本当に駄目かもしれない。
【七日目】
……死ヌ。
毒が回ってきてイル。
全身が焼ケる様に暑ィ。
痛い。
痛いイタイイタイ痛いいたい!!!
何故こんな思イをしなければナラナイ!!!
コロス!!!
コロスころすコロス殺すコロスころすコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス殺すころす殺す!!!
アノ女は、絶対、何があっても、コロさなければ、ならない!!!
【八日目】
……カの女は本当に、悪魔ナのだろうか。
死ガ近くなってきたことで……怒りの様な激しイ感情が薄れ……逆に頭が冴えてきてる様な気がスル……。
ょく考えぇば……あの女ハ、本当ニ何も間違っタことを言ってなかったことに気ガついた……。
ム論……我々に対してノこの仕打ちは悪魔的ではアルが……我々だって似たようなことをしてキタではないか……。
村を焼き払う非道ヲ良しとシ……大義の為とは言え、無垢な人間ォ大勢殺めてきた……。
アの女は……そのことに怒っていたのではないだろうか……。
あノ女は、ストロノーフを嘲笑スル私に対して怒りを露わ二していタ。それは、至極当然のコトではないか……?
あのトキの私の振る舞イは、本当に神ニ顔向けできるモノでアッタか……?
……神……?
何かガ、間違えてル気がしてならなイ……。
何かヲ、思い違エテル様な気がして、ならない……。
奴は、ナゼあれだけの力を持っていタ……。
奴ハ、なぜあのタイミングで我ラの前に立ちはだかッタ……。
奴は、なゼあんなにも美シい……。
なンだというのだ。
頭がグチャグチャだ。
割レる。
【九日目】
気ヅいテシマタ。
【十日目】
神カミかみかみ神カミ神カミ神かみ神カミ神かみカミkamiかみカミかみ神神カミカミ神KAMIかみカミ神カミ神カミかみかみ神カミ神カミ神かみ神カミ神かみカミkamiかみカミ神カミかみかみ神カミ神カミ神かみ神カミ神かみカミkamiかみカミかみ神神カミカミ神かみカミ神カミ神カミかみかみ神カミ神カミ神かみ神カミ神かみカミkamiかみカミ神カミかみかみ神カミ神カミ神かみ神カミ神かみカミkamiかみカミかみ神神カミカミ神かみカミ神カミ神カミかみかみ神カミ神カミ神かみ神カミ神かみカミkamiかみカミみカミkamiかみカミ神カミかみかみ神カミ神カミ神かみ神カミ神みかみ神カミ神カミ神かみ神カミ神かみカミkamiかみカミ神カミかみかみ神カミ神カミ神かみ神カミ神かカミ神カミ神カミかみかみ神カミ神カミ神かみ神カミ神かみカミkamiかみカミみカミkamiかみカミ神カミかみ
我ガ神。
──記録はここで途絶えている。
「どうだったの?」
暗い通路に背を預けるのは、外見十代半ばの少女だった。彼女はそう聞きながらも、その質問には然程興味が無さそうに手元の『ルビクキュー』を弄んでいる。
『漆黒聖典』の隊長はそんな少女──『絶死絶命』の問いに、少しだけ肩をすくめる。
「報告書は見ていないのですか? 貴女にも配られていたでしょう」
「見ていないわ。事情を知っている人に聞いたほうが早いもの」
あっけらかんと言い放つ『絶死絶命』の言葉には抑揚が少ない。感情に乏しいといえばいいのか。彼女は会話をしながらも、ルビクキューの面を揃えることのほうが余程大事そうだった。
「陽光聖典の隊長が喚ばれてたわね。彼以外全滅したそうだけど、何があったの?」
「何があった……ですか。それは私にも神官長達にも分かりません」
「……どういうこと?」
「彼らは王国に現れた白い悪魔にやられたとか。ただ、神官長達曰く『ニグンは狂ってしまった』と」
「何があったの?」
「自分達の四肢を切断し、トブの森に放置した非道な悪魔を『新たな神だ』と崇めているそうです」
「ふぅん……神、ね。強いのかしら」
「どうでしょう。ニグン以外の報告によると、貴女を脅かすほど強い悪魔ではなさそうですが」
「……なんだ、残念」
今にも溜息が聞こえてきそうだ。
虚ろな目をした『絶死絶命』の手元で、ルビクキューが二面揃ったのが隊長には見えた。
「それよりも『占星千里』の予言は外れたの? 『
「……復活は予言通り成ったのですが、我々が到着した時には既に滅ぼされておりました」
ピクリ、と『絶死絶命』の肩が動く。
この時彼女は、初めて隊長と目を合わせた。引きずり込まれそうな黒々とした眼と、月光に煌めく白銀の眼が隊長を見定める。
「誰に?」
「王国に新たに誕生したモモンという冒険者です。王国では『漆黒の美姫』……通称『黒姫』と呼ばれているそうです』」
「……チームじゃないんだ」
『絶死絶命』の雰囲気が変容する。
ニグンの話を聞いていた態度とは全く違う。彼女はルビクキューを持つ手をだらりと垂らし、隊長に向き合った。
「……私より強い?」
「それは……」
隊長はそこまで言って、思考を巡らせる。
今ある情報だけで『絶死絶命』とモモン……どちらが強いかと聞かれればかなり判断に困るところだ。
モモンはマジックアイテムで大爆発を起こし、『破滅の竜王』を撃破したとされている。その威力は、隊長を始めとする『漆黒聖典』の誰もが知っている。巨大隕石が落ちてきたかのように地が抉られ、異常な熱が発生していた戦場跡地をその目で見てきたからだ。
……しかしそれが評価を濁らせる。
モモンがすごいのか、アイテムがすごいのかが判断がつかない。
魔樹は一刀両断されていたが、あれも使い切りのマジックアイテムの力なのか、それとも……。
「……」
隊長は顎に手を添え、長考していた。
長考とは言っても、ものの二秒か三秒程度の時間だ。一般的に長く考えてるというほどのものではないだろう。
しかし自分と他者を比べてどちらが強いのかという題目で、僅かでも思考を挟んでいる隊長の姿を見ているということが、『絶死絶命』にはある種の革命めいた出来事だった。
「嘘……」
かつん、とルビクキューが『絶死絶命』の手を離れ、床に落ちる。転がり、床を滑り、それは隊長の足元で静止した。
彼女の顔には高揚と期待と驚愕とを孕んだ表情が張り付いてた。まるで見た目通りの年頃の少女が、死んだと思っていた生き別れの姉妹の生存を知った……というような表情だった。こんな顔をすることを、隊長は今まで知らなかった。
(しまった……)
隊長はそんな『絶死絶命』を前に、心の中で舌を打つ。
自分より強い者が現れたかもしれない、という可能性を知った彼女がどんな心境になるかなど、始めからわかりきっていたはずなのに。
「ねぇ、そのモモンって子の話。もっと聞かせてほしい」
「……勘違いをしないで欲しいのですが、モモンについてはまだ調査中です。彼女の実力については、正直怪しい点が多いので」
「どういうこと?」
「『破滅の竜王』を倒せた要因が、使い切りのアイテムのおかげだという可能性がとても高いのです」
「…………はぁ」
見るからに、『絶死絶命』の表情がどんよりと曇った。
先程まで目に星屑を瞬かせていたのに、その輝きも遥か彼方だ。彼女は重たい溜息を吐くと、床に転がるルビクキューを拾い上げる。そんな姿を見て、隊長はほんの僅かに居た堪れない気持ちを感じてしまった。
「でも、私より強い可能性もまだあるのでしょう?」
「……希望的観測にはなるかと」
「モモンについての報告があがったら全て私に寄越しなさい。いの一番よ。いいわね。もしも約束を違えたら、この国から飛び出してモモンに会いに行くから」
「……承知しました」
涼しい顔をして丁寧に頭を下げる隊長の背中には、じっとりと汗が張り付いている。モモンの情報についての取り扱いには一層注意せねばと、心の中で固く誓った。
メッセージは実際に声を出さなければ通じないとご指摘を受けましたが、物語の根幹に関わることでもないのでとりあえず見逃してください。
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第四章 王都
1.竜虎
──長い平原に敷かれた街道を、漆黒の騎士が往く。
上等な黒の
騎士の乗る栗毛の馬は、まるでチタン合金ワイヤーで編んだ様な筋繊維を体の隅々まで行き渡らせており、一目で駿馬と分かるほどの威容だ。そんな馬に乗る騎士の姿は言うまでもなく英雄そのものであり、牧歌的な風景の中に於いては些か浮いてしまうものがある。
……しかしその騎士も馬も、実際の印象と中身は異なるものだ。
騎士の名はモモンガ、或いはモモン。もう一つの名をアルベド。英雄とは縁遠い
英雄然とした見た目とは裏腹に、残念ながら彼は世の為人の為などという大義は生憎持ち合わせていない。
また、兜を脱げば女神の様な
馬も『
そんな見た目だけは完璧美女英雄のモモンガは、馬をゆっくりと歩かせながら現在王都を目指している。ぽっからぱっからと呑気な馬の蹄の音を聞きながら、彼は気ままな旅を満喫していた。
どこまでも続く平原。
澄み渡る空気が草葉を揺らし、蒼穹には朧げな雲が揺蕩っている。
それは、鈴木悟が暮らしていた地球では失われた美しい光景だった。
(こんな長閑な光景、ブループラネットさんに見せてあげたいよ)
暖かな日差しを受けながら、モモンガは嘗ての仲間の一人を思い出していた。この世界に来るべきなのは彼だったのではと今でも思っている。
世界はこんなにも美しく、穏やかだ。
モモンガはそろそろランチにしようかと考えたところで──
「……どうした?」
──首を傾げた。
馬が止まったのだ。
疲れや怖れを知らない、命令にひたすら忠実なゴーレムが、何の命令も受けずに停止した。まさか疲れたから休ませてくれというわけではあるまい。
モモンガは何か不具合でも起きたのかと馬から下りようとして──街道の先に、小さなシルエットを見た。
ひたすらに何もない道が続いていたのに、いつの間にかそれはそこにいた。
それは、騎士……としか表しようがない存在だった。
モモンガの漆黒と対を成す様な白金の鎧を纏っている。こんな何もない平原で、馬もなくただ一人、その騎士は佇んでいた。
(……なんだ?)
モモンガも人のことを言えた身ではないが、この世界での全身鎧を纏った戦士とはそれだけで目立つ。エ・ランテルにいたミスリル級冒険者チームの中にもいないばかりか、王国戦士長たるガゼフ・ストロノーフでさえ、全身鎧は着込んでいなかった。
故に目立つ。
特異な存在として、モモンガの目にその騎士は映る。
騎士はまるでモモンガのことを待っているようだった。もしかしたら違うのかもしれない。
ただそこにじっとして、兜の下からこちらを視ているような……気がする。
「……」
下馬したモモンガは待機の指示を馬に出し、ゆるりと白金の騎士に歩みよっていく。
……そして気づく。
馬が停止した理由に。
(結界の類か?)
騎士を中心に、何か薄膜の様な壁が展開されていた。恐る恐るそれに触れても、何も起きない。指だけを通過させたが、異変は起こらなかった。有害なものではなさそうではあるが──
(俺への敵対行為か……そうではないか、しかし問いただしてみなければ分からない、か)
──モモンガは、自身の警戒レベルを引き上げた。
「そこの白金の騎士!」
ソプラノの声がよく通る。
騎士はモモンガの声に気づいた様で、僅かに首を動かした。
「この結界を張ったのは貴方でしょう! 馬が通れないのですが!」
「ああ……悪かったね」
騎士の声は落ち着いたものだった。
声は存外若かったが、何か得体の知れない深みを感じさせる不思議な声だ。しかし語気に敵意はない。彼が何かしたのか、結界はいつの間にか掻き消えていて、馬もホッとしたように小さく嘶いた。
「……今のは?」
馬の手綱を引いて騎士に歩み寄るモモンガは、抽象的な質問を投げた。それの指す内容は言うべくもないだろう。
「……『
「『生まれながらの異能』ですか……ちなみにどのようなものかお聞きしても?」
「……悪いけど、それは教えられないね」
「……どうしてですか?」
「戦士にとって『生まれながらの異能』は切り札の様なものだからね。迷惑を掛けたのは申し訳なかったけど、それ以上は流石にね」
「なるほど」
それが現地人の価値観ですと言われればモモンガも取りつく島がない。ユグドラシルにないタレントや武技には興味があったのだが。
「それより君……そのプレート、アダマンタイト級冒険者の『黒姫』かい?」
「へ?」
素っ頓狂な声が溢れでた。
モモンガの知らないワードだ。
白金の騎士はそんな反応に、肩をすくめる。
「エ・ランテルで誕生した新たなアダマンタイト級冒険者『漆黒の美姫』……通称『黒姫』とは恐らく君のことだろう?」
「……私の登録名は『漆黒』なんですが……」
「……なるほどね。英雄っていうのは、中々珍しい悩みが付き纏うものだよ」
なんだよ美姫って。
そんでもって何だよ黒姫って。
モモンガはそう心の中で、市井での通り名に愚痴を零した。彼の与り知らないところで、また英雄モモンに色々尾ひれがついているようだ。
白金の騎士は少しだけ笑って、言葉を続ける。
「英雄モモンの伝説は知っているよ。なんでも世界を滅ぼせる程の魔樹をその手で倒したとか。こんなところでお目に掛かれるとは光栄だね」
「……あれを倒せたのは偶然ですよ。それに、私のことを謳う英雄譚はどうにも美化され過ぎていてならないのです」
「謙遜しなくてもいいじゃないか。本当に倒したんだろう?」
「それはそうですが……ところで貴方は?」
モモンガが問うと、騎士はほんの僅かに硬直した……様に思えた。モモンガの思い過ごしかと思える程度の、些細な硬直だ。
「僕は……リク。リク・アガネイア。各地をこうして旅している流浪の戦士……と思ってもらえれば助かる」
「ふぅん……」
モモンガは兜の中で、僅かに訝しんだ。旅をしているという割には、リクの荷物がない様に思える。モモンガも人のことは言えないが『無限の背負い袋』を馬に提げさせているので、多少の旅の荷物は持っているポーズは取れているだろう。
しかしリクは鎧と武器しか一見持ち合わせていない。どうにも旅人の様には見えないが……。
「英雄の君に尋ねる様なことではないんだけど、今僕はアゼルリシア山脈を目指しているんだ。道はこのまま街道に沿っていけばいいのかな?」
モモンガが訝しむうちに、リクはさっさと話題を変えてしまった。
「え……? あ、ああ。そう、ですね。エ・ランテルに一度立ち寄った方が近いと思います」
「ありがとう、助かるよ。そういう君は今からどこへ行くんだい?」
「私は王都を目指しています。特に何か用事があるわけでもないんですが」
「用事がないのに王都へ?」
「ただの観光ですよ。名所を見たいのと、後は何か美味しいものでも食べれればと思って」
「……英雄も案外暇なんだね」
「……ちょっと失礼じゃないですか?」
「ああ……ごめん。悪かったね」
モモンガはリクから敵意を感じることはできない。しかし百パーセント友好的かと言われたらそうでもないような気がする。ここらへんはただの感覚なのだが、僅かに色眼鏡を掛けた視線を感じなくもない。
「手間を取らせて悪かったね。最後に一つ聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「内容にはよりますが、どうぞ」
「……君は世界を滅ぼせる存在に勝利できる力があるのに、なぜ冒険者なんてやっているんだい?」
「……と、いうと?」
「その力を自分の為だけに使おうとはしないのか、ということさ」
「……私はモンスターを狩って報酬の金銭を組合から頂いてますが……。これは自分の為に力を使っていないと?」
「例えばその力で世界を征服しようとは思わないのかい? それだけの力を君は持っているはずだよ」
「へ……? セカイセイフク?」
モモンガはまたしても素っ頓狂な声が零れた。
世界征服。
そんな言葉を、ファンタジーRPGの設定以外で耳にするとは。
そのことがなんだか可笑しくて、モモンガはじわりじわりと笑いが込み上げてきて、堪らず噴き出してしまった。
「……なんで笑うのかな」
置いてけぼりを食らったようなリクがぽつりと呟いたのもモモンガには面白かった。
世界征服なんて今日日聞かない言葉を、この聖騎士然としたリクに大真面目に言われたことがモモンガには滑稽でしかない。彼からすれば世界征服なんて、太古の王道RPGのコテコテの魔王くらいしか言わない台詞だ。彼は吹き溢れる笑いを腹筋でどうにか殺しながら、それを弁明した。
「いや、ごめんなさい。まさか世界征服なんて言葉が飛び出すとは思っていなかったので……」
「……君にはそれができるだけの力がある様に思えるんだけどね」
……まあ、実際はそうなのかもしれない。
モモンガはようやく笑いを鎮静化させると、長く息を吐いた。まだ、少しだけ笑いの余韻はある。
「まあ、仮にそれができたとしても私はそんなことしませんよ」
できませんけどね、とモモンガは付け足す。
何故? と、リクは当然の様に尋ねた。
「空は青い。見渡せる平原はどこまでも鮮やかな緑をしている。平和そうな雲が呑気に漂っていて、夜には満天の星々が瞬いてくれる。この世界はこんなにも美しいでしょう?」
「……そうだね」
「こんな世界を独り占めするなんて、勿体ないと思われませんか? 仮に世界征服ができたとしても」
馬の首を撫でながら、モモンガは穏やかな声でそう言った。それを語る声は心から出たものだと、リクはその時そう思えた。
「……なるほどね」
リクが、静かに笑う。
それは、彼の中にあった僅かな緊張が解れていく瞬間だった。
「モモン。君は僕が思っていたよりずっと善い人間なのかもしれないね。英雄と呼ぶ人の気持ちが分かったような気がするよ」
「私は当然のことを言ったまで……というよりも、穏やかに健やかに暮らしていきたいだけですからね。野心を持ち合わせていないだけですよ」
「……ありがとう。話が聞けてよかったよ。すまないね、時間を取らせて」
「いえ。私も楽しかったですよ。お互い、良い旅になることを祈っております。アガネイアさん」
彼らは固く握手して、互いの旅の幸運を祈り合った。そうして再び、気ままな一人旅が始まる。モモンガは王都へ、リクはエ・ランテルへと。
モモンガが馬に跨った時、別れたリクが鷹揚に振り返った。彼はよく通る声で、最後にモモンガへ問う。
「モモン! もしもまたザイトルクワエの様な世界を滅ぼす災厄が現れたとき、君は世界の味方をしてくれるかい?」
「……もちろん! 私の手に負える存在であれば、ですが!」
「……ありがとう!」
漆黒と白金の騎士は互いに手を上げ、そこで別れる。この両名が再び相見える運命が来るかは、まだ分からない。
「……
リク・アガネイア──『
【お願い】
例によってオーバーロード原作最新刊のネタバレとなる感想は禁止させていただきます。見つけ次第、削除させていただきます。ご配慮のほどよろしくお願い致します。
【注意】
よくご指摘頂いてるTS小説あるあるなのですが、主人公のモモンガに対する『彼』『彼女』に関する表記ブレ問題があります。
これは直前の文でモモンガと出ている場合は『彼』
モモン、アルベドと出ている場合は『彼女』で統一しております。
ここら辺の取り扱いは難しいですが、よろしくお願いします。
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2.表裏
王都リ・エスティーゼ──ロ・レンテ城。
王城らしい華やかな内装の一室で、彼女達は一つの円卓を囲んでいた。見目麗しい婦女子達だが、彼女らの顔には煌びやかなお茶会を楽しむといったような腑抜けた表情は張りついていない。
円卓を囲うのは、その輝く様な美しさから『黄金』と称されるリ・エスティーゼ王国第三王女ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフ。そして女性のみで構成され、アダマンタイト級冒険者チームとして王国でも名高い『蒼の薔薇』の五名だ。
それから部屋の入り口を守るようにして、ラナーの側仕えである鎧を纏った青年の──少年ともいえるが──クライムが、油断のない表情で立っている。
「みなさん、お疲れ様でした」
鈴の音の様な声を奏でて、ラナーは小さく頭を下げる。彼女の前には王都近郊を示す簡易地図が広げられており、そこに記されているいくつかの目印にキルマークがつけられていた。今しがた、マークが一つ増えたところだった。
「ライラの粉末……通称黒粉。『八本指』の野郎共、本当にふざけたもんをこの国にぶちまけてくれやがったな」
美女達が囲む円卓に於いてただ一人混入した異物──豊かな筋繊維を纏う一見大男の様な見目のガガーランが、地図を見ながら頬杖を突いた。
「そうね……こんなものが出回っていては、本当にこの国は裏から腐ってしまうわ」
それに同調するのは『蒼の薔薇』のリーダーたる、ラキュース・アルベイン・デイル・アインドラだ。その美貌は『黄金』のラナーと比較対象に挙がるほどに美しく、『生命の輝き』とも言える魅力を纏っている。
ちなみに『八本指』とはリ・エスティーゼ王国の裏社会を支配する組織の名であり、黒粉とは『八本指』が製造・密売している麻薬の一種だ。黒粉を始め、『八本指』は奴隷売買、密輸、暗殺、窃盗、賭博等……とにかく考え得る悪事の限りを王国で尽くしている。
その魔の手は表社会にも侵食し始めており、『八本指』を匿うことでその利益を啜ろうとする貴族が多数いるのも事実。王国はまさに、腐敗の一途を辿っていた。
ここに集った彼女達は、そんな未来を変えようと『八本指』を根絶せんとする義勇の戦乙女達と言ったところか。円卓に広げられている地図に記されたキルマークは、彼女達『蒼の薔薇』がラナーの指示によって潰してきた『八本指』の拠点に他ならない。
ラキュース以外の『蒼の薔薇』の面々は、一国の王女に私情を以って与するという冒険者としての振る舞いに思うところがないわけではないが、それでも王国を良くしたいと思う気持ちは真実だ。
「だから全て潰してるんでしょ? 鬼リーダー」
「面倒だけど虱潰しにするしかなかったもんね。鬼ボス」
そう続けるのは、双子のニンジャ──ティアとティナだ。着用している服も装備も殆ど同じな為、瓜二つの彼女達の違いを初見で看破するのは不可能に等しいだろう。ローテンションな二人の声音は、ラキュースですら聞き分けは難しい。
「私は本当に『蒼の薔薇』のみなさんには感謝をしております。貴女達がいなければ、この国は今頃もっと酷いことになって──」
「──よしなさい。私と貴女の仲じゃない。そういうのはナシよ」
今一度深く頭を下げようとするラナーを制したのはラキュースだ。彼女は由緒正しいアインドラ家──貴族の出身であり、昔からラナーとの親交は深い。親しい友人同士だと思っている彼女は、茶目っ気のあるウインクを送ってみせる。
そんな様子を先程からむっつりとした態度で見送っている少女が一人いる。仮面で素顔を隠している、何とも怪しげな少女だ。
「何か言いたげね? イビルアイ」
「……何でもない。しかしお喋りとおべっかが好きだなお前らは。そんなことより、決行はいつにするんだ?」
決行。
仮面の少女──イビルアイが口にした言葉に、その場にいた誰もが表情を引き締めた。
何の決行?
そんなことは、この場にいる誰もが分かっていた。
ラナーは冷め始めた紅茶にひと口つけ、静かに目を配る。
「……日程とタイミングはこちらで調整します。一週間後にはなりそうですが、みなさんはいつでも出撃できるようにだけ準備をしておいてください」
「いよいよ、祭りの開催だな。パーッと、ド派手にやろうぜ」
犬歯を剥き出しにして、ガガーランが獰猛に笑う。拳を掌に打ちつける様は、雄々しく頼もしい。『蒼の薔薇』の面々は、彼女の勇ましさに同調する様に僅かな笑みを浮かべて頷いた。
「『八本指』の重要拠点を暴き……レエブン侯と戦士長様のご協力を仰げた今が、まさに『八本指』を叩く最高の好機です。ですが、『八本指』も愚かではありません。ここを逃せば必ずまた私達の届かない闇の中へ潜ってしまうでしょう」
ラナーの表情が引き締まる。
彼女は皆の顔をゆっくりと見渡した。
「……チャンスは一度きり。どうかみなさん、私に力を貸してください。この王国の未来の為に」
祈る様に組まれた彼女の手に、ラキュースの手が重なった。
「もちろんよ」
勇ましい戦乙女として、そしてラナーの友として、ラキュースはそう言って力強く頷いた。
──『八本指』との一大決戦の日は、近い。
ラナーとの会談後。
ロ・レンテ城を後にして拠点へと向かう大型の馬車の中、『蒼の薔薇』は先程よりは弛緩した空気を醸していた。
「これでイタチごっこは終わりにしたいものだな」
仮面の下で、イビルアイが溜息を零す。
ラキュースがそれに頷いた。
「私達は黒粉の栽培拠点を潰してきたけれど、それも恐らくほんの一部……本陣を潰さない限りは、永遠にこの戦いは終わらないものね。ここまで来るのに苦労したわ」
言葉通り、その顔には僅かな疲弊の色が浮かんでいる。
『蒼の薔薇』のリーダーとして、そしてラナーの友人として、一人の王国民として、東奔西走してきた彼女の気苦労は推して量れるものではないだろう。
「しかし『八本指』の巣穴さえ見つけりゃこっちのもんよ。戦力的に警戒するのは警備部門最強の六人……『六腕』くらいなもんだしな」
ガガーランはそう言って、窓の外を見やる。
王都は今日も、平和な日常が営まれていた。その薄皮一枚に、何があるのかも知らないで。
「一人一人がアダマンタイト級の実力者だと言われている以上、警戒は必須」
「こちらは五人、あちらは六人。数的有利は取られてる」
油断のない発言をしたのはやはりティアとティナの姉妹だ。
彼女達の言に、ラキュースが続く。
「敵の本拠地で戦うことになる以上、地の利はどうしてもあちらが上になるわね。作戦指揮はラナーに任せるけど、みんな油断だけはしないようにね」
皆が承知して頷く。
どれだけ強かろうが、僅かな油断が敗北を招くことを彼女達は知っているからだ。
「……そういえば、知っているか? エ・ランテルで王国三組目のアダマンタイト級冒険者チームが生まれたらしいぞ」
話題が落ち着いたところで、イビルアイは思い出した様に話を振った。目を丸くしているガガーランはどうやら知らなかったらしい。
「マジかよ。そりゃ初耳だ。お前ら知ってたか?」
ティアとティナは頷いたが、ラキュースは首を横へ振る。
「それで、どんな奴らなんだ?」
「奴らというか……」
「そもそもチームじゃない」
「はぁ?」
ガガーランは眉を顰めた。
チームじゃないという意味は理解できるが、同時に理解できない。アダマンタイト級冒険者なのにチームじゃない。ならば一体なんだというのか。
「どういうことなの?」
困惑したラキュースも眉を顰めて問う。
「つまり、モモンという冒険者がたった一人でアダマンタイトに上り詰めたということだ」
「はぁぁぁぁぁ!?」
ガガーランは思わず叫んだ。
意味がわからない。そう言いたいのは伝わってくる。
個の力でアダマンタイト級冒険者になるというのは、余りにも前代未聞だ。眉唾じゃないのか、という怪訝な考えが先行してしまう。それはラキュースも同じ気持ち……というばかりか、モモンの情報を知っていた三名も今尚彼女達と同じ考えだ。
「……俄かには信じがたいわね。本当なの? イビルアイ」
「知らん。私も正直半信半疑だからな。とりあえずそのモモンは『漆黒の美姫』……略称の『黒姫』と言う名でエ・ランテルでは広く知られているらしい」
「……姫ということは、女性なのね」
「ああ。常に漆黒の
実力だけでなく、美貌をも兼ね備えている。
『蒼の薔薇』──つまり自分達がその前例である為、そこに異論のある者はいない。ガガーランを除くが。
「……そんで、その『黒姫』さんはどんな偉業を成したってんだ?」
胡乱気な目線で問うガガーランに、イビルアイは自分の知ってる限りのことを静かに語りだした。
「……まず、推定難度二百は下らないと言われる巨大魔樹の討伐。北上してきたゴブリン部族連合の殲滅。ギガント・バジリスクの討伐。そして、野盗に身を落としていたというあのブレイン・アングラウスの生け捕りに成功した、とも聞いているな」
ガガーランとラキュースの額に、じわりと汗が滲み出す。二人の目が、明らかに丸みを帯びた。
「……そ、そりゃあ、凄ぇじゃねぇか……。というかブレイン・アングラウスだのギガント・バジリスクだのもやべぇが、難度二百をたった一人で倒したは流石に無理があるだろ……!」
「特別なアイテムを暴走させて滅ぼしたらしい。まあ、ここらへんは信じるか信じないかは人によるけどな。ひとつ言えるのは、組合がこの功績を公式に認めているということだ」
「まじかよ……」
「まじだ」
ガガーランとラキュースが、喉を鳴らした。
イビルアイは肩をすくめて、更に話を続けていく。
「更にモモンは『困った人がいたら助けるのは当たり前』という戯けた信条を持っているらしいぞ。子供と遊んだり、倒れた女性を熱心に介抱したりする姿を見た者は多く、エ・ランテルでの評判は非常に良いそうだ」
「……まさしく、英雄ね」
ラキュースは疲れた様な、呆れた様な、そんな溜息を零した。
「巨大なグレートソードを片手で振り回すらしいぞ鬼ボス」
「しかも第三位階魔法も使えるらしいぞ鬼リーダー」
「んだよそのバケモンは」
ガガーランが堪らず毒を吐く。
ラキュースもこれには苦笑いを浮かべるしかない。
「……何にせよ、王国にそんな英雄が生まれてくれたのは喜ばしいことだわ。今回の件で協力してくれたなら、本当に心強かったのだけど」
「拠点がエ・ランテルじゃあな……。まあ同じアダマンタイトなんだ。いずれ顔を合わせる機会はきっとくるさ」
「そうね。楽しみだけど、同業者としては少しだけ気おくれしちゃうわね……」
途轍もない新星の情報に、ラキュースとガガーランはいらない疲労を覚えた。それは丁度、馬車が拠点に到着した頃だった。
王都のとある場所。
夜の闇に紛れる様にして、各地からリ・エスティーゼ王国の裏を牛耳る人物たちがそこへ集まってきている。
──八本指。
八つの各部門を束ねる長達が、薄暗い一室で円卓を囲んでいた。
同じ『八本指』の組織に名を連ねている彼ら部門長達だが、そこに流れている空気は決して穏やかなものではない。彼らは自分達の部門を至上とし、互いの利権を食い合い、場合によっては水面下で潰し合うこともしばしばだ。
今日、そんな彼らがここへ集っているのは組織としての取り決めである定例会の為だ。これに出席しなかった場合、裏切りの可能性ありと看做されて粛清されてしまう。
各々に強固な力を持った彼らだが、この定例会にだけは顔を出さなければならなかった。
「またやられたわ」
麻薬部門の長を務めるヒルマ・シュグネウスがそう言って、煙管から吸い込んだ煙を細く吐き出した。言いながら、しかしその顔に苛立ちはない。まだまだ余裕のある口ぶりだ。それが真の態度か、虚勢なのかは推し量ることは敵わないが。
「これで六つ目か。黒粉の流通に支障はないのか」
やられた、というのが何を指しているのかはこの場にいる部門長達は理解できている。
またひとつ黒粉の栽培拠点を潰されたということだ。証拠は完璧に隠蔽されているが、その所業がラナーと『蒼の薔薇』のものである可能性が極めて高い、とも。
「まあね。手痛い出費にはなるけど、死活問題ってわけでもないわ。需要はどんどん高まってきているし、売り上げ自体は右肩上がりの一方さ。栽培拠点もまだいくつも残っているしね」
「そうか」
最近の定例会は真新しい話題が少ない。ヒルマの麻薬拠点が嗅ぎ回られていること、ラナーによって制定された奴隷売買に関する禁止条例のせいでコッコドールの部門が落ち目であること。
今日の話題もそんな定時報告で終わる──とは誰も思っていなかった。
「それでさっきから気になっているのだけど、そこの気味の悪い二人は何?」
煙管を口につけ、ヒルマは目線だけでその二人を指す。定例会の円卓に紛れ込んだ明らかな異物。警備部門のゼロの近くに座す、二人の男女の姿。
一人は枯れ枝の様な老いた男。
もう一人は、白髪をした挙動不審な女だ。
「既に通達はしているが、改めてスペシャルゲストを紹介しよう。『六腕』に新たな仲間が加わった」
ゼロはニヤリと笑った。
「まずはあのズーラーノーンの十二高弟に名を連ねるカジット──だ。組織の名を聞いたことがない者はここにはいないだろう。
「仲間などではない。訳あって一時的に協力関係にあるだけじゃ」
紹介を受けたカジットは、じろりとゼロを睨んだ。
カジットはゼロに力を貸すことで『叡者の額冠』を報酬とし、更に死の螺旋発動を確固とする支援を受ける約束をしている。
しかしゼロとカジットは世界の闇に生きる者達。そうおいそれと互いを信頼しているわけではない。喉笛を狙える好機が来たら容赦なく食らいつく。今はその好機が来ていないだけ。
ゼロはカジットを良い様に使い捨てたいし、カジットはゼロから『叡者の額冠』を安全に強奪したい。
……今はその時じゃないだけ。
黒い腹に一物も二物も抱えた男達の目には、毒蛇の様な不気味さが沈殿していた。
しかしズーラーノーンの一部を引き込めたとあって、『八本指』の面々の反応は上々。『六腕』に迫る実力者達が協力してくれるとあらば、願ってもないことだ。
ゼロはカジットから目を外すと、続いて隣の白髪の女に手振りした。女は痩せぎすで、目の下に大きな隈が出来ている。どうにも不健康そうな彼女は、指の爪を齧りながら瞳を忙しなく動かしていた。明らかに、どこか挙動と雰囲気がおかしい。
「そしてそこの白髪の女……クレマンティーヌは、カジットと同じズーラーノーン十二高弟の一人であり、更にあのスレイン法国が誇る六色聖典の元メンバーだ。単純な戦闘力だけで言うなら、俺をすら超えていると言っていい。ストロノーフすら到達できぬ英雄の領域に手が届いてる女だ」
おお……という声が上がると共に、訝しげな視線がクレマンティーヌとゼロに刺さる。こんな女本当に強いのか? というものと、こんな変な女信用できるのか? という二つの性質のものだ。
しかし法国が誇る聖典のメンバーとあらば実力は言うまでもない。この場でクレマンティーヌの実力を真に訝しむ者はそうそういなかった。何よりあの傲慢とも言える自分の強さを自負しているゼロが保証してくれているのだから。
「おっと、一つ注意して欲しいことがある。こいつの前では──」
「確かエ・ランテルでアダマンタイト級冒険者のモモンに捕らえられた小娘が、とんでもない秘宝を持ってたって話だったわね。その子がその小娘ってわけ?」
ゼロの注意が終わる前に、コッコドールが口を挟んだ。それが地雷であるとも知らないで。
「あ」
ゼロの喉奥から、たったの一文字が溢れる。
彼は次の瞬間を想像して、それは瞬きの間に現実となった。
「っきゃああああああああああああああああッ!!!」
いつの間にかコッコドールの後ろを取っていたクレマンティーヌが、彼の手の甲をスティレットで貫いていた。円卓に釘付けにされた手から、潰れたトマトの様に血が飛び散る。
一室は騒然となった。
クレマンティーヌはゴリゴリとスティレットを嫌味ったらしくねじりながら、コッコドールの耳元でねっとりとした声を吐き出す。
「おいおーい、このクソカマ野郎……このクレマンティーヌ様の前で、二度とその名前を口にすんじゃねェぞ……。えぇ? おい。全身蜂の巣にして愉快なプランターにでもしてやろうか?」
「ひ、ひぎっ! い、痛い! 痛い痛い痛い痛い!! や、やめっ、やめてちょうだい!! お、お願いだから!!」
「ねぇぇぇえええ!!! 返事は、さぁぁあ!!! ないのかなぁぁあああ!?!?」
「わかりましたッ!!! わかりましたわかりましたわかりましたぁぁああああ!!!」
コッコドールの手首を円卓に押さえつけ、クレマンティーヌは何度も何度も手の甲にスティレットを突き刺した。まるで自らに昂る憎悪、恐怖、ストレスの捌け口にしているかの様だ。赦しを乞われても彼女に慈悲の文字はない。血走った目で、刺し続けるだけだ。
「やめろクレマンティーヌ!」
「うるっせェんだよおおおおおお!!! てめェもよぉ!!! ぶっ殺すぞぁ!!!」
後ろからゼロに羽交い締めにされ、クレマンティーヌはそれでもなお発狂し続ける。狂気に満ちた視線で今なお貫かれているコッコドールは、根源的な恐怖を身に覚えた。彼は情けない声を上げながら椅子に倒れ込み、今なお悲鳴を上げている。
「こ、のッ! じゃじゃ馬がッ!」
汗だくになりながら、ゼロは何かを染み込ませた布をクレマンティーヌの顔に押しつけた。そうすると彼女の肢体はみるみる力を失っていき……やがて沈黙した。完全に無力化できたわけではない。彼女の顔には未だ猛獣の様な形相が張りついている。
ゼロは肩で息をしながら、『八本指』の面々を見渡した。額には、大粒の汗が滲み出していた。
「今ので分かったと思うが、あれの名をクレマンティーヌの前では言うな。名前を言わずともそれを示唆する様な発言は控えろ。激昂したこいつは俺でも止められん」
「ど、どうやってその女を引き込んだんだ。ちゃんと手綱は握れてるのか?」
「……こいつを拾った時、抜け殻みたいなもんだった。虚ろな顔でわけのわからないことをぶつぶつと呟いて、急に泣き出したりキレたり、とにかくやばい女だったが、黒粉漬けにしたことでなんとか今自我を取り戻している。黒粉を俺達が握っている以上は大丈夫なはずさ、多分な」
長く息を吐くゼロに対して懐疑的な目は多い。
いくら強くても、手綱が握れていないなら意味がない。クレマンティーヌほどの強者なら、それを勘定に入れても利用したいと思う気持ちも分からないではないが。元々『八本指』とは、そういうならず者のみで形成された組織なのだから。
「その子はモモ……奴に何をされたっていうの?」
「知らん。聞けばまた発狂するだけだ。何があったか聞きたいなら、お前が直接聞け。もちろん、施錠した部屋の中でな」
「う……」
そう言われたら取り付く島もない。
「それで最後にもう一人紹介したい男が──」
「まだいるというのか」
「……ああ。聞いて驚くな。今ここには来ていないが、あのブレイン・アングラウスもこちら側に引き込んでいるところだ」
「なんだと」
これには『八本指』の面々も分かりやすくどよめいた。
ブレインといえば、あの王国最強と名高いガゼフ・ストロノーフと御前試合で鎬を削ったビッグネームだ。王国で武を嗜む者なら、まず知らない者はいないだろう。あの両名の試合は、今でも語り草だ。
「よ、よく引き込めたわね。ど、どうやって?」
「……それはこいつの前では言えないことだ、と言えば察しがつくか?」
ゼロはそう言って、クレマンティーヌの方へ顎をしゃくる。
それだけでまたモモン絡みと察するのは容易い。
巷を賑わせているモモンとは一体何者なのか、そしてクレマンティーヌに何をしたのか。問いただしたくても、ここで問える人間はいない。
……しかし、モモンが活動しているのはエ・ランテルだ。王都を拠点としている『八本指』からすれば、まだ放置していてよい人物と言っていいだろう。
「……すごいわね」
ぽつりと、ヒルマが心からの言葉を零した。
カジット、クレマンティーヌ、そしてブレイン。
各国が誇る王国戦士団、帝国四騎士、聖王国の九色をすら上回る戦力が転がり込んできた。
その場に集まった『八本指』の面々は、一様に喉を鳴らす。これは、とんでもないことだ。もちろん良い意味で、だ。
「それで、それだけの過剰戦力を整えてあんたは何をしようってんだい」
ヒルマのその言葉を待っていたと言わんばかりに、ゼロが笑む。それはまさしく、野心に燃える男の顔だった。
「いいか、お前達。今、『六腕』は最強の状態にあると言っていい。この先の未来にも、これだけの戦力を持つことは永劫叶わないだろう」
円卓に連なる『八本指』の面々を見ながら、彼は力強く語る。
「俺達に出資しろ。『八本指』の総力を挙げて俺達をバックアップするんだ」
「何をするというんだ……?」
「王都で一悶着を起こし……『蒼の薔薇』、そして王国戦士団を掃除する」
にたり、とゼロは笑う。
これがどういうことか分かるな? と。
「これにより王派閥は失脚し、あのラナーも動かせる手駒が失くなる。つまり俺達の息の掛かった貴族派閥の連中が幅を利かせられる様になるってことだ」
全員が喉を鳴らす。
ゼロの語る言葉は机上の空論ではない。ガゼフも、『蒼の薔薇』も、真正面からぶつかってすら勝利できる算段がこちらにはあるのだから。
ゼロは力強く、拳を握った。
「『八本指』はこれにより更に飛躍できる。黒粉の栽培拠点も増え、貴族派閥の働きによっては奴隷制度の復活もあり得るだろう」
おお、と円卓の皆が喜色ばむ。
ゼロの言葉はどこまでも甘く、そして現実味を帯びている。
「お前達、俺達に投資しろ。これは『八本指』の未来に繋がる、またとない最大のチャンスだ」
夜の闇は、更に色濃くなっていった。
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3.再会
ガゼフは鉛の様な疲労感を覚えていた。
それは肉体的にも精神的にも、だ。
溜息が零れる。
王に仕える剣として生きたいと願う彼の純粋な思いは、王宮の中へ入ってしまうと何度も濁ってしまう。上辺だけの貴族達のやりとりを見送り、話を振られれば愛想を振りまかなければならない。自分はただ王の側に、一振りの剣として仕えたいというだけなのに。真っすぐな生き方しかできぬ彼にとって、城での身の振る舞いは苦痛なことでしかない。
空を見上げると、紅く焼けていた。
自宅が見えてくる。
ガゼフは鳴った腹の音の大きさに、眉間に皺を寄せた。
こんなに腹が空いているというのに、家に帰っても歳を食った召使いが塩気のない精進料理しか作ってくれないというのも溜息ポイントだった。
肉体労働の戦士は味付けの濃い料理が欲しくなると何度も言っているのに、召使いはそれに理解を示してくれない。今日も味の薄い料理を食うことになるのだろうな、と思いながら、ガゼフは家の敷地を跨ぐ。
「あら! おかえりなさい」
「ただいま。飯はもうできているだろうか」
召使いは丁度、家に溜まった生ごみを裏に運んでいるところだった。彼女は皺の刻まれた顔を更にしわくちゃにして、ガゼフに小走りで歩み寄ってきた。何か、いつもより機嫌がよさそうだ。
「ストロノーフ様。お客様がお出でですよ」
「なに? 俺にか」
「ええ。うふふ。私はもうこれで帰りますので。あっ、料理の方はもうできていますからね!」
「え? ああ。ありがとう……」
「それでは失礼します。……ごゆるりと、ね」
召使いはそれだけ言って生ごみの詰まった袋を大バケツにぶち込むと、そそくさとガゼフ邸を後にした。まるで逃げるかのように。
「……何だったんだ」
ぽつりと声が漏れる。
あんな召使いの姿をガゼフが見たのは、初めてかもしれない。
(……来客か。こんな時間に珍しいな。だが、来客を一人にして召使いが先に帰るなんて普通あるのか?)
そこらへんの価値観みたいなものはガゼフには分からない。しかし客を一人で待たせているのは色々と問題がある。彼は足早に自宅のドアに手を掛けると、素早く家の中へと入った。
玄関口を抜け、リビングへ行くと──
「あ、おかえりなさい。戦士長様」
──そこには、前掛けエプロンをした
「…………え?」
……ガゼフ、
彼は凍結した。
石像の様に固まり、呼吸が止まる。暫く、彼らの間に沈黙が流れた。
脳の処理が色々と追い付かない。
大宇宙のスクリーンセーバーが、ガゼフの思考の全てを遮断した。
ガゼフは未だぴしりと固まって、その場に凍り付いたままだ。
(…………なぜ?)
全方位にベクトルが向けられた『なぜ』という二文字だけが、彼の脳を支配する。
まずここにあのアルベドがいるという謎。
そしてエプロンをしているという、想像だにしていなかった姿を見た衝撃。それに彼女の長い黒髪が、紐によって後ろに一つに纏められているというおまけもついている。
まるで新妻──という見たままの印象を、ガゼフの理性の金槌がぺしゃんこに押し潰した。目の前のこの美女は自分の命を救ってくれた大恩人であれ、そういった色眼鏡で見ていい対象では決してないのだから。
「せ、戦士長……様……?」
困惑した艶やかな声は、アルベドのものに間違いない。ガゼフは凍りついた脳の霜を振り払う様に、頭を振った。
「ア、アルベド殿……? な、なぜこんなところに……!」
「え……王都に来た際は家に立ち寄ってくれと仰っていませんでした……?」
……言った。
王都に来たときはちゃんと謝礼金を払いたいから家に立ち寄ってくれと、確かに言った。ガゼフはその時のことを鮮明に思い出したが、いざ唐突に来られるとこうもなる。
「あ……そうですよね。急だと確かに、困りますもんね……」
「い、いや! そんなことはない! お、俺がちょっとびっくりしただけで、アルベド殿は本当に悪くないんだ!」
しょぼしょぼとしおれはじめたアルベドを見て、ガゼフは大慌てだ。こうして姿を見せてくれたことは嬉しくとも、迷惑なはずがない。そんな彼を見てアルベドは少しホッとした様な仕草を見せた。
「そ、それよりアルベド殿。その格好は……? それにこの料理は……」
「このエプロンはお手伝いさんに着せられて……料理も少しだけ手伝わせていただきました。料理するのは初めてだったので、お口に合うかはわかりませんが……」
「ア、アルベド殿が……?」
アルベドの手料理。
少しだけ心が浮ついたガゼフは、軟派な自身の頬をぴしゃりと叩きたい思いに駆られた。それに何より召使いの奸計に見事に嵌められたことが悔しい。おほほ、と出歯亀根性丸出しで笑う召使いの顔が容易に浮かぶ。
テーブルに並べられた献立は、いつもよりも豪勢な気がする。肉も魚もあるし、香辛料の香りもする。これは恐らく、あの召使いが色々と気を利かせてくれたに違いない。ストロノーフ様も早くご結婚なされてはいかがですかと、よくせっつかれていたから間違いはないだろう。新品のワインボトルのコルクも抜かれている。完全に出歯亀だ。確信犯だ。
「あの、上がり込んでしまって申し訳ありません。私は遠慮したのですが、お手伝いさんがどうしてもここで食事をしていけと二人分のメニューを作ってしまったので、私も頂いてもよいでしょうか」
カトラリーも二つ。グラスも二つ。
テーブルの上には大層な馳走が所狭しと並べられている。もちろん、ガゼフに断る理由など全くない。
「……え? あ、ああ。もちろんだ。寧ろこんな美味そうな食事をつくってもらって、感謝しかない」
そう返しながら、なんだかガゼフはふわふわしている。自分の家なのに現実感がない。何でもないいつもの家のテーブルの向こうにアルベドが座っているだけで、ここが何か特別な空間の様にガゼフは思えた。
(料理、意外とイケるものだな)
アルベド──モモンガは、自らも手伝った料理を口に運びながら、その出来栄えに満足そうに笑んだ。
モモンガ、そしてアルベドは、料理系の職業を習得していない。故に彼は、自分が料理をすれば必ず失敗すると思い込んでいた。召使いにエプロンを手渡され、にこやかに「よければ手伝ってもらえませんか」と言われた時は無理だと断ったが、いざやってみるとこれが意外にもすんなりできたのだ。
野菜はぎこちなくとも切れたし、魚の火加減も上手く見ることが出来た。料理ができない職業構成のはずなのに、だ。
(……これは恐らく、アルベドの設定がそうさせているのだろうな)
モモンガは、そういう結論に至った。
これは思いがけない……そして大きな収穫だ。
アルベドの設定には『家事全般に長けた
NPCに刻まれた設定は、ステータスを超越して効果を発揮されるということになる。裁縫ができた時もそうだったが、今回料理に挑戦して上手くいったことで確信に至った。モモンガは内心、アルベドのあのクソ長ったらしい設定を全て読み込んでおくべきだったと正直後悔していた。タブラが盛りに盛りまくったおかげで今こうしてその恩恵にあずかれているのだが、まあサービス終了間際であれにくまなく目を通せというのが無理だろう。
まあ、モモンガが料理を出来るその他の可能性としては、この世界の食べ物であれば料理系の職業でなくとも調理することができるのかも、というのも挙げられるが、そこは要検証だ。
モモンガはとりあえずそのことを頭から追いやって、目の前の料理群に舌鼓を打った。どれもこれも、掛け値無しに美味い。自分で作ったというのがまた、良いスパイスとなっている。
「それにしてもあのモモンがアルベド殿だったとはな……」
「驚きましたか?」
「いや……実を言うと薄々は感づいていた。難度二百を超える化け物を倒せる美しい女性といえば、俺はアルベド殿しか知らないからな。しかしそうやって角や翼を隠せるとは知らなかったから、自信はなかったんだが」
「これに関しては本当に魔法様様ですね」
「俺ももう少し、魔法に対する見識を変えていかねばならないな」
ガゼフはそう言って、薄く笑んだ。
彼らの食事の供となる話はやはり、モモンガがカルネ村からこの王都に来るまでのものだった。かいつまんで話してはいるものの、話が濃すぎて食事の終盤に差し掛かってようやく八割を話し終えたくらいのものだが。
カルネ村で過ごした日々。
エ・ランテルで冒険者になってから熟した依頼の数々。経験したこと。感じたこと。
ザイトルクワエの話は、ガゼフも手に汗を握って聞いてくれた。まるで、英雄譚を聞く少年の様な瞳だった。
話しながら、本当に濃い月日だったとモモンガは思う。惰性で生きていたあの頃と比べると、とんでもない密度の時間を過ごしてきたと改めて自覚することができた。
ガゼフはモモンガの冒険譚を聞いて、羨ましく感じてしまったことを否めない。モモンガが様々な功績をエ・ランテルで挙げている一方で、彼は停滞した日々を過ごしていたからだ。もちろん、地獄の様な修練を重ね、あの時より力を蓄えたのは事実。しかしそれ以外は、目ぼしいことは何もしていない。
(……俺は、これでいいのだろうか)
じり、とひりつくような焦燥感が胸の内を焦がす。
王の側に控え、自らを研鑽し、有事の時に剣を抜くことこそがガゼフの為すべきこととは言え、それ以外は貴族達のぬるま湯の様なやりとりを眺めているだけだ。彼がそうしている内にモモンガが積み重ねたお手柄は枚挙に暇がない。
『アルベドに認められる強さになる』のが現在のガゼフの目指すところであり、その為に鍛えてきたというのに、むしろ目標とするアルベドの凄まじさを知らしめられるばかりだ。彼は少しだけ自嘲気味に笑って、グラスを傾ける。
「ブレイン・アングラウスを捕縛したそうだな」
「………………あー……あの刀を持った青い髪の」
答えるのにだいぶ時間が掛ったな、とガゼフは心中で笑う。
理由は聞くまでもない。その昔、御前試合でガゼフと死闘を演じたあのブレインでさえ、モモンガにとっては箸にも棒にも掛からぬ存在だったというわけだ。モモンガが際の際でその名を思い出したのは、随所で『あのアングラウスに勝ったそうですね』と言われた経験があったからだろう。
「奴と戦ってみて、どうだった?」
「どう、とは」
モモンガはそう聞いて、小首を傾げる。
そんな彼の様子を見て、ガゼフはクククと喉奥で笑った。ブレインほどの強者でさえ、やはり何の手ごたえも与えられなかったらしい。
「本当に貴女は底が知れないな」
「え?」
「いや何でもない。こっちの話だ。俺も更に身が引き締まったよ」
「……? そう、ですか」
モモンガはきょとんとしながら、再びカトラリーを持った手を動かし始めた。丁寧な所作で、もりもり料理を平らげていく彼の姿はやはりガゼフの目には愛らしく映る。世界を滅ぼせる魔樹を撃破した存在とは到底思えない。こうしていると本当に美しく、そして可憐で、無邪気な愛らしい女性に見えてしまう。
(この
自らの立ち位置を思い知る。
剣も心も未熟。
目指す
王国最強という大仰な看板を下ろしたくもなる。しかしガゼフは腐らない。この鋼の様な克己心が、彼の強さの芯に他ならないからだ。
明日の朝はもう少し早く、修練場に顔を出そうと心に決めるのだった。
「……そういえば、アルベド殿にはちゃんとした報酬を渡さなくてはな。その為にこの家を訪れてくれと言っていたのだから」
「それなんですけど、もう大丈夫ですよ」
「え?」
目を丸くするガゼフに、モモンガはクスリと笑った。
「私、こう見えてもアダマンタイト級冒険者ですよ? カルネ村にいた時と違って、懐なら十分温まってますから」
「いや、しかし」
「私が今貰っても腐らせるだけな気がするので、どうしてもと仰るなら孤児院辺りにでも寄付しておいてください」
モモンガはそう言って、グラスに口をつけた。
正直、彼は今過剰とも言える資産を持っている。ザイトルクワエに始まり、ギガント・バジリスクやゴブリン部族連合をたった一人で討伐したのだ。分け前はもちろん自分一人だし、モモンを重宝したい組合が報酬金にケチをつけることもない。
一年は何もせずに『黄金の輝き亭』でぐうたらできるだろう。文無し時代がもはや懐かしいくらいだ。そんな彼が今、心を通わせた相手のポケットマネーをいただくのは少々心苦しい。所属している団体から正式に謝礼金が下りるとなればまた話は別なのだが。
「なんと……」
ガゼフはそんなモモンガに、感銘を受けていた。
(本当に、アルベド殿は自分のしていることを誇らないのだな……)
もっと自己顕示欲を満たしてもいい。金銭を要求してもいい。我儘になってもいい、とガゼフはモモンガに対して思う。
しかしまあ、モモンガにとって今は金や名声はただただ魅力的でないというだけの話なのだが。これが仮にユグドラシルにない強力なマジックアイテムで釣ってたなら、反応も相当変わっていたに違いない。彼は決して欲のない聖人などではない。欲が出る様な対価が周りにないだけだ。
「私がここに来たのは、戦士長様が元気にしているか様子を見にきただけですから。今更報酬をせびる様な真似はしませんよ」
モモンガはこともなげに言って、グラスの中のワインを飲み干した。その顔にはやはり、デフォルトである女神の様な温かな微笑みが浮かんでいる。
やはり敵わない。
ガゼフは井の中の蛙であったことを改めて理解した。
「今日はご馳走様でした」
ぺこり、とモモンガは玄関口で頭を下げる。
彼はいつの間にか私服から、漆黒の鎧へと装備を変えていた。
ガゼフは頭を下げるモモンガに、とんでもないと首を振る。
「いや、料理を作ってくれたのは貴女だろう。むしろ礼を言わなければならないのは俺のほうだ」
「いやいや、私はちょっと手伝っただけですし、食材は戦士長様が買っていたものを使ったのですから、お礼は私が言うべきことです」
「……律儀だな、貴女は」
ガゼフはそう言って、がしがしと頭を掻いた。
なんだかいつも、上をいかれている様な気がしてならない。
「それでは戦士長様、改めて今日はありがとうございました」
「……ガゼフでいい」
「え?」
「その、戦士長様といつも呼ばれるのは、なんだか距離を感じてしまってな。ガゼフでいい」
「……ガゼフ、さま」
「……様もつけなくていい」
「ガゼフ、さん」
言いなれない様子のモモンガを、ガゼフは愛らしく思う。出会った頃は綺麗だとか美しいとかばかりが先行していたが、深く交わる度にその魅力は愛嬌や謙虚な姿勢にこそあると、彼は感じていた。
「ありがとう、アルベド殿。よければ送っていこうか?」
「それは大丈夫です。それとも夜道が危ないひ弱な女にでも見えますか?」
にやりと笑うモモンガに、ガゼフが言えることは何もない。彼も釣られて、笑った。
「……心配は無用だな」
「ええ。私は戦士ちょ──ガゼフさんよりも、ずっと強いですからね」
「悔しいが、その通りだ。あの剣を返せるのはいつになるやら」
「ふふ」
「それではアルベド殿、気をつけて」
「ええ。ガゼフさんもくれぐれも体調にはお気をつけて。それではまた会いましょう」
「ああ」
彼らは微笑を交え、モモンガはガゼフ邸を後にした。
鎧に包まれた小さく、華奢な背中が遠ざかっていく。何よりも自由で、何よりも美しいあの背中が、小さくなっていく。
「──アルベド殿!」
ガゼフはモモンガを呼び止めた。
思わず、というのと、やはりあのことを話しておいた方がいいのでは……と、思ったからだ。
彼の頭に過ったのは、現在ラナーに話を持ち掛けられている対八本指に関する作戦のことだ。もしもアルベドに助力を願えたなら、一騎当千の働きをするのは確実。願い出ない理由はない。
(……いや、駄目だ)
……しかしガゼフはそれを、ギリギリのところで飲み込んだ。
これはリ・エスティーゼ王国が抱えている問題であり、冒険者のアルベドを巻き込むようなことではないと思い直したからだ。そして何より、王国の恥部を曝け出す様な真似を彼はしたくなかった。彼は、アルベドには王国を好きでいてもらいたい。
ガゼフは言葉を咄嗟に飲み込んで、手をゆるりと上げる。
「またきてくれ。俺はいつでも、アルベド殿を歓迎する」
「もちろん。今度また、どこか美味しい料理屋にでも連れて行ってください」
「……ああ。約束しよう」
彼らは手を振り合って、別れとした。
すっかり、夜の帳が下りた頃だった。
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4.死神
見上げれば、とっぷりとした夜闇が王都を覆っている。
星の瞬きが見えにくいのはエ・ランテルやカルネ村と違い、煌々とした光源が街の至るところで輝いているからだろう。
モモンガは漆黒の鎧から垂れる外套を揺らしながら、日中にチェックインを済ませておいた高級宿まで真っすぐに歩いていく。夜の街中も観光したい彼ではあるが、ガゼフ邸でたらふく腹を膨らませた今夜はこのまま宿で一休みしたいところだった。
「明日は何しようかなぁ」
呑気に呟きながら、モモンガは明るい思案に暮れる。独り言の語尾も、どこか弾むようだった。
冒険者になった当初としてはもっと自由気ままに世界をさすらいたかったモモンガだったが、王国に三つしかないアダマンタイト級冒険者チーム(?)ともなればその柵も大きく、エ・ランテルを出るのも一苦労だった。冒険者モモンという個そのものが都市を守る最高のセキュリティとなるのだから、それは無理からぬことだ。
特にモモンガにとって厄介だったのはアインザックとラケシルの両名だった。彼がそろそろ観光の旅に出ようと腰を浮かせたタイミングでどこからともなくシュババとやってきて、手揉みしながらあれやこれやと用事や接待をけしかけてくるのだ。
今回ようやくそれを振り切った際、他の都市や組合に浮気しないでくれとおじさん二人に本音で泣きつかれたときはドン引きしたものだが、しばらくしたらまた戻ってくると言って了承を得た。まあ書面での契約のない口約束を守る義理もないと、モモンガ側はそこそこにドライな心情なのだが。
そんなこんながあってようやくの王都観光なのだ。多少浮き足立っても仕方がない。
見てみたいところは沢山ある。
王族の住まうロ・レンテ城や、王都の冒険者・魔術師組合はやはり興味の惹かれるところだろう。城下町のグルメも気になるし、調べてみれば劇場なんかもあるかもしれない。
(明日は午前中に王城に行ってみるか……リアルな王族が住む城が見れるなんて普通に凄いよなぁ。なんかお姫様もめちゃくちゃ綺麗って噂だし、一目見れるなら見てみたいけど流石に無理か?)
流石にモモンのまま行くとあれだから、変装していくか。午後は下町に降りて適当に買い食いでもしながら魔術師組合にスクロールやマジックアイテムを漁りに──と、適当な計画を立てていたところで。
モモンガの進む道の先に面した建物から、男が出てくるのが見えた。如何にもガラが悪そうな、チンピラという風貌の男だ。男は大きな袋──死体袋に見える──を建物から運び出し、鬱陶しそうに道端に放り投げているところだった。
何となく嫌な予感を察知して──
(中身は大量の小麦か布の切れ端……なわけないよな)
──そしてそういう予感は、大抵当たるものだ。
モモンガは不快感から眉を顰める。
放られた衝撃で袋の口から僅かにまろび出たのは、裸体の女だった。
もちろん、そんな袋に詰められた女の様子が普通なわけがない。
死に直面した肌の色をしており、痩せこけ、金色の髪は幽鬼の様に痛んでいる。内出血と見られる病んだ紫色が、彼女の体の至る箇所を濁していた。特にそれは顔が顕著だ。何発もの容赦のない殴打を受けたことは簡単に見て取れ、腫れあがった──もしくは陥没した瞼から受ける印象は痛々しさしかない。
「……」
反吐の出る様な人間の悪趣味に、いいように付き合わされた……というのは、容易に想像できる。まるで廃棄物の様に扱われている女のこれからの未来は、決して明るいものではないだろう。
女を運んでいた男は額の汗を拭ったところで、ようやくモモンガの存在に気づいた。
怪訝な顔。まず漆黒の全身鎧に目を見開き、更に胸元のアダマンタイトプレートを見て更にひと際大きく目を見開いた。
「彼女は?」
「あ、ああ……事故で酷い傷を負ったからな。これから神殿に連れていくところだ……です」
放られた質問に、男はしどろもどろにそう返答した。
目線が泳いでいる。
男は見るからに動揺していた。
やましいことを隠そうとする反応のそれだ。
死体袋同然の袋にボロボロの女を詰め、物の様に放る男のその発言を素直に受け取れるほど、モモンガは鈍くはない。
「……」
細い指が、モモンガの足に伸びる。
女は地に這い蹲りながら、か細い声で絞る様に言葉を紡いだ。
「た……ス、けて」
そよ風に吹かれて消えそうなその声は、確かにモモンガに届く。足甲に触れる女の弱々しい指の感触は、それでも彼女がまだ生きたいという意志を見せる証左でもあった。
(……虫唾が走るな)
モモンガの背筋を走る、氷の様な嫌悪感。
足元の女に対してではない。女をここまで痛めつけた者に対して、だ。
別に義憤に駆られたわけではない。
女を憐れにも思ったが、悪魔として心の在り様が変化しているモモンガにとってそれは些細な感情だ。自分と一定の関係値を築けていない人間がどこでどう野垂れ死のうが、ぶっちゃけどうでもいい。
……しかしそんなモモンガの心がどうにもささくれ立つ。決して看過できない波紋が、目の前の光景によって齎された。
(……これは、もう一つの俺の姿……なのだろうな)
心の中で、モモンガは自身が得た不快感の答えを見つけた。
……そう。足元に這うこの女は、モモンガが歩んでいたかもしれないもう一つの未来の到達点。
モモンガはこの世界に、アルベドと自分のアバターのステータスが加算された形でやってきた。その結果、個としては間違いなく最強の存在となり、あらゆる苦難に真っ向から立ち向かっていけるだけの力を有してしまった。だからこそ自分が守りたいものを守れ、敵対生物を圧倒し、アダマンタイト級冒険者としての揺るぎない地位を築けたのだ。
……しかしもし、互いのステータスを打ち消し合う形で二つの力が融合していたら?
レベル一。
スキルも魔法も使えず、鈴木悟と変わらぬ身体スペックでこの世界にやってきていたとしたら?
カルネ村で遭遇したあの偽装兵達に捕縛されてしまっていたら?
アルベドの肉体はどう扱われる?
どうなるかは想像に難くない。
そして想像もしたくない。
故にモモンガは取りすがる力なき女の姿に、少なくない動揺を抱いていた。自分はただ恵まれていただけ。同じ女性の体を持つ者として、彼はそのことに今一度気づかされた。
「……」
めら、と苛立ち程度の小さな怒りが、モモンガの胸に灯る。それは女と同じ性の者として。仲間の大切な体を預かる者として。
モモンガの意志は決まった。
彼は小さく息を零して、足元の女をひょいと拾い上げる。
『困っている人がいたら助けるのは当たり前』というたっち・みーの言葉に沿っているのではない。モモンガがただそうしたかったから、というだけの、原始的な理由だ。
「お、おい! あんた何をして──」
「私が神殿へ連れていきます。何か問題でも?」
「そ、それは駄目だ!」
「なぜ?」
「なぜって……」
「一体、あそこで何をやっているんですか?」
底冷えする様な、鋭利な声音。
モモンガは男を射竦めた。あそことは言うまでもなく、男が出てきた建物のことだ。
「あ、あんたには関係ないだろう……!?」
「今、私はこの女性に助けを求められました。流石に無関係とは言えないでしょう」
薄皮一枚下に潜む怒りが滲み出す。
刺す様な返答に、男は苦虫を噛み潰した。
「なぁ、悪いことは言わねぇ……! このことは見なかったことにしてくれ! その方がお互いの為ってもんだ……! な! 分かるだろう!? 俺の言いたいことが!」
「は?」
首を傾げるモモンガに、男はがしがしと乱暴に頭を掻く。その顔には薄らと、汗の粒が滲み出していた。
「あんたも聞いたことくらいあるだろう……! 『八本指』だよ! あそこは奴らの息がかかっている……!」
顰めた声には確かな焦りがあった。
しかし知らない。
モモンガは『八本指』など聞いたことなどなかった。
故に鬼気迫る表情で捲し立てられても、それはモモンガの苛立ちを加速させるばかりだ。
「『八本指』とは?」
「知らねぇのか……? この国の裏を牛耳ってる組織の名さ。あんた、いくら強くても『八本指』を敵に回したら命がいくつあっても足りねぇぞ……! な、だから分かるよな? お互い大人になろうぜ」
「……なるほどね」
男の説明から、大方の事情を察することはできた。
『八本指』とは巨大裏組織の名で、女を文字通り玩具にすることができる商売をやっているあの建物はその組織が運営しており、この男はそれに所属する末端の構成員か雇われ用心棒といったところだろう、と。
首を突っ込むべきではない、とモモンガは迅速に判断した。
自分から藪蛇になる選択を取るのはリスクでしかないと。
モモンガは小さく息を吐いて──
『
──そう唱えた。
呪文を受けた男は、まるで糸の切れた人形の様にその場へ崩れ落ちる。頬から地に落ちた男は、ぐしゃりと水気のある音を立てて絶命した。
即死魔法を唱えたモモンガの瞳は冷ややかなものだった。
血の詰まっただけの袋と化したそれに、モモンガは加えて自分のスキルを唱える。
『上位アンデッド創造』
骸となった男の体が、モモンガのスキルを受けて沸騰した湯の様に体を何かに変化させようと蠢いた。モモンガは変態しはじめた男を、まるで小石かの様に蹴飛ばす。男の骸は扉を破壊しながら建物内に飛び込んでいき、壁にぶつかって泥の様に肉が流体へと変わった。
「殺せ」
やがて液状化した男の死骸は、どろりとその輪郭を変えていく。たったの三文字の、シンプルな命令を受けたそれは、世にも悍ましい異形へと成った。
『八本指』に関連したことに首を突っ込むのは得策ではない。
ならば自分の目撃情報や痕跡が上にあがらない様に、シモベに皆殺しにしてもらえばいいだけだろう。
モモンガが至ったのはたったそれだけの、シンプルな結論だった。
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5.落涙
思い返しても、彼女の人生は決してよいものではなかった。
──ツアレニーニャ・ベイロン。
彼女にはセリーシアという妹がいた。ツアレにとって明るい記憶と言えば、その妹と暮らしていた小さな村での日々くらいだろうか。彼女が人らしい人生を歩めた時間は、今では遠いその思い出の時のみだった。
ある日、タチの悪い領主に村から連れ攫われ、妹と離ればなれになってからのツアレの人生は急転直下だった。妾として彼女を手元に置いた貴族は、その日からツアレのことを散々いい様に弄んだ。凡そ人道的とは言えぬ扱いを受け、毎夜玩具にされる日々。嫌だと言っても組み敷かれ、彼女は傲慢な貴族の性の昂りを収めるだけの装置とされていた。
しかしそれはまだ地獄の浅瀬だったことを思い知る。ツアレの体に飽きた貴族は、彼女の処分も兼ねて『八本指』が経営する娼館に売り飛ばしたのだ。
そこからは本当の地獄だった。
逃げられぬ様にと足の腱を切られ、来る日も来る日も脂ぎった権力者達の悍ましい性的嗜好に付き合わされた。一晩に傷を負わぬ日などなかった。顔を殴られながら犯され、罵倒される。そこに人らしい営みなど一切有り得ない。
心と体が壊されていく日々。
泣いても誰も助けてはくれない。妹との日々を思っても、それは何の慰めにもなりはしなかった。ただただ、地獄の毎日が続いていくだけ。眠れば即座に次の地獄が待っている。彼女は次第に眠れなくなった。
食事も喉を通らない。
睡眠も満足に取れない。
やがて衰弱し、複数の性病に冒されたツアレは、文字通り完全に壊れるまで男のサンドバッグとなった。
泣いても、乞うても、彼らは止めてくれない。
拳と言葉で、ツアレはニンゲンではないのだと叩きつけてくる。女という性を持つだけの肉袋なのだと、苛烈に追い詰めてくる。追い込まれるツアレを見て、男は嘲笑っていた。痩せこけたツアレの肉体が、脂の詰まった男の殴打に耐えられるはずもない。
やがて力尽きたツアレは、死体袋に詰められる。自分と同じ境遇の女性がこれに詰められ、どこかに連れていかれるのを彼女は何度か見ていた。
故に察した。
ああ、自分はもう終わりなんだ、と。
ツアレニーニャ・ベイロンの人生は、こんな結末で幕が下りるのだと。
彼女ははっきり言ってその時、安堵の息を漏らしていた。地獄の日々が、死によってようやく終わりを迎えられる。それはとても素晴らしいことなのだと、疑いもしなかった。
ツアレはこの娼館に連れられて、初めて穏やかな表情を見せていた。運ばれながら、袋の中で母の腹の中の胎児かの様に体を丸めていた。
「うっ……つ……っ」
ツアレは硬い石畳に袋ごと投げ出された。
放り投げられた拍子に、ツアレの体が袋からずるりと飛び出した。
その瞬間、彼女の頬を伝ったのは心地よい夜風の感触だった。眼球をころりと動かして空を見やると、いくつもの星が瞬いている。
久しぶりの外の空気だった。
ここは娼館の真正面なのだと、ぼんやりと理解できた。香の焚かれたあの中より、余程空気が美味い。ツアレは折れている肋骨の痛みに呻きながら、肺いっぱいにその空気を取り込んだ。
(ああ……)
夜を淡く照らす星空は、妹と見たそれには遠く及ばぬが、それでもあの日々を思い出せるだけの光景に、ツアレの濁った瞳には映った。
(……嫌だ)
走馬灯の様に思い起こされる、妹との日々。領主に攫われた日。地獄の幕開け。
ツアレの人生の情報全てが、血潮となって彼女の体を駆け巡る。
その瞬間、ツアレの心にじわりと恐怖が滲み出した。
(嫌だ、嫌だ……!)
それは、生物としては余りにもシンプルな感情。
(死にたくない……怖いよ……!)
生きたいという意志。
死への恐怖。
これほどボロボロになっても、それでも生ある幸せを掴みたいという根源的な感情。ツアレ自身、そんなことを思える自分に戸惑いの感情を抱いていた。
(誰か……誰でもいい! 神様……!)
何故ならツアレは知っている。
この世は地獄そのものじゃない。
脳裏を駆け巡るのは、あの小さな村で過ごした厳しくも穏やかな日々。
(誰か……誰か、どうか、私を助けてください……!)
死んだら一体自分はどうなってしまう?
今こうして思考してる自分は何になるというのか。
消える。
自分という自我が、本当に無くなってしまう。
嫌だ。
そんなこと、受け入れたくない。
(私は、まだ……)
手を伸ばした指先に、こつりと冷たい感触が触れる。
体が寒い。
ツアレの意識は、そこで途絶えた。
──目が覚めた。
背には柔らかなベッドの感触。
体には清潔な毛布が掛けられていた。
(ここは……)
ツアレはゆっくりと、上体を起こした。
きょろ、と目だけで辺りを見渡すと、そこはツアレの知らない部屋だった。清潔感に溢れ、無駄な家具の配置がない。窓に掛けられたカーテンが弱い光を帯びていることから、彼女に理解できるのは今が朝だということくらいだ。
しかし体が軽い。
あんなにも重たく、ボロボロと砕けてしまいそうだった体が、まるで新品になったかの様だった。
ツアレは体の確認をしようとして──
「目が覚めたようですね」
「え」
──気づかなかった。
ベッドの隣の椅子に、ツアレの知らない女性が腰掛けていたのだ。
美しい声だと思った。
そして、ハッと息を呑む。
時が凍りついた様だった。
その女性が、信じがたい程に美しかったから。
長い黒髪を嫋やかに流し、彼女は清廉な白いドレスに身を包んでいた。美女は穏やかで、それでいて美しい微笑みを以てツアレのことを見ている。
美しくて、綺麗で、神聖で……。
「……ひっ、く……ぅう……く……」
たちどころに、ツアレの瞳から涙が零れる。
シーツを握り込み、彼女は下唇を噛んで嗚咽を漏らしていた。
温かな部屋。
清潔なベッド。
天女の様な女性に看られているこの空間。
……ツアレは、自分は死んだのだと直感した。ここは死後の世界で、自分を看ているこの女性は神に遣わされた天使なのだと。
「うっ……ふ、くっ……ぅ……っ……」
故に涙を流す。
死んだことに安堵して。
死んだことが嬉しくて。
死んだことが悲しくて、悔しくて……。
津波の様な様々な強い感情が綯い交ぜとなった結果、それは涙となって発露した。ボロボロと、ビー玉の様な大粒の涙が次々と瞳から零れていく。
あんな男達に嬲られ、家畜以下の扱いを受け続けた人生は兎にも角にも終わりを告げた。何もできず、何も成せず、何者にもなれず。
ツアレニーニャの人生とは、そんなものだった。
死んだことを嬉しいと思えるくらいには、悲惨な最期だった。それが、堪らなく悔しかった。辛かった。
涙が、止まらなかった。
震えるツアレを、天女はそっと抱きしめる。
「……っう、く、……うぇ……うえええええええええん!!!」
ツアレは堰を切った様に嗚咽し、声を上げて泣いた。彼女を受け止める天女の体が余りにも柔らかく、温かで、慈しみを帯びていたから。
あの男達とは違う、優しい抱擁に、ツアレの心にぴんと張りつめた最後の一本の糸が切れる。
己の激情に流され、泣きつかれ、再び微睡みの世界に入るまで、天女はそっと優しくツアレを抱きしめ続けてくれた。
「これで良かったのか……?」
ツアレを寝かしつけた後、モモンガは別室のソファに深く腰掛けて、小さく呟いた。その表情にはある程度の後悔の色が見て取れる。彼は浅く息を吐いて、蟀谷を押さえた。
(あの女性に今後入手不可能とも言える『マスターポーション』を使ったのは流石に勿体なかった気がするな……)
『マスターポーション』
卓上には残されたもう一本の薬瓶が、淡い蛍色に明滅していた。
そう、モモンガはザイトルクワエに苔むしていた薬草から抽出した『どんなバッドステータスも即座に治す』とされる、超希少ポーションの一本をツアレの為に使ってしまった。
病を治すことのできる魔法が込められたスクロールをモモンガは所持してはいるのだが、彼のクラスではそれを使用することができない。神殿へ連れていき、クレリックのクラスを修めている神官にスクロールを使ってもらうという案もあったのだが、それは彼自身が棄却した。
仮にあの晩そのまま神殿へツアレを連れて行ったとして、そのことを『八本指』に知られたとあれば、疑いの目を向けられるのは必至だろう。娼館が潰れた晩にボロボロの娼婦を神殿へ連れて行った人物を疑うなというほうが無理だ。モモンガはそれを避ける為に、なるべく内々で処理したかった。
しかし外傷は手持ちのポーションで癒せたとしても、ツアレが罹っている複数の性病は治療することはできない。モモンガには『マスターポーション』を使用する以外、ツアレを回復させる手段がなかったのだ。
だから泣く泣く『マスターポーション』を使った……使ってしまった。まあ、これには副作用等々がないかという治験の意味もあったのだが、それにしても拾ってきた野良猫一匹に使うには勿体なかっただろう。
故に、モモンガはやるせない気持ちでいっぱいだった。
(……生き物を拾ってきたのは俺だからなぁ。出来る限り保護はしてやりたいとはいえ、流石に勿体ない気持ちが後引くぞ……。あーあ、慣れない人助けなんかするもんじゃないよな……)
ツアレと『マスターポーション』を天秤に掛ければ、間違いなく後者が勝る。しかし自分で拾ってきた動物を治療する手立てがある癖に、それをしないのはおかしな話だ。
悪魔と鈴木悟がごちゃまぜになった倫理観だが、結局はツアレに『マスターポーション』を使用するという結論に至った。ツアレに薬瓶の中身を垂らす時、その手がプルプルと震えていたのは言うまでもない。
ちなみに彼が今座しているこの空間──ひいては屋敷なのだが、取り急ぎ不動産に行って借りたものだ。流石に高級宿に性病を患った娼婦を連れていくわけにもいかず、昨晩のうちに突貫で契約してきたのだ。
一番清掃が行き届いている家をと注文したところ、高級住宅地にあるこの屋敷と言えるほどに広い家に通されてしまった。
無理を言って即日……それも夜遅くに借りたので不動産に文句は言いにくかったが、これも若干痛い出費だ。
モモンガの心境としては、ケチな貧乏人が大枚を叩いて保険の掛かってない野良猫を動物病院に連れて行き、猫砂や餌、猫用のケージを買いに走った後に近いだろう。
額をぴしゃりと押さえる。
ソファに身を沈めながら、モモンガは長い溜息を吐いた。
超希少アイテムを使ってしまったという後悔を、善行の為なんだから仕方ないという蓋で何とか押し込めようとしても、溢れるのは溜息ばかり。
「どうしたもんかね……」
ツアレを今後どうするのかという、これから先の問題もある。突発的な行動で面倒なことになったと、モモンガはやはり心の底から染み出してくる後悔の念に抗えないのだった。
◆補足◆
【娼館を襲った上位アンデッド君】
モモンガが創造した上位アンデッドはレベル40を超えているので、留まることはできず、一定の時間が過ぎて消失しました
「殺せ」の命令に対しては、創造主の意図を汲んで娼館の従事者と客だけ虐殺しています(判断が微妙なのであの場にいた男だけ)
なお、惨劇が起きた娼館の第一発見者は八本指の手勢だった為、腱を切られている逃げそびれた多くの女性達の運命は現時点ではあまり変わっていません
コッコドールは様々な隠蔽工作をした後こちらの娼館を撤退し、王都内にある別の建物でまた商売を始めようと企てています。客からの信用はガタ落ちですが
【ツアレの胎児】
マスターポーションによって魔法的に消失しました。
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6.発散
日常回です。
そういえばモモンガさんのあれやこれってどうなってんの?っていう回答回。
こんにちは、ツアレニーニャです。
現在私はモモン様に拾われ、モモン様のお屋敷のメイドとして働かせていただいてます。今日でモモン様と出会ってから三日目。私は、自分でも少し恐ろしいと思うくらい幸せな生活を送っています。
「よい、しょ」
真水の溜まったバケツを運ぶだけでもひ弱な私にはそこそこの肉体労働ですが、それが却って嬉しく思ってしまいますね。あの娼館でのことを思い出せば思い出すほどまともな労働なんて……。
「…………」
ふとした瞬間に思い出して、心が濁ることはしばしばです。
病に冒されてボロボロだった私の体は、モモン様の治療によってまるで今までが嘘の様に健康になったのですが、やはり心に植え付けられたトラウマはそうはいかないようですね。今でも外出することを思えば震えが止まらないし、男性と目を合わせることを想像しただけでも鳥肌が止まりません。
私の世界はこの小さなお屋敷と、モモン様ただお一人でいい。
モモン様は私が自立できるまでの期間雇ってくれると言ってくれたのですが、本当は自立なんてしたくありません。いつまでもモモン様のお側に仕えていたい。そう思ってしまうのは、私の贅沢なのでしょうね……。
……。
……ううん。そんなことを思って暗くなっている時じゃありません。水に浸した雑巾をめいっぱい絞り、この広い屋敷を隅々まで磨き上げていくのが今日のお仕事。時間は有限なのですから、しっかり働いて少しでもモモン様のお役に立たないと。
「ツアレさん、今日も精が出ますね」
「モ、モモン様……!」
ぴしり、と背筋が伸びてしまう。
振り向けば、私がこの世で最も敬愛する御方が、きらきらと輝いて目に飛び込みました。
頬が僅かに緩んで、上気してしまうのが自分でも分かってしまいます。
私を地獄からお救いくださり、衣食住を与えてくださるばかりか、私をメイドとして雇ってくださった、この世で最も尊く、美しい御方……。
(モモン様、今日も本当にお美しい……)
保護され、初めて拝顔させていただいた時は本当にモモン様を女神かと思いました。しかしその時の気持ちは、今でも同じです。お見かけさせて頂く度に、私はその美しさから零れそうに出る溜息を止めるのに苦労しています。
読み物をしていたのか、モモン様は本日は眼鏡を掛けていらっしゃいます。ゆったりとした貫頭衣をお召しになっているのですけれど、それでもあの御方の美しいプロポーションを隠すことは適いません。
モモン様に名前を呼ばれる度に、私は初恋を覚えた生娘の様な感動を覚えてしまうのです。
……純潔など、とうの昔に失くしたというのに。
「仕事に精を出すのは良いですが、休憩はちゃんと取ってくださいね。なにせ、貴女はまだ病み上がりなんですから」
「そ……そんな、や、病み上がりなんて、言ってられません……働かせていただけるだけでも……その、恵まれている、のですし……」
「ツアレさんは真面目ですね」
モモン様は、いつも柔らかな微笑みで優しい言葉を送ってくださいます。こんな一国の淑やかな王女様のような御方が冒険者をされているなんて、本当に嘘のようです。
「ツアレさん、今日のランチメニューはなんでしょうか?」
「き、今日は……シチューが、シチューを作ろうと、思います」
「それは楽しみです。ツアレさんの料理は美味しいですからね」
ぼっ、と顔が紅くなったのが、自分でも分かります。きっとモモン様は私みたいな貧しい村出身の女が作る家庭料理なんかより、もっと美味しい食事を沢山知っていらっしゃると思うんです。それでもこの御方は、私が作った料理を美味しい美味しいと、いつも笑顔で召し上がってくださいます。
モモン様はお姿ばかりか、海溝よりも深い美しい心の持ち主でいらっしゃいますね。
今日もそんなモモン様の為に、私のできる限りの精一杯調理したい、と心が燃えました。
「……ああ、そうだ。ツアレさん」
「は、はい」
「そのメイド服はどうでしょうか? 丈間なんかに問題はありませんか?」
「は、はい。サイズは問題ありません」
モモン様に分かる様に、私は小さく回って見せました。このメイド服は、モモン様が私を雇った際にお店で特注オーダーで誂えてもらったものなんです。それが今朝届いて、今日初めての着用になります。
シルエットは作業の邪魔になりませんし、生地がすごく上等で、メイド服なんかにするにはもったいないくらいの素材感なんです。問題があるとしたら、その素材感に気後れしてしまう……くらいのものでしょうか。
「…………」
モモン様は爪先から頭の先まで、しげしげと目線を配っておいでです。ちょっとだけ、なんというか、いつもよりも感情の乗った視線に感じて、ドギマギしてしまいます。何かご不満なところがあったのでしょうか。
「なるほど、これはいいものだ……ホワイトブリムさんの気持ちが今では分かりますよ」
「え?」
「え? あ、ええと! 今のはただの独り言ですから、気にしないでください」
モモン様は少し慌てたように見えますが、本当に大丈夫でしょうか。こんなモモン様、ちょっと珍しいかもしれません。モモン様はちょっとだけ横目で私のメイド服の具合を見ながら、咳払いを一つしました。
「今日は部屋に籠って少しやりたい作業があるので、食事は時間になったら部屋の前に置いといてくれますか?」
「え?」
「繊細な作業を要するものなので、なるべく部屋には近づかない様にしてくれると助かります」
「わ、分かりました」
「ありがとう」
そう言った後に、にこり、とモモン様は微笑んで、私室へと入っていきました。メイドなんかにお礼を言う必要なんてないのに……。
残念ながら、今日は余りモモン様のお顔を見れないようです。しかし仕方がありませんね。私が我儘を言うべきことじゃありませんから。
ひらり、とメイド服のスカートを翻して、私は再びお屋敷の汚れと向き合います。モモン様がお部屋から出られた時、驚くくらいピカピカにして差し上げたいですね。
そして驚いたモモン様がよくやったと私を褒めてくださったなら……。
「……ふふ」
私は緩んだ頬をきりと引き締めて、袖を捲り、作業に取りかかりました。
「ん……っ……く、はぁ……ん……」
モモンガの私室。
ツアレに部屋に籠ると告げ、訪れたその部屋の中に、何かに耐える様な、吐息の混じった甘い女の声が垂らされる。
「はぁ……はっ……んっ……」
モモンガは今、とある行為に耽っている。
自室に篭り、ツアレを寄せ付けず、それに没頭していた。
彼の体は、
闇の中を真昼の様に鮮明に見渡せたり、翼があるおかげで空を飛べたり、極自然に人間を下等種と見てしまったりと、例を挙げれば枚挙に暇がない。
それは彼に本来あったはずの人間の三大欲求にも影響が及んでいる。
睡眠欲、食欲、性欲。
人が人として生きる為に必要な、生理的かつ原始的な欲求だ。しかしモモンガに本来ある筈のそれらが、今では肉体の影響によって欠けてしまっていた。
飲食は趣味でやっているだけだし、睡眠もこの体には不要だ。それらの欲求は一切湧いてこない。食道楽が旅の目的ではあっても、実際今後悠久の人生を過ごす間、何も口にしなくてもこの肉体は生命活動を維持できるのだ。
──しかし……性欲は違う。
骸骨の肉体であったならそれも欠けていただろう。
だが今、モモンガの魂が収まっているのは淫魔の体なのだ。性欲と切っても切り離せぬ種族なのは皆も知っているところだろう。実はこの影響も、彼はしっかりと受けていた。
ぶっちゃけて言うと、性欲が人一倍も二倍も溜まるのだ。
「はぁ……うっ、……ぅく……」
この世界は男女問わずどうにも美形が多い。なんてことのない村娘のエンリも美しいし、ツアレも愛嬌のある顔をしている。
それに何というか、接する女性達はモモンガが同性である為かガードも緩い。現代の日本と違って何となく隙があるようにも見えるし、うっかり下着の姿を見かけることもある。
そんな生活で性欲が昂らぬ淫魔がいないはずもない。
モモンガは周期的……月に一度、どうしても己の性欲が制御できぬ日が来てしまう。刹那的にムラついたその重なりを、吐き出さねばならない日が嫌でもやってくる。
それが今日だ。
正直、ツアレのメイド姿に若干の下心を抱いてしまった。その為に、溜まった情欲に下火がついてしまったのだ。これは生理的現象であり、淫魔としては健全な捕食本能なのでどうしようもない。
じっとりとした煩悩が、肉体と脳に纏わりついて離さなくなる。
こうなってしまってはもう仕方がない……というか、抗いようがない。
性欲を抱いた対象を食ってしまえば……とも思うが、それは仲間の娘の体を預かる身としては言語道断の行為だ。大切な娘の純潔を浅ましい性欲で散らすわけにはいかない。
モモンガはそういう時は、せめてものと部屋に一人籠り切りになるのだ。朝から晩まで、彼は自分の体を使ったある行為に耽る。その行為の果てに、体が限界だと言っても、更に一段階その先を目指して追い立てていく。
……そうしなければ、溜まり切った体の昂りを吐ききれないからだ。
月に一度、纏めて発散する。
密室、籠り切り。
昂った性欲と、漏れる声……吐息。
むら、と柔肌を伝う汗の滴。
ここまで言えば、やることなど一つと分かってしまうだろう。
そう──
──……筋トレだ。
モモンガは部屋に籠って、現在筋トレに明け暮れていた。
『上位道具創造』で編み出した重さ特化の鎧を着込み、腹筋の一番きつい姿勢で停止。両手を床と水平になる様にぴんと伸ばし、小指の上に重金属のインゴットを乗せまくってそのまま一時間キープだ。
その後はこれと似た様な形式の腕立てとスクワットを計十セットずつ。
エ・ランテルにいたときは、重鎧を着込んでのカッツェ平野永遠マラソン~アンデッド百体殴るまで帰れません~がメニューに組み込まれたこともある。
そこまでしないと音を上げないのがこの肉体の怖いところだ。
そしてこのモモンガ・ブートキャンプの真骨頂はやはり、MP燃費の悪い『
メニューの全行程が終われば、文字通りモモンガは空っぽだ。
煮詰まった性欲などという邪念はすっぱりと消え去り、元の綺麗なモモンガの状態へ戻ることができる。煩悩に打ち勝つにはやはり筋トレ。筋肉は全てを解決してくれる。
「う……っつ……、はぁ……きっつ……!」
今日もモモンガは己を鍛え上げる
全ては仲間の娘同然のこの大事な肉体の純潔を守る為に。
……ちなみに食っちゃ寝生活が板についてきたモモンガの肉体が未だに完璧なプロポーションを保ち続けていられるのはこれのおかげだったりする。
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7.偶然
クライムは今日は久方ぶりの非番だった。
しかし特にやりたいことはない。
本当なら休みなど返上してラナーの側に仕えるか、剣の稽古に時間を使いたいところだが、それは戦士として不健康だとガガーランに言われた為、今日はあてもなく街を練り歩いている。
気を張らなかったり体に緊張がない日を作ることもまた、強い戦士になるには必要なのだと諭された。心身を休めることもまた、修練の一つなのだと。
(……しかし、もどかしい)
そうしてあてもなく歩いてると、心の中を暗澹とした靄が支配するばかりで、気が休まる気がしない。
クライムは自分が剣才がある人間だとは思っていない。だからこそ、逸る気持ちが奥底で燻ってしまう。こうしている間にも才能のある人間に水をあけられるのではないか、ラナーを守護する戦士として体を休める暇などあるのだろうか、と。
自分の弱さが露見すれば、ラナーの側仕えの任を解かれる可能性だってある。クライムはそのことが気掛かりで、内心に慢性的な焦りを感じていた。
(いや、俺がそんなことを考えたところでどうなる……ガガーラン様が仰ったことこそ信じるべきだろう)
自然と拳が強く握られていた。
クライムはそれに気が付くと、ゆっくりとそれを解いた。
心身を休める日だというのに、こう思い詰めては本末転倒だ。クライムは深く深呼吸を始めたところで──
(……なんだ?)
──遠くで、ただごとではない喧噪の音が聞こえてきた。祭りの時期ではない。何かを囃し立てるような声。これは彼の経験から考えるに……。
(喧嘩か)
クライムは表情をキリと引き締めると、駆けだした。
今日は非番とはいえ、王国に仕える兵士として市民の平穏を妨げる様な行為を見てみぬフリなどできない。クライムの顔は、すっかり兵士らしい精悍な表情へ変わっていた。
駆ける。
角を曲がる。
人だかり。大勢の人間の声。ただならぬ熱量。
クライムはそこへ躊躇なく分け入り、その中心に飛び込もうとして、ハッと足を止めた。
子供が怪我をして倒れている。
それを睨む柄の悪い大勢の男達。
被害者と加害者、そして弱者と強者の関係は、火を見るよりも明らかだった。即座に助けるべきだ。しかしそれらの存在が霞む、圧倒的な存在感を放つ一人の人間がそこにいた。
触れることに畏れを感じてしまう程の見事な漆黒の鎧。穢れ一つ見当たらぬ深紅の外套を揺らして、その戦士は子供を庇う様に男達を睨んでいた。
「なんだてめぇは!」
暴漢の一人が啖呵を切る。
漆黒の戦士はそんな男の胸板に、二本の指をそっと突き立てた。攻撃の意思が認められない自然な仕草に、男は警戒を高めたというよりは、僅かに困惑の色を示している。
クライムにも分からない。
あの戦士が何を考えているのか。
「なんだこの手は。俺に何か文句でもあん──」
次の瞬間。
男は後方に消し飛び、暴漢達のものであろう荷馬車に弾丸の様に突き刺さっていた。遅れて衝撃波の様な空気の揺れが、クライムの鼓膜を叩く。
ワンインチパンチ──発勁と呼ばれる技術に見えて、実はそれをただ真似ただけの馬鹿力なのだが、馬鹿力も度を越せば技となる。クライムには今見たものが、とても高等な技術にさえ見えた。
「失せなさい。私の気が変わらないうちに」
漆黒の兜の下から聞こえた声は、その鎧の厳めしさからは想像もつかぬ程、綺麗なソプラノだった。一瞬、そのギャップの差が激しすぎて、脳のエラーを疑うほどだった。
男達は蜘蛛の子を散らす様に逃げていく。
これだけ力の差を見せつけられて、自分達の危機が分からぬ馬鹿ではなかったということ。情けない悲鳴を上げながら、彼らはどたばたと、脇目も振らずにその場を後にした。
「……お騒がせしました」
やがて静寂を取り戻したその場で戦士がぽつりと、気恥ずかしそうに零すと、周りの群衆は惜しみない拍手を彼女に送った。先程まで緊迫していた空気は弛緩していき、戦士を讃える声で溢れ返った。
「き、君! 大丈夫か!」
演劇の一幕を見ていた様な気さえしていたクライムは慌てて気を取り直すと、怪我をしている少年に駆け寄った。ポケットの中からポーションを取り出し、手早く飲ませてやると、少年の痛みに耐える様な顔がたちまち和らいでいく。
(よかった。大事はなさそうだ……)
見たところ大きな怪我はない。
クライムはホッと胸を撫でおろして、戦士を垣間見た。彼女は大したものだとか、ファンになったとか、いいもん見せてもらったからウチで一杯奢らせてくれだとか、様々な賛辞を送られている。
「いやいや、姉ちゃんあんた大したもんだ! 強ェうえに肝が据わってる!」
「いえ、私は大したことはしていませんよ。『困った人がいたら、助けるのは当たり前』ですからね」
戦士が事もなげにそう言うと、群衆からは「おおー!」と感嘆の声が湧きあがる。クライムも、戦士のその優しさの滲み出た言葉にじんと感銘を受けて──そしてハッとする。
『困った人がいたら、助けるのは当たり前』……これは確か、エ・ランテルで新たに誕生したというアダマンタイト級冒険者・モモンの信条だ。
(ならばこの人こそが……)
胸が熱くなる。
首には何故かアダマンタイトプレートを提げていないのだが、あの見事な鎧とグレートソードを見れば一目瞭然だ。
クライムは群衆を掻き分け、モモンの前に立つと深々と頭を下げた。
「……あなたは?」
きょとんとしているモモンに、クライムはきびきびとした動きで頭を上げる。
「私はクライムと申しまして、この国の兵士をしている者です。本来ならば私が解決しなくてはならないことを治めてくださり、ありがとうございました!」
「……なるほど。いえ、礼には及びませんよ。私はたまたま通りがかったところに運悪く──ゴホン、運良く立ち会えただけですからね」
「ありがとうございます……! それより貴女はかの英雄、『黒姫』のモモン様だとお見受けしますが……」
「ええ。私がモモンです。よくご存じで」
クライムの言葉に、周りからは更にひと際大きな声が跳ね上がる。戦士──モモンに向ける憧れの視線も、一層に強く増したように思えた。モモンといえば王都より遠く離れたエ・ランテルの英雄。王都に来ていたとは、誰にとっても寝耳に水だ。
「モモン様の素晴らしい英雄譚はかねがね聞いておりました。お会いできて光栄です。しかし冒険者プレートを着けていらっしゃらないようですが……」
「え? ああ。これは何というか、休みの日まで社員証をぶらさげているのは少し窮屈に思いまして」
「シ、シャインシヨ……?」
「……あっ、えーと、ゴホン。そうですね……これは自分で決めた休日くらいはアダマンタイト級冒険者であることを忘れたいという、私なりの心の休め方なんです。ほら、あのプレートをさげてたらどこに行ってもそういった目を向けられるでしょう」
「な、なるほど……!」
休みの日は自分の立場をすら片隅に置き、心を休める。
これは奇しくもガガーランがクライムに諭したことと全く以て同じだった。やはりアダマンタイト級に上り詰める人間はそういった精神ケアにも気を配るのは当然なのかと、クライムは改めて尊敬の念を抱く。休日に悶々と兵士としての職務を考えている自分はやはりまだ二流……いや、三流なのだと、彼は羞恥心すら感じた。
「それでは申し訳ないですが、私はもう行かせていただきます。その子のことは任せましたよ。これ以上ここに長居していると、ここらへんの住人の迷惑になりそうですからね」
モモンはそう言って、ちらりと野次馬を見やった。
群衆は今もガヤガヤと騒いでおり、確かにモモンはここに留まるべきではないと、クライムも思う。しかし彼は、背を向けたモモンに縋る様に声を掛けた。
「お、お待ちくださいモモン様!」
「……まだ何か?」
ゆっくりと振り返る彼女に、クライムは小さく唾を飲み込んだ。彼の記憶では、確か明日はロ・レンテ城でラナーと『蒼の薔薇』の最終調整に向けた会談が執り行われるはず。
偶然にもこの英雄と出会えたというのに、みすみすその好機をふいにするのは愚かだ。ラナーだって恐らくそうするだろう。クライムは静かに、モモンに申し出た。
「……もしよろしければ明日、お時間を割いていただくことは可能でしょうか」
モモンは何も言わずにクライムを見ている。
兜の下でどのような顔をしているのかは分からないが、クライムの言葉の続きを待っているのだろうということだけは窺い知れる。彼は間を置かず、本命の願いを口に出した。
「是非、モモン様に会っていただきたい方……いえ、方々がおられるのです」
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8.花園
──翌日、モモンガ邸。
たった今、屋敷の前に一台の豪奢な馬車が横付けされた。
車体に王家の紋が彫り込まれたそれの御者台にはクライムが座している。彼は手綱を巧みに操って馬を静止させると、ひらりとそこから飛び降りる。彼はいつもの精悍な顔つきで、モモンガが屋敷から出てくるのをそこで実直に待った。
その一連を、モモンガは屋敷の窓から見ていた。
「ツアレさん、時間になったようです。それでは行ってきますので、少しの間留守を頼みますよ」
「はっ、はい。いってらっしゃいませ、モモン様」
空のティーカップをツアレにあずけて、モモンガはゆったりと椅子から腰を上げた。
ツアレは『八本指』から受けたトラウマのせいで、まだ屋敷から出られない。本当は屋敷の外まで主人を見送りにいきたい彼女だが、今の段階ではそれは無理なことだ。
モモンガはそんなツアレに無理を言うつもりはないし、文句もない。彼は玄関先でツアレに留守を任せ、屋敷の扉を開いた。見上げれば、今日の空模様も晴れやかだ。
モモンガが外套を揺らしながら屋敷の外へ出ると、それに気がついたクライムがキビキビとした動きで頭を下げて出迎える。
「おはようございます、モモン様」
「おはようございますクライムさん。まさかこんな立派な馬車で迎えにきてくれるとは思っていませんでした」
「無理を言ったのは私ですから……それに、これは私が仕えておりますラナー王女殿下から手配していただいたものです。ラナー様や『蒼の薔薇』の皆様方はモモン様と会えるのを心より楽しみにしておられます。それでは早速ですが、ロ・レンテ城へ向かいましょう」
「……ええ。今日はよろしくお願いします」
邪気のない好青年の対応が眩しい。
対して、馬車のステップを踏むモモンガの心持ちは重たいものだった。
(うへー……いきなり王女様と、王都のアダマンタイト級冒険者チームと顔を合わせて欲しいだなんて本当どういうことだよ……俺、なんか気に障る様なことでもしたか?)
モモンガが着席したのを見計らって、馬車が出発する。ガタゴトと揺れる振動を大きな尻で受けながら、モモンガは溜息を零した。
昨日偶然出会ったクライムと言う青年はこの国の第三王女の付き人で、王都のアダマンタイト級冒険者チーム『蒼の薔薇』とも顔見知りで、そして彼女達は予てよりモモンガと会いたかったらしく、なんやかんやがあって本日急遽会談することになった。
そんなピタゴラスな偶然あるのだろうかとも思ってしまうが、実際そうなっているのだからどうしようもない。
何が目的でモモンガに会おうとしているのかは、まだ知らされてなかった。
モモンガの浅い考えだと、やはり王国からのヘッドハンティングといったあたりのことしか思い浮かばない。アダマンタイト級の戦士を自国の戦力に引き入れたいというのは、ごくごく自然な流れだろう。
そうなると『蒼の薔薇』が同席する意味がよくわからないが、そもそも分からないことばかりのことを凡人の彼に推察しろというのも無理な話だ。
正直モモンガは今日の会談を断りたかった。しかし『蒼の薔薇』はともかく、王女からの誘いを無下にするのは心象が悪い。何より観光目的でしか王都に来ていないせいで、モモンガには断る理由が特に見当たらなかった。
(そうは言っても、やっぱり断るべきだったか……?)
頬杖をついて外をぼんやりと眺めながら、モモンガは昨日から続く慢性的な後悔に囚われていた。
彼ははっきり言って、お偉いさんのはずのアインザックやラケシルのことを若干なめた気持ちでいられるくらいには対応できる。エ・ランテルの都市長たるパナソレイとの対話もお手の物だ。最早緊張なんてあるはずもない。
しかし王女はその限りではない。
社会人として、社会的立場のある人間の顔色を窺うのはモモンガの得意とするところだが、王女は例外だ。本物のロイヤル・プリンセスとお話してくださいと言われ、何も心が動じない者がいたとしたらそれは馬鹿かスケルトンのどちらかだろう。
モモンガはこの世界にきて初めてにして最も特異な緊張感に苛まれていた。お姫様と一体何を話せというのか。しかも同じアダマンタイト級の『蒼の薔薇』の面々とも顔合わせをしなきゃならないというおまけ付き。
人となりが分からない以上『蒼の薔薇』に調子乗ってんじゃねぇといきなり喧嘩吹っ掛けられる可能性もあるし、何なら王女に不敬罪としてその場で斬首刑を理不尽に命ぜられる未来も決してないわけではない。
半端に想像力が働くものだから、その先の最悪の結末ばかりを想定してしまう。空は快晴なのに、どんよりとした雨雲がモモンガの心を覆っていく。
「モモン様、こちらになります」
「……え?」
気づけば、王城のとある一室の前だった。
馬車に乗ってからここまでの記憶がとんと無い。
延々悶々としていたせいで、どうやら上の空でここまで来ていたようだ。
クライムが不思議そうにモモンガを見ている。
どうやらもうこの扉の中に、王女と『蒼の薔薇』が待っているらしい。
(か、帰りてー……)
モモンガは手土産の類を用意していなかったことに今ここでようやく気がついた。いや、そもそも王家の姫に冒険者風情が手土産なんか用意するものなのか。思考と不安がぐるぐると頭を巡る彼に、クライムが少し不安そうに「よろしいですか?」と伺いを立てる。
「…………はい」
モモンガが重たく頷くのを見て、クライムは扉を叩いた。
「ラナー様。『漆黒の美姫』モモン様をお連れしました」
クライムがはきはきと声を投げると、部屋の中から鈴の音の様な可憐な返事が返ってくる。クライムは一拍の後に扉を押し開けて、モモンガに入室を促した。
「モモン様、どうぞ」
「……ありがとう」
その一歩は何よりも重たかった。
モモンガは意を決して──観念して──中へと踏み入る。ふわりとした絨毯の感触が、足甲を伝った。
緊張と不安のピーク。
モモンガが中へと入ると、目に飛び込んできたのはまるで花園の様な可憐な光景だった。一つの円卓を囲む美少女、美少女、美少女……。
(……顔面偏差値高すぎないか?)
美少女しかいない。
ペロロンチーノ大歓喜の光景である。
彼ならば即座のスクリーンショットを怠らない場面だろう。
……いや、美少女しかいないというのは語弊があった。
正確に言えば面妖な仮面をつけた奇怪な少女と、ゴリラの様な男も交じっている。それでもこの一室の空間は、今までモモンガが触れてきたことがないような華やかさで溢れていた。
ラナーや『蒼の薔薇』の美しさは何となく噂で聞き及んでいたが、それでもモモンガの想定を遥かに上回る美しさなのは間違いない。彼は瞬きばかりの時間、呆気に取られていた。
そしてそんな花園の中にあってもひと際輝く、金色の髪が美しい少女が微笑んでモモンガを見ている。
(なるほど……『黄金』か)
モモンガの目にも、彼女こそが王女なのだと光よりも早く理解できた。
他にも美しい少女はいるというのに、その少女の存在だけが何か隔絶されたものを持っている。ナザリックの大図書館に蔵書されている様な、御伽噺の中の美しい姫をそのまま体現したかのような存在だ。
モモンガは王女──ラナーの御前で片膝をついて傅くと、落ち着いて口を開いた。
「ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフ王女殿下、並びに『蒼の薔薇』の皆様方。お初にお目にかかります。エ・ランテルで冒険者を務めさせて頂いておりますモモンと申します。ご用命に従い、馳せ参じました。この度はこの様な会談に、私の様な者をお招き頂き恐悦至極の至りです。本日は皆様にお会いでき、光え──」
「だぁらぁ! 長ぇよ! お貴族様かっての!」
ゴリラの様な男が、堪らず叫ぶ。
それを見て、王女──ラナーがくすくすと口元を隠して笑っていた。
「こちらこそ初めまして、モモン様。とても礼儀正しい方なのですね。今日は来てくれてありがとうございます。私のことは親しみを込めてラナーと呼んでいただければ嬉しいですわ」
「はっ」
モモンガはそう返して、更に頭を垂れた。
(はっ。とか言っちゃったけど、王族とのやりとりのマナーなんて知らないからな……これで合ってるのか……?)
内心焦りながらも、モモンガは体面的には冷静にやりすごせていると思いたい。兜を脱ぐタイミングが遅れた様な気もするが、仮面を被ったままの少女もいることだし、そこは見逃してもらいたかった。
礼を尽くすモモンガの後頭部に、ラナーの柔らかい声が掛けられる。
「そうしているのも何ですし、とりあえずモモン様もどうぞお掛けください。クライム、お茶の用意を」
「畏まりました」
背後でクライムが茶を淹れる気配を感じたところで、モモンガはゆっくりと立ち上がった。空席は一つなので、自然とそこへの着席を促される。左にラナー、右に──
「初めまして。私がアダマンタイト級冒険者チーム『蒼の薔薇』のリーダー、ラキュースです。モモンさんのお噂はかねがね聞いておりました」
──ラキュース。
ラナーにも劣らない美貌を湛えた少女だ。
一見冒険者という肩書が浮かばぬ貴族令嬢然とした麗しい見目であるが、きりとした口振る舞いや瞳の輝きが、凡百の令嬢達とは一線を画した存在だということを肌身に感じさせる。
モモンガは社会人経験を遺憾なく発揮しながら、柔和にラキュースに応対する。
「かの高名な『蒼の薔薇』のラキュース様に認知されていたとは光栄です。エ・ランテルで冒険者となってから、『蒼の薔薇』の名を聞かぬ日はありませんでした。目標とさせていただいていた方々とこうして同じテーブルに着ける日がこようとは、恐縮です」
「……思っていた以上に真面目な方なんですね、モモンさんは」
ラキュースはそう言って、困った様に笑った。
冒険者としては恐らく礼儀正しすぎたのだろう。それは冒険者稼業をある程度経験してきたモモンガにとってもなんとなく分かる。しかし王女の御前に於いては礼儀正しすぎるということはあるまい。モモンガはビジネスマンとしてのガチガチ武装を解くつもりはなかった。
ラキュースは自己紹介を終えると、チームの双子の忍者、仮面の少女、筋骨隆々の戦士の紹介もしてくれた。その最中、戦士の性別が女性であるということにモモンガが兜の下で目をまんまるにしていたのは誰にも知られてはならない秘密だ。
ラキュース、ティア、ティナ、ガガーラン、そしてイビルアイ。
前衛職が多い様に感じるが、それでもバランスの取れた良いパーティだとモモンガは思う。何より、現地基準でこれだけレベルの高い女性が一堂に会し、チームを組んでいるというのも奇跡だ。『アインズ・ウール・ゴウン』は男女混合のギルドではあったが、少数チームを組むにあたって同性同士の方が相性はいいだろうことは流石にモモンガにも分かる。
紅一色のパーティが王国最強の冒険者チームというのは非常に面白いと、モモンガは素直に思う。ユグドラシルは……というか、MMO世界は何せ、男性人口の方が圧倒的に多かったから。
「──私は今、大体あそこら辺の区画にある借家を借りてるのですが、ラキュース様達は今どちらを拠点に?」
「様はつけなくて大丈夫ですよ。そうですね、私達は今は──」
モモンガ、ラナー、『蒼の薔薇』は本筋に触れる前にアイドリングトークに花を咲かせた。休日は何をしているかとか、王都にくるのは初めてだとか、冒険者としての逸話のあれこれの解説とか……そんなところだ。
特に食いつきがいい話題はやはり『ザイトルクワエ』に関連することだった。
この話はどこに行っても受けが良く、最早モモンガの鉄板ネタとなっていた。皆あの時のガゼフの様に真剣に手に汗を握りながら聞いてくれたのだが、特に興奮していたのは英雄譚好きだというクライムだった。離れたところから本当に少年の様なきらきらした瞳で聞いてくれるものだから、モモンガの舌もいい具合に回る。
そんなこんなで、モモンガがこの部屋に来てから既に三十分は経過していた。
「モモン様は本当にすごい方でいらっしゃいますのね」
「いえ、私はタイミングや所持していたマジックアイテムにたまたま恵まれていただけですよ。私と同じ状況、同じ所持アイテムであったならば、きっと『蒼の薔薇』の皆さんの方が円滑に依頼を達成できるはずですから」
「おいおい、謙遜もいきすぎると嫌味だぜ?」
「謙遜ではありませんよ、ガガーランさん。私は結局どこまでいっても単騎……。チームとして発揮できる力と比べると、どうしても汎用性や対応力は落ちますからね」
謙遜もあるが、本心でもある。
ザイトルクワエの様な特級の怪物に関しては難しいかもしれないが、それ以外の依頼だと『蒼の薔薇』の様な手数・頭数が多い方が対応しやすい依頼が多いのも確かだ。
本心で言っているからこそ、『蒼の薔薇』からそれ以上の反論はない。発言に対して謙遜や嫌味の色が見られないから当然だ。
(『蒼の薔薇』……特にリーダーのラキュースさんは予想以上にいい人で安心したな)
話の中で何となく、モモンガはラナーと『蒼の薔薇』は信頼の置ける女性達だと感じた。想像以上に人としてまともな感性を持っているし、カルマ値で言えば極善だろうということは判断できる。もちろん彼は女性──延いては人間の怖い二面性も知っている為、手放しに信頼しているわけではないが、それでもこの場で緊張がほどけるくらいには打ち解けられた。
そしてそれは『蒼の薔薇』の面々にとっても同様のことだ。全面的に信頼を置けるわけではないが、それでも『モモンは善よりの人間』という印象は抱いている。
彼女達のファーストコンタクトは、双方にとってとても和やかなものとなっていた。
「兜は脱がないのか? 冒険者モモンは『美姫』の名を冠するほどの美女だと聞いているが」
話もそこそこに盛り上がった中、テーブルの直線状にいる双子の忍者の片割れがぶっきらぼうにモモンガに問う。そういえば私も気になってました! とラナーが無邪気に続いたところで、モモンガはうっかりそのことを自覚した。
「……そういえば、素顔を見せるのを忘れていましたね」
「おっちょこちょいなのねモモンさんは」
「おっちょこちょいなのは鬼ボスもそうだろう」
「うるさいわね」
ラキュースがティナを小突こうとするが、それをひょいと躱される。そんなやりとりもありながら、その場の人間の視線は一斉にモモンガへと向けられた。やはり兜の中身は気になっていたらしい。
「……それでは、すみません。今更ですが、脱がせていただきます」
モモンガは若干の居心地の悪さを感じながら兜に手を掛けると、ゆっくりとそれを脱いだ。
「……まあ!」
ラナーから、そんな感嘆詞が漏れる。
はらりと落ちる艶やかな黒髪。
薄絹や白磁を思わせるキメの細かい白肌。
妖艶とも無垢とも思われる唇は淡い桃色を湛えていて、若干垂れ目がちな目には翡翠の瞳が収まっている。
まさしく傾城傾国と呼ぶに相応しい美貌は、ラナーとはまた違う属性の美の到達点として、そこに君臨した。
部屋の空気が一変する。
ただでさえ花園の様な華やかさだったその一室に、それを上回るほどの宝石の花弁が一挙に咲き乱れたようだった。
ごくりと、ラキュースの喉が小さく鳴る。
憮然としていたイビルアイの肩が僅かに揺れて、ガガーランの軽い口笛が飛んだ。
そんな中、椅子を激しく鳴らして立ったのは、双子忍者のティアだ。そんな片割れを、ティナは不思議そうに見ている。
ティアは真っすぐにモモンガを見据えると、腰を直角に折って、右手を綺麗に差し出した。
「結婚を前提にまぐわってくだ──」
「お前は黙ってろ!」
ガガーランによって椅子に押し潰されたティアがぎゃふんと鳴いた。大きな手でぺしゃんこに潰されたティアが恨めしい目で睨むが、それ以上の眼光のガガーランの前では為す術もない。冗談じゃんとか、冗談の目じゃねぇよとか、喚きながら押し問答しているが、それを無視してラキュースが割って入る。
「す、すみません……あの子ちょっと変わってる子なんです。気にしないでください」
「……あはは」
何かまぐわうって言いかけませんでした? と、モモンガは若干の冷や汗を流しながら、先程から蟀谷に突き刺さりまくってくる熱烈な視線と合わさない様に努めた。何か、目を合わせた瞬間に捕食されそうな危険性を感じる。
しかし何というか、この気の置けないチームの砕けたやりとりがモモンガにとっては懐かしく感じていた。
冗談を言い合え、背中を任せられる彼女達のチームとしての在り方にかつての『アインズ・ウール・ゴウン』が重なり、モモンガの瞳が僅かに翳る。
『漆黒の剣』と旅していた時もそうだったが、独りでいる時より、こうして側で他のチームが楽しそうにしている時こそ彼は孤独を感じてしまうらしい。そして若干だが、卑屈になってしまう。お前達のそのチームもいずれ『アインズ・ウール・ゴウン』と同じ末路を辿るというのに、今は楽しそうでいいな、と。
「……モモン様? どうかされました?」
心配そうに、ラナーが顔を覗き込む。
モモンガはぶんぶんと頭を振って、なんでもないですよと笑顔を見せた。
卑屈な部分が全てではない。
むしろ楽しそうにしているチームがただ羨ましいというのが本心の大部分だ。故に彼は女々しい自分を恥じる。
モモンガはそんな情けない自分の気持ちを、紅茶と一緒に飲み干した。
「それよりも……そろそろお聞きしてもよろしいでしょうか。私をここへ呼んだ本当の理由を」
ようやく、本筋に触れる。
モモンガが問いかけると、彼女達の表情が一変して引き締まった。
やはり単にお茶会を開きたいだけではなかったようだ。モモンガは心の中でネクタイを締めると、臨戦態勢を取った。
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9.公私
──モモンガをここへ呼んだ本当の理由。
ラナーは正面きってぶつけられた質問を躱しはしない。彼女は持っていたティーカップを静かにソーサーに置いた。
「お察しのとおり、実はモモン様に折り入ってお願いがあり、こちらに呼ばせていただきました」
真剣な眼差し。
モモンガはその目が『愛らしいお姫様』から『一国の王女』の色に変わったことを感覚的に覚えた。彼自身も、その視線を受けて今一度姿勢を正す。
「……そのお願いとは?」
「『八本指』という組織があるのはご存じでしょうか」
──八本指。
それは、モモンガの記憶にも新しい名だった。
リ・エスティーゼ王国の裏を牛耳る闇の組織であり、ツアレを玩具のように甚振ってくれた外道集団だ。
なるほどそっち方面の話か、とモモンガの眉が顰む。
「……詳しくは知りませんが、巨大な犯罪組織……ということぐらいは」
「ざっくり言えばそんな感じですね。彼らは窃盗、麻薬の販売、違法奴隷の斡旋など、とにかく悪事の限りを尽くし、王国を蝕んでいる存在です」
違法奴隷。
ツアレを預かっているモモンガとしては、決して無関係ではない話だ。ラナーが僅かに唇を噛み締めたのが見える。その姿はまさに、王国を憂う王女そのものの姿だ。
「実は現在『蒼の薔薇』と私に協力してくれる貴族の私兵だけで、王都に点在している『八本指』の拠点を一挙に襲撃・殲滅する大規模作戦を立てています」
「……つまり私にその作戦に加わって欲しいと?」
「話が早くて助かります」
モモンガは顎に指を添えて、話の概要を自分なりに咀嚼した。そうしている間に、ラキュースが口を開く。
「『八本指』には警備部門というものがあり、『六腕』と呼ばれる六人のアダマンタイト級の猛者もいます。私達だけでも対処できるとは思いますが、不慮の事態を考えると戦力はいくらあっても困りません。もしモモンさんが力添えしてくださるなら、これ以上心強いことはないんです」
ラキュースは続ける。
「今、王国の平和は『八本指』に確実に蝕まれています。奴らのせいで大勢の罪のない民……それも子供までもが奴らの被害に遭っているんです。麻薬漬けにされたり、攫われて奴隷に堕とされることなんて珍しくないんです」
膝に置かれているラキュースの拳が、義憤によって震えている。瞳からは怒りと悲しみの色が滲み出ており、側に座すモモンガの肌にもその激情の一部が触れるようだった。
その姿は、ガゼフ・ストロノーフにも通ずるものがある。
……いや、真に弱者を憂うことができる強者こそが、この様な姿を見せることができるのだろう。ラキュースは落とした視線を返すと、真っすぐにモモンガを見つめる。透き通る碧眼が、綺麗だとモモンガは思った。
「……モモンさん、どうか私達に力を貸してくださらないでしょうか。無理を言っているのは分かっています。ですが『八本指』のせいでこの王国の罪なき人々が食い物にされているのは揺るぎない事実なんです。『困った人がいたら、助けるのは当たり前』……そんな信条を持った貴女なら、きっと私達と心同じくしていただけると思っています」
心からの嘆願。
ラキュースは王国で育ち、生きる一人の人間として、真摯に頭を下げた。
モモンガはラキュースの願いを受けて──
「…………お断りさせていただきます」
「……え?」
──丁重に、それを断った。
モモンガは申し訳ございませんと添えて、頭を下げる。
対するラキュースはモモンガからの返答に、思わず言葉を失っていた。決してショックだったからではない。『困っている人がいたら、助けるのは当たり前』を有言実行する聖人のモモンが、これを断るとは思っていなかったからだ。
今回の作戦が成功すれば、将来的に何万という王国の民の命が助かるというのは想像に容易い。ならばあの強きを挫き弱きを助くを地でいく英雄モモンならば、当然これを承諾するはずだろう……それがラキュースの考えだった。
しかし、それに対するモモンガの考えはこうだ。
『……何故、自分がそんなことを手助けせねばならない?』
少々ドライで無慈悲にも思える。
しかし彼は決して見捨てたいわけではない。
自分と関わりのない人間がどこでどうなろうと構わないのは確かだが、それでも無垢な人々の命は助けられるべきだということには、彼も心から賛同できる。
だが、何故無関係の自分がわざわざ首を突っ込まなきゃいけないのかとモモンガは素直に思ってしまう。命を賭けるリスクもある。作戦に参加して、『八本指』を解体した彼がその後に買うヘイトも少なくないだろう。
ラナーと『蒼の薔薇』に恩を売れるというメリットもあるが、デメリットも大いに存在する。
モモンガはカップに口をつけて一拍置くと、静かに語り出した。
「……今回の作戦、ラナー殿下が集めた兵と『蒼の薔薇』で決行されるそうですが、何故国王陛下主導のもとに大々的に執り行わないのでしょうか。『八本指』とはこの国の癌のはずでしょう」
当然の疑問。
ラナーが僅かに困り眉を作って、申し訳なさそうに口を開いた。
「……お恥ずかしい限りですがリ・エスティーゼ王国は一枚岩というわけではなく、『八本指』に与する貴族も大勢おります。国を挙げての作戦となると内通者が出てしまいますので、信用できる人間だけで人員を構成し、当日まで水面下で動く必要があるのです」
「なるほど、だから公には動けないということですね」
モモンガにもそれは想像のついたこと。
……しかしだ。
「だからと言って、
冷酷に突き放つというよりは、当然のことを当然のままに言っている……そんな平らな声音だ。
「私は困っている人が目の前にいたら手を差し伸べます。ある程度のリスクを被ることも覚悟しましょう。『困っている人がいたら、助けるのは当たり前』……それは私の行動理念の一つでもありますから」
ぽつりぽつりと語るモモンガに、乙女達は真摯に耳を傾けている。
「しかし……だからと言って、困っている『国』に手を差し伸べるというのは少し話が違ってくるとは思われませんか?」
モモンガは助けを求める人間がいたなら、たっち・みーの言葉に則って救うことを厭わない。
しかし善悪問わず、一枚岩ではない陰謀が錯綜する国に一石を投じる様な真似は遠慮したいのが本音だ。それが大勢の人間を救うことになっても、裏を返せば大勢の人間が死に、国の変革に大きく関わることは事実。
「一国が公に対処出来ない国の事情に、私は首を突っ込むつもりはございません。確かに同情はしますし、食い物にされている人間を思えば憐れにも思います。しかし内政にも関わっている多くの貴族が『八本指』と手を組んでる以上、これに関しては明らかにこの国の問題です。私が今回の作戦に関わってしまうと一国の片側の派閥に私情で助力することにもなると思いますが」
モモンガの言っていることは正論だ。
しかしラキュースはそれを理解できても、納得はできない。何故なら彼女はその正論を蹴っ飛ばしてでもラナーを手助け、多くの命を救いたいからだ。理屈じゃなく、ラキュースは国を思う愛で動いている。そしてそれもまた正しい決断の一つだ。
「で、ですがモモンさ──」
「モモン、あんたの言ってることは正しい」
反論に転じようとしたラキュースの言葉の頭を、ガガーランが押さえる。ガガーランはカップの中に砂糖を加えながら、ラキュースを視線で牽制した。
「そもそも俺達が姫さんに手を貸してること自体、冒険者としてはグレーどころか完全アウトだからな」
「ガガーラン……」
「ラキュース、言いたいことも分かるがモモンをこれ以上誘うのは止せ。モモンは冒険者として真っ当な判断をしている。間違ったことをしているのはむしろ俺達のほうだ」
人として正しいことをしようとしているのは確かにラキュースかもしれない。しかし冒険者として正しいのは、明らかにモモンガだ。それはこの場にいる誰もが分かっている。当のラキュースでさえ。
モモンガは小さく頭を下げた。
「ガガーランさん、ありがとうございます」
「いや、礼を言われるどころか謝らなきゃならねぇ。悪かったな、時間を取っちまって」
「いえ。『蒼の薔薇』の皆さんとラナー殿下とお話できたのはとても有意義な時間でした。今回の件は残念でしたが……モンスター相手であればいつでも手を貸しますので、その時はよろしくお願いします」
モモンガはそう言って、ゆっくりと立ち上がる。
カップの中の紅茶は既に空。これ以上部外者の彼がここにいては、作戦に関する話が滞るだけだろう。
「ラナー殿下、紅茶とても美味しかったです。これ以上私がここにいてはできる話もできなくなるでしょうし、この辺りでお暇させていただきます」
「……分かりました。モモン様、今日はお越しいただいてありがとうございました。また機会がありましたらお会いしましょう。クライム、モモン様をお連れしてあげて」
「承知しました」
モモンガは今一度ラナーと『蒼の薔薇』に礼を告げると、クライムに連れられ、退室した。
扉の音の後、静寂が満ちる。
「……フラれたな」
モモンガが後にした部屋の中、静寂を突いたのはガガーランのひと言だった。
「フラれてない」
「お前のことじゃねぇよレズ忍者」
ガタリと立ち上がったティアに、ガガーランが呆れた様に溜息を吐いた。むくれるティアを意にも介せず、静観を決め込んでいたイビルアイが口を開く。
「……ふん。『困っている人がいたら、助けるのは当たり前』なんて言ってる奴の頭がどれだけ花畑なのかと思っていたが、予想よりはずっとまともな奴だったな。むしろ同じ冒険者としては好感が持てるくらいだ」
「まさか、イビルアイもモモン狙い?」
「ドキッ☆ 女だらけの三角関係」
「どつくぞアホ姉妹」
イビルアイのドスの利いた声を、忍者姉妹は意にも介さない。こういったやりとりは日常茶飯事なのだろう。ラキュースはカップから上る湯気を見ながら、小さく零した。
「……まさか、断られるなんてね」
ラキュースが溜息を漏らすと、賛同するようにラナーも頷いた。
「正直私も意外でした。ですけれど、モモン様は冒険者として正しい判断をなされたのです。無理に引き留めはできません」
「……そうね。ねぇ、ラナー。貴女から見て、モモンさんはどういう印象だった?」
ラキュースから何の気のない質問を投げかけられたラナーは、顎に手を添えて僅かに逡巡する。少しの間を置いた後、ラナーは絞る様に自身が感じた印象を吐露した。
「……そうですね。心と体がバラバラな人、というのが素直な印象でしょうか」
抽象的と言わざるを得ない。
要領を得ないラキュースは「どういうこと?」と、その真意を問う。ラナーは頷いて、言葉を探りながらそれに答えた。
「モモン様は『蒼の薔薇』でさえ個では太刀打ちできない強大な力を持っていらっしゃいますし、とても教養を感じさせるお人柄でした。ですがその本質はまるで……包み隠さずそのままの言葉でお伝えするなら……その、貧民……の様だと感じました」
「……貧民?」
イビルアイが、その言葉に怪訝な声を上げる。
彼女達が見たモモンからは、そもそも貧しいというワードは絶対に浮かんではこない。身に着けている装備は一級品を超えたものばかりな上、あの言動や立ち振る舞いはまるで上等教育を受けた貴族の様に丁寧だった。カップを取る仕草や椅子に座す姿は淑女そのものであり、トドメにあの美しさだ。ひとたびドレスを纏えば──纏わなくとも──きっとやんごとない身分の女性だと誰もが思うだろう。
そんなモモンを、ラナーは仮にも貧民だと言った。一同はその真意を理解できないでいる。
「ど、どういうことなのラナー」
「本当に貧しいと言っているわけではありません。ですがモモン様はどうにも……持たざる者にしか分からない、個の安寧の価値を真に理解しているように思えます」
言いながら、ラナーはモモンの言動の全てを思い返していた。記憶を辿りながら、齟齬が生まれない様に、彼女は言葉を紡ぎだす。
「私や『蒼の薔薇』の皆さんは、やはり持たざる者の気持ちを理解できにくい立場ではあると思います。権力であったり、才能であったり、私達が恵まれている立場なのは否定のしようもありません。それ故に、例えば食事を安全な場所で食べられるということの価値をついつい忘れがちです」
「確かに、そういったことは軽視しているのは否めないかもしれないわね……私達は飢える心配もないし、地位も蓄えもあるもの」
「ええ。ですが、モモン様はそうではないように思えます。ご自身が飢える未来を僅かでも防ぐ為に、他者を切り捨てられる
冷静というよりは、むしろ冷酷とも……という言葉を、ラナーは飲み込む。その言葉を発する利も必要もない。
ラキュースはラナーを見据えて、言葉を返す。
「まあ……冒険者をやる上ではそういう決断力は必要ね。私達も時にはそういった選択を取ることもあるわ。でも私達のそれとは違う性質……だと貴女は言いたいのでしょう?」
ラキュースの言葉に、ラナーは小さく頷いた。
冒険者としてではなく、何か人格形成の基盤を形作るバックボーンそのものが、ここにいる人間とは違う様にラナーは感じていた。
「個人的に……あくまでも推測ではありますが、モモン様は過去に不当に虐げられる様な……過酷な環境に身を置いていた可能性が高いと、私は思います」
「そ、それって……」
ラキュースの目が見開かれる。
皆の脳裏に、同じことが過ぎる。
「……モモンは、元々奴隷だったってことか……?」
ガガーランが、敢えてそれを口にする。
ラナーは静かに、小さく頷いた。
「……あくまでも私が受けた印象というだけですし、推測にはなるのですが」
「だが……なるほどな。確かにそういう過去を持ってりゃ、俺達よりも『自分だけのささやかな幸せの価値』ってもんを重んじられるのかもしれねぇ……国や貴族のごちゃごちゃに関わりたくなさそうなのも、そういったところが起因してるのか。困った人間がいたら助けてやりたいって気持ちも、そういう過去があったからと考えると……」
それにあれだけの美貌の持ち主だ。
どれだけ過酷な状況下に置かれていたかと考えると、肝が冷える。
どれだけ強くなろうと、どれだけ富を築こうと、確かに元来が奴隷であったならば、その時代の価値観が植え付けられて離れないものなのだろう。
……重たい空気が沈殿する。
どんな苦難も突破し、人々を助けるスーパーヒーローというモモンへの印象は良い意味で砕かれた。等身大のモモンという人物像に触れ、『蒼の薔薇』は英雄モモンに対する認識を改められることになった。
※社畜
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10.略奪
オーバーロードアニメ4期、本当に最高でした。
文句のつけようがありません。
ラナーの例のシーンは本当に喝采ものでしたね。
4期の個人的なベストアルベドは、キスの前、アインズ様の父性溢れる注意を静かに嬉しそうに見ているシーンです。あそこは原作でも特に好きな二人のやりとりでした。
劇場版の聖王国編も非常に楽しみです。
「モモン様、どうかされましたか」
ふと、クライムはそう言って振り返る。
彼の後ろを付いてきている漆黒の鎧を全身に纏ったモモンガは、遠くの一点を見ていた。
「……あ、いえ。庭の花がとても綺麗に咲いているな、と」
足が止まったモモンガの回答に、クライムは僅かに相好を崩した。中庭の花園は彼の主人であるラナーにとってもお気に入りの場所でもある。『蒼の薔薇』がそういったことに興味がない女性ばかりなので──ラキュースは除くが──モモンガが庭園に興味を抱いてくれたのは、クライムは素直に嬉しかった。
「よろしければ見ていかれますか?」
「よいのですか? 私のようなものが立ち入っても」
「もちろんです。モモン様は客人として招かれているのですから」
クライムが快くそう返すと、モモンガは『それなら』と彼に案内を頼んだ。庭園に立ち寄ると、花の豊かな香りが一層に鼻腔を満たし、モモンガは兜の中でうっすらと目を細めた。
「……綺麗だ」
無意識に、モモンガはぽつりと呟いていた。
色とりどり咲き乱れている花々は、柔らかな風を受けて僅かに頭を揺らしている。彼は指先で花弁にそっと触れて、花の美しさを慈しんだ。
ナザリックにはこれ以上の花園が存在しているが、やはり生きた花とゲーム内グラフィックとでは同じようで別物だ。ナザリックこそ至高と思っている彼ではあるが、だからと言って目の前の花の美しさにケチをつけるほど狭量ではない。
「お気に召されましたか? ラナー様もよくここに来られております」
「……殿下がこの見事な花々に囲まれている姿は、さぞお美しい光景でしょうね」
「ええ、まさに」
はっきりと答えるクライムに、モモンガはほんの僅かにだが元同性として嫉妬と羨望を抱いた。何の武勲も取り柄も無さそうなお前が何であんな綺麗なお姫様の専属の側仕えなんてやってんだよ、と。
善人なのは分かるが、それ以上のスペシャリティをモモンガはクライムから感じ取ることはできない。何故ラナーの側に、という疑問は尽きなかった。
(前世でどんだけ徳積んできたんだお前)
しかしモモンガは幼気な少年兵に対し、流石にそんな大人げない感情を露わにするほど愚かではない。彼は兜の中でさえ、微笑みを絶やしはしなかった。
そんなモモンガの胸中など露ほども計れないクライムは、静かに頭を下げた。
「モモン様。本日は私の勝手な提案でこちらにお招きし、貴重なお時間をいただき申し訳ありませんでした。冒険者の不文律を知っている以上、身勝手な判断だったと痛感しております」
「謝ることはありませんよ。貴方は国の為に少しでも利益になるよう、最善の行動を取ろうとしたまでですからね」
「……そう仰っていただけると有難いです……。モモン様、我儘を承知でもう一つだけお願いしてもよろしいでしょうか」
クライムが控えめに申し出る。モモンガは訝しみながら、小さく頷いた。
「……どうぞ」
「私はラナー様に仕える身として、今の強さに満足できておりません。もしよろしければ、あの時の技を私に伝授していただけないでしょうか」
「……あの時の技?」
「はい! 悪漢を倒した時の、あの徒手空拳の技を是非教えて頂けたらと……!」
「……あ。あー……あれですか……」
モモンガは言われてようやく思い出した。
子供を甚振っていた男を吹き飛ばした、自身が放ったワンインチパンチを。
(いや、教えろって言われてもなぁ……)
兜の下で若干苦い表情が浮かぶ。
あれは昔どこかで見た創作物の真似事でしかなく、技と言える様なものではない。自分の馬鹿力であれに寄せただけのただの暴力だ。振りかぶるより力をセーブしやすいというのと、何となくかっこいいのでやってみただけに過ぎない。
しかし何も知らない人間が、あれほど予備動作のない拳の動きで大の男を紙屑の様に吹き飛ばしたところを見たなら、確かに何か特殊な技に見えてしまうことだろう。クライムは余りにも真っすぐ過ぎる純真な瞳で、モモンガのことを見ている。
「あー……あれは何というか特殊な技でして、ここで教えられるようなことではありません」
「そ、そうですか……」
ただのかっこつけの技ですとモモンガは言いたくない。何故なら恥ずかしいから。かっこつけたくてあれをやったのに、何故今になってそれを弁明して恥をかかなければならないのか。
代わりと言っては何だが、モモンガは謝罪と老婆心から少しアドバイスを送ることにした。
「強くなりたいのであれば、実戦を重ねて経験値を積むことが一番大事ですね」
「実戦を……ですか」
「訓練用の剣を振っているだけでは強くはなりません。実際に戦場へ出て、モンスターと命の奪い合いをすることこそがレベルアップの一番の方法です。狩るモンスターによって職業ビルドやカルマ値に影響が出るので、狩る対象や方法は要検討──ゴホン、まぁそれは置いといて、実戦こそが強者になる一番の近道ということです」
「戦地にこそ、死線にこそ活路はあると……なるほど、流石です……!」
後半は何を言っているのかは分からなかったが、とにかく命懸けの戦いをすることが一番の方法らしい、とクライムは嚥下した。だが、彼は城を離れてモンスターの狩場でレベリングできない立場というものがある。
「しかし私はラナー様を御護りすることが主命です。お側を離れ、モンスターを相手にする為に王都を離れることはできません。……ですので例の作戦までに何か一つ、強くなるとしたら何をすればいいでしょうか……」
「……作戦までに? それはつまり一週間もしない内に強くなりたいということでしょうか。クライムさん、それは少々結果を急ぎすぎではないでしょうか」
「そうかもしれません。しかし、私が『蒼の薔薇』の皆様の足を引っ張るようなことだけは避けたいのです……! それにこれはラナー様が立案された作戦でもあります。私の不出来で、計画に支障をきたすわけには絶対いきません」
「なるほど……」
目の前のクライムの実直さに、モモンガは素直に感心する。クライムといい、ガゼフといい、王国の戦士はやたらと人間ができているやつらばかりだ、と。実際に手助けするわけではないのだから、せめて助言程度なら助けになってやりたいとモモンガは素直に思った。
「……クライムさん。PvPに於いて最も重要なことは、最適な判断を最速で下すことです」
本来ならば徹底的に敵の情報をかき集め、執拗とも言える用意周到さで戦いに臨むことこそが重要だとモモンガは思っているのだが、それは恐らくクライムの求める答えではないだろう。それにギルドほど連携の取れていない兵士達との集団戦も見込まれる為、クライムが今から用意できる程度の情報やアイテムが戦況を左右するとも考えにくい。
「たった一フレームの判断のラグが、PvPに於いては致命的な結果を齎すことを知りなさい」
一ふれーむ。
らぐ。
ぴーぶいぴー。
クライムに取って聞きなれない言葉ばかりだが、その意味は話の流れで何となく彼にも察することはできる。
「ならば……その判断の後れをなくす為に、私は何をすれば……」
「恐怖の感情に流されない心構えを、決戦までに作っておきなさい」
最適なコマンドを、最速のタイミングで。
ゲームであれば当然のことだ。敵のグラフィックやエフェクトに驚いてアバターを静止させる者など、ユグドラシルのトッププレイヤーにはまずいない。
ユグドラシルにはトッププレイヤーでさえ徹底的に最適な動きができなければ、落とせないモンスターはゴマンといる。モモンガはそういったことを、クライムに伝えたかった。
スキルやレベルが今からどうにもならないなら、何にも動じずにコマンドを選択できる心の在り方を準備していればいいんじゃないか、と。
「なるほど。ではどのようにすれば、モモン様のような恐怖に流されない心を作ることができるのでしょうか」
「どうすれば……」
心構えを作っておけといったのはモモンガ自身。しかしそのアンサーを彼は明確に持っていなかった。
(座禅……とかか?)
どうすれば、と言われてもモモンガにそれが分かるわけがない。
生態系の頂点に君臨する生物が自由に振舞う様に、そもそもモモンガはこの世界にきてから恐怖を感じたことなどないからだ。
偉そうに講釈を垂れ始めたはいいが、見切り発車すぎて自分の首を絞める形になってしまった。
(恐怖に流されない心……それって戦士の心構えになるよな。どちらかといえばガゼフとかの分野だろうけど……あっ、ちょっと待てよ)
妙案を思いついた、とモモンガは我ながら思う。
戦士の心構えなどは分からないが、彼は他者に極上の恐怖をプレゼントすることはできる。バンジージャンプをした人間が一皮剥ける様に、それを糧とすることができたなら……。
モモンガはクライムに改めて向き直った。
「……そうですね。これもやはり経験の積み重ねというのが一番なのでしょうが、一つだけ短期間でこれを鍛える方法はあります。相当な荒技にはなりますが」
「その様な方法が……!? 是非教えてください……!」
「ふふ……クライムさん、やってみますか? 極限の恐怖体験を」
「え……?」
モモンガは兜をするりと脱いだ。
露わになる彼の
しかしクライムは今一度表情を引き締めた。
一瞬でも浮ついた自分が恥ずかしくて仕方がない。
「恐らくこの方法を試せば、以降これから貴方に訪れる恐怖は大抵陳腐に感じる様になるはずです」
「……それをすれば、私は今よりも強くなれるでしょうか」
「それは分かりません。ですが……一皮むけることは確かではないでしょうか」
「そう、ですか……」
クライムはモモンガの瞳を捉えながら、僅かに逡巡した。だが、少しでも強くなれる切っ掛けが作れるなら、断る理由などある筈もない。クライムは硬く頷いて、よろしくお願いしますと頭を下げた。
「場所を変えましょう。ここは少々人目がつく」
そう言ったモモンガの横髪を、さらりと風が撫ぜた。
「クライムさん……やると言ったのは貴方です。選択したのは貴方。それを決してお忘れなきよう」
「は、はい……」
庭園から少し離れた場所。
人目の付きにくい暗がりに、二人は身を押し込める様に居る。その少し特殊なシチュエーションに、クライムは得体の知れない緊張感を得ていた。
「ではまず、私の手を握ってください」
モモンガから、鎧を纏った手が差し出される。クライムは躊躇なく、優しくその手を握り込んだ。
「私の目を、見てください」
次いで、モモンガは諭す様にそう言った。
美しい翡翠の双眸は宝石の様で、指示に従ったクライムはその魔性とも言える蠱惑的な引力に吸い込まれそうな感覚を覚えた。
「そのままです」
凡そ囁くような声。
吐息の混じるその声は、男を堕落させてしまうような毒がある。
「決して私から目を逸らさず、握ったこの手も離さないように」
手を握り、見つめあう。囁かれる。
少しでも理性を失えば間違いを冒してしまうのではと、クライムでさえ覚えてしまう危機感があった。
「よいですね」
「はっ、はい……」
確認を促され、巻き戻される理性。
クライムは奥歯を噛んで、戦士としての顔つきを取り戻した。今から指南される立場というのを、努々忘れてはならない。
「六十秒、何があっても耐えてください」
「え?」
「分かりましたか? 何があっても、この目と手を離さないでください」
「……わ、分かりました」
「よろしい……それでは始めます」
「は──」
──次の瞬間、クライムは絶句した。
モモンガ──『黒姫』のモモンとは、クライムにとってはあのラナーをすら美という一点では超えると思わせる程の淑女だった。
この距離。見つめ合い、初心なクライムが清らかな心を強張らせる程には、先程まで男としての緊張を抱いていた。桜色の唇。そこから紡がれる言葉がどれも官能的に思えてしまう程に色気を感じてしまう声。モモンが纏う蠱惑的な香りは、クライムの理性を狂わせるくらいには性愛的だ。
そんな美女が、たった今──様変わりした。
「……ひっ……」
いや、視覚的には然程変わっていない。
変わっているとしたら、美女の肌から暗黒の靄が立ち上っている様に、見えているくらいか。それが実際に発生しているものなのか、幻視しているものなのかはクライムにはわからない。
ただ、その暗黒の霧が発生してからのクライムの心を蝕んだのは、圧倒的な恐怖の感情だった。
「……目を離すな」
厳しく、モモンガが囁く。
「ぐっ、く……!」
全身の汗腺から、一斉に汗が噴き出す。
呼気は乱れ、心臓が不規則に暴れる。クライムはあまりの恐怖から、加減のない力でモモンガの手を握り込んでいた。ラナーの様な華奢な手であれば、くしゃくしゃに潰すくらいの力だ。それほど体が力んでいる。そうでもしなければ、理性を保てない。
「う……く…………っ!」
恐怖から、大粒の涙が零れる。
涙腺が破壊されたようだった。
全身に産み付けられた恐怖という卵が、毛穴から一斉に孵化した様にさえ感じる。ありとあらゆる恐怖体験を凝縮した様なストレスが、クライムの体を蝕んでいた。
「……あと三十秒ですよ」
「はぁ……っ……あぁっ……!」
馬鹿な、と思わずにはいられない。
もはや二十四時間……丸一日ぶんの体験をしているように、クライムには感じられていた。
まだたったの三十秒。
折り返しにきただけ。
クライムの理性、自我は、崩壊寸前まで追い込まれている。
死にかけたことは何度もある。
しかしその絶体絶命状態に勝る、極限の状態を今まさに体感していた。少しでも気を緩めれば、落ちる。うっかり命さえ手放すかもしれない。
「ぐ……あ、ぎ、ぃ、ああああああああああああああッ!!!!」
奥歯が砕けんばかりに、食いしばる。
瞳に命の焔を燃やし、クライムはガクガクと震える足を叱咤してそこに立ち続けた。
モモンガの目からは、一切逃れようとはしない。
手を信じられないような力で握りこみ続け、彼は全身全霊を以て恐怖に抗い続けた。
──……全ては、ラナー様の側に控えるに相応しい男になる為に。
「よく耐えましたね」
その声は、クライムにとって何よりも甘美なものに聞こえた。緊張の糸が途切れる。全身が弛緩していく。
クライムの体は、全ての恐怖から解放された。先程まで体にしな垂れかかっていた恐怖の権化が、嘘の様に立ち消えたのだ。
極度の緊張は緩和され、全身余す所なく筋肉痛に見舞われた肉体は力なく、モモンガの体に寄り掛かった。そうしていなければ、立っていることさえ叶わない。重力にさえ抗うことのできないクライムは、震える体をモモンガに委ねるしかなかった。
「大丈夫ですか?」
クライムを抱き留めながら、モモンガは優しくそう尋ねる。
「だ……だい……だいじょう、ぶ……です……」
そう返しながら、クライムの全身からは大粒の冷や汗が止めどなく発露されていく。
彼は体の震えを止められず、モモンガの体にしがみついていた。人の温もりを感じていなければ、どうにかなってしまいそうだった。生還したという実感が、越えてきたどの死線よりも明確に感じられている瞬間だった。
(……少しやりすぎた?)
僅かな反省と同情を覚えたモモンガは、クライムを振り払うことはしない。『絶望のオーラ・レベルⅠ』なら、丁度いい修行になるかと思った見通しが甘かったらしい。
モモンガはクライムの背をぽんぽんと叩いて、労った。
「素晴らしい精神力でした」
「い、今のは……?」
「私のスキル──いや……特殊な武技です。殺気を相手に飛ばすみたいな……よくありがちな技ですよ」
「ぶ、武技……なるほど……」
喘鳴交じりに、クライムは納得したようだった。未だ力は入らないが、彼はそれでも懸命に声を絞り出した。
「モ、モモンさま……あ、ありがとう、ございました……確かに、俺……一皮剥けたような気がします……」
これ以上の無い極限状態を経験できたことは本当に収穫だと、クライムは思う。たとえこれからどれほど絶望的な状況にあっても、今日のこのことを思えば精神面で崩れることはないだろう。確信めいた成長を、彼自身感じていた。
「お役に立てた様で何よりです。歩けますか? ひとまずあそこのベンチで休みましょう」
「す、すみません……ま、まだ足が嗤って……」
足は面白いくらいにまだガクガクと震えている。
しかしクライムのその顔は確かに、男を上げたような、少し精悍な顔つきに変わっていた。
「モモン様の作戦加入は成りませんでした。計画どおり、首尾よく事を進めてください」
『蒼の薔薇』が退室して暫く。
ラナーは静かになったその部屋で、虚空に向かってそう呟いた。
それは明らかに独り言ではない。
何かに向けて、はっきりと指示を出している。
「…………」
ラナーは暫くの間を置いて、椅子から立ち上がった。
扉を開け、外に出る。メイドが供をしようと歩み寄ってきたが、ラナーはそれを手振りで制した。
情報を整理したい。
彼女は
今、ラナーの明晰な頭脳を巡っている思考は、冒険者モモンに関する事柄だ。
(思っていたよりは御しにくい……やりようによってはとても扱いやすいのだけれど、アレを対価で釣るのは無理ね。ストロノーフ様との繋がりを何とか活かせれば……いや、別に今焦る必要はないわね)
ガゼフ・ストロノーフを救った謎の戦士はモモン……ということは彼女の中で確定した。しかしやはり気になるのは出自だった。
(あれだけの美貌と、あれだけの力を持った人間が一体どこから湧いてきた?)
黒髪ということから、やはり南方出身かとも思うが、顔立ちを見るにそうでもない。
それに『蒼の薔薇』にも伝えたが、あの心身がチグハグな存在感も気になる。立ち振る舞いや言葉遣いはまさに品行方正な淑女であるのだが、モモンの言葉の真意を辿れば辿るほどどうにもそういった地位や尊厳が匂わなくなる。
(モモンは、奴隷に堕とされた亡国の王女……? ということは、異常な強さは血統に依るもの……? もしかすると六大神や八欲王といった……いや、それは考えが少し飛躍しすぎね)
ラナーの万能と言える頭脳を以てしても、モモンの出自にはノイズが掛る。
可能性として挙げられるカードはどれも荒唐無稽なものばかり。
謎のベールに包まれた、王国に存在するジョーカーともいえる存在。
手札に加わるなら申し分ないが、自分にとっての敵対勢力に組み込まれるのだけは避けたい。特に隣国の皇帝が放っておくとも思えない。
ラナーは長い廊下を歩きながら、モモンについて考えを巡らせて──
「あら……?」
──ふと、窓の外に見えたものに、ラナーの足が止まる。
やけに目立つ純白の鎧。
見紛うはずもない。
あれは愛しの忠犬の目印にと、首輪の代わりに与えたものだ。遠くからでも、暗がりにあっても、よく見える。
「クライム……」
ほう、と温かい吐息が漏れる。
今自分が生きているのは、全てクライムの為。
彼はラナーにとっての全てだ。国も、兄弟も、父や『蒼の薔薇』さえ悪魔に売り渡しても厭わない唯一の存在。縛り、依存させ、弱らせてでも飼育したい。そう願わない日は一日もなく、それは彼女の行動原理の全てでもある。
「一体何をしているのかしら……」
そんなクライムは、あんなところで一体何をしているのか。
気になったラナーは窓に張り付いて、それを覗こうと身を乗り出して──……瞳から、すとんと光が抜け落ちた。
ヘドロで作られた様な眼は一切の瞬きを挟まず、愛しの忠犬を捉えている。
「……は……?」
憤怒、という言葉では到底追いつかない何か。
クライムとモモンが人目に触れないところで抱き合っている。
ラナーの腹の腑から、得体の知れない感情が止めどなく沸き起こった。
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11.脱兎
──ロ・レンテ城での一件から翌日。
見やれば、大粒の雨が絶え間なく窓を叩いている。
遠くで二度雷光が弾けたのが見え、少し遅れて劈く様な雷鳴が轟いた。
(今日は流石に出掛ける気にもならないな……)
ぼんやりと窓の外を眺めながら、モモンガは溜息を溢した。
今日はリ・エスティーゼ王国では珍しい豪雨に見舞われている。モモンガの体感でも、この世界に来てから体験する最大の降雨量だ。室内のじっとりとした湿気を鬱陶しく思いながら、彼は手にしている本の頁をまた一枚捲った。
モモンガは天候を操作できる術もあるのだが、雨除けの為にわざわざそれを使うつもりはない。自然はあくまでも自然のまま、豪雨ならその成り行きを楽しむ程度には心の余裕はある。むしろこの世界にきたときは、人体に害のない雨模様の美しさに見惚れていたこともあった。
「モモン様、お茶菓子を用意しました」
「ありがとう」
牛酪の香りがふんわりと立つ焼き菓子を盆に載せて、ツアレがやってきた。彼女のメイド姿もそこそこに板についてきたものだ。家事全般を熟せるツアレがいるおかげで、モモンガはこの屋敷での暮らしをそこそこに気に入りはじめていた。
ツアレの作る料理は『黄金の輝き亭』のものと比べると明らかに家庭的で派手さはないが、自分が雇った可愛いメイドの手料理というのはまた乙なものである。これだけ大きな屋敷を構え、しかもうら若いメイド付きの生活というのは中々に自尊心を満たしてくれるものだ。
これはあの頃……ヒエラルキー最下層の鈴木悟であった時ならば、絶対に望めなかった生活だった。
「良ければツアレさんも一緒に食べませんか」
「え……い、いいのですか……?」
「もちろん。主人の私がよいと言っているのですから。食べながら、少しお喋りでもしましょう」
ぱぁ、とツアレの表情が華やいだ。
それが何だか犬の様で、モモンガの気持ちも仄かに温かになる。
ツアレはこの屋敷にきた当初はおどおどとした態度が顕著に見られた。心の傷に加え、緊張もあったのだろう。しかし彼女は時間を重ねるたびに、先程見せた様な朗らかな表情を次第に見せる様になった。
「……え、えっと……?」
ツアレが気恥ずかしそうに顔を赤らめる。
モモンガはそんな彼女の顔をずっと眺めていたようだった。
「すみません。ツアレさんの笑顔が可愛らしいというか、なんというか」
「え?」
「ここに来た日と比べると本当に表情が明るくなったな、と」
「そ、それは……モモン様が、いつも私に優しくしてくれますから……」
気恥ずかしそうに焼き菓子を食むツアレを見ながら、モモンガは微笑ましく思う。彼のツアレに対する愛着も、この生活の中で確かに育まれていた。ニニャやエンリ達との絆とはまた違う、保護者としての側面が強い愛情だ。
できることなら、ツアレの自立をできるだけ支援してやりたいとモモンガは思っている。それは拾った者としての責任というより、彼自身が本意から手助けしてやりたいからだ。
「…………」
ざあ、と暴風に吹かれた雨粒が、ひと際大きく窓を叩いた。それを見やりながら、モモンガは目を細める。
(『八本指』と『蒼の薔薇』の抗争の日は近い……できればその前に王都を離れておきたいんだが……)
焼き菓子を摘むモモンガの脳裏に過るのは、昨日の王城での件だ。
できることなら事態に巻き込まれる前に行動したい。
王都で見るものは見られたし、何より『黄金』と称される姫を間近で見ることができた。事件の当事者になりたくないモモンガにとって、これ以上この王都に留まるメリットはないと言ってよい。
それに、はっきり言ってモモンガはそろそろリ・エスティーゼ王国を出たいと思っている。王国の全てを観光できたとは言えないが、押さえておくべき王都は観覧できた。そろそろ新しい世界も見てみたいというのも事実。彼は近いうちに──アインザック達に泣きつかれる前に──隣国のバハルス帝国へ行くことを計画していた。
(だけどなぁ……)
王都……ないしは王国を出るにあたって、懸念点が一つある。
「どうされましたか? モモン様」
「いえ……」
……そう、ツアレの存在だ。
彼女の存在が、現在のモモンガの旅の足枷となっていた。
別に彼女のことを鬱陶しく思っているわけでは決してない。しかし、それでも彼女が要因でフットワークが重たくなっているのは事実。
モモンガはツアレの今後をどうするか、現在決めあぐねていた。
(ツアレさんのトラウマが軽減されるまではこの屋敷で雇っているつもりだったけど、この子の社会復帰ってかなり難しいんだよな……)
実はツアレは未だに屋敷から一歩も出ることが出来ていない。
敷地外に出ようとすると、足が竦んで動かなくなるのだ。発汗や動悸、喘息など、夥しいストレス反応も見られ、社会復帰どころの話ではない。
男性恐怖症の極致というのもある。
男に嬲られ続けた人生を救ったのが、女性の美の頂点にいる
男に不信感を募らせ、女神に心酔しているなら当然の結果ともいえよう。仮にツアレを救ったのが心優しい老紳士であったならば、彼女の男に対するトラウマも多少なりとも軽減されていたはずだ。
(……カルネ村へ連れて行っても、馴染むのは難しいかもしれないな)
そもそも男がいる環境が無理だとどうしようもない。そうでなくとも、ツアレはこの屋敷とモモンガのことしか信用できないでいる。
つまりモモンガがただちに王都を出るとなると、ツアレに対する非情な決断も迫られてくる……ということだ。
(……少し無責任かもしれないけど、やはりあの手段を取るしかないか)
このまま思考を巡らせていても堂々巡りだ。モモンガはあることを渋々取り決めて、ゆっくりと口を開いた。
「……ツアレさん、私は近いうちに帝国へ出立しようと思っています」
唐突とも言える宣言。
モモンガの言葉に、ツアレの顔色が二度三度と目まぐるしく立ち変わっていく。
「え……? あ、わ、私は……」
「……残念ながら、ツアレさんを連れていくつもりはありません。この屋敷も引き払います」
「え……」
「ツアレさんとは、ここでお別れです」
「え……?」
不安げなものから、突き放された様な絶望の表情へと変わる。涙が零れる間もない、衝撃だった。ツアレは信じられないものでも見ているような、そんな表情をしている。
「ツアレさんはよく働いてくれました」
「え……あ……」
「料理も美味しかったですし、屋敷の清掃もこんなにきちんとして頂いて、ツアレさんを雇って本当に良かったと思っています」
「モ……モモン……さ、ま……?」
ツアレを置き去りにして、モモンガは淡々と言葉を並べていく。事務的に述べられるそれらはどれも突拍子もなく、ツアレにとっては今から断頭台へと上がれと言われているようなものだった。
それにこの薄汚れた世界で、モモンを失くした自分はどう生きればいいというのか、とツアレは思う。浅く考えただけでも、彼女の頭には自害の文字しか浮かんでこない。天涯孤独のツアレが、たった今から心酔する
「……安心してくださいツアレさん。貴女の心配は尤もです」
そんなツアレの憂いを慮ったモモンガの声は、酷く優しかった。残酷すぎるほどに。彼は長い睫毛を蓄えた瞼をゆっくりと落とした。
「ツアレさんが抱えている心の傷……その全てを、記憶ごと消し去りましょう」
ツアレにとってそれは衝撃的な一言だった。
記憶を消し去る。人智では到底不可能なことではあるのだが、主人の言葉ならそれが実現可能なことであるともツアレは感じていた。
しかし狼狽するツアレは、その言葉の真意を推し量れない。
「……そ、それは……ど、どういう……」
「こういうことです」
モモンガは静かにそう口にして、おもむろに立ち上がった。
遠くで雷が落ちる。
僅かな時を置いて、モモンガは自らに掛けた魔法を解いた。
「あ……」
ツアレの目に映るモモンガの姿が、たちまち変容した。
「……驚いたでしょう」
モモンガの背中から、漆黒の両翼が大きく広がった。
頭には角が現れる。瞳孔は縦に割れ、翡翠のメッキが立ち消えた目は金色に変わっている。人と言うより、爬虫類をすら思わせる異様さがそこにはあった。
その身に現れた全ての要素は、人外たる悪魔の証明。異形種の身体的特徴に他ならない。
私は人間ではない──暗にそう突き放つモモンガの意図を汲めぬツアレではない。
主人の真の姿に目を丸くしたツアレは動揺すると共に、はっきりとした納得感も同時に得ていた。これほど美しい女性が自分と同じ人間なはずがないという、ある種の答え合わせをされたようだった。
そんなツアレを見据えながら、モモンガは囁くように言葉を紡ぐ。
「……私は、人の記憶をすら塗り替えられる恐ろしい悪魔です。人間とは決して相容れない存在だということはもうお分かりですね……?」
女神の如き淑女は、悪魔だった。
モモンガ自身にそう告げられ、ツアレの目が見開かれる。
両翼の存在感は決して作り物ではない。
モモンガは敢えてその翼を動かして、自分が悪魔であるという印象を強めた。自分が恐ろしい悪魔だと分かれば、自分やこの屋敷での日々への未練が薄まるだろうという考えからだ。
「あの娼館で植え付けられたトラウマごと記憶を全て消します。ツアレさんは生まれ変わって、どこか遠くでひっそりと幸せに暮らしなさい」
そう言って、虚空から取り出したのはパンパンに中身が詰まった金貨袋だ。モモンガはそれをツアレの前に置いた。口紐が緩んだそれから、僅かに中身が見える。慎ましく暮らせば一生を賄えるほどの白金貨が、ツアレの瞳に映った。
「……い、いや……」
ツアレは、震えながらふるふると顔を横へ振った。
それはモモンガの命令に対して、初めての拒絶の意思だったかもしれない。
「記憶を、消すって……モ、モモン様のことは……」
「……当然、忘れます。次にツアレさんが目を覚ました時は、私達は赤の他人同士です。しかしその方が互いの為でしょう。何故なら私は、悪魔なのですから」
静かに告げられ、ツアレは自身の体が罅割れたかの様な衝撃をその身に受けた。ぐらりと地が撓み、目に映る色彩の全てが暗転した。
(モモン様のことを……)
……嫌だ。
ツアレは今にもそう叫んでしまいそうだった。
「ツアレさん、こちらに」
モモンガが手を差し伸べる。
主人のその言葉は嬉しいばかりのはずであったのに、今のツアレにとっては恐怖でしかなかった。彼女はふるふると顔を横へ振るのみ。
「い、や……嫌ああああああああああああッ!!!!」
「……ツアレさん!」
ツアレは逃げ出した。
椅子を蹴倒して、脱兎のごとく部屋を出ていく。
モモンガはその背中を見送っていた。
大人しいツアレが、あれほど過剰な反応を見せると思っていなかったからだ。
慌てて追いかける。
廊下へ出ると、ツアレが自分の部屋へと入っていくのが見えた。
「ツアレさん!」
間違っていたか、とモモンガは思う。
伝え方、もしくは方法を違えたと、俄かに後悔が滲み出す。
有無を言わさずに記憶を奪っていた方が結果としては丸かっただろう。
しかしそれをしなかったのは──。
「ツアレさん……」
モモンガは、だらりと垂らした拳を握り込むしかなかった。
それからしばらくの時間を置き、モモンガは再びツアレの私室の前へ訪れていた。
時間にして、一時間は経過している。
ツアレが冷静になるには、十分な頃合いだろう。
モモンガは静かに、扉をノックした。
「……」
中から返事はない。
モモンガはもう一度、扉をノックした。今度は、先程よりも強めに力を込めた。
……しかし反応はない。
拒絶の意志を見せているのか、それとも泣きつかれて寝ているのか。
(……信用していた人間が悪魔でしたなんて、余程ショックだったのかもしれないな)
ツアレからすれば見当違いも甚だしい解釈で、モモンガは溜息を零した。ツアレはモモンガに幻滅もしなければ、怒りもしていない。
さてどうするか、とモモンガは廊下で腕を組む。
こうなってくると扉を腕力でこじ開けてもよいのだが──
「……ん?」
──と、彼はあることにはたと気が付く。
部屋の外からでも分かる。
部屋の中の様子が、明らかにおかしい。
「……ツアレさん!」
モモンガは気がつけば、扉を蹴破っていた。
──部屋の中は、無茶苦茶だった。
……それもそうだ。
この大嵐の中、窓を大きく開いていたらそうもなる。
大きく振り込んだ雨粒に部屋の中は水浸しの状態だ。暴風は飛び込んで、テーブルや調度品などを容赦なくひっくり返している。
「ツアレさん!」
名を呼んでも、周りを見ても、ツアレの姿はこの部屋のどこにもなかった。
モモンガの背筋に悪寒が走る。
いつからいなかった。
何故気がつかなかった。
後悔してももう遅い。
モモンガは拳を握り込んだ。
視線の先には、ツアレが飛び出していったのであろう大きく開け放たれた窓が、暴風雨の煽りを受けて軋んだ悲鳴を上げていた。
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12.謝罪
豪雨に穿たれる王都。
窓を叩く暴風の風切り音は思わず身を竦める程で、落ちる雷の嘶きは家の中に居ても直ぐそばに感じられるほどの存在感だった。
出歩こうなどとは誰も思わない。
平時は活気ある王都の往来は、今は当然ながら人の影など見当たらない。
……しかし驚くことに、街を走るメイドの姿が一つあった。
彼女は上等なメイド服に身を包み、手提げの籠を一つ持って走っていた。ガラス玉の様な雨に打たれ、暴れ狂う風に吹かれ、彼女はどこかを目指してひた走る。
ぐずぐずに雨を吸った服が重いのか、視界が優れないのか、メイドの駆け足はどこか覚束ない。
メイドの表情は悲壮感に満ちていた。想い人の死に目に会うかどうかというような、後ろめたい鬼気を感じさせる。少なくともただ雨宿りの場所を探しているようなものではない、ただごとではない何かを予感させる表情をしている。
メイドは駆ける。
誰もいない、暴風雨に曝されている王都をたった一人で。
息を切らして、雨に体温を奪われ、それでも彼女は走る。
「……あっ!」
メイドの足が、濡れた石畳の上をずるりと滑った。結果として彼女は泥で濁った雨溜まりに、顔から突っ込んでしまう。
手を離れた中身のない籠が、遠くへ転がっていく。メイドは呻くと、鈍重な動きで何とか上体を起こした。
頬と両の掌の皮が擦り剥けたようだ。剥けた箇所からは、鮮やかな血がじんわりと滲み出している。
メイドは痛みに顔を顰めながらも、よたよたと籠を取りに行く。唇を噛み締めて、痛みと寒さに彼女は耐えていた。
籠を拾ったメイドは、再び走り出した。
雨の勢いは、一層強くなるばかりであった。
モモンガは窓の外を睨んだ。
この嵐の中、ツアレが一人で飛び出したとなると命の危険すらある。
「どうして……」
唇を噛みながら、モモンガは窓を閉じた。その際、雨粒が彼の体をいとも簡単にずぶ濡れにしたのだが、それほどの風と降雨量ということだ。
ツアレが何を思ってこの屋敷を飛び出したのかはモモンガには分からない。しかし今彼が為すべきことは、ツアレを捜索・保護することだろう。何かあってからでは遅い。
モモンガは滴る雨水を意にも介さず、アイテムボックスから適当なスクロールを数本取り出して、それらをテーブルの上に転がした。
ぷにっと萌え考案の誰でも楽々PK術……の、探知妨害を考慮しない超簡易版だ。いくつかの魔法を組み合わせることで、ツアレの所在を鮮明に掴むことができる。
「無事でいてくれよ」
祈るように呟いて、卓上に転がるスクロールの一つを宙に放る。魔法発動と引き換えに、それらは空中で燃え尽きた。そして、それの繰り返しだ。
「ん……」
次第に見えてくる。
脳内に直接映像が流れ込んでくる感覚だ。
モモンガに今見えているのは、王都の本通りから少しそれた脇道だ。解像度が次第に上がっていき、映像は明瞭になりはじめていく。
そして、ツアレの姿が確認できた。
モモンガは彼女が無事なことにホッと胸を撫でおろした。全身ずぶ濡れなのは目も当てられないし、体のあちこちに擦り傷を作っていることも気にかかるが、それでも彼女は生きている。
ツアレは走っていた。
壁に細身をぶつけながら、必死に。その表情はどこか鬼気迫るものがある。彼女は時折振り返ると、恐怖の感情を露わにしていた。
何だ、とモモンガが映像を引きで見てみると、強面の男がツアレに差し迫っているのが見えた。剥き身の肌には刺青が彫られ、顔には傷を縫い合わせた跡がある。ひと目で堅気ではないと分かる風貌だ。家屋内から一人でいるツアレを見て、しめしめとターゲットにしたのだろう。通り魔か、人攫いか、いずれにせよこの男にツアレが捕まれば、どうなるかなどは想像に難くない。
ぞわ、とモモンガが総毛立つ。
脳から、一切の思考が立ち消えた瞬間だった。何よりも早く、体が動いていた。彼は装備を整える間も無く、部屋着のまま気づけば無詠唱化した転移魔法を行使していた。
目の前の景色が切り替わると、そこは目を開けているのも躊躇うほどの嵐。肌を冷たい雨粒が容赦なく叩き、鼓膜を揺する風音は低く太い。
前方には悪漢。
背後にはツアレの気配。
突如現れたモモンガに、男は面食らった様に踏ん詰まった。
両者の間に転移したモモンガは、歯を食い縛って一歩踏み込む。雨水を吸ったルームシューズから、ぐじゅりと水気の多い音が立ち上ぼった。
「うちのメイドに……!」
ひゅ、と小気味良い風切り音が発生する。
鞭を思わせるそれは、地から離されたモモンガの右足から奏でられたものだった。
「何してくれとんじゃあああああ!!!」
雨粒を裂くハイキック。
綺麗な半月を描いたそれは、吸い込まれるように男の顔面に突き刺さった。
卵の殻を潰したような、そして水を吸った紙を握ったような音が、炸裂する。
モモンガの怒りと
「ツアレ!」
モモンガが振り返ると、目を丸くしたツアレが尻餅をついていた。男に迫られていた緊張と、主人に窮地を助けられた緩和が入り混じった表情だ。早鐘を打つ心臓を抑え、彼女は吐息を震わせて主人を見上げていた。
そんなツアレにずんずんとにじり寄ったモモンガは、彼女の手を強引に引っ張って抱きしめる。冷えた体温と、ぐずぐずに水分を吸ったメイド服に顔を顰めて、彼は息継ぐ間もなく『
……瞬間、切り替わる景色。
先程まであった鼓膜を揺する雨音や風切り音は無くなった。暖炉から薪が爆ぜる音が時折聞こえ、暖かな空気がずぶ濡れの二人の体を包んでいく。
屋敷に、帰ってこれた。
「……何をやっているんですか、あなたは」
静かな声が、ぽつりと部屋の中へ溶けていく。
怒りや安堵が入り混じった、複雑な声だった。それでも自分に心を砕いてくれた言葉だと理解できるツアレは、涙をはらりと流した。頬を伝うそれは、擦り向けた傷口に滲む血と入り混じって、淡い紅色になって床にぽつりと落ちていく。
「……申し訳、ありません」
「こんな大嵐の日に勝手に飛び出して、襲われそうになって……取り返しのつかないことになっていたかもしれないんですよ」
「……ごめんなさい」
素直な謝罪の言葉は、叱られた子供を思わせるものだった。俯くツアレの両頬に手を添え、モモンガは強引に視線を交わらせると、眉根を顰めた。ツアレの擦り傷が痛々しい。
「どうしてこんなことを……? 怪我までして……私が悪魔だと知ったからですか? そんなに怖かったでしょうか」
ツアレはぶんぶんと顔を横へ振った。滅相もないと言わんばかりに。
「ほら、モモン様……」
「え?」
ツアレは持っていた籠を、胸の前で小さく掲げて見せる。中には、いっぱいの果実が入っていた。
「これって……」
それはモモンガが気に入ってよく買っていた果実だった。王国の名産品で、彼が好んでいたのをツアレは覚えていたのだろう。
「もしかして、買ってきたんですか? この大雨の中……」
モモンガの問いに、ツアレはこくりと頷いた。
「えへへ……私……一人でお使いが、できました。無理を言って店を開けてもらって、お店の方は……男性の方で、怖い人だったんですけど……」
ぽつり、ぽつりと、ツアレは涙ながらに言葉を紡いでいく。声は震えていて、たどたどしく、未だに緊張の余波があるのが伝わった。
この嵐の中。
硬貨をポケットに突っ込んで、籠を提げて、あのどこにも行けなかったツアレがたった一人でお使いに走った。並々ならない覚悟で飛び出したはずだ。それはモモンガにも容易に想像がつく。
何故そんなことをしたのか。
……ツアレは証明したかったのだ。自らの足で、嵐にもトラウマにも立ち向かっていけるのだと。記憶を奪う必要などないと、モモンガに結果で示したかったのだ。
「ツアレさん……」
「えへへ……わ、私……私、がんばりました……」
ツアレは疲れ切ったような微笑みを浮かべている。彼女は、震える手でモモンガの手を握った。その手の温もりを、確かめるように。
「モモン様は、とてもお優しい方です……私の記憶を消そうとされたのは、きっと私が自立できるようにとお考えになったからでしょう……? 悪魔だと打ち明けたのは、私に未練を残さない様にと思ってくれたからなのでしょう……?」
震える体。震える声。
ツアレは言葉を選びながら、懸命に自分の気持ちをモモンガへ伝えようとしている。あまりにも真っすぐで純粋な言葉達に、モモンガは目を逸らしてしまいそうになってしまった。
「モモン様が御伽噺に出てくるようなとてもわるい悪魔だと仰られるのであれば、私は魂を取られてもいいんです……モモン様に殺されるなら、死んだって構いません。心の傷も、消えなくたっていいんです」
はらりはらりと涙が落ちていく。
ツアレは大好きな主人の目を真っすぐに捉えて離さない。
「だから……だから、どうか私の大好きなモモン様の記憶だけは、消さないでください……! どうか、モモン様が大好きな私を殺さないでください……!伏して……伏してお願いします……!」
膝を折り、縋る様に嘆願するツアレはボロボロと涙を流した。握られた手からは、震えが伝わってくる。
モモンガは胸にじくりとした痛みを覚えて、ようやく全てを理解した。自分が如何に愚かなことをしようとしていたのかということを。
「ツアレさん……」
そんなツアレに、モモンガも膝を折る。
優しく抱きしめて、心からの言葉を吐露した。
「ありがとう……そして、ごめんなさい」
感謝と謝罪。
自分を好きでいてくれてることへの感謝。そしてそんな相手の記憶を軽率に消そうとしていた自分を許してほしいという謝罪。
これは、自己肯定感の低いモモンガだからこそ招いたすれ違いだった。『アインズ・ウール・ゴウン』のギルド長でもない自分の価値を、彼は見い出せないでいた。自分を慕ってくれる王国の人間達は、鈴木悟ではなく肉体のスペックが見せた虚像を好いてくれているのだと、ずっと後ろめたい気持ちを抱いていたのだ。
その気持ちの全てを拭えたわけではない。
しかし今こうして自分に好意を曝け出している相手にくらい、目を逸らさずに向き合っていく必要はあるのだと、彼は胸の痛みと共に自覚するのだ。
「うぇ、うう、うえええええ……ん……!!!」
とうとう涙腺が瓦解したツアレを、モモンガはきつく抱きしめる。
雨音と薪が爆ぜる音が、温かく二人の身を包んでいた。
ツアレとの絆レベルが上がって四章終了です。
次章ようやく八本指が動きます。
ちなみにモモベドさんとツアレはずぶ濡れなのでこの後流れで二人で仲良く(?)お風呂に入りました。結果は鈴木悟です。
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おまけ4
酒瓶を呷る。
床に腰を下ろしているブレイン・アングラウスは、たった今
部屋の中にはアルコールの匂いが充満しており、彼が如何にこの部屋で酒に入り浸っているかを表している。
「……クソ」
小さく悪態を吐いたブレインは、肘掛けに使っている木箱の中からまたもう一本酒を取り出すと、躊躇なくコルクを抜いた。ぽんと鳴った音と共に、葡萄酒の豊潤な香りが鼻腔を撫ぜる。この香りと酔いだけが、彼の今の唯一の心の拠り所だった。
「……あなたがブレイン・アングラウス?」
若い女の声。
いつの間にかそこにいた訪問者にブレインはぎろりと視線を投げると、興味がないとでも言わんばかりに酒瓶を呷った。アルコールを胃の中に流し込む様な、無茶苦茶な飲み方だ。
そんなブレインを見て、フードを目深に被った訪問者は肩をすくめる。
「……ふーん。私が言うのもなんだけどさぁ、見事に落ちぶれちゃってんねぇ。ガゼフ・ストロノーフと肩を並べられるような男には全然見えない」
「失せろ。女を呼んだ覚えはない」
「あはっ。もしかしてー、私を娼婦かなんかだと勘違いしちゃってる感じ? いやーん、へんたーい、えろすけべー」
「……チッ」
ブレインは分かりやすく舌を打った。
相手にしても仕方がないという理性と、ふつふつと湧く苛立ちが鬩ぎ合っている。とっとと失せろというのが、彼の正直な気持ちだった。それ以上神経を逆撫でされると、思わず殺してしまいそうだから。
しかしブレインは目の前の女が只者ではないことも既に察知している。それは女がこの部屋を訪れる直前からだ。
「お前みたいな娼婦がいてたまるか」
「んー?」
「血の臭いがぷんぷん香ってきやがる。何人か殺してきたな」
「……せーいかーい」
女はへらへらとそう返すと、フードを脱いで見せた。
痩せた顔に、病的な白髪。白髪は頭から被ったかのように、血が滴っている。その血が女のものでないというのは言うまでもない。返り血だ。
目は焦点が合っておらず、ぎょろぎょろとブレている。明らかに、健常的ではない。
「……気狂いの
「んー? いんやー、用って程でもないんだけどサぁ。噂のブレイン・アングラウスがいるって聞いたから、面くらい見ときたいじゃん」
「サインでも欲しいのか」
「ぎゃは。あなた面白いこと言うね」
「……用が済んだなら失せろ。俺は今、虫の居所が悪いんだ」
「それなら好都合」
「あ?」
胡乱気な目で返すブレインよりも速く、女の手が動いた。僅かな手の返しで、彼女の手にはいつの間にか刺突武器……スティレットが握られており、それを一切の躊躇なくブレインの顔に突き立てる──
「……おいおい、行儀が悪いじゃねぇか」
──が、それはブレインの返しの刀で受け止められた。
達人同士でなければ見切ることもできぬ、刹那の間の殺し合い。きりきりと拮抗する互いの凶器が、殺気を纏って陽炎の様に揺らめいた。
「行儀の良い
「……ふん、愚問だったな」
粘着質な笑みを浮かべる女に、ブレインは挑戦的に口角を上げる。しかし彼はそうしながら、愛刀から伝わる女の一撃の鋭利さに舌を巻いていた。
(……間違いなく、強者。低く見積もっても俺と同等──いや、俺なんかと同等の存在を『強者』と見做すのはおかしな話か)
自嘲気味に笑む。
ブレインの網膜には今尚、自らを下した真の強者のシルエットが焼きついて離れない。彼は自分程度を強者と呼ぶことが、今は恥ずかしくて仕方がない。
そんなブレインの表情を見て、女は小首を傾げた。
前髪に滴る鮮血が、ぽつりと床に落ちていく。
「こんな素敵なお姉さんを前にしてさぁ、考え事?」
「……くだらないと思ってるだけだ。お前も相当ならしてきたらしいが、俺達どっちが強ぇかなんて力比べをしたところで、現実を見ちまったら虚しいだけだぞ」
「あぁ?」
「上には上がいる。俺ら程度なんてな、所詮は井の中の蛙だったのさ。あのガゼフ・ストロノーフだってその枠を超えちゃいない」
「お前……」
「おい、アダマンタイト級冒険者『漆黒の美姫』……モモンを知ってるか?」
ブレインは溜息を零す様にその名を口にした。
彼の武技……『神閃』と『領域』を併せた奥義とも言える、秘剣『虎落笛』を鬱陶しそうに手で払いのけたあの化け物の姿を思い浮かべながら。
当時の自分を思い出しただけで、ブレインは滑稽に思う。
自分を強者だと思い込んでいた鼠が、意気揚々とドラゴンに噛みついていったようなものだ。あの時、彼の自尊心や強さへの自負は粉微塵に打ち砕かれた。
本物の高みを知った以上、もうブレインには気力が湧くことはなくなった。ガゼフ・ストロノーフを超えるという目標でさえ、陳腐に感じてしまって仕方がない。
本物の強者の存在を知らない、目の前の憐れな女を諭そうとして──
「──う、ぼえええええええええええ!!!!」
「うわぁ!?」
──女は吐瀉した。
突然の奇行。
胃の中の全てを引っ繰り返した量の吐瀉物が、床にぶちまけられた。ブレインは悲鳴を上げて飛びのくと、女の突然のそれに目を白黒させる。
「きったねぇ……お、おいお前、大丈夫か?」
「う、お、げええええええ……」
ぼたりと、またひと塊の液体を口から吐き出した。
女はえずきながら、膝を折って吐き気に喘いでいる。
(なんなんだ、こいつは……)
どうしたものかとブレインが判断にあぐねていると、部屋の扉がぎしりと悲鳴を上げて開いた。二人目の訪問者だ。
「アングラウス──クレマンティーヌもここにいたか。酷い有様だな」
げぇげぇと胃液を吐き続ける女──クレマンティーヌを見下げながら、ゼロが部屋へと入ってきた。墨が入った巌の様な顔を分かりやすく顰めている。
部屋にはアルコール臭に加え、クレマンティーヌが吐き出した吐瀉物のすえた臭いも充満し始めている。ゼロはずんずんと窓に歩み寄るや大きく開け放ち、ブレインに向き直った。
「元気そうだなアングラウス」
「元気だったんだがな。お前が寄越したこのイカレ女の所為で最悪な気分だ」
「勘違いするな。クレマンティーヌがお前を訪ねた理由に『六腕』も『八本指』も関わっちゃいない。お前に興味があっただけだろう。この破綻者の制御は俺達も持て余しているからな」
「狂犬だと分かっているなら放し飼いにするな」
「そうしたいのはやまやまだが、残念ながら俺達はこいつを釣れる餌は持っていても、檻の持ち合わせはない。殺されない様にだけ気をつけるんだな」
何だそりゃ、とブレインは言いたくなるが、瞬時に薬物中毒と黒粉の点と点が結びついた。
「それはそうと、アングラウス。こいつの前でモモンの話でもしたか?」
「あ? なんで知ってるんだ」
「こいつもお前と同様にモモンに敗北して豚箱にぶちこまれていた身分だ。何があったかは知る由もないが、奴の名はこいつにとっちゃトラウマそのものらしい。次はクレマンティーヌの前で奴の名を出さぬことだな。今回は『当たり』を引いたようだが、我を忘れて暴れる可能性もある」
クレマンティーヌはゼロの足元で、蚊が鳴くような喘鳴を繰り返している。意識は殆どなさそうだ。ストレス反応の着火点次第では、次もこうなるかは分からない。王都中の人間を殺し尽くすまで狂い続ける可能性すらある。
「アングラウス、モモンはそれほどの強者か。このクレマンティーヌをここまで精神的に追い詰めるほどの戦士なのか」
「……強者なんてものじゃないぜ。御伽噺に出てくる様な英雄達を束ねてもあれに勝つのは無理だ。断言できる」
「それほどか……」
毛のない頭を撫でながら、ゼロは渋い顔をした。
少し考え込むような彼に、ブレインは質問を投げ掛ける。
「……で? お前は何をしにきたんだゼロさんよ。俺を訪ねにきたんだろう」
「近々お前の手を借りようと思ってな」
「俺はお前に協力するなんて一言も言っちゃいないぞ」
ぶっきらぼうに返すブレインに、ゼロはくつくつと笑う。
「ブレイン・アングラウスという男は、脱獄ばかりか衣食住の世話まで賄ってやってる相手に不義理を働く様な男なのか?」
「助けてくれなんて言ってないさ。お前達が勝手に俺に纏わりついてきただけだろう」
ブレインはそう言い放つと、ケースの中から一本の酒瓶を取った。クレマンティーヌの吐瀉物を跨いで、彼はゼロとすれ違う。俺はお前に飼い慣らされるつもりはないと言わんばかりに。
「……だが、いいぜ。酒代くらいは働いてやる。まあ、俺が手を貸すのはこれっきりだと思え」
「……ふん、物分かりが良くて助かるぜ。仕事の依頼内容は後日また報告させてもらう」
返事はない。
ブレインは何も返さず、その部屋を後にした。
部屋には血と、吐瀉物と、アルコールの臭いが未だに溜まっている。
「……問題児どもが」
ゼロは吐き捨てると、小さく舌を打った。
王国を引っ繰り返す手駒は揃った。
しかしその駒達の操縦性の悪さに、不満は溜まる一方だ。
「まあ、いい。存分に利用させてもらう。『八本指』が……いや、俺が成り上がる為に、お前達には礎になってもらうぞ」
ぎらりと笑むゼロは、獰猛な獣をすら思わせる気迫だ。
王都中が彼が起こす騒乱に巻き込まれるまで、幾ばくの時間も無い。
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第五章 動乱
1.炸裂
叡者の額冠に関して超解釈がありますので、ご容赦ください。
第五章もよろしくお願いします。
『叡者の額冠』というマジックアイテムがある。
クレマンティーヌがスレイン法国を離脱する際に強奪した、超希少な──現地では──レアアイテムだ。
『叡者の額冠』とは着用した使用者の自我を封じることで、使用者そのものを超高位魔法を吐き出すアイテムに変えるというものである。しかしこれは着脱が不自由であり、一度着用した使用者がこれを外してしまうと発狂して自我が崩壊してしまうという恐ろしい効果もある。
法国では神器と呼ばれる程のものだが、誰もが『叡者の額冠』を使用できるわけではない。適合者──所謂法国でいうところの巫女のみがこれを使用することができる。巫女以外が使用を試みたところで効果は発揮されることはなく、勿論副作用も発症することはない。
「ふん……」
そんな『叡者の額冠』は現在、カジットの目の前で立ちすくむ女に着けられていた。
女は瘦せ細り、濁った目をしている。
凡そ健康的とは言えず、病的な印象で言えば現在のクレマンティーヌをすら上回るだろう。
『叡者の額冠』を着けてはいるが、勿論彼女は巫女などではない。コッコドールの娼館で散々男達に弄ばれた挙句に心が折れ、黒粉漬けにされて死亡寸前まで働かされていた憐れな娼婦だ。
今日は女にとってめでたい日と言って良いだろう。
苦痛からようやく解放され、ようやくあの世にいける日なのだから。
「始めろ」
カジットの後方で腕を組んでいるゼロが、静かに指示を告げる。それに頷いたカジットは自分の弟子達と視線を通わせると、大魔法発動の儀式に移った。その贄となるのは、『叡者の額冠』を戴いた娼婦だ。
『叡者の額冠』は巫女しか使用できない……というのは、正確には正しくはない。全ての人間が使用可能ではあるものの、適合者以外は『叡者の額冠』の精神負荷に耐えきれない為、心の深層でこれの使用を拒絶しているだけなのだ。
無理矢理にでも『叡者の額冠』を受け入れることができたなら、使用自体は可能となる。だが巫女以外の人間がこれを使えるからと言っても、アイテムの効果を発揮する間もなく即座に発狂してしまう為、やはり巫女以外の人間にとっては『叡者の額冠』は使用不可能なアイテムと言って差し支えないだろう。
巫女は十全に効果を発揮できるが、『叡者の額冠』を外した際に発狂してしまう。巫女以外の人間が仮に『叡者の額冠』の効果を無理矢理にでも発揮しようとしたなら、そもそもが負荷に耐えきれずに即座に発狂してしまう……ということだ。
「……儀式は成功、か」
にやりと笑むゼロ。
カジットとその部下達、そして『叡者の額冠』を冠した女の手によって、第七位階魔法『
王都の中心で、続々と召喚される悍ましいアンデッド達。
ガクガクと震え、涎を垂らし、万力で頭蓋を潰されているような声を上げながら、女は『
「実験の甲斐はあったようだな」
「儂が言うのも烏滸がましいが、ゼロよ。お主も中々に外道な考えを思いつくものだ」
「ククク。『叡者の額冠』が使用者に死を齎すほどの精神負荷を与えるなら、そもそもが精神がぶっ壊れてる人間を用意すればいいだけのこと。無論、万全に効果を発揮できるとは言えないが、『叡者の額冠』を僅かでも制御できるなら安いものだ」
「……制御できる、か。どうだかな」
ふんと鼻を鳴らしたカジットの目論見通り、女はとうとう精神負荷に耐えきれず絶命した。『
「これでいい」
しかしゼロの笑みは途絶えない。
このアンデッド達は王都に死を撒くという目的の為に生み出されたわけではない。殺すべき相手を釣り、撹乱する為の手段に過ぎない。王都に大混乱を招くだけで、ゼロの狙いは達成される。むしろこれだけのアンデッドを生み出せたのは嬉しい誤算だった。ここまで心をすり減らした女をもう一人用意するというのも、精神破壊のスペシャリストでも難しいだろう。そういった意味では、あの女も十分に『叡者の額冠』の適合者だったというわけだ。
不完全な『
「さぁ行け、アンデッド共。精々この王都を恐怖のどん底に陥れて見せろッ!!」
諸手を広げ、ゼロは高らかに笑う。
その瞳には、既に自分がこの王都を手中に収める未来しか映ってはいなかった。
「よう、童て──い……」
その時、ガガーランに電流が走る。
『八本指』殲滅作戦、当日。
王城のとある一角で待機命令を出されている勇士達は、各々に戦前準備を進めていた。
そこには当然『蒼の薔薇』の姿もある。
ガゼフ率いる王国戦士団や、レエブン侯が募った私兵達の姿も。
作戦の最終的な打ち合わせを終えたガガーランは『蒼の薔薇』の輪を離れ、普段気に掛けているクライムの気を揉んでやろうと彼を訪ねたところだった。
ガガーランのクライムへの愛称は『童貞』だ。
これは別に未経験の彼のことを馬鹿にしているわけではない。堅苦しい印象のクライムの気を良い意味で削ぐために、敢えてそういった砕けた呼び方をしているのだ。
一応、ガガーランが童貞を好き好んでいることも特記しておくべきか。そういったわけで今夜、クライムの背中を見かけた彼女は今日も気兼ねなく『童貞』と呼んだ。しかし……。
「ガガーラン様」
振り返るクライム。
その彼の仕草、目線、立ち姿に、ガガーランは思わず声を詰まらせ、じわりと汗腺が緩むのを自覚した。明らかな違和感が、そこにある。
──消えている。
クライムの纏っていた豊潤な童貞臭が、消えていたのだ。彼の顔は戦の前であるというのにどこか肝が据わっており、その落ち着き具合は男として何かが吹っ切れた様な……そんな頼もしさを感じさせる何かがある。
少年というよりは、青年。
男というよりは雄、と形容したほうが表現としては正しいような、今までのクライムとは一線を画した何かを醸している。
「お、おま……」
ガガーランの声が震える。
彼女は童貞とそれ以外を嗅ぎ分けられるという特殊な特技を持っており、それには並々ならない自信を有していた。だからこそ驚いているのだ。目の前のひよっこが、明らかに男として一皮剥けている現状が。
童貞臭さが消えたということは童貞を捨てたということと同義だ。それは予想だにしていなかった異常事態と言っていいだろう。
『誰と?』『いつから?』という疑問が、ガガーランの脳内に矢継ぎ早に浮かんでは消えていく。
(まさか、遂に姫さんと一線を越えやがったか……!?)
脳内に弾き出された予測は、一番有り得て、一番有り得ないものだった。
確かに、クライムとラナーが相思相愛だというのはガガーランでも簡単に見てとれる。命を落とすかもしれない戦の前に、想いを打ち明け合った男女が体を重ね合う……というのは至極当然の流れだろう。
……しかし。しかしだ。
平民上がりの一介の兵士が、一国の姫と行為に及んだというのは考えられることではない。
それに、ガガーランから見た二人は純粋無垢なお姫様と、真面目と童貞を捏ね合わせて作ったような青年だ。間違いを犯すとは、どうにも考えにくい。
(おいおい……! こりゃあ、どっちなんだ……!?)
ラナーと致したか。
別の女がいるのか。
はては誰かに唆されて娼婦でも買ったのか。
童貞センサーに自信を持つガガーランは、そもそも童貞を捨てていないという答えにはこの時辿り着けなかった。
「お前……何かちょっと雰囲気が変わったか……?」
恐る恐る遠回しに触れるガガーランに対し、クライムはきょとんとした表情をしている。
「そうでしょうか? 私は何も変わっていないと思いますが……」
「あ、ああ。肝が据わってるというか、戦士らしい顔つきになったというか……」
普段のガガーランらしくないしどろもどろな質問に、クライムは「ああ」と合点が言った様に零した。
「実は、その……先日『漆黒の美姫』……モモン様に──」
「ご報告があります!!! 王都に突如、大量のアンデッドが発生!!! 緊急事態につき、各隊はこのまま振り分けられていた区画のアンデッドの掃討にあたってください!!! これはラナー殿下のご下命です!!! 繰り返します!!! 王都に大量のアンデッドが──」
クライムの言葉の途中──転がり込むようにそこへやってきた兵士が、あらん限りの声量で火急の……それも予想だにしない報告を叫んだ。そこに集っていた兵士達は、まさかの事態にどよめいた。
「なんだって!? アンデッドの大量発生……!? クソ、こんな大事なときに……!」
忌々しく眉間に皺を寄せるクライムは舌を打ちたい気持ちに駆られたが、それをグッと堪える。確かに余りにもタイミングが悪すぎる事態ではあるが、王国に仕える兵士としては市民の安全を守ることが第一だ。たとえ今回の計画が全てご破算になったとしても、今は恨み言を言っている場合でも、苛立つ場合でもない。
クライムは今一度、ガガーランに向き直った。
「ガガーラン様、この話はまた後程! ご武運を祈ります!」
「……お、おう……! 気をつけろよ、童て……クライム!」
「はい!」
表情を引き締め、クライムは振り分けられた部隊の下へ駆けていく。その背中を見つめるガガーランの思考は、ぐちゃぐちゃと絡まって定まらないでいた。急なアンデッドの大量発生というのも勿論戸惑われるが、それよりも先程のクライムの爆弾発言が未だ飲み込めないでいる。
──実は『漆黒の美姫』のモモン様に……。
これは、余りにも衝撃的な発言だ。
(おい、おいおいおい。えれぇことになっちまったじゃねぇか……! 姫さんはこのこと知ってんのか!? 二人はいつからそういう仲に……いや、戦争に行く少年が後悔のないように下ろせるものは下ろしてやったみたいなそういう……)
考えても、思考はどこまでいっても行き止まりだ。
ガガーランはモヤモヤを御せず、叫びながら後ろ髪をガシガシと掻いた。
「ガガーラン、何をやっている。遂に野生に帰るのか? 今の報告は聞いていたんだろうな」
「……おう、ティアか。お前の相変わらずな減らず口のおかげで多少は落ち着きを取り戻せそうだ。ありがとよ」
「……何か変だぞ」
「いや、俺は大丈夫だ。取り敢えず行くぞ。モタモタしてる時間はなさそうだ」
ガガーランは頬をぴしゃりと叩いて、いつもの戦士の顔つきを取り戻した。こんなことで動揺していては、アダマンタイト級冒険者は名乗れない。
(……クソ、帰ってきたらクライムにこってり聞くとするか)
己の中のモヤモヤを振り払って、彼女は愛武器である戦槌を肩に担いだ。
──王都史上最も長く濃い夜が、始まる。
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2.宿敵
王都は混乱を極めていた。
突如大量発生したアンデッド。
力なき民達は逃げ惑い、悍ましいアンデッド達に追われ、阿鼻叫喚の地獄絵図と化している。
最も人口が集中している都市……それも人々が酒で一日の仕事の疲れを洗い流す夕刻ということもあり、王都はまるで祭であるかのような喧騒と雑踏に包まれていた。
「市民達の避難を優先させろ!」
その中にあって、勇猛に吠える偉丈夫が一人いた。
リ・エスティーゼ王国が誇る王国戦士長、ガゼフ・ストロノーフその人だ。彼は部下達に号令を飛ばしながら、自身に迫りくるアンデッドの首を斬り飛ばした。ブルークリスタルメタルで象られた長剣はこの夕闇の中にあっても静謐な輝きを湛えており、半月の軌跡に青い残光を残すほどの煌めきであった。
自分達の長たるガゼフの号令を鼓膜で捉え、部下達にも気合と自覚が漲る。この王都を守護するのは他の誰でもない、王国戦士たる自分達なのだと。
「市民の皆さんはこちらへ!」
「急げ! 荷物など捨て置け!」
「振り返らずに真っすぐ走れ!」
各々に、逃げる市民達へ檄や命令を叫ぶ。
市民の避難は最優先。それに彼らが早く逃げてくれなければ、戦士達は抜ける剣も抜くことができない。振り回した剣や槍が誤って市民を傷つけたら大事だからだ。
大仰な手振りで誘導し、アンデッドの前に立ち塞がり、彼らは勇猛果敢に自分達の責務を果たしていく。
市民達は指示に従って、彼らの脇を走り抜けていく。次々、次々と。
逃げる人々は皆、平和に王都に暮らしている善良な民達ばかり──
「ぎ、いやあああああああああああああああああ!!!」
──というわけではなかった。
「なに!?」
突如叫ぶ、王国戦士達。
彼らはすれ違い様に、保護するべき市民達に斬られていた。
何事だ……とまず思うが、だからと言って事態を即座に飲み込むことはできなかった。その場にいる誰もがだ。
──市民に扮した『八本指』の手先が、王国戦士団を狙っていたなど中々考えが至るものではない。
「一体何が……おっと」
困惑するガゼフの懐に、一人の女性が飛び込んできた。逃げる途中に何かに蹴躓いたようだ。
ガゼフは女性に労りの声を掛けようとして──
「離れろ!」
──力ずくで、自身にしな垂れかかっている女を突き飛ばす。
油断した、と思わずにはいられない。ガゼフの太ももに、一本のナイフが深々と突き刺さっていた。あの女に、やられたのだ。
「クソ……!」
忌々しく吐き捨て、ガゼフは腿に刺さっているナイフを抜き捨てる。突き飛ばしたあの女は、守るべき善良な市民などではない。
女は男の声でクツクツと笑っていた。
「さしものガゼフ・ストロノーフも虚を突かれたらひとたまりもないようだな……」
「貴様は……」
女の輪郭が、ぼやけていく。
否。ぼやけているのではなく、幻覚が解け始めているのだ。
幻影が解けると、現れたのはやさぐれた男だった。
「『六腕』が一人……『幻魔』のサキュロント」
「『六腕』……? なるほど。この騒動は貴様ら『八本指』が企てたものだったか……」
「ご名答。俺らが狙っていたのは王都じゃない。お前だよガゼフ・ストロノーフ。だが気づいたところでもう遅い」
「何だと──グッ」
ガゼフは思わず膝を突いた。
ナイフを突き立てられた箇所が、炙られるように熱い。そこから痺れが全身に巡ってきているのが実感できる。
(毒か……!)
心の中で舌を打つ。
全身から力が抜けていくようだった。
額にじんわりと脂汗が滲み出したガゼフは、呪うようにサキュロントを睨みつける。
「おお……怖い怖い。流石は王国最強なだけある。まともにやったら、こりゃあ勝てねえ……」
王国最強の眼光に、サキュロントは本心からたじろいだ。基礎戦闘力の低い彼でも、命の獲り合いには多少の自信はある。しかしそんな『幻魔』サキュロントを以てしても、対峙した時点でまともに立ち会えないと分かる凄みが、ガゼフ・ストロノーフにはあった。
毒を盛ったところで、完全に鎮圧しない限りはガゼフに勝てはしないだろうと、本能で理解できてしまう。その恐ろしさに、サキュロントは喉を鳴らす。奇襲が成功しなければ、今頃自分は骸を晒していたに違いないと思わずにはいられなかった。
対するガゼフは、まだ冷静さを欠いてはいない。
(俺としたことが……。だが、解毒用のポーションなら持ち合わせはある)
毒への備えなら戦士として当然。ガゼフはポケットから薬瓶を取り出そうとして──
「あれを飲ませるな!」
「ぐ、おおおおお!!!」
──空から、火焔の塊を受けた。
堪らずガゼフが叫ぶ。
肌を焦がす灼熱に悶絶しながら、彼は地を転がった。薬瓶は手を遠く離れ、どこかへと飛んでいってしまった。
「ぐ……っ」
空を見る。
そこにはガゼフを見下ろす様に、ローブを纏った男が浮いていた。フードから垣間見える顔はまるで屍の様……というよりも、屍そのものだ。
あれはただの
『
「……『不死王』デイバーノック」
『
「お前も『六腕』か……クソったれめ」
デイバーノックの出で立ちに、ガゼフは思わず顔を顰めた。サキュロントの様な紛い物ではなく、真っ当な強者の気配を感じたからだ。
ガゼフはブルークリスタルメタルの剣を地に突き刺し、体を支える様にして何とか立ち上がる。こうしている間にも、毒の痺れが体を蝕んでいた。
「戦士長ぉ!」
周りの部下達が叫ぶ──が、アンデッドや偽装兵の応戦に追われてそれどころではない。応援は望めそうになかった。
「お前達は俺に構うな! 市民の救助を優先しろ!」
「しかし戦士長!」
「命令だ! こいつらは俺がやる!」
部下達がきたところでどうにかなる相手でもない。
ガゼフは剣の柄を硬く握りながら、空を睨んだ。
対するデイバーノックは、軽薄な笑みを浮かべている。
「万全の状態ならまだしも、そんな状態で俺に勝てるとでも?」
「……勝てるさ。お前達と違って、それだけの使命と覚悟が俺にはある」
「ふん……その虚勢がいつまで続くか、楽しみだ。来い、お前達」
「な……」
デイバーノックの指示で、更に五人の男達があらわれた。
デイバーノックの様にローブですっぽりと全身を覆っている。彼らは『八本指』所属ではない。『六腕』と協力関係にある、ズーラーノーンに所属しているカジットの配下達だ。彼らも同様に『
「新手の……
思わず唇を噛むガゼフ。
剣しか持たぬ彼にとって、距離を取った魔法詠唱者程相性の悪い相手はいない。それも空に浮かんでいるなら猶更だ。デイバーノックただ一人ならまだしも、事態は悪変を続けていく。
「『
デイバーノックの掌から、火の球が飛ぶ。
それに倣う様に、魔術師達からも同様の魔法が発せられた。当たり前だが、試合開始の合図などない。
「ぐおおおおおお……ッ!」
剣の届かぬこの距離。
ガゼフに対抗手段はない。彼は鉛の様な体を引きずるようにして、絨毯爆撃に対して回避行動を取った。ステップを踏み、地を転がり、這い蹲って、それらを何とか避ける。しかし全ては避け切れない。脇腹を掠めた火球が、ガゼフの肉体を炙っていく。
「く、そ……!」
呼吸が整わない。
汗が止まらない。
食い縛った奥歯から、怒気が漏れる。
ガゼフは己を呪わずにはいられなかった。彼の人生を変えた
全ては弱い自分を捨てる為。
アルベドに、今握っている剣を返せるくらいの男になる為に。
しかし今ガゼフに訪れている現実は、余りにも非情だ。
この体たらくはどうだ。
不意打ち。毒を盛られ、魔法詠唱者達に安全圏から嬲られる。ガゼフが鍛え上げた剣腕を真っ向から否定するような、徹底した姑息な戦術。
戦場にフェアプレーは存在しないと言っても、ここまで何も実らない結末など認めたくはない。
(俺は、ここまでなのか……?)
もう目が霞んできている。
ガゼフは今も中空に浮かんでいるデイバーノックを睨みながら、己の命運を悟った。
ガゼフを見下ろす彼らの掌には、既に王国最強を焼き尽くす第二陣の火焔が溜められている。
「……終わりだ。ガゼフ・ストロノーフ」
呟く様な声でも、はっきりと耳に届いた。
引導を渡すと言わんばかりの冷ややかな瞳に見送られ、デイバーノックの掌から炎の塊が離れた。それが計六つ。ガゼフに向かって、一直線に殺到する。
遠くから、部下達の叫ぶ声が聞こえる。
毒の回ったガゼフの脳は、どろりと泥濘んで働かない。しかし体はどこまでも、勇敢な戦士だ。立ち上がり、剣を構える。それが当然の姿勢であると言わんばかりの、誇りある立ち姿だった。
「俺は……俺は、負けな──」
──……しかし、非情にも『
六つの火焔が混ざり合い、夕闇を払うひと際大きな光源と化した。
それを中心とした鋭い熱波が、辺りを叩く。人が人の原型を保てるとは思えぬ程の熱量がそこにあった。決着は、呆気ない。命の獲り合いにドラマなどない。淡々と、一方が他方を殺すだけなのだから。
「……これで俺の仕事は終わりか。王国最強の男とはいえ、こちらの土俵さえ作れば攻略も容易いというもの……」
立ち上る黒煙を見下げながら、デイバーノックの口角が思わず上がる。
王国戦士長を消したことで、『六腕』の計画は飛躍的に進むことができるだろう。更にガゼフ・ストロノーフを滅ぼしたことで、デイバーノック自身の株も大きく上がるはずだ。後はガゼフの焼死体を確認して引き上げれば、彼の仕事は完了だ。
目を細め、煙が晴れるのを待ち──
「……なに!?」
──しかし、黒煙が晴れた先にあったのはガゼフの骸などではなかった。
暗がりにあって、淡く光を湛えている存在。
人の形を模してはいるが、人ではない。無機質で、どこか神聖な印象を抱かせる人ならざる何か。恐らくこれが『火球』を受け止めたのだろう。守られたガゼフの姿は、未だ健在だった。
「天使……だと!?」
デイバーノックが思わず叫ぶ。
『火球』を受けたのはガゼフではなく、天使だった。
そしてその傍らには、先程までいなかった男の影が一つ。
「──情けないぞガゼフ・ストロノーフ。貴様、それでも我が神に認められた男なのか?」
漆黒の
「あ、貴方は……いや、お前は……まさか……」
薬瓶を受け取るガゼフの声音は、様々な感情で振れていた。この声は、聞いたことがある。あの天使は、見たことがある。忘れもしない。忘れることなどできやしない。
「ストロノーフ……我が神はどこにおられる」
──天使を更にもう一体召喚しながら、ニグン・グリッド・ルーインは信仰する神の所在をガゼフに問う。
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3.明暗
「手を貸してやる」
黒仮面の宣教師──ニグンは、ガゼフに一瞥もくれることなくそう告げる。対するガゼフは、その言葉を素直に受け取ることができない。手渡されたポーションも、口を付けるのが憚られた。
「……何故だ」
何故、という言葉が尽きない。
ガゼフにとってニグンという男は、王国の村々を滅ぼし回り、自分とその部下達を殺めかけた怨敵だ。あの時
「ストロノーフ……お前の疑問も分かる。俺に対して言いたいことは山程あるだろう。だが今は利口になれ。
「……」
どの口がそれを言う、と文句の一つも垂れたい。
しかし、もしニグンが現れなかったらガゼフが命を落としていたのは覆しようのない事実だ。ガゼフは少しの間逡巡した後、眉間に皺を寄せながら渡されたポーションをかっ食らった。それは『今はお前の手を借りてやる』という意思表明に他ならない。
ニグンがフッと笑んで、ガゼフが苦虫を噛み潰す。
「……勘違いするな。俺はお前を信用したわけじゃないぞ」
「それで構わん。私はお前に好かれたいわけではないのだからな」
「お前の目的は何だ……なぜ俺に手を貸す」
「我が神がそうしたからに他ならない」
「神……? 六大神のことか」
「違ァうッ!!! 旧き神々とは違う、この地に降臨したいと尊き新たなる神のことだ!!!」
「なんだそれは……俺はお前の信仰する神に助けられたことなんてないぞ」
「ふふ……あくまでもとぼけるかストロノーフ。まあいい。後でじ──……っくりとその話は詰めてやるとしよう。しかし今は……お喋りに興じている時間はなさそうだな」
「む……」
周りを囲むアンデッドが、呻きながら歩み寄ってきている。空には次の魔法を充填しているデイバーノック達の姿。
忘れてはならない。ここは戦場のど真ん中だ。
確かに喋っている場合じゃなさそうだと、ガゼフは剣を構えた。
「ストロノーフ。あの
「礼は言わ──……いや……恩に着る」
「礼はもとより不要。私の全てはかの神に捧げられている」
ガゼフにとってニグンの語る殆どは理解できなかった。しかし助力してくれるのなら、これほど心強い人間もそうはいない。彼はかつて命を奪い合った男と背中合わせとなり、腹の腑から声を出す。
ガゼフ・ストロノーフは、アンデッドの群れの前に躍り出た。
「おおおおおおおおお!!!」
毒の痺れが取れたガゼフは、鬼神の様な一騎当千ぶりを見せていた。アンデッド達を斬って斬って斬り殺して、サキュロントを追い詰めていく。
サキュロントからすれば、堪ったものではない。
本来相手するはずのデイバーノック達が謎の闖入者によって釘付けにされ、そのヘイトを一心に受けているのだから。
(ふざけるな! 俺一人であんな化け物相手にできるか!)
アンデッドをけしかけ、サキュロントは全力で逃走する。彼がガゼフに対して取れるアクションは陽動と撹乱のみ。まともに立ち合えば、たちまち斬り殺されるだろう。
しかしガゼフの剣の前では、スケルトンなど紙同然。僅かな時間稼ぎにしかならない。
「逃げるな!」
「うおッ!?」
ガゼフの一撃を短剣で何とか受け止めると、サキュロントはそのまま後方に大きく吹き飛ばされた。浮いた体は面白い様に飛び、背にしていた大倉庫の窓を突き破ってその中へと逃れていく。
「痛ェ……!」
倉庫内に無様に転がるサキュロントの至る箇所に、ガラス片が突き刺さった。
サキュロントは呻きながら、床を這いずった。そうしている間に、ガゼフが割れた窓を乗り越えてやってくる。
「……終わりだ『六腕』の。お前の首は貰い受ける」
「ぐ……、だが、そう上手くいくと思うな」
「何?」
にやりと笑うサキュロントにガゼフは嫌な感覚を覚えた。
サキュロントはなりふり構わず逃げていたわけではなかった。この倉庫を目指して、一心不乱に駆けてきたのだ。ここへ飛び込めば、あのガゼフ・ストロノーフに対抗できる切り札が用意されてるのだから。
「おい! 仕事の時間だ! 殺せ!」
サキュロントが叫ぶ──と、倉庫の奥からぬらりと男がやってきた。腰に刀を差し、顎には無精髭……ただならぬ強者の気配を纏うその男を、ガゼフは知っていた。蘇る、あの時の記憶。
「お前はまさか……ブレイン・アングラウス……か!?」
「ガゼフ……ストロノーフ……!」
二人は、憚らず目を丸くした。
互いの再会を予期していなかったのだから当然だろう。
この再会は早すぎたのか、遅すぎたのか。
会うのは例の御前試合ぶりにして二度目。
だからと言って、互いが互いを忘れているということは有り得なかった。
それほどガゼフにとってブレインとは──或いはブレインにとってガゼフとは──そういう存在なのだ。
何事かを捲し立ててサキュロントが逃げていく。
しかしガゼフにとっても、ブレインにとってもそれは既に眼中にない。
両者の間に僅かに沈黙が流れて、ガゼフの顔に表情が戻ってくる。ブレインもようやく、事態が飲み込めたという顔を見せた。
「なるほど。ゼロが俺に殺してほしがってた人間ってのは、お前だったかガゼフ・ストロノーフ」
「……こんなところで何をやっているブレイン・アングラウス。お前ほどの男が……まさか『八本指』に堕ちたというのか……?」
まさかという質問に、ブレインは僅かに笑みを見せて首を横へ振った。
「……別に俺は『八本指』に下ったわけじゃない。俺はこの剣で汚ねぇ金を稼いで飯を食ってるただの雇われ傭兵だ。お前に負けたあの時からな」
「……俺から言わせれば才能の無駄使いもいいところだ。アングラウス、お前はもっと骨のある男だと思っていたぞ」
「言ってろ」
ガゼフは素直に惜しい、と思う。
自分に勝るとも劣らない才能を持つ剣士が、その腕を腐らせていることに。
しかし、もしもあの御前試合で勝利を収めていたのがブレインだったなら、今の立場が逆転している未来もあったのかもしれない。そう思うと、ガゼフの心にやりきれない思いが去来した。
だが、それはそれだ。
今は感傷に浸っている場合じゃない。
「……アングラウス。お前が好き好んで『八本指』に与しているわけじゃないなら、俺達には戦う理由がない。お前にとってもこの戦いは意味がないはずだ」
「……いや、あるぜ。戦う理由はな」
「なんだと?」
ブレインはそう言って、静かに腰を落とした。刀の柄に添えた手に、殺気と剣気が集約していく。
「うっ!」
次の瞬間──二人の間に火花が一つ、弾けた。
侍の居合に応じたブルークリスタルメタルの剣が、刀と重なってきちきちと鍔迫り合う。
「……冥途の土産に王国最強の首も悪かねぇ」
静かに口にしたその台詞には、複雑な感情が入り乱れていた。どこか後ろ向きで、悲観的な決意が見え隠れしている。その言葉の意味を、ガゼフは悟った。
振り払うように強引に刀を押し返し、ガゼフは剣を構えた。
「アングラウス……お前、死ぬつもりか」
「……ああ。何だか剣に生きるのが馬鹿らしくなっちまってな」
ふ、と笑うブレインは、本当に可笑しく思ったのだろう。彼はそうして、ぽつりぽつりと自らの内を吐露し始めた。
「御前試合の日が懐かしく感じるよ。あの時、俺は自分が最強だと思っていた。そしてストロノーフに初めて敗北を味わわされてから、全てが変わった。どんな手を使っても最強に帰り咲いてやると誓った俺は、修羅場を潜る為にどんな組織にも手を貸し始めた……」
ブレインはそう言いながら、無意識に自身の掌を見つめていた。
犯罪者集団の用心棒を転々としていた彼は、数多の死線を掻い潜ってきた。悪に力を貸し、善を殺めてきたブレインは地獄に堕ちるに違いない。それでも彼は必死だった。それは今よりも、昨日よりも、僅かでも強くなるために他ならない。戦士としての技量を高める為……場数を踏めるなら、何だってするつもりだった。
「俺はあの時に比べると遥かに強くなった。お前にも負けないつもりでいた。俺がナンバーワンになったと、あの時まで疑わなかった……。しかしそんなのは、俺が見ていた甘い幻想だったんだな」
ぎち、と握られた拳が硬く軋む。
ブレインの瞳には、彼の全てを打ち砕いた漆黒の女戦士の姿がこびりついて離れない。
「ストロノーフ……
「なに……?」
「俺は知ってしまったんだよ。俺達がどうひっくり返っても勝てない、本物の強者ってやつをな」
「お前は『黒姫』のモモンを知っているか……?」
『黒姫』のモモン。
その名が出たことで、ガゼフは全てを察することができた。ブレインの身に何が起こったのか。どれだけの壁を体験し、その高さに絶望したのか。モモン《アルベド》の強さを知っている彼は、容易に想像できる。
ガゼフはブレインを見据え、静かに頷いた。
「知っているさ」
「いや……知らないだろう。奴の底なしの強さを知っていれば、今もそんな顔して『王国最強』の看板なんざ掲げられないはずだ」
「……知っているとも。彼女の強さは、痛いほどにな」
「なんだと?」
ブレインの目が見開かれる。
ガゼフは努めて冷静に、言葉を選んだ。
「詳しくは言えないが、俺はモモン殿に命を救われたことがある。お前の言う通り……あの
ガゼフはそう言って、笑みを見せた。
穏やかな表情だった。そんな彼の顔に、ブレインの心に波風が立つ。
何故笑っていられるんだ、と。
自分達の全てを否定されて、何故ヘラヘラしていられる、と。
自分が目指していた王国最強のその態度に、ブレインは例えようのない怒りを覚えた。
「何笑ってやがる……」
「なに?」
「俺達には……
俺は、今でも気が狂いそうだよ。
ブレインは蚊の鳴くような声で、悲壮感に満ちみちた声を絞り出した。
そんな彼の姿に、ガゼフは目を細めてしまう。
憐れに思っているというのは近からず遠からずだ。
「……アングラウス。モモン殿は途方もなく強い。だからどうしたというんだ」
「だからどうした、だと?」
「ナンバーワンじゃなければそんなに嫌か。自分より強い存在が、そんなに気に食わないか」
諭す様な口調だ。
追い詰める様なものではない。その諭す様な口振りが、両者の精神性の開きを暗に示していた。
モモンを知って、絶望する者。
モモンを知って、その隣に立とうと研鑽する者。
出会ったタイミング、環境。元々持っていた心構え、資質……。
様々な要素はあるが、少なくとも御前試合の時の両者に然程違いはなかった筈だ。剣の腕も、心も。何もかも。
「お前の気持ちも分かる。あれほどの強者を知ってしまったら、自分が積み上げてきたもの全てを否定されたような気持ちにもなるだろう。俺だって、無力感に苛まれなかったと言ったら嘘になる」
陽光聖典に殺されかけた日。
そしてアルベドと出会ったあの日。
ガゼフは自分の弱さを思い知った。
自分が一生掛けても勝てない、真の強者を知った。
しかし、ガゼフの心は砕けない。
今握っている剣を必ず返すと、一人の男として約束したのだから。その約束を違えるつもりは毛頭なかった。
「……だが、勘違いするなよアングラウス。俺は俺だ。自分が、自分の積み上げてきたものを信じてやれないで何とする。あの人がどれほど強かろうと、俺は俺の努力を辱めたりしない。俺は自分の限界を決めつけたりしない」
「まさか……あの高みを目指すというのか……」
「……笑うか?」
ブレインの答えは、沈黙。
笑わなければ否定もしない。何故なら今のガゼフの姿こそが、ブレインの憧れた男の姿なのだから。
ガゼフは今一度、剣の柄を握り直す。
この剣の繋がりこそが、彼に自覚を齎してくれる。
「俺はモモン殿に、約束をした。必ず強くなると。だから俺には立ち止まってる時間なんかない。足を止めたら……戦うのを止めたら、そこで男は終わりなんだよ」
「………………クク」
ブレインの喉奥から、笑い声が弾けた。
こうなったらもう笑うしかない。目の前の男の凄さと、自分の情けなさに。
「クソ……クソ、クソ、クソォ!!!!」
気づけば叫んでいた。
悪態は他でもない、自分の体たらくに対してのものだ。ブレインは自分が情けなくて、仕方がなかった。最早怒りしか沸いてこない。
「俺が間違ってるってのかよ!? モモンを前にして、あれを目の当たりにして俺の剣の何を信じろって言うんだ!! えぇ!?」
それは、八つ当たりに過ぎない。
『モモンを目の前にしたら誰だって自暴自棄になる』と共感されたかったわけでもない。しかし、挫けた心に正当性が欲しかっただけだった。
それを生き様で真っ向から否定する男が目の前にいる。ブレインは、心が荒んで仕方ない。
「……気が変わった」
そんなブレインに、ガゼフは優しく声を掛ける。
声色はひどく優しく、そして厳しい。彼はブルークリスタルメタルの剣を、正眼に構えた。
「来い、アングラウス。俺が、今のお前の全てを否定してやる」
父が子に諸手を広げるように、ガゼフは剣を以って応える。ブレインはなりふり構わず、そこへ突っ込んでいった。ようやく、自分の中に溜まったヘドロを吐き出せる場所が見つかったからだ。
──決着は……結果は、言うまでもない。
「強ぇな……」
「……お前が弱くなっただけだ」
「そうか……俺は、弱いか……」
「ああ、弱い。俺なんかに負けてるようでは、まだまだだな」
「……ふふ」
ブレインは清々しい気持ちだった。
ガゼフに敗北してから泥の中で呼吸しているような毎日だったのに、二度目の敗北によってその暗澹たる思いは晴れた。何を賭してでも勝ちたかったというのに。
「アングラウス、全てが終わったら俺のところに来い。お前のひねくれた根性を一から叩き直してやる」
ガゼフはそう言って、大の字で倒れているブレインの傍にポーション瓶をそっと差し置いた。彼はそれだけ言い残して、踵を返す。
「…………」
ブレインの鼓膜が、ガゼフが遠ざかっていっているのを聞き分けている。外は相変わらずの喧騒だ。ブレインはぼんやりと、倉庫の天井を眺めていた。そうすることしかできなかった。
「情けねぇな……」
自然と、涙が頬を滑った。
修羅に生き続けてきた彼が涙するなど、子供の頃以来の出来事だった。
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4.再来
──混乱を極める王都。
聖邪入り乱れる戦地は一つではない。
ここにも、熾烈な争いを繰り広げる戦乙女達がいた。
「あははははははははは!!」
「く、そ……ッ!!」
ガガーランはかつてない焦りを感じていた。
近接戦闘に関して並以上の自信を有している彼女が、現在良い様に翻弄されている。
戦槌を振り回せど、目の前の標的に当たるどころか掠る気配もない。
「──っらあ!!!」
上段から振り下ろした愛武器が、標的をするりと擦り抜けて石畳へ着弾する。蜘蛛の巣状に罅割れ、陥没していくその様がガガーランの馬鹿力を如実に示していた。
「ガガーラン! 上だ!」
仲間のティアの言葉を受け、弾かれるように空を見る。
そこには月を背負って跳躍する猫目の女の姿があった。手に刺突武器を構え、口を三日月に裂いた不気味な笑みでガガーランへと迫ってくる。
「おっせぇんだよおおお!!!」
「ぐぅ……っ!」
恐ろしい速度で、刺突武器の先端が眼球へ飛び込んでくる。ガガーランは僅かに首を振ってそれを躱すと、中空に浮かぶ女を振り落とす様に、拳を薙いだ。
「──『回避』」
しかし拳は当たらない。
制御の利かぬ空中で、女は流れる様な姿勢制御で拳を擦り抜ける。そしてそのままブーツの底でガガーランの胸板を踏みつけると、彼女はくるくると後方へ飛んで猫の様に着地した。身軽な動きには無駄が一切ない。ガガーランと女の実力差には、明確な開きがあった。
「大丈夫か、ガガーラン」
「ああ……でも、やべえ。同じ人間とは思えねぇ。こんな化け物、『八本指』はどこに隠してやがったんだ」
スティレットの切っ先で擦り切れた頬を拭いながら、ガガーランは背中に伝う冷や汗を感じていた。
女──クレマンティーヌは、スティレットを弄びながら軽薄な笑みを浮かべている。
「アダマンタイト級冒険者チーム『蒼の薔薇』……正直もうちょっと骨があると思ってたんだけどねー。ちょーっと、肩透かしもいいところじゃない?」
「余裕そうだな、クソったれ。そういうあんたは何者だ? ただもんじゃねえな」
「さあ? 今となっちゃ自分が何者かなんて、私にもわっかんないからなー……」
ニタニタと笑うクレマンティーヌの姿に、ガガーランは少なくない嫌悪感を抱いた。モンスター以外との戦闘で手玉に取られることなど、彼女にとっていつぶりの事だろうか。
(侮られてんな、こりゃ……)
戦槌を握りながら、胸中に焦燥感が渦巻く。
大柄な得物を使うガガーランにとって、あれほど小回りの利く戦士というのは相性が悪すぎる。まともに立ち会っていてはジリ貧もいいところだろう。
「おいティア。援護を頼む。奴の動きを止めてくれ。その間に、あのにやけ顔にデケェの一発ぶちこんでやっからよ」
「……了解。でも多分、長くはもたない」
「分かってる」
視線を交わし合う二人の会話を、クレマンティーヌは待っているようだった。
「作戦会議は終わり?」
「……ああ。待たせたな」
「あっそ。んじゃ、いっきますよー……」
ゆらり、とクレマンティーヌの体が揺れる。
来る、という予感の一歩手前。ティアが前に躍り出た。
「『影技分身の術』」
唱えたのは、自らの分身を作り出す
影からもう一人のティアが、ずるりと作り出された。彼女は分身を伴って、クレマンティーヌのもとへと駆けていく。地を滑る様な速度だ。
「中々面白いけどさあ……」
分身との挟撃。
クレマンティーヌは動じない。ティアとその分身の操るナイフが目前に迫ってきているというのに、笑みを絶やすことはなかった。
──……『流水加速』
小さくそう呟いたクレマンティーヌの体が、ノーモーションで消えた。
「うあっ……!」
……否、消えたのではない。
消えたと錯覚するほどに、加速したのだ。
腰を落としてナイフを目前で躱した彼女が描くのは、螺旋の軌道。分身の腹に深々とスティレットを突き刺し、その勢いのままティアの腿に刃先を突き立てた。
「くっ……!」
「あは!」
分身が解けていく。
猫目と視線がかち合う。
額に脂汗が滲み出したティアが予感したのは、自らの死だった。クレマンティーヌの手元でもう一本のスティレットがくるりと回る。喉笛を食いちぎられる、とティアの目に僅か先の未来が見えてしまい──
「どけええええええええッ!!!!」
──二人を分かつ様にガガーランの戦槌が割って入る。スティレットがティアの喉に突き立つ間一髪のタイミングだった。
「おー、こわ」
「逃がさねぇ!!!」
振り下ろされた戦槌が、トップスピードを維持したまま地を跳ね上がる。クレマンティーヌの脇腹を狙ったそれは、既のところでひらりと躱された──が、ガガーランの攻撃は止まらない。
「う、おおおおおおおりゃあああああああああッ!!!」
──『超級連続攻撃』
ガガーランが使用できるとっておきの武技が発動される。彼女の剛腕から繰り出される、一撃必殺の乱れ打ち。全身全霊の怒涛の連撃は、その一打だけでもクレマンティーヌを捉えたなら決着を見ることになるだろう。
ガガーランは全力で、得物を振り回し続ける。
……しかし掌に返ってくる感触はない。この暴風雨の様な連撃を、クレマンティーヌはその全てを躱しきっている。これを為せるのは離れ業という他ないだろう。
『能力向上』『能力超向上』『超回避』の武技を重ね掛けしているとはいえ、その驚異的な身体能力はクレマンティーヌ元来の天性であるといえよう。
「おおおおおおッ!!!」
──……最後の一撃も、空振りに終わる。
大技の後に無防備を晒したガガーランの肩口──鎧の隙間に、スティレットが突き刺さった。急所を狙わなかったのは、クレマンティーヌの嗜虐性故か。
ガガーランは呻きながら、膝を突いた。
「……いんやー、今のはちょっとやばかったね。アダマンタイトの意地ってやつ?」
ガガーランとティアを見下ろしながら、クレマンティーヌは笑っている。しかしその言葉は本心のようだ。二人に対して、素直な賞賛と拍手を送った。
だがそんなものを貰っても嬉しくなどない。
ティアは足を奪われ、ガガーランは利き腕の肩口をやられた。勝率も、生存率も、これで著しく低下してしまった。
(早くポーションを……って言っても、このレベルの戦士相手にそんな隙晒せねぇ、か)
じくじくと痛む肩に大粒の汗を発露しながら、ガガーランは舌を打つ。
強者二人を圧倒し、無傷で君臨するクレマンティーヌはやはり只者ではない。目の前で膝を突くアダマンタイト級冒険者の二人を前に、クレマンティーヌは少なくない高揚感を得ていた。自らが愉しむ為に相手を甚振るのとは別種の、胸の高鳴り。
自分は強い、という再認識。
『蒼の薔薇』をすら手玉に取れる自分は価値のある人間なのだという尊厳が帰ってくる。ボロボロに砕かれた心が、薬物で繋ぎ留められている継ぎ接ぎの体が、慰められていく。
そうする間に、一つの結論にクレマンティーヌは辿り着いた。
(そうだよ……やっぱりあれは、夢だったんだよ)
モモンと戦闘したあの一夜は、自分が見た夢だったのではないか……と。
本当はあれは事実としては存在してなくて、自らが何かの間違いで創り出した幻影でしかなかったのではないかと。
だって、
祖国には彼女以上の強者が何人かいるとはいえ、あれほどの絶望と恐怖を齎す相手がいるなど考えられない。
(そうだ……そうだよ! あれはさ、私が見た夢だったんだ! 現実じゃなかったんだ!)
真実を得た、と確信したクレマンティーヌは喜びに体が打ち震えた。
体は綿毛の様に軽くなり、誰かと肩を組んで踊りたいと思ってしまうほど機嫌が良くなった。
あれは自分の心の弱さか、薬物によって見てしまった泡沫の悪夢。存在しない記憶。幻の足枷。
そうに違いない。
そうでなくてはあり得ない。
それに気づかせてくれたガガーランとティアに、クレマンティーヌはキスでもしたい気分になった。しかしそれよりも、記念として殺すのがいいだろうと彼女は思う。今日は殺して、殺して、殺して、大量の人間を殺した後に、久方ぶりにぐっすりと眠ろう……と決意した。
「んじゃまあ、殺すけどいい?」
くふ、とクレマンティーヌの口内から笑みが零れる。笑いが止まらない。生まれ変わりでもしたような気分にさえなる。
「クソ……! おいティア! まだ動けそうか!?」
「当たり前……こんなところでやられるわけにはいかない……!」
武器を構える二人のなんと健気な事か、とクレマンティーヌは憐れにすら思う。憐れで、滑稽で、笑いが止まらない。彼女は大口を開けて、二人を笑い飛ばした。
「あは、あは、あははははははは!! 殺すよ!!! 今、殺してやっから!!!」
狂気を孕んだ笑い声は、何かが吹っ切れたようだった。殺される、とガガーランとティアの表情が濁る。彼女達は武器を構えて──
「あははははは──」
──そんなクレマンティーヌの肩を、ぽんと何かが叩いた。
それは気さくな友人がするような、優しい感触。それが余りにも自然で、クレマンティーヌは肩に何かが触れたのを然程不自然には思わなかった。
彼女は警戒することなく、振り返る。
なんだよ今いいところなんだよ、と上機嫌な表情を浮かべて。
振り返った先には──
「 み 」
──漆黒の鎧を纏った、悪夢そのものが立っていた。
アンデッド発生して王都は不安よな。
モモベド、動きます。
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5.転生
モモンガはほんのりと苛立っていた。
というのも、今日の暮れ、彼の屋敷に流れの商人がやってきた。いつもならばセールスは毎度お断りしているのだが、商人曰く異国の珍しい茶葉や入手困難なマジックアイテムを販売しているのだという。
飲食とマジックアイテムの二つはモモンガにとってクリティカルな案件だ。他で手に入りにくいとなれば興味も湧くというもの。
モモンガは商人を屋敷に招き入れた。
商人が卓上に広げたマジックアイテムは確かに王都では見かけることがなかった珍しいものばかりで──ユグドラシル基準ではゴミ以下の効果のものしかないのだが──そういった物の蒐集癖があるモモンガにとっては、商人とのやりとりはとても有意義な時間に思えた。
……が、商人が持ってきた茶葉と茶菓子がモモンガの怒りを買った。
試しにと淹れられた紅茶と茶菓子に、毒が混ぜられていたのだ。毒に完全な耐性があるモモンガには全く影響がなかったが、もしもツアレが口にしていたら大事だった。
モモンガは怒りを露わにして商人の胸ぐらを掴んだ。
『
急ぎ窓を開けて屋敷の外を確認すると、アンデッドが跋扈しているではないか。どうやら屋敷の周りに防音効果の魔法も張り巡らされていたらしく、商人との談笑に興じていたモモンガは『八本指』の起こした騒動に気がつけなかった。
屋敷とツアレに防護魔法を掛けたモモンガは、家の周りを彷徨くアンデッドの掃除のついでに王都に渦巻く戦火に身を投じた──というのが事のあらましだ。
アンデッドを狩りながらモモンガがそこへ至ったのは、偶然と言う他ない。
たまたま王都を練り歩いていたら、『蒼の薔薇』の二人が窮地だった。モモンガはガガーランとティアを追い詰める女戦士の肩をぽんと叩いて振り向かせると、その額に一撃をくれてやった。
「──ぎゃっ」
……それは単なるデコピンだ。
しかしこのレベル差、身体能力差に開きがあると、デコピンなんて優しい響きの言葉では片付かない。クレマンティーヌからすれば、額をトンカチで思い切り殴りつけられたようなものだ。彼女の体は驚くような初速で吹き飛び、煉瓦の壁にぶつかってずるずると倒れ伏した。
「……ガガーランさん、ティアさん、大丈夫でしたか?」
崩れ落ちるクレマンティーヌを見やりながら、モモンガは事もなげに『蒼の薔薇』の二人に問う。超人的な戦士をデコピン一発で吹き飛ばしたモモンガに目を丸くしながら、ガガーランが少し呆れたような笑みを見せた。
「大丈夫だ。あんたが来てくれなかったら多分死んでたけどな」
「モモンさん……素敵。これが所謂、私を助けにきてくれた白馬の王子様ってやつ……?」
「モモンは馬に乗ってねぇし、真っ黒だし、王族でもなければ男でもねぇよ」
減らず口を叩きながら、空気が弛緩していく。
『漆黒の美姫』モモン……彼女が現れたならもう大丈夫だという、謎の安心感に二人は包まれていた。
「うぁ……」
壁に激突したクレマンティーヌが、呻きながら何とか立ち上がろうと藻掻いている。未だ意識を手放していない強敵に、ガガーランとティアが警戒心を高めるが──
「ここは私に任せて、お二人はアンデッドの討伐へ向かってください」
──それを制すように、モモンガが一歩前へ出る。
「……いいのか?」
「ええ。心配は御無用です」
「まあ、それもそうか……」
言いながら、少し苦い表情をガガーランが見せる。
先程までいいようにやられていた彼女達が加担したところで、足手纏いになる可能性のほうが高いだろう。むしろ邪魔だからどこかへ行ってくれと突き放さないモモンガの優しさに情けなさを感じるほどだった。
「しかしいいのかよ?」
「え?」
「これは『八本指』と王国の問題だぜ。あんたが首を突っ込むとなると、無関係者ではいられなくなるぞ」
「……私も無関係ではいたかったんですけどね」
モモンガはそう言って、一歩踏み出した。
「喧嘩を売ったのはあちらですから。虎の尾を踏んだ人間がどうなるのか、思い知らせるべきでしょう」
ガガーランは見えないのに、兜の中の微笑が見えた……様な気がした。それと同時に、鳥肌が俄かに立った感覚を覚える。
僅かでも不興を買ってはいけない人間というのは、この世の中いるものだ。
「はぁ……あぅ……」
ぐにゃりと撓む石畳。
定まらぬ平衡感覚。耳鳴りが劈き、全身の汗と悪寒が止まらない。皮の内の肉と骨、内臓がまるで液状化しているかのような感覚がクレマンティーヌを支配していた。
咄嗟の武技──『不落要塞』がクレマンティーヌの意識を繋いだとはいえ、彼女の肉体的……そして精神的ダメージは計り知れない。
もしかしたらあの悪夢は存在しなかったのかもと思った矢先に、トラウマそのものがやってきた。崩壊寸前のクレマンティーヌの精神に、致命的とも言える罅が入ってしまった。
「やだ……や、だ……やだ、やだやだ……」
涙が止まらない。
震えが止まらない。
『絶望のオーラ』によって植え付けられた圧倒的な恐怖感情が、網膜に映るモモンガのシルエットで今再び蘇る。
あれに耐えられる精神力はもうクレマンティーヌにはなかった。モモンガの息遣いが聞こえるだけで、どうにかなりそうだった。
しかし彼女は立ち上がっていた。手にはスティレットを握っている。涙しても、がちがちと歯を鳴らしても、クレマンティーヌは無様に蹲らない。彼女に最後に残ったのはプライドだけだった。
「……おや?」
モモンガがその呟きを一言放るだけで、クレマンティーヌの肩が大きく跳ね上がった。彼はクレマンティーヌが握るスティレットを見て、ようやく彼女がクレマンティーヌであることに気が付いたらしい。
それも無理もない。ストレスによって痩せ細り、色素が抜けて白髪に変わってしまった彼女を改めてクレマンティーヌと判別するのは極めて困難だろう。
モモンガにとってクレマンティーヌとは、ンフィーレアと『漆黒の剣』を殺害しようとした殺人鬼でしかなく、それ以上でもそれ以下の存在でもない。しかしあれだけ痛い目を見せたというのに、再び誰かを殺めようとしていたクレマンティーヌの姿に彼は溜息が零れた。
「その武器……見覚えがあります。どうやら懲りてないようですね。また地獄を見せましょうか?」
「や、ら……ああああぁ……」
一歩、また一歩と近づくモモンガ。
彼我の距離が無くなるにつれ、クレマンティーヌの震えも大きくなっていく。ガクガクと震える足は立っていることが不思議なくらいだ。
その震えがデコピンのダメージの影響だとは流石にモモンガも思わない。クレマンティーヌから自分へ向けられる、圧倒的な恐怖の感情がひしひしと伝わってくる。その震えは、恐らくあの時植え付けた悪夢が原因だろうと容易に想像がついた。
(……そんなにあの時のことが怖かったんなら懲りろよ。マジで)
ずんずんと歩み寄りながら、モモンガは肩をすくめたくもなる。これほど恐怖の感情を露わにされると『絶望のオーラ』が如何に効果覿面だったか、彼も少し笑えてくるほど感じることができた。頭髪が真っ白になった理由も、何となくだが察することができる。
鼻水と大粒の涙を垂らし、子鹿のように震えているクレマンティーヌに対して憐憫を感じなくもない……が、結局彼女はどこまでいっても快楽殺人者に過ぎない。モモンガがクレマンティーヌに慈悲を掛けてやる余地など、現状一切なかった。
「さて……」
殺すか、否か。
正直、ちょっとした戦闘に入ると思っていたから肩透かしもいいところだ。モモンガは心中で先の二択を決めあぐねながら、ようやく歩みを止めた。
両者の距離は、既にモモンガの剣が届く範囲だ。
つまり、次の瞬間にはクレマンティーヌがどうなっているかわからない距離感だということ。
「きゃは……きゃははは! あははは……!」
クレマンティーヌは笑った。
恐怖に表情筋が引き攣り、泣きながら笑っている。人間、ここまで追い込まれると笑うしかないらしい。この異常な反応は薬物でも投与されたか、狂ったかにしか見えないだろう。
モモンガは背負ったグレートソードをゆっくりと引き抜いた。黒い剣身が、月光を返して妖しい光を湛えている。彼は一思いに、クレマンティーヌの人生に引導を渡そうと決めた。あれだけ懲らしめてやったのに、矯正されていないのだから仕方がない。少なくともモモンガの視点では。
兜のスリットから、蛍火の様に赤い眼光が漏れ出ている。モモンガはゆらりと、グレートソードの切っ先をクレマンティーヌの鼻先に突き出した。
「『蒼の薔薇』とは顔見知りでしてね。貴女には悪いですが、ここで地獄に堕ちていただきます」
「きゃは、あは、はぁー……! ハぁ……ッ! ひゅ、かひゅー……!」
「言い残すことは……と言っても、その様子じゃどうしようもなさそうですか」
「ひゅ、こひゅー……ッ! は……ッ! ぉえ……!」
「『八本指』に関わるつもりはなかったんですが、これも仕方ないことです。あなた方が先に喧嘩を売ってきたんですから」
クレマンティーヌの体からは異常な量のエラーが吐き出されていた。発汗、寒気、嘔吐感……体の震え、強張り。そのどれもが限界値に達し続けている。
これ以上言葉を投げたところで会話にすらならないだろう。むしろクレマンティーヌの恐怖心を更に煽るだけだ。
そう判断したモモンガは、静かにグレートソードを上段に構えた。無造作に上げられた巨大な得物の影が、小柄なクレマンティーヌの身に覆いかぶさるように落ちる。
「はあ……あああ……ああ、ああ……!」
クレマンティーヌの目前に君臨する、悪夢の化身。
彼女の全身の細胞が、泣き叫んでいる。呼吸がままならない。モモンガに両断される前に、既にクレマンティーヌは瀕死だった。
ぐるぐると、目が回る。
天地が逆さに入れ替わり、混ざり、溶け合う。
自分と世界の境界線が曖昧になり始め、何もかもが混濁し始めたクレマンティーヌは──
「あばーっ!!!」
──すてーん! というコミカルな効果音が聞こえてきそうな倒れ方をした。
立ったまま、全く重力に逆らうことなくクレマンティーヌは地に背を付けた。受け身の動作など全くない。さながら糸の切れたマリオネットの挙動のようだった。
「……え?」
ただただ困惑するモモンガ。
……両者の間に、なんとも言えない沈黙が居座った。
クレマンティーヌが恐怖のあまり気絶したのかとすぐに思い至ったが、それは見当違いであることを即座に思い知らされることになる。
「──……ゃあ……」
「ん?」
凡そ呟くような声量。
クレマンティーヌの声帯から、何かが発せられた。
モモンガが怪訝に思いながら眉を顰めていると──
「おぎゃあ……」
「え」
「おぎゃあ!」
「は……!?」
「だあ! ばあぶ!!」
──クレマンティーヌ、突然の奇行。
彼女は突然、赤ん坊の様に喚きだした。
モモンガの顔が、思わず鳩が豆鉄砲を食ったようなものになってしまう。目が点になるとはこのことだ。意味がわからないと、顔が口以上に物語っている。
「ちょ、一体何をして──」
「おぎゃあ! んぎゃあ!」
「おい、いい加減に──」
「きゃは! きゃはは!」
クレマンティーヌは無邪気に笑っている。
まるで赤子の様に、無垢な笑みだった。今までの邪気が綺麗さっぱり消えたような、爛漫な笑顔だった。
モモンガは『猿芝居はやめろ』と言わんばかりに、クレマンティーヌに対して『
「さっきから何をやってる。狂ったふりをして煙に巻こうとしても──」
「だー! ばあ! きゃはは!」
「えぇ……」
クレマンティーヌは止まらない。
『
「……まさか」
モモンガはクレマンティーヌの首根っこをむんずと捕まえた。目線が合うように持ち上げると、クレマンティーヌはやはり無邪気に笑っている。まるで子が親にあやされているかのように。
──……『
嫌な予感を覚えたモモンガは、その魔法を唱えた。
これは膨大なMPを消費する代わりに他者の記憶を閲覧、操作できるというもので、今回彼がこれを使用した用途は記憶の閲覧だった。
しかし……。
(記憶が……消えていってる……)
クレマンティーヌの脳、そして魂に刻まれた記憶を読み解こうとしても、溶けて消えていく。まるで水の中に消えていく綿菓子の様に、掬いあげようとしてもその実体を掴むことがかなわない。
人間の脳に保存された夥しいデータ量の記憶が、瞬く間に次々と消えていく。その様を見ているのは圧巻の一言だった。
「そうか……」
「あはは! きゃはは!」
クレマンティーヌを、クレマンティーヌたらしめる物が、消えていく。
クレマンティーヌは──というより、彼女の人間としての生存本能が、記憶の初期化を選んだらしい。
人の身では耐えられぬ圧倒的な恐怖、ストレス量。
まともに立ち向かえば、ショック死は免れなかっただろう。
記憶喪失と幼児退行。それは、地獄の様な精神的過負荷から逃れる為に残された唯一の生存戦略。
生き残る為の全力の逃避、その回答。
人が何を以てして人足らしめるか。
何を以てその個人だと定義するかは非常に難しい問題だ。
しかし記憶の全てを手放しはじめた、クレマンティーヌの抜け殻の様なこの童女を、果たして今もクレマンティーヌと呼ぶことはできるのだろうか。
「あは……きゃはは!」
溶けゆく記憶の中、モモンガは彼女の人生の断片を僅かに垣間見た。
その全てを見たわけではない。具体的に掴めたわけではない。ただ、色やイメージ、味や匂いという曖昧なものを受け取っただけだ。分かったのは、クレマンティーヌという名があったことだけ。
それでも彼女の人生が悲劇だったと悟ることはできた。
何かと常に比べられ、誰からも愛情を受けることはなく、超えられることのできない様々な悲劇に直面し、歪められていった彼女の思想。
人を殺めることでしか自らを慰められぬように育まれた悲しき怪物。それがクレマンティーヌだった。
クレマンティーヌの人生を垣間見たモモンガは、目を細めた。
「……だが、同情の余地はない。お前は人を殺しすぎた。お前が積み上げてきた罪は、死でしか贖うことはできないだろう」
モモンガの突き放すような言葉を、クレマンティーヌが首を傾げてきょとんと聞いている。
「……しかし記憶も、人格も、全てを棄てた空っぽの今のお前を果たして『クレマンティーヌ』と呼べるのだろうか」
「んま! きゃは!」
首根っこを摘まれたクレマンティーヌは、腕を伸ばしてモモンガに抱きついていた。
まだ彼女が幼かった頃。
人並みにあった、人から愛されたいという無垢な感情。母の温もりに包まれたいという、子としての健全な想い。クレマンティーヌが歪み、失った感情に、彼女は何の疑いもなく従っている。
モモンガは、そんなクレマンティーヌに対して──
──モモンガ邸。
主人の帰りをじっと待つツアレは、暖炉の灯りをぼんやりと眺めながらモモンガの無事を祈っていた。モモンガの強さを知っていても、切り傷一つでもつけられることを思うと身が引き裂かれる思いだった。
「モモン様……!」
故に、沈痛な面持ちだったツアレの表情が華やぐのは一瞬だった。リビングに転移してきた主人の、想定以上に早い帰りに浮足立つ。彼女は手慰みにやっていた編み物をテーブルに置いて、ぱたぱたとモモンガの元へ歩み寄った。
「お、おかえりなさい……!」
「ただいまツアレさん。でも、すぐまた戻ります。まだ全てが終わったわけではないので」
「え……」
「その間に、この子を頼めますか」
モモンガはそう言って、ツアレに抱えていた童女を託した。まだ片手で歳が数えられる程の、小さな女の子だ。
「か、可愛い……」
ツアレは眠る童女の小さな体を受け取りながら、自然的に言葉を溢していた。
金髪の、器量のいい女の子だ。
頬がむっくりと柔らかく膨れてて、親指をしゃぶりながらスヤスヤと寝息をたてている。
「モモン様、この子は……?」
「戦争孤児、のようなものです」
そう返すモモンガの態度は、何処となくよそよそしくも見える。ツアレは小さく首を傾げながらも、腕の中で眠る童女に癒されていた。反射的に目尻が下がってしまう。
「この子の名前は……クレム、といいます。この王都に放っておくわけにはいきません。ツアレさん、私が留守の間、クレムのことをよろしくお願いしますね」
モモンガはそう言って、クレムの髪をさらりと撫ぜた。
……そう。童女の名は、クレム。
見た目通りの、無垢で幼気な女の子に過ぎない。
山の様な死体を積み上げた女が背負うべき十字架を請け負う必要もない、ただの一人の女の子。
「……安らかに眠れ、クレマンティーヌ」
ぽつりと呟いたモモンガの姿が再び掻き消える。
彼は再び、王都の戦火に身を投じていく。
目標だった27万字に到達しました。
ここまでお付き合いありがとうございました。
引き続き宜しくお願いします。
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6.回答
今年もよろしくお願いします
「『
夜の闇を切り裂くように、水晶の槍が飛ぶ。
イビルアイの魔力で練り上げられたそれは、驚異的な速度でゼロのもとへ迫るも、命中することは叶わない。空より舞い降りた巨大な骨の竜に遮られたからだ。槍は骨の身に激突すると、何の成果もあげられぬまま光の粒子へと還っていく。
「クソ……」
「馬鹿が」
死の宝珠を手に『
大量のアンデッド、そして『八本指』の構成員に囲まれたイビルアイとクライムは窮地の事態に陥っていた。彼女達は背中合わせとなって、乱れる呼吸を整えられないでいる。光の見えない、絶望の持久戦の様相を呈していた。
「『
「顔も戦い方も、喋り方も陰気なジジイだ。お前なんかに殺されるなら死んだ方がマシだな」
憎まれ口を叩きながら、イビルアイは歯噛みした。
魔法詠唱者にとって『骨の竜』は天敵。彼女にとってカジットは相性最悪の相手と言っても過言ではない。
戦闘能力やレベル差だけでは覆せない相性の噛みあいがこれだ。
「ゆけ、アンデッド達よ」
『死の宝珠』が、妖しく明滅する。
カジットの命令を受けたアンデッド達が、イビルアイとクライムのもとへ雪崩れ込んだ。
「イビルアイ様!」
「狼狽えるな! 『骨の竜』以外なら何とでもなる!」
イビルアイは叫ぶと、クライムの襟首をむんずと掴んだ。
「『
魔法を唱えたイビルアイを中心に、砂塵が大きく吹き荒れる。これは行動阻害の他に盲目化、沈黙化のバッドステータスを相手に与えるという性質なのだが、アンデッド相手にそれらの副次効果は期待できない。単なる目くらましだ。
「『
小さな体が微光を帯び、イビルアイはアンデッドが形成した
「──なっ……!」
……しかしこの場に於いて制空権を支配しているのはイビルアイではなかった。砂塵を突破した先に現われたのは『骨の竜』の禍々しい眼光だ。
ひゅ、と冷たい空気が背筋を駆け抜ける。
骨の尾が大きくしなり、『骨の竜』はイビルアイをクライム諸共空から叩き落とした。
巨大な尾にぶち当てられた衝撃は生半可ではない。肺に溜まった空気が押し出され、二人の体は石畳に激突するとゴムボールの様にバウンドした。
しかし、彼女達に休む暇などなかった。砂の嵐を吹き飛ばしながら、ゼロが追撃の拳を固めている。
一級のモンクの拳が直撃すれば致命傷は避けられない。
「く、そ……!」
「武技・『要塞』!」
イビルアイを庇う様に、クライムがゼロの前に躍り出た。
武技を発動させた剣で、鉛の塊の様な拳を受ける……が、威力を殺しきれない。ガードを大きく弾かれ、がら空きとなった腹にゼロの二撃目が容赦なく突き刺さった。
「うご……ぉっ!」
「小僧、お前が俺の拳を受け止めようなんざ百年早ェ」
鎧を砕き割り、鳩尾をしっかりと抉る拳の質量にクライムは悶絶した。この拳が腹を突き破っているのではないかと見紛う衝撃だ。骨肉に尋常ではないダメージを与えられているのは勿論のこと、もしかしたら内臓も破裂しているかもしれない。
「クライム!」
叫び、水晶の槍をゼロに飛ばすもこれも『骨の竜』によって防がれた。胸ぐらを掴まれたクライムが、高く掲げられる。
「弱えってのは罪なもんだな。えぇ? 強者の荷物にしかならねぇ」
憐れむ様な眼差し。
クライムは大量の脂汗を額に浮かべながら、怒気を以ってその眼差しを睨みつける。闘志はまだ死んじゃいない。
「フー……ッ……フー……ッ……!」
「ほう……良い目をしてるな小僧。このゼロの拳を受けてもまだ目が死んでいないとは、お前に対する評価を改める必要がありそうだ」
……しかしその闘志は、この場面に於いては何の足しにもなりはしない。ゼロが冷徹にもう一発クライムの腹に拳を打ち込むと、彼は呆気なく意識を手放した。
からりと、手を離れて落ちた剣の音が空虚に鳴った。
「クライム……ッ!」
仮面の下で、イビルアイが奥歯を鳴らした。彼女は、どうしようもない無力感と責任を今感じている。『イビルアイとペアなら大丈夫』とクライムを託したチームのメンバーにも、そして何よりラナーにも申し訳が立たない。
(くそ、こんなはずじゃ……っ!)
ここまで相性が悪い相手がいることなど、想定の範囲外だ。
魔法は『骨の竜』に阻害され、接近戦に持ち込もうとしても王国最強クラスのモンクが立ちはだかる。煙に巻いて逃げの一手を取ろうとも、周りを囲む『八本指』の手勢とアンデッドが邪魔でそれどころではない。
イビルアイは確かに強い。
……が、流石にこれだけ手札を封殺されるとどうしようもない。
何より、クライムを守りながらだと猶更だ。
「『蒼の薔薇』のイビルアイ。貴様、この小僧が大事か」
気絶したクライムを掲げながら、ゼロが問う。
その顔には、勝利を確信した笑みが張り付いていた。
「……何が言いたい」
「お前の態度次第では助けてやらんことはないぞ」
言いながら、ゼロはクライムをカジットの方へと放り投げる。じろりと主人がそれを睨むと、『骨の竜』が無遠慮にクライムの体を受け止めた。
「……一発。俺の本気の拳を受けることができたならあの小僧を解放してやる」
「……」
「断ってくれても構わない。その場合は即座に……言わなくても分かるな?」
「くっ……」
選択の余地はない。
イビルアイには、捨てきれない甘さがあった。それは、戦場に於いては足枷にしかならない甘さだ。
いざという時は非情に徹することができると彼女は自負していたつもりだった。しかし、体が動かない。自分自身、愕然とするような、或いは笑ってしまう様な甘ったれさがそこにはある。
「いい子だ……」
ゼロの口角が上がる。
是とするイビルアイの態度に満足したようだ。彼は筋繊維の厚い体を揺らしながら、彼女のもとへゆっくりと歩みよっていく。体の至るところに彫られた動物の墨が、順々に発光していた。豹、犀、隼、獅子、野牛の力が、彼の体に充実していく。
「……約束は守るのだろうな」
「ああ。俺は筋はきっちりと通す男だ。お前の心意気に泥を塗る様な真似はしない」
「……そうか」
子供と大人以上の身長差……それから体重差だ。
見上げるゼロの体の厚みには、努力か才能のどちらかだけでは到達できぬ凄みが仄立っている。
イビルアイは直感していた。
あの拳をまともに食らえば、生きていられる保証はないと。
しかし僅かでも仲間を助けられる方法があるのなら、それを取らないという選択肢はない。たとえ、己が身がどうなろうとも。
「……」
馬鹿正直な正拳突きの構え。
腰を落としたゼロの姿に、僅かにイビルアイの体が怯む。
「いくぞ」
一撃必殺の力を溜め込んだゼロの体が、パンプアップする。大木の様だった存在感が、更に重みを増して──
「ご、ぁ……っ!?」
──腹に突き刺さる、砲弾の様な一撃。
重く、鋭く、疾い。イビルアイの腹を抉る痛撃は、彼女の体をいとも容易く吹き飛ばした。
体がバラバラに千切れそうになる感覚。
腹を木の幹が貫通した様な、生々しい痛み。
イビルアイは煉瓦倉庫の壁にぶち当たると、なす術もなくそこに崩れ落ちた。
「ぁ……か……」
余りの痛みに、催される吐き気。
天地がグルグルと入れ替わり、灼熱と凍結が交互にイビルアイの神経を焼いていく。
──死は目前。
むしろ生きているのが不思議なくらいだった。単純なレベル差があるとはいえ、物理防御に薄いイビルアイが超特化近接職のゼロの全霊の一撃を受ければこうもなる。
「ほう、まさか生きているとはな」
興味深そうなゼロの言葉の暢気さったらない。
彼はブーツを鳴らしながらイビルアイの下へ歩み寄ると、彼女の髪をむんずと掴んで引っ張り上げた。
「ぁ、ぎ……」
「だが、致命傷のようだな。無理もなかろう」
くつくつと、喉奥で嗤う。
ゼロは苦しそうに喘ぐイビルアイの姿に満足そうに鼻を鳴らした。
雌雄は決した。
誰が見ても、明らかだった。
ゼロはその結果に笑みを隠さない。
「イビルアイ……王国でも随一と呼ばれていたアダマンタイト級冒険者チーム『蒼の薔薇』……。その中でも特異な存在感を放つ、謎の
「はぁ……っ……う、つ……」
橙の髪を掴まれ、目線に合うように掲げられたイビルアイに抵抗する力は残っていない。尋常じゃないダメージと痛みが、彼女の体を蝕んでいる。
ゼロはにやりと笑んで、イビルアイの仮面に手を掛けた。まずい、と手指がぴくりと動くが、それ以上は腕が動かない。イビルアイは為すがままに、仮面を剥ぎ取られた。
「な……っ!?」
露わになったイビルアイの素顔に、ゼロは目をひん剝いた。驚愕を隠しもしない、素の感情をさらけ出した表情だ。
(ばれた……)
心身が青褪めていく感覚。
イビルアイは苦悶の表情を滲ませた。
彼女の瞳は鮮やかな赤色をしている。
犬歯はまるで牙の様に細く尖り、まさに吸血に適した形を晒していた。
ゼロは今までにそれを見たことがない。
噂でしか聞いたことがなかった。
しかし一目見るだけで十分だ。
──イビルアイが、吸血鬼であると理解するには。
「お前……まさか、アンデッドだったのか……!」
まさかという言葉がここまで適切なこともそうそうない。ゼロのその言葉に、その場に居た全ての『八本指』の部下達に驚愕が伝播した。
傍観していたカジットもそうだ。
彼も隠すことなくしわがれた顔を歪め、まさかといった表情を曝け出していた。
「は、はは。こりゃあいい! 王国がまさか、アンデッドの助力を得ていたとはな! よもやの大スクープだ!」
驚愕から笑みへ。じわりと変化したゼロの表情からは、邪な気配が滲み出している。彼にとってこの情報は何よりの収穫に違いない。王国を手中に収める為の良い手札が手に入ったと、ゼロは喜色を露にした。
アンデッドと組んでいたラナー王女。
アンデッドを黙認していた冒険者組合を検めなかった王国。そしてその王。揺するには、これ以上ないスクープだ。
ガゼフと『蒼の薔薇』を滅ぼした後に、更に王国に追い打ちが掛けられる。ゼロは腹の底から笑った。全てが、彼に追い風だ。
「イビルアイ。今までよくこれを隠し通せたものだ。人間との仲良しごっこは楽しかったか? それとも、『蒼の薔薇』をも欺いていたのか?」
「だ……ま、れ……」
「黙るのは貴様だ、アンデッド風情が。とは言っても、減らず口もその体じゃあそれが限界か」
イビルアイは、動けない。
ゼロは、込み上がる笑いを止められない。これからの自らの覇道の行く末を思うと、喜色を隠すことなど出来なかった。
「くく、はははははは──……ん?」
……しかしはた、と気がついた。
何か、言いようのない違和感がゼロの神経に緩やかに通っていく。
ゼロは空を見上げた。
先程まで様々なことに気を取られて気が付かなかったが──
「……おい、静かすぎやしねぇか」
──王都が、有り得ない静謐を湛えている。
そう、アンデッドが溢れ返る地獄に変えたにしては、王都が静かすぎる。
ゼロを取り巻く環境はさておいて、彼の計画通りにことが進んでいるならこの王都は今、耳を澄ませなくてもどこからともなく悲鳴や怒号が聞こえてくるはずだ。
(……それなのに何なんだ、この静かさは)
ぞわりと、ゼロはこの不気味な違和感に悪寒を覚えた。冷や水を浴びせられた様な感覚だった。先程まで、あれほど昂っていたというのに。
「ゼロよ……たった今連絡が入った」
「なに?」
その違和感に回答する様に、カジットがしゃがれた声を上げる。彼は『
「ストロノーフに仕向けた『幻魔』『不死王』……それから儂の部下達が、『黒仮面の宣教師』を名乗る
「……なんだと!?」
まさかとしか言いようがない事態。
謎の魔法詠唱者の乱入により、ゼロの計画の歯車が狂った。
「ならば、ストロノーフは……」
「ブレイン・アングラウスとの一騎打ちに勝利し、現在も生存しておる」
「くそ……」
ゼロは歯噛みした。
この機会に王国の精神的支柱を殺せなかったのは、かなり惜しい。
しかし『蒼の薔薇』だけでも全滅させられたなら──と思っていたところで、カジットが口を挟む。どこか、苛立ちが滲む口調だった。
「それだけではないぞ。クレマンティーヌもやられた。残る『六腕』の手勢もじゃ」
「なに……っ!? まさか、全滅したというのか……!?」
「どういうことだゼロよ……お主の計画は完璧じゃなかったのか。儂の同胞もその殆どが討たれた。これも全てお主の計画に乗ったからだぞ……!」
「有り得ん! 各個撃破できるだけの戦力を整え、相性の良いマッチメイクできるよう根回ししていたはずだぞ!? 何故、悉く敗北しているッ!」
黒仮面の宣教師という謎の闖入者が割り込んだガゼフ・ストロノーフに関してはゼロも良しとする。しかし手筈通りであればガガーランとティアにクレマンティーヌを、残る蒼薔薇には『六腕』の残った手勢とカジットの部下をぶつけているはず。
(何故……? 何故だッ!)
ゼロの想定では余程のことがない限りは、勝てるはずだ。今、彼らがイビルアイとクライムを下している様に。
しかしそんなこと、加担したカジットにしてみれば知ったことではない。計画は破綻。『死の螺旋』が成就しないばかりか、同胞も殺されてしまったのだから。
「ゼロよ。貴様、責任は取れるのだろうな……!」
ぎょとりと、カジットの双眸がゼロを睨め付ける。対するゼロは、自身の中に渦巻く怒りと困惑とを消化しきれないでいた。
俺の計画は、完璧なはず。
今なおそう信じて疑わない。
ならばどこで歯車が狂った?
どこで選択を違えた?
それとも、自分の揃えた手駒がそれほど使えない連中だったというのか?
答えてくれる者は誰もいない。
ゼロの口内に、じわりと嫌な味が滲む。
──……そしてその直後、ゼロの持つ疑問の回答そのものと言ってよい戦士が空から降ってきた。
着地と同時に振り下ろされた一振りのグレートソードの軌跡が、『骨の竜』の正中線に淀みなく閃いた。
たったのそれだけで『骨の竜』は真っ二つに分たれ、骨の身が力無く崩壊していく。
「な、にぃ……!?」
召喚主たるカジットの目が見開かれる。
そんな彼を嘲る様に、戦士はゆっくりと落とした身を起こした。
「……さて、
漆黒の鎧に身を包む戦士は、美しいソプラノでそう告げる。
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7.閉幕
モモンガの双眸が、辺りをゆっくりと見回した。
カジット、ゼロ、周りを囲む『八本指』の手勢、アンデッド達……。戦闘不能になっているクライム、それからゼロに髪を掴まれている重傷のイビルアイ。誰かに説明を求めずとも、現状の把握は容易だった。
「『黒姫』の……モモン……」
嗄れ声をあげるゼロが、低く呻いた。
焦りが滲み出した表情で、彼は下唇を噛んでいる。
黒姫のモモン。
それはゼロにとって唯一計画の歯車を狂わせる存在だったと言っても過言ではない。
各地で起きていた異変。
それからこの場に黒姫が現れた理由、その意味。聞かずとも、ゼロにはそれが理解できてしまった。点と点とが繋がる。
(足止めをしくじったか……! クソ……まさか『六腕』もクレマンティーヌもこいつにやられたというのか……?)
流れの商人に偽装した搦め手の他にも、決して雑魚とは言えない刺客をモモン邸には送り込んでいた。倒す為ではない。あくまでもゼロは『足止め』に全力を注げと命令していたはずだ。しかし今、モモンガがここにいるということは結局それも何の意味も持たなかったということだ。
ゼロは額から顎に伝う汗に気が付かない。
それほどの圧迫感を、モモンガのシルエットから感じていた。
「近所迷惑もいいところです。そろそろ、この騒動の全てを終わりにさせていただきます」
美しい声を奏でながら、モモンガは重厚なグレートソードを構える。その声の抑揚は、今から草刈りでも始めるかの様な軽いものだった。恐らくそういった感覚で各地の『六腕』を潰してきたのだろう、ということをゼロは察した。クレマンティーヌやブレインが恐れていた存在は伊達ではないということだ。
「ま、待て! モモン!」
蛇に睨まれたゼロは、堪らず声を上げる。
噂通りの存在なら、暴力で何とかなる相手ではない。彼は決死の対話を試みた。
「……俺達と手を組まないか」
「は?」
「これを見ろ」
ゼロはそう言って、イビルアイの頭を握り込んでモモンガに見せつけた。吸血鬼の顔が、はっきりと見える様に。
「イビルアイ、さん……」
「リ・エスティーゼ王国はアンデッドと組んでいた。それがどういうことか分かるか? この国は、アンデッドに支配されている可能性がある。そう、俺達は必要悪なのさ。この国を本当により良いものにしようとしているのは、誰あろうこの俺だ」
紅い瞳。
牙とも言える程に鋭利な犬歯。
その姿は、間違いなく吸血鬼だ。
(仮面で素顔を隠してた理由がこれか……なるほどな)
モモンガは心の内で得心した。
なるほどこれなら素顔を曝け出せないわけだと。
……それと同時に、俄かに苛立ちの様なものが浮かび上がる。次第に、心がささくれ立っていく。ゼロの言葉など、もとより彼の心には届いちゃいない。
「なるほど、イビルアイさんが吸血鬼だから……アンデッドだから、そうして痛めつけているというわけですか」
「痛めつける……? いや、違う。これは制裁だ。この王国を穢している異形に、正義の鉄槌を下してやったまでのこと。お前も同じ人間なら、分かるだろう」
悪魔相手に、その台詞は片腹痛い。
ゼロの言葉はそのどれもが、モモンガの神経を逆撫でていく。彼の脳裏に過るのは、自分が弱かった頃のあの時の記憶だ。
異形種だからと、スケルトンのアバターが気持ち悪いからと、不当にPKを受けていたあの独りぼっちの頃の記憶。あの時の気持ちをモモンガは忘れちゃいない。
あの時の記憶が呼び起され、重なる。
(状況も違うし、たっちさんみたいに正義執行だなんて大それたことは言わない……けど、苛々するんだよ)
今もゼロがモモンガに何かを語り掛けている。
しかしそれらは全く彼には届かない。
「……」
モモンガは静かにゼロに歩み寄ると、目前で立ち止まった。僅かに身構えるゼロに手を翳すと、彼は小さくこう唱える。
──『
兜の中でしか反射しない程度の囁きは、それだけでゼロの肉体に死の概念を注ぎ込んだ。即死魔法を受けた彼はいとも簡単に事切れ、ぐるりと白目を剥いて膝を折った。その余りにもな展開に、部下達は憚らずどよめく。
「お……っと」
ゼロの腕から逃れたイビルアイの小さな体を抱き留める。モモンガはその幼い顔立ちを覗き込んだ。呼気は浅く震え、瞳の光が濁り始めている様にも見える。弱っているのは火を見るよりも明らかだった。
「大丈夫ですか、イビルアイさん。もう無事ですよ」
「……わ、た……構……な……っ……」
「喋らないでください。お体に障ります」
衰弱し始めているイビルアイにポーションを飲ませようとして、モモンガは慌ててそれをアイテムボックスの中へ仕舞った。アンデッドにポーションは寧ろダメージを与えてしまう。初歩的なミスをしてしまうところだった。
「……」
そっとイビルアイを抱き上げるモモンガは、僅かに逡巡して、切っていたパッシブスキルの『
「あ……」
何か、温かいものが身の内に流れ込んでくる感覚にイビルアイは目を見開いた。その感覚は次第に身の内を満たしていき、先程まで感じていた痛みや苦しさをあっという間に和らげた。腹を抉る様な傷も、痛みも、忽ち消え去っていく。
「モ、モ……」
イビルアイは次第に、『負の接触』の温かな感覚に身を委ねる様にして目を閉じ、意識を手放した。静かな寝息を立てている彼女の健やかな表情を見れば、心配がいらなくなったことは瞭然だろう。そうしていると、アダマンタイト級冒険者などではなく本当に見た目通りの無垢な少女のようだ。
「……さて」
イビルアイを抱きかかえるモモンガはそう言って、鷹揚に振り返った。自分達の大将を手品の様に下した彼に、『八本指』の手勢はびくりと肩を跳ね上げる。
「イビルアイさんが
かつての自分を重ねたからか。
それとも同じ異形種であるからか。
モモンガは、イビルアイの味方であることを決心する。それ即ち、この場にいる彼女の正体を知る者の命は保障されなくなるということ。
「筋書きはこうしようか」
……それはまるで独り言のような。
モモンガは誰ともなく、言葉を並べ始める。
「アンデッドを発生させた『八本指』が、その力を制御できずに負の力を暴走させてしまう。意図せず強大なアンデッドを産み出したお前達は、愚かにもそのアンデッド達に蘇生も不可能なほどに惨たらしく殺されてしまった……と。死人に口なしとは言うが、お前らが復活してイビルアイさんのことを喋らんとも限らないからな」
「な、何を……」
「一人も逃がさんよ」
モモンガが静かにそう告げると、彼の周りに世にも恐ろしい異形達が現れる。闇の中からずるりと生み出されたそれらは、カジットが支配しているアンデッドとは明らかに格が違う。
『
『
『
『
圧倒的な存在感。威容。
この世界では目にすることすら難しい程の、強力なアンデッド達。それらが複数体。その道に精通しているカジットの目が、ころりと零れ落ちそうなほどに見開かれる。
「き、貴様……その強大なアンデッドはどこから……! ま、まさか、そのナリで
「……その質問に答えてやる義理はない。シモベ達よ、低位の蘇生では復活できないように奴らの体を滅茶苦茶にしてやれ」
静かに告げられる、死刑宣告よりも惨たらしい命令。主人の命を受けたアンデッド達は、嬉々として鈍い眼光を光らせる。そこかしこから、悲鳴が相次いだ。
──そこからは、地獄の幕開けだ。
イビルアイの素顔の目撃者が一人も逃げぬよう、容赦のない虐殺が執り行われる。カジットが生み出したアンデッド達もモモンガの支配下に置かれ、事態は地獄の様相を呈していた。
イビルアイとクライムを抱えて、モモンガはその地獄の中を悠々と歩いていく。血飛沫が天高く飛び、人間の四肢や頭がそこら中に散らばり始めた。
助けを求める声に、モモンガの心が動じることはない。彼はどこまでいっても結局は
濃厚な血の匂いが辺りに沈澱していく。
「……」
周囲一帯が静かになるまで、一分と掛からなかった。幼な子を抱く様にイビルアイを片手で抱え、首根っこを掴んでクライムを引きずるモモンガは、さてこの後どうしたものかと首を捻った。
「ご苦労だったな」
彼の前で待機しているアンデッド達の赤黒い目が光る。表情は読めないが、主人の労いに喜色を露わにした……様な気がする。恐らく尾があれば、ぶんぶんと横へ振っていたに違いない。
しかしアンデッド達の役目は終わった。
後は消すだけだ……と考えたところで──
「モモンさん! 援護に駆けつけ──えぇ!?」
「なんだ、こりゃあ!?」
──蒼の薔薇の一行が駆けつけた。
それだけではない。
王国の兵士達も引き連れて、だ。
ラキュースを始めとする彼女達は、この状況に目を丸くしていた。
血の匂いがむせ返る程の惨状。
目も当てられない死体が辺りの壁や地にへばりつき、そこに君臨する悍ましくも強大なアンデッド達。
ラキュース達からすれば、今まさにそのアンデッド達がイビルアイとクライムを抱えたモモンガを殺そうとしている……という場面に見えるだろう。
戦乙女達はアンデッド達の気配に気圧されながらも、各々に得物を構える。決死の覚悟をした表情だ。
その臨戦態勢を見たアンデッド達の目は鋭く光り、咆哮を上げた。新たな標的、殺すべき生者がまたノコノコとやってきた。彼らは使命を全うするべく、『蒼の薔薇』に殺到して──
「ま、待て!」
──主人たるモモンガが慌ててそれを諌めた。
……え? と言わんばかりに振り返るシモベ達。
モモンガの呼び止めに素直に応じた異形達に、『蒼の薔薇』の面々もおっかなびっくり目を丸くしていた。
(おい馬鹿野郎! 味方にまで牙剥く必要があるかよ! いや、俺がちゃんと指示しなかったのが悪いんだけどさ……!)
要領の悪いシモベ達に、モモンガの背中に冷や汗が伝う。ぴたりと動きを止めた彼らは『どうしますか、ごすずん』と言わんばかりに主人の顔色を窺っている。
モモンガはやぶれかぶれと言わんばかりに、吠えた。
「は……『八本指』が生み出した悍ましいアンデッド達よ……! お前達の相手はこの私です! 一匹残らず葬ってやるから、全員まとめて掛かってきなさい!」
僅かな時を要して主人の意を汲み取ったシモベ達は、『なるほど合点承知』と言わんばかりにモモンガの下へと殺到していく。召喚時間が切れたらただ消失するだけの彼らは『ご主人が手ずから葬ってくれるなら最高だぜ』と言わんばかりにモモンガのグレートソードの錆になるべく、嬉々として主人のもとへ突っ込んでいく。
あとは言わずもがな、だ。
『八本指』が召喚した世にも悍ましいアンデッドは、こうしてモモンガが一体残さず殲滅した……という体で、この騒動は全ての終わりを迎えることとなる。
それは、空が白み始めた頃だった。
ネガティブ・タッチは原作では修正パッチ当てられてアンデッドに対してのHP回復はありませんが、本作はアリとします
何故ならその方がロマンティックだったから
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8.種明
──イビルアイは、真っ暗な空間を漂っていた。
何もない、どこまでも黒い、深海とも宇宙空間とも取れる世界。
光が一切差さないそこを、イビルアイの小さな体がただ漂っている。胎児の様にうずくまった彼女は、何もせず、その浮遊感に身を委ねていた。
寒く、暗い。
深く重たいそこに浮かんでいるのか、沈んでいるのかは分からない。しかし自分だけの体温が頼りのその空間に、イビルアイの心は次第に痩せ細っていく。
(……怖い)
腕を擦る。
イビルアイは小さな体を押し込める様に、うずくまった。瞼をきつく閉じて、彼女は闇の中をただただ揺蕩っていく。
──……イビルアイさん。
誰かが、彼女の名を呼んだ。
心地よい、美しい女性の声。
温かい、とイビルアイは思う。
誰? と顔を上げた。
そうすると、彼女の体を優しく誰かが抱き止めた。感触は硬く、すべすべしていて、少しひんやりする。しかし何故だか不思議と暖かい。それが鎧を纏った腕なのだと理解するのはそのすぐ後だった。
美しい顔が、イビルアイの顔を覗き込んでいる。優しさに満ちた微笑を浮かべる美女は、まるで慈母の様な柔らかさでイビルアイの存在を包んでくれた。
──モモン、さ……。
美女の名を口にしようとして、言い噤む。モモンといつもの様に呼び捨てるのが憚られたからだ。
何故?
止まっている心臓がドクドクと拍動する。
顔が熱い。
──……イビルアイさん、もう大丈夫ですよ。
モモンは桜色の唇から、イビルアイにそう言葉を掛けた。声が余りにも美しくて、イビルアイにはそれがまるで唄の様にさえ聞こえてしまう。
目の奥で、ちかりと火花が弾けた。
こうしていると、二人はまるで
モモンの顔が近づいてくる。
どきりと跳ねる心臓。イビルアイは、ゆっくりと再び瞼を閉じた。闇に閉じこもる為ではない。モモンに身を委ねる為に。
女性同士という違和感はなかった。
惚れる相手に性差など、イビルアイにとっては些細な問題にしか感じられない。モモンだから、モモンだけに、自分の心を預けることができてしまう。
この時イビルアイは明確に分かってしまった。
自分が、モモンのことを好いているということに。強者である彼女を上回るばかりか、こうして姫扱い──実際には子ども扱い──してくれるモモンに恋慕の情を抱いてしまったことに。
近づく二人の唇が、今まさに重なろうとして──
「んむみゅう、ぅう……ハッ!?」
──タコの様に唇を突き出したイビルアイが目を覚ました。
先程まで見ていた光景が弾け飛び、視界には見知った天井が広がっている。唇と手を天井に突き出したイビルアイは、目をパチクリとさせて現状の把握ができないでいた。
目を覚ました、というのも彼女にとっては実に百年以上の感覚だ。夢を見るというのもまた然り。吸血鬼の肉体には睡眠は不要。眠るというのは、余りにも久しぶりの感覚だった。
「お、おはようイビルアイ……」
「何やってんだお前……」
巡らぬ頭でイビルアイが辺りを見ると、ベッドの側にラキュースとガガーランがいた。彼女達は僅かに顔を引き攣らせて、イビルアイのことを見ていた。
「ありぇ……モモンさまは……?」
「は……? モモン、様ァ?」
「イビルアイ、もしかして変な夢でも見てたの?」
「夢……? あ、ぁぁあ……そうか……夢、か……」
伸びた手が、しおしおとベッドに落ちていく。
イビルアイは巨大な溜息を吐いて──目を見開いた。
「あ、そうだ……! 『八本指』は!? モモン様は!? あの後、一体どうなったんだ!?」
がばりと身を起こしたイビルアイは、矢継ぎ早に疑問を投げかけた。
ゼロに倒されたばかりか、仮面まで剥がされた彼女はそこまでの記憶しかない。最後に見たのは、自分の体を抱くモモンの勇ましい姿。そして今も残る、腕の温もり。
「ちょっと落ち着きなさい。貴女、もともと酷い怪我だったらしいんだから。気持ちは分かるけどもっと安静にしていないと」
「あ、ああ。でも……」
「ちゃんと説明してあげるから」
「あう」
ラキュースに押され、イビルアイはベッドに収まった。
窓を開け放つガガーランが、ぽつりと呟いた。
「あの後、街に解き放たれたアンデッドも『六腕』も全て倒したぜ。モモンがな」
椅子を軋ませながら座るガガーランの顔にはいつもの豪胆さはなく、どこか神妙な面持ちをしているように見える。それはラキュースも同様だ。
「これも全て、モモンさんのおかげ。あの人がいなかったら、きっと私達もこの王都も完全に落とされていたわ。逆に私達『蒼の薔薇』やリ・エスティーゼ王国は、無様を晒してしまったわね。情けない話だわ」
ラキュースは下唇を噛みながら、胸の内に悔しさを滲ませていた。彼女は自らが『六腕』に追い詰められていたことも語りながら、救世主モモンの功績について滔々と並べ始めた。
アンデッド達の掃討。
ガガーランとティアを相手取っていた謎の女戦士を撃破したこと。ラキュースとティナを追い詰めていた『六腕』を一挙に叩き潰したこと。イビルアイの救出。ズーラーノーンに与する高弟達の撃破。それから、アダマンタイト級以上の難度と取れる強大なアンデッド達の討伐。
枚挙に暇がない、というのはこのことだろう。
英雄とは、救世主とは、まさしくモモンの存在そのものを指す言葉だ。
語るラキュースの表情は複雑なものだった。
モモンにこれほどの開きをまざまざと見せられたことは、同じアダマンタイト級冒険者チームのリーダーとしては思うところがあるのは間違いない。しかしその言葉の端々には、確かにモモンに対する敬意が満ちみちている。
「私達は……そしてこの国は救われたの。『漆黒の美姫』によって」
「……そうか」
「それからこれ、モモンさんから貴女にだそうよ」
「え……え!?」
ラキュースの手から渡されたのは、指輪だった。ないはずの心臓が、再び跳ね上がる。
「こ、ここここ、これは……!?」
「日光下でのペナルティを緩和する指輪、らしいわ。安心してイビルアイ。モモンさんは貴女の正体を知っても、目の色を変えることは全くなかったわ。寧ろ吸血鬼であることを匿ってくれたばかりか、貴女を慮ってこうしてマジックアイテムまでプレゼントしてくれたの。本当……敵わないわね……」
「そ、そうか……」
掌の上の指輪が、きらりと光る。
イビルアイはほう、と小さく息を吐いて、それを左の薬指に通した。魔法効果のある指輪は、自動的に細指に合う大きさに変化すると、まるで彼女の体の一部であるかの様にそこに収まった。
「へへ……」
少しだけ、顔がにやけてしまう。
イビルアイは指輪をつけた手を愛おしそうに握って、それを胸に抱いた。
初恋を覚えたばかりの様な、見たままの幼い少女の姿。
今まで見たこともない仲間の姿に、ラキュースとガガーランは不思議そうに顔を突き合わせた。
「ありがとう、モモンさま……」
上気した顔で、イビルアイは小さくそう零す。
瞼の裏には、今もあの漆黒の鎧を纏った英雄の姿が焼き付いていた。
「ご苦労様でした」
月が真円を描く夜。
窓から差す月光を受けながら、ラナーは小さく微笑んだ。
その視線の先には、闇に溶ける様な装束に身を包んだ男女が数名佇んでいる。目を離した瞬間に、たちまち認識できなくなる様な存在感だった。
「……終わったな」
その中の女が、小さくそう零す。
一国の王女に対するには、聊か砕けた口調だ。ラナーは薄く笑んで、言葉を返す。
「これも全て、『イジャニーヤ』の皆様方の助けがあったからです。感謝しております」
「……計画通り、か」
「ティラさん、どうかされましたか?」
「この王都で起きた今までの全てがお前の計画通りなんだと思うと、寒気がするだけだ」
忍装束に身を包む女──『イジャニーヤ』の頭領たるティラは、抑揚のない声で自身の気持ちをはっきりと吐き捨てた。『蒼の薔薇』のティナ、ティアと瓜二つの彼女は、眉間に皺を寄せてラナーを見据えている。
ある種の畏れや軽蔑を孕んだその視線を受けても、ラナーは無垢なお姫様の皮を被ったまま、にこりと微笑んだ。
ティラにとってはいつからか──或いは初めて目にしたその時から、この黄金と称される美しい姫が悪魔にしか見えなくなっていた。
そう……王都で起きた事件の全ては、ラナーの手の内で起きた出来事だった。
クレマンティーヌの身柄が容易に『八本指』に引き渡されたのも、『叡者の額冠』で『死の螺旋』の真似事が出来る様にゼロに唆したのも、ラナーが
『蒼の薔薇』とガゼフ率いる王国兵士が近いうちに『八本指』の拠点を襲撃するという情報を横流しし、モモンが王都にいる間に事を起こす様に急かしたのもラナーの思惑通りだった。
ゼロにとっては、カウンターを狙えるあのタイミングがまさにベストに見えていたのだ。それが掌の上で転がされているということにも気がつかないで。
全てはラナーの計画通りだった。
モモンがクレマンティーヌを下したあの日から。或いは、『ズーラーノーン』のある男がエ・ランテルで死の儀式の準備をしていると知ったその日から。
「面白いくらいに、思惑通りに事が運んでくれましたね」
ラナーは薄く笑む。
悪魔とは、そういう笑みを浮かべるのだろう。彼女は機嫌が良さそうに、窓の外に視線をやった。
「『八本指』はよく働いてくれました。彼らが起こしてくれた混乱のおかげで、バルブロお兄様も怪しまれることなく暗殺できましたし、『八本指』に与していた反王派閥の貴族達も一斉に粛清できるのですから」
騒動の裏で『イジャニーヤ』に暗殺されたバルブロは、アンデッドに殺されたという事実にすり替えられるだろう。蘇生ができぬよう、焼死体で見つかるはずだ。
それもやはりラナーの計画の一端。
兄を殺したというのに、ラナーは笑みを保っていた。
「これでザナックお兄様の王位継承は確固たるものとなりました。これからは邪魔者がいなくなったこの王国を、レエブン侯と共により良く、より強い国にしてくれることでしょう」
第一王子バルブロの暗殺。反王派閥の貴族達が『八本指』に関与していた資料の差し押さえ。『八本指』の完全撲滅。
この三つが、秘密裏にこの一夜だけで遂行されたのだ。ラナーの綿密な計画と、彼女の指示を受けていた『イジャニーヤ』の暗躍によって。そして王子暗殺の責任は全て愚かな『八本指』に転嫁される。
ティラは鳥肌が立つのを感じていた。
これほど完璧な暗殺は『イジャニーヤ』をして完遂することは難しい。ラナーの指揮は何もかもが完璧だった。
(……驚くのも今更か。ティアとティナと少し言葉を交わしただけで『イジャニーヤ』の存在に気づくばかりか、隠匿している私達の拠点に手紙まで寄越してきたこの化け物相手には)
『イジャニーヤ』に関する情報は完全に封鎖している。暗殺稼業をしているのだから当たり前の話だ。しかし彼女達とラナーのファーストコンタクトは余りにもなものだった。手紙を目にした時のあの衝撃を、ティラは忘れない。
「……ティラ様、やはりこの女ここで殺しておくべきでは」
「……やめておけ。猛毒を持った虫を素手で潰す様なものだ。こいつを殺すことで我々の存続が危うくなるかもしれん。この化け物がそれを想定していないわけがないからな」
耳打ちしてきた部下の言葉は尤もだ。ラナーは存在そのものが危なすぎる。しかしこの知謀の化け物がただで殺されてくれるわけがない。
殺してしまえば、その返り血が毒の様に『イジャニーヤ』を蝕んでいくことは明白だった。何か仕掛けを施しているはず。そうでなければ、無策でラナーが彼女達にこれだけの依頼をしてくるはずがない。
「利口な人は助かります」
「……ちっ」
全てを見透かす様なラナーの笑みが、ティラは気に入らない。
「これだけの仕事をこなしたんだ。報酬はきっちりと用意してもらうぞ」
「……ええ。お任せください。お話していたとおり、少し時間は掛かりますがきっと金銭以上に『イジャニーヤ』に利益を捧げることはできますから」
依頼はこれにて達成された。
ティラは今すぐにでもホームに帰りたい気持ちだった。これ以上ラナーといると、気味が悪くて仕方がない。
そういう素振りを見せたティラを、ラナーは呼び止める。その表情には、先程までの安穏とした雰囲気は霧散していた。
「ティラさん。それで、モモンの暗殺の方は可能でしょうか? どちらかと言えば、私にとってはこちらの方が重要なのですけれど」
「……それは無理だな。これに関してはいくら報酬を積まれても受けることはできない」
「……理由をお聞かせ願えますか」
「奴は人間じゃない」
きっぱりと言い放つティラに、ラナーの目が僅かに見開かれる。そしてそれは、納得した様な反応へと変わっていく。
ティラは、鋭い視線でラナーを貫いた。
「ラナー、忠告はしておく。奴を相手取るのはやめておけ。モモンの怒りを買えば、この王都は終わりだぞ」
「……そうですか」
きち、とラナーの口内で何かが鳴った。
僅かに眉間に皺を寄せる彼女の表情は、初めて人間らしい感情を露わにしている様にも見える。それがたとえ、殺意だろうとも。
僅かに時を経て、ラナーは張りついた殺意の表情を解くと、今一度ティラに向き直った。その顔には既に、お姫様らしい仮面が張り付いていた。
「なら、別の暗殺依頼を一件お願いできますか?」
暗殺を依頼するにしては軽い口調だ。
ティラは沈黙を保ち、その先の言葉を待っている。
すると、ラナーの口からは予想もしない台詞が飛び出してきた。
「クライムを殺してください」
……は?
ティラは、憚らず素頓狂な声を上げた。
理解が追いつかない。
「……おい、どういうことだ? この王都での全ての計画は、そのクライムとかいう男とお前が結ばれる為だと言っていただろう」
「そうです。ですがこれも、私がクライムと結ばれる為……踏むべき一つのステップなのです」
「はぁ……?」
「躾と矯正ですよ。この王都には復活魔法が使えるラキュースがいます。彼女にクライムを復活してもらうんです」
まるで今日の献立を話しているかの様な呑気さに、ティラは戦慄する。この世のどこに、愛する者を殺してくれと言う人間がいるというのか。それがたとえ、冗談であったとしても、だ。
「死から復活した人間は生命力が落ちるのでしょう? クライムを殺したのはきっと皆『八本指』の残党のせいだと思うはずです。なら、クライムが殺された責任の所在は……? 誰あろう、作戦の指揮を取った私にありますよね」
ラナーは恍惚とした笑みを浮かべている。
ティラは、鳥肌が止まらない。
「命を落としたクライムをつきっきりで私が看てあげるんです。誰も文句はないでしょう。私は彼の身の回りの全て……そうシモの世話だって……。ひと月、いや、半月は誰とも会えない様に軟禁しましょうか。そうしてやがてクライムは気付くはずです。誰に真の愛を捧げるべきなのかを」
モモンを殺せないのなら、クライムを殺せばいい。
モモン暗殺の依頼に至った経緯を知っているティラからすれば、それは余りにも理解が及ばないものだった。
「……狂ってやがる」
「愛は人を狂わせるものですよ」
はっきりと言い放つラナーに、迷いはない。彼女はそうして、もう一度ティラにこう聞くのだ。
「……依頼、できますか?」
光が抜け落ちた瞳で、ラナーは真っ直ぐにティラを見据えている。
ティラの全身の産毛が、総毛立った。
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9.乾杯
「んま、んめ」
モモンガ邸。
いつもは静かな食卓も、この日は賑やかだった。
テーブルを囲むのはモモンガ、ツアレにクレムが加わった。
クレムは小さい手で握った幼児用スプーンで、シチューの肉を掬うのに四苦八苦していた。ぽろりぽろりとスプーンから逃れていく肉に対し、次第に彼女の眉間に皺が寄っていく。
痺れを切らしたクレムは文字通り匙を投げると、小さな手を皿の中に突っ込んだ。
「ク、クレムちゃん! お行儀が悪いでしょう。ちゃんと食器を使って──」
「あはは! ちゅあ、おこってる!」
「もう……あぁ……お洋服こんなに汚しちゃって……」
手と顔をどろどろに汚しながらシチューを食べるクレムに、ツアレは四苦八苦だ。清潔な布で甲斐甲斐しく拭ってやる様は、まるで母や歳の離れた姉の様にも見える。
(俺、子供持つの無理かもなぁ)
サラダを食べながら、モモンガは彼女達のやりとりを見ていた。微笑ましいなぁとは思うが、いざツアレに代ってクレムの世話をすると思うと中々に厳しい。
「クレム、ツアレさんを余り困らせてはいけませんよ」
「はぁい」
モモンガが頭を撫でてやると、クレムは嬉しそうに目を細めていた。
穏やかな時間だ。
モモンガにとっても、ツアレにとっても、クレムにとっても。
根を張って、ツアレとクレムと三人とで暮らすのも悪くないと、モモンガは柄にもないことを思ってしまった。
「……ん?」
ぴたりと、シチューを掬う匙の動きが止まる。
どんどんと、家のドアノッカーが叩かれた。
ツアレが慌てて立とうとして、モモンガがそれを手で制す。クレムはシチューに夢中で気づいてないらしい。
こういう時は使用人に対応してもらうのが普通だが、先の『八本指』の件もある。ツアレを危険に晒すわけにはいかない。モモンガはツアレを座らせると、自ら席を立った。クレムが不思議そうに見上げている。
「二人は食事を続けていてください」
そう告げて、クレムの頭をわしゃりと撫でる。
モモンガはリビングを抜けて、来客の待つ玄関へと歩いた。僅かに警戒心を高め、幾つかの魔法を念の為に唱えながら。
モモンガが扉を開くと──
「よう、悪ぃな急に」
──軽装のガガーランがそこにいた。
ぎりぎり女性にカテゴライズされる彼女は分厚く、そして大きい。モモンガは見上げながら、珍しい客に目を丸くした。
「ガガーランさん、どうされたんですか?」
「おう、今夜空いてるか?」
「え? ええ。特に予定はないですけど……」
「お。んじゃあよ──」
モモンガの返答にニヤリとガガーランが笑みを作った、その時。
「ママ―!」
「こら、クレムちゃん!」
リビングからばたばたとクレムが飛び出してきた。
彼女は満面の笑みでモモンガの腿に飛びつくと、少し遅れてガガーランの存在に気づく。クレムはおっかなびっくりといった様子で、モモンガとガガーランの顔を見比べた。
「……だれ?」
控え目に問うクレムの姿に、ガガーランは目をまんまるにした。そのまんまるな目で、彼女もまたクレムとモモンガを見比べる。
「お……おいモモン、今この嬢ちゃんお前のことママって言わなかったか……?」
声が僅かに震えている。
いらぬ勘違いを察知したモモンガは、浅く息をこぼして顔を横へ振った。
「……血の繋がりはないのでそんなに驚かないでください。すごい顔してますよ」
「あ、ああ……なんだそういうこと……。まさか子持ちかと思ってつい、な。しかし、養子か?」
「違います。例の騒動で一人でいたところを一時的に保護しているだけですよ。記憶を失くした様で、私を母の様に慕ってくれてる……というだけです」
「……なるほどな。そりゃあなんとも、込み入ってんな」
頬をかきながら、ガガーランは僅かに安堵の色を滲ませていた。もしあの『漆黒の美姫』が母親だったなら、彼女の目玉は飛び出したまま帰ってこなかっただろうから。
(モモンは
ふぅ、と無自覚に溜息が溢れる。
気を取り直したガガーランは、モモンガの腿にしがみつくクレムと目線が合うようにしゃがんだ。びくり、とクレムの小さな肩が跳ねる。
「ようお嬢ちゃん。挨拶はできるか? 俺はガガーランってんだ。これでもアダマンタイト級──あれ?」
言いながら、言葉が淀む。
ガガーランはクレムの顔を見ながら、言いようのない違和感を覚えた。
「どうかされましたか?」
「あ、いや……どっかで見たことある様な顔だと思って……。いや、思い違いか。俺はこんな小さい嬢ちゃん、知り合いにいねぇし……」
「ん? あっ……」
そういえばと、ガガーランがクレマンティーヌと戦っていたことをモモンガは思い出す。正直クレマンティーヌとクレムは髪の色から年齢から何から何まで違うが、感づかれると色々と不味い。
しかしまあ、流石に気づくことはない。
ここまで容姿が変われば当たり前だが。
僅かな違和感に首を傾げるガガーランにハラハラしながら、モモンガはクレムの肩に手を添えた。
「ほら、初めての人にはご挨拶」
「…………クレム」
控え目に、おずおずと名乗るクレムの姿にガガーランは破顔した。
「おお、クレムっていうのか。いい名前だな。ちゃんとママの言うこと聞いて、腹一杯飯食ってでっかくなるんだぞ、俺みてぇに」
「…………やだ。クレムはしょーらい、ママみたいになるもん」
口を尖らせて拒否する童女の姿に、ガガーランは腹の底から気持ちのいい笑い声をあげた。そうして大きな手で、無遠慮にクレムの小さな頭をがしがしと撫でつける。
「モモン、こいつは大物になりそうだな! 俺に対しても、ちっとも怖気がねぇ」
朗らかに笑うガガーランに反して、クレムは彼女の手を鬱陶しそうにしている。この二人、相性が良いのか悪いのか。
クレム関連の話題を早々に打ち切りたいモモンガは、少し食い気味に尋ねた。
「それよりガガーランさん。何か用があってうちを訪ねてきたのでは」
「おお、そうだそうだ」
ガガーランは思い出したように相槌を打つと、懐から一枚の紙きれを取ってそれをモモンガに手渡した。広げてみると、簡素な地図とちょろりと書き添えられたメモが添付されてある。
「今夜これやるから、こいよ」
ガガーランはジェスチャーを交えながら、モモンガにウインクして見せる。が、モモンガはそれが『一杯やろうぜ』というものであるのが分からない。元々、彼には飲食の文化そのものが馴染みのないものだったから。
ガガーランはぽかんとしているモモンガの返事を待たずして『待ってるからな、絶対来いよ。んじゃな』とだけ残してさっさと踵を返してしまった。
「えぇ……」
置いてけぼりを食らったモモンガは訳もわからず立ち尽くすしかない。
腿にしがみつくクレムがひと言『へんなやつ』と零してたのは、少しだけ面白かった。
──夜。
漆黒の鎧に身を包んだモモンガは、ガガーランから受け取ったメモを頼りに王都を歩いていた。
何の用件なのかは彼は分からなかったが、それでも絶対来いと言われたなら行くしかない。そんなモモンガの足取りは少しだけ重かった。
往来は喧噪に満ちている。
しかしモモンガを前にした者達から順に、波紋の様に静寂が伝播していく。驚きから言葉を詰まらせ、喉を鳴らし、それから彼らの目は宝石の様に爛々と輝きを帯び始めるのだ。
この王都の文字通りの救世主──『漆黒の美姫』は、王都に住まう全ての民草の憧れの存在となっていた。市街戦だったこともあり、実際に英雄の活躍を見た者は多く、黒姫のモモンの新たな英雄譚は実際に血の通った言葉で広く知らしめられていく。
生きる伝説。
時代の救世主。
優しき大英雄。
言葉などどれでもいい。
しかし彼らは、最大の賛辞と敬意を持った言葉でモモンガのことを表さずにはいられない。そうでなければ今頃、王都はアンデッドが跋扈する死の都市へと変わっていたのだから。
「……ここか」
輝くような視線達に見送られ、モモンガは辿り着いた一軒の建物の前で足を止めた。どうにも酒場の様にも見えるが、戸には『本日貸切』の札が掛けてあった為に二の足を踏む。
「モモン様ですね。皆様中でお待ちです。ささ、中へお入りください」
給仕らしき男が、滑るようにモモンガのもとへやってきた。彼はにこやかな笑みを浮かべて入店を促してくる。モモンガは訳もわからないままなのだが、とりあえずは頷いて従うほかない。
中に入ると、やはりガガーランが出迎えてくれた。
「お! ようモモン! 待ってたぜ──ってありゃ、なんだその格好は」
「んぇ」
中には沢山の人間がいた。
思いの外、広い空間だ。
見知った顔もよくある。
『蒼の薔薇』は勿論、例の作戦に参加した兵達の姿も。彼らは突き立った幾つものテーブルの島を囲い、談笑していた。それはやはり、立食パーティの様な様相を呈している。
「おいお前ら! 主役の到着だ!」
ガガーランがそんな彼らに向けて、高らかに声を張り上げる。それを皮切りに店内中の人間がモモンガの存在に気がついたようで、彼らは喜びの声と表情を憚らず露わにした。
(え、なに。どゆこと?)
兜の中でクエスチョンマークを大量生産しているモモンガの反応を待たずして、ガガーランは手に持っていたゴブレットを高々と掲げた。
「『八本指』なき王国の未来! それから『漆黒の美姫』の活躍を祝して──乾杯ッ!」
活気ついた彼らも皆、高々とゴブレットを掲げ合う。よくわかってないモモンガだけが、手渡されたゴブレットをしどろもどろとそれに合わせていた。
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10.発覚
平和回
「それならそうと言っておいてくださいよ……」
ゴブレットを傾けながら、モモンガは愚痴る様にそう零す。じっとりとした視線を躱すガガーランの代わりに、ラキュースが申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさいねモモンさん。ガガーランが説明不足だったみたいで」
「あぁ? 俺ぁ、きっちり説明したつもりだぜ。これやるから来いってよ」
ガガーランは酒をかっ食らいながら、例のジェスチャーをやってみせた。一杯やるぜの、例のジェスチャーを。
(……来るんじゃなかった)
溜息の一つ、零したくもなる。
『八本指』を撲滅できた祝勝会と先に聞いていたら、モモンガは参加するつもりはなかった。彼は一人の冒険者として王都を守っただけに過ぎず、元より聞かされていたこの勢力と関わり合いになるつもりはなかったからだ。
モモンガはあくまでも冒険者として中立の立場にありたい。故に現在この場にいるのは、彼は居心地が悪かった。
しかしそんなことよりも、目下置かれている状況が更に居心地の悪さに拍車を掛ける。
「……ち、ちょっと近くないですか」
モモンガは絞り出す様に言葉を吐いた。
彼の脇を固めるのはイビルアイとティアだった。
ティアは当然の様にぴったりと寄り添い、それに対抗する様にイビルアイがモモンガにつかず離れずの距離を保っている。イビルアイの棘のある視線を、ティアは素知らぬ顔で受け流していた。
「気にしないで、モモンさん。まま……飲んで飲んで」
「お、おいティア! あまりモモン様に酒を飲ませ……ああっ、おい近いぞ! 離れろ!」
「近くない。女性同士なら健全な距離。……ぴと」
「……こ、この……!」
ティアになみなみと葡萄酒を注がれつつ、モモンガは内心ちょっとだけドギマギしていたりする。彼はこれほど女性に──ツアレを除けば──近寄られたことがない。まあそうは言っても、ティアとイビルアイ共にどちらも見目が若すぎる故、そういう感情を抱くには若干犯罪臭がしないでもないのでだいぶストッパーになっているのだが。
(なんか異常に懐かれてやしないか……)
平静を装う為に、モモンガは葡萄酒をかっ食らった。
空になったゴブレットに、ティアがすぐさま葡萄酒を注ぎ、器が満たされる。その手品とも見紛う鮮やかな酌には、モモンガをあわよくば酔わせたいという魂胆が見え隠れしていた。
まあ、毒に対する完全耐性があるモモンガに対しては『酔わせてお持ち帰り作戦』など絶対に無理なのだが。
「おいラキュース。いいのかこいつら野放しで」
「分かってるわよガガーラン。でも作戦中というわけではないのだし、人の恋愛に口を出すのはなんというか……」
「甘いリーダーだなおい。あいつらがモモンに粗相しても知らねぇぞ」
「彼女達もそこまで愚かじゃないと思うけど…………多分」
ティアの性癖は言わずもがなだしいつものことだ。
問題はイビルアイだろう。
起床して以来、モモンの話題が出るたびにパステルカラーのハートをホワホワと立ち上らせるイビルアイの恋愛感情を察知できない二人ではない。というか、イビルアイの挙動を見て察せられない者などいないだろう。
イビルアイはモモンにガチ恋している。
普段こういった席にこないイビルアイが、何故ここにいるのかというのは考えなくともわかることだ。彼女は遠慮なしに寄り添うティアに対抗するように、左手の薬指に収まる指輪を煌めかせた。
「あ、あの! モモン様……こ、これっ……ありがとうごじゃいま、ございました……っ」
「あ、ああ……いえ。私が持っていても役には立ちませんし、貴女が持っていた方が余程生産的ですから」
「そ、そそそ、それでも、嬉しい……です」
しおらしいイビルアイの態度は、モモンガは強烈な違和感しかない。初めて会った時は、テーブルの隅で腕を組んでむっつりとしていたのに、まるで本当に人が変わったようだ。その温度差に、若干引き気味にはなってしまう。二重人格ではないかと勘繰ってしまう程には。
(いや……こっちが素なのかもしれないな)
あの時はもしかしたら緊張していただけなのかもしれない、とモモンガは思い至る。見た目通りの、甘えん坊で可愛らしい少女──今の姿がイビルアイの本質なのかもしれない、と。そう無理矢理軌道修正すると、微笑ましく思えないでもない。
「あれからどうですか? お体の方は」
「お、おかげ様でこの通り大丈夫です! あの時モモン様が助けてくれたおかげです!」
「そ、そうですか。ラキュースさん達の介抱がよかったのでしょうね」
「モモン様が助けてくれたおかげです!」
「そ、そうですか……」
何だこの温度感。
モモンガはそう思わずにはいられなかった。同業者というよりは、まるでアイドルとファンの間の様な熱量感。
妙に湿度の高いティアとはまた別の矢印が、モモンガに突き刺さっていた。
「あ、あの……モモン様は、私のことを知って気味悪く思わないのですか?」
「え?」
「あの、ほら、私って……」
「あー……」
アンデッドだから。
そう言いたいのだろう。
もじもじとしているイビルアイに対し、モモンガは差別意識など勿論持ち合わせていない。彼の心の拠り所は今でも『
モモンガは一つ咳を払った。
「気味悪いだなんて思いませんよ」
「何故……なのですか」
「私にとっては、種族の違いなど大したものではありません。良い人間がいれば悪い人間もいる。良いドラゴンがいれば悪いドラゴンだっているでしょう。中には友人になれるアンデッドだっているかもしれない。ただ、それだけの話ですよ」
「はひゃわはぁ……」
「うわっ!?」
何が琴線に触れたのか。
イビルアイは脊髄を引っこ抜かれたが如く、モモンの腕にしな垂れかかった。
表情の変わらないティアがそれに追随する様に、モモンの逆側の腕を引いて体をくっつける。
目を白黒させて彷徨わせると、ラキュースと視線が重なった。彼女は困ったような笑みを浮かべた。
「ご、ごめんなさいねモモンさん。この子達、モモンさんのことを慕ってるんです」
「あ、いえ。それは良いんですけど……」
慕ってるというには余りにも距離が近く、湿度が高くないか。そう言いたいが、女性同士の距離感などモモンガには分かるわけもない。これがティアの言う通り、仲のいい女性同士の距離感だというのならば振り解くのも野暮だろう。
(いや、やっぱり近いわ。なんだこれ)
懐いた子犬のように頬を腕に擦り付けてくる二人の距離感には流石に違和感しかない。ティアはそんなモモンガと目が合うと、細指をツツツ、と胸甲に這わせた。
「ただ懐いてるんじゃない。私はモモンさんのことを性的な目で──」
「──そ、そういえば! モモンさんの鎧はいつ見ても凄いですよね! こんなに見事な鎧は長く冒険者をやってきた私達でも見たことがありませんよ! ね、ガガーラン!」
「お、おう」
露骨に話題を逸らしてくれるラキュースの善意が眩しい。何か妙な空気を嗅ぎ取ったモモンガがそれに乗っからない手はない。空気を変えなきゃやばいという、謎の警鐘に彼も突き動かされた。
「それを言うならラキュースさんの白銀の鎧も素敵じゃないですか。勇ましい、ラキュースさんらしい装備だと思います」
「あー……『
下手な笑顔で何故か口ごもるラキュースは、自分の装備のことを余り語りたくなさそうだった。そんな彼女に対して、モモンガは違和感を抱いた。
「何かデメリットがあるとか?」
「あ、いえ。そういうわけでは……」
「実はあれは清らかな乙女にしか着用を許されない。よってラキュースは処女」
しどろもどろとしているラキュースの横から、ティナが悪戯っぽい色を瞳に宿しながら、さらりととんでもない爆弾を投下した。
「ちょっとティナ!? 言わなくてもいいでしょうそんなこと!」
瞬間的に赤面したラキュースは、ティナの肩をひっつかんで捲し立てた……が、当のティナはどこ吹く風だ。モモンガは口に含んだ葡萄酒を噴き出しそうになりながら、動揺を抑えてなんとかそれを飲み下した。
ラキュースの見目は若く、余りにも麗しい。
そんな彼女が処女だと明け透けに暴露されたのは、元男のモモンガとしては名状しがたい感情を得てしまうのは必至なわけで。
(マジか……いや、何で俺が動揺してんだ)
モモンガの淫魔としての捕食本能が、刺激されてしまう。高揚を得たのはその所為だろう。
だが、ラキュース本人からすれば堪ったものではないだろう。モモンガはせめてもの慰めとして、何とか話題を横に逸らそうと試みた。
「あー……その、女性用の装備って、何故かそういったセクハラじみたフレーバーテキスト……ゴホン、制約のものが多いですよね」
「モモンさんは『無垢なる白雪』以外にもそういったものをご存じなのですか?」
若干涙目のラキュースを慰めるように、モモンガは自身の持ち合わせているセクハラ装備や実体験を頭に思い浮かべた。
例に挙げられるのは兎化魔法や……やはり自身の取得しているスキルが浮かんでくる。
「ええ。武器や装備とはまた異なりますが、私の召喚魔獣にバイコーンというものがいるんです。これが中々厄介な特性でして、これも清らかな乙女の騎乗を許さないので私が召喚したところで全く意味を成さないんですよ」
「──え?」
「ん……? あっ──」
言わなくてもいいことは、何故か口に出てしまうものである。
それまで大人しく話を聞いていた周囲の人間の目が、面白い様にまんまるに形を変えてモモンガを捉えている。それはもう、穴が開く程に。
聞き耳を立てていたらしい他の卓の人間達も、おっかなびっくりといった様子でモモンガのことを見ていた。
会場が、冷や水を頭から被ったように静寂を得た。
『漆黒の美姫』──モモン。
傾城傾国の美を冠すると名高い
静寂の後、ティアは雄叫び、イビルアイは隠れてガッツポーズをし、ラキュースは目を白黒させ、ガガーランは絵心のない人間が左手で描いたみたいな顔になっていた。聞き耳を立てていた男衆は不必要な咳払いで動揺を隠そうとしていたが、それがどれほどの効用があったかは言うまでもない。
墓穴を掘ったモモンガただ一人、背中に変な汗をかきつつ謎の羞恥心で顔を赤らめていた。
後にどこから溢れたのかは分からないが、モモンは処女であると言う噂も、実しやかに囁かれることとなる。
傾城傾国の漆黒の美姫モモン(元男)(元骨)(転生者)(淫魔)(子持ち?)(処女)
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11.奇縁
ガゼフは鉛の様な疲労感を覚えていた。
それは肉体的にも精神的にも、だ。
溜息が零れる。
件の事件で大混乱に見舞われた王都の警邏を始め、第一王子バルブロの国葬準備に伴う警備の打ち合わせを並列して行っているガゼフは多忙を極めていた。
勿論その全てが、貴族のおべんちゃらを聞き流す日常よりも有意義なことではあるのだが、それにしたって疲れるものは疲れる。
空を見上げると、満天の星が瞬いていた。
自宅が見えてくる。
ガゼフは鳴った腹の音の大きさに、眉間に皺を寄せた。
思い起こされるのは、いつの日かアルベドと再会したあの時だ。空腹に耐えかねる彼を出迎えてくれた、大層な馳走を並べている新妻仕様のアルベドの姿が今も網膜に焼きついている。
もし
……すると、道の向こう側から見知った影が近づいてくる。
小柄な老婦人は、ガゼフが雇っている召使いに他ならない。彼女は主人の姿を認めると、小さく頭を垂れた。
「ストロノーフ様、私は先に帰らせていただきますね」
「ああ。飯の準備はできているだろうか」
「……ええ。それと、お客人もお見えになっていますよ」
「……! そ、そうか」
ガゼフは高揚を得た。
まさか、という思いが腹の腑から滲み出してくる。
この状況は限りなくあの時に近い。
そう思っても仕方がなかった。
もしかしてアルベドが──と浮足立っても、それは何も間違っていない。
あの時と比べると、召使いの表情が少しぎこちないように思えなくもないが。
ガゼフは召使いに礼と別れを告げると、逸る気持ちを抑え、少しだけ頭髪の癖を正し、軽くなった足で一歩踏み出した。
(アルベド殿が……?)
勝手知ったる玄関を開けて我が家へ入るや、ガゼフは一直線にリビングを目指していく。夕餉の良い香りがする。火と、包丁がまな板を打つ音色が聞こえてくる。間違いないと確信して、彼はリビングへと到達した。
そこには勿論エプロンを着用した──
「待ちわびたぞ。ガゼフ・ストロノーフ」
──ニグンが待っていた。
漆黒の修道服の上から桃色のエプロンを着用する面妖さ。アルベド以上に予想外な来客。ガゼフの思考を大宇宙のスクリーンセーバーが支配したのは言うまでもなく……。
「俺もいるぞ」
ガゼフが自我を取り戻したのは、好敵手たるブレイン・アングラウスのその声が耳朶を打ったと同時だった。
──困惑に次ぐ困惑。
いや、ブレインがそこにいるのは問題ではない。ガゼフ自身がうちに来いと言ったからだ。しかしニグンともなると……。
「何を呆けているストロノーフ。食事の支度ができたぞ。早く手を洗ってこい」
対するニグンは、そんなガゼフの心中など露知らずといった態度で、テーブルの上にどんと鍋を置いていた。
「何故貴様がここにいるんだッ!」
「何故も何も、先に言っていたとおりだ。我が神についてお前に聞きたいことがある。私はお前の窮地を救ってやった。今度はお前が私に借りを返す番だ。その借りを返してもらう為にここを訪問したに過ぎない」
「……だからといって、何なんだこれは……! 俺は貴様と馴れ合うつもりなどないぞ!」
何なんだ、というのは食卓に並べられた妙に美味そうな馳走達のことを指す。肉の香草焼きから、ふかふかの丸パン。美味そうなスープに、何やら見たこともないが良い香りの漂う鍋。しかしながら殺し合い、王国の村々を滅ぼして回っていた狂敵の出す食事など、ガゼフは口にしたくもない。
そんなガゼフの心中を知ってか知らずか、ニグンは淡々と自分の意見を述べ始める。
「そう昂るな。過去のことを水に流してほしいなどどは思わん。だが、だからと言っていがみ合ってばかりでは何も進まない。何も生まれない。私も馴れ合うつもりはないが、友好的手段として『同じ釜の飯を食う』というのはかの六大神が遺された至言でもあるのだ。まずは腹ごしらえから始めようじゃないか」
「じゃあ何か? お前は俺と少しでも懇意になりたいとでも思っているのか」
「語弊があるが、そう捉えてもらっても構わない」
「なっ……」
「我が神がお認めになられた男であるストロノーフには……少しだけ憧れと嫉妬の感情を抱いている」
明け透けにそう言うニグンに、ガゼフは面食らう。
目の前の男が何を考えているのか、心理戦に疎いガゼフには分からなかった。
……僅かに沈黙が流れる。
その静寂を打ったのは、席に座す男の腹の虫だった。
「なぁ、どうでもいいけどよ。もう食っちまってもいいか?」
ぶっきらぼうに手を上げるブレインのその鶴の一声が、世にも奇妙な食事会の始まりの合図となってしまった。
「なるほどね……中々、修復できない因縁があるんだなお前達の間には」
酒を呷り、僅かに頬に朱が差してきたブレインは、興味深そうに両者を眺めている。彼は料理を摘まみながら、二人の関係についてざっくりと教えてもらった。
片や無辜の民を守る為に駆けずり回ってきた王国の守護者。片や人類繁栄の為とはいえ罪なき村々を滅ぼし回っていた法国の侵略者。相容れるわけもない。
ブレインとニグンは料理を次々食べているものの、ガゼフは未だに自分が用意した水にしか手をつけていなかった。
「助けてもらったことには感謝している。しかし王国戦士長として、俺はお前のことを認めてやるわけにはいかない」
「好きにするがいいさ。ただし、約束は果たしてもらう」
認めない。借りは返してもらう。
先程から両者のスタンスはこんな感じで、平行線を辿っているばかりだ。
「アングラウス、何故こんな奴と一緒にいる」
じとりと、ガゼフの視線がブレインに纏った。
そんな目で見られる謂れのないブレインは、軽く笑って見せる。
「勘違いするなよストロノーフ。俺は別にこいつと友達でもなければ知り合いでもない。さっき顔を合わせたばかりさ。このお前の家でな」
「そうか……」
ニグンとブレインはたまたまここで鉢合わせた。
それ以上でもそれ以下の関係値もない。
言葉の調子でそれが真実であると分かると、ガゼフは剣吞とした気配を霧散させた。
「……さてストロノーフ。私が聞きたいことは二つある。これを聞く為に、私はこの地へとやってきた」
指を二本立て、光の宿らぬ瞳でガゼフを見据えた。
ニグンは包み隠さず、質問を投げかける。
「我が神の尊き名と、その居場所だ」
……神。
ニグンの口からよく出るそのワードの意味を噛み砕くように、ガゼフはひと口、ゴブレットに口を付けた。
「……確かお前の言うその神とは六大神のことを指しているのではない、と以前言っていたな」
「ああ。カルネ村の付近で我々陽光聖典を下した、あの美しき神のことだ。知らないとは言わせんぞ」
「美しき神……?」
アルベドのことだ、とガゼフはすぐに思い至った。何故ニグンがアルベドのことを神と言っているのかは分からないが、神の如き力を持つ美しい人物などアルベド以外該当しない。
ガゼフは眉を顰めながら、警戒心を高めた。
アルベドの情報をみだりに流すつもりなど毛頭ない。ニグン相手なら尚更だ。
「あの御仁のことを指しているのなら、俺は何も言うつもりはない」
ともすればその眼光は殺気をすら纏う。
ガゼフの視線に射抜かれたニグンは涼しげに笑った。それは想定内だと、言わんばかりだ。
「そう来るとは思っていたとも。神の情報をひけらかさない……それもまた信心。さりとて私は洗礼を受け、神の存在に気づいた法国唯一の人間なのだ。おいそれと引き下がるわけにはいかん」
「おいおいさっきから聞いてりゃ、何だよその神ってのは。まさか本当の神でもあるめぇよ」
二人のやりとりを眺めていたブレインが、ぶっきらぼうに質問を投げ掛けると、ニグンは深く頷いた。
「言葉の通り、神だ。金色の瞳を持ち、頭に一対の角を有した正真正銘の美しき女神。気高く、聡明で、勇者を勇者と呼び、愚者には有難い罰を与えてくださる、真の神だ」
狂信者の瞳に、初めて色が宿る。
御神体を思い浮かべるニグンの拳は、震えていた。
しかしブレインは訝しむ。
その疑念をそのまま、ニグンに投げ掛けた。
「一対のツノ……? 金色の瞳……? おい待てよ。その神様ってのは、特徴から察するともしかして悪魔の類なんじゃねぇのか? 異形種……でないとしてもどう贔屓目に見ても亜人だろう。お前ら法国民の人間至上主義には反するんじゃないか」
「確かに主は異形種であらせられる。しかしながら、神という次元に於いては異形種だからとその全てが人間に仇なす存在と考えるのは早計だ。死の神たるスルシャーナ様がそうであったようにな」
持論を並べるニグンの語りが調子付く。
彼は目を細めながら、在りし日の情景を思い浮かべていた。
「大義名分に酔いしれ、ストロノーフ抹殺を嬉々とする私に神はこう仰られた。『国に住まう無辜の民の笑顔を守る為、隣人の明日を守る為、命を賭して立ち上がるあの勇者を嘲笑う資格がお前らのどこにあるというんだ』……とな」
ツ……とニグンの頬を、涙が滑っていく。
まさかの落涙に、ガゼフとブレインは同様に目を丸くしていた。ニグンは握る拳を振るわせながら、熱弁を振るう。
「あの時の私には愚かなことにそれが理解できなかった。しかし我が目が見開かれた時、私は頭を殴られたような感覚を覚えたのだ。神の仰る通りだ。人類繁栄の為とはいえ、弱者を守護しようとするストロノーフを何も嬉々として殺す必要はない。神の御言葉の通り、我々はただの快楽殺人集団に過ぎなかったのだ」
ニグンは懺悔のように、言葉を紡ぎだす。
淀みなく口からでる言葉達は、まるで立て板に水だ。ニグンは隙なく、力強くこう締めくくる。
「私は神手ずからの天罰を賜り、改心……否、開眼した。私はあの時のニグン・グリット・ルーインとはものが違う」
信じる神、生きる目的、その身の全てを捧げるべき神をその目で目撃した狂信者の言葉の重みはまるで違う。ガゼフとブレインはその変態的な執着を察知するや、僅かに気圧された。
「その神に会って、お前はどうしたいんだ」
「人類を導いて頂けるよう嘆願するのみ。法国に招き、君臨して頂くのが私の使命だ」
「それができるのか?」
神を説得できるのか。
異形種が君臨することを法国はよしとするのか。
それができるのか、というのは二つの意味が含まれており、無論ニグンもそれは理解できている。
「……できるかできないかの話ではない。それをお伝えすることが生まれ変わった私の使命だ。それと……仕えるべき神に矛を向ける節穴であったなら、所詮法国はそれまでのものだったということだ」
平坦な声音には、底知れない凄みが備わっている。しかし、だからこそ、ガゼフは改めて首を横へと振った。
「お前には借りがある。しかしかの御仁に関する情報は与えることはできない。お前の存在を見て見ぬ振りだけはしてやるから、この飯を食ったらさっさと立ち去るんだ」
「そう言うとは知っていた。故に、取引がしたい」
「取引……?」
「力を渇望しているな? ストロノーフ。お前はそういう目をしている」
「ぬ……」
見透かされるような視線。
本心をぴたりと言い当てたニグンに、ガゼフは言葉がやや詰まる。
「王都でのお前の戦いぶりを見ていた。以前私と矛を交えた時とは比べ物にならない強さを得ていたな。恐らく私に敗北し、神と出会った事で何らかの刺激を得たのだろう」
スープにひと口つけ、呼吸をひとつ置いたニグンは涼やかに続ける。
「ブレイン・アングラウスをここに招いた理由も俺にはうすうす分かっているぞ。自分の鍛錬に付き合わせる為だろう」
まさかの流れ弾を食らったブレインの目が、僅かに丸くなる。
彼は訝しむような目でガゼフを捉えた。
「おいおい、そりゃ本当か?」
「……違うと言ったら嘘になる。アングラウス、お前には本当は王国戦士団の一員になって欲しいと思っているんだが、そういう柄じゃないのは知っている。だから、うちの兵士達を鍛える外部の特別顧問になって欲しいと思っていたんだ。短期間でもいい。闇組織に手を染めているよりは余程いいはずだ」
「それはそうだが……俺が指導を? それこそ柄じゃねぇよ」
「……というのは建前で、俺の鍛錬に付き合って欲しいというのが本命なんだがな。勿論給金は弾む。ここを拠点にしてくれても構わない。現在一文無しのお前にとっても魅力的な話だと思うが?」
「そりゃあ、まあ……」
顎の無精髭に手を当て、ブレインは少しだけ考え込む。
確かに目先の就職先としては悪くない──と考えたところで、大きな咳払いで意識を戻された。
「話を戻そう」
ニグンはそう言って、無機質な光を帯びた目をガゼフに差し向ける。
「お前は確かに白兵戦での練度が上がったが、
「ぐ……」
ガゼフは歯噛みした。
ニグンの言っていることは尤もだ。
デイバーノックに良い様にやられていた苦い記憶が呼び起される。昨夜夢で見たほどの悪夢だ。
下唇を噛むガゼフに、ニグンは囁くようにこう言った。
まるで、悪魔のように。
「私も戦闘鍛錬の相手を買って出よう」
「……なに?」
「上には上がいるとは言え、私の魔法の戦闘能力は法国の中でも指折りだ。王国で集められる程度の生半な知識を詰め込んだり経験をするくらいなら、私と手合わせしていた方が対魔法戦の訓練としては余程効率的だと思うのだがね」
「……それがお前の言う取引の手札か? 確かに……確かに俺を釣るには良い提案だが、その程度でかの御仁の情報を易々言うわけには──」
「──それは織り込み済みだと言っているだろう」
「ならば、俺になにを求めるというのだ……」
「しばらく、この家に住まわせてくれ。それが俺の求める対価だ」
「…………は、……はぁ!?」
あんぐりと、ガゼフの口が開く。
傍観していたブレインも同様だ。
ニグン一人だけが、表情を崩さない。彼はフリーズしている二人をよそに、言葉をつづけた。
「お前の口が梃子でも動かないのは分かっていた。だが、我が神の消息を知る為にこの王国を何の取っ掛かりもなしに彷徨うのはあまりにも無策なのだ」
そう述べるニグンの意図をいち早く察知したのはブレイン。
彼はなるほどと相槌を打つと、確かに納得できなくもない……という表情を浮かべた。
「なるほど。その神様と少しでも接点のあるストロノーフの周りに張り付いてりゃ、僅かでも情報が得られるかもしれない……そういう算段か」
「その通りだ」
あっけらかんと頷くニグンに、ガゼフは顔を真っ赤にして立ち上がった。
「許せるか、そんなこと!? 貴様と同じ屋根の下で寝ろと!? 冗談ではない!」
「しかしお前は俺に借りがある。それも命を救われたという、余りにも重たい借りがな」
「ぐっ……」
「我が神について何か話せとは言わない。俺はこの家に厄介になるだけでいい。それに対魔法戦の手合いも買って出るというのだ。譲歩してるのは俺だぞストロノーフ」
「ぐ、ぐ……っ」
言い淀むガゼフも律儀な奴だ、とブレインは鼻で笑う。
借りなど無視すればいいだけなのに、この勇者は馬鹿正直に恩に報いようとするから防戦になる。
ニグンはダメ押しと言わんばかりに、もう一つのメリットを提示した。
「お前がこの契約に了承したなら、この家の炊事も俺が買って出よう」
「な、なに?」
「お前の雇っている召使いは一体何なんだ。戦士相手に塩気の薄い精進料理ばかり作りおって。あんな腑抜けた料理ばかり食べていては強くなるものも強くなれん。体は資本だぞストロノーフ」
言葉は強いが、目の前に並べられた料理の群がその言葉の意味を裏付ける。
ガゼフにとっては悔しいが、先程からビジュアルと匂いが彼の腹の虫を屈服させようとしてくるのだ。怨敵が料理が上手いなど、知りたくもなかった。
「あの老婦が病人食の様なものばかり作りおったから、俺がエプロンと包丁をふんだくったのだ。見ろ、この法国仕込みのスペシャルメニューを。強くなりたいならこれくらいで腹ごしらえせねば話にならん」
「俺はお前の作った料理など……」
「そう言わずに食ってみろよストロノーフ。意外とイケるぜ」
ブレインはそう言いながら、鍋の中の半液体状の茶色のソースを自分の取り皿に盛り付けた。野菜や肉がごろりとソースを身に纏い、それはもう空きっ腹のガゼフを苛んで止まない。
「これは六大神が広めたもうた『カリィルゥ』と言うものだ。数種のスパイスを混ぜ合わせたこのソースはパンにつけても米に掛けても超一品。俺の得意料理だ。騙されたと思って一口食ってみろ。毒はない」
「ぐ……」
過酷な鍛錬終わりの腹は既に限界を迎えそうだった。
ガゼフは「ひと口だけだぞ」と睨んで、『カリィルゥ』を匙で自分の口に運ぶと──
(……クソ)
──美味い。
非の打ち所がない美味さだった。
何より、疲れた体にこの辛みと濃い味付けは染み渡る。召使いには悪いと思うが、あの塩気のない料理と比べると雲泥の差がそこにあったのだ。
何でお前こんなに料理が上手いんだよとぶちぎれそうにすらなる。そんなガゼフの胃袋を掴んだと睨んだニグンは、にやりと笑みを浮かべた。
「美味いか、ストロノーフ」
「う、うまい……」
「ちなみにこれらの食材は俺が買ってきたものだ。お前が私の契約を破棄するというなら、今のひと口で終わりにするとしよう。これらの料理は全て私とブレイン・アングラウスでいただくとする」
「な……っ」
スパイスというのは、食欲を増進させる効果がある。
腹の空いた獣の様なガゼフにあのひと口で終わりというのは、余りにも酷すぎる。故に、判断を鈍らせてしまう。
「さぁ、どうするストロノーフ」
「ぐぬ……」
「さあ……さぁ!」
「……お前をこの家に寝泊まりさせるだけだ! 鍛錬は毎日付き合ってもらう! それ以外の馴れ合いは一切ナシだ! いいな!?」
ニグンはニヤリと笑った。
まんまと乗らされたガゼフにとってその笑みはただただ腹立たしいものでしかない……が。
契約は成った。
(……前途多難だな、こりゃ)
頭を掻くブレインは、疲れた様に笑った。纏まった金が手に入ったら、どこかにさっさと拠点を移そうとも。
かくしてガゼフ、ニグン、ブレインの三者による奇妙な同棲生活が始まってしまった。
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12.無常
風が、白いワンピースの裾を静かに撫ぜる。
つばの広い白い帽子で日光を遮りながら、モモンガは湖面に釣り糸を垂らしていた。
釣果はなし。
そういった
見上げれば、呑気な雲が揺蕩っている。湖面を魚が時折跳ねる。
モモンガはそんな景色を眺めながら、今までのことを思い出していた。
──王都での動乱から、既に一年もの月日が経過していた。
……あれからの日々も、モモンガは濃密な時間を過ごしていた。
『蒼の薔薇』と親交を深めた彼は、
それから程なくして元々興味があったモモンガは、ツアレとクレムをカルネ村へ託し、帝国へと赴いた。そこで帝国そのものの存続が危ぶまれる大事件に巻き込まれることになるのだが、これはまた別の機会に話すとしよう。
冒険者モモンはそうして、人類史に燦然と輝く大英雄となった……なってしまった。
今や王国と帝国でモモンの名を知らぬ者はいない。遠い法国や聖王国でも、その名は広く知らしめられている。
大英雄の肩書きは一般人鈴木悟に対しては余りにも過分なものだ。故にこの様な余白のできるゆったりとした時間が、モモンガにとってはとても大切なものに思えてしまう。
(幸せ……とはこういうものなのだろうか。満ち足りてる感覚はあるけど……)
ぼんやりと、雲を眺める。
なんにもない休暇。釣り糸を垂らし、ただただ空の蒼さや風の滑らかさを感じるだけの空白の時間。
こんな時、幸せとは何かを考えてしまう。
社畜時代を思えば、明らかに今の方が暮らしは豊かだ。
睡眠時間の少なさや激務に心身を削ることはまずない。『蒼の薔薇』や『漆黒の剣』……カルネ村の住人とも心を通わせ、リアルで友人がいなかった頃と比べると余程健康的だ。まともな飲食ができることは日々の楽しみだし、豊かな自然と触れ合えることもまた心を穏やかにしてくれる。
……しかしこの生活がモモンガにとっての最上級の幸せかと問われれば、疑問が残る。
それ以上の幸せの時間が彼にはあったからだ。
「……」
モモンガは白魚の様な細指で、『リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』を弄んだ。日光を受ける赤い宝玉の光に、美しい形の目が細ばんだ。
『アインズ・ウール・ゴウン』で過ごした日々は、まさにモモンガにとっての幸せそのものだった。
あの頃と比べると、何もかもが霞んで見えてしまう。素の鈴木悟を露わにして、素の感情を曝け出して、本当の意味での仲間と笑い合ったあの黄金の記憶は、今もモモンガの心を縛りつけていた。大英雄と持て囃される中で、彼は喧騒の最中にひっそりと孤独感を感じてしまっている。
「……」
細く息を吐いて、ぼんやりと釣り糸の先を見つめる。魚はまだ掛からない。ゆったりとした時間だけが、過ぎていった。
「幸せ、ですか……?」
幸せとは何か。
そう問われたイビルアイは、不思議そうにモモンガの顔を見上げた。
クラシカルな雰囲気のバーカウンターで隣り合う二人の前には、カクテルが置かれている。モモンガのものは目減りしているが、飲食のできないイビルアイのものは当然出されたままの量を保っていた。
イビルアイは先の質問を噛み砕くと、しどろもどろに答えた。
「わ、私の幸せは、今こうしてモモン様と二人でいることで──」
言葉が尻すぼみすぎて何を言っているのか分からない。モモンガがきょとんとしていると、イビルアイは邪気を払う様にぶんぶんと頭を振った。
「モモン様は幸せではないのですか?」
「幸せ……」
「ほ、ほら。モモン様はとてもお強いですし、名だって近隣諸国にまで轟いているほどではないですか。不思議なマジックアイテムだって沢山持っていますし、ぶっちゃけて言えばお金にだって困らないでしょう?」
富、名声、力。そして、美貌……。
持てるものは全て持っている。
そう言いたいイビルアイに、モモンガはうーんと唸った。幸せだと彼自身思う。言葉を正せば、幸せでなければならないと。
この世界には死がありふれている。
貧困、飢え、病、モンスターに殺されることだって
そんな厄災を全て払い除け、安全圏で温かい飯が食べれるモモンガはきっと幸せでなければいけない。
……しかし満たされない。
瞼を落とすとき、モンスターと出会ったとき、未知を体験したとき、知人と言葉を交わすとき……どうしても『アインズ・ウール・ゴウン』が脳裏を掠めるのだ。
あの頃は良かった、と。
あの頃には戻れないのだ、と。
ギルメンと話したい。またあの頃に戻って皆と未知を求めて冒険をしたい。そう思ってしまう。
故に今モモンガが感じる幸せとは、あの頃の劣化に成り下がってしまう。
憐れで、不幸せだとモモンガは思う。
「……私にとって幸せとは、結局過去のものでしかないのかもしれません」
「……モモン様。それはどういう──」
「すみません。せっかくの休暇にこんな暗い話をしてしまって」
申し訳なさそうに、疲れた笑みを浮かべるモモンガの横顔を見ていたイビルアイの心臓が収縮した。彼女は膝の上の拳を固めると、控えめに言葉を投げかける。
「差し出がましいようですが、モモン様」
イビルアイは言葉を選びながら、仮面の下でモモンガの瞳を真っ直ぐに捉えていた。
「……幸せとは呪いの様なものでもあります」
「……呪い」
「ええ。過去の幸せが眩しければ眩しいほど、今の自分が惨めに思えてしまう。もう自分は幸せにはなれないのだと思えてならないのです」
「イビルアイさんも……?」
そういった過去があるのか。
イビルアイは静かに頷いた。彼女にも忘れられない幸せの記憶があった。もうどうあっても取り返せない、幸せだった時間が。
「なくなった幸せは取り戻すことができません。しかし……時間が、解決してくれますよ。私も過去に色々……本当に、色々とありましたが、冒険をして、『蒼の薔薇』に入って……モ、モモン様とこうして過ごす時間を幸せだと思える様には、私はなりました」
「……そうですか」
モモンガは淡い緑色のカクテルに視線を落としながら、控えめに下唇を噛んだ。果たして時間が解決してくれるのだろうかと、彼は素直に思う。あの記憶を忘れない自信があるからだ。薄まることも、それを何かで上書きできるような気も起きない。
あの頃の記憶にノイズが掛かることは、モモンガにとっては不幸なことでもあるから。
「……強いですね、イビルアイさんは」
「そんなことはありません。それが『普通』……人間とは、そうやって生きていくしかないのですから。傷ついて、それでも前を向くしかない。モモン様にだって、きっとできますよ」
「そうでしょうか……」
「で、できます! モモン様は、とても強いお方ですから……」
モモンガは少し笑って、沈黙を保った。
イビルアイはその沈黙と笑みが否定の意味だと感じて、小さな拳を再び握り込んだ。
「今日はありがとうございました」
夜の王都を並んで歩く。
軽く頭を下げるモモンガに、イビルアイはとんでもないと首を振った。
「こちらこそありがとうございました……! というか、約束を取り付けたのは私ですから礼を言うのはこちらの方です」
「そうでしょうか。最後なんかは私の愚痴ばかりで……」
「愚痴ならいつでも聞かせてください。気の利いたことは言えませんが……聞くだけなら私は得意ですから」
「ふふ、優しいですねイビルアイさんは」
「……あぅ」
優しくするのは、優しい気持ちになれるのは貴女が好きだから……という言葉をイビルアイは言えない。愛を告白しなくとも、今はこの距離感がとても心地よい。
こんな毎日がずっと続けばいいと、イビルアイは小さな幸せを噛み締めて──
「なんだ!?」
──目の前に、白金の鎧が降ってきた。
着地を取ることもできずに石畳に激突したそれは、至る所が破損している。空洞を晒しているそれは、僅かな沈黙の後にやがてむくりと起き上がった。
警戒の態勢を取るモモンガと、仮面の下で目を丸くするイビルアイ。彼女は、その鎧の名を知っていた。
「ツ、ツアー……? もしかして、ツアーか?」
ツアー。
そう呼ばれた鎧はやがて立ち上がると、モモンガを見据えてこう言い放つ。
「モモン、助けて欲しい」
言葉の割には、語気は弱々しくない。
困惑を示すモモンガに、彼は立て続けにこう言った。
「アーグランド評議国が、一体のアンデッドに滅ぼされた……」
小さな幸せの連続は、そうして終わりを迎えることになる。
イビルアイとモモンガは、目を見開いてその場に立ち尽くしていた。
第五章 動乱 終了です。
次回……
最終章 the goal of all life is death を開始します。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
そしてここからがまた長くなりますので、最後まで何卒よろしくお願いします。
※帝国編は完結後DLC要素にでもしようかなと思ってます
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最終章『the goal of all life is death』
1.NEXUS
──アーグランド評議国がアンデッドによって滅ぼされた。
その一報は瞬く間に近隣諸国を震撼させた。
国境が面しているリ・エスティーゼ王国は勿論、帝国、法国、聖王国にまでその恐怖は蔓延していく。
評議国は亜人種の国である為、人類種国家群からすればあまり評判のいいものではない。しかしその国力は、かの法国に勝るとも劣らぬものとされている。
評議国が滅んだことは人間にとって吉報だという側面もあるが、それを滅ぼしたアンデッドの出現となればそれ以上の凶報となった。
生者を憎む悍ましいアンデッドに比べれば、話の通じる亜人はまだまだ可愛いものだ。かのアンデッドがいつ人類種の生存圏に一歩踏み出すのかと思えば、穏やかに眠れる日など一日たりともない。人類は現在、言葉通りの窮地に立たされている。
「まず、本日は緊急の招集に応じてくださったことに感謝致します。事がことのために早速本題に移らせていただきたく存じます」
リ・エスティーゼ王国、国王直轄領城塞都市エ・ランテル。貴賓館には錚々たる顔触れが集まっていた。
スレイン法国最高神官長。
リ・エスティーゼ王国が国王ザナック・ヴァルレオン・イガナ・ライル・ヴァイセルフ。そしてバハルス帝国皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス。
そして彼らに付き従う者達もいる。
周辺国家最強と称される王国戦士長ガゼフ・ストロノーフ。帝国四騎士。
──そして法国が擁する最強の特殊部隊『漆黒聖典』……。
三国のトップが一堂に会し同じ卓を囲むなど異例中の異例。そして近隣諸国最高戦力が集うこの貴賓館の部屋全体が、異常な緊迫感が張り詰めていた。
「かのアンデッドを討つ為に、我々人類は今こそ手を取り合い、団結する必要がある」
スレイン法国最高神官長は、厳かな声を奏で、辺りを見回した。その言に異を唱える者など誰ひとりとていない。いがみ合っている王国と帝国も、今はその様なことで争っている場合ではないと分かっているからだ。今は過去を忘れ、手を取り合ってでもこの事態を脱する必要がある。
ちなみに竜王国と聖王国に関しては、ビーストマンや亜人との争いに掛かりきりになっている為、この招集に応じることはできなかった。それに関する謝罪の意味も込めた書簡は二国から届いている。国の存続に関わる事態である為、招集に応じなかった二国にこの場で不満を漏らすものはいない。
……話は戻る。
最高神官長の続きを継投するように、傍で控えていた土の神官長たるレイモンが口を開いた。
「皆様もご存じの通り、アーグランド評議国がアンデッドによって滅ぼされました。現在評議国は首都のドラゴンズブレスを中心に、現れたアンデッドによってゾンビのはびこる死の国へと変えられています。状況はお配りした資料のとおりです」
それぞれの卓上に置かれた紙には、信じ難いような地獄の状況が羅列書きされている。眉間に皺を寄せた帝国皇帝ジルクニフが、言葉を絞り出した。
「まずはこれだけの情報をこの短期間に集められたことに感謝したい。しかしここに書かれていることは真実なのだろうか。評議国を一体のアンデッドが滅ぼしたというのも俄かに信じ難いが、デスナイトやそれと同等と思われるアンデッドが日毎に増殖しているというのは……しかも殺された亜人は皆強力なゾンビになっているなどと……」
「エルニクス帝は我らの言が信じられませんか?」
「いや、そういうわけでは……」
刺す様な視線に、ジルクニフが僅かに苦い表情を浮かべる。ジルクニフ以下の彼ら帝国勢は、デスナイトの悍ましさを痛いほど理解している。故にそのデスナイトが一日にダースレベルで増えているなど、絶望でしかない。
「して、そのアンデッドとはどういった外見や特徴をしているのですか?」
沈黙を保っていたザナックが資料に目を落としながら質問すると、レイモンが言葉を渋りながらそれに答えた。
「それについては調査中……分からないとしか今のところは言えませんな。実際に評議国でその姿を見た、もしくは伝え聞いたという亜人からは定かな情報は得られておりません。曰く巨大な影の様だったと言う者もいれば、曰く漆黒に染まった大魔法使いの様な風体だったと言う者もおります」
「なるほど……」
「どちらにせよ、奴の体は漆黒という共通点があります。これにより、我々は現れたアンデッドを『カゲ』と呼んでおります」
「『カゲ』……か。では我々もそう呼ぶこととしよう。して、その『カゲ』は現在どこへ?」
「確認はできておりませんが、ドラゴンブレスに突如出現したとされる墳墓……の様なものの地下にいると思われます」
「評議国を滅ぼすだけの力……突如現れた墳墓……いよいよ意味が分からないな」
「それについては私達法国も同意です」
現れた脅威に対して情報がまるで足りていない。
卓についている全ての者が、その状態を改めて再認識し、表情に影を落とした。
しかし、とレイモンが静寂を払う様に口を開く。
「手をこまねいて情報を集めている時間はありません。事態は刻一刻と深刻化しております。我々がこうして管を巻いている最中にも、新たなるアンデッドが続々と産み出されていると思えば」
「『カゲ』を討つのであれば、一日でも早く行動しなければ……ということですな」
ザナックは言いながら、下唇を噛んだ。
推定難度百を超える化け物を産み続ける『カゲ』の討伐など、不可能だということを彼は知っている。王国の虎の子であるガゼフとブレインを出撃させたところで、焼け石に水だろう。そもそもデスナイトとのサシの勝負で満足に撃破できるのかも怪しいものだ。
「『カゲ』はともかく、その配下の化け物達を突破する手立てはあるのでしょうか。パラダイン老、貴方はデスナイトをカッツェ平野で倒したということを噂で耳にしたのだが……」
ザナックが視線を寄越すと、フールーダは皺の刻んだ顔を静かに縦へ振った。
「……撃破する手立てはあります。しかしあれはデスナイトが一体であったから運が良かったというだけに過ぎませんな」
「……というと?」
「あれには対空性能がない。『
「……パラダイン老であってもデスナイトを二体以上受け持つのは厳しい、と」
「そういうことです。それに、この資料によればデスナイトと同等のアンデッドも幾つか産み出されております。仮にそれらに飛行能力、もしくは対空性能があったら詰みですな」
「なるほど……」
ザナックは机の下で拳を握りしめた。
これではどうしようもない。取り付く島もないとはこのことだ。
聞いていたジルクニフも唇を噛み締める。
人類を脅かす『カゲ』の撃破など、これでは夢のまた夢と気を落としたところで──
「ご安心ください。『カゲ』は我らスレイン法国が討ちます」
──国王、皇帝の上に浮かぶ曇天を晴らす様に、神官長の後ろに控えていた男がにこやかに言葉を投げ掛けた。中性的な顔立ちに低い身長……戦士風のナリをしているが、見すぼらしい槍と相俟ってその言葉とは裏腹にどこか頼りない印象を受けてしまう。
しかし絶望ばかりを見ていた王国と帝国からすればその言葉は何よりも甘い。ジルクニフとザナックは半信半疑で瞳に希望の色を浮かべた。
「あなた方であれば『カゲ』を討てると?」
「──はい」
「デスナイト以下で形成されたこの壁を突破できると?」
「──はい」
男の表情は揺るがない。
彼はにこやかな表情を浮かべたまま、こう続ける。
「私と『彼女』であれば、たとえデスナイトが山となって押し寄せようが問題ではない……ということです」
『彼女』──部屋の隅で腕を組んでいた少女が、興味なさそうな色の瞳をきょとりと動かした。白銀と漆黒を中ほどで分けた髪の先端を弄っていた『絶死絶命』は、注目の的になったことが面白くないらしく、細く息を肺から押し出した。
「……」
『絶死絶命』と男を見比べるザナックは、不信感しか抱けなかった。どう見てもガゼフの方が見た目は強そうではあるし、何よりその見目の若さが不信感を裏付ける。ジルクニフをして同じ感想だ。
「どうにも信用できない……という感じですね」
「……そうだな、申し訳ない。正直に言えば君達の力を信じられないでいる。何より、我が国にはガゼフ・ストロノーフもいることだしな。この戦士長でも突破不可能な壁を君達が容易く……というのは余りにも……」
「なるほど。陛下の仰ることは尤もだと私も思います。それでは少しだけですが、我々の力の片鱗をお見せしましょうか」
「え?」
「……『一人師団』」
男が言葉を投げると、『一人師団』と呼ばれた一人の優男が前へ出た。こちらもやはり年は若く、端正な顔立ちも相俟って戦闘は不得意そうにも見える。
『一人師団』は恭しく頭を下げると──その場にギガント・バジリスクを召喚した。
その瞬間、部屋中が阿鼻叫喚の様相を呈した。
皇帝を守る様に四騎士が、国王を守る様に戦士長が前へと躍り出る。彼らの表情には一切の余裕はなく、ギガント・バジリスクの脅威をありありと物語っていた。秘書官や補佐の役人は悲鳴を上げながら部屋を脱兎の如く飛び出していく始末。
「──お静かに」
二度手を打つ。
男の良く通る声が嫌に部屋に響き渡ると、部屋内は水を打ったように静けさを取り戻した。しかし緊張感は途切れたわけではない。肩で息をする者の呼気や、位置を改める騎士達の鎧の音が、静寂の中を彷徨っている。
「『一人師団』……これくらいで十分でしょう。この子は還してあげてください」
「承知しました、隊長」
『一人師団』がギガント・バジリスクの肌にそっと触れると、たちどころに消え去った。先程までの光景が嘘の様に、空気が弛緩していく。
「彼は私が率いる『漆黒聖典』のメンバーです。その実力を今この場で疑う者はいないでしょう。……そして私と彼女は、彼よりも強い。百回戦って、百回完勝できるほどには」
その言葉には有無を言わせぬ気力があった。
ハッタリではない。真実を語る者の声音だ。『一人師団』と呼ばれた男も、当然の評価をされたまでだという余裕を持っている。
その事態を見守っていたガゼフは、奥歯を噛み締めた。
周辺国家最強などと呼ばれていた自分が、所詮は世界を知らぬ井の中の蛙だったということに嫌気が差す。真の強者は、アルベドだけではなかった。
「何故、それほどの力を持ちながら、表舞台に出てこなかった……?」
ブルークリスタルメタルの剣を鞘に収めるガゼフは、憚らずそう言った。それほどの力があるのなら、武力行使で如何様にも世界を捻じ曲げられたはず。
「──彼らが『神人』だからだよ」
疑問を晴らす様なレイモンのその口振りを理解できた者は法国の関係者以外にはいない。ガゼフは憚らず、抱いた疑問をそのまま口に出していた。
「『神人』……とは?」
「かの『六大神』の血を引く者……そしてその血を覚醒させた者のことだ」
その言葉に、一同が目を丸くする。
唾を飲み下す音が、嫌に良く通った。
神話となっている『六大神』の血が、今も脈々とスレイン法国に受け継がれており、そして神の力の一端があの体に集約されているなど、俄かには信じがたい。が、それを真実とするのが先程の光景と言葉だった。
静まり返る室内に、レイモンが厳かに言葉を投げかける。
「理解できたかね。彼らには神の血が流れており、我々とは次元そのものが違う存在であるということが」
絶望に差した一筋の光。
光明を得た王国勢と帝国勢に、幾らかの明るさが取り戻る。その半面、それだけの力を持った法国に対しての恐怖もあるのだが。
そしてそれは法国の狙い通りでもあった。
評議国が滅び、風通しがよくなった今こそ人類種国家が手を取り合う必要がある。そしてその手綱を握り、管理するのは法国でなければならない。此度の大戦で法国の絶大な武力を見せつけて『カゲ』を滅ぼせば、今後王国と帝国は頭が上がらなくなるだろう。人類種繁栄の為、彼らは喜んで──半ば強制的に──法国に助力してくれる筈だ。だから虎の子の『漆黒聖典』や『神人』を表舞台に上げたのだ。その効果は、想定以上に覿面だった。
辺りを見回した最高神官長が、しゃがれた声で言葉を紡ぎだす。それらには否を唱えることすら許さぬ力強さがあった。
「『カゲ』は我々スレイン法国が受け持とう。帝国と王国はそれぞれ手練れの戦力を掻き集め、配下のアンデッドやゾンビの掃討に尽くしてほしい。特に王国は評議国と一番近いこともあり、物資の運搬や後方支援を主にお願いしたい」
既にここに集まった三国の上下関係は決した。
最高神官長の言葉に嫌といえるほどの気力はザナックにもジルクニフにもない。それどころか、この状況を打破せんとする法国の……人類の底力に抱えきれぬ程の感謝の念を抱くほどだ。
最高神官長は最後にこう締めくくる。
「『カゲ』は我々が討ち滅ぼします。皆様方……異形なぞに屈してはなりません。今こそ、『六大神』より賜った我々人類の力を見せる時です。人類の未来の為、死力を尽くしましょう」
力強い言葉達。
幾許かの沈黙を経て、まばらに拍手が起こる。それはやがて喝采へと。彼らは立ち上がり、手を取り合い、互いを奮起し合った。その光景こそ、スレイン法国が望んでいたもの。
最高神官長は『カゲ』を討った後の未来に思いを馳せ──
「──やめておいたほうがいい」
……それは、場内に冷や水を浴びせる一言だった。
澄んだ美しいソプラノは良く通り、全ての者の耳へするりと通った。
そちらを見やると、漆黒の鎧を纏った戦士が腕を組んで真っすぐに最高神官長を見据えていた。その横に控える冒険者組合長のアインザックが、戦士の言葉にぎょっと目を丸くしている。
漆黒の戦士は、やはりよく通る声で室内を刺した。
「『カゲ』は、私が討ちます」
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2.megalomania
「君は……アダマンタイト級冒険者『漆黒の美姫』のモモン殿だね?」
目を細めるレイモンは品定めする様な眼差しでモモンガを見据えた。
「君の噂は法国の地にも轟いている。君の実力はきっと確かなものなのだろう。そのアダマンタイトプレートの枠を超えているほどにはね」
……『神人』を除けば。
その台詞をレイモンは続けない。モモンガは、兜の下からじっと彼の言葉の終わりを待っている。緊張感が張り詰めた静寂の中、レイモンは再び口を開く。
「しかしやめておけとは一体どういうことなのかね。剰え、『カゲ』は君が倒すなどと」
……剣呑とした空気が漂う。
そんな中、モモンガは静かにそれに答えた。
「言葉の通りです。あなた方があの墳墓に近づくのは危険極まりない。命を徒らに消費したくなければ、ここは私に一任して頂きたく存じます」
「……君であれば『カゲ』を倒せると?」
「──はい」
「……君は『神人』を擁する我々スレイン法国よりも強いと、暗にそう言いたいのかね」
「──はい」
即答である。
当たり前のことを当たり前であるという様に語るモモンガに、レイモンの目玉が転げ落ちそうになった。
何を戯けたことを、と憤りたくもなる。
その感情は法国サイドの人間達に鈍く伝播していった。
モモンガの言葉は『神人』やスレイン法国を侮っていると捉えかねない。しかしそれは的外れだ。彼はプレイヤーであろう子孫の『神人』の存在には驚いているし、『漆黒聖典』の並外れた力量──ガゼフが最強という指標に於いて──を理解している。
それを鑑みた上で侮るということはない。寧ろ諭しているのだ。
そして一様に眉を顰める『漆黒聖典』の中で、一人だけ僅かに口角を上げた者がいる。
──『絶死絶命』だ。
「あなた、私より強いの?」
「ええ」
「私が弱いから、あなたが『カゲ』から守ってくれようとしているの?」
「ええ」
「……へぇ」
『絶死絶命』が、犬歯を剥き出しにした獰猛な笑みを見せた。それは先程まで無機質だった彼女の顔に、極彩色の感情が上塗りされた瞬間だった。
静かに昂る鼓動。
解き放たれる闘気に、その場の誰もが慄いた。あのガゼフをして、汗腺から一気に汗と熱気が滲み出す。
『漆黒聖典』の誰もが青褪める中、モモンガは微動だにしない。
「──やめておいたほうがいい」
……この場に於いて二度目のその台詞は、モモンガから発せられたものではない。彼の隣に座している白金の鎧を纏った戦士から発せられたものだ。
白金の戦士は間髪を置かず、『絶死絶命』をこう諭す。
「君とモモンじゃ、勝負は見えている」
「……誰? あなた」
「僕は……」
白金の戦士が僅かに言い淀んでいると、モモンガはそれを継ぐ形で口を開いた。
「彼は昨日私のチームパートナーになったアガネイアと言います。ねっ、アインザック組合長」
「……うん。え、……ん? は!?」
急に話を振られたアインザックは目を白黒させながらモモンガを見た。その表情には寝耳に水だと言わんばかりの驚愕が張り付いている。
しかし当のモモンガはウインクでもしそうな程に呑気に「ね、そうですよね」と言うものだから、アインザックは内心で思いっきり頭を抱えて言葉を絞り出した。
「……そ、そうです」
各国の重鎮の注目を集めるアインザックの胃がキリキリと痛み始める。その場の誰もが嘘つけと思いはしたが、実際にそう言われては文句を言うものはいない。というより、この非常時にモモンガのチームメンバーが加入したという話で議会を滞らせる時間などない。
「アガネイア君。君の言葉の真意を問いたい」
レイモンが鋭く質問を投げかける。
「彼女は先程言った通り神の血を覚醒させた『神人』だ。モモン殿の方が強いと、そこまで言い切る根拠が知りたい」
「……分からないのかい?」
「は?」
「彼女は『神人』では勝てない存在だと、そう言っている意味が分からないのかと聞いているんだよ」
「………………ま、さか」
レイモンの目が見開いた。
『漆黒聖典』以下、法国の人間達は皆同様の反応を示している。きょとんとしている『絶死絶命』の肩を、隊長が叩く。彼は緊迫した表情のままに『絶死絶命』に耳打ちした。すると、彼女の目も次第に丸みを帯びていく。
「…………神様?」
ぽつりと零れた言葉は、誰に聞こえることもない。『絶死絶命』がモモンガを見る目の色が、分かりやすく変質した。
置いてけぼりを食らっている王国と帝国。
その中にあって、スレイン法国最高神官長が重たく口を開いた。
「モモン殿、一つお聞きしたい。貴女は……ぷれいやーなのですか」
「…………」
その質問に、モモンガは長い沈黙を保った。
しかしやがて観念したのか、彼は重たく頷く。最高神官長の背筋が、僅かに震えた瞬間だった。モモンガの肯定を受け入れると、最高神官長は再び言葉を投げかける。その声は、少しだけ震えていた。
「……貴女は、我々人類を守護する存在なのでしょうか。かの『六大神』の様に」
「……私は、私の先の発言は、少なからずあなた方を慮ったものだということをご理解頂きたいです。少なくとも私は……ここに集っている皆様方の敵じゃない」
「……理解しました」
深く、深く、頷く最高神官長。
彼は一拍、二拍と間を置くと、顔を上げてモモンガを見やった。その顔はどこか晴れ晴れとしているようにも見える。
「──我らスレイン法国は『漆黒の美姫』の全面的な支援を約束致します」
ざわり、と最高神官長の言葉によって部屋の中が騒めいた。
法国の者達は最高神官長の判断に動揺を示す者はいない。驚愕しているのは、主に王国サイドの人間達だ。先程まで不遜とも取れるほど自国の武力を顕示していた法国が、一介の冒険者の言葉の提案にこうもあっさりと首を縦に振るとは思っていなかったからだ。
ザナックは動揺を顔に浮かべながら、口を開いた。
「ど、どういうことかお聞かせ願いたい。無論我々はモモン殿の英雄性や実力は身に染みて分かっているつもりだ。しかし、モモン殿一人に『カゲ』の討伐を一任させるなど……『神人』を擁する貴方がた法国がそうもあっさりと彼女の提案を受け入れているのは一体どういうことなのか」
「それが最も賢明な選択だと判断したまでだ」
「しかし……そうだ。帝国は? 貴方がたはこの決定に不信感や疑念を抱いていないのだろうか」
話を振られたジルクニフは、僅かに苦い顔を浮かべた。しかし彼は、即座に首を横へ振る。法国の決定に追従する意思を彼は認めた。
「……我々帝国は異論はないつもりだ。我々も、モモン殿を全面的にバックアップすることを約束しよう」
「なん……」
ジルクニフの言葉に、ザナックは目を丸くした。
国家の──否、人類種の命運を一人の冒険者に託すなど、国の指導者の判断としては違和感しかない。
……しかしジルクニフにはモモンガの意思を否応なく認めねばならない事情がある。それだけの借りがあることは、この場では帝国の彼らとモモンガの間にしか分からないことであるので、外部からはその関係性は誰にも理解することはできない。
「エルニクス帝は……帝国に異論はないようだ。して、あなたがた王国はどのようにお考えか」
「……認めよう。我々も異論はない。モモン殿が『カゲ』を討ってくれることに期待する」
二国が認めては異論の余地もない。
ザナックは不安を拭えぬまま、肯定の意思を見せた。
その反応に、最高神官長は微笑を浮かべる。
「……モモン殿。それではそういうことでよろしいですか」
「私からすれば願ったり叶ったりです。私の我儘を受け入れてくれて、ありがとうございます」
「礼を言うのはむしろ我々です。その大いなる力を、どうか人類の為に振るっていただきたく存じます」
しかし、と最高神官長は付け加えた。
「貴女に『神人』の二人──……いや、『彼女』の同行もお願いしたい」
視線の先には、きょとんとしたままの『絶死絶命』がいる。最高神官長は「彼女は役に立つ」「先程の非礼の挽回の機会を与えて欲しい」と巧みに言葉を操り、同行の許可を頂いた。
その思惑の裏には『ぷれいやーとのパイプを繋いでおきたい』といったことや、『カゲの討伐に法国が一枚嚙んでおきたい』というものがあるのだが、非才のモモンガにはそこらへんを理解できるはずもない。
こうして三国の協議はようやく終わりが見え始める。
細々とした兵の徴用や物資の運搬などの課題は山積しているが、『カゲ』の討伐はモモン、そしてその謎のパートナーのリク、『絶死絶命』の三名が請け負う事となり話は締めくくられた。
──仰げば、空は見事な橙に染まっていた。
モモンガは細く息を吐くと、貴賓館の敷地を外へと跨いだ。彼の脳内はぐちゃぐちゃだ。様々な考えが錯綜していて、思考が定まらない。
(ナザリック地下大墳墓が、この世界に来ている……か)
口内に嫌な味が広がっていた。
高揚と緊張が綯い交ぜになった心臓の拍動によって、いつもよりどろりとした血液が全身へ送られる様だった。
体が重い。
思考が巡らない。
「モモン、大丈夫かい?」
隣を歩く白金の鎧の戦士──リク・アガネイアと名を偽る『
「誰かが私のことをプレイヤーだとか言ったせいで、悩みの種が一つ増えたんですが」
「悪かったよ。でも、あそこでああでも言わないと法国は引き下がらなかっただろうからね」
「……いつから私がプレイヤーだと?」
「僕はこれでも永く生きてきたからね。ぷれいやーとこの世界の人間の区別くらい、何となく匂いで分かるのさ」
「貴方が評議国の竜王だと私もあの場で言ってしまえば良かったかな」
「……だから悪かったって」
モモンガは怒っているという気持ちを押し隠さない。そんなモモンガを、リクは『存外子供っぽいやつだ』と暗に評した。
モモンガはリクの正体が『白金の竜王』だということをイビルアイによって語られた。この鎧が遠隔操作されただけのもので、リクとイビルアイが『十三英雄』の一員だったということもここで明かされる。
正体を隠して
夕焼けの橙を白金に落とすリクは、先程までの軽い口調のなりを顰めてモモンガに言葉を投げ掛けた。
「……モモン、君はあの墳墓のことを知っているんだろう」
「……さあ」
「君は嘘を吐くのが余程下手らしい」
「余計なお世話です」
ぷい、と顔を背けるモモンガに確信を得たリクは、憚ることなく言葉を続けた。
「──……モモン。あれはひょっとして、君のギルド拠点じゃないのかい」
言葉を投げられたモモンガの歩みが、停止する。
立ち止まった彼は暫しの間硬直すると、空を見上げた。夕焼けには紫が差し掛かり、夜風に分類され始める涼やかな風が雲を浚っていた。
決して少なくない時間の静寂が二人の間に流れていく。沈黙は肯定、と捉えたリクが口を開いた。
「モモン……君に、あの墳墓を……『カゲ』を落とすことはできるのかい」
「……そんなこと、分かりませんよ」
「分からないだって?」
「そもそもその墳墓はナザリックじゃない可能性もあります。それに『カゲ』の存在も気掛かりです。漆黒に染まった一国を滅ぼす存在なんて、私の記憶ではナザリック内には存在しない」
言いながら、モモンガはその言葉の意味を整理する。そう、まだ例の墳墓がナザリックだと決まったわけではない。
仮にナザリックだとしても、例の『カゲ』にぴたりと該当するNPCやメンバーは存在しない。
(くそ……一体、何がどうなっているんだ)
モモンガは頭を抱えたくなった。
決して拭えない違和感が、彼の脳裏にこびりついているからだ。
ナザリック地下大墳墓──まだ未確定だが──が評議国に現れたと聞かされた時、モモンガは何故か不思議と驚かなかった。まるでこの世界にナザリックが来ていたことを初めから知っていたかの様な腑の落ち方をしたのだ。
そして、謎の警鐘がモモンガの心身を席巻している。
本来ならばナザリックが来ていることに喜びを得るはずだ。かつての仲間もいるかもしれないし、墳墓に置いてきた様々なコレクションも回収できる。それに何より、至高の四十一人で築き上げたあのナザリックを再び歩けるということは喜ばしいことでしかない。
……だが、何故か負の感情のほうが上回る。
あの墳墓には近づいても碌なことにならないという嫌な予感が、モモンガの脳内をがんじがらめに縛りつけてくる。明確な理由など何もない。ただとてつもなく嫌な予感がするというだけ。
その違和感や予感の正体をモモンガは掴めなかった。
彼はモヤモヤを抱えたまま、再び歩み始める。考えても埒があかない。決戦は五日後と取り決めている。それまでに心の整理をつけておけばよいと、未来の自分に丸投げするほかなかった。
「……」
そんなモモンガの背中を、リクはじっと見つめている。
白金の鎧を操作する本来の彼の表情を読める者は、この場にはいなかった。
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3.Blumenkranz
──進軍、前日。
モモンガは『黄金の輝き亭』の自室にて、漆黒の鎧を解いた。
頭には角が現れる。
腰から伸びる両翼を目一杯広げて伸びをすると、彼は徐に『
耽美な白いドレスを纏い、ヒールを履いた足を一歩踏み出すと、目の前の景色がガラリと変わった。
そこには暮れかける長閑な村の風景が広がっている。モモンガがこの世界に来て初めて訪れた、始まりの村──カルネ村。
各々に夜に向けた支度を始めている村人達はモモンガの姿を認めると、瞳を宝石の様に輝かせて彼を出迎えた。
「アルベド様!」
「ようこそおいでくださいました」
皆が手を止め、体を向け、歓迎してくれる。そんな中、小さな影が二つモモンガの元へ走ってきた。
「ママ!」
「アルベドさま!」
大輪の向日葵を咲かせながら腰に抱きついてきたネムとクレムを、モモンガは片手ずつでひょいと抱き上げた。
「お久しぶりです二人とも」
黒翼で覆う様に抱き締めると、二人はとびきりの笑顔を見せてくれる。これはカルネ村に帰った時の恒例行事だ。翼の暖かさと香りに包まれて、二人は満足そうな表情になっていた。
「モモン様……!」
「アルベド様!」
ツアレとエンリもやってきた。
歳も近く、妹がいるという共通点もあり、この二人は取り分け仲よくやっているそうだ。農作業をやっていたのだろう。二人は少しだけ泥を顔や腕にくっつけていた。
「お二人ともお元気そうでよかったです」
クレムとネムを抱えたまま微笑みかけられると、二人は凄く嬉しそうな笑顔を見せた。
帰省──という言葉がこれほど合う村や街はこの世界にはカルネ村を差し置いて他にはないだろう。モモンガも嬉しそうな彼女達の笑顔を見て、心が解れていくようだった。
口々に歓迎の意を言葉にする村民達に微笑み掛けながら、モモンガは目当ての人物を見つけ出した。
「お久しぶりです、村長さん」
「おお……! アルベド様。よくぞお越しくださいました」
喜びの色を示す村長は、そう言って深々と腰を折る。モモンガはそれを手で制すと、言葉を投げかけた。
「村長さん、よければ今から村のみんなを集めていただけますか」
「……というと?」
モモンガは返答の代わりに、アイテムボックスの中からずるりとそれらを取り出した。霜が降った精肉の山、瞳の輝きが色褪せていない鮮魚達、抱えきれぬ程の量のふかふかのパンや果実や酒、菓子に果実水……。カルネ村の住人全員を腹一杯に膨らませられるほどの食料が、次々と『上位道具創造』によって作られたテーブルの上に並べられていく。
それらに、村人達は目を丸くしながら瞳を輝かせた。
「ぱーっと、宴でもやりましょう」
モモンガの言葉を聞いていた誰もが声を上げて喜色を露わにした。
彼らは持っていた農工具らを放り投げると、まるで子供に戻ったかのようなはしゃぎ方で方々に走っていく。
『今日は宴だ』
『アルベド様がお帰りになった』
それらを捲し立てながら、村の全員に周知させていく村民のはしゃぎ様に、モモンガは微笑ましい気持ちになってしまう。
その日のカルネ村はちょっとした祭の様相を呈していた。
大きな火を皆で囲み、肉や魚に舌鼓。若い衆は酒をかっくらって踊りを披露し、女子供は普段食べられない都市の菓子に大喜びだった。彼らは一様に女神アルベドの施しに感謝をし、歌や踊りは彼の為に捧げられた。酒気を帯びた大人達は涙腺が緩んでいるのか、女神と出会ったあの頃の記憶を涙ながらに皆で共有している。
「……ママ! これ……!」
目を細めながら猛る火と踊りを見ていたモモンガに、クレムがおずおずとそれを差し出した。それは、紫の花で造られた少し歪な花輪だった。恐らくクレムが作ってくれたのだろう。幼いながらには、よくできている。
「……上手にできてますね。クレムが作ったのですか?」
「うん!」
モモンガはそれを受け取ると、花が潰れぬ様にそれをそっと自分の頭に載せてみた。濡れ羽色の髪に紫の色が華やぎ、まるで天使そのものにさえ見える。
「ママ、かわいいー」
「ありがとう。クレムが作った花輪のお陰ですね」
そっと頭を撫でてやると、クレムは嬉しそうに目を細めた。そうしていると、反対側からネムが負けじとモモンガに抱き着いてくる。
「私がやり方を教えたんだよ!」
「ネムもすっかりお姉さんになりましたね」
「えへへー」
同様に頭を撫でてやると、やはりネムも嬉しそうだ。そんな童女達の笑顔に囲まれて、モモンガの目も優し気に細ばんだ。
「ネム、クレム」
「なに? ママ」
「なになに?」
白魚の様な細指で、ネムとクレムの髪を梳いてやる。モモンガは願いを込めて、静かに彼女達にこう語り掛けた。
「今のまま、真っすぐ育ちなさい。そして自分の大切なもの、信じるものだけに耳を傾けなさい。そうすれば、きっとみんなが貴女達のことを助けてくれますから」
「アルベドさま……?」
少しだけ、モモンガの雰囲気が変わった気がしたネムは、僅かに不安な気持ちが胸を過った。幼いクレムは無邪気な笑みを保ったままだ。
モモンガは、ゆったりと空を仰ぎ見た。
そこにはやはり、満天の星が瞬いている。
カルネ村に来るのも、ネムやクレムに会うのもこれが最後になるのだろう。そんな予感を、彼は感じていた。
──旅の終わりの気配が、すぐそこまでやってきている。
「『六光連斬』……!」
──六つの光が閃いた。
それらは宙に舞う六つの薪を撫ぜると、同時に両断せしめる。自らの十八番とも奥義とも言える武技の発動を終えたガゼフは、額に浮かぶ汗の粒を手の甲で払った。
ブルークリスタルメタルの切っ先を舞わせ、柄に仕舞う。その動作はどう見ても一流の戦士の動きに違いない。しかしそんなガゼフを冷めた目で見る者が二人いた。
「……お前は誰だ?」
六つの薪を放り投げた本人──ブレイン・アングラウスが溜め息交じりにガゼフに問う。見知った好敵手を前にして誰だと問われたガゼフは、きょとんと目を丸くした。
「お前は誰だ……? おいブレイン、それは一体何の冗談──」
「俺の知ってるガゼフ・ストロノーフはそんな腑抜けた剣を振るわねぇぞ」
「……なに?」
「アングラウスの言う通りだ。ストロノーフ」
追撃するように、ブレインの隣にいるニグンが深く頷いた。彼ら二人がガゼフへ送る眼差しは手厳しい。ニグンは一歩前へ出ると、肩をすくめておどけて見せた。
「明日からは人類種の生存を賭けた一大決戦へ身を投じる身……。さしものストロノーフも、怖気がついて剣気が衰えたか」
「何を言って──」
「それとも『漆黒聖典』という高みを見てしまい、己の実力に自信を失ってしまったか?」
「──違う! さっきから何なんだお前達は!」
やぶれかぶれに吠えるガゼフに、ブレインは小さく息を漏らした。
「何なんだはこっちの台詞だぜ。お前、五日前から何かおかしいぞ」
……五日前、というとあの三国による会議が執り行われた日だ。あれからガゼフはおかしくなったと、この二人は言っている。
「ぐ……」
痛いところを突かれたと言わんばかりに、ガゼフは喉奥で唸った。
……実を言うと、彼はその指摘に思い当たることしかない。自らの不調も、見ないふりをしていたのが事実だ。
かつてない脅威に身が竦んでいる──違う。
『神人』という圧倒的な存在に自信を見失い始めている──違う。
下唇を噛んでいるガゼフに、ニグンの手がぽんと置かれた。人の心を見透かす様な瞳。僅かに上がった口角。ニグンは囁くような声量で、ガゼフの不安を言葉によって表面化させた。
「──女だろう、ストロノーフ。俺には分かるぞ」
どきりと心臓が跳ね上がるガゼフ。
はぁ!? と憚らず素頓狂な声を上げるブレイン。
その反応を見ていたニグンは大きく溜息を漏らした。
「何があった、ストロノーフ。吐け。せっかく鍛えてやったお前をそんな状態でみすみす死地に送るわけにはいかん」
「う……」
……追い込まれたガゼフは、重たく頷く他なかった。
ガゼフ邸に戻り、テーブルに着いた三名。
まるで圧迫面接さながらに、ガゼフの向かい側にニグンとブレインが睨んでいた。大事な決戦の前に腑抜けた自分を見かねているという状況故に、ガゼフは強く出れない。
ちなみにブレインとニグンだが、ガゼフの推薦により『カゲ』以下アンデッド達との決戦に徴兵されることが決まっている。
ブレインは自分の腕を試す為に。
ニグンは窮地に現れるかもしれない神と出会う為に……と言ったところだ。
さて、話は戻る。
「お前は確かモモンとかいう女冒険者に懸想していたな」
「お前、あんな化け物が好きだったのか……いや確かに見た目はいいけどよお……」
「正面切って言うな……! ああ、そうさ。俺はあの方のことを……」
語尾がもにょもにょとごもる。
そんなガゼフの様子に見兼ねたブレインが、ぶっきらぼうに言葉を投げ掛けた。
「……それで? 五日前にモモンと何かあったのか? あいつも会談に参加してたんだろ?」
「いや、俺とモモン殿との間に直接何かがあったわけではない。そも、状況が状況だけに廊下ですれ違って二三言だけ言葉を交わした程度だ」
「じゃあ、一体なんだっていうんだよ」
怪訝な表情のままのブレインに、ガゼフは口ごもる。
今現在彼を取り巻いている状況を話すには、順序立てなくてはいけない。
「……この話をする前に、まずお前達に共有しておかなくてはならない情報がある」
「なんだ?」
「直接確認したわけではないが、恐らくモモン殿には想い人がいた」
「……おいおいまじかよ……ん? いた? いる、じゃなくて?」
「……ああ。お前達も王国に住んでいるのだからモモン殿の『困ってる人がいたら、助けるのは当たり前』という言葉は知っているだろう。実はこれは、モモン殿自身の言葉ではないんだ」
ガゼフは言いながら、自身が持つ情報を整理していた。
「あの言葉は彼女が昔、蛮族に殺されかけた時に救ってくれた純白の騎士が使っていた口癖なのだそうだ。その騎士とは訳あってもう会えないのだとは言っていたが、あの言葉を口にすることで騎士の存在を感じられるんだとモモン殿は言っていた」
「その純白の騎士がモモンの想い人ってことか。いたっていう過去のことっぽいのも……」
「確証は得られていないが、そうだと思っている。騎士のことを語るモモン殿は見たこともない暖かな表情を見せていたし、何より彼女にとってその騎士とは居場所を作ってくれたとても大切な憧れの存在なんだそうだ」
「……そりゃ、まあ。聞く限りは確かに惚れていそうではあるな」
命の恩人でありながら、居場所まで作ってくれた優しき騎士。
女が惚れない要素を探せというほうが難しい。
……しかし。
「で、その騎士がどうしたんだよ。もうそいつは会えることのない過去の人物なんだろ?」
「……いたんだよ。その純白の騎士らしい人物が。五日前、モモン殿の隣に」
「はぁ……!?」
ここでがっくりとガゼフが項垂れる。
机に突っ伏した彼の頭は漬物石の様に重くなっていることだろう。脳裏にあるのは、白金の鎧を纏った強者の風格漂う戦士だ。
まさかの展開に、ブレインは目を丸くした。
「……で、でもその騎士がその人物だとまだ決まったわけじゃないんだろ?」
「あの誰ともチームを組みたがらなかったモモン殿が、彼女の冒険者チームに正式に加入を認めた人物だぞ。それに恐らくあの御仁は見た感じだと……俺よりもうんと強い」
純白──と言っても差し支えない無垢な白金の鎧。頑なにソロ活動を続けていたモモンのチームに電撃加入した唯一の男。そして圧倒的な強者の風格。
……数え役満と言っても差し支えない。
何より、あのモモンの相棒になるというパーソナルスペースを確保した男が、ぽっと出の男な訳がない。
ずーん、という効果音を漂わせるガゼフの弱々しい姿に、ブレインは可笑しさすら感じていた。面白いと呆れ半分といったところか。とにかく、自分の目指している男のその情けない姿にちょっとした動揺を覚えてしまっていた。
「おいおい、それでその不調かよ……情けねぇ……。どうすんだおい。明日からそんなこと言ってられる状況じゃないだろ」
「わ、分かっている。俺だって考えない様にしてきたさ。だが、お前達に簡単に見抜かれる程には心が不安定になっていたらしいな……」
「らしいなって……おい。気持ちは察するに余りあるが、そんな状態で不覚をとって死ぬなんざ笑えねぇぞ」
「だよな……」
机に突っ伏したままのガゼフの後頭部を、ニグンは黙ってずっと見ていた。静観を保っていた彼は組んでいた腕を解くと、ガゼフの後頭部に次の言葉を突き刺した。
「──ストロノーフ。貴様、旧評議国領内に着くまでにモモンに想いの丈をぶちまけろ」
……僅かに、静寂がその場を支配する。
ガゼフはがばりと面を上げると、目玉が落ちそうなほどにまんまるにひん剥いていた。
「は……はぁ!?」
「何だその顔は。冗談とでも思っているのか」
「想いの丈をって、一大決戦を前にそんなこと……モモン殿は『カゲ』との一騎打ちが控えているんだぞ!? それにモモン殿にはさっき言ったとおり想い人らしき騎士が既に……」
「だからこそだ。此度の戦でどちらかが命を落とさないとも限らん。貴様、そうなったときに後悔がないと言い切れるのか?」
冷酷とも言える瞳の光が、ガゼフを突き刺した。
ガゼフは卓上の拳を硬く握りしめると、下唇を強く噛み締める。確かにこの戦で命を落とさないとも限らない。自分にしても、アルベドにしても、だ。そうなった時に後悔がないと、果たして言い切れるのだろうか。
だが、ガゼフは『あの約束』を果たせる程の男にはまだなれていない。ブルークリスタルメタルの剣をアルベドに返せるほど強くなったとはまだとても……。
ガゼフは、言葉を喉奥から絞り出した。
「ぐ……だが、しかし俺は……まだ彼女にそういったことを言えるほどの男にはまだなれていな──」
「モモンと肩を並べられるほど強くなってから伝える、か。なるほどなるほど。それは一体何十年先の話なのだろうな」
「ぐ、ぬ……」
「好いた女に想い人がいるから。女に相応しい男にまだなれていないから。そうやって逃げて、思い半ばで死ぬことになっても本望か貴様」
「……しかし、今の俺をモモン殿が──」
「たわけめ。恋に悶々としていじいじとしている髭面のおっさんなんかより、弱かろうとも堂々と告白する男のほうが余程魅力的だ。身の程を知れガゼフ・ストロノーフ」
「ぐ、ぐ……」
「改めてもう一度言うぞ。旧評議国領内への道中、モモンに想いの丈をぶちまけろ。それができなければ、貴様はあらゆる意味で無様を晒して死ぬだろう」
きっぱりとそう言い切るニグンに、ガゼフはぐぅの音も出ない。
……彼にとってアルベドとは、清浄な存在だった。
清浄で、高潔で、永遠の存在。いつまでも高みに君臨し続け、誰のものともならない、カルネ村の人間が讃えるそのままのまるで女神の様な上位存在。
強くなる自分を、あの優しい笑顔でいつまでも待ってくれるものだと思っていたのだ。
しかし純白の騎士の登場でそれが覆った今、自分の考えが余りにも甘いものだったということを思い知る。アルベドはきっと、ガゼフに見せたことのない表情や感情を、あの騎士に見せるのだろう。今現在も、そしてこれからも。
心臓が握り潰されるような苦しさだった。
異性を心から好きになるというのは、余りにも久しぶりの感覚だったから。
(……年貢の納め時、ということか)
今まで甘えていた。
自分の気持ちに正直になるのは遠い未来のことでよいと思っていた。だって、アルベドはいつまでも自分のことを待ってくれると思っていたから。
「……」
ガゼフは、卓上のゴブレットをひったくるように掴むと、中身の水をかっ食らった。火照った体に、冷たい水が流れていく。喉から食道へ、そして胃へと落ちていく感覚がはっきりと分かる。
「ふぅ……」
口端を強引に拭うと、ガゼフは大きく息を吐いた。
その瞳には、覚悟の光が宿っている。ニグンとブレインは顔を突き合わせると、ガゼフのガゼフらしい貌に僅かに相好を崩した。
「腹は決まったようだな」
ニグンが静かに投げ掛けると、ガゼフは首を縦にも横にも振らずにこうだけ零す。
「──心配を掛けてすまなかった。もう大丈夫だ」
その言葉には、もう弱々しさはない。
暮れなずむ街の夜風が、ふんわりと窓を叩いていた。
一年後(現在)の彼ら
【ガゼフ】
ブレインとニグンに鍛えられて才能が開花する。同装備のクレマンティーヌに安定して勝利、人間最強さんに食い下がれるくらいには強くなった。
【ブレイン】
割と早い段階でガゼフ邸を抜けた。
縁あってクライムの指南役兼ラナーの護衛となった。ここらへんは原作の運命が収束したのかもしれない。
【ニグン】
相変わらず神探し中。
ガゼフが立ち会ってる場面で何度かモモンと言葉を交わす機会があったが気づかないポンコツっぷり。ガゼフは気が気でなかったのは言うまでもない。
食材の買い出しに城下町に繰り出しているのだが、意外と城下町に馴染んでいる。
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4.Be the light
──その日、王国、帝国、法国の三国は夜明けと共に評議国領へと進軍を開始した。
軍靴を鳴らす彼らは人類の未来……種の生存を懸けた決戦へと望むべく、足並みを揃えて邁進していく。たとえ腹に一物抱えていてもそこに国家間の対立や蟠りなどはない。皆が皆、緊張や恐怖を抱えながらも勇者の顔つきをしていた。
しかし三国構成の進軍……とは言っても規模の大きさ自体はそれほどではない。
というのも、それぞれの国が戦地へ投じる駒は上澄みの精鋭で厳選されているからだ。徴兵された兵士達は皆、勲を持つ者やその側近ばかりであり、招集された冒険者チームも
故に、少数精鋭。
各国が抱える一騎当千の兵力やアダマンタイト級冒険者チームで構成された人類国家最強の布陣。それに追従する中堅兵力とサポートの衛生兵達。人類史を見ても、これほどの戦力が一挙に足並みを揃えることはまずなかった。
……そしてそのトップを往くのが、『漆黒の美姫』と『絶死絶命』だ。
「ぐぬぬ……なんであいつがモモン様と相乗りなんだ……!」
「仕方ないじゃない。あの子がモモンさんと『カゲ』を討ちにいく法国の虎の子なんでしょう? 連携を取る為には互いのことを知ることは重要。ああいう時間も必要だわ」
「ぽっと出の癖にあんな馴れ馴れしく……ぎににに……! というか、何が虎の子だ! 私だってモモン様の次くらいには強いんだぞ! アダマンタイト級だぞ!」
「はいはい」
馬に揺られながら、イビルアイは仮面の下で歯ぎしりしていた。呪詛を紡ぐ彼女を今日何度目だというくらいに窘めるラキュースの心労たるや。
イビルアイの視線の先にはモモンガと『絶死絶命』が仲睦まじくゴーレムの馬に相乗りしている。手綱を握るモモンガの腰に『絶死絶命』が手を回しているような形だ。新しいものや飲食が好きな彼らの波長は意外に合うらしく、どこか会話も弾んでいる様だった。
『漆黒聖典』の隊長をして「あの方が懐くとは……」と少しびっくりしているくらいで、それがまたイビルアイの神経を逆撫でる。
「ぐにに……あっ! おい、今あいつモモン様の胸を触らなかったか!?」
「触ってないわよ……それに女性同士でしょう何を心配してるのあなたは」
……しかし実際にモモンガと『絶死絶命』が心を開いているかというのはまた別の話だ。
モモンガは元プレイヤーが遺した子孫というものに対しての興味、『絶死絶命』は自分にとって完全上位の存在が物珍しいという気持ちが先行している。会話が弾んでいる様に見えるのも、彼らが一定のコミュニケーション能力を有した常識人同士たればこそだ。
しかし興味や関心というのは、互いが歩み寄るにあたって最も大切な要素だと言ってよい。彼らは互いのことを『アンティリーネさん』『モモンさん』と呼ぶ程度の距離感にはなっていた。
モモンガは曇天を眺めながら、『絶死絶命』の故郷たる法国の話題を振った。
「『スレイン法国』は私と同じプレイヤーが創った国なんでしょう? ちょっと興味はありますね」
『絶死絶命』が僅かに笑んで、それに返す。
「興味があるなら法国はいつでも貴女を歓迎するわ。実は私のこの大鎌……『カロンの導き』も、死の神であるスルシャーナ様が使っていた鎌なのよ」
「へえ……アンデッドの『魔法詠唱者』だったっていうあの……。良ければ見てみてもいいですか? 実は結構気になっていたんですよ」
「ええ、どうぞ」
ゴーレム馬に括られた大鎌を手に取ると、モモンガは『
「これは、中々のロマン武器だな……」
「へ?」
「あ、いや。これを創った人間……スルシャーナの趣向がとても面白いな、と思いまして」
「……というと?」
「はっきり言いますと、この『カロンの導き』はユグドラシルでは強い武器とは言えませんね。遠慮なしに言うなら、微妙です」
「えぇ、嘘……」
法国の秘宝を微妙扱いされた『絶死絶命』は分かりやすく目を丸くして、少しだけ気を落とした。信仰している神が扱っていた武器が微妙と言われればそうもなる。モモンガは慌てて言葉の意味を補足した。
「あっ、別に貴女達の神を嘲りたいわけではないんですよ。ですがこの『カロンの導き』はちょっと有用性に欠ける武器というか……ちょっとピーキーなんですよね」
「そうなんだ……。じゃあ、なんでスルシャーナ様はもっと強い武器を使わなかったの?」
「え? うーん……」
モモンガはその問いに、唸った。
そもそも『
「……この武器がかっこいいから、じゃないでしょうか」
「ええ……」
モモンガは言いながら、心の中でスルシャーナに対してシンパシーと尊敬の念を抱いていた。モモンガの推察だと恐らく『カロンの導き』は、勝利や効率の為に創られた武器ではない。
ききおよんでいるスルシャーナと性質が似通っている『
故にモモンガはスルシャーナに対して親近感を抱く。
ガチビルドとは縁遠い、ロールプレイに突き抜けたビルド構成の自分と同志だと思ったからだ。実際その推察は当たっており、モモンガとスルシャーナはユグドラシルでも数えるほどしかいない死霊系ロマンビルド特化でなければ修められない『エクリプス』の習得者でもある。
「モモンさんの話はとても面白いわね」
「……そ、そうですか?」
「何ていうか、久々の感覚。法国にいるとみんな私に一目置いてしまうから距離感がさびしいもの。驚きや発見の多いモモンさんとの会話はとても新鮮だわ」
「なるほど」
「ねぇ、もっとお話きかせてよ。私、神殿の奥に押し込まれてたからあまり世間を知らないの。六大神がいた世界ってどんな感じだったの?」
「うーん……聞いてもあんまり面白くはないと思いますよ」
「ううん。私は楽しい」
こつん、と額を背中に押しつけてくる『絶死絶命』が、何となく愛らしいとモモンガは感じた。感情の起伏は少ないし、見た目は奇抜だが、思っていたよりも少女らしい一面の方が多いのが好印象だった。
(これがギャップ萌えってやつですか、タブラさん)
アルベドの設定の末尾に『ちなみにビッチである』と一言添えていた設定魔を思い出し、モモンガは微笑を浮かべた。
野を越え山を越えながら、モモンガと『絶死絶命』は親交を深めていく。プレイヤーを神格化している法国の人間が幻滅しないように、モモンガはリアルのことは触れずにユグドラシルでの環境や出来事をチョイスして『絶死絶命』と語らった。
モモンガにとっては取り留めのない話ばかりではあったが、それが『絶死絶命』にとってはとても輝いて見えるようだ。彼女は目を輝かせながらモモンガの話に聞き入り、童女の様にあれやこれやを訪ねてくる。
時計の短針がひとつふたつと刻むごとに、『絶死絶命』はモモンガに対して憧れや融和的な感情がいつの間にか芽生えてしまっていた。
──やがて日が落ち始める頃。
一行は進軍を中断し、野営の準備を始めていた。
とは言ってもモモンガや『絶死絶命』の様な特級戦力が天幕の設営をすることはない。体力の温存を優先してくれている為、身の回りの世話は全て法国の兵士達が賄ってくれている。モモンガがぷれいやーであると周知されているのか彼らがモモンガに送る眼差しや対応には熱が籠っており、その手厚さにモモンガはちょっとだけ引き気味ではあった。
「ありがとう」
「恐れ入ります……!」
夕餉が載せられたトレーを受け取り、モモンガがデフォルトの微笑を浮かべると、法国兵は飛び上がらんばかりの喜びの感情を胸の内で炸裂させていた。兜を脱いで素顔を晒したあたりから、受ける眼差しの熱量が二倍にも三倍にもなったような気がするのは気のせいではないだろう。
アルベドの美貌は、万国共通ということだ。
人の容姿に余り興味がなさそうだった『絶死絶命』も、モモンガの素顔を見たときは流石に心が動いていたようだ。夕餉を受け取った後の彼女はモモンガに隣り合う様に側に腰掛け、先程からじーっとモモンガの顔を見続けている。
「……何か?」
「神様達って、みんなモモンさんみたいに美しかったのかしら」
「……どうでしょう。アンティリーネさんも可愛らしいと思います」
「あら、嬉しいこと言ってくれるのね」
タブラさんが手塩に掛けて創ったアルベドアバターなんだからとびきり美しいに決まってる、とはモモンガは言えなかった。今はアルベドの体が自分の体だから自信過剰で嫌味に聞こえそうだし、彼なりに当たり障りのない返しをしたつもりだ。
容姿を褒められた『絶死絶命』は悪い気はしていない様だ。周りから畏怖の感情ばかり向けられていた彼女は、『可愛らしい』なんて言われた記憶はきっとなかったのだろう。
「……アンティリーネさんは、怖くないんですか?」
兵士が焚べた火をぼんやりと眺めながら、モモンガは隣り合う『絶死絶命』に小さく呟いた。彼女は無機質な瞳をきょとりと動かして、小首を傾げる。
「……何が?」
「戦うことがですよ。もしかしたら命を落とすかもしれないでしょう。『カゲ』は私とリクに任せておけばいい。そうすれば死のリスクは回避できるはずです」
「……そもそも私って怖いっていう感情が薄いのかしら。長い間自分よりも強い生物に出会ったことがなかったから、どっちかというと『カゲ』に対しては興味のほうが大きいわ」
「……私は貴女のことを気に入り始めている。だからこそ包み隠さず言いますが、あの墳墓に近づけば死にますよ。多分」
「そう……」
釘を刺された『絶死絶命』の表情は揺るがない。
彼女は無機質な表情を保ったまま、匙でスープをぐるりとかき回した。
「戦場に行く兵士達は皆、死ぬ覚悟はできているわ。戦争ってそういうものよ。年間、たくさんの法国の兵士が国や家族の為に戦死してる。私は死ぬつもりなんてサラサラないけど、それでも私だけが尻尾を巻いて逃げるなんておかしいと思わない?」
見た目は少女であるのに、その口振りはまさしく国を背負う者のそれだった。モモンガはそんな彼女の態度に瞠目してしまう。
『絶死絶命』は自嘲気味に微笑を浮かべて、スープの中の肉を掬い上げる。
「それに、こう見えて私だって法国に……この世界に生きる一人の戦士よ。少しくらい、法国の戦士らしい振る舞いだってしたいと思ってるわ」
「……偉いですね」
「何が?」
「私は、そこまで自分の命を張れるほど立派にできていない」
「あら、近隣諸国を騒がせている救国の英雄が面白いことを言うのね」
「ああいう振る舞いができるのはたまたま私に力があったからです」
モモンガはそう言って、焚火の中に小さな枝を放り込んだ。そんな彼の美しい横顔を、『絶死絶命』はぼんやりと眺めている。
「なら、逃げればいいじゃない」
「え?」
「別に『カゲ』を貴女が討つ必要なんてないわ。神官長が言っていたと思うけど、本来あれは私達が片づける手筈だったから」
「……」
モモンガは閉口した。
彼は何も人類の守護者として墳墓へ赴いているわけではない。
件の墳墓がもしもナザリックだったら……という『アインズ・ウール・ゴウン』のギルド長としての責務感に駆られているだけだ。それに、はっきり言って仮にあれがナザリック地下大墳墓だった場合のことはまだ何も考えていなかった。
……滅ぼすのか、保護するのか。
そもそもあれのどこまでが稼働していて、どれほどの存在があそこにいるというのか。そして何を以て評議国を滅ぼしたのかも分からない。
果たしてモモンガは墳墓の前に降り立って何を為すのか、何を言うのか、何を感じるのか。
モモンガは何も分からない。
自分の心の在り様さえ。
しかし、自分があの場へ行かなければならないという気持ちだけは、確かだった。
閉口して唇を噛み締めるモモンガの横顔を眺めながら、『絶死絶命』は柔らかく笑んだ。
「……ふふ、貴女はやっぱり立派よ。行かなければならないと追い詰められているのね。モモンさんのこと、何となくわかってきたわ」
「え?」
「臆病で、お人よし。自分のことを褒めてあげられないちょっと可哀想な人」
「……私は、褒められるような人間じゃありませんから」
「褒められるのは苦手?」
「苦手、というかなんというか……私は、そんな大した人間では──」
「……撫でてあげましょうか」
「えっ? ──ちょっ」
「よしよーし」
伸びた手が、柔らかくモモンガの頭に伸びてくる。
幻術で隠しているだけの角に触れられたら色々とマズイ──と、モモンガの心臓がきゅっと小さくなったそのときだった。
「失礼する!」
イビルアイが、両者の間に割り込むように腰を落とした。
ぐいと強引に──モモンガと『絶死絶命』の距離を引き裂くように──そこに居座ったイビルアイに、『絶死絶命』の目が丸みを帯びた。
誰? と、『絶死絶命』が呟く。
その言葉に怪訝な顔をしたイビルアイは、彼女に詰め寄った。
「誰、とはご挨拶だな? 私はイビルアイ。モモン様と同じ王国のアダマンタイト級冒険者だ。同業者ということもあってモモン様とは非──ッ常に親交深い間柄でな。そんなモモン様の頭に易々触れようとしたお前に『誰だお前?』と言いたのはむしろ私の台詞なんだが?」
今にも噛みつかんばかりだ。
『絶死絶命』から「非常に親交深い間柄なの?」という視線が送られてくるが、モモンガは「そこまで親しい間柄だったっけ……」といった感じなので曖昧な笑みで茶を濁すほかない。
「よく分からないけれど、気分を害したのならごめんなさい。貴女が『蒼の薔薇』のイビルアイだったのね」
「む……」
「たまに貴女のことは聞いていたわ。王国に“そこそこ”やれる『魔法詠唱者』がいるって」
「ほぉ……“そこそこ”ね……」
めら、とイビルアイに火が灯ったのをモモンガは幻視した。
(あれ? なんか不穏な空気……?)
氷の温度の『絶死絶命』と、今にも噴火しそうなイビルアイ。
両者に温度差はあれど、イビルアイが次の瞬間には噛みついてしまいそうな空気をモモンガは悟った。何故彼女がこれほど『絶死絶命』に敵意を露わにしているかは、モモンガには恐らく一生分からないのだが。
「イビルアイさん、落ち着いてください。私は彼女に何も変なことはされてませんから……」
「いいえモモン様、この女狐に騙されてはいけません。この泥棒猫は職権乱用してまでモモン様との相乗り権を勝ち取ったばかりか、モモン様の尻や胸をこっそり触ったり匂いを嗅ぐなど──」
「ほんと何言ってんのこの子」
イビルアイの被害妄想と暴走が止まらない。
言いながら苛々しているのか、怒りの焔が猛りはじめた彼女は徐々にヒートアップを始めていた。
逆に『絶死絶命』はいつもの冷ややかな態度だ。
しかし呆気に取られていた彼女の表情にやがて色がつき始める。何か悪戯を思いついた童女の様な、あの顔だ。
「……」
『絶死絶命』は静かに息を吐くと、立ち上がり、未だに捲し立てているイビルアイの横を抜けてモモンガの隣に腰を下ろした。そして彼女はモモンガの腕を取り、ぴったりと寄り添ってこう言うのだ。
「ごめんね。私達、もうそういう間柄だから」
「え──はぁ!?」
控え目に出したブイサイン。
呆気に取られるモモンガと、仮面の下で顎が外れそうなイビルアイ。
「くぁwせdrftgyふじこlp──!!!!」
もはやそれは言語ではない。
イビルアイは涙と鼻水の詰まった声で喚き散らした。
流石にそれほどの声量となると大事だ。
なんだなんだと、喧嘩かと、衆目が否が応でも集まる。
その異変に気付いたラキュースとガガーランが光の速さで飛び出してくると、イビルアイの首根っこを掴んで強制退場させた。イビルアイは今も何か喚いているが、ゴリラ──ガガーラン──に捕らえられてはどうしようもない。その姿は、さながらおもちゃ売り場で何も買ってもらえなかった子供が親に引き取られていくあの光景だ。
そんなイビルアイを見ながら、『絶死絶命』はくすくすと口内で笑みを転がしていた。
「ああ、面白い。あの子、とても愉快ね」
「……後でちゃんと説明と謝罪をしてあげてくださいよ」
「そうね。ちょっとだけ気の毒だもの」
その顔は気の毒と思ってる顔じゃねえだろ、とはモモンガは言わなかった。ちなみに今も腕は取られたままだ。その距離感に若干ドギマギしながら、モモンガは彼女のほっぺたをつねって腕から引き剥がした。
「いふぁいわ」
……引き剝がれなかった。
彼女は強引にモモンガの腕にしがみついている。
「何やってるんですか。このままだとほっぺ千切りますよ」
「あゃ、こあい。ををんはんひおいこおいうおえ」
頬をつねられている『絶死絶命』は、意外と楽しそうな顔をしている。
今までこういったじゃれあいをしたことがなかった彼女は、こういう取り留めのないやりとりを楽しんでいる節があった。
もっと力いれてこの餅ほっぺをつまんでやろうかとモモンガが力を入れようとしたところで──
「──モモン殿。今、少しだけ時間よろしいか」
背後から、野太い声。
振り返ると、ガゼフ・ストロノーフがそこに立っていた。
横で「……ををんはん、もへもへね」と呟いた『絶死絶命』の言葉が、薪が爆ぜる音と一緒に夜闇へと消えていく。
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5. YOUTHFUL
部隊からそう遠くは離れていない。
しかし二人きりで話すには十分な距離。
「……それで、話とは?」
沈黙の時間が両者の間に積み始めた頃、モモンガは控えめにそう切り出した。対するガゼフは僅かに動揺の色を見せた後に、ゆったりと空を仰ぎ見る。
「……今日は星がよく見えるいい夜だと思ってな」
「はぁ……」
しかしそこには曇天が広がっている。
灯りは地上の篝火ばかりで、空には飲み込まれそうな漆黒が溜まっていた。
モモンガが不思議そうに生返事をすると、自身の失敗に気づいたガゼフはわざとらしい咳払いでその場の微妙な空気を誤魔化した。らしくない彼の姿に小首を傾げるモモンガだが『歴戦の勇者でも戦争の前は落ち着かないものなんだな』と見当違いの発見に頷いていた。
「ガゼフさんでも緊張するものなのですか?」
「え」
「数多の戦場を潜り抜いてこられたのでしょう? でも命を賭した戦いの前には、そうやってソワソワするものなのかな、と」
「あっ……あぁ、いや……情けない姿を見せてしまったな……。そうじゃないんだ」
「……?」
きょとんと目を丸くするモモンガの横髪を、夜風が撫ぜる。漆黒に浸した様な美しい黒髪がさらりと揺れて、甘い香りがその風に乗って溶け消えていった。細指で耳に髪を引っ掛けるモモンガの仕草に、ガゼフの心臓が低く早く蠢いた。
「貴女の言う通り死地に向かうのは初めてじゃない。幾つもの死線を越えてきたつもりだ。しかし、いつどこで死んでも俺に後悔はなかった。だから緊張なんて殆どしたことがなかったんだ」
「……今回は違うと?」
「ああ」
ガゼフはそう返して、モモンガに居直った。
一つ大きな息を吐いた後のその瞳には、既に覚悟の火が灯っている。
「……まず、モモン殿には感謝の意を伝えておきたい。あのカルネ村で出会ったときから、この瞬間まで……俺や王国は幾度となく貴女に助けられてきた」
「……結果的に、ですよ」
「謙遜せずに、俺からの感謝を受け取って頂きたい。貴女は間違いなく俺や王国の大恩人だ」
「……分かりました。その気持ち、しっかりと受け止めさせていただきます」
「ありがとう」
ガゼフは心から頭を下げた。
純度の高い感謝の気持ちは、死地へと向かう前にはっきりと言葉にして伝えたかったのが本心だ。
そして、これから伝えることもまた純真な本心。ガゼフはまた一呼吸置くと、モモンガの美しい翡翠の瞳を真っ直ぐに捉えた。
「モモン──いや、アルベド殿。俺は貴女に伝えておかねばならないことがある」
「……なんでしょう」
「俺は、貴女に憧れを抱いていた。『困った人がいたら、助けるのは当たり前』……この言葉を真っ直ぐに体現する行動力。そしてそれを実行するだけの美しい心と実力の持っている貴女が、俺には輝いて見えていた」
言葉を一つ一つ、丁寧に選んでいる。
何か大きな告白をしようとしているガゼフを、モモンガはじっと待っていた。その言葉には続きがあると思っているからだ。しかしそれが愛の告白だということは彼には分からない。
「だが、その輝きは次第に色を変え始めていた。貴女が変わったんじゃない。俺自身が変わり始めていたんだ」
独白のような言葉には混じり気がない。
ガゼフは一呼吸置いて、モモンガの瞳を真っすぐに捉えた。
「
「……はい」
「アルベド殿。俺は貴女のことを──」
「モモン。ここにいたのか」
──その時、呑気な調子で彼らのもとへ白金の鎧が歩みよる。
これ以上になく悪いタイミングだ。
白金の鎧……リクはモモンガとガゼフの顔を見比べると、微妙な空気を察知したのか、咳払いをする仕草を見せて言葉をくぐもらせた。
「……お邪魔だったかな?」
申し訳なさそうなその言葉に、ガゼフの眉がぴくりと跳ね上がる。彼からすればこのタイミングでリクが現れたのは、明らかに故意だ。
「いや、こちらこそモモン殿をお借りして申し訳ない。こうして真っ当に顔をお合わせるのは初めてだな。リ・エスティーゼ王国の戦士長、ガゼフ・ストロノーフだ」
お邪魔だったかという質問に対しては敢えて答えない。
差し出された手を、リクは何の疑いもなく取った。
「知っているとおり、先日彼女のパートナーになったアダマンタイト級冒険者のリク・アガネイアだ。王国戦士長の噂はかねがね聞いていたよ。会えて光栄だね」
パートナーというワードに、じくりと胸が痛む。が、ガゼフは平静と笑顔を取り繕った。
「それで、彼女に何か御用だろうか」
「ん? ああ、いや。大した用事でもないさ。君の話が終わった後でいい。モモン、戦士長の話が終わったら後で来てくれるかい?」
「分かりました」
じゃあまた後で。
そう言い残して、リクは踵を返した。
遠ざかっていく彼の姿を、ガゼフは目を細めて追っていた。あの背中こそガゼフが目指すべき姿であり、そして超えなければならない壁でもある。故人ではなかった。実際に生きていた。それは本来喜ぶべきことであるのだが、自分の心が俄かに曇っていく様がガゼフは醜く感じて仕方がない。彼は己を恥じる気持ちで、拳を固く握り込んだ。
「……良かったな」
ガゼフは絞り出す様に呟いた。
そんな彼の言葉に、モモンガは小首を傾げる。
「何がですか?」
「あのリクという騎士……モモン殿の想い人なのだろう」
「ああ……え、……ん!?」
予想だにしないガゼフの言葉に、モモンガはぎょっと目を丸くした。そんなモモンガの反応に、ガゼフは薄く笑う。
「隠す様なことでもないさ。あの御仁が、貴女のことを昔救ってくれた騎士なんだろう?」
「え、え?」
「今あの御仁と握手して確信した。あの方も、アルベド殿の様に俺には追い付けない高みにいる存在なのだと」
掌に残る存在感を確かめる様に、ガゼフは自身の手を見つめていた。ともすれば押し潰されるような……そんな圧迫感を感じ取っていた。あれには勝てないと、本能で理解できてしまう。アルベドの隣に立つ男とは、ああでなくてはならないとも思ってしまった。
「確かにあの御仁であれば、モモン殿が惚れてしまうのも仕方がない。同じ男として──」
「ち、ちょっと待ってください」
「ん……?」
何か別種の戸惑いを感じ取ったガゼフは、静止した。
対するモモンガは大量のクエスチョンマークを頭上に浮かべて彼に問う。
「もしかして……何か勘違いしてませんか?」
「勘違い、というのは?」
「え、あの……リクってガゼフさんにはどう見えているんですか……?」
恐る恐るといった声音に、ガゼフはきょとんとした表情を浮かべて答える。
「いや、言葉の通りだ。あのリクという御仁が昔アルベド殿を救ってくれた聖騎士なのだろう?」
「…………それで、私がその聖騎士のことが好きだと……?」
「違うのか?」
……思い込みというのは実に難しいもので、本人がそうだと一度思ってしまったらそれ以外の選択肢は眼中にすら入らなくなってしまう。たとえそれが虚像を見ていたとしても、だ。
大真面目に見当違いのことを喋っているガゼフにモモンガは目を点にしていたのだが……やがて止まった時間が雪解け水の様に流れていく。
「──……ぷっ」
聞いたことのない声。
いつも淑やかな笑みを湛えているモモンガの唇が、反射的に動いた瞬間だった。彼は次第に頬の筋肉を緩ませると、堪えきれないといった様子で腰を折った。
「──あは! あはははは! あはははははは!」
「え」
突然噴き出したモモンガ。
次に目を丸くしたのはガゼフのほうだ。
腹を抑えながら震えているモモンガは、目端に涙を溜めながら笑っていた。
だって、こんな生真面目を絵に描いたような男が『お前たっち・みーに惚れてるんだろう』と余りにも可笑しいことをいうのだから。当のモモンガからすれば、余りにも的外れすぎて笑うしかない。しかも、リクをたっち・みーと誤解しているおまけ付き。ガゼフのガチな表情もツボだった。
「な、なんで笑う……」
「あーおかしい……私がたっちさん……ぷふ、あの人のことを好きな訳ないじゃないですか」
「そ、そうなのか!?」
「それに、私が言っていた聖騎士とリクは別の人間ですよ……くく」
がーん、という効果音がガゼフの頭上から聞こえてきそうだ。
彼はやがて全てを理解すると、がっくりと膝に手を突いた。
「そうだったのか……俺は、なんて思い違いを……」
勝手に曇って、勝手にリクを意識して、自分はなんて愚かだったのかという反省と、途方もない安堵感がガゼフの胸の内を満たしていく。そんな彼の後頭部を見ながら、モモンガは依然可笑しそうに笑っていた。
「面白い発想をしますねガゼフさんは」
「……言わないでくれ」
「あー笑った……それで、私に何か話があったんでしょ?」
「……あ、ああ」
細指で目の縁の涙を掬いながら問うモモンガに、ガゼフは曖昧に答えた。はっきり言って、胸の曇りが晴れてしまったからだ。想いの丈を吐くような気勢も削がれてしまっている。
ガゼフは疲れた様に柔らかく笑って、モモンガの目を見た。
「そうだな……うん。この戦いが終わったら……一緒に食事でも行かないか。いいところを見つけてな。よかったらそこでご馳走させてくれ」
告白するのは、全てが終わってからでもいい。
ガゼフは腰の『
モモンガの返答は、勿論──……
「もちろん。是非ご一緒させてください」
彼はやはり、女神の様な微笑を浮かべている。
篝火に照らされた顔が、いつにも増して綺麗だと、ガゼフはじんわりと思った。
──日が沈み、月が浮かび、そしてまた日が昇る。
三国連合は数日の時を以て、旧評議国領内へと足を踏み入れた。
逃げのびた僅かな亜人とすれ違うことも多かったが、何よりアンデッドとの接敵が多い。領内には常に死の香りが立ち込めている為、アンデッドが自然発生しやすいというのもあるだろう。首都のドラゴンズブレスに近づくにつれ、接敵の数は増えていく。
しかし低位のアンデッドなど、各国を代表する英雄達が集うこの連合にとっては物の数ではない。千や万の単位で押し寄せられたとしても、撃破は容易だろう。故に道のりは険しくとも、その道の踏破も容易だ。
気づけば一団はドラゴンズブレスの目前までやってきていたのだが──
「これは……酷い」
──そこはまさに地獄と化していた。
蔓延るゾンビ達の呻き声と腐臭は風に乗り、時を錆びつかせ、生命の全てに不吉を齎している。かつての栄華はそこにはない。あるのは腐肉と、瓦礫と、絶望のみ。見渡す限りの不死者達。
元は亜人種の国家だとはいえ、余りにも凄惨な光景にその場にいた誰もが顔を顰めていた。
「……」
モモンガは、兜の中で沈黙を保っていた。何も言わず、ただじっとそこを見つめている。しかし陽の光を浴びているのはいつもの魔法で編み込んだ漆黒の鎧ではなかった。彼の身を包むのは、
英雄が用いるには些か不吉な印象を抱かせるその威容に誰もが目を見開いていたが、兜を脱げば中からは天女の顔が現れる。その美貌と優しげな声音を露わにすれば、誰も彼に怖れを抱くことはない。
ただ……誰もが理解できた。
英雄モモンが本気になっているのだと。理由は分からないが、いつものあの漆黒の鎧とグレートソードはこの英雄にとっては所詮予備のものでしかなかったのだと。
「いかがなさいますか。師よ」
『
モモンガは苦い顔を浮かべるだけで、フールーダには見向きもしなかった。彼は弟子を取った覚えなど一切ない。老人の妄言に取り合う暇など、さらさらなかった。
モモンガはフールーダの陰に隠れる様に浮かんでいた、巨大な帽子を被っているいかにも魔法使いといった見た目の女性──『無限魔力』に語り掛けた。
「これは思っていた以上に酷い有様ですね」
「え、あ、うん……あっ、はい」
『無限魔力』は自分に話を振られると思っていなかったらしい。面食らった様な表情を浮かべながら彼女は額に汗を浮かべていた。
「あのー……やっぱり作戦変更しますか?」
「いえ、作戦は私が言っていた通りに決行します」
モモンガはそれだけ言って、地上にふんわりと降下していく。
下で待っていた『漆黒聖典』の隊長と顔を合わせると、彼は脇に抱えていた兜を被り直して静かにこう告げる。
「開戦は十分後に。貴方達の働きに期待しています」
「……承知しました」
隊長は笑みを浮かべてそう返しながら、モモンガの言う作戦とは言えない作戦を頭の中で反芻していた。
──墳墓には私、リク、『絶死絶命』の三名で赴きます。その間にあなた方は地上のアンデッドの掃討に尽力してください。
全ての反論を拒絶する様なオーラに、誰もが異論を唱えることができなかった。隊長は薄らと目を細めながら、モモンガの背中を見送っている。
全てが未知数に満ちたこの戦争の結果は、彼を以てしても見通すことは不可能。
空には、鉛色の暗雲が重たくのしかかっている。
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6.Sweet drops
「皆さん」
緊張感が沈殿する中。
死と緊迫とを孕む緩やかな風を横切って、モモンガは彼女達の下へやってきた。
「よう、英雄」
獰猛な笑みにはどこか親しみがある。
いの一番に気が付いたガガーランはそう言って、軽く手を上げた。そんな彼女に従って、残りの『蒼の薔薇』の面々もモモンガへと振り返る。どうやら最後の戦闘前確認を行っていたらしく、彼女達は自前のマジックアイテムを広げていたり、得物の調子を確かめていたようだ。
『蒼の薔薇』はモモンガが挨拶にやってきたことに喜色を浮かべると、彼の前へと小走りでやってきた。その先頭は勿論、イビルアイだ。
「モモン様!」
胸に飛び込んでくる小さな体をあやすように受け止めながら、モモンガは『蒼の薔薇』の面々の顔を見回した。彼女達はやはり一定の緊張感を帯びている様で、笑顔ではあるものの少し表情が固い。
ラキュースは硬い表情のまま、モモンガに語り掛けた。
「遂にこの時がやってきましたね」
「皆さんの調子はどうですか、ラキュースさん」
「すこぶるいいわ。モモンさんは……聞くまでもなさそうね」
「ええ」
互いの胸元には同色の冒険者プレートが煌めいている。しかし、ラキュースがモモンガを見る目には同格以上の尊敬の念が宿っていた。敬意と、圧倒的な信頼が、語らずとも醸されている。
モモンガはイビルアイを降ろすと、
「今回の戦いは今までにない激しい戦闘が予想されますので、貴女達にはこれを先に渡しておきます」
言いながら、モモンガは一つの小袋を手渡した。
腰に吊るしても戦闘の邪魔にならない程度のサイズだ。
「……これは?」
「
「それは便利ですね……!」
「ですが、渡したいものというのはこれの中身です。中に沢山、有用なアイテムをつめこんでおきました」
モモンガは言いながら、ラキュースの手に収まった袋の中から手品の様に沢山のアイテムを披露してみせた。
『
そして最後に袋の中から出したのは……『
「これには第七位階の復活魔法が込められています。ラキュースさんの扱える『
最後の最後に登場した破格すぎるアイテムに、『蒼の薔薇』は目をひん剥いていた。
「モ、モモンさん!? こんな貴重な品々、私達頂けませんよ!?」
「いいえ。貴女達にはこれを受け取ってもらいます」
「な、なぜ……!? モモンさんだって、必要とするようなアイテムばかりじゃないですか!」
ガガーランも、ティナも、ティアも、イビルアイだってびっくりしている。これだけの効果を持つマジックアイテムの数々なんて、国庫をひっくり返したって買えるか分からない。
しかし、モモンガはその小袋をラキュースの胸元に押し返した。そして、頭を下げるのだ。
「──私は、貴女達に生きていて欲しい」
その言葉には、切実な想いが滲み出していた。
いつもどこか別の世界を生きていると感じていた相手の、本心からくる本音だとラキュースは感じ取った。
「モモンさん……」
ラキュースには返す言葉が見当たらなかった。
それだけ自分達を気に掛けてくれているということに、喜びと申し訳なさと感謝とが胸の内で綯い交ぜになって言葉を堰き止めているからだ。
詰まるラキュースから、大きな手が小袋をふんだくった。ガガーランは真摯な顔でモモンガを見つめると、静かに口を開く。
「モモン。これは一旦受け取っておくぜ」
「……ありがとうございます」
「だけど、この戦いが終わったらあんたに返しにいく。それまでは好きに使わせてもらう。これでいいか?」
「……ええ勿論。それまでは“預かっておいてください”」
「……分かった。おいお前ら。モモンからの有難い土産だ。全員揃ってこいつを返しにいくまで、くたばるんじゃねぇぞ」
モモンガの意図を汲み取ったガガーランの言葉に、『蒼の薔薇』全員が頷く。イビルアイはモモンガの手を取ると、ぶんぶんと振った。
「モモン様! この戦いが終わったら、絶対また一緒に冒険しにいきましょう!」
「……勿論」
「絶対ですからね! 約束ですからね!」
「ええ。今度は聖王国付近の依頼も受けてみたいものです」
そう言って、モモンガはイビルアイの頭を優しく撫でた。そして、そうしている間にもう時間が迫ってきている。モモンガが手を離すと、イビルアイは名残惜しそうに「あっ……」と言葉を漏らしていた。
「それではもう時間ですので、行きますね」
「はい! モモン様、ご武運を……!」
「ええ、皆さんにもご武運があることを祈っております」
互いに武運を祈り合う。
彼らにとってそれはいつものやりとりだった。
「──……さようなら。『蒼の薔薇』の皆さん」
モモンガは兜の中で小さくそう零して、踵を返した。
遠ざかっていく背中を、イビルアイはいつまでも見送っている。その背中を、その目に焼き付ける様に。
「……おいおい、いつまでそうやってんだ? 俺らも俺らでやらなきゃならないことあんだろ」
「……はぁー……かっこいいなぁ。モモン様は……」
「……本当に惚れてんだなぁ、お前。まさかイビルアイが女に首ったけになっちまうなんて、想像もつかなかったぜ」
「……性別は関係ないさ」
「あぁ?」
イビルアイは、左薬指に目を落とした。
そこには、以前モモンガから貰った指輪が収まっている。彼女は指輪の感触を確かめながら、心からの言葉を吐露した。
「……私はきっと、あの方を好きになる運命だったんだよ。性別も容姿も関係ない。あの方がたとえ男だったとしても……そう、私と同じ様な醜いアンデッドだったとしても、どの世界線でも私はきっとモモン様を好きになる……そんな気がしてるんだ」
指輪に収まる宝石が、きらりと煌めく。
イビルアイは、いつまでもモモンガの背中を見つめ続けていた。
そんな彼女をガガーランは「なに言ってだこいつ」と言わんばかりの呆れた目で見ている。
「お別れはすんだかい」
本陣に戻ったモモンガに、リクが気安く声を掛けた。モモンガが指示していた開戦の時まで幾許の時もない。
モモンガは怪訝な目で、リクを見返した。
「……お別れ?」
「言葉のとおりさ。『蒼の薔薇』とは懇意にしていたんだろう」
「そうですけど──」
「──君、この戦いに勝っても負けても帰る気ないんじゃないか?」
本心を刺すようなその台詞に、モモンガの動きが僅かに止まる──が、彼はそれを悟られぬ様にか肩をすくめてみせた。
「……さあ、どうでしょうね」
「あの墳墓はやはり僕が懸念していた通り、君のギルド拠点だった。違うかい?」
「…………」
リクの問いに、モモンガは閉口した。
何故ならその言葉は的中しているから。
上空から見た墳墓は、間違いなくナザリック地下大墳墓に間違いがなかった。かつての仲間達と築き上げた栄光そのものを、モモンガが見間違えるはずもない。
「……モモン。君、あちらに寝返ることなんてないだろうね」
「…………」
……モモンガはそれに答えない。
彼は何も言わず、『
地上でリクが溜息を吐いたのが微かに聞こえてくる。しかしモモンガは、彼に取り合う気力はなかった。
モモンガのスタンスは変わらないのだ。
彼はこの世界にできれば味方したい。愛着が湧いたこの世界が滅ぶのは純度百パーセントで嫌だと言い切れる。だが、ナザリックが現れたことで優先順位の逆転は有り得てしまう。自分で自分の立場を纏めきれない。
ただ言えるのは、あの墳墓に立ち入ってしまった時点でもう元の生活には戻れないだろうということ。
(俺は一体どうしたいんだ……? 俺は一体、この世界にとっての何者なのだろうか……?)
思考は定まらない。
心臓が不規則な鼓動を刻み、呼吸が僅かに乱れる。
そして──
(……まただ。何なんだ、この感覚……?)
──再び身の内から発露される、謎の違和感。
何か致命的なことを忘れてるような、強烈な掛け違いを過去にしているような……そんな、違和感。ナザリックをその目で見てしまったことで、その感覚は更に強まっていく。
かつての拠点に対して抱くには有り得ない危機感や恐怖感が、じんわりと腹の底に溜まっている。あそこに近づいてはいけないと、全身の細胞が叫んでいるようだった。
(俺は、何かを忘れてるのか……? 何かを勘違いしているのか……? 何かを、何かを……)
じんわりと、口内を嫌な味が侵食していく。
手汗は滲み、僅かに寒気がする。
しかし考えたところで何も始まらない。何も思い浮かばない。
「…………」
モモンガはふるふると頭を振って邪念を追い返した。
考えても何も解決しないなら、とりあえず行動あるのみ。殴ってから考えればいいというのは、確かギルドメンバーのやまいこの言葉だったか。
彼は何も言わず、アイテムボックスから小さな砂時計を取り出した。
開戦の合図は、モモンガに一任されている。
彼が号令すれば、全てが始まり、全てが終わりへと向かう。
「…………」
モモンガは静かに空気を吸い込んだ。
冷たい風が鼻腔を抜け、気管支を下って肺へ。
胸の膨らみをぴたりと止めたモモンガは、やがて膨大な光量の魔法陣を自らの周りに展開させた。青白く、規則正しい円形の幾何学模様が彼の周りに絶え間なく明滅……展開している。
地上でその光を見ていた誰もが、その現象に目を見開いていた。
魔法に明るいフールーダや『無限魔力』は勿論、魔法を知らぬガゼフまでもがその光の偉大さに呼気を震わせている。
モモンガは……やがて静かに魔法名をつむいだ。
──『
その手に握られていた硝子の砂時計が、握り壊された。
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7.ASHES
モモンガの超位魔法発動と共に、天使が舞い降りる。
曇天を突き破り、地上に光を齎すその天使の名は『
二対の白翼を持ち、獅子の顔を持つ高潔な上位存在は、盾と槍とをその手に持っていた。見る者がひれ伏してしまいそうな輝きを持つ槍は、不浄を焼き尽くさんとばかりに穂先に聖なる炎が宿っている。光り輝く盾は、一切の災厄を跳ね除ける力を宿していることだろう。
そんな人類では到達できない程の天使が、モモンガによって六体も降臨した。
──この不死者に塗れた地を洗い流すべく。
そしてこれが開戦の合図となったのは言うべくもない。
地上の勇者達が、腹からの怒号を上げてドラゴンズブレスに突貫していく。
『漆黒聖典』『火滅聖典』、ガゼフ率いる王国戦士団、帝国四騎士、フールーダ・パラダイン以下高弟。武勲のある名もなき戦士達……。
それから冒険者組合からは『蒼の薔薇』『朱の雫』『銀糸鳥』『漣八連』……金級以上のプレートを持つチームも参戦していた。その中には……『漆黒の剣』の姿もある。
彼らの姿を見下ろしながら、モモンガはリクと『絶死絶命』に『
景色が前から後ろへ吹っ飛んでいく。
この世界にきて初めての全力の飛行だ。リクは何も言わず、『絶死絶命』はその速度に目を見開いていた。
矢の如く飛ぶ彼らを、地上の勇者達はそれぞれの力を発揮しながら見送っていた。
一行は眼下で蠢く大量の動死体に一切関与せず、一点を目指して進んでいく。迷うことは決してない。何故ならそこだけ、半径二キロ程も何も存在しないからだ。巨人がぽっかりと口を開けた様な不気味な空間には、大墳墓の入り口だけが静かに佇んでいる。
そしてその大墳墓こそが──
(……ナザリック地下大墳墓)
──あっという間に到達し、かつてのギルド拠点を見下ろしたモモンガは、名状し難い感覚を覚えた。
懐かしいという感覚。
虚構の世界にしかなかったものが、触れられる次元にあるという感動。
そして──
「痛ッ……」
──頭に、ちくりと何かが刺した様な痛み。
「モモンさん、大丈夫?」
『絶死絶命』が心配そうに顔を覗き込んでくる。しかしモモンガは何でもないという風に顔を横へ振った。
「……大丈夫です。さあ、ここからは一時の油断もままなりませんよ」
蟀谷を抑えるモモンガの声は、いつもよりワントーン低い。
しかし本人がそう言っているのなら仕方がないと、『絶死絶命』とリクは顔を見合わせて彼の背中についていくほかなかった。
ふんわりと降下を始め、三名はナザリックの地表部に降り立った。
分厚い円形の壁に覆われたそこには、四方に霊廟が横たわっている。しかしその中央にある霊廟こそが、ナザリックの地下深部へと繋がる入口だ。
モモンガが迷うことなく中央の霊廟へ歩み寄ると、二人はそれに従ってついてくるのみ。
「随分立派な墳墓なのね。世界を脅かす存在が待ち受けるものなのだから、もっとおどろおどろしいものだとばかり思っていたわ」
ぽつり、と『絶死絶命』が呟く。
その台詞はまさにそうであり、墓守が日毎清掃を行っていたのではないかというくらいにきちんと整備されている。
「……そうですか」
それを聞いていたモモンガはそれだけ言って、霊廟の入口へと足を踏み入れた。
久々のホーム。
DMMOには嗅覚に作用する機能などなかったのに、懐かしい匂いがするようだった。
(ナザリック地下大墳墓……俺が、俺達が造り上げた、俺の全て……)
否が応でも記憶が蘇ってくる。
この世界にきてから積み上げられた思いでや経験の煤が払われ、その下から忘れられない黄金の記憶が鮮明に呼び起されていった。
「……」
モモンガは、あえて全ての領域への転移を可能とする『リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』を使わない。確かめたいこと、その目で見たいものがこの墳墓には山ほどあるからだ。一階層ずつ降りていきたいというのが、本音だった。
「さぁ……いきましょう」
気の引き締まった声。
モモンガの声に、リクと『絶死絶命』がこくりと頷いた。
ナザリック地下大墳墓が恐ろしい場所だと誰よりも分かっている存在は、いつでも戦闘に移行できるように3Fの柄を握りしめた。
「雑魚ばっかりね」
「……そのようですね」
……ナザリック地下大墳墓・第一階層。
階層守護者最高戦力のシャルティア・ブラッドフォールンが管轄するその領域は、閑古鳥でも鳴きそうなくらいに何もない空間が続いていた。時折、自動ポップする低位のスケルトンが姿を見せるくらいで、脅威と言う脅威は全くなかった。
湿度の低いひんやりとした石壁の廊下が続くばかりで、トラップも機能していない。これではどうぞご自由に出入りしてくださいといわんばかりだ。しかし何かは絶対に起こるはずだと、そう思っていたが──
「……どういうことだ?」
──本当に何事もなく、第一階層を抜けてしまった。
墳墓の主たるモモンガは呆気にとられるばかりで、来た道を思わず振り返ってしまった。そこにはやはり、何もない通路があるだけなのだが。
「モモン。これは君の想定通りかい?」
「いや……もっと険しい道になると思っていたのですが……」
訝しそうに問うリクに対し、モモンガも困惑を示すほかない。
うーん、と唸る彼を横目に、『絶死絶命』は首を傾げていた。
「罠の可能性もあるのかしら」
「分かりません。ですが、引き続き細心の注意は払っておいてください。この墳墓は、こんなものではない」
「……モモンさん、この墳墓のこと知ってるの?」
「そんな気がするというだけです」
「そう……」
『カゲ』が支配する墳墓はこんなものではない、というのは『絶死絶命』とて同意見。彼女は暇そうに『カロンの導き』を揺らしながら、二人よりも先に一歩踏み出した。
……ナザリック地下大墳墓はこんなものではない、はずだ。
──第二階層。
恐怖公が守護する領域のこの場所も、まるでもぬけの殻だった。
本来、大量に蠢いているはずの
ただ石畳の静謐な空間が続くだけだ。
三人の足音が、嫌に響いていた。
恐怖公の支配する領域を抜ければシャルティアが待ち受けているはずの屍蝋玄室に出るのだが、そこにもやはり誰もいなかった。
「……悪趣味な部屋ね」
『絶死絶命』がぽつりと呟く。
主を失っている悪趣味な内装は、灯りに照らされて静寂を保っていた。そして、それだけだ。何もない。何も起こらない。一行は屍蝋玄室を抜けて、足早に下の階層へと降りていく。
(どういうことだ……)
──第三・第四・第五階層。
……やはり何もない。
地底湖や雪山の世界に『絶死絶命』が目を輝かせるばかりで、本当に何とも出会わなかった。時折、デスナイトなどの中位アンデッドがうろついていたくらいで、本当に危機感を抱くようなことは何もない。
本来侵入者を迎撃するはずのガルガンチュアも、コキュートスも、終ぞその姿を見せることはなかった。
──そして、第六階層……。
双子のダークエルフ、マーレとアウラが守護する階層には、大森林の中に巨大な円形闘技場が鎮座している。見上げれば見事な星空が展開されており、『絶死絶命』がすごいわねと感嘆の息を漏らしていた。
(ここにも……何もないのか)
闘技場に足を踏み入れたモモンガは、困惑や焦りを胸の内に抱えていた。
これほど静かで何もないと、彼の知っているナザリックの様相ではない。不気味さを感じるくらいだ。彼がいなくなったナザリックは一体どうしてしまったというのか。
「……あれ?」
しかし、ここに来て変化があった。
闘技場の片隅に、何か人の高さほどに盛られた山がある。それは、モモンガが知らないものだった。気づけば駆けていた。そこにこの異様な現状を知る足がかりがあると思ったからだ。
「これは……灰の、山……?」
灰。
大量の灰で盛られた山。
こんなものをここに配置した覚えはない。
よく見れば、その山に何か紙切れが突き刺さっていた。
モモンガはそれを取り、灰を払うと、折りたたまれていたそれを手早く広げてみた。するとそこにはやはり、文字が綴られている。
……嫌な予感がする。
モモンガは直感的にそう思ったが、静かに息を吐いて、その文字を読み進めた。
「──…………」
時間にして三十秒ほどか。
モモンガはそれを上から下まで読み上げると、すぐにまた上から読み直していた。それを、数回繰り返している。
「モモンさん。それ、何て書いてあったの?」
近くにいる『絶死絶命』の声が、遥か遠くで聞こえた。まるで水中であるかの様に、モモンガの耳にはそれがくぐもって聞こえていた。
(まさか……そんなことが……いや……)
自身の心臓の拍動音が、嫌に鼓膜を揺らしている。指先から、震えが伝播していく。
「……はぁっ……はぁ……っ」
文字を読み進めていくうちに、そこに書かれていることの理解が進む程に、モモンガの表情は面白いくらいに様変わりしていった。血の気は引いていき、瞳孔が収縮を繰り返し、呼吸は大きく乱れ始める。
そこには驚くべきことが書かれていた。
世界の根幹を揺るがす様な……そして、何故自分やナザリックが今この様なことになっているのか……ということが。
そう……モモンガは理解してしまった。
──……否、思い出してしまった。
「モモン、どうした。そこには何が書かれているんだ」
余りにもレスポンスが遅い。
リクは若干苛立ちながら問いかけるが、モモンガは震える声で言葉を絞り出すことしかできない。
「──……げろ」
「え?」
モモンガが勢いよく振り返る。
兜の中の彼は、前髪が額に吸いつくほどに発汗していた。
「逃げろ! ここから一刻も早く! ここは──」
「──モモンさん! 上!!!」
『絶死絶命』の絹を裂くような絶叫。
モモンガが弾かれる様に上を見た瞬間──
「あっ……」
──彼は、
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8.VORACITY
なぜモモンガさんはモモベドさんになってしまったのか。
全てが遅すぎた。
世界は滅びへと向かうことだろう。
その真実を知る我々は、せめてもの世界が終わる理由をこれに綴り、この命を絶やそうと思う。
「素晴らしいぞ! 守護者達よ、お前達なら失態なくことを運べると、強く確信した……!」
ナザリックの絶対的支配者が諸手を上げて賛辞を送ると、忠誠の儀を捧げた各階層守護者達は恍惚の表情を露わにした。
第一から第三階層守護者──シャルティア・ブラッドフォールン。
第五階層守護者──コキュートス。
第六階層守護者──アウラ・ベラ・フィオーラ並びにマーレ・ベロ・フィオーレ。
第七階層守護者──デミウルゴス。
そして全階層守護者統べる守護者統括──アルベド。
彼ら六名はその瞳に並々ならぬ輝きを宿して、この墳墓の王に傅いている。彼らの造物主たる四十名はこの世界を去った。最後までこの地に残った慈悲深き主の先の言葉に、守護者達は震えがくるほどの喜びがその身の内を満たしていた。
全身全霊、何を賭してでもモモンガ様のお役に立つ──彼らの願いは、それだけだ。
「うっ……。そ、それにしても偵察に行かせたセバスの戻りが遅いな」
守護者達の爛々とした瞳の輝きに気圧されながら、『
「モモンガ様の勅命だというのに碌に仕事も熟せないとは……帰還次第、彼には相応の罰を与えるべきかと愚考致します」
「ま、待てデミウルゴス。ナザリック外に出ろと言ったのはこの私だ。もしセバスに何かがあった場合、それは主人たる私のミスだ。そうささくれ立つな」
「何と慈悲深い……」
「見目も心もまさに美の結晶……流石は至高の御方々の纏め役にして我が君ということでありんしょうかえ……」
「シャルティア、口を慎みなさい。モモンガ様の妃になるのはこの
「はぁ……? 筋肉がアタマにまで回った脳筋行き遅れサキュバスの妄言など届きんせんねぇ」
「……ヤツメウナギには言葉を理解するだけの知性もないということかしら」
「……あんだとゴラ」
「いっぺんオモテに出ろや」
「オ前達……至高ノ御方ノ前デ遊ビ過ギダ」
冷気を伴った呼気が蒸気機関の様にコキュートスの口から吐かれると、先程まで額に青筋を立てていたアルベドとシャルティアは慌てて傅いた。
「も、申し訳ありません!」
美しい声が重なり合う。
謝罪を受け取ったモモンガは「よい」とだけ伝えると、心の中で小さく溜め息を吐いた。
(俺がアルベドの設定を書き換えてしまった所為でこんなことに……ていうかペロロンチーノさん……自分の娘に死体好きな設定盛るのどうかしてるだろ……)
骨の掌が、額を抑えた。
少し硬くて軽い音が鳴る。
その様子に、デミウルゴスが息を呑んだ。
「君達、モモンガ様の前では守護者らしい振る舞いを心掛ける様に……。モモンガ様はナザリックに最後まで残って頂いている至高の御方なのですよ。失望されるような働きや言動など、あってはなりません」
握っていた拳が震えている。
デミウルゴスは若干だが、苛立っている様だった。
それはやはり外の偵察に出たセバスが戻ってきていないのが起因しているだろう。モモンガを失望させて、至高の四十名の様にこの地を去られてしまうことなどあってはならないことなのだから。
「まあ待てデミウルゴス。私はお前達がそう恐々としている様子を見るのは好ましく思わない。もう少し肩の力を抜け」
「はっ! 申し訳ございませんモモンガ様」
「まあよい。それより、セバスに『
──それは、モモンガが蟀谷に骨の指を添えたその瞬間だった。
『
彼奴は強大な力を持つアンデッドの竜王であり、我々『深淵なる躯』を支配下に置き、最強の名を恣にする為に、日々力を蓄えていた。
彼奴の恐ろしいところは生者の魂を問答無用に剥ぎ取り、その身に蓄えることができる『始原の魔法』を行使できることだ。これにより、生者の国や街はいくつも滅びの道を辿り、奴のイケニエとなってしまった。
しかしそんな『朽棺の竜王』も世界を滅ぼすには全く力が及ばない。話はここからだ。
「な、何だ……っ!?」
円形闘技場の上空に、漆黒の空間が展開されていた。
夜空を飲み込み、光すら通さぬ暗黒。守護者達もその光景に目を見開いていたが、その空間から、やがて何かが姿を現した。
「あれは……ドラゴン……?」
それはドラゴン……の様な何かだった。
白い躰。
そこから伸びる翼と尾。
目は紅く、鋭い。
そして額には七色に光る宝玉が埋め込まれている。
元々は西洋的な竜そのものな姿だったのだろう。
……しかしそれは異様だった。
全身の鱗の隙間から、暗黒の靄を垂れ流しているのだ。死の香りを纏う竜は、血走った目でモモンガ達を睨むと口を開いた。
「……おるわ、おるわ。我の贄となる汚物共が」
それは神経を逆撫でる様な悍ましい声だった。
個が発する声であるというのに、まるで何千もの悪魔の断末魔を束ねた声であるかの様に思えてしまう。
竜が言葉を発するが早いか、闘技場から青い何かが飛び上がる。
「コキュートス!?」
デミウルゴスが叫ぶ。
一足跳びで竜の懐に飛び込む戦士は、虚空から得物を取り出すや喉元を斬り破らんと刀を中段に構えた。
「蜥蜴風情ガ至高ノ御方ヲ見下ロスナド、不届キ千万。地ニ落チテ貰ウゾ」
コキュートスの握る斬神刀皇が、身が竦む様な突風を伴って半円を描く。その切っ先が竜の喉笛に触れ、鋭利な音色を奏でながらその頭を切り落とした──
「……ナニ!?」
──しかしそうはならない。
弾けた音は、竜の頑強な鱗に阻まれた斬神刀皇が折れるものだった。その結果に、モモンガ含む誰もが目を見開いた。
「我を相手取ろうとは、その勇気だけは褒めてやらんでもないぞ」
次の瞬間。
竜の尾がコキュートスの体を捉える。
「ゴ……ッ!?」
精強な外皮鎧が割れる重々しい音が第六階層を揺さぶった。
その勢いが殺されることはない。コキュートスは射かけられた矢の如く、闘技場の壁にぶち当たった。
「コキュートス!」
モモンガが叫ぶが、応答はない。
沈黙するコキュートスの姿に、守護者達にも緊張が走る。
「何なんだあいつは……まさか、セバスもあれに……?」
『スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』を握る骨の手が軋む。心の内を抗えない動揺が噴き乱れたが、アンデッドの特性故かそれはすぐに沈静化された。
「さあ、かかってこい汚物共。それとももう臆したか? ……フハハ。どうやらその様だな。まさにこの様な穴倉に引き込もるに相応しい臆病者共の振る舞いよな」
「アルベド! モモンガ様の側を離れるな!」
「分かっているわ!」
アルベドとデミウルゴスが目線を交わし合う。
その間に、犬歯を剥き出しにしたシャルティアが翼を広げて飛び出した。
「シャルティア!?」
アウラが叫ぶ──が、シャルティアの耳には届いていない。
「死に晒せやあああああああ!」
「ああ、もう! マーレ! 私達もいくよ!」
「う、うん!」
安い挑発に乗ったシャルティアを先頭に、アウラとマーレも続く。しかし結果はコキュートスの時と何も変わらない。
「失せよ」
たった一言。
竜の纏う暗黒が、質量を以て辺りに放射された。
「う、わ……!?」
シャルティアを、アウラを、マーレを、暗黒の濁流が飲み込むや彼女達を地に叩きつけた。何の抵抗もできずに地を舐める形となったNPC達は、先の一撃で瀕死に追い込まれていた。百レベルに到達したNPCをまるで赤子の手を捻るかのように無力化するその様に、デミウルゴスの額に汗が滲み出す。
「まさか、この様なことが……!」
今、自分が加勢したところで何の結果も出せないことをデミウルゴスは理解してしまった。あれには勝てない。たとえ、『アインズ・ウール・ゴウン』が主人のモモンガでさえ。
「アルベド! 私が時間を稼ぎます! その間にモモンガ様を連れて──」
「させん」
竜がそう言うや、額の宝玉が夥しい光を放ち始めた。夜を保つ第六階層を食らいつくさんばかりの、驚くべき光量だ。
「これは……!」
「貴様達の全てを『貰う』ぞ」
にたりと、竜が笑んだようにも見えた。
変化が訪れたのはそのすぐ後だった。
我々『深淵なる躯』は、とある遺跡で七色に光る宝玉を発見した。世界を変えかねない程に凄まじい魔力を持つ秘宝だ。
魔法の研究に余念がない我々はその秘宝について長い時を費やして調べ上げた。しかしどうやらあの秘宝は我々の手に余るらしい。どのような実験を繰り返しても、あの秘宝は反応を示さない。
そんな時だ。我々を支配するあの邪龍が秘宝の存在に気づき、我らの手から奪ったのだ。
そして全てが始まった。あの秘宝を手にした邪龍は、あの時から異常な力を発揮し始めた。
前述した様に、かの邪龍は生者の魂を奪う強烈な始原の魔法を扱うことができる。しかしそれがどういうわけか、奴はあの秘宝を手にしてからあらゆるものをその身に宿し始めた。
奪った魂の力、特殊技能、習得している魔法まで、奴は吸収し始めたのだ。
これが何を意味するか分かるだろう。世界の終わりだ。この世は滅びの一途を辿り始めた。
しかし不幸中の幸いと言えることが一つあった。あの秘宝はどうやら一年に一度しか効果を発揮しない様だ。
直ちに世界が滅ぶわけではないのだと我々は安堵の息を漏らしていたが、あれから五十年の時が過ぎた。
それ即ち、強者を含む多くの魂を五十回にも渡り吸収を繰り返したということだ。
この時点で奴を倒す手段はこの世から消滅した。各地に点在している『真なる竜王』達を一挙に束ねたとて、打倒は不可能だろう。
しかし話はここで終わりではない。
「コキュートス!?」
コキュートスの体が、光の粒子へと
しかしそれは、コキュートスに限ったことではない。
「お姉ちゃん!」
「マーレ……! わ、私の体も……!」
「何なんでありんすの……!?」
地にへばるマーレ、アウラ、シャルティアの肉体にも同様のことが起こり始める。彼女達の体も、指先から光の粒子へと変わり始めていた。そしてそれらは、竜の肉体へと吸い込まれていく。
「お、おおおオオオぉおオ……!」
竜は、身の内から弾ける様々な感情から声を上げていた。
それには喜びの他に、どこか戸惑いや恐怖の感情も感ぜられる。光の粒子が肉体に吸い込まれていく度に、竜の体は内からポップコーンが弾けていく様に肥大化を始めていた。
「シャルティ──ぐっ!」
「デミウルゴス……!」
駆け寄ろうとしたデミウルゴスが思わず膝を突く。
彼もまた、片足から粒子化を始めていたのだ。
(何がどうなって……)
モモンガは機能を失っている発汗の感覚を身に覚えた。
骨の身が、恐怖と焦り、そして怒りで震える。
理解の追い付かない目の前の惨状。
仲間が遺した可愛い子供達が、為す術もなく殺されていく。
モモンガは奥歯を砕けんばかりに噛みこむと、怒りのままに咆哮した。
「
骨の手が振るわれる。
次元を裂くような魔力の塊が、竜の肉体へと飛んでいく……が、それは無意味なものだった。モモンガが出せる最高火力の位階魔法だというのに、それはいとも簡単に竜の纏う暗黒によって消失したのだ。
「何だと……!?」
ダメージゼロというレベルではない。
まるで『上位魔法無効化』の効果が働いたように、三重最強化された第十位階魔法が打ち消されたのだ。
手ごたえで分かる。
抵抗力が高いという次元ではない。
如何なる属性の魔法を放ったところで焼け石に水だろう。モモンガは無い眉間に深い皺を刻んだ。
「モモンガ様ぁ!」
「アウラ! マーレ! シャルティア! コキュートス!」
「モモンガ様! いってはなりません!」
「離せアルベド! アウラ達が!」
愛し子達は手を伸ばしていた。
彼女達は怯えた顔をしている。しかしそれは自分達が消失する恐怖からくるものではない。主を御守りできないこと、使命を全うできないこと、そしてモモンガと離ればなれになることへの恐怖からくる怯えだった。
彼女達はそうして消えた。
粒子となって、竜の肉体へと吸い込まれていったのだ。
「オ、おおおおおオオぉおおおおおおおおおお!!!!!」
「クソ……!」
竜の肉体が、再び大きく膨れ上がる。
膨れ上がるとは言ったが、それは生易しい表現だろう。まるで水死体の様に、ぼこぼことグロテスクな肥大化を続けているのだ。
そしてその体が肥大化していく度に、竜はその身に異常な力を集約させていく。まるで吸収した守護者達の力をそのまま上乗せしたかの様に。
「許さんぞ……! よくも仲間達のNPCを……!」
知らずしらずの間に、モモンガの身から漆黒のオーラが溢れ出した。彼の怒気に呼応する様な『絶望のオーラ』が、ヘドロの様な粘り気を持って辺りに放射されていく。
「お待ちくださいモモンガ様!」
臨戦態勢を取るモモンガに対し、デミウルゴスが叫ぶ。粒子化の進んでいる彼の胴から下は既に消えていた。
配下の必死な形相に、怒りの沸点に到達していたモモンガにいくらかの落ち着きが取り戻ってくる。額に汗を浮かべるデミウルゴスは、できるだけ正確に情報を主へと伝えようと必死に藻掻いていた。
「モモンガ様。これは恐らく、
「世界級だ、と……!」
「はい……! モモンガ様とアルベドがあの力の影響を受けていないのがその証拠です……!」
確かに、とモモンガは腑に落ちた。
見やると、『
肥大化を続ける竜を仰ぎ見る。
あれが世界級アイテムを使用しているのだとしても、モモンガにはこの状況に照らし合わされる様な世界級アイテムの情報は引き出しにはなかった。
(俺の知らない世界級アイテムということか……!)
『現断』を消し去ったのもその力だと思えば納得がいく。
既に胸の辺りまで粒子化が進んでいるデミウルゴスは、アルベドに縋った。
「アルベド! モモンガ様を連れて第六階層から離れてください!」
「分かったわ……!」
「今、この状況下でモモンガ様を御守りできるのは貴女だけです……! 頼みまし──」
「オオオオオオオオおおおおおぉぉおオオオオオオッ!!!!!」
それは、世界が割れる様な咆哮だった。
肥大化を続ける竜は、明らかに苦しんでいる。痛みや苦しみから由来される叫びだということは、傍目から見ても明らかだった。
──……そして額に収まった宝玉が一層に輝きを増した時、世界に変化が訪れる。
「な……ッ!」
ナザリック地下大墳墓が、大きく縦に揺れた。
立っていられないほどの大きな振動だった。地殻変動でも起きたのかとモモンガは錯覚したがそうではない。
竜の叫びが、その力の波動が、そうさせているのだ。
「モモンガ様! ここからすぐに撤退を! 私は──」
「デミウルゴス!!!」
……デミウルゴスも、完全に消滅した。
彼だった光の粒子はやはりあの竜の下へと吸い込まれていく。
肥大化は、止まらない。
「モモンガ様! 私達だけでもすぐに撤退しましょう……! モモンガ様さえいらっしゃれば……!」
「クソ……! ああ、分かっている!」
余りの揺れに片膝をついていたモモンガはアルベドに肩を貸されながら、指に収まる指輪の力を発揮しようとした──が。
「『リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』が機能しない……!?」
指輪は命令に応えてくれなかった。
ナザリック地下大墳墓内を自由に行き来できる指輪の効力が、どれだけ使おうと思っても発揮されない。そして、問題はそれだけではなかった。
「モモンガ様! 転移魔法を……!」
「今やってる……! クソ、転移もできない! このナザリック自体が、奴の影響でおかしくなっているというのか……!?」
転移魔法も使えない。
他の魔法は使える……という感覚はあるというのに。
「あっ……!?」
異常はそれだけに留まらない。
辺りを見たモモンガとアルベドの目が、ぎょっと丸くなった。
円形闘技場が、頭上に広がる夜空の星々が、広大に広がる大森林が、その輪郭を失い始めているのだ。
ナザリックそのものすらもあの宝玉の輝きの影響を受けている。そう、光の粒子へと変わり、あの竜へと吸い込まれているのだ。
「あいつ、まさかこのナザリックそのものすら飲み込むつもりか……!?」
「モ、モモンガ様!」
「どうしたアルベド!」
「お、御身が……!」
「え? ……あっ!?」
モモンガは目を見開いた。
自身の手が……無くなっている。
感覚もいつの間にか消えていた。
あるはずのものが、そこにはない。
モモンガの体にも、あの光の影響が出始めていたのだ。
肉体が光の粒子へと解けていく。それはじわじわと、モモンガを嘲る様に緩く進行していた。
アルベドの顔から、サッと血の気が引いていく。
「モ、モモンガ様……!」
「クソ……!」
世界級アイテムの『世界の守り』が発動していないのか、それすらも捻じ曲げる力をあの竜が操っているというのか。真実は定かではないが、モモンガが消滅しかけているということだけは事実だ。
「万事休すか……!」
転移も使えない。
抵抗手段もない。
モモンガは奥歯を噛み締め、竜を睨みつけた。
欲望とは尽きぬものだ。
『朽棺の竜王』は更なる力を求めた。
百年に一度現れるという異界人の魂をすら取り込もうと言うのだ。名の知れたものでいえば人間達の間で八欲王や六大神と伝えられているあれらのような存在だ。奴はあれらを『竜帝の汚物』と蔑んでいたが、今ではどうでもよい話だ。
かくしてトブの大森林に大墳墓が現れる。
奴のにらんでいた通りの時期と場所に、だ。
『朽棺の竜王』は思惑通りに異界人達の強力な魂を喰らい尽くした。奴は本当の意味で神の領域に踏み込んでしまった。
これで世界は終わりを迎えたに思えた。が、それはもう少し先の話になりそうだ。
異界人達を喰らい尽くした彼奴の自我はどうやら崩壊したようだ。その有り余る力を制御できなくなってしまったらしい。
暴走した彼奴は全てを飲み込み始めた。異界人だけではない。異界人の拠点たる墳墓丸ごとをだ。
「モモンガ様、失礼します!」
「え、うわっ!」
支配者らしくない声を上げてしまった。
モモンガが見上げると、そこには唇を噛み締めるアルベドの顔があった。何かを決意した彼女が、モモンガの体をひょいと抱き上げたのだ。所謂お姫様だっこの状態だ。
「アルベド、何を!」
「じっとしておいてくださいませ!」
アルベドは有無を言わせない。
彼女はモモンガを抱きかかえたまま、トップスピードで駆けた。
駆ける。
どこへ?
──ひたすら、上へ。
指輪や転移による魔法が使えない。
ならば、アルベドはその足で地表部を目指した。
「うおおおおおおおおりゃあああああああああああ!!!!」
第六階層から地表部へ。
粒子化の始まっている不安定なナザリックを、ひたすら上へ駆けていく。
足が千切れんばかりの全力疾走だった。
全ては愛しい人を守る為に。
奴の力が及んでいるだろうナザリックから外部へお連れする為に。
「アルベド……無茶をするな!」
「御身の為ならばいくらでも無茶を致しましょう! モモンガ様は必ずやこのアルベドが御守り致します!」
ナザリック全体が揺れている。
辺り全体が激しく明滅を繰り返していた。
ナザリックが消滅する──ということを、この時二人は本能で理解していた。
故に外部へ。
故に地表部へ。
驚くべき速さで第一階層に到達したアルベドは、喘鳴しながらようやくその表情に明るさを取り戻した。
「モモンガ様!」
「ああ、外だ……!」
外部から入ってくる風が頬を滑る。
外はどうやら夜らしい。月光が、霊廟の入り口を淡く照らしていた。
アルベドは翼をはためかせると、一気に外へ飛び出そうとして──
「──!!」
──その時、激しい光が世界を包んだ。
「あ……っ」
「モモンガ様……!?」
ナザリックが、モモンガが、そのとき光の一部となって溶け消える。
腕の中に抱いていた愛しの主の温もりが、アルベドの体をすり抜けていく。
「モモンガ様ッ!!!」
絹を裂く様なアルベドの悲鳴。
彼女は両翼を広げると、モモンガの光の粒子を逃すまいと包み込んで──
広範囲に渡る空間そのものを飲み込むというのはこの世の法則を捻じ曲げるに等しい。暴走した彼奴は逆に捻じ曲げた次元の狭間に囚われてしまった。
世界からすればこれは最も幸運な出来事だったと言ってよいだろう。
この大墳墓とかの邪竜は別次元の狭間に封印されたのだ。様子を見にきていた我々もその巻き添えを食らったのは不幸だったが……。
しかし安堵も束の間だろう。捻れた次元は再生の兆しを見せている。次元の狭間に囚われたこの大墳墓と『朽棺の竜王』が再び世に解き放たれる未来はそう遠くはないだろう。
その時は明日か、それとも百年後か……。
いつになるかは分からない。しかし世界の滅びの時は必ずやってくる。絶望した我々はせめてもの、奴に殺される前に自害の道を選んだ。
これを読んでいる者に伝えられるのは滅びの真実だけだ。今となってはどう足掻いても彼奴を倒すことはできないのだから。
それでももし……かの邪竜を滅ぼすことができる勇者がいるのなら、どうかこの世界を救ってやってほしい。
未来のないこの世界に、せめてもの穏やかな死が満ちることを我々は願っている。
「え……?」
目を覚ましたモモンガは、トブの大森林にいた。
アルベドの体で。
一部の記憶が欠如した状態で。
次回、絶望のラスボス戦。
念の為に以下補足です。
【ティアーズ・オブ・ユグドラシル】
辺境の遺跡で発掘された宝玉形のワールドアイテム。
8760時間に一度だけ、装備した者が使用する世界級に関する全てのスキル・魔法・アイテムの効果を爆発的に向上させることができる。
世界級に匹敵する『始原の魔法』もこれの対象内。一度使うと8760時間の冷却時間が必要となる。
本作オリジナル世界級アイテム。
【カゲ⇄朽棺の竜王】
本作ラスボス。
前述の『ティアーズ・オブ・ユグドラシル』の効果によって『魂の強奪』に過剰なバフが掛かり、広範囲の生物に対して(不死者も例外ではない)魂以外にも経験値や習得スキル・魔法、肉体すらもその身に吸収することができるようになった。
長年の時を使い、現地生物相手に吸収合体を繰り返したことで竜帝をも超える存在へと進化する。
超常生物故にプレイヤーの転移時期や転移場所も察知できる様になり、転移直後のナザリックを強襲。
ナザリックのアルベドとモモンガを除く全てのNPCを吸収して最強無比の存在になったが、自らが制御できない程に魂と経験値をその身に取り込んでしまった為、自我を保てぬ怪物となってしまう。
ナザリック地下大墳墓そのものすらその身に吸いつくそうとした結果、次元が捻じ曲がってしまい、次元の狭間にナザリックごとセルフ封印されてしまっていた。
様子を見にきていた深淵なる躯達もその際に巻き込まれていたのだが、生を諦めてナザリック第六階層で自決。灰となる。
次元の歪みが戻り、現地世界へと戻ってきたのだが軸がずれてしまったが故に初期位置のトブの大森林からずれて評議国での復活となってしまった。
【モモベドさん】
『朽棺の竜王』の魂の強奪の影響を受けてアルベドとモモンガが合体してしまった姿。いわゆるバグった。
アルベドの肉体にモモンガの魂が吸収されてしまったが、精神はモモンガベース。
両者とも世界級アイテムを持っていた為に『朽棺の竜王』への吸収を免れたのだが、超常存在の力によって世界の守りの効果も捻じ曲げられてしまい、その影響を半端に受けてしまった。
次元の狭間に巻き込まれるナザリックからの脱出と共に一部記憶喪失となり、物語冒頭のトプの大森林で意識が覚醒して今に至る。
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9.Libera me from hell
モモンガは目を覚ました。
それは一瞬のことにも思えたし、永い時を経た様にも思う。ただ、そのたったの瞬きの間の時間が彼に途方もない疲労感を与えたのは確かだった。
「俺は……」
何が起きていた。
黒く美しい睫毛が伸びる瞼を閉じて開いて、モモンガは呆然とそこに立ち尽くす。
会社に行かなきゃ、今何時だ、と……巡らぬ頭で彼がぼんやりと考えていると──
「モモン危ないッ!!!」
──モモンガの体を、白銀の騎士が強引に抱きかかえた。彼は最高速度を維持したまま、その場を駆け抜けた。
その急展開に、モモンガの頭がようやく覚醒した。
そう、彼は死んでいたのだ。
装備していた即時復活の指輪のおかげで蘇生したのだが、確かに彼は死んでいた。
その事実に、モモンガの目が見開かれる。
──そしてその直後、先程までモモンガが立っていた場所に何か巨大な影が降り立った。
降り立ったというよりは、何かが落下したと言ったほうが正しいだろうか。それは突風と砂埃、そして巨大な質量が地面に激突した轟音をかなぐり立てて、その場に聳え立つ。
「何よ、あれ……!?」
平時、平坦な表情しか見せない『絶死絶命』の目が見開かれた。
鳥肌が立つ。
汗が滲む。
呼吸が荒れる。
寒気、嫌悪感が体を蝕んでいく。
『絶死絶命』は、とうに忘れていた命が危ぶまれる感覚をその身に刻まれていった。
……それは、余りにも醜悪な存在だった。
黒く、そして巨大だ。
例えるならば、真っ黒な毛虫……だろうか。
しかしそれは例えとしてはとてもマイルドでシンプルだ。あれは、そんなに生易しいものではない。
漆黒のヘドロを纏う巨体は、それだけで円形闘技場の五割を覆いつくす程だった。芋虫の様なフォルムは光を一切通さぬ真っ黒な粘液を常に垂れ流し、死の気配を周囲に撒き散らしている。
先程毛虫と例えた毛の部分を説明しなければならない。
あれの体には、無数の……そして大小、長短十色の漆黒の手が伸びている。誰かに助けを求める様な手は常に蠢いており、それは遠目で見れば風に吹かれてそよめく体毛の様にも見える。
そして、その無数の手の数に劣らぬ程の眼球が漆黒の体にびっしりと張り付いていた。血眼はやはり絶えず蠢いており、この存在に対する生理的嫌悪感を一層に掻き立てている。
背と尾の部分にはかつて竜であった時の名残なのか、僅かに突起しているのが確認できるが、それは最早翼や尻尾の様な元々の役割は果たさないだろう。
亡者の怨念と地獄という概念を握り固めた様な存在──というのが、『絶死絶命』があれに受ける印象だった。
──『カゲ』
『アインズ・ウール・ゴウン』を滅ぼした『
それは、口を開いた。
あらゆる生物を丸呑みに出来る大口には、歪な乱杭歯が上下左右にびっしりと生えている。『カゲ』は体を僅かに膨らませると──絶叫した。
「ぐ……っ!」
絶叫する。
それだけのこと。
それだけのことで、空間が撓む。地や闘技場の観覧席に亀裂が走る。夜空を模した天の星々が散らばっていく。
『絶死絶命』とリクが吹き飛ばされ、必死に地に足を付けるモモンガの鼓膜が切り裂かれた。
惑星中の生者の頭を同時に万力で潰した様な絶叫は、それだけでモモンガの体に多大な負荷を与えていた。
……咆哮を終えた後には、寒気がする様な静寂が寄せ返ってくる。
小刻みに呼吸を繰り返す『カゲ』の吐息はそれだけで死の概念を辺りに撒き散らし、闘技場の至る所に下位から上位のアンデッドの自然発生させた。
──未だかつてない絶望が、モモンガの身に訪れる予感。
「『
淡く、モモンガの体が緑色の光を帯び……それが開戦の合図となった。
「──」
何とも識別できない声で『カゲ』が再び咆哮すると、その漆黒の肉体から数多の手がモモンガの肉体へと猛然と伸びていく。
ただならぬ緊張感。
モモンガは鋭く息を吐くと、背中に黒翼を展開し、空へと逃れた。
漆黒に染まる手は伸縮自在だ。
関節のない鞭の様なそれらは、空へと逃げるモモンガの肉体を捉えんと迫った。さながら高性能追尾式ミサイルの群れだ。
「……『
何千、何万もの手が濁流の様にモモンガの肉体を飲み込む瞬間……モモンガの体が消える。転移した彼は闘技場の観覧席の陰に身を滑らせると、滝の様な汗を全身から吐き出した。捕まれば死んでいた……という未来と走馬灯を僅かに垣間見たからだ。
「……『
息が乱れる中、モモンガは自身への強化魔法を囁くように唱え始める。
『
『
『
『
『
『
『
『
『
『
『
『
『
『
『
『
『
『
『
レベル二百の体に、過剰ともいえる程の強化と加護が充実していく。ただしその過剰というのは、レベル百を上限とした相手に限って使われる言葉なのだろうが。
(馬鹿か俺は……)
モモンガは魔法を唱え終わると、自身の愚かさに唇を噛み締めた。
自分がこれから挑もうとしている勝負に勝てるわけがないと、分かっているからだ。分かっているのに、挑もうという愚かさ。体は震えている。呼気は定まらない。口内はぱさつき、自分の鼓動で僅かに視界がブレる。
それでも彼はこれから『カゲ』へと挑もうと思っていた。それは彼自身、余りにも愚かで無謀な行為だと分かっていた。
『カゲ』には階層守護者達はもちろん、各階層に点在していた強力なNPC達の経験値も取り込まれている。領域守護者や、第八階層のあれらすら奴の贄となっているのだろう。
今のモモンガが『カゲ』に挑んだところで、スケルトンがオーバーロードに挑む様なものだ。
(だけど……やるしかないだろ)
3Fを握りしめる拳に力が入る。
モモンガを突き動かす感情は、そう……怒りだった。
かつての仲間達が遺した
それに、上には……モモンガが心を通わせた友人達といえるべき存在がいる。
ここで食い止めなければ、彼の何もかもが奪われてしまう。逃げる場所はなく、逃げる算段もない。
(そういえば宝物殿は……宝物殿はどうなってる? あそこに眠る
『上位転移』は機能した。
ならば『リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』の使用も可能なはず──と、目を落とした瞬間だった。
「──っ!」
モモンガがもたれていた壁を、数多の腕が穿った。
喉の奥で悲鳴が弾ける。驚異的な身のこなしで翻ると、彼は翼を広げて再び宙へと駆け滑る。
隠密は不可能。
『カゲ』には、ニグレドから吸収した索敵能力も備わっている。
「ぜ、りゃあああああああああああああああああああああ!!!!」
天へと逃れながら、モモンガは追いすがる数千の腕を一心不乱に3Fで斬り落とした。あれの一本一本にはそこまでの耐久力がないのは救いだった。モモンガは驚異的なスピードで第六階層を縦横無尽に飛行しながら、スキル名を紡いだ。
「『下位アンデッド創造』……!」
この極限状態で使用するには聊か心細いスキルだ。
しかし、それでいい。火力や耐久力など、もとより期待できないのだから。モモンガは二十体もの下級アンデッドを生み出すと、六階層に広がる大森林にそれらを遮二無二走らせた。
そうしている間にも黒手の群は大津波の様にモモンガのもとへ迫っている。
大森林の木々の合間を縫う様な超高速飛行。その少し後を、森を平らにしながら無数の手が押し寄せていた。
速さでいえばモモンガが僅かに負けている。
「く……っ!」
あわや捕まる……という瞬間で、モモンガはアルベドのスキルを発動した。
「『トランスポジション』」
無数の手の波に呑まれたのは、モモンガではない。
位置をスキルによって交換された下級アンデッドだ。
「ぐっ……!!」
転移したモモンガは慣性を殺しきれずに、木々の枝をへし折りながら地を舐めた。ゴロゴロと転がる彼の美しい黒翼に、砂や落ち葉が絡みつく。
(リクやアンティリーネは無事なのか……?)
一瞬、頭を要らぬ心配が掠める。
勿論その様なことを考えている時間などない。木々を破壊する音が、真っすぐこちらへ向かってきていることを察知したからだ。
「はぁ……っ……はぁっ……!」
翻り、再び逃げる。
騙しだましで逃げ続けても、勝利には繋がらない。それでも逃げの一手に専念しなくては、あれに飲み込まれて死ぬのは必至だった。
(『トランスポジション』には冷却時間がいる……ある程度は燃費の悪い『上位転移』を使わなければならないのは仕方ないか……クソ、なんて最悪な鬼ごっこだよ)
『カゲ』が使えるはずの転移阻害を使ってこないのは、それだけの知恵がないのか、それともこちらの様子を見て愉しんでいるからなのか。確かなことは分からないが、それでもその隙がモモンガにとっての生命線なのは確かだった。
『上位転移』を繰り返しながら、モモンガは勝利の為に逃げ続ける。
(だが、やってやろうじゃないか……十二秒間の、命を賭けた鬼ごっこってやつを……!)
兜の中で、モモンガは奥歯を噛み締めた。
その瞳には、勝機が見え透けている。相手に知性がないのなら、相手に対策をされないのなら──
『The goal of all life is death』
──モモンガが修めた最大の切り札が、活きてくる。
彼の背中に現れるのは、巨大な時計盤。
次に使用する即死魔法に対し、あらゆる耐性やステータスを無にする絶対の即死効果を与える。その効果が発揮されるのは、魔法やスキルを使用して十二秒後……という制約はあるのだが。
スケールを問わない絶対の死。
モモンガは時計盤を背負い、数多の黒手に追われながら、『カゲ』の前へと躍り出た。
「『
魔法名を唱えると同時に、時計の針がカチリと動き出す。
『The goal of all life is death』のカウントが始まったのだ。後はカウントが終わる十二秒間を逃げ続けるのみ。
指輪での転移では発動までにラグがある。
ここはこの場で、死ぬ気で逃げ続けるしかない。
『カゲ』は何も気が付いていない。
無数の目でこちらをじっと見つめて、黒手を伸ばしてくるばかりだった。
おそらく本体が本格的に動けば、モモンガは二秒ともたないだろうに。
(その慢心が命取りだ、クソッたれめ……!)
内心で僅かに口角が上がる。
この勝機、取りこぼすことはできない。
モモンガは二つ目の切り札だと言わんばかりに『
魔法という手札を棄ててモモンガが得たのは、圧倒的な機動力。
彼は翼を広げるや、先程までとは比べ物にならない速度で飛翔した。戦闘機すら抜き去るその速度に、黒手は追い付けない。
針は既に九回、時を刻んでいる。
確殺の時は、近い。
「『アインズ・ウール・ゴウン』が受けた痛み、そして怒りをその身に刻み込め……!」
──三。
──二。
──……一。
針が、一周した。
『The goal off all life is death』の効果が成った。
万物に平等の死を与えるエクリプスのスキルに『カゲ』は──
「……えっ」
──思わず、モモンガの口内から気の抜けた台詞が漏れた。
足を止めていたモモンガの足首を、一本の黒手が掴んだ。
『カゲ』は、死んでいない。
モモンガは音を置き去りにする様な速度で闘技場に叩き落とされると、その体を再び無数の手が捉えた。
「う、あ……っ」
それからは地獄だ。
叩き下ろされ、投げ飛ばされ、翼は引き千切られる。
モモンガは良い様に玩具にされると、終いにぼろ雑巾の様に闘技場の中央に叩きつけられた。神器級アイテムたる『ヘルメス・トリスメギストス』の有様がそのダメージ量を如実に表している。砕け散った鎧からはモモンガの白い肢体が見え隠れしており、もはや鎧としての役割は果たせていなかった。
「う……」
呻くモモンガは、無数の手に因ってその場に仰向けに組み伏せられた。二百レベルのステータスを誇る戦士が、
(う、嘘だろ……蘇生魔法を使った様には絶対見えなかった……まさか、まさか……絶対の即死効果を持つあれを……こいつは
……故に超常。故に神域。
絶望するモモンガに、大きく影が落ちた。
見上げれば、無数の眼球がモモンガを覗き込んでいた。
『カゲ』は大きく口を開いて、抵抗力の乏しいモモンガを口へと運んでいく。
「や……やめ──」
抵抗虚しく、モモンガは『カゲ』の口に放り込まれた。
……結局この勝負、
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10.irony
「生きてるかい」
「う……」
闘技場、観覧席。
陰になる場所でリクは声を顰めながら『絶死絶命』の意識を確かめた。しかし絶死は僅かに呻くばかりで、目覚めることはない。鼻から血が流れている辺り、先程の『カゲ』の咆哮──超音波で内から破壊された様にも見える。
使い物にならない『絶死絶命』を見ながら、リクは舌打ちでもしたい気持ちに駆られてしまっていた。
たった今、頼みの綱であるモモンガが『カゲ』に捕食されてしまった。それも、余りにもあっけなくだ。
(まさかあのモモンがこんなにも呆気なくやられるとはね……『カゲ』の力は僕の想定を遥かに超えているようだ……)
評議国内の最奥にて、本体であるツァインドルクス=ヴァイシオンはかけないはずの冷や汗をかいていた。ぷれいやーたるモモンガもあの有様。ぷれいやーの子孫たる『絶死絶命』もてんで使い物にならない。これでは彼自身本体が出向いたところで、勝てるビジョンは全く浮かばなかった。
どうしたものか──と考えていたところで。
「……ん?」
じっと見守っていると、『カゲ』に明確な動きがあった。
モモンガを捕食した『カゲ』の全身が僅かに震えている。体に植えられている無数の目の瞳孔が収縮していた。
それは、明らかなストレス反応だ。
苦しんでいるというより、何か不快な感覚が全身を巡っている様な……。
「モモン……!」
そして『カゲ』は、モモンガを口腔から吐き出した。それはまさしく堪らず、といったようだった。
吐き出されたモモンガは血と粘液に塗れながら、闘技場に投げ出された。
「う……」
全身がぴくりとも動かない。
乱杭歯での咀嚼によって夥しい出血に見舞われているモモンガは、既に意識が朦朧としていた。死は近い。彼は肺に溜まった血の塊を吐き出すと、何とか立ち上がろうと藻掻いた……が、その意識を嘲笑う様に体は言うことを聞いてくれなかった。
目の前の『カゲ』は苦悶の表情──表情などないが──を浮かべて、モモンガを見下ろしている。
『
(どうだ……俺は、さぞ不味かっただろう)
イタチの最後っ屁と言うべき、モモンガの最後の抵抗。
彼の右手には、ガラス片が突き刺さっている。どうやら『カゲ』の内部で何かしらの薬瓶を砕いたらしい。その砕いたモモンガの右手は、しゅわしゅわと泡立って肉が溶け、骨が透けて見えていた。
──『マスターポーション』
ザイトルクワエの頭部に生えていた薬草から抽出した、どんなバッドステータスも全快する現地産の超希少アイテム。それを『カゲ』に見舞ったのだ。ポーションの類はアンデッドに効く。どうやら彼奴にもこれは効いたらしい。ステータスに何かを及ぼしたとは言えないが、それでもモモンガを吐き出したくなる程度には不味かったようだ。
「……へへ」
モモンガは、僅かに笑んだ。
心の内で中指を立てる彼は、一杯食らわせてやったことに少しだけ満足感を得ていた。
「……」
……その様子が『カゲ』は気にくわない。
静かな怒り……負の感情をその身に充実させている。彼奴はモモンガの体を二本の腕で持ち上げると、見やすい位置まで運び、凝視した。
「ぐ……」
最早モモンガには抵抗の術も体力も残っていない。
瀕死とはまさにこのことだ。美術品の様だった彼の美貌は既にそこにはない。全身は血液と粘液、それから無数の傷に塗れており、黒髪は痛々しく乱れている。浮かされた彼の指先、足先からは、今も鮮血が絶え間なくぽつりぽつりと落ちて闘技場を汚していた。
「…………」
『カゲ』には知性がない。
……とは言ったものの、知力がないわけではなかった。その身にはデミウルゴスの知識や知力も備わっている。
秩序や理性がないだけで、これには物事の取捨選択をする程度の頭はあった。あってしまった、といったほうがいいだろうが。
『カゲ』は考える。
どうすればこの目の前の生物を最も惨たらしく殺すことができるのか、ということを。そしてその答えは、簡単に導き出すことができた。
「う、ぐ……」
するりと黒手から解放されたモモンガは受け身を取れずに闘技場に墜落した。肉と血が地面にぶつかる水気の多い音が、第六階層に嫌に響く。
(なんだ……?)
てっきり即座に殺されるものだと思っていたモモンガは、目の前の化け物の行為に僅かに目を見開いた。
未だに沈黙を保っているこの異形が、不気味でならない。
……僅かな静寂の後、それは起こる。
『カゲ』の口から、ころりと五つの黒い塊が吐き出された。卵……の様なそれは、地面にぶつかるやドロリと弾けて形を変えていく。黒い粘液が逆再生の様に輪郭を整えていくと──それは忽ちモモンガが見知った姿へと成った。
「全ク……マサカ、我々ガ仕エテイタ主ガ、コレホド脆弱ナ存在ダッタトハナ……」
「コ、コキュートス……?」
漆黒のシルエットのそれは、まさしく武人建御雷が創造したコキュートスそのものだった。声も、所作も、オリジナルと変わらない。
……いや、漆黒に染まっているだけで、これは本物のコキュートスなのかもしれない。
モモンガの心の内を見透かした『カゲ』が選んだ選択は、まさしくモモンガを追い込むに相応しい拷問だった。
コキュートスはまるで穢れた存在を摘まむようにモモンガの足を引っ掴むと、『皆』に見せやすいように高々とそれを掲げて見せる。
「ショックでありんすねぇ……まさか至高の存在と崇めていたモモンガ様が、その本質は下等生物と一緒だっただなんて……」
「シャルティア……」
「下等生物と一緒、ではありませんよシャルティア。これは所詮遊戯の中でしか自分の価値を見出せなかった非常に哀れで、貧弱な存在であり、下等生物よりも価値がありません。尤も、このような存在に生み出された我々も自分の価値を改めて考え直さなければなりませんが」
「デ、デミウルゴス……」
「で、でも! これから僕達は新しいご主人様の一部として生きていけるんだよね! そ、それってとっても嬉しいことだよね! ね、お姉ちゃん!」
「そうだよ、マーレ。これからは『アインズ・ウール・ゴウン』もモモンガ様も棄てて、ずっと幸せに暮らしていこうね」
「マーレ……アウラ……」
その言葉のどれもが、モモンガの心を打ち砕く。
偽物だとどれだけ願ってもその声が、その所作が、その全てがリアルだと、五感に訴えかけてくるのだ。
ボロ雑巾の様なモモンガを見ても、彼らは蔑む様な視線を向けてくるばかり。氷の様な気配が、モモンガの心をぽきりとへし折った。
「どうですか皆さん。手始めに、これを血祭りにあげた後に新たなるご主人様へ忠誠の供物として捧げようではないですか」
諸手を上げて提案するデミウルゴスは、嗜虐の表情を浮かべている。その素晴らしい提案に、守護者達は喜んで顔を縦へ振った。
「異論ハナイ」
「妾も異論ありんせん」
「ぼ、僕もそれがいいと思います」
「うん、いいね!」
黒いシルエットの彼らには、モモンガへ向けるかつての敬愛や憧れの色はない。ただただ、どれだけ壊してもいい玩具に向ける様な残虐な色しか浮かんでいなかった。
「お、前達……」
モモンガが制御も覚束ない唇で何かを問いかけようとしたが、彼らは何も聞いちゃくれない。
次の瞬間、モモンガに対する守護者達の蹂躙が始まる。
それを、『カゲ』はじっと……見下ろしているのだ。じっと、何も言わず、何も動かず。
コキュートスは手始めにモモンガの四肢をもぎ取ろうとして──
──その時、コキュートスとモモンガの間にひとつの影が飛び込んだ。
「──グウ、アアアアアアアアアアッ!?」
電光石火の如き一撃。
コキュートスは影のくれた
(な、何が……)
驚いている暇はない。
瞠目しているデミウルゴス、マーレ、アウラ、シャルティアにも同様のことが訪れる。粘液へと還るそれらは、飛沫を飛ばしながら闘技場を穢すと、ずるりと『カゲ』の身へと吸収されていた。
「──」
突然の出来事に、『カゲ』が咆哮する。
未だその実体をすら目視できぬ影は、即座に姿を消すやモモンガの体をひっ捕まえ、雷光の様に闘技場から跳び離れた。
(こ、これは……いや、貴方は……)
目に映る闘技場が、瞬く間に豆粒ほどの大きさへとなっていく。意識が飛びそうになるモモンガは、自身を抱えるその影の姿を見上げると、目を丸くした。
影に身を溶かすような忍装束。
その細身には、隠密と一撃必殺を是とする力が宿っている。その姿に、モモンガは見覚えがありすぎた。
「貴方は、に、弐式炎ら──」
「──……宝物殿守護の任を一時放棄したことをお許しください。我が造物主たるモモンガ様」
……それはかつての仲間からぬるりと姿を変えて、軍服を纏った埴輪顔の領域守護者へと成った。
宝物殿の領域守護者にして、モモンガが唯一作成したNPC。
パンドラズ・アクターはモモンガの身を優しく抱きかかえると、その指に収まる『リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』を静かに起動させた。
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11.before my body is dry
書き溜めてた大量のデータがおしゃかになって◯んでました。
霞む視界は、鉛色に揺らめいている。
指一つ動かせないモモンガは、広い軍服を敷いた床に優しく置かれるとそこがどこであるかをぼんやりと理解できた。湿り気のある風が鼻先を掠め、遠いどこかで戦火や怒号が上がっている。
「う……」
「ご無事ですか、モモンガ様」
ナザリック地下大墳墓、地表部。
床に寝かせられた拍子に、モモンガの体に刻まれた無数の傷が僅かに形を変えた。ぐじゅりとしたその音が、やけに耳に響く。頭痛は絶え間なく、そして裂傷は呼吸を咎めるほどに痛覚を刺激して止まない。
苦痛に歪むモモンガの顔を覗き込むパンドラズ・アクターはやはり表情のない埴輪顔だったが、彼の声音はひどく優しく、そして不安に満ちていた。
「すぐに治療薬を」
「……待、て……俺は、今……アルベドの姿だが……、……」
「……なるほど承知しました。ではすぐに、別の方法で手当をさせていただきます」
絞りカスの様な主人の言葉の意図を察知したパンドラは、小さく頷いた。
彼はぐにゃりと姿を変質させると、次第に輪郭を変えていく。少しの時を擁して、彼は『モモンガ』の形を保った。
「失礼致します」
そうしてパンドラはモモンガの額にそっと骨の手を添え、『大致死《グレーター・リーサル》』を唱えた。膨大な負のエネルギーを相手に送り込むこの魔法は、むしろ不死者にとっては最大の回復効果を与える。傷だらけのモモンガの体は、みるみるうちに回復していく……が。
「これは……」
『大致死』を使用し続けているパンドラの骨の顔が僅かに歪んだ……ように見えた。三重最強化した負のエネルギーを主人の肉体に送り続けても、どうにも回復の度合いが緩やかなのだ。本来ならもっと目に見えてダメージが治癒されるはずなのに。
……しかしこれは決してモモンガの肉体が何か異常をきたしているのではない。
モモンガのそもそもの最大HP量が多すぎて、全快させるまでに時間が掛かっているだけなのだ。百レベルであるモモンガとアルベドを足し合わせたステータスはやはり伊達ではないということだろう。
(なるほど、そういうことなのですね。カラクリはさっぱり分かりませんが、流石は至高の御方だと……そういうことなのでしょう)
知力に長けているパンドラは既に主の状態への理解が進んでいた。ポーションで回復できぬこと、底なしのHP量、そして見たことがない可憐な悪魔の姿……。負のエネルギーを捧げながら、彼はモモンガがこの高レベルの悪魔とステータス合体した姿だという状況を飲み込んだ。
「ふぅ……」
「ご無事ですかモモンガ様」
「ああ……助かったぞパンドラ」
鉛の様に重かった体は、今や綿毛のようだ。
モモンガは浅く溜息を吐くと、血の通う掌に視線を落とした。美しいはずの肌は、今は血と砂に塗れている。
(……生きている)
その手は震えていた。
浅く押し出される吐息も、同様に震えている。
震えもする。
怯えもする。
モモンガから湧きだされる恐怖は野放しだ。
その感情が抑制されることはない。彼は、怖かった。初めて直面する死の気配や、『カゲ』の悍ましさに、身が竦んで仕方がない。
それもそのはずだ。
モモンガは誇り高い戦士でもなければ、高尚な魔法使いでもないのだ。
「…………」
モモンガは掌を押し隠す様に握り込むと、ゆるりとパンドラを見上げた。
「お前、生きていたのか」
「はい。私は宝物殿におりましたので、例の現象の影響は受けておりません。モモンガ様のご帰還を、息を殺してひたすらにじっと待っておりました」
「それは嬉しい誤算……と言えるか。お前がいなかったら確実に死んでいた。助かったぞ。それより、宝物殿の奥にある世界級アイテムやアヴァターラは無事か?」
「ええ、全て完璧に保管しております。察するに、『あれ』はまだ宝物殿の存在には気づいていないようですね。宝物殿内は安全かと」
「安全……か」
……安全。
それはきっとモモンガが怯え始めていることに気づいているパンドラの気休めの言葉だろう。あの森羅万象を掌握した様な化け物相手に逃げる場所など、果たして有り得るのだろうか。
……答えは、否だ。
それが分かっているから、パンドラは宝物殿ではなく距離の離れた地表部にモモンガを連れ出したのだろう。『カゲ』が本気でモモンガを炙りだそうとすれば、宝物殿内への侵入も容易くできるだろうから。
(一筋の光明は見えたが、状況は何も好転していない……一体あれをどうやって倒せというんだ)
モモンガは下唇を噛むと、アイテムボックスの中から粗末な木の棒を取り出し、それをへし折った。そうすると即座に、ボロボロに破損していた『ヘルメス・トリスメギストス』が立ち消え、代わりに
アルベドの体には『ヘルメス・トリスメギストス』が馴染むが、やはり使い慣れたこのローブこそがモモンガらしいとも言える。久々に袖を通したモモンガは、少しだけ手元が寂しいことに気が付き──
「こちらに用意してございます」
──……黄金に煌めくスタッフを在るべき場所へと還す様に、パンドラはそれをモモンガに傅いて捧げた。
「スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン……」
白魚の様な指を絡ませる。
パンドラの手を離れ、モモンガの手の中に収まった『アインズ・ウール・ゴウン』の結晶は、まるで産声を上げる様に七つの宝石を煌めかせた。
仲間達と途方もない時間と労力を注ぎ込んだ軌跡そのものに触れ、モモンガの心に穏やかな暖かさが滲み出る。どれほどの状況であろうとも、どれほど孤独な時間を過ごしていようとも、彼はそれを見るたびに奮起できた。
「パンドラ──」
──と声を掛けたのと同時に、ナザリック全体が大きく揺れた。
……『カゲ』が、吠えている。
恐らく、怒り狂っているのだろう。
姿を見なくとも、奴が発狂しながらナザリック内をのたうち回る様に走り回っている様が、この絶え間ない轟音だけで感じることができる。如何に頑丈なナザリックといえど、奴に暴れまわられてはそうはもたないだろう。モモンガはナザリックの崩壊を予感していた。
遥か地下深くから、身も竦む様な叫びが世界を揺らしていた。
じっと主の言葉の先を待っているパンドラに気が付くと、モモンガは美しい顔に覚悟の色を滲ませた。
「……パンドラ。俺は、奴に勝ちたい」
死を纏った風が、鼻先を掠めていく。静かな言葉に、パンドラは表情を崩さない。
「……さようでございますか」
「……無理だと思うか?」
「はっきり申し上げますと無理ですね」
「そうか……」
きっぱりと言い放つ埴輪顔に、モモンガは苛立たなかった。寧ろ思っていることを包み隠さずに言ってくれることを有難くすら思う。
パンドラは軍帽の位置を正すと、緩く空を見上げた。
「しかしながら、無理という言葉はこのナザリック……延いてはモモンガ様にとっては何の意味も成さないものでしょう」
「……」
「もしも『アインズ・ウール・ゴウン』に無理という概念が存在するのだとしたら、そのスタッフはきっと完成されなかったでしょうからね」
モモンガが握る黄金のスタッフ。
確かに言われてみればそうだ。このスタッフを完成させるに当たり、最初は誰もがそれは無理だと円卓で頭を抱えていた。しかしやり遂げた。どの最上位ギルドにも再現不可能であろう、ギルド武器最強とも言えるこの『スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』を創り上げたのだ。
パンドラの言葉に、モモンガは微笑を浮かべていた。
「モモンガ様、お忘れなきよう。貴方は至高の四十一人の纏め役にして、この『アインズ・ウール・ゴウン』の玉座に座られる方なのです。貴方がやると思ったなら、それはきっと成し遂げられる。貴方がここへ帰還なされたということは、つまりそういうことなのです」
「パンドラ……」
埴輪顔の機微だけでは何を考えているか分からない。
ただ、パンドラの口調や声音からはそれが誠の心であるということは察せられる。
「ありがとう、パンドラ。奴を討つ為に知恵を貸してくれ」
「我が神の望みであるなら。……しかしながら、何故戦うことを望まれるのですか? ここは一時でも逃げ、もっと情報を得てからでも遅くは──」
「──友達がいるんだ」
きっぱりと言い放つモモンガに、パンドラは面食らった。
友達、なんて言葉が主人の口から飛び出すとは思わなかったからだ。それは『アインズ・ウール・ゴウン』のメンバーではないことを言っているということは、何となく察することができる。
……友達。
モモンガの瞳には、沢山の人間達の顔が浮かんでいた。カルネ村のみんな、『漆黒の剣』、『蒼の薔薇』、ガゼフ・ストロノーフ……その他にも、この世界にきて接触したたくさんの気のいい人間達。モモンガは、彼らのことを……彼らの世界を守りたい。
「……友達、ですか」
至高の御方々のことか、と一瞬パンドラは思ったが、モモンガの気配からどうやら違うということを彼は察した。となると、『アインズ・ウール・ゴウン』に属さない新たな友人、ということになるだろう。
パンドラは、何かを誤魔化す様に軍帽のつばに触れた。
「可笑しいか」
「……いえ。しかしモモンガ様、貴方は今とても良い顔をされていらっしゃいますね」
「なに?」
「貴方はやはり勇者の顔をしていますよ。少しだけ……ご友人方を妬ましく思ってしまうくらいには」
パンドラの記憶に刻まれていた主人の背中は、いつも寂しそうだった。
宝物殿内のアヴァターラを時折見にくることがあったのだ。その背中を、パンドラは見送っていた。
……その背中のなんと小さいことか。
かつての仲間の残滓を追い求める主人はいつも寂しそうだった。そしてそんな主人の献身は、終ぞ報われることはなかった。至高の御方々がご帰還なされて、アヴァターラが不要になるという夢は、叶わなかった。
……主人は、いつも寂しそうな瞳をしていた。
(そんなモモンガ様が……)
とてもよい目をなされている。
幻影を追うのではなく、何か大切なものを守る為に勇者であろうという、優しくも強い瞳をなされている。
パンドラは心が温かになった。
見逃せない嫉妬もある。しかしその嫉妬を向けるだけの相手が主人にできたということは、彼にとってひとしおの感動でもあった。
モモンガの望みを叶えたい。
できることなら、モモンガの友人達をひと目見てみたい。
パンドラは自分の中で覚悟を決めると、モモンガを見て──
──次の瞬間。地表部の石畳を踏み砕いて、『カゲ』の巨体が聳え立った。
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12.Somebody to love
「んん……」
パンドラズ・アクターはマジックアイテムを綺麗なクロスで拭いながら、看過できぬ違和感に喉を鳴らした。
今日も宝物殿は静寂に満ちている。
耳に痛いくらいの静謐さと、嫌でも背筋を伸ばしたくなる様な涼やかさが沈殿するこの空間がパンドラは好きだった。宝物殿の領域守護者の任を敬愛する造物主に与えられた誉れは何よりも尊く、何よりも誇らしく、何よりも彼のことを満たしてくれた。
パンドラは今日も今日とてマジックアイテムを磨き、整理しながら、
そんなパンドラは自分の領域守護者としての責務に、後ろめたい感情を滲ませ始めていた。それは守護者としては決して褒められぬ心のしこりだ。
心が逸る。
心が焦る。
感情と理性とが鬩ぎ合い、答えのでない自己問答にパンドラは苛まれていた。
──時間にして一週間前。このナザリックに天災が降りかかった。
空間の続かぬ宝物殿をすら大きく揺らす大地震。
その日もマジックアイテムを磨いていたパンドラは、まさかとその手を止めた。
ナザリックで語り草となっている、千五百人からなるプレイヤーの侵攻。その再来かと彼は思ったのだ。これが『カゲ』による例の現象だということは、宝物殿に身を寄せるパンドラにとっては知る由もない。彼は何も知らぬまま、ナザリックと共に次元の狭間へと閉じ込められていた。
プレイヤーの侵攻かと身を固くしていたパンドラは、その大地震が僅かな間で収まるや、深い息を零して椅子に腰掛けた。ナザリック──この宝物殿に影響がないのを鑑みて、プレイヤーの侵攻を撃退したか、これが単なる大きな地震であったのだと結論づけたからだ。仮にプレイヤーの侵攻であればこの激しい揺れが即座に収まることはないだろうし、プレイヤーが勝利をおさめてギルド武器を破壊したなら、この宝物殿もただでは済まないだろう。
だからこれは杞憂。
宝物殿領域守護者の自分はいつも通りに業務を続けていればよいのだと、パンドラは平静さを取り戻していた。見て見ぬふりとも言えよう。しかし彼にはそれしか選択肢がないのだ。宝物殿を守護せよと命を授かったその日から、パンドラにはそれ以外の思考を持つことは不要。宝物殿以外の領域の心配をするなど、甚だ不敬である。
……そしてあの揺れから一週間の時が過ぎた今。
パンドラは拭えぬ違和感をその胸に抱えていた。
「……何なんでしょうね。この静けさは」
呟いた声が虚空へ消えていく。
宝物殿は依然変わりなく静かである。それはいつも通りのことだ。しかしパンドラが感じた静けさというのは、そういう性質のものではない。静かな部屋に一人、というものではなく、世界にたった一人取り残された様な……そんな静けさを肌身に感じるのだ。
外が気になる。
パンドラは至極当然の興味と不安をその身に抱えた──が、彼はその思考を外へと追いやった。
「まぁ、外で何があったとて私はここを任される守護者の身。外が気になって守護者の立場を忘れては不敬極まりありませんね」
パンドラは再び手元のマジックアイテムに目を落とすと、小さく息を吐いて磨く手を動かした。自らに課せられた使命を遂行するのみ。それが守護者として果たすべき責務なのだから。
そしてその違和感を無視し、パンドラは宝物殿を守り続けた。
来る日も、明くる日も。
──何日も、何か月も。
時折、宝物殿を訪れていた主人はあの日を境に来なくなったが、パンドラはこの場を守護し続けた。律儀に。次の命令があるまでは。
──何年も、何十年も。
……そしてパンドラが、自身が抱いた違和感に目を逸らしてから、実に百年の時が過ぎた。
マジックアイテムを愛でる手が、ついに止まった。
「モモンガ様」
この世で最も敬愛する主人の名を、口に出す。
そうすることで、パンドラの何かが慰められる。彼はマジックアイテムを所定の位置に戻すと、軍靴の踵を返した。
百年の孤独を過ごしたパンドラは限界だった。
孤独を過ごすことがではない。あの日抱いた違和感が百年の時を経て、彼の中で怪物の様に大きくなってしまったことがだ。彼はモモンガにこの領域の守護を任された。なれば、何百年でもこの場に残る覚悟はできている。この場を離れるなど言語道断も甚だしい。しかし、今の彼の思考はそうではない。
「……」
パンドラはそれが不敬と知りながらも、ある場所へと歩んでいた。彼をそうさせる明確な切っ掛けがあったわけではない。塵と積もった孤独感がそうさせたのか、何が彼をこの時突き動かしたのかは彼自身にとっても分からなかった。
パンドラは宝物殿の一角にあるショーケースの中から小さな指輪を恭しく取り出した。それは他ならぬ『アインズ・ウール・ゴウン』を象徴する指輪だった。至高の四十一人にしか着用を許されぬ至宝の中の至宝。宝物殿とナザリックの階層を繋ぐ唯一の道標。手に取ったパンドラの手は震えていた。彼は全ての同胞と造物主達に
その行為に、パンドラの心が引き裂かれる。
しかし、彼に迷いはない。重罪を被る以上に、自らに罰を下す何者かが居てほしいという切実な願いがあったからだ。彼があの日感じた静けさは、日を、年を帯びていくごとに強固な違和感として心を苛んだ。年輪によって幹を太くさせる巨木の様に彼の腹の中で育まれていく違和感。それを払拭せねば、彼は……。
「申し訳ありません、モモンガ様」
自らの首を切り落とす程の激情で、パンドラは指輪の力を解放した。彼の姿が宝物殿から立ち消える。守護者として、それは決して許されぬ行為であった。
転移したパンドラは、即座に『リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』を指から外すと、アイテムボックスの中へと収めた。理由は語るまでもない。
「おお……」
パンドラは吐息を漏らした。
ここは第六階層──双子のダークエルフが管轄している大森林の領域。円形闘技場の中央に立ち尽くす彼は、闘技場の美しさに暫し見惚れていた。しかし彼を襲う違和感は即座にやってくる。
……静かだ。
余りにも、静か。
大森林とはあらゆる生物の楽園だ。円形闘技場内とはいえ、その周りに広大に広がる大森林からは何の生物の気配も感じない。この階層を仕立て上げた至高の御方がそういう設計をしたのなら納得ではあるが、パンドラの知識の中では第六階層とはそういう場所ではない。
……そして、ふと気が付いた。
視界の端にちらと映った、見過ごせぬもの。パンドラはゆるりと天を見上げて、絶句した。
「あれは、一体……」
パンドラにないはずの鳥肌が立った。
産まれて初めて恐怖を覚えたのだ。
そして星空に浮かぶあの黒き楕円が、ナザリックの異常事態を引き起こしているのだとも即座に感知した。
(何なんですか、あれは)
生きているのか、そもそも生物なのかも分からない。あれが後の『カゲ』であり、膨大なデータ量をその身に蓄えた所為で冷却期間に入ったキュアイーリムであることをパンドラは知る術もない。
ナザリックに新たに据えられた同胞とは考えられなかった。
圧倒的な異物感。吐き気を催す程のプレッシャー。あれがパンドラに何であるかは分からないが、あれが動いたなら即座に自分は殺されるだろうという自覚はあった。生物の卵なのか、エネルギーの塊なのか、それすらも分からない。
パンドラはようやくあれから視線を外すと、次に闘技場の隅に盛られた灰の山を発見した。その頂上に、一枚の紙切れが刺さっている。それはモモンガも後に目を通すことになる『深淵なる骸』の手記に他ならない。中を開いてみると、そこにはパンドラの知識にない言語がつらつらと書き綴られていた。たまたま手入れしていたアイテムボックスの中に、翻訳の片眼鏡を放り込んでいたのは僥倖であった。パンドラはそれを取り出すと、一呼吸を置いてそれに目を通した。
「……」
読み終えたパンドラの聡明な頭脳は、事のあらましの全てを理解した。
彼が抱いた感情は、絶望。心の中にぽっかりと風穴が空いたような空虚感。その場に膝を突きそうになるほどの嘆き。そして、怒り。
再度、パンドラは空に浮かぶあの巨大な黒い塊へと視線をやった。
あれは憎むべき怨敵であり、そしてそれと同時に愛すべき同胞の魂の塊である。
もしかすればあの中に、パンドラの造物主たるモモンガの魂も取り込まれているかもしれない。そう思うと、彼の心を烈火が焦がし尽くした。
(──嗚呼、モモンガ様)
パンドラは途方に暮れた。
彼の中に複雑に入り乱れる感情の捌け口が見つからない。この感情を、どう出力すればいいのか彼には分からなかった。
最後に残ったナザリックの存在として、玉砕覚悟でもあれに立ち向かうのが正しいのか。それすらも分からない。何が正解なのか、彼は誰かに教えて欲しかった。
しかしパンドラの頭にふと過ったのは、智謀の王たるモモンガの顔だ。自分の主人であればこの様な時、取り乱したりはしない。まずは冷静に頭を冷やし、情報収集に徹するだろう。主人の思考を辿ったパンドラの気持ちは幾らか明るくなったが、それも一瞬だけの気休めだ。彼は灰の山に手記を突き刺してアイテムボックスに手を突っ込むと、『リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』の効果を再び発揮した。
「……まさにもぬけの殻、ですねぇ」
パンドラは指輪の効果を駆使して、ナザリック中を駆けずり回った。
もしかしたら自分と同じ様に生存している同胞がいるかもしれない。もしかしたら至高の御方々がこの様な状況を見通して何かを残してくださっているかもしれない。そういう考えからだ。
しかし成果は何も得られなかった。
平常時のナザリックから、そっくりそのまま配下達だけ抜き取られたかの様な有様だったのだ。どこへ行ってもそう。生存者はパンドラただ一人。その事実だけが、彼に重たくのしかかった。
第一階層から地上へ出ようとするも、その先は極彩色の奈落が広がるだけというものだった。次元の狭間、ねじれた空間。まさにそう形容するのに相応しい不可思議な光景が広がっている。試しにモモンガの姿を借り、低位アンデッドを出口の外へ放りだしたら即座に体がねじ切れて極彩色の一部となり果てた。
「完全に外部とは遮断されているということですか……」
あの手記にはいずれ次元の歪みが戻り、再び現世に返されるとあった。
それまではこの異次元空間に、彼とナザリックは囚われたままだということだろう。あの忌まわしき黒い球体と共に。
さて、どうしたものか。
パンドラはこれから何を行動すればよいのか。
規定通り、守護領域を守り続ければいいのか。
……主を失っているかもしれないのに?
この伽藍堂になったナザリックを、帰らぬ主人の帰りを永遠に待ち続けるのか。それならばナザリックに残った最後の剣として、あの黒き球体に挑み散るのが正しき行動なのではないか。
あらゆる思考がパンドラの頭脳を駆け巡る。
「……」
やがてパンドラが導き出した答えは──
「今日は一万枚は磨きたいところですねぇ」
──……主人の帰りを待つ。
それがパンドラの導き出した答えであった。
主人の生死が不明であるならば、死ぬと見做すことこそが不敬。何より、ナザリックの玉座におわす御方がそう易々と死ぬはずもない。パンドラはそう思い至ったのだ。
……無論、それはパンドラの願望が大いに含まれた結論であると彼は知っている。知っていて、待つことを望んだ。モモンガが生きていると思わなければ、その身その心が引き裂かれて狂いそうだったからだ。
パンドラはあの黒い球体に気取られぬ様に隠密し、ナザリック内の全ての防衛システムを切って回った。ギルドの維持コストを最も安く抑える為だ。ここは彼と停止したキュアイーリムしかいない、次元から切り離された空間。侵入者や同胞がいないのであれば、防衛システムを起動している意味などない。
パンドラは冷静であった。
親譲りとも言える、リアリスト。主人が帰還されるまで何としてもこのナザリックを守り抜くことが、彼の使命であった。
とはいえそれがいつになるのかは分からない。
暇を持て余したパンドラは、宝物殿で山と化している金貨の清掃と整理を始めた。どれだけの時間が掛かるか分からないが、時間はある。彼は金貨を拾うと、その一枚一枚を綺麗に手磨きで綺麗にし始めた。
……そう、時間はある。
現世とこの次元の狭間、果たして同じ時間の流れなのだろうか。
その日から、パンドラにとって最も苦痛で、屈辱的な時間が始まった。
──モモンガの帰りを待つと決めてから、千年の時が過ぎた。
事態は依然変わりない。
パンドラはあの黒い球体が目を覚まさぬ様、息を殺し続けて生きている。心休まる時は、宝物殿に引っ込んでいる時だけだ。しかし彼の孤独がそれを許さなかった。彼は時折、モモンガの私室に訪れていた。愛する、心臓を捧げるべき尊き神の残滓を追い求めるように。
ふとこう考えてしまう。
主人は既にあの球体に取り込まれており、誰かに救い出されるのを待っているのではないかと。もしくはあの球体に殺されていて、ご帰還などハナから望めなかったのではないかと。そう思うと、怒りが沸いてくる。自らと、あの球体に。途方もない怒りだ。今から宝物殿の世界級アイテムを持ち出して、突貫したいと狂いそうにすらなった。
そして、空虚感。
どれほど待っても、主人が文字通り帰らぬ人となっているなら、自分が大人しくここで待つ意味はなんなのだと思ってしまう。そもそもこの時の牢獄から解き放たれる瞬間など本当にやってくるのか。パンドラの心は蝕まれた。道化であれと命じられた設定を、粘性の高い毒がじわりじわりと蝕んでいく。
パンドラは、しかし待つ。
あのモモンガ様が死んでいると想像するなど、なんと不敬なことだと自分を叱責する。
我が造物主たるモモンガ様は必ずご帰還なさる。
パンドラは自身にそう言い聞かせた。
──……それから一億年の時が過ぎた。
「おかえりなさいませンモモンガ様! 茶の用意は既に済んでおります! どうぞまずはお寛ぎくださいませ!」
宝物殿に明るい声が木霊する。
それに返す者はいない。パンドラは独りだった。
テーブルの向かい──空席の前に、ティーカップが一つ置かれている。パンドラは意気揚々とそのカップに煎じた紅茶を注ぎ入れる。ほわ、と香り高い湯気が立った。
「え、何? 骨だから飲めない? くぉれは! 盲点でした! しかしモモンガ様! 紅茶は味は勿論ですが、香りを楽しむものであります! どうぞ香りだけでもご堪能くださいませ! 何せ私、紅茶を趣味にして五千年が経過しております故、腕に自信があるのです!」
気持ちのよい笑い声が宝物殿の応接間に弾けた。
しかしそれはすぐに、静寂に支配される。しん……とした空気が辺りに溜まり、パンドラの肩がビクリと震える。彼は顔を振ると、再び独り芝居を始めて笑みを零した。彼の姿は、どこまでも道化だった。
──それから十億年が過ぎ、更に百億年が過ぎた。
主人は帰らない。
次元の狭間は戻らない。
あの黒い球体は何も動かない。
幸い、異次元空間の影響故か、維持コストは結局ナザリックに対して何も影響を与えなかった。施設が劣化することもない。ナザリックが崩壊することがなかったのは僥倖といえよう。いや、終わりがあったほうが、パンドラにとっては寧ろ幸福だったのかもしれない。
彼は、独りだった。どこまでも。
──……更に兆年が過ぎ、不老不死のパンドラの意識さえ朦朧とし始める頃。
その身に電流が走った。
応接間のソファで、屍人の様に座っていたパンドラに、血液が急速に流れ始めた。靄掛った意識は晴れ、全身の細胞が覚醒を始める。
「あ……あ、ああ……っ!」
枯れた喉から、しわがれた声が掠れて出た。
声を出したのは、何千年ぶりだろうか。喉が酷く痛む。しかしそんなことはお構いなしだった。
パンドラは駆けだした。
(信じておりました)
ショーケースを開け放ち、指輪を着用する。
手は震えていた。しかし初めてそれを着用したときとは震えの性質は違う。
パンドラの肌身に感じる、至高の御方の波動。
それが、明確に彼に感じられているのだ。まやかしではない。自分の妄執が生んだ幻覚でもない。それは確かに、彼の細胞を突き刺して止まない。
パンドラは指輪の力を以て躊躇なく転移すると、その目を見開いた。
歓喜と緊張がパンドラの心を苛む。
夢にまで見た至高の御方の姿。その姿形こそ変わっているが、その魂の輝きだけは偽れない。
しかし彼の造物主は、死にかけていた。
黒く姿を変えた、偽物の守護者達の手によって。
思考が、瞬時に切り替わる。
パンドラは然るべき姿に形を変えると、稲妻の様な速度で主人の前へと飛んだ。
心が叫ぶ。
細胞が震える。
再び、御身のお役に立つことができる。
パンドラは恐るべき速度で悪しき守護者達を殲滅せしめると、主人の体を優しく包み込んだ。
その腕に抱いた美しき悪魔こそが、彼が生きる理由だった。
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13.inferno
見上げる程の巨体が、二人に影を落とす。
パンドラとモモンガは、互いの顔を見ることなく二手に分かれて飛び上がった。その際、モモンガはパンドラに向かってとある命令を叫んだ。自らの使命を賜ったパンドラの表情が僅かに固くなり、彼は『カゲ』から距離を取りながら不承不承頷いた。
──ナザリック地表部。
石畳を砕き割り、君臨するは最悪ともいえる災厄。
絶叫する『カゲ』は初期の形態と比べると幾分か戦闘向きの姿へと変わっていた。ナマコの様な体に、細く長い足が八つ飛び出て、背の部分には不格好な翼が小さく飛び出している。竜というよりは蜘蛛に近い。
『カゲ』は口腔を烈火に染め上げると、ナザリック地表部を熱波の余波だけで溶かし尽くすほどの光の球を吐いた。
「う、お……っ」
反応するのがやっとという速度のそれをぎりぎりで躱したモモンガの心臓が縮み上がる。遠くでパンドラが何か叫んだのが、僅かに聞こえた。空に逃れるモモンガへの着弾を免れた光の球は、恐ろしい速度で地平線の彼方へと飛ぶと、少しの時を経て、この世界に昼よりも眩い昼を齎した。
呼吸もままならぬ熱風。
目も開けられぬほどの閃光。
星の形が変わりかねない一撃が、遥か彼方に見舞われた。
大気が震え、空間が撓む。
モモンガは中空で身を縮ませながら、その一撃の余韻が終わるのを待っていた。否、待たざるを得ない。熱波が、音波が、衝撃波が、全ての行動と思考を阻害するほどに凄まじく、果てがない。
……やがて全てが収束していく。
光は勢いを失くし、熱は平温へと揺り返され、辺りには静寂が帰ってきた。
恐る恐る目を開く。
……と、モモンガはその光景に自身の目を疑った。
(お、おい……)
全身から血の気が引いていく。
遥か彼方。
ここからでも視認できる程に巨大なキノコ雲が、遠くで天を穿っていた。焦げ据えた香りが風に乗ってやってきて、モモンガの全身が脱力していく。悍ましい火力だ。あの光球が仮に直ぐ側の地表で着弾していたなら、たとえ二百レベルのモモンガの肉体でさえ絶命は免れなかっただろう。
「化け物め……」
きり、と奥歯が軋む。
まさに理外。化け物と呼ぶのも憚られる程の無茶苦茶。あれの秘めるポテンシャルの底知れなさに、モモンガは寒気を覚えた。
「……あ」
……そして気づく。
あれは、あの光の球は、あの爆発は、あの爆心地は一体どこだというのか。それをモモンガは本能的に理解できてしまった。それと同時に、全身から血の気が引いていく。
嘘だと思いたい。
しかしモモンガの頭脳は、明確な情報を残酷にも彼に与えてくれる。
あれが着弾した地点は間違いなく──……遥か彼方にある、リ・エスティーゼ王国の領土だった。
ぶわ、と鳥肌が立つ。
それと同時に多くの人間の悲鳴が、築き上げられた文明の一切が灼かれる音が、モモンガの耳に反響した。あれほど巨大なキノコ雲。どれだけの被害が出ているか、アルベド由来の明晰な頭脳はいとも容易く換算処理を終えて……エ・ランテルも、首都リ・エスティーゼも、カルネ村も、何もかもが灰となってしまったことを理解してしまった。
──……リ・エスティーゼ王国が、滅びた。
たったの一撃で。
あの広大な王国が焼け野原になったのだ。その余波で近隣国家群も、致命的なダメージを負っているに違いない。たったのあれだけで一体どれほどの人間が死んだというのか。
それよりも、何よりも。
「……う」
王国にいたモモンガと
ツアレも、クレムも、エンリもネムも。
懇意にしていた『黄金の輝き亭』。アインザックを筆頭とした冒険者組合の人々。行きつけのパン屋。自らを英雄と慕ってくれていた民草。あの地に息づく遍く生命や施設全てが──皆、全てが灰燼と化した。
「う……」
──ぷつりと、モモンガの中で何かが切れた。
灼熱が喉を焼く。
全身に行き渡る思考の回路が擦り切れ始める。
動悸。発汗。頭痛。手の震え。その全ては、彼の中で爆発した途方もない怒りに由来されている。
……モモンガは、キレた。
それは彼が短くない時を過ごした国が滅ぼされたということもそうだが、何よりも彼の無意識下にあった負の感情の口火を切ったに過ぎない。
モモンガは激憤した。目の前の邪悪に対し、かつてない程の怒りを露わにした。冷静であれと無意識に自分に言い聞かせていたが、その箍が呆気なく粉砕されてしまった。
『カゲ』はモモンガの大切なものをいとも容易く踏みにじる。ナザリックの配下達を身勝手に吸収し、剰え傀儡として彼らの尊厳を踏みにじる様な言動を強要させた。
守護者達の嘲りの声が、鼓膜に今もこびりついている。
モモンガはかつてない程に傷ついていた。
自己を無価値に等しいと思っているから、守護者達が放った言葉の数々がもしかしたら真ではないのかと潜在的に思ってしまうからだ。パンドラも
だが、それでもいいと彼は思っていた。
守護者達がいずれメッキの剥がれた自分に愛想を尽かす日も来よう。凡人の彼は、自分の王としての器のなさを自覚している。しかしこの怒りはどうだ。
モモンガの弱気な意思に反し、彼は守護者達を穢されたという憤りが、灼熱の熱量を持ったヘドロと化して隅々の血管に行き渡っている。それはモモンガが、彼ら守護者やその造物主達を偏に愛しているからに他ならない。もしも守護者達がモモンガに対して不信感を抱いているのならそれを甘んじて受け入れる覚悟は彼にもできている。
だが、『カゲ』に操られた偽りの守護者達の言葉は真実ではないとモモンガは確信していた。
『カゲ』が偽の守護者達に喋らせた言葉には、看過できないほつれがあったからだ。彼らは裏切らない。たとえ自分を裏切ったとしても、産みの親のかつての仲間達を裏切ってまで『カゲ』に付くわけがないという絶対的な確信。
それはモモンガの想う且つての仲間達への妄信が裏付けている。
自分は確かに、どうしようもない人間だ。
愛想を尽かされても仕方がない人間だと思っている。
……しかし仲間達は違う。
自分を踏みにじっても、
モモンガを裏切っても、踏みにじっても、罵倒しても、仲間達を捨てて『カゲ』につくことはないという絶対的な確信。それがある。だからモモンガは『カゲ』を許さない。仲間達の遺した娘達をいいように扱い、その尊厳を踏みにじり、剰え彼らの力でリ・エスティーゼ王国を滅ぼした『カゲ』を殺さなければ気が済まない。
「うあああああああああああッ!!!」
モモンガはスタッフを握り込むと、三重最強化した『
「『現断』……!」
その結果に苦い顔をしたのも束の間、モモンガは高速で『カゲ』の足元を駆けまわりながら、いくつもの『現断』を撃ち込んでいく。結果は変わらない。『カゲ』の肌に触れる前に、その全てが無力化していく。額に浮かぶ汗の珠は魔法の燃費の悪さのせいか、絶望が頭を過るせいか。
のたうち回る『カゲ』の巨腕を躱す度に、血の気が引いていく。モモンガの肉体を磨り潰そうと伸びるそれらは、地に激突する度に地震を発現させ、空を切る度に巨大な竜巻を巻き起こした。一挙手一投足が、天災を引き起こす。あの腕が未だモモンガを捉えられないのは『カゲ』自身が怒りで自己を制御できないせいだろう。
『スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』が産み出した根源の精霊達がヘイトを分散してくれていることも一役買っている。精霊達を紙の様に吹き飛ばしながら『カゲ』はモモンガを捕らえようと躍起になっていた。
「はぁっ……はぁ……!」
数センチ横に、モモンガの身の丈の数倍もある拳が落ちた。ナザリックの地表部から第一階層まで砕き割る一撃によって生まれた大量の瓦礫片が、彼の視界を濁らせる。大量の砂埃が絶え間なく巻き起こるせいで、息継ぎもままならない。
地を転がるモモンガに追撃の一手が飛ぶ。奴の手は八つ。こちらを捉える目の数は無数。休まる暇など一切ない。
「パンドラァ!」
しかしモモンガは一人ではない。
パンドラの心境たるや、察するに余りある。神とさえ呼ぶ造物主を最前線に置き、後方支援に徹するなど。しかしそれが正解だ。彼の主人もそれを望んでいる。パンドラは、自分の役割を違えない。
「ペロロンチーノ様。御身の力の一端だけでも、今だけはどうか私にお貸しください」
その呟きはまさに神への祈りだ。小さく、鋭く、息を吐いたパンドラは意を決すると、引き絞った弦から光を射出した。
弓から弾かれたのは矢──ではなく、それぞれのエレメントに煌めく五つの光の塊だ。
『
光、風、火、氷、雷のエレメントを纏うそれらは、必中の遠隔連撃。恐ろしい速度で空を切り裂く五つの光は、『カゲ』の肉体に吸い込まれる様に命中する……が、やはりモモンガの『現断』同様に既のところでかき消される。
「まだまだ……!」
パンドラは翼を返して射出座標を変えながら『属性重爆撃』を何度も『カゲ』へと見舞った。『カゲ』は鬱陶しそうに体を捩っているが、足元のモモンガがヘイトを買ってくれている。パンドラは生きた心地のしないままに、超長距離射撃を繰り返した。
下からモモンガが、空中からパンドラが、絶え間なく様々な個所を攻撃し続ける。
──圧倒的な手数で奴の弱点を炙りだせ。
パンドラの脳内には、モモンガの命令がリフレインしていた。
あれが一見完全無欠な存在に見えても、どこかに弱点や守りが薄い箇所はあるはずだ。彼らが今しているのは、その一筋の光明を見つける為の極限の綱渡り。
必ずどこかに突破口はある。
モモンガは魔力の欠乏と疲労で眩暈を起こしながらも『現断』を撃ち続けた。
(必ず突破口はある、はず──)
鼻の先を、死が掠めていく。
悍ましい死の気配が、モモンガの柔肌を滑る。
(そうでなきゃ──)
『カゲ』が火焔を吐いた。黒よりも黒い焔はあらゆるものを焦がし尽くすや、砂や瓦礫を溶かし尽くして辺り一帯を溶岩の海へと変えた。酸素を取り込んだモモンガの肺が、内から焼き尽くされそうな感覚を覚えた。
(そうでなきゃ──)
地獄の何丁目だと思わんばかりの光景。
モモンガは翼を広げて空に逃げると、今日何十回目だという『現断』を撃とうとして──……撃てなかった。
「くそ……」
視界が霞む。
MPの枯渇だ。モモンガはとうとう、自分が発現できるだけの魔法を撃ち尽くした。車酔いになったような気持ち悪さが、彼の頭を蝕んでいく。一瞬気をやったモモンガの体が、ふらりと自由落下を始めた。
(──なんて、クソゲーだよ……)
霞む視界の中、モモンガが見たのは『カゲ』が再度口腔の中に火焔の塊を充填する姿だった。網膜を焦がす光景に、モモンガが我に返る。が、遅い。翼を動かしたその瞬間に、彼を光の柱が飲み込んだ。
「モモンガ様ッ!」
直後、モモンガの視界が横へ吹っ飛んだ。彼を包む柔らかい翼、大気を叩く熱波、有機物を溶かす異臭、白飛びした様な紅蓮の閃光。
一瞬自分の身に何が起きたのかをモモンガは理解できなかった。巡らぬ思考。魔力欠乏によって見舞われた眩暈に苦しみながら、彼を現実へ引き戻したのは耳元で呻くパンドラの呻き声だった。
「──パンドラ! 大丈夫か!?」
「っ……これしき、問題ございません」
目を見開く。
自分の体を抱いているパンドラの体は、余りの苦痛に震えていた。
問題ないわけがない。
パンドラの右半身は焼け爛れている……というより、溶解していた。肉が焦げる臭い。焼け爛れた傷口からはケロイド状になった血肉が地面に滴り、バードマンの肌からは夥しい量の発汗が見られた。
右半身と右翼を失ったパンドラはそっとモモンガを腕から解くと、不敵に笑った──様に見えた。
「手当てを!」
モモンガはアイテムボックスから上級治療薬を取り出してパンドラの傷口に振りかけた……が、回復はしない。染みる痛みに、パンドラが僅かに呻くだけだ。
「な、何で……!?」
モモンガの美しい
そんなわけはないともう一本と治療薬を使ったが、それも効果を発揮することはなかった。
……『カゲ』はあらゆる生命の特性をその身に集約させている。それは『
パンドラが回復できない理由がそれだ。
アルベドのステータスを取り込んだモモンガの様なバグ込みのユニットでもなければ、回復は望めない。
「ぐ……っ」
ケロイド肉を地に吐きこぼしながら、パンドラは膝を突いた。掠った程度とはいえ、ダメージ量が尋常ではない。それに加え、盲目化や毒などの状態異常効果も彼の身を蝕んでいた。先程の怪光線、威力が凄まじいだけではなかった。
「モモンガ様」
もう一本だと治療薬を握るモモンガの手に、そっとパンドラの手が置かれる。彼は、自分の死を予感していた。
「……お役に立てず、申し訳ございません」
振り絞る様な声。
パンドラは、明滅する思考に抗い、その足でゆらりと立ち上がる。
……兆年待った。
パンドラは待って、待って、待ち続けた。そしてようやくモモンガに逢えたと思ったのに、何の役にも立てなかった。
(嗚呼……)
パンドラは憎い。彼は憎悪した。
無力な自分を。何もかもを破壊する『カゲ』を。そして……。
「パンドラッ! 危ない! 早く逃げるぞ!」
モモンガが、パンドラの腕を掴んで激しく揺する。
穏やかに振り返ると『カゲ』が彼らに向けて大きく口を開いていた。その口腔には、やはり火焔。どす黒いエネルギーの塊が、集約されていく。
この距離、避けられない。
パンドラはどろりと身を溶かすと、その姿を卑猥な形をしたピンク色のスライムへと変えた。その姿は、『アインズ・ウール・ゴウン』にて最硬の
「はぁ……はぁっ……」
膝を屈してしまいそうな疲労感。
底に空いた穴から生命力が駄々洩れる様な感覚。
次の瞬間、『カゲ』の口から光球が弾き飛ばされた。
パンドラとモモンガの影が、遥か彼方まで伸びていく。二人を覆い、喰らい、呑みつくさんばかりの黒い太陽が、そこまで迫る。
「──―」
モモンガが何かを叫んでいるのが聞こえる。
しかしもう、パンドラにそれを言語として捉えるだけの生命力はなかった。
(全く……)
パンドラはアイテムボックスの中から二つの巨盾を取り出すと、モモンガを庇う様にそれらを突き出した。
──直後パンドラの盾と、光球が衝突する。
抗いがたい衝撃が、二人の身を包んだ。
じりじりと、盾が灼けていく。
どろりと融解を始める神器級アイテムを見るパンドラは、意外にもそれが他人事の様にさえ感じていた。
(何が、守護者……)
パンドラはぼやける視界の中、背中を触れる気配に暖かさを感じていた。それは何を賭してでも、護るべき存在。彼が存在する意味そのもの。
(守るべき主人にあの様な顔をさせて、一体何が守護者だと言うのですか……)
盾を握る拳を固く握りしめる。
兆年待った。
しかしそれも今ではたったの僅かなことにしかパンドラは感じていない。至高の御方の肉盾になれるのなら、兆年の孤独など御釣りが来る。
守るべきは、至高の御方の笑顔。そして安寧。その為に自分は存在しているのだと、一片の迷いもなくパンドラは言い切れる。だから、主人にこの様な顔をさせる守護者に、創造された意味などない。
ならば、せめてこの一撃だけでも往なしてみせなければなんとする。
「何をやっているんですか、貴方達は」
凡そ、独白の様な呟き。
ぶくぶく茶釜の可愛らしい声帯を通じたその声には、様々な彼の念が篭っている。その言葉は、一体何に向けてのものなのか。
「その様な化け物の一部に成り下がり、護るべき主人に刃を向け……」
生命力が擦り切れていく。
盾を構えるパンドラは、血の滲む様な声を絞り出していた。聞こえぬはずの、『彼ら』に向けて。
「何が、守護者……何がNPC……! 貴方達は、その様なことをやる為に御方々に創造されたというのですか……!」
パンドラは叱責する。憎んでいる。憐れんでいる。あの化け物の一部と化した同胞達へ、届かぬ言葉を吐き出していた。
理不尽。
それはパンドラにも分かっている。あれほどの生命体の支配下に置かれた守護者達が、抗えぬということを。そして彼らが好きこのんで『カゲ』の一部になったのではないということを。しかし、憤らずにはいられない。
だが、どれほどの力の干渉を受けようと、ナザリックに仕える者がモモンガにその力を振るうなど、決してあってはならない。
「……何という悲劇! 何という結末! ナザリックは、モモンガ様の征く道は、喜劇でなければならないというのに!」
盾が、溶け消えていく。
体が、融解していく。
しかしパンドラは叫ぶ。届きもしない言葉を、血反吐と共に吐き続けた。
「至高の御方々の喜劇の舞台を整えるのが我らナザリックの守護者! そしてその
『カゲ』は動じない。
ナザリックの魂魄を取り込んだあれに、慈悲の色はない。猛り狂う怒りに身を任せたあれは、ただの怪物でしかなかった。
パンドラは呻く。
もう保たない。せめてモモンガだけでも転移をと振り向いたが、余りの熱波と衝撃で魔法の発現もままならない様子。
防ぎ切るしかない。
それしか、パンドラが主を守る手立てはなかった。
「ぐ、おおおおおおおおおおお!!」
パンドラは叫ぶ。
全ての生命力を吐き出すが如く。
モモンガ様を傷つけさせはしない。
たとえこの身朽ち果てようと、このパンドラズ・アクターの目が黒いうちは、御身の命だけは繋ぎ止める。並々ならぬ覚悟を以って、パンドラは己が命を燃やし、輝かせた。
「──……おおおおおおおおおッ!!!!」
乾坤一擲。
パンドラの体が溶けていく。
受け止めきれるわけはない。
パンドラのレベルはたったの百。そして変身先の姿の八割程度の力しか発揮できない。
しかし彼は、彼の愛が──
──……その瞬間だった。
『カゲ』の巨体が、鈍く、低く、けたたましい音をたてながら横合いに吹き飛んだ。まるで巨大な何かにぶん殴られたかの様に、だ。『カゲ』の巨体が地鳴りを奏でながら地を転っていく。
それと同時に、パンドラと鍔迫り合っていた骨肉を焦がす目の前の光の球が、霧散した。
代わりに訪れるのは突風。
屍となりかけるパンドラの体はその風に抵抗もできず吹き飛ばされた。背負うモモンガの体と縺れる様に後方に吹き飛ばされた彼らには何が起きたか、理解できない。
「げほ、ごほっ……!」
地に放り出されたパンドラとモモンガ。
彼らは咳き込みながら、なんとか態勢を取り繕った。一体何が起きたというのか。あの光の球が消失した……ということだけは辛うじて理解できる。
「あれは……」
見上げたモモンガの目が、その光景によって見開かれた。
まさに、驚天動地。
『カゲ』が……あの巨体が、もう一体、聳え立っているのだ。
禍々しい漆黒の『カゲ』と、その対になるように白く輝くもう一つの『カゲ』。
淡い光を滲ませる白い『カゲ』の存在を……いや、あれがどういう現象であるかを、モモンガは知っていた。あれは、『ワルキューレ』の
──
使用者と同じ能力値の分身を作り出すという『ユグドラシル』でも破格的と言われる程のスキルだ。つまりあれは『カゲ』と同等のステータスを誇る化け物中の化け物に他ならない。
『カゲ』が二体。
まさにこの世の終焉と言わんばかりの光景だ。
しかし、何故だろう。
モモンガは不思議とあの白い『カゲ』に忌避感を抱かない。
寧ろ……。
そしてその違和感への答え合わせは、すぐに起こった。何故なら。
──妾のモモンガ様に、何やってくれとんじゃわりゃあああああああああ!!!!
醜い『カゲ』の肉体から、可憐な吸血鬼の雄叫びが発せられたからだ。
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14.champion
「ぬわりゃああああああああああああッ!!!」
シャルティア・ブラッド・フォールンの美しい声で、エインヘリヤルが叫ぶ。白き『カゲ』は黒き『カゲ』の体に組み付くと、一気にそれを地に叩き落とした。
地盤が砕け、地平線が僅かに傾く程の衝撃が星の表面を穿つ。
放り込まれた『カゲ』の身はナザリックの地表部から第一、第二、第三階層の断層を砕き落とし、第四階層の地底湖へと沈んでいく。エインヘリヤルはそれを地表部から見下ろすと、二もなくそれに続いて陥没したナザリックの穴へと飛び込んだ。追撃の手は緩めないという意思が、ありありと表面化している。
「パンドラ、やはりあれは……」
「ええ……間違いなく、『彼ら』です……」
そんな二体の『カゲ』を呆然と見ているモモンガに、パンドラがしかと頷いた。
……彼ら。
エインヘリヤルとして『カゲ』から分断されたあの存在は、間違いなく『アインズ・ウール・ゴウン』のシモベ達そのものだった。
「わりゃあ! 私達の力をモモンガ様に向けたこと後悔させるたるわァ! 撃滅でありんす! 滅殺でありんす!」
ずん、とエインヘリヤルの白い躰が、ナザリックの第四階層へと着地する。
地底湖を望むエインヘリヤルは口腔から焔を滲ませ、その闘志、殺意を露わにしていた。
「待ってくださいシャルティア。気を急いてはいけません」
可憐な声だけではない。
落ち着いた紳士──デミウルゴスの声が、エインヘリヤル体から発せられた。
「デミウルゴス!? そんなこと言ってられんせん! 一も二もなくあれをギッタンギッタンのバッコンバッコンに傷めつけてやるのが守護者として当然の務めでありんしょう!?」
「デミウルゴスノ言ウ通リダ、シャルティア。怒リ心頭ハ山々ダガ、折角得ラレタ好機、最大限活カスノガ務メダロウ」
「ぐぬぅぅぅぅぅ!」
「このお馬鹿! 私達が自我を取り戻せたのはあの怪物が精神的に不安定になっているからだって感覚で分かるでしょうが! 一時的なこの状態をものにしなかったら本当に私達守護者の名折れなんだよ!? ほら、マーレもこの馬鹿になんか言ってやんなさい!」
「え、ええぇ!?」
「このチビ! 誰が馬鹿でありんすか誰が!」
一つの体に、複数の魂。
『カゲ』から一時的にでも魂が切り離されたナザリックの配下達は、各々が各々に自身の考えを口にしていた。しかしそれを纏めるのはやはりナザリック随一の頭脳、デミウルゴスだ。
「しかしシャルティアの言い分も尤もです。我々には時間がない。下手に手をこまねいていては、いつまたあれに吸収されるか分かったものではないからね。……しかし……ソリュシャン、ナーベラル」
「はっ」
「この醜い姿では拙い。君達のドッペルゲンガーと『
「お任せください」
エインヘリヤルから、二人の乙女の声が重なる。
それと同時に『カゲ』と瓜二つだった淡く光る白い躰が、流動体へと変化していく。それは次第により戦闘向きな体へ……そして彼女達にとって力の象徴たる肉体へと様変わりした。
「おお!」
アウラの喜色に飛んだ声が弾ける。
エインヘリヤルに胎動する遍くナザリックの配下達も同様の声を漏らしていた。
……その姿は、骸骨の巨人だった。
モチーフは勿論、モモンガのアバターそのもの。しかし違う点がいくつかある。まずその姿は魔法詠唱者然とはしていなかった。ローブも羽織っていなければ、杖も携えてはいない。代わりに、その拳は棘が付いたパンチグローブに包まれている。
「さしずめイミテーション・モモンガ様。チャンピオンスタイルと言ったところでしょうか」
ソリュシャンの艶やかな声と共に、エインヘリヤルの拳が空を切る。
悍ましく速く、悍ましく重い風切り音。ただのパンチ一撃が、如何ほどの破壊力であるのかは想像もつかない。
「素晴らしい。これならより機敏に、的確に動けるはずだ。シャルティア、エインヘリヤルは君の能力……この肉体の制御の大部分は君に指揮権がある。やれるね?」
「勿論でありんすえ!」
「セバス、彼女だけでは心許ない。徒手空拳に長けている君はシャルティアの動きの補佐をよろしく頼むよ」
「承知致しました、デミウルゴス様」
「さて……」
準備は整った──と、同時に、地底湖の底から『カゲ』が飛び上がる。
「第二ラウンドといこうじゃないか。あの時はよくも、モモンガ様の御前で我々守護者に無様を晒させてくれたね」
エインヘリヤルはファイティングポーズを取ると、身軽なステップで『カゲ』の挙動を待った。
エインヘリヤルの拳が、『カゲ』のどてっ腹に突き刺さった。
息継ぐ間もない。第二、第三のジャブとストレートが『カゲ』に見舞われる。セバスのガイドする姿勢制御に沿って、シャルティアはその身に溜め込んだ怨嗟を拳で吐き出し続けた。
巨大生物と巨大生物。
まるで怪獣特撮の様な光景が、そこには広がっていた。
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ!!!!」
凡そ乙女とは思えぬどすの利いた声。
彼女のラッシュに、エインヘリヤル体に収まる全てのナザリックの配下達が胸を熱くしていた。良い様に吸収され、その力をモモンガに向けさせられたその罪、はらさでおくべきか。
戦闘向きな肉体のエインヘリヤルと、自我もままならぬ芋虫の様な本体。実力差は、明白だった。
──……押し切れる。
階層守護者の誰もがそう思った。
地から骨の足が跳ね上がり、『カゲ』を横合いに捉える。まるでゴムボールの様に弾け飛んだ『カゲ』の肉体は、第四階層の壁面を深々と突き破った。
追撃の手は緩めない。
エインヘリヤルが手を翳すと、無数の蔦が地中を突き破り、『カゲ』のもとへと殺到した。これは言うまでもなく、マーレの力だ。見た目よりも頑強な蔦は『カゲ』の肉体へと絡みつくや、その体を壁面へと釘付けにした。
「仕上ゲダ」
武人の厳かな声が、第四階層に木霊する。
淡く発光する巨大な骸骨は、無い肺を目一杯に膨らませると、その口腔から絶対零度の呼気を吐き出した。
広大な第四階層が、瞬く間に凍土へと変貌していく。
『カゲ』の巨体を捉えた絶対零度は、黒きシルエットをあっという間に氷の塊へと変えてしまった。
「はっはー! こうなってしまえば、奴ももう終わりでありんすね!」
軽快なステップを踏みながら、シャルティアの語気に喜色が宿る。
シャルティア以下守護者各員も同様に喜色ばんだ息を漏らしていた。知将一人を除いて、だが。
「待ってくださいシャルティア。あれをこの程度で無力化できたとは到底思えません。まだ警戒を怠らない様に」
ぐるりぐるりと肩を回しながら無警戒に近寄る彼女の姿を、デミウルゴスの声が咎める。姿は見えないとはいえ、彼が眉間に皺を寄せる姿が容易に浮かんだ。
「この勝負、どうやら我々の勝ちのようですね。流石は至高の御方々に創造された守護者……ということでしょうか」
緩やかにナザリックの下層へと降りながらそう零すパンドラの言葉を、モモンガはまだ嚥下できないでいる。
勝利は近い。
ナザリックの全NPCの魂が籠ったエインヘリヤルと『カゲ』の戦闘結果は、明らかに優勢。
……だが、優勢なだけだ。
まだ勝利したわけではない。
モモンガの心にはまだ焦りが残っている。
彼は欲しいのだ。勝ちを得たという圧倒的な安心感が。それがない限り、彼の心が休まることはない。ユグドラシルに於けるモモンガとは、そういうプレイヤーなのだから。
「……」
目を細めて眼下に映る光景を眺めていたモモンガの目が、見開かれた。『カゲ』を縛る蔦が、氷気が、千切れ、壊され、振り切られたからだ。
「ちょ、なんなんでありんすか……!?」
「これは……」
「マサカ、学習シタノカ……?」
「私達を真似たってこと……!?」
「あ、あわわわ……!」
氷の塊を突き破って現れたのは、先程までの『カゲ』ではない。
モモンガを模したエインヘリヤルと、まさに瓜二つ。
漆黒のシルエットに、眼窟に宿る蒼白い焔。死の支配者と呼ぶにまさしく相応しい、不死者の王の姿がそこにあった。
「…………」
『カゲ』は何も言わない。何も発さない。
ただじろりとシャルティア達を一瞥して──次の瞬間、その拳をエインヘリヤルへと叩き込んだ。
「……ッ!?」
疾く、重たい衝撃が訪れる。
ふわりと地を離れたエインヘリヤルの肉体が、吹き荒ぶ様な速度で岩壁へと激突した。
「──構えてください、シャルティア様!」
セバスの老いた声帯が激しく震える。
尻餅を突いたエインヘリヤルの眼前には既に『カゲ』の肉体が迫っていた。
「うっ……!」
咄嗟に構えたガードの上から、漆黒の脚撃がそれを穿つ。
態勢を崩したエインヘリヤルの上から、『カゲ』は何度もストンプした。
「こ、んのぉ……!」
「『
デミウルゴスが叫ぶ。
エインヘリヤルが苦し紛れに腕を振るうと、二体の間に黒炎の壁が突き立った。虚を突かれた『カゲ』から距離を取る様に転がり、弾かれる様にエインヘリヤルが立った。
「不味イナ……」
再びファイトポーズを取るエインヘリヤルの喉奥から、コキュートスの声が漏れ出る。
「コ、コキュートスさん……不味いって、何が……」
「所詮コノ肉体ハ仮初ノ物に過ギナイ……基礎戦闘力ハ本体ニ軍配ガ上ガルダロウ……。同ジ土俵ニ立ッタノナラ、摸造品ガ真打ニ勝ル道理ナドナイ」
「で、でも、僕達の方が理性的に立ち回れるはずですよね? あれは殆ど自我を失っていて──」
「ソレハ、ドウダロウナ……」
シャルティアの思考に沿って、エインヘリヤルがジャブとストレートのコンビネーションを油断なく繰り出した。大気が擦り切れる様な音を纏い、繰り出された拳は、『カゲ』の頬を僅かに擦るだけで命中するには至らない。代わりに見舞われたのは、お返しと言わんばかりのワンツーだった。
「この……!」
たたらを踏むエインヘリヤルに、追撃の拳が続々と飛来する。
シャープで的確な連撃は、エインヘリヤルのガードの上から的確にダメージを与えていく。
「切り離されているとはいえ、この体も奴の一部……戦闘に対する経験値が奴にも還元されている、ということですか……!」
的確な足さばき、拳運び。
シャルティアやセバスに由来した体の動かし方を、『カゲ』は学習し始めている。心という制御装置が無くとも、取り込み、増殖するコンピューターウイルスの様な学習装置は備わっていたという訳だ。
「ぐ、ぐ、ぐ……!」
徐々に膝が屈し始めている。
シャルティアは『カゲ』の乱打を懸命に防御しながらも、返す手がなかった。
守勢にして、劣勢。
暴風雨に晒された木の葉の様に、エインヘリヤルはその場に蹲る他なかったのだが──
「俺の配下達に、手を出すなあああああ!!!」
「モモンガ様……!?」
──視界の隅に入ったのは、漆黒の小さな影。
黒翼をはためかせ、第三階層から降下してくるのはアルベドの姿をした至高の御方だった。
モモンガは空中で身を翻すと、その手に備わる黒き杖を槍の姿へと変える。世界を変えられる程の力を持つそのアイテムの名は『ギンヌンガガプ』。万物を破壊可能とされる世界級アイテムを携えて躍り出たモモンガが狙うのは『カゲ』──ではなく、その足場。
「だらああああああああああああああああッ!!!」
モモンガが『カゲ』の足元に着地すると同時、一息に槍を第四階層の地面へと突き刺すと、変化はすぐさまに起こった。まるで薄氷の湖に巨大な鉄球を落としたように、頑強なナザリックの地面が抉れたのだ。下の階層まで突き破る……ほどでは流石にないが、それでも『カゲ』のバランスを崩すには十分。
思いがけない状況によって体をぐらつかせた『カゲ』の前に聳え立つのは、憤怒の炎を眼窟に灯したエインヘリヤルだった。
「やれ! シャルティア!」
モモンガが叫ぶ。
それはシャルティアの魂が、震えた瞬間だった。
「う──」
踏み込む。
遠慮の欠片も残さない。
右の拳を最大限までテイクバックした。
「お──」
腰を捻る。
視線は逃さず、瞬きもしない。
エインヘリヤルは、拳をギワリと握り込んで──
「──りゃああああああああああああああああああッ!!!!」
──『カゲ』の蟀谷に、拳を叩き込んだ。
極み、固めた拳は、『カゲ』の頭蓋を豆腐の様に、容易く粉砕せしめた。
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15.again
「やったぁ……!」
エインヘリヤルから、シャルティアの上擦った声が奏でられる。
シャルティアの渾身の右ストレートをまともに喰らった『カゲ』は頭蓋を散らし、五体を投げ出して地に放り出された。
「あいつら、やりやがった……!」
事態を見送っていたモモンガの口角が僅かに上がる。
『カゲ』は沈黙し、ぴくりとも動かない。誰が見ても、それは決着の瞬間だった。
「モモンガ様ぁ! やりました! ナザリックの全軍を以て、御身に勝利を捧げられんした!」
巨大な骸骨のアバターが気味悪くクネクネと女性らしい挙動を取っていることに、先程まで張り詰めていたモモンガの気が散っていく。彼は僅かに噴き出すと、ヘロヘロとその場に膝を突いた。
「よくやった、お前達……流石は俺の仲間の娘達だ……」
「いやんモモンガ様、愛してるだなんてそんな……」
「いや、そこまでは言ってないぞ」
モモンガの気が、更に軟化していく。
主人を気遣ったパンドラがモモンガに肩を貸そうとしたところで──
「お前達、感謝するぞ」
──『カゲ』の骸から、悍ましい声が発せられた。
「なに……!?」
モモンガが弾かれたように振り返る間もない。
『カゲ』の骸はドロリと流動体へと変質し、エインヘリヤルの体に飛びついた。そう、奴は死んでなどいなかったのだ。
「な、ちょ、やめなんし……!」
「不味イゾ! デミウルゴス! 何カ手ハ!」
「くっ……シャルティア! これを一刻も早く引き剥がすんです!」
「こいつ、また私達を取り込もうとして……!?」
「お、お姉ちゃん! ど、どどどうしようこのままじゃ……!」
エインヘリヤルの白い体に大量のスライムを垂らしたように、そのシルエットが漆黒へと呑まれていく。
「やめろぉ!」
モモンガが叫ぶ……が、どうしようもない。
エインヘリヤルはやがて『カゲ』に全て飲み込まれると、その姿を再び変えていく。
「モモンガ様! 逃げましょう! このままでは御身まで!」
「どこへ逃げろというんだ……! ちくしょう……!」
パンドラの言葉に、モモンガは苦虫を噛み潰すことしかできない。
そうしている間に、エインヘリヤルを消化しきった『カゲ』は完全に姿を変えてしまった。モモンガが最初に『カゲ』を見た、キュアイーリムのシルエットへと。
「ハァァァ……」
『カゲ』……キュアイーリムは平らげたエインヘリヤルに満足した様に、肺から呼気を押し出した。
漆黒を纏った邪悪竜。
額に埋まる宝玉を七色に煌めかせ、キュアイーリムは第四階層が手狭だと言わんばかりに両翼を広げた。
「デカい……!」
初めて見た時とは明らかに異なるサイズ感。
まるでモモンガとパンドラが蟻の様だ。キュアイーリムは足元の矮小な生物二体をその瞳に捉えると、機嫌よく口を開いた。
「我の贄となることしかできぬ脆弱な愚物達よ。我はお前達に多大な感謝を抱いている」
「なんだと……」
「お前達に倣って我は学習できたのだ。この体の使い方、そして精神の取り戻し方を」
この口振り、先程までの理性のない怪物ではない。
『カゲ』を克服したキュアイーリムは、完全にその力を我が物としたというわけだ。
奇しくも、ナザリックの配下達によるエインヘリヤルの動かし方を見たおかげで。
キュアイーリムは、その口角を跳ね上げると声高に台詞を続ける。
「漲るぞ。この身に溢れる森羅万象の力が。未だ胎の中で有象無象の魂共が蠢いて鬱陶しいが、それもすぐに落ち着くだろう。嗚呼、なんと佳き日だ。我は今日この瞬間、この世界の王に……いや、神となることができたのだ! まずはリ・エスティーゼ王国の様に周囲一帯の国を全て滅ぼし、我がこの大陸の神となった狼煙を上げようぞ!」
……神。
その言葉に誇張はないだろう。
誰があの邪悪な竜の横に並べるというのだ。
キュアイーリムが本気になれば、この世界の地平線を平らにすることすら造作もないだろう。その力の一端を味わってきたモモンガは、その様を容易に想像できた。
(終わりだ……)
これ以上の絶望はない。
心なき怪物ならまだしも、理性ある怪物相手になど立ち回りようがない。
モモンガの手からギンヌンガガプがすり抜けていく。重たい金属音が奏でられると同時に、彼の心はへし折れた。
その姿に、キュアイーリムは更に機嫌をよくした。
「竜帝の気まぐれで力を得たに過ぎない愚物よ。その表情だ。その怖れこそが、我を昂らせる」
「く、そ……」
「『鈴木悟』よ。お前の記憶は吸い取っているぞ。お前は仮想現実でしか己を慰められず、その仲間達からすらも見放された哀れで愚かな俗物以下の人間に過ぎない。お前の様な低俗な魂は要らん。灰燼となり……あの世で我が治世するこの世界を見ているがいいわ」
キュアイーリムの口腔に、烈火が宿る。
第四階層の地底湖が、それだけで半分ほどが蒸発し、干上がった。
「モモンガ様、いけません! 御身だけでも! モモンガ様!」
主人の体を激しく揺するパンドラに、モモンガは何も答えない。
その瞳に映るのは、ただただ絶望。
「ああ、ちくしょう。こんなことなら──」
世界が、紅蓮に包まれた。
パンドラが何か叫んでいるが、聞こえない。
髪の一糸が、細胞の一片まで、溶けていく。
◇
「悟ー、ご飯できたわよー」
意識が芽生える。
俺は聞き覚えのある女性の声で目を覚ました。
陽光。
眩しさに一瞬目が細む。
次第に明瞭になっていく視界。
自らの手に視線を落とすと、そこには幼い小さな掌があった。成人した鈴木悟のものではなく、モモンガの白骨の手でもなければ、アルベドの美しい手でもない。それはまさしく、幼い頃の自分の掌であった。
「これは、どういう……」
自分がどこかの食卓に居て、窓から差し込む朝の日差しに目が眩んだのだと理解する。なら、先程の女性の声は。
「悟。どうしたの?」
「え、あ……」
トーストの良い香り。
溶けたバターの匂いは、俺が『黄金の輝き亭』で好んでいたモーニングのものとよく似ている。
しかしそんなことは今は重要ではない。その女性を、俺は知っていた。
「母、さん……?」
「どうしたの? 幽霊でも見るような顔して。早く食べないと冷めちゃうわよ」
母さん。
最早遠い記憶の欠片でしかなかった存在が、今俺の目の前にいる。
夢か、幻か。
俺の心臓が早鐘を打った。
母さんがいるわけない。
だって、母さんは、母さんは。
「悟。聞こえてる?」
だけど母さんは、確かにそこにいる。
血の通った声で、俺に問いかけている。
でも、寝不足と過労と栄養失調で病的だった印象の、記憶の中の母さんとは違う。目の前の母さんはとても健康的だった。肌艶もあって、手入れもする暇がなかった髪にも艶がある。
母さんは笑っている。
環境汚染のないどこかの街のマンションの一室。俺達が生活していた頃とは比べ物にならないくらい、人らしい朝食。清潔な部屋。ここが幻でないのなら……。
「そうか、俺……」
最後に見た記憶。
そう、俺は『カゲ』によって殺された記憶を取り戻した。なら、今見ているこの光景は。
「なるほど、なぁ……」
「……悟? どうかしたの? 具合が悪いなら、お薬でも……」
心配そうに顔を覗き込む母さんに、俺は首を横へ振った。
「何でもないんだ。そう、何でもないんだよ、母さん」
俺はそう言って、トーストに手を伸ばした。
トーストは、まだ温かい。
「──でね、母さん聞いてよ。そのとき『たっち・みー』さんがさぁ」
「うん、うん」
トーストを頬張りながら、俺は母さんに生前での『アインズ・ウール・ゴウン』での出来事を話していた。俺が母さんに話すことと言えばこれくらいしかない。リアルでの生活は、あまりにも寂しいものだったから。母さんはにこにこと微笑みながら俺の話を聞いてくれている。表情筋が緩む。俺はこのとき、確かな幸福感を得ていた。
「すごいのね、その『たっち・みー』さんって人は」
「うん、俺の憧れなんだよ。 でもいつもウルベルトさんと喧嘩ばっかりしてて、俺が間に入ってないと──」
……言いながら、言葉が詰まる。
俺の心のうちに滲み出たのは、罪悪感だった。
「──ごめん、母さん」
「……? どうしたの?」
「俺、ゲームの中でしか語れることがなくてさ……せっかく母さんが命を賭けてまで育ててくれたのに、こんな話ばっかりで、ごめん」
「なんで謝るの?」
「だって……結局ゲームの中での話でしょ? 俺、結局立派な大人にはなれなかった」
「そんなことないわよ」
母さんはそう言って微笑んだ。
柔らかい手が伸びて、俺の頭を優しく撫ぜる。母さんは、すごく優しい表情をしていた。
「ゲームの中だって関係ない。その子達は、悟の大切なお友達なんでしょ?」
「……う、うん」
「なら何も恥じることないじゃない。お母さんは、悟が立派に育って、お友達に囲まれて、それにそんなすごい人達のまとめ役になって、とても誇らしいわ」
「か、母さん……」
「世間の人が何ていうかは分からない。でも幸せの形は人それぞれだもの。そういう人達には好きに言わせておけばいいの。悟が幸せだっていうなら、母さんはそれ以上に嬉しい事なんてないのよ」
「……ありがとう」
『アインズ・ウール・ゴウン』を認めてもらって、少し恥ずかしくて、少し誇らしい。俺はとても暖かな気持ちを抱いた。
「でも、悟。他にも沢山の友達ができたでしょう? 母さん、その子達の話も聞きたいわ」
「他の……もしかして母さん、知ってるの?」
「……ちょっとだけね。可憐だったあなたも、私は好きよ」
……母さんはアルベドになった俺の事も知っているらしい。
流石にそれはちょっと恥ずかしいぞ。俺は熱くなった顔を覆いながら、小さく息を零した。
「母さんは意地悪だな」
「あら、意地悪だなんて。でも、遠目に見ていたあなたはとても立派に……それも輝いていたように見えたわよ。ねえ、あの時のこともお母さんに話してくれる?」
「うーん、そうだなぁ……」
俺はトーストの最後の一片を嚥下すると、窓の外を見やった。
時間は幾らでもある。
……そう、時間は幾らでもあるんだ。
俺はあの世界での出来事を、ぽつりぽつりと話し出した。
母さんは黙ってそれを聞いてくれている。
目を細めて、時折相槌や質問を投げ掛けて、あの時の俺のもう一つの人生に耳を傾けてくれていた。
「……本当に、あなたは英雄だったのね。お母さん誇らしいわ」
「やめてよ母さん。知ってるだろ、俺がビビりなこと。あんな無茶苦茶な力でも持ってないと、俺は何にもできない臆病者なんだよ」
「そうかしらね。力を持っていても、一歩を踏み出すことができるのは貴方の勇気があったからじゃない。だからこそ、色んな人達があなたを慕ってくれたんじゃないの?」
「……そんなことはないよ。彼らは俺の力に幻想を抱いているに過ぎない。本当の俺を知ったら、彼らは……」
「ふふ、ガゼフさんも、イビルアイちゃんも、きっと悟の言葉を聞いたらそんなことはないって絶対言うわよ」
「そうかなぁ……」
「そうよ」
果たしてそうだろうか。
俺は、母さんの言葉を素直に飲み込むことはできなかっ……──あれ?
その時に俺はふと気が付いた。
ポケットの中に覚えのない小さなものが入っている。俺はポケットに手を突っ込んでその感触を確かめると……それが何であるかに気が付いた。
──……ピンポーン。
その時、家のインターホンが鳴った。
誰か来客が来たらしい。
「あら、誰かしら」
母さんが立とうとして……俺はその手を掴んだ。
「悟?」
「……ど、どうせ何か宗教とかの勧誘だよ。放っておこうよ」
「え、でも」
「そんなことよりさ、もっと俺の話聞きたいでしょ。というか俺も母さんの話聞いてないしさ」
──……ピンポーン。
インターホンがもう一度鳴る。
俺は、なぜかそれを聞きたくなかった。
「……悟」
母さんが、僅かに表情を固くして、俺を見ている。俺の心に触れるような、それでいて温かな視線。母さんは唇を僅かに噛んで、俺に居直った。
「……母さんはね、すごく悔しかったの」
「え?」
「悟を一人残して、逝ったこと。貴方が立派に育つまで、母さん、この目で見ていたかったなぁ……」
「母さん……」
「でもね、私の人生に後悔なんて全然なかった。母さんは悟の為にならね、命だって捨てられる覚悟で生きていたもの」
「……」
「……悟。あなたはまだ、やり残したことがあるんじゃないの?」
母さんは、そう言って俺の頭を撫でた。
残酷なほどに温かく、優しい感触が、後ろめたい俺の心臓を握り込んだ。
「……母さん、俺には無理だよ。だって、あいつめちゃくちゃ強いしさ……俺一人が頑張ったところで、きっと何にもならないよ……」
「そうかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。でもね、一つだけ言えることは、今のあなたはとても曇った顔をしている。まだ、やり残してるーって顔に書いてあるわよ」
「……」
「悟、悔いのない生き方をしなさい。最後まで、最後の最後まで、懸命に、懸命に生きて、どれだけ悔しい最後でも、後悔はなかったって胸をはれるような生き方をしなさい。母さんは、悟にもそういう顔でここへ来てほしかったの」
「……うん」
──……ピンポーン。
インターホンが鳴っている。
俺は母さんに手を引かれて、玄関までやってきた。
母さんは俺を振り向かせると、思い切り俺のことを抱きしめてくれた。少し苦しいって思っちゃうくらいに。
……ああ、温かいなぁ。
「愛してるわ、悟」
「……ありがとう、母さん」
そう言って、母さんは腕を解いて俺の背中を押してくれた。
玄関のドアが開く。
そこには、白いドレスを纏った美しい黒髪の女性が立っていた。
「……息子をよろしくお願いしますね。──……さん」
女性は静かに頷いて、俺の手を取ってくれた。
「いってらっしゃい、悟」
「いってきます、母さん」
陽光が、手を繋いだ俺達に降り注いだ。
それと同時に、ポケットの中の指輪が暖かな光を放ち始めた。
……多分これは、最後にパンドラが俺に押しつけた蘇生の──
──……俺は、目を開いた。
周りを見ると、見るも無残なナザリック第四階層の成れの果てが広がっている。
上を見上げると、満天の星空が第四階層から地表部まで吹き抜ける大穴から切り取られていた。
「…………」
俺は背から伸びる黒翼をはためかせ、浮上した。
悔しくても、悔いなき人生を。
即時蘇生の手段はもうない。
……俺は、最後の勝負を挑むべく、地表部から星空へと飛び出した。
次回から最終局面です。
ギア上げていきます。
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16.brave heart
青い星の一部が、煌々と燃えている。
紅蓮に呑まれ、溶かされ、破壊の限りを尽くされた地上を望みながら、モモンガは拳を握り込んだ。地平線の彼方、見えるどこまでもが、この世の地獄と化していた。
周囲一帯の国を滅ぼすというキュアイーリムの言葉に偽りはなかった。
評議国や王国に続き、帝国、法国、聖王国、竜王国までもがかの邪悪竜によって溶岩の海に変えられてしまっていたのだ。その地に息づく人々や文明、想いまでも、その全てが踏みにじられた事実に対し、モモンガは無力感と怒りとをその胸のうちに巡らせている。
「キュアイーリム……」
ぽつりとその忌々しい名を零し、モモンガは手を振るう。
その手には、黄金に輝くスタッフが握られた。
『スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』
彼の……鈴木悟の人生を可視化したその杖を握り、モモンガは更に上空に君臨する悪しき影を睨みつける。
キュアイーリムはまだそこにいた。
自らが滅ぼした世界の光景に満足を得ているかの様に、不遜として星空の中を揺蕩っている。
やがて奴はモモンガの存在に気が付くと、ほうと声を漏らした。
まだ壊れていないオモチャを見つけた様にも、呆れた様にも聞こえる声だった。
「まだ生きていたのか、愚物にも劣る汚物よ。いや、復活したというのが正しいか? まさか、折角生き返ったのにまだ我に歯向かう気でいるのか。ガタガタと震えて、世界の隅で惨めに生きていればよいものを」
「歯向かうさ。お前には、俺の大事なもの達を返してもらわなきゃいけないからな」
「フハハハ。威勢はいい。だが、今のお前に何ができるというのだ。お前の大事な人形達は我の胎の中。まともな装備も勝算もなく、お前の様な蟻が一匹足元でのたうち回ったところで何になる」
痛々しいまでの事実が、モモンガに突き刺さる。
今纏っているのはアルベドの初期装備の白いドレスに過ぎない。装備と呼べるものは今握っている『スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』だけ。しかしやらなければならない。ギルドの長として。そして、彼らの支配者として。そして……虚構であったとしてもこの世界の英雄として。
「……」
目を閉じる。
そうするとパンドラの言葉が蘇り、彼の心に勇気を齎した。
──モモンガ様、お忘れなきよう。貴方は至高の四十一人の纏め役にして、この『アインズ・ウール・ゴウン』の玉座に座られる方なのです。貴方がやると思ったなら、それはきっと成し遂げられる。貴方がここへ帰還なされたということは、つまりそういうことなのです。
(やると思ったなら、成し遂げられる……)
この世界は現実だ。
夢物語の様に、ピンチのときに怒りによって覚醒することなんて有り得ない。
それでも、モモンガはやらなければならない。
まるで夢物語の様な、物語を紡がなければならない。
「さぁ来い鈴木悟。最後まで足掻き、そして我を愉しませてみせろ」
キュアイーリムはニタリと笑むと、その口腔から何千、何万もの漆黒の餓鬼を吐きこぼした。視界いっぱいに広がる黒い絨毯は悍ましく蠢き、そして生者たるモモンガの命に群がるべく、何万もの亡者達が飛来してきた。
わざわざ直接手を下すまでもない。
そう言ったキュアイーリムの慢心が、見て取れる。
「なめるなよ……!」
モモンガは眉を顰めると、黄金のスタッフを振りかざす。
「
モモンガが扱える最大の効果範囲の魔法が、解き放たれた。
視界が白い閃光に染まる。核爆発と称される魔法に誇張はない。夜に昼を齎すほどの光量と大熱波が、キュアイーリムとモモンガの狭間で生み出された。
「ほう」
キュアイーリムは僅かに関心の色を示したが、それだけだ。
先の魔法は結局、何万もの手下の数割を減らしたに過ぎない。大爆発を免れた餓鬼達は、生理的嫌悪を刺激する絶叫をあげながら、モモンガのもとへと殺到していく。
「『
しかしそれはモモンガも織り込み済みだ。
彼は周囲数キロに渡る餓鬼達の幕を睨みながら、切り札となり得る魔法を紡いだ。
瞬間、訪れる万能感。
レベル二百の純然たる戦士が、ここに顕現され──モモンガは胸元に挟みこんでいた一本の木の棒をへし折った。
(たっちさん、貴方の力を貸してください……!)
コンプライアンス・ウィズ・ロー。
ワールドチャンピオンにしか装備ができない純白の鎧が、モモンガの身を護るべく纏われた。即時換装を可能とするこの課金アイテムは復活の指輪と同様に、パンドラが最後に主人に託したものでもあった。
真紅の外套をたなびかせ、モモンガは吠える。
その手には『たっち・みー』が愛用していた剣と盾が握られ、スタッフは彼に追従する様にふわりと傍を漂っている。
「行くぞ!」
言うや否や。
モモンガは音速を達成する程の飛行で、餓鬼の群れの中に飛び勇んだ。
剣を握り──……横一閃。
次元を切断し、世界にバグを齎す程の絶技が、餓鬼達を飲み込んでいく。塵一つとて残さない。ただの一閃で、数万もの餓鬼達が世界の裂け目に呑まれた。
「フハハ! 面白い! だが、その程度では我に近づくことすら敵わんぞ! さぁ踊れ! 我を愉しませろ!」
しかし、それほどのモモンガとて今のキュアイーリムには嘲りの対象だ。奴は更に数億の餓鬼共をその皮膚から生み出すと、高笑いを上げながらそれらをモモンガへと差し向けた。
(キリがない……! せめて、せめて、奴に近づく事さえできれば……!)
数千、数万の邪悪を切り払いながら、モモンガは苦虫を噛み潰した。
このままではジリ貧もいいところだろう。救いは餓鬼共の一体一体が然程強いわけではないというところだ。せめて……せめてヘイトを分散できたならば、突破口は開けるはずなのに──という、モモンガの願いに答えたのは、想定外の人物だった。
(何だ……!?)
彼の意図していないところで、謎の大爆発が巻き起こる。
それも数回、連鎖するように、モモンガの視界いっぱいに広がる餓鬼達を広範囲に渡って滅ぼした。
「モモン! 勝算はあるんだろうね!」
聞いたことのある声。
振り向くと、白金の鎧を纏った戦士が……複数体、浮かんでいた。
「ツアー!」
モモンガは弾んだ声を上げながらも、群がる餓鬼達を切り払った。
今までツアーはどこにいたというのか。しかしそんなことは問題ではない。彼なら、僅かでもこれらのヘイトを買ってくれることだろう。
「ツアー! ほんの一瞬でいい! お……私が、あのクソッタレに近づく為にこの雑魚達を引きつけてください!」
「分かった……! 頼んだよ、モモン!」
「ええ!」
一瞬のうちに意図を把握したツアーは、空っぽの白金戦士二体を魚雷の様に餓鬼の群れに突っ込ませた。そして、巻き起こる大爆発。ほんの一瞬だけ、餓鬼達で形成された漆黒の大幕に突破口ができた瞬間だった。モモンガはそれを見逃さない。彼は黒翼を外套の下から大きく伸ばすと、戦闘機以上の超高速飛行でキュアイーリム目掛けて飛んでいく。
だが、穴はすぐに塞がれた。
餓鬼達は、モモンガに群がるべく両手を伸ばして接近してくる。数万、数億の質量は伊達ではない。辺り一帯の視界は既に闇一色に飲み込まれた。
「邪魔だ!」
振り払うように、剣を横に薙ぐ。
すると、視界は一瞬で晴れた。
怨敵の憎たらしい顔は、目の前だ。
「キュアイーリム!!!」
「フハハ……見事だ。しかし、近づいたところで一体どうしようというんだ?」
小蠅一匹、顔の周りを飛んだところで何にもなりはしないだろう。
しかしモモンガはその瞳に黄金の意思を燃やして、突貫する。
(何か狙いがあるというのか……? この全知全能の我に対して……? 烏滸がましい。神に対する我へのその不遜、叩き落としてくれるわ)
目を僅かに細めて、キュアイーリムは不快感を露わにした。
事実、モモンガ一人彼の前ではどうともならない。キュアイーリムはモモンガをその口で喰らおうとして──
「あああああああああああああッ!!!!!!」
──背中に、何かが小さく突き刺さった。
痛みは伴わない。
しかし、その不快感はキュアイーリムのヘイトを買うには十分だった。
(何だ……!?)
背中に組み付いているのは、白く淡く輝く一人の少女──のエインヘリヤルだった。
『絶死絶命』
アンティリーネは、喉奥から気炎を吐きながら、大鎌を邪悪竜の背中に突き刺している。
「我をイラつかせるな……人間!」
身を僅かに捩る。
それだけの動作で、アンティリーネのエインヘリヤルは消失した。
しかしその一瞬があればいい。
モモンガは、キュアイーリムの額に組み付いていた。
「くっ……我の体に触れようなど──」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
振り払おうとするキュアイーリムにしがみつきながら、モモンガは握った剣を額に突き刺した。ダメージは望めない。蚊が人の皮膚を刺した程度だろう。だが、彼の狙いはそれではない。
「ぐ、お、まさか……!」
「俺の狙いは、ハナからこいつだ……!」
額に埋まる七色の宝玉──『ティアーズ・オブ・ユグドラシル』
世界級に関する全ての効果を跳ね上げることができる、ユグドラシル産の世界級アイテムを、モモンガはキュアイーリムの体から引き剥がした。
……だが。
「だから、どうしたというのだ! それを奪ったからとて、我が取り込んだ魂が還るわけではない! 我は我のまま、何の逆転も起こらぬぞ! 算段が甘かったな、鈴木悟!」
──……知ってるよ。
モモンガは、そんなことは知っている。
知っている、というよりも、今手にした世界級アイテムの効果に対しては何となく察しがついていた。これを切り取ったところで、直接問題の解決に至るわけではないだろうとも。
──でも、俺はさ……。
モモンガは、キュアイーリムの額にそっと手を翳した。柔らかく、まるで慈しむ様に。
「鈴木悟、お前一体何を──」
──……できる様な気がしたんだ。だって、こんなバグみたいな体だろ……? だったら、お前からどんな影響を受けてたって、不思議じゃない。
それは、もはや感覚。
確証があるわけでもない。むしろできないほうが当たり前だろう。彼も先程まで、できるなんて思い至りもしなかった。
でも、モモンガは、その時、何となくできる気がしたんだ。
(アインズ・ウール・ゴウンに不可能という文字はない。そうだろ? パンドラズ・アクター……!)
「あ、うあ、お前、な、何をして──!」
「返してもらうぞキュアイーリム……俺の……俺達の、『
その時、モモンガの手の中に収まる七色の宝玉が、眩く輝き始めた。
世界の果てまでもを飲み込むほどの光の奔流。
周りに揺蕩う餓鬼達はその光によって消失し、世界全体は黄金に包まれた。
キュアイーリムの巨大な体がボロボロと崩壊を始めていく。他者からの魂で強く見せているだけのメッキが剥がれ落ちていっているのだ。
絶叫するキュアイーリムから力が抜けていき、その力はやがてモモンガの隅々へと行き渡っていく。
それは、朽棺の竜王が生み出した始原の魔法たる『魂の強奪』に他ならない。
キュアイーリムの力によって捻じ曲げられ、生み出されたアルベドとモモンガのバグの様なその肉体は、やがて黄金に輝き始めた。
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17.Stellar Stellar
掌からシャルティアが、デミウルゴスが、コキュートスが、マーレがアウラがプレアデスが……ナザリックの配下達の魂魄が自らの中に入ってくるのが分かる。モモンガはキュアイーリムから全てのナザリックの配下達を吸い上げて──
「離れろぉ!!!」
──キュアイーリムから弾かれた。
「ハァ……ハァ……ッ!」
さしものキュアイーリムもこれは想定外だったらしい。力の半分も吸い取られた邪悪な竜は息を切らして天を仰いだ。
視線の先にいるのは、モモンガ。
否、モモンガだった何かだ。
先程までの彼ではない。
「貴様……!?」
光に包まれた黄金の繭……。
それは、月光と星の灯りしかない夜を照らす光となって、キュアイーリムを照らし出していた。
それはやがて目を開けていられないほどの光量に発展し、モモンガの五体に収束していく。
「ぐ……っ!」
光の繭に包まれたモモンガの全容が、やがて明瞭になっていく。
──そこには神々しい光を湛えた、人智を超えた存在が君臨していた。
モモンガの……アルベドの瞳の中の、縦に割れた虹彩が形を変えていく。燦然と煌めくその瞳には『アインズ・ウール・ゴウン』の紋章が浮かんでいた。
……それだけではない。
濡れ羽色の髪は
一言で言えば、女神だろうか。
アルベドの美貌も手伝って、そこには一切の不浄を払うような黄金の女神がキュアイーリムを見下ろしていた。
それに呼応するかの様に『スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』も姿を変えていく。金色のスタッフは、柄を得て、白銀に煌めく刃を生成し、一振りの剣と相成った。柄にはスタッフを象徴する七つの宝石が今尚輝きを損なうことなく存在感を発揮し、収まっている。
世界を革命するかの様な一振りを握り、モモンガは『アインズ・ウール・ゴウン』の紋章が煌めく瞳で、キュアイーリムを見据えた。
「モモンさん……まるで、“神様”みたい……」
地上からそれを見ていた『絶死絶命』が、譫言の様に呟いた。神様とは、六大神のことを指しているのではない。本当の意味での神のことだ。
それは比喩でもなんでもない。
光の女神が、荒廃した世界を淡く照らし出している。
「我を、我の、我から、よくも、よくも、よくも……到底、許されぬぞ!!!」
キュアイーリムが忌々しく吠える。
未だナザリック以外の魂を収める邪悪な竜は、正真正銘の化け物だ。世界を滅ぼせるだけの力はまだその身に宿っていることだろう。
……しかしそれは、モモンガとて今は同じこと。
ナザリックの配下達の経験値、レベル、特殊技能をその身に集約した彼は、もはやキュアイーリムと同じく神の境地に到達している。
「さぁ……ここからが最終決戦だ」
美しいソプラノの声が、世界に垂らされる。それだけで世界は浄化されるようだった。
……互いの合図などない。
漆黒に染まる邪悪竜と、黄金に輝く女神は、互いの全存在を賭けた最終決戦に身を投じた。
星の表面が剥がれ、吹き荒ぶ。
大気が滲み、海が蒸発し、大陸は大きく罅割れた。
漆黒と黄金がぶつかる度に地殻変動が引き起こされ、それだけで星の表面が地形を変えていく。彼らの戦いの舞台はやがて
神と神。
神話を超えた頂上決戦。
モモンガは剣を返すと、恐ろしい速度と威力を以てキュアイーリムの翼を両断した。世界最強を容易く穿つ切れ味に、キュアイーリムは堪らず絶叫する。
「汚いぞ貴様! 我が集めた力を強奪しおって! 貴様の行為は万死に値する!!!」
「汚いってどの口が言ってるんだよ……!」
息をつく間もない。
キュアイーリムの口腔から放たれた烈火が、モモンガを濁流の様に飲み込んだ。咄嗟に身を守ったが、それでもそのダメージは計り知れない。彼は全身を苛む痛みに喘ぎながら、朦朧とした意識のまま邪悪竜を睨んだ。
「何故だ……何故、我が貴様なんぞに……」
「ハァ……ハァ……全く、なんてタフな竜だ……」
剣に付いた血を払い、モモンガは喘鳴しながら顔を痛みに歪めていた。
満身創痍はお互い様だ。モモンガとて無事ではない。だが、互いの尋常ではないダメージ量は、刻一刻と戦いの終わりを感じさせている。
「哀れな人間よ……! そのように必死にこの世界を護ったところでどうするというのだ……!? 貴様の望む未来などないぞ……!」
「はぁ……はぁっ……何だと……?」
「英雄気取り……一時の人助け……ハッ……愚かなことよ。貴様はどうせまた裏切られる……! 鈴木悟、お前は哀れな人間だ。お前が必死に世界を守っても、そこにお前の居場所なんてない。お前が最高の仲間と呼び、居場所を守ってきた『アインズ・ウール・ゴウン』のようにな……!」
「知った風なクチを……!」
「ククク……我を滅ぼしたところでどうする? また伽藍堂な城の玉座に座る気か……!? 来る日も来る日も、また空虚な時を過ごすことになる……! 他者はお前を見限るぞ! そうやって必死に守ったところでな……! 皆お前やお前の居場所を見限る!」
──……ふざけるな! ここはみんなで作り上げたナザリック地下大墳墓だろ! なんでそんな簡単に棄てることができる……!
ユグドラシルサービス終了のあの日、ぶつけようのない感情から吐いたあの台詞が今のモモンガには懐かしい。
悲しみ、怒り、孤独感……全てが綯交ぜになり、モモンガは拳で円卓を叩いていた。
……そして、それが愚かなことであると彼は今心の底から思っている。
モモンガは火焔を切り裂きながら、キュアイーリムを睨み据えた。
「見限る……? 違う。彼らは、俺の仲間達は、『アインズ・ウール・ゴウン』を裏切ったんじゃない……!」
「では何だというのだ! お前を捨て、お前が守っていた場所を忘れ、のうのうと別の世界を過ごす生温い仲間の姿にお前は耐えられるというのか!? 耐えられまい! お前は所詮王や英雄などという器ではない! 孤独にすら耐えられぬ、脆い人間でしかないのだからな!」
キュアイーリムの爪が、モモンガの剣と鍔迫り合う。モモンガは目を細め、両者の間に弾ける火花を物ともせず邪悪を睨んだ。
「違うな……お前は根本的に間違っている、キュアイーリム。おかしいのは……間違っていたのは、俺の方だったんだよ……!」
「何を言うかと思えば……! 貴様の心の翳りは、貴様の記憶を吸い上げた我が一番理解しているのだぞ……! 今更善人ぶっても、貴様の心は我に偽ることはできぬ!」
「そうだ、お前の言うとおり、俺は確かに彼らに憤りを感じていた! それは事実! だが、俺はこの世界にきて、自らの過ちを知ることができたんだ……!」
「何が違う!? 何故違う!? 裏切り、見限り、どう言い繕ったところで事実は変えられぬぞ!」
両者の間に火花が散り、互いに距離を取る。
竜と女神は、肩で呼吸を整えながら互いを睨みつけた。
「違うともキュアイーリム。確かに俺はアインズ・ウール・ゴウンを愛していた……ナザリックを去った仲間達を憎く思う時がなかったと言えばそれは嘘だ」
瞼を閉じ、思い出されるのは寂しさに埋もれる日々。来る日も来る日も、孤独な墓守りを続けたモモンガは確かに暗い感情を抱えていた。
何故来ない。
何故アインズ・ウール・ゴウンを思い出さない。
何故そんなに簡単に忘れることができる。
何故、何故、何故……。
何も実らぬ私生活に、何も癒されぬ仮想現実。
モモンガは、鈴木悟は、人知れず仲間達に対して傲慢とも言える感情を抱えてしまっていた。
「だけど、違う……それが普通なんだ。出会いと別れがあり、悲しみや怒りもあり……理不尽な感情を抱え、それでも人はそうやって生き、傷ついて成長していくものなんだよ。ナザリックという一つの場所に固執していた俺こそが、間違っていたんだ」
モモンガはそう言って、剣を高々と掲げた。
彼を包む黄金の光は、一層に輝きを増していく。
「そして、それが人間の強さだ……! 過去を想い出とし、新たな出会いや別れを求めて再び前を向いて生きることこそが人間なんだ……! 彼らはナザリックを捨てたのではない! 良き想い出とし、新たな未来を生きているに過ぎない……! そしてその門出を祝うことこそ、ギルド長の……いいや、彼らの友人としての俺の務めだ……!」
「世迷言を……! 貴様がどれだけ妄言を吐こうが、この世界の神となるのは我だ! あの世で再び永遠の孤独を過ごしながら朽ちていくがいいわ!」
キュアイーリムが絶叫した。
その口腔には『滅魂の吐息』が煌々と煮えたぎっている。
対するモモンガは黄金の剣を掲げながら、キュアイーリムの挙動に一切怯むことなく突貫していく。
──世界から音が失われた。
モモンガは『滅魂の吐息』の中を突き進みながら、ひたすらに輝きを増していく。
体はもうボロボロだ。
HPはゴリゴリと削れていき、目を開けているのも苦痛なくらいだ。呼吸もままならず、皮膚が剥がれ落ちる様な痛みに叫びそうにもなる。
凡人の魂でしかないモモンガには耐え難い程の激痛。様々な負の感情に侵され、少しでも気をやると絶命は免れないだろう。
しかし──
(お前達……)
──モモンガは幻影を見た。
今にも崩れ落ちそうな己の背を支える、守護者達の姿を。剣を握る手にそっと重ねられる、アルベドの手を。
モモンガは、怯まない。彼らが支えてくれているのなら、後退の文字はない。口を真一文字に切り結び、黄金の輝きを絶やさず、ひたぶるに前へ。
やがて全てを飲み込むような漆黒を抜けると、目の前にキュアイーリムの頭蓋が現れる。
「終わりだ……キュアイーリム!!!!」
「や、やめ──」
モモンガは叫ぶ。
乾坤一擲の一閃。
閃光を纏う刃はキュアイーリムの頑強な鱗に食い込み、容易く肉に到達する。
モモンガは魂を吐く様な叫びを宇宙へ轟かせながら、キュアイーリムの首を切り落とした。
「はぁ……はぁ……」
青い星。
宇宙とこの星の狭間で、キュアイーリムの首とモモンガは漂っていた。全てを使い果たしたモモンガにはもう、何をすることもできない。ただ、その空間に漂うことしかできないでいる。
「貴様……よ、くも……」
首だけとなり、最早無力な存在と化したキュアイーリムが憎々し気にモモンガを睨む。しかし邪悪な竜には既に抗う力などなく、その殺気混じりの視線をモモンガはそよ風の様に受け流した。
「そんな姿になっても、まだ喋れるのか……」
半ば呆れ。半ば感心。
モモンガは血と火傷に塗れた体を庇いながら、朦朧とする目でキュアイーリムの視線を返した。
「鈴木悟……と、取引がしたい」
「なに……?」
「お、お前となら、この世界の全てを思うままにできる。だから……だから、我を殺すのはやめてくれ……我の傷を癒してくれたなら、世界の半分をやろう」
そんな古臭い言葉に、モモンガは気の抜けた様な笑みを浮かべた。
まさかそんな言葉を投げかけられるとは思っていなかった。それに、こんな姿なのにまだ不遜ぶっていることがちゃんちゃら可笑しい。
「は、はは……」
「何が可笑しい?」
「悪いな、キュアイーリム……お前の……いや、俺達の結末は、もう決めてるんだ……」
「え……?」
手が震える。
モモンガはキュアイーリムに……というより、互いの狭間へと手を翳し、囁くようにこう唱える。
「……
それはモモンガに残された最後のMPが、消費された瞬間だった。体の中からごっそり力が抜けていく感覚に、しかしモモンガは酷く優しい笑みを浮かべている。
「な、なにをしたんだ、貴様……」
「……遅延化を掛けた爆発魔法を唱えた。じきに、ここら一帯は大爆発を起こす」
「な、なんだと……!? お、おいやめろ! 我は、我はまだ死にたくない! そうだ、我を生かしてくれたなら──」
キュアイーリムの声はモモンガに聞こえちゃいない。
モモンガは既にこの結末を想定していたから。
『核爆発』
周囲一帯に大爆発を巻き起こすこの魔法は、術者のモモンガとて範囲圏内。このまま時を過ごせば、HPギリギリの彼とて絶命は免れないだろう。
……だが、それでよかった。
初めてこの世界にきた時の感動を、彼は忘れちゃいない。美しく、清らかで、そしてそこで生きる人間達の気高い心に溢れたこの世界。
そう、きっと自分は、この世界に来るべきじゃなかったとモモンガは思う。
眼下に広がる、荒廃した青い星を見て、その想いは一層に強くなってしまった。
自分がこの世界にいる限り、きっとこの様な事態は再び招かれるに違いない、と。
だから、去るべきだ。自分やキュアイーリムの様な、過剰な力を持った人間は、この世界には不要なのだ。
「……いいよね、みんな」
何かに向けて懺悔する様な囁き。
それは、彼の身に宿る守護者や、かつての仲間達に向けてのものだった。
決別とも取れるその言葉。
それと同時に、彼の体は淡く光りはじめる。分かる者であれば、彼を覆う幾何学模様の魔法陣が、超位魔法発動前段階のそれだと理解できるだろう。温かく、柔らかなその光は、モモンガが唱える最後の魔法へとなり……キュアイーリムの手によって荒廃したこの星を照らし出した。
「……
その瞬間、モモンガの体が一層の輝きを放ち始める。
『
あらゆる願いを叶える超位魔法にモモンガが差し出す経験値は、彼と、そして『アインズ・ウール・ゴウン』が蓄えたその全てだ。世界を改変する規模の願いにその決断は必要不可欠。モモンガは、自分と『アインズ・ウール・ゴウン』の全てを懸けて荒廃したこの世界を取り戻す決断を下したのだ。
命を、そして魂をくべる黄金の輝きは、やがて世界を包み込み……滅ぼされた王国、帝国、法国……あらゆる国や自然、人間を復活させ、この青い星をもとのあるべき美しい姿へと変えていく。
「デミウルゴス……シャルティア……コキュートス……マーレ、アウラ……そして、アルベド……こんな主人で済まない。最後は、この俺の最後の……たった一つの我儘に付き合ってくれ……」
経験値という生命力を願いに吸い上げられていく。
モモンガの視界が霞んでいく。黄金の光の中に、再び守護者達の幻影が浮かぶ。
彼らは何一つとして不満をその表情に浮かべることなく、モモンガの下に傅いている。
……我らの神の望みであるならば。そんな声が、聞こえた気がする。
──やがて、世界を照らす復活の光が収束した頃……キュアイーリムとモモンガの身を焼き尽くす火焔の花がこの
爆発に巻き込まれたモモンガの体が落下していく。
大気圏を超え、成層圏へ。
眼下には、全てを取り戻したアーグランド評議国が広がっている。そこに息づいていた亜人達が、自らの復活に戸惑うように喧騒を形作っていた。
紅く灼けるモモンガの体が流星の様に評議国に落ちていく様を、地上の彼らは指を差して眺めている。
「モモン様ぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!!!!!」
地上から飛び立つ、一つの影。
耳慣れたその声に、微睡みかけていたモモンガの意識が僅かに引き戻される。地上の豆粒でしかなかったそれは猛烈な勢いで彼のもとまで到達すると、落下するモモンガの肉体をその小柄な体で抱き留めた。
(イビルアイ……)
細く、小さな腕ではモモンガの体を支えきることは叶わない。
僅かだけ速度を落としただけで、彼らは錐揉みながら星の表面へと落下していく。イビルアイという存在の温かさに、モモンガは再び目を閉じた。
「モモンさん!!!」
次に鼓膜を揺らしたのは『絶死絶命』の声だった。
彼女は矢の様に家屋の屋根から跳躍するや、モモンガとイビルアイの落下を妨げる様に二人の体を抱き締めた。
「モモン!」
「モモンさん!!」
ツアー、そしてニニャ。
彼らも慌てて彼女達を受け止めて……。
「アルベド殿!!!」
ガゼフが、声を張り上げる。
気づけば、もう地上はすぐそこだった。
ガゼフが、蒼の薔薇が、漆黒聖典が、帝国四騎士が、『カゲ』を討つ為に各国から集まった冒険者、精鋭達が、モモンガを受け止めるべく人の山を形成している。
モモンガを離すまいと固く抱きしめるイビルアイと、彼女達を覆う『絶死絶命』、ツアー、ニニャの塊はやがてその山へと激しく落下した。
「モモン様!!!」
イビルアイが激しく自分の名前を呼んでいる。
モモンガは動けない。ただ微睡みと現実の狭間を揺蕩って、ぼんやりと彼女の顔を見上げていた。
(ああ……)
体が冷えていく。
なのに心はじんわりと温かい。
仮面の下でくしゃくしゃに顔を歪めて泣いているだろうイビルアイに、モモンガは優しく微笑めた様な気がした。
ガガーランが、ラキュースが、ティアがティナが、ガゼフが……今まで関わってきた友人と呼べる人達が、自分の顔を心配そうに覗き込んで何かを言っている。でも、そのどれもがもう聞こえない。
視界は濁り、声は遠ざかり、まるで深海の底へと沈んでいくようだった。
モモンガの体がやがて形を保つことすら叶わなくなりはじめ、足の先から光の粒子へと変わり始めていた。イビルアイがそれに気づいて、何かを叫んでいる。大声で泣いている。
(お腹、空いたなぁ……)
モモンガは霞む目で最後に、イビルアイの後ろに燦然と輝く星空を見た。
消えていく手を伸ばす。
この世界に来た初めての日も、確かこんな綺麗な満天の星空だったはず。
(きらきら輝いて……まるで、宝石箱みたいだ……)
モモンガはやがて目を閉じると、身を委ねた。
深海の底へと、彼の体は沈んでいく。
もう何も見えない。何も聞こえない。
主に付き従う様に、限界を迎えた『スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』が側で弾けて消えていく。
……最後になってようやく
次回、エピローグ。
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Prologue
「行っちまったなぁ……」
ガガーランが、その言葉の感触を確かめる様に目を細めた。
視線の先には、人ひとりの為に建立されたとは思えぬ程に大きな慰霊碑が佇んでいる。各国から送られた献花に囲まれ、まるで花園の様にさえ思える。今もなおここを訪問する人の足は絶えず、それぞれがそれぞれに花を捧げていく。
世界を救った大英雄モモンは死んだ。
遺体は光と消え、『蒼の薔薇』が彼女に託された蘇生アイテムも蘇生元の肉体がなければ復活は叶わなかった。
『カゲ』との決戦後、英雄を讃える慰霊碑はモモンが愛したエ・ランテルに大々的に建立され、各国の要人達が国を挙げて彼女の死を偲んだ。
優しく、美しく、それでいて誰よりも強者であった英雄の死に、彼女と触れ合ったエ・ランテル──ひいてはリ・エスティーゼ王国全土の民達が、膝をついて悲しみに暮れたという。『漆黒の美姫』が命を散らして世界を守ったあの日は公式に祝日に制定され、毎年彼女に対する鎮魂祭が催されることだろう。
モモンの英雄譚は今後脈々と受け継がれ、讃えられることは間違いない。今も街の広場では、彼女の歌や人形劇が盛んに行われている。
さらりと吹いた柔らかな風が、ラキュースの横髪をさらう。彼女は金糸の様な髪を耳に引っ掛けて、慰霊碑を立ち尽くして見ていた。
「行っちゃったわね……イビルアイが抜けた穴は確かに大きいけれど、だからといって腐ってられないわ。あの子がいたからアダマンタイト級だったなんて、言われたくないもの」
「まあな。今度はモモンじゃなく、イビルアイがいなくても俺達がこの世界を守っていけるくらい……強くならなきゃいけねぇ」
小さな子が、可愛らしい花をまた一輪慰霊碑に添えていく。『蒼の薔薇』の前を横切って、母親が彼女達に小さく頭を下げた。
「一回でいいから、抱きたかったな。いや……抱かれるのもアリか」
しみじみとそう呟いたティアに、ガガーランが苦虫を潰した。
「お前はまたそういう……」
「まあそう言わないで、ガガーラン。彼女もきっと冗談を言ってしんみりした雰囲気を紛らわせたかったのよ。ね、そうよねティア」
「…………」
「助け船を出したんだから何とか言ってちょうだい……」
ラキュースが呆れた様に溜息を零した。
伏した目を上げて、慰霊碑を今一度見る。来訪客は、今なお大勢足を運んできていた。
「全く、あの人は。本当に大した英雄だわ……」
……空は晴天。
モモンが守ったこの世界の空は、どこまでも平和そうな蒼が広がっている。
ガタゴトと揺れながら、一台の馬車が平原を行く。
手綱を握りながら、イビルアイはのんびりとした青空を仰いでいた。
リ・エスティーゼ王国を発ってから丸三日が経過した。
朴訥とした風景。不老不死の彼女には時間だけはある。足並みは緩い。王国で買った地図を広げ、彼女はこの馬車の座標をなんとなくここらへんかなとアタリをつけた。
(……蒼の薔薇のみんなは、元気にやっていけるだろうか)
チーム脱退を通達された彼女達は吃驚した表情をしていたが、イビルアイのことを快く送り出してくれた。むしろ今までチームを引っ張ってきてくれた感謝さえ。
これからは自分の人生を楽しく生きなさい、というラキュースの言葉が嬉しく、今思い出しても僅かにだが涙が滲み出してしまうほどだった。
「……あ」
ぼんやりとそんなことを考えていると、視界の遥か先に目的地が見えてきた。
──ローブル聖王国。
種族が種族なだけあって今まで訪れたことはなかったが、未知の世界というだけで少しはワクワクしてしまう。これは恐らく、彼女が愛したモモンの影響もあるだろうか。
「見えてきましたよ」
イビルアイがそう声を掛けると、彼女の隣に座る鉛色の
「おお!ようやくですね」
「ええ。検閲が少し気掛かりですが……モモンさ──」
「あ、それなんですけどね。今後は名前を変えようかなと思って」
兜を脱いだ重戦士の素顔が晒される。
黄金比に模られた
イビルアイは数時間ぶりに見た重戦士の美貌に、まるで炸裂閃光弾を目の前で浴びたかのような表情をしていた。
「な、名前? 変えちゃうんですか?」
「ええ。あ、ほら。私って生きてると結構不味いじゃないですか。あんな大々的に慰霊碑まで建てられてるのに、実は復活してましたーなんて。どこで気取られるか分かったもんじゃないですし」
「まあ、確かに」
「それに、モモンって本当の名前じゃないんですよね」
「え?」
イビルアイはおっかなびっくりといった様子で──モモンを見た。モモンはあっけらかんとした表情で、イビルアイは目を白黒させている。
「だから今度はモモンじゃなく……他の誰でもなく、自分として生きようと思うんです」
「本当の、自分……」
「だからイビルアイさん。私のことは今後はモモンではなく……サトルと呼んでください」
「サトル……それがモモンさんの、本当の名前なんですか?」
「ええ。嘘偽りない、私の……いや、俺の名前です」
モモンは……サトルは、とても清々しい顔をしている様にイビルアイは思えた。そして同時に嬉しくも感じる。愛しい人の本当の名を、自分だけが知れたことに、イビルアイは名状しがたい喜びを感じて──
「わ、私もっ! 私もイビルアイって名前ではなくて──」
「でしょうね」
「──……あう。あの……私のことも、キーノと呼んでください」
「……キーノ。それがイビルアイさんの?」
「はい。私の本当の名前です」
「分かりました。キーノさん……いや、キーノ。これから、あらためてよろしくお願いしますね」
「……!! はいっ!!」
馬車は行く。
聖王国が見えてくる。
キーノは、持たなくても別に良いゴーレム製の馬の手綱を今一度握りしめた。
──……アルベドになったモモンガさんの一人旅はこれでお終い。
今後の彼はモモンガではなく、モモンでもなく、アルベドを背負った自分でもなく、等身大のサトルとしての旅が始まっていく。きっとこれからもずっと、彼の……いや、彼らの旅は永く続いていくことだろう。
未知の発見をして、新しい出会いがあり、美味しいものを食べて、過去のことを赤裸々に語り、キーノの好意に鈍感なへんてこな恋愛をしながら、サトルはこれからも生きていく。
キーノちゃんとサトルさんの二人旅、なんて緩いタイトルでも銘打たれた穏やかな日々に、彼はきっと満足感を得ていくはずだ。
(聖王国産のご当地料理も楽しみだなぁ……)
空には呑気な鳥が揺蕩っている。
風が一陣、二人の間を横切った。
ご愛読いただきありがとうございました。
全ての読者様に感謝を。
補完を兼ねたざっくりとした後日談は投稿予定。
ここまで本作についてきてくれて本当にありがとうございました。
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その後の彼ら
本編完結後のその後や補完的な蛇足です。
《モモンガ》
『カゲ』との戦いの後、しばらくして復活。
どうせモモンガ様のことだから身投げ特攻でもするのだろうと、パンドラがあの時にもう一つの蘇生アイテムを忍ばせていた。復活の選択肢も与えてくれた有能息子。彼はそれでも復活する予定などなかったが、後述する理由で復活した。レベルは200。作者のご都合主義。
せっかく生き返ったのなら、今度は自分に素直に生きようと決意。髪をばっさり切ったのは、アルベドの体だからと今まで遠慮していた気持ちへの決別の意味もある。
生き返ったら何か自分が大英雄として祀られていた。居心地が悪すぎるし、今更生き返ったなんて言ったらどうなるか分からないので、自身の復活は『蒼の薔薇』やカルネ村の極一部の人間に伝えるだけに留めている。
気ままな一人旅を再開しようとしたらイビルアイに死ぬほど泣きつかれたので、二人旅を了承。不老不死の二人は、今後ゆっくりと時間を重ねて絆を育んでいく。
イビルアイのことは保護対象であり、見た目的にアウト過ぎるので手は出さないのだが、サキュバス本能で悶々とすることはしばしば。何百年後くらいにはバイコーンに乗れてるかもしれない。
《イビルアイ》
『カゲ』との戦いの後、モモンの死を乗り越えられずに毎夜泣いていた。
モモンのドロップアイテムの所有権に関して各国間で協議が重ねられたが、取りあえずは冒険者組合で管理することになり、その保持を一旦は『蒼の薔薇』に任された。
世界級アイテムなどの強大無比なアイテムも含まれているので、ツアーがそれらを鹵獲しようとして『蒼の薔薇』と殺し合いにまで発展。あの世でそれを察知したモモンガが復活して割って入り、白銀の鎧を粉砕した。
死に別れた時間はモモンへの恋慕を限りなく高めてしまっており、一人で去ろうとする彼に対して大泣きしてついていくことを懇願し、了承を得る。
装備をモモンガから与えられたり、仮面を新たにドワーフ達に作ってもらい、モモンとの関連性が高いイビルアイではなく、正体がバレない様にサトルと共にキィという名前で各地を放浪する。
ユグドラシル時代やリアルでのことを語られたり、元々男であったことを知るなど、少しずつ少しずつだが距離が縮まっていく(恋愛的にとは言ってない)
宿を相部屋にしようとしたりスキンシップを図ろうとしても悉く失敗する日が続く。ちょっと嫉妬深い。
《ツアー》
自称世界の管理者である彼はモモンが持っていた世界級アイテムやユグドラシル産のアイテムが野放しになっていることを看過できなかった。結果イビルアイと衝突し、復活したモモンガに敗北。イビルアイとは喧嘩別れの様な形となり、今後一生モモンガに白い目で見られることになる。
復活したアーグランド評議国の永久評議員を務めながら、モモンガを刺激しない様に穏便に過ごすこと決める。仮に和解するとしても何百年後の話。
《蒼の薔薇》
イビルアイ脱退後もアダマンタイト級冒険者として一線に立ち続ける。
モモンガとイビルアイとはその後も懇意にしており、半年に一回くらいは会っている。ティアはイビルアイの恋は認めているが、一発だけどうにかならないかと思っている。
《ガゼフ・ストロノーフ》
アルベド殿の死を偲びながら、王国最強として兵士長の立場を務め続ける。
自分が強ければアルベドは死ななかったという思いを常に抱え続け、二日に一回は夜に男泣きしている。更に鍛錬を積み、才能を開花させ、漆黒聖典の『人間最強』と互角以上の強さへと進化していく。モモンガさんは彼にも会ってあげてください。
《ブレイン・アングラウス》
強さを求めて流浪の旅へ。
各地で強力な魔法詠唱者と重戦士の活躍を耳にし、いつか手合わせしたいと願っている。
《ニグン・グリッド・ルーイン》
『カゲ』との戦いでモモン=神だということに気が付いた。
悲しみに暮れる間もなく、神が遺したこの世界を良きものにしようと決意。名もなき宣教師として各地を放浪し、モモンガの素晴らしさを説きながら、慈善活動に勤しんでいる。
《ラナー》
モモンの死に大喜び。
だけど結局生きていることを察知して奥歯が欠けるくらい歯軋りした。ザナックが王となった王国を補助しながら、可愛い子犬との甘い生活が送れる様に画策している。
《クライム》
またしても何も知らないクライムくん。
何も知らないまま健気に生きるが、度々モモンを慕う様な発言をして飼い主を大いにイラつかせる。
《カルネ村》
戦う力を付けながら、順調に拡張中。
ツアレ、エンリ、ネム、クレムのみがモモンガ生存の報告を受けている。
ツアレとニニャが逢う日も近い。クレムはすくすくと成長していき、そのうち村一番の強さになっていく。折り目のついた折り紙をもう一度折り直す様なものなので、その成長速度に村人は驚いている。見た目の美しさや戦闘センスなどから、実はアルベドの実子ではないかと一部では噂されるほど。
本人は戦闘に興味がなく、割と怠惰に成長する為、ゆくゆくはもとのクレマンティーヌよりは若干だけふくよかなシルエットになると思われる。
《漆黒の剣》
英雄モモンの語り部でありながら、ゆくゆくはミスリル級のチームにまで成長していく。ニニャはツアレと再会後、どう姉が地獄から救われたのかを聞き、モモンへの感謝で泣き崩れる。ニニャは冒険者として、ツアレはカルネ村で、それぞれの幸せの道を掴んでいく。
《スレイン法国》
王国と帝国の実質的な指導者として人間国家を牽引していく。八本指が無くなり、ザナックが王となった王国を認め、上位国家として監視し続ける。
神人を自由に動かせる様になった為、周辺の人間国家は頭が上がらない。エルフ国家や竜王国に『絶死絶命』や隊長を派遣予定。
《バハルス帝国》
王国を併呑できる一歩手前で王国と帝国が法国の実質的な支配下に入り、ジルクニフの毛根が逝く。
《ローブル聖王国》
依然変わらず亜人と戦争中。
身動きが取れないカルカ女王の代わりにグスターボがモモンへの献花に王国を訪れた。
近い将来ネイアとサトル達が絡むことになったり、婚期に焦ってるカルカ様がサトルの素顔に惚れてしまったり、レメディオスは相変わらずアホの子だったり、割とドタバタなことになる予感。
気が向けば短編的なものも投下していくかもしれません。
作者雑感はマイページの活動報告に記載しております。
改めて、ありがとうございました。
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