ウマ娘世界が地獄でも、住めば都です。 (ジョンゲスト)
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おまえがウマ娘になるんだよ!

2022/7/29
改稿
文体を40話前後の書き方に統一しました。


東京競馬場は、異様などよめきに包まれていた。

レース中、先頭争いをしていた馬が一頭突然つんのめるように転倒してそれに後続が突っ込み、大事故となった。

レースは中止となり、未だに再開のめどが立っていない。

一部の観客は帰りだし、場内は先ほどの事故の話と怒声に満ちていた。

 

事故のあった場所に救急車が到着し、倒れている騎手達が運び出される。

地面に転がったままもがき続けていた当のウマの周りに、ブルーシートが張り巡らされ、観客から隠された。

 

「あ~、予後不良確定か。」

「ラベノシルフィー、これからって時にな。」

 

周りから残念そうな声が聞こえる。

東京競馬場に来て観客席に紛れ込んでいる俺は、実は競馬を知らない。

このレースがなんていう名称なのか、転倒した馬がなんていう名前なのかも知らなかった。

昨年リリースされたスマホアプリゲームの通称ウマ娘、『ウマ娘プリティーダービー』にはまって、競馬というものにちょっと興味を持った。

たまたま住んでいる近くに競馬場があったので一度くらいは見ておこうと珍しくとれた休みにこうしてバイクでやって来ただけだ。

 

今の聞こえてきた話では、転倒した馬はラベノシルフィーというらしい。

白い毛色の小柄な馬で、ずっと先頭集団にくらいついて最後はじりじりと追い抜きをかけトップに立とうとしていた。

このままトップに立つか、という矢先の出来事だった。

 

予後不良、というのは知っている。

馬の怪我がひどくて回復の見込みがないということだ。

あのブルーシートの裏では安楽死処置がなされて運び出されるらしい。

 

救急搬送された騎手の人もピクリとも動いていなかったが大丈夫なのだろうか。

 

よりにもよって、生まれて初めての競馬観戦で最悪な大事故に立ち会ってしまった。

 

しかも、100円だけ買った単勝馬券は見ればその転倒したラベノシルフィーのものだ。

 

あまりの運と間の悪さにこれ以上観戦する気も失せて、俺は場外のコインパーキングに向かった。

 

駐車料金の精算を済ませ、バイクにまたがりエンジンをかける。

ここのところ仕事が忙しくて数か月単位で放置していた赤いカワサキ GPZ900R Ninja。

昔の映画、トップガンで主人公が乗っていて人気爆発したバイクだ。

当時の世界最速市販車も今となっては旧車扱いだが、大型二輪免許を取ってからこの方、自分で整備をしながらずっと乗っている。

こいつとは10年以上の付き合いだ。

 

エンジンは水温も上がり切っておらず、チョークを戻すとズォッ、ズォッと脈動がひどくなる。

しかし、市街地でこのうるさいエンジン音を響かせて長く暖気するのも気が引けるので、俺は早々に走り出した。

 

東京競馬場の周りを、幹線道路沿いにぐるりと走って風景を目に収めておこうと流して走る。

たぶん、競馬場に自ら来ることはもうない。

 

正門近くの交差点を通った時、交差点の片隅に交番よりも小さな、コンクリートの四角い建物が目に付いた。

警備員の詰め所か何かだろうか。

そう思った瞬間、周囲の風景が一段色褪せて動きを止める。

突然の静寂。

先ほどまでヘルメットの中に聞こえていた風を切る音も、バイクのエンジン音さえ聞こえない。

自分の呼吸音と耳元で心臓の拍動に合わせて血の巡るわずかな音のみの空間。

 

「馬霊塔だよ。」

 

突然、耳元でそんな声がした。

 

「ヒトの為に働いて死んでいった馬の為の慰霊塔さ。」

 

声のした方へ首を回したが、当然そんなところには誰もいない。

視線を戻すと、バイクのタンクにまたがるように、黒い人形のようなものが座っていた。

シルクハットを頭にのせ、古めかしいデザインの燕尾服をまとった、赤ちゃんをようやく脱したくらいの大きさの幼児。

その幼児は、くいくいと帽子の位置を直して言った。

 

「驚かせて済まないね。

 はじめまして、ミスター志島。

 短い付き合いになるだろうが、よろしく。」

 

志島?志島と言ったか?

なぜこの妙な幼児は俺の名を知っている?

いつの間にこのタンクの上に乗った?

バイクはなぜ動かない?

いや、なぜ世界が動いていない?!

 

アクセルをかけようがブレーキを握ろうが、バイクは何も反応してくれない。

それどころか走ってすらいない。

俺とこの妙な幼児を乗せたまま、バイク型の彫像が地面に固定されているように垂直に立ったままだった。

 

「ミスター志島?」

 

クリンと首を傾けて、黒い目をした幼児が俺の顔をのぞき込む。

人ではあり得ないその瞳孔。

横長の長方形のその瞳孔は、ヤギの、いや悪魔のそれを連想させた。

 

世界が止まる異常事態。

いるはずのない悪魔のような瞳をした幼児。

何かに全身を絡み取られたような感覚に陥った俺は、この状況から逃げ出す術はないかと辺りを必死で見まわした。

 

正面に赤信号。

右手には交差点の半ばにまで入り込んでる直進車。

止まった世界の中で確認できたのは、俺がすでに詰んでいる、ということだった。

どうやら俺は、妙な建物に目を奪われてよそ見をしているうちに、信号無視で交差点に突っ込んでしまっていたらしい。

 

「志島くーん。無視しないでくれよー。」

 

馴れ馴れしく幼児が俺を呼ぶ。

 

そうか、そうかよ。

俺は一人納得した。

 

これは、死ぬ間際の走馬灯。

俺は知らず知らずのうちに死を認識した脳みそが、生き残りをかけてフル回転している、知覚が異常に引き延ばされた瞬間にいるのだ、と。

その最後の瞬間に、過去を振り返ることもなく、妙な幼児の幻覚を見て焦るだけとは。

 

いや、この幼児は死神なのかもしれないな。

目玉なんか真っ黒くてヤギみたいな瞳孔してて悪魔っぽいし。

どっちみち終わってるのか、と納得してしまうと、諦観からか、冷静さというものが戻ってくる。

やけっぱち、というものかもしれないが。

 

「死神じゃないよ。

 まー神様と言われはするけど。」

 

この幼児、心を読んだかのように返事をしやがった。

やはりこいつは俺の脳みそが作り出した幻なんだろう。

俺はなんとなく、その幻と会話をしてみる気になった。

 

「心を読むなよ。

 今際のキワに出てくる神なんざ死神に決まってる。」

 

ケッ!と吐き捨てるように言うと、幻の幼児はニヤッと笑って、あれだ、西洋人がこれはこれはお嬢様、なんてシーンでよくやるボウ&スクレープとかいう礼をしやがった。

 

「やぁ、やっと話してくれる気になったんだね。

 改めまして、ボクはゴド。

 ちょっとこっちにスカウトに出張って来たんだけどね。

 駄々こねられちゃって来てもらえなくなっちゃったんだ。

 失意のまま帰る途中さ。」

 

お手上げなんだよね、と言った風で両手を開いておどけてみせるゴドを名乗る幼児。

 

「ご丁寧にどうも。

 俺は志島弘、今まさに死のうとしてるしがないエンジニアだ。

 小さな死神さんはあれか?

 取り損ねた魂の代わりに俺を連れて行こうとしてるのか?」

 

「That's right!

 キミを連れて行こうかなって言うのは正解だ。

 察しが良くて助かるね!」

 

皮肉を言ったつもりだが肯定されてしまった。

 

「やっぱ死神じゃねえか・・・」

 

頭痛が痛いとはこのことか。

俺は頭を抱えた。

 

「ははは、さっきも言った通りボクは死神じゃないんだけどね。

 単刀直入に言おうか。

 ボクはキミの身も心も欲しい。

 キミはもうこの世界で生きる時間がない。

 ボクは連れて帰るべき魂をスカウトし損ねてしまった。

 キミはまだ死にたくないと願い、ボクはキミを生かす術を知っている。

 スカウトし損ねた魂の代わりにキミを生かすことができる。

 どうだい?

 少しは興味を持ってもらえたかい?」

 

「死神じゃなきゃやっぱ悪魔の類だろ。

 しかも身も心もっておまえ・・・悪魔にしても強欲すぎねぇか?」

 

「失礼な!これでも三女神の一柱なんだが?」

 

「お前女神なのかよ・・・」

 

ちんちくりんな男装の自称女神がバイクのタンクの上でパタパタと足を振ってぷりぷり怒ってみせている姿は実にシュールだ。

 

「スカウトする予定だった子の身体の設計はもう終わっていたんだけどね。

 肝心のその魂が輪廻に疲れ切って、消滅を選んでしまったんだ。

 目の前でもう嫌だって泡となって消滅されちゃってね。

 焦ったよ。」

 

ひょい、と自称女神はタンクから飛び上がって空中に留まり、俺に顔をずい、と突き出して言った。

 

「このまま時が動き出せば、キミのこの世界での存在は今ここで終わる。

 けど、僕との取引に乗ってくれるなら、キミの心の奥底にある渇望を満たす人生を約束しようじゃないか!

 キミの魂のありようは、ボクの設計した身体にぴったりなんだ! 

 ボクは設計した身体を無駄にせずに済むし、キミは素晴らしい新たな人生を得る!

 ああ、なんて素晴らしい提案!

 キミは世界一運がいい!」

 

 一人陶酔して言葉を紡ぎ続けるこのゴドとか言う自称女神。

 私の仲間になれば世界の半分をくれてやろう、というゲームの中の魔王と同じ匂いしかしねぇ。

 うさん臭さMAXってやつだ。

 

「う~ん、まだ決断できない?

 なら出血大サービス!

 若く、健康な身体プラス、今君がここに手にしているものの持ち込みをできるだけ手配しよう!

 世界が違うから、まるっきりそのままではないけどね。」

 

ほら、後付けで話が変わってきた。

生まれ変わりって話が、世界が違う、なんて話が追加された。

走馬灯だか夢だか知らないが、いいだろう、話に付き合ってやる。

 

「こいつもか。」

 

ポンポンとバイクのタンクを叩く。

10年以上乗ってる大事な相棒だ。

 

「もちろん。『それは大事なキミの渇望の代用品だろう?』」

 

『渇望の代用品』

それを聞いた瞬間、無意識を切り裂いて幼いころから抱え続けていたコンプレックスを掘り起こされる。

 

・・・そうだ。

俺がバイクに乗る理由。

 

生まれてからずっと入退院を繰り返した幼年期。

あまりの入院の多さにもう病室を一部屋借り切ってしまえとまで言われた脆弱な身体。

身体の基礎体力の根本を育てるべき時期に、全く身体を動かせなかったが故の超絶的な運動音痴。

 

運動能力の高さがそのままカーストになる小学校ではその最底辺。

中学生になっても逆上がり一つできない腕力。

 

気の強さだけでいじめられても反撃はしたものの、1度も勝てなかった少年期。

 

第二次成長期を迎え、急激に伸びた身長と腕力でようやく人並みには追いついたものの、どこか脚の遅さで誰にも勝てなかったというのはコンプレックスとしていつも心の奥底で燻っていた。

 

高校生の時、近所にバイク屋ができた。

しょっちゅう、うるさいエンジン音がして、親は嫌っていたが、アクセルひとひねりで加速し、乗っている人間の動きで車体を傾けてカーブを曲がっていくバイクの姿は俺を魅了した。

つい、免許もないのにバイク屋の扉を叩いてしまった。

バイク屋のおやじは、どこか頭のネジが飛んでいたのだろう。

無免許の俺にエンジンをかけたスクーターを持ってきて言った。

 

「乗ってみろよ。」

 

俺は、乗ってしまった。

 

バイクは魔性の乗り物だ。

一旦またがって、アクセルをひねってしまえば、取り憑かれる。

 

そこからだ、人生が狂ったのは。

 

免許取得費用とバイクを買うために高校生活のほとんどをバイトに明け暮れ、成績は落ち、かろうじて入った3流大学でも生活の中心はバイクバイクバイク。

そして大学の専攻とは全く関係ないバイクパーツの設計開発を請け負う会社に就職し、今の今まで、だらだらとバイクに関わる生活を続けた。

そのバイクにより、俺は今死のうとしている。

バイクに侵食された人生。

 

なぜ俺はバイクに乗ろうと思った?

いったい何に憧れ、何を求めてバイクに乗った?

 

息が詰まる。

言葉が出ない。

虚弱な身体の代用品。

速く走るための道具。

 

もし・・・もしも、生まれたときから健康で人並みに体力があって、自分の足で走れていたら?

 

「ねえミスター志島。

 虚弱な身体に生まれなければ、

 オートバイに狂うこともなく

 こうして競馬場に来ることもなく

 人生をここで終えることもなかった。

 でもボクは、それをやり直させてあげることができる。

 キミを新しい世界に送ってあげよう。」

 

彼女の顔が真正面から俺を見つめていた。

シルクハットに手をかけ、脱ぐ。

 

癖のある黒髪の上に、ひょこりと立つ馬の耳。

どこに隠していたのか、彼女の足よりも長い尻尾がふわりと揺れて垂れた。

 

「・・・三女神ってウマ娘のかよ・・・死ぬ前の妄想にしちゃ出来過ぎだ・・・」

「理解が早くて助かるよ。」

 

「俺は、その世界で何をさせられるんだ?魂の代わりってまさか・・・」

 

今日、競馬場で散っていった馬の姿が頭をよぎる。

 

「そうさ。

 

  お・ま・え・が!

  ウ・マ・娘・に!

  な・る・ん・だ・よ!」

 

ぱかっと一瞬で足元に穴が開く。

ボッシュートで~す!

そんな某TV番組のシーンが脳裏に浮かぶ。

 

俺は、愛車と共に、暗い奈落の闇の中に落ちていった。



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石の中にいるッ?!

2022/7/29
改稿
文体を40話前後の書き方に統一しました。


暗い暗い空間を抜けるとそこは・・・

 

身動きの取れない真っ暗な空間だった。

 

バイクと共に暗闇の中を落ち続け、マグマのようなものの中に突っ込んだ、と思った瞬間、気が付けばこのざまだ。

 

俺は今、万歳をするような状態で上半身をがっちりと固められて身動きが取れなくなっている。

腰から下はフリーなようで、ジタバタ脚を動かすと壁らしきものをガツガツとつま先が蹴るのだけれど・・・

足を重力に引かれるまま下に伸ばしても、つま先に何も触れやしない。

 

身体の感触からして、ヘルメットを被ってプロテクター付きのバイクウェアも身に着けているらしいが、この万歳ポーズの形でコンクリに埋められたように隙間がなく、まったく身動きが取れない。

 

膝を壁らしきところに立てて踏ん張ってみたり、脚を振り子のように動かしてもがいてみたりしたものの、上半身を覆う硬い何かからの脱出は叶わない。

 

それどころか、やたら脚を動かしたせいで急激に体温が上がったうえに、息苦しくなってきた。

もしかしてこれ、密閉空間か?!

ヘルメットと服の隙間にある空気が呼吸できる空気の全て?!

 

だ~れ~か~!

タスケテ~!

 

 

--------------------------

 

 

「困惑ッ!

 たづなよ、これはどうしたものか。」

 

「・・・・・」

 

 

中央トレセン学園理事長秋川やよいと、その秘書駿川たづなは目の前の光景に戸惑っていた。

 

忙しない朝の登校時間帯も過ぎ、学園生が教室にすべて収まった今、校内は歩くものもほとんどなく静かなものだ。

学園生が朝のHRを終えるまでのわずかな時間、見回りを兼ねて二人で校内を散歩するのが日課であり、朝のひそかな楽しみでもあったのだが・・・

 

中庭の三女神像前に差し掛かった時、音もなく突然それは現れた。

 

三女神像の台座の中ほどから、瞬きする合間に突然生えた白い尻尾のウマ娘の下半身。

ジーンズと、ごついシューズを履いたそれはやがてジタバタと暴れだし、膝を立てて身体を抜こうとし、再び暴れてはだらりとぶら下がった。

 

助けを求めるようなくぐもった呻き声も聞こえる。

 

そして、三女神像の脇の植え込みの上にめり込んで横たわる赤い大型のバイク。

こんなものはさっきまでなかったはずだ。

だいたい腰の高さほどある植え込みの上にこのバイクがどうやって載ったというのか。

学園内敷地は許可なき自動車の類の乗り入れは禁止であるし、たづなは先ほどまで校門前で朝恒例の出迎え挨拶をしていたが、バイクのエンジン音を聞いた覚えはない。

やはり忽然と現れた、としか思えなかった。

 

「ややっ!

 私のウマ娘ちゃんセンサーにびびっと反応があったので来てみれば、壁尻ですとッ!

 薄い本の中にしかないと思っていたシチュエーションが現実にッ!」

 

いつの間に現れたのか、ピンク髪の小柄なウマ娘がハァハァしながらスマホを台座に向けていた。

 

「デジタルさん、まだ朝のホームルームの時間でしょう?」

 

堂々のサボりにたづなが眉をしかめる。

学園生は各自所属の教室でホームルームの時間帯、彼女ら3人と台座から生えたウマ娘以外あたりに人影はない。

このアグネスデジタルという重度のウマ娘オタクな彼女は、自分がウマ娘であるにも関わらず、ウマ娘の尊みに触れるためにウマ娘の集まるここトレセン学園を目指したという妙な入学理由を持つ。

彼女には時折ウマ娘センサーに反応が!と授業等をすっぽかしてはその衝動の趣くままにウマ娘の決定的シーンに突撃する悪癖があった。

困ったことに、彼女は基本、品行方正、勉学優秀、ウマ娘レースにおいても芝、ダート問わず優秀な成績を修めてしまうという、悪癖を咎めるに咎めがたい優秀な生徒なのだった。

 

「はっ!そうでした!

 学生の本分を忘れてはウマ娘ちゃんを堂々と追いかけるなど・・・お?」

 

一瞬正気に戻ったデジタルが葛藤を口にしかけるも、その視線の先の三女神像の台座から生えたウマ娘の下半身に尋常ならざる異変を目にして言葉が止まる。

 

ジタバタと暴れていた下半身の動きが止まり、ひきつけを起こしたようにびくびくと痙攣を始める。

 

そして、だらりと、尻尾も、脚も、力なく重力に引かれて垂れ下がり動かなくなった。

 

「・・・・・」

 

「・・・・・」

 

「・・・たづな、あれ、まずいのではないか?」

 

三女神像は結構でかい。

台座も、それなりに厚みがある。

ウマ娘の上半身が埋まったとて、台座の半分の厚みにも満たない。

隙間なく穴にはまっていたとしたら・・・

たづなはダッシュで台座にかけ寄った。

 

「デジタルさん、そっちの脚を持って引っ張ってください!」

 

「はい!とりゃぁぁぁ~!」

 

引く方向を指示していなかった故に悲劇が起きた。

 

メキメキ・・・ゴキ・・・

 

台座から生えた脚が左右に割り裂かれる。

デジタルは右に、たづなは左に、渾身の力で引っ張る。

ムグー!と、くぐもったうめき声のようなものが聞こえる。

突然股裂きを喰らった彼女はまだかろうじて意識があったのか、立てた尻尾で抱えられた脚のあたりをパシパシとタップし始めた。

 

「待って待って!彼女の股が裂けちゃいます!両脚を一緒に抱えて引っこ抜きましょう!」

 

「了解ですっ!そりゃぁぁぁ~!」

 

彼女のはまった穴の周囲からパラパラと砕け始めた台座の破片が落ちる。

 

ビシッ・・・パキパキ・・・ミチミチミチ・・・

 

不穏な音が台座の方から聞こえる。

果たしてそれは、台座の石材が砕ける音なのか、引っ張られているウマ娘の身体が砕ける音なのか。

徐々に、穴の周辺に放射状のヒビが入り始めた。

引っ張られている彼女の尻尾は毛叩きのように広がって痙攣を繰り返すのみだ。

 

「このままではらちがあきません、タイミングを合わせて一気に引っこ抜きますよ!」

 

「はい!

 三女神様、台座に足をかけることをお許しください。

 これもウマ娘ちゃんの為なんです・・・

 では、せーの!」

 

たづなの、タイトスカート表面に筋肉の形がくっきりと浮き上がる。

デジタルの、細く見えるふくらはぎがもりっと膨れて硬さを増し台座を蹴り締める。

ミリミリと抱えた脚にまとわれたジーンズが裂けていく。

 

そして、二人の力技に、台座は屈服した。

 

一瞬で台座の石材にヒビが広がり埋まっていたウマ娘がすっぽ抜けた。

 

「彼女は無事かッ!?」

 

「ええ、気絶はしていますが、見たところ擦り傷と、打撲と・・・内出血・・・」

 

たづなは少し言いよどむ。

最初は無事だったはずの彼女の下半身。

彼女を救助するためとはいえ、渾身の力でもって引いたためか、裂けてちぎれたジーンズから見える生足は、たづなとデジタルが握りしめた指の跡がくっきりと紫色に変色して腫れあがっていた。

ジーンズはほとんど腰回りを覆うだけのボロ布と化し、上半身は砂だらけのTシャツがまくれ上がり、もはや原形をとどめていないジャケットの残骸がまとわりついている。

上半身いたるところが擦り傷で血が滲み、地面に乱れ髪を敷いて白目で泡を噴いて気絶しているという無残な状況だ。

 

「見覚えのないウマ娘ちゃんですね。

 年恰好は私と同じか少し上くらいに見えますが。

 あれだけ引っ張ったんです、脱臼とかしてませんかね?」

 

「とりあえず保健室に運びましょう。」

 

「おまかせくださいっ!私が迅速かつ丁寧に彼女を保健室までお運びいたしますっ!よいしょっ!

 ハァハァ・・・ズタボロウマ娘ちゃんの重み・・・尊い・・・これは捗りますぞぉ~!」

 

妙なセリフを吐きながら、デジタルが謎のウマ娘を背負って保健室の方へ駆け去った。

 

「何とかなりましたね・・・理事長?」

 

やよいは、三女神像の前に立ち尽くしていた。

学園のシンボルである三女神像の台座に開いてしまった巨大な穴。

一人のウマ娘を助けるため、とはいえ、その代償はあまりに大きすぎた。

 

「絶望ッ!

 たづな!たづなよ!

 明後日先代が来るのだ!

 この大穴が見つかれば大目玉を喰らってしまう!

 なんとか、なんとかならんか!?」

 

たづなはちょっと考える。

この三女神像は、像、台座ともに高名な芸術家や職人の手によって作られたもの。

開いてしまった大穴は、穴だけでなく周辺にまでヒビが入り、おまけに中にはあのウマ娘が身に着けていたと思われる衣服の切れ端が、台座の石材に同化するように埋まっている。

そこいらの左官屋に頼んでちょいちょいとコンクリで埋める、というわけにはいかないだろう。

 

「何ともなりません。

 明後日のことは明後日考えましょう。

 どうせ、なるようにしかなりませんし!」

 

「たづなぁ~~~・・・」

 

理事長に、救いはなかった。



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目覚めればウマ娘

2022/7/29
改稿
文体を40話前後の書き方に統一しました。


・・・動き過ぎた。

 

身動きの取れない真っ暗なヘルメットの中は無駄な運動で発熱した自分の体温でサウナ状態、おまけに空気も足りない。

 

目の前にちかちかと星が瞬き始め、頭の奥が痺れ始める。

 

・・・もうダメかもしれない。

 

思えば短い人生だった。

 

自称女神に騙されて穴に落とされたかと思えば、石の中に埋められて窒息死。

 

そういえば、テレポートしたら高空に現れていきなり墜落死エンドとかもあったんだよな、某ゲーム。

 

哀れにも俺・・・あ、あれ?自分の名前が思い出せない・・・

低酸素状態だと思考能力が落ちるという奴か。

 

いよいよもうダメか、と思ったとき、俺の脚を誰かが掴むのを感じた。

脚は、水平に持ち上げられ、両足をホールドされると・・・

 

すさまじい力で足を引っ張られ、Yの字股裂きをかまされた。

 

痛みを感じる間も、叫ぶ間もなく、何かが外れる不吉な音が股から骨肉を伝って聞こえてくる。

 

目の前はすでにノイズで真っ白けで、自分が叫んでいるのかどうかすらもわからない。

ヘルメットの顎ひもがミシミシと音を立てながら俺の首を引き延ばす。

 

一際強烈な引きと、ブチブチといろんなものが引きちぎれる音を聞きながら、俺は意識を失った。

 

 

 

 

 

・・・目覚めると、俺は布団の中に寝かされていた。

身体を動かそうとすると、全身が痛い。

 

ああ、そうか、俺はバイクで事故に・・・

 

酷い夢を見た。

 

石の中で窒息エンドとか最悪だ。

 

首を回して周辺を見回すと、自分の寝ているベッドを囲むライトグリーンのカーテン、質素な合板の白い天井に、蛍光灯むき出しの照明。

典型的な病室の設備だ。

子供の頃、暮らしていたと言っても過言ではない長い長い入院生活で散々見慣れた景色。

点滴が腕に繋がれていないところを見ると、そうそうひどい状態でもなかったんだろうか。

 

辺りに人の気配はない。

時折、近くに学校でもあるのだろうか、カーテン越しに学生のものらしいガヤ声がするくらいだ。

 

とりあえず、ケガの状況を確認する。

 

見たところ骨折して手脚を器具で吊られたりはしていない。

腕は動く、が、ところどころ包帯を巻かれてる感触がある。

脚も動く、が痺れたようにあまり力が入らない。

わき腹が息をするたびに痛い。

あばら骨にヒビくらい入ってるかもしれない。

 

とりあえず動けそうだと、身体を起こそうとして、頭がビン!と引っ張られた。

 

なぬっ?!

 

起こしかけた身体がベッドに引っ張り戻される。

振り向けば、長い白い髪が、身体と敷き布団の間に挟まって、俺の頭を引っ張っていた。

 

おまけに、布団をはねのけた自分の腕。

包帯とパッチだらけのそれは、見慣れた俺の腕じゃない。

細い。

そして短い。

手指が・・・小さい。

 

背中が、胸が、冷や汗で一気に冷える。

 

「マジかよ・・・」

 

自分で発したはずの声に驚愕する。

聞き覚えのない少女の声。

 

そして頭の上に感じる不規則に動く妙な重み。

小さくなった両手で、顔を、頭を撫でまわす。

 

耳のあった場所には耳が無く髪の毛で覆われ、頭の真上にぴくぴくと自在に動くモフモフとした長い耳の感触。

俺も忘れるな、とばかりに、尻の下で存在を主張する棒状の・・・尻尾。

 

夢じゃなかった。

俺はウマ娘になっていた。

 

ケガを痛がっている場合じゃない。

 

ベッド下に転がっているスリッパを履いて、カーテンを開ける。

 

そこは病室ではなかった。

 

医務室、のようなものか、簡易ベッドが二つと、机に薬品棚、担架ロッカーに折りたたまれた車椅子とストレッチャー。

身長・体重計に、壁に掛けられたスポンサー名が筆書きされた大きくて無骨な姿見。

 

全身の痛みを無視し、力の入らない脚を何とか動かして、姿見の前に立つ。

 

まず目に入ったのは腰にも届きそうな長い白髪。

自分の意思とは関係なく勝手に音を探って動き回る手のひらほどの長さの頭の上のウマ耳。

あちこち包帯やら傷パッチやらを貼られて酷い状態ではあるが、透き通るような白い肌。

キョロっとしている、にはちょっと足りない少し鋭さの宿る赤い瞳の目。

足の間から見える、白くて長い毛並のウマ尻尾。

男物のトランクスと破れかけの薄汚れたTシャツを着たズタボロのウマ娘がそこにいた。

 

ざっと見た感じ、細い。

身長は150cmくらいだろうか。

高校生というにはどこか未熟、中学生というにはちょっと大人びている、成長しきっていない中間的な印象。

Tシャツの胸を持ち上げているふくらみは無いわけではないが大きくもない。

 

ウマ娘になったってことは・・・

 

そっと股間に手を伸ばすとそこにはあったはずのものが何もなかった。

 

改めて、姿見に近づいて自分の顔を眺めてみる。

細く、やせ形で尖り気味の顎。

大人びているという顔かたちじゃない。

可愛げのある子ども、というよりもどこか人形じみている雰囲気が漂う。

目を細めると若干鋭利な感じを受けるが、表情を作ってみると愛嬌が無いわけでもない。

全体的に見るとかなり整った顔だ。

髪をかき上げて見たり、背中を鏡に映してみたり。

尻尾や耳がコントロールできないかあらぬところに力を入れてみたり。

 

ウマ娘の身体を確認するのに夢中になっていた俺は、部屋に誰か入ってきたことに気づかなかった。

 

「なにやってんだい?」

「うひゃぁ!」

 

突然脇から声をかけられて飛び上がった。

 

見覚えのある白と紫を基調としたセーラー服のような制服を着た、黒髪、長髪、褐色肌のウマ娘がいつの間にかそこに立っていた。

 

「たづなさんに、怪我人をちょっと見ていてくださいと引っ張ってこられた時には何かと思ったけど、大丈夫そうだね。」

「たづなさん?ヒシアマ・・・ゾン・・・さん?」

 

何度も、スマホのアプリ画面で見た名前と姿だ。

でも、アニメ絵のあの存在じゃない。

コスプレ、とは違う。

安っぽい生地で作られたコスプレ衣装でもなく、カチコチに整髪料で固めた無理やりな髪型でもなく。

ただ自然に、褐色肌でボリューミーな長髪を湛えた、血と肉を持ったウマ娘としてのヒシアマゾンがトレセン学園の制服を着て、そこにいた。

 

ヒシアマゾンとたづなさんの二人がいるってことはここはトレセン学園なのか?

 

「お?アタシを知ってるのかい?」

 

疑問形とはいえ、見知らぬ俺の口から自分の名が出てきたことに一瞬驚いたそぶりを見せた彼女だったが、自分を知っていてくれたことに素直に喜んだようだ。

ニカっと八重歯を見せて笑う。

 

「知っててくれたとは嬉しいねぇ。

 どこで知ったんだい?

 やっぱエリザベス女王杯かい?」

 

俺がヒシアマゾンで思い出すウマ娘の有名なレース、というと・・・

 

「たしか・・・金船障害っていうレースで、魔法少女の・・・」

 

「ちょっと待ちな!なんでピンポイントでそれが出てくるんだい!」

 

「いや、かわいかったので一番印象に残ってて。」

 

「人生一番の黒歴史だよ!」

 

地団太踏んでぷりぷりと怒る彼女は、まさにあのヒシアマゾンだ。

目の前で、生の彼女の反応を見て、なぜか俺は自分が『生きている』ってことを実感した。

 

「まったく・・・とんだ恥をかいたよ。

 まぁいいよ。

 ラベノシルフィーさん、でいいんだよね?

 うちの理事長からの言伝だ。

 三女神像に刺さっていた件に関して事情聴取をしたいので、あとで理事長室に来てくれとさ。

 理事長室へはアタシが案内するよ。」

 

「ラベノシルフィー?」

 

ラベノシルフィーと呼ばれて、ああ、俺のことだ、と思うも、いや違う、あれは東京競馬場のレースで転倒した馬の名前だったはず、という俺の意識が自分をラベノシルフィーだと認識することを否定する。

いや、俺の名前だよな?

違う、俺には名字と名前があった。

ならそれは何だ?

思い出せない。

俺の名前は、・・・ラベノシルフィーか。

そもそも俺は何を葛藤しているんだ?

自分がラベノシルフィーではない、別の名前で呼ばれていたはずだ、という意識は、どこかに押し込められ再度疑問を持つ間もなく消し去られた。

 

頭を振って、意識をヒシアマさんの質問に戻す。

 

「・・・さっぱりわからない。

 気がついたらここで寝かされてました。」

 

「妙な話だねぇ。

 アンタ、三女神像の台座に半身突っ込んで埋まってたらしいじゃないか。」

 

「は?」

 

意味が分からない。

それって、あの自称女神がなんかしくじったんじゃないのか?

硬い岩?の中に押し込められ、真っ暗闇の中窒息しかけたことを思い出す。

あれは三女神像の台座の中だったのか。

くっそ、あの駄女神、転移失敗ってやつじゃねーか!

危うく石の中にいる!から死亡のコンボを喰らうところだった。

 

 

「アグネスデジタルが保健室にアンタを運び込んで、保健医が応急処置をしたんだけど、アンタ股関節を脱臼していてねぇ。

保健医は脱臼の処置の仕方を知らないってんで、急遽ぶらついてた沖野トレーナーが引っ張りこまれてたづなさんにしばかれながらアンタのフトモモ抱えて処置してたよ。」

 

沖野トレーナーってあれか、ウマ娘のトモ、って要するに太腿から尻だよな、を褒めながら撫でまわしてくるスピカとか言う名物チームの男性トレーナー。

まさか気絶している間にそんな目に合っていたとは・・・

 

「・・・人の趣味には口出ししたくはないんだけどさ、アンタ男物のアンダーとか、ブラもつけずに直Tシャツとかいい加減やめときな?

 珍しく沖野トレーナーが時々目をそらしてたって言うから、いろいろヤバイよ?」

 

いろいろ見えちゃってたんだろうか。

男物やめろとか言われてもな。

この身体になる前に着てたものがそのまま・・・

・・・いやちょっと待て。

尻尾がどこから出てるかと思ったら履いてるトランクス前後逆だこれ。

おしっこ穴から尻尾が出てる。

他にもなんか不備があるんじゃないか?

 

今更ながらにペタペタと身体のあちこちを触って確認する俺に呆れたような目を向けながら彼女が続ける。

 

「アンタの私物だけど、財布とか貴重品はたづなさんが預かってる。

 アンタが着てた上下の服は・・・それ。」

 

ヒシアマさんが指さした先には、かごに服だったものの残骸が入っていた。

ライダースジャケットにヘビーオンスのジーンズ、どっちも引きちぎれて大幅に布地が足りてない。

ボロ布もいいところだ。

もう着られそうにない。

 

「ちょっとその姿で校内を歩き回るのは勘弁してもらいたいね。

 しばらくはこれを着といて貰えるかい?」

 

と、赤色のジャージ上下を渡された。

 

「歩けそうなら、理事長室に案内するけど行けるかい?」

 

「はい、お願いします。」

 

渡されたジャージを身に着ける。

学生時代に着ていたジャージと大差ない。

違いはズボンに尻尾穴があることくらいか。

 

ズボンを履こうと足を上げようとしたのだけれど、脚がほとんど上がらない。

危うくそのまま転びそうになって、ヒシアマさんに支えられた。

ベッドに腰かけて履こうとしたけれどそれでもだめで、ベッドに寝転がりながらヒシアマさんに助けてもらってようやく足を通せた。

そして、尻尾。

もともとなかった器官だから、思い通りに動かない。

尻尾穴に尻尾を通すにも勝手に動いたり突っ張ってみたり、ベッドの上で一人大乱闘状態。

これもヒシアマさんが何遊んでるんだい!と手伝ってはくれたものの、他人の手で触られたりしごかれたりするのはくすぐったくてたまらない。

終いには半端に通った尻尾の毛をズルズルと引っ張られてようやくジャージのズボンが履けた。

 

ウマ娘世界に来る前に履いていたプロテクターシューズは無事だった。

見るからに今の俺の足のサイズは変わって小さくなっているのだけれど、シューズの大きさもそれに合わせて変わったのかぴったりだ。

ただ、ジャージに合わせてみるとプロテクター部分があちこち出っ張っているので、ごつくて似合わない事甚だしい。

 

一通り身なりを整えて、俺はヒシアマさんに連れられて理事長室に向かった。

 

 

 

 

保健室のある建物をいったん出て、理事長室のある棟へ向かう。

保健室は、ウマ娘のトレーニングをする運動場に面した建屋にある。

ケガをした時にすぐに手当てできるように、という配慮もあるんだろう。

 

時折、ランニングをしているっぽい同じジャージ姿のウマ娘とすれ違う。

 

しばらく建物の壁に沿って歩くと、中庭の真ん中に建つ大きな三女神像が見えてきた。

その高さは、台座と合わせて建物の二階に届くくらいの大きさがある。

その台座の真ん中に、無残にもマンホールより少し小さいくらいの大穴が開いていた。

そばを通る者全員が、ぎょっとして眺めていく。

 

「アンタ、あれに刺さってたって。

 何をどうすればあんなところに刺さるんだい?」

 

「そう言われても・・・俺には全く心当たりがないので。」

 

「おや、そんななりして俺っ子だったのかい、ちょっと意外だね。」

 

「まぁ、昨日まで男やってたので。」

 

「ハァ?

 

  こんな立派な胸と!(ペシッ!

     お尻してて!(ペシッ!

  男とか宝塚の見すぎじゃないかい!」

 

胸と尻に軽くビンタを喰らってしまった。

 

ふと見ると、像の近くに、俺のバイクがとまっていた。

バイクもこっちに送られてきたのか、と近寄ってみると、なんか違う。

 

Iwasaki CPZ900R Inja

 

色や雰囲気こそ同じだがサイドカウルに「隠」とでかい漢字ロゴが入っている。

ライバルメーカーのUZUKIの隼とニコイチしたかのような、中華製のパチモノバイクみたいな雰囲気が漂っていた。

しかし、これはまぎれもなく俺が長年乗り続けたバイクだ。

ハンドル周りやホイールに入った傷なんかは俺が乗っていて付けたものだ。

 

「でかいバイクだね。さっき重機で吊り上げてたけど、朝からあるらしいんだよ。」

 

「俺のです。」

 

「いやアンタ、まだ乗れる歳じゃないだろう?

 それともその見てくれで実は歳上かい?

 アタシ失礼しちゃったかい?」

 

実際どうなんだろう。

自分のこの世界での立ち位置がよくわからない。

このバイクが微妙に変わっているのを見ると、都合よく俺の立場なんかも調整してくれているのかとも思うけれど、しょっぱなから石の中に生き埋めにする駄女神のやることだからなあ。

 

自称三女神のゴドと言ったか。

あの小さな洋装の幼児姿と比べると、この三女神像とは似ても似つかない。

三女神像の顔を見上げると、三女神像の一体がニヤッと笑った気がした。



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理事長室の攻防

2022/7/29
改稿
文体を40話前後の書き方に統一しました。


トレセン学園理事長室。

学園の運営をつかさどる事務員が詰める中央の棟の最奥。

職員が歩き回る廊下からも隔離されたかのように静かな場所に、理事長室はあった。

 

コツコツと大理石の床に靴音だけが響く中、重厚な理事長室の扉が見えてくる。

 

ヒシアマゾンが、その扉をノックしようとしたところで、その分厚い扉を貫通してまで苛立ちに満ちた声が聞こえてきた。

 

「だ~か~ら~!ゴルシちゃんはやってねーって言ってんだろ!」

 

『『ゴールドシップか・・・』』

 

図らずも、ヒシアマゾンとラベノシルフィーの心の声がハモる。

 

ヒシアマゾンはゴールドシップの奇行の直接の被害者として、ラベノシルフィはゲーム内のハチャメチャキャラとしてだが、ゴールドシップと言えば何かをやらかす奴、という意識において一致していた。

 

中に問題児の彼女がいる、というだけでヒシアマゾンは頭が痛いが、中に入らなければ始まらない。

 

彼女は意を決してドアをノックした。

 

「ヒシアマゾンです。

 ラベノシルフィーさんを連れてまいりました。」

 

一呼吸おいて、ドアが開いた。

 

「どうぞ。」

 

秘書のたづなさんが入室を促す。

 

ヒシアマゾンに続いて理事長室に入ると、そこは理事長室ならざる怒気に満ちていた。

 

怒気の出どころは鹿毛ボブのウマ娘、エアグルーヴ。

トレセン学園生徒会の副会長でもあり引き締め役の苦労人。

 

その彼女が腕を組んですさまじい怒気を放ちながら、苛立ち抗弁する大柄な葦毛のウマ娘、ゴールドシップを見据えていた。

 

 

 

「お身体の具合はいかがですか、ラベノシルフィーさん。」

 

全身緑色の、まるで昭和のエレベーターガールのような装いの女性が、柔らかくおっとりした口調で訊ねかけてくる。

トレセン学園理事長秘書駿川たづな。

ゲーム内では理事長に代わり実務を担当し、ガチャの扉を開け、時には逃げ去るウマ娘を追いかけて捕まえと、八面六臂の活躍をする学園の影の実力者、とラベノシルフィーは認識している。

 

それが、あろうことか、目の前で生きて動き、自分に声をかけていることに、ラベノシルフィーは感動を覚えた。

 

「はい、大事ありません。

 助けていただいて手当までしていただいたようで、ありがとうございます。」

 

ぺこりと頭を下げ、礼を言う。

うむうむ、と帽子の上に猫を乗せ、扇子を手にした少女が、部屋の中央に据えられた執務机から叫ぶ。

 

「重畳ッ!

 無事で何より!

 私が当トレセン学園理事長秋川やよいだッ!」

 

ばっと開かれた扇子に『安堵』の文字が踊る。

 

どう見てもせいぜい高校生にしか見えない彼女だが、秘書のたづなのサポートと豊富な個人資産の元、立派に学園を切り盛りする理事長、だったはずだ。

 

理事長室の中には、ラベノシルフィー、理事長のやよいと秘書のたづな、ゴールドシップと生徒会副会長のエアグルーヴ、そしてラベノシルフィーの案内をしてきたヒシアマゾンと、6人が一堂に会していた。

 

 

----------------------

 

 

「ラベノシルフィーさん、こちらをお返しします。

 失礼ですが、身元確認のために中身を改めさせていただきました。

 勝手なことをしましてお詫び申し上げます。

 足りないものがないかご確認ください。」

 

秘書のたづなさんから差し出されたのは、俺の財布とスマホだった。

いつもズボンのポケットに突っ込んで持ち歩いているものだ。

履いていたヘビーオンスのジーンズは、ちょっとしたことでは破けないくらい生地が厚くて丈夫なものだったのに、保健室で見たそれはもはやズボン原形をとどめていないほどに裂けて破れ、ぼろきれと化していた。

よく財布とスマホが無事だったもんだ。

 

「いえ、見られて困るものもありませんし。

 ・・・こちらのテーブルをお借りしても?」

 

「どうぞ。」

 

応接用のソファーの前にあるテーブルを借りて、財布の中身を広げて確認する。

ここで確認しておかないと、あとになってあれがないこれがないと言ったところで取り合ってもらえない、って言うのもあるけれど、何より確認して相手を安心させるって言う意味合いもある。

さっさと目の前で確認して見せるが吉だ。

 

紙幣はだいたいいつも3万円前後入れてある。

 

ざっと見た限り、中に入っている紙幣の額は減ったりはしていないように思える。

ただ、取り出した紙幣に妙な違和感を覚えた。

 

千円紙幣の肖像画に、ウマ耳が生えている。

パーマなのか、そういう結い方なのか、髪型が段々団子でまるで国民的アニメのサ〇エさんのよう。

肖像画にはノグチヒデ号と表記されていた。

一万円札は、見覚えのある一万円札そのものだった。

 

その他にも、5円玉の稲の意匠が葉っぱ付きの人参だったりしたけれど、財布に入っていた金額に不審なところはなかった。

 

財布に入っていたカード類は、キャッシュカードが3枚にクレジットカードが3枚、免許証に保険証。

その他会員カードやポイントカードが数枚。

 

全てに記載されている『ラベノシルフィー』名義に何か引っかかるものを感じはするものの、ほとんどが見慣れたものだ。

ただ、よく見ると、銀行名やクレジットカード会社のブランドが四井駒友銀行とかJRAとか、微妙に変わっているものがある。

そう言えば、ゲームのウマ娘では何かにつけ『ウマ』推しの名称が多かったっけ、となんとなく納得した。

しかし、この俺のウマ娘の身体、どう見ても未成年なんだけれど、クレジットカードはどういう扱いになっているのだろう?

未成年だと普通単独では作れないんじゃないだろうか?

 

免許証と保険証を見ると、俺は200X年生まれってことになっていた。

ウマ娘世界も同じ西暦を使っているなら、俺は今15歳、ってことだ。

運転免許を取れる年齢じゃない。

それなのに、免許証には大型自動二輪と普通免許に印がついている。

なんで?と思いながら免許証をひっくりかえしたら裏面に公安委員会のハンコと一緒になんかウマ自特別許可XXXXXX号とか記載があった。

保険証も保険証で、親の扶養家族に交付されるものじゃなく、どこかの企業連合の社会保険のものだ。

俺は15歳にして自活している、という扱いになっているらしい。

 

これがおもちゃの免許証や保険証にすり替わっていたら、三女神像を叩き壊しに行きたいところだけれど、あのゴドとか言う自称女神は『手にしているものの持ち込み』に関する仕事はちゃんとしてくれたらしい。

 

しかし、一つだけ、使えそうにないものが見つかった。

あっちの世界で最後に購入した、単勝の『勝ち馬投票券』。

それは、100円の金額以外は何も印刷されていない無意味な紙切れになっていた。

 

スマホは、充電切れなのか故障なのかはわからないが、電源が入らなかった。

そして、何か微妙に形が違う気がする。

 

電源が入らない以上、スマホで確認できることは今はない。

 

「・・・過不足ありません。確かに受領しました。」

 

「はい。

 それでは、お呼びした本題に入りたいと思います。」

 

たづなさんがエアグルーヴへ視線を送り促す。

こくりと頷いたエアグルーヴが話し始めた。

 

「初めまして。

 私はエアグルーヴという。

 当学園の副生徒会長を務めている。

 このたわけに見覚えはないか?

 君はこのたわけの悪ふざけに巻き込まれた可能性がある。」

 

たわけ、と顎で指した先には、ふてくされたように胡坐を組んで座り込んでいるゴールドシップがいた。

 

「だ~か~ら~!濡れ衣だって言ってんだろ!

 アタシはコイツと面識ねーし、コイツもアタシを知らねー!

 だいたいゴルシちゃんがなんで学園生でもない一般人を巻き込むとか思ってんだよ!」

 

エアグルーヴの怒気が膨れ上がり、今にも噛みつきそうな般若の様相で叫ぶ。

 

「貴様の日ごろの所業が悪すぎるのだ!

 胸に手を当てて考えてみろ!

 三女神像に大穴開けて他人を突っ込むなど貴様以外の誰がやるか!」

 

「三女神様にそんな罰当たりなことこのゴルシちゃんがするわけねーだろ!

 三女神様の生誕祭には毎年ちゃんとチーズとチョコレートとオリーブオイルを頭からかけてやってるんだぜ!」

 

「それがいたずらだと言うのだ!」

 

ギャンギャンと噛み合わない不毛な言い争いが続く。

 

どうやらゴールドシップが俺を女神像に埋め込んだ容疑者として疑われているらしいことはわかった。

けれど、俺は気づいたらあの状態で、あれをやらかしたのは自称女神のちんちくりんの幼児、ゴドだ。

ゴールドシップじゃない。

 

俺はどこか他人事のような気分で、二人の言い争いを眺めていた。

エアグルーヴは会社のヒステリーなお局様と姿がダブるなーとか、ゴルシは良くぶれずに真っ向からふざけたことばかり言えるものだな、とか。

あの怒気バリバリのエアグルーブに対して、ひょうひょうと噛み合わない会話を続けられるのだから肝っ玉の太さは相当なものだ。

 

「ラベノシルフィー、と言ったか。

 どうなのだ?

 このたわけに見憶えは?」

 

「見憶え、と言われれば、ゴールドシップさんのことは知ってはいますが・・・」

 

俺の言葉に、ゴールドシップが何だと?!と驚愕と絶望の表情をまぜこぜにした顔で目を剥く。

 

「今回の件とは無関係かと。

 少なくとも、ゴールドシップさんに何かされた覚えはありません。

 ゴールドシップさん、エアグルーヴさん、ご迷惑おかけしました。」

 

ぺこりと頭を下げる。

 

「ほらみろ!ベロちゃん貸し一つだかんな!」

「ベロちゃんと呼ぶなたわけが!

 理事長、被害者であろう彼女が関与を否定した。

 お手数をかけた。

 失礼する。」

 

勝ち誇るゴルシに忌々し気なエアグルーヴ。

エアグルーヴがゴールドシップをせっつくようにして、彼女らは連れ立って理事長室を辞した。

 

「アタシも失礼するよ。

 お大事にな、ベノシ。」

「ベノシ?!」

 

ヒシアマさんの去り際に、変なあだ名をつけられてしまった。

 

「ふむ。ゴールドシップのいつもの悪癖に巻き込まれたのではないとすると・・・」

「心当たりはありませんか?ラベノシルフィーさん。」

「あるにはあるんですが・・・」

 

ウマ娘世界の住人であるあなた方の信仰する三女神の一人に、異世界からウマ娘にされて送り込まれました、なんていう荒唐無稽な話をしたところで信じてもらえるのだろうか・・・



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ウマ娘の身体

2022/7/29
改稿
文体を40話前後の書き方に統一しました。

この話は若干書き直し箇所が多いです~


「三女神の一柱が、今回の騒動に関わっていると言ったら、信じて貰えますか?」

 

慎重に、話を切り出す。

目の前にいる二人は、少なくともこのトレセン学園の重鎮。

ゲームやアニメの中のおちゃめな姿が全てじゃないだろう。

いい大人に対して、おとぎ話のような話をして馬鹿にしているのかと怒り出す可能性も十分にある。

 

「・・・ふむ。」

 

しかし、意外なことに、理事長もたづなさんも、一笑に付すこともなく思案顔だ。

 

「夢でも見たのか、とは言わないんですね。」

 

「・・・三女神様の奇跡は、小さなものなら奇跡とは言えぬほど日常的に起こるのでな。」

 

理事長は、ちょっと困り顔だ。

 

「今回みたいな大きなものはちょっと聞いたことありませんけどね。」

 

反応を見る限り、ありえない話ではない、と言った様子が見て取れる。

 

「信じていただけるかはわかりませんが、事の経緯をお話しします。」

 

俺は意を決して、三女神を名乗るゴドというシルクハット燕尾服姿の幼児に、いい歳したおじさんである俺がウマ娘としてこちらの世界に落とされたことを話した。

競馬場と馬の話はぼかして。

なぜかと言えば、ウマ娘なんて存在がいる世界で、あっちの世界では経済動物として馬が飼育され消費される、しかもそれがウマ娘とリンクしているなんて話は、ことをややこしくこそすれ何も得にならない気がするからだ。

似たような世界ならなおさら、人種差別になりそうな話はしないに限る。

 

大まかに話をし終えたときの二人から帰って来た反応は、何ともぽわぽわしたものだ。

 

「なんだか、ウサギを追って穴に飛び込んだ少女の童話を思い出しますね。」

 

「同感ッ!何か意図的な演出を感じるッ!」

 

あの自称女神のゴドの服装と、穴に落ちることから不思議の国のアリスを連想したらしい。

同じ童話かどうかはわからないが、たぶん同じものだろう。

あの童話は、確か夢オチで終わったんだっけか。

へたしたら狂人扱いされるかも、と戦々恐々としていたのに、何とも拍子抜けな反応だ。

 

「実はですね、過去にもウマ娘のいない世界から来たというヒトはいるんです。

 ウマ娘になって、というのは初耳ですけれど。

 日本だと一番最後は・・・20年くらい前でしたか。

 大抵の流れ人はお爺ちゃんですからもうお亡くなりになられていますが。」

 

「うむっ!

 異世界からの流れ人はこの世界に様々な変革をもたらしてくれているのだ!

 このウマホなどもそうだ!」

 

理事長がジュエルシールがワンポイント程度に貼られたウマホ?を取り出して掲げる。

何のことは無い、スマートフォンだ。

 

「あと、あなたの話を無下にできない理由なんですが・・・

 あの大穴に残されたあなたの着ていた服、台座の石材と一体化してしまっているらしいんですよね。

 施設部の者が、像を建てた業者が手抜き工事してゴミを埋め込んでいたのか!って勘違いして憤慨していましたから。」

 

あの大穴、と聞いて、途端に理事長が萎れる。

 

「あの大穴、施設部の者もすぐにどうこうできるものではないとさじを投げおった・・・

 先代に見つかれば大目玉は必至、どうしたものか・・・」

 

先代というのが理事長のどういう関係に当たるのかはいまいちよくわからないが、あの穴を開けた原因は駄女神のせいだとはいえ、俺もちょっと責任を感じる。

見つからなければいい、というのであれば、方法はなくもない。

 

「理事長さん、小手先のごまかしでしかありませんが、あの像、そこそこ歴史ある像のようですから、老朽化で倒壊の恐れのあるヒビが見つかったと言うことにして、工事中の表示して防音幕で囲ってしまったらどうですかね?

 とりあえず、事故防止ってことで突然工事が始まっても突っ込まれないと思いますし、穴が見られることもないと思いますが。」

 

俺の提案ともいえない提案を聞いてガバっと身を起こした理事長は電話をかけにすっ飛んでいった。

 

「施設部かッ!部長を出せ!今すぐにだッ!」

 

たづなさんの呆れたような視線が痛い。

 

「よくポンとそんなごまかし案が飛び出しますね。」

 

「中身はしがない会社勤めのおじさんですからね、仕事を楽にするための方便はスキルのうちです。」

 

営業や経営陣の現場無視かつ無理無茶無謀な計画に付き合うには、こういった方便で時間や予算を引っ張らないと成功の目が無いことなんてよくある。

時にはごまかしも必要だ。

 

電話をしていた理事長が電話口を抑えて問いかけてくる。

 

「確認ッ!像のそばにあるオートバイは貴女のものか?

 職員駐輪場に移動してよいか?」

 

「はい、どうぞ移動させてください。」

 

他人に愛車を任せるのはちょっと思うところがあるが、全身ズタボロのこの状態じゃ、バイクを押して歩くことさえままならない。

お任せするしかないだろう。

 

電話を終えた理事長が、満面の笑みをたたえて戻って来た。

 

「安堵ッ!提案感謝する。

 施設部が足場を組んでシートで隠してくれるそうだ!」

 

先代とやらに大目玉を喰らう心配はなくなったらしい。

 

それは何より、と答える前に、前触れもなく、盛大な怪音が鳴り響いた。

 

ぐぅぅ~~~~キュルルル・・・

 

俺の腹の虫だ。

 

開きかけた口を閉じて押し黙る。

気まずい。

 

「そういえばもうお昼ですね、食事にしましょうか。

 理事長はいつものでかまいませんか?」

 

「うむッ!」

 

「ラベノシルフィーさんは食べられないものとかはありますか?」

 

「いえ。

 あ、貝の類はだめかもしれません、よく当たるんです。」

 

「なら大丈夫です。お弁当頼みますね。」

 

たづなさんがウマホを操作する。

トレセン学園の食堂で食べるのではないらしい。

あの真ん中にニンジンがぶっ刺さった特大ハンバーグとかちょっと見てみたかった。

頼んだのは王子屋とかのお弁当屋さんだろうか。

それともウーガーイーツとかの宅配だろうか。

 

5分もしないうちに、扉がノックされてお弁当が届いた。

速い。

黒い艶々の紙容器に入ったなんか高そうな仕出し弁当。

箱はかなり大きく、金の楷書で箱に店名らしき漢字が書かれてる。

箸も、割り箸ではなく丸く面取りのされた箸が和風の化粧袋に入ったものがついてきている。

 

単品のが理事長、三段重ねのが俺とたづなさんの。

ソファー前のテーブルに並んだ様は圧巻の分量だ。

たづなさんが足りますか?と聞いてくるけど、俺こんなに食えません。

 

蓋を開けると、1段目が色とりどりのかやくで個別に味付けされた俵ご飯がぎっしり。

二段目がハンバーグ、から揚げ、エビフライ、ブロッコリー、ポテトサラダなんかが入った洋食系おかず。

三段目が肉団子、鮭、鰆、シイタケやレンコンの煮つけ、かまぼこ、きんぴらごぼう、卵焼きなんかの入った和食系おかず。

要するに幕の内弁当全部入り。

大企業の会議で昼食食べながらの会議とかで出てくるあれの超大盛版だ。

食べきれるかな、と逡巡してると、たづなさんがことり、とお茶を置いてくれた。

 

「では、いただこう!」

 

「「いただきます。」」

 

ボキッ!

 

俵ご飯を箸でわけようとして、あっさりと箸を折ってしまった。

折った箸を短い箸として使えないか握り直してみる。

無理だ。

 

「・・・・・」

 

「かわりの箸を持ってきますね。」

 

パタパタと小走りにたづなさんが駆けていく。

スミマセン。

 

いつの間にか理事長の頭の上から猫が下りてきていて、理事長の分けた弁当をにゃむにゃむ言いながら食べている。

 

どうぞ、と帰って来たたづなさんから新しい箸を渡されて、今度は慎重に・・・

 

パキッ!

 

これまた簡単に折れた。

 

スッと、新しい箸が差し出される。

ご飯が固いから駄目なんだ、と気を取り直して、今度はハンバーグから・・・

 

メキャッ!

 

あっさりと箸が折れる。

 

「・・・・・」

 

「力の加減が効きませんか。

 本当にウマ娘になったばかりなんですね。」

 

「苦笑。珍しいものを見せてもらった。」

 

何でも、ウマ娘は俺くらいの年齢でも握力が300キロ前後あるのが普通らしい。

あっちの世界で男だった俺の握力は50キロ弱だ。

折れた箸を拾い上げて三本指でちょっと力をかけると、木の反発をほとんど感じることもなく変形してへし折れる。

同じ太さのチョコレートの方がまだ硬く感じるんじゃないだろうか、程度に、木の箸に手応えを感じられなかった。

 

たづなさんから、すぐにステンレスのフォークとスプーンを渡される。

金属製で掬って食べる類の食器なら力加減は関係ない。

 

しかし、たづなさん、2本目の箸の時点でもうフォークとスプーンを用意していたのか。

理事長秘書ともなると先読みが常人の一歩先を行くものだと感心しながらお弁当を頂いた。

 

食べてみて、最初はこの弁当の量、食べきれるのかな、と思っていたのだけれど・・・

入ってしまったのだ、全部。

お腹に。

食べても食べても、満腹感がこない。

むしろ、全部食べ終わって、あれ?これで終わり?と物足りなく思ったくらい。

中年、と言われる年齢に差し掛かっていた俺は、最近炭酸飲料やら大盛りの食品やらが食べきれなくて胃が小さくなってきたな、と感じていたものだから、この量をあっさり食べきって物足りなさまで感じることに、かつての身体と違うウマ娘の身体なんだな、と改めて実感したものだ。

 

そしてたづなさん。

ウマ尻尾も無いし、人間のように見えるけれど、俺と同じ大きさの弁当をぺろりと平らげて平気な顔でお茶飲んでますよね?

その帽子の中にウマ耳隠れてませんか?

 

じっとたづなさんを見つめていると、彼女が光輝いて見えた。

 

いや、冗談じゃなく、彼女の周りに光の球が舞い、彼女が光り始めたんだ!



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女神の託宣により母となれたづな

まぁ、ご都合主義回ですね~

2022/7/29
改稿
文体を40話前後の書き方に統一しました。


「発光ッ!?たづな、身体が光っているぞッ!?」

 

「えっ、ええっ?

 

 

 ・・・こんなおっきい子の母となれって、ちょっとっ?!」

 

思わぬ事態に慌てふためくたづなさんをよそに、彼女を取り巻く光は、数瞬で消えた。

 

「・・・よもや、先ほどの弁当にタキオンの薬物が?

 いや、あれは信用できる業者のはず・・・」

 

この発光現象を見て、理事長は、この学園きってのあのマッドサイエンティストを疑っているようだ。

 

呆けていたたづなさんが、まるで錆びたロボットのようなぎこちなさで首を回し、ハイライトの消えた目をこちらに向ける。

 

「三女神様が・・・三女神様の託宣が・・・ラベノシルフィーさんの代理母となれと・・・」

 

「ぬなっ!!!」

 

パタッっと、理事長の扇子が床に落ちた。

 

 

 

 

復活したたづなさんが、女神の託宣について話してくれた。

 

ウマ娘は、幼いころにソウルネームが降りてきてウマ娘として覚醒する。

ソウルネームが降りたウマ娘の代謝は急激に活性化し、身体能力が高まると同時に食事量も極端に増える。

しかし、ウマ娘がまだ自立できない状態で、両親が亡くなってしまった場合、幼いウマ娘に残された道は餓死だ。

それを救済する為なのか、自立できない幼いウマ娘を育てることが可能で最も近しい者に『三女神の託宣』という形で代理母を任されるのだそうだ。

子供を託された代理母は、その子供が成人し独り立ちするまでの後見人となる。

 

託宣による代理母を蹴っても、特に神罰などが下るわけではない。

しかし、それは幼子を見殺しにしたという自責の念が一生付きまとうことになることから、無下に蹴る者はいないのだ。

 

こういった、三女神の起こす奇跡は、奇跡の価値っていったい何?というレベルで頻繁に起こるのがこのウマ娘世界らしい。

 

 

「通常、幼児くらいまでのウマ娘でしか起こらないって聞いていたんですが・・・

 こんなことが起こるとなると、三女神様が、あなたに関わっている、というのはこれで確定ですね。」

 

あの自称女神が『お箸もまともに使えないんじゃ、ひとりでご飯も食べられないね。保護者を付けてあげるよ!』とか言ってる姿が目に浮かぶ。

 

しかし、事実でもある。

非常に悔しい。

 

「たづなさん・・・」

 

「・・・」

 

彼女は、中空を見つめ、考え込んでいた。

たぶん、彼女の頭の中は、起こったことが起こったことだけに、混乱の真っ最中だろう。

ほぼ会ったばかりの彼女に、女神からの託宣があったからとはいえ、当然のように俺の世話を押し付けるのはいかがなものだろうか。

とはいえ、この身一つしかない俺に彼女に報いる方法はない。

・・・いや、せめて敬意を示そうじゃないか。

 

「おかあさん、って呼べばいいんですかね・・・」

 

ブフッ・・・

理事長が噴いた。

 

一瞬呆気にとられたたづなさんが、地団太を踏んで怒りだす。

 

「私はまだおかあさんって歳じゃありません!

 あなたみたいなおっきい子にお母さん呼ばわりされてたらますます結婚が遅れちゃうじゃないですか!もうっ!もうっ!」

 

・・・・・

 

・・・

 

 

ひとしきりぷんぷん怒ったたづなさんは、はぁ、とため息をつきながら告げた。

 

「いいでしょう、まぁ、あなたが成人するまでは私が面倒を見ます。

 中身は大人だって言ってましたし、手はかからないでしょうしね。

 た・だ・し、人前でおかあさん呼ばわりはダメです。

 たづなさん、か、おねーちゃんて呼んでください。

 いいですね?」

 

「・・・」

 

「いいですね?」

 

「・・・ハイ。」

 

・・・これからは彼女のことはたづなさんと呼ぼう。

 

 

 

 

「ところで、住むところはあるんですか?」

 

三女神の託宣があったことで、俺の置かれた状況がそのままじゃ生存に関わるかもしれないという認識になったであろうたづなさんの判断は速かった。

異世界から送り込まれた際に持ち込まれたものが、こちらの世界にローカライズされたらしいのは彼女もなんとなくわかっているらしい。

しかしそれは、ラベノシルフィーの身の回りのもの以外に適用されるのだろうか?

住処などがその最もたるものだ。

 

「あっちの世界での自宅の住所は東京都八王子市XXのX-X-Xなんですが・・・」

 

あっちの世界で住んでいたアパートの住所を告げる。

たづなさんから帰って来た答えは意外なものだった。

 

「・・・ハチオウジシ、っていうのは聞いたことがありませんね。」

 

マジか。

この世界には八王子市が無いらしい。

 

「そういえば、免許証や保険証の住所はどこになっていますか?

 先ほどお借りした時は、ざっとしか見ていなかったもので。」

 

「ちょっと確認してみましょう。」

 

俺もさすがにぱっと目に付いたところ以外あまり良く見ていない。

財布から免許証を取り出して渡す。

 

「どうぞ。」

 

「・・・拝見しますね。

 あ、これ、ウマ娘自警隊で発行された免許ですね。」

 

俺の免許証を表裏と確認したたづなさんがそう言い放つ。

 

「ウマ娘自警隊?」

 

「他の国だと軍隊の一種ですか。

 ウマ娘なら学歴不問で試験に受かりさえすれば入れて、所属していれば任務に関わる各種運転免許等が年齢制限なしで取得できるはずです。

 この免許を使うなら、覚えておいた方がいいですよ?」

 

自衛隊みたいなものか。

でも、それだと俺、小学校卒業してすぐそのウマ娘自警隊入ったことになるんだよな・・・

警察に職務質問されて身分証明書としてこれ出したらさらに怪しまれるとかありそうで怖い。

ちゃんとごまかせるバックグランドストーリー考えておかないと。

 

「住所は東京都府中市日吉町・・・

 ってこれトレセン学園の敷地じゃないですか!」

 

「・・・文句は女神のゴドさんにお願いします。」

 

俺がこの住所にしたわけじゃないし。

 

 

 

 

俺とたづなさんが自称女神による免許証の住所のつじつま合わせにすったもんだしていた時だ。

理事長室のドアをノックする音がした。

 

コンコン・・・

 

「よい、私が出る。」

 

理事長自ら、扉を開け応対する。

やって来たのは学園の事務員らしい。

 

「本日の郵便物です。」

 

理事長に郵便物の入った書類ボックスが手渡され、事務員はすぐに立ち去った。

 

「今日は少ないな。」

 

一瞬たづなさんが理事長の方に行きかけたが、理事長が手で制した。

ぱっさぱっさと理事長が郵便物を仕分けていく。

 

「む?」

 

机の引き出しを開ける音がしたかと思うと、サクサクと封書を切り開封する音がした。

 

しばらくの沈黙のうち、理事長が声を上げて笑い出した。

 

「ははははは!

 たづな!たづなよ!これは本物だ!

 ここまでお膳立てされるとは、まさに女神の悪戯だ!

 こんなことが立て続けに起こるものか!

 見よ!これを!」

 

たづなさんに放り投げるように渡される、えらく古めかしい封筒。

みれば、表の郵便番号欄が3桁だ。

 

たづなさんがそこから取り出したのは、日に焼けて黄色くなったようなこれまた年代物の透かしの入った書状。

毛筆でミミズがのたくったような文字が数列書かれており、末尾に朱色のでかい印章。

文字は、はっきり言って達筆すぎて俺には読めない。

たづなさんは、それをじっと見た後、ほわぁ~と口から魂を吐きだすかのように脱力してソファーに埋もれた。

 

「なんて書いてあるんです?」

 

理事長がいたずらっぽくも覇気に満ちた顔でずいずいと迫ってきて告げる。

 

「返答ッ!当学園の創設時に100部ほど作られた、白紙推薦状だッ!

 この推薦を受けたものは、当学園に無条件で入学することができるッ!

 被推薦者はラベノシルフィー、貴女ッ!

 この世界に現れたばかりのはずの貴女なのだッ!

 まったく、どこから掘り出してきたのだこれはッ!

 わたしもこれが実際に使われるのを見るのは初めてだッ!

 わたしどころか、前理事長ですらこれを受け取ったことはないだろう!

 面白い!実に面白い!」

 

トレセン学園に、ウマ娘になった、俺を?

これが、あの自称女神の言っていた「素晴らしい新たな人生」ってやつか?

あのちんちくりんはいったい何を考えてやがるんだ・・・

 

理事長の高笑いの続く中、まるで読めない女神の意図に、俺も思考を放棄してソファーに埋もれるに任せることにした。



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制御不能な力、三女神の意図

ハーメルン連載で続くかエタるか分水嶺の7話です~

2022/7/29
改稿
文体を40話前後の書き方に統一しました。


手に持つ扇子で口元を隠し、そわそわと歩き回りながら理事長は言う。

 

「半世紀も前の推薦状が今頃出てくるなどあり得ぬッ!

 まして、今ここに現れたばかりのウマ娘の名が記されているなどッ!

 しかしッ!」

 

「しかし・・・?」

 

「この推薦状の扱いに関する規定はあっても、廃止されたという話はないのだッ!

 故に現在でも有効ッ!

 貴女が望むのであれば、当学園は貴女を受け入れるッ!」

 

受諾!という文字を意気揚々と扇子に掲げる理事長。

ようやく復活したらしいたづなさんがむくりと身体を起こす。

 

「あなたの住所がトレセン学園の敷地になってるのが三女神様の意思だとすれば・・・そういうことなんでしょうね。」

 

「ちょ、ちょっと待ってください!

 俺は正直運動神経ゼロですよ!

 全国有数のアスリートが集うトレセン中央なんて到底無理です!」

 

とんでもない方向に話が転がりつつある。

生まれてこの方、運動という名のつくものすべてで最底辺を這いずり回ってきた俺だ。

二人とも三女神絡みの奇跡の大安売りで思考がかき乱されているにしても、無茶ぶりが過ぎる。

今の俺がトレセン学園に紛れ込んだとしても、オリンピック強化選手の合宿に、一般人が参加させられたような状況になるのが目に見えている。

 

 

「問おう!ラベノシルフィー、貴女はそのウマ娘の身体で走ったことはあるのか?」

 

「・・・ないですね。」

 

そういえばそうだ。

俺はまだこの身体で走ったことはない。

それどころか、こっちに来ていきなり石の中に埋められたせいでいきなり満身創痍状態。

脚に力が入らなくて走るどころか歩くのがやっとの状態だ。

 

「走らぬうちから走れぬと答えるには時期尚早ッ!

 ならばその傷が癒えた時、今一度考えてみよ!」

 

「それにですね・・・」

 

たづなさんが居住まいを正して口を開く。

 

「あなたは先ほど箸を折っていましたが、あれは軽く考える問題ではありません。

 あなたほど成長したウマ娘の力は、制御できませんでしたじゃ済みません。

 うっかりで十分他人を殺めてしまう危険なものなんですよ?

 三女神様が、私に託宣を下されたのもそのためでしょう。」

 

これまでになく、真剣な顔でそう言われては、返す言葉もなかった。

 

箸で、食材を挟んで千切る、たったそれだけの行動なのに、箸を食材に食い込ませる前に箸が折れる。

ヒトであったのなら、結構意識して力を籠めないとこんな芸当はできない。

それがちょっと箸でつまんだつもりで箸が折れる。

力加減が全くできていない。

 

力加減だけではない。

 

力を入れた際に、その力を掛けた手の、指の触覚が、まともなフィードバックをしていなかった。

力を入れ過ぎたことをまともに感じ取ることすらできていないのだ。

元の身体のつもりで何も考えずに身体を動かせば無意識にとんでもない力を入れてしまいかねない状態。

ウマ娘の力を持ちながら、力加減のできない歩く凶器。

それが今の俺だった。

 

たづなさんへの託宣があの自称女神の憐憫?

違う。

俺はとんでもない勘違いをしていたのかもしれない。

単純に、俺一人じゃ生きていけない状態に、俺はいる。

俺はまだウマ娘としてこの世界で生きていくための最低限のレベルに達していない。

 

そして、きっと、女神には女神の意図がある。

ヒトである俺をウマ娘に変えてまでここに入学させようという意図が。

この世界でたやすく奇跡を起こしてまわる三女神が、何の意味もなく異世界からヒトを引っ張り込むわけがないのだ。

 

「ラベノシルフィーさん、あなたは今日から私が面倒を見ます。

 この学園に入学するかどうかは別として、しばらく私の家で同居しましょう。

 理事長、とりあえずはこれでよろしいですか?」

 

「承諾ッ!」

 

「・・・お手数おかけします、たづなさん。

 よろしくお願いします。」

 

俺はただただ、たづなさんの提案を受け入れることしかできなかった。

 

その言葉を待っていたかのように、かすかにチャイムの音が聞こえてくる。

 

「さて、昼休みは終わりだッ!」

「ラベノシルフィーさん、申し訳ありませんが、私たちもお仕事がありますので、退勤の時間まで時間を潰していてくれませんか?」

 

たづなさんが棚から首にかける来賓プレートと、校内の見取り図を出してきて渡される。

 

力を制御できないウマ娘の俺が勝手に出歩いていいものかとも思ったが、この学園内であれば、ウマ娘が使用することを前提とした設備が整っている。

壊そうと意図しない限りそうそう壊れるものはないらしい。

 

「日が暮れたころに、こちらに戻ってきていただければ結構です。

 それまで自由に学園を見学してください。

 ヒトの職員もいますので、行動は慎重に。

 やたらと手足を振り回さないよう気を付けてくださいね。」

 

・・・俺の脳裏を既視感が襲う。

『他の人もいるんだからね、はしゃいでぶつかるんじゃないよ!』

子供の頃、出かける際に今は亡き母親からかけられた言葉。

言葉は違えど、俺はたづなさんから母が我が子にかけるような心配の雰囲気を感じた。

 

たづなさんが踵を返して理事長の横の席に着く。

これまで、俺がらみのドタバタに付き合わされて仕事が滞っていたのだろう、理事長もたづなさんもバリバリと書類仕事をこなし始めた。

 

 

 

 

理事長室を出た俺は、来賓プレートを首からぶら下げて、職員駐輪場へ向かった。

重苦しく痛む太腿には全く力が入らない。

疲れ切った登山者がようやく足を前に出して歩くような足取りで、歩みを進める。

目的は、俺と一緒にウマ娘世界に落ちてきたバイクだ。

この満身創痍の身体の状態ではバイクなど運転できないだろう。

 

まして、力加減ができない状態ではバイクに乗ろうものなら、ブレーキレバーを握りつぶしてブレーキロックから大転倒をかます恐れまであった。

しばらくバイクは封印だ。

 

俺のバイクはそれなりに古い機種の為、キャブレターを積んでいる。

長く乗らないのであれば、そのキャブレターにガソリンが落ちていかないよう燃料コックを閉じておかないと、次にエンジンをかけるときに不調で苦労する羽目になる。

次に乗る時の為にも、それだけはやっておきたかった。

 

のろのろと、学園生が集団で練習するトラックの脇を抜け、チームルームのプレハブや職員寮が立ち並ぶ区画に入る。

その一角の駐車場を囲むようにして、職員用の屋根のついた駐輪場があった。

このどこかに、俺のバイクが置いてあるはずだ。

 

見渡すと、見慣れた赤いバイクと、そのバイクを眺めてはしゃがんだり、反対側に回ってみたり、ちょっと離れてじっと見つめてみたりと忙しなく動いているジャージ姿のウマ娘を見つけた。



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ウオダスと憧憬

閑話的なお話になります~

2022/7/29
改稿
文体を40話前後の書き方に統一しました。


「ちょっとごめん。」

「あ、すまねえ。」

 

俺のバイクの周りでウロチョロしているジャージ姿のウマ娘にどいてもらう。

バイクの側面にある燃料コックを、壊さないようにそうっとそうっと捻ってOFFにする。

 

「あ、おい、勝手に触ると・・・」

「いいんだよ、俺のだから。」

「え・・・?」

 

ちょっと髪の毛が跳ね気味の鹿毛ショートのこのウマ娘、言わずと知れたカッコいいもの好き、バイク好きのウオッカだ。

職員駐輪場にはスクーターはあれど、こんな目立つ赤い大型バイクは他にないので目ざとく見つけて眺めていたんだろう。

 

「マジかよ?!

 センパイ、俺と同い歳くらいに見えたからこれの持ち主だなんて思わなかったぜ!

 CPZ900Rだろこれ!

 シブいよな~!」

 

うん?センパイ?

ああ、そうか、ウオッカはまだ、免許がとれる年齢じゃない。

そりゃバイクに乗ってるなら年上って思うよな。

この世界がどのくらい時計の針が進んだ世界なのかわからない。

へたしたらウオッカとは同じ歳の可能性すらあるのだけれど、ここで自分でもよくわかっていない年齢なんかで問答を始めたら、しどろもどろになるのが目に見えている。

俺はウオッカの誤解したままにまかせることにした。

 

「先輩じゃねえよ。

 ここの学園生でもない。

 このジャージは借り物。」

 

「あ、ホントだ、来賓カード下げてら。

 道理で見憶えないと思った。

 アンタみたいな目立つ白毛だったら見かけたら忘れないもんな。」

 

俺のこの白い髪の毛、目立つのか。

しかも忘れないレベルで。

 

「ジャージ姿ってことは走・・・れねえよな、それじゃ。

 怪我かそれ。」

 

今、俺の首元から顎にかけては、でかい傷パッチが貼られている。

傷を直接見たわけじゃないけれど、たぶん大きな傷があるんだろう。

 

「ああ、ちょっと朝にここでやっちまってな。

 しばらくバイクに乗れそうにないんで燃料コック閉めに来たんだ。」

 

「か~!だいじょぶなのかよ?!

 まートレセンに走りに来たわけじゃねぇのはわかった。

 でなきゃそんなごついシューズ履いてこないもんな。」

 

俺の今履いている靴は、あっちの世界でバイクの乗る時にいつも履いていたライディングシューズだ。

あちこちにバイクで転んだ時に足を守るための保護用のパッドがついていて、それが出っ張ってシューズをごつく見せている。

更に暗いところでも目立つように赤白の配色と反射材が入っている。

今ウオッカが履いているようなトレーニング用のシューズとはまるで趣が異なっていた。

 

「アンタはトレセンに何しに?

 見学ってことは転入か?」

 

「転入・・・あ~今はわからねえな。

 検討中だ。」

 

「検討中か~。

 転入してくるんなら後ろに乗っけてもらおうと思ったのによ~。」

 

トレセン学園に入る、とは断言できないんだよな。

あの自称女神と理事長のおかげで、トレセン学園に入ろうと思えば入ることはできる。

でも、自分がトレセン学園で通用するウマ娘なのかどうかなんてわからない。

そんなことより、力加減を覚えないと。

トレセン学園に入る検討なんて、その先の話だ。

 

そんな俺の葛藤とは別に、ウオッカの頭の中は今バイクで一杯らしい。

目をキラッキラさせながらバイクの話を熱く語っていた。

 

「俺も金貯めて免許取ったら自分のバイク買うぜ!

 あ~はやくツーリングしてえ!

 海岸沿いの道とか気持ちよさそうだよな~。」

 

「ああ、そりゃ気持ちいいぜ。最高だ。」

 

いいよな~を繰り返しながら視線をバイクから外さないウオッカ。

相当バイクに憧れているんだろう。

俺も免許取る前はカタログ眺めてこんな目をしてたはずだ。

 

「ちょっとまたがってみるか?」

 

「いいのか?!」

 

これだけ憧れを垂れ流しにされたら、愛車のシートをまたがらせてやるのも吝かではない。

犬みたいに尻尾をぶんぶん振ってるウオッカにハンドルを握らせる。

 

ウオッカは危うげなく、ハンドルを握ると片足を上げてまたがり、シートに腰を落ち着けた。

手慣れた感じの乗り方だ。

 

「妙に扱い慣れてんな。」

 

「へへっ、父ちゃんもバイク乗りだからな。

 父ちゃんのバイクによくまたがってたんだ。」

 

サイドスタンドはそのまま、車体を垂直に立てさせる。

さすがウマ娘の筋力だ、車体が軽々と起きて危うげなく静止する。

 

「うお~、ちょっと足の長さが足りね~!

 つま先しかつかね~!」

 

ウオッカのぶらぶらさせるシューズのつま先の蹄鉄がかつかつとアスファルトを突つく。

それでもふらつくこともなく安定して車体を保持している。

ブォン、ブォンとエンジン音を口真似しながら一通り堪能したのか、ウオッカは元のようにサイドスタンドをかけた状態にしてバイクを降りた。

 

「これ結構なビンテージだろ?

 なのにスゲーきれいに乗ってるよな。」

 

俺のバイクはバイク屋のオヤジから最終型とは聞いてるが、それでも製造は2000年前後のはずだ、20年くらいは経ってる。

未だに人気があるのでパーツがあるから整備できているが、同年代のバイクで不人気車種はパーツがなくて修理すら効かないものも多い。

 

「まあ惚れ込んだバイクだからな。」

 

「うちの父ちゃんのバイクはなんつーかこう・・・

 遠目にはきれいなんだけどよー、よく見るとあちこち油漏れてんだよな~」

 

「まあ古いバイクなんてのはそんなもんだ。」

 

ウオッカは話してて楽だ。

ウオッカの口調が男のそれに近いために、こっちも男口調を隠さずにタメで話せるって言うのもあるけれど、ウオッカ自身の純粋さが言葉の端々に出ていて全く身構える必要が無いんだよな。

 

そんなことを思いながら駐車場の車止めに二人して座り込んでバイク談議に花を咲かせる。

 

「・・・こう、一台に長く乗ってると家族みたいに思えてきてな~。

 駄々こねるエンジンをなだめすかして乗ってみたり、食費削っていいエンジンオイルに変えてみたり、調子の良しあしで一喜一憂して。

 もう手のかかる愛娘みたいなもんだよ。

 知らない奴が勝手にまたがってたりしたらぶん殴るね!」

 

「うひょ~!そのシートに座らせてもらったのか!

 しかし愛娘みたいなもんねぇ?

 俺もそんな一台に巡り会えっかなー?」

 

「会える会える。

 とはいえ、同じ家族でも本当の愛娘には敵わねえよ。

 ウオッカの父ちゃんもバイクよりウオッカを大事にしてたろ?」

 

「ああ。

 俺がトレセン学園入るの決まったら、酒もタバコもやめてよ~。

 そこまでしなくてもって思うんだけどな。

 ・・・ほんと父ちゃんには頭が上がらねーよ。」

 

「いい父ちゃんだな。」

 

「ああ、自慢の父ちゃんだぜ!」

 

そんな風にだらだらと喋っていたら、蹄鉄をアスファルトに響かせて栗毛ツインテールのやたらとむっちりしたボディのウマ娘がウオッカを探しに来た。

ウオッカのルームメイトのダイワスカーレットか。

 

「あ、いた!

 ちょっとウオッカ!

 あんたドリンク持ってくるのにいつまでかかってんの!

 何でこんなとこで油売ってんのよ!」

 

彼女は一気に文句を吐き出すと、ウオッカの脇にいた俺の来賓プレートを見てぺこりと頭を下げた。

 

「やべ!忘れてた!

 わりぃ!トレーニングに戻るわ!」

 

「そうか、がんばれよ!

 俺はラベノシルフィー。

 今度会ったらバイク、エンジンかけてまたがらせてやるよ!」

 

「ウオッカだ!

 バイクの話、絶対だぞ!約束だかんな!」

 

立ち上がってダスカと肩を並べて歩き始めるウオッカ。

すぐに互いを指差し合いながら言い争いを始める。

 

少し離れたところで、振り向きざまニカッと笑って俺に手を振るウオッカとその腰を尻尾でパシンと叩くダイワスカーレットを見て、その光景が眩しく、うらやましく感じた。

あの輪の中に加われるのなら、トレセン学園で頑張るのもいいのかもしれないな・・・



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去りゆく者

ちょい重い話です~

2022/7/29
改稿
文体を40話前後の書き方に統一しました。


駐輪場に置かれたバイクを眠らせる最低限の作業を済ませた俺は、特に目的もなく来た道を戻っていた。

陽はまだ高い。

 

なんとなく、時折聞こえてくる学園生のものらしきの声の方に向かうと、広大な練習トラックが見えてくる。

その大きさたるや、陸上用の400mトラックがすごく小さく思えるほどで、トラック内には並行して土のコースや障害走用らしい設備も見える。

そのトラックのコースを、体操服姿の学園生たちが流すように団子状態でランニングしていた。

 

その練習の様子を見渡せるように、通用門への道を形成する土手の斜面に座り込んで学園生たちの練習を眺める。

 

彼女たちの走りは、流すように、とはいっても結構早い。

 

ゆっくりした脚の動きで踏み出される一歩の幅が、ヒトのそれと違ってかなり大きい。

ヒトのランニングを見ているつもりでいると、スピード感がおかしくなりそうだ。

 

結構走り方が違うもんだな、と眺めていたのだけれど・・・

 

そのままじっと見ていることが俺にはできなかった。

 

斜面に座った尻の収まりが悪すぎるのだ。

尻尾が邪魔で仕方がない。

 

さっきウオッカと喋っていた時は車止めの上に座っていたから気にならなかった。

しかし、いざ地面に直接座ると、尻尾のおさまりのいいポジションがなかなか見つからない。

尻の下に敷くと、この尻尾、中身が入っている部分が意外と太いらしく、尻の下でその太い存在を主張して座り心地が悪い。

尻の下から出すと、地面に当たって変な方向に曲がる力がかかるので向きによっては痛い。

 

尻尾の毛をまとめながら、あっちに向けたりこっちに向けたり、身体をねじって怪我の痛みに悶絶したりしていたら、長い髪の毛が背中に回している左手の手首に絡みついて腕を背中から戻せなくなってしまった。

無理に引っ張ると髪がまとめて抜けそうだし、かといって後ろ手になって髪が絡みついているところが見えないので外すに外せない。

悪戦苦闘していたら逆にほどこうとしていた右手まで髪の毛に拘束された。

 

時折、ランニングしているウマ娘が通りがかりざま何やってるんだこいつみたいな奇異の目を向けてくるが、それだけだ。

誰も助けてはくれず、視線だけくれてあっという間に駆け去っていく。

 

いよいよ身動きが取れなくなっていたところを、肩を掴まれて動きを止められた。

 

「動くな。」

 

落ち着いた、静かで太い大人の男性の声だ。

 

「暴れると髪の毛が抜ける。

 ちょっと身体を転がすぞ。」

 

地面をごろりと転がされて斜面にうつぶせにされ、腕に絡んだ長い髪を解かれていく。

両腕が解放されると、彼は手櫛で俺の髪を梳かし、手慣れた感じでくるっとまとめてうなじのあたりで結んでくれた。

 

「もういいぞ。」

 

「助かりました、ありがとうございま・・・す?」

 

振りむいて、固まる。

岩男のようながっしりした柔道体形の三十路男が、スーツケースと鞘に収まった日本刀を傍らに、しゃがみこんでこっちを見ていたのだ。

異様な風体としか言いようがない。

ドカンズボンにも似た太いスラックスと着崩したジャケットは、あまりに広い肩幅に全く似合っていなかった。

 

「ん?怪我か?

 地方からの見学生か?」

 

ウマ娘が学園のジャージに来賓プレート下げてるとそんな感じに見られるのか。

ええ、まぁそんなもんですと返すと、俺が、日本刀をちらちらとみているのに気づいたのだろう。

彼は刀に視線をやって答えた。

 

「ん、ああ、これか。

 担当の勝負服の備品だったものだ。」

 

俺の目の前で鯉口を切る。

抜かれた刀身が、陽の光を反射してきらめいた。

 

「竹光だ。」

 

笑って見せるが、どこか力ない。

無理やり作ったであろう笑顔が、目尻から消えていく。

愛想笑いが苦手なのだろうか。

俺が笑いも消えるような怖い顔をしているってことはないと思うけれど。

 

この刀、担当の勝負服の備品と言ったか。

きっと、この人はトレーナーなんだろう。

髪の扱いがうまいのも納得できる。

日常的に、長髪のウマ娘の世話をしているに違いない。

担当のウマ娘の荷物を携えて、これから大きなレースに向かうのかもしれない。

 

そのトレーナーは、刀を納めると、スーツケースの引き手を伸ばして踵を返した。

 

「髪に絡み取られて動けなくなっているウマ娘なんて初めて見たよ。

 絡まって身動きが取れなくなるくらいなら、髪は結いなさい。

 一人で結えないなら、他人に結って貰いなさい。

 

 ・・・怪我は時が経てば治る。

 焦らずに、しっかり治しなさい。

 頑張れよ。」

 

優しい、声だった。

 

特に会話を交わすこともなく、そう言い残して、ゴロゴロとスーツケースを引きずり、そのトレーナーは駐車場の方に去っていく。

去っていく彼は、あんなに広い背中で、大きな身体をしているのに、肩は落ち、どこかしょぼくれて見えた。

まもなく、車のエンジン音がして、1台の車が学園を出ていった。

 

 

髪の毛に絡まって動けなくなるという醜態からは脱したものの、尻の座りが悪い問題は相変わらず解決しない。

試行錯誤の結果、身体を斜めに傾けての女の子座りが良い塩梅だと気付いて、尻尾をうまく逃がして練習を眺める。

 

俺の頭の上のウマ耳が、後者の方からアスファルトの上を駆けてくる足音を聞きつけて勝手に音を拾いに動く。

そちらを見れば、一人の男性が通行人に声をかけては辺りを見回し、きょろきょろと挙動不審な動きをしながら、やがて彼はこちらへとやってきた。

 

「おーい、そこのキミ!」

 

どこかで聞いたことのある声だ。

黒いベストに刈り上げ頭、口に加えた棒キャンディ。

癖のあるウマ娘ばかり集めたスピカというチームを率いるトレーナー、沖野さんだ。

 

「キミ、ってあれ?

 今朝保健室に担ぎ込まれた娘か?

 学園生だったのか?」

 

ああ、そういえば、俺の脱臼を治療してくれたのは沖野トレーナーだという話だったっけ。

気絶していたからさっぱり覚えがないけれど。

 

「いえ、服が全部だめになったのでジャージは借りました。

 沖野トレーナーですよね、初めまして。

 今朝方は、怪我の処置をしていただいたそうで、ありがとうございました。」

 

「あれ?顔合わせしたっけか?」

 

沖野トレーナーは俺を知らない、けど俺は彼を知っている。

ゲームではなく、アニメの中の登場人物として。

 

俺はちょっといたずら心を起こして、ジト目を作りながら答える。

 

「いえ、ヒシアマゾンさんに聞きました。

 合法的にウマ娘のトモを触れる機会だと嬉々として治療に当たられていたと。」

 

「なっ・・・あの野郎・・・

 違う、違うぞ!

 俺はただ単にキミの手当を急ぐ一心で・・・」

 

ははは!

余りにも予想通りの反応をしてくれて思わず笑いが漏れた。

やめられない止まらない、思わず手が出るトモ触り。

悪癖ではあってもその行為に悪意はないんだ、彼には。

 

あっちの世界での俺の年齢と近そうなこともあって、自然と馴れ馴れしい口調が出る。

 

「ははは、冗談だ。

 俺はラベノシルフィー。

 脚に頬ずりされたぐらいでグダグダ言わねーよ。」

 

「してねーっての!

 てかそのなりで俺っ娘かよ・・・」

 

なぜかげんなりした顔をされる。

容姿に関しては三女神の趣味だろうから勘弁願いたい。

今は髪の毛上げてるけど下ろしたら普通に和服とか似合いそうなツラしてたもんな。

それで俺とか言われたら、面食らうか。

 

「まぁ中身はアンタと似たようなもんだ。

 ・・・ところでどうよ、俺のトモは?」

 

「ん?ああ、細くて締まっている。

 瞬発力のある身体じゃないが、中長距離向けで鍛えていけば結構・・・」

 

ウマ娘のことしか考えてなさそうな沖野トレーナーは、俺のどさくさのカマかけにも律義に答えてくれる。

ほう?俺の脚の筋肉のつき方は中長距離向きか。

この人確かトモに触れての解析能力に関しては変態じみてるって話だ。

もし、俺がトレセン学園で走ることになるのなら、中長距離を目指せばいいってことだな。

 

「じゃなくて!

 

 牧野トレーナー、って言っても知らないか。

 こっちに、こう、横にでかくて弁当顔の人来なかったか?」

 

横にでかくて弁当顔、って言うとさっき髪の毛に絡めとられていた俺を助けてくれたあの巨漢のトレーナーだろう。

 

「柔道やってそうな人か?」

 

「そうその人。」

 

「刀とスーツケース持って、車で出てったけど。」

 

「あちゃ~、もう行っちゃったか。」

 

沖野トレーナーは彼を探していたらしい。

 

「急ぎの用でも?」

 

「いや、あの人今日で最後の勤務だったんだが、別れの挨拶するタイミングが合わなくてな。

 そうか。

 刀持ってか。」

 

「あの刀、担当の勝負服の備品だって言ってたけど。」

 

「ん、ああ、あれな、牧野トレーナーの担当ウマ娘の遺品なんだわ。」

 

担当の勝負服の備品『だった』と彼は言っていた。

笑顔がどこか尻すぼみだったのもそのせいか。

 

「遺品、て・・・

 担当のウマ娘がレース中の事故か何かで?」

 

「レース中の事故でウマ娘が亡くなるなんて滅多にないさ。

 病気と・・・不運が重なったんだな。

 彼女は努力家だった。

 でも、頑張り過ぎたんだ。」

 

沖野さんが言うには、そのウマ娘は侍装束の勝負服で、ロングポニーテールの似合う強いマイラーだったらしい。

GI 2勝目を目指し、トレーニングに励んでいた矢先に亡くなったと。

 

「急性腎不全、てやつだ。

 彼女は体調が悪いのを圧して、トレーニングを続けていたんだろう。

 同室の相方が、起きてこない彼女の異変に気付いたときは手遅れでな。

 そのまま、意識も戻ることなくあっさり逝っちまったらしい。

 本当なら俺らトレーナーが気づいてやらなくちゃならなかった。

 彼は・・・気づいてやれなかった自責の念に堪えられなかったんだろうな。」

 

連続して負荷のかかるハードなトレーニング。

レースは、十分に休養をとってからの全力での一発勝負だが、トレーニングは違う。

骨を筋肉を、自分の意志でいじめ抜き壊し続ける果て無き苦行。

その苦行の最中、身体に起こったわずかな異変。

よくあることだと、その不調を根性で押し潰して頑張り続けた結果・・・

彼女の身体は本当の限界点を超えてしまっていた。

 

ルームメイトが朝起きて見つけたのは、ベッドの中で意識不明のまま目覚めない彼女。

急性腎不全からの多臓器不全で、意識が戻ることなく彼女はあっさりとこの世を去った。

つい2週間ほど前のことだそうだ。

 

「彼女は、GIレースが控えていたからな。

 身体の危険信号を無視し続けてしまったんだ。」

 

「怪我は治る、がんばれよって声かけられたよ。」

 

「ああ、今の医療技術があればレース中の怪我はそうそう命に関わるまでいかない。

 けどな、病気はそうじゃない。

 おまえらウマ娘はヒトより病気には弱いんだ。

 なのにおまえらときたら・・・

 走った後にぶっ倒れたと思ったら、血の一滴まで使い切って死ぬ寸前まで平気で身体を追い込みやがる。

 レースの結果も、栄光も、命あっての物種だってわかってんのか?」

 

沖野トレーナーにぐしぐしと頭のてっぺんの髪を鷲掴みにされて引っ掻き回される。

その横顔は、どうせこいつも言うこと聞かねえんだろうなぁ・・・という苦々しさに満ちていた。

 

正直な話、俺にはウマ娘がなんで命を削るようにしてまでレースにのめり込むのかわからない。

ウマソウルとやらを俺が持っていないからかもしれない。

この新しいウマ娘の身体で、もしかしたらヒトであった時と違って人並み、いや、ウマ並に走れるかもしれないっていう淡い期待はあるけれど、たぶんそこで得られるのは、『まともに走れるようになった』という自己満足まで。

アスリートとして身を立ててこの脚だけで生きていこう、なんて覚悟は最初からない。

あの自称女神の敷いたレールに乗っかって、せいぜい破滅しないように足掻くだけだ。

 

あの自称女神が本当にこのウマ娘世界を司る三女神の一柱だったとして、女神は俺に何をさせようとしているんだろうな・・・



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パソコンルームでオグタマと遭遇

閑話風味です~

2022/7/29
改稿
文体を40話前後の書き方に統一しました。


沖野トレーナーと別れて、ボケーっと学園生の練習を眺める事1時間程たった時だ。

ちょっと座る体制を変えた瞬間、突然悪寒が下半身を突き抜けた。

 

「尿意ッ!速やかにトイレに向かえ!」

 

突然訪れた避け得ぬ下半身の欲求に、頭の中で理事長が扇子を掲げて踊り狂う。

ガチャの激熱演出、大当たり確定だ!

いやまて、出てしまっては大惨事、出ないでくれ!

 

急激に高まりを見せるそれに耐え、下半身を刺激しないようにトイレを探して動かぬ脚でよたよたと駆け回り、ようやく駆け込んだトイレでどうやっても濡れたトイレの床についてしまいそうになる尻尾の毛の処置で頭を抱え、理事長室に飛び込んでたづなさんに泣きついた件に関しては割愛する。

 

さすがに見ず知らずの学園生に、ウマ娘としてのおトイレの仕方を教えてくださいなんて言えねーよ!

 

トイレの友は尻尾バンド、トイレの友は尻尾バンド。

重要なことだから二度言いました。

大事な尻尾を汚さないために、ウマ娘に受け継がれた英知があるのです。

わかりましたか?

 

ひしゃげて回らなくなった職員用トイレのドアノブ?

何のことかわかりませんね。

 

 

 

 

ハァハァ・・・取り乱しまして失礼しました。

この身体の尊厳の一大事だったもので。

 

下半身の危機を乗り越えた俺は、まだたづなさんとの約束の時間には間があるので、図書室に隣接するパソコンルームで暇をつぶすことにする。

パソコンルームの入り口の受付には誰もいない。

入り口のドアは開けっ放しなので、ご自由にお使いください、ってことなんだろうか。

 

パソコンルームの中には、40台くらいの年季の入ったパソコンが仕切り板で1台ごとに区切られて並んでいる。

ルーム内でパソコンを使っている者は誰もいない。

スマホ、じゃなくウマホか、あれが全盛だからパソコンでわざわざインターネットする学園生もいないってことなんだろう。

 

壁にはでかでかと注意書きが貼られている。

 

・R18コンテンツは制限されています。

・有料コンテンツへの支払いは禁止されています。

・閲覧したデータはすべてログに残ります。

・フリーメール、一斉同報メールサイトへのアクセスは制限されています。

・動画や音声はイヤフォンを使用すること。

・端末へのデータの持ち込み、また持ち出しは管理者に依頼してください。

・印刷は譲り合って順番に。

 

・・・女子校とはいえ、思春期のウマ娘、やることはいっしょか・・・

アレなページを見て、詐欺サイトに引っ掛かって、ちょっとした恨みからメールボムしまくって、クリックしたら恥ずかしい動画が大音量で流れて、手持ちのPCやウマホで足がついたらまずいデータをやり取りしたがった、と。

 

 

 

 

苦笑いしながら端っこの1台に陣取り、電源を入れるとパソコンが立ち上がる。

 

『Umantu』

 

・・・Linuxかよ!

 

使い慣れないグラフィックインタフェースをマウスでつついてブラウザを立ち上げる。

いつものつもりでマウスのボタンをクリックしたら、ミシッと不穏な音がしたので冷や汗が出た。

力加減を意識しろ!と自分に言い聞かせる。

 

表示されたブラウザのトップページはHayoo。

HayooはHayooのままなのか。

なんかホッとする。

 

俺は昔からキーボードはバシバシと叩く性質なので、うっかりするとキーボードを壊しかねない。

今回は検索とかはしないでクリックで見られるニュースサイトだけ見ていく。

どうせ暇つぶしだし。

 

ニュース一覧をざっと眺めてみたが、芸能人にウマ娘が多いなーってのと、あっちの世界で起こっていた地域紛争などの戦争の話題がない。

平和そのものだ。

 

それ以外は似たり寄ったり。

バイクや車なんかも見てみたが、環境保護の為の機器はほぼ同レベルだが10年くらい遅れていると思われる部分もある。

その他の分野では情報そのものが見当たらないものがある代わりに、明らかにあっちの世界より進んでいる分野もある。

ウマ娘世界では兵器等物騒なものが進歩していない代わりに、コンピューター関連が異常に発達している。

フルダイブ式のVRゲーム筐体なんかがe-sports喫茶なんかに置いてあるらしい。

 

あっちの世界と全く同じ進歩をしてるっていうわけではなさそうだ。

 

目に付く悪いニュースは、ウマ娘孤児や、ストリートチルドレン化したウマ娘が多いとか、歳をとったウマ娘の孤独死が結構多いということか。

社会福祉とかどうなっているんだろう。

ウマ娘になって、女性の身体になったとはいえ、男と結婚して家庭を持つ、ってのはちょっと想像ができない。

もともとゲイでも何でもないから、男に抱かれて掘られる、ってのは勘弁願いたい。

そういう意味じゃ、独身を貫くなら、一人暮らしの老ウマ娘の生活事情はちょっと気になるな。

 

 

カチカチとマウスであちこち突ついてニュースサイトを巡っていると、パソコンルームになんかやかましいのが入ってきた。

 

「あ~!パソコンルーム、管理のおっちゃんがおらへんやんか!」

「タマ、管理のおっちゃんがいないと何かまずいのか?」

 

オグタマコンビだ。

何千人もいる学園内でこう有名なウマ娘と遭遇するとは珍しい。

ちらっと振り返ってみたけど、なんか二人とも白い毛並みで、同じ白い毛を持つ身としてはちょっと親近感湧くな。

しかし、タマモクロスちっさ!

これでGI何度も獲ってるのか。

目の前にしてみると信じられないね。

この二人が何を話してるのか興味がわいたので、ウマ耳の能力頼りっきりで盗み聞きする。

 

「オグリの言うてるページは見られるんやけどな、ここのプリンター癖があって印刷の仕方がようわからんねん。

この前印刷したらいつになっても生えてこんから何度か試したんやけどな、あとで何十枚も同じもんが出てきた言うておっちゃんに怒られたわ。」

 

印刷あるあるだなー。

ジョブがたまって、忘れたころに全部出てくるの。

100部とか大量に指定したやつで、事務の若い子がやらかして涙目になってたっけ。

 

「タマがわからないなら私はもっとわからないぞ?

 スカイツリー限定麩菓子は、ファックスでしか注文できないんだ。

 締め切りは明日だし・・・

 注文用紙を印刷できないと、とても困る。

 故郷のみんなに送ってやりたいんだ。」

 

オグリキャップは故郷のお世話になった人に何かお菓子を送りたいらしい。

あっちの世界でも頑なにインターネット受付をせずにファックスだけ注文受付って言う老舗のお店はあった。

彼女が注文したいお店もたぶんそういう類のお店なんだろう。

 

「あ、あかん、他に人がおった。

 オグリ、ちょっとトーン落してな。」

 

俺に気づいたのか急にひそひそ声になるタマモクロスに、ひらひらと手を振って気にしてないよ~とアピールすると、なぜか彼女が寄って来た。

 

「なー、アンタ、パソコン詳しいか?

 管理のおっちゃんが席外しててな?

 困ってるんや。 

 わかるんやったらちょっと教えてほしいんやけど・・・

 

 あれ?お客さんやったか?

 邪魔してもうたか?」

 

「いいよ。

 俺もあんまり詳しくないけど、わかる範囲でだったら。」

 

「おおきに。

 じゃ、このページのな、この注文用紙を印刷したいんや。

 一部頼めるか~?」

 

注文用紙の表示されたオグリキャップのウマホを見せられたが、このページをパソコンに表示させなければ始まらない。

でも、このちょっと古そうなパソコンには、赤外線通信もQRコードを読み取る装置もついていない。

と、なると、この長いURL打つの?俺が?

 

安請け合いを後悔しつつ、『キーボードを壊さないように小指で』一文字一文字ポチポチと打ち込んでいく。

それを見ていたタマモクロスが、すぐにイライラをため込み始めた。

そしてそれはすぐに爆発する。

 

「・・・だ~!まどろっこしいわ!貸してみ!」

 

キーボードを奪ったタマモクロスがズダダダダとすごい勢いでURLを打ち込んでいく。

あれ?実はキーボード結構頑丈?

 

「ほい、出たで。

 この真ん中の注文用紙を頼むわ。」

「はいよ。

 サイズA4でいい?」

「ええよ。」

 

用紙指定をして印刷ボタンを押す。

部屋の壁際にあるプリンターはうんともすんとも言わない。

 

「出てこんな。」

「出てこないね。」

 

プリンタに近寄ってみると、何かが印刷されないまま、プリンタが保留状態になっていた。

用紙はある。

トナーもある。

前の人の用紙サイズ指定間違いかなと、保留になっている印刷ジョブをプリンタのパネルを壊さないようにそーっと操作してキャンセルすると、ようやくお目当ての注文用紙が生えてきた。

 

「は~。

 小指でポチポチやりだしたときは人選まちごうたかおもたけど、プリンタ動かんのはわからんかったわ。

 助かったで。

 しっかし、アンタ痛々しいカッコしとるけど、なんや、あれか?

 ケガの療養期間つこうて転入の下見かなんかに来とるんか?

 このオグリも笠松からの転入組やで!」

 

「オグリキャップだ。

 印刷の手助け、感謝する。

 地方からの仲間が増えるならうれしい。」

 

どうも、この学園ジャージ+来賓プレートって言う格好でうろうろしていると、転入予備軍とみなされるみたいだ。

普通のウマ娘にすらなれていないって言うのに、入る前からこんな学園のトップクラスにマークされるとか勘弁してほしい。

これもあの駄女神の仕込みかね?

 

「あ~、わけありってやつでね。

 ちょっと今は答えられないかな。

 ごめんね。」

 

「なんや、はっきりせんな。

 ま、ええわ。

 縁があればまた会うこともあるやろ。

 おおきにな。」

 

「助かった。

 また会おう。」

 

煮え切らない返事に微妙にタマモクロスはちょっと眉をひそめたけれど、本来接点もないはずの間柄だしね。

名乗ってくれたオグリキャップには悪いけど、こっちは名乗らずにスルーさせてもらった。

縁があれば、また話すこともあるだろう。

 

二人が去りパソコンルームに静寂が戻る。

先ほどのタマモクロスの鬼のようなタイピングを思い出す。

タマモクロスがあれだけ激しくキーボードを打って壊れもしないなら、このキーボード、俺でも普通に使えるのかもしれないな。

さすがトレセン学園のウマ娘仕様。

 

ひとしきり感心して、小指などではなく、10本の指全てを使って、気兼ねなくキーボードを叩いてみる。

 

タカタカタカタカ・・・スパーン!

 

もしかしたらメンバー全員がウマ娘だったりするかも?と、この世界でのかのグループに期待を抱きながら、検索キーワードにアイドルグループ『JKB48』を打ち込む。

トドメのENTERキーを叩いた瞬間、ENTERキーが外れて天井高く舞い飛び、俺の背後に落ちた。

耐えられなかった、だと?!

 

そして、画面には不適切なコンテンツにアクセスした為アクセスが制限されましたという表示がずらずらと並ぶ。

まれに規制されなかった画像が出てくるけれど、どれもこれもモザイクがかかった肌色な画像だ。

 

・・・もしかしてウマ娘世界ではJKB48ってアイドルの名前じゃない?

どこか悪質なサイトが含まれていたらしく、画面にどんどん新しいウィンドウが開いて動作が怪しくなっていく。

俺はそっとENTERキーを元あったキーボードの位置に乗せると、パソコンの電源を落としてパソコンルームを後にした。







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校内をうろつくあんし~ん?

2022/8/2
改稿



パソコンルームを逃げ出すように出た俺は、広い校内を散策して回っていた。

 

校舎のエントランスとか、無駄に広い吹き抜けがあったり、その周辺からウィング状に各施設が広がっていたり、校舎の作りは日本の公立の中学高校と全く違う。

どちらかというと、欧米や日本の比較的新しい私立大学、身近なところだと巨大ショッピングモールなんかの作りに近い。

1Fが主に食堂や図書室、トレーニングルーム等の公共施設、2Fより上が特別教室などをはさんで、両脇のウィング状に延びる部分に中等部高等部の教室が連なっている。

学生にはエレベーターなど不要、と言わんばかりにエレベーターもエスカレーターもないのが困ったところだ。

2Fに上がる時は良かったのだが、階段を降りるときは上る時以上に脚に負荷がかかるらしい。

降り初めの一歩目でかくりと思った以上に脚の力が入らずにバランスを崩し、無意識に踏ん張ったつま先の力で逆噴射して勢いよく尻餅をつきそうになり、手すりに掴まって事なきを得るという一人オモシロ踊りを踊る羽目になった。

・・・丈夫な手すりでありがとう。

 

喉が渇いたのでお茶でもいただこうかと、食堂を目指して歩いていた時だ。

 

「あら~あなた、裾から包帯ひきずってるわよ~ん。」

 

妙な口調で、後ろから声をかけられた。

 

・・・なるほど、足元を見ると右足のジャージの裾から解けた包帯が伸びて床をなめている。

動き回っていたので、一番動きの激しい脚の包帯止めが外れてしまったのだろう。

このままずるずる引きずると、自分で包帯を踏んで転びかねない。

転びかけた瞬間に思わず力んだりしたら、場合によっては転ぶよりひどいことになるかもしれない。

 

とりあえず包帯を結んで邪魔にならないようにするかとしゃがもうとすると、

 

「その動き・・・私の出番のようね!

 私に任せればあんし~ん!」

 

と、いきなり目隠しをされてあっという間に手足を拘束され、肩に担ぎあげられてどこぞへと運ばれてしまった。

 

そっと、柔らかいところに下ろされ、目を覆っていたマジックテープをバリバリと剥がされてようやく視界が回復する。

俺がいるのは一番最初にウマ娘世界で目にした場所、保健室のベッドの上。

拘束されたままの俺の目の前で仁王立ちしていたのは、白衣を着たテカッテカの真っ赤なボディコン服に金髪の怪しい仮面女、全く安心できない笹針師の安心沢刺々美だ。

 

・・・どこの夜のお店から抜け出してきたんだと言いたくなるその姿は、まさに変態だ。

アプリで出てきたときは、なんか昔の映像でこんなの着てディスコで踊り狂っていた時代があったらしいとか、リメイクの古いアニメでこんな格好のヒロインいたなぁ位にしか思っていなかったが、目の前にすると不審者を通り越してどこをどう解釈しても、変態にしか見えない。

こんなのが学園内を闊歩しているとか、トレセン学園のセキュリティはいったいどうなっているんだ・・・

 

笹針師だから一応医療関係者なのだとは思うけれど、腿に装着したレッグバンドにオモチャのようなハートの柄を付けた笹針を何本も挿していて、衛生的にそれはどうなの!と百回問いただしたい。

 

「放してくだ・・・」

「ちっちっちっち!

 あなた、このままじゃ大怪我するわよ~ん。」

 

俺の文句を遮って、人差し指立てて制された。

 

「あなた、動きがおかしいの。

 歩いてる姿でも、普通1の力で済むところを10の力を使ってる。

 動き始めだけ、居合の達人みたいにとんでもない瞬発力を発揮してるわ。」

 

あれ?この人ってイチかバチかのポンコツ鍼師もどきじゃなかったっけ?

なんだかまともなこと言ってるように聞こえる。

 

「心と身体が乖離した症状が極端になるとあなたみたいになるの!

 だ~いじょうぶ!

 私にまかせて!

 バッチリ治してあげるわ!

 この私の針でね!」

 

目にもとまらぬ速さで太ももから笹針を取り出し、両手に構える。

ギラリ!と銀光が閃く。

 

やられる!と思いきや、変態笹針師は笹針を置いた。

ただのパフォーマンスかよ!

ごそごそと彼女はどこからかアタッシュケースを取り出して開け、縛られて動けない俺の指に何かを押し付けた。

 

「じゃじゃーん!

 はい、同意書いただきました~!

 じゃぁ治療に入るわね~ん。」

 

目の前に俺の拇印の押された治療同意書を見せつけられる。

ヤベェ!退路を断たれた!

しかも、この変態笹針師、ちゃんと免許持ってるらしい。

施術者のとこに免許番号書いてあるし!

 

「は~い、おとなしくしましょうね~。」

 

アタッシュケースから取り出された笹針じゃない、普通の針治療に使われる針が、あっという間に俺の首筋に打ち込まれる。

途端に、息はできてもまともに声を出すことも動くこともできなくなった。

 

 

「う~!う~!」

「肩を失礼しまちゅね~♪」

 

ジィィィ・・・とチャックが下ろされてジャージを剥かれる。

 

「あら、あちこち傷だらけじゃな~い。

 賦活の針もいるかしらん。」

 

今俺の身体は包帯と傷パッチだらけだ。

変態笹針師は、10cmはありそうな髪の毛のような細い針を、ポンポンと肩を指先で叩いたかと思うと迷うことなく根元まで打ち込んでいく。

怪しいマスクの下の目は細く絞られ、緩い頭の悪そうな口調で喋っていた人物とは思えないほど真剣だ。

針はあんなに長いのに痛みどころか打ち込まれている感覚さえない。

クリクリクリクリ・・・

うわぁ・・・なんか針をクリクリ回してる・・・あんな長い針どこに入ってるんだいったい・・・

 

「ちょ~っとごめんなさいね~。

・・・あら、あなたブラしてないじゃな~い。」

 

シャツをたくし上げられた。

胸丸出しである。

てか、自分の胸生で見るのは初めてだったわ。

・・・あんまでかくねえな。

 

ポンポンポンポン・・・

変態笹針師の指が胸の中央を叩く。

え、ちょっと、そこは心臓の真上・・・

 

プスリ。

 

ぎゃぁぁぁ!

どう考えても心臓を貫いてるとしか思えない位置と深さに、針が潜り込んでいく。

クリクリクリ・・・

 

心臓の鼓動に合わせて、打たれた針がビックンビックン揺れてるんですけど!

大丈夫なの?本当にコレ大丈夫なの?!

 

そして、針は、お腹にも、ジャージもパンツも下ろされて腿の付け根にも、膝や手脚の指先まで。

全身に細い針を打たれ、プルンプルンと心臓の拍動に合わせて針の頭が揺れ動くハリネズミ状態。

こんなにも針だらけになってるのに全く痛みがないのが不思議だ。

 

「はい、お灸しましょうね~♪」

 

お灸?!

 

変態笹針師が、打った何カ所かの針の頭に、ピンポン玉くらいのもぐさを盛っていく。

 

「あ、火災報知器止めなきゃ。

 えい!」

 

バスッ!

 

投げられた笹針が、天井の火災検知機を貫いて破壊する。

なんで世の中の無免許天才外科医とか変態笹針師はこんなにナイフ投げがうまいんだ・・・

 

「も~えろよもえろ~よ~ほのおよも~え~ろ~♪」

 

変態笹針師が取り出したチャッカ〇ンで、鼻歌交じりにもぐさに火をつけていく。

赤く赤熱した火の玉になっていくもぐさたち。

うぁぁぁ・・・・

 

ポトリ。

 

熱っつ!落ちた!燃えてるもぐさ落ちたって!

焦げてる!どことは言わないけど毛が焦げてるってば!

 

「あら、ごめんなさい。やり直すわね~♪」

 

変態笹針師はパッと無造作に燃えているもぐさの塊を手で払って床に落とすと、新しいもぐさを丸め始める。

 

もぐさを盛るな!

火をつけるな!

バカ~!

 

怒鳴って文句を言ってやりたいのに、首に打たれた針のせいでう~う~と言ううなり声しか出ない。

 

「さて、仕上げるわよ~ん!」

 

変態笹針師が枕の方に回ると、俺の脳天の髪をかき分け始めた。

まさか・・・

 

チャキン!

それなりの質量を持った金属の奏でる音がこだまする。

 

「そ~れブスッと回復、あんし~ん!」

 

ザクッ!

 

はうわ!

脳天に!笹針がっ!

ザクって言った!ザクって言った!

 

「・・・ん~違ったかしら。

 手ごたえがいまいちね~。」

 

おい!

違ったじゃねえよ!

ア〇バかてめえは!

 

「ホントはこっち!てへ!」

 

ザクッ!

 

ピュッピュッピュ~・・・・

 

ああああ・・・なんか噴いてる・・・なんかが大量に脳天から抜けてく・・・

 

「がんばれ♪がんばれ♪悪い血いっぱい出せてえらいね~♪」

 

・・・もう突っ込む気も起きねえ・・・

 

「は~い、成功よ~ん!

 これで2~3日もすれば、身体の異常な力みは取れていくわ~ん。

 おだいじにね~アデュ~♪」

 

全身に刺さった針を一瞬で回収すると、変態笹針師は風のように姿を消した。

 

・・・針抜かれてもまだ身体が動かんのだが。

服ひん剥かれたままなんだが。

せめて服を戻すか布団くらい被せてけよ!

おい!

 

・・・身体が動くようになったのは30分くらい経ってからだった。

その間誰も来なかったのが不幸中の幸いだ。

 

そして、あのですね、枕もとが猟奇的に血だらけなんですけど。

脳天から噴いたらしい血が、ベッドから床まで一直線に真っ赤な跡を付けていた。

なんで俺がこんな後始末を、と思いながら床とベッドを大量のティッシュで拭き取ってきれいにする。

途中、乾きかけて落ちない染みがあったので保健室の水道でティッシュを濡らしに行ったのだけれど・・・

 

触れた感覚が希薄でとんでもない力が出ていた今までと違って、水道のハンドルを掴んだ時に、何かを掴んでいる、という感触がある。

ベッドの手すりを握ってみても、今迄みたいにミシっとかギシっとかきしむ音も減ったような?

 

変態笹針師、一応は『成功』とか言ってたから、もしかして触れたものすべてを破壊するような事態からは逃れられたのか?

まだ完全にはその成果を信用はできないものの、少し希望が見えた。

 

枕とシーツは・・・血だらけでもうダメだろう。

シーツと枕カバー外して畳んでおくしかない。

保健の先生ごめんなさい。

 

頭の血はよほど勢いよく噴いたのか、鏡で見た感じ髪の毛とかをひどく汚してるわけじゃなかった。

脳天に小さな傷があるだけだ。

保健室の中にあった蒸し器の中のタオルを拝借して頭をわしわしと拭く。

ひどくは汚れていない、とはいえ、拭いたらタオルが茶色く染まった。

このタオルももう再利用できないだろう。

 

フタのついた金属製の廃棄物入れに汚れたティッシュなんかと一緒に突っ込む。

 

なんか、学園の備品ダメにしまくってるな俺・・・




引用した歌詞、著作権消滅の有名曲ですがカバーもあるんですよね。
一応消滅の方の楽曲コード入れましたが。


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初めてのお友達

はい、今回も閑話風味です~


ひどい目に遭った。

問答無用でヒト・・・いやウマ娘か、に笹針を打つ不審者が学園内に跋扈しているとかあとでたづなさんに抗議しよう。

うう、血が、血が足りない気がする。

 

それはともかく、喉の渇きがいいかげん限界なので当初の目的通り食堂に向かう。

ぼちぼち、トレーニングを切り上げた学園生が戻ってきているのか、校内にはそれなりに人が増えてきた。

食堂のテーブルにも、ぼちぼち学園生がグループを作って思い思いの話題に興じている。

 

と、ガラガラとシャッターを閉める音が聞こえた。

もう17時近い。

ランチメインの学生食堂だから、店じまいの時間なんだろう。

料理の受け取りカウンターのシャッターを、コックコートを着た男性が順に降ろしていく。

と同時に、カウンター傍のテーブルに陣取っていた学園生がそわそわしだした。

ちらちらと、厨房の通用口に視線をやっている。

 

「は~い、今日の余りものは揚げドーナツだよ!仲よく食べな!」

 

日持ちしないものを、店じまい前に配っているのだろう。

大きなボールを抱えた男性が通用口から出てくると、待ってましたとばかりに群がるお腹を空かせたウマ娘たち。

たぶんもうそろそろ夕食だとは思うのだが、ずっとトレーニングをしていたんだ、大量にカロリーを消費すればお腹は空く。

夕食までおやつで繋ぎたいんだろう。

 

首を伸ばしてその様子を見ていたら、おやつを配っていた男性が串団子みたいになった丸い揚げドーナツをもって近づいてきた。

 

「見学かい?余りもんだけど一つ食べていきなよ。」

 

と、テニスボールくらいの揚げドーナツが3つ刺さったのを渡される。

 

「ありがとうございます、いただきます。」

 

男性は、茶目っ気たっぷりにウィンクして踵を返すと、あっという間にすっからかんになったボールを持って、調理室に引っ込んだ。

ああいう仕草って普段から女子高生とかそういう若い子相手にしていると自然に身につくものなんだろうか。

あっちの世界での俺と大して歳が変わらないように見えたけど、全然いやみが無いんだよなぁ、ウィンクとかしても。

昨日までの俺がやったらキモっとか言われそうだ。

 

貰った揚げドーナツだけど、粉もの系だから飲み物がないときつい。

カウンター横のテーブルにはお皿とかが出たままなので一枚拝借してドーナツを載せて席に置き、飲み物を取りに向かう。

もちろん、皿は掴んだりしない。

皿の下に手を滑り込ませて掬うように持つ。

これ以上ものを壊すのはさすがに気が引けるからね。

 

数台用意されたドリンクサーバーは、ファミレスでよく見かけるタイプのものだ。

甘いドーナツに合わせるならコーヒーが無難か。

カフェラテがあったので、でっかいスープカップにカフェラテを注いでそっと運ぶ。

いや、コーヒーカップ、持ち手が細くてあっという間にへし折れそうなんだよ。

 

「あ~っ!おやつに間に合いませんでしたぁ~」

 

おっとり口調の悲痛な叫びが聞こえてくる。

 

むしゃむしゃと揚げドーナツを食べる学園生たちを、今にもよだれが垂れそうな顔で指をくわえて眺める、なんというかボリューム満点のウマ娘・・・メイショウドトウか。

 

あ、俺の席に置いてあるドーナツに気づいた。

視線がくぎ付けだ。

 

ドトウが、そろそろとカフェラテ入りのスープカップを運んでくる俺を見つけると、耳と尻尾がへにょりと垂れた。

ぐうう~~~と聞こえるほどの腹の虫のおまけつきで。

はぅぅぅ~とか言いながら顔を赤くして恥ずかしがってるのだけれど、ちらちらと揚げドーナツに向ける視線は外さない。

 

「・・・一緒に食べる?」

 

もともと飲み物が欲しくて来ただけだし、この揚げドーナツ結構でかい。

小腹を満たすには一個くらいで十分・・・だよな?

でも昼、結構際限なく入ったからなぁ・・・

 

「い、いいんですか?ありがとうございますぅ~♪」

 

ルンルンでカウンターの方にお皿を取りに行くドトウ。

その間に、席についてラテを啜る。

・・・甘い。

最初から砂糖がたっぷりと入っているとは思わなかった。

砂糖抜きで揚げドーナツの甘さを中和したかったんだけどな。

 

「・・・あの、相席いいですか。」

「あ、カフェさん。」

 

お皿とフォークを持ってきたドトウがぺこりと挨拶をする。

テーブルを挟んで俺の真正面に、長い黒髪のウマ娘が、俺の顔をじっと見つめて立っていた。

マンハッタンカフェ、残念ながら俺はこの娘のことをあんまりよく知らない。

ガチャで当たらなかったんだよ。

見えないお友達と会話する不思議系のウマ娘だったとは思うんだけど。

 

どうぞ、と答えると、カフェは正面の席に座ってひたすらじっと俺を見つめている。

ドトウはドトウで、空気を読まずに一個貰いますねーとドーナツを串から外そうとしてドーナツを宙に飛ばし、テーブルの上を転がるそれを

3秒は大丈夫!3秒は大丈夫!とつぶやきながら捕まえて栗のような口でほおばっていた。

 

「揚げドーナツ食べます?」

「・・・いえ、結構です。」

 

カフェがどこからか取り出した細いステンの魔法瓶から、熱いコーヒーをキャップに注いで啜る。

ただひたすら、じっと俺のことを見つめている。

 

ドトウが、フォークを握って揚げドーナツを見つめたままなので、皿ごと押しやるといそいそともう一個の切り離しにかかった。

カフェに、こうじっと見つめられたままというのも気まずい。

 

「・・・あなたは・・・なんなのでしょう。」

 

・・・と言われても。

 

「私のお友達が、あなたに触れなくてとまどっています。」

「友達が、俺に触れない?」

「はい。

 私のお友達はあなたには見えないかもしれませんが、あなたを認識できるのに触れない、と。

 今、あなたの身体に重なって、顔からカニの足みたいに手を生やしています。」

 

何してんだ見えない友達。

てか、傍で聞いてたら全く意味不明だなこの会話。

 

「私のお友達が、変なのを見つけたというので来たのですが・・・あなたはいったい・・・」

 

変なのって・・・

まあ変なのには間違いない。

おっさんソウル入りのウマ娘なんて他にいないだろうし。

今身に着けてるシャツとパンツは異世界産だしな。

 

微妙にシリアスな空気を破って、ちょっと物欲しそうな顔をしながら、ドトウが最後の一個が残った皿をニューっと押し返してきた。

さすがに全部食べるのは気が引けたらしい。

 

「ごちそうさまでしたぁ~♪見ず知らずのお客さんにおやつ分けていただいて、これで何とか夕ご飯まで持ちそうですぅ~♪」

「・・・(sigh」

 

コーヒーを飲み干して、聞こえるか聞こえないかのわずかなため息をつくと、カフェは立ち上がった。

 

「お友達が、警戒していないのであなたはいい人なんでしょう。

 またいずれ、あなたとは会える気がします。

 マンハッタンカフェ、カフェとお呼びください。」

「あっ、あっ、メイショウドトウですぅ~!」

 

変なの、と言われてちょっと出会いとしては微妙な気もするけど、一応名乗ることにした。

 

「ラベノシルフィーだ。」

 

ちょっと変なのに目を付けられたかな、という気がしないでもない。

 

カフェは一礼して去ったのだが、俺のラテのカップも、揚げドーナツの乗った皿も手を伸ばすとスススと逃げる。

見えないお友達、俺に触れないからと、間接的に干渉してきたのか。

ドトウはその逃げる揚げドーナツをじっと目で追ったまま立ち去ろうとしない。

 

ふと、顔を上げたドトウと目が合う。

スッと手で揚げドーナツを指し示すと、逃げなくなった揚げドーナツはドトウのお腹の中に消えた。

 

ラテは、伸ばした俺の手から一際勢いよく逃げると、バーのテーブルを滑るショットグラスのように誰もいないテーブルの端まで滑り床にラテとスープカップの破片をぶちまけた。

カフェのお友達とは仲良くなれそうになかった。

 



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オクションですかたづなさん

カフェのお友達に遊ばれた後始末をしようとしたら、さっき揚げドーナツをくれた男性が、もうコックコートも脱いで帰るところだろうに、お客さんにそんなことはさせられないと片付け仕事を奪われてしまった。

なんていい人なんだ・・・

ごめん、お任せするよ。

 

ちょっと早いが、たづなさんのいる理事長室に向かうことにする。

 

ノックして入ると、理事長はもう帰宅されて理事長室にいなかった。

 

管理職の者が残っていると下の者が帰れなくなるから、特に残業の必要がない時はさっさと帰るそうだ。

管理職の鏡だね。

最近は若い人たちは、お給料上がらないならサビ残とかなくしてプライベート時間増やして!って言う人多いから、理解ある理事長って評価上がるんじゃないかな。

 

たづなさんは、理事長の帰った後の理事長の机をゆっくり拭いてる。

こういう一枚板を贅沢に使った重厚な執務机は艶が命だ。

埃が積もってたり蜘蛛の巣が張ってたりすると見た人に舐められる。

まして理事長はあのなりだから、その辺かなり苦労しているだろう。

 

と、昼にご飯を食べたテーブルの上に見慣れた俺のバイクの鍵と、どこか歪なドアのノブが載ってる・・・バレテーラ。

 

「・・・緊急事態だったみたいなので深くは追及しませんが次からは気を付けてくださいね。」

 

こっちを見ずに、拭き掃除を続けたまま後ろ姿で放たれるたづなさんの言葉の威圧感、効果は抜群だ!

 

ハイ・・・とバイクの鍵をポケットにしまう。

 

一通り終わったのか、たづなさんがバケツと雑巾を片して、ハンガーからポーチとケープを外して羽織った。

帰るらしい。

 

「ちょっと早く終わりました。タクシー呼びますね。」

 

ポチポチとスマホを操作する。

電気を消して扉の鍵をかけ、俺たちは外に出た。

基本管理職だからか、たづなさんにタイムカードとかはないらしい。

その分管理職は必要とあらばサビ残なんて生温い無限お仕事地獄が待っていることがあるのだが。

会社の仕事内容によっては、管理職=過労死確定みたいなところもあるので、トレセン学園は理事長筆頭にホワイト企業であろうとしているようだ。

 

そのまま職員通用口から出ると、ロータリーにはもうタクシーが待っていた。

でっぷりと太った首と顎の境目のないタクシーの運ちゃんが、上半身ベストの制服姿でロータリーの石柱に寄りかかって電子タバコをふかしている。

太ってはいるが、クマ男のようにあご全体を覆う髭はきれいに切りそろえられ不潔感はない。

 

「早いですね、また近くを流していたんですか?」

「おう、嬢ちゃんがそろそろ乗るころだと思ってよ。」

 

たづなさんの顔見知りの運ちゃんらしい。

 

既に開いているドアに、たづなさんが滑り込む。

 

「珍しいな、連れがいるのかい。」

「ええ、ちょっと預かることになりまして。」

「ふ~ん、嬢ちゃんもまあ乗りな。」

 

俺が乗り込むと、意外にも丁寧に手でドアが閉められ、運ちゃんが乗り込む。

あれだけ体重が重そうな身体なのに、乗り込んだ時もタクシーが揺れない。

思った以上にプロだぞこの運ちゃん。

 

ピピっと、タクシーメーターが起動してタクシーが走り出す。

たづなさんは行先も何も指定しない。

加速も減速も、乗っている俺たちの頭が揺すられない様すごく丁寧な運転だ。

 

タクシーは学園を出ると、すぐに坂を上り始めた。

 

10分ほど走っただろうか。

 

ちょっと大きめのホテルのような建物の屋根付きのロータリーでタクシーは止まった。

 

先にタクシーを降りる。

 

 

枯れた植物が一本も見当たらない園芸植物に、地面に埋められた発光パネル。

車の他に歩行者の動線が安全優先で確保されたバリアフリーの歩行者通路。

見上げると、夜空に溶け込んで最上階が見えないマンション本棟。

 

・・・・・

・・・

 

億ションだこれ。

 

目の前には一面表面を水が流れるアクアウォールに囲まれたロビーを持つ、高層高級マンションが聳え立っていた。

 

 

 

 

最近の屋外インテリアで、噴水やアクアウォールなどの水系のものを持つビルは本当に少ない。

維持管理にものすごく金がかかるからだ。

夏場などちょっと放置すればコケであっという間に汚くなるし、水をケチって循環させるとろ過が甘ければすぐに水が腐る。

バブルの頃に建てられた建築物で、今もこういった屋外インテリアが稼働し続けているのはまれだ。

 

そして、ライトアップに使われているライト。

全てが電球色で統一され、点滅したり紫や青などに光っているものが全く見当たらない。

ほとんどが間接照明で直接光源が目に入らないように配慮されている。

 

ロビーへの入り口のところのみ、両脇にヨーロッパのガスランプを模した電灯がついているのだが、その中に見える電球は電球型蛍光灯でもLEDでもなく、まぎれもない透明なガラスの白熱電球だ。

 

以前会社の社長に言われたことがある。

LEDで青だ、白だと派手で最新のもの追っかけている奴は田舎者だ、明るくも暗くもなく、オレンジの光を使うために、本物の電球を使ってる連中は、マジもんのセレブなことが多いからイキると大恥かくぞ、と。

 

まさにこれじゃねえか!

 

精算を終わらせて、たづなさんがタクシーから降りてロビーに向かったので慌てて追いかける。

ロビーの中もこれがマンション?と驚くものだった。

 

つやつやに磨かれたクリームの大理石の床に、アクセントに御影石を配置した柱や壁。

足音を聞くに、プラスチックの人工大理石じゃない、本物だ。

どこの体育館だよと言いたくなるほど高い天井の吹き抜け。

そんな広い空間が、何に使われるでもなく、ただ観葉植物や数脚のソファーを置くためだけに使われている。

 

奥の方には、見たことのないブランドのコンビニらしきものと銀行ATMコーナー、クリーニングの受付け。

少し離れたところにある地階へのエスカレーターには、スーパーマーケットと喫茶店、スイーツ店舗なんかの案内が出ている。

2Fには、ヘアサロンとネイル、歯医者なんかがテナントとして入っているらしい。

 

ロビーを入って真正面には、ちょっとしたカウンターがあって、コンシェルジュが常駐している。

その脇にある自動ドアが、たぶんこのマンションの居住階への入り口だろう。

自動ドアの上下をぐるっと囲むように枠がついているから、たぶんかなり強固なセキュリティがついている。

人の目と機械による侵入者排除。

これだけでも相当なコストだろうに。

 

「ちょっとご飯買っていきましょうか。」

 

たづなさんがコンビニに向かうのでついていく。

 

入ったコンビニも、普通じゃない。

どこの成城岩井だよ!ってレベルの品物しか置いてない。

ご飯、というのでお弁当コーナーに行ったら、デパ地下の有名デリかここは!って言うようなお高いパッケージしか置いてなかった。

おにぎり一個500円、サンドイッチで1000円。いかにもお弁当って形のプレートセットみたいなので軽く2000円超え。

ウマ娘用のやたらと量が多そうな箱入りのランチパックは4000円近くする。

そんなのを値段を気にすることもなく、ポンポンとかごに放り込んでいくたづなさん。

 

「・・・ちょっとATMに寄ってきますね。」

 

急激に財布の中身が心配になった俺はコンビニの中のATMに駆け寄った。

使えてくれよ~

祈るような気持ちで、ラベノシルフィー名義の変な銀行名に変わったキャッシュカードを突っ込み、残高照会をかける。

ちょっと焦っていて、タッチパネルに触れる際、力加減を意識するのを忘れていた。

タッチパネルを割りましたとかシャレにならない。

こういうの、交換に平気で50万とかかかるからな。

あぶないあぶない。

 

暗証番号は・・・通った。

四井・・・・・700万

四菱・・・・・900万

ゆうちょ・・・1000万

 

ほぼ記憶にある残高と一緒だ。

独り身で安アパート住まいでろくな趣味もなく、休日も少なければ仕事まみれ、そんな生活をしていれば貯金はこんなもんだ。

同じ職場でも、彼女がいる奴は・・・いつもピーピーだったけどな。

見栄には金がかかる。

 

貯金がウマ娘世界にそのまま持ち込めたことに少し安堵して、一つの口座から限界額の20万円を下ろす。

手数料が200円引かれた。ガッデム!

 

何故そんな額を下ろしたかと言えば、主に服。

着替えが、ヒシアマさんに渡されたこの学園ジャージしかないので何か早急に買わなければ。

って、下着!

 

今日着替える下着がない!

 

見回すと、日用雑貨コーナーのあたりに下着らしきものが陳列されているのでそちらに向かう。

 

ランニングと、トランクスを手に取ってハタと気付いた。

今俺女だった・・・

 

そっと隣の女性ものに目をやると、黒のカットが際どいアダルティなやつと、ベージュのお腹まで覆える婆ショーツ。

ウマ娘用の尻尾穴、ダイヤカット付きのがあるのはいいけれど、サイズがわからない。

え~あ~う~と悩んでいると、

 

「とりあえず、スポーツブラとショーツのMでいいと思いますよ?」

 

といつの間にか横に来ていたたづなさんがもうポイポイと黒の下着をかごに放り込んでいった。

傷パッチや包帯なんかも在庫がなくなる勢いで。

 

食料品や衣類で山盛りになったかごを、レジで精算する時に、たづなさんが出していた黒いクレジットカード・・・

いや、久しぶりに見たよ、あれ持ってる人。

トレセン学園理事長秘書の経済力を垣間見た気がした。




ここでも書きましたが、日本が不景気になって、ホント噴水の類がまともに稼働してるのほとんど見なくなりましたね~
近所の市営公園の噴水が稼働してるの見たのって最期が10年くらい前かな~


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そうですよ~ウマ娘ですよ~

何の変哲もないお風呂回です~
つづく~


居住区画への入り口カウンターに控えたコンシェルジュが会釈する。

 

たづなさんが近づくと、ピッと小さく音が鳴って自動ドアが開いた。

 

ずらりと並ぶ郵便受けの一つをごそごそと漁るたづなさん。

何かあったらしく、さらに奥にある宅配ボックスへ向かうと、一抱えはありそうな段ボールを抱えてきた。

邪魔になりそうなさっきのコンビニで買ったビニール袋をたづなさんの腕から引っ張って奪う。

いやそりゃ怪我人だけどさ、そのくらいは持つよ。

 

エレベーターに乗りながら、こんな大荷物、何を、と思ったら金虎のマークにでかでかと書かれた『BEER』。

500mlx24の2段をガムテープで貼り付てあるから・・・48本か。

知らんふりしておこう。

 

柔らかいコール音がしてエレベーターの扉が開く。

そこから外に面する廊下を歩いて、突き当りの角部屋3801号。

 

あの重そうな段ボールを片手に抱え直すと、財布の入ったポーチをドアに近づける。

オカエリナサイマセ

電子音声がして扉のロックが外れた。

 

「おじゃまします。」

 

扉を開けて入ると、もう玄関からして俺の住んでいたアパートの数倍広い。

タンスくらいありそうな靴箱があり、傘立てが玄関の一角を占めているにもかかわらず二人並んで入ってもまだ余裕がある。

 

玄関を上がってすぐのところに、ちょっと大きめのトースターみたいなのがあるので何かと聞いたら、たづなさんが脱いだ靴をそれに入れてスイッチを押した。

青い光が点灯してファンが回り出す。

 

「靴の殺菌消臭器ですよ。一日中立ち仕事ですから、ね。」

 

革靴はなあ・・・

夏場なんか、一日履くとそりゃもうすごいことになる。

剣道の面や小手ではないにしろ、身に着ける革製品で蒸れるもんは放置したらダメだ。

臭いを放ち始めたらあっという間に化学兵器レベルまで成長する。

どんなにきれいな女性のものでも、夕方のロングブーツの臭いは嗅いではいけない。

 

たづなさんはそのまま段ボールを抱えてキッチンと思われる場所に段ボールを下ろした。

目にもとまらぬ速さでケープをたたんで下駄箱の上に置き、ポーチを寝室に投げ込んでリビングの長ソファーにダイブする。

 

「ふぁ~(ボフッ!」

 

学園では決して外すことのなかった帽子が、コロコロと床を転がった。

髪の毛の上に伏せられていた鹿毛色のウマ耳が、ぴょんと立つ。

 

「たづなさん、その耳・・・」

 

「・・・そうですよ~。駿川たづなはウマ娘ですよ~。」

 

ソファーに顔を埋めたまま答えるたづなさんの声は疲れてどこか拗ねたように聞こえた。

 

たづなさんは、ソファーに突っ伏したままもぞもぞと腰を動かす。

何をしているのかと思えば、うつぶせになったままストッキングを脱いでいた。

 

お尻見えてますよたづなさん・・・

が、そのお尻には、ウマ娘なら当然ついている尻尾が、生えていなかった。

 

 

 

 

昼間トレセン学園のトラックで実感したのだけれど、ウマ娘の尻尾の実態、骨と筋肉のある部分て意外と太い。

今ちらりと見えたお尻には、そんな太いものが隠れていたようには見えなかった。

もしかして、切った?

 

考え込んでいると、たづなさんがぐーたらモードから復活して身を起こした。

 

 

「ご飯の前にお風呂に行きましょうか。

 上に貸し切りのできるジャグジーがあるんです。」

 

そんなものまで・・・

たづなさんはリビングの入り口の壁にある集中コンソールを操作して、どうやら貸し切りの予約を入れているらしかった。

 

「予約取れました。

 下着と・・・パジャマは私のでいいですね、ちょっと上に上がるだけなのでカーディガンでも羽織っておけばいいでしょう。」

 

さっき買ってきた袋をごそごそと漁って、麻のショッピングバッグのような手提げかばんにお風呂セットを詰めていく。

二人分のお風呂セットを詰め終わると、一つを俺に渡して二人してジャグジーに向かうことになった。

 

エレベーターに乗り、さらに上の階に向かう。

 

着いた階は、ワンフロアが丸ごとスポーツジムとお風呂で構成された共用施設階だった。

 

エレベーターを出てすぐのカウンターで、ジャグジーの扉のキーをカードキーに登録してもらう。

スポーツジムはルームランナーから各種ウェイト器具、バランスボールにゴムベルト、ちょっと開けた場所に積んであるのはヨガマットか。

ボクササイズもやっているのか、サンドバッグなんかもあるな。

インストラクターもちゃんと控えている。

奥の方には、ここからは見えないがVRゴルフにトスバッティングコーナーなんかもあるらしい。

通路を挟んで反対側は、お風呂コーナー。

大浴場は循環式だが温泉、ジェットバスやウォーキングのできる回廊状の浴槽もある。

たづなさんが借りたのは、家族風呂の類で、数名で入れるジャグジーらしい。

他にもヒノキ風呂とか貸し切りのできる小さなお風呂は数種類あるそうだ。

 

この階だけでもすごいのに、さらに屋上はBBQのできる屋外ラウンジ、ミニパターゴルフのできるコース、子供向けのプレイランドがあり、その下の階はワンフロアまるまる広い洋風の応接ルームで、カウンターバーまでついているというのだから開いた口が塞がらない。

 

これ、部屋を億で買ってなお、管理費や修繕積立費に月単位で2~30万円かかる奴だ。

コンシェルジュやジムのインストラクター含めて人件費考えたらそのぐらいとっていないと維持できない。

 

地階のスーパー何かも含めると、金さえあればほとんどこの建物から出ずに生活できる。

金持ち引きこもり万歳物件だこれ・・・

 

風呂ゾーンのいくつか並んだ自動ドアの一つのカードリーダーに、たづなさんがカードキーをかざすとドアが開いた。

日本のゴザとはちょっと違った網目の粗いアジアン風の敷物に扉のないロッカー天井からぶら下がるゆっくり回るサーキュレーター。

家族風呂って言っても、脱衣所の時点でちょっとした温泉の小浴場くらいの広さがある。

 

ジャージを脱いで、丸めてロッカーに放り込む。

たづなさんが脱いだものを畳んでいるのを見て、あっ・・・育ちがバレる、とちょっと焦ったが時すでに遅し。

おっさんはこういうものです!と開き直る。

 

腕、脚、あばらに巻き付けてる包帯を解いて、貼ってある湿布を剥がして捨てる。

剥がした後は赤かったり紫だったりあざだらけだ。

特に足が猟奇的。

腿とふくらはぎにくっきり手で握り込んだ指の形にあざができている。

 

脚を眺めてたら、たづなさんに謝られた。

 

「ごめんなさい、三女神像の台座からあなたを引っ張り出すのに必死で、アグネスデジタルさんと私が・・・」

 

ああ、あの強烈な股裂きはウマ娘二人がかりでか~。

道理で。

 

「明日、私はついていけませんけど病院に行ってくださいね?脱臼してたんですから。」

 

たづなさんが言うにはURAの運営する総合病院なら、紹介があれば優先して診てもらえるらしいからあとで教えて貰おう。

キャッシュカードが使えるんだから保険証も使えるだろうし。

 

「傷パッチは・・・お風呂場で濡らしながら剥がした方が痛くないかもしれませんね。」

 

擦り傷がパッチに張り付いてると剥がすの地獄だからな・・・

 

・・・さて、最後の砦、トランクスに手をかけて、一気に下ろす。

尻尾がおしっこ穴を抜けていく。

 

洗面台にある大きな鏡に、全身を映してみる。

 

あざがちょっと痛々しいが、なんか人形とかマネキンみたいな印象を受ける。

自分の身体、って言うイメージがないし、なんだろう・・・自分で言うのもなんだけど、欧州の妖精的な、美しいけれど完成され過ぎていて同じ人間に見えない、手を出しづらい存在、そんな感じ。

 

そうだな、あっちで男として暮らしているときに、なんの接点もないヌード写真集の中の一人として出てきたら、ムラムラするかもしれない。

けど、実際に血の通ったウマ娘の『自分』としてこの身体が存在しているとそんな感情がさっぱり湧いてこない。

 

グッと、腕に力を籠めると、皮下脂肪に筋ができて筋肉の形が浮き出る。

細い体していて、こういうところは運動系女子の身体なんだよな・・・

若干ビール腹になりつつあったぽよぽよの貧弱な中年男の身体とは大違いだ。

 

「・・・いつまでも裸で突っ立ってると風邪ひいちゃいますよ?入りましょう。」

 

お風呂セットを持って、浴場に入っていくたづなさんのお尻。

ウマ娘の尻尾のあるべき場所には、もう消えかけた手術痕があった。



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女の身嗜みって面倒くさい・・・

お風呂回~
まだつづきます~


「剥がしますよ~、剥がしますよ~、はいっ!・・・う・そ♪(ベリッ」

 

「あ゛だ ッ!」

 

たづなさん、突然嗜虐心を発揮するのはやめてください。

 

包帯をとる時は、痛いから傷パッチはお風呂で濡らしながら、とか言っていたのに、いざ剥がす段階になったら、そりゃもうすごく楽しそうに・・・

いや、濡らしてはがれやすくはしてくれているんだけどさ。

もしかして今日一連の俺関連の騒動に巻き込んだことでフラストレーションたまっちゃってます?

 

「こういうのは、じわじわと剥がすよりは一気にやっちゃった方が痛くないんですよッ(ベリッ」

 

「あ゛~~~!」

 

ひどいよたづなさん・・・

 

 

 

たづなさんがざっと傷を見た感じでは、深い擦り傷はないので痕が残るような事はないだろうと。

バイクでもすっこけると20代は結構深い傷でもきれいに治るんだよな。

30代になってくると浅い傷でも治った痕が変色してきれいに治らなくなったけど。

この身体ならきれいに治るだろう。

 

「あら、こんなところに火ぶくれが。」

 

そこは、昼間怪しい笹針師の熱いお灸がポトリと落ちたところ・・・

そんなところをまじまじと見ないでくださいッ!

さすがに恥ずかしいですよッ!

 

「昼間、あんし~ん!とか叫ぶ笹針師に無理やり・・・」

 

「またあの人勝手に学園内の人に手を出したんですか?!

 どこかおかしくなったところはありませんか?」

 

またって、やっぱたびたび出没してるのか。

何でもあの安心沢刺々美は、一応URA総合医療病院付の正式な職員らしい。

ただ、治験と称してトレセン学園に潜り込んでは、スランプに悩むウマ娘とトレーナーを口で丸め込んで笹針治療の実験台にするという、

当たれば劇的な効果が見込めるが、外れるとスランプがさらに悪化する丁半バクチを強いる困った天災笹針師なのだそうだ。

 

アグネスタキオンといい、安心沢刺々美といい、トレセン学園に顔を出す医療関係者はなんでこう癖の強い奴ばかりなんだ・・・

そういや、いつも剥き出しの注射器持ち歩いてるメジロの主治医なんてのもいたな・・・

 

「一応、成功よ~ん!と言ってはいましたけど。

 思わぬ力を出してしまうのは少しずつ改善されるって言ってましたよ。」

 

「ああ、それでですか。

 立ち居振る舞いが夕方ごろから自然になって来たな、とは思っていたんです。

 でも、彼女の口車に気軽に乗っちゃダメですよ?

 逆に調子が悪化することもあるんですから。」

 

たづなさんから見てわかるほどなら本当に良くなってきてるのかも。

そのうち生卵を持つ特訓でもするか?

 

「さ、身体洗っちゃいましょうか。」

 

なんか高級感漂う小さ目のボトルから、ボディーソープをスポンジにつけてたづなさんが背中を流してくれる。

ボディーソープが傷口に垂れてきてもあまりしみない。

これはあれか、最近流行りのボタニカルなんちゃらの高級ソープか?

ボタニカルって要するに植物性ってことらしいから、単純にマーケティングの都合で売り文句にカッコいい言葉使ってみました、ってだけらしい。

ボトルをよく見るとOlive~とか文字が見えるからオリーブオイル系の何かだな。

 

背中を洗い終わったのか、スポンジを手渡してくれながらたづなさんが聞いてくる。

 

「髪の毛、以前はどんな洗い方をしてましたか?」

「男だった時は、短髪で脂ぎってたので、安物のリンスインシャンプーでざっと。」

 

300円くらいのリンスインシャンプーでわしゃわしゃっとやって流して終わり。

この身体の髪は、わからない。

前の身体は、あの自称女神に穴に落っことされた後、途中でマグマに突っ込んで一回溶かされたような・・・うっ!頭が!

 

「これからは、高いものじゃなくてもいいですけど、ちゃんとトリートメントもした方がいいですよ?

 こんなにきれいな髪と尻尾なんですから。」

 

避けられない地雷を踏んでしまったか。

どこか切なさの混じった声で呟かれる。

 

「その辺は何もわからないので、たづなさん教えてくれますか?」

「ええ、もちろん。

 今度のお休みにでも一緒にお出かけしましょう。

 とりあえず今日は、私のいつも使っているので我慢してくださいね。」

 

傷に触れないよう、そーっと身体を洗い終えると、たづなさんの髪と尻尾のお手入れ講座が始まった。

結んであった髪をほどいて、お湯で全体をまんべんなく濡らし・・・

と、そこでいきなり躓いた。

 

「じゃ、シャワーをかけるので、耳を伏せてください。」

「どうやって?」

「えっ・・・」

 

耳に、水が入らないように耳を伏せて耳穴を塞ぐらしいんだけど、残念ながらまだそこまで器用に耳の動きを制御できない。

なんとなく、聞きたい方向に向けるのはできるようになってきている気がするんだけどな。

 

「困りましたね、私達は普通に動かせるものですから教えようがありません。

 そうですね、こう、誰かを威嚇しようとしたりすると・・・」

 

おおう、目の前に鬼がいる・・・

なるほど、後ろに耳が伏せてるな。

こうか?

 

「あ、今ちょっと伏せましたね。」

「ふぅ、温厚で人畜無害な俺には難しい課題だな。」

「・・・」

 

沈黙は肯定とみなす、うん、問題ない。

何度かやってみたが、伏せたまま、ってのができない。

ウマ耳の中に石鹸の類が入るとちょっと厄介で、ウマ耳の構造上なかなか入り込んだ水が抜けないので外耳炎の原因になるとか。

 

「耳を伏せられないと、傘のない時に土砂降り雨に降られて耳に水が入るといつまでもガサゴソ言ってすごく鬱陶しいですよ?」

 

本当に嫌そうな顔をしているので耳のいいウマ娘にとって耳に水が入らないように耳を伏せるのは必須技能みたいなものらしい。

とはいえ、今練習してすぐにできるようになるわけでもないので、俺が耳を手で押さえて水が入らないようにしている間に、たづなさんが流してくれることになった。

 

髪の毛と尻尾を、順にシャンプーしていく。

頭皮は指の腹でもむように・・・って痛ッ!

あ~、笹針刺さった痕だ。

 

・・・気を取り直して、長い髪と尻尾を指で梳くようにシャンプーを伸ばしていく。

はい、耳を押さえてお湯で流す~って、頭のてっぺん流した後も随分念入りに流さないといけないんだな。

 

「髪の量が多いから丁寧に流さないとシャンプー落ちませんよ?

落ちてないとそのあとのトリートメントもリンスも効きが悪くなりますから。」

 

そういうもんなのか。

もうこの時点で、以前の俺だったらとっくに風呂から上がってるくらいの時間が経っているので、うわ、めんどくさ~って感想しかわかない。

 

「はい、同じように、トリートメント、リンスの順番で洗っていきましょうね。」

 

これが後2回か・・・

 

ダメ押しに、俺みたいな耳の中の毛まで真っ白なウマ娘は、耳の中の毛の専用のブラシとドライクリーナーで耳の中の毛の汚れを落とさないと、耳垢と脂で汚れが目立つらしい。

不潔なウマ娘と言われないためには避けられないのか・・・

めんどくさい身体になったなぁもう。



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風呂上りにはコレっ!

プレイ中のウマ娘、現在手持ちのウマ娘全部SSクラスに育てる挑戦中です~
手持ちのカードがしょぼいのでダートのウララと、マックイーンが手ごわい~


ゴボボボボ・・・・

 

あ~ジャグジー気持ちいい~天国だ~・・・

 

たづなさんと二人向かい合って足を延ばしてまだ余る広い浴槽。

金ラメ入りの黒い樹脂の浴槽の底から大量に上がってくる気泡が、全身をマッサージしてくれる。

特に脱臼した股関節。

太もものあたりの微妙に痛いような、力の入らないような妙な感覚が解きほぐされていく・・・

お湯が温めなのもいい。

もう永遠に入っていたい。

 

「そろそろ上がりましょうか。」

 

たづなさんが、上がってしまわれた。

・・・ああ、天国の時間は終わった・・・

 

そして、また髪と尻尾のお手入れ地獄がやって参りました。

身体と髪を拭いて、あのコンビニで買ったアダルトな黒いのを履いて、バスタオルを肩に羽織る。

今までトランクスだったから締め付けはなかったんだけど、これは競泳のブーメランパンツとかブリーフ履いた時の感触に似てるな・・・

 

タオルでざっと水気を吸わせた後に、オイルミストを吹いてブラシで梳きながらドライヤーで乾燥。

ドライヤーも近づけすぎると髪が縮れちゃうからと距離指定まであるし。

尻尾は尻尾で、なんかめちゃくちゃ艶が出るとかいう別なトリートメントを吹かれた。

 

髪と尻尾乾かすだけで30分以上かかったよ。

 

でも、さすがに手間をかけただけあって、髪の毛も尻尾もさらっさらのつやつや。

髪の毛の束を手に取って光に当てると虹が髪束に浮かび上がって見えるくらい。

 

たづなさんは髪の毛短めなので結構さっと終わってたから、短髪いいな~髪の毛切って短くしたいって言ったら、もったいないと大反対された。

ダメですかそうですか。

 

汗が止んだところで、傷に軟膏と傷パッチを、あざになっている部分には鎮痛消炎剤を塗って包帯で巻いていく。

血行が良くなっているせいか、鎮痛消炎剤がスーッとしてすごくきもちい・・・いたた!

腿の内側、皮膚の薄いところに塗り過ぎた!しみる!

って、ウマ娘用のこういう薬は、解毒作用の高いウマ娘に合わせてヒト用のものより3倍くらい濃いの?!

 

湿ったタオルで拭きとって事なきを得たけど、ウマ娘専用品はちょっと気を付けよう。

 

そして、コンビニに売ってたスポーツブラなんだけど、チャックもホックもなく頭をくぐらせて着るタイプだったので髪の毛がめちゃくちゃ邪魔だった。

背中のバンドに挟んでしまった髪の毛を引っ張り出すときに、まだ湿っている肌に髪の毛張り付いてるもんだから、突っ張る突っ張る。

 

そんな大きくないし、なんかつけててもつけなくても一緒な気がするんだけど、と、ぼやいていたら

 

「・・・走ればわかりますよ。」

 

となんか遠い目で答えられた。

走らなければわからない何かがあるんですね・・・

 

 

 

 

若干湯冷め加減だけど、パジャマを着てカーディガンを羽織り、脱衣所を出て部屋に帰る。

 

カードキーをひらひらさせながら、

 

「あとで、予備のカードキー渡しますからなくさないでくださいね。」

 

と、たづなさん。

 

こんな億ションのカードキー預かるとかちょっとドキドキもんなんですけど。

 

 

玄関を上がるとたづなさんが湿ったタオルなんかの洗い物を、洗濯機の横のかごに放り込んでいるので俺もそれに倣う。

 

「冷蔵庫の中に冷たいものはいろいろ入ってますからご自由にどうぞ。」

 

たづなさんも、冷蔵庫から例の金虎ビールを一本取りだして早速開けている。

 

うん、さすがに結構長湯をしたので喉が渇いた、いただこうかな。

 

冷蔵庫から同じビールを取り出してプルタブを引く。

 

カシュッ!

 

「えっ?!」

 

ゴッゴッゴッゴッ・・・プハァ~!

 

「風味が濃くてうまいですねこれ。・・・あれ?」

 

たづなさんが目を見開いて固まっている。

 

「・・・お風呂上りに迷わずビール開けて飲むとは思いませんでした。

 本当に中身おじさんなんですね・・・」

 

「?・・・あっ!」

 

俺、今未成年だったよ。

 

「・・・それ一本だけですからね?

 アルコールは傷によくないんです。

 明日のお風呂で地獄を見ますよ?」

 

ああ、うん。

擦り傷治りきらないで酒をがばがば飲むと、傷から汁がたくさん出てひどいことになるのは昔経験した。

未成年はダメ!と、飲みかけのビールを取り上げないのは、たづなさんの慈悲だろうか。

風呂上がりのビールのうまさ知ってると、それを取り上げるのは酷だってわかるからだろうなあ・・・

 

ありがたくビールをいただいていると、缶から漂ってくる香りがやけにアルコール臭い。

何の気なしに缶を見たら9.5%もあった。

ストロングビールか、これ。

冷蔵庫の中こればっかりだったような。

 

ガサゴソとたづなさんがビール飲み飲み、コンビニで買ってきたデリ弁当を温め始める。

台所で踊るようにお弁当をレンジでチンするキッチンドランカーウマ娘。

「ママ、お料理しながらお酒飲んじゃダメなんだよ!」と子供に諭されてるたづなさんが脳裏に浮かんで噴いた。

 

酒を飲んでみてなんだけど、全く酔いが回ってくる気配がない。

これがウマ娘の解毒能力って奴か。

胃はちょっとポカポカしてる感じはするし、傷は軽くうずいてはいるけれど、顔に血が上ったり体温が急上昇する酔いが回った時特有のあの感じが全くない。

たづなさんも顔に全く出ていないどころか、冷蔵庫を開けて2本目に突入だ。

食事どころか飲み代まで高くつく上に酔いにくいとか、ウマ娘に生まれるってのも善し悪しだな。

 

レンジから、デミグラスソースっぽいいい匂いがしてきた。

 

たづなさんはビールを、俺は冷蔵庫の中のビンに入っていたベリーのジュースをお供に夕食をいただいた。

 

 

 

 

明日は、たづなさんは普通通り勤務があるので、俺一人で病院だ。

学園から病院に連絡を入れておいてくれるそうで、整形外科に名前を告げればウマ娘専門のお医者さんが診てくれるそう。

移動は、タクシーを使えとのこと。

実際問題、ウマ娘レーンなるものがあるこの世界の交通法規や道路上での人や車の動きを俺は知らない。

知らない道を、おのぼりさんよろしくきょろきょろしながら歩き回る時間はなるべく減らした方が安全、ということだろう。

タクシーは、ここの一階のカウンターで呼んでもらってもいいし、ウマホのアプリで呼んでもいいと。

 

「あっそう言えばウマホ!充電切れてた!」

 

このウマ娘世界に来た時に、なぜだかウマホの電池は電源を入れることができないほどすっからかんになっていて、充電器もないのですっかり忘れていた。

 

「この型なら、私のとコネクタが同じですから充電できますよ。」

 

たづなさんが充電ケーブルを持ってきてくれる。

壁際のコンセントに、USB端子があるのでそこに繋ぐと、ウマホの充電ランプが赤く点灯した。

ウマ娘世界に来てから一回も電源を入れてなかったので、電源を入れてみる。

 

『docoma』

 

電源投入後、一発目に表示されたのがこれだ。

 

起動してみると、おおむね使い勝手は変わらないけれど、どこか違う。

アプリにウマ娘は・・・無いな。

ウマッターにウマチューブ・・・これはあれだろう、なんとなくわかる。

どこまでもウマ推しらしい。

 

電話帳が見事に真っ白になっていたのはちょっと悲しい。

特に実家。

もう両親ともにいないが、弟が家を継いで住んでいる。

唯一の肉親と、もう連絡がつかない。

家を飛び出して好き勝手やってはいたけれど、さすがにくるものがある。

 

 

 

 

「とりあえず、連絡先を登録しませんか?」

 

にゅっとたづなさんが手を差し出してきたので、充電ケーブルをつないだままの携帯を差し出して場所を変わる。

 

お互いの携帯にワン切りを掛け合って電話帳登録してるみたいだ。

 

「はい!登録しました。登録できました!」

 

たづなさんが嬉しそうに俺の目の前に携帯を突き出したせいで、充電ケーブルがすっぽ抜けた。

あれ?たづなさん、酔ってる?

顔色は全く変わっていないのだけれど・・・

げっ!ビールの空き缶が5つも転がってる!いつの間に!

 

あわあわと充電ケーブルを挿し直したかと思えば、トイレ・・・と一言残して部屋を出ていく。

足取りはしっかりしてるんだけどな。

 

とりあえず、タクシーアプリをインストールしていると、たづなさんが帰って来た。

新しいビールを片手に。

まだ飲むんですか、たづなさん・・・



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たづなさんの過去

やっと、代わりのエピソード上がりました~

次の話あたりから、バカ話を交えながらぼちぼちウマ娘として生きていく場合の社会問題的なキツさ的なものとかを交えて話を進めていきます~


「「ごちそうさまでした。」」

 

充電中のウマホは放置して、食べ終わった残骸を片付ける。

キッチンにあるダストボックスに分別して放り込むだけだ。

 

たづなさんが、くしゃりとビールの空き缶をいとも簡単に潰すのを見て、俺もやってみたのだけれど、ちょっと力んだだけで紙のように潰れる。

空き缶のダストボックスを開けると、半分くらい潰れたビール缶で埋まっていた。

ちなみにこの間も、たづなさんはゴクゴクと新たな空き缶を絶賛製造中だ。

 

一通り片付けて、リビングに戻ると二人してソファーに沈む。

言葉を交わすこともなく、食後の心地よい充足感に身を任せる。

 

 

このまま、寝るまでまったりモードかな、と思っていたら・・・

 

「ラベノシルフィーさん・・・お風呂で、私のお尻、見ましたよね?」

 

唐突にたづなさんのお尻を見たことへの追究が始まった。

 

「えっ、ああ、それは、まあ。」

 

そりゃ一緒にお風呂入って裸の付き合いしたわけだから見たけどさ~。

背中も流してもらったし。

俺だって表も裏もじっくり見られましたよ?

 

「私、ウマ娘なのに、尻尾がないでしょう?」

 

・・・そっちか。

尻尾のない話とか、さすがにワケアリっぽ過ぎてこっちからは振れないよ。

 

ビールを片手に、俺に視線を合わせるでもなく、先ほどのテンションが嘘のようにトーンダウンしている。

 

ゴッキュゴッキュゴッキュ・・・

 

たづなさんがビールを飲み下す音だけが響く。

 

「ちょっと昔話をしましょうか。」

 

たづなさんが、ぽつぽつと昔語りを始めた。

 

 

 

 

「私は、小さいころから脚が速かったんですよ?

 近所のウマ娘の中では、誰にも負けないくらいに。

 トレセン学園にも、なんの障害もなく受かるくらいに。」

 

ほぼトップ合格でした、と言うから、相当優秀だったんだろう。

 

「すぐにトレーナーもついて、デビュー戦に向けて頑張っていたんですけどね。

 ある日、尻尾の毛色がおかしくなったんです。」

 

友達に指摘されて見たら、尻尾に一筋、毛色がまだらになっている部分ができたそうだ。

今のたづなさんの髪色よりもより黒く、艶やかな尻尾に現れたちょっとした異変。

 

「別に痛くもかゆくもなかったので、放置していたんですけどね、トレーニングで大変でしたし。

 毎日くたくたになって帰ってきて、泥のように眠って。

 そんな毎日の繰り返しでした。

 ところが、その変色した毛がどんどん細くなって抜け始めて、初めて病院に行きました。

 毛の抜けたところは変色してちょっと腫れてたので、皮膚病かなって思ったんです。」

 

ウマ娘の尻尾の病気は全くわからないが、ヒトでも感染症や虫刺されなんかで一時的に毛が抜けるなんてことはある。

 

「でも、病院に行ったら、お医者さんが血相変えて、あちこち検査に回されて。

 お父さんとお母さんも呼ばれて。

 そして言われたんです。

 『皮膚の癌です。放置すると命がありません。尻尾を切断するしかありません。』って。」

 

「それは・・・」

 

・・・命に関わる皮膚癌・・・黒色腫か。

俺の亡くなった親父が、癌だとわかった時、調べた中にあった。

黒子だと思って放置すると、全身に転移するかなり性質の悪く進行の速い癌。

しかも子供のうちの癌はさらに進行が速い。

今すぐにでも手術しましょう、って言われてもおかしくない。

 

「尻尾は、ウマ娘の命ですからね。

 私も、お母さんも泣きましたよ。

 でも、死ぬよりは、と手術を受けました。

 今でも、実家に尻尾の毛はとってあります。

 未練たらしいですけどね。」

 

ウマ娘にとっての尻尾の価値、当人にとっては計り知れないものなんだろうな・・・

ウマ娘の、美しさの基準のかなりの割合を占めるのはなんとなくわかる。

それを失うなんて、一生、髪の毛のない坊主頭で過ごせ、と言われているようなものだろうか。

 

「幸い、癌の転移はなく、短期間で復学できました。

 でも、尻尾を失った私は、コーナーでひどくヨレるようになってしまいました。

 尻尾を失ったことによる、平衡感覚喪失障害。

 斜行による進路妨害を繰り返した私は、レースへの出場を禁止されました。」

 

十余年もの間、身体の一部としてあった尻尾。

その尻尾ありきで成り立っていたであろうたづなさんの走法。

なんだかんだ言って、尻尾は、背骨の延長。

身体で脳の次に太い神経束が通るヤバイ器官だ。

そんなものを切り落とせば、尻尾によるバランス取り以外の何か重要な影響があってもおかしくない。

 

「訓練でこの障害が克服できた事例がある、と聞いて、私はそれに賭けました。

 幸い、URAの医療研究センターでその訓練を受けられることになり、私は無我夢中で訓練に取り組みました。

 でも、障害克服にようやく光が見えてきたときにはもう、私がデビューできる期間も、全盛期も過ぎてしまっていたんです。」

 

中等部でも、高等部でも、入学して2年、その間にデビューできなかった場合は、暗黙の了解で自主退学となる。

たづなさんの時代はそういったルールがまかり通っていたらしい。

『トレセン学園は優秀な競争ウマ娘を輩出する』、その名声の裏で、実績を上げられないウマ娘を中途で排除していた。

あっちの世界の有名私立大学、高校なんかでもよく聞いた話が、ウマ娘世界にもあったということか。

 

「URAの医療研究センターの練習トラックで私が出したタイムは、非公式ではありますがいくつかの距離のレコードを含んでいます。

 斜行癖が無ければ、これでレースを走れていたら、当代随一のウマ娘だったかもしれないのに、と何度も言われました。

 でも、私の名は、公式戦の勝ち馬としてどこにも残ってはいません。

 デビューすらできずに消えていった星の数ほどいるウマ娘の一人。

 病気さえなければ、走れてさえいれば名を残せたかもしれない『幻のウマ娘』。

 そのなれの果てが私、駿川たづな・・・です。」

 

言葉の最期は、聞き取れなかった。

何かを振り切るように、ビール缶をあおったからだ。

顔にビールがあふれるのも気にせず、背もたれにひっくり返って、表情を見せてくれなかった。

泣いて、いたのかもしれない。

 

 

しばらくそうしていたが、たづなさんはガバっと起き上がると、俺の背後に回って俺にしなだれかかってきた。

 

「ここから先は、愚痴です。

 聞き流してくれてかまいません。」

 

たづなさんの言葉に、覇気が戻る。

 

「私は、あなたがうらやましい。

 

正直言えばですね、今日起きた一連のトンデモ騒ぎなんか、信じられない事ばかりでもう酔いに任せて寝ちゃいたいくらいなんですけど。

トレセン学園に、推薦で入れるってどれだけ幸運なことかわかりますか?

そんな切符を、三女神様自ら与えられるとか、どんな奇跡なんですか。」

 

熱く火照った顔を、頬同士をべったりとくっつけて。

両腕で、俺を離すまいと、かいな抱いて。

彼女のウマ耳が、べしべし、べしべしと俺の頭を叩くのだ。

 

「あなたが、元ヒト、なんていうのも、走れるかわからないなんて言うのも、小さなことです。

 私は、憧れの舞台に上がろうとして、病気にその機会を奪われました。

 あなたは、健康なウマ娘の身体を持っていて、上がる舞台まで用意されている。

 正直、嫉妬で気が狂いそうです・・・」

 

肩を、軽く噛まれた。

 

「私にはあなたの尻込みする理由はわかりません。

 私の舞台はもう終わってしまっているけれど、あなたはまだ舞台にも立っていない。

 目の前のゲートがあなたが入るのを待っているのに。

 そこに立つことすらできない人が多くいるというのに。

 ヒトじゃ見られない世界を、覗いてみることもなく立ち去るんですか?」

 

そこにあるのは、たづなさんの怒りだ。

情けない俺に対する憤慨だ。

 

「私の・・・『おかあさん』の分も、走っては・・・くれないんですか?」

 

しぼんでいく声に、俺は、見えないハンマーでぶん殴られた気がした。

ズルズルと、たづなさんの頭が俺の背中をずり落ちていく。

 

もうやり直せない過去。

俺のバイクが、俺の挫折の果ての代償行動なら・・・

たづなさんがトレセン学園にいる理由も・・・

 

毎日、学園に通うウマ娘に自分の立ちえなかった舞台の夢を託し、守り。

それでも、こぼれていかないように、降りかかる悪意を振り払い続け。

自分がその成長に関わったウマ娘達の栄光をわが事のように喜び、挫折を悲しみ、励まし。

きらめきながら駆け抜けていく、ウマ娘達の傍観者として、時には保護者として日々を送っていたのに。

 

俺という存在が、ポンと目の前に放り込まれて。

よりにもよって信じている女神様に『代理母として面倒見てやれ』とポンコツ極まりない俺を託され。

三女神様は自分には奇跡をくれなかったのに、異世界の運動音痴なヒトでした、なんて言う奴にそんな奇跡をくれてやった挙句、ウマ娘なら垂涎のトレセン学園への推薦状のおまけつき?

やる前から怖がってるやる気のない奴に奇跡の大安売り?

そんな不平等を見せ付けられたら、俺なら間違いなく女神を恨む。

 

でも、運なんてものは生まれたときから不平等だ。

生まれつき富豪で何不自由ない一生が約束されているものもいれば、いつ餓死してもおかしくない状態で放り出されるものもいる。

たづなさんはそれがわかっているからこそ、『馬鹿野郎!こんな幸運二度とないぞ!何やってんだ!』って言ってるんだよな。

 

言い方が、たづなさんらしいけど。

 

ウマ娘世界に来て、いきなり詰みかけて。

ふと気が付けば、見ず知らずの俺なんかを押し付けられたのに、普通に受け入れてくれるたづなさんがいて。

そのたづなさんだって、俺以上の絶望を味わってて。

 

・・・そんなたづなさんに『おかあさん』として発破かけられちゃ、逃げられないじゃないか。

 

 

 

 

躁、鬱、絡み酒と一通り披露したたづなさんは、ソファーにもたれかかるように眠っていた。

 

俺の脚がこんなじゃ、ベッドまで運べないな。

 

寝室のでかいベッドから掛布団を引っ張ってきてたづなさんを転がしてから掛ける。

部屋の電気を消して俺もその中に潜り込む。

 

ウマ娘世界の初めての夜は、なかなか寝付けなかった。



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府中の街なかをてくてくと

病院とお買い物のお話ですよ~


ベッドの中で、目覚めた。

 

リビングで、たづなさんと雑魚寝をしていたはずなんだが、たづなさんが起きたときにベッドに運んでくれたのだろう。

枕元の目覚まし時計は朝の7時。

 

たづなさんの姿はすでになく、寝ている俺を起こさずに出勤したようだ。

あれだけ痛飲して、目覚ましもなかったというのに、普通に起きて出勤したというのか・・・

顔を洗いに洗面所に行くと、隣のバスルームから湿気を感じたからシャワーもちゃんと浴びて行ったぽい。

 

クンクンと、自分の腕を鼻に寄せて臭いを嗅いでみる。

酔っぱらいの臭いはしないな。

傷パッチとか包帯もあるし、シャワーは病院から帰って来てからでいいかな。

 

リビングのテーブルの上に、カードキーと書置きが置いてあった。

 

『先に出ます、病院へは必ず行ってくださいね。

 朝ごはんは用意できませんがシリアルくらいならキッチンの棚にあります。

 病院からは、直接帰ってきても、トレセン学園に見学に来てもかまいません。

 来るときは連絡を。』

 

その横には、洗濯されたジャージと、昨日買って貰った靴下と・・・

なぜか横に別の服一式が畳んで置いてある。

 

あずき色のカーゴパンツと、灰色のシンプルなTシャツに上に羽織る大きめのライトグリーンのワークシャツ、黒い野球帽デザインのバイザー。

着て出かけろ、ということかな。

 

別にジャージでもよかったんだけど、トレセン学園のおひざ元で、部外者がトレセンのジャージ姿で街中をうろうろするのも問題か。

ありがたく着させてもらおう。

 

たづなさんは俺より背が高いから、ちょっと裾やら袖やらまくらないといけないけれど、サイズがちょっと合わなくても、元からダボっとした感じの服でまとまっているから違和感がなさそうだ。

 

しかし、たづなさんもこういうラフな格好の服着るんだな。

 

充電したままのウマホがチカチカ光ってるから見たら、SNSの着信が入っていた。

電話帳にはたづなさんしかいないからたづなさんからだ。

何のことはない、玄関の鍵のかけ方だ。

扉を閉めたらカードキーをドアノブにかざしてイッテラッシャイマセと返ってきたらOK、と。

 

 

 

 

洗濯かごに昨日のと今朝の洗濯物が入れたままになっていたので、タオル類だけ洗濯機にかけておくことにする。

全自動で乾燥までやってくれるタイプだから俺がやってもやらなくても手間的にはあまり変わらないかもしれないけど。

 

服の類は、女性ものはもうイヤってくらい洗濯の仕方が細かいから、手を付けない。

間違えると服自体をダメにしたりするからな~。

それでなくても、柔軟剤少なめにしないと香りがきつすぎるとか、これは一緒に洗われたらもう着られない!とか独特のこだわりがあったりもする。

その点タオル類は色物と分けるだけで済むし、間違っても怒られることってまずないから勝手に洗濯しても安心というのもある。

 

昨日お風呂に行く前にタオルを引っ張り出してた引き出しを失礼して・・・

畳み方は同じようにしておけば、せっかく洗ってくれたけど畳み方がちが~う!でも、畳み直すとか嫌味になるし、とか葛藤させることもない。

ま、お世話になっていますって言う誠意よ、誠意。

誠意は大事。

 

 

 

 

軽くシリアルをいただいて、10時頃、タクシーを呼んでURA総合医療病院に向かう。

10分ほどでたどり着いた。

何のことはない、東京競馬場・・・いや、東京レース場か、とトレセン学園が見えるくらいの距離にある。

総合病院だからそれなりにでかい。

 

入り口正面のロータリーで降ろしてもらって、総合受付に向かった。

初診者用の問診票と保険証を提出して、整形外科の場所を教えて貰う。

 

保険証は、何の問題もなく使えた。

 

整形外科の待合所には年配の方がぎっしり座っていて、世間話に興じている。

病院が老人の社交場になってるのはウマ娘世界も同じか。

でも、ヒトの老人ばかりでウマ婆は2人ほどしかいないな。

俺を含めて怪我で来てるっぽい若いウマ娘はちょろちょろいるんだけどな。

 

あ、たづなさんが病院に連絡してくれるって言ってたの、いつ頃病院に行くかたづなさんに伝えてないや。

ウマホで聞いてみようと思って、思いとどまる。

たづなさんも仕事中だ、とりあえず受付で聞いてみてからでも遅くはない。

 

とりあえず整形外科の受付に聞いてみたら、承っております、とのことだったので、そのまま呼び出しを待つ。

どう見てもこの待合室に40人以上はいるので、へたしたら2時間以上待たされるかもしれないな、と思ったらまさかの即時呼び出し。

 

待ってるお爺ちゃんお婆ちゃんごめんね、と診察室に入ろうとしたら、看護師さんにレントゲン撮ってきてね~と放射線科に案内された。

 

レントゲンを撮って待つこと20分くらい。

また呼ばれたので今度こそ診察室に入る。

 

「おおう、痛々しいね、股関節脱臼だって?」

 

あごに貼ってある傷パッチかな?

問診票片手に、フレンドリーに話しかけてくる医者の先生。

座り仕事だからかちょっぴり恰幅のいい感じのちょび髭の男の先生だ。

 

机の上の液晶には、すでに俺のものと思われるレントゲンが表示されている。

 

ズボンを脱いでこちらに寝てください、と看護師さんに言われて診察台に横になる。

 

脚の包帯の下も見るからね、と包帯を外して出てきた指の跡くっきりのあざに、先生は呆れたような声を出した。

 

「・・・ウマ娘同士で喧嘩でもしたのかい?」

「え、いや・・・あの、岩場の穴にはまってしまいまして、引っ張って貰ったら・・・」

 

我ながらとっさにいい言い訳ができたものだと思う。

少なくとも岩にはまって引っ張って貰ったのは事実だ。

 

「・・・珍しい怪我の仕方したね。ちょっと脚動かすよ、痛かったら言ってね。」

 

片足を抱えられて、あっちこっち可動域を確かめられる。

太ももをお腹に押し付けられるほど押されたときはちょっと痛くてくぐもったうめき声が出てしまったが、それ以外は特に痛みもなかった。

 

「はい、いいよ。ズボン履いて。うん、大丈夫だね。うまく処置されてるね、腫れてもいないし。」

 

脱臼したまま長時間放置してしまうと、関節周辺が腫れてしまって脱臼した関節をはめ直すのが難しくなるらしい。

トレセンのトレーナーに処置してもらったと言ったら、なら間違いないと太鼓判を押されたよ。

特にこれと言って、リハビリや通院治療はいらないそうだ。

 

「でも、脱臼が癖になるといけないから、2週間はおとなしくしててね。走るのは禁止。」

 

他に気になるところある?と聞かれて、あばらが痛い、と言ったら先に言ってよと怒られてまたレントゲン室送りになった。

 

まぁ、結局あばらは折れていなかったんだけどね。

 

若いっていいね、と言われたけど、ホントそう思うよ。

 

保険が効くからと、レジ袋が膨らむくらい、めいっぱい出してもらった包帯やら塗り薬を受け取って病院横の薬局を出たときには、もう12時を回っていた。

とりあえず、たづなさん宛てにSNSで2週間安静でOKって送ったら、しばらくしたらニコニコマークだけが帰って来た。

忙しいんだろうな。

 

今回の通院でかかった費用は全部で8000円ちょっと。

収入のない身としてはそこそこに痛い出費かな。

打撲の薬は、たづなさんがどうもあのでかいベッドで一緒に寝る気みたいだから、湿布じゃなくてあまり臭いのしない塗り薬にしてもらった。

 

さて、朝はシリアルに牛乳かけて申し訳程度に流し込んだだけだから、運動してないとはいえ空腹だ。

 

ウマホで調べると、府中駅の近くにショッピングモールがある。

まあどこのショッピングモールも上の方の階にレストラン街みたいなのがあるはずだから、ご飯を食べるところに困ることはない。

服なんかは正直自分のセンスがないので後日たづなさんと買いに来ることにして、現時点でわかっている日用品の一部は買って帰りたい。

今朝なんて、歯ブラシがないのに気づいて下のコンビニに走らなければいけなかったしな。

 

てくてくと歩いていくと、信号のある交差点から大きめの通りに出ると、ありました、ウマ娘専用レーン。

一見、青く塗られたあっちの世界の自転車専用レーンみたいだけど、あっちと違って違法駐車車両に塞がれまくって使えなくなってる、みたいなことはないのね。

ウマ娘世界のドライバーは善良だなあ。

 

パッと見たところ、ウマ娘がその上を走っている姿はなかった。

買い物袋下げたママさんウマ娘がセールの為に疾走してる姿とか見られるかと思ったんだけど残念。

俺は走れないので、歩道の中をてくてくと歩いてショッピングモールへ向かう。

 

ショッピングモールにたどり着いてみると、んん、この辺の地価が高いのかな。

比較的コンパクトなショッピングモールがいくつか集中している感じだ。

 

とりあえず手近なショッピングモールの入り口にある案内板を見てみる。

 

100円ショップと、服飾店のウニクロとCU、ホムセンのフーナンも入ってるな、ここにしよう。

とりあえずご飯を食べたいので食事処の集中している階に上がる。

 

『ウマ娘盛り有り〼』

『わんこラーメンチャレンジ!』

 

おおう、挑戦的なのぼりを立てたラーメン屋がある。

一郎系リスペクトも扱っているのだろうか、もやしが山のようなサンプルが。

一瞬で頭の中がラーメンモードに切り替わってしまった。

 

もう迷うことなくラーメン屋の暖簾をくぐる。

 

「いらっしゃ・・・いませ・・・?」

 

・・・ざわ・・・・ざわ・・・

 

店に入った瞬間、なんか店員の目が一斉にこっちに釘付けになる。

 

なんだこの反応・・・

 

とりあえず、空いているカウンター席についてバイザーをとる。

今日は濃い味のラーメンをがっつりいきたい。

味噌と餃子でいいか。

 

「味噌チャーシュー、ウマ娘盛りと餃子一つ。」

 

注文をした途端、店内の異様な雰囲気は霧散した。

 

しばらくして、普通のラーメンどんぶりの2倍くらいありそうな器のラーメンを運んできた店員さんに聞いてみると、

 

「いや、お客さん、葦毛に見えたもので。

 トレセン学園の葦毛のウマ娘さんがこの辺の店のチャレンジメニューをことごとく・・・」

 

と、苦笑いしながら答えてくれた。

 

はい、皆まで言わなくて結構です。

オグリの手配書が回っていたんですね、わかります。

俺、髪も尻尾も真っ白けだからな、葦毛のウマ娘が入ってきた!チャレンジメニュー荒らしか?と警戒するわ。

 

「ごゆっくりどうぞ。」

 

打って変わった愛想のいい態度に苦笑しながら、ラーメンと餃子を堪能した。

 

いや、うまいよ。

この味噌は、絶対北海道石田醸造の紅壱点!

今まで、うまいと思った味噌ラーメンは、必ずこの味噌を使ってた。

俺の好みにどんぴしゃりの味なんだ。

汗だくになりながら猛烈な勢いでラーメンを啜る。

 

ちょっと量の多さに負けて最後の方は延びてしまったが、大変おいしくいただいたので、レジでこのおいしさならトレセンの大食いウマ娘にも狙われるわけだ、って褒めたら、お替り無料のサービス券くれた。

ええっ、あの大きさのラーメンのお替り無料なの?!

ていうか、5~6人前はありそうなラーメンと餃子で1800円とかこの時点で破格だと思うのだけど、ウマ娘向けの食品て安く設定されてるのかな。

 

ラーメン屋を出た俺は、ドラッグストアに寄って、店員を捕まえる。

ウマ娘の髪の毛と尻尾、どっちにも使えるヘアケア製品でお手頃な価格のものをお勧めしてもらうためだ。

 

「これなんかどうですか?」

 

ちらちらと俺のキューティクル輝く白毛に視線をやりながらお勧めしてくれたセットもののバスサイズシャンプー、リンス、トリートメントは全部で8000円超え。

誰もが知っている紫誠堂の製品だ。

300円のリンスインシャンプーで過ごしてきた俺としては、えらく高く感じる。

ていうか、化粧品に金をかけるということが今までなかったのでばかばかしいとも思うんだけど、相場を知らないからそう思うだけなのかもしれない。

 

「ティーン向けので、もう少しお手頃な奴は?」

 

「それですとこちらですね~」

 

ティーン向けと銘打ってるわけじゃないけど、ROLAのシンプルなボトルのセットだ。

うーん、それでも6000円超えるな。

高い。

男性向けの、トニックリンスインシャンプーのボトルなんか1本だけで済むうえ2000円もしないのに。

 

でもあんまり変なの使うと、たづなさん困らせるだろうしな。

まあ、これにしとくか。

 

お勧めのヘアケア製品をかごに突っ込んで店内を物色していると、耳関連のケア製品群を見つけた。

耳の中用のドライシャンプー&リンスに、ブラシのセット。

そして、頭を洗う時用のマシュマロみたいな耳栓!

 

・・・耳栓のパッケージが思いっきり子供の絵なんだけど・・・

幼児しか普通使わないのかこれ・・・

 

だが、今の俺には必要なものだ。

かごに放り込む。

 

これまたちょっと高くはついたが、ヘアケア製品のおまけだとかで、かなり容量のある販促用のショッピングバッグを貰ったので、それに全部突っ込んで、100円ショップへ向かっていたのだけれど・・・

 

「ああ、キミキミ。ちょっとお話聞かせて貰える?」

 

ごつい紺色のチョッキを着て『警視庁』のバッジを付けたウマ娘の警察官に引き留められた。



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げぇっ!警察官!

職質回ですよ~

ライダーの敵、警察官登場です~

ちなみに、錆びだらけのぼろい自転車に乗っているとほぼ確実に職質受けます~
親戚の警察官によれば、真っ先に声をかけるべきおいしい不審者だそうで~


ウマ娘世界に来てから初めてウマ娘の警察官なんて見たけれど、でかい。

身長180cmくらいはありそうだ。

そして、肩幅もでかい。

正直な話、ウマ娘と呼びたくない、デカ女と呼んでやりたい。

 

そのでっかいウマ娘警官がちょっと腰をかがめて俺に話しかけてきていた。

 

「ちょっとあっちのベンチでお話ししよっか。」

 

有無を言わさず階段の踊り場に設置されたベンチに誘導しようとする。

 

「何か御用ですか?」

「ん~?いや、平日のこんな時間に、キミくらいの年頃の子がうろうろしてるってのが気になっちゃってね。

ちょっとお話聞かせてくれればすぐ終わるから。」

 

ぬ?

学校サボって遊び歩いてる不良ウマ娘か家出少女か何かと疑われているのか?

 

「ね、ちょっとお話しするだけだから。」

 

言葉は優しいが、目が笑っていない。

 

俺は自分の顔が盛大にひきつるのを感じた。

 

俺は、基本警察官を信用していない。

バイク乗りなら99%、警察官と聞いたら唾を吐くだろう。

交通安全取り締まり強化週間とかが始まると、あいつらはもう難癖としか思えないようなやり方でバイク乗りを違反者に仕立て上げようとするからだ。

何度不毛な争いをしたことか。

 

苦々しい顔で固まっていると、

 

「お話してくれないと、いつまでたっても帰れないよ?」

 

と、やんわりとした脅しが来た。

・・・これだから警察官てやつは。

 

でもここで応じないでいると応援の警察官呼ばれて囲まれるんだよな・・・

そうなると、囲んだ警察官から、もうもろに不審者扱いで四方八方から詰問されて精神がすり減る。

 

「・・・ハァ。わかりましたよ。」

 

仕方がないのでベンチに向かう。

 

「で、何なんです?」

「ん~、その前にお名前と、学生証見せてもらえる?」

「名前は、ラベノシルフィー。

 学生ではないので学生証はありません。

 病院の帰りなんで保険証ならありますが。」

「保険証見せてくれる?」

 

保険証を見せると、表、裏とひっくりかえすように見て、なんか余計いぶかしげな顔になる。

 

「扶養でも国民でもないって、働いてるの?その歳で?」

 

あっ!

あっちの世界で会社勤めだったから、国民健康保険じゃないのか!

 

「他に、身分証明できるものある?」

 

免許証があるが、どうしようか。

なんかウマ娘自警隊とかで取れるちょっと特殊なものらしいんだよな。

参ったな、そのあたりのこと聞かれたら答えられない。

 

「あとは、クレジットカードとかキャッシュカードくらいしか・・・」

「全部出して。」

 

ああ、ダメだこれ。

財布の中身全部ぶちまけないと終わらない奴だ。

 

平日の昼間の階段の踊り場とか滅多に人が通るもんじゃないけど、それでもゼロではない。

時折ぶしつけな視線を感じる。

警察官と、明らかに未成年なウマ娘。

晒し者もいいところだ。

 

しょうがないので、財布の中のカード類、会員カードなんかも含めてぶちまける。

 

「これで全部です。」

「他人のものはなさそうだね~って、免許証?」

 

早速見つかってしまった。

免許証を手に取って、くるりと裏返す。

 

途端に、警察官の態度が軟化した。

 

「あ~、ウマ自の卒業生か。

 ごめんね、疑って。

 そうやって怪我人のふりして悪さする子も結構いてさ~。」

 

???

ウマ自って、自衛隊みたいなもんじゃなかったっけ?

そこの卒業生?

意味が分からない。

でも、ここでそんなこと聞くのは明らかに悪手だよな。

ウマ自の中で何やってた?とか聞かれたら答えようがない。

 

「わかっていただければいいんです。」

 

さも当然、といった顔で答えてごまかす。

 

「うん、時間取らせちゃったね。

 ごめんね。

 大変だろうけど頑張って。」

 

でっかいウマ娘の警察官は、最初とは違った優しい目で、謝りながら去っていった。

 

ベンチにばらまいた財布の中身をしまうと、ちょっとウマホでウマ自について調べてみる。

 

・・・う~ん、どう見ても自衛隊のウマ娘版だね。

陸自に特化してるっぽいけど。

それ以上でもそれ以下でもない、という情報しか、ウマホでざっと見た感じではわからなかった。

 

午後一で出鼻をくじかれたけど、100円ショップに行って、櫛とかウマホの充電ケーブルとか、気が付いたものを買う。

 

ホムセンではウェストポーチを買った。

ウェストポーチは何かと便利だ。

ジャンパーやズボンのポケットというのは、ものをたくさん詰めると膨らんで垂れ下がって結構みっともない。

ウェストポーチは、あまりでかいのだと野暮ったいけど、適度な大きさのものはそういう服の着崩れから解放されるので一個あると便利だ。

バイクに乗る時も、と考えて、ウマ娘世界に来た時、バイクウェアやヘルメット一揃いダメにしたことを思い出す。

買い直すのに10万近い出費だ、と考えてちょっと萎えた。

あとでバイク用品売ってるところ探さないとな。

じゃないと、トレセン学園に置きっぱなしの愛車を動かすことすらできやしない。

バイク用品扱っているところはだいたい郊外に多いので、この近くにあるといいんだけれど。

 

服飾店では、もう少しおとなしい下着の替えが欲しいのと、スポブラで長髪でも着やすいのはないかな~と。

黒い下着は白い服に透けるので、いい加減な着こなしができない。

スポブラは下から頭を通すタイプのは、単純に髪の毛が邪魔で着難い。

 

しかし、天下のCUやウニクロでもこれ、と言ったのはなかった。

とりあえずCUで、スェット上下のセットとジーンズ、Tシャツを買う。

部屋着にできるし、何ならちょっとした外出でも行けるだろう。

 

ウマホで調べたら、ショッピングモールからちょっと離れたところにファッションショップいまむらがあった。

あっちの世界にいたときはいまむらは女性ものばかり増えて男性ものの扱いが減っていたのでイマイチ利用しなかったが、ウマ娘になった今ならばそれは逆に品ぞろえが充実してるってことだ。

 

ショッピングモールを出て、なんかどっかで見たなーという商店街を抜けて、いまむらに入る。

おお、庶民の味方のお店、雑多で、安っぽくて、実際に安いこの安心感よ。

 

スポーツウェアのコーナーに、前チャックのブラとセットの商品があったのでそれをいくつか。

靴下も色違いで買っておく。

 

うっ!CUで買ったのよりも安くて好みのTシャツを見つけてしまった。

部屋着によさそうな、ヘビーオンスっぽい布地が厚くて丈夫そうな短パンも。

ええい、買ってしまえ!

 

というわけで、一通り部屋着で外をうろうろ可能な田舎のヤンキーねーちゃん風ローテーションの服が揃った。

 

ほぼ衝動買い的にものを買い込んでいった結果、そこそこ大荷物になってしまった。

貰ったショッピングバッグはもう一杯で、追加で買った服のビニール袋をぶら下げる羽目になっている。

 

さすがにこれで、トレセン見学はないだろう、と、府中駅前のタクシー乗り場からタクシーに乗って帰ることにした。

タクシーに乗ってから気づいたのだけれど・・・

行先を告げようとして、たづなさんのマンションの名前を知らないことに気づいた。

ちょっと固まってしまったが、カードキーの表にそれらしいロゴがあったのを思い出してカードキーを引っ張り出したものの、筆記体をさらに崩したようなロゴで読めない。

 

タクシーの運ちゃんに、直接カードキーを見せたら、ああ、立派なところ住んでますねとすぐにわかってくれて事なきを得た。

 

その日の晩、帰って来たたづなさんと夕ご飯を食べながら、ウマ娘の警察官の言っていた『ウマ自の卒業生』の話を聞いたのだが・・・

 



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ウマ娘の闇と決心と

ウマ自のお話とヘタレ主人公がようやく・・・ですよ~



今日の夕食はたづなさんが買ってきた、好きなお惣菜を詰め込んでグラム売りしてくれるお店のお弁当。

和洋中いろいろ混じったお惣菜を二人でつまみながらの夕食。

 

「ウマ自は、ウマ娘の孤児や訳ありの子供の自立を支援する機関でもあるんですよ。」

 

はい?

 

ウマ娘自警隊。

戦後、日本軍の代わりに発足した陸上自警隊の一部で、後方支援任務を主に担当する。

ウマ娘の超人的な体力を生かし、自動車やヘリの入れない山地などの任務や、補給、支援などで迅速な作戦行動に貢献する。

小学校卒業の資格があれば、入隊試験は受験可能。

 

ここまでは、ウマホで調べられた。

けどあっちの世界の自衛隊って、鉄砲撃ちたくて、戦車に乗りたくてみたいな邪な理由で入隊するか、ちゃんとした人は防衛大学に入ってエリート目指す例は知ってるけど、子供の自立支援なんて話は聞いたことがない。

ウマ娘世界の自警隊というのはちょっと違うようだ。

 

「ウマ娘って、よく食べるでしょう?

 そのうえ、子供でもヒトの大人顔負けの力がありますから・・・

 親の経済力の問題で、ウマ娘が単純に育てられない例はもちろんあります。

 ただ、それ以上に多いのが、ヒトとヒトの間にウマ娘が生まれてきてしまうと、親がその・・・育児中に大怪我してしまったりで、結構ウマ娘の孤児って多いんです。」

 

ああ・・・なるほど。

ヒトの子一人が経済力の限界の家庭にウマ娘が生まれちゃったり、母親がウマ娘じゃない家庭にウマ娘が生まれちゃうと手に負えなくなってしまうのか。

 

「児童養護施設なんかもあるんですけれど、家庭に問題があって育った子はひねくれてしまう子も多くて。

 小学校を卒業する頃のウマ娘なんて、暴れられたらヒトじゃもうどうにもなりませんからね。」

 

「そこで、文武に秀でたウマ娘だらけのウマ自に入れて、しつけしてスキルを身につけさせて、自立できるようにしよう、ってわけか。」

 

「はい。

 ウマ自も無制限に孤児を受け入れられるわけではないですし、いくら能力があっても子供を余りに危険な任務に送ると世間からの突き上げが来ますからね。

 ある程度スキルを身に着けて、民間で就職先を見つけると卒業ってことになります。」

 

「それでなんか警察官の態度が生暖かいものになったのか・・・」

 

「たぶん、中学生くらいなのに一人で社会に出て頑張るえらい子、って感じで見られていたんでしょうね。」

 

ふふっと微笑まれる。

 

ウマ自に所属する子供、あっちの世界だと、新聞奨学生あたりが近いかなあ・・・

新聞奨学生は不登校の子供とかがやってるのを聞いたけど、このウマ娘世界でウマ自のお世話になるような孤児は、たぶん数が段違いに多い。

意外とウマ娘世界もキッツいとこあるなあ。

 

「大きいウマ娘の警察官ですけど、ウマ娘にもいろいろいるんですよ?

 トレセン学園に入るようなウマ娘って、もう走るために生まれてきたようなすらっとした子が多いんですけど、そうじゃないウマ娘もいるんです。

 走るのは私たちほど速くないんですけど、手足が太く頑丈で故障知らず、ウマ娘の中でも特に耐久性と力に特化したようなウマ娘ですね。

 彼女たちはだいたい身体が大きいです。

 彼女らと組み合ったら絶対勝てませんよ。」

 

「そんなに違うの?」

 

「はい。

 パワーだけだと最低でも私たちレースをするようなウマ娘の1.3倍くらいあります。

 すごいウマ娘だと握力がトンを超えますよ?」

 

うわ~、アイアンクローされたら頭蓋骨割られそうだ。

 

「ウマ自の卒業生は、それはもう厳しくしつけられているので、ウマ自出身、ていうだけでそこそこの信用はあります。

 少なくとも、まじめに働く常識をわきまえた子、という感じで。

 でも、こういった国の支援制度からあぶれてしまう子もいます。

 悪さする子、って言うのも、万引きやひったくりをする子たちのことでしょうね。

 主にヒトを狙って、ウマ娘の脚で逃げ切るんです。」

 

「最初は、俺もそうみられていた、と?」

 

「平日の昼間なのに繁華街なんかうろついて、まっすぐ帰ってこないからですよ?」

 

怒られた。

 

今日買ってきた大荷物を見て、たづなさん、あ~あ、って顔してたもんな~。

ヘアケア製品は、まあこれなら、って合格点を貰ったけど。

 

「たとえウマ娘でも、人通りがあまりないところで、金目のものをひけらかしていると襲われますからね?

 万が一、こういった強盗のウマ娘に会った時は、人目のある方に迷わず逃げてください。

 絶対に、立ち止まって戦おうとしないでください。

 ウマ娘の強盗は、相手がウマ娘だと冗談抜きで殺しに来ますから。」

 

うわ~お。

ウマ娘世界の日本て、場所によってはアメリカのダウンタウン並の治安だったのか。

何でも、ウマ娘の凶悪犯とみなされると、警察官には警告の後の射殺が許可されているとかで、あっちの世界の警察官みたいに威嚇射撃して散々ためらったのちに脚に向かって発砲とか、そんな優しくはないらしい。

おっかない。

 

ちなみに、ウマ娘同士で殴り合いの『けんか』になった場合は、もう無理ぃ~!ってところで降参の様子を見せたら、大抵そこで終わるそうだ。

変なところで動物の本能に忠実なんだな。

 

しかし、孤児にストリートチルドレンか。

 

あっちの世界じゃ戦後30年もしたらほとんど見かけなくなったと言われてたけど、ウマ娘世界だとウマ娘という存在自体が引き起こしてるずっと続いている問題なのか。

 

 

 

 

夕飯を食べ終わって、まったりモードの時に、ちょっとかしこまってたづなさんに当面の生活費を手渡した。

 

「いきなりでぶしつけかもしれませんが、この世界で右も左もわからない俺の面倒を引き受けてくれてお礼のしようもないです。

 当面の生活費の足しくらいにしかなりませんがお納めください。」

 

金額にして10万円。

 

たぶん、たづなさんの収入からすれば、お小遣い程度の額。

数週間、たづなさんにご飯を食べさせてもらうだけで消えるくらいの額。

でも、あっちの世界でおっさんでした、と宣言しておいて、三女神に託宣されたからってそれに甘えてたづなさんのヒモ生活を楽しむほど俺は落ちぶれてはいないつもりだ。

元社会人としての最低限の矜持、けじめって奴かな。

 

・・・それに、酔っぱらっていたとはいえ、たづなさんが自ら『おかあさん』を名乗ったんだ。

孤独だったかもしれないウマ娘世界で、『帰って来てもいい場所』ができた。

あの自称女神のおかげもあって、って言うのがちょっと癪だが。

決心はついた。

 

「俺は、2週間して怪我が治ったら、トレセン学園で走ってみます。

 たづなさんのご期待に沿えるかわかりませんが。」

 

一瞬、困ったような顔をしたけれど、たづなさんはお金を受け取ってくれた。

 

「私がこれを受け取って、あなたが気持ちよく走ることができるなら、受け取ります。

 頑張ってくださいね。」

 

『がんばってくださいね』、かつてアプリで、何度も何度も聞いた言葉だ。

それが直接俺に向けられる日が来るとはね。

 

「・・・ただ、トレセン中央に集まるウマ娘は勝つことに貪欲です。

 それ以上に、いい加減な気持ちでレースに臨まれるのを嫌います。

 勝っても負けても、レースに全力で挑むことだけは忘れないでください。」

 

俺は黙って頷く。

いい加減な気持ちで臨めば噛み殺されるぞ、とたづなさんの目が語っていた。

 

・・・はずなのだけど・・・

 

なんで徐々にジト目に変わっていくんですかね?

 

「ところで・・・受けとったのはいいんですけど、このお金は、やましいお金じゃありませんよね?」

 

あ、あれ?

俺なんか疑われてる?

 

「ま・さ・か、とは思いますが、警察の方に目を付けられたのって・・・」

 

「い、いや!ちゃんと前の世界の稼ぎですよ!?

 三女神様が気を利かせて貯金をこっちに持ってきてくれたんです!」

 

「ホントですね?

 信じますからね?」

 

まさかの怪しいお金扱い。

この流れでそりゃないよ、たづなさん。



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ウマ娘って水に浮かないらしい

閑話風味の回です~


どうも、たづなさんが、俺はお金を大して持っていないんじゃ?と思っている様子なので、とりあえず通帳を再発行してもらうべくウマホで銀行を検索中。

今キャッシュカードしかないから、とりあえず通帳を誤って紛失したことにして再発行してもらおう。

 

あっちの世界で住んでいた八王子市がウマ娘世界にはないみたいなので、キャッシュカードの店番号がどうなってるのかな、と調べてみたら全部『府中支店』で統一されてた。

八王子市は、ウマ娘世界じゃ一面畑と田んぼになっていたよ。

八王子市だけじゃなく、あっちの世界で首都圏周辺のベッドタウンだった場所、結構な割合で畑か田んぼだ。

そのせいか、あったはずの地名が無くて、~郡て区分けがあちこちに残ってる。

かなりあっちの世界よりもこのウマ娘世界は農業が盛んなようだ。

 

ところで、ウマ娘ネームのハンコってどうやって作ればいいんだろう?

たぶん府中駅前のショッピングモールに行けば、ハンコ屋さんの一つや二つあるだろうからそこで聞いてみるか。

 

あと、ヘルメットとプロテクター入りのライディングウェアを手に入れないと、バイクに乗れない。

それに、もしかしたらライディングウェアは別な用途でも役立つかもしれないしね。

バイク用品店は・・・と。

多摩霊園の方にバイク館があるな。

 

でも、ライディングウェア一式ってなると結構大荷物だ。

 

買い物のためにタクシーで往復ってのもなあ・・・

 

いや、脚が治れば、ウマ娘の力だったらそんな問題でもないのか?

急ぎじゃないし、これは後にしようか・・・

 

 

ウマホをいじりながら悩んでいたら、たづなさんにお風呂に誘われた。

ジャグジーが空いている時はしばらくそっちにしましょうと。

俺としては気持ちがいいので大歓迎だ。

 

で、お風呂を上がったら、なんかメジャーで身体のサイズを測られた。

 

「次のお休みの時、お洋服買いに行きますからね?」

 

と。

 

測られて、スリーサイズを言われても、その数字がいいのか悪いのか元男の俺にはさっぱりわからない。

更に、ブラには胸囲の他にカップサイズというものがある。

水着グラビアの宣伝文句に驚異のFカップ!とか書いてあるあれだ。

スポブラやチューブラはだいたいのサイズが合えば、収まりさえよければいいらしいのだが、ぴったりフィットの他の形状のものはそうはいかないらしい。

トップだアンダーだと言われても俺にはさっぱりだ。

とりあえず、この胸って何カップなんですかと聞いたら、BかCにちょっと足りないくらいじゃないかしらと答えられた。

専門店に行くとフィッティングしてくれるそうだが、下着買うのに専門店か、とも思う。

男の下着の専門店なんて見たことも入ったこともないからね。

 

脱衣所にヘルスメーターがあったので乗ってみたら、思った以上に重かった。

たづなさんにメジャーでざっくり身長測って貰ったら俺の身長は150cmちょっとあるらしい。

その身長でまさかの60kg台、170cm台だった男の時と大して体重が変わらない。

 

たづなさんにあっけらかんと、

 

「ウマ娘の体重だったら、普通だと思いますよ?」

 

と言われる。

 

筋肉と骨密度の関係で、ヒトよりもだいぶ重く出るのが普通だとか。

 

たづなさんは体重どれくらいなんだろうと、ヘルスメーターの前でたづなさんが乗るかと期待のまなざしを向けていたんだけれど、

 

「秘密です。」

 

と言って、頑としてヘルスメーターに乗ってくれなかった。

 

 

ふと、ウマ娘がそんなに重いと水に浮かないんじゃ?と思って尋ねたら、やはりそのままじゃ浮かないらしい。

 

筋力にものを言わせて無理やり浮くことはできるが、スタミナを使い切って泳げなくなると途端に溺れるので、脚のつかないところでの遠泳などは結構危険だそうだ。

 

ウマ自が陸上自警隊しかないのはそういう理由・・・と思ったら違うらしい。

 

ウマ娘はパワーはすごいが、食料消費も半端ないので、限られた食料を携えての遠征の類には全く向いておらず、ウマ娘海上自警隊が組織されないのも、宇宙へ行ったウマ娘がまだ二人しかいないのもその食糧補給が間に合わないからだという。

ウマ娘世界に来て初めてわかる事ばかりだ。

スーパーマンみたいなものかと思っていたら、意外と向き不向きが激しい種族なんだな。

 

 

そうそう、買ってきた耳栓はすごく役に立った。

もともと耳の周りの毛って結構脂っけがあって水を結構弾くみたいなんだけど、シャンプーとかで洗ってしまうと濡れるようになってしまう。

耳を伏せて水が入らないようにするのがまだうまくできないからこのマシュマロみたいな耳栓をすれば一人で頭が洗える。

 

ただ、髪の毛にシャンプーを撫でつけていたら、なんかたづなさんがそわそわしててね。

たぶん、もっとここはこう、みたいに手を出したいんだけど、ここで出すのも・・・と、見るからに初めてのお使いを見守る親みたいな葛藤してて・・・

ひとりでできるもん!と言うほどシャンプーの仕方にこだわりはないので、洗えてないところないですか~と訊くことでたづなさんのもやもやを解消してもらうことに。

髪の毛や尻尾が艶々になるのはうれしいんだけど、ここまでの手間をかけて美しくなりたい、って言う動機が無いんだよな、俺には。

だからどうしても面倒に感じてしまうし、こまごまとした洗い方に気を付けようって言う意識が足りない。

機械的に、うまく洗える手順を考えてみるか・・・

 

 

お風呂から上がった後のトリートメントは買ってこなかったので、またたづなさんのを使わせてもらったけど、仕上げのこれだけで充分きれいな艶が出るので実はシャンプーとかはもうちょいケチっても良かったんじゃないかな・・・

 

なんにしろ今日もお風呂に2時間だ。

女性の身だしなみってホント時間かかるな。

 

 

風呂上りに、ささっと冷蔵庫に近づいたら、先回りしたたづなさんに阻止された。

 

風呂上がりのキンキンに冷えたビール・・・

 

「癖になったらトレセン学園に入った時に苦労しますよ?」

 

いえ、もうなってます。

 

正論でたしなめられると返す言葉は無いんだけど。

 

でも、そこはそつのないたづなさん、色の違う缶を出してくれた。

 

おおっ!ビールだ!

・・・ノンアルコールの。

 

でも、昨日の感じだと相当飲まないと酔わないから同じか~。

と飲んでみたら、やっぱなんか違うんだけど、のど越しはイケル!

 

そう言えば、ウマ娘になってから味覚とか嗅覚とか変わるのかと思ったけど全然違和感ないんだよな。

好みも変わった感じしないし。

そのうち、香りの強烈な代表格本格インドカレーに挑戦してみようと思う。

あれに違和感がなければ、何でも食べられるはず!

ホヤが食えるウマ娘がいるんだ、きっと大丈夫だと信じたい。



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3日目の朝 散歩へ

リアルのウマ娘、手持ちのウララ以外の全キャラSS化しました~
ウララは・・・レースで稼げる称号とポイントがしょぼいので、とるスキルをカードと継承で吟味しないと先が長そうです~


夜、たづなさんも飲み過ぎてへべれけになることもなく、一緒のベッドで寝た。

 

「ラベノシルフィーさんのこと、教えてくれませんか?」

 

と言うので、寝付くまでの間、話をしたよ。

 

あっちの世界でのこと。

なんでそこまで走ることを怖がるのか。

運動音痴とコンプレックス。

 

特に、弟がいて、その弟が学校の学年1~2を争う運動神経の持ち主だったことを話したとき、ヒトの世界でも似たような話はあるんですね、と同情された。

 

ウマ娘は、姉妹として生まれてきたウマ娘の姉が活躍すると、妹が過度に期待される、もしくはその逆で、妹があんなに走るのに姉は、と言った評価に、プレッシャーで押し潰されてしまう話はよくあるそうだ。

この辺は同じ親から生まれたにも拘らず、兄弟姉妹似なかったりするのと一緒と言えば一緒だな。

それに加えて、同じ血縁の一族に固まって同じ冠名のソウルネームを持つウマ娘が生まれてくる傾向があるとはいえ、全く似ても似つかない無関係と思われるソウルネームのウマ娘が生まれてくることも珍しくないらしい。

 

あっちの世界での俺の家庭環境は、家族の仲が悪いわけじゃなかったけれど、俺が学校のテストで100点をとっても親は頑張れとしか言ってくれなかったけれど、弟が小学校の運動会や中学校の体育祭で1位をとった時は誕生日会並にケーキなどを用意されたのを、なんで・・・と理不尽さを感じながら祝っていたのを覚えている。

学校のテストは日常、運動会なんかはイベントだから格が違う、って言われてしまえばそれまでなのだけれど。

弟が運動で活躍するたびに、『お前も身体が丈夫だったらねぇ・・・』と言われ続けたよ。

身体が丈夫だったら、弟のように運動ができたかもしれないのに、ってね。

 

親の言葉に悪気はないのはわかっている。

でも、それって子供心に結構刺さってたんだ・・・

変なところで、俺の境遇とウマ娘世界の姉妹比較がかぶってて、苦笑いしか出ない。

俺と同じく姉妹で比較されて悔しい思いをしているウマ娘もさぞかし多いのだろうな。

 

「・・・でも、弟さんは弟さん、あなたはあなたで、進む道は違ったのでしょう?

 ウマ娘だって、姉妹だからって同じ道を歩むとは限りませんし。」

 

うん、弟は文系の大学に進んで、不動産屋に就職した。

さっさと結婚して子供もいる。

俺は、理系の大学に進んで、バイク三昧の生活を送った。

そして何の因果か、ウマ娘になってここにいる。

 

「あなたはあなたです。

 ウマ娘の、ラベノシルフィーとして、できることをすればいいんですよ。」

 

そんな言葉に、安心してすっと寝つけた気がする。

 

 

 

 

朝、8時。

家主は働きに出かけているのに家主より遅く起きるとか、ちょっと申し訳ない気もするけど、たづなさんと同じ時間に起きてもやることがない。

 

とりあえず、軽く何かお腹に入れてから、トレセンのジャージを着て、散歩に出かけることにする。

 

 

シリアルをキッチンの開き戸から引っ張り出して、お皿を出す。

 

そう、俺はついにお皿を割る心配なく手に取ることができるようになった。

 

ことあるごとにあちこち破壊していた俺のしつけの悪い手なんだけど、昨日あたりから急激に力加減がヒトだったころの感覚に戻りつつあるんだ。

 

あれ?と思ったのは昨日の夕ご飯の後。

昼間も、ラーメン食べる時に箸折らなかったな、と。

 

あんまりにも普通に使えていたんで、自分でも気が付かなかった。

 

試しに、お弁当についてきていた割り箸を手に取って使ってみる。

 

箸を指で挟むとしっかりとした感触があり、力を指先に込めると箸がしなるのがわかる。

 

ウマ娘世界に来た初日に、理事長室でお昼ご飯を頂いたときは、指で触れるものすべての感覚が薄かった。

指で、ちょっとつまんだ、という感触が実はコインを折り曲げるレベルの力入ってました、そんな感じだったんだろうと思う。

 

それが今は、ヒトが物を手に取った時の感触そのまま感じ取れている気がする。

触覚が、50kgで押しているのを1kgしか出てないよ?と嘘をつくのをやめてくれた感じ。

 

その上に、ウマ娘として出そうと思えば上乗せした筋力を出せる、そんな感触。

 

とりあえず、ウマホでスワイプする時に、力が入りすぎていて液晶表面をスワイプした指の通った後が変色するあの気まずさを感じなくて済むんだよ。

こればっかりは変態笹針師に感謝だ。

 

ただ、今度はヒトの腕力の限界点以上の領域のウマ娘パワーを出したときの加減がわからない。

このぐらいの力を出したら人間は怪我をしますよ、って言う、ウマ娘が子供の頃遊びで身に着けるはずの力加減がわからないんだ。

今の俺がゴルシキックの真似をしたら人死にが出るかもしれない。

全力を試すのは時と場所を選ばないとな・・・

 

まあこれで日常生活がまともに送れそうなのはありがたい。

 

・・・そして、軽く、お腹に入れただけで、昨日と今日の2日で1kg袋のシリアルが空になった。

 

 

で、なんでトレセンのジャージを着て外出しようとしているかと言えば、昨日たづなさんに言われたからだ。

 

「歩けるなら少しでも身体を動かしておかないと、太りますよ?」

「・・・」

 

ウマ娘の身体になったからと言って、その能力をこれっぽっちも使うことなく、怪我をして食っちゃ寝。

しかもヒトの3倍くらい食べ続けている。

 

中身がおじさんで、女性として美しさを極めようなんて気がないにしろ、太っていると言われるのは性別年齢問わず気になるもの。

 

だけど、昼間から出歩いて、昨日のような補導未遂は避けたい。

 

「トレセンのジャージがあるから着て行けばいいじゃありませんか。

 このあたりならそのジャージ姿のウマ娘を不審者扱いする人はいませんよ?」

 

仮にもトレセン学園の職員が部外者にそのジャージ着用を勧めるとは思ってもみなかったのだが・・・

 

「もう部外者じゃなくなるんですから。」

 

その一言で、それもそうかと納得してしまった。

 

それに、トレセン学園の学園生は午前中は座学で校外に出てくることはまずないため、出くわして根掘り葉掘り、というのも心配ないらしい。

 

マンションを出たらまっすぐ下って、河川敷に出たら河川敷のサイクリング兼ウマ娘ロードを適当に散歩して帰って来るのがお勧めとのこと。

 

行けるなら、府中駅前まで歩きで行って、雑用を済ませるのもいいかもしれない。

例え途中でもう無理ぃ~状態になっても、ウマホがあれば、どこでもタクシーが呼べる。

いざとなればそれで帰ればいい。

 

トレセンジャージに似合わない、あのごついライディングシューズを履いて俺はマンションを出た。

 

 

昨日買ったウェストポーチは買って正解だった。

ウマホと財布をジャージのポケットに入れるとかさばるので邪魔でしょうがない。

財布が小銭で重くなっているので、ズボンが重さで下がってくるのも鬱陶しい。

それがウェストポーチに入れてしまえば全部解決する。

 

 

マンションに面した通りは、結構広くて、普通にウマ娘専用レーンが敷かれていた。

その外側の歩道を歩いて、坂道を下っていく。

 

歩いていても痛みはないが、こう、内腿のあたりに力がイマイチ入らないのが辛い。

踏ん張りがきかないのだ。

下り坂で、変に足に負荷がかかるせいなのか、すぐにだるさを感じ始める。

 

・・・ウマ娘ってヒトの10倍近く筋力があるはずなのに、怪我をしているというだけで自分の体重さえまともに支えられなくなるのはいったいなぜなんだろうか。

 

足をしっかり踏み締めて踏ん張るのがだるいので、膝を伸ばしてひょこひょこと足を前に出して歩く。

こんな歩き方をするのは家族の登山に付き合わされて疲れ切って下山した時以来だ。

 

そんな歩き方で20分ほど下っただろうか、前方に大きめの駐車場とワンコイン自販機が立ち並ぶ休憩所みたいなものが見えてくる。

助かった。

 

グダグダになった脚を動かして、自販機の前のベンチに座り込むと、そこには先客がいた。

 



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トレセン学園の闇と一人の卒業生

キッツい話、第二弾です~
タイトルの地獄、の一部ですね~
これで読まれてる方に嫌われないといいんですが~


ようやくたどり着いた自販機のベンチで大股を開いてベンチを占領し、水筒を煽っていたのは、20代後半くらいに見える背の高いウマ娘のお姉さん?だった。

鳥の尻尾みたいに短髪を頭の後ろで結んで、黒っぽいジャージを着ている。

服装だけ見ればジョギングの途中、って感じだ。

 

しかし、視線を向けたのが気に入らなかったのだろうか、因縁を付けられた。

 

「オレの顔になんかついてっか?」

 

・・・ヤバイ系のねーちゃんだった!

 

「いえ、脚が限界なので、ベンチを使わせてもらえたらと。」

 

「お?ああ、すまねえな。

 ・・・なんだオメー、生まれたての小鹿みたいに脚が震えてんじゃねェか。

 座んな。」

 

意外とあっさりとベンチを占領していた脚を閉じて座るスペースを開けてくれた。

自販機で、スポドリを買ってベンチに座る。

彼女は、スポドリを開ける俺を、じっと見つめていた。

 

「いいねェ、金があるってのは。」

 

水筒を、煽る。

 

「いえ、別にお金があるってわけでは。」

 

「気軽に自販機でスポドリ買って飲めるだけでも十分金持ちだ。

 オレなんかこれよ。」

 

ちゃぽちゃぽと水筒を振って見せる。

 

「水筒ですか。」

「オレ特製のスポドリ、つまりただの砂糖水だ。

 塩もちょいと入れてるがな。」

 

ケッと、自嘲的に笑う。

 

「オメー、トレセン生だろ?」

「えぇ、まぁ。」

「トレセンの学費知ってっか?」

「いえ。」

 

俺が、学費を知らない、と答えたとたんに、か~~~っ!と喉を鳴らしながら、仰々しく右手で目を覆って頭を振る。

 

「知らねェときたか!

 いいご身分だなァおい!

 

 ・・・トレセン中央の学費は、年間700万だ。

 普通の家庭で払える額じゃねェ。

 つってもそれはオレがいたころの学費だ、今はもっと高ェかもしれねェ。」

 

このやばそうなねーちゃんもトレセン出身者だったのか。

しかし700万?!

医学部か理工学系の私立大学並じゃないか!

トレセンの学費なんてもの、考えてもいなかった。

義務教育ではない学校なんだから学費はかかる、考えてみれば当たり前の話だ。

 

「中等部から高等部まで通い続ければ、4200万だ。

 最低限の飯は寮とトレセンの食堂で食えるとしても、生活してりゃ他に要り用なもんで月に5万から7万はかかる。

 裕福な家じゃねェと、トレセンになんかとても通わせられねェ。」

 

世帯収入が700万未満なんて家庭はざらだ。

俺は今15歳だから、高等部からとしても半分の2100万。

自前で学費を負担すれば、あっちの世界から持ち込んだ貯金のほとんどが吹っ飛ぶ。

 

「トレセンに入る大体のウマ娘は中等部からの入学だ。

 無利子の奨学金なんてのもあるが、それを使えば、中坊にしていきなり5000万近くの借金を負うってことだぜ?」

 

くらくらと、めまいがする。

あっちの世界でも奨学金貧乏の話は時々問題になっていたが、あまりにも額が大きすぎる。

 

「入学当初はよ、トレセンの連中は重賞に勝てば学費を取り戻すにゃすぐだ、なんて話をするが、世の中そんなに甘くねェ。

 レースの賞金で、実際に走ったオレらが受け取れるのは3割だ。

 その3割も、奨学金を受けた連中は、優先して返済に充てられるから実質ゼロだ。」

 

あっちの世界での高額所得の税率に近いな。

1億の賞金を得たとしても、一発でトレセンの学費6年分全額を賄えない。

しかも、奨学金返済が優先で天引きか。

奨学金の支給額設定を上げないと、在学中に友人と付き合いに使う小遣いすらも危うい。

 

「運良くレースに勝ち続けて、奨学金を全額返済したとして、ようやくスタートラインだが、レースに出続けるにも金がかかる。

 レースに出るための移動費はトレーナーにたかればいいが、レース用の公認服や靴、蹄鉄は自前だ。

 体操服一式2万、レース靴が最低で2万、蹄鉄で1万4千。

 こいつらは消耗品だから、ダメになったら嫌でも買わなきゃいけねェ。

 まかり間違って破損したままだとレースの時の審査に引っかかって出走停止だ。

 共通勝負服はレンタルもあるが、買うと7万。 

 ちなみにGI用のオリジナルデザイン勝負服の相場って知ってるか?

 最低でも200万。

 メジロやシンボリの勝負服なんか3000万超えるって聞くぜ?

 まぁ、GIに出られる奴は重賞をそれなりに勝ってないとGI出場すらできねェからな、億単位で賞金稼いでるはずだから払えねェってことはねェとは思うが。

 そいつらにとっちゃ、勝負服の代金なんてこれから稼ぐ額を考えれば先行投資だと割り切れるうちに入るんだろ。」

 

自前の勝負服が最低200万?!

いや、プロのデザイナーに頼めば一品物だ、そのくらい行くか。

最低ラインというと、ハルウララのあの体操服デザインあたりだろうか。

それでもその額を、自前か。

普通の家庭で全部賄うのは確かにきつい。

 

「オレはGII、GIIIをいくつか勝って稼ぎはしたが、結局未返済の奨学金が900万くらい残っちまった。

 さんざんバイトもして、死ぬ気で走ってこのザマだ。

 GIも勝ってねェウマ娘においしい話なんてこねェ。

 卒業したら社会にポンと放り出されてそれまでよ。

 走ることにしか頭も身体も使ってこなかった非常識の塊だ、まともに雇ってくれるとこなんざ限られてる。

 まぁ、きつい、汚い、危険、三拍子揃った3K職場だぁな。」

 

ため息を吐き、彼女は空に向かってうつろな目をした。

学園、とは言いつつも、華々しく羽ばたいていくのはほんの一握り。

実体はあっちの世界でいう芸術大学や声優、アニメーション学校なんかに近いかもしれない。

著名人を輩出することはあるが、大半は学んだこととは何の関係もない職に就き、歴史の中に埋もれていく。

 

「・・・今は、何を?」

 

絞り出すように、聞く。

聞かないとならない。

たまたま出会った彼女に。

自分が、もしかしたら歩むかもしれない道の一つを。

 

「ああ?仕事か?警備員と転売ヤーだ。

 外で働いて、家でも働く。

 じゃないと飯が食えねェ。

 全盛期過ぎたとはいえ、オレらウマ娘は食う。

 食費だけで月に12から15万、大食漢のやつは平気で30万からの飯を食う。

 それに加えて家賃だ光熱費だ、ウマホ代だってかかってくるんだ、稼がないとならねェ。

 春には税金だ、健康保険だと数十万単位の出費もある。

 トドメに、月々の奨学金の返済だ、金がいくらあっても足りねェ。」

 

よく見ると、彼女の足元に大きなボストンバッグと警備員のヘルメットが置いてあった。

これから仕事なのか、それとも仕事帰りなのか、自分の脚で移動しているのだろう。

 

しかし、家賃が5~7万として食費で月に15万、光熱費で2万、900万の無利子の奨学金を、月5万で返済したとして15年。

転売で稼ぐにしてもネットは必須だし、梱包用品や送料で一時的な出費もある。

額面で30万程度稼いでいたとしてもカツカツの生活が15年続く。

これはかなりきつい。

奨学金を返し終わったら何歳だ?

もう人生の半分が終わっている。

 

「だが、ウマ娘だって老いる。

 いつかは身体が動かなくなる時が来る。

 その時に備えなきゃいけねェ。

 国民年金なんざ、18から最後まで払っても、ウマ娘にゃ老後の飯代の半分くらいにしかなりゃしねぇ。

 大喰らいのウマ婆はさっさと餓死しろってのかよ、なぁ?」

 

ははっと投げやりに笑う。

 

「・・・オレは今トレーナーを目指してる。

 中央は無理かもしれねえが、地方なら潜り込めるかもしれねェ。

 トレーナーはただでさえ年俸がいい。

 それに担当が勝てば歩合でボーナスが出る。

 オレがやったみたいに担当にたかられる分を差し引いても老後の蓄えくらいはできるはずだ。」

 

トレーナー、と聞いて、ふと、地雷かもしれないが、聞いてみた。

 

「・・・結婚は、考えないんですか?」

 

彼女は、そんなことを言われるとは思ってもみなかったのだろう、目を丸くしてきょとんとした表情を浮かべた後、盛大に笑い出した。

 

「はっはっはっはっはっは!・・・無ェよ!無ェ!

 この性格だ、●●●を食いちぎられる!と逃げる男はいるが、寄って来た奴ぁいねェ!

 つーか、それができるなら今頃オレは水商売でもっと稼いでる!」

 

見ろこの貧相な胸を、と、薄い胸を両手で支えてたゆんたゆんと揺らして見せるも、揺れるものがほとんどない。

彼女はとてつもなくスレンダーだった。

 

「・・・なぁ嬢ちゃん、オメーみたいに、トレセンに親がどんだけ金払ってるのか知らずに学園生活楽しむのもいいけどよ。

 世の中にゃ、たった50万ぽっちの借金で首をくくっちまうまじめな大馬鹿野郎や、同じくらいの額で人を殺しちまう頭のおかしいのがいる。 

 オレらウマ娘もたいがい馬鹿だけどよ、5000万なんて言う馬鹿みたいな額の借金背負ってまで血反吐吐いて上に這い上がろうとしてる奴もトレセンにはいるっての覚えとけよ?」

 

水筒が空になったのを、覗き込みながら、よっと彼女はボストンバッグを背負った。

 

「じゃぁな、お嬢ちゃん。

 暇つぶしにしちゃ、面白かったぜ!」

 

ベンチ際から路上に出て走り去っていく彼女。

現役を引退して久しいであろう彼女の走りは、素人目に見ても、まぎれもなく完成されていて美しかった。

でも彼女は、レースの世界では、届かなかった。

届かなかったが故に、彼女は今、トレセンで走っていた時以上に絶対に怪我のできない、孤独で後に引けない生活を続けている。

怪我をしたら、人生が詰む。

崖っぷちの、そんな生活を。

 

トレセンを出たウマ娘の『その後』を聞いて、府中の街中に出て雑用を、なんて思いは、吹っ飛んでしまった。

暗澹たる思いを抱えて、俺はマンションへの道を、家路を急いだ。



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明かされる真実

はいはい、口直し回ですよ~


その日、仕事が立て込んでいたのだろう、たづなさんが帰ってくるのは遅かった。

一緒にご飯を食べていても、イマイチ味がよくわからない。

 

昼間、ろくでもない話を聞いてしまったせいで、頭の中からとある考えが離れないのだ。

 

『やはりトレセン学園入学なんて辞退した方がいいんじゃないのか?』

 

学費があんなに高いとは思わなかった。

たづなさんが平気な顔をしているからと言って甘えられる額じゃない。

残ってる貯金を全額突っ込んで入学するにはバクチが過ぎる。

 

「・・・何か悩み事がありそうですね?」

 

「うん、あとで話すよ。」

 

ご飯時にわざわざ話すようなことじゃない。

 

風呂に入って、たづなさんがいつものようにビール缶を空き缶に変え始めたときに、俺は昼に出会った奨学金返済で苦しんでいたトレセン卒業生のウマ娘の話をした。

 

話を黙っていたたづなさんは、少し考えると口を開いた。

 

「・・・気性難のウマ娘ですか。

 面倒くさい人に絡まれましたね。」

 

「・・・はい?」

 

なんか思ってもみなかった答えが返ってきた。

気性難のウマ娘?

 

「たまにいるんですよ。

 彼女は、たぶん固執型ですね。

 気になっていることに触れてしまうと、それに固執してしまうんです。

 言いたいこと全部吐き出すまで止まらなかったんじゃないですか?」

 

確かに。

聞いてもいないことまでしゃべり続けて、ひたすら金が足りねェ!って話ばかりしてた。

 

「普段からお金のことを気にしていて、そこであなたが何かスイッチを入れちゃったんでしょうね。」

 

あ~、水筒の自作スポドリ飲んでいる目の前で、自販機でスポドリ買っちゃった事か。

当てつけみたいになってたのかもしれないな。

 

「そういう気性難を持っていると、あちこちでその弊害が出ます。

 レースで、前のウマ娘をマークしたとするでしょう?

 固執がひどいと、マークしたウマ娘を追うことで頭がいっぱいになって追い抜くのを忘れてゴールしちゃうんです。

 ただでさえレース中は頭の働きが鈍りますから、いくら脚が速くても、こういった癖が出てしまうとなかなか勝てません。」

 

ついてく、ついてく、しているうちにそのままゴールしちゃうのか。

走り去っていくときの彼女の走り方は、見惚れるほどきれいだった。

なのに、GIに届かなかった、と。

確かに難儀な問題かもしれない。

それに、重賞レースには歴戦のウマ娘が集まってくるだろうから、レース前の駆け引きなんかで揺さぶられたら、冷静じゃいられなくなるだろうしな~。

 

「就職も、難航したでしょうね。

 面接のときに、『趣味は何ですか?』と聞かれて、スイッチが入っちゃったら全部吐き出すまで話が止まりませんし、止めるとものすごく不機嫌になったりするので、まともな企業だとまず受からないでしょう。」

 

「生きてくのかなりきついですね・・・」

 

「ウマ娘は良くも悪くもヒトと比べて本能的、感情的なものに支配されやすいですからね。

 でも、こういった気性だと、一人で黙々と作業するような仕事は得意だと思いますよ。

 警備員やってると言っていたでしょう?

 そこそこ向いてる仕事なんじゃないでしょうか。」

 

警備員は、入社の際に過去の犯罪歴とかは執拗に調べられるけど、それ以外については高給の割には入社の敷居は低い。

俺も学生時代、バイクを買うために夜昼夜の寝ずの3連勤で4万円稼ぐのを繰り返したもんだ。

経営する会社を倒産させて、その借金を返すために働いているおじさんなんかは体力の限界まで連勤してた。

今は労働時間に規制が入っているからそういう荒稼ぎはできないらしいけど、割のいい仕事ではあるからな~。

それに、道路警備でもビル警備でも、他人と話すことがないなら気を取られるものも少ないし。

 

「彼女、お金がないなりにスポーツドリンクを自作して、疲れる体力勝負のはずの仕事の行き帰りにジャージまで着込んで走ってるんでしょう?

 走るの大好きじゃないですか。

 トレセン学園で自分の人生は無茶苦茶にされた、なんて思ってたら、いくら高給取りの仕事だからってトレーナーになってまた嫌な思い出のあるトレセン学園に近づこうなんて思いませんよ。

 いろいろ誤解されやすい性格してるとは思いますが、走るのを楽しめているうちは、彼女はまだ死んでいませんよ。」

 

彼女の言動を反芻してみる。

トレセンで大借金までして走ったけれど得られるものがなかった、と自嘲はしていたけれど、走ることを嫌いだとか二度と走らねェ!なんて話は一言もしていなかった。

それどころか、たづなさんの見解じゃ、仕事の行き帰りで走るのを楽しんでいる、と。

・・・よく考えないと理解されないんじゃ、ダメじゃんあのねーちゃん!

 

 

「まあ、彼女の気性難は別にして、トレセン中央の学費が高いってのは事実なんですけどね。

 トレセン中央は決して簡単に入れる学校じゃありません。

 能力的にも、金銭的にも。

 ただ・・・」

 

「ただ?」

 

「ラベノシルフィーさん、あなたはスカウト入学と同様、特待生扱いになるので、学費はかかりませんよ?」

 

「ええええ?!」

 

2000万円超えの学費が無料?!

何の実績も実力もないのに?!

 

「でも、特待生って目立つんじゃないですか?」

 

「そうですね、オグリさんクラスだと目立ちますが・・・

 彼女は、特別ですよ?

 あんな逸材、そうそう出てくるもんじゃありません。

 年間10人以上はスカウトで入ってくるウマ娘がいますが、その中でGIに届くのは僅かです。

 ほとんどは、平凡な実績で卒業していきます。

 GIの掲示板に絡み続けるような大活躍するウマ娘が掘り出されてくるなんて滅多にないんですよ。」

 

それを聞いてなんとなく、プロ野球の外国人助っ人選手を思い出した。

莫大な年俸を貰って、期待以上の活躍をする選手もいれば、まるで活躍せずに契約期間を終える選手もいる。

当たり外れがある、って雇い手が納得していればいいだけの話なのかもしれない。

 

「まあ、あなたはちょっと特殊ですからね。

 ちょっと小細工が必要かもしれません。

 まだ時間はあります、おいおい考えましょう。」

 

よくあることです、みたいな気軽さで片付けられてしまった。

なんだか、一人悩んで空回りして馬鹿みたいだ。

 

「はい。酔いが回り切る前に渡しておきますね。」

 

たづなさんから、透明な書類入れを渡される。

分厚い。

中の紙束の厚さだけで1cm位ある。

 

「入学関係の提出書類です。

 あとで署名して、必要な証明書類は早めにとってきてくださいね。」

 

必要書類として戸籍謄本なんかが必要らしい。

俺の戸籍ってどうなってるんだろうな。

親とか。

まぁなんとなく予想はつくけど。

 

どっちみち街には一回下りないとならないな。

一番厄介そうだった保証人なんかは、たづなさんがもう記入してくれていた。

ウマ娘世界で親類縁者がいない俺には、この保証人がいないせいで下手したら住むところすら確保できずに野宿生活とかに陥る可能性すらあった。

悔しいが、これもたづなさんを俺にくっつけてくれたあの駄女神のおかげか。

 

「明後日は、私もお休みなので、服を買いに行きましょうね。」

 

俺の世話を焼くのが楽しくて仕方ない、といった風で微笑むたづなさんを見て思う。

俺はちょっとテンパり過ぎていたのかもしれない。

今日だって一人だったらまだうじうじ悩んでいたかもしれない。

でも俺は今、一人じゃない。

相談すれば答えを返してくれる人がいる。

しばらくは、頼らせてもらってもいいのかな・・・たづなさん。



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府中の街で入学準備

ちょっとだけ怪しい話を含んでます~


今俺は府中市役所に来ている。

 

「こちらが戸籍謄本になります。」

 

発行手数料を支払って受け取る。

免許証に本籍地が記載されていないので府中の市役所でよかったのかわからなかったけれど、府中でどうやら合っていたらしい。

発行された戸籍謄本だけれども、両親ともに空欄。

ていうか、空欄だらけ。

いいのかこんなんで。

ここでも、例の運転免許証が威力を発揮。

ナチュラルに孤児扱いです。ハイ。

差別、とかじゃないよ?俺に向けられる、生暖かい、がんばってる子視線がもうね・・・

 

ハンコ屋に行って、ハンコも作った。

ハンコの中に入れる文字は何でもいいらしいので、『ラベノ』で。

年配のお爺ちゃんが店番してるカウンターだけのお店だったけど、そのお爺ちゃんがノートパソコンをささっと操ったら、見てる前でハンコが出来上がってきた。

彫刻刀みたいなのをいきなり差し出してきたので、何かと思ったら、

 

「ハンコの枠でも文字でもいいから、印影のどっか目立たないところ削って印付けておきな。

 ウチのハンコ作る機械はハンコ屋なら同じもんがゴロゴロしてっからな、ハンコも同じの作られちまうぞ?」

 

だってさ。

機械彫りの実印なんかにやること多い話だけど、子供だからっていい加減に扱わない誠実な爺ちゃんだな。

何気にウマ娘世界ってこういう人多い気がするんだ。

とりあえずお言葉に甘えて文字の一画の長さをお爺ちゃんの目の前でちょっとだけ短く削ったよ。

 

 

そして銀行巡り。

引っ越しの際に通帳を紛失したことにして再発行を要請したが、たづなさんの機転で助かった。

出かける前に、トレセンのジャージを着て行くように言われたんだ。

 

「たぶん、余計なトラブルが減りますよ?」

 

とのことだったが、その通りだった。

 

最初四井で再発行を頼んだ時、預金額が額なので、カウンターの奥からちょっとお偉いさんぽい人が出てこようとしたのだけれど、俺の着ているトレセンジャージを見て引っ込んだ。

トレセンなら稼ぐ子もいるか、そんな感じらしい。

四井、四菱、ゆうちょと回って、通帳の再発行完了。

 

 

まだ時間があるので、ちょっと街中から外れて30分ほど歩いてバイク用品店のバイク館へ。

ウマ娘用の耳収納付きヘルメットがあるらしいのでサイズとか実際に合わせてみることにする。

お店の中で、ウマ娘用ヘルメットのコーナーに行ってみたんだけど・・・

 

並んでいるウマ娘用ヘルメットって、帽体が一体成型してあるだけで、形はまんま昔流行ったネコミミヘルメットだな。

後ろ頭にかけて、耳を収めるためのネコミミみたいな流線型の出っ張りがある。

被る時にちょっと耳を中のくぼみに合わせるコツはいるけど、クッションに耳が潰されて痛くなることはない。

ただ、値段が張る。

ヒト用の同じシリーズのものより2万円くらい高い。

ウマ娘は自分の脚で走る人多いからバイク人口少なくて数が出ないんだろうな。

サイズはSだとぎっちぎちなので、Mが良さげだ。

SOEIのフルフェイスがいいな。

税金入れて8万円か・・・

トレセンのジャージでヘルメット試着していたからか、店員さんにいぶかしげな眼で見られてしまった。

 

あとはプロテクター付きのパンツ、下着のパンツじゃないぞ、ズボンの方、とジャケットだけど、消耗品と割り切って使うのでコスパのいいKONEMIにする。

パンツは、デニムのプロテクター入り。

プロテクターのふくらみ分、若干野暮ったいものの、いかにもライダー装備なジャケットを脱げば、遠目には普段着風なので、普通に出歩けるから楽でいい。

サイズはS。

・・・しかしよく俺こんな細いズボン履けるよな。

ビールっ腹になりかけてた男の時代だったら片足の太ももでいっぱいになりそうだ。

なぜかレディースのパンツのコーナーにワゴンに入ったカラフルな紐やCの字型の腕輪みたいなのが大量に詰んであったのだけど、バーゲンのアクセサリーだろうか。

 

ジャケットは赤くて前後ろに反射材がついたメッシュタイプ。

晩春~夏~初秋あたりまで着られる。

大型バイクはとにかくエンジンからの熱気がすごいので、夏場なんか服装を間違えると冗談抜きで気絶しそうになる。

渋滞になんかはまったらマジで死ぬ。

ジャケットのサイズはM。

プロテクターを全部入れるとSだとぴちぴちのぱっつんぱっつんになってしまう。

 

グローブを試着していると、若いにーちゃんの店員が寄ってきて、あれがいいですよ、これがいいですよと勧めてくれるのだけど、俺視点では全部ハズレ製品なんだそれは。

ナックル部分にハードプロテクター。

手の平に樹脂スライダー。

これがついてないと転んだ時にまるで手を守ってくれない。

 

いい加減鬱陶しくなってきたところで、この店員、ナンパしかけてきやがった!

うっわキモ!っていうギャルの気持ちがわかったよ・・・

 

もともと今日は実物試着してみたかっただけなので、何も買わずに退散する。

変な店員もいたしネット通販にするかな・・・

 

バイク館を出たあたりでお腹が減っていたので、国道沿いのちょっと先にある中華料理のチェーン店に。

 

ドカ盛りの八宝菜定食を食べているとウマホが着信を知らせてきた。

言わずと知れたたづなさんだ。

 

「用事は済みましたか?」

「ええ、あらかた終わって今ご飯食べてるところです」

「午後時間が空いてるなら、そのままURA医療研究センターに向かってくれませんか?

 連絡しておきますので、採血してきてください。」

「わかりました、医療研究センターですね。

 向かいます。」

 

採血?

たぶん入学手続きに必要なものなんだろうけど、何か病気にかかってないかとかそういう検査だろうか。

ウマホで場所を調べて、午後一で向かう。

 

脱臼した脚だけど、ようやく少し力が入るようになってきた。

平地を歩いている分にはほぼ気にならなくなってきたレベル。

坂道は、まだ辛いかな。

今日もガードレールに寄りかかって休んだりしながらマンションからの丘を降りてきた。

 

バイク館から、ちょっと距離はあったが、URA医療研究センターは何のことはない、URA総合医療病院の隣だ。

背の低い建物が、細い川の土手を背にしてひっそり建っている。

トレセン学園ほど広くはないが運動場なんかも備えた一見学校のような建物だ。

 

さほど大きくもない玄関の受付で名前を告げると、出てきた白衣の女性に書類を手渡された。

 

「自己血管理申請書?

 すいません、何ですかこれ。」

 

「あら、聞いてないの?」

 

「急に採血してきてって言われたもので。」

 

「輸血用の血を抜いて、ストックするための手続きね。

 トレセン生は年に2回、任意のタイミングで採血してストックすることになってるのよ。」

 

とりあえず、申請書にサインしながら話を聞く。

 

「ウマ娘の血って、血液型があってないようなもんだから、ウマ娘同士誰にでも輸血はできるんだけどね?

 大量に輸血されると、体質が劇的に変わっちゃうことがあるの。

 一時的ではあるんだけど、輸血後の体調がぼろぼろになったり、逆にドーピングしたみたいに能力が向上したりね。

 そういうのを防ぐために、公式な競技に出るウマ娘は、万が一輸血が必要な事態になった時、輸血にまず自分の血を使いましょう、って言う決まりがあるのね。」

 

ウマ娘って厳密な血液型がないのか。

ヒト同士からも生まれてくるって言うのに、本当にヒトとは違う別の種族って感じだな。

輸血による体質の変化って、半端に因子が混ざるとかそういうのだろうか?

ウマ娘の身体はいまだに謎が多いとか言われてるから、そんなに研究進んでいないんだろうなあ。

彼女は書き終わった申請書をチェックすると、採血用の椅子に俺を案内して、てきぱきと機材を用意する。

 

「一応、抜く血液は400mlで機材用意するけど、申請書の体重だと結構ギリギリだと思うから、気持ち悪くなったら言ってね。」

 

アルコール脱脂綿で拭かれた左腕に、ぷすりと太い針が刺される。

幾本かの小さな試験管に血を採った後、チューブがつながれて小さな機械がカタカタと動き出し、赤い血がチューブの中を抜けていく。

怪我した時はそうでもなかったけど、こうして血が抜かれるのを間近で見てると、この身体もちゃんと生きてるんだな、とから埒もないことを考えてしまう。

なんかね、やっぱりどこか、自分の身体って言う実感が足りないんだ。

風呂で鏡に映る自分の身体を見るたびに、マネキン人形感がぬぐえない。

でもこうやって血が通ってるのを直接見ると、少し、生きてる、って実感できる。

 

しかし点滴チューブに繋がれるなんて何十年ぶりだろう。

子供の頃はこれがいつも刺さっていた。

動くのに不便でいやなものだったはずなのに、こんなものに懐かしさを感じるとはね。

 

先に昼ご飯を食べていたのが良かったのか、特に気持ちが悪くなることもなく採血は終わった。

 

「はい、おしまい、お疲れさま。

 満量いけたから、今年はあと一回来ればいいよ。

 血液検査の結果は、トレセンに直接行くから。」

 

ん~、献血と違うからジュースとかはくれないのか。

椅子から身体を起こすと、やっぱりちょっと血が足りないのか一瞬目の前に白いカーテンが下りかける。

貧血だ。

こりゃ帰りはちょっと歩いて帰るのはきついかな。

 

自販機で買った飲み物を飲みながら、帰りのタクシーを呼ぶ。

 

夕ご飯は、俺のリクエストでレバニラと焼き鳥にした。

レバニラはたづなさんが、焼き鳥はタクシーで帰る途中いい匂いをさせていた店があったので寄って貰って俺が買ってきた。

血を作らないとな。

取っておいた鳥皮串は、ビールのおつまみにたづなさんに持っていかれた。

明日もたづなさんと街巡りだ。



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横浜買い出し大散財

うちの近辺は農業校とか経済学部系の高校しかないので、いかにもギャル、みたいなJKはいないのですが、JKでめちゃくちゃ化粧や服にお金かけてるのってどこでお金稼いでるんでしょうね~
私の高校生時代はお小遣い月2000円とかだったので、マックにちょっと寄ったらお小遣いなくなっちゃう生活でしたよ~


今日は、かねてからたづなさんと約束していた洋服買い出しの日だ。

 

まだお店が開くには大分早い時間にマンションを出たので、お店開いてるのかなといぶかしんでいたのだけれど、行くと思っていた府中の駅前ショッピングモールをスルーして、改札をくぐって電車を乗り継ぐこと何回か。

そして今俺たちは横浜。

 

横浜駅前のポルカというショッピングモールの喫茶店でお茶をすすっている。

 

「服を買いに横浜まで来るとは思いませんでしたよ。」

 

「今日は私がお休みの日ですからね。

 職員がお休みって言うことは、トレセン生が街に繰り出してきます。

 あんまり目につきたくないでしょう?」

 

たづなさんもトレセンじゃ正体曖昧なままらしいしな~。

ただでさえ目立ちそうなのに、これ以上目立つネタを増やすのは確かによろしくない。

 

「まずは、ランジェリーショップでかわいい下着を10着くらい買いましょう。」

 

「ええ?!

 下着はもう間に合ってますよ!」

 

正直下着はもうお腹いっぱいなんだけど。

コンビニで買った黒い下着はともかく、追加で買ったもので十分着回しできる数は確保した。

何より、かわいい下着とか、見せる相手もいないのに誰得なのか。

 

俺の心の中の不満を知ってか知らずか、たづなさんはまじめな顔をして言う。

 

「どうせ、下着なんて着られればいいとか思ってるんじゃないですか?

ダメですよ?

これからあなたが入るのは、女の子だけの学び舎なんです。

女の子社会のルールを知っておかないと、ひどい目に遭いますよ?」

 

・・・なんだか不穏な話になってきたような。

 

「トレセン学園は、制服着用が義務付けられています。

 お金持ちも、そうじゃない人も皆一緒の格好です。

 着ている服の良し悪しで見下されることはない、というのが建前です。

 でも、着替えの時はどうですか?」

 

「・・・いったん制服脱ぎますね。」

 

「そうです。

 更衣室で、着替える時に下着を見られます。

 たとえ毎日ちゃんと替えていたとしても、同じデザインの下着ばかり着続けたりすると、ものすごく悪目立ちしますよ?」

 

うわマジか。

今持ってる奴、デザイン的に2種類しかないぞ。

 

・・・そういえば、似たようなこと、あっちの世界でもあったわ。

同じ服着続けたり、制服の下のシャツが黄ばんでいたりすると臭いとか陰口叩かれるの。

それが、女性だと着回しローテとか下着の良し悪しでマウント合戦になるのか。

 

「トレセン学園の生徒は、レースに出る限り必ず勝ち負けで順位付けが発生しますよね?

 スポーツですから勝ち負けはあっても恨みっこ無し、が建前なんですけどね、人の心って言うのはそう簡単に割り切れるものじゃありません。

 負けたらその悔しさが、歪んだ形で噴出してしまうこともあるんです。

 幼稚なやり方ではありますけど、『あいつはいつも同じ下着を着ている貧乏人』と言われていい気分はしないでしょう?

 あなたは目立つことを気にされてるようですから、付け入られる隙は減らしておきたいのではないですか?」

 

「・・・おっしゃる通りで。」

 

ため息しか出ない。

ああ・・・これはダメだ、男思考で考えていたらダメな話だった。

ウマ娘は当然女性であるから、美しくあれと子供の頃から教育されて育ってきている。

女性としての評価基準の一部であるそこにほころびがあれば敵対した者はそこを突いてくる。

そしてそこを突かれると、効いてしまうんだ、立場的にも、精神的にも。

もしまかり間違って、俺がそういう悪意を抱かれたら、あいつはクマさんプリントのパンツを履いているなんて話で、面倒な対処を迫られる可能性は確かにある。

向けられる悪意こそ幼稚なものだが、馬鹿にはできない。

幼稚な悪意って言うのはシンプルで単純であるだけに、無視するとエスカレートして手が付けられなくなるのは足の遅さでさんざん経験してきたことだ。

噂を流された時点で余計な労力を使わされて負け。

噂を流されない方が絶対にいい。

 

「・・・下着でこれって言うことは、服も?」

 

「そうですね。

 そのうち同期の友達とどこかへ出かけることもあるでしょう。

 そういったお付き合いの中で、カースト、とまではいきませんが、服装のせいで下に見られることがないとは言えません。

 自分の無頓着さのせいで、仲のいい友達に服のこと指摘させるのも酷ですよ?

 小さなほころびは積み重なると後々大きな影響として効いてくることがありますからね。

 あなたは、中身は大人なんですから、お金の使いどころはわかりますよね?」

 

「・・・」

 

たづなさんも痛いところを突いてくる。

実にくだらないことだけど、男も見栄とハッタリで背広だ靴だ腕時計だとマウント合戦があったんだ、女性に無いわけがない。

亡くなった母親も、呆れるほど服を持っていたが、そういうことか。

 

最低限で計算しても、外行き用の服を、1週間に1回の休日に服を着たとして、1か月4回でローテーション。

それをシーズンごとに用意しなきゃいけないから春秋、夏、冬で12セット必要になる。

その他に、ちょっとかしこまった場に出るための一張羅を1~2着か。

・・・俺たぶんまだ成長期だから、身体も大きくなったら買い替えも考えないと・・・

とりあえず春秋物だけ買うとして、服周りだけでどれだけの出費になるんだこれ・・・

 

「靴や小物もありますね。

 いつまでもそのいかついシューズを履いているのもなんですし、男物の札入れもなんだか容姿に似合わず悪ぶってるみたいで、なんて言いますか、厨二病的な?」

 

「・・・え?俺ってそんなに痛い子に見えてました?」

 

「中学生くらいのウマ娘が、服装に似合わない、いかついシューズを履いて、男物の札入れを取り出す姿は、そうですね、ウマ自出身のウマ娘が、なめられたくなくてめいっぱい背伸びをしてるような・・・」

 

もしかして、あの警察官や銀行の人たちが生暖かい目で見てたのって、ウマ自の件だけじゃなくてそういう・・・

 

・・・だあぁぁぁ~~~!そういうことは早く言ってくださいよぉ~!

 

「すぐ行きましょう、靴と財布を買いに!

 もう下着だろうが服だろうが何でも買いますよッ!」

 

「じゃ、行きましょうか。」

 

やけっぱち気味になった俺はその日、20万円近くを散財して、でかい段ボール2箱もの女性に必要なあれこれを購入する羽目になった。

さすがに持って帰れないので、ミケネコヤマトの窓口に運んでもらって送ってもらうことにしたよ。

 

服は、女性としての所作が身についていないからスカート系はダメだろうとパンツ系ばっかり選んだんだけど、たづなさんに着せ替え人形させられた挙句、すらっとした感じの藍色の半袖ワンピースと網サンダルをプレゼントしてもらったよ。

ちょっとしたフォーマルな場にも着て行けますよ?ってことなので、便利使いできる服のようだ。

お礼を言ったら、お礼よりもこのまま着て帰りましょう、って、試着室から出てきたまま、値札をちょん切られてそのまま着て帰る羽目になった。

白い髪と尻尾が映えるように暗色系の服、なんだろうけど、今は顎や手足から覗く包帯と傷パッチがちょっと目立ちすぎちゃってるかなーって感じ。

・・・スカート、よく初めて着ると足元がスースーするとか言ってるけど全然そんな感じしないぞ?

冬になると違うのかな。

網サンダルは、男物の革靴よりヒールが高いからちょっと違和感がある。

転ばないといいけど。

 

財布は、某有名国内デザイナーの白い革の財布。

ポケットに入れるようなサイズじゃないから、合わせて買ったオレンジ色のショルダーポーチに入れて持ち歩くことになりそう。

これだけでも出歩くスタイルがだいぶ変わる。

 

メイク用の化粧品類は、もう言われたところでさっぱりわからないのでたづなさんに丸投げした。

トレセンにいる間は、日焼け止めメインで、何かイベントがある時だけ半練りのファンデーションとシャドウ使うくらいでいいでしょう、というので、コンパクトタイプの携帯用のセットを選んでもらった。

白毛のウマ娘だと日焼けすると肌が真っ赤になってひどいことになりやすいので、長時間外に出る時の日焼け止めは必須だそうな。

若いっていいですね・・・というつぶやきは、聞かなかったことにする。

たづなさんも、毎日ビール飲んで寝る前に何かしてるわけでもないのに肌きれいなんだから若さをうらやむ方じゃなくうらやましく思われる方だと思うんだけどな。

 

 

横浜中華街でちょっと遅めの昼食を食べてから帰ったんだけど、その帰りの電車の中でたづなさんから爆弾発言が飛び出してきた。

 

「そうそう、時期的に中途入学になりますから、入寮したら歓迎会で、何か一曲踊らされますよ?」

 

明日から、たづなさんが出勤したら暇だな、何して過ごそうなんて考えてたの、全部吹っ飛んだよ。

1週間くらいで、ウィニングライブで踊るような曲一つ憶えて踊れるようにしないといけないとか、無理ィ~!



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格闘系大卒ウマ娘の眼力

コツを教えられただけで一瞬で治る運動音痴はありまぁ~す!


たづなさんが、何気なく落とした爆弾。

入寮の歓迎会で踊らされるという話。

マンションに帰りついてから、夕ご飯後のまったり時間でウマホいじりつつ聞いてみる。

ウマホで見てるもの?

もちろんウイニングライブの動画だよ。

ウマホの中のウマ娘アプリが消えてしまっているから、参考になるのがライブの動画くらいしかない。

 

「中途で入って来た自己紹介代わりに一発芸でも、って感じで始まったらしいんですけど、今は伝統みたいですね。

あんまり気負わなくていいと思いますよ、寮の食堂でちょっと踊るだけですから。」

 

オグリキャップが歓迎会でやった笠松音頭は結構有名らしい。

とはいえなぁ・・・

 

「そもそもですね、俺はダンスと縁がない人生だったもんで、ダンスと名のつくものって、運動会のフォークダンスでオクラホマミキサーとマイムマイムくらいしか踊ったことが無いんですよ・・・」

 

「子供の頃、ブレイクダンスごっことか、アニメのオープニングまねて踊ったりとかしなかったんですか?」

 

「それは、俺よりも後の世代の文化です・・・」

 

たづなさんとの間にジェネレーションギャップを感じる・・・

 

フォークダンスの名前がそのまま通じるってことはそれらはあるっぽいのかな。

ブレイクダンスごっことかか、ウマ娘の身体能力があったら確かに楽しそうな遊びだ、ぐるぐる回るし。

服とか穴だらけになって親は大変そうだけど。

 

「それにですね、今ウイニングライブ動画とか見直してるんですけど、この動き・・・」

 

まっすぐ立ってから腕を伸ばして、水平に腕を振るう。

ブン!と風がうなって、片腕を振り回しただけの遠心力でたたらを踏む。

くるっとターンでもしようものなら転びそうになる。

 

「全力じゃなくても、身体が持っていかれるんですよ。キレッキレのダンス踊る前に、自分の腕力に振り回されてタコ踊りするのがいいとこですかね。」

 

「うーん、その様子だと私の部屋で練習して怪我でもされたら困りますね・・・上のジム使わせてくれないか頼んでみましょうか。」

 

ジャグジーの予約よろしく、集中コンソールで予約を取ってくれる。

 

「土日以外の日中なら、ガラガラでいつでも大丈夫みたいなので、好きな時に行ってみてください。

 ダンスを教えてくれるインストラクターもいますので。」

 

「たすかります~。」

 

その日は、久しぶりに運動音痴コンプレックスが頭を持ち上げてきて、悶々としてなかなか寝付けなかった。

 

 

 

 

翌日、たづなさんが出勤した後、マンションの上の階のジムに顔を出してみる。

廊下の受付にカードキーを出してダンス系のインストラクターをつけてもらえるようお願いする。

「はい、ダンスのインストラクターですね。

 承りました。

 中へどうぞ。」

 

ジムの入り口から、壁にぐるっと手すりの張り巡らされた小ホールに案内されると、スポーツレオタード姿の男性とウマ娘のインストラクターが歩み寄って来た。

 

「こんにちは。私はエアロビクスとヨガを担当しています、小杉です。」

「こんにちは。ボクササイズや格闘技系全般を担当しているリッキーゴウです。」

 

格闘系ウマ娘さんか。

 

「ラベノシルフィーです。ダンスの超初心者なんですが、手足を振り回すと勢いに身体が持っていかれてしまって、うまく踊れないんです。その辺を何とかしたいな、と。」

 

ちょっと考えると、小杉さんはリッキーゴウさんの肩を軽く叩いて踵を返す。

 

「ウマ娘の身体の問題ぽいし、お前向きだな。

 任せた。」

「了解。

 あなたは私が担当させてもらうね。

 ・・・ところでその怪我はダンスの練習してて転びでもしたの?」

 

顎の傷パッチか。

めんどくさいからそういうことにしてしまうか。

 

「ええ、まぁ。」

 

「ちょっと待ってね、マット敷いちゃうから。」

 

2畳くらいのそこそこ厚くて硬めのマットが持ってこられて、床に敷かれる。

 

「どういう動きがしたいのか、ちょっとやって見せてくれる?」

 

マットの上に立ち、くるっと回る動作で勢いがつきすぎてよろめき、腕を水平に振る動作で身体が持っていかれる。

これでも、かなり力を抑えているつもりなんだけどどうにもピタッと決められない。

ライブ曲のメイクデビューは比較的動きが小さく激しい動きもないダンスだけれど、とんでもなく手足を振り回すものも他にはある。

これが踊れないと他の曲なんてとても挑戦などできない。

 

「・・・根本的な問題なんだけど、ダンスやったことない?」

 

「ないです。」

 

くるっときれいに回るとか、そんな技術、子供同士の遊びですらやった覚えがない。

 

リッキーゴウさんが、俺をマットの中央に立たせて指導が始まる。

 

「まずね、ターンだけど、腕で回転のきっかけを作るのをやめてみて。

 はい、腕は横腹にぴったりつけて、振らない。

 

 片足を軽く上げて、回転の勢いは腰の捻りで作るの、ちょっと左向いて。

 はい、右を振り向く感じで腰を捻る!そうそう!

 

 今度は、腰をひねるタイミングで軸足をつま先立ちに。

 はい!ほ~らできた!」

 

 

 

 

うそだろ・・・

アドバイス貰って2分も経たないうちに、1回転ターンが何度でもきれいに決まるようになった。

腰の捻り具合で、1回転どころか2回転だってできそうだ。

 

「すごいですね、あっという間にできるようになりました。

 ありがとうございます。」

 

「すごいって言われるようなことじゃないけどね。

 ラベノシルフィーさん、あなた小さいころから外遊びとかしなかったタイプ?」

 

「そうです。

 運動苦手で。」

 

「なるほどね~。身体を動かすこと自体に慣れてない感じか~。

 その割には身体出来上がってるようにも見えるけどちょっと変わったタイプね。」

 

「あははは・・・」

 

鋭い。

身体動かす専門家にはお見通しか。

 

「次は腕振りだけど、これはできる?」

 

リッキーゴウさんが、頭の脇まで振り上げた手を、斜め45度くらいでビタッと止めるチョップ動作をする。

 

「手を振り切らないで、筋力でピタッと止めるの。」

 

真似してやってみる。

普通にできる。

 

「じゃ、次に、腕を水平に振る動作を、振り切った時に腕を止める事を意識して振ってみて。」

 

腕を止める。

こうか。

水平に、腕を振るうが、真横に来たところで筋力で止める。

 

・・・全然ふらつかない。

ビシッと決まった。

なんだ魔法か?!

 

やっぱりね、という顔で、リッキーゴウさんは言った。

 

「あなたはね、いままで自分の筋力では足りないから、手足を振って勢いをつけて、遠心力で何とかしようって癖がついてるのね。

 それが、本格化の兆しが見えてきて、急に筋力が上がってきたものだから、今までの体の動かし方だと、遠心力がつきすぎて負けちゃうのよ。」

 

・・・なんですと?!

本格化はともかく、ウマ娘パワーで今まで通りに動こうとして失敗しているのにそんな理由があったとは。

分析力がすごすぎる。

ウマ娘インストラクターリッキーゴウさん恐るべし。

 

「本格化したウマ娘の筋力で、全力で手脚を振り回すとか、自滅しかしないから。

全力で手脚を振り回す時は、動かした後のトメ、動作の終わりの形を意識しないと、振り回されて大怪我するからね。」

 

リッキーゴウさんが、ちょっと離れて、うなりを上げる回し蹴りを放つ。

1回転ほどしたところでバランスを崩してたたらを踏む。

 

元の場所に戻ると、また同じように回し蹴りを放ったが、今度はきれいに足を跳ね上げたままの姿勢でビタッと止めて見せた。

 

「ね。

 勢い任せだと、バランスを崩すけど、この形で決める、と身体に準備させておけば、こうしてきれいに止めることもできるの。

 ダンスも一緒。

 どんなに速い動作があっても、決まったポーズを連続で繋げ続けていくだけ。

 制御も考えない勢いだけでできることなんてそんなにないのよ。」

 

ふむ、となると、左右に手を振る、じゃなくて手を左のA地点から右のB地点に移動させる、そんなイメージで身体を動かしていけってことかな。

 

もしかしたらウイニングライブ曲も知っているんじゃないかと思って振りつけの指導を頼んでみたら、リッキーゴウさんはそもそも競走ウマ娘じゃないので詳しくないそうだ。

 

「実家は田舎の零細農家なんだけどね。

 最近大規模農園が流行りで先がないからさ。

 実家継がずに大学でボクシングだ空手だって格闘技やってたらアマチュアで結構いいところまで行って、大学の先輩のつてで派遣のインストラクターやってんの。」

 

実家の方は、ご両親が細々と米なんかを作っているらしいが、村の農協がなくなって、結構遠くまで足を延ばさないと農協がらみの案件を処理できないので大変らしい。

大学の方は、ウマ娘も結構いるそうなんだけど、ウマ娘のアドバンテージってどうしても肉体能力とみられがちなので、頭脳労働職より身体を使う系の仕事の方が求人多くてお給料もいいそうだ。

 

「あとさ、どこの企業も表向きは、ヒトとウマ娘の差別はありません、とか言ってるけど、ウマ娘って、どうしても機嫌の悪さが表に出やすいじゃない?

 会議の時とかにウマ娘の威圧感に負けて逆恨みする人とかが上に上がると、どうしても採用数減るみたい。」

 

企業の経営陣が入れ代わったら、ウマ娘の採用がいきなりゼロになる企業がたまにあるそうだ。

 

ウマ娘が目の前で耳伏せて威圧感出し始めると、もうこめかみに銃突きつけられてる気分と変わらないとかウマホで見たしなぁ。

イラついた拳一つで頭吹っ飛ばしかねない存在が目の前にいて、それがディスカッション相手とか、確かにきつい。

議論そのものが威圧感でひっくり返っては困る研究職とかはウマ娘の存在は確かに排除されるかもしれない。

 

こういう情報源は正直天上人クラスの存在のたづなさんしかなかったので、なかなか興味深い。

 

午前中いっぱい、雑談をしながら身体の動かし方の注意点なんかを教えて貰って、また相談事があったらお願いします、とジムを出た。

 

う、うん、あとは、振り付けを覚えるだけだ・・・

がんばるぞ・・・お~



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踏み出した入学への一歩

ちょっと興が乗ったのでざっくりアップです~
前回と引き続き、推敲が甘いかもしれませんのであとで気づいたら修正するかもしれません~


ジムから帰ってきて、昼ご飯を食べた後、ひたすらウマホでメイクデビュー動画を見てセンターの動きを真似する。

さすがに部屋の中でドタバタ走り回れないので、ほとんどその場で足踏み&盆踊り状態だ。

困ったことに、この若いウマ娘の身体は頭も若返っているのか、結構な早さで振り付けを吸収してしまう。

夕方には、細かい部分はともかく、序盤の1/3くらいはかろうじて踊れるようになってしまった。

 

何時間もウマホで動画を流しながら踊っていて、なんかいい匂いがするな、と思ったときには遅かった。

たづなさんがいつの間にか背後で踊っている俺を眺めていたのだ。

くるっとターンを決めてピースサインを出そうとして、部屋の入り口の壁際にそっと佇むたづなさんと目が合った。

ピースサインを出したまま、たづなさんに背を向けて、固まる。

 

「・・・かわいかったですよ?」

 

「うわぁぁぁぁ!」

 

首元に一気に血が上るのがわかる。

 

その場で小さく足踏み状態の後ろ姿とはいえ、ステップかまして人差し指立ててキャルルン笑顔を振りまいていた姿をじっと眺められていたこの羞恥!

そりゃ、そりゃぁ今はウマ娘だけどさぁ!

中身のメンタルはおっさんのままなわけですよ!

母親が、踊りを踊ってるのが似合う年頃の娘を褒めてくれたのとはまた違う感情が沸き起こるわけですよ!

 

 

あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛・・・

 

 

余りの羞恥心に頭を抱えてうずくまる俺をよそに、ウマホは無情にも動画の続きを流し続けた。

 

 

 

 

「何も声もかけずにじっと眺めてることないじゃないですか!」

 

たづなさんの買ってきてくれたご飯を掻き込みながら文句を言う。

 

「だって、声を掛けたら踊るのやめちゃうでしょう?

 でも、昨日まであんなにふらふらしていたのに、一日でこんなに上達するとは思いませんでした。」

 

なぜか満足げな顔ですましてご飯を食べ続けるたづなさん。

 

「ジムで、いいインストラクターの方と出会えまして。

 見てすぐアドバイスしてくれて瞬く間に欠点をなくしてくれたんですよ。」

 

「アドバイス一つですぐに治ったんですか?」

 

「遠心力に頼りすぎてる部分を、自分の筋力で動かして、行き過ぎない様トメの動作を入れる、って言う話を、具体的な身体の動かし方含めて教えて貰ったら、ふらつかなくなりました。」

 

それを聞いたたづなさんはちょっと何か考えていたが、何か決めたようだ。

 

「ラベノシルフィーさん、明日、トレセン学園に来てもらってもよろしいですか?」

 

 

 

 

・・・翌日。

トレセン学園の登校時間が終わったあたりを狙って、トレセンジャージを入れた紙袋を持って学園に向かう。

脚慣らしの為に徒歩だ。

てくてくと1時間くらいかけて学園にたどり着いた。

 

校門前について、ウマホでたづなさんに着きましたと連絡を入れると、たづなさんがすぐに迎えに来てくれた。

渡された来賓プレートをぶら下げて校内に入ると、すぐに空き教室の一つに案内される。

渡されたのは筆記用具。

 

何をするかって?

テストだよ。

 

「もうちょっと先にしようかと思っていましたが、意外と順応性がありそうなので予定を早めます。

 明日は、あなたがどのくらいの学力なのかと、入学するウマ娘が全員受ける適性検査をしましょう。

 脚が治って走れるようになったら、今予定しているトレーナー候補の方と引き合わせます。」

 

昨日の晩たづなさんに言われたことだ。

 

学力テスト、と聞いて、ちょっと焦った。

さすがに中高生あたりの勉強なんて忘れて久しい。

おまけに、このウマ娘世界とあっちの世界は似てはいても歴史も地理も違う。

ウマ娘社会が抱えている問題なんかは、この数日間で見ただけでもあっちの世界とは根本的に異なる。

一応ここは日本らしいが、首都が同じなのか、都道府県が同じなのか、今の首相は?と聞かれて、自信をもって答えられるものが何もない。

 

あっちでやっていた仕事柄、英語の読み書きはそこそこできるし、一部の数学と物理化学に関しては強い。

パソコンのプログラミングとかもそこそこできる。

でもそれだけだ。

一般常識がごっそり欠けている。

 

とりあえずウマホでざっくりと1時間漬けくらいはしてみたけれど、まあボロボロな結果に終わるだろう。

入学試験じゃないですから気楽にやってください、とは言われたものの、やはり恥ずかしい点を晒すのはな~

 

ウマホを預けて、「じゃあ始めてください。」の合図をしたら、たづなさんは出て行ってしまった。

終わりの時間になったらまた来るそうだ。

 

問題は、選択問題ではなく完全な筆記式。

ごまかしも、サイコロの運に頼ることもできない。

 

パラパラとめくると、論説問題らしき広い回答欄まである。

 

チクショー!やってやらあ!

 

・・・・・

 

・・・

 

 

 

・・・終わった。

両方の意味で。

やっぱり、常識問題は空欄を量産してしまった。

数学はあったけど、理系の問題はなかった。

数学と英語くらいじゃないかな、多少点数取れそうなの。

国語は馬の字を間違えるとヤバゲな臭いがぷんぷんしていたので、そこだけは何とか。

ことわざ問題はもう勉強し直さないとダメなレベルで穴埋め問題ですら予想がつかない。

尻尾の滝登りってなんだよ・・・

社会関係は現首相の名前とかが出てくるのは山が当たったけれど、今日の年月日を答えよ、とか、救急車を呼ぶ際の電話番号とか、んん?と思うようなものもあった。

・・・救急車を呼ぶ番号はさすがに山張ってなかったからあっちの世界のまんま119って書いたよ。

合ってんのかな。

 

食料が高騰して予算内で食料が買いそろえられなかった時、この問題を解決する方法についてあなたの考えを述べよ、って言う論説問題さあ・・・これ今トレセンが直面してる問題なんじゃないよね?!

ちょっとトレセンの財政事情心配になって来たんだけど。

 

 

お昼は、たづなさんが学食のランチを教室まで持ってきてくれた。

あれだよあれ。

人参一本丸ごとぶっ刺さった2段ハンバーグ定食。

特上になると3段になるらしい。

はい、とてもおいしゅうございました。

 

 

 

 

午後は、教室から移動して、守衛ボックスみたいなのがぽつんと置いてある部屋へ。

ジャージに着替えてから、ヘッドギアみたいなのを付けて、その守衛ボックスの中に入ると、扉を閉められた。

 

設置されたスピーカーから声がする。

 

「その中で5分ほどリラックスして過ごしてください。時間が経てば出られます。」

 

音も何もなく、しーんとした狭苦て薄暗い空間に閉じ込められてただ時間が経つのを待つだけ。

壁に寄りかかって、ボケーっとしていたら、突然真っ白だった壁が目玉のような模様に変わって、大音量のワーッという歓声が流れた。

さすがにちょっとびっくりしたけれど、すぐ模様も音も消えてドアが開いた。

 

「お疲れさまでした。」

 

ヘッドギアを外されて、部屋を後にする。

 

「一応、今日やることはこれだけですけれど、見学していきますか?それとも帰ります?」

 

「うーん、ダンスレッスンて見学できます?」

 

とりあえず、当面の課題はこれだ。

実際に指導されてる姿を見学できれば、気を付けないといけないポイントとかわかるかもしれないし、大恥をかく確率が減らせる。

 

「もちろんできますよ。案内しますね。」

 

案内された場所は、低いけれどちゃんとステージまで用意してある結構広いホール。

学園生らしきウマ娘は誰もおらず、指導教官らしきウマ娘が、暇そうに機材の整理をしていた。

誰も練習していなかったか、ダメなら帰ろうかなと思ったら、指導教官と一緒にたづなさんがやってきた。

 

「今時期この時間にここを使う学生はいないらしいので、指導教官が体験レッスンしてくれることになりました。

 頑張ってくださいね♪」

 

「ちょ?!」

 

「独学で昨日から始めたばかりなんだって?

 どうせ入学するなら早いに越したことはない!

 他の生徒が来るまで指導しよう!

 メイクデビューのセンターだな!

 任せろ!」

 

こちらの答えを待つことなく、指導教官がステージ下のコントローラーに飛びついてステージのライト類に灯が入り、巨大な液晶にステージが映し出される。

 

「ステージのセンターに赤い円が表示されているからそこに立て!

 赤い円が移動したらその中に入るように立ちまわれ!」

 

「ほら、せっかくの機会ですよ?」

 

俺の困惑をよそに、聞き慣れた曲が流れ始めた。

ポン、と肩を押されて、よたよたと足を進めるごとにステージが近づいてくる。

 

「できるところまででいい!

 恥ずかしさを捨てて声を張り上げて歌え!

 もうイントロ終わるぞ!」

 

ステージに脚をかける。

 

赤い丸に入ると、ライトが眩しくて目の前は真っ白けで何も見えなかった。

イントロが終わる。

これはカラオケだ。

でっかいカラオケ。

自分に言い聞かせて、歌いだす。

 

「響けファンファーレ~

 届け ゴールまで~・・・・」

 

かつての自分じゃない、少女の声が紡ぎ出すそれは、意外とはっきりとホールに響き渡った。



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突然ですが目覚めちゃいました

あんまり聞いたことないですけど、TS化したら結構うれしいことだと思うんですよ~>高い声が出る


初めてのステージでの歌い始めは、ある意味やけっぱちだった。

完全に頭がテンパって、身体を動かすのも忘れて、ただ歌詞を紡ぐことしかできなかった。

 

だけど、途中まで、歌って気づいた。

 

声が・・・出る?

 

男性特有の声変わり。

中学生くらいを境に、ものすごく狭くなってしまっていた声域。

カラオケに行っても、ほとんどの曲で高音についていけなくなる喉。

小学生の頃歌えていたアニメの曲も懐かしくは思っても歌いきれなくなっていた喉。

 

ウマ娘アプリで、新キャラを手にするたびに最初に見ていたライブ映像。

小さく、かすれた声で口ずさむことはできても、狭い声域の男の喉では決して歌いきることのかなわなかった女声の歌。

 

それが、普通に歌える。

歌いきることができる。

 

知らず知らずのうちに、腹に力が入った。

 

細かった声に、急激に張りと艶が乗る。

その声が、自分の喉から出ていることが、出せることがうれしい。

ここ数十年、歌になんて興味がなかった。

なのに突然湧いてきたこの歓喜はなんだ?!

最初から走れなかった脚と違い、歌えていたのを失ってまた取り戻せた。

忘れていた自分のものを取り戻した感覚は、思った以上に俺の心の根っこを揺さぶったらしい。

 

歌える!

楽しい!

こんなに声が出る!

 

頭がテンパっていたのが逆に良かったのだろうか。

人前で歌う、恥ずかしいなんて言う感情はすべて吹っ飛んで、歌える喜びだけが、全身を支配していた。

ウマ娘世界にこの身体で送り込まれてからずっと、この身体に振り回されてきた。

俺が、初めてこの身体に、ウマ娘の身体になって良かったと思った瞬間だった。

 

 

 

 

「・・・化けましたね。」

 

ステージの上の彼女が変わったのはすぐにわかった。

最初はおずおずと、BGMにかろうじてかき消されないくらいで歌っていた彼女の声が、途中から劇的に変化した。

スタジオホール全体に、生声が響き渡る。

それほどまでに声量が増し、何より、彼女が楽しそうに歌っていた。

尻込みしてばかりの情けない彼女はそこにはいなかった。

見ている人間が、一緒に歌いだしたくなる、そんな生気にあふれた歌声が、彼女から発せられていた。

 

「ああ、さっきまでの様子はいったい何だったんだってくらい化けたな。」

 

まるで別人だ。

長く歌の練習を重ねてきたとしても、ここまで歌えるウマ娘がどれだけいるか。

素直に、賞賛に値する。

 

・・・ダンスを忘れていなければ。

 

「こらー!ダンス忘れんなー!」

 

指導教官から叱咤の声が飛ぶ。

 

彼女は一瞬、あっという顔をしたが、すぐに腕でバッテンを作って歌い続けた。

 

「・・・振り付け憶えていないみたいですね。」

「しょうがねぇなあ・・・」

 

指導教官が、ステージ下でラベノシルフィーの前に立ち、踊り始める。

ラベノシルフィーもワンテンポ遅れて、とっ散らかりながらもその動きをトレースし始める。

 

二人して決めポーズを決め、曲が終わる。

 

「ワンモアセッ!」

 

指導教官の声とともに、すぐにまたイントロがスピーカーから流れ始めた。

 

 

 

 

・・・自分が、こんなに歌うのが好きだとは知らなかった。

 

僅かな曲間の休みに、考える。

 

声変わりして、好きだった曲を歌いきれなくなったのは、知らず知らずのうちに俺の心の奥底に鬱屈した何かとして溜まっていたらしい。

バイクが俺の唯一の趣味だと思い込んで三十余年も生きてきたが、俺は変声期で声が出なくなって、歌が歌いきれなくなったことを仕方がないことだと諦めきっていたんだろう。

そして、すっかり忘れていた。

ウマ娘にならなければ、自分が変声期で歌えなくなったことが実はこんなにも大きなことだったなんて知ることすらできなかった。

 

指導教官にお願いして、ステージ上で覚えてないダンスパートを続けてリードしてもらう。

俺も指導教官も、動きっぱなしで着ているジャージに汗染みが浮いてしまっているがそんなのお構いなしだ。

 

まだちょっと迷いはあるものの、通して踊れるようになったころに、ぽつぽつと、レッスン生が顔を見せ始めた。

 

レッスン生が来るまで、という約束の体験レッスンだ。

 

まだこの場所にいたい。

無意識に、ステージに上がる前だったら絶対に考えなかったことを考える。

 

しかし、曲は終盤もあとわずか。

楽器の余韻を残して、曲は終了してしまった。

 

ちょっと物足りなさを感じながらステージを降りようと足を踏み出す俺に、指導教官からの声がかかる。

 

「ワンモア!」

 

・・・まだ続けてもいいらしい。

同時に、ステージ下で待っていた4人ほどのレッスン生が、ステージに上がってきた。

 

「私たち、サブやるからよろしくね。」

 

見知らぬウマ娘たちが左右につく。

 

「私らはバックね~」

 

パチッとかわいくウィンクして、彼女らは後方へと小走りにかけていく。

 

サブあり、バックダンサーありの、ステージ練習が始まった。

 

サブと呼吸を合わせての演出は一人でステージ上を動き回っていたのとはまた違う。

 

お互いの位置関係、伸ばした手が当たらない間合いの取り方、動き始めのタイミング。

何度も手や体がぶつかりそうになり、移動のタイミングがずれてステージがストールする。

 

何度も練習を繰り返すうち、レッスン生が一人増え二人増え、気づいたときにはフルバックダンサーで踊っていた。

 

「ラスト!」

 

指導教官の指示が飛ぶ。

これが最後だ。

 

ジャージだったり、自前のダンス服だったり、服装はバラバラだけど、ずらりと並んだウマ娘たちが、俺の練習に付き合ってくれている。

今年入学したわけじゃない上級生は、もうこの曲を踊ることはほぼないだろうに。

中等部も、高等部も入り混じって、このステージに立ってくれていた。

自然と気合が入る。

 

数分後、ステージ下の観客の拍手を受けて、この楽しい練習は終わった。

 

正味3時間。

休むことなく歌って踊り続けた俺は、もう体力が残っていなかったらしい。

へにゃりと座り込んだら、もう足が言うことを聞かなかった。

 

ステージ下に陣取っていた髪に青いメッシュが入ったどこかで見たことのあるウマ娘が、こっちにニパっと笑いかけて立ち去った。

 

 

 

 

その晩、たづなさんは上機嫌だった。

 

「あなたが、あんなに楽しそうにしているのをはじめて見ました。」

 

・・・自分でも、今日まで歌を歌いきれるのがこんなに楽しいことだと理解していなかったんだ。

 

「こんな動画が出ていましたよ?」

 

と、ウマホを見せてくれる。

 

15秒程度の短いものだったけれど、とあるウマ娘のウマッターに『ヤバみバみの新人みっけ!』と、ステージの上の俺が媚び媚びなポーズで人差し指を立てて笑いかける瞬間の動画が投稿されていた。

ジージャダサカワイイ!ステージ衣装はよ!何年生?中等部?またゴルシか!などのコメントがずらずらと並んでいる。

イイネが4桁、リプライがもうすぐ4桁、リウマートが200を超えているのを見て、羞恥のあまり俺は悶絶した。




パリピ語は正直これで正しいのかわからないので、もっとふさわしいのがあったらよければ教えてください~


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ウマ娘たるもの、ご飯は最優先

ふへ~30話続くとは思いませんでした~
これからもよろよろです~


起床した。

が、ベッドから出られない。

動くと、全身くまなく襲い掛かる激痛。

 

・・・そう、筋肉痛だ。

 

いかにウマ娘の若い健康な身体とは言っても、いきなり3時間もぶっ続けで普段動かしていなかった筋肉をダンスで酷使したんだ。

正直、アドレナリン大放出状態の狂った頭で、ノリノリにカワイイ笑顔とかも作っていたものだから顔の筋肉まで痛い気がする。

思い出すほどに、恥ずかしくて顔に血が上る。

 

枕に顔を埋めて悶えていても埒が明かないので、痛みをこらえてロボットみたいな歩き方で洗面所に向かって、顔を洗う。

 

リビングに向かうと、ソファーの前のテーブルに、ちょっと分厚い古めのノートパソコンと数冊の本、メモが置いてあった。

 

『試験の結果、社会常識が穴だらけだったので、暇なときにそれで勉強してください。』

 

本は、ちょっと使い込まれた感じの慣用句・ことわざ辞典と国語辞書。

ノートパソコンの方は、ブラウザのブックマークにたづなさんチョイスらしい地理やら歴史やら、日本の国体の解説ページ、マナー講座なんかの常識実用系から、知っておくと便利ですよ的な幼児向けの昔話やらジョーク集、果てはウマ娘の身体の秘密、なんていう興味深・・・いや、怪しげなページまで網羅されていた。

 

これは、フリなんだろうか。

 

赤ちゃんはどこから来るの?って聞いてみようか、と一瞬考えたけれど、昨日の体験ダンスレッスンににこやかに放り込まれた件といい、最近たづなさんの遠慮がなくなってきてる気がするのでキャベツから生まれてくるんですよとか言いながら笑顔のままチョップを振り下ろしてきそうで怖い。

 

まあ冗談はさておき、古めとはいってもノートパソコンを置いていってくれたのはありがたい。

ウマホは便利だけど画面が小さいから広げて見たいページなんかは操作が面倒くさい。

これでマウスもあれば楽だったんだけどね。

 

しかし、この置いていってもらったノートパソコン、たづなさんには悪いけど、本当に古いぽい。

重くて分厚くて、バッテリーが取り外せる形式だ。

しかも長い間使っていなかったらしい。

見た目はきれいだから、買ってすぐ使わなくなってしまいこんでいた、とかそういう類のものじゃないだろうか。

検索エンジンをHayoo!からあっちの世界で使い慣れていたものに変えて・・・あったあった、これだろ、ウマグル。

 

今日は一日中、パソコン相手にお勉強することにした。

 

・・・・・

 

・・・

 

 

夕方。

腹が減って目が回りそう。

 

朝食兼昼食を、と思って、キッチンを漁ったら、たづなさんが買い置いていたシリアルが切れていた。

困ったことに、たづなさん自炊はする気がないらしくて、キッチンには他の食材が全くなかった。

冷蔵庫の中には、大量のビールと牛乳、氷とアイスノンくらいしか入っていない。

 

身体中痛くて着替えるのも億劫だったので、夕ご飯くらいまで保つだろ、と思ったが、甘かった。

 

空腹を感じて冷蔵庫の牛乳を飲みつくしたものの、焼け石に水状態。

 

想像以上の速さで空腹度合いが進み、空腹から飢餓感へ、そして動く気すら起きなくなった。

 

テーブルに突っ伏したままぐったりと動けなくなっている、それが今の俺。

 

 

 

 

「もう、ご飯くらいちゃんと食べてください。」

 

帰って来たたづなさんが買ってきたお弁当を貪り食べる。

 

「いや・・・もぐもぐ。

 こんな動けなくなるなんて思わなかったし・・・もぐもぐ。」

 

「ウマ娘はヒトよりも力がある分、燃費悪いの忘れないでくださいね?

 ウマ娘は食べられなくなった時が死ぬとき、って言われてるくらいなんですから。」

 

「ふえ?」

 

それも、ウマ娘世界の格言みたいなものなんだろうか。

 

「ウマ娘はヒトの3~5倍以上食べるでしょう?

 逆に言えば、それだけ代謝が激しいんです。

 ヒトの真似して、1週間水だけ絶食ダイエット、なんてしたら干からびて死んじゃいますからね?」

 

「冗談ですよね?え?違うの?」

 

もう本当にこの子は、というまなざしが突き刺さる。

 

「その辺も含めて、勉強してください。

 あなたはもう、ウマ娘なんですからね?」

 

・・・ウマ娘の身体の秘密、ってジョークでも何でもなかったらしい。

実は真っ先に見るべきだったのはこのサイトだったのかもしれない。

 

とはいえ、今はご飯だ。

空きっ腹にカロリーがしみわたる。

ああ、食べられるって素晴らしい。

 

 

さて、お風呂に入った後、いつもやってる傷の手当てをだいぶ減らした。

脚のあざはだいぶ薄くなったし、あごやあばらの擦り傷はかさぶたが完全に張ってパッチを剥がしても汁が染み出たあとがない。

傷パッチは肘だけにして、包帯は全部取った。

身体が若いからだろう、治りが早い。

若いを連呼するとたづなさんのジト目が飛んでくるので口には出さないけどね。

 

お風呂上がりのまったりタイムに、ノートパソコンでバイクウェアの販売ページを見ながら、トレセン学園で買った荷物を直接受け取って貰えないか、たづなさんに聞いてみた。

バイクがトレセン学園の駐輪場に置きっぱなしなので、全身分のヘルメットやらジャケットやらをここで受け取っても運ぶのが厄介なのだ。

 

「ん~、大荷物ですとさすがに事務方で扱うのは置き場所に困りますから・・・美浦寮宛てに送っちゃってください。

 寮長とはもう顔見知りですよね?

 もうすぐ入寮の連絡行くでしょうし、たぶん取り置いてくれますよ。」

 

おおっと、何気に新事実発覚。

俺美浦寮に入ることになるっぽい。

俺が三女神像の台座にはまったドタバタに寮長のヒシアマさん関わっちゃったからそのせいかな?

でもまあ全く知らない相手じゃないからバイクウェアは遠慮なく送らせて貰うことにして、購入ボタンをポチっとな。

 

学園がらみの雑談をしてると、昨日の筆記試験の他にやった驚音試験、あの狭い部屋に入れられて目玉と爆音が突然出るやつ、は問題なしだとか。

あれでびっくりして激しく暴れてしまうようだと、特別カリキュラムが組み込まれるらしい。

あの試験を受けただけで入学を取りやめるウマ娘もいるそうだから、ああいうびっくりに弱いウマ娘は思った以上に多いんだろうな。

 

「そう言えば、先日の試験の論説問題の答えを見て、理事長が学園の畑の一部でサツマイモ育ててみる、って言って早速耕運機入れてましたよ?」

 

ビール片手にたづなさんがまた爆弾を落とす。

危うく飲んでいたジュースを吹き出しそうになった。

 

確か、予算が足りなくて食糧買えなかった時の解決策だせ、みたいな設問だ。

冗談めいた設問だったので、いくつか思いついたことを忖度無しに書いてみた中で、サツマイモは甘くてカロリーもあって収量も多く、過去に何度も飢饉を救った優秀な作物だから作ってみてはどうかは書いたけど。

そのあとにサツマイモで作れる料理やスイーツを羅列したのがまずかったんだろうか。

 

「残りの案は、『本人は喜んで協力するだろうが一人の生徒を搾取するようなものだ、継続性もない』と却下されました。

 もう一つは、URAの利権に絡んでまして。

 実現すると逆に学園への補助金削られちゃうので手が出せないんですよね。

 理事長、スレた社会人の発想だ、って苦笑いしてましたよ?」

 

そりゃスレた社会人でしたし?

シンボリルドルフ会長を説得して、生徒の食事事情改善の為に、と支払先企業のCFに出演してもらって、対価に不足分の食料供給してもらう案はボツか。

もう一個は、GI以外のレースで体操服にスポンサー広告つけろ、って奴だ。

 

まあ、詳しい事情も知らずに短時間でポッと思いついたものが役に立つなんてことはほとんどない。

・・・ないはずなんだけどね?

作り始めちゃったか、サツマイモ畑。

秋においしい焼き芋が出てくることを期待するよ。

 

・・・て言うかさ、ホントに大丈夫なの?

トレセン学園の財政。



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靴トロフィーとガチャ扉

え~、お気に入り登録がまもなく2000に届きそうなので、記念に上げて下げる閑話回を差し込んでみようかと~

プロットにも何もなく、ウマ娘アプリのアレに説明つけたりバカ話にしたらこうかなーくらいの感じで、でっちあげましたん~

時系列的に、この話は入学前の1シーンぽいですけど実際には存在しないかもしれない、そんなお話ですね~

七夕?知らないお話ですね~(すっとぼけ

7/9 安倍元首相の事件を受けまして、主人公の名前を変更しました~


「照覧ッ!ここが我が学園の誇る学園史展示ホールだッ!」

 

トレセン学園理事長秋川やよいが磨き抜かれた厚いガラスの扉を押し開ける。

 

入学手続きのためにトレセン学園を訪れた折に、たづなさんとともに現れた理事長が、座り仕事ばかりでは脚が萎えるッ!と先に立って学園内の案内を買って出てくれたのだ。

要するに、書類仕事に飽きたから散歩させろ、という話である。

案内されたのは、学園生が滅多に訪れない来賓を迎えた際の応接施設が集中した棟。

その学園史展示ホールだった。

 

落ち着いたワイン色の絨毯が敷かれたかなり広めの部屋に、トレセン学園ができてから半世紀間の栄光。

当時最高の人気を誇ったウマ娘の勝負服の数々。

レース靴の変遷や蹄鉄の進化。

そして、この学園の生徒が獲得したGIレースの優勝レイやトロフィーのレプリカ達が、四方全ての壁に沿って設置されたガラスケースの中にずらりと並んでいた。

 

「・・・圧巻ですね。」

「そうだろう、そうだろう!」

 

理事長が『愉悦』の文字を扇子に掲げて満面の笑みを浮かべる。

 

「一部はレプリカではなく本物なんですよ?」

 

たづなさんが指し示す方には、初期の頃のものであろう勝負服が並んでいる。

半世紀ほど前のものであるから、多少生地は白さを失っているものの、華やかさでは決して今には負けない見事なドレス調の勝負服。

どこか欧米への憧れが込められたようなシックな上着でありながら、ワンポイント日本の絹織物を差し込んだ、パンツを合わせた勝負服。

流行が一周回ってもうそろそろこれが次のニューデザインです、と言われてもおかしくない時代を超えた造形の勝負服たちが、静かにそこに眠っていた。

 

ガラスケースの年代を追うにつれ、徐々に、勝負服も、優勝レイの色彩も色あせたものから鮮明なものに変わっていく。

 

そして、最近新しく追加されたらしいガラスケースに、どこかで見た奇妙なトロフィーが並んでいた。

 

「着目ッ!それは学園での努力の後を後世にも伝えようと始めたものだッ!」

 

「なんで勝負服の靴なんですかね・・・」

 

そう、勝負服の靴をトロフィーに加工したアレである。

 

「これは、分割して中を見ることができるんですよ。」

 

たづなさんが手の中の靴を僅かにスライドさせると、靴底部分と靴上部分が分離してインソール部分が露出する。

 

外見は、若干革生地に皺が寄ったりはしているものの、一見きれいに見える。

しかし内部は、指が当たる部分と親指の根元が激しくえぐれてインソールなどは大穴が開いていた。

穴の周囲が黒く変色しているのは、血痕だろうか。

かかとの内装は、表面は剥げて芯の革材が露出し、擦れて磨かれて艶すら出ている。

靴の内側だけではない。

よく見れば、靴ひもを通す穴は長く伸びて変形しきっている。

靴底に強固に打ち付けられているはずの蹄鉄はねじられるように靴底からずれ始めており、とてもではないがこれ以上の使用に耐えるようには思えなかった。

 

「全身全霊をかけて出るGIレースなどでは新品の靴でも保って2レース、1レース保たないなんてことも結構あります。」

 

以前聞いた、オリジナルデザインの勝負服の価格を思い出す。

予備の靴、とはいえ一品物、まず安くはないだろう。

それを1~2回で履き潰す。

ウマ娘の脚力を受け止められるように、材料も設計も吟味して作られたものですらその程度。

改めてウマ娘の脚力の人外さを再確認させられる。

 

「学園生の、全てを懸けた走りの爪跡をせめて残してやりたくてな・・・」

 

理事長が愛おしそうに、手渡された靴のトロフィーをそっと展示棚に戻す。

きれいなままの勝負服からも、優勝レイやレーストロフィーからも、それを勝ち取ったウマ娘の姿は見えてこない。

この、ぼろぼろになり歪んだ靴を乗せる、奇妙なトロフィーだけが、そのレースの過酷さを、ウマ娘の努力を叫んでいた。

 

「ウマ娘達の、血も、汗も、涙も、全てがこのレースを走り切って役目を終えた靴に宿っている気がしてならんのだ・・・」

 

ウマ娘がレースで輝ける期間は短い。

長い人生の中で、ほんの10年にも満たないティーンの多感な時期のみ。

その時期の全てを、トレーニングに費やし、得られるかすらわからないナンバーワンの称号を目指してひたすら突き進む。

 

その栄光の先にたどり着けなかった者もいる。

 

全てを費やしてもなお、たどり着けなかった者が、自分はこんなにも強く、賞賛すべき相手と戦ったのだと誇れるように。

その勝者の生々しい爪跡を、トロフィーに変えて、残す。

勝者がなぜ勝者であったのか、敗れた彼女らが納得できるように。

 

レース靴のトロフィーとは、奇妙なことをする、という最初の思いはもうなかった。

 

これは、残り火なのだ。

レースに全てを懸けた、ウマ娘達の生き様の残り火。

 

暮れゆく時代の夕陽の中に去っていく、かつてのウマ娘達の幻影を焼き付けたモニュメント。

 

「所望ッ!貴女もここに並べるよう努力せよッ!」

 

同じくらいの年頃の彼女の瞳が、こちらをじっと見据える。

 

・・・無茶を言ってくれる。

 

並んでみせる、なんて軽々しくは言えない。

僅かに、歯を噛み締めて。

俺は、答えない。

 

「・・・今はそれでよい。」

 

表情を緩め、ふんす、と鼻息をついて、たすたすと絨毯を踏み締める理事長に続いて展示室を出た。

 

 

 

 

展示室の隣の廊下には、木製の重厚な観音開きの扉がいくつか並んでいた。

金糸のあしらわれたレッドカーペットがその扉の先へと歩む者をいざなう、ものすごく既視感のある扉。

一番奥の扉には、過度、とも思われる金色の蹄鉄を模した装飾が施され異様な雰囲気を放っている。

 

「来賓用の観戦ルームですよ。」

「刮目ッ!トレセンはおろか、全国のレース場のカメラと接続できる我が学園自慢の観戦施設だッ!」

 

たづなさんが、たたたっと扉に駆け寄り、開ける。

 

ルーム内の巨大スクリーンには、ちょうどゲートインしたばかりのどこかのレース場のスタート直前のシーンが映し出されていた。

一つ一つゲートを舐めるようにカメラがパンして行く。

 

ガシャリ、とゲートが開いてレースがスタートした。

 

見覚えのあるウマ娘はいない。

全員体操服だ。

 

グロい!グロすぎる!

1枠金は虹!1枠金は虹!・・・なんでだよぉ~!

昇格しろっ!昇格しろっ!しょうか・・・ぐっううう・・・

あっ、あっ、あっ、あっ、・・・ああ~!最低保証とか・・・

看板光ってない!オワタ・・・

やめろ!俺を天井まで連れて行かないでくれ!

虹なんて幻だったんですよ!

天井まで回せば実質無料!

今月の家賃ないなった・・・

 

・・・幻聴だろうか。

何か黒いドロドロした思いが周囲に満ちている気がする。

にょわぁ~、と理事長の頭の上の猫が珍しく声をあげる。

 

「ここで、来賓の方たちに大画面でレースを観戦していただくわけです。」

 

・・・いいのか、こんな淀んだ怨念のこもった場所にVIP呼んで・・・

フクキタルもシラオキ様も裸足で逃げるんじゃないか?

 

一際目立つ、金色の蹄鉄を模した装飾の施された扉に視線をやる。

 

「故障ッ!そこは建付けが悪く使用を停止しているッ!」

 

理事長が扉に駆け寄って、扉を引くものの、びくともしない。

俺も軽く引っ張ってみたが、つるつるの金属製の取っ手に手を滑らせて尻餅をつくハメになった。

 

「たまに、扉の機嫌がいいと開くんですよね。

 でも何度修理しても開かなくなってしまうんです。」

 

「断念ッ!このポンコツ扉にこれ以上経費をかけるわけにはいかぬッ!」

 

憤懣やるかたなしといった風情で扉に蹴りを入れる理事長。

 

「隣には、卒業アルバム編纂室がありますが、ご覧になりますか?」

「いえ、結構です。」

 

目を向けられたその編纂室とやらからは、更に濃厚などす黒い怨念を感じる。

きっと白い付箋がびっしり貼られた選別中の写真の入った冊子が並んでいるに違いない。

手に取ると、きっと呪われる。

 

 

 

 

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あっちの世界 ウマ娘ガチャ掲示板

 

 

318 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:16:40

 

うぉぉぉ!金扉キター!しかも見たことない演出の理事長!

 

 

319 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:16:58

 

レア演出?

 

 

320 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:17:07

 

扉開かねえ!

 

チビゴルシと一緒になって扉引っ張ってる!

 

チビゴルシ転んだ!

 

・・・え?ナニコレ・・・

 

 

321 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:17:15

 

どうした?

 

 

322 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:17:17

 

kwsk

 

 

323 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:17:27

 

画面真っ暗になってハングった・・・

バグかよ!

 

 

324 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:17:42

 

あ、俺もやわ。

ハングる前も扉開いてないな。

これ残念演出じゃね?

パチスロとかによくある激熱からのスカ、みたいな。

 

 

325 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:17:55

 

ゴルシ出てきた時点でお察しなんよ

 

 

326 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:17:55

 

 

 

327 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:17:57

 

 

 

328 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:17:57

 

チビゴルシはちょっと見たい

 

 

329 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:17:58

 

芝。

 

 

330 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:17:58

 

(-人-)ナムー

 

 

331 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:18:13

 

マジかよ・・・

ちょっとサ〇ゲに凸ってくる

 

 

332 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:18:20

 

バグならジュエル配布来るか?

 

 

333 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:18:25

 

1500!

1500!

 

 

334 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:18:37

 

そんな太っ腹なわけねーだろw

 

 

335 名無しの爆死王 202X/XX/XX(火) 14:18:40

 

あっても50とかじゃね?

 

 

336 [システム] 202X/XX/XX(火) 14:18:45

この書き込みは不適切な表現が見られたため削除されました。

 

 

・・・・・

 

・・・

 

 

---------------------------------------

 

後日

 

「盗難ッ!わたしの個人菜園の宝石人参がごっそりなくなっているッ!」

 

「またですか?セキュリティもあるのにおかしいですね。」

 

時々どこへともなく消える理事長謹製の宝石人参。

これもまた、ウマ娘世界の謎なのである。



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トレセン制服のお披露目

スイマセン~
自分の中で元総理銃撃事件て結構キてしまう出来事だったらしく、冷静さを失っていたのでちょっとお休みさせていただきました~
活動報告通り、主人公の名前も変更しました~

ここから先、入寮してようやく序章終了って感じですかね~
こんな長い序章があってたまるか!みたいな話ではありますが~




「届きましたよ~♪」

 

なんだかウキウキな様子で、ちょっとした大きさの段ボールを抱えたたづなさんが帰って来た。

 

・・・段ボールはビールではないようだ。

 

ドサッ、とリビングで下ろされたそれはそこそこ重量のありそうな音を立てた。

 

「開けてみてください。」

 

仕事着を脱ぎながらたづなさんが言う。

 

え?俺?

 

俺のなのこれ?

 

一瞬先日頼んだバイクウェアかとも思ったけれど、わざわざたづなさんが持って帰ってくるはずがない。

寮に届けるように助言してくれたのはたづなさんなのだから。

 

いぶかしみながら箱を開けると、薄い和紙で包まれた薄紫色のものが透けて見える。

・・・制服だ。

 

トレセン学園の制服が、箱の中に詰められていた。

夏服の上下セットが4着。

冬服の上下セットが2着。

ジャージの上下が4着。

体操服の上が4着。

スクール水着が1着。

 

制服作るための採寸した覚えは全然ないんだけれど、どれも誂えたようにぴったりだ。

身体に服を当てて大きさを確認していると、たづなさんに

 

「そうしていると普通の女の子みたいですね。」

 

と笑顔を向けられた。

 

っぐ、そう言われると、一瞬おっさん思考での恥ずかしさが首をもたげるのだけれど、もう今更だ、と開き直りで押し潰す。

全身女性の衣服を身に着けている上、身体が完全に女だしな・・・

ちなみに今は、部屋着用に買ったショートのTシャツを突っかけて、下は探検家が穿くような裾まくりの入ったショートパンツだ。

 

着てみせて下さい、とたづなさんが言うので、夏服を1セット開封して着替えてみる。

 

制服のスカートのファスナーを開けてウェストを広げてみたら、スカートの胴回り部分、飾り帯の下がゴムだこれ。

うまい具合に食べ過ぎぽんぽこりんお腹でもビリっといかないようになってる。

後ろのリボンは尻尾穴隠しとこのゴム部分のプリーツ隠してるのか、うまくできてるな。

アプリでは表に出てこない妙な工夫をスカートに見た。

 

ウマ娘用の服の尻尾穴に尻尾を通すのも、もうお手の物。

毛の部分だけを二つ折りにして通してしまえばあとは広げて毛先を手櫛で梳いて揃えるだけ。

 

上着はちょっとタイトでファスナーを締めるのに手間取ったけど、まあ毎日着てれば慣れるだろう。

 

ニーソを上まで上げて、高さを揃える。

 

立って、肩越しに後ろ周りが変に寄ったりしていないかチェック。

うん、こんなもんだろ。

 

「マ子にも衣装ですね。

 よく似合ってますよ。」

 

?!

笑われた?!と一瞬混乱したけれど、ああ、そうだ、ウマ娘世界では同じことわざでも意味が違うんだった。

昨日から始めたこっちの常識の勉強の中にあった。

あれは誉め言葉だ。

ウマの耳に念仏があからさまな嫌がらせのことを意味したり、バ脚を露すが能ある鷹は爪を隠すと同義だったりと、あっちの世界のことわざと同じだと思って使うと話が通じないどころかトラブルを起こしかねない。

顔に出なかったかな、と冷や汗を流しつつ、ありがとうございますとだけ返す。

 

それはそうと、この段ボールの中身は、ちょっと足りない。

 

「靴と体操服の下がないみたいですけど・・・」

 

この段ボールの中にはその2点が入っていない。

 

「靴は試しに履いてみた方がいいですよ?

 学園生活の中で結構指定靴で走るなんてことはよくありますから。

 体操着の下は、短パンとブルマがあるんですけれど・・・

 穿いてみて合わないとものすごくむずむずするんです。

 両方、購買で試着してから買った方がいいですよ?」

 

靴はともかく、体操服の履き心地にそんなに差があるものなのかね?

ブルマって、昔の女の子用の体操着だっけ?

あっちの世界では俺が小中学校の頃はもう男女とも同じ短パンだった。

某アニメの再放送のヒロインの名前で聞いたり、アレな18禁サイトでちらっと見かけたことはあっても実物は見たことがない。

ウマ娘アプリで出てきたのを見ても、どんなものなんだかピンとこないんだよな。

ちょっとパンクとかサイバー入った若い娘が着る革とか艶々化繊のホットパンツみたいなものだろうか。

そんなんだとなんだか蒸れて暑そうだ。

 

まだ見ぬブルマの考察をしていたら、フラッシュが光って、写真を撮られた。

 

はい、とたづなさんに俺の全身が表示されたウマホを向けられる。

 

写っている姿を見る限り、お腹に手を回して首傾げてるかわいいお嬢様、ってとこだな。

今まで男として生きてきて、カッコいいとも言われなければモテたこともないのでいまだに自分がこんなに容姿の整ったウマ娘になっているのが信じられないっちゃ信じられない。

ソファーにかけてまじまじとウマホに写る自分の姿を眺めていたら、一瞬、身体が以前の男の身体とダブって見えて噴き出しかけた。

いや、ホント勘弁して、俺の脳みそ。

この男の時の意識、ってやつが浮上してくる度に、自分が女装している変態、みたいな思いにとらわれてどうしようもなくむず痒い。

周りの人は完全に女性として、ウマ娘として扱ってくれているのに、自分だけが置かれた状況に身悶えするとか。

って言っても、三十余年の男としての人生を1週間程度で変えるのはなかなか難しいのはわかっているんだけれどね・・・

 

「・・・スカートを履いたときは、脚にも気を付けましょうね?」

 

ぼそっと注意されたんだけれど、何を注意されたのか最初わからなかった。

あっと気付いて、無意識に立てていた片脚を戻して膝を閉じる。

きっと正面のたづなさんからはスカートの中身が丸見えだったんだろう。

これもだ。

男の時みたいに、脚の行儀ってやつに無頓着ではスカート姿で生活できない。

幸いにして、この身体は男の身体と違ってガニ股の癖がついていないから内股でひざをくっつける座り方でもそんなに辛くはないんだけど、やっぱり気を抜くと脚はちょっと開いてしまう。

意識してないと片膝立てたり胡坐かいたり、男性陣はウホッ!と鼻の下を伸ばすいいネタかもしれないけど、自分がその対象になるのはなんかちょっと嫌だな。

 

これが、ロングスカートタイプの制服だったら、下に裾をまくり込んだジャージを履くという田舎の中高生の荒業が使えたのだけれど、この制服はスカートの丈が短くてそれができない。

体操着の下を買ったらそれを下に履けば多少はスカートのガードが緩くても許されるのでは無かろうか。

 

何とかこの女性としての作法から逃れる術はないのか考える俺のすぐ隣に、たづなさんがぺったりくっつくように座ってきて、正面にウマホを掲げた。

 

「一緒に、一枚撮りましょう。

 もっとくっついて。 

 笑ってください!」

 

カシャリ

 

ウマ耳同士が触れ合うように、互いに肩を寄せ合って笑いかける、姉妹のような写真。

その周りに積み上げられた、開封されていないトレセン学園の服。

 

学校への入学を控えた子供がいる家庭で、よくありそうな風景。

 

そんな写真が撮れた。

 

参ったな。

その写真一枚で、脚の行儀だとかスカートのガードだとか考え込んでいたのが、みんなくだらないことだと思わされてしまった。

 

仮初の母娘。

ただ三女神に面倒を押し付けられただけのはずの彼女が、会って間もない俺を家族として扱ってくれている。

本当の母娘、とはいかないけれど、たった1週間程で仲のいい親戚のおねーちゃん、くらいには思えてきている。

そしてそれが、その関係がとても心地いい。

 

そんな同居生活ももうすぐ終わりか。

寮ではどんな生活が待っているんだろう。



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いざ、ターフへ

走らないウマ娘小説、ついに脱却か~?
でもレースじゃないんですねこれが~

注・主人公の名前がアベノシルフィーからラベノシルフィーに変更されています~
誤字ではありませんのでよろしくおねがいします~


とある日の午後。

俺はURA総合医療病院に来ていた。

私服姿のたづなさんも一緒だ。

たづなさんの頭の上のウマ耳隠しはキャスケット。

俺とお揃いで短パンにTシャツ、更に肩に袖を縛ったシャツを羽織るっていう活発系おねーさんをアピールしている。

普段はほとんど肌の露出をしないのに、今日は生腕生脚大放出だ。

手に提げたビニール地の艶々のスポーツバッグがなおさらこれからテニスでもやりますよみたいな雰囲気を醸し出している。

病院前で、だけれど。

 

ウマ娘世界のお勉強と称して、ネットサーフィンに興じていたら、突然お昼ごろ帰ってきて、病院に行きましょう、と言われたときは何かと思った。

何でも、隣のURA医療研究センターに用事があるそうだ。

 

俺は、というと、脚の経過観察。

病院は別に今日でなくても良かったんだけれど、たまには街で、外食もいいものですよ?と言われては断る理由はない。

 

これで医者の先生からOKが出れば、ようやくこの身体で走る、ってことを試せるし、入学準備も進めることができるだろう。

 

「診察が終わったら、ウマホに連絡を入れてくださいね。」

 

病院のロビーに落ち合う場所を決めて、ロータリーでたづなさんと別れた。

 

 

 

 

「やぁ、だいぶきれいになったね、その後どう?」

 

診察室に入るなり飾り気も糞もない気軽な様子で話しかけてくるちょび髭先生。

人当たりはいいんだけど、この気の利いた話題は無いんだぜはっはっはと開き直る感じは潔すぎて苦笑いしか出ないな。

 

今日はレントゲンもなく、股関節の可動域の確認とあばらの打撲の様子を見るだけだそうだ。

 

「はい、バンザイして、バンザーイ!」

 

・・・何十年ぶりだろう、こんな子ども扱いされたの。

 

バンザイをすると背後から看護師さんが服捲りますね~とあばらのあたりまでシャツをまくる。

ちょび髭先生に両手でぐっぐっとあばらを押されるけれど、呻くほどの痛みはない。

ていうか、横腹だ、指が振れるたびにくすぐったい。

 

「じゃ、次、ズボン脱いで診察台に寝て~」

 

まだあざは消え切らないか~、とつぶやく先生に、片脚を伸ばしたまま抱え上げられ、いろんな方向にぐりぐりと動かされる。

以前痛みを感じたお腹に押し付けられる状態でも痛みはない。

・・・けど、その状態で看護師さんに脚の保持をバトンタッチ。

ちょび髭先生が、お尻から腿にかけて伸び切ってる筋肉をグイっと捻った。

こう、指をね、腿とかお尻とかの筋肉と筋肉の隙間に押し込むようにして押すのよ。

 

「痛くない?これはどう?」

「特には。」

 

これを両脚繰り返した後、

 

「次はちょっと苦しいけど我慢してね。」

 

と、うつ伏せにされて片脚でエビ反り状態。

ほとんどプロレス技かけられてるに等しい。

 

これまた腿の伸び切った表側の筋肉をぐいぐい捻られる。

 

膝を曲げて、大腿骨の可動域?とかを診て、ちょび髭先生はサムズアップした。

 

「うん、変に腱が伸びたりもしていないし、もう走っていいよ。

 ただ、最初から全力はやめてな。

 ちょっとずつ、慣らしていく感じで。

 痛みが出るようなら休んでね。」

 

あばらの打撲も、脱臼も問題なし。

薬すらもういらないだろう、ってことで終了。

 

お大事にーの言葉を受けて診察室を出た。

 

まだロビーにはたづなさんの姿は見えなかったので、SNSで終わったよ~とメッセージを入れて精算の呼び出しをボケーっと待つ。

ロビー待合にあるモニターには病院の案内と診察呼び出しが表示されるだけで、TV番組も何もやっていなくて暇をつぶせるものがない。

世間話に興じる老人か、ウマホをひたすらいじり続ける若者しかいない。

うんまあこれじゃTV設置しても誰も見ないわな。

経費の無駄だ。

呼び出しがあったので支払いをしていると、たづなさんがやってきた。

 

「どうでした?」

「すぐに全力はダメだけど慣らしながら走っていいって。」

「そうですか!なら・・・」

 

悪戯っぽく彼女は笑う。

 

「すぐ走ってみたくはないですか?」

 

 

 

 

病院の隣にある、URA医療研究センター。

ここには、トレセン学園のものほど広くはないけど運動場があり、ウマ娘の走れるトラックもある。

 

たづなさんに連れられて、そのURA医療研究センターの運動場に立っている小ぎれいな小屋に入ると、そこには様々なリハビリなんかに使う器具が並んでいた。

 

「今日は特にトラック使う予定もないそうだから、自由に使っていいそうです。」

 

たづなさんが、上着を脱ぐ。

 

妙に大きなスポーツバッグを持ってきているな、と思っていたら、中から俺用のトレセンジャージと、まだ新しめの蹄鉄シューズが出てきた。

ぽいとジャージを俺に渡すと、手慣れた様子で持ってきたシューズを履き、シューズのひもをぐいぐいと締めていく。

シューズのひもを締めながら、着替えている俺に、

 

「そこにあるシューズから、合うのを選んで履いてみてください。

 爪先が窮屈じゃなく、指一本の隙間にはちょっときついくらいで選ぶといいですよ?」

 

と棚を指さす。

 

棚にずらっと並んでいる黒いシューズは、ここの備え付けらしい。

蹄鉄部分が樹脂製で、そこだけ新しい。

 

そう言えば、今履いている靴のサイズはいくつだったかな、と脱いだ靴の底を覗き込むと、22cmだった。

ちっさ!と思いながら、22cmの靴を手に取って履いてみる。

するっと入るし、これでいいかな、とひもを締め始めたら、

 

「もう一つ小さい方がよさそうですね。」

 

と、21.5cmの靴を手渡された。

 

「競走用の靴はキツキツ一歩手前くらいがちょうどいいんです。

 隙間があるまま走って中敷きと脚の裏が滑ると脚の裏の皮がペロッとめくれちゃいますよ?」

 

・・・走りの大先輩が言うことだ、ここは忠告に従っておこう。

脚の怪我が治ったら今度は脚の裏の皮が剥けて立って歩くことすらできなくなりましたとかシャレにならない。

 

シューズを小さめのものに取り換えて、履き替えていると、たづなさんが靴ひもを締め直してくれる。

想像以上にきつく締めるので、ちょっと心配になった。

 

「こんなにきつく締めるんですか?」

「ええ。

 トレセンに入学したら最初の授業でやるんですけど、ラベノシルフィーさんは中途入学で飛ばしちゃってますからね。

 靴のフィッティングをおろそかにして、脚が血まみれになってから後悔したんじゃ遅いですから。」

 

指先を、ひもに、かかととの隙間に、と差し入れて、こんなもんでしょうと太鼓判を貰う。

 

履き心地は、タイトな安全靴、って感じ。

爪先から指の付け根のあたりまで、分厚く吸収力のありそうなインソールがあってもなお感じる靴底の硬さ。

クッション性と柔軟性を重視したあっちの世界のランニングシューズとは全く異質な感触のシューズだ。

 

突然、ファサリ、と黒い毛の束が目の前に揺れる。

 

上着も、帽子も外したたづなさんが、なくしたはずの尻尾を生やしていた。

 

「まだあったんですねえ~

 これ、私がここで走っていた時に作ったものなんですよ。」

 

腰に装着したベルトから垂れ下がる、ウマ娘の尻尾を模して作られたレプリカ。

尻尾を失ったことによって平衡感覚喪失障害に陥り、斜行を繰り返すようになったたづなさんの矯正・治療訓練中に、やることはすべてやってみようと作られた補助具の一つ。

辛い思い出だったろうに、今のたづなさんにその辛さを感じさせるものはみじんもない。

過去は過去です、態度でそう語っているように思えた。

 

「どうですか?これをつけてるとちゃんとウマ娘に見えますか?」

 

帽子を取って、ウマ耳をさらけ出し、レプリカのウマ尻尾を生やしたたづなさんは、どう見てもウマ娘のおねーさんだ。

 

「かわいいウマ娘のおねーさんですよ?」

 

以前いただいた言葉をニヤニヤ笑い付きで返すと、照れ隠しにか、べしべしと肩を叩かれた。

 

「あと、念のため、ですけどね。

 邪魔だとは思いますがプロテクターを付けましょう。」

 

たづなさんに持ってこられた樹脂製のプロテクターの数々。

 

すね、ひざ、腰、胸、背中、ひじ、肩、ヘッドギア。

 

使い込まれて、擦り傷があちこちについてはいるものの、きれいにクリーニングされたそれらは今までもここで数々の患者を助けてきたんだろう。

こいつらがあるのとないのとでは、同じ転び方をしても受ける外傷に大きな差が出るのはバイクで経験済みだ。

 

それをマジックテープで各部位に固定して、さらに胴に巻いた太いベルトと、ガーターのような伸縮性のある細いひもで繋ぐ。

 

バイク用の服の上からつける後付けプロテクターよりも厳重な感じだ。

 

靴で締め付けられ、プロテクターで締め付けられ、窮屈この上ない。

 

部屋の隅っこにあった姿見に写したら、これでアサルトライフルでも持ったらどっかの近未来FPSゲームにでも出てきそうな格好だった。

対してたづなさんは、もう公園なんかでジョギングを楽しむヘルシーライフ満喫おねーさんそのままだ。

落差が酷すぎる。

 

「さあ、ウマ娘の身体での走り、初体験ですね?」

 

たづなさんに手を引かれて、俺は初めてターフというものの上に立った。



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ウマ娘初心者と大馬力

大馬力の馬をバにしたら大バカと区別がつかなくなったので漢字で勘弁してください~


「まず、ジョギングくらいで身体を温めましょうか。」

 

タスタスタスタス・・・とテンポよく芝に足音を刻んで前を走り出すたづなさん。

 

たづなさん、ジョギングくらい、って言ったよね・・・

俺が走り出す前にもう結構な距離離されてるんですけど!

 

慌てて地面を蹴り出したら、追いつくどころか走り出すことすらできずにその場でコケた。

一歩も進むこともなく、蹴りだした脚の形に、芝をえぐって。

 

いつまでたっても追いついてこない俺に気づいてたづなさんが戻ってくる。

 

「あらら、びっくり転倒ですか。

 何の準備もせずに急に走り出そうとするとそうやって滑って転びますから、慌てずに、加速はゆっくり、ですよ。」

 

びっくり転倒、なんて名前がついてるってことは、普通のウマ娘でも驚くとやらかすのかなこれ。

 

ちょっとバイクでの失敗を思い出す。

リッターバイクに初めて乗った時、小排気量車のつもりで回転を上げてスパッとクラッチを繋いだら、大パワーに負けたタイヤがその場で空転して転倒しそうになった。

ウマ娘のパワーで、靴底と芝の摩擦力を超えれば、そりゃ滑る。

バイクとウマ娘の身体という違いこそあれ、同じ失敗を繰り返すとは。

 

えぐれた芝を見てたづなさんが言う。

 

「蹄鉄のエッヂを立てるってわかりますか?

 ベタ脚だと滑りますから、つま先をちょっと立てる感じで、蹄鉄のエッヂを地面に食い込ませて『掻く』んです。

 無理についてこないでも、ゆっくりでいいですからね、行きますよ?」

 

またもやあっという間にその場から走り去るたづなさんを追いかけて、俺もゆっくり走りだす。

つま先を立てて、地面に食い込ませて地面を『掻く』。

 

・・・力加減、したつもりなんだけどなあ。

走る、という意識が先走り過ぎているかもしれない。

 

一歩目で、滑ることなく、ぐん、と思わぬ加速で景色が流れる。

次の一歩を想定して前に出していた脚が、思わぬ速さで地面を掻き、空滑りした。

次に前に出すはずの脚がまだ前に出ていない。

 

・・・つまり、今俺の両脚が後ろにある。

 

完全に脚をもつれさせた俺は、べちゃりと、またものの見事に転倒した。

プロテクター君、大活躍だ。

 

ダメだ、脚の回転自体がヒトのそれと違い過ぎる。

いきなり『走ろう』としても無理だ。

 

またしても戻って来たたづなさんにお願いする。

 

「ちょっと、早歩きくらいから徐々にスピード上げていっていいですかね?

 ヒトの感覚と違い過ぎてまともに走るの難しそうです。」

 

「じゃぁ、ちょっと後ろからついていきますから、無理のない範囲で試してみてください。」

 

俺と違って汚れていい服装じゃないたづなさんは、俺の脚の掻くであろう泥の飛んでこない斜め後ろについた。

 

スピードを上げるよりも、脚をちゃんと前後に動かすことだけを意識して、ゆっくりと歩き出す。

徐々に、脚を交差させるテンポを速めていく。

たったそれだけで、自分の記憶の中にある、最高速のダッシュくらいの速さに、息を切らすこともなくあっという間にたどり着いた。

ヒトのダッシュの速度が、ちょっとした早歩き程度の負荷にしか感じられない。

そのまま、安定した速度で走れる状態を維持する。

 

同じスピードで走り続ける分には、あまりつま先を立てなくても滑らない。

加速を意識して脚の回転速度を上げようとすると、途端に靴底が滑り始める。

コーナーなんか蹄鉄のエッヂを意識して立てないと、遠心力もあり滑ってかなり気を遣う。

 

この感覚はアイススケートのエッヂ使いに近いかもしれない。

行きたい方向と逆方向に蹄鉄のエッヂを立てて身体を押し出す。

走ってみた感じ、蹄鉄を含めた靴底の摩擦力はあてにできない。

この蹄鉄シューズというやつは、靴底全体に刻まれたパターンで地面に食い付いて摩擦力を高めて滑りを抑える、というあっちの世界のランニングシューズとは違った、全く異質な代物に思える。

 

なんか減り切って丸坊主のタイヤ履いたバイクみたいだな、と思いながら、直線に入って、できる限り脚の回転を上げる。

自分の脚で出したことの無いの速度域に入り始める。

ヒトであった頃の、自分の限界速度までがむしゃらに足を動かすだけの走りとは違う、頭の中でイチ、ニ、イチ、ニとテンポを合わせながらの走りでこの速さだ。

 

・・・が、あるところから、脚の回転が上げられなくなった。

上がらない、ではなく上げられない。

 

最初は、ただ躓きかけたのかと思った。

それが、脚の回転を速めようとするたびに起こるようになって違和感を感じた。

 

躓いたような感覚がある度に、両脚のタイミングが狂ってタタン、タタン、といった感じのギャロップ状態になってしまう。

ほとんど転ぶ一歩手前だ。

 

速度を落としてまたゆっくりと加速してみる、を繰り返して分かった。

 

脚の回転を上げると、ある速度から蹴りだした脚を前に戻すときに、脚が前に出きっていない。

 

何かが、間に合っていない。

しかし、その何かが今はわからない。

 

前に出きっていない脚で蹴り出そうとするから、タイミングが狂って走り全体を破綻させるのだ。

 

何度か転びそうになって、これ以上脚の回転を上げるのは諦めた。

さすがにヒトの出せる速度を超えたこの状態で足をもつれさせて転ぶのは避けたい。

 

脚の余力はまだあるようだったので、逆に発想を変えてみる。

歩幅を伸ばす方向で、速度を上げられないか、と。

ストライドだけを意識して、一歩一歩を強めに蹴りだす。

要するに三段跳びのホップ・ステップ・ジャンプを連続でやるような走り方だ。

 

蹴り脚に今までにない力を込めて、つま先で強く地面を蹴る。

ちょっとベクトルが上を向きすぎたのか、少し身体が浮いてしまったが、さすがはウマ娘のパワーだ、その一歩が、滞空時間が、長い。

次の一歩の為に前に出した脚がなかなか着地しない。

脚の回転自体は落ちているので、前に出す脚が間に合わない、ということもない。

 

三段跳び、と言ったけれど、この走り方だと連続して脚を回すのではなく、どうしても脚を前に出したまま、後ろに蹴り切ったままの状態での『待ち』が入るのだけれど、さっきまでの走り方よりは速度が乗る。

 

何歩か加速したところで、さらに速い速度域に入り始める。

が、問題もある。

前に出した脚が着地の時にブレーキになってしまっているのか、着地した脚のつま先が痛いし、やたらと力むせいか体勢も崩れがちでバランスが悪い。

 

どっちもどっちだ。

ウマ娘本来の走り方とは程遠い。

 

これは、この場の思い付きですぐにどうこうできる話じゃなさそうだ。

 

 

ゆっくりと、転ばないようにスピードを落として止まる。

少し息は上がったものの、苦しくはない。

あっちの世界の身体じゃ、さっきの速度なんて夢のまた夢、出せる限界の速度で今と同じ距離を走ろうものなら、死にそうになっていたはずだ。

とんでもない身体だな、これ。

 

後ろについてきていたたづなさんは、立ち止まった俺を追い抜くと、振り返り様、タン、とワンステップして、前傾姿勢を強め一気に加速した。

レプリカの尻尾をなびかせて、これがウマ娘の走りです、とばかりに猛烈な速度でトラックを一周回ってきて目の前で止まる。

 

「・・・どうでしたか?初めてのウマ娘の走りは。」

 

あれだけの速度で走ってきたにもかかわらず、ほとんど息を切らしていない。

 

「ウマ娘の身体のパワーに振り回されっぱなしですよ。

 全力なんてとんでもない。

 転ばないようにするだけで精いっぱいです。」

 

「まあ、走り方がめちゃくちゃですからね・・・

 本来のウマ娘の走り方になれば次元の違う速さを見られますよ?」

 

つまり、次元が違うほど遅いわけだ、今の俺は。

考えてみれば、普通ウマ娘が物心ついたときから何年もかけて学ぶはずの自分の身体の使い方を、俺は知らない。

ウマ娘の走り方を知らず、代わりにヒトの走り方を無理やり持ち込んで、ウマ娘の大パワーで無理やりヒト以上速度を出しているだけ。

宝の持ち腐れもいいところだ。

 

「今日はこのくらいで上がりましょう。

 私もこれ以上走ったら汗臭くなっちゃいそうです。

 借りたものを返したら、行きつけのおいしいカレー屋さんがあるのでそこに行きましょう。」

 

たづなさんに相槌を打ちながら歩くも、何かもやっとして心が晴れない。

初めて、自分の脚で、ヒトを超越するような速度で走れた。

うれしくないわけじゃないけれど、この身体はこんなものじゃない。

俺がこの身体を使いこなせていない為に、まだ普通のウマ娘にすら追いつけていない。

 

要するに、俺は『ヘタクソ』なんだ、この身体の使い方に関して。

 

 

・・・ただ、あっちの世界での俺の身体と違って、この身体はポンコツじゃない。

ポンコツはいくら習熟してもポンコツ性能のままだけれど、この身体は使い方がうまくなれば一級品のポテンシャルを秘めている、と思う。

積んでいるエンジンが、そもそも違う。

なら、俺が、経験を積んでうまくなればいいだけの話だ。

 

 

それに、駄女神はトレセン学園に入れ、と道を付けてくれたけれど、この身体でトレセン学園の、ウマ娘レースの世界で頂点に立て、と言われたわけじゃない。

明確に何かをしろと言われてるわけじゃないんだ。

 

まあ、勝っても負けてもレースには出ろよ、ってことではあるんだろうが。

ダメならダメで、普通のウマ娘として第二の人生を歩むだけだ。

そう思うと、ちょっと心が軽くなった。

 

幸い、トレセン学園には、ウマ娘の走りに精通したトレーナーがたくさんいる。

俺の走り方の矯正くらい、何とかなるだろう。

 

 

 

 

・・・なるよね?



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密談、そして・・・

今回はいつものぼやきを入れながらの主人公視点ではなく、解説調でお送りします~

感想で、自作フォントの使い方教えていただいてありがとうございます~
とはいえ、直し始めるとえらい時間かかるので、また何かやらなきゃいけない直しが発生した時についででできるようだったらチャレンジしてみますね~


トレセン学園理事長室。

日中は常時、理事長である秋川やよいとその秘書である駿川たづなの詰める執務室でもある。

いつもなら、終業時間とともに率先して帰宅する理事長が、今日は珍しく残業を決めていた。

秘書のたづなの姿はない。

 

コンコン、と扉がノックされる。

 

「入れッ!」

 

失礼します、と入室してきたのは、学園内のチームでもトップを争う2つ、リギルとスピカのトレーナーである通称おハナさんと沖野の二人だった。

 

挨拶もそこそこに、理事長室の隣にある応接兼会議室に通される。

盗聴・盗撮対策が施されたその部屋は完全な密室であり内部の情報が外に漏れることはない。

VIPや職員でもここに通されることはまれだ。

ここに通されるということは、何か内密の話がある、と言われているようなものだ。

二人は僅かに緊張した。

 

扉が閉じられ、鍵がかけられる音がして、理事長が戻ってきた。

その小さな体を上座のソファーに降ろす。

 

「照覧ッ!まずはこれを見てもらおう!」

 

ソファーに座った三人の目の前の白壁に、プロジェクターによる映像が映し出される。

 

全身を樹脂のプロテクターで固めた一人のウマ娘がターフに立っている。

そのウマ娘は、走ろうとしては転び、走り出しても全くスピードに乗り切れず足をもつれさせ、終いには飛び跳ねるような珍妙な走法で走り始めたところで、映像は終わった。

 

「質問ッ!彼女をどう思うッ!?」

 

顎を撫で、天井を眺め、後ろ頭をガリガリと掻いてなお沖野は言葉を濁す。

 

「どうって、いや、これは・・・」

 

「理事長、何ですかこのウマ娘は。

 このめちゃくちゃな動き、動物にでも育てられたのですか?

 それとも新手のお笑いのパフォーマーか何かですか?」

 

辛辣な言葉を投げかけるのはおハナさん。

無理もない。

長年走ることに特化したウマ娘を見続けてきた目には、あれは到底走る姿には映らないからだ。

出来の悪いVRゲームのアバターの方がまだましな動きをする。

理事長が、二人にこの映像を見せた意味が分からない。

 

「回答ッ!やんごとなき理由により我が校に入学させることになったウマ娘だッ!」

 

うそでしょ・・・と敬語も忘れておハナさんが絶句する。

 

「入学?このウマ娘を?この時期に?

 

 いや、あの白い長髪と尻尾・・・」

 

映像の中の、プロテクターの隙間からなびく髪と尻尾に、沖野は覚えがあった。

 

「へぇ、あの時の娘か。

 トモはレースに耐えるだけの良いものを持っていたと思うが・・・」

 

「知ってるの?

 って、あなたまたやったの?

 そのうち捕まるわよ?」

 

「いや違う!

 脱臼で運ばれてきたのをちょっと手当てしただけだ!」

 

沖野の悪癖がまた出たのか、とおハナさんは呆れかえる。

見知らぬウマ娘の、走りそうに発達しているトモ、つまりは尻を見つけると我を忘れて触診に走ってしまうという悪癖を彼は持っていた。

困ったことに、その触診はハズレを知らないと言われるほど的確なのだ。

そして不思議なことに彼に臀部を触られて彼を蹴るウマ娘はいても、彼が警察のお世話になったことはこれまで一度もない。

ウマ娘に蹴られてもピンピンしていることといい、トレセン七不思議の二つを彼の伝説が占めている。

 

それはさておき、あれは1週間ほど前だったか。

なぜかは知らないがズタボロになった彼女が保健室に運び込まれて、股関節を脱臼しているらしい、というので沖野は急遽応急処置に駆り出された覚えがある。

その際に、やむを得ず彼女のトモに触れる機会があっただけだ。

 

決していつものようにふらふらと彼女のトモに触りに行ったわけではない。

 

「本当に?」

 

「誓ってホント!」

 

話が脱線して進まない。

黙って成り行きを見守っていた理事長がペシリ、と扇子を手に打ち付けて音を立て、二人を黙らせる。

 

「まあ、じゃれ合いはそこまでにせよ。

 再度問おう。どうか?」

 

間髪を入れずおハナさんが答える。

 

「どうもこうも、論外です。」

 

「・・・ふぅ。

 残念ながら同感ですね。

 彼女をレースに出せるようにしろ、と言われたら、手取り足取り付きっきりにならないと無理です。

 チームを抱えた俺もおハナさんも、そんな余裕はないですね。

 身体はできてるので、惜しい、とは思いますが。」

 

トレセン中央のトレーナーは、全国選りすぐりの脚の速いウマ娘達を、さらに上の段階に引き上げる手助けをするのが仕事だ。

決して、走ることすら知らないようなウマ娘の形をした別の動物に、走るという芸を教える仕事ではない。

とてもではないが、今の映像に出てきた彼女を並のウマ娘にまで引き上げろなんて言う無茶な要求は引き受けられるものではなかった。

 

「・・・ふむ。

 では、付きっきりで彼女を指導するとしたら、まず何を指導する?」

 

誘導するかのような質問に、今度は沖野が間髪を入れずに答える。

 

「・・・無理ですよ?」

 

「仮に、だ。」

 

言外に、嫌だと言ってもやれ、ということではないらしい。

ともあれ、彼のトレーナーとしての答えには、淀みがない。

 

「まずは、フォーム改造ですね。

 ウマ娘の走り方って奴の基本を考えなくてもできるようになるまでみっちり叩き込みます。」

 

「そうね。

 距離適性だとか脚質だとかはその後ね。」

 

競走バどころか、ウマ娘としての基本が成っていない、ということだ。

GIバを何人も手掛けた二人にして、手に余る、と言っているのだ。

 

「新人トレーナーには無理だと思いますよ?

 いや、新人トレーナーに変な癖がついて使い物にならなくなるかもしれない。

 そのくらい、異質な指導になるでしょう。」

 

おハナさんは、もうすでに彼女に興味がない。

私が彼女に関わることはない、とこれ以上口を開くつもりは無いようだった。

 

「ふむ、そうか。

 いや、手間を取らせた。

 この件は内密で頼む。」

 

頷いて、失礼します、とのあいさつを残して二人は退室した。

 

シンとした誰もいない夜の理事長室で、しばし考える。

 

「・・・お笑い、か。」

 

パシリ、と一瞬で扇子を閉じると、理事長は自らどこかへと電話を掛けた。



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ジムの面々と

最近、本格カレーというとインドじゃなくてパキスタンとかミャンマーの方が経営している店が多い気がしますね~

辛いものを身体が受け付けなくなった恨みを前半に込めて見ました~
最近ブームの激辛系なんか食べたら間違いなくお腹壊す今日この頃です~


暴力的なスパイスの香り。

まだ店まで数百メートルはあろうかという距離から香ってくる、久しぶりのカレーの香りに、俺の腹は鳴りっぱなしだった。

バイキング形式でいくらでもお替り自由な本格的インドカレーのお店。

5種類も用意されたカレーに、タンドリーチキン、ターメリックライス、ポテトサラダに野菜サラダ。

なぜかつまみたくなる人参スティック。

口直し用のラッシーやジュースは冷やされたケトルから汲み放題。

そして、なくなると次から次へと追加される焼き立てのナン。

 

中東系のどっかの配管工みたいな髭を生やしたおじさんが、ガラス向こうの厨房で小麦粉を練ってずっと焼いている、蜜で照りの出た甘みのあるナンだ。

 

全部のカレーを制覇してやると、ウマ娘の腹の容量一杯に詰め込んだ。

履いていた短パンを、腰履きにしないとならないくらいに。

 

真っ赤に染まったいかにも辛そうな野菜カレーを、辛い、うまい、辛い、うまいと食い過ぎたのがまずかったのか。

 

・・・明け方から俺はトイレのお姫様になっていた。

 

「もう行きますけど、本当に大丈夫ですか?

 何なら病院に連れて行きますよ?」

 

たかだか、辛いものの食べ過ぎで腹を下しただけなのに、たづなさんは仕事を休んでまで俺を病院に連れて行こうとするので、トイレの前の気配が消えるまで大丈夫だから、を繰り返す羽目になった。

 

「ひぃっ!」

 

温水洗浄便座の温水がめちゃくちゃ染みる。

絶対切れてるわこれ。

 

もう何も出るものはないけれど、お腹の中がじんじんと熱い。

お尻も熱い。

 

辛いものは結構平気な性質だったので、以前のつもりで馬鹿食いしたけれど、このウマ娘の身体は辛いものにそんなに強くないらしかった。

朝っぱらからトイレを占領してしまってたづなさんには悪いことしたな。

 

辛いものは食べ過ぎないに注意しよう。

 

 

便座から立ち上がろうとして、かくっと膝が落ちる。

 

・・・またも筋肉痛だ。

 

昨日は、初めてウマ娘の身体で『走る』ということを短時間ながら経験したわけなのだけれど、全力を出したわけでもないのにこの体たらく。

種族的に筋力お化けの類かと思っていたウマ娘も、実は毎日身体を動かしていないと意外とすぐに鈍ってしまうのかもしれない。

 

とは言え、軽くでも道路は走るなとたづなさんから言われているからなあ・・・

 

いつ転ぶかわからない危なっかしい状態で、アスファルトの上を走るなんてとんでもない、と昨日のうちに真っ先に禁止されてしまった。

転ぶ心配がなくなるか、プロテクターを付けて、とは言うんだけれども・・・

あの全身アーマー装備で街まで下りて行きたくないよ。

昼ご飯食べにお店の暖簾でもくぐろうものなら絶対ぎょっとされる。

 

当分の間は、ウマ娘専用レーンはお預けらしい。

 

しばらくしたらここを出て、トレセン学園の寮生活になるわけだから、そうなれば身体を動かす場所には困らなくなるわけだけれど、ここだと道路を走れないとご老人よろしく散歩くらいしかできない。

 

 

・・・いや待てよ?

ここの上の階にはジムがあったじゃないか。

 

平日の昼間は空いているのでいつでも、と以前たづなさんが言っていたので、ルームランナーか何か借りられれば安全に身体を動かせるかもしれない。

 

とりあえず、ジムに出向いてみることにした。

 

 

 

 

「あ~、ルームランナーはヒト専用だねぇ。」

 

受付を済ませて出迎えてくれたインストラクターのリッキーゴウさんに速攻で使えないよ、と言われる。

もともと普通に外を走り回るのが大好きなウマ娘に人気がない上に、たまに使うウマ娘がいたと思えば、ルームランナーの最高速と張り合い始めて壊してしまう事例が続出して、基本ヒト専用なんだそうだ。

 

「でかいジムだと、メリーゴーランドみたいな機械があるんだけれどね。」

 

「メリーゴーランド?」

 

馬がいない世界で馬の模型に乗ってぐるぐる回るあの遊具はあるのだろうか?

 

「真ん中に立ってる軸から放射状に生えた棒を押してぐるぐる回るの。」

 

・・・もしかして、漫画とかで奴隷が動力代わりに棒を押してるあれのことだろうか。

我らが○○様は暗いのがお嫌いじゃ~!心を込めて廻せ~!っていう。

 

「遊園地でも子供用のやつが人気だよ?」

 

あれが・・・ウマ娘世界の・・・メリーゴーランド・・・?

ウマ娘世界のメリーさん、あなたいったい何をしたんですか?

 

 

「室内で身体に適当な負荷かけたいんだったら、大浴場のウォーキングバスがいいと思うけど?

 平日の昼間だったら、1時間くらいの貸し切りにすれば中で走り回ることもできるから。

 行ってみる?」

 

回廊状になったお風呂の中を、走り回っていいらしい。

 

お願いすると、リッキーゴウさんはウォーキングバスの貸し切り手続きをしてくれた。

金糸でジムの刺繍の入ったタオルを借りて、ウォーキングバスのある大浴場に行く。

平日の昼間はこのマンションの施設は本当に人がいない。

無駄と言えば無駄なんだろうけど、その無駄をあえて維持し続けるのもステータス、って言うのが金持ちの論理らしいしな。

 

服を脱いで、ざっと全身にシャワーを浴びると、貸し切りの立て看板を抱えてリッキーゴウさんがやってきた。

他にこの大浴場に人がいないせいもあって、彼女は普通にスポーツレオタードの仕事着なのに自分だけ裸にタオル一枚って言うのがなんか恥ずかしいというか心もとないというか、場違い感が否めない。

 

そのまま、大浴場の壁際の、熱帯雨林みたいな植物がわちゃわちゃ植わっている方に向かう。

一段高くなっているブロックで分けられた奥には、幅2mくらいの水路が縦長の回廊を作っていた。

わちゃわちゃ植わっている植物はその真ん中の島部分だ。

 

「この中で、1時間くらい無茶しない程度に走り回っていいよ。

 ただ、あんまり無茶すると足の裏の皮が削れて痛い目見るから程々にね。」

 

手をひらひらさせて、彼女はジムに戻っていった。

 

タオルを取って適当な場所にひっかけ、水路に入る。

角のないロの字型の水路を、時折はしる筋肉痛の鈍痛にぐぁ!とか声を上げながらのしのしと練り歩く。

水の負荷に逆らって歩くと身体の動きが大げさになるのか、普通に走ってるときは下着で押さえられてそれ程感じなかった胸がプルンプルン揺れるのがわかってちょっと面白い。

しばらく回っていると、さすがはウマ娘の馬鹿力、回廊に水流ができてちょっとした流れるプールみたいになった。

その流れをさらに速くするために、水をかき分けるようにして小走りに走ってみたり、わざと流れに逆らうようにして踏ん張って歩いてみたり。

意外といい運動になる。

しかも楽しい。

時間を忘れて、ウォーキングバスを堪能した。

 

 

 

 

「うんうん、楽しそうだねぇ~」

 

1時間の貸し切りの時間が過ぎたのか、リッキーゴウさんが貸し切り看板を回収しに来ていた。

・・・我を忘れてまるっきりプールではしゃぐ小学生してたよ、全裸で。

 

「お楽しみのところ悪いけど、おしまいね~

 上がって上がって。」

 

ちょっと名残惜しさを感じながらもウォーキングバスから出て、ざっとシャワーで流して脱衣所へ。

身体とかは夜にちゃんとお風呂に入って洗うよ。

 

「ありがとうございました。

 結構いい運動になりますねこれ。」

 

ジムに戻ってリッキーゴウさんにお礼を言う。

これが単純にプールだったら、単純に中を歩くだけで飽きて1時間がとてつもなく長く感じただろう。

童心に帰って楽しく身体を動かせたのは僥倖だった。

凝り固まってたような筋肉痛も、心なし軽くなった気がする。

 

「まあ設備遊ばせとくのももったいないしね。

 利用して喜んでもらえるならそれが一番だよ。

 

 ところで、ダンスは上達した?

 たしか、踊りたい曲があったんでしょ?

 よければちょっと踊って見せてよ!」

 

「うわ、ここでですか?」

 

「そう、ここで。

 大丈夫大丈夫、ヤジ飛ばすような変なのはいないから!」

 

う、う~ん、そんな期待のまなざしを向けられると・・・しょうがないにゃあ~

トレセンで一回吹っ切れて、人前で~とかそういう羞恥心をどっかに置き忘れたというか・・・

親の前で楽しそうにダンスする子供の思考というか・・・

 

・・・俺もしかして思考が幼くなってきてないか?とか思いつつも、

 

「・・・おかげさまでふらつかずに踊れるようになりましたからね・・・

 1回だけですよ?」

 

いそいそとウマホのメイクデビューを流す準備する俺。

 

イントロが流れ、ジムのホールの真ん中で、つま先立ちでリズムを取りながら歌いだす。

 

「お~!歌ってくれるんだ!」

 

あ・・・ダンスだけで歌う必要はなかったか。

ジムの他のインストラクターが集まってきちゃったよ。

でも今更やめられない。

そのまま歌って、踊る。

教わったターンを決め、腕を振り、笑顔を振りまく。

途中から、新たな足音が隣に加わった。

 

ちょ、男性ダンスインストラクターの小杉さん、なんで完璧な振り付けで一緒に踊ってるんですか!

黒いスポーツレオタードの男性が踊りながら笑顔で媚び媚びキュート!するという、なかなかシュールな絵面に、リッキーゴウさんが腹を抱えて笑っている。

二人して決めポーズで終えたときは、その場にいたインストラクターみんな涙を流しながら笑っていた。

 

楽しい、時間だった。



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そうび:ブルマ(呪

そろそろ、下着とかブルマとか、あんたも好きねぇ~って感想が飛んできそうな今日この頃です~

ニーズと必然性の為には時として理性も恥も捨てる必要があると思うのですよ~(白目


さて、久しぶり、な気がするトレセン学園だ。

理事長より、午後イチでトレセン学園に来るように、とのことだったが、たづなさんがどうせ来るなら購買で靴や体操服の試着をしてきたらどうですか?というので、ちょっと早めに来ている。

 

朝起きたら、着て行こうと思っていた普段着ではなく、トレセンの制服が畳まれて鎮座していた。

これを着て行きなさい、という、たづなさんの無言の圧を感じる。

たづなさんは、距離感が近くなってきたな、と思ったら結構ぐいぐい来るタイプらしい。

だんだんウマホとかでの言伝も減って来たし。

 

学園には、てくてく歩いて1時間ほどでついた。

怪我も治り、幾度かの筋肉痛を経て多少は身体の鈍りがとれたのか、途中の休憩もいらなかった。

 

どこから見てもトレセン生の俺は、堂々とトレセン学園の校門をくぐったわけである。

 

そして飛んでくるドラ声の怒声。

 

「こらぁ!サボりかぁ!午前の座学はどうしたぁ!」

 

・・・まあこういうこともある。

午前中はほとんどの学園生は教室で授業中。

誰もいないはずの校内でうろうろしていればこういうこともあるだろう。

見るからにいかにも筋肉バカ、といった感じのジャージ姿のゴリラみたいなおっさんが、猛ダッシュでこっちに走ってきていた。

 

・・・・・

 

・・・

 

 

「いや~スマンスマン。

 葦毛でサボり・脱走の常習犯がいてな。

 遠目じゃわからんかったわ。」

 

怒鳴り散らかしながらこっちに来たゴリラみたいなおっさんが、豪快にガハハと笑う。

逃げなかったのが幸いしたらしい。

そのサボり・脱走の常習犯とは別人とすぐに理解していただけた。

近づいてから誰だお前?みたいな顔してたけど。

この人は、午後の合同トレーニングを担当する教官だそうだ。

ゴリラ教官と名付けよう。

午前中は機材や練習に使うグラウンドのチェックなんかでこうして外で作業していることもあり、そこにのこのこと歩いてきたのが俺、ってことらしい。

ここにいた理由なんかをかいつまんで話しながら校舎の方に二人して向かう。

 

「しかし、この時期に中途入学か。

 何か事情があったんだろうが、ちょっと厳しくなるぞ?」

 

「厳しくなる?」

 

「いや、トレーナーだよ。

 もう選抜レース始まっているからな。

 いいトレーナーから順に埋まっていってる。

 お前さんがとんでもない逸材だってなら無理してでも枠を空けるとは思うが。」

 

そうじゃなければ、苦労するぞ、と。

 

そういえば、なんかそのうち俺のトレーナー候補と顔合わせするとかそんな話があったような?

どのみち、まだ走ることすらおぼつかない俺にはたぶん選抜レースなんか関係ない。

走っても大差でビリになるのがオチだろう。

せいぜい、優秀なトレーナーの指導力のおこぼれに預かって、普通のウマ娘レベルに引っ張り上げてもらえるのを祈るのみだ。

 

「購買は、この先の食堂ってわかるか?

 その隣にあるから見ればわかるはずだ。」

 

誤解が解けてからは見かけによらず、優しく接してくれたゴリラ教官に礼を言って別れる。

購買はすぐに見つかった。

 

学校の購買らしく、文房具を中心の品ぞろえが・・・ないな。

入り口の横に、山のように積まれた野太いスポーツドリンクのペットボトル。

容量4.5リットル。

そして、専用のどでかい陳列棚に色とりどりに積まれたサイズが異常なエナジーバー。

一本がコンビニの巻き寿司くらいある。

そしてフレーバーの種類が50種類とか・・・

あ、不人気なフレーバーは半額とか7割引きになってる。

倒木の皮味とか誰が食うんだよこれ。

そんな食料品が購買の半分くらいを占めていた。

 

そんな山積みの食料品の隣には、『熱血トレーナー限定!』のポップとともに、『売り切れ』表示だらけの空の棚と、対照的に埃をかぶった猫缶やら小さな冊子が山積みになっていた。

うん、見なかったことにしよう。

俺には関係のないものだ。

トレーナーしか買えないものらしいしな。

 

あとは服飾関係や衛生用品、そして学校のはずなのに一番小さい文房具コーナー。

おっかしいなー、俺の知ってる学校の購買って、他に参考書とかもっと勉学に関わるものも扱っていたと思うんだけど。

 

レジのところには誰もいなかったので、中を覗いてみると、品出しをしているらしい小柄なウマ娘の店員さんがいた。

鹿毛のショートな癖っ毛でメガネのウマ娘が、エプロン姿でせっせと段ボールを開けて商品を引っ張り出している。

 

「すいませ~ん、こちらで学園指定の靴と体操服の試着ができると聞いてきたんですが。」

 

「は~い、奥へどうぞ~。」

 

声をかけると、店員さんは手を止めて、すぐに購買の奥の部屋に案内してくれる。

・・・学園生じゃないのかな。

ぱっと見年齢の予想がつかないけれど、成人していそうな雰囲気を感じる。

 

 

案内された奥の部屋は倉庫みたいなものらしく、在庫がそこかしこに積んであったけれど、衝立やらパイプ椅子やら姿見なんかもあって、試着するための用途にも使われているみたいだ。

 

「靴と体操服でしたね?

 サイズとかって教えて貰えますか~?」

 

「靴が22cmで、体操服はMですかね?」

 

少々お待ちくださいね~、と店員さんは在庫の山を漁り始めた。

 

「お待たせしました~。こちらが靴と、体操服になります~。」

 

間延びした声とともに差し出されたのは22cmの靴を中心に上下1サイズの3セット。

そして体操服の上と、短パン、ブルマの1セット。

 

「靴は、履いてみて、つま先が痛くないサイズをどうぞ~。」

 

蹄鉄シューズと違って全力で走ることをそもそも想定していないのか、靴のサイズよりも履き心地とか靴ずれを気にしてください、ってことみたいだ。

靴自体はこの学園指定の革のローファーは、横浜で買った普段使い用の靴に比べると靴底が固いような気はするけれど、大差ない。

普通の道路を歩き回るための靴だとあっちの世界の靴とあまり変わらなくなってくるのかもしれないな。

サイズは結局変わらずの22cmで落ち着いた。

 

さて、体操服だ。

渡されたブルマを手に取って眺めてみる。

柔軟性の高い厚手の生地でうす暗い赤色。

引っ張ると結構伸びる。

びよ~ん。

引っ張るのをやめると縮まる。

 

衝立の外で待っている店員さんに、びよ~んと広げたブルマを手にしながら聞いてみる。

 

「ねぇ、このブルマってやつ、厚手のパンツとかアンスコと何が違・・・」

「ストップ!」

 

一瞬で言葉を遮られ、両手を抑えられた。

 

「・・・それ以上いっちゃダメ。」

 

悟り切ったような顔で首を振られてもな・・・

 

「いやでも、これってスカートも何もなく剥き出しで履くん・・・」

 

最後まで言葉を紡ぐ前に店員さんの握る手にウマ娘パワーがこもる。

 

イテテ!

手を握りつぶさないで!

 

「いい?

 これは、堂々と着てもいい体操服。

 昔の偉大なウマ娘が言いました。

 『パンツじゃないから恥ずかしくない!』

 はい、一緒に唱えて!

 『パンツじゃないから恥ずかしくない!』」

 

ぐいぐいと迫られて、根負けして呪文を唱えさせられた。

 

「・・・パンツじゃないから恥ずかしくない・・・

 ・・・パンツじゃないから恥ずかしくない・・・

 

 ・・・いや、やっぱ恥ずかしくない?!」

 

「いいから!

 どっちみち、短パンがダメならそれしか履けないんだから!

 さっさと履きなさいって!」

 

地団太踏まれても、そう簡単に洗脳されないってば店員さん。

そういえば、たづなさんが短パンとブルマは合わないとものすごくむずむずするって言っていた。

どういうことなのかね。

普段着にしてるズボンの類じゃそんなもの一つもないのに。

体操服の下だけに呪いでもかかっているんだろうか。

 

出来ればこんなパンツ丸出しみたいな格好は避けたいところだけど。

 

ブルマを手放して短パンを履いてみることにする。

 

スカートを履いたまま、短パンに足を通して股下まで上げたところで気づいた。

 

・・・スカートを一旦脱がないと尻尾を短パンに通せない・・・

 

なまじあっちの世界で学生時代に同級生の女の子が帰り際にそうやってスカートの下にジャージ履いてたのを覚えていたせいで、尻尾の存在をすっかり忘れていたよ。

 

スカートのホックとファスナーを開けて尻尾を抜いてスカートを下に落とす。

尻尾を二つ折りにして短パンの尻尾穴に通し、短パンを引き上げると、尻尾の付け根からぞわっとするようなむずがゆさが襲い掛かって来た。

 

「うひゃっ!」

 

思わず上げた悲鳴に、店員さんがドヤ顔で言った。

 

「ブルマ同盟へようこそ~」

 

俺の体操服に、ブルマが確定してしまった瞬間だった。

 

いや、しかし、これはちょっと長く履いていられない。

一刻も早く脱がねば!

むずむずどころじゃない、へたしたらなんか漏れる。

いそいそと短パンを脱ぐ俺に、ニッコリとブルマを手渡す店員さん。

・・・何か負けた気分だ。

 

ブルマの履き心地は、高校生の時水泳で履いたブーメランパンツにどことなく似ていたよ・・・

 

 

 

 

「バッグをお持ちでないなら、こちらはいかがですか~?」

 

サイズ合わせが終わった俺に、店員さんがバッグを勧めてくる。

紺色を基調とした化繊のボストンバッグだ。

 

「これは指定のバッグですかね?」

 

「いえ、特に指定ってわけじゃないですけれど、トレセンのバッグて言ったらこれですね。

 丈夫で長持ち、ウマ娘が手荒に扱っても6年くらい平気で保ちますよ?」

 

値段を聞いたら12000円だという。

スポーツマンが持ち運ぶボストンバッグの類としてはメーカー品だったとしてもちょっと高めな気がする。

あっちの世界に生きていた時はこの類の鞄が5000円でも悩んでいたからな~。

 

「鞄の類は何使ってもいいですけれど、変なの使うと浮きますからね~。

 ここ結構いいとこのお嬢様とかいますし。」

 

「・・・買います。」

 

ただでさえ目立ちそうなのにこれ以上悪目立ちの材料は増やしたくない。

 

「靴と体操服もお持ち帰りしますか~?」

 

「そうですね、バッグのタグ切って、そのまま中に詰めてください。」

 

体操服の上も用意されたけどそれはあると断って、ブルマ4着、靴2足を買ったボストンバッグに詰めてもらう。

 

「締めて56000円になります。」

 

うっ、意外と高い。

そういえば奨学金の返済に苦しんでいた卒業生のねーちゃんが体操服結構するような話してたな。

財布の中を見ると現金が4万円弱しかなかった。

 

「・・・カードとか使えます?」

 

「はい、使えますよ。

 

 ・・・カード持ちとか実はいいところのお嬢さんとかだったりしますか?」

 

軽口をたたきながら、カードをレジに通す店員さん。

 

「学園でカード使うのって、いいところのお嬢さんか職員ですからね~。

 学生で家族カードもたされるって結構お金持ちの家じゃないですか。

 さすがにそんなにいませんよ~。」

 

生えてきたレシートを手渡されサインをして返す。

そういえば俺の学生時代も、同年代でカードで支払いしてる奴なんて見たことなかったな。

しかし、これも悪目立ち要素か。

入学したらカードを人前で使うのはちょっと考え物だな。

 

またよろしく~という店員さんの声を背にして購買を出た。

去り際に、売れないからと、店員さんからタンポポ味のエナジーバーをおまけに貰ったけれど、これを開封する日は来るんだろうか・・・



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ウマ娘になれなかったヒト

推敲の段階で頭の中でムッターさんが話が薄い!と暴れ出したので書き直しに時間食いました~

結果がわかっているのに、やり始めちゃって退くに退けなくなる、ウマ娘にヒトが挑むのってハードルが高いどころじゃないですけれど、探してみると結構身近にあったりもします~


「結論ッ!この学園に貴女を担当できるトレーナーはいないッ!」

 

理事長室に入るなり、挨拶もそこそこに結論とやらを突き付けられる。

学園内のトレーナーを俺に割く余裕はない、ということらしい。

もともと選抜試験でトレーナーに拾ってもらえるような能力など持ち合わせていない身だ、学園側で世話してくれるというので期待していたがあてが外れたようだ。

 

「しかしッ!学園内に人材なくとも在野にはありッ!

 紹介しよう!

 貴女のトレーナー候補、ウマ男芸人『ムッター』氏だッ!」

 

トレーナー候補なのに芸人?と思いつつも、紹介された人物を見る。

 

どこかちぐはぐな感じのするスーツ姿の30歳くらいの男が、ソファーから鋭い目つきで俺の全身を舐め廻すように見ている。

余計な贅肉のついていない、精悍と言っていい顔つき。

 

「ヒトからウマ娘になったっていうからどんな奴が出てくるかと思えば、普通のウマ娘じゃねぇか。

 ムッターだ。

 山田でもいいぞ。」

 

立ち上がって、人好きのする笑顔で手を差し出される。

ムッターは芸名、本名が山田ってことらしい。

握手を返して名乗りながら思う。

 

このムッター氏、太ももがヤバい。

 

スーツ姿になんか違和感があったのはこれだ。

太ももだけぱっつんぱっつんに近いほど、ズボンの生地が張っている。

握手した手なんかほっそりしているように見えるのに、だ。

 

「彼はウマ娘が好きで好きで、ウマ娘と並んで走るのを夢見て、ヒトの身でありながらウマ娘の走りに極限まで近づいたまさに『ウマ男』なのだッ!」

「ムッター氏の著書は、中央のトレーナーも参考にするほど細かく研究なされていて、ウマ娘研究の第一人者なんですよ?」

 

トレセン学園というある意味究極のウマ娘機関の要職にいる二人がベタ褒めする。

 

ピンとこないな、というのが表情に出ていたのか、ムッター氏が足元の鞄からノートパソコンを取り出して、自身の動画を見せてくれた。

 

動画に映るムッター氏の身体は細い手脚に太い腰と腿。

短パン姿でさらけ出された生足のふくらはぎも、異様に発達していた。

明らかに他の陸上系アスリートとは異なる筋肉のつき方。

 

走り出したその姿は、歩幅や脚の回転はウマ娘とは比較にならないほど足りないものの、フォームは驚くほどウマ娘のそれに似ていた。

似てはいるものの、やはりヒトには合わない走法なのか、各距離別のタイムは日本記録や世界記録と比較すると遅い。

しかし、筋力のバランスをウマ娘に近づけ、最適化すると突然タイムが上がるのだという。

 

「俺の身体は、圧倒的に足首からつま先にかけての筋力が足りねぇ。

 鍛えてもなかなか筋肉がつかねぇ。

 おまけに身体の全盛期は過ぎ始めてる。

 ウマ娘を追っかけるのも、まぁ、潮時っちゃ、潮時だ。」

 

ムッター氏は今、金曜のゴールデンタイムのバラエティ番組で、5分ほどのウマ男チャレンジ!という枠を持っているという。

ウマ耳とウマ尻尾を付けたムッター氏が、様々な条件で幼稚園児から老人までの幅広い年齢層のウマ娘に挑戦するというものだ。

全国ドサ回り風に収録がなされて、結構人気があるらしい。

様々なウマ娘との対戦データを仕事で集められる、と長年やってきたこの企画も、自身の身体の衰えに限界を感じている、という時期に来ていた。

 

「こちらの理事長さんから、ヒトからウマ娘になった困りものがいるから、走り方を伝授してやって欲しい、とか連絡を貰ったときは、何を言っているんだと思ったぜ。

 確かに俺はウマ娘のトレーナー資格は持っているが、それも便宜上取っただけだ。

 こんな与太話、放っておいても良かったんだが・・・

 

 だが、送って貰ったお前の走る動画を見て、確信した。

 お前は確かに突然ウマ娘になってそのウマ娘の能力に振り回されているヒトだ、とな。

 俺が何度も夢想した、俺がウマ娘だったら、っていうシミュレーションを動画の中でそのままやってるウマ娘がいやがる。

 俺が長年追い求めてやまなかった、ウマ娘の能力を手に入れたヒトが実在する事に、なんでウマ娘になるのが俺じゃないんだと神を呪ったもんだ。」

 

「俺の走る動画?」

 

「ん?ああ、俺が貰ったのはこれだ。」

 

俺は走っているところを動画に撮った覚えなんかない。

再生された動画の中では、全身プロテクターに身を固めた俺が、転んで、転んで、危なっかしいおかしな走りを披露しているものだった。

たづなさんと医療研究センターで走った時のそれだ。

明らかにズームで、俺の走りだけを追いかけていて、一緒に走っていたはずのたづなさんは一切写らなかった。

 

「たづなさん?」

 

彼女は目を逸らした。

・・・計画的犯行だったか。

 

 

 

「しかしよ~、ウマ娘と並び立つことを夢見て、ウマ娘になりたくてもなれなかった俺と、偶然にもウマ娘になってしまったお前。

 代われるなら代わってくれねぇか?

 お前の身体俺にくれよ。」

 

はっ!と彼は皮肉な吐息をついて、一拍。

彼の雰囲気が豹変する。

 

「まぁ奇跡なんざ願ったところで都合よく起こるもんじゃねぇ。

 今更俺がウマ娘になれるなんて思っちゃいねぇ。

 俺は生涯ウマ娘と並び立つことなく、勝てない勝負に挑み続けて朽ちてくもんだと思ってた。

 最初から結果のわかってる勝負に挑み続けた馬鹿の末路って奴だ。

 

 だが、目の前にヒトからウマ娘になったなんて言う馬鹿げた存在がいるなら別だ。

 お前は、俺の夢の先にいる。

 

 俺のウマ娘の走り方の全てのノウハウをくれてやる。

 お前が、俺の半生の成果をもって、ヒトから完全なウマ娘になれることを証明してくれ。

 俺の代わりにヒトから完全なウマ娘になって見せてくれ。」

 

狂気的ともいえる固執が、執念が、苛立ちが、たったそれだけの言葉に込められていた。

そして俺がかつて勝てない勝負に挑み続けて折れた道を、彼はまだ歩き続けていた。

 

そこにいるのはウマ男なんていう芸人ではない。

 

本気で、ウマ娘に近づくための努力を長年重ねてきた一人のヒト。

ウマ娘そのものになれないなら、ヒトの身のままウマ娘に近づこうと足掻いてきたヒト。

 

そこに、何の努力もなく現れたヒトからウマ娘になったという俺。

自分の望むものをすべて持ちながら使いこなせずに四苦八苦している俺の姿の動画。

そうじゃない、そんな脚の使い方じゃない、と歯がゆい思いをしながらそれを見たのではなかろうか。

 

彼はウマ娘の走り方を誰よりも知っているが、ウマ娘の肉体能力がない。

俺はウマ娘の身体を持っているが、ウマ娘としての走り方を知らない。

 

お互い持っているものと持っていないもの。

 

噛み合うことがなければいずれは両方無となって消えていたかもしれない。

 

だけど、噛み合った。

たった一本の理事長の電話で、噛み合ってしまった。

たぶん、これ以上の組み合わせは他に無い。

 

「託すぜ?

 全部持って行け。」

 

俺の背の高さに合わせて挙げられた拳に、拳を合わせる。

 

「託されるよ、トレーナー。」

 

ヒトの走り方からウマ娘の走り方への苦労を全て背負ってくれた先達が最高のトレーナーとしてついてくれた瞬間だった。

 

 

 

 

「あ~、ところで報酬の件だが。」

 

ビクリ、と理事長の肩が震えた。

見る間に顔を引きつらせて脂汗を流し始める。

 

「だ、だ、だ、大丈夫だ。

 それ相応の報酬を用意しようッ!」

 

理事長の口元を隠す扇子に『金欠』の文字が踊る。

 

「いや、学園からの報酬はいらん。

 報酬はコイツから貰う。」

 

彼の指さす先は俺。

 

俺?!

 

「心配すんな、金じゃねぇ。

 大したことでもねぇ。

 ちょっとじっとしてろ。」

 

彼が、立ち上がって俺の背後に回り、俺の目の前に影が差したかと思うと・・・

 

スウ~~~~ッ・・・・

 

脳天のつむじのあたりを鼻で吸われた。

 

「ふぅ、作りものじゃねぇ生のウマ娘の香り・・・これで2週間は戦える。

 ウマ吸い最高!」

 

「「「・・・」」」

 

吸われた時の俺の表情は、チベットスナギツネのようだったという。

ムッター氏のウマ娘好きってのをなめてた。

最高のトレーナーであるのかもしれないがウマ娘好きの度を越して変態入ってた。



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デビューって、そっち?!

今回はちょっと短いです~


「これは提案なんだが・・・お前、俺の事務所に所属しないか?」

 

「はい?」

 

脳天からウマ吸いで何やら吸い出されたらいけないものが吸い出されたようで虚無ってたところに、突然の提案だ。

彼の事務所に所属?

珍獣芸人としてデビューしろっていうことだろうか。

 

「俺とマネージャー兼事務員しかいない個人事務所みたいなもんだから、所属したからって仕事があるわけでもないし、給料を出してやれるわけでもないんだが・・・

 聞いた話だと、お前異世界からの渡り人でもあるんだろう?

 まぁ俺の方にもお前の指導映像を使わせてもらえないか、って下心はあるが、芸能活動しています、って隠れ蓑があれば、多少おかしな行動をしたところでごまかせることも多いと思うぞ? 」

 

・・・これは思ってもみなかった提案だ。

芸能人、ってのは目立つのが仕事みたいなものだから本来悪目立ちたくない俺からしてみれば芸能活動なんて悪手もいいところだと思うのだけれど、事務所に所属しているっていう名目だけで活動しないのなら話は変わってくる。

一般には芸能人なんてのはどこか浮世離れした行動をとるものだ、っていう認識があるから、変な言動や行動をとっても、ああ芸能人だしな、で納得させられるシーンは多いだろう。

最初は多少目立つが『芸能人の卵です!』と宣言しておいて、俺の不自然な部分をそういう『キャラ』だと思わせるのはありかもしれない。

 

「妙案ッ!現状貴女にレースでの活躍を期待するのは難しいッ!

 しかし、在学中に仮にも芸能事務所に所属していたという経歴は卒業後役に立つだろう。

 これから先の人生を考えるに、コネや人脈を育てておくのは悪くないッ!」

 

うん、そういう側面もあるか。

理事長の話を聞いて、奨学金返済で苦しんでいた卒業生のことを思い出す。

トレセン学園は、レースに出場するウマ娘を育成することに特化した学校だ。

安くもない学費を払って卒業したところで、在学中にGIレースを勝たなければおいしい話は来ないとあのねーちゃんは吐き捨てていた。

俺も何もしなければそのおいしい話の来ない実績を上げられなかった卒業生コースに乗ることになる。

 

何より、あっちの世界で社会人だった俺は知っている。

世の中、へたな努力と実力よりも、金とコネと愛嬌の方が強いってことを。

 

「ラベノシルフィーさん、この話受けましょう。

 芸能活動しているウマ娘は学園内にもいますし、学園外へ露出する情報に関してはこちらでもチェックしますから。」

 

たづなさんは利がある、と判断したみたいだ。

ただ、このままはいはいと二つ返事で了承するのはちょっと怖い。

海千山千の芸能界を、この若さでほぼ一人で渡り歩いているのがこの目の前の彼だ。

トレセン学園がサポートしてくれるにしても、自分の身を守る範囲ははっきりさせておかないと、思わぬ落とし穴にはまるかもしれない。

俺は久しぶりに社会人脳をフル回転させて考える。

 

「この話を受けるなら・・・詳しい契約はあとで書面で交わすときにお互い確認するとして、この場で思いつくことで一件。

 俺関連の映像をもし一般公開するなら、俺が公式戦で勝つまで、素性がわからないようにして貰えますか?」

 

目先の問題は、デビュー前に必要以上に悪目立ちしないこと。

レースに出て人目についてしまうのは仕方がない。

けれど、ただでさえ『変な奴』と思われがちになるであろうこれからの生活で、いらぬところで悪目立ちすればいじめの対象になったりするかもしれない。

身に着けているものに注意しろ、とたづなさんから言われるくらいだ、学園生の間にいじめや名家同士の派閥争いなんかが無いわけがない。

考えすぎかもしれないけれど、俺の無様な映像が公開されることでトレセンの恥さらし扱いされる可能性だって十分あるんだ。

そのくらいは警戒しておいて損はないだろう。

 

「ああ、それは大丈夫だ。

 さすがに多感な年頃のウマ娘を晒しものにしたりはしないさ。」

 

「・・・その多感な年頃のウマ娘に突然ウマ吸いやらかした人の言葉とは思えませんけどね。

 でも、ありがとう。

 こんな提案をしてくれるとは思わなかった。」

 

彼にとって大した手間にならないからこその提案かもしれない。

しかしその提案は、俺の手札足りうる十分な利を含んでいる。

礼は言っておくべきだろう。

 

「気にすんな。

 お前がウマ娘の走り方を身につけて他のウマ娘と対等に立ってくれるだけで・・・俺はそれだけで報われる。」

 

「ふふ・・・ちょい歳下くらいの奴にそう期待されると妙な気分だな・・・」

 

つい、砕けた口調で呟いてしまう。

年下に見える、と言っても社会に出てしまえば数年の歳の差は誤差みたいなもんだ。

ほぼ同世代くらいの彼のざっくばらんな言葉はついついよそ行きの口調を捨てさせる。

 

が、彼の耳は俺のつぶやきをしっかり拾っていたらしい。

 

「俺が歳下くらい?

 ちょっと待て、お前見た目通りの歳じゃないのか?」

 

「歳も何もあっちの世界じゃ三十路超えのおっさんだったよ。」

 

俺の言葉を理解して、彼が固まった。

 

「 え?理事長さんからはヒトからウマ娘にって・・・

 

 ヒトの学生がウマ娘になったんじゃねぇの?

 

 元は、30・・・過ぎの・・・おっさん?

 

 ・・・・・

 

 ・・・

 

 ・

 

 詐欺だ!オマエ!なんてものを吸わせんだ!」

 

「馬鹿野郎!あんたが勝手に吸ったんだろうが!」

 

完全に、勝手な思い込みによる逆切れだ。

俺に非は無いっ!

 

突然に始まった俺たちのくだらない応酬をよそに、理事長とたづなさんは私たちは関係ありませんとばかりに静かに茶を飲んでいた。

 

「どうやらウマが合いそうですね。」

 

「うむ。無事トレーナーが決まって一安心だ。」

 

喧騒は20分ほど続いた。

俺のこのトレーナー、実はJCJKウマ娘マニアか隠れロリコンではないかという疑惑が湧いたけど。

 

トレーナーと顔合わせしたその日のうちに、同年代の男同士のようにバカ騒ぎできるまで関係が深められたのはいいんだけどね。

ウマ吸いの相手に中身までティーンの女性を期待していたのは、彼の落ち度だと思うんだ・・・




最後のおまけのドタバタは、もうちょっと長かったんですが、推敲の段階で、このセリフを入れるとたづなさんが反応して参戦し、収拾がつかなくなる!ってのに気づいてごっそり削りました~
今回がちょっと短めになった理由です~


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騙されてたかいたか~い

へんた~い、とまれ!(とまりません


「くそ、負けた~」

 

ムッター氏に言いくるめられて、トレーナー報酬にウマ吸いに加えて『たかいたか~い!』を彼の望んだ時に提供する羽目になった。

これだから芸能界の荒波を平気で泳いでるような奴は怖いんだ・・・

 

 

 

 

「これは対価足りえない。

 ウマ吸いに加齢臭が混じる可能性など論外!

 断固対価の変更を要求する!」

 

唾を飛ばさんばかりに熱弁するのは、俺が元三十路のおっさんだと知って憤慨するムッター氏。

 

「加齢臭出るほど歳食ってねーよ!

 俺の髪からはROLAのトリートメントのいい香りしかしねーだろうが!」

 

俺は俺で完全に余所行きの口調が吹っ飛んで地が出ていた。

 

「お前は毒が混じっている可能性のある食品を口にできるか?

 俺にはできない!

 ならば報酬兼トレーナーとしての職務として俺に一週間に一度脚の爪のケアを任せることを要求する!」

 

「馬鹿野郎!

 俺はくすぐったいのが苦手なんだ!

 他人になんか脚のつま先任せられるか!

 絶・対・に・嫌だ!」

 

「くすぐったがりか・・・

 ならばトレーニング後の入念なマッサージも・・・」

 

「絶対に断るっ!」

 

「ふ~。

 仕方ない、ならばこうしよう。

 俺がお前の体形に変化があった、と思ったときは、その都度俺に体重を測らせろ。

 トレーナーの職務を遂行しつつ追加報酬となるものに、これ以上の譲歩はできん!

 仕事には正当な対価が必要だ。

 いい歳の大人だったのならわかるだろう?」

 

もういったい何を話しているのか自分でもわからなくなってきていたが、仕事に正当な対価とは・・・痛いところをついてきた。

社会人経験者としてはタダ働きは忌避すべきことだ。

相手にも、自分にも。

その対価が変態的なものであったとしても、だ。

ウマ娘の体重を把握したいだとか、この男の趣味は理解しがたいが、どうせトレーニングで体重は随時記録される。

頭をフル回転させてみるが、思い当たるリスクは一つしかない。

のんきに我関せずという顔で茶をすすっているたづなさんが『それでいいんですか?』という目でちらりとこちらを見た気がするが・・・たぶん問題ない。

 

「・・・いいだろう。

 ただし、全裸で、とかは無しだからな?」

 

ボフゥ!と理事長が茶を噴いた。

たづなさんは見事に初動で避けてみせた。

 

「・・・お前は俺を何だと思っているんだ・・・」

 

変態的な要求をされないよう釘を刺してきた俺に、心外だという不満たらたらで文句を言われるが、ぜひ自分を客観視していただきたい。

 

「・・・ウマ娘好きをこじらせた変態トレーナーかもしれないと思い始めてる。」

 

「・・・」

 

「考え込むなよ!否定しろ!」

 

「まぁいい。

 お前の想像しているようなことは誓ってしない。

 証明してみせよう。

 こっちへ来い。

 腰に両手を当ててここに立て。」

 

・・・何かまた妙なことをやらかしてくれそうな予感がプンプンするのだけれど、とりあえず理事長とたづなさんがいる目の前でとんでもない事態にはならないだろう。

 

自分よりも頭一つ高い彼の前で、腰に手を当ててヒーロー立ちして彼を見上げる。

 

「これでいいかっ・・・・」

 

言い終わる前に、ふわりと身体が宙に舞う。

彼を見下ろす高さまで上がると、急降下。

そしてまた上がる。

 

俺の脇の下を手で支えての、俗に言う『たかいたか~い!』だ。

二、三度上下させると、彼は俺を下ろした。

 

「・・・ふむ、6Xキロ、ってとこか。

 体幹トレーニングに使ってる砂袋といい勝負だな。」

 

彼の口にした体重はおおよそ当たっている。

60キロくらいの砂袋相手にどんなトレーニングしてるんだか。

 

「あんた、体重測定の度にこれやる気か?」

 

「そうだが?」

 

なんでそんな当たり前のことを聞く?みたいに不思議そうな顔でこっちを見るなよ。

 

「ウマ娘がトレーナーにこうやって抱え上げられるなんて普通に見られる光景じゃねぇか。

 俺はただそこに体重測定という仕事の一環と報酬を兼ねさせて貰っただけだ。」

 

もう、口から出てくる言葉が当たり前のような口調過ぎてこっちまで正論を言われている気分にさせられる。

彼が振り返って理事長とたづなさんの方を向くと、

 

「・・・まあいるな。」

 

「ええ、ハルウララさんとか、マヤノトップガンさんとか、ニシノフラワーさんとか、よくトレーナーさんに抱え上げられてますね・・・」

 

・・・まさかのフレンドリーファイヤが二人から返って来た。

いつの間にか味方がいねえ?!

 

「何が不満だ?

 俺は日頃のストレスを解消できて、学園は経費を掛けずにトレーナーを雇うことができ、お前はウマ娘の走りを手に入れられる。

 三方丸く収まるWin-Win-Winな関係じゃねぇか。」

 

彼は報酬は金は要らねぇ、と言い切って、理事長はトレーナーに支払う賃金は懐に痛い様子、俺は代わりに差し出せるものも思い当たらない。

・・・はっきり言って状況は詰みだ。

 

「じゃ、大方これで決まりだな。

 これで失礼する。

 詳細な契約はあとでうちのマネージャーと詰めてくれ。

 これからよろしく頼むぜ!

 俺を継ぐ未来のウマ娘ちゃんよ!」」

 

これ以上の問答は無いと見たか、ムッター氏は鼻歌交じりで帰っていった。

 

 

 

 

「完全に彼のペースに巻き込まれていましたね。」

 

「無茶言わないでください・・・口もうまくて人付き合いもうまけりゃ元の世界でエンジニアなんてやってませんって。」

 

人付き合いの経験を得るための時間を、全て自分の知識欲に向けてしまったのが理系の研究者や開発者と言った分野の人間だ。

人付き合いもできて、他の能力も高いなんて言う人間もいるにはいるが、極まれで、実は別の目立たない部分が大きく欠けているパターンがほとんどだ。

100という時間をすべてに均等に割り振れば平凡な人間ができ、人付き合いに振れば営業向きに、手先の器用さに振ればモノづくりに、頭脳に振れば学者や研究者、開発者に。

能力のどこか突出すればどこかが必ず凹む。

俺は運動ができないから早々に身体を動かすのは諦めてその時間を読書と工作に費やした。

人付き合いは人並みを自負しているけれど、それ以上じゃない。

 

だから、海千山千のムッター氏のような人付き合いのプロを相手にすると口車のテクニックでは、勝てない。

 

 

「安堵。元男と男同士のじゃれ合い、と思って放置していたが見ていて若干ヒヤヒヤしたぞ。」

 

・・・まあ、あからさまに唯一決まりかけたトレーナー候補を変態扱いしてたもんな俺。

交渉決裂してもおかしくなかった。

・・・それ以上に彼の欲求の方が勝っていたようだけれど。

 

ため息を吐きながら、たづなさんが眉を八の字に寄せて言う。

 

「ラベノシルフィーさん、気づいていますか?

 あなた、あのウマ吸いに追加報酬という条件を呑んだんですよ?」

 

「・・・え?」

 

元三十路男のウマ吸いが気に入らなくて報酬の変更を要求してきた、という話だったはず。

 

たづなさんが、どこに持っていたのやらスティック型のボイスレコーダーを取り出して何やら操作し始めた。

 

「・・・ここですね。

 しっかり『追加報酬』と彼は口にしていますし、あなたはそれを否定していません。

 私の目くばせには気づいていなかったんですか?」

 

「・・・やられたっ!」

 

ボイスレコーダーを再生してみると、彼の追加報酬要求に俺は承認を与えてしまっていた。

 

口約束でも約束は約束、たづなさんがボイスレコーダーを用意していたように、彼もたぶん交渉事は録音しているだろう。

子供相手に大人げない、と言える状態だったらまだごねられる余地があったけれど、こっちが元社会人だと互いに認識した状態じゃ言質とられた時点で負けだ。

 

感情的な口論から入って、こちらが飲めない要求だとわかるや否やハードルを下げ、更にこっそり話をすり替える。

最初にヒートアップしてしまって仕掛けられた罠にまんまとかかった。

理事長とたづなさんを蚊帳の外にしていたのも俺の落ち度か。

助けに入ろうとしてくれたたづなさんの目くばせの意図も理解できていなかった。

 

なんとなく見えてきた全貌は、元三十路男のウマ吸いに一瞬脊髄反射的に拒否反応を起こしたものの、『これはこれでアリか?』と判断するや否や変更を追加に切り替えてさっさと俺を嵌めに来たのだろう。

動機はアレだけれど、その臨機応変な判断力には舌を巻くしかない。

 

・・・はぁ~。

 

ムッター氏に差し出す事になった報酬は致命的なものじゃないが、なんていうか・・・会うとやたらと構いたがってべたべたスキンシップを試みてくる親戚のおじさんに似てるんだよな~。

まさかとは思うけど、可愛がっていた姪っ子のウマ娘を構い過ぎて嫌われて、その反動が全部こっちに向いているとかじゃないよな?

スキンシップ方向に全振りしていたとしても、伸び掛けた髭面を顔にこすりつけられて『お鬚じょりじょりする~』とか言うの期待されても困るぞ?

 

これ以上にないほど俺にマッチしたトレーナーだってのはわかっているんだ。

きっと、あの悪癖は、彼がウマ娘の走り方に没頭するあまり失ってしまった何かの部分に当たるに違いない。

常識とか、性癖とかその類の。

願わくば、これ以上差し出す報酬が増えませんように。

 



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迫りくる厨二

ようやく、編入学年が決定ですよ~
留年生?は禁句です~


「時に、ラベノシルフィー。

 編入学年は中等部2年で良いか?」

 

編入学年に関する理事長自らの打診だ。

否定する要素も何もない。

 

「ええ、特に反対する理由もありませんが、なぜそのようなことを?」

 

理事長なら『決定ッ!中等部2年に編入するッ!』と扇子を広げてスパーンと発表するかと思ったのだけれど、わざわざこちらの意向を確認するとは。

 

「いや、芸能界入りも視野に入れるなら、たづなが以前貴女が最近流行りの厨二病キャラとやらになりかけていたと聞いたのだ。

 中等部2年ならキャラ付けにちょうど良いのではないかと・・・」

 

「ちょっと!たづなさん?!」

 

何吹き込んでくれてるんですか!と目を向けると、つい、と視線を逸らされた・・・と思いきや、真顔に戻って言われたよ。

 

「冗談です。」

「冗談だ。」

 

 

 

 

「いや、たづなからは、中等部1年に編入した方が良いのでは?と言われているのだがな。」

「現状、身体能力、常識ともに、年齢通りの中等部3年だといくら座学が薄いと言われるトレセンでも結構きつそうですからね。」

 

あっちの世界でも専門校と言われる学校の座学は、その学校の専攻に特化していて、必須科目である語学や一般教養以外の授業内容はとてつもなく薄い。

問題は俺の得意分野の学問はトレセン学園にはほぼなく、知識として欠落しているのが薄くない授業の一般教養やスポーツ系のものだということだ。

 

ただでさえ、普通のウマ娘になるための肉体的特訓が始まるところに、幼少時から年齢相応になるまでの一般教養と経験のないスポーツ関連の知識を詰め込まなくてはならない。

たづなさんが心配するのもわかる。

 

「しかしな、私はこうも思うのだ。

 今までの異世界からの渡り人からの話を聞くに、貴女のいた世界とこの世界はウマ娘の存在以外は双子と言えるレベルで非常に似通っている。

 その似た異世界で、一通りの教育を受け、社会人として働いていた者に、中等部1年からやり直せ、というのは酷ではないかと。

 ・・・貴女はもともと、運動能力に不安があり気にしていただろう?

 その不得意だと思い込んでいたであろう分野に、わたしたちは貴女を投げ込むのだ。

 かつてひとかどの社会人であったプライドまでも砕いて、初等部卒業したてのウマ娘としてやり直せ、というのは心が折れてしまわないか気になってな。

 中等部3年と1年、たかが2年と差は僅かであろうとも、心にヒビが入ればそのわずかな評価の差が心を壊す。

 わたしはな、この学園で学ぶウマ娘に、学園を嫌いになって欲しくないのだ。

 できれば、貴女にも厳しくはあっても充実した学園生活だったと言える日々を送って貰いたい。

 望むのなら、中等部のどの学年でも良い。

 どうか?」

 

理事長の口ぶりからすれば、俺が年齢通りの学年を望むなら中等部3年を、たづなさんは中等部1年の方が安心、と。

間を取って2年を打診はしてみたが結局俺次第、って話だ。

俺がこの身体の年齢以下の評価をされて、心に傷を負わないかと気にしているのが理事長らしい。

理事長は、一見して少女だ。

URA傘下、トレーニングセンターで最も巨大な中央を統括する理事長という職に就くにしては異常ともいえるほど若い。

何をするにつけ、その外見と若さと重責の狭間で心砕けそうになった経験があるのだろう。

 

時折へっぽこな様子を見せることもあるけれど、あの空元気ともいえる口調は、自分を奮い立たせる一種の自己暗示のようなものなのかもしれないな。

 

少し考えたが、心は決まった。

 

「・・・理事長の提案通り、中等部2年で頑張ってみたいと思います。

 困った時は相談に乗ってくれますよね?」

 

「うむッ!わたしもたづなも無下にはしないと約束しよう。」

 

理事長から力強い返事をいただいた。

正直な話、理事長の提示した中等部2年をそのまま受け入れたのは、打算だ。

 

座学は、あっちの世界と基本が一緒であれば、差分を収集することに集中すればおそらくそんなに覚える量は無い。

問題はスポーツ関連の知識だけれど、これはどこまで俺の雑学が授業に含まれているかによる。

いずれにせよ、学校の試験などというものは、一夜漬けで何とかなる場合も多いし、赤点を取ったところで補習でクリアできるなら、会社で一発勝負の仕事を請け負うよりだいぶマシだ。

 

運動能力なんかは、今日出会ったトレーナーにどこまで仕込んで貰えるかで、やってみなければわからない。

 

そして、一番気になったのが今回のこの提案で理事長とたづなさんの意見が割れていて、理事長が俺もたづなさんも立てる形で譲歩して意見を曲げている点だ。

ここで理事長の妥協案である中等部2年以外を選ぶと、理事長かたづなさんどちらかのメンツを潰す。

いくら三女神の威光があって、俺を保護する気があったとしても、何かあった時にそのメンツを潰したことが小さな棘として残りかねない。

 

理事長が俺の心がわずかな評価の差で壊れてしまうと心配したように、いくら理事長とたづなさんの仲がよく見えても、わざわざ見えている棘を刺しに行くことはない。

 

こすっからく見えても、これが理事長の言う社会人をやって来た経験則なのだ。

 

「これでわたしの懸案事項は終わったな。

 たづな?」

 

「はい、それでは寮を見てもらいましょうか。

 寮長さんを呼びますね。」

 

たづなさんがウマホで寮長に呼び出しをかける。

 

「理事長室だね!

 すぐに迎えに行くよ!」

 

スピーカーモードでもないのに、たづなさんのウマホから聞いたことのある元気な声が漏れ聞こえる。

 

10分もしないうちに、寮長は姿を現した。

 

 

 

 

「2週間ぶりくらいだねぇ。

 怪我はもういいのかい?」

 

俺が、ウマ娘世界に飛ばされてきたときのことを知る数少ない学園生の一人、ヒシアマゾン。

美浦寮の寮長だ。

俺と彼女は理事長室を辞して、美浦寮へ向かっている。

と言っても、学園に隣接している寮だから大した距離は無い。

 

「おかげさまで。

 ああ、そういえばお借りしたジャージそのままでした。

 洗濯してお返しすればよろしいですか?」

 

借りたジャージは、便利使いしてほとんど借りパク状態になっていた。

さすがにそろそろ返さないとまずい。

 

「ああ、あれは保健室の備品みたいなもんだから、返せるときでいいよ。

 それより、あの時のズタボロだったウマ娘が、立派なトレセン生になったねぇ!

 アンタ、訳アリなんだろ?

 異世界からの流れ人って本当かい?」

 

「ええ、まあ。

 あまり流れ人とか吹聴しないでいただけると助かるのですが・・・」

 

「・・・そりゃ、もう無理な話だねぇ。

 生徒会はともかく、ゴールドシップが噛んじまってるから、隠そうとすれば面白がってなお広がるんじゃないかねぇ。」

 

そうだ、三女神像に俺が刺さっているなんてゴルシの仕業以外ありえないと生徒会副会長のエアグルーヴが引っ張ってきていたんだっけ。

 

・・・状況を整理してみよう。

俺は、変な時期に中等部2年に転入してきて、芸能事務所に所属していて、ゴルシが『あいつ異世界からの流れ人なんだゼ☆!』と吹聴して回り、俺は俺で話せばボロボロと常識がない言動を繰り返し、運動も学業も成績はボロボロの劣等生。

 

うん、痛い奴以外の何者でもないな・・・

 

急激に、先の理事長とたづなさんの冗談だったはずの『厨二病キャラ』が現実味を帯びてくる。

 

・・・俺は頭を抱えた。

 

「まあ、アタシから噂を広げるようなことはしないよ。

 ああ、見えてきた。

 あれがアタシの管理する美浦寮さ。」

 

校舎が途切れて見えてきた美浦寮は、なんとなく想像していた木造チックな小さな寮ではなく、欧風の4階建ての鉄筋コンクリート造りで、長くて巨大な建物だった。

しかもそれが、何棟も連なっているんだ。

思った以上のマンモス寮っぷりに、思わず俺はその場で立ち尽くしてしまったよ。



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それぞれの思惑/初めての美浦寮

暗い話は短めに、のんきな美浦寮探索は長めに~でこうなりました~


「中等部2年を選びましたね。」

 

「・・・うむ。

 さすがにあれは口にできなかった。」

 

ラベノシルフィーとヒシアマゾンが連れ立って理事長室を辞した後。

トレセン学園理事長秋川やよいとその秘書駿川たづなは、揃ってため息をついていた。

たづなしかいない理事長室では、空元気で声を張り上げる必要もなければその元気もない。

 

やよいが、口にできなかった、たづなの提案をそのまま肯定できなかった理由。

 

中等部1年時、入学から約半年間に発生する大量の退学者。

 

トレセン学園中央に、意気揚々と入学するも、全国レベルの壁の高さに心折れて退学していく者たち。

 

死に物狂いで練習しても、遊んでいるように見える同期に追い越されていく絶望的な才能の差。

運悪く選抜レースのたびに勝てない相手と組になり、実力は足りているのにトレーナーがつかない者。

地元では一番だったのに、トレセン中央では凡庸で埋もれてしまうことにやる気を失ってしまう者。

 

焦りが焦りを生み、無茶なトレーニングで怪我を負い、周囲に置いていかれる悪循環。

 

やがて、選抜レースの開催もなくなり、めぼしいトレーナーは担当探しをやめ、取り残されるトレーナーのいないウマ娘たち。

 

一人退学者が出ると、密かに心折れていた者たちが、雪崩を打つように辞めていく。

 

中等部1年の魔の半年。

 

やよいも、たづなも、何度この辞めていくウマ娘たちの怨嗟の声を聞いただろう。

 

三女神様の意思で、全ての過程をすっ飛ばし、特別待遇で『普通のウマ娘に追いつく』為に学園に入る彼女は、せっかくできた友人が次々と恨み言を吐きながら学園を去っていくのに耐えられるだろうか。

 

いや、耐えられないだろう。

場違い感に押し潰されて学園を去ることしか考えなくなる未来がありありと見える。

 

また、追い詰められた新入生の八つ当たりの矛先が『まともに走ることもできない』彼女に向く可能性も高い。

 

彼女を中等部1年に編入させるのであればこれからの半年間は最悪の時期と言える。

 

ゆえに、たづなの提案をそのまま受け入れる気にはならなかった。

 

 

「・・・中等部3年は3年で、肝が据わりすぎてある意味ドライですからね。

 共に戦ってきた訳でもない、ましてライバルにもならない編入生だと歯牙にもかけられないかもしれません。

 無視はされなくとも、学友と言える関係になれるかどうか。」

 

中等部1年の魔の半年を乗り越え、走り抜くことを決意して戦い続けてきたウマ娘は、中等部3年ともなればすでに目標からブレることはない。

戦友でもライバルでもない編入生、これからもライバルになりえない存在ともなれば、ほとんど相手にされない。

 

そのことを、たづなは自分の身をもって知っている。

レースに出られないウマ娘は、同級生からも路傍の石と同じ目で見られるのだと。

 

いつまでたっても、知り合いレベルから抜け出せない友達未満の同級生。

同じ場所で学んでいるのに、同じ苦しみや痛みを分かち合えない異質な存在ともなれば、その距離はさらに離れるだろう。

 

もし、中等部3年の中に溶け込もうとするならば、ラベノシルフィーは実力でもって彼女らのライバル足りえることを証明しなければならない。

それは現状の彼女に期待できるものではなかった。

 

そして、たづなはこうも考えていた。

彼女が中等部1年に編入してその最初の魔の半年で心が折れるなら、彼女の不得意な『走りの世界』に生きることを強要し続けなくてもよいのではないかと。

いっそ、その方が何の未練も残らず、かえって彼女のためになるかもしれない、とまで。

ウマ娘の生き方はレースだけではない。

むしろ、レースに関わらない人生の方が長い。

たづなの今の在り方そのものから導き出した、痛みは伴うが現実的な中等部1年編入の提案。

 

 

やよいは冗談めかせて中等部2年を提案はしたものの、どの学年を選んでも、彼女には苦難の道が待っている。

中等部2年という選択は、単に両極端ではない、というだけの話だ。

三女神様は、いったい彼女の終着点をこの学園生活のどこに定めているのだろうか。

 

「難しいですね・・・」

 

「ああ・・・全て笑顔で大団円、というわけにはなかなかいかんな。」

 

とりあえず、道は示した。

彼女は選んだ。

あとは彼女が自力で、この学園内での居場所を確保して貰わなければならない。

彼女が、三女神様の奇跡によって導かれるというのなら、その三女神様を呼び寄せた彼女の奇跡を信じよう。

 

 

-----------------------

 

 

「でけぇ・・・」

 

延々と窓が連なるやたらと長い建物が櫛状に配置され、何棟も連なっている。

ヒシアマさんに連れられて、美浦寮に向かう途中、校舎が途切れた場所から見えてきたそれは、想像を絶する巨大な建物だった。

 

「トレセン生の半分、1000人近くがいるからねぇ。

 そりゃでかいさ。」

 

「1000人・・・」

 

つまり二人部屋換算で500部屋。

それが、4階建てのこの建物に詰め込まれているってことだ。

見た限り、櫛の歯にあたる建物は4棟。

その奥に、ちょっと様式の違う建屋がさらに続いている。

呆れかえるほど巨大な寮だった。

 

中央の正面玄関らしい場所にたどり着くと、そこはどこか懐かしい印象を覚えた。

玄関の両脇に、コンクリート製の無骨なつくりの洗い場がある。

子供の頃通った公立の小中学校の昇降口の作りにそっくりだ。

蛇口はその洗い場の裏表に5つずつ。

蛇口にはネットに入れられたレモン石鹸がぶら下げられており、流し台の中にはたわしが転がっていた。

 

「トレーニングで、みんな靴を泥だらけにして帰ってくるからね。

 そこで泥を落とすんだよ。

 玄関に泥を持ち込まないでおくれよ?

 掃除が大変だからね。」

 

玄関入り口に並んだ泥除けマットで軽く靴底を擦って土を落とす。

 

玄関の扉をくぐると、そこは公立の小中学校の昇降口とはまた違っていた。

下駄箱が並んでいない。

広い三和土と折れた傘が刺さりっぱなしの傘立て。

タケノコみたいに重ねられて隅っこに転がっている大量のスリッパ。

丁寧に伸ばされて『靴袋』と書かれた箱に詰め込まれているポリ袋。

 

どちらかというと、旅館の玄関、って感じだ。

 

ヒシアマさんが靴を脱いでポリ袋に入れ、自前のものらしい可愛いスリッパを引っ張り出してきて履き替える。

 

「今日はそこのスリッパを使っとくれ。

 寮内は土足厳禁だからね、靴は袋に入れて部屋まで持っていくんだよ。」

 

タケノコみたいに重ねられたスリッパを一組借りて履き、袋に履いていた靴を入れてヒシアマさんについていく。

 

正面の壁際に雑多に積まれた荷物の山。

寮生への配達物だろう。

そのすぐ先に、『寮長室』と書かれたルームプレートの掲げられた扉があった。

ヒシアマさんが持っていた靴をドアを開けて放り込む。

 

「ここが寮長室、アタシの部屋さ。

 アタシに用があったらここに来ればたいていいるよ。

 そう言えばアンタ宛てのでっかい荷物が届いてるよ。

 アンタの部屋に運び込んであるからね。

 まだ部屋も決まってなかった頃だったから何かと思ったよ。」

 

ああ、通販で買ったバイクウエアだ。

話が通ってなかったのか、悪いことしたな。

 

寮長室の先の廊下の壁には、寮の棟、階層ごとに分けられた入寮者のプレートがフックに引っ掛かってずらっと並んでいた。

ウマホ番号が書かれた赤い面をこちらに向けて、壁一面を赤く彩っている。

 

「寮生の在室票さね。

 外出するときは、そのプレートをひっくり返してウマホ番号の書かれた赤い面にする。

 帰ってきたら青い名前の見える方に戻す。

 

 忘れると行方不明だって大騒ぎになるから注意するんだよ?

 アンタのプレートは入寮したらここにかかるからね。」

 

ヒシアマさんに指さされた先の番号は、5-3F-38。

フックだけでまだプレートはかかってない。

 

ヒシアマさんは在室票の並んだ廊下を進んですぐ先にある階段を上がっていく。

 

「ああ、これは暗黙の了解、ってやつなんだけどね。

 1Fは名家のお嬢様方がいらっしゃる部屋が多いんだ。

 1Fの廊下を大声でおしゃべりしながらとか、音を立ててバタバタ走り回るのはご法度だよ。

 通っちゃいけないわけじゃないが、面倒ごとに巻き込まれたくなかったらさっさと階段を上がって避けて通った方が無難さね。」

 

1FはVIPフロア扱いか。

そう言えば、寮の外から見ても1Fは窓も大きくてデザインも他の階と違い凝っていた気がする。

1Fは火事になっても逃げだしやすいとかいうから、上流階級の方たちに優先して割り当てられるようになっているんだろう。

実力主義の学校とはいえ、そういう配慮からはやっぱり逃れられないものらしい。

その実力主義から外れている俺が言える話でもないけれど。

 

階段を3Fまで上がり、廊下を突き進む。

 

「アンタちょっと入る時期がずれたからね、3Fの一番奥の部屋だよ。

 ちょっと玄関から離れているから、朝寝坊したら大変だけど我慢しな。

 その代わり、新しい棟だから部屋にトイレもついてるし、今のところ同居人もいないから広く使えるよ。」

 

贅沢なことにしばらくは一人部屋を満喫できるらしい。

長い廊下を歩き、連絡通路を抜けてさらに先の一番奥の突き当り右手の部屋。

玄関から離れている距離は、ちょっとの領域を超えていると思う。

何の変哲もない安っぽいドアを開けた先に、これから住むことになる俺の部屋があった。

 

扉をくぐると、換気のされていないこもった空気の中に少し甘い香りがする。

たづなさんの部屋とはまた違った雰囲気の香りだ。

床はフローリング。

磨きこまれてはいるけれど、部屋の入り口付近はところどころ剥げて下地が出ている。

 

右手に下駄箱、左手にトイレがある。

トイレ前の壁際には鏡と小さな洗面台がついていた。

下駄箱の上には、前の住民が置いていったものだろうか、ちょっと埃っぽい花瓶にドライフラワーが飾られている。

 

「前の住人が残していったものも多いからね。

 一人のうちは好きに変えな。」

 

部屋の真正面には普通のサッシ窓。

角部屋だからか、左手にも小さな窓がある。

窓は東向きなのか陰に入っていてこの時間帯はそんなに明るくない。

カーテンは白地に赤い花柄がぽつぽつと入ったシンプルな感じのもので、部屋の床に2枚敷かれたカーペットも片側は似たような柄だった。

 

その窓の下にはビジネスホテルにあるような小さな冷蔵庫とその両脇に小洒落たベッドサイドランプの乗ったサイドチェスト。

壁際にはシンプルで頑丈そうなスチールのシングルベッドが1台ずつ置かれていた。

そして部屋の真ん中には一抱えはありそうな俺が頼んだバイクウエアの段ボール箱。

 

壁は、白無地の合板で、画鋲の穴と黄色くなったセロテープやら両面テープの跡やらでそれなりに汚れている。

ベッド際の一部が新しい壁板になっているのは蹴っ飛ばして穴でも開けたんだろうか。

学習机や椅子も、頑丈そうなつくりとはいえ、使い込まれて年季が入っていた。

 

「寮の中のものを故意にぶっ壊したら実費弁償だから気を付けな。

 あと、冷暖房は、冬は床暖房が入るけど、夏は扇風機くらい買った方がいいねぇ。

 天井に換気扇はついてるし、ここは3Fだから4Fみたいに屋根の熱で焼かれることもないけどさ。」

 

「クーラーは?」

 

「クーラーはお勧めできないねぇ。

 部屋のブレーカーが小さいんだ、クーラーを付けたらそれだけでほとんど何も使えなくなっちまうよ?

 電気工事までして自費で付けられるのは1Fのお嬢様方だけさね。」

 

うーん、ウマ娘世界はあっちの世界よりも夏が涼しいんだろうか。

あっちは都内でクーラー無しの夏なんかとても越せそうにない。

もし同じくらいの暑さだったら、こんな鉄筋の建物で夏場扇風機だけって死ぬほどきつそうな気もする。

 

「まあ、引っ越しの日が決まったら連絡しとくれ。

 今のうちに連絡先を交換しといてくれるとありがたいねぇ。」

 

ヒシアマさんに促されて、ウマホの連絡先を交換し合う。

 

たづなさんに続いて、ウマ娘世界二人目のウマホ登録だ。

 

「細かいことはまた正式に入寮した後で教えるけど、もう聞いてるだろ?

 歓迎会。

 アンタが正式に入寮したら、その週の土曜の夕方にやるからね!」

 

ヒシアマさんの歓迎会開催宣言に、いよいよここに引っ越してトレセン学園での生活が始まるのだと実感が湧いてきた。



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居候生活の終焉

今回のお話には、今見てもわからない地雷が埋まってます~
それも複数~

そこにたどり着くまで何話かかるかわかりませんが~

追記:なんでかラストがプロットのままになっていたので修正しました~
大した違いはないですけどね~


ちょっと大きめの菓子折りを抱えて、マンションの上の階にあるジムへ上がる。

ここしばらく、ダンスの練習とウォーキングバスでのトレーニングに毎日のように通っていたこのジムも、今日で最後だ。

明日、俺はトレセン学園の寮に入る。

入寮後の歓迎会で一つダンスを披露しなくてはならない、と聞いて、ダンスの練習を始めたものの、ウマ娘のパワーに振り回されてきりきり舞いしていた俺に、踊れるようになる最初の一歩を教えてくれたのがここのジムのウマ娘インストラクター、リッキーゴウさんだ。

彼女のおかげで、バランスを崩しやすい大ぶりな腕の振りもターンもあっという間にできるようになった。

感謝してもしきれない。

 

ジムに入ると、ジムの隅の方で暇つぶしにストレッチをしていたらしい彼女を見つけた。

 

「こんにちは。

 今日はお礼とお別れを言いに来ました。」

 

「んん?お別れ?」

 

ストレッチの動きを止め、彼女がこちらに向き直る。

 

「明日、こちらのマンションを出て、トレセン学園の寮に移ります。

 身体の使い方を教えて貰って、あなたのおかげで踊れるようになりました。

 本当に、ほんっとうにありがとう!」

 

腰をくの字に曲げて菓子折りを差し出す。

 

中身はこの近所の洋菓子店で売っていたプリン。

近場で済ませたようで申し訳ないけれど、そこそこ数がある消え物がこれくらいしかみつからなかった。

 

「こんなことしてくれなくてもよかったのに。

 でもありがとう、あとでみんなでいただくよ。

 そしておめでとう。

 トレセン学園でもしっかりやりなよ。」

 

リッキーゴウさんは笑って受け取ってくれた。

 

いつものように、通しでの数度のダンス練習。

踊りなれてきたと言ってもいいこのメイクデビューの曲とダンス。

もう戸惑うことも間違えることもない。

 

何度か踊り、そろそろラストダンスで締めようか、というところでリッキーゴウさんが俺の隣に立った。

 

「私もいいかい?

 君との最初で最後のコラボだ。」

 

イントロが流れ出すと、彼女もリズムを取り出す。

 

いつもは見ているだけだったのに、いつの間に覚えたんだろう。

 

大柄な体を軽やかに動かして、曲に合わせて舞う。

普段は格闘系のインストラクターをやっている彼女、さすがの身体のキレだ。

トメの動作がピタッと決まってメリハリがある。

 

たまに一緒に踊ってみんなを笑わせる彼女の同僚の小杉さんは、今日は観客側に回って彼女の見せる媚び媚びなポーズの度にヤジを飛ばしていた。

 

ラストが迫る。

踊る彼女を横目で見て思う。

リッキーゴウさんに出会えて本当に良かった。

二人して、最後の決めポーズを決めて、曲は終わった。

 

「いやー、なかなか恥ずかしいもんがあるね。

 もうこんなダンスが似合う歳じゃないって痛感したよ。」

 

途中ヤジを飛ばしてからかっていた小杉さんを彼女がドスドスと拳でどつく。

運動とは違う汗をかいたのか、しきりに首筋を撫でまわして照れまくるリッキーゴウさんはとても可愛らしかった。

 

「また、ここに来ることがあったら顔を出してね。」

「またな。」

「ありがとうございました。また!」

 

別れは、あっさりと。

これからはたづなさんのマンションに遊びに来た時くらいしか会えないだろうけど、ここで教えて貰ったことは忘れない。

また、お土産でも持って会いに来るよ。

 

 

 

 

いつものお風呂上がりのまったりタイム。

たづなさんはビール、俺はジュース。

 

美浦寮への引っ越し準備、と言っても、荷物はほとんどない。

滅多に着そうにない服なんかは、段ボールに詰めて宅配便で寮に送った。

こまごまとしたものは、ボストンバッグに詰めて、溢れたものは紙袋一つに収まった。

お風呂から上がって、お風呂セットもバッグに詰めた。

朝使うブラシだけ、バッグの上に転がしてある。

 

「今日であなたとの同居も終わりですね。」

 

腿の上に両手で挟み込むようにビール缶を支え、しんみりとした様子でたづなさんがつぶやく

 

「こっちの世界に飛ばされてきて、ものすごく濃密な時間を過ごしたように感じます。

 もし、俺がトレセン学園に現れずに山の中にでも放り出されていたらと考えると・・・

 たづなさんと理事長に助けてもらえなかったら死んでいたかもしれません。」

 

「まあ、三女神様の思惑もあるかも知れませんが・・・縁、というものなんでしょうね。

 家に待っている家族のいる生活は本当に久しぶりで、楽しかったですよ。」

 

家に誰かがいる生活が久しぶり、か。

 

「・・・たづなさんは、ご両親とは暮らさないんですか?」

 

「実家が田舎もいいところですからねぇ。

 両親はまだ元気に農牧やってるんですけど、朝から晩まで外に出たままなかなか家に帰ってきませんから。

 たまに帰省すると手伝わされますし、早く婿を貰って家を継げってうるさいんですよ。

 身体が動かなくなった!って音を上げたら逆にこっちに呼んでやります。」

 

小さく、『こっちに出てきたときはだいぶ迷惑かけちゃいましたしね・・・』とつぶやいていたのを、俺の耳は聞き逃さなかった。

農業とか畜産関係で両親に迷惑ってことは一人っ子だったんだろうか。

そう考えたときに、たづなさんが何かを言いかけて、言い淀んだ。

 

「もし、あなたが・・・」

 

そこまで言いかけて、止まる。

言葉を選んでいるのか、逡巡が見て取れる。

 

「もし、あなたが・・・ウマ娘として走る以外の道を歩みたいというなら・・・正式に私の家族になってもいいんですよ?

 私の両親なら、喜んであなたを養子に迎えてくれるでしょうし。

 その時はあなたは私の妹、ってことになりますけどね。」

 

『ウマ娘として走る以外の道』

つまり俺がトレセン学園を去る、ってことだ。

 

彼女は、寄る辺のない俺に、トレセン学園がダメなら逃げ道を用意する、と言っていた。

しかも、代理母なんていう成人までの時限的な関係ではなく、生涯の義理の姉妹として。

 

「妹になったら、両親にこき使われますけどね。

 それでもいいなら、こういう道もある、ってことだけ覚えておいてください。」

 

くぴり、と彼女はビールを煽る。

養子縁組なんて重要そうな提案の割にずいぶん扱いが軽い気がする。

 

「・・・そんなに簡単に、俺に養子縁組の話をしちゃっていいんですか?

 公的に見たら俺の出自なんて怪しい以外の何物でもないですよ?」

 

何せ、俺の戸籍は記載されているものがほとんど空欄という代物だ。

公式的には孤児。

身の上話の度に、信じてもらえるかわからない三女神様の話なんかしようものなら怪しさ三倍増しだ。

よほどのことがない限り信用なんかとは程遠い存在、それが基本的な俺の立場だ。

ほいほい養子にしますなんて言われるような上等な者じゃない。

 

「簡単、というほど簡単な話でもないんですけどね。

 私みたいに家業を放り出して上京しちゃう親不孝なウマ娘がいると、養子が欲しいっていう家はそこそこありますし。」

 

養子が欲しい家がある?

俺の世界では家を継ぐなんて言う概念がもう廃れてしまっていて、養子自体が珍しい状態だったからちょっと驚いた。

養子が普通だったのは、俺の親の世代までだ。

ウマ娘世界には未だに養子の需要があるってことか。

 

「以前、ウマ娘の孤児が多いっていう話はしましたよね。

 ひねくれてしまった孤児も多いと。

 養子にするにしても、養子にする側のお眼鏡にかなう子ってどれだけいると思います?」

 

「・・・」

 

「そういうことですよ。

 あなたはいい子です。」

 

参ったね。

こう正面切って言われると何も言い返せないや。

 

「中身はおっさんなんだけどなあ・・・」

 

ぼやいてみせるも、返す刀で切って捨てられた。

 

「最近、だいぶ女の子っぽくなってきた気がしますけどね。

 言葉遣いもぶっきらぼうさが抜けてきましたし。」

 

不意打ちを喰らって俺は死んだ。

自分がおっさんだったのを意識した後に女の子っぽくなってきたとか言われたら・・・

一気に血が上って熱を持ったウマ耳を押さえて転げまわる。

 

悶え苦しむ俺を酒の肴に、たづなさんは微笑みながらビールを空けていた。

ひとしきり転げまわって俺が落ち着くと、たづなさんが新しいビールを開けながら続ける。

 

「・・・私たちウマ娘にとって大事なのは、家族や仲間関係。

 血縁なんて大した意味はありません。

 一度結んだ縁の方が大事です。」

 

「そういうものですか。」

 

「そういうものです。」

 

馬から引き継いだ群れ意識みたいなものなのかな。

馬の魂を引き継いでいない俺にはこういう本能的な感覚はよくわからない。

 

「明日、寮に入ったその時から、あなたはトレセン学園の一生徒。

 私は学園理事長秘書のたづなです。

 公の場でおかあさん扱いは困りますけど、家族なのは変わりません。

 困ったことがあったら、一人で抱え込まずに相談してくださいね。」

 

たづなさんは、このウマ娘世界で一人ぼっちの俺に、繰り返し、『帰る場所はあるんですよ』って言ってくれてるように思える。

 

たづなさんとの最後の夜。

ベッドの中で、どちらからともなく、指先と指先が触れる。

その晩は、たづなさんと手をつないで眠りについた。



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入寮:引っ越し作業編

引っ越し状況ともうちょい詳しい寮の説明回ですね~

寮の設定ファイルがでかいので、ちょっと推敲甘くなってます~
変なとこ見つけたら直すかもしれません~


今日は絶好の引っ越し日和。

天気は快晴、朝の空気が気持ちいい。

 

ボストンバッグと紙袋をぶら下げてトレセン学園を目指す。

 

たづなさんは、いつものように朝早く出勤していった。

 

ここで一緒に暮らすことはなくなるけれど、学園で会おうと思えばいつでも会える。

だいたい、たづなさんは、毎朝学園と寮を結ぶ門の前に立って学園生に挨拶してるんだから、一日一回は必ず言葉を交わす、と言ってもいい。

残念ながら今はもう学園生の授業が始まってしまっている時間だから、門の前のたづなさんの姿を見ることはできないけれど、今日忘れ物が無ければマンションのカードキーを返しに結局会いに行くのだし。

 

とりあえず、今日は一日引っ越しに充て、学園での生活が本格的に始まるのは明日からだ。

そして、週末には、寮の歓迎会がある。

美浦寮だけで1000人いると聞いて、たかだかひとりの編入生の為に歓迎会を開くの?って思ったけれど、夕食の時に食堂横の中庭で普段よりもちょっとだけ豪華な料理の並ぶバイキング形式の立食パーティーみたいなことをするだけで、そんな大仰なものではないそうだ。

編入してくる学年の学園生は一応顔出しはするようにと通達はされているものの、その他の学年や高等部に関しては自由参加だから、一度に集まる頭数なんて小学校の1学年の生徒数と大して変わらないさね、とは寮長のヒシアマさんの談。

こういうイベントには、生徒会が後押しして学園から費用を出してもらっているので、あとで生徒会にも顔を出すのが慣例らしい。

知らないところで借りや義理が発生していてなんだかなあ、って気もする。

生徒会の最初の印象がゴルシ締め上げてるエアグルーヴの姿だし。

・・・『貴様は目上の者にさんもつけられないのか?』とか言われそうだけど、なんか『さん』をつけにくいんだよな、エアグルーヴの名前って。

ルドルフ会長は、ちゃんとイメージ通りダジャレで迎えてくれるのだろうか。

 

しかし暑い。

晴れたのはいいけれど、初夏特有の狂ったような気温上昇が始まったのか、ボストンバッグと接する制服のあたりが蒸れて汗で肌に貼り付いている。

寮にたどり着く頃には、全身汗だくになった。

 

人けのない寮の玄関に入ると、玄関の隅っこでヒシアマさんがヤンキー座りでぶつくさ言いながらスリッパを磨いていた。

なんでこれは業者がやってくれないのかねぇ~と雑巾でスリッパを拭いちゃ投げ捨て、を繰り返し、背後にスリッパの山を築いている。

 

おはようございます、と声をかけると、

 

「お、来たね!」

 

と今磨いていたスリッパを一組、俺の方に滑らすように投げてきた。

残念ながら俺の前を通り過ぎて片方三和土に落ちたけど。

 

ヒシアマさんが立ち上がって、寮長室から俺の名前の書かれた在室票と部屋の鍵を持ってくる。

 

「このアンタの在室票が廊下に掛けられた時、アンタの正式な入寮になるからね。

 詳しい寮の規則は、部屋の机の引き出しの中に入ってるから読んどくれ。

 まああちこちに貼り紙がしてあるからそれ見りゃ最低限の規則はわかるだろうけどね。

 

 在室票は、夕方までまだ預かっておくよ。

 買い出しとかいろいろあるだろうからね。

 

 ただ、外から帰ってくるときは門限は守っておくれ。

 18時30分。

 これを過ぎたら反省文と罰の一つもあげなきゃならないからね?

 引っ越し初日から門限破りとか勘弁しておくれよ?」

 

ヒシアマさんから差し出された鍵を受け取る。

 

しかしまだ明るいうちが門限か~。

門限を守れなんて言うことも久しく言われてなかったので、ついつい忘れちゃいそうだな。

ウマホのアラームにでもセットしておこうか。

 

「昼ご飯は、寮の食堂じゃでないから校舎の食堂で食べておくれ。

 街に出ているなら外食でも構わないからね。

 夕飯は、帰ってきたら寮の食堂に案内がてら一緒に食べようじゃないか。

 18時を過ぎたら声をかけておくれ。」

 

「まだ学生証とか渡されていませんけど、学園の食堂って使えるんですか?」

 

そもそも俺の編入自体がイレギュラーの塊みたいなもので、学生証どころか教科書すらまだ受け取っていない。

施設の使い方も、本来は入学してすぐに学園側からアナウンスされているんだろうけど、俺はそれ全部すっ飛ばしてるからなあ・・・

 

「着てる服が学生証みたいなもんだよ。

 堂々と並んでよそって貰いな!」

 

食堂で昼食をいただくのに、学生証とかはいらないらしい。

同じ制服だらけだったら、学園生以外は混じりようもないから当然なのか。

 

「まあわからないことがあったらいつでも聞きに来なよ。」

 

一通り、伝えることは伝え終わったのか、ヒシアマさんはまたスリッパ磨きに戻っていった。

 

ぺこりと一礼してから靴袋に入れた靴をぶら下げて、自分の部屋に向かう。

ヒシアマさんに案内された時と違って、自分のペースで、きょろきょろしながら階段を上がる。

 

階段を上がってすぐの場所には、両隣にトイレと家事室のドアがある。

寮室であれば本来ドアがある廊下の壁際には、1メートル四方くらいの大きさのカーキグリーンの布コンテナが置かれ、中には部屋番号の書かれた布袋が積み重なっていた。

 

家事室、と俺が呼んだのは、6畳くらいの部屋に、流しと電気ポット、オーブンレンジに加えて、なぜかあっちの世界でもほとんど見なくなった2槽式の洗濯機が3~4台並んでいるからだ。

加えて、背の高い家庭用の冷蔵庫が置いてあるところもある。

給湯室でもなく、ランドリールームでもなく、両方混ざってる。

とりあえず、カップ麺やちょっとしたお弁当の類はここでお湯を使ったり温めたりできそうだ。

 

洗濯機は日常的に使われているのだろう、壁際の棚に『ご自由にお使いください』とマジックで書かれた洗剤や柔軟剤が何種類か並んでいる。

洗濯機の後ろの壁には『23時以降に洗濯機回した奴はぶっコロス!』とか物騒な貼り紙がしてあるし、冷蔵庫には『入れた日付、名前を忘れずに。忘れたおやつはみんなのおやつ』とか書いてある。

ちょっと興味が湧いて、冷蔵庫を開けてみたら、ケーキ屋さんのお持ち帰りBOXや、2リッター、3リッターサイズの太いペットボトルがそのまま入っていたりした。

 

野菜室にはみんな大好きウマ娘世界特有の太いニンジンと、袋に入ったリンゴ。

すぐに食べられるようになのか、使いかけのマヨネーズまで一緒に入っている。

流しの下にはちゃんとまな板と包丁もあったのでここで切って食べるんだろう。

 

冷凍庫には発熱した時用の冷却パックと、ファミリーサイズのアイスクリーム。

・・・いや、ファミリーサイズじゃないな、『ウマ娘サイズ』って書いてある。

ファミリーサイズで1人前ってことか?

お腹壊さないか?この大きさを一人で食べたら。

部屋の冷蔵庫じゃ収まらないものはここに入れているんだろうか。

部屋の冷蔵庫小さかったしね。

 

廊下を歩きながら、ところどころに配置されている消火設備や避難梯子の入ったBOXを小中学校みたいだと懐かしみながら延々と、そりゃもう延々と歩く。

廊下を3分ほど歩き続けるってなかなかないんじゃないだろうか。

ようやく自分の部屋の前にたどり着くと、ドアの脇に、先日自分で梱包した引っ越し荷物の入った段ボールと、分厚くて大きめの茶封筒がいくつか積み上げられていた。

ドアの鍵を開けて、荷物を中に引きずり込む。

部屋の中は、午前中だからか窓から陽が差して少し蒸し暑い。

部屋の入り口についている換気扇のスイッチを入れて換気する。

他にあるのは、冬の暖房用の調節ダイヤルと、部屋の電灯のスイッチ。

『消灯22時』と書かれた細長い紙が、黄色く変色したセロテープの下に貼られている。

年季入ってるな~。

これでも、新しい棟、ってことらしい。

 

換気扇のスイッチを入れてみたものの、スイッチのところにオレンジ色のランプが点いても一向に換気扇が回っている音がしない。

 

正面の窓は冷蔵庫やサイドテーブルが邪魔で開けるのがちょっとめんどくさそうなので、俺の使うことにした左のベッド側にある小窓を開ける。

窓から風が入って来たので換気扇は動いてるっぽい。

 

ベッドの枕元付近の壁にあるコンセントを見たら、冷蔵庫のコンセントらしいものが抜けていたので、差し込むと低い鳴動音と共に冷蔵庫が動き始めた。

冷蔵庫を開けてみたら、これ、直冷式だ。

冷凍用の冷却器が剥き出しで、使っているとどんどん氷が分厚く付着していくやつ。

霜取りが面倒くさいんだよな~。

冷蔵部分に入れていても時々凍るし、逆に冷凍部分に入れてもアイスとか溶けるし。

微妙なものは給湯室の冷蔵庫を使わせてもらわないとダメかもしれない。

 

荷物を開けてみると、茶封筒の中身は、教科書だった。

数学とか国語とかの一般教養の教科書が笑ってしまうほど薄い。

ほとんど冊子だ。

スポーツ生理学とか厚さが2センチ位ありそうなものは、さすがに中等部3年間で通して使うものらしい。

でもこの1/3は、中等部1年で終了したってことで、すでに知ってなけりゃならないんだよな、俺。

そんなスポーツ関連学の分厚い教科書が4冊もある。

・・・ちょっとだけ、中等部2年に編入したのを後悔した。

 

とりあえず机の上に教科書類を積み上げ、段ボールの開梱に入る。

箱の中から服を取り出して、ベッドの上に並べてから気づいた。

 

この部屋タンスがない。

 

しばらくきょろきょろ見回していたら、向かいのベッドの下が引き出しになっているのに気づいた。

俺の服を積んだベッドの下にも引き出しがついている。

木製で、4連。

どうやらこれが洋服タンス代わりらしい。

引き出しを開けてみたら、ちょっと埃っぽい。

そのまま服を入れると汚れてしまいそうだが、引き出しの中を掃除できるきれいな雑巾がない。

 

前の住人が何か残していってないかと、靴箱やトイレの中を覗いてみたけれど、靴ベラとトイレ用のブラシと小さなゴミ箱くらいしかなかった。

 

・・・掃除用具は買い出し案件だな。

他にも必要そうなものをざっくりと洗い出していく。

 

はたきと雑巾、洗剤、消臭剤、ティッシュ、トイレットペーパー、寝具カバー類一式。

 

あと、タオルとバスタオル、エプロン。

 

・・・埃っぽい引き出しを触ってしまって、手がざらざらするので、手を洗おうと洗面台の蛇口を捻ったら、しばらく通水してなかったのか空気と水の塊が混じったのが勢いよく出てきて爆発して飛び散ったんだよ。

幸い錆びの混じった茶色い水じゃなかったから制服とか壁に染みができるのは避けられたけど、たづなさんから渡されてたハンカチ以外拭くものがないことに今頃気づいた。

エプロンも、こういう掃除のときに使うだろうし。

 

・・・スリッパも、自分専用のものを買おう。

共用スリッパで何が怖いかって、そりゃ、『み・ず・む・し』ですよ。

こういう共用スリッパのある旅館に一晩泊っただけで水虫をうつされた出張が何度あったことか。

一生懸命スリッパを磨いていたヒシアマさんには悪いけど、水虫には代えられないので。

 

気を取り直して、バイクウエアの方も開けてしまおう。

真新しいビニールの包まれたウェアの上下と、グローブ、箱に入ったヘルメット。

使わないベッドの方にそれらは広げて、段ボールを畳む。

 

この段ボールゴミもどこに捨てたらいいんだろうな。

茶封筒の残骸も、この部屋にはちょうどいい大きさのゴミ箱らしきものが置いていない。

 

ゴミ箱も買い出し案件か。

 

段ボールを片付けるのに紐かガムテープが欲しいな。

ハサミとかカッターも。

 

ああ、どんどん買うものが増える。

 

全部買ってくるとなると、やっぱり店が集中している府中のショッピングモール街に行くしかないな。

とりあえず中身を全部出したボストンバッグに、やはり空っぽにした紙袋を詰めて部屋を出る。

 

いざ、買い出しに。



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入寮:買い出し編

お買い物回ですね~

ヒシアマクリーニングサービスは、最近の風潮だと賄賂だとか言われそうですが~
そこは参考にしている時代背景が昭和あたりなのでご理解よろです~

ちなみに府中にはモデルになったゆで〇郎のお店はありません~


ボストンバッグと靴を携えて玄関に向かうと、ヒシアマさんは洗濯物の分類中だった。

 

一抱えくらいの量の洗濯ネットに入った洗濯物を、そのまま洗濯かごに取り出しやすいように詰め直している。

 

「お、買い出しかい?」

 

俺に気づいたヒシアマさんが手を止めて声をかけてきた。

 

「ええ、いろいろ足りないものが多くて・・・」

 

「街に出るなら、大きめの洗濯ネットをいくつか買っときな。

 絶対必要になるからね。」

 

なんででしょう?という問いの答えには、『洗濯機争奪戦があるからね』という答えが返ってきた。

 

「授業で使うジャージや体操服は洗濯袋に入れて出せば翌日にはきれいになって帰ってくるけど、私服はそうじゃないのさ。

 大浴場に据え付けられた洗濯機はそこそこ数があるけど、全自動ったって乾燥まで2時間くらいかかるからね。

 3日くらい洗濯物をためてまとめて洗濯するくらいじゃ洗濯機の台数も時間も全然足りやしない。

 で、先輩方がいろいろ試行錯誤した結果、今は洗濯ネットにそれぞれの洗濯物を入れて、1台の洗濯機を洗濯待ちしている寮生数人でシェアしてるってわけさ。」

 

寮生固有の生活の知恵ってやつなのね。

あっちの世界では年頃の娘って「パパの洗濯物と一緒にしないで!」とか親でさえ一緒の洗濯を嫌がるイメージが強いので、寮生同士で洗濯機シェアとかちょっと思いつかなかった。

その辺の女性の感覚ってのもよくわからないな。

一人暮らししてると、白物と色物は分けるけどパンツとタオル一緒に洗濯とかしてたしな。

抗菌洗剤がちゃんと仕事しててくれれば大丈夫!・・・と信じて。

 

「ところで今ヒシアマさんがしてる作業は?」

 

ヒシアマさんがさっきから洗濯かごに詰め直している洗濯ネットの中身は、明らかに下着なんかの私服だ。

 

「これかい?

 まあアルバイト、みたいなもんかね。

 夜寝る前にとか、登校する前に洗濯機に洗濯物を放り込んでいく寮生もいるんだけどね?

 それでもあぶれちまって洗濯が間に合わなくなった寮生の洗濯物を、アタシが昼間に引き受けてるんだよ、ちょっとしたおやつを貰ってね

。」

 

ちょっとしたおやつをお供え物にしてヒシアマさんに洗濯物を託すと、昼間洗濯機が空いたときにヒシアマさんが洗濯機を回してくれるそうな。

 

「アンタも間に合わなくなったら引き受けてやるから持ってきな!

 できれば日持ちする甘いものがいいねぇ。」

 

ヒシアマさんの手元を見るに、そこそこの人数がこのヒシアマクリーニングサービスに依存しているようにみえる。

俺より寮に馴染んでいるはずの先人たちですら洗濯が間に合わないことがあるとすると・・・

今日の買い出しリストに、日持ちするお菓子が追加された。

 

「街に行く前に、購買を見ていきな!

 かさばるもので購買にあるのは帰りに寄って買うと楽だよ!」

 

ああ、そういえば購買もざっとしか見てなかったな。

ヒシアマさんに礼を言って、学園の購買に向かった。

 

学園のロビーに入ると、何人か職員やトレーナーらしき人がいるけれど、以前みたいにサボりか!と寄ってくる人はいなかった。

編入生がいる、って言う連絡でも回ったんだろう。

遠目にちらっと視線を向けてくる人はいるけれど、特に干渉してくる様子はない。

 

食堂方面に脚を向けると、食堂で絶賛調理中なのか揚げ物とデミグラスソースのようないい匂いが漂ってくる。

たまらずぐぅぅ~と腹の虫がなんか食わせろと声を上げるけれど、残念ながら食堂はまだ準備中だ。

おいしそうな匂いに後ろ髪ひかれながら購買へと脚を向ける。

 

 

「いらっしゃ~い。」

購買レジ奥のパイプ椅子にめいっぱい寄りかかって座り、だる~い、ひま~を体現する購買のウマ娘店員さん。

会釈して、大して広くもない店内を散策する。

店の入り口近くには先客がいた。

トレーナー専用コーナーで、緑色の怪しいドリンクと王冠のついたやたら高級そうな滋養強壮剤を手にとっては戻しを繰り返し、いやこちらの方が・・・と悩んでいる男性がいる。

前来た時よりも、猫缶の在庫が更に高く積みあがっていた。

冊子なんかワゴンセール中だ。

・・・うん、トレーナーじゃない俺には関係ない。

 

奥の衛生用品関連が置いてあるコーナーへ向かう。

トイレットペーパーやティッシュなどは普通に置いてあった。

けど値段は微妙だな。

最終的な荷物のかさ張り具合でここで買うかどうか決めた方がよさそうだ。

文房具なんかは街に出るなら100円ショップあたりで買えばいいだろう。

ハズレをつかんだらここで買い直せばいいし。

 

購買を出ようとしてふと床に並んだものに目が留まった。

蹄鉄シューズ。

通学用の指定靴は買ったけど、トレーニングに使うシューズは買ってないや。

 

トレーニング用とはいえ、ウマ娘の全力に耐えるように作られているからか結構いいお値段がする。

これは買わなきゃならないだろうけど、かさ張るから帰りにここに寄るのは決定だな。

 

「ここって何時まで開いてます?」

 

「夕方5時ですね~。

 靴をお買い求めならちょっと早めにお願いしますね~。」

 

「了解。また来ます。」

 

パタパタと器用に片耳でさよならする店員さんのいる購買を後にする。

 

『トレーナさん、それ一本より、バイタル3本でどうですか?猫缶1缶付けますよ~』

『いやこれでいいよ』

『おや、交渉上手ですね、2缶でどうですか?・・・ここだけの話、その猫缶を理事長の頭の上の猫に捧げると、ボーナス査定がアップするとかいう噂がですね・・・』

『ぬっ?!そう言えば冬のボーナスで不自然な増額をしたやつが・・・』

『もし、効率練習の豆本をご購入いただけるなら猫缶4缶付けちゃいます!

 買うなら今ですよ~?

 トレーナーさん用のコーナーは明日にはごっそりラインナップが入れ替わっているかもしれませんしね~?』

 

後方から怪しげな交渉が聞こえてくる。

誘惑に負けるな若きトレーナー君。

俺もかつては通った道だ。

・・・ゲームの中で、だけど。

 

 

校舎を出ると、もうこれは夏じゃないのか、と思えるほどの強い日差しが俺を襲う。

さっさと府中の街に出て買い物を済ませてしまおう。

 

 

 

 

一番遠い寝具を売っているイマムラに向かう途中、空腹の限界を迎えたので、道路沿いにある蕎麦屋『ゆで二郎』でざるそばを食べる。

買った食券はウマ娘サイズ、とは言うものの、単に5枚ざるそばがくるだけだ。

でも1200円と安い。

単品のヒトの一人前を単純に5倍したものより全然安い。

その上、そばが出来上がってきて受け取る時に、サービス券を貰った。

無料でいろいろトッピングできる券が10枚くらいついている。

厨房で働いている人はそれなりに多いし、よくこの値段でこのサービスを提供できるな。

 

カウンター横にある調味料のところに無料の天かすがあったので麺つゆにひと匙。

小さなピッチャーに追い足し用の麺つゆがついてくるのがありがたい。

この量だとすぐに麺つゆが薄まって味がしなくなってしまう。

俺は江戸っ子食い、ちょっと麺つゆを付けて飲むように食べるって言うのは好きじゃない。

どっぷりと麺つゆに漬け込んで噛んで食べるのが好きだ。

 

5人前のそばを食い終わっても、まだちょっと物足りない感がある。

ただ、安い、とはいっても外食でかかる金額はヒトだったころの数倍はかかっている。

学費はかからない、普段の食事は無料、と言ったところで、収入のない今、あっちの世界から持ち越してきた貯金食いつぶし生活だ。

現状じゃ貯金は減ることはあっても増えることはない。

在学中、貯金が減って行くのを食い止められる程度でいいから、何か割のいいバイトを探さないとまずいかもしれないな。

 

 

イマムラでシーツやら枕カバーやらを買い、府中のショッピングモールの中の100円ショップやホムセンを回ると、両手は荷物で塞がってしまった。

トイレットペーパー?

さすがに持ちきれないので購買で買ったよ。

靴も含めて、今日も5万円くらい吹っ飛んだ。

貯金の残高は心の余裕、とはよく言ったもんだね。



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入寮:片付け編 ~そして寮生へ~

ようやく入寮ですね~



買いだしてきた荷物を部屋に置いて、寮長室のヒシアマさんを訪ねる。

手には買い出しの時に成城岩井で買ってきた化粧箱に入ったちょっとお高いリンゴジュース。

姉御肌のヒシアマさんだ、一応こういう挨拶は筋を通す意味でも重要な気がするのだ。

 

「これからお世話になりますのでつまらないものですが。」

 

持って来た箱をヒシアマさんに差し出す。

 

「お~、悪いね~気ぃ使わせちゃってさ!」

 

受け取るとすぐに、目の前で包装紙をバリバリと剥ぎだす。

ちょっとそこらでは見かけないきれいな化粧箱が姿を現した。

 

「は~!気張ったねぇ!

 長野県産の100%リンゴジュースかい。」

 

このジュース、目の玉が飛び出るほど高い、というわけではないけれど、一本の瓶入りのリンゴジュースとして考えるとちょっとこの金額を出すには躊躇する、と言った程度の値段はする。

日持ちする甘いものが欲しい、と言っていたヒシアマさんだけど、それだと乾きものばかり集まってきてしまう。

変化球で飲み物なんかどうだろう、と思って買ってきてみたのだけれど、喜んでもらえたようだ。

 

「礼儀をわきまえてるヤツは嫌いじゃないね!

 だからと言って特別お目こぼしをしてやれるわけじゃないが、アンタが慣れないうちは気を付けておいてやるよ!

 

 ・・・ああ、そうだ、ちょっと待ってな。」

 

ヒシアマさんは部屋の奥に引っ込むと、見覚えのある布の巾着袋と、ドライヤーを持って出てきた。

 

「これが体操服とジャージをクリーニングに出すときの洗濯袋。

 棟番号、階層、部屋番号を袋に書いて使いな。

 大浴場の廊下に、棟ごとの回収用のかごがあるからそれに入れれば翌日の夕方に上がってくるからね。

 自分の部屋の階の玄関寄りの階段に上がって来た袋が積んであるから自分のを探して持って帰るんだよ?

 クリーニングに出すときは私服を入れるんじゃないよ?

 

 あと、ドライヤーはあるかい?

 大浴場のドレッサーは混むからね。

 ドライヤーが使えるまで待ってたら時間がいくらあっても足りないよ。

 これは卒業していった寮生の置き土産だけど使うかい?」

 

・・・引っ越しのご挨拶の効果は抜群のようだ。

中古だけれどなんかマイナスイオンが出るとかいうSF映画に出てきそうな宇宙船みたいな形をしたドライヤーを貰った。

 

なんかわらしべ長者みたいだなと思いながら、礼を言って受け取り部屋に戻る。

 

さて、本格的に引っ越し荷物の大片付けだ。

 

ベッド下の引き出しは、ベッド幅をフルに使ったものらしく、異様に奥行きがあった。

引っ張り出すとギリギリ隣のベッドに当たるか当たらないかくらいの奥行がある。

買ってきた真新しい雑巾を硬く絞って埃を全部ふき取る。

ふと見ると、この部屋の前の住人の痕跡が目に付いた。

一本の短い栗色の毛。

ショートカットの栗毛のウマ娘がこのベッドで寝ていたんだろうな。

 

引き出しはしばらく乾かすことにして、窓枠やら机の上やら、埃が積もっていそうなところは全部拭く。

拭くたびに、建材の匂いやら木材の匂いやらがふわっと香ってきて、漂っていた甘い香りをかき消していく。

 

布団は、最近敷かれたものらしく埃は積もっていなかった。

同居人がいないのになぜか反対側のベッドもベッドメイクされていたので、そっちは布団を畳んでシーツをかけておく。

 

洗面台にハンドソープを置いたり、トイレに消臭剤を置いたり、タオル掛けにタオルを掛けたり。

 

バイクのヘルメットは下駄箱の上に。

下駄箱の上に元からおかれていたドライフラワーはちょっと横に避けて貰った。

 

靴を下駄箱に収め、備え付けのハンガーにバイクウェアを着せて机の横に引っ掛け。

 

そろそろ乾いただろうベッド下の引き出しに、あまり着ない服を奥にするように詰めていく。

よく使うものは入り口側の引き出しに。

しばらく着そうにない冬服の類は窓側の引き出しに。

 

・・・さすがに皺になったらみっともない服はちゃんと畳んで納めていくけれど、体操服とかゴワッとした生地の部屋着にしていた短パンなんかは結構適当に詰めていく。

下着に至ってはどうせ誰に見せる訳でもないので、セットものをひとまとめにして丸めて詰め込んである。

誰に見せるわけでもなし、同居人ができるまでは気にしなくてもいいだろう。

 

たづなさんの所じゃ、最初は俺の服自体少なかったのもあって、寝室のクローゼットの一角に積み上げるようにして置いていたから適当に平たく積みあがるようにしてはいたけれど、そんなに気を使ってきれいに畳んでいた覚えはない。

あっちの世界で暮らしていた時は、そもそも洗濯物を畳んで収納するということをしたことがない。

・・・まあ要するに洗濯物を畳む習慣がないんだ、俺は。

 

ウマ娘世界に来てから、結構服とか買った気でいたけれど、ベッド下の引き出しに全部収めて見れば、ガラガラだ。

はっきり言って、今日買ってきたタオルの方が全ての服を合わせたより多いんじゃないだろうか。

タオルは、仮にも『トレーニングセンター』なんていうスポーツ系学校に入るのだからと、買い物かご二つ分くらい買ってきた。

これも、トレーニングの度に、学園生の目の前に晒す私物だから、ちょっと見栄えのするものを。

イタリアのピエールなんちゃらとか、日本のhanakoとか、なんか聞いたことのあるデザイナーの名前が入った、もこもこ度合いの高いタオルばかり、十数枚。

バスタオルはそれよりは少ないけれど、両方合わせると結構な大きさになって、持って帰る時後悔した。

あっちの世界じゃタオルなんか自分で買うものじゃなく、お中元の時期に取引先から貰った会社名入りのタオルとかを使っていた。

まさか俺が見栄の為に高級タオルを買う羽目になるとは思わなかったよ。

一応、タオルもバスタオルも1週間くらいのローテーションには耐えられる枚数があるはず。

 

服の類を引き出しに詰め込み終わったら、床も一通り拭き、枕元に買ってきたゴミ箱を置いて、買ってきた食料品をベッドと机の隙間に押し込む。

 

これでだいぶすっきりした。

 

あとは実際に暮らしてみて、足りないものを随時追加、かな。

 

とっちらかった茶封筒の残骸や段ボールを捨てるためにガムテープでぐるぐる巻きにしていると、バタンというドアの音と、くぐもった声が壁越しに聞こえてきた。

隣の寮生が帰って来たらしい。

 

時間を見ると、ヒシアマさんと約束をしたご飯の時間にほど近い。

急いで片付けを切り上げて部屋を出る。

昼間の静けさと打って変わって、寮内にはトレーニングを終えて帰って来た学園生がそこかしこに歩いていた。

 

寮長室をノックすると、出てきたヒシアマさんはすぐに寮長室の鍵を閉めた。

 

「ちょうどいい時間だね、行こうか。

 その前に・・・」

 

歩き出してすぐに、廊下の壁を向いて立ち止まる。

 

ヒシアマさんの視線の先は、ずらりと並んだ在室票のかかる壁。

その一角の右下、なにもかかっていないフック。

 

ヒシアマさんが、指先につまんだ俺の名前の書かれた在室票を渡してくる。

 

「さ、ここにアンタの在室票を掛けな。」

 

5-3F-38、と書かれたフックに、俺の名前が見えるように青い面を向けて在室票をかける。

 

「これでアンタも美浦寮の一員だ。

 ようこそ美浦寮へ。

 歓迎するよ!」

 

今日この時をもって、晴れて俺はこの美浦寮に入寮した、ってわけだ。



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食堂でタイマン?!

なんか、病院や学校の食器ってメラミンのところもあればアルミだったっていうところもあるそうですね~


ヒシアマさんに案内されて寮長室の前から食堂へと向かう。

うるさくするとまずい、と言われたVIPのいるはずの1Fも、帰ってきた学園生が往来していて、さほど暗黙の了解とやらを気にしている様子もない。

ちょっと前を歩くヒシアマさんも、普通に1Fの廊下を歩いている。

 

「この辺、お嬢様方がいるからうるさくするな、とかいう話はどうなってるんです?」

 

「ん?ああ、さすがに廊下を通るな、とまでは向こうも言わないさ。

 ただ、寮に寮生が帰ってきている時間は、気にはしておいた方がいいね。

 お嬢様方は実家じゃお嬢様らしく振舞うことを強制されて、息の詰まるような生活をしてたってのはわかるだろう?

 それが監視の目もなく、自由に過ごせる部屋を手に入れたらどうなると思うね?」

 

「・・・タガが外れてはっちゃける、ってことですか?」

 

「そういうこったね。

 とはいえ、お嬢様方はそのタガを外してはっちゃけてる姿を他人に知られるわけにもいかないからね。 

 声や物音がする度に気にしてたらストレスも溜まろうってもんさ。

 ま、ここらで起こったことは、見ない、聞かない、噂をしない。

 恥ずかしい姿を知られた!って目を付けられたら厄介なことになるからね?」

 

確かに、口封じに何をされるかわからないな。

ただ、お嬢様方の、行動が、その、なんだ・・・

部屋の外から聞こえてくる親の脚音におびえながらHな本を見る思春期の子供みたいだな・・・と思ったよ。

 

 

一棟を踏破して連絡通路を渡り、右に曲がると、今まで通って来た廊下と雰囲気が変わる。

廊下の左手に、かなり広い框があり、脱いだスリッパを収める棚が並んでいる。

その中央に、『大浴場』のルームプレートがかかった木製の両開きの引き戸が鎮座していた。

 

「左手の扉の奥が大浴場さね。

 まっすぐ行ったら食堂だよ。」

 

 

そこを通り過ぎると、突き当りにアルミの観音開きのドアが開けっ放しにされており、その先は屋外だ。

ドアの先は3メートル幅くらいのコンクリート打ちっぱなしの床に、波板の屋根がついた通路が建物沿いにずっと続く。

大浴場の棟沿いには、各棟番号の書かれたプレートの下に、寮の階段のそばに置かれていたのと同じコロ付きの布コンテナが並んでいた。

 

「そこに棟ごとに並んだ布の回収ボックスがあるだろう?

 体操服の洗濯物は洗濯袋に入れてそこに入れるんだよ。

 この屋根の下をずっと先に行くと、ゴミ集積所があるから部屋のゴミはそこに分別して捨てておくれ。」

 

寮の食堂は、この通路を挟んで大浴場の棟の隣に建てられた巨大なプレハブだ。

 

大食堂の外観をゆっくり観察する間もなく、ヒシアマさんはさっさと食堂に入っていってしまった。

 

食堂の入り口を通り抜けると、そこは簡素な長テーブルとパイプフレームの椅子が簾のように並んだ空間だ。

ざっと見た感じ、400人ほどは入れるだろうか。

奥の方には、突き当りに食器やトレイが積まれたテーブルと、料理を受け取るステンレス製の長いカウンターが見える。

カウンターの奥は厨房だ。

ガチャガチャと忙しなく作業をしている音が聞こえてくる。

 

食堂の中は、さすがにまだ時間が早いのか、ぽつぽつとしか席についている寮生はいない。

 

ただ、その寮生の目の前に置かれたトレイと食器は、今までウマ娘用として出てきた料理屋のどれよりも大きい。

 

普通の2倍くらいありそうなトレイに、どんぶりのような茶碗によそられたご飯に汁物。

そして刺身の大皿かと思うようなワンプレート皿に山盛りにされた数々のおかずたち。

ウマ娘になってから、俺も随分食べるようになったとは思っていたけど、そこで食事をしている寮生は俺が今まで食べてきた量よりもさらに多い盛り付けを平然と食べている。

 

ヒシアマさんを見ると、壁際に積み上げられたメラミンのどんぶりみたいな茶碗やワンプレート皿をトレイに乗せて俺を待っていた。

茶碗やワンプレート皿は大中小と3種類あって、食べる量に合わせて選ぶことができるらしい。

 

俺もトレイを取って、食器は中くらいでいいかと茶碗に手を伸ばすと、ヒシアマさんが横から大、大、大と勝手に食器を載せてしまった。

 

「最初から日和るのは良くないねぇ。

 美浦寮の食事、しっかり堪能しな!」

 

ヒシアマさんのトレイにも、大の食器が並んでいる。

 

まぁこれも新入りの洗礼かと諦めて、トレイをカウンターに出すと、すぐにきれいに盛り付けられた食事が出てきた。

人参の千切りとシイタケや鶏肉なんかを炊き込んだ混ぜご飯に、豚汁。

メインのおかずはイワシのフライが山盛り。

カットレモンが添えられて、それにこれまた山盛りのポテトサラダとキャベツの千切り、トマト、切り干し大根と人参の和え物に、大豆とひじきの煮つけがつく。

混ぜご飯だけで、普通の茶碗何杯分あるんだろうこれ。

 

調味料や箸やスプーンが並んだテーブルには、ふりかけや海苔なんかが入った容器もあり、お好みでご自由に、ってことらしい。

俺はフライにマヨネーズとソースと胡椒をたっぷりかけて、ヒシアマさんの対面に座る。

 

「じゃ、いただこうか。」

「いただきます。」

 

豚汁で箸を湿らせて混ぜご飯からいただく。

シイタケの出汁と甘みの効いた濃いめの味付けでうまい。

豚汁は白味噌仕立てで豚の脂がたっぷりと浮いて具だくさん。

これもしょっぱさよりも甘みが際立つ感じに味付けられている。

何だろう、ウマ娘になってからというものの、甘いものが異常にうまい。

甘い=うまいレベルでうまい。

以前の好みは好みで残っているんだけど、そこに甘みが加わるとさらにおいしく感じる。

イワシのフライは身が厚くてジューシー、サクサクと齧っては混ぜご飯を口に押し込み、豚汁を啜って流し込む。

頬っぺたをリスのように膨らませて夢中で頬張っていると、これまた結構な勢いで料理を片付けていたヒシアマさんと目が合った。

 

言葉は交わさずとも、その目が語っている。

 

『タイマンだね?』

『いえ違います。』

 

視線と意図が交差する。

交わらずにすれ違ったけど。

 

でも、二人の掻きこむペースは上がった。

ウマ娘になって顔も口も小さくはなったけれど、それ以上にものを食べようとすると顎の肉がゴムでできてるんじゃないかってくらい口は大きく開くし、一度に咀嚼できる量も男だった時並に多い。

ヒシアマさんと結構いい勝負をしていたと思う。

途中熱くなりすぎて箸をへし折らなければ、引き分けには持ち込めたんじゃないだろうか。

 

二人して真ん丸に膨らませたお腹を撫でながら、食後のお茶を飲んで一息入れる。

 

「寮の食堂は、月曜から土曜まで、朝は6時から7時半、夜は6時からから8時。

 日曜日は出かける寮生も多いから食堂はやっていないよ。

 その代わり、申請を出せば日曜だけは火気厳禁の寮内でもここのキッチンを借りて料理ができるからね。

 アタシも時々お世話になってるよ。

 

 まあ日曜でも一応、あそこにあるシリアルは自由に食べられるんだけどねぇ・・・全く人気がないね。」

 

と、指さされた先にあったのは、壁際の床に雑に積まれた業務用シリアル20キログラム入りの紙袋。

 

なんていうか、エサ、って感じがして、あの袋の中のものはとても食べる気にならない。

どうしようもない時の非常食、って思っておいた方がいいんだろうな。

 

「歓迎会をやる中庭って言うのはあっちだよ。

 中庭の向こうに見えるのが栗東寮。

 栗東寮からも生徒会関係者なんかは来るからね。」

 

ヒシアマさんの視線の先の中庭は、入って来た入り口と反対側に広がる原っぱだ。

食堂の中庭側の壁には、いくつかの引き戸がついていて中庭に出られるようになっている。

当日はそこを開け放って会場にするんだろう。

 

そしてその中庭の先には、美浦寮と同じようにように栗東寮の食堂と寮の建屋が建っている。

 

だんだんと陽が暮れるにつれオレンジ色に染まっていく中庭の先で、栗東寮の食堂で夕食をとるウマ娘たちの影が電灯に照らし出されていた。



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隣人と遭遇

お隣さん登場回ですね~
徐々におっさんの心を忘れ始めた主人公は次はどんなろくでもない目に合うのでしょうか~(白目

お隣さんたちの名前に深い意味はありません~
実在馬にダブらない名前ってことで、馬にリンゴ好き多いそうなのでリンゴのパフェと、ゲムパは某SE〇Aサターンの古のゲームからです~


しばらくヒシアマさんと食休みのお茶を楽しんだ後、明日は編入初日だろ?さっさと風呂入って寝ちまいな、とのお言葉に従って風呂に入るべく、部屋への道を急いだ。

 

部屋の前にたどり着いて、ドアの鍵を開けた時だ。

隣の部屋のドアがガチャッと開いた。

にゅっとドアから頭がのぞいたと思うや否や、あ~!という声とともに頭が引っ込む。

 

ドア越しに、隣の・・・えっ、マジ?とか言っている声が聞こえてくる。

 

バタバタと足音がしたかと思うと、今度はその部屋の住人二人して廊下に顔を出してきた。

最初に出てきたのは、さっき一瞬顔を出した、肩くらいまである癖っ毛の黒髪でちょっと俺より背が高そうな垂れ目のウマ娘。

次に出てきたのは俺と同じくらいの背丈で鹿毛ショートボブの活発そうなウマ娘。

出て来るや否や、矢継ぎ早に話しかけられる。

 

「キミキミ!

 今日引っ越してきたの?

 お隣さんになるんでしょ?

 私中等部3年のアップルサンデー。」

 

「サンちゃん待って!

 ・・・あっ!

 君、この前ダンススタジオで一緒に踊った子じゃん!

 覚えてる?

 隣でサブやってたの私!」

 

「えっ?」

 

そう言えば、スタジオでレッスン受けた時、サブやるからねーってステージで声かけてきた学園生と同じ声のような・・・

 

「覚えてない?」

 

「ごめん、ステージ眩しいし、ちょっとあの時テンパってて、声かけてきてくれた人かな、くらいしか・・・」

 

「それわたし、わたし!

 覚えてるじゃん!

 私、ゲームパラダイス!

 中等部2年だよ!

 よろしくね!」

 

3年のアップルサンデーさんと、2年のゲームパラダイス・・・長いな、心の中ではゲムパちゃんと呼ぼう。

この二人が隣の部屋で同室らしい。

二人は学年違うのにほとんどタメ口で会話している。

 

「ご丁寧にどうも。

 今日から隣に住むことになりました、中等部2年のラベノシルフィーです。

 よろしくお願いします。」

 

それなりに砕けた感じで挨拶したつもりなんだけど、ゲムパちゃんに渋い顔をされた。

 

「硬い、硬いよ~!

 タメだよ!

 もっと柔らかくいこうよ~!」

 

「今頃入ってくるなんて珍しいね~。」

 

サンちゃんと呼ばれていたアップルサンデーさんはなんというか、マイペースだ。

 

「ね、ね、ベノシちゃんって呼んでいい?」

 

・・・ここでも出てくるのか、ベノシ。

 

「なんでみんなベノシって呼びたがるの?」

 

ヒシアマさんにも会ったその日にベノシって呼ばれたしな。

 

「高等部にシルフィールって言う先輩がいるからね~。

 シルフィーだと被っちゃうでしょ?

 かといって、ラベノって冠名っぽいからこっちも被っちゃいそうだし。

 だから、冠名と下の名前ちょっとずつ取ってベノシちゃん!」

 

「冠名?」

 

「え?冠名知らないの?」

 

「ちょっと!サンちゃん!

 ・・・メジロ家とかサトノ家とかサクラ家とかはわかる?

 ラベノって言うのもそういう一族の名前かと思ってさ。」

 

「あ~そういう・・・」

 

ラベノ家のシルフィーさん、で『ベノシ』か。

ノシルだと確かに語呂悪い感じはするけど、なんでみんな一瞬で同じあだ名を思いつくかな・・・

 

「みんな冠名じゃ呼び合わないしね~。」

 

「だよね~。

 ってことで、ベノシってことで。

 よろしくね、ベノシちゃん!」

 

「え~・・・まあいっか。

 こちらこそよろしくね。」

 

なんか俺のあだ名、二人の間ではベノシで定着したらしい。

 

「ね~、微妙に時期外れで入って来たのってやっぱりケガで?」

 

「ケガ?」

 

「うん、彼女、ちょっと前にスタジオで一緒に踊った時も顎にこんなにおっきな絆創膏貼っててさ~。」

 

「え~?マジで?

 あ、ほんとだ、首元にまだおっきいかさぶたあるね。

 痛そー。」

 

無遠慮にアップルサンデーさんが俺の顔の下を覗き込む。

 

顎を上げたり覗き込まれると、顎の下にあるまだ治り切っていない擦り傷のかさぶたが見えてしまう。

 

「今時入ってきた理由か~・・・ケガって言うか・・・う~ん、どう説明したらいいかな・・・」

 

まさかこんなにぐいぐい来る隣人と早々に出くわすなんて思ってなかったから、そういう表向きの理由ってまだ考えてないんだよな~。

三女神絡みの話をしたりすれば面倒なことになるだろうし、かといって、その場しのぎで変な設定を話そうものならドツボにはまりそうだ。

 

「あ、言いにくいことならいいよ?

 人にはいろいろあるもんね!」

 

どうしたものか、と悩んでいたら、聞いた本人の方が勝手に納得して引き下がってくれた。

 

「ところで、私達これからご飯だけど・・・って、もう食べてきちゃってるよね~。」

 

「みたいね~。」

 

どうやら夕食一緒にどう?と誘ってくれたみたいだけれど、俺のお腹は見るからにポッコリ膨れている。

夕食を食べてきたばかりというのはバレバレだった。

 

「じゃあさ、ご飯の後、一緒にお風呂行こー!

 いいでしょ?

 いろいろ教えてあげる!」

 

「そうしなよ~

 初めてだと結構わからないことあると思うよ~?」

 

この申し出は正直言ってありがたい。

何せ、この寮で頼れるのはヒシアマさん一人だったから、何かある度にヒシアマさんに聞くのはさすがに気が引けるもんな。

そういう意味では、入寮当日に面倒見のいい隣人に出会えたのは幸運なんだろうね。

 

「うん、じゃあお願い。」

「オッケー!じゃご飯食べたら後で部屋に呼びに行くね!」

「じゃぁ、後でね~。」

 

あとで一緒にお風呂に行く約束をして、二人と別れた。

部屋に入ってドアを閉める際に、対面に見えたドアがちょっと気になる。

 

隣人、と言えば、対面の部屋からは物音一つしない。

まだ帰ってきていないのだろうか。

対面の住人はどんな人たちなんだろう。

 

とりあえず、すぐに風呂に行けるようにお風呂セットを取り出して準備しておく。

小さなプラスチックのかごに、洗髪料のボトルと石鹸、髪の毛と尻尾用のブラシ、尻尾の手入れ用にとたづなさんに貰った椿油。

そして、替えの下着にタオルとバスタオル。

忘れちゃいけない耳栓。

身体を洗うスポンジやあかすりタオルは無しだ。

スポンジは一人で身体を洗うには役不足だし、あかすりタオルはたづなさんに使うなと禁止された。

あかすりタオルを使うくらいなら普通のタオルを使いなさいと。

なんか、お肌が荒れるから駄目なんだそうだ。

 

今日一日汗だくになった制服をお風呂上りに着て戻ってくるのもなんだな~と思って、はたと気付いた。

パジャマがない!

たづなさんのマンションではたづなさんの大きめなパジャマをそのまま着ていたからすっかり自分のパジャマを買うのを忘れていた。

とんだ大失敗だ。

今日のところは、部屋着をパジャマ代わりにするしかないか。

明日、夕方出かけられるようだったら、イマムラまで足を延ばして買ってこよう。

 

財布なんかをサイドチェストに放り込み、充電器にウマホをつないで充電する。

 

この寮の部屋には、ビジネスホテルなんかと違ってテレビがない。

物のあんまりない部屋に帰ってきたところで、情報機器がウマホしかない。

そういえばこの寮、Wifiは無いんだろうか。

俺のウマホ、あっちの世界の契約が引き継がれているなら、あまりデータ通信を使うと通信速度がガタッと落ちるんだよな。

動画とか、見逃しTV配信とか見てたらすぐに通信速度が落ちてしまうだろう。

TVか、Wifiか、どっちかを使えるようにしたい。

まあ学生は勉強が本分、そのための寮生活って言われたらそれまでなんだけどさ~。

酒も飲めない、TVも動画も自由に見られない、だとさすがに息が詰まってしまいそうな気がするわけですよ。

 

まだお隣さんは夕ご飯から帰ってきそうにないので、机の中に入っていたビニールカバーの寮則本を眺める。

こんなもの、誰も読まないんだろう、古びているのに、中は折り目もつかずきれいなものだ。

 

基本的に寮則を破ったら、反省文に寮長指定の奉仕活動、か。

『見つからなければ問題ない!』の落書きは、いつの時代の寮生が書いたんだろう?

ラスト数ページのメモ欄には、門限で入り口が閉じられてしまったときの侵入路まで描いてある。

寮長のヒシアマさんはこの辺までチェックしていないのか、それともわかっていてあえて放置しているのか。

1000人分もこんなものチェックできないと思うから前者だとは思うけれど。

 

寮則は、まあ、ごく常識的な内容しか書かれていなかった。

ちょっと他にない規則だな、と思ったのは、匂いの強烈な食品を寮内で扱うな、くらいか。

比較的後ろの方にあったものだから、あとから追加されたんだろう。

変な食品を持ち込んで異臭騒ぎが起きたんだろうな。

くさやでもレンチンしたんだろうか。

 

過去の寮生のやらかしに思いを馳せていると、お隣さんが夕ご飯を終えて帰って来たようだ。

隣の部屋のドアが開いて、ごそごそと動き回る気配がする。

はっきり聞き取れるような声が聞こえてきたりしないところを見ると、この寮結構防音はしっかりしているらしい。

壁ドンでもしない限りお隣さんに迷惑をかけるようなこともないだろう。

 

お隣さんの動き回る気配に、そろそろ来るのかな?と自分で思った以上に心待ちにしてしまっていたらしい。

気が付くと、お風呂セットのかごと着替えの入ったカバンを持って、尻尾までパタパタ振って、ドアがノックされるのを待ち構えている自分に気づいた。

 

役割として、じゃなく、単純な好意で始まったお隣さんとの関係。

そしてこのウマ娘世界で初めての友達候補。

 

恥も外聞もなく、コンコン、という音が聞こえた途端に、はーい!とすぐにドアを開けてしまったよ。

そこには俺と同じようにお風呂セットと着替えを抱えた二人がいた。

 

「「ベノシちゃんお風呂行こ!」」



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大浴場へ

ひんぬ~の園、美浦寮へようこそ~

調べてみるとネームドでグラマラスなウマ娘はほとんど栗東ですね~
ていうか、ネームドが栗東に集中し過ぎって話でもありますが~


「着替えは持った?

 タオルは?

 洗濯ネットはある?」

 

「あ、洗濯ネット!

 ごめん、ちょっと待ってて!

 持ってくる!」

 

洗濯ネットはヒシアマさんに言われて買ったものの、すっかり忘れてた。

急いで部屋の中を漁って洗濯ネットを引っ張り出す。

 

日が暮れて、雨が降ってきたようだ。

パタパタと雨粒が窓を叩く音がする。

開けていた窓を閉めて、部屋から出た。

 

「おまたせ~」

 

洗濯ネット持ったよ、と二人に見えるように突き出して、三人で歩き出す。

 

「まだ洗濯機埋まってないみたいだよ~

 早く行こ!」

 

歩きながら、アップルサンデーさんがウマホの画面を見せてくる。

やたらと凝ったツタの絡んだ装飾の枠の中に丸文字で『美浦寮 ランドリー空き状況』と表示され、その下に色のついたマス目がずらっと並んでいる。

ほとんどは真っ赤だけれど、ところどころに青いマス目が散在していた。

 

青いマスが洗濯機の空きを表しているらしい。

 

「ウマホで洗濯機の空きが見られるなんてずいぶん便利なんだね。」

 

最近の白物家電業界は、基本機能なんかもう極めつくしてしまって製品単価が上げられないからって、ローエンドに近い代物にまでいらない機能を付けてくる。

たぶんこれも、洗濯機についたネットで外から家電の様子が見える、とかそういう機能を使ったものなんだろう。

ウマ娘世界の家電業界にも、そんな闇が見え隠れしていた。

 

「うん。

 なんか、私の入る前に、栗東寮の先輩がこのアプリ作ったんだって。」

 

「高等部のエアシャカール先輩ね。

 私が1年の時かな、最初は栗東寮の洗濯機だけだったんだけど、わざわざ美浦寮のも作ってくれてね~

 『嫌だっつっても、どうせ同じもン作れって言ってくンだろ?ったく、会長サマが出張ってくる前に片付けてやンよ。』って、ぶつくさ言ってたんだけど、なんか、自分から調べに来てくれたらしいよ?」

 

「怖そうな先輩だけど、いい人ぽいよね。」

 

「うん。

 言葉のガラは悪いんだけどね、面倒見はいいみたい。

 ヨーロッパからの留学生の世話焼いてずっとそばにいるらしいし、この前はターボちゃんとビコーちゃんに泣きつかれて、何かピカピカ光るの作ってあげてたし。」

 

「へ~、一見怖そうだけど面倒見が良くてすごい先輩なんだ?」

 

「うん。

 作って貰ったこのアプリで洗濯機の空きを見にいちいち行かなくて済むから大助かりだよ!」

 

俺と分野は違うけど、エアシャカールはクラフトマン、同類の匂いがする。

偏屈さも、職人のそれだ。

仲良く、とまではいかなくてもいいから知り合いにはなっておきたい気がする。

 

 

喋りながら階段を下りて、1Fの大浴場への連絡通路近くに出た。

ちょっとだけ玄関方面に向かってから連絡通路に出る。

この辺は部屋がないから1Fの住人に気を使う必要はないだろう。

 

ん?そういえばさっきのエアシャカールの言葉の中・・・

 

「そういえばさっきの話の中に出てきた会長様って、生徒会の?」

 

「うん?

 そうだよ?

 シンボリルドルフ会長。

 美浦寮にいるよ?」

 

「あんまり見かけないけどね~

 私たちと活動時間ずれてるっぽいし。」

 

「朝早くランニングに出る人はよく会うらしいけど、夜は生徒会のお仕事とかで門限より遅く帰ってくる事も多いらしいしね。

 何?会長に会いたいの?」

 

「まさか!

 わざわざ探して会いに行かなくても、歓迎会の後に生徒会に顔出ししなきゃいけないから結局会うよ。」

 

「あ~、歓迎会のお礼か~。

 ご愁傷さま。」

 

「ご愁傷さまって・・・

 生徒会ってそんなにヤバいの?」

 

「ヤバいってわけじゃないけど・・・長居しづらいよね?」

 

「うん、気を使われるのがかえって疲れるっていうか~

 お邪魔しましたー!ってさっさと退散したくなる感じ?」

 

「だって、ありえない記録を打ち立てた雲の上の人が、『どうだ最近は?』なんてたまの休日のお父さんみたいに話しかけてくるんだよ?

 しかも、イミフな難しい言葉ばっかりで何言ってるのか全然わからないし。

 時々副会長が意味ありげな目線向けて来てそうじゃない、違う!みたいに百面相してくるし。

 付き合い長い人同士じゃないとわかんないよあんなの。

 生徒会ワールドの住人以外、ずっとあの空間に居続けるのは無理!」

 

 

ゲムパちゃんが言いきった直後だ。

 

ゴッ・・・

 

後方で、壁に硬いものを打ち付けたような鈍い音がしたのを、俺のウマ耳が捉えてしまった。

 

振り返ると、頭からタオルを被った雨でずぶ濡れの寮生が、幽鬼のようにがっくりと肩を落として壁に頭をもたれかからせるようにして立ち往生していた。

とっくに門限は過ぎているのに、こんな時間に外に出ていて雨に濡れるなんてのは・・・

そしてタオルから僅かに覗く前髪の流星、そして腰まで届く豊かな鹿毛・・・

 

聞かれた相手を察して総毛立つ。

 

 

「ちょっ!何?!」

「いや~美浦寮のお風呂楽しみ♪楽しみ♪」

 

問答無用で二人の背中をぐいぐいと押して大浴場へ急ぐ。

 

うん、俺たちは気づかなかった。

他愛のない会話をしてたまたま彼女のそばを通りがかっただけだ。

出来れば彼女と大浴場で鉢合わせませんように・・・

 

 

 

 

大浴場前の框でスリッパを脱いで、棚に入れる。

重い引き戸を開いて、大浴場に入った。

 

扉を開けて入った正面には、背の高さほどの観葉植物のパキラ(あの細い幹をねじって編み込んだようなやつ)と、合皮張りの茶色い長椅子、アジアン風の籐の衝立が、部屋の中央を分割するように鎮座していた。

床には、目の細かい竹ゴザが敷いてあり、ところどころにおかれた背の高い扇風機がゆっくりと首を振って風を送っている。

天井には埋め込み式の蛍光灯照明といつ見てもこれ役にたってんのかなと疑問な薄緑色のシーリングファンが稼働中。

 

入り口からすぐの空間は、休憩室兼ドレッサールームになっているようだ。

 

長椅子には風呂上りらしい寮生がぽつぽつと座り、飲み物を飲んだり扇風機に当たっていたり。

歓談しながら思い思いに休憩していた。

 

廊下側の壁と部屋の左側の壁は長棚がついていて、長棚から上は一面の鏡張り。

棚にはずらりとドライヤーが並び、籐製の丸椅子に座って髪の毛を乾かす寮生がちらほら。

 

部屋の真ん中を仕切る籐の衝立を回ると、部屋の正面の壁には3面鏡を備えたドレッサーが15台ほど並ぶ。

長髪の寮生が、ドレッサーの前に陣取って、念入りに髪の手入れをしていた。

 

壁際に並ぶドライヤーは、乾かすのに手間のかからない短髪の寮生用、ってことらしい。

 

ドレッサーは満員状態で、数名長椅子に腰かけながら順番待ちをしているらしい寮生もいる。

改めて、『ドレッサーは混む』というヒシアマさんの言葉に納得させられた。

 

休憩室兼ドレッサールームの右側は、壁がぶち抜きになっていて、隣接するランドリールームにつながっている。

ドラム式の全自動洗濯乾燥機がコの字型に壁際を埋め尽くし、そのほとんどが稼働中だ。

バスタオルを巻いただけのウマ娘が数人、空いているらしい洗濯機を囲んで洗濯物を詰め込んでいる姿は、トレセンも女子校なんだなあ・・・と思わせられる。

ランドリールームの一角には、洗剤や飲料の自販機も設置されている。

飲料の自販機は、最新のものらしく、正面に並んだ商品をXZ軸のゴンドラが商品取り出し口まで持ってきてくれるロボットタイプだ。

ビン入りの牛乳もある。

残念ながら、財布は部屋に置いてきてしまった。

小銭くらいは持ってくるべきだったか。

 

ドレッサーの左手の入り口を通るか、ランドリールーム経由で奥に進むとやはり壁ぶち抜きのロッカールーム兼脱衣所にたどり着く。

脱衣所の中は中等部メインの早い時間帯のせいか、浴場の入り口がすぐそこにあるせいなのか知らないが、タオルとお風呂セットを抱えたまま何も隠さずにすっぽんぽんでうろついているウマ娘も多い。

 

浴場入り口の横にある水道でお風呂セットを洗う者、妙に豪華な備え付けの体組成計の横でヤムチャ死している者、冷水器から水をがぶがぶ飲んでいる者、扇風機に貼り付いてあ゛~~~とか延々声を出している小さいウマ娘なんかもいた。

 

列をなして並ぶロッカーの中から空きを確保すると、さっさと制服を脱ぐ。

頭を抜くときに感じる上着の汗臭さ。

これは明日着られないな。

制服で買い出しに行くんじゃなかった。

ちょっと後悔していると、アップルサンデーさんとゲムパちゃんがもうバスタオルを身体に巻いた姿で横に待っていた。

 

「まだ洗濯機空きがあるから洗い物投げ込んでこよ?」

 

と手に持った、下着やニーソなんかの入った洗濯ネットを掲げる。

 

「制服汗臭くなっちゃったんだけど、これも洗えるのかな?」

 

「え?制服はクリーニングじゃないと。

 ここの洗濯機しわになるから・・・」

 

「制服のクリーニングは部屋の机のどこかに、依頼票入ってると思うから、それに記入して、ハンガーにかけて寮長に渡すとクリーニングに出してくれるよ。

 寮長がいないときは、学園の購買でも受け付けてくれるけど、上がってくるまで1日かかるから、制服の数が無いなら溜め込まない方がいいよ。

 あと、制服のクリーニングはタダじゃないから注意してね。」

 

制服のクリーニングは有料か~。

体操服なんかと同じで一緒に請け負ってくれればいいのに。

しかしヒシアマさんも大変だな、クリーニングの受付まで業務に含まれているとは。

 

「制服のクリーニングも毎日ってわけにいかないから、これからの季節汗脇パッド必須だよ~?」

 

「制汗剤も。

 あ、夏場なんかはお風呂上り、ベビーパウダーがいいよね。」

 

なんだか俺の知らない女子の身嗜み文化がポコポコ出てくる。

脇汗パッドはよく知らないけれど、ベビーパウダーは子供の頃風呂から上がると親からパタパタ全身にまぶされていた気がする。

 

「あ、洗濯一緒にするけど、洗剤とか柔軟剤とか私の使っちゃうけど平気?あまり香りは強くないと思うけど・・・」

 

アップルサンデーさんが手に持った袋の中の洗剤を見せてくれる。

ボトルに入った液体洗剤と柔軟剤だ。

うん、洗濯洗剤にこだわったことがないから見せられてもさっぱりわからない!

洗濯洗剤は安さが正義、主義の俺は正直洗濯できれば何でもいい。

いつも柔軟剤入りの店で最安値の洗濯洗剤を買っていたのだ、俺は。

 

「特にこだわりないから大丈夫。

 洗剤とかって持ち回り?」

 

「ううん。

 いつも洗濯機が空いてるとは限らないし、こうやってつるんでお風呂来れない時もあるから、結構適当?」

 

「まぁ、デオドラント系の洗剤と柔軟剤は持っておいた方がいいよ。」

 

ロッカーを閉めて、さっきのウマ娘たちよろしくバスタオル姿で空いている洗濯機を取り囲んで洗濯ネットに入れた洗濯物を放り込んでいく。

隙間なく壁際に設置されたドラム式の全自動洗濯乾燥機。

各洗濯機の上には棚があって、籠が載っている。

家庭用サイズとはいえ、50台以上が並んでいる姿はちょっとそこらのコインランドリーなんかではお目にかかれないだろう。

 

ゲムパちゃんが、脱衣所から一人で洗濯ネットを抱えてきた寮生に声をかけて同じ洗濯機に彼女の洗濯ネットも放り込む。

 

「あと一人分くらいはいけそうだけど、すぐには来そうにないね。」

 

「回しちゃお。」

 

洗濯機の蓋を閉じてスタートボタンを押すと、注水が始まって洗濯機が回り出す。

 

「洗濯ありがと~!終わってたら籠に上げておくね。」

 

ゲムパちゃんが誘った寮生はお礼を言って先に浴場に駆けて行った。

 

「こんな感じで、空いてる洗濯機はできるだけ一緒に洗濯する人を誘って洗濯するの。

 止まっているのに洗濯機の中に入っている洗濯物は、そこの籠に入れて上に上げておけば、洗濯機使っても文句は言われないから。

 あと、一人でスカスカなのに洗濯機回すと非常識扱いされるからね~」

 

「入寮直後の1年なんか、そういう暗黙のルール知らないから結構ごたごたするんだ。

 (そこに、洗濯もしたこともないお嬢様が紛れ込むからもうパニックだったよ)」

 

ゲムパちゃんが小声で教えてくれる。

お嬢様方、洗濯の仕方がよくわからずに、洗濯洗剤を全部入れてしまったり、縮む素材の服をわけもわからず洗ってダメにしたりと、結構な騒ぎが毎年起きるそうだ。

お嬢様方じゃなくても、小学校卒業したての子供の集団だ、普通に何かしらやらかしまくっていてもおかしくない。

さぞかし、毎日愉快な騒ぎが起こっていたのだろう。

 

三人して並んで浴場の入口へ向かう。

浴場への引き戸を開けると、熱気と湿度の高い空気が身体を包み込む。

そして目の前には広いタイル張りの空間が現れた。

 

寮1棟、フロアの半分以上をそのまま使った浴場はまさに大浴場と呼ぶにふさわしいものだった。



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これが美浦寮の大浴場

お風呂紹介ですね~
これも、昭和の遺物、集団での慰安旅行なんかによく使われた大宴会場とかがある昔の伊豆の観光ホテルを参考にしています~



「ひっろ・・・」

 

大浴場入り口の扉の先にはその名に恥じぬ広さの空間が広がっていた。

左右の天井際の壁には、採光用の窓といかつい工業用の無骨な換気扇が並び、立ち上る湿気を必死に排出している。

浴場の奥行きは50メートルくらいあるんじゃないだろうか。

湯気で大浴場の奥が霞んで見える。

入り口を入ってすぐ右には、獅子の顔を模した湯出し口と御影石でできた半円筒のお湯溜めがあり、掛け湯ができるよう樹脂の桶が置いてあった。

その横は、4段のステンレスでできた棚だ。

一時的なお風呂セット置き場だな。

左側は、湯上り用の立って浴びられるシャワーが壁際に5つほど並んでいる。

 

お風呂セットを棚に置いて、掛け湯を浴びるためにまとったタオルを外す。

腕に絡みつく髪の毛を上げようと、まとめるのに手間取っていたら、アップルサンデーさんが髪をくるっとまとめて髪ゴムで止めてくれた。

 

「それあげる。

 髪ゴムは100均とかでいくつか買って持ち歩くといいよ。

 結構使うこと多いから。」

 

「ありがとう。

 ごめんね不慣れで。」

 

気を取り直して、掛け湯を浴びようとしたら、ゲムパちゃんが俺の脚元にしゃがみこんでじっと俺の脚を眺めていた。

その視線の先にあるのは、白い肌に点々と赤紫色の痣の残る俺の肌だ。

 

「・・・何したらこんな痣だらけになるの?

 痛くない?」

 

「え?

 ・・・うっわ、恐竜にでも噛まれたのこれ。

 よく見たら全身治ってない傷だらけじゃん!」

 

脚についた痣は、たづなさんが俺を三女神像の台座から引っこ抜くときに掴んだ痕らしい。

見方によっては、ワニのような大型の動物に噛まれた痕のようにも見えなくもない。

だいぶ薄れてきたから、食い込んだ手の形が見て取れるほどじゃないけれど、まだ赤紫色に変色しているところがたくさんある。

 

そして、まだあちこちに残る擦り傷の痕。

いまだに目立つのが、肘と顎の下。

わき腹からあばらのあたりにかけてついていた擦り傷は、かさぶたこそなくなったものの、打撲痕で部分的に青黒かったり、かさぶたの剥がれた後が微妙に広い範囲でピンク色に変色したりしていた。

 

二人に囲まれて全身くまなく観察される。

タオルを前に持ったまま立ち尽くしていたけど、そんなにじろじろ見ても怪我の痕しかないってば。

 

「・・・まあ、ちょっと、いろいろあって。」

 

「いろいろって・・・これ尋常なケガじゃないよねぇ?」

 

「む~。

 なんかワケアリそうなのはわかるけどさ。

 何かあったら相談してよね?」

 

「・・・ありがとう。」

 

他の寮生が入ってきたこともあってか、ようやく二人が離れてくれる。

 

しかし、ゲムパちゃんとは一度一緒に踊ったことがあるだけで二人とはほぼ初対面なのに、なんでこんなに距離感が近いんだろう。

いや、ありがたいんだけどさ。

 

掛け湯を浴びて、お風呂セットを取って、身体を洗いに島カランの方へ向かう。

 

床タイルのモザイク模様が、まるで道筋を表すように床の上を伸びて、正面の島カラン群と右側の壁沿いにある湯舟へと分岐している。

 

「私、先に温まる派なんで湯舟行ってるねー!」

 

ゲムパちゃんはそこで別れて、湯に浸かりに行った。

 

湯舟は、これもまたタイル張りだ。

小さな長方形の水色のタイルがびっしりと湯舟の中ととその縁を覆っている。

細かいタイルで飾られた縁は、右側の長い壁沿いに弓のような形を描いて、小・大・小の3つの湯舟を形作っていた。

湯舟の幅は、3人が足を延ばして座ってなお余る程の幅がある。

湯舟の両端は、10人ほどが入れる程度の大きさに区切られていて、手前が入浴剤や柚子湯などのイベント湯用、奥は熱い湯が好きな寮生の為に、熱めの湯が張られているらしい。

ゲムパちゃんは誰も入っていない熱い湯の湯舟に突撃すると、首まで湯に浸かって熱い湯を堪能していた。

 

一番大きい中央の湯舟には、湯面より少し高い場所から湯が落ちる湯出し口がある。

その下に入ると落ちてくるお湯がちょうど打たせ湯のようになるらしく、肩にお湯を当ててまったりしている入浴者もいた。

 

この中央の大きな湯舟、詰めて入ったら100人以上入れるんじゃないだろうか。

今まで会社の出張の時にスーパー銭湯やら温泉やら、いろいろな湯舟を見てきたけれど、これだけ長くて大きい湯舟はお目にかかったことがない。

それ程混んでいない今、大半の入浴者はその広い湯舟をフルに使って、湯舟の縁を枕に仰向けに寝転がって湯の中で存分に身体を伸ばしていた。

 

 

広い浴場のところどころにある建物の柱は、鏡面に仕上げられた石材の円柱だ。

なんとなく、タイル張りの床よりも近代的で、デザイン的に浮いているように思える。

個々のスペースを分ける仕切り板のついた御影石でできたシンプルな島カランも、タイル張りの床や湯舟とちょっとデザインが合わない。

補修工事か何かで、これらはあとから設置したものなのかもしれない。

 

温度調節機能付きの、現代的なデザインのシャワーカランは、一島で30台。

その島が並んで4つある。

 

そして、もう2列ほど島カランが置けそうなスペースが、何もない空間として一番奥に空いていた。

ちょうど、ちょっとしたホールのステージくらいの大きさがある。

さすがに、風呂場で歌って踊ったりとかは・・・ないよね?

左手の壁に用具室っぽいドアがあるのがめちゃくちゃ気になる。

 

「・・・イベントスペース?」

 

思わず首をかしげてつぶやくと、アップルサンデーさんが教えてくれた。

 

「謎空間でしょ~?

 なんに使うのかわからないし、先輩方もわからないのよね~

 もっぱら、中等部1年の子の遊び場になってるのよ。」

 

石鹸カーリングやら、石鹸だらけの身体で寝っ転がって壁を蹴ってどこまで進むか競争したり小学生気分が抜けない中等部1年が遊びに使っているらしい。

ウマ娘の脚力でそんなことやったら壁に頭ぶつけるんじゃ、と思ったら、左右の壁の低い位置にしっかりタイルが剥がれた跡があったよ。

 

 

 

アップルサンデーさんの隣りのカランに座り、タオルを濡らして石鹸を塗り込んで身体中の汗を洗い流す。

若い身体は中年の身体と違って全くといっていいほど皮脂が出ないので、全身を洗っても石鹸の洗浄力が落ちない。

皮脂が出ていたとしたら、天然のウマ油だ、落とさなくてもいいんじゃないだろうか。

 

アップルサンデーさんは、ひたすら脚の指の間を親の仇のように入念に洗っていた。

練習用の靴は蒸れるから、だそうだ。

ウマ娘が本気で走る靴は、ぎちぎちに締め付けて靴の中空気の流れとかなさそうだもんな~。

 

「水虫になってからじゃ遅いのよ~」

 

とは彼女の談。

 

 

全身くまなく洗って流し、髪の毛と尻尾に移ろうか、とお風呂セットに手を伸ばしたら、隣からにょっきりと腕が伸びてきた。

 

「あ、ごめーん。」

 

アップルサンデーさん、腕を伸ばしてうぶ毛を処理中である。

角度が悪くてこっちのパーティションに腕が伸びてしまったらしい。

泡立てたボディーソープだらけの腕を、専用の安全カミソリで撫でていく。

 

両腕を一通り剃り終わると、彼女の様子を眺めていた俺の視線に気づいた彼女が、俺に向かって両手をちょうだいするように伸ばしてきた。

 

「腕、見せて。」

 

言われた通り、右腕を差し出す。

 

顔を近づけて、じっと眺められたかと思うとうらやましがられた。

 

「いいなー、白毛ってうぶ毛目立たなくて~

 私二週間も放置したら、腕とか足とか浅黒くなってくるよ、うぶ毛で。」

 

アップルサンデーさんは、黒毛だ。

髪の毛もどこもかしこも、毛という毛がみんな黒い。

特に身体の本格化、というやつが始まってからというもの、なおさら体毛が濃くなってしまい、頻繁に剃らないとならないと嘆いていた。

 

アップルサンデーさんと二人してシャンプーに取り掛かり、俺はお風呂セットから耳栓を取り出して耳に詰め込んで、シャンプーで頭を泡立てていたんだけれど・・・

 

湯舟から上がって俺らを探しに来たゲムパちゃんが俺の耳栓姿を見て盛大に笑っていた。

 

 

「いや~、まさかその歳でシャンプーパッド使ってる人いると思わなかったよ!」

 

耳栓を外して聞いたゲムパちゃんの第一声がこれだ。

ハット、じゃなくパッド。

やはり、この耳栓は幼児しか使わないものらしい。

 

俺は、というと、髪は仕上げまで終わって今絶賛水分ふき取り中だ。

 

「しょうがないじゃん、長く耳伏せられないんだから。」

 

「こんなの誰でもできると思うけどなぁ・・・」

 

濡れた髪の上で自由自在にウマ耳を伏せたり立てたりして見せるゲムパちゃん。

手旗信号みたいに左を立てて右伏せて、とか器用に交互にパタパタしてみせる。

俺も真似してみたけれど、両耳一緒にしか動かせないし、長く伏せ続けることもできない。

何より、何か物音がすると勝手に耳がそっちを向いてしまう。

 

「・・・む~り~」

 

早々にウマ耳を操るのを諦めた。

へにょりと耳が前に垂れるのがわかる。

こういう時だけ感情を勝手に汲んだように動くんだよなこの耳。

 

「耳がうまく動かせないって、尻尾もなの?」

 

アップルサンデーさんが濡れて重くなった尻尾で俺の尻の下に敷かれた椅子を叩く。

芯のない毛だけの部分が慣性で弧を描くように椅子に当たる。

 

「いや、尻尾は何とか。」

 

尻尾を持ち上げて、左右に振ってみる。

自由自在とまではいかないけれど、上下左右に振ることはできる。

ウマ耳と違って、少し重さがあって歩くたびにバランスをとって動くのが感覚的に捉えやすかったのか、いつの間にか意識して動かせるようになっていたのだ。

 

これに気づいたのは、トイレだ。

便座に座る時尻尾を持ち上げておくのに尻尾をバンドで胴に留めるのだけれど、ある時からベルトがかけやすくなったな、と思ったら、自分で尻尾を上げていたことに気が付いた。

けれど、まだアップルサンデーさんみたいに毛先を鞭のように振り回してものを叩いたりといった芸当まではできないし、動かそうとしていないのに勝手に動いていることもよくある。

レストランのショーウィンドウを眺めていたらガラスに映る尻尾が上機嫌に揺れていたとかね。

まあ、尻尾はまだ、無意識に動いていても、意識すれば止められるだけマシだ。

 

耳は、目玉の動きと似ているかもしれない。

意識して動かすことはできるけれど、視界に何か入ると反射的に追ってしまう。

そして、じっと一点を見つめ続けるのも訓練しないと難しい。

困ったことに、ウマ娘は皆子供の頃から無意識にウマ耳の制御を身に着けているので、誰に聞いてもウマ耳の動かし方なんか教えてくれそうにない。

指ってどうやって動かすの?って聞かれても誰も教えられないのと一緒だ。

 

しばらくは耳栓のお世話になろう。

 

髪がショートのゲムパちゃんは、俺やアップルサンデーさんとは比べ物にならない速さで身体も髪も洗い終わった。

冗談抜きで俺もショートにしようかな、とつぶやいたら、二人して止められた。

なんでみんな髪切ろうとすると、もったいないって言うのん?




書いてから思ったんですが、屋根の上に乗せるECO機器、昔は太陽光温水器がメインでしたね~
設置されて長いのは中にコケが生えてお湯が臭いという話をよく聞きました~


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お風呂女子会

ちょっと間が空きました~

地名やノルちゃんの名前には深い意味はないですよ~


「で、ベノシちゃんはどこの出身~?」

 

はい、見知らぬ人が集まって打ち解け合おう、なんて話の場じゃ、その話題出ますよね~。

 

ただ今、三人で大浴場で歓談中。

ゲムパちゃんは熱いお湯の小さい湯舟、俺は温い湯の大きな湯舟に浸かり、アップルサンデーさんは今日はシャワーだけにする~と言って尻尾を例のバンドで腰に縛り付けて湯舟の縁に座って足だけを温い湯舟につけていた。

こんなところでも使うんだ、尻尾バンド。

なんでも、お風呂場の床に尻尾を垂らしたままにしていると、流れてくるお湯の湯垢なんかを尻尾の毛が拾ってえらいことになるらしい。

そうなるとまた洗い直さなければならないので水を吸って重い尻尾はこうやって腰に括り付けておくそうだ。

 

俺とゲムパちゃんは、尻尾はお湯の中で広がるに任せている。

お風呂が混んでいるときは踏まれたりするので尻尾バンドで腰に縛り付けておくか、髪ゴムみたいなもので二つ折りにして短い棒になるようにまとめておくのがいいらしいけど、今は空いているし三人で湯舟の隅っこに固まっているので踏まれることもないだろう。

 

で、まあ、出身地の話が出てきてしまったわけなんだけど、どうしたものかちょっと悩み中だ。

 

三女神の一人にウマ娘にされてこの世界に落とされました、なんて話は、俺がウマ娘世界に現れたときの騒動に巻き込んでしまった理事長やたづなさんはともかく、会ったばかりの二人にするような話じゃない。

そんな話をしたら、間違いなく厨二病を患っている頭のおかしな娘認定されてしまう。

せっかく話せるお隣さんができたのに、痛い子認定は避けたい。

 

どう話したものかとぐるぐると頭を巡らせてみたものの、この場を切り抜ける妙案は出てこなかった。

今までアップルサンデーさんの突っ込みを抑えてくれていたゲムパちゃんまでがなぜか出身地話には乗り気らしく、自分から出身地を話し出す始末だ。

 

「私、静岡!

 工場と畑しかないとこだけどね。」

 

「私はね~岐阜。

 地元じゃちょっと大きい元武家の家だよ~。」

 

あっという間に、二人に先に自己紹介されて退路を断たれてしまった。

答えを期待するまなざしが痛い。

 

その場しのぎで変な嘘をついても、きっとそのうちぼろが出る。

嘘って言うのはつき通すためには結構な記憶力とつじつま合わせの能力がいる。

これから長いお付き合いになりそうな相手にそのうちバレてしまうような嘘をつくくらいなら、いっそのこと本当のことを混ぜてしまおう。

 

「・・・私は、生まれは千葉かな。」

 

あっちの世界で生まれ育った場所をそのまま口にする。

 

「千葉?房総半島の方?それとも小金が原のあたり?」

 

アップルサンデーさんの口から『小金が原』なんて単語が出てきてちょっとびっくりした。

小金が原は、俺の生まれ育った土地の古い古い呼び名だ。

小中学校の時に地元の歴史で習った覚えがある。

 

「何?小金が原って。」

 

「千葉の内陸部で、昔からウマ娘の特に多い地域、かな~。

 なんか地域的にウマ娘が生まれやすいらしいよ?

 千葉だと南房総と小金が原が有名、って聞いてるけど~。」

 

あっちの世界だと、南房総は比較的近代に牧場が多く開かれた場所だし、小金が原は確か江戸時代あたりには侍用の乗馬の産地・放牧地として有名だった場所のはずだ。

どっちも、馬の産地といっていい。

 

住んでいた時はあまり気にしていなかったけれど、思い起こせば、地元のあちこちに馬を祀った神社や寺があった気がする。

あの自称女神にウマ娘世界へ送られる直前まで、馬とは全く関わりがなかったと思っていたのに、言われてみれば俺はかつての馬の名産地出身だった、ってことか。

 

「どうしたの?きょとんとして。」

 

「・・・いや、千葉って言っただけで詳しい地域まで当てられちゃうとは思わなかったから・・・」

 

「へへ~♪

 で、どっち?」

 

「小金が原の方。」

 

「ビンゴ~!いえ~い!」

 

「いえ~い!」

 

二人して、ハイタッチならぬロータッチ。

 

「でも小金が原出身だったら、去年辞めちゃったノルちゃんと知り合いだったりしない~?

 セイコーノルデン、鹿毛で耳の長い娘だったんだけど。」

 

「ごめん、その娘のことは知らないや。

 生まれってだけでそこに長くいたわけじゃないから・・・」

 

「そっか~。

 ベノシちゃんの向かいの部屋にいたんだけどね。

 去年の秋に同室の娘が辞めるのにつられるみたいに辞めちゃってさ~。

 同じ地元の娘だから会えてたら仲良くなれたかもしれないのにね~。」

 

う~ん、あっちの世界での地元の話をしたら、こっちの世界の地元のウマ娘が、ギリギリすれ違いでそばにいたかもしれないとか・・・

出会っていたら、同じ地元の話なのに話が食い違ってお互いどこの話をしているんだ?なんてことになっていたかもしれないな。

危ない危ない。

 

お向さんになるはずだった学園生がすでに退学してしまった後だということに若干もやもやしたものを感じはしたものの、今この時に限っては、出会わずに済んでよかったという安堵感の方が大きかった。

そうか、俺の部屋の向かいはその娘が出て行っちゃったから空き部屋なのか・・・

 

「私なんかさ~、本格化遅かったから、デビューするまでは、って思って学園にしがみついてたけど、彼女みたいに本格化してから負けが続いちゃうとやっぱ考えちゃうよね~」

 

本格化、という話がちょくちょく出てきているけれど、第二次性徴期、みたいなものかな。

急激に大人の身体に成長していく時期、ってことなんだろう。

 

「本格化してからは負け続けるってあまりないの?」

 

「そんなことないよ~。

 ただ、ここにいる娘たちって、基本地元じゃ負けなし、みたいな娘が多いからね~。」

 

「うん、今まで才能だけで勝つのが当たり前だった、みたいな娘は、ちょっと努力すれば結果がついてくると思ってるからさ。

 そのちょっとの努力のあと、負け続けるとすぐ心折れちゃうんだよね。

 そういう娘でも誉めるのがうまいトレーナーについた娘はいいんだけど、放任主義っぽかったり、叱咤激励だけの熱血トレーナーについちゃうとメンタルが持たないみたいでみんな辞めちゃった・・・」

 

そうして辞めていったクラスメイトがゲムパちゃんの周りにもいたのか、彼女はちょっとしゅんとしていた。

 

「ま~、色々いるよ。

 プライド高すぎて早々に自滅する子もいれば、負け続けても重賞一個取れば私の勝ち!って全盛期過ぎても走ってる高等部の先輩もいるし。

 モチベーションなんて人それぞれだから。

 

 ・・・私なんか、本格化遅かったからさ、回りがどんどん成長して突き放されて、友達の成長度合いを見せつけられれる度に、私も本格化さえ来れば同じようになれる!って信じてひたすら練習に没頭して全力で現実から目を逸らしてたね~。」

 

「・・・一緒の部屋になった当初、サンちゃん虚無ってたもんね。」

 

ゲムパちゃんが目尻を真横に引っ張って、何とも言えない糸目を作って見せる。

考えたら負け、って必死に耐えていたんだろうな、アップルサンデーさん。

 

「でも、本格化始まるとさ、今までコンマ1秒単位でうろうろしてたタイムが、同じ練習しててもガンって縮むの!

 これが私のタイム?!ってびっくりするくらい!

 ついていけなかったチームメイトについていけるようになったりさ。

 世界が変わるよ、マジで。

 デビュー戦、出るか?ってトレーナーに言われたときはうれしかったな~。」

 

「そうそう、聞いてよ!

 私たち、同部屋だってわかってるはずなのに、バカトレーナーのせいで同じデビュー戦走らされたんだよ!」

 

「あれはムカついたよね~!あんたに負けたのはもっとムカついたけど!」

 

「まだ根に持ってるし!

 もうデビューしたんだからいいじゃん!」

 

ぎゃいぎゃいと、自分らの担当に対する愚痴があとからあとから湧いてくる。

彼女らのトレーナーたちはベテランに足を踏み込みかけた男性トレーナーなのだそうだけれど、抱えている担当の数とその激務に追われて、彼女らのデビュー戦が同じレースに出走登録されていたのを直前まで気づかなかったそうだ。

過去に何があったのかは知らないけれど、慣例的にデビュー戦は寮の同室同士を同じレースにしないよう配慮がなされる、はずだったのが、彼女らの場合それがすっぽり忘れ去られて同じレースにエントリーされていたらしい。

スペシャルウィークのウィニングライブ立ちんぼ事件といい、トレセン中央のトレーナーは高給取りのエリートという話がどうも疑わしく思えてくる。

 

結局、デビュー戦は二人とも他のウマ娘に勝ちを掻っ攫われて、その後の未勝利戦で春デビューを果たしたものの、担当トレーナーを「バカトレーナー」呼ばわりするくらいだ、相当頭に来たんだろうな。

けれど、二人の学年が1年違うのにほぼタメ口でやたら仲が良さそうなのは、逆にデビュー戦のトラブルで怒りの矛先がトレーナーに向いて意気投合したせいかもしれない。

世の中、何が幸いするかわからないね。

 

「ま~、私らのトレーナー、お互い10人近くの担当抱えてるから忙しいのはわかるんだけどさ~。

 時々専属のトレーナーいる娘見るとうらやましくなるよね~。」

 

「うん、やっぱ専属トレーナーって、その子だけを見てるしね。

 担当の娘一人に自分の全力を捧げて、全てを犠牲にしてでも勝たせる、って、あの熱意を向けられたら燃えるよね!

 まぁ私たちじゃ専属のトレーナーなんて夢のまた夢なんだけど。」

 

「二人のトレーナーは違うの?」

 

「「ぜんっぜん違うよ!」」

 

声を揃えて即座に否定された。

 

まあ複数のウマ娘を一人で担当するんだ、一人一人にそれ程力を割けないのも仕方のないことかもしれない。

そう考えると、ゲームのように、一人のウマ娘に惚れ込んで全てを投げうって育て上げる、みたいな専属トレーナーは希少なのかもしれないな。

 

「私のチームは短距離とマイラーだけ集まってる感じ。」

 

「私のチームは長めのマイルと中距離かな~。

 似たような練習をみんなでやって、時々模擬レースやって個々に指導が入る、みたいな~。」

 

「まぁ普段は決められた練習に個別メニューだからそんなにトレーナーの手かからないってのもあるけど、レースが多い時期になると、もうトレーナー、ポカミスだらけで自分でスケジュール管理しないと何起きるかわかんないよね。」

 

「うちのチームは最近、トレーナーにべったり引っ付いてる先輩がいるよ~?

 文句言いながら嬉々としてトレーナーの補佐してる。

 時々トレーナー寮にも押しかけてるみたいだし、怪しいよね~。

 あれはくっついちゃうかも。」

 

「あ、サンちゃんところもいるんだ、世話女房みたいな先輩。」

 

「正直あのトレーナーと?ないわ~って思うんだけどね、まぁ蓼食う虫も好き好き、って言うし・・・」

 

うん、聞いた感じ、ベテラントレーナーに足を踏み込みかけてるって、少なくともアラサー、中等部高等部の年齢の娘じゃおじさん趣味の変り者じゃない限り興味も持たないよね普通。

まして、仕事のキャパ越えててんてこ舞いしてる状態を常に見せつけられてるんじゃ、頼れる感じがまるでしなさそうだし。

 

「二人とも、しっかりした男性が好みってこと?」

 

「ん~、しっかりしているに越したことは無いんだけれど、ちゃんと私一人に目を向けてくれないと。

 大事なデビュー戦のこと忘れちゃう程度の愛情だとちょっとね~」

 

「やっぱ、お父さんと比べちゃうしね。」

 

うんうん、と二人して頷く。

 

「お父さんて、鬱陶しい存在、って思ってるんじゃないの?」

 

廊下で、かのルドルフ会長を撃沈せしめた『お父さんみたいに~』からすると、思春期特有のお父さん嫌い入っているのかと思ったけど、そうでもないらしい。

 

 

「口うるさいとことかはね~。」

 

「でもさ、私ら子供の頃に一回は暴れたりしてお父さんに大怪我させてるから。

 それでも俺の娘だって育ててくれたの考えるとね。」

 

「うん。

 昨日まで一緒に遊んでたウマ娘の友達が、次の日突然いなくなったりしてさ。

 あとで、ウマ娘育てきれなくなったとかで一家離散とか、育児に絶望して父親が失踪とか聞いて、その時はわからなかったんだけど・・・

 物事の判断がつくようになってからさ、自分がパパに大怪我させたとき、もしかしたら私も捨てられてこうなってたのかも、って理解して、パパいなくならないでってギャン泣きしたよね~。

 あの時パパはお前は死ぬまでずっと俺の娘だって、ずっと撫でてくれてたっけ。

 怖かったよね。

 一時期はウマ娘の力とかなければいいのにって思ったもん。

 ヒトとしてもさ、家族としてウマ娘と一緒に暮らすって、理屈じゃなくて覚悟がいるよね。」

 

「まぁ、ウマ娘ってヒトより力強いから怖がる人は結構いるしね。

 けど、私たちが耳伏せて怒ってても、お父さんみたいにひるまずに正面からちゃんと話を聞いてくれるヒトじゃないと、お互い対等な立場でもの言えないじゃん?

 そういう意味じゃ、この学園にいるヒトってトレーナー含めて全員、正面からぶつかれる相手ではあるんだけどさ。」

 

「共働きで食べるのに困らないくらいに稼げて、身体が頑丈で、ウマ娘とまともに向き合って話ができる、って考えるとトレーナーって優良物件じゃない?って高等部の先輩は言うんだけどさ~。

 今のトレーナーって優良物件だと思う?」

 

「・・・ないね。」

 

「だよね~。」

 

ちょっとダメすぎるトレーナーとくっつきそうな先輩がいるらしいけれど、二人とも自分のトレーナーに興味はないみたいだ。

 

話を聞く限り、二人とも中等部にして、意外とシビアにヒトとの関係を見ていた。

そっか、ウマ娘ってヒトと似た姿をしているけれど、中身は猛獣と変わらない、って見方もあるんだな。

自分達みたいな猛獣がたまに怒っても、それを受け止めてなお一緒に生きていく覚悟があるか問うところまで達観している。

その覚悟を、最初に見せてくれるのがお父さんなわけだ。

 

逆に、その覚悟無しにウマ娘の子供ができて、自分の娘を育てきれない!なんて捨ててお父さんが逃げちゃったら、そりゃウマ娘の孤児ってグレるね、確かに。

 

ある意味すごいとは思う。

ウマ娘世界のウマ娘のお父さんてみんなムツ〇ロウさん並の覚悟決めてウマ娘の嫁貰ったり子供育てたりしてるってことだ。

 

同年代の気安さからか、ウマ娘のお父さん事情とか聞いちゃったけれど、俺にはこういうウマ娘家庭でのバックグランドストーリーが全くない。

ウマ娘ならではのヒトとの違いで悩んだことも、苦しんだこともない。

子供の頃のあるある話なんか話題に上がったら頓珍漢なことしか言えないだろう。

 

それらしい経歴をでっち上げようにも、ウマ娘の子供時代を知っていて相談できるウマ娘なんて一人しかいない。

お風呂から上がったらSNSで寝る前にたづなさんに泣きつくか。

助けてたづなえも~ん!



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湯上りのひと時

昔は椿油でウェットな艶の髪の女の人って結構いましたけど、今は髪型の流行りも全く違うせいかあまり見かけませんね~
割烹とか旅館の女将くらいでしょうか~


そろそろ上がろうか、ということになって、入り口近くのシャワーで温めのお湯を浴びてざっと身体を流す。

ゲムパちゃんはほとんど水を浴びているらしい。

時々冷たい飛沫が飛んでくる。

 

お湯を吸ってずっしり重くなった尻尾を、根元からタオルでしごいて水気を切る。

もうだいぶ手慣れた作業だ。

水気を切った尻尾は細くなって、太いゴボウとか自然薯みたいになってる。

 

 

身体から足元まで水気を拭きとってタオルを身体に巻いていると、ゲムパちゃんはすでに脱衣所の冷水器に飛びついてゴクゴクと水を飲んでいた。

 

「ぷはぁ!生き返る~!」

 

・・・そのセリフはいけない、身体が勝手にビールを求めて生唾が口に湧き出して来てしまう。

ああ、これからの寮生活、ずっと何年もビール無しで生殺し生活か・・・

俺は冷水器を譲ってくれたゲムパちゃんの後に続いて、大してうまくもない水道水を喉に流し込んだ。

 

タオルを巻いたままで、洗濯機を見に行く。

 

「まだかかりそうだね~。」

 

洗濯機は、まだ回っていた。

残り時間の表示を見れば、洗濯終了まであと30分程度。

髪や尻尾を乾かしていれば、そのくらいすぐ経つだろう。

 

後ろをちょっと覗くと、相変わらずドレッサーは満席状態。

壁際のドライヤーはそこそこ空きがある。

 

「アップルサンデーさん、ドレッサー待ちます?」

 

「ううん。

 いつも壁際のドライヤーで済ませちゃってるよ~。

 ベノシちゃんドレッサー派?」

 

「いや、特にこだわりは無いんだけど髪の長い娘がみんな使ってるから使わないとおかしいのかな、って。」

 

「ん~、髪の見栄えをすごく気にする子で一人で手入れするなら必須かも~。

 ちょっといいトリートメントとかヘアオイルとか、髪の量のある子が適当につけるとまだらになって目立つのよね。

 一緒に髪の手入れしあえるお風呂仲間がいるなら見てもらえるからドレッサー使わなくてもいいと思うよ~。

 私なんか、特に外出するわけでもない日はそこまで念入りに髪のお手入れしないし。」

 

「じゃ、壁際でいっか。

 悪いけど二人とも、チェックお願いね?」

 

「「オッケー!」」

 

3人並んで席を確保し、各々ドライヤーで髪を乾かし始める。

 

アップルサンデーさんは、髪が肩に届くかどうかってところなので、片手で髪の束を持ち上げては手櫛で梳きながら風を通している。

もともと癖っ毛だからか、髪の毛を伸ばしはするもののまっすぐにはならない。

乾くそばからぴょこぴょこと毛が跳ね始めてる。

 

ゲムパちゃんは手櫛で、ふわっと髪を持ち上げては風を通して時々癖をつけるように撫でつけている。

湿って塊になっていた髪がすぐにサラサラになって、入浴前のきれいなボブカットに戻っていく。

さすがにまだブラシを通していないから、ところどころ毛が跳ねているのはご愛敬ってところかな。

 

俺が丸めていた髪を解いて、トリートメントを噴いてブラシを通しているうちに、ゲムパちゃんはだいたい乾いてしまったようだ。

彼女はドライヤーを止めて、入念にウマ耳の毛並をしごいて整えると、くるっと身体の向きを俺の方に変えた。

 

「はい、ベノシちゃん後ろ向けてー。」

 

ひょいとブラシを取り上げられる。

 

頭頂部から、サクサクとブラシを手束に刺しては梳き伸ばされていく。

 

俺はというと完全に手持ち無沙汰だ。

 

「あ、ベノシちゃん、頭のてっぺんに傷あるよ?」

 

「ほんとだ、ちょっと血が出てる!ティッシュティッシュ!」

 

棚の上の備え付けのティッシュで頭のてっぺんを押さえると、確かにちょっぴり血がついている。

壁の鏡に映してみたら、ああ、これ笹針刺さった痕だ。

風呂でふやけた傷を、ブラシでひっかいてしまったんだろうか。

 

「ああ、大した傷じゃないから気にしないで。

 たぶんちょっと引っ掻いちゃっただけ。」

 

トンチキな格好の変態笹針師に拉致されて、全身針ねずみにされてトドメに脳天に一撃喰らったときはどうなるかと思ったけれど、彼女の笹針がなかったらこんな穏やかな生活も送れなかったな。

そう言う意味では、一目で俺の状態を見抜いて適切?かどうかはわからないけど治療を施してくれた彼女には感謝するべきなんだろう。

なにせ、あの後たづなさんの億ションに世話になったんだ、力加減が効かないままあちこち破壊して回ってったらと思うと冷や汗が出る。

 

ゲムパちゃんがブラシが血で汚れていないか気にしていたので、ブラシを返してもらって身体に巻いたタオルにブラシをこすりつける。

特に汚れもなかったので、そのまま後ろ髪のブラッシングを続けてもらう。

 

「じゃ、ドライヤーあてるよ~」

 

いつの間にか、自分の髪を乾かし終えて右手に回ったアップルサンデーさんがドライヤー片手に俺の髪を手に取っていた。

ゲムパちゃんは左から。

二人に挟まれて、両側からドライヤーをあてられる。

 

前髪から側頭部へ。

長い髪を持ち上げて、後頭部から髪の末端へ。

髪から水気がなくなると、途端にサラサラと音がするんじゃないかって言うくらい髪が軽くなってわずかなドライヤーの風にすらそよぐ。

二人がかりだから、乾くのも早い。

10分もかからずに、髪は乾いて最後のブラッシングまで終わった。

枝毛もなく、完璧な仕上がりだ。

 

「ありがと~!

 なんか全部やらせちゃったね、ごめんね。」

 

「ううん。

 こんなきれいで長い髪触るの久しぶりだったからいじってて楽しかったよ~。」

 

「じゃー尻尾にうつりますか。」

 

鏡にお尻を向けて、尻尾の手入れ用のオイルを化粧箱から引っ張り出す。

引っ越しの時にたづなさんがくれた椿油だ。

尻尾の毛が濡れた状態で、ちょっとだけつけてブラシで塗り伸ばしすと自然できれいな艶が出るらしい。

 

無造作に椿油の瓶の封を切って、棚に潰した化粧箱と一緒に乗せたら、アップルサンデーさんが目を真ん丸にして驚いていた。

 

「ちょっ・・・それ、大島椿の特選・・・ベノシちゃんいつもそんなの使ってんの?!」

 

「え?いや、引っ越しの時のもらい物だけど、何?これ高いの?」

 

「たぶん、それ一本で諭吉さん飛んでくよ?」

 

「えええ?!」

 

たづなさんが何気なく持たせてくれた椿油は、結構な高級品だったらしい。

ゲムパちゃんはあまり興味がないらしく、へ~、とちょっと目をやったきり、自分の尻尾のブラシかけを続けていた。

 

椿油の瓶の蓋を開けると、ビンに小さな穴が開いているだけで、スプレーがついているわけでもなく、どう塗り広げるのがいいのかいまいちよくわからない。

 

「・・・アップルサンデーさん、これちょっとだけつけて塗り伸ばしてね、って言われてるんだけど、どう塗ればいいの?

 手で塗り広げればいいのかな?」

 

「使ったことは無いんだ?

 ちょっと待っててね。」

 

アップルサンデーさんが、浴場の方に行って、手の平にちょっと水を湛えて戻って来た。

 

「この水に一振り椿油入れて。」

 

言われた通り、手の平に溜まっている水に、瓶を一振りして少量の椿油を浮かせる。

 

「尻尾に塗るからね~」

 

後ろに回ったアップルサンデーさんが、尻尾の付け根のあたりにぽたぽたとその水と椿油を垂らしたかと思うと、ぬるり、と尻尾をしごき出した。

尻尾の根元から、毛先まで、尻尾を掴んだ彼女の手が撫でていく。

そこまではまだちょっとくすぐったいかな、で我慢できた。

毛先まで行くと、今度は指先を、爪を立てるようにして尻尾に潜り込ませて梳いていく。

ぞわぞわした感触が腰から脳天に突き抜ける。

 

「待って!待って!それダメ!」

 

慌てて彼女の手の中から尻尾を取り戻す。

 

これ、アレだ。

他人に肘とか膝とかに指先5本で同時に撫でられるとぞわってくるやつの尻尾版。

頭にメタルシャワーの尻尾版。

自分でやるならたぶん大丈夫だけど、他人にやらせちゃダメなやつ。

 

「まだ塗り切ってないよ~?」

 

「いや、くすぐったくてダメ。

 自分でやるから!」

 

尻尾ブラシを取り出して、毛束の奥まで塗り広げながらじゅっ、じゅっと出てくる水気を毛先の方に押し出していく。

アップルサンデーさんは、まだ未練があるのか、手の平を見ながら、残っているらしい手の平の椿油を自分の尻尾に擦りつけ始めた。

 

「使ってみたいなら、使っていいよ、その椿油。

 教えて貰わないと使い方わかんなかったし。

 お礼替わりってことで。」

 

「いいの?

 じゃ、お言葉に甘えて~。」

 

彼女はいそいそとまた手のひらに水を汲みに行った。

 

二人して、無言で尻尾に椿油を馴染ませる作業が続く。

そろそろ、毛先までなじませたかな、というところで、タオルで尻尾を握って水分を絞り出し、ドライヤーをあてる。

椿油独特のさわやかな香気が立ち上る。

尻尾を乾かすのは髪の毛と比べて楽だ。

尻尾の毛を広げて、ただドライヤーの風を当てていればそれ程毛並の癖とかを気にする必要は無いし。

 

ただ、この椿油、乾かしてみたら、ちょっとアレなことになった。

主に、アップルサンデーさんの尻尾が。

 

濡れ艶、とでもいうんだろうか。

しっとりした濡れ髪のような艶が出て、アップルサンデーさんの黒髪だと、髪の毛と尻尾で艶がまるで違って見える。

尻尾だけ妙な色気が出てしまっている。

俺の方は、白い毛のせいか、艶自体が白さに溶け込んであまり差が目立たない。

アップルサンデーさんは、うれしいような困ったような妙な顔をしていた。

 

「・・・髪にも使う?」

 

「いや、いいよ。

 一日だけのことだし。

 でも、ウェットヘアはありかな~。

 今度試してみるね。

 ありがと~。」

 

アップルサンデーさん、尻尾だけ濡れたような艶が出てしまったのは誤算だったけれど、新たなおしゃれのラインナップに加えることはできたようだ。

 

尻尾も乾かし終わったので、それぞれ着替えて洗濯物を取り出しに行く。

二人とも、パジャマ姿だ。

パジャマを買い忘れた俺は、薄手の短パンにぶかっとしたハーフシャツ。

一緒に洗濯をした寮生は姿が見えなかったので、彼女の洗濯ネットをかごに入れて洗濯機の上の棚に乗せておく。

ドラム式の全自動洗濯乾燥機はコインランドリーで毛布を洗うのに使ったことはあるけれど、普通の洗濯物は初めてだったのだけれども、洗い上りは微妙。

皺だらけだ。

皺ひとつないパリッとした洗い上りが欲しいシャツなんかはちょっときついな。

 

そう言えば、お風呂で使った濡れたタオル、絞ってはあるけれどどうしたらいいんだろう。

 

「ねぇ、お風呂で使ったタオルってどうしてるの?

 またここで洗うの?」

 

「あ~、そりゃ知らないよね~。

 寮の階段上がったところに、古い洗濯機置いてある部屋あったでしょ?」

 

「うん、洗濯機とか冷蔵庫とかある家事室のこと?」

 

「そう。

 あの洗濯機で洗って、部屋のタオル干しに干しておくの。」

 

「服とか日常的に部屋干しするのはやめた方がいいよ。

 干すもの多くなると部屋にカビ生えやすくなるらしいから。」

 

「梅雨時の洗濯物、ランドリーの洗濯機空かなくて、3日分とかため込んでいるときにカビ生えて全滅したことあるからね~。」

 

アップルサンデーさんが苦笑いする。

 

梅雨時、普通にタオル部屋干ししてるだけでもタオルに黒いカビがいっぱい生えてダメになることあるもんな。

まして毎日のトレーニングで汗吸ってる洗濯物じゃ・・・

最近の洗剤や柔軟剤は、抗菌仕様のものが増えているから部屋干しでも臭くなったりカビ生えたりってあまりしないらしいから、街に出たときは抗菌仕様の洗剤買ってこよう。

 

大浴場を出て、家事室でまた洗濯ネットにタオルを入れて一緒に洗濯する。

洗剤はまたもアップルサンデーさんの手持ちにお世話になる。

 

「ここにあるご自由にお使いください、って言う洗剤とか柔軟剤あるでしょ?

 これ、だいたい匂いがきつく残るから苦手だったら使わない方がいいよ~?」

 

「買ってハズレだったら、みんなここに置いてくの。

 新製品の墓場だよね。」

 

道理で何種類も置いてあるわけだ。

 

「洗い上がるまでちょっとかかるけどどうする?

 私たちの部屋でちょっとおしゃべりしてく?」

 

「あ、ごめん。

 明日登校初日だからちょっと準備があって。」

 

「あ、そっか、ごめんね、気付かなくて。」

 

たづなさんが飲み過ぎないうちに相談をしないとな。

 

「じゃ、タオルとかは洗い終わったらここのフックにぶら下げておくから、あとで取りに来て。」

 

言われて見上げてみると、ちょっと高い位置に洗濯ロープが張ってあって、S字型のフックがいくつも引っかかっていた。

 

「じゃ、また明日!」

「時間があったら一緒にご飯しようね!」

「うん、今日はありがとう!またね!」

 

 

友達同士の挨拶をして別れる。

20年ぶりくらいだろうか。

こんな学生同士の付き合いをしたのは。

なんだか急に、自分が中高生だったころに戻ったような、そんな感じがした。



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編入前夜

思えば、生活の心配をすることなく人生をエンジョイできる学生時代って、今思うとやり直せるならやり直してみたいですよね~
・・・無意味な勉強をテストの為だけにやるのはちょっと嫌ですけど~

消灯の音楽は定番どころから~
寮や病院なんかでこういうピアノ曲の一節が流れて消灯ってのはよくありましたね~

知り合いの住んでいた寮は起床の音楽がロッキーのテーマだったそうです~


部屋に帰って、洗濯物をベッド下の引き出しに放り込んでから、編入初日である明日の用意をする。

 

今日の時点で、隣人の二人に出身を聞かれたのにはちょっと慌てたけれど、明日転入したクラスでも同じようなことは起こるだろう。

むしろ、失念しかけていたのをぎりぎりのところで思い出させて貰って幸運だったのかもしれない。

 

たづなさんがビールを飲み過ぎないうちに、俺の出自の件について、SNSで相談しておかないと。

ポチポチと文章を打って、送信する。

 

『寮の隣人と知り合ったはいいけど、出身やお父さんの話になって自己紹介に困りました。

 ヘルプミー!』

 

送ってすぐに、SNSではなく電話がかかってきた。

すぐに通話ボタンをタッチする。

 

「もしもし?たづなさんですか?」

 

「はい、たづなですよ。

 何のお話かと思えば、明日が編入の日なのにまだ何も考えていなかったんですか?」

 

「・・・返す言葉もございません。

 今日隣の部屋の方と仲良くなりまして、その折に出身地やらお父さんやらの話題になりまして、ああ、まずいと気が付いた次第です・・・」

 

かしこまって平身低頭の体で頭を下げる。

電話で相手が目の前にいなくても、すがれるのは電話先のたづなさんだけだ。

ええ、なんぼでも頭を下げますとも。

 

「まぁ、ウマ娘がいない世界で育ったあなたにウマ娘の家庭を想像しろ、というのは確かに無理な話ですね。

 ただ、その場を取り繕うために変なことを口走るとあとで困りますよ?」

 

「ええ、嘘だと忘れたときにボロが出るので、正直にあっちの世界の出身地の千葉、って答えたら、お隣さんの知り合いが同郷だったらしくて冷や汗が出ました。」

 

「千葉ですか。

 それ以外は何か話しましたか?」

 

「いえ、幸いそのくらいで自己紹介は終わりました。」

 

数秒だが、沈黙が続いた。

たづなさんが何か考えているのだろう。

カチッ!プシュッ!

っという聞き慣れた音がスピーカーの向こうから聞こえた気もするけれど。

 

「・・・何とかなるかもしれません。

 今手元に免許証はありますか?」

 

「はい、少々お待ちを。

 ・・・どうぞ。」

 

「免許証の裏書のウマ自の項目を読み上げてください。」

 

「ウマ自特別許可XXXXXX号、ですね。」

 

「ウマ自特別許可XXXXXX号、で間違いないですね?」

 

「はい。」

 

「時間も時間ですし、今すぐどうにかなる問題ではないので、明日、昼に理事長室に顔を出してください。

 一緒にお昼ご飯を食べましょう。

 その時までに、何とかいい経歴を考えてみます。

 

 ん~、明日のホームルームでの自己紹介には間に合いませんから・・・

 そうですね、もし、クラスメイトに何か聞かれたら、名前と出身地以外はできるだけはぐらかしてください。

 

 その免許証でオートバイに乗るなら、ウマ自にいたことは隠しきれませんから、ウマ自にいたことまでは話してもいいでしょう。

 ただ、公的に孤児扱いであること含めて、ウマ自のことは『ちょっと守秘義務があって』ですべて躱してください。

 

 今のところ、三女神像の台座の大穴に関しては、うまい具合にゴールドシップさんが隠れ蓑になってくれています。

 藪を突かなければ彼女のいつもの奇行としてほじくり返す者もいないと思います。

 

 いいですか?

 明日の午前中は、とにかく当たり障りのない自己紹介に終始して、逃げに徹してくださいね?」

 

「・・・逃げ切れるよう祈ってください・・・」

 

新しい環境、知らない学園生たちから突き刺さる視線、緊張のあまり変なことを口走らないか、自分でもちょっと不安だ。

 

とりあえず、たづなさんが俺の出自シナリオを練ってくれることになった。

ウマ自の許可番号なんかを聞き出してくるあたり、何かウマ自関連で使えそうなネタに心当たりがあるんだろう。

 

そのあとの通話では、ちょっと隣室の二人について聞かれたけれど、たづなさんは名前を伝えただけで、容姿をすぐに当ててきた。

たづなさん、もしかして学園生全員の名前と顔を覚えているんだろうか。

 

あまり長く電話してせっかくのほろ酔いタイムを邪魔してもアレなので、適当なところでよろしくお願いして通話を終了した。

ほんと、たづなさんにはお世話になりっぱなしだな。

 

最重要案件が何とかなりそうなので、明日の準備を続ける。

 

ボストンバッグの中に、体操服にジャージ、トレーニング用の蹄鉄靴、タオル。

教科書はわからないので全部。

ノートに筆記具。

アップルサンデーさんに貰った髪ゴムも、何かと必要になりそうなので入れておく。

そうそう、日焼け止めも汗で流れちゃうと大変らしいから持ち歩かないと。

あとは折り畳みの櫛くらいか。

 

そう言えば、昔あっちの世界では良家の転入生は、お近づきのしるしにと、クラス全員に粗品を配っていたこともあったけれど、俺はそこまでしなくていいだろう。

まあなにも用意していないけどね。

 

ウマホのアラームを朝の6時にセットして枕元のサイドチェストに転がしておく。

 

汗臭くなってしまった制服を朝にクリーニングに出すべく、机の引き出しにあるという依頼票を探してみるけど、見つからない。

対面の使っていない机を漁ってみたら、中に2冊入っていたので、一冊貰って、依頼票を書く。

といっても、部屋番号を書いて、制服の上下にチェックを入れるだけだ。

 

・・・トレーニング中も相当汗をかくだろうから制汗消臭剤は買っておいた方がよいのだろうか?

汗のにおいなどこの女の園のトレセン学園で誰が気にする、という話もあるけれど、男だった時も男の同僚なんかが汗臭いにおいさせてたりするとちょっと嫌だったもんな。

この類のものは、購買にあったような気がする。

 

依頼票を書き終えたあたりで、隣室のドアが開閉する音が聞こえた。

 

あ、洗濯していたタオル!

 

たづなさんとの電話ですっかり失念していたけれど、あの洗濯機は二槽式、洗濯、すすぎ、脱水全部手作業でやらなきゃいけない。

洗濯を始めてから結構時間が経ってしまっている。

全部隣人にやらせてしまったかもしれない。

 

急いで部屋を出て家事室に向かう。

 

廊下に出るとちょっと先をペタペタとスリッパの音を立てながらゲムパちゃんが歩いていた。

追いつく前に、彼女の姿が家事室に吸い込まれる。

 

家事室に入ると、ゲムパちゃんの他に二人、同じ階の寮生らしい娘がいた。

ちょうど挨拶を交わしていたらしい3人と目が合う。

俺よりも頭一つ大きいくらいの背の高いざくざくショートの鹿毛の男の子っぽい顔立ちの娘と、背丈は俺よりちょっと高いくらいのセミロングのお嬢様っぽい雰囲気の鹿毛の娘だ。

高等部の寮生だろうか、ちょっと大人びた雰囲気がする。

 

「こんばんわ。」

 

「こんばんわ、見かけない顔ね?」

 

「今日から寮に入ったベノシちゃん。

 お隣さんになったんだ。」

 

「へ~、今時期に珍しい。」

 

話しながら、3人は洗濯機の中を漁る。

 

「はい、ベノシちゃんの分。

 じゃーねー!

 おやすみー!」

 

ゲムパちゃんが洗濯機から取り出して抱えた洗濯物の中から、ぽいと俺の洗濯ネットを放られて慌てて受け取る。

自己紹介をする間もなく、ゲムパちゃんに廊下に出るよう促されたので、とってつけたようにおやすみなさいとだけ言い残して廊下に出た。

渡された洗濯ネットの中身は、完全に洗濯が済んでいるようだ。

 

「ごめんね、洗濯、全部やらせちゃったみたいで。」

 

「いいよー。

 そのうち寮生活に慣れたら、お願いすることもあるだろうし。」

 

「ところでさっきの人たち、自己紹介とかしなくてよかったのかな?」

 

「んー?あの人たち高等部だし、背の高い方は障害レースで接点も少ないし、顔合わすことが多かったらおいおい、でいいと思うよ?」

 

「そんなもんでいいの?」

 

「同じチームの先輩とかならともかく、同じ階に部屋があるってだけで、その階の寮生だけで集まって何かするわけでもないしね。

 自分の部屋のご近所さんと、居たら、クラスメイトとかチームメイトくらいかな、特に親しくするのって。

 まぁ暇なときは立ち話くらいはするけどね。

 大浴場のランドリーでも知らない娘に声かけてたでしょ?

 あれと同じだよ。

 あ、ついた。

 じゃ、おやすみー!」

 

「ありがとねー!

 おやすみー!」

 

家事室から部屋の前まではそんなに長くない。

長い会話をする間もなくすぐにお互いの部屋の前にたどり着いて、おやすみを言ってゲムパちゃんと別れた。

ドアが閉じてゲムパちゃんの姿がその奥に消える。

 

俺も部屋に入って、タオルを干すべく、タオル干しを探す。

ベッドと壁の隙間に押し込むようにして、折り畳み式のタオルハンガーが隠れていたのを見つけて、広げてみる。

ちょっと埃っぽい。

ティッシュにちょっとだけ洗剤を付けてざっくりハンガーを拭いて、きれいに洗った雑巾で洗剤を拭きとる。

まあ、これで使えるだろう、と机の上に転がしておいた洗濯ネットからタオルを取り出して、スパンスパンと皺を伸ばしてからハンガーにかける。

夜中トイレに起きた時に蹴飛ばさないように、机に寄せてハンガーを置く。

 

明日着て行く制服やニーソなんかを引っ張り出して、対面のベッドに載せておく。

クリーニングに出す制服もその隣において、依頼票を載せておく。

 

バッグの中身、ヨシ!

着ていくもの、ヨシ!

クリーニングに出す準備、ヨシ!

アラームのセット、ヨシ!

 

今日やり残したことは、もうないはずだ。

 

ベッドに寝っ転がって、ウマホでニュースを見ていたら、廊下の方から微かにオルゴールのような曲が聞こえてきた。

有名なピアノ曲、乙女の祈りの一部だ。

10秒ほどのその曲が終わるや否や、パツンと天井の照明が消えた。

時間は22時ちょっと過ぎ、消灯時間だ。

ベッドサイドランプは電源を入れれば点いたけれど、すぐに消す。

なんだか、夜更かしをする気になれない。

ウマホを手放してサイドチェストの上に転がす。

しばらくして、煌々と光を放っていたウマホの画面も消える。

 

月明かりに照らされたカーテンのわずかな光でうっすらと見える家具の輪郭を眺めながら、眠気に身を任せる。

自己紹介をどうしよう、なんていう心配は頭の中からすっかり消えていた。

もう眠りかけていたのかもしれない。

本来の人生では決してあるはずのない『学生生活のやり直し』をちょっと楽しみにしている自分に驚きながら、俺は眠りに落ちていった。



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美浦寮での朝食

さて、編入一日目が始まりますよ~

最近、大型ベーカリーブームもだいぶ下火になってきましたが、ブームが始まった時は、海外で食べたあのずっしり重いパンが日本でも気軽に買えるようになった!と小躍りしてパン屋に向かったのですが、値段がバカみたいに高くてがっくりしたのを思い出します~
日本ではあの重たいパンは嗜好品レベルの値段なんですよね~


ウマホのアラームが鳴る前に、目が覚めた。

朝陽を受けて光るカーテンが眩しい。

明るさで目が覚めてしまったようだ。

ウマホをつついて時間を見ると、まだアラームが鳴るまで30分くらいある。

でも、目が冴えてしまった。

このまま寝転がってアラームが鳴るのを待つのもいいけれど、なんとなく起きたい気分だ。

 

布団を跳ね飛ばして身体を起こし、トイレに行って顔を洗う。

・・・寝起きの身体に、素のままの便座は初夏のこの季節でも冷たすぎた。

パジャマを買いに行くときに、便座シートも絶対に買おう。

 

寝ている間に寝相に巻き込んでしまった髪の寝癖をブラシで伸ばす。

何回か梳いて伸ばしておけば、そのうち元のようにまっすぐになる。

最近気づいた便利な俺の髪の特性だ。

 

食堂が開くまでにはまだちょっと時間がある。

 

干したタオルは触ってみた感じ、生乾きでベッド下の引き出しにしまうにはまだ早そうだ。

 

時間があるなら、と、どうせ塗ることになる日焼け止めの乳液を露出している顔や手脚に塗りたくる。

むらができて白く残らないように鏡を見ながらよ~く伸ばさないといけないので結構面倒臭い。

日焼け止めの乳液を一塗りしただけで、独特の甘い香りが身体から漂って、やっぱりこの身体、ウマ娘、女の子なんだよなあ、って実感する。

 

ひくしゅっ!

 

くしゃみが出る。

パジャマがなかったとはいえ、朝冷えする時間帯に半袖短パンはちょっと肌寒かった。

ベッド下の引き出しを漁って、ちょっと袖のあるシャツをひっかける。

 

そうこうしているうちに、食堂が開く時間になったので、部屋を出た。

 

食堂が開いた直後なら、朝早いからそんなに人はいないだろう、と思っていたのだけれど、そんなことはなかった。

すでにジャージ姿になって玄関に向かう寮生やら、パジャマのままで食堂に向かう寮生やら。

廊下はバラバラな服装で行きかう早起きの寮生が結構うろうろしていた。

 

食堂に向かう寮生の流れに乗って廊下を進み、食堂に入る。

食堂内は、席こそ埋まってはいないものの、食事を受け取るための長い列ができていた。

 

しまった、と思ったのは、その行列に並んでいる寮生の服装だ。

 

ジャージやパジャマの寮生はそこかしこにいる。

 

でも、半そで短パンにシャツを突っかけた、なんていうラフな部屋着姿の寮生は一人もいなかった。

声こそかけられないがけれど、ちらっと一瞥される視線がちょくちょく突き刺さる。

 

なかなか、目立たないようにするというのは難しい。

もう十分目立ってしまっていたので、素知らぬ顔で列に並ぶことにした。

 

朝食は、調理の職員が少ないのか、半バイキング形式だ。

トレイに皿を載せたら、おかずだけ盛ってもらい、その先に並んだ業務用の炊飯窯と、バスケットに積まれたパンの山から、食べたいものを食べたいだけ取っていく。

スープの類も、豆腐とわかめ味噌汁と、トマトと玉ねぎのスープから自由に選べる。

 

今日のおかずはスクランブルエッグとほうれん草のバターソテー、焼きウィンナーに数枚のハムとチーズ、パスタと春雨のサラダ。

よくあるビジネスホテルなんかの朝食メニューとあまり変わらない気がするな。

量が半端じゃないけれど。

 

お好みで、ということなのか、すでに刻みネギが混ぜ込んである納豆がでかいボールにおたまと一緒に鎮座していて、ご飯派の寮生がどんぶりの上のご飯に掬ってはかけていた。

パンの方は、キログラム級のでかい瓶入りのイチゴとオレンジのジャムにスプーンが差してあり、マーガリンも業務用パックと思われるものがそのまま転がっている。

小皿にとって、つけて食べろ、ということらしい。

 

今日はなんとなく、パンな気分だったので、パンを取りに行ったんだけど、このパン、俺が知ってるふわふわの日本のパンじゃなかった。

見た目はちょっと焦げ色の強いシンプルな丸パンで、大きさは普通のハンバーガーより二回りくらい大きい。

ただ、表面はカリカリで硬くて、手に持つとずっしり重い。

街のベーカリーなんかで売っている石窯パンなんかが軽く思えるほど、密度が高い、欧米人が『主食』として食べる類のパンだ。

さすがに焼き立て、というわけじゃないみたいだけれど、香ばしい小麦の焼けた匂いがする。

これはちょっと期待できそうだ。

 

それを6個ばかりと、スープ、オレンジマーマレードとマーガリンを小皿に盛って、席を探す。

 

両隣が開いているところか柱が隣にあるところで周りを気にせず食べたいな、と思ったのだけれど、思うことは皆同じなのかそういう場所はみんな埋まっていた。

トレイを持って席探しでうろうろしていたら、食堂の一番隅っこの席に、何か見覚えのあるウマ娘が目に付いた。

トレードマークともいえる藍色のハットこそ被っていなかったけれど、髪留めに青いバラのコサージュを付けたジャージ姿のウマ娘が、はくっ、はくっと一心不乱にパンを口に詰め込んでいる。

ライスシャワーだ。

彼女も美浦寮の住人だったのか。

 

彼女が朝食を食べている席の周りは、誰もいない。

彼女の隣にも対面にも誰も座らず、ぽっかりと空間が開いていた。

 

見渡すと、ライスと同じように周りに誰も座らない寮生が、ぽつぽつといるようだった。

その中には、ゲームで見憶えはあるけれど運悪くガチャで出会えなかった顔があった。

あれは重賞勝利を何度も重ねた実力者の類で、周りの人間が気後れして誰も近寄らない、という類だろうか。

確かゲームでは、そういった実力者は結構な割合で栗東寮に集中していたはずだ。

対等な仲のいい寮生やクラスメイトなんかと時間が合わないと、美浦寮の実力者はちょっとボッチ気味になってしまうのかもしれない。

 

そうやって見ると、この広い食堂で、せめて両隣を空けて落ち着いて食べられる席は意外と少ないようだった。

 

散々うろうろした挙句、目の前の席で食べ終わってトレイを手に立ち上がった寮生の席をさっと奪う。

ようやく食べられる。

パンにオレンジマーマレードをつけて、口に頬張る。

身の詰まったずっしりもちもちとしたパンを、歯で噛み千切って咀嚼する。

噛み締めるごとに口の中に広がる濃厚な小麦の風味。

これ、完全に日本のパンじゃないや。

欧米人がちゃんと腹を持たせるために食う、主食のパンだ。

安物のマーマレードの味が完全に負けてちょっともったいないくらい。

 

ものすごく、コーヒーが欲しい。

この本場顔負けのパンを、少し砂糖を多めに入れたコーヒーで流し込んだら最高にうまいだろうに。

でも残念ながらこの食堂にコーヒーの用意はなかった。

 

次にマーガリンを付けて齧ってみる。

・・・同じ安物でも、マーガリンの方が合う。

塩気と脂肪分が濃い小麦の風味とマッチして実にうまい。

 

おかずのスクランブルエッグなんかを後追いで口に入れるとこれまたうまい。

 

ふと思いついて、この身の詰まったパンを手でミリミリと割り開いて、スクランブルエッグとほうれん草のバターソテーを挟んでかぶりついてみる。

う~ん、至福。

今朝のおかずは、どれもパンに挟むのにちょうどいいものばかりだ。

 

パンを割ってはスプーンでおかずを掬ってパンにはさみ口に運ぶ。

さすがにサラダはちょっと塩気が足りなかったけれど、どれもいい感じに惣菜パンになってくれた。

パンを選んで大正解だ。

 

大方食べ終わってみると、パンにつけるはずだったマーマレードとマーガリンがお残しにしてはちょっと多いかな、ってくらい残っている。

見れば、他の寮生は食器に何も残すことなく、ジャムやマーガリンはパンで皿を拭きとるようにしてきれいに片づけていた。

腹具合は、まだ入る。

とりあえず、あとパン2個くらいあれば、小皿のマーマレードとマーガリンはやっつけられるだろう。

パンを載せる皿だけをもって、お替りを貰いに行く。

 

マーマレードとマーガリンをきれいに拭き取って食べ、スープを飲み干してお茶を頂く。

朝からこんないいパンが食べられるとは思わなかった。

 

だからこそ、コーヒーが切に欲しい。

 

でも、この食堂のラインナップを見る限り、主食には必要十分なコストをかけるけれど、ジャムとかふりかけとかそういった副副菜的なものは徹底的におざなりな感じがするので、コーヒーが飲み物に加わることはなさそうだ。

お茶もたぶんこれ、インスタント粉茶を機械でお湯に溶いているだけだろうし。

 

自前でコーヒーを用意することを考えるか。

食器を返しながら、調理場にいる料理人にお湯は貰えるのか聞いたところ、給湯器から出てくるお湯なら、ということなので、インスタントコーヒーくらいなら淹れられそうだ。

 

しかし、パンがこのレベルだ、ご飯も実はいいお米を使っているのではないだろうか?

毎朝の朝食が楽しみになってきた。

 

 




相変わらずネームドは出てきても空気です~
ライスの同室、ゼンノロブロイはまだ夢の中ですよ~


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クラスメイトと顔合わせ

書いてて思ったんですが、ちょっと不良入ったようなウマ娘にヒト教諭だと、なかなかに教諭も度胸座ってないとやってられませんね~
合気道の達人だったりするのでしょうか~


寮から学園への道を、ボストンバッグを抱えててくてくと歩く。

 

カラカラと、寮と学園を隔てる門を閉める音が聞こえる。

門を押すたづなさんが、かろうじて一人通れる隙間を残してそこで止まる。

ダッシュで門に駆け込む遅刻寸前の学園生たちが俺を追い抜いていく。

 

「おはようございます。」

「オハヨウゴザイマスッ!」

 

遅刻寸前の学園生がダッシュしながらも、門を閉めかけているたづなさんに挨拶を返して、門を駆け抜けていく。

律義なことだ。

 

「おはようございます、初登校ですね。」

「おはようございます、たづなさん。」

 

俺に気付いたたづなさんから声をかけられた。

ここで、たづなさんと挨拶を交わすのは初めてだ。

 

たづなさんはいつも通りの全身緑の秘書衣装。

俺はまごうことなきトレセン中央の制服姿。

トレセンの一学園生として、今日から毎日この門をくぐる。

 

「お昼になったら、理事長室までお願いしますね?」

「はい。

 毎度毎度お手数かけます。」

 

俺のかしこまった物言いに、たづなさんはくすりと笑うと、俺を門の中に促した。

ちょうど、チャイムが鳴る。

 

明日からはこのチャイムが鳴った時点で教室にいないと遅刻だ。

 

今日はこれから、学園の事務所に顔を出して、編入するクラスに案内して貰うことになっている。

 

振り返って門を閉めるたづなさんに会釈すると、俺は学園の事務所へ向かった。

 

 

 

 

事務所で名を告げて、案内に現れたヒトの事務員さんは、なんというか・・・朝っぱらから疲れ切っていて生気がなかった。

 

「ラベノシルフィーさんですね・・・今から編入するクラスにご案内します。

 あなたの所属は、中等部2年のM組になります。」

 

ついてきてください、と促されて、フラフラと歩く彼女の後を追って事務棟から中央の本棟に渡り、2Fへと上がる。

中央のロビーからA、B、Cと教室が並ぶから、M組はかなり奥だ。

教室の前を過ぎるたびに、その教室の担当教諭の声が聞こえる。

どの教室でも、朝のホームルームを行っているらしい。

 

ややあって、M組のルームプレートのある扉の前にやってきた。

 

「呼んだら、入ってきてください。」

 

そう言い残して、事務員さんがノックしてから教室の中に消えていった。

 

一瞬、教室の中の学園生がざわめいたのがわかる。

うへえ~緊張する。

 

カラカラと、扉が開いた。

事務員さんが、廊下に出ると同時に中へどうぞ、と促される。

 

教卓に、一段高くなった教壇。

懐かしの黒板。

ずらりと並んだスチール製の学習机と、俺と同世代のウマ娘たち。

 

教卓の横で、スラックスとチョッキ姿を着た柔和な感じのおじさん教諭が片手を差し出して入室を促していた。

知らない顔の同年代のウマ娘たちの視線を一身に浴びながら、ぺこりと頭を下げて教諭の元へと教壇に上がる。

 

「あ~、この時期に編入、というのはちょっと珍しいかもしれないが、特別研修生のラベノシルフィー君だ。

 彼女は今まで、ちょっと特殊な環境にいたと聞いている。

 彼女はいつか、ウィニングライブの舞台に立ちたいそうだ。

 仲良くしてやって欲しい。」

 

・・・ちょっ!

いったいこの教諭は俺のことどういう風に聞いたんだ?!

特別とか特殊とか、この場で言ってほしくなかった!

 

緊張でぼんやりとした視界の中で、何人かうんうんと頷いたり、やっほーとばかりにちらちら手を振ってくるウマ娘がいる。

 

教諭が、教壇の中央から一歩退いた。

自己紹介しろ、ということらしい。

 

荷物を床に下ろし、俺を見つめるクラスメイトに正対する。

 

「今ご紹介いただきましたラベノシルフィーです。

 いろいろとわからないことだらけで、皆さんにご迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします。」

 

頭を下げると、ぱちぱちと拍手が起こった。

申し訳程度のやる気なさそうな拍手やら、やけっぱちのように連打する拍手やら、まあ知りもしない相手だ、こんなもんだろう。

 

「センセー!特別研修生ってなんすかー?また地方トレセンからの挑戦者すかー?」

 

やる気のなさそうな投げやりな声が飛んでくる。

教室の後ろの方で椅子ごとそっくり返ってゆらゆら揺れている黒いのが、声の主だろう。

教諭は答えない。

問題児なのだろうか、ガン無視だ。

チッ!という舌打ちをした後、彼女は黙った。

 

「はいはーい!しつもーん!シルちゃんの得意種目は何ですか!」

 

頭に二つ結った髪をお団子にしている活発そうな娘が手を上げて立ち上がり、質問を飛ばしてきた。

 

教諭に目をやると、答えてやりなさい、とばかりに頷いている。

 

「・・・得意かどうかはわかりませんが、中長距離向きじゃないか?と言われたことはあります。」

 

正直、まだまともに走れもしないから、沖野トレーナーのトモ判断くらいしか頼れるデータがない。

 

一部のクラスメートがざわめく。

ほっと安堵しているような娘もいる。

 

こういう時、ウマ娘の鋭敏な耳は、その耳の向いた方向の会話をすぐに拾ってしまう。

 

『聞いてないよ?!また化け物みたいなのだったらどうしよう・・・』

『このクラスに編入するような娘だもん、心配ないって』

『あんたはいいよ、距離被ってないから。私なんてもろ被りじゃん!』

『あの娘、ちょっと前から校内うろうろしてたよね?』

『うん、なんか怪我してた。もう治ったのかな?』

『編入してくる前に噂も聞かなかったって、どこから来たんだろうね?』

 

・・・とりあえず、拾った会話の中からはあの三女神像の台座の話なんかは聞こえてこなかったのでちょっと安心した。

数分ほど、ざわめいたままだっただろうか。

特に続いて質問はなさそうだと踏んだ教諭が、パンパン、と軽く手を叩くと、教室は徐々に静まった。

 

「じゃ、ラベノシルフィー君は、そこに座って。

 大きな荷物はあとで後ろの空いているロッカーに。

 わからないことは隣のグランマーチャンに聞きなさい。」

 

指定された席は、窓際の一番前、教諭席の正面だ。

サボりたい学生に一番人気のない余計なことの一切できない特等席。

 

隣には、グランマーチャンと呼ばれた腰まである灰色の癖っ毛を揺らした、おっとり顔のウマ娘が柔らかい笑顔を向けて微笑んでいた。

 

「よろしくね。」

「よろしく。」

 

優しそうな隣人でよかった。

 

とりあえず席に着く。

 

席について思ったのだけれど、この机と椅子、重い。

 

あっちの世界では、小中学校と公立に通ったけれど、そこで使っていたものと雰囲気は似ているんだけど、違う。

ウマ娘用だからなのか、鉄のフレームがやたら太くて頑丈そうだ。

教科書なんかを入れる物入れも、厚めの鉄板にハニカムの裏打ちがされている。

それでもあちこち細かく凹んでいるあたり、やんちゃな年頃のウマ娘のやらかしっぷりは半端じゃないことがうかがえた。

おまけに、木製の天板には鉛筆の芯で開けたらしい真っ黒な穴が開いていたり、犬だか猫だかわからない妙な動物らしきものが彫り込んであったりと、なかなかに子供らしい悪戯の跡も見える。

 

教諭が再び教壇に立ち、今日の連絡事項と、午後のトレーニングの臨時休講項目を伝えて、ホームルームは終わった。

教諭が教室から出ると、数人のクラスメイトが俺の方までやってきて席を取り囲む。

と言っても、遠巻きにして耳を傾けるだけで聞き専が多く、もっぱら食い気味に話しかけてきたのは二人だけだ。

 

「やっぱり編入生だったんだね!私、ヤマネアラジン!ちょっと前にダンススタジオで一緒に練習したよ!キミ声きれいだよねー!」

「なぁ、アンタ、特殊な環境って帰国子女か?海外のトレセンか?中距離長距離って言ってたけど、速いのか?」

 

矢継ぎ早に話しかけられても答えに困る。

助けに入ってくれたのは隣のグランマーチャンさんだった。

 

「そんなに同時に話しかけても答えられないわよ?

 彼女困ってるじゃない。」

 

「でもよォ、やっぱライバルになるかどうかは聞いておきたいじゃねぇか。」

 

黒いザンバラ髪を鳥の尻尾みたいに後ろで結んだ痩せぎすのクラスメイトが食い下がる。

さっき、教諭に失礼な態度で話しかけていたのはこいつか?

 

「で、どうなんだ?速いのか?」

「きゃっ!」

 

彼女は、俺の正面を他の娘をどけてまで奪って、迫ってきた。

男だったら胸ぐらをつかまれる勢いだ。

 

「・・・きっと誰よりも遅いよ。」

 

「謙遜ならやめろ。

 編入してきて何もできずにいなくなる奴もいるが、どこに隠れていやがった!っていうくらいバカみたいに速いのもいる。

 そんな奴が相手になるなら、俺らギリギリのラインにとどまっているトレセン生は出るレースから見直さなきゃならねぇ。

 どこで、どれだけ速かった?答えろ!」

 

「謙遜抜きで、私は君たちの誰よりも遅いよ。

 本格化とかも来ていないし、デビューもまだだよ。」

 

「なんだよ、行き遅れ組かよ。

 脅かすなバカ。」

 

周りのクラスメイトが眉をしかめる中、捨て台詞のようなものを残して、彼女は離れていった。

窓際の自分の席で、椅子を傾けてふんぞり返る。

 

「・・・ごめんなさいね、彼女、ここのところ伸び悩んでてイラついてるの。」

 

「彼女、早熟だったから、1年の時は目立ってたんだけどね。

 今は本格化始まった子たちに埋もれちゃってて。」

 

グランマーチャンさんとヤマネアラジンさんが、口の悪い彼女について教えてくれたのだけれど・・・

 

「余計なこと言うんじゃねぇ!」

 

それを聞きつけた当人から怒声が飛んできた。

 

「・・・行き遅れって何?」

 

「本格化が遅くてまだデビュー決まってない娘を揶揄して言う言葉、かな。」

 

ヤマネアラジンさんが、グランマーチャンさんに申し訳なさそうな視線を向けながら教えてくれる。

 

「私もね、身体は大きくなってきたのに、肝心の本格化が来なくてまだデビューの目途も立たないの。」

 

そう言うグランマーチャンさんは、一言で言えば豊満な体つきだ。

全身ふくよかな感じに見えるけれど、そこはウマ娘、どんな筋肉を隠し持っているか知れたものじゃない。

背も俺より一回りくらい高そうに見える。

 

「本格化って、そんなに人によって来る時期が違うものなの?」

 

なんか、知っていて当然な話を聞いてしまったらしい。

ちょっと驚きながらも律義に彼女らは教えてくれた。

 

「えっ?あ、うん、だいたい中等部1年には始まる娘が多いけど、ものすごく遅い娘もいるよ。」

「高等部2年までに本格化が始まらないと、転科するか退学しちゃう娘が多いかな。」

 

「転科?」

 

「夜間学科になるんだけどね、レース場の整備とか裏方の仕事を教える学科があるのよ。」

「保全整備科って言ってね、私たちの練習トラックを整備してくれてるのも、その学科の生徒だよ。」

 

夜間に学園の敷地内の練習コースで様々な設備の保全や整備を学び、資格を取っていずれはURA職員として現場に出ていくそうだ。

実際に走ってみて不備がないか確認できるのは、ウマ娘の整備員だけ、ということもあって、レースに関わるウマ娘の職としては結構手堅い部類でそこそこ人気があるとか。

 

「ただ、ウマ娘に生まれてレースで走れる脚を持っているのに保全整備科に入るなんて、って、よくない目で見るウマ娘もいるのよね。」

「自分たちが走るコースの整備でお世話になっているのに、なんでバカにするのか意味がわからないよ!」

 

無条件でその職種は下の下、って見下してくる奴は、ウマ娘世界にもいるらしい。

自分たちの生活や仕事がどれだけ彼らによって支えられているのかわかっていない大バカどもだ。

 

「・・・どこにも、そういう変なのはいるんだねえ。」

 

「「ね~。」」

 

この二人とは、うまくやっていけそうだな、と思ったところで、チャイムが鳴った。

俺の周りを取り囲んで話を聞いていたクラスメイトも、ガタガタと慌ただしく自分の席に戻って授業の準備を始める。

 

「一限目は国語だよ。」

 

隣のマーチャンがそっと教えてくれた。

バッグの中の教科書やらノートやらを机の中に丸ごと放り込んだところで、国語教師が来てしまった。

背の低いおじいちゃん先生だ。

人生二度目の、中等部の授業が始まった。



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理事長室で作られるナニカ

学校の先生の当たり外れってひどいですよね~
私は高校の時ひどい先生に当たって数学めちゃくちゃ嫌いになりました~

さて、いろいろ仕込んできた主人公の公的な経歴の伏線回収を始めますが読者さんたちを納得させられるかどうか~


・・・国語教師は魔法使いか何かなのかだろうか。

 

寒くもなく暑くもないポカポカ陽気に、淡々と教科書を読み上げる抑揚の少ないぼそぼそと喋る声はあっという間に俺の瞼を重くし、時折チョークでカツカツと黒板を叩く音が更に俺の思考力を奪っていく。

ノートは、板書を写そうとして途中からミミズがのたくったように読めない何かになり、気が付くと写していた文章が消されていた時点で、写すこと自体を諦めた。

目の焦点はすでに合わず、寝ていると思われないように目を見開いて、眠気に負けて頭が落ちないよう支えているのだけで精いっぱいだ。

 

そこに、このウマ娘世界特有の似ているが意味の違う熟語やことわざが眠りかけた俺の脳を違和感で叩き起こし、また国語教師の眠りの呪文が延々と続くという、拷問のような時間が1時間以上も続いた。

 

授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、気が抜けた途端、ふっと意識を失った。

僅か10分の休み時間、俺は席に座ったまま突っ伏してずっと寝ていたらしい。

休み時間の間誰も起こしてくれず、次の英語の授業でやって来た英語教師に揺さぶって起こされるという失態を演じてしまった。

 

目を覚ました俺の前にいた英語教師は、まだ20代だろうと思われるちょっと長めのボブカットのヒトの女性だ。

怒っているわけではなさそうだったけれど、編入生で初っ端から寝ているふてぶてしい奴、と目を付けられたのか、授業開始早々小手調べとばかりに口語での問答に付き合わされた。

 

道端に爺さんが苦しそうにうずくまっている、という設定で、俺が爺さんに話しかける体で会話をしなさい、ということなので、あっちの世界のネトゲでネイティブから教えて貰った単語を駆使して、腹が痛いという老人に、大丈夫だ、気のせいだ、達者でな、と立ち去るまでを演じたら、そんな小汚い英語をどこで習ったのか、と呆れられた。

いや、腹の痛い老人を世話できそうな単語なんて知らないし。

映画バリに、衛生兵!とでも叫べばよかったのだろうか?

 

この一連の問答は、俺に食って掛かって来たあの黒いクラスメイトに刺さったらしい。

ひっくり返りそうになって派手にガタンと音を立てたと思ったら、しばらく席の後ろの方から、グフッとか思い出し笑いをする声がしていた。

 

トレセン学園の英語の授業は、会話重視らしく、文法をしつこく指導しない。

俺のさっきの会話も、ぶっきらぼうで小汚いがアリです、と言われた。

ただ、使ってはいけない単語などには気を付けるように、と釘は刺されたけれど。

とにかく、下手糞でもいいから相手に意思を伝える努力をしなさい、という会話重視、実践重視の授業だ。

そして、何か間違えても、頭から否定せずに、褒めてから、こっちの表現の方がいいですよ、とやんわり誘導してくれる。

教え方のうまい英語教師だ。

 

国語の時と違って、英語は頻繁に指されて答えさせられるので、緊張感があっていい。

他のクラスメイトも、ちょっとした間違いから結構面白い小話に発展したりしていたので英語の授業は飽きなかった。

国語と比べれば、変にあっちの世界と意味の異なる熟語やことわざがほとんど出てこないのでその辺も楽と言えば楽だ。

 

あっという間に授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。

午前中の座学の授業はこれで終わりだ。

 

マーチャンに一緒にお昼ご飯を、と誘われたけれど、呼び出されているのでまた明日、とごめんねして理事長室に向かう。

 

学園生のいる中央棟とは打って変わって静かな事務棟の廊下を通り抜けて、理事長室をノックする。

たづなさんが、どうぞ、と扉を開けてくれたので中に入ると、中央のソファーに彼がいた。

 

「よう!

 来たな、まあ座れ。」

 

ポンポン、と自分の隣を叩いてみせたのは、俺のトレーナーを引き受けてくれたムッター氏だ。

今日は背広姿じゃない。

ニズモのロゴの入った青いジャージを着こんで、いかにもトレーナーです、って雰囲気を漂わせている。

 

「・・モゴモゴ・・・祝賀ッ!ラベノシルフィー、学園への入学を歓迎するッ!」

 

先にお弁当を広げていたのか、扇子で口元を隠しながら理事長からお祝いの言葉を頂いた。

 

「ありがとうございます。」

 

答えながら、ムッタートレーナーの隣の、俺のものらしい弁当が用意された席に座る。

 

「どうぞ。」

 

たづなさんが、熱いお茶を淹れて俺の前に置いてくれた。

促されるままにお弁当の蓋を開けて、箸で料理をつまむ。

もう箸を簡単に折ったりはしない。

 

「食べながら聞いてください。

 あなたのウマ自での経歴を問い合わせて送って貰いました。」

 

スッと、かなり荒い印刷のなされた数枚の紙がテーブルの上に差し出される。

FAXかな?

 

経歴欄、と言っても、読める場所は最後の数行しかない。

上の方の経歴は、マジックで黒く塗りつぶされまくりで、何もわからない。

 

『20XX.4 〇特任務99号甲完遂

 同月 除隊』

 

ラベノシルフィーのウマ自での経歴で、わかるのはたったこれだけだ。

 

「難事ッ!これだけのものを送らせるのにウマ自め、散々ごねられたッ!」

 

「三女神様がどこまで考えてあなたの経歴を作ったのか計りかねますけど・・・

 あなた、ウマ自だとちょっとした英雄って扱いみたいですよ?」

 

「はい?」

 

なにかまたとんでもないキーワードが出てきた気がする。

英雄って何ですか?!

 

「この『〇特任務99号甲』ってものなんですけど、これ、実際に存在する任務じゃなくて、未成年のウマ自隊員が、世間に知られたらウマ自が叩かれかねないような危険な任務を達成した時に記録される符丁みたいなものだそうです。

 過去の例だと、まだ10歳にも満たないウマ自隊員が、鉱山の崩落事故でわずかな隙間に潜り込んで閉じ込められた鉱夫の生存確認と支援を行った際に公式にはこの『〇特任務99号甲完遂』と記載されたそうですよ。」

 

「・・・俺、そんな大それたことやってないんだけど・・・」

 

あの自称女神、いったい何してくれてんの?!

 

「渋々、でしたけど、何をなしたかは、一人のウマ娘を身を挺して助けた人命救助だ、とだけ教えて貰いました。」

 

「・・・・・」

 

なんか、ピンときた。

これ、あのクソ女神の皮肉だ。

俺は、身体ごとこの世界に叩き落されて、無駄になるはずだったこのラベノシルフィーの身体に作り替えられた。

確かに、一人のウマ娘が救われてるわ。

それが人命救助ときたか。

ただのマッチポンプじゃねぇか!

イラっと来て、危うくまた箸をへし折るところだった。

 

 

「おいおい、何耳伏せて怒ってんだよ、おっかねぇな。」

 

「あ、ごめん。」

 

未だにうまく制御しきれないウマ耳が勝手に伏せて怒りを表していたらしい。

心を静めると、突っ張って伏せていたウマ耳の筋肉がほぐれてにょ~んと立ち上がるのがわかる。

 

「まぁ、一般の人には、『〇特任務99号甲完遂』と言われても、何か仕事をやり遂げたんだ、くらいですが、ウマ自の方たちの間では、一目置かれるに値するものらしいです。

 

 で、学園側からあなたにお願いがあるんですが・・・

 ムッターさんともお話ししまして、ウマ自で何か大きな成果を上げたらしい、ってことは公表させていただけませんか?」

 

「変なことにならないならそれは構いませんけど・・・またなんで?」

 

「『〇特任務99号甲』に限ったことじゃないんですけれど、大きな成果を残して卒業するウマ自のウマ娘は、卒業時にウマ自や自警隊のコネを使って、できる限りの便宜を図って貰えるんですよ。

 ウマ自側とのすり合わせはこちらでやりますので。」

 

「言明ッ!未だウマ娘未満の能力しか持たぬ貴女が、このトレセン学園に『捻じ込まれた』理由があれば、わたしもいろいろ楽なのだッ!」

 

ああ、それはなんとなくわかる。

いくら無条件入学が可能な推薦状があっても、明らかに戦力外な俺を一流アスリート専門のトレセン中央に入学させたとなれば、いろいろ突っ込まれることも多いだろう。

けれど、断るに断れない相手からのコネを使われた、と弁明ができると、相手も結構素直に退いてくれる。

その言い訳ができるかできないかで、理事長の負担は大きく変わるはずだ。

 

「わかりました、その辺の匙加減はお任せします。

 理事長にも迷惑おかけしてますね・・・」

 

「無用ッ!これで先の懸案は無くなったッ!」

 

理事長は俄然元気になってパクパクと昼食を口にし始めた。

 

「で、午後は俺のトレーナーとしての初仕事なわけだが、飯食ったら秘書さん、コイツの授業担当になる指導教官とやらに顔合わせさして貰えるかい?」

 

「ええ、職員室に詰めていると思いますので、一緒に参りましょう。

 ラベノシルフィーさんは午後、体操服に着替えたらクラスメイトと一緒に合同教練を受けに向かってください。」

 

ん~、合同教練の指導教官にムッタートレーナーが顔合わせ?

そう言えば、今時期って新入生として入学した学園生のトレーナー探し真っただ中だから、これからトレーナー探しって難しいって言われてた気がするけど、ポッと入って来たへっぽこ編入生に専属トレーナー最初からついてるってちょっとまずくないか?

 

「なぁ、ろくに走れもしない俺に、あんたみたいな名の知れた芸能人が専属トレーナーとして編入直後から付くって、俺妬まれたりしないか?」

 

「心配すんな。

 そういうの全部まとめてぶっ飛ばすシナリオ作ってあるからよ。

 今日のところは俺に任せておけ。」

 

ムッタートレーナーに、首がもげる勢いで髪をわしゃわしゃ引っ掻き回される。

・・・ものすごい悪い大人の顔してやがる。

とてつもなく不安だ。

 

ムッタートレーナーが体育館やらプールやらの利用の仕方をたづなさんに訊いているのもちょっと気になる。

ちょっと待って、プールじゃなくて狭くて深い風呂みたいなのはないかって何訊いてるの?!

ムッタートレーナーの会話を聞いていると、いったい何をやらかそうとしているのか不安しか湧いてこない。

その後一人遅れて食べた結構お高いはずの弁当は、味も献立も記憶に残らなかった・・・



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入学理由は恋する乙女か雛鳥か

さて、ご都合主義全開でいきますよ~


午後の授業開始まであと15分。

たづなさんとムッタートレーナーはすでに理事長室にいない。

合同教練の担当教官に顔通しに行ってしまった。

 

理事長に礼を述べてから、急いで教室に戻る。

教室にはもうほとんど人が残っていない。

体操着の入ったボストンバッグをひっつかんで、1Fの更衣室に向かう。

 

更衣室は廊下から直接更衣室が覗けないように入り口に衝立が立っているのでわかりやすい。

隣にあるシャワー室も同じように衝立が立って廊下から簡単に中が覗けないようになっている。

衝立の中のドアを開けると、体温の高いウマ娘によって温められた部屋の空気がむわっと押し寄せてきた。

様々な甘い香料の匂いと、すえた建材の匂いが一緒くたになって鼻を襲う。

駅ビルなんかに入っている近くを通っただけで鼻を直撃するフレグランスショップよりはだいぶましだけれど、濃厚な甘い香りはいささか鼻にきつい。

 

更衣室に入って空いているロッカーを探すも、出遅れたせいか、なかなか空いているロッカーが見つからない。

ようやく見つかったロッカーは、扉が殴られたようにひしゃげていた。

歪んで建付けの悪いロッカーを開けて、急いで体操着に着替える。

たづなさんは着替えの時に下着なんかは見られますよ、と言っていたけれど、全然そんな暇はない。

隣で着替えている学園生に手脚が当たらないように、小さくなって着替えるだけで精いっぱいだ。

みんな上にジャージを着こんでいるので、俺もそれに倣ってジャージを上に着こむ。

 

さて、問題は蹄鉄シューズだ。

履こうとしたら、ロッカー前の長椅子が、同じようにシューズのひもを締めこむ学園生で埋まっている。

そして、なかなか空きそうにない。

時間はどんどん過ぎていく。

仕方がないのでロッカーからボストンバッグを取り出して床に敷き、そこに座って無理やりシューズのひもを締める。

カツカツと床を叩く蹄鉄を踏み締めて、足首から前後左右に体重をかけてひもの締まりを確認する。

ボストンバッグをロッカーにしまい、髪についた埃を振り払って俺はグラウンドへ出た。

 

 

合同教練と言っても、全学年が一斉に集まってというわけじゃない。

1年2年は2クラスずつ合同で、ウォームアップしてその後トレーナーがついている娘はトレーナーの元へ、ついていない娘はそのまま合同教練で身体づくりにいそしむことになる。

いくつかある合同教練の集団の中で、ひときわ目立つムッタートレーナーのいる方へ向かう。

 

「おう、来たか。

 今ならいいって言うからよ、お前の『慣れた』走りで、あのカメラの前でできる限りの全速になるようちょっと一周走ってきてくれ。

 ほれ、いけ!」

 

見れば、トラックの直線の終わりくらいに、コースを向いた少し大きめのビデオカメラが設置されている。

 

「ええ?!いきなりかよ!」

 

「いいから行け。」

 

いきなりの単独走行をよりにもよって結構見てる学園生がいる前で?

ムッタートレーナー何考えてるんだ・・・

しかし、慣れた走りってことは、ヒトの走り方で全速ってことか?

蹄鉄シューズ、ヒトの走り方でいきなり加速すると滑りまくるんだよなあ・・・

かといってつま先立てて走ると速いけど不安定で妙な走り方になるし。

 

まあ考えても仕方ない、と、靴底を滑らさないよう、ゆっくり、ゆっくり加速していく。

コーナーではもう無理にインにつかない。

遠心力に負けて足を滑らせて転ぶのがオチだ。

大きく膨らんで、外周も外周から直線に向かって進路を変えていく。

前方に、カメラが見えた。

脚の回転は、そろそろヤバい領域に入りかけている。

時々、前に出したはずの脚が出きっていない。

ここいら辺りが脚を回せる限界だ。

そのままのスピードを維持して、カメラの前を通り過ぎ、また靴底を滑らさないようにゆっくり、ゆっくり減速していく。

 

ふと見ると、整列したいくつものウマ娘の集団が俺の方を見つめていた。

 

止まった俺に向かってムッタートレーナーが歩いてきて、ヘッドロックをかましてくる。

俺の頭を抱え込みながら、俺にだけ聞こえるような声でひそひそと話し始めた。

 

「(よし、いいか、これから俺が一芝居打つから、お前は嫌そうな顔して黙って聞いてろ、いいな?)」

 

「(嫌そうな顔って、いったい何やらかすつもりだよ!)」

 

「(お前の居場所を作るんだよ!いいから任せとけ。)」

 

そのままムッタートレーナーは、俺のクラスを含む合同教練の集団の前に俺を連れて立った。

 

「ムッター!」

 

1年の娘だろうか、黄色い声が飛ぶ。

ムッタートレーナーがそっちにサムズアップをかますとキャー!という嬉しそうな悲鳴が聞こえた。

彼のウマ娘との対戦バラエティは、俺の思った以上に人気が高いようだ。

 

『なんでお笑いのムッターがここにいるの?』

『胸につけてるの、トレーナバッヂだよね?』

『え?マジ?ここのトレーナーやるってこと?』

『それなら私にもワンチャンあるかな?』

『ムッターとやたらと親し気なあの娘誰?』

『さぁ?でもさっき流して走ってたの、走り方変だったよね?』

 

・・・言わんこっちゃない。

俺のウマ耳に入ってくる目の前のウマ娘たちの会話は、おおよそ俺にとってあまりよくない予想の方向に傾いていた。

 

「静粛に!」

 

指導教官が叫ぶと、徐々にざわめきが収まっていく。

 

「では、午後の教練を始めるが、その前に臨時のトレーナーを紹介する。

 皆も知っているだろう、ウマ男で有名なムッター氏だ。

 彼は、理事長直々のお声がけで、とあるウマ娘の専属トレーナーに就く。」

 

途端に、え~、と残念そうな声が響き、その半分くらいの視線が俺を射抜く。

 

「それについて、ムッター氏から挨拶がてら皆にお話ししたいそうだ。

 ・・・どうぞ。」

 

ムッタートレーナーが、皆の前中央に出て、急にスターティングポーズをとったかと思うと身体を斜めに傾けてビタッと止めてみせた。

 

歓声と拍手が上がる。

あとで聞いたけれど、番組でよくやるパフォーマンスらしい。

 

「こんにちは!俺を知っている娘は手を挙げて!」

 

ばっと集団の8割くらいが手を上げて、おずおずと手を挙げるウマ娘が増え、最終的にほぼ全員が手を挙げた。

 

「ありがとう!みんな知っていてくれてうれしいよ。

 今教官から紹介があった通り、俺は臨時だが、今日からコイツの専属トレーナーをやる。」

 

いきなり、腕をもって隣まで引っ張り出された。

 

「で、さっき、コイツを全力で走らせてみたわけだが、そこの君、コイツの走りをどう思った?」

 

彼は、話の流れから最前列の活発そうな娘をいきなり指名した。

 

「えっ、あっ、いや・・・」

 

しどろもどろになる彼女に代わって彼が代弁する。

 

「遅かったろう?そして走り方も変だった。」

 

「・・・はい。」

 

「じゃぁ、ウマ娘の君から見て、俺の走り方はどう見える?」

 

「スピードはウマ娘にかないませんが、トレーナーが褒めるくらいウマ娘の理想的なフォームで、ヒトとは思えないくらいきれいです。」

 

「そう、俺はウマ娘の走り方を真似して極めたヒトだ。

 じゃぁ、彼女は?

 ウマ娘なのに、ウマ娘の走りじゃない彼女はなんだと思う?」

 

ムッタートレーナーが俺を見る。

それが意味することに、目の前にいるウマ娘たちがざわつき、一斉に俺に目を向けた。

 

「正体不明の彼女について、ちょっと話をしようか。

 彼女は、物心ついたばかりの頃に、自然災害で親を失った。

 その時、救助に当たった若手の自警隊員に異常に懐いてしまってな。

 彼がいないと暴れてどうにもならないんで、彼のいる基地の保育施設で育った。」

 

いきなり、ムッタートレーナーが、聞いたこともない俺の身の上話を始めた。

 

「ちょっ!そんな話するなんて聞いてな・・・」

 

ムッタートレーナー掴みかかろうとした俺は、何の技だか知らないがあっという間に関節を決められて、変形コブラツイストで動きを封じられる。

抜け出そうとすると彼の野太い骨の角が痛点を刺激して痛みで抜け出せない。

逆に、体重をかけられて痛みが増す。

 

「ギャー!」

 

何かのパフォーマンスだと思われたのか、笑い声が起きた。

ひとしきり痛めつけられたあと、またもやヘッドロックをかまされて、耳元で囁かれる。

 

「(まぁ黙って聞いとけ。)」

 

「(あとで覚えてろよ?)」

 

「コイツは懐いた彼のやることなすこと、全部真似た。

 親鳥にくっついて歩く雛のように、学校にも行かず、彼のやる屋外訓練にずっとくっついてまわって施設の人間を悩ませたそうだ。

 だが、一番吸収力の高い幼少時に、ウマ娘としての身体の動かし方をせずに、ひたすらヒトの動きを真似て過ごしたこいつはどうなったか。

 御覧の通り、ヒトの動きやテンポが刷り込まれちまった。

 出来上がったのが、俺と全く正反対のウマ娘なのにヒトの走り方しかできないコイツだ。」

 

・・・なるほど、ウマ男という自分の存在を目の前に晒して、その真逆という立ち位置に俺を収めたのか。

さっきわざわざ皆の前で走らせたのは、印象付けだ。

自分というウマ娘の走りを身に着けたヒトがいるなら、ヒトの走りを身に着けたウマ娘がいてもおかしくない、それを対比してみせることで印象付けた。

バラエティ番組の一角を担っているだけあって、見せ方って言うものがわかっているのだな、とちょっと感心する。

出だしの俺の身の上話はちょっとやり過ぎな気がしないでもないけれど。

 

「自警隊は、転勤の多い職業だ。

 彼女の懐いていた若手の自警隊員も例外じゃない。

 彼の転勤は突然で、別れの挨拶もなしに彼女の前から姿を消した。

 彼の居た部隊の人間に聞いても、彼の行方は教えて貰えなかった。

 自警隊も一種の軍隊のようなものだ。

 消息を絶たねばならない特殊な任務に、彼は関わってしまったのだろうな。」

 

集団の中の幾人かが、そっと顔を手で覆うのが見えた。

 

「長く、ふさぎ込んだ、そう言っていたよな?」

 

・・・雲行きが怪しい。

ろくでもない話に発展しつつある気がする。

ヘッドロックされたまま、べしべしと彼の腕をひっぱたいた。

 

「ははは、まぁそう恥ずかしがるな。

 お前が話してくれたことだ。

 で、コイツは、何を思ったのか、突然ウマ自入りを希望した。

 せめて、彼のように、誰かを助ける存在になりたかったんだろう?」

 

なんだと?!

話が、雲行きが怪しいどころか思ってもみなかった方向に全力で猛進し始めて俺は焦った。

 

「ふんぬふぐふぐぐ~!」

 

ヘッドロックから抜け出そうとすると、抱え込んだ彼の指が耳下の痛いところを的確に突いてくる。

抜け出せないまま、彼の話は進む。

 

「幸いこいつはウマ自に入れるだけの頭と体力はあった。

 周りはみんな体力自慢脚自慢のウマ娘ばかりだ、仲間と同じように走れないコイツはさぞかし劣等感に悩んだろうよ。

 でも、ウマ自じゃ、脚の速さなんてのは数ある能力の一つでしかないんだ。

 コイツは別のところで能力を発揮した。

 ヒトを長く観察し続けたせいで、ヒトにできることと、ウマ娘にできることの判別が、ダントツに優れていたんだな。

 そのおかげで、自警隊との共同作戦が増え、その度にコイツは彼のことを聞いて回ってたそうだ。

 ある時、彼の同期だったという自警隊員が、こんなことを言った。

 『そういやあいつ、毎日番組チェックするくらいウマ娘レースのウィニングライブ大好きだったぜ?』と。

 あれに出られれば、会えなくても自分の今の成長した姿を見てもらえるかもしれない、きっと気付いてくれる、ってその思い込みだけで、コイツ危ない作戦に志願してまで功績立てて、ウマ自卒業する時の報奨もコネも全突っ込みでトレセン中央に入学希望したんだぜ?

 日本一のトレセン中央ならきっと自分も走れるようになる、あの舞台に立てるって信じてな。

 

 ・・・大バカ野郎だろ?

 

 でも、そんなバカを見捨てるどころか拾い上げてくれたのがここの理事長だ。

 その理事長が『貴殿と真逆のヒトみたいなウマ娘がいる、貴殿の知識と経験で一人前のウマ娘に育ててみないか?』ってわざわざ俺に連絡までよこしたんだ。

 なあ、君たち、こんなにもウマ娘のことを思ってくれてるトレセン理事長は他にいねぇぞ?

 自分たちは幸せだと思わないか?」

 

理事長のウマ娘絡みの暴走しまくりの滅私奉公は、学園生にも心当たりがあるのだろう。

あ~とか声を上げながらありそう、と頷く者がそこかしこにいた。

目を潤ませている学園生までいる。

 

できすぎた話だ。

しかもさらっと最後に理事長を持ち上げるついでに、その権威と話の経緯を挟むことで反発する奴の牽制まで入れてきやがった。

俺が、たづなさんに相談したのは昨日の晩遅く。

詳しい打ち合わせは今日になってからだろう?

たった数時間でこんな話をでっち上げられるもんなのか?

 

・・・ただな、いくら俺の居場所を作るって言っても、これは無いだろう!

これじゃ俺は、姿を消した愛しの彼に自分の存在を知らしめるためにウィニングライブに立ちたいとトレセン学園に特攻してきた恋する乙女じゃねぇか!

 

「てわけでな、俺はコイツを君たちに追いつき、追い越せるウマ娘にまで引っ張り上げなきゃならねぇ。

 この俺ウマ男ムッターがコイツを一人前のウマ娘に育て上げられるかどうか見守って欲しい。

 もちろん、俺への面白い企画での挑戦やお嫁さんになりたいって言うウマ娘は大歓迎だ、ぜひ声をかけてくれ!」

 

彼の話が終わるか終わらないか、観衆が沸く寸前で、すでにウマ耳を絞りに絞って怒髪天状態の俺は爆発した。

 

「調子に乗ってんじゃ・・・ねぇ~~~~!」

 

ヘッドロックされた状態からの、腰を抱えての渾身の裏投げ。

バックドロップをそのまま放り投げたともいう。

 

小憎らしいことに奴は空中でその大きな身体を捻ると猫のように見事な着地を決めた。

 

「ふざけんな!あれじゃまるで俺が恋に狂った乙女みたいじゃねーか!」

 

「照れるなよ!全部お前の話ダゾ!」

 

「ぶっ殺すぞクソが!」

 

捕まえようとしても、ひょいひょいと避けられ、手で腕の横腹を押されて逸らされてしまう。

くそ、関節技といい、この手の躱し方といい、なんか格闘技やってやがるな!

 

突然始まった俺と彼の鬼ごっこを尻目に、話は終わったとばかりに、教官が号令をかけて唖然としていた教練参加者をウォームアップランに向かわせる。

 

・・・30分近くに及ぶ鬼ごっこは、無駄に力んで動き回る俺の体力切れで終わった。

ムッタートレーナーは「あとで体育館に来いよ!」と言い残して、カメラを回収して駆け去った。

なんてやつだ。

 

規定のウォームアップランが終わって俺のクラスの連中が各自のトレーニングへと散開して行く中のことだ。

 

教室で突っかかって来たあの黒髪の口の悪いウマ娘が、後ろから馴れ馴れしくもいきなり俺の肩を抱き寄せて話しかけてきた。

 

「なぁ・・・朝は悪かった。

 あんな事情があったなんてな・・・

 自己紹介が遅れたな、オレはローゼンドルネン。

 レースじゃ手加減はしてやれねぇが、お前がウィニングライブに立てるよう協力はするぜ?」

 

本気で心配しているのか、彼女のウマ耳は垂れっぱなしで、ひたすら優しい言葉と表情が俺に突き刺さる。

 

「信じないでくれよ、あれはムッタートレーナーのでたらめで・・・」

 

彼女は、最後まで言わせてくれなかった。

 

「皆まで言うな、わかってる。

 応援してる。」

 

ポンポン、と俺の肩を叩いて、彼女は自分のトレーナーの元へと駆けて行ってしまった。

あの話に騙されたのは彼女だけじゃなかった。

遠巻きに、自分の所属するチームやトレーナーの元で、仲間と雑談しているらしい学園生から俺の方にちらちらと生暖かい視線が飛んでくる。

こうしている間にも、さっきのトンデモ話が絶賛拡散中らしい。

・・・もう、止められない。

 

何が俺に任せておけ、だよ!

ムッタートレーナーは腐っても芸能人、恥を恥とも思わずそれを切り売りしてきた人種だって言うのを失念していた。

今回の話も、自分と同じノリでささっと作り上げたに違いない。

 

初日からでっかい黒歴史を作られて俺はごろりとターフの隅で横になった。

ああ、このまま溶けて地面になりたい・・・




というわけで、ムッターという変な芸人がトレーナーってのは、主人公の対極的な存在ってことでぶち込んでた要素です~

ローゼンドルネンは、薔薇の棘ってグーグル翻訳さんが言ってました~

ラストは貝になりたいとセイちゃんリスペクトどっちにしようか迷いましたがウマ娘なので横になって貰いました~


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体育館の覇王

久々の会話ありネームド絡みのお話ですね~

さて、読者の皆様に連絡でございます~

今日突然、本業のお仕事が舞い込んでまいりまして、しばらく更新間隔がかなり開くと思います~

請負業務なので、うまくいけばすぐ手が空きますが、ドツボると延々長引くので、短くて数日、長くて2週間くらい更新間隔が空くことがあるかもしれません~

書ける時にぼちぼち書いていきますのでお見捨てなきようよろしくお願いします~



・・・ターフの隅で、饅頭のように丸まっていても何かが変わるわけでもなく。

好奇の視線にさらされ続けるよりはましかと、この事態を招いたクソトレーナーを一発殴るべく体育館に向かった。

 

体育館の入り口のガラス戸をくぐったところで、ちょっと困った事態に遭遇した。

どうも、体育館内は屋内用の運動靴が必要らしい。

土足厳禁の貼り紙とぎっしりと学園生のものらしい靴が入った靴箱が並んでいる。

中途編入だと、新入生だったら当然通知されるはずの必要な物なんかがこうして時々連絡抜けとして発覚する。

また購買で買わなきゃならないな。

見れば、隅っこに来客用のものか、スリッパが無造作に積んであったのでそれを使わせてもらうことにした。

きつく縛られた靴ひもを解いて、スリッパを履いて開けっ放しの木製の引き戸から中に入る。

 

体育館は、あっちの世界の公立の小中学校にあるような体育館ではなく、どちらかというと市営や県営の体育館に似て、天井が高く、かなり広い。

天井にバスケットのゴールが3面分折り畳まれて貼り付いている。

床にはそのバスケットコート3面をフルに使った縦方向に長いコートのラインが引かれているんだけれど、こんなに広いコートの競技ってなんだろう?

少なくともあっちの世界の学生時代にやった競技でこんなに広いコートを使うものは記憶になかった。

 

体育館の壁は、一見木製に見えるけれど、フェイクだ。

木目の印刷が施された発泡ウレタンパネルが貼ってある。

押してみると、わずかに凹む程度には柔らかい。

気休め程度だけれど、勢いよく壁にぶつかった時の安全対策なんだろう。

 

見回すと、入って来た入り口の左側に、バスケットコートの一角を潰すように巨大かつ妙なものが鎮座している。

周辺を緑色の防護ネットで覆われたそれは、SFの世界から飛び出してきたのか?と思わせるようなメカメカしいものだ。

巨大な棺型のコールドスリープカプセルのようなものが複数並び、それから伸びる太いケーブルを束ねるようにして、どこぞの司令部のような多面モニターのコンソールが鎮座している。

ああ、これがVRウマレーターというやつか。

見たところ誰も使っておらず、電源は入っていなさそうだ。

理事長のポケットマネーを食いつぶした高価なおもちゃが、誰にも使われずにそこで眠っていた。

 

体育館の設備で無駄に眠っているのは、このでかいおもちゃだけだ。

 

体育館自体は、現在、中等部1年生に対する安全教練に使われているらしい。

 

広い体育館の長辺を存分に使って、分厚く長いマットレスに、助走をつけて飛び込んで転がる。

 

次々と、結構な速度で身体を捻ってマットに肩から飛び込むように転がっていくウマ娘たち。

時折、手足がマットを叩いて派手な音を立てるたびに教官の叱責が飛ぶ。

 

「格闘技経験者は、受け身を捨てろ!

 転がったら止まろうと思うな!

 そのまま転がれ!

 そこ!横に転がるな!

 転がった先にラチの柱があったら大怪我するぞ!

 腕は頭を守れ!」

 

なんとなく、バイクのうまい転び方の教えと似ているな。

滑れるなら滑れ、転がるなら転がるに任せろ、絶対に壁や柱に当たるな。

スピードが出ている状態じゃ、身体が溜め込んでいる運動エネルギーは相当なものだ。

柔道等の受け身をとると、身体を止めるために出した腕や脚が運動エネルギーに負けてへし折れる。

滑って転がって運動エネルギーを殺さないと、そのままじゃ大怪我をする。

まぁ実際は、転ぶときなんか一瞬で、うまい転び方なんてものは意識してできるものじゃないけれど、事故る瞬間のヤバイ!と思った時間の引き延ばされた感覚の中で、少しでも身を守る行動につなげられるならこういう練習も無意味じゃないだろう。

 

さて肝心のムッタートレーナーは・・・いた!

正面のステージの前で、ジャージ姿のウマ娘と話し込んでいる。

ちょうど後ろを向いているから、急襲すれば避けられまい。

 

本気でぶん殴るとさすがにヤバいからな、握りしめた拳の中指だけをわずかに突き出した『突くと痛い拳』を作ってそろそろと忍び寄り・・・振り被ったところで、奇襲は失敗した。

 

トレーナーが話しかけていた相手が、ひょいと顔をのぞかせて俺に話しかけてきてしまったからだ。

しかも、その相手というのが・・・

 

「おや、待ち人が来たようだよ?

 はーっはっはっは!

 君かい、ボクの舞台装置を使いたいって言う娘は!」

 

頭に留められた小さな王冠。

大仰な言動に、きらりと光る白い歯。

身体が一つ動くたびに入る決めポーズ。

 

世紀末覇王、テイエムオペラオーその人だ。

 

目の前にしたオペラオーは、意外と小柄で華奢とも思えるウマ娘だった。

俺よりちょっと大きいくらいだ。

見た目は覇王、よりは王子、という方がよく似合う。

 

「その白糸のような輝く髪・・・そうか、君だね、消えてしまった愛しきヒトを追う噂の悲恋の少女は!」

 

ああ、痛ましい、とばかりに片手で顔を覆い悲哀の表情を浮かべる王子。

 

・・・なんで体育館にいる彼女がさっきの出まかせ話を知っているのかな?

話が伝わるには早過ぎはしないだろうか。

しかも、よりにもよってそういう話が大好きそうで、歩くインフルエンサーになりかねない有名人の耳に入っているとか。

 

目の前で、握りしめる拳から音がするほど拳を固める俺。

意識しなくてもわかる。

俺のウマ耳はぺったりと後ろに伏せて臨戦態勢だ。

 

「・・・トレーナー?」

 

「・・・俺は言ってないぞ。

 彼女とはさっき顔を合わせたばかりだ。

 お前の練習に、ちょっと舞台装置を使わせてもらおうと思ってな。

 そしたら、その管理やってるのが彼女だって言うんだ。」

 

「テイエムオペラオーって言ったら世紀末覇王とか言われてる有名なウマ娘でしょうが!

 よりにもよって、さっきの話をそんな有名人の耳に入れるなんて!」

 

不意打ちでトレーナーに向かって拳を繰り出すも、全部ひょいひょいと逸らされる。

くそ、さっきの繰り返しだ。

そんな俺とムッタートレーナーの過激なやり取りに王子が割って入ってきた。

 

「んん?ボクを知っているのかい?

 光栄だね!

 世紀末覇王、いい響きじゃないか!

 気に入ったよ!

 ボクを覇王と呼ぶ、君の名を聞かせてはくれないか?」

 

???

まるで世紀末覇王、という呼び方を知らないかのような王子の反応にちょっと困惑する。

そしてはたと気付いた。

 

今は20XX年、世紀末じゃないことに。

 

ああ、実馬モチーフの二つ名と、このウマ娘世界では時系列がずれているんだ。

世紀末、じゃないにせよ、彼女がすでに複数の冠を抱いているなら何かしら覇王みたいな二つ名はついているはず。

 

もしかして、彼女の覇道はこれからなのか?

 

じっと俺からの返事を待つ彼女の目力に負けて毒気が抜けてしまった。

トレーナーへの攻撃をやめて彼女に正対して答える。

 

「ラベノシルフィーです。

 ・・・私の話に関しては、忘れてください。」

 

「ラベノシルフィー・・・ああ、一面に花で青く染まる丘を吹き抜ける涼やかな風、いい名じゃないか!

 この可憐な少女が、その秘めたる思いを伝えるためだけにこの大舞台に上がろうとしているなんて!

 その壮大なドラマの一翼を、ボクが担えるなんて!」

 

王子、陶酔しきって聞いちゃいねぇ。

おまけに、彼女が声高らかに叫ぶものだから、あっちで安全教練を受けている1年生までもが何事かとこっちを見ている。

さすがにいたたまれなくなって、王子を促して話を先に進めた。

 

「・・・あの、私の話はその辺で。」

 

「ああ、そうだったね。

 舞台装置の話だった。

 ついてきてくれたまえ!」

 

王子に促されて、トレーナーと共にステージの端に据え付けられた階段を上る。

ステージを上がってステージの袖のカーテンの奥に入ると、そこに隠れるようにして立つワイヤーの通ったトラス鉄骨が現れた。

鉄骨には、手でくるくる回せるハンドルが5つ。

それぞれにマジックの手書きで回転方向と共に、上下、左右、前奥、回転、傾斜と、書き込みがなされている。

王子が、上下のハンドルを回すと、天井から黒く塗られた頑丈そうなカラビナのついたワイヤーが数本降りてきた。

 

「これが、ボクの預かっているワイヤーアクション設備さ!

 

 使ってやれなくて寂しい思いをさせたね・・・

 今日は久しぶりに君で空を舞わせて貰おうか!」

 

王子は、舞台袖の薄暗がりにあるロッカーから、吊り下げ用のハーネスを取り出して身体に装着すると、降りてきたワイヤーにハーネスを取り付けていく。

 

「さぁ!ボクが手本を見せようじゃないか!

 そのハンドルを回して、ボクを大空に飛び立たせておくれ!」

 

トレーナーと顔を見合わせる。

 

「これ回せばいいのか?」

 

「ああ、彼女はステージの上の飛行をご所望らしい。」

 

とりあえず上下のハンドルを回す。

どういう仕組みなのかハンドルを回すのにそんなに力はいらないし、王子の身体が持ち上がったところで手を放しても勝手にハンドルが回って王子が落下したりもしない。

でも、ハンドルを回す速さの割に、その動きはゆっくりだ。

 

「空を華麗に舞うにふさわしい姿を!」

 

王子の言葉に一瞬何のことかと思ったけれど、今の彼女は立ち姿のまま吊り下げられているだけだ。

トレーナーが、傾斜のハンドルを回して腹ばいの姿にすると、彼女は手脚を伸ばして叫んだ!

 

「さぁ!ステージの上へ!

 ボクをあの大空へはばたかせておくれ!」

 

トレーナーがキコキコと左右のハンドルを回すも、王子の身体はゆっくりとしか移動しない。

 

「速く!もっと速く!」

 

トレーナーとハンドルの担当を変わって、左右のハンドルをこれでもかと回す。

 

「素晴らしい!本当に空を舞っているかのようだ!ああっ!」

 

がつっと、ハンドルの回転が止まった。

左右の移動限界らしい。

ストッパーに当たって、王子が反対側のカーテンに振り子のように突っ込んだ。

 

慌てて彼女を降ろしたのだけれど、カーテンに突っ込ませてしまったにも拘わらず、彼女はご満悦のようだった。

 

「はっはっは!雲に突っ込んでしまったよ!

 ありがとう、いい気分転換になったよ!

 次のレースはこのボクが空を飛ぶように勝って魅せるとも!」

 

雲は雲でも、突っ込んだのは蜘蛛の巣だ。

頭についた蜘蛛の巣の破片を払いながら、王子は屈託なく笑う。

聞けば、近々大事なレースがあるらしい。

宝塚記念、重賞GIレースだ。

そんな重要なときに、好きな演劇絡みの話とはいえ、ムッタートレーナーのつまらない要求に付き合ってくれている。

おまけに、その説明を利用して、自分の遊び心まで満たしてみせた茶目っ気。

ちょっとナルシストっぽくて言動は芝居がかっているけど、嫌味を感じさせない堂々としたその性格は俺的には好ましい。

 

「このワイヤーアクション設備は、無理を言ってつけて貰ったのはいいが、動かすのに人手が必要でね。

 なかなかこうして空を飛ばして貰えないのさ。

 ラベノシルフィー君と言ったね、これを使いたいだなんて君は演劇に興味があるのかい?」

 

「いえ、これを使いたがっているのはトレーナーの方で私は何が何だか・・・」

 

「ふむ、まぁいい。

 興味があるならボクはいつでも歓迎するよ!

 ぜひ、ボクを見て舞台を好きになって貰いたいね!

 もう使い方はわかっただろう?

 後片付けはお願いする!

 では、ボクはトレーニングに戻らせてもらうよ。

 失礼!」

 

ふんふんと、実に上機嫌で王子が去っていく。

 

使わせてもらえるのはいいけれど・・・

俺はじろりとトレーナーを睨んだ。

 

「で、これで何をするんだ。」

 

「お前がまったくウマ娘の走り方を知らねーからな、コイツを使ってまずはウマ娘のピッチ走法の型をお前の身体に叩きこむ。

 ちょっと機材が必要だから手伝え。」

 

先に立って歩いていくトレーナーにくっついて、体育館を出る。

体育館の横に止まっているトレーナーのものらしい白いハイエースロングバンから、指定された道具を取り出した。

 

一抱えはありそうなビニールの塊、でかいポリバケツ、でかいホースリール、肥料袋みたいなのに入った使いかけの白い粉。

それを二人して抱えてステージに運ぶ。

 

「これ何よ?」

 

「ウォーターベッドとローション作る材料だ。」

 

「ウォーターベッドとローション?!」

 

それって本当にトレーニングに使うものなのか?!

いったい何をするつもりだムッタートレーナー?!



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奇抜なトレーニングにもほどがある

とりあえず上げますよ~

頭文字Dの紙コップに水も結構トンデモ訓練でしたがいかがですかね~

次回はまたちょっと先で~


「機材はステージの中央に運んでくれ。

 そこが今日からしばらくお前のトレーニング場所だ。」

 

ステージ中央に、ウォーターベッドとローション?

 

「・・・まさかとは思うけど、お笑いのトレーニングじゃないよな?

 そりゃあんたの事務所に籍は置かせてもらったけどさ。

 さすがに芸人修行をしろってなら考えさせてもらうよ?」

 

最初にムッタートレーナーと顔合わせした時に、俺のトレーニング中に撮影した映像の利用やら、何かまずい事態に陥った時、芸能活動だとごまかす隠れ蓑にできるやらで、たづなさん監修の元、俺は彼の芸能事務所に所属していることにはなっている。

事務所には所属するだけで「俺は何もしない」のが基本的な条件だ。

けれど、いざ蓋を開けてみれば今日のトンデモ悲恋話だ。

正直な話、このムッターという男の頭の中から、何が飛び出してくるかわからない。

 

「そこは信用しろよ。

 俺は『ウマ娘の走り』に関しちゃ、何よりも真摯なつもりだ。

 この機材だって、お前の脚を痛めずにトレーニングするには必要なんだ。

 まぁ、やってみればわかる。」

 

ステージの階段を上がり、運んできた機材を下ろす。

 

「俺はもう一往復してくるから、ステージ裏手の非常口出たところの水道に、そのホース繋いで引っ張ってきてくれ。」

 

トレーナーは車に追加の機材を取りに、俺はステージの裾からちょっと行ったところにある非常口までホースリールを抱えてホースを繋ぎに。

蛇口にホースを繋いだら、猫が毛玉にじゃれるようにリールを回してホースを引っ張り出していく。

ホースの先端をもってステージまで引きずってくると、トレーナーはアルミの脚立に持って来たブルーシートをかけて壁を作っていた。

ブルーシートの端を、ウォーターベッドの下に挟み込むようにしてベッドを設置する。

 

「すまんが、水を出してきてくれ。

 俺が合図したら止めてくれ。」

 

「はいよ~。」

 

指示通りに、水を出してしばらく待ち、合図とともに止める。

 

戻ってみると、ステージの中央に、表面が真っ平らな艶々のウォーターベッドが出現していた。

ベッドの、短辺の片側に、ブルーシートの壁がある。

ベッドの下の潜り込んでいるブルーシートとの隙間には、ボロ布の塊が詰め込まれていた。

そして、そのベッドの真上から垂れ下がる、例のワイヤー。

 

タパタパと水音がするな、と思えば、トレーナーが持って来たでかいバケツの中の水に、ローションの元になるらしい白い粉を注ぎ込んで引っ掻き回している。

時々トレーナーが手を持ち上げると、作りかけのローションはとろりと滴りはするものの、トレーナーの手にまとわりついてなかなか落ちず、結構な粘性を見せていた。

 

「よし、こんなもんだろ。」

 

手にまとわりつくローションをベッドの上に振り払うように叩きつけ、さっき持って来たのであろうボロ布の塊で腕をぬぐっていた。

 

「さて、トレーニングの説明をしようか。

 やることは簡単だ。

 お前に、『ウマ娘のピッチ走法』のフォームを叩きこむ。

 あのワイヤーにぶら下がって、脚のつま先でベッドの表面をひたすら撫でるだけの簡単なトレーニングだ。

 脚を蹴り出したら、すぐにベッドの表面につま先を付けて、その表面をトレースするんだ。

 一旦つま先をベッドに付けたら、蹴り終わるまで、離しても、ベッドを揺らすような深い蹴り込みも厳禁。

 OK?」

 

「要するにワイヤーからぶら下がったまま、走るパントマイムみたいなこと続ければいいのか?」

 

「まぁそんなもんだ。

 ウマ娘のピッチ走法ってのはな、スタートダッシュと加速の基本だ。

 腿上げ足踏み運動ってあるだろ?」

 

トレーナーがその場で腿上げ足踏みを披露してみせる。

 

「この動きのまま、身体に前傾を付けて地面につま先を食い込ませて走るのが基本形だ。

 ヒトの走りのように、膝を大きく前に出さない。

 言ってみれば、身体を前傾させて片足ジャンプを延々繰り返すようなもんだ。

 違いは、ジャンプは上に飛ぶもんだが、これは水平に飛ぶんだ。

 ま、やりながらの方がわかりやすいな。

 ジャージは汚れるから脱げ。

 あ、靴下は爪でベッドに穴空くと困るから悪いが履いたままにしてくれ。

 脱いだらハーネスを付けてくれ。」

 

確かに、言葉で説明を聞いただけだといまひとつピンと来ない。

言われるままにジャージを脱いで、靴下を履いたままハーネスを付ける。

ブルマ姿だと、ハーネスは粗い化繊のベルトなので、肌が出ている脚の付け根に直接擦れてちょっと痛い。

股ずれみたいにならないだろうなこれ。

 

ローションの飛び散ったつるつるのベッドの上に乗ると、とろとろとローションが足元に流れてきて靴下を濡らす。

濡れた靴下っていやな感触だな、と思った瞬間、転びそうになった。

思った以上に滑る!

 

トレーナーは自分だけしっかりと靴下を脱いで、裾をめくってすね毛の生えた生足を晒しながらベッドの上に乗ってきた。

トレーナーが一歩足を踏み出すその揺れだけで、足元がぬるぬる滑って非常に危うい。

ここで転んだら体操服ブルマでぬるぬるにまみれるろくでもない絵面になってしまう。

ぶら下がっているワイヤーに掴まって身体を支えていても、なお滑るのだからローション恐るべし。

 

かろうじて二人とも転ばず、無事背中の金具に、吊り下げワイヤーのカラビナを装着してもらうことが出来た。

これでとりあえず転ぶことはない。

危うい足取りで、トレーナーがベッドの上から降りて、滑って転んだ。

TVのお笑い番組でやっていたローション相撲とか、大げさだろうと思ってみていたものだけれど、この滑り様なら納得だ。

 

「ちょっと体勢を調節するから手足の力を抜いてぶら下がっていてくれ。」

 

アクションワイヤーを調節しに、トレーナーがステージ袖に消える。

 

だら~んと手脚を死体のようにぶら下がるに任せていると、ワイヤーが動いて、前傾姿勢で固定された。

思っていたよりもかなり角度が深い。

 

「両脚を抱えて体育座りの格好してくれ!」

 

両脚を抱えて、丸くなる。

結構低い位置で高さが固定された。

戻って来たトレーナーが、指示を出す。

 

「そのままで、腿上げ足踏み運動だ。

 ゆっくりな。」

 

ぱよん、ぱよんと脚がウォーターベッドを蹴る。

ちょっとばかり、胸とお腹のハーネスの締め付けが苦しいけれど、我慢できないほどじゃない。

 

「今、ウォーターベッド表面を蹴ってしまっているだろう?

 それを慣れてないお前が全力で普通の地面でやると、勢いのついた脚を地面に叩きつけるに等しい動作だ、よくて足首捻挫、悪けりゃ骨折だ。

 子供の頃の、体重の軽い時期に身に着けるべきことを、今のお前のウマ娘パワーでやったら脚が耐えられない。

 だからこんなもんが必要なんだ。」

 

脚は、腕の3倍のパワーがあるって言うもんな。

ヒトでさえ、全力パンチで硬いものを殴れば骨折したり捻挫したりする。

それをウマ娘の脚力で、地面という質量無限大の相手に、全力キックかまそうもんなら脚も折れるか。

 

「足首は引きつけて直角に保て。

 その状態で、脚を蹴り出し始めて、つま先にベッドの表面を感じたら、そのままベッドの表面をつま先でトレースしろ。

 つま先でベッドを沈みこませてしまえば、身体は前ではなく上に浮き上がる。

 つま先が離れてしまえば、推進力にならない。

 脚の関節がしようとする円運動を、水平方向の直線運動に変えるのが目的だ。

 まずはゆっくりでいい。

 脚の力を推進力だけに変えるフォームを身体に叩き込むんだ。」

 

トレーナーが指導しながら、さっき作ったローションをダバダバとベッド上に流し込む。

脚を動かすと、ローションでつま先が淀みなくベッドの表面を滑っていく。

俺が脚を蹴り出す度に、後ろにローションの飛沫が飛ぶ。

その飛沫を、ブルーシートの壁が受け止めて、ボロ布に染みこむ。

なるほど、車にこういう機材が積まれていたっていうことは、今日ここに来る前からこういうトレーニングをするよう、最初から予定していたのか。

 

「このトレーニングも記録を撮るぞ。」

 

トレーナーが、ステージ袖からトラックに設置していたビデオカメラを真横からの俺のフォームが写るように設置した。

 

それはいいんだけれど・・・カメラの向こうに見える、安全教練に参加している中等部1年生たちが、こっちを見てひそひそ話をしているのが目に入る。

・・・ああ、そりゃそうだよね。

 

体育館の、ステージという目立つ場所の上で、水音立てながらよくわからないことをしているウマ娘。

加えて、さっきはオペラオーが叫びながら空飛んでいたし。

少なくとも、傍から見ればまじめにトレーニングしてるようには見えないのは確実だ。

 

「・・・トレーナー、せめてステージの前のカーテン閉めてくれない?

 晒し者になってるんだけど。」

 

マットへの飛び込み待ちをしながらこっちへ痛い視線を送っている1年生たちを見ろ、と顎で指し示す。

けれど、どうもこの辺の感覚が芸能人というのはずれているのか、トレーナーはさほど気にした様子を見せない。

 

「こんなの、レース場での人の視線に耐えるいい訓練に・・・

 わかった、耳を伏せるな。」

 

俺の怒りに反応して勝手に伏せたウマ耳に、意外とあっさりトレーナーはステージのカーテンを下ろしてくれた。

・・・意外と便利だな、ウマ耳。

 

分厚いカーテンが下りてくると、体育館に響いていた安全教練の喧騒が遮断されて、静寂と言ってもいい世界が現れる。

これで、何も気にすることなく、トレーニングできる。

 

このトレーニングは、フォームを叩き込むもの、というだけあって、結構繊細だ。

 

ローションで滑りやすくなっているとはいえ、つま先が少しでもベッドに食い込めば、身体の向きがよじれる。

蹴り脚の振る方向が内股や外股になっていると、左右に揺れる。

リズムよく、前後にだけ揺れるようにしろ、とトレーナーは言うのだけれど、なかなかに難しい。

 

それでも、この若く運動神経に優れた身体と脳は、この動きを覚え始めてくれたらしい。

2時間程ぶっ通しでぬるぬると脚を動かしていたら、疲れ切った後半には意識しなくてもベッド表面のつま先トレースがある程度形になっていた。

 

「よし、まぁ今日はこんなもんだろ。

 これをしばらく続けて、ある程度身についたと判断出来たら次のステップに進もう。

 どうだ、少しは信用してくれる気になったか?」

 

トレーナーが滑らないように足元にボロ布をしこたま敷いて、ワイヤーを外してくれる。

ローションを吸い込んだ靴下が気持ち悪いので速攻で脱いだ。

脚の皮膚がふやけてふにゃふにゃだ。

 

「ああ、機材はアレだったけれど、よく考えて準備したもんだってのはわかったよ。

 疑って悪かった。」

 

「わかってくれりゃいいんだ。

 

 で、すまないが明日から俺は収録だからいない。

 実はもう出なきゃまずい時間でな。

 時間が空いたら顔を出すが、しばらくは自主練だ。

 慣れたと思ったら脚の回転一段上げろ。

 

 体育館で教練やってる教官に話付けておいたから、午後になったらすぐ体育館に来てワイヤーに繋いで貰え。

 足はつくから最悪自分でもできなくはないだろ?

 じゃ、すまんが、後片付けは頼むな!」

 

言い終わるや否や、ダッシュで駆け去るトレーナー。

超速で体育館から姿を消した。

 

「え、片付けってこれ一人で?

 ちょっ!

 逃げ足速っ!」

 

残されたのは、ローションまみれのウォーターベッドと、大量のローションを吸い込んだボロ布の山と、俺。

でも、やるしかないんだよな・・・

自分の為のトレーニングの後始末もできないのか、と言われたくないし。

 

拭いて絞ってまた拭いて。

うまいことローションで床が汚れていたおかげで、ウォーターベッドを引きずってステージ袖に移動させられたのは助かった。

水を全部抜いてなんてやってたらどれだけ時間がかかったことか。

大量のボロ布は捨てるわけにもいかないので、空けたバケツで適当に水洗いして、絞って干したよ、体育館のキャットウォークの手すりに。

急いで絞ったら、最初の1枚、絞った途端にネジ切れた。

雑巾絞りの力加減は、軽めに、キュッキュッ!でいいのね。

こういう力加減も、本当は子供のうちに学ぶものなんだろうな。

 

あらかた後始末が終わったのは、夕方4時。

 

急いで寮に戻って、財布と買い物袋を抱えて、府中の街へ。

着替えている暇なんかないから、体操服の上にジャージを着ただけだ。

 

まだアスファルト道路は走っちゃダメ、と言われているので、もどかしい思いをしながらできる限りの速足でイマムラと100円ショップを回る。

パジャマは、合うサイズのものが数がなかったので2着しか買えなかった。

髪ゴムとか、何かと使えそうなマジックテープの荷造りバンドなんかを適当に買って、急いで寮に帰って来た。

門限には間に合ったけれど、結構ギリギリだな。

平日、遅くまでトレーニングしてる学園生なんか、本当に寮に帰ってご飯風呂寝る、の生活だ。

 

無事部屋に帰り付いたのは良かったんだけれど・・・

 

俺が部屋のドアを開ける音を聞きつけてすぐに、生暖かい目をした隣人二人が、突撃してきたんだ。

 

「人は見かけによらないって言うけどさ~まさかあんな物語を隠していたなんてね~」

 

「ね、追いかけてる自警隊のヒトって、一目惚れしちゃうほどカッコよかったの?

 子供の頃ってことは今そのヒトおじさんでしょ?

 歳の差なんて関係ないってか!

 一途だね!」

 

ドアを開けた途端、抱き着いてきてもみくちゃにされながら、もう歯が浮くようなシンデレラストーリー予想をその後の食事でも風呂でもお構いなしに延々と聞かされて、ゴリゴリと精神力を削られた。

 

週末には、この話が広がった状態で、歓迎会に出るんだよな・・・

目が覚めたら全部夢でした、って平穏な日々が戻ってこないかな・・・



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コーヒーとカフェ

間が空きました~

8月中は、このレベルで更新に間が空きそうですのでぼちぼちお付き合いください~


寝過ごした。

 

昨日はムッタートレーナーに引っ掻き回されたせいで、思った以上に疲れていたのかもしれない。

目覚ましのウマホのアラームをブッチして、1時間近く寝過ごしていた。

でもまぁ、まだ時間はある。

 

何はともあれ、朝メシだ。

 

今日は少なくとも普通にパジャマ姿なので食堂で浮くこともない。

顔を洗ってさっさと食堂に向かう。

 

食堂は朝の自主練で寮生が出払った時間帯のせいか、微妙に空いている気がする。

中等部の寮生が少ないのか、ちょっと年上っぽい寮生が多めだ。

 

今日の朝食はオムレツ風のベーコンエッグとジャンボウィンナーソーセージ、クレソンとカイワレ大根とよくわからない三つ葉みたいなのがごちゃ混ぜになった山盛りサラダに大根おろし&シソ風味のドレッシング。

小皿に、妙にでかい玉子豆腐がついてきた。

スープが中華風玉子スープと、わかめと豆腐の味噌汁から選べる。

パンは今日は普通の四角い食パンだけど、パンの中身は白くなくてやっぱり重い。

パンの生地の中の茶色いつぶつぶはライ麦だろうか。

相変わらず香ばしくていい匂いがする。

 

昨日の買い物で適当に100円ショップで買ってきたプラスチックのマグカップにお湯を入れてもらう

お供はインスタントコーヒー、スティックタイプのちょっと甘い奴。

 

あのうまいパンをコーヒーとともに楽しむためだ。

 

パンに塗るお供は、イチゴジャムとマーガリンを少量。

まずは何も塗らずにパンをかじる。

一口齧ると、少しの酸味と共にパンの香ばしい香りが鼻に抜ける。

そこに甘いコーヒーを流し込む。

これだよこれこれ!

やっぱり合うと思ったんだ、このずっしりしたパンにコーヒー!

マーガリンを塗って食べるとこの脂肪分の甘みとコーヒーの味が合わさってこれまたうまい。

 

うまいうまいと夢中で朝食を頬張っていたら、突然髪の毛を引っ張られた。

 

「?!」

 

危うく舌を噛みそうになる。

 

誰か通りがかりに髪の毛を巻き込んだのかと思って後ろを見るも誰もいない。

あるのは、コーヒーとパンの組み合わせのうまさに勝手にぶんぶんと振られていた俺の尻尾だけだ。

尻尾に髪の毛を巻き込んでしまったのだろうか。

 

きょろきょろしていると、今度は頬っぺたを指で突つかれたような感触がする。

でも、視界には俺の頬を突つくような人影はない。

 

不思議に思っていると、トトトト・・・と駆け寄ってくる足音が聞こえた。

 

「・・・他人の食事の邪魔をしてはいけません・・・

 その人の一日を台無しにするのはあなたも望んでいないでしょう?

 

 ・・・ごめんなさい、あなたの朝食の邪魔をしてしまって・・・」

 

黒い長髪、シンプルなくすんだ空色のパジャマに、クリーム色のカーディガンを突っかけた姿のマンハッタンカフェがすまなそうな表情で歩み寄ってきた。

 

今の一連の不可思議な現象は、彼女の『お友達』の仕業らしい。

 

また、テーブルの上のものを吹っ飛ばされてはたまらない、と、トレイを手で押さえてみるも、彼女のお友達はそれ以上何かする気は無いようで、なんでか知らないけれど髪の毛を梳いてくれてるような感触がする。

 

「・・・ ラベノシルフィーさん、でしたね。

 おはようございます。

 ここにいるってことは、編入されたんですね・・・」

 

「おはようございます、カフェ先輩、でいいのかな?

 編入したばかりです。

 よろしくお願いしますね。」

 

こくり、と頷いた彼女の視線は、なぜか俺の方ではなく、テーブルの上のマグカップと、くしゃくしゃに丸められたインスタントコーヒースティックの残骸に向けられっぱなしだ。

彼女は立ち去ったかと思うと、湯呑を一つ持って戻ってきて対面の席に座った。

 

いつも肩から下げて持ち歩いているのだろうか、カーディガンの中に隠れていた細いステンレスの魔法瓶を取り出して、中の湯気の立つコーヒーを湯呑に注ぐと、俺の方に差し出してくる。

 

「あなたも、ちゃんとお友達を『居る者』として扱ってくれるんですね・・・

 ・・・どうぞ、先ほどのお友達の悪戯のお詫びです。

 あなたに触れられない、と思ったら触れられたので、びっくりしてしまったらしくて・・・

 今そこでごめんなさいしています・・・」

 

彼女自身の無意識の念動力なのか、それとも強力な守護霊なのかよくはわからないけれど、彼女の『お友達』が超常現象を引き起こすのはゲームのイベントであったのでうっすら覚えている。

彼女に初めてトレセン学園の食堂で出会ったときにもお友達はやらかしてくれているので、信じないという選択肢はあり得ないし。

何より、この俺自身が、三女神の一人にウマ娘にされてこのウマ娘世界に叩き落されたなんていう超常現象の権化だ。

頭ごなしに否定することなんてできない。

 

「いいですよ。

 お友達も悪気があったわけじゃないんでしょう?

 コーヒー、いただきますね。」

 

差し出された湯呑を手元に引き寄せながら答える。

 

・・・豆の種類がわかるほどコーヒー通じゃないけれど、インスタントとは別物のちゃんと豆を挽いて入れたレギュラーコーヒー独特の香ばしい香りがインスタントコーヒーの香りを圧倒して鼻腔をくすぐる。

決して大きくはない湯呑からひとくち口に含むと、強い香りの割に苦みも酸味もない。

彼女は差し出したコーヒーを口にする俺をじっと見つめていた。

 

「・・・口当たりがいいですね、コーヒーの色は濃いからそこそこ焙煎されているのに。

 昔飲んだコナコーヒーに似ている気もするけれど、香りはもっと強いし・・・

 なんだろう、香りだけコロンビアみたいなこの風味・・・」

 

香りの主張だけが強く、舌をコーヒー一色に染めないこの脇役的な味わい。

量があればパンのお供にちょうどよさそうな。

 

ブラックで純粋なコーヒーだけの味と香りを楽しんでから彼女を見ると、彼女は目を真ん丸にしてこっちを見ていた。

 

「・・・何です?」

 

「いえ、インスタントみたいな泥水を飲んでいたので、まさかあなたの口からコーヒー豆の名前が出てくるとは思っていなくて・・・

 トレセン学園じゃ子供舌が多くてコーヒーを飲みつけているウマ娘なんてほとんどいないから・・・

 しかも昔って・・・一家そろってコーヒー党のご家族だったのでしょうか?」

 

彼女の表情は余り変わった感じはしないのだけれど、僅かに早口になっている気がする。

 

実際のところ、コーヒーは結構子供の頃から飲んでいた。

というのも、幼いころ入院しっぱなしだった病院のすぐ隣に、自家焙煎までする本格的な喫茶店があって、風向きによっては病室の窓にその何とも言えないいい香りが迷い込んでくるのだ。

自然とあの匂いは何?と見舞いに来る親に訊ね、苦いよ?と言われながらもコーヒーを貰ったのだけれど。

子供舌にはさすがにきつくて砂糖と牛乳の方が多いラテもどきになってたな。

以来、ジュースの方がうまいと感じるのに、なぜか時々苦いコーヒーを口にして、高校生辺りからはインスタントではなくペーパードリップで毎日コーヒーを淹れていた。

習慣のようなものだから、特に大好きというわけでもなく、豆もスーパーですでに挽かれて粉になったメーカーパックのレギュラーコーヒー粉を買ってきて飲んでいただけだ。

豆の種類に関しては、社会人になって外出時の待ち時間つぶしなんかで気まぐれに喫茶店で違った種類のを試しに飲むだけで、コーヒー通とあれこれ会話できるほど知っているわけじゃない。

 

しかし、目の前のマンハッタンカフェ、魔法瓶にコーヒーを入れて持ち歩くくらいだから結構とんでもないコーヒー党なのか?

ゲームでタキオンとコーヒーと紅茶でなにかイベント会話があったような気もするけれど。

 

とりあえず家族の話が出てくるあたり、昨日の俺の恥ずかしい話が彼女の耳には入っていないらしいのは救いだ。

 

「コーヒーはなんとなく習慣的に飲んでいただけで、あまり詳しくは知らないですよ?

 ただ、酸っぱいのよりは、苦みがある方が好きです。

 いただいたこのコーヒーは、結構好きです。

 香りが良くて後味すっきりしていて。

 食堂のパンのお供に欲しいくらいに。」

 

感情が表情に出にくいらしい彼女の目がすぅっと細まったかと思うと、わずかに結んだ口の端が上がる。

・・・テーブル越しに見えるくらい、彼女の黒い尻尾がばっさばっさはためいているんだけど。

 

「・・・今日、午前の授業が終わったら、学園の一階の端にある理科準備室に来てくれますか?

 この豆は、私がブレンドして焙煎したので、売っていません・・・

 量はそんなにありませんが差し上げますから、気に入ってくれたのならぜひしばらく飲んでみて欲しいんです・・・

 時間はとらせませんから・・・」

 

「ご厚意はありがたいんですけど、本当に編入したばかりでコーヒー淹れる機材がまだないんですよ。

 このインスタントコーヒーも昨日とりあえずで買ったようなものですし。」

 

「大丈夫です・・・

 遠征の時に使う使い捨てのペーパードリッパーを差し上げます・・・

 しばらくはそれで・・・

 

 ・・・フレンチプレスやサイフォンの方がお好みですか?」

 

「いえ、ペーパーフィルター派ですよ。

 フレンチプレスやサイフォンは洗うの面倒なうえに、味も香りもそっけない気がしてあまり・・・」

 

いつの間にか、彼女が両の手で俺の手を取って、結構な力で握りしめていた。

痛くはないんだけどさ、ちょっと離してくれそうにない感じで。

 

「コーヒーは、ペーパーで、他人が淹れてくれる時の漂ってくる香りが至高ですよね・・・

 私の部屋に入り浸っている変人はコーヒーの味も香りも解さない紅茶派なのでまったくわかってくれなくて・・・

 あなたなら、わかってくれそうです・・・」

 

「本格的な喫茶店から漂ってくるコーヒーの香りが暴力的にうまそうなのはわかりますよ。

 それで子供の頃初めてコーヒー飲みたいと思ったようなものですし。」

 

俺のその話を聞いたとき、彼女の目はさっき以上に見開かれた。

何かを言いかけたように、口が半開きのまま驚愕の表情で固まっている。

数秒後、やっと彼女は再起動した。

 

「・・・あなたの言うその喫茶店、一度行ってみたいですね・・・

 私の理想の喫茶店に近いかもしれません・・・」

 

「ん~今でもあるのかなぁ。

 その土地を離れて結構経つし、もうないかも。」

 

ないかも、という言葉に彼女は目に見えてがっかりした様子だった。

あっちの世界の、俺の生まれ育った土地には、確かにその喫茶店はあった。

けれど、このウマ娘世界では、俺の育った土地がどうなっているのかよくわからない。

ちょっと前まで住んでいた八王子市は無いし、ネットで見た限りだと、首都圏周りのベッドタウンだった地域が、軒並み農地や牧場だったりしている。

地元だった小金が原地域も、江戸時代とか明治辺りの地名をそのまま引きずっているあたり、かなり田舎のまま発展から取り残されている感じだ。

ウマ娘世界の人の少ない農牧地だらけの田舎に、そんな喫茶店がある可能性は低い。

期待させてしまってはかえって申し訳ない。

 

「そうですか・・・

 私も、いつか、店の外に漂う香りだけでふらっと入りたくなるような、そんな喫茶店をやりたいと思っていまして・・・

 そうやってコーヒーを好きになってくれた人が、目の前にいると思うとちょっとうれしくなってしまって・・・

 

 と、ごめんなさい、私の方がお食事邪魔してしまいましたね。

 午後、お待ちしています。」

 

もう一度、握った俺の手をぎゅっと握り直してから、彼女は俺の前から立ち去った。

絶対来いよな、という意思表示なのか、バンバン、と背中を強くひっぱたかれる感触がする。

彼女の言うお友達か。

なんで『お友達』は俺に触れるようになったんだろう。

 

彼女から貰ったコーヒーは締めに大事に残して、100均のインスタントコーヒーで貪るようにパンに齧りつく。

寝坊してさほど時間に余裕がなかったこともあって、トレイの上の朝食はあっという間になくなった。

 

締めに口にした彼女のコーヒーは冷めてしまっていたけれど、久しぶりに食後のコーヒーを楽しめた気がして満足だ。

 

彼女は、すでに食事を済ませた後だったのか、食堂を見渡しても姿はなかった。

そして、俺や彼女と同じように、食堂に持ち込んでまでコーヒーを飲んでいる寮生も見当たらなかった。

 

・・・トレセン学園では、コーヒー仲間は、きっと少ないんだろう。

 

思わぬところで、有名なウマ娘の先輩と世間話レベル以上のつながりができた。

ゲームじゃさっぱり縁がなかったマンハッタンカフェだけど、ウマ娘世界じゃ一緒にお茶するくらいの関係にはなれるかもしれない。

 

午後時間が空いたら、さっそく理科準備室に向かおう。

・・・理科準備室・・・あれ?

なにか大事なことを忘れているような、見落としているような・・・



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身の上話の余波

本業のお仕事、もう削れるコストないので下げたら赤字なんだけど先方はそれでも高いって言うんですよね~
行き過ぎたデフレに慣れた社会で稼ぐのはきついです~
世知辛い現実~

てわけで、更新間隔空く状況はまだ続きます~



コーヒーとパンのおいしい朝食を食べて、部屋に戻る。

寝坊してしまったので、あまりゆっくり身支度に時間をかけていられない。

とはいえ、最低限身ぎれいにはしておきたい。

学園の生徒の全貌がわかっているわけじゃないけれど、今までのたづなさんの話や最初突っかかって来たローゼンドルネンなんかを見ても、いじめっ子や妙な派閥的なグループがないとは思えない。

小汚くしていていじめの口実にされたらたまったもんじゃないからな。

 

いつもよりちょっと急ぎ気味の身支度を済ませて部屋を出る。

ちょっと寝癖が直り切っていないけど、時間が経てばそのうち戻るだろう。

 

気にしすぎかもしれないけれど、昨日のトンデモ話のせいか、廊下を歩いていると通りすがりざま、寮生からちらちらと視線を向けられている感じがする。

在室票をひっくり返しに玄関の廊下にたどり着くと、泊りで遠征に出るらしい寮生の在室票の上に外泊のプレートをひっかけているヒシアマさんと目が合った。

 

「おはようございます。」

 

「おはよう、ベノシちゃん。」

 

「ちゃん?」

 

ヒシアマさんらしからぬベノシちゃん呼びに思わず問い返す。

見れば、ヒシアマさんは笑いを堪えようとして、顔を引きつらせているじゃないか。

 

「・・・我慢せずに笑えばいいじゃないですか。」

 

「クックック・・・いや~ダメだね。

 我慢できなかったよ!

 あんな乙女な話を聞かされちゃ・・・」

 

「・・・」

 

憮然とする俺に、そっと顔を寄せて彼女が囁く。

 

「(ずいぶんと派手な目くらましを仕掛けたもんだね?)」

 

彼女は、俺があっちの世界から飛ばされてきた流れ人だということを知っている数少ない関係者の一人だ。

一応、流れ人の件を広めないでくれ、というお願いには応えてくれているらしい。

 

「(あれは俺の考えた話じゃないんですよ。トレーナーに任せたらあんなことに・・・)」

 

それを聞いて、苦笑とも同情ともつかない微妙な表情を浮かべて彼女はポンポンと俺の肩を叩いた。

 

「アンタも癖のあるトレーナーと組んだもんだね。

 それはそうと、アンタの話、栗東でも噂になったらしくてね。

 寮長のフジから、週末のアンタの歓迎会に顔出したがってる連中がいるから、料理増やしてくれとさ。

 意外と規模が大きくなるかもしれないねぇ。」

 

・・・栗東寮からは生徒会の数名が参加するだけって話じゃなかったのかよ・・・

木を隠すなら森の中、とは言うけれど、目立つ火を隠すのにガソリンをぶち撒いて周辺を炎上させるのはどうなのか。

俺はトレーナーを呪った。

 

「あと、歓迎会の衣装合わせするから、今日帰ってきたらちょっと顔貸しな。」

 

「あれ?歓迎会って制服でちょっと歌って踊って挨拶するもんだとばかり思ってましたが違うんですか?」

 

「そんなわけないだろう、アンタのお披露目だよ?

 目立つ格好でバシッとアピールしないと!

 学園ができてから先輩方が何十年もため込み続けてきた衣装があるからそれを着ていっちょキメるんだよ!」

 

「・・・まさか金船障害のあの衣装って・・・」

 

「ああ、当然あるさ。

 ・・・いいんだよ?

 アタシが着せられたあの魔法少女衣装を着てくれても。

 むしろ着てくれてアタシの黒歴史を薄めてくれるならうれしいねぇ。」

 

ヒシアマさんはニヤニヤ笑いを隠そうともしない。

・・・これは、あの魔法少女衣装や園児服と同レベルの爆弾が隠れていると見た。

 

「ま、多少のサイズ合わせだったらやってやるから、盛り上がるのを頼むよ!」

 

「善処しますよ・・・」

 

食堂じゃマンハッタンカフェ先輩に誘われ、出がけにはヒシアマさんに衣装合わせに誘われ・・・

今日も密度の濃い一日になりそうだ、そう思いながら在室票を裏返して寮を出た。

 

 

 

 

「おはようございます、たづなさん。」

 

学校の敷地に通じる門の前に、いつものように立っているたづなさんに挨拶する。

今日も緑のエレベーターガールのような衣装がよく似合っている。

あの服、制服じゃなくてたづなさんセレクトの自前の仕事着らしいんだよな。

そこらで売っているような服じゃないし、どこで見つけてきたのやら。

そんなことを一瞬考えていたら、たづなさん、きょろきょろと辺りを見回して他の学園生が近くにいないのをいいことに、いい笑顔で挨拶を返してきた。

 

「おはようございます。

 昨日はうまく行きましたね!

 アイデアを出した甲斐がありました!」

 

「たづなさん?!」

 

開口一番、挨拶と共に帰って来たたづなさんからの言葉には、俺をざっくりと切り裂く刃が含まれていた。

そう言えば、俺の知らない時にも結構ムッタートレーナーとたづなさん話す時間があったはず。

昼食後に教官との顔合わせに、と連れ立って出て行ったときも何かずっと話しっぱなしだったけれど・・・

 

「・・・あの、昨日の俺の身の上話って・・・」

 

「はい!

 大筋を私が考えて、ムッターさんに詰めて貰いました!

 多感な年頃のウマ娘のハートを揺さぶるナイスなストーリーだとムッターさんも絶賛で・・・

 ど、どうしました?」

 

あまりの衝撃に膝から崩れ落ちてリアルorz状態に陥る俺。

まさかたづなさんからフレンドリーファイヤを喰らうとは・・・

しかも、たづなさんは大成功だと信じて疑っていないようだ。

邪気のない笑顔が突き刺さる。

 

いや、そりゃ、あれだけ突っかかって来たローゼンドルネンが態度を軟化させたくらいだ、効果は抜群だったんだけどさ・・・

その代わり、俺は昨日から継続ダメージを受け続けているわけで。

代償無しに何も得ることはできないという等価交換の法則からしても、ちょっと収支マイナスじゃないだろうか。

 

「・・・ちょっと立ち眩みが。

 お骨折りいただきありがとうございます。」

 

大恩人のたづなさんに文句を言うわけにもいかない。

起き上がりながら、かろうじてお礼を言うのが精いっぱいだ。

冗談抜きでこめかみがズキズキする。

頭痛が痛いとはこのことか。

 

浮世離れした芸能人と、どこか世間ずれしている気がしてならないたづなさん。

二人は劇物、混ぜたら危険をこの身で体験することになろうとは。

 

「いいんですよ。

 さ、今日も元気に頑張りましょうね!」

 

100%善意だけの眩しい笑顔を向けられては、もう何も言えない。

小さく手を振るたづなさんに手を振り返しながら、校舎に向かった。

 

 

 

 

そして、教室。

昨日の朝には寄っても来なかったクラスメイトが、教室に入った途端カルガモ親子の行進のごとく席までついてくる。

そこからは、昨日のろくでもない与太話に出てきた消えた自警隊員の話を根掘り葉掘り・・・

これからなく付き合うクラスメイトだ、あまり無下にもできないので、とりあえずあっちの世界での死んだ親父をその自警隊員に投影しながら、機密だから言えないことも多いんだけどとごまかしつつ当たり障りのない話をホームルーム開始まで続ける羽目になった。

 

ホームルーム開始前から頭をフル回転させて、気疲れまで加わったところに、ホームルームが終わって始まったのは今度はあっちの世界に似ているようでなんか違う歴史の授業だ。

聞いたことのある俺の知っている歴史に、ところどころウマ娘化した偉人が入り混じって、まるで『ボクの考えたウマ娘世界の歴史』を延々聞かされる拷問。

しかも、それが『正史』だというのだから笑えない。

 

パラっと教科書をめくっただけでも、長篠の戦いが、連続する鉄砲の発射音に武田のウマ娘隊がパニックに陥り突撃する間もなく壊走したとか、江戸期の浮世絵に描かれる飛脚がことごとくウマ娘だったりとか、納得はできるけれど知っている歴史との違いに頭がパンクしそうになる。

飢饉がたびたび起こっていた時代には追剥ぎでヒャッハーしていたウマ娘盗賊団なんかもあったみたいだ。

姥捨て山が、ウマ捨て山と紹介されていたあたり、闇が深い。

 

そして、現在、俺の存在を含めて奇跡の大安売りをしている三女神が、その歴史に一切出てこない。

昔のウマ娘のソウルネームの扱いとかどうなっていたのかとか、身体の謎だけじゃなくて歴史の謎もウマ娘には多い。

 

知恵熱が出そうになるところに、チャイムが鳴って授業が終わる。

すぐにまた寄ってこようとするクラスメイトをかき分けて、俺はトイレに避難した。

 

お昼休み前の最後の授業は、月に一回あるかないかの数学の授業だった。

俺にとっては比較的、得意分野と言えないこともない。

けれど、数学の教科書は厚さが2ミリあるかないかのペラペラの冊子で、授業は「ここ試験に出すからなー」という数学教師の宣言と共に始まった試験問題の板書という、ただ黒板を書き写すだけの退屈な作業。

しかも内容が三角関数と平方根べき乗なんかの基礎も基礎だ。

書き写すまでもなく、普通に解ける。

けれど、クラスメイトはそうではなかったようで。

ちょっと横を見たら、真面目そうなグランマーチャンでさえも目はうつろで眠りそうになるのを必死に耐えているようで、時折首がかくっと落ちては居住まいを正す、を繰り返していた。

てうか、背後からはいびきすら聞こえてきているんだけど、数学教師は気にも留めないらしく注意するそぶりすらない。

 

入学前にやらされた学力試験でも数学なかったしな・・・

学園の専門性からして最低限の授業しかしない科目なんだろうな。

 

おざなりな数学の授業が終わると、昼休み。

食堂に向かう道中はさすがに囲まれてまた朝の話の続きをさせられたけれど、いざ席についてそれぞれが持って来た料理を目の前にして食べ始めると、さすがにみんな黙々と食べ続ける。

数人前はありそうな山盛りのプレート飯を、どんどん胃の中に納めていく。

 

今日は、朝久しぶりにいいコーヒーを飲んだせいか、反射的にカレーを頼んでしまった。

古き良き喫茶店の食事メニューは決まってカレー。

そしてこれがまたうまいんだ。

その刷り込みを何度か受けるうちに、いいコーヒーを飲むと条件反射的にカレーが食べたくなる。

 

客間に飾ってありそうなでかい大皿に盛ったカレーに、チキンカツとから揚げを10個ばかりトッピング。

付け合わせにどんぶりくらいの大きさのボウルに盛られた生野菜のサラダ、シーザードレッシング和え。

以前だったら誰が食いきれるんだこんな量!と見ただけでギブアップしそうな量を、これで足りるかな?と考えてしまうあたり俺もだいぶウマ娘化が進んだように思う。

 

元男ということもあってか、そこそこ食べるのは速い方なので、くっついてきたクラスメイトが食べ終わる前に、ドリンクサーバーからコーヒーを持ってくるくらいの余裕はあった。

以前飲んだカフェラテと違い、今日のコーヒーはサーバーから豆を挽く音がしていたので一応レギュラーコーヒーみたいだ。

 

・・・朝にマンハッタンカフェ先輩がくれたコーヒーが上質すぎるのか、食堂のコーヒーは安い豆をただ深く焙煎しただけのようで苦みが強い上に、ちょっと酸化して古くなったコーヒーの香りが鼻につく。

 

ぼちぼちと、食事を終えて恋バナとも詮索ともつかない雑談に相槌を入れていると、あっという間に時が過ぎていく。

盛り上がっている話題はちょっとアレなわけだけれど、こういうバカ話で盛り上がれるのは久しぶりな感覚だ。

忘れかけていた学生時代の感覚が時計を巻き戻すかのように戻ってくるのを感じる。

親の庇護下の元で、衣食住に困ることもなく、ただ楽しく過ごしていた日々。

昨日の話につられたクラスメイトも、飽きればそのうち離れていくだろうと、義務的に付き合うつもりだったはずが、気づかないうちに俺はクラスメイトと一緒になって笑っていた。

 

 

 

 

午後の授業の始まりを告げる予鈴が鳴る。

いつの間にか気になる男性の探り合いに発展していた他愛のない食後の雑談を切り上げて、皆バタバタと授業の準備に駆けて行く。

 

ホームルームで知らされていたけれど、今日は教官の都合で、午後一の合同教練は無し、いきなり各自トレーニングに入る。

俺は一応トレーナー付きなので例の吊り下げぬるぬるトレーニングが待っているのだけれど、マンハッタンカフェ先輩に会うのにローションの飛沫だらけで汗まみれってわけにもいかない。

コーヒー豆を頂いてからトレーニングでもいいだろう、どうせ自主訓練だし。

 

体操着の入ったバッグを抱えて、そのまま理科準備室を目指す。

中央ホールの柱に貼り付けられた案内図によると、ウイング状に張り出した校舎の建屋の1Fの一番端に、それはあった。

 

数学と同様、理科系の授業というのもあまり重視されていないのだろう理科室へ向かう廊下はひと気もなく、近づくにつれて明るいのにどこか陰湿な雰囲気が漂ってくる。

 

『理科準備室』のルームプレートが見えてきて、そこから漂ってくる病院の消毒薬とはまた異なる薬品臭を嗅いだ時、俺は思い出した。

 

理科準備室って、マンハッタンカフェ先輩だけじゃない、あのマッドサイエンティスト、アグネスタキオンの根城じゃないか!



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カフェとタキオンの居城にて

ちょっと時間ができたんではやめに仕上げられました~

リアルのウマ娘のガチャの方でもちょうどタキオンSSR来てますね~
微課金派の私はカードにまでは手を出せませんけども~


理科準備室。

普通の学校だったら、理科を担当する教師が詰めていたり、授業に使う教材なんかが乱雑に置かれている小部屋を指す、と俺は思うんだけど・・・

 

そのルームプレートがかかった入り口の引き戸が、ちょっと理科準備室に似つかわしくない代物だ。

薄青色に塗られた木製の引き戸に、ステンドグラスのような模様の入った大きな採光窓がついていて、とてもファンシーで可愛らしい。

 

どこかで見たことあるな、と思ったら、これ病院の小児病棟の部屋についてる戸にそっくりだ。

幼い頃、ずっと過ごしていた病院が、そんな感じだった。

あまりいい思い出はないけれど、ちょっと懐かしさを覚える。

 

ただ、異様なことに、その引き戸の採光窓は、ぼんやりと紫色から緑、橙色へとゆっくり変化しながら光っていた。

まるで、場末のカラオケスナックの照明のようだ。

まあ、この怪しい光の原因はわかっているのだけれど。

アグネスタキオン。

ゴールドシップと並ぶ、学園の問題児、悪夢のマッドサイエンティスト。

ゲーム画面の中でハチャメチャな事件を起こしてくれるのを眺めるのは面白いけれど、その事件が現実として自分の身に直接関わってくるなら話は別だ。

できれば、関わりたくないし巻き込まれたくない。

俺という、流れ人かつ、ヒトからウマ娘に変換されてしまったような存在なんて、知られたら格好の実験材料にされてしまう。

 

もしタキオンがこの中にいるのだとしても、興味を持たれないうちにさっさとコーヒー豆を貰ってトレーニングに向かえば、ワンチャンあるかもしれない。

意を決して、戸をノックする。

 

「どうぞ。」

 

少し低い声の落ち着いた、マンハッタンカフェ先輩の声がした。

 

戸を開けると、僅かに生暖かい空気が流れ出してきて、独特な臭気が鼻をくすぐる。

天井の電灯を灯さず、白熱電球と、実験器具から放たれるピンクやら紫やら緑色やらのケミカルな蛍光。

それらが混然一体となって、暗い部屋をぼんやりと照らす何とも異様な光景が眼前に展開されていた。

 

入ってすぐの場所は、カフェ先輩のスペースらしい。

アールデコ調のデスクライトや天球儀めいたスタンドライト、ヨーロピアンモダンなソファーにどことなく魔女の部屋めいた秘密主義者を思わせる装飾品。

それが、タキオンの研究器具から発せられる怪しい光に照らされて、暮れたばかりの夜の闇のような雰囲気をまとい、その闇を押しのけるように白熱電球のオレンジ色の光が『ここだけは人の居る場所』と主張しているような、そんな空間。

多分、タキオンの実験器具からの怪しい光が当たるのも計算して、この空間づくりをしている、そんな気がした。

 

部屋の奥は、タキオンの研究施設だ。

直射日光に当たるのを嫌ってか、遮光カーテンで窓からの太陽光は完全にシャットアウトされている。

 

実験机の上に並ぶのは一見ちょっと古めかしいガラス製のフラスコや試験管、ビーカー、蒸留筒。

棚には、遮光の茶色いガラス薬瓶に、机の足元でもくもくと冷気を吐き出し続けている金属製の大きな液化窒素容器。

液体の入った器具はどれもが怪しく紫やらピンクやら緑に光り、目まぐるしく色を変え続けているものまであった。

その全体像は、子供向けの特撮番組に出てくる悪の科学者の実験設備そのものだ。

 

正直な話、こんな小さな卓上レベルの設備で作れる薬品なんてたかが知れている・・・と思う。

けれど、それで妙な薬品を作り上げてしまうからこそ、アグネスタキオンがアグネスタキオンたる所以なんだろう。

 

さて、どうぞ、と言われて入ってはみたものの、タキオンはおろか肝心のカフェ先輩の姿が見当たらない。

きょろきょろしていたら、右手の棚の影から、制服の上にエプロンを付けたカフェ先輩の上半身がにゅっと生えてきた。

 

「いらっしゃい。

 ちょっとそこのソファーに座って待っててください。」

 

カフェ先輩のスペースのソファーのあたりから、ボフボフとクッションを叩く音がする。

お友達、がこっちだと呼んでいるっぽいな。

おとなしく、音のしたソファーの元に行って腰を下ろす。

 

ふと背後の壁の装飾を見たら、この切り絵模様、手作りっぽいな。

これカフェ先輩のお手製か。

揃えてある調度品とマッチしていて違和感がない。

こういうデザインセンスは俺にはないからうらやましいな。

 

先ほどカフェ先輩が顔を出した棚の影の奥には、小部屋があるらしく、扉のない小部屋の入り口から明かりと音が漏れている。

時折水音なんかが聞こえてくるところを見ると流し台なんかがあるのだろう。

しばらくすると、シャッシャッという音とともに、強烈なコーヒーの香りが漂ってきた。

 

コーヒー豆を、手作業で焙煎しているらしい。

パチパチと時折豆の皮の爆ぜる音も聞こえる。

10分ほどカフェ先輩の豆を炒る音を聞いていたら、あれほど強烈だったコーヒーの香りも、鼻が慣れてしまってわからなくなってしまった。

しばらくすると、トレイにカップと湯気の立つ黒いコーヒーケトルを載せてカフェ先輩が小部屋から出てきた。

 

「・・・お待たせしました。

 今、豆を挽きます。」

 

手動式のコーヒーミルに、小皿に入った豆をざらざらと注ぎ込んでいく。

よく見ると、コーヒー豆の色にばらつきがある。

大半は黒くて深く焙煎されたものらしいけれど、ところどころ、明らかに炒りが浅そうな茶色い豆が混じっている。

 

「焙煎度合いの違う豆をブレンド?」

 

「ええ。

 豆の種類も違います。

 ふふっ、豆の種類は内緒にしておきますから、いつか当ててみてください。」

 

淡々として物静かな口調のカフェ先輩の声に、わずかな喜色が載った。

コーヒーの話ができるのがうれしいんだろうか。

なんとなくだけど彼女がゴリゴリと豆を挽くハンドルを回す姿が、幾分リズムを取って上機嫌なように見えた。

 

「・・・ちょうどいい具合にお湯の温度も落ちました。

 使い捨てのペーパードリッパーはこれですが、使ったことは?」

 

差し出されたのは折り畳まれた紙製のカップに乗せるタイプの使い捨てドリッパーだ。

あっちの世界では普通に〇リタ式のドリッパーを使っていたのでわざわざ使い捨てドリッパーを買ったことはないけれど、出先のビジネスホテルなんかの部屋に備え付けてあったりはしたので、使い方はわかる。

 

「何度かはありますよ。」

 

こくりと、一度頷くと、彼女はそのペーパードリッパーを組み立てて二つのカップにセットする。

 

「粉は、この大きさのカップで、スプーン2杯くらいです。」

 

ドリッパーに挽いた豆の粉を入れ、その中央にさっと一気にお湯を注ぐ。

よくテレビに出てくるようなコーヒー名人がやるように、くるくる回してお湯を注ぐなんてことをしない。

 

「・・・このくらいの小さな使い捨てドリッパーだと、回すようにお湯を注ぐより一気に真ん中に注いだ方がお湯の巡りがいいみたいです。」

 

俺が、ある程度コーヒーの淹れ方を知っているのを見越してか、一般的な淹れ方との違いを説明してくれる。

 

お湯で膨らんだ粉がしぼみ、お湯が落ち切ったところですかさず次のお湯を注ぐ。

長い蒸らしの時間も取らない。

2度お湯を注いだだけで、カップにはもう7分目くらいまでコーヒーが溜まっていた。

お湯が落ち切る前に、ドリッパーをカップから外す。

 

「・・・腰を据えて少しずつ飲むなら、もう少し蒸らしてもいいですけれど、雑味を出さずにおいしいところだけさらって飲むなら2回注ぐくらいで引き上げるのがベストみたいです。

 どうぞ。

 マンハッタンカフェスペシャルです。」

 

マンハッタンカフェスペシャル、のところで、ちょっと声がうわずったのは、照れだろうか。

焙煎の強いコーヒーの香りで鼻がちょっとマヒしてしまってはいたけれど、嗅げばこの香りは朝貰ったコーヒーの香りそのものだ。

カップを手に取って一口頂く。

 

「いただきます。

 

 ・・・朝よりもさらに軽い口当たりですね。」

 

「この使い捨てフィルターは落ちるのが早いので、腰のある濃厚な味わいには向かないんです。

 朝淹れたのは、使い捨てじゃない陶器のドリッパーで淹れているので、口当たりは強めに出ますね。

 いずれ、ちゃんとしたドリッパーを買うのでしょう?

 その時、また豆をお分けします。」

 

彼女はまだ残っている豆を、ゴリゴリとミルで挽いていく。

挽き終えたコーヒー豆の粉を、ジップロック付きの袋に詰めると、使い捨てのペーパードリッパーが入った紙袋に一緒に入れて渡してくれた。

 

それを受け取って両手が塞がっているところに、突然顔面に何か柔らかいものが入ったビニール袋が叩きつけられるように飛んでくる。

 

「うぷっ!」

 

「あっ!

 もう、他人にものを投げて渡しちゃダメでしょう!

 ごめんなさい、私のお友達が、私が最近はまっているのを見てたらしくて、勧めろ、って。」

 

俺の顔に当たって落ちたのは、マシュマロの入った袋だ。

そら豆より少し大きいくらいの円筒形のマシュマロが、薄い透明な包装袋に入っている。

 

「コーヒーを飲む合間にちょっと口に入れると、おいしいんですよ。」

 

コーヒーの入った袋の上に、ポンと追加で積まれる。

 

「すいません、いただいてばかりで。」

 

「いえ。

 ・・・もし、その豆が気に入って貰えたなら・・・

 時々遊びに来ていっしょにお茶してくれると、嬉しい、です。」

 

「ええ、ぜひ。」

 

ふわっと、彼女の目元と口元だけがわずかに緩む。

彼女の感情はいまいち表情に出にくいせいで、淡々とした人物に見られがちっぽいけど、好きなコーヒーのことになると結構感情が表に出るんだな。

あっちの世界でガチャで引けなかった分、生のマンハッタンカフェ、というウマ娘を色眼鏡なく見ることができた気がする。

お友達のやらかしのせいで苦労しているっぽいけれど、物静かなコーヒーマニアの常識人、て感じだ。

 

「また来て。」

 

「はい、コーヒーありがとうございました!」

 

カフェ先輩を背に、部屋を出ようと引き戸を開けようとしたら、引き戸が勝手にスライドして開いた。

入ってこようとした人物と危うくぶつかりそうになる。

 

たたらを踏んで後ずさると、一番聞きたくなかった声が部屋に響いた。

 

「っと、危ないねぇ。

 

 ・・・おや?

 おやおやおやおや・・・

 カフェに来客とは珍しいねぇ。

 ふう~ん?」

 

おいとまするのが遅かった。

出会ってしまった、アグネスタキオンに。

狂気の瞳、とよく言うけれど、瞳孔の開いた瞳は、吸い込まれそうな闇を湛えていて、その瞳でじろじろと値踏みされるように見据えられるのは気持ちのいいものじゃない。

 

タキオンが後ろ手で引き戸を閉める。

彼女は自分の顎を撫でながら、覗き込むように俺を観察していた。

 

「見ない顔だねぇ。

 

 んん?

 いや、白毛で腰ほどもある長髪・・・

 

 ・・・ふむ。

 

 もしかしてデジタル君の言っていた娘かい?」

 

デジタル君の言っていた娘、と聞いて何かが記憶に引っ掛かる。

 

数瞬して、思い出した。

 

ヒシアマさんが言っていた。

三女神像の台座から助け出された俺を保健室に運んでくれたのはアグネスデジタルだと。

 

だとしたら、ものすごくまずい。

アグネスデジタルって、俺がこっちの世界に落とされた直後を知っている重要人物の一人じゃないか!

そのデジタルが、俺のことを、タキオンに話した?

 

事の重大さに気づいて、冷や汗が出る。

焦りが表情に出てしまったのだろうか、タキオンの口角が上がって何とも悪い笑顔を作る。

 

「なら話は別だねぇ。

 

 君は今から、私の客だ。

 ちょっと付き合ってくれたまえよ。」

 

気圧されてたじたじになっている俺を見かねたのか、カフェ先輩が助けに入ってきてくれた。

 

「彼女は、帰るところです。

 私たちと違って、彼女はこれからトレーニングがあるのですよ?

 邪魔をしないでください。」

 

タキオンの背後で、勝手に引き戸がガラガラと開く。

ナイスお友達!

 

俺に触れてこようとしないタキオンの横をすり抜けて廊下へ出ようと脚を踏み出す俺に、タキオンが芝居がかった声音でこんなことを言い放った。

 

「いや、彼女は私に付き合ってくれるはずさ。

 そうだろう?

 流れ人のラベノシルフィー君?」

 

俺と、カフェ先輩が凍り付く。

 

畜生!

よりにもよって、学園の二大問題児両方にバレてるのかッ!

 

ゲームでは、彼女は自分のガラスのように脆い脚を克服するために、自分も他人も省みない実験を繰り返していた。

それこそ、そのためならなんだってやる、といわんばかりの、自分のトレーナーをモルモット呼ばわりして実験台にするほどの狂気を持って。

異世界からの流れ人は、今までこのウマ娘世界にないテクノロジーをもたらしてきた、と理事長やたづなさんから聞いた。

俺がそんな情報を持っていなくても、流れ人というだけでタキオンの興味を引くに十分だ。

ここでうまく逃げおおせてもいずれ何らかの方法で『お話』させられることになるだろう。

七色に発光させられて『お話』させられるよりは、『お話』する方がましか・・・

 

「くそっ。

 わかったよ。」

 

吐き捨てるように了承すると、タキオンはひきつけを起こしたような声で笑いやがった。

 

「ヒッヒッヒ!物分かりのいい娘は嫌いじゃないね。

 カフェ、ソファーを借りるよ。

 なに、そんなに長くなることはないさ。

 お湯はあるかい?

 珍しい客人に紅茶を淹れてあげようじゃないか。」

 

のろのろと、さっきまで座っていたソファーまで歩いて、どっかりと腰を下ろす。

カフェ先輩が、そっと隣に座った。

 

タキオンが、部屋の奥からオフィスチェアに茶器を乗せて転がしてくる。

 

彼女が俺とカフェ先輩の正面に居座って、望まないお茶会が始まった。

今日のトレーニング、できないかもしれないな・・・



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タキオンの苦悩

仕事がストール気味なので続きを書くですよ~

今回、独自解釈アグネスタキオンの話になりますので、タキオンファンの方には怒られるかもしれません~
タイトルのウマ娘世界の地獄の一端を紐解く話でもありますのでご容赦を~




アグネスタキオンの手によって見たこともないデザインの紅茶缶から取り出された茶葉は、缶を開けた瞬間からその主張を始めた。

先ほどまで漂っていたコーヒーの香りをかき消すほどの強烈なベルガモット臭。

・・・アールグレイか。

紅茶にさほど詳しくない俺でも、この香りには覚えがある。

淹れ方を間違えると臭くて苦くて飲めたもんじゃない、個性の塊みたいな紅茶だ。

 

生活破綻者のはずのアグネスタキオンが、手慣れた所作でティーポットにお湯を注ぎ紅茶を蒸らす。

 

カップにもお湯を注いで温めるあたり、本格的だ。

 

・・・と感心していたら、タキオンはカップのお湯をこともあろうに、カフェ先輩のものであろうゴミ箱に捨てた。

 

「私のゴミ箱にお湯を捨てないでって何度言ったらわかるんです?」

 

さすがにむっとした声でカフェ先輩が抗議する。

 

「ああ、すまない、いつもの癖でね。

 ほら、彼女は時間がないのだろう?

 彼女に免じて許しておくれよ、カフェ。」

 

おどけながらも、お湯を捨てる行為をやめないタキオン。

 

そしてなぜかタキオンの暴挙に暴れない『お友達』。

 

こういう時、真っ先にポルターガイスト現象でタキオンをとっちめると思っていたのだけれど、お友達は沈黙したままだ。

 

お湯を捨て終わったカップに、タキオンが紅茶を注いでゆく。

注がれたカップは4つ。

 

そのうちの一つが、勝手にするするとテーブルの上を滑ってカフェ先輩の隣に移動した。

・・・紅茶のお供えを待っていたのかよ。

 

タキオンが、ソーサーに載せたカップを俺とカフェ先輩の前にも置く。

 

しかし、俺もカフェ先輩も口を付けない。

 

そんなことを気にもせず、オフィスチェアをまたかき抱くように座ったタキオンは自分のカップから紅茶を口にする。

 

「・・・やれやれ、ずいぶん警戒されたもんだねぇ。

 カフェ、私のことを彼女になんて吹き込んだんだい?」

 

「・・・何も。

 彼女がここに来てから、あなたと出会うまで、あなたのことは何一つ話していません。」

 

「へぇ?

 初対面なのに敵意にも似た視線を向けられているんだけどねぇ?」

 

「あなたの日頃の行いが悪いんじゃないですか?」

 

それを聞いて、くっくっく、とタキオンが忍び笑いを漏らす。

 

「まぁいいさ。

 ラベノシルフィー君、だったね。

 私はアグネスタキオン。

 この部屋のカフェの同居人で、ちょいとばかり薬学をたしなんでいる変り者さ。」

 

「・・・」

 

沈黙していると、答えが返ってくるものと期待していたらしいタキオンが焦れて糾弾してきた。

 

「警戒されているにしても、自己紹介くらいは交わしてくれないかねぇ?

 君が私をどう聞き及んでいるのか知らないが、初対面で色眼鏡で見ずにその目で見て判断しておくれよ。」

 

色眼鏡で見るな、って言われてもな。

ゲームでアグネスタキオンの行動を見ている限り、俺は彼女のおもちゃにされる可能性がどうしても捨てきれなかった。

最初に、彼女に付け入る隙を与えたら、いいように料理される。

それだけは何としても避けたい。

 

「・・・流れ人、という言葉を盾に強引に話に付き合わせている時点で印象はマイナスもいいところだよ。」

 

「それは失敬。

 ただ、私も必死なのさ。

 君がもしかしたら、私の探す答えのヒントを持っているかもしれないと思うとね。」

 

瞳孔の開いた黒々とした瞳で、タキオンが食い気味に迫ってくる。

何をしてくるかわからない人物が、圧迫感を伴って迫ってくる。

ここで押し切られたら、彼女のペースに呑まれる。

 

そう判断した俺は、切り札を切った。

 

「アンタの脚のことならわからないぞ。

 俺は人体や医療のエキスパートじゃない。」

 

俺がそう言い放つと、隣のカフェ先輩が、ピクリと反応した。

タキオンの脚部不安。

彼女に極親しいものしか知らないはずの秘密。

 

カフェ先輩の方を見ると、彼女と目が合う。

なんであなたが?とその目が雄弁に物語っていた。

 

視線を正面に戻すと、タキオンが半開きの口をわなわなと震わせながらカフェ先輩を睨みつけていた。

 

「・・・あなたのことは彼女に一切話していないと言ったでしょう?

 名前も、この部屋に居ついていることも教えていません・・・」

 

カフェ先輩が淡々とした口調で突き放す。

彼女の秘密は、やはり知られたくないものであったようだ。

 

「・・・それを・・・

 私の脚のことを、どこで?」

 

「さてね。」

 

口元を抑えて逡巡するタキオンに対してすっとぼけてみせる。

 

カフェ先輩を睨みつけたところを見ると、タキオンはカフェ先輩には自分の脚部不安のことを打ち明けているのだろう。

 

表向きは、ウマ娘の可能性の追求、という名目でマッドな研究に明け暮れていることになっているけれど、実のところいつ来るかもわからない自分の脚の限界に怯えながら、わずかな可能性にかけて強がって作り笑いをしているだけなのを、薄々ではあるけれど俺は感じている。

あの開きっぱなしの瞳孔は、ほとんどうつ病に近い。

恐怖と絶望に常時苛まれている証だろう。

 

だからといって、俺が人付き合いの仕方を無視した強引なやり口に付き合う義理はない。

流れ人ということを、カフェ先輩に勝手に暴露した仕返しくらいにはなっただろうか。

 

タキオンは、しばらくカチカチと、震える親指の爪を噛んで何かを考えこんでいた。

忙しなく、瞳をきょろきょろと動かし、ひたすらぶつぶつと聞き取れない言葉を呟いている。

あからさまに挙動不審だ。

 

『・・・三女神様が?』とのつぶやきを最後に、彼女は動きを止めた。

 

そして・・・何の前触れもなく、彼女の感情は突然決壊した。

 

 

 

 

ガチャガチャと座っていたオフィスチェアを蹴倒し、テーブルの上の茶器をひっくり返しながら俺の胸ぐらを掴んで咆えた。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛っ!

 

 意地悪しないでおくれよ!

 

 君も!

 

 三女神様も!

 

 なんで!

 

 どうして!

 

 そこまで知っているなら、私がどれだけ必死なのかわかってくれてもいいじゃないか!

 

 私には時間がないんだ!

 

 助けておくれよ!

 

 どんなつまらないことでもいいから!

 

 このままじゃ、何もかも終わってしまう!

 

 そんなの嫌なんだよ!

 

 何か!何かヒントをおくれよ!

 

 流れ人なんだろう?!

 

 なんでも、なんでもいいから・・・なんでもいいから・・・」

 

虐め過ぎたのだろうか。

精神を病んだ者特有の激しい感情の起伏。

瞬きもせずに見開いたままの目からボロボロと涙をこぼして懇願するタキオンの姿は、さすがに少し心が痛んだ。

そこにいたのは、心を壊しかけているただの一人の多感な年頃のウマ娘だった。

やらかしっぷりが半端ないから忘れがちだけれど、タキオンはまだ10代半ばの子供なんだ。

 

カフェ先輩が、しょうがない人ですね、とばかりに俺に掴みかかったまま固まって涙をこぼし続けるタキオンの頭を撫でる。

彼女のこういった姿を、何度も見てきたのだろう。

普段は冷たくあしらっていても、本当に嫌な相手だったらこの部屋を共有したりはしないだろうし。

 

目を見開いたまま、涙を流していた彼女はひとしきり感情を爆発させて落ち着いたのか、立ち上がって後ろを向くと、取り出したハンカチでぐしぐしと涙をぬぐっていた。

振り返った彼女の顔は泣き腫らしてひどいものだったけれど、瞳からは狂気の兆しが薄らいでいた。

 

「・・・みっともない姿を見せたね。

 そうさ、不安で仕方がないんだ。

 

 ・・・次に本気で走ったら、この脚が壊れてしまうかもしれない。

 そうなれば、私にもう価値はない。

 父にも、母にも見捨てられる。

 アグネス家にとっていらない子になる。

 

 それが怖くて、私はなりふり構わずこの脚をどうにかする方法を探しているんだ。」

 

「親に、家に見捨てられる?

 どうして?」

 

トレセン学園でも、重賞レースに勝てるウマ娘なんてほんの一握りだけだ。

ウマ娘世界でのアグネス家、というのがどういう家柄なのかは知らないけれど、アグネスタキオンは少なくとも音速の貴公子といわれるほどの快足を持ちGIを勝ち上がった存在のはずだ。

その家が、親が、走れなくなったからといってタキオンを捨てる?

図らずも、俺が『見捨てられる』と、半端に複唱したことが、また彼女の心にダメージを与えてしまったらしい。

彼女は歯噛みしたまま沈黙してしまった。

 

「・・・アグネス家は、血統を重視する家なんです。」

 

代わりに、カフェ先輩が静かに答えた。

 

「?

 タキオンは、アグネス家の実子なんでしょう?

 なら・・・」

 

「ええ、でもウマ娘ですから・・・」

 

「ウマ娘だから?」

 

意味が分からない。

ウマ娘だとなんだというのか。

 

「いや、カフェ。

 彼女は流れ人だ、おそらくウマ娘のことを多分よく知らない。

 

 ラベノシルフィー君、遺伝子、つまりDNAは知っているね?」

 

気を持ち直したらしいタキオンが口を開く。

 

「ああ。

 生物の身体の設計図だろう?」

 

「そこまで理解できているなら話は早いね。

 ウマ娘に生まれると、親子であってもDNAの連続性が無くなるんだ。

 つまり、ウマ娘に生まれた時点で親子の血縁が途絶える。

 

 昔からヒトの実子にしか家を継がせなかった我がアグネス家は、DNA鑑定技術が確立した時から、より頑固な血統主義に凝り固まってしまったのさ。

 

 笑えるだろう?

 実子であってもウマ娘はDNA鑑定で親子関係が否定されるのだから。

 

 そんな血統重視主義の家では、ウマ娘の子供は、実子であってもその家を継ぐことができない。

 独り立ちするまでは面倒は見てくれるが、それも家の宣伝塔として活躍し続ければ、だ。

 ウマ娘として生まれながら、家の役にも立たない者は、居場所がない。

 私は、実家と繋がり続けるためにも、誰にも文句を言わせない実績と名声を積み上げる必要があるんだ・・・

 

 でも、今の私では、まだ、足りない。

 

 足りないんだよ・・・」

 

寂しそうに呟くタキオンに、俺は絶句するしかなかった。

 

ウマ娘に生まれると、両親と血縁がなくなる?

そんな馬鹿なことが、と思ったが、残念なことに俺には思い当たることがあった。

 

ウマ娘とヒトは、交配はできても別種族だと聞いている。

これは俺がウマ娘世界に堕とされるきっかけになった出来事からの推測だけれど、ウマ娘として生まれるには、あっちの世界の『ベースとなる馬の魂』みたいなものが要るらしい。

それが宿ると、あっちの世界の『ベースとなる馬の魂を元にした三女神謹製のウマ娘の肉体』として生まれることになる。

俺は元の身体を作り変えられてしまったけれど、ウマ娘世界ではウマ娘として生まれることが決定した時点で胎児そのものがDNAごと作り変えられてしまうんだろう。

そこに、ウマ娘世界の実の両親の遺伝形質は・・・無い。

 

言ってみれば、置き換えられてしまうんだ、子供が。

 

あっちの世界にも、ヨーロッパに『チェンジリング』なんていう取り換え子の伝承があるけれど、まさにそれだ。

あれは妖精の仕業だといわれているけれども、こっちはウマ娘の守り神である三女神が直接やってるっていうのが性質が悪い。

自分の遺伝子を継いだ我が子が欲しいヒトにとっては悪夢でしかない。

 

産まれたウマ娘はあっちの世界の馬の性質を受け継いで、両親とは遺伝的に隔絶しているから、親に似ない。

それを昔のヒトは肌で感じ取って血統主義の名家はヒトの子にしか家を継がせないなんて話になったのか?

しかも、ウマ娘はヒトの数倍食う。

ヒトの子にこだわって、ヒトの子が産まれるまでがんばってウマ娘ばかり産まれたら、一般庶民は破産してしまう。

血統主義、なんてものを掲げるには、金が要る。

 

ウマ娘としての走りを、栄光を継ぐために成り立つメジロ家のような名家は、ウマ娘が当主になれるんだろう。

 

しかし、そうでない家で血統を重視する家は・・・タキオンの苦悩のような闇を生む。

脚が壊れて、家の役に立てなくなったら、全てを失って放り出されてしまう。

親しか拠り所のない彼女の孤独への恐怖が、彼女を狂気に追い立てた。

 

「・・・君は、日本では20年ぶりくらいの流れ人なんだ。

 専門分野が違っても、雑学レベルでもいい。

 この世界ではない、君の世界のことを教えてはくれないか。

 どんな些細なことでもいい。

 違った分野のほんのつまらないことが、私に足りなかったピースの一片である可能性があるんだ。

 どうか、頼む、頼むよ・・・」

 

縋るような態度で頼み込んでくるタキオンには、出会ったときのような人を食った様子は微塵も残っていなかった。

カフェ先輩は、言葉にはしなかったけれど、きゅっと俺の手を握って意思を伝えてきた。

追い詰められ、狂う前の素のタキオンが、今目の前にいる。

そんな気がした。

 

ウマ娘として生まれたが為に、家庭崩壊を招いたり、経済的に行き詰まったり。

ウマ娘の中でも足が速いとトレセン中央に入学してみれば上の存在を見せつけられて心が折れたり、奨学金地獄に落ちたり。

良家に生まれて勝ち組かと思えば、血統と伝統に邪魔されて隅っこに追いやられたり。

 

ヒトより圧倒的に優れた身体能力を持つウマ娘が、生きていくのに優位かといえば、全然そんなことはなかった。

 

ウマ娘にはウマ娘の苦悩があった。

 

そして何より、彼女を悩ませている『この脚さえまともだったら』という悔しさは、俺が子供の頃からさんざん経験してきたことじゃないか!

 

自分のうかつさに、目を閉じて天を仰ぐ。

 

ふぅ、とため息にも似た息を吐いて、タキオンに応える。

 

「・・・助けになるかはわからないけれど、質問にはできるだけ答えよう。

 でも期待はしないでくれ。

 アンタの期待するようなものは、雑学レベルでしか知らないんだ、アグネスタキオン。

 情報の取捨選択はそっちでやってくれ。

 こっちの世界の方が進んでいる分野もあるだろうし。

 俺の知っている全ての情報は、ウマ娘じゃなくヒトを対象としたものだしな。」

 

「・・・感謝するよ、ウマ娘の流れ人君。

 いや、ラベノシルフィー。」

 

アグネスタキオンの狂気の原因は知れた。

彼女の秘密と、内面を共有した。

協力し続ける限り、もう彼女が敵に回ることはないだろう。

カフェ先輩が証人だ。

 

一悶着はあったけれど、こうして、マンハッタンカフェ先輩とアグネスタキオンとの奇妙な交流が始まったんだ。



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そうそう都合のいい話は無い?

スケジュール読めなくなってきたのでまた投稿できるうちに投稿します~

さて、お気づきの方もいるかと思いますが、作中では「足」ではなく「脚」に漢字を変えているものがいくつかありますが、誤字ではなくて故意ですのでよろしくです~


「ふむ・・・薬学的アプローチで脚の耐久性を上げるような話はない、か。

 やはり似たような世界、医療の進歩も劇的なものはそうそうないものだねぇ。」

 

「ろくな助けにならなくて済まないな。」

 

はふ、とあくびにも似た息をついて、タキオンがビーカーの紅茶を啜る。

 

彼女がさっき感情を大爆発させて、茶器の類を木っ端みじんにしてしまったために、フラスコやら漏斗やらで淹れた紅茶がこれだ。

彼女の手元では、溶け切っていない大量に投げ込まれた角砂糖が、ビーカーの底で陽炎のように揺蕩っている。

カフェ先輩は、こぼれた紅茶がテーブルの木材に染みこんで変色してしまったのを見て、渋面を作って一人せっせとテーブルのお手入れをしている。

 

今俺がいるのは、カフェ先輩のソファーから移動して、タキオンの実験机の前。

パイプ椅子に座って無機質な蛍光灯の光の下で、ボイスレコーダー代わりの彼女のウマホを前にタキオンとお話し中だ。

 

タキオンの求めているであろう、骨や筋肉、腱なんかに関わる雑学を、頭の中から絞り出してみるも、すでにウマ娘世界にもある治療法やトレーニング方法とダブるものだらけで、これは、と思えるような情報は今のところ見つかっていない。

俺のウマホで、類似技術を探すと、普通に見つかってしまう。

しらみつぶしに検索してみても、目新しい情報は皆無、という状態だった。

 

「いや、それがない、とわかるのもまた情報だよ。

 ただ、君の世界の最先端医療は、こちらと違った方向に進んでいるようだがねぇ。」

 

ウマ娘世界と、俺のいた世界の最先端医療の方向性の違い。

何故か、ウマ娘世界では、DNAを解析することはしても、遺伝子改良に全くといっていいほど手を付けていない。

IPS細胞はおろか、臍帯血などの応用に関しても、まるでタブー視されているかのように手を付けた様子がない。

どうも生命をいじる、という部分で、ストップをかける倫理観のようなものがあるように思える。

 

「骨組織の培養、というのが実用化されているのには驚いたがね。

 あと、体内に埋め込んだ多孔質の人工骨に骨の成分が吸着して本物の骨のように成長するだって?

 おまけに老人の人工関節との交換手術が一般化している、と?

 それが本当ならどうにもならない粉砕骨折が、どうにかできるかもしれないねぇ。」

 

「多少見どころのあるものが脚を壊してしまった後の為の技術ばかりっていうのがな・・・」

 

骨折治療の分野では、俺のいた世界もこのウマ娘世界も大差なかった。

むしろ、超音波療法なんかが積極的に取り入れられていて、一般的な治療はウマ娘世界の方が進んでいるんじゃないか、と思えるほどだ。

でも、予防医療の分野では、ウマ娘世界もあっちの世界も、やっていることはほとんど変わらない。

毎日十分な栄養を取って、お日様の光を浴びて、適度な運動をしなさい。

結局はこれに行きついてしまう。

不摂生な生活、の話が出ると、タキオンは耳タコだねぇ、とまるで聞く気がない様子だった。

 

「それはそうだけれどねぇ・・・

 でも、保険にはなるかもしれないよ。

 脚を壊したら二度と走れない、というのと、元のようには無理でもまた走れる、というのは大きな違いだ。

 走るのが生きがいのウマ娘が、脚を壊して絶望して、若くして風船がしぼむようにやせ衰えて死んでしまうなんて話は聞くに事欠かないからねぇ。

 これは、理事長を通してしかるべき機関に報告書を上げてもいいかい?」

 

「俺が出どころだって騒ぎになるのは困るぞ?」

 

他人の役に立つのはやぶさかではないけれど、悪目立ちして余計なことをこれ以上抱え込みたくはない。

ただでさえ、学園内で妙な話題を振りまいて変な編入生が入って来たと、歓迎会の観客が増えるようなハメに陥っている。

これに外部の人間が加わってきたらもう収集をどうつけていいのかわからなかった。

 

「その辺は理事長がうまくやるさ。

 ウマ娘の君が不幸になるようなことは、絶対にしない人物だからね。

 第一、君の正体なんてうちの家の調査でバレる程度のものさ、バレてるところにはバレてると思うけどねぇ。

 なら、いっそ理事長の役に立って、理事長の立場を強化してやった方がいいんじゃないかね?」

 

「・・・歳に見合わず、ずいぶん達観した物言いをするんだな。」

 

「君がそれを言うのかい?

 鏡を見せようか?」

 

軽口の応酬をしながら思う。

家や親と離れたくない一心で自分の脆い脚で結果を出そうともがく幼い一面を見せたかと思えば、まるで人生経験豊富な大人の口から出てきそうなセリフを吐き出す。

こうして話していると、30代くらいのちょうど俺と同じくらいの相手と話している錯覚に陥る。

なのに、彼女を恐怖させ絶望させているのは、自分を捨てるかもしれないという家族との別離だ。

そこそこ心を許しているだろうカフェ先輩の存在があってさえ、まだ足りない。

自分の脚の問題の解決こそが、全てを解決すると思い込んでいる、そしてそう思わせて疑わなくしてしまうほどの彼女の俊足とはいったいどれほどのものなんだろう。

もし、彼女の脚に救いがなかった時、彼女の人生を丸ごと支えてやってくれる伴侶さえいてくれれば・・・

 

いや、10代半ばの学生に期待することじゃないか。

 

だけど、この時ほど、トレセンが婚活会場として働いてやってくれよ、と思ったことはない。

 

 

 

 

 

「シューズの方は、さすがにウマ娘のいるこちらの世界の方が最適化されているか。」

 

医療関係の情報なんかは、小耳にはさんだとしても詳細な構造や材料、理論なんかはわからない。

どちらかと言えば、日常で触れることの多いシューズの方が詳しい話ができるのではないかと、シューズの話に移ってみたのだけれども、こちらも正直なところ大差がない。

むしろ、脚の使い方が根本的に違うウマ娘用シューズに関しては、頑丈さや作り込みで太刀打ちできるようなあっちの世界の技術がなかった。

 

「ああ、教えて貰った中で面白いところではエアヨルダンといったかね?

 靴底にエアダンパーを、という発想は面白いが、ウマ娘の脚力だとエアダンパーの隙間に普通に緩衝材を入れた方がいいね。

 厚みが1センチにも満たないエアダンパーじゃ、相当高圧にしないと役に立たないし、そんなものが破裂したら危険だしねぇ。

 それに、過度な反発性のある素材は、レース用のシューズには規定で使えないよ。

 不正行為に分類されてしまう。」

 

「目下のところ、ウマ娘の脚の故障原因てどんなところだ?」

 

「骨折と腱断裂。

 全力疾走中に起こしやすい重篤な故障はこの2つだね。

 一番問題なのはコーナーでの脚首への過負荷だよ。

 そうだねぇ、自分の脚首が、左右にどれだけ傾けられるかやってごらんよ?」

 

言われて、片胡坐を組んで、靴ごと足首を左右に曲げようとしてみる。

 

「ほとんど可動域がないだろう?

 ところがコーナーではこの脚首に遠心力と、さらに曲がりたい方向と逆向きの反力がかかる。

 蹄鉄がある程度はかかる力を平均化してくれるとはいえ、地面に一番近い親指か小指付近に過負荷が集中するのさ。

 脚の甲の中足骨には普段かからない強いねじれの力が加わる。

 かといって、脚首が柔らかいといいのかと言えば、それも違うときたもんだ。

 脚首が柔らかいと、今度は脚首の関節自体に過負荷がかかる。

 関節の内部で普段はかからない向きに、強烈な負荷がかかるんだ。

 それを克服するためのトレーニング自体が、脚首の故障と紙一重。

 脚部不安を抱えた私じゃ、あれもダメ、これもダメでにっちもさっちもいかないのさ。」

 

お手上げだよ、とタキオンは首をすくめてみせる。

 

コーナー走行中は脚裏で負荷分散ができずに、親指か小指付近に負荷が集中してしまうのが根本的な問題か。

 

着地の際だけ衝撃を吸収して、蹴り出しの時はクッション性をなくす・・・脚力を殺さずにダンパー性能だけを持たせる。

 

粘性のあるオイルを、狭い通路を経由して通すことで得られるダンパー効果。

エアヨルダンの靴底に仕込まれたエアダンパー。

 

頭の中で、二つが結びついて、ある構造が閃いたけれど、ダメだ。

沈んだままのダンパーを、瞬時に元に戻すには、条件によって動作が制御されたワンウェイバルブが要る。

でもそれは靴底に仕込むには複雑すぎるし、トン単位の衝撃が加わりかねないウマ娘の靴底で故障せずに機能させ続けられるかと言ったら難しい。

何より、コスト的に見ても単純な構造じゃないと、実用にならない。

 

「強い圧力がかかった時だけ粘性が増す液体があればなぁ・・・」

 

頭の中に閃いた、ダンパー構造を一挙に単純化するもの。

俺のいた世界では存在しない、夢の液体。

 

「?

 それがあったらなんだというんだい?」

 

「いや、さっきのエアヨルダンじゃないけど、親指と小指の根元に、その液体を入れた丈夫なパックを仕込んでな、そのパック同士を、細いチューブで繋ぐんだ。

 圧力がかかった時だけ粘性が増して、過負荷のかかる側から負荷の軽い方へ液体が移動するとき、粘性抵抗でチューブを通るのに負荷になるだろう?

 脚を上げて圧力が抜けると粘性が消えてまた元のパックに素早く液体が戻る。

 圧力がかかった時ゆっくりパックが潰れていけば、発泡ゴムの類よりもストロークの長い、衝撃を吸収する良いダンパーにならないかと思ってな。」

 

俺の説明を聞いたタキオンは目をぱちくりさせていたけれど、ふむ、と一言呟いて考え込んだ。

そして数瞬の後・・・

 

「・・・ある。」

 

「え?」

 

「あるんだよ、強い圧力で、粘性を増して硬くなる液体が。

 

 もともとはゴールドシップがトレーナーに投げつける水風船に詰めて使う悪戯用に作らされたものだったんだが、あれは水風船にして投げつけると水飴くらいの硬さにはなる。

 

 私の作ったものだ、もちろん、粘度は調整できる。」

 

タキオンは、壁沿いの棚にすっ飛んでいくと、中の茶色い薬品瓶をどんどん床に取り出し始めた。

 

「・・・あった、これだ!」

 

タキオンが手にする一抱えはありそうなポリエチレンの遮光瓶。

 

彼女が『ボディーブロー1号』とラベルの貼ってあるその瓶から、空のビニール袋に中の液体を入れる。

 

流し込まれる様子は、一見ただの水だ。

 

ビニール袋の口を縛って、彼女はおもむろにそれを頭上に放り投げた。

 

ベチッ!と妙な音を立てて床に落ちたその液体入りの袋は、半ばほど変形したところで、まるでビデオを静止画像にしたかのように一瞬変形をやめてそのままの形で固まってみせ、すぐにだらりと潰れた。

 

どうだ、と言わんばかりにニヨニヨと薄ら笑いを浮かべるタキオンが、紙と鉛筆を差し出してくる。

 

「さ、君の頭の中にあるアイデアをスケッチに起こしたまえ。

 ウマの脚と行動は速いほどいい。

 すぐに試作させよう!

 

 ・・・しかし、君はシューズの専門家じゃなかったはずだろう?

 いつこんなアイデアを思いついたんだい?」

 

受け取った紙に、シューズの三面図を雑に起こしながら答える。

 

「思いついたのは今この場だな。

 オイルと流量制限を利用したダンパーは俺の専門のバイクの分野じゃよく出てくるものでね。

 あとはさっきのエアヨルダンと、船のバラスト水タンクの構造からかな。

 ただ、圧力を加えると粘性が増す液体がないと、構造が複雑になりすぎて話にならないんだ。」

 

「そんなものに必要な材料が、都合よくこの場にねぇ?

 

 君は三女神様に愛され過ぎじゃないかい?

 もしそうだとしたら、これはちょっと期待してもいいのかねぇ?」

 

「そう簡単にいくかな?

 ウマ娘の脚力に耐える液体入りの靴底だ、試作だけでも相当な数がいると思うぞ?

 ただ1足を作るなら数十万もあれば可能だろうけど、完成度を求めたら百じゃきかない。」

 

ウマ娘の脚を壊すようなピンポイント荷重を支えて破裂しないカーカス構造の液体パックに、その粘度。

パック同士をつなぐチューブの最適な太さ。

パックを詰めることによる靴底の強度不足によるよじれ対策。

そして粘度の高い液体が狭いところを繰り返し無理やり通るために発生する熱と冷却構造。

ちょっと考えただけで、相当の試行錯誤が必要だと想像できる。

 

「う・・・私のポケットマネーじゃきついかもしれないね。

 いくつかのメーカーに、商品化権を餌に開発試作するよう当たってみてもいいかい?」

 

「任せるよ。

 俺は靴屋じゃないんだ、好きにしてくれていい。」

 

「助かるよ。

 じゃぁ・・・ウマホの番号、教えてくれるかい?」

 

なぜかちょっと逡巡する様子を見せながら、彼女が机の上のウマホをもてあそぶ。

 

「ほらよ。」

 

俺のウマホを操作して、電話番号を表示させ机の上に置くと、彼女はそそくさと番号を入力して俺のウマホを鳴らした。

かかってきた番号に、アグネスタキオンの名を入力して登録する。

 

「何か進展があったら連絡するよ。」

 

ウマホを戻そうとすると、その腕がぐっと掴まれた。

 

「私も登録お願いします・・」

 

音もなく背後に忍び寄っていたカフェ先輩が、にゅっとウマホを突き出してくる。

 

「私の番号はXXX-XXXX-XXXXです・・・」

 

俺のウマホからかけろ、ということらしい。

聞いた番号を打ち込んでコールすると、カフェ先輩のウマホからどこかで聞いたことのあるメロディーが流れる。

エーデルワイス、だっけか。

 

なんとなく黒のイメージがあるカフェ先輩が、白を讃える花の曲を着信音にしているのは、ちょっと興味深かった。

カフェ先輩の番号も、電話帳に登録する。

 

カフェ先輩が、登録し終わったウマホを片手にぶら下げたまま、どこか勝ち誇ったような雰囲気をまとって、タキオンを見下ろしていた。

 

「・・・なんだいカフェ?」

 

「彼女に出会ったのは私が先・・・

 電話を先に貰ったのも私・・・

 あとから来て横攫いはダメ。」

 

カフェ先輩の宣言に、タキオンはフっと鼻を鳴らして笑った。

 

「・・・カフェが、嫉妬するとはね。」

 

「嫉妬じゃない。

 彼女は学園では珍しいコーヒー仲間。」

 

「それを言うなら私の研究仲間でもあるんだがねぇ?」

 

見えない火花を散らしながら始まった睨み合いをぶち壊して、口をはさむ。

 

「・・・じゃ、そろそろ、トレーニングに戻ってもいいですかね?

 寮の門限考えるとギリギリもいいところなんで・・・」

 

時間は、午後三時をとっくに回っていた。

機材の片付けに手間取るのを考えると、トレーニング時間を2時間確保できるかどうか。

そして寮に帰ればヒシアマさんが怪しげな衣装を片手に着せ替えショーが待っていると来たもんだ。

 

「おっと、時間を取らせないと言いながら、だいぶ遅くなってしまったね。」

 

「・・・ごめんなさい・・・」

 

「いえ、トレーナーがしばらく外出中なもので、自主練だからまぁ自由にはできるんですけれど・・・

 特殊なトレーニングだから機材の準備と片付けが面倒なんですよ。」

 

「へぇ、君の言う特殊なトレーニングっていうのはどんなものか興味があるねぇ。

 ちょっと見させてもらってもいいかい?」

 

興味津々、といった感じで、タキオンがついていきたそうにしている。

 

「準備を手伝ってくれるなら。」

 

ちょっと考えてみたけれど、あのトレーニングでタキオンが何かをやらかすような要素はたぶんない。

正直な話、機材の設置だけでも結構大変だ。

ウォーターベッドを引っ張り出す手伝いをしてくれるならそれだけでありがたい。

 

「私は遠慮しておきます・・・

 これ以上邪魔したら悪いもの・・・

 あなたも、彼女の邪魔をしないように。」

 

「邪魔なんかするわけないじゃないか。」

 

そううそぶいて、彼女はさっさと立ち上がる。

 

「さぁ、時間がないんだろう?

 早く行こうじゃないか!」

 

妙なやる気をみなぎらせたタキオンに引っ張られるようにボストンバッグを抱えて理科準備室を出る。

 

「カフェ先輩、また!」

 

小さく手を振る彼女を後に、俺とタキオンは校舎の出口に向かった。



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タキオンの恩返し?

や、ちょっと作品ページのあらすじをソフトな感じに書き換えたら、今までにないペースで評価もお気に入り登録も増え始めてびっくりです~

友人からちょっとお高くていいお酒を貰ったので最近ちょっと感想欄のお返事が極力答えないはずが暴走気味になってしまっていますが~

ま、酔っぱらいのやることなのでイイデスヨネ!(酩酊中


「・・・なぁタキオン、当然のように俺を共犯に巻き込むのはやめてくれないか?」

 

「共犯とは人聞きが悪いねぇ。

 有効活用だと言ったろう?」

 

タキオンが、せっせとウォーターベッドの表面に、灰色がかったうっすら透けるフィルムを貼っていく。

そのフィルム、幅が1メートルほどで、直径15センチほどのボール紙の芯に何メートルか巻いてあるのだけれど、あっちの世界と同じ値段であればこの1ロールだけで推定50万円はくだらない。

そんな高価なフィルムを、無造作にベッドの表面に貼り付けていく。

これが、タキオンの私物ならまだいい。

困ったことに、これはどうやら学園の死蔵資材らしい。

俺もその貼り込みを手伝っているのだから、もう立派な共犯者だ。

これでもかとばかりに、タキオンは、やっぱりタキオンだと思い知らされた。

 

事の始まりは、つい先ほどにさかのぼる。

 

 

 

 

「・・・準備と片付けに手間がかかる、とは聞いたけれども、納得したよ。

 ピッチ走法へのフォーム矯正に、こんな方法を使うとはね。

 ウマ娘の脚力で万が一にも足を壊さないためのウォータベッド、比較的掃除がしやすい潤滑剤としてローション。

 機材は奇抜だが、理には適っている。

 あいにく、バラエティ番組はおろか、テレビ自体を見ないものでね、ムッターというトレーナーのことは知らないのだが、よく考えられているよ。」

 

体育館のステージ上で、二人して引っ張り出してきたウォーターベッドでどういうトレーニングをするのか、実際にワイヤーにぶら下がってやって見せて説明したところ、ひとしきり笑った後にタキオンが言った言葉だ。

 

「しかし、何も愚直に用意された機材を使わなくても君ならもっと効率的な方法を編み出せそうなものだがね?」

 

「俺はウマ娘の走りの基礎を知らないからな。

 基礎を知らずに、思い付きで工夫したところで改悪するのが関の山だ。

 まずは、言われた通りに経験を積むのは基本中の基本だろう?」

 

「ほう?

 そのムッターというトレーナーは堅実ないい生徒を持ったようだね。

 じゃぁ、ウマ娘の走りの基礎を知っている私から、少々改良案を出させて貰おうか。

 このままちょっと待っていたまえ。」

 

タキオンは、ステージを降りると小走りに体育館から出て行った。

 

10分ほどしただろうか。

制服を埃まみれにして、彼女が何か筒状のものを抱えて戻ってきた。

 

「待たせたね。

 これがあれば、ローションはもういらないだろう。

 さぁ、さっさとベッドに貼ってしまおうか!」

 

1メートルほどの幅の、透けて見えるほど薄いフィルムが巻かれたシートロール。

彼女はそれを、ウォーターベッドの上に転がすと、どうやら粘着フィルムになっているらしいそれの裏紙を剥がしてベッドの端に貼り付け始めた。

 

「ぼさっと突っ立っていないで貼るのを手伝ってくれると嬉しいんだがねぇ?」

 

「ああ、すまん。」

 

ベッドの端に貼り付けられたその表面に触れて、驚いた。

ぬるりと滑るその感触には覚えがある。

 

「タキオン、これ・・・」

 

「わかるかい?

 テフロンフィルムさ。」

 

「ばっ・・・おまっ・・・」

 

思わず言葉を失った。

テフロン。

フライパンの表面加工でおなじみの、熱にも酸にもアルカリにも強く、水も油も両方弾く物質。

平滑に加工されたその表面は濡れた氷の上と同じく、ものすごく摩擦抵抗が少ない。

フライパンに使えるほど安価で便利なコーティング技術として知られているけれど、樹脂加工されたテフロンはちょっと違う。

分厚いものはともかく、こんな透けて見えるほど薄いフィルムになると、値段がドンと跳ね上がる。

さらに、テフロンは水も油も弾いてしまうので、一般的な接着剤が使えない。

粘着フィルム化した極薄のテフロンフィルムロール。

今ここで手で押さえている10センチほどの長さを使っただけで、数千円から万に手が届く値段がするはずだ。

それを、暴れるウォーターベッドの表面に、皺だらけ気泡だらけで無造作に貼り付けていくタキオン。

 

「こんな高価なものを惜しげもなく・・・本当にいいのか?」

 

「ああ、気にすることはないよ。

 私のものじゃないしねぇ。」

 

聞き捨てならないことを聞いた気がする。

 

「・・・今、なんて言った?」

 

「私のものじゃない、と言ったのさ。

 なぁに、理科準備室の隣にある倉庫に、管理もされず埃を被って放置されている資材の一つだ。

 使われずに朽ちていくよりは有効活用してやった方がいいというものだろう?」

 

一瞬でも、タキオンが身銭を切ってこんな高価なものを使ってくれたのかと思った俺が馬鹿だった。

まさかの、学園の高額資材無断使用だ。

俺は、図らずしも、タキオンの共犯者に仕立て上げられたってわけだ。

 

 

 

そして、現在に至る。

ウォーターベッドを二人がかりでひっくり返して、裏にもテフロンフィルムを貼ると、一人でベッドを引きずっても移動させることができるようになった。

とはいえ・・・

 

「新人の事務員の一か月の給料分くらい使っちまったな、テフロンフィルム・・・」

 

「そんなに気に病むことじゃないと思うがねぇ?

 どうせ死蔵されていたものだ、トレーニングに必要だったと言えばあの理事長なんか喜んで許可をくれそうなものだが。」

 

脳裏に、理事長の『承諾ッ!有効活用せよ!』とあっさり許可をくれそうな姿が浮かぶ。

実際、学園の教育カリキュラムにどういう経緯があったのかは知らないけれど、立派な理科室があるにもかかわらず、理科の授業は本当に年に数回、数えるほどしかないらしい。

それも、教科書もなく、ただひたすら投影された動画を見続けて感想文を書けというようなよくわからない理科の授業だという。

実験機材を使うなんてことはまずないそうだ。

理科準備室が希望するカフェ先輩とタキオンにあっさり貸し出されていることからも、理科が重要視されていないのがわかる。

このテフロンフィルムもタキオンの言う通り放置しておけば使われずに忘れ去られていた資材なのかもしれない。

 

「まあ使っちまったものはしょうがないか。」

 

テフロンフィルムを張り付けたベッドの上に、靴下姿で立つ。

ローションのように滑って転ぶほどではないけれど、つま先で表面を掻いてみれば十分滑る。

ローションの後片付けをしなくて済むのなら、ウォーターベッドをステージ袖に引っ張り込んで、ワイヤーを引き上げれば片付けは終了だ。

10分もかからずに撤収準備ができる。

これなら、今日寮の門限ギリギリまでトレーニングすれば昨日と同じくらいはトレーニングできるだろう。

 

「今日奪ってしまった君の時間を少しは返せたかねぇ?」

 

「ああ、これからしばらくトレーニングすることを考えればお釣りがくるよ。

 ありがとうタキオン。」

 

「そう素直に礼を言われると調子が狂うねぇ。

 今日出会ったときはあんなに警戒されていたというのに。」

 

「その警戒を多少なりとも解くことになったいきさつを俺の口から聞きたいか?」

 

「・・・藪を突ついてしまったかねぇ。

 さて、君の特殊なトレーニングは見ることができたし、ここらへんでおいとまするよ。

 シューズの件に進展があったらウマホで連絡するからね。

 ・・・もし、私の研究室に遊びに来るなら甘い茶菓子を持ってきてくれるとありがたいねぇ。」

 

タキオンが、暗に手土産持参でたまに遊びに来いと誘いをかけてきやがった。

残念ながらタキオンの脚自体を強化するような話は提供してやれなかったが、補助具としてのシューズの改良という進展があったことで、多少精神的に余裕ができたのだろうか。

 

ステージを隠す垂れ幕の隙間からひょいと飛び降りると、彼女は振り返りもせずに体育館を出て行った。

 

テフロンフィルムのロールを置いて。

 

さりげなくフィルム無断使用の責任を押し付けていくあたり、抜け目がないというか計算高いというか・・・

でも、実際に使うの俺だしな。

どうせ忘れ去られていたものだ、見つかったところでこれがなんだかわかる者は学園内にそういないだろう。

 

残された俺は、黙々とトレーニングにいそしんだのだけれど・・・

一人でするトレーニングというのは集中しているうちはいいけれど、案外寂しいものだな。

一人で作業することには慣れているつもりだったのだけれど、なんだか急に周りに誰もいないのが気になり始めて、トレーニングを中断して、ちょっとだけステージを隠すカーテンを上げて隙間を作ってしまった。

 

ステージ下の体育館で、安全教練を受けている学園生の喧騒が聞こえてくると同時に、スッと心が軽くなる。

おかしいな、こんな人恋しい、なんていう感情は、ウマ娘になる前でも感じなかったはず・・・なのに。

一人暮らしをして、一人でいるのが当たり前だった時間が長かったはずなのに。

 

急に、知り合いが増えたからなのか、それともこれがウマ娘の身体になったことが引き起こす変化なのかわからないけれど、俺はなんか孤独耐性を大幅に失ったらしい。

 

中等部一年生の安全教練をBGMにして2時間ほどのトレーニングを終えた。

 

タキオンのテフロン改造のおかげで、片付けはすぐに終わる。

 

 

バッグを抱えて寮に戻ると、玄関にヒシアマさんが待ち構えていた。

 

「遅かったねぇ?ベノシ。

 さぁ、準備は万端整っているよ!

 衣装選びに行こうじゃないか。」

 

普段のヒシアマさんとずいぶん様子が違う。

そわそわしていて、なんか今にも駆けだしそうだ。

スリッパに履き替える暇もなく、がっしりと肩を組まれて、寮の奥へ奥へと引きずり込まれる。

 

「ちょ!ヒシアマさん!汗かいてるから先に風呂に!」

「風呂よりも優先することがあるだろう?」

 

そしてそのまま、ズルズルと俺は大浴場のさらに先にある、怪しい部屋に連れ込まれてしまったんだ。

 



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歓迎会の衣装選び

お仕事ストール中につき、更新間隔安定しない日が続きます~

リモートはいいけど現物のやり取りに数日かかる仕事ってこういう時困りますね~


なんでこんな辺鄙なところにこの部屋を作ったのか、設計者に問いただしたいようなところに、その部屋のドアはあった。

大浴場側面を這うように、どこにつながっているわけでもないただ長く細い廊下の奥の奥。

突き当りの非常口と、脇のそのドアだけが、この廊下の終着点だ。

 

『娯楽室』

 

そう書かれたネームプレートが掲げられたドアは、寮の他のドアと比べてどこか時代に置き去りにされたような、一昔前の木製の安っぽい合板ドアだった。

寮生が入居している部屋のドアは、改築で防音性の高いものに替えられたのか、比較的最近のものだったけれど、ここのドアは、時代を感じさせるほどに古い。

昔は部屋のドアもこれと同じだったのかもしれない。

 

スマホなんかがまだ流行っていなかったかつては、寮生活での少ない娯楽を求めてこの部屋に出入りする寮生が多かったのだろう。

シンプルなステンレス製のドアノブの周りはニスが剥げ、合板に印刷された木目模様さえも剥げ、地肌のベニヤがむき出しになってささくれ立ち始めていた。

 

かつては、というのは、ヒシアマさんがカギを開けて開いたドアの内側が、廃墟のような様相を呈していたからだ。

 

部屋の広さは、結構ある。

学園の教室よりちょっと大きいくらいだ。

 

けれど、目の前に飛び込んできたものと言ったら、ラシャが破れて朽ちかけたビリヤード台、斜めになってもはや自立すらできない卓球台、複数あるちょうど四人で囲めそうな大きさのテーブルは横倒しに隅っこに追いやられ、トランプやボードゲーム、麻雀セットなんかがごっちゃになって大きなポリ袋に詰められて転がっている。

 

壁にかかった時計は動いていないし、何かパーティーをやった名残なのか、壁の一部には金モールとチリ紙で作られた花が貼り付けられたままだ。

 

そういったかつての娯楽室の設備の残骸は隅に追いやられ、どうやら今は倉庫として使われているらしい。

壁際には使い古しのシーツやカーテンなんかが覆いとしてかけられた、背の高さくらいのなにかが列をなしていた。

 

ヒシアマさんが、その覆いをめくり上げると、屋外用の物干し台と物干し竿に鈴なりになった色とりどりの衣装が現れた。

壁一面を埋め尽くしているのだから相当な量だ。

 

「どうだい、大したもんだろう?

 100以上あるから好きなのを選びな!

 ちょっとサイズが合わないくらいならアタシが直してやるからさ!」

 

どこかうきうきとした感じで、ヒシアマさんが大型のホチキスのようなものを掲げて、ウィンウィンとモーター音を響かせる。

 

「それなんです?」

 

「最新型のハンディミシンさ!

 ウマチューブを見ていたら、便利グッズで紹介されててね。

 今日届いたばかりなんだよ!

 ちょっとした裾上げくらいなら簡単にできるって言うから試してみたくてねぇ。」

 

まるでおもちゃを買ってもらったばかりの子供みたいないい笑顔で、ハンディミシンを振り回すヒシアマさん。

趣味の新兵器を手に入れて使いたくてうずうずしてたんだな。

料理が得意なのは知っていたけれど、裁縫もか。

主婦力高いな。

ヒシアマさんはいいお母さんになりそうだ。

 

「さ、この中から、良さそうなのを見繕っておくれ。

 多少の手直しで何とかなりそうならちゃちゃっとやっちゃうからさ!」

 

話しながら、ヒシアマさんは次々と衣装にかけられた布をめくっていく。

 

「この辺が、魔法少女衣装だよ。」

 

わざわざその区画だけ引っ張り出してまで魔法少女衣装を推してくる。

何とかして俺を魔法少女仲間に引きずり込みたいらしい。

実に困ったことに、これらの魔法少女衣装、ちょうど俺の背丈くらいのものが多いのだ。

 

すぐ着られそうな魔法少女衣装は、見覚えのある衣装がいくつかある。

子供の頃、学校から帰ってきて何もすることがなくて夕方ぼーっとアニメを見ていると、時間とチャンネルによっては魔法少女ものがよくやっていて何気に全話見てしまったものも少なくない。

似通った世界だからなのか、そのアニメの衣装もほとんど同じものだ。

 

魔法少女衣装、とは言っても、古いものはただのシンプルなワンピースにしか見えないものから、ヒシアマさんが金船障害で着る羽目になった最近のものに多いピンク基調で比較的複雑なデザインのものまで。

それぞれ、衣装とセットになっているらしいハートの形だったり星の形だったり、イミテーションの大きな宝石がついたステッキが、衣装と一緒にぶら下がっている。

・・・ところどころ、俺の記憶にないカットの際どいハイレグなセパレートやワンピース水着にフリフリを付けただけにしか見えないようなものとか、子供サイズのナース服らしきものが混じっているんだけど、これも魔法少女衣装なんだろうか。

水着タイプのものは、強制的にへそ出しになるようカットが入っていたりするものが多いあたり、最近の大きいお友達用のアニメから来ているのかもしれない。

まあ、どっちにしろ、汗をかいたこの状態じゃ、水着タイプのものは試着できないし、サイズの手直しも難しそうだからこのままぴったりなサイズのものでもない限り着ることはないだろう、うん。

 

魔法少女衣装以外のものを漁ってみると、スカートタイプではおおむねマーチング衣装系のものと、ドレス系のものが多かった。

・・・赤いマーチング衣装は、ダメだ。

ただのゴルシコスプレになる。

こんな格好をしてステージに立って、『このゴールドシップ様のコスプレとは百年早ぇぜ!』と、本人の乱入を招いては困る。

さすがに、カオス空間が出来上がるとわかっていて地雷を踏みに行くわけにはいかない。

 

ドレス系は、まんま市販のパーティドレスみたいなのが多かった。

無難だけれど、その分、生地がしっかりしたものが多いので安っぽさがない。

数も多いのでそれなりに軽い手直しで着られるサイズのものもありそうだ。

第一候補はこのあたりからだな。

 

ズボン系は、おかしなものが多い。

宝塚を思い起こさせるあちこちにラメをちりばめたキラキラ衣装があるかと思えば、バンカラ学生服セット、プレスリー衣装って言うんだろうか?腕にずらっと紐が垂れ下がって胸元がVの字に大胆にカットされた上着と、ズボンの裾がやたらと広くなっているパンタロンズボンの組み合わせ。

バカ殿衣装なんかもあった。

どう見てもウケ狙いの宴会芸用衣装ばかりだ。

しかも、ガタイがいい寮生が着ていたものが多いのか、丈は長いし、胸の部分が大きめに作ってあるものばかりだ。

俺の身体つきじゃつんつるてんのがっばがばになること請け合いで、直しが効くレベルじゃない。

 

ヒッピー系というのかジプシー系というのか、やたらと民族衣装っぽくて手間のかかってそうな衣装のセットや、晴れ着みたいな派手な和服っぽいのもあったけど、これも丈が合わない。

 

 

ざっくりと流してみていくと、端っこの方で、ヒシアマさんが覆いを剥がずにかけたままにしている区画があった。

 

「ヒシアマさん、これは?」

 

「ああ、そこらは、ちょっとね。

 こういう催し物には使えない衣装ってやつかね。」

 

「見ちゃダメ?」

 

「見るのはいいけど、あまり粗雑に扱わないでおくれ。」

 

ヒシアマさんの意味深な言葉に首をかしげながら布の覆いをめくると、意味が分かった。

 

個性あふれる上下の衣装に、衣装デザインに合わせたレース用の蹄鉄シューズ。

今まで見てきたものとは違う、一級品の輝きを纏った本物の勝負服が数着、静かに眠っていた。

 

「見ての通りさ。

 あと一歩でGIに手が届く、ってところで、何らかの理由で袖を通されることなく、寮に取り残された勝負服たちだよ。

 持ち主の無念を思うと、処分することもできないらしくてね。」

 

和紙やビニールに包まれた、タグすら外されていない未開封の衣装や、ビニールをかぶせられてハンガーに吊られたもの。

どれもこれも、ただ一人のウマ娘の為に仕立てられ、レースを走ることも観衆に披露されることもなく役目を終えてしまった勝負服。

 

その中でも、ただ一着、トルソーにかけられている青白いワンピースドレスが俺の目に入る。

 

布の覆いを被せられただけで放置されていたそれは、わずかばかり埃が積もってしまっていたけれど、人型のトルソーに着せられていることもあって、他にはない存在感を放っていた。

 

Vネックの襟をぐるりと覆う銀糸の細い刺繍。

シンプルに直線的にカットされた肩回り。

腰までほぼ身体のラインに緩やかにフィットして、そこからひざ下あたりまで僅かに広がるスカートの鋭角的なシルエット。

ウエストを絞った先のスカートには、顕微鏡で見た氷の結晶のような幾何学的なデザインの刺繍が服の生地と同じ色の糸で施され、親指の先ほどの大きさで服の色よりわずかに濃い色の菱形にカットされた宝石がいくつもスカート裾近くにあしらわれている。

光の当たり方による印影だけで刺繍を浮かび上がらせる控えめな修飾が、前に出すぎない自然な高級感を漂わせていた。

そしてそれに合わせられた、青と白の細かいストライプの入ったハイヒールタイプの蹄鉄シューズ。

 

『氷』

 

見ただけでわかる、単純で強烈なイメージ。

 

僅かに埃をかぶりながらも、それはぼんやりと光って見えた。

 

冬の岩肌で凍り付いた滝が、こんな色をしているのを見たことがある。

青白い光をぼんやりと放つそれは、荘厳で美しく、そして近寄り難い。

 

でも、目を奪われる。

 

微かに感じる拒絶感。

触れるな、おまえにはまだ早い、そう言われている気がした。

 

そっと、勝負服たちに覆いをかけ直す。

確かに、あれは、コスプレなんかで着ちゃいけない代物だ。

そんなもので穢してはいけない、想いのこもった一品だ。

 

「もういいのかい?」

 

「ええ。

 氷の女王様に怒られました。

 おまえにはまだ早いって。」

 

今の俺じゃ、あれに触れる資格はない。

 

「へぇ。

 まだ、ってことはアンタもいつか勝負服を着ようっていう、そのくらいの気概はあるんだね?」

 

ヒシアマさんに言われて、自分がなぜ『まだ』などと思ってしまったのか、ちょっと混乱した。

ウマ娘としての走り方を叩き込まれている最中の俺が、GIレースに手が届くと思っている?

今俺の脳裏に浮かんでいるのは、目の前に立ちふさがるとてつもなく厳しく高い岩山だ。

頂上は雲に隠れて、まだ見えもしていない。

 

 

 

 

・・・その後の、歓迎会用の衣装選びは難航した。

丈が合いそうなのに、バストやウェストが合わない。

もしくはその逆。

数センチ大きいくらいならヒシアマさんが調整できるらしいのだけれど、10センチを超えてくるとシルエットそのものが崩れてくるので見栄えが悪い。

小さすぎて入らない衣装は、論外。

過激な物や、魔法少女衣装は俺が頑なに選ばないので、ついにヒシアマさんがキレた。

 

「あー!もう!埒が明かないよ!

 アタシがアンタに着られそうなのを選んでくるから、その中から選びな!」

 

瞬間、目の前を白いもので覆われる。

タオルだ。

ヒシアマさんと同じ、甘い香り。

ぎゅっと頭の後ろでタオルを縛られる感じがした。

 

「あれもやだこれもやだじゃいつまでたっても決まらないからね。

 アタシの選んだ候補の中から、目隠しで一発勝負。

 いいね?」

 

衣装選びのはずが、衣装の闇鍋パーティーに化けてしまった。

嫌です、と言ったところで聞いちゃくれないんだろうなあ。

 

「・・・ちゃんとした衣装も混ぜてくださいよ?」

 

「アタシがする勝負だ、信じな!

 ちゃんと公正に選んでやるから。

 何ならあとで確認すればいいさ!」

 

「は~い。」

 

俺も、いい加減風呂に入って夕飯を食べたい。

 

・・・カチャカチャと、衣装を移動させている音がする。

しばらくして、音が止んでヒシアマさんの脚音が近づいてきた

 

「こんなもんかね。

 20ほど候補があるから、その中から選びな。

 やり直しは無し、5分間一発勝負だ。

 スタート!」

 

目隠しをされたまま手を引かれて、トンと衣装群の中に放り込まれる。

 

5分て、全部探ってみるにはあまりにも短い。

 

急いで、衣装に手を伸ばして触る。

 

だいたい首元や肩口、スカートの裾にフリフリがあるのは魔法少女服かローティーンが似合いそうな幼いデザインのものだ。

襟があるのも、メイド服だったりナース服だったり、地雷衣装な気がする。

 

それ以外の、どちらかというとシンプルな手触りのものが勝負の鍵!

 

全体的にモフっとしている感触の衣装が並ぶところを去ると、チッ!という舌打ちが聞こえる。

・・・いや、ヒシアマさんのブラフかもしれない。

 

ハンガーにかけられたものが終わり、今度はマネキンやトルソーに着せられているらしい立体的なものが増えてきた。

 

お腹のあたりで、マネキンやトルソーの地肌に触れてしまうものや、明らかにセパレート水着っぽいものも却下。

 

そして、一つのマネキンが着ている物の手触りにたどり着く。

上半身はタイトなシャツか?

タンクトップかもしれない。

肩にかかっている布の感触が袖なしのシャツのもののような気がする。

 

下半身には腰回りに布の塊を巻いたような感触があり、ゴワゴワした生地がスカートのように下に垂れている。

 

右側にスリットが入っているような感触が気になるけれど、これはきっとタンクトップに腰巻ジャンパーか片スリットスカートのちょっとカッコいい系の衣装に違いない!

 

「これにします!」

 

「・・・それでいいんだね?

 じゃぁ目隠しを取りな。

 

 ・・・やれやれ、これじゃ、ハンディミシンの出番はなさそうだねぇ。」

 

残念そうなヒシアマさんの声を聞きながら目隠しを取ると、目の前には予想だにしなかった衣装が鎮座していた。

 

黒地で、お腹から腰に掛けてでっかい金の流星マークの入った、片肩掛け・片脚ハイレグのレオタードスーツ。

腰回りに巻かれて垂れ下がっているのは、虹色に輝くホロラメ入りの粗いガーゼ状のクロス。

 

見るからにアメリカンな、ローラースケーター向けのステージ衣装のようなものだった。

生地をつまんでみると、よく伸びる。

俺の体形でも、普通に着てしまえそうな代物だ。

 

「・・・一発勝負の約束だからね。」

 

ヒシアマさんと目を合わせた瞬間に釘を刺される。

片付けられ始めた衣装の中には、ごく普通のワンピースなんかも交じっていたのに・・・

 

決定した衣装のマネキンをしげしげと眺めてから、ヒシアマさんがマネキンから衣装を脱がして袋に詰めた。

 

「ちょっと寮長室まで顔貸してくれるかい?」

 

娯楽室を後にして、ヒシアマさんと一緒に寮長室に行くと、ヒシアマさんが衣装の袋に何かを追加してよこした。

 

「バリカン?」

 

袋に追加で入れられたのは、充電式のバリカンらしきものと、下着屋さんで履かされた使い捨ての紙のパンツTバック版詰め合わせ。

 

「バリカンじゃなくてトリマーだよ。

 黒地の衣装にアンタの毛色じゃ目立つからね。

 両方とも、使い方はわかるね?」

 

黒地の衣装に俺の毛色?と一瞬何のことか考えてしまったけれど、次の瞬間理解した。

ああ、確かに、男の時はこんなもの着ないし気にしたこともなかったから思い至らなかった。

確かに、何も処理しないでこんな脇丸出しの片脚ハイレグなんて着たら大恥をかいていたかもしれない。

 

自分のうかつさにちょっとロボットみたいになりながらコクコクと頷き、礼を言ってヒシアマさんと別れた。

こういうところで、まだ男の感覚のままなのが露呈するんだよな~。

 

お風呂で汗を流して夕飯を食べてからの、部屋での試着。

 

だいたいこのあたりまでカットすればいいかな、と見当をつけてバリカン、いやトリマーに火を入れる。

 

結論から言うと、あっちの世界で、ひげを伸ばしたことも、伸びたひげの生え際を揃えたこともない俺が、トリマーなんていう切れ味の良すぎるものを扱うべきじゃなかった。

 

玉ねぎの皮剥きと同じで、右が、左がと腕もないのにこだわってバランスを整えていくと、最後には何も残らないんだ。

まあこれで選んでしまったあの衣装を着るのに心配はなくなったわけだけれど、隣室の二人と一緒にお風呂行って見つかったら笑われるんだろうなぁ・・・




衣装、プリズマイ〇ヤ案と、UMAスーツ(着色手足カバー付きのバニースーツ)も捨てがたかったですね~


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歓迎会直前は・・・

9月、10月とちょっとドタバタしそうです~
インターネットプロバイダを変更しなければならなくなったので、まだ未定ですが仕事と相まって10月に音信不通期間ができるかもしれません~

ぼちぼち暇を見つけながら更新していこうと思います~


美浦寮歓迎会当日。

 

朝食を食べに食堂に行ったら、中庭に結構本格的なステージができていて驚いた。

夕食のときはもう暗かったからわからなかっただけかもしれないけれど、いつも練習している体育館のステージよりちょっと小さいくらいのトラス鉄骨で組まれたステージと、ステージ背面を覆う白いシート、前面背面に設置されたスポットライトと、ちょっとした催し物のステージとしては立派なものだ。

 

周囲には、小中学校の運動会なんかでよく見る簡易テントがいくつか、地面に転がされたまま組み立てを待っていた。

食堂の中庭に出る出入り口付近には、折り畳みの長テーブルが積んであるので、きっとあれにオードブルなんかを載せて出すのだろう。

町内会なんかでやる縁日くらいの規模はありそうだ。

 

たった一人のポンコツ編入生の為にずいぶん大仰なことだ、とは思ったけれど、よくよく考えてみれば、編入生って同時期に一斉に入学した連中と違って、寮生活を始めたときに困ったり助け合ったりのやり取りを全部すっ飛ばしてるわけで、俺はその中に突然紛れ込んだ異物でしかないんだよな。

少なくとも寮の同期ですら、なんか変なのが入って来た、くらいにしか思われていないだろう。

同じ寮に住む寮生に顔と名を知ってもらう挨拶なんて、確かにこういう機会でも設けない限り無理か。

 

そんなことを考えながら、食事を受け取り、カップにお湯を貰う。

窓際の席に陣取ってカフェ先輩から貰ったコーヒーを淹れた。

インスタントとは比べ物にならないコーヒーの香気があたりに漂う。

窓の上部には換気扇があるので食堂全体にこの香りが行き渡ることはないとは思うけれど、それでも周りで食事をとっている寮生は、お?という目でこっちを見はするね。

コーヒーの香りが嫌いな人もいるので一応配慮はしたつもりだけれど、今のところ食堂でコーヒーを淹れて顔をしかめられたことはないので隅っこで楽しむ分には問題なさそうかな。

 

おいしい朝の食事を楽しんで、身支度を整えて学園に向かおうとしたら、寮の入り口でヒシアマさんに呼び止められた。

 

「ベノシ、歓迎会始まる前に簡単なリハと打ち合わせやるから、今日のトレーニングは軽めにしておきな。

 夕方4時くらいになったら、中庭に来とくれ。

 歓迎会は夕食時に合わせて6時から始めるからね。」

 

はーい、と答えたものの、リハーサルまであるのか。

歓迎会、って言うより、寮でのメイクデビューそのものだな、これ。

アメリカンなレオタードで踊るのはまぁ一発芸だからいいとして、堅苦しい挨拶を3分間しろ、とか言われたらそっちの方が苦行だなあ。

 

授業中も、トレーニングも、歓迎会が近づくにつれて緊張してきて落ち着かなくなり、体育館でのトレーニングも早々に切り上げることにした。

なにせ、ここしばらく、ダンスのおさらいをしていない。

リハーサルをする、とは言っても、通しで踊るかどうかまではわからないので、実際のステージを確認しておきたい。

 

一足先に寮に戻ってみると、寮の玄関に立て看板が立っていた。

 

『美浦寮編入生ラベノシルフィー歓迎会会場→』

 

習字のお手本みたいな楷書で書かれた立派な文字だ。

食堂を出てすぐの中庭、と言っても、屋外だからな、スリッパで外に出られないから建物をぐるっと回っていくしかないわけだ。

外履きのまま中庭に行く機会なんて滅多にないからこういう案内も要るんだろうけど・・・

俺一人の自己紹介の場でしかないものにどれだけ力入れてるんだ?!

 

寮の建物を看板の案内通りにぐるっと回って、中庭にたどり着くと、学園のつなぎを着た職員が数名、テントを立てたりテーブルを並べたりしていた。

施設部の人達だろう。

普段は、学園生がトレーニングを終えた後にトラック整備をしたりしているんだけど、俺の歓迎会の為に早出で駆り出されたんだろうか。

胸に他の人とは違うバッヂを付けている年配の人がここの責任者だろうとあたりを付けて声をかけた。

 

「お疲れ様です。

 お忙しいところすいません。

 今日ここを使わせてもらうラベノシルフィーと申しますが、ちょっとこのステージに上ってどんな感じなのか確認させてもらってもいいでしょうか?」

 

「おう、お疲れさん。

 嬢ちゃんが今日の主役かい?

 ステージはもういつでも使えっから、好きにしていいぞ。」

 

「ありがとうございます。

 じゃ、ちょっとお邪魔しますね。」

 

「おう。」

 

色黒で歳相応に顔に皺を刻んだオヤジさん、て感じの施設部の職員が、人好きのする顔でニカっと笑い返してくれる。

てきぱきと鼻歌交じりで作業をする姿はどこか楽しげだ。

時間外の仕事を押し付けてしまったかなという心配は杞憂だったみたいだ。

 

ちょっと安心した俺は、ステージ横に取り付けられた簡易タラップからステージに上がる。

メイクデビューは、そんなに動き回る曲じゃないけれど、ステージの高さは1メートルくらいあるので足元をおろそかにして動き回って落ちたりしたらシャレにならない。

歌いだしからの動きを思い出しながら、手先だけで小さく振り付けを再現しつつ、ステージ奥からてってってってと最前列までステップしてみる。

学園のダンスホールよりもちょっと奥行きが短い感じかな。

他のダンサーはつくんだろうか?

最初に一番前まで出るのは俺だから、いるとしたら合わせてはくれるとは思うけど。

足元を見ながら、歌詞を小声で口ずさみながら前後にステップ。

数回通しで動き回ってみて、こんなもんかな、と顔を上げたら、休憩に入っていたらしい施設部の職員の人らが茶を飲みながらこっちを眺めていた。

 

「かわいいじゃねぇか。

 バッチシだな!」

 

目が合ったオヤジさんにびしっと親指を立てられる。

 

・・・元の年齢からしても年上の男の人から面と向かってかわいいとか言われるとなんかむず痒いものがあるな。

やるじゃねぇかボウズ!って言われたことはあってもかわいいは今まで生きてきて初めてだ。

 

苦笑いしながらサムズアップを返すと、その場にいた職員全員が親指を掲げた。

ノリのいい人たちだ。

 

 

 

 

「なんだい、こんな早くから会場入りするなんてずいぶん張り切ってるじゃないか。」

 

そこに現れたのはヒシアマさんだ。

来るように言われた午後4時まではあと30分くらいある。

 

「リハーサルって言ってもどこまでやるかわからなかったんでちょっとステージに上がって確認してたんですよ。」

 

「そんなもんぶっつけ本番でもできるようにならないとね。

 レース後のウィニングライブじゃリハなんてないからね?

 女は度胸だよ!」

 

バン!と背中を叩かれる。

手加減はしてくれてるんだろうけど、毎度毎度荒っぽいなあヒシアマさん。

けほけほと咽ていると、後ろから刺すような声が降ってきた。

 

「ほぅ?指定時間前にすでに待っていたとは、意外とまともな人物と見える。

 ラベノシルフィー、だったな。

 2週間ぶりほどか。

 怪我はもういいのか?」

 

振り向くとそこに立っていたのはトレセン学園生徒会副会長のエアグルーヴだ。

愛想が無いのはわかっているけれど、やっぱちょっときつい人に感じるな。

栗東寮からの生徒会代表って彼女だったか。

 

「ええ、おかげさまで。

 この度は生徒会の皆様にお骨折りいただいたそうで。

 ありがとうございます。」

 

頭を下げると、エアグルーヴがふっと息を吐いて緊張を解くのを感じた。

 

「やれやれ、出会ったときから騒ぎを起こしてくれたからどんな人物かと思えば。

 良識ある人物のようで安心した。

 歓迎しよう。

 トレセン学園へようこそ。」

 

手を差し出されたので、一応軽く握り返す程度に握手を交わして一歩下がる。

 

「おいおい、そんなに怖がらないでくれないか。

 何もしない相手をどうこうしようというつもりはない。」

 

「アンタね、彼女と出会ってからこめかみに青筋立ててた姿しか見せてないんだよ?

 その上再会したハナから問題児扱いされてりゃ警戒もするさ。」

 

「む・・・そうか。

 それは失礼した。

 少し気がささくれていたかもしれない。

 時に、ブライアンを見なかったか?」

 

「いや、見てないねぇ。」

 

「逃げたか・・・

 会長がお疲れのようなので生徒会代表で一言祝辞を述べさせようと思っていたのだが、その話を振ろうと思ったらもう姿が無くてな。

 新たに加わる美浦寮の仲間への祝辞すら避けるか。

 不甲斐ない身内で済まないな。」

 

「・・・いえ、向き不向きもあるでしょうし。」

 

「美浦寮の歓迎会であるから美浦寮の者に歓迎の祝辞を述べさせたかったが仕方あるまい。

 私が代表で祝辞を述べよう。

 で、この後だが・・・」

 

夕方6時を目途に、人が集まった頃を見計らってステージ中央に立ち、スポットライトがついたら司会の紹介を受け、自己紹介。

その後、有志によるバックダンサーがステージに上がったらBGMスタートと同時にメイクデビュー披露。

ダンスが終わったらステージからそのまま飛び降りて生徒会祝辞を受けた後、歓談。

だいたい1時間ほどすれば人が捌けてくるので、俺から一言礼を述べて解散、という流れになるそうだ。

 

通してやってみよう、ということで、ステージ中央に立ち、実際にスポットライトを浴びてからの立ち回りを短縮短縮でこなしてみる。

ダンスはやはり『はい、ダンス終了!』で踊ることなく終わってしまったので、事前にステージを確認しておいて正解だった。

ステージを飛び降りてから、生徒会祝辞を受ける時にこの位置に立っていてくれ、とか拍手をこのタイミングでとか、細かい指示はあったものの、そんなに覚えることは多くない。

自分の会社の株式総会のサクラをやっているのと大して変わらない。

 

ただ、しようと思っていた自己紹介の内容は盛大にダメ出しされた。

 

「アンタ、自分の立場わかっているのかい?

 ウィニングライブで王子様に見つけて貰おうって言うウマ娘が『皆さんの脚を引っ張るかもしれませんが』はないだろう!」

 

「そうだな。

 彼が見つけてくれるまで何度でもGIのウィニングライブに立ってやる、くらいの意気込みは欲しい。」

 

ぐっ・・・

俺が流れ人だと知っているヒシアマさんまでもがあの話を補強しろと発破をかけるのか。

エアグルーヴはごく真面目な顔をして提案してきてるし・・・

 

「わかりましたよ。

 私は私の夢の為に、いつかGIのステージに上がって見せる!

 こんな感じで行きます。」

 

あの話に触れずに、強気な発言ともとれる言葉はこのくらいしか思い浮かばない。

 

「・・・まぁいいだろう。

 ただし、その言葉、この場だけで終わらせるなよ?」

 

エアグルーヴの鋭い視線が突き刺さる。

 

「面白くなってきたねぇ。

 ま、がんばりな。」

 

煽っておきながら傍観者のような話を・・・

面白くなってきたのはヒシアマさんだけで俺は追い詰められてるんですよ!




追記:この話書いてた当時、ブライアンの所属寮がはっきりしていなかったので美浦寮説を採用していましたが、アプリで栗東のタニノギムレット同室とアプリストーリー上で明言されたようです~
本作では特にブライアンの所属寮の変更はせずこのままにします~
ご了承ください~
2022/11/28


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歓迎会・続くサプライズ

相変わらず話の進みがカタツムリですがようやく歓迎会ですよ~

9/21 ちょっと加筆しました。


まだ暮れていない空に、照明でうすぼんやりと照らし出される屋外簡易ステージ。

すでにスピーカーには火が入り、軽快なPOP系のBGMが小さく流されている。

ステージ前の広場を囲むように建てられた10棟ほどのテントには、大皿山盛りになったオードブルが並び、うまそうな匂いを漂わせていた。

食堂で食事をとりながらステージのある中庭を眺める者、案内に従って外履きで中庭に現れる者。

すでに一風呂浴びてきたのか、室内着姿の寮生もちらほら見受けられた。

 

俺は、と言えば、例の片肩掛けで片足だけカットされた体操用だかローラースケートのステージ衣装だかわからないアメリカンな衣装を着て、借りたトレセンジャンパーを羽織ってステージ裏で待機中だ。

胸元にポンポンのついた小さな無線マイクをくっつけて、出番が来るのを待っている状態。

 

ステージ前の人混みが、一クラス分から二クラス分くらいの人数に増え、食堂も程よく埋まり始めたところで、スピーカーから流れていた曲が止まり、ズン、ズズン、と低音の効いた巨人の足音のようなバスドラムのリズムに変わる。

 

見知らぬスタッフのウマ娘が、そろそろ出番です、とジャンパーを脱いでスタンバイするように伝えてきた。

同時に、わらわらとバックダンサーを務めてくれる寮生たちが集まってくる。

一応、主役である俺を目立たせるためか、バックダンサーはみんな制服着用で統一されていた。

 

バックダンサーは、入学してすぐに本格化というやつが始まってデビュー戦を秋にも控えている、なんていう早熟な中等部1年の経験を積ませるとかいう名目で、すでにトレーナーがついている有望な学園生が栗東寮からも送り込まれて来ているらしい。

要するに、ステージ度胸を付けるための格好の練習台ってわけだ。

中等部1年がほとんど、ということもあって、見覚えのない娘ばっかりだ。

でも、見覚えのある娘もいる。

パイプ椅子を占拠して脚をパタパタさせている栗毛の小柄な娘はマヤノトップガン。

落ち着きなくあっちこっちを見に走り回ってそわそわしているこれまた小さい鹿毛の短髪の娘はビコーペガサスかな?

小さいと言えば、さらに小さい黒鹿毛のおかっぱの娘がいる。

ニシノフラワー、だと思う。

残念ながらガチャで引けなかったウマ娘なので、いまいち記憶があやふやで断言はできない。

少なくとも顔を知っているだけでも将来重賞を何度も勝ちに来るような才能の塊みたいなのが、ステージ度胸を付けるためだけに俺のバックダンサーをしてくれるらしい。

あっちの世界でゲームのキャラとして取り上げられているから顔を知っている、というだけで、実のところこのバックダンサーの中に将来のGIウマ娘が何人紛れ込んでるやら。

ホント、トレセン学園は魔境だよ。

 

ありがたいことに、隣室からゲムパちゃんが、クラスメイトからはヤマネアラジンちゃんがサブを買って出てくれて、両脇を固めてくれることになった。

二人とも、ダンスレッスンでよく顔を合わせるらしく、お互い顔見知りではあるらしい。

まったく観客に臆すること無く、普通にあたし右、じゃ、私は左で、とポジションを決めて緊張を見せることもなく雑談している。

デビューしてステージ慣れするとこんなもんなのか・・・

 

「失敗してもみんな身内だから練習だと思えばいいよ。」

「実技試験でも何でもないんだからおきらくごくらくてきと~にいきましょ~!」

 

緊張して固まりかけている俺に、二人にはそう声をかけてくれたものの・・・

 

ちらりとステージ前を見ると、数百人が、ちらちらとステージに視線を向けているんだ。

これがステージが始まると一斉にこっちを見る。

ステージ上でそんな多くの視線を浴びることなんて、大学の卒業式とかくらいしか経験がない俺としては、緊張で目が回りそうだ。

 

「ほら、しっかりしな!

 みんなが通る道だよ!

 バックダンス引き受けてくれた1年坊も初めて観客を前に踊るんだ、アンタが引っ張ってやらなくてどうするんだい!」

 

緊張で腰が引けている俺に、ヒシアマさんから喝が入る。

 

すっかり垂れ下がってしまった尻尾を持ち上げて無理やり振りまわされて、やめてくださいよ!とじゃれ合うと、ちょっとだけ緊張がほぐれた。

 

・・・そうだ、まだバックダンスやってくれるみんなに挨拶もしていなかった。

 

一塊になって所在無げにしているバックダンサーのみんなに向き直って、注目を集めるためにパン!と一発拍手を響かせる。

我ながら飲み会の締めみたいなおっさんくさい注目の集め方だなと苦笑するも、目論見通りみんなこっちを向いてくれた。

 

「はじめまして、かな?

 今日の歓迎会の主役、ラベノシルフィーです。

 見ず知らずの私の為にバックダンサー引き受けてくれてありがとう!

 私もこんな多くの観客の目の前で歌って踊るのは初めてだけど、歌と踊りに関しては君たちの方がちょっとだけ先輩だ。

 失敗したらフォローよろしく!

 終わったら、俺の金じゃないけど用意された料理、好きなだけ食べていってくれ!」

 

おー!と片手を上げて元気に答えてくれたのはマヤノとビコー他数名。

ぺこりと頭を下げてくれたり、こくりと頷いたりと反応は様々だったけれど、ステージ下の観客の多さに、俺と同じように緊張している者の方が多そうだ。

 

そうこうしているうちに、ステージの照明が落ちた。

スピーカーから流れる音楽が、低音の足音的なものからシンセサイザーのきらびやかなメロディーに変わる。

 

いよいよ出番だ。

スタッフに促され、ステージ横のタラップに脚をかけてステージに上がる。

中央に立つと、下から横から、一斉にスポットライトが俺を照らした。

 

眩しい。

が、ありがたい。

目がくらんだおかげで、ステージ前の観客がはっきりと視認できなくなった。

プレッシャーが減って身体からこわばりが抜ける。

BGMがフェードアウトしてチキチキと小さくエレキギターがカッティング音を奏でるだけのものに変わる。

 

「長らくお待たせしました。

 これより美浦寮編入生ラベノシルフィーの歓迎会を開催します。

 ステージにご注目ください。

 黒豹のような精悍なボディースーツに輝くは流星、ウマ娘自警隊から殴り込みをかけてきた白銀の彼女はこれからトレセン学園にどんな物語をもたらすのか・・・」

 

司会の大仰な紹介が始まる。

例の恥ずかしい自警隊員を追いかけて、の話のあたりに差し掛かると、ヒューヒュー!と観客から指笛のヤジが飛ぶ。

 

がまん、がまんだ。

 

俺は両腕を抱いて、司会の紹介が終わるまでステージ中央で仁王立ち。

一旦リリースされたアレは、一応俺の公式的な身の上話みたいになってしまっているので今更どうしようもない。

とりあえず、今日この場を乗り切れば、俺は一介の学園生になるんだ。

人のうわさも七十五日。

ライバルにもならないウマ娘のことなんかすぐに忘れられるさ。

 

「・・・それでは、話題の編入生、ラベノシルフィーさんから皆さんへご挨拶です!どうぞ!」

 

司会から主導権を渡される。

ブーン、とスピーカーの音調が変わった。

マイクが入ったんだろう。

 

「ただ今ご紹介に預かりましたラベノシルフィーです。」

 

思った以上に、落ち着いた声が出せた。

正直、今更自己紹介する内容なんかない。

噂が先行しているうえに、司会がほとんどしゃべってくれてしまっていた。

だから、もう勢いで一気にまくしたてる。

 

「もう、いろんな噂が出回っちゃってるので、それについてはとやかく言いません!

 私はまだ皆さんに追いつける脚を持っていません!

 しかし、私は!

 私の夢の為に!

 いつかGIの、

 ウィニングライブのステージに立ってみせますッ!

 皆さんと、並び立てるようにっ!

 まずは、これから踊るメイクデビューを、デビュー戦で踊ることを目指してッ!」

 

叫ぶように口上を投げ終えると同時に、打ち合わせすらろくにしていないのに、スタッフの指示で左右からバックダンサーが流れ込み、位置につく。

スタッフのこの辺の臨機応変さは、さすがに場慣れしていると感心させられる。

 

周囲の照明がゆっくりと暗くなり、ゲムパちゃんとアラジンちゃんの待つ中央に立って、二人と目を合わせると、1・2の3で歌い始めた。

 

響けファンファーレ~♪

届けゴールまで~♪

輝く未来を君と見たいから~♪

 

歌い出しと同時にすっと観客からのざわめきが途絶える。

照明が虹色に変化し始め、イントロの歌詞を歌い終わると同時にBGMがどっと流れ込んできた。

 

もうその後は、学園のダンスホールでわずかに練習したのを思い出しながら、バックダンサーとぶつからないように気を使い、サブと動きを合わせ、視線を交わし、で、歌と踊りに必死だった。

 

観客の視線なんかすっかり頭から吹っ飛びかけていた時、ステージ前の観客の中から、合わせるように歌声が流れてきた。

こっちはマイクとスピーカーでそれなりに大きな音で観客に歌声を届けているのに、たった一人の生声がステージ上にはっきりと聞こえてくる。

線の細さを感じさせない、艶のあるハイトーン。

圧倒的な声量。

ふと、その歌声が途切れたと思ったら、聞き覚えのある声で高笑いが聞こえてきた。

 

「いいね!いいね!

 ボクらは人生でたった一度しかセンターを披露する機会のないこの曲!

 君は二度、披露する機会があるんだね!

 君のトレセンデビューを祝ってこのボクが一緒に歌おうじゃないか!」

 

言い終わるや否や、彼女の歌声が、俺の歌声に合流してくる。

テイエムオペラオー・・・いや、一個上の先輩らしいからオペラオー先輩と呼んだ方がいいのかな。

姿は人混みにまぎれてしまっていて見えないけれど、栗東寮から参加を希望してきたというお客さんの一人は彼女だったか。

近々大きなレースがあると言っていて疲れているだろうに、たった一度顔を合わせただけの俺の歓迎会に参加してくれるとは律義な人なんだな。

 

そんな中、オペラオー先輩の声以外にも、小さく別の歌声が重なって聞こえることに気付いた。

観客の中で、彼女以外にも誰か一緒に歌っている学園生がいるらしい。

 

『ボクらは人生でたった一度しか披露する機会のないこの曲』

 

オペラオー先輩の言った言葉が甦る。

 

デビュー戦で勝利した時、たった一回のステージで役目を終えるこの曲。

時には、ステージでこの曲だけを披露しただけで学園を去るウマ娘もいるという。

ダンスの指導教官は言っていた。

最初に教えるこの曲だけは、まずセンターに立つことだけを教えると。

サブやバックダンスは、見よう見まねでいい、まずこの曲でセンターに立てなければ意味はないのだと。

すでにセンターに立って、過去の思い出にしている先輩もいるだろう。

何度もサブやバックを務めて悔しい思いをしている先輩も、このステージ下にはいるかもしれない。

それぞれがいろんな思いをこの曲に秘めているんだろう。

そう思うと、なんか身体が自然に動いた。

短い間奏の合間に、両手を広げて観客にアピールしながら叫んでみた。

 

「良ければ一緒に歌ってください!」

 

振り付けにない動きにサブの二人はちょっと戸惑っていたけど、意図は伝わったみたいだ。

間奏が終わると、自分のパートではない主旋律に歌い出しから二人とも声をハモらせてきた。

 

マイクを付けていないバックダンサーの方からも、ぽつぽつと歌声が重なり始める。

 

観客席側も、オペラオー先輩があまりに堂々と歌声を響かせるものだから、つられたのかだんだん一緒になって歌う人が増え始めた。

 

短い間奏が終わる度に、重なる歌声が一気に増えていく。

 

ラストのサビに入って決めポーズで終わるころには、ステージ上の俺たちの歌声よりも観客側の歌声の方が大きかったくらいだ。

わっと歓声が上がり、盛大な拍手を貰って、ステージは幕を閉じた。

 

スポットライトが落ちて、ステージ照明もゆっくりと暗くなっていく。

 

サブの二人と、バックダンサーに一礼してから、ステージ正面から飛び降りて、ちょっと離れたところでステージを向いて立った。

生徒会の祝辞を正面で受けるための段取りだ。

 

「それでは、生徒会より祝辞を頂きたいと思います。

 生徒会副か・・・え?

 ・・・・・・・

 

 失礼しました。

 

 生徒会を代表してシンボリルドルフ会長よりお言葉を頂きたいと思います。」

 

え?

エアグルーヴじゃなくて会長?

 

司会の方を見ると、ステージに上がろうとする会長に食い下がるエアグルーヴが会長に手で制されて頭を抱えているところだった。

 

ステージ袖に会長が立つと、スポットライトが点灯し彼女を追う。

 

シンボリルドルフ、というウマ娘をまじまじと見たのはこれが初めてだ。

寮の廊下で隣室の二人の愚痴に衝撃を受けてずぶぬれでうなだれていた姿は・・・まぁ気のせいだったということで。

 

スタスタとステージ中央に向かって歩いていく学園の制服を着た姿は、普通の学園生と何ら変わりない。

腰まで届く鹿毛の艶やかな髪と見事に手入れされた尻尾はそれは見事なものだけれど、ただそれだけだ。

 

が、ステージ中央まで到達し、彼女が一瞬動きを止めた後、カツッと靴音を響かせて正面を向き、顔を上げたその所作だけで、その場から音が消えた。

見開かれた目から放たれる射るような彼女の視線が、観客を威圧する。

 

まさに威風堂々、とした様相で、彼女はステージ中央に立った。

これが皇帝、と言われる所以か。

マイクを通さなくても会場の奥まで通るはっきりとした口調で、彼女は祝辞を述べ始めた。



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歓迎会・そして退路を断たれる俺

人の集まる歓迎会、いるべき人物とそうでない人物をどこで出して隠すか、かなり書いては消してしてみましたけれど、1話にしては長くなっちゃいましたね~

タマモのエセ関西弁に関するツッコミはご容赦ください~

感想、誤字報告くださった方、ありがとうございます~
大変励みになり助かっております~


トレセン学園生徒会会長シンボリルドルフ。

 

確か、無敗の三冠を成し遂げ、七冠まで達成した偉大なウマ娘、だったと思う。

これだけの威厳と人望を兼ね備えているのだから、それを為して生徒会長になったのだろう。

 

本来、一編入生の歓迎会などに出てくるような立場の人間ではない、と俺は思っている。

 

この学園の生徒会は異常だ。

生徒会と言いながら、学園内の行事の取り仕切りに始まって様々な規則の制定から取り締まりどころか、果ては学園と交渉して予算を分捕ってきたりURAと折衝までする。

2000人からの生徒を抱えるマンモス校と言えど、一日中生徒会長が生徒会室にこもって残業までして書類決済を行う生徒会など聞いたことがない。

 

ただ、そうなった理由はなんとなく想像がつく。

 

学園が取り仕切る仕事を、動きが遅い、歯がゆい、と、どんどん奪っていった結果が、生徒会が膨大な仕事を抱え込む結果となったのだろうと思う。

会社なんかでも、何でもできてしまう有能な人間が、俺がやった方が早いと手を出しまくって、一人に業務が集中するのが常態化してしまうなんてのはよくある話だ。

そうなったのが聡明な現理事長や会長のせいではない、と信じたい。

 

あっちの世界でゲームとして遊んでいるときもしきりに「全てのウマ娘の幸せのために」を目標に掲げていた会長。

 

歓迎会の打ち合わせでも副会長のエアグルーヴは、会長はお疲れだから生徒会役員でも同じ美浦寮のナリタブライアンに祝辞を述べさせようとしていたようだけど、逃げられて、エアグルーヴが壇上に立つことになっていたはずだ。

 

先ほどのステージ下のやり取りを見るに、このような些事は我々が、いや、同じ美浦寮で暮らすことになる生徒会の役員が歓迎の言葉も述べず顔も出さずでは示しがつかない、とかで、疲れた身体を押して出てきたんだろうなあ・・・

 

ステージに上がったら上がったで、仁王立ちするでもなく、自然体で正面を向いた所作だけで会場を黙らせるとか、すでに指導者としての風格が半端ない。

末恐ろしいよ。

 

スポットライトが、俺にもあたる。

ステージ上の会長と、ステージ下の俺が、日が暮れ始めて暗くなりつつある会場に浮かび上がる。

 

会長が、会場を一瞥すると口を開いた。

その視線は、まっすぐに俺へ。

 

「トレセン学園生徒会 会長、シンボリルドルフだ。

 ラベノシルフィー君、トレセン学園への編入及び美浦寮への入寮おめでとう。

 我々生徒一同、君を歓迎する。

 

 まず、先ほどのメイクデビュー、見事なものだった。

 君はまだ、編入してきて日も浅いと聞いている。

 そして編入前はレースと縁のない生活をしていたことも、だ。

 よくぞ短期間でここまで仕上げたものだと、素直に感心せざるを得ない。

 是非とも、来たるデビュー戦本番で勝って、その技量を遺憾なく発揮して貰いたい。」

 

ここで、会長は俺から視線を外し、会場を睥睨した。

 

「さて、この場にいる諸君。

 君たちは、彼女についての噂をいくつか耳にしているはずだ。

 まるでメロドラマのようなロマンス然り、ウマ娘らしからぬ彼女の遅い脚然り。

 なんで彼女のような『走れないウマ娘』がトレセン中央にいるのか理解できない、と言った話もちらちらと耳に入ってきている。

 

 君たちがそう思う理由はわかっている。

 彼女は、ウマ娘でありながらウマ娘の『走り方』を忘れてしまっている存在だ。

 この学園には、地元で誰よりも速い選りすぐりのウマ娘が集まっている。

 全国一の厳しい試験を潜り抜け、ここに立つ諸君だ。

 ここに立つのが、どれだけ大変なのかわかっているからこそのその思いだと、私は理解している。

 

 しかし、彼女がここに立つ資格がないと思うのは間違いだ。

 

 彼女は、自分の想いを叶えるためだけに、忘れてしまったウマ娘の走りを取り戻す為に、自分の持てる力を全て振り絞って、実力でこの学園への扉をこじ開けた。

 君たちが親の庇護の下、初等教育を受けているときに、親も頼る者もない彼女は自力で結果を残し、社会にそれを認めさせ、針の穴を通すような細い可能性を繋いでトレセン学園への編入という奇跡を成し遂げた。

 しかも、それはゴールではない。

 

 忘れたウマ娘の走りを取り戻し、君たちをねじ伏せて、GIのステージに立つと、彼女は言っているのだ。

 

 彼女を笑う者は恥じよ!

 追い込みウマ娘が出遅れたと笑う愚を恥じよ!

 そして、彼女の言葉の裏に隠された覚悟を見よ!

 君たちは、挑戦状を叩きつけられているのだ!

 

 彼女は、君たちという全国有数の、一流のウマ娘を師とし、それを超えるためにここを目指した!

 彼女は、必ずウマ娘の走りを取り戻すだろう!

 そして、彼女は宣言通り必ずGIのステージに立つ!

 私は新たなライバルの登場を祝福しよう!

 

 ラベノシルフィー、ようこそトレセン学園へ!

 ようこそ美浦寮へ!」

 

拳を振るい、どこの軍の士気鼓舞演説かと思わせるような会長の熱烈な演説、いや歓迎の挨拶は終わった。

一斉に拍手が巻き起こる。

俺が会長に向かって黙礼すると、会長は軽く手を上げて、ステージを降りて行った。

 

先ほどのメイクデビュー披露の賞賛から始まって、おそらくは、俺の為のフォロー、なんだろうな。

実力的に場違いな俺がトレセン中央というウマ娘の魔窟にのこのこ入って来たことに対してやっかむ連中を、シンボリルドルフというこの学園のトップが認めているんだぞ、と牽制をかけてくれた。

 

・・・けど、俺にも大きな置き土産を残していってくれたな。

 

俺がGIのステージに立つ、と宣言したのと、シンボリルドルフがラベノシルフィーはGIのステージに立つ、と宣言したのとでは、言葉の重みが違う。

ダメでもともと、最悪ウマ娘としての教養を身に着ける場として無難にトレセン学園で過ごす、なんていう甘い考えは捨てろ、GIを本気で目指せと、退路を断たれた。

トレセン学園中央に所属するウマ娘としての責務を果たせと、皆の前で言われたようなものだ。

改めて、トレセン学園中央が伊達に『中央』を名乗っているわけじゃないって思い知らされた気分だ。

 

 

 

 

「・・・これにて、美浦寮編入生ラベノシルフィー歓迎会式典を終了します。

 この後は、時間の許す限りごゆっくりご歓談ください。」

 

司会から堅苦しい式典の終了が告げられると、ステージ前に集まっていた人混みが動き出す。

明日は休日とはいえ、トレーニング後の夕食の時間帯に開かれた歓迎会だ、特に接点もない大半の参加者は、ぞろぞろと帰っていく。

残ったのは会場に用意された料理で夕食を済ませようと言った連中か。

 

主役の俺がいなくなるわけにもいかないので、とりあえず飲み物を取りにテントに向かうと、テントの方から怒声が聞こえてきた。

 

「貴様!会長に祝辞を押し付けてのうのうと飯を食っているとは何事かっ!」

 

山盛りのから揚げを載せた紙皿を抱えた黒い影が、残像を残して目の前を駆け抜ける。

祝辞をバックレたブライアンが、会場の肉料理を漁っていたらしい。

額に青筋を立てたエアグルーヴが、これまたすごい勢いでそれを追いかける。

 

・・・ホントいつも怒ってるな、エアグルーヴ。

そのうち頭の血管切れて卒倒しなきゃいいんだけれど。

 

二人の追いかけっこを目で追っていると、くいくい、と腰の帯を引っ張られる感触がした。

振り向くと、俺よりちょっと背が低いくらいの青髪ツインテールのウマ娘が、俺の腰の帯を引っ張っていた。

くりっとした大きな目が合うと、ニパッと笑う。

口元にギザ歯がのぞいたやんちゃそうな娘。

あっちの世界に暮らしているときにはついに実装されることの無かった『ツインターボ』が、にへ~、と聞こえてきそうな笑顔で尻尾を振りながらじっとこっちを見つめていた。

 

なんで急に俺の腰に彼女がまとわりついてきたのか量りかねていると、彼女の耳は力なくだんだん萎れて、すねたような表情を見せる。

そして吠えた。

 

「ラベなんとかっ!

 ターボになにか言うことないの!」

 

「えっ?えっ?ツインターボちゃん、だよね?

 俺君になにかした?」

 

いきなり、初対面のツインターボに責められて、困惑するしかない。

 

「む~!

 お前のために4つも看板の字書いてやったのに!」

 

看板?と言われて、ちょっと考え込む。

 

看板の字・・・って、あれか?

寮の入り口に立ってた、えらくうまい楷書体の案内看板。

あれを、ターボが?

 

「ここに来るまでの案内看板か?」

 

「そう!

 ターボえらい?」

 

「えらいえらい。

 そっかー、ありがとな。」

 

ターボが、ふふん、と鼻高々にそっくり返って見せるので、可愛くてつい頭をなでなでしてしまった。

この年頃の娘になでなではまずかったか?と思ったけれど、ターボはもっとなでろとばかりにぐりぐり頭を押し付けてくる。

それならば、と、頭を揺するくらいぐわんぐわんと撫でてやった。

 

そっか、今日の歓迎会の準備で誰かに頼まれて手伝いしたから、褒めてもらえると思って俺のところに来たのか。

ターボが書道も得意だったとは。

ん~、なんかゲームかアニメかで何か書いていたシーンがあったような気もするけどすっかり忘れていたなあ。

ひとしきり撫でて、ターボが満足したところで聞いてみる。

 

「歓迎会の手伝いしてくれたってことは、ターボも美浦寮なのか?」

 

「うん!ターボも美浦寮!

 一番高くて見晴らしがいい部屋!」

 

一番高くて、ってことは、ターボは寮の最上階の4Fに部屋があるらしい。

なるほどね、俺の部屋は3Fの端っこだし、この短期間じゃ玄関とか食堂とか風呂とかで鉢合わせない限りそう簡単にばったり出くわすこともないか。

・・・会長とは鉢合わせたけどね。

 

「じゃ、今度時間があったら一緒にご飯食べよっか。」

 

何気に、知り合った学園生で美浦寮にいるのって、隣室の二人を除いたらカフェ先輩くらいしかいない。

身近に知り合いは増やしておきたいところに、ついにあっちの世界では実装されなかったツインターボと知り合えたのは何気に嬉しいところだ。

 

「いいよ!

 いつ?いつにする?

 イナリも一緒でいい?」

 

「イナリ?」

 

「イナリワン!

 ターボと一緒の部屋なの!」

 

イナリワン?

俺の知らないウマ娘だ。

でも、ツインターボと同室ってことはゲームとの因果を考えると少なくとも重賞を複数勝つような強いウマ娘っぽいよなあ。

 

「一緒はいいけど、どういう人?

 怖くない?」

 

「うん?

 怖くないよ?

 ターボのこといつも起こしてくれるし、髪結んでくれるし・・・

 あ、でも悪いことするとデコピンする!

 ちょー痛いの!」

 

デコピンかー。

上級生、と見ておいた方がよさそうかな。

 

「じゃまするで~

 なんかイナリとか聞き捨てならん話しとるな~」

 

「あ!タマモとオグリだ!」

 

ターボがタマモに突進する。

お~う、と難なくその突進を受け止めてターボの頭を撫でてやっているところを見ると、タマモの方が学年上っぽいな。

微妙にタマモの方が背が小さいってのがまた。

オグリは・・・どこから持って来たのか刺身を盛るような大皿に山盛りの焼きそばを載せて妊婦のように腹を膨らませながらまだもっもっと焼きそばを掻き込んでいる。

ここまでの大食いボテ腹は初めて見たけれど、ホントどうなってるんだオグリの腹は。

 

「アンタ、やっぱ、編入してきたんやなぁ。

 白毛の編入生と聞いてビビッときたで。」

 

「・・・あの時は・・・(もぐもぐ)・・・とても助かった(もぐもぐもぐ)。

 無事故郷のみんなに・・・(もぐもぐ)・・・お菓子を送れた(もぐもぐ)。

 感謝する(もぐもぐもぐ)。」

 

「オグリ、食うか喋るかどっちかにしーや。」

 

「(もぐもぐもぐ・・・)」

 

「食うんかい!」

 

・・・この二人、人気も知名度もあるんだし、レースに出なくなっても漫才で食っていけるんじゃないかな。

 

 

 

 

「ここにいるってことは二人とも美浦寮?」

 

「いんや、栗東や。

 ウチら明日出かける予定もないし、歓迎会の主がアンタらしいっちゅうんでな、ちょいと顔出させてもらったわけや。

 それより、イナリがどうかしたんか?」

 

「今ターボと知り合ったところだけど、ターボの同室だって言うから。」

 

「なんや、そないな話か。

 てっきり編入早々イナリとぶつかったんかと思ったわ。」

 

「ぶつかるって・・・イナリって人そんなに沸点低いの?」

 

「ま~喧嘩っ早いわな。

 自称も他称もバリバリの江戸っ子言うてるしな。

 ウチより小さい癖に無駄にでかい乳袋ぶら下げたチビ巨乳やで?」

 

「タマより小さいが・・・(もぐもぐ)・・・イナリは強い。

 私も有馬で・・・(もぐもぐ)・・・してやられた。」

 

自称江戸っ子でチビ巨乳で、オグリを下すくらいの脚を持ってる?

属性盛り盛りの化け物じゃないか!

 

「・・・ちなみに、みんな学年は?」

 

「ウチとオグリとイナリが高3で・・・」

 

「ターボは中等部2年!」

 

「ターボと同期で、二人は先輩かー。

 今更だけど敬語使った方がいいですかね?」

 

「私は気にしない。」

 

気づくと、オグリは大皿に山盛りだった焼きそばを完食していた。

セーラー風の上着が膨らんで出たお腹に押し上げられてめくれ上がり、ちょっとまずい位置までたくし上がっている。

本人はむふーと満足げな息を吐いてお腹を撫でているけれど。

 

「やめやめ。

 ホンマに今更やな~。

 クリークみたいにタマちゃん呼ばわりせなんだらそれでええわ。

 イナリは・・・初対面やったら気い付けた方がええかも知らんな。」

 

まあ、初対面の相手が上級生ってわかっていてタメ口利く程の太い肝っ玉してないけどさ。

 

「じゃータマモさん、で。」

 

「・・・きっしょ!

 なんかきっしょいわ。

 タマモでええで。」

 

「私も、オグリ、と。

 何故だろうな、君は年下という感じがしないんだ。」

 

・・・変なところで鋭いなオグリ。

 

「じゃあ、タマモとオグリ、で。

 よろしくな。」

 

「ああ!

 と、そういえばあの時以来、アンタから名乗って貰ってへんで?」

 

「これは失礼。

 ラベノシルフィーと申します、タマモ殿。

 知り合いはなぜかベノシって呼ぶけどね。」

 

「じゃーウチらもベノシって呼ぶわ。」

 

「ベノシ。

 うん、伸し餅みたいでおいしそうでいいな。」

 

「二人ともよろしく。

 それはそうと、ターボ、ご飯だけど、俺の方がトレーニングの時間融通が利くから、ウマホで都合が良さそうなときメッセージ入れてくれる?」

 

「わかった!

 ターボのウマホはね・・・」

 

ターボと二人してウマホ番号を交換していると、タマモとオグリもウマホを出してきた。

 

「ウチらの目の前でウマホ番号交換して放置プレイとかええ度胸やんけ。

 せっかく知り会うたんや、ウチらも仲間に入れたってや。」

 

「縁は大事にしろと、故郷のトメさんも言っていた。

 私にも連絡先をくれないか。

 何かあったら、頼って欲しい。」

 

「ごめん、二人をないがしろにしていたわけじゃないんだ。

 ウマ娘のレースに詳しいわけじゃないからアレなんだけど、二人とも重賞をいくつも勝ってすでに名の売れた立場だろう?」

 

「ああ、そりゃそれなりに観客を沸かせてきた自負はあるで?」

 

「そう言われるとちょっと恥ずかしいんだが・・・地元に錦は飾れたと思っている。」

 

「そういうすごい人にほいほい連絡先くれって、なんか浅ましいかな、ってね。

 さっきの会長の祝辞じゃないけど、俺がトレセン学園にいること自体が場違いじゃないかって言う輩もいるみたいだし。」

 

「そないなこと気にしたらあかん。

 そやな、もし、ベノシがそれでも気になる、ちゅーなら、これで黙らせればええんや。

 ここは、そういう世界やで?」

 

タマモが、ポンと自分の脚を叩く。

 

「まぁ、ウチもさんざんちんまい、走らん言われて卑屈になっとった時期あるからなぁ~。

 

 ま、結果出せばええんや。

 

 ベノシは五体満足で健康な身体を持っとる。

 故障して引退したウマ娘なんかいらないならタダでくれ言うで?

 今は脚遅いかも知らんけど、フォーム直せば大化けするかもしれん、可能性の塊やんか。

 会長やないけど、ちゃちゃっと走り方思い出してウチらをあっと言わせてみぃ!

 そしたら誰も何も言えへんようになるで?」

 

ああ、ムッタートレーナーも出会ったとき、いらないならくれって言ってたな。

欲しい人には、喉から手が出るほど欲しいものなんだ、この俺のウマ娘の健康な身体。

そして、その身体の使い方が下手なのは、俺のせいだ。

俺がこの身体のポテンシャルを殺している。

あの競馬場で、先頭争いをしていた馬の、ラベノシルフィーの能力が、この身体にはあるはずなんだよな。

 

ふぅ、と大きく息を吐く。

 

「わかったよ。

 二人が卒業するまでに、何とかトレセン学園に所属していますって胸を張れるよう頑張ってみる。

 レースの勝利を捧げるとか大言壮語は吐けないけれど、二人と併走できるようになるくらいには。」

 

「ま、ええやろ。」

 

「楽しみにしているぞ。」

 

うん、と頷く二人と俺の間に、ターボが割り込んできた。

 

「二人だけずるいー!

 ねー!

 ターボは!

 ターボも併走したい!」

 

手足をジタバタさせてまるっきり駄々っ子モードだ。

 

「わかったわかった、走れるようになったらターボと一番に併走する。」

 

「一番?

 約束だぞ!」

 

途端に機嫌を直したターボの頭を撫でて笑いながら、タマモとオグリの二人とも連絡先を交わす。

このターボも、走れば俺よりはるかに速いウマ娘なんだよな。

 

やれやれ、ちょっと歌って踊って挨拶したら、楽しい二度目の学生生活と思っていたのにな。

トレセン学園に入ってから、どうも背負わされた荷物が重いような気がしていたけれど、今日の歓迎会でこれでもかってくらい重さを突き付けられた気分だ。

 

とはいえ、別に楽しむな、走ることだけ考えろ、って言われてるわけじゃない。

普通に学園生活を送りながら、この身体が本来得るべきだった立ち位置まで上り詰める。

デビュー戦のステージに立つのは、必至だ。

まずはそこを目指そうか。

 

 

 

 

ステージ前で団子になって談笑する白い毛並みの3人と、青いツインテール一人。

 

名の知れたタマモとオグリが近くにいてくれる間は話しかけてくる寮生も少なく、彼女らと別れた後、主役だからとひと気がだいぶ無くなるまで会場にいたんだけど、夕食を取るタイミングをすっかり逃してしまった。

あっと気が付いたときには、食堂の厨房の電灯は消え、会場のテントに用意されていた料理はすっからかん。

そして明日は休日。

寮の食堂はお休みなのだ。

部屋に戻った俺は一人寂しく食事の出ない休日に食べるためにと買いだめておいたバケツサイズのカップラーメンを早くも開封することになった。

ウマ娘世界でもお世話になります、エースクック。



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歓迎会の後

考えていた話がどうにも長くなりすぎるんで2話に分けることにしました~

閑話回みたいなものになりますね~


夕食を食べ逃してしまい、初めて作ったウマ娘サイズのカップラーメン。

フタの宣伝文句によれば、小腹が空いたときに最適、通常サイズの3.5倍(当社比)、だそうだ。

 

カップラーメン容器の大きさは、DIYで使うペンキ缶をちょっと短くしたくらいの大きさがある。

一個300円前後するので、あまり割安感はないな。

 

何でも、学園生は普通これ一個じゃ到底足りないので、これにパンやおにぎりを合わせて食べるのが普通だとか。

 

とりあえず、今家事室で電気ポットのお湯が沸くのを待っている最中だ。

 

燃費の悪いウマ娘の身体は、一回空腹を覚え始めると、急速にそれが『飢餓』に近い状態まで移行して、動く気力も体力もなくなる。

これは経験してみると分かるけど、結構きついんだ。

ポットがようやく湯気を噴き始めた頃、何度目かの腹の虫の音が響いたと思うと、立っているのすら億劫になってきた。

 

部屋の隅に積み重ねられている座面が緑色のドーナツみたいになっているパイプ椅子を引っ張ってきて、炊事台の前に陣取る。

 

電気ポットから激しく湯気が噴き出してスイッチが跳ね上がって切れた。

すでにかやくもスープも入れて準備万端なカップラーメンにお湯を注ぐ。

この飢餓にも似た状態でカップラーメンから漂ってくる暴力的なスープの香りに囲まれて3分間待つのは拷問に近いな。

 

部屋に持ち帰るような余裕はなく、その場でズルズルと食べ始めたのだけれど・・・

 

突然家事室の入り口から、にゅっとウマ耳の頭が生えた。

 

・・・ズル・・・

 

ラーメンをすすったまま覗き込んできた寮生と目が合う。

 

「・・・誰かと思えば、今日の歓迎会の新人ちゃんか。

 いい匂い漂わせて~、こっちまで食べたくなっちゃったじゃん。」

 

ジャージ姿の彼女の手には、やっぱりカップ・・・うどんか。

赤いパッケージのお揚げの入った憎い奴だ。

さすがにがっつり食べるつもりじゃないらしく、ヒト用の標準サイズ。

 

お湯まだあるか?と訊ねながらごそごそとカップうどんの蓋を開けて横に陣取る彼女に、ちょっと足りないかも、と言いながらまだお湯の残っている電気ポットを差し出す。

 

少し水を足して電源を入れ直したポットは、すぐに蒸気を噴き出して、お湯が彼女のカップうどんに注がれた。

 

ふわりと香る和風出汁の香り。

 

・・・そして、家事室の入り口ににょきにょきと生え始めるカップラーメンの類を手に持った寮生たち。

 

二つのカップ麺の香りはこの階の小腹が空いていた連中をことごとく釣り上げてしまったらしい。

 

夕食の時間からそれほど時間も経っていないというのに、ウマ娘って言うやつはどうも食欲には弱いらしい。

 

そして始まる夜食の宴。

 

中にはレンジで調理する冷凍うどんなんかを持って来たのもいてちょっと分けて貰ったら冷凍とは思えないほどもちもちしておいしかった。

でも、おいしい代わりにちょっと割高なんだそうだ。

 

狭い家事室に、10人を超える人間が、温かいカップラーメンの類を作れば、その香りはすぐ横の階段を伝って上の階に上がる。

 

上の階でも、香りに食欲を刺激されてカップラーメンの類を持った寮生がそれぞれの階の家事室に集まってきているようで、喧騒が聞こえてきた。

 

・・・ちょっとした騒ぎを起こしちゃったかな、ここでカップラーメンにお湯いれたのまずかったですかね?と周りに聞いたら、よくあることだそうで。

 

いい匂いをさせたところで特に何か言われるような事はないけれど、やはり強い異臭がするものはご法度だとは念押しされた。

 

俺が入ってくるひと月くらい前の時期、新入生が入寮した当初は、一回は新入生が持ち込んだおかしな特産品で異臭騒ぎが起きるんだそうだ。

 

 

で、さっきから食べているカップラーメンなんだけど・・・

 

他の寮生が来ちゃったから大口でがっつくのはまずいかなと、ちょっとだけ格好をつけて頬を膨らませない程度にちょろちょろ食べていたんだけど・・・

 

いくら食べても減らない。

 

麺がスープを吸って伸びて膨らんでくるので、そのスピードに負けていると本当に減らない。

 

ウマ娘サイズの欠点だな、これ。

 

しかも、半分食べ終わった頃には同じ味で飽きてきて、余計に箸を遅くする。

 

ようやく食べきった頃には、スープが飲んでもいないのにほとんど残っていないという状態だった。

 

・・・これからは部屋に持って帰って何も気にせず食べるか、ヒト用の標準サイズを複数食べるかした方がいいのかもしれない。

 

 

 

 

そして、お風呂。

 

ほとんど肌に直接触れるような形で衣装を着こんでいたので、今日着てた肌着なんかと一緒に洗濯機に放り込む。

 

紙製の紐みたいな下着はもう他人に見せられない状態になってたので、後で部屋に持ち帰って処分だ。

 

いつもより遅い時間のせいなのか、それともちょうど空いていたのか、洗濯機待ちの寮生がいなかったのでそのまま一人分洗濯機に放り込んでお風呂へ。

 

かけ湯をして、身体を洗って汗を流してから湯に浸かるか、とカランの方へ行くと、なんだか野生児みたいなぼわっとした髪型の鹿毛の小さな寮生が、屈みながら床で何かを探し回っていた。

横を通ろうとすると、待ったをかけられる。

 

「ちょいとごめんよ。

 ちびた石鹸が手から飛んでどっか行っちまってねぇ。

 探してるんだが見つからねぇ。

 悪いが踏ん付けてすっ転ばないように足元注意してくんな。」

 

振り向いたべらんめぇ口調のその小さな寮生は、背丈に似合わぬ巨乳だった。

ロリ巨乳、ってやつか。

 

「こんだけ探しても見つからねぇたぁ、排水溝にでも行っちまったかねぇ。」

 

俺が来るまでに結構探し回っていたのだろうか、腰に手をやって背伸びをしているところを見ると、彼女は探すのを諦めたようだ。

 

一応、俺も石鹸で滑って転びました、なんてコントはごめんなので、足元を見ながら空いているカランへ向かう。

 

真ん中あたりに、椅子も桶もきれいに整頓されたカランが空いていた。

 

椅子も低めの台形のもので、俺の身体に合わないやたらと背の高い樹脂の椅子よりは座りやすそうだ。

 

シャワーでお湯をさっと撒いて、椅子にすとんと腰を下ろしたときだ。

 

「はうっ?!」

 

にゅるりと、尻に何かが入って来た感触があった。

 

びっくりして思わず立ち上がったせいで、正面の鏡に頭をぶつけるところだった。

 

椅子を見たら、保護色で隠れるように、白い椅子の座面に半分潰れた親指大の白い石鹸がそそり立っていた。

 

さっきの小さな寮生が探していた石鹸てこれか。

 

床に落ちてないはずだよ。

 

まさかこんなところに隠れ潜んで獲物を待ち構えているとは・・・

 

どっちにしろ、俺の尻に潜り込もうとした石鹸なんぞ返せるわけもなく、素知らぬ顔でそのまま備え付けのゴミ箱に放り込んだ。

 

・・・までは良かったんだけど。

 

じんじんと、尻が痛み始めたんだ。

 

知らなかったよ、固形石鹸がこんなにも粘膜に対して攻撃性が高いなんて。

 

痛みはじんじんどころか、最後には激痛だ。

 

周りにバレないよう、涙目で痛みに耐えながらずっと尻にシャワーを当て続けるとか、なんていう羞恥プレイだ。

 

今日のお風呂はいつもより長くなった。

 

 

 

 

・・・今日は、何て運の悪い日なんだろう。

 

お風呂から上がると、洗い上がった洗濯物が全滅していた。

 

洗濯機の前でリアルorz状態だ。

 

衣装の表面に描かれていた、金ラメの星の模様が剥がれて、洗濯ものどころか洗濯機の内側にまで細かい金ラメが付着して大惨事になったのだ。

 

洗濯機待ちをしていた寮生に平謝りしながら、風呂場から桶に汲んだ水を何度も運んで洗濯機の内側を掃除する羽目になった。

 

見知らぬ上級生らしい寮生がしょうがないなぁと一緒に水を汲んで手伝ってくれて助かった。

 

他の洗濯物は・・・水道で手洗いしてみたけど、繊維に絡んでしまってるのか金ラメがどうしても落ちないので、ゴミ箱行きに。

 

不幸中の幸いというか、一人で洗濯機を回していてよかった。

 

これで他の寮生の洗濯物を巻き込んでいたら、と思うとぞっとする。

 

 

パジャマを着てその足で、寮長のヒシアマさんのところに速攻で謝りに行く。

 

剥がれた金ラメだらけになった衣装の残骸を見て、ヒシアマさんは笑って許してくれた。

 

「まぁ古いものだからねぇ。

 アンタが最後に着てくれて、役目を終えたんだろうさ。

 水曜と土曜に、施設部の焼却炉に火が入るから、そこでお別れしな。」

 

「普通にゴミ出しじゃなくてなんでわざわざ焼却炉に?」

 

「ああ、アンタの所じゃやらないのかい?

 まぁ最近は気にせず捨てちまう娘も多いけどね。

 そういう長年大事にされてきたもんは、最後は火にくべて天に昇らせるのさ。

 想いのこもったものだ、ゴミと一緒にポリ袋の中、はかわいそうだろう?」

 

「ああ、供養ってことですか。」

 

「わかってるじゃないか。

 寺社仏閣でのお焚き上げ、とはいかないが、長年がんばってくれたもんだ。

 アンタの手で天に送ってやんな。」

 

「はい。」

 

トレセン学園も一応は学校なのに、まだ焼却炉が普通に稼働している、っていうのにも驚いたけれど、最後は火で天に還す、っていう風習が、まだ若いヒシアマさんの口から出てくるのは意外だった。

コンピューター技術なんかは俺のいた世界より発展しているようなのに、日本の昔ながらの風習が思いもよらないところからぽろっと出てくる。

目に見える奇跡をポンポン起こす三女神、なんていう存在があるからかもしれない。

新しいのにどこか懐かしい、あっちの世界でも日本はそんな風に言われていたけれど、ウマ娘世界はそれをもう少し極端にしたような感じがする。

 

まあ郷に入れば郷に従え、焼却炉が稼働しているときに、この衣装には天に還って貰おう。

 

 

部屋に帰ると、もう消灯まで幾許もない。

 

ダメになった洗濯物は・・・金ラメだらけになった小娘の下着なんか普通にゴミ箱に入れてもいいような気もするんだけど、見つかったらゴミを扱う出入りの業者には男性もいるから原型がわからなくなるまで切り刻めとか言われそうだしなぁ・・・

衣装と一緒に天に還って貰うか。

 

ダメになった洗濯物の入った袋を机の上に投げ出してベッドに寝転がると、消灯を待たずに眠りに落ちてしまった。

 

 

 

 

朝。

眩しさを感じて目が覚める。

今日は一週間に一度の休日、日曜日だ。

 

俺のいた世界と違って、ウマ娘世界は土曜が休日じゃない。

トレセン学園だけかと思ったら、世間一般の会社や学校も土曜は普通に出なければならないそうだ。

一応、お昼までの半ドン、だそうだけれど。

俺の両親も俺が生まれたあたりまでは完全週休二日制じゃなかったというから、ウマ娘世界じゃそれが続いている、ということだろうか。

 

眩しさの原因、高く昇った陽に照らされて白く輝くカーテン。

目覚ましもかけずに眠れるだけ寝たので、起きた時間はかなり遅い。

初夏の日差しは、カーテンがあっても容赦なく部屋の温度を上げてくれるので、最近は暑くて敷布団側の背中なんかが寝汗でパジャマと貼り付いてちょっと気持ちが悪い。

 

掛け布団を跳ね上げて上半身を起こすと、布団の中から独特の脂の匂いが立ち上ってくる。

革ジャンやグローブなんかの手入れに使うオイル、とはちょっと違うけれど、新品の革製品から香ってくる匂いに近い。

最初はベッドの匂いかと思ったけれど、違った。

 

尻尾の匂いだ。

毎日お風呂に入ってから寝るので汚れてはいないはずなのだけれど、ここのところ気温が上がってきて寝汗をかくようになってから、どうも尻尾から出る脂の匂いらしいということに気付いた。

悪臭じゃないけれど、おいしそうないい匂いってわけでもない。

 

これが、毎日同じ布団であおむけに寝て敷布団に尻尾をプレスしているものだから、どんどん布団に匂いが移っていく。

敷布団だけでも干せればいいのだけれど、寮の部屋には布団が干せるベランダがついていない。

とりあえずはシーツを洗濯してしのぐしかないのだけれど、布団を干したいときはどうすればいいんだろう。

 

・・・ヒシアマさんに聞くか。

 

 

ベッドから降りた途端に、ぐぅ、と腹が鳴く。

 

さすがに夕食にカップラーメンだと腹が持たないか。

今日は休日なので、寮の食堂はやっていない。

 

買い置きは・・・カップラーメンとカロリーバーくらいしかない。

さすがに連続でカップラーメンは食べたくないので、コーヒーとカロリーバーだけの朝食で済ませることにする。

コーヒーは、カフェ先輩のコーヒーじゃなく、インスタントのラテ。

かなり甘いから、少しは腹の足しになるだろう。

家事室でカップ一杯分のお湯を沸かして、スティックのインスタントラテを投入する。

カロリーバーは有名な黄色いのではなく、量だけはやたら多そうだったキングカロリーとか言う銘柄。

はちみー風味、と書いてあるけど風味であってはちみーが入っているわけじゃなさそうだ。

1本でヒトの一食分のカロリーがあるらしい。

8本入りの袋は、妙に重たい。

 

開けてみると、意外にもホワイトチョコレートでコーティングされたカロリーバーが出てきた。

へぇ、質より量かと思ったら意外とおいしそうじゃん、と齧りついたら、いきなり裏切られた。

 

・・・表面の白いコーティングはホワイトチョコじゃない、ドーナツなんかによくかかっているパウダーシュガーの油漬けだ。

更に歯ごたえが、ねっちょりとコールタールを噛んだよう。

アレだ、アメリカ人が大好きなヌガー系お菓子、ウニッカーズの歯ごたえとそっくり。

煮詰めすぎて固体になりかけた水飴と、噛むと脂が染み出てくる硬く焼きしめた甘い揚げ乾パンを交互に重ねてパウダーシュガーでコーティングしました、そんな感じの食べ物。

これをいっぺんに朝食として食べるのは無理がある。

ウマ娘としての感覚は、『甘いのはうまい』と伝えてくるのだけれど、ヒトの感覚の俺の頭は『こんなもん食い続けたら胸焼けしてひどいことになる』と警鐘を鳴らす。

飲み物に甘いラテを選んだのも失敗だったか。

甘いものを食べて、甘い飲み物で流し込む。

 

大丈夫なのかこれ、と思いながらも、空腹を感じた身体は機械的にこの砂糖と脂の塊を腹に流し込んでいく。

20分も経たないうちに、甘いラテは飲み干されてカロリーバーの空き袋が5つも転がっていて、しかも満足感を感じているのだからウマ娘の身体ってやつは本当にカロリー欲求に忠実なものだ。

 

パジャマを脱いで、ドライヤーで尻尾の脂を飛ばしてブラシを入れ、いつもの動きやすいシャツと短パンの私服に着替える。

 

今日は、ウマ娘世界に来てから怪我やら何やらでずっと乗ってやれなかったバイクのエンジンに火をいれて、見物がてらトレセン学園周辺をぐるっと走ってみるつもりだ。

ウマ娘レーン、なんてものがあるからそれには気を付けなければいけないけれど、基本交通ルールは元居た世界と変わらない。

 

バイクのキーと、雑巾を硬く絞って持ち、部屋を出る。

 

広く土が露出したダートや障害コースのすぐ脇の駐輪場に半月も放置していたんだ、きっと土ぼこりが積もって触るのも嫌って状態になっているはず。

あまりひどいようだったら、午前中は洗車だな。




「いいとこ入った!」
「激痛だよ!」


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トレーニングの邪魔になるものは没収です!

まいど、感想、誤字脱字報告ありがとうございます~
前回は誤字特にひどかったですね~
すいません~

今回はメインストーリー絡みの話ですが、プロット案からだいぶかけ離れた構成に大修正してあります~
最初に書いたのが、あまりにもつまらなかったので~


バイクのある職員駐輪場へ行くついでに、ヒシアマさんに布団の干し方を尋ねようかと寮長室に寄ったら、寮長室のドアにホワイトボードがかかっていた。

 

『外出中

 急用は携帯までXXX-XXXX-XXXX』

 

ヒシアマさんはおでかけのようだった。

 

そりゃそうか。

寮長と言っても休みなしに働き続けられるわけじゃない。

寮生が多く外出していなくなる休日が一番休みを取りやすいに決まってる。

 

布団の干し方は、別段今すぐ聞かなければならないってことでもないし、明日でもいいだろう。

休暇中にひっきりなしに仕事の電話がかかってくる鬱陶しさは俺も身に染みてわかってる。

ヒシアマさんの静かな休暇のためにわずかながら協力しよう。

 

玄関の脇は、外出する寮生が置いていったスリッパ入りの袋だらけだ。

普段は通学するバッグに入れて持って行くけれど、私服で外出する時はさすがにスリッパ持参というわけにもいかないから、自分のスリッパとわかるように袋に名前やら部屋番号やらを書いて、玄関脇に置いていくものらしい。

1000人近くいるという寮生全員が外出しているわけじゃないだろうけれど、玄関のかなりの面積がこのスリッパ袋で覆いつくされている。

こうしている間にも、私服姿の寮生が靴を履いてスリッパ袋を置いて外に出かけて行った。

 

スリッパ用の棚も置こうと思えば置けるのだろうけれど、そうすると足の踏み場が無くなってしまう。

一番初期の段階ではここ美浦寮も棟数がもっと少なくて、扉のついたロッカー式の下駄箱なんかも置けていたのかもしれないけれど、増築を重ねて、出入り口が基本この玄関一つ、という管理方式だと1000人分はさすがに無理なので今の方式になったんだろうな。

 

俺も、スリッパを袋に入れて隅っこに並べて置いて、寮の外に出た。

 

 

 

駐輪場につくと、案の定俺の赤いバイクCPZ900Rは土ぼこりまみれだった。

 

メーターの表面に積もった土ぼこりで、メーターの数字が読めない。

さすがに、ここまで積もっていると、硬く絞った雑巾なんかじゃ追いつかないし、こすれば傷がつきかねないので、やはり洗車した方が良さそうだ。

 

駐輪場の付近を捜して回ると、駐輪場の隅っこに簡易的な流し台と水道があったのでそれを拝借することにする。

石でできた四角い柱に、安っぽい蛇口が生えているあれだ。

 

ムッタートレーナーが体育館に置いていったホースリールを持ってくれば、楽に洗車はできるだろう。

 

とりあえずホースリールを持ってきて、水道に繋ぐ。

ハンドル周りと、シート周りに軽く水をかけながら雑巾で撫でるように土ぼこりを流す。

バイクの押し歩きで身体に触れそうなところを、ざっと絞った雑巾で拭く。

 

バイクのすぐ近くに自転車や原付は置いてないけれど、それでも水しぶきが飛ぶかもしれないので、もう少し離れたところまで押して行ってそこで洗わないとな。

 

最低限押し歩ける状態になった愛車にキーを差し込んでハンドルロックを外す。

そしてそのままキーをONに。

 

メーター下にあるインジケーターに赤と緑のランプが灯り、スターターボタンを押せばエンジンがかけられる状態になる、はずだった。

 

インジケーターに、光が灯らない。

 

キーをOFFに戻してもう一度ONにしても、うんともすんとも言わない。

 

「バッテリーあがりかよ・・・」

 

半月放置したくらいじゃ、バッテリーがあがるはずはないのだけれど・・・現実は無情だ。

 

困ったことに、ウマ娘世界に堕ちてきたときはこのバイクと着の身着のまま、バイクを整備するための機材はまるまるあっちの世界のアパートの中だ。

自分でバッテリーを充電することができない。

そして、このバイクを買った店がウマ娘世界にないのが大問題だ。

バイク屋っていうのは基本的に他の店で買ったバイクの整備を嫌がる。

こういう出どころのしれないバイクの整備を引き受けてくれるお店を探すだけで一苦労だ。

 

かといって、滅多に使わない高価なバッテリー充電器を買って、整備のための工具を買って、それでもだめだったら新品のバッテリーを買って・・・と考えると、どう転んでも数万円レベルの出費になるのが簡単に予想できて俺は頭を抱えた。

 

どっちみち、今日バイクで周辺探索をしよう、っていう計画は今この時点で潰えた。

 

ジャバジャバと無駄に出続ける水を止めに水道まで行き、水を止めて振り向くと、どうしたことか。

バッテリーが上がっていたはずのバイクのテールライトが赤々と点灯している。

 

一時的な接触不良か何かだったのかと、急いでキーをOFFにしにバイクの下に戻る。

エンジンがかかっていないと、ヘッドライトやテールライトが馬鹿みたいに電気を食うので本当にバッテリーが上がってしまう。

 

メーター下のインジケーターの見慣れた赤と緑の光が見えてきて、あと一歩でバイクに触れられる、という距離まで近づいたところで、点灯していたインジケーターやテールライトが一斉に消えた。

 

触ってもいないのに動作が不安定とか、故障だとしたら一番嫌な故障の仕方だ。

 

バッテリーは生きている、ということがわかったので、接触不良を起こしそうなスイッチ類をONOFFしてみたり、コンコン叩いてみたり。

しばらくバイクの周りをぐるぐる回りながらいろいろ手を尽くしてみたけれど、バイクは沈黙したままだ。

 

いよいよ修理を引き受けてくれる店を探さなければならないかとげんなりしながら、洗車だけ終わらせてしまうかとまた水道の栓を開けにバイクのそばを離れると、カッチ、カッチと背後から聞き慣れたウィンカーリレーの音がし始めた。

 

さっき弄り回したときにウィンカーのスイッチを入れたままだったらしい。

それが、当たり前のように点滅を繰り返している。

 

おいおいおい、と踵を返して近寄ると、バイクはまたすべてのライトを消して沈黙した。

 

・・・バイクにからかわれているような錯覚に陥る。

 

ふと思い立って、バイクを見つめたまま後ろ向きにバイクから離れる。

 

バイクに触れられるギリギリの距離を超えたとき、またバイクのランプ類が一斉に点灯し始めた。

 

そこから一歩でも近づくと消える。

 

結界でもあるんじゃないかと思えるくらい、バイクから一定の距離を境界線に、バイクのライト類が点いたり消えたりする。

 

まるっきりオカルト現象だ。

 

でもなあ・・・そのオカルト現象の代表格が、俺、ラベノシルフィーって言うウマ娘だ。

俺と一緒にウマ娘世界に堕ちてきて、このバイクもこの世界の似たバイクに改変されているのもある意味一緒だ。

あの駄女神、バイクも持ち込めるようにしてくれるとは言っていたけれど、『無事に』とは一言も言ってないし。

 

何せ、バイクは別名アイアンホース、鉄の馬だ。

ウマ娘世界に持ち込まれたバイクに魂が宿っていて、半月も放置したせいで拗ねている、みたいな話になっていてもおかしくない。

 

しばらく悩んだ末に、カフェ先輩がこの手の心霊現象に詳しいのではないかと思いついた。

あの『お友達』と長年連れ添っているんだ、こういう怪奇現象には俺より断然詳しいはずだ。

 

せっかくの休日にカフェ先輩の手を煩わせてしまうのは申し訳ないけれど、平日に私用で時間取らせるのはもっとまずそうだしな。

手が空いていてくれるといいけれど・・・と祈りながらウマホで初めてカフェ先輩に電話をかける。

 

 

コールすること数回で、カフェ先輩の落ち着いた喋り声がウマホから聞こえてきた。

 

「マンハッタンカフェです・・・

 休日に連絡をくれるって、お出かけのお誘いですか?」

 

「えと、ちょっと困ったことになりまして。

 カフェ先輩、心霊現象とか詳しかったりします?」

 

「・・・そこそこは。

 何か不可思議な現象に会いましたか?」

 

「ええ。

 バイクを持っているんですが、久しぶりに動かそうとしたら、近寄るとバイクが沈黙するっていう妙な現象に出くわしまして。

 故障とは思えませんが、その手のことを相談できそうなのがカフェ先輩しか思い浮かばなかったものでご相談を。」

 

数瞬の沈黙の後、電話の向こうからバタバタと慌ただしい音とともに張り詰めた声のカフェ先輩の声が聞こえてくる。

 

「・・・そのオートバイに触れないようまず離れてください。

 今どこですか?

 すぐ向かいます!」

 

学園の職員駐輪場だと伝えると、10分ほどして、小脇に小さなバッグを抱えた、黒いパンツルックのカフェ先輩が走ってきた。

半袖のレース飾りのついた白いシャツに黒いサスペンダーが映えてとても凛々しい。

 

「無事ですかっ!」

 

バイクからちょっと離れた縁石に腰を下ろして待っていた俺とバイクの間に割り込むようにして足を止め、埃まみれのバイクを睨む。

カフェ先輩は、俺の身体が無事では済まないような事態を考えてすっ飛んできてくれたらしい。

 

「バイクの電源が入ったり切れたりするだけなんで何かが飛んできたりとかそういうことはありませんよ。」

 

バイクがまともに動かない、というだけで他に害はないので、のほほんとした口調で彼女に答えると、幾分か彼女の身体から緊張が抜けた様だった。

 

「・・・悪いものが取り憑いた時というのは、自分の存在をアピールしようと悪戯を仕掛けてくることが多いんです・・・」

 

カフェ先輩はそう答えると、俺とは違う方向の空中に向かって彼女は小さな声でつぶやいた。

 

「・・・お願い、できるかしら・・・」

 

瞬間、バイクに残っていた土ぼこりと付着した水滴が、爆ぜるように全部吹き飛んだ。

微かに、バイクが揺れはしたけれど、他に何も起こらない。

 

「え?

 悪いものはいないけど触れられ・・・ない?

 あの白いのの最初と同じ?」

 

彼女がつぶやくと同時に、俺のほっぺたが両側から押し潰されてぐにぐにと強制的に百面相させられる。

『お友達』か。

最初、『お友達』は俺に触れられなかった。

何故かカフェ先輩と再会したときには、触れられるようになっていたけれど。

 

「・・・あのオートバイ、あなたの世界から?」

 

「ええ。」

 

それを聞いたカフェ先輩は宙を見据えて何か考え込んでいたけれど、ウマホを取り出して電話をかけ始めた。

 

「怪異の類ではないかもしれません・・・

 もう一人、この手のことに詳しい同級生がいます。

 

 ・・・今日、彼女、いるかしら。」

 

カフェ先輩が、電話で同級生とやらを呼び出してしばし。

 

「・・・来たわ・・・」

 

その相手がやってきたらしい。

 

栗毛、というよりは鮮やかなオレンジ色の癖のあるショートヘアのウマ娘。

そして私服・・・だと思うのだけれど、白い巫女服に緋袴を着込んで右手には祓い串を、左手にはなぜか水晶玉を持って土煙を上げながら走ってくる。

彼女はカフェ先輩の前でビタッと止まると癖のあるやかましい声で叫びはじめた。

 

「呼ばれて飛び出てマチカネフクキタルですっ!

 カフェさんっ!

 神霊の御業かもしれない摩訶不思議なことが起こっているのはここですかっ?!

 

 ややっ!こちらのお方はっ!

 

 今日の占いに出ていましたっ!

 

 本来交わることの無い縁が結ばれるだろうと!

 

 感じます!

 その身体を満たすウマ娘に似て異なる魂!

 あなた、流れビ・・・もがっ!」

 

カフェ先輩が素早くフクキタルの口を押さえて低い声で言い含める。

 

「フクキタル、何でもかんでも勢いのまま口にするのはやめて。

 彼女は、流れ人だということを喧伝したくはないの。」

 

フクキタルが、口を塞がれたままこくこくと頷く。

カフェ先輩の手が、ようやくフクキタルの口元から離れた。

 

「ぷはぁ~、失礼しましたっ!

 改めまして、マチカネフクキタルですっ!

 噂の編入生の方ですね?」

 

「噂はともかく、編入生のラベノシルフィーです。

 フクキタル先輩、でいいんですかね?」

 

「そうですね、カフェさんと同期ですから、あなたの先輩になりますっ!

 あなたがカフェさんと一緒にいると言うことは、やはりそういうことなんでしょうか?」

 

「ええ、三女神様絡みの怪奇現象の類ならフクの方が詳しいかもしれないと思って。

 ちょっと見て貰えませんか?」

 

「任せてください!

 ・・・と言いたいところですが・・・まずは何が起きているのか教えて貰えませんか?」

 

「ええと、このバイクなんだけど・・・」

 

先ほどまでの現象を、ウィンカーを点けて実際に再現してみせる。

二人がバイクのそばにいても何も変わらないけれど、俺が近づくとバイクがぴたりと沈黙する。

 

「摩訶不思議ですねぇ・・・ラベノシルフィーさん、バイクの近くに立っていてくれませんか?」

 

「フク、危険はないのね?」

 

少し警戒した声でカフェ先輩が訊ねる。

 

「こちらに来る前の占いでは、凶兆は出ていませんっ!」

 

「ならいいんだけれど。」

 

食い下がることなく引くあたり、彼女はフクキタル先輩に信頼を寄せてはいるようだ。

俺はバイクの傍らに立った。

 

フクキタル先輩が、祓い串を腰に差すと、ちょっと離れたところから水晶玉越しに俺とバイクを眺めながら空中に空いた手を躍らせて何か唱え始めた。

 

「ふんにゃか~・・・はんにゃか~・・・全てを見通す偉大なるシラオキ様・・・何が起きているのかお教えくだされ~・・・ふんぎゃろ~・・・はんぎゃろ~・・・」

 

本当にふんぎゃろとか言うんだ、とか思いながら眺めていると、一瞬ボゥ、とフクキタル先輩の目に青い炎が宿ったように見えた。

 

「キェェェイ!

 でましたっ!

 【誓約を果たせ、さすれば戻る】とのお告げですっ!」

 

「えっと、それはどういう?」

 

「ラベノシルフィーさん、最近何か神に誓って、とか、誓いを立てたりしましたか?」

 

考えるまでもない。

 

「神に誓って、というのは無いですね。

 三女神にもてあそばれている感が強くてアレに誓うなんてとてもとても・・・」

 

「・・・三女神様をアレ呼ばわりとか罰が当たっても知りませんよ?

 まぁ・・・神様は気まぐれ、とは言いますが・・・

 ・・・シラオキ様が『誓約』とお告げを下されたあたり、あなたの誓いが関係していることは間違いありませんっ!

 知らず知らずのうちに、誓いを立てていたのではありませんか?

 あなたの人生に関わる宣言とか・・・」

 

「人生に関わる宣言ねぇ・・・

 タマモ先輩とオグリ先輩が卒業するまでに併走できるくらい走れるようになってみせる、と言ったことか・・・

 GIのステージに立つ、ってのは俺から言い出した事じゃないし・・・ってオイ、マジか・・・」

 

『GIのステージに立つ』と口にした瞬間に、一瞬だけバイクのインジケーターが光った。

 

「・・・それみたいですね。

 神様が、誓約を交わす際に、大事なものを取り上げる、というのは神話によくあるパターンですし。

 取り上げられたものは、誓約が果たされるか、もしくは履行不能になった時に返ってくると思います。

 あなたの場合は、GIのステージに立った時点か、もしくは志半ばでGIのステージに立てなくなった時点、トレセン学園を去る時、というところでしょうか。

 あ、安易な道を選ぶと、大抵ろくなことにならないので誓約を果たすべく努力はした方がいいですよ?」

 

・・・頭痛がしてきた。

GIのステージに立つ、なんてのは、俺が抱える問題を全て解決して、ウマ娘として走れるようになった更にその先にある、まだ見えてすらいない高い山の頂だ。

正直な話、そこに至れるという確証が一切持てない、夢みたいな話でしかない。

それを果たすまで、俺は相棒に乗れないって言うのか?

 

「つまり、俺は神に誓ったわけでもないのに、誓約交わしたことにされて、大事なバイクを召し上げられた、ってことか。

 ・・・ハァ・・・。

 三女神にもてあそばれている、っていうのはこういうことなんですよ・・・」

 

ため息しか出ない。

相棒のバイクは壊れたわけでもなく、GIレースなんていうクソ高いハードルへの挑戦を終えるまではおあずけ、ってわけだ。

 

「三女神様に目をかけられる、っていうのも良し悪しなのね・・・

 元気を出して。」

 

「ま、まぁまぁ、原因はわかったのでいいじゃないですか!

 お告げを下されたシラオキ様に感謝を!

 シラオキ様ありがとうございます!

 りぴーとあふたーみー!」

 

同じ神でも、シラオキ様に罪はない。

むしろ協力してくれたからここは素直に感謝しておくべきか。

 

「・・・シラオキ様ありがとうございます。

 

 カフェ先輩、フクキタル先輩、貴重な休日の時間を使わせてしまってすみません。」

 

「お役に立てたなら何よりですっ!!

 これを機にシラオキ様の偉大さをもっと知って貰えれば!」

 

「私はあまり役に立てなかったわ・・・」

 

「いえ、カフェ先輩がフクキタル先輩を呼んでくれなければ何もわかりませんでしたよ。」

 

ちょっとシュンとするカフェ先輩を慰めていると、早くもグゥ、とお腹が鳴った。

あれだけ甘いものを詰め込んだのに、カロリーバーだけじゃやっぱり持たないか。

 

「そういえばお腹が空く頃ですか・・・

 今日はタキオンさんもいませんし、あちらでご飯などいかがですか?」

 

カフェ先輩が、校舎の方に視線をやる。

あちら、というのは二人の根城にしている理科準備室のことだろう。

 

「おお!

 お昼は何にしようかと占おうと思っていたところです!

 よろしいのですか?!」

 

「そういえばフクは私のコレクション部屋に招いたことはなかったわね・・・

 大して面白いものがあるわけでもないけれど・・・」

 

「いえいえ!

 ややっ!

 何かビビっときました!

 今日はスープカレーと天ぷらがラッキーご飯ですっ!

 間違いありません!」

 

「・・・また妙な取り合わせをリクエストしてくれるわね・・・

 ラベノ・・・ベノシちゃんは、食べたいものはありますか?」

 

「カフェ先輩が作るんですか?」

 

「まさか。

 リクエストに応えて大抵のものは作ってくれるお店が近くの商店街にあるので、そこに宅配を頼むんです・・・

 味は保証しますよ?」

 

フクキタル先輩が、スープカレー、などと言ったものだから、カレーが食べたくなってしまった。

 

「そういうお店なら料理は統一した方が早く来そうですね、私もスープカレーにしましょうか。」

 

「私もそうしようかしら・・・

 じゃ、頼んでおくから二人ともあとで理科準備室に来てください・・・」

 

カフェ先輩はくるっと踵を返して校舎の方に歩き出す。

 

「了解しました!

 着替えてきますね!」

 

慌ただしく駆け去るフクキタル先輩。

 

うん、純白の巫女服にスープカレーが飛び散ったらそりゃ大惨事だもんな。

 

おれも、バイクを片付けて、カフェ先輩の待つ理科準備室に向かわないと。

 

 

 

 

バイクは、カフェ先輩のお友達が土ぼこりも水滴もきれいさっぱり吹き飛ばしてくれたおかげで洗車した後のようにピカピカだ。

 

これから先、へたをしたらトレセン学園を卒業するまで、こいつに乗ることはできないらしい。

気が付くと、自然と手がタンクを撫でていた。

 

「・・・バイクカバー、買わないとな。」

 

こいつをここで寝かせることがほぼ決定、とはいえ、そのまま放置していたんじゃまた土ぼこりだらけになってしまう。

カバーくらいはかけてやりたい。

 

車体を立ててサイドスタンドを外し、元あった駐輪場の屋根の下に押していく。

ハンドルロックをかけてキーを抜く。

 

ホースリールを巻いて、それを片付けに体育館へ向かいながら考える。

 

なんで三女神が俺からバイクを取り上げたのか。

 

 

・・・逃げ道を、塞ぐためなんだろうな。

 

 

フクキタル先輩の言う誓約の件で、あの駄女神ゴドが俺をどうしたいのか、なんとなく見えてきた。

ウマ娘世界の理に従って、悲劇で終わった俺の世界の馬、ラベノシルフィーの運命を覆してみせろ、ってことなんだと思う。

 

俺をトレセン学園に放り込んで、レースに出るように仕向け、GIレースで勝て、と誘導されている。

 

なら、ラベノシルフィーが故障したレースは、きっと初夏に行われるGIレースのうちのどれかだ。

 

ウマ娘、というコンテンツでは、ウマ娘となった名馬が悲劇的な結末を覆すIFの世界を描いていた。

この世界が、それに準拠したものなら・・・俺は運命のレースを走り、レース中の故障という悲劇を覆すか、故障してなお復活してみせなければならない。

 

 あっちの世界の馬の運命を背負って生まれてきたウマ娘は、自然とその運命をなぞる。

 

しかし、俺はラベノシルフィーというウマ娘の身体に、全く異なるただのヒトの魂が入り込んだものだ。

 

運命の拘束力が、その分弱いんだろう。

 

そう考えると、三女神の他に例を見ないレベルだという過干渉にも納得がいく。

 

本来ならば、ラベノシルフィーはこの世界の誰かの子として生まれ、彼女の持つ能力と運命の導きで、この身体はトレセン学園に入り、順調にレースを重ね、とあるGIレースに出場して故障するはずだった。

そして、もしかしたら復活してハッピーエンドを迎えるのが本来のストーリーだったのかもしれない。

 

それが、ラベノシルフィーという馬の魂はこれ以上の転生を拒んで消えてしまった。

代わりに、俺をラベノシルフィーというウマ娘に作り替えてウマ娘世界に捻じ込んでみれば、三女神がこれでもかと誘導してやらないと、ラベノシルフィーの運命から脱線していこうとする。

 

何故俺がラベノシルフィーの運命をなぞらないといけないのかは三女神にしかわからない都合があるんだろうけれど、あの駄女神ゴドは俺がバイクに乗ると、その運命からの脱線が修正できない程大きくなる可能性があると踏んだに違いない。

 

結局、神の手のひらの上で踊らなければならないのは変わらないのだけれど、逆に俺はある程度適当に過ごしていても、運命から逸脱しそうになれば神からの干渉という修正が入るわけだ。

 

文字通り神に見放されない限り、運命のGIレースには無理やり立たされるし、立てるよう鍛え上げられる。

 

そういうことなんじゃないだろうか。

 

もしかして、GIレースに出ることを目指して頑張ってさえいれば、意外と好き勝手しても構わないのか?

 

馬としてのラベノシルフィーは、俺が見たレースで終わった。

 

でも、その運命のレースをウマ娘として乗り越えれば・・・三女神は目的を達して干渉しなくなり、俺は自由な余生を送れる?

 

何せ、コンプレックスの元だった足の遅さはこの身体になって克服し、女性になってはいるけれど、とんでもなく若返っている。

あっちの世界と違って、ウマ娘世界ではレース中に重大な故障を発生しても命を失うわけじゃない。

走れなくなってしまったとしても、元ヒトの俺はそれで人生を悲観して衰弱するようなこともない。

車椅子生活になってもしぶとく生きるだろう。

そして運命から逸脱しがち、ってことは、その故障が確実に発生するかも怪しい。

もしかしたら、そのGIレースに出て、五体満足で普通にその後の生活を続けられる可能性もある。

 

その考えに至って、急に目の前が開けた気がした。

 

ホースリールを体育館のステージ袖に押し込み、同じ場所に転がっているウォーターベッドを眺める。

 

これを使った練習をまじめにこなしていれば、たぶん俺はウマ娘の走り方というのを身に着けられるんだろう。

この世界の神が、俺を導いているんだから。

 

ホースリールを体育館において、俺は駐輪場に戻ってきた。

 

「絶対また乗ってやるからな。」

 

パンパン、とシートをはたいて長年の相棒に声をかける。

こっちが、俺の本当の誓約だ。

 

グゥ、とこのタイミングで腹の虫が鳴く。

 

何とも締まらないな、と思いながら、俺はカフェ先輩の待つ理科準備室に向かった。



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スープカレーパーティ

えーと、のちの話につながるダメ押し的閑話です~

前回のフクキタル登場も本来なかった話だったので、もう少し掘っておこう、というのもありますが~

フリの押すなよの回数は多いほど良いというので~(白目


理科準備室。

 

相変わらず薄暗い部屋に、タキオンの実験器具が妖しげな光を放つ中、カフェ先輩が淹れてくれたコーヒーをお供に料理が届くのを待つ。

フクキタル先輩がパステルカラーのフード付きパーカーにキュロットパンツというラフな格好で帰ってきて、さっきから弾丸トークが止まらない。

 

「おおおお!

 ではあなたの世界にも寺社仏閣があって、お守りや破魔矢、お札にお祓いなどの儀式も存在すると!

 

 ならば、にゃーさん!

 招き猫はありますかっ!?」

 

「ありますよ。

 商売繁盛の福を招くとして歴史あるお店にはよく置いてあります。」

 

「世界を超えて幸運を招くとはっ!

 やはりにゃーさんこそが最強の幸運グッズ!」

 

目をキラキラさせて感涙にむせぶフクキタル先輩の、にゃーさんとやらの数々のご利益の話を聞いていると、廊下の方からガラガラと台車を転がすような音が聞こえてきた。

 

コンコン、と扉を叩く音がする。

 

カフェ先輩が扉を開けると、配達の人が料理を届けに来たらしい。

 

「こちらにお願いします。」

 

案内されて、配達の人が入って来る。

運送関係なら大パワーのウマ娘かな、と思ったら、普通のヒトのおにーさんだ。

 

スープカレーだから大きな器にラップでもされてくるのかと思えば、なんかラップで蓋をされた寸胴鍋を持って来たよ。

その後に、ご飯の入った旅館なんかでよく見るおひつと、盛り付け用の深い皿やスプーンやフォークの入ったカトラリーケース。

料理人がいないだけで、出張料理サービスとあまり変わらないものが一式、どんどん運び込まれてくる。

 

配達人が伝票を渡してカフェ先輩が財布を取り出したので、慌てて割って入る。

 

「お世話になったのでここは私が!」

 

「後輩におごらせるわけにはいかないわ・・・」

 

「コーヒー豆も頂いていますし、貰ってばかりでは・・・」

 

「あれは私が好きでしているのだもの・・・」

 

支払いをさせて貰おうとするけれど、なかなか、カフェ先輩が退いてくれない。

俺とカフェ先輩が支払いですったもんだしているときに、フクキタル先輩は我関せずといった体で、鼻歌を歌いながらテーブルセッティングをしていた。

 

「じゃぁ、今度カフェ先輩が気に入ったコーヒーのブレンドを見つけたとき、また分けてください。

 それの前払いってことで。」

 

「わかりました、今日はごちそうになります。

 でも・・・あまり貸し借りを意識されるとそれはそれで寂しいですよ?」

 

うっ、それを言われると・・・ちょっとカフェ先輩との距離感を見誤ったのかもしれない。

何だろう、あっちの世界の人付き合いよりも一旦仲間と認識されると急激に距離が近づく気がするな。

ウマ娘同士の気安さ、みたいなものがあるんだろうか。

 

「準備は万端です!

 いつでも食べられますよ!」

 

空気を読まずに、鼻息も荒くフクキタル先輩が準備ができたことを宣言する。

ようやく支払いの権利を得た俺は、伝票を貰って支払いを済ませた。

配送含めて8000円ちょっと。

見た感じ、料理屋で頼んだ時よりも、3人前鍋ごと、ってことで、普通のウマ娘サイズよりさらに量が多そうだ。

配送料考えなければ割安なんじゃないだろうか。

 

「夕方に鍋とか回収しに来ますんで目に付くところに出しておいてください。」

 

まいど~、という挨拶を残して配達の人が去る。

 

ソファーの前の長テーブルにはどこから持って来たのか、白いテーブルクロスが敷かれ、真ん中にデン、と天ぷらの盛り合わせが。

それぞれの席の前には深いスープカレー用の皿とご飯用の皿が、料理が盛られるのを待っている。

フクキタル先輩が床に置かれた寸胴鍋のラップを剥がすと、スパイシーなスープカレーの香りがあたりに広がった。

バジルと玉ねぎらしいものが浮いた澄んだオレンジ色のスープの中に、チキンレッグや細長く4分割されたニンジン、カリフラワー。

ヤングコーンに焼きナスやウズラのゆで卵らしいものも見える。

フクキタル先輩の頼んだてんぷらはてんぷらで、天つゆで食べるのではなく、このスープカレーにトッピングするように具材が選ばれたのか、薄切りのカボチャや獅子唐、サツマイモに・・・これはゴーヤか?そういったカレーに合いそうな具材が揃っていた。

ご飯は、黄色いけれど、さすがにサフランじゃないな、ターメリックライスだ。

ほんのりとバターの香りもする。

 

「さ、いただきましょう!」

 

「フク、今日のご飯は彼女が奢ってくれるそうよ。」

 

「ごちそうさまですっ!」

 

何のためらいも葛藤もなく、フクキタル先輩はおごりを受け入れてくれた。

このくらいあっさり受け入れてもらえるとうれしいな。

 

よーく煮込まれたチキンレッグを一本ずつ、その周りに彩りのいい野菜を配置して盛っていく。

それを受け取ったフクキタル先輩が、さらに天ぷらを載せ、カフェ先輩がターメリックライスを配膳する。

 

「それでは・・・」

 

「「「いただきます!」」」

 

「(ぱくり)

 おおおお!

 これでもう今日の幸運は約束されました!

 お腹に幸運が満ちていきますっ!」

 

「・・・これは・・・あとを引くおいしさですね。」

 

スプーンに載せたターメリックライスをスープに沈めて、食べる。

玉ねぎの甘みとコンソメの利いたスープに、ご飯がほどけていく。

スパイシーだけど、口の中にひりつくような辛さが残らない。

スープの味わいだけが残る。

チキンレッグは、フォークで刺しただけでホロホロと崩れるほど柔らかい。

短時間で用意できるものじゃないから下ごしらえして冷凍でもしておいたのだろうか。

それとも、圧力鍋で調理したのか。

スープが肉の奥の奥まで染みていて噛み締めるごとにうまみが出てくる。

人参も、大きく長くカットされているのがうれしい。

噛む度にニンジンから甘さが染み出てくる。

フクキタル先輩が天ぷらを一緒に頼んだ時は、カフェ先輩ともども妙な組み合わせをすると思ったけれど、スープカレーと野菜の天ぷらってこんなに合うんだな。

ただ揚げた野菜と違って、衣がスープを吸って後入れトッピングなのに最初からこのために作られたんじゃないかってくらい合う。

 

「商店街の隠れた名店なんです。

 小さなお店をおばさんとその息子さんが切り盛りしてるんですけど、本当に作れない料理が無いんじゃないかってくらいなんでも作れて・・・

 しかもこの味に、お手頃なお値段で・・・近場でいいお店が無い時はここで作れるか聞いてみるといいですよ。」

 

辛さをそれほど感じない、のは舌だけなのか、3人ともじんわりと額に汗がにじんできていた。

ポケットからハンカチを出して滴りそうになる汗をぬぐいながら食べる。

 

寸胴鍋の中には、まだまだ量がある。

あと2回くらいお替りしても大丈夫だろう。

ターメリックライスがちょっと心もとないかな。

突然、フクキタル先輩が背を反らせて悶えた。

 

「おうっふ!

 辛い!

 当たりを引いてしまいましたっ!」

 

「・・・獅子唐ですか。

 たまにすごく辛いのありますよね・・・

 私のは辛くなかったですよ?」

 

フクキタル先輩の天ぷらの獅子唐が激辛だったらしい。

涙目になりながらスプーンでスープを掬って口の中の辛さを洗い流している。

 

「辛いものにはフクキタル、ですか。

 ・・・ぐぁっ!」

 

フクキタル先輩の当たりを引いた姿を尻目に齧った獅子唐の天ぷらから、辛みというより痛みに近い何かが口いっぱいに広がる。

 

スープ、じゃ間に合わない。

目に付いたコーヒーを湛えたカップを掴んで一気に流し込む。

 

「ややっ!

 大当たりですね!」

 

俺が獅子唐の大当たりを引いたのを見てフクキタル先輩が仲間、とばかりに満面の笑みを浮かべている。

えふえふと咳き込む俺を見てカフェ先輩が冷たく冷えた水を冷蔵庫から出して来てくれた。

受け取った水を口の中で転がしてまだ痛む舌を冷やす。

 

「フクの占いは当たるのはいいんですけれど、おまけも良く当たるんですよね・・・」

 

「心外な!

 人生万事塞翁が馬、大吉の運勢がやってくるのならばこんな些細なことなど気にすることでもありませんっ!

 さ、カフェさんもぜひ大当たりを!」

 

「あっ!」

 

フクキタル先輩が菜箸でつまんだ獅子唐の天ぷらの最後の一個を、カフェ先輩のスープカレーの中に投入する。

天ぷらの衣の隙間から覗いた艶々のきれいな緑色をした獅子唐が『俺こそ最強だ』とばかりに何ともいえない妖気を放っているように見えた。

 

カフェ先輩が無言で獅子唐をフォークで突き刺して、フクキタル先輩のスープカレーの中に移そうとするのを、フクキタル先輩がクロスさせた菜箸で受け止める。

 

「・・・!」

 

「ぐぬぬぬ!」

 

一進一退の攻防の果てに、獅子唐の天ぷらはフォークからポロリと落ちた。

 

「「あっ!」」

 

ひゅん、とどこからか小皿が飛んできて、床に落ちる寸前だった獅子唐の天ぷらをキャッチする。

獅子唐の天ぷらを載せた小皿はそのまま寸胴鍋の近くに着地すると、寸胴鍋からニンジンやヤングコーンなんかがふわふわと空中を浮いて取り出されて小皿の上に乗った。

 

「ごめんなさい、あなたも食べたかったのね。

 食べてもいいですよ、どうぞ。」

 

ススス・・・と小皿が滑って、物陰に隠れる。

お茶をねだったり、料理を食べたがったり、食い意地が張ってそうなところはやはりお友達はウマ娘なのだろうか。

 

「・・・カフェさんの『お友達』ですか。

 いつもながら面妖ですねぇ。」

 

「?

 フクキタル先輩にも見えないんですか?」

 

「見えませんね。

 幽霊の類ではないようなのですが・・・」

 

と、フクキタル先輩が話を続けようとしたとき、小皿が隠れた物陰からガシャンと何かが割れる音がした。

ドスンバタンと何かが暴れるような音が聞こえて、盛大に埃が舞い上がり、物陰を作っていた棚が揺れる。

 

「・・・大当たりだったのね・・・」

 

パタパタとカフェ先輩がまた冷蔵庫に冷えた水を汲みに行った。

 

彼女が手にしたコップが、差し出す前に取り上げられるように空中に浮いて傾けられる。

水は・・・減りもしなければこぼれもしなかった。

でも、何かが、水を飲んでいるように、コップの中の水が揺れる。

 

「カフェ先輩のお友達って、普通にもの食べられるんですね。」

 

「いえ、食べている仕草だけで食べ物そのものが無くなることはないんです。

 時々気まぐれに食べるものを欲しがるのでこうしてわけてあげるんですが・・・

 好き嫌いがあるので味はわかるのでしょうけど・・・

 フクにも見えないとか、温泉で溺れるとか、私にもよくわかりません・・・」

 

「この世は、何もかも理解できるものばかりではありませんっ!

 これはそういうもの!

 それでいいじゃありませんか!」

 

両手を掲げて、あるがままを受け入れましょう!と叫ぶフクキタル先輩。

 

うん、まぁ俺もそういう謎生物みたいなもんだからそうしてくれると助かる。

 

カフェ先輩がコップを片しに行ったタイミングで、フクキタル先輩が袖を引っ張って、俺にこそっと耳打ちした。

 

「・・・どうやってカフェさんのお友達を手懐けたんですか?

 普通だったら、あなた、お友達にギッタンギタンにやられてると思いますが・・・」

 

「ギッタンギタンって、なんで私が・・・」

 

そう答えると、フクキタル先輩が、テーブルの上のカップに目をやる。

 

さっきまでコーヒーの入っていたカップ。

獅子唐にやられて、中のコーヒーは俺が全部飲み干した。

 

その殻のカップの縁に残る、淡いリップの跡。

 

「あっ!」

 

カフェ先輩のカップを取り違えて、飲み干してしまっていたらしい。

 

「これも内緒でしょうから口にはしませんがあなた、元は・・・」

 

フクキタル先輩の唇が、声は出さないものの『お・と・こ』とはっきり形にした。

 

神がホイホイ奇跡を起こすわ、見えないのに物理干渉してくるお友達はいるわ、魂の色から性別まで当ててくる霊能力持ったウマ娘はいるわ・・・

これだからウマ娘世界ってやつは・・・

 

「・・・ですよね?

 普通ならお友達がカフェさんに近寄る不埒な輩と激高して・・・いだだだ!

 やめてくださいっ!

 ウマ娘の腕力でアイアンクローはっ!

 こめかみがっ!額がっ!

 わ゛れ゛て゛し゛ま゛いま゛す~!」

 

悪戯っぽくニヨニヨ笑いをするフ・ク・キ・タ・ルに、なぜかこうしなければいけない気がしてその顔面をがっしり鷲掴みにした。

・・・まあ俺の大して大きく無い手ではこめかみをかろうじて掴めるかどうかというところなんだけれどそこは有り余る腕力で指先を食い込ませる。

トレセン学園に入ることが決まっていなかった頃はまだしも、曲がりなりにも女子高、しかも寮はトレーナーすら入れない男子禁制の場所で、元男です、なんて吹聴されたらトラブルの元にしかならない。

余計な口は、封じておこう。

 

「フクキタル先輩、口は禍の元、私のプライバシーはお口にチャック、いいですね?」

 

「ほんぎゃ~!

 チャック、チャックしますから!」

 

一応言質はとったということで、手を放す。

 

フクキタル先輩は痛みに悶えていたはずなのに、口元がだらしなく開いてなんというか、こう・・・あれだ、アヘ顔決まっててきしょい。

 

「・・・いつの間にか二人ともずいぶん仲良くなったんですね・・・」

 

手をタオルで拭いながらやって来たカフェ先輩が隣に座る。

 

「いえ、さっき獅子唐にやられたときに、カフェ先輩のコーヒー間違えて飲んでしまったのをからかわれまして・・・

 その、ごめんなさい。」

 

「・・・謝られるようなことじゃないと思うのですけれど・・・

 冷めてしまわないうちに残りを片付けましょう。」

 

皿が空になったらお替りをめいめいでよそって食べる。

 

3杯目になるとターメリックライスが冷めてきてしまったのと、スープカレーの大きな具はあらかた食べてしまったのもあって、お茶漬けのように直接ターメリックライスに粉々になった具の溶け込んだスープをかけて締めにする。

 

俺にアイアンクローを喰らったフクキタル先輩は、幸運が足りていませんでした! と寸胴鍋に残ったスープをあらかた平らげて、お腹をぽんぽこりんにしていた。

 

「「「ごちそうさまでした。」」」

 

きれいに空になった寸胴鍋の中に、皿を積み重ねて入れて廊下に出しておく。

 

食後のコーヒーをいただきながら改めて二人にお礼を言う。

 

「この後はどうしますか?」

 

「門限前に、一回街まで出て、生徒会へのお礼を買いに行こうかと。」

 

「そういえばそんな慣例もありましたね・・・

 会長は、リンゴが好きだそうですよ。

 特にふじ、っていう品種が。」

 

「生徒会は近寄りがたい、とは言っても、人の出入りは多いですから、数があるものが喜ばれる気がしますっ!」

 

ふむ、いい情報を貰った。

喜ばれるものを贈るに越したことはない。

 

フクキタル先輩は毎週恒例の古物商巡りに、カフェ先輩はしばらく読書をしてお腹がこなれたら新しく手に入れたコーヒーの生豆の焙煎とテイスティングをするそうなので、お食事会は解散となった。

 

ふぅ、お腹が熱い。

 

はて?

何か前にもこんなことがあったような?



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買い出しとバイク整備と

しばらく音信不通ですいません~
ちょっと某県まで出張行ってました~

おまけに、この先の話の練り直しでしばらく行き詰ってまして~

ようやく、こうしよう!って割り切れたのでぼちぼち再開します~




カフェ先輩、フクキタル先輩と別れて、昼下がり。

しばらくバイクに乗れない、とわかったからには、長期保管のための対策をしなければいけない。

 

いつものようにてくてくと歩いて府中のショッピングモール街へ向かう。

この道も、もうだいぶ慣れた感じがするな。

 

その中の一角にあるホムセンのフーナンで、安いバイクカバーと、これまた安い工具セットを買う。

今バイクを置かせてもらっている職員駐輪場は、一応屋根があるので雨が吹き込みさえしなければ安いカバーで十分だ。

埃だけ積もらなければいい。

 

工具セットは、しばらくバイクを動かせないのでバッテリーを外すのに必要だ。

動かさないバイクにバッテリーを繋いだままだと、数か月くらいでバッテリーが空になる。

外しておくに越したことはない。

買った工具セットは、安い、出来が悪い、すぐ壊れるの3拍子揃った中華製品、ラチェットレンチとプラスマイナスドライバーにプライヤーまでついて980円。

バイクカバーの方が2000円と高かったりする。

 

 

その足で、地下の食品売り場へ。

先輩のアドバイスに合致した商品はないかと、菓子折を扱っているお店が並んでいるあたりをうろうろ。

 

そんなにお店の数が多いわけじゃないので、これがいいかな、というのはすぐに見つかった。

それなりに数が入っていて、先輩方お勧めのリンゴを使ったお菓子。

 

お値段は・・・まあ結構いいお値段したよ。

でも、相手はシンボリルドルフ会長、シンボリ家なんていう名家の出らしいから、あまりしょぼいものは贈れないよな。

これが見つからなかったら、誰もが納得のどらやの和菓子くらいしか思いつかないし。

 

菓子折を紙袋に入れて貰っていると、デリコーナーからお惣菜のいい匂いが漂ってくる。

けど、この菓子折もそうだけど、ここのところ何かと出費が多い。

昼間も結構お高いスープカレーなんてものを食べたことだし、夜は久しぶりに貧乏飯にするか・・・

 

100円ショップに寄って、電子レンジ調理用のどんぶりや箸、パスタ調理パックを買う。

寮の家事室だと、お湯をかけるかレンジでチンするかしか温かいものを作る方法がないからな。

調味料を入れておくプラの小さなコンテナと、その中に入る一人暮らし用の小ぶりな醤油やサラダ油やスパイスなんかを一式。

貧乏飯、と言いつつも、いろいろ買いそろえるとそこそこの金額は出てしまう。

まあ調味料の類が無くてはさすがにまともな食事にならないので初回の必要経費ってことで。

 

・・・学生時代にこの調味料すらケチって、小麦粉を水で練っただけのものをレンジで温めて糊みたいになってたのを食べ続けた友人がいたけど、彼、最後は栄養失調でぶっ倒れて救急車で運ばれてかえって貧乏になったしなあ・・・

 

質素でも、栄養と満足感のあるご飯であることは大事。

 

同じモール街の中にあるスーパーに寄る。

籠を持って、まず向かうのは調味料のコーナー。

2倍濃縮の麺つゆを籠に入れる。

3倍とか4倍のは、いざ食べてみるとイマイチなのが多いので俺はいつも2倍濃縮のを買う。

麺つゆは、和食洋食問わずいろんなものに応用が利くから、一つあると困ったときは麺つゆで何とかなるくらい万能だ。

 

そして味噌。

出汁入りじゃないのを買う。

出汁入り味噌は、味噌汁以外に使うと合わない料理がある。

特に味噌を濃いめに使うものだと出汁が濃すぎて逆にまずくなるものが。

味噌味のモヤシ炒めとか作る時は、出汁入りだともやしの味噌汁レベルまでお湯を足さないと食べられたもんじゃないものができることがある。

ちなみに味噌の種類は白味噌だ。

 

次に買うのは、乾燥みそ汁の具。

わかめに乾燥ネギに乾燥油揚げなんかが入って100円くらい。

味噌汁、ラーメン、うどん、蕎麦あたりに適当に混ぜてのアクセントに。

 

乾麺のコーナーに寄って、海外製の安いのだけが取り柄の乾燥パスタ1kgと蕎麦粉よりも小麦粉の割合の方が多いかもしれない安いだけの乾燥蕎麦1kgを籠に入れる。

これがあれば、カップラーメンとエナジーバーの他にパスタと蕎麦という選択肢が増える。

炭水化物だけだから身体にいいかどうかは別として、だけど。

 

・・・実のところ一人暮らしで本当に金がない時は、乾麺の類は買わないんだ。

寮の家事室の電子レンジが無料で使えるから買うけれど、一人暮らしでカツカツ節約生活の時はなんだかんだ言ってガスや電気を結構消費するから。

 

 

そして、最後に外周の冷蔵ショーケースの並ぶコーナーに。

今日の夕ご飯のメイン、茹でうどん玉。

茹でられたうどん一食分がビニールパッケージされたものだ。

すぐ食べられて量もある。

生モノなので日持ちはしないけど、何がいいかってその値段だ。

 

近県に製麺所があるところから直接仕入れているスーパーなら、1食20円しない。

 

ラッキーなことに、このスーパーでは消費期限間近のが半額以下で売られていた。

1食分で5円。

50円じゃない、5円だ。

チコルチョコでももう10円玉では買えない時代だというのに、それよりも安い。

 

消費期限がまだ先の割引されてないうどんの値段でも15円。

 

消費期限間近のを根こそぎ、とは言っても3つしかなかったけれど、かごに放り込み、追加で2袋。

5食分もあればうどんだけとは言ってもお腹いっぱいにはなるだろう。

 

今日は麺つゆなんかを買ってしまったので普通にどこかでご飯を食べるくらいの金額が飛んでしまったけれど、これでしばらくはスーパーに脚を延ばしさえすればこの茹でうどんにかかる一回の食費は100円以下だ。

ウマ娘の一回の食事代金としては破格じゃないだろうか。

 

まだ道路を走れないからちょっと往復に時間がかかるのが難点だけれど、探せば学園の近くにもスーパーあるんじゃないかな。

あとで探してみよう。

 

 

 

 

買い物袋をぶら下げて寮に帰って、部屋の小さな冷蔵庫にうどんや味噌を押し込むと、買ったばかりのバイクカバーと安物工具を持って職員駐車場へ。

途中の自販機のゴミ箱を漁って、小さなペットボトルの空き瓶を一個確保。

手が油だらけになることも考えて、一応雑巾も持参だ。

 

カフェ先輩のお友達が埃を吹っ飛ばしてくれたので、服を汚すことを気にせずバイクに触れる。

 

駐車場の屋根の下だとちょっと薄暗いので、作業性をよくするためにハンドルロックを外してバイクを屋根の影から出す。

 

日向でサイドスタンドをかけて、少し離れた場所からその赤い車体をまじまじと眺める。

 

あっちの世界で乗っていた姿とはちょっと変わってしまってはいるけれど、十年来の相棒だ、しばらく乗れないんだな、と思うと寂しいものがあるな。

 

しばしの別れの前に、またがるだけでも、と、サイドスタンドをかけたまま脚を上げてシートにまたがろうとしたんだけど・・・

 

シートが高ぇっ!

 

この身体になって身長が縮んでいたのをすっかり忘れていた。

 

身体は柔らかくなって脚は男だった時以上に上がるんだけど、またがろうとすると、つま先で精いっぱい背伸びしても股下よりシートの方がちょっと高い。

そのまままたがってシート中央にお尻をずらすと、サイドスタンドで車体が傾いた状態でさえ、つま先が地面に届くかどうか。

シート幅があるせいでどうしても脚が開いてしまうので、精いっぱい伸ばしたつま先すら地面に届かない。

シートの角までお尻の位置をずらしてようやくつま先がつく。

筋力にあかせて、傾いた車体でも支えることはできるけれど、信号なんかで止まる度にお尻をずらしてぐらっと車体を傾かせてようやく脚をつけるとか、何度も繰り返したら乗るのが嫌になりそうだ。

 

そしてもう一つ。

CPZ900Rのシートは二人乗りしやすいように、シートに段がついている。

バイクの後ろに行くにしたがってちょっとシートが高くなっているのだけれど・・・

これが尻尾の付け根に当たってものすごく座り心地が悪い。

特に地面に足を付けようと脚を延ばして身体が立つと、尻尾の付け根が押し付けられて痛みすらある。

横に尻尾を逃がしたら逃がしたで、尻尾の毛の先がタイヤに巻き込まれそうで怖い。

また尻尾バンドで尻尾を背中に括り付けて乗るのか?

なにぶん、まだまともにバイクに乗ったウマ娘を見たことがないので一般的にはどんな風に乗っているのやら。

 

足つきの悪さに尻尾の収まりの悪さ。

三女神がバイクを俺から取り上げなかったとしても、このままじゃまともに乗れるものじゃない。

 

「あんこ抜きに出すかぁ・・・」

 

あんこ抜き。

シートの中のスポンジを削ってシートを低くしたりする加工のことだ。

専門の業者さんがいて、安いところだと1万円もかからずにシートを低く加工してくれる。

 

シートが低くなれば、俺の今の身長でも足つき性はマシになるはずだ。

 

相棒を走らせてやることはできないけれど、走らせることができるようになった時、すぐに乗れるよう準備はしておかないと。

何せ、その時までの時間はたっぷりあるのだから。

 

シートの上で脚をぶらぶらさせながら思案にふけっていると、「あっ!」という聞いたことのある声に続いて、こちらに駆け寄ってくる足音があった。

 

「なんだよ!

 アンタ、タメで編入してきたって聞いたぜ?

 声くらいかけてくれよ!」

 

口をとがらせながら駆け寄ってきたのは、私服姿のウオッカだった。

タイトなハーフパンツとTシャツに、ショートで黒い革ジャンを羽織っている。

袖口とかポケットにキラキラのラインストーンで模様が入っているし、なんかやたらとごついシルバーの指輪つけてたりと、なかなかロックな格好だ。

ノートの入った透明なファイルケースを小脇に抱えて職員駐輪場の方に姿を見せたあたり、チームハウスか、トレーナー寮あたりに向かう途中ってとこだろう。

 

「悪い悪い、いろいろあってさ。

 声かけられる状態じゃなかったんだ。

 今時間あるなら、例の約束、果たしとこうか?」

 

「いいのか?!」

 

「ああ。

 ちょっとしばらくこいつを寝かせなきゃならなくなったからちょうどいいや。

 キャブレターの中のガソリン、無くなるまでエンジン回していってくれ。」

 

以前、ウオッカとここで会って話したときから結構経つ。

バイク好きのウオッカとは、このバイクのエンジンかけた状態でまたがらせてやる約束をしている。

 

その間、キャブレターの中のガソリンは蒸発して煮詰まってきっとろくでもないことになっている。

約束を果たすついでにウオッカにエンジンかけてしばらく回して貰えば、キャブレターの中に残るガソリンを減らせるから抜いて捨てる量も少なくて済む。

 

お尻をずらしてひょいとバイクから降りると、サイドスタンドを外してセンタースタンドにかけ直す。

ヒトだったころは結構踏ん張ってやらないと車体の重さに負けてうまくかからなかったセンタースタンドが、小さくなったこのウマ娘の身体だと有り余る筋力で逆にするっとスタンドをかけられるのだから面白いものだ。

センタースタンドをかければ、とりあえず後輪が浮く。

後輪が浮いていれば万が一でもウオッカがエンジンをかけた瞬間にどっかに吹っ飛んでいくことはないだろう。

 

燃料コックを開けて、キャブレターの中の煮詰まったガソリンを新鮮なガソリンで薄めていく。

キャブレターの中のガソリンがいっぱいになったあたりでまたコックを閉めて、チョークを引き、キーをONにする。

インジケーターは、当然点かない。

 

「乗って、インジケーターがついたら、クラッチ握ってエンジンかけてくれ。

 クラッチはずっと握ったままで。

 迷惑にならない程度だったらちょっと空ぶかししてもいいぞ。」

 

「マジで?!」

 

「ああ。

 万が一があるから、興奮して揺らすなよ?」

 

「ぜってー揺らさねぇ!」

 

ウオッカは小脇に抱えていたファイルケースをぽいと放り出すと、いそいそとバイクにまたがった。

メーター周りを見据えたウオッカが怪訝な声で訊ねてくる。

 

「あれ?キーはONなのにインジケーター何も点灯してないぜ?」

 

「それが悩みの種なんだよ。

 エンジンのかけ方、切り方はわかるよな?」

 

「ああ。」

 

「俺は少し離れるから、何かあったらエンジン止めて降りてくれ。

 キャブの中のガソリンが切れたら勝手にエンストするとは思うけどな。」

 

バイクの方を向いたまま、後ずさる。

 

一歩、二歩。

 

三歩目を踏み出したとき、ウオッカの顔が赤と緑に照らされるのが見えた。

ウオッカは急にバイクが生き返ったことに驚いてはいるものの、これから自分がこのバイクに火をいれることに興奮しているのか、じっとメーターを見つめるだけでこの異様な現象について訊ねてはこなかった。

 

「エンジンかけていいぞ~!」

 

「・・・」

 

俺の掛け声を合図に、ウオッカの左手がクラッチを握って、右手の親指がスタータボタンを押す。

 

キュキュキュキュ・・・ズォウ!

 

セルが回り、呆気なくエンジンが目を覚まして吠えた。

 

これまでもオヤジさんのバイクでエンジンかけるくらいはさせて貰っていただろうに、ウオッカはまるで初めてバイクに触ったかのようなキラキラした瞳でうわー、うわーとつぶやいている。

 

両手でハンドルを中央に据えて、恐る恐るの、アクセルのブリッピング。

ウオッカがアクセルを捻る度に、ズォウ!ズォウ!とエンジンが応じて咆哮を上げる。

エンジンがろくに温まっていない時の扱いは心得ているんだろう、彼女はアクセルを軽く開けるだけで無理に高回転まで回したりはしない。

 

数分経つか経たないか、キャブレターの中のガソリンが限界を迎えたのかボッボボ・・・と妙な脈動を残して、エンジンは止まった。

 

「・・・っく~!

 大排気量の4発のエンジン音、最高だぜ!」

 

ウオッカはバイクにまたがったまま、拳を胸の前で握りしめて感動に打ち震えていた。

 

「堪能できたか?」

 

「ああ!

 サンキューな!

 父ちゃんのバイクは単気筒だからよ~、こういうのとまたエンジンの響きが違うんだよな~

 ドパパン、ドパパン、って感じでさ~」

 

あ、そういえば、ウオッカのオヤジさん、バイク乗りだったっけ。

なんか結構年季の入ったバイクに乗っているような話を以前していたから、ショップとかに詳しいかもしれないな。

 

「なあ、ウオッカ、一つ頼まれてくれないか?」

 

「なんだ?

 オレにできることならいいぜ?」

 

「オヤジさんに、この辺で評判のいいシート加工屋さん無いか聞いてくれないか。

 こっちにバイク持って来たはいいんだけど、シート直すの忘れててな~

 この辺来たばっかりでわからないし。

 バイクまたがってみたら脚はつかないわ、尻尾は痛いわで参ってたんだ。」

 

「?

 これ乗ってたんじゃないのかよ?」

 

「乗ってたが、乗ってた頃と今だと、(身体の)仕様が違うんだ。

 ・・・まあ、いろいろあるんだよ。」

 

ウオッカにはこのウマ娘世界に堕ちてきた当日、うかつにもいろいろ話しちまってるからな~

例の恥ずかしい身の上話に合わせつつ、ごまかすところはごまかして付き合っていくしかないだろう。

幸い、ウオッカはバイクにばかり目が行っているせいか、俺のあの恥ずかしい出まかせの身の上話とかに突っ込んでこないし。

 

「よくわからねーけど・・・

 まぁいいぜ。

 父ちゃんに聞いとく。

 連絡先教えてくれよ。」

 

「頼む。

 じゃあ、ウマホの番号これな。」

 

ウマホでワン切りして貰って互いに連絡先を交換する。

なんか、名の知れたウマ娘の連絡先ばっかり増えていくな。

 

「ところで、何か用事があってこっちに来たんじゃないのか?」

 

「あっ、いけね!

 トレーナー、明日から出張だって言うからよ。

 書類渡しに来たんだった。」

 

「急ぎか?

 急ぎだったら悪いことしたな。」

 

「いや、急ぎって程でもないけど・・・

 7月に合宿あるからそれの同意書渡すだけだし。」

 

「合宿って言うと、海か?」

 

「よくわかったな~

 2か月みっちり海辺で合宿!

 こんなに長く海で特訓とか生まれて初めてだから楽しみで仕方ないぜ!

 アンタは?」

 

「さあ?

 今のところトレーナーから合宿の話なんか微塵も出てないな~」

 

「わりぃ、一人だけはしゃいじまって・・・」

 

「いや、ウオッカが気にすることじゃねえよ。

 それより、海なんて成人したらなかなか行けないから学生のうちに思いっきり楽しんで来いよ。」

 

「なんかオレの親と同じこと言ってんな・・・

 アンタ時々スゲー年上に思えるぜ。」

 

「オッサンくさいとはよく言われるよ。」

 

「じゃ、ちょっくら行ってくる!

 ありがとな~!」

 

「ああ、またな。」

 

パタパタと走っていくウオッカと別れて、本来の作業に戻る。

 

バイクのキーをOFFにして、シートを外す。

シート下に収まっているバッテリーのマイナス端子から順に、配線を外していく。

プラス端子も外して、ストッパーも外し、バッテリーをシート下から引っこ抜く。

しばらくバッテリーなんか見てなかったけれど、バッテリー液が足りないとかはなさそうだな。

 

地面にバッテリーを置くと、背後から声がかかる。

 

「バッテリー、外しちまうんだ?」

 

背後にいつの間にかウオッカがいた。

 

「早いな、もう行ってきたのか。」

 

「書類渡すだけだからな。

 なぁ、作業見ててもいいか?」

 

「見てても多分詰まらないぞ?」

 

ウオッカがそれでもいい、というので、そのまま作業を続ける。

 

ウオッカに消費してもらったキャブレターの中の残りのガソリンを、ドレンを開けて、拾ってきたペットボトルに全部抜く。

とりあえずキャブレターの中のガソリンを抜いておけば、バイクを乗らずに長く放置しても腐って煮詰まったガソリンが悪さをすることだけはない。

これが最近のフューエルインジェクション車両だったら数か月くらい放置してもなんともないんだけどな。

 

このペットボトルのガソリンは、洗剤と混ぜて焼却炉に火が入る日に汚れた雑巾に染みこませて燃やして貰おう。

 

シートを外したままで、また屋根の下までバイクを押していき、センタースタンドをかける。

安物で、ただでかいだけの薄っぺらいバイクシートを被せて風で飛ばないよう紐で縛る。

 

「バッテリーとシートはいいのか?」

 

「このバイク、しばらく寝かせることになりそうだからな。

 バッテリーは寮の部屋に持って帰る。

 シートは、ウオッカから連絡貰ったら加工に出させて貰うよ。」

 

頼むぜ?とちょっとウィンクしてみせると任せとけ、と頼もしい返事が返ってきた。

 

荷物を抱えて、ウオッカとだべりながら歩いて、寮の門のあたりで別れた。

 

じゃーなー!と手を振るウオッカの革ジャンの背中には、ラインストーンで描かれたバイクの姿。

本当に好きなんだな、バイクが。

 

ウオッカと俺が、為すべきことを為して、トレセン学園を卒業して、彼女がバイクに乗り始めて。

一緒にツーリングにでも、なんて誘えるのはまだまだ先か~

 

ウオッカとツーリングに行く為にも、ラベノシルフィーの最後のレースは無事乗り切らないとならない。

何か運命の裏をかく方法を考えないとな。



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匂いにまつわるあれこれ

え~
女性とお付き合いする時に、匂いの話は、香水の話であってもするべきではないってのが私の教訓ですね~

そんなことないよ、きみの匂いなら全部いい匂いだよ、って囁くのをお勧めします~


外したバイクのシートとバッテリーを抱えて寮に戻る。

 

寮長室のホワイトボードはかかったままだ。

まだヒシアマさんは帰ってきていないらしい。

 

部屋までたどり着いて、部屋の隅っこに持ってきた荷物を置く。

 

夕食の時間にはまだ早い。

バイクが動いたなら門限近くまで近所を散策、なんて予定はあっさりと潰えて、さしてやることもない時間がぽっかりと空いてしまった。

 

まだ明るい窓の外を見ていたら、そういえば子供の頃はこんな風に一日が長くて持て余して、時間を『潰す』のが大変だったな、と思い出す。

学校から帰って、読書をして、パソコンをいじって。

夕方になったら始まる再放送アニメを夕ご飯ができるまでぼーっと見続けて。

そして、風呂に入って寝るまでの時間がまた長くて。

どうやってこの暇な時間を過ごそうかと焦れていたのに。

ところが、そんな時間を持て余す日々も、社会に出ると終わる。

1年歳をとるごとに一日の体感時間がどんどん短くなって、仕事に追われる毎日なんかあっという間に過ぎ去るようになったっけ。

 

そんなことを考えていると、突然職員駐輪場からこの部屋に帰ってくるまでの風景が脳裏に浮かんで、後ろ頭にチリチリと焦燥感が走る。

休日なのに、自主トレーニングに励む学園生と何度もすれ違い、トラックやダートコースの中で少なくない数の学園生が併走を繰り返している姿。

 

全国でもトップクラスの能力のウマ娘が、そうやって努力を重ねているというのに、運動音痴を自覚しているお前が何もしないであいつらを追い越せるのか?

そんな考えが降って湧いた焦燥感を煽る。

反対に、お前は現時点でこの学園の誰にも敵わないポンコツじゃないか、むしろ今から追いつける、と思っていること自体がおかしいんじゃないのか?

と相反する別の考えも浮かぶ。

 

どっちも正論だ。

 

けど、ここはトレセン学園、ウマ娘の走りの頂点を極めようとするウマ娘が集まる場所だ、ボケ~っと過ごそうという考え自体が、異端なんだろう。

 

俺はベッド下の引き出しから体操服を引っ張り出してそれに着替えた。

 

速足で体育館に向かう。

寮の門限まではあと2時間ちょっとある。

何もしないで焦燥感に焼かれるよりは、身体を動かして努力を積んだ方がいい。

自主トレの理由が誰よりも速くなるため、ではないのがアレだけれど、まずは普通のウマ娘と並ぶことからだ。

 

 

・・・ひと汗かいて門限ちょっと前に寮に戻ると、寮長室の扉にかかっていたホワイトボードは消えていた。

ドアの横にある受付小窓のカーテンから明かりも漏れている。

ヒシアマさんが帰ってきたようだ。

 

コンコンとノックすると、いるよ~と中から声がする。

 

扉を開けたら、白地に華やかな色合いの花柄ワンピースを着たヒシアマさんが、バゲットのサンドイッチを齧りながら奥から出て来た。

クリーム色の広いつばのある帽子とハイヒールのサンダルが入り口のすぐそこに転がっているのを見ると、本当に外出から帰って来たばかり、ってところか。

ヒシアマさんがもぐもぐと食べているのは、SUBBEYのサンドイッチかな。

 

「今メシ食っててね。

 そのまま失礼するよ。

 と、すごい汗だねぇ。

 自主トレかい?

 まだ編入して日も浅いって言うのに感心感心。」

 

ヒシアマさんはそう喋りながら硬そうなフランスパンのサンドイッチを齧り千切るように食べ、アメリカンサイズな紙コップのミルクティーらしいものを啜る。

ちょっと派手めのワンピースとヒシアマさんの褐色の肌の対比と、両手に持った食べ物が、夏のキャンプ場でバーベキューを堪能しているグラビアアイドルを連想させる。

飲み物がジョッキのビールだったら、酒屋のポスターに貼ってありそうだ。

 

俺は俺で、洗濯もの増やしたくないからとジャージを羽織らずに体操服にタオル一枚突っかけただけの姿で1時間半ほど運動してきたわけで、顔から肩にかけて汗で肌に髪の毛が張り付き放題。

全身ぐっしょりまではいかないけれど、胸の半ばくらいまでは触るとじっとり湿っているのがわかる。

 

「で、何用だい?」

 

「布団を干したいんですけど、寮の部屋、ベランダも何もないので皆どうしてるのかと。」

 

「あ~、一応、布団を干せる物干し台と竿はあるんだけどね。

 娯楽室の衣装掛けに使われてるの見たろ?

 あまり使う寮生がいないんだよ。

 最近、天気予報があてにならないから、雨にでも降られたらすぐ取り込めないしね。

 一応、食堂の奥の軒下にまとめて置いてあるから、使いたいなら自由に使いな。

 まぁ今はシューズのこともあるから布団を干すよりはもっぱら布団乾燥機だね。」

 

「シューズ?」

 

「・・・アンタ、まさかとは思うけど1日運動したトレーニングシューズ、そのまま履き続けたりしてないだろうね?」

 

「いえ、今のトレーニングだとほとんどシューズ履かないので、合同トレーニングでちょっと履くくらいですかね。」

 

「ならいいんだけどね。

 アンタも編入したてで新入生みたいなもんだから言っておくけど、トレーニングシューズは4~5足は要るからね?

 今日履いたトレーニングシューズは2日休ませて乾かす、で週に3足のローテーション。

 週末にまとめて洗って干すんだ。

 

 新入生なんかは、大抵今まで親元で靴なんか自分で洗わなかった子供だからね。

 トレセンに入って一人暮らし始めるとね、頭からすっぽり抜けてるのさ、靴の手入れってのが。

 ませた娘は初等部の頃から革靴やらブーツやら履いていてわかっているんだけどね。

 

 その靴の手入れを知らない新入生のシューズは、毎日今のアンタみたいに大汗をかいてただでさえ高いウマ娘の体温で蒸されるんだ。

 それをまともに乾かしもせず洗いもせず履き続けるとね・・・

 

 剣道の面や小手ってわかるかい?

 あれと同じ匂いがするようになるんだよ。」

 

・・・それはひどい。

俺も中学生のころ授業で剣道があったけれど、共用の防具ときたら・・・

あの剣道の面をつける時のあの匂い。

吐くかと思った。

そして小手に手を通したときの冷たくねっちょりした感触と、練習が終わって外した後、何度石鹸で洗っても落ちないあの悪臭。

あれが自分のトレーニングシューズから少しでもするようになったらもうすぐ洗うぞ。

この布団を干す話だって、なんか敷き布団が徐々に尻尾の匂いに染まって来たからだし。

 

「まぁ、匂いがひどいだけだったらまだいいんだ。

 革のブーツなんかで良くあることだからね。

 

 でも、水虫にだけはなっちゃいけないよ?

 水虫になったのがバレた瞬間から、治るまで洗濯機は使用禁止になるし、大浴場でもいい顔されないしで事実上の村八分さ。

 

 そうならないためにも、布団乾燥機で毎日トレーニングシューズを乾かすってのは必須みたいなことになっているんだけどね。

 

 ・・・時々、手遅れになったシューズを乾かそうとして、部屋にその匂いがこもって、大騒ぎになることがあるのさ。

 

 アンタは今一人だからいいけど、ほとんどは相部屋だからね。

 

 まして、入学してまだ間もなく、新入生同士で反りが合わなかったりすると、この靴の悪臭で爆発しちまったりしてね。

 喧嘩して部屋の壁に穴を開けたり、ガラスを割ったり・・・その修理の手配をするのはアタシだっていうのにねぇ・・・」

 

手を組んでため息をついたヒシアマさんはうんざりした顔をしていた。

 

「となると、布団乾燥機を買うのが一番早道ですか。」

 

「そうだね。

 部屋に前の住人が残していってくれてればそれを使えばいいんだけれど、無かったんだろう?」

 

「ええ。」

 

ん~と首をひねって考えるヒシアマさんは、何かを思いついたようだった。

 

「食堂の先にあるゴミ集積所。

 粗大ごみはまとまった量にならないと業者を呼ばないから、退寮者が出たときに捨てていったもので動くのがまだあるかもしれないね。

 屋根の下の雨の吹き込まないあたりのものなら試してみる価値はあると思うよ。

 

 ・・・あ、布団乾燥機を探しているなんて話は、平日学園の中でしないこと。

 アタシの同期にちょっと厄介な布団乾燥機マニアがいてね。

 彼女の耳に入ったら最後、最新型の布団乾燥機の素晴らしさを懇々と説明されて、購入後の感想まで求められるんだそうだよ。

 フジが『スイッチが入った彼女の早口かつ饒舌に最新型の布団乾燥機の素晴らしさを推してくるあれは新手の宗教勧誘より性質が悪い』って珍しくうんざりした顔をしていたから。」

 

ははっと笑いながら、ヒシアマさんがサンドイッチの最後のひと切れを口に放り込む。

 

んん~?

布団乾燥機の厄介なマニア?

あっちの世界のウマ娘の話題でそんな話があったような気もするけど・・・

詳しく覚えていないってことはアニメじゃなくてゲームのキャラで、手持ちになかったキャラのエピソードかな。

 

「まぁ、安いのを探せば買っても数千円さ。

 放課後買いに行ってもいいし、通販で買ってもいい。

 聞きたいのはそれだけかい?」

 

「あと一件。

 生徒会にお礼に上がるのはいつがいいですかね。

 いきなり訪ねて行ってもいいものでしょうか。」

 

「あ~歓迎会のお礼か。

 週明けはたぶん立て込んでいるだろうから、火曜日か水曜日あたりがいいんじゃないかね。

 会長とは毎日顔を合わせるから聞いといてやるよ。

 ウマホに連絡でいいかい?」

 

「ありがとうございます。

 お願いします。

 お食事中失礼しました。

 ではこれで。」

 

ひらひらと手を振るヒシアマさんに一礼して寮長室を出ると、扉の脇に回覧板が立てかけられていた。

俺が中で話していたから気を使って置いて去ったのかもしれない。

栗東->美浦とか書いてあるからフジキセキ寮長が置いていったのかな。

 

コンコンと再び寮長室を叩いて返事を待たずに回覧板が来てました~とわずかに開けた隙間に声をかけると、そこに置いといて~と返事があったのでドアの隙間から回覧板を差し入れてその場を去る。

 

ちょうど、門限あたりなのだろう。

バタバタと玄関に駆け込んでくる私服やら大荷物を抱えた者やら、ジャージ姿の者やら。

玄関を上がると在室票をひっくり返して自分の部屋に戻っていく。

俺も在室票をひっくり返そうと、在室票のかかっているボードの前に立つと、すっと手元が暗くなった。

真後ろに、大荷物を抱えているらしい寮生が立っている。

同じ建物の寮生なのかな。

さっさと在室票をひっくり返して場所を開けてやり、俺は自室への道を急いだ。

 

帰り際に、夕食を買って来た寮生がいるのだろう。

廊下に何ともいえない料理のいい匂いが漂っていた。

階段を上がった先の家事室でも、シュンシュンと電気ポットでお湯を沸かす音がしているから、カップラーメンですます寮生もいるんだろうな。

すれ違う寮生の中にはお風呂セットを抱えたのもいる。

食堂がやっていないのを別にすれば、この時間帯のいつもの風景だ。

 

寮の建物の端っこの自室。

こんな端っこまで来るのは、俺かお隣さんくらいしかないはずなんだけど・・・

なんかamezonの箱を抱えた寮生が俺の部屋の前までくっついてきていた。

 

ドアのカギを開けようとすると、背後でトスっと箱を床に降ろす音がする。

 

「こんばんは。

 話は聞かせてもらったわ。」

 

「誰?!」

 

いきなり話しかけられたのでびっくりして振り向くと、見覚えのある顔があった。

無表情まではいかないまでもそっけない感じの表情。

膝まである鹿毛をリボンで束ねたローポニー。

部屋着なのだろう、全身藍色のシンプルなスェットを着ている。

身長差も相まって、『お姉ちゃん』味が漂う彼女は、確かアドマイヤベガ。

泣ける身の上話を背負っているかなり頑ななウマ娘、という噂だったけれど、あっちの世界のゲームじゃ結局ガチャで引けなかった娘だ。

 

「アドマイヤベガ。

 ヒシアマゾンの同期よ。

 あまり長居はできないから手短に言うわね。

 彼女に回覧板を届けに来た時に私は偶然聞いてしまったの。

 あなたが、布団乾燥機を求めていると。

 幸い、私の手元には布教用の最新型布団乾燥機があったわ。」

 

「あっ・・・」

 

止める間もなく、アドマイヤベガは、未開封だったamezonの段ボールを手際よく開封していく。

 

中から出てきたのはsharkのオゾン脱臭機能付きの高級布団乾燥機の段ボール箱。

彼女はこれまた未開封の箱を迷うことなく開封して中身を取り出していく。

まさにあっという間にブドウのようなロゴマークの入った真っ白な新品の布団乾燥機が俺の目の前に鎮座していた。

 

「この最新型の布団乾燥機は私が使ったものの中で特にお勧めなの。

 消臭除菌もできて、1時間もすればお日様の匂いのするふわっふわのお布団を堪能できるわ。

 使ってみて。

 あなたにもきっとこの布団乾燥機の良さを理解してもらえると思う。

 万が一、気に入らなければあとで返してくれていいわ。

 でも、いいものは使ってみればわかるのよ。

 その価値を決めるのはあなたよ、ラベノシルフィー。

 一か月後、いえ、もっと早くあなたはこれの価値に気付くと信じているわ。」

 

彼女が話してる間も、彼女の手は動き続け、amezonの箱を畳んでいく。

布団乾燥機の箱に、保護材の発泡スチロールとビニール袋を詰めて、元のように箱を閉じると、彼女は説明書と保証書を渡してきた。

 

「説明書はよく読んで。

 どんなにいいものも、使い方を間違えると台無しになるの。

 早く壊れてしまうかもしれない。

 そんな時が来て欲しくはないのだけれど・・・

 でも、この子が役目を終えたときには、より高性能な布団乾燥機がきっとあるわ!

 それまでは、この子を目一杯使ってやって。

 しばらくしたら感想を聞きに来るわ。」

 

畳んだ段ボールを抱えて、彼女は去っていった。

廊下の先で、彼女の姿が階段に消える。

 

我に返った時は遅かった。

 

俺の為に開封されて、置いて行かれた最新型で新品の布団乾燥機。

いや、そりゃ、なんか尻尾の匂いがだんだん布団にしみついていくのが気になるから脱臭機能のある布団乾燥機はうれしいんだけどさ。

あわよくば、ゴミ捨て場に転がっている布団乾燥機をタダで入手できないかな、とか、買ってもハマゼンとかウインバードとかの安物メーカーで済まそうと思っていたのに、まさかの有名メーカー最新型新品高級品を置いて去られるとか。

 

ヒシアマさんと同期の先輩に未開封新品を開封して置いて行かれた時点で、気に入りませんので返品しますとか言えない奴じゃん!

完璧にハメられた。

追い込み方が半端ない。

ていうか、絶対彼女追い込み気質だ。

 

・・・もうこの布団乾燥機の件、詰んでるよなあ・・・

 

ウマホでこの布団乾燥機の値段を調べたら、自分で買うならと思っていた温風を吹き出すだけの布団乾燥機の3倍の値段だった。

次に彼女に会った時に、最高でした! と褒めながらその価値に見合う相場の支払いをしないといけないだろうな。

気に入らないと返品したら、どこが気に入らなかったのかとか詰め寄られる未来が容易に想像できる。

新手の宗教勧誘より性質が悪い、ってのはこのことか。

まあ、全財産寄付しろとかよりは全然ましなんだけど、拒否するには妙に役に立つ品物を善意で押し付けられるってのは・・・

 

・・・とはいえ、ここまで詰んで、物を置いていかれて、この布団乾燥機を使わないって言う選択肢はないわけで。

 

使ってみましたさ。

 

気になってた尻尾の匂いもきれいに消えて、ベガ先輩のお勧め通り、お日様の匂いのするふっかふかの布団になりましたよ。

 

・・・ただね、部屋の冷蔵庫が唸るたびに、部屋の電灯がふっと暗くなるんだ。

モーターとか、熱を発する電気製品てのはとにかく電気を食う。

貧乏飯のうどんを食べ終わったら、使う必要のない部屋の冷蔵庫は速攻でコンセントを抜いたよ。

多分部屋のブレーカー、ギリギリ。

これで風呂上りに部屋でドライヤー使ったらブレーカー落ちる。

 

登校前に、布団に乾燥機をかけて、トレーニングシューズを使った日は帰ってきたらシューズに乾燥機をかけて、がいいのかな。

 

週に一度の貧乏飯何回分でこの布団乾燥機分を回収できるんだろう・・・

 

あまりに貯金の減り方が激しいようだったらバイトも考えないといけないけれど、GIレースに挑戦できるだけの能力を手に入れるだけのトレーニングの合間にそんなバイトなんかできるのかと考えるとちょっと頭が痛いな・・・




「話は聞かせてもらったわ。
 菌類は滅亡する!」
「な、なんだって~!」

ってやり取りは没にしました~


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学園とレースシリーズってそういう…

間が空きすぎた感がありますが~
出張先から投稿です~

主人公がウマ娘世界に堕とされた後に実装されたイナリワンとの邂逅ですね~

実はこの話の前に書いていたのは、もうちょっと重いプールでの話でした。
けどその話はちょっと先送りにします。




休日明けて、月曜日。

朝のホームルームで、期末試験の日程が発表された。

 

試験は2日間で、赤点は追試。

休み時間に聞いた話だと、落第はないけれど、追試で合格点を取るまで補習&追試が延々続くらしい。

夏の合宿があるチーム所属組にとっては、追試は何としても6月中に終わらせたい代物だとか。

 

「一発でクリアするって考えはないの?」

 

クラスメイトのヤマネアラジンがなんだか追試は既定路線、みたいな話をするので、訊ねてみたら、

 

「追試なしで一発クリアできたことなんかありません!」

 

ふんす!と鼻息荒く胸を張って答えられた。

 

「一緒にこの難関をクリアしましょうね、今月中に。」

 

俺の手を取って、仲間ですからとキラキラした目を向けられる。

・・・グランマーチャン、真面目そうなのにお前も追試確定組なのか。

 

というか、期末試験の日程発表があってから見まわしても、クラスの中で試験なんか普段から予習復習をしていれば何でもない事でしょ!とかいいそうな優等生が見当たらない。

それどころか補習と追試が7月に食い込んで最後まで残るのは誰かとかトトカルチョが始まっている。

不本意なことに、編入生の俺もその有力候補に名が挙がっていた。

失敬な。

 

そりゃ、このウマ娘世界の常識は知らないし、歴史やら地理やら国語やら、似ているのに微妙に違うことが多くて合っていると思ったことが間違っていたりすることが結構あるから一発合格できる!と自信を持ってはいえないけどさ。

 

・・・ていうか、もしかしなくてもこのクラスって、座学落ちこぼれ気味の生徒搔き集めて基礎から教え直すためのクラスなのか・・・

 

後ろの席の方じゃ、ローゼンドルネンが机に突っ伏したままどんよりした雰囲気出してるし。

こいつも追試はオトモダチっぽいな。

 

予鈴のチャイムが鳴って、クラスメイトが自分の席に戻り始める。

1限目はスポーツ生理学だ。

数少ない、あっちの世界とあまり違わない内容かと思いきや、ヒトの身体とウマ娘の身体とで呼び方が違う部位があってこれまた混乱させられるので、覚え直さなければならないことがあってがっくりさせられた授業でもある。

この若いウマ娘の身体、若いだけあって記憶力は格段に良くなってる気はするんだけど、それと授業中眠くなるのはまた別の話なんだよなあ・・・

 

 

 

 

午前の眠い座学を終えて、食堂に向かっていると、ヴィ~!とウマホが振動した。

電話の着信だ。

発信主は、ツインターボ。

 

通話ボタンをタップすると、周りに聞こえるくらいのでかい音量でターボの声がスピーカーから流れてくる。

 

「あ!出た出た!

 もしもし?

 ダメノシルフィー?」

 

「・・・ラベノ、だ。

 ラ・ベ・ノ!

 ターボ?」

 

「うん!ターボ!

 今食堂!

 イナリもいたから一緒にご飯食べよー!」

 

ウマホで通話しながら、食堂に入ると、カウンターに並んでいる列の方から、ウマホのスピーカーから流れてくる声と同じ声が聞こえてくる。

声の主はすぐに見つかった。

青髪の小柄なウマ娘なんてそうそういないからすぐわかる。

向こうもこっちを見つけたのか、こっちを見てぶんぶん手を振ってくる。

こっちに気を取られて、列に大穴が開いているのを、ターボの後ろにいたツインテールの小さなウマ娘が押して列に戻している。

あれがターボの言うイナリワン、ていう同室の先輩かな。

ターボよりも小さいのに、タマモが言っていた「チビ巨乳」って言うのも納得の胸をしている。

髪の毛が癖っ毛気味なのか、ツインテールがポンポンのように広がって自己主張しているのもあって、一度見たら忘れられないくらいのインパクトがある。

 

「料理受け取ったら、席とっておいて。

 テーブルで合流しよう。」

 

「わかった!」

 

ターボの元気な返事を聞いて、ウマホを切る。

食堂の料理は、定食になっている物や人気メニューなんかはカウンターそばに設置されている棚にどんどん補充されていくので、さっさと食べたい学園生はそこから取っていく。

例のニンジンが突き立った三段ハンバーグなんかは棚に並べるそばからなくなっていく人気メニューだ。

 

出来立てがおいしいものや、麺類とか作り置きが利かないものは、カウンターで注文して作って貰ったり大釜などからよそってもらう。

 

昨日の晩は素うどん5玉なんていう炭水化物と塩分だけの夕食だったので、野菜マシマシで。

山盛り野菜炒めとスープ代わりにロールキャベツ、マカロニサラダとご飯の組み合わせ。

野菜炒めとロールキャベツはカウンターで注文して、マカロニサラダとご飯はセルフサービスで自分で盛る。

野菜炒めは山盛り、というだけあって、刺身を盛るような大皿に自分の頭と同じくらいの分量。

ロールキャベツは飽きるかもしれないのでちょっと控えめに。

マカロニサラダは、普通の炒飯くらいの量。

ご飯はどんぶりに軽く山盛りくらい。

あっちの世界でよくテレビでやってたフードファイトとかで出てくるような量が、もう当たり前になってしまった。

これでも、たまに食べ終わって物足りない感があるのが困ったものだ。

 

自分の肩幅よりも大きいトレイに料理を載せて、ターボの青い髪を探す。

 

中央よりちょっと奥まった柱の陰にターボの姿を見つけたので、空いている隣の席にトレイを置いて座る。

 

「お待たせ、ターボ。

 こちらが、同室の先輩の?」

 

テーブルを挟んで正面に、小さなウマ娘が腰かけている。

右耳に着けているのは狐面風の耳飾りかな?

ちょっと変わった趣味の先輩かもしれない。

澄ました顔で片目をつぶってこっちをうかがうように見ている。

 

「うん!イナリワン!

 ターボの相棒!

 イナリ、これが編入生のヤエノシルフィー!」

 

「ラベノだっての。

 ・・・あ、初めまして。

 中等部2年のラベノシルフィーです。」

 

「なんでぃ、風呂で会った白いのじゃねーか。

 高等部3年のイナリワンだ。

 ま、話は食いながらしようや。

 せっかくのうまい飯が冷めっちまう。」

 

風呂で会った、と聞いてちょっと記憶を探ってみる。

・・・ああ、あの石鹸無くしたって言ってた小さいのがそうか。

あの時は髪の毛おろしてて、なんかジャングルから飛び出してきた野生児みたいな姿だったから同一人物だと気付けなかった。

石鹸にまつわる痛い思い出はそっと記憶のゴミ箱に捨てておこう。

 

パン、と両手を合わせて、目の前のイナリワンがいただきますをしてどんぶり飯を掻き込み始める。

牛丼と、けんちん汁、かな。

二つのでかいどんぶりを交互に掻き込んですごい勢いで中身が無くなっていく。

 

ターボは定番のニンジンハンバーグ定食だ。

けど、ハンバーグの段数が2段で、ご飯もスープも器が小さい。

ターボよりも小さいイナリワンが倍くらいはありそうな量を食べているのに、ターボは随分少食らしい。

大きな紙ナプキンを胸元に挟み込んで、服が汚れないよう前掛け風にしているので、ターボも良家の出なのかと一瞬思ったけど、違った。

単純に食べ方がお子様だ。

絵にかいたようなわんぱく坊主が食事に齧りつく所作で、ソースは垂れるし、ご飯はこぼすし、口の周りは食べ始めてすぐべたべたになっていた。

紙ナプキンの前掛けが無かったら制服はどろどろに汚れていただろう。

 

ふと、正面のイナリワンと目が合う。

テーブルの上に積まれた紙ナプキンの束を見やって、ターボの方に顎をしゃくる。

・・・ふむ。

やれ、と。

 

紙ナプキンを手に取る。

 

「ターボ、こっち。」

 

「ん~。」

 

ターボは、紙ナプキンを構えた俺を見ると、拭かれ慣れているのか、すぐ俺の方に口先を突き出してきた。

ご飯粒とソースでべたべたになったターボの口周りを拭ってやる。

・・・いや、これ、慣れちゃダメな奴じゃないか?

甘やかしすぎなんじゃないだろうか。

 

そんなことを考えていると、タン、とトレイに空になったどんぶりが置かれる音がする。

 

「ごっそさん!」

 

イナリワンが、正面で合掌して食事の終わりを告げていた。

俺、まだ一口も料理に手を付けていないのに。

とんでもない速さだ。

 

目を白黒させていると、イナリワンが不敵に笑う。

 

「早メシ早グ・・・おっとこりゃ失敬、飯時にする話じゃねーやな。

 まぁ、こちとら江戸っ子ってことでわかってくんな。

 さ、お前さんも冷めないうちにさっさと食いねぇ!

 その間に茶持ってきてやるよ。」

 

そう言ってお茶を汲みに彼女は席を立った。

 

食事を待たせた挙句に、食べ終わるのも一番遅いんじゃただの時間泥棒だな。

俺は、猛然と目の前の料理を掻きこみ始めた。

 

 

 

 

「・・・お前さんの歓迎会、出られなかったのは勘弁してくんな。

 ちょうど遠征帰りでドタバタしてたもんでね。

 気が付けば後の祭り、風呂場でばったりってわけさ。

 しかし、ターボの話じゃいまいち要領得ないから知り合いに聞いてはみたが・・・

 お前さんも大したタマだねぇ。

 喧嘩と花火惚れた腫れたも江戸の華とは言うが、こんな一途な恋バナ抱えてトレセンに乗り込んでくるとかあたしでもシャッポを脱ぐよ。」

 

「・・・そのあたりの話は、忘れていただければ、と。

 ほんと、勘弁してください・・・」

 

いつまでも祟る、たづなさんとムッタートレーナーの合作の身の上話に身もだえしながら、俺の知らないウマ娘、大先輩のイナリワンとの交流を深める。

料理は完食済み。

ターボと、イナリワンが持ってきてくれた食後のお茶をすすりながらの歓談だ。

 

「聞いた話だと、ヒトの走り方身に付けちまって、ウマ娘の走り方ができないって?

 難儀な話だねぇ。

 しかも、GIで勝つとか豪語したって言うじゃねえか。

 見通しはあるのかい?」

 

「今はとにかく、走り方を矯正すべく、その道のスペシャリストにトレーナーになって貰って目下努力中ですね。

 ただ、必ずGIレースへの挑戦はします。

 今は、並のウマ娘以下ですが、必ず。」

 

「へぇ~。

 覚悟はあるんだね。

 ま、がんばんな。

 あたしはもうアガリ待ちの3年だからしばらくはドリ-ムシリーズで稼いで、引退したらつつましくダンナと暮らすさ。」

 

「アガリ待ち、って何ですか?」

 

「あん?

 ああ、お前さんウマ自にずっといてあまりURAのレースのこと知らないんだったね。

 ウマ娘の全盛期、つまり本格化が完全に終わって、レースに出ても勝てなくなって、レースから引退するのをアガリ、って呼ぶんだ。

 トウィンクルシリーズは、デビューのステージに立ってから3年が一つの区切り。

 シニア期を終えて古バ扱いでトウィンクルレースに出続けても、本格化が終わって衰え始めた身体じゃ後から出てくる本格化真っ盛りの新進気鋭のウマ娘に勝ち続けるのはなかなか難しい。

 シニア期までにGI含めた重賞を取って名を上げりゃ、ドリームシリーズに移籍できる。

 多少能力が衰えようとも人気投票でドリームシリーズに登録しているいろいろな世代、当時の最強バと言われるウマ娘との夢の対決を行えるレースに参加できるんだ。

 

 ドリームシリーズに移籍すれば、学園に所属しながら、学園のマネージメントから離れて、スポンサーとも、グッズ販売業者とも個別契約を行えるから収入は桁違いになる。

 その代わり、人気が参加できるレースにも収入にも直結してくるからね。

 ドリームシリーズでもボロ負けして、人気投票でもぱっとしなくなってレースに出るのがきつくなってきたら潮時ってことで引退。

 そこまでに培った人脈を活かして、走ること以外の新しい人生を考える時期ってこった。

 まぁ、中にはデビューから中等部高等部の6年を超えてなおトゥインクルシリーズで現役でいるなんて化け物もいるけどね。

 ダートには、そういう化け物が多いよ。

 我らが生徒会長はトゥインクルシリーズこそ抜けたけれどドリームシリーズにいまだに君臨し、連対し続ける化け物の一人だ。

 卒業せずに高等部3年をいつまで続けるのか、へたをしたら3冠、7冠以上の記録を打ち立てるかもしれないね。」

 

「なるほど。

 イナリワン先輩は、結婚時期を見計らいながらドリームシリーズのラストランをいつにするか考えている時期に来ていると。

 俺のことを言えないじゃないですか、もう旦那さん候補捕まえてるとか。」

 

「へっ!

 お前さんほど一途じゃないさ!

 学園で、苦しい時も手を取り合って一緒に何もかも分かち合ってきた仲だ。

 自然とそうなるもんさ。

 おっと、学園には迷惑かけないぜ?

 筋は通す。

 きっちり引退した後に籍を入れる。

 ダンナはトレーナーとしてこの学園で働き続ける。」

 

「・・・先輩の今のトレーナーが旦那さん候補、と?」

 

「・・・やらないからな?」

 

「ご心配なく。

 俺は男には興味ないんで。」

 

「・・・もしかしてお前さん、あれかい?

 れずびあんとかいう女同士の不毛な・・・

 難儀だねぇ・・・」

 

「・・・違います!」

 

食後の茶を啜っていたターボが、ニパッと笑いながら話に割って入ってきた。

 

「カベノシルフィーもイナリも仲良くなった!

 二人ともマブダチ!」

 

「ラベノだってば。

 てか、マブダチとか久しぶりに聞いたな。」

 

ツインターボはどこからこういう語彙を仕入れてくるんだろう。

俺の年代でもなかなか使わない単語が時々出てくるんだけど。

 

「まぁ、お前さん、タマモやオグリとも関わりがあるんだろう?

 あたしらはもうお前さんの舞台で肩を並べて戦ってやることはできないが、先輩のウマ娘として相談くらいには乗ってやれる。

 ターボが懐くくらいだ、悪い奴じゃないんだろうってのはわかる。

 力になれるかはわからないが、なんかあったら頼りな。」

 

「お気持ちはありがたく。

 この先、行き詰まったら相談に乗ってください。

 義理と人情の江戸っ子イナリ先輩!」

 

「おう、任せな!」

 

「ところで、ウマ娘レースのこと、とんと疎いんでイナリ先輩の戦績とかご教授いただけると嬉しいのですが。」

 

「か~!あたしの戦績をこの口から聞きたいって?!

 とんだ羞恥プレイをご所望じゃねぇか!

 ま、特別サービスだ、耳の穴かっぽじってよく聞きねぇ!

 あたしは大井のダートでデビューして連戦連勝を重ね・・・」

 

調子に乗ったイナリ先輩の口から出てきた戦績は、やっぱり化け物だった。

ダートのほとんどの距離を総なめ、芝に転向してからは中距離長距離のGIの主要レースで1位を取っていた。

この小さな身体に、どんなパワーを秘めているのだか。

 

・・・しかし、考えてみれば、俺もウマ娘の身体になってからの身長は高い方じゃない。

足は太くないし、お触り魔の沖野トレーナーからも中長距離向きじゃないかと言われてる。

走りのスタイルのお手本としてはこのイナリ先輩は参考になるんじゃなかろうか。

低い身長、短い脚、軽い体重で、中長距離を走る強いウマ娘に必要な物。

 

今はまだ何が足りないのかさえ分からないけど、ターボのおかげでもしかしたらこれ以上にないお手本の走りをするウマ娘の協力を得られたのかもしれない。



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ダートで実走

お~ま~た~せ~
今回ちょっと画面が小さい状態で書いているので行間とか違和感あったらごめんなさい~


昼ご飯も食べて、お腹もこなれて。

いつも通り体育館のステージで、うんとこせ、とウォーターベッドを引きずり出している最中。

踏ん張って突き出したお尻に、何かが衝突した。

 

えっ?と振り向こうとした瞬間に、両脇を抱えるように掬い上げられて、脳天にむにゅりとした触感。

 

頭のてっぺんのつむじのあたりをす~っと吸引される感触がする。

やる気が根こそぎ吸い取られて俺のウマ耳はへにょり、尻尾も両手も両脚もだらりと垂れた。

 

「・・・ふぅ、元気にしてたか?」

 

「今絶不調になったとこ。」

 

言わずと知れたムッタートレーナーが、背後に立っていた。

とん、と俺を床に降ろす。

見れば、今日は、スラックスに黄色のカラーワイシャツとかなりラフな格好だ。

 

「まったく、ウマ娘の背後を取って持ち上げるとか、俺が反射的に脚を出したらどうすんだ。」

 

「そこは、信頼してるぜ?」

 

「ったく、中身がオッサンだと思って遠慮無くしやがって。

 普通にセクハラだぞセクハラ!」

 

「はっはっは。」

 

ムッタートレーナーは笑っているけれど、生粋のウマ娘は背後から忍び寄ってちょっかい出そうものなら反射的に脚が出るらしいからな。

ウマチューブのおバカな失敗シーンを集めた動画なんかじゃ、ウマ娘の背後からちょっかい出して、脚の関節が1箇所増えるシーンなんかがざらにあった。

俺は反射的に脚が出ることはないけど、耳と尻尾は勝手に反応する。

この辺、ウマ娘の本能に由来するものなのか、ウマ娘の身体が機能として持っているものなのかいまいちわからないな。

 

「まぁ、ロケが終わって今日半日くらいなら時間がとれたんでな。

 様子を見に来た。

 しかし、なんだこりゃ、ウォーターベッドの表面になんか貼ったのか?」

 

「テフロンシートを貼った。

 新しくできた友人の中に科学に詳しいのがいてね。」

 

「へぇ、テフロン。

 ・・・おっと、ローションほどじゃないが結構滑るな。」

 

スリッパを脱いでテフロンを貼ったウォーターベッドに乗ったトレーナーは、意外と滑るテフロンに脚を取られていた。

 

「できるだけトレーニング器具安くあげるためにあの組み合わせだったんだがなぁ。」

 

「でもローションは独りじゃ準備も片付けも時間がかかりすぎるよ。

 これにしてからだいぶ時短になったし。」

 

「なるほどな。

 ま、使えるものは使わせてもらうとしよう。

 とりあえず、どこまで足を回せるようになったか見せて貰おうか。」

 

 

ウォーターベッドを設置して、いつものようにハーネスに腕を通し、降ろしたワイヤーにつま先立ちで身体をぶら下げる。

今日はトレーナーがいるから、ワイヤーの高さの微調整は彼がやってくれる。

高さ調整の為にいちいちワイヤーを外さなくて済むので楽でいい。

 

「いいぞ。

 始めてくれ。」

 

トレーナーの合図とともに、脚を動かし始める。

腿を上げ、そのまま踏み下ろしながらつま先がウォーターベッド表面に触れたら、表面をつま先で撫でるように踏み切る。

シュッシュッと靴下でテフロンシートを擦る音をさせながら、右、左、右、左とテンポ良く。

ワイヤーが少し前方に張る。

でも左右には揺れない。

脚の動きのベクトルを、揃えて、ただひたすら前に。

 

ジョギングくらいのテンポから、徐々に今出せるフルスピードへ。

ヒトの領域を超え始めたあたりで、片脚がついてこなくなってバランスを崩した。

身体がねじれて斜めを向いて揺れる。

 

まただ。

どうしても治らないこの問題。

俺の脚は、まだ上の領域が使える、と余裕があることを伝えてきているのに、一定の脚の回転数を超えると、思った通りに脚が出てこなくなる。

もう上がり切っているはずの腿を踏み下ろそうとすると、まだ腿が上がり切っていなかったり。

タイミングが一旦崩れると、連鎖的に次の脚のタイミングもずれて、しっちゃかめっちゃかになる。

本当に地面を走っていたらつんのめって転倒しないために必死になっているはずだ。

このワイヤーとウォーターベッドに何度助けられたことか。

 

 

一旦仕切り直して、テンポが崩れる寸前のスピードで固定して脚を回転させる。

ゆらゆらと前後にワイヤーが張って揺れはするものの、姿勢も走りも安定した。

多少呼吸は荒くなるものの、身体にかかる負荷は大したことがないのでジョギングしているようなものだ。

それでも、じわりと染み出てくる汗を感じ始めた頃に、トレーナーから声がかかった。

 

「オーケー。

 わかった。

 もういい。」

 

トレーナーは自分の顔を手で一撫ですると、頭をしきりにぼりぼりと掻く。

思っていたのと違う、そんな仕草だ。

 

「・・・そんなにダメだったか?」

 

「・・・いや、違う。

 逆だ。

 やり方を教えて1週間ほど自主トレさせただけでこれか、と思ってな。

 本来、お前の今の走り方は、ウマ娘が体重も軽く力もさほど無い幼い頃に、そこらを駆けまわって転んだりしながら一人で覚えていくもんだ。

 ヒトの走りに染まっちまってたお前じゃ、早くて数か月、いや、半年以上かかるかもしれない、と思っていたんだが・・・

 やっぱりウマ娘はウマ娘なんだと思い知らされたぜ。

 

 基本的な走り方はそれでいいだろう。」

 

「じゃぁ・・・」

 

「ジョギング以上のトレーニング、解禁だ。

 ジョギング程度の速度でなら道路も走っていいぞ。

 ただし、トラックでの全力チャレンジはダート限定。

 実際に走って脚に負荷がかかった状態ってやつは、このトレーニングとはまた違うからな。

 慣れるまでしばらくはプロテクターもつけろ。」

 

「よしっ!」

 

自然とガッツポーズが出る。

・・・とは言っても、喜んだ理由は道路が走れれば放課後の買い出しが楽になるのが嬉しかったからだったりするんだけど。

今まで寮の門限を気にしながら片道30~40分かけて府中の繁華街まで出ていたのが、走れれば数分で行けるようになるのはでかい。

 

「とりあえず、実際に走ってみるか。

 まずは脚への負担が少ないダートだな。

 今日はウォーターベッドの上でのトレーニングは終わりだ。

 ベッドかたしてくれ。

 ワイヤーは俺が上げておく。」

 

「わかった。」

 

テフロンシートを底面に貼り付けているとはいっても数百キロはあるウォーターベッドの移動はヒトであるトレーナーには酷だ。

ベッドを破かないように気を付けながらズルズル引っ張ってステージの裾に引きずり込んでいく。

カーテンの隅っこでは、トレーナーがワイヤーを上げるためのハンドルを操作していた。

 

「ローション関係はもう使わないなら回収するぞ。

 ・・・うぉっ!」

 

ハンドルでワイヤーを巻き上げ終えたトレーナーが、奥の外へ出る扉の近くに放置していたホースリールやバケツなんかの近くに寄ったとたんに悲鳴に近い声を上げた。

腕をまっすぐに伸ばしてバケツを身体から遠ざけ、顔をそむけたままこっちに持ってくる。

まだここまで数メートルは距離があるってのにぷ~んと腐臭が漂ってきた。

 

「確かに余ったローションの処理までは教えなかったけどよ、もうすぐ夏ってこの時期に、蒸し暑い体育館に余ったローション放置したらこうなるってわからねぇか?」

 

床に置かれた使い残しのローションの入ったバケツを覗き込むと、ピンクやら緑やら毛玉のようなカビのコロニーがびっしりと埋め尽くしてすごいことになっていた。

息を止めていても結構な悪臭が鼻に入り込んでくる。

 

「・・・お前すごい顔してるぞ。

 

 ウマ娘の鼻にはこれはちときついか。

 しょうがねぇ、これは俺が片づけとく。」

 

あまりの悪臭に顔が歪んでいたらしい。

トレーナーはバケツを持って奥の非常口の扉から出て行った。

 

カーテンで仕切られているだけとはいえほぼ閉鎖空間のステージ裾の中は、強い日差しで温められた空気も相まってただでさえ息苦しく蒸し暑い。

そこに、腐敗したローションのバケツを持ち歩いて腐臭を振りまいたせいで、ぬか床の臭いのするサウナみたいな状態になっていた。

悪臭立ち込める空間から逃げ出すように、ステージに出て息をつく。

 

しばらく待っていると、トレーナーが戻ってきた。

 

「おかえり、って、バケツは?」

 

トレーナーは、ローションの袋とホースリールはぶら下げてきたけれど、バケツは持っていない。

 

「洗ってもにおいが取れないから、諦めた。

 あのまま車に積んだら車まで汚染されちまう。

 ま、外に放置しておけばそのうちにおいも取れるだろうし、誰か有効活用してくれるだろ。」

 

トレーナーは悪臭を放つバケツの不法投棄を宣言しながら、俺にホースリールを押し付けてきた。

 

二人して荷物を抱えて体育館外に横付けされているトレーナーのハイエースに積み込む。

 

「トレーニングシューズを履いてダートコースに集合だ。

 俺はダートコース使ってるトレーナーに話付けてくる。」

 

トレーニングシューズは、体育館に置いてきたボストンバッグの中だ。

トレーナーの言葉に頷いて返すと、俺は体育館に向かって駆け出した。

 

 

 

 

「他のウマ娘がダートコースを使っていてもダートコースの最外周のあたりは適当に走ってくれて構わないそうだから、これからダートコースで練習する時は最外周を走れ。

 あと、これ付けとけ。」

 

ダートコースで再会したムッタートレーナーが、一抱えくらいあるズタ袋を放ってくる。

中には、URA医療研究センターでも身に着けたのと同じ、膝や肘、肩なんかを守るプロテクターが一式入っていた。

あまり使われていないのか、ちょっとかび臭い。

あとでお風呂入った時にプロテクターの触れていたところは念入りに洗おう。

 

「使い終わったら水洗いして保健室に返却な。」

 

俺がプロテクターを付けている間、トレーナーは話しながら、以前トラックを走った時使った撮影機材を、ホームストレッチ終わり付近を撮影できるように設置していく。

 

「何周か流すように走って身体が温まったら、このカメラの前で今出せる全力で走ってくれ。

 全力はカメラの前だけでいい。

 転びそうになるのはいいが、転ぶな。

 コーナーやバックストレッチは流して走って無理するな。」

 

「わかった。」

 

言われなくても転びたくないしね。

ウマ娘の速度で転倒したら土の上とはいえ運が良くてもあちこち擦り傷。

運が悪ければ入院コースだってあり得る。

プロテクターを付けておけば、土の上ならよほど変な転び方をしない限りせいぜいひどい擦り傷くらいで済むはずだ。

 

プロテクターを付け終わった俺は、ダートコースの中を他のチームの集団が駆け抜けていくのを待ってから、外埒をくぐってコースに入った。

何度もトレーニング中の集団に追い抜かれながら、ジョギング状態で外埒に沿って半周、ダートコースの感触ってやつを確かめると、軽く踵を浮かせる程度にとどめていた脚首に、ぐっと力を込める。

蹄鉄を付けたシューズでの、初めての新走法。

身体を前傾させ、蹄鉄の先端を土に食い込ませるように蹴り込む。

体重という負荷がかかったことで、さすがにワイヤーでぶら下がっていた時と同じようにはいかない。

脚を振り抜いたときには、わずかに上に跳ねてしまい、二歩目が接地するのが遅れてたたらを踏んだ。

 

前傾を深くして、断崖絶壁を駆け上がるつもりで脚を回す。

 

身体が浮く、ってことは滑落と一緒。

 

そう自分に言い聞かせて、地面と胴体の距離を一定に保ったまま、地面に蹄鉄の先を食い込ませて身体を押し出す。

 

その試行錯誤は僅か十数歩くらいだったはずだ。

 

あっという間に自分の回せる脚の限界に達して、脚がもつれ始める。

安定して脚を回せる速度に落ち着ければ、もうコーナーだ。

 

最外周のRは緩い、とは言っても、それなりに遠心力はかかる。

 

身体を傾けて回っていくと、傾けた脚の親指の付け根と小指の付け根に荷重が集中しているのがわかる。

ヒトの走り方ではあまり実感できなかったタキオンが言っていた脚の過負荷ってのはこれか。

もう少し、脚首が柔軟に横に動けば脚の指全体に負荷を分散できるのだろうけど、俺の脚首はそんなに柔軟じゃないらしい。

痛くはないけれど、長く走り続けてこの過負荷をかけ続けたら確かにどこか痛めるかもしれないな。

 

コーナーを抜けて直線、と言ったところでまた内埒側を集団が追い抜いていく。

 

流して走っているとはいえ、ヒトの出せる速度はとっくに超えて原付バイクの最高速くらいは出ていそうなのに、あっさりと置いてけぼりにされる。

心の奥底で何かが疼いた気がするけれど、ぐっと抑え込む。

まだだ。

俺はまだ彼女らと同じ土俵に立っていない。

 

直線での限界速度を試しながら2周ほど。

 

その間、何度も何度も、チームでトレーニングをしている連中に抜かれた。

抜かれるたびに、全力で脚を回そうにも回らずもつれる脚に内心悪態をつきながら走っていたんだけれど・・・

突然、我に返った。

 

いったい俺は何に不満を感じて悪態なんかついていたんだ?

 

極度の運動音痴だった俺は、あっちの世界じゃ、速足くらいの歩くのと変わらない速度ですら、こんな距離を走り続けられたことはない。

若かった学生の頃ですら、1キロも走れば息も絶え絶えで走るのをやめていた。

走って抜かれるなんてことは『あたりまえ』だったはずだ。

 

それが、この身体はどうだ。

あっちの世界の短距離走世界記録保持者を軽くぶっちぎる速度で、ダートコースの最外周を2周以上。

軽く5キロは走り続けている。

なのに、まるで息が上がらない。

 

かつてのどうしようもない運動音痴な自分を忘れて、別次元の走りができるこの身体に不満を感じるなんて!

いつの間にか恵まれたこの身体をありがたがるどころか当たり前のように不満を感じていたことに笑いが止まらなくなった。

 

「ああ、ちくしょう!

 楽しいなぁ!」

 

走る。

ヒトだった頃はただ苦しくて嫌なものだったのに、今はそれがただ楽しい。

 

笑いながら、前方に見えてきたカメラに向かって、限界ギリギリの速度で脚を回す。

もう少し上げられる。

あともう少し。

今まででも最高速で脚を回せた、と思ったその時、無情にもいつもの限界がやってきた。

 

「とっとっと・・・」

 

焦らず、出きらなかった脚で軽く地面を掻いてから両脚のタイミングを整える。

身体が捩れてつんのめりそうになるのを何とか堪えてまた巡航速度に向けて脚を回す。

 

もう一周、今度は脚をもつれさせないギリギリのラインで脚を回してカメラの前を駆け抜けた。

 

 

「ハァ、ハァ、ハァ・・・

 今出せる全力はこんなもんだよ・・・」

 

トレーナーの下に戻ってきた。

さすがに息は荒くなるし、全身汗でぐっしょりだ。

頬のあたりに髪の毛が張り付いてきて鬱陶しい。

 

「ちと遅いな。

 ウマ娘の全力だともう1~2段上のギアがあるはずなんだが・・・」

 

「わかってる。

 脚に余力はあるんだ。

 でも、あるところから脚がついてこない。

 出したはずの脚が出ていないから脚がもつれるんだ。」

 

「う~む・・・

 見た感じフォーム自体には問題が無さそうなんだがな。

 ただ、俺も何とははっきり言えないが、ちょっと違和感を覚えるのは確かなんだ。

 まぁ時間ができたときに今日の映像を解析してみるわ。」

 

「またトレーナーしばらく来れないんだろ?

 俺明日からどういうトレーニングすればいい?」

 

「体育館でのトレーニングはしなくていい。

 明日からは今日と同じようにひたすらダート外周を走って、走り方を身体に馴染ませろ。

 転ばないギリギリの速度で5周、30分~1時間の休憩を挟んでそれを毎日最低3セットだ。

 体育館でのトレーニングは基本的な走り方を叩き込んだだけだからな、走っているうちにこうした方が走りやすい、とか気づいたことがあったらどんどん試せ。

 公道のランニングはやりたければやってもいいが、現状だとリスクの割に得られるものはあまりないからな。

 走るならできるだけダートを走れ。」

 

「わかった。

 ・・・ところで、何?」

 

いつの間にかムッタートレーナーが腰をかがめて俺のそばに顔を近づけていた。

 

「いや、ちょっとな。

 このにおいは・・・」

 

「汗まみれなんだからしょうがないだろ!

 ってそんなにくさいか?俺・・・」

 

年頃のウマ娘の羞恥心など持ち合わせてはいないけど、面と向かってにおうとか言われるのはさすがにちょっと傷つく。

 

「いや違う。

 勘違いさせたのなら済まん。

 ちょっと尻尾を振ってみてくれ、左右に激しく。」

 

「?

 こうか?」

 

バッサバッサと尻尾を振ると、トレーナーが鼻から大きく息を吸い込んだ。

 

「ああ、やっぱりだ。

 お前、近いうちに本格化始まるぞ。

 大人のウマ娘のにおいがし始めてる。」

 

「大人のウマ娘の?」

 

「ああ。

 動物で言うフェロモンに近いものだと思うが、ウマ娘は本格化のあたりから独特の体臭がするようになる。

 特に尻尾から強く香るが、大きく分けて2つ。

 甘くて他人を引き寄せるような誘惑的なにおいか、逆に他人に警戒心を抱かせるような威圧的なにおいか、だ。

 お前はどっちかって言うと威圧的な方だな。」

 

「ちょっと前から布団が妙に尻尾くさくなってきたと思ったらそれか。」

 

改めて自分の尻尾の房を抱えてふわりと香ってくる尻尾のにおいを嗅ぐと、威圧的なにおい、かどうかは知らないけれど、甘い誘惑的なにおいじゃないな、確かに。

『俺はここにいるぞ』って存在を主張するようなにおい、っていえばいいんだろうか。

元が男だからか、男性的な感じのにおいって言えばそんな気もする。

 

「あとな、ちょっと残念なお知らせだ。

 ウマ娘って本格化が始まる前に、体格がほぼ決定するんだ。

 成人するまで、もう大きく背が伸びたりはしないぞ。」

 

「・・・まあ別に背が高くなりたいとかは思っていないからいいけど。」

 

むしろ、せっかく服を買いそろえたのにまた身長が伸びたりして買い直しとかにならない方がありがたい。

 

「もう少し休んだら、さっき言った通り、あと2セット走ってこい。

 今までと負荷が段違いだから、急に量を走ると筋肉痛が酷いことになる。

 もっと走ってもいいが、様子を見ながらトレーニング量は調節しろよ?

 俺はちょっと理事長室に顔出したら今日は帰る。

 次回までにお前の脚がついてこない問題に関しては対策を考えておくからお前の方でも試行錯誤はしてくれ。」

 

「わかった。

 

 あ、そうだ。

 同じ学年のチームに所属してる学園生は7月から合宿だっていうのが多いけど、俺は?」

 

7、8月と、2か月みっちり行われる夏合宿。

ゲームの中じゃめちゃくちゃステータスが上がる重要行事だった。

 

「俺の全国ドサ回りロケについてくるか?」

 

「デスヨネ~。

 わかってた。」

 

あっさりと言外で俺たちに合宿は無いと提示されてしまった。

夏は、中等部の1年と一緒に学園内でトレーニングになりそうだ。



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ダート実走を終えたら救急車?

え~、ちょっと先方の返答待ちで時間ができたんでゴリゴリ書きましたら1話にしては長すぎるものになったんで3分割しておだしします~


しばらく休憩を取っての、ダート5周2セット目。

運動音痴をこじらせた俺の頭の中では正直な話、ウォーミングアップなんてものは疲れるだけで逆効果なんじゃないか、と思っていたのだけれど。

 

こうして負荷のかかる運動をしてみるとよくわかる。

筋肉が温まっていると、走り出しから脚が軽く回る感じがする。

バイクのエンジンも暖機運転をしないといきなり高回転まで回そうとしてもぐずるもんな。

 

トレーナーはカメラの横に立って走る俺を目で追っている。

まだ記録を続けているらしい。

それならと、ホームストレッチに入ったところで足がもつれる寸前まで脚の回転を上げて直線部分を駆け抜ける。

さすがに1セット目の疲労があるせいか、最高速付近まで持って行くと脚にだるさを感じてくるけれど、呼吸は死ぬほど苦しいわけじゃないし、だるさは根性で押し切ればなんとかなる。

ヒトだった時みたいに、走れば誰よりも遅く周回遅れにされているのに、呼吸は追い付かない、身体はオーバーヒート状態、心臓が脈打つごとに視界が白く染まって死にそうになりながら走るのに比べればこんなのは苦しいうちにも入らない。

 

2セット目あと1周、と言ったところで、ホームストレッチの埒外で、三脚ごとビデオカメラを担いだトレーナーが、じゃぁな、というように俺に向かって手を振って踵を返した。

何やらウマホで会話しながら、車の置いてある体育館の方へ去っていく。

本当に忙しいんだな。

ちょっと変態なところは仕方ないとして、プライベート時間を割いて俺をウマ娘のあるべき走りに戻そうとしてくれているんだ、感謝はしておこう。

 

トレーナーと別れて、与えられた指示通り3セット目のダート走行をもうすぐ走り終えようか、という時に、遠くから救急車の音が聞こえてきた。

ちょうど、5周目のゴールであるホームストレッチの入り口に差し掛かると、前方の通用門から救急車がゆっくりと入ってくる。

誰か怪我でもしたのだろうかと考えながら走り終えて、脚を止めて息を整えていると、救急車はそのままグラウンドを通り過ぎ、校舎の方に消えていった。

 

外埒をくぐって、トラック外の原っぱに放置したままの自分のボストンバッグを拾って、原っぱの一角にある天幕の元へ向かう。

埒外に設置された休憩所みたいなものだ。

二本の鉄柱から白い幌布が張られたひさしが何もない原っぱにわずかな日陰を作ってくれている。

ひさしの下にはベンチが置かれ、今ダートトラックで走り回っている他のチームの荷物が足元にごろごろ転がっていた。

 

ここには水道もあるので、トレーニングで乾いた喉を潤すと、身に着けていたプロテクターを外して洗い、トレーニングシューズを脱いで火照った脚やら腕やらを冷たい水で流す。

さすがに、負荷のかかる運動をして大汗をかいたせいか、トレーニングシューズも靴下も汗でぐっちょり濡れて、そのまま放置したら悪臭を放って大惨事になりそうな様子だ。

部屋に戻ったら、シューズの湿り気を拭きとって乾燥機にかけないと。

 

脚を洗ったと言っても石鹸があるわけではなかったし、顔を拭くタオルでその脚を拭くのもちょっと嫌だったので、脚を振って水を切ったらベンチに座って足の指をにぎにぎしながら自然乾燥する。

 

時折地響きを立てながら陽炎の立つ目の前のホームストレッチを駆け抜ける学園生を眺めつつ、背中から脇下にかけて汗で湿って食い込んで付け心地の悪くなったブラ紐なんかを直しながらクールダウン。

・・・体育館でワイヤーにぶら下がりながら脚を回していた時は、胴体がほぼ固定されていたから気にならなかったけれど、実際にダートトラックを走ってみたら、俺のそんなに大きくない胸もゆっさゆっさ揺れて結構邪魔だ。

揺れる度にブラ紐が前に前にと引っ張られて、汗をかくとブラ紐が湿って滑りが悪くなるのか、背中から脇にかけて食い込んだままになる。

紐じゃなく、帯状に胴体を包んでくれるスポブラの方がやっぱりいいんだろうか。

その時は上下揃えないとやはりおかしいのか?

男として30年以上生きてきて、ブラの付け心地と組み合わせに悩む時が来るとは思わなかったよ。

 

身体の火照りが少し収まったところで、荷物をまとめて校舎の方に向かう。

 

午前中着ていた制服は更衣室のロッカーの中だ。

大汗をかいたこの身体で着替えるわけじゃないけれど、寮に持って帰らないとならない。

 

まだ出てくる汗をタオルに吸わせながら、校舎の方へとてくてく歩いていると、救急車が屋内プールの建屋に横付けされているのが目に入った。

救急車の後方には、数名の水着姿の学園生と、見慣れたあの緑の服は・・・たづなさんか。

 

「・・・では、生徒の方はよろしく頼む。

 傾注!トレーナーはこれより病院への付き添いで不在ッ!

 よって本日のプールでのトレーニングはこれで終了だッ!」

 

俺のウマ耳が拾った声を聞くに、理事長も救急車のそばにいるらしい。

トレーナーは理事長室に顔を出すと言っていたけれど、もう帰ったのかな?

 

しかし、プールでのトレーニング中の事故か。

理事長もたづなさんも慌てた様子はなさそうだし、大事には至らずに済んだのだろう。

 

そういえば、ウマ娘は水に浮かないと聞いているけれど、このウマ娘の身体になってからまともに泳いだことがない。

俺はヒトだった時も平泳ぎでかろうじて25メートル泳ぎ切れるかどうか、ってところで、ただでさえ息継ぎが苦手だったのに身体が浮かないとなると、へたしたら全く泳げないのと一緒なんじゃないだろうか。

一度この身体で泳いでみたいところではあるけれど、今のところ中等部2年の合同教練に水泳が入っていないところを見ると、1年の間に集中してやるものなのかもしれない。

理事長がトレーナーがいなくなるからトレーニング中止を指示しているあたり、今の時間帯だとチームごとにプールを借り切ってトレーニングしていたのかな。

 

屋内プールがあそこにあるのは知っていても、中に入って見たことはないのでちょっと覗いてみたい気持ちもあったけど、救急車が来ている横から中を覗きに行くのも野次ウマみたいでなんだしな・・・

 

さっさと制服を回収して寮に戻ろう。

 

更衣室に入ると、いつものようにむわっと蒸れた空気が漏れ出してきた。

まだ普通はトレーニングを切り上げる時間帯じゃないのもあって、更衣室のひと気は少ない。

西日になりつつある陽射しが蒸し暑さに拍車をかける中、更衣室の四隅に設置された背の高い扇風機が無意味に部屋の空気を掻きまわしているだけだ。

制服を入れたロッカーの列に行くと、椅子の上に乗ってその扇風機の風をお腹をまくり上げて体操服の中に送り込んでいる学園生がいた。

俺と同じで今トレーニングを切り上げてきたばかりなんだろうけど、年頃のウマ娘とは言っても人目が無いとやってることが男子学生と大して変わらないんだよな、こういうとこ。

 

風を満喫している彼女を尻目に、制服をボストンバッグの中に捻じ込んで更衣室を出ると、理事長とたづなさんにばったり出くわした。

 

「あら。

 今日のトレーニングは終わりですか?」

 

「はい。

 うちのトレーナーはもう帰りましたか?」

 

「うむ、先ほど顔を出して帰ったぞ。

 思いの他貴女の成長が早いと複雑な顔をしながらも喜んでいた。

 今日は上がりなら、ちょっと茶に付き合え。」

 

「今トレーニング終えたばかりで、汗臭いですよ?」

 

「何を言うかと思えば。

 ウマ娘の汗はその努力の証。

 トレセン中央の理事長たるもの、それを好ましく思いはすれど疎むことなどありえぬ。

 くだらないことを気にせず付き合え。」



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ウマ娘と水泳問題

分割第2弾です~


そのまま理事長は、理事長室ではなく、食堂の方に向かっていく。

どうやら食堂でたわいもない茶飲み話でも、ということのようだ。

食堂のドリンクサーバーからそれぞれ飲み物をカップに注いで、観葉植物で囲まれた職員用のテーブルに腰を落ち着けることになった。

俺が飲むのはホットのカフェラテ。

食堂では最近こればっかり飲んでいる。

 

理事長を正面にたづなさんと俺が並んで座り、飲み物を口にする。

微妙に空気が重い、というか二人とも口を開かない。

 

沈黙を破るように、気になっていたことを聞いてみる。

 

「先ほど、屋内プールのところに救急車が来ていたようですが・・・」

 

「む・・・その件か・・・

 大した事故ではない、と言いたいところだが・・・

 頭を打っているので念のため検査を受けに向かわせた。

 今回も大事には至らなかったものの、毎度毎度寿命が縮まる思いだ・・・」

 

理事長はため息をつきながら、珍しく苦々しい顔で茶をすする。

言葉にもいつものような覇気がない。

 

「今回も?」

 

「今回も、だ。」

 

「本人は陸上とは違うってわかっているつもりでも、起きるんですよ、プール事故。

 今回はプールでのトレーニング中に、隣との競争に夢中になるあまり前を見ていなかったらしく、壁に突っ込んだそうです。」

 

眉をしかめたたづなさんが事故の概要を教えてくれた。

 

「ウマ娘の筋力で競って泳いでいて壁に突っ込むって結構大怪我になりませんか?」

 

ウマ娘の筋力はヒトの5倍以上と言われている。

泳ぎがうまいウマ娘が全力で泳いだりしたら、イルカ並みの速度が出たりしないだろうか。

 

「無論、コンクリートの壁に直接頭を打ち付けるような事態にはならないよう対策はしてある。

 しかし、競り合いに熱くなるのはウマ娘の性。

 それが向上心の原動力でもあるのだからあまり押さえつけるわけにもいかない。」

 

「安全対策で、各レーンの末端にはウォーターバッグを設置してありますし、壁が近いことを注意喚起する模様を、プールの底に描いてあったりはするんですけれどね。

 あっと気付いたときにはもうぶつかっている事例が後を絶たなくて・・・

 今回みたいなウォーターバッグへの衝突はまだいいんですよ、ぶつかった瞬間にバッグから派手な水柱が立ちますから、何が起きたか一目瞭然です。

 でもそうじゃない事故もありまして。」

 

ぶつかった瞬間に派手な水柱、というと、高速道路の分岐に置いてあるクッションドラムみたいなものだろうか。

ぶつかると横方向からの衝撃を潰れながら吸収して衝撃を吸収した分の水は上方向に噴き上がる。

そんな感じのものか。

 

「競い合いに夢中になるあまり、息継ぎを我慢しすぎて水中で気絶する者も居る。

 もう少し、もう少しと我慢しているうちに、酸素不足で頭が回らなくなって、『泳ぐのをやめてその場で立って息をする』たったこれだけのことができなくなる。

 この『酸素不足で頭が回らない状態での思考』を鍛えたい、などというウマ娘もいるが、プールではやらないで欲しいものだ。

 

 知っての通り、ウマ娘はそのままでは水に浮かない。

 呼吸を確保する、という意味では上半身に付けるウマ娘用のライフジャケットや浮き具の類は大型になりがちで動作の邪魔になるためにビート板くらいしかトレーニングに使えない。

 かといって、浮き具に頼らず安全を確保しようと水深を浅くし過ぎると今度は自分の脚力でプールの底を蹴って怪我をする。

 現在、よほど背が低い者ではない限り溺れない程度の水深にしてはあるが、万が一の際、発見や救助が遅れると、と考えると冷や汗ものだ。」

 

理事長の気持ちもわかる気がする。

何せ、年齢的に言えば中高生、一番バカやって無茶やって、って言う時期だ。

ウマ娘の闘争本能を発揮したままプールでのトレーニングに熱が入りすぎて競争を始めてしまうと、周りが見えなくなってがむしゃらに泳いだ挙句いつの間にか気を失って水底に沈んでいたりするのだろう。

担当しているウマ娘がプールの底に沈んでいました、なんて報告を受ける度に、トレーナーたちはどれだけ心臓が止まるような思いをしているのだろうか。

ましてこの学園を預かる理事長、一人としてウマ娘のそういった事故は起こしたくないに違いない。

 

理事長室のような防音の密室ではないので、言葉を選んで訊ねる。

 

「『こちら』ではコンピューター技術が相当発達しているようですが、AIで要救助者を発見して知らせてくれるようなシステムは作れないのですか?」

 

「作れる。

 が、一歩間違えば命に係わるようなシステムというものは、好んで作りたがるところは少ない。

 万が一の責任が取れない、と、見積もりを依頼してもほとんどが『お断り価格』を出してくる。」

 

「トレセン学園に入学できるという時点で、親が結構な稼ぎのある家だってことで向こうも尻込みするんですよ。

 システムの不備で名家の娘が、なんてことになったら会社の存亡はおろか自分の身の安全に関わりますからね。」

 

あ~、ここでも名家か。

どうもウマ娘世界は元居た世界で言うところの財閥とか豪族みたいなのが結構幅を利かせている感じがする。

聞いている感じだと権力振りかざしての敵対者潰しとか結構あるんだろうな。

 

「技術とは関係ないところでのリスク、ですか。」

 

「うむ。

 こちらが、完璧でなくともよい、少しでも事故を減らせれば、と頭を下げてもダメだ。

 たまに引き受けると乗り込んできたものが居れば、得体のしれない詐欺まがいのペーパーカンパニーだったりで八方塞がり、というところだ。」

 

ウマ娘は水に浮かない。

ウマ娘の闘争本能の類は抑えられない。

集団でトレーニングする以上、闘争本能に火をつけないために、一人ずつ泳がせる、ってのはさすがに効率が悪すぎる。

一応既存の対策で最悪の事態は防げているものの、事故はそこそこの頻度で起きるし、発見の遅れによる溺死が一番怖い、ってところか。

ウマ娘特有の問題だな、これ。

 

俺も泳げるのかどうかわからないし、いざこの問題に直面したら死活問題にもなりかねないな。

 

身体能力がヒト以上にあると言っても、潜水艦じゃあるまいし、息継ぎもなしにずっと潜っているわけにも・・・

 

と思ったところで、頭の中の雑学倉庫に何か引っかかるものがあった。

 

潜水艦?

 

潜水艦であるがゆえに、海上の艦艇と違ってできなかったことがあったはずだ。

潜水中の通信に、なぜ電波が使えなかったか。

カチカチと、頭の中でウマ娘の溺死防止システムに関するピースが組みあがっていく。

俺単独ではこのシステムは作れないけれど、ちょっと前に話に聞いた学園生の助力が得られれば実現可能なはずだ。

 

「む?

 何を考えこんでいる?」

 

「いえ、企業に頼まなくても、学園内で何とかできるものをちょっと思いつきまして。

 学園生が自分たちの為に趣味で開発したもので、絶対の信頼が置けるものではない、というシステムにしておけば、指導者の立場の人間はそんなものに頼り切ることはできないでしょうし、うまい具合に今までの監視体制+αになるんじゃないかと。

 まあ、思い付きなんでちょっと実験してみましょう。

 

 たづなさん、厨房で水の入った鍋って借りられます?

 あと、B5サイズくらいのチャック付きのビニール袋も。」

 

「はい?

 ちょっと聞いてきますね。」

 

しばらくするとたづなさんが一抱えはありそうな寸胴鍋を抱えて持って来た。

普通、ヒトが軽々と持ち上げられるような重さじゃないんだけれど、そんな重量物を運ぶたづなさんの姿を見ても周りの学園生も厨房のスタッフも一人も驚いた様子がない。

みんなたづなさんのパワーは見慣れてるってことか。

 

「どうぞ。

 お水の入ったお鍋と、チャック付きの袋です。」

 

受け取ったチャック付きの袋に、俺のウマホを入れて密封する。

そして、画面が見えるようタッチパネルを上に向けたまま、鍋の水の中に沈めた。

 

10センチも沈めないうちに、アンテナ表示が圏外になった。

水から上げるとまたアンテナが立つ。

 

「いけそうですね。

 ウマホで使われている電波って、水の中じゃ伝わらないんです。

 より高い周波数のWiFiの電波は、もっと伝わりにくくなります。

 息継ぎの為に必ず水面上に出す頭部に防水したウマホを取り付ければ、万が一溺れてウマホごと水中に沈めば、ウマホとの通信が数秒以上途絶えます。

一定期間そのウマホのWifi電波を見失ったら警報を出す、っていうシステムを組めば、さしてお金もかけずに溺れて水中に沈んでしまったウマ娘の検知ができると思いますよ。

 Wifiの電波は見通しが良ければ50~100メートルは飛びますし、プールくらいの大きさだったら監視できるでしょう。

 泳ぐウマ娘が頭のウマホの重さを嫌がらなければ、ですけれど。」

 

それを聞いて、ぽかんとしていた理事長が、スパンと扇子を取り出して叫ぶ。

 

「・・・驚愕ッ!

 すでに身の回りにあるものだけでそのような方法が!?

 い、いやしかし、そのシステムを貴女が組めるのか?」

 

「いえ。

 でも組めそうな学園生に心当たりはあります。

 ただ、素直に引き受けてくれるかどうかはわかりませんが・・・」

 

「その学園生とは?」

 

「エアシャカール先輩ですね。

 寮の洗濯機の空きをウマホで確認できるように専用アプリを自作してくれたそうですから、彼女ならできるかと。」

 

メーカーが洗濯機の価格維持のために無意味につけたWifiによる遠隔操作機能。

それの仕様を理解して、ウマホのWifiから洗濯機の稼働状態を読みだして表示するアプリの開発能力。

ここまでできるなら、単にWifiの接続状況を確認して信号が途切れたら警報を出す、なんていうシステムは、彼女なら簡単に構築できるはずだ。

 

「即決ッ!すぐに依頼しに行くぞたづな!」

 

「待ってください理事長。

 

 エアシャカールさん、彼女ですか・・・

 私達学園の運営側から頭ごなしに頼むと、彼女の気性だと断られるかもしれません。」

 

たづなさんは、エアシャカール先輩の人となりを少なからず知っているようだった。

 

「洗濯機の件を教えてくれた隣人も、とっつきにくいけど面倒見のいい先輩、みたいな微妙に面倒くさい性格してそうな話はしてましたね。」

 

「むぅ・・・」

 

ゲームでちょろっと出てきたエアシャカールのエピソードの記憶を掘り返してみても、少なくとも素直に人の言うことを聞くような人物じゃない、っていうのはなんとなくわかる。

聞いた話からするとそんなに悪い人じゃなさそうだけれど、ちょっとひねくれていて、正攻法で正面から報酬をちらつかせてお願いしても本人が納得しないと承諾してくれなさそうな雰囲気がプンプンしている。

 

「エアシャカール先輩の交友関係からワンクッション入れて依頼できませんかね?」

 

「交友・・・

 ・・・ああ、そういえば。

 彼女、留学生のファインモーション殿下のお気に入りっぽいですね。

 どこに行くにも一緒にいるのを見かけますし。

 彼女がこれからも先、殿下の友人であり続けるなら・・・」

 

「彼女に何か誇れる実績があれば口さがない殿下の取り巻きに口実を与えずに済むはず。

 地方トレセンと交流のある他国の姉妹校などへのシステム供与、そして実際に役に立つことが証明されれば、プールでのウマ娘の不幸な事故を減らすシステムを開発したと、URAの何かしらの功労賞への推薦はできる。

 彼女のレースでの実績と合わせれば彼女を侮る者はそう居なくなる。

 エアシャカールを気に入っているらしい殿下の気を引くには十分な理由になりえる。

 承認ッ!それで行こうッ!」

 

「では、殿下に協力を要請しておきます。

 ラベノシルフィーさん、動きがあったら対応お願いしますね。」

 

「言い出しっぺですからね。

 必要なものが発生した時は提供お願いしますよ?」

 

「杞憂ッ!わたしのポケットマネーの範囲でなら何とかしようッ!

 ・・・とはいえ、金額が大きくなりそうなときは事前に相談はよろしく頼むッ!」

 

理事長にいつもの調子が戻ってきたようだ。

微妙にポケットマネーの残額を気にしているけれど、たぶんこのシステムに理事長が想像しているような金額はかからない。

 

頷いて、すっかり温くなってしまったカフェラテを飲み干す。

 

「へくしゅっ!」

 

話し込んでいるうちに、すっかり身体は冷え、くしゃみが出た。

汗を吸ってずっしりと重くなった体操服が気化熱で体温を奪い続けている。

さすがにこれ以上濡れた体操服で体を冷やし続けるのはまずい。

 

「失礼、では私はそろそろお暇します。」

 

「うむッ!」

 

「風邪をひかないように気を付けてくださいね。」

 

鍋の片づけをお願いして、ウマホを回収したら速攻で寮に帰った。

 

寮の部屋の窓を開けたら、布団乾燥機にシューズアタッチメントを付けて冷風乾燥モードでタイマーをかけトレーニングシューズを乾かす。

 

すぐさまお風呂セットと洗濯物を持って大浴場へ。

汗が煮詰まったのか脇とかお尻の割れ目がぬるぬるして気持ちが悪い。

 

ロッカーに着替えを入れて、お風呂に入る人がまだほとんどいない時間なのをいいことに、空いている洗濯機の前で服を脱いでは洗濯ネットの中に放り込んでいく。

さすがにここまで汗を吸った体操服はクリーニングに出したら回収されるまでにカビが生えるかもしれないから、洗濯機で洗濯だ。

ダートコースで脱いだ靴下は・・・ビニール袋の中に長く入れていたのが良くなかったのかよろしくないにおいを発し始めていた。

・・・どうせ一人で洗濯機占有してしまうんだし、靴下だけ洗濯ネットに入れずに洗ってしまおう。

いつもより多めの洗剤と柔軟剤を洗濯機にセットして、お風呂セットを片手に浴室へ。

かけ湯をしたら、プロテクターで擦れたところとか、汗で蒸れてなんかかぶれたところとか、いろんなところがしみた。

 

お風呂から上がって、食堂が開くのを待って夕食。

夕食を食べている最中にウマホが鳴動した。

ヒシアマさんから生徒会への訪問は明日か明後日の午後ならいつでもアポなしでOKとの連絡だ。

お礼の返信をすると、また鳴動。

こっちはウオッカだ。

オヤジさんにバイクのシートをあんこ抜きしてくれる加工屋さんを聞いてくれたらしい。

住所なんかが長いからか、オヤジさんからのメッセージをそのままコピペしたらしく、今度その友達連れて来い、って書いてあった。

加工屋さんは東京の昭島市にあるらしい。

意外と近くだ。

こちらもオヤジさんによろしくと礼の返事を出す。

 

急に運動量が増えたせいか、一通り食べ終えてもまだ足りないと胃が催促するので、ご飯をお替りしてふりかけと海苔で掻き込んだ。

 

お替りを食べ終わった頃、またウマホが鳴った。

ヒシアマさんからだけど、音声通話だ。

 

「ベノシ今部屋かい?

 お客さんだよ。」

 

「すいません、今食堂です。

 玄関まで出向けばいいですか?」

 

「ああ。

 できるだけ早く来とくれ。」

 

ぶつりと通話が切れる。

・・・食後のお茶は、今日はお預けみたいだ。




そんな危険なら水泳なんてやらせないかビート板限定に、というお話は無しでお願いしますね~
溺れやすい水に浮かないウマ娘が水に落ちたとしても生き残る術として水泳があるって感じでひとつ~

っていうか、原作の方で7.5m高飛び込み台が普通の競泳プールにある時点でもう破綻してまして~
あれが死人を出さずに存在できるにはプールの深さがとんでもないことになるんですよね~
でも水中で立っているウマ娘もいるし~
いろいろつじつま合わせに悩ましいことが多いのがウマ娘世界の水泳です~


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シャカール先輩とファイン殿下来襲

分割第三弾です~



食堂から玄関に出向くと、中等部の門限に間に合わせようと駆け込んでくる学園生以外、人を待っているような様子のウマ娘はいなかった。

寮長室かな?

 

コンコン

 

寮長室の扉をノックする。

 

「ラベノシルフィーです。」

 

入んな~と声がしたので扉を開けると、制服姿の鹿毛のウマ娘が奥からトテテテ~と小走りに出てきた。

一見ショートカットに見えたけど、頭の後ろにお団子にして髪をまとめている。

珍しいことに両耳に赤と緑のクローバーみたいな耳飾りを付けている。

色白でクリっとした目が愛嬌を感じさせるお姉さん風味のウマ娘だ。

 

「わ、ベノシってキミかな?

 初めまして!私ファインモーション!」

 

目の前に立ったと思いきや、自己紹介しながら彼女の両手に右手を取られて握手された。

 

ファインモーションの背後から、ギザ歯を覗かせながらせんべいを齧ってのっそりと顔を覗かせたのは、黒鹿毛後ろ髪だけ一部ロングとか言う特徴的な髪型をした仏頂面の眉ピアスのウマ娘。

こっちは顔だけは知っている。

ウマ娘のゲームを始めたときに、初めて出たSSRカードの主がこのエアシャカールだ。

残念ながら俺があっちの世界で彼女の実装を見ることはなかったけれど。

・・・思っていたほど狂気をはらんだ感じも無いし怖くもないな。

しかし、この二人がいきなり押しかけてくるとは、理事長とたづなさんに話してから数時間だ、たづなさん話が早すぎるだろう。

 

「お前かァ、ファインにろくでもねェこと吹き込みやがった元凶は。

 邪魔したな、寮長さんよ。

 ほら、ファイン、コイツの部屋に行くぞ。」

 

なんかいかついシールだらけの黒いノートパソコンを抱えて、シャカール先輩が殿下の腰を叩いて促す。

 

もう!とかぷりぷりわかりやすく頬っぺたを膨らませながら二人ともついてくるようだったので、部屋の奥で寝転がりながらテレビだか動画だかを見ているらしいヒシアマさんに礼の声をかけてから二人を部屋まで案内することになった。

 

 

 

 

「どうぞ。」

 

家事室で淹れてきた、残り少ないマンハッタンカフェスペシャルを空いているベッドに腰かけた二人に提供する。

 

「わぁ、いい香り。」

 

何事もいいところを見つけて声に出して褒める教育をされているのか、コーヒーの香りを嗅いだ殿下からお褒めの言葉を頂いた。

ファイン殿下は初対面でも心が和らいでほっこりするな。

 

対して、シャカール先輩は、なんでこんなコーヒーが出てくるんだと言わんばかりに目を白黒させながらズズズっとコーヒーを啜ってはまたコーヒーの入った紙コップを眺めている。

 

「えーと、初めまして。

 ラベノシルフィーです。

 ちょっと前に編入してきました中等部2年です。」

 

「ファインモーションだよ。

 シャカールと同じ、高等部1年。

 ファイン先輩、って呼んでくれると嬉しいかな。」

 

「エアシャカールだ。

 ・・・砂糖は無ェのか?」

 

「・・・すいません。」

 

「チッ。」

 

もともと俺はコーヒーにミルクは入れても砂糖は入れない派なので砂糖は買っていないのだ。

微笑みながら音もたてずにコーヒーに口を付けるファイン先輩が、紙コップを膝の上に降ろしてから話を切り出す。

 

「ファイン先輩が、学園から話を受けて、シャカール先輩と一緒にここにいらした、ってことでよろしいですかね?」

 

「ええ。

 シャカールが前に寮の洗濯機の空きを表示するアプリを作ったのを見て、学園のウマ娘の安全のためにシャカールのプログラミング能力を貸してもらるか親しい私から聞いて貰えないかって。

 なんか完成すればプールで溺れかけたウマ娘をすぐに発見できるようになる低コストの素晴らしいシステムになります、って言われたんですけれど・・・

 私が聞いてもよくわからないからシャカールと一緒に詳しい話を聞きに行きます、って言ったら美浦寮のラベノシルフィーって言う生徒が発案者だから詳細はそっちで聞いてください、って。」

 

「そうでしたか、お二方にはご足労いただきまして、恐縮です。

 実はプールに今日救急車が来ていましてね・・・」

 

今日学園の食堂で話したプール事故と、その防止システムの開発を事実上企業が受けてくれない状況を話す。

 

「・・・開発は可能だが、万が一の事故の責任は負いたくねェ、ってか。

 その万が一の可能性を潰し切るのがプロの仕事ってやつじゃねェのか?」

 

「まあ、そうはいっても、0.0001%でも可能性があればそれは必ず起きる、っていうのが確率の世界ですし。」

 

「違ェねェ。」

 

「大金をかけて作ったシステムは、期待されて使用者が頼ってしまい、人の目による監視が緩くなります。

 そこを逆手にとって、学園生である先輩が趣味で開発したシステムなら、監視する側も頼り切るわけにはいかず、それでいてシステムに信頼性が思った以上にあったら・・・」

 

「なるほどな。

 監視体制が人手から機械に置き替わるんじゃなく、人手プラス機械になる、ってわけか。」

 

「学園生に万が一があっちゃいけない家の出が多すぎるってのも問題ではありますけどね。」

 

シャカール先輩がちらりとファイン先輩に目をやる。

金を払って開発したシステムで、万が一がこの『殿下』の身にでも起ころうものなら・・・

その影響と責任追及は留まるところを知らないだろう。

とはいえ、今の人任せの危機管理は、まだ死亡事故が起こっていないだけ、ともいえる。

人間は必ずミスを起こす、完璧な人間などいないと考えると、二重のチェックはあるに越したことはない。

 

「で、プールの話を聞いているうちに、先輩なら完璧に作れそうなシステムを思いつきまして。」

 

「・・・詳しく話せ。」

 

 

 

水の中を、Wifiの電波は透過できない。

それを利用すれば水没ウマ娘を検知できる、という話をざっくりとし終わって、シャカール先輩が頭を掻きながらやれやれと言った様子で呟いた。

 

「・・・盲点だな。

 オレも今のテクノロジーで水没したウマ娘を検知しろ、なんて言われたら、動画のリアルタイム処理で動きのなくなった水着なンかの色を検知することを真っ先に考えちまう。

 人体検知に使えるセンサーは、テクノロジーは何だ?ってな。

 それがお前のアイデアときたら・・・

 つまり、あれか。

 ウマホのWifiで1秒おきくらいにサーバーと通信させて、一定時間通信が無かったらそのウマホのIDで警報を鳴らせばいいンだな?」

 

「ええ。

 頭に乗せたウマホが水中に沈んだままになればその間通信は途絶えますからね。」

 

「ウマホの通信性能にばらつきがあっても、通信途絶がトリガーなら誤作動しても警報が鳴るだけ、か。

 フェイルセーフとしては不備がねェ。

 Wifi付きのノートPCがありゃ、1日もありゃ実証実験まではいけンな。

 いや、万が一個人のウマホ使っててウマホが浸水して壊れちまうと泣く奴が出るか?

 防水がチャック袋のみってのも信頼性に欠けンな。

 待てよ?

 ウマホじゃなくてもWifi機能さえついてりゃワンチップマイコンモジュール使ってMACが取れれば個体識別はできんンな・・・

 小規模店舗向けの電子ペーパー値札でWifi使ったのがあった気がすンな・・・」

 

ブツブツと、シャカール先輩が俺にもよくわからないことを呟き始める。

俺はプログラミングやマイコン関連は本当に上辺だけしかわからないのでその開発とかになるとさっぱりだ。

だからそれがわかりそうなシャカール先輩の名前を挙げたのだけれど。

 

「ねぇ、シャカールは何を言ってるの?」

 

「実現する方法について深い考察の海に沈んでいったみたいですね・・・

 私もコンピューター関連のディープな部分はわからないので・・・」

 

ふぅん・・・とわかったのかわからないのかあいまいなつぶやきをしながら、ファイン殿下が口を俺の耳元に寄せて囁く。

 

「(・・・ところで、これが使い物になるようだったら、シャカールに何らかの功労賞が下りるかも知れないってホント?)」

「(理事長が、成功のあかつきにはURAに推薦する、って言ってましたよ。)」

「(そうなったら、シャカールを堂々とアイルランドに連れて行っても・・・ふふっ・・・ふふふふふ・・・)」

 

何か背中によからぬ闇を背負いながら不気味な笑い方をし始めたファイン殿下に若干引きながら、シャカール先輩の復帰を待つ。

 

「・・・これなら、イケるな。

 おい、機材は提供して貰えるンだろうな?

 さすがに自腹切ってまで協力はできねェぞ?」

 

「ああ、それは大丈夫です。

 常識的な範囲だったら理事長が出してくれるって言ってましたので。」

 

「なンだと?

 理事長が絡んでるとか、お前何モンだ?」

 

「いえ、ちょっと特殊な編入の仕方をしたもので、理事長やたづなさんに何かとお世話になったんですよ。

 その絡みで、たまたま。

 たまたまです。」

 

「ホントかァ?

 なんかウマくハメられてる気がするんだが・・・」

 

一編入生が、理事長やたづなさんと妙な接点を持っていることに気付かれたらしい。

シャカール先輩がいぶかしんでいる。

 

「シャカール、私もプールでのトレーニングはします。

 そこに、シャカールの作ったシステムがあって、見守っていてくれると嬉しいんだけどなぁ・・・」

 

ファイン先輩がシャカール先輩を墜としに行っておられる。

ファイン先輩に上目遣いでじっと見つめられて、シャカール先輩は一瞬苦虫を噛み潰したような表情を見せたけど・・・結局墜ちた。

 

「・・・チッ!

 しょうがねェな。

 ファイン殿下の身の安全には代えられねェ。

 暇を見つけてプロトタイプは作ってやる。

 ただし、オレも運用の結果には責任は負わねェからな?

 そこははっきりしとけ!」

 

「なんだかんだ言って、頼られると手を差し伸べずにはいられない。

 そんなところが好きよ、シャカール。」

 

「・・・勘違いすんじゃねェ!

 オレはオレ自身のトレーニングの安全性を高められる可能性に投資しただけだ!

 オイ、コラ!

 厄介事を持ち込んできた後輩!

 貸し一つだかンな!

 帰るぞファイン!」

 

「はいはい。」

 

パチッとウィンクをして見せて、ファイン先輩は憤って見せるシャカール先輩を堂々となだめながら俺の部屋から出て行った。

ファイン先輩が、こっちを振り返りながら、ひらひらと手を振って別れの挨拶をしてくれる。

ツンツンだけど根はお人よしのシャカール先輩に、ほわほわとしながらも計算高いファイン先輩。

これはこれでいいコンビなんじゃなかろうか。

 

しかし、今日はいろいろ起こり過ぎだ。

密度が濃すぎる一日で疲れた。

 

ぼふっとベッドにダイブしたら急激に眠気がやってきた。

眠気に抗えず、部屋の電気も消せないまま、その日は深い眠りに落ちた。




シャカールのファインモーションの呼び方は
・ちょっとからかいの意味が混じる時は殿下
・普段はファイン
にしました~
ヒシアマさんの呼び方はヒシアマゾン先輩とかヒシアマ先輩とかだとなんかぶっきらぼうさが抜けてしまうので寮長さん呼ばわりに~


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身体を苛む痛みの中、会長に会う

また仕事がストールしたのでのっけます~

今回、長いけど切りどころがないのでそのまま載せます~

誤字報告・感想下さる方、いつもありがとう~




ばったりとベッドにダイブしたまま眠り込んでしまい、窓から差し込んでくる陽の光で目を覚ました朝。

 

・・・身体が動かねぇ~。

 

眠りについたときのままのうつぶせの状態から、寝返りを打とうとしたら、腿に激痛。

あまりの痛みに一瞬で眠気が吹っ飛んだ。

 

酷い筋肉痛だ。

 

今まで体育館で行っていたトレーニングは、筋肉にほとんど負荷のかからない、脚の空回しのようなものだった。

それが、昨日急遽ダートを実装することになって、今までとは比べ物にならない負荷をいきなり脚に与えて、息を整えなければならなくなるくらい走った。

筋肉痛が来るだろうなー、とは予想していたけれど、ここまで酷いとは。

 

下半身から腰にかけて少し動かそうとすると、鉛のような脚の重さと、筋肉痛が襲ってくる。

脚の筋も脚を延ばして寝たときのまま固定されてしまったかのように、少しでも曲げようとすると突っ張って痛い。

 

しかも、昨日の晩は暑かったのか、ものすごい寝汗をかいていて、関節の内側という内側に汗疹ができてかゆみを訴えていた。

 

どんなに筋肉痛が酷くても、登校できないわけではない以上起きなければならない。

さほど筋肉痛がひどくはない上半身の力だけで、ベッド際に移動して呻きながら膝やら腰やらを曲げて身体を起こすと、痛みに耐えながら無理やり脚の関節を動かす。

ベッドやサイドテーブルに掴まって、屈伸を繰り返していると段々動かすのが苦にならなくなってくる。

10分も屈伸を繰り返せば、まあ動けなくはないだろう、というレベルまで回復したので、着ていた寝間着代わりのスウェットを脱いで濡らしたタオルで全身を拭いて着替えた。

 

汗疹が、痛かゆい。

汗疹なんて小学生の時以来かな。

中学生に上がったあたりから汗疹に悩まされた記憶がない。

この身体は、案外皮膚が弱いのかもしれないと思ったのだけれど、その弱さを思い知らされたのはこの後だった。

 

一歩一歩が筋肉痛に響く食堂への往復を終えて、部屋に帰ってきて登校の為のルーティーンをこなしていた時だ。

トイレでそれは起こった。

まあ・・・その・・・なんだ。

お尻を拭いていたら、切れた。

いたっ!と思ったときにはトイレットペーパーに血がついていて、拭いたところがひりひりと痛い。

 

・・・トイレットぺーパーをケチって質の悪い安物を買うんじゃなかったと初めて後悔した。

 

残念ながら、今部屋の中にある医療品の類は、包帯にガーゼ、救急ばんそうこう、そしてウマ娘世界にもあった我らが万能薬ホロナインH軟膏のみ。

切れた場所が場所だけに救急ばんそうこうを貼るわけにもいかず、ホロナインをさっと塗るだけにとどめる。

・・・まあちょっと血が出ただけだ、すぐ治るだろ。

 

 

筋肉痛に苛まれて産まれたての小鹿のように足を震わせながら登校する俺を見て、

 

「故障明けでうっかりいつも通りのトレーニングしちまったウマ娘みたいなのがいるねぇ。」

 

とは寮の玄関で出会ったヒシアマさんの言葉。

 

「無茶は禁物ですよ。」

 

と心配してくれたのはたづなさん。

 

 

教室にたどり着いて、ヘロヘロになっている俺を見て話しかけてくるクラスメイトのいつものメンバーにちょっと聞いてみたけれど、ウマ娘が筋肉痛に苦しめられる、なんてことは滅多にないそうだ。

 

「あー、でも、トレセン中央受験できるってわかった時は、実技試験に向けて猛練習して、ちょっとなったことあるかも。

 でもそんなに歩くのが辛いほど、ってのはないかなー。」

 

「オメー、トレーニングの後のストレッチちゃんとやったか?

 ちゃんとやっとかないとスジが突っ張ってケガしやすくなるぞ?」

 

・・・そういえばストレッチとか全くやってないや。

運動音痴だった俺はそのあたりの常識がまったくわからないし、ムッタートレーナーは逆に当たり前すぎて教えなきゃいけない、ってことがすっぽり頭から抜けてたってところか。

とりあえずは見様見真似と、ウマチューブあたりにストレッチのやり方動画とか探せば出てくるだろう。

 

 

そしてホームルーム、座学の授業と続いたのだけれど、座ってじっとしていると汗疹が痒くてずっともぞもぞ、休み時間になったらなったで座った姿勢のまま脚が固まっていて、痛みに呻きながら立ち上がってゾンビのようにトイレに向かうという午前中を過ごした。

 

 

昼食は、これだけ筋肉痛がひどいのなら、きっと身体はたんぱく質を猛烈に求めているはず、と、三段盛りジャンボニンジンハンバーグ定食をいただく。

飲み物は、いつものカフェラテではなく、クエン酸の多そうなHI!-C レモン。

ドリンクサーバーのボタンに昔懐かしいこれを見つけたときは目を疑ったね。

あっちの世界ではほとんど見かけなくなって久しいから、懐かしさもあってついコップに注いでしまった。

 

 

お腹が膨れたところで、購買に寄る。

ここにも、多少薬とか置いてあったはず。

あと、予備のトレーニングシューズも買わないといけない。

 

昼休みだからか、購買はそこそこ人が入ってにぎわっていた。

爪でひっかかないようにして痛痒い肘の内側の汗疹を揉みながら、購買に入ると、相変わらず目立つところにデーンと置かれたトレーナー限定コーナーにひときわ輝いて見える『うるおいハンドクリーム』の姿が。

確かこれ、肌荒れとかを一発で完治させる代物だったはず。

しかし、これトレーナーしか買えないんだよな~。

今度ムッタートレーナーが来た時に買って貰えないかおねだりしてみようか。

 

買えないうるおいハンドクリームを横目に、市販薬なんかのあるコーナーに行く。

 

・・・頭痛薬に腹痛薬、胃薬に・・・へぇ、赤チンがまだこっちじゃ売ってるのか。

お、筋肉痛に効きそうな湿布薬と塗り薬がある。

制汗剤に靴の消臭剤、腋臭を抑える塗り薬、か。

汗疹の薬じゃないけれど、汗疹や虫刺されのかゆみに効くかゆみ止めはあるな。

あとはハンドクリームとか日焼け止めとか。

そういえば、以前お風呂に入っているときにお風呂上がりのお肌のケアにはベビーパウダーがいいとか教えて貰ったけど、ないな。

さすがにここでは扱ってないらしい。

 

とりあえず、筋肉痛用の塗り薬とかゆみ止め、靴の消臭剤とトレーニングシューズ1足をレジが空いた隙にささっとカード払いで買って寮に帰る。

カード払いはなるべく避けたいところだけれど、残念ながらトレーニングシューズを買ってしまうと手持ちの現金がほぼゼロになってしまう。

お嬢様方くらいしか使わないって言うカードを使って目立ちたくないのはやまやまだけど、学園内ですでにもう救いようがないまでに目立っているので今更気にしてもしようがない、という話もある。

 

 

寮の部屋に帰って、さっそく薬を塗ってみると、筋肉痛の塗り薬はウマ娘用にちゃんとアレンジされているのか、ほぼ無臭で塗ると清涼感だけが肌に残る。

かゆみ止めも同様だ。

この手の薬によくあるきついサリチル酸メチルのにおいがしない。

ただ、汗疹に塗ったかゆみ止めの薬は、結構しみるな。

かゆみが痛みに変わって引っ掻かずに済むので幾分ましになるって言えばましになるけど。

 

問題は、お尻だなあ・・・

座る時間が長いとうっ血して痔になりやすい、とはよく聞いたけど、朝から昼までの数時間でズキズキと痛みが増してきてる上に、なんか腫れてきている感じがする。

こんなの、誰にも相談できないし、今日午後に控えている一番の用事を済ませたら、筋肉痛を押してでも街のドラッグストアにいい薬を探しに行かないとまずいかもしれない。

 

午後に控えている一番の用事?

生徒会へのお礼だ。

 

 

 

 

生徒会室。

学園の事務棟一階の外れにある、トレセン学園中央の生徒会役員が詰めている部屋だ。

クラスメイトなんかの話では、よほどのことがない限り一般の学園生は生徒会室には縁がなく、生徒会室に行くこと自体が皆口をそろえて『何をやらかしたの?!』というくらい、不祥事を起こした学園生が怒られに行く場所、みたいなイメージがついている。

そして何より、その生徒会室の主、生徒会長は、押しも押されぬ皇帝シンボリルドルフ。

トウィンクルシリーズでは無敗の三冠どころか七冠まで成し遂げたというのだから学園内では雲の上の人、って言う扱いだ。

ゲームの中では、初期から実装されていた☆3キャラで、その地位に恐れをなして近づいてこようとしない学園生と何とか距離を縮めようとダジャレをまじめに研究しては空回りする面白キャラになってしまっていたけれど・・・

今のところ、そういった会長の面白い側面は見ていない。

果たして、実際の会長はどういう人なんだろうか。

 

菓子折をぶら下げて事務の受付で教えて貰った方に痛む脚を進めると、ひと気のない一本道の廊下の突き当りに、若草色の菓子箱が乗っている腰の高さくらいの台と、格子模様の装飾が施された木製のドアが見えてきた。

 

ドアの上には、黄色く変色しかけたプラスチックの透明カバーの中に楷書で書かれた『生徒会室』のプレートが納まっている。

ドアに近づいてみると、台の上の箱にはちょうど封筒を差し入れられるくらいのスリットがあり、テプラで『目安箱』とシールが貼ってあった。

『お気軽に生徒会へのご意見・ご要望をお寄せください』との文言が貼られているが、中に何かが入っている様子はない。

こうひと気が無くて、薄暗い廊下の突き当りにある扉とか、なんか拒絶感が半端ないな、と思いながらドアをノックする。

 

「ラベノシルフィーです。」

 

「入れ。」

 

すぐに中から、もう聞き慣れた感のある、エアグルーヴ副会長の声がした。

失礼します、と型通りの挨拶を返して、ドアを開けると、そこにはやたらと重厚な雰囲気の漂う西洋のお城の執務室のような光景が展開されていた。

 

部屋の大きさは、それほど大きくない。

12畳あるかないか、と言ったところだ。

床は、靴が沈み込むふかふかの黄土色の絨毯で、茶色い大きな唐草文様が施されている。

正面には赤い革張りのソファーとこげ茶色の木製テーブルで構成された応接セット。

そのテーブルの上に山と積まれた書類を、副会長のエアグルーヴが壁際のサイドウッドの上に急いで移動させてテーブルの上を空けている真っ最中だ。

その奥には、見ただけでとんでもなく高価だとわかる磨き光りした木目の美しい執務机がどっしりとした姿を見せている。

その奥で書類仕事をしていたらしいシンボリルドルフ会長が手を止めて眼鏡越しにこちらに視線を投げかけていた。

彼女の背後では赤いビロードに金糸をあしらったカーテンと垂れ幕が大きな採光窓を飾っている。

 

まるで、皇帝の異名を持つシンボリルドルフ会長の為にあつらえたような豪奢な雰囲気の空間がそこにはあった。

 

テーブルを空け終わったエアグルーヴが、台ふきんでテーブルの上をさっと拭く。

 

「散らかっていて済まないな、掛けてくれ。」

 

エアグルーヴの誘導に従って、痛む脚を動かしてソファーの一つに腰を掛ける。

 

・・・はずだった。

 

「いたっ!」

 

ソファーに沈み込むお尻に突然走った激痛に飛び上がった。

思った以上に、お尻の傷は悪化していたらしい。

柔らかい上質なソファーは、ふんわりと俺の身体を支えてくれた。

しかし、ソファーの座面には、硬い飾りボタンがついていた。

あろうことかそれが傷を直撃した。

結構な痛みが脳天まで突き抜ける。

・・・もうほとんど切れ痔だなこれ。

痛みに驚いて急に酷使された腿の筋肉がこれまた筋肉痛を訴える。

二重苦だ。

 

「どうした?!

 ソファーの上にペンでも落ちていたか?!」

 

「い、いえ、ちょっと傷がですね・・・お構いなく。」

 

俺の叫び声を聞いて、エアグルーヴが驚いて駆け寄ってきたけれど、こんなこと、言えない。

 

会長も外しかけた眼鏡をそのままに何が起きた?とちょっと驚いた顔でこちらを見ていた。

 

今度はボタンが悪さをしないようにそうっと、座りのいい位置を確認しながら腰を沈める。

さっきので、出血してないといいけど。

 

そうしていると、執務机を回って正面に、シンボリルドルフ会長がやってきた。

立ち上がろうとすると、手で制される。

 

「そのままでいい。

 痛むのだろう?

 君も結構いい生活をしていた口だな?」

 

会長が、ごく自然に、正面のソファーに腰を掛けて微笑む。

優雅な動作、というのはこういうのを言うんだろうな。

一連の動作が淀みなく、大して音もたてずにソファーに収まった。

 

「トレセン学園中央生徒会会長 シンボリルドルフだ。

 初対面というわけではないがこうして言葉を交わすのは初めてだな。」

 

「中等部2年、編入生のラベノシルフィーです。

 歓迎会でのスピーチ、ありがとうございました。

 まさか会長自ら壇上に立たれるとは思ってもみなかったもので。」

 

「なに、同じ美浦寮の仲間になるんだ。あれくらいどうってことないさ。」

 

「改めまして、美浦寮の歓迎会の開催に生徒会の皆様には多大なご尽力をいただき、ありがとうございました。

 していただいたことに見合うものでは到底ありませんが、感謝の気持ちです。

 お納めください。」

 

傍らに置いていた菓子折を差し出す。

 

「感謝の念、確かに受け取った。

 

 ・・・ほう?

 

 リンゴのタルトか。

 しかも私の好きなふじを使用した老舗の菓子屋のものだ。

 ヒシアマゾンにでも聞いたのかな?」

 

会長は傍らに控えていたエアグルーヴに、受け取った菓子折を渡して何やら指で合図をした。

エアグルーヴが菓子折を持って下がっていく。

 

「いえ、マンハッタンカフェ先輩とマチカネフクキタル先輩に、どうせなら喜ばれるものをとアドバイスいただきまして。」

 

「うん?

 その二人の名が出てくるとは思わなかったな。

 

 いや、タキオン繋がりか。

 

 もう他の学年の知己を得ているとは、予想外だったな。」

 

「タキオン先輩が何か?」

 

「うん、君は彼女と組んで何か作り始めただろう?

 アグネス家が突然スポーツ用品メーカーと何か始めた、って実家の方から聞いてね。

 流れ人である君から異世界の何かを得たな、とね。」

 

会長が何でもない事のように、俺が異世界からの流れ人だということを口にする。

 

「なんだ、私の事情は筒抜けですか。」

 

「ああ。

 君は学園の三女神像に埋まって現れたろう?

 エアグルーヴがこんなことをするのはゴールドシップしかいない、と彼女をひっとらえて真っ青な顔で理事長室に駆け込んだようだが・・・

 まぁウマ娘で三女神像にあんな不敬を働くなんてのはちょっと考えにくくてね。

 君は君で現れてからというもの、お客さんとして校内をうろうろしているし、情報を探っていたら私の実家の方から日本政府通達で『トレセン学園に現れた流れ人は理事長とその秘書に一任する、普通のウマ娘として自由に過ごさせよ』なんて話が密かに出回っているというじゃないか。

 なら、その流れ人のウマ娘、って言うのは君だ。」 

 

「その通りですが・・・それじゃあの恥ずかしい出自の作り話は恥かき損、てことですか。」

 

「いや、そんなことはない。

 私達そこそこの家格以上の家のものなら、掴んだ情報から君が流れ人だと気付くこともあるが、本来この世界にない技術の塊のような流れ人は、その重要性から現れた国の政府によって保護される。

 私利私欲に駆られてうかつに手を出せば政府を敵に回す。

 そういった情報に触れられる立場の者ほど、流れ人である君に干渉しようとはしないだろう。

 

 そうではない者にとっては、君は・・・こう言っては悪いが、なんでトレセン学園に編入してきたのかわからないポンコツウマ娘だ。

 

 それらしい出自のストーリーは必要だし、それでも君に絡む輩が出ないとも限らないので、歓迎会であの場に居る者に牽制させて貰ったのだ。

 君が、私達とは別の努力の結果、編入を勝ち取ったのだと、私が宣言することでね。

 いらぬおせっかいだったかな?」

 

「いえ、こちらの世界の常識もしきたりも知らない私にとっては大変助かります。」

 

たづなさんが心配していた学園内でもくだらないことでやっかんで絡んでくる者はいる、というのが、現学園生のトップから出てくると現実味がある。

 

礼を言って頭を下げると、そのタイミングで、失礼します、と、エアグルーヴがテーブルに紅茶の入った白磁のカップと俺が手土産に持って来たリンゴのタルトの乗った皿を置いていった。

個包装された手のひらに収まるくらいの小さなタルトの袋を開け、無造作に会長が齧る。

 

「・・・優しい甘さが沁み入るな。

 いい土産に感謝する。」

 

「喜んでいただけたなら幸いです。

 

 しかし、この生徒会室の調度品、まるでヨーロッパのお城の一室ですね。

 これはやはり会長の二つ名『皇帝』を意識して揃えられたものですか?」

 

「うん?

 私にはそのつもりはないんだが、私が生徒会長になってからいつの間にかこうなっていたから周囲はそう意識していたのかもしれないな。」

 

どうもこの部屋の調度品は、会長の周囲の者が持ちよって徐々に揃えていったものらしい。

今座っているソファーはちょっと現代的で、品のいいスナックやクラブなんかに置いてありそうなものにも見えるけど、執務机やサイドウッド、先ほどエアグルーヴが茶を入れていたシンクなんかはそうじゃない。

どれも庶民が手に出そうにないアンティーク調の木工細工や陶器製品だ。

それが、喧嘩することなく一体となって『皇帝の為の生徒会室』を形作っている。

 

「会長の趣味というわけではないと。」

 

「調度品に統一感があって意外と落ち着くのは認めるがね。

 

 ・・・認め?

 

 ・・・

 

 ・・・皇帝が肯定か・・・くくっ・・・」

 

突然思いついたダジャレらしいものに一人笑いをこらえている会長の後ろで、従者のようにそっと控えていたエアグルーヴが渋面を作ってまた会長の悪い癖が出た、みたいな顔をしている。

 

逆に、会長はちょっとテンションが上がったようだ。

おお、そうだと何かを思いついた様子で執務机の方に戻って、引き出しの中から何かを取り出して戻ってきた。

青白い虹色に輝く細長い薬の入った紙箱。

ソファーに戻ってきて、それを無造作にテーブルの上に置いた。

 

「先ほどの様子を見ていると、痛むのだろう?

 薬屋で買うのを恥ずかしがって躊躇していると、悪化させてしまうぞ。

 おいしい土産の礼だ、遠慮なく受け取って欲しい。」

 

テーブルの上に置かれた薬の紙箱に、エンボスの入った文字で燦然と煌めく『ホラギノールUG』の文字。

・・・ちょっと知っているのとは違うけど、痔の薬だろうなあ・・・

 

「なんで私のお尻事情を・・・」

 

「あの恐る恐る腰掛ける様は、実は結構なじみ深いものでね。

 入学式の後の1年生のうち、ちょっといい家の娘はこうなりやすいんだ。

 君がいい生活をしていただろうと言ったのはまさにこのことでね。

 君、温水洗浄便座を日常使いしていたんじゃないかな?」

 

何とも微妙な表情で会長が訊ねてくる。

 

「ええ、あっちの世界じゃあれが無い方が珍しい程度には普及していましたからね。」

 

温水洗浄便座は住んでいたアパートはおろか、職場にもついていたし近所のホームセンターだろうがショッピングモールだろうが設置されていないところを探す方が難しい程度に、八王子の街では普及していた。

 

「ほう?

 こちらではまだ温水洗浄便座は高級品でね。

 ちょっと裕福な家じゃないとついていない家の方が多いんだよ。

 ところが、この便利な文明の利器にも欠点があってね。

 これに慣れてしまうと、温水洗浄なしにお尻を拭くとお尻を傷つけてしまうことが多くなるんだ。

 まして、トレセン学園のトイレにはそんなぜいたく品は設置されていないし、使われているトイレットペーパーもふわふわの超高級品、てわけじゃない。

 食事が変わってお腹を壊す生徒もそこそこ出る。

 そんな状態で、ゴワゴワのトイレットペーパーで力加減もよくわからないままお尻を拭き続ければ・・・1週間もすればお尻に痛みを抱えるいい家の出のお嬢様が恐る恐る座る姿を目にするようになるわけだ。」

 

毎年見るからいやでもわかるようになる、と会長は肩をすくめてみせた。

 

なるほど。

 

温水洗浄便座に慣れ切ってお尻が弱くなったのか、普通にウマ娘パワーで強く拭き過ぎていたのかわからないけれど、とりあえず俺はもう温水洗浄便座なしにはいられない身体らしい。

高いらしいけど、買おう。

あとでヒシアマさんに部屋のトイレに取り付けていいか聞いてみよう。

 

会長が、わざとらしいすまし顔を作りながら語りだした。

 

「私のじいや、側仕えの執事も痔持ちでね。

 ひどくなったら辞めざるを得ないかもしれませんなぁ、などとぼやくので、実家の侍医に頼んで特注で作って貰ったのがその薬なんだ。

 侍医に頼んで痔のじいやの為に作って貰った痔の薬・・・くふっ・・・」

 

坊主が屏風に上手にジョーズの絵を描いた、風に攻めてきたか。

独り、笑いを堪えている会長を残して、エアグルーヴがこめかみを押さえながら流し台の方にフラフラと歩いて行った。

絶不調のタグが目に見えるようだ。

会長、これを言いたいがためにこの薬を持って来たんだろうか。

じいやが辞めたい、というのは辞意だという指摘は・・・やめておいた方が良さそうだな。

同音異義語を探すあまり、ゴキブリのGとかと繋げられないかと考えこまれても困るし。

 

「ありがたく頂戴します。

 ちょっと相談に困ることだったので本当に助かりました。」

 

「・・・うん、助けになったのなら何よりだ。

 

 さて、時間も押してきたし最後になるが、私は生徒会室を初めて訪れた者に必ず聞くことにしていることがある。

 私の左手の壁に飾られた額縁が見えるかい?」

 

会長が指さす、壁の上部にかかった額縁。

 

『Eclipse first, the rest nowhere.』

 

「君はあれをどう解釈する?」

 

ゲームやアニメの中で何度か出てきた、有名な言葉だ。

重要なキーワード的に扱われていたから、代表的な訳は覚えている。

 

「皆が知る言葉通りでなら『唯一抜きん出て並ぶ者なし』、でしょうが・・・」

 

最初にそれを聞いたときから、何か違和感があった。

この場で、あの額縁の中の文字を直接見たら、無性にイラっと来た。

 

「ふむ?」

 

「汚い言葉で申し訳ないんですが・・・

 私が訳すなら『おまえら全員クソだ。』ですかね。

 最高に厭味ったらしく吐き捨てられた言葉で、『お前らはエクリプスの足元にも及ばない』と見下されている気がします。

 増長するほどに強い、打倒すべき連中の傲慢な言葉。

 そんな感じです。」

 

せせら笑われて、馬鹿にされている。

俺が幼い頃から運動音痴でずっと見下されてきたからこそ感じる、言葉の裏に隠された嫌味。

あっちの世界では持って生まれた身体能力では馬鹿にしたやつらを見返すことは叶わなかったけれど、ウマ娘の身体になって見返せる可能性が出てきたせいか、今に見ていろ、という反骨心からのイラつきが湧き上がってくる。

 

「言葉遊びですけどね。

 この言葉が初めて登場したシーンで、面と向かってこれを言われたらなめられて喧嘩売られてると解釈しますね。

 もしこのエクリプスという単語が『私』で自分で口にするなら目指すのもいいかもしれませんが。」

 

「・・・この言葉を口にできるような強さを目指すか、この言葉を投げかけてきた相手の打倒を目指すか、か。」

 

俺の汚い言葉にも、とんでもない意見にも怒ることなく、なるほどな、と会長はまじめに考えこんでいる様子だった。

そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「『唯一抜きん出て並ぶ者なし』、そういう意味だと言われるがまま、この言葉をずっと信じてきたが、君の意見を聞いてから改めて原文を見直すと、何か腑に落ちるものも感じる。

 流れ人が重要視される理由の一端を垣間見た気がするな。

 君と話せてよかった。

 すまないが、まだ片付けなければならない仕事があってね。

 また時間のある時に意見を交わしたいものだ。」

 

会長は握手を求めて手を差し出してきた。

会談はこれで終わりだ。

 

その手を握り返す。

 

俺よりも少し大きいだけの、柔らかい女性の手だった。

 

コンプレックスに捻じ曲げられたうがった見方かも知れない。

でも、会長の前ですら、『Eclipse first, the rest nowhere.』、これを崇める気には到底なれなかったんだ。

 

話してみた会長は、思った以上に落ち着いた大人の精神性を持った女性だった。

ダジャレを思いつくと突発的に口にするのは・・・もう習慣化してるんだろうなあれは。

 

エアグルーヴもお世辞で褒めて笑ってやれるような性格じゃなさそうだし、会長のダジャレが飛び出す度に葛藤して頭を抱えてるんだろう。

 

 

改めて礼を言い、薬をいただいて制服のポケットに忍ばせ生徒会室を後にする。

 

そしてすぐに目に付いたトイレに飛び込んで貰った薬をさっそく使ってみる。

 

さすがシンボリ家の特注品、塗ってすぐに、あれほどじんじんと疼いていた痛みが消えていく。

タキオンの薬といい、購買で売っているトレーナー専用棚の薬といい、ウマ娘世界の『特殊』な薬っていうのはみんなこんなトンデモ効果なのかね?

 

・・・後日、ウマホで調べて知ったことだけど、毒などへの耐性が高いウマ娘用の薬は標準でヒト用の3倍成分が濃く、ヒトに使うのは厳禁。

それでようやくヒト並の効果だって言うから、ウマ娘に劇的に効く薬ってやつは本当に特殊なものが多いそうだ。

ウマ娘の身体にいまだ謎が多いように、その身体に効く薬もまた謎が多いってことかな。



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自主休練して雑用をこなすよ

今回もいつもより長くなってますが、ごった煮の割には切りどころがないのでこのまま載せます~


無事生徒会へのお礼も終わり、お尻が切れた原因もわかったのなら、後は予防するだけ。

 

俺はその脚で寮長室に特攻した。

 

「部屋に温水洗浄便座を付けたいって?」

 

「ええ、そうです!

 付けてもいいですよね?」

 

ヒシアマさんから若干呆れを含んだお言葉を頂いてしまったけれど、これは退けない。

これからの快適な寮生活に関わる重要なことだ。

少なくとも、あっちの世界では痔になった人が、お尻を鍛えて痔を克服しました、なんて話は聞いたことがない。

親父の世代は、皮膚を鍛えるために乾布摩擦とか言う妙な健康法があったと言っていたけれど、それがお尻に適用できるとは思えないし、トイレットペーパーで切れてしまう虚弱な**の皮膚がずたずたになる未来しか見えない。

解決方法は温水洗浄便座一択なのだ。

 

「そりゃ、付けるのは構わないけどさ。

 あんな高いものを付けようだなんてもの好きだねぇ。」

 

どうやら、設置には問題がないようだ。

まあ1Fのお嬢様方の部屋は普通に大改造されているみたいなので今更、という話かもしれないけれど。

しかし、そのお嬢様方の一角であるルドルフ会長までもが温水洗浄便座は高級品だ、と言っていたのがちょっと気になるな。

 

「高いって、そんなに?」

 

「ウマホで調べてごらん。

 アタシはたかだかトイレットペーパーの代わりのものにあんな金額は出せないねぇ。」

 

むぅ・・・そんなに高いんだろうか。

訝しみながら、ウマホを操作して価格調査サイトで調べてみたら・・・とんでもない価格が飛び出してきた。

 

最安値で18万円だと?!

 

あっちの世界のほぼ10倍だ。

しかも、機種が数機種しかない。

 

これに工事費を入れたら、20万円台半ばに届いてしまうかもしれない。

ウマ娘一人の一か月分の食費が軽く飛ぶ。

 

「高いだろう?

 本当に付けるのかい?」

 

予想をはるかに超える高額な価格に目を白黒させている俺に、さらに呆れの雰囲気を纏いながらヒシアマさんが訊ねてきた。

 

とはいってもなあ・・・**の皮膚を鍛える方法はない。

ないはずだ。

そんな方法はないことを確認して、自分を追い込もうと思って、ウマホで**、鍛えるで検索をかけたのだけれど・・・

出てきたものを見て俺は噴いた。

いい大人の欧米人が何人も並んで、太陽にすっぽんぽんの下半身を大股広げて晒している写真とともに出てきたのだ。

 

『**日光浴

 海外セレブに流行中の究極の健康法!

 30秒**を日光にさらすだけで1日分のビタミンDが生成!

 紫外線による殺菌が期待できるだけではなく、今まで太陽光を浴びたことの無い部位への刺激で精神までもが健康に!』

 

いつの間にこんなトンデモ健康法が・・・

明らかに偽科学の民間療法とかの類だ、こんなものに騙されるわけにはいかない。

何より、こんなことができるのはヌーディストビーチなんかのある海外だけだ。

検索項目には、**日光浴をやりすぎてひどい日焼けを負ってしまったかわいそうな話も載っていた。

欧州の白人でこれだから、身体の色素の薄い白毛で赤い瞳の俺なんかもマネしたらとんでもないことになるだろう。

こんな民間療法が出てくる時点で、**の皮膚を鍛えるいい方法なんかない、というのがよくわかる。

 

うん、もう迷いはない。

 

「付けます。」

 

「本気かい?

 デビュー前のウマ娘が手を出すような値段じゃないよ?」

 

そう、今の俺には収入がない。

衣食住の大半は学園が負担してくれているけれど、日用品や休日の食費などは全部貯金の切り崩しで、貯蓄額はじわじわと減っていく。

だがしかし。

無駄遣いならいざ知らず、必要な物には金をケチるとろくなことがない。

あっちの世界で俺はそれを嫌って程学んできているのだ。

俺の決意の変わらなそうな様子を見て、ヒシアマさんが後ろ頭を掻きながら教えてくれた。

 

「・・・しょうがないねぇ。

 府中のショッピングモール街を突き抜けてしばらく行ったところに商店街があるだろう?

 そこの外れに寮の出入りで上下水道工事を取り扱っている工務店があるから行ってみな。

 昔からずっと頼んでいる業者だ、二つ返事で引き受けてくれるさ。」

 

ヒシアマさんがささっとメモ用紙に『(有)大原管工』という工務店の電話番号を書いて渡してくれる。

 

「工事日は平日ならアタシが部屋の鍵を開けてやれるからいつでもいいからね。

 しかし、1Fのお嬢様方の部屋以外じゃ、アンタが初めてじゃないかねぇ、こんなのつけるの。

 エアコンは勘弁しておくれよ?

 2Fより上は部屋ごとの電気の容量、これ以上上げられないんだ。

 やろうとしたら大工事になっちまうからね。」

 

「さすがにエアコンはつけ・・・ないと思います。」

 

暑さに弱いというウマ娘が今まで夏場エアコンなしでやってこれたんだ、きっとあっちの世界よりも夏は涼しいのだと信じたい。

 

「本当に大丈夫なんだろうねぇ?

 電気契約変わって寮の維持費が上がるとなると、要望書通すのとか大変なんだからね?

 頼むよ?」

 

本当に大変なんだろう、ヒシアマさんが露骨に嫌な顔をしている。

というか、要望があれば要望書を出すだけは出してくれるんだろうけど、寄付金も納めない一般ウマ娘じゃ通らないんじゃないかな、学園の負担を増やすような話は。

普通に、少ないリソースをやりくりするのを学ぶのも寮生活です、とか言われて終わりそうな気がする。

この辺は金の力と家格への忖度でいろいろ変わるんだろう、このウマ娘世界は。

 

 

 

 

さて、次は買い出しだ。

 

この酷い筋肉痛のまま言われた通りダート5周を3セットなんかやったら、明日本当に動けなくなってしまう。

今日はこれ以上筋肉に過度な負荷をかけないように、できる用事をこなすことに奔走しようと思う。

 

寮の部屋に戻って、ウェストポーチに財布を突っ込んで府中のショッピングモール街へ。

脚にちょっと無視できない痛みは走るけど、おもちゃの兵隊の行進のように、脚をできる限り伸ばして早歩きで歩道を突き進む。

硬いアスファルト路面を、筋肉痛で脚首をクッションにできない状態で走るのはさすがに無謀だろう。

それでなくても、俺はまだ道路をまともに走ったことがない。

いずれ筋肉痛が治ったら、人の少ない早朝にランニングしている学園生についてくしてウマ娘レーンの走り方を学ぼうと思う。

 

銀行のATMで当面の現金を下ろしてから、ドラッグストアで汗疹の薬とベビーパウダーを購入する。

ベビーパウダーは無香料で薬用のちょっと高いのにした。

 

小さな買い物袋を携えたまま、ショッピングモール街を抜けてその先の商店街へ。

この商店街、駅前通りから続く道にあるんだけど、駅前が開発されてショッピングモールができてもシャッター街になることなく、元気に商売している店ばかりだ。

ちょっと古ぼけたお店が多いしアーケードなんかがあるわけでもないけれど、変に小綺麗に見てくれにお金をかけなかったのが逆に良かったのかもしれない。

歩いてこれる地元の人たちでそこそこ人出があるのが見て取れる。

 

食料品や日用品を扱うお店が連なるゾーンを通り抜けた商店街の外れの方にヒシアマさんの教えてくれた工務店はあった。

ねずみ色のトタンの壁に、黒ペンキで刷毛跡もくっきりと書かれた明朝体の店名。

左右のショーウィンドウには埃がかぶったままの洗面台と便器が飾られていて、中央の入り口は片開きのガラス戸だ。

店舗の上の階がそのまま住居になっている、いかにも個人経営、って感じの小さなお店。

 

ガラス戸の大きな四角い取っ手を押して中に入ると、50代くらいのおばちゃんが出てきて対応してくれた。

 

トレセン学園の美浦寮の一室に、この温水洗浄便座を付けたいとウマホの製品ページを見せて説明したら、工事費込みで15万円でいいよ、とネット最安値を割り込む大盤振る舞いをしてくれた。

 

「それでも、十分な利益は出るんだよ。

 この街はウマ娘のレースで潤っているようなもんだ。

 その土台を支えるトレセン学園のウマ娘からぼったくったら罰が当たるさ。」

 

カラカラと笑うおばちゃんは、気風のいい肝っ玉母ちゃんそのままだ。

モノは発注してから入荷まで早くても2~3日かかるそうなので、工事日が決まったら美浦寮のヒシアマさんまで連絡してくれるように頼んで店を出た。

 

これで一安心、とトレセン学園までの帰り道をてくてく歩いていたら、鼻に飛び込んできたいい匂い。

 

商店街の肉屋さんから何とも言えない香ばしい揚げ物のにおいが漂ってきた。

一旦ウマ娘の鼻に入ってきて、気になってしまったにおいっていうのは、無視するのはなかなか難しい。

 

においに釣られるようにふらふらと肉屋さんの前に行くと、ちょうど揚げたてのメンチカツとコロッケをショーケースの中のトレイに並べている最中だった。

意識せずとも口の中によだれが湧く。

 

高い買い物をしたばかりなのだから無駄遣いは我慢しよう、我慢しよう・・・

我慢・・・

我慢・・・

 

いい匂いのするお店の前を通り過ぎようとすると、ぐぅ~、とお腹が鳴いた。

 

・・・空腹の欲求と、揚げ物のいいにおいには勝てなかったよ。

 

俺の手のひらよりもかなり大きいコロッケが80円。

同じくらいのメンチカツは100円。

肉屋さんなのだからとまだ熱々のメンチカツを買って、店頭に置いてあるソースをたっぷりかけて齧りつく。

衣を噛み切って溢れ出る肉汁と脂。

口の中を焼きそうになりながら、食べるメンチカツは最高にうまかった。

 

食べながら、肉屋さんのショーケースの中を見ると、鶏肉をメインに、豚肉、牛肉の順でラインナップされている。

その隅っこに、実物はないけれど、肉の名前と値札だけの牛筋、豚軟骨、鶏がらという項目が激安価格で並んでいた。

牛筋、豚軟骨500グラムで200円とか、とんでもないな。

あっちの世界じゃ、牛筋は豚コマと同じで100グラム98円がいいところだ。

それに『国産』の文字がつくと倍になる。

 

俺の親の話じゃ、昔は牛筋は捨てるようなものだったのでタダみたいな値段で売られてた、って聞いたけど、俺が一人暮らしをあっちの世界で始めた頃は牛筋はすでに安いものじゃなかった。

激安だったら何時間でも煮込んで柔らかくして食べられただろうけど、値段も豚肉並みで硬くてガス代を気にしながら何時間も煮込んで料理するようなものじゃなかったのは確かだ。

・・・まぁそれもとある調理器具を入手していろいろ試しているうちに、これはこれでおいしいものになるな、と夕方の処分価格がついた牛筋を見つけたときは買って、牛筋料理を作っていたんだけれど。

豚軟骨も、切るのが面倒くさいけど、その調理器具を使うとぷっぷるのコラーゲン料理に変化する。

俺の勤めていた会社の上司の奥さんが、俺が泊まり込みの時持って行った弁当の豚軟骨の味噌煮込みを摘まんで、えらく気に入ったらしくその場でレシピを教えたこともある。

 

ともあれ、においに釣られて、入った肉屋さんでちょっと節約生活に彩を添えられそうな安い具材を見つけられたのはラッキーだった。

これで、メインの料理がうどんだけとか言う休日の味気ない食生活にちょっとだけおいしいものが追加できる。

 

休日は寮の食堂が休みな代わりに、食堂のキッチンを借りて料理ができると聞いている。

冷凍が効いて、何回かに分けて食べられるものを作り置きしておけば休日も外食せずにおいしいものが食べられる。

 

そんな感じで小さな希望を見つけて筋肉痛と戦いながら寮に帰ってくると、何やら部屋のドアの前に取っ手付きの紙袋が置いてあった。

 

中身は、様々な紙の本。

 

クリップボードが入っていたので挟まれていた紙片の文言を読むと、寮の中を回覧して回っている、あなたのお勧めとみんなのお勧めを交換しましょう的な物らしい。

 

とりあえず部屋に持ち込んで、制服を脱いで汗疹の薬を塗りながら、ベッドの上に並べた紙袋の中身の冊子類を眺めてみる、

 

『健太と祐司のデスマッチ』

・・・表紙からしてガチムチのホモホモしい薄い同人誌だ。

論外。

 

やたら分厚いレディースコミック。

『許せない!私の彼氏をNTRなんて!』

パラっとめくったら、女同士の熾烈な戦いと愛憎劇が展開されてるマンガだった。

しかも、子供が見ちゃいけないシーンがバリバリと・・・

無言で投げ捨てた。

 

『季刊蹄鉄:地方トレセンイケメントレーナー特集』

イケメン以前に男には興味ないのでパス。

 

『彼氏を堕とす100の手法』

男を堕とす未来は永遠にないのでパス。

 

『必ず成功する催眠術』

・・・いったいこれを誰に使うつもりなんだ。

 

『THE 肉 まだビタミンを野菜から摂っているんですか? 生肉食の勧め』

ベジタリアンとは対極の思想の本だな。

 

『2022年版 絶対に見つかるあなたの為のイヤーカフ』

これは比較的まともか。

ウマ娘の耳飾り特集だ。

かわいいものから、シルバードクロ系なものまで、最近の有名どころの耳飾りを紹介している。

へぇ~、とは思いながらも、パラ見する以上の興味は惹かれなかった。

 

ん~、これ絶対に一冊は交換しなければいけないものなんだろうか。

 

いまいち使いどころのない本ばかりの紙袋を部屋の床に置いて、次の雑用を済ませることにする。

 

ウオッカから教えて貰った、バイクのシート加工屋さんに電話をかけた。

 

「はい、秋津シート加工・・・」

 

10コール程の呼び出し音の後に出たのはしゃがれた男性の声だ。

年配の方ぽい。

 

「知り合いからこちらがシートの加工がとてもうまいと聞きまして、CPZ900Rのシートのあんこ抜き加工をお願いしたいんですが。」

 

「あんこ抜きね。

 声からしてあんた女のようだがあんたウマ娘かい?ヒト娘かい?」

 

「ウマ娘ですね。」

 

「尻尾避けの加工はどうするね?

 オリジナルのシルエットをなるべく保ちたいなら、二人乗りの座面のウレタンをスポンジに変えてある程度は尻尾を沈ませることはできるが、長時間乗るのは音を上げるウマ娘が多いんでお勧めはできねぇな。

 長時間乗ることがあるなら、スケベ加工がお勧めだ。」

 

「スケベ加工?」

 

なんだその卑猥な響きの加工提案は。

まあすっかり頭から抜けていた座った時尻尾の逃げ場がないと痛いというのを、向こうから解決策を提案してくれたのはありがたかったけれども。

 

「SKB加工、オリジナルはケンタウルスの椅子だとかいう名前で欧米で開発されたものらしいがね。

 要するに二人乗りのシート部分の真ん中に尻尾の逃げの為の細長い凹みを付ける加工だな。

 それが介護用の風呂椅子に似てる、ってんでスケベ椅子加工とか呼ばれ始めたんだが、オリジナルのSKBと語呂の相性が良すぎてな。

 誰もSKB加工って呼ばなくなっちまった。

 スーパースポーツ以外のウマ娘用のバイクは、メーカー純正でもこいつが定番だぜ?」

 

「じゃぁそのSKB加工もお願いします。」

 

こっちがウマ娘だとか女性だとか全く気にせず平気でスケベ加工だとかスケベ椅子だとか連呼していて商売人としてそれでいいのかと思わないでもないけれど、わざわざレトロバイクに乗っているらしいウオッカの親父さんが推薦してくるんだ、腕はいいんだろう。

前の方の角は落として、とにかく足つきを最優先に、とか細かい要望を出して、加工内容を煮詰めていく。

シートのクッションが薄くなっても、できる限りお尻にやさしいように座面にはちょっとお高めの最新高反発素材をお願いした。

 

「シート革はエンボス入りの純正同等素材張り替え、スケベ加工にクッションは年式から言って全交換だな。

 税込み13000円てとこだ。

 送料見てみっから住所教えてくれるかい?」

 

安ッ!

2万円超えくらいを予想していたのにはるかに安い。

ちょっと驚きながら住所を伝える。

 

「東京都府中市の・・・」

 

「ちょっと待った。

 府中でウマ娘って言うとあんたもしかしてトレセン学園の?」

 

住所を言いきらないうちに、待ったが入る。

 

「ええ、まあ。

 学園生ですね。」

 

「ああ、じゃあ送料はいいや。

 仕入れに行くとき近く通るからその時ついでに届けてやるよ。」

 

トレセン学園の名前が効いたのか、本当に単に仕入れの通り道なのかわからないけど、送料無料のサービスはありがたい。

今日だけで結構な額を散財しているからな。

 

「ありがとうございます。

 では、美浦寮のラベノシルフィーまでお願いします。」

 

よろしくお願いして、電話を終える。

思っていたより、安く済んだ。

 

シートを送るための梱包用に、食堂裏のゴミ捨て場へ段ボールを拾いにいく。

野菜なんかの運送で使われるのか、農協のマークの入った段ボールが大量に畳んで捨てられていた。

ちょっと長めの段ボールを2組ほど貰っていくことにする。

 

帰り際、以前聞いていた粗大ごみ捨て場を探して覗いてみる。

四角い鉄骨の柱に、波板で片流れ屋根と三方を覆っただけの簡素なゴミ捨て場だ。

 

覗いてみたら、結構いろいろな物が捨てられてた。

 

・・・昔ヘアサロンにあった頭にがっぽり被せるスタンドタイプのパーマ器なんかが捨てられてるんだけど、卒業したお嬢様方の中にパーマ頭のウマ娘がいたんだろうか。

他にも足つぼマッサージ機とか、腰用のでっかい電動マッサージ機とか、ハンガーがかかったままのぶら下がり健康機とか、足湯マシンなんてものあるな。

身体の疲れを抜くための必死さ加減が垣間見えるラインナップだ。

 

布団乾燥機も何台かあったけど、本体より布団に挟むシートの方が破れていたり、吹き込んだ雨に濡れて茶色い錆びた汁を隙間から垂れ流していたりと、そのままじゃ使えないものばかりだった。

 

ピンとくるものがないな、という中で、唯一持ち帰って役に立ちそうなのが、扇風機。

ガチャガチャと機械式のスイッチを押すシンプルなつくりのものだ。

タイマーもダイヤル式で、回すとバネの力でじりじりと音を立てながらゆっくり戻っていくタイプ。

 

ちょっと埃にまみれていて、掃除しないとダメそうだけど、これはこれからの季節必要だろう。

粗大ごみ置き場の柱についているコンセントに差し込んでみると、まだ動く。

これは拾って帰ろう。

 

結局、段ボールと扇風機を抱えて部屋に戻った。

 

段ボールを切って、バイクのシートをくるんでガムテープで止めると、そのまま寮長のヒシアマさんの所へ持って行く。

ほぼ毎日なんかの荷物が届くので、ヒシアマさんに預けておけば宅配屋が来た時に送って貰える。

送り票を書いて2000円くらいをヒシアマさんに預けて発送をお願いしておいた。

 

部屋に戻って、拾ってきた扇風機の掃除をする。

といっても、ちょっと羽根の周りを分解して雑巾で埃を拭き取るだけだ。

あらかた拭き終わってきれいになった扇風機を組み立てて、電源を入れる。

ゴワー、とちょっとうるさい気もするけれど、これで暑くなっても何とか過ごせるだろう。

 

夕方近くなって半端に時間が余ったので、この酷い筋肉痛を繰り返さないためにもウマホでストレッチの仕方を探して実践してみる。

絵で解説されているのはいまいち体の動かし方がわからないので、動画で探してたら・・・

 

見つけちゃったよ、ムッターチャンネル。

 

ムッタートレーナー自身がストレッチしてる実践動画があったのでそれにリピートをかけてスロー再生。

屈伸、前屈からの身体を捻りながら片手を延ばして後ろを向き・・・って、痛い痛い痛い!

 

普段使わないようなところの筋まで伸ばされるのか、筋肉痛以外のところも結構あちこち痛い。

 

前屈なんかは余裕で地面に手がつくからこの身体はかなり柔らかい方だと思うんだけど、それでも痛い。

 

ひぃひぃ言いながら15分くらいかけて一通りのストレッチを終えて立ち上がると、なんとなく身体が軽くなった気はする。

 

そうこうしていると、壁を伝わって隣のドアが開閉する音が聞こえた。

お隣さんが帰って来たんだろう。

 

床に放置していた紙袋を抱えて、隣を訪問する。

 

帰ってきていたのはゲムパちゃんだけだった。

 

「あ、ベノちゃんだ!

 ここじゃなんだから入って入って!」

 

俺の呼び方からいつの間にか『シ』が消えていた。

なんか呼ばれ方がまた一つ進化した気がする。

 

俺を部屋に招き入れると、トレーニング終わったばかりでまだ身体が火照っているのだろう、ゲムパちゃんは、机の椅子を引っ張ってきて、床に置いたボールみたいなサーキュレーターからの風を浴び始めた。

 

ちょっと驚いたのは、その背後のベッドだ。

 

ゲムパちゃんのベッドは、なんと2段。

とは言っても、白く塗られた鉄製のシンプルなフレームの上段は、布団ではなく段ボールやら衣装BOXやらで埋まっていたけれども。

ベッドのフレームを利用して物干し台にもしているらしく、ハンガーなんかがベッドの上段からぶら下がっている。

 

対して、アップルサンデーさんのベッドの方は俺の部屋と同じベッドが鎮座していた。

壁際にフックがいくつか設置されていて、スカーフとか帽子とか外出時にちょっとつっかけるものがひっかけられているくらいで、物自体が少ない。

断捨離系の生活でもしているんだろうか。

ゲムパちゃんのベッドの上が物で埋まっているのと対照的だ。

 

サーキュレーターに齧りついていたゲムパちゃんが、俺が抱えている紙袋に気が付いた。

 

「あー、それ回って来たんだ?

 ちょっと見せて。

 なんか新しいの入ってるかな?

 ・・・私の入れた本はどこかで交換されたみたいだねー、ないや。」

 

「うん、いつの間にかドアの前に置かれていてどうしたらいいのかなって。

 これ、普通に回ってくる物なんだ?」

 

「うん。

 誰が始めたのか知らないけどねー。

 年に数回、回ってくるよ。

 前回回ってきたときは、トレセン学園に入ってから愛用してた東京食べ歩きマップ出したんだ。

 交換したのはこれ。」

 

ゲムパちゃんが取り出してきたのは、薄い本。

紙袋の中のアレな同人誌と違って、耽美なタッチで男性と女性が見つめ合う表紙が飾られている。

渡された薄い本をぱらぱらとめくってみると、エロスのエの字もなさそうな純愛ものらしい。

最後の1ページを閉じると、裏表紙の真ん中に描かれたイモハンのようなサークルロゴが目に入る。

『メガドボ』と。

どっかで聞いたことがあるような、と裏表紙をもう一度めくり直して奥付を見ると、作者、どぼめじろう先生だよこれ。

ゲムパちゃんこういうのが趣味か。

俺のでっち上げ身の上話に食いつくわけだ。

 

うひゃー!えっぐー!と紙袋の中のマンガを見てゲラ笑いしているゲムパちゃんに聞いてみた。

 

「ねえ、メジロドーベルってウマ娘、学園にいる?」

 

「いるも何も美浦寮の寮生だよ?

 高等部の先輩。

 なんで?」

 

「いや、ちょっと気になっただけ。」

 

いるのか、しかも同じ寮に。

 

確か男嫌いとかそんな話だった気がするから、本能的に察知されてとげとげしい態度を取られるかもしれないな。

 

・・・まさかとは思うけど、この紙袋持って来たのって、あのとんでもないでっち上げ身の上話を聞いたどぼめ先生が、同士なのか見極めようと仕掛けた罠じゃないだろうな?

だとしたら、ちょっと対応に窮するぞこれ。

 

どうしたものか悩んでいると、ゲムパちゃんは俺がこの紙袋の処置に悩んでいると勘違いしたのか、さらっとアドバイスをくれた。

 

「特に興味が無ければ、そのままその回覧順のどこかに適当に置いて来ればいいと思うよ。

 もうすぐサンちゃん帰ってくるからお風呂行こ。」

 

 

 

「ちかれた~」

 

と、アップルサンデーさんが帰ってきたのはそのすぐ後だった。

 

 

3人で一緒にお風呂に行ったのはいいけれど、服を脱いだら全身の関節の裏やら皮膚の柔らかいところが赤い発疹だらけなのを見つかってお肌のケアについて二人から説教を喰らった。

 

お風呂上りは、脱衣所で洗濯が終わるまでの待ち時間、買って来たベビーパウダーを使ってのパフパフ教室。

汗疹の薬を塗って、脇や肘裏、膝裏にパフパフ、パフパフ。

アップルサンデーさんは、おっぱい下にもパフパフしていた。

大きいと蒸れるんだろうなあ。

 

その後、夕ご飯も一緒に食べて、部屋に戻って課題なんかを終わらせて。

今日見つけた肉屋さんの牛筋や豚軟骨をこれからの休日メニューに加えるべく、あっちの世界でよくお世話になっていた業務用スパイスの安いお店を探す。

あっちの世界で有名だったそのお店は、ウマ娘世界でも健在だったようであっさりと見つかった。

大量に作ることを考えて、大袋で5種類ほどを購入する。

・・・これで準備は万端、次の休日が楽しみだ。

 

回覧で回ってきた紙袋は、中身には手を付けずに、自分の部屋の前の廊下に放置することにした。

回覧ボードに、ちょっとしたメッセージを書き込んだ付箋を貼り付けて。

勘がいい相手なら、これで放っておいてくれるはず。

 

・・・くれるよね?



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夏近いとある一日

年末ですね~
ちょっと前に風邪ひいて寝込んでました~
コロナかそうじゃないかでびくびくもんです~
幸いコロナじゃなさそうでしたが~
皆さんも健康には気を付けましょ~

今回も閑話気味の短い話の詰め合わせみたいなもんですね~
続きはぼちぼち書きます~


暑い。

まだ7月には数週間あるというのに、今日は朝から気温が上がって、教室は茹だるような暑さだ。

教室の中のクラスメイトも、下敷きを団扇代わりにパタパタと扇いでいるのが1/3くらい、根性で耐えてまじめに授業を受けているのが1/3くらい、完全にダウンして机に突っ伏したまま溶けているのが1/3くらい。

教室内の暑さに加えて、心なし、前の席のウマ娘の背から熱気が放射されているような気さえする。

 

「ここから期末試験出るからな~」

 

スポーツ生理学の教師が、汗を拭きふきガツガツとチョークを鳴らしながら板書していく。

黒板の端まで文字で埋めると、容赦なく最初の頃に書いた黒板前半分の内容を消す。

あ゛~!という悲鳴が教室のあちこちから上がるけど、完全無視でまたガツガツと新たな文字を黒板に刻んでいく。

教師の板書はかなり速くて、ノートに写すだけで精いっぱいだ。

 

隣のグランマーチャンは、暑さにやられたのか目をぐるぐるにしたまま机に突っ伏して微動だにしない。

彼女、髪の毛のボリュームがあるから暑さにやられやすいのも無理はない。

・・・まあ、彼女には普段から世話になっているからあとでノートを提供しよう。

 

超スピードで板書していく教師とそれをひたすら書き写す教室内の生徒とのスピード勝負が繰り広げられていたけれど、とりあえずその勝負には勝った。

こうやって書き写すだけでも、書いた内容はそこそこ頭に入るので、復習の手間を減らすと考えればまじめにノートに書き写すのもそう無駄にはならない。

 

授業終了後、休み時間にマーチャンにノートを貸したのだけれども・・・

 

「あの・・・ノート貸していただけたのはありがたいんですけど・・・字に個性がありすぎて読めません・・・」

 

「むぅ・・・」

 

授業終了後、貸したノートを手に悲しそうな顔のグランマーチャンから暗に字が汚くて読めないと言われて俺は憮然とするしかなかった。

 

仕方なしに、休み時間と昼休憩の余りを使って、彼女が解読できた部分の穴埋めをするつもりでノートを読み上げることにしたんだけれど・・・

普段寄り付かないクラスメイトまでもが周りに寄ってきて自分のノートの補完をし始めやがった。

なんでその集中力を授業中に発揮しないんだろうなあ・・・

 

 

午後は合同教練があったので、2~3クラス合同で1時間ほどランニングとダッシュ。

一昨日の筋肉痛がまだ残ってはいるけれど、ランニングで身体を温めれば痛みはまあ我慢できるレベルではある。

 

ダッシュは初めて参加してみたけれど、周りの連中が流して軽く走ってるように見えるのに、走り出しで置いて行かれる。

あっちの世界で中学生くらいの時に運動系の部活の連中が放課後やっていたダッシュは、ほんの2~30メートルをダッシュしてはUターンして戻ってくる、を繰り返すものだったけれど、ウマ娘は何しろ出る速度が違う。

Uターンして戻ってくるのが50メートルは先だ。

列に並んでは、指導教官が手を叩く度に先頭のウマ娘がダッシュしていくんだけれど、同時に走り出した隣のウマ娘に置いていかれてばかりでちょっと悔しい。

子供の頃、競争という競争で、何度も見せつけられた『追いつけない他人の背中』を、またここでも見せつけられて、久しぶりに頭の後ろがチリチリと焦れる感じを味わわされた。

 

ただでさえトップスピードを出そうとすると足がもつれるなんて言う状態なのに、出脚の加速まで遅いとか、ウマ娘として万全の走りができるようになったとして、本当にこのトレセン中央の学園生相手に勝負になるんだろうか。

今更ながらちょっと不安になってきた。

 

多少安心材料になるものと言えば、同じように脚が細いウマ娘は総じて加速力があまりないってことだ。

俺ほどじゃないけれど、出遅れ気味のウマ娘はだいたい脚が細い。

逆に脚がムチムチでパンパンのウマ娘は、走り始めからすぐにトップスピードに達する。

側にいたローゼンドルネンに聞いてみたら、脚が太めの彼女らは短距離やマイルを得意としているそうだ。

 

「体質もあるから無理に張り合わなくていいと思うぞ。

 無駄に筋肉付けると逆に遅くなることもあるし。」

 

彼女は最初のツンケン度合いはどこへやら、最近何かと気を使ってくれる。

聞けば答えてくれるし、聞いてもいない事でもアドバイスをくれる。

出会った当時は焦って荒れていただけで根はいい奴なんだろうな。

 

彼女の言うとおり、水泳選手やマラソン選手と、短距離走やジャンプ競技に出るアスリートは筋肉のつき方が全く違う。

きっと俺のこの身体に合わせた走り方、ってのがあるんだろう。

 

合同教練の後、ちょっと休憩してから、ダートコースへ。

一応、そこで練習しているチームのトレーナーに、外周借りま~す、と声をかけてから、ムッタートレーナーに言われているトレーニングを開始する。

鈍い痛みはあるものの、走れないことはない。

とはいえ、走ってみたら結構早く限界が来た。

1セット目の終盤、土踏まずのあたりの筋が攣りそうになる。

脚首からつま先までを使っての走り方は今日のところはこれで終わりにしておこう。

後は、ひたすらランニングで流すようにゆっくり走って周回数だけを稼ぐ。

ゆっくり流すとは言っても、ヒトの感覚からすれば十分速いんだけど、この程度だと身体の負荷的にはクールダウンと大差ない。

外周を5周も回れば、10キロメートルほどになる。

2セット連続、ハーフマラソンくらいの距離を走っても1時間もかからない。

そんな速度でありながら、大して苦しくもないんだから本当にウマ娘の身体ってのは驚異的だよ。

 

 

 

 

無理はしない、ってことでトレーニングを終えて寮の部屋に帰ってみると、こちらも熱気がこもって蒸し風呂状態になっていた。

窓という窓を開けてすぐさま換気だ。

この部屋は棟の角部屋なので、壁際に一つ窓が多いのが幸いした。

窓を開けると外気がすうっと部屋を通り抜けて熱気を追い出してくれる。

 

時間を見れば、大浴場が本格的に開く時間まではまだ随分と時間がある。

中途半端に汗をかいているから部屋着に着替えると部屋着が無駄に汗臭くなるので、椅子の背もたれを抱きながら昨日拾ってきた扇風機の風に当たって湿った体操服を着たまま乾かす。

くるくると椅子を回して風に当たっていると、部屋の片隅に置いてあるビニール袋が目に入った。

歓迎会で着て、洗濯でボロボロにしてしまった衣装だ。

ヒシアマさんから、長年受け継がれて役目を果たした衣装だ、焼却炉で燃やして天に送ってやれ、と言われていたものだ。

そういえば、今日はその焼却炉に火が入っているはずの水曜日。

時間もあることだし、この衣装を供養してやることにしようか。

 

 

体操服の上にジャージの下だけを履いて、焼却炉に向かう。

バイクのキャブレターからガソリンを抜いたときに、ペットボトルに洗剤と混ぜて放置していた廃棄ガソリンを、ゴミ箱の中のちり紙なんかに染みこませて、そのままビニール袋に詰めた。

雑巾はまだ捨てるほど汚れていないのでガソリンを吸わせて捨てるにはちょっともったいない。

衣装の方は、ゴミと一緒にするのはかわいそうなので、もともと入っていたビニール袋に詰めたまま持って行く。

 

外履きに履き替えて、食堂の裏手に回ると、寮からも校舎からも離れた敷地の隅っこに高い煙突が立って、わずかに煙を吐き出していた。

 

火事にならないようにか、ぽっかりと空いた空き地の真ん中に、ぽつんと建った、小屋ほどもある、大きな鉄製の焼却炉。

不完全燃焼で煙が出ないようにだろう、ゴウゴウと空気を送り込む電動ファンの音がしている。

その横に積み上げられた、木製の粗大ごみや、段ボールに入った書類、布らしきものでパンパンに膨れたビニール袋たち。

そこで、学園の職員らしき男の人が、1メートルはありそうな長い柄のハンマーで焼却炉の入り口に入らないような大きな木製の棚なんかを、ガッツンガッツン叩き壊していた。

職員が着ている白いつなぎは見覚えがある。

歓迎会のステージを設営してくれた施設部の職員だ。

 

「あの~、すみません。

 焼却炉でこれ、燃やしてもらってもいいでしょうか。」

 

声をかけると、施設部の職員はハンマーを振るう手を止めてこちらを見た。

 

「おう、燃えるゴミならそこに置いていきな。

 って、美浦寮の歓迎会の主役だった嬢ちゃんか。」

 

つなぎの胸元を大きく開けて、顔から滴り落ちる汗をタオルで拭く顔には見覚えがある。

ステージ設営で指揮を執っていた施設部のオヤジさんだ。

現場の統括してるような立場の人がなんでこんなところでハンマー振るっているんだろう?

 

「先日は会場の設営手伝っていただいてありがとうございました。

 実は、あの時着ていた衣装をダメにしてしまいまして。

 長年がんばってきてくれた衣装だというので、できればこの手で火にくべてやりたいのですが、よろしいですか?」

 

「そりゃ構わねぇよ。

 俺達に見られたくない物直接燃やしに来る奴も珍しくないしな。

 今投入口開けてやるが、火傷に注意しろよ?」

 

オヤジさんが耐火煉瓦の貼られた分厚い投入口の扉を開き、オレンジ色に燃え盛る焼却炉の内部が姿を現す。

 

そこに、まずはガソリンを含ませたゴミの入った袋を投げ入れる。

一瞬にして火力が上がり、煙突の先端から炎を噴いて、それは燃え尽きた。

火力は十分すぎるほどだ。

 

続いて、ボロボロになってしまった衣装を袋から取り出して、両手でそっと炉の中に落とし込む。

特に思い入れがあるわけでもなく、たまたま選ばれて着る羽目になった、というだけの衣装だけれど、何らかの縁があって俺が着ることになったのだろう。

ダメにしてしまったのも俺だけれど、声に出さないよう一応『ありがとう』と口だけ動かして齢を経た衣装に礼を述べておく。

長い年月を経ていたであろう化繊のそれは、ラメの破片をパチパチとはじけさせながら、炎の中に溶けるようにその形を無くした。

 

「ありがとうございました。」

 

「もういいのか?」

 

「ええ。

 しかし、すごい量のゴミですね。

 これ全部燃やすんですか?」

 

「ああ。

 ゴミの処分も金がかかるんでな。

 燃やせるもんは燃やして経費削減だ。

 まぁ、やたらと外に出せないゴミなんかもあるしな。」

 

ゴミの焼却が当たり前のように行われているってことは、俺のいた世界ほど、まだゴミ処理に関しては規制が厳しくないのかな。

あっちの世界じゃ若い頃、ダイオキシンだなんだで環境関連で大騒ぎして、あっという間に焚火がタブーになってしまった。

小学生の頃は、焼却炉当番なんて奪い合いになるほど楽しい当番の一つだったけれど、大人になってふと気が付くと学校という学校から焼却炉が消えていたっけ。

・・・しかし、外に出せないゴミか。

そこに、段ボール一杯の書類の束らしきものがあるし・・・

 

「外に出せないゴミって、機密とかですか?」

 

「そんなんじゃねぇよ。

 まだ嬢ちゃんにはピンとこねぇかもしれねぇが、トレセン学園にゃ、アイドル級のウマ娘も在籍してるだろ?

 そのアイドル様が使ってたものなんかはゴミでもやたらと外部に出せねぇんだ。

 最近は警備も厳しいから敷地内に入ってくる不届き者はまずいないんだが、俺が若い頃は結構いたんだぜ、寮のゴミを漁ろうとする輩が。」

 

「・・・ああ、居場所が割れてますもんねえ、レースに出てるウマ娘って。」

 

URA主催のレースに出るウマ娘って、ほぼ全員トレセン学園の寮生だもんな。

世界的な有名人なら、店で使われたストローやら抜け毛なんかがオークションに出されてとんでもない値段で落札されたりする。

・・・我らがルドルフ会長クラスなら、鼻をかんだちり紙なんかを盗みに、ゴミを漁る輩がいないとも限らないな。

 

「お嬢ちゃんだって他人事じゃねぇんだぞ?

 傍から見りゃ、中途でトレセン中央に入って来たなんてウマ娘は金の卵だ。

 有名にならないうちならガードも緩いってんで狙われるかもしれねぇぞ?」

 

「そんなこともあるんですか・・・

 気を付けます。」

 

実態はまともに走れもしない不出来なウマ娘なんだけどな。

俺の尻尾の抜け毛とかを未来の重賞勝ちウマの尻尾の毛!とか言って悦に入る奴がいるんだろうか。

中身がおっさんと知って卒倒する姿を見て見たい気もするけれど・・・いや、知らずにペロペロとかされているのも気持ち悪いな、無しだ無し。

 

しかし、そう考えると、この捨てられた家具なんかも、実は卒業したすごい先輩のものだったりするのだろうか。

 

じっと積まれたゴミの山を見ていたら、何か気になるものでもあると思われたらしい。

 

「なんか欲しいものでもあるのか?

 ここにあるのは職員寮から出たものばかりだから、学生寮で使えるようなものはあまりないと思うが、欲しいものがあるなら持って行ってもいいぞ?」

 

持って行ってもいい、と言われれば、一応品定めはする。

・・・とはいえ、言われたように、木製の大型家具とか私物がほとんどない俺には使い道がないんだよな。

整理棚とかあっても入れるものが何もない。

 

そんな木製家具の中に、玄関なんかに置く木製のコートハンガーがあって、一本棒が折れているだけだったのでこれなら!と思ったら、なんか違う。

コートハンガーにしては支柱がやたら太いなと思ったら・・・

中国拳法の修行に使う木人だこれ。

職員寮の中で木人相手に拳法の修行をして、その木人の腕をへし折る職員か。

ウマ娘と戦うことでも想定しているんだろうか?

 

木製家具の類にはめぼしいものがなかったので、他を見回すと、ちょっと気になるものがあった。

大きな透明ビニール袋に詰め込まれた、均一な色合いの布の塊。

深緑色で、フェイクファーか何かに見える。

 

一抱えくらいあるそれを持ち上げてひっくり返したりして見ていたら、それが何なのかオヤジさんが教えてくれた。

 

「それ、職員寮の応接室にある長椅子のカバーだそうだ。

 同じカバーがもう生産されてなくてな、総入れ替えするんでお役御免になったらしい。」

 

「袋を開けてみてもいいですか?」

 

「いいぜ。」

 

許可を貰って袋を開けてみると、ちょっと埃っぽいにおいがする。

1センチくらいの化繊の毛が生えたよく伸びる生地の、俺の身長よりも長いシートカバーだ。

毛が禿げているわけでもなく、穴もない。

ただ、シートカバーを絞るゴム部分の縫い目がほつれて、ところどころ中のゴムひもが見えていた。

張りが悪くなって皺でも寄るようになったんだろうな。

 

これだけ大きい生地なら適当にちょん切って冬場の枕カバーとかにすれば、ふわふわで温かそうだ。

ひざ掛け代わりにしてもいいかもしれない。

掘り出しものって言うのは、だいたい季節外れに出てくる。

きっとこれもそう言うものの一つなんだろう。

 

「これ貰っていきます。」

 

「おう。

 燃やすよりは嬢ちゃんが使ってくれた方がそいつも喜ぶだろう。

 一応、注意はしとくが、ゴミ捨て場で拾ったもんは学園外に出すなよ?

 問題になるからな?」

 

「その辺は心得てますよ。」

 

シートカバーを袋に詰め直して、オヤジさんに礼を言ってからサンタクロースよろしく袋を背中に担いで寮に帰る。

焼却炉にものを燃やしに行ったのに、行きよりも帰りの方が荷物が大きくなるとはね。

 

 

まだほとんどの寮生がトレーニング中なのをいいことに、空いている大浴場の洗濯機で拾ってきたシートカバーを洗濯しておく。

埃っぽかったし、捨てられてからどれだけ経っているかもわからないし。

放置期間によってはダニとか湧いていてもおかしくない。

家事室の洗濯機で洗う方がいいのだろうけれど、大きすぎて干す場所がない。

となると乾燥機能付きの大浴場の洗濯機しか洗濯はできないわけで。

洗濯タグには乾燥温度指定も手洗い指定もないから洗濯ネットに入れておけば洗えるはず。

一応、毛が抜けまくると困るので裏返しにはしておくけれど。

 

 

大浴場が開くまでの時間は、おとなしく今日の座学の復習をすることにした。

試験範囲だって言うのだから復習しておいて損はない。

と言っても、読めないと言われた速記もどきのミミズののたくったような文字を、次のページに読めるくらいの字で書き写すだけだけど。

一旦暗記してからノートをめくって書き込まなければならないので、意識しなくてもそこそこ記憶に残る。

赤点を取っても合格点を取れるまで延々同じ試験が繰り返されるだけらしいから、追試で不合格なら落第、なんてことがない分、気楽でいい。

 

・・・しかし、ほとんどヒトと同じ身体の構造なのに、筋肉とか腱とか骨の呼び方がヒトのそれじゃないのはいまだに違和感があるな。

なまじ雑学知識の中に半端にそれらの名称があるものだから、とっさの時に混同してしまうのが厄介だ。

その混同を少しでもなくすためにも、読んで、覚えて、書いて、を繰り返す。

今日の授業分を書き写し終わるころ、隣の部屋のドアが開閉する音が聞こえてきた。

 

 

お隣さん二人と、恒例のお風呂。

洗濯機に入れたまま放置していたシートカバーは、大浴場のラッシュで一回洗濯機が埋まったのか、洗濯機の上のかごに出されていた。

洗い上がったシートカバーを回収して、体操服を脱いでいく。

 

「今日のベノちゃん、気合入ったパンツ履いてる!」

 

「あ、ほんとだ~!セクシ~!」

 

レース飾り盛り盛りの黒いショーツを履いていたのを見つかって、ゲムパちゃんとアップルサンデーさんに囃し立てられた。

なんでこんなものを履いていたかって言えば、単純に朝お尻に薬を塗っていたら、白っぽいショーツだと薬の染みが目立ったからだ。

同じ女性のウマ娘しかいないとはいえ、ショーツに濡れたような染みを見つけられるのはバツが悪い。

何より、なんでそんな薬を塗る羽目になっているのか説明したくない。

で、薬が染みても目立たなそうな濃い色のショーツって言ったら、たづなさんと服を買いに行った時におしゃれ着と合わせて着るために買った飾りの多いこれしかなかった、ただそれだけのことだ。

 

「ベノちゃん、その場でセクシーポーズ!」

 

「セクシーポーズって言われてもそんなの知らないよ。」

 

「足を肩幅くらいに開いて、両手で後ろ髪を掻き上げて・・・そうそう、そこで振り向きながらスマイル!」

 

「こ、こう?」

 

二人の言葉に乗せられて、その通りにしてみるも、指示を出したアップルサンデーさんは微妙な顔をしていた。

 

スッと背後にゲムパちゃんが立って、俺の胸を両手のひらでたゆんたゆんと持ち上げる。

 

「セクシーポーズを決めるには圧倒的なボリューム不足だねぇ。」

 

おっぱいの大きさに関してはこの身体を設計したという三女神のゴドに言ってくれ。

少なくとも俺の趣味で決まったわけじゃない。

 

「胸を強調するならこう~」

 

アップルサンデーさんが、フラミンゴのように片足を曲げて持ち上げ、ロッカーの角に手をかけてぶら下がるように背を逸らした。

ちょうどおっぱいの頂点が身体の一番高い部分になるように身体が弧を描く。

 

・・・見事なセクシーポーズだった。

 

ボリューム・・・ボリュームか。

これが女子同士の間のおっぱいマウント・・・

でかい方がえらいのは男も女も変わらないということか。

 

「ま、そのうち大きくなるよ。」

 

アップルサンデーさんが何の気なしに言うけれど・・・

 

「先日、トレーナーがお前もうすぐ本格化始まるぞ、って。」

 

本格化が始まると身体能力は大きく上がるけど、身体の成長は本格化前にほぼ終了するらしい。

つまり現時点の大きさから大きく変わることはない。

 

しばらくの沈黙ののち、

 

「・・・大丈夫。

 ちっぱいにも需要はあるから。」

 

ゲムパちゃんになんだかよくわからない慰められ方をした。

 

なんで黒下着履いてただけでおっぱいマウントとられて慰められてるんだろう俺・・・

 



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