シニア級〇年目のライスと朴念仁系お兄さまと時々同期や後輩の話 (ブルーペッパー)
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チーム再編編
1話 ライスとお兄さま


初投稿です。


 彼女のことは、私のトレーナー人生の大半を占め、そしてもっとも鮮明な記憶として残っている。

 淀に咲いた青いバラ。咲いた時の場のために非難されることもあったけれど、その懸命な姿に勇気をもらった人も多くいたはずだ。

 長い苦労の果てについに受けた応援の声。彼女がレース前から笑顔を見せたのは初めてだった。

 しかし、声援は悲鳴に変わった。崩れ落ちる小さな体。緑の芝を転々と染める赤。

 何故気づけなかった。私は自身が引き裂かれるような痛みと絶望、後悔の念に襲われた。

 奇跡的に彼女は一命をとりとめたが、私も彼女も、受けた傷が癒えるのに長い時を必要とした。

 

「ライスね。もう一度走れるようになりたいんだ……」

 

 白い病室で、彼女が言った言葉が忘れられない。

 寝台に身を預け、窓の外を眺める彼女の顔にあるのは絶望ではなかった。

 強い意志が宿った瞳。楽観ではなく、必ず至るという鋼の決意。

 過去を悔い、足を止めていた私と違い、彼女は前を見続けていた。

 その先に見つめるのは、今でも走り続けている同期の背か。同じくケガからの復帰を目指すライバルの背か。レースを離れ新たな道を進む先達の背か。

 出会った頃の気弱で自信のない彼女は成長し、強く自らの脚で歩みだそうとしていた。

 

「ライス頑張るから。だからお兄さまにも手伝ってほしいんだ」

 

 断るはずがない。

 躊躇うことなく私はその手を取った。彼女が新たな夢を目指すなら、その道を作るのが私の使命だ。

 

 

 神様。

 願いを聞き届ける神がいるのなら、どうか彼女の願いを叶えてほしい。

 対価が必要というのなら、私の血肉も、未来も、何もかも持っていけばいい。

 だから彼女のささやかな祈りだけは、どうか聞いてやってほしい。

 

―――とあるトレーナーの手記の一節

 

 

 

 

「……お兄さま、ちょっと重い」

「ウソでしょ。一世一代の誓いを綴った手記を読んだ感想がそれ……!?」

 

 神はいる。そう思った。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 走る。

 走る。

 振り払うように。

 逃げるように。

 地元では自分が一番早かった。年上にも、大人にも負けなかった。

 自分の力を試すため、もっとすごい舞台で走るため、周りに推されるがままトレセン学園へとやってきた。

 

 そして思い知らされた。自分が井の中の蛙であったことを。

 

 両親からの応援の言葉はしだいに重荷に変わった。デビューはいつになるかという言葉はナイフのようで、思い出すだけで胸が裂けるように痛い。

 地元の友人からの態度が徐々に白けてくるのがわかる。辛い。

 かつて誇りであった自分の脚が憎い。どうしてこうも鈍いのだ。あのスターウマ娘――選抜レースで華麗な勝利をした彼女のように、翔けるように動かないのだ。

 思わず見とれる大きなストライド。重力を忘れ、翼が生えたかのように駆ける様はこれまで支えであった自尊心を粉砕するのに十分だった。 

 疲労で悲鳴を上げる脚を酷使する。休みたければ、あの子の十分の一でも輝きを見せてみろ。

 自分はまだやれるという希望と、いっそこのまま砕けてしまえばという自棄を混ぜこぜに、また走りだそうして、

 

「それ以上はやめたほうがいい。君のはトレーニングじゃなくてただの遠回りな自殺だ」

 

 声に、足が止まった。

 声の先に視線を向けると、男が立っていた。没個性な顔立ちの、優男。そんな第一印象だった。

 

「なんですか……」

 

 唸るように返す。後ろめたい気持ちと、ささくれだった心が男への警戒を強めていく。 

 ウマ娘が通うトレセン学園にいる男性なんて限られている。

 胸に輝くのはトレーナーバッチ。入学当初はその輝きに畏敬こそあったが、今はただ不快な光だ。

 自分たちの努力を一着か否かでしか判断しない評論家。ウマ娘の未来を消費して飯を食う寄生虫。

 だがこちらの意など気にも留めず、男は続ける。

 

「ずっと走り続けているだろう。我武者羅に走っても身につくものは少ない。君は……」

 

 なんだ。言ってみろ。こっちは落ちるところまで落ちているんだ。無理するな。諦めろ。そんな言葉を吐いた瞬間、その喉笛を噛み千切ってやる。

 実行すればすべてを失うが、構うものか。

 

「まずは走り方を戻そう。君には前の選抜レースの走り方が合っている」

「え……」

 

 思わず殺意が霧散した。

 

「見てたんですか? あの選抜レースを」

「トレーナーなんでね。レースと聞けば自然と足が向くものだよ」

 

 意外だった。あのレースで記憶に残るのは圧倒的な力で制した勝者のみ。入着どころか惨敗した自分のことを覚えているものがいるとは思わなかった。

 

「君はスタミナはあるみたいだから、中距離くらいを想定しよう」

「とりあえず1800mでいこう」

「脚質は差しのようだけど、後ろでなくあえて前目に位置取りしたほうが君に合ってるかな」

「スタートからのコース取りだけど……」

 

 手元の紙に何が書かれているか。

 まるで、専属トレーナーのようなこちらの適性に合わせた指導に困惑する。

 

「どうして……」

「ん?」

「どうしてそこまでしてくれるんですか? あなたはワタシのトレーナーでもないのに」

 

 男の顔が上がる。彼は特に悩む素振りもなく、

 

「どうしてって、頑張っている子の手伝いをするのが私たちの仕事だよ」

 

 当たり前のように告げた言葉に、思わず熱くなった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 4月。年度が変わる月であり、新たな環境に戸惑いながらも心躍らせるもの。昨年の反省を生かし、奮起する月でもあるだろう。

 トレセン学園でもそれは同じ。

 新入生たちは輝かしい未来に夢を見て、進級したものたちはまもなく本格的に始まる春レースに向けて闘志を燃やす時期である。

 

 目覚ましの音でも窓から差し込む光でもなく、染みついた習慣からライスシャワーは目を覚ました。

 日も昇りきらない早朝。抵抗する瞼に力を入れ、ベッドから身を起こす。

 窓の外を見れば朝と夜が混じりあった、少し非現実的な風景が見えた。

 まだ眠っているルームメイトを起こさぬよう準備を始める。

 寝巻から赤と白のジャージへ、お気に入りの帽子をかぶり、外にはね気味の黒髪に櫛を通して真っ直ぐに……はこだわらずそこそこに。

 バッグにトレーニングのための道具を詰め、忘れ物が無いかを確認し、最後に朝練メニューを確認してから音を立てないよう部屋を出た。

 

 

 

「ん、んんん……!!」

 

 準備運動は念入りに。特に柔軟には力を入れる。

 ただでは自分の体は硬いのだからと、活を入れるように体を前へ倒す……倒そうとする。

 

「ん~~よし、準備運動終わり! がんばるぞ、おー!!」

 

 バッグを持ってコースへ向かう。

 足元の感覚を確かめながら、ライスシャワーはこれまでのレース人生を思い返していた。

 自信のない自分を応援してくれるトレーナーとの出合い。メイクデビュー、クラシック級ではライバルと出合い、秋には一冠を掴み取った。ライバルの三冠を防いだためにヒールと呼ばれた。シニア期に上がれば当時最強と言われたステイヤーに勝利し、その後は長いスランプ。一年越しにG1を勝ち、多くの人から応援されるようになった。みんなの期待に応えようとして……ケガをした。

 ライスシャワーはあのグランプリレースでケガをした。競争能力の喪失どころか、命を落としかねない大ケガだった。

 命をつなぎ留め、今こうしてまたレースに向けてトレーニングできることは奇跡といえるだろう。

 復帰に向けて進んでいるが、スタミナの衰え、レース感の鈍り、周りとの力の差。不安が無い訳ではない。

 それでも、少女の顔に陰はない。

 なぜなら彼女は一人ではなく、苦楽を共にしたお兄さま(トレーナー)がいるのだから。

 

「あれ?」

 

 見えてきたコースに二人分の影。ひとつは、まさしくライスシャワーのトレーナーの姿であり―――

 

「お兄さま……?」

 

 見知らぬ、ウマ娘とともにいた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 ウマ娘が目の前を走り抜けた瞬間、ストップウォッチを止める。

 息を整えている少女に、表示された数字を見せると、花が咲いたように顔をほころばせた。

 

「……うん。息の入れ方がよくなったね。あと、歩幅は今くらいのがいい。大きなストライドは派手だし力強いが、君の体では負担が大きすぎる」

「はい!」

 

 好時計を出せたことがよほど嬉しいのだろう。最初に声をかけた時よりも返事が明るい。

 よかった。どうやらトレーナーとしての腕前は示せたらしい。

 

「あの、もう一本走っていいですか? 今の感覚、忘れたくなくて」

「いや朝練はこれで切り上げたほうがいい。これ以上は午後のトレーニングにも支障が出るよ」

「はい……いや、でも!」

「この前の選抜レースが上手くいかなくて焦る気持ちはわかる。君たちに時間が限られているのも理解している」

 

 諭しながら、手元の紙にペンを滑らす。

 

「それでもだ。堪えてほしい。体を鍛え上げることと、痛めつけることは違うんだ」

 

 

 ちらり、と彼女の顔を確認する。あまり顔色がよくない。目元にも少し隈がある。

 睡眠時間を削って、無理なトレーニングをしているなと察する。メンタルも相当参っているな。

 トレセン学園はエリート校だ。地元でトップだったとしても、全国どころか海外からも有望なウマ娘が集まるこの学園では、幼少期に積み上げた自信を容易く粉砕する。

 家族からの期待、亀裂が走る自尊心、理想と現実の乖離、そこから逃げるような過度なトレーニング。

 よくある話だ。よくある話だから、見過ごせない。

 

「簡単にだがトレーニングメニューを作ってみた。試してみるといい」

 

 書き上げたメニュー表を少女に渡す。

 彼女は一瞬呆けた顔をして、私と紙を交互に見返していた。

 

「これ、筋トレや食事メニューまで……いいんですか?」

「不安なら教官や学園の栄養士に見せて直しもらっても構わないよ。こういうのは彼らのほうが専門だろうし」

「い、いえ! ありがとうございます!」

 

 ぶおん! と音が鳴りそうな勢いで頭を下げられた。腰を直角に曲げたお手本のようなお辞儀だ。

 ちらりと、少女が上目遣いでこちらを見てくる。

 

「あ、あの……チーム・マルカブのトレーナーさん……ですよね?」

「ん? ん〜……そうだよ。よく知ってるね」

「知ってますよ! 菊花賞や天皇賞(春)を勝ったライスシャワーさんのいるチームじゃないですか!」

「そうか、知っていてもらえて嬉しいな」

 

 ちょっとウソだ。

 挙げられたのは私が担当するウマ娘を象徴するレース。トレーナーとしての手腕が認められるようにもなったきっかけだが、決め手はライス自身の頑張りだ。私が勝たせたわけではない。一方でライスがヒール呼ばわりされたり、長いスランプの始まりとなったり、胸を張って誇ることは躊躇われた。

 

「チームといっても開店休業状態だけどね」

 

 これは本当。

 チーム・マルカブは派手な実績こそないが、私を含めて三代続くそれなりに歴史あるチームだ。しかし、現在所属しているのはライスただ一人。

 トレーナー業の師でもある先代から引き継いだときにいたメンバーはみな、引退や卒業、移籍によっていなくなってしまった。

 まったく、チームを任せて引退した先代に申し訳が立たない。

 

「もしかして、ライスシャワーさんの朝練予定でしたか? だとしたら、アタシなんかのために時間を……」

「気にしなくていいよ。まだ時間は有るし、コースの状態を確認してたら君を見かけて気になってね」

 

 これも本当。

 トレーニング前にバ場状態を確認してメニューを微調整するのは染み付いた習慣だ。辛そうな顔をして走るウマ娘が気になってしまうのも含めて。

 

「とにかく、今日の朝練はここまで。しっかりストレッチして、ご飯も食べて午後に備えること」

「はい。……あの」

「どうした?」

「……次の選抜レース、見に来てくれませんか?」

 

 頑張りますから、と小さな声があとに続いた。

 

「分かった。楽しみにしてる」

 

 そう答えると、喜色に満ちた顔で少女は去っていった。

 

「いい顔になったな」

 

 さて、いい加減本来の目的に戻ろうとして、

 

「お兄さま?」

「うおおう?!」

 

 意識の外から届いた声に思わず奇声を上げてしまった。

 振り返ればいつから居たのか、私が担当するウマ娘――ライスシャワーが立っていた。

 

「おおライスか。びっくりした……。いや、もしかして待たせてたかな?」

「ううん。ライスも今来たところ。

 それよりもお兄さま、今の娘は……」

「ああ。少し無茶なトレーニングをしているが目に入ってしまってね。ついお節介をやいてしまったよ」

「選抜レース見に来てって言ってた。見に行くの?」

「ん……そうだね。立場上行くしかないかな」

 

 なにせチーム(総勢1名)だ。スカウトしてチームとしての体裁を整える気があると見せておかねば、小さい理事長はともかくあの緑の秘書からの叱責は逃れられない。

 

「じゃあ、あの娘がいい走りをしたらスカウトする?」

「……いや、多分しないかな。他にいい子がいてもね」

 

 一瞬、不安そうな顔をしたライスを見て即答する。

 理由はいろいろあるが、なんと言っても、

 

「今の私にとって大切なのは、ライスの復帰に全力を注ぐことだよ」

「お兄さま……!」

 

 ライスの目が大きくて開かれる。

 そして、

 

「正座」

「え?」

「お兄さま、正座」

「いや、でもトレーニングを――」

「いいから、正座」

 

 アッハイ

 

 スーツ姿で芝の上に正座する私。ライスとの目線の高さが逆転し、彼女を見上げる形になる。

 ライスは私を、少し困ったような顔で見下ろしてくる。

 

「お兄さま、さっきの娘のトレーニングを見てあげてたのはどうして?」

 

 答える前に、ライスの耳と尻尾の様子を見る。

 目は口ほどに物を言う、もとい、ウマ娘の耳と尾は口ほどに物を言う。幸い、尻尾は荒ぶっていないし、耳も前に垂れているので怒っているわけではないようだ。

 というより、困った子供を見るような様子だ。――それはそれでどうなのだ。

 

「どうしてか……。コースに来たらもう走り出していてね。苦しそうに、もがくように走っているものだから、つい口を出してしまったよ」

「いいと思う。お兄さまの困ってる子を放っておけないところ、ライス好きだよ」

「ありがとうライス」

「あの子も嬉しそうだったね」

 

 私の体に閃くものがあった。

 これは、重要な選択肢が出たな。

 次の言葉は慎重に選ばなくては。

 場合によってはエンディングを迎えてしまう。主に私のボディが。

 先ほどの少女とのやりとりを高速リピートすること5回。私の脳細胞が完璧な回答を導き出す。

 

「ああ。練習とはいえ好タイムをだすことができたようだしね」

 

 ――ザッ

 

 ライスの右足が後ろに下がった。千切れた芝が舞う。

 前掻き――ウマ娘が主に不安や苛立ち、負の感情を表に出すときに良くする仕草だ。

 ……どうやら私の回答はライスの望むものでなかったらしい。

 

「違うよお兄さま。あの子はねトレーナーさんに声をかけてもらえたことが嬉しかったの」

「そ、そうなのか?」

「そうだよ。入学して、自分より才能のあるウマ娘にたくさん出会って、打ちのめされて、でも諦められなくて、もがいているところに声をかけてくれた。

 自分の身を按じてくれて、助言してくれて、自分はもっと上に行けるんだってことを示してくれて……」

 

 ライス先生による解説が続く。

 

「だからあの子は選抜レースを見に来てって言ったんだよ? 頑張って、一着とって、スカウトして欲しいんだよ」

「そ、そうだったのか……」

 

 なんという読解力。

 国語の、筆者の考えを答えよ系の問題が苦手だった私には到底至らない答えだ。

 ライスの顔が、ここまで言えばわかるよね?と返答を促してくる。

 再び私の前に選択肢が差し出された。

 ……ぶっちゃけ正解が分からない。

 現在私はワンアウト。仏の顔も三度までというが、二度同じ失態はできない。

 こうなれば運に任せるしかない。頼むぞ私の幸運。トレーナー試験で六連続ウを選んでも合格した私の幸運!

 

「そうか! あの調子ならきっとスカウトしてもらえるな!」

 

 ――ザッ

 ……ツーアウトってとこか。何てことだ私の幸運。もうウは選ばないぞ。

 

「お兄さま、いくらなんでもそれは……ない」

 

 気づけばライスの耳が後ろに引き絞られている。機嫌を損ねている。

 

「お兄さま、今からでも遅くないからライスと勉強しよ?」

「な、なにを?」

「乙女心」

 

 どうやらツーアウト制だったらしい。よく考えたらライスは良い子だが仏ではない。三度目はなかったのだ。

 

 この後メチャクチャウマ娘心を叩き込まれる私であった。

 

 

 

 

 

 あ、トレーニングはちゃんとやりましたよ。

 

 

 

 

 

 

 






成長してつよつよになったライスが見たかった。
見当たらなかったんで書きました。
解釈違いだったら申し訳ない。


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2話 お兄さまとひな鳥たち

 5月。クラシックの1つ目、皐月賞も終わったとはいえ熱狂冷める間もなく世間は日本ダービーの話題で盛り上がっていた。皐月賞ウマ娘が二冠を取るか。ほかの誰かが一矢報いるか。メディアでは連日有力ウマ娘に関する情報や考察が飛び交っている。

 緊張と興奮が溢れているのはトレセン学園も同じだ。

 皐月賞を勝った陣営は当然日本ダービーも勝ちに行くため、より一層の気合いの入れようだ。

 敗れた陣営もこのままでは終われない。反省から見えてきた課題の克服、ライバルたちの偵察。トライアルを勝ち上がってきた伏兵の存在も無視できない。

 一生に一度の栄冠のために、誰も彼もが必死になっていた。

 ……まあ、特に担当が出るわけでもない今の私には無縁なわけだが。

 

『さあ先頭集団が最終コーナーを曲がって直線に入る!!

 先頭は8番!後ろとの差は1バ身もない!』 

 

 目下、私が見るべきは今月開催の選抜レース。デビュー前のウマ娘たちが実力を示し、担当トレーナーとの出会いを求めるこのレースは、クラシックの熱を受け継いだかのように白熱していた。 

 

『8番が逃げ切るか! それとも後続が差し切るか!?』

 

 熱の入った実況が響く。

 煽られるように、観客席にいた生徒たちからも声援が上がる。

 

『外から4番、外から4番! ぐんぐんと上がってくる! 強烈な末脚だ! いや、ここで、中団から11番! 11番が飛び出した!!

 周りを抜き去り、一気に8番に食らいつく!』

 

 湧いた歓声に押されるように、見覚えのあるウマ娘が先頭に並ぶ。

 先月練習メニューに口出しをしてしまったウマ娘だ。

 残り200mを切り、勝負は内の8番、外の4番、そして中に11番の競り合いとなる。

 いい調子だ。力強いスパート。しっかりと足も残せていたようだ。彼女に渡したトレーニングメニューの効果が出ている。私のお節介を受け入れてくれたようだ。

 

『残り100m! ああっとここで8番が下がっていく! ここまでか!? 勝負は残り二人に絞られた!』

 

 ゴール直前、残った力を捻り出したように11番が前に出る。

 差は僅か。だが勝敗がはっきりとわかるクビ差で一着が決まった。 

 

『勝ったのは11番! 5月選抜レース、1800mを制したのは11番です!!』 

 

 客席から歓声が上がる。僅かに暗い声が混じるのは、応援していたウマ娘が負けた者たちからだろう。

 勝ったウマ娘に可能性を見たトレーナーたちが殺到していく。中には二着以下の娘たちに声をかけるものもいるが、多くは競争率を見ての妥協だろう。

 二着だろうかハナ差だろうが、一着以外は負け。レースの厳しい現実が選抜レースでも現れていた。

 

「いいレースだったな……」

 

 一着をとったウマ娘の走り方は、あのもがく様なものから一変、力強く、翔けるように鮮やかだった。

 力不足を嘆き、自分を痛めつけるようなこともないだろう。

 トレーナーをしていて、担当が勝ったことの次に嬉しい瞬間だ。もう、彼女に私のお節介はいらないだろう。

 

「……よし、戻るか」

「何してるのお兄さま」

「オッピョイん!?」

 

 突如膝が力を失い、重力に従い体が落ちる。あまりにも意識外からの出来事に奇声をあげてしまった。

 これは――HIZAKAKKUN!?

 とっさに手で体を支える。

 四つん這いの姿勢のまま後ろを向けば黒髪のウマ娘。

 信じられないもの見たような顔のライスが立っていた。

 私は抗議の声を上げる。

 

「なんてことをライス……突然の膝カックンはケガすることだってあるんだぞ?」

「選抜レースを見に来て誰にも声をかけずに帰るなんて、なんてことをはライスのセリフだよ」

 

 ……ごもっともかもしれない。

 

「いや……あえて声をかけないことで運命的なスカウトを成したという例もあってね」

「マルゼンスキーさんのところは例外すぎるよ……」

 

 そんなことは……いやそうかも。

 あのコンビは暇さえあればトレンディードラマみたいなやりとりしているし。

 

「お兄さま。理事長さんに言われたこと忘れたわけじゃないよね?」

「……まさか。ちゃんと覚えているよ」

 

 非難するようなライスの視線に思わず視線をそらしてしまう。

 ことはつい先日、理事長室でついにチーム存続のための最終勧告があったのだ。

 

『通達ッ! 6月末までに、新たに2人以上のウマ娘をスカウトすること!』

『ライスシャワーさんの復帰に向けて尽力したい気持ちはわかります。しかしチームとして登録してある以上、最低限の体裁は保っていただきませんと……』

 

 思い直せば、これでもかなり寛容なものだろう。

 本来なら4月にメンバーがライス一人になった時点でチーム登録を抹消されても文句は言えない。

 あと一か月。最近は選抜レースの頻度も多くなり、生徒主催の模擬レースもある。見所のあるウマ娘を探し、スカウトして数を揃えることは難しくない。

 なんだったら、リギルのようにこちらからテストと称して模擬レースを開いたっていい。解散寸前とはいえこちらはG1ウマ娘を有するチームだ。集まりが悪いということはないだろう。

 ……ただ、やはり――

 

「………」

 

 ライスを見る。師から許しを得て私が初めてスカウトし、一から指導してきたウマ娘。トレーナーとしての自分は、彼女とともに成長してきたといっても過言ではない。

 そんな彼女を、復帰に向けて頑張っている彼女を放って他のウマ娘をスカウトしてよいのだろうか。

 

「……お兄さまの考えていること、ライスわかるよ」

 

 顔に出ていたか、ライスがしょうがないなーと呟いた。

 

「でもねお兄さま。チームであるほうがトレーニングコースや機材の予約取りやすいでしょ?」

「う……」

 

 まさか、実利のほうで説得が来るとは。

 

「今も併走はほかのチームにお願いしているよね。チームメイトがいればその手間もなくなるよね」

「このままチーム解散になったら、引退したり移籍した先輩たちにも悪いよ。自分たちが抜けなければって思っちゃう」

「ライスたちのチームに入りたくて学園に来た子もいるんだよ。期待を裏切るような真似をしてお兄さまは平気なの?」

「というか、やる気がないって理由で仕事しないのは社会人としてどうかと思う」

 

 やめてくれないか! 正論を真っ向からたたきつけるのは!

 ……いやしかし、ライスの言う通りだ。

 どこかで自分はライスを怠惰の言い訳にしていたのかもしれない。

 

「そうだな。ライスもいつまでも一人っきりのチームは寂しいよな」

「べ、別にライスは寂しいわけじゃ……お兄さまと二人っきりだし

「ライス?」

「ふぇえ!? な、なんでもないよ!!」

 

 何故かバタバタと腕を振り回すライス。

 かわいいけど、誰かに当たったら危ないからやめような。

 

 

 

 ◆ 

 

 

 

「と、とにかく。やると決めたら早速行動だよね! お兄さまは今日中にスカウトはできなくても、候補だけでも見つけてくること!」

 

 そういってライスはトレーニングに行ってしまった。

 まだ基礎トレの段階とはいえ、本来なら私が見ているべきなのだが、「お兄さまはスカウトを優先!」と言われてしまった。

 結局、選抜レースでこれはという子はいなかった(例の子は他のトレーナーと契約を決めていた)。

 とはいえ選抜レース後でしかスカウトしてはいけないという規則はない。

 トレーニングコースに出向けば、放課後の自主練に励むウマ娘の姿を見ることができる。

 クラスメイトと併走する者、坂路を走るもの、タイヤを引くもの。教官の目がなくとも各々がトレーニングに励む光景は、まさしくトレセン学園がエリート校であることの証左だと思う。

 コースの一角で、ちょうど併走をしている二人のウマ娘に目が止まる。

 

「あれは……!」 

 

 手持ちのタブレットからデータを展開。トレーナー向けに学園が作成した生徒一覧だ。

 デビュー済みの場合は出走履歴や主な成績が、未デビューの場合は出身や教官目線での評価が、ウマ娘の顔写真とともに整理されている。

 画面をタップし、先ほどの生徒を探す。

 いた。海外からの入学だからか、二人とも近くに並んでいた。 

 

「エルコンドルパサーに、グラスワンダーか……」

 

 一人は目元を隠すマスクをした――よく撮影が通ったな――快活そうな少女、エルコンドルパサー。

 もう一人は穏やかな印象をうける栗毛の少女、グラスワンダー。

 タブレットから視線を、コースを走る二人に戻す。

 エルコンドルパサーが先行し、その後ろをグラスワンダーが追う形でコーナーに入っていくところだ。

 グラスワンダーが加速して内に入ろうとするのを、エルコンドルパサーがフェイントをかけてそれを止める。

 グラスワンダーもやられっぱなしではない。後ろからプレッシャーをかけてエルコンドルパサーのペースを乱し、つけ入るスキを窺っている。

 何度か同様の攻防を繰り広げるうちにコーナーから直線へ。グラスワンダーが最後のチャンスと加速するが、同じタイミングでエルコンドルパサーも加速していく。

 

「驚いたな。もうレースの駆け引きができているのか」

 

 入学当初はどうしても身体能力に任せた力任せの展開になりやすい。それがどうだ。すでにあの二人はデビュー済みのウマ娘たちと遜色ない動きをしている。

 これほどの逸材がいたとは。どうやらライスのことに集中しすぎて、自覚できないほど視野が狭くなっていたらしい。

 

「お! お前もあの二人を狙ってるのかい?」

 

 不意に声をかけられる。同期のトレーナーだ。

 

「あの二人とは?」

「誤魔化すなよ。エルコンドルパサーとグラスワンダーだよ。二人とも新入生ながら、もう選抜レースに出ても可笑しくないと、教官から太鼓判も押されている」

「それは凄い。本当なら、シンボリルドルフやマルゼンスキー並みの早さだ」

 

 二人のスピードが落ちていく。クールダウンのようだ。

 どうやら今回の併走はエルコンドルパサーが押し切ったらしい。

 ストレッチしながら何度か会話を続け、もう一本と再び二人が走り出す。

 

「エルコンドルパサー。アメリカ出身。夢は世界最強になること、なんてデカいことを口にしているが、大言に見合った才能を持っている」

「どうしました急に」

「対してグラスワンダー。アメリカ帰りの帰国子女、大和撫子ってのに憧れているらしい」

 

 聞いてもいないことをペラペラと語ってくれる。

 というかその情報はどこから仕入れた? 新歓でもあったの? 私誘われてないんだけど?

 

「すでに結構な数のトレーナーに勧誘されているらしい。グラスワンダーはそれほど勝つことに拘りがないのか、今のところすべて断っている。一方でエルコンドルパサーは自分の夢を預けるに相応しいトレーナーを見極めんと、勧誘してきたトレーナー全てとトレーニングをしているそうだ」

「……ああ、逆転現象ですか」

 

 スカウトする側のトレーナーを買い手、される側のウマ娘を売り手とするなら、トレセン学園のスカウトは基本買い手市場だ。ウマ娘たちはレースで自分の素質をアピールし、トレーナーはスカウトするかを決める。

 しかし、ウマ娘の実力や才能が突出している場合はこの関係が逆転する。つまりはウマ娘側が、トレーナーの指導力を試してくるのだ。

 代表例でいうと七冠の皇帝シンボリルドルフが有名か。スカウトの名乗りを上げたトレーナー全てに、己と目指す先を熱く語らせたというのは伝説になっている。

 

「とにかく、スカウトするつもりなら早めに声をかけたほうがいいぞ。スカウトに最後の逆転なんて期待しないことだ」

 

 そういって彼は去っていった。

 もしや、チーム解散の危機にある私を慮ってアドバイスしてくれたのかもしれない。

 ウマ娘同様、トレーナー間でも熾烈な競争がある中、こういった心づかいはありがたい。 

 

「また、前に進む理由を貰ってしまったな」

 

 貰ったからには活かさねば。

 見れば、二人の併走もスパートに入ろうとしている。

 今から向かえば、少し話せるだろうか。

 少しでも進歩するため、私はコースに向かって歩きだした。

 

 

 私が二人のもとにつく頃、ちょうどエルコンドルパサーが離れていくところだった。

 惜しい。彼女と接点を持つのは次の機会にしよう。……ただ、何かに怯えて逃げたように見えたのは気のせいだろうか。

 視線を残った少女へと向ける。

 

 

「君はまだ続けるのかい?」

「ええ、先ほどの併走の反省をしたくて」

 

 向こうも近づいてくる私には気づいていたのだろう。突然声を掛けられても特に警戒される様子もない。おそらく、似たようなことが他のトレーナーとの間であったのだろう。

 

「頑張るね。次の選抜レースに出る気なのかな?」

 

 同僚の話では、あまり勝利に対する欲がないのではとのことだった。しかし、彼女のこの姿勢はその評判とはずれている気がする。

 

「選抜……ええ、教官からもすでにお許しをいただけました。選抜レースで実力を示し、そこでトレーナーの皆様にスカウトいただければと」

「もうかなりの数のトレーナーから声をかけてもらっていると聞いたけど?」

「ありがたいことです。ですが、それに甘んじるわけにはいきません。

 選抜レースに出走される方々は、みなそれだけの実力があると判断された方たち。その方々に勝ち、自分の力を証明したうえでデビューに臨む。そう、決めました」

 

 穏やかな青い瞳の奥に、揺るぎない強い意志が灯っていた。

 では、と綺麗な所作でお辞儀をしてから、グラスワンダーは走り出した。

 なるほど、勝ちにこだわりがないなどとよく言ったものだ。

 彼女が挑むのはレースではなく、こうあれかしと定めた自分の意志。目指すのは思い描いた理想の自分。

 スカウトを断ったというのは、彼女が決めた道筋から外れるものだったからだ。

 そして彼女の言葉をそのまま受け取るのなら、選抜レースで勝てなければスカウトを受けるつもりもないということ。

 

「最大のライバルは、エルコンドルパサーということか」

 

 彼女の前には、つい先ほどまで併走していた相手の幻影が走っている。

 今日は勝てなかったから、勝てないまま終わりたくないのだ。

 グラスワンダーの脚質は差し。やや後ろに控え、終盤にためた末脚を炸裂させる戦法だ。

 とはいえ相手もおとなしく差されるわけもなく、差し切れない距離を開けるか、足をためさせないよう揺さぶってくる。

 中盤、グラスワンダーが幻影(エルコンドルパサー)との距離を詰めはじめる。最終コーナーで一気に差し切るための態勢を整え始めたのだ。

 さきほどの展開では、ここでエルコンドルパサーが上手くグラスワンダーを動きを牽制していた。グラスワンダーは差し切ることができず、エルコンドルパサーに先着されていた。

 今度こそは、とグラスワンダーの脚に力が入っていく。

 

「一旦下がろう!」

 

 突然声を上げた私に、グラスワンダーがハッとする。集中が乱れ、グラスワンダーの脚が鈍った。前を走る幻影との距離が少し開く。

 

(これは……!)

 

 こちらを見るグラスワンダーの顔は険しかったが、前を向き直るとハッとした表情に変わった。

 再び脚に力が入る。芝を蹴り、土を巻き上げ、グラスワンダーの体が幻影の外側を抜けていく。

 そのままスパートに入り、グラスワンダーは勝利した。

 クールダウンしながら徐々にスピードを下げ、私の前で少女が止まった。

 

 

「邪魔をして悪かったね」

「……いえ、助言いただきありがとうございました」

 

 肩を上下させ、息を整えるグラスワンダー。手ごたえがあったのか、嬉しそうな顔をしている。

 

「距離を開ければ視野は広がり、ほかの道が見える。当たり前のことですが、気づかないものですね」

 

 先行するウマ娘の後ろにつき、風除けにしながら脚をためる。コースの内側を取って最短距離を走る。セオリーではあるが、その通りにレースが展開するわけでもない。

 外側を走ることはロスではあるが、それを埋めるだけのパワーがあると思っていたが、どうやら正解だったようだ。

 

「実際のレースではもっと多くのウマ娘が走る。今日のような真似が常にできるとは限らないが、まあ方法の一つとして覚えておくといい」

「そうですね。ですが、この気づきは確かにためになるものでした。感謝いたします」

 

 頭を下げるグラスワンダー。

 彼女には、こうと決めたらそれを貫く強い信念がある。美点であるが、裏を返せば頑固ともいえる。

 冷静さを保ち、思考の柔軟さをいかに持つかが課題だろうか。

 

「さて、もう日が暮れる。担当ではないけれど、指導する身としてはそろそろ上がって欲しいかな」

 

 ナイター設備はあっても暗いコースを走るのは危険だ。

 

「そうします。今日は、良い日となりました」

 

 最後に勝ち切れたのに満足したようで、グラスワンダーは帰っていった。

 私も逸材に出会えた幸運をかみしめ、担当の待つトレーナー室へと足を向けた。

 向けて、そして――――

 

 

 

「声をかけたのはいいけど、スカウトのスの字も伝えていないってどういうことなの……!?」

 

 冷たい視線と言葉が、私を貫いた。

 

「いや、グラスワンダーもまだスカウトを受ける気はないというし、選抜レースが終わってからでいいかなと……」

「他のトレーナーさんたちも声をかけてるんだよね。前からスカウトの話を持ってきている人と、今日会って話をした名前もチーム名もわからない人、どっちのトレーナーさんが選ばれると思う?」

「でも結構助言したよ? きっと他のトレーナーよりも印象はいいはずで……」

「お兄さま?」

「あっはい。他のトレーナーもそれくらいしてますよね。わかってます」

 

 むーっと腕を組むライス。一歩前に出て、私との距離を詰める。

 あ、これは……

 

「お兄さま。正座」

 

 今日も、ライスによるウマ娘心講座が始まる。

 頑張れ私。トレーナー業は毎日が勉強である。

 ……でもフローリングの床での正座は辛いので早めに終わって欲しいな。

 

 

 ライスによる痺れた脚へのツンツン攻撃が始まるまで、あと1時間。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 翌日、まだ痺れの感覚が残る足を引きずって、朝早くから私は学園の敷地を練り歩いていた。

 目的はもう一人の注目株、エルコンドルパサーだ。

 同僚の言っていた教官からのお墨付きは本当のようで、遠くないうちにグラスワンダーとエルコンドルパサーが選抜レースに出走するという情報が回ってきた。

 もし選抜でトレーナーが決まれば、仕上がりしだいでは秋ごろのメイクデビューに間に合うだろうか。

 昨日、顔だけは合わせたが、話ができたのはグラスワンダーのみ。エルコンドルパサーとは碌に話ができていない。

 聞けばスカウトしてきたトレーナー全員から日替わりでトレーニングを受けているとか。

 彼女が求める基準がどれほどかわからないが、一度も指導せずに彼女のスカウトは不可能だろう。

 選んでもらえるかはわからない。だがせめて舞台にくらいは上がっておこう。

 とはいえ、彼女の希望も聞かずにトレーニングメニューは組めない。

 

「まずは話だけでもしてみようか」

 

 そう思ってトレーニングコースを主に探しているのだが、どうにも見当たらない。

 今日は休息日かとも思ったが、授業のある平日に設定するとも考えにくい。

 室内で筋トレでもしているのだろうか。ひとまず、足を外から内へ向けることにした。

 

 

 見つけた。

 朝の学園、まだ授業が始まる前。長い廊下にエルコンドルパサーはいた。

 しかし、普段見聞きする快活な様子がない。壁にもたれかかり、引きずるように歩いていた。

 

「大丈夫かい?」

「ケッ? あ、あなたはグラスの……」

 

 グラス? ……グラスワンダーのことだろうか。

 トレーナー契約したわけはないのだが、妙な覚え方をされているな。

 いや、それよりも、

 

「辛そうだが、どこか痛めたのか?」

「い、いえ大丈夫デス。ただ少し力が入らなくて……」

「とりあえず、医務室まで行こう」

 

 肩を貸して、エルコンドルパサーを医務室まで運ぶ。

 校医に許しをもらい、白い寝台に腰を座らせると安堵したように横になった。

 彼女は呻きながら、右足と腰のあたりをさすっている。

 

「ちょっと失礼」

「ケヘェッ!?」

 

 右のふくらはぎに触れると悲鳴が上がった。やはり痛いのか。

 触診を続けると妙に張っている。左足にも触れているが、特に反応がないし、張りも少ない。比べるとどうやら右足は熱も持っているようだ。

 背中にも触れる。これは……

 

「あ、あのぉ~~」

「すまないが、ちょっと痛むかもしれない」

「ケッ!?」

 

 どうやらかなり疲労が溜まっているようだ。しかも全身でなく、変に偏っている。

 

「普通のトレーニングだとこうはならないはずだけど、どんなトレーニングを?」

「ぐうぅ……ここ数日、いろんなトレーナーさんから独自のトレーニングを」

 

 聞けば、担当希望のトレーナーたちが選んでもらうよう、かなり気合の入ったメニューを持ってきたらしい。

 世界最強を目指すエルコンドルパサーもその熱意に当てられ全てこなしてきたようだ。

 やれ超大型タイヤを引いての筋力トレだの、ハイペースとスローペースを短いスパンで切り替えてのランニングだの、最先端技術を応用した高負荷トレだの。

 

(それらをやりきったうえで、ケガでなく疲労で済んでいるあたり、身体能力だけでなく回復力も高いのか)

 

 とはいえ飛ばし過ぎだ。普段なら休息を挟むものだが、回復で体力に余裕があるばかりに気が回らなかったのだろう。

 除々に疲労は蓄積し、余裕は削れ、今朝のトレーニングで限界を迎えたと推察する。

 

「触診の結果、不調の原因はオーバーワークだ。今日はもうトレーニングせずに大人しくしていることだ」

「そ、そんなあ〜」

 

 がっくし、と顔を枕に埋めるエルコンドルパサー。休むことより、トレーニングできないことの方が辛いようだ。

 

「ストイックだね」

「世界最強を目指すからには、一日たりともトレーニングを欠くことはできないデス」

 

 才能に慢心せずか。

 いや、この場合は不安か。目指す頂きの高さを理解しているが故に、過酷なトレーニングに身を投じているのだろう。

 足りなかったと言われないために。悔いを残さぬために。

 

(身体は充分。でも精神面はやはり年相応か……)

 

 彼女を担当することになった時の方向性が見えた気がする。

 とはいえまずはこの疲労をどうにかしないと。私の指導を受けてもらうことすらできない。

 

「今日はトレーニングを休むと約束してくれるなら、疲労を少しは抜く手伝いをするけど?」

「元気満タン、気力全快、デス?」

「そこまでは。とりあえず普通に歩けるようにはなると思うよ」

「うう〜……お願いしますデス」

 

 さすがに制服のままマッサージをするわけにも行かないので、備え付けの体操着を渡し、着替え終わるまで廊下に出る。

 ついでに校医を通してエルコンドルパサーの授業欠席を伝えてもらうことにした。

 しばらくすると校医が顔を出し、彼女が着替え終わったことを教えてくれた。

 

「いやらしいことはしないように」

「当たり前でしょう」

 

 余計な一言も付けてくれた。

 その後、エルコンドルパサーの身体をほぐしながら色々と話をした。

 夢の話。家族の話。父からもらったマスクの話。

 マスクをつけると強い自分に変われる話。

 天才、逸材と言われているがその内面はやはりまだ幼さの残る少女だった。

 痛みに呻く声が、やがて穏やかな寝息に変わっていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「んん〜! 元気百倍! 気分爽快! エル全かっ、つつ……」

「まだ無理しないほうがいい。さっきも言ったが、君の身体は疲労を溜め込み過ぎた」

 

 昼前、目を覚ましたエルコンドルパサーに今後の注意をしておく。

 

「このまま同じようなトレーニングを続ければ、筋肉のバランスが崩れたり体幹が歪む危険もある。しばらくはトレーニングは控えること」

「むむ……具体的にはどれくらいデス?」

「まあ一週間くらいかな」

「いいい一週間!? 本気? 正気? 衝撃!? デス!

 知らないんデス? ウマ娘は止まったら寂しくて死んでしまうんですよ!?」

「回遊魚かな? ……仕方ないな。これで我慢してくれ」

 

 カバンに入れていたタブレットを操作し、保存していたトレーニングメニューのデータをいくつかエルコンドルパサーのスマホに送る。

 メニューを見る目が少しずつ細くなっていく。

 

「なんか、地味デスね」

「ケガからの復帰する子向けのメニューだからね。柔軟性や体幹を鍛えるのが目的だ」

 

 ライスも体が固い子だった。トレーナー契約をしてまず重視したのはケガをしにくい体作りだったのを思い出す。

 

「あと、一人でするのもよくない。誰か友人に見てもらうこと」

「むーしょうがないデス」

 

 先ほどまでの痛みを思い出したのか、納得してもらえたようだ。

 

「でも予想外デス。これまでのトレーナーさんは強くなるためのメニューをくれましたが、ケガをしないためのメニューをもらうなんて」

「無事是名バ、ともいうからね。選手生命を燃やすように駆けるウマ娘は多いが、私としては長く、元気に走って欲しい」

「例えそれで勝てなくてもデスか?」

 

 声色が変わる。マスクの奥から青い瞳がこちらを見つける。

 試されている。そう感じた。

 

「当然勝ってほしい。でも、ケガをしてまで……命を削ってまで走って欲しくはない」

 

 苦い記憶がよみがえる。大怪我を負う直前のライスがそれだった。期待や声援に応えるために彼女は限界を超えてしまった。

 一命を取りとめ、復帰できるまでに回復してくれたから良かったが、最悪の事態になっていたら私は果たしてまだこの学園にいただろうか。

 

「それでも、エルは強くなりたいです。誰よりも高く、早く、頂点へ」

「素晴らしい夢だと思う。競技者なら誰しも抱くものだ」

 

 彼女も、そうだった。今はどうだろう。私はその夢について行ってあげられるだろうか。

 ……いけない。燃える瞳にあてられている。イカロスより先に、私の目が焼かれてしまう。

 

「でも覚えておいてほしい。私たちは高みを飛び続ける鳥は見たくても、落ちる姿は見たくない」

 

 逃げるように医務室を出る。校医の意地悪な視線が突き刺さる。

 頂点を目指す彼女の覚悟に、私はついていけるだろうか。トレーナーとして最後までついていけるだろうか。

 ……私なら、その最後をどこまで延ばせるか。

 

 

 

 思案する私に突きつけるように、あるウマ娘の復帰の報が飛び込んできた。



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3話 ライスとブルボン

レース回。
リアル競馬エアプなのでおかしな展開合っても目をつぶってもらえると助かります。



 5月中旬。シニア級が出走できる、春シーズン最初のマイルGⅠであるヴィクトリアマイルが始まる。

 会場である東京レース場に私とライスは来ていた。

 出走するためではない。今後マイル戦線へ参入するつもりもない。それでも、このレースは見に来る理由があった。

 声援が降り注ぐ中、ターフを駆けるウマ娘たちの足音が地鳴りのように響く。コーナーを曲がり、最後の直線に入る姿に歓声が沸く。

 

『ブルボン先頭! ブルボン先頭! ミホノブルボン独走状態だ!!』

 

 サイボーグ、坂路の申し子、そんな異名で知られるライスの友人が、十人を超えるウマ娘たちを引き連れ疾走していく。

 ミホノブルボンはクラシック三冠のうち、最後の菊花賞でライスに敗れたのちにケガで長期離脱していた。

 そんな年単位の離脱からの復帰初戦がまさかのGⅠ。業界関係者からは無茶無謀との声もあったが、そんな声を吹き飛ばすような走りを見せていた。

 クラシックを震撼させた、機械のように正確なラップタイムがここでも刻まれていく。努力の鬼は、ここに復活したのだ。

 

『ミホノブルボン一着のままゴール!! かつてのジュニア級王者が、クラシック二冠ウマ娘がターフに帰ってきました!!』

 

 爆発のような歓声に思わず耳を抑える。ヒトの私がこれほどなのだから、ウマ娘であるライスはもっとキツイだろう。

 案の定、ライスは長い耳を畳んだうえで両手で抑えている。

 離れようかと聞くが、ライスは首を横に振った。友人の復活劇を、最後まで見届けたいのだろう。

 ミホノブルボンがウィナーズ・サークルに入り、マイクが手渡される。

 勝者の言葉を聞き逃さぬよう、歓声も徐々に治まっていく。

 

「皆様。声援ありがとうございました。再び皆様の前で勝利を飾ることができました。

 ミホノブルボン、トゥインクルシリーズへと帰還しました」

 

 「ブルボーン!!」「おかえりー!」「凄かったよー!」

 観客から声が上がる。一度のケガが原因で引退する者も多いレース業界。クラシックを席巻したスターウマ娘の復活に、皆興奮が抑えきれない。

 続いてインタビューが始まる。多くのメディアがカメラを向け、記者たちがメモやレコーダー片手にミホノブルボンの言葉を待っていた。

 ……あ、乙名氏さんがいる。今日こそ大人しく……できるわけないか。

 

「ミホノブルボンさん! 復活からのGⅠ制覇おめでとうございます。

 よろしければ、今後の展望についてお聞かせください!」

 

 歓声に負けないよう、インタビュアーが声を張り上げる。

 再びマイクを握るミホノブルボンを見て、観客席が静まり返っていく。

 

「かつて私が設定した目標はクラシック三冠。ですが、その夢は力及ばす果たせませんでした。

 ……ですが今、私には新たな目標があります」

「そ、それは一体……!」

「私の次なる目標は、芝のレースにおける全距離G1制覇です」

 

 ざわっ、と戸惑いの声が聞こえだす。彼女の宣言が意味するものを、皆が受け止め切れていない。

 

「そ、それはつまり!」

 

 いち早く復活したインタビュアーが言葉を紡ぐ。

 

「短距離、マイル、中距離長距離の各GⅠを一つ以上勝つということでしょうか!?」

「肯定。もっとも、各種一つだけ、と拘るつもりはありませんが」

「ミホノブルボンさんはすでにマイルGⅠの朝日FS、中距離GⅠの皐月賞と日本ダービーを制しています。目標達成まで、あと二つということですね!」

「いえ、本日の勝利は一つ目。目標達成まであと三つです」 

 

 え、と今度こそインタビュアーが停止する。

 質問が来るより先にミホノブルボンが答えを告げる。

 

「年単位の休養をしていた私にとって本日のレースはリスタート。まさに一からのやり直しです。

 かつての栄冠に縋っての目標達成を私は望みません。

 改めてお伝えします。私、ミホノブルボンは、本日より、芝の全距離GⅠ制覇を目指します」

「つ、つつまり次のレースは!」

「はい。目下の目標は秋の短距離GⅠスプリンターズステークス。次に中距離GⅠの天皇賞(秋)。そして翌年には……」

 

 ミホノブルボンの顔が観客席を向く。観客を見渡すように……いや、誰かを探すように視線を動かしてこちらを――ライスを見て、止まる。

 

「長距離GⅠ、天皇賞(春)。そこでライバルとの決着を。そして私の夢の達成とします」

 

 雷鳴のような歓声がレース場に響き渡る。

 ミホノブルボンの途方もない夢への期待、繰り広げられる激戦の予感。予想不可能なドラマの下書きに魅せられた観客たちの声が洪水となって止まらない。

 ふと、ライスを見る。

 震えている。恐怖ではない。武者震いだ。

 ブルボンの声と視線は、確かにライスの芯にまでに届いていた。

 

 ――私はここにいる。戻ってきた。あなたは、どうだ?

 

 小さな体躯に闘志が漲り、アメジストの瞳が燃えていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 インタビュー後、ウイニングライブ前の控室を訪れた。

 扉をノックするとすぐさま開かれた。

 

「よう」

 

 現れたのはグラサンに帽子、裸の上半身にパーカーを羽織っただけの奇抜な恰好の男。

 ミホノブルボンを担当する黒沼トレーナーだ。部屋の奥には待機中のミホノブルボン。こちらを確認すると頭を下げた。

 

「先ほどは失礼しました」

「なんのことかな?」

「インタビューの際、勝手にライスさんが天皇賞(春)に出ざるを得ないような発言。不適切でした」

 

 ああ、それか。確かにまだライスの復帰予定は公表していない。

 しかし観客はレースにドラマを求めるもの。彼らはすでに春にぶつかる二人の姿を幻視しているだろう。

 

「復帰レースの勝利によりステータス興奮を獲得。そしてライスさんの姿を見て、感情を抑えることができず、あのような発言をしてしまいました」

「俺からも謝罪する」

「いいですよ別に。来年の天皇賞(春)を目指していたのは確かですし」

 

 復帰時期は明らかに早まったけど。 

 隣のライスはもうレースに出たくてうずうずしている様子だ。

 

「ブルボンさん……」

「ライスさん……」

 

 ライスが前に出て、ブルボンと向き合う。

 

「今日のレース、すごい格好良かった。皐月賞や日本ダービーの時とも変わらないくらい」

「ありがとうございます」

「そんなブルボンさんにライバルって言ってもらえて、ライスすっごく嬉しかった。

 だから、ライスも頑張るね。頑張って……」

 

 瞳に再び炎が宿る。

 

「天皇賞(春)は、ライスが勝ちます」

「いいえ、今度は私が勝ちます」

 

 握手を交わし、宣戦布告。

 これはもう止められないな。

 できることならライスの適性に合ったレースに出したかった。しかしこの気持ちを燻ぶらせておくのは逆に体に悪いだろう。早急にライスの復帰レースを考える必要がある。

 レーススケジュールを巡らせながら、私たちはミホノブルボンのウイニングライブを堪能したのだった。

 

 あと、栗東寮はその夜、寮を上げてのパーティだったらしい。

 

 翌日、朝刊の紙面には案の定ミホノブルボンの復活についての記事が大半を占めていた。

 復帰レースのGⅠ制覇に加えて新たな目標として定めた芝全距離GⅠ制覇。メディアにとって格好のネタだろう。

 記事を見ていると一枚、見覚えのある顔が飛び込んできた。というか私とライスだ。

 いつの間に撮られたのだろう。記事にはかつてクラシックで競った両名が、春の長距離で再戦することを期待する文面が書かれていた。

 

「まったく急かしてくれるな……」

 

 新聞を畳みながら、端末を起動する。

 開くのはトゥインクルシリーズのレース出走登録ページだ。

 

「登録に間に合って良かった」

 

 これからのレーススケジュール、ライスの調子、そしてチームとしての体裁。色々と考えた結果、ライスの復帰レースは……

 

 

 

 ◆

 

 

 

 5月末。日本ダービーがやってきた。ウマ娘たちの一生に一度、そして世代の頂点を決めるレースだ。

 東京レース場はミホノブルボン復活の熱をそのまま引き継いだかのように朝から沸きあがっていた。

 結果としては、皐月賞ウマ娘が続けてダービーを制覇し、二冠ウマ娘となった。

 ナリタブライアン以来の三冠への挑戦だ。次は秋の菊花賞。私とライスにとっても思い出深いレースだ。

 ……いけない、嫌な記憶が蘇ってくる。

 頭を振って過去を振り払う。今日私がここにいるのはダービーウマ娘の誕生を見るためではない。

 私の愛バが、ついにターフへの復帰する日なのだ。

 

 GⅡ 2500m 目黒記念

 

 ライスシャワーの復帰レース。

 皆もそれを知っており、ダービーが終わっても帰る様子がない。ミホノブルボンに続き、再びターフの上に立つ彼女の姿を一目見に来たのだ。

 

 

「復帰がいきなりGⅡか。随分と強気だな」

「GⅠを復帰レースにした人に言われたくありませんね」

 

 そうだな、といつの間にか隣にいた黒沼さんが笑った。

 その傍にはミホノブルボン。彼女もライスの復帰を見に来たのだろう。しかし、その表情は少し暗い。

 理由は察せられた。

 

「別に君に煽られて復帰を急いだわけじゃない」

 

 ミホノブルボン復活のヴィクトリアマイルから二週間。ライバルの復活に応えるようにライスは復帰を決めた。彼女から見たら、自分の発言で無理に出走を決めたように見えるだろう。

 まあ、もっと時間をかけて調整したかったのが本音ではある。予定ではもっと先、秋の重賞あたりを考えていた。

 しかしミホノブルボンの宣戦布告で闘志に火が付いたライスは、メキメキと調子を上げていた。

 言ってしまえば、ミホノブルボンのおかげでこの速さで復帰できたのだ。

 

「目黒記念は2,500m。一応長距離の区分ではあるが、ライスシャワーの適性からは短いんじゃないか?」

「大丈夫ですよ」

 

 ライスの世間からの評価は、適正距離が4,000mと言われるほどの純ステイヤーだ。実際彼女のスタミナは群を抜いており、主な実績も長距離GⅠだ。

 だが、別に中距離が苦手というわけではない。そう思われるほどに長距離が得意というだけだ。

 実際、2,200mのセントライト記念や、今日と同じ距離の日経賞だって勝っているのだ。

 実戦から離れたブランクの心配は確かにあるが、距離に問題はないと思っている。

 パドックが始まる。シニア級のウマ娘たちが出るレースだけあって実力のある子たちが出ているが、それでもGⅠ戦線を走っている子は少ない。

 あえて警戒するなら……

 

「マチカネタンホイザか」

「いい仕上がりだな」

 

 相変わらず帽子から耳を飛び出させる、個性的な被り方をしているウマ娘が観客に手を振っている。

 GⅠのタイトルこそないが、重賞を複数勝ち、GⅠ戦線を長く走っている子だ。

 ケガする前のライスから一着を取ったこともあり、実力も十分。油断はできない。

 マチカネタンホイザに続いて、ライスが出てくる。

 今日はGⅡのため、勝負服ではなく体操着だ。

 姿を見せたライスに、観客たちが一斉に声を上げた。

 

「おかえり!」「待ってたよ!」「がんばれー!」

 

 降り注ぐ声援に思わず目頭が熱くなる。ミホノブルボンに劣ることなく、皆が彼女の復帰を望んでいてくれたのだ。

 打ち震えているのはライスも同じようで、深くお辞儀をすると、目元を抑えながら早々にゲートへ向かう。

 途中、マチカネタンホイザをはじめとするウマ娘たちにも声をかけられるライスの顔には明るい笑顔があった。

 

「いい光景だ」

「ええ。これを見れただけでも、頑張ってきたかいがありました」

「だが、勝負は勝負だ」

 

 黒沼トレーナーの言葉に身が引き締まる。

 そうだ。今日はライスの復帰レースだが、勝ちを譲ってくれる子など誰もいない。むしろかつてのGⅠウマ娘に勝って、次のレースの主役を目指している。

 ライスもそれは分かっているのだろう。ゲートへ入るころには、その眼からあふれるのは涙ではなく燃える闘志であった。

 

『日本ダービーの興奮も冷めやらぬ中、本日の最終レース、GⅡ目黒記念が始まります』

『やはり注目は今回が復帰レースとなるライスシャワーでしょう。パドックでも大きな声援で迎えられました』

『つい二週間前にはライバルであるミホノブルボンが鮮烈な復活勝利を果たしました。ライスシャワーは続くことができるでしょうか』

『仕上がりは良さそうに見えます。しかしどうしてもブランクはあるでしょう。出走するのはGⅡとはいえ、経験豊富なシニア級ウマ娘たちです』

  

 実況と解説の声はおおよそヴィクトリアマイルと近い内容だ。復帰は喜ばしい。だが全盛期とは程遠いだろうという評価。

 皆が見るのは夢か、それとも厳しい現実か。

 答えを出すように、鉄のゲートが開かれた。

 今日の出走ウマ娘は16人。逃げが3人、先行6人、差しが5人、追込2人だ。

 飛び出した逃げウマ娘が先頭を争う。内枠であることを活かして最短を走る1番、あえて内を避けて二つ外側を走る3番、大外の16番。

 5番のライスは1番と3番の後ろにつけた。逃げを風除けにしつつ、自分の存在を相手に突きつける位置取り。そして先行勢の中では先陣を切っている。マチカネタンホイザは中団、8~10番手についていた。

 やがて16番が先頭争いから降りる。ライスのやや後ろに下がり、足をためることにしたようだ。

 逃げがレースを引っ張り、集団が縦長に伸びていく。

 ペースとしては速め。スタミナのあるライスには都合がいいが、仕掛けどころを誤れば一気にバ群に飲まれるだろう。

 レースが後半に差し掛かり、各ウマ娘に動きがあった。

 追込が位置を上げだし、差しと先行がラストスパートに向けて位置を調整する。

 3番の逃げの顔色が良くない。ハイペースのため限界が近いのか、それとも背後についたライスのプレッシャーに気圧されたか。

 先頭が最終コーナーに入る。ここでライスがプレッシャーを抑える。

 背後からの圧が消えて、3番がライスから逃げるように前に出る。

 

 ――掛かった。

 

 加速した状態でコーナーに入る3番が遠心力で振られて外に膨らむ。

 なんとか最短でコーナーを曲がる1番と3番の間に隙間ができる。ちょうど一人分、割り込むには十分な間。それを見逃すライスではない。

 

『最終コーナーを回って最後の直線へ! ここでライスシャワーが二人をかわして先頭に立った!』

 

 上がる歓声に後押しされるようにライスがラストスパートをかける。逃げの二人との差は徐々に開いてく。

 決まったか。そう思った瞬間、後方から一気に突っ込んでくるウマ娘がいた。

 

『マチカネタンホイザ! 後方からマチカネタンホイザだ! もの凄い末脚でライスシャワーに食らいつく! 残り200m!!』

 

 かつてはライスに先着したことのあるマチカネタンホイザだ。ぐんぐんと差を詰めやがてはライスの横に並ぶ。

 

「はああああっ!!」

「まだまだああああっ!!」

 

 決死の表情でライスが声を上げる。マチカネタンホイザももう一押しとばかりに吼える。

 負けない。勝ちたい。

 二人の意地が真っ向からぶつかり合う。

 そしてついに、二人がほぼ同時のタイミングでゴール板を駆け抜けた。

 2バ身差を開けて三着がゴール。数秒の間をおいて続々とゴール板を通過していく。

 失格もケガもなく、無事完走したウマ娘たちが拍手で迎えられた。

 そして、

 

『結果確定しました!

 ……一着はライスシャワー! 目黒記念を制し、漆黒のステイヤーが堂々復活です!』

 

 爆発のような歓声が沸いた。

 割れんばかりの拍手が鳴り響き、ライスの勝利を称える声が会場中から上がる。

 思わず私も拳を握る。自信はあった。それでもライスの努力が結実した瞬間は、何度経験しても胸が高鳴る。

 ライスのもとにマチカネタンホイザをはじめとするウマ娘たちが集まる。彼女の健闘と復活を祝っている。一方で次は負けない、勝つのはわたしだ。そんな言葉を交わしているのが表情から読み取れる。

 

「いいレースだったな」

 

 黒沼トレーナーのつぶやきに、火照った頭が冷えていく。

 

「ええ。激戦でした」

 

 マチカネタンホイザとはハナ差の先着だった。

 わずかな首を上げ下げ、踏み込み一つでひっくり返るものだ。

 これがGⅠだったらどうだったか。ミホノブルボンが出ていたら、どうだったか。

 周囲の興奮を他所に、今回のレースの反省や課題を積んでいく。ライスのレースはこれで終わりではないのだ。

 とはいえ、ライスの頑張りを称えるのを忘れてもいけない。

 黒沼トレーナーとの挨拶もそこそこに、ライスを迎えに行く。関係者通路を通ってターフに降りると、どうやらライスへのインタビューが始まるところだった。

 ターフ上のウィナーズ・サークルでインタビューを行うのは慣例的にGⅠだけのはずだが、どうやらライスの復活を祝っての特別仕様のようだ。

 ……おそらくメディア側の提案だろうけど、事前に教えてほしいものだ。

 

「ライスシャワーさん、久しぶりのレースでありながら見事な走りでした。勝利おめでとうございます!」

「は、はい……! ありがとうございます」

「先ほどのレース展開についてですが――」

 

 レースも久しぶりなら当然インタビューも久しぶりだ。疲労も相まってライスの応答が固い。

 その姿もほほ笑ましく感じるのはライスの人徳、いや魅力か。

 だとしてもこのままではライスも辛いだろう。インタビューの邪魔にならない程度に、ライスの視界に入る。

 ライスの視線がこちらを見て、安堵の表情。私が近くに控えていることに気づいてくれたようだ。

 固さが取れ、堂々とした態度でインタビューに答えていく。

 

「ずばり、次走についてはいかがでしょうか?」

 

 これこそがメインだったのだろう。聞き逃さぬよう、自然と場が鎮まる。

 とはいえ、答えは決まっているだろう。

 天皇賞(春)。ミホノブルボンがライスとの再戦を望むレース。皆がそう答えるのを望んでいる。

 だが――

 

「―――」

 

 ライスがちらりと私を見た。許しを求めるような視線に私は頷き、声に出さず伝える。

 かましてやろう。

 

「……! はい、ライスの次のレースですが……」

 

 ライスが力強く前を向き、会場を見渡しながら宣言する。

 

「ライスはやっとレースに戻ってこれました。みんなが喜んでくれているように、ライスもすごく嬉しいんです。だから、もっともっといろんなレースに出たいと思っています!」

 

 拍手が上がる。それは同意と同時に、あまり焦らすなと言っているようにも思えた。

 

「春までなんて待てません。いいえ、待たせません。ライスの次の目標は……」

 

 一瞬の静寂。そして、

 

「天皇賞(秋)、です!」

 

 爆発のような歓声が再び響き渡る。

 拍手は雷鳴のようにに、歓声は地鳴りのように会場を震わせた。

 さて、あのサイボーグなんて言われているダービーウマ娘はどんな顔をするだろうか。

 きっとそれは明日の朝刊を見ればわかるだろう。

 

 ようやくここまでやってきた。ライスの止まった時計が動き出した。

 今度は止めぬよう、童謡のように長く動かすのが私の仕事だ。

 

 

 その夜、美浦寮を上げてのパーティだったのは言うまでもない。

 

 

 

 

  

 







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4話 お兄さまとひな鳥たち2

前話で書き忘れましたが、ブルボンが出走したヴィクトリアマイルは史実改変要素でした。
史実では第一回が2006年。牝馬限定なのでどうやってもブルボンは出られないですね。



 トゥインクルシリーズのレースは基本、週末の土曜日曜に開催される。

 トレセン学園も土日休みであることから、レースをトレセン学園の生徒が直接見にくることもある。

 学園が都内にあることもあり、東京レース場で重賞レースが行われる場合は特に多い。

 ライスの復帰レースとなった目黒記念も例外でなく、一般客に混じってトレセン学園の制服姿のウマ娘たちが多く見られた。

 その中に、グラスワンダーとエルコンドルパサーの姿もあった。

 これが三冠ウマ娘であるシンボリルドルフや、スーパースターウマ娘のオグリキャップでもいようものならレースそっちのけでサイン会が始まるところだろう。

 学内では期待のルーキーとして知られる二人でも、世間からすればまだ未デビューの学生でしかない。周りの観客もトレセン学園の生徒なのだな、と制服から判断する程度の認識であるため、特に騒がれることもなくレースに集中できた。

 

 二人の視線の先では、ライスシャワーが接戦を制して一着でゴール。見事復活を果たしたところだった。

 万雷の拍手と地鳴りのような歓声の中、エルコンドルパサーが感動のあまり叫んだ。

 

「ふおおおおおっ! なんというレース! 接戦! 名勝負! 見ていましたかグラス!!」

「ええ。まさに一進一退の攻防。見ているこちらも思わず手に汗握る、熱いレースでした」

 

 先日のミホノブルボンのような圧勝ではなかったものの、ケガからの復帰戦での勝利。しかも戦線離脱前にも劣らぬ勝負強さを発揮して見せたライスシャワーに、二人とも素直に感嘆するばかりだった。

 

「一体、どれほどの修練があったのでしょうか……」

 

 レースを走るウマ娘にとってケガは一生付きまとうものだ。一度負った傷は、表面上は癒えても癖として残ることもある。負傷前の走りを見失ったり、無意識なトラウマとなって身を縛る。

 ケガから完全に立ち直ることができず、そのまま現役を引退する先達は報道でいくつも見てきた。

 ライスシャワーもそうなるものだと、心のどこかで思っていた。なにせ生命の危機とまで言われた大怪我だ。そこから、見事重賞を制覇するまでに立ち直った。

 奇跡の一言では言い表せない。文字通り血の滲むような努力があったのだろうとグラスワンダーは考えていた。

 視線がターフから観客席の一角へ。男性が一人、観客の波をかき分け姿を消すのが見えた。

 ライスシャワーを指導する、チーム・マルカブのトレーナーだ。

 彼が、青いバラを再び咲かせた立役者なのだろう。

 

「ふふ~ん? グラス、あのトレーナーさんが気になりますか?」

 

 視線の先に気づいたのか、エルコンドルパサーがからかうように言う。

 この口調の時は本音を引き出そうとわざと挑発的な物言いになるのだと、グラスワンダーは知っていた。

 

「そうですね。先日お話しした時も感じましたが、他のトレーナーさんとは少し毛色の違う方だとは思っています」

 

 スカウトの声をかけてくるトレーナーのほとんどは、クラシック三冠とかグランプリ制覇とか、レースで得られる栄光を語った。

 対してチーム・マルカブのトレーナーは派手なことは言わず、ただその時必要だった助言のみ告げた。最初はスカウトの意志がないのかと思った。聞けば彼は、壁にぶつかったウマ娘を見つけては助言をし、けれどもスカウトのスの字も告げないという。

 そして一方で、チーム事情から誰かをスカウトしなければならないというのも聞いている。

 

(トレーナーとしての実績に興味がないのでしょうか……)

 

 ただウマ娘のために、というのは聖人のように聞こえるが、見方を変えれば異常でもある。だからこそ、他のトレーナーよりも印象に残っている。

 

「エルのほうこそ、自分の出ないレースに興味を持つなんて珍しいですね。誰か気になる方でもいたんですか?」

 

 答えは分かり切っているが、あえて訊ねる。先ほどの意趣返しも含めて。

 

「エルだってダービーは気になります! まあ本命は、ライスシャワー先輩の復帰レースですが」

「あら、あっさりと言うんですね」

「前会った時から、チーム・マルカブのトレーナーさんは気になっていました! そして今日、担当するウマ娘のレースを見てエルの心は決まりました。

 エルとともに世界を目指すトレーナーは、きっとあの人だと!」

 

 この場に学園関係者がいたら驚愕するようなことを告げるエルコンドルパサー。

 会場はまだ歓声で埋め尽くされており、二人の会話を聞ける者はいないことにホッとする。

 

「では、トレーナーさんに声をかけてはいかがですか? ぜひ担当になってください、チームに入れてくださいと。選抜レース前ですが、エルの評価なら通用するのではないですか?」

「甘い! 生クリームがたっぷり盛られたカプチーノくらい甘いデス!」

(……それはウインナーコーヒーでは?)

「エルは世界最強を目指すウマ娘。ならば学園、いや今は同期の間でだけでも最強でなくてはなりません!」

 

 そのためにもまずは選抜レースで勝利する。そうでなくては、こちらから声をかける資格はないとエルコンドルパサーは言う。

 ストイックな彼女らしいなと思っていると、にたりと笑う少女の顔があった。

 

「まだグラスの答えを聞いてませんよ? グラスはどうするんです?」

「……そうですね。エルと同じですよ、とだけ」

 

 つまりは、彼女も選抜レースで勝って堂々と彼のチームに入る気だ。

 二人の間で静かに火花が散り始める。

 

「別のレースであれば健闘を祈ります。ですが、」

「もし同じレースになれば、グラスとはライバルデスね」

「その時はもちろん……」

「手加減無用、デス!」

 

 レースが終わった陰で、すでに次のレースに向けた戦いが始まっていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 6月に入った。つまりはチーム・マルカブの存続まで一か月を切ったということだ。

 とはいえ焦ることはない。今月は選抜レースが二回――三種目のレースを行うので六回ともいえる――ある。今週末のレースで一人、次のレースで一人スカウトすれば解決だ。

 ライスの復活勝利も相まって、私のトレーナーとしての評価も上がっている。リギルとかシリウスなどの古参どころと競合しなければスカウトを受けてもらえる自信もあった。

 

「一番いいのは次の選抜で二人以上スカウトしてしまうことだが……」

 

 現状、狙っているのはエルコンドルパサーとグラスワンダーの二人。だがどちらも競争率が激しく、片方だけスカウトできたとしても幸運だろう。

 

「次の選抜の種目は芝のマイルと中距離、ダートのマイルの三種目。各レースで一人スカウトできたとして最大三人か」

 

 一度のレースでスカウトするのは一人まで。明文化したルールではないが、一部のトレーナーによる独占を防ぐため、トレセン学園の長い歴史の中で自然と出来上がってきた暗黙の了解だ。

 仮にエルコンドルパサーとグラスワンダーが別の種目レースに出走していれば二人ともスカウトするチャンスがある。だが、もしも二人が同じ種目に出ていれば……。

 端末に通知が来る。次の選抜レースの出走表を伝えるものだ。

 目を通し、私は天を仰いだ。

 

「そう都合よくはいかないか……」

 

 芝の1,600m右回りマイル走。そこに二人の名前が連なっていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 選抜レース当日、私はトレーナー室でライスを待っていた。

 通常ならレースを見るのは私一人だが、今日はスカウトを最低でも一人決める必要がある。そして、スカウトを受けてもらえば同じチームとしてトレーニングする以上、彼女との相性も重要になる。

 今日はライスにも選抜レースを見てもらい、後輩となるウマ娘との相性などを見てもらうつもりだ。

 が、約束の時間を過ぎてもライスが来ない。何度かスマホで連絡を取ろうとするも反応が見られなかった。

 余裕をもって時間を決めたため、まだレースには十分に間に合う。

 ライスは約束を忘れるような子でも、すっぽかすような子でもない。

 もしや何かトラブルに巻き込まれたか。ジトっとした汗が背筋に浮かぶ。

 居ても立ってもいられず、探しに行こうとドアに手をかけた時、ものすごい勢いでドアが開き、私の鼻っ柱を襲撃した。

 

「お兄さま、遅れてごめんなさ……きゃあ!!」

 

 同時にライスの悲鳴が響く。どうやら探しに行く手間は省けたようだ。

 

「だ、大丈夫お兄さま!? ごめんなさい、ライスのせいで……」

「いや、大丈夫だから。それより遅かったけど何かあったの?」

 

 鼻の奥がツンとするが、どうやら血は出ていないようだ。

 

「え、えっとね。遅れちゃダメって思って早くに部屋を出たの。

 それで途中でスマホ忘れちゃったことに気づいて、部屋に戻ったら今度は途中で鍵を落としちゃったみたいで、開けてもらうためにヒシアマゾンさんを探していて、そしたら――」

「ああ分かった。色々と重なったのか。久しぶりに来たな……」

 

 ライスはドジ、というか不幸体質だ。しかも複数の事象が重なる面倒なタイプの。時に周りにも影響を及ぼすこともあり、出会った頃は自分を卑下することが多かったのを思い出す。

 目に涙をためているライスの手にはスマホが握られている。おそらく急いでいて私の着信に気づかなかったのだろう。

 

「とにかく何事もないなら良かった」

「よ、よくないよ……ライスのせいでお兄さまのおはなが……! レースにも遅れちゃう……」

「大丈夫だよ血も出ていないし、時間もまだある。ほら、涙を拭いて。これからライスの後輩を探しに行くんだから、泣いてる先輩なんてカッコ悪いぞ」

「うう……そ、そうだよね。ライスがカッコ悪いところみたら、お兄さまのスカウト受けてもらえなくなっちゃう……」

 

 ライスの涙を拭い、落ち着いたところで一緒に部屋を出る。

 今日から、チーム・マルカブが生まれ変わる日なのだと決意しながら。

 

 

 ◆

 

 

 

「うわあ……! すごい人の数……!」

 

 学園内に敷設された会場内に着くとその賑わいにライスが声を上げた。

 普段ならば出走するウマ娘の友人やスカウトを目的としたトレーナーが主だが、今日はデビュー済みのウマ娘の姿も見える。

 ……あそこで焼きそばを売っているのはチーム・スピカのゴールドシップか。

 ヒシアマゾンの姿も見えたので、ライスを助けてくれたお礼に頭を下げておく。サムズアップが返ってきた。さすがは美浦寮のおっかさんだ。

 トレーナー用の席に向かうとこれまた珍しい姿があった。チーム・リギルのトレーナー、東条トレーナーだ。挨拶しようと近づくと彼女もこちらに気づいたようだ。

 

「あら、貴方はマルカブの。先日はライスシャワーの復帰レース、見事だったわ」

「ありがとうございます。学園のトップチームに祝っていただけるとは光栄です」

「ライスシャワーも。負傷前にも劣らない活躍だったわ」

「あ、ありがとうございます……!」

「でも油断しないことね。天皇賞(秋)はうちのエアグルーヴも出走予定よ。ミホノブルボンばかり気にしていると足元を掬われるわ」

「オークスの……。これは強敵ですね。肝に銘じますよ」

 

 挨拶もそこそこに、本題に移る。

 

「……今日はリギルもスカウトのつもりで?」

「いいえ、うちのやり方はいつもと変わらないわ。ただ今回は注目株が多いから足を運んだだけ」

 

 リギルはナリタブライアンにヒシアマゾン、フジキセキにエアグルーヴといった世代を代表するスターウマ娘たちが多く所属する、学園が誇る名門のトップチームだ。

 名門ゆえに、スカウトではなく独自に入団テストレースの開催が許されている。そんなリギルも見に来るほどのレースなら、これほどの観客の数も頷ける。

 

「東条さんが注目しているのは、エルコンドルパサーとグラスワンダーですか?」

「ええ。この時期に選抜に出られるだけでも大したものだし、上の学年の子たちと比較しても遜色ない。できることならリギルのテストを受けに来て欲しかったけれど、彼女たちの意志なら仕方ないわ」

「そこまで評価しているのなら声をかけてみればよかったのでは?」

「かけたわよ。当然」

 

 じとり、と非難するような視線を向けられた。

 

「二人とも、気になっているチームがあるそうよ。今日の選抜でぜひともそこにスカウトしてほしいんですって」

「それは……不味いですね。私もあの二人のスカウトを考えていたんですが。すでに向こうの心は決まっているとは」

「………ライスシャワー、苦労しているわね」

「どういう意味です?」

「これもおに……トレーナーさんの良いところなので」

「ライス!?」

 

 おかしい。普通のことを言っただけなのに非難されている。

 ライスに至ってはため息すらこぼしている。

 何度聞いても答えてはくれず、やがてレース開始の時間を迎えてしまった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 胸に手を当て、グラスワンダーは今日のレースの出走者の名前を暗唱していた。

 その中には、エルコンドルパサーの名前ももちろんあった。

 他を見下すつもりはないが、最も手強い相手は彼女だろう。そしておそらく、エルコンドルパサーも同じことを考えているはず。

 望むなら、別の種目に出てほしかったと思う。そうすれば、二人そろってあのトレーナーにスカウトしてもらえたかもしれないのだ。

 

(いえ、それは甘えですね……)

 

 自分も彼女も、最も良いパフォーマンスを発揮できる種目を選んだに過ぎない。スカウトしてもらうために、最優の自分を見てもらうために。

 手加減無用、恨みっこなしの約束はすでに済ませている。ならば、自分の力すべてをぶつけて勝ちに行くことこそが礼儀。

 少なくとも、自分とエルコンドルパサーの間ではそれが正解だと知っていた。

 名前を呼ばれ、ゲートへと入る。

 4番、エルコンドルパサー。

 5番、グラスワンダー。

 一瞬だけ視線が交錯する。

 勝負だ。かかってこい。受けて立つ。

 口にせずとも、互いの意志は伝わった。

 最後の一人がゲートに収まる。

 歓声が消える。風の音だけが耳朶をたたく。

 身を落とし、引き絞るように足に力を入れていく。

 

(いざ、尋常に――)

 

 ゲートが開かれ、

 

(――勝負!!)

 

 16人のウマ娘が飛び出した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 レース開始直後、一部の見学していた生徒の間から悲鳴が上がる。13番が出遅れたのだ。 

 真っ先にハナを取ったのは内を走る8番。それを1番が追い、エルコンドルパサーは三番手に収まる。そこから一バ身ほどおいて6番、グラスワンダーを先頭に2~4番、10~12番の七名が中団で塊を形成する。

 7番、9番、14~16番が後方に陣取り、少し差を開けて13番が追っている。

 13番の脚質は先行だったはず。追込ならまだ可能性はあっただろうが、最後方からの仕掛けは慣れていないだろう。

 13番は終わった、他のトレーナーたちもそう判断したのだろう。視線は中団から前を向いている。

 ポジションをキープしたまま中盤に入ったところで、グラスワンダーに動きがあった。

 6番を抜き、エルコンドルパサーのやや外の斜め後ろに入る。風除けにしつつ、足をためる作戦か。

 

「仕掛けるには少し早くないかな……?」

「いや、エルコンドルパサーの終盤の伸びを警戒してるんだろう。グラスワンダーは自分の末脚で捕えられる範囲に収めるつもりだ」

「それと、エルコンドルパサーへの牽制もあるわね。下手な動きをしたら、その隙を差せる様に位置取りしている」

 

 東条さんの言う通り、エルコンドルパサーが時折後ろを気にしているのが分かる。

 ここからでは分からないが、グラスワンダーからのプレッシャーが相当あるのだろう。

 先行策の難しいところだ。あれでは前と後ろ。両方の動きを意識する必要がある。

 仕掛けを早まれば後ろに差し切られる。遅れれば前に逃げ切られる。ペースの維持、自身の残りスタミナ、残りの距離とトップスピードに至るまでの時間。エルコンドルパサーの脳は学業で使う以上にフル回転していることだろう。

 

 

 

 ◆

 

 

 

(面倒な位置につきましたねグラス……!)

 

 背後からピリピリと届くプレッシャーに、エルコンドルパサーは唇を噛んだ。

 彼女としてはこのまま逃げウマの後ろで足をためて、最終コーナーで一気に差し切る算段だったが、グラスワンダーのおかげで簡単にはいかなくなった。

 先頭に行くために動けば、その隙をついて後ろから差されるだろう。確実に勝つには、よりシビアなタイミングが要求される。

 加えて時折近づいているグラスワンダーの足音。仕掛けたかと思えばフェイントで、すぐに位置を戻す。そしてわずかに縮まる1番との差。ペースを乱されている。こちらのスタミナを削るのと、仕掛けどころを乱すつもりだろう。

 

(変わりましたねグラス。前はこんな手を使ってはこなかったのに!)

 

 以前のグラスワンダーは、真っ向勝負を好み、また拘る性質であった。コース取りから仕掛け方、事前に決めた作戦を貫こうとする。故に少し乱せば立て直しに時間を要し、こちらのペースにはめることができた。

 だが今回は違う。グラスワンダーは常にこちらを注視し、時にフェイントをかけてくる。自分が決めた道を動くのではなく、こちらを自身に有利な形に誘導しようとしている。

 

(これもあのトレーナーさんの影響ですか……なら!)

 

 胸に疼くのは自分にはそんなことをしてくれなかったことへの嫉妬か、それとも自分の見立てが間違っていなかったことへの歓喜か。どちらにしろ、勝てば自分はかのトレーナーとともにさらに強くなれるという確信があった。

 

(余計負けられない!)

 

 一歩。芝を蹴り飛ばして加速する。

 二歩。振り上げる腕は翼のように。

 三歩。弾丸のごとく、その体は駆けていく。

 背後からの重圧から逃れ、一瞬の自由を手に入れる。空を舞う猛禽には、それだけで十分だった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「エルコンドルパサーが仕掛けた!」「早すぎないか!?」「グラスワンダーからの圧で掛ったか!」

 

 最終コーナーより手前で加速して外から仕掛けるエルコンドルパサーに、トレーナーたちが騒ぎ出した。

 仕掛けどころのセオリーとしては早い。だが、常にセオリーが通用するとは限らない。

 

「勝負に出ましたね」

「早いわね。それでも後ろを振り切れる自信があるのかしら」

「多分、違います」

 

 ライスの言葉に、私と東条さんが視線を向ける。

 

「あれは……掛かってこいっていう、グラスワンダーさんへの挑発です」

 

 

 

 ◆

 

 

 

(エル、あなたは……!)

 

 これまでの攻防を棒に振るような加速に、グラスワンダーは歯を噛み締めた。

 思わずカッとなり追おうとする自分を諫め、なんとか冷静さを取り戻す。

 今ここで感情のままに追ってもエルコンドルパサーには届かない。

 何度も併走したのだ。おそらく向こうもそれを分かったうえで仕掛けたのだろう。

 まもなくエルコンドルパサーがコーナーに入る。突然の加速に、前にいた二人が慌てたように加速しだす。

 それは悪手だ、とグラスワンダーは分析する。曲がる都合上、遠心力で体が外に揺れる。最短コースを取ろうとすれば遠心力へ逆らうことになりどうしてもスピードが下がる。

 エルコンドルパサーは外側を走ることで遠心力を少なく、距離をロスする代わりにスピードを落とさず最終直線へ向かう。広がる差に焦り、また加速しようとすれば遠心力に足を捕られる。

 逃げを取っていた二人は悪循環にはまっていた。

 

(ここからエルを捕えるための最善は――)

 

 コーナーを回りながら、思考を巡らすグラスワンダー。

 最短は前に逃げが走っていてコースは塞がっている。すでにスパートをかけているエルコンドルパサーの後ろにつく意味はない。

 

(あれは……!)

 

 エルコンドルパサーが仕掛けるまで、二番手にいた1番が垂れてきた。ペース配分を誤ったか。上体が上がり、息も荒い。

 垂れウマを回避するため少し外に移す。瞬間、開かれた景色が視界に広がった。

 エルコンドルパサーよりも内、けれどもコーナーの中間を過ぎた地点。そこに位置取ったグラスワンダーの双眸が、ゴール板を捉えた。

 他の走者よりも少し長い直線。前を塞ぐものはなく、足を鈍らすカーブはなく、いるのは抜くべき好敵手のみ。

 

(今こそ……!)

 

 右足をターフへと突き立てる。身を沈め、力を込める。

 引き金を引くように、左足が芝に触れた瞬間、

 

「全身全霊――いざ参ります!!」

 

 その末脚が炸裂した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 爆発のような音を、エルコンドルパサーは確かに聞いた。

 そしてすぐ、背中を殴りつけるようなプレッシャーを感じて悟る。

 

「来ましたね……グラス!!」

 

 振り向く必要などない。自分の今のスピードに迫れるのは彼女しかいないと確信した。

 残った足を振り絞って加速するが、後ろからの圧はどんどんと迫ってくる。先に仕掛けたことであったはずのリードは瞬く間に縮まった。

 視界の端にちらちらと映る栗毛。確認する暇もない。一瞬でも意識を別のことに向ければその隙を差される。

 気づけば叫んでいた。

 

「はああああああああああっ!!」

「やああああああああああっ!!」

 

 負けられない。負けたくない。己の感情を全て吐き出すかのような咆哮がターフに響く。

 風を裂き、土を蹴り上げ、二人の体が流星となってかけていく。

 

 そして、

 

 逃げ切ったと、エルコンドルパサーは悟った。

 力及ばずと、グラスワンダーは悟った。

 歓声と拍手を浴び、マスクの少女が両手を天に掲げ、勝鬨を上げた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 私の目から見て、二人の実力は拮抗していたと思う。もう一度走ればきっと結果は逆転するだろう。

 だがレースにもう一回はない。いくらレース展開の薀蓄を語ったところでエルコンドルパサーが勝利したという事実は揺るがない。

 周りからはエルコンドルパサーを評価する言葉が飛び交い、トレーナーたちは我先にと勝者のもとへ向かう。

 勝者以外をスカウトしてはいけないというルールはない。だがやはり、レースでもっとも評価されるのは勝者なのだ。そして私たちトレーナーは、評価の高いウマ娘を指導したいものなのだ。

 実際、エルコンドルパサーは終始レースを支配する動きを見せた。終盤の競り合いも制するスタミナ、長くかけられるスパート。間違いなく、数十年に一度の逸材だろう。

 だから――

 

「あ、お兄さま……!?」

 

 ライスの声が届く。東条さんが驚き、呆れるようなため息が聞こえた。

 仕方がない。これが、私なのだから。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 空っぽになった肺が、貪るように空気を取り込んでいく。陸地で窒息する魚の気分だ。

 胸の鼓動が激しい。汗を飛ばす風がなくなり顔から髪から雫が落ちる。脚は限界を訴え震えていた。

 まさしく全身全霊。渾身の力をもって駆けたが、それでもエルコンドルパサーには届かなかった。

 敗北の悔しさはある。だが一方で清々しさもあった。

 自分の持てる力すべてを出し切り敗れたのだ。反省こそあれど、後ろめたさはない。

 いや、無念なら一つだけ。

 

(これで、あの方はエルを……)

 

 エルコンドルパサーの周りには人だかりができていた。彼女をスカウトしようとするトレーナーたちだ。

 グラスワンダーからは見えないが、きっとかのトレーナーもいるのだろう。

 エルコンドルパサーはどうするのだろう。素直に受けるか。それとももっと高い実績のあるトレーナーを選ぶのか。

 

(ダメですね。この期に及んで縋ろうとしている)

 

 頭を振る。彼女がなんのためにレースに出ていたか、忘れたわけではない。

 一方で希望的な観測も浮かんでくる。

 また別のレースで結果を出せば、スカウトしてくれるだろうか。

 

(そうですよね。次の機会で、今度こそ……)

 

 そう気持ちの整理をしたところで、

 

「レース直後で申し訳ないが、少しいいだろうか」

 

 聞こえるはずのない声がした。

 あれほど貪っていた呼吸が止まる。血の気が引いて、心臓の鼓動が鎮まった。

 

(なぜ、あなたがここに……)

 

 敗けた自分のところにいる? 声をかけるべきは勝者ではないのか?

 顔を上げる。かつて夕方出会ったの男、マルカブのトレーナーが立っていた。

 男が口を開く。

 

「惜しかったが、素晴らしいレースだった。敗れたとはいえ、君は自分の力を十二分に示していた」

 

 ダメだ。その先を声に出してはいけない。

 聞いてはいけない……!

 

 

 

 

 

「グラスワンダー、君をスカウトしたい」

 

 

 

 

 

 少女が見る、男の向こう。

 マスクした少女の瞳が、荒れた海のように揺れていた。

 

 

 

 

「どうして……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







唐突な本作におけるチーム状況(4話時点)

リギル:ナリブ・ヒシアマ・フジ・エアグルーヴ・タイキ・スズカ他モブが多数所属。
ルドルフとマルゼンは専属トレーナー(アプリ版準拠)と契約しているため所属してません。

スピカ:テイオー・マック・ゴルシ所属。話の都合上ウオッカとスカーレットとスぺはまだいません。
テイオーとマックの実績でギリギリ存続が許されている状況。

カノープス:アニメ通り。

シリウス:アプリ版が今後どうなるか分からないので未定。存在はしているということで名前だけ出しました。


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5話 お兄さまとひな鳥たち3




皆さま感想ありがとうございます。
感激のあまりなんて返せばいいか考えすぎて未だ一件も返信できてませんが、すべて励みとなっております。





 結論から言うと、グラスワンダーから返事を聞くことはできなかった。

 というより、返事が来る前に私は麻袋に包まれ拉致られてしまった。

 

「久々にやべーのを見ちまったぜ……」

 

 困惑する私の耳に、焼きそば売りの葦毛の声が聞こえた。

 君だけにはやべーとか言われたくなった。

 拉致られ、どこかに長いこと放置され、また運ばれて。

 ようやく麻袋から解放された私がいたのは四方をコンクリに囲まれた広い部屋だった。

 そして、

 

「ではこれより、第二十八回、NKBT(にぶにぶくそぼけトレーナー)事案調査委員会を始める」

 

 目出し帽を被った謎の集団に囲まれていた。

 ……やべーのを見てしまったな?

 

 

 

  ◆

 

 

 

 夕方。今日の選抜レースが終わってから友人二人の様子がおかしい、とスペシャルウィークは思った。

 エルコンドルパサーとグラスワンダー。ルームメイトということもありクラスの中では特に仲が良いと感じていた二人。時折ケンカじみたじゃれ合い――基本エルコンドルパサーの方からつっかかっているが――もあるが、それも友好の一種だと思っていた。

 ところが、

 

「今日もトレーニング頑張ったなあ……。グラスちゃん、晩御飯食べに行かない?」

「ええ、いきましょうかスぺちゃん」

「エルちゃんも!」

「あ……」

 

 グラスワンダーの瞳に動揺が浮かぶ。視線の先、いつもの快活さが微塵もない、寂しげな勝者の背があった。

 

「エルは……今日はいいデス」

「ああ~……そっか。じゃあまた今度!」

「ハイ。ありがとうデス……」

 

 こちらを見ることなくエルコンドルパサーは更衣室を出て行ってしまった。

 暖簾に腕押し、その言葉がピッタリはまる反応だった。

 

「えっと……グラスちゃん」

「大丈夫です。大丈夫ですから……行きましょうスぺちゃん」

「う、うん……」

 

 気まずさから逃げるように、二人も外へ出る。沈んだ空気が残る更衣室で、セイウンスカイとキングヘイローが息をついた。

 

「あーりゃりゃ。完っ璧に冷戦状態だねー」

「いつもの二人からは考えられないわね」

「やっぱり今日出た選抜レースが原因?」

「そうとしか考えられないけど、勝ち負けを引きずるような二人じゃないのはスカイさんも知っているでしょ?」

「となるとそれ以外? といってもレース前まではいつも通りの二人だったよ」

「スカイさんは何か知らないの? 選抜レースを見に行っていたのでしょう?」

 

 何かと情報収集に余念のないセイウンスカイなら、何か思い当たることはあるだろうという問いかけだった。葦毛の少女はうーん、と首を捻った後、

 

「レース結果以外……いや、変な空気になったのはレース後なのは確かだった」

「となると……スカウト関連かしらね」

「え~それもう口挟めないじゃん」

 

 トレーナーからのスカウト、そして担当契約はレースを走るウマ娘としての一生を決めるものだ。

 なにをどういう経緯で揉めているのか分からないが、部外者がどうこう言えるものではない。たとえ友人であったとしても。

 

「原因がそれならもう私たちが介入する話じゃないわね。放っておきましょ」

「えーなんか冷たくない?」

「それくらいでいいのよ。もう子どもじゃないんだから。

 ……でも、もし相談されたら一緒に悩んであげればいい。それが友達ってものよ」

「おお、さすがキングママ。じゃあ友達のよしみで、明日提出の課題見せてくれない?」

「自分でやりなさい。あと、誰がママか!」

 

 

 

  ◆

 

 

 

 私から見て正面、二段ほど高い位置にある壇の向こうにいる覆面が、左右にいる二人の覆面に告げる。

 

「NKBT事案調査委員会、検察、弁護人、準備はよろしいか」

「検察側、準備完了です」

「弁護側、ステータス・オールグリーン。いつでも」

 

 委員会なのに検察と弁護人なのか。ということは私は被告で、前にいるのは裁判長か?

 だとするとこの場は私を糾弾するためのものか。

 というか、被り物で顔を隠しているのに、飛び出したウマ耳につけた飾りや眼鏡、はみ出た髪で何となく正体が分かってしまうのが気まずい。

 

「では、検察より本件について説明を」

「はい。本件は六月〇日、学園敷地の第一レース場で行われた選抜レースで起こりました。

 出走者の中で特に注目されていた二名……ここでは甲、乙とします。この二名については多くのトレーナーがスカウトを目論んでおり、被告も同様でした。

 この選抜レースを制したのは甲、接戦の末惜しくも乙は二着となりました。多くのトレーナーが甲へのスカウトを敢行する中、被告は乙へスカウトをしました」

 

 目出し帽の上から眼鏡をかけた自称検察が事のあらすじを語っていく。

 現状、語られた内容から私がこの謎集会に引っ張り出された理由が分からない。それは裁判長ポジションの覆面も同様なのか、手を顎に当て思案している。

 

「一着のウマ娘をスカウトせず、二着の者に声をかける。珍しいことではあるが決しておかしなことでもないだろう。もとから乙をスカウトするつもりだったのでは?」

「事案として成立した理由ですが、被告は甲乙両名と面識を持っており、また可能ならば両名ともスカウトを切望していたという証言が出ています。」

「なんと……」

 

 どこから出た証言だ、と私の疑問を他所に会場には悲鳴のようなざわめきが波立っていく。

 ヒソヒソと小声で覆面たちが話している。内容は聞こえないが、私を非難しているようなのは察した。

 

「甲に対しては過度なトレーニングのケア、乙に対しては終盤の仕掛けタイミングなど細かな助言をしており、両名から好印象を持たれていました。識者の見解としては、どちらも担当になって欲しい気持ちがあったとのこと」

「一回のレースでスカウトするのは一人だけ。不文律なれど、被告がスカウトできるのも一人。取り合いになったということか。

 ウマ娘たるもの、そういう場合はレースで決着をつけるもの。結果を見れば乙が引き下がるものだが……」

 

 裁判長が唸るように言う。

 トレーナーにはトレーナーの不文律があるように、ウマ娘たちにも彼女たちなりの不文律があるものだ。

 どうやら私は、彼女たちの不文律を意図せず破ってしまったようだ。

 一着のエルコンドルパサーでなく、二着のグラスワンダーをスカウトした。それは違反でこそないが、彼女たちの中にあった尊厳を傷つけるに等しい行いだった。

 グラスワンダーが答えを出さなかった理由が分かった。

 この場は、このようなトレーナーとウマ娘間の価値観の相違をすり合わせる場なのだ。やり方がエキセントリック過ぎる気はするが。

 

「また、被告は以前からスカウトする意思もないのにウマ娘に声をかけるなど、所謂ウマ娘たらしであると思われます」

「ウソでしょ……!」

 

 思わず声が出た。確かに担当外のウマ娘に助言はしていたが、そんな風に思われていたとは。

 検察の反対側にいた、発光する耳飾りをつけた目出し帽が手を上げた。

 

「異議ありです。検察の発言は推測の域を出ず、意図的に被告の印象を悪化させるものです」

「認めよう。検察は私的な意見でなく、物的証拠・証言を基に発言するように」

「分かりました。では、証拠を提示します」

 

 眼鏡の検察がよいしょ、と分厚く、そして大量の付箋が張られたドッチファイルを取り出した。

 付箋に指を這わせて開く。

 

「〇月〇日『トレーニングメニューを組んでくれた』『フォームについて助言をくれた』『減量で苦しんでたが食事メニューを教えてくれた』

 △月△日『ケガしていたが診療機関を紹介してくれた』『使うシューズについて助言をくれた』『自分に合った蹄鉄を無償でくれた』

 etc、etc……」

 

 検察がファイルの内容を読み上げるたびに周囲がざわついていく。

 

「今年度に入っただけでも約三十件、いずれも被告が担当していないウマ娘へ行ったものであり、その後スカウトの話はありませんでした」

 

 小さな悲鳴が上がる。

 ……いや、ヒィ!はないだろう。

 

「担当じゃないのにこんな親身に?」「しかもスカウトしないなんて」「釣った魚に餌を上げないタイプなんだわ」「ksbkだわ……!」「いいなぁ……」「実は私も以前に……」「ちょっと、その話詳しく」「ちくわ大明神」「おい誰だ今の」

「静粛に。みな静粛に」

 

 周囲から上がる声。裁判長の咳一つで収まったものの、私を非難するような視線がより強くなった。

 いや、なんか別の色も混じってきてる?

 鎮まったところで、検察役が言葉を続ける。

 

「声をかけられた生徒たちの多くは、その後一定の成果を出しております。一方で、やはりスカウトして欲しかったという者が六割、自分には過ぎたトレーナーだという者が二割、担当との関係が尊くて推せるというのが一割、その他意見が一割となります」

「待って、推せるって何?」

「推せる、という感情には同意します」

「弁護人さん!?」

「静粛に……」

 

 視線が中央、裁判長役に集まる。

 

「被告にウマ娘を惑わすような意図がないことは分かった。だが一方でウマ娘の心情に疎いということ、被告自身も自覚できただろう」

「……はい」

「被告もこの集会の意義は理解できただろう。だからこそ、最後に聞かなければならない。

 ……何故、グラスワンダーを選んだのか」

 

 覆面に空いた双眸が私を射抜く。鋭い眼光、噓誤魔化しなど即座に看破するだろう。

 いや、そもそも誤魔化す必要などないのだ。

 周りを見渡す。誰の耳にも届くように、私は答えを口にした。

 

「それは――」

 

 

 

  ◆

 

 

 

 私の答えに納得してくれたのか、これ以上何かされることもなく解放された。

 外に出る際、裁判長役のウマ娘が耳元でささやいた。

 

「誠心誠意、貴方がウマ娘に力を尽くしていることは分かっている。担当の活躍と、彼女との関係を見れば一目瞭然だ」

 

 撫でるような声に身をよじりたくなる。こちらの気を知ってか知らずか、覆面からの忠告が続く。

 

「だが覚えておいてほしい。レースに身を投じる競技者である前にまだ少女だということを」

「……分かっているつもりですよ」

「彼女が……乙とした少女がなぜ答えを出せなかったか、分かっていたかな?」

「それは――」

「彼女たちの想いを、今一度考えていただきたい。ウマ娘のレースへの想いを尊ぶことをできる貴方だからこそ重ねてお願いしたい」

 

 背中を押され、外へ出た。

 日が傾き、茜色に染まった世界に迎えられた。

 振り向くと私がくぐったはずの扉がない。コンクリの壁に切れ込みのようなものも見当たらない。

 どうやらまだこの学園には未知の場所があるようだ。多分、詮索しない方が良い類のものが。

 いや、もしかしたら一連の珍事が私を戒めるための夢幻だったのかもしれない。例えば、噴水広場前に立つ三女神のような――

 

「検察役というのも中々興味深いものでしたね。情報を整理し、論理を固める。レースにも応用できそうです」

「ステータス興奮、を確認。ゲームで見た通り、異議ありを告げることができました。アシストありがとうございます」

「いえいえ。むしろ、私ばかり話してしまって申し訳ありません」

「いえ、イクノさんは話し方も似合っていて……」

 

 ………………いや、ただ遊びに巻き込まれただけか?

 

 

 

  ◆

 

 

 

「……お兄さま?」

 

 トレーナー室に戻ると、ライスが待っていた。

 テーブルには教本。閉じたカーテンのわずかな隙間から夕陽が差し込む部屋で、ライスは勉強していたようだ。

 私を見るライスの視線は冷たい。私にウマ娘心が分かっていないと叱咤するときのものだ。

 

「ただいまライス。待たせてゴメン。もしかして夕飯もまだだったか?」

「ううん大丈夫。それよりもね、お兄さま」

 

 一歩、ライスが近づく。上目遣いでこちらを覗く瞳には、心なしか青い火が灯っているように見える。

 これはいつもの流れかな。

 

「お兄さま」

 

 はい。正座ですね。フローリングでの正座はちょっと痛いのだが仕方ない。

 

「五体投地……」

「なん……だと……!?」

 

 

 

 普段から部屋の掃除をしていてよかった。

 両手、両膝、そして額が床板に触れる。埃が付くことはないが、少し息苦しい。

 ちなみに五体投地というのは礼拝の所作の一種なので反省のポーズなどではないよ。

 床に占領された視界の端で影が落ち、後頭部に柔らな感触がきた。ライスの手が私の頭に触れているのだろう。

 撫でられているわけではない。むしろ少し圧がかかり、額が床に押し付けられている気がする。

 ……もしや、結構怒っていらっしゃる?

 

「お兄さま。ライスね、聞きたいことがあるの」

「……グラスワンダーをスカウトしたことかい?」

「ううん。それは分かるよ。長い付き合いだもの」

 

 そういえば、ライスの担当になってどれくらいだろう。

 彼女が自信をつけたジュニア級、同期と争ったクラシック級、最強に挑んだシニア級。そして……

 

「大丈夫だよ。もう、ライスは大丈夫だから」

 

 私の思考を読んだかのように、ライスが言った。

 頭に触れていた手が動く。私の不安を解すように髪をかけ分けていく。

 

「ライスはもう、弱くて怖がりなライスじゃないから。悲しい顔をしないで。

 ……ねえ、どうしてエルコンドルパサーさんをスカウトしなかったの?」

 

 核心を突いた問い。ああ、そっちはさっきの覆面集団にも言っていなかったな。

 迷いはない。答えはすぐに出ている。

 

「それは」

「その答え、私にも聞かせてください」

 

 扉が開かれる。同時、かすかに震えを帯びた声がした。

 態勢ゆえに姿は見えないが、聞き間違えるはずがない。

 グラスワンダーだ。

 ……待て、私の体勢は誤解される状況では?

 

 

 

 ◆

 

 

 

 時間は少し巻戻る。

 スペシャルウィークと出かけたはずのグラスワンダーは、一人学園内を歩いていた。

 友人との夕飯も結局断ってしまった。

 食欲が無いとか、一人になりたいとかではない。

 この胸のモヤモヤを払わなければ、何も解決しない。口に出せない悩みを抱え、鬱屈としたまま友人たちと接することは自分が許せなかった。

 そしてなにより、このままルームメイトとの親交は断絶してしまう。どんな結末になろうと、それだけは嫌だった。

 向かうのは校舎に併設されたトレーナーたちの仕事場。長い廊下を進み、とある扉の前で立ち止まる。

 

(ここが……)

 

 扉の前に掲げられたチーム・マルカブの文字。ライスシャワーが所属するチーム、選抜レースに勝ったエルコンドルパサーよりも自分を選んだ男が率いるチーム。

 ノックしようと上げた手が止まる。

 この先に自身が求める答えはある。だが、それを聞いて自分は冷静でいられるだろうか。

 してきたはずの覚悟が揺らぐ。引き下がるか進むか、天秤が揺れる。

 天秤が後退に傾きかけた時、扉の向こうから微かに声が聞こえた。

 

「……ねえ、どうしてエルコンドルパサーさんをスカウトしなかったの?」

 

 天秤は前へ。理性よりも先に体が動いた。

 

「その答え、私にも聞かせてください」

 

 扉をくぐると同時に声に出た。緊張からか僅かに震えがあって思わず頬に熱が入った。

 その熱は、床に突っ伏した男性とその頭を押さえるウマ娘の姿に一気に引いた。

 

(特殊なプレイ中でしたか……!?)

 

 

 

 ◆

 

 

 

 静かに扉が閉じる。部屋には気まずい沈黙に満ちていた。

 床しか見えない私には詳細は分からないが、グラスワンダーが呆気に取られているのは分かる。

 いや、この状況を見て平静を保てたらそれはそれでおかしいが。

 

「…………あの」

「グラスワンダーさんだよね? ライスシャワーです」

「えっと、初めまして」

「初めまして。選抜レース見てたよ。惜しかったね」

「あ、ありがとうございます……えっと、この状況は?」

「気にしなくていいよ」

 

 無茶な。

 グラスワンダーも呆然としているぞ。見えないけど。

 身を起こそうとするが、ライスが手を緩めてくれない。

 あのライスさん? もしかして、この態勢で話を進めろとおっしゃる?

 

「おに……トレーナーさんに聞きたいことがあるんだよね。

 ライスがした質問と同じでいいのかな?」

「……! はい。お聞かせください。どうして勝ったエルではく、私をスカウトしたのか」

 

 凛とした声。二人分の視線が私を貫く。本当にうつ伏せの態勢で話さねばならないのか。

 

「君の方が良いと思った。それだけでは納得できないかい?」

「できません」

 

 即答だった。私の照れ隠しは一刀両断で切り捨てられた。

 頭に乗ったライスの手から伝わる力が強くなる。そうじゃないでしょう、と言っているようだった。

 

「エルの方が上。あのレースで私も思い知りました。素質もセンスも、レースの才能が私よりもあるのは明らか。

 レースの後、トレーナーの皆さんがエルの方に向かっていた。皆さんも同じ考えではないですか?」

 

 堰を切ったようにグラスワンダーが言葉を紡いでいく。

 

「なのに貴方は私のところに来た。エルに多くの人が集まる中、ただ一人。それは……」

 

 胸に積もった不安を吐き出すように、グラスワンダーの口から言葉が溢れていく。

 

「競争を避けるため。負けた私なら、エルより簡単にスカウトできると思ったからではないですか?」

「それは違う」

 

 今度は私が即答する番だった。

 もう、ライスの手に力はなかった。身を起こす私をライスはしっかりと見ていた。

 振り返り、今度こそグラスワンダーと真っ向から対峙する。

 栗毛の少女の顔には不安があった。胸の前で合わせた手には震え。

 私の行動がそうさせたと思うと、自分の胸が締め付けられる。

 

「確かに、エルコンドルパサーの素質は高い。ハードなトレーニングに耐えられる体と精神。飲み込みも早い。彼女が将来、歴史に残るスターウマ娘になるのは誰もが夢見ただろう」

「そう思うのなら――」

「でも、それは誰が指導しても変わらない。私でなくても、リギルやスピカ、カノープスにシリウス、他のどんなトレーナーやチームの下にいようと、彼女は世界の頂点へと羽ばたいていける。

 ……だから、君を選んだ」

 

 呆気に取られる彼女に手を差し出す。

 

「君を、グラスワンダーを一番強くできるのは私だと思った。

 妥協せず、理想の自分へと突き進む姿。君を最も強く、君の理想に近づけることできるのは、チーム・マルカブだ。そして同時に、君の夢を支えたいと思った。

 だから、君をスカウトした」

 

 風が吹いた気がした。少女の顔を夕陽が染め、震えと不安を上書きしていく。

 これが全て。なんと言われようと覆しようのない、私の答えだ。

 

「私たちと一緒に強くなろう。グラスワンダー!」

「トレーナー、さん……」

 

 グラスワンダーの手が伸びる。

 私の手と少女の手が重なろうとした瞬間に、

 

「その契約! ちょっと待ったあーーーーー!!」

 

 背後からまさかのコールがあった。

 ん? 背後?

 振り返ると、さっきまで閉まっていたはずの窓が開いていた。

 風で揺れるカーテンの向こう。窓の縁に、マスクをした長髪のウマ娘が立っていた。

 

「エルコンドルパサー!?」

「エル、どうして――いや、いつから?」

「五体投地、のあたりからデース!」

「ほぼ私が入ってきてからじゃないか!?」

 

 ライスを見る。

 我が担当はイタズラがバレた子どものようにてへっと舌を出した。

 ……かわいい。いやそうじゃなく!

 

「ライス、気づいていたのか?」

「うん。トレーナーに用があったみたいだから。なんで窓の向こうにいたのかは分からないけど」

「無論っ! 窓から入場した方がカッコいいからデス!

 そんなことより――」

 

 颯爽と部屋に飛び込んでくるエルコンドルパサー。

 未だ呆然とする私とグラスワンダーの間に立つと、彼女の手を掴み、

 

「エルはこのチームに、いえ、エルも(・・・)このチームに入りマス!」

 

 宣言とともに二人分の手を、私の手に重ねた。

 

「え……えええエル!?」

「……君には多くのトレーナーからスカウトがあったはずだけど?」

「ありました! でも全てお断りしてきました!」

 

 快活ながら、とんでもないことを言い放つエルコンドルパサー。彼女をスカウトしたトレーナーの中には、この道数十年のベテランもいたはずだが。

 

「今トレーナーさんがグラスに言ったのと同じデス! いろんなトレーナーさんを見てきましたが、貴方こそがエルを最も強くしてくれる人だと直感しました!

 それに、トレーナーさんもエルからの逆指名を断れないはずデス! ですよねライスシャワー先輩!」

「うん……チーム存続のために言われた最低条件は今月末までに二人以上のスカウト。結局トレーナーさんは二人のレース以外見れなかったから、今は他にスカウト候補もいない」

 

 そういえばそうだった。

 二人のレース直後に白いアレに連れ去られたのだから、他にスカウトする当てがない。次の選抜レースに賭けてもいいが、今エルコンドルパサーの逆指名を断る理由にはならない。

 いや、でも一レース一人の不文律が……。

 私の葛藤を察したのか、ライスが諭すように言う。

 

「トレーナーさん。チームのこともあるけど、せっかくトレーナーさんに担当してもらいたいって子が来たんだよ? それとも、トレーナーさんから見てエルコンドルパサーさんは指導したくない?」

「そんなことはない……」

 

 グラスワンダーにエルコンドルパサー。この二人の素質については自分でも語ったばかりだ。そんなウマ娘を担当できることはトレーナーとしてこれ以上ない栄誉だろう。

 

「じゃあ……はいどうぞ」

 

 ライスが二人に用紙を渡す。トレーナー契約の時に事務局へ提出するものだ。

 

「トレーナーさんたちの暗黙の了解はライスも知ってる。でもグラスワンダーさんはスカウト、エルコンドルパサーさんからは逆指名。不文律の違反には当たらないんじゃないかな?」

 

 有無を言わせない勢い……いや、踏ん切りのつかない私への気遣いか。

 ……よし、腹を括ろう。

 

「うん。これ以上悩むのは来てくれた君たちにも失礼だ。

 グラスワンダー。エルコンドルパサー。改めて言おう。君たちをチーム・マルカブに迎え入れたい」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

「はい! よろしくお願いしマス!」

「ライスも、よろしくお願いします」

 

 私たち三人が重ねた手の上にライスの手が乗る。

 チーム・マルカブ。翼をもったウマ娘を象った星座の一等星が、再び輝きだすのだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「よーし、二人とも夕飯はまだかい? 今日はチーム再始動祝いってことで、パーっと行こう」

「おお! 本当デスか!? さすがトレーナーさん、太っ腹デス!」

「あ、では友人を招待しても良いでしょうか。夕飯の約束を反故にしてしまって……」

「ん。それは申し訳ないことをしたな。大丈夫、問題ないよ」

「ケッ!? それってスぺちゃんですよね? 大丈夫ですかトレーナーさん。スぺちゃんすっごく食べますよ?」

「大丈夫じゃないかな。大食いだったらライスも負けてないさ。この前だって――」

「おに――トレーナーさん! は、恥ずかしいから言わないで!!」

 

 笑い声がトレーナー室に響く。

 こんな賑やかなのはいつ以来だろう。

 この活気がいつまでも続くよう、彼女たちを支えていかなければと決意を新たにする。

 そして、二人の友人だというスペシャルウィークと合流し、学外へ向かう。

 そうだな、このメンバーならお堅い料亭よりも種類豊富なファミレスみたいなところがいいだろう。

 色々不安にさせてしまった謝罪だ。好きなだけ、気が済むまで食べてもらうことにしよう。

 

 

 

 そして、

 

 

 

「お会計十九万二千六百円になります」

「カ、カードで……」

 

 経費で落ちるかな。

 

 

 

 第一章 チーム再編編 完

 

 第二章 チーム始動編 に続く

 

 

 

 







勢いで書き溜めていた分全部吐き出してしまったので、次の更新までしばらく間を置かせていただきます。ご容赦ください。



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チーム始動編
6話 ライスと後輩たち



お久しぶりです。
ライスの新規サポカが発表されたので初投稿です。


見ましたか皆さん。
私はライスの通常勝負服がウェディングドレスモチーフなんだから別衣装で白のウェディングドレスとか解釈違い侍だったのですが今回のサポカ絵は宗旨替えを余儀なくするレベルで可愛いですね。安易に純白にするのではなくライスのパーソナルカラーである青っぽい色合いなのがチョベリグです。髪飾りのバラも白っぽいものに変えているところもディモールトベネ。昨今のソシャゲにありがちなやたら露出の多いドレスではなく肩ひものついたワンピースタイプ(であってる?)によってライスの少女的可愛さを演出しつつバラから伸びるヴェールと首飾りが大人っぽさも両立していてグラッツェ。そしてなによりも三つ編み! 三つ編みですよ奥さん。ただ髪形を変えるのではなくライスの目隠れと跳ねのある特徴ある前髪を残しつつ後ろの髪は三つ編みにしてしかもそれを前に出すことで艶やかさはさらにドン! 3倍は軽く跳ね上がるでしょう。今回のイベントにライスを起用した人とサポカ配布にしようと言い出した人とサポカ絵をデザインした人は2億年無税にしてあげてもいいと思うんですよ私は。何が言いたいかというとライスめっちゃ可愛いヤッターってことです。

とりあえず秋天まで毎日投稿します。





 日本ダービーが終わり、世間の関心が宝塚記念へと向かう中、トレセン学園はとあるチームが話題に上がっていた。

 チーム・マルカブ。漆黒のステイヤーの異名を持つライスシャワーが所属する、三代続くそれなりの歴史こそあれ、人数不足から解散の危機にあった零細チーム。

 そんなチームに二人のウマ娘が新たに入った。それだけなら数あるチームの動向の一つとして記憶の片隅に残る程度だが、入った二人がグラスワンダーとエルコンドルパサーとなれば話は別だ。

 どちらも入学早々に頭角を現し、かの皇帝やスーパーカーを思い起こさせる速さで選抜レースへの出走。間違いなく次代のスター候補として注目されていた二人だ。

 それが解散寸前のチームへの加入。最強のリギルでも、個性派ぞろいのスピカやカノープスでも、歴史あるシリウスでもないことが様々な憶測を呼んでいた。

 いかにしてスカウトしたのか。あのチームに何を感じて加入したのか。中には下卑た妄想を垂れ流す輩もいたが、当人たちを知るものたちによって直ちに否定された。

 それでも雑音を止めないものは悉く、笑顔を張り付けた緑の秘書と対峙することとなった。

 経緯はともかく、これでマルカブは他のトップチームと並んで注目されることとなる。

 そしてそれは、良い点ばかりではなかった。

 

「それじゃあ、二人に今のマルカブの状況を教えるね」

「はい」

「お願いしマス!」

 

 放課後、人のいない空教室で三人のウマ娘が机を囲んでいた。

 四つの机をくっつけ、その上に大きな紙を広げるライスシャワー。紙にはチームに関する規則やおおよそのレーススケジュールが書かれていた。

 伊達メガネをくいっと上げて、ライスシャワーが口を開く。

 

「チームの結成や存続は五人以上の所属メンバーが条件。でも理事長の方針もあって、これはかなり融通が利くの」

「実際マルカブも私とエルが入って三人ですけど、存続が許されていますよね」

「うん。これはチーム全体のこれまでの実績のおかげだけど、こういった優遇措置には非難する声もあるんだ」

 

 そうだろうな、とエルコンドルパサーは思った。

 結果でルールを覆すといえば格好よく聞こえるが、GⅠウマ娘がいるから人数不足でもチームとして認めますでは、正しくルールを守っている者たちはたまったものではないだろう。

 

「とりあえずは凌いだけれど、このままだとまた存続のための条件を示される。だからライスたちは結果を示すしかない」

 

 それがさらなるメンバーの追加か、特定のレース勝利か分からない。

 分からないから、こちらからぐうの音も出ない実績を積み上げる必要がある。

 

「具体的には、今年中にGⅠを獲るよ」

 

 ぞわり、とグラスワンダーは自身の肌が粟立つのを感じた。

 GⅠ。出走できただけでも名誉であり、勝利すれば未来永劫その名が歴史に刻まれる、レースにおける最大の栄誉。その一つを獲るためにウマ娘とトレーナーが文字通り生涯を賭けるタイトル。

 それを今年中に獲ると、容易く言ってのけるライスシャワーに戦慄する。

 

(これが菊花賞ウマ娘。一時代を築いたスターウマ娘……!)

 

 ライスシャワーがレーススケジュール表を指す。時期は秋。

 

「ライスの当面の目標は天皇賞(秋)。グラスさんとエルさんも、早ければ九月にはデビューできる。二人ともマイル適性があるからジュニア級レースの選択肢も多い。だから、二人が目標とするのは……」

 

 秋から冬へ指が動く。

 狙うはGⅠ、ならば当然レースは限られる。

 

「ジュニア級の王者を決めるGⅠ。阪神JF、朝日FS、ホープフルステークス。このうちのどれかを二人には獲ってきてほしい」

「それはなんとも……」

「簡単に言ってくれますデス」

 

 言葉とは裏腹に、二人の顔には笑み。

 二人とも目指すのは片や頂点、片や最強。その道のりにGⅠへの挑戦がある以上、昂ぶりこそあれ怖気づくなどありえなかった。

 

「エルが目指すは世界最強! ならば目指すは王道の中距離(ミドルディスタンス)、ホープフルでしょう!」

「では私は、クラシック級の登竜門と呼ばれる朝日FSへ!」

「よーし、じゃあチーム・マルカブ、秋のGⅠに向けて頑張るぞー……」

「「「おーー!!」」」

 

 

 

 

「……今更ですけど、こういうチームの指針ってトレーナーさんが調整するものでは?」

「おにい……トレーナーさん、あんまりこういうのに頓着しないから」

「「あー……」」

 

 君たちの夢を支える方が大事だから、そんなことを迷わずいうトレーナーの姿が容易く想像できた。

 ウマ娘だって、トレーナーの夢を支えたいと思うのだが、それに気づけるのはまだ先のようだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「はい。グラスワンダーさんとエルコンドルパサーさん、二名のチーム・マルカブへの加入を確かに受理しました」

「ありがとうございます。色々お手数おかけしました」

 

 学園の事務局にて、私はたづなさんへ書類を渡していた。

 なぜ理事長秘書である彼女がいるかというと、この時期はトレーナー契約やチーム加入が立て続けに起きるため、事務員の手が足りないのだとか。

 あと、私のようになにかと注意を受けるトレーナーヘの対応もある。

 二人の加入に合わせて必要な事務手続きも済ませていく。

 秋シーズンに向けたレース登録、夏合宿への参加要望、メンバーが増えて必要になった備品の申請。トレーニング関係はこちらで吟味するので予算の申請もしておこう。

 トレセン学園も電子化が進み、昔に比べて一々手書きの書類を出す量が減ってきているのは良い変化だ。もっとも、最低限の紙の書類は未だ残っているのだが。

 

「これで最後。申請をお願いします」

「はい……あら、これは」

 

 私が出した書類を見て、たづなさんが驚く。少し困ったような、微笑むような表情だ。

 

「少し早くないですか?」

「時間の問題ですよ。たづなさんだってそう思いませんか?」

「……まあ、そうですね。了解しました受理します」

 

 申請書を手に取るたづなさん。そしてなぜか、空いた手で私の手を掴んできた。

 

「え?」

「話は変わりますが、なぜ二度目の選抜レースを見にこられなかったのですか?」

「えー……理事長からのチーム存続条件は二名のスカウトですよね?」 

「二名以上、ですよ。チームの成立と存続が五名以上であることは変わりません」

 

 にこり、と微笑むたづなさん。なんでだろう、美人の笑みのはずがなんか怖い。

 

「えっと……うちはほら、少数精鋭なんですよ」

「それは厳しいトレーニング故に残る子が少ない場合ですよね。黒沼トレーナーのような。マルカブのところは違いますよね」

 

 そうですね。うちはケガ無し病気無し、無事是名バがスローガンですので。

 

「過去の実績だけで存続を許すのにも限界があります。人数規定だけでも満たしていただかないと、いずれまた条件を提示されることになります。

 そしてその負担はトレーナーさんではなく、担当するウマ娘に行くことをお忘れなく」

「そう……ですね」

 

 一人チームではなくなった。となると次求められるのは実績か。

 ライスたちの実力は疑っていないが、無理にプレッシャーを与えることは避けたい。

 

「マルカブが一人一人丁寧な指導を心掛けているのは分かります。そのためあまり多くのウマ娘を担当することができないのも。

 ですが覚えておいてください。ウマ娘は貴方が思っているほどか弱くはありませんし、一方的に支えられる存在ではないのです。人バ一体。トレーナーもウマ娘も、互いに支え合う存在です」

「肝に銘じますよ……」

 

 解放され、事務局を後にする。

 しかし、支え合う存在か。たづなさんから見て、私はウマ娘を……ライスを支えているように見えるのだろうか。

 

「いや、支えてもらっているのは私の方だ。ずっと、ずっと前から……」

 

 淀で咲き誇った時、非難に耐えていた時、散りかけても生き残り、再び咲いた時。

 いつだって私は、あの青いバラに支えられてきたのだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「おおっ!! ここが、トレーナーのついたウマ娘しか来店を許されないという、学園御用達のスポーツ用品店デスか!!」

「ええっ!? ここってそんなすごいお店だったの!?」

「いや違うから。専門性が高いからデビュー予定のない子が来にくいのは確かだけど」

 

 数日後、私たちチーム・マルカブ一同はトレーニングを休んで学園外に足を運んでいた。

 休日だがトレセン学園の学生としての活動のため三人とも制服だ。手にはトレーニングウェアを入れたバッグを抱えている。

 私もカジュアルながらもスーツを着て、胸にはトレーナーバッチをしっかりとつけている。

 目的地は他のトレーナーたちも良く使うスポーツ用品店だ。わざわざここを指定するのは、なんといってもその規模と多様性にある。

 かつてはレースファンが経営する一般的な規模の店だったようだが、当時のスターウマ娘が常連だったという評判が評判を呼び、なおかつ店側も期待に応えようとグレードアップを続けた結果、ショッピングモール級の規模を持つことになったという。

 トレーナーたちが多用する理由は規模だけでない。品揃えもそうだが、その場で蹄鉄やシューズの試走、場合によってはオーダーメイドで発注することもできるほどの設備と専門知識を持つ店員がいるのだ。

 とあるトレーナー曰く、この店に来れば何でもそろう。この店に無いものは存在しない。仮にあったとしても、その場で作ってしまう。のだとか。

 

「そんなわけで、今日はここでみんなのトレーニング用品やトレーニング用のシューズを揃えるよ」

「あれ? ライスのシューズはまだあるよ?」

「ライスのは昔使っていたものやリハビリ用も兼ねたものだろう。復帰も果たしたし、秋のシーズンに向けて今のライスにぴったり合ったものを揃えたいんだ」

「シューズですか。レース用なら分かりますが、トレーニング用なら学園で支給されるものでよいのではないですか?」

「あれも汎用性は高いんだけどね。誰にでもある程度合うから普段のトレーニングならいいけど、レース直前の追切だとやっぱり専用のものを使いたい」

「んーそこまで変わるものなんデス?」

「ま、それは実際に着けてみればわかるさ」

 

 まずはドリンクの粉末、タオルを買い漁る。三人に増えたので使用量も三倍だ。あ、新しい粉末が出てる。試しに買ってみよう。

 テーピング、蹄鉄をつけるための器具も調整用と合わせて購入。

 嵩張るので買ったものは店から学園へ配送してもらう。

 次が今回の本命、シューズだ。

 

「これは……!」

「すごいデスね!」

 

 シューズコーナーに足を踏み入れた瞬間、グラスとエルの二人から声が漏れた。

 壁一面に飾られた色とりどりのシューズと照明を受けて鈍色に光る蹄鉄。数百を超えるそれらが織り成す壁画が客を迎え入れた。

 目を奪われる二人の様子にライスと私に思わず笑みが浮かぶ。

 この店に初めて来た人はみな、彼女たちのようにこのシューズと蹄鉄の壁画に圧倒されるものだ。

 

「中庭には簡易なトラックもあるから、シューズを試着したまま試走までできるよ」

「おお。だからウェアを持ってきたんデスね!」

 

 壁に飾られたシューズに張られた性能表を基に、まずはライスのシューズを選ぶ。

 ライスは長距離が得意なステイヤー。スタミナを活かせるよう軽めのものがいい。

 今使っているものも同様の観点から選んだものだが、この手の技術は日進月歩。少し離れていただけで何世代も製品が進化しているものだ。

 探してみれば以前使っていた物の最新版があった。軽さを維持したまま新素材を使い耐久性を上げたらしい。シューズ内のクッションも改良し、脚への負担も軽減しているとか。

 まずはこれか。

 あとは近い性能の物を二、三個見繕う。ああそうだ。中距離だって走るのだからそちら向けもいくつか買わないと。

 蹄鉄も、トレーニング用はあとでまとめて買うとしてまずはレース用を見繕う。選んだシューズに合うものを取り、まとめて籠に入れてをライスに渡す。

 

「こんなに試すんですか?」

 

 シューズと蹄鉄でいっぱいになった籠を見てグラスが目を丸くした。

 

「こういうのはカタログスペックだけでなく、実際に走ってみないと分からないからね」

 

 次はグラスだな。

 強力な末脚を活かせるよう、軽さよりも耐久性が高いもの、脚への反動を和らげるものを選ぶ。ライスに比べてマイルにも適正はあるようだし、ここはマイル〜中距離、中盤〜長距離と対応するものにしよう。

 エルも対応距離は同じ。しかしグラスの物より軽めがいいかな。

 ……あ、マルゼンスキーモデル。ちょっと興味惹かれるがうちに逃げウマ娘はいないのでスルーだな。

 ライスに渡したのと同じくらいシューズと蹄鉄が入った籠を二人に渡す。

 ずしりと手にかかる重み。これがデビューを控えているということを実感させるそれに、二人の顔に薄っすらと興奮の色が浮かんでいた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 中庭にあるのは一周800mほどのトラックだ。学園にあるものに比べれば小さいが試走するには充分だ。

 ウェアに着替えた三人と二人一組で準備運動する。身長の都合、エルは私と組んでもらった。

 その後は足元の柔軟を入念に。全体を通して身体が温まり、うっすら汗を掻くくらい行う。

 

「よし、じゃあ順番にさっき選んだシューズの試走といこう」

「はーい!」

 

 ライス、グラス、エルの順にトラックを一周する。シューズの感触を確かめ、次のシューズへ替えてまた一周。適宜蹄鉄の組み合わせも替えながら試走を繰り返す。

 

「ちょっとクッションが薄いかな」

「重い感じです。もう少し軽めのものを……」

「なんか違うデース」

「んー蹄鉄のバランスが合わないかも」

「程よい重さですが、ちょっと硬く感じます」

「なんか違うデース」

「うん、これが一番しっくりくるかな」

「強く踏み込めます。私にはこれでしょうか」

「なんか違うデース」

「……エル、もう少し具体的に言えませんか?」

「そんなこと言われても違うものは違うんデス!」

 

 数度の試走を経て、ライスとグラスは納得できるものが見つかった。しかしエルはそうもいかないらしい。

 持ってきたシューズは一通り試したがしっくりこないという。難しいのは、それをエル自身が言語化できないことだ。

 

「今まではこんな違和感なかったんデス……」

「学園支給のシューズも一般に売られているものに比べれば性能がいいからね」

 

 なまじ素質がいいだけに、あまり道具の差を意識したことがないのだろう。それが専用シューズを持とうとしたところで微妙な差異が気になりだしたか。

 とはいえ生まれ持った才能と素質だけでやっていけるほどトゥインクルシリーズは甘くない。カーレーサーが1mgでも車体を軽くしようとするように、こういった道具との相性を突き詰めてゼロコンマの勝負を制する必要がある。

 

「うーん、こういうのは専門家に聞いた方が早いかな」

 

 餅は餅屋。私もトレーナーである以上道具の目利きは鍛えているが、やはり知識や経験はトレーニングの方に偏っている。一方でこの店の店員はいわば道具の知識を鍛え上げた人たちだ。

 ライスとグラスには待ってもらい、エルを連れて先ほどのシューズの壁画まで戻る。

 トレーナーバッチとトレセン学園の制服を見て、女性店員は全てを察したようだ。さすがだ。

 

「なんといいますか、こっちのシューズはベタッと張り付くんデス。こっちは逆に浮くというか、薄皮一枚隔てた感じがあるというか……」

 

 エルがどうにかこうにか言葉をひねり出し、不満点を伝える。

 抽象的な例えにも店員は嫌な顔せず、むしろ興味深いとばかりにエルの話を聞いている。

 ふむ、と思案した後。

 

「おそらく、お客様は感覚が鋭敏な方なのだと思います。ですから僅かな違和感が気になるのでしょう。

 となりますと、当店の商品からピッタリなものを探すのは難しいですね」

「ケ!? そ、そんな~」

「ですから作ってしまうのはどうでしょう」

「ケケッ!?」

「いいですね。お願いします」

「ケケケッ!?」

 

 困惑するエルをよそに、店員が一度バックヤードに引っ込んで、いくつかの道具を抱えて戻ってきた。

 これぞ、学園のトレーナーたちが常連となる理由。品揃えだけではない。突発的なオーダーメイドにすら柔軟に対応してくれるのがこの店の一番の強みだろう。

 エルを椅子に座らせ、裸足にする。

 慣れた手つきで採寸、型取りを行っていく。

 

「得意な距離はマイルですか?」

「長距離だって行けるデース!」

「それは凄い……!」

「自慢の担当です。……店員さんも慣れていますね。職人さんでしたか」

「まだ修行中の身です。あ、ちゃんと製作はマイスターがやりますのでご安心を」

「店員さんもいい手際に見えますが」

「まだまだですよ」

 

 謙遜ではないだろう。何かを極めようとすればいつまで経っても己が未熟を感じるものだ。私が師匠の下でトレーナー修行していた時もそうだった。

 そして今も。求めるものは多く高く、手にあるものは少なく頼りない。

 

「これで型は取れました。試作品が出来ましたら連絡しますので連絡先の方を」

「分かりました」

 

 スマホの番号を紙に書いて、私たちは店を後にする。時間を見ればちょうどお昼時、ライスに電話して、フードコートで合流することにした。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「それでオーダーメイドを頼むことにしたんですか?」

「ハイ! 世界に一つだけ、エル専用のスペシャルシューズデス!」

「やったねエルさん。このお店、すっごい職人さんもいるって有名なんだよ!」

 

 フードコートでテーブルを囲む、制服姿の三人の会話が花開く。

 三人の前には各々が選んだ昼食が並ぶ。

 エルは辛さが目玉の真っ赤なマーボー丼、グラスは香り立つ蕎麦に夏野菜の天麩羅、ライスは五目ラーメンと餃子と海老炒飯。当然、どれもウマ娘サイズである。

 私は手軽にきつねうどん。

 

「ライスはそれで足りる? 遠慮することないよ。ほらあそこ、新作のドーナツだってさ」

「だ、大丈夫だもん。朝いっぱい食べたし!」

「いやー前の歓迎会は凄かったデス。まさかスペちゃん並に食べる人がいるとは思わなかったデス」

「エル。先輩に失礼ですよ」

「そんなこと言ってー、グラスも目を丸くしてたデス」

「うう……やっぱ変なのかな」

「アスリートなんだし、たくさん食べられるのはいいことさ。小食の子は何かと苦労した話も多いし」

「そ、そうですよ。それにライス先輩はたくさん食べてらっしゃるのに体型が崩れませんよね。何か秘訣とかあるんですか?」

「秘訣……? んー特にはないかな。ライス、食べても太らない体質みたい」

「人によってはリアルファイトに発展しかねない体質デース」

 

 和気あいあいと食事が進む。

 エルは真っ赤な塊を口に入れるたびに汗を拭い、グラスは綺麗な所作で蕎麦をすする。ライスは均等に三種の皿を減らしていく。

 

「ライス先輩もよくこの店を使うんデス?」

「うん。初めての専用シューズもここで買ったんだよ」

「懐かしいな。あの時はまだマルカブもメンバーが多くて、師匠も一緒に買いに来たんだった」

「トレーナーさんの師匠……私たちと入れ違いで引退された、先代様でしたか」

「どんな人だったんデス?」

「優しい人だったよ。見た目はちょっと怖くて、あまりおしゃべりする人じゃなかったけど」

「古きよき人って感じかな。私には手取り足取り教えず、目で見て盗んでみろってスタンスだった」

「Oh……まさに職人って感じデス」

「そんな感じかな。結局、私があの人の技術をどれほど受け継げたかな」

「私もエルも、先代様のことは存じておりませんが……」

 

 思わず零れた弱音に、グラスが反応した。

 

「トレーナーさんの指導で、私もエルも日々成長を感じています。もっと自信を持ってください」

「そ、そうだよおにい……トレーナーさん! トレーナーさんのおかげで、ライスも菊花賞や天皇賞(春)を勝てたんだもん!」

「いやあれはライスが頑張ったからで」

「トレーナーさんのおかげなの!」

「んーこのやり取り何回目でしょう。本当に仲のいい兄妹なのデス」

「「え……?」」

 

 エルのつぶやきに私とライスが停止した。

 こちらの反応に、エルが戸惑う。

 

「あ、あれ? エル変なこと言いました? だってライス先輩、よくトレーナーさんのことをお兄さん? って呼ぼうとするデス。あれって兄妹だからじゃないんデス?」

「え、えっと……それは……」

 

 ライスがしどろもどろになる。

 何故そう呼ばれているのか、私は知っているが、果たして私から話してよいのか。

 

「も、もしや何か複雑な事情がおありなんでしょうか……?」

 

 あ、いけない。グラスまで勘違いしだした。

 意を決したようにライスが説明する。

 

「ち、違うの。……ライスの好きな絵本に出てくるお兄さまにね、似てるんだ。だからライスもお兄さまって呼んでるの」

 

 確か、幸せの青いバラ、だったか。

 色とりどりのバラが咲く庭で、ある日真っ青なバラが蕾をつけた。自然ではあり得ないとされる色をしたバラをみな不気味に思うが、ある日庭にやってきた『お兄さま』はその蕾を見てを素敵だ、綺麗に咲くに違いないとバラを買い取る。

 『お兄さま』は毎日その青い蕾に話しかけ、ついには青いバラが見事に咲いた。窓辺に飾られた青いバラの美しさに、道行く人たちにも幸せになった。という話だ。

 

「青いバラはライス先輩、そして先輩を見事GⅠの舞台で咲かせたのがトレーナーさんということですか」

「うん。自信が持てなくて弱虫だったライスをね、毎日毎日育ててくれたんだ」

「おお……ライス先輩のお兄さまにはそんな理由があったんデスね! ではエルも!」

 

 ぴょん、と席を立ったエルが私の真横につく。赤い唇が私の耳元にやってきて、

 

「にいに……♡」

「ええええエルさん!」

「ライス先輩みたいに、エルとグラスも咲かせてほしいデス!」

「で、では私も……お、お――」

「無理しなくていいからね?」

「――兄上!」

「そっち?」

 

 頬を紅潮させるグラスに、慌てるライス。それを見てケラケラと笑うエル。

 性格の違う三人、相性はどうかと思っていたが、どうやら杞憂だったようだ。

 これ以降、ライスは二人の前でも私のことをお兄さまと呼ぶようになる。彼女たちに心を許した証だろう。

 

 

 やがてエルのシューズの試作品が出来たと連絡が入った。

 

「これが、エルだけのシューズ……」

 

 またガワだけのシューズを履いたエルの顔が輝いた。

 

「おお……おおおお!! これ、これこの感じデス!」

 

 嬉しそうにぴょんぴょんと跳ね回るエル。

 どうやら満足のいく出来のようだ。

 それはそれとして、今はスカートなんだから跳ねるのは止めよう。色々揺れて危ないから。

 

「これさえあれば、エルは正真正銘最強デース!」

 

 数日後、完成したシューズを履いたエルは、トレーニングで見事自己ベストを記録した。

 

 道具は揃った。これで満を持して参加できる。

 

 夏の合同合宿に。

 

 

 

 

 

 








今後ライスがチームメイトの前でもお兄さま呼びするよという話でした。


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7話 マルカブと夏合宿

章設定するの忘れてました。

一応、前の6話から第2章となります。
 







「エル急いで! バスに遅れてしまいます!」

「ままま待って下さいグラス! えーと着替えよし、スマホの充電器よし、日焼け止めよし、蹄鉄とシューズよし、お気に入りのデスソースよし、マンボのご飯よし!

 準備万端オッケーデス! マンボ! 向こうで合流デース!」

「急ぎますよ!」

 

 

「ライスさん。この荷物は合宿に対してオーバーでは?」

「でも何があるか分かんないよ。山で遭難しちゃうかもしれないし、海は波に攫われて無人島までいっちゃうかも」

「缶詰めや懐中電灯は分かりますが、発電機は無意味です。遭難した時点で動力の確保が不可能かと」

 

 

「ちょっとテイオーさん!? 何ですかこの荷物、おやつとジュースしか入ってじゃないですか!」

「仕方ないじゃん向こうじゃハチミー売ってないんだから。マックイーンと違って僕はまだまだ成長期なんだからいっぱい食べないと」

「人が減量中だからってケンカ売ってますわね!? 五割増しで買いますわよ!?」

 

 

「ちょっとトレーナー君! どうしてバスに乗ろうとしているのよ! 私と一緒に合宿所までいく約束でしょ!?」

「いやマルゼンの車だと荷物が入らないし。たまにはトレーナー同士で交流をだな……」

「去年と量はたいして変わってないじゃない! 合宿所でも他のトレーナーと話はできるでしょ!」

 

 七月。マーベラスなウマ娘が宝塚記念を制してから数日後。朝から学園は喧騒に包まれていた。

 トレーナーとの専属契約や、チームへ加入しているウマ娘を対象とした夏の合同合宿の出発日だ。

 秋のメイクデビューや秋シーズンの重賞レースを見据えたこの合宿は、夏季休暇に合わせて学園を離れ、海辺のリゾート地を長期に貸切ることで行われる。春シーズンを走り抜けたウマ娘たちのリフレッシュと世代を超えて交流を深める場、そしていつもと異なる環境でのトレーニングによるレベルアップを目的としている。

 実際、春に結果の振るわなかったウマ娘がこの合宿を乗り越え、秋シーズンで活躍する実例はいくつもある。

 

「お待たせしましたー!」

「ギリギリよグラスさん、エルさん!」

「すいません。エルが支度に手間取ってしまい……」

「遅刻しなきゃオッケーオッケー」

 

 エルとグラスがバスに乗り込むのを確認し、私は手元の名簿にチェックを入れる。

 これで私が受け持つバスに乗る子は全員来たので私もバスに乗り込む。

 

「これで全員揃ったはずですが、一応隣の席の人が間違いなくいるか、各自確認をお願いします」

 

 乗員たちが互いの隣を見合い、問題なしの答えが返ってきた。

 運転手に乗車完了を告げ、私も席に着く。

 少ししてバスの扉が閉じ、ゆっくりと走り出した。

 

「合宿、久しぶりだね」

「そうだね。去年は師匠たちだけに任せてしまったから」

 

 隣に座るライスの言う通り、去年はライスのリハビリに専念してたので、私は参加せず、師匠と他のメンバーのみで参加だった。

 それが新たにメンバーを加えて参加する日が来るとは、人生とは分からないものだ。

 チームの多くは独自で車を用意して合宿所に向かうことが多いが、マルカブのような少数チームは他の専属トレーナー組と抱き合わせてバスに放り込まれた。

 おかげでグラスとエルも普段仲の良いクラスメイトと一緒のバスに乗れた。

 セイウンスカイとキングヘイロー。どちらも専属のトレーナーを得たデビュー前のウマ娘だ。

 大食い……じゃない、グラスと仲の良いスペシャルウィークはチーム・スピカに入った――スピカは別の車で合宿所に向かうようだ――ため、これでクラスメイトの五人がデビューを控えることとなったわけだ。

 

「セイちゃん、何を読んでるんデス?」

「釣りマップ。合宿所って海辺なんでしょ? いやーどんな魚が釣れるか楽しみだよ」

「ブエノ! 釣れたらタイキ先輩のお肉とまとめてバーベキューデス!」

「あなたたち……私たちはトレーニングに行くのよ!?」

 

 初合宿のウマ娘たちの賑やかな声が、やがて歓声に変わる。

 窓から外を見れば、青く輝く海が一望できる。

 私の記憶にある白い砂浜も、木造の合宿所も、変わらずそこにあった。

 

(帰ってきたんだな……)

 

 ここで鍛えたライスは菊花賞でミホノブルボンに勝つほどのレベルアップを遂げた。

 それを知るウマ娘は多い。当然、グラスとエルも知っている。

 バスのスピードが落ちるのに合わせて、ウマ娘たちの顔が引き締まっていく。

 この合宿が、秋シーズンの成果につながるのだと誰もが理解しているのだ。

 デビューに向けて、クラシックとティアラの最後の一線に向けて、スプリントやマイル、各路線の王者を決めるGⅠに向けて。

 すでに戦いは始まっている。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「デース!」

「やあっ!!」

 

 照り付ける太陽の下、トレーニング用の水着に着替えたエルとグラスが砂浜を疾走する。

 蹴り上げられた砂が舞い、土煙を起こす。

 

「エル、もっと強く踏み込んで! グラスはフォームが崩れてる!」

「「はい!!」」

 

 普段の芝やダートと違い、砂浜は柔らかく不安定だ。だから脚への負担を減らしつつ足腰を鍛えることができる。

 とはいえ強い夏の日差しの中でやる以上、日射病や熱中症への注意は必要だ。

 パラソルで影を作り、濡れタオルやドリンクの準備は必須だ。

 

「よし、エルは一回休憩。グラスはライスと併走、ライスが先行してグラスは差してみよう」

「「はい!」」

 

 パラソルの影からライスが出て、玉の汗を流すエルが入れ替わりで戻ってくる。

 濡れタオルで火照った体を冷やしつつ、ドリンクで水分補給。

 

「ぷはぁあ~生き返りマス!」

「しっかり休んでね。次はライスと併走してもらうし、午前中の締めでは三人で模擬レースするからね」

「おお、初日からガッツリデスね! 午後のメニューは何デスか!」

「いや、今日の午後はお休みだよ」

「ズコーッ!! な、何でデスか!?」

「今日は午後から雨予報だからね。降ってくるまでやってもいいけど、中途半端で効率よくないしクールダウンの時間も取れない。だったらいっそ休みにして楽しんだ方がいい。これは合宿だけど、夏休みでもあるんだから」

 

 トレーニングも大事だが、とにかく練習練習では身と心が持たない。

 休息で身体を、遊びで心を回復させていかないと。

 

「合宿は始まったばかり、慌てる必要はないさ」

 

 慌てる必要が無いようにするが、私の仕事だ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 午前は予定通りのトレーニングをこなした。

 海の家で昼食を取り、午後は遊びに切り替えた。

 グラスはエルと同じでどこか不満げだったが、そこは年頃の少女だ。遊んでいるうちにだんだんと笑顔になっていく。

 他の練習なしのウマ娘たちも交えてのビーチバレー、砂浜での砂像作り、波打ち際での水遊び。

 みんな午前中トレーニングしていたとは思えないほどよく動く。やはり同じ身体を動かすものでもトレーニングと遊びでは別物だ。

 

「はあはあ……ごめんちょっと休憩させて……!」

 

 三回目のビーチバレーでライスとグラスのコンビに叩きのめされた私はふらふらと日陰に逃げ込んだ。

 自分もそれなりに鍛えていたつもりだが、やはりウマ娘の体力や運動神経には敵わない。

 

「ははは、新しいチームメンバーとは仲良くやってるみたいだな」

 

 水分補給していると、声を掛けられた。

 左側を刈り上げ、後ろで髪を結うという奇抜な髪形、口にくわえたキャンディー、チーム・スピカのトレーナーだ。

 

「ええ、二人ともいい子なので助かってますよ」

「慕われてるんだろ? あんたの人徳さ」

「スピカと同じように、ですか?」

「褒めてんだから素直に喜べよ」

 

 どさりと隣に座る同期を他所に、スピカの近況を思い出す。

 チーム・スピカの今のメンバーは四人。スペシャルウィークが加入するついこの前まで三人と、マルカブと同じ人数不足の黄色信号チームだ。

 そんなスピカが存続できていたのはチームの二枚看板とも言えるスターウマ娘、トウカイテイオーとメジロマックイーンだ。

 トウカイテイオーは無敗で皐月賞と日本ダービーを制すも骨折のため三冠を逃し、その後も度重なるケガに苦しめられながらも一年ぶりのレースとなる有記念を制した不屈の帝王。今はドリームトロフィーへと活躍の場を移している。

 対してメジロマックイーンは名門とされるメジロ家の令嬢であり、遅咲きながらもクラシックの菊花賞を制したステイヤー。特に天皇賞(春)を二連覇していることからも、長距離の最強ウマ娘議論で必ず名前が上がる、歴史にその名を刻んだターフの名優だ。今は病気で療養中だが、当人は復帰に意欲的と聞く。

 こんな二人を有するスピカはそれはもうリギルに並ぶトップチームだと思うが、チームトレーナーの放任主義というか個性的なトレーニングもあっていまいち新メンバーが定着しない。

 あと、なぜか一向にデビューしないゴールドシップの奇行についていけなくなったという説もある。

 

「スピカはスぺが加入してついに四人だ。もうマルカブと一緒くたにされないぞ」

「五十歩百歩って言葉知ってますか? 規則ではチームの必要人数は五人以上ですよ。

 あと、ゴールドシップの奇行を止めない限りスピカが学園から目を付けられるのは変わりません」

「無理を言うなよ……。あと、五人目については目星をつけてるところだ。何度か口説いているんだが、なかなかいい返事を貰えなくてな……」

「そうでしたか」

 

 適当な相槌を打ってから、はて、と疑問が浮かぶ。

 今は七月。彼の言を信じるならば、六月末になってもスカウトに応じなかったということになる。

 六月末までの時期のスカウトはウマ娘のレースキャリアにとっては重要な意味を持つ。

 メイクデビューは主に日本ダービー後の六月から翌年二月まで行われる。そこから逆算して、主にスカウトが盛んなのは三月から六月、特にトレーナーが付いていないと参加できないこの夏合宿のため、六月に滑り込みで契約を結ぶウマ娘も多い。

 それを考えると、スピカへ誘われているというウマ娘は夏合宿を一度棒に振ってまで加入を決めかねているということだ。

 考えられる理由は二つ。一つはチーム・スピカに対して警戒している――いやそうなる要因はいくつかあるが――そしてもう一つは、

 

「……引き抜きですか?」

「今のやり取りでよくそこまで考えが回るな」

「やり方に口を出す気はありませんが、トラブルを起こすのはやめてくださいよ。チームを替えても同じ学園の中にいるんですから」

「狙いがエルコンドルパサーとグラスワンダーだとしたら?」

「あげませんよ」

 

 にやり、とスピカトレーナーが笑う。

 

「即答だな。ようやく欲を出すようになったか」

「……先日、『もしも、もしもだよ。全然あり得ない仮の話だよ』と念を押されて他のチームに移籍すると言ったらどうするかと聞かれました。『それが君たちの本心なら、残念だけど応援するよ。移籍先での活躍を心から願っている』、と答えたら尻尾で袋叩きにされました」

「もうやらかし済みかよ!!」

 

 あれは痛かった。尻尾で叩かれるより、本気で傷ついた顔を向けられたのが堪えた。あと三時間に渡る講義(正座)も。

 

「知ってますか? 正座って続けると足の感覚が無くなるんですよ」

「知りたくないわそんな情報。……いやいや、こんな話をしに来たんじゃないんだ。合同トレーニングの誘いだ」

「スピカとですか? ……いいですよ。スペシャルウィークとはグラスもエルも同期になりますし、いい刺激になります」

「スぺだけじゃない。マックイーンとテイオーもいる」

「トウカイテイオーはともかく、メジロマックイーンが? 復帰するんですか!?」

 

 耳を疑う情報に立ち上がる。確かメジロマックイーンの病は繋靱帯炎だ。脚への衝撃を和らげるカ所をつなぐ靭帯の炎症であり、悪化すれば歩行すら危うくなる。症状が回復してもトレーニングにより再発の可能性が高く、レースを走るウマ娘にとっての致命傷。過去に多くのウマ娘がこの病の前にレースの道を閉ざされてきた。

 それでも本人の意思を汲んで、メジロ家お抱えの主治医が治療に当たっているとは聞いていたが、まさか数年で復帰が見えてきたのか。

 

「まさに名門の意地ってやつだな。……いろんなコネクションからの支援もあったようだが」

「復帰はいつ頃?」

「少なくとも今年は無理だ。本人は来年にはって頑張っているが、どこまで調子が戻るか。……でも、今の内から少しでも感覚を取り戻してやりたいんだ。今回のトレーニングも走ったりはできないが、武術とかである見稽古ってやつだ」

 

 拳が私の胸を軽く叩く。

 

「おたくのライスシャワーには、天皇賞(春)の借りもあるしな」

「ええ。ライスも喜ぶでしょう」

「ああ、あと一緒にやるのはスピカだけじゃない。

 ……聞いて驚け? なんの気まぐれか、あのスーパーカーが一緒だ」

 

 今日何度目かの、信じられない情報だった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「やっほー! 今日はトレーニングよろしくねー!」

「はあいテイオー。チーム・マルカブも、今日はよろしくね!」

 

 予報通り雨が降った次の日。朝のトレーニングは、エルコンドルパサーにとって夢でも見ているかのような光景だった。

 奇跡の復活を遂げた不屈の帝王トウカイテイオー、誰も追いつけないとされた真紅の閃光(スーパーカー)マルゼンスキー。

 トゥインクルシリーズにその名と蹄跡を刻み、今はドリームトロフィーリーグで活躍するスターウマ娘たち。それが二人、これから自分たちと一緒にトレーニングするというのだ。

 昨日トレーナーから聞かされた時は楽しみだと興奮したものだが、いざ目の前にいると足がすくむ。

 

(いや、それよりも……)

 

 隣からの闘志の圧が凄かった。

 エルコンドルパサーの隣にいるライスシャワー。彼女の前にいる、メジロマックイーン。

 二人の間にはバチバチと火花が散っている。

 天皇賞(春)で激闘を演じたことから互い意識した相手なのは理解できる。

 が、

 

(グラス……グラァス!)

(……何ですかエル)

(ライス先輩の視線が、併走で後ろにいる時並の鋭さデス!)

(お互いステイヤー同士、ライバルである彼女には並々ならぬ感情があるのでしょうか)

 

 そうだろうか。そうかもしれないが、それだけではないだろうとエルコンドルパサーは直感した。

 ライスシャワーにとって他のライバルといえばミホノブルボンだが、彼女と対峙した時はこんな様子ではなかった。

 ミホノブルボンになくてメジロマックイーンにある何かが、ライスの闘争心を掻き立てているのだと思った。

 

「マックイーンさん、久しぶりだね」

 

 闘志を振りまきつつも、ライスシャワーの口調は穏やかだった。

 

「ええ、お久しぶりです。先日の目黒記念、見事な走りでした。遅くなりましたが、復帰おめでとうございます」

「ありがとう。マックイーンさんの方は……?」

「残念ながら今年はできません。ですが、来年の秋には必ず」

「うん。ライス待ってるから。……でも無理しないでね?」

「ありがとうございます」

 

「よーし、じゃあまずは二人一組でストレッチから!」

 

 マルゼンスキーのトレーナーが号令をかける。

 グラスワンダーとスペシャルウィーク、トウカイテイオーとメジロマックイーン、マルゼンスキーとゴールドシップが組み、エルコンドルパサーはライスシャワーと組んでストレッチする。

 

(あの……ライス先輩?)

(なに? エルさん) 

(その、なんか……マックイーン先輩への態度がなんか普段とかなり違うなーと思ったデス)

(あ……えっとね。ライスにとってね、マックイーンさんは負けたくない相手なの)

(やっぱり、ステイヤーとしてですか?)

(それもあるけどね、昔ね、お兄さまがマックイーンさんのレースを見て言ってたの)

 

『見てごらんライス。あれがメジロマックイーンだ。綺麗なウマ娘だなあ。毛並みも艷やかだし、トモもいい。ああいうのがスターって言われるんだろうな。彼女みたいになれるように頑張ろうな!』

 

(………Оh)

 

 エルコンドルパサーも、そこまで容姿を褒められたことはない。いや、おそらくトレーナーが言う綺麗というのはフォームのことで、毛並みやトモはコンディションが良いことを言ったのだろう。そういう人だ。

 それが分からぬライスシャワーではない。しかし分かった上で、ライスシャワーはメジロマックイーンへの対抗意識を燃やしているのだ。

 彼女にとってミホノブルボンが友情からくる何度も競いたくなるライバルならば、メジロマックイーンは目標であり超えるべきライバルなのだ。

 

(エルさんも、きっとそんなライバルが出来るよ)

(そうでしょうか……)

 

 エルコンドルパサーの夢は世界最強。生まれ持った素質に加えてストイックに鍛えてきて、同期とも頭一つ抜けていると自覚している。

 さらにはゆくゆくは海外遠征も考えているが、果たしてそこまでついてくる者はいるだろうか。

 クラスの同期たちもデビューする以上、頂点を目指す。だがそれは国内に限っての話だろう。

 果たして何度、同期たちと競う機会があるか。

 

(少し、羨ましいデス……)

 

 ライスシャワーとメジロマックイーンの関係を見て、そう感じるエルコンドルパサーだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「あー疲れましたデス!」

 

 夜、寝巻に着替えたエルコンドルパサーがベッドにダイブする。

 突如組まれたマルゼンスキー、チーム・スピカとの合同トレーニングは良い刺激となった。

 疲労する身体も、未だ熱もつ脚も心地よく感じるほどだ。

 内容こそ特別なものではない砂浜での併走だったが、マルゼンスキーもトウカイテイオーもGⅠウマ娘。ライスとはまた違う強みを持つ者たちと走ることは良い経験だったと思っている。

 加えて同期のスペシャルウィークだ。彼女の実力も最後に併走した時から随分上がっている。

 強くなっているのは自分たちだけではない。周りも同様に力をつけているという事実は身も心も引き締めた。

 

「二日目からこんな経験できるなんて、最後にはどうなってしまうんでしょう……」

「今日みたいなのが毎日、とはいかないですよ」

「でも期待してしまいマース。いつかは、最強と言われるリギルのウマ娘たちとも……」

「それは……確かに実現すれば心躍るものですが」

 

 怪物ナリタブライアンを筆頭に、女傑ヒシアマゾンや幻の三冠ウマ娘と言われたフジキセキなど、トップクラスのウマ娘たちが所属するチーム・リギル。

 グラスワンダーは、リギルにも声を掛けられたのを思い出す。もしよければ、入団テストを受けに来ないかと。エルコンドルパサーも同様に声を掛けられたはず。

 結果として自分たちはマルカブを選んだが、リギルに入っていたらどうなっていたか。

 

(いえ、今更どうにもならないことを考えても仕方ありませんね……)

 

 ふと、近くでスマホが振動するのを感じた。マナーモードの端末に着信していた。

 画面に示される相手の名前は、彼女たちのトレーナーだった。

 

「はい。グラスワンダーです」

『ごめんね夜遅くに。もう寝るところだったかな?』

「いえ、大丈夫ですよ」

『よかった。二人に渡したいものがあったのに忘れていてね。すまないけど広間まで降りてこれるかな?』

 

 学園と同様、ウマ娘が寝泊まりする宿舎内は基本トレーナーは立ち入り禁止だ。

 だが合宿中は突発的事象も起こりうるため、短時間なら一階広間まで入れる。無論、その間お目付け役はいるが。

 

「今からですか? 急ぎのことでしょうか?」

『いや、明日明後日までにというわけじゃない。ただ少しでも早めに渡した方がいいと思ってね』

「もしや、トレーナーさんはもう広間に?」

『いやまだ外にいる。これからメジロライアンにお願いして入れてもらうところだ』

 

 美浦寮長のヒシアマゾンはチーム・リギルが使うホテルにいる。だから宿舎は美浦寮のウマ娘が日替わりで当直のような真似をしていた。今日の当直はメジロライアンだったのを思い出す。

 耳をすませば、下からメジロライアンの声が聞こえた。

 

「分かりました。今すぐに――」

 

 向かうと言いかけて、自分の姿を見直す。ドライヤーで乾かしたとはいえやや濡れた髪、乱れもある。熱い風呂に入って上気した顔。寝巻故、ところどころ隙のある装い。

 ……この姿でトレーナーに会うのか?

 

「三分ください」

 

 まずは、寝落ちしかけている同室を叩き起こすことにしよう。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「お待たせしました」

「大丈夫。私も今さっき入ってきたところだ」

 

 通話を切ってからきっかり三分。ジャージを着たグラスとエルが降りてきた。

 寝るところだと思ったが、思いのほかしっかりとした格好で意外だった。

 

「もう寝るところだと思ってたけど、もしかして自主トレでもしてた?」

「い、いえそういうわけではないんですが……」

「……?」

「エルは、トレーナーさんは気にしないって言ったんデス。でもグラスってばパジャマを見られるのが恥ずかしギャボ!?」

「なんでもありません。それよりもトレーナーさん。渡したいものというのは?」

「あ、ああ。これだよ」

 

 エルの様子がおかしかったが、あまり詮索しない方がいいなと判断した。

 時間をかけては立ち会ってもらっているメジロライアンにも申し訳ない。

 持ってきていた申請用紙を二人に渡す。

 人体を前後左右からみた簡単な図と、体のサイズ、他要望点などを記載するよう示された用紙に、エルとグラスが首を傾げる。

 

「なんデスかこれ?」

「勝負服の申請書。それに自分の好きなデザインや要望を描くんだ」

「「勝負服!?」」

 

 二人の声が重なる。傍観していたメジロライアンが驚きの声を漏らす。

 

「まだデビュー前なのに勝負服ですか? 少し急ぎ過ぎじゃないですか?」

「そうかな? 順当にいけば二人は九月にはデビューだ。そのあとОP戦を二回も勝てば十一月のジュニア級重賞に手が届く。そこで勝てばジュニア級GⅠだ」

 

 二人はまだ衝撃から復帰できないようだ。視線で穴を空けるかのように紙を見つめている。

 ファン相手の感謝祭などを除き、GⅠレースでしか着用することのない勝負服。

 二人ともトゥインクルシリーズを走る以上、GⅠを走ることは想像していただろう。しかしさすがにデザインまでは考えが至っていなかったか。

 メジロライアンが目を丸くしている。

 

「もう勝った気でいるんですか……?」

「まさか。そこまで驕ってはないさ。どれだけ万全に備えてもレース本番で何が起こるか分からない。

 でも、負けると思って走る子はいない」

 

 ハッと二人が顔を上げた。

 

「目指すんだろ? 頂点を」

「「――はい!!」」

 

 力強く頷く二人に、メジロライアンは目を丸くした。

 そして笑み。

 

「二人とも、いいトレーナーさんと会えたみたいだね」

「ええ、自分の夢を託せる心強いトレーナーです」

「もっと自分に自信持ってほしいとは思うデスけどね!」

「善処します……」

 

 スキップするように二人が部屋に戻っていく。

 勝負服には各々の想いを込める。夢、絆、感謝。二人はどんなものを込めるのだろう。

 そしてその想いを観衆の前に魅せられるよう、より一層二人の指導に努めようと決意した。

 

 

 

 

 

 

 







スピカトレの名前ですが、沖野は中の人の名前ですし、設定資料にあったという名前も公式設定として生きているか分からないので、名前は出さない方針で行きます。


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8話 合宿中の特にオチのない話

皆さまいつも誤字報告ありがとうございます。

夏合宿だからイベント満載だぜ!と思っていたら前後のつながりが思った以上にグダグダになったので小ネタ集っぽくなりました。
いつもより短いです。いつか手直しするかも。

一応、後半は話が進みます。





 

●釣れぬなら、獲って見せようなんとやら

 (グラスワンダー、セイウンスカイ)

 

「むう……いっこうに当りが来ません。釣りとはなかなか難しいですね」

「私としては、グラスちゃんが餌にしてる虫とか平気なのが意外だなー」

「ワームでしたらなんとか……。というかセイちゃん上手いですね」

「こればっかりは小さいころからやってるからね……っとまたヒット」

「むむ……いえ、釣りは忍耐。ここはじっと耐えましょう」

「あれこれ試すから、せっかちほど上達早いって言う人もいるけどね。ポイント交換する?」

「んん…………お願いします」

 

「……あの、グラスちゃん」

「なんでしょうか」

「もう日が暮れるのでセイちゃん帰りたいのですが?」

「まだです。まだ、一匹も釣れていません」

「そういう日もあるって。夜に帰ったら皆心配するよー?」

「もう少し、もう少しだけですから……!」

「それ三回目だよ……」

 

「で、結局夜になってしまったと」

「申し訳ありませんでした」

「謝るのはセイウンスカイと、宿舎の皆にね。エルも心配してた」

「はい……」

「それと」

「…………」

「魚ありがとうね」

「……はい!」

 

 

 

●あのおみ足、前から揉むか後ろから揉むか

 (男トレーナー衆)

 

「やっぱりいいトモを見ると触らずにはいられないんだ」

「変態じゃないですか……」

「なんだと!? あんたらだって担当のトモ触るだろう!」

「一緒にするな」

「疲労の溜まり具合を見てるだけです」

「熱とか持ってると警戒しますよね」

「ああ、疲労を顔に出さないウマ娘もいるからな」

「正直になりましょ! 均整の取れた筋肉! ハリツヤのあるトモ! ここを見ないと強いウマ娘かなんて分からないって!」

「まあ、判断基準の一つであることは同意しますが……」

「だろう!? 女性トレーナー陣も鍛えている人はいるけど、どうしてもぶっとくなるんだ。それに引き換え、あの細い足に秘められた強烈な脚力! これがウマ娘の魅力だと俺は声を大にして言いたい!!」

『そこは同意する』

 

「葵、ちょっとあのバカどもしばいてくるわ」

「お供します小宮山先輩」

 

 

 

●コンドルも鳴かずば打たれまい

 (チーム・マルカブ)

 

「今日はお休み! 心ゆくまで遊ぶデース!」

「わあ……エルさん大胆なビキニ……」

「ふふん! ライス先輩の黒セパレートも、グラスの青ワンピースも似合ってるですよ」

「ありがとうございます。しかし……」

「うう……エルさんはスタイル良くて羨ましいな」

「ウフ~ンアハ~ン、これでトレーナーさんも悩殺デース」

「「……………」」

「え、ちょっ……二人ともジョークですよ! コンドルジョーク! だから、そんな怖い顔はやめ………ホギャーー!!」

 

 

「好きな水着? うーんそれぞれに似合ってればいいんじゃないかな。……そういう話じゃない? そうか……肌の露出が多いとやっぱり視線向けちゃうかな。筋肉の付き方とか、張りとか。……そういう話でもない? 難しいな……。 ライスの水着について? うん、とても似合っている。素敵だよ。やっぱりライスは黒が似合うね。……あれ? なんでそんなガッカリしてるの……?」

 

 

●真夏の夜の暴食

 (モブたち)

 

「来たぜ……ライスシャワーだ」

「あのオグリキャップと並ぶ大食いの……」

「知っているか? 今年来たスペシャルウィークとかいうのもかなり食べるらしい」

「マジかよ。今日の祭り、どれだけの食い物系屋台が生き残れるんだ……」

「くっくっくっく……安心したまえ諸君」

『町内会長!』

「今日という日のため、我々がどれほど入念に準備してきたと思う? 例年の五倍の食材! 鮮度を保つ貯蔵設備! 高速調理を可能とする最新の調理器具! 豊富な電力供給するための発電機も準備万端! 仮に食材が切れたとしても即座に補充する契約も取り付けた! 運送会社との連携も完璧だ」

「そ、そうだ。これだけ準備したんだ。もう『え、もう品切れなんですか?』なんて悲しいことは言わせないぜ!」

「その通り! この祭り、我々の勝利だ!」

 

 スペシャルウィークもいたので全滅した。

 

 

 

●重い想い

 (ライスシャワー、お兄さま)

 

「お、お兄さま! ライス大丈夫だから、おろして!」

「ダメだよ。下駄の鼻緒が切れたんだ。せめてゆっくり直せるところまでは運ぶよ」

「だったらせめておんぶとか、どうしてその……お姫様だっこなんて……」

「浴衣だと背負いにくいんだ。少し我慢してね」

「うう……でもライスさっきいっぱい食べたからきっと重いよ?」

「これくらい大丈夫だよ。ライスはむしろ我慢せず食べてもっと大きくなっていいと思うよ」

「あうう……」

 

 

「……エルたちは何を見せられているんデス?」

「トレーナーさんって、ライスさんのことだとちょっと大胆というか、その……」

 

『重そう』

 

「お、重くないよ!?」

 

 

 

 

●消してえええええええ

 (チーム・マルカブ )

 

「エルさん……待って!」

「ヒ、ヒィィイイイイ!! ライス先輩の目から炎が見えマス!」

「待って……!」

「ゆ、許してください! 出来心だったんデス! 珍しくライス先輩が涎垂らして寝ていたからつい!」

「……つい?」

「写真撮ってトレーナーさんのLANEに送ったデス」

「………………」

「ヒィィイイイイ!! 無言で追ってくるのはもっと怖いデス!!」

 

「3,000m超えたら止めに入ろうね」

(トレーナーさんが送られた写真について何か言ってあげたら止まると思うのですが……いえ、火に油を注ぎかねないですね)

 

 翌日。

 

「ラ、ライス先輩……お願い、待って……デス……!」

「ほらエルさん。ペース上げて。早くライスに追いつかないとこの『マスクを取った状態のエルさんの寝顔』をLANEのグループチャットにあげちゃうよ」

「昨日の写真はトレーナーさんにも可愛いって言われたのに……」

「それはそれ、これはこれだよ」

「お、鬼ぃ……悪魔ぁ……」

「そんなこと言われて、ライス悲しい。悲しすぎて送信先をクラスのグループに替えそう」

「ゆ、許してぇぇえええ!!」

 

 

「そんなにマスクの下見せたくないの?」

「人目のある時は基本つけてますね。寝る時も寝入る直前までつけてるみたいです」

 

「二人ともー! 黙ってないでライス先輩止めてくださーい!」

 

 3,000m超えたあたりで止めた。

 なお写真はまだ消してない。

 

 

●初対面

 (お兄さま、マンボ)

 

「なんか部屋に戻ったらでかい鳥がいる……」

 

 ………………

 

「すごいこっちを見てくる。なんだ? トンビか?」

 

 ………………

 

「足になんか絡まってる。取れってことか?」

 

 ………キーー!

 

「そして窓から飛んで行った。なんだったんだ……。

 ……これ、エルが普段つけてるマスクに似てるな」

 

 LANEを起動して、チームのグループチャットを開く。

 

「えっと……『大きな鳥が置いていったんだけど見覚えある?』っと」

 

 涙目のウマ娘が飛び込んでくるまであと五分。

 押し倒されてると騒ぎになるまであと七分。

 

 

 

●なぜ走る

 (とある栗毛)

 

 

 昔から走ることが好きだった。

 レースが好きだったわけではない。走ることで感じる風が好きだった。

 走っていると音が消え、景色は線になる。ただ顔を撫でる風と内から弾む胸の鼓動だけ感じる世界。それがひどく心地よかった。

 親しいものに語ったことはあるが同意は得られなかった。最近来た年下のルームメイトは目を輝かせて凄い凄いと言ってくれるが、称賛が欲しいわけでもなかった。

 ただ自分と同じ価値観の人に会いたかった。そうすれば、自分の迷いを晴らせるのではと思った。

 

「あ……いけない。またこんなところまで」

 

 ふと足止めて周りを見れば、合宿所から離れた市街地まで来ていた。山道からスタートしたはずだから、また山越えをしてしまったのだろう。

 時間は、まだギリギリ。なんとか門限に間に合うだろう。

 品行方正なチームメイトにまた叱られる前に来た道を戻る。

 周りが目を見張るほどの加速。だが彼女にその視線は届かない。

 音は消え、景色は線に。風と鼓動だけの世界へと没入する。

 

(でも、この走りでは勝てないのよね……)

 

 指導してくれるトレーナーの言葉が片隅で澱んでいた。

 だがトレーナーは分かっているだろうか。

 

(この走り以外で、私は勝てたことあったのかな……)

 

 答えを出せないまま、栗毛のウマ娘は海へと突き進んでいく。

 

 門限には間に合わなかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 夏合宿もあっという間に過ぎ、学園へ戻ることになった。

 自然の中でのリフレッシュとトレーニングにより、参加者たちの身も心も充実したことだろう。

 ほんのり小麦色に焼けた肌をしたウマ娘たちがバスに乗り込んでいく。

 少女たちの表情は明るく、その瞳にはつけた力を発揮する場を求めるように、闘志が燃えていた。

 

「ちょっとお! どうしてバスに乗ろうとしているのよー!」

「いやいや、お土産とかいっぱい買っちゃったし……」

「荷物だけ載せてもらえばいいじゃない! もう、トレーナー君は私のことなんてどうでもいいのね……」

「そんなことない!」

「本当に……?」

「俺の目にはいつもマルゼンスキーしか映ってない!」

「トレーナー君……!」

「マルゼン……!」

「トレーナーくううん!!」

「マルゼエエエン!!」

 

「……なんデスかあれ?」

「この時期の風物詩さ。蝉みたいなものだよ」

「トレンディなセミデス……」

「いつもあんな感じなんです?」

「レースの時は凄いんだけどね……」

 

 こうして、トレセン学園の夏は終わった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 九月に入り、トゥインクルシリーズの秋シーズンが始まる。

 そして、グラスとエルのメイクデビューだ。

 今日はGⅠレースこそないが、未来の新星を見るため多くの観客がいる。

 熱狂は地下の控室にも響いてくる。

 二人のデビュー戦は別のレースだが、同日のためこうして同じ控室にいた。

 

「二人は同学年の中ではトップクラスだ。でも今日のメイクデビューには年明けから長くトレーニングした子もいる。夏合宿で大きく力をつけた子もだ」

 

 デビュー戦を迎えるのは一レース当たり約十人。レースを制し、次のステップに進めるのはうち一人。

 ここで勝っても、次もまた勝てなければ重賞、GⅠなど夢のまた夢。

 華々しく栄光を得るか、泥にまみれて苦汁を飲むか。苛烈な競争はここから始まる。

 

「とまあ脅かしはしたが、二人は問題ないと思っている」

「当然デース! エルの最強への道、こんなところで止まってられませーん!」

「自信はあります。ですが慢心はせず、全力で」

「それでいい。気負い過ぎず、されど油断せず。君たちの実力をしっかり出せれば負けはしない」

「二人とも、頑張ってね! ライスも応援してるから!」

 

 はい、と力強く頷き、まずはグラスから地下バ道へ向かう。

 ここから、新生チーム・マルカブが動き出すのだ。

 そして、

 

 

 

 

「えー、ではエルとグラスちゃんの見事なデビュー戦勝利を祝しまして――」

『カンパーイ!!』

 

 まあ、問題なく勝つんだが。

 

 

『麦茶だこれ!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






補足
小宮山さんは漫画シンデレラグレイに登場する、タマモクロスの担当トレーナーです。
本作ではお兄さまよりトレーナーとして先輩になります。

葵はご存じ桐生院。お兄さまの後輩(なお交流はあまり無い)にあたります。


次回、天皇賞(秋)前編。


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9話 ライスと彼女たちの天皇賞(秋) 前編


9話と10話を書くに当り、モデルとなった天皇賞(秋)を調べて驚いたこと。
・スズカが出てた
 →だからアプリ育成の大逃げスキル取得の条件が秋天連覇なんですかね。

・優先出走権がある。
 →クラシックの三冠路線しかそういうのないと思ってました。







 チーム・マルカブの新メンバーは二人揃って見事デビュー戦で勝利を飾った。

 今後は一勝クラス、やがてはジュニア級重賞を目指す。

 未来のクラシックを彩るだろう新星の誕生に世間は沸きつつ、続くGⅠレースへと意識を移していった。

 

 

 

 中山レース場 GⅠ スプリンターズステークス

 

『ミホノブルボン先頭! ミホノブルボンが先頭! タイキシャトルも食らいつく! 後ろからヤマニンゼファー、ニシノフラワーが猛追だ!

 タイキシャトルがミホノブルボンと並んだ! 譲らないミホノブルボン! タイキシャトル攻め切るか!? 今、二人、並んでゴール!! 写真判定です!

 三着はニシノフラワー! 四着ヤマニンゼファー! 可憐な花も、吹き荒ぶ風も、この上位二人の足を止めるには至らなかった!

 さて判定ですがこちらからは優位は分かりませんで――ああ! 同着! 同着です!!

 秋のトゥインクルシリーズ最初のGⅠ、今年のスプリンターズステークス、短距離王者は二人! ミホノブルボン、そしてタイキシャトルです!!

 これでミホノブルボンは復帰から、前走GⅢキーンランドカップに続いて重賞三連勝! かつGⅠ二連勝、そして自身が掲げた全距離芝GⅠ制覇まで残り二つとなりました!

 タイキシャトルもクラシック級ながらも歴戦のスプリンターを抑え、GⅠ初勝利となりました!』

 

 復活のミホノブルボン快進撃! ヴィクトリアマイルに続いてスプリンターズステークスを勝利!

 

「はい。次はステップとして毎日王冠、その後は宣言通り天皇賞(秋)へ向かいます」

「短距離から中距離への距離延長と、出走権のための過酷なローテーションが懸念されていますが?」

「私の夢の達成のためには必要なプロセスです。過酷な道は当初より想定していました」

「ファンからはケガの再発を心配する声もありますが、ファンに一言!」

「心配いただき感謝します。ですが私はただケガが治ったから復帰したのではありません。次はケガしないだけの身体に鍛え、万全の準備を整え戻ってきました。

 どうか、私を信じてください」

 

 天皇賞(秋)への意欲は十分! 坂路の申し子が三階級制覇にむけて出撃する! 

 

 

 

 中山レース場 GⅡ オールカマー

 

『最終コーナーを回り、ここでライスシャワーが先頭に立った! 後続との差がぐんぐんと、いやメジロドーベル、メジロドーベルが飛んできた! 差し切るか!? 逃げ切るか!? ライスか! ドーベルか! ライスシャワー! ライスシャワーが逃げ切った!

 中山でも青いバラは見事に咲いた! 次は天皇賞(秋)だ!』

 

 ライスシャワー中距離GⅡでメジロの新星相手に完勝! 優先出走権を手に、秋の盾を狙う!

 

「はい、自分の力を発揮できたと思います。天皇賞(秋)へ自信がつきました。

 最近のチームですか? はい。グラスさんもエルさんも強いですよ。次のレースでも、先輩としてしっかりいいところを見せたいです」

 

 所属チームも新メンバーが入り、公私ともに絶好調! 祝福のバラは東京でも見事に咲くか!?

 

 

 

「GⅠは昨年の秋華賞以来ですが、緊張はしていません。調子はいいですよ。夏の札幌記念も問題なく勝利しました。天皇賞(秋)へ出走の意志は変わりません。

 ええ、歴戦のウマ娘たちが出走してくるのは存じてます。ですがそれは今年に限った話ではありません。そして新星が過去の勇士を下してきたことも。勝機は十分、勝ちに行きますよ」

 

 オークスウマ娘、エアグルーヴは気合十分! 樫の女帝が一年ぶりのGⅠ制覇に向けて動き出す!

 

 

 

 新潟レース場 GⅢ 新潟記念

 

『誰が、誰が、いったい誰がこの光景を予見できたか!? 2,000mの中距離レースで、サクラバクシンオーが先頭です! 短距離覇者が中距離の舞台で後続を引き連れ先頭を走っている!

 後続は追いつけるか! 残り200m! 順位は変わらない! 桜が先頭譲らずそのままゴールイン!

 サクラバクシンオーだ! サクラバクシンオーがついに中距離重賞制覇!!

 ああ、観客席からターフに入る人影が……あれはバクシンオーのトレーナーでしょうか? 泣き叫びながら、いま担当と熱い抱擁です! 場内からは拍手喝采! ですが皆さん、危険なため後に続くことはお止めください!!』

 

 新潟でサクラが満開! 苦節●年ついに届いた中距離タイトル! 同期より一足先に三階級重賞制覇!

 

「秘訣ですか? ええもちろんそれはバクシンです。バクシンこそがレースを制する答えなのです!

 そもそもバクシンとは……え? もういい? 分かりました! 全て理解してくださったのですね!

 次走ですか! 当然GⅢで満足しませんよ! 次はズバリ、天皇賞(秋)です!!」

「ばばばばばバクシンオー!? 何言ってんの!?」

 

 まさかまさかのサクラバクシンオー天皇賞(秋)へ参戦表明! 秋の東京にサクラサク?

 

 

 

 

「え? 私ですか? いや~私みたいな普通のウマ娘は普通に備えて、普通に出るだけですよ。おっきな夢とか誇りとかあんまり……。もちろん、出るからには勝ちに行きますよ。他の人たちより走った数は多いのですし、応援してくれるファンのみんなには応えたいですから。

 最後にいつもの? いいですよ。じゃあ……えい、えい、むん! ふふふ♪」

 

 脇役では終われない! マチカネタンホイザ悲願のGⅠ制覇向けてえい、えい、むん!

 

 

 

 ◆

 

 

 

「混沌としてきたわね……」

 

 天皇賞(秋)への出走バを特集した雑誌を投げ捨てながら、東条ハナは疲労の声を漏らした。

 落下する雑誌をキャッチしたナリタブライアンが、内容を眺めて不敵に笑う。

 

「復活の名バに歴戦の勇士、そして予想外からの刺客か。女帝殿も楽しい世代に生まれたな」

「どこが楽しいのよ他人事だと思って」

「楽しいだろう。私に当てはめたら、皇帝様や白い稲妻が復帰して、マイル王が飛び入り参戦したようなものだ」

 

 これで楽しくないわけがない、とシャドーロールの怪物が言う。

 そうだった。こういうウマ娘だったなと東条は天を仰いだ。

 

「なんだ、おハナさんから見て女帝の実力では不安か?」

「バカ言わないで。エアグルーヴの実力は本物よ。トラブルさえなければオークスだけじゃなく、他のティアラも独占できた」

 

 桜花賞は急な体調不良で、秋華賞はマナーの悪い観客の振る舞いに動揺して実力を発揮できなかった。

 それから一年、彼女の精神面と体調管理を重点してトレーニングしてきた。

 おかげでエアグルーヴのコンディションは最高だ。今なら例え皇帝が出てこようと勝負できる。

 だが、

 

「サクラバクシンオーって何よ……!?」

「私も驚いたよ。まさか距離延長に成功したとはな」

 

 サクラバクシンオーは入学時よりスプリンターとしての素質を評価されていた。逆にそれ以外の距離、マイルすら適性が怪しいといわれていた。

 しかし当の本人はマイルどころか全距離への出走を望み、それに応えられるトレーナーのみ契約すると公言していた。

 そんなサクラバクシンオーの専属となったのが件のトレーナーだ。

 傍から見ていると、口八丁でサクラバクシンオーを丸め込んでスプリント路線に注力させているように見えたが、しっかりと彼女の希望に沿い、ついに中距離重賞に手を届かせるとは。

 

(いや、そういえばシニア級一年目にはマイルCSを取っていたな。今思えば、あの時にはすでに本人の希望を叶える準備は進めていたのか)

 

 ナリタブライアンの中でかのトレーナーの評価が一転する。

 しかし見れば見るほど面白いレースだと思う。無敗の二冠バと最強ステイヤーを倒した淀の青バラ、大きなケガなく現役を続ける勇士に短距離覇者。ナリタブライアンも何度か走ったことがあるウマ娘も多いが、あれからどれほど変わったか、興味は尽きない。

 

「いっそのこと私も出ようか……」

「本気でやめて……!?」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「バクシーン!」

「バクシンオー、今日はこれくらいで上がろう」

 

 独特の掛け声とともにトレーニングコースを駆けるサクラバクシンオーへ、彼女のトレーナーが声をかける。

 徐々にスピードを落とし、トレーナーの前で止まるサクラバクシンオーの顔には不満があった。

 

「トレーナーさん! トレーニングを終えるには少し早いのでは?」

「新潟記念の疲労がまだ抜けきってないだろ。それに天皇賞(秋)のミーティングもしないと」

「作戦ですか! 当然、バクシンします!!」

「うん。そのバクシンの仕方を提案したい」

 

 担当ご自慢のバクシン発言をスルーするトレーナー。

 手元には天皇賞(秋)に出走予定の有力バたちのリストがある。

 

「天皇賞(秋)ではミホノブルボンに合わせてペースを作ろう」

「ちょわ!? 何故ですかトレーナーさん! スピードを極め、ついに中距離重賞を勝った私なら、誰かにペースを合わせずバクシンすることこそ勝利の策では!?」

「それは違うぞバクシンオー!!」

「ちょわ!?」

「君は確かにスピードを極めた。スプリントでもマイルでも、誰よりも早い。そんな君なら――」

 

「ちょっとゆっくり走っても、誰よりも速いはずだ!!」

「なるほど! 言われてみればそんな気がしてきました!」

 

「だからまずはミホノブルボンに合わせるんだ。彼女は必ずハナを取りに来るから、それについていく。

 そして、レース後半になったら全力で行くんだ」

「なるほど、本番はレースの後半からということですね。

 ――はっ!? トレーナーさん、私気づいてしまいました!」

「どうした?」

「天皇賞(秋)は2,000m、本番がレース後半ということは残りは1,000m!

 すなわち、天皇賞(秋)は実質短距離なのでは!」

「…………………………………………そうだな!!」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ブルボン。確認だが、本当に天皇賞(秋)でいいんだな?」

「急にどうされましたかマスター」

 

 ミーティング中、黒沼の突然の発言にミホノブルボンは目を丸くした。

 

「全距離の芝GⅠ制覇、私の新しい夢はマスターも同意していただいたはずです」

「ああ。だが中距離GⅠを十月の天皇賞(秋)にこだわる必要はない」

 

 短距離や長距離のGⅠと違い、中距離のGⅠは比較的数が多い。

 秋シーズンだけでも十一月にはエリザベス女王杯、十二月にはジャパンカップがある。年が明ければ三月に大阪杯、また夏になれば宝塚記念がある。

 

「ヴィクトリアマイルはゲート割れと出走取消があって滑り込めた。だがスプリンターズSに出るためにキーンランドC。そして今度は天皇賞(秋)に出るために毎日王冠だ。距離はバラバラで、かつレース間隔が短すぎる」

「承知の上です」

「疲労を抜き切るのも難しいうえ、スプリンターズSから天皇賞(秋)で800mの延長だ。負担も大きい。」

「いいえ。ヴィクトリアマイルが1,600mでしたから、それと比べてスプリンターズSでマイナス400m、天皇賞(秋)でプラス400m。負担は半分です」

「サクラバクシンオーみたいな理屈はやめろ……」

 

 目頭を揉む黒沼。天皇賞(秋)再考を言い出すにも、相当な苦悩があったのだろうとミホノブルボンは察した。

 

「心配されているのは、私の身体ですか?」

「……ああ。クラシック三冠を目指した時も相当無理をさせた」

「夢のためには必要なことでした。マスターの指導がなければ、私は一冠も取ることができなかったでしょう」

「それでもだ。もしまたお前がケガをしたらと思うと俺は……」

「ライスさんのトレーナーのようなことを言うのですね」

「あいつと同じにするな。俺は……あいつほど引きずってない」

「……データベースにヒット。五十歩百歩、です」

「言うようになったな」

 

 契約したての頃はまさしく機械みたいなウマ娘だった。変わったのは、周りの友人たちの影響か。

 

「マスターの言う通り、中距離GⅠを獲るだけなら天皇賞(秋)に固執する必要はありません。しかし……」

「ライスシャワーか」

「はい。宣言したのは私の方が先ですが、彼女はそれに応えてくれました。そのために復帰を早め、自分の有利な距離を離れてまで私との再戦を選んでくれました。

 その気持ちに、今度は私が応えたいのです」

 

 黒沼はガシガシと頭をかく。もう何を言っても無駄だなと察した。

 同時に、レースへの勝利以外にも欲を持つようになった担当の成長が、少し嬉しかった。

 

「分かった、もう何も言わん。ただし、出るからには勝つ。追切もきっちりやっていくから覚悟しろ」

「もとより覚悟の上です。マスター」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「う~フクちゃん先輩、ドア開けてください~~」

「どうしましたかおマチさ――ぎょわあああどうしましたか! 大荷物じゃないですか」

「いや~天皇賞(秋)の特集を商店街の人たちが読んだみたいで。応援してるよって、たっくさん差し入れもらっちゃいました」

「ほわ~それでこんなに。おマチさんの人徳ですね!」

「そうなんですかね? 私みたいな普通のウマ娘を応援してくれるみんなの方が優しいと思うんですけど」

 

 よいしょ、と部屋の一角に荷物を置くマチカネタンホイザ。

 中身を見るとタオルやドリンク、プロテイン配合のお菓子もあった。

 

「凄い量ですね。これが天皇賞(秋)に出るほどのウマ娘の人気ですか」

「そんな~フクちゃん先輩だってGⅠ出てるじゃないですか」

「私なんてそんな! おマチさんと比べるなんておこがましい。ダービーだって惨敗でしたし……」

「でも菊花賞も出るんですよね。私も出たことあるのでなにかアドバイスできるかもしれません!」

「おお~おマチさんの菊花賞! 確か、ブルボンさんとライスさんも出ていて……」

「ライスさんが勝ちました。私は……三着。一度抜いたと思ったらブルボンさんに抜き返されちゃって……我ながら詰めが甘いですな」

「三着でも立派ですよ! ……ですが、その~辛くないですか? 何回走っても勝てないというのは……」

 

 おずおず、とマチカネフクキタルが訊ねる。

 マチカネタンホイザがトゥインクルシリーズを走り出して何年目か。多くの同期や走ったことのある友人は引退するか、ドリームトロフィーリーグへと移籍した。

 自分より強かった同期や先達がいなくなったかと思えば、後の世代からまた傑物が現れる。

 全く勝てないわけではないが、栄えあるGⅠを勝ったことは未だにない。

 

「う~んどうなんでしょ? 私って普通のウマ娘なので、家からの期待とかあったわけでもないですし。あんまりプレッシャーはないから、辛いとは思わなかったですね。

 勝てないのも私に色々足りなかったからで、他の誰かのせいじゃないですし」

 

 でも、と帽子を少し弄りながら、

 

「悔しいのは悔しいです。やっぱり走るからには勝ちたいですから。今度こそ!って思ってはいます」

「おマチさん……」

「あ、でも今度の天皇賞(秋)は本当に楽しみなんですよ? ブルボンさんとライスさんが戻ってきましたし、バクシンオーさんとはクラシック級のスプリングS以来です。なんか同窓会みたいですね!」

「そうですよね。おマチさんは、同期の皆さんの場を守って来たんです」

「え? ま、守る……?」

「そうですよ! おマチさんがいるから、走っているから、皆さんが同輩を思い出すんです! おマチさんが走る姿が、ブルボンさんやライスさんを皆さんの記憶に留めているんです!

 だから、だから……今度こそ主役になってきてください!」

「フクちゃん先輩……!」

 

 今さっき、一角に積んだ差し入れを見る。これもみな、同じ気持ちで渡してきたのだろうか。

 脇役で終わらないで。今度こそ主役に。走り続けた時間が、無意味ではなかったと証明してほしいと。

 胸の奥が、チリチリと熱くなる。

 

「今、ちょっとだけ勝ちたい理由、増えました」

 

 この熱が勘違いでないのなら、今度こそを、絶対にしたい。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 スペシャルウィークは寮の自室で、同室の先輩の奇行を見ていた。

 サイレンススズカが左回りに室内をぐるぐると歩く。手には雑誌。チラチラ見える表紙の文字を見るに、天皇賞(秋)の特集をしているようだ。

 サイレンススズカの左回りは、何か考え事をしている時だ。こういう時は話しかけても声が届かないことを経験則として知っていた。

 幸いにも、スペシャルウィークはすでにベッドに入っているためぶつかることはない。

 

(なにか迷ってるのかな……)

 

 トレセン学園編入当初、初めてサイレンススズカと出会って見たその走りに見惚れたものだが、最近は調子が上がらないようだ。

 悩みを赤裸々に打ち明けるタイプではない。だから、こちらが気づいて何かしてやれないかと思うが、自分では良案が浮かばなかった。

 

「……スぺちゃん」

「え? あ、はい何でしょうスズカさん!」

 

 突然話しかけられ思わずベッドに上で正座してしまう。

 いつの間にかサイレンススズカが停止していた。しかし視線は今も雑誌に向いたままだ。

 

「私ね、秋の天皇賞に出ようと思うの」

「え……やっぱりそうなんですか!」

「やっぱりって、私何か言ってたかしら?」

「いえスズカさんが見ている雑誌……」

「あ……そうね」

 

 サイレンススズカはクラシック級だ。スランプからか結果は出せていないものの順当に進むのならクラシック路線の菊花賞か、ティアラ路線の秋華賞だろう。

 そこから抜けて、シニア級が走る天皇賞(秋)。前例がないわけではないが、どちらかというと長距離が苦手だが中距離に自信のあるウマ娘が進む道だ。

 しかし、

 

「正直ね。勝てるとは思ってないの」

「そ、そうなんですか……?」

「ええ。リギルからはエアグルーヴも出るし、私よりも経験のあるウマ娘がたくさん出走する。今の私がどこまで通用するか……そもそもトレーナーさんも許してくれるか」

 

 サイレンススズカの言は意外なものだった。実力不足を自覚したうえでの出走は、指導するトレーナーとしても許可し難いものだろう。

 

「でもね、このレースなら見つかると思うの。今の私に足りないもの。勝つために何をすべきかを」

 

 雑誌を掴む手が降りる。僅かに見えたページには、ミホノブルボンの写真があった。

 不利と言われる逃げでGⅠを五勝した傑物。努力で適性という通説を塗り替えた坂路の申し子。

 彼女と走れば、何かが変わる気がした。

 

「わたし、応援しますね!」

「ふふ、ありがとうスぺちゃん」

 

 誰にも真意を告げぬまま、栗毛の逃亡者が静かに覚悟を決めていた。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 月に照らされたターフの上を、小柄な影が駆けていく。

 余分を削り、磨き上げる。

 足が進むたび、無駄な肉が削げ落ち、空いた穴を筋肉で埋めていく。小さな身体に必要なものだけを積み上げていく。

 ただ勝つためだけに鍛え上げるその身体は刃のように鋭く、美しく、そして儚い。獲物を切り捨てたと同時に折れてしまうような、それで使命を全うし消えてしまうような危うさがあった。

 

「ライス」

「お兄さま」

 

 声をかけると、少女がスピードを緩め、私の前で足を止めた。滾る炎鬼の気配が鳴りを潜め、花のような可憐さが表に出る。

 

「そろそろ門限だ。今日はこれくらいにしよう」

「そっか。もうそんな時間なんだね……」

「脚の様子見るよ」

 

 一言言ってから触る。

 ふくらはぎ、トモ、足首。腫れてないか、熱を持っていないか、歪みがないかを丹念に確認する。

 これをあの時、もっと入念にしていれば……。

 

「お兄さま、ライスは大丈夫だよ」

 

 どちらの意味だろうか。どちらの意味でも、私の不安は消えない。

 

「そうだな。でも最近は追い込み過ぎだ。明日の自主トレは軽めにしてほしい」

「大丈夫なのに……。目黒記念やオールカマーの前だってこれくらいやってたよ?」

「一緒に走ったウマ娘には申し訳ないけど、GⅡとGⅠは違う」

 

 ランクの差は一つ、されど大きな差だ。周りの期待も、かかる重圧も桁が違う。

 その重さがライスの脚を砕いた。

 復帰は早計だったか。もう少し時間をかけるべきだったか。

 もはやどうしようもない後悔が私の中で渦巻いていく。

 

「大丈夫だよ」

 

 胸の内を見透かすようにライスがまた言った。しゃがんでいた私の頭をくしゃりと撫でる。

 

「ライス、ちゃんと勝って帰ってくるから」

「……無事に帰って来て欲しい」

 

 例え勝てなくても……その一言だけは飲み込む。

 それだけは言ってはいけない。それはライスの、いやレースに打ち込む全てのウマ娘への侮辱だ。

 

「勝つよ。勝てばグラスさんとエルさんの自信に繋がると思うし、マルカブに入りたいって子が来てくれるかも」

「別にチームのことは気にしなくてもいいんだよ……」

「気にします。メンバーが足りないとまた条件付けられるんだよ?」

「まだ何も言われてないよ?」

「そのうち言われるってことだよ」

 

 ぺちり、と尻尾で軽く叩かれた。

 全く、ライスには気を遣われてばかりだ。我がことながら情けない。

 

「チームのこと、私のこと、ライスには色々背負わせてしまってるな。」

「いいよ。ライス力持ちだもん。お兄さまの背負ってるもの、一緒に背負いたい」

「ライス……」

「でも悪いって思うなら、スカウトは真面目にして」

「あ、はい」

 

 間の抜けた返事をしたらまた叩かれた。ライスの顔には慈愛の笑み。

 昔は弱気なライスを私が励ましていたが、今は逆にライスに励まされることが多い。

 いや、ライスが身も心も強くなったのだ。それはとても良いことだ。

 ならば、私だけが弱くなることは許されない。

 

「勝とう。ライス」

「うん。二人で。みんなで。頑張るぞー……」

「「おー!!」」

 

 

 

そして十月。

 

『外からメジロドーベル! 外からメジロドーベル!! メジロドーベルが差し切ってゴール!!!

 ティアラ路線最後の一冠、秋華賞を勝ったのはメジロドーベル!! 名門メジロの姫が、オークスに続きダブルティアラを戴冠だ!!』

 

『マチカネだ! マチカネが来た!! 待ちかねたぞフクキタル!!!

 中団からバ群を割って上がってくる! 凄まじい末脚! 秋の京都に福が来た!!

 クラシック最後の一戦、菊花賞を勝ったのはマ チ カ ネ フ ク キ タ ル!!!』

 

 

それぞれの想いを胸に、天皇賞(秋)が始まる。

 

 

 

 






補足
史実では、当時スプリンターズSは冬開催だったそうなので、
タイキシャトルの本来初GⅠはマイルCSになります。
アプリに合わせたため、史実とは順番が逆転してます。

また、ライスの復帰後重賞二勝目については以下の通り。

参考タイム netkeiba.com様より
オールカマー
1993 ライスシャワー 2:13.6
1997 メジロドーベル 2:16.6

全レース参考にするわけではありませんが、少なくとも今回は参考にしました。




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10話 ライスと彼女たちの天皇賞(秋) 後編


前話ですが、PCがサイレンスズカで記憶しちゃったせいでスズカの名前がほとんど間違ってました。
急ぎ修正しましたがまだ残ってるかもしれません。
今回も、もしかしたらまだ残ってるかも。失礼しました。


前話の感想がサクラバクシンオー関連多くて驚きました。
やっぱり凄い馬だったんですね。

今回と次回で毎日投稿は一度終了です。
また書き溜めに入ります。


 

 東京レース場は、いつにも増して多くの人で溢れかえっていた。

 当然、目的は数あるGⅠの中でも特に格式高い天皇賞。その秋の盾を巡るレースだ。

 加えて出走メンバーも話題を呼んでいる。歴戦の勇士、復活したスター、予想外からの刺客、強く輝く新星、この一週間で何度この文字列を見たか。これだけ繰り返されれば誰しもが興味を持つ、普段はレース場まで足を運ばないような者たちまで来ていた。

 

『ウマ娘たちが求める一帖の盾。夏を超え、鍛えた脚を武器に往く栄光への道。

 トゥインクルシリーズ秋の大一番、天皇賞(秋)。天候にも恵まれ、良バ場の発表です』

『春で実力を示した者たちが、引き続きトップを走るか。夏を超え、一皮むけた新星が栄光を掴むか。期待したいですね』

『今年の注目はやはり見事な復活を遂げたミホノブルボンとライスシャワーでしょうか』

『ええ。ですがご祝儀で勝たせてもらえるほど甘くはありません。

 ミホノブルボンは短距離からの距離延長と出走権のための連戦をしております。ベストコンディションを保てているでしょうか。ライスシャワーも、やはり生粋のステイヤーのイメージがありますね。ケガで離脱する前も中距離GⅠは安定しませんでした』

『長い時間をかけて復帰してきた二人。健闘してほしいという気持ちはありますが、勝負は勝負、ということでしょうか。健闘といえばサクラバクシンオーの参戦もおおいに周りを驚かせましたね』

『いやー無理でしょう……と言いたいですが同じようなこと言った年にマイルCSを制覇していますからね彼女は。全く解説泣かせと言いましょうか。困難な道であることは確かです。一方でどこまでやれるのかという期待もあります』

『どこまでやれるかと言えば、今年のクラシック級からサイレンススズカも出走していますね。他の経験豊富なウマ娘たちを相手に好走を期待したいですね』

『彼女はデビューの時は大逃げで皆を驚かせましたが、最近は調子が上がりませんね。楽しそうに走る子なのでここらで活路を見出してほしいところです』

『他の出走者についてですが――』

 

 つけていたイヤホンを外すとラジオの音が途切れる。変わりに控室奥の更衣室から衣がこすれる音と、姦しい声が聞こえてきた。

 ライスの着替えを、グラスとエルが手伝ってくれているのだ。

 

「全く、勝手なことというか、耳に痛いことを言ってくれる」

 

 オールカマーでも勝ったというのに、未だライスに中距離は向いていないというのが識者たちの見解らしい。そしてそれは、GⅡとGⅠの差を表しているともいえる。

 中距離のGⅠを制していないことから言われる評判は、やはりGⅠを制さずして払拭することはできないのだ。

 

「トレーナーさん! ライス先輩の準備できましたよ!」

 

 エルの声ととともに更衣室の扉が開かれ、勝負服姿のライスが出てきた。

 普段被っている青バラの飾りがついた帽子、それに合わせたかのような黒のドレス。レースのついた裾から見える肩や脚がどこか色っぽい。腰から下げた短剣は彼女がただ守られるだけの少女でないことの証明。

 いつもの、何度も見てきたライスの勝負服だ。

 

「ど、どうかなお兄さま。久しぶりのライスの勝負服……」

「ああ、綺麗だよライス。とても似合っている」

「ふふふ、ありがとう」

 

 これも懐かしい、いつものやりとりだ。

 

「今日の一番人気はエアグルーヴだ。実力も申し分ない。マークするなら彼女だ」

「うん、ライスもそう思う。でもねお兄様、今日ライスは……」

 

 申し訳なさそうにライスが目を伏せる。

 好走するであろうウマ娘をマークし、最後に抜き去るのはスタミナのあるライスが勝つために私と編み出した戦法だ。故にヒットマンだの刺客だの色々と揶揄されてきた。

 しかし、ライスが外野の声を嫌ってその戦法を使いたくないわけではない。彼女の気持ちは分かっている。

 

「ミホノブルボンについて行きたいんだろう? いいよ、それでいこう」

「……いいの?」

「走るのはライスだ。ライスが一番走りたい走りをすればいい」

 

 今日はライスにとってただのレースではなく――いやGⅠがただのレースなわけないのだが――ライバルであるミホノブルボンとの復帰後初の一戦だ。

 春の宣戦布告からの激突。どうしても意識はするし、向こうもライスを意識するだろう。二人同時マークするより、一方に集中した方が良いと判断した。

 

「そっか……ありがとうお兄さま」

「でも、一つ約束してほしい」

 

 膝を曲げ、ライスに視線を合わせる。脚にそっと触れる。

 熱はない。腫れも歪みも。今日に向けて万全を整えてきた。それでも私の中で不安が渦巻いている。

 

「無事に……無事に帰って来て欲しい。どんな結果であろうとも、またこの部屋で君とレースのことを話したい」

 

 勝てなくても、という言葉は言わない。ライスが望む言葉ではないから。

 あの日、控室を出て地下バ道で見送った後、彼女と会えたのは白い病室だった。

 勝利に喜ぶわけでも、敗北に悔し涙を浮かべるわけでもなく、ただ茫然と砕けた脚を眺める彼女の姿は未だ脳裏にこびりついている。

 もうあんな光景を見るのはごめんだ。

 

「うん、大丈夫。約束するよ」

 

 さわり、とライスの手が私の頭をなでる。

 

「勝って、またここに戻ってきます」

「ライス……ありがとう」

 

 私も手を伸ばし、ライスの頭をなでる。

 梳いた髪がうなじや肩にあたり、互いにくすぐったく笑う。

 

「……あのー」

「エルたちもいるんデスが?」

「――は! はわわ……!」

 

 一瞬にして顔を真っ赤にしたライスが私から距離をとる。

 視線を向けると、グラスとエルが、苦笑いしていた。

 

「その……仲がよろしいんですね?」

「師匠がいた時代から数えても、ライスとは一番付き合い長いからね」

「もしかして、レースの度にこういうやりとりしてるんデス?」

「ま、毎回じゃないもん!」

「そうだね。今日みたいなGⅠの時くらいかな」

「お兄さま!」

 

 余計なこと言うなとばかりにライスが吼えた。

 バタバタと腕を振り回す小柄な先輩に、後輩二人が小さく笑う。

 

「ふふ! GⅠでもライス先輩は変わらないデスね! なんだか頼もしいデス!」

「そ、そうかな……?」

「ええ。大舞台でも平常心を保てているなんて、今の私たちにはとても……」

「そうだね。今日は二人にとっては学びの日でもある。いつか出走するGⅠの大舞台、その空気を少しでも感じてほしい」

「そ、そうだよね。二人も目指すんだもんね。

 ……うん。ライス、グラスさんとエルさんにも格好いいところ見せてくるね!」

「バッチリ! しっかり! くっきりと見させていただきます!」

「一瞬たりとも見逃しません……!」

 

 おー! と恒例の声を上げ、控室を出た。

 ターフへ続く地下バ道を進む。周りには勝負服を着たウマ娘の姿が多く見えた。当然、その中にはミホノブルボンもいた。

 彼女がこちらに気づき、近づいてくる。

 

「ライスさん。この日を待ち望んでいました」

「うん。ライスも、またブルボンさんと走れる日を待っていたよ」

 

 両者はクラシックを争ったライバルにして、互いにケガから離脱し、諦めずに復帰したウマ娘同士。

 共有した艱難辛苦は多くあり、友情はGⅠを争っていた時以上に固く深い。

 それでも、今日は友好を温めるのではなく勝負の日。

 両者の言葉は穏やかだが、瞳には炎が灯っている。

 

「今日は、私が勝ちます」

「ううん。ライスが勝つよ」

 

 共鳴するように、周りのウマ娘たちからも闘志が燃え上がる。

 一生に何度出れるか分からないGⅠ。勝ちたいのはみな同じだ。

 ライスとミホノブルボンが並んで地下バ道を進んでいく。

 私たちがついて行けるのはここまで。ここから先は、レースに出るウマ娘たちの世界。

 光の向こうへ進む彼女たちの背を見るたび、私は思う。

 

 今から、誇りをかけたGⅠが始まるのだと。

 

 

 

 ◆ 

 

 

 

 レース当日、トレーナーの居場所は様々だ。

 人込みを避けて用意された個室やチームルームに入る者。

 観客に混じり、できる限り担当ウマ娘の近くに行く者。

 例としてはリギルが前者で、マルカブやカノープスが後者だ。

 と言ってもリギルが余裕かましているわけではない。リギルメンバーにとってレース日はチームメンバーの応援をするのではなく、他のウマ娘が走りを見て己が血肉に変える学びの日となる。

 ……はずなのだが。

 

「おや、珍しいですね。東条トレーナーが観客席にいるなんて」

「そういう貴方は相変わらずチーム総出で最前列にいるのね南坂トレーナー」

 

 東条ハナは今日に限っては観客席にいた。隣にはナリタブライアン。三冠ウマ娘がいればたちまちサイン会でも始まりそうだが、猛獣のような鋭い気配を放つ彼女に声をかけるものはいない。

 

「あー! ブライアンがいる! どうして? 今日のレース出るのか!?」

 

 ツインターボのような者を除いては。

 青い髪を振り回してグルグルと走り回るツインターボ。その子犬のような様にナリタブライアンがやれやれと息を吐いた。

 

「私はもうドリームトロフィーリーグに移った。宝塚記念や有記念のようなグランプリならともかく、もうトゥインクルシリーズのレースは走れん」

「えー! 何だよつまんないな。それじゃあターボ、いつブライアンにリベンジできるんだよ」

「お前は主な活動の場を地方へ移したんだろう。どちらにしろ私と走れるレースはない」

「いえ、地方と中央の交流戦で良い成績を出せばグランプリに出走は可能です。ファン投票故、運や時勢に左右されますが」

「おお! さすがイクノ! よーしブライアン、有記念でターボと……」

「はいはい話が横に逸れてる逸れてる。すみませんねトレーナー、東条さん」

「いえいえ。ネイチャさん、ナイスです」

 

 ナイスネイチャに抑え込まれるツインターボをしり目に、チーム・カノープスのトレーナーである南坂が東条に視線を移す。

 

「うちはチーム総出で応援がモットーなので。東条トレーナーは……」

「今年は類を見ないくらい個性的なメンバーが揃ったから、ちょっと気になっただけよ」

「サイレンススズカですか?」

 

 東条の視線が鋭くなる。対する南坂は笑みを崩さない。

 その閉じているのが閉じていないのか分からない目でどこまで見ているのか。食えん男だとナリタブライアンは思った。

 

「どうしてそう思った?」

「ブライアン……!」

「別に隠すことでもないだろう。バレたところで今更何か策を弄せるわけではない」

「策を弄するなんてそんな物騒な……」

「感謝祭、テイオーのライブ、オールカマー」

『…………』

 

 カノープス一同が同時に目を逸らす。表沙汰にはなっていないが、かつて感謝祭で起こった裏側を知っている者からしたら、目的のために手段を選ばないトレーナーというのが南坂への印象だった。

 

「サイレンススズカと言えば、大逃げで話題になりましたね。ただ、クラシックで良い結果は出せていないようですが……」

 

 いち早く復活したイクノディクタスが上げた情報に、南坂が頷く。

 

「ええ。メイクデビューは二月と遅め。そのため皐月賞は出走できず、間に合わせた日本ダービーは九着。正直、前評判に比べて……という印象を持つ方が多いでしょう」

「よく調べているな」

「リギルの新人ですよ? それだけで注目する価値はあります。そんな彼女がクラシック最後の菊花賞ではなく、エアグルーヴも出る天皇賞(秋)へ出走。いやー気になりますねー」

「……スズカに長距離の適性は低い。となれば秋の大目標が天皇賞になるのは自然なことよ」

「GⅡ以下の重賞も取れていないのに? 東条トレーナーは手堅い方です。自由なスピカならともかく、リギルならまずは府中ウマ娘Sや毎日王冠に進む選択をする。

 しかしそうではない。どうしてか。……サイレンススズカ本人の希望ですか?」

「……ああそうだ」

「ブライアン、今日はずいぶんとおしゃべりね。メディアへの対応時もそのくらい話してほしいのだけど?」

「当てられたからってへそを曲げるなよおハナさん」

 

 嫌味にも動じない担当と、興味深くこちらを見続けるカノープス陣営に東条は何度目かのため息をついた。

 

「貴方の推理通り、出走は彼女の……スズカの意志よ」

「失礼ながら、そういった希望を聞き入れるとは意外でした」

「普段ならそうよ。でもスズカの調子が上がらないのも事実。それをトレーナーである私が解消させることができていないのもね。

 ……出走を認めたのはこのレースで突破口を拓けるのではと思っているから、そしてスズカがそう言った希望を口にするのが滅多にないことだから」

 

 顔を上げる東条。視線の先、ターフの上ではパドックが始まっていた。

 順番に勝負服を披露するウマ娘たちの中に、白と緑の勝負服に身を包んだ栗毛のウマ娘の姿があった。

 

(スズカ……正直、今日貴女が勝てるとは思っていない。でもこのレースは、必ず貴女の糧になる)

 

 サイレンススズカの不調の原因に、東条は心当たりがあった。

 その不調を解消させることは可能だが、それはただのその場しのぎでしかないことも気づいていた。

 果たしてどうなるか。東条は祈るように両手を握りしめた。

 

 

 

 ◆ 

 

 

 

『各ウマ娘のパドックも終わり、ゲートインになります。……今、最後の一人が入りました。

 係員が離れ――今、スタートしました!

 

 真っ先に飛び出したのはミホノブルボン! その横をサクラバクシンオーがピッタリとついて行きます! ああっとここで二人を抜き去る栗毛のウマ娘! サイレンススズカが先頭を取った!!』

 

 自分の前を行くサイレンススズカを見て、ミホノブルボンは考える。

 ペースを上げるべきか否か。サイレンススズカを追うか、控えるか。

 ミホノブルボンの戦術はラップタイム走法。レースレコードを目標に数ハロンごとに設定したラップタイムに合わせて走るものだ。

 彼女から見て、サイレンススズカの逃げは破滅的だ。放っておいても終盤には垂れてくる。しかし、

 

(メジロパーマーさんのようなスタミナを持っていたとしたら……)

 

 無茶無謀とされた大逃げ、いや爆逃げを得意とした名門メジロの異端児。されどその爆逃げでグランプリを制覇した破天荒な逃亡者。彼女の姿がちらついた。

 

(しかし……)

 

 サクラバクシンオーはサイレンススズカを見て考える。

 良いバクシンだと。

 自分も後に続こうかと脚が疼くが、なんとか堪える。

 

(トレーナーさんとの約束ですからね! 最初はブルボンさんに合わせると!)

 

 彼女のトレーナーが立てた作戦はミホノブルボンがハナを取るという前提のものだ。それが瓦解した今、ミホノブルボンの隣に固執する必要はない。

 だが、だからといってサイレンススズカについて行くことは正解ではない。スピードを極めたと自負する彼女は、このペースでスタミナがどこまでもつかも把握している。

 サイレンススズカのペースについて行けば、向こうはともかく自身は間違いなく途中で力尽きると。

 

(そしてなによりも……)

 

 おそらくミホノブルボンも感じているであろう、背後からのプレッシャー。

 かつてともに走ったスプリングステークスとは段違いの気配。こちらの隙を一瞬たりとも見逃さない、漆黒の追跡者。

 

(ライスさん……! これほどまでに成長されているとは!)

 

 前のサイレンススズカよりも、後ろに控えるライスシャワーの方を警戒すべきと二人は結論付けた。

 

 一方で、四番手以降に控えたライスシャワー、エアグルーヴ、マチカネタンホイザの結論は同じだった。

 ――サイレンススズカは最後までもたない。

 ただ一人、同チームのエアグルーヴは歯噛みしていた。

 

(スズカめ、無茶な大逃げなぞしおって……)

 

 サイレンススズカが思い悩んでいるのは知っていた。彼女が好む戦術は逃げだが、それは今のトレンドから外れている。現代において逃げはペースメーカーの一つと見なされてしまうのだ。

 先行や差しを取って序盤は脚を溜めつつ、周囲の展開に合わせて戦略を微修正するのが今の王道。

 東条がそれをサイレンススズカに説き、彼女も先行策を学んでいた。

 サイレンススズカの今の逃げは、これまでリギルで学んだものを全て投げ捨てたものだ。

 リギルとして共に学んだ時間を無為にするような走りに、エアグルーヴは怒りすら覚えていた。

 たが一方で、

 

(なぜそうも、活き活きと逃げている……!)

 

 その自由な走りに、憧憬の念すら抱いていた。

 

 

 

 

 ◆ 

 

 

 

 1,000mを超え、残りの距離が半分を切ったところで作戦通り、サクラバクシンオーが動き出した。

 

「いざ開花の時! バクシー――――ン!!」

『ここでサクラバクシンオーが仕掛けた!! サイレンススズカへと迫る! 後ろのウマ娘たちはまだ動かないか!?』

 

 溜めた力を解き放つ。芝と土を巻き上げて桜の超特急が突き進む。

 サイレンススズカに追いつき、並ぶ。

 その時、サクラバクシンオーは見た。サイレンススズカの顔を。

 

(なんて……)

 

 サイレンススズカの顔には疲労。息は荒く、汗は滝のようで、栗毛の髪が額に張り付いていた。

 やはり、彼女が逃げを得意としていようとミホノブルボン以上のペースはまだ無理だった。

 だというのに、

 

(なんて楽しそうに走る方でしょうか!)

 

 邂逅は一瞬。トップスピードに到達したサクラバクシンオーがサイレンススズカを抜き去る。

 だがしかし、大ケヤキを超えて第四コーナー。ここで、各自が一気に動き出す。

 

『ミホノブルボンがスパートをかけた! ライスシャワーも後を追う! 第四コーナーを曲がって最後の直線へ、後ろのウマ娘たちは追いつけるのか!

 ああ! サイレンススズカが垂れてきた! やはり無謀な逃げだったか!?

 ミホノブルボンがサクラバクシンオーを捕えた! バクシンオー粘れるか! ブルボンか! ああ、バクシンオー失速! ここまでか!

 先頭はミホノブルボン――いや、ライスシャワー! ライスシャワーだ! ライスシャワーが仕掛けた! しかしミホノブルボンも譲らない! かつてクラシックを争った二名によるデッドヒート! 勝負はこの二人に委ねられたか!?

 いや、奥からエアグルーヴ!

 エアグルーヴが来た! エアグルーヴが来たあ!!

 

 サクラバクシンオーにとっての誤算は、二つあった。

 一つはマーク相手としたミホノブルボンのペースが、想定よりも速かったこと。

 二つ目はサイレンススズカを無視しきれず、仕掛けるタイミングが僅かに早かったこと。

 どちらも数字で表すなら小さなものだが、ギリギリだったサクラバクシンオーのスタミナを枯らすには十分なものだった。

 ミホノブルボン、ライスシャワー、エアグルーヴ、マチカネタンホイザ、後続のウマ娘たちが続々とサクラバクシンオーを抜き去っていく。

 

(ここまでですか……)

 

 汗が流れていく。息は絶え絶えで、フォームが崩れて力が入らない。

 中距離GⅢを勝ったからといってGⅠは違う。分かっていたことだ。だが同期が復帰し、再び走り出す以上、出ずにいられなかった。

 

(ブルボンさんもライスさんも、変わらず早いですね……!)

 

 遠のいていく同期の背中を見て郷愁に駆られる。クラシック級に上がったばかり、今日のレースの出走者にニシノフラワーを加えた五人で走ったスプリングステークス。あの時も、自分は失速し二人に抜かされたのを思い出す。

 

(私も、あれから長い距離を走れるようになったつもりでしたが……)

 

 諦めかけた時、視線の端に観客席が映った。

 埋め尽くされる客席の最前列。柵を引き裂かんばかりに握りしめ、決死の表情でこちらを見る、トレーナー。

 

「…………どうして」

 

 その姿に、内側から熱くなるものがあった。

 空っぽになったはずの身体に何かが漲っていく。

 

(どうして私は諦めようとしているのでしょう……!)

 

 喉の渇きが消えた。崩れたはずのフォームが整っていく。何百何千と走り込み、脳より体に深く刻み込まれた走り方。

 

(ここで諦めたら…)

 

 トレーナーが考えてくれた、1,400m以上を走りきるためのフォーム。中距離を走りきるための呼吸。

 意識せずとも、体が勝手に動き出す。

 

「ここまで付き合ってくれたあの人に、申し訳が立たないじゃないですか!」

 

 ミホノブルボンのトレーナーが言っていた。精神は肉体を超越すると。

 

「私の桜は散りはしない……今! ここで!!」

 

 ならば、今この体を動かすのはきっと

 

「煌々と燃えるのです!!」

 

 執念に他ならない。

 

『さあ残り400mを切って先頭はミホノブルボンとライスシャワー……いや、後ろから! サクラバクシンオーが蘇った!? 凄まじい末脚!! 中団から一気に先頭集団へと距離を詰めていきます!!

 ここでライスシャワーが抜けだした! しかしエアグルーヴが迫ってくる!! マチカネタンホイザももの凄い末脚!! ミホノブルボンも諦めていない! サクラバクシンオー間に合うか!?

 残り200m! エアグルーヴがライスシャワーを捕えた! マチカネタンホイザも外から並ぶ! この三人に絞られたか!?』

 

 横一列に並ぶ三人。チームのため、誇りのため、応援してくれる皆のため。

 この日まで培った全てを振り絞り、駆け抜ける。

 

「やあああああああああ!!」

「はあああああああああ!!」

「うりゃあああああああ!!」

 

『内からライスシャワー! 中からエアグルーヴ! 外からマチカネタンホイザ! ミホノブルボンはここまでか!? 今、三人、横一列でゴール!! これは、これは、ここからでは分からない!!

 四着ミホノブルボン! 五着はサクラバクシンオー!! 最後の最後でもの凄い追い上げを見せました!

 上位は、上位は――――』

 

 ライスシャワーはゴールを抜けると、大口を上げて酸素を貪った。ドクドクと心臓が暴れている。

 ちらりと横を見れば、並んでゴールしたエアグルーヴとマチカネタンホイザも似たような状況だった。

 スタート前にあった血肉を削り取って来たかのように三者同等に消耗していた。

 掲示板を見ればまだ一着は表示されていなかった。判定中なのだろう。

 だが、走ってきた三人から見れば結果は分かっていた。

 最近の判定機は優秀だ。きっと自分たちの感覚と差異はないだろう。

 顔を上げる。胸を張る。どう転んでも勝敗が覆ることはないのだから。

 

三着、ライスシャワー!

 

 二着、エアグルーヴ!!

 

 一着、マチカネタンホイザ!! マチカネタンホイザです!! 

 

 チームとして、個人として、悲願のGⅠ初制覇です!!

 

 

 

「……え? わ、私? 私が一着? 本当に……?

 や、やった……

 

 

 やったよおおおおおおおお!! みんなあああああああああああ!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






参考タイム netkeiba.com様より
秋天
1997 エアグルーヴ 1:59.0
1994 マチカネタンホイザ 1:59.0
1994 ライスシャワー 1:59.6

前話でも書きましたが、毎回参考にするわけじゃないです。



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11話 秋の終わりと冬の始まり


失礼しました。
予約投稿ミスってしまい、通常投稿してしまいました。
急ぎ消しましたがもしタイミング悪く見ていた方いたら申し訳ありませんでした。

毎日投稿はいったん終了とし、また書き溜め期間を取らせていただきます。
またしばらくお待ちください。

毎回多くの感想ありがとうございました。
相変わらず返信滞っておりますが、全てに目を通り励みとさせていただいております。



「マ゛チ゛タ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ン!!」

「タ゛ア゛ア゛ア゛ホ゛オ゛オ゛オ゛!!」

 

 制止する暇もなく、号泣するツインターボが柵を乗り越えターフへと飛び込んでいった。

 一瞬躊躇うも、ターフの真ん中で泣きながら抱き合う二人にやがてイクノディクタスとナイスネイチャも続いていった。

 ついにはトレーナーの南坂までもがターフへと乗り込んでいく。

 止めるべき警備員も彼女たちを止めようとしない。熱にあてられた他の観客が後を追うこともない。

 この一勝のため、カノープスがどれほど長い時間をかけてきたのかを知っているからだ。

 

「イ゛ク゛ノ゛オ゛オ゛オ゛!! ネ゛イ゛チ゛ャア゛ア゛ア゛!! 私、私ぃぃいい!」

「タンホイザさん、おめでとうございます。素晴らしい走りでした。」

「あ゛り゛か゛と゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛!!」

「あーもう泣き過ぎだって。チケゾー先輩になってんじゃん。私だって泣きたいのにこんなんじゃ泣けないよ……」

「た゛って゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛!!」

「おめでとうございます。ついに努力が実りましたね」

「ト゛レ゛エ゛エ゛エ゛ナ゛ア゛ア゛ア゛ア゛」

 

 空に響くマチカネタンホイザの泣き声。観客からやがて拍手が沸く。

 抱き合うカノープスの姿に涙を浮かべる者もいる。

 何度目かの天皇賞(秋)。今年の盾は、長く努力を続けた者の元へと渡ったのだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ごめんなさい。ライス負けちゃった……」

 

 帰ってきたライスの言葉は謝罪だった。

 私はそっと彼女の頭を撫でる。

 何を言うべきか。三着でも立派、復帰初のGⅠとしては十分。

 違う。彼女に必要なのはそんな慰めではない。

 

「ありがとう。無事に帰ってきてくれて」

 

 片膝を着いてライスと目線を合わせる。キョトンとした目と目が合った。

 凍ったように動かない君でなく、瞼を閉じた君でなく、地面に横たわる君でなく、物言わぬ君でなく。

 熱を持ち、こちらを見て、自分の足で立ち、負けた悔しさに目を潤ませ、唇を噛み締める君を出迎えることができた。

 それが、なによりも嬉しい。

 気づけばライスを抱きしめていた。彼女の熱が、鼓動が、私の胸に伝わってくる。

 間違いない。夢でなく、ライスは無事に帰ってきてくれたのだ。

 

「悔しいな……」

「……うん」

「次は勝とうな……」

「……うん!」

 

 私はどうにも欲深い人間だ。さっきまでライスが無事に走ってくれればと思っていたのに、それが叶ったら勝たせてあげたいと思うのだから。

 マチカネタンホイザとエアグルーヴの差は気持ちの問題だった。ミホノブルボンとの再戦を意識するあまり、ライスの執着はレースから少し外れてしまった。

 実力に大きな差はない。

 次は勝つ。身も心も万全な状態で。

 

 

 

「………これ、エルたち蚊帳の外デス?」

「エル。空気読みましょう」

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「マスター、お願いがあります」

「エリ女やジャパンCには出さんぞ」

 

 先手を切られ、ミホノブルボンは閉口する。

 

「走りは悪くなかった。しかし、疲労はやはり誤魔化し切れなかったな。ベストなお前ならもう少し粘れた。それに……」

 

 サングラスの下で、黒沼の瞳が光る。

 

「どちらにもライスシャワーは出ないぞ」

 

 痛いところを突かれたとミホノブルボンは思った。

 今日のレース、必要以上にライスシャワーを意識していた。いつもなら、真っ先にゴールすることしか頭にないのに。再戦できたことへの昂りか、彼女の動きに終始目が向いていた。

 

「……彼女のトレーナーから聞いたのですか?」

「勘だ。あいつは負けをすぐ取り返すより、万全を尽くして得意なレースを選ぶ。そういう男だ」

 

「では、春まで休養ですか?」

 

 年明け以降の冬にもレースはある。しかし芝のGⅠはなく、出遅れたジュニア級や、クラシック級の前哨戦、秋シーズンで結果を出せなかったシニア級が春のGⅠ出走権獲得を目的としたレースが多い。

 すでに復帰からGⅠ含めて重賞を複数勝っているミホノブルボンが狙うレースは少ない。

 

「そうだな。有記念に出れそうなら出てもいいが……」

 

 黒沼がニヤリと笑う。

 

「どうせ長距離GⅠに出るなら、中山より京都のほうがいいだろう?」

 

 ミホノブルボンがハッとする。トレーナーの意図に気づき、口角を上げていく。

 この二人は年末のグランプリに大きな意味など見出していない。

 つまるところ、次の目標は、

 

「……天皇賞(春)!」

「ああ。次はバクシンオーみたいな理論は通じん。きっちりと、3,200m走り切れるよう仕上げていくぞ」

「はいマスター!」

 

 敗北を引きずることなく、サイボーグと呼ばれたウマ娘は次の舞台を見据えていた。その胸に、消えない熱を抱いたまま。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「バクシンッ!!」

 

 気づいたとき、サクラバクシンオーは控室の天井を見ていた。

 上体を起こすと冷えタオルが落ちてくる。見れば脚や手にも同様の物が巻き付いていた。

 

「まだ寝ていた方がいい。なにせ、ゴールすると同時にぶっ倒れたんだ」

「……トレーナーさん」

 

 声の先を見ると、椅子に座ったトレーナーが優しく、いや辛さを誤魔化すように笑っていた。

 

「私……負けたんですね」

「五着だ。初めての中距離GⅠで掲示板に乗れた。凄いことだ」

 

 トレーナーの言う通り、十六人出走中の五着なら誇っても良い戦績でもある。が、勝ちに来た以上到底喜べる順位ではなかった。

 

「短距離やマイルを走っていて分かってはいました。同じ重賞でもGⅠは空気も展開も違うと」

「ああ……」

「ですが2,000mを一度勝った以上、今回も勝てると……決して無謀な挑戦ではないと思っていました」

 

 サイレンススズカの大逃げ、背後を意識しすぎてのスタミナの消耗。中距離の経験不足からのペース配分ミス。敗因を上げればキリがない。

 

「そう思って挑んだ結果が、このザマです」

 

 足に力が入らない。熱のこもった痛み。折れてこそいないが、限界を超えた走りで炎症を起こしているのだろう。少なくとも残りの秋シーズンは休養だろう。

 全て自分の夢のためだ。後悔はない。しかし、トレーナーはどうだ。

 ウマ娘の意思を尊重したとしても、無理な挑戦で壊したとトレーナーを責める者は少なくない。

 

「珍しく落ち込んでるな。バクシンオーらしくない」

 

 だというのに、トレーナーは気にする様子もない。

 自身の風評を気にするどころか、こちらの様子ばかり気にしている。

 

「……こんな格言を知ってるか?」

 

 トレーナーが唐突に切り出した。

 

「桜の花が散るのは朽ちたからではない。翌年にまた綺麗な花を咲かせるための準備に入っただけなのだ」

「……初めて聞きました」

「ああ、俺が今考えた」

「ちょわ……っ」

「ははは、悪いな。ちょっとからかってみた。

 ……でも、気持ちは本当だ」 

「気持ちとは……?」

「君はこれで終わるようなウマ娘じゃないってことだ。

 ……今は休もう。そしてまた来年、秋の桜を咲かせに来よう」

「また、来年……秋……それは」

 

 それはつまり、

 

「私は……まだ挑戦してよいのですか? 中距離に、秋の天皇賞に!」

「当たり前だろう。君が挑戦したいと思うなら、俺も全力で応援する。そう、約束したからな」

 

 快活な桜が描いた夢は果てしなく、険しい。

 それでも朽ちることなく挑むのだろう。

 咲こうとする姿がを応援するものがいる限り。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「期待に応えられず申し訳ありませんでした」

「頭を上げて。貴女が謝ることじゃないわ。」

 

 チームルームで頭を下げるエアグルーヴに東条は言った。

 エアグルーヴの走りに問題はなかった。敗因を捻りだすなら気持ちの差か。

 彼女にとって今日のレースは古豪との闘い、そしてクラシック級以来のGⅠ。周囲からの期待も大きかった。

 

(エアグルーヴにとって、視線を向けるものが多かった……)

 

 とある人物が、レースを童謡のウサギとカメの競争に例えたことがある。

 走力で勝るウサギがカメに負けたのは、ウサギがカメを見ていてレースへの意識が欠いていたからだ。対してカメは競争相手のウサギではなくゴールを見ていた。

 レースに対する姿勢や意識の重要性を説いたものだが、エアグルーヴはその実力と注目度からウサギになってしまい、そしてマチカネタンホイザはカメだった。

 どんな状況でも、意識をレースから逸らさず、自分の走りを尽くしたからこそ彼女は勝った。

 中距離経験の薄いバクシンオー、復帰後初のGⅠだったライスシャワー、ライバルを意識しすぎたミホノブルボンも圧倒する、長く走り続けたことで培った経験値の差だった。

 

「今年のメンバーで二着なら大健闘、なんて言っても納得しないでしょう」

「当然です」

「じゃあ次のレースを用意するとしましょう。雪辱の舞台は、ジャパンカップ」

「……! ルドルフ会長が勝った国際招待競走ですね。受けて立ちます」

 

 エリザベス女王杯は日程的に近すぎる。コンディションの調整時間を考えての次走、そして女帝たらんとするエアグルーヴが立つにふさわしい舞台としては最善だ。

 

「では帰ったら早速調整に入りましょう。

 そして……スズカ」

「はい」

 

 これまで眠ったように黙っていたサイレンススズカが目を開けた。

 その瞳に宿る熱に、東条は嫌な予感を受けた。

 普段のスズカは全体的に受け身というか、あまり強い要求をするタイプではない。だが、今の彼女には確固たる意志のようなものを感じた。それが、どうにも東条には不安だった。

 

「今日のレースで分かったでしょう。貴女の逃げ足は天性のものだけれど、それだけではレースには勝てない」

 

 序盤で大逃げをかましたものの、後半は失速し、結果は六着。

 古豪たちのすぐ後ろに着く順位だが、大逃げさえなければもっと上につけたというのが東条の見立てだった。

 

「逃げを選ぶしかないウマ娘もいるけど、貴女は違う。今からでも先行や差しの戦略に切り替えれば――」

「トレーナーさん」

 

 東条の言葉を遮るサイレンススズカにエアグルーヴが目を丸くした。

 リギルでトレーナーの発言に割って入るものなど滅多にいない。それこそ付き合いの長いナリタブライアンや、闘争心の高いヒシアマゾンくらいだ。積極性の薄いサイレンススズカが人の発言を遮るなど予想外だった。

 

「それについて、お話があります」

 

 嫌な予感が当たったと、東条は奥歯を噛み締めた。

 

 

 

 

 数日後、未だ世間が善戦ウマ娘と呼ばれたマチカネタンホイザの初GⅠ制覇に沸く中、ある情報がトレセン学園のトレーナー間で駆け巡った。

 

「サイレンススズカ、リギル抜けるってよ」

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 チーム・リギル。日本のウマ娘レースにおいて初の三冠ウマ娘を輩出したことから始まり、歴史が長く、実績も伴ったトレセン学園最強と呼ぶことに誰も疑い持たない名門チームだ。

 強いウマ娘を育てた実績から名家出身の才媛が集う。故に名家との繋がりもあり、支援を受けた結果としてトレーニング内容も充実していく。そして恵まれた環境で鍛えられたウマ娘たちが成果を出す。そこからまた名が上がる。実績が実績を呼ぶ、良いサイクルができていた。

 時代の中で浮き沈みすることもあったが、少なくとも今代のチームトレーナーである東条の評価は高い。

 一見厳格な印象を受ける東条だが、その実チーム所属のウマ娘からの信頼は篤い。外からは分かりにくいが、彼女を尊敬こそすれ、畏怖するチームメンバーは少ない。

 実際、独自に入団テストを行い入ることすら厳しいとされるリギルだが、成果が出せず放逐されるようなウマ娘はいない。

 無論、想定外の負傷や家庭の都合、レースへの熱意の消失など、引退という形でチームを去る者はある程度いる。しかし東条の方から力不足を理由にチームを脱退させるような真似はしなかった。

 自分の目で見出した以上は最後まで面倒を見るというのが東条の信条。杓子定規な指導でなく、ウマ娘一人一人に真っ向から向き合い、個々にあった指導をする姿勢が、嫉妬や僻みでなく、羨望と尊敬を集めていた。

 そんなリギルからのサイレンススズカの脱退。引退ではなく、指導方針の食い違いからの脱退の噂は、情報収集に努めるトレーナー間だけでなく、年頃故の好奇心旺盛なウマ娘たちにもあっという間に広がった。

 当事者たちに詰め寄るようなことこそしないが、学園内は暇さえあればその話題で持ちきりだった。

 

「これはチャンスだね」

 

 学園の食堂にて、ライスシャワーの瞳が怪しく光った。

 

「ライス先輩、悪い顔してるデース」

「エル。あなたも人のこと言えない顔をしてますよ」

 

 テーブルを囲むチーム・マルカブの三人。彼女たちの話題も他と違わずサイレンススズカだった。

 公の場でこんな話題は避けるべきだが、食堂は昼時のため他のウマ娘たちでごった返している。

 この賑わいでは、ウマ娘でも聞き耳を立てることも難しい。ヒトを隠すはヒトの中とはよく言ったものだ。

 

「ですが、先輩の言う通り好機です。デビュー済みでクラシック級なれど目立った実績は無し。他のチームとの競合も無さそうですし、メンバー不足のマルカブに誘うのにピッタリかと」

 

 チームの指導方針、特色などの都合からチーム間の移籍は決してないわけではない。

 しかし今回の騒動、サイレンススズカにとっては不利であった。

 個々に合わせた、言ってしまえば万能な指導を敷くリギルを抜けるというのは、ウマ娘側の気性を疑われる。加えてデビューを済ませながらも目立った実績がない彼女を好んで勧誘したがるトレーナーは少数だろう。

 仮にいるとすれば、リギルよりも優れた指導をしてみせると豪語する大うつけか、至急追加メンバーが必要な零細チームくらいだろう。

 

「しかし、どうしてサイレンススズカ先輩はリギルを抜けるなんて言い出したのでしょう?」

「やっぱり前の天皇賞(秋)じゃないデス? 大逃げには驚きましたが、後半には失速していました」

「ううん。あれは多分、リギルのトレーナーさんの指示じゃないと思う」

 

 大盛カツカレーに匙を入れるライスシャワーに、二人の視線が向く。

 

「そうなんデスか?」

「ライス先輩は、あの大逃げがサイレンススズカ先輩が自分の意志でしたものだと?」

「うん。リギルのトレーナーさんは、ライスもそんなに話したことはないけど、無茶な指示をする人じゃない。少なくとも、途中で失速するような走り方をさせる人でも鍛え方をする人でもない」

「んーだとすると、どうしてサイレンススズカはあんな大逃げを?」

「多分だけど、あれがスズカさんの好きな走り方だったんだと思う」

「好きな……」

「……走り方?」

 

 そう、とライスシャワーは半分ほどになったカレー皿を脇に置いて、トマトサラダ(大盛)を前に持ってくる。

 

「走り方には色々あるよね。逃げに先行、差しに追込み。そこから自分の適性に合わせたり、器用なウマ娘はレースごとに走り方を決めるよね。

 ……でもあと二つ、走り方を分けることができるんだ」

 

 匙を動かし、角切りのトマトを掬いあげる。

 

「一つは勝つための走り。

 ライスのマーク走法、ブルボンさんのラップタイム走、ルドルフ会長の中団からの先行差し、マックイーンさんの周りのスタミナを削るハイペース。適性の都合もあるけど、レースに勝つために選んだ走り方。

 そして……」

 

 トマトを頬張る。咀嚼し飲み込んだのち、付け合わせのマッシュポテトを指す。

 

「二つ目は好きな走り。

 マルゼンさんの桁違いのハイスピード走、ダイタクヘリオスさんの楽しそうな爆逃げ、ミスターシービーさんの迫力ある直線一気。

 この人たちは勝つことよりも自分が一番自由に、活き活きと走れるやり方を重視している」

「つまり、ライス先輩の読みではサイレンススズカは後者なんデス?」

「多分、だけどね。だからリギルの方針は合わないと思ったんじゃないかな。あそこはみんな凄い人たちだけど、だからこそ勝ちへの執念も強い。自然と前者のウマ娘が集まるチームだから」

「なるほど……」

 

 自分が楽しい走り方、と言われてグラスワンダーは考える。

 自分の差し、エルコンドルパサーの先行も適性から選んだもの。勝つために見出した走り方だ。窮屈と思ったことはないが、だからと言って特別その走りが楽しいと思ったこともない。

 推測とはいえ、サイレンススズカの考え方は自分にはない視点だった。

 

「ということは、その点を踏まえて勧誘できればチームに入ってくれるかもしれませんね」

「君が自由に走る姿は実に美しい! もっと! ずっと! 見ていたい! ぜひ、私のもとでその走りを磨いてみないか! ……みたいな感じデスね!」

「エルさんから見てお兄さまってそんな感じなの……?」

 

 どうスカウトするかはトレーナー次第だが、ライスシャワーには一抹の不安があった。

 サイレンススズカが逃げを好み、東条がそれをさせなかったと推測して、果たしてマルカブのトレーナーは逃げをさせるだろうか。

 サイレンススズカが強く望めば、きっと許すだろう。だが一方で懸念もある。

 逃げは周りに合わせたペース作りができないため、勝ちが安定しないことに加えて脚への負担が他の脚質に比べて大きい。事実、ケガにより戦線を離れる逃げウマ娘は多い。

 リスクの多い走りを、当人が望んだからと言ってさせるだろうか。そして万が一のことがあった時、トレーナーは耐えられるだろうか。

 

(ううん。何かあったとしても、ライスが……ライスたちがお兄さまを支えればいいんだ)

 

 弱かった自分はもういない。孤独だったチームには頼もしい後輩たちがいる。なら、きっと乗り越えられる。

 そう信じて、ライスシャワーは三つ目の皿に手を伸ばした。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 突然の雨に襲われたコースは酷いものだった。

 歩くだけで飛沫が上がり、ズボンの裾を冷たく濡らす。傘や合羽で雨を弾いても、僅かな隙間から水が入ってくる。

 水はけが良いはずの芝コースですら水たまりができるのなら、きっとダートコースは沼地になっているだろう。

 

「こりゃしばらくはジムで筋トレかな」

「雨や不良バ場での練習もしたいが、いくらなんでもこれじゃ悪すぎる」

 

 午後のトレーニングに向け、共にコースの下見にやってきた同僚たちが思い思いの言葉を吐く。

 いずれも暗く、鬱蒼した声だった。

 

「経験を積む前に風邪をひいてしまうな」

 

 かくいう私が漏らす声も似たようなものだった。

 メニューの組直しは必須。問題はこの雨がいつまで続くか。いつコースが渇くか。

 最悪、今週分全て練り直しだろう。

 室内トレーニングは器具の競合が激しい。プールか、もしくは座学のレース研究が妥当か。半日くらいはジムが使えると良いが。

 

「おい、あれ……」

 

 ふと、トレーナーの一人がコースの向こうを指さした。

 顔を上げる。

 視線の先、雨の向こうで動く影が見えた。前に進む体に合わせて揺れる尾。

 トレセン学園でコースを走るものなど一つしかない。ウマ娘だ。

 

「こんな雨の中で……」

 

 レースが雨天で行われる場合はある。だから雨の中でトレーニングすることもある。しかし自主トレとはいえこの天候でのジョギングなど、体を壊すだけだ。

 その場にいたトレーナーたちの視線が交錯。口に出すまでもない。満場一致で止めることにした。

 担当トレーナーがいたら申し訳ないが、体調を崩せば管理不行き届きとなるのだから大目に見てほしい。

 ウマ娘用の広いコースを横断することは一苦労だと思ったが、向こうも走ってくるので合流にそれほど時間はかからなかった。

 黒い雲の下、ウマ娘の輪郭がはっきりするにつれて私たちの脚が鈍っていく。

 その姿をはっきりと視認した時、思わず声が出た。

 

「サイレンススズカ……?」

 

 今学園を騒がす、栗毛の迷い子だった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 我がことながら刹那的に生きているな、とサイレンススズカは思った。

 天皇賞(秋)が終わった直後、リギルのトレーナーである東条と指導方針で対立した。

 いや、対立だと語弊がある。自分が一方的に我儘を言って、それに呆れた東条が頭を冷やせと暇を出しただけだ。

 

 とりあえず、やることもないので走ることにした。

 

 学園では妙な噂が広がっているようだが、元来他者からの評価に大して関心のないサイレンススズカには些末なことだった。もっとも、リギルのトレーニングに参加しなくなったことが、件の噂が学園に広まった一因なのだが、当の本人に自覚はない。

 だが、リギルを離れることになっても悔いはない。

 天皇賞(秋)、ミホノブルボンよりも、サクラバクシンオーよりも前を走った時の快感、高揚感。閉塞した牢獄に風穴が空き、鬱屈とした空気が爽やかな風で吹き飛ばされるような気持ちだった。

 結果としては失速からの六着と散々だったが、それでも彼女にとっては迷いを晴らす意義あるレースだった。

 東条の指導が間違っていたとは思えない。それは彼女が育て上げていた数多のスターウマ娘たちが証明している。だからズレているのは自分。致命的に、東条の方針と自身の気性が合わなかっただけ。

 

「これからどうしようかしら……」

 

 リギルを離れるのは、まあいい。しかしミホノブルボンやサクラバクシンオーのトレーナーの元へ行くのは躊躇われた。どちらもチームでなく専属である以上、前任と喧嘩別れするような自分が入るのを快く思わないだろう。

 なにより、合わないとはいえ面倒を見てくれた東条への義理もある。暇を出されて即別のトレーナーと契約ではいくらなんでも薄情だろう。

 

「よく考えたら、私ってデビューしてからなんの成果もあげてないのよね……」

 

 同期のシーキングザパールにタイキシャトル、メジロドーベルやマチカネフクキタルはついにGⅠウマ娘だ。つい先日も食堂でお喋りした級友が、随分と遠くへ行ってしまった気がする。

 デビュー戦こそ勝ったものの、未だ重賞を制していない自分に、もしやリギルは最初から不釣り合いだったのかもしれない。

 

「あ、でもそれはそれでスカウトしてくれたおハナさんに失礼かしら……?」

 

 どちらにしろ。今後の身の振り方を考えよう。トゥインクルシリーズで走り続けるには、トレーナーとの契約やチームへの所属は必須だ。

 目立った実績がない以上、大きなチームへ入るのは難しい。専属トレーナーを探してもいいが、自由に走らせてくれる人がいい。が、勝ち目の低い逃げに拘る自分と契約するトレーナーがいるだろうか。

 いるとしたら、それはどんな切羽詰まったトレーナーなのか。

 

「どこかにいないかしら……」

 

 実績のない自分を受け入れてくれて、かつ自由に走らせてくれる――

 

「サイレンススズカ……?」

 

 ――そんな、都合の良い(トレーナー)

 

 

 

 

 

第二章 チーム始動編 完

第三章 チーム継承編に続く

 

 

 

 

 






ライス「今、お兄さまがやらかしそうな気配を感じた……」
グラス「行きましょう。またなにか拗らせる前に……!」
エ ル 「カチコミデース!」



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チーム継承編
12話 マルカブとスピカ


お久しぶりです。
ジェミニ杯(2回目)がボッコボコの凹にされたので初投稿です。

第三章すべて書き終わってはいませんが、時間かかりそうなのでとりあえず4日間ほど毎日1話ずつ投稿します。


ゴルシエミュむずい。




 濡れ鼠もとい濡れウマ娘となったサイレンススズカを保護し、とりあえず着替えさせることにした。

 なんでも気晴らしに走っていて、雨が降っていることすら気付かず走り続けていたらしい。

 集中力が高いというか、走っているうちに周りが見えなくなる性質(たち)のようだ。

 

「あの……すいませんでした」

 

 シャワーを浴び終わったサイレンススズカが顔を出す。

 予備のジャージに着替え、タオルを首にかけた彼女は周りをキョロキョロと見渡す。

 

「あれ? 他の人たちは……?」

「さすがに大人数で待つ必要もないからね。解散したよ。この雨じゃコースは使えないから今頃ジムや器具の予約に走ったんだろう」

「トレーナーさんは良かったんですか?」

「大丈夫だよ。予約済みだから」

 

 運が良かった。元よりジムトレーニングの予定だったから私は焦る必要がない。

 まあ、なので一人シャワーを浴びる彼女を待つ役に回されたわけだが。

 

「リギルの……東条トレーナーに連絡した方がいいかな?」

「それは……」

 

 リギルをまだ正式に抜けたわけではないはず。ならば東条トレーナーに預けるのが筋だと思った。

 しかし、サイレンススズカはバツが悪そうに俯く。

 東条への嫌悪や恐れではない。ただ会うのが気まずい、そんなところだろう。

 

「雨の中を走ってどうだった?」

「え……? そうですね……少し、寒かったです」

「じゃあ温めないと。風邪を引かないように今夜は早めに休むといい」

「はい……あの」

「なにかな?」

「聞かないんですか? 何があったか」

「聞いた方が良かったかな?」

 

 少し意地悪な質問をした。迷う彼女に続けて言う。

 

「話して楽になるなら話してみて欲しい。君の悩みを解決できるかは分からないけど、気が済むまで聞くことはできるから」

 

 思春期の少女、ウマ娘という種族、個々人の人格。私と彼女はまるで違うのだから、全ては理解できないし、ベストな回答は無理だ。

 でも彼女の気持ちや迷いや悩みを聞くことはできる。共有することはできる。

 ライスともそうやって歩んできた。

 

「それじゃあ……聞いてもらってもいいですか?」

 

 私が頷くとぽつりぽつりと、サイレンススズカは話し出した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 近くの談話コーナーで腰を据える。

 途中で買った飲み物を手に、サイレンススズカが身の上を話してくれた。

 

(なるほどね……)

 

 サイレンススズカの話を聞いて、どうしたものかと内心首を捻る。

 走るのが好き。レースや勝つことにこだわりはない。しかし誰もいない景色を一人で走るのが好きなため結果的に一着を目指しはする。

 そのため希望する作戦は逃げ一択。しかし王道の先行や差しからは外れた走り。故に常勝を目指す東条トレーナーの方針とぶつかった。まとめるとそんなところか。

 難しいところだ。彼女の意思を尊重したいと思う反面、東条トレーナーの方針が間違っているわけでもない。

 

「東条トレーナーは逃げに拘ることを許してくれなかったんだね」

「はい。負担も大きいし、安定して勝てる走り方ではないと」

 

 レースは一番最初にゴール板を駆け抜けた者が勝者だが、タイムアタックではない。走る中で戦略や戦術があり、枠順や天候、突然のトラブルなど運的要素も多い。

 だから可能な限り安定した勝ち方を模索し、指導するトレーナーがほとんどだ。私もライスを勝たせるためにマーク走法を提案した。

 一方、ウマ娘の希望を叶えるのも仕事だ。だが言いなりになってはいけない。

 力では到底敵わないウマ娘だが、私たちは大人で彼女たちは子どもだ。歪んだ望み、自棄的な願いは正す。ただのコーチではなく、少女の未来を預かる仕事だというのはトレーナー研修で叩き込まれたことだ。

 

「先行や差し、中団に控えて後半に差し切る走りは私には合いませんでした。前に誰かがいることがどうしても我慢できないんです」

 

 彼女が見たいのは始めから終わりまで誰にもいない、先頭の景色。

 終盤で抜け出すことに快感よりも、一度も相手と並ぶことのない逃げ切りが彼女の求める走りだった。

 

「天皇賞(秋)もそうでした。ブルボンさんもバクシンオーさんも差し置いて立った先頭。みんなは無茶な逃げで最後は失速したなんて言うけれど、違うんです。

 ……私は、久しぶりに見れた先頭の景色に満足してしまった」

 

 まるで、その気があればあのまま逃げ切っていたと言いたげだった。

 彼女の横顔は平然としており、自身の発言に迷いや疑いがなかった。

 

(だとしたらとんでもない才能だ……)

 

 彼女の言を信じるならレース直前まで差しや先行のトレーニングをしていたはず。そこからぶっつけ本番であの大逃げ。彼女のモチベーションが最後までもてばどうなっていたか。

 2,000mをミホノブルボンを超えるペースでの逃げ。そこに駆け引きはなく、競り合いもない。トゥインクルシリーズの長い歴史の中で培われてきた常識をすべて破壊する。

 彼女の走りは、異端に過ぎた。

 

「やっぱり難しいですか?」

 

 反応が芳しくないと思ったか、サイレンススズカが私の顔を覗き込んでくる。

 ターフのように青々とした瞳が私を射抜いてくる。

 

「いや……ただ、君は凄いなと思っただけだよ」

「凄い、ですか? 私が? まだ大きなレースを一つも勝ててないのに?」

「それはまだ君が本調子じゃない……いや、逃げに拘る心と先行差し向けに鍛えた体。精神と肉体の調整がマッチしていない。二つの歯車が嚙み合わず、空回りしている状態だからだ」

 

 東条トレーナーは心の方をなんとかして体に合わせようと苦心したことだろう。

 しかし彼女の心は一流トレーナーの想定を超えて偏っていたようだ。

 

「君の走りが完成したら、きっとレースの常識が覆るだろう。

 その様子にたくさんの人が驚き、呆然とし、喝采する。こんな走りがあるのかとわが目を疑うことになるだろう」

「常識が……覆る」

 

 呆気に取られたサイレンススズカの視線が彼方への向かう。その瞳にはターフに立つ自分が歓声を浴びる様を思い描いているのだろう。

 その光景はまさに歴史に残る瞬間だ。未来永劫、人々はサイレンススズカの姿と名前を忘れない。

 しかし、

 

「東条トレーナーは、別に勝ちに拘って君の逃げを封じたわけじゃないと思う」

「……そうなんでしょうか」

 

 空想から帰還したサイレンススズカの瞳がこちらを向く。

 私は頷き、続ける。

 

「もう君には耳タコかもしれないけど、逃げは負担が大きい。周りに合わせてペースを整えられないから常に全力疾走が求められる。だからこそ逃げウマ娘は負傷するケースが多い。

 アイネスフウジン、ミホノブルボン、君の同期にも菊花賞前にケガをした逃げウマ娘がいたね」

「私もそうなると?」

「可能性の話だよ。でも今あげたウマ娘たちも自分がケガするなんて思ってもなかっただろう」

 

 それでもトレーニングや休養中に判明しただけマシだろう。

 もし、万が一、レース中にケガをすれば。

 

「………………」

「あの、トレーナーさん?」

「ん? ……ああ、ゴメン。なんでもないよ」

 

 険しい顔をしていただろうか。サイレンススズカが心配そうな顔をしていた。

 

「とにかく、東条トレーナーも君を心配してのことだったと思うよ」 

「そうだったんですね。……私、自分のことばかりでおハナさんの気持ちを全然考えていませんでした」

「じゃあ謝ってみたらどうだい? 東条トレーナーだって許してくれるし、リギルにだって戻れる」

 

 お兄さま、アウトー

 

 ……何か聞こえた気がする。仕事のし過ぎかな。

 

「そうですね。でもおハナさんはきっと逃げを許してくれません」

「君の身体を心配してるからだとしても?」

「……はい。やっぱり私、先頭の景色を譲れません。あの光景だけは諦めたくありません」

 

 決意に満ちた顔だった。

 こういう顔をしたウマ娘の意志を曲げさせる方法を私は知らない。

 だから、忠告だけはしておく。

 

「さっきも言ったけれど、君の走りはいつかレースの常識を変える。世界を変える。君の名は後世へと語り継がれる。

 ……しかし、君自身の輝きはずっと短くなる」

 

 それは流れ星のような一瞬の煌めき。人々に夢と希望を与え、己は燃え尽きる切ない輝き。

 

「それでも君の意志は変わらないか?」

「私は……」

 

 サイレンススズカの瞳が揺れる。

 もしも、これで彼女が頷くようなら私は――

 

「チェストオオオオオッ!!」

「うおっ!?」

 

 突然の奇声とともに振り下ろされるずた袋。狙いは私。ならば恥も外聞もない。ヘッドスライディングするように飛び退いた。

 すぐさま立ち上がる。呆然とする私とサイレンススズカの前に、葦毛の長身ウマ娘がいた。

 特徴的な帽子。起伏の富んだ身体。

 十人中十人が振り返り、そして見なかったことにする学園一の奇行種。

 

「ゴールドシップ……!」

「おうおうおう! アタシのずた袋を躱すとはやるじゃねえかマルカブのあんちゃん!」

 

 ここで会ったが百年目! と葦毛の奇人が叫ぶ。

 

「残念だったな、スズカは私らスピカが先に声かけてんだ! 横入りはよしこちゃんだぜ!」

「……そうなのか?」

「え……そういえば、おハナさんに付き纏ってる男性から声をかけてもらったことはあります」

 

 合宿でスピカのトレーナーが勧誘中のウマ娘がいると言っていたことを思い出す。

 あの男、よりにもよってリギルから引き抜きをかけるとか正気か。いや、ストレートにスピカに移れと言ったわけではなさそうなのがまだ救いか。

 

「あの人、スピカのトレーナーさんだったんですね……」

 

 おい認識されてないぞ。口説いてるって言っていただろう。

 とりあえずゴールドシップから距離を取る。奇行ばかり伝えられるが、暴力沙汰を起こしたという話は聞いたことが――今ほどのずた袋にそういった意図はないとして――ないし、下手に刺激しなければこれ以上事態が悪化することはないだろう。

 

「それでゴールドシップはどうする。このままサイレンススズカをスピカの部室に連れていくのか?」

「んだよー引き下がるのかよ。そこは男らしくここはカバディで決着つけるとこだろ!」

「ことを荒立てる気はない。というか男らしくって、君は女の子だろう」

「あんちゃんそういうとこだぞマジで」

 

 ええ……なんか真顔で怒られた。

 いやしかし、ゴールドシップから敵意のようなものが消えたのは良かった。

 これで少しは会話に……なるかな? ならないな。

 ゴールドシップの目的は私に突っかかることではない。だからさっさと本題に入る。

 

「サイレンススズカ。聞いての通りゴールドシップは君をスピカに入れたいみたいだ。どうする?」

「えっと……」

「いいじゃん来いよスズカ! スぺもいるし、スピカ(うち)はリギルと違ってやりたい放題だぜ!」

「やりたい放題……」

「ああ、大逃げ爆逃げ超逃げ何でもありだ! スズカの自由に走ればいい!

 ……スピカはさあ、ついこの間まで結構暗かったんだ。マックちゃんは病気になっちまうし、テイオーも有で大勝利してこれからって思ったらまたケガだ。ドリームトロフィーに移ったからって脚の心配はずっと付き纏う。あの普段はチャラチャラしてるトレーナーも、態度には出さないけど落ち込んでた。ありゃ目当てのソシャゲの配信が二、三年延期した時みたいだった。知らねーけど」

 

 先ほどまでの騒々しさが鳴りを潜め、ゴールドシップが淡々と語っていく。

 

「そんなあいつがな、スズカが出た模擬レースを見てキラッキラに目ぇ輝かせたんだ。特撮ヒーローの新作ベルトのCМを見たガキンチョみたいだった。それからはずーっとスズカスズカさ。

 ……ちょっとキモかったなアレは! マックちゃんもテイオーもジェラシっちまうくらいさ。

 なあスズカ。リギルだってスズカにはいて欲しいだろうさ。仲間だからな。でもスピカ(アタシら)はスズカと、スズカの逃げが必要なんだ。そこだけは、絶対他の連中に負けはしない」

 

 ……どうしよう。思っていた以上にまともな話だった。

 それは普段の彼女を知るものからすれば衝撃な光景だろう。

 あのゴールドシップが、ちゃんと意味ある言葉をもって真正面からサイレンススズカを勧誘している。

 それは真摯でいて心根からの言葉。行き場に迷うサイレンススズカの心を揺らすには十分だろう。

 そして、

 

「その勧誘、ちょっと待つデ――――ス!!」

 

 整いかけた場をぶっ飛ばす、怪鳥の声が響き渡った。

 滑り込むように私たちとゴールドシップの間に割って入るエル。遅れてライスとグラスが私を守るように立ち入ってきた。

 

「大丈夫お兄さま?」

「予想通り拗れてますね。流石です」

「褒めてないよねそれ」

「んだよおめーら邪魔すんじゃねーよ! どう見ても今のはスピカエンドだっただろう!」

「こっちにだって譲れない事情がありマース!」

 

 さっきまでのしっとりとした空気はどこへやら。一気に喧騒が帰ってきた。

 

「トレーナーさん! ゴルシ先輩はエルたちが抑えますから、今のうちにスズカ先輩を誑かすデース!」

「言い方! 誑かすってなに!?」

 

 さらには、

 

「おーいゴルシ! お前何やって……なんだこの状況?」

 

 スピカのトレーナーが、チームメンバーを引き連れ揃えてやってきた。

 メジロマックイーンにトウカイテイオー、そしてスペシャルウィーク。彼女たちもゴールドシップの行動は知らなかったのか、私たちマルカブとサイレンススズカを相手取っていることに驚いた様子だった。

 状況を見たトウカイテイオーが呟く。

 

「ボク知ってる。これ修羅場ってやつだ」

「テイオーさんはどうして楽しそうなんです!?」

「ゴールドシップ、チーム・マルカブの方々にご迷惑をかけてないでしょうね?」

「何言ってんだよマックイーン! アタシはスピカのためを思ってだな!」

 

 一方で、

 

「ねえお兄さま。スズカさんと何を話してたの?」

「ちょっと相談事というか、彼女の悩みを聞いていただけだよ」

「つまりいつものアレってことデスね?」

「そしてスカウトのスの字も出していないんですね?」

「………………」

『目を逸らさない!』

「…………はい」

 

 ゴールドシップがあれこれ脚色するのを私が正しながら、これまでのことを説明する。

 なぜか彼女がスズカを勧誘するあたりを話させようとしないが、とりあえずはスピカとマルカブ、ともに可能ならサイレンススズカをチームへ勧誘したいということは共有できた。

 ……あれ? 私彼女を勧誘したいとか言ったか?

 

 ライスとメジロマックイーン、グラスとスペシャルウィーク、エルとトウカイテイオー、そして互いのトレーナーが無意識に対峙する。ゴールドシップは横でルービックキューブを弄っていた。

 

「なるほど、今回スピカとマルカブはライバル同士ってわけだ」

「ライバルなのは以前からでしょう。ライスとメジロマックイーンが天皇賞(春)を争った時から」

「それもそうか」

 

「スピカはメンバー不足、残念ですが引くわけには参りません」

「それはマルカブも同じです。マックイーンさんでも譲れません」

 

「スペちゃんには申し訳ありませんが、私たちにも事情があります」

「よ、よく分からないけど……スズカさんが同じチームになってくれるなら嬉しいし……ま、まけないよ!」

 

「ぶっちゃけさ、エルってこの状況楽しんでるよね?」

「まあ割と。でもそれはテイオーもデスよね?」

「うん!」

 

 スピカとマルカブ、メンバー一人の有無がチームの存続に関わる以上、ここで退くつもりはなかった。

 しかし、私たちは忘れていた。

 当事者が完全に流れに置いてけぼりにされていること。

 分かるのは、どうやら自分を巡って対立しているということ。

 なので、

 

「わ……私のために争わないで――!!」

 

 そんな珍言が飛び出しても仕方がないだろう。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「何してるのよ貴方たちは……」

 

 頭を抱え、東条さんがため息とともに言った。

 あの後、騒ぎを聞きつけたヒシアマゾンに見つかってそのままチーム・リギルの部室へと私たちは連行された。

 そして青筋を立てた東条トレーナーへ事情を説明したところで、先ほどの呆れ声となった。

 

「……とりあえずスズカ」

「はい」

「頭を冷やせってのは雨の中を走れって意味じゃないのよ」

「すいませんでした……」

「まあまあおハナさん、そんなに目くじら立てなくても――」

「ああんっ!?」

「いえ、なんでもないです」

「トレーナー弱すぎない?」

 

 口を挟もうとしたスピカトレーナーを黙らせ、東条さんの獅子のような眼光がこちらを向く。

 

「このバカはともかく、マルカブまでスズカを狙っているわけ?」

「そこは順序が違うと思ってますよ。そもそも、サイレンススズカは本当にリギルを抜けるんですか?」

「む……」

「チームから引き抜くような真似をする気はありません。でもフリーとなったウマ娘をスカウトすることを咎められる謂れはありません」

「言うじゃないの」

「カンペに書いてあったので」

「言いなりか!」

 

 何度目かのため息を吐く東条さん。彼女に見えないところでライスがサムズアップしていた。

 おそらく、リギルも時間をかけてサイレンススズカを説得するつもりだったのだろう。あくまでリギル所属にしておけば無茶な引き抜きは起きないと考えてのことだろうが、幸か不幸か私たちとスピカで事態を進めてしまった。

 申し訳ないが東条トレーナーにはここで結論を出してもらうしかない。

 

「サイレンススズカから概ね事情は聴いています。彼女は本気でしょう。無駄に時間をかけることは彼女にとって良くないことは東条さんも分かっているはずです」

「……それもカンペかしら?」

「いえ、これは本心です。所属はどうなるにしろ、彼女の方針だけでも決めた方が良いのでは?」

「残念だけどそれは無理よ。私はスズカに逃げをさせるつもりはない」

「そんな!」

 

 スピカのトレーナーが声を上げた。

 

「おハナさんはスズカの走りを見て何も感じないのか!?」

「彼女の逃げが天性のものなのは承知しているわ。それでも私は負担の大きい逃げは――」

「違う! 勝ち負けとか才能とかじゃなくて、走っているスズカの顔を見たことあるのか!」

「スズカの顔……?」

 

 ハッとしたような東条トレーナーの顔。

 確かに、天皇賞(秋)のサイレンススズカは失速こそしたもののどこか満足そうな顔をしていた。

 他のレースは知らないが、先ほど彼女に聞いたことを思い返せば逃げ以外の策は苦痛だったという。

 

「……貴方は、スピカにサイレンススズカが入った場合はどのように走らせるつもりですか?」

「ん? そりゃあ逃げだろう。スズカがそれを望んでいるし、なによりも――」

 

 当然のことだろうと言いたげに、彼は告げた。

 

「先頭を自由に走ってるスズカが一番楽しそうだったからな!」

 

 それは、私や東条トレーナーにはない視点であり、おそらくサイレンススズカが最も望む回答だっただろう。

 ならば……うん、私の答えも決まる。

 

「そういうあんたはどうなんだ」

「ええ、私もサイレンススズカが望む以上は逃げをさせるつもりです。ですが――」

 

 一瞬だけ、サイレンススズカを見る。

 

「きっと、彼女はスピカにいたほうがいいでしょう」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ターイム!」

 

 私の答えを聞いた瞬間、エルが両手でTの字を作り割って入ってきた。

 呆気に取られる私たちを余所に、ライスが私の手を取る。

 

「お兄さま、ちょっとこっちへ」

「うん?」

 

 隅に連れられ、グラスとエルも合流して三人に囲まれる。

 

「お兄さま、空気読んで」

「え、この状況で私がそれ言われるの?」

「当然デス! どうして今の流れでスピカに譲るんデスか!?」

「トレーナーさんはもう少し欲張っても良いと思います!」

「いやでも、サイレンススズカにとってはそれが一番良いと思うんだ。それにうちは彼女が入らなかったらどうなるわけでも……」

『チームメンバー!!』

「あ、はい。足りてませんね……」

 

 まだ学園側から急かされているわけでもないが、彼女たちからすれば火急の案件のようだ。

 いや、私が楽観し過ぎなだけか。

 

「すいませーん! さっきのやりとり、『そういうあんたはどうなんだ』のあたりからTAKE2いいデスか?」

 

「「「いいわけないでしょ!」」」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「……で、どういうつもりよ」

 

 仕切り直しということで、トレーナー三人だけで別室に移った。二人揃って疑念の視線を私に向けてくる。

 

「別にスピカに譲ったとかそういうつもりはないですよ。ただ、スズカにとってその方が良いと判断しただけです。

 ……私はどちらかというと東条さん寄りです。彼女の希望だから逃げはさせますが、どこかで制限を設けます。負担が大きいのは事実ですから」

 

 それは逃げのペースだったり、レース間隔だったり、出走レースそのものだったり。逃げをさせるという条件を餌に彼女をまた別の鎖で縛ってしまう。

 それは、彼女が望んだ環境ではないだろう。

 

「ですがスピカは自由にさせると言った。それが彼女が一番楽しく走れることだと。……ですよね?」

「ああ、そのとおりだ」

「でしたら、私の結論は変わりません。

 勝ちを優先し希望を聞かないリギル、無事を優先し制限をかけるマルカブ、楽しさを優先し自由にするスピカ。彼女がどこを選ぶかは明白でしょう」

「あんた、苦労する性格してるな……」

「そうですかね?」

「……貴方は、それでいいのね?」

「はい」

「そう……じゃあ、仕方ないわね」

 

 くるり、と東条さんの視線がスピカへ向く。

 

「うちの秘蔵っ子を預けるんだから、泣かすようなことしたら承知しないわよ」

「ああ、任せておけって!」

 

 サムズアップする彼の笑顔は、葦毛の彼女が言う通り子どものように眩しかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「次スぺちゃん、左足を赤」

「む、むむむ無理です! この体勢で赤とか腰を一回転させないと無理です!」

「スぺちゃん、あんまり大声出さないで……」

「ご、ごめんグラスちゃん」

「いけースぺー根性見せろ!」

 

 戻ってきたら、なんかスピカとマルカブでツイスターゲームやってた。

 手足を広げたグラスの下でスペシャルウィークが必死に体をねじっている。

 

「……何して、いやなんでツイスターゲーム?」

「何言ってんだ人が集まればツイスターゲームだろ!」

「どこの国の風習?」

「アマゾン、ブライアン。どうして止めなかったの?」

「いや待ってくれおハナさん。これには深刻な訳が……」

「アマさんが真っ先に挑発に乗ってな。今は四回戦目だ」

「バラすの早いよ! 少しは言い訳の準備をさせろ!」

「リギルは全勝中だから心配無用だ」

「そういうこと言ってるんじゃないの……」

 

 頭を抱える東条トレーナー。

 部屋の隅でライスが伸びていた。身体が固く小柄な彼女にツイスターゲームは不利だろうな。

 柔軟のメニュー増やそうか考えているとゴールドシップがスピナーを抱えてやってくる。

 

「よーし次はトレーナー対決だ! あんちゃん準備しろ」

「サイレンススズカの移籍について話をつけてきたところだけど?」

「おめーらなにこの大変な時にツイスターゲームなんてやってんだ! ふざけてんのか、スズカの一生を何だと思ってやがる!」

『お前が言うな!!』

 

 その後、先ほど話し合ったとおりに各チームのスタンスを告げる。

 勝ちを優先するリギル、無事を優先するマルカブ、楽しさを優先するスピカ。

 どこのチームに所属するかはサイレンススズカの意志に一任させ、その決定に他チームは異議を唱えないことを伝える。

 ……マルカブのスタンスを伝えた時、ライスが困ったような、しょうがないなという顔をしていた。チームのことを気にしてくれる彼女には申し訳ないがこればっかりは都合よく曲げるわけにはいかなかった。

 

「私は……」

 

 サイレンススズカがどこを選ぶかは考えるまでもなかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「あんな逸材見逃すなんて、後悔するわよ」

 

 騒動もひと段落し、片づけを終えたリギルの部室を出ようとしたところで東条トレーナーが言った。

 

「それは東条さんも同じでは?」

「私はいいのよ。色々手を尽くしたけど、結局あの子と同じ道に立つことはできなかった」

 

 少し寂しげな表情。今思えば、サイレンススズカの件は彼女のトレーナー人生の中で数少ない失敗に当たるのかもしれない。

 

「人にもウマ娘にも相性というのはあります」

「同情も慰めもいらないわ。……少なくとも貴方とスズカは相性良いと思ったけれど」

「もっと良いのがいましたからね。彼女の幸せを考えたら仕方ありません」

「妥協と諦めは繰り返すと癖になるわよ」

「……肝に銘じます」

「トラウマは、いつか乗り越えるべきだわ」

 

 チクリと刺されてしまった。確かに、トレーナーとしてはもっと彼女に執着すべきだった。彼女に寄り添い、スピカと争ってでも彼女をチームに迎えようとするのが正解だろう。だができなかった。

 私は未だ、あの悪夢から抜け出すことができていない。

 もしも、サイレンススズカを迎えていれば。彼女の鮮烈な走りがあれば、もしかしたら――

 

「お兄さまー!」

 

 廊下の向こうでライスたちが手を振っている。立ち止まった私を早く来いと急かしていた。

 

「私には、彼女たちがいます」

「……そう。余計なお世話だったわね。じゃあ馴れ合いはここまで。次はレースで」

「ええ、レースで会いましょう」

 

 扉が閉まる。

 私を待つ私のチームの元への歩き出す。

 

「お待たせ。……三人とも、色々気を配ってくれたのにゴメンね」

「いいよ。お兄さまらしくて良かったって思うことにする」

「トレーナーさんの気難しさにはもう慣れました」

「ブエノ! それに、強い人は味方にいるより、ライバルにいたほうが燃えるものデス!」

 

 窓の向こうを見ると、雨はもう止んでいた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 およそ半月後、東京レース場。ОPレース。

 ライスたちが走るわけでもないのに、私はレース場へ足を運んでいた。

 客席から見えるターフの上を、栗毛の少女が駆けてく。

 テンから全力疾走にも見える大逃げに観客は呆れた声を出す。抑えろと知った口を大きく叫ぶ者もいた。

 だがやがてそんな声も消えていく。誰もが先頭を走る彼女を見ていた。

 中盤から終盤、他のウマ娘たちがスパートをかける中、サイレンススズカはスピードを落とすことなく先頭を突き進んでいく。

 

『サイレンススズカが先頭だ! サイレンススズカの大逃げ! 後ろとの差は二バ身、三バ身、いやまだ開く! 誰も追いつけない! 影さえ踏めない!!

 これが、これが彼女の本当の走りなのか!!』

 

 あり得ない、信じられない。そんな声が聞こえてくる。

 その通りだろう。だがいずれこの光景が当たり前に変わる。

 彼女が走る度、レースの常識は破壊され、新しい時代が拓かれるのだろう。

 

『これは異次元の強さ! 異次元の逃亡者だ、サイレンススズカ! 今、圧倒的大差でゴールイン!!』

 

 凍り付いたような沈黙。ただ一人でゴールする光景に誰もが言葉を失い、声を上げることを忘れていた。

 徐々にスピードを落とすサイレンススズカの顔に開く花の笑顔。その美しさに、ようやく歓声が沸いた。

 

「流石だな」

 

 短期間できっちり逃げに特化した仕上げをしてくるスピカのトレーナーの手腕に舌を巻くが、改めてサイレンススズカの資質を見せつけられた。

 遅咲きの大輪。間違いなく来年の台風の目となる。誰もが彼女に魅了され、目を離せなくなるだろう。

 

「本当に、手強いライバルが現れたよ」

 

 それでも勝つのはマルカブだ。ライスだ、グラスだ、エルだ。どこまでも逃げる君を必ず私たちが捕まえよう。

 きっとそれが、君の手を取らなかった私にできることだから。

 

 

 





Q.あの流れでスズカ入らないとか何考えてんの?
A.ちゃうねん。これでも結構悩んだんや。
  いい加減メンバー不足ネタもくどいので入れようかとも思ったんですが、
  スズカって毎日王冠でグラスとエルと走るんですよね。
  しかも次の秋天ってアレがアレでアレじゃないですか(精一杯のバレ回避)。
  そのへん考えるとスズカってライバル側にいたほうが光る気がして。
  あとヒロイン力高すぎてライスが霞みかねない。

というわけでスズカはアニメに合わせてスピカ入りです。
マルカブの残りのメンバーもちゃんと考えています。5人目だけは候補が複数いるのでアプリの育成実装状況見て変わるかもですが。
4人目は確定してますので楽しみにしていただければと……え? どうせあいつだろって? どうしてバレたんだろうなあ(すっとぼけ)。




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13話 はばたきとつまづき

この話を予約投稿する前、溜めていた感想返しさせていただきました。
12話へ感想いただいた方々には、3章終わりしだい返したいと思います。

ハーメルンの仕様をよく分かっておらず、夜遅くに通知が届いたようでしたら失礼しました。



 ジャパンカップ。

 正式名称はもっと長いが、おそらく皆がこの名で呼ぶ。

 世界に通用するウマ娘を育てることを目標に掲げ、その実力を確かめるための国際招待競走だ。

 その権威はいわゆる八大競争の枠外ながらも同格の扱いとされ、世界各地からこのレースに出るために来日するウマ娘陣営も多く注目度は極めて高い。

 未だ高い壁とされる海外のウマ娘と競うことは日本のウマ娘にとって栄誉であるし、勝つことが出来れば英雄視されても大げさではない。

 つまるところ、女帝たらんとするエアグルーヴが走る舞台にはピッタリであった。

 

(風もなく穏やかな晴れ。バ場の状態も良い。コンディションもしっかりと整えてきた……)

 

 深く息を吸うと、冬の冷たい空気が身に染みた。

 整備員の尽力によって整えられた青々とした芝に、エアグルーヴは力を十全に発揮できると確信する。

 敬愛する生徒会長、シンボリルドルフが勝利し日本ウマ娘の実力を世界に示したレース。皇帝と呼ばれるかの三冠バに続かんと、エアグルーヴは燃えていた。

 さらに天皇賞(秋)で自分を下したマチカネタンホイザも出走している。リベンジの意味も加わり、エアグルーヴのやる気は絶好調であった。

 

(今度こそ勝つ。最強のリギルに所属するものとして、私が目指す女帝にふさわしいウマ娘になるために!)

 

 傍から見れば気負い過ぎとも思えるが、常に理想高く己を律している自分にとってはこれくらいの重圧の方が力を発揮できると自覚していた。

 もっとも、

 

「おお! 紅葉の季節を逃してしまったと嘆いていたが、こんなにも美しい華がターフに咲いているとは! 出走した甲斐があるというものだ!」

 

 世界とは、そんな彼女の都合などお構いなしに回るものである。

 珍妙なことを言い出すウマ娘を怪訝な目を向けるが、相手はお構いなしだった。

 

「麗しきアイシャドウの君。どうか名を聞かせて欲しい」

「なんのつもりだ貴様……」

「ああ、日本では先に名を名乗るのが礼儀だったか?

 では名乗ろう! 私こそ、君という華に会うため遥か海の向こう、欧州より馳せ参じた蝶! その名もピ『ゲート準備が完了しました。出走準備に入って下さい』……おやなんともタイミングが悪い。

 いいだろう。まずは名より走りを焼き付けるとしよう。ではまた、ゴール板の向こうで語り明かそう、麗しきアイシャドウの君!」

 

 言いたいことだけ言ってそのウマ娘はゲートへと向かって行った。

 

「なんだったんだあいつは……」

 

 興が削がれる思いだった。頭を振って雑念を払い、今一度レースへの闘志を燃やす。

 そして、

 

『内を走るエアグルーヴ! 並びかけてきた! 先頭は欧州からの刺客! 今、エアグルーヴが並んで、並んで………外からマチカネタンホイザだ!

 秋の天皇賞に引き続き物凄い末脚! 三人が横並び!』

 

 それは天皇賞秋は決してまぐれではないと証明する走りだった。

 海外勢と走るこの大舞台。出る以上は皆祖国の代表であろうとし、プレッシャーから差はあれど萎縮するもの。

 しかしマチカネタンホイザの走りはそんな重圧を感じさせない、力強い走りだった。彼女を支えるのは経験、エアグルーヴや海外の名バたちがどれほどの人脈や金銭をかけても手に入らない、長く走り続けた故に彼女が培ってきたものだ。

 コースの特徴を調べ、競争相手を調べ、対策を講じてトレーニングで実践して修正する。足りないものを積み上げ、弱点を克服する。当たり前のことを当たり前に、腐ることなく積み上げてきた。

 そんな彼女だからできる走り。

 どんなレースでも、コースでも、相手でも、彼女の走りはブレることなく積み上げたものを十全に発揮する。

 

『エアグルーヴか、マチカネタンホイザか、それとも……ああタンホイザだ! マチカネタンホイザ抜け出した! 他の二人は追いつけるか!?

 残り200m! 先頭はまだマチカネタンホイザ!

 今、マチカネタンホイザが一着でゴール! マチカネタンホイザが、海外勢を抑えてジャパンカップを制しました!

 秋の天皇賞に続いてGⅠ二連勝! 秋シニア三冠へ王手をかけました!』

 

 エアグルーヴは三着。天皇賞(秋)に続いてマチカネタンホイザの末脚に差し切られ、レース前に素っ頓狂なことを言ってきた海外ウマ娘にも負けた。

 侮ったつもりはない。レースにも集中できた。それでも届かなかった。

 

(認めるしかない。彼女は強い……!)

 

 長く走り続けるウマ娘というのは、結果が出せずもがいているものが多い。しかし彼女は違う。積み上げてきた努力が、培ってきた経験が、今マチカネタンホイザの全盛期となって花開いたのだ。

 エアグルーヴは夢である女帝という高みに目指すうえで乗り越えるべき壁として認識する。

 次こそはと闘志を燃やす。

 

「いやいや大輪の華に見惚れるあまり、野に咲く花を見逃すとは。私もまだまだだな」

「…………おい」

「何かな麗しの君」

「何故私の肩に手を回している?」

「敗北に悲しむ君へ手を添えているのだ。君が悔し涙を流した時誰がその真珠を掴むと思う?」

「誰が悲しむか! 泣くか! むしろ、超えるべき相手が出てきて闘志を滾らせているところだ」

「素晴らしい! やはり君は私が見惚れた通りのウマ娘だ! 我が審美眼に狂いはなかった!」

「おい待てやめろ。腰に手を回すな手を取るな跪くな手の甲に口づけしようとするな!

 なんなんだ。何を考えているんだ貴様!」

「率直に言おう。アイルランド国籍に興味ない?」

「あるかたわけ!!」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 マチカネタンホイザのジャパンカップ勝利という大金星、GⅠ二勝目、日本総大将の文字列がメディアを賑わす裏で、私たちチーム・マルカブもまた順調に勝ち上がっていた。

 グラスとエルは圧勝したデビュー戦に続けてOP戦を勝ち上がり、重賞への出走を決めた。

 グラスは翌年のクラシック級を占うGⅠ朝日杯フューチュリティステークスの前哨戦となるGⅡデイリー杯ジュニアステークス、エルはジュニア級を締めくくる最後のGⅠホープフルステークスへと繋がるGⅡ東京スポーツ杯ジュニアステークスへと出走。

 もとより同期の中でも素質が頭一つ抜けた二人だ。夏の合宿を乗り越え、デビューからOP戦と実践を積んだ二人に敵うウマ娘はおらず、危なげもなくGⅡ勝利を掲げた。

 ライスも復帰からのGⅡ連勝や天皇賞(秋)の好走が評価され、一年の締めくくりとなる有記念への出走が決まった。

 これでチーム・マルカブのメンバー三人全員が、冬のGⅠへ出走することとなる。

 

 まず最初に走るのはグラス。ジュニア級王者を決める朝日杯フューチュリティステークスだ。

 

「トレーナーさん、どうでしょうか私の勝負服は」

 

 十二月、阪神レース場。

 控室で着替え終わったグラスがくるりと一回転した。

 夏合宿の頃からデザインを考えていたが、ついに今日でお披露目となった。

 いや、正確にはフィッティングやレース前のインタビューで何度か見ているが、公式なレースの舞台で見るのは初めてだ。

 青と白を基調としたセーラータイプ。グラスのおしとやかさを表しながらも、明るい色合いで少女らしい活発さも押し出している。

 

「似合っている。素敵だよグラス」

「ありがとうございます」

 

 グラスがたおやかに微笑んだ。しかし、すぐに真剣な表情へ変わる。

 

「トレーナーさんのおかげでついに着ることができた勝負服です。このご恩に報いるため、粉骨砕身の想いでレースに臨みます」

「本当に想いだけで頼むよ。

 あと、気負い過ぎないように。今日はGⅠ、これまでとちがって出走するウマ娘は全員ジュニア級を勝ち上がってきた選りすぐりだ」

 

 出走者は十二人。グラスが競ったことがあるウマ娘もいるが半数近くは初めて。その半数とはグラスとは別のレースで勝ち上がり、GⅠ出走を決めてきたウマ娘なのだ。

 

「ふふ、分かってますよ。でも本気で臨むのは本当です。今日勝って私は……私が」

 

 ちらり、とグラスが応援のため一緒に来たライスたちの方を見た。

 

「トレーナーさんの……いえ、チーム・マルカブ今年最初のGⅠを、トレーナーさんに捧げます」

 

 瞳に炎を宿し、ターフへ向かうグラス。

 彼女の残した闘志の熱気が、私たちの間で渦巻いていた。

 

「ヒュー! 聞きましたかライス先輩。グラスってば、初めてをトレーナーさんに捧げるそうデスよ」

「変な言い方するんじゃないよ。……グラス、やっぱり気負い過ぎてるかな」

「ううん。あれは良い方に働くと思うよ。……それよりもお兄さま」

「ん? なにかな」

「グラスさんの言うとおり、勝てたら今年チーム初めてのGⅠだね」

「まあそうだね」

お兄さまの初めてのGⅠはライスの菊花賞だけど、グラスちゃんにとっては初めてのGⅠだよね」

「うん………うん? まあ、そのとおりかな」

 

 何か、妙な圧のある一言だったぞライス。

 

「勝てたらグラスさんにご褒美あげないとね」

「ああ……まあその通りかな。しかしご褒美か……」

 

 何がいいだろう。日本文化が好きというから和菓子とか?

 阪神レース場近くに有名処があっただろうか。

 学園に戻る途中で探してもいいが、折角関西圏まで来たのだからその圏内の方がいいだろう。

 

「物でも嬉しいけど、絶対にグラスさんが喜ぶものがあるよ」

「本当? 教えてくれないかなライス」

「それはね、お兄さまが思いつく限りのたっくさんの誉め言葉だと思うよ!」

「それは……」

 

 贈り物を考えるよりも難しく、ちょっと気恥しいご褒美だなー。

 

 

 

 ◆

 

 

 

(……七番、グレイトハウス……八番、デュオシパルー……九番――)

 

 グラスワンダーのレース前のルーティン、出走者の名前を心中で復唱していく。

 名を上げるたび、このウマ娘に勝つのだと闘志が沸く。事前に研究した相手の情報が再生される。

 気持ちがレースへの集中していく。弓が引き絞られるようだ。

 

(これは私がこの道を究めるための一つの分水嶺……)

 

 もはやGⅠで才能だの天性の素質だけでは通用しない。この場に立つ以上、誰もが相応のものを持っているのだから。差があるとするなら、道を共にすると誓ったトレーナー。

 

(そして、チーム・マルカブの力を証明する場……!)

 

 GⅠ勝利はウマ娘だけの栄光ではない。GⅠ勝利へ導いたという実績がトレーナーに与えられる。

 ウマ娘の実力の証明に加えて。トレーナーの指導力が優れているという証左でもあるのだ。

 

 ――――君を、グラスワンダーを一番強くできるのは私だと思った。

 

(証明して見せます。トレーナーさんの言葉を。そして……)

 

 貴方の期待に応えて見せる。

 改めて胸に誓いを立て、グラスワンダーはゲートへと入る。

 

 ファンファーレが終わり、風の音だけが耳に響く。

 そして、ゲートが開かれた。

 

 流石はGⅠ。流石は勝ち進んできたウマ娘たち。一切の出遅れなく十二人が横一列に飛び出した。

 真っ先にハナを取りあう逃げウマ娘が二人。その後ろを位置取る先行勢が五人。中団に待機しようとするのはグラスワンダー含めて四人。後方に控える追込が一人。

 

「……くっ!」

 

 早速、GⅠの洗礼がグラスワンダーに襲い掛かる。

 先行集団の後ろにつけた彼女の位置を奪おうと二人のウマ娘がプレッシャーをかけてきた。

 グレイトハウスとデュオシパルー。グラスワンダーと同じく差しを得意とするウマ娘だ。

 朝日杯FSは1,600m。マイルであり瞬発力が求められる以上、彼女たちも少しでも前の位置を欲しがっていた。

 小柄なグラスワンダーなら位置を奪えると思ったか。グラスワンダーは競ってくる二人の動きを見て内に火が灯るのを自覚した。このまま位置争いを制して見せると意気込みかけて、

 

(いけない。また熱くなっている……!)

 

 寸でのところで冷静さを取り戻した。

 トレーニングでもよく言われたことだ。自分は勝負事で熱くなりすぎる。闘争心を持つことは大事だが、冷静さを失ってはいけない。

 冷えた頭で考える。この位置を死守することと、下がって控えること。どちらが有利か。どちらが敗北につながるのか。

 

(答えは……)

 

 グラスワンダーが下がり、他の二人に位置を譲り渡す。三人から二人に減ったところで、さらに位置争いをしていた。

 それだけ激しく動いて、終盤の脚は残るのだろうか。

 その答えはレースの後半を過ぎたところで見えてきた。

 二番手集団が逃げを捕えようと動き出す。中団以降に控えていたウマ娘たちも後を追うように動き出すが、位置取り争いをしていた二人の動きが鈍い。

 明らかにペース配分を間違えた。いや、これまでのレースではそれでも勝てたのだろう。自分に優位な位置を取り、終盤差し切るパワーがあった。しかしこれはGⅠ。自分だけが突出しているわけではないということを失念していたのだろう。

 脚を溜めていたグラスワンダーは余裕をもって二人を超えていく。

 先頭が最終コーナーへ入る。グラスワンダーも後を追うが、ちょうど先行組の一人が彼女の道を塞ぐ。

 

(この方、位置取りが上手い……!)

 

 自身の優位は逃さず、かつ後続の最短ルートを塞ぐ走り。見事な技巧だと舌を巻いた。

 しかし、

 

(道は一つではありません!)

 

 最短、最速、最高効率。求めることは大事だが、固執してはいけないことも学んできた。

 入れないと判断するとグラスワンダーはあえて外側へと向かう。

 外に膨れる形でコーナーへと入る。

 周りからは距離をロスするコースをわざわざ選んだように見えるだろう。

 しかし、このロスを覆すだけの武器をグラスワンダーは持っている。

 

(ここから――!)

 

 踏み込んだ足が沈み、芝の下の土ごと掻き上げる豪脚。グラスワンダーがスパートをかけた。

 背後から聞こえた爆発音にも似た何かに、振り返ったウマ娘は面食らっただろう。

 鬼気迫る顔のウマ娘がもの凄い速度で上がってきたのだ。しかも一人ダートコースを走っているのかと思うほどの土煙を上げて。

 その猛加速を見て沸く歓声を浴びながら、グラスワンダーは一気に先頭へと躍り出る。

 残り200mを切って、二番手との間もセーフティリードだ。

 ここまで最後方から追込みが来る様子もない。勝負は決まった。普段ならば脚への負担をかけないようペースを落とすところだろう。

 しかし、

 

「まだ――まだ!」

 

 あえてグラスワンダーはペースを落とさない。

 自分の力を見せつけるように、これがグラスワンダーだと観客の脳に焼き付けるような加速でゴール板を駆け抜けた。

 掲示板に点灯する自分の番号。二着との差は二バ身半。そして表示されたタイムに、観客が再び喝采の声を上げた。

 

「レコードタイム……!」

 

 表示されたタイムは、過去の朝日杯フューチュリティステークスの記録を零秒四上回るものだった。

 誰もがグラスワンダーの実力を認める成果だった。

 まだジュニア級とはいえ、大舞台GⅠの勝利とレコード更新。二つの偉業を成し遂げた少女に、惜しみない拍手喝采が向けられた。

 打ち震えながらも客席に向けて礼をするグラスワンダーに、観客はさらに沸いた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 グラスの勝利を見届けた私たちチーム・マルカブは地下バ道で彼女の帰りを待っていた。

 未だ彼女の勝利を称える声は止まず、地下バ道までその興奮が伝わってくる。

 

「凄い歓声デス。まだ次のレースがあるとはいえ、もうグラスたちは退場しているのに……」

「これがGⅠさ。もっともジュニア級だからまだ大人しい方かな。クラシック級やシニア級のGⅠだともっと凄いよ」

「これより……もっと……」

 

 信じられないといった様子でエルが天井を見上げる。その瞳には自身が大舞台に立った時の想像をしているのだろうと思うとほほ笑ましい。

 やがて、グラスの姿が見えた。

 

「ほら、お兄さま」

「あ、ああ……」

 

 ライスに押されて一歩前へ。

 グラスもちょうど私の前で足を止めた。彼女の顔はレース終わりの疲労と興奮で紅潮し、上下する肩からは熱い蒸気が上がっていた。当たり前だが、激走だったと分かる。

 

「GⅠ勝利おめでとうグラス。しかもレコード勝利だ」

「ありがとう……ございます」

 

 息を整えながらの返答だった。

 

「前のレコードはね、チーム・マルカブにいたウマ娘なんだよ」

「そうなんですか……!? あ、いえ、すみません。先輩の記録を知らないなんて……」

「気にしなくていいよ。先代……私の師匠がチームを率いていた時代の話だ。それを私の担当するウマ娘が塗り替えるなんて、誇らしいよ」

「そんな、もったいない言葉です……」

「レースも冷静に展開できたのがよかった。位置取り争いも熱くならず冷静に下がれたのは良い判断だったね。あれで後半の脚を残せた」

「はい……」

「コース取りも、無理に最短を取らず視野を広く持てたね。トレーニングで学んだことをしっかり活かせていた」

「光栄です……」

「それもあって最後は素晴らしい末脚だった。やっぱりグラスは凄いウマ娘だよ」

「…………」

「GⅠの大舞台で舞い上がったり緊張したりで普段の力を出せない子もいる。だけどグラスはしっかりと力を発揮することができた」

「あの……」

「誰にでもできることじゃない。グラスはやっぱり――」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 止められた。

 心なしかグラスの息が先ほどより荒く、赤みも増した気がする。

 

「ごめん、まずは休んだ方が良かったね。ドリンク飲むかい?」

「い、いえ大丈夫です……しかし!」

 

 キッ、とグラスが顔を赤くしたまま上目づかいで睨んでくる。

 

「な、なんですかなんですか!? 突然褒め殺しなんて……! 普段はそのようなこと言っては……」

「ふふふ、ゴメンね。ライスのせいなんだ」

「ライス先輩……?」

「ライスがね、グラスさんが一着になったらいっぱい褒めてあげてって。それがグラスさんのご褒美になるよねって」

「そ、そうなんですね。もう……驚きました」

 

 パタパタと手で顔をあおぐグラス。

 その様子を見てはライスは優しく笑い、エルはニヤリと口元を歪めて笑う。

 

「グラス、照れてるデス!」

「て、照れてません」

「本当デス~? 褒めてもらって嬉しくなかったデスか?」

「嬉しいですよ当然。……ただ、ご褒美をくれるというのなら……」

 

 ちらり、と今度は迷うような目でグラスがこちらを見てくる。

 

「何か欲しいものがあったかな?」

「物じゃないんですが……その……ライス先輩と同じように……」

 

 言い切る前に、グラスがしぼむように口を閉じてしまった。

 ……ライスと同じ? ライスにご褒美と言って何かした覚えはない。少なくともグラスとエルをスカウトした後にはなかったはずだ。

 考えていると、ライスが思いついたように私の袖を引っ張る。

 

「お兄さま、秋の天皇賞のことを言ってるんだよ」

「秋天? 確かあの時は……」

 

 負けたライスに、無事に帰って来てくれたライスを、確かこうして。

 

「ひゃあ!? ち、違いますハグじゃないです! その……頭を撫でて欲しいな、と」

「ああそっちか。……じゃあ」

 

 よかった。流石にハグだと気恥しかった。

 要望通り、グラスの頭を撫でる。さらさらとした栗毛の髪。ライスとは少し違った手触りだった。

 

「ん……」

「いいなーグラス。トレーナーさん! エルも勝ったらお願いしマス!」

「気が早いな。いいけれど」

「あ……」

 

 手を頭から離すと少しグラスが名残惜しそうに声を漏らした。

 しかし次のレースもある。いつまでも地下バ道にいるわけにもいかない。

 

「グラスもウイニングライブがある。まずはしっかり休もうか」

「はい……」

「大丈夫グラスさん? ライス、肩貸そうか?」

「大丈夫ですよライス先輩」

 

 控室へ向かうグラスの足取りが遅いことを気にかけてライスが言った。

 ライスの視線はグラスの脚を向いている。

 最後の加速、あれで脚にかかった負担を気にしているのだろうか。

 

「後で触診してみるけど、痛みが出たら真っ先に言ってね」

「はい。お約束します」

 

 戻った控室で触診するが特に異常は感じられなかった。

 とはいえ念には念を入れて明日の検診を予約しておく。

 その後、最終レースの後はグラスのウイニングライブで盛り上がり、ホテル近くの料亭で存分に彼女の勝利を祝った。

 そして、

 

「っ! 足が……!?」

 

 勝利の余韻を吹き飛ばす朝が来た。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「右脚の骨折ですね」

 

 予約していた病院にて、非情な診断が伝えられた。

 

「完全に折れているわけではありません。症状としては小さな亀裂がありました」

「亀裂……。ではレースに問題は……!」

 

 縋るようなグラスに、眼鏡の医師が首を横に振る。

 

「程度として軽いと思うでしょうが、骨折は骨折です。中途半端な状態ではまた折れますし、癖になってしまいます。歯痒いでしょうが完治するまで療養をお勧めします」

「完治までにはどれくらいかかりますか」

「個人差があるので絶対とは言えませんが……早くても二ヶ月、大事を取るなら三ヶ月でしょうか」

「そんな!!」

 

 思わず立ち上がりかけるグラスを抑える。とはいえ彼女の焦りも分かる。 

 今は十二月。二ヶ月後にはクラシック三冠に向けた前哨戦が始まり、三ヶ月後となれば一つ目のGⅠ皐月賞も目の前だ。

 さらに二ヶ月間の療養となればレースのための筋力は確実に衰える。いや筋力だけでなく、これまで培ってきたレース感もさび付くだろう。

 生命や日常生活に支障はないケガだったが、グラスのレース人生には大きな影を落とすだろう。

 

「なんとか……なんとかなりませんか?」

「グラス。無理を言うものじゃないよ」

「ですがトレーナーさん!」

「大丈夫だから……」

 

 言っておいて無責任だなと思った。

 何が大丈夫なのだろう。私に医師の診断を覆すような知識も技術もない。医師の言う通り彼女を安静に療養させるしかない。あえて何かできるとするなら少しでも体が衰えないようケアするだけだ。

 ライスの時と変わらない。私たちトレーナーは、ウマ娘たちのケガに対して余りにも無力だ。

 医師へ礼を言って診察室を出る。グラスが右脚を変にかばわない様に肩を貸す。

 廊下に出ると、すぐにライスとエルが駆け寄ってきた。

 

「お兄さま、グラスさんの脚は……?」

「亀裂があるそうだ。二三ヶ月は療養になる」

「そんな! じゃあクラシックは……!」

 

 エルの言葉に返すことができない。

 諦めるしかないのだが、言葉にしてしまえば最も傷つくのはグラスだ。

 無意味かもしれないが今は黙るしかない。

 私の沈黙の意図を察してくれたのか、エルもそれ以上何も言ってこなかった。

 待合室まで戻って空いた席に着くと周囲から視線を感じた。

 周りの患者やその家族がグラスを見ている。昨日のGⅠ勝利は早速朝刊やネットニュースによって広まっており、多くの人がグラスの顔を知っていた。

 そのウマ娘が病院。詳細など知らずとも、察することはできるだろう。

 

「みんなは先に外で待っててくれるかな? エルはグラスを支えて……」

「大丈夫です」

「だけどグラス……」

「お気遣いありがとうございます。でも、私は大丈夫ですから……」

 

 歯を食いしばり、絞り出すようにグラスが言った。

 大丈夫とは思えないが、今は彼女の言葉を否定する真似は避けたかった。

 

「分かった。でも辛くなったら遠慮なくいってほしい」

「はい……」

「ライス。ちょっと学園に連絡を入れてくるから見ててくれないかな」

「うん。わかった」

 

 スマホを片手に通話可能スペースへ向かう。

 背を向ける直前、ライスと一瞬だけ目が合った。

 大丈夫だよ、と彼女の口が動いた気がした。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「私の不徳の致すところでした……」

 

 トレーナーの背中が見えなくなったところで、グラスワンダーが絞り出すように呟いた。

 彼女は俯き、ケガした右脚をジッと見ていた。両手は固く握りしめている。

 

「最後のスパート。あれが脚に大きな負担を強いたんです」

「グラスさん……」

 

 冬で冷えた地面は固い。レース終盤でダメ押しとばかりにした加速の衝撃は芝で受け止め切れず、自身の脚を傷つけたのだろうとグラスワンダーは推察した。

 

「私が、自分の力を誇示するための行いがケガを招いた。自分の軽率さが一番許せない……」

「レースでのケガは事故みたいなものだよ。誰かにぶつけられたわけでもなければ、誰が悪いなんてことはないんだよ」

「ですが、世間はそうは思わないでしょう。私のケガの責任は、トレーナーさんへ向かうのでは?」

「それは……」

  

 ケガをしたウマ娘を非難する者はいない。しかしトレーニングのケガの場合は非難の矛先がトレーナーに向かうことが多い。

 ミホノブルボンのトレーナーである黒沼も、そのスパルタ故に彼女がケガした際はかなりメディアに叩かれたという。

 トレーナーを同じ目に会わせてしまうと、グラスワンダーの思考が自己嫌悪の渦に沈んでいく。

 

「トレーナーさんのために、チームのためにGⅠを獲ろうと努力してきました。しかし、私のせいでトレーナーさんを困らせてしまった。本末転倒です。こんな、大切な人を困らせてしまう私なんて……」

「……じゃあ、走るのなんてやめちゃう?」

「……………………え?」

「ケッ!? ライス先輩!?」

 

 声を上げるエルコンドルパサーを片手で制したライスシャワーがグラスワンダーの前に立つ。

 跪いて、俯くグラスワンダーの顔を下から覗き込んだ。

 

「ウマ娘はみんな走るのが好きだけど、レース以外をしちゃいけないなんてことはないんだよ。走る以外でウマ娘が働く道はいっぱいある。レースに関わっていたいのならサポートスタッフになるための学科もトレセン学園にはあるし、コース整備やデザイナーになったり、大変だけどトレーナーを目指すウマ娘だっている」

 

 呆気に取られるグラスワンダーをジッと見つめてライスシャワーが続ける。

 

「お兄さまは許してくれるよ。レースを辞めた後も、グラスさんがやりたいことをやれるよう精一杯協力してくれる。……ケガは怖いもんね。ライスもケガした時、お医者様からもう走れないかもって言われてとても辛かった。歩けるようになるためのリハビリも、元通り走るためのトレーニングも苦しかった。グラスさんに同じような目に会うかもしれないけど頑張れなんて、ライスは言えない」

 

 それは慰めではなかった。同情でもなかった。

 ライスシャワーは淡々と今後取れる選択肢を上げていく。

 ウマ娘としてGⅠ勝利の栄光と、大怪我という挫折を味わった彼女だから伝えられる言葉だった。

 

「きっと似たようなことはこれからもあるよ。

 勝ち目のないライバル。突然のケガ。思い通りにいかないレース。挫折、遠のく夢、理想と現実の差、自信を無くして、もう自分なんてって思うこともある。二人が入ってきたのは、そういう世界なんだよ。十数人が走って、栄冠を取れるのはたった一人。それも何度も何度も、何年も何年も続けていく。メイクデビュー、OP戦、重賞、そしてGⅠ。グラスさんたちは無敗で勝ち上がってきたけど、それはいつか終わって負けた側に行くこともある」

 

 グラスワンダーとエルコンドルパサーの脳裏に蘇るのはメイクデビュー。自分たちは勝って喜んでいたが、一方で負けた他のウマ娘たちはどうだったか。俯き、肩を震わせ、涙する者もいた。笑うのは自分一人で、他の者たちは苦渋を飲んでいた。

 いつか、自分たちもあんな思いをする日が来るのだろうか。

 

「そうなった時、あなたたちは同じ選択を強いられる。

 目指した理想への道が狭まった時、描いた夢の閉ざされてと思うたびに。

 ……その時、二人はどうする?」

 

 紫水晶の瞳は変わらずグラスワンダーを見ていた。しかし、その言葉はエルコンドルパサーにも向けられていた。

 そしてそれは先達としての助言ではない。発破、檄文、つまりは挑発だった。

 

 ――――私は選んだぞ。走り続けることを。

 ――――私は選んだぞ。あの人のそばに立ち続けることを。

 負けて、傷ついて、倒れて、挫けて、絶望して、泥にまみれて、目の前は真っ暗になって。

 それでも私は夢を選んだ。大切な人を笑顔にする道を選んだのだ。

 君たちは、どうする?

 

 澱みのない瞳には、炎が宿っていた。

 どんな暴風でも、どんな冷たい雨の中でも、折れず咲き続けるバラのように青い炎。

 そんな視線に充てられて、グラスワンダーは胸の奥が疼くのを感じた。

 痛みではない。チリチリと焦がすようなこの感覚は間違いなく。

 

「走ります……」

 

 気づけば呟いていた。

 胸の奥からこみ上げる衝動のまま、答えを出していた。

 まだ、自分に誇れるものを残せていない。あの人に胸を張れる成果を出せていない。

 このまま傷になるくらいなら、自分は――

 

「私はまだ走ります――!」

「ん、分かった。じゃあ頑張ろうね」

 

 もう大丈夫だと確認し、立ち上がるライスシャワー。

 グラスワンダーの瞳には、自分から移したように炎があった。

 それでいい。

 迷うことも、挫けることもあるだろう。一度足を止めたってかまわない。

 ただ、熱さえあれば私たちは走り出せるのだから。

 

「うう~なんかよく分かりませんが、ライス先輩はグラスを慰めてくれたんです?」

「んーどっちかというと背中を叩いた感じかな?」

「ええ。しっかり叩かれました。もうバシッと、痕が残るくらい」

「ケッ!? い、いつからマルカブはそんな熱血スパルタチームに!?」

「あらあら、どうしますかライス先輩。エルには伝わっていないようですよ?」

「急ぐことじゃないよ。エルさんもいつか伝わると思うし」

「そうですか。では私の方から」

「ケッ? も、もしかしてかわいがりというやつですか……?」

「違いますよ。手を出してください」

 

 言われるがまま手を出し差すエルコンドルパサー。

 グラスワンダーはその手をそっと握る。

 

「私はしばらく走れません。だからこの想いを、一時あなたに預けます」

「グラス……」

 

 自由になった手をエルコンドルパサーはジッと見つける。

 変化はない。しかし僅かな熱を帯びていた。

 グラスワンダーの掌の熱だけではない。彼女の言う、想いが宿ったために帯びた熱だ。

 その熱は手を伝わり頭へ、胸へ、脚へ。エルコンドルパサーの芯を燃やしていく。

 

「うん……うん!」

 

 グラスワンダーの勝利の熱、故障という痛み、悔しさからくる熱。

 プラスの感情とマイナスの感情。それぞれが燃料となってエルコンドルパサーに注がれていく。

 

「グラスの想いはきっちりと受け取りました!」

 

 最強を目指す少女へ、勝ちたい理由が一つ増えた。

 

 飛び立つ先はジュニア級中距離の覇権、ホープフルステークスだ。

 

 

 





不死鳥と呼ばれる彼女の話を書く以上、このイベントは避けられませんでした。


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14話 エルとホープフルS

 トゥインクルシリーズのその年最後のGⅠレースはダートの東京大賞典だが、芝が主流である日本では専ら有記念が一年を締めくくるレースと認識されている。

 有記念は他のGⅠと違い、ステップレースの結果ではなくファン投票の上位が優先出走権を得られるグランプリレースだ。その年のシニア級やクラシック級の代表だけでなく、世代を超えてファンに愛されたウマ娘だって出走できる。

 今日はその出走ウマ娘を集めた記者会見だ。

 天皇賞(秋)にもあったが、今回はグランプリというだけあって報道陣の数はさらに多い。

 

「お兄さま、準備できたよ」

 

 控室から、いつもの勝負服を着たライスが出てきた。

 慣例的にGⅠレースの記者会見は勝負服を着て行われる。初GⅠ出走となるウマ娘にとっては勝負服のお披露目も兼ねているのだ。

 当然、トレーナーである私も普段よりも上等なスーツを着ている。

 

「よし、じゃあ行こうか」

 

 今日は記者会見だからグラスたちはいない。久しぶりに私とライスの二人だ。

 というか、脚を怪我したグラスにはあまり外に出ないで回復に専念してもらいたい。本人は不服そうだったが仕方ない。

 係りの者に案内され、記者会見場への扉が開かれた。

 広い会場にメディアのためのパイプ椅子が並び、壁際にはURAや協賛企業のロゴの入ったパネルがあった。

 パネルの前は一段高くなっており、出走ウマ娘たちが並ぶ場所があった。

 会場へ入るとすでに入っていた報道陣の目が一気にこちらを見た。百にも届きかねない視線に最初の頃はたじろいだものだがもう慣れたものだった。

 さすがに会見時間前に写真を撮るような無礼者はおらず、入ってきたものを確認したらまた報道陣は手元の資料を見たり仲間内で会話を始めた。

 

「行ってきます、お兄さま」

「うん。行っておいでライス」

 

 トレーナーである私がついていけるのはここまで。個別のインタビューになれば隣に立つが、これは出走ウマ娘たち合同での会見だ。

 トレーナーのために用意されたスペースへ行くと先客がいた。東条トレーナーだ。

 

「久しぶりね」

 

 向こうもこちらに気づいて声をかけてきた。

 トレセン学園のトップチームであるリギルからも当然出走ウマ娘はいる。

 天皇賞(秋)ではライスに先着したエアグルーヴ。そして、

 

「お久しぶりです。……タイキシャトル、本当に出るんですね」

「…………」

「えっと……」

 

 苦い顔をされてしまった。私としては正直に気になったことを訊ねただけなのだが。

 タイキシャトル。

 留学生枠としてトレセン学園高等部に通うウマ娘。

 デビューはグラスたちの一年前で今はクラシック級。ミホノブルボンとスプリンターズステークスを同着一位でGⅠ初制覇、その後マイルチャンピオンシップを一着で制覇し短距離・マイル路線の有力バとして注目されている。

 はっきり言って、有記念は適正外の距離。東条トレーナーの普段の方針からは予想外の出走だった。

 

「どうしてもとしつこくてね。年内は他に出走するレースもなかったから仕方なく、ね」

「意外ですね。東条さんはそういうの許さないと思っていました」

「スズカの時みたいに……?」

「……いえ、すいません。そういうつもりでは」

 

 失言だった。

 サイレンススズカの一件は彼女に非があるわけではない。互いの方針を話し合い、擦り合わせた結果なのだから、今回も同様にリギル内で話し合ったはずなのだ。

 

「気にしなくていいわ。私もらしくないとは思っているから。それよりも……」

 

 眼鏡の奥で鋭利な視線が光る。

 

「グラスワンダー、大丈夫なの?」

「……大きなケガではありません。安静にしていれば回復します」

「クラシックは?」

「それは……」

 

 二の句を告げない。医師の診断では最速でも二ヶ月。そこから落ちた筋力やレース感を取り戻して、朝日杯FSの時と同レベルまで仕上げるのにどれだけかかるか。

 グラスのクラシックは絶望的。その一文が私の脳内で繰り返し浮かんでくる。

 答えられない私の反応で、東条トレーナーは概ね理解したようだ。

 

「そう……。あんまり思い詰めるものじゃないわよ。レースを走る以上はウマ娘に怪我はつきものよ」

「いろんな人に同じようなこと言われましたけど、私ってそんな思い詰めてるように見えました?」

「自覚がないの? ライスシャワーがケガした時の貴方って酷かったわよ」

「そこまで言います?」

「ライスシャワーに万が一があったらそのまま後を追いそうとまで言われていたわ」

 

 そんなにか……。いや、あの時は色々思い悩んでいたのは確かだが。

 

「そういえば、グラスがケガをしたと学園に連絡したらたづなさんからカウンセリングを勧められましたね」

「ほら。学園からもそういう認識なのよ貴方。ウマ娘のケガに過敏で思い詰めやすい。

 トレーナーの不安は担当ウマ娘にも伝播するわ。せめて彼女たちの前だけでも平然としてなさい」

「肝に銘じます……」

 

 全く、世間話のつもりが忠告されるとは。つくづくトレーナーとしての差を見せつけられた。

 その後、続々と他の出走ウマ娘たちとトレーナーが現れる。

 シニア級とクラシック級。この一年各階級でしのぎを削り、トゥインクルシリーズを盛り上げてきた世代の代表たちだ。

 ミホノブルボンはいない。秋の連続出走を気にしてか、天皇賞(秋)以降レースに出ていない。

 

『それでは、出走するウマ娘方は登壇をお願いします』

 

 司会役がマイク越しに促し、出走ウマ娘たちが並んでいく。

 簡単な経歴が紹介され各々が有記念への想いを告げていく。

 

 ある者は夢を。

 ある者は理想を。

 背負った家名の誇り、応援してくれるファンたちの想いに応えたい、見せたいものがある、楽しませてみせる、初のGⅠ戴冠、秋シニア三冠、宝塚記念に続くグランプリ制覇。

 まさに十人十色の想いを語っていく。

 そしてライスは、

 

「みんなに希望を与えられる。そんなレースをしたいです」

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 世間がクリスマスイブで賑わう中、中山レース場には多くの人が訪れている様子を、ライスシャワーはカフェテリアにある大型モニタ越しに見ていた。

 今日はジュニア級の中距離覇者を決めるホープフルステークス。そして明日は自身も出走する有記念だ。

 クリスマスという一大イベントと重なったためか、例年よりも浮足立った観客が多く感じた。

 一方で、

 

「置いてけぼりなんてヒドいです」

 

 お留守番を命じられたグラスワンダーは膨れていた。

 子どもっぽく拗ねる彼女が珍しくて、ライスシャワーは苦笑した。

 

「中山レース場ならすぐそこなんですよ」

「でもグラスさんは安静でしょ。脚をケガした子を人の多いところには連れていけないよ」

「チーム用の個室があるんですよね? それに折角エルのGⅠですよ?」

「個室で見てもモニタだよ。学園のカフェテリアと変わらないよ」

「むう……それに今日はクリスマスイブです」

「ああそっか。今年は有記念とも被ってるから祝えないね。でも有記念が終わればレースに出たウマ娘向けにパーティがあるよ」

「そうなんですか?」

「うん。せっかくのクリスマスだし、レースを盛り上げた子だけ祝えないなんてあんまりだって会長さんが」

「へえ………その、ライス先輩?」

「ん、なにグラスさん」

「心配ではないんですか? トレーナーさんとエルを二人にして……」

「? お兄さまも中山は何回も行ってるから迷子になるとは思えないし、エルさんとも仲良くやってると思ってたけど……なんで?」

「えっと……クリスマスイブですよ?」

「うん、そうだね。……あ、帰りにケーキでも買ってきてもらう?」

「あ、いえ大丈夫です。もうこの話題もいいです。すいません私の考えすぎでした」

「そう? ……変なグラスさん」

 

 モニタに目を向けるライスシャワーを尻目に、グラスワンダーは少し熱を持った頬をごまかすように熱い緑茶に手をのばす。

 湯気を息で飛ばしてからそっと飲む。

 

「意外とむっつりさんなんだね」

 

 噴いた。

 

 

 

 ◆

 

 

 中山レース場。ジュニア級最後のGⅠホープフルステークス。

 地下バ道にて、黄と赤の勝負服を着たエルコンドルパサーがいた。

 すでにトレーナーとの語らいは済んでいる。

 あとはターフへ向かい、勝つだけだ。

 競う相手は十四名。求めるのはジュニア級における2,000mという王道路線(クラシックディスタンス)における覇者の証。

 

「あらエルさん。やる気満々という感じね」

 

 背後からの声に振り返ると、鮮やかな緑の勝負服を着たウマ娘がいた。

 キングヘイロー。エルコンドルパサーやグラスワンダーのクラスメイトにして、気高く一流を志すウマ娘。

 

「はい! やる気バッチリ、ガッチリ、ギンギンデース!

 ……もっとも、それはキングも同じみたいデスね?」

「ええ。今日のレースはGⅠ。キングの実力を見せるのにふさわしい晴れ舞台だもの」

 

 キングヘイローのこれまでの戦績は三戦三勝。うち重賞を一勝しており、成績の上ではエルコンドルパサーと同じく無敗でGⅠ出走を決めている。

 今日のレースで最大の敵となるのは彼女だと、エルコンドルパサーは確信していた。

 クラスメイト故に彼女の性格は知っている。

 一見すればプライドが高く高飛車。しかし交流して分かるのは努力を怠らない高い向上心。決して才能に胡坐をかかず努力する姿に慕う者は多い。

 

「まさか、クラスで最初に同じレースを走るのがエルさんとはね」

「そういえば、キングとは選抜や模擬レースでも走ったことないデスね。学園ではつけられなかった決着をここでつけるとしましょう!」

 

 ええ、と笑うキングヘイロー。しかし一転して、彼女の表情が曇った。

 

「その……グラスさんの脚はどうなの? 本人は大丈夫と言っていたけれど……」

「ケ? ああ、あれは……あれはマズイデス!」

「ま、まずいって!? やっぱり見た目よりも酷いケガなの!?」

「グラスってばケガしてからこれっぽっちも走ってません! 食っちゃ寝続きでこのままでは太くなってしまうデース!」

「そっち!? もうふざけないでよ!」

「アハハハ! 大丈夫ですよ。ちょっと長いお休みなるかもデスが、グラスは必ず戻ってきます」

「……そう。なら良かったわ」

「キングってば、ホント見かけによらず優しいデスよね」

「見かけによらずは余計よ! 別に、ただライバルが減るのか確かめたかっただけ」

「そういうことにしておいてあげマス!」

 

 カラカラと笑うエルコンドルパサーに、キングヘイローはやれやれと頭を振った。

 

「その様子なら、特に心配はなさそうね」

「んん? キング、もしかしてグラスだけじゃなくてエルの心配もしてくれてたデス?」

「このキングが勝った後、チームメイトが気になって力を出せなかったなんて言い訳にされたくないだけよ」

「ん~言いマスね。キングこそ、友達を心配し過ぎて力を出し切れなかったなんて言うのは無しデスよ!」 

「当然よ。レースは結果が全て。不調も好調も、運も含めて実力なんだから」

「キングのそういうところ、エルは好きデスよ!」

「そ。どうも」

 

 軽口を最後に、二人はターフへと向かう。

 仲が良くとも、勝つのは一人。

 レースはまもなく始まる。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『誰をも魅了し、心を奪う希望の星が誕生する。ジュニア級中距離覇者を決めるホープフルステークス。まもなく出走となります。

 事前人気は上位三名ともここまで無敗。レベルの高いレースが期待されます。

 三番人気は二戦二勝のローズフルヴァーズ。重賞レースは今回が初出走ながらも鋭い差し脚が評価されております。

 二番人気はキングヘイロー。GⅢ勝利を含めて三戦三勝。この評価はやや不満か。

 一番人気は同じく三戦三勝エルコンドルパサー。メイクデビューからここまで他を圧倒する実力を見せております』

『初めてのGⅠレースというプレッシャーの中、普段の実力を出せるかが鍵になるでしょう』

『各ウマ娘ゲートイン完了しました。

 ……今スタートしました! ああっと逃げを得意とするエレクトリファイドが出遅れた! ハナを取ったのはエルコンドルパサー!』

 

 レースというのは事前に思い描いたとおり運ぶものではないと、エルコンドルパサーは痛感した。

 トレーナーと決めていた作戦は先行。前からニ、三番手の位置を狙うはずが先頭を走っていた。

 

(これは……エルが逃げということになるんデスかね?)

 

 逃げは安定して勝ちにくい。サイレンススズカの一件で散々聞いた話だ。

 しかし、彼女の陣営もこの状況を想定していなかったわけではない。

 

(早速トレーナーさんとの特訓が役立つとは……!)

 

 エルコンドルパサーの脳裏に、トレーナーとの会話が蘇る。

 

『逃げの練習? エルは先行デスよ?』

『誰かをマークするライスや中団に控えるグラスと違って、スタートからスピードのあるエルは展開次第で先頭を取ることもある。そうなった時のための練習だね』

『んーでも逃げはなかなか勝てないって何回も聞いたデス』

『それはちょっと違うね』

『ケ?』

『逃げは勝てないんじゃない。強い逃げになるのが大変なだけだ』

 

(強い逃げは大きく分けて三種類……!)

 

 マルゼンスキーのように圧倒的速さで後続を引き離す天才型。

 メジロパーマーのようにタフネスで粘って競り合いを制する根性型。

 そして、

 

「ペースを作ってレースを支配する策謀型……!」

 

 学んだことを活かさんと、エルコンドルパサーは走りを変えた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

(……ペースが遅いわね)

 

 頭の中で数えていたラップタイムから、キングヘイローはそう判断した。

 自身がいる中団から見るに先頭は変わらずエルコンドルパサー。彼女がこのペースを作っているのは明らかだ。

 どう動くべきかとキングヘイローは思案する。

 スローペースなレース展開は前を走るウマ娘に有利だ。ラストスパートに向けて脚が残せるし、後ろを走るウマ娘はトップスピードに達するまでに時間がかかる。中団が団子のように固まってバ群から抜け出しにくくもなる。

 このまま流れに任せていては逃げ切られるだろう。

 しかし焦って仕掛ければ後続に差し返される危険もあった。

 

(中盤から少し上がるのが無難かしら……いや!)

 

 仕掛け時を模索しているところで前方に変化があった。

 エルコンドルパサーがペースを上げ始めたのだ。

 

(まだ半分も進んでいないのに? 仕掛けるのが早すぎる!)

 

 慣れない逃げで判断を誤ったかとも思ったが即座に否定する。

 エルコンドルパサーというウマ娘はこれくらいで動じる子ではない。

 つまりは作戦。何か思惑があってペースを上げたのだ。しかし嫌らしいのはこの流れに乗るしかないということ。

 スローペースが前方有利ならハイペースは後方有利。終盤の末脚に自信のあるキングヘイローにとってこの変化は歓迎すべきものだった。

 そしてそれはまんまとエルコンドルパサーの誘いに乗ることになる。

 幾許かの逡巡の後、キングヘイローは決断する。

 

「いいわ。相手の作戦を真っ向から打ち破ってこそ一流、キングの走り。勝負よエルさん!」

 

 策があると気づいたうえで、その誘いに乗った。

 

 

 

 ◆

 

 

 

(来ましたね……!)

 

 先頭を走るエルコンドルパサーは、後方から上がってくる複数の足音にほくそ笑んだ。

 スローペースは後方不利、だから上がったペースに釣られる者は多いと思ったが、予想以上の釣果であった。

 

(セイちゃんが好きになるのも頷けマス!)

 

 ペースを一気に上げたが、実際はミドルペース程度に留まっている。さきほどとの相対的な変化でハイペースになったと誤認してくれれば上々。こちらは脚を残しつつ、後方にいた末脚自慢のスタミナを削れる。

 こちらの思惑がバレてもミドルペースなら勝負は五分五分。最後の競り合いで劣るとは思っていない。

 

(警戒すべきは……)

 

 ちらりと後ろを見ると、緑の勝負服を着たウマ娘が上がってくる。

 キングヘイロー。彼女の末脚のキレはエルコンドルパサーも知っている。

 センスの良い彼女のことだ。こちらの策もある程度察しているかもしれない。

 いや、その方がむしろ良い。

 

「最後はやっぱり真っ向勝負! その方が燃えるデスね、キング!!」

 

 ギアを上げる。スピードを上げたエルコンドルパサーに後続も釣られて速度を上げた。

 最終コーナーを曲がり、最後の直線。そこで全員がラストスパートをかけた。

 当然、キングヘイローも。

 

『ついに最後の直線、エルコンドルパサーは逃げ切れるか! 後方のウマ娘たちが続々と上がってくる!  

 キングヘイローだ! キングヘイローが集団を抜け出してエルコンドルパサーに迫る!

 逃げ切れるかエルコンドル! 差し切るかキングヘイロー!!』

 

 もう少しだと、悲鳴を上げる肺と心臓に鞭を打つキングヘイロー。

 警戒したとおりエルコンドルパサーは脚を残していた。彼女のラストスパートに他のウマ娘は距離を詰めれていない。間違いなく、キングヘイローとの一対一だ。

 一バ身差を切り、捕えた。

 緑と赤が並ぶ。

 

「ここまでよエルさん、ここからはキングの舞台!」

「ノー! ここからも、いやここからが――――」

 

 怪鳥が静かに笑う。そして、

 

「――――魅せ場デース!!」

 

 キングヘイローを突き放した。

 正真正銘、残った脚を全て注いだラストスパート。

 

『エルコンドル、エルコンドルだ! エルコンドルパサーがさらにダメ押しのスパート!! まだ脚を残していたのか! キングヘイロー追いつけない!

 一バ身、二バ身と差が開く! 圧倒的だ! 圧倒的な実力を見せつけ、今エルコンドルパサーが一着でゴールイン!

 エルコンドルパサー、ジュニア級最後のGⅠを見事制しました!!』

 

 割れんばかりの拍手と歓声。

 これまでのレースとは比べ物にならないくらい大きな音の洪水に、エルコンドルパサーは大きく腕を振り上げ、己が勝利を高らかに謳いあげた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「トレーナーさん!」

 

 地下バ道で出迎えると、エルが飛びついてきた。

 思ったより勢いがあってたたらを踏む。

 

「っとと、おめでとうエル。素晴らしい走りだった」

「トレーナーさんとのトレーニングの賜物デス!」

 

 落とさないよう腰に手を回すとエルも手足でホールドしてくる。

 

「ちょ、エル……!」

「勝ったらハグしてくれる約束デース」

 

 そういえばそんな約束をしたな。いや、あれは頭を撫でる話じゃなかったか?

 周りの目もあって少し気恥ずかしいが、頑張った彼女の願いならまあいいだろう。

 背中を軽く叩くとエルの絡んだ脚が解ける。自分の脚で立った彼女を強く抱きしめた。

 

「よく頑張った。突然逃げに回ることになってもしっかり対応出来ていたね」

「トレーナーさんが事前に逃げの練習をさせてくれたからデス」

「それでも本番で実践できたのは間違いなく君の実力だよ。エルみたいな子を担当できて幸せだ」

「トレーナーさん……」

「………これくらいでいい?」

「むぅ、もうギブアップデスか?」

「周りの目もあるから……」

 

 見なよあのキングヘイローの顔を。紅茶に砂糖と塩間違えて入れたのを気付かず飲んだみたいな表情しているよ。

 

「しょうがないデス。お楽しみはGⅠ二つ目を勝った時まで取っておきマス」

「気が早いなあ……」

 

 調子に乗るなと窘めるべきところだが、彼女の素質を考えれば決してビッグマウスではない。二つどころか三つ四つと冠をふやすだろう。

 なんて返そうか考えていると、ポケットに入れたスマホが震えた。

 

「あ、きっとグラスたちからデス!」

 

 ひっついたままのエルも振動を察知したのだろう。有無を言わさずスマホを私のポケットから引っ張り出すと、慣れた手付きで応答する。

 スマホの画面にライスとグラスの顔が映った。

 

『お兄さま、見てたよ。エルさん勝ったね!』

「ライス先輩ありがとうございますデス!」

『エ、エル? 随分とトレーナーさんと顔が近くないですか?』

「ご褒美のギュ〜の最中でしたから!」

『………………お兄さま』

「ど、どうしたライス?」

 

 画面の向こうのライスがちょっと怖い。笑顔なのに妙な迫力がある。

 

『学園近くに最近オープンしたスイーツ店があるの知ってる?』

「ああ、トレセン学園の生徒にも人気らしいね」

『明日からクリスマス限定ケーキが出るんだって』

「えっと………………」

『予約してなくても当日分もあるんだって』

「…………気になるから買ってみようかな?」

『本当? 買えたらみんなで食べようね。グラスさんとエルさんの優勝祝いもちゃんとできてないし、明日も早いから。

 だから早く帰って来てね?

 

 エルさんおめでとー、と言って通話は切れた。

 スマホは通話履歴を表示だけして沈黙してしまった。

 どうやら、明日は朝一で動く必要があるな。

 

「ウイニングライブが終わったら寄り道せずに帰ろうね」

「デース……」

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ライブも無事に終わり、二人で学園に帰ってきた。

 晴れた夜空の下、校門前に立つ二人分の影が見えた。グラスとライスだ。

 どうやら帰る時間を見計らって出迎えてくれたようだ。

 

「ライス先輩!」

 

 二人を見つけたエルが走り出す。

 

「手、手!」

「え……こう?」

 

 言われて挙げたライスの手を、エルが叩いた。

 乾いた音が夜空に響く。

 

「今、渡しましたよ! グラスからエルへ、エルから先輩へ、勝利のバトンを!」

 

 呆気に取られていたライスの顔が引き締まっていく。

 後輩の勝利への喜びから、自身の戦いへの闘志へと切り替わっていく。

 

「うん。確かに受け取ったよ」

「頑張ってください!」

 

 エルの勝利を祝う暇もなく、次の戦いが始まる。

 今年最後の芝のGⅠ、有記念は目の前だ。

 

 

 

 

『今年もトゥインクルシリーズ芝の部門では多くの名勝負、スターウマ娘が誕生しました。培った技がぶつかり合うシニア級の激闘、鍛え上げた力を振るうクラシック級では新たな夢が生まれ、ジュニア級が放つ新星の輝きが私達の心を魅了しました。それも今日で最後、有記念の始まりです。

 クリスマスという聖なる日、勝利の栄冠を手にするのはいったい誰か。ファン投票、URA推薦により選びぬかれた注目のウマ娘たちをご紹介します。

 

 

 まずはこのウマ娘! 地方に移っても人気は健在! URA推薦を勝ち取り彼女が帰ってきました! 今日もエンジン全開、その逃げる姿にみんなが元気をもらった!

 青い超特急 ツインターボ!!

 

 春の天皇賞覇者が出走です。愛くるしい姿に油断するな、今日は逃げか差しか追込か! 変幻自在の走りがレースを支配する! 

 千変万化のトップエース マヤノトップガン!!

 

 

 艱難辛苦を乗り越えついに手にした宝塚記念(グランプリ)の栄冠、続けて有記念も制するか! 小さな体に大きな期待! 高らかに謳え、君は素晴らしい(マーベラス)と!

 輝く笑顔 マーベラスサンデー!!

 

 惜しいレースが続いております。しかし胸を張って言いましょう、彼女だから競り合えた! 彼女だから接戦だった! 惜敗の悔しさを薪に闘志を燃やすオークスウマ娘の力を見よ!

 女帝 エアグルーヴ!!

 

 背負ったのは名家の誇りとダブルティアラの栄光。クラシック級から参戦したメジロの姫。その実力はシニア級相手でも引けは取りません!

 未来の女王 メジロドーベル!!

 

 

 短距離(1,200)マイル(1,600)を足せば長距離(2,800)だから有も行けると彼女は言った! 本気か!? 本気なんだろうな!! スプリントとマイルの覇者が中山を駆け抜ける!

 弾丸疾走 タイキシャトル!!

 

 菊花賞で見せた末脚は今日も炸裂するか! 占いの結果は大大吉! ラッキーアイテムの黄色いハンカチも準備完了! 背中のニャーさん光るとき、彼女に福が訪れる!

 幸運を追いかけどこまでも マチカネフクキタル!!

 

 

 悲願の戴冠果たした秋の天皇賞! 強敵を打ち倒したジャパンカップ! 積み上げてきた努力が実を結び、秋の空に輝いた一等星(カノープス)! 文句なしの一番人気! これまでも、これからも、君は期待の星なんだ! 成るか秋シニア三冠!

 秋の王者 マチカネタンホイザ!!

 

 花開く舞台は整いました。追いかける背を見つけた彼女の強さは誰もが知っている! 青いバラの花言葉は不可能じゃない、夢叶うだ! 希望を胸に、いざ咲き誇れ!

 漆黒のステイヤー ライスシャワー!!

 

 

 

 以上一六名出揃いました。

 有記念、出走です!!』

 

 

 






あと一話でいったん毎日投稿はストップさせていただきます。


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15話 ライスとグランプリ

 芝のレース最後を締め括る有記念。その当日だというのに私はレースとは関係ない事情によってやたらと忙しかった。

 まずは昨日ライスに言われたスイーツ店に早くから並んで限定ケーキを確保。

 戻ってきてライスのコンディションを確認してから移動の準備、そしたらグラスが「今日は私も行きます」と言い出した。

 私としては僅かでも脚へ負担がかかるようなことはさせたくなくて、エルと一緒に学園で待っていてもらうつもりだった。

 しかしグラスは頑として頷くことはなかった。

 

「一年の締め括りとなる有記念、しかもチームの先輩が出走するのにモニタ越しの観戦なんて耐えられません」

 

 部屋の中にいたなら耳を貸さずに出れた。しかしすでにグラスはエルに支えれられて外まで来ていた。

 外に放り出しておくわけにもいかず、抱えてでもカフェテリアに連れて行こうとしたが、グラスはまるで動かない。正に巌、中身が詰まった大岩のようだった。

 口にしたら尻尾で叩かれた。たとえ比喩でも、重さを連想されるワードはNGらしい。

 

「トレーナーさん。グラスのことはエルが見てますからどうか連れて行ってあげて欲しいデス!」

「エル……それは自分も見に行きたいからじゃないよね?」

「そ、それは……ピュ、ピュピュゥゥウウウヒュー」

「口笛が適当すぎる……!」

 

 思わず頭を抱えてしまう。

 しかし一方でグラスの気持ちもわかる。有記念はその年を代表ともいえるシニア級やクラシック級だけでなく、世代を超えてファンに愛されたウマ娘だって出走できる。

 いわばここ数年分のトゥインクルシリーズの総決算だ。

 当然、レースを走るウマ娘ならば一度は出走を夢見るレースの一つ。選手としてその目で直に見たいのだろう。

 

「……今日の中山レース場は特にヒトが多い。そして今の君はジュニア級とはいえGⅠウマ娘、騒ぎ出す観客もいるんだよ」

「帽子なりで格好を変えます。尻尾も隠しますし、もしもの場合はエルもいます」

「せめてチームルームで見ていて欲しいな」

「個室からだと上からかモニタになります。できれば客席、特に前で見たいです」

 

 グラスは頑固なところがあるが、我儘というか欲を前面に出すことは珍しい。それだけ今日のレースに対する気持ちが大きいということだろう。

 応えてはあげたい。しかし万が一を考えると避けたかった。

 

「ねえお兄さま。こういうのはどうかな……?」

 

 どう落としどころをつけるかと思案していると、ライスがおずおずと手を上げた。

 その手が握るスマホに表示された番号に、私は思わず苦笑した。

 

 

 

 

 

 

「……で、俺が呼ばれたわけか」

「すいませんね黒沼さん」

 

 中山レース場の客席最前列を陣取る私たちチーム・マルカブの隣に立つ、ミホノブルボンと黒沼トレーナーに頭を下げた。

 結局、エルが変装する気がなかったためグラスも普段通りに制服でいた。

 ミホノブルボンも含めればGⅠウマ娘が三人、客から見れば話題のスターウマ娘がすぐ近くにいるのだからサインなり写真なりお願いしたいだろうが、すぐそばに立つグラサン半裸の男を見て諦めていた。

 しかし、十二月でもその恰好は寒くないのだろうか。

 

「案山子扱いは思うところあるが、これで借りは返したからな」

「貸しなんてありましたっけ?」

「……ブルボンのせいでライスシャワーの復帰を早めてしまっただろう」

「別に気にする必要ないと言ったはずですが……まあ、それで気が済むのなら貸していたということで」

「ああ。これで心置きなく競える」

「律儀ですね。……競えると言えば、ミホノブルボンはなぜ有記念の回避を? 投票結果では出れたはずですが」

「秋シーズンの初めに走り過ぎたからな。投票してくれたファンには悪いが今は休養とスタミナ作りだ」

 

 それに、と黒沼トレーナーがニヤリと笑う。

 

「俺たちの本番は天皇賞(春)だ」

「なるほど。掲げた全距離芝GⅠ制覇の内、長距離GⅠはそこでということですか……」

 

 自分で言って気づいた。

 天皇賞(春)は四月の後半に開催される。その一月前には中距離GⅠである大阪杯がある。

 結果次第では、ミホノブルボンの夢の最後が天皇賞(春)となるだろう。

 ……再現しようというのか。三冠を狙うミホノブルボンとライスが菊花賞を争ったように、夢の最後の一冠をライスシャワーを相手に競うつもりか。

 

「黒沼さん、貴方は……」

「複雑なことは考えていないさ。ただ、ブルボンが敗れた長距離の舞台でライスシャワーにリベンジする。それだけだ」

「ですが……」

 

 観客はドラマを求める。ミホノブルボンが最後の一冠を前に敗れた時、どんな反応があるだろうか。

 特にシニア級が出られる長距離GⅠは天皇賞(春)と有記念しかない。

 来年もチャンスはあるともいえるが、逆に一年間お預けともいえる。

 

「お前の懸念ももっともだ。だが頼む。これは、俺とブルボンのリベンジでもある」

「リベンジ……」

 

 それはライスに勝つ、というだけではない気がした。

 黒沼トレーナーの真意は分からない。

 だから、ライスだったらどう返すかを考えた。

 

「分かりました。全力でお相手します」

「ああ、恩に着る」

「では貸し一つということで」

「……調子がいいやつだな」

 

 軽く小突かれた。

 

「トレーナーさん! ライス先輩たちが出てきましたよ!」

 

 エルの声で視線が前へ。

 彼女の言う通り、コース上にウマ娘たちが姿を現していた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 ターフに集う十六名のウマ娘たち。いずれも今年に限らず、今のトゥインクルシリーズを代表する者たちだ。

 出走を前に各自が声を掛け合っている。

 

「……マベちん、分かる?」

「マーベラース! マヤノとまた走れるのもマーベラスだけど、他に出てる人たちからもマーベラスを感じてとってもマーベラス!」

 

 今回の出走者の中でもライスシャワーやツインターボ並に小柄な二人が身を寄せ合い笑っていた。

 マヤノトップガンとマーベラスサンデー。同時期にデビューし、片や菊花賞や天皇賞(春)を制したステイヤー、片やケガに悩まされながらもついに今年宝塚記念を制したグランプリウマ娘。

 ここにはいない、サクラローレルを加えて三強と呼ばれ、トゥインクルシリーズを盛り上げた猛者であった。

 二人はすでにこのレースを最後にドリームトロフィーリーグへの移籍を決めていた。今日はトゥインクルシリーズでのいわばラストランだ。

 一世代を牽引してきた者らしく王者として勝つか、新世代に引導を渡されるか、もしくはさらに古豪のウマ娘が意地を見せるか。二人の関心はそこにあった。

 

「みんなバチバチ―って感じ。油断してたら負けちゃうかも」

 

 負ける気なんて全くないけど、と呟くマヤノトップガンの視線の先。自分たちより前から走り続けた者たちがいた。

 

「なんだよーブライアンもテイオーも出てないじゃん。せっかくターボが出走するのに!」

「まあまあターボ。二人ともウィンタードリームトロフィーの準備で忙しいんだよ。

 代わりと言っては何ですが、今日はこのおマチさんが相手になりましょう!」

「何いってんのさ、マチタンだって今日はライバルだからね。ターボ、マチタンからだって逃げ切ってやるんだから!」

「おぉ! 言うねえターボ。だったら今日はカノープスでワンツー決めちゃいますか! もちろん一着は私だけど」

 

 言ったなーとツインターボとじゃれ合うマチカネタンホイザへ、ライスシャワーが声をかけた。

 

「タンホイザさん」

「あ、ライスさん! 秋天以来ですね」

「ライス、久しぶり! 今日はターボがまた勝つからね。オールカマーみたいに!」

「ふふ、同じ手は二度も食わないよ」

 

 かつてオールカマーでツインターボに作戦勝ちを許しているライスシャワーだ。

 表情は笑っているが、青い逃げウマ娘を軽視する気はなかった。

 

「タンホイザさんも、今日はライスが得意なレースだから負けませんよ」

「たはは……なんか今日はみんなから同じようなこと言われるなあ……。

 ってあれ、ライスさんて中山のレース得意でしたっけ? どっちかというと京都のイメージですが……」

「えっとね……ライス、三冠とか三連覇とか、そういう記録がかかった日のレースは得意みたいなんだ」

「おおう自分からそのネタ言うんですか……んん? じゃあ今日のついてくついてくの標的は私ですか!?」

「ふふふ、よろしくね……」

「ひ、ひえええ~~~!!」

 

 一方で、メジロドーベルもエアグルーヴに話しかけていた。

 

「エアグルーヴ先輩。同じレースを走れて光栄です」

「ドーベルか。あまりかしこまるな。お前も私と同様、ファン投票によって選ばれた出走者だ。それに勝ったGⅠの数ではもうそちらが上だ」

「そんな……先輩は今でも私にとっての理想です!」

 

 メジロドーベルの言葉は本気だった。

 周囲からの期待や重圧をものともせず、凛とした姿でレースに臨むエアグルーヴはまさに理想だった。

 

「そう言ってもらえるのは嬉しい。しかし私ばかりを見るな……。

 秋の天皇賞にジャパンカップ、強者は果てしなく多いと自分の視野の狭さを気付かされた。お前はもっと色んなものに目を向けるといい」

「先輩………」

 

 尊敬するウマ娘からの忠告をメジロドーベルは胸に刻む。そして、

 

「ところで……あの客席の最前列にいるのはお知り合いですか?」

「……………違う」

 

 珍しく、エアグルーヴが目を逸らした。

 

「大きな横断幕出してますけど。何が書いてあるかは日本語じゃないので読めませんが、先輩の方を見てませんか? すごい勢いで手を振ってる……」 

「ドーベル。世の中、見なくていいものもあるんだ」

「先輩、なんか苦労してるんですね……」

 

 少し離れたところでは、マチカネフクキタルがタイキシャトルに詰め寄っていた。

 

「タイキさん! 本当に有記念に出てくるなんて大丈夫なんですか!?」

「イエース、ノープロブレムデス! バクシンオーが言ってましタ。1,200mも三回走れば長距離! ワタシも1,200mと1,600m走りましたから、きっと2,500mも走れまス!」

「どんな超理論ですか!? 二回走って合わせて2,500mなのと、一度に2,500m走るのは別の話ですよ!」

「フッフッフ……それもノープロブレムデス。スプリントと同じ感覚で走るんではなく、途中まで抑えて走ればОK! 2,500mの半分は1,250mだから実質スプリントデース!」

「いやその理屈もおかしいですって! またバクシン理論ですか!? ……というか、タイキさんはチーム・リギル所属ですよね。リギルのトレーナーさんには反対されなかったんですか!?」

「オウ……それについてはちょっぴりプロブレムデース。おハナさん、スズカがいなくなってから元気ありまセーン」

「そ、そうなんですか……」

 

 それはつまり、弱ったところをゴリ押して認めさせたということか、とマチカネフクキタルは同期の剛腕に舌を巻いた。

 一方で気になったのは名前の出たサイレンススズカだ。

 学園で会った時に話を聞いた限り円満で移籍したのだと思っていた。が、やはりあの移籍騒動はエリート街道を進んできた東条の心には暗い影を落としていたようだ。

 

「フクキタル。ワタシ今日は、いえいつもデスガ……本気デス」

 

 気づけばタイキシャトルの表情から明るい笑みが消えていた。太陽のように明るい彼女が、烈火の様に燃えていた。

 遊びやお祭り気分で出走するのではない。適性も経験も関係なく、タイキシャトルは勝ちに来ているのだと悟った。

 

「分かりました。ならもう何も言いません。本気でやりましょう」

 

 ここからは友ではなくライバル。グランプリ栄冠を争う敵だ。

 

「私だって菊花賞を勝ってここに来ました。GⅠウマ娘であり、ステイヤーの端くれ。タイキさんには負けられません!」

「ОK! 全力で戦いましょう、フクキタル!」

 

 ゲート準備完了のアナウンスが流れる。

 各自、譲れない想いを胸に宿してゲートへと入っていく。

 最後の一人が入り、一瞬の静寂。

 そしてゲートは開かれた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

『各ウマ娘一斉にスタートしました。真っ先に前に出るのはご存じツインターボ! 今日もターボエンジンは全開、グングンと一人大逃げの態勢。

 二バ身から三バ身差ほど開いてマヤノトップガン、さらに二バ身後ろにエアグルーヴ、タイキシャトル、メジロドーベルらが先行しております。その後ろ二バ身開いてマーベラスサンデー、マチカネタンホイザとフクキタル、後ろからライスシャワーが追う形で中団が形成されております。後方に待機するのは――』

 

 ペース配分など知ったことかとばかりにスタートダッシュを決めたツインターボに、特に他のウマ娘たちが驚くことはなかった。

 ツインターボの開幕大逃げはいつものことだ。どうせ垂れてくると高をくくるのは危険だが、今すぐ対応を考えなければいけないものではない。

 それよりも、前方に位置取ったウマ娘たちは背後から伸びてくるプレッシャーに慄いていた。

 

(これは……)

 

 それはマヤノトップガンやエアグルーヴすら、思わず冷や汗をかくほどの圧。その発生源は、中団に待機する漆黒のステイヤーだ。

 

(レース映像で見たことはあるが、これほどか!)

(すごいプレッシャー、こんなの浴びながらペース維持なんて大変だー!)

 

 まるでこちらの一挙手一投足、それこそ呼吸から脚運びのリズムまでも読み取らんとする眼光。そこから発するプレッシャーは自身より前に走る全てのウマ娘に影響を及ぼしていた。

 

(黒い刺客……ただ記録を阻んだことからついた蔑称のようなものだと思っていたが……)

 

 天皇賞(秋)はライスシャワーより後ろを位置取っていたから感じなかった。だが今ならその二つ名が決してやっかみや嫉妬から来たものではないと理解した。

 一瞬でも隙を見せればつけ入られる。気を抜くことを許さず、スタミナと精神力を削り取るプレッシャー。まさに刺客、いや狩人だ。

 

(これが菊花賞ウマ娘、そして天皇賞(春)を二度も制したステイヤーの走りか……!)

 

 肌が粟立つ。恐怖ではない。それほどまでの強敵と会えたことによる興奮だった。

 一方で、ライスシャワーが放つプレッシャーの影響を受けていたのは、彼女のすぐ前を位置取ることになったマチカネフクキタルだ。

 

(こ、こここここここれがライスさんのついてくついてく(マーク)走法! こんなプレッシャーを受けながらブルボンさんやマックイーンさんは走っていたんですか!?)

(ひょわわあああああ~! すっごいよね、今までは横か後ろで見てるだけだったけど、いざ受ける側になったら大変だこれ!)

 

 言葉とは裏腹に、一番平然としているのはマチカネタンホイザだ。

 間違っても彼女が鈍いとかではない。彼女のこれまでの経験が、ライスシャワーのプレッシャーを受けても自分の走りをブレさせないのだ。

 

(菊花賞で走った皆さんは同期、出走回数は違ってもデビューから二年目なのは共通でした。でも、今日の皆さんは……!)

 

 改めてマチカネフクキタルは、格上だらけのレースに出ているのだと自覚した。

 やがてレースは後半へと突入する。

 無理に仕掛ける者はなく、未だ先頭はツインターボが維持していた。一方で、ライスシャワーのプレッシャーを受けてペースを維持できず体を上げてしまうウマ娘たちが出てきた。

 息も絶え絶えに後ろに下がるウマ娘たちを横目に、ライスシャワーの視線はマチカネタンホイザへ向いていた。

 彼女と仕掛ける瞬間を合わせられるように自身の末脚という牙を研いでいく。

 そして、レースは終盤へと差し掛かった時、マチカネタンホイザが動いた。

 

(今――!!)

 

『さあまもなくツインターボが先頭のまま第三コーナーへ入ります。おおっと後ろに控えていたウマ娘たちが一斉に仕掛けた!

 マヤノトップガンとタイキシャトルがツインターボに食らいつく! しかしツインターボも粘る! 三人が並ぶ形で第四コーナーへ入っていく!

 タイキシャトルがツインターボを抜いた! いやツインターボが差し返す! マヤノトップガンも譲らない! コーナーから最後の直線へ、三人によるデッドヒート!

 ああっと外からエアグルーヴだ! マーベラスサンデーも来ている! メジロドーベルはついてこれないか!? そして奥から、奥から、奥から来たぞマチカネタンホイザだ!! ライスシャワーが鬼の追走! 少し後ろをマチカネフクキタル!

 最後の直線に入りました残りは300m! ここでエアグルーヴ抜け出した、いやマーベラスサンデーだ! マーベラスサンデーが先頭に立った! 続いてエアグルーヴ! タイキシャトルとツインターボが必死に追うがここまでか!? マヤノトップガンが食らいついてく!

 残り200mを切った! 勝利はこの二人の争い――いや、マチカネタンホイザだ! ライスシャワーも来ている! 四人並んで横一線! 大激戦だ! 誰も譲らない! 

 残り100m! ここで、ここでマチカネタンホイザが先頭――違う、ライスシャワーが続く!横に並んだ二人。かつて共にクラシックでしのぎを削った二人が、先頭を走っている!!』

 

 覚悟していたことだが、今年の有記念は激戦だった。

 先頭を走る二人はまさしく必死の形相で走っている。

 セットした髪は乱れに乱れ、一歩踏み出すごとに体中から汗が吹き出し落ちていく。

 心臓と肺は悲鳴を上げて、脳は一秒ごとに停止信号を出していた。

 脚は熱く、まるで血も肉も骨も神経も、全て燃えているかのようだった。

 それでも、マチカネタンホイザは走ることを止めない。

 グランプリ勝利、世代の覇者、GⅠ三連勝、秋シニア三冠、そんな称号は二の次だった。

 その身を動かすのは希望。

 ただ、こんな特別な家柄でもなく、宿命もなく、普通のウマ娘である自分を応援してくれるファンの声に応えたかった。自分に希望を見出したみんなに見せたかった。

 走り続ければ、努力すればこんな大舞台まで来ることができるのだと。友人に、トレーナーに、後輩に、ファンに、貴方たちの目に狂いはなかったのだと言ってやりたかった。

 だから、

 

「私があああああああああ!!!」

 

 ライスシャワーもその走りを緩めたりしない。 

 ついにここまで来たのだ。ここまで戻ってきたのだ。

 命の危機、絶望、過酷なリハビリ。深い傷を負ったのは自分だけではなかった。大切な人から、かつてのような笑顔は消えてしまった。

 二人になってしまったチーム。復帰して、迷いながらもようやく動き出した時計の針。

 そんな自分たちを慕ってきてくれた後輩たち。

 この身を動かすのは夢。ライスシャワー自身だけでなく、共に歩んできた者から預かってきた夢。

 グラスワンダーの無念と再起に賭ける夢、エルコンドルパサーの強さと栄光を求める夢、トレーナーの無事に戻って来て欲しいという夢。彼らから受け取った夢、それを叶えるのがライスシャワーの夢でもある。

 見せるんだ。

 ――君より大きなケガをした先輩ウマ娘は、今こうして無事にグランプリを走っていると。

 見せるんだ。 

 ――君が選んだチームのリーダーは、今こうして世代の代表たちの前を走っていると。

 見て欲しいんだ。

 ――貴方が育てた担当ウマ娘は、今こうして再びターフの上を力強く走っているのだと。

 ここがゴールではない。ここからがスタートなのだ。

 ゴール板を駆け抜けて、彼らの元に戻って、そこから真に、未来への物語は始まるのだ。

 だから、

 

「勝つんだあああああああああ!!!」

 

 重なる二つの咆哮。想いの強さが追い風の様に背中を押していく。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 最終コーナーに入るころには、柵を引きちぎらんばかりに握りしめていた。

 直線に入ったら思わず身を乗り出していた。

 多くのGⅠウマ娘を抜き去り、最後の先頭争いになったのを見て叫んでいた。

 周りの目など気にならない。ただ言わなければと、使命感のようなものしか頭になかった。

 

「ライスウウウウウウウウウウウウ!!! 頑張れええええええええ!!!」

 

 グラスもエルも隣で叫んでいる。

 ミホノブルボンすらも声を張り上げていた。

 ……ライス、君は本当に強くなったんだな。自信がなくて、選抜レースに出る勇気もなかった君が、瀕死ともいえる重傷を負った君がこうしてグランプリで勝つか負けるかの勝負をしている。

 不運を嘆き、自分の弱さを嫌う君はもういない。

 一方で私は弱くなってしまった。君が勝利することよりも、無事に帰って来てくれることを願っていた。勝つためのトレーニングではなく、ケガをしないためのトレーニングへの比重を傾けていた。

 それでも君は私の傍にいてくれた。私を信じ、私の悪夢を晴らすために戦い続けてくれた。

 だから私も信じよう。強くなった君を、みんなを笑顔に、希望を与えるために走るという君の夢を。

 だから、

 

「勝つんだ、ライスシャワアアアアアアアアアアアア!!!」

 

 叫んだ瞬間、少女がゴール板を駆け抜けた。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

『今、二人並んでゴールイン! こちらからでは勝者は分かりませんでした……後続もゴール、確定していきます。

 ……一着二着は現在判定中になります。

 三着はマーベラスサンデー! 四着エアグルーヴ! 五着マヤノトップガン!

 六着は……ああ、一着が確定しました! 一着は……

 

 

 

 

 ライスシャワー! 一着はライスシャワー!!

 漆黒のステイヤーが念願のグランプリ優勝! 冬の中山に、見事に青いバラが咲きました!!

 

 

 

 歓声と万雷の拍手が沸く中、満身創痍の少女が高く手を上げた。

 その顔には冬の寒さも忘れさせる、太陽の様に輝く笑顔があった。

 

 

 

 





六着 マチカネフクキタル
七着 タイキシャトル
八着 メジロドーベル
九着 ツインターボ

3章はもう少し続きます。
が、毎日投稿は一旦終わりとして書き溜めに入らせていただきます。

投稿のたび感想ありがとうございます。
返信できておりませんが、全て目を通して励みとしております。


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16話 マルカブとクリスマス

 お久しぶりです。
 キャンサー杯が始まるので初投稿です。
 5日間ですが、1日1話投稿させていただきます。



 秋シニア三冠とは極めて困難。ウマ娘レースを携わる者やファンからはそう言われている。

 いや、三冠でなくともGⅠを三つ勝つことが難しいなど当たり前だが、秋シニア三冠がそう言われるのは明確な理由があった。

 一つは実績。

 かの無敗の三冠ウマ娘シンボリルドルフですら、天皇賞(秋)を取りこぼし早々に秋シニア三冠の道を閉ざした。

 そのシンボリルドルフでも成し得なかった天皇賞春秋を制覇したタマモクロスも、ジャパンカップでは海外からの伏兵オベイユアマスターに、有記念ではカサマツからの怪物オグリキャップにその栄光を明け渡した。

 一時代で最強を誇った二人ですら成し得なかったのだから、いかに困難な道かは推して知るべしだろう。

 もう一つはローテーション。

 天皇賞(秋)からジャパンカップの間は毎年多少の違いはあれどおよそ一月半ある。一方で、距離の延長は400m。疲労を抜いて万全を整えるには短かった。

 ましてや有記念はジャパンカップと同月だ。距離の違う激走三戦は負担が大きすぎる。そもそも挑戦することすら大変なのだ。

 そんな秋シニア三冠に王手をかけたのがマチカネタンホイザだった。

 名門と言われる家柄でもなく、天才と賞されるわけでもない、ただ長く走り続けた彼女だからこそ世間は沸き立った。

 無敵の皇帝も白い稲妻も成し得なかった栄光を、泥臭く走ってきたウマ娘が掴む。まさにドラマであろう。

 しかし結果は二着。息も絶え絶えに見上げた掲示板に光る自分の番号を見て、マチカネタンホイザは静かに肩を落とした。

 

「届かなかったか……」

 

 視線の先にライスシャワーがいた。

 ミホノブルボンのクラシック三冠を阻んだように、メジロマックイーンの天皇賞(春)三連覇を阻んだように、マチカネタンホイザの秋シニア三冠も阻んで見せた。

 タイムは同値、されど着差はハナ。まさに紙一重だった。

 悔しいとは思う。だが彼女を憎いとは思わなかった。

 真っ向勝負だった。自分も彼女も持てる全てを注ぎ込んでの奮闘の結果だ。

 

「そっか……ブルボンさんも、マックイーンさんも、こんな気持ちだったんだね……」

 

 栄光を掴めなかったことよりも、全力の自分を超えていく小さなウマ娘に目を奪われた。

 自分に勝った彼女を見て大衆はどう感じただろう。

 栄冠を阻むヒールか。希望を潰す悪夢か。確かにそういう感情を抱く者もいるだろう。

 しかし一方ではいるはずだ。秋シニア二冠という強敵に立ち向かい、見事勝って見せた彼女を見て、

 

「ヒーロー、か……」

 

 勇気や希望を貰った人だっているはずだ。少なくとも、自分の中にはそういう想いが芽生えていた。

 だったら、やらないといけないことがある。

 

「ライスさん」

 

 黒い尻尾が跳ねた。おずおずと振り返るその姿からはレース中の鬼気迫るものが嘘のようだ。

 勝ったのはそっちなのに、思わず口角が上がってしまう。

 

「次は――」

 

 手を差し出す。悔しいのは本当。でも自分を負かした相手を恨むのは筋違いだ。

 負けたのは自分のせい。努力が、研究が、準備が、意志が、執念がほんのちょっぴり足りなかったのだ。

 だから、勝者は素直に称えるべきなのだ。

 

「次は、私が勝ちます」

 

 露出した方の目が大きく開く。口元に頼もしい笑みが浮かび、

 

「――いいえ、次もライスが勝ちます」

 

 力強い言葉とともに、握手が交わされた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「おハナさん!」

 

 レースを終え、チームの個室に戻るなりタイキシャトルは叫んだ。

 呆気に取られた東条へ続けて言う。

 

「ワタシのレース、見ててくれましたカ!」

「……ええ見てたわ。結果は七着、適性外のレースにしてはそれなりの――」

「ワタシ負けちゃいましたけど、走り切れましタ! 2,500m!」

 

 評価を遮る言葉に、東条は目を丸くした。

 

「タイキ……」

「これもおハナさんのトレーニングのおかげデス! おハナさん間違ってませんでシタ!

 スズカがいなくなって悲しいデス……でもそれおハナさんのせいじゃありまセン! 今日のレースで分かってくれましたカ?」

「貴方まさか……」

 

 突拍子のない出走希望だと思った。サクラバクシンオーに影響されたのだろうと考え、一度走れば満足すると思った。

 同時に、それを許す自分も少し自棄になっているなと思った。

 もし万が一、サイレンススズカのようにリギルの風と合わなくなったというのならそれでもよかった。たまたまリギルにそういう時代が来ただけなのだと思っていた。

 しかし、

 

「私のために走ったというの……?」

「ハイ! おハナさんワタシのためにトレーニング組んでくれまシタ! ワタシ頑張りまシタ! 信じてマシタ!」

 

 結果は七着、彼女のこれまで戦績からみたら最低の結果だ。

 今後彼女がどんな成果を出そうとついて回る汚点になるだろう。しかし当のタイキシャトルの顔は明るく言うのだ。

 あなたのおかげで完走できたと。

 

「うおおおタイキ〜〜!! そんな考えがあったなんて水臭いだろ私にも言えよおお!」

「オウ、ヒシアネゴ! ワタシ汗かいてるけどクサくはありまセン!」

「そういう意味じゃないさ!」

 

 ヒシアマゾンが感動の声を上げる。

 その姿がどこか滑稽で思わず口角が上がってしまう。

 

「タイキ、一つ聞かせて」

 

 一歩、彼女へと歩み寄る。

 

「これから貴女はどうしたい? スプリンター? それともサクラバクシンオーみたいに中長距離を目指す?」

 

 それはこれからのことを占う問いだった。

 タイキシャトルだけではない。リギル全体の今後に関わる問いだった。

 リギルの方針を貫くならばタイキシャトルはスプリントとマイルに注力させる。もしも、彼女がそれを拒んだら――

 

「んー楽しかったけどやっぱり長い距離は疲れマス! ワタシはスプリンターとしてファイトしマース!」

 

 暗い思考を吹き飛ばす、快活な答えだった。

 停止する東条を真っ直ぐ見据え、タイキシャトルが続ける。

 

「ワタシ聞きマシタ。スプリンターで年度代表ウマ娘に選ばれた子はいないって。そんなの寂しいデス! みんなスプリントの楽しさ分かってないってことデス!

 だからワタシがみんなに教えてあげマース! 短い距離でもこんなにスゴイレースがあるって。そのためには、勝たなきゃいけまセン!」

 

 部屋にいたリギルのウマ娘たちが一斉に頷いた。

 タイキシャトルの言葉はリギルの理想を現した言葉だった。

 理想、夢、目標。掲げるものは違えどそのために求めるのは勝利。勝たねば道が閉じる厳しさなど覚悟の上。楽しむことも、無事であることも重要だろう。

 だがそれ以上に湧き上がる勝利への渇望。その先にある未来を掴むために、皆リギルに集ったのだ。

 

「三冠ウマ娘よりも、グランプリウマ娘よりも、ずっとずっとず~~~~~~っとスゴイレースして見せマス! だから、これからもゴシドウゴベンタツ、お願いデス! おハナさん!」

「そうです!」「タイキさんの言う通りです!」「元気出してくださいトレーナー!」

 

 波紋が広がるようにリギルのウマ娘たちが声を上げる。

 呆気に取られた東条の後ろで、ナリタブライアンが静かに笑った。

 

「スズカさんのことは残念でしたけど、私たちはおハナさんの指導に不満なんてありません!」

「勝ちたいからリギルに来たんです。トレーナーなら、いやトレーナーとなら勝てるって信じてます!」

「おハナさん!」「トレーナー!」「東条トレーナー!」

 

「あなたたち……」

 

 賛同の声を上げるウマ娘たちの姿に思わず東条は己が目頭が熱くなるのを感じた。

 同時に迷っていた自分を恥じた。

 一度の失敗でなぜこうも揺らいでいたのだろうか。指導するウマ娘たちに励まされるなどまるで半人前のトレーナーではないか。

 

「良かったですね。思っていたより好かれていて」

「一言余計よフジ……」

 

 深呼吸を一回。息とともに迷いや暗い感情はすべて吐き出した。

 閉じた目を開いたとき、もう弱った東条ハナは消えていた。

 

「みんなよく言った。しかし吐いた言葉は取り消せないぞ。最近リギルは負け越しだ。カノープス、スピカ、マルカブ。どこのウマ娘も実力を発揮しだしてもはや常勝と言えるチームはない。トレセン学園は群雄割拠となるでしょう。

 来年からビシバシ行くから覚悟するように!」

『はい!!』

 

 雨降って地固まる。サイレンススズカの離脱により揺らいだリギルだったが、タイキシャトルの言葉に再び結束した。それは前よりも強く固いものだろう。

 学園最強のチームが、再び最強であらんと動き出した。

 

「うおおおおお~~感動だ! これぞ青春、己自身とのタイマンだ!

 よおしみんな、このまま学園までダッシュだ!!」

「ヒシアマ、それは止めなさい」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「お兄さま!」

「ライス!」

 

 地下バ道にて、まさに花のような笑顔で帰ってきたライスを感極まって抱きしめる。

 周りが呆れたため息を漏らすが、そんなもの気にしない。それくらい素晴らしいレースだった。

 

「お、お兄さま、力強い……」

「ああゴメン。……優勝おめでとう。本当に素晴らしい走りだった」

「えへへ……ありがとう」

「まさに圧巻、叫喚、大絶賛のレースデシタ!」

「見事な勝利、おめでとうございますライス先輩」

 

 エルとグラスが勝利を称える。

 ミホノブルボンも少し後ろで頷いていた。

 

「ライスさん」

「あ、ブルボンさん。応援ありがとうね」 

「いえ、本当に素晴らしいレースでした。今日のレースを見てより一層、私の中で滾るものがあります」

 

 ちらり、とミホノブルボンが私を見る。何かライスに言いたいことがあるのだろうか。

 今更おかしなことは言わないだろうと思い、どうぞ、と促す。

 頭を軽く下げてから、ミホノブルボンが口を開く。

 

「……やはり私はあなたに勝ちたい。絶好の舞台で、最高のあなたと最高の私で」

「ブルボンさん……」

「約束します。私の次走は三月の中距離GⅠ大阪杯。そこで三つ目のGⅠを掲げ、天皇賞(春)であなたに挑みます」

 

 堂々とした宣戦布告だった。

 黒沼トレーナーと話した通り、彼女は夢の終着点をライスが最も得意とする長距離GⅠに定めたのだ。

 まるでクラシック三冠の最後が菊花賞であることを再現するかのように。

 ただ一つ違うとすれば、

 

「今度は私がチャレンジャーです。長距離の覇者であるあなたに、私が挑みます」

「……うん、分かった。ライス、必ず天皇賞(春)に出るよ。そこでまた、ブルボンさんに勝ちます」

 

 グランプリに勝った余韻はどこへやら。ライスもミホノブルボンも、すでに次の戦いへと目を向けている。

 黒沼トレーナーを見ればやれやれと苦笑していた。

 どうやら我々トレーナーに勝利の美酒に酔う暇はないらしい。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 激闘の有記念から二日後。

 トレセン学園は冬期休暇へと入っていた。

 もっとも実家が遠方にあったり、まだレースが残っているウマ娘もいることから学園に残っている生徒は多い。

 そんなウマ娘たち向けに、トレセン学園では少し遅れてのクリスマスパーティーが催されていた。

 有記念の出走者への労いと、レースのためにクリスマスを過ごせなかったウマ娘たちへの配慮だった。

 カフェテリアは解放され、パーテーションでスペースを区切られている。中央には豪華な料理がバイキング形式で用意されていた。

 クラスやチームで集まり、各自でパーティを始めていた。

 

「えーそれでは、ちょっと遅いクリスマスとグラスさんとエルさんの初GⅠ勝利、そしてライスシャワー先輩の有記念勝利を祝して」

「あとキングの初敗北もー」

「スカイさん余計なこと言わない! あーもうとにかく色々祝してカンパーイ!」

『カンパーイ!!』

 

 ジュースを注いだグラスが頭上に掲げられた。

 一息に中身を飲み干してから軽く拍手。空いたグラスにまたジュースを注いで、取ってきた料理をつまんでいく。

 

「ジャーン!! トレーナーさんから差し入れのシュークリームデース!」

「おおっ! これって話題のスイーツ店のじゃん。マルカブのトレーナーさんってば太っ腹―」

「有記念の後にも食べましたが、限定ケーキもとても美味しかったんですよ」

「えええっ!? グラスちゃんたち、あの店の限定ケーキ食べたの!? いいなぁ……でもいいのかな、私たちでもらっちゃって……」

「気にすることないわよ。うちのトレーナーも言っていたけれど、今日はトレーナーたちも忘年会らしいわ」

「お、じゃあトレーナーさんたちもどこかで良い物食べてるわけだ。それじゃあ遠慮なくいただきましょう!」

 

 食べながら話す内容には普段の学校生活やトレーナーの話、やがてはレースのことが混じっていく。

 話題の中心はやはり同期の中でGⅠをいち早く勝利したグラスワンダーとエルコンドルパサーだ。

 

「グラスちゃん。欲しいのあったら取ってくるから遠慮なく言ってね」

「ありがとうございますスぺちゃん」

「エルさー、ホープフルだと珍しく逃げだったよね。ちょっとコツとか教えてよ」

「えーセイちゃんに教えたらなんだが手強くなりそうデース」

「ね、ねえマルカブの練習ってどんな感じ? GⅠ取っちゃうくらいだからすっごいスパルタとか?」

「そんなことはないですよ。トレーナーさんは安全第一をモットーにされてますから無茶な練習あまりないですね」

「みっちり基礎トレさせられマス! あと最初と最後の柔軟も!」

 

 会話の洪水で賑わう中、どこか気まずそうにいるウマ娘がいた。ライスシャワーだ。

 

「……ねえ、ライスがいていいのかな。これってグラスさんやエルさんたちの祝勝会だよね?」

「何言っているデス! エルたちのGⅠ勝利祝いということは、チーム・マルカブの祝勝会! 当然ライス先輩もいるべき、いやいて欲しいデス!」

 

 エルコンドルパサーの言葉にグラスワンダーがうんうんと頷く。

 

「クラスの子たちからもお願いされたんです。今年の有記念ウマ娘と話してみたいって。実際、シニア級のGⅠウマ娘と話せる機会なんて滅多にありませんし」

「そ、そうなんだ……みんなライスにいて欲しいって言ってくれたんだ……」

「はいはいはーい! じゃあセイちゃんから質問! というか、クラシックの話とか聞かせて欲しいでーす」

「わ、わたしも質問いいですか!」「GⅠってやっぱり緊張しますか?」「勝負服のデザイナーって選べるんですか?」

「う、うん。分かったから、一人ずつね……」

 

 セイウンスカイの言葉に、他のウマ娘たちも続けてライスシャワーに質問をぶつけていく。

 学年が違うだけでなくGⅠを四つ制覇し、今なお最前線で走り続けるライスシャワーというウマ娘はジュニア級にとってはまさに雲の上の存在だろう。そんな彼女へ自由に質問できる機会など次があるかも分からない。

 年が明ければクラシック級の挑戦が決まっているウマ娘たちは貪欲に情報を求めていた。

 

「おおうライス先輩大人気デス……」

「チームに所属していてもシニアで大成している先輩は限られるもの。専属だったらなおさら、こういう機会は逃せないわ」

「そういうキングも専属ですよね。行かなくていいんデス?」

「一流たるもの、普段からリサーチは欠かしてないわ。今ここで慌てて集める必要はないの」

「おー流石はキング!」

「おーほっほっほっほ! 当然よ。

 ……エルさん。ホープフルSでは後れを取ったけれど、この借りはクラシックで必ず返すわ」

「ケ? ……ああ、残念ですがそのお願いは聞けないデース」

「……は?」

「エルはクラシックは目指しません。だからキングとはしばらく走る機会はないデース」

「……はあ!?」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 今年の忘年会はいつにも増して酒を飲む羽目になった。おかげで泥酔とまでは言わないが、頭が妙な浮遊感に苛まれていた。

 普段ならこうなるほど飲まないのだが、さすがに有記念ウマ娘の担当をゆっくりさせてくれるほどトレーナーたちは優しくはなかった。

 ウマ娘を指導する立場上、節度を持ってくれる気風があって助かった。おかげでテッペンを超えることもなく、また誰かに介助されることなくこうして帰路につけていた。

 後輩からは羨望の眼差しを向けられた。同期や先輩たちも口ではおめでとうと祝ってくれたが、酌をする時の目は笑っていなかった。

 次は勝つ。言外にそう言っていた。こんなにも闘志を向けられたのはライスがメジロマックイーンに春天で勝った時以来だろうか。

 ……戻ってきたということだろうか。ライスがケガする前までに。

 いや、止まった時計が動き出したとでも言うべきか。

 私の足はトレーナー寮ではなく、学園に向いていた。

 守衛に身分証を見せて通してもらい、自分のトレーナー室へ向かう。途中、カフェテリアの明かりが点いているのが見えた。

 まだ彼女たちのパーティーは続いているらしい。

 冬期休暇に入っているとはいえ、そろそろ休まないと明日に響くのではと思ったが、それは今こうして学園に来ている私が言えたセリフではないな。

 トレーナー室に入る。明かりはつけない。ここに来るまでに夜目に慣れていた。

 コートをハンガーにかけて窓を少し開ける。

 冷たい夜風が顔を撫で、ここまでくる間に火照った体を冷ましていく。ついでに酒に浸った思考も少しはっきりしてきた。

 月明かりが入り少しだけ明るくなった室内で、壁に飾られたレイが目に入った。

 チーム・マルカブがこれまでレースで手にしてきた優勝レイだ。そこに今年一年で新たに加わったレイがある。ライス、グラス、エル。三人が勝ち取ってきたものだ。

 そっと、ケース越しに触れる。

 ライスの復帰戦となった目黒記念、秋天にむけて力を示したオールカマー。

 グラスの力を示したデイリー杯ジュニアSと悔しさの元にもなった朝日杯FS。

 エルの可能性を見せつけた東京スポーツ杯ジュニアSとホープフルS。

 そして、ついにライスが勝ち取った有記念。

 一年でジュニア級含めてとはいえ重賞七勝。GⅠなら三勝。トップではなくとも、上位に入る成績だろう。

 私が……いや私と彼女たちで勝ってきたという証だ。

 

「私は幸運だな……」

 

 ライスの復帰をこの目で見ることができた。私を慕ってグラスにエルという優秀なウマ娘がチームに入ってくれた。

 恵まれていると思った。同時に、この幸運に報いていかなければと思う。

 

「はーはっはっはっは!!」

 

 しんみりとした空気を吹き飛ばす声が響き渡った。

 振り返ると開けていた窓の縁に立つ人影があった。

 窓辺に仁王立ちするのは勝負服を着たエルだ。小脇に箱を抱えている。

 

「エルエルサンタがトレーナーさんにプレゼントを届けに来たデスよー!」

「エル……またそんなところに立って。危ないよ」

 

 確かにサンタも赤いが、だからって勝負服を着てそう言い張るのは強引ではないか。

 

「こんな時間に学園内にいる悪いトレーナーさんに言われたくないデース!」

「そうか。じゃあ私は悪い子だからプレゼントは貰えないのかな」

「む、あーうーん……ひ、日ごろの行いに免じて特別に許してあげマス!」

「むぐ……っ」

 

 そう言うとエルは抱えた箱から何かを取り出し、私の口にそれを押し込んできた。

 柔らかい感触と甘い香り。薄い生地の奥から甘ったるいクリームが口内に侵入してきた。

 

「これは……シュークリーム?」

「ブエノ! トレーナーさんが差し入れでくれたものデス。トレーナーさんのためにとって置いたデスよ!」

「そうか。ありがとうエル。美味しいよ」

「良かったデス。あと、これも……」

 

 おずおずとエルが差し出したのは長方形の小箱。どうやらシュークリームはついでで、こちらが本命だったようだ。

 

「開けても?」

 

 コクン、とエルが頷いたので丁寧に包装を解いていく。

 現れたのは深い赤に黄色のラインが入ったネクタイだった。

 

「トレーナーさんが着けているのは青とか紺が多かったので、こういう色もあってもいいかなって……」

「ああ、エルの色だ。ありがとう。大事にするよ」

「ふへ、えへへへへ……」

「早速着けてみようかな」

 

 今着けていた紺色のネクタイを外し、エルがくれたネクタイを箱から出す。

 首に巻いて結ぼうとするが、酒の入った頭と月明かりしかない状態ではどうにも上手くいかない。

 悪戦苦闘しているとエルが手伝ってくれた。

 

「こうして、ここを通して……どうデス?」

「ありがとう。ばっちりだ」

 

 エルと視線が合う。ホープフルSで飛びつかれた時と同じくらい彼女の顔が近い。

 赤みが差している気がするのはマスクの色か、それとも――――

 

「エ~~~ル~~~?」

 

 声と同時に部屋の電灯が点いた。

 弾けるように離れたエルを尻目に、声が聞こえたほうを見る。

 妙に迫力のある笑みを浮かべたライスとグラスがいた。

 

「二人ともどうしたんだ?」

「パーティーの片づけをしていたら、この棟の明かりが点いているのが見えまして」

「もしかしたらお兄さまが来ているのかなって」

 

 そういえば、ここに来るまでの廊下は感知センサーで電灯が点いた気がする。

 タイミングよくカフェテリアからも見えたということか。

 

「お兄さま、そのネクタイは……」

「ああ、エルがプレゼントにってね」

「「ふ~~~~~~~ん」」

「な、なんデスかライス先輩、グラスも……」

「いいえ別に。……トレーナーさん、私からもいいですか?」

 

 そう言ってグラスから小箱を手渡される。開けてみると青と白のカフスボタンだった。

 早速着けてみる。ワイシャツの袖口に通してレバーを捻って固定する。

 ネクタイほど目立ちはしない。だが、手元に目をやれば一番に目につくものだった。

 

「じゃあライスからはこれ!」

「これは……フォトフレーム?」

 

 つまりは写真立てだった。しかも多面型でそのままアルバムとしても使えるものだ。

 

「今年はグラスさんやエルさんも入ってくれて、チームとしてもいっぱい勝ったでしょ? 写真もいっぱい撮ってもらったからまた飾っていきたいなって」

「ああ……それはいいね」

 

 師匠がまだマルカブを率いていた時代、つまりはもっとメンバーが多かった時代は同じように勝った時の写真を飾っていた。

 引退や移籍で離れる時にほとんど渡していたので残った数は少ない。

 それをまたこれから増やしていく。本当に、時間が進んでいくのだと実感できるだろう。

 

「お兄さまはどうしてここに? お仕事ってわけじゃないよね」

「実は、これを持って帰るのを忘れていてね。

 ……みんな、お返しというか、私からのクリスマスプレゼントだ」

 

 三人とも冬期休暇中も学園に残るとはいえ、レース後だからトレーニングよりも休養だ。しばらく彼女たちがここに来ることはないから、渡す機会をどうするか迷っていたがちょうどよかった。

 

「ありがとうございます。これは……」

「髪飾り、デスか?」

「可愛い……羽、いや翼の形だ」

 

 ライスの言う通り、デフォルメした翼の形をした髪飾りだ。

 広げた翼の中央に、グラスなら青、エルは赤、ライスは紫と彼女たちに合わせた色のワンポイントが施されている。

 

「学園のチーム名は主に星座を形成する恒星の名前からとっているのは知っているかな?」

「ええ。スピカはおとめ座、カノープスならりゅうこつ座でしたか」

「マルカブはペガサス座……翼の生えたウマ娘を描いたものだ。名付けたのは初代トレーナー、私の師匠のそのまた師匠に当たる人だ」

「つまりは大師匠デスね!」

「ああそんな感じだね。……で、その人がどうしてチーム名をマルカブにしようとしたか分かるかな?」

「そういえば、ライス聞いたことないかも」

「んーゲン担ぎのようなものでは? リギルも確かウマ娘を象った星座の恒星でしたよね」

 

 グラスの答えも的外れではない。リギルは海外の神話で賢者と伝わったウマ娘の星座にあやかった名だ。

 

「私も師匠から伝え聞いた話だが、大師匠はこう言っていたらしい。

 『大昔の人が地を駆けるウマ娘に翼を生やして描いたのはどうしてか。そこに夢を見たからじゃないかと思う。天使の様に聖なる存在として、地だけでなく空も翔ける姿を夢想して。色んな想いや解釈があったのだろう。だから、このチームは色んな夢が集う場としたい。みんなが同じ夢でなくていい。ただ夢を叶えたいという想いさえあればいい。夢を叶える翼を授けられる場所。それがチーム・マルカブだ』……だそうだ」

「それは……いいお話ですね」

「ああ、だからこれは私からの決意表明、みたいなものかな。こういう飾りではなく、夢を叶えるための翼を必ず授けて見せるっていうね」

 

 格好つけ過ぎかな? と言うと三人からそんなことないよと返ってきた。

 早速とみんなが髪飾りをつける。私も貰ったネクタイとカフスボタンが見えるようにして、スマホを使って四人で写真を撮った。

 PCに移して出力し、ライスからのフォトフレームに一枚目の写真が納まる。

 これがチーム・マルカブの新しい第一歩だという証となった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 年末。十二月三十一日。私たちチーム・マルカブは四人そろって学園近くの神社へ来ていた。

 年末詣といい、神仏に今年一年の感謝をするのだとグラスが言っていた。

 マチカネフクキタルが熱心に布教していたこともあり、学園に残っていた多くのウマ娘が参拝に来ていた。

 装いも気合の入っていた子がちらほら見える。

 グラスが実家と付き合いのある呉服屋から着物をレンタルし、ライスと一緒に着ていた。私やエルは動きやすい格好の方が気楽なので普段と同じだ。

 やがて時計の針が十一時五十九分を指す。秒針が刻一刻と今年の終わりを進めていく。

 

「十、九、八……」

 

 周りでカウントダウンが始まった。

 私たち四人も輪になり、時計を見ていた。

 

「……三、二、一!」

 

 鐘がなる。

 

「ハッピーニューイヤー!!」

 

 マルカブの新しい年が始まる。

 クラシック級に上がるグラスとエル。再びシニア級を走るライス。

 彼女たちの激闘の一年が始まるのだ。

 

 

 

 



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17話 マルカブと新年

 掲示板要素ありです。
 後半はいつもの形なので、掲示板形式が苦手って方は前半飛ばしてください。



 

【推しが負けても】トゥインクルシリーズ秋シーズンを振り返るスレPart.×××【恨みっこなし】

15:名無しのレースファン ID:Xhkv8jAHX

 今年の秋シーズンGⅠウマ娘 

 ・スプリンターズS 同着 ミホノブルボン 専属

              タイキシャトル リギル

 ・秋華賞      メジロドーベル メジロ

 ・菊花賞      マチカネフクキタル 専属

 ・天皇賞(秋)   マチカネタンホイザ カノープス

 ・エリ女      ――――――― 専属

 ・JBCレディクラ ――――――― アルタイル

 ・JBCスプリント ――――――― 専属

 ・JBCクラシック ――――――― リギル

 ・マイルCS    タイキシャトル リギル

 ・ジャパンカップ  マチカネタンホイザ カノープス

 ・チャンピオンズC ――――――― カペラ

 ・有記念     ライスシャワー マルカブ

 ・東京大賞典    ――――――― 専属

 こんな感じか。意外とばらけたな

 

16:名無しのレースファン ID:uPvk0iLW0

 >>15

 いうて毎年こんなもんでしょ

 一時期のリギル一色がおかしかったんだよ

 

19:名無しのレースファン ID:7Kd/CyLqV

 >>15 まとめ乙

 そしていつものチーム・メジロで笑うw

 

21:名無しのレースファン ID:0fpejQ6te

 メンバーほとんどメジロ家所縁の子だししゃーない

 

22:名無しのレースファン ID:kRRopGM4r

 メジロの至宝を担当して史上初のトリプルティアラ達成したんだから残当

 

23:名無しのレースファン ID:wiRsJWOqh

 なおマックイーンとパーマー……

 

25:名無しのレースファン ID:2BrzwGuzv

 絶対入るって約束してるわけじゃないんだからセーフ

 

26:名無しのレースファン ID:1UmSw2c0q

 今年は色々あったな。ブルボン復帰からのGⅠ二勝、お米復帰からのグランプリ勝利、バクシン中距離重賞勝ち、マチタンが念願のGⅠ制覇でしかも二連勝とか

 

27:名無しのレースファン ID:mvPbiYY8x

 >>マチタンが念願のGⅠ制覇

 有記念ぇ……

 

29:名無しのレースファン ID:cOl2umbF2

 復帰初年でヒットマンかますとかお米先輩流石っすわwww

 

30:名無しのレースファン ID:ifoAYOnC/

 >>29

 お前はネタかジョークのつもりかもしれんがそれで気悪くする人もいるんだからな

 

31:名無しのレースファン ID:N3xmnxLGX

 でも俺は見たかったよ秋シニア三冠

 

33:名無しのレースファン ID:0kzlCOKfE

 ルドルフやタマもできなかった三冠王手だからな 

 期待したわ

 

34:名無しのレースファン ID:0x/kgutUW

 みんな真剣勝負なんだから結果にあれこれ言ってもしゃーないわ

 

36:名無しのレースファン ID:84zHE4AMH

 >>29が言ってるお米って誰の事?

 

39:名無しのレースファン ID:Wg3bpkfTl

 >>34

 今年ケガから復帰したライスシャワーのこと

 由来は名前通り結婚式とかでお米まくやつから

 

41:名無しのレースファン ID:qu7WxskVZ

 >>36

 >>39

 あと一時期農協とコラボして米のCМ出てたから

 

43:名無しのレースファン ID:8wrVazv96

 >>39

 割烹着きてご飯よそった茶碗差し出してくるアレか

 

46:名無しのレースファン ID:kbqCSSYCK

 よそった(大盛)

 

49:名無しのレースファン ID:WYz3M9nE/

 茶碗(どんぶり)

 

51:名無しのレースファン ID:tt5eF3IiB

 もしかしてあの子って大食い?

 

53:名無しのレースファン ID:mxM6a07TG

 オグリほどじゃないが結構食べるらしい

 

56:名無しのレースファン ID:NM4K7dvIi

 オグリクラスが二人もいてたまるか

 

57:名無しのレースファン ID:FK/1KL23Q

 実際あのCМで米の消費量とか上がったらしいな

 

60:名無しのレースファン ID:EMapkokTn

 ぼくあのCМでロ〇コ〇に目覚めました!

 

62:名無しのレースファン ID:Cb3dn5TEG

 おまわりさんあの>>60です

 

63:名無しのレースファン ID:sgbekGwqR

 >>60

 射サツします

 

65:名無しのレースファン ID:6LluejSFp

 ご慈悲を……

 

68:名無しのレースファン ID:43IN3IwVt

 >>57

 なお本人はパン派のもよう

 

71:名無しのレースファン ID:zhSyAe1s9

 マジかよ最低だなザキヤマパンのファン止めます

 

73:名無しのレースファン ID:Aq4lkW9N+

 朝がパン派ってだけだろ!

 昼と夜は米食べとるわ!

 

75:名無しのレースファン ID:o5x2R98sx

 失敬な米もパンも麺も食べるぞ

 (画像)

 

76:名無しのレースファン ID:rwplMKC0i

 >>75

 やだ、すごい量……

 

78:名無しのレースファン ID:fxHyU+jj8

 レースじゃなくてウマ娘個人の話は専用スレでしてくれ

 で、言いっぱなしもなんだからジュニア級のGⅠ結果追加で

 ・朝日杯FS    グラスワンダー マルカブ

 ・阪神JF     ――――――― リギル

 ・ホープフルS   エルコンドルパサー マルカブ

 

79:名無しのレースファン ID:J9QIIl40d

 >>76 乙

 マルカブすげーなリギル並みに勝ってる  

 

82:名無しのレースファン ID:QG1oKwhgp

 いうてジュニア級だし クラシック進んだらガラッと変わることも多いからなんとも言えん

 

83:名無しのレースファン ID:+WGTHuBCR

 でもエルコンはすごかったぞ。クラシックの有力候補だろ

 

85:名無しのレースファン ID:sR/h7bIlN

 ほーんじゃあ注目してくか

 

88:名無しのレースファン ID:NVgqqTBu1

 グラスワンダーもレコード勝ちだから期待大だけどケガしたんだろ。

 残念だわ

 

89:名無しのレースファン ID:5IHFXcBrs

 いうて皐月まで四か月あるし間に合わんかね?

 

91:名無しのレースファン ID:g+LvCiX1l

 骨折だし。治ってからリハビリして落ちた筋肉戻してたらきつくない?

 

92:名無しのレースファン ID:89EqfbCIn

 出ても勝てるか分からん状態か

 

94:名無しのレースファン ID:tJro2PqVR

 まずは無事にケガ直してほしいわ

 ウマ娘にとっちゃ一生に一度のクラシックだろうけど俺としては長く走って欲しい

 

96:名無しのレースファン ID:x25tcEaOg

 まあ俺らただの客やし。出たら全力で応援するだけだわ

 

97:名無しのレースファン ID:1tzfuEjU7

 んだんだ

 

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

132:名無しのレースファン ID:FFGFt7PFL

 ちなみに今年の年度代表ウマ娘誰になると思う?

 俺はタイキシャトルだと思う。スプリンターSとマイルCSは圧巻だわ

 

133:名無しのレースファン ID:PfjDtKSJl

 >>132

 ちょっとスレチじゃね? 年度代表なら春シーズンの結果も考慮せにゃあかん

 あと短距離路線からはまず選出されん

 

134:名無しのレースファン ID:ziorA8fiO

 >>132

 年度代表については↓でやってるぞ

 (URL)

 メジロドーベルは?

 

137:名無しのレースファン ID:48EZFivMq

 クラシック級はシニア混合重賞勝ってないと難しくない?

 

 

 

 

【一般投票】今年の年度代表ウマ娘は誰か●●年版Part.△【やってくれない?】

 

95:名無しのレースファン ID:Sv5OEfW8c

 ブルボンそんなに無理かな?

 復帰から重賞四連勝うちGⅠ2連勝だぞ

 全距離芝GⅠ制覇の夢もURA的には推したいドラマやろ

 

96:名無しのレースファン ID:padgq79zK

 >>95

 前にも出たが実績が短距離路線からはまず選出されん

 それこそ春から短・マイルのGⅠ総なめでもせん限り無理や 

 

98:名無しのレースファン ID:k76PMJpUm

 年度代表ウマ娘は有記念勝った子が選ばれる

 これマメな

 

102:名無しのレースファン ID:RqSeyvh14

 >>98

 じゃあライスシャワー?

 

104:名無しのレースファン ID:Nt/IsW1mR

 GⅠ2勝が何人かいるのにGⅠ1勝で選ばれだら反感買いそう

 

108:名無しのレースファン ID:FKk4y1ssf

 秋天勝ってたら文句なしだったんだがな

 

109:名無しのレースファン ID:D6H6RVEJl

 どうしてみんなしてお米をいじめるのん?

 

113:名無しのレースファン ID:MJ4tQwd0R

 >>109

 カワイイからさ(暗黒微笑) 

 

114:名無しのレースファン ID:lKHqOCpeq

 >>113

 パァン!

 

118:名無しのレースファン ID:OHrMr7TcA

 >>113

 ババババババババ!

 

121:名無しのレースファン ID:aDsW7Dz3e

 >>113

 ドドドドドドドドドドドド!

 

125:名無しのレースファン ID:UAzJ/9/G0

 ああ! >>113 が粉みじんに!

 まあいいか

 

126:名無しのレースファン ID:U5atsIzDy

 GⅠ2勝以上

 芝

 短距離・マイルからはない

 クラシック級はシニア混合勝ってないとダメ

 

 もう一人しか該当なくね?

 

129:名無しのレースファン ID:QtlHvgfn6

 あ……

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 年末から年越しと賑やかな日が続いたが、それも三が日が過ぎれば落ち着いてくる。

 この一週間ほどはマチカネタンホイザの実家が営む食堂も例に盛れず忙しかったが、今年の忙しさは例年とは違っていた。

 自身のGⅠ勝利祝いだと、帰省を聞きつけたご近所が連日押しかけ、連日連夜の宴会騒ぎだった。

 店に来たなら本来こちらがホスト側なのだが、なぜかマチカネタンホイザが歓待される側だった。

 幼いころかな見知った人から祝いの品やらお酌やら、泣きながらおめでとうを何度も言われた。

 さすがに勝ったレースの鑑賞会まで始まった時は恥ずかしかったが、今思えばそれだけ自分の勝利を待ち望んでいたということの証でもあった。

 

「みんな喜んでたし、やっぱり勝てて良かったなー」

 

 地元総出のお祝いも落ち着き、今日は一人炬燵に入って特に興味もない新年特番を眺めていた。

 テレビには何やら華やかな装いのウマ娘が映っている。

 画面に映ったテロップで、彼女が欧州のとある国の王族であることが分かった。番組出演者が驚愕の声を上げるのに合わせて、マチカネタンホイザも声を上げた。

 

「あーあの人ジャパンカップで走った人だ。そっかー綺麗な人だと思ってたけどお姫様なんだ。

 ……本当にいるんだお姫様なんて。すごいなー」

 

 ここにナイスネイチャがいれば、「そのスゴイのに勝ったのはアンタでしょうが!」とツッコんだだろうが、残念ながら彼女も地元へ帰省中でありここにはいない。

 卓に置かれた籠からミカンを取ろうと手を伸ばすと、傍らに置いていたスマホから音楽な鳴り響く。

 片手でミカン、もう一方の手でスマホを取って画面を見る。ナイスネイチャからの着信だった。

 

「もしもしネイチャー? あけおめー」

『おーあけおめー……じゃなくて! タンホイザ、トレーナーからのメール見た?』

「え、メール?」

 

 スマホを動かすと、確かにトレーナーの南坂からメッセージメールが届いていた。

 時間は少し前で、返信がないのを心配したのか何度も連絡を取ろうとした記録もあった。

 

「あーゴメン! ボーっとしてて気が付かなかった。もしかして何か急ぎの要件だった?」

『いやまだ大丈夫……のはず。要件ってのは年度代表ウマ娘! URA賞のこと!』

「年度代表……ああもうそんな時期か。やっぱり今年はGⅠ二つ獲ったブルボンさんかな。スプリンターズS凄かったもんね。それとも有記念勝ったライスさん?」

 

 受賞者についてはメディアで報道されるより先に関係者へ通達がある。

 カノープスに来たということは、自分ももしや特別賞か敢闘賞にでも入れたのかもしれない。

 しかし、彼女の予想はナイスネイチャからの一言で粉砕される。

 

『――――アンタだよ!』

「………………………………………………へ?」

『秋天でブルボンさんやライスさんに勝って! ジャパンカップで海外のウマ娘にも勝って! 有記念で惜しくもハナ差二着のアンタが! 今年の年度代表ウマ娘!!』

「へ………………………………ふぇえええええええええ!!??」

 

 大音声に、ナイスネイチャも悲鳴を上げた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 三が日も終わり、世間も正月気分から抜け出して普段通りの生活に戻りつつある頃。

 私たちは都内某所のビルの中、フロア一角を貸し切った会場にいた。

 目的はURA主催による年度代表ウマ娘――いわゆるURA賞の表彰式だ

 URAが運営する中央と呼ばれるトゥインクルシリーズにおいて、昨年のウマ娘たちの活躍を称えるものだ。

 階級や距離に分けて複数の部門があり、新聞や放送などのメディアによる投票によって選出される。ただの多数決ではないため、一定の支持が集まらない場合は該当なしとされることもある。

 レースの勝敗とは違う、ウマ娘たちの努力に対する総決算。世代の王を決める場だ。

 ライスたちとは正装に着替えるために別れ、一足早く私だけが会場前に立っていた。

 掲げられた大看板に、受賞するウマ娘たちの名前が刻まれていた。

 

 年度代表ウマ娘    :マチカネタンホイザ

 最優秀ジュニアウマ娘 :グラスワンダー

 最優秀クラシックウマ娘:メジロドーベル

 最優秀シニアウマ娘  :マチカネタンホイザ

 最優秀短距離ウマ娘  :タイキシャトル

 最優秀ダートウマ娘  :該当なし

 URA特別賞     :ミホノブルボン

 

 朝日杯フューチュリティステークスのレコード勝利が評価されてか、グラスがジュニア級における最優秀ウマ娘に選出された。

 これで名実ともにグラスが世代のジュニア級王者ということになる。

 エルはどうして自分が選ばれないんだ! と憤慨していたが、よほどのことがない限り一人しか選出されない賞だ。投票の内訳がまだ公表されていないので何とも言えないが、恐らくはかなりの接戦だったのではないだろうか。

 クラシック級の王者はダブルティアラを成したメジロドーベル。クラシック二冠を獲った子もいたが、ケガで秋シーズンを休養した彼女よりもシニア混合の重賞に挑んだメジロドーベルが評価されたと見た。

 シニア級の最優秀賞及び年度代表ウマ娘がマチカネタンホイザであることに疑問を挟む余地はないだろう。秋の中距離GⅠを二連勝、しかも一つはジャパンカップで海外のウマ娘たちを抑えての勝利だ。他のシニア級にGⅠ二勝したウマ娘がいない以上、春シーズンのGⅠ勝利が無かったとしても受賞するには十分な活躍だった。

 短距離で選ばれたのはタイキシャトル。正直ここはミホノブルボンが来るのではとも思ったが、マイルチャンピオンシップの勝利が決め手となったか。

 ダート部門は該当なし。良くも悪くも群雄割拠だったため票がバラけてしまったようだ。

 そして特別賞。こちらは毎年表彰されるものではなく、なにか記録を打ち出したりシリーズを盛り上げたウマ娘が表彰されるものだ。これは表彰理由も明かされており、今回のミホノブルボンの場合はケガからの復帰初戦がGⅠであり、その後も重賞を連勝かつGⅠ連勝したことを評価されたのだろう。

 

「お兄さま、お待たせ」

 

 声がした方を向くと、着替えを終えたライスたちがいた。

 今日の主役はグラスなので、ライスとエルも余所行きの格好だがそこまで着飾ってはいない。特にライスは撮影係に手を上げて、銃器と見紛うようなカメラを持っていた。

 一方でグラスは艶やかな和装で着飾っていた。

 花の柄をあしらえた白い帯と青の和服が勝負服姿の彼女を連想させる。長い栗色の髪を結いあげ、普段は見えないうなじが露わになって妙に色っぽい。髪を止める蒲公英のかんざしの他、私がプレゼントした翼の髪飾りもあった。

 

「どうでしょうか……」

「綺麗だよ。グラスは和服が似合うね。髪飾りもつけてくれたんだね」

「トレーナーさんからの贈り物ですから……。トレーナーさんもつけてくれたんですね」

 

 そういうグラスの視線は私の袖口と首元に向く。

 今日の私の装いはスーツこそ有記念前の会見よりももう一段上等なものだが、ネクタイとカフスボタンはエルとグラスに貰ったものを着けていた。

 

「せっかく二人が選んでくれたものだからね」

「似合っていますよ」

「ありがとう」

「「………………」」

 

 ……なんだろう。ライスとエルからの視線が痛い。おかしなことは言っていないはずだが。

 とりあえず、二人にも声をかける。

 

「えっと……ライスは今日撮影よろしくね」

「……うん。カメラも新調してきたし、お兄さまとグラスさんの晴れ舞台はしっかり残すよ」

「エルもそろそろ機嫌を直してくれないか?」

「別にエルが選ばれなかったことにへそを曲げてなんてないデスー。……でも」

 

 エルがちらりとライスを見る。

 

「ライス先輩が特別賞にも入ってないのは納得いかないデス。ブルボン先輩と同じで復帰した年にGⅠ勝ってるのに」

「あはは……ライスは特別賞を一回貰ったことあるから二回目は難しいかな」

「え、そうだったんですか?」

「天皇賞(春)でマックイーンさんに勝った年の次のまた次の年だったかな。不調続きだったところで天皇賞(春)勝利したら一年越しの復活だって」

「おお……トウカイテイオーみたいデス。……あれ? でもこの前歴代の表彰式の写真を見た時ライス先輩は……」

「うん、その年の宝塚記念でケガしちゃって……。入院中だったから表彰式には出れなかったんだ」

「オウ……なんかゴメンなさいデス」

「別に謝ることじゃないよ」

 

 気まずい顔をしたエルに私から言う。

 ライスの状況はともかく、彼女の成果を賞してくれたのだから。

 

「さて、ライスも言ったけど今日はグラスの晴れ舞台だ。エルも笑顔で行こう。笑顔で」

 

 そう言ってエルの頬をつまんで左右に引っ張る。口元を釣り上げて無理やり笑顔を作ってあげると三人から笑いが起こった。

 それでいい。暗い記憶もあるURA賞だが、いつまでも引きずっているわけにもいかない。

 私たち四人は並んで会場へと入っていった。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 会場に入ると各メディアやURAの役員など、トゥインクルシリーズ運営の重鎮たちが揃っているのが目に入った。同時に多くの報道陣の視線が私たちに向けられる。

 

「ライス先輩、あの人この前テレビで見たことありマス!」

「指さしちゃだめだよエルさん」

 

 主な視線の先はグラスだ。レコード勝利によるジュニア級王者の称号への称賛と、ケガによるクラシックへの不安と好奇が入り混じった視線。正直、心地よくはない。

 

「大丈夫かグラス?」

「ええ。少し緊張はしていますが、大丈夫ですよ」

 

 若干声に固さがあるがグラスの様子は普段とそう変わりない。

 慣れているというより、こういう場でも凛とした姿を保つことが彼女が志す大和撫子という者なのかもしれない。

 一方、会場の一角ではより一層注目される一団がいた。

 年度代表ウマ娘に選ばれたマチカネタンホイザと付き添いできたチーム・カノープスの面々だ。

 

「あば、あばわわわ〜〜〜! 人が〜〜カメラが〜〜いっぱいだ〜〜!」

「URA賞の表彰式ですからね。昨年を代表するスターウマ娘が一同に介する以上はメディアの注目度もひとしおかと」

「いやーあの自称ザ・普通のタンホイザが年度代表ウマ娘とは。ネイチャさんも友人として鼻が高いわ。

 ……ていうか緊張しすぎ。報道陣とかGⅠの出走会見で散々見てるでしょ」

「天皇賞(秋)も有記念もこんなに沢山いなかったよ! ああどうしよ。なんだか顔の奥がツーンとしてきた……」

「マチタン大丈夫? ターボのティッシュ使う?」

「ううん今かんだら色々飛び出しそうだからやめとく。でもありがと」

「ちょっ、今日だけは鼻血勘弁してよ。せっかくの友達の表彰式が血染めとかトラウマになる」

「本当、折角この日のためにドレスも新調したんですから……」

 

 華やかなドレスを着ていても彼女たちは普段通りだった。

 また視線を余所に向ければマチカネタンホイザと同じくらい緊張しているウマ娘もいた。

 最優秀クラシックウマ娘となったメジロドーベルだ。メジロ家が周りを固めているが、どうにも顔色が白い。

 

「………………」

「ドーベル大丈夫? 水飲む?」

「だ、大丈夫。ちょっと人が多くて緊張してるだけだから……」

「でも顔色が良くありませんわ。こういう時は~深呼吸~深呼吸~」

「う、うん……すぅー……はぁー…………すぅー……はぁー……」

「あとは……周りを南瓜だと思う、でしたか?」

「あれ、アルダンさんところだとそうなの? うちの近くだとジャガイモだったなー」

「どちらでも良いのでは? ようは人に見られていることを意識しなければよいわけですから」

「あーじゃあなんか興味ないものならオッケーな感じ? ドーベルが興味ないもの……空き缶?」

「なんですのそのチョイスは……むしろ好きなものだと紛れるかもしれませんわ。例えばスイーツとか!」

「……パーマーもマックイーンもなんか他人事だからってからかってない?」

 

 そんなことないよー、とはにかむメジロパーマーと、やれやれと苦笑気味のメジロマックイーン。どうやらチームの垣根を越えてメジロ家総出でのお祝いのようだ。

 辺りを見回すとやはりいた。メジロ家当主の『お祖母様』がいた。

 本家当主まで来ているとなってはメジロドーベルの緊張も仕方ないか。

 他にもタイキシャトルとリギルの面々、ミホノブルボンと黒沼トレーナーの姿もある。各々が着飾り、普段とは違う一面を見た気分だ。

 

「あら、マルカブの皆さん!」

 

 見渡していると、メジロマックイーンがこちらに気づいて駆け寄ってきた。

 ……ライス、どうして前に出るんだ?

 

「ライスさん、有記念勝利おめでとうございます。……なんだかお会いするたびにお祝いの言葉を送っている気がしますわ」

「ライスも、会うたびにお礼を言っている気がするよ。ありがとうマックイーンさん。……今日はメジロの人たちみんなでドーベルさんのお祝い?」

「ええ、メジロ家からURA賞が出たのは久しぶりですので。ただ本人は祝われることの嬉しさよりも緊張が勝っているようですが……」

 

 確か前にURA賞を取ったのはメジロマックイーンだったか。

 あの時は彼女が最優秀シニアで、年度代表ウマ娘はトウカイテイオーだった。

 

「最優秀クラシックなんて一生に一度しか選ばれる機会のない賞、世代の代表である証さ。緊張するなというのが無理な話だよ」

「最優秀ジュニアを取った方のトレーナーさんに言っていただけると助かりますわ。

 ……ああ、失礼しました」

 

 一歩下がったメジロマックイーンがグラスとエルを見てから深々とお辞儀した。

 

「グラスワンダーさん、エルコンドルパサーさん。お二人ともGⅠ勝利おめでとうございます。海外からお二人のようなウマ娘が来ていただけること、トゥインクルシリーズの先達として光栄ですわ」

「こちらこそ、メジロマックイーンさんにそう言っていただけるなんて光栄です」

「あ、ありがとうございマス……」

 

 ゆったりとお辞儀を返すグラスと慣れない様子で頭を下げるエル。

 対照的な反応に思わず笑ってしまう。

 頭を上げたメジロマックイーンがグラスを見る。

 

「足のことは聞き及んでおります。歯痒い想いが続くでしょう……ですが焦ってはいけませんよ。いつか、好機というものは来るものです」

 

 彼女の言葉は同情ではない。彼女もデビュー当初はケガに苦しみ、クラシック期のほとんどを休養していた。しかしその後のメジロマックイーンの活躍は誰もが知るところとなる。

 一時のケガがその後の全てを決めるわけではない。その証明となる名優の言葉にグラスは力強く頷いた。

 初々しさが気に入ったのか、メジロマックイーンも笑みを見せた。ふと、彼女の視線が私に向く。

 

「あらトレーナーさん。普段とは趣の違うネクタイをされているのですね」

「ああこれか。この前二人から貰ったから着けてみたんだけど……」

 

 赤いネクタイと、空色のカフスボタンを見せてみる。学生の二人が買ったものだからスーツとは値段が張り合ってはいないが、おかしかっただろうか。

 

「いえ、似合っていないという意味ではありませんわ。ですがネクタイにカフスボタンですか……相変わらずチーム・マルカブは仲がよろしいのですね」

「スピカも仲が良いと思うけど?」

「そういう意味ではありませんわ」

 

 ではどういう意味だろうか。まあトウカイテイオーやゴールドシップを見る限り、スピカのトレーナーとは大人と子供というより少し年の差のある友人のような間柄に見えなくない。

 

「ライスさんも相変わらず苦労されてますわね……」

「もう慣れました……」

 

 ……なんだろう。私が非難されている気がする。 

 グラスとエルまでやれやれといった表情なのは何故なんだ。

 

「それにしてもマルカブの躍進は目を見張るものがありますわ。年の瀬のGⅠを三つも勝つなんて、来年は気が抜けないとトレーナーも言っておりました」

「それはこちらも同じさ。サイレンススズカがシニア級に上がってくるし、クラシック級ではスペシャルウィークとぶつかる。……それに君も帰ってくるのだろう?」

「ええ、その通りですわ。

 ……ふふ、あの自信が持てず頼りなさそうだった貴方が随分と頼もしくなりましたね。……スカウトを断ってしまったのは早計だったでしょうか」

 

「――はい?」

「――ケ?」

 

 ぐりゅん、と音がしそうな勢いでグラスとエルが私の方を見た。

 なんか二人の視線に迫力がある。……え、私この流れで責められてる?

 

「トレーナーさん、本当ですか今の話?」

「あ、ああ……まだサブトレーナーだった頃、師匠からそろそろ自分で指導するウマ娘をスカウトしてみろと言われてね。それで声をかけたのが彼女だったんだ」

「懐かしいですわね。……わたくしもあの時はメジロの悲願を背負っておりましたから、天皇賞(春)の実績がない方のスカウトは受けられないと断ったんですの」

「そうだったね。でもそのあとにスピカに入ったのはちょっとショックだったなー」

 

 結果として彼女は天皇賞(春)を連覇したのだから選択は正解だったわけだが、それでも自分のスカウトを断り同期の担当となったのは自分の未熟さを突き付けられた気分だった。

 

「そ、それについては申し訳ありませんわ……。ですが、わたくしもゴールドシップに半ば無理やり連れていかれましたのよ?」

(なるほど、マルカブとスピカの因縁はその時から……ライス先輩がマックイーンさんを意識するのも当然ですね)

(マックイーンに断られた後にスカウトしたのがライス先輩……そりゃあ負けられないデス)

 

 やがて表彰式開始のアナウンスが流れ、メジロマックイーンとは別れた。

 式典は粛々と続き、グラスを始め各受賞者たちが表彰されるたびに嵐のようなフラッシュが焚かれた。

 

 そして年度代表ウマ娘であるマチカネタンホイザのスピーチで、彼女がドリームトロフィーリーグへと行くことが発表された。

 

 時間は進む。

 トゥインクルシリーズから次のステージへ行くもの。

 クラシックからシニアへ行くもの。

 ジュニアからクラシックに行くもの。

 シニアをもう一度走るもの。

 新しい一年が始まる。

 

 

 



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18話 グラスとリハビリ


ちょっと短めかも。



 URA賞の表彰式も終わり、一月も下旬に差し掛かった。

 正月気分も抜けて本格的に次のレースへ意識が向かいだす時期だ。

 雑誌やテレビでも来る春シーズンに向けた注目バについて語っている。

 

「これは……」

 

 そのうちの一つ、月刊トゥインクルの特集を見ていて思わず声が漏れた。

 視線を雑誌から上げる。

 チームルームで課題をこなすライスとグラスとエル。いつものチーム・マルカブの姿があった。

 私の視線はちょうど背を向けているグラスに向かう。しばしその姿を捉えて、視線を雑誌へ戻す。

 月刊トゥインクルにはちょうど四月から始まるクラシック戦線の特集が組まれていた。なんでも今年のクラシックは有望株が多く、いわば群雄割拠もしくは多くの活躍バが見込める黄金の世代だとか。

 特に注目されているのが五人。雑誌でもレース時の写真が大きく掲載されている。

 URA賞に選出され、名実ともにジュニア級王者となったグラス。ホープフルステークスで圧巻の走りを見せたエル。

 エルに敗れたもののジュニア級で重賞勝利を上げ、血筋的にも期待が高いキングヘイロー。まだ目立った実績こそないがレースを支配する特徴的な逃げ戦法を使うセイウンスカイ。先日の白梅賞で二着になるものの鋭い末脚を見せ、なによりあのスピカの新星として注目されるスペシャルウィーク。

 この五人こそが今年のクラシックの中心とされている。

 そのうち二人を担当できているというのはなんとも誇らしい……が。

 

「……グラス」

「はい、なんでしょうか?」

 

 机に向かっていたグラスが振り返る。同時にライスとエルもノートから顔を上げてこちらを見る。

 ライス、エル、グラス、そして雑誌に写るグラスを見る。

 

「プールトレーニングの回数を増やそうか」

 

 グラスの尾がピンと跳ねた。クラシックに向けてトレーニングが本格化して嬉しい、ではなさそうだ。

 私の言葉の裏を嗅ぎ取ったのか、普段は穏やかな彼女の表情は強張っていく。

 

「それはどういう意味でしょうか……」

 

 やや震えた声。分かっているが、実際に聞くまでは認めたくない。そんな感じだった。

 しかし言わねばならない。自分は彼女を指導するトレーナーなのだから。

 

「朝日杯の頃に比べてちょっとふと――」

 

 消しゴムが飛んできた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「悪かったよ……」

「本当に反省していますか?」

 

 赤くなった額をさすりながら謝るが、グラスの視線は冷たい。

 ライスとエルもやれやれと頭を振っていた。

 確かに直接言うのはダメだったか。しかし彼女はアスリートで、体重の変化はパフォーマンスに大きな影響を及ぼす。自覚することは必要だった、はず。

 まあ時期も時期だったから仕方ないのか。

 グラスの周りにはライスやスペシャルウィークという大がつく健啖家がいる。彼女自身がそうでなくとも釣られてということもあるだろう。

 加えて最近はクリスマスに正月と何かとご馳走が並ぶイベントが続いていた。少し油断してふっくらしてしまうのも年頃の少女らしくて……

 

「トレーナーさん」

 

 冷たい声が私の思考を止めた。

 

「それ以上、余計なことを考えないように」

「…………はい」

 

 話題を変えよう。

 三人とも課題はひと段落したようだし、チーム・マルカブの全体的な方針を決めるミーティングをすることにした。

 トレーナー室では机を挟んでライス、グラス、エルが椅子に並んで座っていた。

 グラスとエルには自分の希望方針も書いてきてもらっている。

 

「まずはライスから。大目標は前決めた通り天皇賞(春)だ」

「うん。ライス頑張るよ」

「確実に出てくるのはミホノブルボン。他は昨年の菊花賞を取ったマチカネフクキタルが有力かな。

 あとはメジロ家。名門が長く目標に掲げている以上は誰か出てくるだろう」

 

 昨年のクラシック級で活躍したのはメジロドーベルだが、有記念の結果を見るに長距離適性はないのかもしれない。となると他の子だが、今は断言できるだけの情報がないな。

 

「次はグラスだけど……」

「私は引き続きクラシック三冠路線を目指します」

 

 静かに、けれど有無を言わせぬ迫力だった。

 グラスの脚は順調に回復している。走るまでは行かなくてもプールトレーニングくらいは許可が出ている。

 クラシック三冠のレースも、ジュニア級での実績もあって出走枠から漏れることはないだろう。

 となると課題は落ちた筋力とレース勘を取り戻すことか。

 

「分かった。じゃあまずは四月の皐月賞だ。グラスの実績ならステップレースを挟む必要もないだろう。ジュニア王者らしく、クラシック初戦へ直行だ。」

 

 私の言葉にグラスが頷く。熱を持った瞳でこちらを見てくるが釘も差しておく。

 

「でも無理は厳禁。そこだけは私も譲れない。いいね?」

「はい。分かりました……」

「最後にエルだけど、本当にこれでいいんだね?」

 

 エルが提出した希望書を見て尋ねると、彼女は胸を張って答えた。

 

「はい! エルはクラシックは目指しません!」

 

 ジュニア級GⅠウマ娘がこんなことを言えば、同期やメディアは目をひん剥いて驚くだろう。

 私も事前に聞いたときは驚いた。

 

「エルの最終目標は世界のトップレース、凱旋門賞! ですから今年の大目標はジャパンカップにします!」

「……分かった。でもジャパンカップまでずっとトレーニングというわけにもいかないよ。確実に出走するためにも実績を積む必要があるね」

 

 となるとどのレースに出るか。同世代だけで競うのでなく、シニア混合の重賞がいいか。かつレベルが高いところが良い。

 

「春シーズンの第一目標はNHKマイルカップ、そして安田記念でどうかな?」

「おお! どちらも国際競争のGⅠですね! しかも安田記念はシニア級も出てきます!」

 

 どちらも1,600mのマイルレース。ジャパンカップより距離は短いが、海外遠征を考えればこの距離を得意とするウマ娘たちとの瞬発力勝負の経験は糧となるだろう。

 

「当然強敵もいるよ。安田記念にはタイキシャトルも確実に出てくる。昨年の短距離王者が相手だ」

「ふっふっふっ……相手は強いほど燃えるもの、望むところテース!」

「三人のおおよその予定はこんなところかな。何か出てみたいレースとかあるかな?」

 

 そう訊ねるとライスがはい、と手を挙げた。

 

「お兄さま、宝塚記念はダメ?」

「それは……」

 

 ダメではない。が、負担が大きいと思う。

 前走に当たる天皇賞(春)から約二ヶ月。ミホノブルボンとの激闘が予想される3,200mの長距離レースから2,200mの中距離。調整が間に合うか。

 そしてなにより、宝塚記念は未だ私の中に暗い影を残していた。

 彼女が崩れ落ちる光景は未だ私の瞼の裏に焼き付いている。

 しかし……

 

「お兄さま?」

 

 いい加減、断ち切るべきだろう。

 ライスは強くなった。ならば彼女を指導する私がいつまでも弱いままではいけない。

 

「分かった。あくまで本番は天皇賞(春)だけど、調子しだいでは宝塚記念も視野に入れよう。

 無事勝って、グランプリ制覇といこう」

「……うん、ライス頑張るね!」

「これでみんなの方針は決まった。

 グラスは王道のクラシック路線、エルは海外を見据えた国際競争、そしてライスはシニア級大一番の天皇賞(春)だ。どこを向いても強敵ばかり、油断せずに頑張っていこう」

「うん! チーム・マルカブ、頑張るぞー……」

『おー!!』

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 さて、方針も決まったところで次はトレーニングだ。

 ライスには苦手な瞬発力を、エルには足りない経験を補うために併走をしてもらう。

 となるとグラスが余ってしまう。これまではプールトレーニングや筋トレをしているが、そろそろ走っておかないと彼女も不満だろう。

 しかしグラスの脚は治りかけのため無理はできない。どうしようかと悩んでいたところに、うってつけの物があることを思い出した。

 

「トレーナーさん、これはいったい……?」

 

 室内ジムの片隅にそれはあった。

 一見するとベッドか棺なのだが、周りにある機械や回線のおかげでSF映画に出てくるポッドのような見た目をしていた。

 

「VRウマレーターと言ってね。なんでもダイブ型のVR装置? らしい。あまり詳しくはないけど、ようは意識ごとバーチャル空間に入れるんだとか」

「はあ……どうしてそんなものが学園に?」

「理事長がレース用シミュレーターとして導入してね。レースコースの再現はもちろん、オンラインゲームも可能で……つまりはトレーニングで忙しいウマ娘たち向けの娯楽を兼ねた装置かな」

 

 マニュアルを見ると、電脳空間だかメタバースだかを経由して買い物やサービスも受けられるらしい。

 ……買い物はネット通販と何が違うんだと思うが、この仮想現実を利用した疑似旅行というのは面白そうだな。学園にいたまま海や山、レジャーやアミューズメント施設に行った気になれる。

 

「学園のウマ娘向けに何機か解放されているんだけど、聞いたことないかな?」

「そういえば……寮でVRがどうのという話をしているのを耳にした気が。アプリゲームのことかと思っていましたが、これのことだったんですね」

「それだね。今回はグラスのリハビリというかトレーニングの一環として使おうと思う」

「わざわざ私のために貴重な一基を……理事長は相も変わらず気前の良い方ですね」

「理事長はね……。ただ、たづなさんから使用した感想レポートを頼まれてる」

「あら、都合よく使われてしまいますね。

 ……しかし、仮想現実でのトレーニングというのはいまいちピンときませんね」

「当然これでスタミナがついたりスピードが上がるわけじゃない。どちらかというとイメトレの延長線上と考えるべきかな。それと今回はリフレッシュの意味が強い。長いこと走っていないだろう?」

「そう……ですね」

 

 グラスがケガをしてから一か月程度。本能的に走ることを求めるというウマ娘には辛い時間だっただろう。バーチャルで少しでも発散できたら良いと思ったが、グラスはどこか懐疑的だ。

 

「まあものは試しさ。トレーニングだけじゃなく色んなシミュレーションを登録してあるから楽しんでくるといい」

「うーん……いえ、トレーナーさんのご厚意を無下にするわけにはいきませんね。楽しませていただきます」

 

 思うところはあるようだが、なんとかグラスは承諾してくれた。

 

「じゃあ二時間くらいしたら様子を見に来るから、楽しんでおいで」

 

 ポッドの中で横になった彼女にそう言って、ウマレーターを起動した。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

『ダイブが完了しました』

 

 無機質な女性の声とともにグラスワンダーは意識を取り戻した。

 横になっていたはずの身体は立っており、学園にいたはずがターフにいた。制服だったはずがトレーニング時に着る紅白のウェアに変わっていた。

 人影のない客席、青々とした芝、雲が及ぶ?晴天。建てられたゴール板や会場の見た目から中山レース場だと分かった。

 第一目標である皐月賞を意識した設定なのだと分かった。

 

「これが仮想現実……不思議な感覚ですね」

 

 まず気になったのはターフにいるが芝の匂いがしないこと。

 芝を踏みしめる感触はあるがここまで鮮明に感じただろうか。

 とはいえそれも注意深く見ればの話。ようは粗探しをしたら目についた程度だった。

 最近の技術に感心しながら、グラスワンダーは走り出した。

 最初は軽いジョギング程度のつもりだった。しかし一歩二歩と進む度、グラスワンダーの身体は喜び勇んでスピードを上げていく。

 一か月近い療養という名のランニング禁止。必要なことと理解はしていても、内ではやはり走れないことの不満はあったのだ。

 

「はあ……はあ……っ!」

 

 インを攻めてコーナーを最短距離で曲がる。

 力強く芝を蹴り上げ、飛び跳ねるように加速する。

 広い直線を右に左に駆け回る。

 ため込んだ水を一気に放出するようにグラスワンダーは走り続けた。

 鼓動する心臓、流れる汗、熱を持つ身体。

 いずれも機械によってそう感じさせられているのだが、グラスワンダーは気にすることなく思う存分に体を動かしていった。

 

「これがゲームの中なんて、信じられませんね……」

 

 体力の限界まで走り回ったグラスワンダーは、芝の上に倒れこみながら呟いた。

 そこそこに抑えるつもりだったが、思っていた以上に走れないことへの不満は溜まっていたようだ。

 そして同時に自分もウマ娘としての本能には逆らえないことを思い知った。

 しかし走ることに至上の喜びを感じていたのも事実だ。

 

「そういえば他にもシミュレーションがあると言っていましたね。えっと……」

 

 手を虚空で泳がせていると、電子音とともに空中にウィンドウが出た。

 僅かに向こう側が透けて見えるそれには、様々なメニューがあった。が、どうにも操作方法が分からない。

 しばしウィンドウとにらめっこしているとヘルプのボタンを見つけた。

 

『何を調べますか?』

 

 ボタンを押したらさっきも聞いた無機質な声が聞こえた。

 ウィンドウに表示されるのは検索フォームとメガホンのピクトグラム。キー入力もできるようだが、デフォルトでは音声入力のようだ。

 

「シミュレーションの起動方法を」

『検索結果を表示します。音声ガイダンスを開始しますか?』

「いいえ」

 

 表示された操作マニュアルに従ってシミュレーションの選択画面を開く。

 神社仏閣や野点、琴や三味線に有名な時代劇などを疑似体験・観光できるメニューが表示された。

 トレーナーは色々なシミュレーションを登録したと言っていたが、どうやらグラスワンダーの好みに合わせて和風物を中心に登録したようだ。

 嬉しい反面、こういうのは一人ではなく友人も交えてやりたかったというのが正直な感想だった。

 

「しかし、せっかく用意してくださったのだから……」

 

 感想を聞かれた時にやっていないでは寂しいだろう。

 とりあえず、野点体験をやってみることにした。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 色々と試す中で頻繁に流れる無機質なガイド音声が気になってきた。

 どうにかならないかと探っていると、音声メニューにパターン1という文字とすぐ横に「▼」のボタンを見つけた。

 押してみるとボタンの下からパターン2、3、4という列が伸びてきた。

 

「数パターン用意されていたわけですか……」

 

 とりあえずパターン2を選ぶ。『音声が変更されました』と女性的な声がした。

 先ほどより無機質感は和らいだが、まだ気になる。

 その後もいくつも音声パターンを試してく。上から順に、少しずつ段飛ばしに。やがて、

 

『音声が変更されました』

 

 パターン63で流れた音声に、グラスワンダーの手が止まった。

 少し若い男性的な声。聞き馴染んだ声が少女の耳朶を叩いた。

 

「これは……」

 

 何故この声があるのか。ついさっき、この仮想現実に入るまで聞いていた声と似た音声が聞こえたことにグラスワンダーは戸惑った。

 もしや、音声を学園関係者からサンプリングしたのか。

 本職の声優を使うよりかは安上がりだろうが、実行するとは果たしてどちらの発案か。

 グラスワンダーの手が止まる。視線の先には音声確認のためのセリフ欄。

 今は「音声が変更されました」とあるが、書き換えることができるようになっていた。

 

「………………」

 

 長い葛藤の末、グラスワンダーの指がセリフ欄を叩く。編集できることを示すカーソルが表示された。

 

「す、少しだけ……ほんの少しだけですから……」

 

 レポートを頼まれているのだ。こういう細かい部分の確認も必要なこと。やましいことなどない。

 聞かれてもいない言い訳を呟きながら、グラスワンダーはセリフを打ち込んでいった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 意識が浮上する。

 駆動音とともにグラスワンダーはポッドの中で目を覚ました。

 天板が開くとトレーナーの顔が彼女を迎えた。

 

「おはよう……はおかしいか。調子はどうだいグラス」

「そうですね……明晰夢を見ているような気分でした」

 

 彼の顔を見ると何故か顔に熱が集まる気がした。

 顔を逸らすように時計を見ると予定通り二時間経過していた。外は既に陽が傾き始めている。

 トレーニングも終わったのかウェア姿のライスシャワーとエルコンドルパサーもいた。

 

「楽しめたかな?」

「……ええとても。初めての経験でしたが仮想現実というのも面白いものですね」

「ふむふむ……野点に京都にお寺に神社、琴や三味線体験。見事にグラスが好きそうなもので固めましたねトレーナーさん」

「エルも今度入ってみますか? レポートを出すなら快く貸してくれるそうですよ」

「うぐ……レポートデスか……。考えておくデス」

「じゃあこれがそのレポート、というか感想文かな。今週当りを目途に出してくれればいいから」

「分かりました」

 

 用紙を受け取るグラスワンダー。一瞬、トレーナーの指に触れそうになって出す手を変えてしまう。

 ……露骨だったか。でも妙なところで鈍いからなこの人。

 トレーナーの顔色を窺いたいが、熱を持った顔が上げられなかった。

 

「……グラス?」

「な、なんでしょうか?」

「なんか様子がおかしいけど大丈夫? VR酔い? みたいなのもあるらしいけれど……」

「だ、大丈夫です。そうですね……ちょっと寝すぎてしまった、みたいな感じでボーっとしてるのかもしれません」

 

 何故こういう時だけ妙に鋭いのか。しかしグラスワンダーの言葉に、そうか、と納得したそぶりを見せた。

 

「あんまり多用はしない方がいいのかな。明日になってまだ続くようだったら言ってね?」

「はい。分かりました」

 

 ウマレーターの電源を切り、配線を片付ける。

 

「私はソフトを返却してくるから今日はこれで解散としよう」

「はいはいトレーナーさん! 門限までまだ時間ありますし、自主トレしてきてよいデスか?」

「いいよ。でもやり過ぎないようにね。クールダウンや柔軟もしっかりすることと、明日どんなメニューをやったか報告してね」

「分かりました!」

 

 歩き出すトレーナーとエルコンドルパサー。少し間隔をあけてついて行こうとするが、グラスワンダーは背後からの視線に気づいた。

 

「ライス先輩?」

「グラスさん、久しぶりに走れて気持ちよかった?」

「……ええ。仮想現実とはいえ、再現度は高かったですね。本当にターフを走ったようでした」

「そっか……良かった。ライスも使ったことあるけどこれ使い方ちょっと難しいよね。スマホやパソコンとはちょっと違うから……」

「ああそうですね。手だと少し入力が難しくて、でも音声入力なら――」

「パターン63?」

「え、なっ――!?」

 

 背筋が、まるで氷塊でも滑り落ちたかのようにヒヤリとした。同時に頭の奥が熱くなってくる。

 不意打ちだった。冷静さを保てずたたらを踏むさまはさぞ滑稽に見えただろう。間違いなく、この黒いウマ娘はグラスワンダーが何をしていたのか察している。

 痴態、のつもりはない。しかし親しい者に明かすのも躊躇われた。

 しかし当のライスシャワーはグラスワンダーを責めるわけでもなく、慈愛じみた表情で微笑んでいた。

 

「すごいよねこれ。風景や感触もだけど、音の再現度も高いなんて。でも音声はトレーナーさんたちの声をサンプリングするあたりちょっとケチな感じもするよね」

 

 たづなさんのアイディアかな? とライスシャワーは笑う。

 

「気にすることないよ。結構みんな同じようなことはしているから。マヤノちゃんとか、シチーさんとか……ライスもね?」

「そ、そうなんですか……?」

 

 意外な……いやそうでもないかもしれない。思い出すように天井を見上げるライスシャワーの顔はどこか蠱惑的に見えた。

 

「うん。だからグラスさんを責めるとか、弱みを握ったなんてつもりはないんだよ? グラスさん真面目だからそういうことをする自分を嫌いになっちゃうかなって……。

 ライスが言いたいのは、気にしなくていいよってこと。本当に、それだけ」

 

 そう言ってライスシャワーが横を通ってトレーナーたちの後を追う。

 小さな背中を見てグラスワンダーは思った。

 

 この人には敵わないなぁ……。

 

 

 

 

 



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19話 再会とバレンタイン

 ようやく四人目の登場です。



 学園の空気がどこか浮足立っているとライスシャワーは感じた。

 理由は分かっている。今日はバレンタインデーだ。

 海外の聖人を称える日だとかお菓子メーカーの陰謀だとか言われているが、トレセン学園の少女たちにとっては敬愛や感謝の想いを伝える日と認識しているものが大半だろう。

 

 まあ彼女が想いを伝えたい相手は泊りがけの出張中なわけだが。

 

 学園も日程をもう少し考えて欲しいものだと思いつつ、移動教室のため廊下を歩いていると声をかけられた。

 

「ライスシャワーさん!」

「……はい?」

 

 振り返ると見知った顔のウマ娘がいた。下の学年でまだデビュー前だが、先日模擬レースで一着を取っていた娘だ。

 走って追ってきたのか息が切れ、肩が上下していた。

 

「あの……これ!」

 

 お辞儀と同時に差し出されたのは黄色のラッピングにシルバーのリボンが付いた丸い包み。

 それが意味するところはあれか。有記念を勝利しついに学園憧れのお姉さまポジションを得たのか。

 

「ライスシャワーさんのトレーナーさんに!」

「…………………………………………いいよ。ありがとう」

 

 きっかり三秒考えてから受け取った。

 ホッとした表情の後輩へ告げておく。

 

「でもトレーナーさんは出張だから、渡せるのは明後日になるけどいい?」

「ああはい大丈夫です。生菓子じゃないので」

 

 やはりそういうものか。

 仄かに香るバターの匂いからクッキーだと分かる。包装の様子から店で買える既製品ではない。手作りだと窺えた。

 

「……でもどうして? トレーナーさんと何かあったの?」

「えっとですね、ちょっと行き詰っていた時にアドバイスいただけまして……。この前の模擬レースもそのおかげで勝てたのでお礼にと……」

 

 またか、とライスシャワーは頭を抱えそうになった。

 チームメンバーが増え、レースに出る回数も増えたのにいつの間にそんなことをしていたのか。

 いやしてもいい。壁にぶつかって行き詰ったり悩むウマ娘へ手を差し伸べるのは彼の美点だ。しかしながら、そこまでしたならそのままスカウトまで行けばいいものを。

 どうせもっと相性のいいトレーナーがいると思ったのだろう。思わずため息が出そうになる。

 

「……あ、ああ! 別にその、深い意味とかないので安心してください!」

「大丈夫、トレーナーさんが人気なのはライスも嬉しいから。贈り物ありがとうね」

 

 顔に出ていたか。誤解して慌てて取り繕う後輩へ笑顔を向けると、彼女も笑いながら頭を下げて去っていった。

 手を振り遠くなる背中を見届ける。

 

「……あ、いけない授業いかなきゃ」

 

 この後、放課後までに同様のやり取りを七回、計十二名とやることになることを彼女はまだ知らない。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 放課後、カバンに大量のお菓子を詰めた状態でライスシャワーはチームルームへと向かう。

 トレーナーは不在だがメニューは貰っているので自主トレと合わせて消化する予定だ。なので直接更衣室からグラウンドに向かってもよかった。が、貰ったトレーナー宛の贈り物をずっと手元に置いておくわけにもいかず、とりあえずチームルームの冷蔵庫へ入れておくことにしたのだ。

 

「あ、ライス先輩……!」

 

 扉を開けるとグラスワンダーとエルコンドルパサーが先客としていた。

 二人の間にはテーブル。その上には菓子と思われる包みの山が築かれていた。

 一瞬流れる気まずい空気。ライスシャワーは二人も同様のことがあったのだと察した。

 カバンからラッピングされた菓子を取り出すと両名から安堵の息が漏れた。

 

「ライス先輩のところにも来たんデスね……」

「二人のところにはどれくらい?」

 

 二人揃って指を広げて掌を見せる。指の数と山を成す包みの数が足りないので回数なのだと分かった。

 

「いやー普段話さない上級生に何度も声を掛けられて緊張したデス……」

「トレーナーさんが人気なのは担当として嬉しいですが、なんだが肩が凝ってしまいました」

「二人ともお疲れ様」

 

 労をねぎらいながらカバンの中の菓子をテーブルへ置いていく。積みあがった山が一回り大きくなったのを見てグラスワンダーが目を丸くした。

 

「その……トレーナーさんには毎年これくらいの贈り物が?」

「ううん、こんなの初めて。ライスもびっくりしちゃった」

 

 話を聞くと、流れはライスシャワーとほぼ同じだった。

 トレーナーに最近、または過去に世話になった。アドバイスを貰った。だから感謝の気持ちとして贈り物をとのこと。

 本人でなく担当ウマ娘を通して渡すのは変な誤解を生みたくないかららしい。

 よりにもよって何故バレンタインに、と思ったが何でもない日よりは理由をつけて渡しやすいかと結論づけた。

 

「うーむ……トレーナーさんの手の多さは知っていましたが、まさかここまでとは」

「エルったら、変な言い方は止めなさい」

「でもこれだけのウマ娘に声をかけているならスカウトの一つでもしてきて欲しいよ……」

 

 感謝の気持ちで山ができるのだ。スカウトすれば受けてくれるウマ娘もいただろう。

 そうすれば未だ付き纏うメンバー不足の問題も早期に解決しただろうに。

 

「でもなんで今年に限ってなんでしょう? 聞く限りトレーナーさんがアドバイスしてたのはこの一年に限ってではないんデスよね?」

 

 エルコンドルパサーの疑問に答えは出ない。

 さすがに送り主を捕まえて聞くわけにもいかず、あーでもないこーでもないと話していると、チームルームの扉をノックする音がした。

 

「はーい」

 

 ゆっくりと、中を窺うように扉が開く。

 

「すいません……マルカブのトレーナーさんはいますか?」

 

 透き通るような声とともに緑のメンコと栗毛が現れた。

 訪れたのはサイレンススズカだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 冬の寒空の下、私は地方レース場にいた。地方と中央の定期交流のためだ。

 コースでは小等部であろうウマ娘たちが準備運動していた。

 レースではなく、クラブによる模擬レースだろう。時期を考えれば、中等部に上がる前のクラブ引退レースか走り収めなのかもしれない。そのまま中央か地方のトレセン学園に入る子もいるだろう。

 日本のウマ娘レースにおいてURAが主催する中央レースを一軍、NAUが主催する地方レースを二軍という認識が根付いている。

 正式にそういった区分はなく、ただレースの主催が違うだけなのだが、出走するウマ娘の実力やレース規模、設備の質からいつからかそう言われるようになっていた。

 実際、トレセン学園でも地方を格下に見ていた時代があったらしいし、地方側も中央とはレベルが違い、手を伸ばしても届くことのない星のようなものだと考えていた。

 ところが、そんな常識をぶち壊すウマ娘が現れた。

 カサマツからやってきた葦毛の怪物オグリキャップ。彼女に続くように大井からやってきた大花火イナリワン。

 当時のGⅠを総なめにする勢いで活躍した二人によって、中央と地方の意識は変革した。

 地方にだって輝く星はあるのだと。

 中央も今の地位に胡坐をかけば、地方からの彗星に容易く追い抜かれる。

 地方にだってスターの素質を持ったウマ娘はいる。それを活かせないのは余りにも不憫だと。

 こうして中央と地方の定期的な交流が始まった。

 中央は地方で燻ぶる才能を発掘し、招き入れるため。

 地方は中央から指導のノウハウを学び、地方レースの質を上げるために。

 互いの利害が一致した取り組みは何度も行われ、一定の成果もあげているようだった。

 私が今日来たのも、地方所属のトレーナーへの教導、中央で活躍できそうなウマ娘のスカウト、そして恩師からの呼び出しによるものだった。

 レース場の客席へ向かうと、杖を握った老人が席に腰掛けていた。

 スーツも帽子も、靴もコートも、手袋までも真っ黒な痩身の男性。窪んだ眼窩にはまった瞳は静かにコース上のウマ娘たちを見つめていた。

 

「お久しぶりです。元気そうで何よりです師匠」

「……俺の顔を見て元気そうなんて言うのは、お前くらいだよ」

 

 相も変わらず、そっけない声が返ってきた。

 師匠は立ち上がって体を私の方へ向ける。

 枯れ木の方に細い身体。幽鬼のような相貌は初対面の人は委縮するかもしれないが、私やライスには見慣れた顔だった。

 

「有記念、見事だった。ライスも休養前と同等なまで復調したようだな」

「ありがとうございます。ライスも喜びますよ」

「新しいメンバーも活躍しているようで何よりだ。……エルコンドルパサーといったか、あの子もクラシック路線か?」

「いいえ、彼女の大目標はジャパンカップからの海外遠征です。今は経験を積むためシニア級との混合レースへの出走を予定しています」

「海外か……マルカブにはノウハウがないな。シンボリかメジロのような名門か、リギルのようなトップチームと渡りをつける必要があるな。お前にできるか?」

「やりますよ。エルの夢のためには必要なことですから」

 

 そうか、と師匠は呟いた。

 僅かな沈黙。なんだが昨年の活動を評定されているようで緊張してしまう。

 師匠が現役で私がサブトレーナーだった時代もこうだった。師匠ははっきり口でダメ出しをしない分、こちらの行動や言葉、指導の一つ一つを見定め意図を聞いてきた。

 おかげで私も常に思考を固定せず、何度も思案する癖がついてしまった。

 

「……グラスワンダーの記事を見た」

 

 師匠から飛び出した言葉に、心臓が跳ねた。

 

「クラシックはいけるのか?」

「彼女は出走を望んでいます……が、ギリギリといったところですね」

「見極め時は?」

「三月の中旬には。実績も実力的にもステップが必要な子ではありません。快復さえすれば直行しても十分勝ち負けまでもっていけます」

「ふむ……」

 

 髭も生えなくなった顎を撫でながら師匠は思案する。

 現役時代ならこの後来るのは評定結果、つまりは私へのダメ出しか。

 緊張して直立していると、師匠は深く頷いた。

 

「お前、少しはマシになったな」

「……え?」

「グラスワンダーがケガをしたという記事を見た時、次に俺はお前の葬式が無いか探した」

「他の人にも似たようなこと言われましたけど、私ってそんな打たれ弱そうに見えます?」

「少なくともライスがケガをした後のお前を見たことある者は皆同じような印象だろうな」

「そんなにですか……」

 

 確かにあの時は精神的にも不安定だった自覚はあるが、まさかそこまで深刻に捉えられていたとは思わなかった。

 

「若い気に充てられて少しは前向きになったか?」

「どうでしょうか……。今でもあのレースが傷になっているのは確かです。でも、彼女たちのおかげで少しはマシになったというのも確かかもしれません」

 

 有記念で激走したライス、ケガにも挫けず奮闘するグラス、夢に向かうエル。私が彼女たちを指導する一方で、彼女たちの走る姿に私も成長しているのだろう。

 

「担当とともに成長か。まあそんなトレーナーがいてもいいだろう」

 

 そんな私を見て安心したのか、師匠の顔に穏やかな笑みを浮かべていた。

 

「……本題に入ろう。お前に紹介したいウマ娘がいる」

「紹介? マルカブに入れろってことですか?」

「まさか近況を聞くためだけに呼んだと思ったか? どうせ残りのメンバー集めも碌にできていないんだろう。メジロマックイーンに振られた時から、お前はスカウトが下手だったからな」

「うぐ……」

「たづなちゃんにあまり苦労を掛けるな。まあ引退した老いぼれの最後の置き土産だと思えばいい」

 

 そう言って師匠が指をコース上に向ける。

 ちょうど何人かがゲートに入り、レースを始めるところだった。

 

「見えるか? あの特に小柄でリボンを付けた髪色が明るい子だ……」

 

 師匠が示す子が分かった。

 集団の中でも特に小柄で――それでもライスと同じくらいの体格だが――桜のような髪色のウマ娘がちょうど走り出した。

 

「アグネスデジタル。ぜひ、お前のチームに入れてやって欲しい」

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 顔を見せたサイレンススズカに、マルカブの三人に緊張が走った。

 本来、所属が異なるチームの部屋を訪ねることは、親しいウマ娘同士でもまずない。チームが保持する戦略データや独自のトレーニング法など、外部に漏らせない情報があるからだ。今の時代、用があるならスマホなりで簡単に連絡が取れるのでわざわざ来る必要もない。

 しかもサイレンススズカはシニア級、ライスシャワーやシニア級との混合レースを狙うエルコンドルパサーとはライバルになる。

 明確に敵対した仲ではないとはいえ、サイレンススズカの来訪は予想外だった。

 硬直した空気を察したのか、サイレンススズカの方も入り口で固まっていた。 

 

「やっほーライス! ……あれ、お兄さんは?」

 

 部屋へ入りあぐねていたサイレンススズカの後ろから、トウカイテイオーが飛び込むように現れた。

 同じレースを走ったこともあるライスシャワーが応える。

 

「お兄さまは出張してるよ。地方のトレーナーさんとの交流で」

「あああれね。そういえばそんな時期だったね……ってもうスズカなにしてんのさ!」

「ちょ、ちょっと待ってテイオー! 心の準備が……!」

「本人いないんだから準備もなにもないじゃん!」

 

 トウカイテイオーに引っ張り込まれてサイレンススズカも部屋に入ってくる。

 そこでようやく、ライスシャワーたちは、彼女たちの手に包みや小箱があることに気づいた。

 

「えっと……もしやお二人もトレーナーさんに贈り物を?」

「うん! あ、もしかしてそのテーブルにできてる山って全部お兄さん宛? ひゃーモテモテだね! うちのトレーナーとは大違い。……あ、でもボクらのは義理だから安心してね!」

 

 何が安心なのか、そしてしれっと「ボクらのは」とか言って爆弾を錬成しないでほしいとグラスワンダーは思った。

 そのままトウカイテイオーは抱えていたものをテーブルに置いていく。

 

「ボクからは特製のハチミーチョコね。マックイーンからはチョコやクッキーによく合うっていう紅茶の葉、スぺちゃんからはクッキー缶。ゴルシからはカカオの実みたいな形をしたかつお節」

「ケ? 何故かつお節?」

「さあ? でも渡しといてって。……ほーらスズカも渡しちゃいなよ!」

「え、ええ……じゃああのこれを……」

 

 おずおずとサイレンススズカが差し出した箱に書かれたブランド名にマルカブ一同は目を丸くした。

 デパートなどでも店を出している有名ブランドのお菓子詰め合わせだった。既製品とはいえ、値段ならテーブル上の山の中でも群を抜いていた。

 

「私がリギルを離れようとしていた時、マルカブのトレーナーさんには色々と後押しをしてもらったからそのお礼に。

 ……最初は手作りの方がいいかなって思ったんだけど気を遣わせてしまうかなって。お店はマックイーンが選んでくれたの」

 

 なるほどと、ライスシャワーは頷いた。名家メジロ家のご令嬢であるメジロマックイーンのセレクトならこのグレードになるのは納得がいった。おそらく二人ともメジロマックイーンは特別高価と認識していないし、サイレンススズカもこれくらいのものを贈るものという認識なのだろう。

 

「ありがとうね。お兄さまにちゃんと渡しておくね」

「お兄さま……?」

「……あ」

「ああ、ライスは担当トレーナーをそう呼んでるんだよ。なんだっけ、ライスの好きな絵本の登場人物に似てるんだっけ?」

「う、うん。ライスをスカウトしてくれたし、強くしてくれた人だから」

「そう……素敵な関係なのね」

「そうだよーボクが一回おじさん呼びした時なんか、ライスもの凄い怒ったんだから」

「お、怒ってないよ……!」

「ウソだーもうマックイーンを負かした春天級の迫力だったんだから!」

「あーそれでテイオーもお兄さん呼びだったんデスか……」

「なんか流れでね。一々マルカブのトレーナーって呼ぶのも長いし」

「じゃあ私もそういうに呼んだほうがいいのかしら……?」

「べ、別に無理することないんだよ……!?」

「ふ、ふふ……」

 

 明るく壁を感じさせないトウカイテイオーの振る舞いに、いつの間にか空気も弛緩していた。

 もしかしたらこれを狙ってサイレンススズカについてきたのかもしれない。

 

「あ、ねえねえ。マルカブは次なんのレースに出るの? ライスは春天だろうけど、グラスたちは順当にクラシック路線?」

「ちょっとテイオーそんなこと聞いたら……」

「別に次走の話くらいクラスとかでするじゃん。作戦聞くわけじゃないんだから大丈夫! あ、ちなみにスぺちゃんは弥生賞だって!」

「ええ……本当に言っちゃっていいんデス?」

「いいのいいの。みんな注目株だし、そのうち取材とかされたら記事になるんだよ」

「まあ言われてみれば……エルの次走はNHKマイルカップですね。グラスは……」

「クラシック路線です。弥生賞に間に合うかは分かりませんが、皐月賞までには必ず」

 

 グラスワンダーの言葉にトウカイテイオーの視線が脚へ向かう。彼女もグラスワンダーのケガのことは知っているはずだ。

 この流れだと多くが暗い顔をしてきたが、トウカイテイオーはにやりと笑った。

 

「そっか……うんうんそうだよね、一生に一度のクラシック。大人にあれこれ言われたって納得できないよね」

「……! ええ、そのとおりです!」

「じゃあボクはグラスを……いや、スぺちゃんも応援してるから二人ともか。とにかく応援するよ!

 一回ケガすると結構不安だけどなんとかなるもんさ」

 

 それはケガに悩まされ続けた彼女だから言える言葉だった。

 グラスワンダーは掛けられた言葉に静かに礼をした。

 

「えっと、じゃあ私も。私の次走は三月のGⅡ金鯱賞、その後はGⅠ大阪杯に出る予定」

「大阪杯……!」

 

 ライスシャワーが思わず声を上げた。

 大阪杯は阪神レース場で開催される春中距離路線の大一番だ。冬に鍛えてきた成果を見せる場であり、芝の王道距離における最初のGⅠとなる。国際競争のため海外のウマ娘たちも出走し、そのレベルは高い。

 そして、ミホノブルボンが中距離GⅠの戴冠を狙うレースでもあった。

 ミホノブルボンとサイレンススズカ。天皇賞(秋)以来の逃げウマ娘同士の激突となる。

 実績ではミホノブルボンが上だが、現在サイレンススズカは三連勝中、内GⅢ以下の重賞を二つ勝っており今一番勢いのあるウマ娘と言っても過言ではない。

 

「それから出来たらになるんだけど、宝塚記念にも出る予定」

 

 続けて出たサイレンススズカの言葉にマルカブの三人が顔を見合わせる。

 その様子を見てトウカイテイオーは全てを察したようだ。

 

「へえ……そっか、ライスも宝塚記念に出るんだ。リベンジってこと?」

「うん。ライスはもう大丈夫だって、お兄さまに見せるの」

「はははっ、それは負けられないね」

 

 ライスシャワーとサイレンススズカの視線がぶつかる。

 クラシックに挑むグラスワンダー、シニアたちとの激突を望むエルコンドルパサー。二人の様に、ライスシャワーにも激闘が迫っていた。

 ミホノブルボンとの天皇賞(春)。サイレンススズカとの宝塚記念。

 戦いの足音が、潮騒のように迫ってくる。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 遠目だがアグネスデジタルを一目見た感想は、細い子だなというものだった。

 周りの同級生か後輩と比べても一回り小さく見える体躯。走れるかというよりケガをしないかという心配が先に来た。

 が、実際彼女の走りは大したものだった。

 中団から後方にかけて位置を取り、終盤に一気に前方にいたウマ娘たちを差していく。

 最後の最後に集中力が途切れたのか、キョロキョロと周りを見ている隙に逃げ切られて二着。

 勝ちこそしなかったものの、十分光るものがあると判断できる走りだった。

 

「どう思った?」

「大したものですね。終盤に集中を切らさなければ差し切っていたでしょう」

「まあそこはあの子の性分みたいなものだ。おいおい矯正していくしかない」

「……まだ彼女をスカウトするとは言っていませんよ?」

「言いたくなるさ。あの子の次の走りを見ればな」

「次……?」

 

 師匠の言葉にコースへ視線を戻すと、アグネスデジタルはもう一度走るようだった。

 問題は、先のレースが芝だったのに対して今度はダートコースへ向かっていることだった。

 芝を走ったウマ娘たちに手を振り、ダートコースにいたウマ娘たちと合流。そのまま出走準備に入っていく。

 

「ダートも走れるんですか……!?」

「芝と同レベルでな。中央にもなかなかいないだろう」

 

 芝を主戦場とするウマ娘もトレーニングでダートコースを走ることはあるが、レースでもダートを走れるウマ娘は少ない。

 それこそダートが主流の海外からのウマ娘くらいだろう。

 レースが始まる。芝の時と同様に中団に控え、終盤でスパートをかける差しの戦法。

 しかし全員差し切るには至らず、今度は三着だった。

 ゴールしたウマ娘たちが互いに健闘をたたえ合う中、彼女は二連戦した故の疲労からか輪の外からそれを見つめていた。

 息が荒い気がする。スタミナが足りないのだろうか。

 

「見ての通り、あの子は芝もダートも走れる稀有な適性だ。だからこそ悩みもある」

「悩みですか?」

「主戦場をどちらにするかという悩みさ。あの子はどちらも走りたいんだそうだ」

 

 師匠の言葉に合点がいった。

 中央では芝のレースが主流であり、地方ならダートだ。

 中央にもダートのレースはあるが数は少ない。だからといって地方に行けば芝がさらに少ない。

 レースの数を考えれば中央に行けばよいが、二刀流に挑むとなれば茨の道だろう。

 

「あの子はレースが好きとか勝ちたいGⅠがあるわけじゃない。走るウマ娘を間近で見たいんだそうだ」

「それはまた、一風変わった夢ですね……」

「そのためにあの子は中央に行こうとしている。より多くのウマ娘の走りを見るためにな。……だが一方で、二刀流なんて中途半端な真似は他のウマ娘に失礼なんじゃないかとも思っている」

 

 中央と地方を一軍、二軍とするように、芝とダートを一軍、二軍とする風潮がある。

 中央で走る意志があり、芝への適性があるなら芝のレースに注力すべきというのが多くのトレーナーの意見だろう。活躍の見込みがあるならなおのこと、ダートまで走る意味がない。

 

「必要なんだ。周りの声を気にせず彼女が走れるよう道を定めてやるトレーナーが……」

 

 師匠の視線がコースから私へと向く。光の宿った瞳が私を射抜いた。

 

「それをお前に任せたい」

「なぜ私に……?」

「マルカブの由来は前に教えたな。ライスにグラスワンダーにエルコンドルパサー、今のマルカブにいるウマ娘の夢をお前は変わらず支えようとしている。それが理由だ」

 

 マルカブの由来。夢が集う場、夢を叶える翼を与えられる場とすること。

 アグネスデジタルの夢というのをまだ理解しきれていない。だが彼女がそのために中央を目指し、まだ悩むことがあるのなら、ともに悩み支えるのも良いかもしれない。

 あの師匠からの頼みというのもあるだろう。私の中ですんなりと決意ができた。

 

「分かりました。アグネスデジタルの夢、支えさせていただきます」

「そうか……では行くとするか」

「行くとは、どこへ?」

「決まっている。スカウトさ」

 

 

 ◆

 

 

 

 師匠に連れられてコースへの降りていく。

 ウマ娘たちのレースも終わったようで、手分けして片づけをしてた。

 

「おおいデジタル」

 

 師匠が手をあげて声をかける。

 明るい髪のウマ娘が振り返った。

 

「あ、黒ちゃん! 今日も来てくれたんですね!」

「……黒ちゃん?」

「気にするな。……デジタル、こいつが前に言っていた中央のトレーナーだ」

「はえ? ……ってああ! ライスシャワーさんのトレーナーさんじゃないですか! ということはこの人がチーム・マルカブのトレーナーですか!」

「よく知っているね」

 

 レースで活躍するウマ娘の名前と顔は多くの人が知っていても、トレーナーまで把握している人は多くない。それほどネットで情報を集めるようなコアなファンくらいだろう。

 熱心なんだね、続けようとしたらアグネスデジタルの瞳がかあっと見開いた。

 

「当然ですよ! ライスシャワーさん完全復活の有記念にグラスワンダーさんの朝日杯FSのレコード勝利、エルコンドルパサーさんのホープフルSの完勝! そしてそれを支えたチーム・マルカブのトレーナーさんの尽力あってこそ! ウマ娘ちゃんたちの奮闘を支えるトレーナーさんを知らずにウマ娘ちゃんたちのレースを語るなんて……ってああすいません一方的にしゃべっちゃって!」

「ああ、いや……大丈夫だよ?」

 

 勢いに押されてしまった。

 随分と濃いキャラクターをしているようだ。

 

「というか黒ちゃん、中央のトレーナーと知り合いって本当だったんですね!?」

「何度も言っただろう……」

 

 どうやら師匠は自分が中央のトレーナーであったことを言っていない様だった。

 もともと積極的にメディアに露出する人ではなかったし、アグネスデジタルから変にかしこまって欲しくなかったのかもしれない。

 

「アグネスデジタル。君は四月から中央のトレセン学園に入学すると聞いている。君が良ければマルカブに誘いたいのだけど、どうだろうか」

「え……ええ!? 入学前のスカウトとか、あたしなんかでいいんですか!? ……ってあれ? でもスカウトは選抜レースに出る必要があるのでは?」

「まあそうなんだけど、仮契約みたいなものかな。教官に力を認めてもらえたら正式にマルカブに入ることになるね」

「な、なるほど……。あ、ああでもダメです! あたしにそんな資格無いです!」

「……どうして?」

「あ、あたしは芝もダートも走りたいんです。マルカブさんのメンバーは皆さん芝の方々じゃないですか。あたしみたいな両方取りするような中途半端なウマ娘が入るなんて――」

「大丈夫だよ」

 

 アグネスデジタルの言葉を遮る。

 目線を合わせて言う。

 

「芝とダート両方を走ろうなんて凄いことだ。誰も中途半端なんて言わないさ。よければ君の夢を手伝わせてほしい」

 

 ポカンとした顔をするアグネスデジタル。

 ……もしかして滑ったかと思ったが、やがて彼女の方からおずおずと手を差し出してきた。

 

「で、では期待に応えられるよう頑張りますので……よろしくお願いします!」

「ああ。よろしく」

 

 出された手を掴む。

 ダートと芝の二刀流を目指す、ウマ娘好きの少女、アグネスデジタル。彼女がマルカブの四人目のメンバーとして入ることとなった。

 

 

 

 





 サブタイにバレンタインてありながら担当からもらうシーンがないとかどういうこと?

 念のため言っておくと、師匠にモデルとか元ネタはいません。
 いや、お兄さまのモデル考えたらこれあの人だろってなるかもしれませんが、特に逸話とか引用しているわけではないのでモデル無しとさせてください。

 読み直していたら、第一章でデジタルがすでに学園にいるかのような描写があったので修正しました。特に本筋に影響はないので読み返す必要はないです。失礼しました。

 チームの5人目ですが2人まで候補を絞ってます。R4.7.17時点で片方は育成実装済み、もう片方は未実装です(ウマ娘化はしてます)。
 第四章で登場予定ですが、そこを書き出すまでに実装されてくれれば(そして引ければ)ストーリー確認してどっちか決めます。実装されなければ実装済みの子に確定です。

 以上、長めのあとがき失礼しました。


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20話 王者と挑戦者


 これにて第三章完結です。



 

「というわけで、四月からマルカブに仮入部するアグネスデジタルだ。仲良くしてやって欲しい」

「ア、アアアアグネスデジタルといいます! 先輩たちの足を引っ張らないよう頑張ります! 不束者ですが、よろしくお願いします!」

「よろしくね、デジタルさん」

「こちらこそよろしくお願いします」

「よろしくデース!」

 

 トレーナー交流の出張から戻ってさっそく、デジタルをマルカブのメンバーに紹介することにした。

 ライスたちは頭を深く下げるデジタルを三者三様に歓迎の言葉と拍手で迎え入れた。

 これでようやくチームメンバーが四人。規定人数まであと一人だ。思えばライスたちには色々心配をかけてしまった。少しは彼女たちの心労に報いることができただろうか。

 

「う、ううう……」

「ラ、ライス!?」

「ライス先輩どうしたデスか!?」

 

 拍手の最中に突然ライスの肩が震えだし、泣き出した。

 突然のことに全員がぎょっとする。

 

「あばばばば……やっぱり私なんかが選抜を受けずにチーム入りなんて……」

「ち、違うの。デジタルさんが入ってくれたことが嬉しくて……」

 

 濡れた目元を拭いながら、ライスは言う。

 

「こんな……なにも拗れることなくメンバーが増えてくれたことが嬉しくて……」

「「「…………………………」」」

「……………………………おおう」

 

 思わず絶句してしまった。思い返せばグラスとエル、サイレンススズカの一件とスカウトの度にちょっとした諍いがあった。

 それが考えていた以上にライスへ精神的負担をかけてしまっていたようだ。

 自然と、グラスとエルが私に向ける視線が冷たい。

 

「ご、ごめんよライス。まさかそんなに心配させていたなんて……」

「うう……だってお兄さま、他のウマ娘さんにアドバイスとかするのにスカウトは全くしないから。メンバー不足の話をしてもなんとかなるさとしか言わないし、ライス、チームが無くなっちゃうんじゃないかって心配で……」

「トレーナーさん……」

 

 向けられる冷たい視線が一つ増えた。

 合わせて部屋の気温もどんどん下がっている気がする。そのくせ私の背には嫌な汗が浮いてきた。

 

「いや、その……ああそうだね。メンバー不足の件は軽く考えていた。ライスはGⅠウマ娘だし、復帰してすぐ重賞も勝てた。グラスもエルもジュニア級でGⅠを勝った。慣例的に猶予はまだあると思っていた」

 

 必死に言葉を紡いでいく。視線から逃れたいのではなく、ライスの心配を少しでもなくしたかった。

 

「ライスとも……みんなともしっかり話を共有しておくべきだった。ゴメン」

「お兄さまはチーム・マルカブのこと大事?」

「当然だ。師匠から引き継いだチームだし、ライスとの思い出もたくさんある大事なチームだ」

「じゃあ……ちゃんとメンバー揃えてくれる? ちゃんとスカウトのこと考えてくれる?」

「ああもちろん。約束する」

「一人だけじゃないよ? 五人そろえたら終わりじゃないんだよ?」

「……うん、努力する」

「そう、良かった♪」

「……え?」

 

 ライスの頬を伝っていた涙が一瞬で引っ込んだ。悲しそうな表情は一転して明るい花のような笑顔に変わる。

 もしや、乗せられた? 女はみな女優というが、見事にライスの掌で転がされたのだと気づいた。

 

「えっと……デジタル、これがチーム・マルカブですがどうデスか?」

「ええ、とりあえずチームのヒエラルキーについてははっきり分かりました……」

「ふふふ……。じゃあお兄さまから言質は取れたので――」

 

 しれっとライスが恐ろしいことを言って私を見る。

 ボスに続くように、グラスとエル、そしてデジタルも私を見た。

 

「お兄さま、四月にデジタルさんが入るとしてそれまでは? 入学するまではトレーニングもなし?」

「そうだな……毎日じゃないとしても、デジタルの都合のつく日は一緒にトレーニングしてもいいかもね」

 

 デジタルの入学はまだ先なので正式にトレセン学園の生徒ではないが、合格はすでに貰っている。

 仮契約の話もたづなさんを通して学園に伝えているため、デジタルが学園にいることに問題はない。身分証も貰っている。

 

「ふむふむ、となるとあとは教官から認めてもらって選抜で実力を示せばデビューデスね! 日本ダービーが終わった六月くらいにはデビュー戦デスか?」

「いや、デジタルは調整に時間をかけようと思っている。デビューは秋の終わりか、年明けくらいかな」

「あら、随分と遅いんですね」

「ああ。彼女の目指す夢のためにね……」

 

 言っていいものか、デジタルを見ると彼女は頷いて口を開く。

 

「えっと……私、芝もダートも走りたいんです。時間がかかっても、デビューが遅れても。どっちも走れるようになりたいんです」

「まあ……」

 

 思わずグラスが声を上げた。エルも隣で目を丸くしている。

 ダートが主流なアメリカ出身であり、芝を主戦場とする彼女たちでもデジタルの目標は驚くべきものなのだ。

 

「みんな知っているだろうけど、芝とダートでは走り方が違う。足さばきから息の入れ方、体重の掛け方までね」

 

 地方レース場で見た時、デジタルの走り方はダート向きだった。

 しかし小柄な体格ゆえ砂を蹴るパワーが足りず、レースでは勝てなった。同じような走り方をした芝ではそこまでパワーはいらないが、走り方が合わないため無駄な動きがあった。

 たかが足元の違いだが、その僅かな差異が勝敗を決めるのがレースだ。

 だからこそ、皆自分の適性に合うどちらかを選び主戦場とする。

 デジタルが自分の夢を貫くためには自分に合った芝とダートの二通りの走り方を身に着け、それをスイッチできるようにする必要がある。

 手間は二倍、いやスイッチできるよう身体を慣らす時間を考えれば三倍でも足りないかもしれない。

 

「おお、すなわち二刀流! デジタルはオールラウンダーを目指すということデスね!」

「オールラウンダー……はい、そうですね! なりたいですオールラウンダー!」

 

 面白いと飛び跳ねるエルと、ちょっと緊張しながらも意気込むデジタル。それを見るライスとグラスの瞳にも興奮の色があった。

 ヒーロー、三冠、世界制覇、そのどれとも違うオールラウンダーという夢を前に、ライスたちも刺激を受けたようだ。

 新しいメンバーは早速チームに馴染んだようで、新しい年とともにマルカブもまた新しくなっていくのだ。

 

「あと……あれはどうすればいいんだろう」

 

 私が視線を向けた先。テーブルの上には出張の間に渡されたというバレンタインプレゼントの山があった。

 大半はクッキーなので日持ちはする。が、量が多い。

 

「みんなでシェアするというのは……」

『ダメです』

「……はい」

 

 しばらくの間、仕事のお供はクッキーになることは決まった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「春天とかいいと思うんです!」

「…………………………………なんて?」

 

 三月も目前。即ち、トゥインクルシリーズの春シーズン開始が迫るトレーニング中、サクラバクシンオーの突然の発言に彼女のトレーナーは呆けた声を出した。

 今注目されるのはスーパーGⅡと称されることもある金鯱賞と、大阪杯のステップとされる中山記念。四月後半にある天皇賞(春)の前哨戦とされる阪神大賞典。そしてGⅠ高松宮記念と大阪杯だ。

 月間トゥインクルをはじめとする各メディアでもその話題で持ちきりだ。

 サクラバクシンオーの現在の目標は大阪杯。昨年の天皇賞(秋)で果たせなかった中距離GⅠへのリベンジだ。

 メニューも当然中距離2,000mを想定したものだったのだが、

 

「そろそろ長距離もいけるかなと思うんです!」

 

 これである。

 

「聞けばブルボンさんとライスさんが春天で再び激突するとのこと。ここは私も参戦し、今こそRRIの絆を世間に見せるときかと!」

「………………はあ」

 

 気の抜けた返事をしてしまうサクラバクシンオーのトレーナー。

 つまりは、同期が奮起する姿に当てられたということかと理解する。

 ちなみにRRIとはミホノブルボンをロボ()、ライスシャワーをバラ()、サクラバクシンオーを委員長()とした彼女が勝手に読んでいる総称である。BNWとかTTGみたいなものだ。当然彼女以外に使う者はいない。というかバラだけなぜローズに変換しているかは誰も知らない。呼んでいる本人も深く考えていない、多分。

 

「ええっとバクシンオー? これまで大阪杯に向けて調整していたわけだけど、目標を春天に切り替えるということか?」

「いえ、色々考えたのですが両方出ようかなと! 私も結構スタミナがついてきましたし、3,200mもいけると思うんですよね!」

 

 いけないと思うんですよね。

 声には決して出さず、彼女のトレーナーは内心呟いた。

 サクラバクシンオーのスタミナはデビュー時や短シニアで距離路線を走っていたころに比べれば格段に上がった。それでもまだ限界距離は2,000mだろう。3,200mなんて走ろうものなら終盤逆噴射どころか途中急停止からの爆発炎上必死である。

 指導者としての立場から許可できない。が、決して無理とか、無謀とか、不可能なんて言ってはいけない。それは熱した油に水をバケツで注ぐようなものだ。

 皆の模範である委員長足らんとする彼女にとって、やってもいないのに諦めるなんてことは選択肢にない。

 だから、上手く舵取りをする必要がある。

 

「まあ、いずれは挑戦するレースだから試しに出てみるのもいいだろう。……しかし、条件がある」

「ちょわ!? 条件とはいったい……!」

「高松宮記念も出よう。そして大阪杯も勝てたら、晴れて春天にも出るとしよう」

「高松宮記念ですか?」

 

 ふむ、と顎に手を当てサクラバクシンオーが考え込む。

 

「高松宮記念はすでに勝ったGⅠではないですか。なぜ今になって?」

「以前とは違うさ。あれから短距離路線も強いウマ娘が増えた。有名なところを上げればタイキシャトルかな」

「おおタイキシャトルさん! 昨年の最優秀短距離ウマ娘ですね! 確かにスプリンターSでもマイルCSでも素晴らしいバクシンでした!」

「彼女と走るのはきっとプラスになる。それにだ、高松宮記念と大阪杯の距離を考えてみろ」 

「距離ですか……はっ! 高松宮記念は1,200m、大阪杯は2,000m! 合わせて春天(3,200m)となるわけですね!」

「そのとおりだ!」

 

 そんなわけない。が、彼女を制御するにはこの方向しかない。

 

「成程! 一度合わせて3,200mが走れたなら春天だって走れるということですね!」

「それだけじゃないぞ。春天に勝っても勝ち星は一つだが、高松宮記念と大阪杯を勝てば春天二回分で勝ち星三つだ。三倍だぞ三倍」

「なんと……なんと冷静で的確な判断なのでしょう! さすがは委員長のトレーナーさん! 私も鼻が高いですね! はーはっはっはっは!!」

「褒めるな褒めるなはーはっはっはっは……はあ

 

 こうして、サクラバクシンオーの高松宮記念出走が決まった。

 それを知ったメディアやファンは新旧短距離王者の激突に沸き立ち、一方で東条ハナは頭を抱えることになったのだった。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 レース当日、サクラバクシンオーは万全の調子で本番を迎えていた。

 勝負服に身を包み、ウォーミングアップも完了。いつでも走り出せる状態だった。

 天候も晴れ、良バ場の発表であり実力を十二分に発揮できる。

 

「……バクシンオー」

「はい! なんでしょうかトレーナーさん!」

「分かっているだろうが、今日一番の強敵はタイキシャトルだ。ファンもメディアも、多くが一年短距離路線を離れていた君よりも昨年の短距離王者が勝つと思っている」

 

 仕方のないことだとは思う。

 距離が違えば走り方やペース配分が変わってくる。ついこの間まで中距離レースを目標にトレーニングしてきたサクラバクシンオーよりも、スプリント・マイル戦線を走ってきたタイキシャトルに分があると思うのは当然だった。

 

「でも俺はそうは思わない。君の走りは、スピードは、少し離れたくらいで錆び付くはずがない!」

「トレーナーさん……?」

「正直、何度も思った。昨年君を中距離ではなく短距離に注力させれば、ヴィクトリアマイルもスプリンターズSも、マイルCSだって勝ったのはバクシンオーだと。

 URA賞の短距離部門は君で、初のスプリンターからの最優秀ウマ娘だって夢じゃなかったと思っている」

 

 しかしそうはならなかった。しなかった。

 トレーナーは栄光よりも、サクラバクシンオーの夢を選んだのだ。

 生まれ持っての適性も、才能も、進む道を狭めるものではないのだと証明する。誰もが、自分もサクラバクシンオーのようにと呟く、模範にならんとする夢を支えることを選んだのだ。

 

「後悔はない。だけど見せつけてやって欲しい。誰が本来の六ハロンの王者か。その玉座はただ、空のまま預けているだけに過ぎないのだと」

「は……はっはっはっはっは! トレーナーさん、何を当たり前のことを言うのです! 私の名前をお忘れですか?」

 

 快活な声とともに髪が揺れる。真っ直ぐに、花弁のような虹彩がトレーナーを射抜く。

 

「私は驀進王ですから。いつも通り、誰よりも早く駆けてきますよ!」

 

 天下無敵を証明しよう。そう言って桜の彼女はターフへと向かっていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

『さあ春の短距離王者を決める高松宮記念も最後の直線に入った!

 先頭は変わらずサクラバクシンオー! 久しぶりの短距離GⅠもブランクなど感じさせない驀進ぶりだ! しかしタイキシャトルも上がってきた! タイキシャトル食らいつく! 新旧王者の激突! 勝つのはどちらか! タイキシャトル! タイキシャトルが並ぶ、いやサクラバクシンオーも譲らない!

 残り200m! 先頭は以前――いやタイキシャトルがハナを取ったか! いやしかし、サクラバクシンオーが即座に抜き返す! 一進一退、両者譲らぬデッドヒートだ!

 残り100mを切った! ここで、ここでサクラバクシンオーがさらに加速! 前に出た! アタマ一つ! タイキシャトル追いつけるか!?

 今、サクラバクシンオーが一着でゴール!! 春の短距離王者はサクラバクシンオー!! 世代交代はまだ早いと言わんばかり! 昨年の最優秀短距離ウマ娘を抑え、一年ぶりの短距離GⅠ制覇だ!』

 

「はーはっはっはっはっは! 皆さん! 応援ありがとうございました!!

 このサクラバクシンオー、このまま春シニア三冠も見事制して見せましょう!」

 

 割れんばかりの拍手と喝采を浴びるサクラバクシンオー。

 豪快に笑う彼女の後ろで、尾花栗毛のウマ娘が王者の背中を鋭く見つめていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ドタン、バタン、そして癇癪を起こした幼児のような金切声。

 更衣室から聞こえてきた異音と、諫める東条の声とエアグルーヴの怒声にヒシアマゾンは思わず飛び上がった。

 

「な、なんだあ……? タイキのやつ珍しく荒れてるな……」

「有記念と違って今回は適性距離、バ場も良好なレースでの完敗だ。さすがのタイキも思うところがあるのだろう」

 

 備品を壊さないか心配するヒシアマゾンと違い、特に気にすることなく壁にもたれかかったナリタブライアンが言った。

 リギルのチームリーダーの言葉に、フジキセキがはてと首を傾げた。

 

「完敗? 確かに負けたけど着差もアタマ差だったし、そこまでかな……?」

「ああ、何度やっても覆ることのないアタマ差だ。タイキもそれが直感で分かっているんだろう」

 

 つまりは、外から見れば接戦だが、当人たちからすれば絶対的な差があったということか。

 レース勘が飛び抜けて鋭いナリタブライアンの言葉に、フジキセキはとりあえず納得した。そしてタイキシャトルの荒れようにも。

 

「タイキはデビューしてからほぼ負けなしだ。無理に出た有記念を除けば最低でもジュニア級時代に二着が一度だけ。無敵のスプリンターが初めて手も足も出ず敗北したということだ」

 

 更衣室の様子をうかがうリギルのメンバーたちに言い聞かせるように、ナリタブライアンが続ける。

 

「とはいえタイキに油断やミスがあったわけではない。恐るべきはバクシンオーの底なしのパワーだな。……全く、中距離に足を延ばさなければ今でもスプリント路線は奴の天下だっただろう。その点を言えば、今日のタイキは幸運だ」

「おいおいブライアン。いくらなんでも負けて幸運はないんじゃない?」

 

 フジキセキの言葉に、三冠ウマ娘が首を振る。

 

「幸運さ。タイキはようやく乗り越えるべき壁、宿敵を見つけたわけだ。走るのが楽しいなんて言っていた能天気ウマ娘が、弱い自分に本気で怒りを覚えている」

 

 かつての自分を思い出したのか、ナリタブライアンが自嘲気味に笑う。

 

「これでタイキはもう一段強くなれる。……できることなら、バクシンオーには安田記念かスプリンターズSにも出てきて欲しいものだ」

「流石に安田記念は無茶ね。あの子、このまま大阪杯と天皇賞(春)を狙うそうだから」

 

 疲れた顔で東条が現れた。きっちり決めた髪が乱れ、スーツにも皺やシミが見えることから更衣室の荒れ具合が想像できた。

 トレーナーの姿を見てリギルのウマ娘たちが姿勢を正す中、ただ一人ナリタブライアンだけがそのまま告げる。

 

「タイキは? 暴れて少しは頭が冷えたか?」

「なんとかね。エアグルーヴが宥めてくれているけどしばらくはナイーヴでしょうね。

 ……ほんと、サクラバクシンオーにはしてやられたわ」

「一度負けた程度でそれじゃどうせ長くはもたん。安田記念までに立て直さんとな」

「他人事みたいに……。ブライアンも手伝いなさい、リーダーなんだから」

「……ま、いじけた奴のケツを蹴り上げるくらいならしてやるさ」

 

 レースの世界で生きる以上、生涯無敗などあり得ない。

 皇帝、怪物、名優、帝王。歴史にその名と蹄跡を刻みつけたウマ娘たちもその戦歴を紐解けば必ずどこかで黒星をつけていた。

 仮に無敗で現役を終えた者がいたならば、きっと十度も走らず、自分の意志とは別の理由でターフを去ったのだろう。

 けれど敗北は終わりではない。自分を見つめ直し、さらなる高みへ昇る助走でもある。

 負けを知って強くなれ。

 涙ぐむ少女を想い、チーム・リギルはさらなる飛躍を胸に誓った。

 

 

 ◆

 

 

 

 トゥインクルシリーズ芝の春GⅠ戦線は、新旧短距離王者の激突によって幕を開けた。

 結果はかつての短距離王サクラバクシンオーが勝利し、現王者たるタイキシャトルを真っ向から打ち破ることとなった。

 この結果をうけて、とある雑誌がこう告げた。

 今年のシニア級は二つの世代の激突である、と。

 その言葉を後押しするように、大阪杯の出走メンバーを見た世間が沸き立った。

 

 復活の二冠ウマ娘、掲げた夢まで残る冠はあと二つ。

 坂路の申し子 ミホノブルボン。

 覚醒した無冠の怪物、金鯱賞を圧勝し現在四連勝中。

 異次元の逃亡者 サイレンススズカ。

 

 同じ脚質、異なる世代の両雄が激突する。

 

 速いのはどちらか。勝つのはどちらか。

 

 嫉妬すら追いつかない圧倒的な才能か。

 憧れすら届かない常識外れの鍛錬か。

 

 春の中距離最速決定戦 大阪杯が始まる。

 

 

 第三章 チーム継承編 完

 第四章 チーム激闘編へ続く

 

 

 

 

 

 

 

 





 というわけで第三章はみんな大好きバクシンオーと次走の布石を打ってフィニッシュです。
 また一旦書き溜め期間に入ります。

 第四章はさらに長い予定なので、ある程度溜まった段階で投稿していきますね。

 第三章も終わったので、時間を見つけて感想返しもさせていただきます。


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【番外】ホワイトデーと置き土産

 アプリでメインストーリー1章が完結したので初投稿です。

 お久しぶりです。
 今回は本編の毎日投稿ではなく、番外編の単発投稿です。明日の更新はありません。
 本編はもうしばらくお待ちください。

 なお番外は、話の流れ的に入れられなくて、かつ一話分とするには文量が少ないものをまとめたものになります。
 あと、あらすじちょっと直しました。



 

【番外1】小箱に秘めた想い(ホワイトデーネタ)

 

 

 ウマ娘のトレーナー資格は手に入れるのが最難関な資格の一つとしてよく挙げられる。

 都内の国立大学に入ることよりも難しいなどと言われるが、世界的なエンターテインメントであること、未成年の少女たちの決して長くない全盛期において今後の人生を左右しかねないことを考えれば当然だろうという声もある。

 トレーナー自身の学力、指導力の他、分類上は教職ということもあり若者の模範足りうる精神性も求められる。

 まさにウマ娘のトレーナー業というのはトップエリートの集団と言っても差し支えないだろう。

 しかし一度資格を得て、トレセン学園へ入ることが出来れば目標達成。後の人生順風満帆とはいかない。

 難関資格だのエリートの証明だの言っても所詮は準備段階。トレセン学園へトレーナーとして入り、担当するウマ娘を得て初めてスタートと言える。

 何が言いたいかというと、トレーナーになってからも自己研鑽を求められるということだ。

 日々進化し、新たに提唱されるレース理論やトレーニング理論。変わりゆくトレンド。そういった変化を敏感に捉え吸収していくことが求められる。

 私たちトレーナーが才能あるウマ娘をスカウトしたいように、ウマ娘たちも指導力の高いトレーナーと担当契約したい。中には実績がなくとも運命的な出会いをする組もあるが、結果を出せないコンビはやがて解消される。

 最難関故に常にトレーナー不足と言われる以上、質を上げることは必要不可欠ということは学園側も自覚しており、頻繁に講師を招いての勉強会や研修、ベテランとの交流会を開いている。

 今日も学園主催の勉強会に参加すべく、私を含めて多くのトレーナーが講堂に集まっていた。

 時間となり講師が登壇する。

 

「それでは、『ホワイトデーで失敗しないお返しの選び方』について講義を始めます」

 

 これも勉強、研鑽である。……いや本当だって。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 バレンタインデーの由来は海外の聖人だか司祭だかを敬う日だそうだが、ホワイトデーというお返しの日は日本発祥だという。一応はバレンタインデーの由来となった人物に救われた若者たちがバレンタインデーの一か月後に結婚したからだそうだが、そこからイベントとして発展させたのはお菓子メーカーの陰謀もとい涙ぐましい企業努力の結果だろう。

 回数を重ねてイベントとして認知され、需要が見込まれるようになると自然とお返しの品に意味がついてくる。果たしてそれが売り上げを見込んだ意図的なものか、それとも実話に基づくものかは分からない。イベントに参加する者としてはそのあたりの真偽はどちらでもよいのだろう。ただ何かに結び付けて贈り物に意味を含ませることが出来ればいいのだから。

 

「……だからと言ってマシュマロに『あなたが嫌い』はやりすぎでしょう」

 

 マシュマロメーカーから苦情は出ないのだろうか。いやマシュマロメーカーなんてあるのか知らないが。

 バレンタインデーの贈り物が基本チョコかクッキーの二択なのに対して、ホワイトデーでのお返しの選択は菓子だけでなく花なども含まれるため多い。

 しかもそれぞれに色んな解釈を踏まえて意味が含まれるため、考えなしに渡せば今後のウマ娘との関係に影響しかねない。

 そういう意味で、今日の講義は有意義であった。

 さきほど言った通りマシュマロは絶対NG、キャンディーは『あなたが好きです』なので安易に贈るべきではない。安牌に思えるチョコも実は『あなたの気持ちは受け取れない』となるので推奨されない。

 選択肢は広いようで、なんの意味も含まないもの、否定的な意味を持つものを排除していくとなかなか狭い。

 やがて一つの候補にたどり着き、スマホで商品があるか確認する。

 

「うん……やっぱり贈るならこれかな」

 

 考えた末、十二月から常連になりつつあるスイーツ店へと足を向けた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ライス、先月はチョコありがとう。これ、バレンタインのお返しだよ」

「ありがとう、お兄さま!」

 

 当日、チームルームにて横長の小箱をライスに渡した。

 グラスとエルの分も準備していたが、二人は今はいない。なんでもスペシャルウィークが追試になったらしく、同期とスピカ総出で勉強会なんだとか。

 真っ青な顔で机に向かうスペシャルウィークが想像できた。クラシック期待の星も、トレセン学園が文武両道を掲げる以上はレース成績だけでやってはいけないのだ。

 

「わあ、マカロンだ!」

 

 早速開封したライスから感動の声が上がる。

 滑らかなクリームをサクサクの生地で挟んだ洋菓子マカロン。フランス生まれの焼き菓子が一つずつ、仕切りで分けられた箱に並んでいた。

 桜、カシス、シトラス、カラフルな色合いにライスの瞳が輝いていた。

 

「ホワイトデーにマカロン、その意味は……『あなたは特別な人』」

「やっぱり知っていたか……」

 

 いざ口に出されると恥ずかしくなってくる。

 しかし嘘のつもりもなかった。

 ライスは私にとって初めてスカウトから指導までしたウマ娘だし、グラスとエルは新生マルカブとして始動するきっかけだ。間違いなく、特別な子たちだ。

 ちなみに私が出張中にライスたちに渡してくれた子たちにはラスクを寮長たちを通して渡してもらうことにした。

 ラスクには本当に意味が含まれておらず、純粋なお返しにちょうどよかった。

 

「そういえば……」

 

 ふと思いついた。

 

「クリスマスにグラスとエルがプレゼントしてくれたものにも意味とかあるのかな……」

「え」

 

 カフスボタンにネクタイ。普段スーツでいる私に、普段使いできるものを贈ってくれたのだと思っていたが実際どうなのだろうか。

 気になったので調べようとスマホで検索する。

 『プレゼント ネクタイ 意味』と入力したあたりでスマホが宙に浮いた。

 正確には、ライスによって取り上げられていた。

 

「ライス……?」 

「えっと……」

 

 見えている方の目が泳いでいる。

 

「……お兄さまにはまだ早いと思うの」

「ええ……」

 

 それだとライスもグラスもエルも早いと思うが。というかその言い方だとライスは知っているのか。

 

「えっと……ほら、グラスさんとエルさんが意味を知っていたとは限らないし。二人とも伝えたい想いがあるならプレゼントと一緒に直接言ってくれるんじゃないかな?」

「ふむ……」

 

 一理ある……かも?

 確かに中等部の二人が贈り物に付属する意味まで知っていたかは定かではない。

 もしも知らなかった場合、彼女たちの意思を無視して私の方で勝手な解釈をするのは良くないか。

 

「ライスの言うとおりかもね。二人のいないところで詮索するのも悪いしね」

「う、うん! そうだと思うよ……良かった

「ライス?」

「な、なんでもないよ! ねえお兄さま、このマカロン一緒に食べない? マックイーンさんがくれた紅茶もあるし」

「いいのかい? じゃあ、せっかくだしご相伴にあずかろうかな」

「分かった!」 

 

 ライスが部屋に備え付きのキッチンへ向かう。

 少しして、香り立つ紅茶をお供に、久しぶりのライスとの時間を過ごしたのだった。

 

 

 

 

【番外2】渡り鳥の置き土産(副題:エアグルーヴの受難)

 

 

 トレセン学園において、最も偉大なウマ娘は誰かと問われれば、シンボリルドルフと答える者が多いだろう。

 学園の生徒会会長にして、史上初の無敗でクラシック三冠、未だ並ぶ者のいないGⅠ七勝を成した絶対の皇帝。世界でその脚を披露する機会にこそ恵まれなかったが、間違いなく日本のウマ娘レースの歴史において頂点に君臨すると言っても過言ではない。

 今はトゥインクルシリーズを去り、ドリームトロフィーリーグからも離れて専ら運営側についているが、未だ専属のトレーナーとの担当契約は続いておりいつかレースに舞い戻るのではと期待されている。

 しかし、学園で最も勤勉な者は誰かと問われれば、また別のウマ娘の名前が挙がるだろう。

 その名はエアグルーヴ、女帝の二つ名で呼ばれる生徒会副会長。

 生徒会長シンボリルドルフの片腕として辣腕を振るい、後輩の指導にも積極的に参加。目安箱により生徒の要望を集めより良い環境を作ろうと常に学園を駆けまわっている姿が常に見かけられる。さらに、担当でなくとも年上であるトレーナーに対して真っ向から意見を言う姿に憧れや尊敬の眼差しを向ける生徒は多い。

 シンボリルドルフを象徴とするのなら、エアグルーヴは生徒たちの模範なのだろう。

 

「…………な、なぜ」

 

 そんな彼女が、カフェテリアで頬を引きつらせていた。

 

「なぜき……貴女がここにいる?」

「そんなかしこまった呼び方はよしておくれ。私と君の仲じゃないか」

 

 ジャパンカップで二着に入ったあの海外ウマ娘がいた。

 後で王族と聞かされたが、エアグルーヴが想像するお姫様像からかけ離れすぎて受け入れるのに時間を要したのでよく覚えている。

 彼女とエアグルーヴの様子をうかがうのはボリュームのある赤毛を二つに結んだウマ娘、ナイスネイチャだ。テーブルをはさんで向かいに座る彼女の手元には編入者向けの学園案内のパンフレットが広げてあった。

 エアグルーヴが自身の記憶をたどる。

 ナイスネイチャはトゥインクルシリーズを去った後、ドリームトロフィーリーグにはいかず運営側のスタッフ候補生として学科を転換した。なお、より現場を近くに感じるためと称してチーム・カノープスには未だ籍を置いている。

 スタッフと言っても学園の職員も兼ねており、業務には広報活動や編入案内もあったはずだ。ナイスネイチャが対応しているのは候補生としての実習の一環ということか。

 何故西欧の姫が学園のカフェテリアにいるのか、そこから導き出される答えは。

 

「まさか、トレセン学園に編入するつもりですか?」

 

 今は一月の終わり。ジャパンカップはもちろん、有記念もURA賞の発表も終わった今、彼女が日本に居座る理由が他に思い至らなかった。

 しかし、エアグルーヴの答えを聞いた姫君はからからと笑った。

 

「残念だが違う。いや、女帝陛下と同じ学び舎に通えるのはとても魅力的なのだが、私は渡り鳥のような性分でね。一つの場所に長くいることに我慢できないのさ」

「では、なぜ……?」

「なぜって、この私を打ち負かしたウマ娘が育った学園だ。興味が出るのは当然だろう。色々と話を聞きたくて問い合わせをしたら、こうしてネイチャ嬢が場を設けてくれたというわけさ」

「えーっと、学園の施設とかカリキュラムとかを聞きたいと。ついでにできればレース経験のあるウマ娘に説明して欲しいと言われて私が駆り出されたんです、はい」

 

 王族相手にプレゼンとか荷が勝ちすぎですわー、と渇いた笑いを零すナイスネイチャ。

 

「実に分かりやすい説明だったよ。簡潔で、されど取りこぼしはない。話を聞くたび興味をそそられる内容だった。君が充実した学生生活を送っていた証明だよ」

「おおう、キラキラ台詞が身に染みわたりますわ……。えー、一応この後は学園の施設を実際に見てもらう予定なんですが」

「それは良い。……いやしかし、ナイスネイチャ嬢には悪いがぜひとも案内は女帝陛下にお願いしたいな!」

「は?」

 

 思わず声に出た。

 二人の視線がエアグルーヴに向く。

 片方は楽しそうに、もう片方は申し訳なさそうな視線だった。

 脳内で今後の予定を確認する。運も悪く、今は空き時間だった。

 

「……一時間だけなら。それ以上は先約もありますので」

「構わないさ。限られた時間だからこそ濃く、鮮烈に記憶に残るものだ」

 

 席を立つ姿すら優雅なふるまいで、姫は女帝とともにカフェテリアを出ていった。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 トレセン学園の敷地は広い。だが、生徒が使う施設に限ってしまえばウマ娘の脚で回るのは対して難しくない。

 しかも二人は国際GⅠに出るほどの猛者。普段のトレーニングに比べれば準備運動にすらならない。

 実際のレース場を再現したトレーニングコース、高低差のある坂路、ダートコース、プール、悔しさを吐き出す切り株、エトセトラ、エトセトラ。

 屋内のジムに行けばウマ娘第一を掲げる理事長の慧眼と思い付きにより導入された最新鋭の機材から本当に効果があるのか眉唾レベルの珍品まで置かれている。

 他主要施設を予定通り一時間程度で見て回ったところでエアグルーヴは切り出した。

 

「それで、何を企んでいるのですか?」

「企むとはまた物騒な」

「王族ならば公務もあるでしょう。まさか護衛もつけず未だ日本観光というわけでもありますまい」

「ははは。私は見ての通り放蕩娘でね、父上も呆れ果てて公務も最低限しか回してこないのさ。あと、護衛は人目に映らないようにしているだけでちゃんとついているから安心して欲しい」

 

 エアグルーヴがあたりを見回すが、学園の生徒しか見当たらない。彼女の言葉を信じるのなら、まさにプロと言うことだろうか。

 

「とはいえただの観光ではないのも確かでね。……実は、妹をこの学園に留学させようと思っているのさ」

「妹を? その、妹君は……」

「ああ、私と同じくウマ娘さ。一方で私と違い、真面目に王族としての義務を果たすできた妹さ。ゆくゆくは父の後を継いで王位につくだろう。……これは父上からもぎ取ってきた、あの子にとって最後の自由さ」

「最後?」

 

 ああ、と呟き空を見上げる表情は真剣そのものだった。

 

「妹はいずれ王位という鳥籠に入る。そしてその後は一度も大空を飛ぶことなく、囲われた箱庭でしか羽ばたけない。それを勝手に不憫に思った私の、自己満足なお節介さ」

「それは……」

「勘違いしないで欲しい。妹は王族の責務に不満を持ったことはない。あれは血筋や環境によって形作られた王ではなく、まさに生まれながらにして王にふさわしい気品と精神を併せ持つ……私と違ってね」

 

 自虐的に笑い、渡り鳥の姫は続ける。

 

「ただ妹には知っておいて欲しいだけさ、空とは石壁で囲まれた城から見えるものが全てではないと。世界に吹くのは穏やかで優しい風だけでなく、嵐のような荒々しいものもあるのだとね。

 そして……」

 

 何かを言おうとして、彼女は頭を振った。

 

「いや、これ以上言葉にするのは無粋だろう……。

 女帝陛下をお誘いしたのは、我が賢妹が編入した暁には面倒を見てあげて欲しかったからさ」

「私に……?」

「これでも人を見る目はあるつもりさ。ナイスネイチャ嬢から君の評判も聞いたし、世間の君の評価も調べてある。

 別に付き人になれという意味ではないさ。他の学園のウマ娘たちと同じように接してくれればいい。世間知らずの箱入り娘に世の中の厳しさと言うものを教えてあげてくれれば構わない」

 

 エアグルーヴはその言葉を真っ向から受け止めた。

 

「言われずとも、学園に来るというのならどこの誰であろうと区別するものか。

 女帝として、貴女の妹君も導いて見せよう」

「……ああ、ありがとう。感謝するよ朱の眼差しの君よ」

 

 こうして、かの姫君は日本を発った。

 そして彼女の宣言通り、春には海外の王族が留学生として編入してくることとなり、エアグルーヴがルームメイトとして受け入れた。

 渡り鳥の置き土産が日本の空でどんな軌跡を描くか。それはまた別のお話。

 

 なお、

 

 エアグルーヴの様子が妹を通して筒抜けになるとは知る由もなかった。

 

 






 アプリのストーリー最終章を見た感想ですが、
 このネタは使えるなと思いました(使いこなせるとは言っていない)。
 



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チーム激闘編
21話 ブルボンとスズカ


お久しぶりです。
短距離ライスの育成が辛いので初投稿です。

今回から第四章となり、毎日1話ずつ、計6話ほど投稿する予定になります。。

また、今回はレースのみなのでちょっと短めです。


 

 三月下旬の阪神レース場にはこの時期ではかつてないほどの人て溢れかえっていた。

 目的は皆同じ。大阪杯に出る二人の逃げウマ娘を見に来たのだ。

 かつて無敗でクラシック二冠を取り、今は全距離芝GⅠ制覇を掲げるミホノブルボンは今日勝てば短距離、マイル、中距離の三階級制覇となり目標へ王手がかかる。

 対するサイレンススズカはクラシックこそ無冠に終わったが、冬から四連勝、重賞に限っても三連勝中であり今最も勢いのあるウマ娘と言っても過言ではない。

 二人の勝負が気になるのはファンだけではない。今後のGⅠレースでも脅威になると、偵察に来ているトレーナーたちも少なくない。

 当然、私達マルカブもそれは同様で、

 

「どうよゴルシちゃん特性焼きそばの味は。ソースがちげーんだよソースが」

 

 スピカにとっ捕まっていた。というかゴールドシップに絡まれていた。

 止めるべきトレーナーはサイレンススズカとまだ控室にいるのか姿はない。

 仕方なく押し付けられた焼きそばをすする。

 

「ん……確かに旨い」

 

 スパイシーなソースが麺によく絡み、焦げた部分はパリパリとアクセントになっていて食が進む。

 麺と一緒に入ってくるのは細切りの人参、シャキシャキのもやし、少し芯の残ったキャベツ、細切れの豚肉と厚みのあるイカ。紅しょうがの酸味も合わさり飽きが来ない。

 さすが、わざわざレース場で自ら売り出すことはある。

 

「でもなんでレース場で焼きそば?」

「わかってねーなあんちゃん、阪神レース場つったら焼きそばだろう!」

 

 初耳だ。でもゴールドシップの言うことなので気にしないでおく。

 しかしスピカとマルカブ、そのGⅠウマ娘たちが揃って焼きそばを食べているのは異様な光景ではないだろうか。

 事実、ちらちらと視線は感じても話しかけてくる手合いはいない。

 

「お兄さんはスズカとブルボン、どっちが勝つと思う?」

 

 焼きそばを食べながらトウカイテイオーが訊いてきた。

 メジロマックイーンや、ライスたちマルカブの面々からも視線を感じる。

 

「……実績の上ではミホノブルボン、と言いたいけど復帰してから彼女は中距離で大きな実績がない。対してサイレンススズカは前走の金鯱賞(2,000m)でマチカネフクキタルを相手に完勝しているね」

「前置きがなげーぞあんちゃん」

「静かになさいゴールドシップ!」

「えーじゃあ端的にいうと……わかんないです」

 

 全員がズッコケた。

 仕方ないじゃないか、二人が一緒に走ったのは天皇賞(秋)くらいなんだから。

 しかもあの時のサイレンススズカと今の心身のギアがかっちりはまった彼女は比べ物にならないのだから、判断材料など無しに等しい。

 

「とはいえ二人とも脚質は逃げ。ならば言えることは一つでしょう」

 

 スタートの直後(テン)先頭(ハナ)を取った方がレースを支配する。

 私の言葉に、その場の全員が頷いた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「スタート直後はハナの取り合いを意識する必要はない」

 

 控室で、黒沼はミホノブルボンに告げた。

 その言葉に、白いレオタードのような勝負服に着替えたミホノブルボンは首を傾げた。

 

「よろしいのですか? サイレンススズカのレベルは秋天の頃とは段違いですが」

「ああ、四連勝は伊達じゃない。そして間違いなくハナを取りに来るだろう」

 

 逃げの脚質とは、その名の通りスタートからゴールまで先頭を死守しようとするものがほとんどだ。

 ミホノブルボンもクラシックではライスシャワーに敗れた菊花賞まで先頭を譲ったことはない。

 逃げの戦いとはすなわち先頭の取り合いだ。だが、黒沼はそれを避けろと言ってきた。

 

「お前の強さは位置争いや競り合いの強さではない。冷静に、決まったペースでレースを運ぶことにある。……菊花賞ではそれが出来なくて敗れた」

「それは……」

 

 ミホノブルボンの脳裏に菊花賞の敗北が蘇る。

 三冠のかかった最後のクラシックレース。勝ちに行ったのはどこの陣営も同じで、その一つが決死の逃げを決行した。

 それによりミホノブルボンは予定外にスタミナを消費することとなり、結果としてライスシャワーに一着を渡すこととなった。

 他の逃げを意識せず、決めたペースを維持できていたらどうなっていたか。もはや答えは机上でしかでない。

 

「サイレンススズカは競り合いが強い、というよりハナを取られたら強引に取り返しに来るだろう。見る限り秀でたスタミナを持っているわけではないが、あの根性は脅威になる」

「精神が肉体を超越する、ですか……」

 

 黒沼が常々言っていることだ。

 ウマ娘の能力は生まれついての才能が大きなウェイトを占めると言われる。

 体格、脚質、距離適性。スタミナ、スピード、レースセンス。

 いずれも後天的に鍛えるには限界があり、その限界も先天的に決まる。

 故に才ある者同士で繋がりが生まれ、またさらなる才ある者が生まれる。そして才なきものはその循環に入れず消えていく。

 一部からブラッドスポーツなとど揶揄される一因でもある。

 だが黒沼はその風潮を一蹴した。担当となったウマ娘にスパルタなトレーニングを課し、ミホノブルボンの活躍によって持論を証明してみせた。

 

「サイレンススズカの走りの根幹が何かは分からん。だがあの常識破りの走りはただの身体能力だけでは説明がつかん。

 ……どちらにしろ、大事なのは自分の走りをすることだ」

「了解しましたマスター。ステータス、サイレンススズカをマークから除外。設定したラップタイムの重視に変更します」

「それでいい。今だけは春天のことは忘れて全力で行って来い」

「はい、マスター。勝利をこの手に」

 

 力強く頷き、ミホノブルボンはターフへと向かっていった。

 

 

 ◆

 

 

 

「トレーナーさん。今日は作戦とかありますか?」

「ん……いや、特にないな。いつも通り楽しそうに走ってこい」

 

 あっけらかんとしたトレーナーの言葉に、サイレンススズカは目を丸くした。

 

「いいんですか? その……GⅠですよ?」

「GⅠでもGⅡ以下でも変わらないさ。というか、作戦立ててもスズカは実践できないだろ」

「そ、そんなことないです……」

「そうか? じゃあ今日の注意すべき相手はミホノブルボンとサクラバクシンオー。どちらも天皇賞(秋)で先着された相手だ。

 サクラバクシンオーはともかくミホノブルボンとはハナの取り合いになる。スタート直後からハナは取るとしても、中盤までは同じ逃げのブルボンとの差を二バ身以内に収めてその後は――」

「う、うう……うあぁー……」

 

 頭を押さえて左旋回し始めるサイレンススズカ。

 やれやれ、と苦笑する。レース展開の策すら聞いていられないこの気性難が世間ではおしとやか令嬢のように扱われていると思うとおかしくなる。ただインタビューの受け答えが下手なだけなのだが。

 やがて旋回が止まったサイレンススズカが訊いてくる。

 

「その……それって最初は抑えろってことですよね?」

「しれっと抑えなきゃ二バ身以上離せると言ったな。……まあ作戦無しってのはそういうわけだ。スズカはあれこれ考えるよりも好きなように走った方が強い」

 

 それに、と一旦区切ってから、

 

「GⅠこそ勝っていないが重賞含めて四連勝中。スズカは十分追われる側のウマ娘だ。下から追い抜いてやろうなんて思わず、向かってきたやつを蹴散らすくらいの気持ちでいればいい」

「そういうものです?」

「そういうもんさ。堂々と、小細工無しで走ってこい」

 

 ぱしん、と軽く背中を叩くとサイレンススズカの曲がった背筋が伸びた。

 不安や緊張が少しは解れたのか、安堵した表情を浮かべていた。

 

「それじゃあ行ってきます」

「おう。楽しんで来い」

「……はい!」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「阪神レース場の内回りはスタート直後の直線と向こう正面が長いのに対して短い最終直線が特徴のコースですね」

「どうしたの急に」

 

 パドックが終わったころ、突然アグネスデジタルが語りだした。

 

「序盤の位置取り争いで埋もれることは余りありませんが、仕掛けが遅れると第三、第四コーナーが大きいのもあってスピードが乗り切る前に直線に入ってしまう場合がありますね」

「なあ、その子何者?」

「知り合いから預かったうちの新メンバーです。正式な入部は四月以降ですが」

 

 まさかの知識にスピカのトレーナーも目を丸くしている。

 

「デジタルの言葉に付け加えるのなら第三コーナーから始まる長い下り坂と、最終直線後半で出てくる急な上り坂も曲者だ。下り坂で乗ったスピードが上り坂で殺される。上手く対応できないとスパートの伸びが鈍ってしまう。

 最初と最後で大きさの違うコーナーに逆転ホームランの起こりにくい短い最後の直線。王道の中距離(クラシックディスタンス)のGⅠらしく、ウマ娘の総合力が試されるコースだ」

 

 私の言葉に、グラスたちクラシック組がメモを取っている。君たちが阪神レース場を走るのはしばらく先だと思うが、勉強熱心なのは良いことだ。

 

 解説しているうちにゲートインが進む。

 出走開始は直前に迫っていた。 

 

 

『早春の阪神レース場に、最強最速を自負するウマ娘たちが集いました。春シニア三冠の一つ目、大阪杯。

 三番人気はジャドプラーテ、鋭い末脚のキレが期待されます。

 二番人気はサイレンススズカ、現在四連勝中の彼女の大逃げを捉えられるウマ娘はいるのか。

 一番人気はミホノブルボン、掲げた全距離芝GⅠ制覇まで残るは中距離と長距離の二つ。ここで王手をかけられるか。

 世紀の逃げウマ娘対決となりました。果たして中距離最速の称号を得るのはサイレンススズカか、ミホノブルボンか、はたまた別のウマ娘が我こそはと名乗りを上げるのか。

 ……各ウマ娘のゲートインが完了しました。

 そして――ゲートが開き、一斉にスタート!

 

 一番に飛び出したのはサイレンススズカ! これまでと変わらず大逃げだ! 二バ身以上空けてミホノブルボンが二番手で追走、さらに一バ身空けてサクラバクシンオーが続きます!

 三番人気のジュドプラーテは中団に控えて五番手で進みます』

 

 ミホノブルボンがサイレンススズカにハナを譲る形でレースは始まった。

 サクラバクシンオーも天皇賞(秋)と同様に無理について行くことはせずに脚を溜める作戦のようだ。

 二人とも天皇賞(秋)ではサイレンススズカに先着している。が、どちらも彼女が以前のままだなんて思っていない。あの時は終盤で失速したが、前走含め四戦すべて逃げ切り勝ちをしているサイレンススズカが今日に限ってスタミナ切れするなど希望的観測が過ぎる。

 ミホノブルボンすら置いていく単騎逃げ。そのハイペースに最初からついて行くものはいない。

 サイレンススズカを除いた、出走ウマ娘十一名。例外はなく、終盤のスパートを勝負どころと決めていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

(十……十一……十二、ラップタイムは正常、問題なし。サイレンススズカとの差は二バ身差……ここで!)

 

 レースが半分の1,000mを過ぎたところでミホノブルボンが加速した。サイレンススズカを抜くためではない、最終直線に向けて少しでも彼女との差を縮めるためだ。

 差しや先行を得意とするウマ娘に比べて、ミホノブルボンは末脚のキレが良くない。スパートに向けて先頭との間は埋めておきたかった。

 ミホノブルボンの加速に釣られて後方の何名が動いた。が、ペース配分が乱されていることに頭が回っているものは少ない。

 サクラバクシンオーや三番人気のジャドプラーテは動かない。前者はスタミナを最後までもたすため、後者は末脚のキレに自信があるからだ。

 

 そして終盤に入り、全員がスパートをかけ始めた。

 

「バクシー――ン!!」

『サクラバクシンオーが仕掛けた! 後方に控えたウマ娘たちもグングンと上がってくる!

 サイレンススズカが先頭で最終コーナーへ! ミホノブルボンが追走する!!

 先頭は未だサイレンススズカ! 後ろのウマ娘たちは間に合うか!』

 

 少しずつ、サイレンススズカとミホノブルボンの距離が縮まっていく。

 ミホノブルボンは、背後からサクラバクシンオーが競ってくるのを察知した。

 ジャドプラーテも上がってきているようだが、距離的にもう間に合わないだろう。

 最終コーナーを抜けて最後の直線に入る。残り400mを切った。サイレンススズカとの差は一バ身もない。

 

(最高速度はこちらが上、いける……!)

 

 夢への王手、中距離GⅠ。栄冠をつかむため、逃亡者の影へと踏み込んでいく。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 先頭でターフを駆けるサイレンススズカは、最高の気分だった。

 スタート直後からハナを取っての先頭。競り合うこともなく終盤まで一人きりだった。

 芝と空だけの視界、吹き抜ける風、自分だけを照らす太陽。

 孤独だけれど、自由な世界。

 

「――――」

 

 その世界にノイズが走った。

 誰かが、彼女の視界に入ってこようとしている。

 後ろから黒い影が迫ってくる。

 

「…………譲らない」

 

 呟いた言葉は覚悟か、呪いか、誓いか。

 

「先頭の景色は――――」

 

 想いとともに、左脚が芝を踏み

 

「――――譲らない」

 

 逃亡者は異次元へと旅立った。

 

『ミホノブルボンがサイレンススズカを捉え――いや、ここでサイレンススズカがさらに加速した!? 後方のミホノブルボンを引き離す! まさに逃げて差す! こんな走りが可能なのか!?

 後続は追いつけない! サイレンススズカの一人旅だ! 影さえ踏ませず、今、サイレンススズカが一着でゴール!! ダービーウマ娘ミホノブルボンに二バ身差をつけて堂々のGⅠ初勝利を上げました!!

 二着はミホノブルボン!

 三着はサクラバクシンオー!』

 

 歓声の中、最後まで先頭を譲らなかったサイレンススズカは周りが肩で息をしている中、ただ一人清々しい笑顔を浮かべていた。

 その姿に観客たちは思っただろう。

 彼女だけ次元が違う、と。

 レースを見ていた多くのトレーナーが思い知っただろう。

 間違いなく、今年の台風の目は彼女になると。

 

「あれは…………」

 

 ただ一人、ライスシャワーだけが異なる感情を宿した瞳でターフを見つめていた。

 

 

 

 

 





阪神レース場の解説は、JRA様のコース紹介やウマ娘攻略Wikiなどを参考に書いてます。
的外れな説明だとしてもこの世界線じゃそんな感じなんだなくらいで流していただけると幸いです。

次回、デジタルついに入学


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22話 デジタルと入学式

 デジタル視点です。なんか日記帳っぽくなったけどこれはこれでいいかなって。
 聞いたことある名前がたくさん出てきますが、半分くらいはもう出番ありません。多分。なのでフレーバー程度だと思ってください。



 おっす、あたしはアグネスデジタル。

 芝とダートを両方走れるだけのどこにでもいるごく普通のウマ娘!

 そんなあたしが、幸運にも中央のトレセン学園へ入学することが出来ました!

 しかも仮とはいえチームへの入部も決まっている、これは常日頃積んできた徳のおかげでしょうか。

 ……と、いけないいけない。調子に乗るとしっぺ返しが来ますからね。ノット慢心、レッツ謙遜で行きましょう。

 

 緑の美人さんに迎えられ、校門をくぐれば多くのウマ娘ちゃんたちの往来がありました。

 さすが中央、都内やリトルリーグで見かけるよりも多くのウマ娘ちゃんがいます。

 当然ですが、皆さんめっちゃ輝いて見えます!

 

 王冠を被った自信に満ち溢れたウマ娘ちゃん。

 同年代とは思えないくらい身体つきのよいウマ娘ちゃん。

 憂いた瞳が美しいクールなウマ娘ちゃん。

 栃栗毛の髪が黄金のように輝くウマ娘ちゃん。

 鋭い目つきでパソコンを操作しているウマ娘ちゃん。

 怪しい目つきと怪しい笑いを溢すウマ娘ちゃん。

 長く艷やかな黒髪を靡かせたウマ娘ちゃん。

 高貴なオーラを振りまくウマ娘ちゃん。

 長身で厳格な雰囲気を漂わせるウマ娘ちゃん。

 荒々しさを隠そうともしない眼帯をしたウマ娘ちゃん。

 小柄ですが眼鏡の奥に強い信念を感じるウマ娘ちゃん。

 

 あーもう、みんなみんな推したくて頭爆発しそうですね!

 でも耐えます。ここで気絶なんてしようものなら皆さんの入学式の思い出に汚点を残してしまいます。

 あたしはどうなってもいい! ウマ娘ちゃんたちを曇らせることだけは避けなければ!

 ……ふう、なんとか持ち堪えました。よくやったあたし。

 さて、入学式が始まります。踏ん張っていきましょう。

 

 ……あれ、式中ってもしかしてウマ娘ちゃんに囲まれちゃいます?

 

 ……ふう、いやー入学式は強敵でしたね。なんとか耐えましたよ。最前列で助かりました。今日ほど自分の名前がアから始まることに感謝した日はありませんね。

 もしも四方八方ウマ娘ちゃんに囲まれたとしたら……息遣い、小声、匂い……アアアァァァァァァ―――よし、妄想にも耐えました。

 しかし、耐えるばかりでせっかくの生徒会長様のお言葉を聞き逃してしまうとは一生の不覚! 生徒会室に原稿とか置いてないですかね?

 

 入学式が終わればオリエンテーション、クラス毎に分かれて学内の施設案内ですね。ここからは先生方ではなく先輩ウマ娘ちゃんたちが案内してくれます。

 

「案内係のマーベラスサンデーでーす、みんな入学おマーベラース☆」

 

 あたしたちのクラスを案内してくれたのはマーベラスサンデーさんでした。

 独特のテンションながらも説明はしっかりしており、何故か最後はマーベラスで締めていました。

 そうか……宇宙とは、生命とは、うまぴょいとは、マーベラスとは――――はっ!? なんでしょういま一瞬謎の空間にアクセスしてしまったような……。

 

マーベラース

 

 

 

 さて次はカフェテリアを貸切ってランチタイムです。

 案内の先輩方は席を外し、ここでようやく新入生同士で親睦を深めることができますね。

 おしゃれな空間に美味しい料理。そりゃあ会話も弾みます。

 みんな良い人ばかりで、あたしもすぐに打ち解けました。なんとか仲良くやっていけそうです。

 ……でも、まだ仮とはいえチーム入りが決まっていることは大っぴらに話さないほうがいいですよね。

 午後には皆さん体操服に着替えてグラウンド、コースへと集まりました。

 引率は座学の先生からトレーニングを見ていただく教官殿に交代しています。

 今日のメインイベント、新歓レースの始まりです。

 新入生歓迎だから新歓なのですが、実のところやることは実力テストみたいなものです。

 ダートと芝に分かれ、さらに中距離とマイルに分かれて新入生同士でレースをします。

 長距離と短距離がないのは、まあ手間を省くためでしょう。純ステイヤー、純スプリンターなんて滅多にいませんから。いや、スプリンターの方は少しずつ増えているんでしたっけ?

 

「皆さん集まりましたね? では新歓レースを始める前に、皆さんの先輩を代表してマチカネタンホイザさんからお言葉をいただきます」

 

 マチタンキタ―――(・∀・)―――!!!

 教官の言葉と拍手で迎えられ、前に出てきたのは昨年のURA賞で最優秀ウマ娘ちゃんに選ばれ、今年からドリームトロフィーリーグへ移籍したマチカネタンホイザさんです。

 マチカネタンホイザさんといえば、

 秋のメイクデビューで見事一着を飾りその後は惜敗が続くも確実に掲示板に乗り続けてクラシックではライス先輩とともにミホノブルボンさん相手に激闘を繰り広げました菊花賞では最後は抜き返されたとはいえミホノブルボンさんを一度抜いて二位に躍り出るという脅威の末脚を見せ三着シニア級ではダイヤモンドステークスに目黒記念と長距離重賞を立て続けに勝利してステイヤーとしての素質を披露しかも目黒記念ではライス先輩に先着して一着という大金星次走の天皇賞(春)以降は四着五着が続いてしまいましたが満を持して出走したジャパンカップは急病により出走取消はファン一同涙を吞んだものですしかし快復後は中距離GⅡであの女傑と呼ばれるヒシアマゾンさん相手に見事勝利同期の多くが引退や移籍でトゥインクルシリーズを去る中一人走り続けついには復帰したライス先輩とミホノブルボンさんさらにエアグルーヴさんたちを相手に勝利する天皇賞(秋)とか頭爆発もんでしたよねしかも同年のジャパンカップは海外ウマ娘ちゃんを抑え込んでの雪辱の一着を取った瞬間なんて脳内グランドクロスもんですよ史上初の秋シニア三冠のかかった有記念では惜しくもライス先輩に敗れるもあの最終直線のデッドヒートの熱さときたら天地開闢からの宇宙創成が起きてもおかしくは――は!?

 いけない、推しを目の前に危うく暴走するところでした。

 落ち着けデジタル。心はヒートしていても頭はクールでなければ。

 ひっひっふー……よし、冷静を取り戻したぞ。今はタンホイザさんのお言葉を清聴する時。

 どうやらちょうどお話を始めるところだったようです。

 

「えー皆さん、トレセン学園ご入学おめでとうございます。……あれ、高等部に編入された方も入学でいいんでしたっけ? まあいいや。どうも、マチカネタンホイザと言います。

 新入生の皆さんに一言を、と頼まれましてちょっとお時間いただきますね。

 皆さんはそれぞれ自分の夢をもってこの学園に来たと思います。クラシック三冠、トリプルティアラ、シニア三冠、ダート王、最強マイラー、光速スプリンター、色々ありますね。そんな夢を目指す中で大切なことはですね、私が思うに『諦めない』ってことです。

 ……あ、いま精神論じゃんって思いました? でもですね、経験上これって凄い重要なんですよね。私の周りにも中々勝てなかったり、レースの相手がすっごく強いウマ娘だったり、ケガに悩まされたり、いろんな子がいました。でも、諦めてたまるかーむむぉん!って言って立ち上がった子たちは最後には笑顔でしたよ。今日寝て、明日起きたら突然スピードが上がってたり、スタミナが高くなってるなんてないですよね。でも、諦めないって思うことはすぐに、誰にでもできます。天才じゃなくっても、名門の出身でなくてもできます。

 諦めないは、今すぐできて最後の最後で頼りになるものです。皆さんも諦めず、夢に向かっていってください。

 以上、マチカネタンホイザでした」

「大変すばらしいお話でした。新入生の皆さん、マチカネタンホイザさんに盛大な拍手を」

 

 ブラボー! おおブラボー!!

 あたしの中のジェントルメンがスタンディングオベーションですよ。

 周りのウマ娘ちゃんたちも拍手しています。

 照れくさそうにタンホイザさんが下がると、再び教官がマイクを手にします。

 

「それでは新歓レースを始めます。カフェテリアで親睦も深まったでしょう。ですが皆さんは同じ学園に通う仲間であると同時にレースでは互いに競い合うライバルです。これが学園に入って最初の真剣勝負になります」

 

 さて、この新歓レースは実質実力テストと言いましたが、何故かというとこのレースはトレーナーさん方もバッチリ見ているんですよね。

 さっきまで誰もいなかったはずですが、タンホイザさんの演説が終わるころには見学者がずらり、先輩ウマ娘ちゃんも何人かいますが、トレーナーバッジを付けた大人たちがほとんどです。

 それに気付いた他のウマ娘ちゃんたちの顔にも緊張が走ります。

 このレースの結果次第では即スカウトもあり得るわけです。そりゃ緊張もしますし、逆にやる気を滾らせる方もいるでしょう。

 あたしはまあ、仮入部済みなのでそこまでですが……いえ、一刻も早く仮の一文字が取れるよう真剣に走りますが!

 ……実のところ、この新歓レースであたしは密命を帯びているのです。

 ズバリ、新メンバー候補の選定。トレセン学園のチーム最低人数は……なんかこの下り詳しく話さなくてもよさそうですね。

 とにかく、あたしはこのレースでこのキラキラのウマ娘ちゃんたちの中からさらにひと際キラキラしてる方を見出し、マルカブに推薦するのが使命なのです!

 まあ最後にスカウトするか決めるのはトレーナーさんですし、本来ならトレーナーさんが見に来るべきなのですが、今マルカブはグラス先輩の皐月賞が目前、下旬にはライス先輩の天皇賞(春)を控えていてそこまで手が回らないのです。

 まあ代わりに時間的猶予のあるエル先輩が見に来ているのですが。

 

「お兄さま、ライスやグラスさんのレースを言い訳にスカウト後回しにすると思うから、エルさん、デジタルさん、お願いね」

 

 ライス先輩の言葉が蘇ります。

 ええ、推しのお願いとあらばこのアグネスデジタル、火の中から水の中どこまでも!

 教官により組分けが発表され、各自分かれていきます。

 あたしはまずダートの1,600mです。これまた名前のおかげか早々に出番がやってきました。

 同じレースを走るのは六人、高等部のウマ娘ちゃんもいます。デビューする年は本格化の時期や本人の実力によるので同期が年上なんて珍しくありません。

 スタートです。

 あたしはいつもどおり中団――六人しかいないので四番手です――に控えて脚をためます。

 さすが皆さんトレセン学園に入るだけあってリトルリーグとは次元が違います。

 ですがあたしだってこの一ヶ月マルカブの皆さんと一緒にトレーニングしてきたんです。

 先輩方の顔に泥を塗るなんてできません!

 

「いりゃああああ!!」

 

 ダートをつま先で掻き上げるようにして蹴る。

 推進剤に点火したマシンのようにあたしの身体が前へ前へと加速していく。

 ついに先頭を捉えました。二人で横並びになっての追い比べ。

 この勢いのまま差し切ってああ!!! イイ!! 今あたしから逃げ切ろうと歯を食いしばり必死の思いで走ってるウマ娘ちゃんの横顔がイイ!!このウマ娘ちゃん諦めてません最後の1mいや1mmが過ぎるまで勝負は分からんと言わんばかりの形相タンホイザさんの言葉は早速ウマ娘ちゃんたちの心に根付いていまゴールやんけえ!

 ゴール板を駆け抜けると同時、実況席から声がします。

 

「ただいまのレース、一着はアグネスデジタルさん! 見事な末脚でした。頑張った他の新入生にも拍手声援をぜひ!」

 

 なんとか勝てたようです。危なかった……思わず推しの横顔に気を取られて負けるところでした。

 さて、このままダートを走るウマ娘ちゃんを見ていたいところですがあたしは芝も走るのでそうも言ってられません。

 血涙を抑え、ダートからの候補選びはエル先輩に任せます。

 芝レースの方へ向かい、教官に芝も走りたい旨を伝えます。

 一瞬目を丸くされましたが、すぐに察したようで入る組を教えてくれました。よく考えたらトレーナーさんの方で話を通しておいてくれたのでしょう。

 

「おいお前」

 

 列に入ると黒髪で眉にピアスをつけた、猛犬のようなウマ娘ちゃんに話しかけられました。

 怒ってるわけではなさそうですが思わず腰が引けてしまいました。

 

「な、なんでしょう……?」

「お前さっきダートの方走ってたろ、どうしてここにいる?」

「はわ……えっとですね、あたし二刀流というかオールラウンダー目指してまして。なので芝の方も走らせてもらうんです」

「ふぅン……」

 

 それで興味がなくなったかのように彼女は前を向き直りました。

 ……なんか、これはこれで新鮮な反応でした。

 やがてあたしの番がやってきました。

 一緒に走るウマ娘ちゃんの中には先ほどのピアスのウマ娘ちゃんと、王冠を被ったウマ娘ちゃんがいました。

 スタート。

 あたしはダートの時と同じく終盤のスパートで差し切るために四番手ほどに控えます。ピアスのウマ娘ちゃんは最後方、王冠のウマ娘ちゃんは先行なのか二番手に付けていました。

 終盤に入りスパートをかけます。ダートでは砂を掻くように走りましたが、芝だとそうはいかないので踏み込みを変えます。足だけでなく、トモや腿も使って体を前に押し出すように走ります。

 加速していくあたしの身体。しかし、あたしを後方から差していく影がありました。

 

「…………っ!」

 

 息を吞む、とはまさにこのことでしょう。

 獰猛な笑みを浮かべたあのピアスのウマ娘ちゃんがあたしを抜いていきます。

 ストライドの大きいフォームで駆けていくその姿は獲物に飛び掛かる猟犬、いやもはや餓狼のようでした。

 彼女はぐんぐんと前へ行き、やがて先頭に食らいつこうとします。

 しかし、逃げ切ったのは王冠のウマ娘ちゃんでした。

 

「テイエムオペラオー! テイエムオペラオーさんが逃げ切ってゴールイン! エアシャカールさんは惜しくも二着となりました。頑張った他の新入生にもどうか拍手を!」

 

 華麗そして優雅。手を抜いたわけではないでしょうがどこか余裕を持った走りでレースを制しました。

 二着となったもののエアシャカールさんの走りも凄まじいもので、おそらくですが、この二人は新入生の中でも頭一つ抜けているのではないでしょうか。

 それこそ、早々にスカウトからデビューが決まるくらいには。

 あ、ちなみにあたしは一位に二バ身差つけられて三着でした。

 

「はーはっはっは、声援感謝するよ! 今後も君たちの期待に答えることをこの勝利に誓おうじゃないか! 

 ああ、初日から学園の皆を虜にしてしまうなんて……なんて罪深いボク! 美しすぎるボク!!」

「チッ、仕掛けのタイミングが遅かったか? いや中盤の位置取りむしろコース取りにロスが……」

 

 高らかに笑うオペラオーさんと、ブツブツと敗因を分析するシャカールさん。なんとも対象的なお二人です。

 ……というか、キャラ濃いですね二人とも。

 

 新歓レースは続きます。あたしは引き続き芝レースの様子を見てスカウトに持っていけそうな実力者を探します。

 

 さすがはトレセン学園、全国どころか海外からもウマ娘ちゃんを集めているだけあっているわいるわ逸材の山!

 

 流星のような末脚を見せたアドマイヤベガさん。

 それに挫けず食らいついていくメイショウドトウさん。

 大きなストライドで豪快な走りを見せるナリタトップロードさん。

 穴の空いたレンコンさん。……失礼。

 綺麗な黒髪をなびかせながら余裕の走りを見せたマンハッタンカフェさん。

 機械のような正確な動きでレースを制したシンボリクリスエスさん。

 対象的に荒々しくも他を圧倒したタニノギムレットさん。

 うおでけえ……じゃなかった小柄ながらも懸命に走って勝利をつかんだゼンノロブロイさん。

 

 特に印象が強く残ったのはこのウマ娘ちゃんたちでしょうか。

 どのウマ娘ちゃんをスカウトするかはトレーナーさんが決めることですが、今挙げた方たちは新歓レースを観に来たトレーナーさんたちの目にも止まったでしょう。のんびりとはしていられないかもです。

 やがて最後の組が走り終わり、新歓レースが終わりを告げました。

 これであたしたち新入生の初日は終わり。寮の自室に行くもよし、親しくなった学友同士で外の街を練り歩いてもよし、自主トレに励んでもよしです。

 当然あたしは自主トレ、というかマルカブの先輩方と混じってのトレーニングです。

 一ヶ月以上他の新入生たちより早くトレーニングしていたというのに、そんな先取り分も呆気なく蹴散らすような凄い方たちが集まっているのです。うかうかしてたらみんなに置いていかれてしまいます。

 

「…………」

 

 あたしとの併走を終えたエル先輩が何やら彼方へと視線を向けていました。

 視線を追うと、トレーニングコースから外れたところにこちらを見るウマ娘ちゃんがいました。

 ノートPCを持った、猛犬のような相貌をしたあの方は、

 

「エアシャカールさん……」

「知り合いかい?」

 

 トレーナーさんも気づいたようで、あたしに訊ねてきました。

 

「新歓レースで一緒に走った高等部の方です」

「ライスたちのことずっと見てるよね……?」

「むむむ……スパイ活動中デス?」

 

 エル先輩の言う通り、シャカールさんは手に持ったノートPCとこちらを交互に見てはキーを打っているようです。よく見ればすぐ近くに三脚で立てたスマホカメラがあります。あたしたちのトレーニング風景を記録しているのは間違いないでしょう。

 確かに研究のためレース映像を記録することは多いですが、トレーニングの様子まで録画するのはどうなんでしょうか。チームによっては秘蔵のメニューとかありますし、まだ担当トレーナーもいないデビュー前のウマ娘ちゃんの行いとはいえ、良い顔をする人は少数でしょう。

 

「どうしますか、注意してきましょうか?」

 

 グラスさんが伺いを立てますが、トレーナーさんは首を横に振りました。

 

「いや、今日は普通の併せだから一々目くじらを立てる必要はないよ。それにほら」

 

 トレーナーさんが促すとシャカールさんがそそくさと機材を片付けていました。見ているのがバレたから、なんて性格ではないでしょう。

 

「どうやらフォームやタイムを計っていたみたいだ。先輩の動きをわざわざ記録するなんて熱心な子だ……一言くらい断ってもいいとは思うけどね」

 

 トレーナーさんに気にするなと言われたらそうするしかありません。

 先輩方もすぐに気持ちを切り替え、再びトレーニングを始めました。

 あたしも置いて行かれないよう頑張らないと!

 

 

 

 ◆

 

 

 

「うひぃい~~疲れた~~!」

 

 トレーニングにも終わり、片づけを終えて寮に戻って夕食・お風呂を済ませたあたしはそのままベッドに倒れこみました。

 初日から押し寄せる尊みの激流、見せつけられた中央のレベルの高さ、そして本格化しだしたチームのトレーニング。もうキャパオーバー寸前ですよ。

 先輩方はさらに自主トレをするそうです。さすがにあたしは二本レースしたのでそのまま返されました。

 普段の座学に加えてトレーニングをしてさらに自主トレもするとか、先輩方のバイタリティー半端ないです。

 

「いやいや、弱音なんて吐いてられない! あたしだってチーム・マルカブの一員なんですから、早く一人前のウマ娘にならないと!」

「おやおや、入学初日から随分とやる気に満ちているじゃないか……いや、この学園に来たなら当然か」

 

 隣からの声に思わず飛び起きました。

 いつの間にいたのでしょう。というかもしや独り言聞かれましたか!?

 対面のベッドに腰かけていたのは栗毛の髪にどこか怪しい光の宿った瞳のウマ娘ちゃんでした。

 

「あああすいません、ルームメイトなのに挨拶もせず! あたしは――」

「アグネスデジタルだろ? 新歓レースでダートも芝も走った変わったウマ娘だ、覚えているよ。

 私はアグネスタキオン、高等部だが君と同じ新入生だよ」

 

 アグネス……あたしと共通する名前ですが血縁者ではないですね。クラスに一組か二組はいる、苗字が同じ他人のようなものです。

 ですが一つ思い当たります。たしかアグネスの名を冠す名門があったような気が。

 しかしあたしと同じ新入生ですか……あれ?

 

「あのーつかぬことをお聞きしますが、アグネスタキオン先輩って新歓レース出てましたか?」

「タキオンで構わないよ、先輩なんて畏まる必要もない。新歓レースは……サボった」

「え、スタッフ研修生として入ったとかではなく?」

「ああ、正真正銘トゥインクルシリーズを目指すウマ娘さ」

「ええ……」

 

 思わず絶句してしまいました。だって新歓レースはいわば自己紹介、自分の実力をアピールする絶好の場です。それをサボるなんて、何を考えているんでしょうか。

 

「何を考えている、そう言いたげだね。教官たちにもいろいろうるさく言われたが要するに、まだその時ではなかったというだけさ」

「その時ではない……?」

「別に理解する必要はないよ。求めてもいない。……ま、私は自分の研究、君はトレーニングとお互い忙しい身だ。ここは不干渉といこうじゃないか。じゃあおやすみ」

 

 一方的に会話を打ち切り、タキオンさんはそのまま眠ってしまいました。

 さすがは中央。人数が多いだけあって個性派も勢揃いのようです。

 あ、疲労がピークに達した。瞼がストライキを起こして強制的に寝させようとしてきます。

 

 こうして、あたしことアグネスデジタルのトレセン学園生活一日目は幕を閉じたのでした。

 ああ、偉大な先輩に凄まじい同期、右も左も上も下もウマ娘ちゃんに囲まれて過ごせるとか、この幸運をくれた神様にマジ感謝です。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 二週間後、ついにその時がやってきました。

 トゥインクルシリーズを走るウマ娘ちゃんたちの超本番、クラシック級GⅠ皐月賞です。

 

『今年も中山レース場に、ジュニア級から勝ち上がってきた十八人の世代を代表たるウマ娘たちが集いました。クラシック三冠の第一戦、皐月賞が始まります。

 最も早いウマ娘が勝つと言われるこのレース、果たして勝つのはどのウマ娘か。クラシックの初戦を制するのは、そして三冠への挑戦権を得られるのはただ一人!』

 

 聞こえてくる実況に会場の興奮もエスカレートしていきます。

 ついにパドックが始まり、今年の世代を代表するウマ娘ちゃんたちが姿を見せました。

 

 前哨戦、弥生賞を勝って今回も一番人気のスペシャルウィーク先輩。

 その弥生賞では惜しくも二着、リベンジに燃えるセイウンスカイ先輩。

 三番人気とはいえその末脚は油断できないキングヘイロー先輩。

 そして、

 

 そして――――

 

 

 

 その中に、グラス先輩の名前はありませんでした。

 

 恨みますよ、神様。

 

 

 

 

 




 まだ、今はまだ雌伏の時……。

 尺の都合で省きましたがウララとかファインも入って来てます。


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23話 グラスと皐月賞

 ケガとか病気の話があります。一応調べたうえで書いてますが、詳しい方が見たらこれはおかしいって思われるかも。見当違いな書き方だったらすいません。
 タグにR-15追加しました。
 特にそういうシーンのつもりはありませんが、見方によってはそう思う方もいるかも?ということで念のためです。



 その異変は、こともあろうに皐月賞当日の朝に起きた。

 朝から移動と最後の仕上げの準備をしていた私のスマホが鳴った。電話はエルからで、慌てた彼女から聞かされたその内容に私は飛び出すように駆け出した。

 美浦寮の前で外で待っていたライスと合流、押しかけようとするも玄関でヒシアマゾンに止められた。やきもきしながら待っているとやがてエルに肩を預けたグラスが降りてきた。

 彼女の左足は腫れていた。

 

「トレーナーさん……」

 

 申し訳無さそうに呟く彼女を談話室横の椅子に座らせ、触診する。

 

「骨膜炎か……」

 

 ソエとも呼ばれる、骨に起こる炎症の一つだ。主に骨が化骨しきっていない若いウマ娘が過度なトレーニングをしたことに起こると言われる。

 十二月にグラスが骨折したのは右脚だ。無意識にそちらを庇い、逆の左脚に過負荷がかかったのか?

 昨日までは異常は見られなかった。表に出るギリギリのところで、疲労が日を跨いだ瞬間に噴出しただろうか。

 どうして、よりにもよってこのタイミングで……!

 

「……トレーナーさん」

 

 グラスが絞り出すように口を開く。

 

「私、走れます……!」

「グラス……」

「皐月賞は十一レース、パドックの準備があるとしても午前一杯は時間があります。アイシングして痛み止めを飲んでギリギリまで休めば……!」

「ちょっと待ちなグラス、無茶なこと言うもんじゃないよ!」

「皐月賞なんです! 一生に一度しかない、クラシックなんです……!」

 

 悲痛な叫びに流石のヒシアマゾンも二の句が継げない。

 グラスの言う通り応急処置でなんとか出走までもっていくことは可能だろう。末脚は鈍るかもしれないが、そも彼女のポテンシャルを考えたら好走できるかもしれない。

 しかし、確実に彼女の選手生命は終わるだろう。

 一生に一度のレースに出るために、その後の一生を棒に振らせる判断など私にはできない。

 

「……グラス」

 

 なんと言えばいい。無情に諦めろと告げるか、次があるさと無責任に慰めるか、すまないと無意味な謝罪をするのか。

 思考するうち、無意識に固く握りしめた彼女の手に己が手を重ねていた。

 グラスの青い瞳と目が合った。それだけで、聡い彼女は私の想いを察したようだ。

 

「ああ……ああぁ!!」

 

 端麗な顔が歪み、しわくちゃになった目から熱いものが零れていく。

 身を震わせ嗚咽を漏らし、私にしがみ付いてくる少女を、私は静かに抱きしめることしかできなかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『最後の直線に入った! セイウンスカイ、セイウンスカイが先頭だ!! 猛追するキングヘイロー、スペシャルウィークは追いつけるのか!?

 残り200m! 先頭は変わらず! キングヘイローが迫るが、届かない!

 逃げ切った、逃げ切ったぞセイウンスカイ! 皐月賞を制したのはトリックスター、セイウンスカイだ!!』

 

 割れんばかりの歓声が中山レース場を揺らします。

 まさに熱戦、激戦、最後まで目を離せないレースでした。

 いつもは飄々とした態度のセイウンスカイさんが満面の笑顔で手を振り声援に応えています。

 二着に敗れたキングヘイローさんも表向きは毅然として態度を崩しておりませんが、デジたんには分かります。悔しい気持ちがいっぱいだけど自分が志す一流の姿を保とうと歯を食いしばっているのです。

 三着のスペシャルウィークさんはいつもの天真爛漫さが鳴りを潜めて自分の力不足を痛感したような悲しそうな表情です。

 ……何故でしょう。どれもこれも大好きなウマ娘ちゃんの尊い姿なのに、これっぽっちも興奮できないのは。

 

「……もしも」

 

 あたしの呟きに、一緒に見に来ていたライス先輩とエル先輩がこちらを向きます。

 

「もしも、グラス先輩が出ていたら……」

「ダメだよデジタルさん」

 

 あたしの妄言を切ったのはライス先輩でした。

 

「考えるのは仕方ないかもしれない。でもそれを言葉にしたり、誰かに答えを求めちゃダメ。

 それは勝ったスカイさんにも、勝てなかった他の子にも、出ることを止めたグラスさんにも失礼だから」

「そう、ですよね……すみません変なこと言って」

 

 先輩の言うとおりです。セイウンスカイさんが勝ったのは間違いなく彼女の努力と奮闘によるもの。それに水を差すなんて……デジたん、反省。

 

「ま、まあまあ二人とも、重たい話はそこまでデス! 残りのレースが終わったらウイニングライブ、来られなかったグラスとトレーナーさんの分も応援するデスよ!」

「そ、そうですよね! 暗い気持ちでライブを見るのも皆さんに失礼ですよね! あ、あたしペンライトいっぱい持ってきたんですけど何本持ちます?」

 

 なんとかテンションを上げていきます。

 お二人も笑顔でしたが、やはりどこかで、この場にいない二人のことを考えているようでした。

 本当に、グラスさんは大丈夫でしょうか。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 セイウンスカイが皐月賞を制する瞬間を、私とグラスはチームルームで見ていた。

 脚は病院で診てもらったが、安静にしていれば治癒する程度のため、入院はせず学園に戻ってきたのだ。

 ライスたちも残ると言ってくれたが、エルやデジタルには現地でレースを直接見てほしかった。エルには今後競うであろう同期の走りを、デジタルには競技者となって改めてGⅠの空気を感じて欲しかった。

 

「セイちゃん、凄かったですね……」

「ああ、ミホノブルボンやサイレンススズカとは違う、レースを支配する逃げだった」

 

 以前エルに教えた型にハメ込むなら策謀型か。

 ペースをわざと途中で落とし、脚を残しつつ後ろのペースを乱した。スタミナ配分や仕掛け時を誤らせた。

 クラシック級でこんな展開をつくれるとは、黄金世代の一角は伊達ではないということか。

 

「次は日本ダービーですね」

「……ああ」

 

 グラスのケガは以前の骨折に比べればまだ軽い。高負荷なものさえ控えればトレーニングもすぐ再開できる。

 ……が、日本ダービーは一ヶ月後。グラスの快復は間に合わないだろう。

 頂点を目指す少女の夢は、一時の脚部炎症という小石のような事象で塞がれた。

 

「グラス……」

「大丈夫ですよ、トレーナーさん。私は、大丈夫です」

 

 涙の痕が残る顔で、無理矢理笑う彼女の姿が私の胸に焼き付いていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 気づけば日が暮れていた。

 中山レース場ではそろそろウイニングライブだろうか。

 

「グラス……あれ?」

 

 ソファに座っていたはずのグラスに声をかけるが反応がない。

 というか、彼女の姿が見えなかった。気づかぬうちに寮へ戻ったのだろうか。

 

「グラス? ……うわっ!?」

 

 ソファを覗き込んだら伸びてきた腕に引きずり込まれた。

 視界が回転し、天井が見えた。背中に伝わる衝撃は革張りのソファのもの。

 思考が一瞬見真っ白になるが、すぐに押し倒されたのだと気づいた。

 誰に? いや、この部屋にいるのは他に一人しかいない。

 

「トレーナーさん……」

 

 栗色の長い髪が私の顔をくすぐる。ベールのように垂れた栗毛の向こうにグラスの顔があった。

 仰向になった私にグラスが跨っていた。普段から大和撫子たらんとするおしとやかな彼女からしたら考えられない行動だった。

 

「トレーナーさん……」

 

 蠱惑的な声とともにグラスの白い指が私の腹を撫でる。腹から胸へ、そして首、顎を通って私の頬に触れた。

 くすぐったい感触に身をよじるとグラスが妖しく笑い、身体を預けてきた。

 グラスの頭が私の胸に置かれる。耳が動き、心臓のある位置にピトリと触れた。

 

「ふふ……心音、ちょっと速いです」

「どうしたんだグラス? その……珍しいね?」

「そうですね。トレーナーさんと二人きりは珍しいですね」

 

 違う、そうじゃない。

 私の意を理解しないまま、グラスの顔が上がってくる。

 互いの鼻が触れ合うほどに彼女の顔が近い。

 グラスのまつ毛一本一本がよく分かる。息遣いの音がやけに大きく聞こえる。

 

「トレーナーさん。スカウトの時、私に言ってくれたことは覚えていますか?」

「……覚えているさ」

「まだ、あの言葉は変わりませんか?」

 

 彼女をスカウトするときに言った言葉、グラスワンダーを一番強くできるのは私だ。

 その想いに変わりはない。揺らいだことなど、一度もない。

 

「では、証をください」

「証……?」

 

 グラスが体起こす。右の指が私の身体を這い、スーツのボタンを外していく。

 

「ちょっ、グラス……!?」

「じっとしててください……」

 

 困惑する私を無視して、グラスの左手が自分の身体を這って制服を脱いでいく。

 蛇のような淫靡な舞に、体が石化したように動かない。

 やがて私の衣服ははだけ、グラスも白い肌が露出する。

 

「刻んでください。私は、グラスワンダーは貴方だけのものだと……」

 

 グラスの身体が再び倒れてくる。彼女の顔は私の眼前に迫る。

 栗色の髪が幕の様に垂れ、視界から彼女以外が見えなくなる。

 

「トレーナーさん」

 

 甘く、思考を蕩かするような声が耳朶に滲みる。

 そして私とグラス、二人分の影は重なって――

 

 

「うーんなんか違う、解釈違いかな」

 

 タブレットの上を滑らせていたペンが止まりました。

 時間はすでに夜。ウイニングライブも終えて寮へと戻ったあたしことアグネスデジタルは、皐月賞とそのウイニングライブで滾ったパトスを抑えようと、迸る情念を創作により発散していました。が、いざ冷静になると心理描写がちぐはぐな気もしてきました。

 削除しようかと思いましたが、すでにラフからペン入れに入りあとはトーンやベタをするだけ。かかった作業量的に消すのはもったいない気がします。

 

「ま、残しておいてもいいか。どうせ誰かに見せるものでもないし」

 

 書きかけですが、これ以上進めても納得するものにはなりません。

 箪笥の肥やしもといドライブの肥やしになること覚悟で保存、ペンタブの電源も落とします。

 

「あー皐月賞すごかったなー! ……でもなーやっぱりなー!」

 

 ベッドに倒れこみジタバタ。

 毎年見てきた皐月賞はデビューを目指す身として改めて見ると、レース場の空気やウマ娘ちゃんたちの信念が別の角度から見えました。

 トレーナーさんが見ておいでと言った理由が分かります。

 しかし一方で胸に渦巻くモヤモヤもまた強くなりました。

 ライス先輩には釘を刺されましたがどうしても考えてしまいます。

 今日の皐月賞、グラス先輩が走っていたらどうだったのかを。

 

「はあ~~~~~でもなあ~~~~ああ~~~」

「おやおや、随分と大きなため息だねぇ」

 

 タキオンさんが部屋に戻ってきました。鼻を刺激する薬品の臭い。今日も今日とでタキオンさんはなにやら調合か実験をしてきたようです。

 

「悩みの原因は皐月賞かい? 君のチームの先輩がケガで出走取り消しになったとか」

 

 情報が早いですね。いや、出走取り消しは公式に発表されていることなので知っていておかしくありませんが。

 

「……あれ? あたしチームに入っているって言いましたっけ?」

「堂々とGⅠウマ娘に混じってトレーニングをしていて何を言うのやら。まあ正式な手続きを踏んでいるようだし、無理に隠すものでもないがね」

 

 当たり前です。ウマ娘ちゃんたちが頑張っているのに後ろめたい手段でチーム入りするとか解釈違いです。

 ……ってああ、話がそれてしまいました。

 

「タキオンさんに聞きたいんですが……」

「んー、なんだい?」

「大事なレースに当日にケガや病気をしてしまったら……どうしますか?」

「さあねぇ。その時にならないと分からない」

「ええ……」

 

 迷いのない即答に絶句してしまいました。

 

「デジタル君が悩んでいるのはグラスワンダーがケガを押して皐月賞に出たらどうなっていたかということだろう? 残念だが、そんなことを考えるのは時間の無駄さ。友人の言葉を借りるのなら、ロジカルじゃない」

「タキオンさん友達いたんですか!?」

 

 ロジカルって何ですか?

 

「君、考えていることと言っていることが逆転していないかい?」

「え――ああ!? す、すすすすいません!」

「まあいいさ。ロジカルじゃない……つまりは正しい答えが出せない問題と言うことさ。先ほどの君の問いは、十人に聞けば十人が異なる答えを出す。しかしその中から正解を探り当てることはできない、なにせ回答者の感情や価値観によって左右されるからね。定量的に表すことのできないものは式においては考慮すべき変数ではなく排除すべきノイズだ。

 ……つまるところ、過ぎてしまったことのたらればなんて論じたって意味がないのさ。グラスワンダーはケガをした。今後を考えトレーナーは出走を見送った。グラスワンダーにとって皐月賞は今後の一生を賭けるものではなく、彼女は身を引いた。それが事実、それが全てでありそれ以外のイフはただの空想だ」

「ただの、空想……」

 

 ああ、とタキオンさんが頷きます。

 

「受け入れるしかないのだよ。不幸も、不条理も、どんなに納得がいかなくともね……。

 殻にこもって疑似的に時計の針を止めることはできる、歩みだして針を進めることもできる。……しかし針を後ろに戻すことだけは、どんな手を使ってもできないのさ」

 

 何かを思い出すような彼女の言葉に、あたしはなにも言い返せませんでした。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 グラスワンダーは自室のベッドの上で目を覚ました。

 ボーッとする頭が今まで何をしていたか記憶を再生していく。

 チームルームでトレーナーと皐月賞を見て、セイウンスカイの勝利をこの目で見た。でもウイニングライブまで見る気はなれなくてすぐに寮へと戻り、現実から目を背けるように眠ったのだ。

 手元のスマホで時間を確認する。門限の十分前だった。

 部屋は暗く、同室のエルコンドルパサーの姿はない。クラスでセイウンスカイの皐月賞勝利のお祝いでもしているのか、それともクラシックの熱に当てられて自主トレでもしているのか。

 

(走れない私には、関係のないことですね……)

 

 出走取り消しの原因である左脚に触れる。薬が効いているのか、今は痛みが引いている。それでも触れば分かる、腫れはそのままだ。

 姿勢を変えて仰向けになると壁に貼った戦績表が視界に入った。

 四戦四勝、うちGⅠを一勝。それが今のグラスワンダーの戦績だ。

 同期の中では上澄みも上澄みだろう。特に無敗を貫いているのはグラスワンダーとエルコンドルパサーの二人だけだ。

 しかし、それを誇れる気持ちは今のグラスワンダーには微塵もなかった。

 

「何が、無敗か。走らず守った無敗に何の意味が……」

 

 例えるのなら、この身は芸術品として保管された刀剣だ。

 美しさを保つために厳重に封じられ、不要な風にさらすことなくその身を守護される。

 決して汚れず、錆びず、傷つかず。鉄の輝きを永久不変にするための処置だが、刀剣としての本懐を遂げることはない。

 嫌だ。

 走らずに無傷に終わるよりも、砕けようとも走りたかった。その生をターフの上で終えたかった。

 

 …………もし、そうなったら、あの人はどうなるだろうか。

 

 彼の過去は知っている。どうしてあれほどウマ娘のケガを重く受け止めるのか。次頑張ればいいの一言すら躊躇うほどに、少女の負傷を悲しむのか。

 ライスシャワー、宝塚記念。学園にいれば一度は関連した逸話を耳にする。

 彼の胸には青いバラが散る瞬間が今も深く深く突き刺さっているのだ。

 もしも、それにとって代われるというのなら―――

 

「何を考えているのでしょう、私は」

 

 落ち込み過ぎて思考があらぬ方向へと捩じれている。

 シャワーでも浴びようかと起きようとしたとき、スマホが着信を知らせてきた。

 画面に表示されるのは未だ戻らぬルームメイトの名前だった。

 

「エル?」

『ハーイ、グラス! 起きてたようで良かったです! これから体育館までこれますか?』

「体育館って、もう門限ですよ? エルこそ早く帰ってきなさい」

『大丈夫デース! もう寮長にも許可は取ってます! 待ってますから、必ず来てくださいね!』

 

 そう言って通話が切れた。

 

「なんなんでしょう、いったい……」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 エルコンドルパサーの言う通り、ヒシアマゾンに話は通っていたようで寮を出ることを咎められることはなかった。

 むしろ、「楽しんできなよ!」と背を叩かれるほどであった。

 

「楽しむ……なんでしょう、セイちゃんの祝勝会だと思いましたが」

 

 だとしたら、皐月賞ウマ娘となった彼女には悪いが心から祝福はできない。

 せっかくの誘いだが早々に引き上げるとしよう。

 

「エル、突然呼び出していったい……」

「あ、来ましたねグラス!」

 

 電気のついた体育館に入ると、いたのはエルコンドルパサー一人だった。

 いや、正確に言えば彼女の横に五台の仰々しい機械が並んでいた。

 見たことがある。以前、リハビリの一環でグラスも使った機械だ。

 

「VRウマレーター?」

「はい! 今日は趣向を凝らして仮想空間でお祝いデース!

 すでにみんなもダイブしてますから、グラスも早く入るデスよ!」

「そういうことですか。だから体育館を……。エル、すいませんが私は」

「入るデス」

 

 エルコンドルパサーには珍しい、有無を言わせない言動だった。

 圧されてしまったグラスワンダーは仕方なくVRウマレーターのポッドに入る。

 エルコンドルパサーは使うのが初めてのため初期設定からしているようだが、グラスワンダーは以前使った時の設定を引き続き使う。

 

(エルったら、何を考えているんでしょう……)

 

 答えは得られぬまま、グラスワンダーの意識は電子の海へと沈んでいった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『ダイブが完了しました』

 

 前回と同じ台詞が、最後に使っていた(・・・・・・・・)音声で流れた。

 目の前に広がる視界に、グラスワンダーは思わず息を呑んだ。

 

「あ、グラスちゃんやっと来たー!」

「全く、このキングを待たせるなんて」

「グラスちゃーん、こっちこっち!」

 

 勝負服を着た友人たちがいた。

 グラスワンダーを加えた四人が立つのは芝のレース場、先に見えるゴール板やコースの形から中山レース場だと分かる。

 観客席を見れた人影があるが、所謂NPCだと分かった。

 

「スぺちゃん、セイちゃん、キングさん……どうして」

「どうしてって、エルさんに聞いていないの?」

「あーさてはエルってば説明しないで無理やりウマレーターに押し込んだな」

「失敬な! これから説明するつもりだったんデス!」

 

 声の方へ振り替えると、こちらも勝負服姿のエルコンドルパサーが現れた。

 

「エル、これは一体どういうことですか? セイちゃんの祝勝会をするのではないんですか?」

「祝勝会ならもう終わったよ。いやーみんなに祝ってもらえてセイちゃん満足満足。……でも、満足できてないウマ娘が一人いるっていうからさ」

「それは……」

 

 セイウンスカイの言葉にグラスワンダーは視線を逸らす。

 自分の管理不足が原因なのに、彼女の勝利を素直に祝えない自分が恥ずかしくなった。

 

「グラスちゃん……」

 

 スペシャルウィークが前に立った。

 

「セイちゃんもキングちゃんも、当然私も、グラスちゃんと走るのを楽しみにしてたよ」

「スぺちゃん……」

「起こったことは変えられないし、やり直しだってできない。でも、別の形にすることはできる」

 

 スペシャルウィークの手が、グラスワンダーへと差し出された。

 

「始めよう。私たちの皐月賞を」

「――――はい……はい!」

 

 差し出された手を強く握る。

 もう、少女の心から闇は消えていた。

 

 

 グラスワンダーもアバターの衣装を勝負服に替え、五人でスターティングゲートへ向かう。

 

「そういえば、この企画はどなたがしてくれたんですか?」

「あれ、エルってばそこまで話してないの?」

「いやーグラスってば落ち込み過ぎてこっちの話聞く気無さそうでしたから、とにかくダイブ優先したんデス!」

「なによそれ……企画、というか話を最初に持ち出したのはグラスさんたちのトレーナーよ」

「トレーナーさんが?」

「うん。マルカブのトレーナーさんからスピカに電話あってね。グラスちゃんのために協力してくれないかって」

「そんなことを……」

「トレーナーさん、グラスのことすっっっごく心配してたんデスよ。それでグラスに元気になってもらうにはどうしたらいいか考えて」

「いっそのこと、仮想空間で気が済むまで走っちゃおうってね。あのトレーナーさん、結構凄いこと言いだすよね」

 

 グラスワンダーはトレーナーたちのやり取りを想像する。

 まさか、ケガで出走取り消しになったウマ娘のために仮想空間とはいえその日のうちにもう一度走ってくれなどと頼まれるとは思ってもみなかっただろう。

 

「すみません、私のために手間を取らせてしまって……」

「別にいいって。なにやら、この皐月賞ウマ娘のセイちゃんにリベンジしたいって子もいるみたいだしー?」

「どうしてこっちを見るのよ……ええそうよ! 今日のレースはスカイさんの策に嵌まってしまったけど、次はこうはいかないんだから!」

「わ、私だって次はセイちゃんには負けないんだから!」

「とまあ? こんな感じで、再チャレンジしたいなって声は他にあるわけだからあんまり気にすることないよ」

 

 それに、とセイウンスカイがニヤリと笑う。

 

「グラスちゃんやエルともいつか走るだろうし、今のうちに手の内見ちゃおうっかなーってね」

「むむ! さすがセイちゃん、抜け目ないデス! しかーし、仮想空間でもエルが最強だと教えてあげます!」

 

 やがてゲートへの入る。

 ここから始まるのは、決して記録に残らない仮初のGⅠレース。

 例え勝っても勝者として名乗ることはできない。

 それでも悔いを、憂いを断つには十分だった。

 

「皆さん……」

 

 ゲートの中でグラスワンダー呟く。

 

「次は、実際のレースで走りましょう」

『うん!』

 

 ゲートが開き、少女たちは走り出した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 何度走っただろう。

 走る度に勝者は変わり、その度敗者がもう一度と言ってまた走る。

 改めて、五人の実力が互角なのだと理解した。

 いつまでも走っていたかったが、仮想空間でも疲労度は設定されており、やがて五人とも動けなくなった。

 セイウンスカイとエルコンドルパサーは仰向けにターフへ寝転がり、キングヘイローは肩で息をしつつもなんとか平静を保とうとしている。グラスワンダーとスペシャルウィークはラチを背もたれにして座っていた。

 

「どうだったグラスちゃん、私たちの皐月賞は?」

「ええ……最高の気分でした。もう、悔いはありません」

 

 そっか、とスペシャルウィークが返すと他の三人を笑っていた。

 

「さあて、結構走ったし、現実に戻ったらもう一回パーティしますか」

「何言っているのよ。門限はもう過ぎているんだから、すぐに解散よ」

「えー」

「エー」

「もうセイちゃんもエルも、いくら許可が出ているとはいえ遅くなりすぎると寮長たちが心配しますよ」

「うう、そうだよね。フジ先輩、もしかしたら帰ってくるの待ってるかもしれない……」

 

 ヒシアマゾンもフジキセキも、責任感の強い寮長だ。

 外出で遅くなった時はいつも寮の玄関前で待っている。もしかしたら、今回もレースが終わって帰ってくるのを寝ずの番で待っているのかもしれない。

 

「あーそれじゃあお開きとしますか」

「そうね。グラスさん、今日は楽しかったわ。本番で走れるのを楽しみにしてるわ」

 

 セイウンスカイとキングヘイローがダイブを終えようとウィンドウを開いた。

 他の三人も後を追う。

 そして、

 

『ダイブを終了しますか?』

『ダイブを終了しますか?』

 

 五人分の手元から電子音声が流れた。

 ……何故か、ひとつだけ男性のものだった。

 

「え?」

「ん?」

「あれ?」

「ケ?」

「……………………あ」

 

 グラスワンダーへ、他の四人の視線が集中する。

 当の少女の顔があっという間に真っ赤に染まる。

 その反応で、勘の良い者はすぐに察した。

 

(ねえキング、今のって……)

(しっ! 滅多なことをいうものじゃないわ)

「ええ!? 今のってマルカブのトレーナーさんの声だったよね!?」

(はいさすが天然、ストレートでいったー!)

(………………あああ)

 

 頭を抱えるセイウンスカイとキングヘイロー、そしてエルコンドルパサーが目を細め訝しい視線をグラスワンダーへ注いでいた。

 

「ハーン、ヒ―ン、フーン、へー、ホーン?」

「な、なんですかエル。変な声を出して……」

「べーつーにー? どうしてグラスの手元からトレーナーさんの声がしたとか、全然気になりませんけどー?

 ……あ、そういえばグラスってウマレーター使うの二度目でしたよねー?」

 

 エルコンドルパサーの言葉に、グラスワンダーは首まで真っ赤になるのを感じた。もう少しすれば異常と判断して安全装置が起動するだろう。

 いつの間にか四人が彼女の周りに集まっていた。

 興味深そうに、イジれるおもちゃを見つけたように、心からの疑問を抱いていたり、そんな視線がひたすらに注がれていた。

 

「は……」

『は?』

「腹を切ります……!」

 

 四人がかりで止めた。

 

 

 

 

 

 

 なお、今回の催しのためにマルカブのトレーナーが他の三人のトレーナーに一晩中酒を奢ることになった話はまたいつか。

 

 





補足 他の黄金世代二人のトレーナーについて
スカイトレーナー:ちょうど中堅とベテランの間くらいの男性トレーナー。チームは作らず担当を常に2、3人に絞っている。おハナさんやたづなさんをちゃん付で呼ぶ数少ない人物。
キングトレーナー:まだ3、4年目の新人同然の若手女性トレーナー。父親が凄腕のトレーナーらしい。何かと父と比べられるのがコンプレックス。

元ネタは詳しい方なら五秒くらいで浮かぶであろうあの人たち。
そんな出番はないし、当時に合わせた年齢でもないのでフレーバー程度に捉えてください。

ツルちゃんは入院中のため不在ということで……。

次回、春天(前編)



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24話 ライスと彼女たちの天皇賞(春) 前編

 トゥインクゥゥゥル・チャンネェェエエル!!

 どうも皆さん、ウマチューバ―やってます、フリージャーナリストの藤井です!

 今日はですね、春の長距離GⅠ、天皇賞(春)目前ってことでですね、なんとトレセン学園に突撃取材したいと思います!

 あ、皆さん安心してください。今回はちゃんと事前に許可取ってますんで、去年みたいに岩塩で殴られるようなオチはありませんよ。

 え、もう一回殴られろ? ローレルに殴られて羨ましい? そこだけ代われ?

 あんた達ね、他人事だと思って好き勝手言い過ぎじゃありません? 痛いんですからねアレ!

 

 さてね、オープニングで掴みはオッケーと言うことでそろそろ行きたいと思います。

 今日はですね、過去に天皇賞(春)を制したウマ娘たちに注目しているウマ娘とか、天皇賞(春)についてとか、いろいろ聞こうと思っています。

 それじゃあ、レッツラゴー! ……え、古いのこれ?

 

 いやー今日もトレセン学園はウマ娘たちで賑わっておりますね。特にもうすぐ春のファン大感謝祭ですから、その準備もある様子。

 さて、インタビュー相手の元へ行く道すがら軽く天皇賞(春)について簡単に説明しましょうかね。往年のファンに皆さんには常識かもしれませんが、最近レースに見始めたって人もいますからね。

 天皇賞(春)。芝のGⅠでも最長距離の3,200mになります。一応GⅡのステイヤーズステークスやGⅢのダイヤモンドステークスの方が長い距離ですが、GⅠでは言った通り最長になります。

 八大競争の一つとされ、開催回数も百を超えていてまさに歴史と伝統の詰まった大レースですな。

 開催場所は基本は京都レース場、会場の改修で阪神レース場になることもありますが、今年は変わらず京都レース場での開催です。

 傾向として、距離が長いだけあってスタミナ自慢のウマ娘が有利ですね。それもあってか、最も強いウマ娘が勝つと言われるクラシック級最後の一冠、長距離GⅠ菊花賞の勝者が勝つことが多いため、まさに現役チャンピオン決定戦なんて言う人もいます。

 まあこのへんは距離適性もあるので、あくまでクラシックディスタンスからステイヤータイプのウマ娘の中でのチャンピオンと思っていればいいですかな。

 

 ……と説明している間にお相手が見えてきましたわ。

 ご紹介します! あの怪物オグリキャップ相手に激闘を繰り広げ、葦毛伝説として今なお語られる天皇賞春秋連覇の白い稲妻! ドリームトロフィーリーグで活躍中のタマモクロスさんです!

 

「おおなんやえらい仰々しい紹介やな藤井ちゃん」

 

 いやーレジェンドウマ娘にインタビューするんですからこのくらいバシッと紹介決めませんとカッコつかないでしょ!

 

「そういうもんなんかな。……ていうか、それやったら『オグリ相手』はないわ。まるでうちがオグリに何度も挑みかかったみたいやん。逆やで? オグリがうちの後ろをチョロチョロついてきたんや」

 

 そりゃあすいませんでした。

 えっと、じゃあインタビュー始めさせてもらっていいです?

 

「ええで、それじゃあよろしく頼んます」

 

 こちらこそよろしくお願いします。

 それではまず、タマモクロスさんの天皇賞(春)への思い出をお願いします。

 

「せやな、うちにとっては天皇賞(春)からGⅠ連勝街道が始まったやったわけやし思い入れ深いレースや」

 

 前哨戦の阪神大賞典から天皇賞(春)、宝塚、そして伝説の葦毛対決となった秋の天皇賞と続いたわけですね。

 今年の天皇賞(春)で注目しているウマ娘はいますか?

 

「うーん、やっぱりミホノブルボンやな。適性に縛られんと夢のために長い距離のレース走ったり、ケガに悩まされたり、それで今は復帰後から芝の全距離GⅠ制覇やろ? ここは天皇賞(春)をビシッと決めて夢に王手賭けて欲しいわ」

「待ちなタマ公! おめーさんちょっと贔屓が過ぎるんじゃあねえかい!?」

「うわあ!? なんやイナリ、今はうちのインタビュー中やぞ!」

 

 あーいえいえ、イナリワンさんにも後でインタビューする予定だったんです。

 同時は予定外でしたけど、タマモクロスさんがよければこのまま……。

 

「なんやそうやったんか。んじゃあイナリ、あんたは誰に注目しとるんや」

「あたしが応援するのは断然ライスシャワーでい! 連覇でこそないけど次勝ったら春天三勝! 大ケガからの大復活に、ミホノブルボンとのライバル対決! こんなの聞かされて、江戸っ子の血が騒がないって方が無茶ってもんよ!」

 

 質問の順番が逆になりましたが、イナリワンさんの天皇賞(春)への思い出をお聞かせ願えますか?

 

「おうよ! あたしにとって春天といやあ日本中にこのイナリワンの名を轟かせたレース! 地方出身だの主な戦績がダートだの、つまんねえこと言いやがる世間をあっと言わせたあの瞬間は、全身の産毛が逆立ったもんよ!」

 

 タマモクロスさん、イナリワンさんともに天皇賞(春)の勝利がその後の活躍にもつながる重要なレースだったというわけですね。

 

「そうやな。それを言うと……ブルボンに注目するって言った手前なんやけど、今年からシニア級に上がってきた連中も無視できんな」

「むむむ……あたしやタマ公みたいに、春天で一旗揚げようって企むウマ娘もいるかもしれないってわけだ」

 

 最強決定戦であると同時に、これからの時代を牽引するスターが登場する可能性もあるということですね。

 

 

 その後も、藤井からの質問に答えていく小さなスターウマ娘二人。気の合う仲ゆえか、時折漫才のようなやり取りが繰り広げられ、二人分の持ち時間はあっという間に過ぎていった。

 

 

 今日は貴重なお話聞かせていただきありがとうございました。

 

「おう、ギャラの方はたんまり頼むで!」

「いつでも聞きに来な!」

 

 さあいきなり平成四強のうちお二人からお話を聞けましたね。

 インタビュー相手はまだまだいますよ。さあ張り切っていきましょう!

 

 ・

 ・

 ・

 

「マヤが注目してるのはー、フクキタルさん! 京都新聞杯とか菊花賞はマヤも見てたんだけど、いつもはすぐ分かることが全然わからなくて、そしたらすっごい走りをして勝っちゃうんだもん驚いちゃった!

 だからね? 天皇賞(春)でもマヤが分からなかったら、もしかしてもしかするかも!」

 

 ・

 ・

 ・

 

「注目、というより個人的に応援しているのはキンイロ――ええ、例の阿寒湖の。惜しいところまで行くけど勝てない、ということに一方的にシンパシーを感じてます。

 目立った勝利こそありませんが実力は十分勝ちを狙えるかと。その……気性がアレなのはそうですが。

 ……あと、どうしてそんなに距離を取ってるんです? 岩塩? あ、あれは不審者と間違えたからと……謝罪もしたじゃないですか!」

 

 ・

 ・

 ・

 

 見ていた動画を止める。

 スマホの中で制止した画像には、二週間後に迫った天皇賞(春)について語られていた。

 流れてくる視聴者からのコメントにはそれぞれが抱く想いや期待が書かれていた。

 復活のステイヤー、夢を目指すサイボーグ、奇跡の一発、念願の勝利。自分たちが贔屓するウマ娘たちへのコメントに溢れていた。

 

「………………」

 

 その中に、メジロブライトの名は無かった。

 インタビューしたウマ娘たちからもその名前が上がることはなかった。

 仕方ないことだ。

 昨年のクラシックで掲示板にこそ乗ったが、勝てたのは重賞が二回。全体から見れば立派な成績だといえるが、彼女が背負うメジロの重責を考えたら誇れるものではなかった。

 もし仮に、メジロマックイーンがインタビューを受けていればメジロブライトの名を挙げただろう。

 しかしそれは真に勝利の可能性を見出しているからではない。メジロ家だから、勝たねばならないと発破をかけただろう。

 それでいい、とメジロブライトは思った。

 史上初の天皇賞(春)二連覇。彼女が成したその偉業は長いメジロの歴史の中で燦然と輝いていた。

 その輝きの一端を、自分も取る。

 英雄も怪物も天才も奇才も、追いつき、追い越してみせる。

 

「もう、のんびりとは言っていられませんね……」

 

 スマホをしまって歩き出す彼女の瞳には、静かな炎が灯っていた。

 

 

 ◆

 

 

 屋内のジムにて、あるウマ娘が周りの視線を集めていた。

 ミホノブルボンがバーベルスクワットをしていたからだ。

 そのまま教本に載せられるような理想的なフォームで、秒も狂わぬ一定のリズムでやっていた。

 まるで機械がやっているような正確さと、修羅のような苛烈さに皆言葉を失っていた。

 

「百九十八……百九十九……二百。三百キロバーベルスクワット完了、三十秒の休息ののちランニングへ移行………休息完了、発進します」

 

 汗も拭わず駆け出すミホノブルボン。その背中がジムから見えなくなって、ようやく他のウマ娘から声が上がる。

 

「ブルボンさんヤバくない?」

「さすがはサイボーグ……」

「いやサイボーグとか関係なくね? あんなんやってたらまたケガしちゃうよ……」

 

 身を案じる声を余所に、ミホノブルボンは走り続けていた。

 その瞳には、大阪杯で敗北したサイレンススズカの背が焼き付いていた。

 

(あのスピードに追い付くには……!)

 

 ペースが上がる。

 すでに無敗の称号は返上していたが、彼女が他の逃げウマ娘に敗北するのはアレが初めてだった。

 一度も前に出るどころか、影さえ踏めない完敗。差を詰めるどころか離されていく絶望。

 今まで追われる立場だったミホノブルボンが、相手に認識されることなく後塵を拝したのだ。

 その事実が、悔しさが、熱となって彼女の身を焦がしていた。

 

「ブルボンさん!」

「……ライスさん」

 

 耳朶を叩く声に、スピードを落とす。

 停止したところで小さな影が近づいてきた。ライスシャワーだ。

 

「ブルボンさんすごい汗だよ、大丈夫?」

 

 ライスシャワーがタオルとドリングを差し出してきた。

 彼女の顔にも汗が浮かんでいた。

 

「……もしかして、何度も呼び掛けていただきましたか?」

「う、うん。でもブルボンさんどんどんと行っちゃうから……やっぱりブルボンさんは速いね」

「いえ、サイレンススズカの方が速かったです」

 

 思わず、そう声に出していた。

 二人の間に気まずい空気が流れる。

 先に頭を下げたのはミホノブルボンだった。

 

「すいません、突然……」

「ううん、ライスこそ余計なお世話だったね」

 

 でも、とライスシャワーが真っ直ぐにミホノブルボンを見る。

 

「次の相手は、ライスだよ」

「…………そう、でしたね」

 

 はっとしたミホノブルボンが眼前の少女を見る。

 自分に比べて小柄な体躯。けれどその身に余分はなく、3,200mを走り抜けるために鍛え上げた鋼の肉体。

 そうだ、次のレースにサイレンススズカはいない。いるのは最強のステイヤー。自分に初めて黒星を刻んだ、漆黒の追跡者。

 

「雑念を払っていただき感謝します。あなたは、余所見をしていて勝てる相手ではありません」

「うん、スズカさんの走りもすごかったけど、ライスも、今はブルボンさんについて行くことだけを考えているよ?」

「それは、油断できませんね……」

 

 小さく笑いあう二人。けれどもその瞳には、雷光のような闘志が迸っていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ハンニャカ~ホンニャカ~エコエコオットセイ~」

 

 夜。寮の門限も近いなか、学園近くの神社で必死に鈴を揺らしながら奇声を上げるウマ娘がいた。

 マチカネフクキタル。

 昨年のクラシック菊花賞バにして、天皇賞(春)への出走を表明している一人だ。

 

「シラオキ様~どうかこの私にご加護を~大吉を~!」

 

 彼女がやっているのは必勝祈願だ、彼女流の。

 傍から見れば一心不乱に鈴を揺らす姿は奇怪の一言だが、運気運勢を特に重視する彼女は必死だった。

 

「ああああああまさかライスさんと走ることになるなんて! 有記念で見たあのプレッシャーをまた受けないといけないなんて!」

 

 マチカネフクキタルの中で、ライスシャワーが有記念にて見せた走りはある種のトラウマとなっていた。

 もっとも、あれはマーク相手がマチカネタンホイザだったので、脚質が近い彼女も巻き添えになっただけで、ミホノブルボンをマークするだろう今回はそこまでプレッシャーはかからないだろう。

 マチカネフクキタルのトレーナーもそう説明したが、彼女にはもう一声確証が欲しかった。具体的には、プレッシャーを受けないお守りが欲しかった。

 当然、こんな時間に神社に来て手に入るわけもない。もはや悪あがきに近かった。

 

「はああああ~~~こんなことしてちゃダメなんでしょうけど、不安です! どこかにラッキーアイテムとか落ちてないでしょうか、この際形とか見た目とか気にしませんから!」

 

 イッタネ?

 

「え?」

 

 突然背後から聞こえた声に振り返る。当然、誰もいない。境内への階段の先から見える夜空に、金の月が輝いてるだけだった。

 風が吹く。春にしては、妙に冷たい風だった。

 

「え、ちょ、ちょっとやだな~神社で心霊現象とかシャレにならないですよ。ああこれは大人しく帰れと言うお告げでしょうか! うう……もうすぐ門限ですし、そうしましょう」

 

 カラ元気を振り絞り、帰路につくことを決断する。

 下へ降りるために階段へと向かって一歩二歩、そして、

 

「フンギャロ!?」

 

 何かに躓いた。

 足元を見ると金のブレスレットが落ちていた。メッキなのか、所々塗装が剥げて地金の灰色が見えていた。

 

「あれ、こんなの来るときありましたっけ? ……はっ!? こ、これはもしやシラオキ様がしつこい私に下さった幸運の腕輪!?」

 

 まじまじと観察する。擦れていて読み辛いがアルファベットの刻印が彫られていることに気付いた。

 

「S、U、N……これはサンデーでしょうか? ……おお! そういえば、天皇賞(春)の開催は日曜日! すなわちサンデー! これはもう間違いないありません!」

 

 早速! と腕輪をつける。妙にしっくり合ったサイズ感。まるで、腕輪の方から肌に吸い付いてくるようだ。

 

「おおなんかいい感じですね! これはなんだかいけそうな気がしますよ~~!」

 

 さっきまでの弱気はどこへやら、ご機嫌な足取りでマチカネフクキタルは寮へと帰っていった。

 

 ……ヤッタネ

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ついにこの日が来た。ライスが三度目の勝利を目指す天皇賞(春)がやってきた。

 私達チーム・マルカブは揃って控室に集まっていた。

 

「こ、ここここが出走前のウマ娘ちゃんたちの控室! ああああ数多のウマ娘ちゃんたちの残り香が、残留思念が! あたしの五感を揺さぶる!!」

 

 早速デジタルのテンションが高い。

 出走者とその関係者しか入れない部屋だから彼女も入るのは初めてだろう。しかし応援でこれでは自分が出走する時大丈夫だろうか。

  

「お待たせ、準備できたよお兄さま」

 

 更衣室から黒のドレスのような勝負服を着たライスが出てきた。

 デジタルの奇声をBGMにライスのコンディションを見ていく。

 直前まで追い込んでいたが足が熱を持っている様子はない。疲労も上手く抜けているようだった。

 

「仕上がりはバッチリだ……今日は待ちに待った天皇賞(春)、ミホノブルボンとの決着だ。頑張っておいで」

 

 ライスが頷く。彼女たちが願ったミホノブルボン最後の一冠を賭けたレースにこそならなかったが、菊花賞以来の長距離レースでの勝負には変わらない。

 ミホノブルボンとしては数年越しのリベンジであり、ライスからしたら三度目の天皇賞(春)制覇がかかっている。連覇でないとはいえ、同一GⅠ三勝は史上初だ。……いや、そんな長くトゥインクルシリーズを走り続ける者の方が少ないのだが。

 

「最優先でマークするのはミホノブルボンだけど、他のウマ娘たちも無視してはいけないよ。菊花賞ウマ娘のマチカネフクキタルははまった時の末脚のキレは油断できないし、前哨戦の阪神大賞典を勝ったメジロブライトも家名を背負っている以上本気で来る」

「うん。今日のライスは、追われる立場なんだよね……」

 

 天皇賞(秋)や有記念は、ライスの適性距離より短いとする声が多かった。

 だが今日はまさに彼女のホームグラウンド、主戦場足る長距離レースだ。過去にはあのメジロマックイーンを真っ向から打ち破っている。

 こちらがミホノブルボンをマークするように、他の出走者たちがライスをマークすることも考えられる。

 

「先月の高松宮記念ではサクラバクシンオーが短距離王者としての威厳を見せつけた。同じように、長距離王者としての力を見せつけよう。

 ……行ってらっしゃい」

「うん。行ってきます」

「先輩、ご武運を」

「頑張ってください!」

「客席から精一杯応援させていただきます!!」

 

 後輩たちの言葉を背に受けながら、ライスが控室を後にした。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ライスさん」

 

 控室を出てターフまでの地下バ道で、ミホノブルボンと出会った。

 

「……ブルボンさん」

 

 ライスシャワーは自分と相反するような白い勝負服姿のミホノブルボンを観察する。

 向こうもコンディションはバッチリなようで、先日会った時のような焦りは見られなかった。

 見紛うことなき強敵。マークの最優先対象とする見立ては間違っていなかった。 

 

「今日は……いえ、今日こそ勝ちます」

 

 宣戦布告をしたのはミホノブルボンから。

 真っ向からライスシャワーも返す。

 

「ううん、今日もライスが勝ちます」

 

 闘志がぶつかり合い火花を散らす。

 そんな、周りのウマ娘が近づけないほどの熱を発する強者の間へ、

 

「申し訳ありませんが、勝つのは私です……」

 

 堂々と割って入る者がいた。二人のGⅠウマ娘が視線を向ける。

 ふんわりした長い鹿毛のウマ娘がいた。白とライトグリーンの勝負服、その目は眠いのか半開きだが溢れんばかりの闘志が燃えていた。

 そのウマ娘の名は――――

 

「メジロブライトと申します。お二人と走るのは初めてですね、どうかお見知りおきを」

「メジロブライト……データベースにヒット、あのメジロライアンと同じチームでメジロ家のウマ娘」

「はい~その通りございます。……天皇賞(春)は我がメジロ家の悲願。マックイーン様以来の春の楯は、私がいただきます」

「残念ですが勝つのは私です。夢のために、そしてライバルへのリベンジのために」

「ライスも、天皇賞(春)は思い入れのあるレースです。絶対に、譲れません」

 

 メジロブライトの雰囲気は一見穏やかな雲のようだった。しかし間近でその闘志を見た二人はすぐに気づく。そのふわふわとした奥には、間違いなく天に轟く雷が控えていることを。

 前哨戦を勝ち上がり、そして家の重責を背負うその姿は、間違いなく優勝候補の一人だった。

 

「ふっふっふっふっふ……お三方とも、随分とやる気満々ですな」

 

 怪しい声とともに、四人目が輪に加わった。

 三人が声の方を向いて、三人とも首を傾げた。

 

「マチカネフクキタル……さん?」

 

 見知った顔だが、ライスは思わず首を傾げた。

 セーラー服にも見える勝負服姿のウマ娘は、間違いなく昨年の菊花賞を制したマチカネフクキタル。しかし、違和感があった。というか、目の色がおかしかった。

 

「えっと、大丈夫?」

「大丈夫、とは? 今の私は絶好調ですよ! この、幸運のブレスレットを拾ってからは!!」

 

 ジャキ――ン、と効果音が響きそうな勢いで見せつけてきたのは薄汚れた金のブレスレット。メッキが所々剥げて地金が覗く、どこから見ても貧相なアクセサリーだった。

 

「これを拾ってからなんだか力が妙に溢れるんです。ご飯もいつもよりたくさん食べられるしトレーニングも捗りました! これぞシラオキ様から授かった春天必勝のラッキーアイテム! これを身に着けた私はもうマチカネフクキタルではない!」

「ほわあ……では、どちら様でしょうか?」

「スーパーマチカネフクキタルです!!」

「…………ライスさん、救急車を。マチカネフクキタルさんの頭がおかしいです」

「い、言い方! ほ、本当に大丈夫なんだよね、フクキタルさん……?」

「心配ご無用! むしろ、皆さんは自分の心配をするべきでしょう。何故なら、このスーパーマチカネフクキタルがこのレースを制するのですから!」

 

 ほーほっほっほっほ、と高笑いを浮かべて一足早く、マチカネフクキタルはターフへ向かっていった。

 残された三人は呆然としつつも、すぐに意識を切り替えて後を追う。

 

 

 春の祭典、現役最強を決める天皇賞(春)。

 夢、希望、悲願。多くの譲れない想いを胸に抱いたウマ娘たちがゲートに入る。

 

 そして、春の門は開かれた。

 

 





補足
藤井:シンデレラグレイに登場する記者。オグリがダービーに出れるよう奔走したりした人。現代基準にしたらSNS駆使してそうってイメージだけでチューバ―として登場(偏見)。
昨年はマヤノトップガンに突撃取材しようとしたらサクラローレルに不審者と思われて岩塩攻撃されたという設定。

あとフクキタルがこの後不幸になるとか、酷い目に会うとかはありません。
ホントダヨ・・・・・・?


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25話 ライスと彼女たちの天皇賞(春) 後編

 レースのみなので、やっぱりちょっと短めです。



 

『唯一無二、最強の証である春の楯を賭けた熱き戦いが始まります。

 最長距離のGⅠ、トゥインクルシリーズ春の大一番、天皇賞(春)。天候にも恵まれ、良バ場の発表です。

 三番人気は昨年の菊花賞ウマ娘マチカネフクキタル。同じ京都であの末脚は炸裂するか。

 二番人気はミホノブルボン。復帰後初の長距離レースですがこの人気、ファンからの期待の高さが伺えます。

 一番人気はライスシャワー。淀の青いバラは再び咲くか。天皇賞(春)三度目の栄冠に手は届くのか。

 大阪杯から続き、二つの世代の激突がこの京都レース場でも繰り広げられるのか。期待を胸にファンの方々がスタートを今か今かと待っております。

 

 各ウマ娘がゲートに入り……今スタートしました!

 真っ先に飛び出しハナを取ったのはダービーウマ娘ミホノブルボン、その後ろをライスシャワーが追います。

 かつてクラシックを争った二人がレースを引っ張る形となりました。

 縦長に広がる展開の中、注目される菊花賞ウマ娘マチカネフクキタルは中段に控え五番手から七番手。最後方にはメジロブライトが着きました』

 

 スタートしてすぐ、悲鳴の混じったどよめきが起こった。ミホノブルボンが突然スピードを上げ、ライスシャワーを引き離し始めたのだ。

 

『ミホノブルボンがぐんぐんと逃げる! 逃げる!! 逃げる!!! 二番手のライスシャワーとの差が三バ身四バ身と広がっていきます! 今日は3,200mの長丁場、スタミナが持つのかミホノブルボン!』

 

 天皇賞(春)は向こう正面からスタートして外回りのコースをおよそ一周半する。その特徴は二度走ることになる登って下る坂だろう。

 当然坂を上るのは平地を走るよりもスタミナを消費する。下りになれば楽になるが、加速してしまうため体力が回復することはない。

 二度の坂を超えられるだけのスタミナと二度目の下り坂から最終直線まで続く末脚、そしてその間のレース展開を予測するだけの思考力。まさしく現役最強を決めるにふさわしい過酷なレースだ。

 故に、二度目の坂を上り終えるまでは脚を溜めたり牽制をしあうことが多い。

 ミホノブルボンは菊花賞以来の長距離レースゆえに、経験不足から判断を間違えた。多くの出走ウマ娘たちがそう考えた。

 ただ、ライスシャワーだけが違った。

 

(この展開は……)

 

 ミホノブルボンは大阪杯でのサイレンススズカへの敗北を意識していた。だから最初は彼女の影を拭いきれず掛かったのかと思った。

 だが違う。これに近い展開を、ライスシャワーは以前に経験していた。

 

(ターボさんに逃げ切られたオールカマーに近い……!)

 

 自滅すると思わせて全体をスローペースにし、仕掛け時を誤らせてライスシャワーから逃げ切った青い逃亡者。

 あれは中距離の中山レース場で、コースも距離も今日は違うが雰囲気として近いものを感じていた。

 スタミナに自信のあるライスシャワーから見てもミホノブルボンのペースは速い。最後までスタミナは保たず、最終直線を待たずに失速する。常識で考えれば誰もがその結論に至る。

 しかし、

 

(相手は、ブルボンさんだ!)

 

 スプリンターだと言われ続けても、常軌を逸したスパルタなトレーニングによって日本ダービー(2,400m)すら逃げ切った怪物。

 そんな彼女を、常識の枠に入れてはいけない。

 ライスシャワーはペースを落とさない。自分の末脚、最高速度に至るまでの時間、差すのに必要な距離を計算し、ミホノブルボンを自らの射程範囲に入れ続ける。

 皐月賞と日本ダービーは逃げ切られた。菊花賞と天皇賞(秋)は捕えた。だから、今度も逃がしはしない。

 

(ついてく、ついてく……!)

 

 

 

 ◆

 

 

 

 先頭を走り、ただ一人一度目の登坂に入ったミホノブルボンは、背後から絶えず届く気配を感じていた。

 

(やはり、ライスさんとの距離は思った以上に離せませんか……)

 

 ちらりと見て目測したところ、ライスシャワーとの差は約七バ身。それ以上は引き離せず、そして向こうも無理して詰めてくることはなかった。

 

(そこが、あなたの射程圏内ということですか……)

 

 坂を上り切り、下り坂に入る。

 重力に下手に逆らわず、されどむやみに加速して疲弊しないように下っていく。

 坂を下れば平坦な直線、そして観客が詰め込まれたスタンド前を通過する。

 向う正面のスタート位置からでも聞こえていた歓声はより強く、激しく、雷雨のようにウマ娘たちの耳朶を叩く。

 ノイズと吐き捨てる者もいれば声援が背を押してくれたと語る者もいる。だが、ミホノブルボンにとっては一種の環境音に過ぎなかった。

 視線を少しだけ動かしてスタンドを見る。数多の観客の中、黒沼を見つけた。

 向こうもミホノブルボンが見つけたのに気付いたのだろう。腕を組んだまま、深く頷いた。

 

 ……作戦は上手く行っている。このまま行け。

 

 長年の付き合いゆえ、視線だけで意思疎通は完了した。

 ミホノブルボンは迷いなく、単騎でコーナーへと入っていく。

 

 

 ◆

 

 

 

「ああああブルボンさんってば、あんなに飛ばしてしまって最後までもつんでしょうか……」

「もつさ。彼女が、黒沼さんがそんな失態をするとは思えない」

 

 デジタルの疑問に答える私の脳裏に過去の記憶が蘇る。

 ミホノブルボンの走りはかつてオールカマーでツインターボが見せた逃げを連想させる。

 おそらく狙っているのだろう。そうすれば、ライスとの一騎打ちに持ち込めるから。

 もはや伝説として語られるツインターボの逃走劇だが、それを直に見たトゥインクルシリーズ現役のウマ娘はもう多くない。ましてあれは中距離GⅡ、ライス対策としても長距離GⅠの今日のレースに備えて態々映像を見直す陣営もいないだろうから、引っかかるのも無理はない。

 とはいえ、ターフに視線を向ければ下り坂の勢いを利用して前に出始めたウマ娘たちがちらほらいた。その中にはマチカネフクキタルやメジロブライトもいる。あの中の何人かは勝った負けたの競り合いに食い込んでくるだろう。

 一方で、ミホノブルボンは失速するだろうと待ちの姿勢を取った他のウマ娘たちはもう追いつけない。

 それを証明するように、ミホノブルボンがスピードを落とすことなく向こう正面へと入っていく。

 スタートした地点を超えれば再び登坂となる。

 ミホノブルボンが二度目の上り坂に入るころ、ライスや下りで位置を上げてきたウマ娘たちは向こう正面の直線にいたが、控えたウマ娘たちはようやくスタンドからコーナーへと入ったところだ。

 上った坂を下れば平坦な直線を走り切ればでゴールとなる。それを知っているウマ娘たちは、未だ失速する様子のないミホノブルボンに肝を冷やしただろう。

 慌ててペースを上げだすウマ娘が出始めたが、登坂を前にその行為は誤りだ。碌にスピードが乗らないくせにスタミナだけを消耗する悪手。

 

「決まったかな……」

 

 黒沼トレーナーとミホノブルボンの作戦に見事嵌ったわけだ。後方集団はもう相手にならない。

 残るは下り坂の勢いで差を縮めていくライスと、その後ろを走る二番手集団だけだろう。

 

 

 

 

 

 

 ライスシャワーが二度目の坂を上り切った時、すでにミホノブルボンは坂を下り始めていた。

 

(大丈夫、脚は十分に残ってる。ここから一気に……仕掛ける!)

 

 芝を蹴り、小柄な少女が黒い弾丸と化す。颶風を纏って坂を下っていく。敢えてやや外を回ることでコーナーも直線的にして加速を殺さずに突き進む。

 ミホノブルボンの背中がぐんぐんと近づいてくる。

 この勢いなら、最終直線に入ったころには捕らえられる。

 勝利への核心と、ライバルとの競り合いに感情が昂った。

 瞬間――

 

「フンギャロオオオオオオ!!!」

「―――なっ!?」

 

 奇声とともに、マチカネフクキタルが最内をついてライスシャワーに追いついた。

 不意を突かれたがなんとか走りを乱さずにいられた。

 ミホノブルボンとの距離を約一バ身まで縮めた状態で最終コーナーへと入っていく。

 ライスが勢いを殺さぬようやや外に走るのに対して、マチカネフクキタルは最短距離でコーナーを曲がっていく。

 

(なに……!?)

(フクキタルさん、こんなにコーナーが上手いなんて!?)

 

 ライスシャワーとミホノブルボンが目を見張るような見事なコーナリングでマチカネフクキタルが一瞬で先頭へと躍り出た。

 勝負は、最終直線を迎える。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 今日の自分は一味違う。スタートした瞬間からマチカネフクキタルはそれを肌で感じていた。

 妙に勘が働くのだ。位置取り、ペース配分。ミホノブルボンの逃走劇を前にしても、これで良いという回答がふと頭に浮かんでくる。

 それに従えばこの通り、最終直線で自分が先頭を走っているではないか。

 

(やはり、このブレスレットは幸運のアイテム! 私の祈りにシラオキ様が遣わした勝利の女神!)

 

 極めつけは先ほどの下り坂だ。まるで道しるべの様にコースを走る光の線が見えた。

 間違いない。これを辿れば勝てるのだ。

 ダービーウマ娘に、最強を下した黒い刺客に。

 

(見ててくださいよぉおおおおトレーナーさああああん!!)

 

 しかし、調子に乗ったマチカネフクキタルはあること忘れていた。

 前に出るということは即ち、彼女の標的になるということを。

 

「オヒョ?」

 

 ぶわっ、と汗が噴き出した。疲労ではない。背後から叩きつけられる、絶対に逃がすものかという重度のプレッシャーが全身の汗腺を開かせたのだ。

 ちらりと後ろを窺えば、餓狼のごとき形相で、ライスシャワーがすぐ背後に迫っていた。

 

『メジロブライトも上がってきたが間に合うか!?

 ミホノブルボンは現在三番手、巻き返せるか!?

 先頭を走るマチカネフクキタルをライスシャワーが猛追! いや並んだ、並んだ! 最後の直線、先頭を走るのはライスシャワーとマチカネフクキタル! 菊花賞ウマ娘同士の一騎打ちだ!!』

 

 ミホノブルボンの作戦は上手くいっていた。彼女自身ここまで悪手を打ってはいない。

 故に、今彼女が先頭にいないのは、純然たる実力によるものだと悟った。

 ステイヤーとしての素養の差。それに尽きるのだろう。

 しかし、

 

(ライスさん……)

 

 己が好敵手、彼女と最後に競り合っているのが自分ではない。

 それだけは、どうしても認められなかった。

 

 感情を燻らせていたのはメジロブライトも同じだった。

 名門メジロ家の悲願、天皇賞(春)の楯を持ち帰ったのはメジロマックイーンを最後に久しい。

 有望視されたメジロライアンも、枠から外れようとしたメジロパーマーも遂には勝てなかった。

 業界の片隅で語られるメジロ家凋落の噂。それを覆すために出走したのに、このまま終われば噂はさらに補強される。

 それだけは、受け入れられない。

 

 燻った想いに熱が入る。やがてそれは炎を生み、己が血肉を食らって大きくなる。

 ライスシャワーの相手は――

 春の楯を持ち帰るのは――

 

「「私だあああああああああっ!!!!」」

 

 身を焦がすほどの業火が、限界を超えて二人の脚を突き動かした。

 

『ライスシャワーとマチカネフクキタルのデッドヒート!! 勝負の行方はこの二人に託され――いや、ブルボンだ! ブルボンが上がってきた! メジロブライトも猛追! 追いつくか! 追いついた! 菊花賞ウマ娘の激闘に、ダービーウマ娘とメジロの新星が加わった! 四人並んで最後の猛スパートだ!

 淀の王者か!

 ダービーウマ娘か!

 幸運の末脚か!

 メジロか!

 今、四人がもつれ合うようにゴールイン! 大接戦だ! 激闘いや死闘! まさに意地とプライドがぶつかり合う名勝負でした!

 ああ! マチカネフクキタルが勢い余って転倒! 大丈夫か……大丈夫のようです。ライスシャワーが助け起こしております。

 さて順位ですが……こちらからはわずかにライスシャワーが体勢有利に見えました。ですがほぼ団子状態のゴール。大接戦、誰が一着でもおかしくはないでしょう。

 ……今、掲示板が点灯しました!

 

 

 ライスシャワーだ! 一着はライスシャワー!!

 やはり淀の王者は今も強かった! 京都レース場に、三度目の青いバラが咲きました!

 二着はメジロブライト!

 三着はマチカネフクキタル!

 ミホノブルボンは惜しくもハナ差のハナ差、そのまたハナ差で四着に敗れました!』

 

 

 ◆

 

 

 

「やった……やったよぉ……!」

 

 掲示板の頂上に輝く自分の番号を見て、思わずライスシャワーはぺたりと座り込んでしまった。

 激闘だった。最後に競り合ってきたミホノブルボンもだが、前年クラシックでしのぎを削ってきた二人も強かった。

 もう一度走って同じ結果になるとは言えない。四人とも胸に抱いた意志と誇りは互角。競り勝てたのは、ステイヤーとしての経験の差だった。

 3,200mを走り切り、激しく消耗した少女の耳朶を叩く割れんばかりの拍手と歓声。

 

「ライスシャワーーー!!」

 

 ファンの一人が叫んだ。同時にスタンドから青いバルーンが飛んだ。

 後に続くようにいくつもの同じ色のバルーンが空へと舞い上がっていく。

 そのうちの一つに括られた垂れ幕が風に舞い、刻まれた文字をレース場にいた全員に見せつける。

 

 天皇賞(春)三勝目おめでとう! 淀の英雄に祝福を!

 

英雄(ヒーロー)……ライスが……」

「はい、空を舞うあの言葉に間違いはありません」

 

 ミホノブルボンがライスシャワーの隣に腰かけた。

 彼女の息もまだ荒く、肩が上下している。

 

「ブルボンさん……」

 

 彼女の瞳に、悲しみの色があることにライスシャワーは気づいた。

 四着、天皇賞(秋)と同じく、自分より後の世代に競り負ける結果となった。四人全員僅差だったとはいえ、かつて世代最強とも呼ばれた彼女の戦績に刻まれる数字としては大きかった。

 しかし、

 

「おめでとうございますライスさん。やはりあなたは強かった」

 

 まずは、勝者を祝福しよう。三度目の春の楯、その栄光を素直に称えよう。

 不思議なことだが、ミホノブルボンにとって、ライスシャワーが褒められることは自分が褒められたように嬉しいことなのだから。

 

「次は負けません……」

「―――いいえ、次もライスが勝ちます」

 

 笑いながら、黒と白の少女たちは固い握手を交わした。

 次もまた、熱い勝負をしよう。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 オチ。

 マチカネフクキタルは疲弊した体を引きずるように地下バ道を歩いていた。

 激走の3,200m。菊花賞を勝利し、一角のステイヤーである自覚があったが疲れるものは疲れるのだ。

 さらに勝てなかったことも彼女の心を消耗させていた。一瞬勝ったと思ったら歴戦の猛者と誇りを賭けた猛追の前に敗れてしまった。油断、気の緩み、そう言われても仕方がなかった。

 

「はあ……情けないです。せっかくシラオキ様から幸運のブレスレットを授かったというのにこの体たらく。トレーナーさんに合わせる顔がありません……」

「フークー!!」

 

 俯いた自分の愛称を呼ぶ声。顔を上げると、たった今呟いた自身の担当トレーナーが急ぎ足でやってきた。

 

「トレーナーさん。あの、私……」

「惜しかった! いや本当に惜しかった! 勝てなかったけど、お前はよくやったよ!」

 

 拳を握り、健闘を称えるトレーナー。

 とりあえず、彼の期待を裏切ったわけではないと分かって胸をなでおろす。

 そして、トレーナーの背後に別の人影があるのに気付いた。

 

「トレーナーさん。その、後ろにいる方は?」

「ん? ああ悪い、紹介が遅れた。今さっきそこで話しかけられたんだ。フクの走りに感動したって言ってさ、できれば一緒にトレーニングさせて欲しいんだって。ほら、君も前に出て」

 

 トレーナーに促され、黒い影が前に出てくる。

 

「……初めまして、マンハッタンカフェと言います。今年からトレセン学園の高等部に入りました」

 

 長い黒髪のウマ娘が静々とお辞儀した。月を連想する、金の瞳が印象的だった。

 

「よかったなあフク、後輩ができたぞ!」

「え、ああはい! 私の走りに感動なんてありがたいですよね! マンハッタンカフェさん!」

「カフェ、で構いませんよ。先輩」

「では、カフェさん。これからよろしくお願いしますね!」

「はい。末永く、今後とも………………」

 

 ………………コンゴトモ、ヨロシク

 

 

 

 




 トモダチが増えたよ、やったねフクちゃん!

 明日でいったん、毎日投稿は終了します。


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26話 マルカブと五人目

 ちょっと長め。あと連日投稿は一旦ここまでになります。
 感想、誤字報告などありがとうございました。
 また書き溜めに入りますので続きはしばらくお待ちください。
 


 春のビッグレースである天皇賞(春)はライスシャワーの勝利に終わった。

 連覇でこそないものの、三度目の天皇賞制覇は偉業として各種メディアに称えられた。今日も彼女はトレーナーと一緒に取材対応だ。

 そして有記念に続くGⅠ二連勝にライスシャワーと彼女が所属するチーム・マルカブの名声はまた一段と高まった。

 特にチームの名は他のメンバーもジュニア級でGⅠを勝利していることから、今後の動向もより注視されるようになった。

 しかし、

 

「一向にメンバーが集まらない、デス!」

 

 ある日の放課後、トレーニングコースを眺めながらエルコンドルパサーが呻いた。

 彼女の隣ではアグネスデジタルが双眼鏡を使って同様にコースを見ている。

 天皇賞(春)も終わり、五月末の日本ダービーが終わればメイクデビューの時期が始まる。コースではデビューを控えたウマ娘がトレーナーから指導を受けていたり、まだ担当のいないウマ娘たちが自主トレに集まり互い切磋琢磨している。特に最近は皐月賞や天皇賞(春)の激闘に触発されたのかより熱が入っているのが伝わってきた。

 エルコンドルパサーたちがいるのは、まだ担当やチームに所属していないウマ娘をチーム・マルカブに勧誘するためだ。なお、グラスワンダーは脚の経過観察のため病院に行っている。

 GⅠをいくつ取ろうが、規定メンバー不足の問題は消えない。今は大目に見てもらえているだけなのだから、早く解決して後顧の憂いを払うべきというのがマルカブの総意であった。

 が、そう上手くはいかない。

 すでに頭角を現しているウマ娘はベテラントレーナーやトップチームに勧誘されているし、将来有望と理由をつけて選抜レースもまだなウマ娘をスカウトしても良いが、ただの数合わせのようなスカウトはトレーナーが許さないだろう。

 あと一人、だがそのあと一人がどうにも遠かった。

 

「ふと、疑問に思ったのですが……」

 

 アグネスデジタルが双眼鏡ごとエルコンドルパサーの方を向く。

 

マルカブ(うち)ってどうしてこんなあくせくしてメンバー集めてるんでしょう? エル先輩もグラス先輩もGⅠウマ娘で、ライス先輩に至ってはGⅠを通算五勝です。その……ウマ娘ちゃん側から入りたいという声はないんですか?」

 

 後輩の質問に、エルコンドルパサーは苦い顔をする。

 GⅠ五勝というと、数だけで語ればあのナリタブライアンに並ぶ戦績だ。

 エルコンドルパサーとグラスワンダーのジュニア級GⅠは、世間的には今後が期待の成績程度。しかしウマ娘側からしたらデビューして一年目で勝負服を着ることができた時点で羨望の的だろう。

 その三人が所属するチーム・マルカブ。彼女たちの後に続きたいと思うウマ娘は多いはず。

 なのだが、

 

「それはまあ、トレーナーさんの性分のせいというか……」

「はあ……性分ですか?」

「トレーナーさんってば、行き詰ってたり迷ってたりするウマ娘を見るとすぐアドバイスしちゃうんデス」

「なんともらしい……でも、同じようなことをするトレーナーさんは結構いますよね」

 

 放課後、一人でもがくウマ娘にトレーナーが見かねて声をかける。ドラマのような光景だが、トレセン学園では割とよく見かける。

 その二人がのちにコンビを組んだりするのとエモい。そういった日は筆が良く進むのをアグネスデジタルは思い出していた。

 

「そうなんデス。でもアドバイスしてウマ娘が成果を出したらみんなスカウトの話になります。ところが、どういうわけかトレーナーさんは『うんうん、良かった。これでスカウトの声もかかるだろう』って言うんデス」

「ええ……」

 

 スカウトしろよそこは。思わず言いかけてしまった。

 いやしないから今のマルカブなんだろうが。

 アグネスデジタルの想いを察したのか、エルコンドルパサーも同意するように頷いた。

 幸いなのは、トレーナー自身にも一応メンバーを増やす意思が見られるところか。以前のライスシャワーの泣き落としがよほど効いたのか、あれ以来新入生の名簿や教官から提供されるデータを眺める姿が見られた。トレーニングコースにも顔を出している。アグネスデジタルと二人で作った新歓レースからの注目リストにも幾度も目を通していた。なので問題は、彼がスカウトしたいと思う――琴線に触れるような――ウマ娘がいるかどうかなのだろう。

 

「むむむ……もしかしたら、トレーナーさんは手のかかる子の方が相性良いのかもしれませんね」

「それは――」

 

 盲点だった。アグネスデジタルの発言に、目から鱗とはこのことだなと思った。

 エルコンドルパサーも他の二人も、心配性の彼を気遣って手のかからなそうな、加えて即戦力になりそうなウマ娘を薦めていた。

 だが、それが見当違いだったとしたら。

 

(そういえば、ライス先輩も昔は自信が無くて何かとネガティブなウマ娘だったと言ってたデス……)

 

 後ろ向きだったライスシャワー、こうと決めたら中々己を曲げない頑固なグラスワンダー。なるほど一朝一夕で解決する問題ではないだろう。

 

(トレーナーさんは、手のかかる……というより見ていてあげなきゃいけない子をスカウトしがち?)

 

 余談だが、そういうエルコンドルパサーも放っておいたらハードトレーニングに走りがちなので、目を離せない一人である。

 

「じゃあ、もしかしたら……」

 

 以前作ったリストを引っ張り出す。

 即デビュー、即戦力となるようなウマ娘ではない。むしろ、手がかかりそうな――ヤンキーという意味ではなく――トレーナーが目を離していられないような。そんな子が……

 

「…………いた」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ある日、ライスへの取材依頼がひと段落した頃を見計らって、エルから新メンバー候補を見つけたから会って欲しいと連絡があった。

 自分のレースも近いのに、地道に探していてくれたことには感謝しかない。

 指定された時間は放課後、生徒たちのほとんどがトレーニングで校舎からいなくなる頃だった。

 

「トレーナーさん! 早く早く!」

 

 私の前を進むエルが振り返って私を急かす。

 人気のない廊下を二人で進んでいく。

 

「エル、そろそろ君が見つけた候補について教えて欲しいんだけど」

「ふっふっふー、それは見てのお楽しみデース!」

 

 エルの歩みがスキップに変わる。

 

「トレーナーさんには先入観無しに会って欲しいんデス。大丈夫、きっと気に入りますから!」

 

 楽しそうに進んでいくエル、よほど自信というか逸材を見つけてきたのだろうか。

 やがてエルが空き教室の前で止まった。どうやら、ここが待ち合わせの場所らしい。

 ノックをする。

 

「は、はい~~……」

 

 返事があった。が、かなり小さく、弱弱しい。まるで力尽きる寸前のような。

 エルと顔を見合わせ、即決。

 

「大丈夫か!?」

「大丈夫デスか!?」

 

 返事を待たずに扉を開ける。

 飛び込んできたのは、まるで嵐にでも通過したかのような惨状だった。綺麗に整列していたであろう机や椅子が散乱した教室。

 その中で倒れているウマ娘を見つけた。

 エルが駆け寄っていく。

 

「ド、ドトウ、一体何があったデスか!?」

「エ、エルさん……」

 

 上がった顔に見覚えがあった。

 新歓レースの時、気になったウマ娘としてデジタルとエルが作ったリストにあった子だ。

 鹿毛の髪の真ん中を走る白い大流星が特徴的なウマ娘。

 名前は―――

 

 

 ―――メイショウドトウ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 何があったのか尋ねると、どうやら誰かに襲われたとかではなかったようでとりあえず安心した。

 体を何か所か打ったようだが、特に痣もなくケガも無さそうだったのでほっと胸を撫で下ろした。

 私たちが来るのを待っている間、手持ち無沙汰だったメイショウドトウは教室に目立つ汚れがあることに気づいたらしい。

 生徒たちによる校内清掃の時間は毎日あるが、元より普段使いされていない空き教室、手を抜く者もいるだろうし、手が行き届いてなくても咎める者はいないだろう。

 しかしこれからここを使うのだから、来る人たちが不快に思わないようにと掃除をしようと思い立ったらしい。

 そして何故か、躓くわ動かそうとした机をひっくり返すわで、掃除のつもりがあれよあれよと教室を散らかしていってしまったらしい。

 ……なんというか、ドジとかうっかりのレベルを超えているのではないだろうか。

 これが頻繁に起こっているのならばいつかのライスの不運に匹敵するかもしれない。

 まあそのあたりは置いておくとして、

 

「とりあえず、片付けようか」

 

 散らかったままでは落ち着いて話もできない。

 

「い、いいいいえいえいえ! 私が散らかしたんですから私が片付けます! トレーナーさんや先輩にそんな迷惑をかけるわけにはいきません!」

「迷惑だなんて思わないよ。今日は君と話をしに来たんだから。エル、手伝ってくれる?」

「分かりました! まずは机からデスね」

 

 ひょい、とエルが散らばった机を複数まとめて持ち上げる。流石はウマ娘、力では大人の私でも敵わない。

 私は倒れた椅子を起こしてまとめておく。

 ……しまった、二人でやってはメイショウドトウを蚊帳の外にしてしまう。

 

「メイショウドトウも一緒にやるかい? 三人でやればそれだけ早く終わるだろう」

「え、ええ……」

 

 戸惑うような視線。いや、もとは彼女が一人でやろうとしたことを横取りしているのだから当然か。

 

「ドトウ。トレーナーさんはこういう人ですから、気にしなくていいデスよ」

「こういうってどういう意味……いや、まあいいか」

 

 教室の隅にあった用具入れから箒を取り出しメイショウドトウに渡す。

 呆気に取られたのか、私と箒を交互に見ていた彼女だったが、やがては箒を受け取りおずおずと床を掃き出した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ただ黙々と掃除をしているのも味気ないし、エルとだけ会話するのも気が引けた。結果として、教室掃除はメイショウドトウと気軽に会話をするきっかけになった。

 彼女も面接の様に畏まって答えるよりも何か作業をしながらの方が緊張しないのか、色々と彼女自身の話を聞くことができた。

 両親が転勤族で各地を転々としていたこと。そのため長く付き合いのある友人が出来なかったこと。

 引っ込み思案な性格と妙にドジなのも災いして自分に自信が持てず、けれども家族に励まされ自分を変えるためにトレセン学園に入ったこと。

 入学して早速憧れるウマ娘が出来て、彼女のようになれたらと夢見ていたこと。

 

「じゃあそのウマ娘はメイショウドトウの目標というわけだね」

 

 掃除も終わり、用具も片づけたところでようやく彼女と正面から向き合った。

 む……前かがみというか、姿勢が俯き気味のため気づかなかったが、大きいな。

 身長のことだ。

 マルカブ(うち)で一番大きいのはエルだが、メイショウドトウはそれよりも大きい。

 当然、身長のことだ。

 

「も、目標だなんてそんな……私がそんなこと言うなんておこがましいですよ」

 

 憧れてはいるが、そうなりたいと口に出すのは憚れるらしい。

 遠慮というか、成功体験が少ないことによる自信のなさ、自己評価が低いのだなと感じた。

 

「そういえば、エルはどうして彼女をマルカブに推薦したいんだい?」

「ケ? デジタルと色々話したんですが、トレーナーさんってこういう子が気になるんじゃないかなって」

「えっと……気になるというのは?」

 

 もしや私が外見でスカウトしていると思われているのだろうか。

 

「掃除中もそうでしたけど、ドトウってなんというか目が離せないじゃないデスか。ヒゴ欲? みたいな。……トレーナーさんってそういう、放っておけない感じのウマ娘をスカウトしたいのかなって」

 

 ……なんとも、否定できない答えだった。

 確かにライスをスカウトする時も、自信が持てない彼女に最初の一歩を踏み出せるようにと苦心した覚えがある。

 まあ私の琴線に触れるかは置いておくとして、こうしてエルとデジタルが機会を設けてくれたのだ。無碍にするのも悪い。……というより、ここでメイショウドトウをスカウトしなかったら確実にライスの正座説教コースだ。

 

「えーっと、メイショウドトウはこの場についてどう聞いているのかな?」

「は、はい……エル先輩には、自分のチームに入らないかと。トレーナーさんに紹介するし、話だけでもと」

 

 なんかキャッチセールスみたいな勧誘だ。

 

「で、でもでも……私なんかがGⅠをいくつも勝っているマルカブさんに入るなんて無理です! 私が入ったら皆さんに迷惑かけるし、きっと碌に活躍できなくてチームの評判も落としてしまいます……」

 

 そしてメイショウドトウのネガティブさは随分と根が深そうだ。

 エルもやれやれと首を振っていた。

 なるほど、これはエルの言う通り放っておけないタイプだ。

 

「君は――」

「その話、ちょっと待ったーーー!!」

 

 私の声を塗り潰す声とともに教室の扉がズバーンと開いた。

 そして堂々とした歩みで、一人のウマ娘が入ってくる。

 

「はーはっはっはっは! ご歓談のところ失礼する!」

「オ、オペオペオペぺぺぺぺオペラオーさん!?!?」

「そう! ボクこそが! 朝日よりも輝き、月光よりも美しい、世界を遍く照らす未来の覇王、テイエムオペラオーさ!」

 

 ジャーン、とどこからか効果音でも聞こえてきそうなポーズをとるハイテンションなウマ娘の名は、テイエムオペラオー。

 新歓レースでも圧巻の走りを見せ、トレーナー陣から一目置かれた今年一番の逸材と言われたウマ娘。

 芝居がかった口調と自信過剰にも見えた態度に呆れる者もいたが、入学して一月も立たずしてあのリギルの選抜レースを勝ち抜き、見事東条トレーナーからのスカウトを勝ち取った傑物だ。

 そしてメイショウドトウの反応から察した。彼女が憧れたというウマ娘がテイエムオペラオーなのだろう。

 

「貴方たちの会話は聞かせてもらったよ」

「……ちなみに、どこ辺りから?」

「ふ……『トレーナーさん! 早く早く!』のあたりからさ!」

「ケ!? 最初から、というかエルたちをつけてきたんデスか!?」

 

 テイエムオペラオーの言が本当なら、おそらくは私たちがメイショウドトウを助けたり教室を掃除しているところもずっと眺めていたのだろうか。

 私の考えを察したのか、テイエムオペラオーが仰々しく頭を下げた。

 

「ああ、お三方を手伝わなかったことは謝罪しよう。しかし、ボクには友人を助けるよりも貴方たちとドトウがどうなるかが気になってしまったのさ」

「というと?」

「ボクはリギルに入り、今年中にもデビューを迎える。そして来年はクラシックを席巻する。その時、必要なものはわかるかい?」

 

 芝居がかった口調と動きで、私に問うてきた。

 必要なもの……基礎、レース勘、諦めない気持ち、色々浮かぶがそんな当たり前なものではないのだろう。

 彼女はあの東条さんがリギルに迎え入れ、グラスやエル同様に入学早々にデビューを決めるような逸材。その程度の物はすでに持ち合わているかもしれない。

 ……テイエムオペラオーはクラシックと言った。デビューではなく、クラシックだから必要なもの。それは―――

 

「……ライバル、とか?」

「そう! ルゥアイヴァル(超巻き舌)さ! 熾烈を極める激闘、互いに一歩を引かぬ鬩ぎ合い! 血沸き肉躍る、見る者も、走る者も熱くさせる好敵手! ボクが走るクラシックにはそれが必要不可欠なのさ!

 幸いにも、すでに相応しい役者を二人ほど見つけている。が、まだ足りない。あと一人必要だとボクの覇王スピリッツが叫んでいる!」

「それがメイショウドトウだと?」

 

 テイエムオペラオーは強く頷いた。

 どうやら彼女はメイショウドトウに自分と渡り合うだけの素質ありと見ているようだ。

 

「そ、そんな……私がオペラオーさんのラ、ララライバルだなんて……」

 

 もっとも、当の本人は信じられないという顔をしている。

 頭を抱え、そんなことない、そんなわけないと唸るように繰り返していた。

 

「ふむ……しかしこの覇王アイに間違いはない。ドトウは自分の力を自覚できていないのか。

 ……ならば、レースをしよう!」

 

 何がならばなのか、テイエムオペラオーは唐突に言い出した。

 

「祝★テイエムオペラオー、リギル入部記念 覇王伝説序章第一幕! 覚醒する戦士たち†陽はまた昇る†の始まりだ。ドトウよ、そこで君の力を見せるのだ!」

「なんて長いレース名……いやしかし! トレーナーさんにドトウの走りを直に見てもらう良い機会! ドトウ、エルも応援します! 頑張ってください!」

「え……え……ええ~~~~~~~!!?」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「またマルカブ(あんた)か」

「濡れ衣です……」

 

 翌日、東条さんが私を見るなり苦虫を噛み潰したような顔で言った。

 

「発起人はそちらのテイエムオペラオーですよ」

「分かってるわ。言ってみただけよ……」

 

 時間は放課後、トレーニングコースの一部を貸し切ったところに私達はいた。

 何故か。当然テイエムオペラオーが突如企画した模擬レースのためだ。

 

「出走者が九人とは、一日足らずでよく集めましたね」

「あの子そういうところは妙に慕われているというか、口達者なのよ。全く、ブライアンといい素質が高いウマ娘ほど自分を中心に世界が回っているとでも思っているのかしら」

「それが本当なら、一番素質が高いのはゴールドシップになりますね」

「冗談でもやめて。アレがGⅠ複数勝ちでもした日は世界中のトレーナーが頭抱えるわ」

 

 どうやら、模擬レースを成立させたことにリギルは関与していないようだ。

 考えてみれば当たり前か。トップチームとはいえ、リギルの特権乱用など公私ともに厳格な東条トレーナーが許すはずがない。

 まさに、この模擬レースはテイエムオペラオー一人によって成立したのだ。

 

「トレーナーさん!」

 

 眉間を抑える東条さんを余所に、声をした方を向く。

 グラスとライスがやってきた。エルとデジタルはトレーニングがあるため、代わりに休養日だった二人がメイショウドトウの模擬レースを見に来たのだ。

 

「お兄さま、エルさんが推薦したっていうメイショウドトウさんは?」

「あそこ。七枠で発走準備している子だ」

 

 私が指さした方向を二人が見る。

 熱心に柔軟をしているメイショウドトウがいた。昨日はおどおどとした姿しか見れなかったが、やはり彼女もウマ娘。レースともなれば表情は引き締まり、真剣そのものだった。

 さて、新メンバー候補を見た二人の感想はどうだろうか。

 

「「…………大きい」」

 

 ……きっと身長のことだろう。

 発起人であるテイエムオペラオーはもちろんだが、他の出走ウマ娘たちもレースに対して真剣そのものだった。

 トレーナーからのスカウトが最も多いのは選抜レースだが、こういった学生が企画した模擬レースも見に来るトレーナーは多いし、結果にも注目する。

 成り行きこそ珍妙なものだったが、ウマ娘たちにとってはスカウトされる貴重なチャンスなのだ。

 今日の模擬レースは2,000mの右回り。ジュニア級GⅠのホープフルステークスやクラシック三冠の一つ目である皐月賞と同条件だ。

 デビュー前のウマ娘にとっては長めの距離だが、逆にここで好走できればトレーナーからの評価は上がるだろう。おそらく、出走を決めたウマ娘たちの狙いはそれだ。

 やがて準備は完了し、出走ウマ娘たちがゲートへと入る。

 一呼吸開けてゲートが開いた。九人のウマ娘たちが出遅れなく飛び出した。

 一人が単逃げを図り、レースを引っ張る。その後ろにテイエムオペラオーがぴったりと張り付いて存在感を出している。

 逃げウマ娘を風除けにし、脚を溜めつつ仕掛け時を待っていた。

 

「位置取りが上手いですね」

「レースセンスは新入生の中では断トツね。度胸もある。経験さえ積めばクラシックでも十分通用するわ」

 

 視線を少し後ろへ向けると、中団で走るメイショウドトウがいた。

 表情はまだ戸惑いや迷いが見えたが、その走りは堂に入ったものだった。

 彼女の視線は真っ直ぐにテイエムオペラオーに向いていた。必死に、テイエムオペラオーに離されまいと走っている。

 中盤、後方に控えていたウマ娘たちが上がってきた。メイショウドトウもバ群に飲まれないよう前に出始める。

 単逃げを決めていたウマ娘が辛そうだが、テイエムオペラオーはまだ仕掛けない。

 最終コーナーを回って最後の直線、ついに覇王さまが動き出した。

 一気に追い抜くのではなく、少しずつ先頭との差を詰めていく。しかし後方から上がってくるウマ娘たちに抜かれることはない。

 メイショウドトウも必死に追う。他のウマ娘との競り合いにも勝ち二番手まで上がるが、彼女の末脚は届かず、堂々とテイエムオペラオーが一番にゴール板を通過した。

 

「はーはっはっはっは! 諸君、声援をどうもありがとう! しかし、いくらボクが輝いているとはいえ、他の出走者たちの健闘を称えることを忘れてはいけない! どうか、他の皆にも惜しみない拍手を!」

 

 終わってみれば、テイエムオペラオーの余裕の勝利であった。

 彼女は汗こそかいているものの、他のウマ娘たちと比べても疲労が少ないように見える。ライスの様にスタミナという見方もあるが、どちらかというと余計な力を使わずして勝ったように感じた。

 

「手を抜いていたわけじゃないわ」

 

 私の疑問を察したのか、東条トレーナーが答えた。

 

「レースセンスが良いって言ったでしょ? 最後に先頭を取るのに必要な分だけの力で走る、それを自然にできるのよあの子」

「それはまた、凄いですね」

 

 素直に感心した。

 最後のスパートとなれば自然と全力疾走となる。当然その分疲労はするし、脚には負担がかかる。

 テイエムオペラオーが力の制御が得意で他のウマ娘よりも消耗が少ないということは、レースの出走機会も多くできるだろう。

 無論、GⅠでもその余裕が続くか分からないが。

 

「それで? 貴方から見てメイショウドトウはどうだったのかしら。メンバーに入れたいと思えた?」

「そうですね……」

 

 テイエムオペラオーから握手され、わたわたとするメイショウドトウを見る。

 経験値以外は完成しているように見えるテイエムオペラオーに比べて、彼女にはまだまだ足りないものが多い。

 身体能力だけじゃなく、自分の力に対する自信もだ。けれど、彼女が前を行くテイエムオペラオーを見る視線には覚えがあった。

 自分をダメな子だと言い、他の強いウマ娘に憧れてその背中を追い続けるその姿はかつて見た光景だった。

 ふとライスと視線が合った。

 彼女も同じ想いだったのか、ゆっくりと、笑いながら頷いた。

 それで私も決心がつく。

 エルの言葉を思い出し、思わず笑ってしまう。

 

「なるほど。確かに私は、ああいう子から目が離せないようだ……」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 分かっていたことだった。二着という結果の前に、メイショウドトウはそれほど悔しさを感じていなかった。

 テイエムオペラオーの輝きの前にダメな自分が敵うはずもない。むしろ二着というのは自分にとって随分と健闘したものだと思う。

 メイショウドトウが不安に思っていたのは、自分を誘ってくれたテイエムオペラオーを失望させないかという一点だった。

 憧れ、信奉にも近い想いを向ける彼女をがっかりさせない、彼女が企画したこの模擬レースを盛り上げることを考えて走っていた。

 降り注ぐ拍手喝采を見る限り、どうやらそれは果たされたのだと安堵する。

 

「素晴らしいレースだった。次も頼むよ、ドトウ」

 

 肩を叩いてテイエムオペラオーは去って行った。

 彼女の手が触れた部分がジンジンと熱を持った気がした。期待に応えられたのだと、自分が成長したように思えた。

 

「見てたよ。惜しかったね」

 

 入れ替わるようにマルカブのトレーナーが来た。

 担当したウマ娘を、デビューした年にGⅠを勝たせた凄い人。そんな人が自分をスカウトなんて誰かと間違えているのではないかと思っていた。

 

「惜しいだなんて……私はただがむしゃらに走っただけで、でもオペラオーさんには全然追いつけなくて……」

「追いつけるようになりたいかい?」

 

 心臓が跳ねた気がした。

 追いつく。テイエムオペラオーに。あの沈むことのない太陽のようなウマ娘に。

 

「そ、そんなこと……」

「できるわけがない?」

 

 頷く。少なくとも、ダメな自分にそんなことができるとは思えない。

 そう答えると、トレーナーはふむ、と考え込むようにして、

 

「できるできないは後で考えよう。君はどうなりたい?」

「どう……なりたい……」

 

 すぐに答えることはできなかった。

 ダメな自分を変えたいとは思った。でも、変わった結果どうなりたいかまで考えたことはなかった。

 答えられずにいると、これまたトレーナーは勝手に納得したように、

 

「うん。じゃあ、私たちと一緒にそれを考えていかないかい?」

 

 差し出された手。ダメな自分でもそれが何を意味するのかすぐに分かった。

 

「メイショウドトウ。マルカブで、君の夢を見つけてみないかい?」

「……どうして、私なんですか?」

 

 伸ばしかけた手を止めて尋ねた。

 このレース、他にも見所のあるウマ娘はいたはずだ。

 明確に夢や目標を掲げた子たちもいたはずなのに、どうしてその中から自分を選んだのか。

 そう訊ねると、トレーナーは少し気恥しそうに頬を掻いてから言う。

 

「すぐそばで見ていたいと思ったんだ。君がこの先、どんな夢を見つけて、どんな自分に変わっていくのかをね」

 

 手が重なる。

 こうして、長らく人数不足を叫ばれたチーム・マルカブに五人目のウマ娘が入ったのだった。

 

 

 

 

 

 

「………………はっ!? 何故か、一着取ったのにスカウトしてもらえなかったことを思い出しました」

「ええ……なんですかそれ。詳しく」

 

 

 

 




 一応、デジタルと同じく一旦は仮入部扱い。まあすぐに正式に入りますが。

 Q.どうして五人目がドトウ?
 A.2000年のオールカマーをチェックだ!
 Q.どうして○○じゃないの?騎手繋がりなら○○の方が適任じゃない?
 A.投稿時点(2022/8/12)で育成未実装じゃないですかねその子!

 まあ、実のところもう一人の候補はビコーでした。


 


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27話 マルカブとファン感謝祭(春)

 お久しぶりです。
 最近何かと忙しくて全然書き溜めが出来てないです。
 新シナリオやったりリッキーのストーリーみたり新シナリオやったり……。
 このままだと忘れられそうなので1話だけ投稿させていただきます。
 あと、話中でも出てきますがお兄さま宛への質問を募集します。
 もしあれば活動報告にコメントください。
 感想欄でも構いませんが、お兄さま宛への質問のみの場合は活動報告へお願いします。
 ※追記
  上の書き方だと感想投稿の規約に触れそうなので、質問については活動報告のみとさせて頂きます。ご指摘いただき、ありがとうございます。
  既に感想欄にて頂いている質問(2020/8/29 18時時点)は受付させていただきます。
  失礼いたしました。




 エルが出走するNHKマイルカップが近づく中、トレセン学園はある一大イベントの準備に追われていた。

 春のファン大感謝祭、トレセン学園における体育祭だ。

 トレセン学園にも通常の中学や高校と同じく、体育祭や文化祭という行事はある。それはファン感謝祭という名で開催され、トゥインクルシリーズで活躍するウマ娘たちが日ごろ応援してくれるファンへ向けた催し物を企画・運営、そして参加する学園全体を使って行われる大イベントだ。

 ファン感謝祭は春と秋の年二回開催され、春は体育系の催しが中心となり、秋が聖蹄祭と呼ばれ文化系の催しが主になる。

 一般的な学校の体育祭と違うのは、クラス単位や学年単位での対抗戦などは無く、個人やグループで参加できる点で、あくまでファンを楽しませるのが目的というところか。

 レース以上にウマ娘を近くに感じられるということもあり、毎年多くのファンが来園し大盛況となるため、私たちトレーナーも裏方として忙しく走り回ることとなる。

 そんな時、たづなさんから企画書を渡された。

 

「トレーナーによるトークショーですか?」

「ええ。正確に言えば、トレーナーさんへの質問会になりますが……」

 

 妙に手の込んだロゴが入った企画書をめくると、事前にファンから募集した質問に私が答えていくというものだった。当然、学園側が選別してくれるので不適な内容の物は除外される。

 なぜ私が選ばれたのかというと、シニア級で活躍するライスやジュニア級で活躍し今クラシック級であるグラスとエル、デビュー前のデジタルとドトウといった各世代のウマ娘を担当しているかららしい。

 

「この内容ならリギルのようなトップチームのトレーナーのほうが良いと思いますが……」

「東条さんは昨年にナリタブライアンさんと出ていますので。学園としても毎年同じ人に頼むというのは……」

 

 広報役としての仕事も経験しろということか。

 企画書を読み進めていくと、どうやらファンの前に出るのは私一人らしい。

 

「担当ウマ娘は抜きですか。確か昨年はウマ娘もいましたが……」

「はい。昨年は三冠ウマ娘特集ということでトレーナーさんとウマ娘さんの二人一組でしたし、どちらかというと対談形式でしたね」

「トレーナー、というか私だけで人が集まるでしょうか」

 

 昨年はシンボリルドルフをはじめとする三冠ウマ娘という歴史的スターが一堂に介したこともあって大盛況だったと記憶している。

 だが今年は私一人。ライスたちがいれば話は違うだろうが、果たしてこれで客足は向くだろうか。

 下世話な話だが、ウマ娘たちは皆共通して身目麗しい容姿をしている。それが昨年の盛り上がりに寄与したことは間違いない。

 しかしほとんどがヒトのトレーナーたちにそういった共通項はない。

 無論、東条トレーナーや奈瀬トレーナーのような容姿端麗やトレーナーもいる。が……うん、考えるのは止めよう。なんだが悲しくなってきた。

 ともかく、せっかく企画したのに閑古鳥では企画した者に申し訳が立たない。

 そんな私の考えを察したのか、たづなさんが小さく笑う。

 

「大丈夫ですよ。この企画は昨年の感謝祭でのアンケートを基にしているんです」

「アンケート?」

「ええ、お見せすることはできませんが」

 

 たづなさんが言うには、昨年のトークショーは盛況だった一方で、感謝祭後のアンケートではトレーナー業務の話を希望する回答が多かったらしい。

 具体的には、現役でトゥインクルシリーズを走るウマ娘を担当するトレーナーから。

 そして恐れ多いことに、今注目されているウマ娘たちが所属するチームトレーナーである私が選ばれたということらしい。

 

「ウマ娘さんたちを応援する一方で、トレーナー業に興味を持つファンも多くいますから。正直なことを言ってしまえば、これを機にトレーナー志望者を増やしていければなと」

「ああ、トレーナー不足は永遠の課題ですからね」

 

 なにせ全国で何千というウマ娘がトレセン学園に入学するのだ。それに対してトレーナーの数は試験の難易度もあって中々増えない。しかし加齢や一身上の都合により引退するトレーナーは毎年一定数出てくる。互いの数の差は広がり続けるばかりだろう。

 

「それで……どうでしょうか?」

「構いませんよ。私でどれだけ集客できるか分かりませんが」

「ふふふ、大丈夫ですよマルカブさんなら。……それに、聞きに来るのはウマ娘さんもいるでしょう。将来のチームメンバーを見つけるくらいの気持ちで頑張ってください」

「えっと……もうメンバー不足ではありませんよね?」

「……………………」

 

 にっこりと、圧のある笑顔が返ってきた。

 そうか。あくまで最低ラインを超えたから催促が無くなっただけで、メンバーをこれ以上増やさなくていいとはならないのか。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「ということで、私はそのトークショー? というのに出ることになったよ」

『おぉ~~!』

 

 感謝祭での話をすると、チームルームにライスたちの声が響いた。

 

「ついにマルカブも学園からオファーされるほどになったんデスね!」

「や、やっぱり皆さん凄かったんですねぇ」

 

 ドトウの言葉にデジタルも同意するように頷いていた。

 

「みんなはどんな種目に出るのか決まったのかい?」

「ライスは小学生以下相手にレース教室に出てくれないかってお願いされたから、それに参加するつもり。あとは障害借り物競争にも出る予定なんだ」

「え!? あの毎年途中リタイア者続出のマラソン競技ですか!?」

「あーうん……でもリタイアが多すぎるってことで今年は試験的に距離を短くしたんだ。障害も飛び越える奴じゃなくて、平均台だったり網くぐりみないな簡単なものにして、距離も合計で2,500m」

「それで最後に借り物競走だったか。質問会の時間とも被ってないから、終わったら応援に行くよ」

「本当? ありがとうお兄さま!」

「エルはフリースタイルレースに出る予定デス! 内容を変えていくつか開催されますが、全部出ますよ!」

「エルったら、レース本番も近いんですから無理はしないでくださいね。

 私は体育館で行われるウマ娘カルタに、午後はクラスメイトの模擬店を手伝う予定です」

「あたしとドトウさんも模擬レースですね!」

「出走者をデビュー前のウマ娘に限定したものだね」

「は、はい……! チームの評判を下げないよう頑張りますぅ……!」

「大丈夫デス! ドトウも頑張ってますからきっと勝てます!」

「そそそうでしょうか……。

 うう、でもどうしてデビュー前の子限定なんでしょう? ファンの方々を楽しませるなら、先輩方のレースを開いた方が……」

「ああ。あれはあれで需要があるんですよ。

 ウマ娘ちゃんってメイクデビューしてОP戦や条件戦を勝ち上がり始めて注目されだすんですけど、こういうイベントで活躍した子に目をつけて『オレはデビュー前から注目してたんだぜぇ!!』ってドヤ顔できるんですよ」

「なんか、妙に生々しい話だね……」

 

 それぞれ自分の興味のある種目に出るようだ。

 できれば全部見に行ってあげたいが、さすがに時間的に厳しいな。特にデジタルの模擬レースは教官たちからの評価にもつながるので見ていてあげたい。

 ……なんとか時間を作ろう。

 

「よーし、チーム・マルカブ! ファン大感謝祭でも頑張るぞー」

『おー!!』

 

 

 

 ◆

 

 

 

 そうして、ついに感謝祭当日がやってきた。

 校門には華やかに装飾された看板が立ち、来園者たちを出迎えた。

 普段は入れないトレセン学園にファンたちは興奮の色を隠せないでいた。

 入り口で渡されたパンフレットに書かれたプログラムを見て、各自興味ある種目や催しが開く場所へと向かっていった。

 マルカブの面々もすでに各自参加する種目や催しのためバラけていた。

 

「ようマルカブの」

 

 私もトークショーに出るため控室へ向かっていた途中、声を掛けられた。

 

「おや、ヒロさん。どうかしましたか?」

 

 ゴルフウェアにジーパンという、来園客と見紛うような恰好をした壮年の男性。セイウンスカイの担当トレーナーだ。豊富な経験と親しみやすい人柄から、多くのトレーナーがヒロさんと下の名前で呼んでいる。

 

「相変わらず固そうな格好してんなーっと思ってな」

「ヒロさんが軽すぎるんですよ。お客さんの中混じったら見分けつかないですって」

「いいんだよ普段からこれだから。感謝祭だからって固くなる必要はないって、たづなちゃんも言ってたでしょ」

 

 カラカラと笑うヒロさんだったが、ふと表情が真剣なものに変わる。

 

「なあ、エルコンドルパサーは本当に日本ダービー出ないのか?」

 

 その問いは、これまで何度となくされてきたものだ。

 

「……ええ。エルの次走はNHKマイルカップ、そこから安田記念の予定ですよ」

「そうか、そりゃ残念だ……」

「意外ですね。普段のヒロさんならライバルが減ってラッキーくらい言うと思いましたが」

「まあそういう時もあるさ。でも、今回は勝つ自信があるからな……!」

 

 日ごろ、飄々としているヒロさんの振る舞いからは考えられない言葉だった。

 トレーナー業の酸いも甘いも味わってきたこのベテランにそこまで言わせるほどのものが、セイウンスカイにあるというのか。

 

「皐月賞を勝ったってのに世間はまぐれ勝ち(フロック)なんて言いやがる。グラスワンダーもまだ本調子じゃないんだろ? これでダービーにエルコンドルパサーもいないと、次勝ってもいちゃもん付けてくる奴がいるのさ」

「それはつまり……」

 

 エルを相手取っても勝ってみせるというのか。

 セイウンスカイの栄光にケチをつけられないよう、黄金世代の代表として数えられるエルの出走を望んでいるのだ。

 

「ま、さすがに無理強いはできねえからな。出る気がないなら仕方ない。

 ……決着は、秋につけるとしようぜ」

 

 一方的な宣戦布告をして、ヒロさんは雑踏の中へ消えていった。

 成人男性にしてはやや小柄なその背中はすぐに見えなくなる。が、彼の言葉は確かな熱を残していった。

 日本ダービー。世代の頂点を決めるその栄冠をチーム・マルカブは三代かけて未だ得られていない。

 エルが出走したら……私とて欲ある人間。その想像は幾度もしてきた。

 しかし、

 

「エルの大目標はジャパンカップだ。寄り道は……しない」

 

 私の言葉がヒロさんに届くわけもない。

 自分に言い聞かせるように告げてから、私は再び歩き出した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「皆さま、お待たせいたしました。定刻となりましたのでトレーナーとファンの皆様の交流、トレーナー質問会を始めさせていただきます。

 今回、質問に答えていただくのはチーム・マルカブのトレーナーさんになります!」

 

 司会役を買って出たサクラチヨノオーの声に観客たちが拍手を巻き起こす。

 

「チーム・マルカブには三度目の天皇賞(春)制覇を成し遂げたライスシャワーさんや昨年に最優秀ジュニアウマ娘に選出されたグラスワンダーさん、そしてホープフルステークスを勝利したエルコンドルパサーさんがいらっしゃいます。まさに今年のトゥインクルシリーズを賑わすスターウマ娘が所属するチームです!

 貴重な機会となりますので、聞き逃さないようしっかりと耳を向けてくださいね!

 それでは入場いただきましょう! どうか盛大な拍手でお迎えください。トレーナーさん、どうぞ!」

 

 司会の言葉を合図に舞台袖からステージへと出ていくと、豪雨のような拍手に迎えられた。

 ……意外と見学者が多いな。

 すし詰めというほどではないが決して少なくない。割合は……若い男性が多いか? トレセン学園の生徒ではないだろうがちらほらとウマ娘の姿もある。

 たづなさんの言う通り、トレーナー業に興味を持つファンというのは一定数いるようだ。

 

「今日はよろしくお願いします!」

「こちらこそよろしくお願いします」

 

 挨拶もそこそこに、今日の流れが説明される。

 私たちの後ろには大型モニタが設置され、ここに私の顔が映っている。これで後ろの方にいるお客さんも見えるというわけだ。

 加えて私にマイクが渡された他、スピーカーを通してこの場にいない人も話だけは聞けるようだ。

 サクラチヨノオーの手元にはくじ引きで使われるような箱があった。あの中に質問が書かれた紙が入っており、彼女が引いた質問に私が答えることとなる。

 

「それでは早速、質問させていただきます!」

 

 元気な声とともに、サクラチヨノオーが箱に手を入れた。

 

 

Q.トレーナーを志したきっかけは?

A.子供の頃見たレースですね。多くのトレーナーがそうだと思います。

 

Q.親もトレーナーか学園関係者?

A.いいえ。

  ただ実家はウマ娘が身近にいる地域ではありました。

 

Q.担当になる前のファーストコンタクトは?

A.とりあえず、三人に共通しているのは自主トレしているところを見かけたのが最初でした。

 

Q.トレーナーとして最も気を付けていることは?

A.やはり担当ウマ娘のケガですね。

  トレーニングもレースも、身体に負荷がかかるものなので十分に注意してます。しかし注意していても起きてしまうのが難しいところです。

 

Q.トレーナー業としての座右の銘は?

A.無事是名バ、ですね。先代のチームトレーナーもよく言っていました。

  レースやライブが終わって、学園に帰って次の日元気な姿を見てやっと安心できます。

 

Q.スカウトに失敗したことはありますか?

A.それはもうたくさん。ウマ娘もできれば優秀なトレーナーに指導してもらいたいですからね。

  希望する路線のすり合わせも必要ですし、楽にスカウトできるってことはないと思います。

 

Q.ライスシャワーの今後の予定と、警戒しているライバルは誰ですか?

A.次走は宝塚記念を考えています。

  私にとっても彼女にとってもある種因縁あるレースですので万全をもって臨みますよ。

  警戒しているのは……サイレンススズカでしょうか。今一番勢いのあるウマ娘です。

  前に彼女と走ったのは秋天でしたが、あの頃とは比べ物にならないですから。

 

Q.グラスワンダーの今後の予定と、警戒しているライバルは誰ですか?

A.トレーナーとして力及ばず春は全休となってしまいましたが、まだクラシックを諦めていません。

  それは彼女も同じです。夏にしっかりと鍛えて、秋には復帰して見せます。

  警戒すべきライバルは今注目されている黄金世代たちですね。誰か一人には絞れません。

 

Q.エルコンドルパサーの今後の予定と、警戒しているライバルは誰ですか?

A.NHKマイルカップからの安田記念、秋はジャパンカップを目標としています。

  警戒すべきライバルはグラスと同じく黄金世代ですが、エルの場合はシニア級と多くぶつかるのでタイキシャトルやエアグルーヴと言った歴戦のウマ娘たちも注視すべきですね。

 

 こうして多くの質問が届き、私がそれを答えることで午前中は過ぎていったのだった。

 

 

※作者注

 もし、お兄さま宛の質問なんかあれば活動報告にコメントください。それ用の活動報告を上げておきます。

 ある程度経ったら番外編として上記のようなQ&A形式で出します。

 一向に来なかったら察してください。

 内容については以下の点に注意いただければ。

 ・お兄さま視点での回答になります。

 ・学園が事前に中身確認しているというていなので、風紀的にアウトなものは答えられないです。

 ・お兄さまへの質問なので本作の今後の展開について要望を伺うものではありません。

 ・質問された方のユーザー名は出しません。

 ・ぶっちゃけ上からふたつは作者の匙加減です。

 決して強要するものではありません。もしあればで構いません。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 午後の部はデビュー前のウマ娘限定の模擬レースから始まった。

 デジタルが言っていたように一足早く見所あるウマ娘を見つけたい人が多いのか、そこそこの客足だった。

 一レースで出走するのは五~六人ほど。距離は芝・ダート共に長くても2,000mまで、ある程度距離ごとに区分けされており、各自で適性合わせてレースを決める形となる。

 まだ経験が少ない故、駆け引きなどは少なく力任せじみたレースが多いが、それでも会場は盛り上がっていた。

 

「デビュー前の若きウマ娘たちの模擬レースも大詰め! ウマ娘たちが最終コーナーを回って直線に入りました!

 芝の中距離部門2,000m競争、今メイショウドトウさんが先頭でゴールイン! 後方が追い上げるなか粘り強い走りを見せました!」

 

「砂塵を巻き上げ、大外から駆け上がってきたのはアグネスだ! アグネスだ! アグネスデジタル一着! 1,600m競争、勝ったのはアグネスデジタルさん!

 しかも彼女は芝のマイル部門でも勝利しています。まさかの芝とダートの二刀流! メイクデビューが楽しみです!」

 

 観客に混じって、私も勝利した二人に拍手を送る。

 デビュー前、ほとんどは担当トレーナーもついていないウマ娘たちが相手とはいえデジタルもドトウも得意の距離で勝利することができた。

 特にデジタルは本人の希望通り芝とダートでの二勝だ。珍しいオールラウンダーの登場に周りの観客も興味深そうに見ていた。

 二人とも日ごろのトレーニング成果がしっかりと出ていた。この勝利は彼女たちの自信に繋がるだろう。

 

「トレーナーさ~ん! やりましたよあたしたち!」

「な、なななんとか勝てました~」

「良かった。二人ともいい走りをしていたいよ。

 ドトウも、ちゃんと胸を張ろう。それが勝った者の役目でもあるよ」

「は、はい~!」

 

 これなら教官たちからの評価も良くなるだろう。

 仮の一文字が消えて、二人が正式にマルカブに入部できる日も遠くない。

 デビューの時期を考えようかな。

 そんな思いを巡らせながら、私は彼女たちの健闘を讃えたのだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 感謝祭も終盤。ついにライスが参加する障害借り物競走が始まった。

 例年過酷な内容のためリタイア者が続出し、年々参加者が減っていた競技だが、今年は試験的に難易度を落としたこともあって十名ほどが参加していた。

 観客も、ライスのほかにミホノブルボンやメジロマックイーン、スペシャルウィークが参加していること、実況解説がトウカイテイオーとアイネスフウジンというダービーウマ娘が努めることもあってかなりの人数だった。

 競技はつつがなく進行し、最後の借物競争へと移行した。

 そして、

 

「えっと…………」

「ライスさん、どうかここは譲っていただけませんこと?」

「ダメ、絶対。マックイーンさんのお願いでも譲れないの」

 

 私は右腕をライスに、左腕をメジロマックイーンに絡めとられていた。

 一見、両手に華に見えるが腕にかかる力は強い。しかも少しずつ自分たちの方に引っ張っている。

 

「マックイーンさん、借り物は自分のトレーナーさんから借りてきたらどうかな?」

「残念ながら、私のトレーナーがお持ちでないものでしたので」

 

 ほら、とメジロマックイーンが見せたのは借り物競争のお題が書かれた紙だ。

 紙には『ネクタイをしている人』とあった。ネクタイではなく、ネクタイをしている人指定だった。そしてファン感謝祭というお祭りにネクタイをして来る人は少ない。せいぜい取材に来たメディアくらいだろう。

 スピカのトレーナーは……

 

「トレーナーさん! アメ、アメ借してください!」

「ぎゃあスぺ! 渡す、渡すからポケットまさぐるな穴開くだろ!」

 

 当然つけていない。というかよく持ち歩いているあめ玉目当てにたかられていた。

 一方でライスはお題の内容を見せてはくれない。が、意地悪をするような子ではないのでおそらく当てはまるのが私しかいないのだろう。

 相手が被ったのだから二人仲良く私を連れてゴール、とはならないだろう。

 ライスもメジロマックイーンも普段は仲良しだがレースとなればステイヤーとしてしのぎを削るライバル。ウマ娘としての闘争本能が競走中の馴れ合いを許さないのだ。

 

「「……………………」」

 

 私を挟んで睨み合う二人。そして変わらず掴んだ私の腕をそれぞれ自分の方に引っ張っている。

 徐々に力が強くなっているのは気のせいか。いや気のせいではないだろう。

 

「二人とも大岡裁きって知ってる?」

「ええ、例え裂けようとも引っ張り合い、より多い量を取った方が勝つのですわ」

 

 どこの蛮族の風習だ。

 メジロマックイーン、熱くなる余り普段の冷静さを失っているようだ。

 頼れるのはライスだが、

 

「知ってるよ。でも、お兄さまが一瞬でもマックイーンさんのところに行くのも我慢できないの」

 

 ダメらしい。

 

「ライスさん、以前から思っていたのですが私に対してだけ当りが強くありませんこと?」

「マックイーンさんこそ、お兄さまのスカウトを断っておいて馴れ馴れしいと思うの」

『おーっとメジロマックイーンとライスシャワー! 一人の男性を取り合い修羅場バの様相だー!』

『他人の痴情のもつれは見ている分には最高の肴なの! でも流血沙汰にならない程度に抑えて欲しいの!』

 

 確かに他人事だが何てこと言うんだあのダービーコンビ。

 しかし、このままでは体が裂けるチーズのようになってしまう。

 いや、それよりもこのままでは―――

 

「あの、二人とも……」

「トレーナーさん、少しお静かに」

「うん。お兄さま、これは重要なことなの」

「いやそうじゃなくて―――」

 

 私の言葉を遮るように歓声が沸いた。

 

『今、ミホノブルボンが借り物として自身のトレーナーを引き連れゴールイン!』

『借り物の内容を確認するの! ブルボンさん、指定された借り物は?』

「はい。オーダー『お腹を出している人』です」

「いや……まあ、確かに見えてはいるが」

 

 観客の興味は完全にゴールしたミホノブルボンに移っていた。

 後続もどんどんゴールしていき、ライスとメジロマックイーンは完全に取り残されていた。

 

「…………ライスさん」

「なに、マックイーンさん」

「ここは争わず、二人でゴールとしませんか?」

「そう……しよっか」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 色々あったが、春のファン大感謝祭も無事終わった。

 茜色に染まった空の下、片づけが進む中、私とライスは揃って反省をさせられていた。

 

「なにをしているんですかライス先輩、トレーナーさんも……」

「すみません……」

「面目ないです」

 

 グラスの呆れた声に、私たちは謝るしかなかった。

 グラスは参加したウマ娘カルタで見事勝利、エルも参加した競技には悉く一位を掻っ攫ってきた。

 デジタル、ドトウも模擬レースで勝ち星をあげており、一着の冠を持ってこれなかったのはライスだけだったのだ。

 

「しかもイチャイチャしてたら負けたって聞いたデスよ」

「い、イチャイチャはしてなかったよ!?」

「傍からはそう見えたということでしょう」

 

 ほら、とグラスがスマホで見せてきたのは早速SNSに投稿された今日の感謝祭の写真だ。

 競技に参加する躍動感あふれるウマ娘たちの写真が並ぶ中、例のライスとメジロマックイーンが私を引っ張り合う写真があった。

 他の写真についたコメントが『カッコいい』なのに対して、ライスたちの写真には『可愛い』とか『仲良しかよ』とか、取り合う様子を笑うコメントがついていた。

 

「先輩もシニア級を代表するウマ娘の一人なんですから、ファンの皆様の前でもしっかりしてください。

 トレーナーさんも、こういう時こそしっかりと手綱を取るべきでしょう」

「「おっしゃる通りです……」」

「分かりましたかドトウ? グラスは怒らせたらダメなんデス」

「き、肝に銘じますぅ……」

「エ~~ル~~?」

「ケ!? 逃げるデスよドトウ!」

「え、ええ~~!?」

 

 走り出すエルとドトウ、それを追うグラス。デジタルも少し逡巡した後、グラスたちを追いかけていった。

 

「そういえば」

 

 ライスと一緒に残されたところで、気になっていたことを切り出す。

 

「結局、ライスの借り物のお題は何だったの?」

「ふぇ!? え、え~~っと……」

 

 目を泳がせていたライスだが、やがて観念したかのようにポケットからお題の書かれた紙を取り出した。

 折りたたまれたそれを広げ、私に見せてきた。

 

「た、『大切な人』…………です」

「…………」

 

 胸の奥がじんわりと温かくなった気がした。

 

「そうか、ありがとう。ライス」

 

 照れくさくて、自然と口角が上がってしまう。

 追及することもできず、グラスたちが戻ってくるまで笑い合う私たちなのだった。

 

 

 

 





 次こそ宝塚記念まで進めたいです。


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28話 黄金たちと日本ダービー 前編

お久しぶりです。
いつも誤字報告、感想ありがとうございます。
GIRLS' LEGEND Uの「トレセーン」がみんな可愛いので初投稿です。

毎日1話ずつ、計4話ほど投稿します。




 NHKマイルカップと言えば、かつては日本ダービーのトライアルに位置づけられたGⅡレースであった。

 しかしやがて芝の中距離以上の距離適性がなく、短・マイルに適性を持つウマ娘向けのクラシックGⅠレースへと形を変えた。

 そして今は海外のウマ娘も出走する国際招待競走となり、日本のウマ娘の力を世界に示す場にもなっている。

 いわば世界を交えた若きマイル王決定戦。エルがその力を示すには絶好の舞台である。

 ホープフルステークスを勝利した彼女はトライアルを踏まずにクラシック級GⅠへ直行。まさに王者のローテーションであった。

 

「ということでエルは海外勢を抑えて一番人気だ。クラシック級に上がってからの初戦とはいえ、ジュニア級での活躍が評価されているようだね」

『おおお〜~~!』

「ふっふーん! 当然の結果デスね!」

 

 チームメイトからは拍手と感嘆の声。同時にエルは誇らしげに胸を張った。

 

「だからといって、油断は禁物だよ。海外勢だって勝算あって来てるわけだし、日本のウマ娘にもエルと同じジュニア級から無敗が三人出走する」

「スィー、望むところデス! 相手が強ければ強いほどレースは燃えるもの!」

「その意気だよエルさん」

 

 ライスの言葉を皮切りに他のメンバーからも声が上がる。

 

「エルの夢への一歩。頑張ってきてください」

「あたしたちも客席で応援してますね!」

「わ、わたしの応援で良かったら、精いっぱい声出しますねぇ……」

「ハイ! デジタルもドトウもエルの走りをしっかりと目に焼き付けてください!」

 

 赤いコートを翻し、エルは控室を出てターフへと向かう。

 自身の夢のため、後輩たちの手本となるため、そして友を励ますために。

 怪鳥のクラシック初戦が始まる。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 結論から言ってしまえば、エルコンドルパサーのクラシック初戦は快勝に終わった。

 絶好のスタートから好位置を取り、直線で勝負を決めた。二着にニバ身差をつけての圧勝だった。

 途中、第四コーナーで外に膨らんだことは反省点だが、彼女の力を世間に示すには十分な内容だった。

 だからこそ、

 

「こんな……こんなあっさりしたものなんデスか、クラシックのGⅠが、国際招待競走が……!」

 

 闘志が未だ燻っていた。不完全燃焼とも言えた。

 油断も慢心も無かった。これまでのトレーニング成果を十全に発揮したレースだったというのに、エルコンドルパサーの内にはモヤモヤとした気持ちがあった。

 

「これなら、ウマレーターでグラスやスペちゃんたちと走った時の方が……」

 

 今日の相手を貶すつもりはない。

 それでも、いつかの幻の皐月賞の方が熱かった。今日よりも、この身を焦がすような激闘だったというのが本音だった。

 そして煮えきらない脳裏に、彼女たちの次走がよぎる。

 

「日本ダービー……!」

 

 世代の頂点を決める大レース。何千何百というウマ娘が夢に見て、そして一人を除いて敗れ去る狭き優駿の門。

 そこならば、その舞台ならば、この疼きを癒やしてくれるだろうか……。

 答えを出せぬまま、少女は地下バ道へと足を向けた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 地下バ道で待つこと数分。エルがターフから戻ってきた。

 見事クラシック初戦を勝利したはずの彼女だが、その表情はどこか暗い。

 

「トレーナーさん……」

 

 絞り出すように発した声もまた重く暗い。

 レースに勝った彼女ならもっと溌剌としており、今にも踊りそうなくらいテンションが高いのだが今はその影もない。

 

「どうかしたかい?」

 

 思わず訊ねるが、エルはうんうんと唸るだけだ。

 思考を整理しきれていないのか、答えるのを躊躇うようなものなのか。こういう時はトレーナーの方から道行を示すしかない。

 

「コーナーで外に膨らんでしまったことを気にしてる?」

 

 首は横に振られた。

 

「もっと着差をつけられると思った?」

 

 またも首は横に揺れた。

 

「思っていたより楽勝でつまらなかった?」

 

 今度は横に揺れなかった。凍ったように動かなかったエルの頭がゆっくりと下を向く。

 合わせて尾や耳が力無く垂れる。もとより感情が表に出やすい子だ。この反応だけで、エルの内心は察することかができた。

 おそらく、万全を期して出走したクラシック最初のGⅠはエルにとってあっけなさ過ぎたのだ。

 鍛えることにストイックな一方、熱い勝負を求める気性でもある彼女の内面では未だ闘争心が燻っているのだろう。

 メンバーも増えたし、チームで模擬レースでもするか、ライスに頼んで本気の併走をしようか。

 それとも……、

 

「「日本ダービー」」

 

 図らずとも発せられた異口同音。下を向いたエルの顔が上がる。青い瞳が驚愕で見開かれていた。

 

「……いいんデスか?」

「そうだね……確認だけど、身体は大丈夫? 疲れとか痛みはない?」

 

 エルが頷く。それを問題なしと受け取り、スマホでレーススケジュールを確認する。日本ダービーまでおよそ二週間。登録締め切りまで時間は僅か。

 決断するなら今だ。

 

「ダービーに出るなら安田記念は回避かな。さすがにこの短期間で三レースは負担が大きい」

「安田記念か、日本ダービー……」

 

 考え込むエル。以前グラスを励ますためにした仮初の皐月賞では同期たちと激しく競り合ったという。

 彼女の中にはその時の熱が未だ残っているのだ。

 となれば答えは当然、

 

「日本ダービー……走ってみたいデス。スぺちゃんやセイちゃん、キングたちが出るクラシック。そして……」

 

 炎が灯った青い瞳が私を見る。

 

「グラスが出るはずだったレースに……」

「……よし。だったら早速手続きをしてくる。ウイニングライブが終わったらスケジュールについて打ち合わせしよう」

「はい!」

 

 ファン感謝祭でも多くのファンから出走を望まれたレースだ。これまでの成績も申し分ないし、まず出れるだろう。

 もっとも、エルが出走することで代わりにダービーを走れないウマ娘が一人出てくる。その陣営には恨まれるかもしれないが、これも勝負の世界である以上は向こうには煮え湯を飲んでもらうしかない。

 

「今日のレースから800mの延長、かなりの強行軍だ。大変だけど頑張っていこう」

「ブエノ! 任せてください! グラスの弔い合戦デス!」

「…………本人の前でそれを言うのは止めようね?」

 

 

 かくして、エルコンドルパサーの日本ダービー出走は正式に受理され、その一報はURA広報及び各種メディアを通じて全国に発信された。

 黄金世代四名が激突する日本ダービー。そしてGⅠ二冠バの電撃参戦に日本中のレースファンは盛り上がり、各ウマ娘陣営は頭を悩ませることとなった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「え~まさか本当に出てくるとは。流石に煽りすぎちゃったかな」

「ホントですよー。トレーナーさんが余計なことするもんだから、考えた仕掛けも全部練り直しです」

 

 釣り糸を海面に垂らしながら不満を言うセイウンスカイ。しかし彼女のトレーナーはその尾が好奇の感情で揺れ動いたことを見逃さなかった。

 日ごろから練習が辛いだの、釣り日和だからサボるだのと言っているが、彼女も走ることを本能に刻まれたウマ娘。

 燃えているのだ。強敵とのレースに。

 

「こうなると前のグラスワンダー慰め会に参加しておいて正解だったな」

「ま、そうですね。エルとは結局模擬レースや併走の機会もありませんでしたし。間近で走りを見れたのは僥倖です」

「んで、天下のトリックスターさまから見てどうなのよ。エルコンドルパサーの実力は」

「……強いです。フィジカルの才能なら私達五人の中で断トツでしょうね。その上、才能に胡座をかくどころかストイックに自分を鍛え続けている。幻想の皐月賞と同じだと思ったら痛い目を見ますね」

「そいつはまた……楽しみだ。ひっくり返し甲斐がある」

 

 ニヤリと口角を上げるトレーナー。彼の笑みに同意するようにまたセイウンスカイの尾と耳が揺れた。

 生まれ持っての才能、脈々と受け継がれてきた血統。それらを否定するつもりはないがそれだけで勝敗が決まるなんてつまらない。

 知略をもってレースを制する。頭を使ってフィジカルお化けどもをアッと言わせる。

 その一点を持って、彼とセイウンスカイは意気投合した。

 セイウンスカイも決して恵まれた体つきではない。血筋も由緒ある家の出ではない。

 しかし負けん気は人一倍あった。足りない部分をいかに補い、どうすれば勝てるか常に思考を巡らせている。

 そしてついには皐月賞ウマ娘。数千人いる同世代たちの中でたった一人の三冠ウマ娘候補。

 ここまで来たんだ。次も必ず、世間をアッと言わせてみせよう。

 波立つ海辺にて、二人の闘志がふつふつと沸き立っていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 一方で、キングヘイロー陣営。彼女のトレーナーはエルコンドルパサーの電撃参戦に深い深いため息をついていた。

 

「出ないって言ってたじゃない……どうして出てくるのよ~~!」

「ちょっとトレーナー、情け無い声を出すんじゃないの」

「だってぇ~~……」

 

 なんでだ~、と机に突っ伏すトレーナーの姿にキングはやれやれと頭を振った。

 

「だってもなにも無いわよ。……むしろいい機会だわ。スカイさんには皐月賞の借りを、エルさんにはホープフルでの借りをまとめて返せるんだから……!」

 

 トレーナーが顔を上げる。

 名前の挙がった二人はジュニア級から重賞に出て活躍をしていたキングヘイローにとって、数少ない黒星をつけられた相手だ。

 かつて敗北した相手の出走に、キングヘイローは弱気になるどころか闘志を燃やしていた。

 その気高い熱は、すぐにトレーナーにも伝播する。

 

「……うん、そうだよね。弱気になっている場合じゃない!」

「ふふ。そう、その意気よ! それでこそ一流のキングのトレーナー!」

 

 強敵上等、苦難上等。

 それくらい跳ねのけることが出来なければ、認めさせたい相手が自分たちを認めない。

 真の一流を目指すコンビは、気高く突き進んでいく。

 狙うはダービー。黄金と称される世代の頂点に立ち、自分たちの力を証明するために。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「テイオーさん! 併走もう一本お願いします!」

「えぇ〜まだやるの!?」

 

 夕方のトレーニングコースに、トウカイテイオーの悲鳴にも近い声が響いた。

 

「スペちゃんちょっと今日はハード過ぎない?」

「うう〜でもでも! ずっと身体がウズウズしてるんです!」

 

 スペシャルウィークが張り切る理由は知っていた。

 エルコンドルパサーの日本ダービー電撃参戦。それが彼女を駆り立てていた。

 

「エルちゃんと本番のレースで走れるのはもっと先だと思ってたので、すっごく楽しみなんです!」

「ふ〜ん……」

 

 分かるような、わからないような。そんな曖昧な相槌をうつトウカイテイオー。

 彼女が走った日本ダービーは、ライバルらしいライバルはいなかった。あえて言うならナイスネイチャだが、彼女がGⅠ戦線に上がってきたのは菊花賞からだ。そしてその時、トウカイテイオーはケガで休養していた。

 

「……ちょっとだけ羨ましいかも」

「え? テイオーさん何か言いました?」

「ううん、なんでもない!」

 

 じゃあもう一本だけね、と言って二人は走り出した。

 

 

 

「でもさぁ~」

 

 結局、あれから三本走ってようやく上がった。

 門限ギリギリで寮に帰ってシャワーを浴びて涼んでいるところで、トウカイテイオーが声を上げた。

 

「どうしてエルは急にダービー走ろうと思ったんだろう?」

「それは……どうしてでしょう?」

 

 エルコンドルパサーと走れることが嬉しくて確認していなかった。

 

「でもダービーですよ? ウマ娘なら憧れて当然じゃないですか」

「まあそれはそうなんだけどね。でもエルの目標って海外でしょ? あんまり世代戦に興味なさそうだったんだよね」

「……あら? お二人ともなにをなさっているんですか?」

 

 う〜ん、と唸っているところへ三人目がやってきた。

 秋の復帰に向けて調整中であるスピカの一員、メジロマックイーンだった。

 

「あれマックイーン、今日は検診でそのままお屋敷に泊まるんじゃなかったの?」

「そのつもりだったのですが、思いの外早く終わりましたの。……それでお二人はバスルームでなにを唸ってましたの?」

「えっとね、マルカブのエルが突然ダービー出るって言うじゃん? どうしてかな〜って」

「ああ、なるほど……そういうことですのね」

「そういうことって……マックイーンさんは知っているんですか!?」

「エルコンドルパサーさんの意図は分かりませんが、あのマルカブのトレーナーさんが出そうとする理由なら推察できます」

 

 おおっ! と身を乗り出す二人を抑えながら、メジロマックイーンが続ける。

 

「エルコンドルパサーさんの大きな目標は秋シーズンのジャパンカップでしょう?

 ジャパンカップの開催は東京レース場、距離は2,400mの左回り。奇しくも日本ダービーと同じコース、同じ条件です」

「ああ言われてみれば……ってええ!? まさか日本ダービーをジャパンカップの予行練習にするつもり!?」

「そこまでは言いませんが、同じコースを走ることは良い経験になる……そう考えてもおかしくはありませんわ」

「うひゃあ〜お兄さんてばスゴイこと考えるね。他のウマ娘が聞いたら怒りそう……」

 

 トウカイテイオーの脳裏にはダービーウマ娘になることを夢見て努力する少女たちの姿が浮かんでいた。

 

「当然、これは私の推察ですわ。実際どういう考えなのかは、本人たちに直接聞くしかないかと」

「ま、そりゃそうか……」

「あの〜……」

 

 スペシャルウィークが申し訳無さそうに手を上げた。

 

「どうしたのスペちゃん?」

「えっと……エルちゃんの、マルカブのトレーナーさんはダービー興味無いということなんでしょうか?

 ダービーってレースに関わる人全員の憧れで目標だと思ってたんですけど……」

 

 クラスメイトのトレーナーというくらいしか知らない彼女の問に、件のトレーナーの人となりをよく知る二人は、あ〜、と天を仰いだ。

 

「興味ないってことはないと思うよ?」

「ええ。ただ、トレーナーとしての実績や栄光よりもウマ娘の夢を優先するといいますか……」

 

 言葉を濁すメジロマックイーン。しばし考えてから再度口を開く。

 

「あの方にとってウマ娘の夢を叶えることが自分の夢。……ですので、もし仮にエルコンドルパサーさんが本気でダービーを取りに来ていたとしたら注意してくださいませ」

 

 それは、かつて天皇賞(春)三連覇という大偉業をあと一歩のところで阻止された彼女だからこそ言えること。

 

「このレースだと狙いをつけた時が、あのチームの最も恐ろしい時と言えるでしょう」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 時は少し遡り、夕方のトレーニングコース。

 エルコンドルパサーはアグネスデジタル、メイショウドトウと共に併走をしていた。

 すでにチームとしてのトレーニングは終わっている。なのでこれは彼女の自主トレに後輩たちが付き合っている形だ。

 

「デジタル、ドトウ! 大丈夫デスか!?」

 

 何度目かの併走が終わり、火照った身体を冷ましながら叫ぶ。

 エルコンドルパサーの数m後ろに、息も絶え絶えな二人がいた。

 

「ま……まだまだぁ! あたしはやれますよ!」

「だ、大丈夫ですぅ〜」

 

 顔を汗まみれにしながらも、二人の瞳から光は消えていない。

 体から噴き出す蒸気はまるで彼女たちのやる気をそのまま具現化させたようだ。

 ガッツのある後輩たちだと舌を巻く。

 振り返れば、デビュー前やジュニア級時代の自分もこんな風にライスシャワーの背中を追っていたのだろうか。

 ちょっぴり大人になった気がした。

 

「よーし、じゃあもう一本行きますよ!」

「「お、おお~~!!」」

「残念。これ以上はオーバーワークだよ」

 

 水を差す言葉にむぅ、と頬を膨らませながら振り返る。

 声の主は聞くだけで分かった。彼女たちを指導する、チーム・マルカブのトレーナーだ。

 

「エルたちはまだやれマス!」

「やれるだろうけど明日に響くよ。疲労を残したまま明日トレーニングしても効率は良くないし、ケガにもつながる」

 

 正論だった。

 同時に、このトレーナーがウマ娘のケガを人一倍気にしていることを思い出した。

 やや不完全燃焼気味だが、仕方ない。見れば後輩たちも少しホッとしたようだった。

 自分のペースに付き合わせるのはやはり無茶だったか。

 

「気合入ってるね。やっぱり日本ダービーは燃えるかい?」

「スィー、当然デース! 世代の頂点を決める大レース! スペちゃんたちとの本気の勝負! 熱くならないわけがありません! それに……」

 

 一旦言葉を切るが、すぐに意を決したように続けた。

 

「グラスが走るはずだったレースですから……」

 

 すでにグラスワンダーの春シーズン全休は決定事項だ。

 焦って適当なレースに出るよりも、力を蓄え秋シーズン復帰に注力することは本人も納得している。

 それでも、後ろ髪を引かれることがないわけがない。

 一生に一度のクラシック、一度きりの日本ダービー。今後グラスワンダーがどれほど栄冠を積み上げようと得られないものだ。

 だから、自分が証明するのだ。

 チームメイトであり、親友であり、ともに頂点を目指すライバルの力を、可能性を。

 

「……そうか。じゃあ万全な状態で出られるよう、今日は上がろう」

「あうう……」

 

 反論もできず、いそいそと三人で片づけていく。

 

「あの! 実際のところ、エル先輩ってダービー勝てそうなんでしょうか!」

 

 寮へ向かう直前、アグネスデジタルが手を上げて訊ねた。

 ふむ、とトレーナーは手を顎に当てて思案したのち、

 

「楽勝、とはいかないだろうね。かなりの激戦になるかな」

「むぅ~トレーナーさんはエルの実力を信じていないんデスか!?」

「信じてるさ。でも、エルだって同期たちを侮っているわけではないだろう?」

「それはそうですが……」

 

 皐月賞を獲ったセイウンスカイ、ジュニア級から重賞を経験するキングヘイロー、一歩遅れながらもクラシック級に入って早々に重賞を二連勝したスペシャルウィーク。

 いずれもデビューした年が違えばそれぞれがダービーを戴冠してもおかしくない能力を持っていた。

 だが運命とは残酷なもので、エルコンドルパサーを加えた四人のうち、ダービーウマ娘の称号を得られるのはたった一人だ。

 

「……それに日本ダービーは他のレースと少し違う」

「違う、デスか?」

 

 トレーナーは頷いた。

 

「エルの目標はジャパンカップだ。……当然ダービーに手を抜く気もないけれど、それより重きを置いたレースがこの先にある。

 でも、他のウマ娘にとってはそうとは限らない」

 

 日本ダービーで燃え尽きたかのようにその後勝てなくなったウマ娘がいた。

 日本ダービーさえ勝てればと心身を酷使するウマ娘がいた。

 ダービーウマ娘の称号は時に魔性の魅力をもってウマ娘たちを惹き付ける。

 

「精神は肉体を超越する。ミホノブルボンに二冠を取らせた黒沼さんがよく言っていることだ。

 ダービーにかける想い。エルが他のウマ娘に遅れをとるとしたらその一点だろうね」

「……だったら」

 

 少女の瞳が真っ直ぐにトレーナーを見据えた。

 

「エルにだって負けられないって気持ちはありマス!」

 

 黄昏時のグラウンドに決意の声が響く。

 

「エルの夢は世界最強! そのためにまずは世代の頂点を獲る!

 それにスぺちゃんたちとのレースはとっても楽しみだし、グラスの分まで走って見せマス!」

 

 そして、

 

「マルカブに初めてのダービーを……トレーナーさんにダービートレーナーの称号を渡すのはエルの役目です!」

「エル……」

 

 ニヒヒと少女は太陽の様に笑う。

 

「これで、エルも他の子たちに気持ちで負けませんネ!」

「ああ、そうだな」

 

 決意の言葉に、トレーナーは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 彼もまた勝負の世界に生きる者。戦いを前に、想いを前に、炎を宿さぬわけがない。

 

「勝ちに行こう、日本ダービー!」

「……ハイ!」

 

 予行演習などとは思わない。前哨戦などとは思わない。

 世界の頂を目指すものとして、まずは世代の頂を目指すのだ。

 

 

 夜。

 各陣営、ウマ娘とトレーナー、そして彼女たちを応援するファンたち。

 それぞれが夢を見て、決意を宿し、希望を胸に眠りにつく。

 夜は明けた。

 

 日本ダービーがやってきた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『今年もついに、ついにこの日がやってきました。すべてのウマ娘が目指す頂点、日本ダービー!

 昨年も全国で何千というウマ娘がデビューしました。その中から熾烈な競争を勝ち上がり、このレースに出走することができたのは僅か十八名。千を超える者たちからの十八名です。

 今年はどんなドラマが繰り広げられるのか、どのような伝説が刻まれるのか。そして歴史に蹄跡を残すのはいったい誰だ!

 注目のウマ娘たちをご紹介します。

 三番人気は皐月賞バ、セイウンスカイ! 唯一の三冠ウマ娘への挑戦権を得ながらもこの人気はやや不満か? 今日も会場を沸かせる巧みな逃げが期待されます!

 二番人気は北海道から来た元気娘、スペシャルウィーク! 皐月賞では力及ばす三着でしたがファンからの期待は十分! 実力を発揮し、成れるか日本一のウマ娘!

 一番人気は先日のNHKマイルカップからの電撃参戦、怪鳥エルコンドルパサー! すでにGⅠ二冠の実績が人気に表れております。世界の若駒を相手に力は見せた、今度の相手は黄金色の同世代だ!

 

 各ウマ娘がゲートに入りました。

 張り詰めた空気、出走者たちの緊張がここまで伝わってくるようです。

 泣いても笑ってもこれで決着。彼女たちの中から、たった一人のダービーウマ娘が決まります。

 

 日本ダービー…………今、スタートしました!』

 

 

 

 

 

 

 

 





最近、ドウデュースの話題が出るたび心の中のカイチョーが「調子はドウデュス?」って聞いてくるから困る。


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29話 黄金たちと日本ダービー 後編

 クラシック三冠レースにはある格言がある。

 曰く、皐月賞は最も速いウマ娘が勝つ。

 曰く、日本ダービーは最も幸運なウマ娘が勝つ。

 曰く、菊花賞は最も強いウマ娘が勝つ。

 皐月賞はデビューから一年足らずで迎える四月開催の一冠目であり、早くとも夏からデビューしたウマ娘たちが翌四月までに心身を鍛え上げることは容易ではない。即ち速さとは仕上がり、成長の速さを指すと言われる。

 菊花賞は秋に行われる最後の一冠であり、3,000mの長丁場だ。即ち強さとは長距離レースを走り切るためのスタミナとスピード、パワー、冷静な思考力、最後の粘り強さ。まさに全てを兼ね備えているかということ。

 では、日本ダービーの幸運とは何か。得意なバ場やレース展開を引き込むツキのようなものか。それもあるだろうが、良く語られるのは枠順である。

 楕円形のコースを最大十八名が横一列に並んでスタートするため、最も有利なのは一枠一番、最も内側のゲートに入ったウマ娘だ。反対に外枠に入ったものほど不利とされる。即ち、日本ダービーを制する幸運とは内枠を取れる幸運を指すのだろう。

 だがしかし、枠順の重要性などどのレースでも少なからずあるだろう。なのに何故日本ダービーだけがそのように言われるのだろうか。

 レースを長く見てきたもの、レースに長く携わってきた者はこう言う。

 

「なぜなら、それが日本ダービーだからだ」 

 

 それより前のGⅠでも、後のGⅠでもなく、誰が決めたかその日、その時、そのコース、そのレースで勝ったウマ娘が世代の頂点となる。それが日本ダービー。

 一生に一度しか走ることを許されず、その時までに実績がなければ出走すら叶わない。

 ダービーウマ娘となることは、一国の宰相になることよりも難しいと言われるほどの栄誉。一度もその誉れに憧れなかった者などいない。

 ウマ娘たちにとっての、ある種ひとつの到達点。

 そんなレースで、優位な枠を引く幸運こそ、ダービーを制するにふさわしい一つの素質なのかもしれない。

 

『各ウマ娘が一斉に飛び出した! 先頭を行くのはセイウン──いや、キングヘイロー! キングヘイローがハナを切った!』

 

 一枠二番。この好条件を掴み取った幸運を、果たして自分は使いこなせているのだろうか。

 真白となった思考を抜けた先、誰の背中も見えないターフの上で、キングヘイローは己が失策を自覚した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 キングヘイローがまさかの逃げ戦法。波乱の幕開けとなった日本ダービーに、多くの出走ウマ娘たちが思った。

 

(これが、日本ダービー……!)

 

 事前に想定していた展開が早々に崩れて戸惑う者もいた。

 

(面白くなってきた!)

 

 一方で、こういう事態が起こり得るからレースは楽しいのだと笑う者もいた。

 本来ハナを取ると思われていたセイウンスカイは無理にキングヘイローを追わず二番手についた。

 戦略をもって逃げを敢行する彼女にとって先頭を位置取ることは決して必須ではない。

 道中先頭でないなら、それに合わせた走りをするだけだ。

 

(アタシが獲るべき位置は……!)

 

 エルコンドルパサーも、自分の脚に合わせた位置を探る。

 

(まずはキングを最後に捕まえられる位置! 同時に仕掛けるセイちゃんを逃がさない位置! そして……)

 

 ちらりと後ろを見る。

 白と紫の勝負服を着たスペシャルウィークがいた。

 向こうもエルコンドルパサーを意識しているのか、チラチラと視線を向けてきた。

 

(スぺちゃんが仕掛けてきても逃げ切れる位置!)

 

 歓声が降り注ぐスタンド前を通過し、第一コーナーへ入るころには位置争いが終わる。

 七枠とやや外側からスタートだったエルコンドルパサーはセイウンスカイの後ろについて三番手、三枠五番のスペシャルウィークは後方についた。

 

 それからは大きな順位の変動はなく、キングヘイローが十八人を引き連れる形でレースは進行していく。

 事態が大きく動いたのは、最終コーナー。これまで二番手に控えていたセイウンスカイが前に出たのだ。

 キングヘイローも先頭を保とうと粘るが、本来差しの彼女が逃げたことが祟ってスピードが上がらない。

 すでにスタミナを使い果たしていた。

 

「くぅ……スカイさん!」

「悪いねキング……でも、これも勝負だ!」

 

 コーナーを曲がったところでセイウンスカイが先頭に立った。

 

「もらうよ、二つ目!」

 

 最後の直線に入り、燃料全て使い切る勢いで加速する。

 後方からもウマ娘たちが続々と上がりだすが、セイウンスカイも脚を残している。

 

(途中で息も入れた! 脚は最後までもつ! ダービーも私が―――!)

 

 瞬間、セイウンスカイの両脇を二つの影が駆け抜けていった。

 片や天から落ちる流星の様な輝きとともに。

 片や空高く舞う猛禽の様に雄々しさとともに。

 漂う雲を貫いて行った。

 

「エル……! スぺちゃん……!」

 

『抜けた抜けた抜けた!! 最後の直線、エルコンドルパサーとスペシャルウィークの二人が飛び出した!

 外からエルコンドル! 内からスペシャル! 黄金世代の激突だ!!』

 

 一バ身、二バ身と二人の背が離れていく。

 必死に脚を動かすがセイウンスカイが彼女たちに迫ることはない。

 

「ちくしょう…………!」

 

 セイウンスカイのスピードも確かに上がっている。 

 しかしエルコンドルパサーもスペシャルウィークも、彼女を上回る勢いで加速していく。

 何が黄金世代か。何がトリックスターか。

 どうしようもない地力の差が、彼女たちとの距離をもって証明された。

 

「ちくしょおおおおお!!」

 

 されてしまった。

 

(やっぱり最後に競るのはスぺちゃん!)

 

 少女の慟哭すら届かぬ先で、エルコンドルパサーは己にぴったりついてくる同期の末脚に舌を巻いた。

 互いにチームに入っているため、併走や模擬レースで一緒になる機会は少ないが、日中の授業などで見たポテンシャルは確かだった。

 

(エルちゃんやっぱり速い! 少しでも気を抜いたらもう追いつけなくなる!)

 

 一方でスペシャルウィークも、エルコンドルパサーについて行くのに必死だった。

 最後の直線も200mを切ってもなおどちらかが抜け出す様子はない。

 だからこそ、ほんの僅かな要素で勝負が決まると理解した。

 

(―――負けられない!!)

 

『両者ともに譲らない! 日本ダービーもゴールまで残り僅か!

 勝つのはエルコンドルパサーか! スペシャルウィークか! ダービーの称号を掴むのはスピカか!? マルカブか!?』

 

 彼女たちがダービーウマ娘の称号を求めるのは、なにも栄誉のためだけではない。

 

(出られなかったグラスのためにも……!)

 

 悔し涙を流した友のために。

 

(テイオーさんにスズカさん、みんなが私を応援してくれた……!) 

 

 背中を押してくれたチームメイトのために。

 

(ここを勝って、世界最強に……!)

(日本一のウマ娘に……!)

 

 己が夢のために。

 そして、

 

「「トレーナーさんのために!!」」

 

 夢を支えてくれる者のために。

 

「「やあああああっ!!!」」

 

 裂帛の気合を迸らせ、二人の身体はほぼ同時にゴール板を通過した。

 巻き起こる拍手と歓声。中には興奮を抑えきれず雄叫びを上げる者もいた。

 

『激戦、まさに激戦としか言いようのないレースでした! こちらからでは勝者ははっきりと分かりません! それほどの接戦でした……! 

 掲示板には写真の文字! 写真判定となりました!』

『三着はセイウンスカイが入りましたね。二人との差は五バ身差。同じ黄金世代ですが、今日はスペシャルウィークとエルコンドルパサーの二人が飛び抜けていましたね!』

 

 続々とゴールするウマ娘たち。

 完走を称える声が飛び交う中、戸惑いの声も混じりだす。

 

「なんか、判定長くね……?」

 

 全員がゴールしてもなお、掲示板に確定の文字は出ない。

 焦らさせ、やきもきした不満を漏らす声もちらほらと聞こえてきたころ、ようやくその時が来た。

 

『判定が出ました! 決着です! 今年の日本ダービーを制したのは!

 黄金世代のダービーウマ娘は―――

 

 スペシャルウィーク!!

 スペシャルウィークです!!

 夢を掴んだのは、スペシャルウィークだ!!

 

 

 

 ◆

 

 

 

 地下バ道で待っていると、とぼとぼとした足取りでエルがやってきた。

 

「エル」

「……トレーナーさん」

 

 いつもの快活さが無い。

 ハナ差、タイムもほぼ同値の紙一重の僅差とはいえ敗北は敗北。

 デビューからこれまで無敗を誇っていた彼女にとって今日は初めての敗北だ。

 かなりのショックだったのだろう。

 

「ダービーはどうだった?」

「それは……」

「楽しかったかい?」

 

 エルが呆気に取られた顔をした。

 我ながら、変なことを言っているとは思う。

 確かにエルは負けた。

 だがそこに油断もアクシデントもなく、互いの全力を真っ向からぶつけ合った結果だ。

 世界の若駒が集うNHKマイルCに勝ったエルでも勝てなかった。黄金世代という世間の評価は伊達ではないのだ。

 だからこそ、負けをただの負けのまま受け取って欲しくなかった。

 

「負けたら誰もが悔しいものだ。でも、今日エルが感じたのはそれだけじゃないだろう?」

「…………熱かったデス」

 

 絞り出すようにエルが言った。

 

「前のNHKマイルとは違った。最後の最後まで気が抜けなくて、血が沸騰してるみたい熱かった!

 スぺちゃんと競り合っている時は負けるもんかってどんどん力が湧いてきた!

 だからこそ―――勝ちたかった……!」

 

 エルの瞳から涙があふれてくる。

 

「胸が張り裂けそう! 目の奥が熱い! 寒くないのに手足が震えて、不安で見えてる世界が崩れてしまいそう……負けるってこんな気持ちなんデスね……」

 

 涙はマスクを濡らし、頬を伝っていく。

 

「グラスも、キングも、セイちゃんもスぺちゃんも……こんな気持ちだったんデスか?」

「きっとそうだ。そしてみんな立ち上がってきた」

 

 この一戦は確かに意味あるものだった。

 敗北は悔しいし、辛い。だけどこの経験を糧に、ここからエルの心は成長する。

 

「エル、君の夢はこれで終わりなんかじゃない」

「ハイ……」

「敗北を知って強くなれ。君なら必ず今日の負けを糧にできる」

「ハイ―――」

「勝ちに行くよ、ジャパンカップ」

「ハイ!」

 

 涙を拭い、エルの表情に活気が戻る。

 羽織るコートの様に烈火の闘志が瞳に宿っていた。

 ジャパンカップは日本ダービーと同じコースだ。

 この負けは決して無駄にしない。

 次に勝つのは、私たちだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 夜。

 学園に戻ってきたエルコンドルパサーは中庭にある大きな切り株の前にいた。

 手には湿ったお気に入りのマスク。普段から素顔を晒さない彼女が、今夜だけは仮面を外していた。

 雲のない空に鎮座する黄金の月が彼女を照らす。

 切り株は中身がくりぬかれて空洞となっており、さらに井戸のように深い穴が空いていた。

 レースに敗れたウマ娘たちが、悔しさや鬱憤を吐き出す場としてよく使われているものだ。

 ふと、耳を澄ますと遠くから賑やかな声が聞こえてくる。

 栗東寮でスペシャルウィークの祝勝会が開かれることを思い出した。

 

「アタシが勝っていたら、美浦寮でもやっていたのかな」

 

 言ってから頭を振って苦笑い。

 終わったレースのたらればを語るなど、未だに引きずっていることを自覚した。

 

「珍しいですね。エルがマスクを外しているなんて」

「ケ!? グ、グラス……!?」

 

 友人の声が聞こえてすぐにマスクをつけた。

 渇き切っていない布が顔に触れて一瞬顔を顰めたが、結局素顔を晒すことへの羞恥が勝った。

 

「ど、どうしたデスか? てっきりスぺちゃんの祝勝会にお邪魔しているとばかり……」

「ええ、ついさっきまで。ですが、一向に来ない恥ずかしがり屋の方が気になりまして」

「うぐ……」

「責めてはいませんよ。……私も、皐月賞の時は同じようなものでしたし」

 

 一瞬だけ、グラスの顔が曇った。

 ケガで出られなかったこととではなく、友人の勝利を意固地になって祝えなかった自分を恥じているようだった。

 

「スぺちゃんには、後でちゃんとおめでとうを言いマス……」

「そうですね、今はそれでよいと思います」

 

 スペシャルウィークも敗者の気持ちが分からない子ではない。

 祝勝会の場にいない者のことを悪く思わないだろう。

 

「トレーナーさんは、エルの夢はまだ終わりじゃないと言ってくれました」

 

 グラスワンダーは友の独白に耳を傾ける。

 

「ジャパンカップで力を示す。そして海外でもエルの力を見せつける。世界一が集まるレースで勝てば最強、そう思っていました。

 ……でも、分からないデス。負けたことのあるウマ娘は、果たして本当に最強なんデスか?」

「それは―――!」

 

 そんなことはないと言おうとしてグラスワンダーは口を閉ざした。

 言葉に仕掛けたそれは慰めでしかないと咄嗟に気づいたのだ。

 最強の定義は曖昧だ。それこそ人の数だけ考え得る最強があるだろう。

 無敗のクラシック三冠か、圧倒的なレコード勝利か、GⅠ連勝か。それとも多くの者に夢と希望を与えた者か。

 頷いて同意する者もいれば、首を横に振って否定する者もいるだろう。

 

「……では、エルの思う最強は何でしょうか?」

「……分からないデス。分からなく、なってしまいました……」

 

 おそらく、エルコンドルパサーが考える最強は生涯無敗だったのだろう。途方もない、それでも彼女なら成しえたかもしれない夢。

 それが潰えたということは、エルコンドルパサーを支える柱が丸ごと消失したに等しい。

 トレーナーの言葉で奮起した一方で、彼女が目指す未来は揺らいでいた。

 

「……先ほど、スぺちゃんたちには宣戦布告してきたんです」

「グラス……?」

 

 ならば、自分がそれを定めよう。崩れかけた道を新たな一本線で補強しよう。

 

「私は秋、菊花賞に出ます。必ず出ます。そして勝ってみせると、そう伝えてきました」

 

 菊花賞。最も強いウマ娘が勝つと言われる、クラシック三冠の最後の一冠。

 エルコンドルパサーがグラスワンダーのために日本ダービーに出たように、グラスワンダーもエルコンドルパサーのために最強を証明しよう。

 

 皐月賞(ひとつめ)は逃した。日本ダービー(ふたつめ)は手から零れ落ちた。

 しかし、

 

「キングさんにも、セイちゃんにも、スぺちゃんにも勝ちます。そうすれば―――」

 

 菊花賞(みっつめ)は逃さない。

 

「私に勝ったことがあるエルが最強です。貴方の夢はまだ続きます……!」

 

 月下の庭にて、少女たちの誓いは結ばれた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「いいな。グラスさんもエルさんも……」

 

 物陰から中庭を覗きながら、ライスシャワーは呟いた。

 エルコンドルパサーの様子が気になったので探しに来たが、どうやら無用な心配だったようだ。

 先輩として何か言おうと思ったが、同期の親友の言葉の方が良く届くだろう。もうライスシャワーが言葉を送る必要はない。

 グラスワンダーもエルコンドルパサーも、互いに互いを高め合う関係になっている。

 黄金世代とはよく言ったものだ。一方の輝きを浴びて、もう一方はさらに光り輝いていく。

 

「先輩として、ライスも良いところを見せなきゃね」

 

 日本ダービーが終われば、残るGⅠは安田記念と宝塚記念。

 ライスシャワーが出るのは春シーズンの総決算、上半期のグランプリである宝塚記念だ。

 そしてそれは、過去にライスシャワーが瀕死の重傷を負った因縁あるレースでもある。

 

「次は、超えて見せる」

 

 彼女もまた、黄金の輝きに共鳴していた。

 かつての悲劇を超えるため、悲願の中距離戴冠を目指すため、大切な人の悪夢を終わらせるために走る。

 

 宝塚記念が来る。

 

 

 

 

 

 

 




参考タイム netkeiba.com様より
日本ダービー
1998 スペシャルウィーク 2:25.8 天候 : 曇 / 芝 : 稍重
ジャパンカップ
1998 エルコンドルパサー 2:25.9 天候 : 晴 / 芝 : 良


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30話 ライスと宝塚記念

 気付けばターフの上を走っていた。

 芝の匂いはなく、スポットライトが当たったように自分の周りだけが見えていて前も後ろも闇だった。

 これは夢なのだと、ライスシャワーは自覚した。

 それでもウマ娘の本能か、彼女の脚は走ることを止めなかった。

 しばらくして走っている場所に覚えがあることに気づいた。

 

 ここは京都レース場、そしてこのコースは宝塚記念だ。

 

 ライスシャワーにとって因縁深いレース。それを、宝塚記念の直前で夢に見るとはなんの因果か。

 克服したつもりだった、痛ましい記憶が蘇る。

 それと同時に足元の影が蠢いた。

 

「これは……」

 

 影から黒い靄が噴き出し、やがて形を成していく。

 首が少し長い、四足のナニか。眼窩と思わしき箇所には蒼い鬼火が灯っていた。

 漆黒の生物がライスシャワーと併走を始める。

 これは一体何だ。

 ウシか、キリンか、しかし頭の奥でいずれも違うと否定されるアンノウン。

 未知を前に、どうしてかライスシャワーに恐怖は無かった。

 危険はないと知っているかのように落ち着いていた。

 

 ──終わりだ

 

 声は、ウマ娘と同等の速さで駆けるソレから聞こえた。

 

「終わりって?」

 

 答えはなく、影は静かに前を見た。

 坂がある。あの坂だ。

 そして思い出す。あの瞬間、ライスシャワーが見たものを。

 

「そうか、あなたは……」 

 

 坂へと突入する。

 身に沁みついた動作。登坂のために脚へ力を込める。

 そして───

 

 そして、目が覚めた。

 

「…………夢、だよね」

 

 堪らず脚を触る。

 大丈夫。折れていない。痛みも熱もない。日々のトレーニングで鍛えたいつもの脚がそこにある。

 安堵の息をついたが、良くない夢だった。

 じっとりとした汗を掻いており、髪や寝間着が張り付いて気持ち悪かった。

 四月から同室となったゼンノロブロイを起こさないよう、静かにベッドから出てタオルを探す。

 汗を拭い、ついでに水を飲んで一息ついてからベッドへ戻った。

 

「…………」

 

 時刻は深夜三時。起きるには早い。けれども寝直そうにも変に目が冴えてしまった。

 手持ち無沙汰でスマホを弄る。光が漏れて同室が起きないよう、布団を被った。

 意味もなくLANEを起動した。

 最近一気に増えたトーク相手を眺めながら、ある人物のところで止まる。

 

(迷惑、だよね……)

 

 深夜だ。普通なら既に寝ている時間だ。

 彼の仕事は世間的には花形だが、その実激務でもある。

 故に睡眠は貴重な休息だ。それを自分の気まぐれで邪魔することは憚られた。

 でも、

 

(きっと気づかないよね)

 

 LANEの通知音はあまり大きくない。バイブレーション設定にしていることも多い。

 寝ているのなら、きっと気づかない。

 明日の朝通知を読んで、練習の時にアレは何だったの? と聞かれるだけ。笑い話だ。

 だから、

 

『起きてる?』

『起きてるよ』

 

 すぐに既読がついて、すぐに返信が来たのは驚いた。

 心臓ごと体が跳ねた気がした。

 

『眠れない?』

 

 続けて来た。向こうでは既読がついただろう。

 すぐに返事をする。

 

『ちょっと目が冴えちゃって』

『気になることでもあった?』

『ううん、大丈夫。緊張しちゃってるのかも』

『もうすぐだからね』

『宝塚記念だね』

 

 既読がつく。さきほどまですぐに来た返信が、まだ来ない。

 

(やっぱり……)

 

 彼の中ではまだあのレースの傷が残っているのだ。

 ライスシャワーの脚は完治した。しかしその脚が砕ける瞬間を見た彼の心は未だ治り切っていない。

 病院で、打ちひしがれ憔悴した彼の様子を思い出す。

 

『今度は大丈夫だよ』

 

 思わずそんな言葉を送っていた。

 彼の不安を少しでも軽くしたかった。

 

『頑張ろうね』

 

 少しして、そう返事が来た。

 

『うん。おやすみなさい』

 

 そう返してスマホを手放して瞼を閉じた。

 夜更かしして明日に響かないように。

 レースに勝つために。

 勝って、彼の傷を埋められるように。

 

 次の宝塚記念は、そのためのレースだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 厭な夢を見た。

 よりにもよって、ライスの宝塚記念が近いこのタイミングでなぜこんな。

 ライスの脚が砕けて倒れたあの時のことを見るのだ。

 小さな体が崩れ落ち、ターフが赤く染まったあの瞬間を。

 

「いや、考えるのは止めよう」

 

 わざわざ陰鬱になる必要もないだろう。

 しかし嫌な汗をかいた。

 ライスからLANEが届いたのはそんな時だった。

 もしや何かあったかと肝が冷えたが、そんなこともなかったようだ。

 気が紛れればと思いメッセージ上で会話する。

 何度かやりとりしていると、ライスからの返信を見て文字を打つ手が止まった。

 

『宝塚記念だね』

 

 そうだ。もうすぐ宝塚記念がやってくる。

 彼女が倒れた、あのレースが。

 ……大丈夫だ。ライスの脚は完治した。

                  本当に?

 彼女の調子も良い。

 強敵こそ多いが、勝ち目がないわけではない。

                  本当に?

 昨今、中距離のGⅠ制覇の実績は重要だ。

           それで、彼女が今度こそ壊れたとしても?

 ……黙れ。彼女と相談して決めたことだ。

 なによりも、ライス自身が走ることを望んでいる。

 

 あの時も、そう思って送り出したはずだ。

 

「……………」

 

 頭を振って、迷いを払う。

 トレーナーの不安はウマ娘にも伝わる。不安や迷いを抱えた者の指導を喜ぶウマ娘がいるものか。

 これまでのライスの頑張りを、私が信じないでどうするのだ。

 そう決意して、返事を打とうとして、

 

『今度は大丈夫だよ』

 

 また手が止まった。

 どうやら私の考えはライスにはお見通しらしい。

 

「成長したな、ライス……」

 

 昔の彼女は自信が持てなくて、大丈夫なんて台詞は私が言っていたのに、今は逆に言われるようになってしまった。

 彼女は変わった。そして今、過去を一つ乗り越えようとしている。

 だったら、

 

『頑張ろうね』

 

 私も乗り越えるのだ。

 彼女が大丈夫と言ったのだから、私が信じなくてどうする。 

 おやすみなさい、というライスの返信を最後にLANEを閉じた。

 目はまだ冴えている。動き出すには早い時間だが、もう一度寝直すのも惜しかった。

 PCを起動し、宝塚記念の出走ウマ娘たちへの対策を再考する。

 あのレースは私たちにとって大きな転換点となった。

 だから、今度もあのレースを期に変わるのだ。

 

 恐れるのは、これが最後だ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 時間と場所は変わり、栗東寮。

 談話室でミホノブルボンは掲示板の前に佇んでいた。

 そこには学園からお知らせや新聞部やサークルが作った記事やチラシなどが張られ、機械と相性の良くないミホノブルボンにとっては貴重な情報源だった。

 ここ数日、彼女の毎朝掲示板のある記事を見ることが日課となっていた。

 ミホノブルボンが見つめているのは春のファン大感謝祭で行われたトレーナートークショーの記事だ。ライバルであるライスシャワーのトレーナーがファンからの質問に答える催し。

 同室のニシノフラワーが言うには、SNSでもGⅠウマ娘のトレーナーから話を聞ける機会として好評だったらしい。

 記事にはトレーナーが答えた質問が要約した形で箇条書きされており、ミホノブルボンはそのうちの一つを凝視していた。

 

Q.ライスシャワーの今後の予定と、警戒しているライバルは誰ですか?

A.宝塚記念を考えています。

  警戒しているのはサイレンススズカでしょうか。

 

「………………」

 

 次走、宝塚記念で警戒するのはサイレンススズカ。ライスシャワーのトレーナーはそう言ったのだ。ミホノブルボンではなく。

 異を唱える気はない。

 事実、ミホノブルボン自身が大阪杯でサイレンススズカに敗北している。

 だから彼の判断は間違ってはいないし、ライスシャワー自身に面と向かって言われたわけではない。

 なのに、どうして胸の奥が痛むのか。

 

(ステータスに異変。これは…………嫉妬?)

 

 自覚してみればすっと腑に落ちた。

 自分は、ライスシャワーのライバルでいられないことに苛立っているのだ。

 クラシック級の時から、ミホノブルボンが逃げて、ライスシャワーが追ってきた。

 だが今は、ミホノブルボンより前に別のウマ娘がいて、ライスシャワーもその背中を追っている。

 それが、どうしても嫌だった。

 

「私を、見ろ……」

 

 トークショーの記事の隣には宝塚記念のポスターがあった。

 出走ウマ娘たちの名前には当然、彼女の名前もあった。

 

「私を見ろ。ライスシャワー……」

 

 サイレンススズカではない。

 あなたが追うべき背中は私のはずだ。

 

「私が逃げて、あなたが追う。今までだってそうだった。だから……」

 

 これからだって、そのはずだ。

 

 機械のようだと言われた彼女の瞳に、烈火の闘志が宿った瞬間だった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 トゥインクルシリーズの春シーズン、上半期を締めくくる宝塚記念。

 有記念同様、ファン投票による出走が可能なこのレースは例年通りの盛り上がりを見せていた。

 ドリームレースの看板を掲げるだけあって、出走メンバーも錚々たる顔ぶれだった。

 三度目の春の楯を手にしたライスシャワー、GⅠ含め五連勝中のサイレンススズカ。

 その両者へのリベンジに燃えるミホノブルボン、有記念以来のGⅠ出走となるエアグルーヴ。

 昨年ダブルティアラを獲ったメジロドーベル、春天ではあと一歩のところまで迫ったメジロブライト。

 そして何の因果か、ファン投票で七位に入り出走権を得たサクラバクシンオー。

 他シニア級から歴戦のウマ娘が集まり計十三名。出走ウマ娘の半数がGⅠウマ娘という豪華メンバーに観客も出走が今か今かと待っていた。

 そしてそれは、出走するウマ娘たちも同様だった。

 この一戦に特別な意味を見出すウマ娘は多い。

 ライスシャワー、ミホノブルボン、サクラバクシンオーにとっては悲願でもある中距離GⅠタイトル。

 サイレンススズカも勝てば六連勝となり、数の上ではあのオグリキャップに並ぶ大記録となる。

 メジロ家の二人も、宝塚記念は過去にメジロを冠するウマ娘が何度も勝利したレースだ。家名を背負う者として天皇賞(春)に次いで勝ちたいレースであった。

 刻一刻と近づく出走時間に比例するように、控室からはドア越しでも圧のようなものを感じられた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「……ねえ、お兄さま」

「どうしたライス?」

「脚……触り過ぎかなって……」

 

 脚を触診していた手が止まる。

 顔を上げると、困った顔でこちらを見下ろすライスと目が合った。

 見えないが、背後からも冷たい視線を感じる。

 

「………………そっか」

 

 立ち上がると、今度は私がライスを見下ろす形となる。

 

「ライス、大丈夫だよ?」

「ああ。分かっている……」

 

 本当だ。分かっている。今日のライスは万全だ。

 ……それでも万が一、億が一の悲劇が脳裏から離れない。

 

「ライス……」

 

 情けない。すでに復帰から一年が経ち、有記念も天皇賞(春)も制しているというのに、このレースだけは未だ不安が消えない。

 勝てなくてもいい。異常が起きたらすぐに走るのを止めてほしい。ただ、無事に帰ってきてさえくれれば。

 そんな弱音が浮かんでは言うべきでないと裡に押し込めていく。

 

「ライス、頑張るね」

 

 かける言葉を選んでいるうち、またもライスに先を越されてしまった。

 

「……ああ、頑張っておいで」

「私たちも精いっぱい応援しますね」

「頑張ってきてください!」

「……うん!」

 

 グラスたちの声にも力強く頷き、ライスは控室を出ていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ここでチーム・マルカブの面々は二手に分かれた。

 一方はトレーナーの後に続いて客席へ向かう。そしてもう一方は、いや一人がターフへ向かうライスシャワーを追った。

 

「ライス先輩!」

 

 グラスワンダーから声がかかると、ライスシャワーは歩みを止めて振り返った。

 

「グラスさん……?」

「えっと……その……トレーナーさんのことです」

 

 ああ、とライスシャワーは苦笑いを浮かべた。

 

「トレーナーさんはまだ、その……」

「うん。まだ尾を引いてるみたい……。ライスもね、何度も大丈夫だよって言ってるんだけど」

「言葉にして、すぐ受け入れられるとは思えません」

 

 ライスシャワーの大ケガは学園内でも有名だ。命をとりとめたことだけでも奇跡、さらにレース復帰するまで回復するなど当時の誰が想像できただろうか。

 

「そう、かもね……。ねぇグラスさん。ライスね、お兄さまと二回だけケンカしたことあるんだ……」

「ト、トレーナーさんとですか……!? いつもあんなに仲が良いのに……」

「えへへ……。そのうちの一回はね、ライスが宝塚記念でケガをした後なんだ。

 ……ライスがもう一度走れるようになりたいって言ったらね、お兄さまは『無理して走る必要なんてない』って言ったんだ」

「それで、ケンカを?」

 

 頷くライスシャワー。

 一方で、グラスワンダーには両方の言い分が理解できた。

 再起を目指す気持ちも、これ以上の大事が起きないうちに身を引かせようとする気持ちもだ。

 特に当時のライスシャワーはシニア級だ。GⅠも複数勝っている。辛いリハビリの日々を送るより、ここがいい区切りだと退くこともできたはずだ。

 

「どうして走り続けようと思ったんですか?」

「だって、そしたらお兄さまは悲しい気持ちのままだもん」

 

 そんな理由で、と零しそうになった。

 

「ライスにとってお兄さまは、絵本に出てきた『お兄さま』なの。だからライスも、お兄さまにとっての『青いバラ』になりたい。悲しいままじゃない。終わるのなら笑顔で終わりたかったの」

「……一命を取り留めただけでも、トレーナーさんは嬉しかったんじゃないですか?」

 

 言ってから後悔した。二人の決意を無碍にするような質問だが、ライスシャワーは気にした様子もなく頷いた。

 

「そうだね。でも、ライスが引退したらお兄さまの時間はあの宝塚記念で止まったままになっちゃう。ううん、今も止まっている。

 ……ライスは復帰できた。有記念も勝てた。三回目の春の天皇賞も勝てた。でも、お兄さまの宝塚記念はまだ続いている。悪夢の続きを、あの人はまだ見ている」

 

 どれほど元気にレースを走ろうと、勝って栄冠を得ようと、彼の脳裏にはまだあの光景が焼き付いている。

 

「だからライスが終わりにするの」

「ライス先輩……」

 

 ライスシャワーの覚悟を目の当たりにして、グラスワンダーは己を恥じた。

 トレーナーとライスシャワー、二人がこのレースに賭けた重荷を少しでも軽くできないかと声をかけたというのに、既にライスシャワーは過去の悲劇を昇華させて前に進む力へと変えていた。

 今更、グラスワンダーが出る幕などなかった。背伸びをして手助けをするつもりが、外様が弁えずしゃしゃり出た形となってしまった。

 

「グラスさん、ありがとうね」

 

 そんな少女の懊悩すら、ライスシャワーにはお見通しだったようだ。

 

「二人きりだから言うけどね、ライスとグラスさんはチームの中で一番似てると思うの」

「似てる、ですか? 先輩と私が……?」

「うん。どこがって聞かれると言葉にできないんだけど……こう、運命みたいな?」

「その……詩的ですね?」

「ふふ、ごめんね変なこと言って。でも、そう思っているのは本当」

 

 握って拳をそっと前に出すライスシャワー。

 

「だから見ててね。きっと、あなたも来年走るレースだから」

「……はい!」

 

 拳を軽く当てると、笑顔でライスシャワーはターフへと向かっていった。

 励ますつもりが、逆に励まされるというか二人の絆の深さを見せつけられてしまった。

 

「私も、まだまだですね……」

 

 いつか彼女のような強さを持てるよう、このレースを目に焼き付けよう。

 決意を新たに、少女もまた自分がいるべき場所へと戻っていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『票に託されたファンの夢、想いを力に変えて走る春のグランプリ宝塚記念! 私の夢、貴方の夢が走ります! 

 三番人気はミホノブルボン、是が非でも取りたい中距離GⅠ、ダービーウマ娘の意地を見せられるか!

 二番人気はライスシャワー、このレースには大きな因縁のあるウマ娘です。天皇賞に続き見事復活勝利を成し遂げられるか!

 一番人気は脅威の重賞五連勝、サイレンススズカ! 果たしてこの異次元の逃亡者を捕えられるウマ娘は現れるのか、それとも今日も見事逃げ切るのか!

 

 宝塚記念……今、スタートしました!

 

 真っ先にハナを取るのはやはりサイレンススズカ! いや!? もう一人がすぐ横についた!

 ミホノブルボン、ミホノブルボンだ! スタート直後からサイレンススズカとミホノブルボン、逃げウマ娘同士の先頭争いだ!』

 

 サイレンススズカがハナを取るのは分かっていた。しかし、ミホノブルボンがそれについて行くことはライスシャワーにとって予想外だった。

 

(ブルボンさん……!)

 

 大阪杯では最後までサイレンススズカを捉えることができなかった彼女だ。同じ轍を踏まぬよう今度はサイレンススズカのペースに合わせていくつもりなのか。

 しかしそれは常識で考えれば無謀だ。

 一方で、無謀を貫かなければサイレンススズカを捕えることはできないという覚悟の現れにも見えた。

 ライスシャワーに二人の先頭争いについて行くだけの瞬発力は無い。

 

(ついてく……! ついてく……!)

 

 今は自分の武器を信じ、力を溜めるのだ。

 

『二人の逃げウマ娘が先頭を走る中、四バ身下がって三番手にはサクラバクシンオー、四番手にライスシャワーが続きます。

 メジロドーベルは五番手、エアグルーヴは中団にいます。メジロブライトは後方で待機した状態で第一コーナーへと入っていきます!』

 

 コーナーを曲がって向こう正面。

 先頭は未だミホノブルボンがサイレンススズカに食らいつき、激しく争っていた。

 ペースは明らかに早い。通常なら控えて先頭がバテるのを待つところだが、今先頭を走るのは常識が通じるウマ娘ではない。

 

(この差は……マズイか?)

 

 片や日本ダービーを逃げ切った怪物。片やその怪物から2,000mを逃げ切った逃亡者。 

 彼女たちを捕えるには、最終コーナーで仕掛けては遅いかもしれない。

 そう思ったウマ娘たちが少しずつ位置を上げ始めた。

 一方で後方に待機した、所謂追込みの脚質とされるウマ娘たちは動かない。終盤の末脚に全てをかけるが故、中盤でむやみに消耗するのを避けた形だ。

 中団と先頭集団が重なりながら第三コーナーへ。そして緩い下り坂のある最終コーナーへと差し掛かる。

 

(ここで……!)

 

『コーナーを抜けて最終直線! ここでエアグルーヴが仕掛けた!!』

 

 オークスを制した末脚が炸裂する。

 中団を一気に抜け出し、ライスシャワーとサクラバクシンオーを抜いて三番手に躍り出る。

 

「まだまだあ! 負けませんよお!!」

「……はあ!!」

 

 劣らず二人もスパートをかける。

 しかしエアグルーヴとの差は縮まらない。いや、徐々にだが差は開いていく。

 ライスシャワーが歯噛みするその先、先頭を走る二人は未だ互いを突き放せずにいるのを見た。

 

(ブルボンさん、スズカさんにここまで食らいついて行くなんて……!)

 

 改めてミホノブルボンの強さを見せつけられた。

 そして気づく。一瞬、刹那にも満たない僅かな時、ミホノブルボンの視線が自分に向いていた。

 一度だけではない。何度も、何度も。

 

(待っているんだ、ライスがそこに行くのを……!)

 

 ミホノブルボンはまだライスシャワーとの戦いを望んでいる。サイレンススズカに決して先を譲らないのもいずれ迫るであろう彼女との一騎打ちのため。

 

(だったら―――!)

 

 このレースはかつての悲劇を乗り越える意味があった。トレーナーの悪夢を消し去る大義があった。

 そこに加えて、ライバルが決戦を望んでいるというのならば、

 

「行くよ、ブルボンさん!!」

 

 烈火のごとく、力が湧くものだ。

 阪神レース場最後の坂を、黒い体躯が駆け登っていく。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『ここでライスシャワーが上がってきた! エアグルーヴに迫る! 追いついた!

 そして、そして……抜けた! 抜けた! 抜けた! ライスシャワー三番手!!

 先頭の二人にも手が届くか!』

 

 ライスが坂を登りだした時、思わず身を乗り出していた。

 柵を掴んだ手が汗で滑り、あわやのところをエルに引っ張り戻してもらった。

 後ろからエルたちの声が聞こえるが私の目はターフから離せない。

 

「ライス……」

 

 最後の坂をライスが駆けあがっていく。エアグルーヴを抜き去り、ミホノブルボンとサイレンススズカを捕えんとしていた。

 

「行け……頑張れ……!」

 

 走り切れればいい。無事に帰って来てくれれば。勝てなくとも。

 始まるまでそんなことを考えていたというのに、今は誰よりも彼女の勝利を望んでいる。

 なんとも都合の良い。でも仕方ないじゃないか。

 あれだけ頑張ったんだ。辛いリハビリを乗り越えて、今ここに戻ってきたんだ。

 少しくらい、夢を見ても良いじゃないか。

 

「頑張れライス……頑張れ!」

 

 聞こえるはずのない声に背中を押されたように、ライスが先頭の影を踏もうとしていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ライスシャワーが迫ってくるのを感じて、ミホノブルボンは歓喜した。

 競り合っているとはいえ、彼女が求めていた展開となった。 

 

(ですが、勝つのは……!)

 

 サイレンススズカを振り切り、ライスシャワーからも逃げ切る。

 そのために最後の力を振り絞ろうとして―――

 

 ―――その前にサイレンススズカが(かのじょのあしにくろいかげ)全てを振り切った(がからみついていた)

 

「…………!?」

 

 愕然とした。驚きのあまり声も出ない。

 まるで今スパートに入ったかのような加速に、栗毛の逃亡者の身体が一バ身二バ身と前に向かっていく。

 

『サイレンススズカが抜け出した! ミホノブルボンもライスシャワーも突き放す!!

 まだ脚が残っていたのか!? まさに逃げて差す!

 まさに異次元! 圧倒的な力の差を見せつけ、今ゴール!!

 サイレンススズカ!! 

 宝塚記念を制したのはサイレンススズカ!!

 これでGⅠ二連勝、そして重賞五連勝!! 秋シーズンの活躍が今から楽しみです!!』

 

 沸き立つ歓声。

 ミホノブルボンと終始競り合った挙句のラストスパートで圧倒。

 ライスシャワーやエアグルーヴからも逃げ切ったその速さに観客は興奮を隠せない。

 一方で、レースに従事するトレーナーやウマ娘たちは戦慄した。

 これまでのレースの常識を根底から覆す実力。

 彼女相手に、どんな対策をすればよいのだ。

 グランプリを制したスターウマ娘の誕生を祝福する中で、苦悩の声も確かに生まれていた。

 

「あれは……どうすれば……」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 地下バ道に向かうと、ちょうどライスも戻ってきたところだった。

 最後のスパートからの疲労か、顔には汗が浮かんでいた。

 敗北の悔しさから下を向いた少女へ声をかける。

 

「ライス……」

「あ、お兄さま……ごめんなさい。ライス、三着だった……。」

 

 猛スパートもミホノブルボンに届くことはなかった。

 ライスにとって中距離の壁は未だ高い。いや、むしろ世代が重なるにつれて高くなっている気すらする。

 でも、今はそんなことよりも伝えることがあった。

 

「おかえりライス」

 

 膝をついて少女と目線を合わせる。

 あの時は違う。

 ターフではなく地下バ道で。

 倒れた彼女ではなく、自分の脚で立つライスを。

 閉じた目ではなく、紫水晶の綺麗な瞳をみることができた。

 

「無事に帰って来てくれてありがとう」

「お兄さま……」

 

 手を取り感謝を伝えると、ライスの肩が小さく震え出した。

 

「ライス悔しいよ。勝ちたかったのに……勝って、勝ってぇ……!」

「そうだよね。悔しいよね」

 

 涙を浮かべたライスを抱きしめる。

 走ったことによるものとは別の熱を感じた。

 

「次は勝とう。ミホノブルボンにも、サイレンススズカにも」

 

 つくづく、我ことながら欲深い。

 無事に帰って来てくれたらなんて思っていたくせに、いざ無事に済めば今度は勝ちへの欲が湧いてくる。

 彼女の努力が、勝利という形で称えられることを望んでいる。

 

「一緒に強くなろう。私と、ライスと……マルカブのみんなで」

「…………うん!」

 

 二人で歩き出す。

 

 ようやく、私たちの宝塚記念は終わったのだ。

 

 

 






この流れで負けるとか。
でもこの段階でのスズカとかどうすれば勝てるのか……。

明日は番外編を投稿して一旦ストップ。また書き溜めに入ります。


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【番外】春の終わりと夏の始まり

 いつも誤字報告ありがとうございます。
 今回で連日投稿は一旦終了します。また書き溜め期間に入ります。
 


 

【番外3】お兄さまへのQ&A回答

 

 27話で募集した質問に対する回答です。

 回答について以下の点ご注意ください・

 ・あくまでお兄さま視点での回答になります。

 ・質問文はQ&A方式の都合上、いただいたものから多少改変しております。

  趣旨は変わりないはずです。

 ・お兄さまの元ネタである騎手のリアルエピソードは一切関係ありません。

 

Q.現在チームで担当しているウマ娘達のレース内外問わず評価している点や好きな所は?

A.とりあえず全員に共通しているのは夢とか目標のために一生懸命なところですね。まあこれはマルカブ(うち)に関わらずどこのウマ娘も同じでしょうけど。

  ライスの場合は一番長く一緒にいるので、私をトレーナーとして成長させてくれた子です。評価しているところや好きなところと言われると、もう全部としか言いようがないですね。彼女がいなければ今の私はいないでしょう。そして今も変わらず、いつも私を支えてくれています。チームとしてもお姉さんとして後輩の面倒を見れてくれているので、チームの大黒柱ですね。

  グラスだと強いメンタルでしょうか。力及ばずケガで春シーズンは泣かせてしまいましたが、腐ることなくトレーニングに励んでいます。一見おっとりしてそうに見えてチームでは特にレースに向けた熱意のある子なので、その想いにトレーナーとして応えてあげたいです。

  エルはポテンシャル、潜在能力という意味ではチーム一ですね。経験を重ねて成長すればどんな舞台でも活躍できると思います。性格も明るくてチームのムードメーカーですね。最近は新しく入ったメンバーとも積極的にコミュニケーションを取ってくれていますし、上と下を繋ぐ橋渡しの役割も率先して引き受けてくれています。

  デジタルは芝とダート両方が走れる適性とどちらも走ろうとするモチベーションでしょうか。適性はエルも負けないくらい広いですが、主戦場を絞らず両取りしようとするのはデジタルくらいでしょう。当然その分大変なのですが、本人も研究熱心で自分の夢に邁進しています。

  ドトウは根性というか、とにかく諦めないところですね。チームにいるのでライスやグラスたちと一緒にトレーニングする時があって、当然デビュー前のドトウにはキツい時もあります。でも彼女の方から諦めたり弱音を吐いたことはありませんね。この意志の強さは必ず良い結果につながると信じています。

  以上、長くなりましたがこんなところですかね。

   

 

Q.トレーナーとして笑える失敗談はありますか?

A.まあ人づてで聞いたり、過ぎたことだから笑えるという意味では。

  レースで担当を応援しているつもりが、似た毛色の別の子を目で追って応援していたとか。

  担当が複数いて、同日のレースに出る時渡すゼッケンを間違えてしまったりとか。

  スカウトに熱心するあまり不審者扱いされたりとかでしょうか。

  え? 私がやらかしたのはどれか?

  …………最初のです。はい。

 

「………………」

「ラ、ライス先輩の目が笑っていないデス……」

「やってしまったんですね……」

「別に気にしてないもん……」

 

 

Q.引退している方も含めて、交友のあるトレーナーや尊敬しているトレーナーはいますか?

A.尊敬しているのは師匠、先代のマルカブトレーナーですね。あの人にはトレーナーとしての全てを叩き込んでもらいましたし、ライスと出会うこともなかったでしょう。

  他には六平さんはじめ、ベテランの方々は指導の様子を見て学ぶことが多く、どなたも尊敬しています。

  あとは……特に名前を上げるならリギルの東条トレーナーですね。あれだけ多くのスターウマ娘を育て上げているわけですから。

  交友がある人というとミホノブルボンを担当する黒沼トレーナー、カノープスの南坂トレーナーとか。担当ウマ娘を通して交友がある方が多いですね。

  同期は交友というよりライバルって関係ですね。険悪なわけではないですが、あまり慣れ合う感じではないです。

 

 

Q.マイルより長距離の子の方が育成するのが得意、という感じで育てるのが得意な距離はありますか?

A.んーマルカブは色んな距離適性の子がいたので、ズバリこの距離って偏ったことはないですね。

  一応、どの距離でも重賞はとっていますし。

  ……でも私のトレーナーとしての最初の担当はライスなので、長距離ってことになるんですかね。

 

 

※作者注

 質問受付は締め切っていないので、もしも追加があれば活動報告へお願いします。

 

 

 

【番外4】彼女たちの企み

 

 日々、夏の暑さが迫ってくるのを感じる中、エアシャカールは空調の効いた自室で自分のPCと向き合っていた。

 画面に現れては消えていく数字の群れ。彼女が集めてきたウマ娘たちの筋力や走力などのデータだ。

 それらを自作のプログラムソフトに入力、多様な条件でのシミュレートを行い自分に活かせるものを抽出していく。

 明確な数字と確かなデータを基に効率的なトレーニングメニューを定める。彼女は数字とデータの信奉者なのだ。

 

「…………」

 

 廊下からノックされた。が、エアシャカールは応対しない。

 今日は誰かと会う約束はしていない。

 重要な件なら声を上げて呼ぶだろうがそれもない。

 もっとも、そんなことまでしてエアシャカールを呼び出すのは寮長か、最近やたらと絡んでくるお姫様くらいだろう。

 ルームメイトに用があるという可能性もあるが、その同室のメイショウドトウは今留守だ。夏合宿に向けて他のチームメンバーと買い物に行っている。

 なので、結局ドアの向こうにいる誰かは空振りなのだ。

 いないの一言を伝えるためにわざわざ作業の手を止めるつもりはなかった。

 少しすれば来訪者も諦めて帰るだろう。返事があるまで立ち尽くすようなやつは知らん。

 

「やあやあ、お邪魔するよシャカール君」

「………………はァ」

 

 押し入ってくる非常識なやつがいるのはさすがに想定していなかった。

 

「勝手に入ってくるンじゃねえよタキオン……!」

「そう思うなら施錠することをお勧めするよ。もっとも、またドトウ君が鍵を失くして締め出されることが無いように鍵を開けておいてあげる優しいシャカール君には難しいかもしれないがね」

「無駄口叩いてんじゃねえ。 さっさと用件だけ言って失せろ……!」

 

 大抵の者なら委縮してしまうだろう鋭い言葉と眼光。だがアグネスタキオンは怯むどころかその反応が面白いと言わんばかりだった。

 

「ま、君の研究の時間を奪うのも心苦しいし本題に入ろうか。

 ……単刀直入に聞くが、シャカール君は夏季休暇の予定は? 帰省とか旅行とかするのかい?」

「ねェよ。どっちもな……」

 

 エアシャカールは実家との折り合いが悪い。

 旅行、景色だの昔の建物だの料理だのを目的に遠出するのも趣味ではない。

 学園がバカンスのようなリクリエーションを用意しているようだが興味はなかった。

 

「それは結構。では提案だが、私と一緒に夏合宿に行かないかい?」

「……それは、学園が毎年夏にやっている合同合宿のことか?」

「勿論だとも。まさか私と君で楽しくキャンプをするとでも思ったかい? 自慢じゃないが、アウトドアではビックリするほど役立たずだぞ私は!」

 

 知るか、とエアシャカールは切って捨てた。

 

「あれは担当トレーナーがついたりチームに入ったやつ、デビューの見通しがたったやつしか参加できねえだろ。……まさか、お前の担当になりてえなんて頭湧いたやつが現れたのか?」

「いいや、残念だがそんな都合のいいモル……波長が合うトレーナーはなかなか見つからなくてね」

「だったらどうすンだ。学園も合宿の参加違反は本気で取り締まる。門限破りや授業放棄とはレベルが違ェぞ」

 

 トレセン学園は仮にも名門校だ。名家とされる歴史ある家柄のご令嬢や財閥のお嬢様が多く通う。

 そのため生活態度を律する校則は多いし、常習的に違反すれば退学勧告もありうる。

 一方でレースという勝負の世界への入口のため、結果さえ出せば大目に見てもらえる風潮───これは是正すべきという声がよく上がる───もある。

 アグネスタキオンもエアシャカールも、我が道を往く無法者である故、校則無視の常習犯だ。

 門限を破ったり、怪しい実験をしたり、消灯時間後に外出したり、怪しい実験をしたり、教官の指示を無視したり、怪しい実験をしたり。

 厳しく非難の目を向けられる彼女たちだが、模擬レースで周囲を圧倒することで大目に見られてきた。

 

「当然、こっそり忍び込むのさ!」

 

 実質ノープランな発言に、エアシャカールはため息すら出なかった。

 

「しかし、シャカール君は門限や消灯時間は気にしないくせに、こういうのは律儀に守ろうとするんだねぇ」

「形骸化した、上辺だけの規則を守る意義が理解できねえだけだ。

 でも合宿は違えだろ。アレは篩だ。出来るやつと出来ねえやつを合宿参加の可否で分けてンだよ」

 

 参加できなかった者が来年こそはと奮起すればよし。変わらずにいて折れて学園を去るならそれもまたよし。

 それを見れば参加した者もせっかくの機会を無駄にはしないだろう。それが学園の狙いだとエアシャカールは語る。

 

(う〜ん、ただ管理する人数を絞るためだけだと思うが……)

「学園もマジで取り締まる。違法参加したやつは昔から尽く学園へ強制送還だ。一つの例外もなくな」

 

 集めた情報の中には、超高速で動く緑色の何かに捕まったという荒唐無稽なものまであった。

 超高速うんぬんは情報としてはノイズだが、強制送還されたのは確かだった。

 

「ああ、忍び込むというのは少し言葉が足りなかったね。つまりは、どこかのチームにその期間だけ入れてもらうのさ」

「余計に無理だろうが! 正式に入るわけでもない、学園の鼻つまみ者であるオレとオマエを引き受ける? そんなお人好しの当てがあるってのか?」

「あるともさ! ……奇しくも、私たちには共通点が多い。

 勝つためにトレーナーは不要だが、レースや合宿に参加するには例え置物でも必要であること。

 学園からして問題児扱いで、深く干渉してくる者は少ないこと。

 そして、ルームメイトが同じチームに所属していること」

 

 そこでエアシャカールはアグネスタキオンが言わんとしていることを察した。

 同時に、そのチームの情報を脳内から引っ張り出す。

 

「……勝算はあるンだろうな?」

「100%とは言えないがね。それでもリギルやスピカよりは可能性が高い。聞くところによると、随分と人が好いトレーナーのようだからね」

 

 件のチームの実績を思い出す。

 シニア級一人、クラシック級二人、未デビュー二人と小規模だが、デビュー済みのメンバーは全員GⅠウマ娘。

 少数精鋭と言えば聞こえはいいが、話を聞くにスカウトにあまり積極的でないらしい。

 

「まあ向こうもタダでとはいかないだろう。私たちもそれ相応のものを差し出す必要がある」

「……研究成果を差し出すのか? オマエが?」

「私の研究はウマ娘に使うためのものさ。有用なら尚更ね……まあ、実証実験を兼ねているというのもあるが」

「………………」

 

 エアシャカールの中で悪魔の提案に伸るか反るかの天秤が動く。

 

(……夏に大きなレースはねェ。学園に残ったところで合宿に参加できなかった連中しかいない。

 有効なデータを集めるなら合宿に潜り込むのは有り。それに……)

 

 PCの中で動き続ける相棒(Parcae)を見る。

 

(オレ以外のやつに対してどの程度の精度を出せるか、試してみるのも悪くないか)

 

 天秤は傾き、エアシャカールの腹は決まった。

 

「向こうを言いくるめるのは任せていいンだろうな?」

「任せ給えよ。シャカール君こそ、出し惜しみは無しで頼むよ。これは正当な取引なのだから」

「テメェの方こそ、実験とか言ってトンチキな薬持ってくるンじゃねェぞ」

 

 ああ、と頷く共犯者を訝しみつつ、エアシャカールの口角は上がる。

 今年の夏は、少し楽しくなりそうだ。

 

 

 

【番外5】王者が行く道

 

 時は遡り、春のマイル王者を決めるとされるGⅠ安田記念。

 そんな晴れ舞台であるというのに、天候には恵まれず大雨となった。

 超不良バ場とまで呼ばれたコース。多くの出走ウマ娘がぬかるみや濡れた芝に苦戦する中、一人のウマ娘が真ん中を突き抜けるように走っていた。

 

『タイキシャトル! タイキシャトルだ! 不良バ場もなんのその、ついに香港からのダービーウマ娘を……捕えた! 捕えたぞ!

 そのまま抜けた! 抜けた! 抜けた!

 タイキシャトルが今一着でゴール!!

 激しい雨の中、マイル王者の誕生です! もはや国内に敵は無し!!』

 

 昨年のマイルCSに続くマイルGⅠ制覇。短距離でサクラバクシンオーに破れたものの、マイル部門において彼女が最強を冠することに異を唱える者はいなかった。

 空が分厚い雲に覆われ、雨が降り続くレース場にタイキシャトルを称える声がいつまでも響いていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「うう〜〜……」

「なんだいなんだい、せっかく勝ったってのにマイル王様は随分ご機嫌斜めじゃないか」

 

 レース後、唸るタイキシャトルの様子に、彼女の髪をドライヤーで乾かすヒシアマゾンは首を傾げた。

 

「……バクシンオー、出てきませんデシタ」

「ああ〜……」

 

 楽しみが先延ばしにされた子供のような声。思わずヒシアマゾンは天を仰いだ。

 

「いや仕方ないだろう。バクシンオーは今中距離に挑戦中。出るのも宝塚記念だって、おハナさんも言ってただろ?」

「宝塚記念っ!?」

 

 金にも見紛う栗毛の尾が跳ねた。

 やばっ、とヒシアマゾンが己が失言を悔いるが遅い。

 

「だったらワタシも宝塚記念に……!」

「ダメよタイキ」

 

 要望は傍らで聞いていた東条によって一刀両断された。

 タイキシャトルの耳も尾も垂れ下がる。

 

「おハナさ〜ん……」

 

 潤んだ瞳でトレーナーを見るタイキシャトル。

 必殺、上目遣いでのお願いだ。

 

「そんな捨てられそうな子犬みたいな顔してもダメ。有記念の時にもう長い距離はいかないって言っていたわよね?」

「そ、そうデスガ~~~!」

 

 やれやれと頭を振る東条。

 サクラバクシンオーがタイキシャトルにとってライバル視できる貴重な存在なのは分かるが、だからと言って向こうのようなハチャメチャなローテーションを真似させる気はない。

 

「もっと建設的な話をするわよ。タイキ、次のレースだけど……」

「気が早いなおハナさん。ついさっきレースが終わったばかりだろう」

「今日のレースを見て出走を決めたのよアマゾン。あの不良バ場で、向こうの芝にも適性があると確信したわ」

「向こう……?」

 

 首を傾げるヒシアマゾン。

 しかしリギルのメンバーの中には察する者もいて、まさか、と呟く声があった。

 

「GⅠジャック・ル・マロワ賞、フランスにおけるマイル路線の最高峰よ」

「フランス……欧州遠征!! タイキさんが!?」

 

 リギルのウマ娘から驚愕の声が上がった。

 欧州はウマ娘レースの本場。日本のレースプログラムも多彩な影響を受け、今日のトゥインクルシリーズに繋がってきた。

 故に、欧州遠征、欧州GⅠ勝利は日本のウマ娘レース関係者全員の悲願でもある。

 ジャパンカップをはじめとする国際招待競走も、日本のウマ娘たちが世界――特に欧州ウマ娘――を相手にどこまで通用するか確かめる意図もあった。

 そんな舞台に、リギルのタイキシャトルが挑むのだ。

 

「タイキ、スプリントで負けたことが悔しいのは分かる。リベンジしたい気持ちもね。

 ……でも所詮、サクラバクシンオーは国内王者よ」

 

 鼓舞するように東条が告げる。

 

「貴方が挑むは世界のマイル王。世界の頂点を獲れば、向こうの方から再戦したいと言ってくるわ」

「本当デスカ!? そのレースに勝てば、バクシンオーとまた走れますか!?」

「ええきっと」

 

 タイキシャトルがFUUU! と興奮の声を上げる。

 彼女の意識が海外へ向かったことに東条は胸を撫で下ろした。

 海外遠征は千載一遇のチャンス、少なくともその場にいないライバルが気になって力を発揮できないということは回避できた。

 

「ジャック・ル・マロワは八月の真ん中だ。向こうの環境に慣れることを考えたらすぐに発つのか?」

 

 ナリタブライアンが計画について聞いてきた。

 彼女の言う通り、日本と欧州では気候から芝の状態まで違う。万全を期すのなら長期の遠征も考えられた。

 しかし、東条の考えは違っていた。

 

「タイキの場合は慣れた環境でギリギリまで調整した方が良いと思う。だから出発は七月中旬以降の予定」

「合宿中か……帯同するのは? おハナさんはついて行くとして、タイキと二人だけのつもりか?」

「ちょうど同じように遠征で渡仏予定のウマ娘がいるからそちらにお願いするつもり。適性距離も近いから向こうでも何度か一緒にトレーニングするかもしれないわね」

「そうか……忙しくなるな」

「ええ、しばらく私はタイキの方に力を入れることになるから、チームの方は頼むわよブライアン」

「ああ、アマさんとフジに言っておく」

「あ・な・た! に言っているの!」

 

 様々な思いを胸に、それぞれの夏が始まる。

 

 

 

 




 春シーズン終了。次回から夏合宿に入ります。
 あとアンケート入れてみました。興味あればぜひ。
 どの結果になっても今後の展開に大きな変化はありません。夏合宿中のイベントが増えるだけ。
 また、結果がどうなっても特定キャラが不幸になるとか、険悪になるとかはありません。


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31話 夏合宿と闖入者たち

 お久しぶりです。
 デジタルがヴァルゴ杯勝ってくれたので初投稿です。B決ですが。
 今回から夏合宿、前回と違ってイベントいくつかあるので複数話かかります。
 一気に終わらせたかったけれど、ちょっと時間かかりそうなので一旦キリの良いところまで、三日間一話ずつ投稿させていただきます。

 あと、色々悩みましたがデジタルのデビューを史実より一年早めます。なので本作におけるアグネスデジタルは覇王世代です。



 

「ちょっとトレーナー君! これどういうことよ!!」

 

 降り注ぐ日差しが強くなり始めた七月のある日。

 トレセン学園の中庭に絹を裂くような悲鳴が響き渡った。

 なんだなんだと周囲や校舎の窓から野次ウマが視線を向けた先、一人のウマ娘が男性トレーナーに詰め寄っていた。

 共にレースの勝利を目指す身、ウマ娘とトレーナーが言い合いになるのは決して珍しいことではない。

 しかし、今回はウマ娘がウマ娘だけに注目が集まっていた。

 マルゼンスキー。

 デビュー戦を大差勝ちし、その強さから他のウマ娘が競走を避けるなど別次元の強さと逸話を持つスターウマ娘。

 生徒の間でも、気さくで明るく、ステキな大人のお姉さまとして慕われている彼女が珍しく感情を露わにしている。

 そして普段からトレーナーと仲睦まじい姿を見せつけている彼女にしては珍しい剣幕だった。

 

「ヒドイ、ヒドイわトレーナー君!」

「ま、待ってくれマルゼン!」

 

 トレーナーの静止も聞かず、マルゼンスキーが紙を突き付けた。

 

「何よこの、電車の乗車券は!?」

 

 ……ああ、いつものやつか。

 この時点でほとんどの野次ウマは興味を失った。

 しかし当人たちは真剣なので話は続く。

 

「そんなに私のタッちゃんで行くのが嫌なの? それならそう言ってくれればいいのにこんな……こんなコソコソして!」

「違う、違うんだマルゼン!」

「何が違うのよー!」

「君と……一緒に行きたかったんだ……これに」

 

 そう言って男性が懐から取り出したのは四つ折りになったチラシだった。

 広げて折り目を正してからマルゼンスキーへと見せる。

 

「これって……!」

 

 目を丸くしたマルゼンスキーが見たのは花火大会のチラシだった。

 場所は合宿所の最寄駅から二つほど手前の場所だ。ちょうど、トレーナーが取っていた乗車券がそこまでの切符であることに気づいた。

 

「電車の切符は、一度下見に行こうと思って買っておいたんだ。マルゼンの車って大きいだろ? 当日駐車する位置とか、見晴らしの良い場所を探しておこうと思って……」

「え、え? それって……いやだ私ったら早とちりして……ト、トレーナー君ごめんなさい……」

「いやいいんだ。俺も慣れないサプライズなんて考えて、マルゼンを不安にさせてしまった」

「そんなことない! 私が話を聞こうともしないから……」

「マルゼン……」

「トレーナー君……」

「マルゼエエエン!!」

「トレーナーくううん!!」

 

 人目も憚らず抱き合う二人(バカップル)。そのままトレーナーを支点にくるくると回るマルゼンスキー。どこからともなく聞こえてくる〇田△正。

 先ほどまでの剣吞な空気はどこへやら。今や中庭は砂糖が沈殿した紅茶のごとき甘ったるさに満ちていた。

 こりゃたまらんと周りが逃げ出す中、当の二人は一通りイチャついてからルンルン気分で去って行った。

 

「………………あー」

 

 一人、校舎の窓から全てを見ていた生徒が呟く。

 

「夏だねー…………」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「夏デスね!!」

 

 ミーティングが終わったタイミングで、何を思ったかエルが叫んだ。

 

「エル、急にどうしたんですか?」

「どうしたもこうしたもありません! 宝塚記念も終わり、ついに七月! ということはつまり……合宿の時期デス!

 トレーナーさん! 今年も当然マルカブは参加ですよね!」

「ああ、そのつもりだよ。デジタルとドトウも正式にチーム入りが決まったしね」

 

 春のファン大感謝祭で開かれた、デビュー前のウマ娘限定模擬レース。

 そこで結果を出したデジタルとドトウはその勢いのまま正式な選抜レースでも見事勝利。晴れて学園からデビューを見据えてのチーム入りが認められた。長らくついていた(仮)がとれたのだ。

 同時に、ついにマルカブのメンバーが正式に規定の五人に到達。大手を振ってチームを名乗れるようになった。

 

「デジタルとドトウは秋のメイクデビューを狙うよ。ライスたちは秋のGⅠ戦線に向けて、みんなで頑張っていこう」

『はい!』

 

 今年の夏合宿は気が抜けない。

 新人二人のデビューもそうだが、ライスとエルはGⅠを一勝しつつも最後は苦い思いをして春シーズンを終えた。しかもその因縁の相手は秋でもぶつかる可能性が十分にある。

 グラスも春全休という長いブランクからの復帰だ。

 この夏の積上が、彼女たちの秋の戦績に強く影響するだろう。

 

「チームメンバーも揃ったからね。今年は専用の宿泊施設が使える」

 

 昨年は三人しかいなかったので、寮のように他のウマ娘たちと同じ施設を使うか自前で準備するしかなかったが、五人になった以上、学園から宿泊施設を斡旋してもらえる。

 リギルのような高級ホテルとまではいかないが、それでもサポートスタッフが何人か詰めた宿泊所だ。去年に比べればかなりの好待遇だろう。

 もっとも、それでも自前で安宿を用意するチームもある。そのチームトレーナー曰く、うちの連中は贅沢すると調子に乗るから、らしい。

 

「充実した夏にしよう」

 

 課題が多く見つかった春だった。

 秋を見据え、マルカブの夏が動き出す。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『海だー!』

 

 テンションの上がったウマ娘たちの声が響いた。

 空の色を写したかのような青い海、照りつける太陽で輝く砂浜。今年も合宿所は絶好のロケーションでトレセン学園を迎え入れた。

 チームを組んでいない、専属トレーナーがついたウマ娘たちは乗り合いのバスから宿泊所へ歩いていく。

 一方でチームは学園から斡旋されたか、自前で確保した施設へ向かった。

 あるチームは高級ホテルへ。あるチームは味のある民宿へ。そして我がマルカブが向かったのは学園から斡旋された旅館だった。

 風情のある、歴史のこもった老舗旅館。しかし手入れは行き届き、伝統を守りつつも目立たぬようネット設備や防災機器など現代機器が配備されていた。流石はトレセン学園が選んだ宿、こんな機会でもなければ一生手の出せないランクだった。

 

「いいところですね!」

 

 日本文化が好きなグラスは目を輝かせた。

 旅館の人に案内してもらった先は大部屋の和室だった。

 合宿期間中、みんなにはこの部屋で寝泊まりすることになる。

 

「うわっ! 窓から海見えますよ海!」

「絶景デース!!」

「あわわ……こ、こんな部屋に泊まれるなんて夢のようですぅ……!」

「みんな、貸切じゃなくて一般のお客さんや他のチームも泊っているから羽目を外し過ぎないようにね」

 

 個室でないことに不満が出ないか心配だったが、マルカブのメンバーはほぼ中等部。旅館というのも相まって、自分だけの空間よりもみんなでわちゃわちゃしているほうが楽しいようだ。

 私? 当然別室である。

 施錠できるようになっているので問題ない。

 無いったら無い。

 

「じゃあみんな、荷物を置いたら早速トレーニングだ。二十分後に砂浜に集合!」

『は~い!』

 

 休養は心の栄養。バカンスで気分をリフレッシュするのも良いが、本来の目的は実力アップだ。

 浜に出ると、既に気持ちの逸ったウマ娘たちがトレーニングを始めていた。

 それを見たライスたちの目の色も変わる。秋に向けた競争はすでに始まっているのだ。

 

「よし。じゃあ準備運動から。ここは芝じゃなくて砂だから脚を取られやすい。いつもよりも入念にね」

『おー!』

「おー!」

「……おー」

 

 ……あれ? 声が二つほど多く聞こえたな。

 

「やあやあチーム・マルカブの諸君! ちょっとよろしいかな?」

 

 続いて聞こえてきた芝居がかった声。

 目を向けると、瞳に怪しい光を宿した栗毛のウマ娘と、黒毛の目つきが鋭いウマ娘の二人がいた。

 みんなも視線を向ける中、デジタルとドトウが目を丸くして叫んだ。

 

「あれ? タキオンさん!?」

「シャ、シャカールさん! どうしてここに……?」

「二人とも知り合い?」

「はい、寮で同室のアグネスタキオンさんです。……あ、あたしもアグネスですけど、特に親戚とかじゃないですよ!」

「私の同室で、高等部のエアシャカールさんですぅ……」

 

 名前を聞いて思い出す。

 エアシャカールは時折トレーニングの様子を覗きに来るウマ娘だ。PCやカメラを向けて念入りに見てくるので記憶に残っている。

 一方アグネスタキオンを直接見るのは初めてだが、トレーナー会議で要注意ウマ娘としてよく名前が挙がるウマ娘だ。

 優秀なウマ娘を何人も輩出してきた名家の出だが、性格や振る舞いはマッドの一言。

 度々怪しい実験をしては騒ぎを起こし、自作の薬品を他人に飲ませようとするなど問題行動が多い。

 学園の指導に非協力的なのはエアシャカールも同様だが、二人ともいざ模擬レースに出れば他者を圧倒する走りを見せ周りを黙らせる。

 実力を以て我道を貫く、才能ある問題児たちだ。

 

「えっと……もしかしてマルカブへの入部希望かな?」

「残念だが違うねぇ……いや、幸運というべきか。私とシャカール君を一緒に受け持つとか胃と精神が鋼でできていても無事では済まないよ!」

「自信満々に言わないでほしいな……」

「おいタキオン。無駄口叩いてねえでさっさと本題に入れ」

 

 逸れかけた話題をエアシャカールが引き戻す。

 やれやれと頭を振ってから、アグネスタキオンが再度口を開いた。

 

「単刀直入に言うとだね、合宿期間中、私とシャカール君もトレーニングに協力させて欲しいのだよ」

「それは……チームに入りたいとは違うのかい?」

「違うね。マルカブを貶すようなつもりはないんだが、私もシャカール君も現状トレーナーを必要としていない。独自のアプローチで鍛えている。端的に言えば、データと化学による研究だね」

「うちのメンバーで成果を試したいと?」

「それもあるし、合宿に参加できるレベルのウマ娘からデータを取って回りたいというのもある。

 これはそちらにもメリットのある話だ。私たちの研究が有用なのは私たち自身で証明している。……聞いているだろう? 教官の指導に従わないくせに、模擬レースでは結果を出す気性難がいると」

「問題視されてる自覚はあるんだね」

「研究には客観的に物事を捉える必要があるからね。

 ……話をメリットに戻そう。マルカブには秋までに解決しておきたい課題があるはずだ」

 

 アグネスタキオンの視線が、私から隣のライスたちに向かう。

 

「日本ダービーでハナ差の敗北」

「む……」

「圧倒的逃げウマ娘への対策」

「う……」

「足元の不安」

「……あなたがいれば、皐月賞の棄権はなかったと?」

 

 ヒヤリとする発言がグラスから飛んだ。

 が、アグネスタキオンは怯むことなく首を横に振った。

 

「君たちの英断を、過ぎてから砂をかけるような真似はしないよ。そこまで私は傲慢じゃない。

 ……しかし、目下君の課題が足元の補強なのは事実のはずだ」

「それは……そうですが」

 

 本音を言えば、二人の技術に興味があった。

 アグネスタキオンが挙げたようにライスたちが戦う秋シーズンは強敵だらけだ。

 自分の経験が役に立たないとは思わないが、新たな知見があるなら試したいという気持ちがあるのも確かだった。

 

「あの、トレーナーさん……!」

 

 考え込んでいると、デジタルが袖を引っ張ってきた。

 

「ちょっといいですか?」

 

 アグネスタキオンたちに背を向ける。自然とライスたちも寄ってきたので、意をせず輪になった形でデジタルの言葉を待つ。

 

「おふぅ……! 潮風にのってウ、ウマ娘ちゃんたちのかほりが……!」

「大丈夫?」

 

 日差しに頭をやられたか。

 

「し、失礼しました。えっとですね、これは直接聞いたんじゃなくてあたしの想像なんですが……タキオンさん、脚があまり丈夫じゃないみたいなんです」

 

 誰かが息を呑む音がした。

 

「本当かい?」

「だから想像ですって! ……よく部屋にタキオンさん宛の荷物と届いてあたしが代わりに受け取ることあるんですけど、海外からのものが多いんです。それでタキオンさんの棚とか見ると本がいっぱいあって、内容は骨とか筋肉とか多くが医学系なんです」

「デジタルさん海外の本が読めるんですか?」

「専門的な用語は無理ですがそれ以外は。海外のウマ娘ちゃんを追っかけるのに語学は必須なので!

 ……あ、いえ、ですからタキオンさんの研究が危ないものってことはないかなと」

「タキオンの研究は自分の脚を丈夫にするためってことデス?」

「おそらく。学園で教官のトレーニングを拒否するのも、タキオンさんにとっては負荷が強すぎるするのかもしれません」

 

 ……確かに学園の教官がつくるメニューは均一で、個々のウマ娘に合わせたものではない。

 デジタルの考えが当たっているとして……いや、観察力のある彼女がそういうのならそうなのだろう。

 そう考えるとアグネスタキオンというウマ娘への印象が変わってくる。

 

「あ、あの、それならシャカールさんも、学園で噂されるような怖いウマ娘じゃないんですぅ……!」

 

 デジタルに影響されたか、ドトウも声を上げだした。

 

「シャカールさん、いつも何かを真剣に調べたり考えたりしていて、邪魔をされるのが嫌でちょっと冷たい態度を取ってると思うんです。

 それに時々、夜はうなされているんです。……どうしてかは分かりません。でも、毎日のデータ集めと関係するのなら――」

「どうしても勝ちたいレースがある?」

 

 頷くドトウ。

 同室である彼女たちの証言を信じるなら、アグネスタキオンもエアシャカールも足掻いているのだ。どうにもならない何かに対して。

 そういうのを知ってしまうと、応援したくなるのがトレーナーだ。

 

「おーい! 相談は終わったかーい?

 実際、私たちとマルカブは公平……ウィンウィンの関係を築けると思っているよ。私たちは研究が実践を踏んで発展する、君たちは異なる知見からのトレーニングでレベルアップする。お互い損なしだと思うんだがねぇ!」

 

 待ちくたびれたのか、アグネスタキオンからダメ押しの声が届いた。

 みんなの顔を見渡す。

 デジタルとドトウは強く頷き、エルは新しいトレーニングに興味があるようで笑ってサムズアップした。グラスはまだ警戒しつつも、仕方ないかと頷いた。

 ライスは、

 

「一つ聞いてもいい?」

 

 一人先に輪を外れ、アグネスタキオンと対峙した。

 

「……なんだい?」

「マルカブのトレーニングに協力するって言ったけど、じゃあタキオンさんたちのトレーニングはどうするの? 合宿中、サポートスタッフとして過ごす? それとも……トレーナーさんの指示に従う?」

 

 ライスの問いは、私たちのいる空間を一瞬で張り詰めさせた。

 互いに譲れない一線、壁のようなものが屹立するのを感じた。

 

「私もシャカール君も、自分のトレーニングは自分で組んできている。これまでもそうだったからね。……マルカブのトレーナーを貶す気はないよ。ただ、これは譲れない。私たちの信条のようなものだからね」

「そう。だったら、さっき言った公平な関係にはなれないよね」

「……どういう意味だ」

 

 エアシャカールが口を開いた。

 鋭い眼光、大抵の者なら委縮してしまいそうな迫力。しかしライスは動じない。この程度のプレッシャー、GⅠレースに出れば散々浴びるものだ。

 

「一つ目、私たちがレベルアップできると言ったけどその確証はどこにもない。タキオンさんたちは自分たちのやり方に自信があるみたいだけど、決して公的に認められたわけじゃない。

 だからタキオンさんのいうお互い損なしは、私たちが強くなって初めて成立する。そしてタキオンさんたちはデータ集めや私たちで実験ができるから絶対に損が無い」

「…………それだけか?」

「二つ目、チームに関わる以上、周りはチームに入ったのだと思うよね。じゃないと、学園に強制送還される」

「そうだねぇ」

「そして合宿が終わればタキオンさんたちは何事もなかったかのようにチームから離れる。これが二つ目。チームメンバーの増減はみんなが考えているよりも重いよ」

 

 ……なぜだろう。一瞬ライスがこちらを見た気がする。

 

「学園を去るわけでもないのにチームからメンバーが抜けるっていうのはトレーナーさんの、チームとしての指導力を疑われるの」

 

 ライスの言うことは大袈裟ではない。基本的にチームへの入部はウマ娘とトレーナー双方が合意したうえで成立する。なのにメンバーが抜けるということはなにか問題があったということ。

 それがウマ娘側かトレーナー側か。責を問われるのはトレーナー側が多い。

 これは移籍も同様で、先のサイレンススズカのチーム異動など円満に解決したのが奇跡的だ。

 リギルというトップチームの揺るぐことのない強固な地盤が無ければもっと拗れていただろう。

 

「タキオンさんたちがマルカブに関わって、そして離れるだけでチームの評判に影響がある。二人を受け入れる時点でライスたちは一点損をするってことにならない?」

 

 ライスの意図を理解したのか、エアシャカールが面倒そうに頭を掻きむしった。

 

「あー……おいタキオン!」

「もう少し待ちたまえ。シャカール君は損切の判断が速すぎる。

 ……ライスシャワー君。君の言うチームの評判については想定していなかったよ。何分、私たちは揃って周りからの評価なんて気にしないからねえ」

 

 すまないね、と謝罪するアグネスタキオン。

 しかし、彼女の顔に諦めの感情は見当たらなかった。

 

「妥協点を見出したい。全て呑めるとは言わないが、できる限り配慮したい」

「……お兄さま」

「ありがとうライス」

 

 前に出る。

 ライスがリーダーとして場を整えてくれた。後は私の役目だ。

 

「確認だ。君たちは無断で参加した合宿中、学園に送り返されるのを避けたい。そのためにマルカブを隠れ蓑にしたい」

「あけすけに言えばそうなるねぇ。トレーニングは自分でやるから、期間中の自由と万が一の逃げ場が欲しい」

「正直、君たちが提案するトレーニングを組み込むのはやっていいと思っている」

「ほう……?」

「試せるものは試したい。それくらい今年の秋シーズンは激戦だ。

 ……だから残る問題は君たちの扱いだ。話を聞くに、こちらの管理下に置かれるのは嫌なんだろう?」

 

 頷くアグネスタキオンとエアシャカール。

 自分たちのやり方を信じている、というよりなまじ優秀なためそこらのトレーナーでは彼女たちの能力について行けないのだろう。

 私なら、などと思いあがったことは言わない。

 今必要なのは、アグネスタキオンが言う通り互いの立場をギリギリで保てる妥協点だ。

 

「一つ目。チームに入ったふりだとか、いるはずがない君たちを匿うことはしない。学園側を騙すリスクを負うより、多少不利でもいることを正当化させる。君たちは臨時のサポートスタッフとしてチームにねじ込む」

「……まあ、私たちの行動の自由が約束されるのなら構わないよ。シャカール君も問題ないだろう?」

「ああ……」

「二つ目。ライスも言ったけど、チームに入っていることを装うのなら上辺だけでもこちらの指示に従って欲しい」

「具体的には?」

「まずどこか宿泊先を用意していたと思うけど、マルカブ(うち)が泊る所を使ってもらうよ」

「別に構わないが……いいのかい? 急な人数増なんて」

「どうにかねじ込むよ。あとトレーニングが自前なのは構わないけど、メニューくらいは確認させてほしい」

 

 ふむ、とアグネスタキオンが後ろにいたエアシャカールの方を向いて視線を交錯させる。

 ……まさかとは思うが、頭が良すぎでメニューが全部頭の中にあるなんて言わないだろうな。

 

「……了解だ。こちらも君たちの評判を落とすことが目的ではない。迷惑をかけないよう気を付けるよ。

 とはいえ私たちは協力者。可能な限り対等な立場で頼むよ」

「ああ、こちらも君たちの研究というのを利用させてもらう側だ。お互い、充実した夏になるよう努めよう」

 

 私とアグネスタキオンで握手を交わす。

 突然の闖入者だが、ある意味好機だと私は捉えていた。

 そして一種の賭けでもある。

 来る秋シーズン。GⅠ戦線で勝利するには、あのサイレンススズカや黄金世代たちに勝つ必要がある。

 彼女たちもこの夏で力をつける中、二人の助力が実を結べばマルカブは他のチームよりも一歩リードできる。

 日本ダービーに宝塚記念。

 二度の敗北で私の中に、いやみんなの中に生まれた勝利への欲。

 この炎のような想いを胸に宿し、マルカブ(わたしたち)の夏が始まった。

 

 

 

 ……とりあえず、たづなさん(ラスボス)へ説明をしにいかないとな。

 

 

 




 作者のスペック上あまり頭良さそうな会話ができない不具合。
 
 アンケートへの回答ありがとうございました。
 現在、結果に合わせた内容を書いているところなので、本日23:59をもって回答締め切りとさせていただきます。
 票数も動かなくなってきましたし、現状ダブルスコアなのでほぼ決まりでしょう。
 今回の連日投稿ではアンケート話までいかないので、しばらくお待ちください。
 


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32話 合流と別離

ハロウィンドトウは覚悟していた。
ハロウィンデジタルは予想外でした。

序盤だけ掲示板。すぐにいつもの形になります。


 

【わたしの夢は】トゥインクルシリーズ春シーズンを振り返るスレPart.△△【バンブーメモリー】

30:名無しのレースファン ID:J9ec71Tvd

 サイレンススズカ強すぎ問題。

 これが昨年クラシック無冠てマ?

 

32:名無しのレースファン ID:/ODxJfliQ

 ホント何してたんだトレーナー

 

34:名無しのレースファン ID:EE5dv384T

 晩成というか遅咲きだったんだろ

 

37:名無しのレースファン ID:qSyWr0uOY

 去年の秋天終わったあとチーム移ってから連勝だろ?

 珍しくリギルやらかした?

 

38:名無しのレースファン ID:dyx1grim0

 やらかしっていうかリギルの方針と相性よくなかったんだろ

 スピカがリギルより育成上手いとは思えん

 

43:名無しのレースファン ID:sHBRnYFy8

 スピカはテイオーとかマックイーン見る限り長所ひたすら伸ばす感じだしね

 その分成績にも谷間ができる

 どこでも一定の成績保てるリギルとは違うわな

 

47:名無しのレースファン ID:n/Y4eww5E

 あの二人に谷間があるわけねーだろ!!

 

52:名無しのレースファン ID:qaB8kPS0s

 >>47 そういう意味じゃねーよwww

 

53:名無しのレースファン ID:TukmGXYLu

 二つの世代の激突とか騒がれてたけど、春終わってみればスズカ一強だよな

 ライスにもブルボンにも完勝とかもう敵なしだろ

 

55:名無しのレースファン ID:eQ1JoBq1y

 ライスはまだ距離って言い訳があるし

 2200とかあの子にとっては短距離みたいなもんだろ

 

60:名無しのレースファン ID:lSgV4uKFr

 >>2200とかあの子にとっては短距離みたいなもんだろ

 まあサクラバクシンオーが出てたしな……

 

65:名無しのレースファン ID:KWlh+nIkD

 >>>>2200とかあの子にとっては短距離みたいなもんだろ

 >>まあサクラバクシンオーが出てたしな……

 屁理屈を補強するな

 

70:名無しのレースファン ID:VoT6qUU33

 スズカって長距離行けるん?

 

73:名無しのレースファン ID:x+7vO03Rq

 あの逃げなら2400でもギリだろ

 適性はマイル~中じゃね? 

 

76:名無しのレースファン ID:wr1Qaa5B8

 長距離であの大逃げして勝てたらマジで怪物だわ

 

77:名無しのレースファン ID:uDcDpERca

 ???「安田も有も大して差はないんだが?」

 

81:名無しのレースファン ID:RC7grTJQR

 >>77 葦毛の怪物は帰ってもらえます?

 

84:名無しのレースファン ID:y1slkjM/B

 >>81 帰らせるなお茶菓子を出してもてなせ。あわよくばサイン貰ってきて

 

89:名無しのレースファン ID:/rAOdV85s

 スズカの次GⅠは秋天かな?

 

93:名無しのレースファン ID:+Gc0N3A/b

 スプリンターって感じもしないからそこだろうね

 

97:名無しのレースファン ID:FmEztpBLt

 というかダートやスプリンター以外はみんなそこ目指すだろ

 

101:名無しのレースファン ID:Q08nQ8/Nn

 ライスとかブルボンも?

 

103:名無しのレースファン ID:2lMIJ5YTq

 中距離GⅠ欲しい陣営はみんな出るだろ。

 サクラバクシンオーは知らん

 

104:名無しのレースファン ID:iA+i1o5+l

 秋天もスズカ勝ったら大阪杯、宝塚記念に続いて中距離GⅠ三連勝か

 シニア三冠にはならんけど大記録やろ

 

107:名無しのレースファン ID:5XY0fAmqN

 大記録……三連……黒い……う頭が

 

109:名無しのレースファン ID:Rehi3vAvp

 フラグ止めろ

 

 

 

 ◆

 

 

 

 合宿初日から、アグネスタキオンとエアシャカールという協力者を受け入れた我らがマルカブ。

 サイレンススズカや黄金世代という次がいつ来るのか分からない強豪が集う時代。いまの私に無い知見を持つ二人の助力は必ずやライスたちの力になるだろう。

 が、一点問題がある。

 この夏合宿は一応、秋のメイクデビューや重賞戦線を視野に入れたウマ娘たちの実力向上を図るものだ。そのため参加できるのはデビュー済か、選抜レースで実力を示してデビューの見込みがあるウマ娘に限られる。

 担当トレーナーが付いていたりチームに入っていればいいというわけでもなく、実際、最近マチカネフクキタルと一緒にいるマンハッタンカフェも、まだ選抜レース前ということで合宿には参加していない。

 つまり、アグネスタキオンとエアシャカールも本来ならこの合宿に参加はできない。

 なので、

 

「参加メンバーの申告漏れですか……」

 

 たづなさん(このヒト)からの追及を潜り抜ける必要があるのだ。

 

「ええ、こちらの不手際で申し訳ありません」

「アグネスタキオンさんと、エアシャカールさんですか……」

 

 書類を見ていた目がこちらを向いた。

 根回しなどしていないので、下手に策を弄さず謝り倒していこうと思ったがどうなるか。

 

「サポートスタッフ枠としての参加なんですね?」

「はい。彼女たちは独自のトレーニング方法をしているので、それを取り入れようかと」

 

 選抜レースに出ていないウマ娘が合宿に参加する方法、それがサポートスタッフとしての参加。つまりはトレーナー側としての参加だ。

 彼女たちが考案したメニューを取り入れるのは本当だし、彼女たちは自主トレをするから私の指導を受けるわけではないので嘘はついていない……ことになるはず。

 

「…………」

 

 沈黙が続く。

 たづなさんは役職こそ理事長秘書だが、トレーナーだけでなく学園全体を取り仕切る才媛だ。そんな彼女を騙すとか言いくるめるなんて誰ができるだろう。

 ここでダメと言われたら、アグネスタキオンたちには悪いが諦めてもらおう。

 やがて、たづなさんが意を決したように頷いた。

 

「分かりました。旅館の方にはこちらから連絡しておきますね」

「ありがとうございます!」

 

 ホッと胸を撫で下ろす。

 第一関門突破である。

 

「でも今後は気を付けてくださいよ。急な増員なんて旅館の方も困るんですから」

「おっしゃる通りです。本当、すいませんでした」

「それと、サポートに入られる二人ですが」

 

 たづなさんの顔が近づいてくる。

 私にしか聞こえないくらいの声で、

 

「周りとの関わり方をよく知らない子たちです。こういう小細工だけじゃなくて、そちらも教えてあげてくださいね」

「………………はい」

「では、合宿頑張ってくださいね♪」

 

 笑顔のままたづなさんは去っていた。

 ……気づいているけど見逃してくれたということか。やはり油断できないヒトだ。

 とにかくこれで二人が合宿にいることはできた。

 ライスたちの下へ戻り、トレーニングを見るとしよう。 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 午前中のトレーニングは基礎トレを重点的に行った。合わせてエアシャカールとアグネスタキオンにメンバーのデータを観測させ、午後のトレーニングに活かす。

 途中、アグネスタキオンが調合したというドリンクで疲労回復とともに体質の改善もしていく。が、味が不評で歓迎はされなかった。

 私も飲んでみたがなんというか、とりあえず毒のないものを全部まとめて煮込んだような味だ。身体への害はないが、精神的には苦行であった。

 アグネスタキオンは、そのあたりは改良点だなと興味深そうにメモを取っていた。

 そうして時間はあっという間に過ぎ、昼になった。

 昼食のため、浜辺近くの食堂でテーブルを囲んだところで言った。

 

「午後の本格的なトレーニングの前に、二人にもマルカブの秋予定について共有しようと思う」

「予想はできるが……ま、情報共有は必要だな」

「そうだねぇ、同じ中距離区分でも2,000mと2,400mでは取り組むメニューは変わってくる。認識に齟齬があってトレーニング効果を薄めては目も当てられない」

 

 協力者二人の賛同が得られたところでメンバーのスケジュールを告げていく。

 

「まずデジタルとドトウは九月のメイクデビューを目指す。デジタルが1,600mのマイルで、ドトウは2,000mを考えている。その後はОP戦や重賞を挟んで十二月のジュニア級GⅠを大目標にするよ」

「あたしはダートの全日本ジュニア優駿、ドトウさんはホープフルSですね!」

「ホープフルSは去年エルが勝ったレース! 二年連続マルカブの勝利を飾るデスよ!」

「は、はいぃ! チームの看板に泥を塗らないよう頑張りますぅ!」

「ライスの目標かつ初戦は秋の天皇賞、ステップは挟まずに直行するよ。出走者は昨年走った面子に加えて、今年からシニア級に上がったウマ娘たちも出てくるだろう」

「うん! ライス、頑張るよ……!」

 

 サイレンススズカにミホノブルボン、エアグルーヴにメジロ家のブライトとドーベル、マチカネフクキタルも考えられる。

 サクラバクシンオーは……どうだろうか。本人は出たがりそうだが、こればかりは読めない。

 そしてなによりも、スピカのメジロマックイーンが秋から復帰するはず。春の天皇賞を二連覇した彼女だが、秋の方は未勝利だ。彼女にとっては是が非でも欲しいタイトルだろう。

 

「秋天の後は調子を見ながらだけど有記念で締めくくろうと思う。

 次にグラス。グラスの大目標は菊花賞、秋の初戦はそのトライアルであるGⅡセントライト記念だ。その後は様子を見て、良ければ有記念を狙う。

 春が全休で終わってしまった悔しさを秋にぶつけていくよ」

「はい。ジュニア級王者として相応しい走りをしてみせます……!」

「おや、有記念はライス君も出るんだろう? 二人出しするのかい?」

「ああ。もちろん、二人が良ければだけど」

 

 一つのチームから同じレースに二人以上出すことは珍しくない。その分、八百長の疑いが無いかチェックは厳しくなるが。

 スピカやカノープスのように互いを競わせ、切磋琢磨させるという目的で出すチームもある。

 そして私たちマルカブもそれと近い関係性が出来つつある。

 ライスとグラスが互いに顔を見合わせる。両者の顔には、迷いではなく闘志に満ちていた。

 

「ライスはいいよ」

「私も、ライス先輩とは走ってみたいと思っていました……!」

「よし、これで決まりだ。……最後にエル」

「ハイ!」

「目標は以前から変わらずジャパンカップ。でもその前にもう一戦、シニア級も走るレースに出ておきたい」

 

 元々は安田記念で積むはずだった経験だ。日本ダービーやNHKマイルカップで世代の中での実力は示した。上の世代相手にも通用することを示したい。

 

「どこにするんだい? ジャパンカップにステップレースはなかったはずだけど……」

「GⅡ毎日王冠を考えているよ。秋天のステップレースでかつ、マイルCSを見据えて出走するウマ娘も多いからレベルもGⅠと比較しても遜色ない」

「おお! 所謂スーパーGⅡデスね!」

 

 燃えてきました! と奮起するエル。彼女にとっては初めての格上との競争だが、力負けはしないだろうと踏んでいる。

 なによりも、ここで躓くようでは海外からの強豪が集まるジャパンカップは太刀打ちできない。

 

「……目標が決まったンならそれに合わせてメニューを出すぞ」

「ああ、お願いするよ。……の前に、みんな午後に向けてちゃんと食べておくように」

『は~い!』

「……ねぇシャカール君、ここに書いてある『黄金色船盛り焼きそば』って気にならないかい?」

「ならねェ。勝手に食ッてろ」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 午後のトレーニングは中々充実したものになった。

 午前中に観測したデータを使ってエアシャカールが自作したプログラムから出力されたトレーニングメニューは、私から見ても効率的に能力を向上できるメニューであった。

 そこに今のライスたちの課題とすべきポイントを重点的に改善するメニューを加えていく。

 改良によって若干マシになったアグネスタキオン特製ドリンクも合わさり、トレーニングが進む。

 

「とりあえずの内容はこンなもンだろ。あとは様子見ながら反復な。……いま端末に送ったぞ」

 

 一通りメニューをこなしたあたりで突然エアシャカールが言った。

 メール受信の通知音がポケット入れたスマホから聞こえた。

 見ると今ライスたちがやっているものとは別のトレーニングメニューが書いてあった。

 ……ああ、エアシャカールの自主トレメニューか。確かに事前に見せる約束だったな。

 しかし前後の文脈が足りない。察することはできるが、なるほど、たづなさんの言っていたことがよく分かる。

 頭の回転が速すぎる分、そして効率化を求める当りエアシャカールはコミュニケーションの手順を数段飛ばす癖があるようだ。

 とはいえ、今その話をしてもしょうがないだろう。

 

「……ん、了解。場所はここを使うかい?」

「いい。別メニューやるヤツが近くにいたら邪魔だろ。余所でやる」

「そんなことないけど……分かった。気を付けてね。時間になったら一度戻って来てね」

「…………」

 

 返事は無く、エアシャカールは去って行った。

 小さくなる背中を見てアグネスタキオンがふむ、と思案顔だ。

 

「では、シャカール君も行ったようだし私も別行動とさせてもらおうかな」

「トレーニングかい? だったらメニューを……」

「いや、今日はトレーニングしないよ。それよりも、試薬の被験体を探しに行きたい。反応のサンプルデータは多いほどいいからね」

「被験体って……まあ分かった。ライスも言っていたけれど――」

「チームの評判を悪くするようなことは慎むよ。私も、せっかくの機会を初日で失いたくはないからね」

 

 そう言ってアグネスタキオンも去って行った。

 エアシャカールと違い若干の不安があったが、まあまずは彼女の良識を信じるとしよう。

 私も二人のことを気にしてばかりはいられない。

 彼女たちが作ったメニューは独特で、教本だけでは得られない知見だ。これを理解しないと、私もただの置物になってしまう。

 この合宿は、ある意味私の合宿でもあるのかもしれない。

 そんな思いを頭の片隅に置きながら、ライスたちのトレーニングを進めるのだった。

 

「また個性的な連中と仲良くなったようだな」

 

 休憩中、黒沼トレーナーが話しかけてきた。

 連中、というのはアグネスタキオンとエアシャカールのことだろう。

 どうやら特にコソコソすることなく、堂々と動き回っているようだ。

 

「ええ、トレーニングメニューについて色々協力してもらっています」

「協力ね……たいていのトレーナーはあいつらの気性についていけないんだが、そのへんお前は肝が据わっているな」

「正式にトレーナーになるわけじゃないからでしょう」

 

 本当にチームに入るのなら、私ももう少し干渉する。そしてそれは彼女たちが望む関係ではないだろう。

 本契約しようものなら、私も他のトレーナーたち同様振り回されるのは目に見えている。

 そう言うと、黒沼トレーナーが不敵に笑った。

 

「ついに本気になったということか」

「……? 私たちはいつも本気ですが」

「前のようにってことさ。……それより、今夜一杯どうだ?」

 

 口元で杯を傾ける動作。飲みの誘いだ。

 

「珍しいですね、黒沼さんが誘ってくれるなんて」

「他のトレーナーとはそうでもないさ。お前の場合、担当が担当だから誘いにくかっただけだ。

 ……しかし今回は春シーズンお互いサイレンススズカにやられた者同士、愚痴の言い合いでもしようじゃないか」

「いいですね。どうせならスピカの方も呼びますか?」

「いや、あいつは東条のツケを清算するまで誘わん」

「黒沼さんらしい」

「ふ……後で場所はメールする」

「ええ、お願いします」

 

 軽く手を上げて、黒沼トレーナーは去っていった。

 夜が少し楽しみにしながら、トレーニングを続けるのだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「花火大会ウェー―イ!!」

 

 夜。トレーニングが終われば門限までは自由時間だ。

 チーム、寮、階級を超えてウマ娘たちで交流が行われる。

 早速、ダイタクヘリオスをはじめとするギャル系ウマ娘たちが持ち込んだ花火を使って砂浜に嬌声が響いていた。

 青、緑、赤、白と色とりどりの炎が躍る。

 春シーズンの悔い、トレーニングの疲労を一時忘れ、友との交流に身を任す。

 

「やあやあ火に当たって熱いだろう。ドリンクをどうぞ」

「あ、ありがとう。ん――うわっ!?」

「ぶ――わはははははは!! ちょ、ミラクルが光ってるし! なにそれウケる! どうなってんの!?」

「んーやはりそうなるか。発光作用のあるものは使っていないはずなんだけどねぇ……」

「なにそれ、ちょっと怖いんだけど大丈夫なの?」

「他にも何人か光ったけれど特に害はなかったよ。発光も小一時間すれば治まるから安心して欲しい」

「光る時点で割と害だと思うんだけど……」

「ちょっとタキオン私にもそれちょーだい!」

「え、ヘリオス本気……?」

「構わないよ。被験……飲んだ感想は多いに越したことはないからね」

 

 

「ドトウ! もっと、もっと高く炎を掲げるんだ! 色鮮やかな炎と月がボクをもっと美しく照らし出す!!」

「は、はいぃ~! オペラオーさんの輝き、しっかり演出しますぅ!」

「二人とも~、危ないからほどほどにね~。あ、アヤベさん次何にします?」

「なんでもいいわ。適当なところで私抜けるから」

 

 

「花火使いでもエルは最強! グラス、どちらが長く線香花火を点けていられるが勝負デス!」

「ふふふ……エル、この育てに育てた火種に勝てますか?」

「ケッ!? なんですかその大玉線香花火は!?」

 

 

「ライスさん、少しよろしいでしょうか?」

「ブルボンさん? ……うん、大丈夫だよ」

 

 思い思いにウマ娘たちがはしゃぐ中、ミホノブルボンに呼ばれてライスシャワーはその喧騒から外れた。

 賑やかな光の群れを尻目に、夜の浜辺を二人で歩く。

 月明かりに照らされた海からくる白波が、心地よい潮騒となって耳朶を震わせた。

 

「ライスさんは、秋はどのレースに出ますか?」

 

 花火ではしゃぐウマ娘たちの声が遠くなったところで、ミホノブルボンが訊ねた。

 

「ライスはまず、秋の天皇賞かな」

「その次は?」

「様子を見ながらだけど有記念かな」

「そうなのですね……」

「……ブルボンさんはどこを走るの? やっぱり秋の天皇賞?」

「…………いいえ」

 

 意外な返答だった。

 天皇賞(秋)は秋シニア三冠の一戦目であり、中距離(クラシックディスタンス)における王者決定戦とも言われるレースだ。

 復帰以降、中距離のGⅠを勝っていないミホノブルボンにとって喉から手が出るほど欲しい栄冠のはずだ。

 

「そ、そうなんだ……じゃあエリザベス女王杯? それともジャパンカップ?

 ジャパンカップだとエルさんとぶつかるね。うわーエルさんも大変だ!」

「そのいずれにも、私は出ません」

 

 ミホノブルボンの足が止まる。釣られてライスシャワーも止まった。

 ミホノブルボンが海に背を向け、ライスシャワーのほうを向いた。

 身長差のある二人の視線が交錯した。

 

「私は、秋のレースには出ません……」

 

 冷たい声だった。

 もう決まったことで、覆せないのだと知らしめるようだった。

 

「―――海外遠征を、打診されました」

 

 強い風が吹く。波が大きく立ち、しぶきが上がった。

 

「一度のレースのためではありません。しばらく……少なくとも数年、私は海外に拠点を置きます」

 

 周りの音が聞こえなくなるほどの衝撃だった。

 

「もう、あなたとは走れない………………」

 

 

「…………………………………………え?」

 

 

 別れが、春だけとは限らない。

 

 

 



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33話 ライスとブルボン2

 これが投稿されるころ、きっとハロウィンドトウとハロウィンデジタルのガチャを回しているでしょう。

 遠征の話になります。
 リアルから乖離していたりあり得ない話が混じっているかもしれませんが、そういう世界観だと思って大目に見ていただけると助かります。


 


 

「海外遠征!? ミホノブルボンが……!?」

 

 夜。

 黒沼トレーナーに連れてこられた居酒屋の一室で、私は思わず立ち上がり声を上げた。

 

「……落ち着け。個室とはいえ、大声だと外に漏れる」

「あ……す、すいません」

 

 腰を下ろし、耳を澄ます。

 引き戸の向こうからは店内の喧騒がわずかに聞こえてきた。

 この街にトレセン学園が合宿に来ていることは知られており、メディアが取材に来る日もある。

 店に入った時にそれらしいのはいなかったが、万が一後から来ていて、今のが耳に入ったらすっぱ抜かれていただろう。迂闊だった。

 

「海外遠征って……いったいどこへ?」

 

 小声で改めて訊ねる。

 

「無論、欧州……!」

 

 ビールジョッキを強くテーブルに置いてから、黒沼トレーナーは苦笑いを浮かべた。

 

「と言っても、半分は帯同バとしてだ。奈瀬のところのシーキングザパールと、リギルのタイキシャトルがフランスのGⅠに出走するのは知っているな?」

「ええ、1,300mのモーリス・ド・ゲスト賞と1,600mのジャック・ル・マロワ賞ですよね」

 

 まだメディアに正式発表されていない情報だ。

 中距離(クラシックディスタンス)における世界最高峰のレースが凱旋門賞だとすれば、スプリント、マイルにおける世界最高峰が今挙がったそれらだろう。

 日本代表――どちらも留学生だが――として彼女たちの出走が公表されれば、世間は大いに沸き立つのが目に見えている。

 

「そのタイキシャトルの帯同バとしてブルボンも欧州へ行く。俺もそれについて行く。

 そしてタイキシャトルのレースが終わった後も、欧州に残り向こうのレースに出る」

「それは、どれくらいの期間?」

「……少なくとも年単位での滞在になる。今は三年で一旦区切る予定だが、もっと長くなる可能性もある」

 

 そこまで聞いて、私はこの遠征が黒沼トレーナーの発案でないことを察した。

 この人が計画したのなら、期間から出走レースまできっちり決めているはずだ。

 

「学園からの指示ですか……?」

「……海外、特に欧州GⅠの戴冠は日本レースにおける悲願だ。ジャパンカップをはじめとする国際招待競走も海外と日本のウマ娘の実力を比較する意味もあった。留学生として海外のウマ娘を学園に招致したのも国内のウマ娘を刺激させ切磋琢磨させるためだ。

 長く長く続けたこの試みが、ようやく実を結び始めた……」

 

 私の問いへの答えになっていない。しかし、私は黒沼トレーナーの言葉に耳を傾ける。

 

「昨年のマチカネタンホイザのジャパンカップ制覇、そして国際招待競走GⅠを続々と日本のトレセン学園でトレーニングしたウマ娘たちが勝利してきた。

 この結果をもって、URAは日本のウマ娘の実力及び育成能力が海外に届くものと判断した。……だから、次の段階へと進めることとした」

「それがミホノブルボンの海外遠征ですか?」

「ああ、言うなれば俺たちの役目は橋頭保を築くことでな。これから欧州遠征を狙う日本のウマ娘たちが現地で調整できるような拠点づくりだ」

「それは学園……URAのスタッフが現地に行けばいい話です。何故ミホノブルボンが……その……」

「人柱みたいな真似を、か?

 だが環境づくりには現役のウマ娘からの意見も必要だ。レースに出ないと分からない情報もある。なにより向こうで長く走れば現地にもファンができる。 そうすれば、遠征できた日本のウマ娘も過ごしやすくなるだろう。その第一陣として、ブルボンに白羽の矢が立った」

「……黒沼さんは、それでいいんですか?」

 

 黒沼はすぐには答えない。

 ジョッキの中のビールを飲み干して、口を開いた。

 

「ブルボンの夢を叶えるには、時代が厳しすぎた」

 

 零れたのは黒沼トレーナーらしくない、諦観の言葉だった。

 

「今思えば、短距離とマイルのGⅠを先に勝てたのは幸運だった。長距離もこのまま粘り強く挑めばいずれ勝つだろう。……だが、中距離はいつになるか」

 

 長距離は現代において斜陽になりつつある。

 世界的にも主流は中距離以下のレースであり、長距離レースは減っている。

 理由は色々あるが、いずれ長距離走者(ステイヤー)というのは、中距離以下のスピードについてこれないウマ娘たちの避難所となる、というのが一部専門家の見解だった。

 

「一度ならず二度までも担当ウマ娘の夢を叶えてやれないとは、俺はダメなトレーナーだ」

「そんなこと言わないでください。黒沼さんがダメなら、私はどうなるんですか」

 

 私だけではない、学園のトレーナー半分以上が無能の烙印を押されるだろう。

 生まれ持っての適性を超えてクラシック二冠など、他に誰が出来ようか。

 ……ふと別の疑問が生まれた。

 ミホノブルボンの海外行きはまだトレーナー間にも流れていない情報だ。つまりすでにトレーナー陣に伝えられているタイキシャトルの遠征と違って学園かURAが懐で温めている情報のはず。

 

「何故、私にこのことを教えたんですか……?」

「……お前とは担当を通じて長い付き合いになったしな。感謝していることもある。

 ブルボンにも遠征のことは口外しないよう言い含めてある。が、あいつがただ一人だけ事前に伝えることを許してほしいと言ってきた」

「まさか……」

「俺がこうしてお前に話しているのと同時に、ブルボンもライスシャワーに遠征することを話しているだろう」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「海外、遠征……?」

「はい。合宿の途中で、タイキシャトルさんの遠征に合わせて私とマスターも欧州へと渡ります」

「レースが終わったら戻ってくるんだよね?」

「……いいえ、私とマスターはそのまま欧州に残ります」

「ど、どれくらい?」

「少なくとも三年。もっと長くなると考えられます」

「三年……」

 

 実際経てばあっという間かもしれないが、レースを走るウマ娘たちにとっては絶望的な時間だった。

 ミホノブルボンが戻ってきたとき、果たしてライスシャワーはまだ現役だろうか。いやそもそも、ミホノブルボンが日本に戻っても現役を続けるだろうか。

 もう一緒にレースを走れない。

 どうしようもない事実が、ライスシャワーの胸を貫いた。

 

「どうして……全距離GⅠ制覇の夢はどうするの?」

「……非常に、残念ではありますが……」

 

 珍しく、ミホノブルボンが苦い表情をしていた。

 

「私の実力では目標達成は極めて困難と判断。設定を、切り替えざるを得ません」

「そんな……」

 

 諦めの言葉が彼女の口から出るとは思わなかった。

 

「諦めないでよブルボンさん……! せっかくまた走れるようになったんだから、挑み続ければきっと――」

「挑み続けて、サイレンススズカに勝てますか?」

 

 紡いでいた言葉が喉の奥で止まった。

 サイレンススズカ。あの異次元の逃亡者に勝つ方法などあるのだろうか。

 宝塚記念以降、毎日考えているが未だ明確な案は出てきていない。

 

「すいません。決してライスさんを困らせたいわけではありませんでした。

 ……正直なことを言えば、満足している自分もいるのです」

「満足……?」

「はい。菊花賞であなたに負けた後、ケガによりレースを離れた時、私の中にあったのはもう一度ライスシャワーと走りたいという想いでした。

 だから引退もしませんでした。どれだけ時間がかかろうとも、必ず復帰して見せるとリハビリに励みました。

 ……宝塚記念でライスさんが大ケガをしたと聞いたときは本気で焦りました。……失礼、心配したという意味です」

「わかるよ……。ライスも、ブルボンさんがレースを離れるって聞いた時、もう一緒に走れないなんてって思ったから」

「はい。ですから、あなたが復帰できそうだと聞いた時は本当に嬉しかった。速く一緒に走りたくてあんな真似もしてしまいました」

 

 ヴィクトリアマイルでの宣戦布告を言っているのだろう。

 世間の声に押されてライスシャワーの復帰を早めることになったが、結果としてマルカブがグラスワンダーたちの目に留まったのだから良かったと彼女自身は思っていた。

 

「もう無理だと思っていたライスさんとの再戦が、三回も叶いました。秋と春の天皇賞、宝塚記念。秋では先着されて、春は負けました。そしてグランプリでは私が先着した。そして私は満足してしまったのです」

 

 思い返すよう目を閉じて、また開いた。

 

「ライスさんは天皇賞(春)で私に勝って夢を阻んだと気にしているのかもしれませんが、違います。

 私はもう夢を一つ叶えました。無事元気な姿でターフに戻ったライスさんとまた走ることができた。……あなたのおかげで、私の夢は叶ったのです」

「え、でも全距離GⅠ制覇の夢は……」

「当然あれも本気ではありました。正直なところ、ライスさんが色んな距離のレースに出てきてくれないかなという期待もありました」

「は、ははは……」

 

 だから、とミホノブルボンは続ける。

 

「自分の中で一つの区切りがついたのです。学園から遠征の誘いがあったのはそんな時でした。

 向こうでの私のミッションは今後欧州遠征するウマ娘たちのための地盤固めです」

「……ブルボンさんはそれでいいの?」

「負けたまま去るというのが心残りではありますが、先程行った通り気持ちの整理はつきましたので……。

 私が向こうに行くことで、いつか来る日本のウマ娘の助けになるのなら……。

 それに―――」

 

 ミホノブルボンが笑う。

 

「欧州にもGⅠはあります。向こうで走って残り二冠を獲るのもありかなと」

「……ふ、ふふ……あははは! 流石、凄いねブルボンさんは……!」

 

 国内で難しいから海外へ。十人聞けば九人が噴飯し、無茶だ無謀だ不可能だと騒ぐだろう。そして一人が笑い転げるだろう。

 欧州と言えばウマ娘レースの本場。ジャパンカップで何度か日本のウマ娘が勝っているからと言って、その実力差は明らかだろう。

 しかしそれでも、彼女が挑むのだ。

 散々不可能と言われる中でクラシック二冠を獲った彼女が、今再び不可能無茶無謀へ挑むのだ。

 

「諦めてなんか、いないんだ……」

「こうなれたのはあなたのおかげです。ライスさん」

 

 ライスの? と問えばハイとミホノブルボンは頷いた。

 

「かつての私はクラシック三冠しか頭にありませんでした。それだけを目標に走り、それ以外は不要と切り捨ててきた。……しかし、菊花賞であなたに負けて変わりました。

 凄いウマ娘がいるのだなと思いました。……三冠を獲ることしかなかったなかった私の世界が広がったのです」

「ブルボンさん……」

「あなたに出会えて、私は孤独ではなくなりました。友が出来て、マスターとも多く会話をするようになりました。全てライスさんのおかげです。ありがとうございます」

「ライスだって……ライスもブルボンさんに会えて……」

 

 強くなれたのだ。その姿に憧れて、追いつきたくて、勝ちたくてここまで来たのだ。

 ミホノブルボンがライスシャワーのおかげで変われたと言うように、ライスシャワーも彼女に出会って変わったのだ。

 

 それから、二人は夜の浜辺で語り合った。

 それこそジュニア級まで遡り、クラシック、シニア、そして今に至るまで。

 お互い、知らぬことなどないと言えるまで胸の内を明らかにした。

 そして、その時は訪れる。

 

「いずれ公表されると思いますが、遠征の話は内密にお願いします」

 

 そう言って、ミホノブルボンは去って行った。

 残されたライスシャワーは、胸に手をやり思案する。

 そして、何かを決意したように空を見上げた。その姿を月だけが見つめていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 数日が過ぎ、ついにタイキシャトルが欧州へ飛び立つ日がやってきた。

 それはつまり、ミホノブルボンが日本を去る日でもあった。

 ミホノブルボンは朝早く、制服姿で宿舎を後にして黒沼と合流した。

 

「心残りはないか?」

「問題ありません。我儘を聞いていただき、ありがとうございます」

「構わん。そもこの遠征も俺たち大人の我儘のようなものだ」

 

 このまま駅から空港まで行けば、そのまま欧州だ。

 次また日本の土を踏むのはいつになるかと考えたとき、彼女たちに駆け寄る影があった。

 

「ブルボンさん!」

「フラワーさん? どうしましたか?」

 

 学園でも同室のニシノフラワーが駆け寄ってきた。

 慌てた様子で、額に汗が浮いていた。

 

「大変なんです、ライスさんが!」

「──! マ、マスター!」

 

 黒沼の方を向くと、彼は静かに頷いた。

 

「行って来い。空港までのルートは分かっているな? 最悪、そこで合流すればいい」

「はい、ありがとうございます!」

「こっちです! 急いで!」

 

 走り出すフラワーを慌てて追う。

 チーム・マルカブが泊まる旅館が見えてくる。玄関先で建つ少女の姿を見てミホノブルボンは呆けた顔をした。

 

「ライスさん……?」

「おはようブルボンさん」

 

 いたのは制服姿のライスシャワーだった。見る限り異常があるとは思えない。

 

「フラワーさんこれはどういう……」

 

 事情を聞こうとするが、すでに小さなルームメイトの姿はなかった。

 事態を飲み込めずにいるミホノブルボンへ、ライスシャワーが頭を下げた。

 

「ごめんなさい。フラワーさんにはライスから頼んだの。ブルボンさんをどんな手でもいいから連れてきてほしいって」

「一体どうして……」

「最後にもう一度だけ、ブルボンさんと走りたかったの」

「……見たところ制服ですが」

「レースみたいに本気で走るつもりはないよ? 丈夫な制服だし、ちょっとくらい大丈夫だよ。……だからお願い」

 

 一見愛らしい、しかしその奥に揺るがぬ信念を見た。

 思い返せば、先日はミホノブルボンが一方的に遠征と別れの話をしたのだ。なら、彼女の我儘に付き合うのが筋というものかと自分を納得させた。

 

「分かりました。コースはどのように?」

「ありがとう! コースはこれね。一応、目印がいるから間違えることはないよ」

 

 渡された紙を見ると、合宿所周りを巡って町中に入るルートだ。今更だが、地面に引かれた赤チョークの線に気付く。これが目印だろう。

 ゴールが駅なのは彼女なりの気遣いか。とにかく、数日過ごした場所だ。道を間違うことはないだろう。

 

「準備運動はいる?」

「いいえ。すでに済ませています。日課なので」

「さすが……」

 

 互いに制服のまま並ぶ。

 発声役がいないので、合図は自前だ。

 

「よーい……ドン!」

 

 勢いよく飛び出す二人。

 本気じゃないとはなんだったのか。いや、クラシックを競い合った二人が並べばこうなるのは必然だ。

 レースと違うのは、ライスシャワーがミホノブルボンの後ろに控えることなく横に並んできたことだ。

 ライバルの挙動に驚きつつも、競走に集中する。

 やがて見えてくる曲がり角。そこにウマ娘が立っているのに気付いた。

 ライスシャワーが言っていた目印とは彼女のことか。

 ウマ娘の手振りに従い曲がる。同時に、立っていたウマ娘がそのままミホノブルボンの隣を走りだした。

 

「ブルボン――!」

 

 名を呼ばれ、視線だけ向ける。

 ついてきたのは、ミホノブルボンが知っているウマ娘だった。

 

「アタシはあの菊花賞、本気でアンタに勝つ気だった!」

 

 同期のウマ娘だ。同年にデビューし、共にクラシックを走った。そして菊花賞でミホノブルボンよりもハナを取ったウマ娘だ。

 

「まだ諦めてない! なのにアンタは海外だと? チクショウ、どんどんと先に行きやがって……! 負けんじゃねえぞ! オマエが海外で負けたらそれに負けたアタシらまで下に見られるんだからな!」

「……当然、勝ちます!」

「言ったな! 情けない戦績で帰ってきたら承知しねえぞ!!」

 

 バン、と背中を強く叩き、彼女は後方へと下がっていった。

 すでに同期がミホノブルボンの海外遠征を知っていたこと。そして走りながら言葉を贈る。この二点から今走る競走の意味を悟った。

 これはある種の壮行会なのだ。学園が敷いた行事ではなく、過去いつかの時代、ある生徒の間で行われ、その後も生徒の間だけでひっそりと語り継がれてきた学園を去るウマ娘を送る儀式。

 坂を下って宿舎周りに入ったところでまたも二人についてくるウマ娘がいた。

 トウカイテイオーとマチカネタンホイザだった。

 

「ボクさ、ブルボンにはシンパシー感じてたんだよね。同じ皐月とダービーの二冠だし、ステイヤーがライバルだし。だから勝手なお願いだけど、ボクの分も海外頑張って来てよ!」

「ブルボンさんと走れたこと一生の自慢です! 人生の宝物です! だから、えーとえーと……ずっと応援してます!」

「テイオーさん……タンホイザさん……はい、ありがとうございます!」

 

 その後も、かつての同期、先輩たち、後輩が立て続けに来ては言葉を送っていく。

 

「頑張って!」「応援してるよ!」「寂しくなるな……」「元気でね!」

「また走ろうね!」「次は負けないから!」「海外のことたくさん聞かせて!」

「手紙送ってもいい?」「お土産よろしく! GⅠトロフィーでいいよ!」

 

「走る大地は違えども、同じ空にいるのは変わりません。海の向こうまで私たちの起こした風を届けましょう。そして欧州から、熱い風が来るのを待っています」

 

 スプリンターズSでともに走ったヤマニンゼファーが言った。

 

「身体には気を付けてくださいね! 水とか食べ物とか色々違うって聞きます……また元気な姿で会いましょう!」

 

 同室で、何かと気をかけてくれたニシノフラワーが言った。

 

「貴女は私の憧れでした! 生まれ持っての才能に縛られず、夢に向かってどんな距離にも挑む姿、貴方の心にバクシン魂を確かに見ました! 向こうに行っても変わらずバクシンしてください!」

 

 口下手な自分に積極的に話しかけ、友となってくれたサクラバクシンオーが言った。

 

 言葉を貰うたび、彼女たちと走ったレースの記憶が蘇る。

 メイクデビュー、条件戦、朝日杯FS、スプリングS、皐月賞、日本ダービー、京都新聞杯、菊花賞、ヴィクトリアマイル、スプリンターズS、毎日王冠、天皇賞、大阪杯、宝塚記念。

 楽なレースなど一つとしてなかった。忘れてしまうようなレースなど一つもない。

 十五の蹄跡は多くのウマ娘の胸へと刻まれていた。

 やがてゴールが見えてきた。

 駅。黒沼が立っているのを見て、彼も一枚噛んでいたのだと理解した。

 併走していた仲間たちが下がっていく。やがて隣を走るのはライスシャワー一人となっていた。

 

「ブルボンさん……」

 

 震えた声。涙を滲ませた瞳を拭いながら、少女は言う。

 

「ライス……ライス勝つから! もっとレースに勝って、みんなに名前を知ってもらう! そして、ライスのライバルにミホノブルボンって凄いウマ娘がいたってことを伝え続ける!」

「私も……私も勝ちます。勝って世界に、日本にはもっと凄いウマ娘がたくさんいるんだってことを証明してきます!」

 

 ライスシャワーが下がっていく。

 見送りはここまで。これより先は、ミホノブルボンの旅路。

 次会えるのはいつになるか、ともに走る機会は訪れるかは分からない。

 分からないが……

 

 サヨナラは言わない。

 

「行ってらっしゃい! 私たちのヒーロー!」

 

「行ってきます……私のヒーローたち!」

 

 多くの声援を受けて、ミホノブルボンは欧州へと旅立っていった。

 

 

 ミホノブルボン トゥインクルシリーズ戦績

 15戦10勝

 主な戦績

 ○○年 日本ダービー

 ××年 ヴィクトリアマイル、スプリンターズS

 

 





 連日投稿は一旦ストップになります。
 感想、誤字報告ありがとうございました。
 またしばらくお待ちください。


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34話 見る者と見られるモノ

お久しぶりです。
いただいている感想も碌に返せていませんが、全て目を通し活力としております。
今日から三日間、一話ずつ投稿させていただきます。



トゥインクルシリーズ秋シーズンの期待を語るスレPart.□□

 

126:名無しのレースファン ID:VPrj4kTAQ

【悲報】ミホノブルボン海外移籍

 

127:名無しのレースファン ID:Bxlh/YhZ6

マ?

 

128:名無しのレースファン ID:f6cr/6BZz

ソース見せろや

 

129:名無しのレースファン ID:RlYTjb3nk

ほらよ↓

http://www.ura.……………….com

 

132:名無しのレースファン ID:Na7wFj0pX

マジやん

 

134:名無しのレースファン ID:+BOzsQrCo

タイキシャトルの帯同ってあるからタイキのレース終わったら帰ってくるんじゃないの?

 

136:名無しのレースファン ID:6mHZhzsP/

よく読め

元々どっちも海外行く予定だったのを時期近いだから一緒に行くってことや

 

138:名無しのレースファン ID:Rbod8M2aC

海外行く→タイキシャトル、シーキングザパール、ミホノブルボン

レース終わったら帰ってくる→タイキシャトル、シーキングザパール

そのまま海外に残る→ミホノブルボン

でおk?

 

141:名無しのレースファン ID:6PS0aIjo9

>>138 おk

 

144:名無しのレースファン ID:ZV+2oaubC

日本でブルボン見れなくなるって寂しいな

 

147:名無しのレースファン ID:p+DzUTNJk

っていうかなんで海外? 凱旋門とか狙う気か?

 

150:名無しのレースファン ID:t6WEG8zv1

サイレンススズカに勝ち目無いから海外に逃げたんだろ

勝負から逃げるダービーウマ娘の恥さらしが

 

151:名無しのレースファン ID:zemzMhgoP

海外に逃げるとかいうパワーワード

 

153:名無しのレースファン ID:QNx1ZTl5h

アンチかオメーって思ったがツン成分の濃いファンにも見えるな

 

157:名無しのレースファン ID:wG9NSPRUg

ブルボンが弱いとか終わったとか一切思ってないが時代が悪い感はある

実際去年の毎日王冠から勝ってないし

 

159:名無しのレースファン ID:ZrT85Ybcw

各距離にスペシャリストがいるというか一強体制の時代ではあるな

 

163:名無しのレースファン ID:gwFiFaeXh

短距離サクラバクシンオー

マイルタイキシャトル

中距離サイレンススズカ

長距離ライスシャワー

まあこいつらに勝つか海外行けって言われたらワンチャン狙って海外もありかもしれん

 

167:名無しのレースファン ID:4+AXsR6k2

そのバクシンオーは最近ずっと中距離に挑戦中、タイキは海外だから秋の短距離GⅠは他のウマ娘にとってチャンスだな

 

170:名無しのレースファン ID:w0diHOxf4

>>167 タイキの海外レース8月だから秋は帰ってきてるぞ

スプリンターズSに出るかは知らんが

 

172:名無しのレースファン ID:zItsO3aeJ

8月に海外でレースして帰って来て、9月末のGⅠはキツくない?

マイルCSは出るだろうけど

 

173:名無しのレースファン ID:aCQIsOr4h

>>163 中~長距離は秋にはメジロマックイーンが加わるという地獄

 

177:名無しのレースファン ID:HBKlk72Ue

そんなことより海外レースってどこで見れるの?

 

 

 

 ◆

 

 

 

 夏季合宿中だが、毎日トレーニングするというわけではない。

 休息は心の栄養。時にはじっくり体を休めたり、趣味や遊行に使う日もある。

 トレセン学園がキャンプやイベントを企画しており、それに参加するウマ娘もいる。

 それはマルカブの休息日前夜、チームのみんなで遊びに行くのでトレーナーもどうかと誘った時のことだった。

 

「ごめん、明日は人と会う約束があるんだ」

「そっか……」

 

 トレーナーの仕事はウマ娘の指導だけに留まらない。

 実績を積んだウマ娘はメディアへの露出も自然と多くなり、トレーナーがマネジメントのようなことをする場合もある。

 

「もしかしてお仕事?」

「まあそんなものかな。みんなで楽しんでおいで」

 

 寂しそうに耳を垂らすライスシャワーたちへ申し訳なさそうに謝りながら、トレーナーは自室へと戻っていった。

 

「人と会う……なんでしょう、取材の打ち合わせとかデスかね?」

「かもしれませんね。先日もリギルの方に取材陣がいました」

 

 明日は皆でショッピングの予定だったが先約があるのなら仕方ない。気を取り直して回る店を確認する。

 

「……恋人さんとのデートとかでしょうかぁ?」

 

 メイショウドトウによって爆弾が投下された。

 いや、空気が凍ったので炸裂したのは気化冷凍爆弾か。

 ライスシャワー、グラスワンダー、エルコンドルパサーの手が止まり、やがて三人が互いに顔を見合わせる。

 

「………………どう思いますか?」

「聞いたことはない、かな」

「でもトレーナー業ってモテるって聞いたことありマス……!」

「え……いやいやいや! もしかして先輩方本気にしてるんですか!?」

 

 不穏な雰囲気を察したアグネスデジタルが、まさかまさかと手を横に振る。

 

「あのトレーナーさんに恋人とか……そもそもトレーナーさんそういうの疎いじゃないですか!

 聞きましたよ、グラス先輩たち去年のクリスマスにネクタイとカフスボタン贈ったけど何も気づかなかったらしいじゃないですか。アレですよね、ネクタイとカフスボタンの意味って確か――」

「「デジタルちょっと黙って」」

「アッハイ」

 

 お口チャックのアグネスデジタル。そしてマルカブのメンバーの視線がライスシャワーに集まった。

 結局のところ、疑問を晴らすにはトレーナーに訊ねるかそれとも……。

 聞いた結果が先ほどの回答なのだから、やることは一つだ。

 あとは実行に移すかどうか。決断はリーダーに委ねられた。

 

「デジタルさん、ドトウさん。ゴメン、ショッピングはまた今度ね」

 

 

「見たまえシャカール君。年相応の青春が私たちの前で繰り広げられているよ」

「くだらなくてツッコむ気も起きねえよ」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 翌朝、いつもと同じスーツ姿でトレーナーは旅館を出た。

 その後をこっそりと追う二つの影があった。ライスシャワーとエルコンドルパサーだ。

 昨夜の壮絶な尾行役を決める戦い(ジャンケンたいかい)を制した二人は、私服姿でトレーナーに気づかれないよう一定の距離を取りながら後を追った。

 トレーナーがバスに乗るが、一緒に乗るとバレるのでバス停へ先回りを図る。こういう時、ウマ娘の脚力は便利だった。

 バスは市街に向かっていく。

 そして、

 

「あ、降りてきたデス!」

 

 あるバス停で降りてくるトレーナーの姿を見たウマ娘二人は引き続き後を追う。

 そしてついに、トレーナーが喫茶店に入るのを確認した。

 

「……人に会うってのは本当みたいだね」

「デスね……」

 

 店の窓にはレースのカーテンが敷かれ、外から中を窺うことはできない。

 これ以上トレーナーの動向を知るには彼女たちも入店するしかない。

 

「おや? ライス先輩、あそこにいるの……」

 

 エルコンドルパサーが指さす先、自分たちと同じように店の様子を窺う者たちがいた。

 片やライスシャワーたちよりも大人びた落ち着いた服装、長い鹿毛。

 片やパステルカラーの随分と身軽な恰好と、一つに結んだ同じく長い鹿毛色の髪。二人とも掛けた眼鏡は変装のつもりかもしれないが、その特徴的な三日月型の流星は隠しようがない。

 

「生徒会長さん……?」

「テイオーさん……?」

「あれ?」

「む? 君たちは……」

 

 七冠の皇帝シンボリルドルフ、そして彼女を慕うスピカのトウカイテイオー。

 どういう因果か、彼女たちもまたストーキング中だった。

 

 

 簡潔に言えば、シンボリルドルフのトレーナーもまた休日に誰かと会う予定があったらしい。

 シンボリルドルフの休日に押しかけたトウカイテイオーがひどく興味を持ち、ライスシャワーたち同様こっそりと後をつけて来たらしい。

 そしてシンボリルドルフのトレーナーは目の前の喫茶店へ入っていったらしい。

 十中八九、会う相手というのは互いのトレーナーであるということは察せられた。

 

「ライス先輩、どうするデス? トレーナーさんが誰と会うかはもう分かりましたがまだ続けるデス?」

「うーん、どうしよっか……」

 

 心配は杞憂に終わった。

 これ以上はトレーナーとしての仕事か、彼らのプライベートの話になる。

 どちらにしろ果たして盗み聞きしてよいものか。すでに天秤は撤退へと傾いていた。

 

「えー本当に二人が会うのか分からないじゃんか! もしかしたら二人とも別々の人と会うのかも!」

「テイオー、あまり下衆の勘繰りをするものではない。彼らにもプライベートはあるし、線引きはするべきだ」

 

 シンボリルドルフも退く気のようだが、一人トウカイテイオーが粘っていた。

 他の三人と違い、直接自分の担当トレーナーが関わっていないからだろうが、彼女生来の性格もあるのだろう。

 

「じゃあじゃあ! 折角会ったんだからお茶しようよここで!」

 

 トウカイテイオーが指さしたのは当然今さっきトレーナーたちが入っていった喫茶店だ。

 やれやれと頭を振るシンボリルドルフと、甘いなーと苦笑いするマルカブの二人。

 しかし一方で、トウカイテイオーは知っている。三人とも真面目というか、万が一の場合でトレーナーと不仲になるのが嫌なだけで本心は聞いてみたいのだと。

 そして、今更あのトレーナーたちが盗み聞き程度で担当を嫌うはずがないということも。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「いらっしゃいま───せ……」

 

 客の来店を知らせるベルが鳴ったのを聞いて、振り返った店員は一瞬固まった。

 マスクにグラサン。どう見ても顔を見られたくないという意志を見せた四人組がいたからだ。

 

「オリジナルブレンドを四つ。……席はこちらで選んでも?」

「え、ええ構いません。空いている席へどうぞ。オリジナルブレンド四つですね。ミルクと砂糖は席に備え付けてありますのでご自由に」

「ありがとう」

 

 異様な出立ちを前に平静を保てたのは接客業としてのプライドのおかげかもしれない。

 マニュアル通りの受け答えを済ませると謎の四人組はテーブル席へ向かう。

 背を向けられた時に揺れる尾と耳に気づいた。

 ウマ娘。もしやレースで有名な娘だろうか。

 時期的に近くの海に多くのウマ娘が合宿に来ていることを思い出した。

 ここまで察せられれば、詮索は無用だろう。

 レースとライブで華やかな姿を見せるウマ娘の一グループが、こっそりと休日を満喫している。そう結論づけ、店員は伝票を厨房へと運んでいった。

 

 

 無事、正体を隠して店内に入り込んだウマ娘一行は、ちょうど自分たちからはトレーナーを視認できて、向こうからは絶妙に見えにくい席を確保した。

 トウカイテイオーとシンボリルドルフ、ライスシャワーとエルコンドルパサーが互いに向かい合う形で座る。

 耳を揺らし、目標の会話を拾おうと意識を集中させていく。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「すまないね。遠い店を指定してしまって」

「いえ、お願いしたのはこちらの方ですから」

 

 私の対面に座る男性が、注文したコーヒーに砂糖を入れていく。

 湯気立つコーヒーをかき混ぜる仕草すら絵になる人だ。

 

「初めて来た時からここのコーヒーの味が気に入ってしまってね。合宿中はよく来るんだ」

 

 カップを傾け一口飲んでみる。

 ……なるほど、普段私が飲むものとは雲泥の差だ。

 酸味だ味わいだのはよく分からないが、市販のインスタントとは一線を画すものであることくらいは分かった。

 

「相談、というのはレースのことで良いのかな?」

「はい。丘辺さんに海外遠征の話を聞かせて欲しいんです」

 

 丘辺トレーナー。若くしてあのシンボリルドルフを担当し、無敗の三冠と未だ続くものがいないGⅠ七冠を達成した名トレーナーだ。

 シンボリルドルフとの関係はまさに皇帝とその杖といった様子で、常に傍らで彼女を補佐している姿がある。

 しかしトレーナーを辞めた訳ではなく、チームは作らずともウマ娘を何名か担当している。さらに海外にも目を向けており、精力的に現地に飛んで海外のノウハウをトレセン学園へ持ち帰ってきている。

 今もっとも成果を出しているのがリギルの東条トレーナーなら、丘部トレーナーは私では右も左も分からぬ未踏の原生林を切り開いてきた人と言えるだろう。

 

「海外……エルコンドルパサーのためかな?」

「ご存知でしたか」

「元気よく世界進出って言ってるのを見かけるからね。そういう意味ではNHKマイルは見事だった。一方でダービーは惜しかったね」

「本当に……私の力不足です」

「あまり卑下するものじゃない。あれはスペシャルウィークの仕上がりが良すぎた」

 

 コーヒーを一口飲んだ丘辺トレーナーが続ける。

 

「聞きたいのは遠征のノウハウかな?」

「それもあります」

 

 自分も含めて三代続くチーム・マルカブだが海外遠征の経験はない。

 渡航費用や活動拠点は学園が都合してくれるだろう。しかし万全の環境にはほど遠い。

 慣れない環境、土地、風習、食事。それらは確実にストレスとなってウマ娘たちのパフォーマンスを低下させる。

 彼女たちの能力を如何に維持し、かつ遠征先のレース環境に適応させるか。遠征した時にトレーナーに求められる能力はそれだろう。

 だが、どうしてもトレーナーの能力だけではどうにもならない点がある。

 

「シンボリ家に支援いただくよう進言……いえ、紹介してもらえませんか?」

 

 丘辺トレーナーのコーヒーを飲む手が止まる。

 穏やかだった顔つきが真剣なものに変わった。

 

「……そうか、君が僕に声をかけた理由はそれか」

「それもある、です。丘辺さんの経験をお聞きしたいのも本音です」

 

 遠征する以上、こちらはアウェイとなる。

 向かった先にいるのが全員敵、とまでは言わないが味方が少ないのも事実。

 必要なのは、遠征先における心許せる絶対の味方。

 URAがミホノブルボンを欧州に送り出したのは、組織を上げてそういう地盤を築くためだ。

 リギルは長い歴史と確かな実績からなるコネクションが海の向こうまで届く。

 しかしマルカブにはそこまでの歴史と実績はない。ミホノブルボンの献身が実を結ぶのを待っているだけではいけない。だから頼る。長くレース業界に根を張る伝統ある家の力を。

 

「シンボリ家は以前から海外遠征に積極的でした」

「……確かに、ルドルフやシリウスの遠征にはあちらの家にも随分と協力してもらった」

 

 胸を張れる結果ではなかったけどね、と苦笑する丘辺トレーナー。

 だがこの人が海外遠征を図り実行した先駆者であることは間違いないし、その背景にシンボリ家の支援が少なからずあったことも確かだ。

 

「変わったね……いや、本気になったということか」

「……? 他の方にも言われましたが、そんなに普段手を抜いているように見えますか?」

「いやそういう意味じゃないよ。最近の君は勝つことよりも他に重視している点があった。ウマ娘が無事に帰ってこれるよう尽力していた。

 ああいや、そこの変化を非難するつもりはない。勝ちを求めるのはレースに携わる者として当然だ。

 そうだね……本気に、というよりも、戻ってきたという方が伝わりやすいかな? あのメジロマックイーンに勝つために足掻いていた時のように」

 

 今度は私の表情が変わる番だっただろう。

 丘辺トレーナーがいうのは、メジロマックイーンに天皇賞(春)でライスが勝った時のことだ。

 確かに、あの時の私たちは必死だった。

 ミホノブルボンのクラシック三冠を阻み、世間からヒールと揶揄される中でライスの実力を証明するために当時の現役最強と呼ばれたメジロマックイーンに挑んだのだ。

 

「……分かった。シンボリのヒトにそれとなく伝えてみよう。来年海外で活躍しそうな見所あるウマ娘がいると」

「ありがとうございます!」

「ただし」

 

 人差し指を立て、丘辺トレーナーが続ける。

 

「あくまで伝えるだけ。僕にできるのはそこまでだ。

 僕もシンボリ家からの覚えは良いけれど、意見を押し通せる権限があるわけじゃない。結局外様は外様だ。

 一方で、シンボリ家の考えはシンプルだ。血筋も人種も関係ない。ただ実力さえあればいい」

 

 そういう意味では、日本ダービーは本当に惜しかった。世代のトップという名声は確実にエルの評価に繋がっただろう。

 

「おそらく、というか確実に見られるのは……」

「ジャパンカップ、ですね」

 

 丘辺トレーナーが頷いた。

 

「クラシック級でのジャパンカップ制覇は、菊花賞からの連戦だったとはいえルドルフでもできなかった快挙だ。確約はできないけど、評価が大きく変わる」

 

 エルの海外遠征のため、ジャパンカップを勝たないといけない理由が一つ増えた。

 しかしこれは前進でもある。やはりこの人にお願いしてよかった。

 

「ありがとうございます。おかげでやる気が出ました」

「大したことはできていないよ。君たちの奮闘を期待している」

 

 コーヒーをまた一口。

 他に客がいない(・・・・・・・)店内で、丘辺トレーナーとの雑談が続く。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「いや~思った以上に真面目な会話だったね」

「本当に盗み聞きしてよかったのかな?」

「気にしすぎだよ。バレる前に出てきたんだから大丈夫だって!」

 

 トレーナーたちの話をこっそりと聞いていたライスシャワーたち四人はすでに店の外を出て帰路についていた。

 ライスシャワーとトウカイテイオーが会話の内容について話す中、エルコンドルパサーは黙ったままだ。

 

「トレーナー君が言っていたことは誤りではない」

 

 シンボリルドルフが口を開く。エルコンドルパサーの視線が向いた。

 

「実力ある者に力を貸す、そこに家柄も血統も関係ない。良くも悪くも実力が全ての家柄だ。海外に通用する実力があるかを示す場としてジャパンカップは相応しいだろう」

「会長さん……」

「できることならトレーナー君のように私も実家の方に進言したい。しかし私は立場上、君だけを贔屓するような真似はできない。……が、期待しているよエルコンドルパサー。

 そして同時に奮起したまえ。ここだけの話だが、ジャパンカップにはエアグルーヴも出る」

「エアグルーヴ先輩が……」

 

 世代としては二つ上のオークスウマ娘。

 近頃GⅠ勝利こそないが順位は常に掲示板内と安定した成績であり、春はGⅡを二勝。未だ世代戦しか経験のないエルコンドルパサーにとって間違いなく格上の存在だ。

 

「中距離で彼女に負けるようでは……いやこの言い方は良くないな。彼女に並ぶ実力が無ければ海外GⅠなど夢のまた夢と言っておこう」

 

 シンボリルドルフの言葉は決して誇張ではない。

 GⅠ勝利が久しいとはいえ、そのエアグルーヴを破り勝利を上げたのはマチカネタンホイザにライスシャワー、サイレンススズカという世代を代表するウマ娘だ。

 かの女帝に並び、そして超えずして最強の道などあり得ない。

 クラシックとティアラという違いはあれどエアグルーヴもまた世代の頂点を獲った一人。

 エルコンドルパサーの前に、高くも険しい壁が聳え立っていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 それは、言ってしまえば不幸の連鎖による悲劇だった。

 一つ、ちょうど今グラスワンダーが動画配信者による茶道を見るのにハマっていたこと。

 

「あら……?」

 

 一つ、彼女のスマホの充電器の差しが甘かったのか中で断線しているのか、充電がされずバッテリーが切れかかっていたこと。

 一つ、あと五分ほどで件の配信者のライブ配信が始まるため少し気を急いでいたこと。

 

「デジタルさん、すいませんがタブレットで動画見てもいいですか? 私の充電が上手くできてなかったみたいで……」

「構いませんよ! 使い方わかります? ……ええ、そこが電源で、ロック解除が……はいできましたよどうぞ!」

「ありがとうございます」

「いえいえこれくらいいくらでも! ……あ、すいませんちょっとお花を積みに」

 

 一つ、普段使っていない道具を手にするとやはりミスをするもの。グラスワンダーは赤いアイコンの動画アプリを開いたつもりだった。しかし何故か開かれたのは近くにあったフォルダだった。

 中のファイルに表示されたサムネイルが、どこか自分に似ている気がした。

 

 気がしたのだ。

 だから単なる好奇心から、勝手に見て悪いかなとか思いながら。

 

 開いてしまったのだ。

 

「デジたん帰還しました! あ、グラスさんどうです? 動画見れま……し……た……?」

 

 

 

 

「デジタルさん。お話があります」

  

 

 数分後、帰ってきたライスシャワーたちが見たのは、般若のような表情のグラスワンダーと全力で土下座するアグネスデジタルの姿だった。

 

 

 

 





次回アンケ結果回。
圧倒的なグラスバレ票の数に驚きました。
まさかライスバレと比べてもダブルスコアとか。
人の心とかないんか?。



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35話 デジタルとグラス

やや短め。
先に行っておくと、後に禍根を残すとかはないです。


 後に、エルコンドルパサーは語る。

 

 ──あの時のグラスは過去一番ヤバい顔だったデース……。

 

 チームマルカブが泊まる大部屋は、かつてないほど冷え込んでいた。

 それこそトレーナーのデート疑惑が出た時以上に。

 まだ八月に入ったばかりで、外は太陽と日本特有の湿度による猛暑だというのに冷凍庫のような肌寒さであった。

 

「デジタルさん……」

「ハ、ハハーーッ!」

「真面目にしてください。私は今冷静さを欠こうとしています……!」

 

 グラスワンダーの手にあるタブレットが悲鳴を上げる。……ご臨終ではなくまだ悲鳴で済んでいるあたり、彼女の言葉は事実なのだろう。瀬戸際だが。

 

「どうなってるの……?」

 

 土下座するアグネスデジタルとそれを見下ろすグラスワンダー、そして部屋の隅で震えるメイショウドトウという謎の光景にライスシャワーは立ち尽くしていた。

 ライスシャワーから見て、グラスワンダーというウマ娘は余り怒りや侮蔑の感情をはっきり表す娘ではない。

 そんな彼女が絶対零度とも言える表情でチームメイトを見下ろす様に驚いた。

 同時に、何があったかは分からないが、アグネスデジタルが何かしてしまったのだなと察した。でなければ普段のエルコンドルパサーとのじゃれ合いと比べ物にならない現状が説明つかないと思ったのだ。

 

「グラスさん……」

 

 一歩、ライスシャワーが部屋の中へ足を踏み入れる。

 トレーナーがこの場にいない以上、状況を納めるのはチームリーダーである自分しかいないのだ。

 

「何があったの?」

「……………」

 

 グラスワンダーは答えない。

 無視ではない。言葉で説明しにくいのか、それとも口にできないのか視線が泳いでいる。

 グラスさん、ともう一度呼びかける。

 

「言いづらいなら……うん、言わなくていいよ。代わりに教えて。デジタルさんにどうしてほしい?」

「それは………」

 

 視線が下へ動く。ライスも目で追った先には、手に持ったアグネスデジタルのタブレットがあった。

 

「消してほしいです。この中にあるものを」

「全部?」

「いえ……」

 

 首を振るグラスワンダー。

 そっか、と言ってライスシャワーは未だ亀のように丸まったアグネスデジタルの方を向く。

 

「デジタルさん、グラスさんはこう言っているけど何のことか分かる?」

「はい! 今すぐ消させていただきます!!」

 

 飛び上がる勢いでアグネスデジタルが立ち上がり、タブレットを操作する。

 グラスワンダーに配慮してライスシャワーは背を向ける。

 少しして、アグネスデジタルから削除完了の声が上がった。

 

「端末から完っ全に消しました! この度は本っ当に申し訳ございません!!」

「グラスさん。何があったのかライスには分からないけど、デジタルさんも……」

 

 反省しているみたいだし、と出かけたところで言葉を止めた。

 状況を見るに被害者はグラスワンダーだ。彼女の方が先輩だとしても、アグネスデジタルを擁護したり、怒っていることを咎める真似はしたくなかった。

 

「言い難いみたいだから聞かないけど、デジタルさんも先輩を困らせちゃだめだよ?」

 

 はい!! と必死な声が響く。

 悪意が無いことや猛省していることが伝わったのか、次第にグラスワンダーから怒気が薄れていく。

 

「ライス先輩、騒がせてしまって申し訳ありません……」

「ううん大丈夫。でも、困ったり悩んでいるようなら後で聞くよ」

「ありがとうございます。でも今は……」

「ん。急ぐ必要はないよ」

 

 温もりの戻ってきた大部屋。

 しかし、その日はずっとグラスワンダーとアグネスデジタルの間に溝ができたのは確かだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 チーム・マルカブが合宿中に泊まる旅館には露天風呂がある。

 夜。気温も少しはマシになった空の下、グラスワンダーは一人その露天風呂に入っていた。

 普段ならエルコンドルパサーなりライスシャワーなり、チームメイトと一緒だったが、今は一人でいたい気分だった。

 

「ふぅ……」

 

 息とともに疲れが抜けていく。体が温まるのに対し、夜風で少し頭は冷たいのが妙に心地よい。しかし、グラスワンダーの表情はどこか暗い。

 アグネスデジタルへの対応は上級生として威圧的過ぎたか。頭が冷えた今ではそんな後悔の念が渦巻いていた。

 だが一方でアレくらいで済ましてよかったのかという想いもある。それほどにタブレットにあったアレは彼女の逆鱗を突いていた。

 

「彼女には、私があんな風に映っていたんでしょうか……」

 

 彼をそういう目で見ているような。あんな真似をするような。そんなウマ娘に。

 例の画像が脳裏に蘇り、顔に熱が集まるのを感じた。熱を発する感情は羞恥か怒りか、いや両方か。

 とはいえ一度矛を収めた以上、掘り返すのは気が引けた。なにより、間を取り成したライスシャワーに失礼だろう。

 どうしたものかと思案していると、露天風呂の入り口である引き戸が開く音がした。

 この旅館はチーム・マルカブの貸切ではなく、他のチームのウマ娘や一般客も泊っているので鉢合わせになることもおかしくない。

 今は一人でいたい気分だったので、入れ替わりで上がるとしよう。

 岩場に置かれたタオルを取り、湯から出ようとしたところで入ってきた者が誰か気付いた。

 

「あ、あの……! 先ほどの謝罪にというのもおかしいですが、恐れ多くも……お背中など流させていただければ!!」

 

 悩みの発端。アグネスデジタルだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 風呂場の隅に設置された体を洗うスペース。

 置かれた木製の椅子に腰かけながら、グラスワンダーは己が長い髪を結いあげた。

 

「ふぉ、ふぉぬお……」

 

 背後からの奇声に手が止まる。じとりと冷たい視線を向ける。

 

「私の背中がなにか……?」

「ほわあ!? い、いえ、綺麗な背中だなと。これを今から触らせていただけるなど、タオル越しとはいえ恐れ多いと言いますか……!」

「はあ……。大したものではないと思いますが」

 

 肌は、まあ白い方だとは思う。しかし競技者として日に焼けていないというのはどうなのだろうか。

 もう少し小麦色程度には焼けていた方が健康的ではないかと思う。

 肉付きは……考えるのをやめた。

 

「で、では……失礼します!」

 

 意気込んだ割に、背中に感じたタオルの感触は微かだった。

 力が碌に入っておらず、洗っているというよりさわさわと撫でられているようだった。

 

「あの、もう少し力を入れて構いませんよ?」

「ひゃい!? 玉のようなお肌に傷でもつけてしまったらと思うと……」

「そんなに柔ではありません。デジタルさんが普段洗う程度の力でいいですから」

「は、はい……! それでは改めまして……」

 

 ゴシゴシとボディソープをつけたウォッシュタオルがグラスワンダーの背中を擦る。

 ちょうどよい力加減だった。

 

「どうして突然こんなことを?」

「エル先輩がですね、気まずい時は思い切って行動すべきだと。裸の付き合いとかどうか、とアドバイスいただきまして」

「エルったら……」

 

 サムズアップして自信満々に語るルームメイトの顔が浮かんだ。

 しかし事情を知らないであろう───ライスシャワーが漏らすとは考えられない───彼女の気遣いはありがたいとも思った。

 

「…………ああいう絵を描くのが趣味なんですか?」

「ふぇええ!?」

 

 奇声とともに背中を擦る手が止まった。

 その後もええ、とか、あうう、とか意味をなさない声が漏れていた。

 グラスワンダーは急かすことなく、アグネスデジタルの回答を待った。

 とはいえこのままでは互いに裸で外に居続けることになるので早くしてほしいとは思っていたが。

 

「ええっとですね。父が印刷業をしているというのもあって、多種多様な書籍に触れる機会がありまして。中には普通の本屋には置かれないようなものもあるのです……」

 

 アグネスデジタル曰く、それは同人誌と言われる類のもの。利益を求める商業目的ではなく、自分の中の『好き』という想いを形にしたもの。彼女がタブレットに書いていたのはそういったものだと言う。

 

「と、当然リスペクトは大事というか不可欠です! 原作というか元ネタというか、そちらにご迷惑をおかけするなんてご法度なのです!

 アレも、途中で書くのをやめたもので誰かに見せようなんて気はこれっぽっちも……」

「それでもああいう内容を無許可で描くのはどうかと思いますが」

「ぐふぅ……! ぐうの音もないド正論でございます……!」

「………………それで」

「はい?」

「どうして、その……私とトレーナーさんだったんですか?」

「え? だってグラス先輩ってトレーナーさんのこと好きですよね」

「……………………………………………え?」

「え?」

 

 呆けた声が飛び交う。次の瞬間、グラスワンダーは自分の顔が真っ赤になるのを感じた。

 同時に羞恥によるむず痒さが身体を駆け巡る。

 

「え、いや……その……何を言って……」

「…………もしや自覚なさっておられない?」

「そ、そういうわけではありませんが……はっきりと口にされるとなんとも……それにデジタルさんとそういった話をしたことはないですし」

「いえ、普段の様子を見れば分かりますよ。今朝のリアクションとか明らかですし……トレーナーさんは全く気付いてないみたいですが」

「くっ、ぐうの音もでない正論……! ですが、それであんな絵を描くことに繋がるんですか?」

「うぐぅ……それは、そのぉ……グラス先輩、悔しかったんじゃないかなと」

「……悔しい?」

 

 はい、と背後からアグネスデジタルの声が続く。

 

「先輩が出られなかった皐月賞。一生に一度しか出られないクラシック。あんなに頑張ってトレーニングしていたのに、挑むことすらできませんでした」

 

 どれほど辛く、悔しいのかはクラスメイトの走りを直に見に行くことすらできなかったことから察することができた。

 結果としてトレーナーや同期たちの計らいでその傷は癒えたが、それがなかったらどうなっていただろうか。

 

「そういう気持ちをぶつけられるのってトレーナーさんくらいなのかなと。そんな妄想とか不安がごちゃ混ぜになったのがアレでして……いや本当に先輩を不純な目で見ているとかではないんです。本当です」

「そう、ですか……」

 

 随分と歪曲した表現方法だが、彼女なりにグラスワンダーを心配していたというのは伝わった。

 結局のところ、自身が一人で背負い込むような気性ゆえに周りに色々と心配させたのが原因ということか。

 

「心配してくれてありがとうございます」

「ふぇ?」

 

 自分の未熟さがもとなら、これ以上後輩を非難するのも酷かという結論に至った。

 

「もう怒っていないということです。でもあまり過激な漫画はやめてくださいね」

「は、はい! それはもう誓って! 肝に銘じます!!」

 

 それから、お返しにグラスワンダーがアグネスデジタルの背中を流し、二人でまた風呂に入った。

 少しだけ、距離が近くなった気がしたグラスワンダーであった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「エル」

「グラス! もう大丈夫そうデスか?」

 

 風呂上り、グラスワンダーは就寝準備をしているところのエルコンドルパサーに声をかけた。

 

「ええ。今回はお気遣いありがとうございました」

「別にいいデスよ。チームメイトがギスギスしていると居心地悪いデスし。デジタルに悪気が無いと信じてマシた!」

「そうなんですね。……エルは後輩たちのことをよく見ていますね」

 

 メイショウドトウをチームに誘ったのはエルコンドルパサーだ。アグネスデジタルともよく行動している。

 ライスシャワーがチームリーダーとして皆をまとめるのなら、学年の垣根を越えて繋いでいるのがエルコンドルパサーだった。

 

「対して私はデジタルさんの気持ちも考えず──」

「てい」

 

 ポスッとグラスワンダーの頭にエルコンドルパサーの手刀が当てられた。痛みはなく、ただ置いただけ。

 

「……エル?」

「もーグラスは深刻に考えすぎデス。デジタルの気持ち? そんなの向こうも勝手にしたんだからお相子デース。……ま、エルは何が原因か知らされてないデスが。

 それにグラスはケガで走れない時期もあったんデスから、エルよりも二人と一緒にトレーニングする時間が短くて当然。気にすることないデスよ」

「そう、でしょうか?」

「そうデース! デジタルもドトウもグラスが頑張っているのは分かってマス。それだけではグラスに不満があるというのなら……」

 

 エルコンドルパサーの瞳に火が灯る。

 

「秋、見せてくださいね。先輩として、ライバルとして、尊敬できる素晴らしい走りを」

「ええ……ええ! あなたのライバルとして、彼女たちの先達として相応しい走りをしてみせましょう」

 

 雨降って地固まる、とは都合が良すぎるか。

 しかしこの一件をもってグラスワンダーとアグネスデジタルの距離は少しだけ近くなり、結束も強くなったのだ。

 成果を見せるべき秋は近い。

 

 

 

「……ところで、結局デジタルはなにをしたんデス?」

「秘密です。絶対……!」

 

 

 

 

 

 

  

 





おかしいな。無惨様ネタやってギャグにするつもりが真面目な話になった感。
ヘイト稼がず面白いギャグ書ける人は尊敬します。


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36話 ドトウと同期たち

これで夏合宿終了、そしていったん投稿ストップになります。
あと今後の展開についてお知らせあるので長めのあとがきがあります。




 メイショウドトウの自己評価は良くない。

 ドジで、グズで、とにかくまあそんなネガティブな評価である。

 原因を上げるのならば親の転勤が多いので交友関係がリセットされることが多く、引っ込み思案な性格になったことか。自信が無く、周りを気にしすぎて動きが固くなり、結果として失敗してしまう。そしてまたネガティブな思考に偏っていく。

 そんな悪循環に陥りつつあった彼女にとってトレセン学園への入学は転機と言えるだろう。

 なにせ中高一貫の全寮制の学園だ。在学中は親の都合で所属するコミュニティから外れることはない。

 合わせて全国どころか世界から生徒が集まるため交友関係を一から構築する者が多い。

 自分を変えたいというメイショウドトウの願いは、ある種叶いつつある。

 強面なれど優しい──本人は強く否定するが──ルームメイトに恵まれた。レースに勝つという同じ目標を掲げるクラスメイトに囲まれた。

 同級生だけれど、憧れの存在もできた。

 そして、こんな自分に見所ありとチームに誘ってくれたウマ娘とトレーナーがいた。

 強く、才能に溢れ、既にトゥインクルシリーズで結果を出している先輩たち。自分の夢を一緒に探してくれると言ってくれた人に出会えたのだ。

 トレセン学園に来てから、メイショウドトウの日常は輝いていた。

 

「ふぅ……ドトウさん、大丈夫?」

「だ、大丈夫ですぅ……!」

 

 日がまだ昇り切らない夜明け。

 ライスシャワーの朝練に同行していたメイショウドトウは息も絶え絶えながらもなんとか返事をした。

 どれほど走ったか。体感だが中距離に区分される距離は走っただろう。

 

「す、すいません。私のせいでペース落とすことになって……!」

「ううん、大丈夫だよ。ペースが遅いと感じるのはあれのせいだから……」

 

 ライスシャワーが指さす先には赤く点灯する信号機があった。

 ランニング中、おそらく途中にあるもの全て赤で引っかかった気がする。デビュー前のメイショウドトウがシニア級のライスシャワーについて来れたのはそのおかげだろう。

 

「町中を走るといつもこうなんだよね……。でも浜辺をトレーニング以外で走ってると変な癖ついちゃうかもしれないし……」

 

 話しているうちに信号に灯った青が点滅するのが見えた。二人はその場で軽く足を動かして走り出す準備をする。

 

「ドトウさん、ここから旅館までちょっとペース上げるよ。ついてこれる?」

「つ、ついて行き、ます!」

「うん。分かった」

 

 無理をしないで、とは言わない。彼女のやる気を削ぐ気がしたから。

 

「頑張ってね!」

「はいぃ……!」

 

 赤から青へ変わる。念のため車が来ていないか左右確認をしてから、ライスシャワーは力強く駆けだした。

 一瞬で遠くへ行く黒い背中をメイショウドトウは必死に追いかけた。

 背丈はメイショウドトウの方が上。故に一歩で稼げる距離も上のはずだ。

 だというのに、追いつくどころかどんどんと距離が空いていく。

 

(ライス先輩、やっぱり速い……! でも、でもぉ……!)

 

 デビュー前の自分と、クラシックを走り抜き、歴戦のシニアとして走るウマ娘との差を見せつけられる。

 しかし、メイショウドトウは諦めない。

 

(ただ置いて行かれるのは……イヤ!)

 

 歯を食いしばり、必死についてくる後輩を見てライスシャワーは心躍らせた。

 自分に自信が無く、ネガティブな思考。その様子を過去の自分に重ねていた。

 しかしこうして一緒にトレーニングしていると、決定的に違う点があることに気づく。

 メイショウドトウは辛くとも、苦しくとも決して逃げない。投げ出さない。ダメな自分はダメな自分として受け入れて、変わろうと頑張っている。

 ライスシャワーは知っている。

 そういうウマ娘は強くなる。彼女たちのトレーナーが決して見捨てず、強くしてくれることを知っている。

 

「頑張ってね、ドトウさん……」

 

 その努力が実を結ぶ時を想いながら、ライスシャワーはさらに速度を上げていく。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 チームではなく、トレーナー個人と契約しているウマ娘は合宿中学園が用意した宿舎に泊まっている。

 一部家事こそ自分たちで分担する必要があるが、それ以外は学園の寮のように生活していた。

 マルカブのメンバーたちがそんな宿舎の談話室に入ると、一際大きなテレビモニタの前にウマ娘たちが集まっているのが見えた。

 すでに時間は夜遅く、門限はもちろん消灯時間も迫っていた。

 しかし誰も部屋に戻ろうとはしないし、それを咎める者もいなかった。

 今日だけは特別な夜なのだ。

 

「あ、ドトウちゃん! こっちこっち!」

 

 マルカブ一同に気づいた一人が立ち上がって手を振った。真ん中で分けた金の髪が特徴的なウマ娘、ナリタトップロードだ。

 呼ばれたメイショウドトウはチームメイトとナリタトップロードを交互に見るが、チームメイトに促されておずおずとやってきた。

 

「お、お隣失礼します……」

「どうぞどうぞ! こちらこそ呼びつけてゴメンね。もしかしてチームのみんなで見る予定だった?」

「いえ、大丈夫ですぅ」

 

 見ると、他のマルカブの面々も各自クラスメイト達と合流していた。

 特にグラスワンダーとエルコンドルパサーが加わった黄金世代の五人はよく目立つ。

 徐々に集まる面々の豪華さに目を白黒させていると、ナリタトップロードのもう一方の隣に別のウマ娘が腰を下ろした。

 

「隣、いい?」

「あ、アヤベさん! どうぞどうぞ!」

 

 束ねた長い髪と右耳に付けた青いメンコが印象的なウマ娘、アドマイヤベガだった。

 彼女はナリタトップロードと同じく高等部、対してメイショウドトウは中等部だが、三人とも同年に入学し、すでに選抜レースを勝ち抜きトレーナーが付いたりチームに入った身。つまりは同時期のデビューを控えたウマ娘たちだった。

 

「これならオペラオーちゃんも来れたら良かったですね」

「騒がしくなるだけだから結構よ。だいたい向こうはリギルの先輩たちと見るでしょ」

「それもそうですね。……あれ? それだとアヤベさんやドトウちゃんたちはどうしてこっちに?」

「私たちが泊る旅館にはここまで大きなモニタはなくて……。スマホやタブレットで見るよりこっちで見たほうが楽しいってトレーナーさんが……」

「うちも似たようなもの。日本(こっち)フランス(むこう)じゃ時差があってこんな時間だし、騒いだら他のお客さんに迷惑だからってクリークさんが……」

 

「あ、始まるよ!」

 

 誰かの声を合図に集まったウマ娘たちの意識がモニタへと集中する。

 モニタに映るのはレース場。しかし、彼女たちが知るレース場とは雰囲気が異なる。

 

『こちらフランスのドーヴィルレース場になります。例年、この時期雨の多いフランスですが今年は天候に恵まれ良バ場の発表となっております。

 本日のメインレースは短距離GⅠ、モーリス・ド・ゲスト賞! 日本からはNHKマイルカップを制覇したシーキングザパールが出走します!』

 

 名前が挙がると同時にウマ娘たちから歓声が上がる。

 赤をベースに胸には白い星を飾った勝負服姿のシーキングザパールがパドックに姿を現すと応援の声はさらに大きくなった。

 

「スゴイですよね、海外のGⅠなんて……」

「そうね。でも、私たちもデビューしたらいつか行くかもしれない」

 

 アドマイヤベガの言葉に一部のウマ娘たちが反応した。

 未だ事例の少ない海外遠征。デビュー前のウマ娘も、クラシックで競うウマ娘も、シニアでしのぎを削るウマ娘も、一度は夢見る世界の舞台。

 国を、世代を、時代を背負って走る己を幻視するのは誰もが通る道だ。

 その幻想を今、一人のウマ娘が現実にしているのだから、この場に集まったウマ娘たちの興奮は高まるばかりだった。

 

「勝てるかな?」

「勝てるって! だってパールさんだよ!」

「んーこの信頼の高さ」

「言っても海外だよ? 日本と同じようにはいかないって」

「バ場がかなり違うっていうよね」

「パールさん五番人気じゃん。やっぱキツイって……」

「人気と実力はイコールじゃないでしょ!」

 

 根拠のない信頼を寄せる者、自前のレース論を展開する者、海外の壁の高さを恐れる者、上がる声は様々だ。

 そんな声も、出走者たちがゲートに入り発送直前となると静まり返る。

 こちらの沈黙を待っていたかのようにレースは始まった。

 弾けるように飛び出した十二人のウマ娘たち。

 スローペースで進むバ群の中からシーキングザパールが押し出されるように飛び出した。

 

「逃げだ!」

「いけー! パール姉さん!!」

 

 スタート直後とはいえ、日本のウマ娘が先頭に立ったことで談話室は沸き立った。

 中長距離やダートを主戦場とするウマ娘たちが興奮する一方、シーキングザパールと同じスプリンターたちは真剣な表情でレースを見ていた。

 もしも自分があの場にいたらどう動くかを脳内でシミュレートしているのだ。

 モーリス・ド・ゲスト賞は1,300mの直線レースだ。コーナーが無いため枠順の有利不利が無く、バ群に埋もれる危険も少ないため、純粋なスピード勝負となる。

 一方でこれは第七レース。つまりはシーキングザパールが走る前に六回、出走ウマ娘たちによって踏まれてきた芝だ。その分芝のコンディションには差が出てくる。

 

「パールさん、真ん中をそのまま走ってるね」

 

 ヒシアケボノの言葉に、隣にいたニシノフラワーが頷いた。

 

「はい。芝の状態がいい外ラチへ動くより、位置取りにかかるロスを嫌ったんでしょうね」

 

 短距離レースは七十秒ほどで決着がつく。

 コーナーから直線に入ってからの捲りが無い以上、一度掴んだペースを手放す意味はないと判断したのだろう、とスプリンターたちは結論付けた。

 

「残り300m!」

 

 誰かが叫んだ。

 

「パール姉さんまだ先頭!」

「行けぇ!」

「頑張って!」

 

 他の十一名がスパートをかけるが、それはシーキングザパールも同じだった。

 追走するウマ娘たちを振り切り、一番にゴール板を駆け抜けた瞬間、談話室の興奮は最高潮に達した。

 

 モニタの向こう、焚かれるフラッシュの光を浴びながら勝利インタビューを受けるシーキングザパールの姿があった。

 

『シーキングザパールさん! モーリス・ド・ゲスト賞勝利おめでとうございます!』

『ありがとう!』

『日本ウマ娘レース界の悲願であった欧州GⅠ制覇! それをご自身で成し遂げたことへの気持ちを!』

『そうね……まず、日本からの出走で欧州のGⅠ戴冠第一号という栄誉を飾れたことはとても光栄だわ。

 でも今日の勝利は私一人で成したわけではないとも思っているわ。トレーナーにサポートスタッフ、支援してくれたトレセン学園の職員たち。ニューマーケットでのトレーニングに協力してくれた現地スタッフたち。応援してくれたエブリワン。どれか一つでも欠けていたら成し得なかった、胸を張ってそう言えるわ!』

『遠征チーム、いや今日のレース出走までに関わった全てのヒトにとっての栄誉というわけですね!』

 

 素晴らしいです! と声を上げる記者を余所に、別の記者が手を挙げた。

 

『今日のレースは十七年ぶりのレコード更新となりました。このような記録的レースをできたことの要因はなんだったとお考えですか?』

『んー色々考えられるけど……一番の要因はズバリ、ガッツね!』

『ガ、ガッツですか……?』

『イエース! だって、住み慣れた日本を離れてフランスまで来るのよ? 時間もかかる、お金もかかる。まずそれを知ったうえで遠征を決意するためのガッツ! 準備するためのガッツ! 慣れない土地、環境、食事、そして想定外のことにも対応するガッツ! ガッツがあったからこそ、私は万全のコンディションでレースを走ることができたわ。

 それだけじゃない。私よりも前に欧州レースに挑んだ日本のウマ娘は何人もいるわ。そして敗れてきた……。それでも、先人たちはその結果に心折れることなくチャレンジし続けてきたわ。敗因を分析し、改善し、実践してきた。その試みと経験は受け継がれ、今日この瞬間結実した。日本ウマ娘たちのネヴァーギブアップというガッツが今日のレコード勝利を生み出した。私は確信をもって言えるわ!』

 

 シーキングザパールの演説に拍手が起こる。中には感極まって涙する者もいた。

 一時インタビューが中断しつつも、記者からの質問は相次いだ。

 そして最後の質問が飛ぶ。

 

『本日の勝利は日本のウマ娘レース界においてとても重要なものだったと思います。しかし一方で、天候や展開に恵まれたという見解もあります。シーキングザパールさんから見てズバリ、日本ウマ娘たちの実力は欧州のウマ娘に届いたと思いますか?』

 

 聞く者次第ではヒヤリとしかねないものだったが、シーキングザパールは笑って答える。

 

『思うわ。少なくともその一端に指先だけでも届いたと思う。そして今日の勝利の輝きは未来の萌芽に繋がる日差しとなった。いずれ真珠(わたし)の輝きを受け継ぎ、黄金の輝きが欧州を照らしにやってくる。私はそう信じているわ。

 ……信じられない? だったら、来週のジャック・ル・マロワ賞を見れば分かるはずよ。来週走るタイキシャトルは私と同じくらい……いいえ私よりももっとすごいウマ娘よ。日本で鍛えた彼女がどんな走りを見せるか、あなたが知りたい答えはそこにあるわ』

 

 言い切ると、シーキングザパールは去って行った。

 

 翌日、現地のメディアでも彼女の勝利は大きく取り上げられた。新聞の一面に彼女の名前が載り、三面までかけて日本ウマ娘の海外遠征史が紹介された。

 それほどまでに、シーキングザパールの欧州GⅠ制覇は歴史的な偉業だったのだ。

 当然彼女の勝利は日本でも大々的に報道され、日本中が興奮に包まれた。

 その熱はトレセン学園はもちろん、合宿先のウマ娘たちからも発せられていた。

 トレーニングに励む姿も昨日よりも熱が入っていた。

 クラシック級やシニア級のウマ娘たちはシーキングザパールの栄光に続くために。デビュー前のウマ娘たちは明るい未来を夢見ていた。

 それはマルカブの面々も同様で、特に海外遠征を狙っているエルコンドルパサーの熱の入りようは相当だった。

 

「はあ……はあ……トレーナーさん、もう一本追加で!」

「いや、一度休憩しよう」

「ええ~!? お願いデス!」

「これで終わりってわけじゃないんだ。無理に追い込むことはないよ」

「むう~……ハーイ、分かりましたデス」

 

 渋々と、パラソルが作った日陰に入るエルコンドルパサー。

 周りより冷たい砂地に腰を下ろす彼女へ、メイショウドトウがドリンクを渡した。

 

「ドトウ、ありがとうデス」

「いえ、このくらい……エル先輩、今日はとってもやる気に溢れていますね」

「当然デース! ドトウも昨日のパール先輩のレース見たじゃないデスか!」

 

 海外、それもレースの最先端ともいえる欧州レースのGⅠ勝利。それはエルコンドルパサーの夢が決して幻想ではないことの証明であった。

 夢の道程が拓かれていることに、エルコンドルパサーは燃えていた。

 

「やっぱりエル先輩はすごいですね……」

「ケ? そうデス? 夢のために頑張るのって当たり前だと思いますが……」

「わ、私には海外とかGⅠなんて壮大過ぎて……そういう夢を持っている時点ですごいなあって」

「夢……そういえばドトウは──」

「ドトウ! 併走始めるよ!」

「あ、はーい! 今行きますぅ! エル先輩、失礼しますぅ」

 

 エルコンドルパサーの言葉は最後まで聞く前に、メイショウドトウは走っていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ドトウはもっと自信を持っていいと思いマス!」

 

 トレーニングも終わった夜、旅館の大部屋。エルコンドルパサーの言葉にライスシャワーとグラスワンダーは首を傾げた。

 

「どういうことですか、エル?」

「ドトウはいつも頑張ってマス。普段のトレーニングに加えて、エルたちの自主トレにもいつもついてきてます。選抜レースも勝ったんだから実力はあるはずなのに、口を開けば自分なんて~ってばかりデス!」

「まあ……言われてみればそうですね」

 

 メイショウドトウはアグネスデジタルと一緒にクラスメイトにお呼ばれしたとかで部屋にはいない。

 

「音を上げない不屈さ、ライス先輩にもついて行くスタミナ。私やエルにも併走で食らいついてくるパワー。そこまで卑下するものではないとは思いますが」

「デスよね! そこでエルは考えたのデス。ドトウが自信をつけるための企画……即ち、チーム対抗模擬レース!!」

 

 ババーン! と口で言いながら、エルコンドルパサーは一枚のチラシを取り出した。

 チラシには合宿の総仕上げ! と大きな見出しが飾ってある。

 

「リギルやスピカを誘って模擬レース! ここで勝てばドトウも自信を持てるはず!」

「エル……まさか自分が走りたいだけじゃないでしょうね?」

「べ、べべべ別にそんなことありませんけどお~?」

「それにマルカブ(うち)だけじゃなく他のチームも巻き込むなんて……トレーナーさんの負担が大きくなりませんか?」

 

 合同での併走トレーニングならそれほど難しくないが、模擬レースとなれば話は違う。

 日程、場所取り、一応は学園主催の合宿なのだからそちらに話を通す必要もあるだろう。

 普段のトレーニングに、日々エアシャカールとアグネスタキオンの知見を取り込んでメニューを構築するなど、今のマルカブトレーナーは多忙だ。

 グラスワンダーとしては、エルコンドルパサーの後輩想いの気持ちを汲みつつも、賛同できなかった。

 

「ライス先輩はどう思いますか?」

 

 結論をリーダーへ委ねる。

 そうだね、と顎に手を当てて考えるライスシャワー。少しして、うん、と一度頷いてから答えた。

 

「エルさんの気持ちもわかるけど、ドトウさんは大丈夫だと思うよ」

「そう、ですかね……?」

「ドトウさんは自信を持ててないけど、しっかりと追いたい背中は見つけている」

「……リギルのテイエムオペラオーですね?」

 

 ライスシャワーは頷いた。

 グラスワンダーが挙げたのはリギル肝いりの新メンバーだ。

 入学早々に頭角を現し、あっという間に学園トップのチーム・リギル入りを決めた新星。

 選抜レースも圧倒的な勝利だったと聞く。

 メイショウドトウも同学年ということもあり、日中共に行動しているのを見かけるし、トレーニング中に彼女の口からもよく名前が出る存在だ。

 

「ライバルを見つけているから大丈夫ということデス?」

「うん。ドトウさんにとってオペラオーさんは憧れのヒト。追いつきたいヒト。そのためにドトウさんは頑張っている。そういう気持ち、ライスも分かるから……」

 

 ふと窓の外を見るライスシャワー。彼女の瞳には海の向こうへと旅立ったライバルの姿があった。

 

「自信を持つことも大切だけど、強くなるために必要なものを持っているのに無理に矯正する必要はないかなって」

「そういう、ものでしょうか……?」

「エルは夢に向かって真っすぐですからね。でも、私も先輩の言うこと分かる気がします」

「ケ? グラスにもそういう相手がいるデスか?」

「……………………ドンカン」

「ケッ!?」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「あれ、ドトウちゃん! デジタルちゃんも! 昨夜ぶりだね」

「トップロードさん! こんばんは~、アヤベさんも~」

「こんばんは……」

「お二人も御呼ばれしたんです?」

 

 メイショウドトウ、アグネスデジタル、ナリタトップロード、アドマイヤベガ。さらには年の近いウマ娘たちが集まっている。彼女たちが集まったのはリギルが宿泊する高級ホテルだ。

 となれば、誰に呼び出されたのかは明らかだった。

 

「はーはっはっはっは!! ようこそ諸君、我が覇王の居城へ!」

 

 もはや聞きなれた高笑いとともに、テイエムオペラオーが現れた。が、彼女の装いに集まったウマ娘たちは目を丸くした。

 

「あなた、その恰好……」

「さすがはアヤベさん、よく気付いたね! そう、これこそ覇王テイエムオペラオーの勝負服さ!」

 

 桃に金に白。煌びやかな色合いをした貴族のような出で立ち。さらにくるりと回れば童話に出てくる王族が羽織るようなマントが広がった。

 勝負服。一部のイベントを除けばGⅠレースでしか披露することのない、オンリーワンの衣装。多くがそれを着ることを望みながらも、着ること叶わず舞台を去るその服をテイエムオペラオーは纏っていた。

 

「気が早いのね……もう自分のGⅠ出走が決まったつもりなの?」

「はーはっはっはっは!! 何を言っているのかアヤベさん、トゥインクルシリーズを走るウマ娘にGⅠ出走を考えない者がいるとでも?」

 

 それは、とアドマイヤベガは言い淀む。

 気が早いとは言いつつ、彼女も──いやこの場にいた全員がいずれGⅠに出てみせると心に決めている。テイエムオペラオーのように自分だけの勝負服を着ることをどこかで考えている。

 同期たちの表情からそれを読み取ったのか、テイエムオペラオーはうむ、と頷きながら再び口を開く。

 

「今宵、皆を集めたのは他でもない。ボクたちは選抜レースを勝ち抜き、チームやトレーナーがついた。この合宿が終われば本格的にトゥインクルシリーズにデビューとなる。今夜は、その決起集会というやつさ!

 ……ボクたちの一つ上には黄金世代と呼ばれた先輩たちがいる。彼女たちの実力を疑う者はいないだろう。そしてさらに上には個性派ぞろいの先輩方だ。ボクたちはそんな先輩方を超える世代にならねばならない!」

 

 両手を広げ、天を仰ぎながらテイエムオペラオーが告げた。

 

「ボクは時代を築こう! 黄金よりも燦然と輝き、永久に人々の記憶に残るような覇王の時代を!

 キミたちはどうだい? これからトゥインクルシリーズに挑むキミたちは何を目指す!? この覇王の隣を走るものとして目指す先を聞かせてくれ!

 まずはアヤベさん!!」

「───は?」

 

 突然指名されて呆けた声を出すアドマイヤベガ。

 下らないことを、と無視しようとするがすでに周りの視線は彼女に集まっている。

 

「私は……走らないといけないから。勝たないといけない。ただそれだけ……」

「使命! 義務感! それもまたヨシ! では次は……!」

 

 一人また一人とテイエムオペラオーに指名されたウマ娘たちがレースへの想いを語っていく。

 GⅠ制覇、クラシック三冠やトリプルティアラ、スプリンターの頂点、ダート王者。途方もない夢にも聞こえるが笑う者は一人もいない。

 胸に抱いた夢は己をトレセン学園へと導いた譲れないものだと知っているから。

 

「あたしの夢は芝もダートも走ること! 皆さん含めて、ウマ娘ちゃんたちの奮闘を誰よりも間近で拝ませていただきます!!」

「わ、わたしは……」

 

 最後の一人となったメイショウドトウへと視線が集まる。

 言い淀むメイショウドトウ。彼女は自己評価が低い。そんな自分が夢など語ってよいのだろうか。

 縋るように顔を上げるとテイエムオペラオーが真っ直ぐにメイショウドトウを見ていた。

 照明が後光のように差し、顔は輝く笑みがあった。

 待っている。

 同期の中でも間違いなく先頭を走っている、最も期待されているウマ娘がライバルではなく、歯牙にもかける必要のないはずのメイショウドトウの言葉を待っている。

 言わなければ。

 自分がダメなのは今更だ。でも、彼女をガッカリさせるようなことはしたくない。

 その輝く相貌を曇らせることは許せなかった。

 

「──追いつきたいウマ娘がいます。どんなに時間がかかっても、どんな舞台であっても、その方の隣を走るに相応しいウマ娘に、私はなりたいです」

 

 素晴らしい! とテイエムオペラオーが拍手する。

 その後は覇王のソロオペラが始まったり、同期たちと展望を語り合って夜は更けていく。

 

 

 

 

 そして翌週、シーキングザパールの言葉を証明するように、タイキシャトルは欧州GⅠジャック・ル・マロワ賞を勝利した。

 日本勢の欧州GⅠ二連勝という衝撃は世界を震撼させ、日本のウマ娘たちの闘志に火をつけた。

 熱はファンたちにも伝播し、今後のトゥインクルシリーズの期待に胸を弾ませた

 

 夏が終わる。

 秋が始まる。

 

 戦いの季節がやってきた。

 

 

 




10/30追記 参考:ドーヴィル競馬場
https://www.jra.go.jp/keiba/overseas/country/france/deauville.html


いつもご感想、誤字報告ありがとうございます。
今後の展開についてお知らせしておくことがあり、長めのあとがきとさせていただきます。
なにかというと、秋レースの開催順についてです。
この時点で「好きにせーや!」って方は大丈夫ですので以下スルーしていただいて構いません。

一体何かと言いますと、9話にて秋華→菊花→秋天という順に開催されたような書き方をしております。
ですが、モデルとしている97年では秋華→秋天→菊花の順に開催しております。
これは本作ではレースプログラム等をアプリないし、現代競馬をベースにしているためです(なのでスプリンターズSは9月末ですし、大阪杯もGⅠです)。
なのでこれから書く98年モデルの秋レースも同様にするべき……なのですが、どうにも秋天→菊花の方が収まりが良い。
ということで本来ならありえないのでしょうが、本作は諸事情によりGⅠの開催順が入れ替わることのある世界ということでご理解ください。


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37話 マルカブとスピカ2

昨日で投稿は一旦ストップと言ったな、アレは嘘だ。
ちまちま書いていたら出来上がってたので投稿します。
本当に今日で一旦ストップです。


 

「ブルボーン! お別れなんて寂しいデース!!」

 

 フランスの空港エントランスに、タイキシャトルの声が響いた。

 先日フランスGⅠジャック・ル・マロワ賞を勝利した最強マイラーがワンワンと泣き喚く姿に、ミホノブルボンは困惑していた。

 

「タイキさん、私の欧州残留は渡仏前に通達済みのはずですが……」

「今日になったら寂しくなったんデース!」

 

 力強く抱きしめられたミホノブルボンは視線でトレーナー陣に助けを求める。が、黒沼も余所の担当ウマ娘には強く言えないようで、奈瀬に至っては祝勝会で牡蠣に当たったダメージが残っているのか顔色がそれどころではない。

 仕方無し、東条とシーキングザパールが前に出た。

 

「ヘイ、タイキ! 友達の門出を泣き顔で送るなんてナッシングよ!」

「パールさ〜ん……!」

「もう二度と会えないわけじゃないのよ。ブルボンが欧州に残る理由は知っているでしょ」

「おハナさ~ん……!」

「ブルボンの記憶に残るあなたの顔が泣き顔で良いの? レッツスマイルよ~!」

「う、ううう……」

 

 涙たっぷりの瞳で周りを見るタイキシャトル。やがて整理がついたのか、グシグシと目元を拭ってなんとか笑顔を作った。

 

「ワタシ、お手紙いっぱい書きマース!」

「ありがとうございます。日本の様子など教えてもらえたら嬉しいです」

「OK! ライスシャワーやバクシンオーの様子、しっかり見て来ます!」

「是非、よろしくお願いします」

「なんとか落ち着いたようね……それでは黒沼さん、私たちもこれで。お達者で」

「そっちもな東条、奈瀬。もっとも俺は定期報告でちょくちょく学園に顔を出すだろうがら今生の別れとはならんがな」

「その時はぜひ海外のレース事情も教えてほしいですね」

「情報交換ならいくらでもしてやる。対価になるもの準備しておけ」

 

 湿っぽさを見せないのは黒沼らしいと笑いながら、東条と奈瀬、そして担当ウマ娘たちはフランスを発った。

 日本に戻った時、彼女たちは多くの讃美と歓声で迎えられるだろう。

 そして知るだろう。自分たちが勝ち取った栄光がどれほどのものか。

 彼女たちがもたらした興奮は炎となり、秋のターフを熱狂させるかを。

 トゥインクルシリーズ秋シーズン。最も熱い、戦いの季節がやってきた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ついにトゥインクルシリーズの秋シーズンが開幕した。

 まず注目されるのは短距離王者決定戦となるスプリンターズステークス。欧州GⅠ制覇したウマ娘二人が得意とする距離だけに例年よりも注目度が高い。

 しかしシーキングザパールもタイキシャトルも遠征帰り早々にGⅠに出ることはなく、次走をマイルチャンピオンシップに定めたようだ。

 これでレースファンはがっかりしたかというとそうではない。絶対王者がいないということは、誰にでもチャンスがあるということ。

 目の上のたんこぶとも言えた強者の不在に、今回こそはと闘志滾らせるスプリンターたちの姿があった。

 まあマルカブ(うち)に短距離路線のウマ娘はいないので私は観客気分なのだが。

 一方、私が注力すべき十月のGⅠにむけたステップレースやトライアル、そして新人たちのメイクデビューも始まった。

 ライスと天皇賞(秋)を争うシニア級の面々は相も変わらず実力者ぞろいだし、グラスたちクラシック級は黄金世代の名に恥じない傑物ぞろい。エルに至っては格上への挑戦となる。そしてデジタル、ドトウたちジュニア級も前年に負けず劣らずの珠玉のウマ娘たちが名を連ねていた。

 マルカブのメンバーは夏合宿で確実にレベルアップしていた。が、それは他のウマ娘たちも同様。秋シーズンは熾烈な戦いが予想されていた。

 

 そしてマルカブ秋の初戦がやってくる。

 走るのはデジタルとドトウ。マルカブ新人コンビのメイクデビューだ。

 どちらも自己評価の低いウマ娘、ここで勝利して自信に繋げたい。

 ……が、

 

「「負けました〜~!」」

「うん、惜しかったね……」

 

 現実は甘くはない。二人とも善戦したが惜しくも二着に敗れてしまった。

 

「デビュー戦で緊張っつーのもあるだろうが、どっちも力を出しきれてなかったな」

 

 レース映像を見返しながら、エアシャカールが敗因を分析していた。

 

「身体の仕上がりに関しちゃ問題無ぇ。シミュレート通り走れたら勝てたレースだ。が、メンタルや気性によるゆらぎはこっちじゃどうしようもない」

「ああ、そこはトレーナー(こっち)の領分だ。任せてほしい」

 

 項垂れる二人の方を向く。

 

「ドトウはまあ、相手が悪かったとしか言いようがない。気にせず、次で挽回しよう」

「は、はい~! オペラオーさん、相変わらず強くて速くて……!」

「デジタルは……自覚あるみたいだからうるさくは言わないけど……」

「も、申し訳ありません~! 最後の競り合い、隣を走るウマ娘ちゃんの顔が尊みが過ぎて思わず見とれてしまい……!」

 

 集中力が切れて差し返されてしまったのか。

 この悪癖はどうしたものか。周りに関心を持つなというのはさすがに酷だろう。いっそのこと大外を回らせようか。

 ドトウに勝ったのはリギルのテイエムオペラオーだ。元より才能あるウマ娘だったが、トップチームであるリギルのトレーニングを受けてさらに強くなっている。

 負けたのは悔しいが、逆に言えば未勝利戦に彼女は出てこない。あとはドトウが実力を発揮できるようケアをしていくとしよう。

 

 メイクデビューが終われば、メインレースが始まる。GⅠ出走を賭けたステップレースやトライアルだ。

 新たなライバルが浮上したのはGⅡオールカマー。天皇賞(秋)への出走権が掛かったレースであり、去年はライスも走ったレース。

 そこでは久しぶりにターフを駆ける彼女の姿があった。

 

『最終コーナー回ったところでメジロマックイーンが抜け出した! 競り合わない、競り合わせないぞマックイーン! 後続との差を二バ身、三バ身と広げて今ゴールイン!!

 見事復活勝利だメジロマックイーン! ターフの名優がいま堂々復活ゥ!!』

 

 沸き立つ歓声に手を振って応える彼女の走りは、長い期間ケガで休んでいたとは思えないほどに力強く堂々としていた。

 圧倒的なスタミナから展開されるハイペースで周囲のウマ娘を置き去りにする、強者にこそ許された走りだった。

 かつてライスと春の楯を争ったあの時と遜色ない。それほどの仕上がりだった。

 

「再びレースに出ることが出来て嬉しい限りです。ファンの方々も、お待たせいたしました。本日をもって、メジロマックイーンはレースへと復帰します!

 次走は当然、天皇賞(秋)。強敵が多いのは存じております。ですが、私と走ったことが無い方がほとんど。世代を超えてなお、メジロマックイーンが強いことを証明して見せましょう」

 

 名優の宣言に観客が湧きたつ。

 ライスが挑戦する天皇賞(秋)に、また強力なライバルの出走が決まった瞬間であった。

 

 週を挟んでGⅡセントライト記念。

 菊花賞への出走権が掛かったこのレースでも、復活の狼煙を上げるウマ娘がいた。

 昨年十二月のレースを最後にターフから姿を消していた彼女が、グラスワンダーが復帰する。

 先週のメジロマックイーンの時とは違って前評判はあまり良くない。早熟と判断し、ケガからの長期休養故に全盛期はすでに過ぎたと語るメディアもいた。

 しかし、

 

『外からグラスワンダー! 外からグラスワンダー! 外からグラスワンダーが差し切った!! 文句なし!!

 ジュニア級王者の末脚は健在だ! ケガの影響など微塵も見せずの圧勝劇! 

 菊花賞の切符を手にしたのはグラスワンダーだ!!』

 

 最終コーナー手前から炸裂した剛脚は、前にいたウマ娘五人を纏めて抜き去りグラスを先頭でゴールさせた。

 もう彼女が終わったなどと言うものはいないだろう。

 世間から評価も、関係者からの不安も、自分の中にあった不満も、全てその脚で薙ぎ払ってみせたのだ。

 

「久しぶりのレースは不安よりも喜びのほうが強かったです。やっと、やっと同期のみなさんと同じ舞台に立てることがこの上なく嬉しい……!

 ええ、次走は当然菊花賞。これまで堪えてきた分の全てをぶつけます。故に、この勝利はライバルたちへの宣戦布告です」

 

 待っていろセイウンスカイ。

 待っていろスペシャルウィーク。

 菊花賞は、(グラスワンダー)が獲る。

 少女の言葉は、黄金たちの闘志に火をつけた。

 

 グラスの復活勝利に焚き付けられたか、デジタルもドトウも十月頭の未勝利戦を見事勝ち上がり、スターウマ娘への一歩をふみだした。

 新人コンビの快勝にエルも続きたかったが、シニア級が走るGⅡ毎日王冠に挑むエルの前にあの逃亡者が立ち塞がった。

 

『最後の直線に入った! 先頭は変わらずサイレンススズカ! エルコンドルパサーも追いかけるが間に合うか!』

「くっそおおおおおおお!!」

『届かない! エルコンドルパサー届かない! 逃げ切ったぞサイレンススズカ!! これで重賞六連勝だ! あのオグリキャップの連勝記録に並びました!!』

 

 奮戦虚しく、エルの秋シーズン初戦はニ着に敗れてしまった。

 夏合宿でレベルアップしたのはサイレンススズカも同様で、逃げ足に一層の磨きがかかっていた。

 インタビューで語られたサイレンススズカの次走は天皇賞(秋)、次はライスが挑む番だ。

 

「あれは……………」

 

 サイレンススズカの大逃げを称える歓声の中、アグネスタキオンが険呑な表情でターフを見つめていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ほらよ、昨日のレースで取ったデータだ」

「ありがとうエアシャカール」

「いやはや、長いようであっという間の時間だったね」

 

 毎日王冠の翌日、エアシャカールとアグネスタキオンからデータの入ったSDカードを受け取る。

 GⅠ直行のライスを除くマルカブメンバーの秋初戦が終わったということは、彼女たち二人の協力による成果確認が終わったことを示す。

 つまりは、彼女たちとの関係も今日で終わりということだ。

 

「全戦全勝とは行かなかったが、我々の研究は効果あったと言っていいんじゃないかな?」

「そうだね。グラスはケガ前と変わりない末脚を見せた。エルもサイレンススズカに負けたとはいえ、それ以外のシニア級相手に先着できた」

 

 素直にアグネスタキオンの言葉に同意する。

 戦績としては五戦三勝だが、負けたレースはいずれも二着。しかも一着は周りより頭一つ抜けた傑物だった。責めるようなものではない……デジタル以外は。

 

「礼を言うよ。君たちのおかげで有意義な合宿になった」

「得るものがあったのはお互い様さ。私もシャカール君も貴重な夏を有意義に過ごすことができた」

「ま、サンプルデータが大量に手に入ったのは僥倖だな。認めるさ、いい夏だったとな」

「役に立てたならよかったよ」

 

 本当に有意義な夏だった。

 特にグラスとデジタルには効果がよく現れていると感じた。

 冬と春、それぞれの季節で不調の出たグラスは夏は調子を崩すことなく秋の初戦を迎えた。デジタルも当初からの課題であったダートと芝の走り分けがしっかり身についた。

 アグネスタキオンの体質改善とエアシャカールのデータ分析が実を結んだ形だ。

 同時に彼女たちと過ごした夏は彼女たちの人となりを知る機会にもなった。

 学園で言われるように気性難だが、その裡には純粋なレースへの想いがあった。

 だから、

 

「……アグネスタキオン、エアシャカール。君たちさえ良ければ──」

「トレーニングの成果も確認できた。これでマルカブとの協力も終わりだ……じゃあな」

 

 先回りするようにエアシャカールが一方的に告げ、私が止める暇も与えずに去っていった。

 

「やれやれ相変わらずだねえシャカール君は。断る時間すら惜しむなんて……いや、彼女なりの照れ隠しかな? 蹴られそうだから本人には言わないがね」

「そうか……ではアグネスタキオン、君は──」

「すまないが私もシャカール君と同じさ。君のスカウトを受けることはできない。

 ……別にこのチームが気に入らないということではない。しかし私やシャカール君にとってその、なんだ……優しすぎるのさ」

「困ることかい?」

「居心地良くて揺らぐのさ。決意が、トレセン学園に来るとき心に決めたはずの芯が。それが悪いことかどうかは分からないが、私たちはまだその変化を受け入れられない」

 

 決意。

 足元に不安があろうとレースに出ようとする意志、悪夢に苛まれようと挑もうとする意志。

 それは彼女たちをここまで支えてきたものであり、とって代われる存在に私は成れなかったのだ。

 

「……そうか。それなら仕方ない。君たちが満足できるトレーナーに出会えることを祈っているよ」

「ふふふ、社交辞令だとしても礼を言っておくよ。とはいえ、仮にも一夏ともに過ごした仲だ。もしも助力が必要なら協力するよ。……それなりの対価はいただくがね」

「実験台か……エアシャカールのはともかく、君のはちょっと躊躇ってしまうな」

「はっはっはっ! そこは口だけでも是非にと言っておくべきだよ!」

 

 笑いながら、アグネスタキオンは部屋を出るため扉に向かう。

 今さっきエアシャカールが掴んだドアノブを手を伸ばし、

 

「スズカ君のことだが、どう思う?」

「……? どう思うとは?」

「いやいい、余計な気を使わせたね。天皇賞(秋)、陰ながら応援しているよ」

 

 謎を残したまま、アグネスタキオンは部屋を出ていった。

 

「……サイレンススズカか」

 

 一度はスカウトしようとしたウマ娘だ。スピカに移籍してからの活躍もあって気にならない時はなかった。

 しかし、アグネスタキオンの言葉で彼女の影はより一層大きくなった気がした。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 翌日、早朝からライスとグラスで併走をしていた。

 どちらもGⅠを間近に控える身、トレーニングにもより一層身が入っている。

 朝練をしているのは二人だけ。エルにデジタル、ドトウはレースを終えたばかりなので今日と明日は休養だ。

 エルの次走は予定通りジャパンカップだ。丘辺トレーナーから毎日王冠の敗北がシンボリ家にも伝わっていると聞いた時は血の気が引いたが、どうやらサイレンススズカという規格外の逃げウマ娘に敗北したものの、他のシニア級相手に先着したことで評価はトントンらしい。

 以前言われた通り、結論はジャパンカップの結果次第ということか。

 デジタルとドトウは未勝利戦を突破して一勝クラス。今後はОP戦や条件戦を踏んで年の瀬の重賞を狙う。

 

「やああああっ!!」

「────しっ!!」

 

 私の思考を戻すようにライスとグラスが目の前を疾走していった。

 グラスが前を行き、ライスが後ろから狙っている。

 ゴール目前、ライスが一気にグラスを差し切った。

 

「はぁ……はぁ……」

「はぁ……ふぅ、グラスさん大丈夫?」

「だい……大丈夫、です……!」

 

 ライスに比べてグラスの疲弊が激しい。

 当然だろう。後方から差し切るタイプのグラスにとって前に着くのは慣れないことで、さらには天皇賞(秋)に向けて本気モードのライスに追われるのだ。不慣れな走りと歴戦のウマ娘からのプレッシャー、グラスにとっては心身ともに負荷が大きいだろう。

 しかし来年シニア級に上がるグラスにとっては必要な経験だ。

 なにせ彼女が走る菊花賞には強力な逃げウマ娘も差しウマ娘も出てくるのだから。

 

「しかし、私にはよい経験ですがライス先輩の役に立てていないのが……」

「ううん。そんなことないよ。グラスさん速くて、追いつくのが大変だったんだから」

「それでも、私ではスズカさんの代わりは……」

 

 グラスが前についてもらうのは、ライスの対サイレンススズカの訓練でもあった。

 圧倒的な大逃げをするサイレンススズカにライスが勝つ方法は、結局のところ一つしかないだろう。

 逃げる彼女の後ろについて、終盤のトップスピードで勝つ。これしかないだろう。

 思い付きでも苦し紛れの作戦ではない。2,400mを逃げ切るミホノブルボン、3,200mを悠々と走り切るメジロマックイーンの二人に勝ってきたライスだから取れる作戦だ。

 なのでグラスがトップスピードに乗ったところを差し切る練習なのだが、あまりやり過ぎるとグラスの走りに癖がつくな。

 今日は一旦やめて、エルの休養明けを待つか。

 

(……今になってミホノブルボンの不在が響くなんて)

 

 同じくサイレンススズカに敗れた者同士、彼女ならライスにとって良い併走相手となっただろう。

 いや、彼女は彼女の意志と目的をもって渡欧したのだ。いない相手を頼るより、他の併走相手を探すべきだ。

 

「逃げか先行が得意なウマ娘、ダメもとでサクラバクシンオーにでも頼んでみるか…………ん?」

 

 ポケットの中のスマホが振動するを感じた。

 見ると、デジタルからの着信だ。

 

「もしもし、デジタル?」

『トトトトトトレーナーさんっっ!! 早く、早く来てください! ああああタキオンさんがスピカの皆さんと────!!』

「…………なんだって?」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 デジタルからの連絡を受け、ライスたちを伴い向かったはチーム・スピカの部室、ではなくスピカがよくトレーニングしている別グラウンドの一角だ。

 

「……あ! トトトトレーナーさあん!」

 

 やって来た私たちを視認したデジタルが助けを求めるように声を上げた。

 彼女を取り囲むように立つのはジャージ姿のゴールドシップとトウカイテイオーにメジロマックイーン、そしてスペシャルウィーク。その奥に制服姿のアグネスタキオンの背中があり、サイレンススズカとスピカのトレーナーが対峙していた。

 

「えっと……どういう状況?」

 

 スピカメンバーの様子を見る限り、険呑というより困惑しているようだった。

 とりあえず、アグネスタキオンが実験と称して何かやらかしたわけではなさそうだ。

 私たちに気付いたアグネスタキオンが振り返った。

 

「おや、昨日ぶりだね。デジタル君に呼ばれたとはいえわざわざ来るとは……人が好いね君たちも」

「そういえば夏合宿中はマルカブにいたんだな。まさか……いや、あんたがそんなことするわけ無いか」

「当然です。マルカブのトレーナーさんがそんなことする訳ありませんわ」

「信用してくれてありがとう。……それで、何があったか聞いても大丈夫ですか?」

 

 スピカのトレーナーから即答はない。

 チームメンバーの出走ローテーションの話なら私が出る幕はない。せいぜいアグネスタキオンを引きずって帰るくらいだろう。

 

「タキオンが突然来てさ、スズカに秋天出るなーって言ってきたんだよ」

「ちょっテイオーさん!? 言っていいんですか!?」

「だってこのままじゃ埒が明かないし……ねえお兄さん、タキオンと仲良しならどうにかしてくれない?」

「……今の話は本当かい?」

「やれやれ、告げ口するなら正確に頼むよ。私はスズカ君の天皇賞(秋)出走を再考してはどうかと言ったのだよ」

「同じようなもんじゃん!」

「……ま、君たち(マルカブ)の意見を聞くのもいいだろう」

 

 さて、とアグネスタキオンが一呼吸置いてから語りだした。

 

「私がスズカ君に注目したのは金鯱賞からだ。圧倒的な逃げ脚、ラストスパートでもう一伸びできるほどのパワー、なるほど稀代の逃げウマ娘だと興奮したよ。

 ……が、一方で疑念が浮かんだ。果たして彼女の身体はいつまでその圧倒的なスピードに耐えきれるのかと」

 

 みなの視線がアグネスタキオンからサイレンススズカへと移る。

 ミホノブルボンをも上回った逃げ足を生み出した彼女の足は細く、体つきも大人しい気性も相まって儚く見えた。

 

「金鯱賞、大阪杯、宝塚記念、そして毎日王冠。スズカ君は一線級のウマ娘を相手に逃げ切ってきた。一度として手加減することなく、全力でだ。彼女の足にかかった負荷はどれほどか……」

「サイレンススズカの脚はもう限界だと……?」

「分からない。大阪杯から宝塚記念まで、宝塚記念から毎日王冠まではそれぞれ約三ヶ月あった。その期間で負荷は抜けたのかもしれない。しかし今度の天皇賞(秋)は毎日王冠から半月と少し。前例を当てにするには短すぎる」

「……俺だってトレーナーの端くれだ。スズカの脚に異常が無いのはチェックしている」

「今はね。でもケガとは、不調とは突然表面化する。……奇しくもこの場には身をもって知るウマ娘が揃っているね」

 

 ライス、メジロマックイーン、グラス、トウカイテイオーの顔が曇る。

 彼女たちもケガが表に顔を出すまでは何事もなく日常を送っていた。歯車のかみ合わせがほんの一瞬狂っただけで彼女たちの人生は変貌してきた。

 その時の彼女たちの絶望と悲哀は私も、彼も、最も近くで見てきた。

 胸の奥が、締め付けられるようだ。

 

「可能性の話だ。一%のもしもを回避するためにも天皇賞(秋)への出走を考え直すべきだ」

 

 アグネスタキオンはそう言って口を閉じた。真っ直ぐにスピカのトレーナーを見つめ、彼の決断を待っている。

 他の者も彼を見る中、私の視線はサイレンススズカへと向かっていった。

 かつて自由な走りを求めてリギルからスピカへと移籍したウマ娘。

 もしも私がサイレンススズカのトレーナーであったなら、アグネスタキオンの進言があった時点で走るのを止めていただろう。

 しかしその決断は、サイレンススズカとの決別になる。自由に走ることを止めた私に彼女はついてこないだろう。

 しかし、スピカのトレーナーならあるいは……

 

「タキオンさん」

 

 沈黙を破ったのはまさかのライスだった。

 視線が集まる中、ライスが続ける。

 

「タキオンさんがスズカさんのことを心配してくれているのは分かるよ。ライスもケガをしたことあるから、万が一があるなら避けたほうがいいのも分かる。

 ……でもね、もしライスがあの宝塚記念の前に『ケガするかもしれないから出るな』って言われても、ライスは出たよ」

 

 出たかもしれない、ではなく出たという断言にアグネスタキオンが目を丸くした。

 

「それは、言った者が信用できないからかい?」

「ううん……きっとお兄さまからの言葉でもライスは出た」

「……なぜ?」

「走るためにここにいるから。

 ライスが走ることで、誰かの希望になると知っていたから」

 

 ミホノブルボンのクラシック三冠、メジロマックイーンの天皇賞(春)三連覇を阻んだライスは世間から記録潰しのヒール呼ばわりされた。しかしレースを見る者全員がそうではなく、彼女を応援する声も確かにあったのだ。

 偉業を阻んだのはライスだが、強すぎるあまりにある種の諦観や退屈が漂っていた世間に風穴を空けたのもまたライスだ。

 絶対に勝てないレースなどない。走る前から結果の決まったレースなどない。ライスは強者を打ち破ることでそれを証明してきたのだ。

 

「ケガが大変なのは知ってるよ。最悪の事態になるかもしれないことも。……でもね、スピカのトレーナーさん。もしもスズカさんがタキオンさんの言葉を聞いた上で走ることを選んだのなら、認めてあげてほしいの。

 ……スズカさんが帰ってくるのを、信じてあげてほしいの」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ライスの言葉を聞いてアグネスタキオンも説得を諦めたのか、答えを聞く前にその場をあとにした。

 これ以上はスピカ以外が口出しすべきではないとして私たちも去る。

 それに間もなく始業の時間だ。中等部であるグラスとデジタルとも別れ、ライスと二人で歩いていた。

 

「……お兄さま、ライス余計なこと言っちゃったかな?」

「いや、結局はスピカとサイレンススズカが決めることだよ。ライスの言葉もアグネスタキオンの忠告も、判断材料の一つに過ぎない」

 

 おそらく、サイレンススズカは天皇賞(秋)に出るだろう。

 アグネスタキオンの言葉を無視したわけでもなく、ライスに感化されたわけでもなく。

 サイレンススズカがサイレンススズカであるために、彼女は走るのだ。

 その結果どうなるか。

 結局、アグネスタキオンの忠告は過ぎた心配に終わるのか。足元に不安のある彼女だからこその慧眼だったのか。レースが終わるまで分からない。

 

「ねえ、お兄さま。聞いてほしいことがあるの……」

「どうしたんだいライス?」

「もしも……もしもね、次のレースでスズカさんの身にタキオンさんの心配するようなことが起きたとして、そしたら───

 

 

 

 ───スズカさんを助ける方法があると思う」

 

「…………え?」

 

 そしてライスの口から語られたのは、到底信じられないものだった。

 しかし、彼女がそんな嘘や冗談を言うわけがない。

 根拠はなく、証拠もない。それでも私は彼女を信じよう。

 欠片のような可能性を乗り越えてきたライスシャワーの言葉を信じよう。

 

「……ライス、サイレンススズカを頼めるかい?」

「任せてお兄さま。だからお願い、ライスを鍛えて。スズカさんに勝てるように、本気で」

 

 本気……本気か。

 黒沼トレーナーや丘辺トレーナーから言われた本気になったという言葉を思い出す。

 そうなのだろう。

 ミホノブルボンの時のように、メジロマックイーンの時のように、絶対(サイレンススズカ)に打ち勝つ時がやってきたのだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「……ああン?」

 

 天皇賞(秋)が迫るある日、自室にてエアシャカールは自分のPCの前で唸った。

 起こりは気まぐれのようなものだった。

 来る天皇賞(秋)、自分の理論を組み込んだウマ娘がどこまでやれるかシミュレートしてみたのだ。

 エアシャカールの推測では、ライスシャワーは奮闘するもサイレンススズカが一着となる。

 あの逃げ脚は規格外、いくら鍛えようと2,000mではステイヤーであるライスシャワーに勝ち目はない。

 そう思っていたのに。

 

「おいおいおい……テメエには一体何が見えてンだ『Parcae』」

 

 自ら組み上げた相棒が弾き出した勝者は、サイレンススズカでもライスシャワーでもない、別のウマ娘だった。

 ライスシャワーの順位は六着、そしてサイレンススズカの名は一番下にあった。

 

「これが、お前が計算して出した答えだってのか」

 

 逃亡者の名前の横には競走中止の文字があった。

 

 それが何を意味するのか、運命の日は近い。

 

 

第〇〇〇回 天皇賞(秋)出走ウマ娘

1枠1番 サイレンススズカ

2枠2番 メジロブライト

3枠3番 ─────────

4枠4番 メジロドーベル

5枠5番 ライスシャワー

5枠6番 オ■■■■ト■ッ■

6枠7番 エアグルーヴ

6枠8番 メジロマックイーン

7枠9番 ─────────

7枠10番キンイロリョテイ

8枠11番サクラバクシンオー

8枠12番─────────

 

 

 

 

 





不穏な雰囲気を醸し出してターンエンド!
出走リストの『───』部分は好きなモブウマ娘を当てはめてください。
リアル秋天には間に合いそうにないので首を長くしてお待ちください。


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38話 沈黙の日曜日

リアル秋天は間に合わないと言ったな? アレも嘘だ(二回目)。
タイトルにありませんが前編と後編、二回に分けて投稿します。

二話前、36話にて参考サイトを記載し忘れておりました。すでにあとがきに追記ずみですが、こちらでも一応記載しておきます。

参考:ドーヴィル競馬場
https://www.jra.go.jp/keiba/overseas/country/france/deauville.html




 ティアラ路線最後の一戦、秋華賞が終わり世間の注目が天皇賞(秋)へと集まるころ、トレセン学園である噂が流れだした。

 

 ───ライスシャワーがヤバい

 

 初めて聞いたものは具体性のなさに失笑するが、実際にライスシャワーを見かけた後には同じようなことを口にした。

 

 ───ライスシャワーがヤバい

 

 

 

「あの、ライスさん……今日も朝練ですか?」

 

 噂の発端の一人であるゼンノロブロイは、部屋を出ていくライスシャワーに声をかけた。

 外はまだ日が顔を見せ始めたばかりで、秋の朝はまだ暗い。

 ライスシャワーがそんな時間に朝練に出る日々が続いていた。

 

「ごめん、起こしちゃった?」

「そういうわけでは……その、レースが近いのは分かりますがあまり無理は……」

「大丈夫だよ。トレーナーさんも一緒だし、前も似たようなことあったから」

 

 ゼンノロブロイは今年からトレセン学園に入学し、退寮したウマ娘と入れ替わる形でライスシャワーのルームメイトとなった。

 GⅠウマ娘と同室ということもあり入寮当初は緊張していたが、お互い読書好きというのも功を奏したのだろう。高等部と中等部、シニア級と新入生という差はあれど二人はすぐに打ち解けた。

 同好の士として、偉大な先輩として、ゼンノロブロイはライスシャワーを尊敬していた。

 だからこそ、日に日にライスシャワーの身が削れていくのを見ているゼンノロブロイからしたら気が気でなかった。

 

「心配させちゃってごめんね。……でも、次の秋天だけは譲れないんだ」

 

 それは天皇賞の春秋制覇がかかっているからか。悲願の中距離GⅠ勝利がかかっているからか。宝塚記念で完敗したサイレンススズカが出るからか。

 それともその全てか。

 ゼンノロブロイにはまだ、レースにそこまで強い想いを抱くライスシャワーの意志をくみ取れない。

 しかし、引き留めてはいけないことだけは理解できた。

 

「どうか、お気をつけて」

 

 部屋を出ていく小さな背中に、ただ祈りを捧げるだけだった。

 

 ライスシャワーの身を按ずる声は、チーム・マルカブの中からも上がっていた。

 とはいえ、天皇賞(秋)が昨年のリベンジでもあるのでグラスワンダーやエルコンドルパサーは心配しつつも何も言わなかった。

 アグネスデジタルは自分が意見するなんて恐れ多いと、細心の注意を向けながらも黙っていた。

 声を上げたのは、メイショウドトウだった。

 

「ラ、ラ、ラ、ライス先輩……! そそその~少し休んだ方が良いんじゃないでしょうか!?」

 

 日に日にやせ細っていく体躯。彼女だけに課せられる過酷なトレーニング。

 身の安全を第一とするトレーナーのこれまでの方針から逸脱した内容に、メイショウドトウは困惑していた。

 

「レースも大事ですけど、お身体だって……あああごごごごめんなさい! 私なんかが生意気なことを~~!」

「あ……ううん生意気なんて思ってないけど……心配させちゃってごめんね」

 

 でもね、とライスシャワーは続ける。

 

「次のレースは、今年の天皇賞(秋)には悔いを残したくないの。だからできることは全部やっておきたい」

「で、でもぉ……」

 

 メイショウドトウの視線がライスシャワーの身体をなぞる。

 過酷なトレーニングによって華奢な手足がさらに細く、固くなっていた。

 心配そうな声を漏らすメイショウドトウの頭を、背伸びしたライスシャワーの手が撫でる。

 

「今は分からないかもしれない。でもきっと、ドトウさんにもそういう日が来る。絶対に、なんとしてでも勝ちたい、負けられない。そんなレースが来る」

「そ、そうでしょうか……」

「うん。だから今は見ていてほしいな。そんな時が来たら、きっと今日のライスの姿が役に立つから。

 ……大丈夫、ケガなんてするつもりないから」

 

 ライスシャワーの覚悟は本物で、メイショウドトウはそれ以上彼女を止めることは無くなった。

 

 そんな過酷な日々を繰り返すライスシャワーを心配する声がある一方、それを課すトレーナーを諫めたり非難する声もあった。

 しかしそんなことを言うのは新人やあまりマルカブのことを知らない若手トレーナーだった。

 彼らのことをよく知る中堅やベテラン、トップトレーナーたちはライスシャワーの姿を見て揃って言った。

 

 久しぶりにアレが姿を現したのだ、と。

 

 そして、天皇賞(秋)が来た。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 東京レース場、チーム・スピカ控室。

 

「お待たせしました……あら、まだやってらしたの?」

 

 メジロ家を象徴するライトグリーンのインナーに黒の上着という勝負服に着替えたメジロマックイーンは、控室に戻るなり呆れた声を出した。

 目の前では、片膝をついてサイレンススズカの脚の調子を入念にチェックするトレーナーの姿があった。

 他のスピカメンバーも呆れたり、生暖かい視線を送っていた。

 

「ほらマックイーン戻ってきたよ、いい加減スズカの脚触るの止めなよー!」

「いや、でもだな……」

「デモもツモもねーよいい加減腹くくれ! タキオンの言葉をいつまでも引きずりやがって、マルカブのあんちゃんじゃあるまいし」

「そのお兄さんは今年の宝塚記念で克服したっぽいのに、心配症がうちのトレーナーに感染(うつ)っちゃったよ」

「しょうがねーなまた感染し返せば治っかな?」

「お前らな、そうは言うが万一ケガしたら大変なんだぞ!?」

「身をもって知ってるよ(っていますわ)!!」

「あ、はい」

 

 観念したのか、トレーナーの手がサイレンススズカから離れた。代わりに顔を上げ、彼女と目を合わせる。

 

「念のため確認するが、本当に違和感はないんだな?」

「ありません」

「あとで実は……なんて言われたら泣くからな? 年甲斐もなく!」

「大丈夫です。信じてください」

「……ああ、信じよう。信じてるからな……」

 

 立ち上がるトレーナー。

 頑張ってこい、と声をかけようとするが、寸でのところで別の言葉が浮かんだ。

 

「一番に、俺たちのところへ帰ってこい」

「……はい!」

「あらトレーナーさん。私には何も言ってくださいませんの?」

「ウワーッえこひいきだ!」

「今言おうと思ってたんだよ!

 ……マックイーン、久しぶりのGⅠだがお前の力は十分に通用する。頑張ってこい!」

「はい、行ってきますわ!」

「スズカさんもマックイーンさんも、どっちも頑張ってください!!」

「スピカ初の秋の楯、期待してるよ!」

「ええ、期待に応えて見せますわ!」

「スズカー! 今回で三つ目なんだから気をつけろよな!」

「……? よく分からないけど、行ってくるわね」

 

 チームからの声援を受けて、二人は控室を出た。

 

 

 

 地下バ道を並んで歩く。

 ちらほらと、他の出走ウマ娘たちの姿も見えた。

 いずれも過去にサイレンススズカが破ってきた者たちだ。油断はしないが、無理に気負う必要も感じなかった。

 ただ一人、メジロマックイーンを除いては。

 

「そういえば、マックイーンと同じレースを走るのは初めてね」

「言われてみればそうですわね。普段併走などをしているので忘れがちですが……」

 

 メジロマックイーンがニヤリと笑う。

 

「今日は真剣勝負ということでよろしいのですよね?」

「ええ、もちろん」

 

 メジロマックイーンが天皇賞にかける想いは知っている。

 彼女が春の楯を取ったことはあっても、未だ秋の楯をメジロへ持ち帰っていないことも。

 だからって負けられない。

 皆が、トレーナーが、自分にかける期待を知っているから。

 

「お互い良いレースに────」

 

 瞬間、ゾッとする悪寒が背筋を撫でた。

 弾かれるように後ろを見た。背後からの気配に反応したのはメジロマックイーンも同じだった。

 いや、地下バ道にいるすべてのウマ娘が、まるで餓えた魔物に目を点けられたかのように体が凍り付いていた。

 いる。

 ターフとは逆方向、薄暗い地下バ道の奥から静かにソレはやってきた。

 小柄で細い身体を包む漆黒の勝負服。片眼を隠す黒髪と青いバラを飾った帽子。

 何度もレースで競ったウマ娘だ。宝塚記念でサイレンススズカが打ち破ったウマ娘だ。

 

 ────本当に、同じウマ娘か?

 

 普段の彼女を知るものなら、一人の例外もなくそう思っただろう。

 愛らしい顔だったはずが、頬はこけ、目元は窪んでまるで幽鬼のよう。

 しかしドレスの裾から伸びる脚は力強い筋肉に覆われ、余分な脂肪の一切を取り除いていた。

 一見すればアンバランス、されど計算し尽くされた姿だと分かった。

 今日、2,000mを誰よりも速く駆けるためだけの脚、一ミリグラムでも軽くするために血の一滴でも絞ってきた体躯。

 そしてその瞳には紫電のような鋭い光を宿していた。

 一体どんなトレーニングを積んできたというのだろうか。3,200mを走り切るステイヤーの身体を、2,000m用の兵器へと作り替えるなど常軌を逸しているとしか思えない。

 

「そう……そういうことですのね」

 

 いち早く凍結から復活したメジロマックイーンが呟いた。

 

「このレースを、天皇賞(秋)を、貴方たちは本気で勝ちに来たということですのね」

 

 肌を刺す寒気を、彼女だけは一度経験していた。

 かつての天皇賞(春)で感じていた。

 ようやく、サイレンススズカは先ほどのゴールドシップの言葉を理解した。

 

「そう……そうね。私、三つ目だったわね」

 

 大阪杯、宝塚記念、そして天皇賞(秋)。

 三つ目だ。勝てば中距離GⅠ三連勝。三冠というくくりではないが成し遂げれば確かに偉業だろう。

 だから彼女(ソレ)はやって来た。

 ミホノブルボンのクラシック三冠を阻んだように、

 メジロマックイーンの天皇賞(春)三連覇を阻んだように、

 マチカネタンホイザの秋シニア三冠を阻んだように、

 

 サイレンススズカの中距離GⅠ三連勝を阻むために、

 

 絶対を超えるために、

 

 黒い刺客(ライスシャワー)がやってきた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「あ」

「……どうも」

 

 客席でスピカの面々と出会ってしまった。

 互いのチームのエースがぶつかる天皇賞(秋)、かつアグネスタキオンの件もあって私たちの間に緊張感が生まれる。

 

「もーなに立ち去ろうとしてんのさ! 一緒に応援すればいいじゃん!」

 

 逃げようとしたところをトウカイテイオーに腕を掴まれた。

 仕方なくスピカトレーナーの隣に立つ。

 こうして顔を合わせるのは例のアグネスタキオンの一件以来だった。

 グラスとエルは同期のスペシャルウィークと談笑している。デジタルとドトウは少し腰が引けているがトウカイテイオーとゴールドシップが積極的に話しかけてくれていた。

 どうやら、この場で溝を感じているのは私たちトレーナーだけらしい。

 一旦、先日の件は忘れることにしよう。

 

「先日は言い忘れましたが、メジロマックイーンの復帰と勝利おめでとうございます」

「ありがとよ。できれば本人にも言ってやってくれ。マックイーンもあんたのこと気にしてるみたいだから」

「あまり彼女と親しくしてるとライスが膨れるんですよね……」

「尻に敷かれてるなぁ……ま、俺もあんま人のこと言えないが」

 

 お互い、担当のウマ娘と二人三脚でやってきた身だ。

 一度向き合えば意気投合は簡単だった。

 

 パドックが始まる。

 出走ウマ娘たちが勝負服を着た姿で現れる度、客席から声援や拍手が飛ぶ。

 その大きさや数はやはり人気に比例する。

 サイレンススズカが現れたときはまるでもう優勝が決まったかのような勢いだった。

 そしてライスが現れたとき、その様相に一瞬空気が凍った。

 慣れた反応だ。ライスも特に戸惑ったりはしない。

 しかし、

 

「せーの……!」

『ライスせんぱーい、頑張ってーー!!』

 

 グラスたちの声援が響いた。

 ライスが笑いながら手を振って応えると、他の観客からも同様に応援の声や拍手が飛んだ。

 

「……おい、なんだあれは」

 

 ライスが引っ込むと同時に、スピカのトレーナーが言った。

 

「ライスですよ。うちのエースです」

「そういう意味じゃない……! あれは、マックイーンに勝った春天の時以上じゃないか!」

「良かった。貴方がそう言うのなら、勝ち目があるということですね」

 

 結局、サイレンススズカに勝てる画期的な策など思いつかなかった。

 やることはシンプル。やはりサイレンススズカにトップスピードとパワーで打ち勝つだけだ。

 そのためにライスの身体を東京レース場2,000m専用ともいえる状態まで鍛え上げたのだ。

 今までの自分のトレーナーとしての経験と、夏合宿でアグネスタキオンとエアシャカールから学んだ理論を取り入れた。

 代償として消耗が激しい。結果がどうなろうとライスは今年の残りいっぱい休養だろう。有記念への出走取り止めにしてしまうことだけは申し訳なかった。

 

「本気ってことか……」

「いつでも私たちは本気ですよ。……あえて違いを言うのなら、今日こそサイレンススズカに勝ちに来た。それだけです」

 

 パドックも終わり、ウマ娘たちが出走準備に入る。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ライスさん」

「……マックイーンさん」

 

 ゲートへと順番に入る待ち時間、メジロマックイーンはライスシャワーに話しかけた。

 幽鬼のような雰囲気と、修羅の如き闘志を両立させたライスシャワーの反応は意外にも平時と変わらぬものだった。

 

「再び本気の貴女と走れること、恐ろしい反面嬉しいとも感じています」

「ありがとうマックイーンさん。そう言ってくれて、ライスも嬉しいよ」

 

 本音だった。

 エアグルーヴすら警戒して近づいてこない自分に、普段と同じように接してくれるメジロマックイーンは救いであり、憧れだ。

 だからこそ負けられない存在でもある。

 

「ねえマックイーンさん」

「なんでしょう?」

「マックイーンさんには、レース以上に大切なものってある?」

「ありますわ」

 

 迷うことのない即答だった。

 

「同士たるメジロ家のみなさん、チームメイト、友人たち、家族。皆の絆が今の私を作り、今こうしてターフの上に立たせてくれた掛け替えのない存在です。

 しかしレースはレース。一度走り出した以上は私情は抑え勝利を目指すべきとは思います」

「そっか……そうだよね。マックイーンさんならそう言うと思った。……やっぱりマックイーンさんは格好いいね」

 

 だから、とライスシャワーの目がゲートへ向く。

 

「先に謝っておきます。ごめんなさい、ライスは今日酷いことをするかもしれない」

「それはいったいどういう───」

 

 言い切る前に、ライスシャワーはゲートへと入っていった。そも聞かれても答えるつもりは無かったのだろう。

 答えはレースの中で。それが彼女の回答だと受け取った。

 

「ライスさん、自覚がありませんのね……貴女が誰かを害するなどありえませんのに」

 

 強いて言うなら、その酷いことの被害者はライスシャワー自身だろう。

 あの鍛え上げた身体を見れば分かる。結果はどうあれ、レース後の彼女は暫く走れないだろう。

 残りのシーズンを投げ棄てる覚悟を持って、彼女はこの秋の大一番にやって来たのだ。

 ならば、

 

「見届けましょう、貴方の覚悟の行く末を。ライバルとして、友として、貴女の走りに夢を見た一人のファンとして」

 

 けれど、生半可な走りを見せようものなら容赦無く抜き去ってしまおう。

 闘志を滾らせながら、メジロマックイーンもゲートへと向かった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『ウマ娘たちが求める一帖の楯。夏を超え、鍛えた脚を武器に往く栄光への道。

 トゥインクルシリーズ秋の大一番、天皇賞(秋)。今年も天候にも恵まれ、良バ場の発表です』

『今年もまた選りすぐりの俊英たちがこの秋の舞台に集いましたね。特に注目されるのはやはりサイレンススズカ。堂々の一番人気です』

『気が早いかもしれませんが、もしも今日勝てばシニア級GⅠ三連勝でタマモクロスに並び、重賞七連勝となってオグリキャップを超える記録となりますからね。歴史的瞬間を期待するファンも多いでしょう』

『ええ、しかし何が起こるか分からないがレースというものです。人気が高いということは周りからも警戒されるということですからね。昨年と違い、彼女へのマークは厳しくなるでしょう』

『そう言った意味では、メジロマックイーンも期待されていますね』

『休養していたから当然なんですが、彼女はまだサイレンススズカに負けていませんからね。……いや、対戦経験のあるウマ娘たちもやられっぱなしとはまいりません。各自で対サイレンススズカの作戦はもってきているでしょう。

 ……そういう意味では、パドックで見せたライスシャワーの仕上がりは凄まじいものでした』

『前走が宝塚記念ですが、その時に比べて随分と搾ってきた印象でしたね』

『一見危うさすら感じてしまいますが、かなりの仕上がりです。いやーかつてメジロマックイーンに勝った天皇賞(春)を思い出してしまいます!』

『今日はそのメジロマックイーンも復帰二戦目からのGⅠ挑戦! 彼女のファンも、この出走には大喜びでしょうね』

『ええ! 秋の楯はメジロマックイーンにとって悲願ですからね。しかしその栄光を求めるのは他のウマ娘たちも同じです。初のGⅠ戴冠を狙う者、中距離GⅠ制覇を望む者、各々抱く想いは違えども強さは同じでしょう!』

 

 ファンファーレが鳴り響く。

 ゲートの中に立つ十二のウマ娘たちが、発走の時を今か今かと待っていた。

 そして、時は来た。

 

『天皇賞(秋)、今スタートしました!

 十二人のウマ娘の中から真っ先に飛び出したのはやはりこのウマ娘、サイレンススズカ! 今日も変わらず大逃げだ! 後続との差を三バ身、四バ身と広げて───いや、食らいついて行くウマ娘がいる! ライスシャワーだ! 漆黒の髪をなびかせ、ライスシャワーがサイレンススズカの三バ身後ろでついていく! ライスシャワー、今日の標的はやはりサイレンススズカか! 射程圏内に収めたままついていく!

 さらに四バ身後ろにいるメジロマックイーン、エアグルーヴ、サクラバクシンオーの順、中団グループを引っ張るのはメジロドーベル、最後方にはメジロブライトが控えている!』

 

 二番手以降とそれほど差が広がらないことに、サイレンススズカは特に驚きはしなかった。

 宝塚記念でもミホノブルボンが実践した策だ。

 しかし、背後から感じるプレッシャーは過去一番。先頭は自分のはずなのに、黒い影が視界にちらつく。

 

(これが、ライスシャワーの本気……!)

 

 メジロマックイーンを打ち破った漆黒のステイヤー。その脅威を、今はサイレンススズカが感じる番だった。

 1,000mの標識を超え、サイレンススズカはさらに加速する。しかしライスシャワーも離されまいと追ってくる。

 電光掲示板に表示された五十七秒四の数字に、一体このままゴールすればどんなタイムが表示されるのかとレース場は沸き立った。

 

(分かる。今日の私は絶好調……!ライスさんのマークは厳しいけれど、このまま押し切る……!)

 

 

 

 そして、

 

 

 

 サイレンススズカが第三コーナー、大ケヤキへと差し掛かる。

 

 

 

 最終コーナーへ向けて

 

 

 

 左脚で力強く、芝を蹴った

 

 

 

 その瞬間、

 

 

 

 

『サイレンススズカがコーナーを回って……え? あれ? 様子が……』

 

 

 

『ああ……そんな……サイレンススズカに……サイレンススズカに故障発生!』

 

 

 

 ライスシャワーは見た。

 (うんめい)が、サイレンススズカの足元から噴き出したのを。

 

 

 

 

 

 





後編は同日16時頃投稿します。


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39話 祝福のブルーローズ

こちら、2022/10/30投稿した分の2話目になります。
38話が前編、こちらが後編となっているため、38話を未読の場合は先にそちらを読んだうえでご覧ください。



 ウマ娘ライスシャワーには、常人には見えないものが見えていた。

 つい先日、トレーナーに打ち明けるまで誰にも教えていない秘密だった。

 と言っても自覚したのはほんの一年前、グラスワンダーが朝日杯フューチュリティステークスに出た時だ。

 ラストスパートをかけるグラスワンダーの足に黒い靄のような絡みついているのが見えたのだ。

 その時はそれが何なのか分からなかった。

 蹴り上げられた芝かその下の土がそう見えたのだと思った。

 しかしその翌日にグラスワンダーのケガが発覚した。

 もしやと思ったが、証明できるものは何もなかった。

 

 疑念が深まったのは、今年の宝塚記念だった。

 レース前夜に自身が見た夢。瀕死の重賞を負ったあの宝塚記念で見た影は夢ではなかったのだと知った。

 同時に、影が何なのかも知った。

 影の意味を理解した日、ミホノブルボンごと自分を振り切っていくサイレンススズカの足元に同じような影を見た。

 

 確信に変わったのはアグネスタキオンがスピカに乗り込んだ時だ。

 アグネスタキオンが語るサイレンススズカの速さの代償と、宝塚記念で見た影。二つを合わせて、ライスシャワーは天皇賞(秋)で何が起こるかを悟った。

 

 スピカのトレーナーやサイレンススズカに言わなかったのはきっと信じてもらえないと思ったからであり、アグネスタキオンにも言った通り、例え証明できても彼女たちは走ることを選んだと分かっていたから。

 

 ライスシャワーに出来ることはレースの中にしかない。

 無論、何も起きなければそれでいい。ライスシャワーが感じていたものはただの妄想で終わり、アグネスタキオンの心配は杞憂に終わる。

 しかし、もしも恐れていたことが起きた時、ライスシャワーが取る手は一つだった。

 ウマ娘らしく、走りで示すのだ。

 

 異常をきたし、フォームの崩れたサイレンススズカ。

 その規格外のスピードが緩んだ瞬間を見逃さず、ライスシャワーは仕掛けた。

 苦痛に顔をゆがめたサイレンススズカを抜き去った時、ライスシャワーは確かに見た。

 自分の時の宝塚記念と同じように、ソレはいた。

 

 首が少し長い、四足のアンノウン。

 栗色がかったそれが、サイレンススズカの隣を走っていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「なんだよあれ!」

 

 サイレンススズカの異変を見た観客の悲鳴に混じって非難の声が飛んだ。

 怒りの矛先は、容赦なく勝負を仕掛けたライスだった。

 これは真剣勝負だ。サイレンススズカの故障は悲劇だが、だからといって全員が足を止めるわけがない。

 しかし感情論として、ライスの行動を冷血と評するものもいるだろう。

 このままレースに勝てば、ライスは再びヒールの汚名を被ることになる。

 

「ライス……!」

 

 あの日君が語ってくれた黒い影は私には見えない。

 君の世界がどう映っているのか、私には知る由もない。

 君が何をしようとしているのかも分からない。

 

「行け……!」

 

 けれど君を信じよう。

 君がサイレンススズカを助けられると言ったとき、私は頼むと言った。

 君は任せてと言ってくれた。

 だから君を信じる。

 

「頑張れ……!」

 

 例えこの日を境に世界の全てが君の敵になろうとも、私は君の味方でいるよ。

 君は私に天皇賞(春)(ゆめ)を見せてくれたから。

 君は私を宝塚記念(あくむ)から救ってくれたから。

 そうだ、君は何時だって───

 

「勝てえええええ!! ライスウウウウウ!!」

 

 私に希望をくれる青いバラ(ヒーロー)なのだから。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 サイレンススズカの突然の故障と、それを狙いすましたかのようなライスシャワーの仕掛けに、他のウマ娘たちは度肝を抜かれた。

 

(これがライスさん……貴方の言う酷いことですの……!?)

 

 逃亡者を抜き去る黒衣の少女の背中を見ながら、メジロマックイーンは考える。

 アクシデントに合ったライバルの隙をついて先頭に立つ。レースは非情なものとはいえ、周囲からは非難の声が上がるだろう作戦だ。

 

(貴女は今も、敢えて茨の道を行きますのね……)

 

 同時に疑念が沸いた。

 仕掛けるには、少し早すぎるのではないか。

 あのサイレンススズカについて行ったのだ。中距離とはいえ、このハイペースではかなりスタミナを消耗していただろう。

 逸ったか? いや、歴戦のウマ娘であるライスシャワーがそんなミスをするとは思えない。

 となれば答えは一つ。彼女は確実な勝利よりも、今この場で仕掛けることを選んだのだ。

 

 ───レースはレース。一度走り出した以上は私情は抑え勝利を目指すべきとは思います。

 ───そっか……そうだよね。マックイーンさんならそう言うと思った。

 

 出走直前に交わした言葉を思い出す。

 

(そう……そうですのね。ライスさんは勝つ以上の何かを求めて、今仕掛けた!)

 

 ならば、とメジロマックイーンが動き出す。

 タイミングとしては早い。勝利を確実にするのなら、まだ仕掛ける時ではない。

 しかし、

 

(貴女一人を、悪役などにはしませんわ……!)

 

 名優もまた、希望の薔薇を信じて走り出す。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 脚が痛い、熱い。

 まるで赤熱した鉄筋でも突き刺さったかのようだった。

 骨折というのは、これほどの激痛を伴うものなのか。

 額から伝う脂汗が不快だった。脚が上手く回らない。フォームが崩れる。スピードが落ちる。

 意識が朦朧とするところへ激痛で呼び起こされる。

 

(どうして……!?)

 

 本当に、本当にレース直前までなんの違和感もなかったのだ。

 だというのに、レース後ではなくなぜ今なのか。

 定められた運命だとでもいうのか。

 そして、

 

(さっきまで空は晴れていたのに……)

 

 サイレンススズカが見る世界は、まるで日食でも起きたかのように暗い。

 青々としたターフが黒い何かに覆われて、踏み出す脚を沼のように飲み込んでいく。

 

(脚だけじゃなく、頭もおかしくなってしまったのかしら……)

 

 極めつけは、隣を走る四足のナニか。

 レースに野鳥や他の生き物が迷い込むことがあるのは知っていたが、2mを超えた生物が迷い込めばターフに乱入する前に大騒ぎだろう。

 だからきっと、これは自分にしか見えていないのだろうなとサイレンススズカは思った。

 

(もしかして、死神というのはこんな姿をしているのかしら……)

 

 ゲームや漫画では鎌を持った骸骨が定番だが、実は正体はこれなのかもしれない。

 だとするならばもう自分は───時速六十キロで走るウマ娘が走行中に倒れればどうなるか、想像するに難くない。

 

(ごめんなさい……トレーナーさん、スぺちゃん、みんな……)

 

 リギルからスピカに移籍して一年足らず。短かったが充実した日々だった。

足元の闇が波打つ。

 自由に走ることが出来て、レースに勝つどころか重賞、そしてGⅠまで勝つことができた。

少しずつせりあがってきた。

 アグネスタキオンの言葉は正しかったのかもしれない。けれど自分の願いを優先してレースに出ることを許してくれたことを心から感謝している。

闇はすでに膝のあたりまで。

 別れは寂しいけれど、レースに出たことに後悔はない。

まだ、上ってくる。

 これが運命ならば受け入れよう。

やがて、彼女を闇が包み込む。

 

 ────────今までありがとう。

 

 

 

「スズカアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」

 

  

 

 渾身の絶叫が、闇を弾き飛ばした。

 声が聞こえた方を見る。柵に手をかけ身を乗り出した状態で、スピカのトレーナーが叫んでいた。

 落ちそうになる身体をゴールドシップやトウカイテイオーに支えられた状態で、必死に、サイレンススズカの名を呼んでいた。

 

(トレーナーさん……)

 

 顔を上げて、気づいたことがあった。

 サイレンススズカの前にはすでに多くのウマ娘が走っていた。

 サクラバクシンオー、エアグルーヴ、メジロマックイーン。差しや追込みのウマ娘はまだ後ろにいるが、いずれ追い越されるだろう。

 当然だ。故障したウマ娘を案じてレースを放棄するなどあり得ない。

 故障したのが他のウマ娘だったとして、サイレンススズカも脚を止めるようなことはしないだろう。

 そして皆がゴールへと向かう中、遥か前方に一人だけサイレンススズカの様子を窺っているウマ娘がいた。

 小さな背中、漆黒の髪、紫電の瞳。

 ライスシャワーが、一瞬たりとも視線を逸らすことなくこちらを見ていた。

 サイレンススズカの容態を気にしているのではない。

 

 ────お前はそこで終わるのか。

 ────終わってしまって満足か。

 ────お前の想いは、その程度か。

 

 紫電の瞳が、激痛に喘ぐサイレンススズカを容赦なく焚き付けていた。よりにもよって、同じ痛みを知るライスシャワーがだ。

 唇を噛み締める。

 どうしろというのだ。

 意志や祈りで、この脚は治ったりしない。

 それこそ、神の奇跡でもない限り────

 

 ────終わりだ。

 

 サイレンススズカの隣を走るソレが、突如声を上げた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 前方、ライスシャワーはサイレンススズカの視線が隣を走る影へと移ったのを見た。

 

(……良かった。スズカさんにもアレは見えているみたい)

 

 かつてライスシャワーの足元に広がった闇。そして今サイレンススズカの足元に広がる闇。それはきっと、運命のようなものだとライスシャワーは考えた。

 ウマ娘は異なる次元から魂と名を受け継いで生まれてくる。

 この世の誰もが一度は聞いたことのある言い伝え、ウマ娘の起源。

 生まれてくるときに名と魂だけでなく、運命までも受け継いでいたとしたら。

 ライスシャワーが宝塚記念でケガをしたのも、グラスワンダーが朝日杯でケガをしたのも、今サイレンススズカが悲劇に見舞われているのも、もしかしたら……。

 都合の良い妄想かもしれない。

 しかし、ライスシャワーは知っている。

 宝塚記念の悲劇を乗り越えた自分だけが知っている。

 

(スズカさん。その影の声を聞いて……!)

 

 その影は、決して運命を執行しに来た死神などではないということを───

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ────終わりだ。

 

 ソレは確かに言った。

 怪異の言葉を安易に聞いてはならない、というようなことをマチカネフクキタルが言っていたのを思い出す。

 そのマチカネフクキタルもマンハッタンカフェから聞いたというから、間違いないのだろう。

 実際、聞こえてきた声は重く暗く、ノイズ交じりの痛ましい音だった。

 だというのに、異質な影の言葉に思わず耳を傾けてしまった。

 眼窩と思わしき場所に灯る光が動いた。

 見られていると、サイレンススズカは感じ取った。

 

 ────ボクの終わりはここだった。

「……え?」

 ────だから君にも、その時が来た。

 

 脳裏をよぎるのは、サイレンススズカも聞いたことのある言い伝えだった。

 

 ────でも、君はボクとは違う。

 ────ボクの時と違って、君には終わりを知るボクがいた。

 ────君にもこの先で待っているヒトがいるんだろう。

 

 影が語る度、サイレンススズカを囲う闇が薄れていく。

 

 ────行くといい。

 ────運命はボクがこのまま背負うから。

 

 次に踏み出した時、脚の着いたところから闇が晴れた。

 そして、

 

「スズカァッ!!」

「スズカさあああん!!」

 

 声が聞こえた。

 スピカのトレーナーとスペシャルウィークだ。

 二つの光が闇を照らす。

 

「スズカーーッ!!」

「スゥウウズゥウウカァアア!!」

 

 ゴールドシップだ。トウカイテイオーだ。

 照らす光がさらに二つ増えた。

 

「スズカ!!」

「スズカアッ!!」

「スズカさん!!」

 

 東条が、リギルのウマ娘が、そしてファンが彼女の名前を呼んだ。

 彼女を想う者たちの声が響くたびに光は増え、闇を照らす。

 光はやがて集い、一本の道となる。

 

「……そうですね。約束しましたもんね」

 

 信じてくれた人がいた。背中を押してくれた人がいた。

 自分の願いをかなえてくれた人がいた。

 その人と、約束したのだ。

 

「一番に、あなたのところへ……!」

 

 サイレンススズカの前を阻む闇は消えた。

 されど、逃がしてなるものかと、背後の闇が手を伸ばす。

 それを影が割って入り壁となった。

 

「……譲らない」

 

 前にいるウマ娘が邪魔だ。

 サクラバクシンオーもエアグルーヴもメジロマックイーンも、そしてライスシャワーも。

 彼女たちがいては、サイレンススズカは一番に帰れない。

 いつの間にか、脚の痛みは消えていた。

 

 もう彼女を走りを妨げるものはない。

 後は、全力で駆けるのみ───!

 

 

先頭の景色は譲らない…!(あなたにただいまをいうために)

 

 

 運命(れきし)を振り切って、逃亡者は異次元(みらい)へと旅立った。

 

 

 

 ────いってらっしゃい。この世界のサイレンススズカ。

 ────どうせなら勝ってしまうといい。

 ────あの子とその相棒には、ボクの相棒もよくやられたそうだから。

 ────この一回くらい許してくれるさ。

 

 

 光の道を往く少女の背中を眺めながら、異形のソレは静かに闇の中へと戻っていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 最終コーナーへと入った瞬間、エアグルーヴは背後から迫る颶風を感じ取った。

 末脚の鋭いウマ娘が仕掛けて来たかと思った。

 次の瞬間、エアグルーヴに並びかける栗毛のウマ娘の姿に驚愕した。

 

「ス、スズカ!?」

 

 思わず声を上げた。

 故障したはずのサイレンススズカが自分の隣にいる。あり得ない現実に、エアグルーヴは困惑する。

 

「あ、脚は大丈夫なのか!? いや、それよりも走っている場合では……!」

 

 言ってから気づく。

 サイレンススズカにエアグルーヴの言葉は届いていない。

 いや、彼女はエアグルーヴを見ていない。

 それほどまでにサイレンススズカは集中していた。

 

(これは……!)

 

 サイレンススズカに起きている現象に、エアグルーヴは思い当たるものがあった。

 生徒会長シンボリルドルフがいつか語った、ウマ娘が持つ可能性。

 曰く、時代を作るウマ娘には必ず起こる現象。

 曰く、発現すれば普段からは考えられないハイパフォーマンスを発揮する。

 曰く、その様はまさに限界を超えた限界、そのさらに先にあるもの。

 即ち───

 

「“領域(ゾーン)”……!!」

 

 並ぶのも一瞬、サイレンススズカはその圧倒的な速さでエアグルーヴを置き去りにした。

 その姿に呆然とするあまり、エアグルーヴはさらに後ろから迫る影に気づかなかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

(来た……!)

 

 影が消えるのを見た瞬間、ライスシャワーは後ろを見るのをやめた。

 次の瞬間には、彼女に迫るサイレンススズカの気配をはっきりと感じた。

 いつもは自分が前を走るウマ娘に浴びせているプレッシャーを、今度はライスシャワー自身が受ける番だった。

 栗毛の逃亡者が漆黒の追跡者に並ぶ。

 

「さっきはよくも抜かしてくれたわね、ライスさん」

「スズカさん……!」

 

 戻ってくることが出来て良かった、とは言わない。

 すでに勝負は再開している。

 

「先頭以外を走る気分はどうだった?」

「最悪だったわ。でも、いつもとは違う景色を見れたのは良かった。やっぱり私には、先頭の景色が一番いい。

 ライスさんは、先頭を走ってみてどうだった?」

「あまり慣れないかな。ライスはやっぱり、ギリギリまで誰かの背を追っているのが性に合っているのかも」

「そう。じゃあ譲ってくれない?」

「まさか!」

 

 軽口を叩きながら笑い合う。しかし次の瞬間には表情は真剣なものに変わる。

 最終コーナーはすでに抜けた。残るは最終直線、二ハロン。

 ここからが本番だ。

 

「勝負だ! サイレンススズカ(ライスシャワー)!!」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 そのウマ娘にとって、レース人生は順風満帆とはいかなかった。

 デビューしてから、初勝利を挙げたのは年明けだった。

 なんとか間に合わせた春のクラシックは、シャドーロールの怪物にコテンパンにされた。

 秋こそはと意気込んだところで屈腱炎を発症。長期の療養を余儀なくされた。

 復帰は十二月だった。二月には約一年ぶりの勝利を挙げた。

 ここからと思った矢先、屈腱炎が再発。次の復帰には一年以上かかった。

 一年後の秋に復帰して、翌春にまた屈腱炎が再発した。笑うしかなかった。

 トレーナーには引退を勧められたが頷くことはできなかった。

 ウマ娘のレース能力のピークは短い。知ってはいるが、自分に最盛期などあったのだろうか。

 一シーズンすら走り切れないのがほとんどだった。燃え尽きるどころか、ひたすら燻ったままで引退などできなかった。

 トレーナーには感謝している。

 身体も頑丈ではない。能力の伸びしろもない自分に付き合ってくれた。だからせめて、一度くらい日の目を見せて恩返ししたかった。

 入念な調整が功を奏したのか、今年の夏は重賞を二勝できた。なんとか秋のGⅠ戦線に滑り込むことができた。

 遅すぎた最盛期がやってきた気がした。

 

「いやー重賞連勝して絶好調! って思ったら秋のGⅠは右も左も強豪ぞろい、しかもメジロマックイーン復帰とか、アタシってば運悪すぎでしょ!」

 

 天皇賞(秋)の出走リストを見て笑うしかなかった。でも諦める気はなかった。

 諦めなかったから、今、絶好のチャンスが来た。

 サイレンススズカが突然故障した。ライスシャワーが無謀ともいえるタイミングで仕掛けた。なんかサイレンススズカが復活してる。でもおかげで他のウマ娘たちも動揺していた。付け入る隙が出来た。

 那由多の果てに、勝機を見た。

 

「い、く、ぞぉおおおおおーーーーー!!!」

 

 

 

『な、なにが起こっているでしょうか!? 故障したと思われたサイレンススズカが突如蘇り、先行集団をゴボウ抜き!! 先頭走るライスシャワーに並んだ!

 天皇賞(秋)、レースの行方はこの二人に絞られ───いや……いや! もう一人来た! 後方から!! 内をついて!

 六番! オ■サイ■ト■ッ■!!』

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 正直なことを言えば、ライスシャワーは完全にサイレンススズカ以外のウマ娘を警戒することを怠っていた。

 だから、内から突然別のウマ娘が上がってきて動転した。

 その隙を衝かれ、三番手にまで落ちてしまった。

 

『内から上がってきたオフサイ■ト■ッ■がライスシャワーを抜いて二番手! サイレンススズカが先頭! ライスシャワーは三番手! だがライスシャワーも追いすがる!

 三つ巴の大激戦! 外からサイレンススズカ! 内からオフサイ■ト■ップ! 真ん中一歩後ろにライスシャワー!』

 

「まぁああけぇええるぅううかぁああーーーー!!」

「はあああああああ!!」

「────くぅっ!!」

 

 すでにライスシャワーは限界だった。今日のために搾り上げた身体はすでに燃料切れだった。

 予想外なのはサイレンススズカの復活からの超加速と、六番の強烈な追い上げだった。

 限界ギリギリで調整してきたライスシャワーに連続した急展開に対応できる余力はなかった。

 

(ここまで、なの……?)

 

 第一目標ともいえる、サイレンススズカの救済はなった。

 このままいけば三着。大健闘だろう。トレーナーや応援してくれたみんなには悪いが、きっと許してくれる。

 そう思った瞬間、

 

 ───挑み続けて、サイレンススズカに勝てますか?

 

 脳裏に蘇ったのは、海の向こうへ渡ったライバルの言葉だった。

 夢に挑み、夢に敗れ、進む道を変えていった彼女。

 ここで諦めて、自分は胸を張って彼女にまた会えるのか?

 

 ───ライス勝つから! もっとレースに勝って、みんなに名前を知ってもらう!

 

 あの時叫んだ言葉はハリボテだったのか。

 

 ───そして、ライスのライバルにミホノブルボンって凄いウマ娘がいたってことを伝え続ける!

 

 あの誓いは、一時の感情で出たまやかしなのか。

 メイショウドトウに偉そうなことを言ったのは嘘だったのか。

 グラスワンダーに、エルコンドルパサーに、アグネスデジタルに、後輩たちに見せたいのは途中で勝負を諦める姿だったのか。

 

「違う……」

 

 トレーナーに無理を言って、かつてのように厳しいトレーニングをお願いしたのは、三着に甘んじるためだったのか。

 

「違う……!」

 

 あの宝塚記念で、()からもらった時間をこんなことに使っていいのか。

 

 ────終わりだ。

 ────この坂が、オレの終わりだった。

 ────もう少しだったんだけどなぁ……。

 ────なあ、代わりに走ってくれないか?

 ────運命はオレが引き受けるからさ。

 ────みんなで見た夢の続きを、アンタの目で見てきて欲しい。

 ────だってほら、俺達って祝福(ライスシャワー)なんだろ? 応援してくれた分は返さなきゃな。

 

「わたしはああああああ!!!」

 

夢叶える希望の薔薇(ブレッシング・ブルーローズ)

 

 青いバラの花言葉は、不可能ではない。

 預かった夢とともに、少女は限界の向こうへと踏み込んだ。

 

 

『ライスシャワー上がってきた! 前を往く二人に再び肉薄! 並んだ! 並んだ! 三人が横並び!!

 残り200mを切った! 勝つのは誰だ!

 サイレンススズカが頭一つ出た! オフサイ■トラップが並びかける! ライスシャワーも譲らない!

 サイレンススズカか!

 ライスシャワーか!

 オフサイドトラップか!

 

 

 

 

『ライスシャワー! ライスシャワーだ!! 激戦を制したのはライスシャワー!! 悲願の中距離GⅠ制覇だ!!』

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

「───スズカさん!!」

 

 ゴール板を駆け抜けると同時、ライスシャワーが気にしたのはサイレンススズカのことだった。

 運命の影を振り切ったが、それで脚が治ったわけではない。

 このまま倒れるようなことがあれば一大事だった。

 振り返った瞬間、サイレンススズカは糸が切れた人形のように崩れ落ちるところだった。

 

「スズカさん!」

 

 手を伸ばす。

 サイレンススズカの手を掴むが、ライスシャワーもまた満身創痍。一人分の体重を片手で支えることはできなかった。

 

(そんな……!)

 

 ここまで来て、と絶望しかけた瞬間、

 

「おっと……大丈夫です?」

 

 サイレンススズカを後ろから、六番のウマ娘が抱きかかえてくれた。

 ライスシャワーも寸でのところで転ばずに済んだ。

 

「えっと、ここからどうすればいいです?」

「あ、ありがとうございます……。ゆっくりと横にして、あ、でも左脚は地面につけないようにしてください!」

 

 ケガをしたのは左脚だったはず。ならば真っ先に保護すべきはそっちだった。

 

「救護班ーー!!」

 

 サイレンススズカを芝に寝かしてから叫ぶと同時、救急車がやって来た。

 レースの状況を見てすでに動き出していたのだろう。

 ここから先はプロに任せればいい。ライスシャワーは安堵の息をついた。

 

「……え? あれ?」

 

 今度はライスシャワーの糸が切れる番だった。

 すでに体力は使い果たし、サイレンススズカを助けられて緊張の糸も切れた。

 

(そっか、しばらくご飯も控えてたし、力が……)

 

 格好つかないな、と六番の慌てた顔を見ながら呑気なことを考えてながら空を見上げたところで、

 

「ライス、よく頑張ったね」

 

 トレーナーが背中を支えてくれた。

 

「……え? あれ? お兄さま、どうして?」

「ゴールした瞬間すぐに来たからね。ほら」

 

 見ればスピカのトレーナーとスペシャルウィークがサイレンススズカの傍に居た。

 そこで彼らが事前に救護班を呼んでいたのだと分かった。

 

「スズカさん、大丈夫だよね?」

「ケガの程度はしっかり検査しないと分からないけど、顔色は悪くない。きっと大丈夫だよ」

 

 トレーナーが言うには汗こそ多いが、呼吸も落ち着いている。命に別状はないだろうとのことだった。

 

「ライスのおかげだ」

「だったら、嬉しいな……」

「さあ、救急車がもう一台来た。ライスも乗ろうか」

「え?」

「脚、ケガしてる」

「───え? あれ!?」

 

 言われてようやく気付いた。左足の踝当りが腫れていた。

 痛みが無いのはレース直後だからだろう。落ち着けば今度は痛みがやってくるだろう。

 ライスシャワーの顔から血の気が引いた。

 トレーナーが見ている前で、またレースでケガをしてしまったのだ。

 

「ご、ごめんなさい! ライス───」

「ありがとう」

 

 言い切る前に、トレーナーに抱きしめられた。

 

「お、お兄さま……?」

「ありがとう。サイレンススズカを助けてくれて。私の願いを叶えてくれて。

 君はやっぱり、私の青いバラだ……」

 

 その言葉に、温かいものが胸の中を満たしていく。

 彼女の健闘は、想いは、行動は、確かに彼にとっての希望となったのだ。

 

(ライス……少しは返せたかな?)

 

 救急車に乗せられる僅かな瞬間、客席が彼女の目に映った。

 

 鳴り響く万雷の拍手。観客は激闘に感動して涙を流し、走者たちの健闘を讃えていた。

 そして聞こえてくるのは。

 

『ラ・イ・スー! ラ・イ・スー! ラ・イ・スー!───……』

 

 繰り返し呼ばれる、祝福を冠する少女の名前であった。

 

 

第○○○回 天皇賞(秋)

 

1着 ライスシャワー  (R)

2着 サイレンススズカ (R)

3着 オフサイドトラップ(R)

4着 エアグルーヴ

5着 キンイロリョテイ 

 

 

 

 

「ええええーー!? ウイニングライブはライスさん(1着)スズカさん(2着)が搬送されたから繰り上がりでアタシがセンター!? しかもソロ!? 三着なのに!?」

 

 

 




これにて秋天決着。

六着以下の順位は省略。
参考タイム netkeiba.com様より
秋天
1997 エアグルーヴ    1:59.0(晴、良)
1998 ステイゴールド   1:59.5(晴、良)
1998 メジロブライト   2:00.1(同上)
1991 メジロマックイーン 2:02.9(雨、不良)
6番ちゃんのタイムは史実と異なるので省略。

レコードタイムは98年時点での記録を更新したと思ってください。
86年の1:58.3がそれのようなのでそれより速いタイムということで。
史実だと2011年に1:56.1なんてタイムを叩きだすのがトーセンジョーダンなんですね。

投稿はまだ先ですが、あと1話か2話で第四章完となります。
またしばらくお待ち下さい。


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40話 彼女たちとウイニングライブ

お久しぶりです。
前話でたくさんの感想ありがとうございました。
この二次創作やるうえで一番書きたい部分でしたので反響が多くて嬉しい限りです。

遅くなりましたがその続き、今日と明日で一話ずつ投稿させていただきます。



 

「無ー理ー! 無理無理無理無理無理無理かたつむり!!」

 

 レース後の地下バ道にて、あるウマ娘の奇声が響いた。

 話に来たメジロマックイーン、メジロドーベル、メジロブライトの三人は呆れたり困ったりあらあらと呟いたり三者三様の反応を示していた。

 

「なんで!? どうしてアタシがウイニングライブのセンターなわけ!? しかもソロ!! 三着だったのに!!」

「ですからたった今説明したでしょう。一着のライスさん、二着のスズカさんが揃ってケガで病院へ搬送されてウイニングライブには出られません」

「秋天のライブ曲である『NEXT FRОNTIER』のメインは上位三名ですから、今ライブに出られるのがオフ先輩だけなんです。……それで、一人でサイドの振り付けもおかしいからセンターを、と」

「やりづらいよぉ! そこまで行ったら中止でいいじゃん! ……いや待って、繰り上げでアタシがセンターっていうのがありならバックのウマ娘を繰り上げでメインも許されるはず……四着だったエアグルーヴさんはどこ!?」

「エアグルーヴ先輩は……ケガしたスズカのことが心配で病院に同伴しました」

「チクショウ! ライブのこと忘れるとかガチ焦りしてるな副会長! ……じゃあリョテイさん! 五着のリョテイさんとコンビでライブを!」

「ほわぁ……リョテイ様なら先ほど、『今夜の日ローは〇ピュタだから』と言って帰られましたわ」

「録画しとけええええ!! というか〇ピュタなら来年もやるでしょう!! そんな理由でライブサボるなよ自由か!!」

「まああの子バックダンサーの時はほとんどサボるから……その度怒られているのに懲りないんだから」

「なんでもみんなとウマスタでバ○スする機会は逃せないとか」

「……ええいこの際誰でもいい! 皆さん、揃って掲示板を外したメジロ家の皆さん! 三人もいて全員着外になったメジロ家の皆さん! どうかアタシを助けると思って一緒にメイン踊ってください!」

「オフ先輩、この状況で煽れるとか意外と余裕ありますね……」

「ええ、その様子ならライブも大丈夫でしょう。ドーベル、ブライト、私たちもライブの準備をしましょう。潔くバックダンサーとして……!」

「待ってえええごめんなさい! 調子に乗りました! だから見捨てないでええ!!」

 

 床を這って名優の脚に縋りつく本日のセンター。

 とはいえ、メジロマックイーンもできる助力には限界があった。

 そもウイニングライブはレースで勝ったウマ娘とファンが喜びを共有する場だ。ケガというアクシデントはしょうがないとはいえ、それを理由に下位のウマ娘がメインの場に上がってよいものではないのだ。

 どうしたものかと思案していると、地下バ道に快活な声が反響した。少し遅れて結んだ髪を揺らしながら声の主がやって来た。

 

「いたいた、おーい! マックイーン!」

「テイオー? トレーナーさんと一緒に病院に行ったのでは?」

「エアグルーヴがついてくって譲らなくてさ。車に乗れる人数も限界あるからボクが残ったの。で、あの様子じゃライブのことすっかり頭から抜けてるなーって思って今の今まで方々駆け回っていたってわけ」

 

 大変だったんだよー、とトウカイテイオーが言う。

 色々と気の回る方だと感心しつつも、メジロマックイーンはふと思った。

 

「……その言い方ですと、ウイニングライブに何か働きかけを?」

「中止! 中止ですか!?」

「いや中止は無いって……代わりに楽曲の変更をお願いしてきたよ」

「楽曲変更って……そんなこと可能ですの?」

 

 GⅠのウイニングライブは事前に曲が決まっており、会場セットの規模はいずれも壮大だ。急な楽曲変更をして設営が間に合うのだろうか。

 

「そこは運営に頑張ってもらわないと。向こうだってメイン足りないの知っててライブやろうとしているんだし。それにウイニングライブの意義は走ったウマ娘とファンを繋ぐためだよ。ライブセットはそこまで重要じゃない」

「いや待って! 楽曲代わってもアタシがソロで歌わされることに変わりないのでは!?」

「そのへんも大丈夫! なんたってこれは、順位なんて関係なく、文字通りみんなでやるライブだからね!」

 

 ニシシ、と自信たっぷりに笑いながら、トウカイテイオーがその曲名を告げた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 意識が浮上した時、真っ先に感じたのは鼻をつく薬の臭いだった。そして瞼の向こうから感じる光。

 ゆっくりと、サイレンススズカは目を覚ました。

 

「ここ……は───」

「スズカさん!!」

「スズカァッ!!」

「───ぐえ」

 

 覚醒と同時に左右から圧迫された。

 自身には少ない柔らかなものに挟まれながら、サイレンススズカは己が置かれた状況を理解した。

 

「スペちゃん、エアグルーヴ……」

「よがっだ……目を覚まじでよがっだでずぅ……!」

「たわけがっ! ケガをしてるのにあんな走りをするやつがあるか……!」

「二人とも……」

 

 友人二人の涙声に、自分のしたことを思い出す。

 明らかにケガをした脚での全力疾走。傍から見てた側からしたら気が気でないだろう。

 

「ごめんなさい、心配させたわね……」

「──目を覚ましたから許す! しかし二度とあんな真似はするな!」

「わたし……わたしスズカさんにもしものことがあったらと思うとおおお〜〜!」

 

 結局、泣き声を聞いたスピカトレーナーや医師が来るまで、二人はサイレンススズカから離れようとしなかった。

 

 

 

 

「……すまない、取り乱した」

「いいのよ。でも、あんなエアグルーヴ初めて見ちゃった」

「他言無用で頼む。無事が分かって思わず泣き腫らしたなどとても言えん……」

(友人がケガしたんだから普通の反応だけどなー)

 

 そう思ったスピカのトレーナーだが、口にはしない。そのあたりは個々人の美意識だろうし、指摘するとしても担当トレーナーである東条の役目だろうと思ったからだ。

 

「先生、スズカの脚の具合は?」

 

 思考を切り替え、医師に訊ねる。

 わざわざ病室まで運んでくれたシャウカステンに張り出されたレントゲン画像を見る医師はやがて頷いた。

 

「……うん。折れていますね」

「そりゃそうでしょう! レース中のケガなんですから!」

「いやホント、キレイに折れてるんですよ。まるで骨だけ斬られたみたいだ」

 

 骨折というのは程度の差はあれいずれも重傷のはずだが、医師の顔は穏やかだった。

 

「中に破片も残ってないし、神経を傷つけているわけでもない。筋肉組織へのダメージも最小限だ。……ケガをした本人に言うことではありませんが、幸運でしたね」

 

 幸運。医師はそう言うが、サイレンススズカにはその理由がなんとなく分かった。

 レース中突如現れ、消えていった黒いなにか。

 異形だけれど何故か他人とは思えないアンノウン。

 

(彼が……背負ってくれたんだ……)

 

 名も正体も知らぬ影に、心の内で感謝した。そして、

 

「また走れるようになりますか?」

 

 トレーナーの問いかけはサイレンススズカにとって一番重要なことだった。

 一度のケガでレースから身を引くウマ娘は多い。当然、復帰するウマ娘もいるが自分に当てはまるとは限らない。

 一転して不安に揺れる少女を見て、医師は静かにほほ笑んだ。

 

「ええ、走れますよ。骨がくっついて、落ちた体力を戻せばまたこれまでのようにね」

「本当ですか!」

「やったなスズカ!!」

「当然、すぐにとはいきません。まずは安静に。骨折であることには違いありませんからね」

 

 医師の忠告に、ハイ! と元気な声が響いた。

 時間はかかる。年内は無理かもしれない。それでも、サイレンススズカはまたレースを走るのだ。

 

 まだ彼女の逃亡劇は終わらない。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「あ」

「……おや」

 

 病院の廊下でスピカのトレーナーと鉢合わせした。

 一緒にいるのはスペシャルウィークとゴールドシップ、そしてエアグルーヴだった。

 

「サイレンススズカの容態は?」

「骨は折れているが、幸運にも大事には至らないようだ。時間はかかるがまた走れる。不幸中の幸いってやつだ……」

「それは良かった」

 

 心から安堵する。

 ウマ娘はケガ一つで今後の一生が左右されかねない。レース中のケガなど最悪の事態になりかねない。

 無事で本当に良かった。

 

「ライスシャワーは?」

「ケガ自体は大したことありません。ラストスパートの負荷が大きかったんでしょう、少し左脚が腫れている程度です。……これまでのトレーニングの疲労が一気に噴き出した感じですね。しばらくは療養も兼ねて入院です」

 

 ライスの願いとはいえ、勝つためとはいえ無理をさせ過ぎてしまった。

 ステイヤーである少女の身体をクラシックディスタンス用に徹底的に改造した。ギリギリまで脂肪を削り、体重を落とした。その結果サイレンススズカに勝てたが、代償としてライスの身体は酷く消耗していた。

 ライスも私も覚悟していたことだが、いざ現実として見せつけられると辛いものがある。

 

「医師にも怒られましたよ。無理させ過ぎだとね」

「そうか……それだけ、アンタたちは本気だったんだな」

「───ええ、本気でした」

 

 命を削ってでも勝ちたかった。

 ライスにとって悲願の中距離GⅠだった。サイレンススズカへのリベンジもあった。予見された悲劇を回避したかった。

 そのために、本気になったのだ。

 

「なんとも……マルカブにはそういう気持ちの面ではいつも負けちまうな」

「こちらはチャレンジャーの立場でしたからね。来年は分かりませんよ」

「チャレンジャーから王者へか。言ってくれる」

 

 スピカの言うとおりだろう。昨年は有馬記念を制し、今年はシニア級の大一番である天皇賞を両方勝ったのだ。ライスは中長距離における現役最強と言って良いだろう。

 故に、これからは全員から追われる身だ。来年には黄金世代がシニア級に上がり、競争は激化するだろう。

 勝利の余韻に浸ってばかりはいられないのだ。

 

「ところで……」

「どうした?」

「気になってたんだけど、エアグルーヴはどうしてここに?」

「む……友人の一大事なのだから、駆けつけることは別に……」

「いや、ウイニングライブは?」

「………………………あ───ああ!!」

 

 ポカン、そしてサァっとエアグルーヴの顔から血の気が引いていくのがよくわかった。

 品行方正、生徒の模範を是とする彼女がウイニングライブをすっぽかすとは、サイレンススズカのケガが余程の衝撃だったのだろう。

 

「しまった……私としたことが……! 今から会場へ──いや車では間に合わん。トレセン学園の生徒として公道を走るわけには、しかし───」

 

 頭を抱えて葛藤するエアグルーヴ。

 なんと声をかけようかと思案していると、ポケットにいれたスマホが振動した。取り出してみると、丘辺トレーナーからだった。 

 

「もしもし?」

『お久しぶりですマルカブのトレーナー。シンボリルドルフです』

 

 ドキン、と心臓が跳ねた。

 無敗の三冠、七冠の皇帝が私に直接電話してくるなど考えてもみなかった。

 

『まずはライスシャワーの健闘を讃えるべきですが申し訳ありません、差し迫った状況でして……エアグルーヴは近くにいますか?』

「ええ、いま目の前に。代わればよいので?」

『お願いします』

「では……エアグルーヴ! シンボリルドルフから!」

「───!」

 

 カッ! シュバッ! ガシィッ!

 そんな効果音が聞こえそうな勢いでエアグルーヴが私の手からスマホを獲った。

 ……驚いた。豹にでも飛びかかれた気分だ。

 

「会長、代わりましたエアグルーヴです!」

 

 スピーカーがオンになったのか、二人の会話が私たちにも聞こえてくる。

 

「この度の失態まことに……」

『いや、気に病むことはないよエアグルーヴ。それほどの緊急事態だった』

「ですが! 副会長という身でありながらウイニングライブをほったらかすなど……!」

『もう一度言おうエアグルーヴ。気に病むな。……むしろ不幸中の幸い、君が今そちらにいて助かったという面もある』

「と、おっしゃいますと?」

『今回は不測の事態が連続している。メインダンサーとなるべきウマ娘は一人を残してケガで病院。残りの入着した二人も現地にいない。バックダンサーとなるウマ娘を上位順に二人ほど繰り上げる、という案も出た。……が、テイオーから提案があってね。不測の事態は特別版という形で誤魔化そうという意見に運営も乗ることにした』

 

 意外な名前が出た。そういえば病院に来てから彼女の姿を見ていなかったが、現地に残っていたのか。

 

『そこにいるね? マルカブ、スピカの両トレーナー。貴方たちと、ライスシャワーそしてサイレンススズカの力が必要だ。今日のレースを奮闘した者たちのためにも力を貸してほしい』

 

 

 

「うん! やりたい、ライスはそのアイディアすごくいいと思う!」

 

 シンボリルドルフから聞いた、トウカイテイオーの提案をライスに伝えると迷いなく返事が来た。

 ライスに負担がかかるものではないので私も反対する理由が無い。おそらく、サイレンススズカも同意見だろう。

 あとはエアグルーヴ……というか運営が病院を上手く説得できるかだ。

 考えているとスマホにメールが入った。文面には、病院から他の患者やスタッフに迷惑が掛からないことを条件に許可を得られたことが書かれていた。

 この短時間で協議を済ませるとは、URAの政治力は相当なものだな。

 ともかく、これで下準備はできたのだ。

 

「よし、じゃあ行こうか」

「うん!」

 

 二人の容態を鑑みて、場所はサイレンススズカの病室となっている。

 ライスを車イスに乗せて訪れると、既に機材とスタッフがいた。

 カメラとモニタ───数がそれぞれ二台あるのはベッドにいて姿勢を変えられないサイレンススズカのことを考えてだろう───そしてウマ娘用のイヤホンと、配信用の機材が並ぶ。

 

「私は一度抜けるね。……ライスをお願いします」

「ええ、お任せください!」

 

 スタッフにライスを預けて部屋を出る。

 診察のため一度着替えていたライスとサイレンススズカだが、ここから再び着替える必要があるのだ。

 

 そう、ウイニングライブのために。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「はあ……はあ……胃が痛い……!」

 

 ライブ会場の舞台袖で今日の主役は呻いた。

 

「もう……いい加減腹を括りなさいな。結局ソロは回避できたのですから」

「それでも最初のМCやるのは実質アタシ一人じゃん!」

「先輩、もう前の子たちのライブ終わるから準備お願いします!」

 

 メジロドーベルの言葉通り、舞台では今日の12Rに出走したウマ娘たちのウイニングライブ曲が終わりを迎えていた。

 この後彼女たちの締めのМCをやり、入れ替わりで始まるのはメインレースである天皇賞(秋)出走者たちのウイニングライブだ。

 

「大丈夫かな? ライスさんやスズカさんを差し置いて前に行くなんてブーイングされないかな?」

「事情はみんな知っているから大丈夫ですよ。それよりも───」

 

 肩を掴まれ、後ろを向かされる。

 同じくライブに出る八人のウマ娘が並んでいた。

 

「ライブ前に円陣組みましょう!」

「く……メジロ家が掲示板外した腹いせにプレッシャーかけてくる……!」

「まだ音源は差し替えられるんですよ?」

「よーしやろう! みんな輪になってー!」

 

 苦笑いを浮かべながら、ウマ娘たちが輪になり、手を中心へと伸ばす。

 

「えー突然の大役に吐きそうなんですが──ってウソですジョークですだから輪を崩さないで!

 おっほん……みんな、今日のレースはただ勝った負けた以上のものがあったと思います。でもきっとそれはお客さんたちも一緒。だからその気持ちだけでも共有できたらなって思います。それと───」

 

 一息おいて、

 

「この場にいない子たちに、どうしてあの場にいなかったんだって嫉妬しちゃうようなライブにしましょう! 特にサボったあんにゃろには特に!!

 いくぞ! トレセーーン……」

『ファイト! オー!』

 

 舞台へ向かう。

 入れ替わりで戻ってきたウマ娘たちとすれ違いざまにハイタッチ。会場の熱気を、想いをバトンのように引き継いでいく。

 舞台に上がり、観客が彼女たちの姿が見えただろう瞬間、歓声が沸いた。

 既に十を超えるライブがあっただろうに、観客の活気はこれっぽっちも衰えていない。

 それでも───

 

 それでも、悲哀の表情をした観客はいた。

 どこかで期待していたのだろう。都合のいい奇跡が起きて、この場にライスシャワーやサイレンススズカが並び立つ光景を。

 

(そりゃそうだよなあ……)

 

 分かっていたことだが、いざ目の当たりにすると心がささくれたつ。

 ウイニングライブはその名の通りレース勝者を称える場だ。本来の主役は一着のライスシャワーで、その隣には大人気のサイレンススズカが立つべきなのだ。

 それでも実際はそうならなった。

 だから、

 

(せめて、精一杯のライブをするのがアタシに出来ること!)

 

 決意を固め、一歩前へ。列から飛び出したウマ娘に、観客の視線が集中する。

 

「みなさーん! 元気ですかー!!」

『オオオオオオオオオオオッ!!!』

 

 マイクを通した大音声での呼びかけは、同じく大歓声によって返された。

 少女は頷いた。

 

「まだまだ元気って感じですね! いやーこれはアタシたちも歌い甲斐があるってもんです。でも、目を逸らすこともできないですよね。

 ……本当なら、こうしてマイクで話すのはアタシじゃなかった」

 

 客席が静まり返る。後ろにいるメジロマックイーンから大丈夫かと視線が飛んでくるが、大丈夫だと尾を振り返す。

 

「でも叶わなかった。彼女たちはケガをしてこの場にいない。だからしょうがない。現実を受け入れよう……なんて───!」

 

 片手を掲げ、伸ばした人差し指が天を指し示す。

 

「アタシらは、そんな聞き分けが良くねーんですよ!!」

 

 高い位置に設置された、舞台の様子を映していたモニタの映像が切り替わる。

 映ったのはライブ衣装を着た二人のウマ娘。その姿を見た観客は再び大きな声を上げた。

 

『みなさんこんばんは、ライスシャワーです!』

『サイレンススズカです。みなさん、今日は心配おかけしてごめんなさい。でも、私はこの通り大丈夫です』

 

 分割された画面の向こうから、病院へ搬送された二人が観客へ語りかけていた。

 彼女たちの無事に歓喜すると同時に、背景の様子から本当にケガをしたのだと心配の声も上がった。

 

『今のライスたちじゃ踊ることはできないし、ここは病院だから歌うこともできないけれど……』

『せめてライブの雰囲気だけでも共有させて下さい。仲間たちが一生懸命にライブする姿を、それを応援するみんなの姿を……』

『ワアアアアアアアアアッ!!!』

 

 観客からの答えは、熱気ある歓声が全てだった。

 

「よーし! じゃあ二人もこういっていることですし始めましょう! アタシだって全力で頑張ります! ライスシャワーがいたらなんて、サイレンススズカがいたらなんて絶対に言わせません!

 だからみなさんも、病院にいる二人が、このライブに出られなかった全員が! 今この瞬間ここにいないことを一生後悔するくらい思いっきり盛り上がりましょう!!」

 

 ライブ曲が流れだす。

 前奏が響くたび、少しずつウマ娘たちの中でボルテージが上がっていく。

 リズムに合わせていく中、客席からの声が耳に届いた。

 

「スズカー!」「ライスちゃーん!」「マックイーン!」「ドーベエエル!!」「ブライトォ!」「バァアアクシンオー!」

 

 聞こえてくるのは、スターウマ娘たちの名前を呼ぶ声。

 そうだよなあ、と苦笑する。

 今日突然こんな晴れ舞台に上がってきたウマ娘よりも、ずっと前から応援していた推しがいるはずなのだ。だから皆の目はそっちに行くものだ。

 やっぱり分不相応だったかな。でも盛り上げることはできたからまあいいか。

 そんなことを考えていると、

 

「オフちゃああああああああん!!」

 

 突然殴られたような気になった。

 一瞬だけ真白になった頭に、確かに声は届く。

 

「オフちゃーん!」「オフサイドトラップー!!」「三着おめでとう!!」「頑張ったねー!」「惜しかったよ!!」「もう少しだった!」「МC良かったよ!」「ずっと見てるよー!」

 

 聞こえる。自分の名を呼ぶのが。自分に向けた声援が。

 目を凝らす。口の動きで分かった、目が合ったからわかった。

 

「……いたんだ」

 

 碌な活躍のできないウマ娘だった。ケガしてばかりで、ほとんどレースに出られなくて。

 それでもいたのだ。今日だけの期間限定の者もいたかもしれない。境遇を憐れんで同情する者もいたかもしれない。

 それでも、ライスシャワーよりもサイレンススズカよりもメジロのウマ娘よりも、彼女の名を呼ぶことを選んだ人は確かにいたのだ。

 

 栄えあるGⅠのライブへ、彼女を見に来たファンはいたのだ。

 

「やっと───」

 

 歌が始まる。

 

「……やっと、みんなに会えた───!!」

 

 

GIRL’S LEGEND U

 

 

 宣言通り、彼女は力の限り歌い、踊った。

 燻ぶり続けた想いを焼き尽くすように。煮えたぎった想いを全て吐き出すように。

 舞台上を走り回り、客席に手を振り、マイクを向けてともに歌い、飛んで、跳ねて、叫んで、笑って、泣いて、

 

 そして───

 

 

 そして、トゥインクルシリーズからの引退を決めた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ウイニングライブが終わり、病院からの中継も終わったところで、サイレンススズカは息をついた。

 歌うことも踊ることもせず、ただ曲に合わせてサイリウムを振ったり歌を口ずさんだり、ファンに手を振るだけだったのに妙に満足している自分に気づいた。

 走ることしか興味ないはずだったのに、なんだかんだファンとの触れ合いを好いていたのだ。

 

(ただいまって言えたからかな……)

 

 モニタ越しに姿を見せたときのファンの歓声を思い出す。

 

(おかえりって言えたからかな……)

 

 トレーナーやスピカのメンバーも、リギルのメンバーも同じような気持ちだったのだろうか。

 レースを走り、そのままどこか遠くへ行ってしまうと思われていたのだろうか。

 

「……スズカさん、大丈夫?」

「───え、あ、はい。大丈夫です、ライスさん」

 

 ライスシャワーの声で思考の海から浮上した。

 考え事をしているのが脚を気にしているように見えたのか、ライスシャワーの視線はスズカの左脚を向いていた。

 そしてサイレンススズカも気付く。

 

「ライスさんも、左脚をケガしたんですね……」

「え? あーうん、最後のスパートでね」

「そう、なんですね……」

 

 なんの因果か、二人揃って故障したのは左脚だった。もっとも、サイレンススズカは骨折でライスシャワーは疲労と腫れなのだから程度は違うのだが。

 レース中、ライスシャワーがサイレンススズカを鼓舞してきたのは知っている。アグネスタキオンの言葉を共に聞いたのだ。宝塚記念でケガをした彼女がサイレンススズカを気にするのもおかしくない。

 そして、共に左脚をケガした。

 つい思ってしまう。自分のケガの一部をライスシャワーも代わりに背負ってくれたのではないかと。あの影のように。

 

「ライスさん」

「なに?」

「ありがとうございます」

 

 なんのこと、と言うように首を傾げるライスシャワー。

 

「いえ、言いたかっただけです。それと……───次は負けません」

「───ふふ、いいえ、次もライスが勝ちます」

 

 お互い、負けっぱなしでは終われない。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「よかったのか?」

 

 星空が広がる夜。トレセン学園への帰路に着く車中で、彼女のトレーナーが言った。

 

「なにがー?」

「引退のことだよ。今日の走りは過去一番のものだった。続けていれば次は───」

「次はないよ」

 

 切って捨てた。

 相談なく引退を宣言したことは悪いと思いつつ、覆す気はなかった。

 

「トレーナーも分かってるでしょ? アタシの最盛期はとっくに終わっちゃってるの」

 

 ケガを乗り越え、夏を頑張り、久方ぶりに出られたGⅠレース。

 様々な要因が積み重なった末、那由多の果てに見えた勝機を掴むために訪れた、三十六秒間の最盛期。

 

「あの上がり三ハロンがアタシの全て、これまでの集大成ですよ」

 

 もう一度同じ走りをしろと言われても無理だ。

 今日の天皇賞のあの瞬間限定の、流れ星のような輝きだったのだ。燻ぶっていた火種は真白な灰となり、煮え滾っていた想いはすでに空となっていた。

 体調が万全でも、熱が無ければウマ娘は走れない。

 それを聞いたトレーナーは、そうか、とだけ言って黙ってしまった。

 思い返せば、トレーナーには迷惑こそかけたが、恩返しはできていなかった。

 トレーナーの実績は担当するウマ娘の実績がそのまま反映される。重賞こそ勝ってはいるが、三度もケガさせたということを踏まえれば評価はトントン、もしくはマイナスかもしれない。

 自分を支えてくれたトレーナーが悪く言われることだけが心残りだった。

 

「トレーナーもさ、ようやくアタシから解放されるんだから次はもっといい子スカウトしなよ」

「……ばーか」

 

 思わず漏らした言葉に、トレーナーの手で髪をくしゃくしゃにされた。

 

「うわー!? なにすんのさ!」

「オマエがバカなこと言うからだよ。オレはオマエを担当して後悔したことなんかないし、諦めないのを迷惑だなんて思ったことない。むしろ、腐らず足掻く姿が好きだった」

「……ホントウ?」

「このタイミングでウソついてどうする」

「そっか……そっかあ───」

 

 胸のつかえが一つ消えた気がした。

 

「……アタシさ、ライブのセットとか演出に興味あったんだ」

「そうなのか?」

「うん。後ろで踊ってたり、療養中に他のウマ娘のライブ見てるとさ、ここでライト当てたら―とか、こういうセットあったらダンスとあうかもなーって思うことがあってさ。

 今日のライブで歌って踊って、改めて思ったの。……アタシなら、アタシにしか作れないステージがあるのかなって」

「そうか……レースの嬉しいことも辛いことも知っているオマエなら、きっとあるさ」

「うん……ありがとう、トレーナー」

 

 この日、一人のウマ娘の夢が終わった。

 けれども次の夢に向かって歩みだす日でもあった。

 そして、彼女の蹄跡は星々のように瞬き、確実に誰かの心を照らした。

 光を浴びた心から、また新しい夢が芽吹く。

 帝王が皇帝に憧れたように、皇帝の姿に心震わせた風があったように。

 そうしてウマ娘たちの想いは継承されていくのだ。

 

 

 

オフサイドトラップ トゥインクルシリーズ戦績

27戦6勝

主な戦績

△△年 天皇賞(秋)(三着)

△△年 新潟記念

△△年 七夕賞

 

 

 



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41話 ライスと見舞い客

すいません。誤投稿してしまいましたので一度削除しました。
こちら再投稿したものになります。



 

 激闘となった天皇賞(秋)は、レースだけでなくウイニングライブも含めて伝説となった。

 翌日の朝刊各紙はライスシャワーの天皇賞春秋制覇を称え、同時にサイレンススズカの不屈の闘志を賛美していた。

 さらにウイニングライブにも言及され、今年一番ともいえる盛り上がりを見せたことを伝えていた。

 また彼女たちの活躍はテレビのニュースやワイドショーでも伝えられ、普段ウマ娘レースに興味ないヒトも天皇賞(秋)のことを知ることとなった。

 いまや日本中で天皇賞(秋)が語られ、出走したウマ娘たちの名前が知れ渡っていた。

 

 

一組目 チーム・マルカブ

 

「いやーライス先輩もすっかり時の人、もといウマ娘デスね」

 

 病院の売店に並ぶ週刊誌にも名前が載っているのを見て、エルコンドルパサーは感嘆の声を上げた。

 

「昨年の復活からの有記念勝利、そして天皇賞の春秋制覇。当然と言えば当然でしょう」

「しかも秋天で勝ったのはあのサイレンススズカさん! 名実ともに、現役最強を名乗ってもよろしいのでは!?」

「さ、最強なんてすごいですぅ……!」

「流石はエルの先輩デス!」

 

 朝早く、マルカブの四人は病院へと来ていた。

 入院しているライスシャワーの着替えなどを諸々の用意を渡すためだ。そして昨日のレースのおめでとうを言うためでもあった。

 天皇賞(秋)が東京レース場開催で良かったと思いつつ、受付を済ませて病室へ向かう。

 聞いた部屋番号を確認して、扉に手をかけた。

 

 後にエルコンドルパサーは語る。ノックは大事、と。

 

「ライス先輩! 昨日のレースは本当にすご───」

 

「ほらライス、あーん……」

「あーん♪ ふふ……───あ」

 

 花咲く笑みから氷点下へ。

 トレーナーに病院食を食べさせてもらっている現役最強ウマ娘を見る後輩たちの目からは光が消えていた。

 

「え、えっと……みんなおはよう?」

「……………………………シツレイシマシタ」

「ま、待って! 違うの! みんな聞いて、お願い待って───!」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 病院食をいそいそと片付けながら、グラスがため息をついた。

 

「……他の患者さんもいるんですから、節度ある行動をお願いしますね?」

「はい、すみませんでした……」

「トレーナーさんも」

「え? あ、はい」

 

 ……どうして私たちは叱られているのだろう。異を唱えようと思ったがグラスの目が笑っていなかったのでやめた。

 苦笑いするエルが袋を渡して来る。

 

「すぐ二人っきりの空気にするんデスから……はいトレーナーさん、頼まれていた先輩の着替えデス」

「ありがとうエル」

「それと、こちらは先輩の同室のロブロイから。暇つぶしにとおススメセレクションデス!」

「わあ! ありがとうエルさん! ロブロイさんにもお礼言わないとね」

「そのためにも早く退院してくださいね。学園中、秋天の話題で持ちきりなんですから」

「トレーナーさん、実際のところどれくらい入院するんですか?」

「ケガ自体は大したことないからね。今は消耗していた身体の回復が目的だけど、体調も戻ってきているから来週には退院できると思う」

「来週……」

 

 グラスの呟きに、ライスが申し訳なさそうに耳を倒した。

 

「うん。だからグラスさんの菊花賞は応援に行けないんだ、ごめんね」

「そんなこと……! ライス先輩からはもう、大切なものを貰いました」

「そっか……それなら良かった」

「わ、私も……!」

 

 ドトウが声を上げた。

 

「せ、先輩が仰っていた勝ちたいっていう気持ち、レースでしっかり伝わってきました……!」

「ありがとうドトウさん」

 

 グラスやドトウだけではない。エルとデジタルも力強く頷いている。

 ライスの決死の秋天は確かに後輩たちの胸に響いていた。メディアの反応を見る限り、同じように影響を受けるウマ娘は多いだろう。

 

「じゃあ、みんなもライスに続かないとな!」

 

 タマモクロス以来の天皇賞春秋制覇、そして無敵と思われたサイレンススズカへの勝利でライスの評価はうなぎ上り、ケガから復帰したステイヤーというだけでは収まらないだろう。

 そして世間からの注目はライス個人だけでなく、彼女が所属するチームにも及ぶ。

 グラスたちもそれに気づいているのだろう。

 チーム・マルカブはライスシャワーだけのチームではない。それを証明するため、ライスの栄光に続くため、その瞳は熱を帯びて爛爛と輝いていた。

 

「残りのシーズンも頑張ろう!」

『おー!』

 

 まずはグラスの菊花賞。私もライスが強かっただけなどと言われないように気合を入れなければ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

二組目 ちょっとマッドな後輩たち 

 

「ごめんくださいな!」

「……」

 

 奥ゆかしくも快活な声に続いて、むすっとした表情のウマ娘が揃ってやって来た。

 片方はライスシャワーも知った顔だったが、もう一人は初めて見る顔だった。

 

「こんにちは……シャカールさんと、えっと……」

「はじめまして! ファインモーションと言います! ライスさんが走った秋天、とっても興奮しました! もうファンになってしまいそう!」

「そ、そうなんだ……ありがとうね」

 

 名前を聞いて思い出す。海外からの留学生にそんな名前があった。

 ファインモーション。アイルランドからの留学生であり、王族に連なる正真正銘のお姫さま。

 レースを走るのではなくあくまで外の文化を知るために日本に来た尊き血統であった。

 

「シャカールがね、ライスさんに聞きたいことがあるって言うから私も気になってついてきちゃいました! シャカールが他のウマ娘に興味持つって珍しいことなんですよ!」

「ライスに……興味?」

  

 一匹狼とお姫さまという童話のような組み合わせに驚きつつ、ライスシャワーの視線は用があるというエアシャカールへと向かう。

 余分なやりとりを嫌うエアシャカールは普段持ち歩いているノートPCを見せた。

 

「『Parcae』?」

「ああ、こいつの性能は夏合宿で散々見せたよな。あの秋天で『Parcae』が出したアンタの順位は……六着。だが実際はそうならなかった」

 

 エアシャカールが苦い顔をする。

 

「あれからパラメータをいくら弄っても秋天の結果を再現できねェ。忌々しいが、あのレースでオレには未知の何かが起きたとしか思えねェ。未知(それ)が何なのかをオレは知りたい」

「ライスにはシャカールさんのやってる計算とかよく分からないよ?」

「そこまでの解説は求めてねェ。アンタはあのレースで何があったか、何を見たか、聞いたか、考えたか、それらを洗いざらい喋ってくれればいい」

 

 渡すのはあくまで事実、例え私感が混じっていようとそこからロジックを探り当てようということか。

 ライスシャワーとエアシャカールの接点は夏合宿中しかない。短い間だったが、その間エアシャカールが頼み事をしてきたことなどなかった。

 彼女の中では全てが計算し尽くされており、外部からの助言など不要だったのだ。

 そんなエアシャカールが頼みに来た。その重大さをライスシャワーは察した。

 

「重要な情報だ。タダとは言わねェ……礼は───」

「いらないよ。教えてはあげるけどね」

 

 言葉を遮られたエアシャカールの眉根が跳ねた。

 

「夏合宿の時も似たようなことあったよね。ライスは事実を伝えるだけで、シャカールさんの役に立つかは分からない。だから今の段階でお礼なんて貰えない。

 ……将来、ライスの体験がシャカールさんの役に立って、それを借りだと思ってくれたならその時返してくれればいいよ」

 

 甘いなと思った。

 エアシャカールの頭脳と彼女が使う『Parcae』は有能だ。今後もマルカブへの協力を取り付けることもできたし、何だったらチームに引き入れることも条件に出せただろう。

 でもそうはしない。エアシャカールはまだ誰かの支えが必要な時ではないから。

 その時が来たら、また誘ってみればよいのだ。

 

(お兄さまのこと言えないなぁ……)

 

 よし、と膝を軽く叩く。

 

「せっかくだからスズカさんにも聞きに行こう。スズカさんもライスと同じ体験をしたはずだし、聞くなら多い方が良いよね」

「ん……まあそうだな。向こうにも話を聞くつもりだったが、分けて聞くよりまとめての方が効率的だ。ンじゃあ向こうに───」

「その話、私も混ぜてくれませんか?」

「どわぁあっ!? ───ってカフェかよ。いきなり後ろに立つんじゃねえ!」

「それは失礼しました……」

 

 いつの間にか部屋にいたのは長い黒髪のウマ娘、マンハッタンカフェだった。

 少し俯きがちな姿勢で垂れた前髪の奥から金の瞳がライスシャワーを見ていた。

 

「ライスシャワーさんのお話、私も興味があります。差し支えなければご一緒させてください」

「ライスは良いけど……」

「別に独占する気はねェよ、好きにしろ」

「ふふ、じゃあ早速行きましょう! ……あ、ライスさんはまだ歩けないですよ? 隊長ー!」

「え? え?」

 

 ファインモーションが声を上げた瞬間、どこからか黒服のウマ娘が現れた。

 目を白黒させるライスシャワーをよそに見事な手際で彼女を車イスに乗せてしまった。

 

「それじゃあサイレンススズカさんの病室へ、レッツゴー!」

『お、おー?』

 

 

 

 ◆

 

 

 

「おや、珍しい組み合わせだねぇ」

 

 サイレンススズカの病室には先客がいた。アグネスタキオンだ。

 彼女は訪れた面々を見て、全て察したようだった。

 

「カフェにお姫さまとは珍しい組み合わせだ。しかし、シャカール君も秋天の話を聞きに来たのか。考えることは同じだねぇ」

「お互い、予想外の展開だったわけだな。タキオンはどこまで聞いた?」

「まだ何も。ついさっき来たばかりでね。まずは以前の無礼を謝りに来たのさ」

「……驚きました。タキオンさん謝るなんてできたんですね」

「ヒドイなあカフェ! 私も自分の落ち度を認めたら謝るさ。ま、滅多にないことなのは認めるが……」

「テメェの自分語りなンてどうでもいい。時間の無駄だ。……サイレンススズカ、オレは秋天の話を聞きに来た」

「レースのこと?」

 

 ああ、と頷くエアシャカールの言葉をライスシャワーが引き継ぐ。

 

「あのレースで見たことを知りたいんだって。スズカさんやライスが見たものを……」

「……そう、なんですね。別に私は構わないけど……タキオンの目的もそれ?」

「謝罪に来たのは本当だよ。まあ、聞きたかったのは本当だがね」

 

 アグネスタキオンがサイレンススズカから離れ、代わりにライスシャワーが傍につく。

 激闘を繰り広げた二人が、未だデビュー前のウマ娘たちの方を向いた。

 

「みんなには信じられないことかもしれないけど……」

「あのレースで本当にあったことだから───」

 

 サイレンススズカとライスシャワーの二人で、天皇賞(秋)で起こったことや見たことを語っていく。

 足元から広がる影、浮かび上がってきた四足脚の影。その影から聞こえた声。そして至った領域。

 全てを語り終えたとき、聴衆の反応は二種類あった。

 

「不思議なお話だったわ……」

「……どうやら、私が普段感じるものとは違うものが見えたのですね」

「興味深いねぇ……」

 

 驚きつつも受け入れる三人と、

 

「ンだよ……オカルトじゃねえか。ロジカルの欠片もありゃしねえ……!」

 

 困惑するエアシャカールに分かれた。

 

「まあシャカール君は全てがゼロと一で構成された理論の世界の住人だからね。私みたいに可能性に夢見るウマ娘とは反応が違うか」

「テメェは受け入れるのかよタキオン、今の話をよォ……」

「二人とも嘘をつく性格ではないと知っているからね。彼女たちが体験したことは本当だろうさ。それが彼女たちの頭の中だけで起きた幻覚なのか、私たちに見えない形で発現した現実なのかは判断つかないがね……シャカール君だって話を聞くだけで答えが分かると思っていたわけではないだろう?」

「そりゃあそんな単純なモンじゃねえとは思ってたさ……」

「ならば今後の検証課題の一つぐらいに受け取っておきたまえ。……二人のウマ娘がほぼ同時に同じモノを、彼女たちだけが見た。これだけでもただの幻覚では済ませられないだろう。面白くなってきたじゃないか!」

 

 クククと怪しく笑うアグネスタキオンと、オカルト的な話を受け入れがたいエアシャカール。

 チームに誘うことは出来なかったが、二人との関りはまだまだ続きそうだなと思ったライスシャワーであった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

三組目 トリックスターな彼女

 

「どもどもー! お加減どうですかー?」

 

 学園の授業も終わったであろう頃、とあるウマ娘がライスシャワーの病室を訪ねて来た。

 少しおどけた様子を見せる、グラスワンダーとエルコンドルパサーの同期でもある皐月賞ウマ娘セイウンスカイだった。

 制服姿なのは授業が終わって直行だったのか、予想外の来訪に少し面喰いつつもライスシャワーは拒むことなく葦毛の彼女を迎え入れた。

 

「どうも……なんか意外だね」

「そうです? まあ前会ったのはグラスちゃんとエルの祝勝会でしたし、接点もあの二人通じてしかありませんから友人の友人みたいな感じかもですね。

 ……あ、でもでも! レースで活躍している先輩がケガで入院ってなったら心配するもんじゃないですか!」

「それは……そうだね」

「そうでしょうとも。ですからこうしてお見舞いに。それとまあ、あの凄い秋天についてお話聞かせてもらえたらなーと……」

「菊花賞で勝つために?」

 

 セイウンスカイが目を見開いた。

 少しバツが悪そうにする後輩に、ライスシャワーは笑って言う。

 

「別に悪いことなんて思ってないよ? ライスもブルボンさんに勝つために色々調べたりしたし。何だったら自主トレについて行ったりもした。それだけセイウンスカイさんも本気ってことだよね」

「スカイでいいですよ……そう言ってもらえると助かります。……グラスちゃん、学園だと凄いことになってるの聞いてます?」

 

 ライスシャワーが首を横に振ると、やっぱり、とセイウンスカイは息を吐いた。

 セイウンスカイ曰く、今のグラスワンダーは随分と気を張っているとのことだった。

 元より勝負事には本気になるウマ娘だ。迫る菊花賞に向けてそうなるのはセイウンスカイにも分かっていたことだった。

 しかしその様相はセイウンスカイの想像を超えていた。

 日ごとにグラスワンダーから感じる気迫のようなものが強くなっていく。チリチリとした殺気染みたものすら感じられた。

 最初はグラスワンダーなりに気負っているのだと思った。なにせ彼女にとってクラシック最初のGⅠだ。同期がクラシックで次々と頭角を現す中、春を全休し、夏を超え、ケガをした脚を癒してついにやって来た大舞台。平静でいられる者の方が少数だろう。

 しかしそれだけではないとセイウンスカイは感じた。

 グラスワンダーの目は菊花賞の他にも追っているものがあった。頂点という自身が立てた目標ではなく、もっと近く、けれど遥か先にあるもの。そして察した。

 

「グラスちゃんってば、あの秋天に完全に魅せられちゃったんですよ。正確に言えばライス先輩の走りに……」

「ライスの走り……」

「そうです。ライス先輩みたいな凄い走りをしたい、レースをしたい、グラスちゃん自身が感じているような熱を誰かに点ける存在になりたい。遠くからトレーニング見ているとそんな決意をヒシヒシと感じます。いやーホント、ダービーのエルの次は菊花賞でグラスちゃん! 毎回毎回強力なライバル出て来ちゃってセイちゃんまいっちゃう!」

 

 言葉とは裏腹に、セイウンスカイは笑っていた。

 瞳に光るのは自棄ではなく闘志。彼女もまた、強敵を相手することに対して燃えているのだ。

 

「───で、ここからが本題です。私もグラスちゃんと走ったのは春のウマレーター以来なので最新情報が欲しいんですが、この時期に偵察とか流石にマルカブさんも許しちゃくれません。そこで!」

「ライスに話を聞きに来たの?」

「ええ。さっきも言いましたがグラスちゃんはライス先輩を意識しています。何だったら秋天の影響でレース中の考えなんかも真似しているかもです。なので先輩からお話聞ければヒントになるんじゃないかなーと」

 

 ずずい、とセイウンスカイが身を乗り出す。

 

「秋天、どうしてあのタイミングで仕掛けたんです?」

 

 あのタイミング、というのはサイレンススズカが第三コーナーで負傷した時のことだろう。

 

「……それが聞きたいこと?」

「ええ。セイちゃんこれでも逃げウマ娘なので。今現役で一番逃げウマ娘捕まえるのが上手いの、先輩でしょ? そんな先輩があのタイミングで仕掛けるのは早計だったんじゃないかなと」

 

 逃げウマ娘である以上、どのタイミングで仕掛けられるのが嫌かは知っている。そのセイウンスカイから見て、ライスシャワーの仕掛け時は早かった。

 事実、一度は抜かれ三番手に落ちた。近いタイミングで仕掛けたメジロマックイーンもエアグルーヴやキンイロリョテイに差されて掲示板を外している。結果として勝ったとはいえ不要なリスクを負った形だった。

 

「そうだね……」

 

 何と答えたものか、というよりもグラスワンダーのライバルに塩を送ることになるのに答えて良いのかとライスシャワーは考える。

 答えた時、グラスワンダーは、トレーナーはどう思うだろうか。自陣に不利なことをするなとライスシャワーを責めるだろうか。

 

「……言わないよねぇ」

「ライス先輩?」

「ううん。なんでもない……」

 

 頭を振る。答えは出た。少し考えればわかることだった。

 

「いいよ、教えてあげる。あのタイミングで仕掛けた理由はね……ライスがそうしたかったから」

「え? それだけです?」

「うん。それだけ」

 

 サイレンススズカに起きた全てを伝える必要はない。セイウンスカイが聞きたいのはそこではないのだ。

 

「なんて言えばいいのかな……うん、スカイさんも今は分からないかもしれないけどあるんだ。自分が満足できる勝ち方と、できない勝ち方が」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 お礼を言ってセイウンスカイはライスシャワーの病室を後にした。

 思いの外話し込んでしまったためか、外はすでに秋の夕暮れも過ぎて薄暗い。

 

「納得できる勝ち方、か……」

 

 天皇賞(秋)についてライスシャワーが語ったのはそれくらいだった。だがセイウンスカイにはそれだけで十分だと思った。

 一から百まで答えを教えてもらってはトリックスターの名が廃る。病院の廊下を歩きながら、ライスシャワーからの言葉を読み解いていた。

 

「つまりは、あのタイミングで仕掛けないと勝てても満足しなかったってことだよね……分かるような分からないような」

 

 セイウンスカイもレースのために策を練る。周囲の予想を裏切ったりして会場がどよめく様が心地良いからだ。だがそれは結果として自分に有利に働く策だ。ライスシャワーのように、自分が不利になるようなことはしない。

 

「自分を敢えて不利にした? GⅠで? あれだけ身体を仕上げてきておいてわざわざ? ……あ、逆か」

 

 考え方を変えた。ライスシャワーの仕掛けが良い方に回ったウマ娘もいるはず。彼女の目的がそちらにあるとしたら。

 スマホを取り出し、動画サイトにアクセス。天皇賞(秋)のレース動画を再生する。何度も見た映像だが、ライスシャワーの言葉を見た今なら新しい発見があるかもしれない。

 

「……これか」

 

 やはりあった。ライスシャワーが故障したサイレンススズカを抜き去ってから突然の復活を果たすまで、彼女の視線は後ろを向いていた。

 後方で控えるエアグルーヴたちを見ているのかと思っていたが、もしもその視線がサイレンススズカへ向いたものだとしたら。

 

「どうしてそうしたかったのかは流石にセイちゃんでも分かりませんねー。でも、ライス先輩の言う満足はこれなんですね」

 

 理解には至らない。だが、ここでサイレンススズカの前に出ることがライスシャワーにとっての満足できる勝ち方なのだろう。

 

「これをグラスちゃんに当てはめるとしたら……」

 

 大和撫子なんて気取っているが、人一倍勝負に拘るのがグラスワンダーだ。彼女はレースの結果だけでなく内容にも拘る。

 つけこむとしたらそこだろう。

 

「と言ってもなーあんまりやり過ぎたらグラスちゃん本気で怒りそうだし。流石に険悪になるような真似はしたくないな……でも」

 

 勝負か友情か。セイウンスカイの中で天秤が揺れる。

 

「私も菊花賞は本気(マジ)だからさ。何かあっても恨みっこなしだよ、グラスちゃん……」

 

 

 

 ◆

 

 

 

四組目 後輩二人

 

「スぺちゃん……」

「あ、グラスちゃん……」

 

 病院の廊下で、二人のウマ娘が出会った。

 お互い、入院しているチームの先輩への見舞なのだろう。

 どちらも週末の菊花賞を控えているが日中はクラスで共に座学を受ける身。それは学外で会っても同じ。なのに、二人の間には緊張があった。

 

「スぺちゃん、今日もスズカさんのお見舞いですか?」

「う、うん……」

「あれから毎日だと聞いています……大丈夫なんですか?」

「だ、大丈夫だよ! スズカさんってばもう走りたい走りたいって───」

「そうではなく、スぺちゃんがです。菊花賞はもう目の前ですよ?」

「それはグラスちゃんだって……!」

「私は着替えを取り換えに来ただけです。すぐに学園に戻ります……けど、スぺちゃんは違うんですよね?」

 

 それは、とスペシャルウィークが目を逸らす。

 天皇賞(秋)から菊花賞までの間は一週間、京都レース場開催のため移動時間を考えたら残された時間は少ない。だというのに、スペシャルウィークはトレーニングよりもサイレンススズカの見舞を優先していた。

 

「菊花賞を投げ出したつもりはないよ……でも、スズカさんのことも心配なの」

「骨折は大変なケガなのは分かります、しかし命に別状はなく復帰も可能と聞いています」

「そうだけどそうじゃないの! 私にとってスズカさんは大切な先輩で……今は菊花賞よりも───」

「それは───!」

 

 いけない。

 胸の奥でグラスワンダーは自身を諫める声を聞いた。

 しかしもう遅い。撃鉄は振り下ろされ、火の花は咲いてしまった。

 

「スぺちゃんにとって、菊花賞はその程度なんですね……!」

「え?」

「私にとって菊花賞は特別なものです。みんなと初めて走れるクラシック、大切な先輩が栄光を手にしたレース、そして……トレーナーさんにスカウトしていただいた恩返しの場でもある」

 

 グラスワンダーの耳が絞られている。激情のまま言葉が紡がれていく。

 

「頂点を目指すため、尊敬する方に追いつくため、友のために、後輩に道を示すために、大切な人の傍に居続けるために……私は菊花賞を勝ちます!」

「グラスちゃん……」

「スぺちゃんがスズカさんのお世話を優先するというのなら構いません……ですが、やはり残念でなりません」

 

 歩き出すグラスワンダー。スペシャルウィークの横を通り過ぎ、その先へと向かう。

 

「スぺちゃんとは、クラシックで真剣勝負をしてみたかったです」

 

 ライバルの返事を待つことなく、グラスワンダーはその場を去った。

 一人残されたスペシャルウィークの瞳が揺れていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「やってしまいました……」

「よしよし、そっか……スぺさん、毎日スズカさんのお見舞いに来てたんだね」

 

 病室にやってくるなりベッドを埋めるグラスワンダーの髪をライスシャワーはそっと撫でた。

 

「スぺちゃんに嫌われてしまったでしょうか……」

「でもグラスさんが怒るのも分かるよ。ライバルに無視されたら、ライスも同じようなことすると思う」

 

 例えばミホノブルボン、例えばマチカネタンホイザ。同期の彼女たちが、自分と同じレースを走るのに別のことに気を取られていたらどうするか。やはりグラスワンダーのようなことをするだろう。

 

「でもね、グラスちゃんも気を付けないとダメだよ?」

「……何をですか?」

「ライスに追いつこうって頑張ってくれるのは嬉しいけど、次のレースで走るのは同期の子たちだよね? よそ見してたら足掬われちゃうよ」

 

 へたった耳を弄ると、くすぐったいのかグラスワンダーが身をよじった。

 スペシャルウィークがサイレンススズカを按じてトレーニングに身が入っていないように、グラスワンダーもライスシャワーの影を追う余り、自分が走る菊花賞を見ていない。ライスシャワーが走った菊花賞をなぞろうとしている。

 覚えがあったのか、グラスワンダーが気まずそうに目を伏せた。

 

「同期の子たちがみんな凄い子なのはグラスさんも分かっているよね。油断したらダメだよ。それに……」

 

 グラスワンダーと目が合い、ライスシャワーは笑う。

 

「スぺさんのことなら大丈夫だよ。あっちの先輩も頼りになるだろうから」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「そう、グラスさんが……」

 

 変わってサイレンススズカの病室でも、同じようにスペシャルウィークがベッドに顔を埋めていた。

 落ち込む後輩の髪を撫でながら、サイレンススズカは続ける。

 

「私はあまりレースの格とか重みとかは考えたことないけど、そういうのを大事にするウマ娘がいるのは知っているわ。エアグルーヴやドーベルならティアラ、ブライトなら天皇賞(春)、パールさんやタイキからは聞いたことないけど海外遠征にとても力を入れていたのを覚えているわ。グラスさんにとっては菊花賞がそれなのね」

 

 チームの先輩であるライスシャワーが勝ったレースであり、チームメイトのエルコンドルパサーが負け込んでいるところもあって、彼女に気合が入るのは当然だろう。

 しかし、それだけではないということもサイレンススズカは察していた。

 

「フクキタルが言っていたわ。秋天以降、学園のウマ娘たちが燃えるようにトレーニングに励んでいるって。私やライスさん、あのレースに出たみんなの走りに魅せられたんだって……きっとグラスさんもライスさんに魅せられたのね。……ねえ、スぺちゃん」

 

 名前を呼ばれて、スペシャルウィークが顔を上げた。

 

「スぺちゃんが走る私を見て感じたことは何だった? 足元が脆い先輩? 無茶をする危ない先輩?」

「ち、違います……! 私がスズカさんを見て感じたのは───」

「うん。じゃあそれをレースで見せて。グラスさんがライスさんを見て熱くなっているように、スぺちゃんは私から何を受け取ってくれたのか……菊花賞で見せて?」

 

 はい、と静かに返事をしてスペシャルウィークは病室を去った。

 ゆっくりとした歩みだったが、入ってきたときのような落ち込みは無いとサイレンススズカは理解した。

 静かに、音もなく、けれども確かにスペシャルウィークに火が点いたのだ。

 

 クラシック最後の一冠、世代で最も強いウマ娘が決まる。

 勝つのはトリックスターか、夢叶える流星か、不屈の蒼炎か。それともまた別の誰かか。

 皆が決して譲れぬ想いを胸に宿し、京都レース場に集う。

 その日の淀は、日本で最も熱かった。

 

 菊花賞が始まる。

 





続けてすいません。四章はあと一話あります。
キリ良く終わらせたいので明日も投稿します。


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42話 黄金たちと菊花賞

誤字報告いつもありがとうございます。



 京都レース場に入った瞬間、セイウンスカイが感じたのは季節外れの熱気だった。

 秋の午前中だというのに、淀は観客に溢れており、彼らの興奮と期待が熱源となっていた。

 

「あれ~ちょっとトレーナーさん、どうして今日はこんなにヒトがいるんです?」

「そりゃあお前、菊花賞を見に来たんだろうさ」

「菊花賞って午後からですよね? 何故にみんな朝から集まって……」

「GⅠがメインレースって日にメインに合わせて来てたら遅いだろうよ。……まあ確かに例年よりも客入りは多いようだが」

 

 よく見ると、レース場のパンフレットを片手にあっちこっちへと回っているのが目に映った。

 普段レースを見ないような層までが、今日のレースを見に来たのだと分かった。

 

「先週の秋天の影響か……」

「レース終わってからもスゴイ盛り上がりましたもんねー。連日ニュースでやってましたし」

「興味持ってくれるヒトが増えるのは良いことだ。URAの懐もウハウハだろうな」

「今日はスズカさんもライスさんも出ないんですけどね……」

「な~に言ってんだよ!」

「わぷっ!? 何するんですか、せっかくセットした髪が乱れるじゃないですかー!」

「適当に櫛通しただけだろ。それよりもスカイ、よーく客席見とけよ……」

 

 どうしてです? と聞き返すセイウンスカイへ、彼女のトレーナーはニヤリと笑う。

 

「こいつら全員、お前の走りにアッと言わされることになるからな」

「……はは、トレーナーさんも焚き付けるのが上手いですねえ」

「行ってこい。あのレースで魅せられたのは、スペシャルウィークやグラスワンダーだけじゃねえってな」

「───はい」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 チーム・マルカブの控室。その更衣室でグラスワンダーは着替えた自分を姿見で見ていた。

 青と白を基調としたセーラータイプの勝負服。これに袖を通すのは昨年の朝日杯フューチュリティステークス以来、十か月ぶりだった。

 一年近い時間を経て成長した身体に合わせて作り直したため、久しぶりながらも違和感なく馴染んでいた。

 

「緊張してる?」

「……少しだけ。ですがそれよりもワクワクしている自分がいます」

 

 トレーナーの問いに笑って答えた。

 チームメイトたちも各々声をかけ始める。

 

「グラス! エルの分も頑張って来て下さい!」

「あたしはもう瞬きせずに先輩の走る姿を目に焼き付けますからね!」

「応援しかできませんけど、しっかりと応援させていただきますぅ!」

「病院から応援しているライスからも伝言だ。『思いっきり楽しんできて』だそうだ」

「……はい! 行ってまいります!」

 

 控室を出て地下バ道へ。ターフへ向かって歩いていると、同じ方向へ歩くスペシャルウィークに会った。

 

「スぺちゃん……」

「グラスちゃん……」

 

 互いに会うのは病院での一件以来だった。

 なんと言おうか考えていると、スペシャルウィークの方から口火を切った。

 

「スズカさんは私にとって憧れの大切な先輩……だからスズカさんがケガをした時は頭が真っ白になって、無事だと分かった時は嬉しくて……でもまたケガをしたらって心配だった。

 だから私は……スズカさんの傍にいたい。スズカさんのすぐ横を走っていられるような凄いウマ娘になりたい!」

「スぺちゃん───」

「グラスちゃんがライスさんに追いつきたいように、私もスズカさんに追いつきたい! スズカさんと同じレースを走るためにも、今日は───」 

 

 スペシャルウィークの目に、もう迷いない。

 

「私が勝つから!」

 

 グラスワンダーに負けず劣らずの気炎万丈、気合十分だった。日本ダービーを勝った故か今日のレースも一番人気。実力も世間からの評価もまさに世代のトップであるスペシャルウィークが気力も十分であるということに、グラスワンダーはますます燃えていた。

 エルコンドルパサーを打ち破ったウマ娘と堂々と勝負できるということが、彼女をさらに高揚させていた。

 

「いいえ、私が勝ちます。……ですが良かった、これでお互い全力を尽くせますね」

 

 譲る気は毛頭ない。互いの闘志が共鳴するように膨れ上がり、地下バ道を満たしていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 日本ダービー以来の勝負服に着替えて地下バ道に出た瞬間、セイウンスカイはピリピリと肌を差すような空気を感じた。

 そして奥より、二人のウマ娘がやって来た。

 グラスワンダー、そしてスペシャルウィーク。他のウマ娘もクラシック最後の一冠を取ろうと気合が入っているが、この二人は別格だった。

 

(当たり前だよね、秋天であれだけのレースを見せられたらさ……)

 

 一週間経っても語られる今年の天皇賞(秋)、激闘を繰り広げたのは彼女たちと同じチームの先輩だ。

 次は自分だと、先輩の覚悟を受け継ぐのだと、そんな気概が見て取れた。

 

(でもさ……魅せられて、熱くなっちゃってるのはこっちも同じなんだよね)

 

 口角を上げ、両手を頭の後ろに回し、軽快な足取りで近づく。

 

「やっほーお二人さん! 今日はよろしくね!」

「ええ。互い全力を尽くしましょう」

「負けないからね、グラスちゃん、セイちゃん!」

 

 笑顔の本質は威嚇、なんて言い出したのは誰だろうか。

 譲る気など微塵もなく、三人の顔には笑みがあった。

 

 菊花賞が始まる。

 

 

「ちょぉおっとまったあっ!! このキングを差し置いて勝手に始めるんじゃないわよ!」

「あ、いたんだキング」

「いたわよ!」

 

 ……始まる。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『クラシックロードの終着点、菊花賞を制し最強の称号を手にするのは誰か。それを目に焼き付けんと多くのファンがこの京都レース場に集いました』

『まるで先週の天皇賞の興奮をそのまま受け継いできたかのような熱気です。出走する十八名のウマ娘たちも気合十分、その熱意に当てられてか雲一つない晴天となりました』

『注目のウマ娘を紹介しましょう。三番人気は長い休養から復帰し、前哨戦を見事勝利したグラスワンダー。ジュニア級王者の貫禄を見せつけられるか。

 二番人気は皐月賞ウマ娘セイウンスカイ。その一癖ある逃げは長距離の舞台でも発揮されるか、トリックスターの手腕に期待です。

 そして一番人気はダービーウマ娘スペシャルウィーク! あのエルコンドルパサーを差し切った末脚は今日も炸裂するのか。続きまして───』

 

 病院の談話室には人だかりができていた。

 ほとんどは備え付けられたテレビに映る菊花賞の中継を見るためだが、テレビの前に陣取るウマ娘を一目見るためでもあった。

 車いすに乗ったライスシャワーとサイレンススズカ、彼女たちに付き添うメジロマックイーン。トゥインクルシリーズのGⅠ戦線で活躍するスターウマ娘が三人も集まっていた。

 

「もしかして迷惑かな……」

 

 ライスシャワーの耳が不安そうに揺れた。

 病室にあるテレビや自前のスマホでは画面が小さいためここまで来たが、こうも注目されると少し居心地が悪くもあった。

 

「別に後ろめたいことなどないのですから堂々としていればよいのですわ。現地に応援に行けない分、できるだけ大きなモニタの前で見たいと言ったのはライスさんでしょう?」

「そうだけど……」

「もう少し自信を持ってください。複雑でしょうけど、今ここにいることが幸運と思う方もいるんですのよ」

「そうなの?」

「ええ、図らずともここには菊花賞や天皇賞を制したウマ娘に稀代の逃げウマ娘がいるのです。そんなスターウマ娘が集まってクラシックレースを見て語る。中々味わえない経験でしてよ?」

 

 メジロマックイーンの言葉に、そうだ! と後ろにいた人だかりから声が上がった。

 サイレンススズカは苦笑いしつつ、この状況を受け入れているようだ。

 

「そ、それじゃあ……お言葉に甘えて? ……よろしくお願いします」

 

 歓声、は挙げられないので控えめだが拍手をもって賛同された。

 皆の視線がテレビへと集中する。

 パドックはすでに終わり、出走ウマ娘たちはゲートへと入っていった。

 ファンファーレが止む。一瞬の静寂。

 

 そして、ゲートは開いた。

 

『始まりました菊花賞! 最初に飛び出したのは葦毛のウマ娘! 皐月賞ウマ娘のセイウンスカイだ! 天皇賞(秋)のサイレンススズカを思わせる逃げっぷりに場内は大興奮です!』

 

 ハナを取ったセイウンスカイ。グラスワンダーとキングヘイローは先行集団に留まり、スペシャルウィークは十番手と後方に控えた。

 セイウンスカイに無理について行くウマ娘はいない。菊花賞は3,000mの長丁場、クラシック級の彼女たちにとって初の長距離レースだ。自分なりのペースで走っていた。

 

「ペース速いね」

「ですわね」

 

 1,000mを通過したセイウンスカイのタイムは五九秒六、長距離レースにしてはかなりのハイペースだった。

 

「このペースで3,000mだと私でも最後までもたないかも……」

「緊張で掛ってしまったのでしょうか?」

「どうだろう……」

 

 ライスシャワーの脳裏によぎるのは病室を訪れたセイウンスカイの姿。貪欲に勝利を求める彼女がGⅠの舞台とはいえ緊張からの暴走するとは思えなかった。

 

「スカイさんはブルボンさんみたいに気力で逃げ切るタイプでも、スズカさんみたいな圧倒的スピードで逃げ切るタイプでもない。常に思考を巡らせてレースを支配する策謀タイプ……!」

「どうせバテると甘く見ていては痛い目を見るというわけですのね」

「でも無理について行ったら自分がバテちゃう。だから重要なのはバランス。自分の射程圏内に相手を収めつつ、ペースも維持すること」

「そっか……そんなに色々考える必要があるから、一番強いウマ娘が勝つレースなのね」

 

 セイウンスカイが2,000m地点を通過した。タイムは六四秒三と先ほどと比べてかなりペースを落としていた。

 飛ばし過ぎたんだ! と後ろから声が飛ぶが、ライスシャワーやメジロマックイーンはそうは思っていなかった。

 何故なら、今セイウンスカイは二周目の上り坂にはいるところだったから。坂を駆け上がる以上、どうしてもスピードは落ちるものだ。彼女だけでなく、他のウマ娘たちも落ちる場所だ。

 

「でも逆に言えば、息を入れるタイミングでもある……」

「一人ハイペースによる後続との差はその余裕を生むためのもの。つまりセイウンスカイさんの脚はまだ残っている……!」

「もし私がこのタイミングでまだ脚を残せていたとしたら、私を差せるのは絶好調のフクキタルくらいね」

「グラスさん……」

 

 三人のGⅠウマ娘の見解は同一だった。

 このタイミングで後続は仕掛けなければ、セイウンスカイが逃げ切ると。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 グラスワンダーの前を走るセイウンスカイのスピードは明らかに落ちている。スタート直後からのハイペース。3,000mを走り切るには無謀な逃げなのは明らかだった。

 

(スカイさん……)

 

 クラシック最後の一冠。出走ウマ娘全員がベストを尽くすものになって欲しいと思っていた。だからこそ、レースから意識が逸れていたスペシャルウィークにも怒りを向けてしまったが、セイウンスカイも暴走するとは思っていなかった。

 このまま力尽きるであろうセイウンスカイを抜き去る。真剣勝負である以上仕方ないが、やはり心にしこりが残るものだった。

 

(いや───)

 

 自分の考えを、脳がどこかで否定した。

 もしも、セイウンスカイが実はまだ脚を残していたとしたら。

 今のバ身差を維持したままに坂を登り切り、下りの慣性を活かすことが出来たとしたら、誰が差し切ることが出来るだろうか。

 グラスワンダーが思考を巡らす。

 ここで仕掛けるか? しかしすぐに上り坂、加速するには良いタイミングではない。セイウンスカイのスタミナを考えた末に自分のスタミナを使い果たしては本末転倒だ。だが、一度見えた負け筋が頭から離れない。

 ちらり、と自分の脚を見る。末脚には確固たる自信がある。しかしスタミナはどうだ。3,000m走り切れるようにはなっているが、坂で仕掛けることは想定していなかった。そして脚はどうなる。かつて冬にひび割れたこの脚は、果たして猛スピードの登坂に耐えられるのか。

 

(私は……)

 

 トレーナー、親友、後輩たちの顔が過る。レースが終わった後、胸を張ってまた会うにはどうすればよいか。誇れる姿とはなにか。それを考えた時、迷いは消えた。

 

(思い出せ───)

 

 自分を鍛えたのは誰なのか。

 

(思い出せ……!)

 

 春、涙を呑んでレースを控えたのは何のためか。

 

「ここで恐れて、頂点に届くものか!!」

 

 目指すべき高みへ至るため、少女は勝負に打って出た。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『セイウンスカイが一人坂を登る中、後続のウマ娘たちも続々と二周目の坂に入り───おおっと!? ここで! ここでグラスワンダーが仕掛けた!!

 掟破りの上り坂からの加速! 果たしてこの作戦は吉と出るのかそれとも───!』

 

 向こう正面、スタンドから歓声が上がったのを聞いたセイウンスカイはおやと、思った。そして次の瞬間には、悪寒がその背中を駆け抜けていた。

 

「まさか……!」

 

 振り向かずともわかる。先ほどまで誰もいなかったはずの背後に、グングンと迫る気配があった。一歩踏み出すたびに芝の下にある砂塵が舞う、大地を揺らすような力強い走り。知っている。電子の世界とは言え、この気配を何度も味わった。

 

「グラスちゃん───!?」

 

 坂に入るときはまだまだ後方にいたはずの彼女が、もはや一バ身もない距離にまで迫って来ていた。

 坂はスタミナを維持するためにゆっくり上る。その常道に真っ向から逆らう走りにトリックスターも度肝を抜かれた。

 

(死んだふりは通用しないか……!? でももう上り坂は終わる。そうすれば下りだ! 最後の直線で振り切るだけの脚は残してある!)

 

 焦る心を抑えてなんとかペースを維持する。猛追してくるグラスワンダーは恐ろしいが、ここでスタミナの配分を乱すことの方が致命的だった。

 坂を上り切り、第三コーナーを回りながら坂を下る。

 セイウンスカイはなんとか最内の最短距離を走る。グラスワンダーはその真後ろを走る。差し切り態勢に移るよりも、コース移動による距離ロスを嫌ったのだ。

 

『坂を下り終えてなお先頭はセイウンスカイ! 二番手はグラスワンダー! 両者ともに最終コーナーを曲がりついに最後の直線へ!

 勝負の行方のこの二人に……いや───!』

 

 残り二ハロン、ここに来て二人の激闘に割って入る者がいた。

 スペシャルウィークだ。

 

「うぉぉおおおおお───!!!」

「「スぺちゃん……!」」

 

 日本ダービーを彷彿とさせる末脚にスタンドからは大歓声が上がる。

 四番手以降のウマ娘はついてこれていない。勝負の命運は、この三人に委ねられた。

 

「抜かせるかぁああ!!」

「逃がしはしません……!」

「負けられない、負けたくない!」

 

 残されたスタミナを燃やし尽くして速さに変える。

 身にも心にも業火を纏ったウマ娘たちが裂帛の気合で叫び、駆ける。

 

 

「勝つのは──────私だああああああああ!!!」

 

 

『三人並んで最後のデッドヒート!! 逃げ切るかセイウンスカイ! 差し切るかグラスワンダー、スペシャルウィーク!

 勝つのは皐月賞ウマ娘か、復活のジュニア王者か、ダービーウマ娘か!!

 残り百メートルを切った!

 ああっ! ここで抜けた! 抜けた! 抜け出した!!

 

 

 

 グラスワンダーが抜け出した!!

 

 

 グラスワンダー先頭!! 

 グラスワンダーゴールイン!! グラスワンダー一着!!

 クラシック最後の一冠、菊花賞を勝ったのはグラスワンダーだ!!

 ジュニア級王者が今完全復活!! 不死鳥のごとく蘇りました!!

 

 

 

 跳ねまわる心臓の鼓動が耳朶を叩く。

 拭っても拭っても汗がとめどなく溢れてくる。

 激闘で沸き立った血潮が体温を上げ、蒸気となって噴き出す。

 初めての3,000mは思っていた以上に過酷で、どこか一つでも間違えれば勝敗はひっくり返っていただろう。

 それでも、勝ったのは彼女だった。

 長い休養の果て、ケガを乗り越え、友との約束を果たしたのだ。

 

「やった……やりました!」

 

 らしくもなく、拳を空向かって突き上げると応えるようにスタンドから拍手と歓声が上がる。

 他のウマ娘を応援していた観客もいるだろう。しかし、今この瞬間は、レースの最前線へと舞い戻った不死鳥の勝利を祝福していた。

 

「あーあ、負けちゃった……」

「セイちゃん……」

 

 伝う汗を拭いながら、セイウンスカイも、そしてスペシャルウィークも笑っていた。

 悔しさと友の復活を喜ぶ二つの感情がまじりあった表情だった。

 

「どのあたりで気付いてた? 私がわざとペース落としたって」

「気づいたわけではありません。ただ、もしそうだったら追いつけないなと。……それにセイちゃんならそれくらいするだろうなと」

「うわあ信頼されてて嬉しいなー。……バレたわけじゃないなら、まだまだトリックスターの看板は掲げていられそうだね」

「うう……私は全然分からなかった。グラスちゃんが加速するのを見て慌てて追いかけたんだ……」

「まあ私も確信があったわけではありませんでしたから」

 

 まさに勝敗は紙一重。グラスワンダーが仕掛けるのがほんの少し遅ければ、セイウンスカイが逃げ切っていただろう。

 グラスワンダーの言葉を聞いて、そっか、とセイウンスカイは天を仰いだ。

 

「一瞬の判断が勝敗を分けた、か……やっぱりレースは面白いなぁ」

 

 そして、

 

「次は負けないよ、グラスちゃん」

「私も、次は絶対勝つからね!」

「ふふ……いいえ、次も私が勝ちます」

 

 次の戦いを誓い合うのだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 会場中央に設置された、ウイニングライブの舞台の上でグラスがセンターで踊っていた。二着のセイウンスカイ、三着のスペシャルウィークともにクラシックGⅠのライブ曲である“winning the soul”を歌っている。

 この曲に耳を傾けるのもいつぶりか。ライスがミホノブルボンに勝った菊花賞以来か。いやアレも三冠を阻んだことで気まずい空気だったし、しっかり聞くのは師匠が率いていた頃まで遡るかもしれない。

 朝日杯以来のGⅠ勝利でのウイニングライブを踊るグラスの表情は花のような笑顔が広がっており、左右を踊る同期の二人も彼女の勝利を祝福していた。

 それは会場に集まったファンも同じ。そして私たちマルカブの横でサイリウムを振るスピカやヒロさん───セイウンスカイの担当トレーナーも同じだった。

 ライブ会場に集まった全員が、グラスの勝利を喜んでいた。

 長い冬を超えて、グラスワンダーという大輪はようやく咲き誇ったのだ。

 

「……SSGだな」

「なんですって?」

 

 突然、ヒロさんが妙なことを口走った。

 

「だからSSGだよ。皐月賞、日本ダービー、菊花賞のクラシック三冠を綺麗に分け合ったからな。きっとそう呼ばれるようになる」

「……ああ、BNWとかTTGみたいなもんですか」

 

 クラシックレースはトゥインクルシリーズでも特に業界から注目されるプログラムだ。故にそこで活躍したウマ娘は名が知れ渡り、成績の良いウマ娘たちを三人ほど挙げて三強と呼称される。いつの時代も、私たちはそういう括りが大好きなのだ。

 

「でもそれならSSGではなくGSSでしょう。真ん中のSがセイウンスカイかスペシャルウィークかはお任せしますが」

「言ったなコンニャロー! 有記念も出てこいそこで白黒つけてやらぁ! おいスピカの、お前はどうだ」

「望むところ! って言いたいですけどスぺは今年はもう休養ですかね。コテンパンにされちゃいましたし、あいつスズカのことまだ気にしてそうなんでちゃんと心身のコンディション整えてから挑ませてもらいますよ」

「む、それじゃあしょうがないな。今年の有はスピカ抜きで盛り上げるしかないな」

「というかヒロさん、有は人気投票だから出られるとは限りませんよ?」

「クラシック勝ったウマ娘がその年の有に出れないわけないだろ。担当が立て続けにGⅠ勝ったからって浮かれていると足掬われるぞ?」

「肝に銘じますよ」

 

 グラスの勝利を祝いながら、次のレースのことを語り合う。

 天皇賞(秋)の興奮が菊花賞に引き継がれたのと同じだ。今日のレースの熱が、次のレースへ引き継がれる。そしてそのレースの熱はそのまた次のレースへ。

 そうしてウマ娘たちが命を燃やして刻んだ蹄跡は人々の心に残り続け、やがては轍となる。その轍を追って新たな星がやってくる。その星にまた私たちは夢を見るのだ。

 

 私たちのレースは、いつまでも終わらない。

 

 

 

 黄金世代と呼ばれるウマ娘たちのクラシックは終わりを迎えた。

 そして始まるのは新時代。黄金に引けを取らない輝きを持つ一等星たちが暮の大舞台へと降り立つ時が来る。

 一方で黄金たちの戦いは終わらない。同期と世代の頂点を争うクラシック級の次は、世代を超えてぶつかり合うシニア級。勝利に餓えた餓狼が闘志を燃やし、栄光に満ちた怪物が牙を研ぎ澄ませる魔境。

 その舞台に一足早く立つのが彼女だ。

 

 次はエルコンドルパサーのジャパンカップだ。

 

 

 

 

 第四章 チーム激闘編 完

 

 第五章 チーム飛翔編へ続く

 

 

 

 

 




長かった四章もこれにて終了です。お付き合いありがとうございました。
五章も同じくらい長いゾ。

特に秋天あたりは本作でどうしてもやりたいことだったので、いつも以上に反応あって嬉しかったです。

次の投稿はいつも以上に時間をおかせてください。リアルが忙しくなってきたのと、エルもですがデジタルやドトウ周りの話を一度整理したいので。
書き溜めは続けていきますので、次投稿するときは一週間くらい続けて投稿できたらいいなって思っています。

では、エルの世界への挑戦とデジタル・ドトウのGⅠ挑戦までしばらくお待ちください。


……決してポ〇モンやるから時間かかるわけじゃないですよ?


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チーム飛翔編
43話 マルカブと聖蹄祭


 皆さまお久しぶりです。
 そしてあけましておめでとうございます。本年も引き続き本作をよろしくお願いします。
 年末からリアルの競馬も色々ありましたね。
 福永騎手の引退から調教師への転身が発表。
 エイシンフラッシュ産駒がジャパンカップ制覇。
 キタサンブラック産駒が秋天に続いて有馬記念制覇。
 昨日のシンザン記念は武豊騎手がディープ産駒に乗って勝利。アプリの方で貰えるパール姉さんの主戦も武騎手でしたね。ちょっとこじつけでしょうか。
 あと三ヶ月でまた皐月賞や春天が来るってマジ? 今年はどんな名馬が生まれるのか楽しみです。

 前振りが長くなりましたが、今日から七話、投稿させていただきます。
 あと、最後にアンケート在りますので興味があればどうぞ。




 その日、カフェテリアはいつも以上の賑わいを見せていた。ウマ娘の生徒だけでなく、学園職員や他のトレーナーの姿もある。

 カフェテリア内も普段と違っていた。紙の輪が飾られ、祝いの言葉を書いた横断幕が吊るされていた。

 イスやテーブルを移動し、空いたスペースを囲むように人だかりができていた。

 生徒たちでできた輪の中心には私たち、チーム・マルカブの面々。そして対峙するのは黒い髪のウマ娘、ライスだ。カフェテリアに集った者たちの視線は特に黒髪の少女へと集まっている。

 少し照れた様子のライスへ、私たちが声を揃えて言う。

 

『ライス先輩、退院おめでとう! アーンド天皇賞春秋制覇おめでとうございます!』

 

 クラッカーが引かれ、紙吹雪やリボンが舞うのと同時に昼のカフェテリアに大きな拍手が起こる。

 

「みんな……! ありがとう!」

 

 ライスの退院はトレセン学園を上げて祝福されたのだ。

 代表してグラスから花束をライスに渡すときにまた拍手が鳴り響く。

 まさかの歓迎に涙を浮かべるライスにもらい泣きしてしまう生徒もいた。

 菊花賞の翌日、ライスは無事学園に戻ってきたのだ。

 

 

 

 お祝いのケーキを切り分けながら、ライスがいない間の学園のことを話していると、自然と直近の行事が話題に上がった。

 

「聖蹄祭……? あ、もうそんな時期なんだ……」

「えっと……つまりは秋のファン感謝祭のことですよね?」

 

 ドトウの言葉に頷く。

 春のファン感謝祭が一般的に言う体育祭であるのに対し、秋のファン感謝祭は謂わば文化祭だ。

 喫茶店をやったり、演劇やお化け屋敷など生徒たちが各自で志向を凝らした出し物が多く、多様性から春とはまた違う盛り上がりを見せる。

 

「特に今年はライス先輩やスズカ先輩の活躍もあって、例年以上の来園があるだろうとみんな大盛り上がりデス!」

「そうなんだ……なんか照れちゃうな」

「いえいえ先輩はそれだけの活躍をされていますって!」

「まあ実際、学園からはマルカブとして何か出し物をとお願いされているんですよね?」

「そうなのお兄さま?」

「ん……まあそうなんだよね」

 

 今年の聖蹄祭はマルカブとして参加してほしい。

 たづなさんからそんな要請があったのは、グラスが菊花賞を勝ったすぐ後だった。

 かつては解散寸前の崖っぷちチームだったマルカブだが、今ではついに所属する五人中三人がGⅠウマ娘。しかもライスに至ってはGⅠ六勝となり、タマモクロス以来の同年天皇賞春秋制覇の偉業を成し遂げたところだ。そんな彼女が聖蹄祭に参加することで客入りを確かなものにしたいのだろう。

 私としてもライスが多くの人に祝われるのは本望だ。

 

「去年の聖蹄祭はどうだったんですか?」

「あー去年はチームとしては参加しなかったんだ」

 

 まだチームメンバーも三人しかいなかったし、みんなで話し合ってチーム存続のために実績を積むことを優先したのだ。

 その前の年もライスが療養中だったし、マルカブが参加するのは久しぶりだ。

 

「と言っても何をしましょうか。今からではあまり大規模なものはできませんし……」

「凝ったところは夏の間から準備してマスから、クオリティじゃあどうしても負けてしまうデス」

「ん〜やる気を削ぐようでなんですけど、そこまでキッチリした出しものである必要はないと思いますよ?」

「というと?」

 

 聞き返すとデジタルは顎に手を当てながら続ける。

 

「聖蹄祭ってファン感謝祭なので、学園側も気合い入れてファンのみなさんを楽しませようとするんですが……そもそもファン目線からすると、いつも客席からしか見れないウマ娘ちゃんを間近で見られるだけで幸せなんですよ。ですからあまり内容に拘らず、マルカブのみんなで来てくれたファンに感謝を伝えられるものにすれば良いかと」

「……うん、デジタルさんの言う通りかもね」

「ビッグスケールに拘らずデスか……」

「それでも、やはり何をするか悩みますね……」

 

 デジタルがある程度方向性を示してくれたが、ジャンルが定まったわけではなく、再度みんなで思考の海へと潜っていく。

 時間はないためあまり大掛かりでなく、手間も少なく、かつファンに感謝を伝えられる出し物。言われているとスッと出てこないものであった。

 

「あ、あの~」

 

 おずおずと、手を上げる者がいた。

 

「わ、私なんかのアイディアで良かったらなんですけど、こういうのはどうでしょうかぁ……?」

 

 自信なさげなドトウの口から出たアイディアに、私たちは即座に飛びつくこととなった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「仮装喫茶店か……」

 

 放課後、私たちは学園近くにある貸衣装屋に来ていた。

 店内に陳列されたゲームや映画の中でしか目にしない衣装を前に、ライスたちは目を輝かせていた。

 

「以前オペラオーさんと舞台を観に行きまして。そこではキャストの皆さんが劇中衣装のまま握手や写真を撮らせてくれたんです。私とっても嬉しくて、なので……」

「聖蹄祭でマルカブが衣装を来て接客すればファンとの距離は近いし、感謝も伝えるタイミングもある。いい案だと思うよ」

 

 仮装はドトウのアイディア、そしてそこから喫茶店にしようというのはデジタルのアイディアだった。

 飲食系の出し物は多いので学園側がまとめて申請や食材の発注をしてくれる。メニューも色々回りたいファンのことを考えたら手軽なものの方が好まれるだろう。私たちが吟味するのはファンに見せる衣装くらいになるというわけだ。

 

「メニューは軽食とコーヒーのセットとかシンプルで、調理や食べるのに時間がかからないものが良いですね。火の使用は最小限にしたいですし、サンドイッチなんかどうでしょう。間に挟む食材でバリエーションも増やせますし、簡単に調理できますからね。

 衣装は……本当はチーム揃って勝負服を着られれば良かったんですけどね。あたしとドトウさんのはまだできていませんから……」

「ファンとの交流という意味ならこっちの方が新鮮かもしれないし、いいんじゃないかな」

「ジャジャーン! エルはこれに決めました! トレーナーさん、どうですか?」

 

 早々に試着室に入ったエルが飛び出し、くるりと回ってポーズを決めた。

 彼女が選んだのは人気ゲームに出てくる格闘家の衣装だった。普段とは違うマスクをつけ、太陽のように明るい色の手甲脚甲を装備。羽飾りが散りばめられつつも、エルが好みそうな動きやすい格好だった。

 ただ、

 

「少し大胆じゃないかな……?」

 

 腰回りを締めるコルセットのような装備の下には身体にフィットした黒のインナー。全体的に身体の線がはっきり分かるデザインだ。しかもポーズの時に一瞬見えたが背中はほぼ丸見えだった。極めつけは大きく開かれた胸元。見える谷間は男なら思わず視線が吸い寄せられてしまう。

 

「デジタルはどう思う……デジタル? デジ───し、死んでる……!?」

 

 天井を見上げて倒れた彼女の顔は、幸せの絶頂を示していた。

 

 

 

 ハプニングはあったものの、どうにか五人とも自分の仮装を決めることができた。

 各自選んだ衣装に着替えて並ぶ。皆普段とは違う装いに気分が高揚しているようだ。

 ドトウが選んだのは魂を運ぶ黒衣の墓守。

 

「お、お客さんをしっかりご案内しますね!」

 

 デジタルが選んだのはピンク色主体の可愛らしいキョンシー。

 

「これで何度尊みに溢れた瞬間に出会おうと即復活できます!」

 

 エルは気が変わることなく、先程の格闘家のコスチュームだ。

 

「太陽のように熱い闘志をお客さんにも分けてあげマス!」

 

 ライスはゴシックな意匠を凝らしたヴァンパイアの衣装。

 

「来てくれたファンの皆とお友達になれたらなって……」

 

 そしてグラスは白を基調とした僧侶の格好。エルと同じくゲームキャラクターの衣装を選んだ。

 

「皆さんに癒やしを与えましょう……なんちゃって」

「「「癒やし……?」」」

「その杖で闘魂注入の間違いデス?」

 

「何か……?」

 

「「「なんでもありません!」」」

 

 回復役を怒らせてはいけない。ゲームの鉄則である。

 

 

 

「じゃあ衣装も決まったし、帰ろうか」

「……? まだお兄さまの分が残ってるよ?」

 

 踵を返そうとした足が止まる。

 ギギギ、と首だけ振り返ると、怪しく笑う担当ウマ娘たちと目が合った。

 

「え? 私も着るの?」

「裏方で手伝いするって言ってたデスよ?」

「……裏方なら別に仮装する必要ないよね?」

「もしもの場合もありますし、その時お一人だけスーツでは浮いてしまうかと」

「もしもの時に仮装していたら変な空気にならないかな?」

「えーい四の五の言わず、腹をくくるデース!」

「ちょっ、待って───」

 

 ウマ娘に力で勝てるわけもなく。ズルズルと衣装の森へと引きずり込まれていったのだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「……なるほど、それでそんな恰好をしているわけですか」

「まあ、そういうことになるね」

 

 ついに来た聖蹄祭当日の朝。私は割り当てられた教室で、手伝いを申し出てくれたマンハッタンカフェにことの経緯を説明していた。

 私の格好はスーツの上から包帯を適当に巻き付けたなんちゃってミイラ男だ。勇者だの魔法使いだのヴァンパイアだののコスプレをさせられるよりはマシだと思う。

 

「最初見た時はケガをされたのかと驚きましたが、なんともないのなら良かったです」

「驚かせて悪かったね。それより、本当に裏方の手伝いなんてさせてしまって良かったのかい?」

 

 衝立で囲ったキッチンスペースで食材の確認をしながら、自前のコーヒーメーカーを準備しているマンハッタンカフェに訊ねた。

 

「ええ。私はまだデビュー前ですから交流するようなファンもいませんし、元々こういう賑やかな空気は余り得意ではないんです。……ただ、フクキタル先輩が雰囲気だけでも味わってきて欲しいと懇願されまして。ですのでこうして裏方に入れるのは私にとっても渡りに船でしたから、気にしないでください」

「そうか……それじゃあ厚意に甘えようかな」

「そうしてください」

 

 私もコーヒーは飲むが人に出すような腕があるわけではない。趣味が高じて自分で焙煎までしているらしいマンハッタンカフェが手伝ってくれるのは幸運だった。

 

「お兄さま、ライスたちの準備終わったよ!」

 

 衝立の向こうから声がした。

 スペースから顔を出すとレンタルしてきた貸衣装に着替えたライスたちが並んでいた。

 役割としては一人が外で店の宣伝、残りの四人が店内で接客、そして私は裏で調理だ。宣伝と接客は時間で区切って交代。接客も込み具合を見ながら調整して、ライスたちが学内を見て回れるようにする予定だ。

 

「よし、聖蹄祭もそろそろ始まる。今日はファンの人たちに感謝を伝えつつ、自分たちも時間を作ってお祭りを楽しんでいこう!」

「時間……作れますかね? 宣伝用に作ったウマスタのアカウントのウマいね!も凄い数になってますし……」

「わ、私たちはともかく……先輩方はきっと……」

「ま、まあそこは店を回しながら調整していこう。せっかくのイベントだ。みんなもホストだけじゃなくて楽しんでほしいから」

 

 ライスたちを見ると特に気にしてなさそうだが、彼女たちはまだ若者だ。こういった行事では苦労だけでなく楽しみもしっかり味わって欲しい。

 そして時間が来て、チャイムが鳴る。

 

 聖蹄祭が始まった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 案の定、マルカブの仮装喫茶店は大盛況だった。

 五人中三人がGⅠウマ娘、しかもつい先日の天皇賞(秋)や菊花賞で勝利を挙げたウマ娘が揃っているのだから当然だろう。さらに付け加えれば、見目麗しいウマ娘たちがやや季節遅れだがハロウィンのような仮装をしているのだ。熱烈なファンでなくとも一目見たいと立ち寄ろうとするものだ。

 それを考えるとメニューをシンプルなものに絞ったのは正解だった。

 最初こそてんやわんやしたが、やがて一定のルーティンが出来てくる。注文や配膳の際にファンと一言二言交わし、食べ終わったら一緒に写真を撮って店を出ていく。慣れてくればこの繰り返しだ。

 

「お待たせしました。ハムサンドとコーヒーのセットです」

「きたきた! えっと……菊花賞凄かったです!」

「ふふ、ありがとうございます」

「あの、写真一緒にいいですか?」

「いいですよ」

「ライスシャワーさん! わ、わたしたちとも写真お願いします!」

「はーい、いま行きますね!」

 

 やはり、直近でGⅠを制覇していたライスやグラスがよく声を掛けられていた。しかし人気が二人に集中しているということは無く、

 

「エルコンドルパサーさん、次のジャパンカップ頑張ってください! 応援します!」

「ありがとうデース! 日本代表として見事勝ってみせマース!」

「あ、あの! 芝とダート両方出ようとしてるって本当なんですか? すごいなぁ……絶対応援行きますね!」

「あああありがとうございます! 今はダートですけど、絶対、必ず、芝のレースにも出て見せますから!」

「この前のレース惜しかったですよね……諦めないで頑張ってください! 次はオペラオーにも勝てますって!」

「あ、ありがとうございますぅ。み、みなさんの期待に応えられるよう頑張りますね……!」

 

 黄金世代として活躍するエル、二刀流を目指すデジタル、そして惜しいレースが続くドトウ。やはり店にまでくる熱心なファンはよく見てくれていて、接客でテーブルに近づくたびに声を掛けられていた。

 ファンから直接声をかけてもらうことで、みんなの瞳に宿る光が強くなっている。彼女たちのレースにかける想いが、熱が、より高まっていくようだった。

 聖蹄祭に出て良かった。そう思える内容だった。

 

「あの~すいません……」

「はい、なんでしょう……あ、写真ですか?」

「はい。それでできれば、トレーナーさんとも撮りたくて……」

 

 ……予想外の呼び出しはあったが。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 時間は経ってお昼時、来客もまばらになってきた。ここは軽食しかないのでランチには外に並ぶガッツリ系の屋台に向かったのだろう。

 合わせて交代でライスたちにも昼休憩に入ってもらう。

 

「じゃあ行ってきますね」

「できるだけ早く戻ってきます!」

「慌てなくていいからね」

 

 第一陣としてグラス、ドトウ、宣伝から戻ったデジタルが出ていく。残ったライスとエルだが、最後の客が出ていくと途端に手持ち無沙汰だ。いっそ二人も休憩させようかと思った時、

 

「邪魔するぜ」

 

 艶のある、けれど勇ましい声が聞こえた。

 衝立越しのため私から姿は見えないが、声で誰かは分かった。

 

「シリウスシンボリ……さん」

「久しぶりだなライス。秋天、いいもん見せてもらった。アイツは……奥でコックの真似事か? 相変わらず裏でこそこそするのが好きなやつだ」

「トレーナーさんに何か用デスか?」

「いや、用があるのはお前さエルコンドルパサー。世界最強なんて簡単に口にするヒヨッコの面を見に来たのさ」

 

 シリウスシンボリの挑発に、店内の温度が一気に下がった気がする。

 出ていこうと衝立から顔を出したところでライスと目が合った。そしてシリウスシンボリも私に気づいた。

 

「………………」

 

 ライスが待ってと視線で訴えていた。

 シリウスシンボリもお前に用はないとばかりの目つきだ。情けないが、ここは彼女たちに任せるしかないのか。

 

「シリウスシンボリさんとは、なにかあったのですか?」

 

 裏に引っ込むと、様子に気づいていたマンハッタンカフェが聞いてきた。

 

「昔、担当トレーナーが付いていない、伸び悩んでいたウマ娘を見かけてね。私なりにアドバイスをしたんだけど彼女がシリウスシンボリの後輩でね。その後、自分を慕ってくる後輩に粉をかけるなと文句を言いに来たことがあったんだ」

 

 まだ師匠がいた頃の話だ。結果として大事にはならなかったが、危うくシリウスシンボリ一派とマルカブの全面対決になる所だった。

 

「……詳細は聞きませんが、恐らく彼女の地雷を踏んでしまったんですね」

「当時もみんなに言われたよ。結局どこが地雷だったのかは誰も教えてくれなかったけど……」

 

 衝立の向こうから声が聞こえる。

 どうやらシリウスシンボリが本題に入るようだ。

 

「エル、お前の次走はジャパンカップだったな。勝てば晴れて日本代表を名乗って来年から海外遠征か?」

「そのつもりですがなにか?」

「そのジャパンカップ、私も出る」

「ケッ!?」

 

 とんでもない情報が飛び込んできた。

 シリウスシンボリと言えばダービーウマ娘。しかも海外の猛者相手に転戦を繰り返してきた古豪だ。そんな彼女が、ジャパンカップに出てくる。

 流石に引っ込んではいられなくなった。

 

「……おい、用は無いって言ったの聞こえなかったか?」

「レースとなれば話は別だよ。エルは私の担当ウマ娘だ」

 

 衝立から出てライスたちの前に立つ。シリウスシンボリが不愉快そうな視線を向けてくるが、こちらも引いては入れらない。

 

「君、ここ最近はトゥインクルシリーズに出ていないだろう。本当にジャパンカップに出られるのかい?」

 

 ジャパンカップは国内でも最高峰のGⅠの一つだ。シリウスシンボリがいくらダービーウマ娘だからと言って、過去の栄光を掲げて出られるほど出走条件は甘くない。

 が、私の懸念を鼻で笑ってシリウスシンボリは言った。

 

「別に私はドリームトロフィーに移籍していない。最近は専ら海外に行っているから国内のレースを走っていないだけで、まだ籍はトゥインクルシリーズにある。出走権もきっちり確保しているさ」

「……シリウス先輩が、エルが海外で戦えるかの試験官ということデスか?」

 

 シリウスシンボリの目が鋭く、口元に笑みが浮かんだ。

 

「ほう……ただの良い子ちゃんかと思ったら大人の話を盗み聞きする程度のやんちゃは出来たか」

「え……あ!」

 

 試験……エルの口から試験官という言葉がどうして出たかはさておき、丘辺トレーナーを通してお願いしていたシンボリ家からの支援。エルがそれに相応しいか見定めるためにシリウスシンボリが日本に戻ってきたということか。

 私の思考を察したのか、シリウスシンボリが眉を顰めた。

 

「本家のジジイどもの考えなんか知るかよ。私は生意気なウマ娘に現実を見せに来ただけだ」

 

 シリウスシンボリがエルに近づく。互いの額がくっつきそうな距離で、僅かに背の高いシリウスシンボリがエルを見下ろしていた。

 

「世界の壁はお前が考えている以上に高いぞ? 少なくとも、ダービーウマ娘に勝てねえやつは行っても無駄だ」

「……では、証明しましょう。先輩に勝ってエルが世界に通用するということを!」

「ふん、面白れぇ……レース後も同じ口を叩けるか楽しみにしているさ」

 

 からからと笑いながら、シリウスシンボリは去って行った。

 すでにエアグルーヴの出走が知らされていたジャパンカップ。海外からの強豪に加え、かつての世代の頂点までも加わり激戦の予感は強まっていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 世界がオレンジ色に染まる夕方。

 予想外の来訪者もあったが、マルカブの聖蹄祭は無事終わりを迎えた。

 ウマスタをはじめとするSNSには多くの写真がアップされており、仮装したライスたちとファンが並んで撮った写真もあった。ミイラ男状態の私の写真もいくつかあって気恥しいが、好意的な反応が多いようだ。

 秋の日の入りは早く、片付けが終わるころには日は完全に沈んでいた。

 ファンが学園を去って関係者だけが残されたとなれば、始まるのは後夜祭だ。

 あちこちで今日の働きを労い合うなか、私たちマルカブもチームルームに集まってお疲れ様会をしていた。

 

「今日はみんなお疲れ様! 急ごしらえだったけど良い店が出来たのもみんなの頑張りのおかげだ」

『お疲れ様でしたー!!』

 

 飲食系の出し物をしていた店で余った食材を使った料理を持ち込んで食べる。

 ちなみにマンハッタンカフェは外様でいるのが窮屈だと思ったのか、片づけが終わるとそそくさと帰ってしまった。彼女の助力には大変助けられたので、今度会ったら改めてお礼をしよう。

 

「給仕というのは初めての経験でしたが、中々大変でしたね……」

「そうですねー。あ、やっぱりライス先輩やグラス先輩が特に写真ねだられてましたね」

「ぐぬぬ……時期によってはジャパンカップを勝利したエルが一番人気だったはず……!」

「で、でもウマスタだとエル先輩の衣装はすごい人気みたいですよ? みなさんカッコいいって」

「うう……やっぱりエルさんスタイル良いもんね……」

「え、あ、いや! ライス先輩も可愛いって大評判ですよ!」

 

 仮装喫茶店であったことを話していくうち、やがて話題はエルの次走であるジャパンカップへと移っていった。奇しくも真っ向から宣戦布告を受けたのだから当然か。

 

「シリウスシンボリ先輩……本当に出てくるんでしょうか?」

「わざわざ顔を見て宣戦布告してきたんだ。当然出てくるだろうし、そんなつまらない嘘を吐くようなウマ娘でもないよ」

「スぺちゃんと同じダービーウマ娘。ですがかなり前のダービーを勝った方ですよね?」

「そうだね。全盛期は過ぎているかもしれない。でも実力が錆び付いているとは思えない」

 

 本人も言っていたが、彼女の名前を日本で聞かなくなった間も海外を転戦していたようだ。ウマ娘の全盛期は短く、ピークを迎えたウマ娘の能力は右肩下がりに低下する。

 しかし、レースの本場ともいえる欧州を走り続ける彼女はどうだろうか。確かに最高速度やスタミナは落ちているかもしれない。けれどその分、走って得た技術は研ぎ澄まされていると考えるべきだ。

 シリウスシンボリを慕うウマ娘は多い。それが彼女が口だけでなく実力を未だ兼ね備えている証だろう。

 

「エアグルーヴさんだけでも大変なのに、ここに来てまさかの強敵だね……」

「エ、エアグルーヴさんってオークスを勝った方ですよね? じゃあエル先輩はオークスウマ娘と、ダービーウマ娘を同時に相手にするってことですか?」

 

 ドトウの言う通りだ。時代は違えど相手は片やオークスに片や日本ダービー、世代の頂点を獲った二人だ。さらにジャパンカップとなれば海外からの強豪も参戦してくる。まだクラシック級のエルにとっては右を見ても左を見ても格上だらけだ。

 けれど、だからこそここで好走……いや勝つことが出来れば世間からのエルの評価は跳ね上がる。日本ダービー二着、毎日王冠二着から一転、日本を代表するウマ娘の一角になれる。

 そうなればエルの海外遠征の話も通りやすくなる。

 ピンチだが、これ以上ないチャンスでもあった。

 

「ふっふっふっふ……みんな心配し過ぎデス!」

 

 エルもどうやら同じ考えのようだ。

 

「むしろエルは強敵がどんどん集まって来て燃えてきていマス! オークス? ダービー? 海外の大レース? ドンと来いデス! 世界最強を目指す以上、これくらいで怖気づいていてはいられません!」

「その通りだ。海外へ行けば強敵を相手にするレースなんて山ほどある。自分たちのホームグラウンドで負けてはいられない……!」

 

 拳を握り、胸中に浮かんだ弱音を潰す。

 エアグルーヴにシリウスシンボリ。どちらも己が世代を代表する強敵だ。けれど時代は進む。世代は変わる。

 かつてライスがメジロマックイーンを打ち破ったように、サイレンススズカがミホノブルボンを打ち破ったように、永世の強者などいない。

 エルの能力が二人に劣っているとは思えない。それを証明してみせるのが、私の使命だ。

 

「エル。ジャパンカップまで残り僅か。だけどできることは全部やるよ。そして勝って、君の力を見せつける」

「───ハイ!」

 

 ファンとの交流で心は満たされ、そして強敵からの宣戦布告で点火した。

 彼女の羽ばたきを見せつけるため、私たちは翌日から早速トレーニングを開始した。

 

 そして、ジャパンカップが来る。

 

 

 

 

 

 

 

 




 アンケートです。
 バレンタイン回(今回の毎日投稿ではそこまでいきません)で、お兄さまと誰かの二人での会話イベントを考えています。
 それを誰にするかというアンケートになります。
 特にこれで恋愛的なルートが決まるということはありませんので、気軽に見たいキャラを選んでくださって構いません。

 最後、遅くなりましたら毎回感想・誤字報告ありがとうございます。
 改めて今年もよろしくお願いします。


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44話 エルとジャパンカップ

 海外のウマ娘が日本にやってくるジャパンカップ。だが今年は招待を受けた海外勢のほとんどが辞退または諸事情により回避となった。昨年、アメリカの芝最強を決めるBCターフ覇者が来てくれたことがせめてもの救いか。担当者は胸を撫で下ろしたことだろう。

 だが海外の猛者が少ないことはエルにとって都合が良かった。

 これでエアグルーヴとシリウスシンボリの二人に向けるリソースを確保できた。もっとも、それは向こうの陣営も同じだろうが。

 各種メディアは今年のジャパンカップを『近年稀に見る大物不在』と謡ったこともあり、前評判では日本のウマ娘が優勢であった。

 

「やっぱり、人気は先輩たちに集まっているみたいデスね……」

 

 勝負服に着替えたエルが呟いた。

 一番人気はシリウスシンボリ、二番人気はエアグルーヴでエルは三番人気となった。2,400mの実績がある順となったかたちだ。あとは、シニア級とクラシック級という経験値の差か。

 シリウスシンボリもエアグルーヴも、クラシック以降GⅠ勝ちはない。だがそれは彼女たちの勝利がフロックだったわけでも衰えたわけでもない。彼女たちが常に最前線を走り続け、強敵相手に挑んできた結果であった。

 シリウスシンボリはダービーを勝ってから欧州へ遠征しKGVI&QES、凱旋門賞と欧州を代表するGⅠに挑み続けた。日本に戻って来てからもオグリキャップやタマモクロスという伝説的な強豪と激闘を繰り広げた。

 エアグルーヴも敗北したのは昨年はマチカネタンホイザ、今年は宝塚記念でサイレンススズカに、天皇賞(秋)をライスに、そしてエリザベス女王杯でメジロドーベルといったトップ層だ。しかしGⅡ以下の重賞は安定して勝っており、負けても掲示板上位を逃さない堅実な走りを見せてきた。

 実績と戦ってきた舞台に裏付けられた故の人気、故の強敵と言える。

 

「……それでも、エルが二人に劣っているとは思っていない」

 

 私の言葉にメンバーが顔を上げる。視線が集まる中で続ける。

 

「二人が強敵なのは事実だよ。エルにまだそれに並ぶ実績が無いのも本当だ。でも、それは客の判断材料に過ぎない。前評判は……結局は前評判だ」

 

 エルの方を見る。コンディションは十分。気負っている様子もなく、だからと言って気が抜けているわけでもない適度な緊張感が見て取れた。

 

「エル。ここからが君の夢の始まりだ。世界に、日本に、君を見せつけておいで」

「───ハイ!」

 

 背中を叩くと、覇気ある声で彼女は答えた。

 コンドルが世界へ羽ばたく時が来た。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「……本当に出走されるんですね」

「なんだ? 女帝様にはジョークにでも聞こえてたか?」

 

 地下バ道にて、今日の一番人気と二番人気が並んで歩いていた。

 見目麗しいウマ娘の中でも際立って外見が良い二人だ。並んで歩くだけで華があり、思わず見惚れる出走ウマ娘もいた。

 

「今日はエルコンドルパサーの実力を見極めるつもりですか?」

「チッ、オカの野郎……いや、お前が聞くとしたらルドルフの方か」

「直接聞いたわけではありません。生徒会としての職務上、遠征に関する書類なども見ることがありますので」

「そこから推測したって? 聡明と見るべきか、脇が甘いと非難すべきか……どちらにしろ訂正しておくが」

 

 シリウスシンボリの視線が鋭くなる。

 

「見極めるなんて生温いことはしない……私は本気であのひな鳥を叩きつぶしに来たのさ」

「……何故です? 今のマルカブのトレーナーと貴女の間に諍いがあったというのは聞いていますが」

「そんな昔の話はとっくに水に流したさ。向こうも面倒くさいのに絡まれた程度にしか思っていないだろう。ただ私は、夢しか見ていない小娘に現実を見せつけてやろうってだけさ。ダービーも取れなかったヒヨッコに欧州旅行は早すぎるとな」

 

 今夏、欧州GⅠをシーキングザパールとタイキシャトルが勝利した。しかしそれも短距離路線(スプリント)だ。王道される2,000m以上の中距離路線(クラシックディスタンス)の壁は未だ高く険しいという論調は変わらない。特に凱旋門賞とでもなれば、各国のダービーウマ娘が集うこともある。ならば、日本で世代の頂点になれる実力が無いものが挑むなど無駄だというのがシリウスシンボリの考えだった。

 

「エルコンドルパサーはダービーで負けこそしましたが僅差の二着です。同等の実力があるとは思いますが……」

「おいおい随分とエルの肩を持つじゃないか。お前も分かっているだろ、二着も十分凄いだの好走したから次は期待なんてのは大人たちの都合だ。

 ……私たちにとって一着以外は全て等しく負けだ」

 

 シリウスシンボリが語るのは厳しくもレースを走るウマ娘としての現実だった。

 厳しい競争社会を勝ち抜いた末に、栄光を掴んだものだからこその言葉だった。

 

「ダービーは僅差だった。次やれば結果はひっくり返るかもしれない。だがそんなもしもは起きない。エルはもう日本ダービーを走ることは出来ない。あの日あの時あのレースで、僅差で勝つという幸運を掴んだのはスペシャルウィークだ。

 次頑張ればいいなんて吼える負け犬に、優駿の門(がいせんもん)は遠すぎる」

 

 一歩、前に出る。並んでいた二人から一人だけが先に進む。

 

「お前はどうだエアグルーヴ? お前が被った樫の王冠は、世界への踏み台に出来るほどに軽いのか?」

「私は───」

 

 答えを待たずしてシリウスシンボリはターフへと向かった。

 一人残されたエアグルーヴは拳を胸に当てる。

 

「……オークスの栄光を、軽いなどと思ったことはない。しかし……!」

 

 言葉にはせず、女帝は強い意志を秘めてターフへと歩き出した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 人波をかき分けて客席に行くと意外な面子を見かけた。チーム・スピカだ。

 未だ入院中のサイレンススズカを除くメンバー四人が、トレーナー含めて揃っていた。

 

「一体どうして? スピカのメンバーは出走していないはずですが……」

「おいおい。そりゃあレースではライバルだがそれ以外では友人だろうよ。応援だよ応援。同期としてエルコンドルパサーを応援に来たんだよ。なあスぺ?」

「はい! 最初は私も出る予定だったんですけど、その……回避になっちゃったので」

 

 そういえばスペシャルウィークもジャパンカップを予定していたか。

 菊花賞こそ雑念を振り切り出走してきたが、やはり後ろ髪を引かれる思いがあったのだろう。

 

「本当はレースに集中しないとダメなんでしょうけど、私どうしてもスズカさんが心配で……」

「こんな状態で無理に出走しても菊花賞の二の舞だしな。思い切って目標はシニアに切り替えた」

「いえ、気持ちは分かります。誰だってケガは怖い。しかも仲の良い先輩が骨折なんて気が気じゃないでしょう」

 

 トレーナーの立場からすれば注意するところかもしれないが、私もかつてライスのケガで過保護になった時期があるので強くは言えない。

 そう思っていたら冷たい視線が刺さってきた。

 

「……つーん」

「え? グラスどうしたの?」

「いえいえ。どーせ私は先輩のケガを気にせずレースに全力を出す冷血ウマ娘ですよー」

「え、あ、いや……今のは別にそういう意味では……」

「前見た時も思ったが本当に尻に敷かれてんな―」

 

 そこはお互いさまだろう……!

 あたふたする私が可笑しかったのか、グラス含めて小さな笑いが起きた。

 

「もうグラスさん、意地悪しちゃだめだよ?」

「すいませんライス先輩」

「あはは、なんだがこんなグラスちゃん見るのは新鮮だな」

 

 言われてみれば私はトレーニングを見ているが普段の学生としての彼女たちはほとんど知らないことを思い出す。まあ担当の日常に踏み込み過ぎるのもよろしくないのだが。

 私たちトレーナーはデビュー時期による同期という形でしか捉えていないが、グラスたちからすればそれ以上の何かがあるのだろう。負けられないという気持ちの源泉が。

 

「……そろそろ始まるようですわね」

 

 メジロマックイーンの言葉に皆の視線がターフへと向かう。

 出走ウマ娘がパドックに姿を現す。

 

「どうだ? エルコンドルパサーの調子は」

「当然、バッチリですよ」

「流石。でも相手も強敵だ」

 

 シリウスシンボリの姿が見えると、客席のいたるところから黄色い歓声が飛んだ。久しぶりの国内レースとはいえダービーウマ娘、堂に入った佇まいはまさに歴戦の猛者だ。

 

「シリウスさんも調子よさそう……」

「エアグルーヴさんもエリザベス女王杯からの連戦とは思えない仕上がりですわ」

 

 入れ替わりでエアグルーヴが出てくる。

 メジロマックイーンの言う通り、どちらも万全を期してこの舞台に上がってきたのだ。

 

「……これまでだって、楽に勝てるレースなんてなかったよ」

 

 日本ダービーはスペシャルウィークに僅差で敗れた。毎日王冠ではサイレンススズカに追いつけなかった。

 二度の敗北はエルの心に影を落としたが、一方でそこからさらに高く飛ぶためのバネになったはずだ。

 夏の合宿、敗北からの奮起。仲間たちが繰り広げた激戦。この数か月の蓄積が今日真価を発揮する。

 ついにエルがパドックに飛び出した。その表情には微塵の不安もない。

 観客からの反応はそこそこ。クラシック級の若駒が歴戦のシニア相手にどこまでやれるかお手並み拝見、そんな雰囲気だった。

 

「勝つさ。勝って、あの子は世界へ行く……」

 

 

 

 ◆

 

 

 

『世界のウマ娘が栄光を求め、ジャパンカップの府中に集う! 世界から来た海外勢に日本勢はどう立ち向かうのか!

 今年も各世代を象徴するようなスターウマ娘が集まりました。ダービー、オークス、グランプリ。誰が勝ってもおかしくない戦績を上げております!』

『注目はやはりシリウスシンボリでしょうか。久しぶりの日本での出走に往年のファンも大興奮ですね』

『一方、エルコンドルパサーにも注目が集まっております。話題の黄金世代の一角が初めてシニア級と共にGⅠを走ることとなります』

『先日の菊花賞では彼女のチームメイトであるグラスワンダーが見事勝利して見せました。同期たちがクラシックで魅せた勢いに続けるか、シニア級相手にどこまでやれるか期待ですね!』

『さあ、各ウマ娘がゲートに収まりました。日本のウマ娘の力を世界に見せるジャパンカップ! 今……スタートしました!

 十五人のウマ娘が一斉にスタート! 十三番サラサーテオペラが単騎で飛び出しました! 後を追うのは十一番エルコンドルパサー! シリウスシンボリ、エアグルーヴは三番手集団につきました!』

 

 単騎逃げを仕掛けた十三番を射程圏内に収めながら、エルコンドルパサーは背後からの圧を確かに感じ取っていた。

 

(シリウス先輩にエアグルーヴ先輩……バッチリとエルについてきてる。ライス先輩にも負けないプレッシャーデス!)

 

 一瞬だけ後ろに視線をやって後続を見る。話題のアメリカ王者は最後方に控えていた。

 位置取り争いも終われば先頭を走る逃げのペースに合わせていく。脚を溜め、息を整える。周囲の動きに気を配りながら自分が取るべき最適なルートを探す。全体的にややスローな展開に、先頭を除く十四人の考えは一致していた。

 

 ───勝負は最終コーナーから!

 

 

 

 そしてその時はやって来た。

 先頭を保ったサラサーテオペラを追ってエルコンドルパサーが最終コーナーへ入る。少し遅れてシリウスシンボリとエアグルーヴも突入する。

 

「………………!」

「──────!」

「───今!!」

 

 真っ先に仕掛けたのはエルコンドルパサーだった。トップスピードに達し、あっという間にサラサーテオペラに並ぶ。最後の直線、正面を向くと同時、エルコンドルパサーが先頭に立った。

 最初にスタンド前に帰って来た黄金世代に観客は総立ちになった。

 残り400m。このままエルコンドルパサーが後続を振り切るかと思われた時。

 

「成程、確かにこれは大したもんだ。世界だ最強だと吼えたくもなるだろう。───だが!」

 

 天狼星が獰猛に輝いた。

 

「世界の壁は、世代の頂は、その程度じゃ越えられねえぞ!!」

 

『最後の直線、先頭はエルコンドルパサー! そして……そしてここで来た! 

 シリウスシンボリが来た!! 

 奥からエアグルーヴも来ている! 新世代の猛禽へ、ダービーバとオークスバが襲い掛かる!!』

 

 ゴッ、ゴッ、と芝を抉る凄まじい末脚。あっという間に二人の王者がエルコンドルパサーに追いついた。エルコンドルパサーの優位はわずか。一瞬の緩みで差し切られる。

 各世代を代表するウマ娘たちの激走に洪水のような歓声が上がった。

 

「……くぅッ!」

 

 エルコンドルパサーは振り切れない状況に歯噛みした。

 彼女の仕掛け時は決して間違っていない。エルコンドルパサーの能力を十全に発揮したベストなタイミングだった。

 しかし、それを上回る勢いで二人が上がってきたのだ。

 

(これがダービーウマ娘、これがオークスウマ娘……!)

 

 まさしく世代の代表だろう。この二人を何度も打ち負かした者たちがいるというのだから恐ろしい。

 そして、そのさらに上を行く者たちがいるということに。

 

(でも、こんな……ところで……)

 

 最速に追いつき、追い抜いたウマ娘(せんぱい)がいた。世代の代表と渡り合ったウマ娘(どうき)たちがいた。

 改めて先輩の凄さを見せつけられた。頭一つ抜け出ていたつもりが、同期たちは自分よりも先にいた。

 自分もいつか、いやすぐにでもそこへたどり着かないといけない。後を追う後輩として、同じ時代を走る友として、隣に立つライバルとして。

 だから、

 

「ま、け、て──────」

 

 吼える。

 

「いられるかああああああ!!!」

 

『エルコンドルパサーが抜け出した! しかしシリウスシンボリ逃さない! エアグルーヴも追う! 残り200m! 先頭は未だエルコンドルパサー! エルコンドル振り切るか!? 届くかシリウス! 差し切るかエアグルーヴ!?

 ……シリウスが来た! シリウスが来た! エルコンドルを捕えた! 並んだ、並んで───』

 

「はっ! 流石は黄金世代……存外粘るじゃないか! だがまだだ、まだ足りねえ……! 世界に挑むってんなら、向こう側(・・・・)にくらい届いてみせろ!!」

 

 限界に近い走りをしながらシリウスシンボリが吼える。一方でエルコンドルパサーに返す余裕はない。

 全身の細胞が酸素を求めて喘いでいる。応えるように心臓は早鐘を打ち、肺は狂ったように収縮を繰り返す。

 エルコンドルパサーの身体は限界を迎えていた。

 

(まだ……)

 

 けれど、

 

(まだ───)

 

 だからこそ、

 

「まだあああああああ!!!」

 

 微かに見えたモノがあった。

 

『振り切ったああ!! エルコンドル振り切った!!! 一着はエルコンドルパサー!!ダービーも、オークスも関係ない! 世界の強豪を押しのけ、二人の王者を振り切り、ジャパンカップを制したのはエルコンドルパサー!! 

 次は世界に飛び立てエルコンドルパサー!!』

 

 

 

 ◆

 

 

 

 その瞬間を、エアグルーヴは確かに見た。

 天皇賞(秋)でサイレンススズカやライスシャワーが見せた驚異的な走り。その一端を。ラストの数十m、エルコンドルパサーは微かにその片鱗を覚醒させた。

 

「はあ……はあ……もう少しだったな」

 

 二番目にゴール板を抜けたシリウスシンボリが言った。勝ち負けの話ではないのはすぐに分かった。

 

「もう少し叩いてやれば、入ってたかもしれねえな……」

「“領域(ゾーン)”ですか?」

「……知っていたか。いや、秋天で間近に見ていたんだったな」

「やはり貴女は……」

「勘違いするな。私が競っていたら勝手にその域へ届きかけただけだ」

 

 口ではそう言うが、やはり彼女もシンボリのウマ娘なのだろう。自然とウマ娘たちのために行動してしまう。今日のレースも勝ちを譲る気が無かったのは本当なのだろうが、どこか若手の成長を喜んでいるように見えた。

 

(私は……)

 

 対して、自分はどうなのだろう。

 オークスウマ娘として、女帝として最前線を走り続けた。

 宝塚記念、天皇賞(秋)、エリザベス女王杯、そしてジャパンカップ。いずれも敗れた。敗れたが、その末に何かを残せただろうか。

 スタンドからの喝采を受けて手を振るエルコンドルパサーを見る。

 クラシック級でありながら、シニア級であるエアグルーヴたちに競り勝つ黄金の新世代。その力に、時代の潮流が変わる時を見た気がした。

 いや、その兆候はもっと前にあったのかもしれない。

 

「そうか……」

 

 呟く女帝の顔に、敗北の苦渋はなかった。

 

「これが……私の道か……」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「見ていただけましたか? ええ、確かに勝ちました。あのシリウスに」

 

 スタンドからの歓声から離れた位置で、シンボリ家と縁あるトレーナー丘辺がスマホに向かって話していた。通話先は当然シンボリ家であった。

 

「担当トレーナーに頼まれたのは本当ですが、実力は証明できたでしょう。海外遠征に期待できるのは貴方から見てもそうでは?

 ……クリスエスですか? まだデビュー前ですよ。二年ちかく静観するおつもりで? ……シリウスはもう自分で判断できます。こちらが口出すべきではないでしょう」

 

 丘辺はマルカブを特別贔屓してはいない。直接頼まれたので気持ち一つ分目は向けているだけだ。エルコンドルパサーに海外での活躍が見込めるというのは皇帝を育て上げたトレーナーから見ての本音であり私情を挟んでは無い。

 それはスマホの向こうにいる相手にも伝わったようだ。

 

「ええ……ええ。では次の定例会で挙げてみてください。吉報をお待ちしていますよ」

 

 通話が切れた。

 耳をすませば、エルコンドルパサーの勝利を称える歓声は今もなお響いていた。しかし、この勝利があくまで彼女にとって夢に向かう助走に過ぎないと、どれだけの者が知っているだろうか。

 

「君たちは見事力を示した。私も出来る限りの後押しはした。あとは……向こうがどう判断するかだ」

 

 シンボリルドルフによるクラシック無敗の三冠、そしてGⅠ七冠という偉業を成し遂げた丘辺の覚えは確かに良い。だがあくまで言葉に耳を傾けてくれる程度で、採決を左右するほどの力はない。

 

「念のため他にも手を打っておいた方が良いと思うけど、そこまでするのは野暮かな?」

 

 エルコンドルパサーの遠征がどうなるか、後は神のみぞ知るというものであった。

 

 

 

 

 



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【番外】桜とマイルCS

時間は少し遡って、秋天で頭焼かれた他陣営その1



【番外6】激闘の余波

 

 東条ハナは自他ともに認める一流のトレーナーだ。彼女が率いるチーム・リギルは三冠ウマ娘ナリタブライアンを筆頭に優秀なウマ娘が多く所属し、チーム成績は常に学園トップクラスを維持している。

 ウマ娘との関係も良好であるため、何かと他のトレーナーから目標とされたり憧れを抱かれたりしている。なんだったら後輩から相談を受けることも多々ある。

 なので、

 

「東条さん、すいませんが相談乗ってくれませんか?」

 

 そんな頼みごとをされるのも慣れたものだった。

 いつもと違うことがあるとしたら、

 

「最近、バクシンオーの様子が変なんです」

 

 男性トレーナーからの相談だったこと、そしてそれが担当(タイキシャトル)のライバルについてのものであることだった。

 

 

 

 カフェテリアで話を聞くことにした。

 

「あれ? って思ったのは秋天が終わってからすぐのことです」

「……そうなのね」

「……今、おかしいのは普段からだろって思いました?」

「思ってないわ。続けて」

「はい……クラスメイトにも聞いたんですが、日中の授業とかは変わりないんだそうです。ただ、トレーニング中にバクシンバクシンって叫ばなくなりました」

「……そう」

「……今、静かになっていいだろうって思いました?」

「……思ってないわ」

「そうですか……時期的に、そろそろ長距離を走りたいと言いだす頃なんですか、そんなこともなく中距離に向けたトレーニングを続けています」

「……」

「───今」

「別にタイキと距離が被らなくなって安心とか思ってないから! とりあえず、サクラバクシンオーが普段と違うのは分かったわ」

 

 トントンとテーブルを指で叩きながら続ける。

 

「……で、私に何をしてほしいの?」

 

 相談と言いつつお願い事があるのは分かっていた。

 これが新人か、実績少ない若手ならまだしも相手はスプリント王者を育て上げた傑物だ。しかも本人が希望しているという理由で距離延長にまで尽力している。才能だの適正だの、長く根付いた定説に真っ向から喧嘩を売る狂人枠が、ただの愚痴で終わるわけがないのだ。

 

「実はですね……」

 

 遠慮がちに、けれど絶対引かないという笑みを称えながら、彼は話を切り出した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ある日の夜。ナリタブライアンはナイター設備の照明に照らされたグラウンドにいた。軽く走っていたのか、秋の夜風を浴びる彼女の頬は熱を帯びていた。時間的にはまもなく門限で、通常ならフジキセキが呼びに来る頃だ。

 だが、今夜だけは特別だった。

 

「……来たか」

 

 芝を踏む音を耳が捉えた。

 振り返った先にいたのはサクラバクシンオー。すでにアップを終えているのか、僅かに体から蒸気が上がっていた。

 

「フジに勝ったそうだな」

「ええ、1,600mですが」

「昨日はアマさんにも勝ったらしいな」

「1,800mですね! 流石の追込でした!」

 

 リギル対サクラバクシンオーの模擬レース。これがトレーナー間で行われた交渉の結果だ。

 毎夜、マイル以上を主戦とするリギルのメンバーとサクラバクシンオーが競う。リギルが勝った時点で終了。サクラバクシンオーが勝った場合は翌晩も継続する。

 サクラバクシンオーは強豪相手に経験を積めるが、一方でリギルには利がない。しかし、

 

「結果に関わらず、バクシンオーを指導する中で培った資料を提供します」

 

 それが、かのトレーナーがリギルを巻き込めた理由だった。

 東条もタイキシャトルを指導している以上はスプリントのノウハウは身についている。歴史あるリギルが積み上げてきたものも多い。しかし目の前にいるのはそのタイキシャトルを打ち破った短距離王者の担当だ。技術と思想の停滞は緩やかな死、などという輩もいる以上、実績ある他者の知見というのは宝石の如き価値があった。

 

「そこまでするの?」

「します。バクシンオーは秋天から何かを掴みかけています。もう一押しきっかけが欲しいんです」

「今後もバクシンオーは中距離路線を行くのでしょう? リギルより適したチームがあると思うけど」

「大抵、チームというのは適性が偏るものです。スプリンターやマイラーしかいないチームでは今のバクシンオーのためにならない。中距離以上だと今年はスピカかマルカブの活躍が目覚しいですが、向こうは逆にスプリントのノウハウを必要としていないので僕が出せる対価がありません。

 短距離から長距離まで満遍なくメンバーが揃っているのはリギルくらいですよ」

 

 言われてそうか、と納得した。そして同時、断る理由もないことに気付く。

 タイキシャトルとシーキングザパールの欧州GⅠ勝利により短距離路線は活気づいている。天皇賞(秋)の激戦にやや話題を持ってかれたが熱が冷めたわけではない。

 これからのことを考えれば、短距離路線の知識を増やしておくのは利点だ。そしてリギルからしたら失うものはなにもない。敗北した程度でメンタルがやられるような柔なウマ娘はリギルにはいないのだ。

 最初からOK以外の答えがない状態なのは癪だったが、東条は感情よりも明確な利を取った。

 

「いいわ。協力しましょう」

「ありがとうございます!」

 

 そして場面はウマ娘が対峙するところへと戻る。

 

「条件の確認だ。私が勝ったらこの勝負は終わり。アンタが勝ったら次の対戦相手を私が選び、私が連れてくる」

 

 ただし、とナリタブライアンは一度言葉を切った。

 

「残ってるリギルはステイヤーばかりだ。まだ長距離の舞台に行く気はないんだろう?」

「……ええ、今は中距離に集中したいですね。よろしければ私の方から相手を指名しても構いませんか?」

「構わんがリギル以外のウマ娘だと叶うかは分からんぞ」

「ビワハヤヒデさんをお願いします!」

「…………」

 

 予想だにしなかった名前に思わず耳と尾が揺れた。

 ビワハヤヒデ。菊花賞や宝塚記念を制したナリタブライアンの姉だ。

 三冠を制する爆発力はあるが浮き沈みのあるナリタブライアンに対し、常に安定した戦績を誇っている。

 

「意外だな。ルドルフの名が出ると思っていた」

「生徒会長さんはお忙しいですからね! ビワハヤヒデさんならまだ目があるかと思いました!」

 

 正直、シンボリルドルフを指名してくれれば無理だったの一言で終わらせることができただろう。だがビワハヤヒデ───身内では呼び掛けのハードルは下がる。あの面倒見の良い姉のことだ。日程さえ合えばすぐOKするだろう。

 しかし、

 

「姉貴はリギルじゃない。向こうのトレーナーにも話を通す必要がある。だから条件を一つ加えたい。うちのトレーナーを動かすための理由づけにな」

「なんでしょうか?」

「タイキともう一度走って欲しい。どこか空いた時間に模擬レースで構わない」

 

 それは高松宮記念の敗北を未だ燻らせているチームメイトを思っての提案だった。振り切られたアタマ差、欧州を勝った今なら結果は逆転するかもしれない。

 

「いいですよ。私もヨーロッパのGⅠを勝った走りは間近で見てみたいと思っていましたから」

「よし、約束だ。じゃあ距離だが───」

「2,000mでお願いします!」

「……本気か?」

 

 サクラバクシンオーが距離延長に成功しているのは知っている。事実、勝てなかったものの春の大阪杯、秋の天皇賞を完走している。

 が、ナリタブライアンは三冠ウマ娘。中距離は彼女のフィールドでありサクラバクシンオーには圧倒的に不利な条件だ。

 

「お言葉ですが、逆にブライアンさんは短い距離で私に勝てると?」

 

 挑発的な物言いに眉を顰めるが、その通りだなと思いなおす。

 ナリタブライアンもマイルや短距離が走れないわけではない。が、目の前にいるのは天才的なスプリンター。彼女を相手に勝負になると思うほど傲慢ではなかった。

 

「負けても短距離でもう一回、などと言ってくれるなよ?」

「言いませんとも! 勝負は一人一回、そういう約束でしたからね!」

 

 条件が決まり、二人ともスタート地点へ向かう。ゲートはなく、適当に引いた線を目印にして並ぶ。

 ナリタブライアンがポケットからコイン一枚を取り出し、指で上空へ跳ね上げた。

 ナイター照明を浴びてコインが輝き、その軌跡ははっきりと見えた。

 芝に落ちた瞬間、弾けるように両者は駆けだした。

 ハナを取ったのはサクラバクシンオーだった。やはりスプリント王者。スタートのテンは三冠を獲った怪物にも勝る。

 お手並み拝見、とナリタブライアンは無理に追うことなくサクラバクシンオーのペースに合わせることにした。

 ペースは2,000mとしてはやや速い。無謀というほどではないが、彼女の戦歴を考えると最後までもつのかとも思った。

 

(───ほう)

 

 その懸念は不要だったと、最終コーナーに入るあたりで気付かされた。

 サクラバクシンオーのスピードが落ちる気配がない。恐ろしいことに、この生粋のスプリンターだったはずのウマ娘は、三冠ウマ娘を相手に中距離で渡り合うだけの力を身に着けてきたのだ。

 

(面白い……!)

 

 見下したつもりはなかったが、やはり油断や慢心があったのだろう。

 リギルの面々を、フジキセキやヒシアマゾンを下したという時点で評価を改めるべきだった。

 ナリタブライアンは己が血潮が熱くなるのを確かに感じた。心臓が強敵との戦いに打ち震えている。

 

(お前は、私を熱くさせてくれた……!)

 

 東条はこの模擬レースに何の意味があるのか判りかねていた。一方でサクラバクシンオーのトレーナーは判っていた。今のサクラバクシンオーに何が足りないか、何が必要か。そしてナリタブライアンもまたそれが何かを理解していた。

 

(皮肉なものだ。おハナさんは優秀だが、この一点については一部のトレーナーに後れを取る)

 

 東条のトレーナーとしての能力はナリタブライアンも認めている。彼女がクラシック三冠を獲れたのも、一時の不調から持ち直せたのも東条の手腕だ。

 しかし一方で、東条ハナは夢を見ない。トゥインクルシリーズを走るウマ娘たちの厳しい現実を知っているから。勝てないウマ娘の辛さを知っているから。

 だから適性をとことん把握する。そのウマ娘が一番力を発揮できるフィールド内に収めてレースを選ぶ。分の悪い賭けより安定を取った。不確定要素を可能な限り無くしてきた。

 仮にサクラバクシンオーがリギルにいたら、距離の延長などせず絶対的なスプリンターのままにドリームトロフィーへ行っていただろう。

 それはそれで正しいのだろう。だが、だからこそ東条は無茶無謀に挑んだ者たちにのみ後れを取る。

 

(これは礼だ。お前が見たいのはこれだろう……!)

 

 最終コーナーを抜ける。最短ルートを通るサクラバクシンオーより一つ外側を、ナリタブライアンが駆け抜ける。

 必死に先頭を守ろうとするサクラバクシンオー、それを奪わんとするナリタブライアン。

 二人の闘志がぶつかり合い、怪物のソレが膨らんでいく。

 そうだ。この感覚だ。音が消え、世界から色が吹き飛んでいくような感覚。

 

 その瞬間を、サクラバクシンオーは見逃さなかった。

 

影すら恐れる怪物(シャドー・ブレイク)

 

 “領域(ゾーン)”に至ったナリタブライアンはあっという間にサクラバクシンオーを抜き去り、三バ身差でゴールした。

 

「ま、参りました……」

 

 終わってみれば、地力の差を見せつけた形となった。2,000mを走り切るスタミナは確かについた。が、そこから一着をもぎ取るだけのパワーがまだ足りないというのがナリタブライアンがつけた評価だった。

 

(もっとも、態々教えてやる義理もないが……)

 

 ナリタブライアンは自分の走りを見せた。そこから何が違って、何が足りないかを分析してサクラバクシンオーに伝えるのは担当トレーナーの仕事だろう。

 

「これで毎晩の模擬レースは終わりでいいな?」

「え、ええ……残念ですが、約束ですからね……」

  

 負けたというのに、サクラバクシンオーの顔色はどこか晴やかだった。

 白星以上の何かを掴んだ、そんな表情だった。

 

「タイキさんにお伝え下さい。……マイルCSで会いましょうと!」

「……は?」

 

 どういう意味だ、と聞く前にサクラバクシンオーは走り去っていた。一人残されたナリタブライアンは考える。

 

「……そういえば、タイキと走ってくれと言ったのは私だったな」

 

 模擬レースでいいと言ったのに、どう変換したのかサクラバクシンオーはGⅠでその願いを叶えようというのだ。

 欧州帰りのタイキシャトルと、春の短距離王者であるサクラバクシンオー。二人の激突はさぞ盛り上がることだろう。

 

「…………おハナさんがまた頭を抱えるな」

 

 私のせいではないよな、と呟くナリタブライアンを秋の星空が見つめていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

【私の推しは】マイルチャンピオンシップへの期待を語るスレPart.▽▽【バンブーメモリー】 

 

173:名無しのレースファン

【朗報?】サクラバクシンオーマイルCS参戦【悲報?】

世界のマイル王VS日本のスプリント王者が高松宮以来の激突の模様

 

175:名無しのレースファン

まじか

 

178:名無しのレースファン

>>173 タイキ「クルナ!!」

 

181:名無しのレースファン

>>173 ゼファー「来んな!!」

 

182:名無しのレースファン

>>178 >>181 あの二人はそんなこと言わん。むしろ返り討ちにしてやるぜくらい言う

 

183:名無しのレースファン

>>182 リギルトレ「来んな!!」ゼファトレ「来るな!!」こうですか?

 

186:名無しのレースファン

盛り上がって来たな

 

188:名無しのレースファン

中距離に集中するとは何だったのか

 

189:名無しのレースファン

息抜きやろ。たまには得意な距離走らんとな

 

192:名無しのレースファン

そんなちょっとコンビニ寄る感覚でGⅠ出るなや!

 

194:名無しのレースファン

>>189 あの子本来純スプリンターのはずなんですよ……

 

195:名無しのレースファン

だよな。クラシック級の時はマイルすら怪しかったのに

 

196:名無しのレースファン

中距離でも好走しているしもしかしてバクシントレってすごい奴?

 

 

 

 ◆

 

 

 

 マイルチャンピオンシップが開催される京都レース場。リギルの控室に、頭を下げる男がいた。

 サクラバクシンオーのトレーナーだ。男を見下ろしながら、東条は言った。

 

「恩を仇で返された気分だわ」

「本当にすいません……」

 

 出走が決まって以来、サクラバクシンオーのトレーナーからの何度目かの謝罪だが、東条の気が晴れることはなかった。

 欧州GⅠのジャック・ル・マロワ賞を勝利したタイキシャトルの帰国後第一戦であるマイルCS。勝てばGⅠ三勝目となり中距離未満から初の年度代表ウマ娘選出も夢ではなかった。

 出走するウマ娘たちを見ても、それは現実になり得るものだと確信していた。シーキングザパール、ヤマニンゼファー、ニシノフラワー。確かに強敵ではあるが、タイキシャトルが一度負かしているウマ娘たちだ。油断はしないが、優勢だと思った。サクラバクシンオーが出走するという報を聞くまでは。

 

「バクシンオーのやつ、理由を聞いても頑なに『約束なので!』の一点張りで……」

 

 ぺこぺこしつつも彼の口元は緩い。いつも通りのサクラバクシンオーに戻ったと、内心嬉しいのだろう。

 約束、と聞いて東条は壁にもたれかかるナリタブライアンを見た。長年の相棒はスッと顔を逸らした。

 

「私は何も言っていない」

「つまり何かはしたのね」

「………………」

 

 ナリタブライアンは答えない。都合の悪いことは沈黙で流すのは彼女の癖だ。

 

「ま、まあいいじゃないかおハナさん!」

 

 張り詰めた空気をどうにかしようと割って入ったのはヒシアマゾンだった。

 

「タイキだって春のリベンジをずっと望んでたじゃないか。おハナさんだって、今のタイキがバクシンオーに負けるとは思ってないだろう?」

「そうはそうだけど……」

 

 高松宮記念と違い今日は1,600mのマイル。タイキシャトルが得意とする距離だ。1,200mの短距離では後れを取ったが、この距離でタイキシャトルに敵う者が国内にいるとは思えない。驕りでも慢心でもなくそう言えるほど、欧州GⅠ制覇の偉業は大きい。

 

「はあ……もういいわ。そもそもそっちのローテーションに私が口を出す権利なんてないんだし」

「寛大なお心遣い、感謝いたします……!」

「早く戻りなさい。担当を待たせるものではないわ」

 

 結局、サクラバクシンオーのトレーナーは頭を下げたまま部屋を出ていった。僅かに見えた表情から東条は察した。彼は、担当の勝利をこれっぽっちも疑っていない。

 怒りは湧いてこない。東条も同じだからだ。トレーナーという人種は皆そうだ。誰もが、自分の担当こそが最強だと信じてやまないバカどもだった。

 

「勝ちなさいタイキ。勝って、貴女が王者だと証明しなさい」

 

 

 

 ◆

 

 

 

『マイルチャンピオンシップもついに最後の直線に入った! 先頭はサクラバクシンオー! しかしタイキシャトルとの差は僅か! シーキングザパールも来ている! ニシノフラワーも上がってきた! 間に合うかヤマニンゼファー!!』

 

 400mを切った時、タイキシャトルは内心ほくそ笑んだ。高松宮記念では追いつかなかったが今日はまだ距離がある。脚にもまだ余力があり、今もグングンと加速しサクラバクシンオーとの距離を詰めていく。

 勝つ。勝てる。そう思った。元よりあった天賦の才、短距離よりも得意な距離、欧州のマイルGⅠを勝ったという経験、複数の要素が重なり、タイキシャトルの優位は絶対であった。

 

 

 しかし、

 

 

 惜しむらくは、彼女が挑む相手もまた天性の怪物であったのだ。

 

 

 

(タイキさん、やはりマイルでは春と同じようにはいきませんね……!)

 

 迫りくるプレッシャーをサクラバクシンオーは肌で感じていた。

 高松宮記念とマイルチャンピオンシップの距離差は400m。適性から力の優劣が逆転するには十分な距離だ。サクラバクシンオーもマイルは既に克服しているが、生まれ持ってのマイラーであるタイキシャトルの方がやはり分があった。

 いや、適性だけではない。タイキシャトルも欧州遠征を経てレベルアップしている。今日がマイルではなく短距離でも楽勝とはいかなかっただろう。

 だが、

 

(あれから掴んだものがあるのは、あなただけではありません──!)

 

 サクラバクシンオーというウマ娘は、正しく天才の部類だった。生まれ持ってのスピード、病気やケガに縁遠い丈夫な身体、感覚で捉えるレースセンス、他者の適性を把握する選バ眼。歴史に名を残すスターウマ娘であった。

 惜しむらくは、そんな彼女の適性が短距離に特化していたことと、彼女がそれ以上を望んだことだろう。

 そして奇しくも、彼女を担当するトレーナーがそんな野望を本気で叶えようとしていた。

 短距離は当然頂点を獲った。マイルも常勝無敗とはいかずとも並のウマ娘には負けはしない。中距離は、重賞こそ勝ったが未だGⅠ制覇には至っていない。

 負ける度に次こそはと奮起した。敗北を引きずらず、勝者が素晴らしかったと素直に讃えて前を向けるメンタルは彼女の美点であった。

 

 そして、彼女の数少ない欠点であった。

 

 自覚したのはあの天皇賞(秋)だった。

 修羅の如き様相でレースを制したライスシャワー、故障したはずの脚で駆け上がってきたサイレンススズカ。

 衝撃だった。

 次走など省みない、いや明日の命すら投げ出さんばかりの激走にサクラバクシンオーの中の常識は打ち砕かれた。

 何故そこまでして走るのか。今日がダメでも、次があるではないか。秋の楯が欲しいなら来年また出ればよいではないか。

 そこまで思って、己が愚かさを自覚した。

 次があるなどと誰が保証した。来年もまた出られるなど誰が約束した。天賦の才故に、当たり前と思っていたことと周りとの乖離をようやく理解した。

 

(私に足りないのは、あれだ……!)

 

 次など考えない、その日のレースに全霊をつぎ込む覚悟。命を燃やして限界を超えていく闘志。

 圧倒的勝利と敗北しかなかったサクラバクシンオーには無かったものだ。

 だから何度もあのレース映像を見返した。彼女たちの決死の表情を頭に叩き込んだ。少しでも、彼女たちの熱を身に写すために。

 同時期にリギルとの模擬レースができたのは僥倖だった。

 トゥインクルシリーズに蹄跡を刻み、今もドリームトロフィーリーグでしのぎを削り合うスターウマ娘たちだ。当然、実力はサクラバクシンオー以上の者が多く、あの領域に至ったウマ娘もいた。

 サクラバクシンオーは天才だ。

 サイレンススズカが至ったのを見た。ライスシャワーが至ったのを見た。フジキセキの、ヒシアマゾンの、ナリタブライアンのそれを間近で見た。

 だから、彼女はすでにそこに至る術を見出していた。

 

(タイキさん、あなたは強い。このままでは私は敗れるでしょう。欧州を制した最強マイラーは、やはり日本でも強かった。しかし───)

 

 視界が真白に染まり、音が消えるのを感じた。

 

(限界超え、あなたを打ち破り、私はその先へ行く───!!)

 

 その“領域(ゾーン)”の名は、

 

“驀 進 桜”

 

 散ることを知らぬ、炎の花が咲いた。

 

 

『サ、サクラバクシンオー抜け出した! ここでまさかの超加速!! 後続を引き離した! タイキシャトル追いつけない!! 一バ身、二バ身とリードを広げ……今ゴール!! 

 勝ったのはサクラバクシンオーだ! 世界をマイル王を、日本の短距離王者が打ち破った!!

 二着はタイキシャトル! 三着は───』

 

 

 

「どう、して……!?」

 

 膝をつき、全身に汗を垂らしたタイキシャトルが思わず呻いた。

 勝ったと思った。彼女のスピードはサクラバクシンオーを上回ったはずだった。なのに、土壇場でその序列が覆された。

 

「どうやら、私たちは天狗(ロングノーズ)になっていたようね」

「パールさん……?」

「私たちは欧州を走り、世界を知った。私たちは大海を知り、知らぬ彼女は井の中の(フロッグ)のはずだった」

 

 でも、とシーキングザパールは続ける。

 

「井戸の底でも星を見上げることは出来た。手を伸ばし、跳びあがり、その輝きを手にせんと挑むことは出来た。他に星があると知らず、星に届かぬはずがないと信じ、彼女は愚直に挑み続けた。

 ……私たちは大海を知り、手の届くものに手を伸ばしたに過ぎなかったのね」

 

 やがて彼女の一歩は世界の誰よりも高く跳ぶための一歩となるのだろう。そうシーキングザパールは結論付けた。

 

「楽しいわね……世界という壁を乗り越えたと思ったらすぐに新たな壁が現れる。そしてその壁を乗り越えるために私たちは鍛え挑み続ける。これこそが終わりなきフロンティアスピリッツ!! トゥインクルシリーズは枯れることなき星の鉱脈なのね!」

 

 敗北の悔しさを吹き飛ばすよう快活な笑いとともにシーキングザパールは去って行った。

 残されたタイキシャトルは顔を上げる。見えたのは、サクラバクシンオーという勝者が喝采を浴びる姿。

 最後に見せたあの加速にいつか追いつけるか。あのスピードに、自分は届くのか。

 

「次は……負けません!!」

 

 届かせよう。負けっぱなしでいられるものか。

 不屈の意志を瞳に宿し、少女は立ち上がった。

 

 

 

 

 

 





その2は近いうちに……。


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45話 後輩たちとジュニア級GⅠ

新人組のターン!
なお、年末のGⅠは当時に合わせてジュニア優駿→ホープフル→有馬とさせていただきます。……当時ホープフルはなくGⅢラジオたんぱですがそこはアプリに合わせてということで。

あと、覇王世代は戦績を史実から結構変えてます。GⅠ以外を具体的に書く予定はありませんが。



 あたしはどこにでもいるごくごく平凡なウマ娘、アグネスデジタル。

 あえて特徴を上げるならウマ娘ちゃんたちが大好きであることと、芝とダートの両方を走れることくらい。

 そんなあたしですが、

 

「ではアグネスデジタルさんの今後の展望についてお聞かせください!」

「は、はいぃ……!」

 

 グラス先輩と一緒に取材を受けていたのでした。

 

 世間は今、空前のマルカブブーム! ……多分!

 いえ実際スゴイ注目されています。なんていってもライス先輩が秋天でサイレンススズカさんを打ち破ってのレコード勝利、グラス先輩が秋に復帰してからの菊花賞勝利、そしてエル先輩はクラシック級でありながらシニア級の先輩方相手にジャパンカップ勝利です。個々としてはGⅠ一勝───それでも十分すごいですが、チームとしてはGⅠ三連勝中! そりゃあもう世間もマルカブの動向に注目するというものです。

 連日取材取材取材グッズの監修写真撮影そしてまた取材です。

 とまあ注目されていますが先輩たちのなかで次走が決まっているのはグラス先輩だけ、年の瀬のグランプリ有記念への出走を表明済みです。出走はファン投票に左右されるので確定ではないのですが、クラシック級GⅠを勝利したグラス先輩が選ばれないということは無いでしょう。そして他のお二人は残りの年内は休養を発表済みです。

 注目の三人の内二人が話題(ネタ)無しとなると、世間の目は残りのメンバーに向かいます。

 そう、ジュニア級GⅠを狙うあたしとドトウさんに。

 

「アグネスデジタルさんはマルカブでは唯一のダート路線で活躍中です。しかし、ダートだけに縛られず芝路線にも挑戦されているとか!」

「はい、ですが芝の方はまだ勝ててないんですけどね……」

 

 二刀流なんて言ってますが先日出走した芝のレースでは掲示板外……やはりダートに比べて芝のウマ娘ちゃんはスピードありますね。

 

「他のウマ娘たちについて行けているだけ大したものです!今年は全日本ジュニア優駿を目標にされていますが、ズバリ来年の目標は!?」

「ええっ!? ま、まだ気が早いですよお……そうですね、トレーナーさんと相談ですけどクラシックで走るならマイルか中距離ですかね」

「となると、エルコンドルパサーさんに続いてNHKマイルか、ティアラ路線ということですね! そして夏にはジャパンダートダービー!!」

「だ、だから気が早いですよお……!!」

 

 こ、この記者さんぐいぐい来ますね……!

 

 

 

「つ、疲れました……」

「お疲れ様でしたデジタルさん」

 

 取材が終わると、グラス先輩がお茶を奢ってくれました。ちょっと苦いですが、慣れない場でたくさん喋ったからか喉をすんなり通っていきます。

 

「先輩方も去年こんな感じだったのですか?」

「そうですね……私たちの時は黄金世代なんて言われていたのもありますが、どちらかというとジュニア級のGⅠに出る一人、といった感じでしたね」

「うう、そうなりますとやっぱりマルカブのウマ娘として注目されているんですね……」

「芝とダート両方走る、と公言しているのもあると思いますが、まあ観念してください」

 

 火付け役の一人に言われてしまっては仕方ありません。リギルのような他チームの新人さん方もこういう気持ちなのでしょうか。

 正直言うと芝はまだまだですが、ダートなら中々のものだと自負しています。全日本ジュニア優駿も楽勝、などとは口が裂けても言いませんが勝ち負けに持っていけるのではと思っています。

 となると……

 

「あたしよりも、ドトウさんの方が心配です……」

「そう、かもしれませんね……」

 

 ドトウさんは、未勝利戦以降勝ちに恵まれていません。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 私は一人、トレーナー室でドトウのレースを見返していた。

 何度見ても結果は変わることはない。それでも、次につながるヒントが無いかと探し続ける。

 ドトウは未勝利戦を勝ち、トゥインクルシリーズの第一歩を踏み出した。しかし、それ以降の勝利に縁が無かった。

 今また見ているレースでも、彼女は二着に終わった。

 そう、また二着だった。

 メイクデビュー、条件戦、ОP戦。ドトウの走るレースには、悉く彼女が立ち塞がった。

 

「テイエムオペラオー……!」

 

 モニターの向こうで勝利し喝采を浴びるウマ娘の名が零れた。

 分かってはいたがやはり強い。鋭い末脚、ジュニア級とは思えないスタミナと本番に強いメンタル、そして卓越したレースセンス。元より頭一つ抜けていた素質は、リギルに入ったことでさらに磨きがかかっていた。彼女はすでにクラシック級とも張り合えるだけの実力を持っている。

 そんな彼女がドトウと同じレースに出てくるのは不運としか言いようが無かった。

 当然向こうがこちらを狙ってきているなどということはないだろう。二人とも適性が近い故に起こったことだ。

 唯一の救いは、いずれのレースもドトウが大敗せずに惜しくも二着になっていることだろう。勝ち星にはならないが、重賞に出走するのに問題ない程度の成績ではある。

 夏から予定していたホープフルステークスはなんとか出走できるだろう。

 

「問題は……」

 

 傍らに置いたホープフルステークスの出走予定リストを見直す。

 その中にテイエムオペラオーの名はない。東条トレーナーは既にクラシックレースを見据えているのだろう。

 ジュニア級はあくまでレース経験を積む時期と定め、本番はクラシック三冠なのだと推察した。

 ドトウの勝利を妨げる最大の障害は消えた。が、それでドトウの勝利が確定したわけではない。

 彼女たちの世代はグラスたち黄金世代にも負けず劣らずの粒ぞろいだ。ドトウたちとは別の路線からジュニア級GⅠへの出走を果たしたウマ娘もいる。

 その中で特に注意すべきウマ娘は───

 

「……アドマイヤベガ」

 

 魔術師の後継、奈瀬文乃トレーナー率いるチーム・ハマルのウマ娘だ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ドトウ」

「え、あ、はいドトウです……ってあれ、アヤベさん……?」

「大丈夫? なんだが心ここに在らずって感じだったけど」

 

 言われて気付いた。手には山積みのプリント資料。教師からお願いされて運んでいるところだったのっだ。

 視線の先、ガラス戸から見えるのはグラウンドだ。今も授業で合同トレーニングをするウマ娘がいた。

 

「す、すみません! ボーッと立っていてお邪魔でしたよね、すぐに……!」

「そんなこと言ってないわ。……それ、どこに持っていけばいいの?」

「え、あ───」

 

 メイショウドトウの返答を待たず、アドマイヤベガが山積みの資料に手をかけた。

 半分より少し多めに持っていく。メイショウドトウは軽くなった手元とアドマイヤベガを交互に見る。顔には未だ困惑の色があった。

 

「ウマ娘だからって持ちすぎよ。転んだら大変だし手伝うわ」

「あ、ありがとうございますぅ……!」

「別に。見かけてたのに後でケガとかされたら気分悪いだけ」

 

 素っ気なく言って、アドマイヤベガは歩き出す。

 その背中を見て、彼女が目的地を知らないことを思い出して追いかけた。

 アドマイヤベガの少し前に立つ。目的地を告げてやや急ぎ足で歩いていく。

 

「あ、あのぅ……」

「なに?」

「その、アヤベさんは次、ホープフルステークスに出るんですよね?」

「ええ……ドトウも出るのよね?」

 

 出走予定リストは既にトレーナー陣に共有されている。担当トレーナーからウマ娘へ情報が降りてくるのは当然だった。

 

「は、はいぃ……最近勝ってはいませんけど、二着続きでなんとか」

「ジュニア級なら勝った数は関係ないわ。GⅠに出られるだけでも十分立派よ」

 

 二着もスゴイ、とは言わなかった。

 アドマイヤベガもウマ娘だ。一着と二着の途方もない差は知っている。

 

「ドトウと一緒のレースに出るのは初めてね」

「そ、そうですね。メイクデビューも、それ以降もずっと別のレースでしたから」

「……オペラオーが出ないからって気を抜かないことね」

 

 氷のような声。しかしメイショウドトウは知っている。これはライバルとしての言葉なのだ。

 アドマイヤベガが、メイショウドトウを打ち勝つべきライバルとして言外に認めているのだ。

 

「ホープフルステークスは私が勝つ」

 

 星に誓うように、彼女は宣言した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 十二月も半ば、川崎レース場。ついに全日本ジュニア優駿の日がやって来ました。

 ありがたいことに、あたしことアグネスデジタルは一番人気。これもマルカブ人気の影響でしょうか。

 ですが人気と実力は絶対のイコールではありません。むしろ一番人気だからこそ周りにマークされる可能性が高いです。

 そんなあたしが最も警戒すべきは二番人気、ドミツィアーナさん。ここまで三戦三勝中のダート界期待の星です。

 

「デジタル、準備できたかい?」

「は、はい!」

 

 トレーナーさんの声で我に返り、今一度姿見で自身の格好を確認します。

 パステル系でカラフルな勝負服。百を超えるデザイン案から選び抜いた、あたしだけの勝負服。まさか具現化して袖を通す日がやってくるとは。

 更衣室から出るとトレーナーさんと先輩たち、ドトウさんが並んで出迎えてくれます。

 

「………」

 

 瞬間、ドッとプレッシャーが押し寄せてきました。

 先輩たちからではなく、あたし自身の内側から。マルカブは秋からGⅠを三連勝中、当然観客はあたしが勝って四連勝を期待している人たちが多いでしょう。

 胸の鼓動がやけに大きく聞こえます。トップチームの一員としての重責を今更自覚しました。

 

「……デジタル」

「え? あ、はい! なんでしょうトレーナーさん!」

「多分、色々と考えているんだろうけれど……まずはデジタル自身の夢だけを考えて欲しい」

「あたしの、夢……?」

「うん。……走るんだろ、芝もダートも。今日はまずダートのGⅠだ」

 

 あたしの夢。芝もダートも走り、ウマ娘ちゃんたちの勇姿をもっとも近くで目に焼き付ける。そうでした、チームのことも大事ですがあたしがトゥインクルシリーズに来たのはそのため。

 自分に向けられる期待より、あたしが意識すべきはともに走るウマ娘ちゃんたちであることを思い出します。

 気づけば圧し掛かっていた重圧は少し軽くなっていました。

 

「では不肖アグネスデジタル、行ってまいります!!」

 

 行ってらっしゃい、頑張って、応援しているよ、皆さんの言葉を背中に浴びながら控室を出てターフへ向かいます。

 自分の夢を考える。ありがとうございますトレーナーさん。あなたの言葉に救われました。

 でも、勝つ気でいるのも変わりません。

 

「あたしも……」

 

 あたしだって、先輩方の熱にしっかり充てられているんですから。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『最終コーナーを曲がって先頭はドミツィアーナ! しかし外からアグネスデジタルが上がってきた! デジタル追いつけるか!? 振り切るかドミツィアーナ!!』

 

 見事なコーナリングで先頭を走るドミツィアーナさん。さすがはダート界期待の新星、さすがの走りです。

 ですがあたしだって負けていられません。

 あたしを推薦してくれた黒ちゃんのためにも、応援してくれている皆さんのためにも。

 そして、ドミツィアーナさん!

 

「奮闘するあなたを間近で見たいぃぃぃいいい!!」

 

 欲望全開? 煩悩丸出し? 好きに言ってください。これが、これこそがアグネスデジタルが走る理由なのですから!

 

『並んだ! デジタル並んだ!! 粘るドミツィアーナ! 差し切るかデジタル!』

 

 いい! ドミツィアーナさん良い表情です!

 汗にまみれた顔も、歯を食いしばる姿も素晴らしい!

 このままずっと見ていたい。その全身をこの目に焼き付けたい。そのために───!

 

『抜けた! アグネスデジタルが抜け出した! アタマ一つ! ドミツィアーナ差し返せるか!?

 ───アグネスデジタル! アグネスデジタルが一着でゴールイン!!

 ジュニア級のダート王者はアグネスデジタルだ!!』

 

「はあ……はあ……! やった……やったよぉ……」

 

 歓声と拍手が客席から降り注ぎます。それは勝ったあたしだけでなく、奮闘したウマ娘ちゃんたちにも向けられているでしょう。

 ですが、客席に向かって手を振るのはあたし一人。二着のドミツィアーナさんも、他のウマ娘ちゃんたちも俯くか、堪えるような表情でした。

 レースに出るウマ娘ちゃんは誰もが勝利を目指して頑張っています。でも勝利を手にするのはたった一人。その重さはどれほどか、GⅠともなれば筆舌に尽くしがたいそれを、今日あたしは背負ったのです。

 これがトゥインクルシリーズ。栄光と苦悩に満ちた世界。

 あたしも、ドトウさんも、これからこの道を歩むのでしょう。 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 デジタルが勝ってマルカブはGⅠ四連勝。世間からの期待はさらに高まったと同時、ウマ娘たちにかかるプレッシャーもさらに増した。

 今日はホープフルステークス。ドトウが出走するジュニア級最後のGⅠだ。

 ドトウは既にターフへ送り出した。生来の後ろ向きさゆえか、重圧からの緊張か、強張っていたのが気になった。

 

「まずはトレーニングの成果をしっかり出すことを考えよう。周りの目は気にしなくていいよ」

 

 控室でそう言ったもののもとより気遣い屋の彼女のことだ、実践できるだろうか。

 いや、できることはやって来た。あとは彼女を信じ、どんな結果になろうともフォローできるようにしておこう。

 

「おや、お久しぶりですね。マルカブのトレーナーさん」

 

 客席に行くと声をかけられた。

 中性的な顔立ち、クールな佇まいだが小柄な見た目から可愛らしいという印象が先に来る麗人。

 奈瀬文乃。チーム・ハマルの、アドマイヤベガのトレーナーだ。

 レース場で会うのは確かに久方ぶりだ。昔、イベントでライスとスーパークリークがエキシビションマッチをした時以来か?

 

「遅くなりましたが、ライスシャワーの天皇賞制覇おめでとうございます」

「ありがとうございます。そちらこそシーキングザパールの欧州GⅠ制覇おめでとうございます。中継を見ていましたが素晴らしい走りでした」

「ありがとうございます。……しかし、マルカブさんは昨年に続いて秋シーズンは絶好調ですね」

 

 いたずらっぽい笑み。確かに昨年も今年も、春に比べて秋の方が勝率がいい。端に出走した数が違うだけかもしれないが。

 

「今日のメイショウドトウが勝てばチームとしてGⅠ五連勝。より一層気合が入るのでは?」

「それは……」

 

 声色は朗らかだが、目が笑っていない。

 相変わらずクールな外見に対して熱い人だ。

 

「チームとしての栄光なんて二の次ですよ。まず大切なのはウマ娘の夢のためになるかです」

「変わりませんね、貴方は」

「そちらこそ。わざわざそんなことを言うなんて、勝つのは自分たちだという宣言ですか?」

「まあ、自信はあります」

 

 パドックが始まり、歓声が起こった。

 ちょうどアドマイヤベガが出てくるところだった。

 深い青に金の装飾が印象的な、星夜を想わせる勝負服を纏う彼女の表情は固く見える。

 大舞台故の緊張、ではないと思った。

 

「彼女には少し複雑な事情がありまして」

 

 どんな? とは聞かない。担当トレーナーでもない私が踏み入ってよい領域ではないだろう。

 

「アヤベの覚悟を理解したうえでチームに引き入れました。だから、ここで躓くわけにはいきません。

 ……メイショウドトウはテイエムオペラオーに随分とやられているようですが、この世代の強者は彼女だけではないということを覚えておいてください」

「そう、ですか……」

 

 覚悟、と奈瀬トレーナーは言った。

 それは今のドトウには確かに無いものだ。

 所詮は気持ちの話、と断ずることもできるだろう。

 しかし、その気持ちの有無の差を、私たちは見せつけられることになる。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『最終コーナー曲がって先頭集団が最終直線へ! ここでメイショウドトウ前に出た! ミニオーキッドを抜いてメイショウドトウが先頭! このまま後方を振り切るか!!』

 

 ドトウの走りは周りから見ても見事だった。ペース配分、コーナリング、仕掛け処。まさに、テイエムオペラオーさえいなければと思われるほど。

 しかし───

 

『大外からアドマイヤベガ! アドマイヤベガ上がってきた! メイショウドトウを捉えるか!?

 

 ───アドマイヤベガが撫で切った!! アドマイヤベガ一着!! ジュニア級最後のGⅠを勝ったのはアドマイヤベガ!! 二着はメイショウドトウ!』

 

 それはまさに流星であった。

 最終コーナーを曲がって後方からの直線一気。先行勢をまとめてごぼう抜きし、アドマイヤベガは見事ホープフルステークスを制して見せた。

 勝利したアドマイヤベガは胸に手を当て空を見上げた。その先にいる誰かに己が勝利を捧げるように。

 

(あれが、彼女の覚悟か……)

 

 アドマイヤベガの動きにどんな意図があるのか分からない。

 だが、GⅠ勝利を喜ぶわけでもなく、誇る様子もないその姿が妙に印象に残った。

 

「アヤベはこのままクラシックへ向かいます」

 

 奈瀬トレーナーがターフを見下ろしたまま言った。

 

「目指すのは日本ダービー。もしその舞台にメイショウドトウが来るのなら、また会いましょう」

 

 そして彼女は去って行った。

 残された私は、ターフで敗北を噛み締めるドトウを見る。

 彼女の前に立ちはだかるライバルは多い。

 テイエムオペラオーだけでも精一杯だというのに。

 流星の如き輝きが、舞台に躍り出たのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ドトウの冬はちょっと長い。

補足
主なチームハマルメンバー
スーパークリーク(リーダー):ドリームトロフィー
バンブーメモリー(隠居した父から引き継ぎ):ドリームトロフィー
マーベラスサンデー:ドリームトロフィー
シーキングザパール:シニア級(海外遠征希望)
アドマイヤベガ:ジュニア級(来年からクラシック)
他、モブウマ娘複数

ドミツィアーナはアプリのアオハル杯シナリオに登場するダートのウマ娘になります。モブのはずがやけに強い。


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46話 黄金たちとグランプリ

有馬記念はキング視点。
番外扱いにしても良かったかもですが、グラスも出るので。


 そのウマ娘は、世間でいうところの良血の出であった。

 母親はGⅠを複数制した一時代の王者。その血を引く娘もまた、戴冠を当然のように期待されていた。

 黄金世代の一角ともてはやされ、華のクラシックでの活躍を夢見ていた。

 しかし、

 

『逃げ切った、逃げ切ったぞセイウンスカイ! 皐月賞を制したのはトリックスター、セイウンスカイだ!!』

 

『黄金世代のダービーウマ娘は―――スペシャルウィーク!! スペシャルウィークです!! 夢を掴んだのは、スペシャルウィークだ!!』

 

『グラスワンダー一着!! クラシック最後の一冠、菊花賞を勝ったのはグラスワンダーだ!! ジュニア級王者が今完全復活!! 不死鳥のごとく蘇りました!!』

 

 蓋を開けてみれば本人含めて周囲が想い描いていた栄光はどこにもなく、栄えあるクラシックの冠は友人たちが分け合っていた。

 それだけではない。黄金世代と持ち上げられた五人の内、彼女だけが未だGⅠ戴冠に至っていなかった。

 同時に走り出したはずなのに、友と大きく差を開くこととなった。

 

「ごめん、ごめんね……キング……」

 

 その謝罪に何の意味があるのか。菊花賞が終わった後、彼女のトレーナーは涙ながらに続けた。

 

「私がトレーナーになったばっかりに……もしも、私じゃなくてお父さんがキングの───」

「その先を言ったら許さないわよ」

 

 彼女は自身のトレーナーに、ある種のシンパシーを感じていた。

 知って担当契約をしたわけではない。が、トレーナーもまた親が一流故に同様の成果が期待されていた。

 互いに親が一流。故の期待、故の重責。奇しくも同じものを背負っていた二人は導かれるように出会い、互いに誓った。

 

 ───私は、私の名を轟かせてみせる……!

 

 誰それの娘、などという肩書ではなく、自身の名を。むしろ一流である親が、キングヘイローの親と呼ばれる。そんな存在になってみせると。

 

「キング……」

「私があなたをトレーナーに選んだのは、あなたのお父様が一流だからなんかじゃない……!」

 

 クラシックの結果は散々だった。

 すでに世間は期待外れと肩をすくめることを通り越して、誰も彼女たちを見ていない。注目されるのはクラシックで勝ち抜いたウマ娘たちのことばかり。

 それでも、キングヘイローが俯くことは無かった。

 

「一流の道を歩む覚悟をあなたが示してくれたからよ。だから、顔を上げなさい」

「まだ、私をトレーナーにしてくれるの?」

 

 トレーナーへと手を差し伸べるキングヘイローに訊ねると、彼女は不敵に笑った。

 

「当然でしょう。結果だけを見て、その過程を無視して契約切るなんて一流のすることじゃないわ」

 

 差し出された手を取る。若きトレーナーの瞳に、再び炎が点いた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 その日、キングヘイローは一人グラウンドを走っていた。トレーナーと定めたトレーニングまでまだ時間がある。だからと言ってだらけていられる性分ではなく、自主トレに当てていた。

 秋から冬に変わりつつあるとはいえ、身体を動かしていれば体温も上がってくる。浮かんだ汗を拭いながら走る彼女は今年のレースを振り返っていた。

 クラシック三冠のうち、皐月賞はセイウンスカイに振り切られて二着。日本ダービーは十四着という大敗。菊花賞は走り切るも五着に終わった。

 GⅡ以下の重賞も勝ちきれず、クラシック級になってから未だ勝利は無い。

 不甲斐ない結果に憤慨しつつも、キングヘイローはある結論に至りつつあった。

 

 ───自分は、長い距離への適性がないのではないか。

 

 要は向き不向きの話だ。芝とダート、短い距離と長い距離。ウマ娘には生まれ持って自分に合ったバ場と距離がある。

 傾向としては血統による遺伝が大きなウェイトを占めるとされる。母がスプリンターなら娘もスプリンター、母がダート巧者なら娘もダート巧者と言った具合に。

 無論例外もある。しかし定説が崩れるには至らなかった。

 キングヘイローの母に長距離の実績は無い。だがそれはレースに出ていないだけで可能性は十分にあった。

 なによりも、母が勝っていない長距離GⅠを勝つことはキングヘイローにとって大きな意味があった。母を超えるという意味が。

 

(でも、菊花賞は五着で皐月賞は二着……日本ダービーは失策だから当てにならないとして、悔しいけれど私の適性はお母さま譲り……)

 

 勝ってこそないが、着順をみれば距離が短いほど成績が良い。自身の適性はギリギリで中距離まで、長くとも2,000m程度なのだろうと推察した。

 長距離も走れないことはないだろうが、おそらく掲示板入りが精々で勝ち目はない。

 天を仰ぐ。長距離適性がないということはそれほど大きなハンデではない。日本のレースの主流は中距離だ。

 しかし、

 

(……スカイさんにグラスさん、スペシャルウィークさん。菊花賞に出たみんなはおそらく天皇賞(春)を目指すでしょうね)

 

 それは数少ない長距離GⅠ。けれどもこの国で最も歴史と権威のある八大レースの一つだ。長距離適性がないということは、天皇賞(春)に出ないということ。

 そして同時に。友人たちとの競争から離れるということでもあった。

 適性に従い王道から逸れること、夢と掲げた一流への道。堅実か夢か。キングヘイローは人生の岐路に立たされていた。

 

「キーングーー!!」

 

 懊悩するキングヘイローの耳に届くのは、彼女の担当トレーナーの声だった。

 富永裕子。

 トレーナーとして偉大な父を持つ若き女性トレーナー。まだ目立った実績はないが、一流の親への反骨心のような感情には共感できた。

 

「どうしたのトレーナー。まだトレーニングまで時間があるけれど?」

「ついさっきたづなさんから連絡貰って! 居ても立っても居られなくて……これ!」

 

 バッ、と広げたのは何かのリストだった。ウマ娘の名前の横に番号が振ってある。

 レースの出走表と思ったが数が多すぎる。

 

「これは?」

「人気投票! 有記念の! キングが十位なんだよ!」

「ええ!?」

 

 年の瀬のグランプリである有記念。昨年はライスシャワーが復活GⅠ勝利を果たした大レースだ。普段のレース成績だけでなく、ファン投票の上位に優先出走権が与えられる。

 キングヘイローの順位は、ギリギリその優先出走権を得られる位置だった。

 

「ど、どうする……?」

「どうするって……」

 

 恐る恐る聞いてくる富永。即答できないキングヘイロー。

 有記念は2,500m。中距離に近いが、区分としては長距離に当たる。

 ついさきほど自身の長距離適性を疑問視していたところにこの知らせは、固まりかけた決意に迷いを生んだ。

 リストを今一度よく見る。ライスシャワーやエアグルーヴと言った昨年に引き続きのメンバーに加えてセイウンスカイ、グラスワンダー、スペシャルウィーク。同期でありクラシックの三冠を分け合った、所謂三強も名を連ねていた。

 

(スペシャルウィークさんは菊花賞以降は休養と言っていたわね。他の二人は……)

 

 おそらくは出るだろう。セイウンスカイもグラスワンダーもはっきりと口にはしないが、レースへの栄光に拘る二人だ。

 

(もしかしたら、みんなと一緒に走るのはこれが最後になるかもしれない。それに……)

 

 今一度、自分の適性を確認するチャンスかもしれない。

 2,000mは走り切れた。2,400mは失策により大敗したから分からない。もしも2,500mで結果を出すことが出来たなら、自分はまだ王道の路線にいられるかもしれない。

 

「出ましょう。せっかくこのキングに投票してくれたファンを悲しませることは出来ないわ!」

「そ、そうだよね! よーし早速登録だ。頑張ろうねキング!」

「ええ! 今度こそ、私たちが一流であることを証明してみせるわよ! おーほっほっほっほ!」

 

 高らかに響く笑い声。それがカラ元気であると、彼女以外に気づく者はいない。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 そして、ついにその日がやって来た。

 今年最後のグランプリ、有記念。中山レース場には観客が溢れていた。

 緑の豪奢な勝負服に着替えたキングヘイローは地下バ道にいた。

 既に出走ウマ娘の多くが揃っていた。

 クラシックを争ったセイウンスカイにグラスワンダー。エリザベス女王杯を制したメジロドーベル。メジロきってのステイヤー、メジロブライト。歴戦の強者であるエアグルーヴにマチカネフクキタル。

 今年のGⅠ戦線を彩ったスターウマ娘たちが一堂に介していた。

 

「いや~まさか揃って有記念に出れるとはね。一年前は考えてもみなかったよ」

「あらそう? 私はこうして出ることになんの疑いもなかったけれど」

「キングさんは流石ですね……私は春に走れなかった分、こうしてみんなと走れることがとても嬉しく思います」

 

 グラスワンダーの言葉に、セイウンスカイがおお~と声を上げた。

 

「流石グラスちゃん。ここまで来たらスぺちゃんやエルも出てきたらよかったのに」

「仕方ないわ。みんなそれぞれのローテがあるのだもの。また来年に期待しましょう」

 

 それは強がりだった。

 ファン投票のある有記念とはいえ、投票する側もハナから欠場を表明しているウマ娘に投票することは無い。

 もしもスペシャルウィークかエルコンドルパサー、そしてライスシャワーのうち誰か一人でも出走を表明していたら果たしてキングヘイローはこの舞台に居られただろうか。

 

「しょーがない、じゃあ今日はグラスちゃんに菊花賞のリベンジといきましょうかね?」

「あら、セイちゃんから宣戦布告なんて珍しいですね」

「そりゃあねー流石に私もやられっぱなしではいられないのですよ」

 

 飄々と笑うセイウンスカイに、受けて立とうとばかりのグラスワンダー。二人の目に、すでにキングヘイローは映っていなかった。

 

(当然ね……二人は既にGⅠウマ娘、対して私は無冠……)

 

 もっとも同期の二人はそんな意図はない。キングヘイロー自身もそれは分かっている。しかし自虐的な思考は幾度も浮かんでくる。

 

(証明するのよ……! 私の力は、みんなに劣ってはいないと!)

 

 浮かぶ自虐の言葉を闘志の薪に変えながら、キングヘイローは進む。

 そして、有記念が始まった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『トゥインクルシリーズ芝のレース。クラシック級にシニア級、そしてジュニア級でも今年も多くの名勝負、スターウマ娘が誕生しました。黄金とも称され三冠を分け合ったクラシック級、二つの世代が激突したシニア級。そして歴戦のウマ娘に新星の輝きを見せたジュニア級、夢を見せてもらいました。そんな今年一年を代表するウマ娘たちが中山に集った大一番、有記念の始まりです!

 出走するウマ娘たちをご紹介しましょう!

 

 まずはこのウマ娘! GⅠウマ娘の称号は幸運ではなく確かな実力! 淀で魅せた末脚をマチカネて今日もファンは中山に集まった! 

 

 ラッキーガールもといスーパーガール マチカネフクキタル!!

 

 淀で力を示したのは彼女も同じ。春の苦悩を乗り越えて不死鳥は今こそ羽ばたく! 黄金世代の三強が堂々出走!

 

 青き不死鳥 グラスワンダー!!

 

 麗しき彼女の走りも今日がラストラン! オークスウマ娘が中山を駆ける! 一時代を牽引した王者の走りを目に焼き付けよ! 

 

 強き女帝 エアグルーヴ!!

 

 ・

 ・

 ・

 

 遥か北、阿寒湖から彼女はやって来た。もうシルバーコレクターとは言わせない! 名前の通り狙うは一つ、金メダル!

 

 黄金に至る道を往け キンイロリョテイ!!

 

 ・

 ・

 ・

 名家故、その重圧は一際大きなものでしょう。ですが彼女は挫けない! 諦めない! 栄光を求め、輝く舞台に立ち続ける!

 

 吹き荒ぶ花信風 メジロブライト!!

 

 空を漂う雲は平穏の象徴だけれども、一転して波乱を起こすのもまた雲というもの。見せるか奇策、魅せるか逃げ切り! 黄金世代最速が、再び中山に嵐を呼ぶか!

 葦毛のトリックスター セイウンスカイ!!

 

 無冠の大器とは言わせない! 彼女もまた黄金世代、その実力を目に焼き付けよ!

 不屈の挑戦者 キングヘイロー!!

 

 エリザベス女王杯を制し、時代の女王となったメジロの姫。次に狙うはグランプリ! 昨年に引き続き有記念に参戦です!!

 新時代の女王 メジロドーベル!!

 

 ・

 ・

 以上、十六名出揃いました。有記念、出走です!』

 

 

 

 パドック、ゲート入りは問題なく終わった。

 観客が見守る中、ついにレースが始まった。

 開くゲート、飛び出す十六のウマ娘たち。

 

『真っ先に飛び出したのはセイウンスカイ! 皐月賞ウマ娘がハナを取った! その後を追うのは───』

 

 キングヘイローは後方に控えていた。背後にはメジロブライト含めて三名。彼女たちより前、中団にはグラスワンダーやエアグルーヴが位置取った。

 無理をしてセイウンスカイを追うウマ娘はいない。菊花賞や天皇賞(春)ほどではないとはいえ、2,500mは長丁場だ。序盤は脚を溜め、仕掛け時を探るウマ娘がほとんどだ。

 

(スカイさん、逃げ難そうね……)

 

 最内を走りたがる逃げウマ娘であるはずのセイウンスカイだが、今日は荒れた内バ場を避けていた。最短ルートを通ることが出来ずにいるせいで普段の走り後続との差が広がらない。

 

(スカイさんのことだから無策ということは無いでしょうけれど……)

 

 今日は彼女にとって不利なレース。キングヘイローはそう判断した。

 

 

 

 レースが動いたのは第三コーナーからだった。

 中団に控えていたグラスワンダーが前に出たのだ。

 エアグルーヴやキンイロリョテイも後に続く。後を追って他のウマ娘たちも動き出した。

 

(私も……!)

 

 後を追う。歴戦のウマ娘たちに、同期たちに、これ以上差を開けたくなかったから。

 しかし……。

 

「来たね、グラスちゃん……!」

「セイちゃん───勝負です!」

 

『最終コーナーを曲がってついにグラスワンダーがセイウンスカイを捉えた! 黄金世代の一騎打ちか!?

 いや、後ろからエアグルーヴも上がってきた! キンイロリョテイも飛んでくる! 奥からはメジロブライト!!』

 

 届かない。同期にも、上の世代にも。

 これ以上ないくらいに脚を動かしているというのに、前との差は縮まらず、むしろ広がっていくばかりだ。

 

『抜けた! 抜けた! グラスワンダーが抜け出した!! グラスワンダー一着!! 有記念を制したのは黄金世代の不死鳥グラスワンダー!!』

 

 先頭を駆け抜ける栗毛のウマ娘。春の不振が嘘だったかのような走りで、グラスワンダーは見事グランプリを制してみせた。

 セイウンスカイは結局他の後続にも捕まり四着となった。

 見事な末脚もみせたメジロブライトが二着、キンイロリョテイが三着と続いた。キングヘイローはエアグルーヴの後の六着に終わった。

 強豪ぞろいのグランプリ。六着という結果は決して不甲斐ないということはないだろう。

 

(でも、今日のレースではっきりしたわ……私の道は、この先にはない……!)

 

 受け入れるしかない。自身の適性を、己が才能を。時代の強さを。

 敗北した少女は顔を下げず、勝利の賛美を受ける同期を見る。

 春を捨てて、耐え忍んだ彼女は秋に花開いた。突然のケガにも腐ることなく励んできた結果だ。

 心からの賛辞を込めた言葉が零れる。

 

「おめでとう、グラスさん……」

 

 そして誓う。きっと、自分にも同じことが出来る。

 才能は劣ってしまったけれど、この胸に宿す決意だけは決して劣っているはずがないのだから。

 

 年末のグランプリは黄金世代の強さを見せつけて幕を閉じた。

 そして彼女たちは次のステージへと上がるのだ。

 

 

 



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47話 マルカブとURA賞

 おっす、あたしの名はアグネスデジタル。つい先日、レースとは違う大イベントから帰還した平凡なウマ娘。いやー今年も珠玉の作品が集まるイベントでしたね。

 プロアマ問わずウマ娘ちゃんたちへの愛が集まった作品が大量大量! ため込んでいたお小遣いがまとめて吹っ飛んでしまいましたが一片の悔いなし! というものです。

 さてさて有記念を無事グラス先輩が勝利したマルカブ。今年の成績はGⅠだけでも七勝! これ学園のチーム全体から見たらとんでもない成績じゃないですかね。おかげで年末ぎりぎりまで取材取材のオンパレード! 一時期は関連雑誌の表紙が全てマルカブメンバーで埋め尽くされるなんて面白現象まで発生してしまいました。

 とまあ一躍有名になったあたしたちですが、さすがに学生。年末年始はゆったりと余暇を楽しみました。

 あたしは先ほど言った通りイベントへ。先輩がたやドトウさんも各自で少し遅めのクリスマスを楽しんだり、実家や学友と毎年恒例のテレビ番組を見たりして過ごしていたようです。

 そして年が明け、皆で初詣も済ませてそろそろ学園も再開する頃、マルカブは揃ってチームルームに集まっていました。

 

「………」

「………」

 

 先輩方、特にグラス先輩とエル先輩の表情が険しいです。

 トレーナーさんも珍しく眉間にしわを寄せ、目の前に置かれた電話を睨みつけていました。

 ……そう、今日はURA賞、そして年度代表ウマ娘が決まる日なのです。

 昨年はグラス先輩だけが最優秀ジュニアウマ娘に選出されたそうですが、今年は先輩方全員になにかしらの賞を受賞する可能性があります。

 最優秀クラシックウマ娘ならグラス先輩とエル先輩のどちらかでしょう。お二人とも今年はGⅠを二勝。同期に三勝以上したウマ娘ちゃんはいませんからまず間違いありません。特にエル先輩はジュニア級でURA賞を取れなかったことが悔しかったようなので、今年は一層意識しているようです。

 一方でシニア級のライス先輩にはライバルが多いですね。先輩と同じくGⅠを二勝しているウマ娘ちゃんが何人かいます。

 大阪杯、宝塚記念と春シーズンを大逃げで盛り上げたサイレンススズカさん、安田記念と欧州GⅠを制したタイキシャトルさん、そのタイキさんを真っ向から打ち破ったサクラバクシンオーさんの三人です。

 とはいえライス先輩も天皇賞春秋制覇しています。同年に両天皇賞を勝利したのはタマモクロスさん以来ですからね、成績としては他の三人にも劣りません。

 そして既にお分かりでしょうが、ここまで挙げたウマ娘ちゃんたちは揃ってGⅠ二勝なんですよね。つまりはクラシックかシニアから年度代表ウマ娘が出るだろうということです。一応、短距離路線から年度代表ウマ娘が選出されたことはありません。ですが、今年候補に上がるだろう二人は格が違います。なんせ日本のウマ娘レースが熱望する欧州GⅠ勝利と、その勝者を打ち破ったウマ娘ちゃんですからね。史上初の事態が起こることも考えられます。

 よく考えたら一チームから候補が三人も出てくるとか、まさしくマルカブ飛躍の一年でしたね。

 ……え? あたしたちですか? 最優秀ジュニアの可能性? いやー連帯率百パーセントのドトウさんはともかくあたしなんて……一応GⅠ勝てましたけれどダートですからね。どうしても中央でのダートの地位は低いので。やっぱりジュニア級からは朝日FSとか阪神JFとかホープフルステークスとか芝の方で活躍したウマ娘ちゃんが選ばれるんじゃないですかね。

 

───トゥルルルルル……!

 

『────────!!』

 

 なんて言っていたら固定電話が鳴り響きました。全員の視線がトレーナーさんへ、そして電話へと向かいます。

 ゆっくりと、トレーナーさんが受話器を取りました。

 

「もしもし……はい、マルカブです。はい……はい……」

 

 ウマ娘は耳も良いですが、流石に受話器からの声までは拾えません。これがスマホとかなら聞こえるんですが。とにかくあたしたちはトレーナーさんの反応から察するしかありません。

 

「……はい! ありがとうございます!」

 

 トレーナーさんが喜色を顕にしました。思わず腰を浮かせてしまいます。

 誰もいない方向へ何度も頭を下げるトレーナーさん。無言になった受話器を置いたその表情は晴れやかでした。

 

「みんな……!」

 

 少し瞳を潤ませて、トレーナーさんがあたしたちへ結果を告げるのでした。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 年度代表ウマ娘    :ライスシャワー

 最優秀ジュニアウマ娘 :アドマイヤベガ

 最優秀クラシックウマ娘:エルコンドルパサー

 最優秀シニアウマ娘  :ライスシャワー

 最優秀短距離ウマ娘  :サクラバクシンオー

 最優秀ダートウマ娘  :─────────

 URA特別賞     :サイレンススズカ、タイキシャトル

 

 URA賞表彰式の会場に掲げられた大看板。その頂点に刻まれた名前を見て、私は胸の奥からこみ上げるものがあった。

 私がトレーナーとなってから長く共に歩んできたライス。GⅠを勝っても疎まれ、レース中の大ケガという悲劇にあっても屈することなくレースに復帰した彼女が、ついにその活躍を称えられることになったのだ。思わず目頭が熱くなるというものだ。

 

「もう、お兄さままた泣きそうになってる……」

「ライス……」

 

 声を掛けられ、目元を拭う。

 振り返ると、着飾ったライスたちが揃っていた。昨年も似たような光景を見たな。違うのはデジタルとドトウがいることと、メインとなるのがライスとエルの二人ということだ。

 ライスは深い青のドレスに、胸元にはトレードマークである青バラのコサージュが目を引く。

 エルは対照的とも言える赤と黄という太陽のように明るい色合いのドレスだ。活発なエルに合わせたように、ライスに比べて丈が短く、白い脚が露わになっている。

 他の三人も、目立ちすぎない程度におめかししていた。グラスは薄い青、デジタルは桃色、ドトウは青と白の二色のドレスだった。

 

「みんな似合っているよ」

「ありがとうございます。ですが……叶うことなら受賞者としてこの場に来たかったですね」

 

 しゅんとするグラスに見せつけるように胸を張るエル。去年と受賞出来た側と出来なかった側が入れ替わる形だ。親友ながらも競い合うライバル関係であるだけあって、二人にとっては重要なことだ。

 

「まあ、部門は違っても二年連続ってのはまずないからね……」

「そう言ってもらえると救いです」

 

 グラスもエルもGⅠ二勝。受賞の決め手になったのはエルがNHKマイルとジャパンカップという海外のウマ娘も出走するレースに勝ったことだと言われている。グラスもクラシックとグランプリの二勝なので格という面では劣っては無いと思うが、決定づけたのはグラスが去年最優秀ジュニアウマ娘を受賞しているということだろう。

 ……春の全休が響いたとは考えたくない。

 

「おや、また会いましたね」

 

 会場に入ると早速声を掛けられた。

 奈瀬文乃トレーナーと、彼女が担当するアドマイヤベガ。そして彼女が率いるチーム・ハマルのリーダー役であるスーパークリークだ。彼女たちもこちらに負けず劣らず着飾っていた。

 

「ライスシャワーにエルコンドルパサー、ともに受賞おめでとうございます」

「ありがとうございます。ハマルこそ、アドマイヤベガの最優秀ジュニアウマ娘の受賞おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 

 互いに、メンバー揃って頭を下げる。

 

「ハマルの他のメンバーは?」

「うちは全員となると十数人になりますからね。彼女たちには悪いですが留守番ということで」

「代表として私が来ました!」

 

 スーパークリークが大きなカメラを掲げながら言った。

 どうやらハマルのカメラマン役は彼女らしい。ちなみにうちのカメラマンはデジタルが立候補したので任せている。

 

「昨年はマルカブに話題を持っていかれましたが、今年はそうはいきませんよ。ハマルのアドマイヤベガがクラシックを席巻します」

「これは強敵ですね……ですがマルカブのクラシック級だって負けてはいませんよ。だろうデジタル、ドトウ……あれ?」

 

 振り返ってみれば、二人揃って残像が出るほどの速さで首を横に振っていた。

 視線を戻すとハマルの三人が苦笑いしていた。

 

「……ま、まあまずは自信をつけることからですかね。急がず焦らずで……」

 

 背後で、首を振る方向が横から縦に変わった。

 うーん世代ごとに性格がまるっきり違うな。これがグラスやエルだったら「勝つのは私だ!」くらい言うんだが。

 

「では、またレースで」

「はい。いずれレースで」

 

 そう言って奈瀬トレーナーたちと別れる。

 六人で会場を進んでいくと、また知った顔を見つけた。チーム・リギルの東条トレーナーと、サクラバクシンオーのトレーナーだ。

 声を掛けようとしたが足が止まる。様子を見ると、東条トレーナーはどこか不機嫌で、サクラバクシンオーのトレーナーが申し訳なさそうに頭を何度も下げていた。

 どうやら二人の間で何かあったらしい。あの間に入るのは火中の栗を拾うようなものか。

 挨拶は後にしよう。

 踵を返して進んでいけば、今度はまた賑やかな一団に出会った。

 

「お、マルカブの……! ライスシャワー、年度代表ウマ娘おめでとうさん」

「ありがとうございます。……スピカもサイレンススズカの特別賞おめでとうございます」

 

 さっきもしたような挨拶を交わす。

 スピカもトレーナー含めて六人総出で会場に来ていた。受賞者であるサイレンススズカがライトグリーンのドレスに身を包み、他の四人も着飾っていた。そして、

 

「貴方のスーツ姿というのもなんだかおかしな感じですね」

「ここに来るまでに散々言われたよ」

 

 同期ということもあって、やはりスピカが一番気楽に接することができる。メンバーの世代が近いというのもあるのだろう。

 さっきまで私の後ろにいたライスたちも、スピカの面々と互いの近況を伝えあっていた。

 ふとサイレンススズカに視線が向かう。元気そうな顔を見てから、視線は彼女の足元へと下がっていく。

 

「サイレンススズカ、もう大丈夫なんですか?」

「ん? ……ああ、十二月の頭には退院してな。ギプスも取れたし、あとは入院中に落ちた体力や筋力を戻せば復帰だな」

「そうですか。それは……本当に良かった」

 

 安堵の息を零す。秋天のケガは大事ないと言っていたが、いざ復帰の目処を聞いてようやく安心できる。

 

「それについてはあんたとライスシャワーに礼を言わないとな」

「私は何もしてませんよ。頑張ったのはライスです」

「でもあんたが後押ししてくれたのも事実だろう。……素直に礼を受け取ってくれよ!」

 

 肩を軽く叩かれる。よく見れば、彼の目元に隈が見えた。

 担当ウマ娘がレース中に骨折。それがトレーナーの心にどれほどの傷を与えるか、私がよく知っている。

 幸い大事には至らなかったが、それでも彼の心に暗い影を落としたことには変わらない。

 

「では、受け取っておきます。……どういたしまして」

 

 私への礼が、彼の心の整理となるのならばと、大人しく受け取ることにした。

 

 そして、表彰式が始まった。

 

 まずはアドマイヤベガが壇上に上がる。栄えある最優秀ジュニアだというのに、彼女は特に感激する風でもなく、取って当然といった様子だった。テイエムオペラオーが既にクラシックを見据えて動き出している以上、ここで喜んでいる場合ではないということか。

 続いては最優秀クラシックとしてエルが向かった。去年逃しただけに一際嬉しそうにしている。報道陣からのフラッシュを浴びながらトロフィーを天に掲げる姿は絵になった。

 表彰式は続く。

 最優秀短距離にサクラバクシンオー。スプリント、マイルともに最強と言われたタイキシャトルを真っ向から打ち破っての授賞だ。異論を挟む者などいなかった。

 特別賞には海外GⅠを勝利したタイキシャトルと、春シーズンを大逃げで賑わせたサイレンススズカのダブル授賞だ。タイキシャトルはサクラバクシンオーとの勝敗が明暗を分けた形になる。ここでようやく先程の東条トレーナーのご立腹に合点がいった。マイルCSのあたりでサクラバクシンオー陣営と何かあったのだろう。それ以上のことは推測しかできないが。

 サイレンススズカが壇上に上がる。秋天で傷ついた脚元に思わず視線が集まる。スピカのトレーナーの言葉を信じていなかったわけではないが、こうして支え無しで歩く姿を見てようやく彼女の完治したのだと分かった。

 来年も、サイレンススズカは走るのだ。

 

 そして、その時が来た。

 

 最優秀シニアウマ娘、そして年度代表ウマ娘としてライスが壇上へ上がる。小さな体躯が進む姿に、フラッシュの洪水が起きる。

 彼女がURA賞に選出されるのは、それこそ大ケガをした年の特別賞以来だ。しかもその時は入院中で式に出席できなかったため、こうして公の場で表彰されるのは初めてだ。

 思い返せば、ライスとは今まで長い道のりを歩んできた。

 菊花賞に天皇賞(春)、栄えあるGⅠを勝ったが素直に祝福されることは無かった。年単位のスランプを乗り越え、再び獲った春の楯。この勢いでと思った矢先、あの悲劇に襲われた。

 白い病室。寝台の上で、九死に一生を得たライスは絶望していなかった。

 

『ライスね。もう一度走れるようになりたいんだ……』

 

 あの時の彼女の言葉は今も胸に刺さっている。ライスを再びレースの舞台に立たせることが、トレーナーとしての使命になった。

 ライスに二つのトロフィーが手渡される。報道陣からのフラッシュはさらに激しくなった。

 光を浴びる彼女の顔は凛々しく、堂々としていた。

 もうかつての弱気な彼女はいない。幾多の苦難を乗り越え、強くなったのだ。

 その事実がこれ以上ないくらいに嬉しかった。

 

「最優秀ウマ娘を受賞したライスシャワーさんには、URAより新たな勝負服が贈られます!」

 

 ライスに手渡される薄い青色の華やかな勝負服。海外で活躍する有名なデザイナーによるものであることが伝えられた。

 二つのトロフィーと勝負服を手に、満面の笑みを見せるライスへ万雷の拍手が送られる。

 

 バラの少女への祝福をもって、表彰式は幕を閉じた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 学園に戻り、マルカブだけでお祝いをしていると来客があった。

 

「マルカブの皆さん、お楽しみのところすみませんが少しよろしいでしょうか?」

 

 扉の向こうからたづなさんの声がした。

 すぐに迎え入れる。

 

「たづなさん? 一体どうしましたか……?」

「実はですね、ライスシャワーさんにドリームトロフィーリーグへの移籍のお話があるんです」

 

 音にならない声が漏れた。聞いていたグラスたち他のメンバーも驚きの表情をしていた。

 

「ライスが、ドリームトロフィーに?」

 

 中央のウマ娘レースの基本はトゥインクルシリーズだが、その中で好成績を残したウマ娘だけで構成されたレースプログラムがドリームトロフィーリーグだ。夏と冬に行われる大レースがあり、マルゼンスキーやオグリキャップ、ナリタブライアンなど世代を超えたスターウマ娘たちが走るだけあってトゥインクルシリーズにも負けない人気がある。

 そんな夢の舞台へライスが……?

 

「ライスシャワーさんは先日の天皇賞(秋)を勝ってGⅠ六勝、そして天皇賞春秋制覇を達成しました。これはドリームトロフィーリーグへ移籍するのに十分な成績だと判断されました。

 当然これは強制ではなありませんが、マルカブさんにとっても意義のある話だと思います」

 

 たづなさんが言う意義……距離か。思わず、ライスの方を見てしまう。

 ライスはついに天皇賞(秋)(ちゅうきょりGⅠ)を制した。しかし彼女が生粋のステイヤーであることに変わりない。

 中距離GⅠの度に秋天のような仕上げをしてはライスの身体がもたない。だからと言って、トゥインクルシリーズに長距離レースは少なく、ライスが万全の態勢で臨めるGⅠは限られている。しかしドリームトロフィーリーグへ行けばライスが得意とする距離を走る機会はずっと多くなる。

 当然ドリームトロフィーリーグにも強敵は多い。長距離で活躍しているウマ娘と言われてぱっと思い浮かぶのはスーパークリークにビワハヤヒデか。

 彼女たちと競うことは、巡り巡ってチームの育成ノウハウとして還元される。後輩たちにも良い影響を及ぼすだろう。

 そこまで考えて、まず大事なのはライスの気持ちだと思い直す。私の意図を察したのか、ライスが声を上げた。

 

「……たづなさん」

「なんでしょう?」

「ドリームトロフィーへ移籍するのは今じゃないとダメですか? 例えばシーズンの途中に移籍はできないんですか?」

「……特に移籍のタイミングに規定はありません。ですが、例えば春シーズン中に移籍した場合はその年のサマードリームトロフィーには出走はできません。出走できるのはウィンタードリームトロフィーからになります」

「できないわけじゃないんですね?」

「はい。……春に走りたいレースがありましたか?」

 

 ライスへ部屋にいる全員の視線が集中するなか、彼女が告げる。

 

「もう一度、春の天皇賞に……!」

 

 その言葉の奥に、あのウマ娘の影が見えた。

 

「メジロマックイーンかい?」

「……うん」

 

 天皇賞を至上と名誉とするメジロ家。その家名を背負うメジロマックイーンなら必ず出てくるだろう。秋の天皇賞以降、ジャパンカップにも有記念でも出てこなかったのだ。彼女はあの時点で次の目標を春に定めていたに違いない。

 なにより、彼女はライスと天皇賞(春)の三連覇をかけて走ったライバルだ。互いにケガや病気により再戦はついこの間の秋の天皇賞までなかった。そしてその秋天も、サイレンススズカの件もあって真っ向勝負とはいかなかった。

 

「もう一度だけ、マックイーンさんと本気の勝負をしてみたい。今度はお互い得意な距離、ステイヤーの舞台で。それに……」

 

 熱意を謳うライスの視線が動く。彼女が捉えたのは、栗毛のウマ娘。自分と同じ菊花賞を勝ち取った後輩、グラスだ。

 

「有記念、一緒に走れなかったもんね。もしグラスさんが来るのならそこで勝負してみたいけど……どうする?」

「──────」

 

 グラスが息を呑むのが分かった。

 秋天の激走でライスの有記念は回避となった。結果としてグラスが勝利したが、夏に話していた二人の激突は夢幻となった。

 だからか、ライスは春の大舞台でかかってこいと言っているのだ。

 同じチームなど関係なく、菊花賞ウマ娘として、頂点に挑んで見せろと言っていた。

 グラスの答えは決まっている。

 

「───走ります。出ます、私も! 春の天皇賞に!」

 

 ライスは笑っていた。エルも、デジタルも、ドトウも、たづなさんも、そして私も。

 まだ冬だというのに、来春に巻き起こる激闘の火が点いていた。

 

 

 



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【番外】ロボと女帝

本日で連日投稿は一旦終了になります。
あと今回は今後の布石的な話で、ちょっと短いです。
なので、感想や活動報告にあった質問の回答も載せておきます。

特に興味ないという方はスルーしてかまいません。

Q.35話 ブルボン見送りには学園を離れたりしたけどライスから連絡受けて見送りに来たって娘もいる?
A.少なくともライスの同期には、いま学園にいるいない拘らず全員声かけてますね。そこから都合つく子が集まってくれました。

Q.35話 黒沼トレーナーはタイキ達を引率してそのままブルボンと海外で活動って流れなんだろうけど担当してる他のチームの娘はどうしたんだろう
A.黒沼トレーナーはチーム組めるほど担当はいませんが、移籍を希望する子は他のトレーナーやチームに引継ぎしました。引き続き黒沼トレーナーの指導を求める子は、タブレット使ったりしてリモートでトレーニング見ることになるでしょう。
 黒沼トレーナーは拠点こそ海外に移しますが、定期報告とかでたまに学園に戻ってくるので、その時しっかりトレーニング見ることもできますね。

Q.42話 エアグルーヴはスズカさん達について行って病院とのあれこれやった後はどうしてたの?
A.エアグルーヴは引き続き病院で裏方に徹してました。ライブ忘れて病院まで来ちゃったことへの彼女なりのケジメということで。

Q.トレーナーと担当ウマ娘間で、オフの際は結構一緒に行動したりしますか?また担当ウマ娘のオフでの意外な一面を見たことがあれば言える範囲でお願いします
A.毎回ではないですが、ウマ娘側から誘って一緒に行動することはあります。マルカブの場合みんな趣味がバラバラなので二人で行動することが多いですね。意外な一面というか、アプリでいうお出かけイベントは起きているでしょう。

Q.仮装喫茶の仮装はゲームでのそれぞれのもう一つの勝負服?
A.その通りです。偶然にも5人とも別衣装あったので。




【番外7】夏の答え

 

 その夏、ミホノブルボンは渡欧した。ダービーウマ娘らしく時代の代表としてではなく、次代を見据えた地盤固め役として。

 決して華々しい出立ではない彼女は改めて世界という壁の高さを知る。

 言葉に文化、環境の違い。特にレース場の違いは大きかった。

 日本のように整地されたコースではなく、良くも悪くも自然の立地を活用したコースが多い。中距離なのにカーブが一回しかないようなレースもある。芝も日本のものよりも背が高く、水はけが悪い。

 知識としては知っていた。しかし、いざ走ってみるとその差は歴然だった。

 コンディションを完璧に整えたうえでレースに臨んでもバ場は悪く、日本のような走りは出来なかった。

 欧州のレースに挑み始めてついに十月も終わる。ミホノブルボンは未だ勝利を収められずにいた。

 日本にも名が伝わるGⅠ戦線への挑戦など夢もまた夢だ。

 挑み続けて改めて理解する。

 夏のGⅠ、シーキングザパールとタイキシャトルの連勝はまさしく奇跡にも近かったのだ。いや彼女たちの能力を疑うつもりはないが、距離に天候、当日のバ場にレース展開、様々な要因が積み重なってのものだったのだ。

 あの夏の連勝で、日本のウマ娘たちのレベルは本場の欧州に届いたと思ったが違う。

 挑むだけの力は持った。しかし、勝ち負けのレベルにはまだ至らない。欧州レースで勝利を独占する怪物たちの足元にも及ばなかったのだ。

 そしてその一方で、ミホノブルボンは頭の片隅で考えてしまう。

 

 ───もしも、欧州に来たのが自分でなかったとしたら……?

 

 王や怪物と称される彼女たちだったらどうだったのか。あっという間に重賞を制覇し、GⅠ戦線に乗り込んでいたかもしれない。意味のない想像だが、敗北の度に浮かんでくる。

 渡欧時にかけられた期待。ダービーウマ娘としての矜持。上げられない成果。孤独感。あらゆる要素がミホノブルボンを追い込んでいく。精神に暗い暗い影が差していく。

 

「こ、これは……!」

 

 転機となったのは、黒沼が渡してきた一枚の紙だった。ネットニュースの記事をプリントアウトしたものだ。どういうわけか電子機器に触れると故障を引き起こすミホノブルボンはこうしないとネット上の情報を拾えない。

 記事には日本のウマ娘レースのものだ。記事タイトルにあるレース名から、もうそんな時期かと想いを馳せた。

 そして勝者の名前を見た瞬間、ミホノブルボンは雷のような衝撃を受けた。

 紙を持つ手がふるふると震えた。

 視線が繰り返しその名前をなぞる。見間違いではない。なによりも、ゴールの瞬間を切り取った写真に写る黒い勝負服と胸元のバラを見間違えるはずがなかった。

 

「ライスさん……やはり、やはり貴女は凄い……!!」

 

 印刷された記事は、ライスシャワーが天皇賞(秋)を勝ったことを報じたものだった。

 レース中のサイレンススズカの故障、ゴール後にライスシャワーも搬送されたという文にギョッとしたが、どうやら二人とも大事は無かったようだ。

 記事を一通り読み終えて、ミホノブルボンは感嘆の息を吐く。

 春シーズン、ライスシャワーとミホノブルボンを揃って打ち破ったサイレンススズカ。絶対的とも言われたあの逃亡者を、ライスシャワーは捕まえたのだ。

 

 ───挑み続けて、サイレンススズカに勝てますか?

 

 夏。あの浜辺でライスシャワーにかけた問いを思い出す。あの時は出せなかった答えを、ライスシャワーは見事示したのだ。

 菊花賞で自分に勝ったように、春の天皇賞でメジロマックイーンに勝ったように。彼女はまた絶対的な存在に対し、勝利の可能性を証明した。

 その事実が、友としてライバルとして、途方もなく誇らしい。

 

「貴女は、今も私のヒーローです……!」

 

 心臓が早鐘を打つ。気落ちしていたはずが、今は興奮で熱くなっていた。

 四肢に気力が満ちる。海の向こうで、友が栄光を打ち立てたのだ。

 ライバルを名乗る自分がここで腐っていてどうする。

 ミホノブルボンが歩き出す。負けが続いて落ち込んでいた彼女はもういない。

 自分が彼女の活躍を知ったように、彼女にも自分の活躍が伝わるように。

 

 少し先、彼女が欧州重賞を制することが日本でも報じられた。

 

 

 

【番外8】女帝の進む先

 

 時期は年も明けて少し経った頃。ようやくサイレンススズカのトレーニングが再開された。

 久方ぶりに地面を踏む感触に、サイレンススズカは思わず笑みを零した。

 秋の天皇賞で負ったケガは彼女の選手生命こそ脅かさなかったが骨折は骨折。治療からリハビリ、そして今日にいたるまで、レース中の無茶もあってかトレーナーだけでなくチームメイト、友人たち総出で監視された。

 

「無理をして退院や復帰が遅れたらどうする。これからも走るというのなら、今だけは大人しくしていてくれ」

 

 皆を代表してそう言ったのは友人でありライバルでもあり生徒会副会長だった。

 

「そんな、まるで普段の私が大人しくないみたいじゃない」

「これまで、何回朝練に夢中で遅刻したか教えようか?」

「………………天気が良かったのが悪いのよ?」

 

 考えた末に出た言い訳は、ため息とともに切り捨てられた。

 

 そんなエアグルーヴについて、ある噂が流れたのはつい最近だった。

 

「エアグルーヴ……」

 

 それを確かめるべく、学園中庭の花壇で水やり中だった彼女にサイレンススズカは話しかけた。

 エアグルーヴの視線は花壇に向いたままだ。

 

「スズカか、どうかしたか?」

「あの噂は本当なの?」

「噂か……。どれのことだ?」

「トゥインクルシリーズを引退するっていう話よ」

 

 それか、と特に感情もなく言うエアグルーヴへさらに問う。

 

「ドリームトロフィーにも行かないって聞いたわ」

「…………本当だ」

「どうして?」

 

 反射的に言葉が出た。

 ドリームトロフィーリーグはトゥインクルシリーズで功績を残したウマ娘が行くさらに上のステージだ。

 エアグルーヴが敬愛する皇帝シンボリルドルフに、同じ生徒会であり三冠ウマ娘のナリタブライアン。オグリキャップにタマモクロス、スーパークリークという伝説的メンバーが介する大レース。エアグルーヴがそれを目指さないとは思わなかった。

 

「エアグルーヴの成績なら行けないということは無いでしょう? 皆の手本になるっていうのなら行くものだと思っていたわ」

「確かに誘いはあった。トレーナーからもドリームトロフィーへの移籍を勧められた。しかし……」

 

 一度口を閉じる。

 少し間花に水をやる如雨露から水が出る音だけが響き、そして女帝の口がまた開いた。

 

「トレーナーを目指そうかと思う」

 

 その言葉は、思わず目を見開くほどの衝撃だった。

 

「………トレーナー? エアグルーヴが?」

「ああ。学科を移り、進学して、いずれ試験を受ける。資格を得たら今度はトレーナーとしてまたこの学園に戻る。……それが出来たらいいと思っている」

 

 中央のトレーナー資格は国内屈指の難関資格だ。学園でも優等生なエアグルーヴが無理とは思えないが、それでも競争者を続けるよりも困難な道だ。

 

「どうして? と言いたそうだな。……きっかけはお前だよ」

「私?」

「ああ。正確に言えば、スズカだけじゃない。ライスシャワーにエルコンドルパサー、今年活躍したウマ娘たちの姿を見たからだ。

 ……スズカの大阪杯に宝塚記念。そして秋天と、スズカを打ち破ったライスシャワー。エルコンドルパサーのジャパンカップ。皆、鮮烈な走りだった。そして私にはできない走りだった」

「そんなことは───」

 

 無い、と言いかけた口を閉じる。

 天皇賞(秋)のライスシャワーと自身が見せた走りが異質だったことは理解していた。そしてサイレンススズカが走っていないジャパンカップを語ることは出来ないが、いずれもエアグルーヴが敗北したレースだ。

 

「そう暗い顔をするな。……私に皆のような走りはできないが、より近くで見たのも私だ。だから、その走りを伝えることは出来たらと思ったんだ」

「だからトレーナーに? 教えるだけなら、エアグルーヴは今も下級生の子たちにしているじゃない」

「私が教えているのは基礎的なことに過ぎん。より専門的な、それこそ個々人に合わせたメニューになると知識のあるトレーナーの方が良い」

 

 如雨露から水が止まる。

 エアグルーヴがようやくサイレンススズカを見た。その表情は決して敗北に打ちひしがれたものではなく、晴れ晴れとしていた。

 

「いつか、お前たちのような……お前たちにも負けないウマ娘を育てて見せる。それが今の私の夢だ」

「エアグルーヴ……」

「そのためにもお前には頑張ってもらわんとな。未来の後輩たちに話したら、誰だそれ? などと返って来ては目も当てられん」

「ふふふ……そうね」

 

 良かった、とサイレンススズカは安堵した。

 気高き友人は、度重なる敗北に心折れたわけではなかったのだ。

 自分や、他のウマ娘たちの走りに光を見出し、それを後世に伝える道を選んだのだ。

 

「でも、エアグルーヴも早くトレーナーになってね。皆が私のことを覚えていてくれるうちに」

「たわけ。お前のような変わり者、そうそう忘れられるものか」

「うそでしょ……フクキタルならともかく、私は普通よ」

「それはない。絶対にない」

 

 しばらく、花壇から普通とは何かを論じる声が響いていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 数日後、エアグルーヴは真剣な表情で自分のスマホを睨みつけていた。

 スマホの画面は電話帳を表示しており、名前と連絡先の一覧が並んでいた。

 生徒会副会長であり、リギルのGⅠウマ娘でもあるエアグルーヴは何かと外部の者との接点が多い。必然的に登録された連絡先は膨大だった。

 そのうちの一つに、いざ電話を掛けようとして、しかし躊躇いもあって懊悩としていた。そも無理やり押し付けるような形で登録された番号だ。消しても良かったが、相手が相手だけに実行できなかった。

 

「……………どうしたものか」

 

 エアグルーヴがこうも悩んでいるのは、彼女なりのケジメというか恩返しであった。

 サイレンススズカを、理屈と手法はどうあれライスシャワーは救ったのだ。サイレンススズカの友人として、何か返してやりたかった。

 とはいえチームも得意な距離も違うライスシャワーへ直接的に返せるものは少ない。そこで聞いたのが、エルコンドルパサーの海外遠征だ。

 ジャパンカップで並みいる強豪を相手に勝利しているあたり、その資格も実力も持っている。だが彼女が所属するチーム・マルカブは遠征のノウハウがない。無論、トレーナーもその問題を放置しているわけがなく方々で動いていることは聞いていた。

 

「彼女がマルカブではなく、リギルにいればもっとスムーズだったろうな」

 

 無粋な仮定だった。しかし昨年のタイキシャトルの活躍もあり、そう思わずにはいられなかった。

 そして何の因果か、エアグルーヴには彼女たちの助けになるだろう伝手が偶然にもできていた。

 問題は、そこに連絡を取ることに踏ん切りがつかないことだった。

 向こうの態度に悪意は感じられなかった。おそらく、お願いすれば快く受け入れてくれるだろう。

 しかし、その結果とても面倒なことが自身に降りかかることも理解していた。

 恩を返すためとはいえそこまでするのかと、女帝の自制心が待ったをかけているのだ。

 

「ええい! 電話一つ臆するなど、女帝の名が廃る! 行くぞ!」

 

 意を決して電話を掛けた。

 一回、二回。三回目の音が鳴り終わる前に、相手が出た。

 

『やあ。まさか君から連絡をしてくれるなんて一足早い春が訪れたかのようだ』

 

 早速、頭痛がしてきた。

 

 

 

 

 





電話相手、一体なにサドスキーなんだ……。

また書き溜めに入りますので次回更新までしばらくお待ちください。


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48話 マルカブとスピカ3 前編

お久しぶりです。

リアルが忙しくてあまり進捗よろしくなく、申し訳ないです。
一応バレンタインには間に合ったので、今日と明日に1話ずつ投稿します。




 二月。太陽がまだ昇り切らない時間、トレセン学園のグラウンドを走るウマ娘がいた。

 両の耳を覆う緑のメンコ、腰まで届く長い栗色の髪。紅白のジャージに包まれた身体は細く、均整の取れたスマートなプロポーション。

 稀代の大逃げウマ娘、サイレンススズカの朝練風景だった。

 全力疾走はまだしない。

 秋の天皇賞での骨折による入院、そしてギプスが取れるまでの期間で落ちた体力や筋力を取り戻すためのジョギングだった。

 普段のトレーニングに比べれば軽いものだが、走り続けるサイレンススズカからは蒸気が上がっていた。

 本音を言えば、全力で走りたいという欲があった。本人の感覚的には調子は戻ってきているのだが、なかなかトレーナーからのOKが出ない。

 一度こっそり50mほど本気で走ってみたことがある。結局見つかってスピカ総出で怒られた。話が伝わったのかクラスメイトにも怒られ、果てはエアグルーヴはじめとするリギルメンバーにすら説教されたのでもうしない。

 手首に巻いたウォッチから電子音。予定していたジョギングの終了時間を知らせるものだ。

 

「スズカは放っておくといつまでも走り続けちまうからな」

 

 そう言われて、トレーナーから退院後に渡されたものだ。そんなことありませんよ、と抗議したがチームメイトから賛同は得られなかった。

 どちらにしろ、このまま走り続けるとまた説教されるのでクールダウンに入る。

 

「スズカー!」

 

 止まったタイミングで声がした。トウカイテイオー、メジロマックイーンの二人だった。

 

「よしよし、どうやらちゃんと時間通り走るのをやめたみたいだね」

「テイオーったら、いちいち見に来なくても約束は守るわ」

「退院して一週間で全力疾走したのはどこの誰かなー?」

「む、昔のことよ……」

「うりうり」

 

 目を逸らしたサイレンススズカの頬をトウカイテイオーが指で突っつく。

 やめなさい、とメジロマックイーンが止めたところで、少女の視線がサイレンススズカの足元に向かう。

 

「調子はどうですか? 違和感などありますか?」

「大してスピード出してたわけじゃないし、特にないわね」

「ふむ……それなりの時間ジョギングしていたと思いますが、疲労はいかがです?」

「汗はかいたけどそれだけかしら? 苦しいって感じではないわ」

「そうですか、回復は順調のようですね」

「じゃあもう本気で走っても良いかしら?」

「「ダメだよ!」」

「……はい」

 

 しゅん、と耳を伏せるサイレンススズカ。トウカイテイオーからドリンクとタオルを渡され、大人しく汗を拭い、続けて水分を補給する。

 

「んー……でもそろそろスズカの復帰を考えなきゃいけないよね」

「春シーズンも近いですものね。トレーナーさんからは何か?」

「ううん、まだ……。復帰レースは考えてくれているみたいだけど……」

 

 ケガから復帰してから初のレース、サイレンススズカのキャリアを考えると重要だ。秋以来のレース、仮に三月の春シーズンに出るにしても選択肢は多いようで少ない。

 

「ОP戦、ですと流石に消極的過ぎでしょうか」

「ケガ明けからの初戦だからってGⅠ二勝してるウマ娘がОP戦出るとか非難轟轟でしょ、主にトレーナーが。 ……せめてGⅡ、金鯱賞とか?」

「去年も勝っていますし、左回りはスズカさんに合っているかもしれませんわね。……スズカさん自身は出てみたいレースなんてありますの?」

「私は……特にこれっていうのはないわね。結局走れればなんでもいいのだと思う」

「うーんスズカは根っからのウマ娘だね」

「……あ!」

「スズカさん? 何か思いつきまして?」

「走りたいレースじゃないけど、もしできるのなら、秋天でできたような走りをしてみたいなって……」

「「あー……」」

 

 当時の光景を思い出し、他の二人が声を漏らす。

 最後の直線、後方から全員を抜き去るような走りはあの時レース場にいた全員が息を呑んだものだ。

 

「実際見るのは初めてですが、アレが所謂……」

「“領域(ゾーン)”ってやつだね……」

 

 曰く、歴史に名を刻むウマ娘は誰もが至ったと言われる、限界を超えた先の到達点。極限の集中化において凄まじいパフォーマンスを発揮するとされるが、傍から見ればスピードが上がっただけにしか見えず眉唾物と断ずるものも多い。実際、口伝で語られるだけで科学的な解明がされていない未知なる部分だ。

 

「まああの走りが毎回できたらどのレースも敵なしだよね……」

「スタートから先頭に立つスズカさんが終盤でも加速するわけですから、万全の状態で出されたら誰も手を付けられませんわね」

「そう、でもあの時は無我夢中で、どうやったら出来るか分からないのよね……」

「テイオーは生徒会長から何かお話を聞いたことは無いんですの?」

「聞いてみたことはあるよ。でも口で説明するものじゃないんだってさ。……あとカイチョーが言うにはボクもハヤヒデに勝った有記念の時は入ってただろうって」

「まあ……!」

 

 メジロマックイーンが目を丸くする。

 二人が話す有記念とは、トウカイテイオーがケガから復帰して一年ぶりのレースを制した時のものだ。

 当時の菊花賞を制し、最も勢いのがあったビワハヤヒデを差し切った、トウカイテイオー不屈伝説として語られる名レース。シンボリルドルフ曰く、その時の彼女はまさに限界を超えた域にいたというのだ。

 

「でも結局あれからそれっぽい感覚は無いんだよなー」

「一度できたからそのまま身につくものではありませんのね」

 

 ふむ、とメジロマックイーンは顎に手を当てながら言葉を紡ぐ。

 

「例えば、“領域(ゾーン)”に入れた時の状況を出来るだけ再現するなどどうでしょうか。同じ状況を繰り返すことで入る感覚が掴めるかもしれません」

「出来るだけ、同じ状況……」

「……ちょっとスズカ、どうして自分の脚を見ているのさ。……ダメだからね? 絶対ダメだからね!?」

「そ、そんなことやろうなんて思ってないわ。ただ再現って言われたら……」

「い、今のは私の失言でしたわね……。申し訳ありません」

 

 トウカイテイオーの有記念も、本人からすれば必死に走っていたことくらいしか記憶にないという。

 その後も三人で意見を出し合うが、良い方法が思いつかない。

 

「……あ」

 

 トウカイテイオーの声に、他の二人の視線が集中する。

 

「もう一人いたじゃん。あの時“領域(ゾーン)”に入っただろうウマ娘が!」

「……ライスさん、ですわね」

 

 サイレンススズカの最後の猛追が“領域(ゾーン)”ならば、それを差し返したライスシャワーの末脚もまた“領域(ゾーン)”なのだろうと推察した。

 

「ライスはまだトゥインクルシリーズ走るみたいだし、きっとあの走りのこと研究していると思うんだよね。何か知っているかもしれない!」

「可能性はありそうですが……教えてくれるでしょうか?」

 

 マルカブとスピカは明確なライバル関係だ。ライスシャワーとメジロマックイーンとサイレンススズカ、グラスワンダーとエルコンドルパサーとスペシャルウィーク。所属するウマ娘がGⅠで何度も激突している。その誰もが来年も走る以上、また激突するのは必然。“領域(ゾーン)”という切り札の情報は隠したいのが普通だろう。

 しかし、トウカイテイオーは逆に前向きだった。

 

「別にレース以外でも険悪ってわけじゃないし、聞いてみるくらい大丈夫だよ。それに、スズカの件のお礼もしておきたいしさ」

「お礼……そうね。私、あの時助けられたものね」

 

 スズカまで賛同されては、メジロマックイーンもそれ以上反対はしなかった。秋天のこともあり、礼を言いに行くというのは同意見だった。

 それに、

 

「明日はバレンタインですし、いい機会かもしれませんわね」

 

 秋天のために尽力した彼に直接礼を言う機会でもある。そう思ったのだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 そして翌日の午後。

 

「ごめんね。お兄さまは今日はお風邪を引いちゃってお休みなの……」

『ウソでしょ……!』

 

 三人そろって同じ言葉が出た。

 去年といい、妙に縁のない人だとメジロマックイーンは苦笑するのだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 朝目を覚ました瞬間、不調に気づいた。

 体が重く、異様に汗をかいている。頭は霞がかったようでボーッとする。

 なんとか寝台から這い出て体温を測ってみれば案の定、普段の平熱を超える数値が示された。

 

「しまったな……」

 

 自覚症状としてはただの風邪だと思うが時期が時期だ。インフルエンザの可能性もある。今日は学園には行けないな。

 

「学園と……みんなに連絡しないと」

 

 スマホでまずは学園に体調不良のことを連絡。医療機関を受診して結果を報告するようにと指示を受けた。次にLANEを起動し、チームのグループチャットに体調不良のため今日は学園に行けないことを書き込む。メニューは確か出力したものをチームの部屋に置いてあるので、それを見て実施してもらうよう書いておく。

 メンバーのレースが近くなくて良かった。

 最寄りの病院の場所と始業時間を思い出していると、スマホからLANEメッセージ受信の通知が入る。

 ライスからだった。

 

『お兄さま体調は大丈夫? トレーニングのことは分かりました。栄養を取って、身体を温かくしてゆっくり休んでください』

 

 その後もグラスにエル、デジタルにドトウと他のメンバーからの返信が相次いだ。

 

『風邪も拗らせると万病の元です。今日は静かに、ご自愛ください』

『体を温めるならエル愛用のホットソースがオススメ! 病院行く途中に見かけたらぜひお試しを!』

『乾燥する時期ですし、エアコンとか使ってると喉を傷めますからお布団でしっかり寝てくださいね!』

『ここ最近お忙しかったですからね。いい機会というのもおかしいですけど、無理せず休んでください』

 

 ドトウの言う通り、ここ最近はマルカブとしての取材をよく受けた。

 特にURA賞を受賞したライスにエル、グランプリを制したグラスは多い。加えてトレーナーである私にも取材依頼が殺到した。

 さらに嬉しいことに、メンバーのグッズ開発案も出てその監修の仕事も来た。

 学園から振り分けられる業務に日ごろのトレーニングメニューの考案に加えて彼女たちのマネジメント、多忙だった時期が過ぎたタイミングに疲労が一気に噴き出したのかもしれない。

 普段からみんなに無理をするなと言っていたのに、私がこうでは格好がつかないな。

 

「とりあえず、病院行く準備をしよう」

 

 早く、みんなにまた会えるようにしないと。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「で、お兄さんの容態は?」 

「さっき連絡があったよ。インフルエンザじゃなかったみたい。今日は一日休んで、明日には出てこれるって」

「そうですのね。まずは大事に至ることがないようで良かったですわ」

 

 場はトレセン学園のカフェテリア。

 長テーブルにライスシャワーとグラスワンダーとエルコンドルパサー、トウカイテイオーとメジロマックイーンそしてサイレンススズカがそれぞれ向かい合うように座っていた。

 テーブルの上には食後の紅茶───グラスは拘って抹茶───が並んでいた。

 

「それで、テイオーさんたちはお兄さまになにかご用があったの? 今年もチョコレートを?」

「うん。ライスやお兄さんにはスズカのことで色々世話になったからそのお礼にね。……でもそれ以外に」

 

 トウカイテイオーが身を乗り出す。内緒話かと思いライスも腰を浮かせ、両者の距離が縮まる。

 

「“領域(ゾーン)”。そっちは何か掴んだかなって」

 

 ライスシャワーの目が大きく開く。

 同席した後輩二人も聞こえたのだろう。同じような反応だった。

 

「テイオーさんたちは……?」

「ぜーんぜん! でもあの走りが出来たらすごい有利だと思うじゃん? だからライスたちも何かものにする方法を考えてないかなって」

「うん、それはライスも思ったよ。……でも」

「そっちも分からない?」

 

 頷くライスシャワー。

 

「お兄さまも色々調べてはいるみたい。アレを使いこなすことが出来たら強力な武器になるのは本当だから」

「そっかあ……」

 

 背もたれに体を預け、天を仰ぐトウカイテイオー。

 暗礁に乗り上げたとばかりに頭を抱えるスピカを前に、グラスワンダーが口を開いた。

 

「その……“領域(ゾーン)”というのはそれほど強力なものなんですか? 秋天のお二人が見せた走りが凄かったのはそうですが」

「うーん、ボクらもそう言われているってくらいしか知らないんだけどね」

「名だたるスターウマ娘は皆、その力を発現させたと言われていますわ」

「私は“領域(ゾーン)”を使える! と宣言しているわけじゃないんデス?」

「自分で言いふらすウマ娘はあんまり聞かないなー。昔のレース映像とかでたまに凄い走りするウマ娘見たことない? そういう時は“領域(ゾーン)”入ってる場合が多いんだってさ」

「実際、使えるだろうってウマ娘はたまに噂に聞くよね」

「え、そうなの……?」

 

 ライスシャワーの言葉にサイレンススズカがキョトンとしていた。

 トウカイテイオーとメジロマックイーンがやれやれと頭を振った。

 

「スズカは自分が走ること以外興味ないから……」

「そ、そんなこと……」

「ありますでしょう」

「あう……」

 

 耳を追って俯くサイレンススズカの姿に、思わず口元を緩めるマルカブたち。レースでは圧倒的な逃亡者の普段の姿は意外だった。

 

「カイチョーにブライアンでしょ、同じ三冠ウマ娘だしシービーもきっと使えるよね」

「オグリキャップさんにタマモクロスさん、そしてイナリワンさん……」

「マイルCSの時のバクシンオーさんも、きっと“領域(ゾーン)”に入ってたと思う」

「あータイキを振り切ったアレか。確かにそうかも」

「で、伝説級の名前ばっかりデース……」

 

 立て続けに挙がる名前にエルが目を白黒させていた。一方、グラスワンダーは真剣な表情だった。

 

「やはり、これからシニア級を走る私たちもそういった武器が必要なんでしょうか」

「え? あーまああるに越したことはないだろうけどさ、そもそもどうやって身に着けるかがはっきりしてないんだよね」

「使えないウマ娘がほとんどなのですから、あまり気負う必要はありませんわ」

「ですが……」

 

 ちらり、とグラスワンダーの視線がライスシャワーに向かう。世間に公表こそまだだが、二人は春の大舞台で激突する。武器を一つでも多く手にしたいというのは、実績の上で差をつけられているグラスワンダーからしたら当然の想いだった。

 海外遠征を狙うエルコンドルパサーもその気持ちは理解できるのか、特に彼女を諌めることはしない。

 

「そっか……まあ気持ちは分かるかな」

 

 グラスワンダーの胸の裡をいち早く察したのはトウカイテイオーだった。

 提案! と手を挙げて周りから視線を集める。

 

「勉強会しよう! スピカとマルカブで、“領域(ゾーン)”の!」

「勉強会って……してわかるものなんですの?」

「分かんない! でも口で説明できるものじゃないんだから、誰かに聞くより自分で理解しなきゃ!」

「ライスはいいと思うな。テイオーさんに賛成!」

「よっしまずやる派に二票~。マックイーンは別に無理することないよ? ボクらで“領域(ゾーン)”の謎は解いてみせるからさ!」

「別に反対とは言っていないでしょう! ……はあ、勉強会と言ってもどこでやるつもりですか?」

「レース映像がたくさんある資料室かな?」

「資料……レース映像……あ」

 

 ポン、とトウカイテイオーは己が右拳を左掌に置いて言った。

 

「ついでだし、お兄さんの家でしない?」

『───え?』

「ほら、お見舞いも兼ねてさ。そもそも今日はバレンタインだから会いに来たわけだし」

「ちょ、ちょっとお待ちなさいテイオー! 流石にソレは……大体今は“領域(ゾーン)”の勉強会が主題でしょう!? いえそもそも、トレーナーさんの家を知っている方は───」

「ライスさ、昔お兄さんの家に行ったって言ってたよね。その時いろんなレースの映像が録り溜めてるのも見たって」

「ケ?」

「……先輩?」

 

 後輩からの鋭い視線に顔を背けるライスシャワー。しかしトウカイテイオーの言葉を否定しない、つまりそれは肯定であった。

 

「もしかして先輩、トレーニング後にトレーナーさんの家に行くつもりだったんデス?」

「そ、そんなことないよー」

「声ちっさ」

「先輩、こっちを見て言ってください」

 

 抜け駆けは許さんとばかりに詰め寄るグラスワンダーとエルコンドルパサー。頑なに目を合わせないライスシャワーの姿に、メジロマックイーンがやれやれと息をついた。

 

「話が脱線してきましたわね。……ライスさん、一応マルカブのトレーナーさんにテイオーの提案が問題ないか聞いてみていただけませんか?」

「え、いいけど……マックイーンさんも賛成なの?」

「病人の元に押しかけるのは気が引けますが、言い出したら止まらないのがテイオーですから」

「むーなにさー! ボクの提案は大体いい方向に転ぶんだよ。秋天のウイニングライブだって上手く行ったでしょ!」

「あ、あれテイオーさんの提案なんだ。ありがとうね」

「もっと褒めて良いぞ! その勢いでお兄さん家に遊びに行く許可を貰ってくるのだー!」

「ウソでしょ……勉強会のはずが、完全に遊びに行くことになってる……!」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 病院で診察を受け、インフルエンザやその他感染力の強い病気でないことが分かると気が抜けたのか、帰宅してすぐに寝入ってしまった。

 起きた頃には晴れた冬空が茜色に染まりつつある時間。学園なら放課後のトレーニングも一段落する頃だった。

 潤いを失くした冷却シートを額から剥がす。手持ち無沙汰でスマホを見ると、ライスのLANEから個人チャットがあった。

 

『お休みのところごめんなさい。みんなでお見舞いに行ってもいいかな?』

「……みんなで?」

 

 メッセージがあったのは昼過ぎ。記憶を辿るとちょうど病院から戻って寝入ってすぐの頃だ。

 熱は……薬が効いたのだろう、下がっている。身体の怠さもあまりなく、むしろこの倦怠感は寝過ぎなのだろう。

 とはいえ発熱から一日も経っていない。感染る可能性を考えるとまだ彼女たちとの接触は避けたいが、一方でライスの心遣いを無碍にするのも気が引けた。

 

「マスクをして、少し距離を取れば大丈夫かな?」

 

 了承の返事と、返事が遅れた謝罪のメッセージを打とうとして、

 

『返事を待たずにごめんなさい。もう着きます』

「……え?」

 

 ────ピンポーン────

 

「お兄さーん元気ー? お見舞いに来たよー!」

 

 マルカブのメンバーとは違う、快活な声が玄関から聞こえてきた。

 

 




本作における“領域”の使い手について(48話時点)
・使いこなしている:三冠ウマ娘たち、タマ、オグリ
・使いこなしているがムラがある(不発の時がある):イナリ、ヒシアマ
・使いこなすまでもう一歩:フジ、シリウス、バクシン
・一度発現したが再現できず:ライス、スズカ、テイオー、エアグル
・“領域”がなくても強い:マルゼン、クリーク、ハヤヒデ、マック
名前だけも含めて登場したキャラだとこんなイメージ。


最後に、いつも感想・評価などありがとうございます。
返信できておりませんが一つ一つ活力となっております。
今後ともよろしくお願いします。


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49話 マルカブとスピカ3 後編

突撃お前の家で晩御飯。
一応、前アンケ取ったイベントもあります。


 トレセン学園に通うウマ娘たちのほとんどが寮生活であるように、勤務するトレーナーたちにも寮が宛がわれている。が、その寮を出て自宅を持つトレーナーはそれなりにいる。

 理由としてはトレーナーというのが金銭的余裕のある社会人だからだ。数ある国家資格の中でも最難関とされるトレーナー資格を手にトレセン学園で働く彼らは世間から見ても高給取りだ。都内に自宅を持つことは難しくない。

 学園が用意する寮に不満があるわけではない。しかしやはり寝ても起きても職場のすぐ近く、同僚が身近にいるという環境を離れたがるトレーナーはいるものだ。

 さらに言えば、トレーナーもウマ娘も毎年多くの新人がトレセン学園へとやってくる。ウマ娘ならば卒業という形で毎年一定数が学園を去る。しかしトレーナーは入ってくる数こそ少ないが、在籍期間は長く一定期間は増加の一途をたどるもの。学園としてもトレーナーが寮を離れ、空きができることは都合が良かった。

 三年から五年。

 規則として決まっているわけではないが、概ねそれくらいの年月が経ったら寮を出て自分の城を持つというのがトレーナー間での慣習であった。

 それは、トレーナーとしての見習い期間が終わったことを暗に示すものでもあった。

 そんなわけで、チーム・マルカブを率いる彼もその例に漏れず、学園の寮を離れ都内のマンションに部屋を持っているのだ。

 

「へぇ~お兄さんって結構いいところに住んでるんだね」

 

 目的地を見上げながらトウカイテイオーが言った。

 彼女の言う通り、たどり着いたマンションは一等地、とまでは言わないまでもそこそこ上のランクに相当する物件だった。

 パラメータの一つでしかないが、彼がトレーナーとして優秀な部類である証左であった。

 

「あの、大丈夫なんですか? 結局OKの返事来る前に着いちゃいましたけど……」

「大丈夫大丈夫! もしもの時はライスたちにフォローしてもらうから!」

「おーい、迷惑かけないっていうから許したんだ。あいつがNGつったら大人しく帰るからな?」

「えー!? そこはトレーナーが大人らしく交渉してよー!」

 

 マンション前には、錚々たる面子が集まっていた。

 発起人であるトウカイテイオーを筆頭にメジロマックイーン、サイレンススズカ、スペシャルウィーク、ゴールドシップ、そしてスピカのトレーナー。

 そしてライスシャワー、グラスワンダー、エルコンドルパサー、アグネスデジタル、メイショウドトウのマルカブメンバーだ。

 手にはスーパーのロゴが入ったポリ袋。中には食材や飲み物が詰まっていた。

 ほとんどがGⅠタイトルホルダーという異様の面子。伊達メガネや帽子で顔を、コートで尻尾を隠してなければ即ファンに取り囲まれて写真撮影会が始まるところだ。

 エントランスに入り、ポストに記された氏名を探す。

 彼女たちの前に立つ台座にはキーを通す溝とゼロから九の数字が刻まれたボタンがあった。その向こうにある電動扉が行く手を阻んでいた。

 

「これは……鍵がなければ向こうから開けてもらうシステムではありませんの?」

「じゃあトレーナーさんがLANEに気づくまで待つしかないデス?」

「ううん、それは大丈夫」

 

 そう言ってライスシャワーが鞄から引っ張り出したのは、テープで厳重に封をされた包装紙の塊だった。開けられた穴から伸びる複数のチェーンが鞄の奥へ続いており、位置情報を知らせる発信機までついていた。

 絶対に失くしてたまるかという、ライスシャワーの意地が見て取れた。

 慣れた手つきで封を解いていく。紙を剝がすと革袋が姿を現す。袋からは一枚のカードキーが出てきた。

 

「合い鍵、あるから」

「「おお~」」

 

 後輩たちの謎の感動の声を背にライスシャワーが台座に向かう。

 

「合い鍵、だよ?」

「なぜ二回言うんですか……」

 

 カードキーを溝に通すと電子音が鳴り、扉が開く。総勢十一名がぞろぞろとマンションの中へと入っていく。

 

「この人数だとエレベーターだと一度に行けないですね」

「階段でいいんじゃない? そんな上の階でもないんだし」

「先輩、トレーナーさんから返信は?」

「まだみたい。寝ているのかも」

 

 ぞろぞろと階段を登る少女たちが言葉を交わしていく。

 

「体調がまだ悪いのかもしれませんわね」

「流石にそんな様子だったら帰るぞー」

「んーそれならしょうがないか……ライスたちは?」

「様子だけでも見ておこうかな。明日も出てこれないなら予定とか練り直さないと」

「それもそっか」

「そのまま看病していこうかな……」

「ライス先輩」

「抜け駆けは無しデスよ?」

「そ、そんなことしないよー」

「声ちっさ」

 

 そうこうしているうちに目的の部屋にたどり着く。

 ライスがLANEに部屋に着いたことを打ち込んでいく。

 そして、

 

「あ、既読ついたよ」

「お、じゃあ今起きた感じかな? お兄さーん元気ー? お見舞いに来たよー!」

 

 呼び鈴を押しながら、トウカイテイオーが声をあげた。

 扉の向こうからバタバタと慌ただしい音が響く。

 少しの沈黙ののち、ついに扉が開いた。

 暗がりの向こうから現れたのは男性の顔。起きたばかりなのか所々跳ねた黒髪。グレーのスウェットは普段のスーツ姿の印象とは大きく離れていた。

 

「えっと……これはどういう状況?」

 

 マルカブのトレーナーが困惑の声を発した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「これ、お土産というか見舞いな」

「わざわざありがとうございます」

 

 品の入った紙袋をスピカのトレーナーから受け取る。

 ライスからのLANEにも驚いたが、こんな人数で来るとは面食らってしまった。

 

「しかし“領域(ゾーン)”の勉強会ですか……」

「と、あんたの見舞いな。秋には世話になったし礼だと思って受け取って欲しい。……いや、当然迷惑ならすぐにでも引きあげるが」

「別に構いませんよ。一応薬を飲んで休んで熱も下がってますから。ただ万が一があってもいけないのでホストらしいことは何もできませんが」

「いいってそんなの! こっちが押し掛けたんだし、あんたは引き続き休んでてくれ」

「おーっし! あんちゃんからOK出たな。行くぞ皆の衆、突撃晩ご飯じゃあ!!」

「あ、こら待ちなさいゴールドシップ! すみません、お邪魔いたしますわ」

「ど、どうぞ……あ、書斎と寝室には入らないでもらえると……」

 

 ぞろぞろとウマ娘たちが通っていく。彼女たちの手には食材の入ったスーパーの袋。材料持ち込みで夕食を取るつもりらしい。

 

「ここがトレーナーさんのお部屋なんですね……」

「うーん……普通デス!」

「いえいえ、一人暮らしにしては結構広いと思いますよ!」

「わ、私は迷惑かけないように隅にいますね……」

「あっ、大きなテレビ! えーっとこの時間なら……」

「テ、テイオーさん? 一応お見舞いに来たんですからいきなり寛ぎだすのはちょっと……」

「ライスー、道具とか調味料どこにあるか知ってっか?」

「え、えっとね、包丁なら右手の戸棚にね……」

「男の人のキッチンてこんな感じなのね……」

 

 音の洪水が聞こえてくる。キッチンやリビングなら特に自由にして構わないのだが。しかしこの家にこれほどヒトの声が溢れたのは初めてだ。

 

「一応俺も見ているから、あんたは休んでてくれ。……心配かもしれんが」

「そ、それじゃあお言葉に甘えて……」

「お兄さーん! ここにあるレースのDVDってボクらも見て良いヤツー?」

「…………」

「……すまん」

 

 私が床に就けるのは、もう少し後になりそうだ。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 トントントン、と包丁がまな板の上でリズムよく音を立てる。

 長ネギ、白菜、ニンジン、豚肉、その他諸々各自が買った材料が一定のリズムで動く刃によって切りそろえられていく。

 キッチンに立つのは二人、グラスワンダーとゴールドシップだった。

 そも一人暮らしの男の台所だ。約十人で押しかけたもののキッチンスペースは二人程度入るのが精々だった。

 他のメンバーはもう一つの目的である“領域(ゾーン)”の勉強と称し、リビングでレース映像を見ていた。もっとも、勉強というより鑑賞会になりつつあるが。

 

「ほいよ。グラス、こっちの材料切り終わったぞ」

「ありがとうございます。……失礼ながら意外でした、ゴルシ先輩がお料理できるなんて」

「なにをー。ゴルシちゃんはな、ゲート練習以外ならなんでもできるんだぞ!」

「それは……かなり致命的では?」

 

 苦笑いしながら、用意していた土鍋へ鍋用調味料を注ぐ。コンロを点火し、青い炎の上へ土鍋を乗せて切った具材を投入していく。

 人数が人数、しかもほとんどがウマ娘だ。一つで足りるわけがなく、次の鍋をセットしていく。

 

「カセットコンロを持ってきてよかったですね」

「だよなー。あんちゃん一人暮らしだからコンロが二つも三つもあるわけないっての」

「……ゴルシ先輩は、トレーナーさんと親しいんですか?」

「んあ? ……ああ、あれはゴルゴル星を飛び出したばかりのゴルシちゃんが卑劣なスーガイーンの魔の手から逃れるため地球にきた頃───」

「先輩?」

「んだよ睨むなよ。……別に、ライスがマックイーンと春天で競ってた頃にちょいと絡んだくらいさ。あんときゃライスも色々あって、テイオーと一緒にからかい半分でお兄さま呼び真似してたらそのまま定着したんだよ」

「そう、なんですね……」

「んな気にすることじゃないぜ? つーか、あんちゃんといる時間はとっくにお前らの方が長いってえの」

 

 心の内を見透かされ、グラスワンダーは歯噛みした。

 

「……ま、何悩んでんのか知らねえけど。夕飯の時までそんな暗いとあんちゃんにあることないことチクっちゃうぜー」

「ゴルシ先輩!」

「おーし鍋の第一レース出走! おらー! 鍋将軍ゴルシちゃんのお通りだ、テーブル空けろー!」

 

 器用に三つの鍋を盆に乗せてゴールドシップはリビングへ向かっていく。

 燻る想いを抱いて、グラスワンダーも後に続いた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 扉をノックする音で目を覚ました。

 脳がゆったりと動き出す中、寝起きの声で返事をすると扉が開いた。

 

「お兄さま、調子はどう?」

 

 入ってきたのはライスだった。彼女の手にはお盆があり、お盆の上には湯気を上げる茶碗とお茶の入ったコップ、レンゲがあった。

 

「雑炊持ってきたんだけど、食欲あるかな?」

「そうだな……せっかくだしいただこうかな」

 

 寝起きだが空腹感があった。思い返せば、病院から戻って寝てから何も食べていなかった。

 体を起こす私の傍までライスがやってくる。そこでようやく茶碗の中身が見えた。

 卵の黄身が絡み、鍋つゆを吸って柔らかくなった雑炊飯。具は葱に人参、豚肉も見えた。鼻をくすぐる香りはまろやかで、味噌や醬油とは違ったものだった。

 

「今ってお鍋の素も種類が沢山あるんだね。これは豆乳鍋で作った雑炊なんだ」

「豆乳……そうか、その匂いなのか。みんなも同じ鍋を食べたのかな?」

「ううん。色んな種類を買ってきて、それぞれ自由に食べたよ。キムチ鍋とか豚骨醤油とか味噌とか鶏がらとか」

「全部ライスが?」

「ううん、手分けしてみんなの。ライスが作ったのは豚骨醤油と味噌かな」

 

 うーん、病み上がりには少し濃い味かな? だからもってこなかったのだろうが。

 

「エルはキムチだっただろう」

「正解! あとドトウさんも食べてたよ。意外と辛い物が得意なんだね」

 

 ライスが雑炊を軽く混ぜ、中身を掬う。

 

「ふー、ふー……はい、お兄さま。あーん」

「……ライス?」

 

 笑顔でレンゲを差し出して来るライス。レンゲを受け取ろうとすると躱され、また目の前に差し出される。

 少女の笑顔は変わらない。

 

「お兄さま、あーん」

「ライス、自分で食べられるから……」

「あーん」

「……あ、あーん」

 

 頑ななライスについに屈する。

 口を開けるとレンゲが差し込まれた。口に広がる豆乳と卵の甘味。うん、美味しい。

 一度食べてしまえば、年下の少女に食べさせられる恥よりも食欲の方が勝った。

 ライスが差し出す雑炊を食べ続けていく。

 

「ふぅ……ご馳走様でした」

「お粗末様でした」

「美味しかったよ、ありがとうライス」

「作ったのはグラスさんとゴルシさんだけどね」

 

 食べ終わり、一息つくとリビングの方から聞こえる声にようやく気付いた。リビングでレース映像を見ながら語り合っているのだろう。

 よく響いてくるのはエルやトウカイテイオーか。

 騒がしいとは思わなかった。今のマルカブのメンバーは大人しいウマ娘が多いが、少し前まではこれに負けないくらい騒々しい時代があったのだ。

 

「懐かしい賑わいだ」

「みんながいた頃を思い出すね……」

 

 ライスの顔には郷愁の色があった。

 師匠がマルカブを率いて、私がまだサブトレーナーだった時代。あの頃は今よりも多くのウマ娘がマルカブにいて、何かと理由をつけてこうして師匠の部屋やチームルームで騒いだものだ。

 ドク、エリー、リンド、ビコー……当時マルカブに所属していたウマ娘たちの顔と名前が浮かんでは消えていく。

 多くの勝利と栄光があった。多くの敗北と挫折があった。勝って笑う娘も、負けて涙する娘も、同じ空間に集まって讃え合い、支え合ってきた。あの時代こそまさしくチーム・マルカブの黄金期だ。

 けれどもその黄金の時代も終わりを迎えた。

 どんなものにも起こりうる栄枯盛衰。様々なマイナスがマルカブに降り注いだのだ。

 師匠がトレーナーを引退し、チームが私に引き継がれた。

 私はどうもスカウトが下手くそで、中々新しいウマ娘がチームに入らなかった。

 エース級の引退や卒業が立て続けにあった……いや、これをマイナスとするのは適切ではないな。彼女たちはただ次の夢に向かっただけなのだから。

 

 ライスがケガをした。

 

 私は彼女の復帰に心血を注ぎ、チーム運営を二の次にした。

 そんなところだ。

 

「お兄さま、暗い顔してる」

「あれ、そうだった……?」

 

 ライスの手が私の頭に乗る。子供を励ますように、彼女の手が私の髪を撫でていく。

 

「聞こえてくる賑やかさが懐かしくてね。昔のマルカブを思い出していた」

「うん、ライスも思い出してた。……暗い顔をしていたのは、ライスのせい?」

「そんなことはないよ。ちょっと、自分の至らなさを思い返していただけさ」

 

 マルカブの凋落も、私の失意もライスの責任ではない。運がなかったことと、私自身の力不足だ。

 

「なにより、今のマルカブがあるのはライスのおかげだよ」

 

 ライスの復帰レースを見て、グラスとエルはマルカブに興味を持ってくれた。

 ライスの有記念やグラスとエルの奮闘があって、師匠からデジタルを紹介してもらえた。

 ドトウはライスの天皇賞(秋)を見て、変わるきっかけを掴みかけている。

 今日の賑わいも、ライスが頑張ってきたことが実を結んだ結果だ。

 彼女を中心にマルカブは最盛期にも劣らない成長を遂げたのだ。

 

「ありがとう。でもね、ライスが頑張れたのはお兄さまのおかげなんだよ」

 

 照れくさそうにライスが言う。

 

「お兄さまがライスをずっと見ていてくれた。選抜レースも、メイクデビューも、菊花賞も、春の天皇賞も。ライスが辛かった時も、苦しかった時も、ずっと傍にいてくれた」

「ライス……」

「でもセントライト記念を見に来てくれなかったことはまだちょっと怒ってます」

「はい……」

「あの宝塚の後も、一緒にいてくれた。秋の天皇賞はライスの我儘を聞いてくれた。

 ありがとうございます、お兄さま。ライスはあなたに出会えて幸せです」

「それは、私が言うべき言葉だよ」

 

 失意の私とともにいてくれた。私を悪夢から覚ましてくれた。

 サイレンススズカのために、君はその身を削ってくれた。

 

「ありがとう、ライスシャワー。私を君のトレーナーにしてくれて。君に出会えたことが、人生一番の幸福だ」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「お! もう大丈夫なのか?」

「ええ、美味しいご飯もいただきましたからね」

 

 既に熱は下がっていた。食事もとれたし、病人のまま皆を見送るのも気が引けたので、リビングに顔を出すことにした。

 皆がテーブルを囲むなか、スピカのトレーナーが開けてくれたスペースに座る。

 グラスがお茶を出してくれた。

 

「ありがとうグラス。雑炊を作ってくれたのもグラスなんだってね、美味しかったよ」

「ふふ、口に合ったのなら良かったです」

「ぐぬぬ……料理役も持っていく役も取られるなんて、エル一生の不覚……!」

「……なあライス、いつ見てもマルカブって面白い関係築いてるよな」

「そ、そうかな……?」

 

 点いたテレビから聞こえる歓声に全員の意識が向く。テレビには録っておいた過去のレース映像が流れていた。

 見慣れた中山レース場、熱狂する観客、先頭を争う二人の葦毛のウマ娘。タマモクロスとオグリキャップの葦毛対決となったいつかの有記念だ。

 録画ゆえに結果は決まっている。しかしこの場にいる誰もが固唾を飲んでレースの結末を見守っていた。

 オグリキャップがタマモクロスを抜き去り、誰よりも速くゴールした。中山に響く歓声。繰り返されるオグリコール。かつての伝説が液晶の向こうで再演されていた。

 

「やっぱりオグリ先輩って凄いウマ娘なんですね」

 

 スペシャルウィークの言葉にサイレンススズカが頷いた。

 

「そうね。先輩のおかげでレース業界が盛り上がりだしたって聞くわ」

「オグリも凄いけどさー、次はカイチョーのダービー見ようよ!」

「そのレースは先ほども見たじゃありませんの! 大体、今日集まった意味をお忘れでは?」

 

 メジロマックイーンの言葉で思い出す。

 

「“領域(ゾーン)”の勉強だったね。その調子だと、成果は芳しくないのかな?」

「ま、そんなところだ。それっぽいレースを手当たり次第で見ているが、ヒントを掴めた様子は無い。

 ……なあ、病み上がりのところ悪いが、あんたの考えを聞かせてやってくれないか?」

 

 スピカトレーナーの言葉に、考えを巡らす。私個人の見解はあるにはあるが、それは彼も同じだろう。先に聞いて持論を補強したいのか、既に皆には話しているのか。

 まあ、別に話すのは構わないんだが。

 

「私個人の考えで良ければ。……“領域(ゾーン)”は端から見ればウマ娘が突然凄まじい走りを見せる。それは素晴らしいの一言だけど、継続してそれを発現させたウマ娘は少ない」

「“領域”は一度きりのものということですか?」

「再現が難しいというほうが正確かな。限界を超えることで発現すると言われている以上、ウマ娘本人もきっかけを把握し辛い。どうして発現したかが分からないから二度目が確認できず、ものにできない。

 けれど───」

 

 リモコンを取り、テレビ───というよりその下のデッキに向ける。

 巻き戻せば、丁度いいレースが再生されていた。

 

「“領域(ゾーン)”を複数のレースで発現させたと思われるウマ娘は確かにいる。例えばタマモクロスだ」

 

 再びレースが動き出す。向こう正面から、後方にいたタマモクロスが怒濤のロングスパートを仕掛けたところだ。周りが様子見していたところでの奇襲。小さな芦毛はぐんぐんと順位を上げていく。

 

「この有馬でも、前走のジャパンカップや秋天でも彼女は“領域(ゾーン)”と思わしき超加速を見せている。本人が証言したわけではないけどね」

 

 ライスたちが食い入るようにテレビを見ている。その中からサイレンススズカがこちらを見た。

 

「タマモクロス先輩の走りに“領域(ゾーン)”を使いこなすヒントがあるんですか?」

「いや、おそらく“領域”発現の条件はウマ娘によって違うんだ。タマモクロスの走りをそのまま君たちに取り入れても意味は無い。これはあくまでゾーンを制御し、使いこなせるという実例だね」

「ええ~~! それじゃあ意味ないじゃん! 知りたいのは“領域”をいつでも使えるようになる方法なのに!」

「落ち着きなさいなテイオー。マルカブのトレーナーさんが言いたいのは、タマモクロス先輩が“領域”の制御に成功したということですわ」

 

 そうですわよね? とメジロマックイーンの顔がこちらを向いた。

 テレビを見ていたウマ娘たちが揃って視線を向けてくる。レースを左右する奥の手ともいえるものを手にしようとしているのだ。

 一口お茶を飲んで、告げる。

 

「“領域(ゾーン)”の制御、その鍵はルーティンだと思っている」

「……ルーティン?」

「習慣というか、決まりきった動作ということですか?」

「寝る前にストレッチするとか、起きたらまず水を飲む、みたいな?」

「そう。そのルーティンをレースに落とし込むことが必要なんだと思う」

 

 ウマ娘たちが考え込んでいる。いまいちイメージが掴めないのだろうと、私は続ける。

 

「“領域(ゾーン)”が発現するのはレース終盤が多い。やはり限界を超えようとする最後の一歩、集中力の極限がそのあたりで来るからだろう。そして、“領域”を使いこなすウマ娘はその極限状態へ入るトリガーをルーティン化しているんだと思う。

 その条件は様々なんだ。最終コーナーで抜け出す、最後の直線で好位置にいる。残り数百mで競り合う、終盤で一気にまくり上げる。そんな自分だけの必勝パターンともいえるものを組み上げることで、彼女たちは“領域”を使いこなしているんだと思う」

 

 推定だけどね、と最後に付け加える。

 少女たちは引き続き考え込んでいるが、先ほどと少し様子が違う。私が言った必勝パターン、レースにおけるルーティンが何なのかを想像しているのだろう。

 

「いや~流石の解説! 俺じゃあこうはいかない!」

「……貴方、やっぱり同じ結論に達してたのに丸投げしましたね?」

「まずは自分たちで考え抜いて欲しかったのさ。ま、あんたに説明されれば納得しやすいかなとは思ったが」

 

 日頃の行いかね、と少し気落ちした様子のスピカのトレーナーを見て察する。自分の判断に自信を持てていなかったのだろう。

 理由は思いつく。サイレンススズカの負傷を予見できなかったことが、彼の中で影となっているのだ。私も同じ思いをしたことがある身、彼を責める気にはなれなかった。

 

「ね、お兄さま!」

 

 ライスの声で、意識を彼女たちに向ける。

 

「ライスたちのレース映像、もっと見てもいいかな?」

「自分たちが勝った時の様子を確認したいデス!」

「お兄さんおねがーい! ね、いいでしょ? ね? ね!」

「わ、私も! もし映像録ってたら見せて下さい!」

 

 ライスにエル、トウカイテイオー、スペシャルウィークが立て続けに言った。

 周りにいる他のメンバーも目に火を灯していた。

 スピカのトレーナーと顔を合わせ、思わず笑う。

 

「いいよ。時間が許す限り、存分に見ていくといい」

「やったー!! じゃあまずはボクのダービーを……」

「抜け駆けは厳禁デス! ここは平等にジャンケンで順番を───」

 

 賑やかな喧騒は、まだ続く。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 そして夜は更けていき、皆も帰る時間となった。

 

「いや~有意義な時間でしたね!」

「はい。色んなレースを見れて勉強になりました!」

「あとは自分の走りで答えを見つけるだけね」

「ま、テイオーの提案もたまには役に立ちますわね」

「たまにはって何さ! ボクのアイディアはいつだって超名案だっての!」

「お兄さま、今日はありがとうね」

「みんなの役に立てたなら良かったよ」

 

 学園までの道中はスピカのトレーナーに任せるが、私もマンションの入り口までは皆を見送ることにした。

 

「無いとは思うけど、もう遅いんだから自主練は無しだよ。特にエル」

「え、ええっ!? そ、そんなことは~無いですよ~」

「スズカもだぞ?」

「そ、そんなことは~」

「ご安心を! スズカさんが勝手に走りださないよう、しっかり見張ってますから!」

「エルの方も、安心してくださいね」

『うぐぐっ……』

 

 会話を弾ませながら、ついに入り口についた。

 ライスたちが振り返る。

 

「お兄さま、明日は学園に来れる?」

「うん。熱も下がったし、大丈夫だよ」

「良かった。……あ、そうだ! 忘れるところだった……」

 

 ライスがゴソゴソとカバンを探る。それを見てグラスやエル、他のウマ娘たちも同様にカバンに手を伸ばした。

 スペシャルウィークが手を上げた。

 

「トレーナーさん! 秋の天皇賞ではスズカさんのことを色々心配してくれたみたいで、ありがとうございます!

 そして───」

 

 

『ハッピーバレンタイン!』 

 

 

 ライスたちから、色とりどりの贈り物をいただいたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




いつの間にか鍋の素って種類スゴイ増えてましたね。あと鍋キューブ考えた人すごくすごい。
あ、イベントスチルは各自脳内保管でお願いします。

展開遅くて申し訳ないですが、また書き溜めに入ります。


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50話 黄金たちと進む路

 お久しぶりです。
 今更ですがウマ娘二周年おめでとうございます。
 ツインターボやミスターシービーの実装も嬉しいですが、新ウマ娘たちの発表も盛り上がりましたね。
 本当に、許可をくださった馬主の皆さまには感謝しかないですね。

 さて、今日から一日一話、計三話投稿させていただきます。
 展開が遅くて申し訳ないです。


 二月も後半に差し掛かると、トレセン学園は外部の出入りが多くなる。

 来る三月より始まるトゥインクルシリーズの春シーズン、そして春のGⅠ戦線に向けたメディアへの情報発信のためだ。

 有力どころが記者会見を開いたり、個人で取材に応じたりと対応は様々だ。

 そのため連日各種メディアがトレセン学園を訪れる。

 肩からカバン、首からはカメラ、手にはメモ帳とペンを持って学園の敷地を歩き回る男もその一人であった。

 若く、記者となってまだ日が浅い彼に編集部から言いつけられたのは会見を開かないウマ娘を対象とした取材だった。

 公に発信されない特ダネを探す機会を与えられた、と言えば聞こえはいいが実際に成果が上がることはまずない。いるかも知らない魚目当てに釣糸を垂らすようなものだった。

 確実に成果となる会見には先輩やベテランが向かう中、あてもなく放り出される現状に社会の縮図を見た気がした。

 

「あれは……」

 

 ふと、ウマ娘を見かけた。緑のメンコにどこか気品ある立ち振舞。キングヘイローだ。ジャージ姿なので、トレーニングに向かう途中なのか。

 男の脳内でキングヘイローの情報が展開される。

 母が偉大なウマ娘であっただけに、クラシックでは娘である彼女にも相応しい戦績が期待されたが結果は無冠。それどころかクラシックは未勝利で終わっている。

 勝ちを欲するあまりダートにも出走したらしいが結果は惨敗。正直期待外れ、というのが業界メディアの感想だった。

 黄金世代の一人と言われるが、カメラが追いかけるのはクラシックを分け合った三強と、シニア級相手に勝ったエルコンドルパサーの計四人だ。

 

「行くか……」

 

 落ち目とはいえキングヘイローの記事に需要が無いわけではない。下卑た話だが、良家の出が辛酸を舐める様は一定の需要がある。キングヘイロー本人の高飛車な態度も相まって話題としては十分だ。

 トレーナーと一緒でないというのも都合がいい。黒い感情を胸に秘めながら、男は声をかけた。

 

「キングヘイローさん! 少しお時間よろしいでしょうか!?」

「あら? 貴方は……」

「月刊ターフの者です。突然ですみませんが取材よろしいでしょうか?」

「構わないけど、トレーニングがあるから手短に頼むわ」

「ありがとうございます! では、早速……シニア級に上がって最初の春シーズンとなりますが目標としてるレースはなんでしょうか?」

 

 男は質問も投げつつも、答えは凡そ察していた。

 大阪杯。クラシック級で三冠レースに挑んだウマ娘がシニア級に上がってまず目指すとなればここが鉄板だろう。

 天皇賞(春)もあり得るが、おそらくクラシック三冠を分け合った黄金世代の三強(GSS)や前年覇者のライスシャワー、復帰したメジロマックイーンが目指す。キングヘイローの戦績を考えると彼女たちと競うのは避けたいところだろう。

 故に大阪杯。すでにメモ帳にもそう書き出したところで、

 

「目標───というより次走は高松宮記念よ」

「そうですか高松……高松宮記念!?」

 

 記者としての仮面が崩れる。その様が余程滑稽だったのか、キングヘイローが小さく笑った。

 

「……し、失礼しました。ですがその、高松宮記念は短距離GⅠですが……本当に? 大阪杯ではなく?」

「ええ。本当よ。昔は中距離だったらしいけれど、今は短距離レースというのも知ったうえで出走するわ」

「お、お言葉ですがどうして高松宮記念に? クラシック三冠レース全てに出走を果たしたあなたが目指すのならば大阪杯、中距離(クラシックディスタンス)のGⅠ、それが王道ではないのですか!?」

 

 当初の狙いも忘れて男は重ねて問う。仮にもウマ娘レースを扱う雑誌の記者だ。業界内におけるレースの格付け、勝利の価値も把握している。

 キングヘイローの選択はそこから逸脱したものだった。

 

「王道……そうね、それが王道だわ。三冠レースに出たウマ娘が次に狙うなら大阪杯か春の天皇賞。クラシックで一番成績が良かったのが皐月賞なのを考えると、私に合うのは2,000mの大阪杯。それが普通の考えね」

 

 でも、と少女が顔を上げる。

 

「私が行くのは私の道。誰かが決めた王道ではなく、私が自分で決めた道を往きます。それが、私が目指す一流です!」

 

 そう言ってキングヘイローは去って行った。

 残された男の中は最初こそ混乱していたが、やがて冷静になって彼女の真意を考え出す。

 

(高松宮記念、スプリントのGⅠ……最初は何を考えているんだと思ったが、狙い目なのか?)

 

 マイル以下の短距離路線は昨年のシーキングザパールとタイキシャトルの活躍で注目が集まっている。一方で、最終優秀短距離ウマ娘に選出されたサクラバクシンオーが中距離専念を表明し、短距離路線からの離脱を宣言したばかり。

 さらにそのサクラバクシンオーと激闘を繰り広げたニシノフラワー、ヤマニンゼファーは揃って今年からドリームトロフィーリーグへ移籍。シーキングザパールとタイキシャトルは昨年に引き続き海外転戦を目標としている。

 スプリントの絶対王者が玉座を下り、追随していた猛者たちも舞台を変えた。トゥインクルシリーズの短距離路線は王座不在の新時代、群雄割拠の戦国時代へと突入したのだ。そこに割って入ることと、黄金世代やその上に強豪たちと戦うこと。果たしてどちらが有利か。

 

(答えは分からない。けど、キングヘイローは空の玉座を狙うことを選んだんだ)

 

 最早キングヘイローからネタを貰うことなど頭から消えていた。

 男の脳裏には、少女の言葉が消えることなく繰り返されていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 スピカのチームルーム。ここでも、一人のウマ娘の今後が告げられていた。

 

「え……ええ~~っ!? スズカさんが海外へ!?」

 

 スペシャルウィークの絶叫が響き渡る。他のメンバーも驚きで目を丸くしていた。

 ただ一人、サイレンススズカは事前に聞いていたのか落ち着いていた。

 

「ト、トトトトレーナーさん! いったいどういうことですか!?」

「落ち着けスぺ。今説明するから。

 ……スズカが海外、アメリカへ行くのは以前からあった案だ。秋天があんなことになってずっと後回しになっていたけどな」

「そうなのスズカ?」

「ええ。去年の宝塚記念を勝った頃からかしら。私自身、自分の走りを形に出来てきて、もっと色んな舞台で走りたいって思うようになったの」

「それは良いことだと思うけど……急すぎない? 日本で復帰レースしないでアメリカ行っちゃうってことでしょ?」

「そうですわね。スズカさんの復帰を待ち望むファンも多いですし、金鯱賞や大阪杯の連覇を目指してからでも良いのでは?」

「それも考えた。でも、スズカの脚のことを考えたら少しでも早い方が良い」

 

 脚? とウマ娘たちの視線がスズカの脚へと向かう。トレーナーの方を向き直って、トウカイテイオーが問う。

 

「治った……んだよね?」

「治った。後遺症もなくな。でも同じことが起きないとは限らない。……そして、次も無事とは限らない」

 

 全員の脳裏に、天皇賞(秋)の悲劇が蘇る。あの時は最悪の事態にこそならなかったが、それは奇跡のようなものだ。

 トレーナーの言う通り、次も大丈夫だと楽観視などできない。

 

「スズカのケガの原因をずっと考えていた。直前まで脚に異常は無かったし、スズカにも自覚症状はなかった。でも、実際にケガをした」

 

 ウマ娘の脚は消耗品、などと呼ばれるほどに脆い。人間と変わらぬ体躯で自動車と同程度の速度で走れるのだから、彼女たちの脚にかかる負荷が大きい。

 だからこそトレーナーたちはトレーニング時点から彼女たちの脚について常に細心の注意を払っているのだ。

 

「おそらくだが、スズカは他のウマ娘と比べても速すぎるんだ。だからスズカ自身の脚や体がその負荷に耐えられなかった。軽自動車にF1カーのエンジンを積んでいるようなもの、なのかもしれない」

「それがスズカさんのアメリカ行きに関係あるんですか?」

「ある。アメリカは……欧州もなんだが、日本よりもウマ娘レースが進んでいる。トレーニング論も、治療技術もな」

「治療のためにアメリカに行くの?」

「正確に言うと体質改善、だな スズカの脚は治ったが体が頑丈になったわけじゃない。スズカの将来のためにもアメリカで身体を作ってもらいたいんだ。

 幸い、リギルのタイキシャトルも今年はアメリカ遠征を考えているらしい。おハナさんに色々と紹介してもらうつもりだ」

「そう言われたら……」

「納得するしかありませんわね……」

 

 トウカイテイオーとメジロマックイーンが顔を見合わせて言った。

 どちらもケガや病気で悩まされた身だ。そしてトレーナーがそんな二人のために苦心したのも知っている以上、反対は出来なかった。

 しかし、

 

「理屈は分かったけどよー」

 

 ゴールドシップがここで初めて声を上げた。

 

「スズカの扱いはどうなるんだよ?」

「扱い?」

「アメリカに行ってよー、身体も鍛えて、向こうのレースに出る。まあいいさ、スズカが望んだことでスズカのためっていうのなら。……でも、そのスズカは一体どこのサイレンススズカだ?」

 

 ゴールドシップの瞳は、普段からは考えられないほど真剣だった。

 

「スピカか? それともアメリカ版リギルか? もしくは、ただのサイレンススズカか?」

「それは……」

「トレーナーよぉ、オメーもしかして───」

「スピカのままよ」

 

 答えたのはサイレンススズカだった。

 

「ゴールドシップ。あの秋天で、あなたの声は聞こえていたわ。あなただけじゃない。トレーナーさん、スぺちゃん、テイオー、マックイーン。ファンや友達の声が私を救い出してくれた。

 だから私はどこに居ても、どこを走っていても、チーム・スピカのサイレンススズカよ。

 ……そうですよね?」

「───ああ。ああ、そうさ!」

 

 サイレンススズカの瞳が今度はトレーナーの方を見た瞬間、弾けるように彼は立ち上がった。

 

「スズカはずっとスピカさ! 今更どこにもやるもんか! アメリカだってずっといるわけじゃない。絶対に、必ずまた日本で走るさ!」

「ええ。そうですよ」

「……ん。そんなら、私はいいや。でも───」

 

 立ち上がるゴールドシップ。迷いない足取りでトレーナーに近づき、肩を組む。

 そして、

 

「そういう大事な話を決まってから話すんじゃねええええええ!!!」

「ぎゃあああああ!!」

 

 トウカイテイオーは語る。

 それは教本に乗せたくなるほどの、見事なキャメルクラッチだったそうな。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 続々と有力なチームや個人トレーナーと契約したウマ娘たちのローテーションが発表されていく。

 私たちチーム・マルカブの場合、昨年活躍したチームとして注目されているし、デジタルとドトウがクラシック級に上がったので記者会見を開く予定だ。

 その準備に追われていたのだが、突然理事長より呼び出しがかかった。

 

「緊急! 突然の呼び出しすまない! しかし君にとって決して悪い話ではないので気を楽にしてほしい!」

 

 重要! と書かれた扇子をもった小柄な女性。一見小学生かと思う見た目だが、歴としたトレセン学園の理事長、つまりは私たちトレーナーの上司だ。その隣にはいつも通り、秘書であるたづなさんがいた。

 部屋を見渡し、他に集まった面々を見て疑問を口にする。

 

「構いませんが、このメンバーは一体……?」

 

 欧州にいるはずの黒沼トレーナーがいた。学園かURAに近況報告にでも来たのだろうか。

 ハマルの奈瀬トレーナー、丘辺トレーナー、リギルの東条トレーナー、そしてエアグルーヴとソファーでふんぞり返るシリウスシンボリがいた。

 いまいち関係性が読めない組み合わせだった。

 私たちトレーナーへの連絡でウマ娘まで呼ぶことはまずない。

 担当ウマ娘関係だとするとエアグルーヴは生徒会の副会長だからおかしくないかもしれないが、その場合はトレーナーたちはなぜいるのか。それにシリウスシンボリは生徒会とは不俱戴天の仲のはずだ。

 考えていると理事長が再び扇子を振るう。

 

「解説! 今日ここに集まったのは、春から行う計画への協力者たちである!」

「協力者……ですか?」

「確認! マルカブのトレーナーよ、君は昨年よりエルコンドルパサーの海外遠征のために独自に動いているな?」

「…………はい」

 

 心臓が跳ねた。ちらり、と丘辺トレーナーの方を見ると苦笑いしていた。

 もしや、学園を通さずに遠征の支援を外部に頼み込んだことへの叱責だろうか。

 私の不安を先読みしたように、理事長が再度扇子を振る。

 

「杞憂! 君の行いを責めるつもりはない。学園やURAが海外遠征への支援が充実していないのは事実。外部を頼ることは決して間違いではない!」

「リギルやハマルも、昨年の欧州遠征には外部の支援者に協力してもらっていたわ」

 

 東条トレーナーの補足に、理事長も頷いた。

 

「理事長、そろそろ本題に入ってもよろしいですか?」

「うむ! よろしく頼む!」

 

 丘辺トレーナーが前に出る。ただそれだけなのに、緊張してしまう。彼がいるのは以前からお願いしていたシンボリ家からの支援要請に対する回答を告げるためだろう。

 結果はどうか。クラシックでのエルの活躍は言うまでもない。が、ダービー惜敗とサイレンススズカに完敗した事実は重く伸し掛かる。

 

「手っ取り早く結論から、というよりシンボリ家からの回答を伝えます。

 ……シンボリ家は今回のエルコンドルパサーの海外遠征に対して支援は行わないとのことです」

「───そう、ですか……」

 

 覚悟していたことではあった。が、やはりショックだ。思わず手を強く握ってしまう。

 海外遠征のノウハウがないマルカブにとって、エルの海外挑戦の成功には外からの支援は不可欠だ。私に伝手がない今、実力主義のシンボリ家ならと思ったが、現実は甘くは無かったか。

 支援がなくとも海外遠征はできるが、万全の条件とは言えなくなった。

 

「おっと、落ち込むのは早いよ」

「……え?」

 

 丘辺トレーナーの声に顔を上げる。いたずらに成功した子供のような、憎たらしい笑みを浮かべたまま丘辺トレーナーが続ける。

 

「シンボリの家が支援しないのは、タイミング良く……いや悪いのかな? とにかく、トレセン学園がやろうとしているプロジェクトを掴んだからだ」

「プロジェクト、ですか?」

「そう。このプロジェクトの対象に君たちが選ばれた。これにブッキングしてしまうからシンボリ家は支援をしないと決めたんだ。

 ……理事長、あとは───」

「肯定! 詳細はこちらから伝えよう! たづな!」

「はい理事長」

 

 理事長が解禁!と書かれた扇子を振るうと、たづなさんが資料を配りだした。

 まだ理解が追いつかない中、説明が始まる。

 

「ご存じの通り海外遠征、特に欧州遠征のハードルは未だ高い状況にあります。費用面での都合もありますが、環境やバ場、現地でのバックアップ体制など課題は多くあります。ドバイや香港、中東と近場の遠征先は増えていますが、やはり日本として目指すべき目標は欧州のレースです。トレセン学園としてもURAとしても、この課題はクリアしなければなりません。

 幸いにも、日本ウマ娘の実力が世界に通用することは近年の国際競争の結果や、昨年のタイキシャトルさんとシーキングザパールさんの活躍で証明されました。そしてミホノブルボンさんが欧州へ向かったことで、より多くの情報が手に入りました」

 

 資料をめくっていく。

 昨年夏に渡欧したミホノブルボンが経験してきたレース環境、現地のトレーニング施設、欧州ウマ娘のレース感覚などがまとめられていた。黒沼さんが戻ってきたのはこのためか。

 

「これを持ってトレセン学園及びURAの理事会はプロジェクトの立ち上げを決定しました。ずばり、全面的な欧州遠征の支援です」

「は、都合のいいことだ……!」

 

 ソファに座ったままのシリウスシンボリが言った。かつて、体制が整わない状態で単身欧州へ挑んだ身としては思うところあるのかもしれない。

 一瞬の間が空きながらも、たづなさんが続ける。

 

「本来ならプロジェクトの試行は数年先になる見通しでした。やると決めたところで滞在先や体制など時間がかかりますから。

 ところが───」

 

 たづなさんの視線が、エアグルーヴへ一瞬向いた気がした。

 

「渡りに船と言いましょうか、欧州のとある方からこちらへ支援の申し出がありました。内容は滞在先の用意とトレーニング施設の優遇。言ってしまえば提携のような形になります」

「それは……凄いことですね」

「ええ。これによりプロジェクトは大幅に前倒しとなりました。そして、こちらからの人員の体制も概ね整い、試行へと動き出しました」

「結論! プロジェクトによる支援対象に、マルカブのエルコンドルパサーが選ばれた! 理由は無論、クラシック期における成績である!

 推挙! エルコンドルパサーには、学園が集めたメンバーとともに欧州遠征することを提案する!」

 

 理事長の声が響くたび、私の中で熱いものがこみあげてくる。

 エルの一年の奮闘は、予定とは違う形とはいえ、確かに結実の時を迎えたのだ。

 

「召集! メンバーにはミホノブルボンとともに渡欧し、日本と欧州の両方を知る黒沼トレーナー。海外経験が豊富なシリウスシンボリ、昨年海外実績を挙げたシーキングザパールを予定しており、両ウマ娘の担当トレーナーは了承済みである!」

 

 奈瀬トレーナーと丘辺トレーナーが頷いた。

 

「目標! 春に渡欧し現地の環境へ適応するととともに現地のレースにも出走。具体なローテーションは今後詰めるものとし、最終目標は秋───フランスで開催される世界最高峰の大レース、

 

 凱旋門賞!!

 

 日本ウマ娘レース界の悲願達成を目指す! 引き受けてくれるか!?」

 

「ぜひ、喜んでお受けします」

 

 迷うわけがない。私は即座に首肯していた。

 

 詳細は追って詰めるとして、早速エルにこのことを伝えてあげよう。

 たづなさんから残りの資料を受け取って理事長室を飛び出し、みんなが待つであろうチームルームへ急ぐ。

 そして学園側の意向を伝えるとエルの答えは

 

「イーヤーデースー!!」

「───え?」

「トレーナーさんもエルと一緒にフランスに行くんデスー!!」

 

 ええ……?

 

 

 





お兄さま「海外遠征出来るよ、やったねエル! 
     遠征には黒沼さんがついて行ってくれるからバッチリだ!!」
エル「──────」


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51話 進路と栄冠

 

「イーヤーデースー!! トレーナーさんもエルと一緒にフランスに行くんデスー!!」

「エル、わがままを言うのは止めなさい。今年はライスさんのトゥインクルシリーズ最後のレースもありますし、デジタルさんやドトウさんのクラシックもあるんですよ?」

 

 私の胸に縋り付いていたエルが、グラスの言葉に振り返る。

 

「グラス、そこで後輩や先輩の名前を出すのは逃げデス」

「な、なにを言うんですか……!」

「トレーナーさんに、自分の春天を見てほしいって言えばいいのに」

「そ、それは……」

「エルは構わず言いマース! トレーナーさん、エルと一緒にフランス行きましょう? 一緒に世界の頂点に挑むんデース!」

「エル、それは……」

 

 思わずライスの方を見てしまう。が、頼りのチームリーダーは静かにほほ笑むだけ。自分でちゃんと決めなさいと言われているようだった。

 蘇る過去の記憶。セントライト、函館、う……頭が……なんて言っている場合じゃない。

 

「……エル、黒沼さんは素晴らしいトレーナーだ。欧州でレースの研究をしてきたし、トレセン学園のトレーナーで一番欧州レースに詳しいと言っていい」

「それは分かりマス! ミホノブルボンをダービーウマ娘にしたトレーナーですから。でも、それとこれとは話が別なんデス!」

「私は海外の経験がない。エルの夢を考えたら黒沼さんと行った方が───」

「わからず屋ー!」

 

 エルの頭突きが胸に刺さる。痛みはない。ないはずが、確かな衝撃を受けた。

 

「エルは……勝ちたいデス。凱旋門賞で勝って世界最強。それが夢だから。

 ───でも、勝てれば誰でもいいわけじゃないデス」

 

 私の胸に頭を擦りつけたままエルが続ける。

 

「トレーナーさんと勝ちたいデス。ホープフルやNHKマイルを勝って、ダービーで負けて、ジャパンカップを勝った、マルカブで勝ちたいデス」

 

 エルが顔を上げた。青空のような瞳が私を見た。

 

「エルはトレーナーさんと勝ちたいから、マルカブを選んだんデス」

 

 それは、いつか私がグラスに行った言葉に似ていた。

 強いから、勝算があったから。そういう理由でグラスをスカウトしたわけではない。同じように、エルも勝てるチームだからマルカブを選んだのではないのだ。

 

「エル……」

 

 彼女の願いを叶えてあげたい。が、だからと言って他の四人をおいてフランスへは行けないのも確かだ。

 ライスは次の春天がトゥインクルシリーズ最後のレースだ。メジロマックイーンとの長距離での再戦になる以上は万全を期したい。

 グラスもシニア級最初の年。これから百戦錬磨の強豪たちを前に気が抜けない。

 デジタルとドトウもクラシック級だ。キャリア的に一番重要な年になる。

 身体が二つあれば。そんなことを考えてしまう。

 

「案の定、迷ってるようだな」

 

 第三者の声に振り返ると、黒沼トレーナーがいた。横でデジタルが申し訳無さそうにしている。

 

「す、すいません! 扉の前にいらしたので、勝手にご案内してしまいました!」

「いや、それは別に構わないけど……どうしたんです黒沼さん」

「なに、さっきの話の続きだ。理事長は追って詳細を詰めるとはいったが、俺たちで決めれるところはさっさと決めてしまいたい」

 

 黒沼トレーナーから資料を渡される。

 

「エルコンドルパサーの欧州でのローテーション案だ」

「早いですね……」

「その方がいいだろう?」

 

 ちらり、と黒沼トレーナーの視線がエルに向いた。

 立ってする話でもないので、ミーティング用のテーブルに案内する。

 私の後ろから、ライスたちが資料を覗き込む中、黒沼トレーナーが説明を始めた。

 

「最終目標は秋の凱旋門賞。それまでの出走予定だが、欧州の環境への慣れと最終調整の期間を念頭に組んだ。

 四月に渡仏して、まず五月末のGⅠイスパーン賞。距離こそ違うが、場所は凱旋門賞と同じロンシャンレース場だ。

 次に七月にあるフランスのサンクルー大賞。九月、凱旋門賞と距離もコースも同じフォア賞を前哨戦とする。そして十月には大本命、凱旋門賞だ」

「凱旋門賞までの半年でGⅠ二戦、GⅡ一戦ですか……」

「シニア級に上がる時点でGⅠ三勝のウマ娘だ。これくらい強気でいい」

「それにこのレース時期は……」

「他のマルカブのウマ娘の目標と被らないようにしてみた。それほど的外れではないだろう?」

 

 黒沼トレーナーの言うとおりだ。

 エルが渡仏してからマルカブのみんなが出るとしたら、ライスとグラスの天皇賞(春)、デジタルとドトウのクラシック戦線、六月のグランプリ。余裕はないが、ギリギリ日本とフランスを行き来することができる。

 

「トレーニングの様子はネットを使えばお前も見れる。このローテーションならお前も間を縫ってレースを見に来れるだろう。大変かもしれんが、どうする?」

「やりましょう」

 

 即答だった。

 

「ありがとうございます、黒沼さん!」

「やったねエルさん!」

「ハイ!」

「構わん。これが俺の仕事だ。それに……礼でもある」

「……礼?」

 

 身に覚えがない。が、サングラスの奥で黒沼トレーナーの瞳が動く。私の後ろで成り行きを窺うライスに視線が向かう。

 

「ブルボンの欧州での戦績は最初は芳しくなかった。環境やバ場の違いもあるだろうが負けが込んだ状態で日本を離れたことを気にしていたのだろう。精神面で欧州のウマ娘に後れを取っていた。

 ……それが変わったのは、ライスシャワーの天皇賞(秋)の報道を見てからだ」

「ライスの……」

「ああ。今回のプロジェクトを引き受けたのも同じ理由だ。あのレースで奮い立たされたのは、お前たちが想っている以上に多い」

 

 意外だった。あの秋天では予測されたサイレンススズカを助けるため、ライスのアイディアを採用した結果だった。おかげでライスは同年の天皇賞春秋制覇を成し遂げ、年度代表ウマ娘にもなった。

 彼女の力を証明する偉業となったとは思っていたが、その影響は海の向こうにいたミホノブルボンにも波及していたとは。

 

「俺だけじゃない。きっかけがどれかは分からんが、エアグルーヴやシリウスシンボリが協力するのも似たような理由だろう。お前のこれまでの努力と成果が、今回の海外遠征に繋がった」

「それは、ライスたちが頑張ったからで……」

「自信を持て」

 

 黒沼トレーナーの手が伸び、私の胸を叩いた。

 

「学園が動いて、エアグルーヴやシリウスシンボリが協力するのは間違いなくこの二年のマルカブの活躍によるものだ。実際に励んだのはウマ娘たちだろうが、彼女たちを育てたのも支えたのもお前だ。

 胸を張れ。今のマルカブを築いたのはお前の功績だ」

「黒沼さん……」

「黒沼さんもっと言ってください!」

「トレーナーさんって未だに『頑張ったのは君たちだよ』とか言うんデスよ!」

「私たちも常々自信を持つよう言っているんですがこれが中々……!」

 

 後ろから飛んできた言葉の槍が背中に突き刺さる。

 苦笑する黒沼トレーナーが締めくくる。

 

「まああれだ、謙遜も過ぎれば嫌味ってな」

「そう、ですね。精進します……」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「そうだ。他に渡すものがあったんだ」

 

 エルの渡仏の詳細を一通り詰めたところで、黒沼トレーナーが懐からUSBを取り出した。

 

「たづなさんからだ」

「たづなさん? 一体なんでしょうか」

「そこまでは知らん。お前、理事長室から急いで出ていっただろう。あの後このUSBも渡すつもりだったらしい」

 

 なんだろうか。業務用のタブレットPCに接続して中身を確認する。

 三つあるファイルのうち、真っ先に目に留まったのは名前が『トレーナーさんへ』となっていたテキストファイルだった。

 とりあえず開いてみる。

 

『マルカブのトレーナーさんへ。

 直接お伝えできれば良かったですが、もしものこともあるでしょうからこちらにも書かせていただきます。

 まずは昨年、マルカブの活躍おめでとうございます。クラシック級での活躍も素晴らしかったですが、特筆すべきはライスシャワーさんの悲願でもあった中距離GⅠ勝利ですね。サイレンススズカさんとオフサイドトラップさんとの最後の対決は私も思わず走り出したくなるほど熱くなってしまいました。いえ、私はごく普通の秘書なのですが。

 さて、本題になります。既に幾度となく言われているかもしれませんが、一昨年からマルカブの評価は非常に高まりました。それこそリギルのようなトップチームにも引けを取らないほど。

 だからこそでしょう。ウマ娘さんたち、トレーナーさんたちからマルカブに入りたいという声が非常に多くあります』

 

 思わず、え? という声が出てしまった。

 皆の視線が突き刺さる中、読み進めていく。

 

『ウマ娘さんたちからは当然チームに入り指導してもらいたいということ。そしてトレーナーさんたちからは、サブトレーナーとして教えを請いたいというものでした。

 希望者を全員受け容れろ、などとは申しませんが、かつて貴方がマルカブのサブトレーナーとして修行したように、ライスシャワーさんと歩んできたように、新たな世代の方々を導いてはくれませんか?

 どうか、ご検討のほどよろしくお願いいたします』

 

 続けて残り二つのファイルを開く。

 片やマルカブへの入部を希望するウマ娘たちのデータが。片やサブトレーナーを希望する若き新人たちの経歴が纏められていた。

 一人や二人ではない。ウマ娘ならば二十人以上、サブトレーナー希望も十人近くいた。

 

「お兄さま、たづなさんからはなんだったの?」

「あ、ああ実は……」

 

 ライスたちに事情を話す。入部希望者の話を聞いて、ライスたちが歓喜の悲鳴を上げた。

 

「すごい、すごいすごいよお兄さま!」

「こんなにたくさん……! 一気に大所帯ですね!」

「ほわあ~~! 大勢のウマ娘ちゃんとチームメイトになるなんて! 今から興奮しちゃいますね!」

「いや待って欲しい。流石に全員なんて無理だよ?」

「そのためのサブトレーナーだろう」

 

 そう言う黒沼トレーナーも中身までは聞いていなかったのか、驚きの表情をしていた。

 

「メッセージにもあるんだろう、全員は受け入れる必要はないとな。ウマ娘なら五人程度、サブトレも一人くらいなら面倒見れるだろ?」

「ま、まあそれくらいなら……」

 

 師匠は私をサブトレに置きつつ、もっと多くのウマ娘を見ていたのだ。弟子である私が無理などとは口にできない。

 それについさっき、ライスたちに功績に対して胸を張れ、自信を持てと言われたばかりだ。ここで怖気づくわけにはいかない。

 

「じゃ、じゃあ入れる方はどうやって選ぶんでしょうか? わ、私の時見たいに面接とか……?」

「うーんドトウさんの時はエル先輩の推薦があったわけですからね……」

「普通は模擬レースとか、種目別競技大会の結果を見てスカウトされますよね?」

「あとは……レーステストとか? リギルはよくやっているよね」

「いえ───」

 

 エルの真剣な声に、皆の視線が集まる。

 

「───レースで決めるのはノー、デス……!」

「エ、エルさん……!」

「エル……!」

 

 思わず目を逸らす。約二年前、グラスとエルが競った模擬レースで勝利したエルではなく、二着のグラスへ声をかけたのは私だ。

 

「ま、まあライスやデジタルもレーステストしたわけじゃないし、拘る必要もないだろう」

 

 リストを見ていく。

 サブトレーナー希望の人たちは皆新人で、四月からトレセン学園に勤務する者たちだ。

 対して入部希望のウマ娘たちは入学済み。本格化も始まりデビューの見通しこそあるが、まだ担当トレーナーが付いていない子たちだ。

 ふと、目が止まる。

 

「彼女は……」

 

 初めて見る顔ばかりのリストに、見覚えのあるウマ娘がいた。

 鬣のような黒髪。獰猛な目つきは一度見れば忘れることはできないだろう。

 

「エアシャカール……!」

 

 昨年の夏、私たちに協力してくれたウマ娘がいた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 二月の終わり。

 ついに有力チームに所属するウマ娘たちの、トゥインクルシリーズ春シーズンの予定が発表された。

 記者会見場では、チームトレーナーとウマ娘たちが並び、記者団に向けて情報を解禁していく。

 チーム・ハマルのアドマイヤベガは弥生賞を経て皐月賞へ。その後もクラシック三冠への挑戦を表明。

 チーム・リギルのエースであるタイキシャトルは昨年に続き海外遠征を発表。注目株のテイエムオペラオーは毎日杯を経て皐月賞に出走。やはりクラシック三冠への挑戦を表明した。

 チーム・スピカが発したサイレンススズカの渡米はメディアに大きな衝撃を与えた。日本での復帰がないことに批判的な声を上げる者もいたが、彼女の脚のためと言われては受け入れるしかなかった。シニア級ではメジロマックイーンが天皇賞(春)へ直行。スペシャルウィークは阪神大賞典をステップに天皇賞(春)への出走が発表された。黄金世代のダービーウマ娘とかつて連覇した名優の参戦にメディアは盛り上がった。

 そして、私たちチーム・マルカブの番となった。

 

「ライスシャワーは春の天皇賞へ直行します。昨年からの連覇、通算四つ目の春の楯を目指します。そして、天皇賞(春)を最後にライスシャワーはトゥインクルシリーズを退き、ドリームトロフィーリーグへと移籍します」

 

 おお! と声が上がると同時にフラッシュが焚かれ、光の洪水が私たちに襲い掛かる。昨年唯一サイレンススズカに先着し、年度代表となったウマ娘のラストランだ。しかも既にスピカの二人が出走を表明している。激闘の予感に、記者たちも奮い立ったのだろう。

 

「次にグラスワンダーですが、日経賞をステップに彼女も春の天皇賞に挑戦します」

「ライスシャワーとの二名出しということでしょうか!?」

「ライスシャワーのラストランに若手をぶつけるということですか!?」

 

 記者団から声が上がる。予想できた質問だ。慌てず答える。

 

「本人たちと話し合った結果です。ライスシャワーもグラスワンダーとの対決を楽しみにしておりますし、グラスワンダーも先輩と競う最後の機会ということでより一層気合が入っています。他の出走者を軽んじるつもりはありませんが、二人の走りに期待していただけたらと思っています」

 

 同チームから二人出るのは真っ向勝負のため。とりあえずは納得したのか、質問した記者たちも礼をしてから席についた。

 

「続いてアグネスデジタルですが、ニュージーランドトロフィーをステップにNHKマイルカップ、六月には安田記念への挑戦を目標としています。メイショウドトウは弥生賞をステップに皐月賞を目指します。メイショウドトウはその後もクラシック三冠へ挑戦します」

 

 先ほどに比べれば控えめなフラッシュ。クラシックについてはリギルやハマルの方が有力過ぎてあまり注目されていないのかもしれない。

 デジタルもティアラ路線の桜花賞に出るという選択肢もあったが、当のデジタルが、

 

「さ、さささ流石に一生に一度の三冠路線にあたしが出るなんて! あーいえNHKマイルを下に見ているという意味じゃないんですが───!」

 

 というので三冠路線はやめてマイル路線に注力することにした。実際、今のデジタルがオークスやダービーの2,400mに対応できるか難しいところなのでベストな選択、だと思う。

 

「最後になりますエルコンドルパサーですが、四月より欧州への長期遠征を予定しております」

 

 記者団がざわつきだす。質問が飛んでくる前に一気に言ってしまおう。

 

「期間は十月まで。滞在先、その他体制については後ほどトレセン学園広報より改めて発表させていただきます。ローテーションについては欧州重賞レースを四戦を予定。最終目標は───」

 

 記者団が息をひそめるのが分かった。欧州遠征と言った時点で察しているのかもしれない。

 心音が速くなる。渇いた喉から声を絞り出す。

 

「───凱旋門賞」

 

 歓声と光の洪水が、私たちを飲み込んでいく。

 

「に、日本でのシニア級出走は無いということでしょうか!?」

「大阪杯や天皇賞へ出走せず海外に行くのですか!?」

「既にエルコンドルパサーはNHKマイル、日本ダービー、ジャパンカップで同世代やシニア級や世界の強豪相手に実力を証明しました。日本を代表するウマ娘として海外に挑む権利は十二分にあると認識しています」

「海外バ場への適性についてですが───」

「遠征に帯同するウマ娘は───」

 

 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。これもエルが皆に期待されていることへの証左だろう。

 そして口にしたことで背中にずしりと重圧がかかったようだ。

 そうだ。ついに、エルが世界に飛び立つのだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 三月になり、トゥインクルシリーズ春シーズンが開幕した。

 クラシックや天皇賞へのステップレースの結果から未来のスターを夢見る中、春シーズン最初のGⅠが開催した。

 二つのGⅠで、人々は度肝を抜かれることとなる。

 

 中京レース場 GⅠ高松宮記念

 

 ターフに釘付けになっている男がいた。二月に学園に取材に来たあの若い記者だった。

 カメラを向けることも忘れ、駆ける彼女の姿に心を奪われていた。

 高松宮記念は1,200mのスプリントだ。優位なのはスタートダッシュから前目につけること。一分程度で終わる電撃戦において、脚を溜めるなどと悠長なことはしていられない。

 故に、後方に位置取った時点で終わったと思った。

 なのに───

 

『外からキングヘイロー! キングヘイロー上がってきた! 届くのか! 並んだ、並んだ!』

 

 後方から追い上げる緑の彗星。王者不在のスプリントGⅠとはいえ、彼女の末脚は他の誰よりも鋭く、速かった。

 

『今ゴール!! 僅かにキングヘイローか!? ……キングヘイロー!! 一着はキングヘイロー!! 

 キングヘイローがまとめて撫で切った! 恐ろしい末脚! ついにGⅠに手が届きました!! 新時代のスプリント王者はキングヘイロー!!』

 

 最後の直線で外側からのごぼう抜き。その衝撃に胸を打たれた。

 我に返ってカメラを向ける。汗にまみれ、泥にまみれ、けれども高らかに腕を上げて勝利を謡う彼女は、間違いなく黄金の一角であった。

 幾度も敗北を経て、彼女は己が才能を証明したのだ。

 

 

 阪神レース場 GⅠ大阪杯

 

 阪神レース場はどよめいていた。

 冬シーズンから研鑽を積んだウマ娘たちの大舞台とも称される大阪杯。ここからシニア級で活躍するスターが出ることもあり、多くのレースファンが注目していた。

 しかし、

 

『二年ぶりの光景だ! けれどもやはり驚きしかない! 最後の直線、先頭を行くのは───』

 

 実況すら困惑していた。

 先頭を走り、十五人のウマ娘を引き連れるのは桃色の勝負服。

 

『サクラバクシンオー! サクラバクシンオー先頭だ!』

 

 中距離に専念するとは言っていた。二年前には中距離GⅢを勝っているのも知っている。

 けれど、GⅠは別だ。そこにフロックなどなく、心と体、そして思考力が伴わなければ勝ちえない。

 少なくとも、世間が知るスプリント以外のサクラバクシンオーには、それらが揃っているとは思っていなかった。

 しかし、目の前で起こっていることは現実だった。

 

『サクラバクシンオー!! サクラバクシンオーゴールイン!! まさに小水石を穿つ! 一念岩をも通す! ついに獲ったぞ中距離GⅠ!!』

 

 サクラバクシンオー、二バ身差での中距離GⅠ制覇。それは彼女とトレーナーが長い時間をかけて得た栄冠であった。

 そしてスプリント、マイル、クラシックディスタンスの三階級制覇を成し遂げた瞬間でもあった。

 

 

 驚愕、興奮、感動。猛る炎のような感情は燃え尽きることなく、四月へと持ち越される。

 春が来た。

 激闘の春がやって来たのだ。

 

 

 





 新メンバーは一人を除いてモブにする予定なので、あんまり出番は無いです。


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52話 見送りと出迎え

 連日投稿も一旦終了になります。
 誤字の指摘、感想いつもありがとうございました。

 サブトレ君ですが、名前に元ネタはあるものの性格や逸話を再現する気はないのでフレーバー程度に受け取ってください。
 


 四月になった。

 トゥインクルシリーズのファンは来るクラシックへの期待で胸を躍らせているが、トレセン学園も一般の学校と同じく新入生を迎える季節である。

 今年もまた、レースで活躍し栄光を掴むことを夢見る多くのウマ娘たちが入学する。そんな彼女たちの力にならんとする新人トレーナーたちもやって来た。

 ライスたちは学年が一つ上がり、私もトレーナーとして年を一つ重ねたこととなる。

 只重ねたわけではない。チーム・マルカブは昨年の活躍もあって学生からもトレーナーたちからも一目置かれる存在となった。

 期待に応えるように、マルカブは今年から新体制に移行する。

 それはつまり、新年度から五人の新メンバーと、一人のサブトレーナーの受け入れだ。

 

「じゃあみんな揃ったところで、ようこそマルカブへ」

『よろしくお願いします!』

「………」

 

 四人が息ぴったりに礼をした。残る一人は僅かに頭を傾けるだけ。特に気にはしない。

 

「先に紹介するね。今年からマルカブのサブトレーナーになる川畑君だ」

「川畑です! 僕もトレーナー一年目だけど、みんなの力になれるよう頑張るからよろしく!」

 

 ガタイの良さと大きな声は一見暑苦しく感じるが、短くスポーツ刈りの頭髪と新人特有の若さや青さのおかげか、抱く印象は爽やかさが勝っていた。

 

「手が空かないときは川畑君に任せることもあるけど、基本的にみんなのトレーニングメニューは私が組むしトレーニングも見るよ」

 

 何人かの表情に合った不安が消えた。みんな、マルカブの指導を目当てに入ったのにサブトレーナーの指導を回されるのではと思ったのだろう。

 デビュー前だからこそ経験者の指導が必要だ。川畑君は試験でも優秀だったそうだけれど、全て任せるには早い。

 

「私もこれだけ多くのウマ娘を担当するのも、サブトレーナーを持つのも初めてだ。全員、初めてのことだらけだろうけど頑張っていこう!」

 

 はい! とみんなが声を張り上げた。

 

「既に顔を合わせて名前を知っている娘がほとんどだろうけど、改めてメンバー全員で自己紹介をしようか。……じゃあライスから」

「うん、おに……トレーナーさん!」

 

 ライスから学年順に自己紹介をしていく。やはり、新メンバーはシニア級やクラシック級で結果を残したライス、グラス、エルへの羨望の眼差しが強い。

 デジタルとドトウの自己紹介が終わり、新メンバーたちへ手番が移る。

 名前に加えて夢や目標、憧れを添えていく。そして最後のウマ娘の番が来た。

 

「エアシャカール……以上」

 

 ぶっきらぼうな名乗りに苦笑しながら、私の中で彼女との会話が蘇ってきた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「レーステストじゃなくて面接かよ。ま、こっちの方が手間はかからねェけどよ」

 

 時期は三月の終わり。貸し切った空き教室に入ってくるなり、エアシャカールは言った。

 

「レースも考えたんだけどね、こっちの方が私たちのチームには合っていると思ってね」

 

 私は机を挟んで対面に座るよう促す。彼女が腰を下ろしたところで続ける。

 

「まさか君がマルカブに入りたいと言ってくれるなんて思わなかったよ」

「別に。デビューするのに一番都合が良かっただけだ」

「都合?」

「……Parcaeが示した最適なデビュー時期が近づいてる。オレの身体もそれに合わせて調整してるし、目標値の達成も問題無い。なのに、クソ面倒な規則が立ちはだかってやがる」

「担当トレーナーがいないウマ娘はトゥインクルシリーズに出られない……」

 

 苦い顔のままエアシャカールが頷いた。

 アマチュアのフリースタイルレースならウマ娘個人で走ることができる。しかしトゥインクルシリーズではそうはいかない。

 理由は興行として規模が遥かに大きいからだろう。メディアへの露出も多いし、人気が出ればグッズも出て金が動く。

 レースを走るウマ娘は皆総じて学生だ。日々のトレーニングにだけでなく学業だって本分だ。レースとなれば遠征も有り得るし、宿泊先や移動手段の確保もいる。多忙を極める彼女たちのマネジメントを受け持つのも私たちトレーナーの役目だ。

 しかし、時偶にそういった管理を自分一人でこなしてしまうウマ娘もいる。エアシャカールは紛れもなくその一例だ。

 トレーニング方法を自分で手段を確立しており、結果も出している彼女にとって、担当トレーナーなど不要の存在だったのだ。

 

「一夏とはいえ、それなりの付き合いがあった。アンタはオレのやり方を知っている。それに……」

 

 エアシャカールが言い澱んだ。聡明な彼女が、珍しく言葉に迷っている。

 やがて、もういい、と言葉を切り上げた。

 

「今更人格だの、夢だの目標だの聞く必要ねェだろ。とっとと決めろ。オレをチームに入れるのか、入れないのか」

「入れるよ。ようこそエアシャカール、チーム・マルカブへ」

 

 握手を求めて手を伸ばすと、ポカンとしたエアシャカールの顔があった。

 

「即答かよ。少しは考えねェと、またあのちッこいのにどやされんぞ」

「君がさっき言った通りさ。今更君のことを聞く必要はない。君がチームに入りたいというのなら受け入れる。去年の夏から決めていた」

 

 あの時は、まだエアシャカールがトレーナーを必要としていなかった。

 そんな彼女が、デビューするためだけという理由だとしてもマルカブを選んでくれたのだ。断る理由などありはしない。

 

「……やっぱアンタ、変な奴だよ」

「そうかな? じゃあ、やめておくかい?」 

「…………チッ」

 

 手を握られたことが答えだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 春は出会いの季節だ。そういわれる通り、マルカブには五人の新メンバーと一人のサブトレーナーが入った。

 一方で、春は別れの季節とも言われる。それを証明するように、一人のウマ娘が日本を飛び立つ。

 エルがフランスへ行く日がやってきた。

 

「それでは皆さん、行ってきマス!」

「エルさん、頑張ってね!」

「お体にはお気をつけて!」

「に、日本から応援していますねぇ……!」

 

 口々に言葉を送っていく。

 空港にはマルカブのメンバーだけでなく、エルのクラスメイトや友人たちの多くが集まり、彼女の門出を祝っていた。それこそクラシックやシニアという階級の区別なく、彼女の交友関係の広さが窺えた。

 皆が持ち寄った応援の品がエルの手いっぱいにある。デビューから今日までにエルとレースを走り、負かされた子も多いだろう。それでもエルの海外での活躍を期待してくれている。彼女こそが、日本を代表するウマ娘だと認めているのだ。

 トレーナーとしてとてもありがたいことだった。これから知り合いのいない異国の地へと旅発つエルにとって励みになるだろう。

 

「エル……」

 

 同期たちを代表して、グラスが一歩前に出る。

 後ろに控えた他の同期たちの視線が二人に向かう。

 余談だが、スペシャルウィークを始めとするスピカの面々はこの場にいない。サイレンススズカの渡米の日と重なってしまったのだ。彼女たちや、サイレンススズカとの友好の深いウマ娘はそちらに行っているのだろう。

 

「エルはフランスで、私は日本で……」

「……ハイ! お互い頑張りましょう! 帰ってきたら勝った数で勝負デスよ!」

「ええ、望むところです……!」

 

 それだけだった。

 同室で、同期で、友人でありライバルである二人にはそれで十分だったのだろう。

 

「お兄さまも、気を付けてね」

「ん? ああ……といっても私はすぐに戻ってくるけどね」

 

 エルのフランスでの生活は既にフランスに向かった黒沼トレーナーや現地協力者に任せるが、レース直前には私も現地に入る。今回は顔合わせ程度だが、エルを任せる以上は担当トレーナーとしてついて行くことにしたのだ。

 まあ、ドトウの皐月賞が近いのでとんぼ返りにちかいのだが。

 

「それじゃあみんな、行ってきます! エルの海外での活躍を期待していて下さーい!!」

 

 拍手と声援に見送られ、エルと私は搭乗口へと向かっていく。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 特にトラブルもなく、飛行機に乗り込むことが出来た。

 ちょっとランクが高い席に座ることが出来たのは学園の気遣いなのか。まあ折角の機会だから堪能させてもらおう。

 エルは窓際に座って外を見て、友人たちが見えないか探している。

 同行する三人のうち、シリウスシンボリは早々に寝る態勢に入っている。彼女はエルのトレーニングパートナーにもなるのだから、到着した時に向けて体力を温存しているのかもしれない。

 シーキングザパールはグルメ雑誌を見ていた。遠征先でご当地弁当を食べるのが趣味と言っていたし、滞在先周辺のお店でも探しているのかもしれない。

 自然と、手持ち無沙汰となった私の会話相手はエアグルーヴに向かう。

 

「欧州って行ったことないんだよね。エアグルーヴは経験あるかな?」

「私もありませんね。一応、最低限の言葉は扱えますが」

「凄いなぁ……」

 

 彼女の勤勉というか、隙を見せないところは感心する。現役を退き、指導者としての道を選んだという彼女にとって海外はこれから関りが深くなるだろう。

 ふと疑問が湧いた。理事長室では気にならなかったが、どうしてエアグルーヴはあの場にいたのだろう。シリウスシンボリ達と同じかと思っていたが、あの時理事長は帯同としてエアグルーヴの名を上げなかった。

 東条トレーナーが勉強のために遣わしたのかと思ったが、それなら同じリギルのタイキシャトルについて行かせるはず。

 

「不躾かもしれないけど、どうしてエルの遠征に着いてきてくれたんだ?」

「え? ……ああ、そういえば言っていませんでしたね。エルコンドルパサーの海外遠征での現地協力者ですが、向こうにお願いをしたのは私です」

 

 衝撃的な言葉が飛び出してきた。

 

「君が……海外のレース関係者に協力を依頼した?」

「はい……私自身が望んで得た伝手ではありませんが。エルコンドルパサーが海外遠征を望んでいるのは以前から知っていましたし、マルカブに伝手が無いことも知っていました。この伝手は、ここで使うべきだと思ったんです」

「どうして? 君がエルのためのそこまでするんだい?」

「お礼、のようなものです」

 

 お礼? とオウム返しに言うとエアグルーヴは頷いた。

 

「正確に言えば、貴方たちへのお礼です」

「……ゴメン。君にお礼されるようなことをした覚えがない」

「スズカを助けてくれたでしょう」

 

 エアグルーヴが言っているのは天皇賞(秋)のことだとすぐわかった。

 

「ご存じでしょうが、あのレースには私も出ていました。だからあのレースで起きたことは全て、目の前で見ていました。スズカがケガをする瞬間も、奇跡のような復活も……ライスシャワーの勝利も」

 

 背もたれに身を預けるエアグルーヴ。閉じた瞳の奥で、あの時のことを思い返しているようだ。

 

「あのレースで、どうしてあんな奇跡が起きたのかは分かりませんが、今スズカが無事にアメリカに渡れたのはライスシャワーのおかげ。それはあの天皇賞を走った全員が知っていることです。見ていることしかできなかった私と違って、彼女は自分の走りで彼女を助けたのでしょう?。

 だから今度は、私が出来て貴方たちに出来ないことで返す。それだけです」

 

 黒沼トレーナーの言葉を思い出す。

 ライスの走りがミホノブルボンを奮い立たせたように、エアグルーヴの心を動かしたのだ。

 

「ありがとう……!」

「……何故貴方がまたお礼を言うのですか?」

「嬉しいんだ。あの子の頑張りが、多くのヒトに響いたことがね」

 

 振動を感じる。

 機内にアナウンスが響く。出発の時間になったのだ。

 

(ライス、君の走りがまた一人の夢を繋げたんだ……)

 

 体が軽くなるような浮遊感。私の気持ちの高まりとシンクロするように、鉄の翼は日本を飛び立った。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 フランスに降り立つ。

 まだ空港の中なのに、どこか空気というか雰囲気がやはり日本とは違う気がした。

 

「まずは現地協力者と合流する」

 

 相手と渡りをつけたエアグルーヴが先頭に立つ。私とエルが後に続く中、そのまた後ろにいたシーキングザパールが、そういえば、と口を開く。

 

「その現地協力者ってのは誰なの? エアグルーヴの知り合いというからフランスに渡った日本のレース関係者だと思っていたけれど……」

「それは……相手からの要望でな。直接顔を合わせるまでは秘密で、とのことだ」

「なんだそりゃ。下らねぇサプライズだ」

「あらシリウス、私はそういうの好きよ。箱の開けるまで中身の見えないお弁当もワクワクするじゃない。新たな出会い、確かに直前まで誰か知らない方が楽しみだわ!」

「……どうでもいいぜ」

 

 私としては担当を預けるのだから事前に知っておきたかったが、逆に言えばそれほど信用できる相手なのだと思うことにした。

 ターミナルを抜けたところで、エアグルーヴの足が止まった。

 どうした? と聞く前に彼女が眉間を抑えているのに気付く。

 

「トレーナーさん、トレーナーさん!」

「エル?」

「あれ! あれ!」

 

 エルが指差す先を見る。追ってシーキングザパールとシリウスシンボリも見た。

 ……思わず絶句した。

 空港の一角で広げられた特大の横断幕とそれを持ったウマ娘と黒服の一団。代表者と思わしきウマ娘は太陽のような笑みを浮かべているが正直言って異様だった。

 まさか、と思った矢先、リーダー格のウマ娘がこちらに気づいた。瞬間、腕を大きく振り出した。

 

「エアグルーヴ、あれ……」

「知りません。きっと芸能人でも待っているのでしょう」

「もの凄い勢いでこっちに手を振ってマスよ? それにあの垂れ幕、赤い丸がついてますけど日の丸じゃないデス?」

「きっと日本の有名人が来るのでしょう」

「現実を見ろよ。フランス語でようこそ女帝って書いてあるぞ」

「まあ、これは確かにサプライズね! エアグルーヴのフレンズは愉快な方なのね」

「………………ええい、分かった! 行けばいんだろ行けば!!」

 

 ズンズンとエアグルーヴが横断幕をもった一団へ向かっていく。彼女一人に任せるわけにもいかないので私たちもついていく。

 

「失礼。私たちは日本ウマ娘トレーニングセンター学園の者だが、皆さま方は───」

「待っていたよ!!」

 

 エアグルーヴの言葉を吹き飛ばすほどの大音声。呆気に取られる私たちを置き去りに、一団を率いるウマ娘が続ける。

 

「今日という日を私がどれほど待ち焦がれていたか! 我が心を燃やす女帝殿を迎えることが出来るこの感動! ああ幾億の詩を用いても語り尽くせない!」

「いえ、尽くさなくて結構です」

「そうはいかない! あの冬の日、女帝殿から直接電話をしてくれた時、私の心は一瞬にして春へと変わったのだ! この魂の昂ぶりを言葉として万民に伝えずしてどうする、世界の損失と言っていいだろう!」

「あの、すいません声を抑えて……」

 

 ……凄いな。あのエアグルーヴが一方的に圧されている。

 しかしこのウマ娘、どこかで見たことがある気が。

 

「おい、この茶番はいつまで続くんだ。私たちはお前の演劇を見に来たわけじゃないんだぞ」

「……おや、誰かと思えば月に吼える君か。私と女帝殿の間に挟まろうとは流石は天狼星、今宵も餓えてるようだ」

「分かりにくい言い回ししやがって、とりあえずケンカ売ってるでいいんだな?」

「止めてくださいシリウス先輩。貴女も、わざわざ煽るような真似をしないでください!」

 

 意外な二人に接点があったようだ。海外を渡り歩いたシリウスシンボリが知っているということは、相応の実力者ということだろう。

 ……思い出した。一昨年のジャパンカップ、マチカネタンホイザが勝ったレースで二着となったアイルランドの───ふと、当の本人がこちらを見た。

 

「さて……ああ、君がエルコンドルパサーか。昨年のジャパンカップは見ていたよ。素晴らしいレースだった」

「あ、ありがとうございマス!」

「ふふふ、初々しいね。そして君がトレーナーか」

「はい。私がエルコンドルパサーを担当している───」

 

 名乗ろうとしたところで、掌を前に置かれて遮られる。

 

「結構。彼女のトレーナー、それだけで十分さ。君も私の名など聞く必要はない。私はただの、彼女の走りに可能性を見たただのファンさ」

 

 そう言って彼女は離れていく。入れ替わるようにエアグルーヴがやって来た。

 

「念のため伝えておきます。学園に昨年から留学しているファインモーションをご存じですか?」

「ファインモーション? ……ああ、直接の面識はないけど」

「彼女は、そのファインモーションの実姉になります」

「───え?」

 

 脳内からファインモーションの情報を掘り起こす。確か、留学生としてトレセン学園に来ているもののレースへの出走意思は無い変わったウマ娘。しかしその理由は単純。彼女の血筋、家柄にあった。

 そんな彼女の姉ということはつまり、

 

「今さっき言った通りだ。私はただの、エルコンドルパサーのファンだよ」

 

 思考を遮るように、王家の血筋であるはずのウマ娘が言った。

 

「実際、今回の件に実家は全く関わっていない。集まったスタッフも私が自由に動かせる範囲、私個人のチームスタッフに過ぎない」

「現地協力を引き受けたのも、あなた個人の選択だと?」

「ああ。日本のウマ娘には興味があったし、ファインも日本での生活を楽しんでいる。そして何より、女帝殿からのラブコールがあったとなれば断る理由は無い!」

「ラブコールなどしていませんが……」

 

 エアグルーヴの抗議はスルーされた。どこまでも、彼女は自分の世界で生きている。

 

「……ああそうだ。遅くなってしまったね。ようこそ日本のウマ娘たち。ようこそチーム・マルカブ、エルコンドルパサー。

 私の地元というわけではないが、ようこそフランスへ。欧州は、東からの勇敢な挑戦者を歓迎する」

 

 

 

 ◆

 

 

 シャンティイトレーニングセンター学園。そこが、遠征の間エルたちが滞在する場所だ。

 日本のトレセン学園よりもはるかに広大な敷地の一角を借り受け、凱旋門賞に向けてトレーニングすることになる。この世界最大ともいえる広い学園に腰を据えることが出来たのは、現地協力を引き受けてくれた彼女たちのおかげだ。

 海外遠征で最大のネックはトレーニング環境を整えることだと思う。その問題を、エルは最高の形でクリアできたんじゃないだろうか。

 そしてこのシャンティイで、私は久しぶりにあのウマ娘に再会する。

 

「お久しぶりです。ライスさんのトレーナー」

「久しぶりだね、ミホノブルボン」

「秋の天皇賞おめでとうございます」

「そっちこそ、欧州重賞おめでとう。ライスもニュースを見て喜んでいたよ」

「ひとえにライスさんのおかげです。あの天皇賞で私は一層奮起することが出来ました」

 

 久しぶりに見たミホノブルボンは、日本で最後に会った時と変わらない様子だった。

 黒沼トレーナー曰く、渡欧してしばらくは環境の違いに戸惑っていたと言うが、どうやらそれも解消されたようだ。

 ミホノブルボンの視線が、後ろにいたエルコンドルパサーに向かう。

 

「ようこそエルコンドルパサーさん。欧州挑戦の先達として、貴女の挑戦をサポートします」

「こちらこそよろしくデス!」

「挨拶は終わったな。だったら早速やるぞ」

 

 ジャージ姿のシリウスシンボリがトレーニングコースへと降りる。日本よりも長く深い芝の感触を確かめながら体をほぐしていく。

 

「気が早いな?」

 

 黒沼トレーナーの言葉にシリウスシンボリの瞳が鋭く光る。

 

「早いもんかよ。凱旋門賞まであと半年を切っている。今からそのマスク娘を欧州仕様に鍛え上げるんだろう。一分一秒が惜しい」

「マスター、シリウスシンボリさんの意見に賛同します。エルコンドルパサーさんには少しでも早くこちらの環境に慣れるべきです」

 

 ミホノブルボンもコースへ降りる。

 

「パール、エアグルーヴ、それと放蕩ウマ娘! お前らはどうする?」

「……そうね、私が走れる距離までで構わないなら」

「私は───」

「おっと私と、我が心の女帝陛下は不参加だ」

 

 コースに降りるシーキングザパール。対してエアグルーヴは王女様に肩を掴まれていた。

 

「───は?」

「約束だろう? こちらに来たら一日、私に付き合ってくれると。すでにキミと回る場所は決めているんだ」

「え? いえ、ちょっと───」

「さてキミたちは頑張り給え! はっはっはっは!」

 

 ずるずると引きずられていくエアグルーヴ。

 

「……走るか」

「……デスね」

 

 すまないエアグルーヴ。君の犠牲は無駄にはしない……!

 

 エルコンドルパサーの欧州挑戦が始まった。

 

 

 



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53話 マルカブと春GⅠ 1

 お久しぶりです。
 年度末の忙しさと、転勤と引っ越しで全然進んでませんでした。
 どれくらい進んでなかったかというと、この回書き終わったのがトプロのアニメ1話配信の前日だったくらいです。

 ホントはもう少し書き溜めてからとも思ったんですが、リアルの春天にも合わせたいので今日と明日で二話だけ投稿します。





 ついに、皐月賞がやってきた。

 いつまで経っても、クラシックGⅠの日は興奮と緊張を隠し切れない。

 皐月賞、クラシック三冠の最初の一戦にして世代最速を決めるGⅠ。マルカブからはドトウが出走する。

 正直なことを言えば、ドトウから見てほとんどが格上となるレースだ。

 デビュー早々に頭角を現し、クラシック級へ舵を取ったテイエムオペラオー。

 ジュニア級GⅠを制し、最優秀ジュニアウマ娘となったアドマイヤベガ。

 前哨戦である弥生賞を勝ち、重賞連勝中で勢いのあるナリタトップロード。

 今年のクラシックの注目は凡そこの三人に集まっていた。

 残念ながら弥生賞で三着となったドトウは皐月賞の優先権こそ得たものの、どうしても彼女たちの陰に隠れてしまっていた。

 けれども、ドトウだって決して勝ち目がないわけではない。

 彼女に足りないのは自信だ。だからこそどこかで勝ち星が欲しかったところだが、こうなったらGⅠの舞台でつけていくしかない。

 

「で、では行ってきますね……!」

「うん。頑張ってね」

「客席でしっかり応援しますね!」

 

 デジタルを筆頭にチームメンバーが声をかけていく。

 ドトウは一人一人に礼を言うように頭を下げ、控室を出ていった。

 

 

 

「やあ、ドトウ」

 

 地下バ道を進むメイショウドトウへ声がかかった。

 顔を上げると、三人のウマ娘がいた。

 それぞれが自分だけの勝負服に身を包んだ、世代の頂点を目指すウマ娘たちだ。

 

「キミと晴れの舞台で走れること、嬉しく思うよ! ジュニア級では結局GⅠを走ることは無かったからね!」

 

 演技がかった身振り手振りと声高らかに叫ぶのは、リギルの新時代のエースとして鮮烈なデビューを飾ったウマ娘、テイエムオペラオーだ。

 

「ドトウちゃん! 今さっきまでみんな頑張ろうって話していたところなんだ」

 

 金色にも見える栗毛の髪。高等部だが同時期にデビューしたナリタトップロード。先の弥生賞を勝利した、今最も勢いのあるウマ娘。

 

「別に話していないわ。そこの一人歌劇団が好き勝手に歌ってただけよ」

 

 そして、ホープフルステークスを勝利したアドマイヤベガ。最優秀ジュニアとなっただけあり、今日の皐月賞でも一番人気に推されている。

 クラシック世代を彩る未来の三強が並ぶ光景は間違いなく輝かしいものだった。

 彼女たちに並ぶなど恐れ多い。

 それがメイショウドトウが抱く想いだった。

 それでも、

 

「こ、こちらこそ、よろしくお願いしますぅ……!」

 

 歩み寄る。今は陰に過ぎなくとも、いつか堂々と並ぶ日を夢みて。

 メイショウドトウのクラシックが始まった。

 

 

 ◆

 

 

『今年もこの日がやってきました。ウマ娘達にとって一生に一度のクラシック! その一冠目、最速のウマ娘を決める皐月賞!

 昨年はセイウンスカイが見事な逃げ切りで会場を沸かせました。果たして今日栄光を掴むのはどのウマ娘か、そしてただ一人、クラシック三冠への挑戦権を得るのは誰なのか!

 いま、各ウマ娘がゲートに収まりました。

 皐月賞がいま……スタートしました! ………おっとテイエムオペラオー出遅れたか!? スタートダッシュで先頭を掴んだのは───』

 

 ゲートを飛び出して、最後方へと流れていく王冠を見てメイショウドトウは文字通り面食らった。事前に決めた作戦では、テイエムオペラオーをマークする予定だったからだ。

 

(オ、オペラオーさん!? ……いけない、レースに集中しないと!)

 

 先頭集団にメイショウドトウ、中団にナリタトップロード。後方にはアドマイヤベガと、さらに後ろにテイエムオペラオーが位置取ることとなった。

 ハナを取ったウマ娘が徐々にペースを上げていき、釣られてメイショウドトウたちのスピードも上がっていく。

 

(オペラオーちゃんは……!?)

(……まだ動かないのね)

 

 第三コーナーを回ってなお後方で待つテイエムオペラオー。一方で、ナリタトップロードとアドマイヤベガは先頭を捕えようと位置を上げ始めた。

 そして最終コーナーを回る。中団や後方に位置取っていたウマ娘たちも追いつき、団子のように直線に入ったことで観客のボルテージも跳ね上がっていく。

 興奮に彩られた歓声が響き渡る。

 

(もう、少し……!!)

 

 メイショウドトウは二番手まで上がって来ていた。

 後方からナリタトップロードとアドマイヤベガが迫ってくる気配を感じる。

 だがレース序盤からハイペースについてきていたメイショウドトウに追いつくのは至難だ。 

 

(獲れる……! 勝てる……! 私が、私が───)

 

 その時、

 

「───はあ!!」

 

 雄々しい咆哮とともに、煌びやかな王冠が最前線へと飛び込んできた。

 強烈な追い上げを見せるテイエムオペラオーに、客席からは悲鳴にも近い歓声が上がる。それすら力に変えるように、歌劇王が順位を上げていく。

 

(もう少し……なのに───!!)

 

 残り100m、あと一人抜き去れば自分が一着だ。そう思って懸命に走るメイショウドトウの横を、彼女が駆け抜けていく。

 

『テイエム来た! テイエム来た! テイエムオペラオーが抜け出した!! 一着はテイエムオペラオー!!

 皐月の冠を得たのは、リギルのテイエムオペラオーだ!!』

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ああ、と思わず声が漏れた。

 最後の直線、ドトウは一度は先頭に立ったのだ。アドマイヤベガもナリタトップロードも振り切って、皐月の冠を掴みかけた。群雄割拠のこの世代の中でも、ドトウの実力を証明するレースとなった。

 しかし、やはりここでもテイエムオペラオーが立ち塞がった。

 出遅れからの最後の直線一気。あんな芸当を栄えあるクラシックで実行するなど、並の精神ではない。改めて彼女の突出した能力を見せつけられた。

 

「ドトウさん凄かったね!」

「うん、惜しかった……もう少しで勝てたのに」

「だけど二着だよ! 皐月賞で二着!」

 

 ふと、周りにいたウマ娘の声が聞こえた。悲しいかな、それは今年からマルカブに入った娘たちのものだった。

 いや、彼女たちの言葉を否定するのも酷だろう。毎年多くのウマ娘がデビューし、熾烈な競争に身を投じるトゥインクルシリーズ。ライスたちのようなスターウマ娘たちを担当すると勘違いしそうになるが、この世界で勝ち上がるだけでも至難の業であり、重賞、特にGⅠなんて出るだけでも栄誉なことなのだ。

 しかも今日は一生に一度しか挑戦の機会が存在しないクラシック。出走を叶え、掲示板に載っただけでも一生の自慢だろう。

 

(だけど……)

 

 やはり、勝たなければと思う。

 今日までの努力が無駄だったとは言わないが、ただ好走することに満足してはいけない。

 このあたりは個々の意識の差なのだろう。実際にライスやグラスは悔しそうな顔でターフを見ている。ドトウの敗北に、テイエムオペラオーの強さに思うものがあるのだろう。

 祝福の喝采を受ける勝者に背を向け、地下バ道へ向かうウマ娘の中にドトウの姿を見た。

 背を少し丸め、俯くように歩く彼女は敗北に落ち込んでいるように見える。でも、心が折れたような様子はない。

 次こそは。そんな決意を秘めているに違いない。

 そして、

 

「次は……私たちの番ですね」

「うん。ドトウさんの分も頑張らないとね」

 

 想いを託されたように、闘志を燃やすウマ娘がいた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 世間の話題というのは移り変わりは早いもので、皐月賞の翌日には大衆の注目は天皇賞(春)へと変わっていた。

 それはURAも同じで、各所に貼りだしていた広報ポスターも早々に切り替わっていた。

 そのポスターは五人の影が交錯するデザインだった。トゥインクルシリーズ春シーズンを象徴する祭典において、そのまま特に注目されるウマ娘たちを示していることは容易に理解できた。

 

 メディアが煽る。

 

 再び、長距離の覇者が激突すると。

 

 名門としての矜持、復活の戴冠なるか。

 ターフの名優 メジロマックイーン。

 

 刺客から王者へ。年度代表ウマ娘。現役最強の肩書を背負い、四度目の栄冠を目指す。

 青いバラのヒーロー ライスシャワー。

 

 識者が語る。

 二天に挑むは新時代を拓いた黄金世代の三強であると。

 

 皐月賞ウマ娘、計略巡らす逃亡者 セイウンスカイ。

 

 ダービーウマ娘、北国からの超新星 スペシャルウィーク。

 

 菊花賞ウマ娘、不屈のグランプリ覇者 グラスワンダー。

 

 ファンは声を上げる。

 勝負の舞台に上がるのは彼女たちだけではない。

 無冠の大器が悲願の戴冠を狙う。昨年の屈辱を晴らしに羊蹄山より光がやって来る。古豪としての誇り、意地、執念を以て巨星打倒に向かう。

 様々な想いはうねり、交わり、渦を巻き、興奮と期待の炎をあげる。

 

 その日、京都レース場はまさしく戦場となるだろう。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 早朝、トレーニングコースを駆けるウマ娘たちがいた。長い髪を靡かせ前を行くトウカイテイオー。彼女を懸命に追うスペシャルウィーク。チーム・スピカによる併走だった。

 コーナーを曲がり、スペシャルウィークが仕掛ける。トウカイテイオーも譲らない。

 暴風とともに、二人が並んでゴール地点を駆け抜けた。

 

「はあっ……はあっ……!」

 

 少しずつスピードを落としていく。傍からは同着にも見えたが競った当人たちには結果は分かった。

 

「ふぃ〜〜、ちょーっと危なかったけどまたボクの勝ち!」

「はあっ、はあっ……も、もう少しだったのに……!」

「はっはっは! まだまだ、先輩として負けるわけにはいかないのだ!」

 

 皐月賞が終わってから、天皇賞(春)に向けて二人は連日併走していた。

 チームメイトであるメジロマックイーンも出走する以上、練習相手は限られる。とはいえ同じダービーウマ娘であり、天皇賞(春)を経験したトウカイテイオーをパートナーにトレーニングできることはスペシャルウィークにとっても幸運だった。

 

「でも、マックイーンはもっと強いよ。ライスも天皇賞(秋)でスズカを差し切ったのは偶然なんかじゃない」

「分かって……ます。セイちゃんも、グラスちゃんも。出てくるのは強いウマ娘ばっかりです」

「そうだねー。日本ダービーが世代の代表を決めるレースなら、天皇賞(春)は現役の頂点を決めるレースなのかも。そう言えるくらい毎年強敵が集まってくる」

 

 前哨戦に当たる阪神大賞典は見事制したスペシャルウィーク。日本ダービー以来の重賞勝利は彼女が世代の代表であることを世間に思い出させた。

 けれども抜きん出た強さとは言われないのが、今のトゥインクルシリーズの層の厚さを物語っていた。

 しかしそんなレースを勝ってこそ、スペシャルウィークが目指す日本一のウマ娘の座が近づく。

 

「テイオーさん、もう一本お願いします!」

「お、いいよいいよ。この頼れる先輩が胸を貸してやろうじゃないか!」

 

 休憩もそこそこに、再び二人は走り出す。

 かつて勝てなかったレースへの夢を託すように。掲げた夢へ向かって飛び立つように。二人の併走は、挑戦者が勝つまで続けられた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「本日は私たちのために集まっていただきありがとうございます」

 

 煌びやかな会場に、気高い声が響く。

 紫がかった葦毛のウマ娘がマイクを握り、彼女の言葉を聞き洩らさぬよう多くの者が耳を傾けていた。

 

「こうしてトゥインクルシリーズに復帰し、再び栄えある春の天皇賞へと出ることが叶ったのも皆様の応援と協力があってものだと、あらためて感謝申し上げます」

 

 マイクを握るのはメジロマックイーン。言葉を紡ぐ彼女へ視線を向けるのは、メジロを冠するウマ娘たちの後援会やファンたちだ。

 ここは、春の天皇賞に出走するメジロ家のウマ娘たちを応援するためのイベント会場だった。

 昨年の秋から復帰したメジロマックイーンにとって久しぶりの天皇賞(春)への出走は、ファンや後援会を大いに沸かせた。

 

「今年の天皇賞も多くの強敵が集まりました。昨年のクラシックで活躍された黄金世代、戴冠を目指す歴戦の猛者たち、そして───」

 

 一瞬の静寂。

 

「ライスシャワー」

 

 前人未到の天皇賞三連覇を阻んだ、漆黒のステイヤー。メジロマックイーンを応援する者たちにとって、その名を知らぬ者はいない。

 勝負の世界故に憎みこそしないが、メジロ家の勝利にとって最大の障壁であることは皆共通の認識であった。

 

「彼女と再び春の京都で走れること、これほど嬉しいことはありません。彼女に勝って再びメジロ家に栄光を。春の楯を持ち帰ることをお約束します!」

 

 決意表明に拍手が巻き起こる。

 メジロマックイーン以来届かずにいた天皇賞の楯。それをまたメジロマックイーンで取るのだ。

 かつての栄光の続きを夢見て、喝采は鳴り響いた。

 

 

 

「マックイーンさま」

 

 イベントが終わり、会場に静けさが戻ってきたところでメジロマックイーンに声をかける者がいた。

 

「あら、ブライト……?」

 

 ボリュームのある鹿毛の少女、メジロブライト。彼女もまたメジロを冠するウマ娘だ。

 そして来る春の天皇賞へ出走する一人であり、メジロマックイーンと同じく昨年の天皇賞でライスシャワーに敗れた一人である。

 今日のイベントでも、メジロマックイーンとともに天皇賞(春)への意気込みをファンに語っていた。

 

「どうされましたの?」

「同じメジロですが、あまりお話しする機会もありませんでしたので……」

 

 確かに、レースに出た世代も違えば所属するチームも違う。

 メジロの屋敷に集まれば顔を合わせることもあれば、どちらもメジロライアンと話すことが多い。

 

「まずは復帰、遅くなりましたがおめでとうございます。かのターフの名優と同じレースを走れること、光栄に思いますわ」

「ありがとうございます。私もメジロの時代を担う双翼、その一翼と共に走ることを楽しみにしておりますわ」

 

 二人が握手を交わす。

 

「ですが───」

 

 掴む手が強くなる。

 

「メジロの悲願、春の楯を獲るのは私ですわ」

「あら───」

 

 二人はメジロを冠するウマ娘として同じ目標を掲げたまさに同志。けれどもレースで競うことになるのなら、決して勝利を譲りはしないという明確な宣戦布告だった。

 

「お婆様やメジロ家も方々、ファンの皆様はきっとマックイーン様の勝利を祈っておられるのでしょう。それは正しいかと思いますわ。未だGⅠの誉れも持たない私と、二度も春の楯を持ち帰ったマックイーン様。どちらの勝利の可能性が高いのかは明白ですわ」

「随分と、今日は多く話しますのね?」

 

 メジロブライトの言葉を否定はしない。実績が物語る事実を否定することは慰めにならないし、なにより彼女自身への侮辱になると思ったからだ。

 

「ええ。今日まで、ずっとずっと考えていましたから。昨年の天皇賞で敗北してからずっと………」

 

 交わした手が離れる。けれど、二人の距離は変わらない。

 どちらも、譲りはしない。

 

「黄金世代も、薔薇の王者も、素晴らしい方々ですわ。ですがだからと言って彼女たちだけに気を取られませんように。

 勝つのは、このメジロブライト。メジロの時代を担う光ですわ」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 そのウマ娘は、海にいた。

 やや緑がかったようにも見える葦毛のウマ娘、セイウンスカイだ。

 トレセン学園の赤いジャージのまま、釣り糸を海面へと垂らしていた。一方で視線は手元のスマホに集中している。

 スマホではURAが公開しているレース映像が流れていた。

 中京レース場。春の短距離王者を決めるそのレースは終盤へと差し掛かり、緑の勝負服が後方から追い上げを見せていた。

 

「……ホント、大したもんだね」

 

 念願のGⅠ制覇を成し遂げた本人には決して言わないだろう賛辞をこぼす。

 ともにクラシック戦線を走り切った彼女はシニア級に入って突如スプリント路線へと舵を取った。

 その方針転換に世間の反応は案の定良くは無かった。

 当然だろう。これまで中長距離のクラシック路線を走っていたウマ娘が翌年から短距離なんて。

 それでも、

 

『王道じゃない? そうね、世間からしたらそうかもしれないわ。でもそんなの関係ない』

 

 レースの少し前、本人に問うた時の返答が蘇る。

 

『私は王道を走るためにいるんじゃないわ。私の、キングヘイローの道を走るためにここにいるのよ。

 黄金世代の落ちこぼれ? 王道から逃げた臆病者? 好きに笑えばいいわ。勝者として笑うのはこの私なのだから』

 

 なんと高慢で、気高い言葉か。

 己が誓いを果たすように、彼女は見事栄冠を掴んだのだ。

 スマホの向こうで勝鬨を上げるキングヘイローの姿を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

「あーあ……」

 

 釣竿を片付ける。陽は沈み始めているが、今から帰っても寮の門限には余裕があった。

 

「あーあ!!」

 

 内からこみ上げ続ける熱に思わず叫ぶ。近くにいた鳥が驚いたように飛び立っていく。

 

「おかしいな。私ってこんな熱血系のキャラじゃないんだけどな……」

 

 スマホを操作し、電話を掛ける。数回のコールのうち、眠気を感じる声が聞こえてきた。

 

「……寝てましたね?」

『ああ。どっかの不良ウマ娘がトレーニングサボりやがったからな。やることなくて暇だったんだ』

「えー、そんなひどいウマ娘もいたもんですねー?

 ……そんなお暇なトレーナーさんに朗報です。もう少ししたら、ちょーっとやる気のあるウマ娘が行くんで、トレーニングお願いしまーす」

『……そうか。待ってるから寄り道すんなよスカイ』

 

 事情は聴かず、トレーナーは通話を切った。

 

「さて、と。たまには本気で頑張ってみますか!」

 

 疼く熱に突き動かされるように、葦毛の少女が走り出す。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 夜。ナイター設備に照らされたグラウンドを、グラスワンダーは走っていた。

 他にマルカブの面々の姿はない。レースが近いことを理由に、一人門限ギリギリまでトレーニングを続けていた。

 

「グラス……!」

 

 担当トレーナーの監督の下、という条件付きで。

 少女の名を呼んだ男の手にはストップウォッチ。見せられた画面にはほんの僅かに縮んだタイムが刻まれていた。

 確かな手応えに小さく拳を握った。

 

「トレーナーさん、もう一度お願いします! 今の感覚を確かなものに───」

「いや、今日はこれで終わろう。もう門限も近いし、クールダウンに入ろう」

「でも!」

「慌ててはいけないよ。グラスは確かに強くなっている。ここで無理をするべきじゃない」

 

 グラスワンダーの脳裏に蘇るのは皐月賞のことだ。先日のものではなく、一年前の。

 当日になって身体に支障をきたし出走取消。それだけは、あの悔しさだけはもう味わいたくない。

 

「……はい」

 

 大人しく聞きいれる。滾った体を鎮めるようにダウンに入る。

 火照った体が夜風を浴びて少しずつ冷めていくにつれて頭も冷静になっていく。

 

「トレーナーさん……」

 

 その成果、余計な思考が浮かんできた。

 

「なんだい?」

「ライス先輩も、どこかでトレーニングしているんでしょうか?」

「ライスかい? 外を走りに行くとは言っていたけど、少し前に寮に帰って来たと連絡があったよ」

「そう、ですか……」

 

 胸に去来する感情は何か。理解するのに少し時間を要した。

 自分の方が少しでも長くトレーニングできたことへの優越感? 違う。トレーナーが自分のトレーニングを見ながらもライスシャワーと連絡を取っていたことへの嫉妬? 違う。

 

「トレーナーさんは、ライス先輩の方を見なくてよかったんですか?」

「ん? そうだね……見てあげたいとは思うけど、私の身体は一つだから」

 

 同じレースを走る以上、あまり一緒になってトレーニングというのは避けたい。チームメイトとはいえ真剣勝負だ。ペース配分や仕掛け処など手の内を晒す真似はしない。冷たく思うかもしれないが、これこそ二人が本気の勝負をしようとしていることの証明であった。

 

「今はライスよりも、グラスを見ておきたいかな」

「……ありがとうございます。貴重な時間を割いていただいて」

 

 感謝の気持ちは本当だった。トレーナーの言葉に嘘が無いのも分かる。

 だからこそ、理解してしまった。

 

(私は───)

 

 思い返す。同時にチームに入ったエルコンドルパサーはシニア級や海外勢相手にも勝ち、ついに欧州へ挑みだした。

 ライスシャワーはあのサイレンススズカを倒し、現役最強の座を勝ち取った。今度は王者として自分たちを迎え撃つ。

 だから、きっと、

 

(私が一番弱いから、トレーナーさんは私を見てくれている………!)

 

 トレーナー自身はそう考えてはいないだろう。だが戦績で自分が一歩劣っているのも事実だった。

 

「トレーナーさん」

「なにかな?」

「私、勝ちたいです。ライス先輩に。いえ、先輩だけでなく他のウマ娘にも。春の天皇賞で……!」

 

 ───勝って、貴方の一番になってみせる。

 真っ直ぐに己が意思を告げた。

 誓うように。夢を語るように。

 

「……強いよ。ライスも、メジロマックイーンも」

「望むところです……!」

 

 肌寒い春の夜。青い炎が、静かに産声を上げた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 まだ陽も昇りきらない早朝。ライスシャワーは一人学園敷地外の高台にいた。日課となっていたランニングコースだ。

 息をする度冷えた空気が肺に突き刺さる。一方で走ってきた身体は蒸気を上げていた。

 振り返れば街を一望できるこの場所で、朝日に輝く市街を見るのがライスシャワーの楽しみだった。

 今日も変わらず美しい街並みに感動しつつ、物寂しさが込み上げてきた。

 

(次のレースが、ライスのラストラン……!)

 

 天皇賞(春)を最後にライスシャワーはトゥインクルシリーズからドリームトロフィーリーグへと移籍する。

 瀕死の重傷から復帰してGⅠを三勝、通算で六勝。しかも次勝てばGⅠ七勝、かの皇帝と並ぶ成績だ。文句無しに栄転だろう。

 その最後の舞台が京都レース場というのも、何か運命のようなものを感じずにはいられない。

 

「マックイーンさん、グラスさん。ライス、負けないよ……!」

 

 淀に咲き、淀に倒れ、淀に愛されたウマ娘が、最後を飾るのもまた淀である。

 

 其々が譲れぬ想いを胸に、天皇賞(春)が始まる。

 

 





 次回、春天。
 

 


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54話 ライスたちと天皇賞(春)

 筆者はディープボンド君を応援してます。




『晴れ渡る京都レース場には多くの観客が詰めかけています。彼らの目的はもちろん、本日のメインレース天皇賞(春)!

 現役ウマ娘の頂点が決まると言っても過言ではない一戦。果たして春の楯を得るのはどのウマ娘か!?』

『出走するウマ娘も昨年を超える実力者揃いとなっております。

 やはり最注目はメジロマックイーンとライスシャワーのステイヤー対決でしょうか!』

『しかも、ライスシャワーは今日がトゥインクルシリーズのラストラン! その勇姿を一目見ようと足を運んだファンも多いのではないでしょうか』

『しかし優勝候補は二人だけではありません。クラシックで激闘を繰り広げた黄金世代の三強GSS! 揃って上の世代との激突も見所ですね!』

『スペシャルウィークはメジロマックイーンと、グラスワンダーはライスシャワーと同じチームですし、同門対決にも注目ですね』

 

 

 

 

「お兄さま、みんな、どうかな……?」

 

 わああ……! と控室に感嘆の声が満ちた。

 ライスの控室で、彼女の勝負服を見ての反応だった。

 

「ああ、似合ってるよライス」

 

 今日ライスが着ているのはいつもの黒い勝負服ではない。去年に年度代表ウマ娘に選ばれたことで贈呈された新しい勝負服だ。

 ウエディングドレスをモチーフとすることは変わらないが、薄い青色のドレスだった。髪は三つ編みにし、いつもの帽子も今日はヴェールのようなヘッドドレスに変えている。

 いつもの勝負服が静かな夜だとするのなら、今日の衣装は穏やかな早朝のようだ。

 

「せっかくもらった勝負服なのに、着て走るのが最初で最後になっちゃってもったいないかな?」

「ドリームトロフィーリーグでいっぱい着ればいいよ」

 

 改めて言葉にするとこみ上げてくるものがある。

 今日が、ライスのトゥインクルシリーズで走る最後のレースなのだ。

 勝負の世界は厳しいものだが、叶うのなら───

 

「ライス先輩」

 

 私の思考を斬り払う、張り詰めた声。音の方を見れば、同じく勝負服に着替えたグラスがライスを真っ直ぐに見ていた。

 ライスの新勝負服お披露目で弛緩していた空気に緊張が走る。

 

「先輩と同じレースを、最後のレースを共に走ることができて光栄です」

「グラスさん……」

「ですが、胸を借りるなんて言いません。私は……貴女に勝ちたい!」

 

 視線が交錯し、火花が爆ぜた。

 普段は先輩後輩として仲の良い二人。だが今日この時ばかりは、二人の間にあるのは和やかな友愛ではなく、激しく燃える闘志であった。

 

「……うん、いいよ。ライスも本気で走るから、グラスさんの本気を見せてね」

「二人とも互いを意識するのはいいけれど、今日のレースはいつも以上に強敵ぞろいだ」

 

 気づけば口を挟んでいた。

 

「他のウマ娘も二人をマークしてくる。互いを気にしすぎて視野を狭めないようにね」

「うん!」

「はい!」

 

 お辞儀をして、グラスは先に控室を出ていく。

 少し間を空けてライスも地下バ道へ向かう。

 

 ……どちらに勝って欲しいのか。私は胸の奥で宿った想いを握りつぶす。

 ライスのラストランであり、象徴である天皇賞(春)を勝ち有終の美を飾って欲しいと思う。一方でグラスのシニア級になっての初GⅠ、勝って昨年の春の悔しさを払拭して欲しいという想いもあった。

 チームトレーナーとしてどちらかを贔屓してはいけない。

 

「頑張れ。二人とも……」

 

 どちらの勝利も祈る。無事に帰ってくることを祈る。つり合った天秤を崩さぬように、慎重に。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ライスシャワーとグラスワンダー。地下バ道を歩く二人へ、他のウマ娘たちが視線を向ける。

 片や前年覇者、片や菊花賞ウマ娘だ。トレーナーが言っていたように意識されるのは当然であった。

 

「ライスさん」

 

 声をかけられ、ライスシャワーの脚が止まる。グラスワンダーは少し迷ったが、少し後ろで脚を止めた。

 

「マックイーンさん……今日は、そっちの勝負服なんだね」

「ええ。いつか貴女とまたこのレースを走ることがあれば、その時着るのはこの勝負服と決めていましたから……」

 

 メジロマックイーンの勝負服は、いつもの黒い勝負服ではなく、全身が白の勝負服だった。

 スカートからパンツスタイルに変わり、髪飾りとして小さなシルクハットをつけていた。彼女が年度代表ウマ娘に選ばれた時に贈られた勝負服だ。

 そして、三連覇のかかった天皇賞(春)で、ライスシャワーに敗れた時の衣装でもあった。

 

「決意表明、ってことなのかな?」

「そう取っていただいて構いませんわ。……あの時とは立場が逆になりましたわね。貴女が王者で私は挑戦者。けれど家名に捧げた誓いは変わりません」

 

 バチリ、とここでも新たに火花が舞う。

 

「メジロに春の楯を。今年こそ、勝たせていただきます!」

「負けないよ、マックイーンさん!」

 

「おーおー、バチバチしてるねぇ。さっすが歴戦のスターウマ娘、私らなんか眼中にない感じかな~?」

「セイちゃん……」

 

 名ステイヤーの宣戦布告を傍で聞いていたグラスワンダーへ、セイウンスカイが声をかけた。

 

「まあセイちゃん的には~? 余所でバチバチしてもらってる方がやりやすいんですだけどね」

「……何が言いたいんですか?」

「いやー偶にはスポ根系を演じてもいいのかなって?

 ───先輩の方ばっかり見てると、足元掬われても知らないよ、グランプリウマ娘さん?」

「それは───」

 

 グラスワンダーが言い返す前に、セイウンスカイはターフへと向かっていく。

 葦毛の逃亡者の後ろ姿を見て、グラスワンダーは気づいた。

 線の細いはずのセイウンスカイだが、その脚は最後に記憶していたものよりも太くなっていた。

 

「グラスちゃん……!」

 

 スペシャルウィークが入れ替わるように声をかけた。

 その顔は真剣そのもので、いつもの親しい友人としての対面ではなかった。

 

「今日は負けないから!」

 

 言葉はそれだけ。ライバルとしての言葉だった。

 セイウンスカイの変化とスペシャルウィークの言葉で自覚する。

 今日のレースに強い想いを抱くのは自分だけではない。そして、自身は既に追うだけでなく、追われる立場でもあるのだ。

 

「ならば……それに相応しい走りをしないと行けませんね」

 

 レースが始まる。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『今日は青空が広がりつつも、昨日の雨でやや重バ場でしょうか。最長距離のGⅠ、トゥインクルシリーズ春の大一番、天皇賞(春)。激闘の春を飾る大舞台、最強の証である春の楯を賭けた熱き戦いが今年もこの京都レース場で始まります。

 今年は過去最高のメンバーと言っても過言ではないでしょう! 十年、二十年に一度と言える逸材たちが集いました!

 

 王者ライスシャワーは本日がトゥインクルシリーズラストラン! この淀で見事有終の美を飾れるか!?

 青いバラへのリベンジなるか!? 名優メジロマックイーンの復活勝利を望む声も多いでしょう!

 二強対決なんてさせるものか! クラシックを沸かせた黄金世代が新時代を拓くのか!?

 歴戦の猛者たちが悲願の戴冠を為し、ウィナーズサークルで勝鬨を上げるのか!!

 

 出走者十二名、それぞれの譲れぬ想いと覚悟を抱いて今! 

 天皇賞(春)、スタートです!!

 

 出遅れはありません、各ウマ娘横一線の綺麗なスタート! 真っ先に飛び出したのは───皐月賞ウマ娘のセイウンスカイだ!

 メジロマックイーンが後を追って二番手! ライスシャワーは二バ身ほど開けて三番手に着きました。ダービーウマ娘のスペシャルウィークが中団に控えました。グラスワンダーはやや後方を位置取ります。最後方にはメジロブライトがついて縦長の展開となりました!』

 

 先頭を突き進み、一番にコーナーを曲がっていくセイウンスカイ。そのペースは3,200mのレースにしては速く、後ろを追うウマ娘たちの脳裏に同じ疑問が過る。

 

 ───最後までもつのか?

 

 そして各々の自答が浮かんでくる。

 菊花賞を思い返し、もつと断ずる者。もつが、菊花賞と同じ展開だ。最後に差し切るチャンスはあると様子見を続ける者。

 一ハロンの延長は大きい。今度はもたないと予測し脚を溜める者。もしも、という不安にペースを僅かに乱す者。

 そして、それぞれが有名な逃げウマ娘たちを思い出す。

 ツインターボ、ミホノブルボン、サイレンススズカ。果たしてセイウンスカイは如何なるものか。

 思考を巡らせながら、十二のウマ娘がターフを駆け抜けていく。

 約三分間の死闘が幕を開けたのだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

(っひゃああ~~~~やっぱり逃げてると皆のマークがキッツいなあ!)

 

 二周目に入るころ、セイウンスカイは思わずボヤいた。

 一週目は各自の位置取りをキープした形で走り抜いた。その間、葦毛の逃亡者に襲い掛かるのは追走者たちからのプレッシャーだった。

 特に厳しいのはやはりライスシャワーとメジロマックイーンという二大ステイヤーだ。さらに奥にはスペシャルウィークにグラスワンダーも控えている。

 

(プレッシャーは凄いけど……ここまでは冷静に走れてる! ローレル先輩との練習は活きてる!)

 

 けれど、影響がゼロでは無かった。後からの圧で、これまでのように自分でペースを作れているわけではない。

 皐月賞で逃げ切ったセイウンスカイを知るウマ娘やそのチームメイトは、長距離でも逃げる彼女を警戒していた。

 

(自由には逃げさせてくれない……なら、今回は真っ向勝負だ!)

 

 まもなく二度目の登り坂がくる。

 

 

 ◆

 

 

 グラスワンダーは考える。仕掛け時はいつか、と。

 菊花賞では二週目の登り坂で勝負を仕掛けて勝った。他のウマ娘たちがその末脚を無警戒でいるとは思えない。安易に同じ手を使うのは躊躇われた。

 何より、ライスシャワーがいる。皐月賞以降はともに併せをすることは避けていたが、彼女の中にそれまでのグラスワンダーの末脚の時計は刻まれているはず。ライスシャワーに勝つためにはその予測を超える必要がある。

 偶然にも、スペシャルウィークも同様のことを考えていた。

 展開は菊花賞の時と似ている。だが同じ手が通用するとは思えない。そして、自身の前を行くメジロマックイーンを超えないといけない。

 

 仲が良く、尊敬するチームの先輩。その実力は確かで、その助言には幾度となく助けられた。

 

 だからこそ勝ちたい。貴女との日々で、こんなにも強いウマ娘が育ったのだと示すために。

 

 

 

 ライスシャワーは考える。一人逃げ続けるセイウンスカイをいつ捕らえるべきかと。

 タイミングを誤ってはいけない。仕掛け時を見誤れば後方に控える黄金たちに差し切られる。

 それだけではない。黄金世代や最強ステイヤーという目立つ看板に隠れているが、他の出走ウマ娘たちも歴戦の猛者揃い。一瞬の油断で春の冠は横から掻っ攫われる。

 既に先頭を行くセイウンスカイが一足早く坂を駆け上がっている。

 坂を上ればコーナーを回って下り坂だ。それまでに、射程圏内に捉えておかねば逃亡劇は完遂される。

 

(ブルボンさんの時は……)

 

 ライスシャワーは昨年の天皇賞(春)を思い返していた。

 あの時は最終コーナーからの下り坂を活かした加速で差し切った。果たして今回はどうか。

 セイウンスカイというウマ娘は、あのミホノブルボンに比べてどうか。

 スピードは、パワーは、スタミナは。かのサイボーグよりも上か、下か。それとも同格か。

 

「───ライスさん」

 

 思考を遮る声。少し前にいたメジロマックイーンが、僅かに視線をライスシャワーへ向けていた。

 

「勝負ですわ!」

 

 そう言って、ターフの名優は仕掛けた。

 それは刹那にも近い、僅かに見えた隙をついた仕掛けだった。

 逃げるセイウンスカイと追うウマ娘たち。勝つために思考を巡らせたが故にレースへの意識が微かに薄れたタイミングを刺したのだ。

 メジロマックイーンの加速に度肝を抜かれたウマ娘たちが後を追って位置を上げだす。

 追い立てられるように、ライスシャワーも、グラスワンダーも、スペシャルウィークも速度を上げざるをえなかった。

 レースの展開を、メジロマックイーンが支配した瞬間であった。

 

 

『客席の歓声に引っ張られるようにウマ娘たちが坂を上って来ました! 

 先頭は未だセイウンスカイ! けれどもすぐに後ろにはメジロマックイーンが来ているぞ! ライスシャワーは届くのか!? 黄金世代の二人は差し切れるのか!?』

 

 セイウンスカイが最終コーナーへ突っ込んでいく。が、仕掛けたメジロマックイーンがその差を縮めていく。

 

(やっぱり、マックイーンさんが一足早く仕掛けた分速い!!)

 

 決死に追うライスシャワーが臍を嚙む。一瞬の判断の差が、致命的な差となっていた。

 

(やっぱりマックイーンさんは強い! ……でも!)

 

 ライスシャワーには一つ、手が残されていた。

 即ち、“領域(ゾーン)”。

 サイレンススズカを差し切ったあの走りを再現できれば二人を抜き去ることが出来るかもしれない。

 が、未だ天皇賞(秋)以降再現出来てはいない。

 一か八かの勝負。あまりに無謀な賭けだった。

 

(それでも……負けたくない!)

 

 このラストラン、全てを出し切らずに終わるなど許せなかった。

 ライスシャワーが意識を深く集中する。

 負けないという意志、残った力の全てを注いだ末脚。勝利を届けたい相手(カレ)の顔を思い浮かべる。

 

 瞬間、時が緩慢になったようだ。全てがスローの世界で、ライスシャワーだけが普段通りに動けていた。

 

(これが───!)

 

 ついに知覚した“領域(ゾーン)”の世界。ライスシャワーは確かに、その走りを掴んだ。

 

 しかし、

 

 その後ろから、三条の流星が昇って来た。

 

『メジロマックイーンがセイウンスカイを捕えた!! ライスシャワーも来ている! ステイヤーの二強が黄金世代の逃亡者に追いついた!!

 そして、そしてきたあ!! スペシャルウィークとグラスワンダーがきたあああ!!! 

 さらに後ろからメジロブライト!!

 黄金世代の三強が並んだ!! 二大ステイヤーも負けられない!! 次代のメジロも決して後れを取らない!!』

 

 最後の直線で、六人が並ぶ激戦となった。

 既に全員がトップスピード。もはや精神力、気持ちのぶつかり合いであった。

 

「私が───!」

 

 名門の誇りに賭けて。

 

「私が───!」

 

 掲げた夢に誓って。

 

「私が───!」

 

 胸に秘めた想いを震わせて。

 

「勝つんだああああああああ!!!」

 

 六人の決死の咆哮が轟く。

 そして、抜けだしたのは──────

 

 

 

 ◆

 

 

 

「私は───」

 

 そのウマ娘が零した声にあったのは、憤りだった。

 世間の声、周りの声。誰も彼もが、彼女をとあるウマ娘たちと比較していた。

 仕方のないことだ。けれど決して納得できなかった。

 だから、見せつけると決めたのだ。

 

 自分がなんなのかを。

 

「私は───!!」

 

 吼える。

 

「ミホノブルボンの真似っこじゃない!! サイレンススズカの代わりじゃない!!」

 

 駆ける。

 

「セイウンスカイだ!! 勝手に格付けして、下に置くなこんにゃろおおおおおおおお!!!!」

 

 慟哭ともいえるその咆哮は、彼女の新たな次元への扉を開いた。

 

 

晴天の霹靂(タケミカヅチ)

 

 

 

 

『セイウンスカイだ! 

 セイウンスカイだ!! 

 セイウンスカイが逃げ切った!!

 

 まさに今日の京都レース場の上空とおんなじだ! 京都レース場今日は青空だ!

 京都3,200m、並み居る強豪を振り切って勝ったのは黄金世代のセイウンスカイ!!

 ───ああ!! 刻まれたタイムは3分13秒7!! レコード決着です! いえ、世界レコードです! 春の王者が、世界レコードを打ち立てました!!』

 

 

 

 ◆

 

 

 

 勝者が決まった瞬間、私がまずしたことは勝者を称える拍手だった。

 担当するウマ娘が負けたのだ。悔しさを露わにしたり、敗因を考えるべきなのだろう。

 それでも、私はまず勝ったウマ娘を称えたかった。

 ライスが勝った時は、それが無かったから。

 

 今日はライスのラストランだ。きっと多くの観客がライスの勝利を願っていただろう。

 けれど、どんなウマ娘もレースに勝つために努力し、その過程にトレーナーやファンの想いがあるのだ。

 セイウンスカイの勝利を望む声を、数で押し込めるようなことになって欲しくなかった。

 私の考えた伝わったとは思わないが、やがて大きな拍手が鳴り響く。

 セイウンスカイの名を皆が呼ぶ。青い空にコールが響き渡っていく。

 

「……ああ、それでもやっぱり、悔しいな」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 勝者に、刻まれた記録に興奮した観客たちを余所に、敗北を喫したウマ娘たちは冷静だった。

 コーナーから最後の直線にかけて競り合った六人はほぼ塊となってゴール板へ駆け込んだ。

 クビ差アタマ差ハナ差ハナ差クビ差。

 二着以降の着差はそんなものだった。

 ライスシャワーは息も絶え絶えに掲示板を見上げる。映し出された自分の番号、その上には別の番号が三つ灯っていた。

 

「四着、かあ……」

 

 二着グラスワンダー。三着スペシャルウィーク。そして五着はメジロマックイーン。

 二大ステイヤー対決と言われていたが、接戦の末に上位を黄金世代に制圧されていた。

 全力だった。油断も、ミスもなかった。全員が、己が持ち得る力の全てをつきこんだ結果だった。

 

「まったく、後進の成長は喜ぶべきですが……やはり、複雑な想いですわ」

「うん……そうだね」

 

 メジロマックイーンの言葉に同意する。

 ここで相手を称えつつも悔しさを吐露できるのは凄いな、とライスシャワーは思った。

 

「……そして、少し寂しくもありますわ。もう春の京都でライスさんを見ることは無いなんて」

「マックイーンさんはどうするの? まだトゥインクルシリーズを走る?」

「ええ。私が目指すのはメジロの栄光。ならばやはり狙うは天皇賞の楯。また、来年の春を目指しますわ」

 

 ウマ娘は走る意志がある限りトゥインクルシリーズに在籍できる。

 きっと彼女は言った通りに来年も、そのまた来年も走るのだろう。自分の中にメジロの誇りがある限り、この春を。

 

「そっか。……でも、またどこかで一緒に走れたらいいな」

「走れますわ。だって私たちはウマ娘ですもの。きっと、いつか……どこかで」

 

 そう言ってメジロマックイーンは去って行く。敗北を喫してなお、その気高さは陰ることは無かった。

 ライスシャワーは振り返る。

 栄光を手にし、声援を一手に受けるセイウンスカイ。勝者の背中を悔しそうに見る黄金世代の二人。

 それはいつかの自分や同期たちを見ているようで、彼女たち次代のトゥインクルシリーズを背負うのだということを理解した。

 それでも、

 

「やっぱり、勝ちたかったなぁ……」

 

 頬を伝う涙が、淀の芝へと落ちていく。

 

 こうして、ライスシャワーのトゥインクルシリーズ最後のレースは幕を閉じた。

 

 

 ライスシャワー トゥインクルシリーズ戦績

 

 33戦11勝

 

 主な戦績

 ××年 菊花賞

 ○○年、△△年、□□年 天皇賞(春) 計三回

 △△年 有記念

 □□年 天皇賞(秋) 

 

 GⅠ計六勝

 

 

 

 





 ハイ。
 いやハイじゃないが。
 多分、この決着に色々と言いたいことある方多いと思います。
 確かに有終の美は良い物ですが負けて世代交代というのも良いと思うのです。
 え?じゃあグラス勝たせろって? そこはほら、今後の展開もあるので……。許して、
 
 本作でライスがトゥインクルシリーズを走るのはこれが最後ですが、まだ走る予定はありますのでその時は応援してください。

 たった二話の更新でしたが、また書き溜めに入ります。
 次は宝塚までいけたらいいなー。


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55話 余暇と継承

ウイポ10やってたら遅くなりました!!(大声)
昔一回やったことありましたがシステム随分変わりましたね。あとグラフィック凄い。
閑話休題。
今日から一日一話、計四話投稿させていただきます。
期間開けた割に少ないって? 本当に申し訳ない。




 

『せーの、カンパーイ!!』

 

 トレセン学園のチーム・マルカブの部屋で、ウマ娘たちの嬌声が響く。

 部屋ではマルカブのメンバーでのライスのお疲れ様会が開かれていた。

 当然、京都レース場でもライスの引退式は執り行われた。けれどあれは学園やURAのお偉いさんが集まった堅苦しいものだったので、ここでは身内だけの気軽なお祝いだ。

 紙コップにペットボトルのジュース、カフェテリアからもらってきた惣菜。もはや行きつけになりつつあるお店のケーキ。一部安っぽさは目立つが、気心知れたメンバーでの会だ。ライスも気楽に楽しんでいた。

 

「ライス先輩、トゥインクルシリーズお疲れ様でしたー!!」

「ドリームトロフィーリーグでも頑張ってくださいね!!」

「あ、ありがとうねみんな……!」

 

 チームメンバーが改めてライスへ慰労の言葉をかけていく。

 それが終われば、仲のいい組み合わせで自由な会話が始まった。

 

「引退式良かったねー」

「花束渡してたのサクラバクシンオーさんだったよね。渡し方が、なんか豪快だったけど……」

「他にも同期のウマ娘たちが集まってたんだって。一緒にクラシックレース走ったウマ娘たちもいたらしいよ」

「ミホノブルボンさんがいないのはちょっと残念だったけど」

「海外じゃあ仕方ないよ。エル先輩もいないし、どこかでまたお疲れ様会やろうよ」

「いーねー! その時はエル先輩の勝利祝いも一緒だ!」

 

 春からの新メンバーたちの会話が弾む。

 人数が倍になっただけにいつになくチームルームは賑やかだった。

 やがて、

 

「GⅠ、凄かったなぁ……」

「皐月賞も春天もスゴイ盛り上がりだった。走っている先輩たちも、見ている人たちの熱も」

「いつか、わたしもあのレースに……!」

 

 デビューに向けてトレーニングする彼女たちにとって、GⅠという大舞台の空気は良い刺激になったのだろう。皆、自分がその舞台に立った時のことを夢見ていた。

 一方で、現実を見据えた子もいた。

 

「グラス」

「あ、トレーナーさん……その」

 

 賑わいの輪から外れた位置にいたグラスは、楽しめていないようだった。理由は分かっている。

 

「今日のレースは惜しかった。でも君の走りに問題があったわけじゃない」

 

 この場で話す内容ではないかもしれない。でも気落ちしたまま彼女をこの場に居させるべきでもないと思った。

 

「トレーナーがこんなことを言うのは良くないのかもしれないが、あれはセイウンスカイが上手過ぎた。次のレースでは───」

「違うんです」

「グラス……?」

「負けたのは、私の未熟さ故です」

 

 悔しさを噛み締めるように、グラスの顔は苦渋に満ちていた。

 

「心のどこかで油断がありました。菊花賞で勝ったからと、セイちゃんを下に見ていた。彼女はそれを見抜いていた。……私は」

 

 両手で持った紙コップが少し歪む。

 

「私は、先輩と走れる最後のチャンスを、最後の舞台に泥を塗ってしまった。そんな自分が許せないんです……」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「あの、シャカールさん……?」

 

 グラスワンダーよりもさらに輪を外れ、部屋の隅にいたエアシャカールへメイショウドトウは声をかけるのが見えた。

 

「せっかくですし何か食べませんか?」

 

 メイショウドトウの手には飲み物が入った紙コップと惣菜を乗せた紙皿。未だチームメンバーと馴染む様子のないエアシャカールを気遣っての行動だった。

 

「ああ、そこらへン置いといてくれ。後で食う」

「え、あ、はいぃ……」

 

 言われた通り近くにあったスペースに置く。落ちないよう、かつ出来るだけ手が届きやすい場所を選んだ。

 エアシャカールの視線は手元のPCに向かったままだ。覗き込むと、早速今日の天皇賞の映像が流れていた。

 合わせて起動したAIアプリがレース映像から情報を集め、また別のAIアプリが分析していた。

 

「オマエもあンまり食い過ぎンなよ。次、ダービーだろ?」

「そ、そうですね……」

 

 皐月賞で二着となったメイショウドトウは日本ダービーの優先出走権を得ていた。

 当然、出走する。が、栄光の舞台に出るというのに彼女の顔はどうも暗い。

 

「自信がねえッてか。ま、相手が相手だし、オマエまだ重賞勝ててないからな」

「は、ははは……そうなんですよね。そんな私がダービーなんて、恐れ多いというか場違いというか……」

「だッたらどうして出る? あのトレーナーも、出たくないつッて怒るタマでもねえだろ」

 

 視線を動かすと、グラスワンダーと話し込んでいるトレーナーの姿が視界に入った。

 一生に一度しか出走のチャンスがないクラシック。距離適性の不安もなく、優先出走権を得ておきながら出ないなど正気を疑われる行為だろう。それを許すトレーナーも同様だ。

 だが、あの男なら受け入れるだろう。当然、いくらか説得は試みるだろうが。

 

「わ、私はオペラオーさんみたいにキラキラしてませんし、アヤベさんやトップロードさんたちにみたいに実績や人気があるわけじゃないです。

 い、いつかはあのヒトたちみたいになりたいなって思ってますけど……正直、ダービーに出たところで勝てるなんて思ってません。でも───」

 

 相も変わらず弱弱しい声。だが、彼女はしっかりと自分の意志を口にする。

 

「取り柄のないダメダメの私だからこそ、諦めるのだけはしちゃいけないと思うんです」

「……………そうか」

 

 エアシャカールは積極的に他人とコミュニケーションを取るウマ娘ではない。それは所謂人見知りというわけではなく、彼女自身が他者との交流に必要性を感じていないからだ。

 なのに今こうしてメイショウドトウと会話をしているのは、無意識に共通項を見出していたからだと自覚した。

 信奉するデータと数値によって不可能を突き付けられ、尚試行錯誤を続けるエアシャカール。己が力不足を自覚しながら、それでも挑むことを止めないメイショウドトウ。

 僅かな接点が、二人を繋いでいた。

 

「なあドトウ……」

 

 だから、気にかけてしまう。目の前にいるのが、結局現実を変えられなかった自分なような気がして。

 

「オマエ言ッたな。オペラオーやアドマイヤベガたちみたいな存在に“いつか”なりたいッて」

「は、はい。い、言いましたけど……?」

「一度しか言わねえ。“いつか”を“今”にするか、“十年後”にするかを決めるのはドトウ、オマエ自身だぞ」

「───え? そ、それはどういう」

「一度しか言わねえと言ッた」

 

 メイショウドトウの言葉を断ち切り、エアシャカールは再び作業に没入していった。

 強く問い質すことも出来ず、メイショウドトウはただ、ルームメイトからの言葉を反芻し続けるだけだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 楽しい食事会も、流石に門限を超えてまで続けることは出来ない。

 まだ時間に余裕があったが、怒らせると怖い寮長たちが来る前にライスたちは寮へ帰らせた。

 サブトレの川畑君もゴミの片づけや部屋の掃除をしたところで帰り、今部屋に残ったのは私一人だ。と言っても、私も明日のトレーニングメニューの確認だけして帰るのだが。

 

「あの、お兄さま?」

「ライス……?」

 

 そんな私へ来訪者が。帰ったはずのライスだった。

 

「一人かい?」

「うん。ちょっと、忘れ物をしちゃって」

「忘れ物?」

 

 オウム返ししながら部屋を見渡す。さっき川畑君と掃除した時はそれらしい物は見当たらなかったのだが。

 何を忘れたのかと聞く前に、小さな衝撃。ライスの小さな体が私にピッタリとくっついていた。

 

「おっと……ライス?」

「ごめんなさい。少しだけ、こうさせて……」

 

 小さな手が私の服をギュッと掴む。ライスが顔を埋めた箇所に熱が帯びていくのを感じて、察した。

 

「……お疲れ様、ライス」

「勝ちたかったよぉ……」

 

 絞り出した声は震えていた。

 

「みんなが応援してくれたのに。勝って、お兄さまの一番のままトゥインクルシリーズを卒業したかったのに……」

「いいレースだったよ。チャンピオンに相応しい、立派な走りだった」

「それでも勝ちたかった……! マックイーンさんだけじゃない。グラスさんにも、スぺさんにも、スカイさんにも……」

 

 悔しさに打ちひしがれるライスへ、私は月並みな言葉しか贈れない。

 実際、彼女の敗因はただ他のウマ娘たちが強かったとしか言いようがない。一強時代など長くは続かない。頂点の世代交代というのは起こりうるものだ。

 それが偶々、ライスのラストランのタイミングだっただけなのだ。

 

「……お兄さまのせいなんだから」

「え?」

「グラスさんばっかり見て、ライスのこと見てくれなかった……」

「ええ……」

 

 グラスの自主トレを見ることは了解してもらっていたはずなんだが……。

 

「ほ、ほらライスはもう自己管理できるし、でもグラスはどこか頑張り過ぎるから……」

「やっぱりお兄さまも若い子の方がいいんだ」

「そんな大して変わらないだろう……」

 

 確かグラスとエルが一昨年入学でライスのデビューが……いや、深く考えるのは止そう。

 今私ができる精一杯は、

 

「ライス、よく……よく頑張ったね」

 

 青いバラを抱きしめる。

 

「君があの宝塚記念でケガをした後、私は君に引退を勧めたね。でも、君は諦めなかった。辛いリハビリも乗り越えてまたターフに帰って来ることを選んだ。選んでくれた」

 

 瀕死の重傷を負って尚、現役続行を選べるウマ娘はどれだけいるだろう。そして、実際に復帰できる確率は一体いくらか。

 苦難の道を彼女は選び、見事賭けに勝った。

 

「ありがとうライス。私の傍にいてくれて、私に君の走りを見届けさせてくれて。トレーナーとしてこれほど誇らしく、幸福なことは無い」

「ライスの方こそ、お兄さまが傍にいてくれて嬉しかった。……ありがとう、ライスのお兄さまでいてくれて」

 

 それからライスとは思い出を語り合った。それこそ門限ギリギリまで。 

 ライスとの出会い。スカウトまでの道のり。メイクデビュー、クラシックでのミホノブルボンとの激闘、シニアに上がってのメジロマックイーンとの死闘。

 トウカイテイオー、ナリタブライアン、マチカネタンホイザ、多くのウマ娘たちと競い、勝って、負けて、その一つ一つがライスと私を成長させた。

 そしてこれからも、彼女は舞台をドリームトロフィーリーグへ移して咲き続けるのだ。

 幸せを運ぶ青いバラの物語は、まだまだ続くのだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 レースを走ったウマ娘は一定期間トレーニングを控える。死力を尽くしたレースを終えたウマ娘の身体は外見からは分からなくとも激しく消耗しているものだ。その状態で負荷を大きいトレーニングをしては故障の原因となる。

 それでも、大多数のウマ娘は軽い運動は忘れない。フォームや走りの感覚を忘れないため、つけた筋肉を衰えさせないためだ。

 しかし、今朝のライスシャワーは盛大に寝坊した───と言っても朝練をするには遅いだけで学園に遅刻するような時間ではなかったが。

 時計が示す時刻を見て一瞬血の気が引いて、昨日トレーナーに言われたことを思い出してホッと胸を撫で下ろす。

 

(しばらくは休養、だったよね……)

 

 飛び起きかけた身体を再びベッドに沈める。 

 既に同室であるゼンノロブロイの姿は無い。彼女は彼女で朝練に出かけたのだろう。同様に、マルカブの面々も朝のトレーニングをしているはずだ。

 次のレースに向けて。

 次のGⅠに向けて。

 

「ライスの次は……ウィンタードリームトロフィーか」

 

 天皇賞(春)で引退したライスシャワーは、登録時期の都合でサマードリームトロフィーには出走できない。

 ドリームトロフィーリーグにおける彼女の初舞台は、冬に行われるウィンタードリームトロフィー。約八ヶ月先となる。

 

『ライスはこれまでずっと頑張って来たからね。少し休んでもいいと思うんだ。なんでもいい、好きなことをして心と身体を休めて欲しい』

 

 それはトレーナーの言葉だった。

 思えばケガもしていないのに、次のレースまで半年以上空けるなんて初めてだった。

 ふと壁に掛けたカレンダーが目に映る。出走に向けた予定が書かれていないカレンダーを見て、本当に引退したのだと気づかされる。

 

「何をしよう……?」

 

 レース中心に生活してきたばかりに、余暇の過ごし方に迷うライスシャワーであった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 放課後、案の定トレーニングの参加を許してもらえなかったライスシャワーは宛もなく学園の外を彷徨った。

 行きつけの本屋に足を運んだが目ぼしい新作は無く、絵を描こうとモデルとなる景色を探すが心躍るものは見つからなかった。

 レースを離れた自分はこんなにも虚ろだったのかと自己嫌悪に陥りかけたところで、 

 

「あれ? ライスだ」

「テイオーさん……?」

 

 河川敷でトウカイテイオーに出くわした。

 ポニーテールの彼女は赤いジャージ姿。走り込みの最中なのだと分かる。

 

「そっか、テイオーさんはサマードリームトロフィーに出るんだもんね」

「そ! みんなはダービーやオークスに気持ちが向いているけど、ボクの本番はそこだからね。今回こそブライアンにぎゃふんと言わせてやるんだから!」

 

 トゥインクルシリーズで活躍した一部のウマ娘しか移籍できないドリームトロフィーリーグは、一昨年の冬の祭典からナリタブライアンの連勝となっている。

 このまま一強時代を築くのか、他のウマ娘が待ったをかけるのかが注目されていた。

 

「ライスはウィンタードリームから参加だよね。……はは〜ん、分かったよ」

「な、なにが……?」

「次のレースが随分先だから、暇なんでしょ。わかるな〜、ボクもトゥインクルシリーズ引退してからドリームトロフィー参加するまで時間かかったから、あの時はもう暇で暇で……」

 

 トウカイテイオーはあの復活の有記念の翌年、再びケガをしてその年の夏にはトゥインクルシリーズから身を退いていた。その時点でドリームトロフィーリーグへの移籍は表明していたが、治療とリハビリもあってレースに出るまで時間を要した経緯があった。

 

「そっか……テイオーさんはどう過ごしてた?」

「最初はライスと似たような感じだったな。時間は出来たから気になったものはとりあえず手を出して、でもなんかしっくりこないなーって止めて」

 

 トウカイテイオーが上を向く。

 

「気づけば、レースのことを考えてた」

 

 スカイブルーの瞳が見つめる先には沈み始めた陽があり、その下にはトレセン学園が見えた。

 皐月賞と日本ダービーの二冠を無敗で達成する栄光の一方で、最後までケガに苦しめられた一時代の王者には何が見えているのか。

 

「考えて、どうしたの?」

「いつの間にか走ってた!」

 

 休養中だったのにね! とトウカイテイオーは笑った。

 

「トゥインクルシリーズじゃあいろんなことがあった。楽しいこと、悔しいこと、辛いこと、嬉しいこと。勝てたレース、負けたレース、出られなかったレース。ボクのレース人生は良いことも悲しいこともいっぱいあったけど……」

「あったけど……?」

「ボクはレースが、走ることが大好きなんだって改めて気づいた!

 きっとあの時間はそれを自覚するための猶予期間(モラトリアム)だったんだ……」

 

 風が吹いた。悩みの雲を払い、空虚な胸の裡に光が差した気がした。

 

「きっとライスもそうだよ」

「そうかな?」

「そうだよ! テイオー様の勘は当たるんだから!」

「そっか……じゃあ、信じてみようかな」

 

 トウカイテイオーと別れ、ライスシャワーは歩き出す。

 これまで過ごした学園へ。これからも過ごす学園へ。

 その歩みに、迷いは無かった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 夜。

 ライスシャワーはグラウンドに出ていた。

 トウカイテイオーに言われたように、自分の気持ちを整理するため、何度も走った場所へと足を運んでいた。

 日が暮れてからなのは、誰もいない時間の方が邪魔にならないと思ったからだ。

 なのに、

 

「え……グラスさん?」

 

 ライスシャワーと同じく天皇賞(春)を走り、やはり同じく休養中であるはずのグラスワンダーがトラックを走っていた。

 休養中でもある程度の運動はする。しかし赤いジャージ姿のグラスワンダーが見せる走りはそんなものではない。

 まるでレース目前のもの、いやレース本番とも見紛えるほどのものだった。

 近くにトレーナーの姿は無い。ということは、彼女の独断の可能性が高い。思わずライスシャワーは駆け出していた。

 

「グ、グラスさん……!」

「はぁ……はぁ……っ! ライス先輩……」

「一体どうしたの!? レースに出たばかりなのにそんなに走って……!」

「大丈夫です。気にしないで下さい……」

「気にするよ! 疲労も抜けきれてないのに……またケガしちゃう……!」

 

 ケガという言葉にグラスワンダーの身体が震える。

 彼女の中には、まだクラシックの半分を棒に振った過去が傷となって疼いていた。

 

「ねえ聞かせて。何があったの? お兄さまに言えないことならライスが聞くから。それとも、ライスにも言えない理由?」

「……私は」

 

 少しの間を空け、迷いの色を見せつつグラスワンダーは口を開いた。

 

「私は、自分が許せないんです……!」

「……どうして?」

「あのレースは、あの天皇賞は! 私が勝つべきだった。勝たなきゃいけなかった……!!」

 

 夜のグラウンドに、グラスワンダーの慟哭が響く。

 

「ライス先輩のラストラン。先輩と走れる最初で最後のレース……勝って、私が先輩の跡を継ぎたかった。───なのに」

「そんな、負けるのは誰にでもあることだよ」

「私は油断していたんです。セイちゃんに、一度勝った相手を下に見て、そして負けた。無様な……情けない負け方です……!」

「だから、こんな無茶なトレーニングをするの?」

「もう負けたくないんです。次に負けたら、私は───」

「グラスさん、ありがとうね」

 

 グラスワンダーの言葉を遮り、ライスシャワーは後輩を抱きしめた。

 

「え………?」

 

 呆気に取られる後輩へ、薔薇の少女は語りかける。

 

「グラスさんがそんなに想ってくれてるなんて知らなかった。ライス嬉しいよ。でもね、やっぱり無理はしてほしくないな。

 ……ねえ、グラスちゃん。ライスはトゥインクルシリーズからはいなくなるけど、ライスはここにいるよ」

 

 胸に収まる栗毛の少女へ語りかける。

 

「どこかに行ったりしない。これからもマルカブにいる。ライスと勝負したいのなら受けてあげる。結果に、展開に、満足しなかったなら何度だって。それじゃあダメ……?」

「そ、れは……」

「本番のレースじゃないとダメ? 勝負服を着ていないと本気になれない? レース場で、いっぱいのお客さんの前じゃないと納得できない?」

「そんなことは……ない、です……!」

「ん。じゃあ、今日はこれくらいにしよ? 疲れが取れたら、また本気で勝負してあげる」

 

 トウカイテイオーの言葉を思い出す。

 結局、暇を貰ったところで自分は走ることからは離れられない。

 物語を読むことも、絵を描くことも好きだが、最も心躍るのはレースなのだ。それが誰かのためになるのなら尚更だ。

 

「そして教えてあげる。ライスの走りを、お兄さまから教えてもらったことを全部、グラスさんにも」

 

 自分はトゥインクルシリーズにはいない。

 しかし残った者たちに自分の技術を少しでも伝えられるのなら、継承されていくのなら。それはきっと、勝ち続けることと等しいくらい喜ばしいのだろう。

 春の夜空、二人のウマ娘は新たな一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

「───というわけでお兄さま、休養空けたらグラスさんと模擬レースするね」

「ちょっ!? せ、せせせ先輩、どうして!?」

「グラスさん、なに?」

「なにって、どうしてトレーナーさんに言うんですか!! あ、あれは二人だけの秘密という流れじゃないんですか!?」

「うーんでもグラスさんって一人で背負い込むところあるから、こういうのは恥ずかしくても伝えておくものだよ?」

「ぐぅ……うう……」

 

 二人の力関係は、まだ変わりそうにない。

 

 

 



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56話 マルカブと春GⅠ 2

 今年の春は、マルカブにとって向かい風が吹いているのかもしれない。

 そう思い始めたのは五月に入ってからだ。

 世間の注目がクラシックの大一番、オークスや日本ダービーへ向かう中、デジタルがマイルの世代代表を決めるNHKマイルカップへと出走する。

 昨年はエルが見事勝利した芝1,600mの国際競争であり、デジタルにとっては芝GⅠへの初挑戦だ。

 ジュニア級でダートGⅠを勝ったウマ娘が芝のレースに出ることに一部世間から疑問の声もあったが、前哨戦であるニュージーランドトロフィー(芝1,600m)は勝ちは逃したものの三着に入線。芝の適性を見せつけるとともに無事優先出走権を獲得した。

 彼女が目指す、ダートでも芝でも走れるウマ娘としての一歩だ。

 そして、

 

「ま、負けましたぁあ……」

 

 結果は七着。差しウマ故に道中を中団で控えたが、直線で伸び切らず沈んでしまった。

 

「途中で集中力切れちゃってたね……」

「め、面目ないです……」

 

 誰よりもウマ娘を愛するデジタルの悪癖───レース中に周りのウマ娘に意識を向けてしまう癖がここで出てしまった。 

 NHKマイルカップは海外のウマ娘が遠征してくるレースでもある。デジタルにとって雑誌やニュースサイトでしか見ることのないウマ娘も何人かいたから、気になってしまったのだろう。

 

「その癖はなんとかしないとね……。それと次のレースだけど」

「え、あ、もう次のレースの話です?」

「今回は不完全燃焼だったからね。切り替えるためにも次の目標も大事だよ。芝とダート、どっちにする?」

「そうですね……一回またダートに戻ってみましょうか」

「分かった。ダートで次に大きなレースは……七月のジャパンダートダービーだね」

「す、砂の世代王者決定戦ですか……!」

「ここを逃すと秋まで大きな世代戦はないからね。一生に一度のクラシックだし、チャンスがある以上は出ておきたいな」

「わ、分かりました! ドトウさんも日本ダービーに出るんですから、あたしも覚悟決めます! ダートで余所見の汚名返上です!」

「よし、頑張っていこう!」

 

 おー! とデジタルが拳を上げる。

 次の舞台は夏のダート、砂の王者を目指し動き出した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 五月中旬。ここから、私のトレーナー業は多忙を極めることとなる。

 ドトウが日本ダービーに出るのでメディアからの取材対応。さらにダービーが終わればメイクデビューが始まるのでメンバーの出走予定の調整。

 そして、フランスにいるエルの欧州レース初戦だ。

 

「みんなのメニューは予め組んでおいたけど、各自の調子を見て変えてくれて構わないよ。内容やみんなの様子はレポートにして共有のフォルダにお願い」

「分かりました!」

「迷うことがあったらメールしてね。メンバーのまとめ役はライスにもお願いしてあるから、二人で協力してくれ」

 

 荷物をまとめながら、サブトレーナーの川畑君に指示をしていく。

 私はこれからフランスへ向かう。翌日行われるエルの欧州初戦、イスパーン賞に同行するためだ。

 十名近いウマ娘を新人に任せるのは酷だがこれも経験だと思うしかない。幸い近年はインターネットのおかけで離れた場所の様子も確認できるし、レースが終わればすぐ帰国するつもりだ。

 

「先生、一つ確認なんですが……」

「なんだい?」

 

 先生呼びにこそばゆさを感じつつ川畑君の方を見る。彼の神妙な面持ちに気を引き締めた。

 

「エアシャカールのことはどうしますか?」

「シャカールはこれまで通り、彼女の自由にさせればいいよ」

 

 答えてから、彼の懸念に気付く。

 

「……不服かい?」

 

 聞き返すと、川畑君は恐る恐るといった感じで頷いた。

 

「その、先生はなんというか……エアシャカールに甘いと思います」

「言うこと聞かせるだけがトレーナー業じゃないと思うけどな」

 

 こういう議論は嫌いではない。結局はそれぞれのやり方を尊重するという結論に至るものだが、意見を押し殺しておくよりは吐き出したほうが互いのためだと思う。

 

「私たちが教えるのは個性と人格のあるウマ娘だよ。犬や猫の調教とは違う。シャカールにはシャカールに合ったやり方がある。

 自己管理が出来ている以上、こちらであれこれ縛る必要はないと思うな」

「チームに所属しながら勝手するのがですか? ……はっきり言って、エアシャカールのやり方はチームに不和を生みます。昨年から交流のあったメンバーはともかく、同時期に加入したウマ娘からは不満の声もあります」

 

 まあ立場は同じデビュー前なのに、一人個別メニューをしてたらそう思う娘も出てくるか。

 

「シャカールに私の考えるメニューは不要だよ。あの子は自分で自分の最適解を出せてる」

「そんな……チームに入っておいて、傲慢です」

「時としてそんなウマ娘は出てくるものさ。例えば……三冠ウマ娘とかね」

 

 私の言葉に川畑君の目が大きく開いた。

 

「エアシャカールが、三冠を取れる器だって言うんですか?」

「確信があるわけじゃないよ。彼女はそれを目指すだろうし、デビュー前の子たちの中では抜きんでているとは思うけど」

 

 実際、シャカールは昼間の授業で行われる模擬レースで連勝中だ。教官や同級生も彼女の態度には思うことあるかもしれないが、勝ってしまえばそれ以上は何も言えないようだ。

 独自のアプローチで結果を出している以上、私からも言うことは無い。

 

「トレセン学園には色んなウマ娘がいる。極端な例が彼女ということだけさ。君もトレーナーを続けていれば分かるようになるさ」

 

 そろそろ出ないと。

 シャカールのことはいずれ腰を据えて話す必要があるのかもしれない。

 大切なことだが、ひとまずは目の前のレースに向かうしかなかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「トレーナーさーん!」

「ぐえっ」

 

 飛行機から降りてエントランスに出るや否や、赤いジャージ姿のエルが飛びついてきた。

 両手が荷物で塞がった状態で突撃を受けたが、なんとか耐える。

 

「久しぶりエル。元気そうで何よりだ」

「当然デース! エルはフランスでも元気いっぱいデス!」

 

 渡欧直後からエルの様子は黒沼さんから逐一報告を貰っていたが、彼女が言う通り調子は良さそうだった。

 遠征による環境の変化で体調を崩すウマ娘は多い。プレッシャーのせいだったり、水や食事が合わなかったりと原因は様々だ。しかし突撃で感じたエルの体重は減った様子は無く、むしろ増えているよう───口が裂けても声に出さないが───に感じた。

 

「そういえば迎えはエル一人かい?」

「ケ? いえ、黒沼さんが一緒に……あ」

「やっと……追いついたぞ……げほっ」

 

 腹に響く重い声。エルの後ろに見慣れた格好をした黒沼トレーナーがいた。いや、膝に手を当て呼吸が荒い姿は学園でも見ることのなかった姿だ。

 

「エル……」

「ご、ごめんなさいデス黒沼さん!」

 

 どうやら黒沼さんを置いて一人で突っ走って来たらしい。流石の黒沼さんもウマ娘には追いつけないか。

 

「その、エルが失礼しました……」

「いや、いい。迎えに行くかと誘ったのは俺だ……」

 

 ふぅ、と息を吐いて黒沼トレーナーが体を起こす。

 

「久しぶりだな。息災で何より」

「黒沼さんこそ、元気そうで良かったです」

 

 エルを下ろして握手を交わす。掌で感じる黒沼トレーナーの手は、少し細くなっている気がした。

 

(激務に決まっているか……)

 

 本来の担当であるミホノブルボンに加えてエル、さらに出走予定がないとはいえシリウスシンボリにシーキングザパールも見ている。

 全員がGⅠ制覇をした日本トレセン学園のトップ層であり、成果を期待されているウマ娘たちだ。

 慣れない環境とURAからの期待。黒沼トレーナーの双肩にかかるプレッシャーがどれほどかは筆舌に尽くしがたい。

 そんなことを考えているのが伝わったのか、黒沼トレーナーがふっ、と笑った。

 

「相変わらず、お前は考えすぎだ」

「黒沼さん……」

「とうに覚悟していたこと。今更気にするな。むしろまだ元気なんて手を抜いているんじゃないか、くらいは言って見せろ」

「ははは、言えませんよ。黒沼さんとミホノブルボンを知っていればそんなこと」

「そうか……ま、そういう男だよお前は。……そういえば、春天は残念だったな」

「ええ、相手が上手だったとはいえ、私が読み切って指示をすべきでした。クラシックも強敵ぞろいですし、順風満帆とは行きません」

「安心してください! エルが明日のレースに勝ってチームに勢いを取り戻して見せマス!!」

「ははは、心強いな。……そろそろ行こうか、フランスで鍛えたエルの力を直に見せてくれ」

「任せてください!!」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 GⅠイスパーン賞。その歴史や由来は置いておくとして、距離は1,850mという日本のウマ娘レースからしたら中途半端な距離だ。

 大目標とする凱旋門賞とは距離が違うが、レース場が同じロンシャンレース場であることから出走を決めた。

 さらに今年の出走者数が八名と少なく枠順関係なく実力を出せるのでエルの欧州適性を図るのに好条件だった。

 

「やっぱり欧州の芝は深い、というか長いな……」

 

 会場入りして感じた足元の感触に思わず声が出た。見慣れた日本のレース場のそれとは根本から違っていた。

 

「レースの本場はこっちだから、むしろ日本の芝が異質なのかもな。ま、日本の気候や環境の都合もあるからどうしようもない話だが」

「ですね……」

「トレーナーさん、お待たせしました!!」

 

 勝負服に着替えたエルがやってきた。こうしてみると、やはり日本にいた頃と身体つきが変わった気がする。

 黒沼トレーナーから送られるトレーニング映像を見ていた限り、最初こそ芝の違いに戸惑いつつも。既にエルは欧州の芝に適応できているように見えた。

 さらに欧州遠征の経験があるシリウスシンボリやミホノブルボンに欧州レースのイロハを叩き込まれている。

 初戦だが勝機は十分。それはエルが地元のフランスウマ娘たちを押しのけて一番人気という形で証明されていた。

 

「はっきり言ってこれは今後を見据えての叩きだ。無理して勝つ必要はない」

「むぅ……」

 

 頬を膨らませるエルを気にせず、黒沼トレーナーが続ける。

 

「だがエルコンドルパサーの実力を見せる場であることには変わりない。惨敗でもしようものなら即刻帰国もあり得る。……最低でも掲示板入り、五着以内だな」

「むー緊張させたくないのかプレッシャー与えたいのかどっちデスか!」

「なんだ、緊張してたのかい?」

「はぁぁああーーっ!? トレーナーさんまで何言っているデスか!! 緊張なんてしてません! 今日もエルはバッチリ、グッドコンディション! しっかり勝ってきマスから見ててください!」

 

 のしのしとゲートへ向かっていくエル。いい感じに力が抜けたようだ。

 

「実際のところ、どう思ってます?」

「……勝ち負けにはなるさ」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ま、負けましたぁ……」

「惜しかった! いやほんと惜しかったね!」

 

 四分の三バ身差の二着。最後に差されたものの最終直線ではエルは先頭に立っていた。結果こそ敗北だが、決して落ち込む順位ではない。黒沼トレーナーの言う通り、今回は秋の本番を見据えた叩きなのだから。

 

「うー……せっかくトレーナーさんが見ていてくれたのに……」

「でも決して悪い内容じゃなかったよ! エルの走りが欧州でも通用すると分かったから」

「トレーナーさんがグラスにべったりだったせいデース……」

「あれ、矛先が急に変わってない?」

 

 似たようなことをつい最近言われたような……。しかしマズイ。遠征初戦を落としてエルのメンタルが沈みだしてる。

 敗北は毎日王冠でサイレンススズカに負けた時以来だが、今日のレース内容だとむしろスペシャルウィークに敗れた日本ダービーに近い。

 

「グ、グラスも。春天負けて落ち込んでたけどすぐに持ち直したぞ! いいのか、エルだけ落ち込んでて。グラスが知ったらどう思うかな?」

「グラス……」

 

 親友でありライバルの名を聞いて、エルの瞳に光が戻る。

 

「トレーナーさん! グラスの次走はどのレースデスか!?」

「た、宝塚記念の予定だけど……」

「宝塚記念……六月末の、グランプリ……」

 

 暗くなっていたエルの瞳に光が戻る。やはり親友でありライバルのこととなると途端に闘志が沸き立つようだ。

 

「黒沼さん! エルの次走は確かサンクルー大賞でしたよね!?」

「ん? ああ、今日も好走はできたし、出走でいいだろう」

「サンクルー大賞は七月! グラスの宝塚記念の後……なら!」

 

 少女の言葉に、もう弱さは無かった。

 

「エルは次こそ勝ってみせます! だからトレーナーさん、グラスにも言っておいてください! 今度こそ勝つと!」

「ああ、伝えておく。私もしっかり見ておくから」

「……では早速、勝利に向けたトレーニングを始めましょう」

 

 横からミホノブルボンが手を伸ばし、エルの腕を掴んだ。

 

「ケ!? エ、エルはたった今レースしたところデスよ!?」

「負荷をかける以外に出来ることはあります。敗因は欧州の芝への慣れが足りないことと推察されますので、早急な対策を。さあ早く」

 

 有無を言わさずエルは引きずられていく。まあ敗北のモヤモヤを発散することが出来ると思えば良いことだ。

 負けた以上はやることは多い。エルはまだ欧州ではチャレンジャーなのだ。

 

「お前はすぐに日本に戻るのか?」

「ええ。まあ今日くらいはエルの傍にいようとは思いますが」

「提案したのは俺だが忙しないな……ああ、そういえばもうその時期か」

 

 郷愁に浸るように黒沼トレーナーが空を仰ぐ中、私は頷いた。

 

「ええ。もうすぐ日本ダービーです」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 チーム・リギル。三冠ウマ娘ナリタブライアンを筆頭に、ヒシアマゾン、フジキセキというスターウマ娘を多く有する自他ともに認める学園のトップチームだ。

 所属するウマ娘のほとんどがトゥインクルシリーズで勝ち上がり、重賞に、そしてGⅠ戦線へ乗り込んでいく。そんなことが出来ているのはトレセン学園広しと言えどリギルくらいだった。

 だが、そんなリギルを率いる東条には不満があった。

 チーム・リギルは長らくクラシックの冠から遠ざかっていた。

 そも出走が叶うだけでも、上位に入るだけでも十分な栄誉であるのに不満を感じるのはまさしくリギルがトップチームであるが故だろう。

 近頃はタイキシャトルが短距離路線を盛り上げる活躍をした。それでも東条は満足しなかった。ウマ娘レースに携わる以上、クラシックの冠が放つ輝きから目を逸らすことは出来なかった。

 だからこそ、

 

「よし、もう一本だ!」

「───はい!」

 

 テイエムオペラオー。彼女の皐月賞を勝った時の喜びは大きかった。

 久方ぶりのクラシックの冠。その栄光に酔いしれることなく、東条は気を引き締めた。

 次に狙うは日本ダービー。世代の頂点、多くのウマ娘が、トレーナーがその戴冠を夢見る大レース。勝つことさえできればそこで燃え尽きても構わないと本気でいう者もいる。

 だからこそ気は抜けなかった。皐月賞で勝った以上、日本ダービーでは必ずマークされる。強さを示した以上、周り全てが敵となる。

 

「次は、皐月賞のような出遅れは許されないわ」

「分かって……ますよ」

 

 汗を拭いながらテイエムオペラオーは言う。

 

「同じような展開は、日本ダービーではありえない」

 

 普段は芝居がかった口調と動きが騒がしい彼女も、この時ばかりは張り詰めた雰囲気だった。

 静かに、黙々とトレーニングを続けていく。

 自覚しているのだ。

 皐月賞で自分が勝てたのは、出遅れのせいで周りの意識から存在が消えていたから。だからこそ、最後の末脚が突き刺さったのだ。

 今度はそうはいかない。皐月賞ウマ娘を警戒しない出走者などいない。

 

「ドトウ、アヤベさん、トップロードさん。他のウマ娘たち。誰一人として、警戒を解いていい者はいない。自信をもって言いますよ。昨年の黄金世代に僕たちは決して劣っていないと!

 そして───!」

 

 休息を終え、テイエムオペラオーは走り出す。

 

「勝つのは僕! 世代の頂点に立ち、覇王の時代を拓くのはこのテイエムオペラオーだ!」

 

 一秒でも早く、一歩でも強く。そうでなければ、世代の頂点(ほし)には届かない。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 チーム・ハマルを率いるトレーナー、奈瀬文乃は一人ウマ娘の寮へと続く道の途中に立っていた。

 時刻は黎明。夜が明け、太陽が顔を出すもののまだ多くの人々が寝静まっている時間。そんな時間に学園にやってくる、いや帰ってくるウマ娘がいた。

 

「おかえり、アドマイヤベガ」

「……戻りました、トレーナーさん」

 

 大荷物を抱えたウマ娘が僅かに頭を下げた。そのまま素通りして学園に入っていく少女へ声をかけた。

 

「星は見れたかい?」

「……はい」

 

 それはアドマイヤベガの習慣だった。彼女は月に一度、新月の日に天体観測と称して外泊──というより泊りがけでキャンプをしていた。ちょうど昨夜がその日だった。

 

「星座は詳しくないんだ。この時期だと、どんな星が見えるんだい?」

「そうですね……この時期なら、夏の大三角形でしょうか」

「ああ! 聞いたことがある名前だ。もっとも、どれを結んでなるのかまでは知らないけど」

「そうですか……では」

 

 一方的に会話を打ち切り、アドマイヤベガは寮へと向かう。

 チーム・ハマルには個性的なウマ娘は多いが、彼女は他人と壁をつくり、深い関りを持とうとしないウマ娘だった。

 

「アドマイヤベガ」

「………なんでしょうか」

「ダービーも近い。君の自己管理能力を疑う気はないけれど、夜更かしは控えて欲しい。もし体調を崩すようなことがあったら───」

「分かってます!」

 

 夜明けの空にアドマイヤベガの声が響いた。少女の手は拳となり、震えていた。

 

「次は、皐月賞みたいな無様な真似はしません……」

 

 当時のアドマイヤベガは体調が芳しくなかった。言い訳でしかないが、結果としてテイエムオペラオーやメイショウドトウたちにも先着された。

 ジュニア級でGⅠを勝利し、クラシック級でも活躍を期待されていた彼女にしては散々な成績だった。

 だからこそ、

 

「日本ダービー……あのレースだけは、絶対に譲らない……!」

「そうか……分かってるならいいさ。君の願い、僕たちもサポートする」

 

 奈瀬はアドマイヤベガに近づき、握手を求めて手を差し出した。

 日本ダービーは数あるGⅠの中でも特別だ。一生に一度しか出る機会がないクラシック級であるだけでなく、同じ年にデビューした数千の同期たちの、まさしく世代の頂点の証となる。

 トウカイテイオーが、ミホノブルボンが、アイネスフウジンが、そして昨年はスペシャルウィークが。頂点に相応しい力を示し、その座を掴んだ。

 運が良いウマ娘が勝つと言われる日本ダービーだが、歴代のウマ娘たちの能力は勝者に相応しい実力があった。

 そしてそれは、彼女たちだけで築き上げたものではない。いつだって、傍にはトレーナーや仲間たちがいた。

 奈瀬も、同じようにアドマイヤベガに寄り添って力になりたい。そう思っての握手だった。

 

「……すいません。そういうのは、私は───」

 

 だが、その手が握り返されることは無かった。

 

「レースは、ちゃんと勝ちますから」

 

 振り払うことこそないが、確かな拒絶の意志をもってアドマイヤベガは立ち去った。

 一人残された奈瀬はやれやれと頭を振った。

 

「結局、君と分かり合うことなくここまで来たか……」

 

 アドマイヤベガの才能は素晴らしいものだった。本人も才能に胡坐をかかず努力を続けられる真面目さがあり、実力は世代の中でも傑出したものだと確信していた。

 だが、彼女はトレーナーやチームメイトに心開くことは無かった。

 最低限のコミュニケーションはあるが、自身の裡を曝け出すことは決してなかった。

 

 孤高の星。それがアドマイヤベガというウマ娘だった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ついに、その日がやって来た。

 今日を夢見てどれだけのウマ娘がデビューしただろう。そしてどれだけのウマ娘が出走することすら叶わず、涙を流しただろう。

 並び立つは十八名。

 そして栄光を掴むのは、ただ一人。

 

 日本ダービーが始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





しばらくスカッとしない展開が続くかもしれないけど許して。


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57話 ドトウと日本ダービー

「ドトウ、準備はできたかい?」

「は、ははははいぃぃ……!」

「作戦は覚えていますか?」

「ハ、ハナは取らず前目か中団に位置取ります。できればオペラオーさんやトップロードさんよりも先行。ダメなら前にいる方をマークします……!」

「そして最終コーナーあたりでスパートですね。王道の手段ですけど、その分他のウマ娘ちゃんたちとの位置取争いが激しそうですね」

「ガタイはいいからイケるだろ。ドトウはスタミナもあッから多少競り合ったところでバテはしねェ」

「ドトウさん、お水飲む?」

「あ、ありがとうございます……きゃあ! す、すすすすいません! 今すぐ掃除を───!」

「いや大丈夫だから、ドトウはとりあえず落ち着こう。深呼吸深呼吸……」

 

 ふぅー、と大きく息を吸い込み、吐き出す。そしてまた深く吸うという動作を繰り返すドトウ。

 落ち着こうと言ったものの、流石に日本ダービーでは気負ってしまうか。

 GⅠは多くあるが、やはり日本ダービーだけは価値が違うのだ。

 

「あ、そうだった」

 

 危うく忘れるところだった。

 カバンからタブレットを取り出し、通話アプリを起動する。

 チームのみんながこちらを向く。視線は私が抱えるタブレットの画面。数度のコール音の後、画面の向こうから声が響いてきた。

 

『みんなー! お久しぶりデース!』

「エルさん!」

「エル!」

 

 ライスとグラスの声を皮切りにメンバーたちがタブレットの前に集まってくる。

 画面の向こうにいるのはフランスにいるエルだ。

 

「この前フランスで会った時に頼まれたんだ。出走前に電話してほしいって」

『せっかくのダービーなんデスから、午前中だけでもトレーニングお休みデス!』

 

 エルの背景を見るに彼女がいるのはフランスであてがわれた自室ではなく、トレーナー室のようだ。後ろでチラチラと映るのはミホノブルボンか、シリウスシンボリだろうか。

 

『ドトウ! 調子はどうデスか?』

「い、いつもどおり……です」

 

 皐月賞の時以上に緊張しているように見えるが、それをいつもどおりと言えるのが彼女の強みなのかもしれない。

 

『それは良かったデス! 一生に一度のダービー、優勝を目指すのは当然デスけど、せっかくなら楽しんできて下さい!』

「楽しむ……ですか?」

『ハイ!』

 

 首を傾げるドトウに対して、私やライスは彼女の意図に気付いて頷いた。

 

「エルの言う通りだね。出るだけでも栄誉な日本ダービー。今日出走するウマ娘たちはみんなこの日に全力を出せるように調整してきている」

「一生の一度の晴れ舞台だもんね。本気の、本気を出して来る。……だから、ずっとずっと記憶に残るレースになる。どんな結果になったとしても」

 

 ライスが思い返すように天を仰ぐ。瞳の奥で蘇るのは海の向こうへ渡ったライバルの背中。ダービー以降、彼女の努力はその影を超えるために注がれた。

 グラスはケガゆえに出走できず、エルもスペシャルウィークに敗北したが、その悔しさが今彼女たちを突き動かす力の一端となっている。

 

「まずは悔いのないように。そして、楽しもう。一生の思い出になるようなレースをしておいで」

「は、はい……!」

 

 まだ理解しきれていない部分はあるのだろうが、勝て勝てと言われ続けるよりはマシだろう。少し肩の力が抜けた様子で、ドトウはターフへ向かっていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『ついに今年もこの日がやってきました。若きウマ娘たちが世代の頂点を競うクラシックレースの最高峰、日本ダービー!

 昨年の黄金世代の激突にも劣らない熱気が、この東京レースに溢れております!』

『やはり注目されるのは皐月賞を制したテイエムオペラオー、二着に食い込んだメイショウドトウ。三着となりリベンジに燃えるナリタトップロード、そしてジュニア級王者のアドマイヤベガ。彼女たちがどんな激闘を繰り広げるのか、今から楽しみです』

 

 実況と解説の声が響く中、ターフに十八名のウマ娘が出揃った。

 パドックでウマ娘が紹介される度、レース場を揺らすような歓声と拍手が起こる。

 特に観客からの声援を浴びるのは皐月賞ウマ娘であるテイエムオペラオー。たった一人、クラシック三冠への挑戦権を得た者として当然のことだった。

 しかし、彼女に注目するのは出走するウマ娘たちも同様だった。皐月賞をフロックだったと侮る者はいない。テイエムオペラオーは間違いなく強く、最も警戒すべきウマ娘であった。

 ウマ娘たちが続々とゲートへ入っていく。

 一人、また一人と鉄の箱へ身を置くごとに観客は静かになっていく。

 そして、

 

「我がライバルたちよ!」

 

 覇者の檄が静寂を叩き割る。

 

「聞こえたか、万雷の拍手が! 我らを称える歓声が! 感じるか、烈火の如き興奮を! 全ては今日、このレースを走る僕たちに向けられたものだ!」

 

 高らかに謳うウマ娘の言葉への反応は様々だ。慣れない者は奇異の視線を向け、慣れた者は呆れ半分煩わしさ半分で聞き流していた。

 

「去年の夏合宿で僕は言った! 黄金よりも燦然と輝き、永久に人々の記憶に残るような覇王の時代を築くと! 皐月の王冠を手にし、僕はその宿願への一歩を踏み出した!

 諸君はどうか!? あの時語り、もしくは胸に宿した夢は、覇道は、今如何なるものか!」

 

 拳を天に突き上げ、歌劇王の独唱は続く。

 

「僕の夢は変わらない! だから誓おう! この日本ダービーを、僕らの世代の頂点を未来永劫語られるものにしてみせよう!

 黄金世代! BNW! 永世三強! 七冠の皇帝! 名だたる時代の名優たちに劣らぬ時代をここに拓こう!

 故に、君たちの協力が必要だ!

 全力を!

 全霊を!

 今日のこの舞台に上がった者として、上がることのできなかった全てのウマ娘に応えるために力の限りを尽くすのだ!

 さあ、夢のレースの始まりだ!

 

 一生に一度の晴れ舞台、心ゆくまで楽しもうじゃないか!」

 

 戸惑うような静寂も一瞬。覇王のパフォーマンスに割れんばかりの歓声と拍手が送られた。

 満足したように胸を張ってテイエムオペラオーがゲートに入る。

 

 一瞬の静寂。

 そして、今度こそゲートは開かれた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『───スタートしました!

 おっと十六番ノーティカルツール出遅れました! 他のウマ娘たちはほぼ横一線、第一コーナーに入り少しずつ位置が定まってきました。

 メイショウドトウは三番手、先頭を追いかけます。テイエムオペラオーは中団、ナリタトップロードはそのやや後ろに付きました。アドマイヤベガは思い切って後方三番手まで位置を下げました。

 ペースとしては平均、バ群は縦長となりましたが各ウマ娘はいつ仕掛けるのか───』

 

(この位置取りは、作戦通り……!)

 

 自分の位置を確認しながら、メイショウドトウは僅かに後ろを見た。

 自信に満ちたテイエムオペラオーと凛々しいナリタトップロードの姿が見えた。アドマイヤベガの姿は後方過ぎて見えないが、位置取り争いに負けたわけではないだろう。

 

(オペラオーさんは、トップロードさんは、アヤベさんは……いつ動く?)

 

 メイショウドトウの前を走るのは二人。彼女たちを風除けにして脚を溜める。

 自分が動くのは最終コーナーから。でも、もし後ろの三人が早く動いても対応できるように。

 

 動きがあったのは、第三コーナーから第四コーナーに入ったところだった。

 後方のウマ娘たちが距離を詰めだしたと同時、控えていたテイエムオペラオーが大外を回って前に出始めたのだ。

 

(皐月賞の時よりも仕掛けが早い!!)

 

 テイエムオペラオーの末脚は、今の自分では後ろから追っても届かない。メイショウドトウも即座に反応してスパートを駆けた。

 コーナーを回る遠心力で僅かに外に出て前に出る。

 これまで避けていた風が張り手のように全身に叩きつけられるが、溜めていた力で壁を切り裂いていく。

 最後の直線、メイショウドトウは一番手に躍り出た。

 

(このまま───!!)

 

 a

 見えた勝利のビジョンに心臓が弾む。しかし、

 

『テイエムオペラオー上がってきた! ナリタトップロードもそれを追う! 

 速い! 速い! 速い!! テイエムオペラオーあっという間に順位を上げていきます! ナリタトップロード続けるか!? メイショウドトウは振り切れるのか!

 テイエム四番手! 三番手! 二番手!!

 メイショウドトウを捕らえたぞ! ナリタトップロードも追いついた!!』

 

 二人の巨星はあっという間に横に並んだ。

 吹き付ける暴風を悠々と切り裂いてなおも加速する。

 メイショウドトウも粘るが、力の差を見せつけるように、テイエムオペラオーとナリタトップロードが前を行く。

 

(このままじゃ……!)

 

 皐月賞の二の舞だ。

 

(いやだ……!)

 

 この二人に負けるのは、悔しいが納得できる。それほどのウマ娘だ。

 でも、前と同じ負け方だけは嫌だ。

 成長していないじゃないか。

 変わってないじゃないか。

 ダメダメな自分が誰かに勝てなくとも、昨日の自分には勝たないと。

 そうじゃないと───

 

「まだ……まだぁ!!」

 

『日本ダービーはオペラオーとトップロードの一騎討ちか! いや! メイショウドトウも負けじとさらにスピードを上げた!

 並ぶか? 並ぶか!?

 並んだ!! ドトウ追いついた! 

 三者横一線!! 内からドトウ!! 中にオペラオー! 外にはトップロード!!』

 

 追いつき、並び、振り切ったはず。

 そんなメイショウドトウが再び肉迫してくるのを見た二人の顔には、笑み。

 

(流石だよドトウ! 君がここまで食らいついてくるとは……!!)

(あそこからさらにスピードを上げるなんて……! やっぱりドトウちゃんもスゴイ!)

 

 しかし二人の表情は一瞬で鬼の形相へと変わる。

 すでにゴール板までの距離は400mもない。

 

(ダービーを獲るのは───)

 

 奥歯を噛み締める。

 

(頂点に立つのは───)

 

 脚が芝を蹴り上げる。

 

(勝つのは───)

 

 振り絞るのは、これまで積み上げてきた全て。

 

「「「わたし(ボク)だああああああああああ!!!」」」

 

『ナリタトップロード前に出た! テイエムオペラオーが食らいつく! メイショウドトウも譲らない!!

 残り200m!! トップロードか!? オペラオーか!? ドトウか!?

 

 そして───

 

 そして───!!

 

 大外からアドマイヤァアアアアッ!!!

 

 一瞬だった。

 三人のデッドヒートに並び、そして抜き去ろうとする青い光に誰もが息を呑んだ。

 ホープフルステークスを思い出させる強烈な末脚。後方にいたはずの星は、彗星となってあっという間に先頭へと躍り出た。

 

「アヤベさん!!」

 

 そして、その彗星に最も早く反応できたのは同じく外側を走っていたナリタトップロードだった。

 通り過ぎる青い星を追って本能的にギアを上げる。

 

「いかせは───」

「───しませんッ!!」

 

 一瞬遅れてテイエムオペラオーとメイショウドトウもギアを上げた。

 三人ともすでに限界だったはず。それでも身体から力を振り絞り、星を追う。

 

『アドマイヤベガッ! アドマイヤベガが先頭に立った!! ナリタトップロードが追う!! オペラオーとドトウも追うが、どうか!? 間に合うか!? 残り100m!!』

 

 実況の声に応えるようにレース場のボルテージは最高潮に達した。

 観客はウマ娘たちの名を叫び、声援の雨を降らせていく。

 

「負けるなオペラオー!!」

「アヤベ―! 頑張れー!!」

「トプロォオ!! 負けるな―!!」

「ドトウちゃああん!!」

 

『ナリタトップロードが並んだ! オペラオーとドトウは半バ身後ろ! 勝負はトップロードとアドマイヤベガか!?

 アドマイヤベガが抜け出した! ナリタトップロード食らいつく!!

 差し返した!!

 いやまたアドマイヤベガだ!! 』

 

「ダービーは譲れませんッ!!」

「私だって!!」

 

 僅かにナリタトップロードが前に出た。直前でテイエムオペラオーとメイショウドトウと競り合い、既に限界のはず。なのに、彼女はここ一番でさらに伸びを見せた。

 少しずつ、通り過ぎていく栗毛の影。

───いやだ   

 アドマイヤベガも必死に追う。

───負けられない

 が、徐々に、徐々に彼女との差は広がっていく。

───負けたくない

 世代の頂。その座だけは、決して譲れない。

───例え    

何を犠牲にしようとも

 

「私はああああああああああっ!!!」

 

 そして───

 

“ポルックスへの誓い"

 

 刹那の時、彼女は限界を超えた(みらいをささげた)

 

 

 

『差し返した!! アドマイヤベガが先頭でゴール!! 一着はアドマイヤベガ!!

 今年の日本ダービーを制したのはアドマイヤベガ!! 世代の頂点に、今一等星の輝きが灯りました!!』

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 ワアアアアアアァ───ッ!!

 

 沸き立つ観客。万雷の拍手とスコールのような歓声が東京レース場に降り注ぐ。そのターフの上では、滝のような汗を流すウマ娘たちが乱れた呼吸を整えていた。

 

「はあ……はあ……!」

 

 暴れる心臓がようやく落ち着きを取り戻し、メイショウドトウは掲示板を見上げるだけの余裕を得た。

 掲示板に表示される己が番号を見た。

 

「四、着……」

 

 またしても敗北。しかも前走である皐月賞よりも順位を二つ落としてしまった。

 不甲斐ない、と思わずへたり込んでしまう。でも、負けても仕方ないと内心受け入れてしまうほど、上位三人も必死だった。

 

「いい走りだったよ、ドトウ」

「オ、オペラオーさん……」

 

 差し伸べられた手。

 三着に敗れたテイエムオペラオーは悔しさからか一瞬顔を歪めたが、すぐさまいつもの快活な表情を取り戻した。

 

「さあ立ちたまえ。敗北に項垂れる気も分かるが、まだ僕たちには役目がある」

 

 手を引かれて立ち上がるメイショウドトウ。テイエムオペラオーが視線を向ける先を見て、思わず声が漏れた。

 

「アヤベさん……」

 

 目を閉じ、祈るように手を合わせる少女がいた。

 いつも張り詰めた空気を纏うアドマイヤベガの穏やかな立ち姿は、彼女の凛とした美貌も相まって思わず見惚れるような、絵画を思わせた。

 そして、

 

「トップロードさん……」

 

 片や空を仰ぎ、声を上げて泣く少女がいた。

 いつも明るいナリタトップロードが、滂沱の涙を流す姿に胸打たれた。

 ニ着に敗れた彼女とアドマイヤベガとの着差はクビ差。100mを切った時点で半バ身離されていたメイショウドトウたちと違い、最後まで競り合った結果だ。

 全力を出し、完璧な走りをした果ての敗北だからこそ、悔しさは人一倍だった。

 

「あれこそが勝者だけに許された輝き。あれこそが、惜敗したが故の苦しさ。残念だが、僕はまだ後者を知らない……だから」

 

 テイエムオペラオーが手を叩く。繰り返される拍手に、やがて他のウマ娘たちが倣っていく。

 

「勝者を称えよう。彼女(アドマイヤベガ)こそが、世代の頂点。

 そして認めよう。輝く星に、彼女(ナリタトップロード)だけが手をかけた」

 

 やがて東京レース場は勝者と、惜しくも敗れた者の健闘を讃える拍手で満たされていった。

 

「ああ全く! 最高に楽しいレースだった! そう思わないかいドトウ!」

「───はい。本当に、そう思います」

 

 拍手は空の果てまで鳴り響き、そして、長く長くなり続けた。

 こうして、今年の日本ダービーは終わりを告げた。

 四人の激闘。そして勝者の姿と惜敗の涙は、黄金世代の戦いにも劣らぬ名レースとして長く語られることになる。

 

 

 一着 アドマイヤベガ

 二着 ナリタトップロード

 三着 テイエムオペラオー

 四着 メイショウドトウ

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「ああ全く! 最高に楽しいレースだった!」

「─────────」

 

 耳朶に響くその言葉は、鋭い槍となって、彼女の心臓を貫いた。

 

「わた……し、は……」

 

 弾む心臓。それは激走からの疲労でもなく、聞こえた言葉による驚きでもない。

 未だ湧いた血潮。熱を持った身体。間違いない。この身は、心は、歓喜と興奮に満ちていた。

 

「ダメ、なのに───」

 

 勝ったことへの喜びだけではない。激闘を、同期たちとの競い合いを、楽しんでいた。

 

「そんなことは、許されない……!」

 

 それは誓いの反故。この身は、脚は、生は、償いに費やすのだと決めたはず。

 一等星の輝きの裏で、闇が蠢いた。

 

 

 

 ズキリ、と足に痛みが走った。

 

 

 





 明日で連日投稿は一旦終わります。
 


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58話 ドトウと一等星

今回で一旦連日投稿は終了になります。
感想・誤字報告ありがとうございました。




 

「ドトウ、今日はお疲れ様。しばらくはゆっくり休んでくれ」

「は、はいぃ……」

「みんなも、今日のレースは参考になる部分があったと思う。映像見返したい子は言ってね」

 

 チームルームで催された反省会と称したメイショウドトウの日本ダービー慰労会は門限に余裕をもって解散となった。

 今年の日本ダービーを見たマルカブのウマ娘たちの感想はまちまちだ。

 終盤の競り合いやアドマイヤベガの末脚を語る子もいれば、具体的に対策案を上げてみる子もいた。まだ未デビューのウマ娘たちは自分もあの舞台に立つのだと夢を語る子もいた。

 一方で、アグネスデジタルやグラスワンダーの表情は神妙であった。どちらも秋には今日のダービー上位陣と走る可能性があるため、自分だったらどう走るかを思案しているようであった。

 気が楽なのはトゥインクルシリーズを退き、対戦することがないライスシャワーだ。今年のクラシック級の強さを認めながらも、後輩たちがぶつかる時を楽しみにしているようだった。

 

 そして、本日の主役であったメイショウドトウは少し遠回りで寮へ向かっていた。

 一生に一度の日本ダービー。結果は四着。敗北こそしたものの出るだけでも栄誉であり、掲示板に載っただけでも凄いことだと、頭では分かっている。

 しかし、

 

「勝てなかったなぁ……」

 

 胸には未だ悔しさの熱が残っていた。

 そして、

 

「次は、どうしようかな……」

 

 不透明なこれからに戸惑いがあった。

 トゥインクルシリーズは日本ダービーに始まり、日本ダービーに終わると言われる。

 世代最強を決めるダービーが終われば、次はメイクデビューの時期だ。マルカブでは今のところ予定にないが、早いところでは六月にもデビューするウマ娘がいるだろう。

 そして中距離(クラシックディスタンス)の適性を持つウマ娘ならば皆が日本ダービーを目指す。そうしてウマ娘レースの歴史は紡がれてきたのだ。

 一方で、日本ダービーを終えたウマ娘たちの次走はいくつかに分かれる。

 一つは王道のクラシック路線。秋に行われる最後の一冠である菊花賞を目指す。この路線ならば再び同期の三強と対戦することとなるだろう。

 一つはシニア混合路線。秋シーズンの大一番、天皇賞(秋)を目指す。同期たちとの再戦は先延ばしとなるが、逆にグラスワンダーたち黄金世代とぶつかることになる。決して楽な道ではない。

 そして最後の一つ。

 

 GⅠ戦線を避け、GⅡ以下のレースで堅実に勝ち星を狙う道。

 

 脳裏をよぎった瞬間、頭を振って否定した。

 道そのものは否定しない。だが、その道を歩むことはメイショウドトウが目指すものから外れるものだ。

 トレーナーは具体的にどの道に進むかは示さなかった。言葉にしなかったが、メイショウドトウ自身に決めさせようとしているのだろう。

 どうしても決心がつかなかったら相談しよう。

 そう決めて、偶然グラウンドに目が向いた。

 

「え……?」

 

 信じられないものが見えた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ア、ア、アアアアアアヤベさぁあああん!!?」

 

 叫び声をあげながら、メイショウドトウはグラウンドに飛び出した。

 狂乱したような絶叫に、たった今まで走っていたウマ娘───アドマイヤベガは脚を止めた。

 

「ドトウ、どうしたの?」

「『どうしたの?』じゃないですよ! ど、どうして走っているんですか!? こんな時間にまで!」

「別に。いつもの日課よ」

「日課って……いくらなんでも今日は休んだ方がいいんじゃ……」

「軽くだから大丈夫よ。毎日のことだから、やらないと落ち着かないの」

 

 汗を拭うアドマイヤベガを見て、メイショウドトウは彼女の言が偽りであると気づいた。

 流れる汗、昇る蒸気は決して軽く走った程度で出るものではない。

 ストイックと見ることもできるかもしれない。が、レースをした日の晩から走るなど、グラスワンダーでもしないことだ。

 不安が、胸に満ちていく。

 メイショウドトウの表情で察したのか、取り繕うように彼女は言った。

 

「次は長距離の菊花賞だから、今からでも何かしておきたいの」

「そうですか……。あ、でももう門限も近いですし……」

「───そうね。そろそろ上がることにするわ」

「で、でしたら片付けを手伝います!」

「大丈夫。大したものはないし、一人で準備したから、一人で片付けられる」

「で、でも───」

「門限が近いのはドトウも同じでしょう。私に構ってあなたまで門限破りする必要はないわ」

「でしたら尚更一緒に───」

「大丈夫だから」

 

 会話を打ち切ってアドマイヤベガはメイショウドトウから離れていく。 

 暗闇に向かう背中を、メイショウドトウはただ見守るしかできなかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 日本ダービーが終わった翌日。私は不安な表情でドトウに相談を持ち掛けられた。

 今後のローテーションに悩んでいるのかと思いきや、昨晩あったという出来事を聞いて思わず唸ってしまった。

 

「トレーナーさん、どうしたらよいでしょうか?」

「どう……しようか」

 

 聞く限り、アドマイヤベガの現状は良くない。理由が分からないが、ダービーの激走があった日からトレーニングするなんて選手寿命を著しく削る行為だ。

 

「まずはアドマイヤベガのトレーナーにも伝えよう。チーム・ハマルの奈瀬トレーナーは優秀な人だ。彼女がそんな身を削るトレーニングを許すはずがない」

「もし、それでもアヤベさんが止めなかったら……?」

 

 あり得る話ではある。が、難しいところだ。

 アドマイヤベガの様子は心配ではあるが、結局のところそれはハマルの問題だ。他チームの事情に首を突っ込む真似はよろしくない。

 

 ───でもお兄さまは担当じゃないウマ娘の面倒も見ようとするよね?

 

 ……幻聴が聞こえた。いや、アレとかアレの時は担当がついていない子だったから。流石に担当トレーナーいる子にまで声は掛けない。……掛けてない、はず。

 

「奈瀬トレーナーを信じよう。大丈夫、彼女ならきっと上手くやってくれるさ」

「そ、そうですよね……」

 

 

 

 

 

 

 ドトウからの相談を受けて、早速私は奈瀬トレーナーの下へ向かった。

 促され、席に着いたところでドトウから聞いたアドマイヤベガの様子を伝えると、彼女は心底驚いた後、深く頭を下げた。

 

「お話は分かりました。教えてくださってありがとうございます」

「頭を上げて下さい! むしろお節介にならなかったようで良かったです」

「お節介だなんて……本来なら担当である僕が気付くべきことです。それを他のウマ娘、しかも同期のライバルから指摘されるなんて……」

 

 奈瀬トレーナーが憂いた表情を浮かべる。

 

「自分のやることに干渉しない。それがアドマイヤベガと契約する時、彼女が出した条件でした」

「それはまた……」

「澄ました顔で随分な大口を叩くものでしょう? ですがそれだけ彼女の素質が高かった。……アドマイヤベガの母親をご存知ですか?」

 

 奈瀬トレーナーの口から出たのは、私でも知る有名なウマ娘の名だった。

 言われてみればなるほど確かに、アドマイヤベガにはその面影が見えた。

 

「母親の才能をアドマイヤベガは確かに受け継いでいました。その能力の高さから、そして危うさから、ハマルは彼女を迎え入れることを決めました」

 

 チーム・ハマルの面々を思い出す。

 スーパークリーク、ナリタタイシン、マーベラスサンデーとクラシックやシニア級で活躍した彼女たちだが、その裏でケガや病気に悩まされていた。

 そんな彼女たちを育て上げたトレーナーの手腕を称え、世間は奈瀬文乃を魔術師と呼ぶのだ。

 だが、今私の前にいる魔法使いの表情は曇っていた。

 

「情けない話です。意気揚々とアドマイヤベガをチームに迎えたものの、僕は未だ彼女が何を抱えているのか分かっていない」

「奈瀬トレーナー……」

「いえ、泣き言なんて言っている場合じゃありませんでしたね」

 

 立ち上がる奈瀬トレーナー。顔から曇りは消え、強き女傑のものになっていた。

 

「改めて、連絡ありがとうございました。ここからは僕の仕事です」

「ええ。頑張って下さい」

 

 素直に応援の言葉を伝えると奈瀬トレーナーは一瞬キョトンとして、フッと笑った。

 何故笑うのか、理由が分からずにいると彼女の方から答えが来た。

 

「だって、まだ僕らの担当はライバルでしょう。なのに頑張ってなんて……塩を送っているようでつい」

「レースとウマ娘の体調は別の話でしょう」

「そうでしょうね。でも行動に移すトレーナーは多くない。……いえ、動けるからこそマルカブはずっと雰囲気が良いのでしょう」

「そう見えているのなら良かったです」

 

 奈瀬トレーナーと別れ、ドトウのLANEにメッセージを入れておく。

 少なくとも、アドマイヤベガが無茶なトレーニングをすることはないだろう。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「なんで……」

 

 その日の夜。

 グラウンドを見つめるメイショウドトウの口から絶望の声が漏れた。

 自分のトレーナーから、ハマルのトレーナーへ伝えてもらったはずだ。彼が嘘をつくハズがない。彼女が忘れるとは思えない。

 なのに、何故アドマイヤベガは今日も走っているのか。

 

「ア……ア、ア、アヤベさん!!」

 

 思わず駆け出した。向こうも気づいたのかスピードを落とし、メイショウドトウの前で止まる。

 

「ど、どどどうして走ってるんですか!?」

「ドトウ……その話は昨日したはずよ」

「だって……だってトレーナーさんから何か言われたはずじゃ───」

 

 瞬間、アドマイヤベガの表情が変わった。

 

「そう、あなたの仕業だったのね……」

 

 アドマイヤベガの視線が剣吞なものとなる。敵対者に対するような眼差しに、メイショウドトウは身がすくむ。

 

「余計なことはしないで……!」

「で、でも」

「私の───!」

 

 その声は、彼女にしては珍しい怒りを滲ませたものであり、

 

「邪魔をしないで……!」

 

 瞳には、悲痛な想いが宿っていた。

 

「私のことは、もう構わないで」

「ア、アヤベさん……!」

 

 メイショウドトウの制止を振り払い、アドマイヤベガは去って行く。

 その歩みは寮ではなく、学園の外へと向かう。

 端からこうする予定だったのか、アドマイヤベガの歩みに迷いはない。

 月の明かりも届かない闇の中へと身を沈める様子を、メイショウドトウはただ茫然と見ているしかなかった。

 

「……どうしよう」

 

 アドマイヤベガの姿が見えなくなり、グラウンドにただ一人残された少女の口から言葉が漏れた。

 

「どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしたら……!!」

 

 こんなはずではなかった。

 無茶をするアドマイヤベガのことをトレーナーに報告に、担当から注意してもらう。それで万事解決のはずだった。

 なのに事態は悪化している。

 アドマイヤベガは担当トレーナーの忠告を無視し、身体を痛めつけている。

 メイショウドトウはもうアドマイヤベガにとって邪魔者でしかない。

 

「ト、トレーナーさんにもう一度……!」

 

 スマホを取り出し、電話帳アプリからトレーナーの番号を呼び出したところで手が止まる。

 通話ボタンを押せばかかるはずなのに、震えた指先は動かない。

 

「トレーナーさんに言ってどうするの?」

 

 すでに実行した手段だ。それがこの事態を招いた。

 同じことをして好転するとは思えなかった。むしろアドマイヤベガの周りとの溝をより深めるだけではないか。

 悪化した事態の原因としての罪悪感と自己嫌悪がメイショウドトウに襲い掛かる。

 しかし、こうしている間にもアドマイヤベガは己が身を削っていく。

 有効手段が思い浮かばない。時間だけが過ぎていくことに、さらに自己嫌悪が積みあがっていく。

 

「わ、私って本当に……」

 

 

「ドトウさん? どうしたの……?」

 

 溢れそうになった涙は、不意に掛けられた声で引っ込んだ。

 視線を向ける。

 闇に融けたような黒髪と、そこから除く紫電の瞳。中等部のメイショウドトウよりも遥かに小さい体躯。

 

「ライス先輩ぃ……」

 

 けれど、メイショウドトウが知る中で誰よりも強いウマ娘だった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「そっか、アドマイヤベガさんはそんなことに……」

 

 メイショウドトウから事の次第を聞いたライスシャワーは思考を巡らせる。

 面識は無いも同然の相手だ。メイショウドトウと同じレースを走っているから顔と名前は知っている。が、それだけ。人となりは全く知らない。

 なので、アドマイヤベガの意図を図ることはできない。

 なら、と泣きそうになっているメイショウドトウに告げる。

 

「ドトウさんは……どうしたい?」

「へ?」

 

 間の抜けた声が返ってきた。

 唐突な問いを、メイショウドトウは溢れそうだった涙も止めて反芻する。

 そして、

 

「わ、わからないです……」

 

 弱々しい答えが零れた。

 

「アヤベさんが心配で、トレーナーさんに相談して……そしたら、アヤベさんを怒らせてしまって……。

 助けるつもりがアヤベさんをもっと追い込んでしまいました。私なんかが何かしても、余計なことにしかならないです……」

「ドトウさん……」

 

 元より自己肯定感が低い娘だ。それが今回の一件で自信を喪失してしまっていた。

 

「……ドトウさんの気持ち、ライスは分かるよ。頑張って、決意して、誰かのためって思って実行したら思ったような結果にならなかった時の気持ち」

 

 ライスシャワーの脳裏によぎるのは自分が走った菊花賞。ついに獲ったGⅠの栄冠に喜ぶ者が確かにいた一方、その勝利に俯く者が多かった。

 ミホノブルボンの三冠を阻んだという非難の声。真剣勝負なんだぞという擁護と非難に対する批判の声。幸せを祈る少女の走りが、世間に不和を呼んでしまった。

 

「だから、ドトウさん」

 

 その時の痛みを知るからこそ、ライスシャワーは告げる。

 

「ここで止まっちゃダメ」

「ライス先輩……?」

「上手く行かなかったのは分かるよ。事態が悪化しちゃって自分のすることが正しいのか分からなくなっちゃうのも」

「で、でもぉ……私なんかじゃあ……」

「大丈夫。ドトウさんは強いもの」

 

 ほえ? と間の抜けた声がメイショウドトウから漏れた。ライスシャワーの言葉を理解したところで、メイショウドトウがあわあわとしだした。

 

「わ、わわわ私が強いなんてありえないですよ!」

「ううん強いよ」

「だ、だってだって! わ、私なんてGⅠも勝ててないし、先輩たちみたいに凄い目標もないしそれから───」

「強いよ」

 

 ライスシャワーがメイショウドトウの手を掴んだ。

 

「秋の天皇賞に向けてライスが追い込んでいる時、ドトウさんだけが口に出してライスを止めてくれたよね」

 

 頑張って、無理をしないで、応援や身を按じた言葉を送るウマ娘はいたが、休もうとはっきり言ったのはメイショウドトウ一人だった。

 見守る者が多い中、彼女だけがライスシャワーを止めようとしたのだ。

 

「エルさんやグラスさんは勝つことへの意識が強いっていうのもあったと思う。あの時は大丈夫って言ったけどね、ドトウさんの言葉は嬉しかったよ。だから、あそこで止めようと動けるのはドトウさんの強いところ」

 

 真っ直ぐにメイショウドトウを見ながら、ライスシャワーが続ける。

 

「正直、ライスにはアドマイヤベガさんの気持ちは分からない。何を背負っているのか、どうして自分を傷つけるのか。だからあのヒトを説得する言葉は思いつかない。……シャカールさん風に言うのなら、ロジカルじゃないっていうのかな。……だからね? 分からないなら、自分の我儘をぶつけるしかないと思うの」

「我儘を……?」

「うん。自分が相手にどうして欲しいのかを伝えるの。向こうが気持ちを教えてくれないのなら、自分の気持ちを伝えるの。

 ……だからもう一度聞くね。ドトウさんはどうしたい?」

「わ、私は……」

 

 口がもごもごと動くが、言葉が出てこない。

 ライスシャワーは優しく見守る中、メイショウドトウの脳裏に同室の言葉が蘇る。

 

 ───“いつか”を“今”にするか、“十年後”にするかを決めるのはオマエ自身だ

 

「私は……」

 

 自分の夢は何か。望みは何か。そのために何が出来るのか。

 

「私は───」

 

 動くのは“今”だ。

 

「私は!!」

 

 弾けるように、メイショウドトウは駆けだした。

 止める間もなく闇夜に消えていく背中を見て、ライスシャワーは苦笑した。

 目的は分かる。だが彼女がどこにいるのか知っているのだろうか。知らないだろう。知らないが、感情のまま走り出した後輩の姿に成長を感じていた。

 

「さて、と……」

 

 スマホを取り出す。LANEか、電話か。どれが一番手っ取り早いか考えながら操作していく。

 

「頑張ってねドトウさん。ライスたちも、協力するから」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 自分の生は譲られたもの。アドマイヤベガの根底にはそれがあった。

 自覚したのは幼少期に母に誘われレースに出た時だ。走ることへの欲求、勝利の喜び、それはアドマイヤベガ自身が想像していた以上のものだった。

 そしてその理由を知った時、彼女の人生の指針は定まった。

 この生は、生まれてくることができなかった半身のために捧げよう。生きることができなかったもう一人のために、あの子の望みを私が叶えよう。

 それが、自分の存在理由だ。

 

「はあ……はあ……!」

 

 街灯もない山中を、アドマイヤベガは一人駆けていた。

 勾配のある山道を駆ける彼女の息は荒い。肺が締め付けられるように痛み、脚は焼けているかのようだった。

 

(これでいい……)

 

 日本ダービーが終わった彼女の次なる目標は秋の菊花賞、3,000mの長距離レースだ。走り切るためにもスタミナ面の強化は必須だった。

 そして、これは自身への戒めでもあった。

 

(もう、私は間違えない……!)

 

 先日の日本ダービー。アドマイヤベガの胸は高鳴った。同期との激闘に熱を持ち、勝利に歓喜した。

 ……その感情は、生まれてこなかった半身が抱くはずだったのに。

 使命を忘れて自分の幸せを享受してしまった。それはいつかした誓いへの裏切りであり、許し難いことであった。

 故に、アドマイヤベガは今改めて走るだけの存在へと変わろうとしていた。

 勝利も、栄光も、幸福も。全てを捧げて(なげすてて)

 

「ア、アヤベさん!」

「…………ドトウ」

 

 思考を遮る声。振り返ればメイショウドトウが立っていた。

 顔には滝のように流れる汗。トレセン学園の制服は薄汚れ、ほつれた箇所もある。あれから必死に追ってきたのだろう。

 アドマイヤベガの居場所など知る由もないだろう。きっと、文字通り虱潰しに走り回ったのだ。

 

「構わないでって言ったはずよ」

「ま、まずは……ごめんなさい。勝手なことをしました」

 

 頭を下げながら、でも、とメイショウドトウは続けた。

 

「アヤベさんが心配だったのは本当です。レースを終えたばかりなのにすぐトレーニングして……このままじゃ体を壊してしまいます」

「あなたには関係ないことでしょ……」

「大切なヒトの、こと、です……!!」

「──────」

「ア、アヤベさんにとって私はただの同期かもしれませんけど……私にとってアヤベさんは凄いウマ娘で、素敵で、尊敬できて、オペラオーさんと同じくらいの憧れで───」

 

 少女が顔を上げる。

 

「幸せになって欲しいんです」

「…………勝手なことを言わないで」

「そう、ですね。ごめんなさい。……でも、これが私の気持ちです。ここまで来た理由です」

 

 一歩、少女が距離を詰める。

 

「アヤベさんは私なんかと違ってしっかりしているから、きっと何か考えがあるんだと思います」

 

 さらに一歩、また一歩、少しずつ孤高の星へと歩み寄る。

 

「それは私には分からないことかもしれません。でも、だからって見ているだけは嫌です」

 

 ライスシャワーは見事復活し、秋の天皇賞を走り切った。サイレンススズカは奇跡的に生き残り新天地へと旅立った。しかし、アドマイヤベガも同じようになる保証はない。

 

「トレーナーさんに言うのがダメなら、私が何回も伝えます。何度も言います。何回だって、止めます」

 

 ついに、メイショウドトウはアドマイヤベガの目の前までやって来た。

 その手を伸ばし、星を掴む。

 

「無茶な真似は止めてください。自分を、もっと大切にしてください」

「ドトウ……」

 

 真っ直ぐにアドマイヤベガを見つめるメイショウドトウ。いつも弱気なはずのその瞳が、今は力強い光を宿していた。

 その光は顔を背けたくなるほどに眩しくて、

 

「やめて」

「やめません」

 

 振り払おうとした手は頑なで、掴まれたままだった。むしろますます力を込めて手を握ってくる。

 

「放しなさい」

「放したらトレーニングを止めて戻ってくれますか?」

「…………」

「放しません……!」

「本気で怒るわよ」

「お、怒られてもやめませんから……!」

「いい加減に───」

 

 メイショウドトウの優しさに触れる度に胸の奥が痛む。その優しさも、本当ならここにいないあの子が得るはずだったものなのに。

 こみ上げた罪悪感が、怒声となって迸った。

 

「いい加減にして! 私はこんなことしている場合じゃない、あなたに私の何が分かるの!!」

「話してくれないんだから、分かるわけないじゃないですか!!」

「……っ!」

 

 怒鳴り返されるとは予想外だったのか、アドマイヤベガは言葉に詰まった。

 

「何を考えているのか分かりません。アヤベさんが何を背負っているのか分かりません。聞いていいことなのかも……話しにくいことなんだろうなってことしか分かりません。

 分からないから、私の気持ちを伝えます。

 

 ……もっと、自分を大切にしてください」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「私は、双子だったの」

 

 根負けして学園に帰る道中、アドマイヤベガはぽつりぽつりと語りだした。

 

「えっと、双子だったというのは……」

「一緒に生まれてくることは無かったということよ」

 

 メイショウドトウが息を呑むのが分かった。

 自分の出生は担当トレーナーである奈瀬にも明かしていないことだ。それを彼女に話すというのは妙な気持だった。

 

「私も母に聞かされるまで知らなかった。でも、あの子はずっと私の中にいた。レースに出て勝つとあの子が喜んでいるのが分かった」

 

 自嘲的な笑いが漏れた。

 

「……変な話ね。顔も声も知らないのに気持ちは分かるなんて」

「でもそれが、アヤベさんが走る理由なんですね」

「ええ。あの子が出来ないことを私が代わりにやろうと思った。トゥインクルシリーズに出て、大きなレースに勝つ。あの子が受けるはずだった賞賛や栄光を、私が掴む。それが私の使命、生きる理由」

 

 学園が見えてきた。夜間の外出届など出していないことを思い出してため息を漏らす。反省文か、罰掃除か。どちらにしろ寮長からの大目玉は確実だった。

 

「話はおしまい。これで私がレースに拘る理由もわかったでしょ。今日は大人しく戻ったけど、これ以上私のことは───」

「───ア」

「え?」

「ア~ヤ~ベ~さ~ん~~!!」

「ってちょっと!? どうして大泣きしているのよ!?」

「だって、だってえええ~~~~!」

 

 山中で見せた強気はどこへやら。メイショウドトウの両目からは滂沱の涙が流れていた。

 

「アヤベさんは姉妹(しまい)のために走ってたなんて……そのために無茶なトレーニングまでして……」

「だからって、あなたが泣くようなことじゃないでしょう!」

 

 ズビズビと鼻を鳴らして、よし、とメイショウドトウは決意したように頷いた。

 

「私が走ります!」

「……………は?」

「アヤベさんの代わりに私が走ります! アヤベさんの走り方で!」

「ちょっと。何を言っているか分かってる?」

「分かってます!」

「それ絶対分かってないヒトの答え方よ。大体、私とドトウじゃ走り形が全然違うでしょう」

「教えてください!!」

「えぇ……」

「アヤベさんは双子さんのために走るんですよね! じゃあアヤベさんに教えてもらった走りで勝てればアヤベさんが勝ったのと同じじゃないですか!」

「その理屈はおかしいでしょ……」

「でも、これならアヤベさんは休めます!」

「落ち着きなさい。私に教わるって、チームが違うじゃない。別のチームにいるウマ娘で協力するなんて聞いたことがない」

「だ、だったら……だったら───!」

 

 ようやく、メイショウドトウが言葉に詰まった。

 流石に致命的な一言は踏みとどまったかと、アドマイヤベガは安堵した。

 とにかく彼女の突拍子もない発言を止めさせようと説得の言葉を考えるが、二人揃って失念していた。

 

「あらあら~」

 

 ここが、トレセン学園の目の前なのだと。

 

「随分と、面白い話をしていますね~?」

 

 穏やかそうな声。なのに聞いている二人の顔から血の気が引いていく。

 特に、付き合いのあるアドマイヤベガは知っていた。この声色は、本気で怒っている時だと。

 

「ク、クリークさん……!」

「アヤベちゃん、ドトウちゃん。二人ともお話があります」

 

 あのオグリキャップとしのぎを削った永世三強の一角。チーム・ハマルのリーダー役であるスーパークリークが、黒い笑みを湛えていた。

 

 

 

 そして、

 

 

 

 ◆

 

 

 

 そして、翌朝。

 

「えー今日は大事なお知らせです。しばらくの間、私たちチーム・マルカブとチーム・ハマルは合同でトレーニングを行います」

 

 両チームのウマ娘たちから、おおー! と感嘆の声が響く。隣に立つ奈瀬トレーナーに促されて続ける。

 

「ハマルは知っての通り、長距離から短距離まで幅広い名ウマ娘が所属するチームです。ドリームトロフィーリーグに移籍した子も多くいます。学ぶことは多いと思うので頑張っていきましょう!」

「僕からも。マルカブは今特に勢いのあるチームの一つです。ハマルだけでは受けられない刺激もあるはずだから、しっかりと身に着けてください」

『はーい!』

 

 元気な声と拍手が起こったところで、各自がトレーニングを始める。

 今言った通り、ハマルのウマ娘とマルカブのウマ娘が混じってメニューをこなしていった。

 

「……思ったよりすんなり受け入られましたね」

「ええ、反発があるかと思いましたが杞憂だったようです。

 ……改めまして、こちらのアドマイヤベガのために協力いただきありがとうございます」

「いえいえ。元はうちのドトウが言い出したことですから」

 

 昨夜、ライスからドトウとアドマイヤベガの件を聞いてから少しして、今度はハマルのスーパークリークから二人が学園に戻ったと連絡があった。

 アドマイヤベガはレース自体の消耗と、レース直後のハードトレーニングにより脚への負荷がかなり大きくなっていた。

 奈瀬トレーナーや学園の医療スタッフの診断ではしばらくトレーニングは絶対禁止とのことだ。

 

「元より菊花賞は適性的に厳しかったけれど、今回の件で間に合う可能性はなくなった」

「……はい」

 

 無慈悲な決断だったはずだが、意外にもアドマイヤベガはすんなりとこれを受け入れた。

 張り詰めたような空気は消え、憑き物が落ちたようだったが、理由はドトウの提案だったらしい。

 そして今日から、

 

「ドトウ、こっち来い」

「は、はい。なんでしょう……?」

「オマエは特別メニューだ」

 

 シャカールがドトウを私たちの前に連れてきた。

 

「ドトウ。確認だけど、昨日言っていたことは本気?」

「ほ、本気、です……!」

「アドマイヤベガの走りを継承したうえで菊花賞に挑む。その意味が分かっているかい?」

「わ、分かっています……!」

 

 ドトウの脚質は前目の先行。対してアドマイヤベガは後方からの追込み。正反対の脚質だ。

 元よりスタミナはある方とはいえ、菊花賞に向けて長距離のトレーニングに加えて脚質の変更。実現は至難の業だろう。

 だが、

 

「わ、私に出来ることはなんでもやります! なので、どうか協力をお願いしましゅ! ……噛んだ

 

 あのドトウが、自分に自信を持てず弱気だったドトウが自分から明確な目標を言ってきたのだ。トレーナーとしてこれを応援しないわけにはいかない。

 

「よし、じゃあ始めようか。菊花賞に向けての特別メニューだ」

「はい! ……はい? 特別?」

「当たり前だろ。生まれもっての脚質を変える、しかも他人の走り方に矯正しながら3,000m走る身体を作るなんざ、並大抵のメニューじゃ実現性がねェ。だが」

「そこは私たちが」

「しっかりサポートするね!」

 

 シャカールの声に合わせて、脇から現れたスーパークリークとライスががっしりとドトウの肩を掴む。

 

「え? ……え?」

「メニューはシャカールと私たちトレーナー二人できっちり組んだ。走り方の再現性のためにアドマイヤベガにも見てもらう。そしてなにより」

「学園トップクラスのステイヤー二人による直接指導だ。キツいだろうが、アヤベのためにも頑張ってもらおう」

「ククク……いいデータになりそうだ」

「が、ががが頑張りますぅぅう!!」

 

 悲鳴にも聞こえる声をあげつつも、メイショウドトウの挑戦が始まった。

 

 

 

 そしてまた、

 

「ドトウさんが覚悟を見せましたね。なら、先達として私も……!」

 

 グラスの宝塚記念が迫っていた。

 

 

 

 






 ドトウに火が点いたところで覇王世代の話は一旦終了。
 次回が宝塚記念で、その次はデジタルにスポットを当てる予定です。
 ……更新は早めにできるよう頑張ります。


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59話 グラスと宝塚記念

前よりは期間空かなかったな、よし!
一話ずつ、四日間投稿します。




 時間は少し遡り、天皇賞(春)が終わって少し経った頃。

 日本ダービーやオークスに注目が移るまで、世間はセイウンスカイのレコード勝利に沸いていた。

 皐月賞ウマ娘の一年ぶりのGⅠ制覇。しかも現役トップクラスの面々を相手取っての勝利だ。番狂わせとも格上倒しとも言える勝利は人々をより惹きつけた。

 

「……正直、勝てたのは運が良かった」

 

 一方、当のセイウンスカイ陣営は冷ややかだった。というよりも、世間の称賛に舞い上がらずにレースを分析していた。

 

「本命視されてたメジロマックイーンとライスシャワーがまだ本調子じゃなかった。けど周りは二人をマークしてたからスカイへの警戒が薄かった。

 菊花賞、有記念の負けが印象にあって長い距離への適性が侮られた。こんなところか」

 

 テレビに流れるのは天皇賞(春)のレース映像。何度も見直してきたそれをまた改めて見て、セイウンスカイのトレーナー───同僚からはヒロと呼ばれる男はそう結論付けた。

 

「悔しいですけど、足元すくって勝った感は否めないですよねー」

 

 そう言いつつ、セイウンスカイの顔に不満の色はない。フィジカル任せでなく、策を弄しての逃げ切り。それが自身のスタイルだと自負している。当然、世間からの評価が低いのを利用するのも策のうちだ。

 

「でもトレーナーさんがそういうこと言うの珍しいですね。てっきり運だろうと勝ちは勝ちだ!ってタイプの人かと」

「自分で言うのはいいんだ。他人に言われると腹が立つだけで」

「ええ……」

 

 ほらよ、とトレーナーが雑誌を机の上に放り出した。

 トゥインクルシリーズを扱った数ある雑誌の一つで、パラパラとページをめくると天皇賞(春)を振り返ってと題した特集記事があった。

 

「えーとなになに……『一年ぶりのGⅠ制覇は皐月賞を思い出させる見事な逃げ切り勝ちであった。しかし、レースの流れを見れば展開に助けられたところが多いという印象だ。自身に優位な展開を引き込むのも実力だが、やはり強い逃げウマ娘というとサイレンススズカやミホノブルボンといった他者を寄せ付けない走りが理想だろう』……むー」

 

 まだ続きはあったがそれ以上は読む気が失せた。

 

「なるほど、トレーナーさんの気持ちが分かりました」

「だろう? つーわけで、こういう連中を黙らせるにはもっと勝たなきゃならん。しかもできるだけデカいところをな。だから次は───」

「宝塚記念ですか?」

 

 トレーナーが頷く。セイウンスカイの適性は芝の中距離から長距離。上半期に該当するGⅠはそこしかない。

 

「おそらく今回の春天メンバーの多くがここを目指す。あのメンバー相手に二回も逃げ切れば、フロックなんて言う輩はいなくなる。そして」

「みんな春天のリベンジマッチのつもりで来るから気が抜けないと……あーあ、セイちゃんのお休みが無くなっちゃう!」

「これが終われば夏休みだ。海釣りでも渓流釣りでも付き合ってやるから気合いれろ」

「しょうがないかー」

 

 その翌日から、セイウンスカイ陣営は動き出した。天皇賞の疲労もあることから簡単なジョギング程度から始めて、徐々に中距離に向けて調整しようという算段だった。

 しかし、ある日のこと。

 

「トレーナーさん。その……ちょっと脚、痛いかもです」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「セイウンスカイが宝塚記念を回避か……」

 

 飛び込んできた速報に、私は思わず声を上げてしまった。

 日本ダービーも終わって六月、セイウンスカイの不調が報道された。記事には担当であるヒロさんが報道に投げた文が載っていた。

 曰く、春天の疲れがこのタイミングで吹き出したのか、歩様に乱れが出てきたとのこと。復帰時期は未定。骨折、炎症は見られないが大事を取ってまずは回復に努めるとのことだった。

 レース引退の文字がないことに安堵しつつ、春天のリベンジができないことに溜め息が漏れた。

 

「彼女が出ないとなると、展開が大きく変わりそうだ」

 

 宝塚記念の出走予定メンバーを再確認する。

 人気投票で出走も叶う上半期のグランプリだけあって、多様な面々が名を連ねていた。

 年が明けてから春にかけて実績を積み上げてきた者、勝ちこそないもの好走を繰り返し次こそはと期待される者と様々だ。しかし、やはり目を引くのは既にGⅠを制したことのあるウマ娘たちだろう。

 一人はマチカネフクキタル。一昨年の菊花賞ウマ娘だがここ最近は勝利が遠のいている。が、あのサイレンススズカを重賞で破ったことのある数少ないウマ娘だ。油断はできない。

 一人はサクラバクシンオー。昨年のリベンジとばかりの出走だ。数年前では信じられないことだが、ついに大阪杯を制した彼女の可能性は未知数。距離をさらに200m延ばしての出走だが、コースは同じ阪神レース場。セイウンスカイが不在なら、レースを引っ張るのは彼女かもしれない。

 そして、

 

「スペシャルウィーク……」

 

 グラスと同期であり、あのエルを打ち破ったダービーウマ娘。直接対決の成績としてはこちらが勝ち越しているがそれらのレースはいずれも長距離。中距離での激突は今回が初めてだ。次の宝塚記念、一番の強敵は間違いなく彼女だろう。

 

「どう戦うか……」

 

 スペシャルウィークの末脚は驚異的だ。日本ダービーを見るに、終盤の力比べで彼女に勝つのは至難の業だろう。

 思案しているところにスマホが振動。見ると、新しくレース関連の速報が届いたようだ。もしかしたら宝塚記念のヒントになるかもしれないと開いてみると。

 

「これは……!」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「スペちゃん、ちょっといいですか?」

「グラスちゃん? いいけど、どうしたの?」

「えっと、その……」

 

 授業の合間の休み時間。グラスワンダーがスペシャルウィークに話しかけた。

 どこかよそよそしい態度に、スペシャルウィークは首を傾げた。

 レースでは譲れないライバル同士だが、それ以外では仲の良い友人だ。一緒に遊びに行くこともあるし、試験が近づけば勉強も共にする。なのに、こうも口籠るのはどういうわけか。

 分からずにいると、意を決したグラスワンダーが問うた。

 

「凱旋門賞に出るというのは、本当ですか?」

「…………本当だよ」

 

 シン、と教室から音が消えたのは気のせいではないだろう。教室やすぐ外の廊下にいるウマ娘たちの視線が集まってくるのをスペシャルウィークは感じ取った。

 

「トレーナーさんと相談してね。でも、海外に行くのは宝塚記念に勝った場合の話だよ」

「どうしてです?」

「日本一を目指すなら、世界に挑むなら、勝っておきたい相手がいるから」

 

 それは誰か、と問う必要はなかった。

 日本ダービーを制したスペシャルウィークが挑む、宝塚記念に出るウマ娘など限られている。

 

「勝負だよ、グラスちゃん」

 

 黄金世代三強の一角、ジュニア級に王者として君臨し、クラシック級でグランプリを制した怪物。

 貴女に勝って、私は世界へ行く。頂点を目指す少女からの宣戦布告だった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 日中に伝えられたスペシャルウィークの海外遠征は即座に学園中に、そして世間に広まった。

 ダービーウマ娘の海外遠征は即ち世代の代表が世界に挑むことを意味し、既に渡欧していたエルの活躍も合わせてメディアを賑わせていた。

 

「スペシャルウィークが凱旋門賞ですか。スピカも思い切った選択をしますね」

「奈瀬トレーナーから見てどう思いますか?」

「チャンスはあるんじゃないですか? ダービーの末脚は見事でしたし。日本と欧州で芝の違いはありますので現地の走りを見ないとそれ以上の判断できませんが。しかし……」

 

 奈瀬トレーナーがグラウンドに視線を向ける。

 

「グラスワンダー、気合が入っていますね」

 

 口にすると同時、併せをしていたグラスが仕掛けた。しかし相手もむざむざと抜かせはしない。

 模擬レースかと思わせる激しい競り合いに周りのウマ娘たちも息を呑んだ。

 結局、あと一歩まで迫ったもののグラスが差し切ることは無かった。

 

「いやー危なかったッス! もう少しで抜かれるところだったッス!」

「ふう……ありがとうございました」

 

 こちらこそ! と快活に返したのはハマルに所属するバンブーメモリー。今はドリームトロフィーリーグだが、トゥインクルシリーズではスプリントからマイルで活躍した快速ウマ娘だ。

 

「バンブーとの併せをお願いされた時はどうかと思いましたがまさか競り合えるとは……。菊花賞ウマ娘という評判に囚われていましたがマイルでも活躍できそうですね」

「そう言ってもらえると自信になりますね。来年は安田記念を狙うのもいいかもしれません」

 

 バンブーメモリーと競り合えるのなら現実的な目標だろう。ジュニア級で負ったケガで瞬発力が落ちていないか心配だったが、杞憂だったようだ。

 

「しかし、本番でもスペシャルウィークの後ろに着く気ですか?」

 

 奈瀬トレーナーの疑問ももっともだ。グラスとスペシャルウィークの対決を見返せば、いずれもグラスは彼女の前に着いていた。結果スペシャルウィークに先着しているのだから、それに倣う方が良いだろう。

 しかし、

 

「スピカもそこは対策してくるでしょう」

 

 思えば随分と因縁が溜まっている。メジロマックイーンとライスに始まり、サイレンススズカ、そして今はスペシャルウィークだ。

 特にグラスとスペシャルウィークはクラスメイトということもあってなおのこと意識しあっている。

 

「考えられるのはスペシャルウィークがグラスをマークすること、もしくはグラスワンダーの前に着くことです」

「相手のスパートに合わせて仕掛ける、後ろについて負けたのなら前へ、末脚自慢なら妥当な策ですね」

 

 ですが、と奈瀬トレーナーが続ける。

 

「グラスワンダーがスペシャルウィークをマークすることで片方の策は潰せます。それでも結局、末脚のキレであのダービーウマ娘と競うことになります」

「承知の上です」

 

 何度も言うが、スペシャルウィークの末脚は凄まじい。だが、グラスがそれに劣るというのは実績からの推定でしかない。

 なによりも、

 

「エルを倒した末脚に敗れることも、まして真っ向勝負を避けるなんてこと、我慢できないよね………」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 打ち直す。

 歪んだ刀身を整えるように。

 研ぎ澄ます。

 毀れた刃を研ぐように。

 一薙で全てを切り裂く刃を目指す。

 

 蒔を焚べる。

 熱をもっと高く、もっと純なるものにするために。

 我欲を燃やす。不純を熔かす。

 ただ、天を焦がすような熱を目指す。

 そうだ。

 薔薇のような赤(じょうねつのひ)は、私には似合わない。

 私はただ、薔薇のような青(めもさめるほのお)でいい。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 阪神レース場は沸いていた。

 春シーズンを締め括る宝塚記念があるからだが、理由はもう一つ。スペシャルウィークの海外遠征の可否を見に来ていた。

 昨年のジャパンカップをもってエルコンドルパサーが欧州へ渡ったように、気の早いファンはグランプリを制して海を渡る王者の姿を幻視していた。

 

「あいつがここまでのスターウマ娘になるとはな……」

 

 そこかしこに見える、スペシャルウィークを応援する横断幕やグッズを手にするファンの姿を見て、スピカのトレーナーは呟いた。

 能力の高さは編入した時から目をつけていた。田舎から出てきたせいかどこか世間知らずなところがあったが、日本一のウマ娘という夢に向かって邁進する姿は見ていて応援したくなる。

 思わず、祈るように手を合わせた。

 

「勝てよ、スペ…………」

「果たしてそう上手く行くかしら?」

 

 水を差す声。振り返るとチーム・リギルの東条がいた。

 

「おハナさん?」

 

 ここで会うとは意外だ、とスピカのトレーナーは記憶を巡る。

 確か今日走るリギルのウマ娘はいる。がメインである宝塚記念に出るウマ娘はいなかったはずだ。グランプリを見るにしてもチームに配られた部屋で観るものと思っていた。

 

「チームの娘の出走は終わったから、今日はもう自由行動よ」

 

 思考を読んだように東条が言った。辺りを見渡せば確かに、ナリタブライアンとヒシアマゾンが客席に居たり、フジキセキが後輩たちと歓談していたり、珍しくリギルのメンバーがバラバラに行動していた。それでもほとんどがレース場に留まっているあたり、彼女たちも気になるのだろう。このレースから世界に羽ばたくウマ娘が生まれる瞬間が。

 

「……というかおハナさん、そう上手く行くかってどういう意味さ」

「そのままの意味よ。あんたも知っているでしょ、マルカブとハマルが手を組んだの」

「ああ、あれね……」

 

 日本ダービー後に知らされた、アドマイヤベガがいるチーム・ハマルとメイショウドトウがいるチーム・マルカブの協同は学園内のトレーナーたちに衝撃を与えた。

 チームにしろ単独にしろ、トレーナー業というのは全員がライバルだ。スケジュールの都合から共にトレーニングをすることもあるがその日限りか、月に一回あるかないかだ。ところが件の二チームは夏を超えて秋までの間、毎日合同でトレーニングをするというのだ。

 

「菊花賞に焦点マジで当ててるってのは思ったよ」

 

 同時にアドマイヤベガの長期休養が発表された。ダービーを獲ったウマ娘が所属するチームが、菊花賞に出るであろうウマ娘を有するチームと手を組む。目的はすぐに分かった。そしてテイエムオペラオーで菊花賞を狙うリギルがあちらを警戒するのは当然だった。

 

「他人事ね。その合同チームで鍛えられたウマ娘が早速出てくるっていうのに」

「グラスワンダー……確かに警戒はしているさ。スぺも意識してるしな」

「口だけなら何とも言えるわ」

 

 東条の棘のある言が続く。

 

「個々の特性に合わせた緻密な戦略で、ウマ娘の能力を百%引き出すことに長けたハマル。精神的に寄り添い、時に限界を超えた力を引き出すことを可能とするマルカブ。この二チームが組んだらどんなウマ娘が出てくるか……」

「まあヤバそうだよな……いっそリギルとスピカも組んじゃう? いてっ」

「あり得ないこと言うんじゃないわよ」

 

 ペチン、と東条のデコピンが炸裂した。

 

「一時期慣れ合っていたかもしれないけど、私たちもライバルってことを忘れないで」

「へいへい……」

 

 二人の会話が終えたのが合図だったかのように、ファンファーレが鳴り響く。

 春のトゥインクルシリーズを締めくくるグランプリが幕を開ける。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「調子はどう?」

「大丈夫です」

 

 青と白の勝負服に着替えたグラスが、身体を解しながら言った。

 

「トレーナーさん、作戦はアレでよろしいですね?」

「大丈夫だよ」

 

 断言した。

 作戦はシンプル、一人に照準を合わせて追走するマーク戦法だ。純粋なフィジカルで競う真っ向勝負。末脚のキレで、グラスは挑む。

 

「君の力をみんなに見せつけておいで」

「はい!」

 

 今日の一戦には色々な意味がある。ハマルとマルカブの合同チームとしての初戦であること。グラスにとって初めての中距離GⅠであること。そして、

 

(ライス先輩がついに勝てなかった宝塚記念───)

 

 グラスの身体に闘気が満ちる。 

 

(それを、私が獲る───!)

 

 勝つための作戦は立てた。それに向けたトレーニングを万全を尽くした。ならば、あとは実践するのみ。

 

 ───標的は、ただ一人

 

 

 

 ◆

 

 

 

『春のトゥインクルシリーズを賑わせた十二人の乙女たちが、阪神レース場に集いました。上半期を締め括るグランプリ、宝塚記念! ただいまより発走です!』

『やはりスペシャルウィークに注目と人気、ともに集まっていますね。これを勝てばエルコンドルパサーと同じく凱旋門賞への挑戦となります』

『ダービーウマ娘が現役最強として海外へ羽ばたくか、他のウマ娘が待ったをかけるのか!

 ……各ウマ娘がゲートに収まりました。

 グランプリレース、宝塚記念……スタートです!』

 

「バクシン的───」

 

 ゲートが開くと同時、

 

「───スタートダッシュ!!」

 

 桜色の勝負服が、いの一番に飛び出した。

 

『真っ先に飛び出したのはサクラバクシンオー!! 一バ身、二バ身と差を広げていく! 有力な逃げウマ娘不在の中、ハナを取ったのはサクラバクシンオー! スプリンターらしい快速に場内は騒然しております!』

 

 歓声の雨を浴びながら先頭を突き進むサクラバクシンオーを追って、ウマ娘の集団が縦長に伸びていく。

 その中でスペシャルウィークは前から五番手に位置取っていた。

 

(飛ばすなぁバクシンオーさん……!)

 

 グングンと先頭との差が開いていく様子に逸る脚を抑える。今はまだ脚を溜める時だ。

 体感として、ペースはかなり速い。ハイペースは後方有利とされるが、所詮は一般論に過ぎない。前方がペースを上げて他のウマ娘たちのスタミナを磨り潰すという策も実在する。サクラバクシンオーの作戦はおそらくそれだ。

 

(離され過ぎちゃいけない。でも無理について行く必要もない!)

 

 宝塚記念は二度の坂越えがあるから焦ってスタミナを無駄にするな。スピカのトレーナーから言われたことだ。

 クラシック級、天皇賞(春)を経験して成長したスペシャルウィークは、冷静にレースを俯瞰できていた。

 そして他の警戒対象へ意識を向けようとして、

 

(あれ……?)

 

 気付く。最も警戒しなければいけない彼女の姿が見えない。

 

(グラスちゃんがいない……まさか!?)

 

 誰かの影に隠れているのかと思った。しかしすぐに違うと直感した。

 背後から感じる氷のような、刃のような鋭い気配。理解した。

 

 グラスワンダーは、自分の真後ろにいる。

 

(風除け……いや、私をマークしている。この追い方はまるで……)

 

 記録映像で見た。言葉で直接聞いた。メジロマックイーンを打ち破ったライスシャワーを思い起こさせる追走だった。

 

(そうか、グラスちゃんは───)

 

 姿が見えず、表情も窺うことが出来ないが理解した。グラスワンダーがこのレースにかける想いを。

 

(だけど私だって負けるわけにはいかない。ここで勝って、私は世界に行く!)

 

 残り800mを切ったところでレースは動いた。

 サクラバクシンオーに独走を許していた各ウマ娘たちがペースを上げる。第三コーナーを曲がるころには、後方のウマ娘たちも位置を上げてきた。

 スペシャルウィークは前方との距離を確認。前は開けている。脳裏によぎる上がり三ハロンの時計。

 

(ここから、一気にっ!!)

 

『スペシャルウィークがスパート!! 外から一気に駆け上がり、サクラバクシンオーを捕えにかかる!!』

「ちょわっ!?」

『凄まじい勢い! 最終コーナーで早くも先頭になった! 場内は騒然! このまま世界へ飛び立つかスペシャルウィークッ!!

 ───しかし!!』

 

 歓声に混じって悲鳴が上がる。

 彼らが見たのはスペシャルウィークの後ろから飛び出す、栗毛の影。

 

『さらにその外から、グラスワンダーが上がってきた!!』

 

 勝負はここから。そう言わんばかりに、栗毛の怪物が戦場へ躍り出た。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 スペシャルウィークのスパートに、グラスワンダーは思わず唸った。

 

(これが、ダービーでエルを差し切ったスぺちゃんの末脚……!)

 

 素晴らしい、と言わざるを得ない。ライバルながら、いやライバルだからこそ称賛したくなる。

 加えて、位置取りもスパートのタイミングも完璧。なるほど海外遠征に挑むのも納得の仕上がりだ。

 日本ダービーから春の天皇賞を経て、スペシャルウィークの成長は目覚ましいものであった。

 日本一のウマ娘。その夢を笑える者はもはや存在しない。スペシャルウィークの海外遠征は良い結果をもたらすだろう。

 友人として、彼女の門出を祝福したいという想いがある。

 しかし、だからこそ、

 

(勝ちたい……!)

 

 勝利への渇望が湧き上がる。

 

『グラスワンダーの火がついたような猛追! ついに最後の直線に入る! 先頭は未だスペシャルウィーク! だがグラスワンダーはすぐ後ろ、並びかける!』

 

(スペちゃん、あなたは強い。あなたには世界の強豪に挑む資格がある。けれど───)

 

 幻視するのは、既に海を渡った友の背中。

 

(エルと同じ舞台に立つというのなら───)

 

 親友への想い、宝塚記念への覚悟、前走の敗北からの悔い。それらが合わさり猛る様は気炎万丈。強い想いが彼女をその域まで押し上げた。

 

「その願い、私を振り切れずして叶うと思うな!!」

 

 それは、彼女が積み上げてきた鍛錬の集大成。ライスシャワーから教えられ、トレーナーとともに磨き上げ、バンブーメモリーとの併走でついに得た豪脚。

 蹴り上げた脚とともに、炸裂したように土が舞う。暴風に踊る髪と青い勝負服は炎のよう。そして闘志に満ちたその瞳の輝きは、華の如く。

 

 

咲き誇る蒼炎(ブルーローズ・ブレイズ)

 

 並ぶは一瞬。スペシャルウィークを交わし、グラスワンダーが先頭でゴール板を駆け抜けた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『グラスワンダーが先頭! さらに差を離した! 離した!! 離した!!! グラスワンダーが今ゴールイン!!

 スペシャルウィーク敗れた! 宝塚記念を制したのはグラスワンダー、昨年の有記念に続いてグランプリを連覇! 凄まじい末脚、その切れ味は紫電一閃! スペシャルウィークも強かったが、グラスワンダーもまた強かった!!』

「マジか……」

 

 興奮した実況を聞きながら、スピカのトレーナーは崩れるように柵へともたれかかった。

 スペシャルウィークの末脚、終盤で繰り出されるそのトップスピードから逃げ切るならともかく、後ろから差せるウマ娘などいない。それは過信ではなく、これまでの実績から信頼できるものだった。

 それを真っ向から打ち破られた。

 

「グラスワンダー、恐ろしいウマ娘に育ったわね」

 

 東条の唸るような声。彼女もまた、栗毛の怪物が見せた豪脚に驚愕していた。

 彼女も今、必死に頭の中で策を巡らせているだろう。今回は勝負することは無かったが、秋のGⅠ戦線で競うこともあり得るのだから。

 

「なあ、おハナさん」

 

 顔を上げる。ターフの上で呆然と膝をつくスペシャルウィークの姿があった。

 そうだ。項垂れている場合ではない。今最も悔しく、泣き出してしまいそうなのは他でもない彼女なのだから。

 そんな担当ウマ娘のために、自分が出来ることは───

 

「手を組むって話、本気で考えてくれない?」

 

 強くなるための環境を整えるのだ。恥もプライドも捨てて、この夏は死力を尽くさなければならない。

 

 秋に、あの怪物に勝つために。

 

 

 

 

 

 

 

 



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60話 マルカブと夏合宿(3年目)

『グラスー! 見ましたよ宝塚記念! ナイスラン、優勝おめでとうデース!』

「ありがとうございます、エル」

『ネットの記事でもグラスの勝利記事ばっかり! ……あ、んーでもこの記事の見出しはどうかと思いマス』

「あら、なにかありましたか?」

『グラスが勝ったからスペちゃんがこっちに来る話が無くなりました。それを「スペシャルウィークの海外遠征を阻んだ栗毛の刺客!」なんて、まるで悪役デス!』

「あらあら……ふふ」

『ケ? なんか嬉しそうデスね』

「ええ。だって刺客だなんて……後を継げたようではないですか」

『ん? んん? んーグラスの趣味はよく分かりませんね』

「ふふふ、そのあたりはエルが帰ってきたらゆっくりと。……さて、次はエルの番ですね」

『……! フッフッフ、その通りデス!』

「サンクルー大賞、そちらでのグランプリレースと聞いています。頑張ってくださいね」

『当然デース! 見ててくださいよ、エルも勝って、トレーナーさんにグランプリ三連勝をプレゼントしてみせマース!』

「ええ、その意気ですよ!」

 

 七月に入り、エルコンドルパサーは宣言通り、見事フランスのGⅠサンクルー大賞を勝利した。

 2,400m、ウマ娘レースにおける王道路線(クラシックディスタンス)の勝利は日本トレセン学園所属のウマ娘では初であり、エルコンドルパサーの名を欧州へと広めるには十分な戦果であった。

 この勝利をもってエルコンドルパサーは正々堂々と舞台へ上がる。凱旋門賞、世界の頂点へ挑む権利を得たのだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 宝塚記念が終わり、夏も本格化し始める七月。トゥインクルシリーズを走るウマ娘たちの過ごし方は───以前も似たようなことを語ったが───大きく三つ、いや四つに分かれる。

 一つ、秋シーズンに向け英気を養うため夏休み(バカンス)に勤しむ者。

 一つ、冬から春にかけて戦績が振るわず、秋の重賞戦線に加わるためレースに挑む者。

 一つ、更なる飛躍を求め、トレーニング合宿に参加する者。

 そして最後、砂の世代王者を決めるジャパンダートダービーへ出走する者だ。

 マルカブからは、アグネスデジタルがそのジャパンダートダービーへと出走する。

 ここで勝てば、宝塚記念、サンクルー大賞に続くGⅠ級三連勝となり、チームの風向きは完全に変わる。秋に向けて気合の乗った状態で夏を迎えるだろう。

 とはいえ、今日のレースも楽観視できるものではない。ジャパンダートダービーは中央(URA)だけでなく地方(NAU)で活躍するウマ娘たちも出走する。

 中央にいては目の耳が届かぬ地で、爪を研いできた砂の猛者たちが集結するのだ。

 

「では、行ってまいります!!」

「ああ、頑張っておいで」

 

 チームの連勝や世代戦への緊張か、少し固い表情でデジタルは地下バ道へと向かっていく。

 地下バ道にはすでに他の出走ウマ娘たちも揃っていた。示し合わせたわけではないが、並んで進むこととなった。

 周りにいる勝負服姿のウマ娘を見て、普段のアグネスデジタルなら顔面崩壊ものの奇声を発しそうだが、今日ばかりはプレッシャーの方が勝っていた。 

 三度目のGⅠ。ダートの世代トップを決める一戦。そして、チームとしてのGⅠ三連勝。誰かに言われたわけでもないが、その小さな両肩にかかる期待は大きかった。

 

「アグネスデジタルじゃん、本当に出てきたんだ」

「は、はい?」

 

 突然話しかけられ、返した声は上ずっていた。

 話しかけてきたウマ娘の顔を見て、その名前が記憶から蘇る。

 

「ドミツィアーナ、さん……?」

 

 ジュニア級のGⅠ、全日本ジュニア優駿で競ったウマ娘だった。

 意外ではない。アグネスデジタルと違い、ダートを主戦とする彼女がこの舞台に出てくるのは当然であった。

 

「お、お久しぶりです」

「そうね、本当に久しぶり」

 

 ドミツィアーナの返しに、おや?とアグネスデジタルは内心首を傾げた。彼女の対応がどこか冷ややかというか、棘があるように感じたのだ。

 アグネスデジタルの疑念を察したのか、ドミツィアーナの広角が嫌らしく上がる。

 

「芝で勝てなかったからって、ダートならいけると思ってる?」

「───え? いや、そんなことは……」

 

 アグネスデジタルの弁明に耳を貸さず、ドミツィアーナの言葉が続く。

 

「羨ましいわ。芝もダートも自在だなんて、レースを選び放題じゃない。実際、芝はオペラオーとかトップロードとか凄いのが揃い踏みだし? しかも秋になったらあの黄金世代ともやり合うかもしれないんでしょ? そりゃあ出来ることなら芝なんてやってられないわよね」

 

 口から零れるのは妬みか怒りか。タールのような黒い感情が流れていく。

 それはアグネスデジタルにとって、初めて受ける敵意だった。

 

「でもね、だからってダートは温いなんて言わせない。ダートには、私がいる……!」

 

 ドミツィアーナの瞳に火が点いた。

 それは矜持。デビューからダートに専念してきたからこそ生まれ、芝とダートを行き来するアグネスデジタルへ牙をむく。

 

「半端者なんかには負けないから……!」

 

 冷たく、けれど炎の闘志を宿してドミツィアーナは一人去って行った。

 そして残されたアグネスデジタルは、しばし呆然とするしかなかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ジャパンダートダービーでのデジタルの走りは精彩を欠いていた。

 

『最後の直線で先頭に立ったのはドミツィアーナ! ドミツィアーナ先頭!! 後続との差が開いていく! 一バ身、二馬身、まだ伸びる!!』

 

 また例の悪癖かと思ったが違う。負傷したかと思ったが走りに異常は見えない。気持ちそのものがレースに向いていないようだった。

 双眼鏡を覗き込むと、普段のデジタルからはあり得ない苦渋の表情が見えた。

 

「デジタル……!」

 

『いまゴールイン!! 一着はドミツィアーナ!! 今年のダートの主役はドミツィアーナ!! 見事な走り! 砂の女王が堂々降臨です!』

 

 結果は十五着。デジタルにとってデビューしてから最低の成績を持って、砂のダービーは幕を閉じた。

 

 

 

「どうしたんだいったい……!?」

 

 地下バ道で合流すると思わず問うてしまった。こういう時はまずウマ娘を労るのが鉄則だろうに。私もきっと困惑していたのだろう。

 レース直前までデジタルの調子は良さそうだった。故障したのかと脚を見るが異常はない。呼吸も正常でのど鳴りの心配も無さそうだった。

 となると奇妙なことだが、控室を出てレースが始まるまでの間で何かがあったのだ。

 

「ト、トレーナーさん……あたしは……」

 

 自身も困惑している。そんな声色でデジタルは語りだした。

 

 

 

「抗議してきます……!」

「グラス、待って」

 

 デジタルの話を聞いて憤慨したグラスが、なぜ止めるのかと視線で訴えてきた。

 他の若いメンバーも口にはしないが同意見のようで、声なき非難が私に突き刺さる。

 

「レース前に他のウマ娘と会話してはいけないという規則は無い。何を抗議する気だい?」

 

 奈瀬トレーナーから助け船が出た。グラスの矛先が移る。

 

「規則ではなく礼儀の話です。レース直前のウマ娘に、本人の信条を否定するようなことを……動揺してまともに走れるわけがありません!」

「ドミツィアーナがアグネスデジタルの信条を知っていたという根拠はあるかい?」

「それ、は……」

「そも向こうがこちらへの妨害の意図があったと証明が出来ない。後輩を想う気持ちは分かるが、言いがかりとしか思われないだろうね」

 

 奥歯を噛み締めるグラスの肩に手を置く。奈瀬トレーナーからバトンを受け取り口を開く。

 

「向こうの意図はともかく、起こったことは盤外戦術の一つだよ。相手の言葉で力が出せないのはこちらが未熟だからと言われたらそれまでだ」

 

 言葉によって動揺を誘う。師匠から聞いた話、良くも悪くも大らかというか縛りの緩い時代で常套手段だったとのことだ。近年は中々見ない手段だが、影が薄くなったのは価値観の変遷によるもので、有効なのは変わりない。

 

「だけど言われっぱなしじゃあ腹が立つのは同感だ」

 

 普段の言動から誤解されるかもしれないが、デジタルのレースに対する姿勢は真摯そのものだ。数度芝とダートを行き来した程度で悪く───例え煽りだとしても───言われる謂れはないのだ。

 

「デジタル」

「……はい」

 

 まだ気持ちの整理がついていないのか、彼女の返事には覇気がない。

 ウマ娘を愛するウマ娘を自称する彼女にとって、明確な敵意と拒絶を向けられたことは相当の衝撃だったのだろう。

 今は良い。GⅠレースを走っているとはいえ、まだ幼さの残る少女なのだから。

 

「夏の間に答えを見つけよう。そして秋、ドミツィアーナにぶつけるんだ」

 

 秋への目標を定め、マルカブの夏が本格的に始まった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 そして夏合宿が始まった。

 ぎらつく日差しによる暑さは潮風が緩和してくれる。砂地を走ることで脚への負担は軽く、けれど不安定な地形を走ることでフォームを意識した走りが身につく。

 目的は皆同じ。秋シーズンに向けて力をつけるために。

 

「はあ……ひい……ほえぇ」

「頭が下がってますよ~顔を上げてください~」

「は、はいぃ……!」

「ほら、脚を上げて。腕をちゃんと振る。そんなフォームじゃ3,000mなんて走り切れないよ」

「はいぃぃ……!!」

 

 声色は朗らか、けれど厳しい指摘に蚊の鳴くような声が響く。

 菊花賞を目指すメイショウドトウへの、スーパークリークとライスシャワーという二大ステイヤーによる直々のしごきであった。

 それを見た他のウマ娘たちからは感嘆とも畏怖ともとれる声を漏らしていた。

 

「うわ、キツそーあそこ」

「ほら、あの娘は次菊花賞狙いでしょ。やっぱ気合のりが違うんだよ」

 

 そしてまた一人、メイショウドトウたちを───いや、メイショウドトウを見つめるウマ娘がいた。

 

「ドトウ……」

 

 テイエムオペラオーだ。

 日本ダービーから、メイショウドトウとテイエムオペラオーの関係は変わった。

 いや、正確に言えばメイショウドトウの方がテイエムオペラオーにすり寄ってくることが無くなった。おどおどとしながらも、あなたが憧れだとテイエムオペラオーを称賛していた彼女は今、アドマイヤベガと共にいることが多い。

 マルカブとハマルの両チームが手を組む理由を、東条をはじめとするトレーナーたちは菊花賞に勝つためだと結論付けた。

 それには同意する。でなければ、ああして菊花賞ウマ娘直々にトレーニングを受けるはずがない。

 

「そうか、セントエルモは君の頭上に灯ったというわけか」

 

 面白い。そう呟くとテイエムオペラオーは身を翻し、メイショウドトウへと背を向けた。

 友と過ごせない夏は少し寂しい。けれど、来る秋は春を凌駕する勝負が待っている。

 

「嵐を超えた君が菊の舞台に上がること、楽しみにするとしよう!」

 

 歩いて行くと、自身が所属するリギルのメンバーと合流する。

 この夏、一味違う合宿となるのはマルカブとハマルだけではない。

 

「よし、全員集まったな」

 

 東条の言葉にその場にいたリギルのウマ娘たちが背筋を伸ばす。十を超える人数であっても統率された動きを見せるウマ娘たち。それは支配ではなく信頼から形成されたものというのがリギルの強みだった。

 

「以前から伝えていたが、今年の合宿はスピカと合同(・・・・・・)で行う」

「どーも、スピカでーす」

『よろしくお願いします!』

 

 事前に聞いていたリギルのウマ娘たちに動揺はない。けれどチラチラとスピカの面々に視線が映っていた。

 

「知っての通り、スピカは二人のダービーウマ娘に天皇賞ウマ娘を有する優秀なチームだ。

 リギルとは勝手が違うが、だからこそ合同で行う意味がある」

 

 毛色の違うチームが手を取り合った結果はすでに宝塚記念で出ている。いや、異なるチームのウマ娘やトレーナーから指導を受けるという意味ではサンクルー大賞を制したエルコンドルパサーも似たような状況だろう。

 

「春に燻っていた者は晩夏の重賞を目指すぞ。秋には天皇賞に菊花賞、ジャパンカップと大レースが続く。今年もまた群雄割拠だ。リギルの一強、スピカ一色などという慢心は捨てなさい。GⅠの大舞台に立ち、勝ちたければ奮起しろ!」

『はい!!』

 

 そして各ウマ娘が、事前に渡されていたメニューに従い動き出す。

 

「フジ先輩! ウォーミングアップ一緒にお願いします!」

「いいよスぺちゃん、行こうか!」

「マックイーン、ラダー並べるの手伝ってくれるかい?」

「分かりましたわ」

 

 砂浜を走るもの、器具を持ち出すもの。やることは違えど目指すは一つ。

 

「ねえブライアン」

「なんだテイオー」

 

 次のレースこそ、勝ってみせる。

 

「なんか、ワクワクするね」

「……そうかもな」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 少し離れた砂浜に見える一団を見て、私は思わず唸ってしまった。

 ナリタブライアンとトウカイテイオーが、スペシャルウィークとフジキセキが、ヒシアマゾンとメジロマックイーンが、共にトレーニングをしていた。

 

「まさかリギルとスピカが手を組むなんて……」

「グラスワンダーの宝塚記念がよほど衝撃だったのでしょうね。ちなみに、合同で合宿に参加しているチームは他にいますよ」

 

 奈瀬トレーナーが集計したリストを見せてくれた。

 彼女の言う通り、チーム同士だけでなく個人契約のトレーナーとウマ娘が複数集まったりしてこの合宿に参加していた。

 

「理事長が私たちの合同を承認してくれたのも大きかったのでしょう。レースで結果を出したうえで学園も認めているとなれば真似しない理由がない」

「都合よく自分たちだけレベルアップとは行きませんか……」

 

 マルカブの次走は凡そ決まっている。ライスは冬のドリームトロフィー、グラスは天皇賞(秋)、ドトウは一度ステップレースを経て菊花賞。デジタルは……まだ敗走から立ち直っていないのではっきりしてはいないが、適性からしてマイル路線だろう。

 どの路線も強敵ぞろい。宝塚記念の勝利に浮かれる時間は与えられなかった。

 

「さて、トゥインクルシリーズもいいですがドリームトロフィーリーグのことも考えていきましょう」

「よろしくお願いします」

 

 マルカブとハマルの連合はドトウとアドマイヤベガのためのものだが、本当にそれだけで済ますには勿体ない。

 お互い、吸収できるのものはしておくべきだ。

 ドリームトロフィーリーグに挑戦するライスのためにも、経験者の多いハマルの情報は役に立つ。

 

「ドリームトロフィーリーグはダート、短距離、マイル、中距離、長距離の部門に分かれて行われます。それぞれのコースや距離も毎回変わりますが……ライスシャワーは中距離か長距離がメインになりますか?」

「そうですね。ライスの力を魅せられるのは長距離ですが、王道の距離から逃げるようなことはしたくありません」

 

 中距離長距離といっても、区分の問題だ。2000mだと厳しいかもしれないが、同じ中距離扱いでも2,400mならライスのスタミナが活きる。

 今年のウィンタードリームの条件次第で中距離部門に挑戦してもいいだろう。

 

「では、中長距離での要注意ウマ娘を教えましょう」

 

 奈瀬トレーナーが見せてくれたタブレットには、複数のウマ娘の写真が表示されていた。

 

「まずはオグリキャップ。先日のサマードリームではマイル部門に出走して優勝。ただどこでも走れると豪語しており、実際連続して同じ部門に出走したことはありません」

「さすがは怪物……」

「フットワークも軽く、なんだったらこの部門で勝負だと言えば出てくれるみたいです。マイル部門に出たのも、ダイタクヘリオスに誘われたからだそうです」

「軽すぎません?」

「流石にここまで適性の幅があるのは彼女くらいですよ。他の要注意ウマ娘は中長距離の範囲で活躍する子たちです」

 

 タブレットの画面が動き、ウマ娘の写真が切り替わった。

 

「当然ながらクリーク」

「ええ、そうでしょうね」

「続いてタマモクロス、イナリワン、マルゼンスキー、ビワハヤヒデ………」

 

 出てくるのはトゥインクルシリーズにその名を刻んだ名ウマ娘たち。いずれもがGⅠの栄光を掴み、その時代において最強を示した者たちだ。

 

「ミスターシービー、サクラローレル、そして───」

 

 黒髪のウマ娘の写真で動きが止まる。

 皇帝シンボリルドルフに次いでクラシック三冠を成し遂げ、今もなお強豪との戦いを求める餓狼の姿だ。

 

「ナリタブライアン。今、ドリームトロフィーの中長距離部門で頭一つ抜けていると言っていいウマ娘です。先日のサマードリームトロフィーでは2,000mの中距離部門で優勝。さらに昨年、一昨年のウィンタードリームトロフィーにおいては長距離部門を連覇しており、今年は三連覇がかかっています」

 

 世代としてはライスより後のウマ娘だ。それが彼女より早くドリームトロフィーへ行き、今ライスの前に強敵として立ちはだかるとは、奇妙な縁だ。

 

「今年勝てば三連覇。当然リギルは狙ってくるでしょうから、ライスシャワーが長距離部門に挑戦すれば確実にぶつかる相手です」

 

 どうしますか? と奈瀬トレーナーは視線で問うてきた。

 ハマルのスーパークリークは挑むのだろうが、そんな彼女ですらナリタブライアンに負け越しているということ。

 業界的には斜陽であるはずの長距離部門。だがそこには圧倒的な強者が待ち構えていた。

 

「当然、長距離に行きますよ」

 

 長く連れ添った仲だ。今更ライスに聞くまでもない。

 

「いいんですね?」

「ええ。ナリタブライアンには有記念の借りがありますからね」

 

 数年越しのリベンジ。ドリームトロフィーリーグでも、ライスの挑戦は強敵に挑むことから始まるのだ。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 秋を、冬を見据え燃える陣営が多い中、アグネスデジタルは一人迷いの中にいた。

 

「あたしが、走るべきなのは───」

 

 

 

 

 

 

 




ドリームトロフィーは詳細不明なので独自設定です。




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61話 挑戦者たち

 ジャパンダートダービーで大敗を喫したアグネスデジタル。気を取り直して夏合宿に参加したものの、どうにも身が入らない状態であった。

 チームでのトレーニングが終わった後も、いつもなら自主練をするか他のウマ娘たちの様子を観察に行くはずが、一人浜辺で黄昏ていた。

 脳裏にドミツィアーナの言葉が蘇る。

 

───芝で勝てなかったからって、ダートならいけると思ってる?

「あたしは……」

 

 違う。そんなこと思っていない。では何故言い返せなかったのか。もしや、心のどこかで無意識にでも思っていたのではないか。

 迷いが、自分への不信が、少女の脚を鈍らせていた。

 

「あ、いた!」

 

 アグネスデジタルの背中に声がかかる。

 

「デジタルさーん!」

 

 ライスシャワーだった。

 トレセン学園のジャージ姿に、両の手には飲み物の入ったボトルを持って駆け寄ってくる。

 

「ひゃあ!?」

「おおっと!?」

 

 ライスシャワーの脚が砂に取られてつんのめる。手から離れ、宙を舞うボトルをアグネスデジタルがなんとかキャッチした。

 

「えへへ、ドジしちゃった……」

「ライス先輩、いったいどうしたんですか?」

 

 アグネスデジタルが記憶する限り、ライスシャワーはウィンタードリームトロフィーに向けてハマルの面々と座学があったはず。

 自主練ならともかく、自分に用があるとは思えなかった。

 

「えっとね、ちょっとだけお節介に」

「へ?」

「隣、座るね」

 

 よいしょ、と砂地に座るライスシャワー。アグネスデジタルには先輩の意図が分からなかったが、見下ろすままなのも失礼かと隣に腰を下ろした。

 

「ドミツィアーナさんに言われたこと、気にしてる?」

 

 心臓が跳ねる。ええまあ、と平静を装ったものの、やがては言葉が漏れていく。

 

「あたしのやり方は、他のウマ娘ちゃんたちにとっては半端モノで、迷惑なのでしょうか」

「…………」

「芝かダート、どちらかしか見れないのは嫌でした。観客としてなら両方見れますけどレースに出る以上はそうはいかないです。芝に拘れば、ダートの方を見ている暇はありません。その逆もしかりです」

「だから二刀流を目指すんだね」

「はい。でもドミツィアーナさんのように思われていたのなら、あたしの選択は間違いだったんでしょうか」

 

 縋るような問い。否定して欲しいと思う反面、生半可な言葉では納得できないだろうと、面倒くささを持っていた。

 何度か潮騒が響いてから、ライスシャワーが口を開いた。

 

「ライスはそうは思わないな」

「……どうしてですか?」

「ライスはその場にいたわけじゃないけど、ドミツィアーナさんの言葉はある種の激励だったんじゃないかなって思うな」

「激励……?」

 

 そう、とライスシャワーは頷いた。

 

「デジタルさんは、ライスがヒールって呼ばれてたことを知ってる?」

「それは……知ってます。有名な話です」

「そっか……アレは、ただ二人の夢を壊したせいだけじゃない。今ならそう思える」

 

 沈んでいく夕陽を眺めながら、少女の言葉が続く。

 

「菊花賞でブルボンさんに勝った後、天皇賞でマックイーンさんに勝った後、ライスは負けちゃいけなかったんだ」

 

 ミホノブルボンのクラシック三冠を阻んだ後、ライスシャワーは有記念で大敗を喫した。メジロマックイーンの天皇賞(春)三連覇を阻んだ後は一年以上の長いスランプがあった。

 

「最強を倒したからには最強でないといけなかったんだ。ブルボンさんやマックイーンさんに勝ったライスはあの二人と、二人を応援してた人たちの期待も背負っていたから。

 ドミツィアーナさんから見たデジタルさんは、あの時のライスと同じだったのかも」

「あたしが……?」

 

 言われてアグネスデジタルは自身の戦績を思い返す。

 ジュニア級でダートGⅠを勝利し、ダート界の新星として期待された。しかしその後は芝に転向し、NHKマイルカップでは掲示板外。そして今度はジャパンダートダービーへ。

 変則的なローテーションは明らか。アグネスデジタルもその上で選んだ二刀流。

 だが、覚悟はしていなかった。敗北した者たちの想いを背負うということを。その想いの大きさを。

 

「ドミツィアーナさんが怒っていたのは、あたしが彼女の期待に応えられなかったから?」

「想像だけどね。……それで、デジタルさんはどうする?」

「どうする、とは……?」

「次走の話。まだ決めてなかったでしょ?」

 

 そういえば、決めていなかった。またダートか、今度は芝か。

 芝なら距離適性からマイルだろうか。

 

「ドミツィアーナさん、次走は南部杯だって」

「南部杯……マイルチャンピオンシップ南部杯ですか!?」

 

 盛岡で秋に開催される1,600mのダートレースだ。ダートでは数少ない国内GⅠ級。ジャパンダートダービーを制したドミツィアーナが挑むに相応しいレースだ。

 

「今度こそ、デジタルさんの想いを見せるときじゃないかな」

「あたしの……想い……」

「夢。諦められないでしょ?」

 

 気づけば拳を握っていた。

 アグネスデジタルの夢。芝もダートも走ること。それは決して、勝率を求めたからではない。

 

「……出ます」

 

 立ち上がる。

 アグネスデジタルはウマ娘を愛している。それは胸を張って言える。

 自分の走りがウマ娘に対する無礼であるのならやめたかもしれない。しかし、ただ伝わっていないのなら、未熟さゆえにレースを軽視していると思われたのなら。

 

「今度こそ、ドミツィアーナさんに失礼のない走りをしなければ……!」

 

 言葉にしても言い訳にしか聞こえないだろう。

 だから示す。走りで示す。奇妙でも、非常識でも、アグネスデジタルは本気だと証明する。 

 

「不肖、アグネスデジタル。南部杯でリベンジさせていただきます!!」

 

 少女から、迷いは消えた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 デジタルのことはライスに任せることにした。

 他でもないライス自身がそう言ったのだ。ここは長年連れ添った相棒パートナーを信じる。

 目の前、マルカブ・ハマルの合同トレーニングスペースでグラスとドトウによる併走が行われていた。

 日本ダービー後からのドトウのトレーニング成果を見るためのものだ。

 

「やあああっ!!」

 

 蹴り上げた脚と共に砂が舞う。ドトウが裂帛の気合と共に前を行くグラスを抜き去り、ゴール地点を駆け抜けた。

 

「はぁ……はぁ……どう、ですか?」

 

 呼吸を整えながら、タイム計測とビデオチェックをしていたシャカールを窺う。

 ちらりとシャカールが後ろにいた私と奈瀬トレーナーを見る。計測していたのはシャカールだが、成果を判断するのはトレーナーである私たちだ。

 奈瀬トレーナーと目配せ。口にして議論するまでもない。結論は同じだった。

 

「フォームは及第点。仕掛け時も悪くなかった」

「や、やったぁ……!」

「でもタイムはまだまだだね」

「あうぅ……」

 

 落ち込むドトウ。だが現実は受け止めねばならない。

 彼女が菊花賞で相手するのはテイエムオペラオーにナリタトップロード。そして雪辱を誓うウマ娘たち。

 スタミナは本来の距離適性もあって十分。だが、決め手に欠けると言わざるを得ない。

 

「そもそもドトウ本来の走りは前方に位置取ッての粘り勝ちだ。終盤の末脚勝負は向いてねェ」

「それでもやるしかない」

 

 ドトウ本人が決めたことだ。彼女が諦めない限り、私たちから打ち切るような真似はしない。そしてメイショウドトウが諦めることは決して無い。

 

「ステイヤーとして何か意見はあるかい?」

 

 共に併走を見ていたスーパークリークへ話を振る。ライスがここにいないので、長距離の経験値が最も多いのは彼女だ。

 

「そうですねえ、私も先行タイプなので追込み(アヤベちゃん)の走りに詳しいわけじゃないですけど、やっぱり終盤のキレはもっと欲しいと思いましたね」

「具体的にどれくらいとかあるかな?」

 

 奈瀬トレーナーからの問いに、う~ん、と人差し指を口元に当てて考え込むスーパークリーク。

 出てきた答えは、

 

「イナリちゃんくらい?」

「トップクラスじゃねェか!」

 

 思わずシャカールが吼えた。

 

「じゃあ……オグリちゃんくらいでしょうか?」

「レベル上がってない……?」

 

 思わず空を仰ぐ。考えれば、その強豪と真っ向から競いGⅠを勝利したスーパークリークの実力を思い知った。

 

「流石に他の出走ウマ娘がそこまでとは思えないけど」

「言ってもクラシック級ですから。クリークの証言はシニア級のものですからね」

「だからって楽観視も出来ねェだろ」

 

 シャカールがチクリと釘を差す。

 

「合宿で実力を伸ばすのはどいつも同じだ。なのにこっちは脚質から矯正してんだからな。それに───」

 

 鋭い視線が私を捉えた。

 

「ウチはもうすぐトレーナーが不在になる」

「ああ、そうでしたね……。もうすぐフォア賞です」

 

 フォア賞、九月始めにパリロンシャンレース場で開催されるGⅡレースだ。

 距離もコースも同じことから、凱旋門賞の前哨戦に位置づけられる。

 

 凱旋門賞。

 

 そうだ。エルの悲願が近づいていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 光陰矢の如しとはよく言ったもので、夏合宿はあっという間に時間が経った。

 ライスはハマルの面々とともにウィンタードリームトロフィーに向けて調整を開始。グラスも天皇(秋)を目標に定めてトレーニングに励んでいる。

 デジタルは吹っ切れたようで熱心にトレーニングに重ね、マイルCS南部杯への出走を表明。ジャパンダートダービー惨敗の汚名返上を目指す。

 ドトウは京都新聞杯をステップに菊花賞を目指す。

 今年からマルカブに加入したウマ娘たちのデビュー時期も続々と決まっていく。

 

 そして八月の終わり、私はフランスに行くため空港にいた。

 エルのサンクルー大賞以来、およそ一月ぶりの飛行機。だが今回はレースが終わったらすぐ帰国とはいかない。

 九月のフォア賞が終われば三週間後には凱旋門賞だ。エルの半年間に及ぶ長期遠征の成果が試され、彼女の夢の成就がかかっている。私もエルの最後の調整に付き合うべく、しばらく日本を離れることになる。

 

「ハマルとの同盟があって助かったな」

 

 川畑君(サブトレーナー)も優秀だがやはりまだ経験が足りない。奈瀬トレーナーにサポートしてもらえるのは僥倖だ。

 ……本音を言えば、合宿中のライスたちを置いて日本を発つのは後ろ髪を引かれるものがある。しかし凱旋門賞という大一番で担当を黒沼トレーナーに任せっきりにするわけにはいかない。

 

「今は、エルの夢に付き合うべきだ」

 

 迷いを断ち切り、私は搭乗口へ向かった。

 

 

「よう。遠路はるばるご苦労さん」

 

 飛行機に揺られること十数時間。フランスの空港で出迎えてくれたのはいつもの格好をした黒沼トレーナーだった。

 

「元気そうだな」

「ついこの間も会ったじゃないですか。どうしたんですか」

「気安く日本語が通じるというのは気楽だと思ってな」

 

 黒沼トレーナーらしくない言動、どうしたかと思ったのを察したのか、本人が深く息を吐いた。

 

「本番が近い。流石に緊張しているようだ」

「黒沼さんでも緊張しますか」

「当たり前だ。むしろお前の方こそどうなんだ。堂々としているが」

「担当を信じてますから」

「言うじゃないか」

 

 用意されていた車に乗り込み、トレセンへと向かう。

 

「出走予定のフォア賞だが、今のところは四名立ての見込みだ」

 

 移動中、黒沼トレーナーからの情報に思わず声を上げた。

 

「四名って……レースとして成立するんですか?」

「これも日本との違いだな。

 フォア賞自体は凱旋門賞の前哨戦とされるが、ここ数年はフォア賞を勝ったウマ娘が凱旋門賞を勝ったことはない。そのせいか凱旋門賞を狙う有力所は他のレースに向かう傾向にある」

「それでも私たちには同じ条件で経験を積めるチャンスです」

「そういうことだ。それに他の出走者を見ても出る価値はある」

 

 リストを見る。

 なるほど、イスパーン賞でエルを破ったウマ娘がいた。意図せずして欧州初戦のリベンジマッチとなるようだ。

 

「少数だけど油断はできない。けれど勝てば気持ち的にも得られるのは大きいですね」

「それもあってエルコンドルパサーも今まで以上にやる気だ。フォア賞を勝って、この勢いのまま凱旋門賞に向かう」

「はい!」

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「たあああっ!!」

「───はあっ!」

 

 シャンティイのトレセンに気合の声が響く。

 エルとシリウスシンボリ、そしてミホノブルボンの三人がコースを駆けていた。

 シーキングザパールが立つゴール地点まで残り三ハロン。併走のはずだが、先行する二人が力を緩める様子は無い。

 

「──────」

「──────」 

 

 二人の視線が一瞬、エルの方を向く。

 このくらい差し切って見せろ。一度は世代の頂に立ったウマ娘がそう言っているようだった。

 

「やあああああっ!!」

 

 それに応えないエルではない。

 翼が生えたかのように加速し、二人を差し切ってシーキングザパールの前を駆け抜けた。

 

「いい調子ですね」

「ああ。欧州(こっち)の芝にも適応できてる」

 

 エルの走りは日本で見せたそれと遜色ない仕上がりでだった。本気駆けだっただろうシリウスシンボリたちを差し切れたのも良い。

 

「あ! トレーナーさーん!!」

 

 こちらに気付いたエルが、今走ったばかりだというのに駆け寄ってきた。

 

「一ヶ月ぶりデース!! 今の併走見てましたか!?」

「見てた見てた。バッチリじゃないか」

「当然! これでフォア賞も勝利確実デース!!」

 

 エルはいつも通り元気いっぱいだ。サンクルー大賞の疲労残っていないようだし、これならフォア賞でも実力を発揮できるだろう。

 

「あんまり調子に乗らないことだ」

「シリウスシンボリ……」

「フォア賞は所詮は前哨戦だ。凱旋門賞を目指すなら勝って当然。そういうレースだ」

 

 敗北は許されない。この海外遠征の目的を忘れるな。シリウスシンボリの眼光がそう告げていた。

 

「もう! シリウス先輩は心配性デス! エルならバッチリ! 万全! パーフェクトデース!!」

「はっ、それが強がりじゃなきゃいいがな」

 

 シリウスシンボリは今回の遠征チームの中で凱旋門賞を経験している唯一のウマ娘だ。

 時が経とうと、彼女の記憶に刻まれているのだ。世界の頂点に立つにはどれほどの力が必要なのかを。そんな彼女がまだ警戒しているということは、そういうことだ。

 

「学ぶ必要があるんだ」

「ケ?」

「仕掛け処、走りやすい位置。ロンシャン2,400mのコースを知るためのフォア賞だ。勝ちを狙うのは当然だけど、勝つことに集中しすぎて情報を何も得られないのは本末転倒、そういうことだよね?」

「…………分かってるならそれでいい。本番までこっちにいるんだろう? 担当トレーナーとしての仕事を全うしろ」

「ああ。分かってる」

 

 四月から、黒沼トレーナーに任せてしまっていた本分を私が行う。

 フォア賞、そして凱旋門賞まで一月を切った。無駄遣いできる時間はもうない。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 そして、フォア賞当日。

 バ場のコンディションを理由に一名が出走を取りやめ、エルコンドルパサー含めて三名という少数レースとなった。

 相手はイスパーン賞の勝者と、サンクルー大賞でも走ったウマ娘。負けられない一戦であることには変わりなかった。

 

『エルコンドルパサー好スタート! 先陣を切り、前に出た!』

 

 飛び出す三人のウマ娘。その中からエルコンドルパサーが一人飛び出し、逃げの形をとった。他二人はすぐに追ってくる様子は無い。ともに走ったことのある相手だ。下手に競り合うより、終盤の末脚勝負の方が分があると判断したのだろう。

 逃げは不利、それは欧州も変わらない。が、ここエルコンドルパサーに至ってその常識は通じない。

 彼女は知っている。その常識をぶち破った絶対的逃亡者の走りを。その絶対を超えた英雄の走りを。

 

(エルにスズカ先輩のような逃げはできないけれど───)

 

 先頭のまま、ロンシャンレース場特有のフォルスストレートへ入る。ここでようやく追走する二人が迫ってきた。

 しかし、

 

(ライス先輩のような覚悟なしに、エルを抜くことはできません!!)

 

 並びかけたウマ娘を振り切って、エルコンドルパサーは一番にゴール板を駆け抜けた。

 

『お見事エルコンドルパサー!! 前哨戦フォア賞を制しました。これほどの強さ、凱旋門賞(ほんばん)が今から楽しみです!!』

 

 拍手と歓声が巻き起こる。

 本番と同じコースでの圧勝劇。レースを見ていた日本の誰もが、凱旋門賞勝利の可能性を見ていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「あれが極東からの挑戦者(チャレンジャー)か……」

「やるじゃないか。他の二人もGⅠに出れるだけの力があるというのに」

「日本のウマ娘もこれほど力をつけるとは喜ばしいな」

 

 貴賓席とされる展望室にて、スーツ姿の大人たちがエルコンドルパサーを称える会話が交わされる。

 表面上は勝者を祝うようで、どこか見下すような、いや児童の成長を喜ぶ大人のような言葉だった。

 確かに強い。けれど自分たちのウマ娘が負けるはずがない。ウマ娘レース先進国としての矜持からくる自信が彼らにはあった。

 

「甘く見てはいけない」

 

 若い女の声だった。大人たちよりも前に、ガラスに張り付くようにターフを見ていた。 

 

「彼女はこの一年を欧州遠征に費やしている。日本に留まっていればすでに倍の数GⅠを獲っていてもおかしくないだろう。それほどの器が凱旋門賞を目指している」

 

 素晴らしい。と、歓喜の声で彼女は言った。

 大人たちとは違う、心からの称賛だった。

 

「エルコンドルパサー、あれほどのウマ娘が己のキャリアハイに欧州を選んだ。日本でも、米国(ステイツ)でも、豪州(オセアニア)でもなく……。私はそれが誇らしい。欧州のレースが世界から目標とされることが。

 ───だからこそ」

 

 笑う。獲物を待ち焦がれる獣のように。

 

「全力で相対しよう。彼女たちの覚悟に恥じないレースを。結果に関わらず、彼女たちが生涯誇れるレースをしよう。それこそが欧州(わたしたち)の使命であろう」

「キミというウマ娘は……本当に根っからの王者だな」

 

 凱旋門賞という栄冠に挑むのは自身も同じであろうに。すでに目の前の少女は己が勝利を確認しているかのようだった。

 傲慢とは言うまい。それだけの偉業を彼女は既に成し遂げている。

 六度走って未だ敗北は一度だけ。それも二着の惜敗だ。そしてその敗北を塗りつぶすようにフランスとアイルランドのダービーを圧倒的強さで制した、自他ともに認める欧州の星。

 

「キミがどれだけエルコンドルパサーを評価しようと、僕たちの確信は変わらない。今年の凱旋門賞を勝つのは───」

 

 

───キミだ、モンジュー。

 

 

 

 



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62話 大望は飛んでいく

いつも感想、誤字報告ありがとうございます。
今回で連日投稿は一旦止まります。

5話を投稿した時からこの話はやる予定でした。
あれから一年と半年、ようやくたどり着きました。

まさか育成シナリオで凱旋門賞やるとは思わなかったよ。




『ついに今週末は世界最大のレース、凱旋門賞です! 日本からはジャパンカップを制したエルコンドルパサーが出走しますのでみんなで応援しましょう!』

『春からの長期遠征の結果がついに実を結ぶんですね。欧州適性はすでに三戦二勝という成績が証明しています。ですから、その……期待してしまいますね!』

 

 エルのフォア賞勝利は日本でも報道された。何だったら前走であるサンクルー大賞の勝利よりも大々的に。

 やはり凱旋門賞と同じコースでの勝利というのが大きいのだろう。

 新聞で、テレビで、スマホで、ネットニュースで。エルと凱旋門賞を関連付けた話題は尽きることがない。

 フォア賞で欧州のウマ娘たちを振り切り、圧倒的ともいえる強さで勝利したエルの姿は日本のレースファンに希望を見せた。

 

「いやエルコンドルパサーマジぱねぇって! 凱旋門賞だって勝てるっしょ!」

「正直、エルコンドルパサーには黄金世代と言われる同期たちと走って欲しかったですが……ここまで来たら勝って欲しいですね」

「凱旋門賞に勝てば日本のトレーニング技術が世界に通用することになります。彼女には頑張って欲しいですよほんと」

「いやー結果はどうなろうと元気に帰って来て欲しいってのが一番ですかね」

「実は現地応援行くんです。そのための休みも取ってて……!」

「エルちゃーん! 頑張ってー!!」

 

 ニュース番組で流れる街頭インタビューは一部冷静なコメントがあるものの、それ以外はエルを応援するものだった。

 凱旋門賞が近づくにつれ、誰もがこの話題を口にする。

 バスの中で学生が、電車の中でサラリーマンが、スーパーで買い物をする主婦が、コンビニでたむろする若者が、スロットの前で管を巻く中年が。

 スマホを片手に、中吊り広告を見ながら、酒を傾けながら、エルと凱旋門賞の話題を口に出す。 

 日本でトレーニングを積んだウマ娘が世界の頂点を決める舞台に出走する。ただ枠を埋めるのではなく、優勝候補として。

 日本中が夢を見ていた。

 かつてカツラギエースが初めてジャパンカップで海外勢に勝ったように。シンボリルドルフが無敗の三冠を成し遂げ、七つの栄冠を獲ったように。

 オグリキャップがその走りでクラシックのルールを変えたように。トウカイテイオーが奇跡の復活を魅せたように。

 日本のウマ娘レースが夢を叶えることを、次の時代に行くことを日本中が望んでいた。

 

 そんな日々が続き、ついに凱旋門賞を前日に控えた夜。日本の期待を一身に受けたエルはというと。

 

「うーん、やっぱりニンジンジュースはもうひと箱あった方が良いデスね。あとは食べ物も……グラスもライス先輩もたーっくさん食べますからね!」

 

 祝勝会の準備なんてしていた。

 

「こんなことしてていいのかな………」

「なーにを言ってるんデスか! 走る前から負けるかもーなんて考えるウマ娘なんていません!! 他の出走メンバーの研究も済んでます!」

「そうだけど……というか、エルが準備するのも変じゃないかな」

 

 走るのエルだ。結果はどうあれ、会を準備するのは私や他の遠征チーム、そして学園の級友たちだろう。

 

「ノー! 確かにみんながエルのためにパーティを開いてくれるのは嬉しいデス。だけど、エルだってありがとうをみんなに伝えたいんデース!」

 

 大仰な身振り手振りを混ぜながらエルが続ける。

 

「エルは、一人では強くなれませんでした……エルが今ここにいるのはシリウス先輩たち遠征チーム、黒沼さん、そしてマルカブの、トレセン学園みんなのおかげデス! だからレースが終わったら、みーんなにお礼をしたいんデス!」

「そうか……」

 

 エルの素質はジュニア級の頃からずば抜けていた。そんな彼女が経験を積んだことで輝いた。

 黄金世代、異次元の逃亡者、世代を超えた強敵たち。数多のウマ娘との激闘がエルを強くしたんだ。

 

「じゃあ、最高のお礼をしないとね」

「ハイ!!」

 

 そうしてエルとまた祝勝会の内容を詰めていく。

 会場を確保し、飲み物、食べ物の予約を済ませていく。

 

「おーわったー!!」

「レースもその後も準備万端。後は本番を待つだけだね」

「そのとおりデース」

 

 ぼふっ、と音を立ててエルが別途に倒れこむ。手足をめいっぱい伸ばしてそのまま寝入ってしまいそうだ。

 ……………いや待った。

 

「エル、君の部屋は一つ上の階だろう?」

「今日はー、ここで寝たいんデース」

「私の部屋なんだけど」

「トレーナーさんの部屋はー、エルの部屋デース」

「どういう理屈?」

 

 苦笑いしていると、エルが薄く目を開けてこっちを見てくる。そしてポンポンとベットの空いたスペースを叩いてくる。

 

「…………………………」

 

 ………いや、トレーナーと担当ウマ娘という間柄だとしてもそれはよろしくない。

 

「じゃあ私が場所を移るよ」

「ダーメーデースー!!」

「うわっ」

 

 エルに飛びつかれ、そのままベッドに引きずり込まれた。

 

「えへへー」

「エル?」

「今夜はトレーナーさんと、いーっぱいお話したいデス」

 

 ニコニコと笑うエルが腕を回し、身体を引っ付けてくる。彼女の体温が腕越しに染み渡ってきた。

 

「今日は随分甘えん坊じゃないか」

「ん~だってグラスやライス先輩と違って、エルはずーっとトレーナーさんと離れてたんデス」

「レースは見に来たし、ミーティングで顔を合わせてただろう?」

「見に来てもすぐ日本に帰っちゃったじゃないデスか! それにタブレット越しに顔を合わせるのと直接は違うんデース!」

 

 そういうものか。まあ確かにエルだけを見ているというのは、彼女をチームに迎えてから初めてだったかもしれない。

 

「トレーナーさん、前から思ってましたけどエルのことそんなに好きじゃないデス?」

「えっ?」

 

 唐突に爆弾が投げ込まれた。

 

「そんなことないけど、どうしてそう思うんだい?」

「だって選抜の時、トレーナーさんはエルじゃなくてグラスを選びました」

「それは……」

 

 二年前のことだ。まだマルカブにライスしかいなかった頃、私は選抜レースに勝ったエルではなくグラスをスカウトした。結局はエルからのアタックもあって二人ともチームに迎えたが、あれがなければ私はエルをスカウトすることはなかっただろう。

 それを、今も気にしていたのか……。

 

「君を悲しませたのなら、ごめん」

「悲しいというより、悔しいとかどうして?って気持ちでした。だから教えて下さい。エルのこと、どう思ってます?」

 

 マスクから覗く青い瞳が私を見る。向きあったまま、告げる。

 

「君は私の、大事な担当ウマ娘だ」

「……………」

「あの日、エルじゃなくてグラスを選んだのは意地のようなものだったのかもしれない」

「意地、デス?」

「ああ。君の才能はあの時から同世代と比べて抜きんでていた。きっと素晴らしいウマ娘になるだろうと思ったよ。誰がトレーナーになっても」

 

 二年前にも言った言葉だ。

 

「私の支えがなくとも大丈夫なエルより、支えが必要だと思ったグラスを選んだ。自分がいる意味を求めたトレーナーとしてのプライドだったんだ……今思えばグラスにも失礼な選択だな」

「そうデスねー、グラスが聞いたら薙刀でズンバラリンデース。でも……」

 

 エルが顔を胸元に埋めてきた。心音を聞かれているようでドギマギする。

 

「エルが今、ここにいるのは絶対にトレーナーさんのおかげデース。他の誰でもない、アナタの。

 リギルでもスピカでも、カノープスでもなく。マルカブだから、こうしてエルはここにいる。それだけは信じてください」

「……ああ。ありがとう」

 

 髪を撫でるとくすぐったそうに身をよじった。

 

「君を担当できたことは、私のトレーナー人生の誇りだ」

「じゃあ、誇りついでに勲章も一つ追加してあげマス。明日の凱旋門賞、絶対、ぜーったいに勝ってみせマス」

「うん、頑張ろう」

 

 夜が更けていく。

 それからもエルとこれまでの思い出を語り合い、気づけば瞼が落ちていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 前日降っていた雨は上がっていた。しかし欧州の芝が渇くことは無く、バ場状態は不良の発表だった。しかも超をつけたくなるほどの柔らかさ。正直、適応出来たとはいえ日本のウマ娘には不利な条件だった。

 一部には出走を検討する陣営もいたようだが、最終的に十四人のウマ娘が出走を決めた。

 準備のできたウマ娘からパドックへ入場していく。

 

「頑張っておいで」

「はいっ!」

 

 ついにエルの番が来た。深紅のコートが特徴の勝負服が会場に現れた時、客席の一角から声が上がった。

 

「エルちゃーん!」

「頑張れー!」

 

 会場には日本から来た応援団の声援だった。その数なんと2,000人。それだけ彼女が期待されているのだ。

 声援に手を向けるエルに続いて、次のウマ娘が入ってきた。

 

「──────」

 

 思わず息を呑んだ。

 青を基調とし、金の装飾が施された勝負服。艶やかな鹿毛色の髪。光を受けて虹にも見える金の瞳。ガッチリとした身体つきだが、伸びる四肢はしなやかなでまるで豹のよう。

 エルが日本の代表なら、彼女こそフランスの頂点。

 

「モンジュー……!」

「なんて仕上がりしてやがる。あれでクラシック級かよ」

 

 傍にいたシリウスシンボリが呻いた。

 モンジューはエルより世代が一つ下のクラシック級。現在の戦績は七戦六勝、フランスとアイルランドのダービーを制し、フランスだけでなく欧州最強ウマ娘といっても過言ではない。

 

「会えて嬉しいよ、エルコンドルパサー」

「……っ!」

 

 驚いた。モンジューが、前を行くエルに話しかけた。

 

「あなたの欧州でのレース、拝見させてもらった。春からの長期遠征で欧州へ適応した走り、見事だった」

「それはありがとうデス。……エルも見ましたよ、アナタのレース。凄かったデス」

「ありがとう。日本のチャンピオンにそう言って貰えて鼻が高い」

 

 エルとモンジュー。会話は穏やかだが、交錯する視線では激しい火花が飛んでいた。

 

「あなたの挑戦に敬意を」

「ケ?」

「日本にいればもっと多くの栄誉を掴めただろうあなたが、貴重な一年を注いでここにいる。そうまでして凱旋門賞に、欧州を挑んでくれたこと、それこそが欧州のウマ娘にとって誉れだ」

 

 煽っているわけではない。彼女は、本気でエルの挑戦を誇らしく感じている。

 

「だからこそ、私は……私たちは負けられない! 日本のウマ娘がジャパンカップに威信をかけるように、凱旋門賞も欧州の威信がかかっている。

 証明してみせよう。あなたたちが目指す高みが遥か空の先にあると、一年を注いでも届かぬものだと!」

「いいえ、届きます。エルたちの努力は、覚悟は、ただ時間の長さだけで計れるものではない!」

「ならば見せていただきたい。日本のウマ娘の力を! 私たちも欧州の力を見せよう。日本(きみたち)がもっともっと欧州(わたしたち)を目指してくれるために!」

 

 モンジューが歩を進める。

 エルの隣を通り過ぎる瞬間、言葉が紡がれる。

 

「お互い、よいレースを」

「ええ、いいレースを!」

 

 

 

 ◆

 

 

 

『ターフの世界一決定戦と呼ばれる最高峰レース、凱旋門賞。今年もこの大舞台に世界屈指のウマ娘たちが集いました。その中に、日本のエルコンドルパサーがいます。

 デビュー時から公言していた世界への挑戦。その宣言通り、世界最高の舞台に彼女は立ち、勝負の時を今か今かと待ち構えています』

 

(長かった。昔から夢見た世界最強。それを証明するため、アタシはここにいる……! そして───)

 

 ちらり、と青い瞳が客席に向かう。関係者が集うその最前列。遠征チームに混じる男を捉えた。

 

(トレーナーさん、見ててください。アナタが鍛えたウマ娘が今、世界の頂点に立つ!)

 

『各ウマ娘、ゲートイン完了しました。

 世界の頂点が決まる凱旋門賞───今、ゲートが開きました!

 

 エルコンドルパサー、好スタート! 果敢に飛ばして先頭に立った!』

 

 スタートは完璧。そうエルコンドルパサーも自賛した。しかし、足元を跳ねる泥にその表情はすぐに変わる。

 

(コースのコンディションが悪い……! これはもうダートデスね……。でもアタシ自身のコンディションは最高! このまま、押し切る!)

 

『後続が混戦模様の中、エルコンドルパサーは先行策に出ました! 後続との差を三バ身、四バ身と広げていきます!』

 

 エルコンドルパサーの走りは好調だった。先頭をキープしたまま坂を上り、第三コーナーへ入る。

 十三のウマ娘を引き連れて走る姿に、応援団からの歓声が上がる。

 

「いいぞエルコンドルパサー!」

「このまま逃げ切っちゃえー!」

 

 未だ後続が迫ってくる様子は無い。先頭のまま坂を下り、ついに最後の直線に入った時、歓声は最高潮に達した。

 勝てる。勝てるぞ! 日本のウマ娘が欧州の大レースで勝つんだ!

 声に応えるようにエルコンドルパサーがスパートをかける。後続を一気に突き放し、勝負を決めようとしる。

 瞬間、

 

「素晴らしいな───!!」

 

 獣のように、追い上げてくる影があった。バ群をかき分け先頭集団に躍り出る姿に、誰かが声を上げた。

 

「モンジュー!」

「モンジューが来た!?」

「モンジューが来た!!」

 

 あっという間に、女豹が、怪鳥に並び立つ。

 

「……モンジューッ!!」

「エルコンドルパサー。やはりあなたは強い。つくづく世界は広いということを実感した」

 

 残り200mを切っている。だというのに、モンジューの息が上がった様子は無い。

 

「だから今度は私が伝えよう」

 

 つまりは、まだスピードが上がるということ。

 

「これが、世界の頂点だ!!」

 

『先頭が代わった! モンジュー! ここでモンジューがエルコンドルパサーを交わしたー!』

 

 客席からの悲鳴を嗤うように、モンジューが駆け抜けていく。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

(負けられない! 負けるわけにはいかない!!)

 

 悲痛の叫び。必死に駆けるが、モンジューはさらに前へ。エルコンドルパサーとの差をどんどん広げていく。

 

(まだ……まだまだぁ!)

 

 手足から血の気が引いて行くのが分かる。心はまだ諦めていないが強者としての第六感が告げていた。

 もう追いつけない。

 欧州王者の実力を見せつけられ、積み上げてきた自信が砕け散っていく。

 

(もうすぐなのに、目の前なのに! ここを勝てば夢が……世界一の、最強の夢が叶うのに! もう目の前なのに!)

 

 

 

 ───本当に?

 

「──────」

 

 唐突に内から湧いた疑問に視界が、思考が白に染まった。

 

 ──本当に? 本当にここを勝てば夢は叶うの?

 

 当たり前だ。凱旋門賞、世界一のレースだ。それに勝てて最強でなくしてなんだというのか。

 

 ───スペシャルウィークに負けたままなのに?

 

 ドクン、と心臓が跳ねる。

 白かった視界に色が戻る。緑のターフ、くすんだ色の空。前を行くモンジュー。そして───

 

 ターフを駆ける友の幻影。

 紙一重で上を行き、世代の頂点を掴んだ級友。

 手も足も出ずに逃げ切られ、未だ再戦の叶わぬ逃亡者。

 それを差し切った小さく強い青いバラ。

 そして、グランプリを制した親友。

 

(そうだ……)

 

 リベンジを果たせずにいるライバルがいる。未だ対決叶わぬ先輩が、親友がいる。

 モンジューが言っていた。世界は広い。

 世界はまだ、エルコンドルパサーが知らぬ強者がいる。凱旋門賞(このレース)に出ているのはそのほんの一滴。そこで勝ったとして果たして最強か。

 その通りだと言う者はいるだろう。

 しかし、周囲がそう言ったとして当のエルコンドルパサーが認められるのか。

 

(まだ───)

 

 否。

 

(エルが知らないウマ娘がいる。決着がついていない相手がいる!)

 

 心臓が跳ねる。冷え切った手足に熱が戻る。

 

(ドトウたち下の世代、パール先輩たち上の世代……)

 

 振るう腕が風を切り裂く。蹴り上げた脚が泥ごと芝を抉り飛ばす。

 

(キング、セイちゃん! スぺちゃん、スズカ先輩、ライス先輩……! エルは、皆とも勝負したい! そして───)

 

 青いに瞳に光が、炎が点いた。

 

(グラス、アナタと今度こそ決着を! そのために───)

 

 

「ここで……」

 

 

 

凱旋門賞(こんなところ)で、負けていられるかああああああああああ!!!!」

 

 

 

大望は飛んでいく(ユメヲカケル)

 

 

 

 

『エ、エルコンドル!! エルコンドルパサーが再加速!! グングンと、グングンとモンジューとの距離を詰めていく!!』

 

「なんだと!?」

 

 後方から迫る影に、モンジューが初めて表情を変えた。

 衝撃、驚愕、焦り。過去一度として湧かなかった感情が駆け巡る。

 観客の悲鳴と嬌声が響く。すでにエルコンドルパサーはモンジューのすぐ横に並んでいた。

 

「お……おおおおおっ!!!」

 

 しかし、ここで勝負を決めさせないからこそ欧州王者。ギアをさらに一つ上げ、エルコンドルパサーを振り切ろうとする。

 

「この終盤でまだそんな脚を!!」

「驚かされたのはこちらも同じ。まさか、ここまで迫られるとは!!」

 

 エルコンドルパサーの豹変をモンジューは看破した。

 

(なるほど、“領域(ゾーン)”か。よもやこの土壇場で覚醒するとは、恐るべし日本のウマ娘!!)

 

 モンジューは“領域(ゾーン)”に至っていない。それは決して未熟ということではない。“領域(ゾーン)”に頼らずとも強いのがモンジューなのだ。

 そも“領域(ゾーン)”とは限界を超えた力。即ち、地力ではモンジューが勝っている証拠に他ならない。

 

「“領域(ゾーン)”の有無が、ウマ娘の力の決定的差ではないということを教えてやろう!!」

 

 モンジューがさらに加速する。エルコンドルパサーも追走する。

 後ろのウマ娘たちはもうついてこれていない。そして未だ、両者は並んだまま。

 

「“領域(ゾーン)”は消耗が激しく長い時間持続するものではない! 即ち!!」

「ここからは───」

「積み上げてきた研鑽と!」

「意地と!!」

「誇りの!!」

 

 

「「勝負だああああああああああああああああ!!!!!」」

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

『モンジュー離したか!? いやエルコンドルパサー食らいつく! 今度はエルコンドルが抜け出したか!! 行け!! そのまま……ああ!? モンジューが、モンジューがまた並んだ!!』

 

 興奮した実況を聞きながら、最後の直線を駆ける二人を見る。

 客席は興奮と狂乱の坩堝であった。

 

「行けええエル!!」

「負けるなモンジュー!!」

「勝てる! 勝てるぞ! 諦めるなあああ!!」

「欧州の意地を見せろモンジュー!!」

「差せー! 差せー!!」

 

 誰もが叫んでいた。

 日本からの応援団が。欧州のレース関係者たちが。レースを愛する富豪たちが。エルとモンジューの激闘に声を上げていた。

 シリウスシンボリが、シーキングザパールが、エアグルーヴが、ミホノブルボンが、黒沼トレーナーまでもが拳を振り上げ必死に声を上げていた。

 届いているかもわからない。けれど叫ばずにはいられない。

 今ロンシャンレース場を包む熱気は、間違いなく世界一だった。

 

「行け……!」

 

 私も声を上げる。最前列で、身を乗り出して。一心不乱に。

 

「勝てえええええエルゥウウウ!!!」

 

 

 

 その瞬間、晴天のように明るい瞳が輝いた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 その声は、確かに届いた。

 少女の勝利を願う、必死の叫び。それが彼女に最後の力を振り絞らせた。

 

 駆ける。

 

「ここからが───」

 

 翔ける。

 

「───見せ場デース!!」

 

 

 

 

『抜けた! 抜けた!! 抜け出したエルコンドルパサー!! 頭一つ、頭一つ前に出た!!

 

 このまま、このまま行け! 行ってくれ!!

 

 

 

 

 …………エルコンドルパサァアアアッ!!

 

 今、エルコンドルパサーが一着でゴールイン!!!

 

 勝った!! 勝ちました!! 勝ったのは日本のエルコンドルパサー!!

 

 天翔ける怪鳥が、世界最強の称号を掴み取りました!!

 

 ――…………』

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 冷めやらぬ興奮の中、表彰式が行われる。

 私たち遠征チームが並び、その中心でエルが立つと一斉にカメラのシャッターがきられた。

 フラッシュの洪水の中でエルが凱旋門を模したトロフィーを掲げた瞬間、日本の応援団から喝采が響きわたった。

 止めるわけにもいかない。なにせ凱旋門賞勝利は日本の悲願だ。それが叶う瞬間を目の前で見たのだから、興奮を抑えろという方が無理だろう。

 表彰式が終われば今度は勝利者インタビューだ。

 日本からの記者がこぞってエルにマイクを向けてくる。

 

「エルコンドルパサーさん! 凱旋門賞制覇おめでとうございます!」

「ありがとうございまーす!」

「以前より目指していた凱旋門賞ですが、勝った今の気持ちをお聞かせください!」

「最ッ高の気分デス! これもトレーナーさんや遠征チーム、応援してくれたみんなのおかげデース! みんなの声、ちゃんと聞こえてましたよー!!」

 

 応援団の声が一段と大きくなる。

 苦笑いをしながら、次の記者が質問に移る。

 

「月間トゥインクルです! 今回の勝利でエルコンドルパサーさんの大目標は達成されました。目標とされた最強の称号を得て、私たちファンは今後の活躍にも期待しているのですがいかがでしょうか!」

 

 乙名史記者だ。また随分と気の早い質問を飛ばしてきたな。凱旋門賞に注力してきて、エルのその後なんて全く考えてなかった。

 フォローしようとしたところでエルと目が合う。

 任せて欲しい。視線で語っているようで、ここは身を引くことにした。

 

「最強……みんなはエルのこと、最強だと思いますか?」

 

 え? と誰もが呟いた。応援団からの声も消え、静寂が舞台を包んだ。

 何とか復活して声出せたのは、乙名史記者だった。

 

「えっと……が、凱旋門賞を勝利したのですからそうだと思いますが……」

「そうデスか……本当にそうなんでしょうか?

 エル、今回の遠征で強いウマ娘にたくさん出会いました。日本にいただけじゃ知ることのなかった強者が世界にいる。凱旋門賞を走って身に沁みました。

 だから……エルの勝利に納得いかないウマ娘もいるんじゃないデスか?」

「そ、それはどういう……?」

「エルは! クラシック級で二回負けました。遠征中も一度負けましたけどサンクルー大賞でリベンジ済み、でも日本で負けたウマ娘にはリベンジできていません!

 シニア級でも! エルは走っていないから戦ったことのないウマ娘は大勢います! 日本にも、世界にも!」

 

 ざわざわと、どよめきが広がっていく。

 中継を映すカメラに向かい、エルが再び口を開く。

 

「中継を見たウマ娘たち! 思ったんじゃないんデス? 『自分が出ていれば結果は違った』と! 『エルコンドルパサーよりも、自分は強い』と!!

 それともエルの勝利を見て、おめでとう、良いレースだった。それで終わり? そんなわけないでしょう!! ウマ娘なら、この胸の奥に熱いものが宿ったはず!!

 今のエルはさながら暫定チャンピオン……だから、決めましょう!! 本当の、本当に、最強は誰なのかを!!」

 

 雲行きが怪しい。

 これは止めた方が良いのかもしれない。

 

「エル、ちょっと待───」

「エルの次走は、有記念!!」

 

 遅かった。

 このインタビューは生中継、エルの言葉はもう世界に発信された。

 しかも乙名史記者の目が輝き、メモ帳にペンが高速軌道を描いてる。

 

「日本で行われる年末のグランプリ! 望めば日本以外のウマ娘も出走できます。もしもエルとの対決を、最強を決める舞台を求めるならば来てください!

 欧州、米国、南米、豪州、香港、中東! 世界中から我こそ最強と名乗る者たちが集まった冬の中山で、真の最強を決めましょう!!」

 

 エルの宣言は波濤のように世界を駆け巡り、熱狂の渦へと叩き込んだ。

 世界中のウマ娘が、極東の島国へと熱い視線を向けることとなる。

 

 この日、凱旋門賞を勝ったことで日本は新たな時代に突入した。

 そして同時に、世界を巻き込む戦乱の幕が切って落とされた。

 

 

 

 

 第五章 チーム飛翔編 完

 

 

 

 最終章 チーム決戦編へ続く

 

 

 

 

  






凱旋門賞走った日本ウマ娘のラストランが日本じゃないなんてありえないよなあ!
ということで次回から最終章。今の投稿ペースだと間違いなく来年まで引っ張りますので気長に待ちください。

そして最後に、

頑張れスルーセブンシーズ!
頑張れルメール騎手!




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最終章 チーム決戦編
【番外】勝利とその衝撃


 メリーハッピーあけおめハロウィンことよろクリスマス!(ヤケクソ)
 三ヶ月も空いてすみませんでした。
 ようやく最終章スタートです。
 まずは一話ずつ、計五話投稿させていただきます。
 
 でもいきなり番外。エルが凱旋門走ってる頃、日本では……みたいな話とその後の反応。


 凱旋門賞当日、日本時間で夜の十一時。日本中の建物から明かりが消えることは無かった。

 栄光の舞台、凱旋門賞が始まるまでもうまもなく。トレセン学園のカフェテラスには営業時間を過ぎても人が消えることは無かった。

 すでに寮の門限を過ぎているがカフェテリアから学園のウマ娘たちが立ち去ることはない。

 

「今日ばっかりはしょうがないっスね!」

 

 規則に厳しい風紀委員も、監督すべき寮長たちも取り締まることはしなかった。

 むしろ彼女たちが率先して会場設営に参加していた。

 カフェテリアのスタッフが特別に用意してくれた料理を並べ、心得のある生徒がコーヒーや紅茶を淹れる。個人で外の店舗や自販機に走るウマ娘もいた。

 店内に設置された大型モニタにはフランスの中継映像が流れている。

 学園のウマ娘たちは並べられた椅子やテーブルに座り、モニタを注視していた。

 

「な、なんか緊張してきちゃった……」

「どうしてスペシャルウィークさんが緊張するのよ」

「そういうキングだってそわそわしてるじゃん」

「スカイさん余計なこと言わない!」

 

 最前列とも言える位置に、黄金世代の三人が並んでいた。そこへもう一人が加わろうとする。

 

「ご一緒してよろしいですか?」

「グラスちゃん! もちろんいいよ。あ、何か飲む?」

「先ほどお茶を貰って来たので大丈夫ですよ」

 

 スペシャルウィークの隣に座るグラスワンダー。モニタに映るロンシャンレース場の様子を一瞥してから言う。

 

「ついに、この日が来たんですね」

「うん。エルちゃんの夢が叶う舞台……!」

「……スぺちゃんも、出たかったですよね」

 

 しばしの沈黙。空気がやや張り詰める中、スペシャルウィークが口を開く。

 

「うん、出たかった。でも私にはそれだけの実力がまだなかった。それだけだよ。

 ……だからグラスちゃんが気にすることは無いよ」

「ありがとうございます……」

「もう、負けないから……!」

「───! 私も、負けませんよ」

 

 空気が弛緩した。周りにいたウマ娘たちもホッと胸を撫で下ろし、視線をモニタへ戻していく。

 

「いやー青春してますな」

「なに他人事みたいに言っているのよ。秋シーズン、復帰するんでしょ?」

「ちょっと言わないでよキング。こうして身を潜めていればまたコソコソっと逃げ切れるのに」

「あ! セイちゃんからはもう目を離さないからね!」

「ええ、天皇賞(春)のようなことはもうさせませんから」

「ええー」

 

 黄金世代が笑って語らう一方、後方では鋭い眼光でモニタを睨む者がいた。見た目も剣呑なためか誰も近寄ろうとせず、彼女の周りだけ空席が目立っていた。

 

「おやおやちょうどよく席が空いてるじゃないか。隣失礼するよ、シャカール君」

「座ってから言うことじゃねえだろ、タキオン」

「固いこと言わないでおくれ。一時は同じチームにいた仲だろう? あ、それと聞いたよ。メイクデビューもうすぐなんだってね」

「テメェの方こそ、ようやく担当ついたらしいじゃねえか。薬漬けにして無理やり契約したとか狂ってんな相変わらず」

「彼女が勝手に飲んだだけなんだけどねえ……。ま、互いの近況報告はこれくらいでいいだろう。どうなんだい、エルコンドルパサー君は」

「ああ? 遠征について行ってねえオレが知るわけねえだろ」

「いやいや、君にはアレがあるじゃないか。データを信奉する君にとって神の啓示に等しいソフトが。君のことだ、トレーナーに向こうでのトレーニング映像や数値データを送るよう要望くらいしてるんだろう?」

「……チッ」

 

 図星だった。春にエルコンドルパサーが渡欧してから、向こうから送られるデータや映像は全てエアシャカールにも共有されている。

 そしてそのデータをParcaeに入れてシミュレートしていた。当然、この凱旋門賞も。

 

「結果はどうなんだい?」

「もう少しで目の前のモニタに映るんだ。焦ンなよ」

「そうか……それもそうだね」

 

 その返答でアグネスタキオンはなんとなく結果を察したのか、それ以上追求はせず持ち込んだ紅茶に角砂糖をぶち込んだ。

 

 また別の一角では、先ほどとは別の意味で他者を寄せ付けないグループがいた。

 

「あら、なんだか珍しい組み合わせね」

「マルゼンスキー……!」

「はあいマルゼン! 君も一緒にどうだい?」

「素敵なお誘いありがとうミスター。でも、三冠ウマ娘たちの隣はちょっと緊張しちゃうわ」

 

 そこにいたのはミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアンという三冠ウマ娘たち。さらに話しかけているのは真紅のスーパーカー。

 大スターたちの邂逅に、凱旋門賞そっちのけでそちらを見ている者もいた。

 

「というのは冗談。今日はチヨちゃんに誘われているから、そっちを優先ね」

「残念。さっきはラモーヌにも振られちゃったし、今夜は運が悪いのかな」

「向こうはメジロで固まっているだけだろう。あと、縁起でもないことを言うな」

「おっとこれは失敬、ブライアン。でも意外。君もそういうの気にするんだ」

「今日、ばかりはな……」

「みな、歓談もいいがそこまでだ。まもなく始まるぞ」

 

 シンボリルドルフの声が合図だったように、モニタの向こうでパドックが始まる。

 続々と入場する世界中のウマ娘たち。誰もが万全の仕上がりを見せ、まさに世界最高峰のレースに相応しい顔ぶれだった。

 

「あ、エルちゃん! 頑張れー!」

「聞こえるわけないでしょう……まったく」

「いやいや、こういう声援は大事でしょ。……なかなかの仕上がりっぽいけど、グラスちゃんから見てどう?」

「いつも通り、でしょうか。調子は万全、力を出し切れそうです」

「ほうほう……」

 

 あちこちから上がる声援や見分は、次に現れたウマ娘を前に掻き消えた。

 

「あれが……」

「モンジュー……!」

「うわ凄い身体。ダービー二つも取るわけだ」

 

 画面の向こうでモンジューがエルコンドルパサーへ宣戦布告し、それぞれのゲートに入っていく。

 

「あああなんかドキドキする……!」

「私も。自分が走るわけじゃないのに」

「頑張れエルさん。頑張れぇ……」

 

 ついにスタートの時がきた。

 一瞬の静寂の後、ゲートが開くとともにウマ娘たちがターフへ飛び込んでいく。

 先頭を取ったエルコンドルパサーを見て歓声が上がる。

 

「うっしナイススタート」

「行け行けエルちゃーん!」

 

 モニタを凝視するウマ娘たちの裡で希望が鎌首もたげる。応援の声と共にそれは、エルコンドルパサーが真っ先に最終直線へと入ったところで最高潮に達した。

 勝てる。

 勝てる!

 

 そんな甘い夢を踏み潰す、獣の足音が後方からやって来た。

 

「うわあモンジューが!」

「モンジューが来た!」

「やっば何あの脚やっば」

 

 あっという間にエルコンドルパサーに追いつき抜いていく欧州王者の姿に、生徒たちの気持ちは一気に奈落の底まで落ちていく。

 やはり勝てないのか。

 エルコンドルパサーでもダメなのか。

 それほどまでに世界の壁は高いのか。

 俯く者、モニタから目を逸らす者が出始め、カフェテリアの空気は冷えていく。

 

「諦めるな!!」

 

 声が響いた。

 最前列。立ち上がってモニタを睨みつける者がいた。

 キングヘイローだ。

 

「まだ終わってない! 終わって無いでしょ!」

 

 届くはずのない檄。必死にモニタの向こうへ叫ぶ様は虚しい足掻きにも見えた。

 が、

 

「そうだー! ダービーで私を抜いた末脚はどうしたー!?」

「エル! ゴールの瞬間まで諦めないで!」

「エルちゃーーん! 頑張れー!!」

 

 黄金世代が続いて声を上げる。

 彼女たちの心はまだ折れていない。何故なら、レースはまだ続いているのだから。

 声が届くわけない。想いは伝わるわけない。だが、見ている側が先に諦めるなど、もっとあり得ない。

 冷え切ったカフェテリアに、熱が戻ってきた。

 

「頑張れ……頑張れ……!」

「差し返せえ!」

「行けえ日本代表!」

「最強になるんでしょ!? 夢見させてよ!」

「私に勝っておいて、そんな奴に負けるな!」

 

 次々と声が上がる。

 同期たち。レースでエルコンドルパサーに負けた者。彼女に憧れる者。それぞれが思いの丈をモニタへと叩きつけていく。

 

「…………いけよ」

 

 声援など無意味、無駄。そう思っていた彼女も気づけば呟いていた。

 

運命(れきし)なんて、ブッ壊しちまえ」

 

 言葉が届いたのか。そう思いたくなるタイミングで、エルコンドルパサーが加速した。

 その名の通り翼が生えたように、翔ぶように、ロンシャンの直線を駆け抜ける。

 見ている側の熱も限界を突破する。

 

「いけえええええ!!」

「走れえええええ!!」

「勝てる勝てる勝てるぞおおお!」

 

 真紅のコートが先頭でゴール板を駆け抜けると歓声は爆発した。

 やったやったと飛び跳ねる者。抱き合い喜びを分かち合う者。静かに拳を合わせる者。感極まって涙する者もいた。

 日本の悲願が達成された。日本のレースの新たな歴史が世界に刻まれた瞬間だった。

 エルコンドルパサーが凱旋門賞のトロフィーを掲げると日本中で拍手の音が響いた。

 嵐のような喝采の中、インタビューが始まる。

 そして、

 

『エルの次走は、有記念!!』

 

 忽然と音が消えた。

 

『冬の中山で、真の最強を決めましょう!!』

 

「「「「はあああああああああああああ!!?」」」」

 

 一転して、日本は阿鼻叫喚の渦に叩き込まれた。

 

 

 ◆

 

 

 日本にとって歴史的快挙───同時に衝撃的な宣言───から少しして。日本でいう朝、フランスでいう夜中。覚悟していたテレビ通話の着信が来た。

 

『称賛! 素晴らしいレースだった!』

『本当におめでとうございます。エルコンドルパサーさんの夢を叶えられましたね。そして日本の悲願を達成していただきありがとうございました』

「いえ、学園の協力あっての勝利です」

『そう言っていただけるとプロジェクトを立ち上げた甲斐がありました』

 

 モニターの向こうで理事長とたづなさんから祝いの言葉を貰う。

 すでに私やエルのスマホにも知人からのお祝いメールが山のように届いており、日本でもお祭り騒ぎなのは伝わってきた。

 

『ただ……最後のアレは、事前に言っておいていただけると助かりましたねぇ』

「……はい」

 

 恨みがましい声に思わず背筋が伸びた。

 よく見れば画面に映る二人はくたびれた様子で、たづなさんに至っては隈も見えた。

 エルの爆弾発言は当然日本にも伝わっている。トレセン学園やURAに至ってはきっと中継(リアルタイム)で聞いただろう。

 凱旋門賞覇者の次走宣言。当然、彼女の言葉に奮い立った陣営はそこを目指す。そして目指すためにすることは、出走条件などを問い合わせだろう……凱旋門賞直後から。

 日本の欧州の時差は、国によって若干の差はあれど凡そ六、七時間。フランスで夕方なら、日本は深夜だ。

 凱旋門賞制覇で沸き立った職員たちはきっと、深夜から問い合わせの嵐への対応に追われたであうことは想像に難くない。

 

「私の監督ミスです。ご迷惑をお掛けしました」

「ご、ごめんなさいデス……」

『不問! いや確かに大変であったが、これほどまで日本のレースに注目が集まったことは無い! これも嬉しい悲鳴というものであろう!

 ……で、確認だがエルコンドルパサーの出走は本気ということでよいな?』

「それはもちろん」

『僥倖! 海外ウマ娘たちの出走登録についてはこちらで詳細を詰め発表する。君たちは気にせずレースに集中して欲しい! ……いや、まずは半年に及ぶ長期遠征の疲れを癒すところからか』

 

 理事長の言葉に頷く。

 日本にいるのと違い、遠征先での生活はエルの気持ち的にも張り詰めた部分が大きかっただろう。

 

『報道機関からは早めに帰国して勝利報告を、という意見もありますが……』

『なに、今は有記念の方に目が向いている。すぐに帰国せず、フランス観光でも楽しんでくるといい!』

「ありがとうございます。エル、こう言ってくれているけどどうする?」

「んー確かにフランスを観て回るのもいいですが、トレーナーさんはすぐ日本に帰っちゃうんデスよね?」

「それは……うん。みんなのレースがあるからね」

 

 少し迷ったが誤魔化さずに言う。

 エルの大一番は終わったが、一週間程度でデジタルのマイル南部杯が来る。その翌週はドトウが菊花賞に向けた前哨戦があり、それが終わればグラスの天皇賞(秋)だ。

 

「じゃあエルも日本に帰ります! フランス旅行はまた今度、みんなでしましょう!」

「いいのかい?」

「遠征チームの先輩たちも自分たちのレースがありますし、一人で観光してもつまらないデスからね」

『分かりました。……ただ、帰国した際は大騒ぎになると思われるので準備に一日二日時間をください』

「じゃあそれまでは」

「フランス旅行デス!」

『うむ! 存分に楽しんでくると良い!』

 

 

 ◆

 

 

「今後の私の予定について話したい」

 

 凱旋門賞の敗北から一夜明け、モンジューは会見を開いていた。

 集まった報道陣を一瞥して、フランスのダービーウマ娘は淡々と宣言した。

 

「私は近く日本に渡り、十一月のジャパンカップに出走する。その後も日本に滞在し、年末の有記念の出走を目指す」

 

 シン、と沈黙が一瞬。すぐさまフラッシュと質問の嵐が起こった。

 

「それは活動の拠点を日本に移すということでしょうか!?」

「エルコンドルパサーの挑戦を受けるんですか!?」

「あくまで今年残りのシーズンを日本で過ごすというだけだ。そして───」

 

 音と光の洪水に怯むことなくモンジューは答えていく。

 

「挑戦を受ける、とは間違いだ。私が……我々(・・)がエルコンドルパサーに挑むのだ。彼女は勝利し、世界の王者として君臨した。その王者が次の舞台を指定したのだ。敗れた我々がそこを赴くのは当然のこと。日本のウマ娘たちが世界を求めて海を越えたように、今度は我々が王座を求めて海を渡る番なのだ」

 

 モンジューの視線が、報道陣が用意したカメラに向く。

 

「待っていろエルコンドルパサー。待っていろ日本のウマ娘たち。次は、私たちが挑む番だ」

 

 会見はすぐさま放送され、またネットメディアでも速報として伝えられた。

 モンジュー来る。

 その報は、日本へ第三の衝撃として齎された。

 

 

 

 同日の夕方。今度はURAの会見が開かれた。

 会見場には日本の報道陣が詰めかけたが、会見は生中継され世界にも配信される異様なものだった。

 エルコンドルパサーの凱旋門賞勝利を祝福し、その遠征のためにURAとトレセン学園が行った支援プロジェクトの成果であるとも発表し、今後とも積極的な海外遠征をサポートすることを発表した。

 そして、

 

「今年の有記念について、発表があります」

 

 報道陣が一斉にカメラを構えた。厳粛な雰囲気の中、URAの職員が告げる。

 

「現在、URAには有記念の出走条件について問い合わせがきております。基本情報についてはURAのホームページにて公表されておりますのでご確認いただくようお願い申し上げます。

 次に、優先権について。これまで有記念にドリームトロフィーリーグのウマ娘出走権は優先度が低く、実際の出走は困難でありました。ですが今年は、ドリームトロフィーリーグから有記念への出走に意欲を燃やす声が多くなっております。これら現状を踏まえまして一部出走条件の変更を行います」

 

 カメラのシャッター音がスコールのように響く中で続ける。

 

「優先出走権枠を従来からファン投票上位九名に、海外からの優先枠を五名に変更します。これにより空いた二枠をドリームトロフィーリーグからの出走枠とします」

「ド、ドリームトロフィーリーグからの出走ウマ娘はどのように選定するのでしょうか?」

「十一月、出走権を賭けた特別レースを開催します。所謂GⅠレースへのステップレースのような扱いで、このレースの上位二名に有記念への出走権を与えます」

「レース条件はどのようなものでしょうか?」

「出走希望するウマ娘が多い場合はどうするのでしょうか?」

「レース条件は有記念と同様、中山レース場の2,500mを予定しています。一レースを十六名までとし、希望者がそれ以上である場合は希望者の数に応じてレース数を増やします。仮に二レース行った場合、各レースの一着が有記念に出走可能となります。

 なお、この特別レースに出走したウマ娘は今年のウィンタードリームトロフィーへの出走は不可とします。これは有記念とウィンタードリームトロフィーの開催日が近く、十分な調整が不可能なため。特別レースへの過剰な出走者を抑えるための措置となります」

 

 報道陣から感嘆の声が上がる。二名だけとはいえ、かつてトゥインクルシリーズを沸かしたレジェンドたちの出走が叶うのだ。夢のグランプリ開催を想像し、興奮を隠しきれずにいた。

 

「続いて海外から来るウマ娘に向けて、トレセン学園よりお知らせがあります。───秋川理事長」

「うむ!」

 

 秋川がマイクを握る。視線が集まる中、小さな理事長が宣言した。

 

「通達! この度、トレセン学園ではサトノグループと協同開発したVRウマレーターの一般公開を行う! これは仮想現実空間にて様々な環境でのレースを再現が可能な最先端のトレーニングシステム! 海外のウマ娘は自身が住む地で、日本のレース環境を体験することが可能となる!」

 

 先ほどとは違う意味で、感嘆の声が上がった。仮想現実を利用したリアルなシミュレートはある種の技術革新であった。

 一方で困惑の声もあった。

 秋川の宣言はこれから日本を目指す海外のウマ娘に有利なもので、日本のウマ娘のアドバンテージを解消するものだ。そんな疑問も想定したのか、秋川が続ける。

 

「我々は海外遠征に多くの課題に悩まされてきた。これはその一つを解決するための技術! 日本は、自分たちが受けた不利をお返しするような真似はしない! 欧州、米国、南米、豪州、香港、中東、日本を目指す世界のウマ娘たちよ、万全の状態で有記念に挑んで欲しい!

 ……真の最強を決めるのだろう? ならば一切の言い訳無用、誰もが平等の条件で真っ向から勝負をしようではないか!」

 

 世界を駆け巡る四度目の衝撃。

 会見を見た者たち全員が確信した。

 今年の冬、日本は最も熱くなる。

 

 

 

 





 要約
 モンジューはリベンジする気満々。
 ドリームトロフィーからは二人出れるよ。誰が出るかはレースで決めるよ。
 ウマレーター使っていいよ。遠征デバフなんて捨ててかかってこい。


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63話 挑戦と凱旋

 番外扱いでもいいですが一応次のレースに向けた話です。


 

「有記念に向けた特別レースに出る。手続きを頼む」

「は?」

「トレーニングメニューも頼んだぞ」

「ちょ、ちょっと待ちなさいブライアン! 待って……痛ッ」

 

 膝を強打して悶絶する東条にナリタブライアンはため息をついた。

 

「慌て過ぎだ……」

「だ、誰のせいだと……! それより本気なのブライアン、有記念に出るということはウィンタードリームトロフィーに出られないのよ!?」

「構わん」

「構わないって、貴女分かってる? 次のウィンタードリームトロフィーは三連覇がかかってるのよ? リーグ成立以来、誰も成し遂げていない同一部門の三連覇が!」

「おハナさん」

 

 トレーナーが提示した栄光を前に、ナリタブライアンは無情に告げる。

 

「そんなもの、また三回勝てばいいだろう」

「あ…………んた……は…………」

 

 後に東条は語る。担当に手を上げそうになったのはアレが初めてだと。

 内心で大嵐と大噴火が同時発生するが、深呼吸で何とか抑えた。大人であった。

 

「…………分かったわ。でも出るからには勝ちに行くわよ」

「フッ、当然だ」

 

 風雲急を告げる。

 ナリタブライアンの特別レース出走表明はドリームトロフィーリーグのウマ娘たちに少なくない影響を及ぼした。

 ドリームトロフィーの覇者が不在。それは今まで辛酸を舐めさせられてきた者たちにとって好機であり、特別レースを避ける理由にもなった。

 一方でナリタブライアンに追随するように、特別レースへの参戦するか否かを表明していった。

 

「当然、私は出るよ。ブライアンちゃんが出るんだから」

「マヤもマヤも! 今年の有記念はすっごいワクワクの予感がするんだ!」

「んーアタシはやめとこうかな。サマードリームは結果残せなかったし、まずはこっちで結果出すのがきっとマーベラス!」

 

 その中でも、特に注目されるウマ娘がいた。永世三強にタマモクロスを加えた一団だ。

 

「なあ~にぃい~!? タマ公今なんつった!」

「何度言っても変わらんで。ウチは特別レースには出ん。ウィンタードリームトロフィーを選ぶ」

「なあ~にぃい~!?」

「繰り返すなや! 他の連中がどうしようと勝手やけどな、有記念はあくまでトゥインクルシリーズのグランプリや。もう引退したウチらがしゃしゃり出るもんやないと思うとる」

「そこを規則曲げてまでURAがチャンスくれてるんじゃねえのかい? それを蹴るなんて粋じゃねえぜ! おいオグリ、お前さんはどうするんだい?」

 

 イナリワンが矛先を変えた。ちょうど超特大の器に入った山のようなカレーを食べ終えたオグリキャップは、

 

「興味はある。黄金世代と呼ばれるウマ娘たちと走るのはきっと楽しい」

「おお、だったら!」

「だができない」

「なんで!?」

「約束がある。ライアンからウィンタードリームの中距離で勝負したいと」

「ぐ、ぬぬ……約束を反故にするのは……粋じゃ、ねえな」

「残念やったなあイナリ。まあ応援はしたるから頑張りや」

「同情なんていらねえってんだ! クリーク! クリークはどうするんでい!」

「私ですか? 私は……出てみようかなって思ってます」

 

 おお! とイナリワンが歓喜の声を上げる。一方で不思議そうに首を傾げたのはタマモクロスだ。

 

「なんやクリークがこういうのに積極的なん珍しいな」

「そうです? まあブライアンちゃんにリベンジしたかったというのもありますから。それに……」

「それに?」

「……きっと、あの子も出てくると思うので」

 

 それ以上、スーパークリークは詳細を語らなかった。ただ、その様子を見たオグリキャップは一言だけ。

 

「クリーク、私と秋天走った時みたいな顔してるな」

 

 

 ◆

 

 

 エルとのフランス観光はあっと言う間に過ぎ、ついに日本へ帰国の時がやって来た。

 日本に帰るのは私とエル、そしてエアグルーヴの三人だ。黒沼トレーナーは担当のミホノブルボンとともに欧州に残る。

 シリウスシンボリとシーキングザパールも本来のトレーナーやチームの元に戻りつつ、引き続き海外のレースを走るらしい。

 

「本当に、お世話になりました」

「こっちこそいい夢を見せてもらえた」

「私からも。素晴らしい時間でした」

 

 黒沼トレーナーとミホノブルボンそれぞれと握手を交わす。去年の夏から欧州に渡り、春からエルの面倒を見てくれたこの二人がいなければ、凱旋門賞制覇などあり得なかっただろう。

 

「パール先輩! シリウス先輩! 半年間ありがとうございました!」

「全くだ。ようやく子守から解放される」

「あらシリウスったらそんなこと言って。可愛い後輩と別れるのが寂しいなら正直に言ったら?」

「まだ寝ぼけているようだなパール。目を覚まさせてやろうか?」

「ふふ……エル、お礼を言うのはこちらよ。あなたによって日本のウマ娘の可能性は開かれた。あなたの勝利はきっとみんなの希望になるわ」

「パール先輩……!」

 

 熱い抱擁を交わすエルとシーキングザパール。互いに海外生まれということもあって元より仲の良い二人だったが、この半年間でより絆は深まったようだ。

 

「あとはエアグルーヴが来るのを待つだけだけど……」

 

 厳粛な彼女にしては珍しく、まだ姿を見せない。飛行機の時間まで余裕があるので問題は無いが、この人数でエアグルーヴが最後というのは意外だった。

 と、考えているとこちらに猛スピードで迫る影。噂をすればなんとやら、エアグルーヴだった。

 

「よし、揃っているな。すぐに搭乗口に向かうぞ!」

「もう? まだ時間はあるけど」

「私にはないのだ!」

 

 これまた珍しい。エアグルーヴが焦っている。キョロキョロと視線を巡らせ、周囲を探っている。まるで見つかりたくない誰かがいるような……。

 

「あ」

「察してくれましたか? ようやく撒いたところです。なので迅速な行動を。黒沼トレーナー、シリウス先輩、パール、ブルボン。慌ただしい出立となり申し訳ありません」

「あーまあ気にするな。理事長にもよろしく言っておいてくれ。……大変だな」

「……はい」

「では皆さん、いずれまたどこかで」

「ええ、今度は対戦相手として。……ライスさんにも」

「伝えておくよ」

「ありがとうございました!」

 

 エアグルーヴに引っ張られる形で搭乗口をくぐる。

 

 女帝殿~諦めないよ私は~

 

 飛行機に乗り込む直前に声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 着陸の振動で目を覚ます。なんとなくだが、日本の嗅ぎ慣れた空気な気がする。

 

「帰国、到着、凱旋デース!」

「やっとる場合か。行くぞ!」

「ケッ!?」

「エル、今はエアグルーヴの言う通りに」

 

 エルの手を掴んで他の乗客の波から離れる。人気のない場所に行くと、たづなさんが待っていた。

 

「お帰りなさい、皆さん」

「ただいま戻りました。では……」

「はい。準備はすでに」

 

 最低限の挨拶だけ済ましてまた早歩き。たづなさんの誘導に従い、また人気のない通路を進んでいく。

 

「なに? なになになんデスどういう状況デス!?」

 

 三列シートのワゴンに乗り込んだところでエルが困惑の声を上げた。

 

「凱旋パレードは? エルの勝利を祝うファンのみんなは? 勝利報告のインタビューは?」

「残念だけどそういうのは無し。あ、インタビューはこの後用意されてるよ」

「そ、そんな~」

「まったく、自分のしたことの影響を理解できていないのか」

 

 トレセン学園の職員の運転で車が発進する。

 揺れる車内でエルが首を傾げるので、エアグルーヴが続けた。

 

「エル。貴様は日本が長く追い求めてきた凱旋門賞制覇を成し遂げたウマ娘だ。まあ出身が日本じゃないとかケチをつけようとする輩はいるが無視だそんなもの。

 それに加えて貴様が表彰式のインタビューでぶちまけてくれた宣言のおかげで関係各所は上に下にと大騒ぎだ。エルコンドルパサーは今や日本どころか世界クラスで名が知られるまるで英雄扱いだ」

「おぉ……エルが英雄……!」

「目を輝かせるな。ともかく、そんな貴様が真正面から空港に降り立てばどうなる? たちまちマスコミや押しかけたファンで大混乱だ」

「ちょうど見えますね。スモークガラスですので、外からバレることはありませんよ」

 

 たづなさんに言われて窓の外を見る。空港の入り口や通路にびっしりと人だかりが出来ていた。赤と黄のグッズを持った興奮気味の人たちを、警備員が必死に抑えたり誘導しているのが見える。

 

「おおう……」

「分かったか? だからこうして人目を避けて移動しているのだ」

「しかしどうしてあれだけの人数が……。こうならないよう、帰国の時期は公表していないはずだけど」

「恥ずかしながら、口に戸は立てられぬと言いますか……。あとは渡航に詳しくてタイミングを読めるような特技を持つ方がSNSで発信したりとか。色々ありまして」

「はあ……」

 

 世の中、奇特な特技を持つ者がいるものだ。自分もトレーナーとして多方面に知識はあるつもりだったが、世界は広い。

 

「というわけで、不要な混乱を避けてトレセン学園に向かっている……の、ですが」

 

 たづなさんから批難の眼差し。担当に伝えていなかったんですか? 口に出さず問うてきた。

 

「表彰式のことがありましたので。段取りを伝えてタイミングを図られるより、突発的に動かしたほうが安全だと思いまして」

「効果覿面だったな」

「んな!? トレーナーさんはこの動きを知ってたんですか!? エルを玩びましたね!」

「言い方」

 

 エルは意外と急なハプニングに弱い。世界の頂点に立っただの、最強の怪鳥だのと呼ばれてもまだ中等部の少女なのだ。

 

「うう……エルの想像していた凱旋と違うデス」

「大々的な勝利報告はまたやるよ。それにほら」

 

 車が止まる。

 あ、とエルが声を漏らす。エルにとっては久しぶりの景色が広がっていた。

 

「真っ先におかえりを言いたい仲間がいるだろう?」

「! ……ハイ!」

 

 少女が飛び立つように車を降りる。勢いのまま駆け出し、出迎える仲間たちの下へ。

 

「みんな! ただいまデース!」

 

 半年ぶりの再会は、涙と歓声で彩られた。

 

 

 ◆

 

 

「不在にしていた間の各陣営の動向です」

「ありがとう」

 

 サブトレーナーの川畑君から資料をもらう。

 日本を離れていた約一ヶ月。世間の注目は凱旋門賞だったが、ライバルたちまでじっとしているわけがない。

 いやむしろ、エルの勝利と宣言に充てられて活発になるかも。

 

「……ナリタトップロードは神戸新聞杯か」

 

 ドトウと菊花賞を争う一人は彼女と同じステップレースを選択していた。距離は2400m。日本ダービー二着の彼女は大本命だろう。

 ……だがこれはチャンスでもある。

 今のドトウの走りはアドマイヤベガの模倣だ。そしてアドマイヤベガはナリタトップロードをこの距離で差し切っている。ドトウがこの夏でどれだけ成長したかを見るいい機会だ。

 資料をめくる。

 リギルのテイエムオペラオーは京都大賞典。秋の天皇賞戴冠を狙うシニア級ウマ娘たちが跋扈する激戦区。スペシャルウィークやセイウンスカイも出走を表明しているレースに向かうあたり、チーム・リギルの自信が見て取れた。

 ダートの方は大きな変化はない。あえて言うなら、ダートダービーウマ娘のドミツィアーナの動向が注目されているくらいか。

 後は秋にメイクデビューを迎えるジュニア級ウマ娘たち。シャカールはじめ、近い時期にマルカブの若手たちもデビューするので入念に見ておく。

 

「トレーナーさん」

 

 グラスに声を掛けられ、資料から顔を上げる。

 

「レースのローテーションについてご相談があります」

「いいけど、どうしたんだい?」

 

 グラスの直近の目標は天皇賞(秋)だ。ステップを挟まずにGⅠへ直行。宝塚記念を制しGⅠ四勝目を飾った彼女にはそれが相応しい。そういう予定だった。

 

「……天皇賞(秋)の出走を取りやめ、ジャパンカップへ集中したいです!」

「……理由はモンジューかな?」

 

 その場にいた誰もが息を呑む中、グラスが頷いた。

 

「モンジューはジャパンカップに出走します。有記念でエルにまた挑むために。私は、そこで彼女を迎え撃ちたいと思います」

「それだけで天皇賞(秋)を回避する必要はないと思うけど……」

「万全を以て迎え撃つためです。……私はこれまで、大きなレースには間隔を二ヶ月以上空けてきました。でも天皇賞(秋)からジャパンカップは一ヶ月しかありません」

 

 グラスの視線が己の脚に向かう。

 二度の夏を超え、成長した彼女の身体はもういつかのように脆くはない。が、彼女は万が一を懸念している。

 

「スペシャルウィークやセイウンスカイとの再戦は良いのかい?」

 

 セイウンスカイには天皇賞(春)のリベンジを。そしてスペシャルウィークからも宝塚記念のリベンジマッチを申し込まれていると聞いていた。

 

「後ろ髪を引かれることはない、と言えば嘘でしょう。ですがジャパンカップが終われば次は有記念。一月おきの三連戦が問題無いと言えるほど過信してもいません。

 トレーナーさん。どうか私の最高を、ジャパンカップに……!」

「……分かった。グラスがそれを望むなら」

 

 グラスにとっても同期との決着や秋シニア三冠の栄光は捨て難いだろう。けれども彼女はジャパンカップへの注力を選んだ。一足先に頂点に登り詰めた親友に並ぶために。

 ならば、その想いに応えるのがトレーナーであろう。

 そして、もう一人。

 

「お兄さま、ライスもね……有記念を目指したいな」

「言うと思ったよ。」

 

 ライスの視線がグラスに、そしてエルに向かう。昨年叶わなかったグランプリでの対決。それが一年越しに叶おうとしている。断る理由は無かった。

 

「うおおおグラスだけじゃなくてライス先輩も出走デス!? これは今年最高の盛り上がり間違いなしデスね!」

「ま、まだ出られると決まったわけじゃないよ? ブライアンさんたちとの特別レースで勝たないといけないし」

「先輩なら勝てますよ! いえ、トレーナーさんが絶対勝たせてくれます! ね!」

「力を尽くすよ」

「イエース!! この際デジタルやドトウもどうですか? マルカブの主要メンバー全員、有記念で激突デース!」

「え、ええええ!? わ、私が有記念!? 先輩たちと!?」

「いえいえいえクラシック三冠を皆勤するドトウさんはともかく、あたしはマイラーですよ!?」

「マイラーでも活躍するのが有記念デス! それに目指すだけならタダデース!」

 

 他人事だと思っていた二人が慌てて、その様子にグラスとライスが笑う。エルがいるとチームの賑やかさが一段違うな。

 

「あんまり無理強いしちゃだめだよ。でも、投票で優先権もあるからこれからの活躍しだいでチャンスはあるかもね」

 

 半年間分かれていたチームが一つに戻った。改めてそう思った。

 

 

 ◆

 

 

「よかったのか? 特別レース出なくて」

 

 トレセン学園の屋上。何も敷かずに寝そべるミスターシービーへ、カツラギエースは問いかけた。

 

「うん。というか、エースだって出る気ないんでしょ?」

「まあな。なんというか、ああいうのは現役の連中でやればいいのさ。あたしの時代で出来なかったのは、あたしの実力不足だろう?」

「あはは! そういうのはっきり言えるところ、エースらしくて好きだな。……よっと」

 

 ミスターシービーは跳ね起きた。しなやかな挙動に、野良猫みたいだなとカツラギエースは思った。

 

「最強を決めるレースってのはいいけどさ。私は誰が強いとかより、楽しいレースの方が好きなんだよね」

「強い奴と走れるってのは楽しいもんじゃないか?」

「そうなんだけどね。でも今回はそうじゃないっていうか……」

 

 うーん、と顎に指を添えて考え込むミスターシービー。言っておいて考えがまとまっていないのかと呆れていると、天啓を得たとばかりに笑顔に変わった。

 

「今はみんな、有記念に注目してるでしょ」

「まあな。あんな宣言ぶち上げられたらそうなるだろう」

「だから私としては有記念を走るよりも、有記念以上に盛り上がるレースをする方が楽しみになってるんだよね」

「前から思ってたけど、シービーって結構ひねくれてるよな」

「そう? とにかく、今の私はどうやったらウィンタードリームトロフィーを有記念以上に盛り上げるかの方が大事ってわけ。だから───」

 

 振り返る。ファンを魅了した妖しい笑みがカツラギエースに向けられた。

 

「エース、私と一緒にウィンタードリームトロフィーを最っ高のレースにしてみない?」

「……ああ、いいぜ! 乗ってやる!」

 

 かつてトゥインクルシリーズで覇権を握った三冠ウマ娘と、日本ウマ娘初のジャパンカップ勝者が固い握手を交わす。

 有記念が全てじゃないと、世間に言わせるために。

 

 

 

 速報だが、特別レースへの出走ウマ娘が公表された。

 当初は複数開催が必要になるかと思われたが、ナリタブライアンを始めとするドリームトロフィーの主役級が名乗りを上げたことで、現時点の数は抑えられていた。

 されど、出てくるウマ娘はいずれもが世代の主役たる存在であった。

 

 ナリタブライアン、

 イナリワン、

 サクラローレル、

 マヤノトップガン、

 スーパークリーク、

 マルゼンスキー、

 ライスシャワー、

 トウカイテイオー、

 

 そして───シンボリルドルフ。

 

 少なくともこの九名が、有記念の枠二つをかけて争うこととなる。

 




 史実だとトップロード(とアドマイヤベガ)が走ったのは京都新聞杯ですが、現在のレースプログラム準拠で神戸新聞杯としてます。
 ドリームトロフィーの特別レース参加者は現時点としてますので、ここから増えるかもしれないし、減るかもしれません。


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64話 デジタルとマイルCS南部杯

 ちょっと短め。
 


 

 学園に戻って帰還の報告を済ませたエアグルーヴがまず驚いたのは、シンボリルドルフの特別レース出走の報だった。

 平静を何とか保って生徒会室に寄り、当人に正直に伝えるとシンボリルドルフは苦笑した。

 

「君の驚愕も当然だエアグルーヴ。私自身、前線から遠ざかっていたのは事実だからね」

 

 シンボリルドルフの所属こそドリームトロフィーリーグだが、ここ数年は出走することなく運営側に回っている。明言こそしていないが実質引退状態だった。

 

「ブライアンに煽られてね」

「ブライアンに……?」

「凱旋門賞を見て込み上げるものはなかったのか。エルコンドルパサーの言葉を聞いて熱くなることはなかったのか。そこまで冷え切ったというのなら付き合いもここまでだ、とな」

「あやつめ……」

 

 チームメイトの暴言にエアグルーヴは頭を抱えた。一方でシンボリルドルフは気を悪くするでもなく笑っていた。

 

「彼女を怒らないでくれ。ブライアンなりの檄なのだろう。それほどに私との対決を望んでくれている」

「それで出走を決意されたのですか?」

「いや、理由はそれだけではなかった」

 

 ブライアンには言ってくれるなよ? と言って、シンボリルドルフは続けた。

 

「テイオーも後からやってきてね。最強を決めるのに私がいないのはおかしいと」

「あやつもまた勝手なことを……」

「しかし我がことながら、そうかもなと思ってしまった。

 ……エルコンドルパサーが望むのは最強の称号。それも正確に言えば最強と言えるメンバーを揃えたレースで決まる最強だろう」

「……不満を言う輩は少なからずいるでしょうね」

 

 オグリキャップに出る気はないらしい。タマモクロスも、その前の世代に当たる強豪たちも不在だ。

 集まるのは確かに現代最強の布陣。けれども人々はそこに己の夢想を乗せてしまう。

 

「きっと万人が認める最強決定戦など不可能だろう。彼女たちに出走を無理強いすることもできない。ならば、できる限りの夢は叶えるべきだ」

 

 シンボリルドルフが掲げる理想は全てのウマ娘の幸福。彼女はその信念に基づき出走を決めたのだ。

 それが分かったからこそ、エアグルーヴは告げた。

 

「失礼ながら、それを正直に表で言わないほうが良いかと」

「ん、そうか……やはり傲慢が過ぎるかな?」

「いえ、むしろ足りません」

「足りない?」

「ええ。ブライアンやテイオー、エルコンドルパサーの想いに応えるつもりならもっと強気で十分です」

 

 らしくない、とエアグルーヴは思った。

 熱にあてられているなと自覚した。彼女もまた、冬に始まる夢のレースに思いを馳せているのだ。

 

「皇帝に挑まずして最強を語るなどあり得ない。そう言ってしまえばよいのです」

 

 引退を早まったか、と思ってしまうほどに。

 

 

 

 ◆

 

 

 マイルチャンピオンシップ南部杯。盛岡で開催されるそれはダートのクラシック級ウマ娘にとって初めてシニア級と激突するGⅠ級レースだ。

 夏を超えて力をつけたダートウマ娘たちが秋シーズン最初の目標することが多く、将来のダートスターが頭角を現す舞台でもあった。

 そんなレース直前の控室。すでに勝負服のデジタルが話しかけてきた。

 

「あの、トレーナーさん」

「なんだい?」

「このタイミングで言うのもなんですが、あたしもローテーションについてお願いしてもいいですか?」

「いいけど、また急だね」

 

 春シーズンの成績が振るわなかったデジタルはこの一戦に集中するため以降の予定を敢えて立ててこなかった。いやしかし、彼女からローテーションの相談があるのも初めてだった。

 

「本当は目の前に集中すべきなのは承知の上ですけど、その……自分に活を入れるためといいますか」

「活か……」

 

 デジタルの意識が変化しているのを感じる。春頃の彼女には無かったもの、勝つことへの執着が芽生えているようだ。

 初夏の大敗がそうさせたのか、それともエルの偉業に感化されたか。

 どちらにしろ良い傾向だろう。断る理由はなかった。

 

「いいよ。言ってごらん。君の夢を叶えるために必要なことなんだろう」

「はい! で、できることなら───」

 

 

 ◆

 

 

 あたしの提案をトレーナーさんは快く受け入れてくれました。これで意志は固まりました。憂いを失くしたあたしは胸を張ってコースへ出る。

 眼前に広がる茶色のコース。先輩方が覇を競うターフではなく、砂塵が舞うダートコース。ここがあたしの戦場となる。

 

「性懲りもなく来たんだ」

 

 声の方向を向けば、あたしを見ていたのは先にコース来ていたドミツィアーナさんでした。

 

「ダートダービーで惨敗したのに、まだダートにしがみつくんだ」

 

 煽るような、棘のある言葉。以前のあたしだったら萎縮するだけだったでしょう。でももう違います。ライス先輩からいただいた言葉が、あたしを奮い立たせていた。

 

「あたしは……」

「なに?」

「あたしはこのレースに勝ったら、芝のマイルチャンピオンシップに行きます」

「は?」

 

 ドミツィアーナさんの眉が不快に歪む。そうでしょう。あなたにとっては許しがたい選択でしょう。

 

「そして、あの時の答えを今言います。芝で勝てないからダートなら……そんなこと思ったこともありません」

 

 ダート専門の彼女にあたしはジュニア級で勝っている。自分に勝った相手が芝───別の部門に行くというのはどんな気持ちなのか。

 目の上のたんこぶが消えてよかった? リベンジの機会がなくなって悔しい? おそらく、ドミツィアーナさんは後者なのでしょう。

 そしてドミツィアーナさんから見て、あたしはNHKマイル(しば)で大敗し、ダートに戻ってきた半端者。なるほど文句の一つも言いたいでしょう。

 でも、

 

「レースを走る全てのウマ娘ちゃんは尊いもの。そこに芝もダートもありません。その全てを、出来る限りの全てを目に焼き付けるためにあたしはどちらも走るんです」

 

 だからこれからも両方走る。変わるのは、半端者としてではなく、挑戦者としての気概を持つこと。

 

「勝手なことを……口でならなんとでも言えるわ」

「そうですね。その通りです。でもダートダービーの時は答えられませんでしたから。……だから、ここから先は証明です」

 

 あたしたちはウマ娘。己の夢も覚悟も、相手に示す方法はただ一つ。

 

「この脚で、あたしの本気を証明します。勝負です。ドミツィアーナさん!」

「…………」

 

 無言のままドミツィアーナさんは去って行く。それでもあたしは気づいています。

 やってみろ。彼女の瞳に灯る炎が、そう語っていました。

 

 

 

『ついに始まる盛岡千六決戦、マイルチャンピオンシップ南部杯! 砂のマイル路線、その頂点で勝鬨を上げるのはいったい誰か!

 三番人気は前走クラスターカップを制したマリンシーガル。二番人気はここまで三連勝、勢いに乗るエフェメロン。そして一番人気はジャパンダートダービー覇者、ドミツィアーナ!』

『ドミツィアーナは直前の公開トレーニングでも調子が良さそうでした。クラシック級の彼女ですがシニア級相手でも通用するでしょう』

 

 ジャパンダートダービーの敗走が尾を引いているのでしょう、あたしの人気は七番人気。まあ当然というか、二桁にならなかっただけまだ期待されているのかな。

 周りにいるのはやはりシニア級が多いです。中央だけでなく、地方のウマ娘ちゃんたちもいる。

 国内では数少ないダートのGⅠ級。秋シーズンのこれからを占う意味でも、負けられない一戦。それはあたしも同じこと。

 

『各ウマ娘ゲートに入り──────スタートしました!

 十四のウマ娘が綺麗なスタート、ハナを取ったのは……エフェメロン!』

 

 逃げ戦法で連勝中のウマ娘ちゃんがレースを引っ張っていきます。ドミツィアーナさんは三番手、対してあたしは七番から九番手あたりの中団。大丈夫、この展開は想定通り……!

 誇りと栄光を賭け、十四の砂塵が舞っていく。

 

 

 ◆

 

 

 中団が塊となって長い直線を駆けていく。レースはややスローペースで進んでいった。

 逃げや先行のウマ娘たちが脚を残せるので、この展開はアグネスデジタルにとっては不利になる。が、

 

(こうなることも想定のうち!)

 

 単独逃げは後方脚質の的にされやすい。サイレンススズカのような一部のスピード自慢を除けば、逃げウマ娘の勝ち筋はスローペースからの逃げ切りとなる。

 連勝中で勢いのあるエフェメロンの勝ち方もそれだ。

 しかしここはGⅠ級。GⅡ以下のレースで通用した方法が丸ごと通用するとは限らない。

 

「ここ!」

『最終コーナーを前にドミツィアーナが仕掛けた!』

 

 勢いをつけたドミツィアーナが魅せたのはバイクレースを彷彿とされるコーナリング。身体を傾斜させ、見事にスピードロスなく曲がるドミツィアーナにアグネスデジタルは声なき称賛を挙げた。

 先頭に立ち、最後の直線を駆け抜けるドミツィアーナに客席から歓声が上がる。

 

(やっぱり、ドミツィアーナさんは強い……!)

 

 ジュニア級で彼女に勝っているというのが信じられない。それほどにドミツィアーナの走りは卓越していた。

 

(あなたは凄いウマ娘ちゃんです。これからのダートを牽引するのは、間違いなくあなた!)

 

 この展開も想定通り。クラシック級とはいえ、ドミツィアーナの実力はやはり頭一つ抜けていた。

 けれど、

 

「ついて行くのは、マルカブ(うち)十八番(おはこ)なんですからああ!」

『最後の直線でアグネスデジタルが抜け出した! 前を行くドミツィアーナへ迫る!』

 

 アグネスデジタルとドミツィアーナの差が詰まり、並んだ瞬間に観客の熱狂は最高潮に達した。

 

 

 ◆

 

 

(アグネスデジタルッ……!)

 

 追いついてきたウマ娘の姿に、ドミツィアーナは内心呻いた。

 その走りはジャパンダートダービーとはまるで違う。夏を超えて身体の最盛期を迎えたのか、それとも前回は不調だったのか。

 いや違う、と自らその推察を否定した。

 

(これがアンタの本気か! でも負けられない、アンタには芝があるだろうけれど、私にはダートしかないんだ!)

 

 トゥインクルシリーズの主流は芝であり、ダートレースは少ない。しかもダートを主戦とするウマ娘は選手寿命が長いため、数少ない勝利(パイ)を奪い合うことになる。

 レースという激しい生存競争を、ダートの世界は如実に表していた。

 

(来年にはまた新星のダートウマ娘がやってくる。それでも私はダート一本でやっていくしかないんだ! それを、芝もダートもいける二刀流(てんさい)なんかに)

 

 それは怒りだった。

 天賦の才を持ち、舞台を蹂躙する者への。そして持たない己への怒りでもあった。

 自分が主役になれる数少ない舞台。それを天才に荒らされてたまるか。この道しかない自分が、これ以外の道がある者に、

 

「負けられるかあああああ!!!」

 

 咆哮と共に、ドミツィアーナが前に出た。

 

 

 ◆

 

 

(なんというド根性……!)

 

 並んだと思った。食らいついたと思った。しかし次の瞬間には抜けていくドミツィアーナに、あたしは思わずは感動を覚えました。

 ダート一筋で生きようとするウマ娘の魂の輝きがそこにはある。芝も走れる半端モノのあたしにはないもの。

 やっぱり凄いウマ娘ちゃんです。

 

「でも!」

 

 ───最強を倒したからには最強でないといけなかった

 

 思い出すのは、ライス先輩の言葉。

 

 ───思ったんじゃないんデス?『自分が出ていれば結果は違った』と!

 

 浮かんでくるのは、エル先輩の言葉。

 

 ……ええ。そうでしょう。あたしはどこかできっと、勝負の世界で生きることを避けていた。

 ウマ娘ちゃんたちの輝きに恋い焦がれ、それを間近で見たいと言っておいて、同じ舞台に立つことから逃げていた。あくまで主役になることのない存在だと決めつけていた。それでいいと、甘えていた。

 

『ドミツィアーナ突き放す! 勝負は決まったか!?』

 

 違うんですね。

 ドミツィアーナさんにとってあたしは、ジュニア級でのダート王者で、ライバルで、超えるべき壁だった。

 他のウマ娘ちゃんたちからしてもそうでしょう。

 あたしに負けて道が閉ざされた子もいたでしょう。あたしが出走したせいで、出れなかった子もいるでしょう。

 あたしは、その無念を背負わなければいけなかった。勝ったものとしての責務を放棄していた。

 もうやめましょう。

 輝きに見惚れるんじゃない。光の中で巻き起こる戦乱へと身を投じる。それが出来なかったウマ娘ちゃんたちの分まで。

 あたしが。

 

「今度こそ───」

 

 未熟だった己との決別の時!

 

「あたしが勝ちます!!」

 

 先輩たちと同じ舞台へ登って見せる!

 

 

 

 

『アグネスデジタル上がってきた! デジタル追いすがる! 諦めない! しかしドミツィアーナの脚色もいい!

 残り200を切った! 先頭はまだドミツィアーナ! いや、デジタルだ! デジタル並んだ!!

 ドミツィアーナか!?

 アグネスデジタルか!? 凄まじいデッドヒート!!

 ドミツィアーナわずかに優勢か!? ああっとここで───

 

 

 アグネスデジタル抜け出した! 差し切ったところでゴールイン!!

 南部杯を制したのはアグネスデジタル!! ジュニア級ダート王者が復活勝利、ジャパンダートダービーのリベンジを見事果たしました!!』

 

 

 途中から頭の中は真っ白だった。決意とか覚悟とか、そんなこと気にしてる場合じゃなかったです。

 ただ前へ。隣に並ぶ彼女よりも前へと。

 気づいたらゴール板を抜けていました。

 

(ど……どっち? 勝てた? それとも……)

 

 汗を拭う暇もなく掲示板を見上げる。

 最上部に灯った数字は、あたしの番号。

 

「や、やったあぁぁ……」

 

 飛び跳ねたいほどに嬉しい。なのに身体は疲労困憊で倒れこんでしまいました。

 隣でドミツィアーナさんが見下ろしています。……なんで彼女は立っていられるんでしょうか。

 

「……負けたわ」

「は、はい。勝たせていただきました」

「この走りをジャパンダートダービーで見せなさいよ」

「そ、の節は本当に。……すいませんでした」

「はあ……ねえ、本当にマイルCSにも出るの? 芝のほう」

「はい」

「分かってる? 芝のマイルってことは、あのウマ娘が出てくるってこと」

「覚悟の上、です……」

 

 ダート王者のドミツィアーナさんに挑んだんです。なら、芝でも王者に挑むべき。それがあたしが進む道なのです。

 

「そう。……私に勝ったんだから、無様な真似は許さないから」

「ええ。約束します」

 

 この勝利で、あたしが背負うものはまた増えました。

 ダートGⅠ勝者のあたしが芝で負けるということは、そのままダートが芝に劣るという力関係となってしまう。

 相手は強大です。でも、負けるわけにはない。

 

「勝ってみせますよ。マイル王に」

 

 待っていろ、タイキシャトル。

 

 

 

 





 次回はドトウの菊花賞になります。


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65話 ドトウと菊花賞

 トゥインクルシリーズの秋シーズン、そのGⅠ戦線が始まる一方でジュニア級のメイクデビューも始まった。

 マルカブのメンバーも順当に勝ち上がり───何人か初戦を躓いたりもしたが───シャカールに至っては早々に重賞に挑戦できそうだった。

 

「今年の新人たちはやる気に満ち溢れてるね。ギラギラしたものを感じるよ」

「エルコンドルパサーの影響だろうね。みんなが、彼女の栄光に続けとばかりに活気づいている」

 

 学園に出入りする記者がそんなことを言っていた。

 エルの凱旋門賞制覇は同期やチームメイトだけでなく、未来あるウマ娘たちにも光をもたらしたのだ。

 そして今日も、彼女に触発されただろうウマ娘たちがレースを駆ける。

 

『最後の直線に入ってトップロード先頭、トップロードが先頭! 突き放す! メイショウドトウはまだ後方だ!』

 

 GⅡ神戸新聞杯。クラシック三冠最後の一戦、菊花賞のトライアルにあたるレースだ。

 脚質を先行から追込みへ改造しているドトウにとって本番を想定しつつも今の実力を測る一戦だ。奇しくもナリタトップロードが出走していることから、彼女との実力差、そしてアドマイヤベガに近づけているかを確かめる絶好の機会。そう心にして挑んだのだが、

 

『ナリタトップロードが今ゴールイン! 菊花賞へ向けてその実力を示しました! メイショウドトウはなんとか二着!』

 

 二バ身差の二着。正直、苦戦は覚悟の上だったがこの差は想定以上だった。

 

「ま、こっちだけレベルアップなんて都合のいい話は無いよな」

 

 シャカールの無情な言葉が突き刺さる。ナリタトップロードもまた、夏を経てその実力をさらに伸ばしていた。

 しかもダービーでの伸びを見るに、ナリタトップロードは長距離向き、ライスと同じステイヤータイプだ。さらに距離が延びる菊花賞では確実に脅威となる。

 

「方針を変えるなら今だと思いますが」

 

 控室に戻ったところで奈瀬トレーナーが進言してきた。

 ドトウは夏を脚質を改造に費やしたため、他のウマ娘たちに比べて成長が鈍化している。それは今日の二バ身差の敗北という形で如実に表れていた。

 菊花賞までの残り期間、脚質を先行に戻して準備したほうが勝機はある。魔術師と目された才女はそう言っているのだ。

 

「もとはうちのアドマイヤベガのためでした。ありがたいことでしたが、そのためにメイショウドトウのレース人生を棒に振るわせることはありません」

 

 一生に一度のクラシックだ。彼女の言うことは正しい。けれど───

 ドトウを横目で見る。自主性に任せるか、こちらで道を整えるか。

 

「詰めるべき課題は見えました。このまま菊花賞に行きます」

 

 背中を押す。いや手を取り引っ張る。せっかくドトウが自分の意思で決めた道だ。共に歩んであげたい。

 

「よろしいんですね?」

「そも先行策に切り替えても勝てる保証もないでしょう。単に慣れているかの違いですし、先行は競り合う相手が多い」

 

 ナリタトップロードはもちろん、あのテイエムオペラオーも先行か中団差しだ。バ群の群れで揉まれるより、後方待機の方が良いという見方もあるだろう。

 そのためには、終盤に発揮できる鋭い末脚と仕掛けのタイミングを計るレース勘。

 

「併走を中心としたトレーニングかな。ドトウ、時間は限られてるから追い込んでいくよ」

「は、はいぃ……!」

 

 震えながらも、しっかりとドトウは頷いた。彼女はまだ、諦めていない。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「神戸新聞杯を勝ったのはナリタトップロードか……」

 

 スマホに届いたレース結果通知を見て、ナリタブライアンは顔を上げた。

 トレセン学園のトレーニングコース、ちょうど走り終えたテイエムオペラオーが足を止めるところだった。

 

「菊花賞、目下の強敵はナリタトップロードのようだな」

「そうとは限りませんよ」

 

 汗を拭いながらテイエムオペラオーは続けた。

 

「夏を越えて力をつけたのは皆同じ。今日はトップロードさんが目立っただけで、静かに牙を研いできた者は多いでしょう」

「珍しく真面目なことを言う」

「ええ、今は等しく挑戦者ですから!」

 

 ダービーウマ娘アドマイヤベガの長期離脱に加え、3,000mという長丁場は誰もが初挑戦。となると頭一つ抜けての存在がいない。

 トライアルの勝者か、ダービーで上位に入ったウマ娘が注目されるだろう。どちらにしろ、テイエムオペラオーは警戒される側であることに違いないが。

 

「それにドトウもいます」

「……メイショウドトウ?」

 

 ナリタブライアンの脳裏にメイショウドトウの戦績が浮かんでくる。

 善戦はしている。GⅠ戴冠こそしていないが間違いなく素質は上澄みだろう。時代さえ違えばとも思う。だが、少なくとも今は脅威になるとは思えなかった。

 事実、彼女は未だテイエムオペラオーに先着したことはないのだから。

 

「それほどのウマ娘か?」

「おや珍しい。ブライアン先輩がそんなことを言うなんて」

「以前と同じ先行策なら一矢報いることもあり得ただろう。だが付け焼き刃の後方大まくりなんて上手くはいかん」

 

 メイショウドトウの陣営は失策だ。そう三冠ウマ娘は切り捨てた。だがテイエムオペラオーは、違いますよと首を振った。

 

「付け焼き刃なんかじゃありませんよ。今夏から鍛えだしたのならその刃ならなまくらでしょうが」

「? 実際そうだろう」

「いいえ。アレは、何年も何年も熱され、鍛えられ、研がれた刃。それをドトウは受け取った……まあ、それを真っ向から受け止め、打ち倒すのが僕ですが!」

 

 再び走り出す。陽が沈みだした空をちらりと見上げると、彼方に瞬く星が見えた。

 

「罪な星だ。僕から彼女をも奪ってしまうなんて」

 

 去年の春に出会ってから慕ってくれる少し臆病な少女。それが夏以降、パタリと近寄ってくることは無くなった。本音を言うのなら、少し寂しい。けれど、その分期待する。

 この時間が、彼女を強くしているのだと。

 

 

 ◆

 

 

 ナリタトップロードはロードワークとして学外を走っていた。

 神戸新聞杯を制して数日、本番の菊花賞に向けた最後の追い込みだ。

 

(私の強みは、豊富なスタミナからの鋭いスパート! 皐月賞ではオペラオーちゃんの末脚に差し切られたけど、菊花賞なら……!)

 

 トライアルの勝利はナリタトップロードに自信を持たせていた。

 しかし、脳裏に青い箒星がちらつく。日本ダービーで己を抜き去ったウマ娘。けれどアドマイヤベガはいない。

 なのに、

 

(神戸新聞杯で見たドトウちゃんの走りは、アヤベさんをなぞったものだった)

 

 意図は分からない。皐月賞と日本ダービーの敗北から作戦を変えただけなのか、それとも……。

 前走ではまだアドマイヤベガには及ばない。あのままなら、菊花賞でも負けはしない。驕りではなく、経験からくるものだった。

 

(でも───!)

 

 考えてしまう。もしも、今回の敗北を糧にメイショウドトウが飛躍したら。あの巨星が、形を変えてターフを駆けたとしたら。

 一抹の不安を振り払うように速度を上げる。

 最速は逃した。最優にはあと一歩で届かなかった。だからこそ最後の一冠、最強の称号は譲れない。

 

 

 ◆

 

 

 そして、その日はやって来た。

 菊花賞。春から続くクラシック三冠レース最後の一冠であり、クラシック級のウマ娘たちにとって未経験の長距離レース。故に過去、多くのドラマが繰り広げられ、今なお語り継がれている。

 三冠を成し遂げ伝説となったシンボリルドルフ。惜敗の二冠に終わったミホノブルボン。執念の一冠を掴み取ったビワハヤヒデ。

 今年は一体どんなドラマが見られるのか。京都レース場にやってきた観客はそんな期待を胸に、まだかまだかとその時を待っていた。

 

「すう……はあ……すぅ」

 

 地下バ道でメイショウドトウは深呼吸を繰り返す。震える手、縮こまった足をほぐすように。

 やれることは全てやった。やりきった上での今だ。やるしかない。そう自分に言い聞かせた。

 

「ドトウちゃん! 今日は頑張りましょうね!」

「ト、トトトトップロードさん……! そ、そうですね、頑張り───」

「そこは『私が勝つ』と言うところじゃないかな」

 

 芝居がかった声に、メイショウドトウは口を噤んだ。

 近づいてくる笑顔の栗毛のウマ娘。豪奢な勝負服を着た、メイショウドトウの前を走り続ける者。

 

「オペラオーさん……」

「久しぶりだね、ドトウ。トップロードさんも。長かったクラシック三冠路線もついに最後、悔いを残さぬよう全力で───などとは言わない」

 

 柔和な笑みが消えた。

 

「最後だ。泣いても笑っても、これが最後。二度と走ること叶わない。だからこそ、僕が勝つ。

 ダービーは逃したが今度は負けない。アヤベさんがいなくとも、最強はこの僕だと証明しよう」

 

 テイエムオペラオーの宣言に地下バ道の空気が張り詰めていく。

 このレースに出るウマ娘全てが同じ想いだった。歌劇王の言葉に、各々内に秘めた感情を再確認し、血に熱を宿していく。

 

「わ、私も……」

 

 気づけばメイショウドトウは言葉を紡いでいた。

 

「私も、勝つために来ました。私なんかじゃ荷が勝ちすぎてるかもしれないけど……ま、負けません、か、ら! オペラオーさんにも、トップロードさんにも、他の皆さんにも!」

 

 響く決意表明にナリタトップロードは目を見張った。そこには、いつも気の弱い少女はいない。

 メイショウドトウもまた、最強の座を目指すウマ娘としてここにいた。

 

「はーはっはっは! 見事! 言って見せたなドトウ! 君との、君たちとの共演、楽しみにしている!!」

 

 一人、また一人とターフへと向かう。

 最後の大勝負が始まる。

 

 

 ◆

 

 

『耳をつんざく大歓声の中、菊花賞の出走ウマ娘がゲートインしていきます。

 長かったクラシックロードもついに終着点、菊花賞を制し最強の称号を手にするのは誰か……さあ行こう、頂点への道! 菊花賞、スタートです!

 

 十五人が綺麗なスタートを切りました。

 ハナを取ったジュエルアズライトがレースを引っ張ります。ナリタトップロードは内に位置取り四番手、皐月賞ウマ娘テイエムオペラオーは中団! おっとメイショウドトウは後方に位置取りました』

『皐月賞やダービーとはまるで違う位置取りです。前走でも似た位置取りでしたね』

『さあ作戦が功を奏すか、まもなく一周目の正面スタンド前に入ってきます』

 

 スタント前を通過するウマ娘たちへ、スコールのような歓声が降り注ぐ。

 ナリタトップロードへ、テイエムオペラオーへ、十五のウマ娘たちへファンたちが応援の声を投げ続ける。

 

「ドトウさーん!! 頑張れぇええ!!」

 

 客席で見ていたマルカブのメンバーたちも声を張り上げる。

 シャカールやハマルの面々が静かに見守る中、ライスがポツリと零した。

 

「少し、ペースが遅い……?」

 

 掲示板に点灯したタイムを見る。ライスが走った菊花賞に比べて三秒程度、一ハロンごとのラップにすれば一秒ほど遅かった。

 ペースが遅いということは、スタミナを温存しているということ。前に位置取ったウマ娘たちの息が持つということ。終盤の末脚勝負を望むドトウにとって不利な展開だ。

 こうなるのなら、やはり先行策で行くべきだったか?

 いや違う。頭から後悔を振りはらう。

 このレースはただ勝つことが目標じゃない。ドトウがこの戦い方を求め、私たちが背中を押したのだ。

 

「頑張れ、ドトウ……!」

 

 君が目指したものを、掴むために。

 

 

 ◆

 

 

 ジリジリとした張りつめた空気。そしてじれったさをメイショウドトウは感じていた。

 

(みんな、図ってるんだ。仕掛けるタイミングを)

 

 ペースが想定より遅い。後方に付き、脚を溜めることに注力しているが不安が募ってくる。

 未だメイショウドトウは最後方。前を行くウマ娘たちはまだ仕掛ける様子はない。

 おそらく、彼女たちが動くのは二度目の坂を越えてから。果たして、そこで仕掛けて先頭に追い付くのか。

 

(いや、でも、焦っちゃダメだ!)

 

 おそらく、誰かが仕掛ければ周りを動く。引き絞られた弓が放たれるように。だからこそタイミングを誤れば勝機はない。

 慌てない。

 待つ。

 溜めたこの足を解き放つ瞬間を。

 そして、コーナーを回ったウマ娘たちは二度目の坂へと入った時、

 

「──────え」

 

 輝く星を見た。昼の晴天で、確かに光を放っていた。

 星も、認識されたことに気付いたようで、なんと軌道を描き出した。

 メイショウドトウは一瞬呆気に取られる中、星は青い光でコースをなぞっていく。

 

「あ、あなた、は───」

 

 それは所謂、シックスセンス的な閃きで、他の誰にも観測できないものだった。

 気づき、覚悟を決めた。

 星。

 もしも、彼女(ティコ)の導きだというのなら───

 

「ここからあああああああ!!」

 

 登り坂で、メイショウドトウは仕掛けた。

 

 

 ◆

 

 

 その動きに、観客から悲鳴が上がった。

 膠着状態のまま二度目の坂に入ったウマ娘たち。登坂の途中、ドトウが弾かれたように外に出て位置を上げ始めたのだ。

 

「なんてことを!?」

 

 奈瀬トレーナーが珍しく声を荒げた。仕方ない。淀の坂はゆっくり上ってゆっくり下るのが定石。坂の仕掛けなど、スタミナを捨てる悪手だ。

 だが、

 

「このまま待つよりはマシかもな」

「シャカールの言う通り。定石から外れた策だけど、これで勝ったウマ娘を私たちは知っている」

 

 その名はミスターシービー。シンボリルドルフの七冠に隠れがちだが彼女もまたクラシック三冠を成し遂げた猛者。追込走者として、今のドトウのようにタブーとも言える走りで菊花賞を制している。

 

「ドトウの課題は終盤の末脚だった。上りで加速して、そのまま速度を維持して下ることができれば……」

「前にいるウマ娘たちとの末脚勝負に迫れる!」

 

 実際、ドトウの動きに他のウマ娘たちは随分動揺したようだ。場は乱れだしている。

 ここからは、自分の走りに如何に徹することができるかだ。

 

「だがさっきの勝機も可能性の話だ。針に穴を通すようなごく僅かな」

「それでもいいデス!」

 

 シャカールの言葉に真っ先にエルが声を上げた。

 

「状況を打破するのを他人任せになんてするもんじゃありません! 世界は、運命は、自分から変えていくもの! ドトウーー!! いっけえええ!!!」

 

 先頭集団がまもなく坂を上り切る。

 

 

 ◆

 

 

 客席からの戸惑いの声にナリタトップロードは気づいた。後方の誰かが故障したか、転倒でも起こしたか。不穏な予感からちらりと後ろを見た。

 

(ドトウちゃん……!?)

 

 後方にいたはずのメイショウドトウがいつの間にか中団にまで上がってきていた。決死の表情で迫るメイショウドトウに、他のウマ娘たちも───あのテイエムオペラオーすら驚愕していた。

 スタミナを投げ捨てる自殺行為。だが、上位層はその中にある一筋の光明を見出したのだと察した。

 

(ドトウは最後までもつ算段か! ならば仕掛けるタイミングは───)

 

 今か。それとも。スローペースとはいえ走行距離はクラシック級が経験する距離を超えようとしている。思考に割く余裕を持つウマ娘は少ない。

 故に分かれた。メイショウドトウに優位を取らせぬと仕掛けた者と、尚早と待つ者に。

 

(僕は───待つ!)

(振り切る!!)

 

 ナリタトップロードは仕掛けた。下りの入りかけ、コーナーでの加速。小回りが苦手な彼女にとっても賭けではあった。

 そして、

 

『最終コーナーに入ったところで、先頭はナリタトップロードに変わった!!』

 

 彼女は賭けに勝った。

 

 

 ◆

 

 

 決死の登坂スパート。メイショウドトウの常識外れの仕掛けはスローだったレース展開を破壊した。多くのウマ娘たちが考えていた仕掛け時を狂わせ、続々とスパートを掛ける者が出た。

 その中から一人、ナリタトップロードが先頭集団から抜け出し先頭へ立った。色めきだす観客。メイショウドトウが起こした波乱の中、彼女もまた一筋の勝機を掴み獲った。

 これは幸運ではない。ナリタトップロードが今日まで積み上げてきた基礎と経験による成果だ。

 けれどまだチャンスはあった。メイショウドトウも先頭集団よりやや遅れて坂を上り切り、最終コーナーへ向かう。

 登坂でつけた速度を活かしたまま下りへと入ることで、目論見通りメイショウドトウの順位はどんどん上がっていく。

 

(私だって、このまま───)

 

 全て抜き去る。抜き去って見せる。

 

 しかしそう決意した彼女の横を、王冠が抜けていった。

 

「ッ! オペラオーさん!」

 

 思わず叫んでいた。

 颯爽と駆けていく栗毛、翻る外套。輝く王冠とともにテイエムオペラオーがナリタトップロードへと迫る。

 動揺するウマ娘が多い中、彼女は焦ることなく時を待った。そして自分の末脚が活きる瞬間にその武器を解き放ったのだ。

 そしてそれはテイエムオペラオーだけに留まらない。

 メイショウドトウも加速はしている。が、テイエムオペラオーとナリタトップロードという二強を始めとしたは上位五名のウマ娘はそれを上回る速度で淀の坂を抜け、最後の直線へと向かう。

 

(ダメ……なの? 結局私じゃ、アヤベさんの代わりなんて───)

 

 遠ざかる背中。力の差を見せつけられた形だ。

 登坂でスタミナを消耗した。諦観が脳裏を駆け巡る。

 

「──────ッ」

 

 同時、胸の奥から沸き立つものがあった。

 熱い。痒い。チリチリと内から身を焦がす情念。

 それは、

 

(そっか……これが、ライス先輩やアヤベさんが言っていた───)

 

 勝利への渇望。身を焼き尽くしてでも得ようとする貪欲な意志。今この場において、メイショウドトウの心はその域にたどり着いた。

 

(私は───)

 

 疲弊した身体に鞭を打つ。活を入れて脚を動かす。

 

(私は───)

 

 前を見る。先を行くのは五人、いずれも強敵である。だが、諦めることなどできない。

 

(私は───)

 

 導きの星は、未だ空に見えているのだから。

 

「あなたたち(・・)と───勝ちたい!!」

 

 決意の咆哮は、彼女が限界を超える引き金となった。

 

私は嵐の海を往く(アルゴナウタイ)

 

 強敵の待つ道へ、メイショウドトウは駆けだした。

 

 

 

 アドマイヤベガは見た。

 後方から上がってくるメイショウドトウを。

 ナリタトップロードに離され、テイエムオペラオーに抜かれた彼女が僅かに頭を下げたことを。

 

「ドトウ……」

 

 よく頑張った。もういい。そう思った彼女の瞳に青い光が映った。

 

「あれは……」

 

 メイショウドトウへ道筋を示すように動く青い光。他に見えている者がないそれは、きっと───

 拳を握り、浮かんだ弱音を封じ込む。

 

「頑張って……」

 

 そんな声量で彼女に届くわけない。

 身を乗り出して、息を吸って、もう一度。

 

「頑張れ、ドトウ───!!」

 

 そこにいられない、私の分まで。

 

 

 ◆

 

 

『最後の直線、先頭はナリタトップロード! しかしテイエムオペラオーが迫る! ラピッドビルダーも負けてはいない!! 四番手は……ああっと後ろからメイショウドトウ!! 常識破りの登りスパートをかけたメイショウドトウ! ここでさらに上がってきた!!

 四番手ブランブリモアを抜いて、メイショウドトウ四番手! 迫る! 迫る! テイエムオペラオーに並んだぞメイショウドトウ!!』

「ドトウちゃん!?」

「来たか、ドトウ!」

『レースは四つ巴となった! 先頭はナリタトップロード! 次点ラピッドビルダー、しかしテイエムオペラオーとメイショウドトウも上がってきた!

 悲願のクラシックGⅠまであと少しだナリタトップロード! ここで、ここでテイエムオペラオーが二番手! メイショウドトウが続く! ラピッドビルダー巻き返せるか!?』

「トプロいけえええ!!」

「もう少しだオペラオー!!」

「ドトウちゃああああん!!」

「諦めるなラピッドォ!!」

『間に合うかトップロード! 届くかオペラオー! ドトウが! メイショウドトウがオペラオーに並んだ! ラピッド、ラピッドここまでか!?

 メイショウドトウまだ上がる! トップロードを捉えるか!? オペラオー来るか!? オペラオー来るか!? 残り二百ゥ!!

 ドトウ!! ドトウ並んだ!! 先頭はトップロードとドトウ!! オペラオー三番手!!

 横並び、トップロードとドトウ!! 振り切るかトップロード!! 差し切るかドトウ!!

 

 横一線、ゴール!!! 勝ったのは─────────』

 

 

 

 

 

 

 

 

 





次回で連日投稿は一旦ストップです。


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66話 集う者たち

 感想・誤字報告ありがとうございました。
 連日投稿は一旦終了になります。

 


「しゃ、写真判定……?」

 

 四人の壮絶なデッドヒート。その中からナリタトップロードとドトウが抜け出し、ゴール板を駆け抜けて掲示板に表示されたのは、そんな文字だった。

 さっきまでの歓声は鎮まり、今度はざわざわとさざ波のような声が聞こえてくる。

 

「ど、どっちだ?」

「トプロの方が前にいただろ」

「いやドトウがギリ差し切ったように見えた」

「ここからじゃ分かんねえって! 大人しく判定待ってろ!」

 

 似たようなやり取りがあちこちから聞こえ、少し騒ぎになりかけたところで、

 

「あ、出たぞ!」

 

 一斉に、掲示板を指さした。

 

 

 ◆

 

 

 ゴール板を過ぎたことは分かった。けれど、どちらが勝ったかは分からなかった。

 徐々にスピードを落とし、脚を止めたウマ娘たちを襲ったのはかつてないほどの疲労だった。

 ダムが決壊したように汗が溢れだす。息はいつまでも整わず、まるで陸で溺れる魚のような感覚だった。

 

「か、勝ったのは……」

 

 死力は尽くした。これでもし、負けていたら。恐る恐るとメイショウドトウは顔を上げる。

 掲示板を見上げるウマ娘たちが見たのは、

 

「同……着……?」

 

 紅白に表示された確定の文字。そのすぐ下二つに灯るの間違いなくはナリタトップロードとメイショウドトウの番号。そして、その右に表示されたのは確かに同着の二文字。

 その意味を、京都レース場にいる全員が理解するのに時間を要した。静寂が一秒、二秒と続き───

 

 ワアアアァァアアアアア!!!!

 

 歓声が爆発した。万雷の拍手が響く中、メイショウドトウは呆然としていた。

 

「い、一着……? 私が……?」

「同着、ですけどね。おめでとうございますドトウちゃん」

「トップロード、さん……あ、トトトップロードさんこそ、おめでとうございます!」

「ふふ、ありがとうございます」

 

 息絶え絶えながらもお互いに握手する姿に、他のウマ娘たちが拍手を送る。

 その中から、三着になったテイエムオペラオーが進み出た。

 

「二人とも。健闘を讃え合うのも美しいが、勝者としてまずすべきことがあるだろう?」

「す、すべきこと……?」

「……ああ、そうですね。行きますよドトウちゃん!」

「え───ひゃあ!?」

 

 ナリタトップロードが握手した手をそのまま上に掲げる。

 引っ張られる形で、メイショウドトウの腕も天に伸びた。

 

「応援、ありがとうございました!!」

「お、応援、ああありがとうございましゅ!! ……噛んだ」

 

 勝鬨を上げた二人に、歓声は一際大きくなる。

 

 今年、二人となった最強のウマ娘への拍手はいつまでも鳴り続けた。

 

 

 ◆

 

 

 夢心地といった様子で地下バ道を歩くドトウへマルカブのメンバーが駆け寄っていく。

 

「ドトウさんおめでとう!」

「凄かったです! 憧れちゃいます!」

「わたし感動しちゃったぁ!」

「あ、ありがと、ありがとうございますぅ……!」

「ハイハイみんな、ドトウはまだお疲れデスよ!」

 

 目を回しだしたドトウへエルが手を貸して歩いていく。ふと、アドマイヤベガの前でドトウが足を止めた。

 

「アヤベさん……」

「ドトウ、おめでとう。それと……ありがとう」

「こ、こちらこそ……ありがとうございました」

 

 互いに頭を下げ合う二人。この二人の友情が、ダービー後から今日までを繋いできた。結果としてドトウはクラシックの一角を制覇した。

 それ以上の目的もあったが、二人の表情を見る限り、大団円だろう。

 

「でも……」

 

 ところが、少し躊躇ってから、アドマイヤベガがはっきりと告げた。

 

「序盤の位置取りはもっと前で良かったと思う」

「「えぇ……」」

 

 ハマルの面々から呆れた声が出た。地下バ道にいた面々の反応も気にせずアドマイヤベガは続ける。

 

「仕掛けのタイミングも、坂でやるにも早すぎるわ」

「あう……」

「フォームも終盤は崩れていたし」

「うう……」

 

 ドトウがどんどん小さくなっていくが、容赦のないダメ出しが続く。

 

「あれが私の真似って言われると困る」

「す、すみません……」

「……だから、今度は自分の脚で挑戦する」

「…………え?」

 

 ポカンとするドトウに対して、アドマイヤベガは笑っていた。

 

「脚、ちゃんと治すわ。来年からまた走れるように」

「アヤベさん……」

「治ったら……次は私があなたに挑む番よ、菊花賞ウマ娘さん」

「……ア、アヤベさ~ん!!」

「ちょ、ちょっと!」

 

 表情が一変して泣き顔でアドマイヤベガに抱き着くドトウ。アドマイヤベガも困惑しながらも、口元に笑みがあった。

 

「長かったですが、一件落着ですかね」

「そう言っていただけると、私たちも協力した甲斐がありました」

「今回はマルカブさんに尽力いただけて助かりました。私のやり方では、アドマイヤベガは救えなかった」

「あまり卑下しないでください。結果は違っても、貴方たちだけで解決は出来たと思いますよ」

「そう言っていただけると少し気が楽になります」

 

 奈瀬トレーナーへ向けた言葉は嘘じゃない。

 彼女たちだけでも解決した問題を、ドトウの発案で私たちが首を突っ込んだだけだ。お礼は嬉しいが、過剰に恩義に感じられるのは背中が痒くなる。

 

「さて、これで以前決めた協力関係も終わりですね」

「ええ。お互い実りある時間でした」

「同意します。……ですが、これからはまたライバルです」

 

 奈瀬トレーナーがこちらを向いた。

 

「クリークは有記念への出走ウマ娘を決める特別レースに出ます。ライスシャワーが出るのならぶつかることになるでしょう」

「……夢の、ステイヤー同士の対決ですね」

「ええ。クリークもライスシャワーを意識しているようですし、叶うのなら有記念でも勝負したいものです」

 

 手が差し出され、私はそれを握った。

 

「勝つのは私たちです」

「いいえ、勝つのは私とライスです」

 

 今日まで仲間だったが、明日からはライバル。勝負の世界に生きる私たちらしい関係だった。

 

 

 ◆

 

 

 頭に響く電子音声で、シリウスシンボリは目を開けた。

 

「ほう、これが……」

 

 シリウスシンボリの前に広がるのは勝手知ったる中山レース上のターフだった。何度か芝を踏んでみるが、実際の日本の芝と変わりない感触が伝わってくる。

 海外を主戦場において久しいが、日本での経験を忘れるシリウスシンボリではない。

 

「これが仮想空間とは、大した再現度だ」

 

 素直に称賛する彼女がいるのは、トレセン学園を通してサトノグループが一般公開されるVRウマレーターによって構築された仮想現実の中だった。

 欧州での本格導入に向けた試験運用に、シリウスシンボリはテスターの一人として参加していた。

 

「サトノグループか。先進的過ぎてキワモノばっか作ってる印象だったが、やるじゃないか」

 

 芝だけではない。ターフに吹く風、太陽の日差し、気温や湿度まで忠実に再現されている。

 なるほど、遠征先の環境に慣れるためのシステムとしては最適だろう。

 テスターとして参加している他の海外ウマ娘たちもこの仮想現実の出来に驚嘆していた。

 

『一時間後、テストレースを開始しますので各自準備をお願いします』

 

 環境の再現性の次は身体にフィードバックされる負荷の確認だ。テスターたちがウォーミングアップを始める。

 シリウスシンボリも柔軟を始めようとしたところで、動きが止まる。

 視線が一点に固定される。双眸に呆然とした色が浮かび、すぐさま火が点いた。

 

「何故」

 

 ズンズンと歩を進める。何事かと思った他のウマ娘たちも、シリウスシンボリの視線の先にいた彼女(・・)を見て硬直していく。

 鹿毛の髪、蜂蜜のような褐色の肌に黄金の瞳。目立つ外見のはずが、それまで気づかなかったほどに自然に溶け込んでいた。だが一度気づいてしまえば目が離せなくなる。濃く、壮大な存在だった。

 シリウスシンボリは知っている。その名を、その強さを、その走りを。

 

「何故ここにいる、リガントーナ!!」

「……レースがあるから。それ以上の理由がワタシたちに必要かしら?」

 

 かつて凱旋門賞を制し、世界最強とまで称されたウマ娘は悠々と笑って言った。

 

「久しぶりね、シリウスシンボリ。極東から来た気高いお星さま」

「覚えていたのか、私の名を」

「レースで走ったことのある子の名前は全員覚えているわ。ミンナの心にワタシを刻むんだもの、その逆も当然。……ああでも一人だけ、走ってないけど心に刻んでしまった子がいたわね」

 

 黄金の瞳が電子の空を見上げる。彼女が言及する存在に、シリウスシンボリは心当たりがあった。

 

「エル……エルコンドルパサーか」

「楽しい子よね。走りも……特に楽しかったのは凱旋門賞の後に出した宣言だけど」

「まさか……有記念に出る気か、お前ほどのウマ娘が……」

「ウマ娘の格なんて、周りが勝手に決めているだけよ」

 

 最初は誰かがウマレーターの宣伝のため呼びこんだのかと思った。だが違う。リガントーナは有記念に出るためにこのテストに参加したのだ。

 日本から欧州に遠征したウマ娘が環境の違いに苦労するのだから、その逆も当然。リガントーナはそのハンデを埋めに来ている。万全の状態で、有記念へと挑む気なのだ。

 

「ああでも、このウマレーター? というのも面白いわね。早くレース始まらないかしら。

 シリウスシンボリ、アナタの心にもう一度ワタシを刻んであげる」

 

 そうして始まったテストレースは、凡そリガントーナの宣言通りとなった。

 最初は後方に位置取ったリガントーナが最終直線で爆発的な豪脚で全員を撫で切り勝利を収めた。

 弾むように走りながらも笑顔を絶やさないリガントーナ。その姿はテストに参加した全てのウマ娘に彼女の異名を思い出させた。

 その走りは人々を魅了する美姫の如く。

 その走りは人々が畏怖する武神の如く。

 故に彼女は、

 

舞闘神姫(ダンシングブレーヴ)

 

 

 試験運用が終わった後、集まったメディアへリガントーナは告げた。

 

「素晴らしいねVRウマレーター! これなら、日本でも万全のワタシをミンナに魅せられる……ああ、ここに宣言しましょう。ワタシは、有記念に出走する。

 待っていてね日本のミナサマ。待っていてね、エルコンドルパサー……!」

 

 

 ◆

 

 

 菊花賞から数日、天皇賞(秋)をスペシャルウィークが制してから数日後、トレセン学園には朝から多くの報道陣が詰めかけていた。トレセン学園の生徒に取材するわけでもなく、結局彼らの目当てがやって来たのは昼前になってからだった。

 正門に停まる一台のリムジン。要人御用達の車両から、護衛と思われる黒服の後に続いて、報道陣の本命が降りてきた。

 

「モンジュー! ようこそ日本へ!」

「モンジューさん! 今回の来日について一言!」

「ジャパンカップへの意気込みについてお願いします!」

 

 詰めかける報道陣へ護衛を間に挟んだモンジューは力強く言った。

 

「戦いに来た。最強の座を目指してな」

 

 モンジュー来る。

 トレセン学園は欧州の大スターを迎えることとなった。

 

 

 トレセン学園の職員に学内を案内されたモンジューは、昼食もそこそこにトレーニングコースへと降り立った。

 トレーニングウェアに着替え、ターフの上で柔軟をこなすモンジュー。彼女を一目見ようと、観覧席には多くの学園の生徒やトレーナーが駆けつけていた。

 物見遊山に来ていた一人が辺りを見渡して言った。

 

「やっぱり注目されてますね」

「そりゃジャパンカップの有力候補だからな。エルコンドルパサーに敗れたとはいえ、二か国ダービー制覇とクラシック級での凱旋門賞二着は伊達じゃない」

「あ、走るみたいですよ!」

 

 ターフを駆けるモンジュー。風を切り裂くその走りに、色めきだった観衆は言葉を失った。

 芝の違い、気温を始めとした環境の違い。そんなハンデを感じさせない走りだった。

 コースを一周したところでモンジューは足を止めた。汗を拭い、軽く水を飲んだところで客席に向かって叫んだ。

 

「併走をお願いしたい! 希望する者はいないか?」

「おいモンジュー」

「いいだろうトレーナー。模擬レースするってわけじゃないんだ」

 

 モンジューからの申し出にウマ娘たちはざわつきだす。海外のダービーウマ娘を相手に併走。次があるとは思えない機会だが、一方で恐れ多いという気持ちが勝っていた。

 

「別にレースの実績は問わない! ……ああいや、それでもエルコンドルパサーはダメだ。彼女との再戦は有記念まで取っておきたい」

「実績不問! ならアタシでもいいってわけだ!」

 

 快活な声と共に一人のウマ娘が手を上げた。駆け足でコースに降りてきたのは、

 

「タップダンスシチーだ! まだジュニア級、というかメイクデビューもまだだが構わないだろう?」

「デビュー前だと? いくらなんでも───」

「立候補感謝するよ。距離はどうする?」

「モンジュー!」

「2,400! と言いたいところだが流石にまだ長いかな。でもマイルじゃ意味ないだろう。2,000mでどうだい?」

 

 自分のトレーナーを押しのけて、いいだろう、とモンジューは首肯した。他にいないかとまた客席を向いたところで、また一人コースへとやって来た。

 

「ジュニア級一人じゃ張り合い無ェだろ。俺も入るぜ」

 

 黒い髪、獣を思わせる鋭い眼光を持つ、

 

「シャカール! 我が同期! はは、アタシを一人にすまいと参加してくれるか!」

「バーカ。海外のダービーウマ娘との併走なんて次いつ来るか分かんねえから直にデータ獲りに来ただけだ」

「素直じゃない奴! しかし、アタシ一人じゃ張り合い無いとは言ってくれるな。もう重賞を控えているとはいえ、そっちこそジュニア級だろう」

「はははは! やはり面白いな、日本のウマ娘は!」

 

 その二人をスタンダードにしないでくれ、という他のウマ娘たちの願いを余所に三人は走り出した。

 タップダンスシチーが先行、いや逃げで一人駆けていく。大きく間を空けてエアシャカールとモンジュー横に並んでいた。

 

「これでジュニア級か。成程、自ら名乗り出るだけのことはある」

 

 位置も変わることなくやって来た終盤、モンジューは素直な称賛を口にした。

 

「キミたちが上澄みだとしても、日本のウマ娘の実力は本物だな。ホームグラウンドなら尚更か」

「無駄口が多いな。フランスの流行か?」

「なに、確かめたかったのさ。彼女がどんな環境で鍛えてきたのか」

 

 モンジューの視線が客席へ向く。少し泳いで、見つけた。片隅に立つマスクをしたウマ娘を。隣にトレーナーと、周りにチームメイトを伴ってモンジューたちの併走を見ていた。

 

「エルコンドルパサー……」

 

 聞こえるはずがない。なのに、目が合った。モンジューから栄光を奪い去った怪鳥、彼女の口が静かに動く。

 ───見せてみろ。

 本当にそう言ったのか定かではない。だがモンジューにはそう見えた。

 だから、

 

「見ていろ。私の進化を!」

 

 最終コーナー。モンジューは一気に加速した。ほぼ同じタイミングでエアシャカールも追従するが、ここにきて地力の差が出た。一度開いた差はもう縮まらない。

 四バ身ほどあったタップダンスシチーとの差も圧倒間になくなった。

 

「はははっ! 容赦がないなダービーウマ娘!」

「なに、それだけキミたちが強いということだ。だからこれは餞別……」

 

 相手がジュニア級とか、ただの併走とか、そんな建前はモンジューから消えていた。今はただ、自分を見る好敵手へ見せつけることだけ考えていた。

 

「欧州の頂点、目に焼き付けろ!!」

 

 瞬間、モンジューの雰囲気が一変する。天を震わす咆哮、地を割る末脚。その正体は、その感覚を知る者に確かに伝わった。

 

「まさか───!?」

 

雷鳴城塞(シャトー・ド・トネール)

 

 圧勝。

 三バ身差をつけて、モンジューたちの併走は終わりを告げた。

 

「エルコンドルパサー。キミに出会えたことは私の人生において至上の幸運だった。凱旋門賞の敗北は私の世界を広げた。そして敗北の悔しさは、私に力を与えた。

 ……“領域(ゾーン)”。その存在を聞いた時は不要と思っていたが、王者に挑むのならそんなことも言っていられない」

 

 絶句する客席へ一礼。しかしその視線はエルコンドルパサーを捉えて離さない。

 

「今度こそ、私はコンドルよりも高く飛んで見せよう!」

 

 欧州王者から世界王者への、宣戦布告だった。

 

 

 ◆

 

 

 モンジューの来日からの公開トレーニング。これを見ないわけにはいかないとマルカブのメンバーとともに見に来た。

 甘く見たつもりはない。それでも今度は向こうが遠征してきた側だし、一度勝った相手だ。

 併走一つでそんな慢心は吹き飛んだ。横っ面を殴り飛ばされた気分だ。

 衝撃を受けたままトレーナー室まで戻り、録っていた映像をみんなで見直す。

 

「これほどとはな……」

「エルには分かります。モンジュー、凱旋門賞の時よりも強くなっています……!」

 

 凱旋門賞から一か月程度。エルがまだ疲労を抜いているところだというのに、モンジュー陣営はどんな魔法を使ったのか。

 その上に“領域(ゾーン)”まで習得してきた。次のジャパンカップでも、その後の有記念でもモンジューは最大の強敵となる。

 

「いや、まずはジャパンカップだ。」

 

 エルの視点で考えてばかりもいられない。先にあのモンジューに挑むのはグラスだ。

 秋天を回避したことでグラスに疲労は無い。残りの時間をどう使うか思考を巡らす。

 

「もっしもーし!」

 

 ノックとともに聞き覚えのある声がした。

 こうして訊ねてくるのも珍しい。ドアを開けると、予想通りの顔が待っていた。

 

「よ、今更だが凱旋門賞おめでとさん。ちょっといいかい?」

「スピカの……」

 

 トゥインクルシリーズで何度となくぶつかってきた、チーム・スピカのトレーナーだった。部屋に通すとモニタに映したモンジューの姿を見て口笛を吹いた。

 

「早速研究か。流石だねぇ……っとアグネスデジタルにメイショウドトウ、この前の南部杯に菊花賞、おめでとさん」

「ありがとうございます。そちらこそスペシャルウィークの天皇賞(秋)優勝、おめでとうございます」

「どーもどーも。ダービーウマ娘の面目躍如ってね。ま、こっちとしてはグラスワンダーに借りを返したかったんだが……ああいや話がズレていくな。本題に入ろう」

 

 スピカのトレーナーが軽口を閉じ、真剣な眼差しでこちらを見た。

 

「スピカとマルカブで組まないか?」

「………………スピカはリギルと組んでいるはずでは?」

「おハナさんってば菊と秋天が終わったらハイサヨナラ次は敵同士ってね。まあ元よりその約束だったからしょうがないんだが。そっちも菊花賞終わってハマルとの協力関係は終わったんだろ?」

「確かにそうですが……」

 

 ライスとメジロマックイーンという因縁から始まり、何度もぶつかってきたスピカとの同盟。思いがけない提案にしばし考える私へ、彼は追撃の言葉を投げた。

 

「モンジューの走り見ただろう? ありゃ日本側(おれたち)も内輪で争ってる場合じゃない」

「では、期間はジャパンカップまで?」

「俺としては、ドリームトロフィーからの有記念出走枠を決めるレースまでが希望だな。あっちはあっちで強敵ぞろいだ」

 

 スピカからはテイオーが出るからな、とスピカのトレーナーは言った。

 ライスもそのレースには出走を予定している。そして相手はいずれも一時代の覇者ばかり。モンジューばかりに気を取られているわけにはいかない。

 

「……うちのデジタルは直近のマイルCSにも出ます。今から組むならそちらのサポートも入ることになりますが」

「構わないぜ。情けないが、今のスピカは短距離行けるメンバーがいないからどこまで協力できるか……で、返事はОKってことでいいんだな?」

「ええ。スピカメンバーとのトレーニングは刺激になるでしょう。よろしくお願いします」

「こちらこそ、しばしの同盟、よろしく頼む」

 

 握手を交わす。

 残された時間は多くはない。今は使えるものは何でも使い、ライスを、グラスを、エルの力を伸ばす。

 

 全ては進化したモンジューに、ドリームトロフィーの古豪たちに勝つために。

 

 

 

 

 

 





 再戦可能ボスは強化されるもの。
 ジャパンカップな雰囲気ですが時間はマイルCSの予定。
 また期間空きますが気長にお待ちください。


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