【完結】女帝の意志を継ぐ者へ (マシロタケ)
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邂逅 変ロ短調 作品1
三女神様にお祈りを


エアグルーヴ……!

そんな情けない顔をするな。たわけ。……そんな顔をされては、折角産まれて来たこの娘が不憫ではないか……。

だけど……君はッ!

私はいい……命とは紡がれてこその代物だ……。
それよ……りも……きょ……うは……この娘の……目出度い日だ。祝ってあげよう……喜んであげよう……。

ああ……ああ…………そうだな。
……名前を決めてあげないとな……。

名前なら……既に決まっているではないか



ああ……また(・・)逢えてよかった…





―――ショパン



 

 

 

 

 

 

 

 ……パン

 

 

 

 

 

 

 ショパン

 

 

 

 

 

 

 ねぇってば

 

 

 

 

 

 

 ねぇ聞いてるの?

 

 

 

 

 

 

 

「――ショパン(・・・・)ってば!!」

 

「……んえ?」

 

 彼女(・・)はようやく己の顎を支える腕の杖を外し、空間を劈き唸る仲間の方へきょとんとした表情を向けた。ふと、自分は何を考えていたのだろうか。見上げる空の奥彼方で、愛しく優しく懐かしい誰か(・・)の声が聞こえていた気がする。しかしそれが誰かは思い出せない。僅かに漏れる溜息に、折り合いと観念を催し、話を聞いていたのかという友人の問いに対して、こくりと嘘を頷いた。

 

「やっぱりハンカチとかじゃないの? コロンとセットにしてさ」

 

「ええ~なんか古臭くない? やっぱそこはオトナのウマ娘に送るモノよ! お化粧セットとか、指輪とかさ!」

 

「アンタそんなお金あるの?」

 

「ないけど!」

 

 随分と湧き上がる無駄話(ガールズトーク)。普段の中身の伴わない話題と違って、今日の議論には幾何かの熱を感じる。内容から察するに、トークテーマは大切な誰かへの贈り物と言ったところなのだろうか。彼女らの耳や尻尾の動き(ストローク)すらも、内に滾る興奮の副産物のようだった。

 

「で、ショパンはどうすんの?」

 

「え……私?」

 

「そーそー。あんたアンタ。ずっとぼーっとしてんだから! 母の日(・・・)のプレゼント。何考えてんの?」

 

 

 母の日。

 

 ああ、そんな話題だったのか。これは弱った。随分と弱った。だって……

 

 

「カーネーションとお手紙とかでいいんじゃないの……? よくわかんないけど」

 

「……はぁ。あんたってば、そうやってお金ケチろうって魂胆じゃないんでしょうね」

 

「そういうワケじゃ。大事なのは気持ちじゃないのかな」

 

「そういうけどさ、やっぱりとびっきり良いもの送ってさ、お母さんに喜んでもらいたいじゃん! お母さん、私のすっごい憧れだからさ! アンタにはそういうのないの? 親不孝モンだよ~?」

 

 友人の一人が、冗談めかしてそうショパン(・・・・)に吐きつけた時だった。

 

「私、お母さんいないもん……」

 

「……え?」

 

 彼女のその一言に、友人たちは思わずその口を塞いだ。時を置いて幾何かの沈黙の時間が訪れる。友人たちは互いの目を合わせ合う。まずいことをした。禁忌に触れてしまった。この状況をどうフォローすればいい。打開策はないのかと、その瞳で語り合った。

 

「私が産まれたその日に死んじゃったんだ。だから、一回も会ったことがないし、お話したこともない」

 

 もうひと時を置いて、彼女は語りだす。その声色と表情にはただただ哀愁だけが漂い、そこに友人に対する怒りや、妬みといったものは感じられなかった。

 

「ごめん……しらなかったんだ……」

 

「ううん。皆のせいじゃないよ」

 

 最後にショパンは青ざめる友人たちに笑って見せた。折角の明るい雰囲気を壊してしまったことを、心の隅で悔いたからだ。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 桜もすっかりと舞い落ち、青々しく芽生えるは夏の命。夏至もそう遠くないらしい。そんな僅かな夏の知らせをショパンは廊下の窓から感じ取る。そこから見える旧校舎(・・・)から巣立つ燕たちに背中を押されるように、彼女もまたとある場所を目指し足を進める。

 

 その時にふらりと、先のことを思い出す。『お母さん、私のすっごい憧れだからさ』そう、心からの歓びを唱える友人の唄が頭の中でリフレインした。本当は彼女だって、そうであるはずなのに。

 

「私のお母さんだって、すっごいウマ娘だったんだ……。すっごく綺麗で、すっごく強くて、すっごくカッコよくて……。私のあこがれのウマ娘なんだ……。だって――女帝(・・)って言われたウマ娘なんだよ……?」

 

 きっと誰にも届かぬ声でと彼女は呟き、首から提げたペンダントの蓋を開ける。

 そこに"憧れ"は居た。優しい向日葵畑を背後に、白いワンピースに身を包み、柔らかく温かい表情をこちらに向ける生前の母の姿。だが、その笑みはショパンへ向けられた笑みではない。きっとこの写真を撮った人へ向けた数少ない笑顔。

 

 しかしショパンにとっては、その残された写真やビデオたちだけが、母の面影全てだった。

 

 レースでの走る姿。ウイニングライブで可憐に舞う姿。インタビューに対し、泰然自若に毅然と答える姿。それらがショパンの知る画面の向こうの母の雄姿。情報源は全てメディアを通したもの。……つまるところ言い換えてしまえば、ショパンの知る母の姿、それはいちファンが得られる情報とさして変わらないということだ。

 

 あとは精々、自宅に残ったアルバムかホームビデオか、その程度だ。

 

 本当はもっと知っていてもいいはずだ。彼女しか知らない母の顔を。

自分の子を愛を以て叱る顔。親ばかになって子を愛でる顔。親子で戯れ合う歓びの顔。娘を案じる母親としての顔。父を叱りつける妻としての顔。時に娘の走りを指南する指導者としての顔とか……。とかとかとか。

 

 しかし彼女は何も知らない。だって、その瞳すらも直接見たことがないのだもの。

 

 ……叶わぬ願いだとは分かっている。拙い我儘だとも知っている。だけど。だけど。

 

 一度でいいから、叱られてみたかった。

 

 褒められてみたかった。

 

 甘えてみたかった。

 

 母の手料理を味わってみたかった。

 

 一緒の布団で母の胸の中で静かに眠ってみたかった。

 

 一緒においしいスイーツを舌鼓して、笑い合ってみたかった。

 

 友達に、私のお母さんはすごいんだって自慢したかった。

 

 

 ――母の日に贈り物をして、喜んで貰いたかった。

 

 

 一つ欲が出れば、それが彼女の脳内で共鳴し合って厄介な連鎖反応を起こす。だけど、どう足掻いたってそれが叶わないことだともよく知っている。

 

 彼女は足を止め、青く抜ける晴天を瞳に映す。そしてとある無謀を呟いた。

 

「お母さん……会ってみたいな……」

 

 しかしその戯言は、儚くも春の突風と共に春空へと消えていった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 心のぼやきに身を任せ、己の感情に漂い続ければ、時間という代物は瞬く間に蒸発する。先ほど教室を出たかと思えば、目の前には既に目的地。長らく変わらないその木製の扉は、これまでも見守ってきたトレセン学園の深い歴史と、出会ってきた無数の生徒たちの夫々の想いを、言葉なく語り継ぐ。その貫禄の前に、未だに幼いショパンが幾何かの気後れを感じることも無理はなかった。

 

 ノックを三回、然れどその扉の隔たりの向こう側から入室を許す言葉はない。部屋を間違えたのだろうか。だが、室名札には間違いなく記されている。

 

『生徒会室』と。

 

 ショパンは扉の取っ手に手をかける。ここで待ちぼうけを貰うのも少しばからしいと思ったからだ。扉に施錠はなされていなかった。その部屋の主が入室の許可を下さなくとも、門番が許してくれるのなら、忍びないこともない。案の定生徒会室は無人だった。静寂と僅かな寂寥が古書籍の紙やインクの香りと重なり、静穏を唄う音無きBGMとなって来客を慎ましく迎え入れた。

 

「会長さん、この時間にって言ってた筈なのにな」

 

 小さな裏切りに、ショパンは若くして吐き慣れた大きな溜息を。ちらりと時計に目を向ける。時刻は既に逢魔が時(おうまがどき)。果たして、生徒会長が自分を呼びつけた目的とは何なのだろうか。叱られる心当たりも……ない。多分。

 

 微かな不安を払おうとするかのように、時計から視線を振り解こうとしたとき、彼女はそれらに出会う。

 壁際にずらりと飾られた過去の上澄みたち。そう、歴代生徒会メンバーの集合写真だ。遡れば色が褪せてしまっているほどに古い写真までもがそこにあった。無意識の下、否、はっきりとした期待の中でショパンは辿ってしまう。一年、また一年と過去へタイムスリップ(・・・・・・・)するかのように。

 

 

 ――そして辿り着く。歴代の生徒会の中でも、比類無き希代とすらも称された彼女ら(・・・)の写真を。

 

 写真中央の生徒会長席に腰を据える鹿毛のウマ娘、既に20年以上(・・・・)の歳月を経ようとも、その威圧感と瘴気を醸すような風格は、時空を通り越し、そこに立ち尽くす者の喉元を締め付けるかのようだった。そして、生徒会長の両脇を固める二人の副生徒会長(・・・・・)……。

 

 その一人に、ショパンの心は奪われる。なんたって、ここで初めて見た新たな母の姿なのだもの……。

 

 また、くうっと沈み込むように、彼女の心に何かが棲む。それは切ない気持ちなのか、或いは……。ショパンが僅かに息を止めた時――。

 

「お待たせして申し訳ありません。ショパン」

 

 それは春風と同じように、温かく優しい艶やかな声色。それが写真を恍惚と見入るショパンの背中を叩いた。途端に現実の世界へ引き戻された彼女の心に、僅かな緊張が蘇る。

 

「生徒会長さん」

 

 ようやく現れた生徒会長(遅刻魔)の姿。ここで、自分から呼びつけておいて、来客を待たせるとはどういう了見かと不満を言ってやれるほど、彼女(ショパン)の気は大きくない。むしろ何も怖いことなどなく、この時間が過ぎ去ってほしいと願う気持ちが強かった。

 

「御免なさい。会議が想定よりも長引いてしまって。さぁ、お掛けになって」

 

 青鹿毛の(ストレート)を靡かせて、くいっと眼鏡を奥に押し込んだ生徒会長は、両手に抱えた書類を生徒会長席の机に置き、応対用の少しだけ草臥(くたび)れたソファを指す。だが、ふと彼女はショパンが向けていた視線の先に気が付いた。

 

「生徒会室へ赴くのは初めてでしたか?」

 

 ショパンは小さな声で、こくりと頷きながら答えた。

 

「では、やはりその写真が気になることも無理はありませんね」

 

 会長はにこりと笑って、ショパンと背比べをするように横へ並ぶ。そしてショパンが先ほどまで眺めていた写真に視線を手向けた。

 

「我がトレセン学園の歴史は長く麗しい。無論それらの歴史は彼女たちの尽力あって、紡がれ守られてきたものです。私という存在は未だ拙く、彼女らの背を追い続ける日々ですが、それであっても彼女たちの想いを無下にはできません。私もまた、この歴史の歯車となってこの学園を未来に紡いでいく。それが願いであり、目標」

 

 ひとつそう語った後で、彼女は続ける。

 

「その長い歴史の中でも、彼女たちの世代は一つ抜き出ていました。当時の生徒会長『シンボリルドルフ』無敗の三冠ウマ娘であり、夢幻の七冠ウマ娘。その樹立から今日に至るまで、彼女の栄光が覆った事実はありません。彼女の前には伝説という言葉すらも、幼い表現なのかもしれません。皇帝という名は飾りではない」

 

「……シンボリルドルフ」

 

 ショパンが呟き、呼応するように会長が頷く。

 

「ご存じですか。今彼女は若くしてURAの総括監に籍を置き、ポスト理事だとも囁かれているそうですよ。私も幾度かお会いしたことがありますが、彼女の覇気と言いましょうか、その気概の前には、背筋を伸ばし、襟を正す他ありませんでした。今でもお会いする機会があると緊張しちゃうんですよね」

 

 会長は胸に手を置いて複数回の深呼吸。それは少し緊張気味のショパンへ向けたおどけなのかもしれない。

 

「ですが、彼女がこの学園に懸ける想いと、全てのウマ娘たちの幸いを祈る心は、紛いなく本物でした。何もかもまだまだ私では追いつけない。私の憧れとは彼女のことなのかもしれません……」

 その吐露と共に、恍惚の瞳を再び写真に向ける。

 

 

「そんな彼女の現役を支えた副会長方も忘れてはならない存在です。『ナリタブライアン』彼女もまた、シンボリルドルフと同じく三冠を手にした、栄誉ある怪物。その類い稀なる実力と、唯一不二の特異なるスタイルは、未だに多くの生徒たちを魅了しています。枝を咥えている生徒がいたら、漏れなく彼女のファンですね」

 

 ルドルフの傍らで、会長席の机に腰を預ける彼女の姿。写真越しにも伝わる、冷淡さを極めた針のような視線。それは獲物を捕らえた猛禽の瞳と比喩しても差し支えないのかもしれない。

 

「今もURAの運営に何かしら関与しているという話は聞くのですが、実際に私はお会いしたことがなくて。……ここだけの話、ルドルフさんのお話によれば、ブライアンさんは既にご結婚なされていて、旦那さんと鴛鴦夫婦生活してるんだとか。この写真の表情からあまり男性に隙を見せる方ではないものかと勝手に思ってましたが、結婚とはそんな彼女すらも変えてしまうのかもしれませんねぇ」

 

 会長は表情を柔らかく、結婚という言葉に甘い溜息を吐く。ショパンは好きな殿方とかいらっしゃらないんですか? と藪から棒に聞いてくるものだから、油断ならないのも、この会長の特筆すべき点だ。

 

「そして――」

 

 会長は一度、次の話題へと転じる為に呼吸を整える。この話をするのならば、それなりの用意(・・・・・・・)が必要だからだ。

 

「現役時代のルドルフさんを支えた、もう一人の杖。どんな時も強かで、麗しく、慎ましく。全ての生徒の模範であり、競争ウマ娘としては、名実共にこの歴史に確かに(あかし)を刻んだ。彼女を知る者たちは(みな)敬意を表して彼女をこう呼びました。――女帝(・・)と」

 

 

 会長は、もう一度だけ息を吸いなおし、この流れを途切れさせまいと続ける。

 

 

「彼女の名はエアグルーヴ(・・・・・・)。そう……ショパン」

 

 

 会長は写真から視線を外し、その場に立ち尽くすショパンに視線を預けて言葉を放つ。

 

 

「――あなたのお母さん(・・・・・・・・)です」

 

 

 その言葉にも、ショパンの表情は変わらなかった。僅かにくぐもる表情と、哀愁の瞳だけが今の彼女の全てだった。

 

「あなたも知る通り、彼女は若くしてこの世を去りました。ショパン、あなたという娘を残して。……神とは粗暴な存在です。いつの時代も、可憐で優美な花から先に摘んでゆく」

 

 会長はショパンの手を握る。そして彼女の心を解くように囁く。

 

「どんな事をあなたに言っても、それが慰めにはならないことは承知しています。だけど、だけど……。あなたには強く生きてほしい。お母さんのその想いを、誇りを継承し、どうか逞しく……」

 

 彼女の目尻に、何時しか少量の汗が。ショパンに悟られないようにそれを拭った。

 

「……お母さん」

 

「ショパン。あなたは高潔なる血を引くウマ娘です。きっとあなたなら、その想いを継承できるはず。……実は今日あなたをここに呼んだのも、それに纏わる話なのです」

 

 そういうと、会長は生徒会室の金庫の施錠を外し、中から一枚のCDケースを取り出し、ショパンへと手渡した。

 

 それは、前期ロマン派を代表するピアノの詩人とも呼ばれたポーランドの作曲家のCD。

 

『幻想即興曲 オムニバス ショパン』

 

「……これは」

 

「裏面をご覧になって」

 

 CDケースの裏には流れるような筆記体で記されてあった。

 

 

 "Air Groove"と。

 

 

「あなたのお母さんの忘れ物……きっとあなたが必要になる日が来ると保管されていたようです。今日を以てあなたにお返しします」

 

「私が必要に……?」

 

 会長のその言葉の意味を、ショパンは直ぐには理解できなかった。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 時は既に暮れ泥み。日照と日没の曖昧な微睡。それを先人たちは黄昏時と称した。

 

 黄昏――一説によると、それは互いの顔を認識できなくなる時間に、"誰そ彼"と問い合ったことが起源とされる。

 

 また、ある一説によると、その頃合いには、巡り合う筈のない存在と出会ってしまうこともあると、先人たちは言ったらしい。果たしてそれが真か偽か、トレセン学園の中庭をぽつぽつと歩く彼女には、関係のない話なのかもしれない。

 

 ショパンは、生徒会長から返して貰った己の名前と同じピアニストのCDケースを、ただただ眺めながら帰路を目指していた。

 

 だが、ショパンはこのCDを返されたことに、あまり意味を見出せていなかった。会長が残した言葉すらも、上手く消化できないままでいる。

 

『いずれあなたが必要になる日が来る』

 

 何を以て、そう思ったのだろう。皆目見当もつかない。

 

 確かに母の私物が手に入ることは喜ばしいことだ。しかし、彼女は特段クラシックを好む少女というわけではない。それにそのCDは、どこのショップでも手に入るような、普遍的なアルバム。一つ違う点といえば、母の名が刻まれていることだけ。

 

 確かに父からも、母は生前クラシック音楽を好んだとは聞かされていたし、ショパンという作曲家の作る楽曲を深く愛していたとも聞かされていた。

 

 ならば、彼女の名もその作曲家からとられたものなのかと、ショパンは父に問いかけたことがある。親が好む名詞を、子の固有名詞にしてしまうことなど、さして珍しい話でもないので、ショパンがそう考えるのも妥当だった。

 

 だが、父の回答ははっきりしたものではなかった。

 

 "おそらく"そうである。という答え方をしたのだ。ショパンはその"おそらく"の意味を問い詰めた。だが最終的に得られた回答は、彼女の理解力を上回るものだった。

 

『お母さんは、君が生まれる前から、君が生まれてくることを知っていたかのように名前を付けたんだ。迷いがなかった。まるで既に決まってある名前を呼んだように』

 

 と、父は娘に視線を合わせずに言った。母の真意は、母にしかわからない…暗にその意味を含ませるようだった。

 

 結局としては、なぜ彼女がショパンと名付けられたのか。このCDが意味するものとは何なのか。

 

 何一つとして、わからなかった。

 

 知らない。自分は母のことを何も知らない。

 

 娘なのに。確かに血を引いた娘であるはずなのに。

 

 母がかつて通った母校へ来れば、何かがわかると漠然と思っていた。だけど

 

 何も知らない。何もわからない。

 

 嗚呼……昼間に友人に言われたことは、本当だったのかもしれない。

 

『親不孝もの』

 

 だって、何も知らないんだもの。何も思いを継承できていないんだもの。母がどう生きて、どういう想いを背負って、どういう期待を自分に懸けて、どういう想いでこの世を去ったのか。

 

 実際のところ、彼女の生まれと共に、故人となった母の想いを知る方法などない。彼女のそれは見当違いの卑下だった。

 

 だが、まだ幼い彼女がそれに気づけるハズもない。だから彼女は堕ちてゆく。自己嫌悪のスパイラルに。

 

 栄誉ある母そして、その想いを何も継承できない親不孝者。

 

 何も知らない、何もわからない、親不孝者。親不孝者。お前は母の栄誉を汚すのか。母の栄光に泥を塗るのか。親不孝者。親不孝者。

 

 そのあまりにも惨い現実が、途端に彼女の心を締めた。

 

「う……う゛う゛ぅ……」

 

 がたがたと、彼女のCDを握る手が震える。ぼたぼたと大粒の涙がCDケースの上に。

 

 この世に生を受けて十余年。母のいない世界には慣れていたつもりだった。母がいなくとも、きっと強く生きてゆこう、そう決めたはずなのに。

 

 この涙はなんなのだ。この涙は……なんなんだ。

 

「お母さん……おかあさん……」

 

 ああ、情けない。情けない。これで女帝の娘なのか?

 

 何が誇りだ。何が継承だ。ここで赤子のように泣きじゃくることが、高潔な女帝の娘としてのあるべき姿なのか。

 

 一度溢れだした情を抑える方法がわからない。どうやって立ち上がればいいかわからない。

 

 こんな時、母ならどうしたのだろう。女帝なら……どうするのだろう。

 

 

 

 想いなんて、どう継承すればいいのだろう。

 

 

 己の不甲斐無さに、瞳を閉じた――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ショパン

 

 

 

 

 

 

 

 

「……?」

 

 ふと、顔を上げくるりと周囲を見渡す。何もない。誰もいない。だが今確かに、誰かに名を呼ばれた。

 

 或いは気の所為なのかもしれない。だがまた或いは……。

 

 何度も、何度も周囲を見渡す。その声の出所をどうしても知りたかった。もしかすると、それは彼女の無意識が生んだ幻聴なのかもしれない。だが、それでもよかった。

 

 それが彼女を救ってくれる光となるのなら、例え幻聴であっても。

 

 

 

ショパン……こっちだ……

 

 

 

 再び聞こえた声。幻聴ではない。はっきりと。だが、それを"声"と呼んでいいのだろうか。その声は、彼女の鼓膜を揺らさない。彼女の心に脳に、直接語りかけるような、『綺麗だけど(いびつ)な声』だった。

 

 

 そして、ショパンは見つける。その声の主である可能性が、唯一考えられる彼女ら(・・・)の姿を。

 

 

「三女神……様?」

 

 

 それはどんな時も慈悲深く、妖艶で、慎ましく、優しい存在。長い歴史を誇るトレセン学園の歴史を、数多のウマ娘たちの生き様を見守ってきた三体の偶像(アイドル)。三女神像。

 

 建立されて以降、彼女たちが抱える瓶から滴る水の唄が途切れたことはない。彼女たちはショパンにも例外なく、その唄を聴かせる。

 

 在る者が聴けば、それは優しい唄だという。また在る者が聴けば、それは不思議な唄だともいうらしい。

 

 ショパンにとっては、彼女たちの唄はどちらなのだろうか。

 

「……」

 

 気が付けば、涙などは既に乾いていた。ショパンは無意識の下に一歩を踏み出す。

 

 そういえば聞いたことがある。トレセン学園のとある都市伝説。三女神の麓では度々不思議なことが起こると。例えば不思議な声が聞こえるだとか、お祈りをすれば願いが叶うとか、カップルで訪れると恋が実るとか……。

 

 

 

 ――誰かの想いを継承できるとか。

 

 

 コツン、コツン。ショパンの足音は止まらない。まるで首に縄を括り付けられ、彼女らに引っ張られるかのように。抗えない何かに惹かれるように。一歩。また一歩。三女神の唄がどんどん大きくなってゆく。

 

 そして、三女神の御前で足を止めたショパンは、彼女たちを見上げる。無機質に覆われた優しい微笑み。入学当初はどうも気味が悪いと敬遠していたそれが、今はとても優しかった。亡き母の代わりに、彼女へ笑みを手向けていると言うのだろうか。

 

「三女神さま……」

 

 今なら、今の彼女らなら、すべてを打ち明けられる。ショパンは手を組んで、全てを三女神に語った。

 

「わたし、お母さんに会ったことがないんです……。だから、お母さんのことを何も知らない。でも、三女神さまなら、想いを紡いでくれるんですよね……? だったら、お願い……。お母さんの想いを、私に教えてください! お母さんの娘として、どうあるべきなのかを……教えてください……!」

 

 ショパンは肩を揺らして息をした。呼吸までも下手になったというのだろうか。

 

 ふと、我に返る。ああ、とうとう自分は、神にすらも縋ってしまった。

 

 己じゃ何もできないからと、神様にお願いをした。

 

 あの女帝の娘が。 

 

 こんな姿を母が見たら、なんと思うのだろうか。顔を覆って泣くに違いない。こんな情けない娘が、私の娘である筈がないと。

 

 再び自己嫌悪の渦が、彼女を蝕み始める。こんなお願いをされても、三女神だって困るに違いないのだろうに。重い吐息と共に、ショパンは顔を上げた。

 

 

「…………え?」

 

 

 異様な光景だった。彼女の知る水の色とは透明か、その流体の色を象徴する水色のどちらかなのだから。

 

 だから、あり得る筈がなかった。

 

 

 

 ――三女神の泉の色が、虹色(・・)に光ることなんて。

 

 

 

 自分の知識の範疇を超えた出来事に、ショパンは言葉をなくす他、成す術がなかった。茫然自失と、神々しく煌びやかに映えるそれを、眺めているだけ。

 

 

 ショパン……さぁ、こちらへ……

 

 

 呼ばれている。彼女たち(・・・・)に呼ばれている。

 

 

 嗚呼……どうすればいい。怖い……けど……。

 

 

 ショパンは、彼女たちの足元に溜まる泉を覗き込んで……虹色に輝くそれらを、さらりと触った。

 

 触った感覚は、何も変哲のない普通の水だった。だから。

 

 

 思い切って手を突っ込んでみた。

 

 

 ……手を入れて、2秒となかった。

 

「わッ!?」

 

 彼女の手は、大きな何か(・・・・・)に引っ張られ、大きな飛沫(しぶき)を上げながら、彼女は泉の中へと消えていった。

 

 その場には、ショパンのCDだけが残った。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 ショパンの去った後の生徒会室。会長は、何時も手にしているヴァレリーの詩集を片手に、歴代の生徒会メンバー達がずらりと並ぶ、額縁に入った肖像写真たちの前に佇んでいた。

 

「先代方。あなた方が今まで守ってきた想い(・・・・・・・・・・)、第97代生徒会長『メルセデス』が、今日この日を以て終焉を打ちました。エアグルーヴさん……あのCD(・・・・)は、確かにあの娘(ショパン)の手に渡りました。後は全てあの娘次第……」

 

 彼女の細々しい声、微かに震えるようだった。

 

 会長(メルセデス)は写真たちから視線を外し、黄昏の曖昧を瞳に写して、最後に一つ祈った。

 

 

「三女神様……どうか、あの娘に深い幸いが訪れますように……」

 

 

 

 

 

 

 

 




エアグルーヴのヒミツ②

実は、リラックスしたい時には
ショパンのCDを聴く。


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お母さん!?

 

 満たされる。肺が水で満たされる。弱ったことに、水泳はあまり得意ではない。女神の泉の中で、彼女は漂う。

 

 虹色だった泉、いざ中へ入ってゆけば、陰鬱で先行きの見えない闇夜。

 

 その中に一つだけ見える輝き。どこかで見たことのある、誰かの姿。彼女(ショパン)ではない。でも、彼女に強い関わりのあるウマ娘……。

 

 その輝きは、聊かな温もりを連れて彼女を抱擁する。

 

「お母さん……」

 

 水で満たされた肺は、思った程には苦を生まない。でも、声なんて出せるはずもない。ショパンは擦れゆく僅かな意識の中で、手を伸ばした。何も掴めないと分かっていながらも。

 

 

(わたし……死んじゃうのかな……ああ……おかあ……さん……)

 

 

 とろりとろりと彼女は時間に溶け、記憶に弄ばれ……。

 

 

 堕ちるところまで堕ちて行く――

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 天国とはどういう場所なのだろう。きっと雲の上にあって、一年中暖かい日差しに恵まれて、手を叩けば尽きない程のごちそうが差し出される場所なのだ。

 

 ふかふかの雲のベッドはそれはもう、一度寝転がったら、二度と起き上がりたくなくなるような代物に違いない。

 

 しかし、なぜ彼女の肩は痛いのだろう。こんなにベッドの寝心地が悪いのは何故? 暖かい日差しとはいえ、少々暑い。それに何やら雑多な喧騒が多い。

 

 どうも天国には似ているが、ここは少し違うらしい。

 

 では、どこなのだろう。

 

 彼女は少しずつ、瞼を開けてゆく。そこに一気に流れ込む日の光。不意を突かれ、反射的に手で光を遮る。太陽など直接見てしまえば、目が焼かれしまう。彼女は光から逃げるように顔を背けて、晴天以外の景色を探した。

 

 太陽から逸らした先にある景色、それは青々しく芽生える雑草に、囀る雀に飛び立つ燕、彼女の目の前を横切っていくのは、淡い水色の制服に身を包んだウマ娘。

 

「……あれ?」

 

 ショパンはむくりと体を起こし、周りを見渡す。そこにあったのは、何も変わりのない"日常"だった。

 規律正しく日は登って、生徒達はレース、食事、色恋話に(うつつ)を抜かし、今日のテストを嘆きながら登校してゆく。見渡す景色の端には、三女神像の姿までもが、何時もと変わらずに愛の調べを唄っていた。

 

「夢……?」

 

 さっき自分は、何かに引きずりこまれて泉の中へ落ちていった。しかし、体は濡れてもなければ、彼女は溺れ死んでもいない。

 

 冷静に考えれば、そうである方が正だ。虹色に輝く女神の泉に落ちた。なんて現実的な話ではない。

 

 気が振れた者の虚言。まともに取り合う者がいるとは考えにくい。だったら、昨日の出来事はすべて夢であった。そうであれば全てに整合性が取れる。

 

 ましてや天国など……ばかばかしい。こんなベッドの寝心地がいいはずがない、と彼女はベンチから立ち上り、荷物を手にして、周りの生徒の流れに潜むように漂った。

 

 どうであれ、昨日の自分はそんなに疲れていたのだろうか。学園内で野宿だなんて、嫁入り前の娘にあるまじきことだ。もう、女帝の称号など……己の手の届かないところにあるのだろう。ショパンの顔が晴れる日は未だに遠いようだった。

 

「ねぇねぇ聞いた? ブロワイエ、また勝ったんだって! ヤバくない?」

 

 彼女の前を歩く生徒たちが、その話題に花を咲かせる。ブロワイエという名は、ショパンにも聞き覚えがある名前。

 

 確かフランスの、とても強いウマ娘とだけはざっくりと。だけど、彼女は随分昔の選手のはずだ。きっと彼女の娘か何かの話なのだろう。

 

「でさ! この間フジキセキ先輩がさ……」

 

 途端に彼女らの声が遠のいた。理由は単純に、ショパンが足を止めたからだ。

 

「あれ……?」

 

 周りの生徒は誰一人として気にしない。だけど、彼女だけが知っている違和感がそこにあった。

 

「学校が無い……?」

 

 ショパンが何時も通った新校舎(・・・)が建つ場所。そこには、一周約2000mの練習場(トラック)が広がるだけで、校舎おろか、建物があった痕跡さえもなかった。

 

 即座に彼女は振り返り、他の生徒たちを目で追う。彼女らはまるで導線に導かれるように

 

 ――旧校舎(・・・)へと、何の疑問も抱かずに入っていった。

 

「……」

 

 確かに、この学園の理事長である秋川が、突拍子もなく学園内を改造することはショパンも知ってはいる。だが、いくら彼女でも。

 

 校舎をたった一日で消すことなど可能なのだろうか。

 

 そんな彼女の狼狽に駆られる思考を、ビッグベンの鐘が塞き止めた。鐘の音をスタートの合図にするように、生徒たちが一斉に駆け出す。今度の遅刻はマズいと口々に語って。

 

 ショパンもそれに肖り、彼女らに続いた。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「えっと……初等部の……あったここだ」

 

 校舎替えを行ったのなら、一言言ってくれればいいのに。とショパンは小さく憤りながらも、自分が通うべき教室を見つけ、胸をなでおろす。

 

 きっと理事長は、校舎を新しく建て替えるつもりなのだろう。だから一時的に旧校舎を利用しているのだ。そう考えれば合点がいく。……多少無理があるが。

 

 ショパンは教室の戸に手をかけて、自分の席を探す。周りで談笑をするウマ娘たち。まだ先生は来ていないらしい。

 

「……」

 

 どうも、クラスメイトの顔を覚えるのは苦手らしい。入学して少し経つ筈なのに、どうも見覚えに自信がない生徒がちらほらと……。

 

「お、おはよう……」

 

 ショパンが小声でちらりと言うと、数人の生徒がもの不思議そうな表情で彼女を見た。

 その目は、まるで転校生でも見るかのような、簡潔に言えばイロモノを見るような目だった。

 

 小声でこそこそと聞こえる気がする。

 

『あの娘誰?』と。

 

 確かに、ショパンはクラスではあまり目立つ方の生徒ではないが、いくらなんでも誰はないじゃないか。

 

 ショパンは窓際の机に身を置いて、スマホを取り出す。

 

「……え、圏外?」

 

 最近乗り換えたキャリアスマホ。ここにきて通信障害だというのだろうか。やはり新規参入のキャリアに飛びつくのはあまりいい選択ではなかったらしい。ショパンは溜息と共に、スマホを仕舞う。

 

 そういえば、まだあの娘たちの姿がない。昨日母の日について話し合ってた、ショパンの数少ない友人たち。今日は休みなのだろうか。周りを見渡し、影を探った時だった。

 

「ねぇ」

 

 ふっと声を掛けられる、油断していたショパンは思わず「ヒンッ!」と情けない声を上げて、鬣を逆立ててしまった。

 

 慌ててその声の主を見る。そこにいた栗毛の生徒は、眉を八の字に歪め、僅かに首を傾げて腕を組んで、端的に言えば困った様子でその場に立っていた。

 

「……あ、はい?」

 

 何か自分は彼女を怒らせることをしたのだろうか?心当たりはないのだけれど、ヘンな揉め事は勘弁願いたいものだ。

 

 栗毛の少女は腕を解いて一つの不満をショパンへぶつけた。

 

 

「そこ、私の席なんだけど?」

 

「え?」

 

 そんな筈はない。だって、このクラス。この席。間違いなく彼女の席だもの。だが、ショパンは気付く。既に机の中に彼女の私物が入っていることに。

 

「あ……あれ?」

 

 教室が変わったから席も変わったというのだろうか。焦燥に駆られるショパンに、栗毛の少女は続けた。

 

「てかさ、君、誰? どこのクラスの娘……?」

 

「え……っと、わ、私、初等部B組のショパン……ですけど……」

 

 弱った。彼女が誰なのかもわからない。

 

「B組? じゃあ、ここ?」

 

 栗毛の生徒は振り返って、仲間たちにショパンとは知っているか? と尋ねる。しかし、全員が一決したかのように首を横に振る。

 

「君、転校生?」

 

「い、いえ……」

 

 おかしい。何かがおかしい。

 

 じろり、ぎろり。周囲の視線がより濃くなってゆく。それに恐怖を覚えたショパンは――教室から逃げ出した。

 

「あ、ちょっと!」

 

「何あの娘?」

 

「わっかんないけど」

 

「もしかして、侵入者とか」

 

「えっマジ!?」

 

「たまにいるらしいじゃん、生徒のフリした侵入者って」

 

 

 一連のちょっとした騒動(パニック)。ホットでリアルタイムな話題に、B組の騒音は大きく膨れ上がってゆく。

 

 授業前だというのに、その規律の乱れは好ましくない。そう、眼光を光らせるものが、彼女たちの前に現れた。

 

「おい、一年。騒がしいぞ。何事だ」

 

「あ、――ブライアン先輩(・・・・・・・)!」

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「はぁ、どうして……」

 

 やはり、同じクラスなどほかにない。間違いなくあの場所が、彼女の居場所であるはずだったのに。半ば追い出されるような形で逃げてきた。

 

 もしかして、これはいじめなのだろうか。

 

 しかし、そんな雰囲気ではなかった。彼女たちは本当に、ショパンのことを知らない様子であったし、何よりショパン自身が、クラスメイトであるはずの彼女たちのことを知らなかった。

 

「まさか、クラス替えとか?」

 

 そんなばかな。だって入学してまだ数か月も経たないというのに。

 

 よわった。よわった。どうしよう。職員室へ行ってみようか、でもこの旧校舎では場所がわからない。

 

 どうしたものか。どうしたものか。

 

 ラウンジの隅でひっそりと身を潜めるショパン。ふとあることに気づく。それは、学内掲示板に掲げられた一つの見出し。

 

 彼女はふらふらと、街灯に集う羽虫のようにその場所へ。

 

『号外最新――トウカイテイオー奇跡の復活劇!!』

 

「トウカイテイオー?」

 

 それは、ショパンでさえも知っている。三度目の故障を乗り越え、有記念をその手にした伝説のウマ娘。そのポスターもまた、目にした経験がある。

 

「でも、どうしてこんなに古い(・・・・・・)号外を……?」

 

 しかし、その紙面はどうも新しい。最新号外という文字にも、偽りを感じられなかった。

 

 辺りを見渡せば、他の紙面でさえもそうだった。すべてがその時代に沿った出来事ばかり。

 

 スペシャルウイーク、サイレンススズカ、メジロマックイーン、テイエムオペラオー、エルコンドルパサー、グラスワンダー、アドマイヤベガ……。その他にも、いろいろと。

 

 少なくとも、今のショパンにとってタイムリーな情報は、何一つとしてなかった。

 

「どういう……」

 

 ショパンがその場から数歩後ずさった時、ふと背後から声が忍び寄る。

 

「てかさー。ネイチャさんはそもそもそういうコトにハナから向いてないのであってだねぇ……」

 

 ――ドンッ!

 

 彼女の背後に目などついていない。だから、そんな不条理な歩き方をすれば、誰かとぶつかることも必然だった。

 

「あっ! ごめんなさい!」

 

「あてて、ああダイジョブダイジョブ。おたくさんは?」

 

「えっと……大丈夫です、ほんと、ごめんなさい!」

 

「まぁまぁ、スイーツも無事だしねぇ」

 

 明るい鹿毛の彼女は、ニヒヒと笑いながら売店で買ってきたのであろうレジ袋を掲げて見せた。

 

 ふと、ショパンは思いつく。

 

「あの、売店ってここから近いんですか?」

「あれ?……ああ。もしかして初等部生の娘? いいよぉ、ネイチャさんが教えてあげよう!」

 

 一旦仲間たちと別れた彼女は、意気軒昂とショパンを導く。小さい後輩のお世話がどうも嬉しいのかもしれない。

 

「そんでこっちに行ってだねぇ……ああ、そこそこ!」

 

 彼女が指した先にある、開けた売店。その辺のコンビニとも劣らず様々な商品が豪華絢爛。

 

 安価なお菓子一つから、蹄鉄まで売っているとかいうらしいが。

 

「あ、ありがとうございます!」

 

 ショパンは礼もそこそこに、売店へ飛び込んで、スタッフの女性に食い掛るように尋ねた。

 

「あの! 今日の新聞(・・・・・)ってどれですか!?」

 

 切羽詰まった様子で、身を乗り出して新聞を尋ねる低学年生。スタッフは僅かに驚きながらも、出入り口付近の棚を指す。ショパンは新聞を手に取った。その質感、今日発行されたものとは間違いないのだろう……。

 

 

 だからこそ、嘘であってほしかった。

 

 

 そこに記されていた西暦――。

 

 

「あの……これ、古い新聞じゃないんですか……?」

 

「え? いや、今日のだけど? さっき開けたばっかりだし」

 

 

じゃあ……どうして。

 

 

 ――20年以上も昔(・・・・・・)の西暦が記してあるんだ……?

 

 

 

「……コウハイ君?」

 

 先ほどの鹿毛の先輩ウマ娘が、青ざめるショパンに問いかける。

 

「あの……この新聞の日付……合ってますか?」

 

 震える声で、ショパンは問いかける。

 

「え……いやモチロン。新聞屋さんはウソつかないでしょ~」

 

 んで、新聞買うの? と続けて問いかけた彼女の声が、既にショパンには届かなかった。

 

 ショパンはその場に新聞を置いて、駆け出した。

 

「あぁ! ちょっと! キミ!」

 

 鹿毛の彼女は追うこともできずに、その場に立ち尽くし、彼女の背中を視線で追った。

 

「あらら、どうしたんだろ?」

 

 そこに、とあるウマ娘が合流する。

 

「なぁ、ちょっといいか?」

 

「ん?はいはい、どうしました副生徒会長さん(・・・・・・・)?」

 

 そこに居た副生徒会長。口に茎のようなものを咥え、エグみのある眼光をギラつかせていた。

 

「この辺に、変な生徒がいなかったか? 情報によると、黒鹿毛(・・・)の初等部生らしい」

 

「え……もしかしてさっきの娘?」

 

「知ってるのか?」

 

「えっと、なんか、新聞見てどっか行っちゃったんですけど……?」

 

「どっちだ!」

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 夢だ……これは……夢なんだ……。

 

 そんなワケない……タイムスリップ(・・・・・・・)だなんて、映画じゃあるまい!

 

 とある廊下の隅で、ショパンは荒ぶる肺を押さえつけて、何度も息を吐いた。新聞や掲示板だけではない、学園のモニターに映るニュース、落ちてたゴミの賞味期限、デジタル時計に至る何から何まで、すべてが20年以上も前の西暦を指していた。

 

 何がどうなっているのか……全くわからない……。

 

 すべてを説明つけるのなら、夢であってもらう他がない。

 

 壁に背を預けて、どうにか崩れそうな表情を堪える。これからどうするべきか、何をすればいいのか。答えを探さなければ。

 

「……おい。お前だな」

 

 低く、毒素を含むような強圧な鉛のような声。落着きはあるが、反面情が無いようにすら伺えるその声色にショパンは体を強張らせながら振り向いた。

 

 そこに彼女(・・)はいた。

 

 長く靡く黒鹿毛を縄で縛り、鼻にテープを張り付け、口に茎を咥えた副生徒会長。

 

 その容姿と、尖った視線にはどうも見覚えがある。というか。

 

 

 ――つい昨日、見たじゃないか。生徒会室の写真で。

 

 

「え……えぇ……?」

 

 ナリタブライアン……だって彼女は過去の生徒の筈だ。ありえない。だけど、彼女の出で立ち。写真で見たそれと全く相違ない。高度なコスプレというわけでもないだろう。

 

 

「お前誰だ? ここの生徒か? 名前は? 学年は?」

 

 一歩一歩、殺気すらも振りまきながらにじり寄ってくる彼女の圧に、ショパンが恐怖を覚えることは容易だった。まったく整理のつかない現状、そして歩み寄ってくる恐怖。

 

 半ば極限状態のショパンが取った、否、取らざるを得ない選択。

 

 

 ――逃走

 

 

「お前!」

 

 

 逃げろ! 逃げろ! これでもウマ娘だ! 逃げ足なら……

 

 しかしそれは、人間が相手ならば通用する話だ。相手が相手なら原付自転車とリッターバイクの競争に等しい。

 

 ドンドンドン! 彼女の足音が迫ってくる! 捕まる…逃げられない。

 

 だって相手は……三冠ウマ娘またの名を

 

 

 ――怪物(バケモノ)だから!

 

 

 ばか正直に直線勝負で勝てるわけなんかない! どうする、どうする!?  考えろ、考えろ!!

 

 角を使え、死角を一瞬でも作れ! 曲がれ、ロスを生め! でも、何をしても離すどころか、差は狭まるばかり。彼女のシルエットが背後でも感じ取れる程に迫っている。後ろ襟を捕まれるまで秒読みだ……。

 

 ――刹那。

 

「わっ!」

 

「きゃっ!」

 

 ショパンは一人の小柄なウマ娘が持つ段ボール箱に激突してしまう。段ボールとそれを抱えていたウマ娘が多少なりオフセットしていた為、ウマ娘同士の直接的な激突は免れたものの、代償として段ボールの中に眠る数多の紙の束が宙を舞う。

 

「ごめんなさい!!」

 

 ショパンはその声を置き去りにしたまま逃げ続けた。だがそれがどうも幸いしたらしい。

 無数に舞う紙たち、それがブライアンの追跡を阻害した。そのうちの一枚が彼女の顔にペタリと張り付く。

 

「ぐっ!」

 

 彼女はやや激情的になってそれを引きはがすが、回復した視界の前に、不審ウマ娘の姿は既になかった。

 

「……私から逃げられると思うな」

 

 その言葉を残し、ブライアンは踵を返した。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 倉庫の物陰に身を隠す。彼女が追ってくる様子はもうない。だが、これからどうすればいい。

 逃げると言っても、ここが本当に"過去の世界"なら逃げようがない。友人もいない。家族(・・)もいない。

 

「どうしよう……」

 

 汚いマットの上で身を塞ぐ。遠くで微かに聞こえるのは、またビッグベンの鐘。どうやら、授業が始まったらしい。その鐘の音は、昔から変わらないのだろう。

 

 行動するのなら、他のウマ娘たちが教室へ封じ込まれている今がチャンスなのかもしれない。

 

 ショパンはゆっくり倉庫の戸を開けて身を晒す。

 

 お(あつら)え向きにも、今は誰もいない。バレないように、せめて一旦学園から抜け出そう。行先は……わからないけど。ここよりは安全かもしれない。

 

 壁に背を添わせ、曲がり角をのぞき込みクリアリング。授業があってる教室は身を屈めて……。移動教室中の集団には迂回して。

 

 そしてようやく、昇降口が見えてきた。

 

「ふぅ、よかった」

 

 ショパンは全身に張り巡らせていた神経を赦し、最後の角を曲がった――

 

「やぁ、初めまして。不審ウマ娘君(・・・・・・)

 

 不意を突くように、まるで彼女がそこへ来ることを読んでいたように、仁王立ちで構える一人の鹿毛。

 

 彼女(・・)の纏う覇気、それは写真越しにすらも感じ取れるもの。と前述はした。

 では、写真越しにでも感じる覇気が、その生身から放たれるものであればどうなるのだろうか。

 

 

 きっと、火のつく度数の酒を頭から浴びる程のバルキーな瘴気が、襲ってくるに違いない。

 

 

「あっ……っあ……し……」

 

 彼女の劫火のような存在感の前…ショパンは既に逃走する気力さえ無くして、その場に尻もちをついた。

 

「おや、自己紹介がまだだったね。私は……」

 

 知っている、この学園に通うウマ娘なら知らなければおかしい。

 

 

「生徒会長――シンボリルドルフだ」

 

 

 そういって彼女は、君の名前は? とショパンに手を差し伸べ、訊いてくる。その表情に、怒りはなさそうに見えるが、表面だけかもしれない。

 

 彼女の手を、ショパンは取れなかった。

 

「ちっ。私の獲物だったのにな」

 

 時を待たずして、ナリタブライアンの声が彼女らの後方から。

 

「上下一心。誰の手柄ではない。だが同心協力を賜ったことは感謝しよう、ブライアン」

 

 ブライアンは彼女に背を向けながら一つ不満を吐きつけて、その場を去った。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「ショパン……か」

 

 生徒会室。その空間だけはショパンの知るその雰囲気に似通っていた。この場所だけは、時が動いていないようにすらも錯覚した。"錯覚"だが。

 

 それでも、幾分かの落ち着きをそこで得られたことも、また確かだった。

 

 シンボリルドルフは、生徒会長席で彼女の調書を記入していく。その目前のソファの下座で、ショパンは手を重ねてただこの怖い時間が過ぎ去ってくれるのを待った。

 

「……私の特技を一つ話そう」

 

 シンボリルドルフは書類用の眼鏡を机に置き、手を重ねて続けた。

 

「私は生徒会長という役柄、何かと生徒と接する機会が多くてね。一人ひとりが、違った悩みを持ち、違った信念を持ち、違った個性を持つ。そんな彼女らと接するということは、即ちそれらすべてを私は記憶していなければならない。会うたびに同じ前置きをしなければならない生徒会長に、信頼など置けるかい?」

 

 彼女の声色は優しく、叱責のそれとは大きくかけ離れていた。

 

幼子(おさなご)たちが入学してはや数か月。私も何かと時間を見つけては、彼女らと接したよ。――全員(・・)にね。話した内容すらも、全て覚えている。……だが、残念なことに私は君と接した記憶がどうもないらしい。何時会って、どんな話をしたのか」

 

 ルドルフはぺらりと書類をめくる。初等部生全ての名前が刻まれたリストだ。

 

「抜け漏れは無かった筈だ。もっとも、ここにあるリストがそれを証明している。……ショパンと言ったな。単刀直入に訊こう。――君は誰だ?」

 

 彼女の取り巻く空気が急に変わった。流体の粘度が急に増した。そんな気がした。

 食われるな……自分を守るには、抗ってみるしかない。

 

「私は……初等部B組ショパン……です」

 

「同じ回答を繰り返すことは黙秘と変わらない。残念だが、ここにミランダルールはない。黙秘権は期待しないほうがいい。目的はなんだ。只の悪戯がそうか? 自前の制服まで用意して」

 

「ちがっ、違います!」

 

「どう違うんだい?」

 

「だから私は……!」

 

 話が平行線に進むかと思われたその時、ショパンの目前で上座に座り、彼女の私物を検査するブライアンが声を上げた。

 

「会長よ、これ」

 

 ブライアンはとあるものを、ルドルフへ投げた。

 

「……これは」

 

 

『日本ウマ娘トレーニングセンター学園 初等部 B組 ショパン 上記の者は学内において本学の生徒であることを証明する』

 

 それが記された、学生証だった。トレセン学園公認の証印と、彼女の顔写真までもが添えて。

 

 だが、それを容易に信じるほど、生徒会長も軽くはない。

 

「西暦が滅茶苦茶だ。これじゃ20年以上先の未来(・・・・・・・・)の学生の証明になる」

 

 ルドルフはまた、じろりとショパンを瞳に映した。

 

「本物です……」

 

 ショパンは無理だと分かっていても、そう抗ってみる他がなかった。侵入者で片付けられてしまっては、たまったものではない!

 

「君は、荒唐無稽という言葉を知っているかな。私の指摘に対し、反駁がそれでは話が噛み合わない。私も、この調書に舞文曲筆を唄う訳にはいかないものでね。」

それでもショパンは、必死にこらえるように生徒会長に抗う表情を向け続けた。

 

「……ブライアン。この学生証の照会を」

 

「ち……」

 

 ブライアンはルドルフの手から、ショパンの学生証をぶんどって、その場を後にした。

 

「さて、君にはもう少し話を聞かせてもらいたい。動機と、事実を」

 

「私は……」

 

 

 まるで尋問だ。いや、まるでじゃない。

 

 

 尋問だ。

 

 

 生徒会からしたら、彼女は全くの不審者に等しい。つい昨日まで会長(メルセデス)から健闘を祈られた彼女が、今日は容疑者扱いだ。

 

 なんでこんなことに……。

 

 どうしてこんなことに……。

 

 ずっと気丈に耐えてきたショパンの心に、少しだけのヒビが入り、彼女は力なく俯いた――刹那。

 

 

 ――ふっと、僅かな風が生徒会室へと流れこむ。

 

 それは、この部屋の戸を開けられたことによる、圧力の差が生じたからなのだろう。

 

 つまりは、誰かがこの戸を開けたということだ――。

 

 

 

 

 

 

「――お待たせして申し訳ありません。会長」

 

 

 

 

 

 

「ああ、すまないな。――エアグルーヴ(・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女たちの前に現れた、もう一人の副生徒会長(・・・・・)

 

 

 規律正しく、凛々しいその佇まいは、毛先の一本すらも油断を許さない。

 

 ショートボブに隠れた灰簾石の瞳の前には、隠し事など通用するはずもない。

 

 左耳に座る金色の耳飾りが、彼女の全てを象徴する。

 

 

 

 

 薄々……そんな気はしていた。

 

 ナリタブライアン、シンボリルドルフ。彼女たちがいる時代ということは。

 

 必然、彼女(・・)も居るということなのではないのか……と。

 

 

 

「貴様が侵入者か? 目的は何だ? 名前は?」

 彼女はショパンに対し、敵視にも似た視線を刺す。この学園に仇を成すものであるのなら、容赦はしない。そんな気概すらも感じた。

 

 

 だが、ショパンにとっては…………………………………………。

 

 

 

「おい! 貴様、何とか言ったらどうなんだ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………………………………………………お母さん?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………………………………………………………………は?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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あの娘は誰?

 

 

「……………………お母さん?」

 

 

「………………………は?」

 

 

 ショパンの放った一言。それは、聡明な頭脳を持つエアグルーヴの理解を一瞬にして上回った。

 

今、目の前の不審ウマ娘はなんと言ったか。

 

 

 

 それは最も普遍的な言葉であり、最も理解し難い言葉。

 

 

 

 エアグルーヴは組んだ腕を解き、その瞳を丸くする。どうも次の言葉が出てこないらしい。

 

 それはシンボリルドルフも同じだった。持っていた筆を机に置いて口を噤み、先ずはショパンの出方を伺った。彼女の言葉の真意や目的を可能な限り思案するが、ここまで見抜けない事象はそうあることではない。

 

 

 当のショパンは、その瞳を眼球が飛び出るほどにまで見開いて、ソファから立ち上がった。どうやら彼女自身、呼吸すら忘れ混乱の渦の中で溺れているらしい。

 

 

「貴様……今なんと……?」

 

 

 膠着を振り切って、エアグルーヴが一言目を発した。

 彼女がそう宣う目的とは何だ。弄ばれるな。そう態勢を取り戻した先に――

 

 

「お母さん!!」

 

 

 瞬間的な出来事に等しかった。ショパンはその一言と同時に、エアグルーヴの下へ脇目すらも振らずに駆け寄ると、彼女へ深く深く抱き着いた。

 

 

「――!?」

 

 

 動けなかった、エアグルーヴはショパンにされるがまま。理解を置き去りにする彼女の行動に弄ばれた。

 

 

「おがあざん……う゛っ……おがあ……ざん……」

 

 

 泣いている。エアグルーヴの懐で濁声を漏らしながら、ショパンは咽び泣き続ける。何度も何度もえずくような引付けのような引っ掛かりを残しながら、何度も何度も母を呼び続けた。

 

 

「何のつもりだ!? 貴様っ! 離せ!!」

 

 

 エアグルーヴは、ショパンを両手で引きはがそうとした。だが、彼女の体はびくりとも動かない。彼女は全身に力を入れている。まるで。

 

 

 二度と逢えなかった筈の、誰かに会えたかのように――絶対に失いたくない、宝を手にしているかのように。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「災難だったな。エアグルーヴ」

 

 ひと時を置いて、ルドルフがエアグルーヴに同情を投げかけた。エアグルーヴは深くソファに掛けて、自前のハンカチで制服の懐を何度も擦った。先ほどの不審ウマ娘の涙を始めとした体液が染みになっているようだ。だが、彼女の険しい表情の真意は、制服を汚されたからというわけではなさそうだ。

 

「何者なのです……彼女」

 

「さぁてね……」

 

 ルドルフは机に肘を当てて、己の眉目秀麗な顔を支える。しかしその表情には幾何かの憂いを秘めているようにも伺えた。

 

お母さん(・・・・)……か。つかぬことを伺おう。エアグルーヴ、君は子を孕んだ経験は?」

 

「……新しい冗談と受け取ります」

 

「はは、私の頭も乱雑無章の状態でね。ただの不審者ならば、もっと話が早かった」

 

 ルドルフは背凭れに大きく背を預ける。彼女の背で大きく輝く太陽に、無性のいらつきを覚えるようだった。

 

 明るい陰鬱。それが今の生徒会室を表現するのに相応しい言葉であった。あのショパンという子供の狙い、目的、行動。全てが一本の線として繋がらない。この難解な数式を、エアシャカールやアグネスタキオンのようなマセマティシャンたちに投げつけたいものだ。きっとあの二人であろうと、ナヴィアストークス方程式よりも難解だと嘆くに違いない。

 

 そこに残る沈黙、無駄な会話が目立たない何時もの生徒会室の静寂さとは違った。少しだけ、空気が湿り、漂う流体に似つかわしくない質量が纏わり付くようだった。

 

「あの子供、何が目的で……。何故私のことを……」

 

「ただの悪戯が目的ならば、わざわざそんな演技を買って出る理由もない。状況の混沌(カオス)化を狙ったとしても、咄嗟の付け焼刃で流せる涙だとも思い難い」

 

 ルドルフは生徒会室の書籍棚から一冊の本を取り出す。『メソッド演技法』と記された書籍だった。数ページをぱらぱらとめくり、彼女は続ける。

 

「仮に彼女が非常に秀でた役者だとしよう。君を母と呼び、泣き崩れることは容易だろう。だが、役者とするならば、必ずそこから続くシナリオを有しているはずだ。自分を優位に働かせるためのエチュード」

 

 ルドルフは書籍をぱたりと閉じる。

 

「だが、そこから意識は閉ざされ、今は保健室。私たち(オーディエンス)に納得のいく筋運びを何も魅せない。笑える三文芝居だ」

 

「芝居というのなら、私もある程度であれば見抜けます。この学園には下手な嘘吐きが多いですからね。……ですが彼女」

 

「ああ、私も概ね同意見だ。あそこまでの感情表現。あれが偽りであるとすれば芸術点だ。……最早自己催眠の領域と言ってもいいほどの出来だった」

 

「では、あの涙を真と見ますか……?」

 

「話は振出しだね」

 

 再びルドルフは席に着く。それと同じタイミングで生徒会室の戸のヒンジが軋む音が響いた。

 

「会長よ、さっきの学生証の件、照会が終わった」

 

「ああ、有難うブライアン。照会用の端末の使い方は分かったかい?」

 

「知るわけないだろう。だからURAの出向者をとっ捕まえて調べさせた」

 

「実に君らしい。それで、どうだった」

 

 ブライアンはショパンの学生証をルドルフの机に置く。そして彼女の瞳を見据えて解を出した。

 

「結果は――該当なし(・・・・)だった」

 

 エアグルーヴはふっと息を吐く。やはりか。と、どこか溜飲が多少下ったような感覚を覚えた。

 

「会長。やはり彼女、ただの悪戯者と見るのが妥当でしょう」

 

「まて……」

 

 だが、ルドルフの表情は固かった。ブライアンの発したセリフが、彼女の何かに触れてしまったようだ。

 

「ブライアン……確かか? 確かに『該当なし』と出たのかい?」

 

 ブライアンは表情を変えずに、ああと二文字だけの回答を返した。

 

「会長?」

 

 エアグルーヴはルドルフが構える理由を直ぐに察せなかった。学生証が該当なしと出るということは、彼女が本学の生徒であることが否定されたのだ。喜びはすれど、疑念を抱く点などないはずだ。

 

 ルドルフはショパンの学生証を手に取って、再び視線をそこへ譲った。

 

「トレセン学園の学生証にはね…特殊なICチップが組み込まれているんだ。偽造防止の為にね。このチップは学生証の他には流用されてもいない。無論複製も不可能な代物だ。そしてそれは、厳重な管理の下一枚一枚発行されている」

 

「何を仰りたいのですか? 該当なしというのなら偽物であったという証明なのでは」

 

「そう、該当なし(・・・・)と出た。だから問題なんだ。ただの偽装カードであれば、そもそも端末が情報を読み取ることが出来ない筈なんだ。だからここで私が期待した解は…『読み込み不可』だった。だが、該当なしと出たということは…ICチップ自体は本物であったことを示している」

 

「本物?」

 

「先にも言った通り、この学生証(ICカード)はURA内部の特殊機関によって厳重に管理されている。新規に発行する場合も、予定枚数を割り出し、枚数が絶対に狂わないように調整されているんだ。仮に紛失や失効があれば、速やかにカードは機能を失うようにも設計がなされている」

 

 エアグルーヴはルドルフの言わんとすることに気が付く。そうであれば、彼女が訝しむ理由に合点がいく。

 

「つまり、彼女が有していた学生証は、想定されていないもの(ブランクカード)……?」

 

「その通り。そしてブランクカードが世に出回ることは想定されていない。書き込みも書き換えも、登録も抹消も、すべてURA内で行われる規定になっているからだ。もし仮に、ブランクカードが存在するとすれば」

 

「窃盗……URA内部からの」

 

「文字通り大問題だ」

 

 ルドルフは大きな溜息と共に、ショパンの学生証を置いた。

 

「出向者も同じことを言っていた。今血相変えて本部(URA)に問い合わせているところだ」

 

 ブライアンはソファに身を投げて、耳を掻いた。彼女にとっては、これもくだらない騒ぎの一つと変わらないらしい。

 

「だが、あの子供がわざわざURA内に忍び込んでまでカードを手にする理由はなんだ。調べれば直ぐに疑惑が掛かるとわかるようなカードを持ち歩く理由は」

 

「それがわからない。ここまで意匠を整えておいて。肝心の情報が抜けているのなら、むしろ持ち歩かないほうが賢明だ。下手な一般人程度なら欺けるかもしれないが、私たちの目を抜くことが不可能だと気付かなかったのか?」

 

「そもそも子供(ガキ)だ。見たところそこまで頭が回るようにも見えん」

 

「協力者の存在も考えられる。それと、子供だから何もないという考えは非常に危うい。世界には子供を使った刺客(アサシン)だって居る。思案することに越したことはない」

 

「じゃあもう一つ。一般人を欺くためにカードを持ったとして、何故西暦を合わせない。20年以上もズレた西暦表記、疑ってくださいと言ってるようなモンだ」

 

「ああ。ブライアン、君の指摘は尤もだ。だからこそ、余計にわからない。彼女のすべてが全く繋がらない。……ハッキリ言おう。お手上げだ」

 

「お手上げって……」

 

 エアグルーヴは眉でハの字を作って、ルドルフに訴えかけるように呟いた。

 

「兎に角、彼女の身は然るべき機関(・・・・・・)へと委ねるのが賢明だろう。これ以上私たちが議論を重ねて出る解とは考え難い」

 

 ルドルフは再びショパンの学生証を机に置いて、席を立つ。おそらくショパンの様子を見に行くつもりなのだろう。エアグルーヴもそれに続こうとした時、おいとブライアンが何かを思い出したかのように、二人に声をかけ、あるものを投げた。

 

「そういやこれ、アイツが持ってたペンダント(・・・・・)だ。お前、自分によく似た姉(・・・・・・・・)でもいるのか?」

 

 それはエアグルーヴに問いかけられた質問らしい。だが、エアグルーヴは眉間に皺を寄せて苦言を呈すかのように一言「はぁ?」と唸った。まさかお前まで、妙なことを抜かすつもりかと。

 

 だが、そのペンダントを受け取ったルドルフは黙ってそのペンダントに目を落としていた。その神妙な面持ちは、ブライアンの言葉が全くの戯言(ざれごと)ではないと無言で語るように。

 

「会長?」

 

 ルドルフは黙ってエアグルーヴにペンダントを差し出す。そこに映るとあるウマ娘(・・・・・・)

 

 白いワンピースに身を包み、柔らかい表情をそのペンダントを手にする者へ優しく手向ける――エアグルーヴの姿だった。

 

 

「……私?」

 

 だが、決定的な違和感がそこにある。

 

 ブライアンが言った、よく似た姉(・・・・・)という言葉の意味。

 

 

 

 ペンダントの中のエアグルーヴは、今よりも成熟している大人の姿(・・・・)だった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「あのねショパンちゃん。私たちは本当のことを知りたいだけなの。その……ショパンちゃんが言ってくれた住所も学校も……悪いけど全部デタラメ」

 

 時を数日経て、ショパンはURAが運営するウマ娘支援センターなる施設で、一人の女性職員と対面で聴取を受けていた。だが何度問いかけてもショパンの受け答えは一貫してのデタラメ(・・・・)だった。

 

「でも……私……」

 

「せめて、ご両親のことだけでも本当のことを教えてくれないかしら? その、私たちも信じるわけにはいかないのよ。現役のトレセン学園生が母親だなんて。勿論エアグルーヴさん自身も否定をしている。これ以上誰かに迷惑をかけるようなことをしちゃダメよ。困ってるわよ彼女」

 

 話は平行線の真っただ中だった。職員は数日間同じことを同じ調書に、同じように記すことの繰り返し。

 

「本当のことを話してくれないのなら、あなたをここから出すわけにはいかないの。ショパンちゃんだって嫌でしょ?」

 

 だがショパンとしては、本当のことを話しているに過ぎなかった。だがしかし、20年以上のブランクがあるこの世界では、彼女は存在すらしていない。彼女に整合性のとれる説明は不可能であった。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

 そういって職員は諦め気味に、ため息と共にそういった。これで3日目だ。何も進展がない。

 

 職員はショパンの部屋を出て、廊下につく。そこから数歩だけ進んだ時、彼女の背中に一人の男性職員が声をかける。進展はあったか?という彼女としては嬉しくない問いかけだった。

 

「今日も同じ……。わからないわね」

 

「家出ウマ娘とかじゃないの? 家に帰りたくないから嘘をつく」

 

 と男性職員が言った。

 

「ただの家出ならもっと対応は簡単よ。少し身元を調べれば、すぐに割れる」

 

「でも、あの娘はそうじゃない?」

 

「戸籍が見つからないの。あの娘」

 

「マジかよ……」

 

「身分証明書もデタラメ。戸籍もない。でも、悪い娘にはどうしても見えない。受け答えもできる限り誠実になろうとしてくれてる」

 

 廊下を歩く二人に、幾何の沈潜が訪れる。コツンコツンと足音だけがとどろいた。

 

「じゃあ、あの娘どうすんの? 警察にでも突き出す?」

 

「何の罪で?」

 

「そりゃ、不法侵入の類とか」

 

「初犯なら精々厳重注意で釈放よ。それに無戸籍者だって稀には居る話。警察はまともに取り合ってくれないわよ。……それに彼ら、ウマ娘が関わる事件には何かと渋い顔をするのよね。きっと相談しても『ウマ娘のことならおたくらが詳しいからそっちで何とかしてくれ』って言うわよ」

 

「それで国の奉仕者かよ」

 

「まぁ、いよいよとなったら……だけど、出来るのなら私たちの力で穏便にお家に帰してあげたい」

 

 と女性職員が言ったところで、二人に背後から声がかかる。二人が振り返った先に居たやたらに身なりのいい前期高齢者。歳に似つかわしくない装飾品が何かと癪に障る。そして、その皺が目立つ表情は、どこか晴れやかだった。

 

「所長。どうかなされました?」

 

「あぁ牧野君、君が担当していたあのウマ娘の件だが……」

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 ぽつんと一人、淡い桜色の壁紙と、壁に向かった一つの机。テレビはつくけど見たい番組なんてない。どれもこれも、古い番組ばかりだもの。女性職員が置いて行ったお菓子に手を付ける気にもならない。部屋のカギは掛かっていないけど、どうせ外に出てもいいことなんてない。

 

 ああ、こんな日々が後どれくらい続くのだろうか。本当のことを言っても信用なんてされるわけがない。嘘をつこうにも、辻褄を合わせる方法なんてわからない。文字通り八方塞がりだ。

 

 ショパンはベッドに身を投げて、無機質な天井を仰ぐ。これからどうすればいいのだろう。元の時代への帰り方もわからない。自分はこの世界で、身元不明の少女のままのたれ死ぬのだろうか。

 

 思うことは沢山ある。考えなきゃいけないことも沢山ある。

 

 だけど、今の彼女の脳内のトレンドは。

 

「……おかあさん」

 

 この施設へ来て早三日。ふと気を抜けば、彼女の脳内を母の面影が支配した。彼女はそっと、返して貰ったペンダントの蓋を開ける。小さな枠に囚われた、彼女だけの優しい母の姿。ペンダントを返された時、エアグルーヴはずっともの言いたげな表情で、ショパンへ睨みを利かせていた。

 

 それもそうだろう。そもそも彼女はまだ、ショパンの母親ではない、ただの少女なのだ。

 

 それなのに『お母さん』だなんて、そんなことを言われても困るのは当然だろう。怒りたくなるのも当然だろう。

 

 

 だけど

 

 

 だけど

 

 

 ショパンにとっては。この世にたった一人しかいない

 

 

 大事な大事な母親なのだ。

 

 

 ショパンは、ただでさえ辛気臭さが目立つ表情をさらに泥ませると、諦めるようにペンダントの中の母とお別れを。

 

 

 きっと明日も同じ日を繰り返すのだ。そんな希望の見えない悪夢から逃げるように、ショパンはベッドの中に包まった。頭から尻尾の先端までを、余すことなく布団の中へ収める。布団に潜り込むことは彼女の一つの癖だった。

 

 何も見えない、光が閉ざされた空間。ショパンはその褊狭の中、圧し掛かってくるような微睡に身を委ねていく。不思議とこの空間だけが、彼女にいつも安らぎを与える。

 

 こっくり こっくり 船を漕ぎ とろり とろり 落ちてゆく。

 

 

 

 

 

 

 きっと明日は、いい日になりますように……。そんな儚い我儘を呟いて。

 

 

 

 

 

「……ショパンちゃん。居る?」

 

 それは扉が開くタイミングと同じだった。先ほどまで、ショパンの聴取を行っていた女性職員、牧野がノックもせずに現れた。きっとまた、晩御飯を食べろというのだろう。生憎食欲はない。

 

「……はい?」

 

 折角眠りに落ちようとした矢先、叩き起こされるのはやはり気分のいいものではない。布団から頭だけを出し、少しだけ不躾にショパンは応える。

 

「ショパンちゃん。お迎えが来てる」

 

「お迎え?」

 

 一体何の迎えだろうか、また施設をたらい回しにされるとでもいうのだろうか。次こそは警察かもしれない。ショパンは布団の中で身構える。……だが。

 

 

 牧野の背後から彼女(・・)は現れた。

 

 

 腕を組み、アイシャドウで彩る瞳を釣り上げながら、未だに納得のいかないような表情を残したまま。

 

 

「え……」

 

 

 だがショパンにとって、それは後光が差す程の幸いだった。

 

 

 

「――お母さん?」

 

 

 

 

 



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冷たい温もり

 

「差し戻し!?」

 

 それは、ショパンがこの学園を去って三日の時を経た午前のこと。何時も生徒会室に優美なクラシックを静かに奏でるウッドデザインに包まれたステレオスピーカーは、精密ドライバーを片手にしたナリタブライアンによって丸裸にされ、その代わりにとエアグルーヴの絶叫グルーヴが、30w出力のアクティヴスピーカーに負けず劣らずの音圧を含んでこの空間を揺るがした。

 

「ああ、どうもそうらしい」

 

 エアグルーヴの劈く嘶きに、ルドルフは片耳をペタリと畳んで、一枚の書類をエアグルーヴに差し出す。それはトレセン学園へ向けられた一つの要望書。

 

 そこに記された内容。端的に言えば身元不明のウマ娘『ショパン』の身柄をトレセン学園へ差し戻したいという旨が記載されていた。差出人はURA所轄のウマ娘支援センター所長。彼の憎らしい表情が、最後の捺印から読み取れるようだった。

 

「差し戻す理由が『同年代のウマ娘たちとの交友を深めることで、彼女自身が閉ざした心を赦し、胸襟を開くことを期待するものとし、引いては身元の明示化への貢献を賜りたい』だそうだ。つまり彼女がここで過ごせば心を開いて本当のことを話してくれるんだと……笑えるだろう?」

 

「これじゃあ、まるで責任の押し付けではありませんか」

 

「まるでじゃない。文字通り押し付けだ」

 

 そう言ったのは、回路図をひたすら睨め、時にはんだごてを用いてスピーカーの修理に当たるブライアンだった。

 

「あの天下り所長……良いウワサを聞かんとは言われていたらしいが、ここまで露骨とはな。どうせ本部(URA)には逆らえないから、比較的立場の弱いトレセン(ウチ)に付け込んだんだろう」

 

 ドライバーを投げ捨てて、ソファに凭れ掛かる。どうも話を聞いているだけでも、その所長に対する嫌悪が見え透くようだった。

 

「しかし何故。そんなものがまかり通るのなら、何の為の支援センターなのです」

 

 ブライアンの嫌悪がエアグルーヴにも引火する如く、彼女の声にも幾何かの力が入る。

 

「理由は単純だろう。全く身元の割れない問題児。URAでも匙を投げた案件だ。その身柄を押し付けられた支援センター。そしてそこの玉座に座る事なかれ主義。次の一手を想像するのは容易だ。警察を相手にするのも億劫なんだろう」

 

「まさか、然るべき機関がトレセンだったというオチだとはな。アンタの駄洒落の方がまだ笑える」

 

 そうかい。ならここで新作をひとつと身を乗り出すルドルフに、ブライアンは却下を即答する。

 

「そういや、学生証の件はどうなった」

 

 ブライアンは再びドライバーを手にすると、今度はプリアンプ部の分解に当たる。

 

「それに関しても面白いことが分かった。……URA内部から未登録の学生証が窃盗されたという事実はなかったそうだ」

 

 ルドルフの言葉に、二人の眉が僅かに動く。その微小な動きで、それはどういうことなのかと訴えかける。

 

「予定された発行枚数。回収し破棄された枚数。そしてURAに貯蔵されているストック。全て辻褄が合っているらしい。ここ暫くは、幸いにも紛失の案件も無かったからね」

 

「じゃあ、彼女が持っていたものは……?」

 

「"存在しない学生証"と言ったところか。更に面白いことがもう一つ。彼女の学生証、全くのブランクカードという訳ではなかったそうだ」

 

 それに反応したのはブライアンだった。ショパンの学生証がブランクであると、その場を持って立ち会った一人なのだから。

 

「本部で更なる詳しい解析を施した結果、彼女の学生証には何かしらの情報が記載されている痕跡があったらしい」

 

「あったらしい?」

 

「情報がプロテクトされていたんだ。それが奇妙なことに、発行元であるはずのURAですらも、破ることが出来なかったと。簡易端末が照会出来なかった理由もそれなんだそうだ」

 

 まるで未来の技術(・・・・・)のようだと技術者は嘆いたらしい。こうしている今現在ですらも、その学生証の仕組みをエンジニアたちが探っているようだが、その技術の正体を明かせる日は、未だに遠いのだそう。

 

「こんだけ調べても何もわからない……か、つまりこのオーディオと同じワケだ」

 

 ブライアンの目の前には、バラバラに解体されたスピーカーとアンプ。そして内部から抜き取られた真空管がショウウインドウに飾られるように机に並べられていた。ブライアンのその一言は、どうも修理が不可であったことを示すものらしい。

 

「原因はスピーカーじゃなかったのかい?」

 

 ルドルフは最近交換を施したばかりの真空管を手に取って、生徒会室に差し込む太陽に翳す。

 

「全くわからん。スピーカーのボイスコイルも、アンプの真空管も異常はない。配線切れもない。そもそも古い機種だ。何で壊れるかなんて分かったモンじゃない。いっそのこと買い換えたらどうだ? トランジスタ式の物にでも」

 

「私は真空管の方が好みでね。だったら新しい物の手配を頼んでいいかい?」

 

「会長! そんな事よりも!」

 

 脇のオーディオへと話題を翻すルドルフとブライアンに、エアグルーヴは唸る。

 

「本当に受け入れるつもりなのです?」

 

「上からのお達しだと言うのなら仕方あるまい。秋川理事長も合意の旨を示している。いくら身元が不明だと言っても相手は幼いウマ娘。これ以上粗末に盥回しにされるくらいなのなら、ここで一時保護を……とのことだ。それに――」

 

 ルドルフは真空管を手の中でころころと転がして、再び会長席へと身を預ける。その表情には先日の憂いとは一転し、どこか燻りを醸し出す鋭さがあった。

 

「私は少し気になる。あのウマ娘がどういった目的でここへ来て、なぜ君のことを母と呼び、どうして身元が割れないのか。学生証やペンダントの件がそうであるように、彼女の私物にも謎が多い。だが、『ショパン』という存在がそこに居る限り、真実は必ずある。それら不可思議の解明に立ち会おうというのなら、私も吝かではない」

 

 彼女の瞳のエッセンス、それは一つの好奇心。今までの経験則の全てが通用しなかったショパン。彼女の真実を知る日が来れば、それは多大なるカタルシスを齎すことであろう。

 

「それともう一つ、適当な理由を述べるとすれば、秋川理事長の意向に同意の意思を持ちたい。謎多きウマ娘であるとはいえ、"ウマ娘"だ。『全てのウマ娘に幸いを』ここで身寄り無き彼女を手切りにするというのなら、私は己の願いを殺さなければならない。上がこれ以上彼女への関与を忌むというのなら、私が手を取ろう」

 

 彼女の覚悟の言葉に、エアグルーヴはこれ以上のセリフを探し出せなかった。ただ彼女を受け入れるというのなら其れなりに考えなければならないことだってある。例えば――

 

「で、だれがソイツの面倒を見るんだ? 先に言っておくが、私は御免だ」

 

 エアグルーヴの思考を読んだかのように、ブライアンは不躾に言った。面倒ごとが一つ確定したという事実に、少し不満気な様子で。

 

「そのことなら憂う必要はない。彼女の面倒は私が見よう。所長の言葉に頼る訳では無いが、時を重ね紡ぎ合わせれば、彼女が何かしらのヒントを出す可能性は高い」

 

「会長……」

 

 どうやら彼女(ルドルフ)は本気でいるらしい。だがエアグルーヴには拭い切れぬ懸念が。

 

「万に一つの事として、ですが完全に否定できない話として一つ。もし、彼女の目的がこの学園に対して仇を持つものだとすれば……。その時は会長、一番身近に居るあなたに最初に危害が及ぶ可能性だって否定はできません」

 

 エアグルーヴの問いに、ルドルフは涼しい笑みで、簡潔な反駁を。

 

「そうだとすれば、真実を知りたい私としては有難い限りだ。……私を喰いたいというのならそうすればいい。――所詮私は毒入りだ」

 

 エアグルーヴはぐっと口を噤んだ。また。まただ。敬愛する彼女の悪い癖。

 

 自己犠牲(・・・・)をも厭わない姿勢。

 

 この学園で度々起こる事案、ルドルフは真っ先に迅速に動くことを何時も心掛けている。それが例え、アグネスタキオンの実験の失敗による園内の災害であろうと、彼女は率先して動き被害の最小化に努めている。その度に、一歩違えば……エアグルーヴはいつも思っていた。彼女はリスクを伴う行動だと判断すれば、エアグルーヴとナリタブライアンへ頑なに頼らない姿勢を保っていた。

 

 エアグルーヴにとっては、それが何時も歯痒いことだった。自分は彼女を支える杖として、彼女の傍らに居座っている。だが、肝心なところで何も身を差し出せないのであれば……自分がそこに居る理由など、何もない。

 

 自己有用感の否定に苦しむ訳ではない。ただ、彼女の役に立ちたいという想いが実らない現実に、無性の苛立ちを感じていた。

 

「また、あなたは己の身を差し出そうというのですか?」

 

 それはエアグルーヴの抵抗だった。彼女の言葉にルドルフの眉がピクリと動く。

 

「だが、先に君が論じてくれたリスクを、他の娘に背負わせるわけにはいかないだろう」

 

「確かに、一般の生徒であれば納得はできる話ですが」

 

「何か憂いがあるのかい?」

 

 ルドルフは手を机の上で組んでエアグルーヴを見据えた。

 

「仮の話です。私の邪推が杞憂でなく、真であったという前提の話です。もし貴女の身に何かが起これば、私たちは貴女というブレインを無くす致命的な展開だって考えられます。……以前から申したい気持ちはありましたが、もう少し我々を使っては頂けませんでしょうか」

 

 エアグルーヴの訴え。ルドルフは表情を変えずに耳を貸し続け、ブライアンは勝手に巻き込むなという不満を片手に、オーディオのカタログ誌に目を落とす。

 

「それに、彼女(ショパン)()のことを母と呼びました。だったら、彼女に何か目的があり行動を起こすとすれば、それは即ち私に対してのものであるという見解を立てるほうが正であり、私が彼女の監視役を担うことが合理的な判断とは言えませんでしょうか」

 

 エアグルーヴの立論、そしてルドルフの反駁。

 

「では、先ほど言った君のリスクについてはどうなる。彼女の目的が、君を害することであるとしたのなら?」

 

 だが、エアグルーヴの解に迷いはない。

 

「所詮私も……彼岸花(毒入り)です」

 

 二人の間に静かに流れる沈潜。それを鬱陶しく思ったブライアンが声を上げる。

 

「いいんじゃないか。そいつがそうしたいってんなら、そうさせればいい。……なぁ、お母さん(・・・・)?」

 

 いうまでもなく、それは一つの揶揄いだった。エアグルーヴは空かさずブライアンにナイフのような鋭い視線を投げつけ、ブライアンはそれから逃れるように生徒会室を後にした。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「では、頼んだよ。学園の諸君」

 

 そういって、その大きい図体を健気に支える足で踵を返し、憎たらしさをその場に残して支援センターの所長はエントランスから去っていった。彼の嬉々とした表情、まるで憑き物が落ちたかのようだった。

 

 何かあれば、直ぐに我々に頼ってもらって構わないと付け加えたセリフは社交辞令なのだろう、実際頼りにしようとすれば、何かと理由をつけて断るに違いない。

 

 もっとも、こんな事案を放り投げられた時点で、彼に対する信用や期待など無に等しいものだが。

 

「ごめんなさい。本当は私たちみたいな大人がどうにかしなきゃいけない話なのに」

 

 ショパンを担当していた女性職員、牧野はどうも情けないといった表情を残して、ルドルフとエアグルーヴに詫びた。

 

 彼女の持つ表情から出る悔やみというのは、飾りではないらしい。結局は彼女も唐突(あんまり)な話に振り回された駒に過ぎないらしい。

 

「いえ、上の意向なのですから。それに、トレセンであれば彼女に必要な教育を受けさせることもできる」

 

 ルドルフは腕を組み、月の冴えわたる夜空を嗜みながらそう言った。

 

「情けない話ですよね。私たちの本当の使命は、この娘みたいなウマ娘にこそ、頼りにされなきゃいけない存在なのに。『ウチはあくまで、健全(・・)な娘の支援を目的とした組織。孤児院でも託児所でもない。』ですって。あんなのが所長になれるんですもの。こんなの腐ってる……」

 

「意を酌み、同情します」

 

「ショパンちゃんのこと、私も引き続いて調べますから。何かあれば私に直接(・・・・)連絡をください」

 

 彼女から差し出された名刺。どうやら所長がそうだからと言って、職員全体が泥んでいるわけでもなさそうだと、ルドルフは軽く安堵の息をついた。

 

「じゃあね。ショパンちゃん……元気で」

 

 哀愁の瞳から湧き出る別れの句。だが当のショパンは……。

 

 

 

 

 

 

 エアグルーヴの傍らで、ちょっとだけ嬉しそうな表情をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「へぇ……その娘がそうなのかい……」

 

 時と場所は移ろい、美浦寮の玄関口。そこで寮長であるヒシアマゾンは腕を組んでもの珍しそうにショパンを視線で嘗め回す。彼女の眼力の強さに慄くショパンはエアグルーヴの陰に隠れるように。

 

「それで、部屋にもう空きは無いのか?」

 

「ああ。ほら、今年の新入生結構多かっただろう? 物置まで使ってなんとか初等部の娘たちを押し込んだんだけどさ」

 

「そうか……」

 

 エアグルーヴは顎に手を当てて数秒の沈黙。そして一つの解を導き出す。

 

「わかった。ならしばらく私の部屋に泊めよう。構わないか?」

 

「ああ、そりゃアタシはいいけどさ」

 

 エアグルーヴの視線はじろりとショパンに降り注ぐ。

 

「お前も、それでいいな?」

 

 彼女に決定権など与えない。そのつもりでエアグルーヴは凄んでみたが、

 

「うん!」

 

 ショパンは大きく頷く。むしろ望んでますと言わんような輝きに、エアグルーヴは益々彼女の真意を見出せなくなる。

 

「あの、お、お世話になります!」

 

 と、自分の居場所が決まったショパンは、寮長へお辞儀を。

 

「あ……ああ。なんだい。不審ウマ娘ってんだからもっとヘンな娘が来るのかって思ったけど、案外普通じゃないか」

 

「侮るな。彼女には分からないことが多すぎる。寮員全体にも伝えておいてくれ。もし不審な行為を見かけたら直ぐに報告するようにと」

 

 エアグルーヴはそう言い残してヒシアマゾンの横を通り抜ける。途中振り向き様に、もたつくショパンに早くしろと喝を入れた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 一通りの寮の説明を受け、夕食と入浴を済ませ、支援センターからそのまま貰った寝間着に身を包み、ショパンはようやく新しい寝床へ辿り着く。

 

 二人のウマ娘が共に生活を送るその居室。当然エアグルーヴにもそのパートナーは居る。

 

「あ、グルーヴさん。聞いたよ、新しい娘が来るんだって? その娘のこと?」

 

 そう、髪を梳かしながら二人を迎え入れたのはアイルランド王国良家の留学生(ファインモーション)

 

 柔らかい笑みと声色は、ショパンの緊張の色を少しだけ解してくれるようだった。

 

「ああ、すまないなファイン。お前にも暫く迷惑をかけることになる。詫びよう」

 

「ううん! いいじゃない。少し賑やかで」

 

 ファインモーションは彼女たちに笑って見せ、ショパンへ名前と少ししたことを尋ねる。

 

「へぇ、ショパンさんか。ねぇ……二人が母娘って本当の話?」

 

「なッ!?」

 

 ファインの思いがけない一言に、エアグルーヴは目を見開く。まさか、もうそんなところまで話が広がっているとは。

 

 生徒会室内での出来事であったハズなのに、外部まで話が漏れているとは…。悪事千里を走るではないが、噂とはやはり厄介な代物だ。

 

「そんなわけないだろう!」

 

 エアグルーヴは強く唸り、ファインはそうだよね~と再び温和な表情を作る。彼女も噂は噂と、本気にしている様子はなかった。

 

 心の蟠りが抜けないエアグルーヴは、ショパンへ視線を刺す。貴様のせいだ。どう責任を取ってくれるとでも言いたげな攻撃的な表情を。それに対してショパンは少しだけ沈んだ表情を見せる。本当の母とはいえ、彼女に迷惑をかけてしまったことは事実であるのだから。

 

「……もういい。今日は寝るぞ」

 

 そういってエアグルーヴは自分のベッドを捲り、その身を預ける。そして、その場に立ち尽くしているショパンに対して、何をしている、早く来い。とまた一言。

 

 ショパンは少し恐る恐るながら、エアグルーヴのベッドの中へとその身を沈ませてゆく。

 

「じゃあ、電気消すね。おやすみ! グルーヴさん、ショパンさん!」

 

 そしてその三人の部屋に、ようやく夜が訪れる。

 

 ベッドの中で、ショパンはエアグルーヴへ向いて中々寝付けない様子でいる。対するエアグルーヴはショパンに対し背中を向ける形で、頑なに振り返ろうとはしなかった。彼女はあくまでショパンの監視役。心を許す気など毛頭ないらしい。

 

 だけどショパンにとって、今の瞬間とは、ずっと願っていたことの一つ。

 

 

 ――いつか母と一緒のベッドで寝てみたい。

 

 

 どんな形であれ、そこにあるのは確かに幸いだった。

 

 

「おやすみ。お母さん……」

 

 ショパンは小声でそっと呟く。ずっと言ってみたかった一つの言葉。甘えを含んだ、おまじないのような言葉。

 

 

 ……だけど、その途端に、ショパンの言葉を聞き取っていたエアグルーヴは振り返って

 

 

 

「おい、貴様。次にもう一度同じことを言ってみろ……次はベッドから蹴落とすぞ」

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

そう一言を残すと、エアグルーヴはまた彼女に背を向けた。

 

 

これ以上、迷惑をかけちゃいけないことはわかってはいる。だけど。

 

 

たとえ夢であってもいい。もう少しだけ母に甘えてみたかった。

 

 

ショパンはエアグルーヴの背中にそっと寄り添う。彼女の体温と微かに感じる優しい香り。

 

それはボディーソープの香りなどではない。娘だけが知り、感じることのできる母の香り。

 

耳を澄ませば、とくんとくんと聞こえる心臓の音。それらすべてが、ショパンを優しく包み込む。

 

 

暖かい、そして落ち着く。

 

 

優しい、そしてとても柔らかい。

 

 

今まで知らなった、その温かい世界。

 

 

ショパンにとっては、それが初めての母の温もりだった――

 

 

 

 

 

 

「おい、くっつくな」

 

 

 

 

 

今はまだ少しだけ、冷たいけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 



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親炙 変ニ長調 作品2
こんなに近くて、あまりにも遠くて



なぁ……仮の話をしよう。


例えば、このお腹の子が男の子か女の子か……或いはウマ娘か。


男の子ならば、きっと私に似て、我の強い芯の通った勇敢な子に育ってくれるだろう。

女の子ならば、きっと貴様(・・)に似て、気弱だが淑やかで、誰かを思やうことのできる優しい子に育ってくれるだろう。



そして……ウマ娘だったら。



きっと。




二人に似て、強く優しく、そして麗しい娘に育ってくれるのだろう。



きっと――母親(わたし)が居なくても……きっと。



いや、仮の話だ……。忘れてくれ。







 

 

 とろん とろん ゆるり ふわり ふわふわ とろとろ 溺れてゆく。

 

 揺れる優しさと、温かさと、安心の揺り籠。子守歌は母の鼓動。

 

 ぬくぬく ころころ さらさら すやすや このままここで溺死するのも本望だ。

 

 願わくば、ずっとここに居たい。羊水に溶け消えて行ってしまっても構わない。

 

 明日など来なければいい。時間よ止まってしまえばいい。

 

 だけど、どうもそれは許されないらしい。だったらもう少しだけ、微睡の中で溺れ続けたい。

 

 

 もう少しだけ……

 

 

 もうすこしだけ……

 

 

 ………………………

 

 

 ……………

 

 

 ……

 

 

 …

 

 

 

 

「――起きろ! ショパン!」

 

 どくんと、胸の内に仕舞い込まれた心の臓器が一瞬の悲鳴を上げる。彼女を支配した副交感神経は瞬く間に交感神経に殺される。

 

 光に包まれる寮の朝。少女の目の前には、隙無く仕上げられた女帝の姿。仁王立ちで厳しい面持ちを、何時かの娘に向けて。

 

「いつまで寝息を立てているつもりだ。学校の時間だぞ」

 

「あ、うん。おはよう、おかあさ……」

 

 パチン! とショパンの額に小さな衝撃が走る。突然の痛みにショパンは『ヒィンッ!』と情けない声を上げて、己をデコピンの刑に処した母の姿を見た。

 

「私をそう(・・)呼ぶなと言った筈だ。私は貴様の母親などではない」

 

「うん……ごめんなさい」

 

 朝っぱらから萎れた表情を見せるショパン。怒られると解っていながら何故そんなことを言うのかと、エアグルーヴは腕を組んで今日一回目の溜息を。

 

 早く着替えと朝食を済ませろとエアグルーヴが言うと、ショパンはせこせこと準備に勤しむ。まだ制服への着替えが拙い彼女、そのあどけなさは、多少なりの健気さをも感じさせる。

 

 袖を通すのも、ボタンを留めるのもまだ一苦労といった様子だ。

 

 せこせこと、だけどもたもたと。エアグルーヴは壁に背を預けて彼女を眺めじっと待つ。

 

 ふと、彼女の拙さに妙な懐かしさを覚える。

 

 自分も入学したばかりの頃はこうだったかもしれない……。初めての着付けはお母様に手伝って貰った記憶がどうも懐かしい……。エアグルーヴの脳裏に、かつての映像がリバイバルする。

 

 そうだった。そうだった。確かあの日は、確かその日は。

 

 ……?

 

 何故、彼女の着替えを見てそんなことを思い出すのだろう。

 

「お、お待たせ」

 

 ふと現実に戻されたエアグルーヴの前、ショパンは後ろ手を組み、制服をエアグルーヴに見せつけるように、少しだけにこりと笑って見せた。

 

 昨晩からあれだけ冷たくあしらわれようとも、それでもエアグルーヴに寄り添おうとするショパンに、エアグルーヴは増々彼女への理解を見失う。一体何を考えているのだろうか。皆目見当もつかない。

 

「じゃあ、学校」

 

「待て」

 

 部屋を後にしようとしたショパンに、エアグルーヴが呼び止める。何事かと振り返るショパンに、エアグルーヴは彼女の肩を掴んだ。

 

「寝ぐせを直せ。みっともない。……そこに座れ」

 

 あっ、と自分の散らばった鬣をぱらぱらと撫でるショパンを、エアグルーヴは自分の作業机の椅子に座らせ、私物の櫛とスプレーを手に、彼女の髪を梳いていく。

 

「ウマ娘たるもの、見てくれくらい何時も整えておけ」

 

「うん……ありがとう」

 

 慣れた手付きで、流れるように。ショパンの髪は瞬く間に流線のような癖のない上品(見事)な仕上がりに。そんな最中(さなか)、ショパンは少しだけ身を揺らしてそわそわ。あの母に髪を手直してもらっていることが、髪型が綺麗になることよりもどうやら嬉しいらしい。

 

 ふとエアグルーヴはショパンの髪の一端を指先で握って、深々と目を落とす。

 

「どうしたの?」

 

「いや、お前の髪質、少し私に似ていると思ってな」

 

 とくん。胸の臓器がもう一度、鐘を鳴らした。それはそうだもの。だって、だって。

 

「えへへ、そうかな……」

 

 満更でもなさそうな表情を見せるショパン。だがエアグルーヴは自分の言葉の真相に辿り着いてはいない。彼女にとってそれは、何と言うこともないただの感想なのだから。

 

「何をニヤついている。終わったぞ。さっさと支度をしろ」

 

 そしてショパンは、食堂で軽く朝食を摂った後、エアグルーヴに続いて寮を後にした。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「えっと、今日からこのクラスの一員になるショパンさんです。皆さん、色々教えてあげてくださいね」

 

 クラスの担任は事務的に彼女の説明と紹介を。この入れ変わりの激しい学園での転学や編入といったことはさして珍しい話でもない。そこの担任である教官にとっては、ショパンもその数多く居るうちの一人に過ぎないらしい。

 

 だが、そんな淡々としたクラス担任とは対照的に、クラスの騒めきはクレッシェンド。

 

 うそとか、マジ!? とか。小さな囁きも群れを成すと、大声のアジテーションと変わらない。

 

 だって、つい先日この学園を騒然とさせたあの不審ウマ娘が、目の前に『転校生』として現れたのだもの。

 

 話のネタとしては、かなり脂の載った旬のものであることに違いがない。

 

「よ、よろしくお願いします……」

 

 ショパンは恐る恐ると頭を下げると、担任から指定された席へ。皮肉なことにB組だ。追い出されたクラスにお情けで居場所を借りる。

 

 無論、彼女は正式な生徒として迎え入れられた訳ではない。トレセン学園での身柄の一時保護の下、初等部生の年齢として受けるべき義務教育を受ける為に在籍を許されたに過ぎない。その為、彼女はトレセン学園生として、レースに出走する権限などを持たない。あくまで目的は保護なのだから。

 

 そうだとしても、ひとつの居場所を確保できたことは変わりのない幸いでもある。宙に浮いた状態であるよりは幾何マシということだ。

 

 ショパンが席に着き、担任が一度教室を出るや否や彼女はクラスメイト達に囲まれる。あの出来事は何だったのか、エアグルーヴとの関係についてだとか。彼女の存在が注目の一番人気である状態は暫く続きそうだ。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 午前の授業を少し終え、ビッグベンの鐘が学園内に響き渡る。それは生徒たちにとって至福の時間を知らせる福音。昼食の時間だった。

 

 B組の生徒たちはショパンの腕を引っ張って、共に食堂へと誘おうとする。恐らく昼食中も、ショパンのことについて洗いざらい聞きたいのだろう。これでは、生徒会室や支援センターに居たころ同様、また彼女に対する尋問が始まってしまう。

 

 ショパンは多少の困惑を覚えながらも、無理に断れない気の弱さにされるがまま、クラスメイト達と教室を出た時。

 

「――おい、そいつは私の監視下に置いている生徒(・・)だ。お前たち(クラスメイト)には悪いが、しばらくは干渉無用と覚えてくれ」

 

 教室前の廊下に居た副生徒会長。腕を組み壁に背を預け、変わらぬ厳しい瞳でショパンを待っていた。

 

 女帝の可視化できる程の威圧感の前、まだ幼い初等部生たちが取れる選択は一つ、ショパンの腕を解いて引き下がるのみ。

 

「いくぞ。昼の時間は限られている」

 

「うん、おか……」

 

 ぎろり。エアグルーヴの瞳が光る。

 

「エアグルーヴ……先輩(・・)

 

 ショパンの失言未遂。改め先輩呼称。エアグルーヴは聞かなかったことにして、食堂へと歩を進め、ショパンはその背中についてく、ついてく。

 

 ウワサの二人が並んで歩く。それを周りが放っておくわけがない。

 

 

『あの娘じゃない? ほら、エアグルーヴ先輩をお母さんって呼んだって噂の』

 

『登校中も一緒に居たよね。まさかホントに?』

 

『エアグルーヴ先輩の隠し子説ってマジ?』

 

『いやーありえないっしょ。年齢的にさ』

 

『妹なら居るってウワサは聞いたけど、その娘とかじゃないの?』

 

 こそこそ、そわそわと聞こえるある事ないこと。

 

 皮肉なことは、それらが全てが嘘ではないこと。……未来でなら(・・・・・)という条件付きだが。

 

 最もそれは、()のエアグルーヴにとって不名誉な噂であることには違いない、自分のしでかしたことが、母の名誉を傷つけている。その事実にショパンが気付くまでに、多くの時間は不要だった。

 

「ごめんなさい……」

 

 ここ(・・)へ来て、何度その言葉を吐いたのだろう。自分は母を陥れるために、ここへ来たとでもいうのだろうか。自己嫌悪の渦がベールのように纏う。

 

 だが、エアグルーヴは一貫して表情を変えなかった。先日ファインモーションに言われたあの時から、学園内がこの噂で満たされることを予見していたのだろう。既に覚悟の括られた『女帝』としての顔が、そこにはあった。

 

「なってしまったことだ。嘆いても始まらん。お前も反省の辞を述べるくらいなのなら、全てを改め、毅然としていろ」

 

 そこに動揺などない。声の抑揚は、揺れることも振れることも知らずに安定していた。

 

 所詮噂。それに事実が殺されることなどない。惑わされ、踊らされれば女帝など名乗れない。その心を、背中で語った。

 

 

 嗚呼。これが。

 

 

 ――女帝()の背中なのか。

 

 

 少ししたことで、激しく浮き沈みを繰り返すショパンとは対を成すほどに、彼女に通った芯は強かった。

 

 自分とは、あまりにも違う……こんなに背中は近いのに、あまりに"存在"が遠い。

 

 ショパンに入り混じる母への尊敬と自分への失意、彼女の歩幅が少し痩せる。エアグルーヴとの距離が少し遠のく。

 

 ショパンの僅かな変化、エアグルーヴは直ぐに気が付く。そして、彼女に一言を投げた。

 

「ショパン――前を見て歩け(・・・・・・)

 

 ふと、ショパンは萎れていた顔を上げる。それは、言い手と受け取り手で大きく意味を変える、魔法のような一言だった。

 

 きっとエアグルーヴは、足元を見て歩くショパンに対し注意喚起したに過ぎない。だが、ショパンにとってその言葉は

 

 

 ――激励と同じだった。

 

 

 嗚呼、ああ……ここで折れてはいけない。きっと自分は、母から何かを得るために、ここへ来たのだから。

 

 

「うん!」

 

 

 ショパンは浅く頷いた後、再び前を向きエアグルーヴの背中を追いかけた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「それで、その後の様子はどうだい?」

 

 日の大きく傾いた夕まぐれの国。明るさを齎さない、ただただ眩しいだけの光を背に受けて、シンボリルドルフは今日の議事録に印鑑を落としファイルを閉じると、女帝の名に少し不釣り合いな、はっきりとしない表情をひっさげたエアグルーヴを見た。

 

 エアグルーヴがショパンの監視役を買って出て約数日、生徒会の会議を終えた頃合いだった。

 

「……ええ、問題がありません」

 

「問題がない」

 

 意味を含んだ言葉と察し、ルドルフは復唱する。

 

「彼女、私に対してかなり従順です。私の言いつけや指導に対しても、素直に応じ反抗的な態度を見せません」

 

「ははは。よほど懐かれてるんだね。君をそう(・・)呼んだだけのことはある。君の邪推は邪推のまま消えたかい?」

 

「それとこれとは」

 

「どうであれ、我々への敵意がないというのなら、私としては安心材料さ。関係は良好かい?」

 

「関係……と申されましても、私はあくまで彼女を監視している役柄に過ぎません」

 

「同年代のウマ娘たちとの交友を深めることで、彼女自身が閉ざした心を赦し、胸襟を開くことを期待するものとし、引いては身元の明示化への貢献を賜りたい。……だそうだよ?」

 

ルドルフ例の要望書の一節を、皮肉のように引用し笑う。

 

「以肉去蟻。『北風と太陽』と同じさ。彼女の真が知りたくば、少しは温厚に接してあげることも、彼女の解へと繋がるかもしれない。コミュニケーションを放棄するのが最善策とは言い難いかもしれないよ?」

 

「……彼女自身は、私に何かと接してこようとはするのです。その、食事中も『美味しいね』だとか、少し友人ができた話だとか。起床や就寝のあいさつをしてきたりだとか……」

 

「おや、それではまるで、"君"が"彼女"から逃げているような口ぶりだね」

 

「そんなことは……」

 

 がちゃり――どん。

 

 古い立て付けだというのに、その扉を労わる気配もないブライアンがそこに姿を現す。彼女の視線の先、エアグルーヴだった。

 

「おい、こいつ(・・・)外でずっとお前のこと待ってたぞ」

 

 ブライアンの背後から、こそりと現れるショパン。少しだけ頬を紅潮させ、恥じるような嬉しむような上目使いで、エアグルーヴを視界に入れる。

 

「……こんな様子です」

 

 とエアグルーヴはルドルフへ言葉のボールを投げる。何かコメントをくれと暗に含むようだった。

 

「なるほど。ショパン。こちらへおいで」

 

 ショパンの身が少しだけ凍る。敵意が無いと言えど、ルドルフのことはまだ少し怖いらしい。歩幅を小さく、彼女の下へ着く時間を少しでも稼ぐことが抵抗だと言うように。

 

 生徒会長席の前、ショパンは両手を重ね、不安の仮面を被ってルドルフへ。

 

 ルドルフは机に肘をかけたまま、エアグルーヴへ言う。

 

「エアグルーヴ、目を閉じて背を向けたまえ」

 

「……え?」

 

「私がいいと言うまで、そのままで」

 

「意図が読めません」

 

「読む必要はない。私の興味本位だ」

 

 釈然としない気持ちを肩に抱えたまま、エアグルーヴは彼女らに背を向け、瞳を閉じる。

 

 準備が整ったことを認識したルドルフは口を開いた。

 

「ショパン――エアグルーヴは本当に君の母親なのかい?」

 

 

 ――!

 

 

 振り返りたかった。だが

 

「エアグルーヴ」

 

 それを読まれたかのように、ルドルフが彼女にブレーキをかける。そのままを維持し続けろという命令だった。

 

「さぁ……今はエアグルーヴは見ていない。思うように答えてみたまえ。どんな解であれ叱責をしないと約束をしよう。私にだけでも、本当のことを教えてくれ」

 

 瞼の裏の矮小な空間、頼れる情報は聴覚のみ。

 

 ルドルフの問いに対して、彼女が何を答えるのか。

 

「なるほど、分かった。もういいぞエアグルーヴ」

 

 次に聞こえたのがそれだった。ショパンは顎で答えたのだろう。YESかNOか。

 

 予想がつかないわけではない。だが、エアグルーヴはすぐさま振り返って

 

「彼女、何と?」

 

 訊かずにはいられなかった。

 

 ルドルフはそっと人差し指を口元へ翳し、にこりと笑った。

 

「もう一つ訊こう。君はエアグルーヴのことが好きかい?」

 

 エアグルーヴの視線は直ぐにショパンへ、彼女の瞳に映るショパンの答え。

 

 こくりと深く、頷いた。

 

「……」

 

 迷いがなかった。即答に近い頷きだった。

 

「……わかった。今日はもういい。エアグルーヴ、引き続き世話役(・・・)を頼めるのなら、今日はもう彼女を連れて帰り給え」

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 二人が帰った後の生徒会室。残ったルドルフはチェスの女帝(クイーン)を手に。目の前でその意匠を嗜む。

 

「あれで何か分かったのか?」

 

 彼女の柔らかい表情の意図が読めないブライアンは、眉を落としながらルドルフに問う。

 

「いいや。さっぱりわからない。清々しい程にね」

 

 ショパンがルドルフに出した回答――"不変"だった。

 

「彼女がエアグルーヴの子であるという言い分、無理を通せば道理が引っ込むことがわからない年齢でもないだろう。それでも……か」

 

 ルドルフは駒を置く。黒いクイーンの傍らに、小さなポーンを置いた。

 

「なぁ……ずっと思ってたんだが、アイツが母親だというのなら、父親(・・)も居るって言い分になるんだろ? だとしたらそれは誰だ?」

 

 ブライアンの最もな問い、ルドルフはさっぱりとした表情をブライアンに向け、答える。

 

「全く考えていなかった」

 

 ブライアンは察する。多分嘘だと。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「じゃあ……おやすみなさい」

 

 今日の電気当番はショパンらしい。ファインモーションは「おやすみなさ~い」と柔らかく答え、ショパンはこそこそとエアグルーヴのベッドに潜り込む。

 

「おやすみ……」

 

 ショパンは念を押すようにエアグルーヴへ。

 

 エアグルーヴも「ああ」とだけ答える。

 

 そして時は過ぎて1時間と半分、どうにもエアグルーヴは寝付けない。

 

 ふと寝返りを打つように、体を反対側。つまり、ショパン側へと向ける。

 

 ショパンは既に深い夢の中。安堵に満ちた表情で、くぅくぅと寝息を立てて。

 

 

 ――時折、お母さんと寝言を打って。

 

 

「……」

 

 故意に呼んでいるのでなければ、咎める理由にはならないが、何故そうまでして彼女はエアグルーヴをそう呼ぶのだろう。

 

 ショパンという存在はそこにいるのに、実態は全く見えてこない。

 

 こんなに近くに居るのに、真実は幻のように遠い。

 

「ショパン。本当にお前(・・)は誰なんだ……?」

 

 エアグルーヴの小さな問いは、夜の静寂に飲まれ、消えていった。

 

 

 

 

 








ああ……逢いたい


このお腹の子に早く逢いたい。


ああ……こんなに近くにいるのに


どうしてこんなに遠いのだろう……


ああ早く……お前(・・)に逢いたい……。


















――もう一度(・・・・)……お前に逢いたい……。












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お母さま!?

 

 

「お前未来から来たんだろ?」

 

 

「……へ?」

 

 

 

 言葉を失うショパンの前、そこで腕を組み、凶器と比喩する剛脚を大地に突き刺し、彼女を見下ろす大柄な芦毛。

 

 バレた? 否、別に隠していることではない。誰も信じないから言わないだけ、混乱を重ねるから言わないだけの事実(それ)を、目前の芦毛は知っているというのだろうか?

 

「え、えっと……?」

 

 なんと答えるのが正しいのだろう、首を縦に振っていいのか。というか、何故彼女はそのことを知っている?そもそも彼女は誰だ。敵か否か。

 

「アタシにはわかる。お前未来から来たんだな? そうか……未来のサトウキビ農園はそこまでに深刻なのか」

 

 芦毛は顎を抱え、重く沈んだ顔色を。

 

「ああ! アタシには聞こえんだ! 未来のアリたちの阿鼻叫喚が! だからオマエは来たんだろ!?……頼む! 働き蟻たちの職をなくすわけにはいかねぇんだ! パームシュガー野郎どもに好き勝手にはさせねぇ!!」

 

「……?」

 

 瞳を滾らせ、大地をさらに踏みしめる。地割れが起こるのではという懸念すらそこにはある。

 

「ゴールドシップさん! ご迷惑になるような行為は慎むようにと!」

 

 芦毛の背後に現れるもう一人の芦毛。大柄な芦毛の後ろ襟を掴み、腕の細さに似つかわしくない剛腕で、彼女を連れ去る。

 

「待ってくれよ! マックイーン! ホントなんだって!! アイツは未来人なんだって!! マックちゃんにだってわかんだろ!?」

 

「意味の通らないことを!」

 

 ずりずりと大きな不沈船は踵を引きずり、後ろ襟にされるままショパンの視界からフェードアウトしていく。それでも彼女は『信じてくれ!』だとか『本当なんだって!』と最後まで喚き続けた。

 

 結局はただの冗談だったのだろうか。……だが或いは。そこに残されたショパンに、明確な答えはなかった。エアグルーヴの言いつけ通りに、授業が終わった後中庭で待機していたショパンは、再び独りぼっち。

 

 ベンチに掛けて、ふと息をつく。本当にあの大柄な葦毛が、未来への何かを知っているのなら……。ショパンに纏わる淡い気持ち、それは未来へ戻れるという希望なのかもしれないし、折角会えた母との別れを惜しむ、少しばかり望まない気持ちなのかもしれない。

 

 いつまでも過去(ここ)に居続けられるのなら、(エアグルーヴ)と何時までも時を共にできるのなら。それは本望なのかもしれない。だけど、自分には自分の居場所というものがある。ここに彼女の本当の居場所などない。在るのは違和感と矛盾だけ。

 

 それに未来には、ショパンの()と仲間たちもいる。彼ら彼女らは、いつまでもショパンの帰りを待っているに違いない。それらを全て捨ててまで、ここに居残ることを望むことが間違っていることくらい、幼いショパンにだって理解できること。

 

 しとしとしと、時を超え、変わらぬ愛を唄う三女神たちへ、ショパンはか弱く小さな瞳を向ける。

 

 彼女がここへ来た意味とは何なのだろう。女神たちが彼女に望むこととは何なのだろう。

 

 ……きっとあるはずだ。"何か"が。きっと。

 

 それを理解、或いは手中に収めたその瞬間こそが、彼女がエアグルーヴと邂逅した意味へと変わるのだ。

 

 だが……

 

 だけど……

 

 だとしたら……

 

 そうだとしたら……

 

 

 

 その時(・・・)は……

 

 

 

 

 今度こそは本当のお別れ(・・・・・・)になってしまうのだ。きっと……。

 

 

 

 

 ……三度目(・・・)はきっとない。もう二度と……会えない。

 

 

 

 

 

「――すまない。待たせたな、ショパン」

 

 ピン、と萎れていたショパンの耳が浮く。それは、『吃驚(おどろき)』からようやく『安堵(しっている)』に変わったショパンにとっての福音。

 

 名前を呼んでもらえるだけでも、彼女にとっては手に余るほどの贅沢であることに違いはない。

 

「あ、うん!」

 

 ショパンは喜びの面を作り、エアグルーヴへと手向ける。だが

 

「……どうした? 調子でも優れんか?」

 

 エアグルーヴはショパンの僅かな変化でさえも逃さない。先ほどまでの憂いを隠したつもりであっても、彼女(母親)の前でそれは無力のようだ。

 

「ううん、なんでもない」

 

 それは、これ以上は訊かないでほしいといった願いを込めた答えだった。憂いは確かにある。いつか必ず来る、お別れを覚悟しなければならない日。だから、それ以上を考えたくなかった。

 

 ただ今は、母と共に居られる時間を、何も考えずに。もう少しだけ、この運命に甘えていたい。それは幼いショパンの拙い我儘。

 

「いいだろう。では、手伝ってもらうぞ」

 

 ショパンの心を、エアグルーヴが感じ取ったのかは不明だ。だが、エアグルーヴは彼女への詮索を打ち切り、背を向けた。ショパンは何時もの如く彼女の背についてく、ついてく。

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「散水は潤沢に、均一に渡るようにが基本だ。だが必要以上のやりすぎは禁物だ。根腐れの原因になる」

 

「足元に留意しろ! 踏むんじゃないぞ」

 

「剪定ばさみは慎重にな。切るところを違えるなよ。怪我にも注意しろ」

 

 青々しい緑に包まれ、花々の香りが萌ゆる花壇の中、女帝の小言はいつもに増して多い。ただでさえ鋭い眼光が、一層研がされるようだ。

 

 普段と違った緊張感の中、それでもショパンは一つづつを堅実に。

 

「筋は悪くない、お前もガーデニングの歴があるのか?」

 

 女帝の小さな賞美にショパンは綻んで答える。

 

「ううん。あんまりないけど、でもお花は私も(・・)好きだから。大切にしてあげたいなって」

 

「そうか、殊勝な心掛けだ。花は実に良い……身を着け花弁を着飾る瞬間とは儚いが、そこには語りつくせぬ比喩しきれぬ、形容しきれぬ美しさがある。お前も花々に教えてもらうといい。情と道徳を」

 

 エアグルーヴは一転して、吊った瞳を優しく下すと、美しく開いた花に手を携え、子を愛でる母(・・・・・・)のような優しい顔を無意識の下に作った。

 

 その横顔に、ショパンは惹き込まれる。自分が生まれた日も、母はこんな顔をしたのだろうかと。

 

 ――いつかでいい。今の私に同じように微笑んでくれるのかな。と。

 

 ショパンは剪定に戻ろうと、再び生い茂る花々に相対したとき、あっと声を上げる。

 

「どうした?……虫か?」

 

 僅かに身構えるエアグルーヴ、花と彼女の天敵が居るというのなら放置できる問題ではない。

 

 だが、ショパンはふるふると横に首を振り、声を上げた真因を指す。

 

「この子、元気がない……」

 

 ショパンの指の先、色が落ち萎えた花弁。花の向きすらも下向きに。

 

「……そうか、育ちきれなかったか」

 

 エアグルーヴは哀愁と同情の瞳をそこに向ける。

 

「切り落としてやれ。他の花への悪影響になる」

 

「……切っちゃうの?」

 

 ショパンは念を押すように。

 

「ああ。可哀想なことだが、致し方のないことでもある。今ある生命(いのち)を育む為にも…な。だが今日までを懸命に生きてくれたこの花を、忘れてくれることはない。…覚えておけ、命とは紡がれるものだ。ここで途絶える命でも、想いが愛が、死ぬことはない」

 

 ショパンは僅かな抵抗を感じながらも、萎れた花の首元に刃を翳す。俯瞰してわかる彼女の気後れ。折角産まれ、生きてきた花を殺すのだ。…自分の手(・・・・)で。

 

「代わるか?」

 

「ううん……大丈夫」

 

 ――シャッ。花の断末魔(さいご)は静かだった。目の前で一つの命が終わった。

 

 ショパンは落ちた花の株をそっと抱え、『ごめんね』とひとことの謝罪を。

 

「お前のせいではない。命は必ず終わる。生在る者の宿命だ」

 

 エアグルーヴはショパンの頭に手を翳し、彼女と共に散った花を悼んだ。

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 少しばかり日差しも傾いた頃合い、花の手入れもようやく目途が立ち、二人は後片付けに勤しむ。

 

 剪定した後の葉の名残りや、使った後の道具を几帳に仕舞っていく。手入れをした花壇であれど、後を濁せば美しく映えることは約束されない。

 

「さぁ、今日はここまでにしよう。……まぁなんだ。助かった」

 

 花の情景に踊らされ、絆された結果なのだろうか。エアグルーヴはショパンへ謝辞を送る。その一言に、ショパンが喜ばない筈はない。

 

「うん!」

 

 褒められた。感謝をされた。ショパンの心は踊る。耳も尻尾もゆらゆら彷徨い、薄紅に染まる頬にかつての憂いが薄れてゆく。

 

 寮へ戻ろう。そうエアグルーヴが残し、二人が花壇に背を向けようとした時。

 

「エアグルーヴぅ~!!」

 

 どきりと、予想だにしない突然に、二人は意表を突かれる。張りのある活発的だが、少しだけ熟れみのある、大人の女性の声。それが二人の背を叩いた。

 

 踵を返す先に居た、一人のウマ娘。エアグルーヴと同じ毛色にアイシャドウ。何処か似通いながらも、彼女(エアグルーヴ)と対を成すほどの穏やかさと明るさは、大人の余裕と称していいのだろうか。

 

 エアグルーヴは瞳を大きく開けて、状況の整理に数秒を要し、ようやく言葉を発した。

 

「お母さま!?」

 

 それに続いて、ショパンも一言。

 

 

 

「おばあちゃん……若い」

 

 

 

「なッ!? 貴様! 私のお母さまに対し、何を!?」

 

「まぁまぁ、落ち着きなさいな」

 

 エアグルーヴの母は、憤る彼女を窘め、そっとエアグルーヴの陰に隠れるショパンに近づく。

 

「なぜ。こちらへ?」

 

「うん? ちょっと近くで用事があったのよ。それに我が愛娘の様子がどうも気になっちゃって。それで?」

 

 エアグルーヴの母は、顎に手を添え隠れる黒鹿毛を目にする。

 

「ふぅん……この娘が、アンタが手紙で言ってた『不思議な娘』ですっけ?」

 

「不審ウマ娘です。何も詳細が分からない状態で、一時保護を預かっているだけです」

 

「でも聞いたわよ~。この娘にとって貴女はお母さん(・・・・)なんですって?」

 

「……世迷言です」

 

 この手の話、エアグルーヴの母は、娘と違ってどこかを楽しむようだった。それは単なる好奇か、はたまた何かを感じているのか。どちらにせよ、そこに憂いの文字はどうもなかった。

 

「そっか。ねぇ、あなたお名前は?」

 

「ショパン……」

 

 エアグルーヴの母は少し身を屈め、ショパンと視線を合わせて問い、ショパンは素直を答えていく。

 

「どうして、エアグルーヴが貴女のお母さんなの?」

 

「それは……そう(・・)……だから」

 

 信じてもらえなくてもいい。どうせ真実を語っても、嘘を作り上げても、結果は同じなのだから。だったら、嘘はつかないでいたい。

 

「ふうん……なるほど。エアグルーヴがお母さんなら、私はおばあちゃんか……」

 

「っ!? 貴様! 今すぐ撤回をしろ!」

 

 母の機嫌を損ねたか。エアグルーヴに焦燥が走る。だがエアグルーヴの母は、その程度で動じるタマ(・・)でもない。それどころか――

 

 

 

「かーわいいっ!!」

 

 

 

 ショパンを思いきり抱き締め、頬ずりを始めた。

 

 

「お母さま!?」

 

「うーん!どんな娘かと思ってたけど、たまんないわねぇ……」

 

 ショパンはエアグルーヴの母にされるがまま。彼女の愛撫を受け入れる。ショパンにとって、エアグルーヴの母、つまり祖母のことは知っている存在である故、そこに恐怖はなかった。

 

 ……それを受け入れられないのは、中間にいる彼女(・・)の母であり彼女(・・)の娘であるエアグルーヴ本人だけのようだ。

 

「冗談はお止めください! そいつは正体不明の……!」

 

「あら、でも私この娘のこと、他人のような気がしないわ」

 

 エアグルーヴの母はにこりと笑って、ショパンを懐に抱えながら、エアグルーヴを見た。

 

「他人の……?」

 

「だってほら、目元なんてあんたにソックリ! 私の若い頃にも似てるわぁ。ほら耳の形とかさ!」

 

「お母さま……」

 

 エアグルーヴの母が天真爛漫で、娘たちを驚かす言動を見せることは少なくはない。今日のそれも、同じ調子(・・)かとエアグルーヴは溜息を。

 

「ねぇ、貴女どこから来たの?」

 

 そんなエアグルーヴを横目に、エアグルーヴの母はまだ見ぬ孫へと質問を重ねる。

 

「えっと……」

 

「もしかして、未来とか?」

 

「……うん」

 

 エアグルーヴの眉がピクリと動く。

 

(……未来?)

 

「そっかそっか。じゃあどうしてショパンちゃんは未来からきたの?」

 

「……わからない」

 

 現実を離れつつある二人の会話。双方、どこまで本気の会話なのだろうか。しかしエアグルーヴの母は、ショパンの何も否定をしない。寧ろ、彼女の一言一言を喜んでいるようだった。

 

「それじゃあさ……」

 

 エアグルーヴの母は身を乗り出して、ショパンへ耳打つようにして。

 

 

「――お父さんは誰?」

 

 

「……えっと」

 

 

 ショパンが詰まる理由。無論、父のことは知っていはいるけど、彼女の尾を引く懸念。横目でエアグルーヴをさらりと見て、思う。

 

 

 

 ……言っていいのかな?

 

 

 

「あはは! それ訊いちゃうのは反則よねぇ」

 

 とエアグルーヴの母は笑いながら、再びショパンの頭を撫でた。

 

「……でも、知ってはいるんでしょ?」

 

 ショパンは、少し頬を照らして頷いた。

 

「お母さま。お戯れが過ぎます」

 

「あら、御免なさい。ちょっと舞い上がっちゃった。……でもね、エアグルーヴ」

 

 エアグルーヴの母はショパンを開放すると、そのまま娘に囁く。

 

「この娘が言ってることが本当なら、この娘、貴女の"運命の人"を知っていることになるわよ」

 

「……へぇ?」

 

 女帝の口から思わず零れた、呆気。

 運命の人。その言葉を理解するのに、数秒を要した。

 

「な…っ。し、信じるわけがありません! 戯言です!」

 

「あらそう? 私、この娘が嘘つきにはどうも見えないけどねぇ」

 

「では、信じるのですか。未来から来たなどという妄言を」

 

「それも面白いじゃない」

 

「面白いって。だとしたら何の為に」

 

「そうねぇ。貴女に大事な何かを教えるため。もしくは、貴女から大切な何かを教わるため……ってところかしら?」

 

 エアグルーヴの母の瞳、女帝と呼ばれる娘を産んだその瞳は、サファイアの如く、静かに落ち着いていた。

 

 エアグルーヴはようやく気が付いた。母の目が、冗談を語っていないことに。

 

「エアグルーヴ。全てを疑ってかかることも悪いことじゃない。だけどね、時に愛を持って信じてみることも、貴女の何かを変えるかもしれないわよ?」

 

「何か……とは?」

 

「それは二人で探すこと。この娘(ショパン)貴女(エアグルーヴ)とで」

 

「……問わせてください。どこまで、本気なのです」

 

女王(わたし)はいつも本気よ。レースも恋も運命も現実も…未来も」

 

 

 母の瞳の前、エアグルーヴは何も答えることができなかった。

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 ひゅうひゅうと五月蠅(うるさ)い夜風に眠りを阻害される。

 

 鬱屈だ。……否、それはただ他の何かのせいにしたいだけ。真因は…日中の母の言葉。

 

『他人のような気がしない』

 

 ベッドに伏せるエアグルーヴの脳内に、その言葉が際限なくリフレインした。

 

 くだらない。お母さまもあんな御戯れを。

 

 エアグルーヴの母の言葉、いつもならすんなりと受け入れられるはずの彼女の言葉。今回ばかりはそうもいかない。

 

 そんな(わだかま)りに嘘をつくように、エアグルーヴは無理に寝返りを打ち、強引に眠気を誘う。

 

 寝返れば当然、彼女は居る。愛らしく、細くか弱い寝息を立てて。

 

「……」

 

 ああ、厄介だ。どうも、厄介だ。

 

 

 

 できない

 

 

 

 どうも……できない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……完全に否定できない。

 

 

 

 

 

 

『他人のような気がしない』

 

 

 

 

 

 

 それは、エアグルーヴがショパンと共に過ごし始め、無意識の下に育まれたとある情。

 

 言葉にされて、初めて見えた気がした"何か"

 

 片鱗はすでに、初めて彼女と出会った時から、全く無いとは言い切れなかった。

 

 しかし、あり得る筈がない。あり得ていい筈がない。

 

 だから、その心の囁きに耳を塞ぎ。見ぬふりをした。

 

 だから、無理にでも彼女に冷たく当たるしかなかった。

 

 そんな感情を認めてしまえば、エアグルーヴ自身もまた、混沌の渦に飲まれてしまうことになるのだから。

 

 ロジックが何一つ通用しない、カオスの世界へ身を投じてしまうことになるのだから。

 

 

 

「教えてくれ。お前は誰だ……未来って……何だ」

 

 

 昨日と同じ問を。

 

 

 回答は寝息。或いは寝ぼけた寝言。

 

 

 

 エアグルーヴは人差し指でショパンの前髪を分け目から横に流す。

 

 髪質、目元、耳の形、花を好く感情…こじつけだ。

 

 でも、或いはそれらが、前述した情を裏付ける根拠だとしたら。

 

 考えれば考えるほどに、何も見えなくなってくる。

 

 

 だから、厄介だ。

 

 

 本当に何の情も湧かないでいるのなら、どれほどに気が楽なのだろう。

 

 

 エアグルーヴの手は、ショパンの耳へ。

 

 

 耳の形。昔一度だけ、エアグルーヴは母から、耳の形がそっくりだと言われ喜んだ記憶がある。

 

 

 耳の形というのは、それほどまでに深い思い入れのある絆と証。

 

 

 くにくにくに……触って何かなんてわかるのだろうか。

 

 

 それでも、くにくにくに。

 

 

「……」

 

 

 くにくにくに……くにくにくに……

 

 

「……んぅ? なぁに……?」

 

「あ…いや、すまん…」

 

 エアグルーヴは慌てて手を放す。

 

「んぅ……」

 

 それと共に、再びショパンは睡魔に抱かれ、落ちていった。

 

 

 それを見たエアグルーヴは、何故かクスっと理由なき笑みをこぼしてしまった。

 

 

 一瞬だけ。この娘の寝顔が、愛おしく感じてしまったからなのかもしれない。

 

 

 

 ……くだらないな。

 

 

 

 ああ、厄介だ。

 

 

 

 

 









神よ





今日この日ほど、あなたを恨んだ日はない。





あなたは、僕の妻のみならず、娘まで奪おうというのか……





あの娘は、妻が残したたった一人の……





命が欲しいというのなら……代わりに僕の命を持っていくといい。だから……





娘を……返して……






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忘れ物

某年 4月23日

幸いと不幸が同時に訪れた。

分娩室に響いたのは、確かに天使の声だった。この世に生を受け、未来を望む喜びの唄を奏でる歌姫。誰もが酔いしれる産声だった。

だが、その空間には死神もいた。

彼には見えなかった。だが、彼女(・・)には、はっきりと見えていたらしい。

彼女は生まれたばかりの、か弱き幼い天使を守るために、その身を死神に差し出した。

その傍らで彼は何もできなかった。ただ、ただ、悲鳴を上げ続ける娘の声と、衰弱していく妻の狭間で、何もできなかった。

しいて言えば、情けなく涙を流すことだけ。弱く妻の名前を呼び続けることだけ。

これほどまでに自分とは甲斐性がなかったのか。自分を責めても責めきれない。

そんな夫の手を、妻は凍える手で取った。

『娘を……お願い』

血の気の引きつつあるその表情に、憂いなどなかった。娘のためなら。そう顔に書いてあった。

彼は必至で謝った。必死で、必死で。娘に劣らないほどの涙を零しながら。

だが妻は最期にこう言った。

『この娘は何れ私に会える。その時まで、この娘を守って……』

その言葉の意味を、彼は追えなかった。

そして、死神は





妻を連れ去った。




「行ってきます……お父さん」

 

 それが、彼が最後に聞いた娘の言葉だった。父に対し決して憂いを見せまいと、健気に作るその表情が少し染みた。

 

 それでも、彼は一つの糸に懸けていた。娘が、今日から通うトレセン学園へ足を踏み入れてくれれば、きっと何かを見つけてくれるのではないのかと。強い心を作ってくれるのではないかと。

 

 淡い気持ちであることは確かだった。縋るような気持ちであったことも認める。だが、祈らずにはいられなかった。

 

 彼女には随分と不憫な思いをさせた。ただでさえ、母親のいない家庭。(ショパン)と言えど、思春期を迎える年頃の少女。特に気難しい時期であることは確かだろう。そんな時に、同種族、同性の母親という存在が欠けていることは、彼女にとって一種の不自由であったことは拭いきれない事実だろう。

 

 娘が父親に明かせ共有できる事柄など、指で数えられる程度しかない。娘とはそういう存在だ。

 

 それに追討ちをかけるように、残された者たちの父娘(おやこ)の時間というものも、十二分であったとは言い難い事実だった。男手一つ、そしてURA本部での勤務。激務から逃れられるハズもない。日付が切り替わるような時間に帰宅をすることも珍しくはなかった。

 

 その度に、ショパンは一人自宅にて、母親の形見とぬいぐるみに囲まれて、布団の中へと包まっていた。

 

 食卓には、祖母が用意していってくれたのであろう、食事の後。独りぼっちで今日も食べたのかと、孤独の娘を想像するだけで、心が酸に溶かされそうだった。

 

 それでも、ショパンは父の顔さえ見れば、一生懸命の笑顔で微笑もうとしてくれた。

 

 気遣っているのだ。父を。どんな苦しい思いをして、自分を養ってくれているかを幼いながらに理解しようとして。

 

 苦しかった。妻に任された筈の娘を、こういう風にしか扱えていない事実が。

 

 情けなかった。決して娘を苦しませまいと努力した結果が、娘を苦しめていることになるという皮肉な現実が。

 

 飢えているだろう……愛に、家族に、母親に。

 

 でも、どうしてやることもできない。できることは、犬橇の犬の如く、一心不乱に働いて、どうにか娘にこれ以上の苦を負わせなくていいようにと、祈ることだけだった。

 

 そして、長い永い時を経て、ショパンはトレセン学園へと巣立った。ここまで無事に育ってくれたことに、安堵の息を十数年ぶりに吐いた。

 

 トレセン学園に行けば、大勢の仲間たちがそこには居る。かつてエアグルーヴが過ごした軌跡でさえもがそこにはある。それは()トレーナーである彼であるからこそ、知りえる期待の根拠。

 

 もう、寂しい思いはしなくて済む。孤独に苦しむことだって。

 

 母親のいない苦悩だって……。

 

 結局それは、自分が娘に恵んであげられなかった幸せを、トレセンに肩代わりさせようという、卑怯な心なのかもしれない。

 

 彼の答えは、幾度目かの妻への謝罪だった。

 

 

――

 

 少しだけ時は移ろい。トレセンの春が溶け始めた頃だったか。

 

 変わらず彼は、己を喰らいにかからんとする仕事の数々と殺し合いの日々を過ごしていた。尽きることのない書類、止めどなく更新され続けるメール。鳴りやむことを知らない業務用携帯。部下の仕事の承認、上司の顔色伺い。

 

 今日も日が落ちて久しい時間まで働いている。世間の民たちはおやすみの時間だというのに。

 

 だが、この時間になろうとも、娘の孤独を案じる必要がなくなったことは幸いなことのかもしれない。

 

 孤独に包まれて、眠りに落ちる娘をその目にすることが辛かった彼にとって、それは肩の荷が降りる程の安堵である筈だった。

 

 ひっ切りなしに鳴き続ける携帯に、また一つの着信音。業務用携帯ではない。私用のスマートフォン。

 

 相手を確認する余裕すらない彼は、強引にそれを引っ張り出し耳に当てる。

 

「はい、秋名です」

 

『あ、あの、秋名 司(あきな つかさ)さんのご連絡先でお間違いないですか?』

 

 わずかに揺れる声色、ビジネスに慣れている声ではなさそうな気がした。

 

「ええ、そうですが」

 

 まずった。新人セールスの類かもしれない、彼は通話終了のボタンに指を翳そうとするが、相手の次の一言に、手は止まる。

 

『私、トレセン学園生徒会長のメルセデスと申します』

 

「生徒会長……?」

 

『単刀直入にお訊きします。貴方のご息女、ショパンさんはご自宅に戻られたりなどされておりませんか?』

 

 生徒会長を名乗るウマ娘の声、切羽詰まっていた。通話越しにでも焦燥が感じ取れた。仕事の手が止まる…嫌な蟲が騒ぐ。

 

「自宅って、娘は寮にいるはずじゃ。僕の手元には……」

 

『それじゃあ……やはり……』

 

「状況が見えません。娘に何かあったんですか……?」

 

 今思えば、訊かなければ、知らなければよかったのかもしれない。

 

 違う、聞きたくなかった。知りたくなかった。それが本音だ。

 

 

『実は、ショパンさんの……行方がわからないんです』

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

「そうか、随分と待たせてくれるな。わかった。今日から、だな」

 

 約束を残し、エアグルーヴは通話を切る。僅かに靡く尾と耳。彼女の機嫌を誑かす通話相手は誰なのだろう。

 

 彼女は一つ息を吐くと、踵を返しショパンを探す。彼女の所在、大方察しはつくもの。

 

 高等部の教室前、約束をせずとも彼女は終業時間になれば、自ずとそこへやってくる。背筋をピンと、両手を前に揃え、きょろきょろと視線を流し、エアグルーヴが教室から出てくるのを健気に待つ。

 

 エアグルーヴを煩わせまいとそうしてくれているのだろうが、エアグルーヴからしてみれば、初等部の娘が高等部のエリアに踏み込むことはあまり好ましいことではない。トラブルを懸念しているわけではない。ただ、高等部エリア(ここ)には何かと曲者が多い。

 

"Howdy!Chopin!"

 

「ヒェッ!」

 

 炭火と僅かな硝煙の香りを纏う大柄な栗毛(タイキシャトル)が、小さな黒鹿毛(ショパン)を両腕でホールド。

 

"Hmm..so cute!"

 

 激しく繰り返される頬ずり(スキンシップ)に、ショパンは尻尾をパタパタと無意味に振って抗う。

 

「今日もエアグルーヴのお出迎えですカ~?」

 

「は、はいぃ……」

 

 耳もパタパタと抗うが、彼女の剛腕の前には無力も等しい。

 

「こらこら、ポニーちゃんが困ってるよ」

 

 大柄な栗毛を諌めるは、見目好き瀟洒な青鹿毛(フジキセキ)。タイキシャトルの肩をとんとんと叩き、彼女を宥める。

 

「Oh! ソーリー!ショパン!苦しくなかったデスカ…Huh?」

 

 腕を開いたタイキシャトルの懐に、ショパンの姿は既になかった。

 

 くるりと辺りを見渡した先、ショパンはフジキセキの懐へとイリュージョン。

 

「ははは、大変だったねぇポニーちゃん」

 

 フジキセキはショパンの頭をこねこね撫でながら、見せつけるようにタイキシャトルへ。

 

「フジ! ショパンの独り占めはよくありまセン!」

 

「君だってしていたじゃない」

 

 煮える二人の刺し合う視線。通電したフィラメントのように光を連れ火花を散らす。

 

 だが、不思議なウマ娘に関心があるのは二人だけとは限らない。

 

『あ、ショパンちゃんだ!』

 

『今日も来てるんだ、可愛い!』

 

『ねぇ、ちょっと撫でていこうよ』

 

『お菓子食べる~?』

 

 放課後の教室からぞろぞろと退出する高等部生たちは、ショパンを見つけるや否やたちまちに囲い、ショパンは耳を尻尾を頬を頭をされるがまま。

 

 ふにふに くにくに さらさら なでなで ちやほや わさわさ ここに来るといつもこれだ。

 

「……おい、大概にしておけお前たち」

 

 そこにようやく姿を現すエアグルーヴ。眉間に皺を寄せて、好き勝手にショパンを弄ぶ彼女らに視線を刺した。

 

「おや、お母さん(・・・・)が来たようだね」

 

 フジキセキはけたけたと笑ってショパンを解放し、ショパンは小走りでエアグルーヴの背後へ。

 

「基本は干渉無用だと言った筈だ。何があるかわからんウマ娘なのだぞ」

 

「いやぁ、私にはそんな物騒な娘には見えないけどねぇ、しっかりと身なりも良くてさ」

 

 ちらりと視線をショパンへ、ショパンはさらにエアグルーヴの奥に隠れる。

 

「当然だ。毎朝私が手入れをしているんだ。尾も同じテールオイルで油分を保護させている。ウマ娘の身だしなみは命だからな」

 

「へ、へぇ……面倒見がいいんだねぇ。本当にお母さんみたいだ」

 

「世話を焼いてやってるだけだ。監視役としてな。私が監視についていながら、みすぼらしい様を晒すわけにはいかんだろう」

 

 既に慣れたフジキセキの母親弄りも、エアグルーヴは涼しくいなす。

 

「じゃあ、監視役さん? その娘のお家はみつかりそうかい?」

 

 重ねてフジキセキが問う。その問いにだけは、エアグルーヴも難儀を示す。

 

「いや、まるで進展はない。同じ問答の繰り返しは今も変わらん」

 

 言葉を流しながらエアグルーヴは腕時計をちらり。無駄に流れていく秒針がどうも気に食わないらしい。

 

「と、油を売るのもここまでだ。ショパン、いくぞ」

 

「うん」

 

 エアグルーヴは仲間たちにさっと背を向け足を踏み出す。ショパンは残った高等部生たちに一礼を下げて、エアグルーヴの背中についてく。

 

 "See Ya! Chopin!"

 

 大手を振って彼女を見送るタイキシャトルの傍らで、フジキセキも小さく手を揺らす。

 

 さて自分らも、と彼女らが踵を返した先に、気難しい顔をした占い師の姿がそこにあった。

 

「……? どうしたんだい、フクキタル」

 

 淡き未来を示す自慢の水晶玉を手に、マチカネフクキタルはそれとショパンの背と交互に視線を振る。

 

「はわわ……これはなんという……」

 

「何が?」

 

「あのショパンというウマ娘。前々から摩訶不思議めいたものを感じる方とは思っていましたが……」

 

「もしかして、何か見えるんデスか?」

 

「いえ……それが」

 

 

 息をのんでフクキタルは答える。

 

 

「何も見えないのです……奇妙なほどに……」

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「トレーニング?」

 

「ああ、トレーナーが今日出張から戻ると連絡があってな、ようやくというわけだ」

 

 ジャージの袖に腕を通しながらエアグルーヴは言う。少しだけ艶やかな声色は彼女の機嫌のよさを表しているのだろう。だが、襟口から頭を覗かせた時に、ショパンに向かって一つ。

 

「……とは言っても、トレーニングとは私のトレーニングだ。残念ながらお前のトレーニングではない。ここまで連れて来ておいて何だが、無駄な時間の浪費を嫌うなら、先に寮に戻っておいてもいい」

 

 隙なく整頓されたロッカーを閉め、ダイヤルナンバー"0423"の数字を雑に散らす。

 

 しかしショパンは首を横に振り、自分も練習に付き添いたいとその口から意思を示した。

 

「いいだろう。では、来い」

 

――

 

 初々しさがまだ残る芝の踏み心地は悪いものではない。真夏の硬さと比べまだ柔らかさが残るそこには、初心の記憶を覚ませてくれるかのような錯覚すら覚える。

 

 腕を伸ばし、足を伸ばし、筋を伸ばし、節を慣らし、指先から轢音を捨て、肺に喝を入れこむ。

 

 トレーナーの姿はまだない。彼が現れる前に、一人でできること全てを片しておき、必要な時間を全て鍛錬に充てる。それが女帝流らしい。ショパンも傍らで、一応ジャージを纏ってエアグルーヴに倣い、準備体操。しかし、それも拙い。

 

「む。お前、随分と固いじゃないか、よく解しておかねば、今後も苦労するぞ」

 

「う……ん……でも……」

 

 前屈しようにも、指先が足に届かない。

 

「下手に力むな。息を捨てろ。吐きながらやるんだ」

 

 そういってエアグルーヴはショパンの背中をそっと押す。

 

 ふぅ~っと肺に残る息を捨て、エアグルーヴの補助を貪りながらショパンは上半身を前へ、前へ。

 

 伸びる。伸びる…が

 

「ふっ、くぅ……うわあ! 痛い痛い! お母さん(・・・・)!」

 

「あ! すまん!」

 

 エアグルーヴは慌てて手を放す。無理に強く押したわけではないが、ショパンの体の硬さは予想以上。少しだけグズる彼女の背中を、エアグルーヴはさすった。

 

「まぁ、時間をかけてやっていくしかない。こればかりはな」

 

「……お母さん(・・・・)?」

 

 二人の鼓膜を揺らす、一人の男性の声。二人は座り込む体を起こして、その声の主に目を向ける。やっと来たか。とエアグルーヴは吐く息に載せて言った。

 

「ああ、すまなかったね。長い間」

 

「いや、いいオフにもなれた。私に支障はない」

 

「そうかい。で、その娘が例の……?」

 

 スラックスにネクタイを解き、袖を捲った齢20代後半ともあろう男性。眼鏡を奥に押し込むと、改めてエアグルーヴの傍らにちょこんと居座る、見覚えなき娘をレンズに映した。

 

「ああ、私が面倒を見ているだけだ。練習にも一応同伴させようと思ってな。構わないか?」

 

「僕はいいけど。えっと。君がショパンさん……だっけ。僕は秋名(・・)、エアグルーヴのトレーナーさ」

 

 想定の外のことではあるが、担当のエアグルーヴがそう決め、重篤な彼女への支障も想定されるものとは考えにくいとあれば、この不思議ウマ娘を拒絶する理由にはなり得ないであろうと、秋名はそう判断しショパンへ手を差し出す。

 

 だが、とうのショパンは秋名の手を握ることなく、ただ、彼の顔をじっと。

 

 何か顔についているのだろうか。と秋名は彼女の沈黙に疑問を持つが。

 

 ショパンの顔は、次第に崩れていく。ピンと張った目じりが少しづつ降りてくる。そして、うふ、と一つ失笑にも似た笑いを溢した。

 

「どうしたの?」

 

 秋名が問う。

 

「ううん…そう(・・)だもんね。何でもないよ。よろしくね、トレーナーさん(・・・・・・・)!」

 

 そう、ショパンは久しい笑顔を二人に見せ、秋名の手を握った。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

「それで……娘は」

 

 濁った夕焼けがやけに苦い。そこに居座る者たちの顔すらも、その苦渋に悩まされているかのよう。生徒会室の明かりすらも、その黄昏の前には寂しかった。

 

「何も手掛かりは……」

 

 メルセデスは、言葉をはっきり切ることができなかった。

 

 時を遡り、あの日メルセデスがショパンと別れ数時間後、栗東の寮に帰り着いた彼女の下に一つの着信があった。ショパンが入寮している美浦寮の寮長からだった。

 

 ショパンが寮に戻っていないが、所在を知らないかという連絡だった。彼女のスマホに通話を掛けても出ないし、ショパンの友人たちも所在を知らないと言ったらしい。寮長の言葉に、メルセデスは口元を手で覆い、それは奇妙だと言った。ショパンが生徒会室を後にして既に数時間。例え道草を食おうとも、帰宅に要する時間にしては十分すぎたのだから。

 

 もしかしたら、まだ学園の中にいるのかもしれない。そうメルセデスは言い、学園内の捜索を提案した。だが寮長は、その提案を渋った。基本門限に厳しい寮であろうとも、遊びで遅刻をしたり、無断で外泊をする輩がいることも、あまり珍しい話ではないからだ。

 

 どうせそのうち戻るだろう。明日こっぴどく叱ってやる。と寮長はそう残して通話を切ったが、メルセデスにはあのショパンが無断で外泊をしたり、門限を無下にしてまで遊びまわるような生徒にはどうしても思えなかった。

 

 嫌な虫が騒いだ。メルセデスは栗東寮の寮長に掛け合って、時間外の外出を願い出た。栗東の寮長でさえも美浦の寮長と同じ意見を示したが、あの生徒会長の憂いというのなら無下にするわけにもいかないと了承した。

 

 すでに夜中と呼べる時間に差し掛かかりつつあるトレセン学園の構内。既に明かりは落ちていた。残る明かりは残業に縛られる教官かトレーナーか。

 

 メルセデスは二人の副生徒会長と共に、校内にショパンの姿がないか探した。途中片方の副会長が学園の中にいるとも限らないのではとの意見を提示し、メルセデスはそれを了承して片方の副生徒会長に校外への捜索を命じた。

 

 残ったメルセデスと副生徒会長の片割れは再び校内の捜索に当たった。教室、図書館、生徒会室、食堂、手洗い場。警備員や残業に追われる大人たちにもショパンの所在を尋ねたが、皆一貫して首を横に振った。

 

 校外に捜索に出たもう一人の副生徒会長から連絡が入った。彼女は何かと顔が広い。品なく屯うチーマーや素行の褒められないウマ娘たちとも繋がりを持つウマ娘。ツテを総動員しトレセン学園のウマ娘が行きそうな所をあらかた調べてくれたが、結果は無成果だった。

 

 淡い期待を燃やされ、落胆するメルセデスに彼女に同伴した副生徒会長が声をかける。そして女神像の前でこれを見つけたと、それをメルセデスへ差し出した。

 

 ……彼女の全身から血の気が引いた。妙な汗が滴る。だってそれは、つい今日ショパンに差し出したCDなのだから。

 

 最後の望みがあるとすれば、実家ではないか。そう副会長が言った。メルセデスは有無を言わさずスマホを手に取って、彼女の父、秋名へと連絡を取った。

 

 お願いだ。居てくれ。無断外泊であろうと私が庇おう。だから、居てくれ。お願いだ。

 

 淡い期待は、カゲロウのように儚く死んでゆく。

 

『自宅って。娘は寮にいるはずじゃ。僕の手元には……』

 

 彼との通話を終えたメルセデスは即座に大人たちへ。もしかしたら、初等部生の娘が行方不明かもしれないと掛け合った。

 

 だが、彼女が失踪してまだ数時間。警察も動かなければ、大人たちだって本気にはしない。

 

 きっと明日になれば。大人はそう楽観を決め込んだ。

 

 

 

 ――次の日になっても、ショパンは帰ってこなかった。

 

 

 次の日になっても

 

 次の日になっても。

 

 

――

 

「私が、あの日、あの時、あの娘に付き添って帰るべきだったんです。彼女、きっと不安定(・・・)だったに違いありません」

 

 メルセデスはソファの上座で両手を重ね、俯いた。

 

「たらればはいいだろ、会長。ンな辛気臭ぇこと言ったってよ」

 

 彼女の傍ら、腕を組んで壁に背を預ける副会長の姿。校外へ出てショパンの捜索にあたった生徒だ。

 

「ですが、クライスラー……」

 

「それよりも、これからどうして行くかだろ。なぁ、親父さん、他にショパンが行きそうな所とかねぇのかよ?」

 

「いや、どこも。祖父母や親戚の家もすべて……」

 

「そっか……」

 

 クライスラーはバリバリと頭を搔いて、深い溜息を吐いた。ふと、秋名が一つの疑問をメルセデスに尋ねる。

 

「そういえば、あの日、あの時、娘が不安定だったとは、どういう?」

 

「ええ、それは」

 

 メルセデスが語ろうとしたとき、生徒会室の戸が彼女のセリフを遮った。

 

「会長、お客人ですよ」

 

「ええ、有難うございます。ロータス」

 

 ロータス、と呼び名を受けたもう一人の副生徒会長。気怠そうな声色の奥から、その客人は姿を現す。

 

「……久しいね、メルセデス」

 

 現役を退いた後であろうとも、彼女の威厳の泉は尽きることを知らない。彼女のシンボルカラーである緑は、今であろうと彼女に寄り添っていた。

 

 メルセデスは彼女の姿を見るや、即座に立ち上がり、目を瞑って頭を下した。

 

「ご無沙汰しておりました。ご足労感謝致します。ルドルフさん」

 

「ああ。大変なことになっているね」

 

 メルセデスはルドルフの為にと上座の席を空けるが、ルドルフはそこに座ることなく、下座に沈み溺れる男へ弱い眼差しを向け、語り掛けた。

 

「最後に直接会ったのは、彼女の葬儀以来かな……」

 

「おそらく……」

 

 彼も彼女も共にURAの職員であることは変わりないが、一つ部署が違えば、まるで別会社のよう。ましてや二人の業務の間に直接的な関わりはほとんどない。互いの名を書類で少し見る。その程度だった。

 

 二人としても、あまり顔を突き合わせることは喜ばしいことではなかった。二人が抱える共通は、既に亡き一人のウマ娘なのだから。互いを見る度、心が締まった。

 

「母猿断腸。こんな形での再会、望みたくはなかった」

 

 今の秋名の姿、肌の張りはすっかり衰え、髭の手入れも杜撰に、その顔からは生気が感じられない。大切なものを二つも失った男。己もふらりと、二人を求めて消えてしまうのでは。そんな不安をルドルフは感じ取った。

 

 秋名はようやく顔を上げ、現URAのポスト理事とも呼び名高いルドルフを見た。あの日々から20数年の時を経ている。彼女の薬指にもリングが置かれている。

 

 時間の魔物の前には誰も敵いはしない。あれだけ眉目秀麗な彼女であろうと、それだけの時を越せば老いというものは隠しきれなくなるもの。……妻がまだ生きていれば、彼女のように共に年をとれていたのかもしれない。そう、秋名は思った。

 

 警察は動いているのかい、とルドルフがメルセデスに尋ねる。彼女が言うには、警察も捜索には当たっていてくれているものの、未だに進展は明るくないとのことらしい。メルセデスは横目で秋名に配慮をするように答えた。やはり芳しくない話をするには心が痛んだ。

 

 ルドルフは、そうかと一つ頷くと、彼らに背を向け、歴代の生徒会メンバーたちが並んだ額縁を眺める。一年、もう一年と時を遡り、記憶の中に生きる過去の自分たちへと辿り着く。

 

 まだ旧校舎だった頃の生徒会室。新校舎になろうとも部屋の間取りは、当時の伝統を重んじるようにデザインされているが、当時を知る彼女からすれば、既にあの頃の面影などないように思えた。せいぜい残っているのは真空管式のオーディオくらいか。

 

 そして、その写真に座る、元部下へとルドルフは対峙する。

 

「エアグルーヴ。君の加護が必要だ。どうか……」

 

 それは祈りに近い囁き、瞳を閉じて静寂の中で彷徨った。

 

 そして、一つ息を吸い込むと、くるりと振り返る。覚悟の面をつけて。

 

「この件、URAとしても放置できない案件だ。今の私であれば何かと本部も動かしやすい。全面的に協力しよう。彼女の手がかり、何か残ったものとかは?」

 

「ええ、一つだけ」

 

 そういってメルセデスは一枚のCDケースを取り出し、机の上に置いた。

 

「CDケース?」

 

「秋名さん、先ほど貴方が尋ねた、ショパンが不安定だったという話にも通じるものです。ルドルフさん、このCDに覚えは」

 

「ある……ね。エアグルーヴがよく好んで聴いていたCDだ」

 

 その裏面には、筆記体で確かに彼女の名が刻んであった。

 

「実は貴女方が生徒会を退かれたその日から、このCDは生徒会室に眠っていました。彼女の『忘れ物』として、歴代生徒会役員たちが、守り紡いできたもの」

 

「忘れ物?」

 

「厳密に言えば、故意に忘れ去られたものです。とある受取人を、ひたすら待って」

 

 ルドルフはCDを持ち上げて表、裏とそのケースを眺めた。特に変わりのないCDという印象しかそこにはなかった。

 

「その受取人が、ショパン?」

 

 秋名の問いに、メルセデスは頷く。

 

「その通り。そして私はあの日、このCDをショパンに返しました」

 

 ルドルフも、そんなケースをエアグルーヴが置いて行った事実など知らなかった。一つ、矛盾が彼女を過る。

 

「待て、なぜ受取人が何れ現れることを君たちは知っていた?これが残された日が私たちの引退の日だと言うのなら、そもそもショパンとは」

 

「……すべては、そのケースの中に」

 

 ふと、ルドルフと秋名の瞳が動く。開けても? とルドルフが問い、メルセデスは無言で頷く。

 

 その中にあるもの。『幻想即興曲 オムニバス ショパン』それの円盤と説明カード――と。

 

 

 二枚の書類。そして、一枚のICカード。

 

 

「これは?」

 

 

 そのカードは、確かに褪せてはいた。20年以上前の代物という証言に、嘘はないようだった。

 

 だが。

 

 ルドルフはポツンと呟いた。

 

 あり得ない。と

 

 

 

 

 ――20年以上も前に、こんなもの(・・・・・)があっていいはずがない…と。

 

 

 

 ルドルフは食い入るように、そのカードを見ると、すぐに残りの書類に手をかけた。

 

 それはエアグルーヴの直筆で書かれた手紙だった。だが、その内容には目を疑った。

 

「ばかな……」

 

 ルドルフはもう一枚の書類を手に取る。彼女の瞳孔が激しく開く。全身から不条理な汗が滲んだ。思わず頭を抱えた。

 

 そして、その書類を握った手をだらんと落とすと、もう一度、彼女は額縁に飾られたエアグルーヴの姿を見た。全身に汗を纏い、焦燥と狼狽を全身に背負って、彼女に語り掛けた。

 

 

「エアグルーヴ……君は……一体……!?」

 

 

「私たちも、半信半疑でした。ですが、ショパンは本当にこの学園に現れた。そして彼女はそれを手にした。20数年越しの母親の私物。彼女が中身を確認したかどうかはわかりません。ですが、彼女の心に少なからず影響を与えたものだとは推測します。それが不安定の理由。憶測ですが、彼女の失踪、何か関係があるのかもしれません」

 

 

 副生徒会長たちも、静かに彼女の語りを見守った。当の彼女らもきっとルドルフと同じ衝撃を得たに違いない。

 

 

「何が……どういうこと?」

 

 

 秋名は彼女らに問う。ルドルフが激しく動揺を覚える理由が見当たらなかったが、直ぐに知ることになる。

 

 ルドルフは書類をすべて、秋名へ手渡す。

 

 その書面の上に踊る、エアグルーヴの字。

 

 一枚目にはこう書かれてあった。

 

『次代 生徒会役員方へ告ぐ。 これは、第73代副生徒会長エアグルーヴが失念したものだ。何れ受け取り手が現れる。 この学園に、黒鹿毛の少女『ショパン』が現れたのなら、このCDを彼女に返してほしい。その時まで、後世である貴女方にその使命を託したい。 道理無き無茶な話だとは自覚しよう。だが、その娘は必ず現れる。必ず』

 

 日付は20年以上の過去。

 

 

 秋名は言葉を出すことができなかった。何を考えることもできなかった。

 

 

 

 そしてもう一枚の書類を手に取る。

 

 

 

 その宛名(タイトル)には、こう書かれてあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『女帝の意志を継ぐ者へ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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お人好し

 さらりと揺蕩う春の宴、ふわふわと靡く白昼の風光。

 

 穏やかな風の中、情景たちは安らぎを求めて時の神にピアニッシモを乞う。

 

 今日もこの地が安息でありますようにと風は歌い、飛禽は祈りを載せて東の空へと消えてゆく。

 

 何人(なんぴと)であれ汚してくれるでない。この平穏を。

 

 ピントがぼやけた季節の戯言。屈託なき楽天家たちが彼女へ説きつける。そんなにあくせくするなと、人生はマイペースこそだと。

 

 笑止。そのような淀みに関心などない。蜃気楼のように漂う誘惑たちの前にも、女帝の心は揺れることを知らない。脚線美から弾き出される轟音を地面に叩きつけ、春眠に現を抜かす春どもへと己を顕示する。

 

 当然、彼らも黙っちゃいない。自然の恵みを蔑ろにするつもりか。お前がどれだけ恵まれている場所に居るか自覚はあるのか。幻想たる情景の中で最高時速70kmを優にたたき出す彼女へ、自然たちの怒りが流体の抵抗となり彼女を後ろへ押し戻す。

 

 女帝はそれを、つんと錐のように尖った鼻息で笑う。そんな自然(おまえたち)の日和った事情など、知ったことかと。

 

 例えここが黄金郷(エルドラド)であろうと、聖地(アルカディア)であろうと、その足を止めてくれることはない。

 

 彼女の意志の前、そのような囁きなど、この脚を止める理由にはならない。

 

 下らぬ重奏曲(もんく)はそれまでか?ならいい。

 

 あとは精々、女帝の独奏(ソロ)を聴くといい。

 

 エアグルーヴは一層低く構える。刹那に息を肺に叩き込み、体中の血流を滾らせ、全てを爪先へと捧げ、大地へ脚を突き刺す。僅かにターフが抉れ土が舞おうとも、それも彼女を惹き立てるディティールに過ぎない。

 

 彼女の踵からフォルテシモが叫ぶ、そして始まる女帝の歌。虜にされたくなければ目を塞ぐしかやりようはない。

 

――

 

「わぁ、すごい……」

 

 エアグルーヴのプラクティス。ただの一本目(アップ)だというのに、スロットル開度は既に本番(さなが)ら。

 

 母のデモンストレーション。ショパンは両手を重ね合わせて、そのスタイルを瞳に焼き付けてゆく。今まで画面の中でしか見たことのなかった彼女の姿なのだもの。ショパンの情が燃えない筈がない。やがてその情はどうしようもない心の蹲りに変わって、ほろりと彼女の瞳に雫を垂らす。ショパンは慌てて、傍らに居るトレーナー(・・・・)にばれないようにそれを拭った。

 

「ブランクがあるとは思えない。見事な仕上がりだ」

 

 エアグルーヴのトレーナーである秋名は、ストップウォッチと記録紙を携えて、担当の現状に不安のないことを確認し安堵の息を吐く。だが、全く不安がないというのは真なのだろうか。不安とまではいかないが、不確定要素ならそこにいるではないか。秋名はちらりと視線を横へ。まるで映画に見入る子供のように、彼女へ釘付けになる黒鹿毛の『不思議な娘』がそこには居る。

 

 噂も一応は聞いている。なんでも、エアグルーヴのことを母親と呼んだのだとかどうだとか。自身も先ほど聞いた"お母さん"というセリフは、強ち空耳でもないらしいのだ。身元も不明、身寄りもない。だからトレセンがエアグルーヴが、彼女の面倒を見ている。少し妙な絵面だ。

 

 だけど、何故だろう。一つ何かが彼女から漂う。それはまるで……。

 

 ふと、彼女の鬣がふわりと逆立つ。瞳がいっぱいに広がる。緩んだ口から感嘆が飛ぶ。彼女が途端に秋名の腕にしがみつく。

 

「おと、トレーナーさん!! ほら! ここからが凄いんだよ!!」

 

 秋名もショパンの興奮に押されるように視線をエアグルーヴへ。最終コーナー差し掛かり、彼女の息が変わる。より前傾に、より鋭角に、ギアをもう一段上げて直ちに己の呼吸と同調(シンクロ)。そして始まる女帝の大サビ(スパート)。彼女の歌はもう1オクターブ上へと転調され、エアグルーヴという旋律がスピードメロとして、春のバッキングを踏みにじって駆け抜ける。

 

 ゴール直前に、秋名は刹那にエアグルーヴと視線が合う。彼女の一瞬の瞳が何を物語ったか、秋名には大方察しがついた。少し余所見をしたことが、もしかしたらばれたのかもしれない。杞憂であってほしいが。

 

 彼女が二人の目前を過ぎた後、ベルヌーイの定理よろしくエアグルーヴが奪った圧力を埋め合わせるように、周りの空気が風となって二人の間を駆け抜けてゆく。彼女が生んだ暴力的なまでな風。このまま本番に出走させれば、きっとトレーナーである彼でさえも弥立つ程の化け物が姿を現すに違いない。ストップウォッチに刻まれた数字に、秋名は血管が疼く感覚を覚えた。

 

「見せて! 見せて!」

 

 ショパンが彼の腕にせがみつく。彼女の耳も尾も宿主の興奮に振り回され、ふりふりピコピコと忙しない。秋名は僅かにストップウォッチを持った腕を落として、ショパンの我儘を受け入れる。そこに記す数字にショパンの興奮は一層大きくなる。鼻息荒く、頬を紅く染め上げて。

 

「ね! ね! すごいでしょ! すごいでしょ!」

 

 この黒鹿毛の少女、まるでエアグルーヴが自分のものだといわんばかりの興奮と捲し立てで秋名へと迫る。ただ秋名からすれば、エアグルーヴのポテンシャルなど知っていて当然。感心を抱く要因があるとするならば、そのモチベーションの高さと、ブランクをも感じさせない自己管理の徹底。

 

 揺れ動くショパンの口から飛ぶ興奮は、やはりいちファンのものと同等。だが、一つだけ秋名に留まった疑問。

 

 その時はあまり気に掛けられなかったが、確かに彼女は言った。「ここからが凄い」と。まるで、彼女のスパートに踏み込むタイミングを予測していたかのように。実際秋名が逸らしていた視線を戻した瞬間が彼女の踏み込みだった。

 

 トレーナーと担当、ある程度連れ添う時期が成熟すれば、そのタイミングを離れた位置からでも察することは不可能ではないが、いちファン程度がずばりと射抜けるものだろうか。可能性があるとすれば、よほど熱心に彼女の研究に取り組んだ者か、或るいは。――シンパシー的なものを感じたのか。……なんて。

 

 

「おい」

 

 

 ふと手繰り寄せられる秋名の意識。彼の前に仁王立ちで佇むは、耳を少し後ろに絞り、不満の化粧を施した女帝の姿。

 

二度(・・)も余所見とは、随分と悠長になったな。出張がそんなに楽しかったか?」

 

「あっ、いや、そういうワケじゃ」

 

 彼女からしてみれば、やっと戻ってきた指導者が、身入らずだというのなら、不興なことこの上ないだろう。やはり一度目の余所見もバレていたようだ。じりじりと詰め寄るエアグルーヴ。そこに――

 

「お疲れ様! やっぱりすごいや! お母さん!」

 

 そうエアグルーヴの機嫌を全て吸い尽くしたかのようなショパンの姿。エアグルーヴに駆け寄って、100点の笑顔を。

 

 エアグルーヴは、ふっと鼻息を鳴らすと、ショパンに向かって手を差し伸べ――頬をつねり。

 

 

「ヒーンッ! ひはひよ!! おひゃあひゃん!」

 

「私をそう(・・)呼ぶなと言った筈だ。何度目だと思ってる」

 

 ショパンはヒンヒンと鳴きながら、エアグルーヴに許しを請う。二人の一連の流れ、既にこのやり取りが板につき始めているような雰囲気さえ感じ取れた。

 

「なるほど、お母さん……か」

 

 ぎろり、エアグルーヴの視線が秋名にも飛ぶ。言葉を介さずとも、これから予測される激が見え透いた。秋名は急いで口を閉じると、記録用紙を即座に用意して、先の一本の話へと話題を翻す。

 

「まぁ、調子はかなり良好みたいだね。このまま優駿牝馬(オークス)、可能性は十二分にある。僕が居ない間でも管理を徹底してくれていたこと、感謝するよ」

 

「自己管理は基本だ。貴様が居らずとも成せることは全てやる。互いの為だ」

 

 エアグルーヴの不機嫌な笑みに、ようやく光が差し込む。そこに見える勝負師としての面影。

 

「流石だよ。恐れ入った」

 

 秋名は一つ目を閉じると、手にしたストップウォッチをリセット。傍らでショパンは、少しだけ赤くなった頬をもちもちと撫でると、エアグルーヴへタオルを差し出す。

 

「今日の課題は前回のベストラップからの-1秒。明日のメニューにするつもりだったけど、今の君なら問題なさそうだ」

 

「1.5秒だ。枠、バ場、天候、相手、全てをワーストで考えたい。本音を言えばもっと欲しい所だが」

 

「いいや。今日は1秒だ。焦らなくていい。堅実さが君のウリだろう?」

 

 秋名は落ち着いた声色で、彼女へ説く。あくまで彼女を管理するのは彼の仕事。それを失念してくれるなと己に言い聞かせる。

 

「……ふん、喰えん男だ」

 

 エアグルーヴは鋭い笑みを残して、彼らへ背を向け再びターフへ踏み出した。

 

 その背中に二人(・・)は惹かれる。一人は、今後彼女はどれほどまでに輝かしい未来を手にするのかと、期待に満ちた溜息を落として。もう一人は、余りに大きすぎる憧れの背中を、その目に焼き付けて。そして、再び始まる女帝の賛歌。弾かれた弾丸のように強く、鋭く、そして麗しく。春を手懐けた彼女を止める者などもう居ない。ショパンは瞳を首を忙しなく振っては、流れゆくエアグルーヴを視線で追ってゆく。時に秋名へタイムを記録を見せてとせがむ。一応エアグルーヴの秘匿情報になりえることだからとは思いつつも、彼はなぜか少し、ショパンの我儘に弱かった。

 

 ――4本目、彼女が目標を過達するには目論見通りの本数であった。ベストラップからの-1.043秒。まだ少し余力を残したように見えなくもないが、秋名の指示通りに調整を加えたというのだろうか。

 

 エアグルーヴの現状に、満足を覚えた秋名。ふとまた、ショパンのことが気にかかる。本当はまだ色々訊きたいことがある娘だが、彼でも思いつくような疑問、すでにエアグルーヴかトレセンかが訊いていることなのだろう。わざわざ自分が訊く理由もない。だけど――

 

「ねぇ、ショパンさん……だっけ」

 

 ぴん、と彼女の耳が浮く。ショパンは秋名を見ると、もの可笑しそうにふふと笑い、『さん』だなんていらないよと親しげに語った。

 

「そっか。君は走らなくていいのかい?」

 

「私?」

 

「君だってウマ娘だろう? 走らなきゃ、退屈じゃない?」

 

 ショパンを気に掛ける秋名の心、どうやらただの親切心とは少し異なるらしい。その心がどこからやってくるのか、きっと彼でさえもよくわからない。

 

「それは、そうだけど。でも私、トレセン(ここ)の生徒じゃないから……」

 

 ショパンという火が萎む。それは、どうしようもないじゃないかという諦めを含んだ意味に聞こえた。

 

「……じゃあ、こうしよう」

 

――

 

「併走トレーニング?」

 

 この学園を司る生徒会長が喜びそうな練習メニュー。しかし女帝の前で「へー、そう」というのは禁句らしい。

 

「ああ、一本だけでいい。君の整理運動にもなるだろう?」

 

「それはそうかもしれんが……」

 

 ちらりとショパンへ視線を向ける。彼女はその場で両踵を地面に叩きつけ、入念に伸びとストレッチ。ふんふんと、興奮を内に滾らせて。やる気は十二分。

 

 エアグルーヴは秋名の襟を指先で摘まんで、こちらへと手繰り寄せ、薄い声で囁く。

 

「どういうつもりだ」

 

「いやぁ、まぁ、少しあの娘も退屈そうだったし、君にもいい刺激になるかと思って……ね?」

 

 ほんの少しだけ、どぎまぎとした彼の受け答え。傍らのショパンは、準備万端ですと両手を前に揃えて、エアグルーヴがこちらを向いてくることをひたすら待つ。

 

「……お人好しめ、同情を買ったんだろう」

 

「半分……そうかも」

 

「まぁ、いいだろう。たまにはこんな余興も」

 

 エアグルーヴはショパンの前に立つと、腕を組み、ひとつ。

 

「先にも言ったが、これは私のトレーニングだ。配慮はくれてやらんぞ」

 

 それにショパンは深く頷いた。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 女帝の名を語る重みを知っているか?

 

 その名を語るもの、保険の言葉などない。彼女は何時も戦う、己を喰らいに掛かる重圧を相手に。抗う為には力を持つ他がない。誰かに泣きつき甘え、救われることなどない。

 

 結果だ。結果だけが彼女を女帝たらしめる全てなのだ。どれだけの鍛錬の中、苦渋の果実を口にし、艱苦に絞められようとも。結果を残せねば何の実も結ばない。

 

 だから彼女は己に鞭を打つ。女帝の称号を背負い続ける為に。たった一つの言い訳すらも許されない、無情な世界で、己に抗い続ける。

 

 背負っているものがあまりに違いすぎる。……ショパンとは。

 

(は……やっ……!)

 

 これでもウマ娘に生まれた身体。人間と比にならぬ身体能力、走りには多少なりの自信はある。

 

 だが、本物(エアグルーヴ)の前には赤子に等しい。何もかもが違う二人の走り。それは一つのフォームから、ストライドから息遣いから、腕の振り方や、走りに対する姿勢に至るまで。

 

 チェスの一手のよう、常に三手先を読み、コンマ数秒先の未来を据えながら次の足を差し出すエアグルーヴと、ただがむしゃらに、ばか正直に体を動かすだけのショパンとでは、酷なほどまでに差が生まれる。

 

 それでも、それでも。

 

 ショパンは憧れの背中を追いかけている。それはとても大きくて、美しくて、力強い。大袈裟に言えばそれは"夢"と比喩してもいい。

 

 ずっと、ずっとずっとずっとずっと思っていた。モニターの画面の中に入って、母の走りを間近で見られたらと。

 

 一緒に走ってみられたらと。

 

 追いつけないけど、儚いけど。

 

 

 

「……」

 

 呼吸が合わない。エアグルーヴは自分の背後で、失速し沈んでゆくショパンを五感の一つで感じ取る。ショパンに大きな期待を掛けていたわけではないけれど、並走トレーニングと称するには、その実力差は残酷な程だった。

 

 エアグルーヴは最後、仕上げに踏み込もうとしたときに、一瞬の躊躇いを拾ってしまう。

 

 少しだけ、ショパンに合わせてやろうか。少し、彼女を待ったほうがいいか。

 

 それは手心を言語化したくだらない騒めき。

 

 このまま彼女を置いて行ってしまっていいんだろうか。

 

 

 彼女を一人残して、消えて行ってしまってもいいのだろうか――

 

 

……

 

 

『これは、私のトレーニングだ』

 

 そうだ。私のトレーニングなのだ。彼女を必要以上に思やってやる必要なんてどこにもないのだ。

 

「……お人好しは、私もか」

 

 

 エアグルーヴは自分の心を嘲笑って、踵に一層の力を込める。

 

 そして、女帝たる由縁をショパンへ見せつけた。

 

 

「――あッ!」

 

 

 明らかに変わったエアグルーヴの走り。即ちスパート。

 

 キックダウンから叩き出される加速度。ただでさえ、いっぱいいっぱいのショパンがその本気に追従するなど、夢物語。

 

 

 

 消えてゆく。母の背中が霞んで消えてゆく。

 

 

 

 離されたくない。食らいつきたい。そう思う気持ちは、闘争心が起因するものではない。

 

 

 

 不安と焦り。

 

 

 

 

 待って、待ってと心で叫んでも、空しく消えてゆく。

 

 

 

 

 待って…行かないで…

 

 

 

 お願い

 

 

 

 私を

 

 

 

 置いていかないで…

 

 

 

 お母さん――

 

 

 

 

 

 

 

「――!」

 

 

 広がりつつあるショパンとの距離。エアグルーヴは消えゆく彼女の気配から、一つを感じた。

 

 

 まるで、縋り付くような。悲しいような。それでいて狂おしく愛おしいような。

 

 

 だが、エアグルーヴはそれに背を向けた。聞かないふりをした。

 

 

 そして、ショパンの視界から、エアグルーヴは完全に消え去った。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「……と、まぁ。今後はこんなプランで行こうと考えている」

 

「ああ、概ね合意できる内容だ」

 

 秋名のトレーナー室に、囁く声二つ。いつも隙なく整頓された居室を監修するは、無論綺麗好きの担当。

 

 こんなミーティングの最中でも、はたきを持って部屋の中を右往左往。隅っこに隠れたチリ一つでさえも、彼女は見逃してくれないらしい。

 

「それにしても――」

 

 その接続詞、次に来る話題は概ね察しの付くこと。

 

「あの娘、一体何なんだろうね。少し不思議だ」

 

 その"あの娘"は今はここには居ない。

 

「さあな。なぁ、トレーナー。あの併走トレーニング、半分は貴様の同情といったな。もう半分は何だ」

 

 ぱたぱたぱた。はたきはどうも忙しない。

 

「ねぇ、エアグルーヴ」

 

「今は私の質問だ」

 

「わかってる……けど。なんだろう。あの娘は不思議だ」

 

「既知の事実だ。身寄りも()も」

 

「そうじゃなくて」

 

 はたきを止めて、ちらり秋名を見る。トレーナー席に深く凭れ、天井を仰ぐ指導者の姿がそこにはあった。

 

「あの娘とは、初めて会った気がしない。どうも。なんだろう。僕はあの娘を"知っている"とさえ錯覚してしまうようなんだ」

 

「……何を言っている」

 

「何……だろうね」

 

「貴様までこれ以上、妙なことを抜かすな」

 

「そうだね。ごめんよ」

 

 ふと、訝しむエアグルーヴに秋名は不器用に微笑んで見せると、もう暗いから帰ろうか。と荷物を持ち席を立つ。ぱたりと照明が落ちたトレーナー室。エアグルーヴが戸を開けると。

 

 やはりそこにあの娘はいた。両手を前に揃えて、少し耳を絞って。

 

「……ッ! ショパン! お前は先に帰っていていいと言っただろう」

 

「うん。ごめんなさい」

 

 ショパンは萎れた表情を持ったまま。エアグルーヴは、しようのない奴だと呆れた溜息を一度吐くと、彼女の肩を叩いて何時ものようにいくぞ、ショパンと声をかけた。うんと答える彼女の返事はどこか暗い。三人は並んで廊下を伝う。その最中も、ショパンはエアグルーヴの制服の裾を掴んで離さなかった。

 

「歩きにくいぞ、ショパン」

 

「うん。ごめんなさい……」

 

 それでも離してくれる様子がどうもない。

 

 困りごとかとエアグルーヴが尋ねても、ショパンは答えてくれない。

 

「併走トレーニングが余程堪えたんだろうね」

 

 秋名はそういった。あれだけの大差を離され、最早並走トレーニングの域を離れた結果。気にするなという方が酷だろう。

 

「まぁ、エアグルーヴが相手なら仕方のない話さ。いきなりでそう横を走らせてくれる相手でもない」

 

 意気軒昂、高らかに秋名は担当を語る。

 

「だけど、全く適わないと思うのは間違いだ。君とエアグルーヴ。今は確かに差が大きいけど、それは経験や知識、体作りの差だ。当然それを埋め合わせることは容易じゃないだろう。だけど、君に素質を感じないだなんて、そんなことは思わなかった。それに――」

 

 ショパンとエアグルーヴは秋名の語りに耳を預ける。

 

「君たちの走りは少しだけ似ていた。まるでそう……姉妹みたいだった」

 

 ……ふわり、少しだけショパンの耳が浮く。

 

 ……つねり。秋名の耳は女帝につままれる。

 

「さっきから聞いていれば、何のフォローだ。貴様の担当はどちらだ」

 

「あててて……ごめんってば」

 

「姉妹……」

 

 ぽつん。ショパンは呟く。

 

「くだらん。だが、ショパン。私からも一つだけ言ってやる。希望は捨ててくれるな。今がどんな非情な現実であっても、希望を捨てれば終わりだ。お前に信念があるというのなら、いちいち下を向くのは時間の浪費だ」

 

「……うん」

 

 彼女の心を冒す要因は敗北ではない。併走の中で見た、消えゆく母の背中。それがぞくりとショパンの不安を育てた。

 

 しかし、悲しい現実といつか邂逅することになれど、自立しなきゃいけない。

 

 そのために、彼女はここに居るのだから。それを乗り越えるために、エアグルーヴと時を共にしているのだから。

 

 希望は捨てない。いつか、母から立派になったと言ってもらえるその時まで。きっと。

 

 母の言葉を心で復唱して、きっと大丈夫と自分に言い聞かせて、ようやくショパンはエアグルーヴの裾を離した。

 

「ねぇ、二人とも折角だからこのままご飯でも食べに行こうか? ショパンの歓迎会も兼ねてさ」

 

 秋名は腕を開いて二人に提案を投げる。

 

「外食か。大方、自炊を避けたいだけだろう?」

 

「鋭いね。まぁ、たまにはいいじゃない。何かリクエストはあるかい?」

 

「私は特に。ショパン、あるか?」

 

 

 二人の視線は未来の娘(ショパン)へ。

 

 

「……にんじんハンバーグがいいな」

 

 

 ショパンは、少しだけ頬を照らして、そういった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ショパンのやる気が上がった!

 



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From the...


北東の風が乾いた四肢をすり抜けてゆく。

やけに湿った細波が、ひとり寂しく悲壮を嘆く。

偽紫と柑子色が対立を成す朧気な空の色に、巻雲がぼやをかける。それは朝焼けというには余りに哀しく、夕焼けというにはどこか幼い。

彼らの背後で全てを見守る太陽でさえ、それが本物かどうか確信が持てずにいた。

曖昧だ。そう、すべてが曖昧。

揺蕩う波も、抜け行く風も、熱くも冷たくもない砂浜も。

しかし、そんな彼らの混沌と漠然を歯牙にもかけぬ様子で彼女(・・)は言う。

「いい天気だ」と。

何が、どこが、どういい天気なのだとエアグルーヴが問い詰めても、彼女は飄々とした面持ちを崩さず、憂いの空へ穏やかを向け、「何れにわかる」とだけ。

輪郭のない、鬱屈な世界に感じるのはエアグルーヴだけなのだろうか。ビーチの砂浜へ深く腰を据える彼女の瞳に映っているのは確かに希望だった。

「何れとは何時だ」

痺れを切らすように、エアグルーヴは重ねて問う。

「何れとは何れだ。焦ることはない。堅実さがウリなのだろう?彼も言っていたではないか」

彼女は途端に立ち上がり、尻と尾についた砂を軽く払って、深く泥んだ海へ歩き出す。

「すまない。あまり長くは居られなくてな」

どこか名残惜しい哀愁を引っ提げて、彼女は一つ海へ足を入れる。

エアグルーヴもそれに続こうとしたとき

「まだ来なくていい。それよりも、今はあの娘(・・・)をよろしく頼む」

とだけ、無責任を残して彼女は姿を眩ませた。



 

「……んぅ」

 

 彼女を呼ぶは己の声。差し込む淡い光芒が、時計の代わりに朝を知らせる。

 

 覚醒から7秒(7s)。夢と現実の狭間を少しだけ彷徨い、そして現実(リアル)へ着地する。

 

「またか。また、あの夢(・・・)か……」

 

 彼女は額を抑えて、深く溜息を。

 

 少し前から、不定期に、時折その景色は姿を現す。見知らぬ砂浜、見知らぬ海、見知らぬ空と、見知らぬ、少し熟れたウマ娘。否。ウマ娘にだけ限って言えば、見知らぬと言っていいものなのかが分からない。

 

 不可思議だ。通常、対面する相手のことは"知っている"か"知らない"のどちらかである筈なのに。そこにいた彼女(・・)は、そのどちらにも属さない。

 

 知ってるのかもしれない。彼女はずっと近くに居るような気さえしている。だけど、知っている筈がない。知らないでいるほうが正しいとさえ、彼女の何かが囁く。

 

 彼女は誰だろう。その存在を問う言葉をいつも忘れる。ただ、意味の通らない会話を続けている。

 

 所詮は夢だ。気にしなければそれでもいい筈なのに。

 

 ただ、覚えている。この夢を見始めた時期を――丁度、ショパンと出会ったあの頃あたりから。何か因果があると言うのだろうか。

 

「……何を。くだらん。今日は大事な日だというのに」

 

 彼女は起き上がろうと、ベッドの中で横を向いた。そこに、ひょこひょこと、毛布の中から生えてきた二つのお耳。時折ゆらゆらと動いては、後ろにペタリと寝かせたりと、どうも忙しない。

 

「……」

 

 エアグルーヴが指先で、その生えてきた耳の先端を摘まんですりすりと擦ると、それらはひょんと毛布の中へと逃げて行った。

 

「ショパン。起きろ。朝だぞ」

 

 エアグルーヴは毛布を引っぺがし、彼女を呼んだ。

 

「……んぅ?」

 

 もう少しだけ微睡の中に引き籠っていたいのに。と彼女の重い瞼が物語っていた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

「互いに老けたものね。若い頃はずっとこの美貌が続くものだと思っていたけれど、寄る年波には何とやら。かしら」

 

 映えたシャンデリアが、琥珀色の希望を演出するようだった。その照明に似つかわしいソファもまた、品位高く厚みのあるものだった。

 豪邸とまでは言わないが、あの女帝が育った家庭。そして女王が棲む園。多少なりにも恵まれた環境で育った自覚のある秋名でさえも、初めて訪れた際にはその格式高さに大きな気後れを感じた。

 

 ……今もその気後れは乾いていない。それは、格式高さによるものというより、敷居の高さに起因するようなものだった。

 

 自分は妻も娘も守れませんでした。その報告をしに来たのだから。

 

「ちゃんと休めてる?」

 

 エアグルーヴの母がそう秋名に訊ねる。既に『お祖母ちゃん』として板についた容姿が、時間の流れを感じさせた。

 

「ええ……」

 

 秋名の視線は、紅茶の紅い鏡に映った自分に向いていた。暫く鏡を見なかった間に、随分と顔の皺が増えていた。紅茶の越しにも白髪がはっきりと分かってしまう。……確かに彼女の言う通り、老けたものだ。

 

「嘘ばっかり。あの娘の言う通り、あなたって嘘が下手な人よね」

 

 エアグルーヴの母は、優しい声色で少しの笑みを連れてそう言った。

 

「お義母さん。僕は……」

 

「皆までいいなさんな。辛さは分かち合いましょう。それに、きっとあの娘は無事よ」

 

「すみません……」

 

 エアグルーヴの母を直視できなかった。優しさがどうしても痛かった。お前は、お前は、大事な娘を守れず、孫までをも。そう責められる覚悟さえあったのだから。

 

 頭に鉛を付けたように沈み込む秋名へ、エアグルーヴの母は言う。

 

「但し、一つだけ私と約束なさい。例えこの先、どんな結末になろうとも、決してばかな真似(・・・・・)だけはしないで頂戴。絶対に」

 

 心を見透かされているようだった。考えたくはない結末だが、仮にショパンと『最悪な形での再会』を余儀なくされてしまった場合。彼の選択肢の中に『ばかな真似』は確かにあったのだから。

 

「はい……」

 

 エアグルーヴの母は一つ頷くと、秋名の差し出したCDに手をかけた。娘の残した遺品、過去の記憶で当時と邂逅する。

 

「懐かしいわね。普段我儘を言わないあの娘が、唯一欲しがった物。まだ小さかった頃かしら、私におねだりをしてきたの。このCDがどうしても欲しいって。可愛かったわぁ」

 

 そして、閉じられたCDのカバーを開け、問題のそれを手に取る。

 

「"女帝の意志を継ぐ者へ"、か」

 

「どう思われます……?」

 

 エアグルーヴの母は、黙って娘の残した謎多き手紙を読み続けた。目で何度も行を追い、濁り滞った情報を瞬きのチェイサーで整理すると、もう一度手紙へ。

 

「エアグルーヴは、予測していたというのでしょうか。僕と彼女の間にショパンが産まれ、あの娘がトレセン学園へ入学すること。そして――」

 

「ショパンと引き換えに自分の命が(つい)えることを」

 

 秋名の代わりにエアグルーヴの母が言った、しかし彼女は手紙を閉じると、それはあり得ないと呟いた。

 

「そう……ですよね。未来を予言だなんて」

 

「そうじゃない。夢物語を嫌うあの娘が、預言だなんて根拠なき妄言を残すことはあり得ない」

 

「じゃあ」

 

「予言じゃなくて、確信していたのよ。あの娘は、この未来が訪れることを」

 

「確信?」

 

「もっと言えば、知っていたんでしょうね。全てを」

 

「ま、待ってください!」

 

 秋名は余裕のなくなった額を押さえ、二度息を飲みなおし、ふっと息を無理に吐き出した後に続けた。

 

「未来を知っていただなんて、どうやって」

 

 エアグルーヴの母は首を横に振った。母親とは意外にも娘のことを知らないものよ。と付け加えた。

 

「そういえば、ひとつ貴方に見せておきたいものがあるわ。来て頂戴」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 モノトーンを基調とした、おおよそ10畳ほどのエアグルーヴの部屋。少しばかり女性らしさに欠けるその部屋にあるのは合理性と造花。

 

 自分の写真やポスターすらも飾らない彼女のストイックさが、部屋にそのまま表れていた。

 

 彼女が去った今でも、そこの空間だけは時が止まったまま。いつまでも帰らぬ(あるじ)を、ただひたすらに待ち続けている。

 

 エアグルーヴの母は、クローゼットを開け膝を付いて、その奥に仕舞われたとあるものを秋名へ。

 

「これは?」

 

「実は、あの娘が亡くなった後、部屋を整理してたら出てきたものなの。本当は貴方に返しておくべきかと迷ったけど。でも、さっきの手紙と同様。あの娘にしては、どうもらしくない(・・・・・)ものだった。だから少し奇妙で、仕舞っておいたの」

 

 おおよそ片手でも抱えられる程度のレターボックス。淡いチェック柄の意匠。重量はさほどなかった。

 

 秋名は一度それを床に置き、開封する。開けた瞬間、その軽さが腑に落ちる。そこにあったのは、手記と一枚の写真だけだったのだから。

 

「この写真」

 

 写っているのは、どうしても懐かしく、愛おしいかつての妻の姿。白いワンピースに身を包み、背後に広がる向日葵畑を背に、こちらへ優しさを手向けていた。

 

 続けて手記を開ける。どうやらそれは、スケジュール手帳とは少し違い、彼女の心の内がただつらつらと綴られているだけのもの。彼女の直筆で描かれる、なんてことのない日常。

 

 今日の生徒会の仕事はどうだった。ブライアンがまた会議をさぼった。会長の駄洒落にまた気が付けなかった。次のレースに向けての調子が良い。生徒が問題行動を起こし、胸中穏やかではない。トレーナーが、また部屋を散らしている。今に家庭を持つと苦労するぞ。花壇の花が健やかに育ってくれている。後輩たちもこの花々と同じく、麗しく育ってほしいものだ。など。

 

 裏も表も変わらない。そんな女帝の心だった。まるで、かつての彼女と対話をしているような錯覚に陥る。喪った存在がすぐそこに居るのではないのかと、心が求めてしまう。だから、それ以上を読み進めることが少しだけ苦痛だった。

 

 

 だが、手記の最後の数ページ。秋名はようやく辿り着く。

 

 

 

 ――らしくない(・・・・・)女帝へと。

 

 

 

 

 

『未来から来た不思議な娘と出会った』

 

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 

「迷ったら、いつでもここへ来なさい。いいこと。一人で抱え込まないこと。ショパンは貴方の娘であり、私の大切な孫。苦しむときは同じよ」

 

「ええ、有難うございます」

 

 そういって秋名は愛車のボルボのシートへと、深く身を預ける。

 

「こんな時くらい、仕事なんて止めちゃいなさいよ。倒れちゃうわよ、貴方」

 

「ですが、僕がいないと回らない部分があるもので」

 

 秋名は無理に笑顔をエアグルーヴの母へと向け、左手でエンジンスタートのノブを回す。コンマ数秒のクランキングを経て直列4気筒の心臓に火が入る。秋名はエアグルーヴの母に軽く頭を下げると、静謐かつ重厚なサウンドに身を任せて、車を動かした。

 

 URA本部へ向かう道中、彼の頭の中ではどうしてもあの手記のことがリフレインした。同じく、写真のことも。

 

 秋名は信号待ちの間、もう一度あの写真を取り出す。その際にようやく気が付く。写真の裏面に、何かが記されていることに。

 

 それも、彼女(・・)の直筆だった。

 

 

 "From The Past To The Future(過去から未来へ)"

 

 

 信号が青になっていたことに数秒遅れで気が付き、再びアクセルを踏み込む。彼は左手でナビの設定を消す。URA本部の行き先をとある場所へと変更する。

 

 ステアリングを返して、少し強めにスロットルを開ける。ボルボ製の直列4気筒サウンドに、過給機(スーパーチャージャー)の補助が加わるほどに。

 

 ほどなくして、彼の車は再び赤信号により遮られた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 赤信号から1分とおおよそ、彼は忙しなく腕時計の分針を睨みつけながら、中央に大きく構える六連星(スバル)のエンブレムが刻まれたステアリングを、縋るように握った。

 

「勘弁してくれよ。なんでこんな日に限ってぇ……!」

 

 信号が変わろうとも、突然の事故渋滞が解消してくれる様子はない。焦燥を露わにしているのは秋名だけでもなさそうだ。周囲のドライバーたちも全く変わらない景色に、不満の色を曝け出す。

 

 時計をもう一度。出走まで時間はまだあるが、このままでは彼女と最後のミーティングをする余裕が無くなってしまう。

 

「こうなりゃ……!」

 

 秋名はステアリングを深く切り込む。こういう時に大柄な3ナンバーボディは少し不便だと思いながらも、裏路地へと侵入する。

 

 同じ考えを持つ輩も少なくない。彼と同じように脇道へ逸れる他車も数台。だが、入ってしまえばこちらのもの。

 

 対向車とすれ違うのがやっとといった程度の道路幅。だが、構ってはいられない。彼は瞬時に道路状況を認識すると、やや強めにアクセルを開ける。回転系(タコ)がやや派手に踊る。フードの中に眠った水平対向4気筒(ボクサー)エンジンが唸り、過給機(ツインスクロールターボ)が叩き起こされる。

 

 スピードメータは……警察と出会わないことを祈るしかない。

 

 そしてようやく、彼は東京競技場の関係者専用の駐車場へと車を滑り込ませた。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「遅い」

 

「遅いね」

 

 数多の人込みから逃れるように、エアグルーヴとショパンは東京競技場の関係者控室にて、指導者の姿をひたすらに待ち続ける。

 

 そこにいる全ての関係者、皆殺気立っているようだった。

 

 それもそうだろう。だって今日この日は

 

 ――最強の女王(オークス)の称号をかけた狂気の祭典なのだから。

 

 周りのトレーナー、ウマ娘、その苛立ちにも似た視線の先。標的にされているのはエアグルーヴだった。

 

 今日こそ、あの女帝サマの首を狩ってやる。お前の神話はここで終わる。彼女らの視線が攻撃的に物語っていた。

 

 閉鎖的かつ、肌がひりつく様な息苦しさすらも感じるこの気鬱。当然、場慣れすらしていないショパンにとっては逃げ出したくなる程の遣る瀬無い空間。片時もエアグルーヴから離れることができなかった。

 

 だが、対照的にエアグルーヴは何時もと変わらぬ、凛々しく正しく、戸惑いなき女帝としての姿を保ち続けていた。

 

「ねぇ、緊張とかってしないの?」

 

 ショパンがふいに問う。

 

「……する。緊張がないということは覚悟がないということだ。皆の期待、お母様の残した雄姿、私が私として居られる為の証明。…試される日だ、今日は」

 

 エアグルーヴの瞳は鋭かった。女帝を名乗る者としての覚悟。散れば終わり。俯瞰して見えない程の重圧に耐え、時を待ち続ける。

 

「怖くないの……?」

 

 ショパンは重ねて訊いた。自分だったら、レースを棄権してでも逃げ出してしまいたくなる程の恐怖がここにはあったから。

 

「怖い……か。怖いかもな。1/10秒、1/100秒。それで全てが決まる世界だ。ゲートが開いてしまえば、二度と後戻りはできない。例え己の舌を噛み千切る程に悔いたとしても、結果は覆らない。大衆が私に掛ける期待は、"希望"でなく"当然"だ。勝って当たり前。私はそれに全力で応えなければならない。女帝の名を語る者として」

 

 エアグルーヴは静かに語り続けた。ふと、ショパンに手を差し出す。ショパンは直ぐにその意図を汲めなかったが、戸惑うショパンにエアグルーヴは握ってみろといった。

 

 ショパンがそっとエアグルーヴの手を握る。ショパンはふと一瞬息を止めてしまった。

 

 震えていた。彼女の手が。凍えるように。

 

「私だって生き物だ。恐怖も緊張もする。だが、目指したい場所がある。私の追い求める理想郷(ユートピア)の為に。この重圧の対価は理想だ。お前も何れ解る」

 

 ショパンは何も言えなかった。映像に映る母の姿。いつも、勇敢で自分みたいに怖気づいたり、緊張なんてものと縁がない人なのだろうと、ずっと思っていた。

 

 だけど、本当は、吐き出したくなる程に己を侵す辛苦に耐えながら、一歩一歩を踏み続けていたのだ。

 

 嗚呼、自分とは本当に、彼女のことを何も知らないのだな。とショパンはエアグルーヴの手を包み込むように手を重ねると。

 

「きっと大丈夫。……頑張って」

 

 と弱く言った。

 

「ああ、ありがとう」

 

 返ってきた返事は、意外にも優しさだった。ショパンに対する、小さな笑み。

 

 それにショパンは重ねて言った。

 

「おか……先輩は必ず勝つよ」

 

 下手な気休めは止せ。とエアグルーヴはショパンから視線を逸らして言ったが、ショパンは続けた。

 

「ううん。私、知ってる(・・・・)もの…今日のレース――」

 

「ごめん!! 間に合った…!」

 

 控室の扉がドンと勢いを誘って。そこの関係者たちの視線が一気に彼に向く。全身滲んだ汗が、頬を伝い顎から落ちる。眼鏡すらも曇っていた。

 

「っ! トレーナー! 貴様どこで油を……!」

 

「遅いよ! トレーナーさん!」

 

 鹿毛(エアグルーヴ)黒鹿毛(ショパン)は秋名の前へ立つと、母娘(ふたり)揃って耳を後ろに絞り腕を組んだ。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

「主任? 牧野主任聞いてますか?」

 

「聞いてるわよ」

 

 コーヒーの香りと、ひたすらに響くタイプ音。ここに席を置いてどれほどの時間が経ったのだろう。それは既に彼女にとっては馴染んだ光景。

 

 そこに囀るは、牧野*1とは違って潤わしく、若々しい活気のある声。だが、そんな若手の持ってくる話はいつもくだらない。最新のコスメがどうだとか、駅前のパスタ屋がどうだとか。陰謀説やオカルト話だとか。

 

 ウマ娘たちの為に献身的に奉仕する我々がそんな体たらくでどうするのだ。とウマ娘支援センターの主任に席を置く牧野はそう胸中で呟き続けた。

 

「そいでですね!」

 

「わーかったから。今は仕事の時間。とっととやること済ませなさい。この間のメンタル疾患疑いの娘、対応終わったの?」

 

「へへ、まぁ一応、対応中……ですねぇ」

 

 歯切れの悪く彼女はそう返す。下手なことを口走れば、主任の容赦ない指摘が飛んでくるからだ。

 

「そ、そういえば聞きました?」

 

「だから仕事……」

 

「関係ある話ですよ!ほら、この間失踪したウマ娘、実はあの娘、あのエアグルーヴの娘さんって話らしいですよ」

 

「そう。不幸な話ね。早く兆しがあるといいのだけれど」

 

 牧野はため息一つ。やはり彼女らが望む先はウマ娘たちの健全。バッドニュースはできるだけ避けたいもの。

 

「それで、その失踪事件、結構不思議なウワサが立ってるみたいなんですよね。その、ショパンちゃんって娘なんですけど、なんでも女神様の神隠しなんじゃないかってネットで噂されてるみたいで」

 

 ピクリ、牧野の眉が少しだけ動く。

 

「……ねぇ、今なんて?」

 

「へ? ああ、ほら神隠しですよ神隠し。なんでも煙みたいにぽっと消えちゃって…」

 

「誰が居なくなったって?」

 

「え、名前ですか。ショパンちゃんですよ。あの黒鹿毛の」

 

 若手の職員はタブレットを牧野へとむける。そこに映る一人の黒鹿毛。

 

 牧野は、抱えていた珈琲カップを置き、手で口元を覆って、記憶の中の世界へと身を投じる。

 

「主任?」

 

 

 

 

 

「ショパン……?」

 

 

 

 

 

 

*1
参照:第三話『あの娘は誰?』



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女帝の救済

未来から来た不思議な娘に出会った。

その娘は、少し小胆で臆病で、然れども温順で。背丈は私の胸元程までしかなく、鬣は黒鹿毛。

その娘は私のことを母と呼んだ。無論、私は子を儲けた覚えなどない。

当然、私は憤った。見知らぬ娘の母にされてはたまったものではない。しかれども彼女は、どうしても私の愛を欲っした。

周囲の友人、トレーナーやお母様は、多少の当惑を抱きながらも、次第にその娘を受け入れていった。

その狭間、どうしてもその娘を拭い切れぬままでいるのは、私だけなのだろうか。


 

 

「……僕?」

 

 手記の中の文字だけの世界。彼女の字面と彼は踊る。答えの見えない子犬のワルツを踏み続ける。

 

 その手記の深淵へと踏み込むほど、ワルツのタップテンポは増し、華麗なる大円舞曲へと変貌を遂げる。彼女の手記が奏でる組曲に、ポロネーズすらも踏めない秋名は、されるがまま手を取られ続ける。

 

 彼女の言う、不思議な娘。それを手記の中の秋名は認識しているという。だが、自分の中の記憶を辿れど、彼が不思議な黒鹿毛と出会った記録などどこにもない。

 

 であれば、この手記は彼女の妄言か、或いは彼女が創り出した空想物語か。

 

 だが、手記には続きがある。

 

 前述した二つの憶測は、彼女の締めくくる言葉に殺された。

 

『少女の名は、ショパンと言った』

 

「……」

 

 余韻に続くのは黒く泥んだ溜息。彼女の真意がどうしても見えない。あれだけ時を共に重ね、紡ぎあった仲であるはずの彼女のことを、理解できない。

 

 合理性、理由、ロジック、根拠、事実。それらこそが彼女のモットーであるはずだと理解していた筈なのに。今手にしている手記の中の彼女には、その何れも当て嵌まらない。

 

 何故彼女がこんなものを残したのか。何故彼女はショパンの存在を知っていたのか。何故彼女はこの世を去らなければならなかったのか。

 

 何故……何故、何故、何故、何故、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。

 

 不可解な問いを重ねる程、彼女の面影が霞んでゆく。

 

 そして、彼はようやく気が付く。自分は、妻であるエアグルーヴのことを何も知らないのだと。心から焦がれる程に愛した妻のことを、何ひとつとして理解していないのだと。

 

 知っているつもりでいただけだ。彼女のことを。

 

 本当は、何も知らないくせに。

 

 惨い現実から目を背けるように、彼は手記を閉じた。もう一度、それを開く勇気がどうしてもなかった。ふと顔を上げれば、そこには未だに初々しく、青々しい若葉の絨毯。夏に向けての準備に余念の無い向日葵の子供たち。

 

 秋名はひらりと一枚の写真を手にする。エアグルーヴの実家から見つかった、妻の写真。

 

 未だに幼い畑に向かい、その写真を翳し、当時の記憶と重ね合わせた。

 

「秋名さん?」

 

 ふと、一つの若い声が彼の背を叩く。秋名は腕を下ろし、声の鳴るほうへ。そこに居た青鹿毛(メルセデス)。小さな詩集を手に抱え、歴代の生徒会長達と比較しても遜色なき端正な容姿を、少し濁らせていた。

 

「君は、どうしてここへ?」

 

「ええ、私、以前ショパンが持っていたペンダントを拝見したことがありました。そこには、エアグルーヴさんと、とある向日葵畑が写っていて。その際にショパンが教えてくれたのです。この向日葵畑はこの西の丘にある畑だと。そのことを、ふと思い出して」

 

 メルセデスは視線を畑に返すと、今年も沢山咲きそうですねと静かに言った。

 

「彼女が入学して間もない頃でした。私は廊下でペンダントのチェーンが壊れたと嘆いていた彼女を見つけました。幸いにもその時、手先が器用な副会長(ロータス)が居合わせてくれて、チェーンの修復は無事に終えたのですが、その際に中身を見たのです。彼女のペンダントに居たのは、あの『エアグルーヴ』さんでした。私は直ぐにあのCDと結びつきました。本当にこの娘(・・・)が現れたと」

 

 秋名は再び写真に目を落とす。それを脇から覗いたメルセデスは、原本をお持ちだったのですね。と秋名へ言った。

 

「さっき、妻の実家で見つかったものなんだ。僕も久しく目にしていない」

 

 その一言に、メルセデスは僅かに眉を波打たせた。

 

「つまり、奥様の死後、長らく手元に無かったもの…ということですか?」

 

「ああ、ずっと彼女が保管してくれていたらしい」

 

「……。ペンダントは、奥様が亡くなられてから造られたものなのでは? ショパンへの形見として」

 

 秋名は瞳を閉じて首を横に振った。

 

「いや、ペンダントは生前に造られたものだ。意外だった。自分の写真すらも飾らない彼女が、自分の写真が入ったペンダントを造るだなんて」

 

 彼女にしては、随分とナルシストな側面があるものだと、当時秋名は思った。

 

「だけど、彼女はそのペンダントを僕に託したんだ。"私の事を何時も忘れてくれるな"って、確かそう言ってくれたのかな」

 

 普段装飾品(アクセサリー)を飾らない秋名は、その日からペンダントを身に纏うようになった。職場では愛妻家めと揶揄われた記憶があると、当時を懐かしむように彼は語った。

 

「そしてショパンが生まれ、妻が亡くなり……」

 

 そこに続けようとした言葉、上手く出てこなかったらしい。少しの引っ掛かりを残して、言葉を飛ばし、結論を語った。

 

「ショパンがトレセン学園へ入学するときに、これを彼女へ渡したんだ。お母さんのお守りだって」

 

 春の陽気さが、どうしても空しい。恵みであるはずのそれの下、秋名は続けて過去を語った。

 

「この写真も僕が撮ったものだ。妻は僕の腕を引くと、ここで写真を撮ってくれと僕に言った。婚約も経て、長い付き合いだと思ってはいたけど、初めてだったかも。彼女が自分から写真を撮るように願い出たのは」

 

 写真の中の妻を見て、秋名は微かな沈黙を織り交ぜながら。自分と彼女の唄を続けた。

 

「ファインダー越しに映る彼女は確かに美しかった。あまり見せない笑顔を満面に押し出して。……でも」

 

 そこに一つの接続詞。それは、前述の何かを否定するための用意。

 

「でも?」

 

 メルセデスが問う。彼の幸いな記憶に、影があるのかと。

 

「思い過ごしかもしれない。だけど、ファインダーを覗きながら思ったんだ。彼女の笑顔は、どうも僕に向けられたものではないような気がした」

 

「……」

 

 彼の主張が上手く消化できなかった。メルセデスが言葉を探すが、秋名は構わずに続けた。

 

「僕ではない。その先の誰かへ向けられていた」

 

「それも、ショパンだと仰りたいんですか?」

 

 かもね。と秋名は話を自分勝手に切り落とした。そうして畑に背を向け、仕事があるから。とメルセデスに別れを告げる。だが、彼の足をスマホの着信音が引き留めた。

 

 それは、秋名のものではなかった。メルセデスのウマホ。すみません。と小声で呟いて彼女は着信に応対する。秋名はそんな彼女を再び背に置き、自分の車へと向かった。

 

 決して駐車場までの道のりとは近くはないが、歩く時間が長いことは小さな幸いだった。そして愛車を開錠し、秋名は車へ乗り込もうとした。

 

「――秋名さん!!」

 

 少しだけ切羽詰まったような声、メルセデスの声であることは直ぐに分かった。彼女と別れたあのポイントから1キロ強ほどはあったはずだが、それをものの1分程度で差を埋めた。これでも現役の生徒会長。その脚力を無礼るでない。

 

「どうしたの?」

 

 メルセデスは息を乱さず、彼に言った。

 

「一緒に来ていただきたい場所があるんです」

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 ようやく時は迎えられた。

 

 待ち遠しかったような、恐れていたような。興に焦がれ滾るような、恐怖に戦き悶えるような。燦爛としているような、鬱蒼としているような。

 

 体の中の全てが背反し合う。一つの気持ちが乖離するように惑わされる。今は、今だけはその不純と踊るしかない。

 

「……私は、女帝だ」

 

 鏡の中の自分に誓う。全ての面影たちへ祈祷を捧げる。

 

 新鮮な空気を求めて、深呼吸を一つ。しかし今日ばかりは、それも蒸留を繰り返した度数の高い酒のように、彼女の喉を焼くようだった。

 

 混濁の狭間で揺られ続ける彼女へ、3回のノック。

 

 選手控室から姿をなかなか見せぬ彼女へ、トレーナーがノックをしたらしい。

 

「大丈夫?」

 

「ああ、過不足ない。行こう」

 

 そして、女帝は外へと一歩を歩き出す。

 

 こつん、こつん。彼女を象徴する青と黄色の折り合い。腰についたベルトの金具が、からんからんと音を立て、彼女の花道を祝う。ブーツから弾き出されるのは覚悟の音色。いつもより僅かに濃いアイシャドウが、彼女の灰簾石の瞳をより一層修飾する。

 

 地下バ道で、数多のライバルたちが息をのんで振り返る。

 

 ああ、ヤツが来たと。

 

 取り巻く視線に付け狙われながらも、彼女は淡泊な表情を守った。

 

 ふと、本場に出る間際、そこに待っていたのは黒鹿毛の少女。彼女は初めて生で目にする母の勝負服に強く惹かれながらも、ぱっと手を取って、無言で頷いた。

 

 何を言わんとするか、大方察しの付くエアグルーヴもまた、無言の肯定を返し、ターフを踏んだ。

 

『さぁ、今現れました。一番人気"エアグルーヴ"。仕上がりは充分なように伺えます』

 

『素晴らしい出来と見て取れます。ですが、油断ならないのもまた事実。並み居る強豪たちの前、頂点に君臨することはできるのか。母娘二代に渡る伝説を紡ぐことはできるのか! 要注目でしょう!』

 

 際限なく抜け行く晴天の賛歌。白日の下に姿を晒したエアグルーヴへ、容赦なく降り注ぐ観客たちからの熱狂的な歓声。

 

 エアグルーヴは心臓に手を捧げ、観客たちへ浅く頭を下げ、ゲートへ向かった。

 

 道中、背後からの視線を感じ取る。明らかに自分へと向けられた鋭利な刃物のような視線。無論それは彼女を殺しに掛かる刺客(ライバル)

 

「初めまして。かな、女帝さん」

 

 どうも穏やかではない。それもそのはずだろう。

 

「確かに、深い面識はないかもしれんな」

 

「母娘二代の伝説か。いいね、優良な血筋ってヤツは。アタシらみたいな野良とは大違いだ。皆アンタに注目している。所詮あたしらは蚊帳の外のモブ」

 

「下らん卑下だ。レース前、もう少し考えるべきことがあるだろうに」

 

「でもさぁ! そんなアンタを喰ったらサ……最高のドラマだと思わない?」

 

 無意味な卑下ではない。歴とした彼女への宣戦布告。私はお前を殺しに来た。その毒を含んで彼女へ語り掛けた。

 

「かもな。是非、脚本を作って映像研へと提出するといい。高く買って貰えるかもしれんぞ」

 

「……ッ!」

 

 ライバルの娘は大きく顔を歪めた。所詮、お前の語りなど夢物語だと一蹴された。

 

「いいねェ。流石あの女帝サマだよ。でも覚えときな。着順表のテッペンに入るのはアタシの名だ。悪いけど、私が勝つ」

 

「そう息巻いてもらえると助かる。抑揚なきレースに価値などないのだからな」

 

 そういってエアグルーヴは背を向け、ゲートへと歩いた。

 

「スカしてるねぇ。所詮アタシらのことなんて初めっから眼中になんてないんでしょ?」

 

「眼中にない……だとしたら?」

 

「目にモノ見せてやるだけだよ。アンタがどれほど自信があんのか知らないけど、アタシは今日この日の為に血反吐を吐く思いをしてきたんだ! 優良血統だとか、女帝だとか!ハナっから華々しいステージに居るアンタには絶っ対にわからない!……下剋上(・・・)だよ。今日は、アンタを狩る為の!」

 

 熱を滾らせ、彼女へ訴えかける。見方によればトラブルともとれるそれに、ゲートクルーが割って入り、その娘を宥めた。

 

 その様子を目にしていた秋名は、両手を重ねてエアグルーヴと呟く。何か彼女の不利に働く災いとならぬようにと祈って。ショパンもまた、誰にも届かない小声でお母さんと囁いた。

 

 ライバルの娘に背を向けていたエアグルーヴは、ゲートに入る直前に踵を返し、鋭くも優しい目つきで最後に語った。

 

「最初から自分を下に見ているつもりか。感心せんな。女帝(わたし)と走るのだろう? ならば相応の意気と誇りを持て。確かに私は、お前がどれほどの辛苦に苛まれてここにいるのかは知らない。知る理由も道理もない。そしてお前の言う通り、私は恵まれているのかもしれない。母から受け継いだ血と、名声。それを振りかざして今日日この日まで生きてきた。だから私は、それらを守り紡ぐ為に"当たり前"のことをしなければならない。当たり前のように出走し、当たり前のように走りそして、当たり前のように名を残す」

 

 エアグルーヴの視線は着順表のトップ。

 

「っは! よくわかったよ。アンタというヤツが。内枠1番はアタシだ。15番ゲートから頑張ってみなよ」

 

そういって、彼女は自分のゲートへと向かう為、クルーに従いエアグルーヴへと背を向けたとき

 

「最後に一つ教えてやろう」

 

 もう聞きたくもないような、彼女の声が鼓膜を叩いた。

 

「お母さまから受け継いだ、モノの価値。それは――命よりも重い」

 

 彼女は再び踵を返し、15番のゲートが閉まった。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「エアグルーヴ……」

 

 秋名は柵へ大きく体重をかけるように腕を置き、不安な青空へ祈りを捧げた。自分の担当の登竜門。この日を目指し共に歩んできた成果。試されるのは彼女だけではない。トレーナーもなのだ。

 

 しかしその傍ら、埒にしがみついてまだかまだかと待ちわびるのは、幼き黒鹿毛。エアグルーヴを敬愛する彼女、然れどもその表情に不安や憂いが一切ない。それはどこか慢心にも似ていた。

 

 それどころか、「ねぇねぇトレーナーさん。今日先輩が勝ったらお祝いするの?」と、どうも緊張感に欠けた話題を。まるで、このレースに全く興味を持っていないのか、或いは彼女が負けることなどないと、心からそう思っているのか。

 

「そう……だね。でも今は、そんなこと考えていられないかな」

 

 緊張の色が秋名へ纏わりつく。

 

「大丈夫だよ。きっと勝つんだから」

 

 にこりとショパンは笑って秋名へ言った。

 

「君は、エアグルーヴが勝つと信じてるんだ」

 

「うん。トレーナーさんは信じてないの?」

 

「信じてるさ。勿論」

 

 秋名が僅かに俯いた刹那―――

 

『スタートしました!』

 

 ガコンッ! という18個のゲート解放の音が共鳴し合い、轟く。そして放たれる18人の狂想(・・)ウマ娘たち。

 

 一人のやや出遅れ以外に、予定外はない。エアグルーヴは枠に倣いやや外側、先頭集団に位置する。その動きに不安はない。概ね予定された展開、一つ一つのプロットを辿っていくように、堅実を積み重ねていく。

 

 彼女の走りにエキセントリックさはない。奇を衒うような曲芸な走りとは対を成す、徹底的な現実主義。

 

 ひとつ足を踏み出す。その次に何処へ足を出す。そのまま直進か、ややインコースへラインを組み立てる用意をするか、逆にアウトコースへ踏み出し、自由な選択肢を増やしていくか。速度を落とし温存へ入るか、逆にストライドをさらに設け順位をもう少し上げていくべきか。

 

 選んだ一歩先に、数百、数千通りの運命が待ち受ける。ゴールまで辿れば、その運命の数は天文学的数字まで登り詰める。

 

 その選択肢の海原から、彼女は最適解を一つも外すことなく踏んでいく。

 

 合理的に捉えろ、その一歩の意味は何だ。一つの動き全てに理由を持たせろ。狙うラインには何がある。それを外せば何が起こる? そこを辿らなければならない理由は何だ。固定観念には縛られるな。

 

 1秒すらも長く感じるほどの狭小な世界で、彼女は自問自答を終わることなく繰り返す。

 

 踏めば踏む程、彼女のシミュレーションは具体性を増し、確信へと姿を変え、ボルテージを伴い

 

 

 ――輝く

 

 

――

 

 レースは未だ大きくは動かず、バックストレッチへ。

 

 エアグルーヴは中団へ位置を下げ、俯瞰してライバルたちの背中をインプットしていく。

 

 彼女の戦い方、その母をも彷彿とさせる。

 

「ああ、それでいい」

 

 秋名は息を飲んで呟く。ただ、不安の種が消えたわけではない。寧ろ不安の種はすくすくと成長する。

 

 エアグルーヴに不安があるわけではない。ただ、この先からは時にロジックすらも通用しない、神の時間が設けられるのだから。

 

『残り1200を切りました。先頭を維持するのは6番ウエストサンデー。その直ぐ外側に構えます8番イースタースキャン。その1バ身差10番キボウ。そこから少し離れて15番エアグルーヴここに位置します』

 

 

 遥か奥のバックストレッチの世界。眼鏡を要する秋名にとって、その世界は眩んでいる。どこでどう順位が入れ替わって、どういう運びになっているのか。頼れる情報源は実況とスクリーンのみ。

 

 汗が滲む。呼吸の間隔が早まる。元々心配性な秋名なだけに、それはより重い時間だった。

 

 何を憂いている。彼女を信じていないのか。息を吸いなおしてショパンの言葉を思い出す。

 

 しかし、皮肉にも彼の不安の種は身を結んだ。

 

『さぁ、3コーナーから4コーナー抜けて、各ウマ娘一気に上がって来ました! 先頭は依然ウエストサンデー、リードが続いています。残り600の標識を通過ここで、エアグルーヴ徐々に前に上がってきました。それを逃がす気はないか1番ファイバトリガー、ああっと!』

 

 実況と共に、客席が揺れる。先頭付近を走っていたウマ娘、一人が大きく斜行をした。その影響を受け、エアグルーヴは大きくラインを乱す結果となった。

 

「エアグルーヴッ!!」

 

 秋名は思わず口にした。どうにもならないアクシデントと知りながらも。声を張るだけでも何かが変わらないものかと祈った。

 

 しかしその傍ら。

 

 

 ショパンは

 

 

 

 にこりと笑っていた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

(……っく!)

 

 前を走っていた娘の突然の斜行。

 

 エアグルーヴは理想ラインを捨て、干渉から逃れる為にアウトコースへ逃げる選択を取らざるを得ない。

 

 その影響代は計り知れない。充分に掛かっていたブースト圧が一気に抜ける。それでも、彼女は直ぐに態勢を立て直して足を前に出す。

 

 エアグルーヴにとっては不運なアクシデント。だが、あるものにとっては最高のアクシデント。

 

(運が尽きたか女帝サンよ。お高く留まってんじゃねぇぞ。この中央にはアタシ(・・・)がいること、わからせてやるよ!)

 

 わずかに失速したエアグルーヴ。それを外から差しに掛かったのは、レース直前にエアグルーヴと一悶着を起こした1番ファイバトリガー。

 

 斜行をした娘はそのまま順位を下げ、視界から消えたからいいものの、調子を狂わされたエアグルーヴと、上がり調子のままスパートを迎え、完全にエアグルーヴを差しにかかったファイバトリガー。

 

 どちらに利があるか、いうまでもない。

 

 そのまま二人だけの、絶対な領域へと踏み込んでいく。

 

(これでサ、斜行があったから勝てたなんで温いこと言われんのもヤだからさ。悪いけど完膚なきまでに潰させてもらうよ!)

 

『先頭に踊ったのはエアグルーヴ! 影響を受けながらも、そのまま先頭へ! だがそのすぐ後ろを追走!1番ファイバトリガー!! さぁ勝利の女神はどちらへ!?エアグルーヴ!? ファイバトリガー!?』

 

「ああ……エアグルーヴ!」

 

 秋名は一瞬たりとも視線を離すことができなかった。まるで全財産を賭けたような大博打。このまま心臓が止まろうともおかしくない程。

 

 不安定に苛まれる秋名。それを見かねたショパンはそっと彼の手を握った。

 

「大丈夫だよトレーナーさん。何も問題なんてない」

 

「何を!」

 

「だってね。お母さん(・・・・)は強いんだもん。4月開催のオークス。2400m 芝 左。三分三厘、4コーナーから抜けての勝負所、先頭を走るイースターサンデーが大きく斜行。走行を妨害されたお母さんは大きく体制を崩しながらも、直ぐに立て直す」

 

 ショパンはおもむろに語りだす。彼女が語ったのは、今目の前で起きた過去。

 

 だがそれは、あるところを境に、未来へと踏み込む。

 

「そこを付け狙ったのが1番ファイバトリガー。その娘はお母さんに急接近する。みんな、エアグルーヴが差されたと思っちゃう――だけどね」

 

 

 

――

 

 

『ファイバトリガー!! エアグルーヴをとらえた!! エアグルーヴ逃げられないか!? 先頭はエアグルーヴ! そのすぐ後方ファイバトリガー! その差は1バ身もない!』 

 

 見える、見える!!

 

 食える、喰える!!

 

 もう少しだ。もう少しだ!!

 

 なぁ、女帝(エアグルーヴ)。アンタのことは本当にすげぇと思うけどさ、たまにはこんなヤツ(・・・・・)にだって華持たせてくれたっていいだろ?

 

 仲間の為トレーナーの為自分の為。アタシにだって勝たなきゃいけない理由なんて腐るほどあるんだ。

 

 ……ほんとはさ、何となくわかるよアンタのことも。親が、親が。生まれつきのプレッシャー抱え続けるなんてさ。ほんとは窮屈だろ。

 

 命よりも重いんだって? ばかげてる。

 

 一回負けてみろよ。死にゃしないよ。一回負けて、楽になってみろよ。

 

 これはアンタへの救済なんだ。親がなんてつまんねぇ理屈、アタシと一緒に捨てちまおうよ。

 

 ほら、もう少し。あとクビ――

 

『見かけによらず、随分と御節介なんだな』

 

 ――!

 

 それは幻聴? 声など聞こえない

 

 だけど、それは彼女の脳内に、言葉として、恐怖としてはっきりと描かれる。

 

『悪いが私は世話を焼いても、焼かれることはどうも性に合わない。私に救済など必要ない。親がどうだとか強制された覚えなどない。私は、恋焦がれた人の背を追い続けているだけだ』

 

 

――

 

 

 

「その差が迫った時、エアグルーヴはもう一段スピードを上げる。後続の娘はそのスピードについてこれない」

 

 

 秋名が視線をターフへ戻す。

 

 

 目を疑った。

 

 

 目の前の景色が、ショパンのショパンの予言通りに動いていたのだから。

 

 

 

――

 

 

 

 そんなところに居られていては、すまないが邪魔だ。

 

 

 

 

 女帝が通るぞ

 

 

 

 

 道を開けろ――

 

 

 

 

 

「……あっ」

 

 

 

 

 その瘴気に、一度だけ、息を忘れた

 

 

 

 猛毒を纏った女帝の魂が、ようやく姿を見せた

 

 

 

 差せると思った。勝ったと思った。

 

 

 だってこんなに近くに居るのだもの。そう思わないほうがおかしい。

 

 

 だけど

 

 

 だけど

 

 

 それはとんでもない見当違いだった

 

 

 

 

 こんなのに……かてるわけがない

 

 

 

 

 

 エアグルーヴはもう一段。二重目のスパートを踏み出した。

 

 

 

 

 ファイバトリガーは、もういっぱいいっぱいだというのに……

 

 

 

 

 

 そんな……そんなのってないよ

 

 

 

 

 まって……

 

 

 

 

 よ……

 

 

 

 

 

 

 

『エアグルーヴ!! エアグルーヴ再び抜け出した!! 残り200!! エアグルーヴ!!  その差は開く一方!! 強い! エアグルーヴ!! 女帝のその名を――』

 

 

 

 

「それでね、1番の娘と1バ身以上の差をつけて、お母さんはね――」

 

 

 

 

『確かなものとしました!! エアグルーヴ!! 一着はエアグルーヴ!!』

 

 

 

 

「勝っちゃうんだ!」

 

 

 

 客席から、轟音が響く。観客たちの歓声が重なり、それはハッキリとした振動となり。ゴールライン佇むエアグルーヴへ、惜しみないシャワーとなって降り注いだ。

 

 

 

 秋名はただ、茫然としていた。

 

 

「ショパン、君は……一体……!?」

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「それでね! それでね! ウイニングライブもすっごくカッコよくてね!」

 

 少しだけ濡れた黒い鬣。ショパンはベッドに掛けて、同室のファインモーションへと今日のことについて余すことなく話した。ファインはうんうんと笑顔で頷いて、ショパンの語りを見守った。

 

「もういいだろう。ショパン。いい加減寝るぞ」

 

 その女帝の声色はいつものように張ったものではない。少しだけくたくたとしていた。

 

 流石の彼女でも、疲れの顔は隠せないようだった。

 

「あ、うん!」

 

 そういってショパンはエアグルーヴのベッドに潜り込む。

 

「おやすみなさい」

 

「う……ん」

 

 消灯してから、エアグルーヴが深い眠りへと就くまでに1分すらも不要だった。

 

 暗がりの中、月明かりを頼りに、ショパンはエアグルーヴの寝顔を堪能していた。

 

 今日のオークス。ショパンが結果を知っていたのも当然だった。だって、自宅に眠るビデオで、何度もその勇姿を見てきたのだもの。

 

 レースの展開、斜行によるアクシデント。そして、母が勝つことだって。

 

 それでも、生の母の勝利とは、神々しく、やはり美しかった。

 

 ショパンはエアグルーヴが眠っていることをいいことに、深く彼女の懐へと潜り込む。

 

 とても強くて、とても賢くて、とても綺麗で、ちょっとだけ厳しいけど、本当はとっても優しい私だけのお母さん。

 

 私だけの。

 

 私だけの。

 

 大好きなお母さん。

 

「おやすみなさい。おかあさん」

 

「……うん」

 

 

 



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【番外編】ひとりぼっちのショパン

これは現代に住むショパンと秋名。ちょっとだけ寂しいお話


「ただいま……」

 

 彼の小さな声は、玄関のヒンジの音にかき消される。まだ新しいマンションな筈なのに、やたらと草臥れたような音がするのは気のせいなのだろうか。彼の耳にだけ、そう聞こえるのかもしれない。

 

 彼を出迎えるのは、靴箱の小さく淡い間接照明のみ。そこから先は、何も見えない闇夜。

 ぱちり、ぱちり。ひとつずつ自宅の明かりを灯してゆく。照明が起きて、ようやく明らかになってゆくのは、虚空のような寂しい時間。整頓されてはいるが、逆を言えば生活感がどこか乏しくすらも感じる。

 

 食卓の明かりを灯せば、そこにはフードカバーに包まれた夕食と、『たまには早く帰ってきてあげなさい』と記された義母からのメッセージカード。

 

「すみません。お義母さん」

 

 秋名は一つ呟くと、そのメッセージカードを手にしたまま、娘の部屋へと向かう。

 

『Chopin』と扉に提げられたルームプレート。周りは音符で彩られている。静かに、彼女を起こさないようにノブをゆっくり握り、音が鳴らないように扉を開ける。

 

 廊下からの明かりだけを頼りに、秋名はそろりと足を踏み入れる。

 娘の部屋、辺りにはプリファイのグッズや、愛らしきぬいぐるみ。そして、母であるエアグルーヴのポスターや写真集やパカプチ。それらで埋め尽くされていた。

 

 部屋の壁際、やたら不自然なほどに毛布が膨らんだベッドが一つ。枕元を見ても、ショパンの頭はない。

 

 秋名はそっと、毛布をめくりあげる。その時、するりと黒い何かがベッドから降りてくる。秋名は小さく驚きつつも、声は出さなかった。だってそれは、我が家の三人目の家族なのだもの。

 

「ああ、ジョルジュ。ショパンの御守りをしてくれていたのかい。ありがとう」

 

 秋名はそういうと、黒い愛猫の頭を数回撫でる。その愛撫を受け取ったジョルジュは、本来の寝床へと部屋を後にした。

 

秋名は再び毛布を捲りあげる。そしてようやく出会う。娘の寝顔と。

 

 くぅくぅと、小さく愛らしい寝息。しかし、安らかな寝顔とはどうも言い難い。孤独を抱えたような、若くして悩むべきでない悩みを抱えたような、不憫さを纏ったような寝顔だった。

 

 秋名はショパンの頭を優しく撫でた。ショパンは寝言のように小さく「ヒィン…」とだけ言った。

 

 その時、ふとショパンの瞳がゆっくりと開いた。

 

「んぅ?……おとーさん?」

 

「ああ、起こしてしまったかい」

 

 ごめんよ、と言いながら秋名は手を引こうとしたが、ショパンがその手を握った。

 

「いっしょに寝よ……?」

 

 寝ぼけた声と、微睡んだ瞳でそういった。

 

 秋名は少し意表を突かれたように戸惑うが、ここは素直に娘に従い、ネクタイも解いていない姿のまま娘のベッドへと入り込んだ。

 

「寂しかったろう。ごめんね」

 

 ベッドの中で、娘の頭を抱えながら言った。ショパンは小声でうんとだけ応えた。

 

「明日は映画館へ行こうか。見たかった映画、一緒に見よう」

 

「ほんとぉ」

 

「ほんとさ。明日はうんと遊ぼう」

 

 明日の約束に、ショパンは微かな笑顔を残して、再び眠りの世界へと身を落としていった。

 

 秋名は娘の眠りを確認すると、ベッドを後にした。部屋を出ようとしたとき、完全に扉を閉めることはせず、少しだけ隙間を残した。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「おはよう!」

 

 日曜日のモーニング。リビングに居たのは、少しだけ高揚とした気分を纏った黒鹿毛の娘の姿。愛猫の耳をこねこねと触りながら、父を出迎えた。

 

「やぁ、早いね」

 

「お父さんはお寝坊さん」

 

 そう笑顔で言うと、ショパンは父へ珈琲を差し出す。ありがとうと秋名は言うと、寝間着のままソファへかけた。

 

「ショパン。君が見たいって言っていた映画ってどれだっけ」

 

「ええっとね! プリファイの新作なの! 次の上映、早く準備しないとだよ!」

 

 ショパンは既に身支度を終えている。あとは父親待ちということらしい。

 

「ははは、わかったよ。ちょっとまってて……」

 

ピリリ、ピリリ。

 

 それは、二人の幸せな時間を切り裂くような、悪魔の音色だった。仕事用携帯の着信音。

 

 ドンと、秋名の心臓に鉛の弾が撃ち込まれるようだった。不安な色を隠せないまま、秋名はそれをとった。

 

『ああ!秋名さん!すみません!ちょっと今…マズいことになっちゃってて…至急の対応が必要なんです!申し訳ないんですが…』

部下からの切羽詰まった声色。血の気が引いているようだった。どうやら、かなり痛いミスを負ってしまったらしい。

 

「そう。わかった……よ」

 

 秋名は重く着信を切った。そして娘になんと言ったらいいかわからないまま、その表情を向けた。

 

「お仕事……?」

 

「ああ。ごめんね……」

 

「ううん……私は大丈夫だから」

 

 ショパンは笑って見せた。一目でわかる作り笑い。娘のそれを見るのは初めてではない。それを見るのが、どうしても辛かった。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「ただいま……」

 

 部下の尻拭い。結局帰宅は夜中。

 

 食卓には、またメッセージカード。

 

『ショパンには、貴方しか居ないのよ』

 

 自分の胃袋が、自分の胃酸で溶かされるような感覚だった。

 

 秋名はまた、その手紙を手にしたまま娘の部屋へ向かった。今度は部屋を開けたと同時に、ジョルジュが入れ替わるよう出てきた。

 

 秋名は愛猫に手を差し出そうとしたが、ジョルジュはそれを拒否し、秋名へ睨みつけるような視線を刺した。自分の猫に責められているようだった。『お前は父親としての自覚があるのか?』と。

 

 そして再び娘のベッドの毛布を捲った。そこにショパンは確かに居た。顔を少しだけ腫らせて、湿った瞳を瞼で無理やり閉じて。

 

 秋名が理解するまでに時間はいらなかった。

 

 ああ、ショパンは泣いていたのだ。たった一人、孤独におびえながら。

 

 秋名は毛布を戻し、振り返る。その時に目に入った。彼女の机に置かれた、一冊のノート。そこにひとつの殴り書きの跡。

 

 

『お仕事のばか』

 

 

 秋名はどうしても居た堪れなくなって、逃げ出すように娘の部屋を後にした。

 

 

 気が付けば、度数の強い酒を片手に妻の遺影の前に鎮座していた。食事をする気にもなれなかった。

 

「ああ、エアグルーヴ。僕は……僕は……ぁ……」

 

 ああ、情けない。男のくせに。酒に溺れ、娘を蔑ろにして、涙を零して、なんという体たらくだ。

 

 きっと、彼女ならそう叱ってくるに違いない。叱ってくれるに違いない。…生きてさえ、いてくれれば。

 

 ああ、なんとういうことだ。これでは、妻を安心させるどころではないじゃないか。

 

 失格だ。父親として、彼女の夫として。

 

「エアグルーヴ……すまない……」

 

 そういいながら、秋名は手に持った酒を口に含んだ。

 



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薫陶 イ長調 作品3
ショパンはスミレがお好き?


 

 

 

 

 

 

 

 

『それでね、お母さん(・・・・)はね、勝っちゃうんだ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ん」

 

 ふと、彼女(・・)の声に呼び起こされる。彼が見ていた(シアター)は、昨日のオークス。

 

 額に手を添え僅かな沈潜。担当のエアグルーヴは確かに見事な勝利を納め、彼としても安堵の息を吐ける結果となった筈だ。

 

 だが、どうしても払拭できない要因が一つ。

 

 あの"黒鹿毛の不思議な少女"

 

 秋名は確かに目にした。あの少女の口の動いた通りに、目の前の現実が導かれるように動いたのだ。

 

 彼女の語り、ただの出任せを言っているようではなかった。予想を口にしている訳でもないようだった。

 

 まるで、エアグルーヴがあのレースで差しを抑えて勝利するという結果を"知っていた"かのように、予想でなく"事実"を語っているかのように。

 

「ショパン……」

 

 秋名が少女に対して感じている違和感は数多い。しかし、それらはどうも、妙に心地の良い違和感。時に彼女が、自分の近くに居ることが、ごく自然のように錯覚してしまうほど。

 

 知らない筈なのに、知っているかのよう。

 

 知っていると彼の何かが言うくせに、彼の記憶は彼女を知らない。

 

 無次元の矛盾の中で戸惑う。その裏側で、あの少女の面影がくすりと笑う。

 

 別に何を憂いているというわけではないが、どうも上手く言語化できない想いが、下がらぬ留飲として彼に残る。

 

 彼女に感じる何か(・・)とは、何なのだろう。

 

 解など期待できぬ、難解な数式の前から逃れるように、彼は単身用にしては中々に持て余す程の面積を誇るベッドから身を起こし、洗面所へ。

 

 がさり、ごそり。いくら多忙を極めている身とはいえ、この部屋の節操のなさとは、女帝の杖を語るトレーナーとして如何なものか。彼女に見つかれば大目玉かもしれない。

 

「まぁ、そんな滅多に来るものじゃないしね」

 

 そんな中身のないぼやきをひとつ吐いて、歯ブラシを口に入れた。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

『女帝エアグルーヴ、オークスの称号をその手に……』

 

 大きな見出しを優美に飾るは、名実共に相応しき冠を手にしたウマ娘。それが己の担当だというのなら、どうなのだろう。

 

 抜け征く程の天候に恵まれた、トレセン学園の廊下の中腹。秋名は担当の見出しを一つ眺めては、ページを捲り、また見出しへと戻る。自分の担当が大きな書面に写し出されることは、やはり気分がいい。秋名に関する言及についてもちらほら。歩き読みはよくないと知りつつも、気が付いたらまた折りたたんだ新聞を広げてしまう。

 

「――よーォッ! 司ぁ! ナンだお前そんなに自分のオンナに惚れ込んでんのかぁ!?」

 

 陽気で軽薄なトーンが、前触れもなく彼の背を叩く。その男は秋名の名を呼ぶと、そのまま膝で彼の尻を蹴り上げた。

 

「うわっ!……なんだ、君か。礼司」

 

「何だじゃねぇだろ。テメェ、よくもオークスで俺の担当ボロッカスにしてくれやがって」

 

「ああ、内枠1番のあの娘。そうか、君の担当だったんだ。彼女もよく健闘した娘だとは思うよ。だけど、レース前に突っかかってくるのは止めるように言ってあげな。下手すりゃ競争中止になる」

 

「言って聞くようなタマでもねぇよ。俺の担当だぞ。でもま、いい刺激にはなっただろうよ。ベソかきながらサ、次こそは絶対膝付かせてやるってよ」

 

「そう、甘くはないと思うよ」

 

 秋名は眼鏡超しの瞳をきらりと光らせて、同期である織戸礼司へと言った。

 

「お高く留まってんな。直にわかる。ってないい前置きでさ」

 

 そう言うと、織戸は懐からくしゃくしゃに皺の寄った一枚の書類を秋名へ。彼はそれを受け取り、皺を伸ばし、中身に目を落とす。それはとあるレースへの申し込み用紙。これは? と秋名が問う。

 

「なんだお前、トレーナーの癖して申込用紙の一枚も知らねぇってのか?」

 

「手短に頼むよ」

 

 秋名はやや怪訝に言う。仕事が増えそうな予感を肌で感じた。

 

「ナンてことねぇ。ウチのお袋が送りつけて来たんだ。地方競技場でのシロートレースなんだとよ」

 

 そこに記載があったのは、確かに中央とは遠く掛け離れた地方競技場の名と、イベントの旨。

 

「なんでまた。こんなもの」

 

「地域振興イベントなんだと。地方競技場を丸々貸し切って、未来あるウマ娘たちの腕だめしをここでだとさ。要はただの地域運動会ってワケだ」

 

 織戸は壁に背を預け、自分の抱える面倒事を秋名へ押し付ける手続きを語り続けた。

 

「未就学ウマ娘から成人ウマ娘まで、階級別でなんでも御座れなワケ。だが。ひとつ面倒なことがあってな。そのイベント、応募率がイマイチ良くないらしくてな。ほら、中等部とか高等部の若手連中のレースって華だろ? このイベントでも一番の目玉にすべく、フルゲート開催にしてぇんだけど」

 

「なるほど。君のお母さんは、選手集めとして君を頼ってる訳だ」

 

「そゆこった。だが、俺が抱えてる連中ってのは中央を走る化け物揃いだ。…そんな奴がこんな地方の素人レースに出ても見ろ?その辺のスプラッター映画より酷い始末になる」

 

「だからって、どうして僕なんだ? エアグルーヴを出せと言うのかい?」

 

「そら駄目だ。ただのスナッフフィルムになっちまう。そーじゃなくてサ。いんだろお前のとこ、ちょーど良さ気で暇そうなやつ(・・)が」

 

「もしかして、ショパンのこと言ってる?」

 

 そゆこと。と織戸は眉の端をクイと上げて言う。これで万事解決の兆しが彼には見えているのだろう。

 

「待ってくれ。そもそも彼女はレースへの出走権限を持たないウマ娘だ。そんな勝手なこと」

 

「そりゃ中央のハナシだろ? これはただのシケた地域の祭りみてぇなもんだ。飛び入り参加大歓迎。むしろ来てもらわねぇと参っちまう。なぁいいだろ? 頼むよ。俺の顔立てると思ってさ。お袋ももうその気なんだよ」

 

 秋名は再び書類に目を落とす。申込用紙の皺が、彼の眉間にも伝染るようだった。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 古書物とインク、時に珈琲の香りが、何時もと変わらぬ生徒会室の時を彩る。そこに流れるBGM。何時もなら、ルドルフの好む洋楽でも流れているものだが、今日ばかりは少し違う。

 

 カリカリカリと、HBの鉛の芯が削られる音が響き、さらさらさらと、一冊の白いノートの上を、鉛のペン先が滑らかに踊る。そんな勉学のワルツだった。

 

 時にふと、その軽快な音が途切れたかと思えば、エアグルーヴはペンのノックキャップを顎に翳し、くるりと一度器用に回すと、再びノートへ数式を書き込んでゆく。

 

「随分と精が出るな。生徒会の仕事の合間にも勉強とはね。レースが終われば、次は考査に余念が無いと言ったところか? 文武両道の示しとして感心だ」

 

 そう、ルドルフが生徒会長の席から頷きながら言った。しかしエアグルーヴは、少しだけ頬を紅潮させ、どこか歯切れの悪く、ルドルフの声に応える。

 

「ああ、いえ。私のではないのです。その、ショパンが。数学がどうしても難しいと言うものですから」

 

 確かに、彼女が展開してゆく数式は、高等部で習うにしては聊か簡単すぎる。それは中等部の、それも初等部生クラスが習う程度の幼い内容。そこには色ペンやマーカー等も足され、要点が小綺麗に纏まっている。

 

「ああ、なる……ほど。そうかい。ああ、そういえば。君が提出していた寮の備品発注書、承認しておいたよ。見たところスキンケア用品の銘柄を軒並み変更しているようだったが、理由があるのかい?」

 

「ええ、それもショパンが。あの娘、結構肌が弱いみたいで。できるだけ添加物の少ないオーガニックなものでないと、すぐ肌荒れを起こしてしまって。勿論寮長には合意をとっております。少々コストが嵩張ってしまいますが、目を瞑っては頂けませんか」

 

「あ、ああ。ま、まぁ。そういうことなら……」

 

 ルドルフは少しだけ、呆気にとられながらも、真剣なエアグルーヴにこれ以上を意見できなかった。

 

 そこに、老朽化が進んだ生徒会室の戸を足で開ける不届き者の姿が。気怠い声色に載せて。両手に大きく膨れ上がったレジ袋を引っ提げて。

 

「ああ。ブライアン。買い出しご苦労だったね」

 

「ちッ。たまにはアンタが行けよ」

 

 そうブライアンは悪態を付きながら、生徒会のテーブルへ雑に袋を置く。そこから出てくるもの。生徒会で使うテープやステープラといった雑貨や、珈琲豆や紅茶のパックなど。そしてもう一つが、エアグルーヴが花壇のガーデニング用にと注文つけた花の種。クレマチスやマリーゴールド。ベニチュアやラベンダーといったこれからの季節を彩る担い手たち。

 

 そんな彼らの中に隠れるように、一つの種。

 

「これは、スミレ?」

 

 ルドルフが手に取り、僅かに首を傾げて言う。

 

「それも、ソイツのリクエストだ。スミレなんてどこにでも咲いてんだろうに」

 

「ああ、スミレは多年草の中でも特に育てやすい品種なんだ。今度からショパンに育てさせてやろうと思ってな。丁度ショパンもスミレが好きだと言っていたから。命を学ばせてやるにはいい機会だろうと思って」

 

「……」

 

 エアグルーヴを除く二人に残るは、モノも言えぬ沈黙。

 

 最近のエアグルーヴ。口を開けば出る言葉は、ショパン。

 

 やたらに面倒見のいいという範疇を、超えかけているようにすらも伺える。どちらかというと、お節介の類だ。

 

 スミレの種を日に翳し、少し和みのある横顔を二人に見せる。あの娘はこの種を気に入ってくれるだろうか。その心を顔で語っていた。

 

 それを流石に見かねたブライアンが、エアグルーヴへ言った。

 

「なぁ。お前、本当に母親みたいになってきたな」

 

「なッ!?」

 

 どくん。意表を突かれたようなブライアンの一言に、女帝の顔は焦燥に書き換わる。

 

「ど、どこが、貴様!」

 

「どこがって、自覚もないのかお前」

 

 ブライアンはエアグルーヴの目の前に置いてあるショパン用の学習ノートを取り上げて、女帝の前でひらひら。

 

「忘れたか。アイツ(・・・)は正体不明の不審ウマ娘だ。そしてお前はただの監視役。それがなんだ。そんなヤツのテスト対策に、こんな手間をかけてやる義理がどこにある?」

 

「学業は全てにおいて優先される。例え身元が不詳であろうと、蔑ろにしていい理由にはならん。将来を思やってやるのならそこは」

 

「だからなんでそんな義理がお前にある。身元すらもわからんそんな子供の将来を想う理由は」

 

「それは……」

 

 エアグルーヴは思わず言葉を噤んだ。らしくない女帝が垣間見えた

 

「差し詰め、放っておけないのだろう」

 

 沈黙の海原で溺れるエアグルーヴに船を出したのはルドルフだった。何時もと変わらぬ声色を、宥めの調べに載せて、いつも言葉で鍔競り合う二人を窘める。

 

「会長」

 

「ブライアンの言うことにも理はあるが、それだけエアグルーヴがショパンと懇意だというのなら、否定してくれることもない。彼女の"胸襟を開く"ことを目的とするのならね。だが、エアグルーヴ。ブライアンも言うように、彼女の身元は依然として不明のままだ。彼女の目的も、その狙いも、未だ明瞭ではない。私は君の言ったリスク(・・・)が完全に払拭できたとはまだ思っていない。…それが明らかになるまでは、あまり情を持ちすぎるな」

 

「……肝に銘じます」

 

 エアグルーヴは小さい嘆きを残し、生徒会室を去った。

 

「おい、アイツ」

 

「言ってくれるな。彼女も思い悩んでいるのだろう。あの娘とどう接していくべきかと」

 

「にしても、まだわからんのかあのガキは」

 

「そうだね。こうも長引くとは思っていなかった。支援センターの牧野君とも連絡は取り続けているが、奇妙な程に何もわからない」

 

「じゃあ何だ。卒業までアイツをここに置いておくつもりか」

 

「それは参ってしまうね」

 

 ルドルフは無糖の珈琲をひとすすり。沈黙に溢れかえる生徒会室に己の声を垂らす。

 

「行方不明者のリストにもない。彼女に関する届け出や公的書類すらも出てこない」

 

「そこまで来ると、さすがに気味が悪いな。そんなことありえるのか?」

 

「"あり得ない"が率直なところだ。仮に考えられるとすれば、彼女はそもそも日本のウマ娘ではないという説に辿り着く」

 

「どう見たって日本ウマ娘だ。言葉にヨレもない。言動振る舞いも日本ウマ娘のそれだ」

 

「しかしそれは否定する根拠にはならない。不法入国を狙った生徒への成りすまし」

 

「だがそれだと」

 

 ブライアンの言葉をルドルフは遮る。きらりと瞳を滾らせて。

 

「そう。彼女の行動に整合が取れない。そうであるとするならば、身元はひた隠しにする必要がある。しかし彼女はわざわざ騒ぎになる選択を取った。そして私たちに身元を洗い浚い調べられる結果になった」

 

 ブライアンは深くため息を吐くと、まるでわからんと嘆きながら頭を掻いた。

 そんなブライアンの嘆きを横目で流したルドルフは、机の引き出しに手をかけて、一枚のカードを手とる。

 

「それ、アイツの学生証か。戻ってきたのか」

 

「ああ。解析不可との結果でね」

 

 ルドルフはその未来の日付が載った学生証を、わざと日の当たるところへ置き、その意匠を眺めた。

 

「なぁ、ブライアン。私、一つ思うことがあってね。どう辿っても繋がらない彼女の言動。一つだけ、すべてを説明つける条件があるんだ」

 

「条件?」

 

「――彼女(ショパン)が一切として嘘を言っていないという条件だ。勿論、あり得ないがね」

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「あ! 先輩(おかあさん)!」

 

 その鹿毛を見つけるや、黒鹿毛は尾を靡かせて彼女のもとへ走る。

 

 エアグルーヴは既に目に馴染んだショパンへ、無言を返した。

 

「どうしたの? あんまり元気ない」

 

「いや、この間のレースの疲れが抜けきってないだけだ。良くないな、模範である女帝(わたし)として」

 

 久方ぶりに吐く嘘は、どうもぎこちない。ショパンに見抜かれぬものかと小さな不安が彼女を襲う。じゃあ、今日の練習はお休みする?とショパンが問うが、そうはいかん。とエアグルーヴはショパンに背を向けた。

 

 今日とて今日も、ショパンはエアグルーヴの背中についてく、ついてく。

 

 二人が目指すは、トレーナーの部屋。放課後に来てくれと連絡が入っていたらしい。

 

 その道中、エアグルーヴがショパンに問う。

 

「なぁ、お前はどこから来たんだ」

 

 それは二人の間では既に形式的なものになりつつある問いかけ。エアグルーヴが問い、ショパンは沈黙か整合の取れぬ答えを。初めてショパンと会ったあの日から、何度この問いかけをしたのだろう。進展した答えが返ってきた試しなんてないのに。

 

 今日も、例に倣うようにショパンは沈黙。つかつかと、彼女らの足音だけが絡み合って響いた。

 

「私にすらも答えられないのか」

 

「だって、どうせ信じてもらえないんだもん」

 

「未来から来た。か?」

 

 ショパンに二度目の沈黙、そして開口

 

「本当にそうって言ったら、信じる?」

 

「ばかばかしい。……信じるわけがない」

 

 

 

 

 



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トレーニング

「ショパンを?」

 

「ああ、実は押し付けられちゃってね」

 

 秋名の提案に女帝は眉間に皺を作り、彼の差し出した書類に目を落とす。そこに記されている内容、秋名が語った通りの内容だった。

 

 地方の競技場を貸し切り、執り行われる無名のレース。その報酬には、栄誉も金も記録も何も絡まない。あるとすれば、そこに参加をしたという思い出と、参加賞くらいのみ。

 

「たわけっ! そういうお人好しなところが身を亡ぼすとまだわからんか! いい加減付け込まれていることを自覚しろ! それに、あの織戸というトレーナーも大概だ。…ええい、容赦ならん! ヤツのもとへ……」

 

 エアグルーヴは温和を忘れた仮借なき姿勢を見せる。女帝の杖であるトレーナーを、こうも良いように利用されようなど、腹の虫が収まらない。トレーナーを安く見られることは、即ちエアグルーヴ自身を安く見られていることも同義なのだから。

 エアグルーヴは怒りに身を任せて踵を返すと、秋名の呼び止める声を無視して取っ手に手をかけようとした。

 

「私、走れるの……?」

 

 ショパンの一言を、女帝の左耳が捉えた。彼女は足を止め、ショパンを見た。秋名も釣られて視線をショパンへ。

 

 そこにいた(ショパン)。少しだけ頬を紅潮させ、心なしか尾も耳もふわふわと揺れ動いていた。

 

「ショパン、お前……」

 

 身元不詳といえど、ウマ娘。彼女たちは走りに生きる意義を見出す種族。それは、不思議な娘(ショパン)と言えど例外ではない。

 

 彼女の瞳から、汚れのない欲、純粋が溢れる。それが女帝の心を刺激した。だが、彼女はショパンから視線を外して冷静を語った。

 

「ショパンとは、トレセン学園(ここ)の生徒ではない。彼女をトレセン学園生として出走させられる権限はないんだ」

 

「承知の上さ。だけどこれは、そもそもURA管轄のレースじゃない。地域振興の」

 

 秋名は織戸の受売りを語った。だが、彼の口調には幾何かの違和感。嫌々押し付けられてというより、この話を前に推し進めたいという焦燥が滲み出るようだった。

 

 女帝の眉が動く、秋名の真意をここで彼女は見抜いた。

 

「待て、貴様さてはこのレース、“断れなかった”ではなく、“断らなかった”な?」

 

 うっ、と秋名の喉が瞬間的に息を詰まらせた。(エアグルーヴ)の鋭い眼光で磔にされる(トレーナー)。それはショパンにとって初めて見る夫婦喧嘩…?

 

「え、いや、そんな」

 

 どう取り繕っても遅かった。そう、秋名は断らなかった。

 

 

 ショパンに走る機会を与えたがったが故に。半ば故意に――

 

 

「どうなんだ」

 

 エアグルーヴの尋問に、秋名が耐えられるはずもなく。机に俯き、頷いた。

 

「……この娘、君の走りを見ている時、何時も羨ましそうに見ていた。身元を明かせないのは、きっと複雑な理由があってのことだとは思ってる。だからと言って、このままずっと場外のままに留めておくのは、トレーナーとして少し心苦しくてね」

 

 トレーナーとして。果たしてそれは本当に職務としての想いなのか。

 

「どんな理由があれ、恵まれる機会を享受できる権利はこの娘にだって平等にあるはずだ。ウマ娘であるのなら」

 

 秋名のセリフを黙ってエアグルーヴは飲み続けた。

 

 10秒の沈潜。ショパンにとってはその時間は永遠な程にも感じた。

 

 先に口を開いたのはエアグルーヴだった。視線の先、居たのはショパンだった。

 

「ショパン、お前に問う。走る意思はあるか?」

 

 ショパンは少し戸惑いながらも、頷いた。

 

「……。いいだろう。ただし、やるのなら勝ちにいくぞ。地方の祭りだ何だか知らんが、やるのなら死力を尽くせ。仮にでも女帝の下に居るウマ娘だ。妥協や泣き言は一切認めん。もう一度問う。それでも走るか?」

 

 ショパンはもう一度頷いた。女帝と似た釣り目の中に眠る、藍玉の瞳を女帝の灰簾石の瞳にぶつけた。己の意思を、瞳で語った。

 

「会長には私から掛け合っておく。今日からトレーニングを始める。トレーナー、直ぐにメニューを用意しろ」

 

 エアグルーヴは二人に背を向けて語った。そして、トレーナー室の戸が閉まる音が最後に轟いた。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 春の優しさが、夏の憂いへとすり替わっていく。暦上ではまだ春を語れるはずのに。カレンダーはいつから嘘を吐くようになったのか。

 

 否、ただそこに居る二人(・・)が熱いだけなのかもしれない。

 

 二重に絡まる、母娘の音――

 

「違う! 腕の振りが甘い!」

 

「どこを見ている! お前の行く先は足元か!? 顔を上げろ! 行くべきところを見据えろ!」

 

「我武者羅に走ればいいと言うものではない! 考えることを止めるな!」

 

 女帝は厳しかった。ショパンに対し、一切の甘えを許さない。私生活であるなら別だ。だが、レースというのなら…そこに居るのは誰しもが恐れる”女帝 エアグルーヴ“だった。

 

「姿勢はどうした! フォームの乱れは敗因に直結すると言ったはずだ!」

 

 秋名にとっては肝が冷える程に、エアグルーヴの指導は峻厳を極めていた。一瞬たりとも気を抜いた走りをしようものならば、エアグルーヴからの容赦のない指導がショパンへと飛んだ。

 

 乱れる。ショパンの息が、フォームが、心が。

 

 緩む。足が、気持ちが。

 

「ひぃっ……ひぃっ……っ!」

 

 練習場の第三コーナー。そこでショパンは足を止めてしまった。両膝に手をついて、全身から滲む汗を滴らせて。

 

 思わず、慈悲を求める顔をエアグルーヴへと向けてしまった。

 

「ここがお前のゴールか?」

 

 それでもエアグルーヴは甘くなかった。どれだけ泣きを言おうと、妥協も容赦も許さない。それが約束だから。それが彼女の走りに対する姿勢なのだから。

 

 併走していたショパンとエアグルーヴ。完全に根を上げたショパンに対し、エアグルーヴは息の一つすらも乱れない。

 

「大丈夫!?」

 

 そこに駆け寄ってくる秋名の姿。少しだけの不安を抱えてショパンとエアグルーヴの下へ。

 

 ショパンは顔を赤く、少しだけべそをかいた。

 

「やはり、無理があるんじゃないかな。このトレーニングメニューじゃあ」

 

 秋名とエアグルーヴが用意した、ショパン用のトレーニングメニュー。それは、彼女に対し少なからず酷を要求するものであるのは確かだった。

 

 ショパンはエアグルーヴや他の娘とは違い、基礎的な部分が圧倒的に足りていない。それをこの短期間でレースで通用するまでの水準に引き上げるというのなら、通常のメニューでは間に合っていられない。

 

 だが、それで体を心を壊されようなら元も子もない。あくまで彼女は保護している身。彼女の本当の親(・・・・)にも申し訳が立たなくなるかもしれない。

 

「無理はしても、無茶をさせるわけにはいかないよ。ショパン、御免よ。もう一度メニューを考え直そうか」

 

 秋名がショパンに手向けたのは優しさだった。甘い言葉で彼女の挫折を口説く。

 

 しかし。

 

「ねぇ、先輩(おかあさん)だったら、こういう時って、あきらめる……?」

 

 ショパンは苦渋の顔を無理やりに起こしてエアグルーヴに問いかけた。ショパンの問いかけ、僅かに驚く秋名とは対照に、エアグルーヴは女帝としての色を変えずに答えた。

 

「道理がないと判断すれば即止める。だが、兆しがあるのなら、続ける。どれだけの苦境であろうと、その先にあるものを見るためだと言うのなら」

 

「今の私って、どっちだろう」

 

「女帝としての流儀を一つ教えてやる。大事なこと、譲れないことを決める時、最後に委ねるのは他人ではない。自分の意志だ。意見を汲むことは重要だ。だが、その先を保証するものは何もない。私は決めてやらん。…お前自身で決めろ。行くか、退くか」

 

 エアグルーヴはショパンの前に、腕を組んで立った。視線をショパンから外さなかった。

 

 厳しい言葉の裏に、慈しみがあることくらいショパンにだってわかること。

 

 ショパンは額に溜まった涙を、瞳に溜まった汗を拭い。小さい背丈ながらも、胸を張ってもう一度、エアグルーヴの前に立った。

 

「それでいい。行くぞ!」

 

 ショパンは再び、女帝の背を追いかけた。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「ほら起きろ! ショパン! 今日から朝練をすると言ったのはお前だぞ!」

 

「う、うん。でも、あとちょっと……」

 

「たわけっ! 早く起きんか!!」

 

 

 

 

 

 

 

「そうだ。深く息を吐きながら自然に身を任せる要領でだな」

 

「ふ……っくうぅ!! い、いたいよぉ……」

 

「本当に体が硬いんだな。お前は……」

 

 

 

 

 

 

「こらっ! 野菜を残すんじゃない!」

 

「ひぃん、だってぇ……」

 

「アスリートたるもの、食は第一に優先されるべきことだ。食を蔑ろにする者がレースに勝てると思うな!」

 

 

 

 

 

「練習に忙しい等という言い訳は私は通さんぞ。それが勉学を怠っていい理由にはならん! もう一度あんな点数を取ってみろ。しばらく菓子は認めんぞ!」

 

「ヒーンッ!!」

 

 

 

 

 

 

 それでも、それでも。

 

 

 ひとつずつ。

 

 

 ちょっとゆっくりだけど、堅実に。

 

 

 周りからは母娘だなんだと揶揄われながらも、それでも二人は共に。

 

 

 

 

 

 

 

(……来てる。まだ少し甘いが、確実についてきている……!)

 

 ターフに轟く二重に絡む足音、時間が経つに連れそれらはじわりじわりと乖離してゆく。

 

 しかし今日ばかりは、その限りでもないようだ。

 

 

 

 

 ショパンの瞳に映る、エアグルーヴの背中。

 

 

 離されない。離れたくない。置いて行かれたくなんかない。

 

 

 食らいつけ、自分の足で。追いつけ、母の背中へ――

 

 

 

 

 

 

「……あまりこういうことは言ってやりたくないが、成長が楽しみになってしまうな」

 

 

 

 

 ――何れに、お前との関係が晴れる日が来たら、正式な後輩として迎え入れてやることも吝かではない。

 

 

 その暁には、お前の成長と行く末を、この目で……。

 

 

 エアグルーヴは最後、心でくすりと笑って、余力の尽きたショパンを引きはがした。

 

 

 当然、怪物級とまで恐れられるエアグルーヴの背中は安くはない。しかれども、一歩、小さいけれど、ショパンにとっては大きな一歩。母に近づいた。

 

 

 

――

 

 

「驚いたな。まさかこんな短期間でここまで仕上がってくるなんて」

 

 秋名は眼鏡の奥の瞳を滾らせていた。己の担当であるエアグルーヴ以外のウマ娘に、こうも熱くなれようとは…そんな自分にも意外性を感じ取っていた。

 

「当然だ。朝から晩まで私が付きっ切りだったのだぞ。それと、こいつの信念の賜物だと思ってもいい」

 

 エアグルーヴの徹底主義の下、厳しく作り上げられたショパン。

 

 そこにあるのは、少しの成長と、少しの自信。

 

「えへへ、私、次のレース絶対勝つからね。お父さん、お母さんっ!」

 

 

 そういい残して、ショパンは再びターフへと駆け出した。

 

 

 

「っ! あいつ! また私のことを!」

 

「ははは、わかりそうでわからない娘だね……ん?」

 

 ふと、秋名は言葉を遮る。先ほどのショパンの一言に何かを引き摺られる感覚を覚えた。

 

「どうした?」

 

「いや、今あの子、お父さん(・・・・)とお母さんって言った?」

 

 二人は互いの瞳に互いを映しあう。

 

(エアグルーヴ)のことをお母さんと呼んでいたのは何となく知ってはいるけど、じゃあ、"お父さん"って?」

 

 ふと、一つに気が付いたときに、二人は顔を背けあった。

 

「っく! くだらん冗談だっ! あいつめ! 戻ったらキツく仕置きをしてやる!」

 

 エアグルーヴは久しく憤る、然れども、心の内の鐘がこうも熱を帯びて鳴り響くのは何故なのか、彼女自身にも遠く理解が及ばなかった。

 

 

 

 



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女帝の証をその瞳に

「それで、礼司。君は来ないというわけかい?」

 

『いやほらさ、俺の担当が出るわけじゃねぇしさ? 主催者側にゃハナシ通してっからまぁ、いいんじゃねぇの?』

 

「君、今どこにいるんだい?」

 

『家の布団ン中。サイコーだぜ。マジで。昨日深酒しただけあってな。居酒屋からパブとバーをハシゴしてからのちゃんぽんよ。今日仕事だったら死んでた』

 

「まったく。君というやつは」

 

『俺らン仲だろぉ!? 勘弁してくれよ俺もたまの休みくれぇ休ませてもらえねぇと、ノびちまうよ……っと?』

 

 秋名の電話超しに聞こえる鐘の音。安い呼び鈴だ。

 

『わり、何か来た。宅配にしちゃ時間はえーな……はぁ!? ファイバお前何しに……練習!? 今日はオフだっつっただろうが!……オークスの借りィ!? え、おい。なんだよ箱根遠征って。はぁ!? 今から!? 日帰りぃ!? アホかお前! ちょ、司ぁ!! このアホどうにかしてくれえぇぇ!! 俺のオフがぁああ!!』

 

「お大事に」

 

 秋名は一方的に通話を切り、コースの埒に腕をかけて、周辺をくるりと見渡す。

 

 今まで数々の中央競技場を飛び回ってきた秋名でさえ、全く知らない地方の競技場。閑散とまではいってやらないが、人の密度は中央と比べてどうも寂しい。活気付けるためかは存じないが、やたら無駄に出店している出店や、隅っこにポツンと作られた特設ステージで芸を披露する名も知らぬ芸人や、懸命に踊る地下アイドル達の姿が、少し染みるようだった。

 

「日本って広いんだねぇ」

 

 いつも張り裂けそうな緊張感を何とか耐えながら、競技場という戦場に足を踏み入れていた秋名にとって、ここはどうも、毒気を抜かれるような。気が緩んでしまいそうな。

 

「おい」

 

 例え、そんな眇々たる地方競技場であろうと、弛緩を許さぬ女帝の音が、彼の背を叩いた。

 振り返ればそこに彼女はいた。ただ、今日は彼女のメインレースではない。それにこんな地方競技場にあのエアグルーヴが居るとなれば騒ぎは免れない。そのため今日は少しばかり顔元を隠すような帽子と薄いサングラスを身に着けていた。

 

「ああ、エアグルーヴ。どう? ショパンは」

 

「どうもこうも」

 

 エアグルーヴは自身の背後を指すように顎を投げる。彼女の背後からするりとその娘は現れる。

 

 清く、確かな体操服を身に纏い、尻尾の毛先一本から、耳の先端に至るまでぴんと張った毛並みが、彼女の調子を表しているようだった。

 

 そんなショパン、今日は何かが少しだけ違う。

 

 それは、彼女の風姿を優美に彩るアクセント。

 

 

 瞼に宿る、深紅の証(アイシャドウ)――

 

 

 ショパンは後ろ手を組んで、少しだけ頬を紅潮させ、そわそわと身を揺らしながら、秋名の一言を待っていた。

 

「ああ、ショパン。今日は君の晴れ舞台だ。精一杯、走っておいで」

 

 秋名は、にこりとショパンへ笑みを手渡すと、次はコースに目を向けて、小学生の部が既に始まっているターフを眺め、今日のコースコンディションは良い状態だねと、レースのことに関する話題へと話を変えた。

 

「ねぇ、それだけ……?」

 

 レースのアドバイスを始めようとした秋名に対し、ショパンは少し呆気にとられたような面持ちでそういった。

 

「え……と、言うと?」

 

「あのね、今日の私、ど、どうかなって。何か違わないかなって」

 

「え……っと?」

 

 秋名の瞳に映る今日のショパン。…特に変わりがあるようにはどうも伺えない。体重も大きく増減はしていないし、極端に身長が伸びているわけでも、顔色が悪いようにも見えない。

 

「えと……んと……」

 

 彼女が求めているものは何か、秋名は直ぐには思いつかず、イチかバチか。

 

「ああ、体操服! サイズがいいみたいだね。ほら、新しく発注した体操服でサイズが合わないことってたまにあるみたい……だし?」

 

 ショパンの眉間に皺が寄っていく。彼女の表情に夕立を齎す入道雲が迫っているようにすら感じられた。

 

「え、あれ? あ、ああそうか、シューズか! どう? 新しい蹄鉄は……?」

 

「……!……!!」

 

 とうとうショパンは目を閉じて、顔を秋名へと差し出す。耳をキュッと後ろに絞って、口では言えない不満を彼へ訴えた。

 

「え、ええ?」

 

「うぅ……」

 

 小柄な身体をぷるぷると震わしながら、小さく唸る。一体彼女はどうしたのだ。レースの直前、彼女への悪いコンディションの元となることは避けたいのだが、肝心の原因がわからないのでは。

 

「おい」

 

 混迷に溺れる秋名へ、助け舟を出したのはエアグルーヴだった。彼女は彼へ、二度ウインクを渡す。女帝の閉じた片目に残るもの…それは、情熱を滾らせる深紅のアイシャドウ――。

 

「……あ!」

 

 秋名はようやく、ショパンの言わんとすることに気が付く。今日のショパンの目元にも、同じものがあるのだから。

 

「あ、アイシャドウか! ああ! 凄いね! よく似合ってるよ!」

 

「……ほんとぉ?」

 

 ショパンはようやく絞った耳をピンと立てて、尾を振り始めた。

 

「ああ! ほんとさ! エアグルーヴそっくりで、とても綺麗だよ」

 

「えへへ、じゃあ! 私頑張ってくるね!」

 

 ショパンはふんと大きく鼻息を鳴らして、二人に背を向けて走り去っていった。

 

「ああ! ちょっと! アドバイスは……」

 

 秋名のその声はショパンには届かなかったらしい。しかし二人は特にショパンを追いかけることもなく、その場に居留まり、二人並んでコースを見渡した。

 

 そこに靡く、どこか郷愁を匂わす漂いに、二人の心が酔う。

 

「君が塗ってあげたのかい?」

 

「ああ。たまにはいいだろうと思ってな」

 

「はは、優しいんだな、君は。そういえば、会長さんは何て言っていた? 怒ってなかったかい?」

 

「会長か……いや、特に何を言われたということはないが」

 

 ルドルフの役職の名を出した途端に、エアグルーヴの何かが淀む。彼女にしては、どうもらしくないように秋名は感じ、どうかしたのかと尋ねた。

 

「いや、それよりも前に、悶着があってな」

 

「悶着?」

 

「私が、ショパンに過分な肩入れをしているのではないかと、指摘を受けてしまったんだ。……私は否定できなかった。思えば、そのような言われをされようと致し方無いほどに、私とあの娘との距離は近づきすぎていたのかもしれない。私はただの、監視役に過ぎないというのに」

 

 女帝の表情に描かれる、霧。先行きの見えない枷に悩み、苦悩の果実に呻吟する。

 

「でも」

 

 そこに一つの本音。あの娘が居ないからこそ。相手がトレーナー(未来の夫)だからこそ、言えることなのかもしれない。しかし――。

 

「でも?」

 

「いいや。なんでもない」

 

 何かに絆され、喉元まで出かかった言葉を、彼女は飲み込んだ。土壇場に来て、理性が本能を殺した。再び彼女に宿るは、らしくもない沈黙。

 

「多分、だけど、恐らく君があの娘に感じている情は、きっと僕と同じものだ」

 

 エアグルーヴはふと顔を上げて、秋名の横顔を瞳に映した。彼の顔色は彼女と違い、穏やかだった。

 

「同じもの?」

 

「あの娘には不思議な魅力がある。それは、誰しもを魅了するような偶像(アイドル)的な魅力とはまた違う。限られた人たちだけが、彼女の引力に惹かれるような。そんなもの」

 

 何を言わんとしている。普段のエアグルーヴならそう返すかもしれない。だが、悔しくも、彼の主張を理解できてしまう心が、彼女にはあった。

 

「"放っておけない"とか、"気がかりになってしまう"とか。もっと言えば、時にあの娘に愛おしさすらも錯覚してしまう。今まで、(エアグルーヴ)を含め様々なウマ娘たちに出会ってきた。だけど、あの娘ほどに心を惹かれてしまう娘には、会ったことがない。それも、無条件に」

 

担当(わたし)の前で何を抜かしている。あの娘に鞍替えをしたいとでも言うつもりか」

 

「いいや、そうじゃない。あの娘は違和感の塊だ。それも、妙に心地のいい違和感。おそらく君もそう感じている筈。だからこそ、僕は知りたいんだ。あの娘を、もっと」

 

 それが、今日このレースを引き受けてしまった、秋名の本当の心。

 

「ばかばかしい。私とあの娘は無縁だ……。貴様だってその筈だ」

 

 それが、彼女の精いっぱいの抵抗だった。

 

「本当にそうなのかな」

 

 また、秋名の横顔が視線に入る。

 

「どういう意味だ」

 

「どういう意味だろうね。ほら、来たよ」

 

 メインゲートから、その不思議な娘(ショパン)は姿を現した。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

『さぁ、いよいよ今回の目玉! ■■町ダービー! 準中等部生の部! フレッシュな現役生たちの白熱したレースが今、このターフに舞い降ります! なんとなんとなんということでありましょう! この中等部生の部。まさかのフルゲート開催であります!!』

 

 開かれるメインゲート。サンバイザーを被った誘導スタッフが、戦士たちを引き連れる。

 

 彼女らから漲て溢れる、若き闘志。それはまだ、身の程知らずであるとか、自分が一番だと信じて疑わない傲慢さであるとかの、根拠の無い驕りに等しい。未だに本物を、外の世界を知らない幼き故の、小さき凱旋。

 

 とある娘は、周りをきょろきょろ、自分の敵がいないかを入念に探す。またとある娘は、自分の両親に向かい大手を振って、高らかな勝利宣言。またある娘は、自作の勝負服を身に纏って、憧れのスターの振る舞いを完コピ。

 

 また、とある娘は、どこかぎこちない動きで、歩幅がちょっと狭い。

 

「あらら、少し緊張してるね」

 

 秋名は、変わらず穏やかに。ショパンへ手を振る。だけど、ショパンはそれに気づかない。

 

 一方のエアグルーヴは、腕を組み、変わらぬ厳しい面持ちのままを、そこに残した。

 

 

 

――

 

 

 いよいよ辿り着いたメインゲート。怖いことなんて無い。練習通り、上手くやれば。

 

 

……

 

 

 思えば、初めてだ。本当の勝負の場に立つことは。

 

 だって今まで、レースへの出走資格がなかったから、模擬レースすらも参加していないのだもの。

 

 これが初めてのレース。これが初めての勝負。

 

 そう、考えてしまった途端。ショパンの体が急に強張る。心が急に萎む。血流が必要以上に勢いを増して流れる。

 

 それらの総称――即ち緊張。

 

 近づいてくるスターティングゲート。それが少し怖かった。

 

 だめだ。だめだ。胸を張って、母のように……。

 

 何度そう思い描いても、体が指令を受け付けない。治まれ治まれと呪文のように唱えても、辿っていくのは悪化の一本道。

 

 ああ、こんな土壇場で。彼女の小胆さが、母体に牙を向く。

 

「ねぇ。あんたさ」

 

 不意を突かれるように、彼女の背を誰かの声がたたく。例外なく、ショパンはヒィン! と情けのない声をあげてしまう。

 

「あ、はい……」

 

 なんとか声をひりだして、自分の列の後ろを歩くその娘に応える。

 

「あのさぁ。もっとキビキビ歩いてくんない? 後ろつっかえてんだからさ」

 

 自作の勝負服を身に纏ったその娘は、不満の色をショパンへ向けた。

 

「ご、ごめんなさい」

 

 嗚呼、こんな時に謝ってしまうだなんて。強気になれない自分が不甲斐ない。だって今まで、エアグルーヴの背中に隠れてきたのだもの。困ったら、いつでも母が助けてくれた。でも、この場では、自分で抗い、抜け出すほかはない。

 

 そんなショパンを、その娘は鼻で嗤った。

 

「アンタさ、そんなウジウジした感じで走るワケ? たまに居んのよねぇ、メリハリつかないアンタみたいな娘。そういう娘って結局走っても中途半端。こっちの士気も下がっちゃう」

 

 ショパンの回答は、沈黙。

 

「大体アンタ、この辺のトレセンの娘じゃないでしょ? 見たことないし。悪いけどアタシ、この間ここの競技場でデビュー戦やって勝ってるの。今日ここ走るような連中、何かお祭りと勘違いしてるみたいだけど、アタシは違う。アタシはここでも確り成績を残していくの。そして、オグリキャップみたいに、地方から中央への凱旋。それがアタシのストーリー」

 

 ショパンは、その娘の自慢話と夢物語を延々と聞かされ続ける。

 

「憧れのシービー様と、並んで走る日だってそう遠くないわけ。で、アンタは? 思い出作りに来ただけでしょ? じゃあ、アタシの邪魔しないで、黙って後ろ走っててよ? アンタみたいなウジウジしてる娘が前走ってると、調子狂っちゃうからさ」

 

 言われたい放題の一方通行。現に、そのくらいの傲慢さも、勝つことには重要な素質であることは確かなのだが。ショパンにはそれが欠落している。だから、できることは、俯いて委縮するだけ。

 

「てか、何そのアイシャドウ。ああ、もしかしてあのエアグルーヴの真似?」

 

 その言葉に、ショパンの眉が僅かに。

 

「まぁ、オークスとか頑張ってるみたいだけど、アタシの眼中には無いかな~。ってか、アンタがそんな真似事しても、正直似合ってないただのおままごとなんだけど。やるんならアタシみたいに完璧にやんないとねぇ」

 

 そう失笑を交えながら、彼女は自分の作った勝負服(ほぼシービーのパクリ)をショパンへ見せつけた。

 

「これは、お母さんが塗ってくれたんだもん……今日は特別だって……」

 

「は? 何? 聞こえないんだけど? ってかそんな安物。ショージキ今時アイシャドウとか、時代遅れってかダサイんだけど。アタシならつけないかな~」

 

「安物じゃないもんっ! 本物だもん……あのエアグルーヴがつけてるものと同じものなんだもん。時代遅れなんかじゃない! 強い、女帝の証なんだから……!」

 

 この日、初めてショパンは怒りに吠えた。どれだけ自分を貶されようと構わない。だけど、母から貰った大切なアイシャドウを扱き下ろされることが、どうしても耐えられなかった。

 

「はぁ?……ぷっ……あっはっはっはっは!! マジ!? 女帝の証ぃ!? もう! レース前に笑わせないでよ! マジ傑作!」

 

「ばかにしないで……! 私は!」

 

「ほーらそこ! ケンカするならレースを棄権してもらうけど? それでもいい?」

 

 スタッフからの冷たい警告が飛ぶ。ショパンはぐっと口を噤んで小さくごめんなさいと謝罪した。一方の勝負服の娘は、ショパンに対し特に何を言うこともなければ、わざとショパンの足を踏んで先に行ってしまった。

 

(はーあ。ヘンなのに時間とられちゃった。アタシのコンディションが乱れたらどうしてくれるつもりなんだろ。まぁいいや。ここで、このアタシ『ヴァニティ』様の格の違いってヤツ?見せてあげなきゃねぇ)

 

 その娘の背中に、ショパンは初めて自分が滾る感覚を覚えた。

 

 

 

 あの娘にだけは、負けたくない――

 

 

 

 

 



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母の名に誓って

 その日のショパンは、少し早起きだった。

 

 エアグルーヴから叩き起こされずとも、自ら床を這い出て。寝惚け目を擦り、ドアの淵にこつんと頭をぶつけて。ヒンと小さく鳴いて。

 

 そして、洗面所で大きな鏡に向かい、朝の身支度に余念の無いエアグルーヴの隣で顔を洗った。

 

『今日は早いじゃないか』そう、言ってくれる母の声は優しかった。それはそうだもの。今日は大切な日なのだもの。少し呂律の回らぬ舌でショパンはそういったらしい。

 

 エアグルーヴは、静かにひとつ頷くと、慣れた手つきで己の瞼にアイシャドウを塗り施していく。

 

 ショパンは濡れた顔のまま、エアグルーヴの女帝としての嗜みを、ただ恍惚と見入っていた。

 

『顔を洗ったのなら早く拭け』エアグルーヴは鏡の中の自分に視線を合わせたまま、ショパンへ言った。ショパンは、大きいタオルで顔を拭くと、そのタオルを抱えたまま、ちょこんとエアグルーヴの隣の椅子に鎮座した。

 

『どうかしたのか。顔を洗う以外にもすることはあろう』それでもショパンは、黙ってエアグルーヴのメイクをその目に焼き付けていた。

 

『そのアイシャドウ、ずっとつけてるよね』

 

『それがどうかしたか』

 

『ううん、とっても綺麗だなって』

 

『世辞を言っても何も出してやらんぞ』

 

『確か、おばあちゃんも同じものをつけてた』

 

 その時に、ぎろりとエアグルーヴの鋭い眼光がショパンを捉えた。

 

『百歩譲って、私のことをそう呼ぶのはまだいい。だが、お母様のことを気安くそう呼んでくれるな』

 

『あ、うん。ごめんなさい』

 

 自慢の耳を、へたりと折って僅かに萎えるショパン。だが、今日は彼女の大事な日。そこからわざと話を戻したのは、エアグルーヴの不器用な優しさだった。

 

『私のこれも、お母様から譲り受けたものだ。かつて、女王とも称されたお母様の覚悟の証だ。それをつけると言うことは、即ちその意志を継ぎ、宿すということだ。このアイシャドウをつけるからには、遊びでは済まされない。女王の意志を継ぐ者として、女帝(わたし)としての覚悟だ』

 

『……』

 

『お前にはまだ過ぎた話だ。ほら、歯は磨いたのか?』

 

 エアグルーヴがそうショパンに問いかけた時だった。

 

『いいなぁ……』

 

 不意に漏れたショパンの儚い呟き。考えるより先に、感情が仕事をした。

 

 その吐露を、エアグルーヴは聞き逃さなかった。

 

 お前も興味があるのかと、エアグルーヴが尋ねた。ショパンはこくりと頷き、憧れのウマ娘(ひと)がつけているのだもの。そう答えた。

 

 エアグルーヴは僅かな沈黙の後、ショパンのへ向かい、彼女の麗らかな藍玉の瞳を、自身の灰簾石の瞳に映した。

 

 端部に至るまで、(むら)なく端麗に仕上げられたアイシャドウ。それを纏ったエアグルーヴと、改まって顔を突き合わせ、幾分かの緊張感が漂う。

 

『お前は今日、私の指導の下でレースをする。そこには当然、私の責任も重なる。即ち、お前には女帝(わたし)の名の一部を担い、走ってもらうことになる。今日のお前は、私の分身をも同然だ。お前の敗北は、私の敗北だ。その覚悟と、自覚はあるか?』

 

 母の名を背負い、走る。それは、女帝の称号を、一時的に預かることにも等しい。

 

 例えそれはクローズドな情報だとしても、事実は確かに刻まれる。

 

 重圧だ。決して、お気楽な思い出レースにするつもりなどない。それが、二人の意思なのだもの。

 

 ショパンは、こくりと深く頷いた。

 

『いいだろう。目を閉じろ』

 

 仰せの通りにと、ショパンは深く目を閉じる。瞬間、彼女の瞼の上でチップがさらりと踊る。

 

 ひっ、慣れない違和感に体を捩るショパンに、エアグルーヴは動くなと一言だけ。

 

 ……そして。

 

『開けていいぞ』瞼の裏の暗闇の世界に、母の声が届く。

 

 そろりと、彼女は瞼を開く。鏡の世界の自分に、息を止める。

 

 清く、正しく、麗しく。それ(・・)を表現するには、その言葉だけで十分だった。

 

『わ……ァ……』

 

 脳髄に電流が迸る。(そこ)に映る自分が、別格の存在に見えてしまう。感情が酩酊する。思わず瞼に手を添えそうになってしまう。

 

『触るな』そう、エアグルーヴが言ってくれなかったら触っていたに違いない。

 

『似合ってる……かな?』

 

『当然だ。私が施したのだぞ』

 

 静かに母はそう言ってくれた。

 

『ありがとう! おか……』

 

 直前まで出かけた言葉をひっこめた。エアグルーヴは聞かなかったことにして。

 

『今日は特別だ。いいか、先も言った通り、それを付けるのなら遊びでは済まされない。女帝としての証だ。今日だけは、お前に託してくれよう』

 

 女帝から授かった、本物の証。それを携えて、ショパンは戦いの場に立った。

 

 だから。

 

 だからこそ。

 

 

 

 

 

 それを侮辱されることが、どうしても許せなかった。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

『さぁ、各ウマ娘たち無事にゲートにそろいました…12人の仁義なき争いが今……始まりました! ゲート開放!!』

 

 

 横並び一直線。ショパンに遅れはなかった。

 

 練習通り、無事にゲートを脱出できたことに、秋名は胸を撫で下ろす。

 

「よかった。ちゃんとできてる」

 

「レースは終わったのか?」

 

 気を緩ます秋名に、エアグルーヴが鋭い指摘。秋名は頭を掻いて、そうだねと相槌。

 

 ただ、エアグルーヴは変わらぬ重い面持ちを。憂いの原因は、やはりショパン。

 

『本当にそうなのかな』。秋名の言った言葉を、何度も心で反芻していた。

 

 

 

――

 

 

 身体とは不思議なもので、初動がやたらに怠いと思いきや、動き出してしまえば案外宿主に従順なものだ。

 

 予定通りうまくやれるか。体を動かせるか。それも杞憂。手続き的記憶とでも言うのだろうか、全ては体が覚えていてくれている。

 

 つまり、残りをどう詰められるかは、走者の心に全て委ねられる。

 

 ショパンは前を見据え、しっかりと腕を振って、ストライドの幅を自覚し、呼吸を管理する。

 

 全てはエアグルーヴから教わったこと。しかし、未だそのレベルは見様見真似に等しい。

 

 ただ、今はまだ真似でいい。学ぶことは真似ることだと授業でも教わったじゃないか。ただ、模倣ではいけない。彼女はエアグルーヴではなく、『ショパン』なのだから。

 

 想いを胸に引っ提げても、エアグルーヴにはなれない。だからこそ、彼女にしかできない走りを、彼女なりのやり方で、戦っていくしかない。

 

 ショパンが目指すは、勝利への道。辿っていくは、母の軌跡。その心に不安と憂いはいつの間にか消えていた。ようやく、覚醒し始める。ショパンの中に流れる女帝の血が、熱を帯びて。

 

 そんなショパンの背中を、付け狙う嫌味な娘(ヴァニティ)。じっと、時を待っていた。

 

――

 

 ばか、ばか、ばか

 

 

 みーんなばかばっかり。

 

 

 ほら、あの娘なんて基本フォームがなってない。そっちの娘は? インコース確保できて満足? 後々、進路を塞がれてしまうだなんて考えてないんでしょうね。あっちの娘なんてもうバテてる。

 

 

 張り合いがないなぁ。まあ、それはそうでしょう。だってこんな安いお祭りに出るような。いや、こんなお祭り程度にしか出れない可哀想な娘たちだもの。

 

 

 こんなところで、このアタシが走るだなんて、弱いものいじめもいいところよね。だってアタシはこんな未勝利ばっかりの娘たちとは違うもの。デビュー戦を、2バ身差をつけて大勝ちしてしまった、期待のエースだもの。

 

 

 でも、私はここでしっかり魅せていかなきゃいけないの。これはまだ、下積みなんだから。私が地方の貧乏レースから、華やかな中央へと鳴り物入りで栄転するための、シンデレラストーリーの序章に過ぎないんだから。

 

 

 もしかして、もしかしてだけど、シービー様だってこのレースをひょっとしたら見てるかもしれない。

 

 

 そんなことになったらどうしよう。まさか、シービー様直々に、アタシに声をかけてくださったり……?

 

 

 可能性は0じゃない。だから、ここで自分をしっかりアピール。

 

 

 アタシはこんな貧乏くさくてダサい連中とは違うんだって!

 

 

 何度も、何度もビデオを見返して研究したシービー様のフォーム。作戦。これ以上完璧に模倣(コピー)できているのは、アタシしかいないんだから!

 

 

 ここでは、いや、ここでもアタシが一番! アタシこそが、シービー様の意志を継ぐ完璧なウマ娘なんだもの!

 

 

 そんなアタシに歯向かうだなんて、論外だからね。実績も何もないくせに『女帝の証だ』なんて、ばかもいいところよ?

 

 

 アタシに足踏まれたこと、1年後には皆に自慢できるようになってるよ?――おばかさん(ショパン)

 

 

 

――

 

 

『さぁ、2コーナー回って、先頭集団から少し離れて、6番カート、12番リッチーが競り合う。9番アンガスの陰に隠れるように、5番ショパン。それを付け狙うか1番レイボーン。後方にて構えるは2番ヴァニティ……』

 

 彼女(・・)の耳に轟く、実況と若き獣たちが地面を蹴る音。彼女はそれをどこか、ラジオのように消費してしまう。

 

レースに集中できていないのか、あれだけ指導したショパンが、懸命に走っているというのに。

 

 エアグルーヴは、無意識の中でショパンについてを延々と考えていた。思えば、ショパンの監視係を引き受けて日も久しい。目的は、あの娘を無事な姿で親の元へ帰すことだ。エアグルーヴとショパンの間には何もない。……筈なのに。

 

 日に日に、あの娘の存在が、彼女の中で大きくなってゆく。

 

 嫌々で面倒を見ていた厄介者から、どうしても放っておけない何かにすり替わってゆく。

 

 それは、時を重ねすぎてしまった故の情なのか。しかし、その情はどうも違和感を連れる。

 

それが、先天的なものにすら感じてしまうのは気のせいなのだろうか。

 

 あの娘は何なのだろう。今まで数多の後輩の世話を焼いてきた。そこには当然"放っておけない娘"もいた。だが、そのような娘たちに感じるものと、ショパンに感じるものとでは、まるで何かが違う。

 

 心地のいい違和感。その言葉が、どうしても似合っていた。

 

『私が未来から来たって言ったら、信じる?』

 

 ……だとしたら。何のために。

 

「エアグルーヴ」

 

 そう彼女を現実に引き戻したのは秋名だった。

 

「どうしたの? 悩みかい? さっきの会長さんの件?」

 

 秋名の視線は変わらずショパンを追っていた。

 

「いや……そうかもな」

 

 敢えて否定はしなかった。嘘を吐いたって、得をしないのだから。

 

「今だけは忘れていいんじゃない?」

 

「楽天家め。何れは対処せねばならんことだ。ショパンを…親元へ帰してあげなければ」

 

「親元か。ねぇ、ショパンはご両親のことが嫌いなのかな」

 

「何?」

 

「僕の目に映るあの娘は、どうも孤独を好まないような娘に見えるんだ。そんな娘が、親元から逃げてまで君に懐く理由は何なのだろうってね」

 

「さぁな……」

 

 エアグルーヴは薄いサングラスを外し、埒に腕をかけ黄昏る。ぐるぐると眩暈がするほどに、あの娘の存在が頭を駆け抜ける。

 

「いいじゃない。今だけは忘れよう。今だけは、あの娘を応援してあげよう」

 

「他人事だと思って」

 

 エアグルーヴの愚痴を、秋名は聞こえていないふりをした。

 

「もうすぐ戻ってくるよ……」

 

『さぁ、3コーナー周ってきて、ここで一気に上がってくる2番ヴァニティ! さぁ! さぁ! 最後方からズドンと勝負に出た!! そのまま先頭へ躍り出るか!?』

 

 実況の音を頼りに、秋名はショパンの姿を探す。彼なりには、例え勝てなかったとしても、ショパンを咎めるつもりは毛頭ない。無事に帰ってきてくれれば。その細やかな祈りだけだった。

 

「あのヴァニティって娘、追い込み戦法のつもりか…?」

 

 ふと、注目を集める娘に、秋名の視線が引かれる。

 

「研鑽と試行錯誤の結果とは見えんな。付け焼刃もいいところだ」

 

 エアグルーヴは淡泊にそう語った。歴戦を駆け抜けた猛者の前、ヴァニティの走りは赤子同然なのだから。

 

「同意見だね。勝負のかけ方も本来とは違ってる。ストレートまで待てなかったか、焦ったか」

 

 しかし悲しくも、それが通用してしまうのが、地方の幼いレースでもある。

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 ……!

 

 こいつら、意外に粘ってる。

 

 もっと早く勝手に沈んでくれるかと思ったのに。

 

 

 第3コーナーを抜けて、後方に居るヴァニティの視界に映ったのは、未だ縮まっていない先頭とのディスタンス。

 

 シービーに憧れて、両親やトレーナーの見解も無視して彼女なりに会得してきた追い込み。

 

 今まで、練習でも、デビュー戦だってこれで勝ってきた。

 

 しかし、追い込みには、陰に潜む大きな弱点が存在する。それは、先頭集団が思ったよりも乱れなかった場合に起こりうる『脚の余り』

 

 つまり、追い込もうと思えど、先頭に届かなくなってしまう現象。

 

 もしそうだとしたら。それが現実と化したら……。

 

 ヴァニティの慢心に罅が入る。格下だと思い込んでいた相手たち。その上、注目のフルゲート開催。

 

 そこで彼女がとっていた拙い悪手。それは、先頭を走る娘たちが勝手にバテると思い込んで、先頭との差をいつもよりも多く取ったこと。

 

 そうすれば、追い込みの時のパフォーマンスが格段に跳ね上がると読んだから。自分の追い込み劇(ど派手なショー)で、観客たちを陶酔の渦へ誘うことができると確信していたから。

 

 だけど、思ったよりも先頭は陣形を保ち続けている。

 

 ちらりと、彼女の脳内に映った未来。

 

 シービーを模倣した勝負服で、シービーの戦法を真似して、相手を舐めて、……惨敗を喫する。

 

 

 

 いやだ……

 

 

 

 それだけは……

 

 

 

 いやだ……

 

 

 

「――どいてっ!」

 

 

 だから彼女は、まだ早いポイントで勝負に出た。ストレートに入る前だけど…この勝負服を身に纏ってみっともない負けだけは絶対、絶っ対に許されないのだから。

 

 今ならまだ間に合う。前を走る娘を押しのけて、反則をも厭わない強引なやり方で、先頭の強奪を企む

 

 ここで、相手をブロックしたり、進路を塞いだりなどの駆け引きができるほど、彼女たちはまだ成熟してはいない。故にヴァニティのその愚行を、状況が後押しした。

 

 ひとり、またひとりと追い越してゆく。幼いながらの追い込み劇に、幾何かの歓声が上がる。

 

 その刹那――彼女の瞳に映る。ひとりの黒鹿毛の背中。

 

『女帝の証なんだから』

 

 瞬間、ヴァニティの黒い何かが煮えた。彼女はショパンを追い越す際に、わざと肩を当てた。

 

 ショパンはあっと声を出して、僅かに乱れた。

 

 

「ざまぁみろ」

 

 

 それは心で呟いたこと、口に出てしまったかもしれない。でも、どうでもいい。

 

 ようやく先頭が見えてきたのだから。

 

 

――

 

 

『さぁ、最後のストレート!! 先頭は2番ヴァニティ! そのまま先頭を維持できるか!』

 

「あの娘! ショパンを押しのけた……!」

 

 秋名の眉間に僅かに皺が寄る。それはエアグルーヴも同様だった。

 

「ショパン……!」

 

 秋名は儚い祈りを捧げた。どうか無事に帰ってきてくれと。無理はしなくていいと。

 

 両親(ふたり)の前でフォームが乱れてしまったショパン。その姿が、当然エアグルーヴの瞳にも映った。

 

 

 

 エアグルーヴにインプットされる、ひとりで溺れ、もがき苦しむ、ショパンの姿。

 

 手を出してあげたくても、届かない。

 

 あの娘は、一人で彷徨っている。混迷している。怯えている。……一人で。

 

「ショパン……」

 

 一つ呟く。でもそれは届かない。

 

 あの娘が目の前で苦しんでいる。でも。何もしてあげられない。

 

 埒という檻の中で、迷い苦しむあの娘を、ただ見ているだけ。

 

 その姿が、どうしても

 

 どうしても

 

 苦しかった。

 

 

 

 ああ……嗚呼……。

 

 

 ここから手を伸ばしたい。

 

 

 あの娘を、助けてあげたい。

 

 

 ショパン…ショパン、ショパン、ショパン、ショパン…ショパン…ショパン

 

 

 

 

『おかあさん…』

 

 

 

 

「――ショパンッ!!」

 

 それは、初めて理性よりも感情が先に仕事をした瞬間だった。

 

 野生のように、エアグルーヴはショパンに向かって、吠えた。

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 ぶつけられた。ヨれた。せっかく今まで保ってきたフォームが乱れた。

 

 立て直さなきゃ、早く追いかけなきゃいけないのに……

 

『ざまぁみろ』だって。

 

 やっぱり、こんなところで何もできないのが、私なのかなぁ……。

 

 

 

 やっと灯った炎が、萎えてゆく――

 

 

『――ショパンッ!!』

 

 

 それは確かに、彼女の鼓膜にまで届いた。誰の声かなど、言うまでもない。

 

「おかあ……さん……」

 

 瞬間、今朝の出来事が頭の隅を駆け抜けた。

 

『今日は特別だ。いいか、先も言った通り、それを付けるのなら遊びでは済まされない。女帝としての証だ。今日だけは、お前に託してくれよう』

 

 そうだ。今日の私には。あるんだ(・・・・)

 

 母が託してくれた、お守り。女帝の証。

 

『ショージキ今時アイシャドウとか、時代遅れってかダサイんだけど』

 

 時代おくれでも、ださくもない。

 

 だって、だって、だって……

 

 これこそが、女王の意志を継ぐ者が表した覚悟なのだから。

 

 負けない、負けたくない! だって彼女は、女帝(本物)の血を引く者なのだもの。

 

 彼女こそが

 

 

 

 

 ――女帝の意志を継ぐ者なのだから。

 

 

 

 

 ショパンに再び、血が、熱が迸った。

 

 

 

 

――

 

 あぶない。でも、これで堅い。と、額の汗を拭って彼女は口端を吊り上げる。

 

 かなり強引に、先頭へ躍り出たヴァニティ。そこにアスリート精神があったかどうかは疑わしいところだ。

 

 でも、これでもう遮るものは何もない。あとは先頭を死守すれば、それでいい――

 

 

 

 

『先頭を抜け出すのは2番ヴァニティ! そこに食い下がる!! 5番ショパン!!』

 

 

 ――は?

 

 実況の音に耳を疑った。

 

 

 食い下がる……?

 

 何? 食い下がるって。だって今は、アタシの独走……じゃない?

 

 

 ってことは……

 

 

 すぐそこにいる……?

 

 

 

 その時、ようやく感じた瘴気。それは、赤く繊細だけど、確かに毒を含んでいた。

 

 

「え、何? なんなの……?」

 

 慢心からふるい落とされる。代わりに棲むは、ある種の恐怖。

 

『5番ショパン! 強い追い上げだ! 2番ヴァニティ! 少し苦しいか?』

 

 第3コーナーより、フルスロットルをかけて先頭まで躍り出たヴァニティ。無論その代償はタダといくわけがない。

 

 ペース配分を大きく無視した全力スパート。故に残るは残骸のような僅少なスタミナ。

 

 対するショパンは、エアグルーヴの指導の下に培った、繊細なペース配分と、終盤に掛ける末脚。

 

 それを以て、ヴァニティの喉元に喰らいついた。

 

 じりじりと、狭まってゆくショパンとヴァニティの差。

 

 

「ふっざけんな……ァ!! あたしが、アタシが一番じゃなきゃ意味ないんだよ!!」

 

 

――

 

「ショパン……」

 

 あの娘は無事に立て直せた。そして、軌道に乗った。

 

 走る。走る。懸命に、死力を尽くして。

 

「ショパン……ショパン……」

 

 彼女の名を呼ぶ回数が無意識のうちに増えていく。脳のキャパシティをあの娘の存在が埋めてゆく。

 

 そうだ。そうだ!

 

 諦めてはいけない。お前には、勝ってほしい。女帝(わたし)の為ではない。お前自身の為に。

 

 もう少しだ。もう少しで、あの娘は先頭に届く。

 

 止まらぬリフレインの刹那に、抑えきれなくなる。

 

 

「――ショパン!! そうだ!! 前を向け!! 走り続けろ!! ショパン……ショパン!!」

 

 何故だ…何故あの娘の走りに、私は酔わされるんだ。

 

 何故だ。何故私は…あの娘の走りを知っているんだ。

 

 何故……どうして……あの娘の走りは、私の感情をこうも揺らしてくれるのか――

 

 

 

 

「そうだ!! ショパン!!……がんばれ!! もう少しだ!!」

 

 隣から轟く、男の声。秋名の叫び。

 

 彼もまた、何かに取り憑かれたように。本能の赴くままに、ショパンの名を呼び続けていた。

 

 

 ああ、二人揃ってなんと品の無い様なんだろう。

 

 でも、今だけは、理性を殺した、本能に従うしかなかった。

 

 

――

 

 女帝の証は、偽りなんかじゃない。

 

 嗤われるべきことでもない。

 

 栄誉と、誇りの証なのだ。

 

 彼女はそれを今日、携えてる。遊びなんかじゃすまされない。

 

 それでも覚悟はある。

 

 (エアグルーヴ)の名に誓って――勝利を奉じろ!!

 

 

『5番ショパン!! 勢いは増していくところ!! さぁこれはわからない!! 競り合う形となった!!』

 

 

「ふ、ふざけ……や、やめてよぉ……」

 

 先に折れたのはヴァニティの方だった。彼女に残されたものは、もう何もない。

 

 ただ、後方から伸し上がってくるショパンの存在に、ひたすら怯えるしかなかった。

 

 

 やだ……やだやだやだやだやだ!!!

 

 

 こんなところで、アタシはおわっていいわけがない。

 

 

 やだ! くるな……! シービー様が……シービー様がアタシを待ってるのに…!!

 

 

 くるな……くるな……来るな来るな来るな来るな来るな―――

 

 

 

 

 

 

「こないでよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

『ショパン!! 2番ヴァニティを僅かにリード……ショパン!! ショパンです!! トップでゴールインッ――』

 

 

 

 

 

 

 ――兵者(つわもの)どもが夢の跡。

 

 

 

 

 最後にそこに残ったのは、実況が語る事実だけだった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

『ショパン!! 2番ヴァニティを僅かにリード……ショパン!! ショパンです!!トップでゴールインッ!!』

 

 

「……」

 

 

 実況が激しく唸る。地方競技場に似つかわしくないほどに歓声が飛ぶ。

 

 

 その狭間で、エアグルーヴは茫然自失と、処理しきれぬ目の前の現実に固まっていた――時だった。

 

 

 傍らにいた秋名が、激しくエアグルーヴを大きく抱擁した。

 

「やった……勝ったよ……あの娘が……頑張ったよ……!」

 

 彼の顔に、数多の大雨。

 

「……何故貴様が泣く」

 

「君もじゃないか」

 

「……え?」

 

 頬に触れて、ようやく知った。

 

 彼女の瞳に、一筋の涙が伝っていたことに。

 

 

 

 

――

 

 

 

 

 激しく呼吸を繰り返す。アドレナリンが切れた途端に、辻褄を合わせるように疲労が彼女を襲う。

 

 埒に掴まっていなければ、立ってもいられない程に消耗していた。

 

 

 それでも。初めて掴んだ。

 

 

 母と歩んで初めて手にした勝利――

 

 

 暫く呼吸を整え、地下バ道へ戻ろうとしたとき、付近に嫌味な娘(ヴァニティ)がいたことに気が付いた。

 

 勝利の余韻に絆されてかは知らないが、彼女に声をかけてやろうと思った。

 

 確かにミスターシービーだって強い憧れのウマ娘だ。だけど、エアグルーヴだって。そういう話をしようかと思ったからだ。

 

 

「ねぇ」

 

 そう声をかけても、ヴァニティは膝をついたまま。ショパンの方へ振り返ろうとはしなかった。

 

「あの……」

 

 ひと時を置いてだった。

 

 

 

「う……うう……う゛っう゛う゛っ……うわあああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 

 ヴァニティは、天を大きく仰ぐように、大きく口を開けて、折角の勝負服を己の涙と鼻水で汚しながら、吠えるように泣き続けた。

 

「……」

 

 ショパンは、少しの戸惑いの後、ヴァニティと同じく膝をついて、そっと彼女の手を取り

 

『一緒に戻ろう』

 

 そう言った。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 ちょっとしたウイニングライヴも経て、ショパンは選手控室の廊下にて、秋名とエアグルーヴを見つけた。

 

 ショパンはふわふわとした高揚を隠しきれないまま、二人の下へ小走りで。

 

「ねぇ! ねぇ! 私!」

 

 そんな興奮気味なショパンに。

 

「驕るな」

 

 そう厳しさを見せたのはエアグルーヴだった。

 

「いいか、お前のレースはきっとこれで終わりではない。これからも先、お前には数多のレースが待ち構えているはずだ。一つの勝利を、自信にすれど、慢心はするな」

 

「うん……!」

 

 ショパンもまた、一つ成長した瞳でエアグルーヴに答えた。

 

「だが、勝利は誇っていい。よく頑張った」

 

 そういうと、エアグルーヴはショパンの頭に手を添えると、朗らかな笑みでショパンを撫でた。

 

 初めて見た、母の笑み。それは紛いもない、自分自身に向けられたもの。

 

 ショパンはたまらず、エアグルーヴに抱き着いた。

 

「っ! お前!」

 

「ちょっとだけ! お願い!!」

 

 エアグルーヴは、少しだけだぞと言い、ショパンの頭をやさしく抱えた。

 

 



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【休息】家族団欒

「じゃあ、後でな」

 

 エアグルーヴはそういうと、紅い暖簾の下がった『女湯』へと消えていった。ショパンもまた、それに続き秋名へひらひらと手を振ると、淡い湯気の香る楽園へと消えていった。

 

 二人の背を見送ると、秋名はどこか形のない寂寥を引っ提げて、蒼い男湯の園へと、暖簾を潜った。

 

 上質なアロマの香りと、湯の気配が童心を僅かに擽る。温泉など何時以来なのだろうか。

 

 東京からさほどの距離はなかった地方競技場。だが、やはり東京と比べ華やかさは幾何か寂しいもの。街というより町。僻地とまでは言わないが、郷愁の念を催してしまうことは否定できない。遠くを見渡せば、連山が肩を組み、田園が幅を利かせている。野鳥の歌すらもどこか穏やかだ。

 

 この湯は、それら喧騒を忘れた土地の恩恵といえるのだろうか。

 

 秋名は脱衣所で衣類を全て籠へ預け、フェイスタオルを一枚手に取る。浴場へ向かう途中、一つの籠に衣服が詰め込まれているのが目に入った。先客がいるのだろう。その籠には、ワインレッドカラーにストライプが刻まれたジャケットが、適当に放り込まれていた。

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 湯の華やかな心地よさが、疲れ切った四肢を優しく癒してくれる。

 

 今日のように、体の持てる全てを使い果たした日ともあれば、それは更に別格だ。

 

 地方競技場の近くに温泉施設があったことは幸いだった。ショパンの勝利の祝いにと、秋名がこの施設を見つけ、提案したのだ。

 

 ぬくぬくとした源泉かけ流しの愉悦に、ショパンの脳天はくらくらと。天然の湯に絆され騙され踊らされ、ゆるりと湯治に現を抜かす。

 

「湯舟で寝るんじゃないぞ」

 

 そう言われて、初めて自分が微睡の中に居たことを自覚する。平気だもんと強がってはみるものの、日中に積み重なった疲れが、どうしても心地いい。

 

 だから、こっくり、こっくり、船を漕ぐ。

 

「寝るな」

 

 そういってエアグルーヴはショパンの頬をもちりと抓った。

 

 ヒーンと鳴きながら、潤いたっぷりな自分の肌をさする。そんなに眠いのなら、もう上がるか? と母が訊く。ショパンは首を横に振ってもうちょっとと言った。

 

「ねぇ、今日の私どうだった?」

 

 ふわふわとした湯の享楽の中、ショパンはエアグルーヴに訊ねた。女帝の目からみて、今の自分の評価とはどうなのだろう。それがどうしても気になったから。

 

 エアグルーヴの回答は『概ね悪くない』。それを、どこか満足気に語った。

 

「終盤前に、邪魔をされただろう。だが、よく堪えた。今日のお前は、確かに私の、女帝の名を飾る者としての十分な仕事をした。だが、詰められ切れていない課題も山積みだ」

 

 そういって、今日のショパンの良かったところ、至らなかったところを細かく語った。果たして微睡に溶けそうなショパンがそれをすべて聞いていたかどうかは、怪しいところだが。

 

「それにしてもお前、何故最後にあの娘に肩を貸した?」

 

「あの娘……」

 

 エアグルーヴの言うあの娘。きっと嫌味な娘(ヴァニティ)の話なのだろう。

 

「お前、レース直前、あの娘と悶着があったのだろう」

 

「知ってたの?」

 

「お前が嘶く(・・)音が聞こえた」

 

 エアグルーヴは湯気に湿った耳をぴんぴんと振った。

 

「それに、あいつはお前の走りを妨害した。そうまでされて何故あの娘に手を差し伸べた」

 

「放っておけなかったの。あの娘にも、とっても憧れのヒトがいて、一番になる夢があって。確かにちょっと意地悪だったけど、でも、きっと抱えてるものは私と一緒なんじゃないのかなって思っちゃって」

 

 それは、ヴィニティの涙を見て感じたこと。優しくてもウマ娘、意地悪でもウマ娘。その根っこにあるものは、皆同じ夢。ショパンはそう主張した。

 

 一時をおいて、ふと、自分が頓珍漢なことを囀っているのではという疑問がショパンを襲う。エアグルーヴから目を背けて。

 

「変……だよね。勝負しなくちゃいけないのに、他の娘のことを考えたりするなんて」

 

 エアグルーヴは一小節空けて、カルマートに語った。

 

「いや、お前の優しさは間違いではない。汝の敵を許し、受容れることは誰しもにできることではない。それがお前の心だと言うのなら、否定はしない。だが、正しい優しさを持て。時に優しさは自分を傷つける凶器にすらなりえる。胸に刻んでおけ」

 

 そう語りながら、それは自分にも言えたことかもしれないと、エアグルーヴは自分の言葉を飲み込んだ。

 

「うん……」

 

 ショパンはまた静かに答え、湯煙に包まれる麗しき女帝のそばへと擦り寄った。

 

「学園には慣れたか?」

 

 少しの沈黙が流れた後に、エアグルーヴが訊ねた。

 

「お前が来て、どれくらい経ったのだろうな。……なぁ、ショパン。一度だけでもいい。お前が何者なのか。どうして親元へ帰りたがらないのか、私にだけでいい。他言もしない。教えてくれないか」

 

 ひとつ語った後に、もう一つ

 

「私は、どうもお前に情が芽生え始めているらしい。だから、その。お前をちゃんと、親元へ帰してあげたい。きっとお前にも、本当の(・・・)父親がいて、母親がいて。どうしても帰れない理由があるのなら、それでもいい。ただ、このままでは、どうしてもお前の為にならない。お前の未来の為にも、お前には正しくいてほしい……」

 

 初めて語ったショパンへの本音。きっとこの湯に絆されたからに違いないと、自分に言い聞かせる。

 

「……ショパン?」

 

 流石に話が重すぎたのか。ショパンの回答は無言。勝利の祝いの場ですべき話ではなかったかもしれない。エアグルーヴの心に、僅かな後悔。

 

 

 スー スー 

 

 

 代わりに聞こえるもの。それは湯口から垂れる湯の音と、掠れるような小さな寝息。

 

「寝るな!」

 

 むにっと頬を抓れば、ヒーンとショパンの電源が入る。

 

「まったく、人が真剣な話をしているというのに……」

 

 むにむに。ショパンの柔らかい頬が、どうも手に心地いい。

 

 むにむにむにむに。エアグルーヴはそのままショパンの頬で遊ぶ。そのたびに、ヒンヒンヒンヒンとショパンは鳴く。

 

「それにしても、張りのあるいい頬だ。流石に若いな……」

 

 そう感想を漏らしながら、エアグルーヴはショパンの頬をいじめ続ける。

 

「ひぃん……もう起きてるよぉ……」

 

「ほぉ、そうか」

 

 それでも、むにむにむにむに。片手から、今度は両手で、両方の頬を。つついてつねって。いじめればいじめるほど、ショパンの反応が面白い。

 

「なぁに?」

 

 いつまで経っても、頬を放してくれない女帝にショパンが問う。

 

「いや」

 

 ショパンは目を開く。そこにあった女帝の顔は……。

 

 

 

 

「──お前はどうも、いじめ甲斐がある」

 

 

 

 子に接する母のように、愛に満ちていた。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 竹垣の奥から聞こえる、黄色き騒めき。時折ヒーンと聞こえるのは、ショパンが要らぬことをエアグルーヴへ言ったからなのだろうか。

 

 二人の戯れる音に、心が妙に休まる。それは安心の感覚にも似ているのかもしれない。

 

 どういうロジックでそう感じるのかはわからない。だけど──

 

「なんだ、そんな向こうの楽園が気になるか?」

 

「え!?」

 

 ふっと引き戻される秋名の意識。隠し切れない焦燥に、湯の飛沫を飛ばしながらも振り返る先。居たのは五十路の男。竹垣を眺め、にやりと笑っていた。

 

「どうしてここに?」

 

 その男は、秋名と同様にトレセン学園での活動を生業とする、トレーナーだったり教官だったりする人らしい。

 

「ちょっとした出張でな。そのついでだ。たまに来るのさ」

 

 そういえばと、この温泉施設の駐車場に、やたらと目立つ高級車(ポルシェ)があったことを今さらながらに思い出す。学園内では有名な、彼の愛車なのだ。

 

「それで、お前は? 担当引き連れてナイショの旅行か? ……かぁ、若いっていいなァ」

 

「そ、そういうわけじゃあ」

 

「でも居んだろ? その塀の向こうによ」

 

 男は顎を竹垣のほうへ放り投げて、再び笑う。

 

「こーゆーのってサ、足の引っかけ方にコツがあるんだよ。慣れりゃ7秒でイケる」

 

「何の話です?」

 

「覗くんだろ?」

 

「僕はもう少し長生きしたいですよ……」

 

 何だ甲斐性がねぇなと男は秋名の背を叩いた。

 

「そいで、例のよくわからんウマ娘、今はお前が面倒見てるんだっけか?」

 

「正確には、エアグルーヴが」

 

「ほぉ、母親呼ばわりってのも、満更でもねぇってことか?」

 

「それは、どうでしょう。ですが……」

 

「ですが? なんだよ」

 

「いえ、余計にあれこれ言ってると、彼女の機嫌を損ねてしまいますから」

 

「はっ! お前、将来尻に敷かれるぞ! 俺の担当のオヤジみてぇにさ」

 

 男は笑うと、湯に馴染んだ黒い髪を、両手でかき上げた。水気によって一時的に作られるオールバックスタイルに、いつもの見慣れた彼がいた。

 

「それで、そちらはどうなんです? 例のスプリンター(・・・・・・・・)は」

 

「どうもこうもねぇよ。ありゃまだ弾けるぞ。お前んトコの連中も何れ纏めて喰ってやるよ」

 

「何を宣うも自由ですが、一筋縄では行きませんよ。彼女」

 

 互いのトレーナーとしての魂に火が入る。盛る炎の前に、年齢や先輩後輩など些細な話。

 

 男はふっと鼻息を鳴らすと、湯船から立ち上がる。

 

「じゃあ、俺先に行くぜ。覗くんなら慎重にやれよ」

 

「ご心配どうも……大城先生(・・・・)

 

「悪ぃけど、俺もう先生じゃねーのヨ」

 

 その言葉をその場に残し、男は全てを煙に巻いて消えていった。

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 湯舟を後にし、脱衣所で着替えを済ませ、温泉の名残りと言わんように、湯気を纏ったままのショパンは、両手でフルーツ牛乳の瓶を抱えたまま、エアグルーヴの支度が終えるのを待っていた。

 

 もう後は帰宅するだけだというのに、ここでも女帝は隙を見せない。持参の化粧水を何層にも重ね、湯上り後の薄化粧。そこにアイシャドウは重ねないものの、確かに女帝としての品格がそこにはあった。

 

「すまないが、もう少しだけかかりそうだ。きっとトレーナーが休憩室で暇を持て余しているだろうから、相手でもしてやってくれ」

 

 ショパンはひとつ頷くと、脱衣所を後にし、休憩室へと向かおうとした。その道中に、牛乳瓶の回収箱があった。ショパンはそこに飲み干したフルーツ牛乳の瓶を戻したとき。

 

「あ……」

 

 ふいを突かれたような声に、ショパンの耳がピンと反応する。

 

 その視線の先、居たのはあの嫌味な娘(ヴァニティ)

 

「あ……」

 

 ショパンは彼女の言葉を鸚鵡返し。まさか彼女までここに来ていたとは。

 

 私服の彼女。勝負服を脱ぎ捨てれば、やはりそこに居るのは年相応な少女。但し、その服にはしっかりミスターシービーのイラストがプリントされている。

 

 互いが少しだけの無言。

 

「い、いいシャツだね。それ、似合ってるよ」

 

 先に声を出したのはショパンだった。この半端に気まずい空気に抗う一手だった。

 

「そ、そうに決まってるでしょ! これ、限定品なんだから! ……ふん! エアグルーヴがなんだとか知らないけど、シービー様が一番なんだから!」

 

「確かにミスターシービーもカッコよくて強いウマ娘だけど、やっぱり私のイチバンはエアグルーヴだなぁ」

 

 ショパンは後ろ手を組んで、朗らかに答えた。

 

「ばっかじゃないの! それはアンタがシービー様の凄さを知らないだけなんだから! エアグルーヴなんて、全っ然大したウマ娘なんかじゃ──」

 

「私がどうかしたか?」

 

 ショパンの背後から、現れた一人のウマ娘。

 

 強かに、鋭く、重厚な言葉が、ずどんとヴァニティの心臓を貫くように刺さった。

 

 勝負服を纏わずとも、ターフへ立たずとも、彼女から発散される本物の存在感(オーラ)。肌をひりつかせ、呼吸をも忘れさせる。

 

「え…………?」

 

 ヴァニティが状況を理解するまでに、数刻は要した。時を置いて、ようやく、ようやく、目の前にいるのが本物の女帝であることに気が付く。

 

「えあ、ぐ……な、なな……なんで…………?」

 

 開いた口を塞ぐことを忘れ、瞼を開けるだけ開いて、持っていた温泉セットを床に落として。

 

「どうした? 私の話をしていたのだろう? 気にせず続けろ。それとも、私が居ては何か不都合でもあるのか?」

 

 どんなに強がり、見栄を張り、粋がろうとも、所詮は子供。

 

 本物の前に、成す術などあるはずがない。

 

「お、おか……おかーさーん!!」

 

 落とした荷物を拾うことも忘れ、ヴァニティは来た道を走って引き戻していった。

 

 その後に、ショパンとエアグルーヴは顔を見合わせて、くすりと笑った。

 

「ああ、二人ともここに居たんだ」

 

 そこに、秋名の姿。二人があまりにも遅いからと、しびれを切らして様子を見に来たらしい。

 

「すまない。待たせたな……だが、直ぐにでもここを出たほうがよさそうだ。騒ぎになる前に」

 

「騒ぎ?」

 

 そうすれば、奥の方から聞こえてくるざわめき。

 

『エアグルーヴがここに来てるって?』

 

『聞いた!? エアグルーヴが居るんだって!?』

 

『どこ!? 私、絶対サイン貰うの!』

 

『さっき露天で似たウマ娘が居るって思ったけど、マジ本物なの!?』

 

 それらは次第にクレッシェンド。なるほどねと状況を理解した秋名は、懐から愛車のキーレスを取り出し二人に見せる。要は撤退開始の合図だ。

 

 エアグルーヴは薄いサングラスを再び装着。帽子はショパンに被せて。三人はその温泉施設を離脱した。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「ただいま……」

 

 一人暮らしの男の家。単身用の賃貸といえど、孤独の空間に響く自分の声とは空しいもの。その声に応えてくれる人などいやしない。

 

 だが、今日ばかりは、そうでもないらしい。

 

「お邪魔しまーす!」

 

「邪魔するぞ」

 

 彼の傍ら、二人の担当が、買い物袋を引っ提げて。

 

 温泉施設から東京へ帰る道中、ショパンが空腹を訴えた。秋名は勝利の祝いになんでも好きなものをリクエストしていいとショパンへ言った。だが、ショパンが要望したものは意外なもの。

 

『エアグルーヴの作った御飯が食べたい』

 

 そう答えたのだ。二人(・・)は意表を突かれたような感覚を覚えつつも、ショパンのその強請(ねだ)りを受け入れた。具材は買い物をすればどうにでもなるが、キッチンはどうしたものか。そこで辿り着いた解が、秋名の自宅ということらしい。

 

 ショパンとエアグルーヴはレジ袋を提げたまま、キッチンへと向かう。ショパンは高揚気分で、鼻歌を歌いながら。エアグルーヴは顎を抱えて、料理の手順を考えながら。

 

 秋名は、どこか青い表情をして二人の後を追う。だって急に担当が自宅に来るなど思ってもいなかったのだもの。故に、想定されること──。

 

「おい、貴様、なんだこの部屋の有り様は?」

 

 秋名の居住スペースに踏み入ったエアグルーヴが見たもの。それは、女帝の杖となり得るトレーナーとしてあるまじき、あられもない部屋の姿。

 

 積み上げられた酒の空き缶と、大量のペットボトル。開封してそのままの段ボール箱、脱ぎ捨てられた衣服に、溜まりに溜まった新聞と雑誌。流し台には、使ったままの食器の後。

 

「あ、いや……その。やっぱりほら、どうしても忙しくてね」

 

「そんな言い訳を私が通さぬと知っての行為か? 以前も同じ有様を見た気がするが、既視感か?」

 

「ご、ごめんよ……」

 

 エアグルーヴの鋭い視線に、たじろぐ他はない。掃除の女帝、エアグルーヴに逆らえる者などこの世にいない。

 

「私が食事を用意する間に、ショパンと二人で掃除をしろ。わかったな?」

 

「はい……」

 

 妻に詰め寄られる夫。父が掃除や整頓が苦手なのは昔からだったのかと、ショパンはくすりと心で笑った。

 

 

 ──

 

 がさがさと、雑誌や新聞を束ねる音と、ごうごうと、掃除機が奏でる重奏曲。まだ幼いショパンに、自分の不始末を手伝わせるのがどうも忍びない。

 

 レースをした後で疲れているのだろうに、君は休んでていいと言っても、ショパンは、それではトレーナーが叱られてしまうと聞き入れず、掃除に精を出した。

 

 これはいるの? これは捨てていい? てきぱきと要領よく動けるショパンは、流石に掃除の女帝の血を引くだけのことはあるらしい。

 

 そこに、あっと声を出してショパンは固まる。秋名はどうしたのかとショパンへ訊ねるが、彼女が手にしているものを見て、血の気が引く。

 

 それは所謂、色欲を満たす為の"いかがわしい"ものの類なのだから。

 

「だ、ダメだよ! それは! 子供がみちゃあ!」

 

 秋名は慌てて手を伸ばそうとするが、ショパンはそれを胸に抱いて、お母さんに言っちゃおうかな。と一言。

 

 それだけは、と青くなって許しを請う秋名。ショパンとしては、エアグルーヴという美しい将来の妻が近くに居ながら、こんなものに興じるなど、言語道断ということらしい。

 

 ショパンはこれを見逃す代わりに、これを捨てる約束を秋名と。秋名は泣く泣く合意した。

 

 そしてそして、掃除は続く。

 

 空き缶をまとめて、ペットボトルはラベルを剥がして、キャップを分別して。洗濯物は纏めて洗濯機を回して。戸棚の整理をして。奥のキッチンからは、香ばしい香りが漂ってくる。

 

 その時、再びショパンがあっと声を上げる。

 

 秋名の神経がまた張る。急いでショパンの下へ、どうしたのかと声を上げて。

 

 戸棚の前でショパンが抱えていたもの、それはひとつのレターケース。

 

 その中身は、秋名の担当エアグルーヴのインタビュー記事や、新聞雑誌で取り上げられた際のスクラップ。それと数枚のDVD。

 

 まぁ別に、見られて困るものではないと、秋名は胸を撫でおろす。ショパンは掃除の手を止めて、そのスクラップを微笑みながら捲る。

 

 そのときに、不意に秋名へ問う。

 

「ねぇ、トレーナーさんって、先輩(おかあさん)のこと……好き?」

 

 その質問に、秋名は僅かに息を止めた。

 

「好き……って、それってどういう。まぁ、担当として信頼は十分にしているさ」

 

「ううん、そうじゃなくて」

 

 ショパンの少しもどかしそうな素振り、彼女が求める回答とは。

 

「それって、エアグルーヴを一人の女性としてってことかい……?」

 

 ショパンは大きく頷いた。

 

 最近の子供はませている。秋名は悩みながらも、無難な回答を探す。

 

「そんな、考えたこともなかったな……」

 

 でも、実際のところどうなのだろう。エアグルーヴは、確かに非の打ちどころのないウマ娘だ。眉目秀麗で当意即妙で。

 

 好き、なのかな……? 

 

 好き、なのかもしれない……? 

 

 

 

「──掃除は終わったのか?」

 

 

 完全に油断した秋名の背中に、女帝の声。秋名の心拍数が一気に増した。何かやましいことをした気分にも似ていた。

 

「ほら! これこれ!」

 

 ショパンが秋名の作ったスクラップをエアグルーヴへ差し出す。

 

「ほぉ、よくできているな。確か、私は掃除をしろと言ったはずだが、こんなものに現を抜かしていたというわけか?」

 

 じろり、と女帝の瞳が父娘(ふたり)をとらえる。

 

「掃除はどれくらい終わったんだ?」

 

「えっと、半分もいかないくらい……かな」

 

「だったら手を止めてないで、とっとと続きをやれ! このたわけっ!」

 

 エアグルーヴを妻に娶ると、緊張感のある毎日になりそうだ。そう、秋名は思った。

 

 

 

 ──

 

 

「で、終わったのか?」

 

「ああ、なんとかね」

 

 秋名とショパンが食卓へ辿り着いた時、テーブルの上には、エアグルーヴ特製のにんじんハンバーグと、サラダの付け合わせ。人参のポタージュに、炊き立ての白米の姿が。湯気を立てて二人の食欲を誘った。

 

「おいしそう……」

 

 ショパンは小走りで席に着く。腹の虫の音がどうも治まらないらしい。

 

「ありがとう。エアグルーヴ」

 

「まぁ、ショパンへの褒美だからな」

 

 エアグルーヴは涼しくそういうと、三人は手を合わせた。

 

 

 それからは、特に説明のいらない時間だった。

 

 エアグルーヴの料理に舌鼓を打ち、今日のレースを三人で振り返り、時になんてことのない会話をして、ビールのお替りを要求する秋名へ、母娘(ふたり)揃って憤って。果てには、三人で笑いあって……。

 

 ほんの、1時間にすらも満たない僅かな時間。だが、それは永遠の幸せを凝縮したような時間でもあった……。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「ショパン、そろそろ寮へ帰るぞ」

 

 食事の片づけを終えたエアグルーヴが、タオルで手を拭きながらリビングへ。

 

 そこのソファに、秋名とショパンは居た。エアグルーヴが再びショパンと名を呼ぼうとすると、秋名は一本指を立てて、口元にあてた。

 

「寝ているのか?」

 

 ショパンは秋名に寄りかかり、深く瞼を閉じて、くぅくぅと。

 

「よっぽど疲れてたんだろうね。無理もないよ」

 

「しかし、寮へ戻らねば」

 

「いいじゃない。泊まっていきなよ。今日はもう遅いし」

 

 そういうと、秋名はショパンを抱えて、寝室のベッドへ。静かに彼女を寝かせると、掛布団を首元までしっかりと覆った。

 

「私は、寮へ戻る。明日、ショパンを連れてきてくれ」

 

「君も居てあげなよ。この娘のそばに。君がいないときっと寂しがる」

 

 秋名は静かにそういった。

 

「私もって、貴様はどうするつもりだ」

 

「僕は床かソファでいいさ。じゃあ……」

 

 そういって、部屋を後にしようとした時だった。

 

 秋名の裾を、エアグルーヴは握った。

 

「……寝床を奪っておいて、部屋の(あるじ)を床で寝かせられるものか」

 

「え……?」

 

 

 

 ──

 

 

 

「それじゃあ、おやすみ」

 

 単身用のベッドとは言え、広めのベッド。詰めるところまで詰めれば、三人並んでもなんとか収まる。……窮屈さは否めないが。

 

「いいか、あくまでショパンのため……だからな」

 

「存じてるさ……」

 

 エアグルーヴとショパンと秋名。ショパンを間に挟んで、三人は川の字。

 

 両親に囲まれての就寝。その幸せに、ショパンはまだ気が付かない──。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「……んぅ」

 

 あれから、どれ程の時が経ったのだろう。時間にして、おおよそ6・7時間といったところだろうか。時計を確認せずとも、大方の睡眠時間は体で把握できる。

 

 僅かに差し込む淡い光芒。昨日の疲労が完全に抜け切れていないのは歳のせいなのだろうか。

 

 それほどまでに、昨日は疲れていたのか。それもそうだろう。遠征と温泉と部屋の掃除と。そういえば、二人の担当はどうしたのだろうか。

 

 確か、ショパンが寝てしまって、それで、自分のベッドに寝かせて、エアグルーヴも同じく自宅に泊めて、そして自分は……。

 

 ──彼女たちと同じ(ベッド)で一夜を過ごした。

 

 

「え……」

 

 

 自分で出した回答に、自分で驚く。

 

 自分の気遣いで始めたこと。字面に起こせばとんだ事案じゃないか。

 

 秋名は慌てて横を向く。そこにエアグルーヴの姿は既になかった。代わりにあったのは、ひょこひょこと、掛布団の中から生えてきた、二つのお耳。

 

 時折ゆらゆらと動いては、後ろにペタリと寝かせたりと、どうも忙しない。

 

「……」

 

 秋名は考えることを一時的に止めて、その耳を摘まんだ。縦に引っ張れば不思議とよく伸びる耳だ。

 

 その耳に悪戯をすれば、ぴっぴっぴとその耳が抵抗し、ぺしぺしぺしと彼の手を叩く。やめろという合図なのかもしれない。

 

 秋名は手を放して、今度は先端を摘まんですりすりと擦った。そうすると、その耳はひょんと毛布の中へと逃げて行った。

 

 秋名は、掛布団をめくりあげる。そこにいた一人の少女。安堵に満ちた表情で。幸いの渦中に溺れていることは確かなようだった。

 

 その顔に、秋名はやはり、安心と愛情を覚えるようだった。そしてそのまま掛布団を戻すと、リビングへと向かった。

 

 リビングでは、すでにエアグルーヴが朝食の支度を始めていた。

 

 おはようと声を掛けるも、彼女は少しぎこちない。きっと彼女も同じことを思ってしまっているのかもしれない。トレーナーの部屋で、一夜を明かしたという事実。やましいことは無かったといえど、事実は事実。寮長への申し開きを考えているのかもしれない。

 

 秋名はテーブルへ着くと、エアグルーヴもその対面へと座り、秋名へ珈琲を差し出した。

 

「……世話になったな」

 

 エアグルーヴの視線。秋名の目を見てはいなかった。

 

「いや、僕は構わないさ。僕のほうこそ、朝食の支度、ありがとう」

 

 そこからまた、少しの沈黙。早くショパンが起きてきてくれないかと、少しだけ心が願った。

 

「昨日は忙しかったね。ショパンのいい思い出にも、なったかな」

 

 無理に秋名は発言をした。

 

「そう、だな」

 

 テーブルの上には、昨日のレースで貰った参加賞と、安いトロフィ。そして、昨日三人で食卓を囲った温もりの名残。

 

「……何れショパンも、帰っていくんだよね。きっと」

 

 何を狙うといった発言ではなかった。だが、それを言葉にした途端に、二人の心に僅かな風が吹いた。

 

 何れはショパンと、別れなければ。もう一度彼女とは、どこかで会えるのだろうか。と。

 

「ああ、そうであってもらわねば困る」

 

「でも、手がかりはないまま……か。ねぇ、ショパンは君に本当のことを話したことはないのかい?」

 

 秋名は珈琲を啜る。鼻に抜ける香りが、朝の情景を彩る。

 

「本当のこと……」

 

「会長さんや、同僚たちにも聞いたことがある。ショパンは支離滅裂を叫ぶ嘘つきだと。でも、どうだろう。僕の目には、彼女が嘘つきのようにはどうしても見えない。あの娘は、嘘を好むような娘ではない。君もわかっているんじゃないのかい」

 

 エアグルーヴもまた、静かに珈琲を啜って、弱い相槌を打った。

 

「なぁ、トレーナー……」

 

 エアグルーヴが改まって声を上げる。

 

「なんだい?」

 

「あの娘が、本当に未来から来たと言ったら、貴様は信じるか?」

 

「え?」

 

 思いもよらない、女帝の言葉。思わず珈琲を持つ手を緩ませそうになった。

 

「未来?」

 

 言葉を反芻した。ありえない。あり得るはずがない。そう答えなきゃいけないハズなのに。彼の中の何かが、否定を否定していた。

 

「昨日のレースを見て、感じたんだ。やはり私は、あの娘のことを、どうも知っている(・・・・・)らしい。何処で会ったのか、何故知っているのか、それはわからない。遠い昔に会ったことがあるのかもしれない。或いは……何れに出会う約束があるのかもしれない」

 

「……どういう」

 

「わからない」

 

 エアグルーヴは静かに首を振った。あの女帝が、自分の口から、空想にも近い言葉を吐いた。どうしても、らしくない。似合わない言葉だった。

 

 だが、彼女の主張を、理解できてしまう心が、確かに秋名にもあった。

 

「仮に、本当にあの娘が未来から来たウマ娘だとしたら、何のために……?」

 

 エアグルーヴは再び首を横に振った。

 

「おはよぉ」

 

 二人の静寂を壊す、呆けた挨拶。

 

 ショパンは目を擦りながら、寝ぐせいっぱいの頭をふらふらとゆらしていた。彼女がテーブルに着くと、秋名はコップに牛乳を注いで、ショパンの前へ。眠れたかい? と訊きながら。

 

 ショパンは、何かお耳がくすぐったかったといったらしい。

 

 ショパンはまだ開ききっていない目で牛乳を飲み、パンをもそもそと貪る。その姿は、少し間抜けのそれに見えなくもない。

 

 秋名はエアグルーヴへ、視線で『未来から来た娘にしては、随分と気が抜けているけど』と言った。

 

 エアグルーヴは『知らん』と答えた。

 

 

 

 

 

 

 



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比翼 嬰ハ長調 作品4
マルクパージュ


『可愛いだろう? あの娘は』

そう言ったのは、一人の淑女だった。絵の具を乱雑に混ぜ合わせたような、曰く良好な天気へ、穏やかを向けながら。

「そう、かもな」

否定はしなかった。確かにあの娘(・・・)感じた愛情は、どうも偽りのそれとは違ったように感じたのだから。

だが、まだ払拭しきれない。氷解できない。感得は未だに遠い。エアグルーヴにとって、あの娘はまだ『不思議な娘』のままなのだから。

『満更でもないようだな』

少し熟れた淑女は、砂浜の砂を優しく蹴りながら、満悦をその顔に映し、そういった。

エアグルーヴは、彼女の言う満更でもないという言葉に引っ掛かりながらも、彼女へ訊ねた。

「あの娘は、何処から来て、何処へ行くんだ?」

『何処へも行かない。ずっと私のそばに居る。……いや、私があの娘のそばに居ると言ったほうが正しいのか』

淑女は、空中に向かって何かを撫でるような仕草をしたのちに、それを抱きしめた。懐深く。大切なもののように。

彼女の行動に、エアグルーヴはただ悶々としながら、黄昏の映えるビーチで、足を抱え砂浜へ深く座っていた。

淑女は、エアグルーヴの隣に腰を下ろし、何が憂いだと問いかけた。エアグルーヴは、隣に座った淑女の横顔を見た。端正に整った相好は、まるで何処かで見たことのあるような、強い既視感を覚えた。しかしそれは、母や姉妹のどれにも当てはまらない。

「あの娘は誰だ。どうして、私のもとへ来たんだ」

縋るような声色だった。どうしても、解が欲しかった。だが、淑女は意地悪だった。

『それを言ってしまっては、趣がないと言ったところだ。それはあの娘と二人で探すこと。そう、お母様も宣っていたではないか』

「……焦れったい」

エアグルーヴがそういうと、淑女はふふふと声を出して笑った。

『いいじゃないか。私は羨ましい。朝起きて、あの娘が横にいる。おはようと言ってくれる。食卓を囲めば、あの娘の笑みが、何よりの調味料だ。夜も一緒。安心を求めて擦り寄ってきてくれる。今はまだ気が付いていないだけだ。わたし(・・・)はあの娘に生かされている』

エアグルーヴは目を閉じて首を横に振った。淑女は、再び笑いながら、まだ青いなと言った。

『……ひとつだけ、忠告だ』

淑女は唐突に語った。淡く不確かな、いい天気を眺めながら。

「忠告?」

『天気が悪くなりそうだ。嵐は突然やってくる。傘を用意してあげてくれ。あの娘が濡れないように。抱きしめてあげてくれ。あの娘が凍えないように』

そういうと淑女は、形容し難い、深く淀んだ海へと歩き出した。

もう少しだけ、あの娘を頼む。そう言い残して。

「またか……またそうやって。いつおまえ(・・・)は迎えにくるんだ」

エアグルーヴがそういった……。

瞬間、エアグルーヴは自分が彼女に対し、何を問いているのかが理解できなくなる。

また、いつ、おまえ……。砂浜、海……?


揺れる。思考が揺れる。

叫ぶ。沈黙の中から、理性が叫ぶ。

呼ぶ。埋もれた意識の中から、己自身を手繰り寄せ、呼び覚ます。



瞬間、理解に及ぶ。




――ここは、夢の中だと。



定期的に見ていた、あの夢なのだと。



然るべき疑問。目の前に居るウマ娘は、誰だ――



「――待て!!」

エアグルーヴは地面を蹴り上げ、駆け出す。そして、淑女の背を追った。だが、追いつかない。身体が思うように動かない。それは、地面が砂浜だからか? それとも、夢の中だからか。

淑女は膝丈程の浅瀬で立ち止った。そして、エアグルーヴのほうを見た。エアグルーヴはようやく彼女の顔を、はっきりとした意識の中で、改めて見た。

「おまえは誰だ……。ここは」

おまえ(二人称)……?  ふふ、何を言うかと思えば。……わたし(一人称)だろう?』

そういうと、淑女は再び海へ向かって歩き出した。

エアグルーヴは、その背をつかもうと、思い切り手を伸ばし、柔らかい何かを掴んだ――。




ヒーン!!!!




 

 

 

 

彼女の嘶きに叩き起こされる。

 

夢の中で掴んだ柔らかい何か。それは、いつも掛布団の中から生えてきているショパンのお耳。意識喪失下の中、力加減も知らずに掴んだものだから。

 

「なっ、なにっ!?」

 

ノンレム睡眠から覚醒へと、強引に引き摺られたショパンは、状況も理解できずに、寝惚け半分に狼狽えた。

 

「え!? あ! すまんっ!」

 

エアグルーヴは慌てて手を放す。自慢のお耳を虐められたショパンは、耳をさすりヒンヒンと鳴きながら、ファインモーションのベッドへと逃げ込んだ。

 

「もぉ、グルーヴさん。ショパンちゃんいじめちゃだめだよ!」

 

ファインモーションは欷泣するショパンの頭を撫でながら、女帝へ苦言を呈した。

 

「誤解だ! 虐めてなどおらん! ただ、ちょっとその、ショパン。悪かった……」

 

現実に戻ったエアグルーヴが、彼女(・・)について考察する余裕はなかった。要は、また逃げられたということだ。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「もぉ、ほんとに痛かったんだからね!」

 

「わかったわかった。悪かったと言っているだろう」

 

季節は、穏やかから強かへ。近景のコントラストは、朧気から鮮烈に。冬の気配がどうも遠くへ消えて行ってしまった初夏の終わり、半袖の生徒もちらほらと見え始めたこの頃。今日も今日とて、ショパンはエアグルーヴについてく、ついてく。詫びの印にと、購買部で買ってもらったお菓子を懐に抱えて、すっかり慣れてしまったエアグルーヴとの関係に、少しふてぶてしくなって。

 

二人が並んで歩く姿。最初こそは、皆の注目の的ではあったことは確かだった。だが、今はもう、彼女たちの関係に敢えて見向きする者たちなどそう居ない。ショパンを不審者扱いする生徒も、既に遠い過去。

 

それどころか『ショパンちゃん』と名前を呼ばれては、撫でられ突かれ与えられ。不思議な娘から始まったショパンの人気(ブランド)。今となっては、純粋な愛嬌を求めて寄ってくるウマがほとんど。風の噂曰く、ちょっとしたファンクラブ(・・・・・・)もあるとかどうだとか。

 

今日も、ワンダーアキュートから飴をもらって、スーパークリークからたまごボーロのようなお菓子を貰った拍子に誘拐されそうになって*1、アグネスタキオンから七色に光るニンジンジュースを貰って、ゴールドシップから銀杏をもらって。結局エアグルーヴに貰った物を半分くらい捨てさせられて。

 

同級生から呼ばれれば手を振って、教官や顔見知りのトレーナーには、愛想の良い挨拶を送って。

 

皆が受け入れ始めている。ショパンの存在を。あのルドルフでさえも。

 

ショパンの新しい体操服を発注したのは、他ならない彼女だ。例え仮初であろうと、今の彼女は我々の大切な仲間であることに相違ないと、そういって。

 

そして、今のその状況を、エアグルーヴ自身も無意識の下に受け入れようとしていた。あの娘がいる、少し微温湯的な心地よさが、どうも癖になりそうだった。

 

今日も、学園で一日を過ごし、花の手入れを共にし、秋名とのトレーニングに精を出して、寮に戻って夕食を摂り、風呂に入り、ショパンの経過観察台帳へ異常のない旨を記載し、そして同じベッドで就寝する。そんな毎日が、何時しか非日常から、当たり前の日常へと変わり始めていた。

 

彼女の監視係としての終点は、無事にあの娘を親元へ返してあげること。しかし、少し。ほんの少し。太陽の黒点程微小に。

 

ずっとこのままでも、いいんじゃないのだろうか。そう、非ぬことを考えてしまう心が芽生え始めていた。

 

 

もっと悪く、曲解を交えて表現するなら。

 

 

この娘を手放したくない。そう言い換えてしまえるほどの、悪い心が確かにあった。

 

 

ショパンはエアグルーヴから買ってもらったお菓子と、先輩ウマ娘たちからもらったお菓子を両手いっぱいに携えて、安堵と歓びに満ちた表情をエアグルーヴへと向けた。その表情は、晴れ晴れとしたいい天気(・・・・)のようだった。

 

 

『天気が悪くなりそうだ』

 

 

ショパンの笑顔を見た瞬間、脳裏にあの淑女の声が聞こえた。だが、エアグルーヴは聞かぬ存ぜぬふりをした。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「ここは慎重にですよ。乱暴にしちゃうと、すぐに破れちゃいますから」

 

その言葉は、彼女の小さい気持ちに、更に圧をかけるものだった。そのプレッシャーは、僅かな体温の上昇と、手先の震えとなってショパンの身体に悪戯をした。

 

慎重に、慎重に。ピンセットで一枚ずつ、丁寧に。キッチンペーパーに張り付いた、菫の花弁を剥がしていく。まるで大手術のよう。

 

一枚はがして安堵の息を吐き、次の一枚へと向かっていく。

 

「そうそう、上手ですよ」

 

小さい指導者(ニシノフラワー)は、自身の手を絡み合わせ、ショパンの大健闘を見守る。ショパンの緊張が、彼女にも伝染(うつ)るようだった。そして最後の一枚。ショパンの油断が少しだけ形となって現れた。あっと声を出した時には既に遅かった。菫の花弁が僅かに欠けた。

 

しゅんと気を落として、耳をへたりと折ったショパン。そんな彼女にも、ニシノフラワーは優しかった。

 

「気を落とさないでください。これくらいなら大丈夫です。大切なのは完璧に作ることじゃなくて、気持ちを込めて作ることなんですから!」

 

自身と年齢も背丈も大きく変わらないはずなのに、心の余裕は立派な大人。こんな押し花ひとつ作る間にも、その成熟した心というものが垣間見える。

 

小さな先輩の言葉に、ショパンはこくりと頷いて、栞サイズにカットされた和紙に花弁を置き、ラミネートフィルムで加工していく。ラミネータが温まるまでの間に、ニシノフラワーは、その手作り栞を誰に渡すのかと訊ねた。ショパンは静かに『大切な人』と答えた。

 

ラミネータから出てきた栞はあつあつだった。ショパンは冷まさずに手に取ろうとしたものだから、反射的にヒンと鳴いた。そこから、ラミネートの余肉をフラワーが丁寧にカットすれば、ショパンオリジナルの菫の栞が出来上がる。ショパンはそれを太陽に翳し、きらきらとした瞳でそれを喜んだ。

 

「おかあさん。喜んでくれるかな」ショパンは確かにそういった。ショパンの噂を既に知っているフラワーは、そのことについて触れずに「ええ、きっと」と応えてあげた。

 

ショパンはニシノフラワーに深く頭を下げると、お礼を一言置いて、美術室を後にした。

 

これを手渡したときの母の表情はどうなるのだろう。母の大好きなお花で作った(マルクパージュ)は、きっと喜んでくれるに違いない。浮き立つ脚で、軽やかなステップを踏めば、彼女の踵から軽快なワルツが弾き出される。

 

とうに過ぎてしまっていた母の日。だけど、ずっと叶えたかった夢。――母への贈り物。これで母への恩返しができる。そして友人たちにも、私だってお母さんに贈り物をしたんだぞって自慢できる。

 

「……そういえば、私っていつまでここに居るんだろう」

 

それは、未来に居る友人たちの顔を思い出し、語った一言。ずっと気が付かないふりをしていたが、この過去にやってきて少しの時間が経過していることは肌で理解できること。

 

ここは夢のような世界だ。母が居て、父が居て。自分をちゃんと見てくれて……。

 

でも、自分がこの世界に居続けることは、本当に正しいことなのだろうか。母と、未来の自分の居場所と……天秤に掛けてどちらを取るか、それを判断するには、ショパンはあまりにも幼すぎた。

 

自分がこの過去へ来た理由とは何なのだろう。母と邂逅するため、本当にそれだけなのだろうか。

 

ショパンは軽やかな脚を止め、窓から中庭を覗く。そこに佇む三女神像。幸せの根源。

 

ショパンは確かに願った。母と会いたい。母の想いを継ぎたい。それは、ある意味を以て叶ったのだ。だが、三女神は未だショパンへ何の働きかけも見せない。まだ貴女にはやり残したことがある。そう言いたげなようにも感じた。

 

ショパンの答えは、閑却だった。もう少しの間だけ、知らないふりをした。そして愛する母が居るであろう、トレーナー室へと向かった。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「なぜそれを早く言わないッ!」

 

ショパンがトレーナー室の引き戸に手をかけようとした時だった。木製のドアを突き破って飛んできたのは、エアグルーヴの怒号だった。向けられる相手は、おおよそ察しの付く人。

 

ショパンはそろりと戸を開け、中の様子を伺った。そこには、秋名の机に手を付いて、何かを訴えかけているエアグルーヴの姿。耳を後ろに絞り、目尻を大きく釣り上げて、どうも穏やかではない様子だった。

 

いつもの秋名ならば、ここでエアグルーヴに気圧されて、謝罪の言葉を一つ飛ばすのがお決まりというやつだ。

 

だが、今回ばかりはどうも違った。エアグルーヴの圧に、彼は真っ向から向かっていた。

 

「隠していたつもりじゃない。僕だって、気乗りしない話なんだ」

 

「気乗りだとか、そういう話ではない! そんな大事なことを、貴様は!」

 

「……悪かったとは思っている。だけど、君には関係のない話だ!」

 

秋名の言葉に、エアグルーヴは僅か1/10秒、呼吸を忘れた。そして、多少の沈黙の後、自嘲するように少し嗤って、静かに語った。

 

「そう……だな……。私には、関係のないことだ……」

 

微かに震える唇でそう言った。秋名はもう一度冷静な話を求めるべく、エアグルーヴと名を呼んだ。だが、エアグルーヴはそれを無視して、彼に背を向けた。

 

がらりと戸が開かれたとき、そこにショパンがいることにエアグルーヴは気づいたが、特に言葉をかけることもなく、ショパンを置いてその場を去っていった。

 

ショパンはトレーナー室の中へ入り、何があったのかと秋名へ訊ねた。だが、秋名は椅子に深く掛け、君にはまだ早い話だよとショパンの頭を少し撫でて、自身の背後にある太陽を睨みつけた。

 

理解が及ばないショパン。何もわからないまま少し悶々としながら、秋名の机の上にあるお菓子を手に取ろうとしたときに、一枚の写真を見つけてしまう。それは、慎ましく淑やかに、着物に身を包んだ一人の女性の写真。ショパンは思わず綺麗だと口にした。

 

秋名はその写真を黙って取り上げた。そして、それを太陽に翳して、憂いの仮面を顔に着けた。今日はもうお帰り。そうショパンに言った。

 

ショパンは、喧嘩をするのはいいけど、ちゃんと仲直りしてよねと秋名へ言った。秋名は黙ってショパンの頭を再び撫でた。そこに、一本の入電があった。秋名は億劫さを隠さずに、その入電に応じた。

 

「はい、秋名です。ええ。例の縁談の件ですよね……」

 

大人の話と察して、ショパンはトレーナー室を後にした。

 

寮に帰る道中、結局栞を渡せなかったことを一人で勝手に嘆いた。

 

「はぁ、どうしてこんな時に限ってケンカなんてするかなぁ。結局お父さんが悪いのかな? エンダンがどうとか言ってたし……」

 

自分の吐いた言葉に疑問を抱く。語彙に乏しいショパンでも、その言葉の意味を、何処かで聞いたことがあるような気がした。

 

「エンダン……? エンダンってなんだっけ?」

 

とぼとぼと歩くショパンの背に、声がかかる。振り向いた先にいたのは、ニシノフラワーだった。ちゃんと栞を渡せたか? とショパンに訊ねた。だが、ショパンは黙って首を横に振った。

 

何故? とフラワーが重ねて訊ねる。ショパンは理由を彼女に話すより前に、一つ質問を投げた。

 

「ねぇ、フラワーさん。エンダンってどういう意味なんですっけ?」

 

「エンダン……ですか?」

 

ショパンは頷いた上で続けた。

 

「なんか、トレーナーさんがエンダンがどうとか言っていて、それで先輩(おかあさん)がすごく怒っちゃって……」

 

ニシノフラワーは、口元を押さえ、そうですかと言った。

 

「縁談っていうのは、お見合いのことですよ。その、言うなれば、ショパンさんとエアグルーヴさんのトレーナーさんに、お嫁さん候補を打診されていると言ったところが妥当でしょうか……」

 

そういえばと、ショパンはトレーナー室で見たあの写真の女性を思い出す。とても優しそうで、とても美人で。それが、あの秋名のお嫁さんに……?

 

「そっか……そりゃお母さんも怒るはずだ……ん?」

 

何かを納得した先、何かに引っかかる。どうしたのかとフラワーが訊ねても、ショパンには届かない。

 

「え……?……あれ? だってお父さん(秋名)お母さん(エアグルーヴ)と結婚して、そして私がなのに……? お父さんにお見合い……? お嫁さん候補……?」

 

ショパンはようやく事の重大さに気が付く。

 

そんなことが実現してしまえば――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――私が生まれてこなくなっちゃうじゃないか!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1
調べに対し、『自分もお母さんと呼ばれたかった』等と供述しており



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Chopin

 

 夕暮れが少し過ぎた頃合いだっただろうか。美浦の寮へとひとり戻ったショパン。エントランスを潜れば、エプロンを着たヒシアマゾンが笑顔でお帰りと言って迎えてくれる。

 

「あれ? ショパン、今日は一人か? エアグルーヴは?」

 

 ショパンは首を横に振って、先に戻ってる筈ですと寮長へ言った。

 いつも二人揃って行動を共にしていただけに、それを妙に思ったヒシアマゾンは、もしかして、何かあったのかと二人の間柄を案じた。だがショパンはまた首を横に振って、自分ではなくトレーナーとエアグルーヴとの間に何か諍いがあったそうだと説明した。

 

「はぁ、そりゃあ大変だな。ショパン、お前は大丈夫か?」

 

 ショパンに不憫さを感じたヒシアマゾンが彼女を気に掛けるが、ショパンは笑顔で大丈夫ですと返し、自室へと向かっていった。

 

「へぇ、よーくできた娘だねぇ」

 

 ヒシアマゾンはショパンの背を感心の目で追い、晩の支度の続きを始めた。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 そろり、そろりとショパンは出来るだけ足音を抑えて自室へと向かう。エアグルーヴはきっと今ナーバスな状態に違いない。だからと言って理不尽にショパンを攻撃することはなかれど、これ以上をできるだけ刺激しないようにというショパンの気遣いだった。

 

 自室からおおよそ10m程の圏内へ来た頃だったろうか。ショパンの耳に、ある音楽が流れてくる。それはピアノを主とした、どうも懐かしく優しい旋律。変ホ長調(E♭Maj)に載せられた夜想曲(ノクターン)が、感傷的な緊張(ドミナント)と、甘美な着地(トニック)を繰り返す。その甘いメロディにショパン(・・・・)の心も、度数の強いアルコールに酔わされるようだった。

 

 ショパンはその音を殺さぬようにドアノブを回し、12/8の世界へと足を踏み入れる。

 

 そこにエアグルーヴはいた。ベッドに掛けて目を閉じ、小型のトランジスターから流れ出るその音に身を委ねていた。彼女の手には、一枚のCDケース。ファインモーションは不在らしい。

 

「ああ、ショパン。戻っていたのか」

 

 数刻遅れて、エアグルーヴはショパンの存在に気付く。ショパンは荷物を置くと、エアグルーヴの隣へと掛けて、素敵な曲だといった。

 

「そうだろう。昔、お母様に連れられて行ったクラシックコンサート。そこで初めてこの曲と出会った。当時は幼かった。お母様に駄々を捏ねて、このCDを買って頂いたのだ」

 

 エアグルーヴはそのCDケースへ、当時を重ねながら語った。

 ショパンは横からそのケースを覗き込む。ジャケットには、枯葉に敷かれた遊歩道が描かれた絵。『幻想即興曲 オムニバス ショパン』というタイトルを添えて。

 

 ショパンは直ぐに気が付いた。このCD、確か生徒会長メルセデスから返された母の私物であったことを。そういえば、自分が貰ったCDはどうしたのだろうとふと思った。

 

「……やはりショパンは良い。いつも私の心に安らぎを齎してくれる。そういえば、お前の名もショパンだったな。きっとお前のご両親も、この曲の良さというものを理解されておられたのだろう」

 

 エアグルーヴの声色は優しかった。だが、それは不安定な心を覆い隠す為の誤魔化しのようにも感じ取れた。

 エアグルーヴがCDケースを開け、カードを取り出したときに、ひらりと一枚の写真が宙を舞った。それは、エアグルーヴと秋名のツーショット。共に道を歩み、初めて勝利という日を飾ったあの頃の記憶。ショパンはそれを空中で手にした。

 

「ああ、そこにあったのか。どこへ仕舞ったのかと思えば」

 

 ショパンは写真をエアグルーヴへ返した。それを受け取ったエアグルーヴは、直ぐに写真を仕舞わずに、深い溜息を一つ。

 

「……大切な物は、大切な物の中へ仕舞っておく。幼い癖が抜けきらないようだな」

 

 哀愁の音楽を背に、彼女は黄昏続けた。

 そしてカチリと音楽は止まり、ディスクは排出される。エアグルーヴはそれを取り出し、無言で仕舞った。

 

「ねぇ、トレーナーさん。お見合いするの?」

 

 そう訊いたのはショパンだった。いつまでもはぐらかすような態度をとるエアグルーヴに、少し痺れをきらしたのだ。

 瞬間、エアグルーヴの手がぴたりと止まる。少し不機嫌さを纏って、そうらしいなと一言だけ返した。

 

「いいの?……そのままで」

 

「だったらどうした。所詮、私たちには関係のない話だ」

 

「関係ないって、そんな!」

 

 ショパンにとってみれば関係大ありの大問題なのだというのに!

 

先輩(おかあさん)だってあんなに怒ってたのに」

 

「それは……奴がそんな大事な縁談をおざなりにする真似をしていたからだ。相手はURA役員の令嬢というではないか。奴も相応の歳の筈だ。これからもトレーナー業を、果ては出世街道を邁進していくというのなら、賢明な判断とは何か、お前にもわかろう」

 

先輩(おかあさん)は、トレーナーさんがあの人と結婚するのが良いと思ってるの? 正しいと思ってるの?」

 

「彼の幸いとは何だ。自分で料理も片付けもままならず、職場に出向けば、私のような醜怪の相手だぞ。身をもって、彼に寄り添う人がいることは絶対に必要だ。何よりも私がそう思う……」

 

 彼女は意地でも自分を納得させようとしている。自分の気持ちを踏み躙って。

 でもそれでは、そのままでは、ショパンという存在が危ぶまれる。だけど、そのことを面と向かって言えるはずもない。だからショパンは禁じ手を使った――。

 

「嘘ばっかり! 本当はそんなんじゃダメだって分かってるでしょ! トレーナーさんが、知らない女の人と結婚しちゃうだなんて!」

 

「何故お前にそんなことが言える」

 

「だって――おかあさんはトレーナーさんのことが好きなんでしょ!?」

 

 ずとんと放たれたショパンの言弾(・・)。それは綺麗な弾道を描いて、女帝の心臓を貫いた。

 瞬間、エアグルーヴの顔が瞬く間に染め上げあれる。これ以上ない、紅一色へと。

 

「なっッ!? 何を!? 貴様っ! 戯言を!」

 

「それはお母さんのほうだよ! 自分の気持ちに嘘ついて! 本当は……本当はトレーナーさんのことが好きなくせに!」

 

「子供がッ! 知った口を!」

 

「お母さんだってまだ子供じゃない!」

 

「この口か!」

 

「ど、どうしちゃったの二人とも!?」

 

 自室に戻ったファインモーションが見たもの、それはいつも仲良し? な二人がヒンヒンと諍い合う姿。結局はショパンが負けて女帝に頬をお仕置きされる始末。

 

「もぉ! グルーヴさんってば、またショパンちゃん虐めて! そんなにするくらいなら今日は私がショパンちゃん預かっちゃうんだからね!」

 

「……好きにしろ」

 

 そういってエアグルーヴはショパンを解放した。

 

 

――

 

「さ、今日は私と一緒に寝ようね!」

 

 そういってファインモーションはショパンを寝床へと誘った。

 ショパンは恐る恐るとファインモーションのベッドへ。ファインモーションは、ショパンが入って来るやいなや、彼女を優しく抱擁した。小声でいつも一緒に眠っている二人が羨ましかったと言い、キミは実家のぬいぐるみを思い出すとショパンの頭を撫でた。

 

 ショパンは暗がりの中、母のことを心配した。エアグルーヴは壁向いに体を向け、母娘喧嘩以降一度も口を開かなかった。

 

「でも、どうして喧嘩なんてしちゃったの?」

 

「うん……ちょっと」

 

 そうとまでしか言えなかった。言えるものか。エアグルーヴとトレーナーが互いのことに気づいてくれないから怒っただなんて。

 

「そっか。よくわからないけど、困った時はおまじないをするといいよ。きっと精霊たちが二人を救ってくれる」

 

そういって、再びショパンを優しく撫でた。

 

 

――

 

 今宵は月光がやけに眩しい。

 きっと寝付けないのはそれのせいだと、エアグルーヴはやってこない微睡に愛想を尽かし、ベッドを降りる。隣を見れば、そこにはショパンとファインモーションが身を寄せ合って就寝している。

 

 エアグルーヴは音を立てないようにして自室を後にし、寮の談話室へと向かう。談話室には当然誰も居るはずがない。彼女はそこの椅子に掛けて、テーブルに肘を付き、拭えない悶々とした気持ちに整理をつけようとしていた。

 

 『本当はトレーナーさんのことが好きなくせに!』

 

「……」

 

 ことん、と目の前に差し出されたのは、優しい湯気の立ち込めるホットミルク。

 

「感心しないねェ。あの副会長がこんな時間まで夜更かしたぁな。飲みなよ、眠れねぇ時にはコイツがイチバンさ」

 

「あ……ああ。すまん。ありがとう」

 

 そういって、エアグルーヴは寮長(ヒシアマゾン)から差し出されたミルクをひとすすり。

 

「ホントはこんな時間まで起きてる不良にゃ、寮長としてキビシイお説教をしなきゃなんないんだけどねェ」

 

「すぐに戻るさ」

 

「ジョーダンだよ。ホントはちょいと、アンタらのことが気がかりでサ。アンタ、トレーナーと喧嘩してんだって?」

 

「……アイツ(ショパン)め」

 

「まぁ、ンなこたいいんだけどさ、その、ショパンをあんまり不憫にしてやらないでくれよ。二人がギスギスしてちゃあ、あの娘が可哀想だからさ」

 

「ああ……」

 

「ショパンってさ、結構しっかり者のいい娘だろ? ありゃきっと、相当良い親御さんの下で育ってるんだよ。皿洗いの手伝いも、掃除の手伝いだってしてくれるんだ。ウンウン、これなら寮長の跡継ぎも心配いらねぇってもんよ」

 

「そんなしっかり者のいい娘が、身元不明でここへ転がり込んでいるのか?」

 

「ははは、そう言われちゃ弱いけどな」

 

 ヒシアマゾンは笑いながら、自分のミルクを啜った。

 

「そいで、何でトレーナーと喧嘩しちまったんだい」

 

「関係のないことだ」

 

 それはショパンにも言った言葉。それがショパンとの軋轢の原因。

 

「関係ないことはないんじゃないかい? ショパンはそれで参っちまってるんだろ? 確かに二人だけの問題ならアタシも下手に首突っ込まないけどさ、ショパンがそれで困っちまってるってんなら、アタシはほっとかないよ」

 

「誰かに気軽に話せることではないのだ。察してくれ」

 

「……そうかい。じゃあ、話せるようなったら話してくれよな。だけど、ショパンには」

 

「わかってる。私も子供じゃあない」

 

「そりゃあどうだろうねぇ」

 

 ヒシアマゾンの言葉に、エアグルーヴは眉を僅かに動かした。

 

「アタシもアンタも、まだまだ子供だ。歳さえ喰えば大人になれるもんじゃあねぇ。自分にとって譲れない、大切なものが出来たその時、人――ウマ娘は初めて大人になるんだ。アンタにそれはあるのかい」

 

「……誰の受け売りだ」

 

「アタシのオフクロ。普段は口うるさい肝っ玉母ちゃんだけどさ、ちゃんと大事なことを知ってる。正直アタシは言われてもピンとこなかったけど、アンタならわかるんじゃないのかい」

 

 そういうとヒシアマゾンは席を立ち、早く寝ろよとエアグルーヴに背を向けた。

 彼女の背が、暗闇に消えてゆく。その前に。

 

「なぁ、待て――」

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

『秋名君、君の話は兼々伺っているよ。腕の立つ名トレーナーとしてね。どうだ、悪い話ではないだろう。娘も君には興味を示している。なあに、気負いせんでもいい。ちょっと一緒にお茶を飲もうと言っているだけだ。どうだ?』

 

「ええ……眞城(ましろ)さん。その、お話は有難いのですが」

 

『秋名君。私はいい返事というものを期待している。君はトレーナー業が好きだろう? 私の娘が嫁に入れば、きっと長く続けられる(・・・・・・・・・・)だろう。その後だって心配はいらん。私は婿をぞんざいに扱うような男ではない』

 

「は、はぁ……」

 

『もっとも、最近は自分の担当したウマ娘と契りを交わす等という愚昧が多いと聞く。まったく、脚が速いだけが取り柄の連中に毒されるなど、誇りというものがない。……君はどうだい。そんな連中とは違い、賢い選択が出来る男だと思っている。ご両親も安心させてやらねばなるまい』

 

「……熟考致します」

 

 そういって、秋名は通話を切った。やはりその表情はどうも重苦しい。

 

「すんだか」

 

 気が付けば、目の前にエアグルーヴが居た。昨日の毒気が少し抜けたような、淡い空気で。

 

「ああ、エアグルーヴ。すまない、今日のトレーニングだよね。そういえばショパンは」

 

「なぁ、トレーナー。その、例の縁談は……どうだ」

 

「え……? ああ。そうだね。あまり気乗りはしないけど、あのURAの理事が相手とあってはね。トレーナー業を続けたいのなら。そう圧力だよ。でも確かに、両親のこともある。ここいらが潮時なのかもしれない」

 

「そう……か」

 

「君はどう思う?」

 

 そう、秋名はエアグルーヴへと視線を投げた。

 エアグルーヴからしてみれば、全ては遅すぎた。

 

「いいや。真っ当な判断だと思う。……貴様には、貴様を支えてくれる伴侶が必要だろう」

 

 

 

 

 

 

 

「何も……間違ってなんか……ない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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Cupid

 

 エアグルーヴは戸を閉じた。翠萌ゆる夏に似つかわしく無いほどに、引き戸は冷たかった。

 よかったのだ。これでよかったのだ。

 

「ああそうだ。私は、ただ一人でばかげた夢を見ていたのだ」

 

 彼も彼女も、伴侶でなければ、未だ恋仲の関係ですらない。ただの担当とトレーナー。たったそれだけの関係だ。己の指導者に目出度い話があるというのなら、これを推さずして何が担当ウマ娘だ。

 

 これでよかったのだ。……これで。

 そう何度も心で呟く。時にそれは声となっていることすらも、彼女は気づかない。

 

「……すまない、ヒシアマゾン。やはり私は、まだ子供だったのかもしれない」

 

 そう言いながら、一歩一歩、彼の部屋から遠ざかってゆく。それが心の距離だと歌えば、安い歌詞だ。

 

 そこに、一人の黒鹿毛の姿。不穏を感じ取るその表情は、どこか切ない。

 

「ああ、ショパン。昨晩は悪かったな。私としたことが、大人げなかった。謝ろう。また、菓子でも買ってやろうか?」

 

 女帝のその表情は笑っていた。まるで憑き物が落ちたような、晴れ晴れとしたもの。

 だがショパンは、首をふるふると横に振った。

 

「ねぇ、トレーナーさん。お見合い本当にしちゃうの?」

 

 彼女は焦燥に支配されているようだった。大好きなお菓子の言葉も意に介さない。

 

「ショパン。これは大人の話なんだ。トレーナーの幸せを願ってやることもまた、淑女ウマ娘たる振る舞いだ」

 

先輩(おかあさん)は……トレーナーさんのこと好きじゃないの? そんな、誰かに……」

 

「好き、か。全幅の信頼は置いているさ。だが、彼にとって私はまだ幼い。……多少の気の迷いがあったことは確かに認めよう。連れ添った時期が成熟した故の倒錯だ。だが、これでいいんだ。これで……」

 

「あきらめちゃうだなんて、そんなの……そんなのって!」

 

「ショパン!」

 

 廊下に、少し張った女帝の声が轟いた。反射的にショパンは身を強張らせた。そして静かに目を開く。そこにあった女帝の顔……敗北を噛み締めていた。

 

「いいんだ……これでいいんだ。トレーナーが幸せになるのなら、それでいいじゃないか。私は何も持たないんだ。持たざる者だったというだけだ。それが、それだけが全てだ」

 

 僅かに唇が震えていた。何かを押し殺していることは傍目から見ても分かった。

 そしてエアグルーヴは、その場にショパンを残して再び立ち去った。

 

――

 

 ショパンはトレーナー室の扉を開けた。

 そこに、写真を眺めては溜息をひとつ漏らす秋名の姿があった。

 

「トレーナーさん……」

 

「ああ、ショパン。どうしたの。お菓子ならそこに」

 

「お見合いしちゃうの?」

 

 単刀直入だった。幼子(おさなご)の恐れ知らずほど怖いものはないものだ。

 

「あ、ああ。そうだね。参っちゃうよね。こういうのって」

 

 ウマ娘と言えど、やはり年頃の女の子。縁談などと言う話には関心があるのだろうと、秋名はショパンのセリフに付き合った。

 その人と結婚するのかというショパンの問いに、秋名はまだ決まった訳ではないと、客観を装う日本人らしき言葉を並べた。きっとこの後に続く会話は、相手はどんな女の人なのかだとか、結婚式はやるのかだとか。少女らしい話題に違いないだろう。そんな秋名の予測を、ショパンは一言で裏切った。

 

「ねぇ、そのお見合い……断ったりできないの?」

 

 秋名は虚を突かれたような言葉に、僅かに尻を浮かせた。年頃の少女が、なんと破談を提案してきたのだから。彼は、えっと感嘆詞を口から飛ばした。

 

「な、何を言い出すんだい。君は」

 

「だって、トレーナーさんには先輩(おかあさん)がいるじゃない! なのに、そんな女の人だなんて!」

 

「え……エアグルーヴ!?」

 

 ショパンの言葉に惑わされ続ける。彼女の主張は、エアグルーヴという女性がすぐ近くにいるというのに、縁談とは何事かということらしい。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。エアグルーヴはただの担当ウマ娘だ。そんな、急に何を!」

 

「じゃあトレーナーさんは、お母さんのこと好きじゃないの?」

 

「好きって……そりゃあ、彼女はとても美しいウマ娘だとは思う。信頼もしている。だけど、それとこれとは違うんだよ」

 

「だって、だって結婚って好きな人同士でするんでしょ!? そんな、よく知らない女の人となんかじゃなくて、ずっと、ずっと綺麗で優しいエアグルーヴってお嫁さんがすぐ近くにいるってのに!」

 

「お、お嫁さん!?」

 

 ショパンの度を越えた発言が、益々秋名を混濁の底へと誘う。

 

「お願いトレーナーさん。気づいてよ……」

 

 そう訴えかけるショパンの瞳は潤んでいた。彼女の言うことに従わなければ、何か災いが起こるといわんばかりのものだった。

 

「ショパン……あまり大人を揶揄うものじゃないよ。君はまだ子供だからわからないんだ」

 

 秋名の回答は、ショパンへの諭しだった。秋名はそれ以上、ショパンを相手にしなかった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 さらさらと、じょうろから滴る水の音は優しかった。それだけが、今のショパンへの同情であり、慰めの音色だった。

 綺麗なお花の色が、今日はどうしてもくすんで見えた。自分が大切に育てた菫でさえも。

 

 今日はどのくらいお水をあげたのだろう。肥料はあげたのだっけ。全てが身入らず。きっと女帝の前でこんな体たらくを晒せば、気が緩んでいると叱咤がすっ飛んで来るに違いない。

 

 でも、本当にそれどころではないのだ。この世界で、この時代に、父と母が結ばれない結末が現実となれば――知っている。映画で見たことがあるのだもの。過去が時空が狂った主人公は、未来で消えてしまうのだ。

 

 消える。この身体が、消えてなくなる。

 

 ショパンという存在は、最初から『なかったもの』となる。

 

 皆の記憶から、消えてなくなる。

 

 愛する母の記憶からも、欠片も残らず消えていく。

 

「消えちゃうの……私……?」

 

 水が滴る。じょうろとショパンの瞳から。

 

 思わずその場で肩を抱き、蹲りそうになった。

 

「そんな……そんなぁ……」

 

 どうすればいい、どうすればいい。父の縁談を破談へと導くには。父と母、互いが懇ろになってくれるには。自分が産まれてくる未来を守る為には。

 

 縁談の場に乗り込んで、花婿を奪う? 父と母を二人だけの密室へと押し込んで強引にでも『いい雰囲気』を作る? 思い切って、母から父へ愛の恋文を唄わせる……? どれもこれも現実的ではない。

 

 じゃあ、このまま自分が消えていく現実を受け入れろというのか。冗談ではない。

 

 ではどうすればいい、どうすればいい。八方塞がりとはこのことだろうか。

 

 大人なら、力があれば、自分が魔法使いなら。どうにだってできるというのに。できることはここに蹲ってベソを掻いてるだけ。何も……何も成長なんてしていないじゃないか。結局自分は何もできない――。

 

 その時ふと、ショパンは思い出した。昨夜のベッドで、ファインモーションとした会話を。

 

『困った時はおまじないをするといいよ。きっと精霊たちが二人を救ってくれる』

 

「おまじない……?」

 

 そんなもの、効果なんてあるのだろうか。でも、現にショパンは三女神へのお祈りあってここにいることは事実。……なら、或いは。

 

 ショパンはその場で手を組んで、花壇の花々に向かって目を閉じた。

 

 

 

 精霊さん、精霊さん。どうか、父と母を結んでください。二人が夫婦となれる未来を、作ってください――。

 

 

 こんなもので合っているのだろうか。でも、何もしないよりはましだ、きっと。心で呟いて目を開けた時だった。

 

 ぶうん、ぶうんと彼女の周りを何かが飛ぶ。それはとても小さく、目にもとまらぬ速さで、縦横無尽に。

 

「え……精霊さん? 本当に?」

 

 ――なんてことあるものか。それが耳元に来た時に、聞こえてくる。あの不快な羽音が。

 

 精霊なんかじゃない。ただの羽虫だ。ソイツはぶんぶんとショパンの周りを徒に飛び回る。

 

「うわっ! 蠅? ひぃん! やだぁ! あっちいってよぉ!」

 

 女帝の血を引くだけのことはあるショパン。彼女も虫は苦手らしい。ショパンはブンブンと尻尾を振り回し、耳の近くにそれがくると、ピンピンと耳を動かして追い払おうとした。だけど、それはショパンのもとを離れてくれる様子がない。

 

 そして最後、そいつはショパンの鼻に止まる。そこでショパンはようやく悪戯好きの精霊の姿を目にした。

 それは、赤と黒のてんてん模様。あの虫嫌いなエアグルーヴでも、唯一心を許せる相手。

 

「て……てんとうむし……ひ……ひっくしゅ‼」

 

 むずむずに耐えられなかったショパンは、そこで大きなくしゃみを一つ。その衝撃で、ころんと何かが彼女の足元へ。

 鼻をすすりながら、足元のそれを拾い上げた時、彼女は思わず声を出した。それは、ショパンが大切に持っていたペンダント。優しい母の面影が残ったそれ。

 

「そんな……」

 

 先ほどのくしゃみのせいで、またチェーンが壊れてしまった。元々そこまで丈夫な代物でないにしろ、やはり悲しみはそこに残るもの。

 自身は存在の危機に冒され、大切なペンダントは壊れ、踏んだり蹴ったりもいいところだ。

 

 ショパンはペンダントの蓋を開けた。幸いなことに、中の写真は無事だった。

 その写真――エアグルーヴの未来の姿。()よりも成熟した大人の姿。向日葵畑の前で、温かく優しい表情をこちらに向けている。

 

 本物の母を目の前にして以降、それを見る機会は減ったものの、ショパンにとっては、今でもこれが大切なお守りに変わりはない。

 

「お母さん……」

 

 漏れる溜息と共に、ペンダントの蓋を閉じようとした時だった。ふと、その写真の背景が気になった。

 そこに描かれるもの、優美に映える向日葵畑。場所は、ここから西にある丘。

 

 知っている。ショパンも何度か父に連れられてそこへ行ったことがあるのだから。父は確かに言っていた。この場所が、父と母の思い入れのある場所なのだと。母がペンダントを作る際に、わざわざその場所を選んだのだと――。

 

 

 

 

 ――瞬間、ショパンの脳髄に電流が走る。まるで外部からインプットされるかのように、頭の中にとあるプランが描かれる。これなら、これなら。

 

 

 

 

 父と母を密室に閉じ込めて、『いい雰囲気』を作ることができるかもしれない。

 

 

 

 

 成功するかはわからない。だが、居ても立ってもいられない。

 ショパンはその場から駆け出す。じょうろを仕舞うことも忘れて。母に見つかればきっと大目玉だ。だが、そんなことが気にならないほどに、彼女の感情は高揚で満たされる。

 

 駆ける。駆ける。校内を駆け巡る。父はどこだ。母はどこだ。

 

 高学年生たちから声をかけられても、構っていられない。駆ける、駆け巡る。

 

 

 

 

 

 ああ。ようやく理解できた。

 

 

 

 

 ショパンがこの過去へやってきた本当の理由。

 

 

 

 

 そうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――父と母を結ぶ、キューピッドとなるために自分はこの過去へやってきたのだ。

 

 

 

 

 

 

 もう、父に母に女神に頼ってはいられない!

 

 

 

 

 駆ける、駆ける、駆け巡る。自分の脚で、未来を作っていく。

 

 

 

 それが、ショパン(わたし)の使命なのだと――。

 

 

 

 

 

 








まずいな……。



益々天気が悪くなっていく。



過去(わたし)よ、早く気づいてあげてくれ。























放っておけば、あの娘は自ら破滅の道を選ぶことになる……急いでくれ。











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Fairy Dance

「司ぁ。いるかァ?」

 

 沈黙が彩る秋名のトレーナー室の引き戸を足で開けたのは、彼の同期の織戸だった。彼は両手に大きく膨れた袋を引っ提げて、それを机の上に置いた。

 

「この間のさ、出てもらったろあの地方(イナカ)のレース。お袋がさ、お前とショパンに礼だってさ。お袋のヤツ、すっかりあのショパンに虜にされちまってるみたいでさ、カワイイカワイイってウルセェんだよ。良ければ今度連れてきてくれなんて抜かすもんだからさ……」

 

 一方的に話を進める彼が次に目にしたのは、この部屋に差し込む光を恨むように睨み続ける、物憂げな同期の姿だった。どうも織戸の話を聞いているようには思えない。

 

「おい、聞いてんのかよ? ほら桃だぞモモ。いいカタチしてんだろ。お前のケツよりいい形してるってこの間担当(ファイバトリガー)のやつに言ったら本気で蹴っ飛ばされてよ」

 

 袋から取り出した桃を彼の前で振っても、秋名はまともな返答を返さない。織戸はそのまま机に掛けた。

 

「こりゃ重症だな。どうした、担当にタマ(・・)でも蹴られたか? それかバクチで10万くらいスったか?」

 

「……君と一緒にしないでくれよ」

 

「だあったら話くらいしろよ。察しろだなんて男が使える文言じゃねぇぞ」

 

「察してほしいだなんて言わないよ。桃はありがとう。後で頂くよ」

 

「ったあく、スカしてんじゃねぇよ。トレーナー養成所時代からのヨシミだろ。首席のエリート秋名クンよぉ」

 

「……確かに、出席日数スレスレのお情けで卒業させてもらった織戸クンとは長い付き合いだね」

 

 ようやく秋名の表情が少し砕けた。その好機を織戸は見逃さず、笑いを含んで会話を続けた。

 

「あれからどのくらい経ったんだろうな。俺たち同期組、7人纏めてココに採用されたハズなのに、気が付けばもう俺とお前の2人だけだよ」

 

「え? 三上君は?」

 

ココ(・・)ダメにして去年辞めてったよ。抱えてた担当、結局一回も勝たせてやれなかったんだとさ」

 

 織戸は拳で心臓を二回叩いてそういった。

 

「……そっか」

 

 秋名は、重い溜息と共にそういった。また一人、友人が去っていったことにすら気付いていなかった自分が、少し非情なようにも感じた。

 

「まぁこの業界、生き残れるヤツしか生き残れねぇ。結果出して、お上の命令には従って。"いい子"でいるのがイチバンだ」

 

「君はいい子?」

 

「ほら、問題児ほどカワイイっていうだろ?」

 

 織戸が机から腰を上げ、秋名のトレーナー室を後にしようとした時だった。秋名のデスクに一枚の写真を見つける。それは着物に身を包み、入念に粧された一人の色白の女性。

 

「んぁ!?  なんだお前これ!」

 

「あ! ちょっとそれは!」

 

 手を伸ばす秋名の手を、織戸は遮った。

 

「はっはーん。コレだなお前の憂鬱の原因は。どうしたシッパイ(・・・・)でもしたのか?」

 

「違うよ! 縁談さ。持ち掛けられてるんだ」

 

「縁談ン?……おいこれもしかしてアレか? あの眞城理事の娘か?」

 

「知ってるの?」

 

「URAに居る知り合いが言ってたんだ。何でも現役のトレーナーを相手に、婿養子を探してるんだとかさ。向こうじゃちょっとした有名な話らしいが。そうかその的はお前だったのか」

 

 秋名は写真を取り返すことを諦め、再び椅子に深く掛けた。

 

「どうして現役のトレーナーなんかを」

 

 愚痴のようにそう言った。

 

「幅ァ利かせてぇんだろうな。現役トレセン学園の優秀なトレーナー。そいつを丸め込んで、ある程度裁量のある席にさえ着かせりゃあ、トレセン(ここ)もあのオヤジの所有物同然ってハナシさ。要はお前、あのオヤジの犬にされちまうってことさ。政略結婚に使われる娘も不憫っちゃ不憫だな」

 

「君はどう思う」

 

「俺は死んでも御免だね。あんなハゲの犬になるくらいなら、担当とデキ婚でもしたほうがまだマシだ」

 

 君が言うと洒落にならないと秋名が言い、織戸は不敵に笑った。

 

「ケド、お前は別だろ。司」

 

 彼の意外な言動に、僅かに瞼が痙攣した。

 

「どういう」

 

「お前くらいのデキる男なら、受け入れちまうのもアリなんじゃねぇのって言ってんだよ。俺はあのデブが嫌いだから喰わねぇ話だけどよ、お前ならきっと上手くやれんだろ。トレーナー業なんざいつ首がスっ飛んでも可笑しくねぇ。だが受け入れちまえば、汚点はあのクソ糖尿野郎とお近づきになることくらいで、残りの人生薔薇色だぞ。女もソコソコ悪くねぇ」

 

 織戸は写真を眺めながら、あんなのからでもこんな女が生まれるのかと呟いた。

 

「どうせお前、今女もいねぇんだろ? いいんじゃねぇかこの辺が潮時ってことでさ。上手くやりゃ死ぬまで安泰、行く行くはトップ陣の席からの天下りだぞ。将来が約束されるってなモンだ。お前なら相応しいよ。女が気に入らねぇなら隠れて遊べばいい。それとも何だ、拘りの女でもいンのか?」

 

「僕は……」

 

 

『ねぇ、トレーナーさんは、おかあさんのこと……好き?』

 

 

 ふと脳裏で、あの娘の声が過った。

 

 

「……女の人のことなんて、僕にはわからない」

 

「ソーソー、それでいい。汚ねぇ金が入ったら寿司でも奢ってくれよな」

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 織戸と入れ替わりで訪れたのは、沈黙だった。

 秋名 司。二十余年の歳月を経て立ち向かう大きな決断。優柔不断が少し目立つ彼にとって、それは余りに大きすぎる問題。

 

「結婚だなんて考えもしなかったからな……」

 

 自分が憂いていることは何なのだろう。織戸の言うように、この上なき光栄な話であることは確かなのに。

 この歳で人生の墓場に身を投ずることを忌避しているのか。或いは、自身が穢れに染まることを恐れているのか。また或いは――自分が本当に求めている女性が別に居るのだろうか……だなんて。

 

「トレーナーさんっ!」

 

 そこに、麗らかな一つの風。黒鹿毛の少女の姿。

 彼女は、トレーナー室で秋名を見つけるや、お菓子には目もくれず、彼の手を引っ張った。

 

「ねぇ、トレーナーさん! お出かけしようよ!」

 

 ショパンは目をきらきらと。自慢のお耳と尻尾をぶんぶんと振って。少しの自信と、興奮を身に纏う。

 

「お出掛け? また君は藪から棒だな」

 

「ね! ね! いいでしょ?」

 

「行くって何処に」

 

「あのね! すっごくいっぱいお花が咲いてる綺麗な丘があるの! 先輩(おかあさん)がどうしても行きたいって!」

 

「エアグルーヴが?」

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

先輩(おかあさん)は、トレーナーさんがあの人と結婚するのが良いと思ってるの? 正しいと思ってるの?』

 

 

 

『だって――おかあさんはトレーナーさんのことが好きなんでしょ!?』

 

 

 

「……」

 

 

 黒鹿毛の娘の言葉が、何度も頭でリフレインする。

 忘れようと思っても、気が付けばまたその声が、イヤーワームのように鳴り続ける。

 

「多少の気の迷い……か」

 

 掠れるような声は、湯気のように儚く空中へと消えてゆく。

 その言葉に、何を願う訳でもない。ただ、ただ。

 

「エアグルーヴ。君の意見を聞きたい」

 

 とん。と背中を刺されたような感覚だった。彼女ともあろう者が、今が会議の最中(さなか)であるということを失念していたらしい。揺れる精神状態の中、なんとかその場を理解しようと試みる。

 だが、もう何もかも遅い。また、後手に回ったというだけだ。

 

「……すみません。会話の趣旨を、もう一度戴けませんか」

 

 ぴくりとルドルフの眉が動いた。

 

「ほう、君が上の空とはね。何か憂い事でもあるのかい。まぁ、差し詰めショパン絡みと言ったところだろう?」

 

「え、ええ。お察しの通り」

 

 挙句、自分の言葉に嘘を塗る。これが女帝のすることかと、己を嘲笑う。

 

「あまり気負いすぎるな。ショパンを見ているのは君だけではない。和衷協同の心を忘れてくれるな。私たちは仲間だ。……きっと、あの娘も」

 

「ええ。心得ます。それで、問いかけの内容を今一度」

 

「ああ、今月の我々の活動についてだが、生徒たちに親しみのある挨拶運動の実施というのを考えていてね。このミニハロン棒をもってハロー(ン)というのはどうだろかと」

 

「却下願います」

 

 

 

 

――

 

 

 

 悶々とした気持ちとはそう簡単には拭えない。会議を終え、生徒会室を後にしたエアグルーヴに宿るは、再び吐息の病。

 

 思い返せば、自分は何を願っていたのだろうかと自らを問う。

 担当トレーナーとウマ娘が結ばれることなど、稀な出来事だというのに。それこそそう、彼女の母親のような、特別な存在にのみ許された憧憬。小説やドラマで、その関係に契りを結ぶことが結末となる作品が多いことも、それを裏付ける一つなのだ。

 

 確かにエアグルーヴが秋名へ寄せていた感情は、好意にも似た親しみだった。しかし、何時しかそれは、心に贅肉を付け、傲慢の実を結び、不浄な欲望を育んだ。それ故に、母体は幻覚を見た。この関係が、ずっとこのまま、終りなく続くものだと、恣意的な解釈をした。

 

『君には関係の無い話だ』彼の言葉が、彼女の幻覚を解いた。

 

 心の魔法が解けた時に、彼女に残ったものは寂寥だった。気付くことに、余りに時間が掛かりすぎた。

 

 現実とは猛毒だ。誰しもがその毒に侵され、耐えながら生きている。

 皆、草葉の陰から理想を羨み、力尽きてゆく。

 

 その毒からは誰も逃れられない――例え、女帝であっても。

 

 

「おかあさん!」

 

 

 その声に、再び背中を刺された感覚が彼女を襲う。

 踵を返した先に居たのは、既に見慣れた黒鹿毛の少女。そのきらきらとした笑顔を見た瞬間に、エアグルーヴの顔は少し曇る。

 

「おい! ショパン。お前、花壇の如雨露(じょうろ)を放置していただろう! まったく、整頓をせねば次に困るのは自分だとあれほど……」

 

「ごめんなさい! でも、今それどこじゃないの! トレーナーさんがお出掛け連れてってくれるの! ね! 行こうよ! いいでしょ!」

 

「お出掛け……?」

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「あ……」

 

「や、やぁ……」

 

 それは、既に数年連れ添った間柄が交わすには、余りに他人行儀な挨拶。

 秋名は車用のウェットペーパーでフロントガラスを拭く手を止め、ショパンに手を引かれやってきたエアグルーヴの姿に固まった。

 

「そ、それじゃあ、行こうか。日も暮れちゃう」

 

「あ……ああ」

 

「じゃあ、先輩(おかあさん)は助手席ね! 私後ろに乗るから!」

 

 そういってショパンは、秋名の愛車(レヴォーグ)の後部座席へ。エアグルーヴは渋々とナビシートのドアを開けた。

 

 秋名も黙って運転席へと乗り込むと、プッシュスタートへ手を伸ばし、エンジンフードの中に眠った獰猛な獣(ボクサーエンジン)を起こし、アクセルを踏み込んだ。

 

 エンジンの振動が僅かに車内へと伝播する。二人の間には沈黙と、オーディオから流れる流行りのポップス。

 

「縁談は順調か?」

 

 沈黙を先に破ったのはエアグルーヴだった。秋名はただ一言、まぁね。とだけ。

 

「蔑ろにするんじゃないぞ。人生を揺るがす、大事な決断なのだからな……。貴様は私の杖だ。賢い選択ができる……男だ」

 

「……賢い男。か」

 

 秋名は、黙ってカーナビの指示に従う。

 

 そうすれば、見えてくる。黄色い夏の群れが。

 

 

――

 

 平日の昼下がり。閑散とした静かな駐車場に車を停める。

 ショパンは二人の手を引き、こっちこっちとステップを踏む。

 

 しばらくすると、三人の前に、秋名の背丈程にもなる大きな向日葵の群れ。それは、あのエアグルーヴをも唸らせるもの。

 

「西の丘にこんな場所があったのか。知らなかった。貴様もよく知っているじゃないか。感心だ」

 

 エアグルーヴが呟く。秋名が反応する。

 

「え? 君がここに来たいって言ったんだろう?」

 

 エアグルーヴも、秋名の言葉に反応し、二人は見つめ合う。

 

「……貴様がこの場所へ私を招きたいと言ったんだろう?」

 

「いいや、僕はショパンが……」

 

 二人は一人へ視線を向ける。そこに佇む娘。何かを企んでいる。

 

「ショパン、お前……何のつもりで」

 

 その瞬間だった。

 

 

 

 

 ショパンは秋名から眼鏡を、エアグルーヴから耳飾りを奪って向日葵畑の中へと消えていった。

 

 

 

「ッ!? おい! 待て! ショパン!」

 

「ちょ、ちょっとショパン!」

 

 二人はショパンを追いかけて、禁忌と知りながらも向日葵畑の中へ。

 

「ショパン! ちょっと! 悪戯が過ぎるよ!」

 

「ええい! どこだ! 出てこい! このたわけ!」

 

 しかし、向日葵生い茂る畑の中。見通しも悪ければ、花を踏むわけにはいかないと、本気で走ることすらもままならない。

 

 その中を、ショパンは小柄な体を有利に駆け回る。

 

 秋名とエアグルーヴは、ショパンを追って右往左往。あの娘はどこにいる。こっちこっちと手を叩く音がする。

 

 右か、左か。前か、後ろか。

 

 駆け回れば、駆け回るほど、方角の感覚が鈍っていく。ただ、ショパンに踊らされる。

 

 エアグルーヴが、ショパンの尾を見つける。

 

「そこか!」

 

 そこに向かい、彼女は駆け出す。

 

 

 

 秋名はショパンの耳を見つける。

 

「いた! 待って!」

 

 彼もその方向に向かって――。

 

 

 

「捕まえ――――」

 

 

 

 

 

 

 だが、秋名の目の前に飛び込んできたのは、ショパンでなく、エアグルーヴだった。

 

 

 

 

 

「――!?」

 

 

 

 気付いた時には遅かった。慣性に操られた体を制御する方法など無い。

 

 

 エアグルーヴも、急に現れた秋名の姿に急制動をかけるも、間に合わない。

 

 

 二人は不可抗力の名の下、大きく抱き合い、そのまま秋名を下に、後ろへと倒れこんだ。

 

 

 

 

 更に厄介なことに、一瞬だが、二人の口先が触れ合った。

 

 

 

 

「あ………………」

 

 

 瞬間の出来事に、二人は何も言えなかった。

 

 秋名は大きく天を仰ぎ、エアグルーヴは秋名の胸の上で、呼吸を繰り返していた。

 

 

「す……まん……」

 

 

 エアグルーヴは茫然としながら、ただその一言を漏らした。

 

「ご……ごめん。ケガは」

 

「あ、ああ。だい……丈夫だ」

 

 

 事故だ。そうだ事故だ。

 

 

 事故だ、事故だ。これは事故だ。アクシデントだ。トラブルだ。ハプニングだ。

 

 

 だけど、今、確かに。

 

 

 そのアクシデント、秋名も自覚しているらしい。

 彼の鼓動が、とてつもなく急いでいる。

 

 

 沈黙。幾度目の沈黙。

 だが、今までとは決定的に何かが違う沈黙。

 

 二人の視線が絡み合う。

 

 互いが互い、自分が置かれている状況を見失う。

 

 彼らは沈黙の中、互いを見つめ、視覚情報を共有し、互いの香りを感じ、肌で触れ合い、急ぐ鼓動を耳で捉え、口に残った甘い唾液の余韻を転がして、五感の全てを捧げあう。

 

 刹那に、暴れだす。エアグルーヴの心の奥底に、鎖と南京錠を掛けて閉じ込めておいた本能という獣が。何度も何度も檻を叩き、覚醒を始める。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇(時は少しだけ遡る)

 

 

「なぁ、待て」

 

 エアグルーヴは暗がりに消えてゆくヒシアマゾンを呼び止めた。

 

「なんだ? 話す気になったか?」

 

「……仮の話だ。ロミオとジュリエットは、未来を変えられたと思うか」

 

「……ふうん。随分と洒落た訊き方だねぇ。アタシは悲恋の物語ってなあんまり得意じゃないんだけどねぇ。だけど、変えられたと思うよ。周りのしがらみとか、プライドとかさ、結構邪魔なものは多いけど、でもそれでも、ジュリエットは自分の命を懸けられる程の愛があったんだ。物語なんて結局は作者の都合さ。だけど、それくらいの想いがあるんだったら、きっと二人は未来を変えられた。アタシはそう思っちゃうけどねぇ」

 

「そうか……」

 

 ヒシアマゾンは再び席に着き、エアグルーヴの溜息の色を見た。

 

「それで、アンタはロミオとジュリエット、どっちなんだい?」

 

「私は……」

 

「随分と日和ってるじゃないか。あの女帝サマが。欲しい物は力尽くでも手に入れる。それがアンタじゃないのかい。ジュリエットだって毒を飲んでまで、欲しいモノを奪いに行ったんだ。……アンタならヤれるよ。アタシが保証したっていい」

 

「……慣れてるのか。この手の話」

 

「若い娘の相談なんて大体そういうもんさ。上手くいって、下手をこいて、皆大人になっていくんだ」

 

「そういうお前はどうなんだ?」

 

「ああ…………そりゃほっといてくれの一言だね」

 

 二人は互いの顔を瞳に映し、少しだけ失笑を漏らした――。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 本能が理性を蹂躙し始める。心に牙が生える。

 

 次第に、自分ではない何かに染まるように――。

 

 

「エアグルーヴ……?」

 

 いつまで経っても、彼の上を退かない彼女に、秋名は問いかけた。

 だが、彼女の色は増してゆく一方。

 

「なぁ、トレーナー。訊きたい。あの縁談を、貴様は受け入れるのか?」

 

「え……?」

 

 彼女の瞳は、一見座っているように見えても、その裏に獰猛な瞳が隠れていることが伺えた。

 

「どう……なんだ」

 

「僕は……」

 

「……ろ」

 

「え?」

 

「決めろ……今、ここで」

 

 彼女の胸が大きく上下に揺れる。それほどまでに荒い呼吸を繰り返している。

 その彼女の姿に、秋名の心も揺れた。

 

「……君が望むものは何?」

 

「私に言わせるつもりか」

 

「言わなきゃわからない。だけど、僕は君の杖だ。君が望むのなら、この心臓を差し出す用意だってある」

 

 秋名という男は、気弱で優柔不断な男だ。だが、そんな彼の心にだって――――獣は棲んでいる。

 

「欲しい……私は女帝だ。全てをこの手に納めなければ、気が済まない(タチ)なのだ。だから……だから」

 

 

 エアグルーヴは右手で彼の首を掴んで、吠えた。

 

 

「――貴様をよこせ。貴様は私の杖だ。私の傍らを外れることを許した覚えなどない。何時であれ、この私に仕えろ。貴様の全ては……私のものだ!」

 

 僅かに余韻の風が二人の間を潜った。

 エアグルーヴのヒートした体を冷やすには、その風は不十分だった。

 

「聞かせろ……貴様の答えを」

 

 秋名はエアグルーヴの右手を掴んだ。そして、それを解きながら体を起こし、エアグルーヴと改めて向かい合い、彼女の右手を握った。

 

「……仰せのままに」

 

 その手に、エアグルーヴは自分の左手を重ね、崩壊しそうな表情を耐えながら続けた。

 

「恨んでくれるなよ……それが、私の杖としての」

 

運命(さだめ)だ……からかい?」

 

 秋名は、残った手を彼女の肩に置いた。そして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これも事故だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういって、再び彼女の唇に、己を授けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 「大丈夫……だよね……?」 

 

 しげみの影から、ショパンは二人の様子を伺った。

 

 二人が何やら話している、だが、彼女の耳にまでは届かない。

 

 だが、次の瞬間彼女は目にすることになる。

 

 両親が互いに身を寄せ合い、口で契りを交わす瞬間を――

 

 

 

 

「ヒィン!!」

 

 

 

 

 望んでいたこととは言え、ショパンにとってはあまりに刺激の強いシーンに、彼女はノックダウン。

 少し頭がくらくらする感覚を覚えながらも、それでも二人を見守った。

 

 再びショパンの鼻に、赤と黒のてんてん模様の精霊の姿。

 

「えへへ……精霊さんのおかげだよ……ひっきゅしゅ!」

 

 

 

 

 

――

 

 

 

 とくん、とくん、とくん、とくん。

 

 交わした名残が、度数の強いアルコールとなって二人を侵す。

 

 今はただ、この時間を愉しんでいたいと二人は願う。向日葵畑という、自由な開けた密室の下、互いの腕に抱かれて。

 

 きっと数時間後に二人は、自分たちの犯した醜行を大きく恥じて後悔するだろう。でもそれでもいい。目に見えぬ未来など気にせずに、今だけ自由なら、それでいい。

 

「眞城理事には伝えておく。やはりあの話は、僕には似合わない。それだけだったというだけさ」

 

「ああ……」

 

 とろり、とろりと時間が溶けてゆく。気が付けば月の姿までもが、空にはあった。

 

 ショパンはどこへ行ったんだろう。秋名がそういった。エアグルーヴは、さぁな。とだけ答えた。今だけは、あの娘のことに構ってられないのだから。

 

「まるで、あの娘に導かれてしまったようだ。つくづく、不思議な娘だ」

 

 エアグルーヴは思い出す。母から言われた、あの言葉を。

 

 

『この娘が言ってることが本当なら、この娘、貴女の"運命の人"を知っていることになるわよ』

 

 

 それが真だとするのなら。ショパンという存在は、本当に……。

 

 

 

 

 

――ひっきゅしゅ!

 

 

 

 一つの愛らしいくしゃみと同時に、しげみから出てきたのはショパンだった。

 右手に眼鏡を、左手に耳飾りを。

 

 二人は慌てて寄せ合っていた体を外した。そして、ショパンへ説教の一つをとしようとしたとき。

 

 ショパンはそんなこともお構いなしに、二人の間へと飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 碧く、月は輝いて妖精たちは踊りだす。

 

 

 遠い昔の伝説のよう、物語は始まるのさ。

 

 

 時の翼に乗って、新しい未来生まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 













成功 大成功!!




これで、これで!!




これで、お父さんとお母さんはいつかきっと結ばれるんだ。



お母さんが学園を卒業して



二人は恋人同士になって



デートなんかしたりして



そして、結婚して



そして私が生まれて……




そして





そして






























お母さんは死んじゃうんだ。






























……………………………………………………あれ?


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原罪 ニ短調 作品5
喪った者たち


少女の名はショパンと言った。

不思議な名だった。奇しくも、私の愛する音楽家と同じ名を持つ娘だったのだから。

初めて聞く筈なのに、どうしても懐かしい名だったのだから。



 

 

 

 

「ええ、すみません。埋め合わせはきっと」

 

 

 そういってメルセデスは秋名の隣(ナビシート)で通話を切った。会話の内容から察するに、相手は恐らく彼女のトレーナーなのだろう。

 彼女はスマホを仕舞うと、失礼と一言、秋名へ詫びた。

 

「大丈夫なのかい。次の試合(レース)もそう遠くないんじゃ」

 

「平気ですといえば、少し嘘になります。ですが、大切な生徒のこと以上に、優先されるべきことなどあり得ません……トレーナーは少し怒っていましたが」

 

「……気持ちは凄く有難い。だけど、君も今を生きるウマ娘だ。君の栄光までをも狂わすわけにはいかない。調整の期間を蔑ろにすることは僕も反対だ。目的のないブランクはいい結果を結ばない。学園へ戻ったほうがいいんじゃないのかい」

 

 しかしメルセデスは首を横に振った。

 

「いいえ。私にはこの結末を見届ける責務があります。この行く末を、ショパンを……」

 

「だけど」

 

「私の敗北を憂慮されていると仰るのでしたら、是非今度レース場へお越しください。杞憂に終わることを御覧に入れましょう」

 

 彼女の声色は、その年に似付かわしく無いほどに据わっていた。これでも現役の生徒会長。言い訳の通用しない席に身を置く覚悟は、痛いほどにあるらしい。

 

「……なるほど。妻を思い出す」

 

 メルセデスの覚悟が、秋名の一つの記憶とリンクしたときに、その言葉が無意識に飛んだ。

 言い訳も通用せず、後ろ盾もない。そんな世界で、(秋名)彼女(エアグルーヴ)は共に歩んだ。彼女の覚悟の言葉は今も未だ、彼の身体に深く刻まれている。

 

「御理解、感謝致します。……流石は元トレーナー。私のような愚昧な輩は放っておけませんか」

 

「誰だってそう言うさ。きっと」

 

 左様ですか。とメルセデスは薄く笑った。

 信号が青に変わる。秋名は愛車(ボルボ)のアクセルを踏み込む。

 

「どうして秋名さんは、トレーナーを辞職されたのですか。貴方のトレーナーとしての技量は、勇邁卓犖であったとお聞きしていましたが」

 

 勇邁はどうかなと、秋名は自嘲気味に笑い、つづけた。

 

「トレーナーを辞めたのは、URAへの異動命令が出たからだ。名目は、僕のトレーナーとしての技量を買っての栄転であると」

 

「……失礼ですが、今秋名さんが所属されてる部署は」

 

「キャリアの名からは程遠いところさ。劣悪なところだよ。先月も二人辞めていった」

 

「一体何が」

 

 再び車は赤い記号に止められる。秋名はサンバイザーに差し込んでいた妻の写真を手に取った。

 

「昔、URA理事の席に着いていたお偉いさんから縁談を持ち掛けられたんだ。でも、僕は断った。それから程なくしてのことだった」

 

「まるで報復人事……今もURAの上層は、時代錯誤を象ったような、排他的で保守的で、権力で物を語り、癒着が蔓延る汚濁であると、ルドルフさんも宣っていました。皆の夢であるべき場所、潔白な光の下、献身的であることが、全てのウマ娘たちの幸いの礎となる筈だと」

 

 彼女なら実現してくれるかもしれない。秋名はそう言って再びアクセルを踏んだ。

 

「まぁ、理事に逆らえばどうなるか。僕もわからなかったわけじゃない」

 

「だけど、貴方はエアグルーヴさんを選んだ」

 

 少しだけ、メルセデスの表情が綻んだ。

 権力者からの圧力にも屈せず、愛を貫いたストーリー。恋愛物の書籍やドラマを好む彼女にとっては、この上なく美味しい話なのかもしれない。

 

「現役だった頃から、互いに懇ろだったということですか?」

 

 彼女の声が少しだけ前のめり。

 

「いいや。最初はただの担当だとしか思ってなかったさ。担当とトレーナー。不純な関係はそもそも御法度だからね。だけど、初めて彼女とさっきの向日葵畑に来た時だった。僕たちは『何か』に導かれた」

 

「何か……?」

 

「そう、何か。思えば、僕と彼女の関係には、いつもその何かが付き纏っていた。それが何だったのかは思い出せない。昔はそれが見えていたような気もする」

 

「素敵な話。まるでキューピッド」

 

 メルセデスが温かい溜息を漏らして言った。

 

「揶揄わないでくれよ。僕は本気で言っているんだ」

 

 秋名は少し不満げに、それ以上メルセデスの顔を見なかった。

 カーナビの無機質な音声が、目的地周辺であることを告げる。まさかここに来る機会が出来るとは思わなかった。秋名は小さな声で言い、カーナビではアテにならない正門の場所を探した。

 

 対するメルセデスは、何度か訪れたことがあると言い、戸惑う秋名を『ウマ娘支援センター』の正門へと導いた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 その施設に訪れる、一台の外車。

 グレーメタリックに包まれたその意匠は、ここの職員のものではないと、正門に駐在する警備員が腰を浮かせる。秋名は車のウインドウを下し、URAの社員証を警備員へと提示する。

 

 警備員は少し怪訝な様子を引きずりながらも、バーゲートを解放した。

 

「便利なもんだ」

 

 社員証に載った自分の顔写真を見てそう言った。

 腐っても最高機関。このカード一枚で、URAの息が掛かっている場所ならば、大方何処へでも自由に出入りができるのだから。

 

「それで、牧野さんだっけ。何処にいるか知ってるの?」

 

 来客用の駐車場に車を停め、シートベルトを外しながら秋名が言う。

 

「ええ、ウマ娘健全育成支援課の主任さんなんです。部署へ行けばきっと」

 

 車外に降り立ち、コンクリートの建物を見据える。おおよそ中規模の病院程の大きさのそれ。コンクリートに入った隠し切れないヒビが、その年季を物語る。

 

 メルセデスを先頭に、二人はエントランスを潜り、牧野という女性が待つ場所へと歩みを進める。彼女の背に続きながら秋名は慣れない環境に周囲を見回す。この施設に集う少女たち。皆がウマ娘。だが、二人が今すれ違った娘は、足を引き摺って歩いていた。少し遠くで、誰かの喚く声が聞こえる。職員数名に宥められながら喚くその娘、どうも情緒が定まっていないらしい。

 

「ねぇ! あなた私のトレーナーさんね‼ よかったずっと探してたの! ねぇ! ダービーの日はいつ?」

 

 唐突に現れた見知らぬ幼きウマ娘が、秋名の手を握る。

 秋名は驚嘆を隠せずに、思わず仰け反った。その娘のきらきらとした瞳は眩しかった。だが、どうも焦点が定まっていない。

 

「ほら、ミディちゃん。その人はあなたのトレーナーさんじゃないのよ。困ってるから放してあげなさい」

 

 彼女に遅れてやってきたここの職員。彼女もまた、ウマ娘。

 

「いや! 私ダービーウマ娘になるもの! ねぇトレーナーさん! そうだよね! ねぇ、今日のトレーニングは何するの?」

 

「……ごめんなさい。この娘、ちょっと前に酷い事故に遭っちゃって。目がよく見えてない上に、物事の判別も付きにくくなってるんです。今でも自分のトレーナーが迎えに来てくれると信じてて……」

 

「そのトレーナーは?」

 

 秋名が訊いた。だが、ウマ娘の職員は静かに首を横に振った。その時車を運転していたのが彼だったと言って。

 

「ねぇ、ローズさん。今日は牧野さん、オフィスにいらっしゃいます?」

 

 メルセデスが訊いた。どうやらこの職員とは面識があるらしい。

 

「あら、メルセデス久しぶり。主任なら多分居ると思うけど、同僚(ドライブ)がまたやっちらかしちゃってるから、その対応で忙しいかもね。ほら、ミディちゃん。行くよ」

 

 そういって、その職員は幼いウマ娘を秋名から引き離す。その娘は途端に喚きだす。

 

「いや! いかないでトレーナーさん! 私を置いてかないで! いい子にするから! お願い! 嫌! 嫌ぁ!」

 

 おおよそショパンと大差ない程の幼子。その幼き身体で抱えた、余りに惨過ぎる現実に、秋名は呼吸の方法を忘れそうになる。

 

「気が滅入ってしまいそうだ」

 

 秋名はそう、弱音を吐いた。それ以上、ここに集うウマ娘たちを直視できなかった。

 

「でも、これが大切な現実。光があれば、影もある。喪った者たちを影と呼んでくれるのなら、もう一つの光を用意すればいい。……ルドルフさんの言葉です。"全てのウマ娘たちに幸いを"その全てに、例外は無いと」

 

「彼女もよくここを訪れる?」

 

「そこに」

 

 メルセデスの指す先、廊下に飾られた一枚の写真。

 訳あってここに集うウマ娘たちと、ルドルフの姿。皆が隔たりなく、肩を並べて。

 

「彼女の尽力もあって、この施設も大きく刷新されたと聞きます。……昔は、天下りした権力者の椅子(リゾート)と揶揄される程の場所だったと。旧所長の方針では、世話をする娘を選り好んで、手の掛かるような娘は、例えどれだけ困っていようが見捨てる。そういった悪辣非道を平然と行っていたそうですよ。助けたい娘がいるのに助けられない。牧野さんも、そんな体制には辟易としていたと。今じゃとても考えられない」

 

 メルセデスは目を閉じて、首を横に振った。

 

「喪った者たちは影……か。ならばきっと僕も、こちら側だ」

 

 耳を澄ませば、いくらでも聞こえる。お父さん、お母さんと虚空に向かって呼び続ける子供たちの声が。

 

『お仕事のばか』

 

 子供たちの叫びに呼び起こされるように、彼の記憶(ダイアリー)が一つのページを捲る。それは、昔ショパンが残した、孤独を恨んだ殴り書き。

 

 彼女だけは、彼女だけには、何も喪わせたくない。妻を亡くした夫は、絶望の中からそう叫び続けていた。だが、実際はどうだ。彼女は喪い続けていた。大切なものを、いくつも、いくつも。

 

「だったら、光の当たるところへ行けばいい。ショパンと一緒に、手を繋いで」

 

「……ああ。早くあの娘の手を握りたい。もう、孤独にはしない」

 

 秋名は、すっかり水気の衰えた自分の手を見て、誓った。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

「ごめんなさい。待ったでしょ?」

 

 応対用のソファに掛ける二人の前に、牧野という女性が現れたのは、既に二人のティーカップの底が見え始めていた頃だった。

 彼女は少し息を切らし、額に汗が滲んでいる。彼女は急ぐように、水筒の水を一口含んだ。

 

 彼女の姿を見つけるや、秋名とメルセデスはソファから立ち上がる。

 

「ご無沙汰してました。牧野さん」

 

 メルセデスは朗らかな笑みでそういった。

 

「はぁ、私から呼びつけておいて御免なさい。ちょっと突発で面倒ごとが出来ちゃって」

 

「ドライブさんのことですか? さっきローズさんが仰ってましたよ」

 

「ええ……これで椿課長に叱られるのは私なのよ。堪んないわ」

 

 もう一口水を含むと、牧野はメルセデスの向かいに立ち、行方不明になった少女の父親へと視線を移す。その顔は酷くやつれている。碌に休めてもいないのだろう。

 

「初めまして。秋名 司さん……で、よろしいんですよね。私、"ウマ娘支援センター"主任の梶原と申します」

 

 牧野は一枚の名刺を秋名へ手渡す。そこには確かに、『梶原 優』の名が記されていた。

 

「梶原……? 牧野さんじゃ」

 

「牧野は旧姓です。でも、職場じゃ専ら旧姓で呼ばれることが多いですから。呼び方はお任せしますよ」

 

「そうですか。どうも、URAの秋名です」

 

 秋名も名刺を一枚、牧野へと手渡した。

 

「あのエアグルーヴさんを担当されていた、名トレーナーだったということは私たちもお聞きしてました。この度は……胸中、深くお察しします」

 

「いえ……。ところで、私に御用とは?」

 

「ええ。その、ショパンちゃんのことなんです」

 

「娘のこと……?」

 

 牧野は椅子に座らず、机に小さな水筒を置き、脇に抱えていたクリアーファイルを両手で取った。

 

「秋名さん……突飛なことを訊きます。貴方は、その。20年前に、ショパンの名を持つ黒鹿毛の少女に出会ったことはありますか?」

 

 背中に何かが過る感触がした。牧野が言うそれが、エアグルーヴの手記が語ったそれとリンクしたのだから。

 

「何を……」

 

 彼は言葉を詰まらせた。また、不可思議が不可思議を呼んだのか。彼は身構えた。新たな情報は、娘の手がかりとなる吉報なのか、更なる謎を呼ぶ凶報なのか。

 

「……少しだけ、昔話をさせてください」

 

 牧野はそういい、ソファへと掛けた。

 

 

――

 

 

 もう、20年近くは経ちます。私がまだここの駆け出しだった頃、エアグルーヴさんがこちらへいらしたことがあったんです。

 当時から、私はルドルフさんとは連絡を取り合う関係ではあったのですが、まさか彼女が来るとは予想にもしていませんでした。ルドルフさんからの命で来たのかと問いかけても、首を横に振って。

 

 彼女は誰かを探しているようでした。そして、私に懇願してきたんです。

 

『とあるウマ娘の調書と記録を見せてほしい』と。

 

 何故、彼女がそんなものを見たがるのかは分かりませんでした。当然、私は一度断りました。一応個人情報の類でしたから。

 

 それでも彼女は喰い下がってきました。こんな私に頭まで下げて。

 あのエアグルーヴさんが、そうまでして何を見たかったのか。結局は彼女の熱意に絆されて、私は根負けしてしまいました。そして彼女を資料保管庫へと案内したんです。こんなこと、今やったら一発で懲戒ですよ。昔は今ほどコンプラもきつく言われてなかった時代でしたから。若気の至りも勝って。

 

 資料保管庫へ案内すると、彼女は直近、そう、ここ一か月間くらいの調書を漁っていました。誰か問題を起こした生徒がいるのかと尋ねても、答えてくれませんでした。

 

 そして、彼女は一枚の調書を手にしました。それを、深く眺めて。

 今でも覚えています。彼女は確かに言いました。

 

 

 

『ああ、よかった』と。

 

 

 ひどく安堵に満ちた表情でした。私には、何なのかさっぱり理解できませんでした。

 一体何を探していたのか、何がよかったのか。私は彼女にまた尋ねました。そうすると彼女は、その調書を私に手渡しました。

 

 そこには、身元不明の家出ウマ娘として『ショパン』の名が記載されていました。担当職員は、私の名で。

 

 私は酷く混乱しました。だって、ここ一か月で、そんな名前の娘を相手にした記憶が一切なかったのですから。

 

 私が困惑していると、彼女は訊きました。この調書の保管期限はいつまでかと。

 原則としては、その娘の支援が不必要と判断されてから5年間は保存、その後はシュレッダー等で破棄することとなってましたから、その旨を伝えました。

 

 そうすると彼女は、もう一つ我儘を聞いてほしいと、私に言いました。

 

『何れ、そう何れ。10数年後、または20年後に、この調書を必要とする男がきっと現れる筈だ。それまで、この調書をここに保管しておいてほしい。彼が現れたら、これを手渡してほしい』

 

 そう言いました。

 

 

――

 

 

「もう、ずっと忘れていました。だって20年も前のことですもの。でも、ショパンちゃんの名前を聞いたあの瞬間、まるで記憶の封印が解けたように、あの時の映像が脳内に映し出されたんです」

 

 そういうと牧野は、クリアーファイルを二人の前に置いた。

 

「どうぞ。それが、エアグルーヴさんが探し求めていた物です。そして、それを必要とする男性は、秋名さん。きっと貴方」

 

 秋名は書類を手にした。牧野の言うことは真だった。そこには確かに、ショパンの名が記されていたのだから。じわりと汗が滲んだ。

 

「秋名さん……?」

 

 書類を手にして沈黙を続ける秋名に、メルセデスが声をかけた。

 ひと時を置いて、秋名はようやく、沈黙の時間から抜け出した。

 

「ここに書いてある、現住所。今の僕たちが住んでいるマンションだ。……20年前には無かった場所だ」

 

 秋名は住所の欄を指して言った。そのまま指を下へなぞっていく。

 

 名前は『ショパン』 年齢は、家の電話番号は。所属は、友人は、両親は。

 

 両親の欄は空欄だった。だが、その備考欄。

 

『母:エアグルーヴ、父:秋名 司 (本人証言) 上記項目全不整合。虚言癖の疑い? 家出?→両親からのネグレクトの可能性。 反抗心無し、非常に温順。精神状タイもアンテイ。専門カウンセラーと本人に関わる公的シ料の手配。 追記:当該ウマ娘、身柄をトレセン学園へ委託。本件終結(クローズ)の命令』

 

 そして、最後に見たのは、調書作成日。それは、エアグルーヴが残した手紙の日付と、誤差の範囲に収まる程に近い。

 

「これ、間違いなく牧野さんの字ですよね。それでも、記憶がない?」

 

 メルセデスが問う。彼女も、その調書が持つ魔力に惹かれているようだった。

 

「まったく。その前後に対応した娘のことなら何となく覚えてるの。でも、その調書に関することだけは、ゴッソリ記憶が抜き取られてるようなカンジ……。自分でもちょっと気味が悪いと思ってる」

 

 牧野は自分の額を押さえ、嘆いた。

 秋名は、ただ、その調書をひたすらに眺めていた。書面の一番下に辿り着けば、また一番上へと戻って。

 

 普通の神経をしている者ならば、これはただの悪戯だと憤って破り捨てるのかもしれない。だが、彼はその紙切れ一枚を、どうしても愛おしそうに。

 

「あの、この調書の裏、何かついてます」

 

 メルセデスがそういった。書類を裏返すと、そこには古びた一枚の黄色い付箋。秋名はそれが破れてしまわないように剥がす――ここにきて、エアグルーヴからの3つ目のメッセージ。

 

『秋名 司殿へ。一つ不安に思ったことがあったから、この付箋を残した。貴様がここへ辿り付いたついたということは、ショパンの身を案じているのだろう。ただ、安心していい。あの娘は今、私の所に居る。無理に信じなくてもいい。だが、あの娘は無事にそちらの世界(・・・・・・)へと帰ってくる筈だ。そして、あの娘と再会できたのなら、一つだけ頼みがある。抱きしめてあげてくれ。深く、深く』

 

 付箋の隅に、エアグルーヴの名。

 三人は互いの視線を合わせた。さて、どこまでを信じるべきか。彼女の真意とは何なのか。ショパンは――。

 

「もし、この調書と付箋に書かれていることが本当だとしたら、ショパンが今いる場所は、この時代の世界ではない……?」

 

 メルセデスが自らの口から吐き出した、空想(SF)。ショパンは過去の世界へとタイムスリップをした。そう言った。

 

「でも、たったこれだけでそう決めつけちゃうってのは」

 

「いえ……他にもあるんです」

 

 メルセデスは秋名へと視線を向けた。あのCDのことを言っているのだろう。

 秋名は鞄から一枚のCDケースを取り出し、机の上の書類の横に置いた。

 

『幻想即興曲 オムニバス ショパン』

 

 いくら古くても、CDの状態の良さが、その持ち主の几帳面さを語るようだった。

 

「これは……?」

 

 差し出されたCDを牧野が手に取ろうとした瞬間だった――。

 

 

 

 

――バキッ!!

 

 

 

 そのCDケースが、一瞬の悲鳴をあげた。

 

「――!?」

 

 まだ、牧野が手にする前だったはずだ。誰も触っていなかった筈だ。なのに、CDケースは割れた。ひとりでに、稲妻のような大きな罅を、ケースの意匠につけた。

 

「え……?」

 

 いくら古かろうが、ポリスチレンのCDケースが一つの衝撃も与えずに、ひとりでに割れるものだろうか。

 三人は直感で感じた。それは"何か"が起こる、不吉な前兆なのかもしれないと。

 

 

 彼女(ショパン)の身に、何かが起こっているのではないかと。

 

 

 前兆はそれだけではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

『秋縺 司縺輔。一つ不安に譁ュ邨カ、この譁ュ鄂ェを残した。諞るャアここへ辿り付いた荳紋サ」ということは、ショパンの身を案じているのだろう。ただ、安心していい。あの娘は今、私の所に居る。無理に信じなくてもいい。だが、あの娘は無事に縺斐a繧薙↑縺輔>(・・・・・・)へと帰ってくる筈だ。そして、あの娘と再会できたのなら、一つだけ頼みがある。縺翫°縺ゅ&繧薙%繧阪@縺ヲ縺励∪縺」縺ヲ縺斐a繧薙↑縺輔>』

 

 

 

 

 



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ショパンの原罪

 

 秋名のトレーナー室からは、少し甘い香りが漂った。

 

 毎度のことながら膨大な量の仕事と踊る秋名へ差し出されたのは、少しだけ熟れた懐かしくも優しい果実。根を詰めすぎるなよという女帝の労いを添えて。

 彼はデスクから抜け出し、応対用の対面ソファへと掛け、その果実をひとつ、舌鼓。

 

 一口サイズにカットされたそれを口へ運べば、潤しくも、さっぱりとした甘さが口腔を支配し、やがて鼻へ抜けて嗅上皮をつんと突く。桃などいつ以来なのだろう。幼少の頃、風邪で寝込んでいた時に、母がよく剝いてくれたんだっけ。彼の淡い記憶に微熱が帯びるようだった。

 

 珈琲もいるか? とエアグルーヴがペティナイフを流しで洗いながら訊いた。秋名は、これだけで十分だと応え、もう一つ桃を口へ運んだ。

 

 エアグルーヴは、洗い終えたナイフを仕舞い、秋名の座るソファの対面……でなく、横へと座り、同じ皿からひとつ、桃をとった。

 

「……あの男が用意したものにしては、随分と上物じゃないか。糖度も高すぎず、耽美で上品な味わいだ。なぁ、後でいくつか貰っていっても構わないか? 会長にも是非、召し上がって頂こうかと思ってな」

 

「ああ、僕だけじゃこんなには食べきれないからね」

 

 部屋の隅にある、まだまだ膨れた桃の袋を見てそう言った。どうも冷蔵庫にすら収まらない程の量らしい。

 

 皿にはひとつだけ桃が余った。秋名はエアグルーヴに譲るつもりで、最後のそれには手を付けなかった。だが、エアグルーヴはフルーツフォークで桃を刺すと、そのまま手皿を添えて、秋名の口元へと差し出した。

 

 このままでは皿が片付かないだろうという彼女、その言動に他意はないのだろうか。アイシャドウの端部が、言葉に出さない笑みを含むようだった。彼は観念を顔に刻み、口を開いた。最後のひとかけらは、より一層甘ったるく感じた。

 

 完食を見届けたエアグルーヴは、ようやく空になった皿を下げるべく、ソファから立ち上がり、彼へ背を向けた。……その後ろ姿に、秋名の何かがくらりと萌える。懐に溜まった理性が、桃のようにとろりと溶け始める。

 

 彼は無意識の内にソファを立ち、彼女の尾を追いかけるように、一歩、二歩と踏み出す。

 

 見れば見るほどに、彼女の『見事な仕上がり』kgに包まれた華奢なラインが悩ましい。柔らかい肌も、瀟洒に彩る香りも、婉然たる佇まいも、何もかもが愛おしい。故に育まれるひとつの情――劣情。

 

 早くこの灰簾石(タンザナイト)の宝石を手にしたい。逸る気持ちが色を付ける。甘い桃の香りが過ちを誘う。交わした唾液の味が蘇る。もう一度、否、それ以上をもっと味わい尽くしたい。

 

 トレーナーという存在は、そう高尚というものでもないらしい。所詮は彼も、一人の愚かな男――。

 

 

「おい、仕事の続きはどうした。 余暇はまだ必要か?」

 

 

 彼女が背を向けたまま語った。その言葉に、彼を支配していた糸がぷつりと切れた。

 はっと正気を取り戻した彼。今、自分は何を考えていた。まさか、自分の担当に対して、穢れを望んだというのか。仮にでも、指導者だというのに。彼女を栄光へと導かなければならない立場だというのに……。

 

「あ……ああ。そ、そうだね」

 

 彼は誤魔化すように発音し、逃げるようにデスクに戻る。不浄な欲望が消え去った跡に残ったのは、激しい罪悪感と自己嫌悪だった。手の震えが妙に止まらない。

 

 彼の震える手を、エアグルーヴが重ねるように置いた。どくりと心臓が止まりそうになる感覚を覚えた。

 

「疲れているのならそう言え。貴様の力になれるかは保証できんが、尽力はする」

 

 そういってくれた。彼女の手も、少しだけ震えていた。

 嗚呼、その優しさがさらに悩ましい。

 

 あの日(・・・)から芽生えた二人の間の情は、未だ発展途上。互いに藻掻いて手探って、丁度いい温度というのがどうしても掴めない。熱すぎても、冷たすぎてもいけない。微温湯を維持し続けることとは、これほどまでに難儀だ。

 だが、二人はその温度を保ち続けなければならない。エアグルーヴが、全てを駆け抜けきるその日まで。

 

「ああ、僕は大丈夫さ。……それよりも、ショパンは?」

 

 秋名が話題を転じる。今日のトレーナー室は、いつもよりも閑静だった。それは、いつもお菓子を強請(ねだ)る黒鹿毛の少女の姿が無いからなのだろう。彼女が居ないだけで、少し火が消えたような寂寞感があった。

 

 彼の問いに、エアグルーヴは黙ったまま首を横に振った。

 

今日も(・・・)体調不良? 3日目じゃないか」

 

 秋名は怪訝な面持ちで顎を抱えた。

 最近のショパン。やたらに体調不良を訴えては、学園を休んでいるらしい。季節の変わり目に体調を崩すウマ娘も少なくはない。だが、連日で学園を休む程の体調不良というのなら、やはり気がかりになってしまうというもの。それは一種の親心なのかもしれない。

 

「病院に連れて行ったほうがいいんじゃないのかい?」

 

 秋名が問う。

 

「だが、あの娘には保険証がない。学園の保健室に行くことも勧めたんだが、頑なに嫌がってな。どうも発熱や炎症といった症状は見受けられないんだが、こうも続くとな」

 

「……或いは仮病?」

 

「仮病?」

 

 エアグルーヴが訝しむ。

 

「クラスメイトとトラブルがあって学校に来づらくなってるとか、もしかしたらいじめ……とか」

 

「誰かと軋轢や諍いがあったという話は聞かなかったがな……しようがない。少し探ってみるか」

 

 そういうと、エアグルーヴは部屋を後にすべく、彼に背を向ける。言ってあった通り、桃を少しもらっていくぞと袋を広げて。

 

「桃、少し余分に持っていきなよ。ショパンにも食べさせてあげて」

 

「ああ。有難う」

 

 袋に桃を詰めるエアグルーヴの後ろ姿。それはやはり……悩ましかった。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 エアグルーヴは、トレーナー室を後にしたそのままの足で、初等部生たちの集う教室へと向かった。

 かつん、かつん。彼女のヒールから弾かれる乾いた音色は、少しばかりの厳然さを含んでいた。

 

 もし仮に、秋名の言う通り、ショパンが初等部生(クラスメイト)からのいじめを受けているとすれば……。その可能性が過った時に、彼女の何かが煮えた。

 

 ショパンは謎多き不思議な娘。だとすれば、冗談半分にも彼女を痛めつける動機は想像に難くない。

 

 生徒は等しく平等に、隔てなく。生徒会の指針だ。『ショパンが』いじめに逢っているから憤っているだなんて言うつもりはない。いじめ等という、不埒極まる下劣な行為に憤るのだと、彼女は自分に言い聞かせる。

 

 仮に本当にいじめがあったとして、それを問い質そうとしても、クラスの主犯、またはそれを取り巻く連中は一貫してしらを切るだろう。ならば、こちらも相応の手段をとるまでだと。彼女の中に、歪んだ正義が滾る――。

 

「あ、エアグルーヴ先輩!」

 

 彼女の背を叩いたのは、まだ幼さ残る黄色い声。踵を返した先には、ショパンのクラスメイトの姿。鈴をころころと転がしたような幼さ故の高い声は、今だけはエアグルーヴの癪に障るようだった。

 

 もしかしたらこいつがショパンを。道理の通らない邪推が彼女の心を汚していく。

 

『おい、丁度良かった。お前に訊きたいことがある。ショパンのことについてだが――』そう口から飛ばそうとしたときだった。

 

「あの、ショパンちゃん。まだ具合よくならないんですか……?」

 

 エアグルーヴよりも僅かに早く、初等部の娘が言った。

 会話の早撃ち(ファストドロウ)に敗れたエアグルーヴは、慮外な弾丸(セリフ)に意表を撃ち抜かれた。

 

「もう、三日目ですよね。この間まであんなに元気だったのに。クラスの娘たちも心配してるんです。だから今度皆でお見舞いに行こうかなって考えてて……」

 

 その幼い表情は、未だ穢れを知らなかった。何を企むわけでもない、そこにあったのは純粋な性善。

 

「あ……ああ。いや、どうもその。何かに罹患しているということは無いようなんだが、未だ気分が優れないと言ってな。大丈夫だ。直ぐに戻ってくる」

 

 純粋との相対比較。自分の思考がどれほどに蛇だったかを知る。

 そのことを一人でに恥じた彼女は、初等部の娘へ見舞いは不要だと言い、桃を一つ裾分けした。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

  

「あ、グルーヴさん。おかえりなさい」

 

 美浦の自室に戻ったエアグルーヴを迎えてくれたのは、ファインモーションの優しい声色だった。だが、それはどうも聊かな不安をベールのように纏う。

 

 彼女の視線の先。あるのは掛布団が大きく膨れた、エアグルーヴのベッド。

 

「……ショパンちゃん。本当に大丈夫なのかな。今日もずっとベッドに潜ったまま」

 

 エアグルーヴの机の上には、ラップが施された手つかずのおかゆがあった。ヒシアマゾンがショパンの為に用意してくれたのだろう。だがもう、彼女の真心はすっかり冷えてしまっている。

 

 エアグルーヴは掛布団をめくる。そこにいた幼い娘。食事を摂れていないことによるやつれが表れていた

 

 ショパンはエアグルーヴの顔をみるや、すぐにまた、布団の中へと消えた。

 

「ショパン。そんなに具合が悪いのか……? 何かあるのなら言ってくれ。医者が必要というのなら、私が何とかする。誰かとの悶着だろうと、きっと解決へ導いてやる。だから……」

 

 それでもショパンの回答は無言だった。

 わからない。この娘のことが。身元不明から始まった不思議な娘。日を重ねてきて、ようやくこの娘のことが解ってきた。そう、思えた筈なのに。また、何もわからない。

 

「ショパンちゃん……せめて何か食べないと、体に毒だよ」

 

 掛け布団をとんと、ファインモーションがたたく。彼女でさえも、ショパンの急激な変わりようには戸惑いを隠せないでいた。

 

「そうだ。おい、ショパン。トレーナーから桃を貰ったんだ。一緒に食べないか? 瑞々しく、甘味で美味しいぞ。きっと消化の負担にもならない筈だ」

 

 エアグルーヴは袋からひとつ桃を取り出すと、待ってろ、今剥いてきてやる。そういって自室を後にし、寮の台所で包丁の準備をした。

 

 桃に切れ込みを入れ、ふたつにカットし、手際よく種を摘出。台所姿が板につく彼女へ、ヒシアマゾンが声をかけた。

 

「なんかいいニオイがすると思ったら、桃かぁ。随分と懐かしい果物だな」

 

「ああ、すまない。後で包丁と俎板は片付けておく」

 

「はは、別に構わないよ。……ショパン用かい?」

 

 彼女の手の動きがぴたりと止まる。

 

「あの娘の為に、おかゆを用意してくれていたらしいな。すまない。だが、あの娘は手を付けなかった」

 

「そうかい……一体、どこが悪いんだろうねぇ」

 

 そういうとヒシアマゾンは、カットされた桃のひとつをつまみ食い。なるほどこれはいけると彼女(ヒシアマ)は唸り、おいと彼女(グルーヴ)は苦言を呈す。

 

「そういえば、例の話は上手くいったのかい? ジュリエット」

 

「……何の話だか」

 

 エアグルーヴは心の片隅でふと思った。

 ショパンが体調不良を訴えだした日、それは丁度、三人で向日葵畑へ行ったあの日からだったと。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「じゃあ、おやすみなさい」

 

「ああ……」

 

 ファインモーションが自室の電気を消し、二人はそれぞれのベッドへと帰る。

 

 結果として、ショパンはエアグルーヴが剥いた桃を食べなかった。

 暗がりの中、エアグルーヴは布団に籠ったままのショパンの頭をやさしく抱えた。

 

 だが、ショパンは初めてそれを拒んだ。そしてエアグルーヴに背を向けた。

 

「なぁ、一体何があったんだ。話せないか、私に。それほどまでに、お前にとって私は、気が置ける相手か……?」

 

 ショパンの回答は変わらず無言……というわけでもなかった。

 

「……ちがうの」

 

 小さく、澄まさないと聞こえないほどの声量だった。だが、エアグルーヴの耳はそれを逃さなかった。

 

「どう違うんだ。これでも私は、お前の為に尽くしてきたつもりだ。なぁ、少しだけでいい。話をしないか」

 

 エアグルーヴは慈悲の心で、再び手を差し出した。しかし、ショパンは再びそれを拒んだ。

 

 やはり、ショパンの病は心か。だとすれば、素人である自分がやたらに刺激を繰り返すことは望ましくない。明日ルドルフと相談し指示を仰ぐか、または、この手の話に造詣が深い牧野を頼るのが賢明だろうと、エアグルーヴはそれ以上ショパンを深追いしなかった。

 

「桃は冷蔵庫にある。好きな時に食べるといい」

 

 そう言い残して、エアグルーヴは今日という日を諦めた。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、ショパンは夢を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、彼女が本来居るべき未来でも、今いる過去でも、どちらでもない世界の夢。

 

 今よりは少し未来で、未来よりは少し過去。

 

 目の前のスクリーンに、とある景色が映し出される。それは、医療器具の整った病院の一室らしい。中央の医療ベッドに横たわるのは、彼女の母。

 

 おかあさん。彼女はそう呟いて手を伸ばした。だけど、届かなかった。ひどく冷たいガラスの中に閉じ込められているようだった。

 

 とんとんとん。ガラス(スクリーン)を叩いても、母はこちらを見てくれない。おかあさんと呼んでも、振り向いてくれない。

 

 ふと気が付く。母の血相がひどく悪い。そして、とても微睡んでいるようだった。どうしたんだろう。母は具合が悪いのか。だから病院のベッドで寝ているのか。

 

 もうひとつ気が付く。彼女の隣に男性がいる。彼は嗚咽を漏らし、母の手を握って、母の名を呼び続けていた。

 

 ああ、知っている。覚えている。彼は私のお父さんだ。どうして泣いているんだろう。悲しいことでもあったのだろうか。

 

 もうひとつ気が付く。二人の傍らにある小さなベッド。生まれて間もない妖精が、そこで泣き続けていた。うるさいじゃないか。そんなに泣き声をあげられちゃ、母の声が聞こえないじゃないか。

 

 ふたりの会話が聞こえた。そう、確かに言った。二人は『ショパン』と確かに言った。

 

 とんとんとん、とんとんとん。おとうさん! おかあさん! 私はここだよ! なんどもスクリーンを叩いた。でも、二人は気づいてくれない。どうして? 私はここにいるのに。どうして気付いてくれないの?

 

 二人の視線は、一人の妖精へと向いた。おぎゃあ、おぎゃあと泣き続ける産声が、今のショパンにとっては忌々しい不協和音にしか聞こえなかった。

 

 おとうさん。おかあさん。ちがうよ。私はこっちだよ。何度呼び続けても無駄だった。

 父が生まれたばかりの子供を抱いて、母のもとへ。母は最期その娘のことを『ショパン』と確かに呼んだ。

 

 

 

 

 

 ショパンは最後に気が付いた。

 

 そうだ。母は確か、子供を産んだ時に死んだんだっけ。じゃあ、今自分が目にしているものは、母の最期ということなのか。

 

 ショパンはスクリーンを叩く手を止めた。

 

 そうだ。母は死んだんだ。トレセン学園へ入学したから。優秀な女帝だったから。父と懇意になったから。結婚をしたから。……違う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 子を産んだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 じゃあ。では。なら。だとしたら。

 

 二人の間に抱かれているあの子供が、母を殺したということなのか。

 

 ……忌々しい。ああ忌々しい。あの子供が、あの子供がッ!! お前が母を奪ったんだ! 大事な、大事な母をお前が奪ったんだ! おまえは、お前は――。

 

 

 名は何といったっけ。

 

 

 確か

 

 

 ショパン。

 

 

 

 ショパン……?

 

 

 

 ……私じゃないか。

 

 

 

 ……ああ、なんだ。そういうことか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 母を殺したのは、私じゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 「――!!」

 

 

 ショパンはベッドから転がり落ちた。

 

 ひどく頭が痛かった。それは床に打ち付けられたからではないのかもしれない。

 

 ああ、まただ。まただ……。悪夢だ、悪夢だ……。酷い夢だ。

 

 

 彼女は床で蹲って、無言で悶えた。全身から汗が滝のように流れていた。

 心の臓器は、全力を駆け抜けた後以上にズタズタに割かれていた。

 

 「はっ……はっ……」

 

 焦げるように熱い吐息から、魂が抜かれるようだった。

 

 水が欲しい。水が欲しい。心から求めた。

 

 やっと自室の小さな冷蔵庫に手が伸びた。だが、冷蔵庫の中にミネラルウォーターは入っていなかった。

 代わりに、皿に盛られた桃があった。渇きを癒すためにショパンはそれを手に取った。

 

 正直なところ、固形物をあまり口へ運ぶ気にはなれなかったが、生きる為だとショパンはそれを口に含んだ。

 

 ぐにゅりぐにゅりと口の中を甘ったるい液が満たしていく。そして喉を通す。渇きが幾何か紛れる。

 

 何時間ぶりにものを食べたのだろう。一応食せたことに安堵した。

 

 2つ目を口に運んだ。これもまた、食べられた。3つ目を口に運んだ。これもまた、同様に。

 

 気が付けばすべてを平らげていた。精神が受け付けなくても、体はこれほどまでに飢えていたらしい。

 渇きを癒したショパンは、皿を片付けず、冷蔵庫も閉めず、そのまま茫然自失としていた。

 

 彼女に宿るは、悪夢の余韻。

 

 考えてはだめだ。考えてはいけない。そう思っても、先ほどの悪夢が、意識を引力のように引く。

 

 違う。違うんだ。そう唱えても、現実(リアル)は退くことを知らない。

 

 

 

 

 だって、だってだってだって仕方がないじゃないか! そうでなければ、私は産まれてこなかったんだ。

 

 違う。違うんだ。私はお母さんを殺してなんかいない。

 

 未来が、運命が、そう決まっていたんだ。決して変えることのできない未来が、母を殺したんだ。

 

 

 

 

 

 

 

『――本当に?』

 

 

 

 

 ふと聞こえた風の音。それは、日本語としての意味を持った発音に聞こえた。

 

 

「え……?」

 

 

『本当にあなたは何も悪くないの?』

 

 

 聞こえる。風の唄が聞こえる。彼女を責め立てる悪い唄が。

 

「なに……何なの……?」

 

 それは痛く耳障りな音。まるで、自分の声のようだ。

 

 

『ようく思い出してごらんよ。ショパン(あなた)はおとうさんとおかあさんに何をしたの?』

 

 

 何もしていない。何もするはずがない。

 

 

『本当に? 知らないふりをしているだけじゃないの?』

 

 

 知らない! なにも知らないったら!

 

 

『卑怯者。ずるいじゃない。自分で自分が生まれてくる未来を作っておいて、母を好きになった父のせいだ。父を好きになった母のせいだ。未来のせいだ。運命のせいだ。神様のせいだ。……だなんて』

 

 

 知らないったら! 知らないったら!!

 

 

『知らない筈がないじゃない。だってあなたは二人を導いてしまったんだもの』

 

 

 導いた……? 向日葵畑のこと……?

 

 

『まさか。それよりもずうっと、ずうっと前から。二人の間に挟まって、仲良し家族ごっこを続けていたじゃない。向日葵畑如きで運命なんか変わらない。あなたが時間をかけて、じっくり、じっくり』

 

 

 

 

今の未来をつくったんだよ(エアグルーヴをころしたんだよ)

 

 

 

 

 ちがう。

 

 

 

『本当はずっと気づいていたくせに』

 

 

 

 ちがう

 

 

『なぜおかあさんは死んじゃったかって。それは自分が生まれてきてしまったからなんだって』

 

 

 ちがう

 

 

『このまま両親の間で、ぬくぬくした時間を過ごせば、母がどうなるかだなんて知ってたくせに。知らないふりをして、あまつさえ、あなたは二人の背中まで押した』

 

 

 やめて

 

 

『つまり何をしたかわかる?』

 

 

 やめて

 

 

あなた(わたし)は』

 

 

 やめてやめてやめて

 

 

『自分のその手で』

 

 

 やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて――

 

 

 

 

 

 

 

 

『――――大好きなお母さんをころしちゃったんだよ?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『この親不孝者』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 胃酸が激しく揺れ動く、食道が焼ける感覚を覚える。精神が押しつぶされる。体中の体温が矛盾を繰り返す――強い応力(ストレス)に耐えきれなくなった母体は、遂に限界を迎える。

 

 

 

 

 

 

「う゛ぅ……う゛……え゛え゛ぇ゛……」

 

 

 

 びちゃびちゃと彼女の目の前に胃酸の溜まりが形成される。ぐにゃぐにゃと視界が揺れる。

 

 

 

「――ショパンちゃん!? どうしたの!?」

 

 

 自室の照明が付く。そこでファインモーションが目にしたものは、吐瀉物に塗れ動けなくなっていたショパンの姿。

 

「グルーヴさんッ! ショパンちゃんが!」

 

 照明の光とファインの嘶きを聞きつけ、エアグルーヴも直ぐに覚醒する。

 

「なっ……!? どうしたんだ!?」

 

 彼女の鼻を、胃酸のにおいがつんとついた。刹那、ショパンは二度目の嘔吐。

 

「わ……私、寮長さん呼んでくるね! あと、拭くもの!」

 

 ファインモーションは部屋を飛び出す。

 エアグルーヴは、恐る恐るショパンへと近づいた。激しい負荷のトレーニングの末、嘔吐してしまう生徒もいるには居る。そのような者たちに対する心得は一応持ち合わせているつもりだ。だがそれでも、エアグルーヴはショパンの介抱を少し躊躇った――ショパンが激しく嗚咽を漏らしていたから。

 

「どこか痛むのか……? まさか桃がダメだったのか? なぁ……ショパン……!」

 

 流石のエアグルーヴも狼狽えた。彼女に対し、何をどうすべきかが一切わからなかった。

 

 途端、ショパンの口が言葉を作った。それは、謝罪の言葉だった。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」と何度も同じ謝罪を。

 

「謝らなくていい! お前は何も悪くない……だから」

 

「……ちがうの……おかあさん……わたしは……おかあさんを……」

 

 顔中が体液でぬれていた。エアグルーヴはせめて顔だけでもと、私物のタオルでショパンの顔を拭った。

 

「ごめんなさい……ごめんなさいぃ……」

 

 それでもショパンは変わらず、エアグルーヴに謝り続けていた。彼女の涙に、エアグルーヴの心も激しく締め付けられた。

 

 それから程なくして、ヒシアマゾンとファインモーション、その他数名の寮生が部屋に訪れた。

 

 ヒシアマゾンの的確な指示で、ショパンの後は速やかに片された。

 エアグルーヴはショパンの肩を支えながら、彼女を洗面所へと連れていき、口と顔を洗わせて、服も着替えさせた。

 

 後処理を終えたヒシアマゾンとファインモーションが、二人を訪ねた。救急車の必要があるかという問いだった。少し考えはしたものの、彼女の容態は先程に比べては少し落ち着いたようにも見えた。だから、明日の朝に医者に掛かろうと言った。

 

「寝床はどうする? また、吐いちゃうかもしれないだろ。て言っても、他に部屋は空いてないし……アタシの部屋で寝かせようか?」

 

 エアグルーヴは首を横に振った。

 

「いいや、彼女を看るのも私の仕事のうちだ。ファイン……それでも、いいか?」

 

「うん、私は平気だよ。ショパンちゃん……無理はしないでね……」

 

 ファインはそう言って、ショパンの頭を少し撫でた。だが、ショパンの顔色は死人の如く、白かった。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 小鳥の囀りが、起床の時刻であることを告げた。

 眠りから覚めた時に、自分は眠っていたのかと自覚した。

 

 夕べはショパンが……大変だった。だから、夜通し、貫徹してショパンを看るつもりでいたのだが、習慣に育まれた睡魔には勝てなかった。

 

 今日はあまりベッドで悠長な時間を過ごしていられない。ショパンを医者に連れて行かなければ。内科かもしれないし、精神科かもしれない。

 

「さぁ、起きろ。ショパ――」

 

 

 

 いつも、朝、目を覚ませば、ショパンの愛らしいふたつのお耳が布団から生えていた。

 

 

 だが、今日はそれがなかった。

 

 

「ショパン……?」

 

 

 彼女は自分のベッドを降りて、掛布団を全て剥がした。

 それでも、ショパンの姿はなかった。

 

 

 手洗い場にも、彼女はいなかった。洗面所にも、談話室にも、食堂にも、書庫にも。寮の庭にも、周辺にも。どこにもいなかった。

 

 

 遅れて起きてきたファインモーションに、ショパンを訊ねても知らないといった。他の寮生たちも知らないと言った。

 

 ヒシアマゾンにも訊ねた。勿論彼女も知らないといった。だが、続けて彼女はこういった。

 

 

 

 

『誰かが夜中、寮を抜け出した痕跡がある』

 

 

 

 と。

 

 

 

 

 

 



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ショパンの裏切り、女帝の狼狽

 

 

「申し訳御座いません……私の失態です」

 

 早朝の生徒会室。エアグルーヴは項垂れるようにして、ルドルフへ謝罪の言葉を述べた。

 

 自分の監視下に置いていた、不思議な娘(ショパン)が忽然と姿を眩ませた。彼女自ら監視役を申し出ておきながら、監視対象を易々と逃してしまうこの始末。忸怩(じくじ)たる思いが、彼女の心を()む。

 それとまた同時に、ショパンを純粋に心配する心もあった。昨晩のショパンの涙の意味を、未だ理解できずにいる。

 

 

「そうか……」

 

 ルドルフは生徒会長の席に深く掛けて、机に肘を立て、手を組んだ。エアグルーヴに対する叱責や難詰といったものは無かった。彼女もまた、エアグルーヴと同じように、憂いの色を顔に塗った。

 

 

「何故彼女は君の下を去った」

 

 ルドルフの問いに、エアグルーヴは沈黙を横に振った。

 

「用が済んだんじゃないのか」

 

 そういったのはブライアンだった。特にショパンに対して面白みを感じなかった彼女からしてみれば、どうといったことのない話なのかもしれない。

 

「用、とは何かな」

 

「それが解れば誰も苦労はせん」

 

 ブライアンはこれ以上話の進展を期待せず、腕で枕を作り、深くソファへ沈んだ。

 

「それで、彼女、何か変わったことはあったかい。……君の記してくれた経過台帳、ここ数日は体調不良の訴えか。そして」

 

「ええ、昨晩、2度の嘔吐を」

 

「益々分からないな。不調を抱えたまま、寮からの脱走。韻鏡十年、此れ程迄に理解し難い相手だとは思わなかった。思惑とは何だ……」

 

 ルドルフは席を立ち、背後にある窓から学園の様子を眺めた。

 今日も変わらずに流れる日常。その中に擬態していた非日常(ショパン)のことを想い、溜息を零す。

 

「最後まで何も分からず終いか……。この隔靴掻痒、何れは晴れるものかと期待したのだがな。……ショパン、君は何の為にここへ来て、何の為に去ったんだ」

 

 

 窓に手を添えて、そういった。

 

「もういいだろう。あいつは帰った。それだけだ。これ以上何を心配してやる。トレセン学園(うち)は慈善事業団体か? 孤児院か? これがうちの失態だというのなら、この件をなおざりにしたURAと支援センター(連中)はどうなる」

 

 ブライアンは抱えている焦燥を言葉にして吐き出した。いつまでもショパンという幻覚に縛られ続ける二人に、どうも苛立たしさを覚えた。

 

「……しかし」

 

「しかし、何だ?」

 

 エアグルーヴの言葉を、ブライアンが威圧的に被せる。彼女はソファを降り、エアグルーヴの正面へと立った。

 

「あの娘は、具合が悪いんだ。食事すらも受け付けない身体になっていた。昨日見た限りでも憔悴していたことは明白だ」

 

「だから?」

 

「あの娘は苦しみを抱えたまま、一人で彷徨っているんだ。無事に親元へ帰れた等という確証もないだから……!」

 

「出て行ったのはアイツの意思なんだろう? だったらどうでもいいだろう。前も訊いた気がするが、お前はアイツの何だ? ただの監視役から昇進でもしたのか? アイツは消えた。お前の仕事は終わった。それが全てだ。後はアイツがどうなろうが知った話じゃない。違うか」

 

 エアグルーヴはぐっと口を噤んだ。僅かに動きそうになった手を、理性で押さえつけた。だが、内に籠る感情に灯った火はなかなか消えない。彼女は顔を顰め、先鋭な視線をブライアンに突き立てた。

 

「……あの子供に心を喰われたか。それがショパンの目論見じゃなきゃいいな」

 

 ブライアンはエアグルーヴへ一瞥をくれると、生徒会室を後にした。

 己の創った熱に焼かれるエアグルーヴは、額を押さえ、すっかり板についた溜息を交えて、申し訳ありませんとルドルフへ再び詫びた。

 

「……エアグルーヴ。君は少し休んだほうがよさそうだ。ブライアンの主張を全面支持するわけではないが、ショパンが去った今、君の監視役としての仕事は了したものと考えて構わない。蟠りの残る結末、君の胸中も察しよう。だが、今の君には暫時休息が必要だ。今だけは、ショパンのことを忘れよう」

 

 それでも、女帝の顔色は晴れなかった。

 ようやく心が見えてきたショパンのことを、いきなり忘れろだなどと、通るわけがない。

 

「ショパンに囚われてはならないよ。君も一人の生徒だ。ショパンを想う気持ちも理解できるが、まずは自分のことからだ。後のことは私に任せてくれ」

 

 今の心境を、ルドルフから見透かされているようだった。

 エアグルーヴは、ええ、と一言置き、生徒会室を後にした。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 廊下を鳴らす足音ひとつ。

 本来ならばそれが正しい筈なのに。とある日を境に、足音は二つになった。

 

 いつも健気にとことこと、三尺下がって師の影踏まず(ついてく ついてく)

 

 振り返れば、その娘はいつもそこに居た。朗らかな笑顔を向けてくることもあれば、エアグルーヴから叱られ、少しいじけた顔をしていたこともあった。時に生意気な口を叩くこともあれば――当然、純粋に甘えてくることもあった。

 

 しかし、その影はもうそこにはない。彼女の背中についてくる不思議な娘はもういない。

 

 彼女の背中が、どうしても寂寥を嘆く。数歩歩く度に、後ろの様子を伺う。そして小さな溜息を吐く。

 

 周りの友人たちや、ショパンのクラスメイトたちも、ショパンのことを案じてくれた。一緒に探しにいこうかと声を上げてくれる者もいた。だが、エアグルーヴは首を縦には振らなかった。

 

『……ちがうの……おかあさん……わたしは……おかあさんを……』

 

 昨日のショパンの言葉が、どうしても解せない。

 彼女のいう"おかあさん"がエアグルーヴのことだとしたら。最後についた格助詞の意味とは何なのだろう……。

 

「エアグルーヴ!」

 

 少しばかり走るような男の声がした。秋名の声だった。

 

「ショパンがいなくなったって……」

 

「本当だ。私の失態だ」

 

「どうして……」

 

 秋名は青い表情をした。事態の急変に付いていけず、焦慮が露わになっているようだった。

 

「探しに行こう。午後は休暇願を出す」

 

 詰まった息を吐きだしながらそう言った。

 だが、エアグルーヴ首を横に振った。

 

「いや、いいんだ。あの娘はきっと、御両親の下へ帰ったんだ……。きっと、そうだ」

 

 何の根拠もない、希望的観測。昨日のあの様を見て、何をどう捻じ曲げればその解釈に至るのだろうか。また、彼女は自らを誤魔化し、無理矢理にでも納得させる。そうするしかないのだ。

 

「……君はそれでいいのかい」

 

 エアグルーヴは、首を縦にも横にも振らなかった。本当のことを言えば、今すぐにでも駆け出したいというのに。下らぬ体裁がものをいう。

 

「ショパンが出ていったことには、必ず理由があるはずだ。あの娘は、気まぐれで動くような娘なんかじゃない。それは君もよく分かっているはずだろ? 何かから逃げ出したんだ、ショパンは。何かに怯えているんだ。きっと」

 

「何か……とは何だ」

 

「それは」

 

「エアグルーヴさん!」

 

 二人の間に飛び込む幼い声、ニシノフラワーのものだった。

 彼女はひどく血相を変えて、らしくないほどに取り乱していた。おそらく校内中を駆け回ってエアグルーヴを探したのだろう。彼女の顔の輪郭を、汗のしずくが伝っていき、呼吸の度に胸が大きく上下していた。

 

「フラワー。どうした?」

 

 不穏を感じ取ったエアグルーヴが訊いた。ニシノフラワーは答えた。

 

「お花が……花壇のお花たちが!」

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 ニシノフラワーの小さい背中を追うように、エアグルーヴは中庭の花壇へと急いだ。

 そういえば今朝は、ショパンのことに気を取られ、花壇の様子を見ていなかった。

 

 中庭まで辿り着くと、花壇のある場所を中心に、生徒たちが鈴生りになっていた。皆が不安の声を上げ、中にはすすり泣く娘さえもいた。

 

 そこにはルドルフの姿もあった。腕を組み、深刻な面持ちをそこ(・・)へ向けていた。

 

「会長」

 

 エアグルーヴの声に気が付いたルドルフは、視線だけを一度こちらに向けると、何も言葉を発せずに、顎で花壇を指した。

 

 ルドルフの指す先、エアグルーヴも視線を向けた。

 

 そこにあった光景に、己の目を疑う。

 

 つい昨日まで健気に咲き誇っていた花々たちは、茎を折られ、土を踏み荒らされ、蕾を潰され、花首を切られ、落ちた花弁は無残にも散っていた。

 

「…………」

 

 暴力の限りを尽くされた、酸鼻極まる凄惨な現場を目撃したエアグルーヴは、言葉を無くした。直ぐに怒りの感情は出てこなかった。目の前で起こっている現実が、ただただ受け入れられなかった。

 

 ヒヤシンス、ワスレナグサ、ラナンキュラス、ストックに牡丹にチューリップ。ようやく芽吹いてきたクレマチスにマリーゴールド。そして、ショパンが愛を以て懸命に育てていた菫さえも、すべてが殺されていた。

 

「誰が……こんなこと……」

 

 エアグルーヴは膝をついて、花々の亡骸を手に取った。もう生き返ることのない夫々。そして、フラワーやショパンと丹精に世話をした思い出たち。それを、踏み躙られた。

 

 花は、我々の子供も同然だ。それを奪われ、殺された。

 

 ようやく、ようやく沸々と、失いかけていた感情に熱が籠り始める。それは突沸し、急激に怒りへと変わる。

 

「誰が……誰がッ!」

 

 切歯扼腕するエアグルーヴは、己を忘れたかのように周りの生徒たちを見回し、見つかる筈のない犯人を捜した。

 

「誰だ! 今すぐこの場で名乗り出ろ! 卑怯者!」

 

 そうがなる(・・・)ように叫んだ。

 おまえか、おまえか、おまえかおまえかおまえかおまえか。彼女の中の蛇が、再び彼女の心に巻き付く。

 

「エアグルーヴ。卒爾に疑ってくれるな。ここの生徒の仕業だと決まったわけではない。軽挙妄動は悲劇しか生まない」

 

 ルドルフはエアグルーヴの肩に手を添えて、彼女を宥めた。だが、今だけは、敬慕する彼女の言葉さえも、素直に受け取れなかった。

 

「まずは状況を整理しよう。昨日の時点では、まだこの花壇は手を掛けられていなかったんだね?」

 

「昼頃、散水した際には異常はありませんでした……」

 

「あの、私も昨日の下校前にお花の様子見てましたけど、その時もまだ」

 

 ニシノフラワーが少し震えた声で言った。彼女の瞳にも、うっすらと涙の溜りがあった。

 

「深夜、または早朝の犯行……。他にも被害がないか確認したほうがよさそうだ」

 

 ルドルフは腰を上げると、周囲に集う生徒たちへ、何か他に有益な情報がないかを問いかけた。直ぐでなくていい、思い当たることがあれば生徒会まで――そこまで言った時だった。

 

「あっ……あ、あの……」

 

 一人の生徒が、おもむろに手を挙げた。全員の視線がそちらに向く。注目を集めた彼女の指先は、凍えたように震えている。

 

「何か、知っているのかい?」

 

 ルドルフの視線が、その中等部生の娘を捉えた。その娘は少し怯えながらも答えた。

 

「その、し……ってるっていうか……その……」

 

「戦々恐々としなくていい。どんな些細なことでも構わない」

 

「その……私、今日一人で朝練してた時……その、み、見たんです。泥まみれで、鋏を持って学園を逃げ出す娘の姿……」

 

「それは君の知っている娘か?」

 

「その……」

 

 中等部のその娘は、息を吸いなおし、覚悟を決めたようにして言った。

 

 

 

 

ショパンちゃん(・・・・・・・)……だったんです」

 

 

 

 

「…………何?」

 

 

 騒めく、騒めく。皆が騒めく。あのショパンが、花壇荒らしの犯人?

 

 

「それは、本当か? 相違のない事実と受け取っていいのかい?」

 

 その娘はこくりと頷いた。

 

「私、声を掛けたんです。『ショパンちゃん』って。いつもエアグルーヴ先輩と一緒にいるのに、こんな朝早く一人で何してるんだろうって気になって。一度私のほうを振り向いてはくれたんですけど、そのまま直ぐに走って逃げて行ってしまって」

 

「どんな様子だった」

 

「その、ダートを走った後みたいに服が土まみれで、そして……泣いてました」

 

「泣いていた?」

 

「顔を真っ赤に腫らして、見えたのは一瞬でしたけど、確かに」

 

「……めだ」

 

 膝を付いていたエアグルーヴが、何かを呟いた。

 

「エアグルーヴ……?」

 

 ルドルフは彼女の顔を覗き込もうとした――刹那。

 

 

 

 

出鱈目(デタラメ)だ!」

 

 

 

 

 エアグルーヴがそう嘶いた。彼女は立ち上がると、中等部生の娘の両肩を掴み、訴えかけるように言った。

 

「……するはずがない。あの娘が、あの娘がそんなことをするはずがないだろう! 見間違いだ、人違いだ! そうだお前は、誰かとショパンを見間違えたんだ……そうだ。そうなんだろう? そうだと言え!…………そうだと言ってくれ……」

 

「え……えっと」

 

 中等部生の娘は困惑した。自分の話した証言を、空言にしろとあの女帝が言ったのだから。

 

「エアグルーヴ。彼女に罪はない」

 

 その娘を解放しろという含みだった。エアグルーヴはゆっくりと手を下ろし、ルドルフの方を向いた。

 

「では、その証言を信頼するということでしょうか……」

 

「今のところ、疑う理由がない。ショパンの失踪、そしてこれ(・・)だ。偶然と置くには、あまりに出来すぎている」

 

 ルドルフはエアグルーヴの横を過ぎて、荒らされた花壇の花弁を手に取った。

 

「これでハッキリしただろ。エアグルーヴ」

 

 数多の野次ウマたちを押しのけて、姿を現したのはブライアンだった。数人の後輩を背中に従え、エアグルーヴと相対した。

 

「随分と洒落たガーデニングだな。前衛的と言ってやるには少々センスに欠けるが」

 

 荒らされた花壇に一瞥をくれてそういった。

 

「何のつもりだ」

 

「何の……? 私は生徒会としての仕事をしに来た迄だ。校内施設の破壊行為、学園への攻撃。文字通り由々しき事態だ。犯人の首根っこ掴んでひっ捕らえてやる必要がある」

 

 校内で何かが起ころうとも、最後に動くのはいつもブライアンだというのに。ここまで率先して動く動機、やはり最後まで信頼を置かなかったショパンが絡んでいるからなのだろうか。

 

「なァ、会長よ。アタシらに動く許可をくれ。ショパン(あのガキ)を引き擦り出してきてやる」

 

「待て! まだショパンが犯人だと決まったわけではない! 誤解だ。何かの間違いなんだ――」

 

 途端、ブライアンはエアグルーヴの襟を掴み、自分へと引き寄せた。

 

「いい加減目を覚ませ! いいか、ショパンは何も分かってない不審ウマ娘だ。動機も目的も、何もかも!……そしてアイツは消えた。そして花壇は荒らされた。目撃証言のオマケ付きで。それが全てだ。何も覆らない」

 

「ちがう……」

 

「いつまであの子供を庇うつもりだ! いい加減理解しろ。ショパンは……敵なんだ」

 

 敵? あの娘が……?

 

「そんなこと……ばかげてる……」

 

「ああ、とんでもなくばかげてるさ。そんなヤツをここで匿ってただなんてな。……会長よ、どうなんだ」

 

 ブライアンはエアグルーヴを突き放すように解放した。一枚の木の葉が散るように、エアグルーヴはその場で再び膝をついた。

 

 

「……わかった。要求を呑もう」

 

 ルドルフは花壇から踵を返し、ブライアンと視線を交わし、告げた。

 

「全校生徒に通達してくれ。たった今を以て、我がトレセン学園生徒会は、戸籍なき不審ウマ娘ショパンを、敵性のある危険人物と見做す。彼女を見つけた者は、直ちに生徒会へ連絡を」

 

「お、お待ちください! 会長……!」

 

 狼狽に満ちたエアグルーヴの表情を、ルドルフははっきりと見ようとはしなかった。

 

「エアグルーヴ。さっきの娘の証言を覚えているか。ショパンはハサミを手にしたままここを去ったそうだよ。彼女は武器を手にしている。彼女の狙いが分からない以上、何かがあってからではもう遅いんだ」

 

「かい……ちょう……」

 

「……私の責任だ。彼女の本質を見抜けず、君にも過分な負担を与えたらしい。結果、私の部下は寝首を掻かれ、トレセン学園の実害までも認めた。エアグルーヴ。君はこの件にはもう関わらなくていい。後は私たちの仕事とさせてくれ」

 

 ルドルフは一言、ブライアンの名を呼んだ。

 

 ああ、と返事を返したブライアンは、背後の後輩たちへ顎で指示を出す。そして、その精鋭たちがショパン捜索へと乗り出す。

 

「彼女は武器を手にしている。仮に接触したとしても、交戦は避けるよう命じてくれ」

 

「ハサミ程度、何の脅威にもならん」

 

「そうはいかない。大切な仲間(・・)を守るためだ」

 

 ルドルフとブライアンは、その場にエアグルーヴを残し去っていった。その場に残る生徒誰もが、エアグルーヴに声をかけられないでいた。

 

 皆がぞろぞろと掃けていく。その中で、エアグルーヴはひとり孤独に溺れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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Nervous Breakdown

 

「鋏に……ええっと」

 

 ニシノフラワーは口元を掌で隠すようにして、物置小屋の中を見回した。

 おおよそ、ウマ娘一人が入るくらいがやっとという程度の小屋。中にあるのは、如雨露や剪定用の鋏、バケツに肥料にスコップに。自分の出番をひたすら待つ鉢植えと、彼らを優しく見守る電球色の蛍光灯。

 

 それらはいつも女帝監修の下、隙なき丹念さで整頓されていた。

 だが、この日は少し乱れていた。悪い猫でも忍び込んだのだろうか。

 

「アイツはどうした」

 

 ニシノフラワーが小屋の中を点検する最中、ルドルフは、解錠されたままその場に放置されていた南京錠を手に、ブライアンの言葉を受け取った。

 

「今日はもう、寮へ帰らせた。心慌意乱の最中、これ以上を関わらせるのは酷だ」

 

「有情のつもりか。あいつはそれほどまでに、ショパンを……」

 

 ブライアンはルドルフの手から南京錠を奪うと、だらしなく伸びたシャックルを摘み、自分の顔の前へ翳す。シリンダーには小さな鍵がついたままだ。後から聞いた話、エアグルーヴが管理していたスペアキーが盗まれていたらしい。犯人はおおよそ見当のつく娘。

 

「何故、花壇だったんだ」

 

 ブライアンがそういった。学園に損害を与えたいのならば、ガラスを割ってもいい筈だ。鋏が手に入るのなら、気の弱そうな下級生を襲ったっていいはずだ。そちらの方が、わざわざ面積のある花壇を荒らすよりも楽だろうに、と続けて語った。

 

「我々への宣戦布告。或いは、花壇に強い関わりを持つ人物へ宛てた怨嗟」

 

「エアグルーヴのことか」

 

「だが、腑に落ちない。エアグルーヴを憾むというのなら、彼女はずっと近くにいた筈なのに――」

 

「もうショパンの考察はやめろ! あいつの言動に答えが見つかった試しがあるか!?」

 

 ブライアンの口から、枝が落ちる。彼女はそれを拾わずに踏みつけた。

 

「ただの愉快犯ならそれでもいい。そんな悠長に思慮を巡らすよりも、さっさと取っ捕まえて洗い浚い喋らせれば済むことだ。また、それでもデタラメを吐くようなら……」

 

「憤懣焦燥だな。それほどまでにショパンが憎いか」

 

「……さぁ、どうだろうな。アンタこそどうなんだ」

 

「少なくとも、敵だとは思っていなかった……否、信じたかった。彼女のウマ娘としての性善を」

 

 ルドルフは手元に一枚残っていた菫の花びらをそっと手放した。それは、風に踊り、東の空へと消えてゆく。

 

「会長さん!」

 

 ようやく小屋から、フラワーが姿を現す。制服の裾と左耳の先端に僅かな埃のアクセサリー。

 

「ああ、どうだった」

 

「その……刃物類は、剪定用の鋏が一本無くなっていただけで、他の刃物はそのままでした」

 

「じゃあ、異常はなかったということかい」

 

 しかしフラワーは首を横に振った。

 

「いえ……その、除草剤が無くなっているんです」

 

「除草剤?」

 

「はい。ボトルタイプの除草剤なんですけど、とても強力な物で、危険だから高等部生が扱うようにと定められているものなんです」

 

「……何のために」

 

 不思議な少女は、新たな謎の種を撒く。皆を惑わす幻惑の偶像(アイドル)。その正体は、天使か、悪魔か。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「グルーヴさん……」

 

 自室に戻ったファインモーションは、床に臥すエアグルーヴへ、おもむろに声を掛けた。

 彼女も当然、学園の騒ぎを聞いていた。……花壇を荒らした犯人がショパンだという証言も。

 

「グルーヴさん。私、信じてないよ。ショパンちゃんが花壇荒らしの犯人だなんて。……きっと何かの間違い。そんなことをする娘じゃないもん」

 

 励まし半分、本心半分。一寸の虫の殺生すら躊躇う娘が、そんなことをするはずないと。

 

「気休めはいい……。あの娘は」

 

「気休めじゃないよ! 私は信じてる。ショパンちゃんはきっと、戻ってきてくれるって」

 

「もうあの娘は戻ってはこない。会長の仰る通りだった。私は寝首を掻かれたのだ。いつしか心を赦していた。氏素性も知れぬあの娘に。……副会長として、失格だ」

 

 途端、ファインモーションはエアグルーヴのベッドの布団を全て引き剥がした。

 

「グルーヴさんが信じてあげなくてどうするの! グルーヴさん自身が一番わかってる筈だよ! ショパンちゃんは、そんな娘じゃないってこと……」

 

 彼女の声と瞳は、うっすらと涙色。

 しかしエアグルーヴは変わらぬ沈黙色。

 

「いいよっ! グルーヴさんが行かないなら、私が探しにいっちゃうから!」

 

 そう言って、ファインモーションは自室を飛び出た。

 

「殿下!? どちらへ!」

 

「かまわないで!」

 

 そのやり取りが、扉の奥から聞こえた。

 ファインが去った後の部屋で、エアグルーヴは静かにベッドを降りた。なんとかこの気持ちを抑えたい。昇華させたい。その思いだった。

 

 エアグルーヴは本棚の隅の、とあるCDを探った。やはり、心の和らぎ水とはあれしかないと、指で一枚一枚、端からCDを辿っていく。

 

 バッハ、パッヘルベル、モーツアルト、ヴィヴァルディ、ルートヴィヒ、ヨハン、フリードリヒ、ジョアキーノ、チャイコフスキー、ガーシュウィン……。

 

「……ない」

 

 そんなはずはない。だって、ずっとここに眠っている筈だもの。だけど、視覚情報は確かに訴える。

 

 彼女の一番のお気に入りである、フレデリック・ショパンのCDが消えていることに。代わりにあるのは不自然な空洞。ガーシュウィンのCDが、ブラームスへと凭れていた。

 

 何処へやった。否、あのCDは必ず定位置へ戻す筈だ。だしとしたら、誰かが盗んだのか。何処ででも手に入るような、大した価値もないオムニバスを、わざわざ。

 

 ふと、気がつく。ファインとグルーヴのベッドの狭間にあるチェストの上に、壊れたひとつのロケット・ペンダント(ショパンの忘れ物)があることに。

 

 少しだけくすんだ天然琥珀の意匠。中を開けば、そこにいる、エアグルーヴとよく似た、一人の淑女。どこか見覚えのある向日葵畑を背後に添えて。

 

「この向日葵畑……」

 

 今の彼女なら、その場所を知っている。

 そこは、彼女の運命を導いた、記憶の場所なのだから。

 

 エアグルーヴは、静かに制服を手に取った。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 秋名は頻りに自分の携帯を確認した。通知履歴に、担当からの折り返しはない。

 

「……僕は信じない」

 

 何かに縋るように、そう呟いてみる。

 

「信じねぇつってもさ、失踪と目撃証言。言うなれば役満ってやつじゃねぇの」

 

 秋名のデスクの端に腰を掛けて、織戸は言った。

 

「信じるも信じねぇもお前の自由だけどさ、現実は変わんねぇぞ。信じてたヤツに裏切られる。世の中そんなモンさ」

 

「君はあの娘のことを何も知らない」

 

「じゃあお前はしってんのか。アイツがどっから、どういう目的でここにきて、何で消えたか。それも無くショパンのことを妄信するってなら、バカ親がうちの子に限ってとかいうのと同じだ」

 

 どんと、机を拳で叩く鈍い音が空間に轟いた。少し破裂音にも似たそれに、織戸は、たまらず机から腰を上げた。

 

「おい、なんだよ!」

 

 織戸は、秋名の瞳が少しだけ血走っているのを見た。その瞳が何を語るか、おおよその見当はついた。

 

「……冷静になれよ。そりゃ、自分の担当が問題起こしたってんなら誰だって気が気じゃねぇさ。でも、アイツは違うんだろ? そもそも正式な学園生ですらない。ただの預かり子だ。情が湧いたにしても、そこまで向きになる理由が俺にはわからねぇ。これ以上首突っ込んでも、お前の得になんてなりゃしねぇだろ」

 

「わからなくてもいい……。僕だってよくわからない」

 

 そういうと、秋名は自分の鞄を抱え、織戸を横目に外出の準備を始めた。どうやらショパンを探しに行くつもりらしい。秋名の背中に、織戸は語った。

 

「そういやお前さ、眞城理事の縁談蹴ったんだってな」

 

「それが」

 

「いや、意外だと思った。まさかお前が。断る理由なんてのもないだろって、ずっと思ってたからさ。……担当(エアグルーヴ)か?」

 

 織戸の問いに、秋名は沈黙で答えた。ネクタイを解く鋭利な音が、静かに冴え渡った。

 

「URAに居る知人から聞いた話だ。眞城のオヤジ、相当テッペンに来てるらしいぞ。お前、タダじゃ済まねぇかもしれねぇぞ」

 

「……そう」

 

 秋名のすげない態度。それを見て、織戸は一言漏らした。

 

「お前、少し変わったな。それも、ショパンが来てから」

 

 秋名は聞かなかったことにして、そのままトレーナー室を後にした。

 

「お前までこっから居なくなったらよ、俺、独りぼっちじゃねーの……」

 

 最後に織戸はそうぼやいた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「ここもダメだったか」

 

 秋名は再び車に乗り込み、本日8回目のエンジン始動。

 ショパンの行き先、思い当たるところを片っ端から当たっていた。例えば公園だとか、図書館だとか、複合商業施設だとか、付近の駅だとか。だが、ショパンの姿はどこにもない。それでも、あの短い鬣の面影を頼りに、彼は彷徨った。

 

 黒鹿毛の幼い少女が視界に入る度に、その娘がショパンじゃなかろうかと確認したくなる程だった。だが必要以上に疑えば、職質の対象、またはその娘の母親からのフロントキックの的となる。それだけは避けたいものだ。

 

 他にあるとすればと、彼が最後に訪れた場所はゲームセンター。たまにお出かけと称して連れて行ってあげたことが何度かある場所。エアグルーヴと共にダンスゲームや、ホラーガンシューティングゲームに熱中していたあの姿が、今でも鮮明に蘇る。

 

 まさに今、プライズゲームに夢中になっている幼いウマ娘に、ショパンの影を重ねそうになった時、やたらに溌剌とした声が、彼の鼓膜を突く。

 

「フクキタル! ここにChopinイるんジャなかったんデスかー!」

 

「むむぅ……お告げでは確かにこの辺にと……」

 

「Hum アテにならないガラス玉ですネー」

 

「うぎゃはぁぁぁぁぁ!? だって仕方が無いでしょう! あのショパンさんに関するお告げ……シラオキ様が忌避されておられるのですから! ふんぎゃろおお!!」

 

「ショパン……? ねぇ、君たち」

 

 秋名は、そこに屯う数人のウマ娘たちに声をかけた。制服姿から察するにトレセンの生徒であることには違いないのだろう。

 

「あ! グルーヴさんのトレーナーさん!」

 

 そう声を上げたのはファインモーションだった。彼女は小さく手を振って、秋名の下へ駆け寄った。

 

「まさか、君たちもショパンを?」

 

 ファインモーションは頷いた。ショパンはきっと悪い子ではないと、秋名と同様の見解を述べてくれた。

 女子高生の同調に、安堵を覚える自分が少し情けないようにも思えたが、それでも秋名は彼女らへ礼を言った。

 

「ありがとう。でも、居なかったんだろう。もうじき日も暮れる。君たちは寮へ戻ったほうがいい」

 

「デスけど、Chopinは……」

 

「大丈夫、きっと僕が見つけ出すさ。そういえば、ファインさん。エアグルーヴは?」

 

 ファインモーションは静かに首を振り、彼女はずっと塞ぎ込んだままだと言った。

 

「早くショパンちゃんを見つけて、グルーヴさんと会わせてあげたい。ちゃんと二人でお話しをしてほしい……」

 

 秋名が頷いた時、ファインの背後から彼女のSPが現れた。これ以上の捜索活動は容認できないとのことだった。仮にでも、やんごとなき良家の令嬢。ショパンという疑わしき存在への積極的な干渉は、やはり忌避すべきというのが通念なのだろう。

 

 ファインモーションは力なく頷くと、最後に秋名へ、生徒会もショパン捜索に乗り出している。彼女らは何かと殺気立っているから、その前に早くショパンを見つけてあげてほしい。と残し、ゲームセンターを後にした。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 既に日も傾いた頃合い、結局どこを回れどショパンは居なかった。

 秋名は、その日をようやく観念し、自宅へと車を走らせた。未だエアグルーヴからの折り返しはない。

 

 マンションの駐車場へ車を停める。車を降りた途端、ちょっとした違和感が彼の第六感を擽った。妙な人影のようなものを感じた。

 

 自分は疲れているのだろうか。秋名はそれらに気づかないふりをすると、そのままエレベーターに乗った。5階で降りる。そして、渡り廊下を伝い、自室へ向かった時……。

 

 彼の部屋の前に、一人の少女の姿。足を抱え、ひどく俯いて。

 少女の特徴――黒鹿毛の幼い少女。

 

「……ショパン?」

 

 秋名が声をかけると、彼女はこちらを向いた。その瞳は、憂いに濡れていた。

 

「トレーナーさん……」

 

 秋名はその場に荷物を捨て、彼女の下へ。膝をついて頬に手を添えた。

 

「君は……今までどこに」

 

 ショパンは秋名の手に触れて、ごめんなさいと弱く言った。彼女の顔はひどく憔悴していた。食事も風呂も休息も満足できていない様子だった。

 

「ねぇ、ショパン……花壇を荒らしたのは君じゃないんだよね。今、学園じゃ騒ぎになってる。だけど、僕は君じゃないと信じてるんだ」

 

 率直をショパンへぶつけた。しかし、ショパンは首を大きく横に振った。

 

「ううん……私なの。私が、花壇を壊したの……」

 

 度数の強い酒を、ストレートで呷った時のような強い眩暈がした。眼鏡越しのピントが一瞬狂ったようにも感じた。

 

「どうして……」

 

「そうじゃないと……お母さんを助けられないから……」

 

 途端、ショパンは秋名の手を取り、問いかけた。

 

「ねぇ、トレーナーさん……。トレーナーさんのエンダン。もう一回できない……?」

 

「え?」

 

 輝きを失いかけた瞳がそういった。

 

「トレーナーさん……あの女の人と結婚して。お願い……お母さんのことを、好きにならないで……」

 

 ほろり、ほろり。彼女の頬を再び涙が伝っていった。彼は理解できなかった。彼女自ら破談を望んでいた筈なのに、今度はその逆を望んだのだから。

 

「何を言い出すんだ。……とりあえず落ち着こう、今部屋を開ける」

 

 だが、ショパンは訴えをやめなかった。

 

「お願い、トレーナーさん。おかあさんと結婚しちゃダメ。好きになっちゃダメ……お願い、あの女の人と結婚してよ……そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃ……おかあさんが死んじゃう……」

 

「死ぬ……?」

 

 少女の涙の量は増えていく。絶望に浸った幼い身体が、悲鳴を上げている。

 

「お母さんを助けて……お願い……」

 

 丁度その時だった、秋名の携帯に、一つの着信音。バイブレーションが主を揺さぶり、テクノ調のあざといメロディが己を主張する。着信の相手は、エアグルーヴ。

 

「僕だ。ああ……そう。ショパンなら、ここに」

 

 秋名がショパンへ視線を映す。ショパンは不穏な表情で、首を横に数回振った。

 

「エアグルーヴが君と話したがってる」

 

 ショパンへ携帯を差し出した。『ショパン。いるのか、そこに』そう、母の声が聞こえた途端、ショパンは携帯を叩き落し、秋名を背にその場から逃げ出す。

 

「ショパン!!」

 

 秋名はショパンの背を追った。彼女は非常階段を伝って一階まで駆け降りる。彼もそれに続いた。

 

「待ってよ! ショパン! 話をしてくれ!」

 

 車も少ない閑静な住宅街を駆け抜ける二つの足音。障害のないフラットなコースへと降り立てば、圧倒的に不利なのは秋名のほう。例え幼かろうと、相手はウマ娘なのだから。

 

 角を一つ曲がる度、二人の差が開いていく。追えば追うほど、ショパンの背が小さくなっていく。

 

 秋名の肺が悲鳴を上げる。ウマ娘のペースについていこうなど、無謀も甚だしい。ショパンの足音が、完全に彼の耳から消え去った。

 彼は両膝に手をついて、出来る限りの呼吸をした。顔中に滴る汗。その中の一滴は、瞳から溢れた不純物。

 

 それでも、秋名は踵を返すことはせず、ショパンの軌跡を歩いて追っていった。ひとつブロックを抜けた先は、大通りの幹線道路。夕暮れ時の渋滞が、テールランプの天の川を作っていた。道路を跨ぐ歩道橋に上って俯瞰するように街を見下ろす。然れど、ショパンの姿はない。完全に巻かれたのだと、ようやく理解した。

 

 歩道橋を降りて、帰路に着く。携帯は自宅前に落としてきたらしい。

 こつん、こつん。と、彼の乾いた踵の音が、雑多な街によく響いた。背後に居座る暮れ泥みの太陽が、じんわりと彼の背を焼く。まるで後ろ指を指されているような感覚だった。

 

 ショパンと話がしたかった。彼女を守ってあげたかった。助けてあげたかった。だけど何もできなかった。

 あの娘は何に怯えているのだろう。あの娘をそこまで追い詰めるものは何なのだ。辿り着くことの出来ない解に、あの娘の背中が消えていく。だが、秋名は一つだけ理解したことがあった。ショパンが花壇を荒らしたこと、秋名へ縋り付いたこと。エアグルーヴを拒否したこと。すべては、彼女の自傷行為なのだと。自分を陥れる為の、行動なのだと。

 

「いたぞ!」

 

 彼の目の前で、若いウマ娘たちの殺気立った声が聞こえた。

 ふと視線を上げれば、そこには淡い水色に包まれた制服姿のウマ娘たち――トレセン学園の生徒。

 

 彼女らは何かを急ぐように、住宅街の路地へと踏み込んでいった。ここはトレセン学園から少しの距離がある場所。何故、生徒たちがここへ。秋名は少女たちの背中を付けた。

 

「やっと見つけたぜ……手間ぁ取らせやがって」

 

 物陰に潜み、様子を伺う。彼女たちは何かを取り巻いている。

 

「ブライアン先輩の読み通りだ。『トレーナーの自宅周辺を張っていろ』ってサ。さぁて、悪いけどお縄だよ。……ショパンちゃん?」

 

 彼女らの視線の先にある姿――壁際に追い詰められたショパンの姿。両手を胸に携え、ひどく怯えている。

 

「あのォ……先輩方。あいつ、武器持ってるから戦うなって会長さんが言ってましたケド……」

 

「何だよウオッカ。ここまで来て腰が引けたなんて言うつもりか? ここでとっちめて、アタシらの手柄にすれば、ブライアン先輩からの株もバカ上がりってワケよ」

 

「でもォ……暴力ってのも……」

 

 そんな後輩たちを後目に、厳かに踵を鳴らす一人の高等部生が、ショパンの前に立った。おそらく彼女が、生徒会が派遣した精鋭分隊のリーダー。

 

「一応、事実確認。アンタ、本当に学園の花壇荒らしたの?」

 

 ショパンはこくりと頷いた。何故? と彼女が訊いても、ショパンは口を開こうとしなかった。

 

「喋りたくないならそれでもいい。正当な理由があるんだったら、私が庇ってもいい。だけど、学園には戻ってもらう。先ずはエアグルーヴ先輩に謝りな。一人で行けないなら、一緒に行ってあげる」

 

 彼女は少し腰を屈めて、ショパンへ手を差し伸べた。秋名には彼女らの会話が聞こえなかった。もう少し身を乗り出して、深く覗こうとした――悪手を踏んだ。

 

 足元に転がっていた空き缶が音を立てて倒れる。非常に耳のいいウマ娘たちは、それに気付く。

 

「……誰?」

 

 彼女が音に気を取られたその一瞬の隙を、ショパンは突いた。目の前の高等部生の脇をすり抜けて、本道へと駆け出そうとした。だが、分隊の一人の生徒に捕まる。ショパンは身を捩って抵抗した。

 

「こぉンのぉ……大人しく、しやがれって! あっ!」

 

 ショパンは、その娘の拘束を力尽くで振り解く。だが、その際の勢いを殺せずに、数メートル先で姿勢を崩して倒れこんだ。

 

「ショパン!」

 

 秋名は直ぐに彼女へ駆け寄った。彼女の服はもうボロボロだった。服だけではない。母から丹念に手入れをしてもらっていた鬣や尻尾、自慢のお耳でさえも。

 

 ショパンを直ぐに自宅へ避難させようと思った。だが、気が付けば、彼の周りを精鋭たちが固めていた。

 

 ファインモーションの言葉が蘇る。生徒会は殺気立ってショパンの捜索を行っていると。故に捕らえられた彼女に待ち受けるは、穏やかではないはずだと、秋名の直感が語った。

 

「ショパン……逃げて」

 

 ショパンを背において、秋名は立ち上がった。ウマ娘たちと対峙する形をとった。

 

「おとうさん……」

 

「早く!」

 

 ショパンは再び駆け出した。背後で幼い足音が遠のいていく。秋名はその足音を守るために、目の前の分隊へ臨戦態勢を維持し続けた。最も、人間がウマ娘に敵うはずもないが。

 

「確か、学園のトレーナーですよね。貴方。私たちは、生徒会からの指揮命令で動いている。だけど貴方はショパンを逃がした。捉え方次第では、学園に対する背信行為(うらぎり)ですよ」

 

「……だろうね」

 

 ショパンの足音がようやく消えたその時、秋名はふっと溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 



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DNAコミュニケーション

思えば、出来すぎた話だったんだ。

だって、普通に考えてみてよ。死んだ人に、会える筈なんてない。会っていい筈がない。

それこそ、御伽噺(おとぎばなし)の世界の話だ。

でも、私はお母さんに逢ってしまった。女神様に導かれて。

幸せだった。もう、どうしようもないくらい幸せだった。どうしてこんなに幸せなんだろうって、怖くなってしまうくらいだった。

お母さんと一緒に寝たお布団はすごく暖かかった。お母さんと一緒に食べたご飯はとても美味しかった。お母さんと一緒に掴んだ初めての勝利は、この上なく嬉しかった。お父さんと、お母さんと、私。三人だけで過ごした時間は、夢の時間だった。

私は、お母さんのことが大好きだ。

だから、お母さんには幸せになってほしかった。

だけど、私は取り返しのつかないことをした。

今更になって、ようやく知った。私のいた世界は、私がお母さんから未来を奪った世界なんだって。

私はお母さんを殺して産まれてきた。そうだ。私さえ産まれなければ、お母さんは死なずに済んだんだ。

でも死んだ。私が、そういう未来を作ってしまったから。

………………………。

そうだ。私がその未来を作ったんだ。だったら、出来る筈なんだ。







お母さんが死なない(ショパンが生まれてこない)未来を創ることだって。







……だったら、簡単な話だ。




嫌われてしまえばいいんだ。


大好きな大好きなお母さんから、嫌われてしまえばいいんだ。


お母さんを裏切ればいいんだ。お母さんが大切にしていたものを、壊してしまえばいいんだ。


『お前なんか、産んでやるものか』


そう、言われてしまえばいいんだ。そうすればきっと、きっと、きっと、きっと、きっと。


……私が、この世界に来た本当の理由がようやくわかった。お母さんに逢う為でも、想いを継ぐ為でも、お父さんとお母さん結ぶキューピッドになる為でもない。




……お母さんが死んでしまう(ショパンが生まれてくる)未来を、変えるためだ。



 

『17時24分、ターゲット(ショパン)接敵(コンタクト)。ですが、7分後にロスト。トレセン学園トレーナー、秋名 司の妨害によるものです。ターゲットの逃走を幇助。……彼、拘束しますか?』

 

「いいや、かまわない。大方予想はついた話だ。状況は分かった。今日の捜索は打ち切って構わない。帰投してくれ」

 

『御意』

 

 通話を落とすと、ルドルフは微かに笑う。それはどこか、引き攣ったような笑いにも見えた。

 何がおかしいと、ブライアンが不服気に問う。

 

「いいや、そうか。()もか。彼もまた、ショパンに狂わされた一人か」

 

「彼とは誰だ」

 

「秋名 司。エアグルーヴのトレーナーさ。ショパンの逃走を幇助したらしい」

 

「グルだとでも言うか?」

 

「いいや、彼もきっと我々と同じく周章狼狽に溺れている筈だ。だけど、見えない何かに衝き動かされている。エアグルーヴと同じように」

 

「勿体ぶるな。含み言葉は止めろ。見えない何かとは――」

 

「深く育まれた情、或いはDNAによって刻まれた本能」

 

 ルドルフではない、誰かの声がそういった。

 

 生徒会室に、僅かな風。それに乗せられやってくる、微かな薬品の香り。

 制服の上から、白衣を羽織る栗毛の姿がそこにはあった。

 

「アグネスタキオン……何の用だ」

 

 ブライアンがソファから立ち上がった。気の置ける相手が、また一人増えたと。

 

「ご挨拶だねぇ。今月分の成果物の提出に伺った迄さ。承認印をお願いするよ」

 

 彼女の脇に抱えられた論文の束。ざっと表題に目を通すだけでも、数本の研究項目。校内での研究活動を黙認する交換条件として、研究成果を学園へ提出、報告する義務が課されているのだそう。それは監視の意味も含むらしい。タキオンはそれを、会長席の隅にあるレターケースへと放り込むと、早く学会へ回したいものがあるから早急に頼むと残し、彼女らへ背を向ける。

 

 待て。とブライアンが栗毛の背中を言葉で引き留める。彼女は不敵な笑みを飾って振り返り、何かなと嫌らしく言った。

 

「DNA……どういう意味だ」

 

「デオキシリボ核酸。細胞内小器官内に存在する核と、人体の遺伝情報を担っている物質。児童向けの本では、生命体の設計図だという言い方をよくしているようだねぇ」

 

 一歩、ブライアンが足を踏み出した。これ以上半畳を入れればどうなるか、言葉無くしても伝わるだろうというメッセージ。タキオンは、口元を白衣の袖で覆い、くすりと笑う。

 

「DNAと本能には密接な関わりがあると言われている。遥か古より、生物は己の生命を守り紡ぐ為に、遺伝子の記憶として、本能を後世に授けた。鳥が自ら空を羽搏くように、下等動物が天敵を瞬時に見分けるように……親が子を、無償の愛で護るように」

 

 はぁ? とブライアンは訝しさを口から弾いた。ルドルフは机の上で手を組んだまま、タキオンのほうを見なかった。

 

「ショパン君という存在は、特異なものだ。エアグルーヴ君を母と慕い、その身元までもが一切のブラックボックス。当然、私やシャカール君が関心を抱かない筈がない。特に私は、ショパン君が何故エアグルーヴ君を母と呼んだのか、それが気になって仕方がない。このままでは紅茶の砂糖の量が増えてしまう」

 

 タキオンは、エアシャカールからくすねたであろうブドウ糖のタブレットを一つ、口に含んだ。

 

「短絡的に考えれば、手の込んだ悪戯、或るいは何かを狙った自己催眠(ダブルシンク)。だが、それにしては彼女の狙いが不明瞭すぎる。私は少しでも彼女を理解しようと珍しいお菓子(クッソ怪しい薬)おいしいジュース(但し七色に輝いている)で気を引こうとしたが、如何せんエアグルーヴ君の警戒心が強くてね」

 

 これは参ったお手上げだと、タキオンは両手をひらひら振って落胆する仕草を見せた。例え相手が不審ウマ娘であろうと、隙あらばモルモットにしようとする積極性だけは、見習う必要があるのかもしれない。

 

「行き詰った私は、渡せなかったお菓子とジュースを、私のモルモット君(哀れなトレーナー)に食べさせて、筋骨隆々で深夜のパチンコ屋のネオンのように輝く彼を見ながらふと思ったんだ。私は考察初期の時点から、視野を絞っていたのではないかと。研究者の技量というのは、造詣の深さよりも、視野の広さが重要視される。だから私は原点に返って、二つの前提から考え直すことにしたんだ」

 

「二つの前提?」

 

 タキオンはソファにどんと腰を掛けると、くいくいとティーカップを口に傾けるジェスチャーをした。だが、欲しけりゃ自分で淹れろとブライアンに一蹴され、掌を天井に向けた。

 

「……ショパン君が、嘘を吐いているのか、真実を述べているのか。この二つだ。私はずっと前者を前提に考えを進めていた。後者を反証も無しに否定していたんだ。実に愚かだ。だから私は」

 

「待て……後者というのは、エアグルーヴがショパンの母親だと認める前提だということか」

 

「その通り。そう考えたら不思議なことに、色々と腑に落ちるんだ。ショパン君がエアグルーヴ君を母と慕う理由はもちろん。エアグルーヴ君自身が、ショパン君に自身でも理解が追い付かない程の深い愛情を抱いてしまう理由だって。二人の間にあった愛情は、単なる精神的な愛情(プラトニック・ラブ)なんかじゃない。それよりももっと深い、互いのDNAの同調が手繰り寄せた、本能によって仕組まれた愛(DNAコミュニケーション)。そしてそれが、彼女のトレーナー、秋名君にも当て嵌まってしまったということだ」

 

「ばかを言うな! 二人の年齢を考えてみろ。それが事実だというのなら」

 

 パチン。とタキオンは指を鳴らし、待ってましたと言わんばかりの嬉々とした表情を掲げ、ブライアンを指差した。

 

「そうだ! そこがミソ(・・)なんだ! 二人の年齢差は、見積もっても6歳から7歳程。つまりはエアグルーヴ君が5・6歳くらいの頃に性行為を済ませ、その10カ月前後に出産したという事実が必要になる。記録では、1933年に5歳と7か月で子を産んだ人間も居る。全くあり得ない話ではない……が。あらゆる産婦人科や出生届の履歴を辿ろうと、エアグルーヴ君が子を産んだどころか、幼少の女性が子を産んだ事実すらも見つからない。幼い出産とは言ってもせいぜい14歳とかそのくらいだ。孤立出産という可能性も0ではないが……ここでは名誉を優先しよう」

 

 わざわざ調べたのかと呆れ果てるブライアンに、情報を揃えることも私の仕事だ。とタキオンは笑った。

 

「エアグルーヴ君は子を産んでいない。だが、ショパン君との血縁(DNA)が確実となる条件。そこで私は、一つの仮説に至った。……ショパン君は、未来からやってきた未来人だという説だ」

 

 ぐらりと、目の前が鈍る感覚をブライアンは覚えた。口に咥えていた枝はぽろりと落ちて、拾う気にすらなれなかった。

 

「ははは。ぶっ飛んでいるだろう? シャカール君の頭痛すらも引き起こした程の仮説だ。だが、全くの無根拠というわけでもない。この説には実に面白いオマケがある。そうだろう? 会長」

 

 タキオンはずっと無言を貫いていたルドルフへ視線を向けた。ルドルフは会長席の引き出しを開けると、一枚のICカードを取り出し、タキオンへ投げた。

 

「"存在しない筈の学生証"ご覧よ、この西暦を。"滅茶苦茶"だ。今よりも、ずっと未来。遥か遠くの世界だ。そして、これが偽物の学生証であるとは、誰一人として証明できなかった」

 

 タキオンはそれを掲げ、大きく天井を仰いだ。その顔は興奮に満ちていた。

 

「なぁ、会長。聡明な君なら、きっと私と同じ解に辿り着いているはずだ。……ずっと前から、何なら私より早く辿り着いていたかもしれない」

 

『ショパンが一切として嘘を言っていないという説だ。勿論、あり得ないがね』

 

 ルドルフの零したセリフを、ブライアンは思い出した。

 

「勿論、これはあくまで仮説に過ぎない。私の恣意的な解釈が交じっていることも否定はしない。論理飛躍もあるかもしれない。だから、私は会長に言っていたんだ。仮説の検証の為に、二人のDNAを調べないかとね。しかし彼女、頑なに首を縦に振らないものだから、参ってね」

 

「……エアグルーヴの名誉もある。軽率にできる話じゃない」

 

「違う。君は恐れているんだ。この仮説が立証された場合に起こる、この世界の混沌を」

 

「君は恐れないというのか。アグネスタキオン」

 

「混沌よりも好奇心。それが悲しくも、研究者の性だ。私は興奮が止まらないよ。あの娘の証明が済めば、この世界は大きく変わる。……ああ、堪らない! 私の中に、得も言われぬ情が蠢いている!」

 

「マッドサイエンティストめ……」

 

「それがいつも世界を発展させたんだ。私たちはいつもその恩恵の上に胡坐をかいていることを忘れてはならないよ。さて、ショパン君の捜索だが、私も手を貸そうか? ちょうど、ポッケ君のお友達も暇を持て余しているようだからねぇ。見返りは……あえて言うまい」

 

 タキオンはルドルフを一瞥し、腰を上げようとした。その時に、ブライアンの荒んだ視線に気が付く。それは、負の感情由来によるものなのだろうか。タキオンは一言、何かなぁと言った。ブライアンは、タキオンの襟を掴んで言った。

 

「ショパンが……未来人だと? そんなばかげた話を信じろとでも言うつもりか」

 

「まさか。信じるも信じないも、私は仮説を立てたに過ぎない。しかし良いだろう、未来人とは。実に夢がある。もし本当だとすれば、未来ではタイムトラベルが実現しているのかもしれないんだよ」

 

「……イカれてる。未来人なんか、有り得る筈がない」

 

「反証のない否定は一番の愚行と知り給え。人類はいつも、その"有り得ない"を覆して今の科学を築いてきた」

 

「言ってろ……! 私はそんな妄言に付き合うつもりはない。お前の助けもいらん!」

 

「そうかい。残念だ」

 

 ブライアンがタキオンを突き放した時に、再び生徒会室の戸が開いた。学園の一般の生徒だった。彼女は血相を変えて、三女神像の前で誰かが倒れていると言った。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「ショパン。いるのか、そこに」

 

 彼女がそう言った途端、携帯の向こう側で、秋名の携帯がコンクリートへ叩き落される音が聞こえた。

 

『待ってよ! ショパン!!』

 

 彼の足音がその場から遠のいていく。秋名はショパンを追いかけたらしい。相手が居なくなった通話を、エアグルーヴは静かに切った。

 

 制服を着た彼女は、再び学園へと戻っていた。左手に、ショパンが残したペンダントを握りしめて。チェーンは未だに壊れたまま。

 

 徒然なるように歩き、漂った先は花壇。今は規制線が張られ、その中は未だ荒れ果てたまま。彼女は規制線を潜り抜けると、花の死骸たちを弔う為に、手で拾い集めた。

 

 花壇に腰を屈めていると、ショパンと世話をしていたあの日々の記憶が蘇る。グルーヴとショパンとフラワーと美化委員の有志達。皆で顔に土をつけながらも、花々の成長を見守っていた。

 

 花壇の花には、ひとつひとつ手製のネームプレートが添えられている。これはどんな花か、どんな特徴があるのか、花言葉は何か。そんな情報が手書きで記されていた。

 

 菫が咲く場所にも、それはあった。ショパンの直筆で、菫の漢字がわからないから『すみれ』とひらがなで書いて。そのネームプレートの隣に、もう一本小さなプレート。そこには大きく『ショパンが育ててます!』と書かれていた。一本プレートが余ったからと、美化委員の一人が粋な計らいを施してくれたのだ。

 

 ショパンは面映ゆい顔をしながらも、それを気に入ってくれていた。でも、それももう。

 

 死んだ菫を両手で集める。彼女の両手を、菫色が満たす。それらを一か所に集めたときに、ふと気づく。土の中に、ラミネートで加工された小物があることに。それは、本来は長方形の形をしていたのだろう。しかしそれは、鋏で真っ二つに割かれていた。

 

 二つを組み合わせると、形が見えた。一か所に穴をあけて、リボンを通した栞だ。

 ショパンが育てた菫で作った手作りの栞。綺麗に映えた、菫の花弁たちがいくつも顔を覗かせていた。

 

 栞の裏には『エアグルーヴ先輩へ ショパンより』と小さく書かれていた。

 

 ……ほろり、ほろり。と、エアグルーヴの目尻から少量の汗。知らぬうちに愛してしまっていたあの日常が、もう戻ってこないことを知ったときに、それが流れ出た。

 

 狂っている。そう、私は狂ってしまっている。氏素性もわからぬあの娘に愛情を覚え、裏切られた。それでもまだ、あの娘のことを、心が求めてしまっている。その自覚が彼女にはあった。

 

 どうして、こんなにも苦しいのだ。どうして、あの娘は、あんなにも愛おしいのだ。

 どうして、私は狂ってしまったのだ。どうして、どうして、どうして。

 

 

 私にとって、ショパンとは、何なんだろう。彼女は膝をついたまま、瞳を閉じた。

 

 

 ……お母さん。

 

 

 エアグルーヴは目を開いた。誰かが彼女を呼んだ。

 彼女は立ち上がって周辺を見渡した。しかし、それらしい人物は誰も見当たらない。

 

 

 ……おかあさん。ここだよ

 

 

 まただ。また、鳴った。聞こえる、否、その声は彼女の鼓膜を揺らしていない。でも、聞こえる。

 

 すべてを見渡す。そして、一つのそれらしい解が、彼女の視界に入る。

 

 ひたひた。しとしと。優しい水の音。それは安らぎの夜想曲であり、慈愛の讃美歌。それらを慎ましく唄う、三体の偶像(アイドル)

 

 

「三女神……?」

 

 ……おかあさん。おかあさん。

 

 聞こえる。あの娘の声が。三女神のほうから。

 

 エアグルーヴは糸に惹かれるように、そちらへ一歩、また一歩。

 

 女神像の麓まで来たときに、エアグルーヴは彼女たちを見上げる。そこにある、無機質に覆われた優しい微笑み。それが何を言わんとしているのか。

 

「三女神……なぁ、教えてはくれまいか。ショパンとは何者なんだ。どうして私は、あの娘を求めてしまうのだ。……知っているのなら、教えてほしい」

 

 気が付けば目を閉じていた。ふっと、自嘲する吐息。私は何をしているのだ。何を三女神に祈っているのだ。そんなことを訊かれたって、彼女たちも困るに違いないというのに。

 

 すっかり弱ったな。女帝が。そう心でつぶやいて、瞳を開けたとき。

 

 

 彼女は目にした――虹色に輝く、女神の泉を。

 

 

「…………?」

 

 

 目の前は、現実か。或いは、未だ瞑想の中にいるのか。でも……。

 

 さらりと水を触った。感触は、なんら普通の水と変わらない。だから、手を入れた。……程なくしてだった。

 

 

「――――!?」

 

 

 声を出す暇すらなく、彼女は、泉の中へと誘われた。

 

 

 

◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 

 

 満たされる。肺が水で満たされる。女神の泉の中で、彼女は漂う。

 

 虹色だった泉、いざ中へ入ってゆけば、陰鬱で先行きの見えない闇夜。そこは、上も下も、右も左も何もない無次元。

 

 彼女の周りをオーブのような光の玉が哀しく回遊する。それらに手を伸ばす。触れた瞬間にそれは儚く散る。

 

『おかあさん……』

 

 聞こえた。また、聞こえた。あの娘の声。

 

 どこから、どこから聞こえるのだ。ふわふわとした温かい不安の中、彼女の声を意識で辿る。

 そうすれば、周囲のオーブたちが一つの群れを形成する。彼らの集合は、やがて強い光を生み出し、スクリーンとなって、エアグルーヴへとある景色を見せた。

 

 淡い、セピア色のような景色だった。そこはとある病室。中央に一台の大きな医療ベッド、周辺には点滴台だとか、無影灯だとか。少し離れた場所には、小さなベビーコット。そこが何処なのか、おおよその予想はついた。

 

(分娩室……?)

 

 そして、その中央の分娩台に横たわる一人のウマ娘。彼女は激しい微睡に襲われている。

 一人の男性が、小さな赤子を抱いて彼女の下へ。赤子は男性の腕から、ベッドに座るウマ娘の胸元へと、やさしく渡された。

 

(ショパン……)

 

 エアグルーヴは、その赤子がショパンであると直感で理解した。生まれたばかりの姿、未だ耳や尻尾すらも不十分だというのに、それでも。彼女はショパンであると確信した。

 

 その赤子は、どうしても愛らしかった。今すぐこのスクリーンを突き破ってでも、その赤子を抱きに行きたいくらいだった。

 

 最後に、その赤子を抱く母親ウマ娘の姿がはっきりと見えた。エアグルーヴは彼女の姿に、言葉を忘れた。

 

 だって、その赤子を抱いていたのは――自分自身(エアグルーヴ)だったのだから。

 

 その時に、ようやく、ようやく。一つの解が、彼女の中へと舞い降りた。

 

 

(ショパンの母親は……わたし……? 私とショパンが……母娘(おやこ)……?)

 

 

 水で満たされた肺から、言葉を吐き出したかった。だが、それもままならない。だから彼女はそちらへ手を伸ばした。

 

 その彼女の手を、誰かがとった。

 

 

◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 

 

 彼女の手を取った何かは、深い闇夜の海原から、エアグルーヴをビーチへと引き上げた。

 

 しかし、海から這い出ようとも、そこの天気は大きく荒れ果てていた。大雨が辺りを覆いつくし、風は吹き荒れ、遠くで落雷すらも聞こえた。

 

『酷い有様だな……』

 

 砂浜に這い蹲り、未だ混沌の中で溺れるエアグルーヴへそう言ったのは、一人の淑女だった。

 彼女は、遠くの空を憂いて見詰め、後悔を嘆くようにそう言った。

 

 エアグルーヴはその場から立ち上がろうとした、だが、どうも足元がおぼつかない。がくりと膝が折れ、その場に沈みそうになる。しかしそれを、淑女の肩が救った。

 

 淑女の助けあって、なんとか自力で立ったエアグルーヴ。淑女の横顔を見たときに、この場所を理解する。

 

「おまえは……」

 

『言ったろう。おまえ(・・・)ではない。わたし(・・・)だと』

 

 砂浜と淑女。夢で見ていた、あの場所。

 

 そして、その淑女。それは、エアグルーヴ自身。今よりも少しだけ熟れた姿。既視感にようやく合点がいく。それは――ペンダントの中の彼女の姿。

 

 大雨に濡れた淑女は、エアグルーヴの隣でただひたすら立ち尽くし、彼女へ言った。

 

『あの娘が一人で泣いている。あの娘はまだ、一人で歩くことが出来ないんだ。頼みがある。あの娘の涙を拭いてあげてくれ。もう一度この世界(・・・・)に、光を齎してくれ……』

 

「この世界……」

 

 それは、このビーチのことを言っているのか。

 エアグルーヴは訊いた。

 

「あの娘は、何に怯えているんだ。あの娘の涙の理由は何だ」

 

『あの娘は自分自身の存在を恐れている。そして、自分を以て贖おうとしている。間違いだ。それは大きな間違いだ。あの娘は自分の命を罪だと思っている』

 

「何があったんだ。あの娘に」

 

『……あの娘は生まれと同時に、大切なものを喪ったんだ』

 

「大切なもの……」

 

『すべてはあの娘に聞くといい。そして、女帝(わたし)の答えを、あの娘に授けてあげてくれ』

 

 淑女はエアグルーヴの左手をとる。彼女の手には、壊れたペンダント。それを両手で包み込むように握ると、そこが僅かに光った。

 

『あの娘は思い出の場所(向日葵畑)にいる。今もずっと、哀しみに凍え続けている。未来(わたし)ではもう、あの娘を抱きしめてあげることができないんだ!……だから、過去(わたし)のその腕が、温もりが必要なんだ。あの娘に教えてあげてくれ。お前の命は、決して罪ではないと』

 

 訴えかけるように、淑女は言った。そこに少しの涙があったのかもしれない。だが、すべては大雨に流される。

 

「教えてくれ……ショパンは本当に、私の子なのか……?」

 

 淑女は微かに微笑んで言った。

 

 

 

『もう、気づいているくせに。……ずっと前から』

 

 

  

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 …………ヴ!

 

 

 ……グルーヴ!

 

 

 ……丈夫か?

 

 

 

「――ッ!?」

 

 

 覚醒したエアグルーヴを迎え入れたのは、トラバーチン模様の天井だった。

 少しだけ硬質なベッドが、彼女の全てを支えている。そこが保健室だと気づいたのは数秒後のこと。

 

「エアグルーヴ!」

 

 そう名を呼んだのはルドルフだった。少しだけ狼狽した皇帝が、そこにいた。

 

「かい……ちょう……」

 

 続いてエアグルーヴの顔を覗き込んだのは、アグネスタキオンだった。

 彼女は、両手でエアグルーヴの顔を支えると、視線も正しい。目立った外傷もない。異常はなさそうだといった。

 

「私は……」

 

「三女神像の前で倒れている君を、生徒が発見したんだ。一体、何があったんだ」

 

 ルドルフはエアグルーヴの手を取って、そういった。その手の中には、硬い感触があった。エアグルーヴが手を開くと、そこには一つのペンダント。

 ……いつの間にか、チェーンは直っていた。蓋を開くと、そこには向日葵畑を背に、こちらを微笑む淑女の姿。

 

『頼みがある。あの娘の涙を拭いてあげてくれ』

 

未来(わたし)ではもう、あの娘を抱きしめてあげることができないんだ!……だから、過去(わたし)のその腕が、温もりが必要なんだ』

 

 その言葉が蘇った。

 

 エアグルーヴは、ルドルフの問いに答えず、ベッドを降りた。

 そして無言のまま、保健室の扉へ向かった。しかしそれを、ブライアンが遮った。どこに行くつもりだと言って。

 

「あの娘のところだ……私は、行かなければならない」

 

 途端、ブライアンはエアグルーヴの両肩を掴み、言った。

 

「もう、あの子供のことは忘れろ! いいか、何度も言わせるな。ショパンは私たちの仲間なんかじゃない! 何故だ。何故お前ほどのウマ娘が、そうまでしてあの子供に拘る。……何かされたのか? 弱みとか握られているのか?……そうであれば私に言え!……私がお前を救ってやる。だから……!」

 

「ありがとう……ブライアン。でも、そんなのではない」

 

 エアグルーヴの瞳は、据わっていた。何かを悟っているかのように、落ち着いていた。

 

「じゃあ……じゃあなんだ! 会長も言った筈だ! もうこれ以上、お前はこの件に関わるなと! なのに、何故……。教えろ……あの子供は……お前の何なんだ!」

 

 エアグルーヴの肩を揺さぶって吠え続けた。もうこれ以上、エアグルーヴが狂う姿は見たくないという祈りが籠っていたのかもしれない。

 

 

 

 だが、エアグルーヴは言った。ブライアンの琥珀の瞳を、静かな灰簾石の瞳でじっと見つめて。

 

 

 

 

 

 

「あの娘は、ショパンは…………………………私の子だ」

 

 

 

 

 

 と。

 

 

 



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If... 

 

 

「ンで、どこに居ンだよ。我が愛しきカイチョー様は」

 

「さぁ。西の丘(ここ)に居るってLANEだけは来てんだけど、そっから全然既読つかない」

 

 とある丘の砂砂利を踏み締める120/70Z R17のリアタイヤ。右側面を彩るチタンマフラーが、直列4気筒のパワートレインを修飾する。それに跨る二人のウマ娘、制服のスカートからすらりと伸びた左脚が、188kgの車重を踵で支える。

 

「ンーだよアイツ! いっつもLANE読めっつってんのによォ! ってかなんだよ西の丘って。いつもの"お散歩"にしちゃ、いくら何でも遠くねぇか?」

 

 システムヘルメットのスクリーンを開けて、現トレセン学園の副会長クライスラーは、バイク(ZX-4R)のハンドルに固定されたスマホのナビをグローブの上から触る。ざっと学園からは20km前後の距離が示される場所。いつもメルセデスが言う『ちょっとそこまで』にしては、聊か距離があることは確かだった。

 

「なーんか……既視感」

 

 バイクのタンデムで、同じく生徒会副会長のロータスが呟く。彼女はヘルメットのチンガード*1を解除させ、その色白の顔を風に晒す。

 

「ああ? お前来たことあんのか?」

 

「いいや、なんだっけな」

 

 ロータスはスマホの画面をLANEからWebへと切り替えて、この西の丘の画像を検索する。それでヒットしたのは、畑を覆いつくす程に咲き誇る向日葵の群生。その画像に、彼女は腑に落ちたと声に出す。

 

「ねぇ、アンタ。ショパンがさ、いっつもペンダント首から提げてたの知ってる?」

 

 藪から棒に、ロータスは何時もの気怠いトーンで、クライスラーへ訊く。

 

「へ? いや、しらねーけど」

 

「ほらこれ」

 

 ロータスはタンデムから腕を回し、クライスラーへニュースの画像を見せる。『失踪から約1ヵ月。最早生存は困難か』という見出しと共にそこに映る、行方不明の黒鹿毛。その少女の胸元には、きらりと光るロケット・ペンダント。

 

 ああ、ほんとだ。と呆けたように言うクライスラーへ、ロータスは続ける。

 

「アタシさ。このペンダントの中、見たことあるの。あの娘のお母さんの写真だった」

 

「お母さんって、エアグルーヴのこと?」

 

「そ、向日葵畑背景(バック)にしてさ。ここの西の丘、季節になるといっぱい向日葵が咲くんだってさ」

 

「あー、言いてぇことが何となくわかった。だから会長もここに来たってコトか。成程……ンで? その肝心の会長は何処だ?」

 

「知らん」

 

 ばか! そこだろうがよ! と嘶くクライスラーに、ロータスは吾知らぬと、再びヘルメットのチンガードを装着した。その時に、ロータスの握りしめたスマホがバイブレーション。通知の相手は、二人の愛しきヒト。

 

 あ、会長だ。とロータスが言った瞬間、クライスラーはロータスのスマホを奪い、開口一番に嘶いた。

 

「オイ! 会長(メルセデス)! オマエ何処に居ンだよ! 定例会議すっぽかしやがって、寮にも戻ってこねぇし!」

 

『ごめんなさいクライスラー! こんなに時間が経ってただなんて思ってなくて』

 

「……まぁいいや。アンタまで行方不明だとか言われちゃ、マジでシャレになんねぇからサ。で、どこに居るんだ?」

 

『支援センターです。牧野さんに会いに』

 

 その瞬間、クライスラーが酷く苦い顔をした。スマホをその場から放り捨てようとするが、あくまで友人のスマホ。

 

「いいじゃん。アンタの故郷でしょ? 牧野さんと会話したら? 元問題児(クライスラー)

 

 とロータスが背後から半畳を入れ、ジョーダンじゃねぇやとクライスラーは水を切るように手を振った。

 

『お二人は、いま何方へ?』

 

「ああ? 西の丘だよ。ロータスにそこ行くってLANE残してたろ。だからわざわざ探しに……?」

 

 背中に感じる違和感。それは、女性特有のふわりとした柔らかいふたつ(・・・)。ロータスはタンデムから深くクライスラーの背中に縋り、少しだけ震える。

 

「おいロータス。こんな所で何だよ。ちょっとジブンの(・・・・)がデカいからって、俺への当てつけのつもりか!?」

 

 ロータスが再びヘルメットのチンガードを外す。ただでさえ、白毛由来の色白な彼女。その顔が一層蒼白としていた。

 

「なんだ……。おまえ、バイクで酔うやつだっけか?」

 

「わかん……ない……きゅうに……きぶん……」

 

『……どうしました? ロータス? クライスラー?』

 

「いや、わかんねぇ。 急にロータスが具合悪い……って……」

 

 異変は、クライスラーの身にも訪れる。急に視界に靄がかかり、空の一斗缶を強く叩いたときのような衝撃が、頭の中を駆け抜けた。

 

「あ……っが……なん……だ? 頭が……」

 

 ヘルメットの上から側頭部を強く押さえる。片手では足りないと、その手は両手になる。

 

 そして、ZX-4Rを支えていた彼女の左脚が緩む。ついには、その車重を支えきれない程にまで緩み――。

 

 

 向日葵畑に鳴り響いたのは、金属が地面に叩き付けられる鈍い音と、FRP製のカウルが割れる音。

 

 

『ロータス!? クライスラー!? 二人とも、何があったんですか!?』

 

  

 スマホのスピーカーから、空しく響くメルセデスの狼狽。

 

 タンデムから投げ捨てられたロータスは、必死の思いでヘルメットを脱ぎ捨て、その場に内股を着いてへたりと座り込み、茫然自失とその場から動けなかった。

 

「おい……だい……丈夫か?」

 

 クライスラーも同じくヘルメットを脱ぎ捨て、ロータスの傍へ。そして、彼女は言った。

 

「ねぇ……ここって、何だっけ……」

 

「おいどうしたんだよ。ここって、ひまわり……あれ……?」

 

「ここに向日葵畑なんて……あったんだっけ……?」

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

「これ、一応、応急処置のつもり」

 

 牧野から手渡されたCDケース。割れた部分にセロファンテープの包帯。これ以上傷が広がらないようにと施されたそれを、秋名は受け取る。

 

「有難う御座います……」

 

 しかし、その瞳は未だに憂いを解けない。

 

「修理ついでに、中身も拝見しました。……正直、私SFとか得意じゃないんですけど、こんなことって本当にあるのかしら」

 

「牧野さんは、どこまで信じますか?」

 

 秋名が訊いた。

 

「……わからない。全部本当かもしれないし、全部嘘かもしれない。そういう秋名さんは?」

 

 彼はCDケースを両手で持つと、静かに呟くように言った。

 

「僕は、妻を信じたい。僕は彼女の杖だ。如何なる時も、女帝に尽くすためにあらん。若かりし頃にそう誓った。彼女が信じろというのなら。僕には信じる道しか残されていない」

 

「……娘さんはタイムトラベラーか。不謹慎かもしれないけど、ちょっと素敵かも」

 

 秋名が鞄にCDケースを仕舞い、牧野へ頭を下げた。

 

「この先、どうするつもりです?」

 

 牧野が訊いた。

 

「娘の帰りを待ちます。ずっと、何年でも」

 

 そう言って、エントランスへ向かった時だった。

 

「ロータス!? クライスラー!? 二人とも、何があったんですか!? 返事をなさって! 二人とも!!」

 

 絹を裂くような叫びが、エントランスに轟く。それはメルセデスの声だった。彼女は通話相手が消えたスマホを胸に抱くと、途端その場から外へ駆け出す。

 

「会長さん!」

 

 その背中を秋名が追う。彼の声に気づいたメルセデスは踵を返し、彼の両腕を掴んで、らしくもなく取り乱す。

 

「秋名さん! もう一度、向日葵畑へ連れて行っては頂けませんか!」

 

「落ち着いて。一体どうしたの」

 

「私にもわからない……ただ、ロータスとクライスラー(副会長たち)の身に、何かがあったようなんです! お願いします……!」

 

 秋名と牧野は視線を合わせた。先の不穏は、未だに続いているのかと。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 暮れ泥む幹線道路を、一台の北欧車(4WD)が駆け抜ける。48Vハイブリッド+直列4気筒ターボの咆哮が、車内にまで轟くようだった。

 

 信号が青になる度に、パーシャルスロットルでスタンディングスタート。品行の良いドライビングとはいかないが、事は急を要している。頻繁に車線変更を繰り返し、信号も黄色なら滑り込む。法定速度を遵守できているかも怪しい。

 

 秋名の車(ボルボ)の後を追うは、赤い一台のアルファロメオ・ジュリア。道路照明灯の下を潜り抜ける毎に、ドライビングシートでステアリングを握る牧野の姿が、ルームミラーモニターから見えた。

 

「秋名さん」

 

 不安を纏う彼女の声が、ナビシートから。

 

「大丈夫。あと、15分もあれば」

 

「いえ……。先程の調書とCDケースの破損。そして、二人の異変。全て、偶然で片付くと思いますか?」

 

「……思わない」

 

 ウインカーを弾いて、ステアリングを切り込む。車内にGが掛かるのが感じられる。

 

「貴方は信じますか。ショパンが過去にいると言われて」

 

「さっき牧野さんとも同じ会話をした。僕は妻を信じたいと答えたよ」

 

「では、ショパンが過去に居るものとして、少し話をしませんか」

 

 メルセデスは失礼と一言置いて、カーナビのオーディオを落とす。陽気なパンクロックは鳴りを潜め、代わりに訪れるは、この車のパワートレインのサウンドと、二人の沈黙。

 

「ショパンが過去にいるもの……」

 

「何故ショパンは、過去へ行ったのか。そして、何をしようとしているのか。この際です。過去へ行った手段は置いておきましょう。肝心なのは」

 

「ショパンが過去で何をしているのか」

 

 秋名は頻りにルームミラーとサイドミラーを確認する。この車を追ってくるのは赤いアルファロメオのヘッドライトのみ。赤色灯の姿は今のところない。

 

「仮にです。秋名さん。貴方が過去へ戻れたら、何をしますか」

 

「……妻を助けたいよ。悲惨な運命を避けられる手立てを考えたい。そんなことは、ずっと考えてた。タイムマシンがあったらなとか本気で考えた日もある。だけど、彼女を救う道は」

 

「ショパンとの引き換え」

 

 隣でメルセデスが囁いた。秋名は僅かに沈黙を過ごし、再び語った。

 

「ひとつ、思うことがある。彼女の母、義母も言っていたことだ。エアグルーヴの残したメッセージ。それらを全て信用するというのなら、彼女はこの未来が来ることを全て知っていたということだ。自身とショパンの命が引き換えになることを。……仮にショパンの出産を帝王切開にでも切り替えてでもいれば、また未来は違っていたかもしれない。でも、彼女はこの未来を避けなかった」

 

 秋名が語った後に、メルセデスは懐からとある詩集を取り出し、ページを捲った。

 

「"湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく。目に映るのは、過去の風景ばかり。明日の景色は誰も知らない"――ポール・ヴァレリーの一節です。後退(過去)は既知、前進(未来)は未知であることを詠った詩。しかし、エアグルーヴさんにとっては、この未来こそが既知(過去)であり、他の未来(選択肢)全てが未知であったということ」

 

 メルセデスは詩集を閉じると、自らの下腹部に手を添えた。

 

「私は未だ、子を儲けたことはありません。しかし、何れ受胎し、自分の子を想うようになったとき、こう思うかもしれません。『このお腹の子へ、確実な未来を授けられる為には、どうしたらいいのだろう』と。確かに今の時代、帝王切開等も選択肢としてはあります。ですが、子に伴うリスクも確実(ゼロ)ではない」

 

 フロントガラスから流れゆく街の景色に、自分の未来を重ねるような視線。それを以て彼女は続けた。

 

「ですが、エアグルーヴさんにはたった一つだけ開かれた道があった。ショパンをこの世へ、何の障害もなく、確実に送り出すことのできるたった一つの未来を知っていた」

 

 段々と、秋名の呼吸が荒くなる。ステアリングを握る手が、微かに震えていた。

 

「それが……今の未来……」

 

「全ては、ショパンの為に」

 

 秋名は呼吸を詰まらせる。ここに来てようやく知った、妻の残酷な程に、優しすぎる(エゴ)

 フットブレーキに足を乗せ、車を停めようかとも思った。だが、意地でもアクセルを踏み続けた。

 

「話を戻しましょう。先ほど秋名さんも仰られたように、過去へ戻れるのなら、悲惨な未来を抱える者たちは皆、その未来を変えるための思想を抱くでしょう」

 

「妻を助けたい……ショパンも、同じことを」

 

 メルセデスはこくりと頷いて、続けた。

 

「ええ。きっとショパンも、同じことを考えるのではないでしょうか。大好きなお母さんを、守るための行動を。どうすれば、エアグルーヴさんが生存できる未来を創ることが出来るのか」

 

 ぞくりと、秋名の背中に悪寒が走る。

 

「まさか……」

 

「私たちの身の回りで起きている不思議な現象。ショパンが過去から未来へ向けて影響を与えていることだとしたら」

 

「あの娘は……! まさか、自分が生まれてくる未来を変えようとしている……!?」

 

「可能性はあります……だから、早……く……あれ? え……と?」

 

 メルセデスが突然に頭を抱え、呻くような声を上げた。酷い頭痛に苛まれているようだった。

 

 どうしたのかと、秋名が問う。

 

「私たちって、今どこへ向かって……? 西の丘……何が……あるんですっけ……?」

 

「しっかりしてくれ! 向日葵畑だ! そ……う……」

 

 秋名の脳内にも、靄が掛かるようだった。先程まで明確に描かれていた向日葵畑の記憶が、上から塗り替えられていくような感覚を覚えた。

 

 車を路肩に停めて、彼はサンバイザーから写真を取り出す。向日葵畑の妻の写真。だが、その写真から背景が溶けてゆく。消えてゆく。

 

「エアグルーヴ……ショパンが……くそ……くそおおおおおお!!!!」

 

 ボルボの後ろに停まったジュリアから、牧野が側頭部を押さえ、体の軸をゆらゆらと揺らしながら、駆け寄ってくる。そして、秋名とメルセデスの様子を見て。

 

「私だけじゃないのね……」

 

 と、失意を零した。

 

 

 

 

*1
ヘルメットの顎にあたる部分。システムヘルメットはここが可動する



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詛呪された未来 

 

「ショパンは………………私の娘だ」

 

 

 エアグルーヴが静かに言った。それは細く儚いが、確かな芯の通った声だった。

 

 ブライアンは7秒ほど、瞬きや呼吸すらも忘れた。瞬間的に思考すらも止まった。

 

 

「……………は?」

 

 

 それでも、エアグルーヴの瞳は狂ってはいなかった。ただ、静謐に。ただ、哀愁を秘めて。

 

 

 最後に一言、すまないと言って、彼女は保健室を後にした。

 

 

 寂寞が犇めく保健室。タキオンだけが燻るように笑う。わざわざDNAを調べてやるまでもなさそうだとルドルフの背中へ言った。ルドルフはただ、沈黙のドレスを纏う人形のように、その場に立ち尽くした。

 

「彼女、追わなくていいのかい?」

 

 タキオンは続けてブライアンへ語った。彼女はただひたすらに俯き、やがて強く握っていた拳を開き、パイプ椅子へと深く掛け。

 

「……少し、疲れた」

 

 ただ一言、そう言った。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 コン、コン、コン、コンと正確なメトロノームのように、彼女の踵から全拍子のリズムが飛ぶ。一刻でも早く、あの娘の場所へ。糸に惹かれるように、導かれるように。

 

 昇降口を目指し、踵を鳴らし続ける。

 

「エアグルーヴ!」

 

 そこに合流する男、僅かに息を切らし、彼女を呼び止める。

 

「トレーナー……」

 

「君が倒れていたと連絡があった。体調は」

 

「いや、問題ない。それよりも、行かなければいけないところがある」

 

「どこへ?」

 

「……その前に一つ、訊きたい。トレーナー。貴様は何処まで、ショパンを信じられる」

 

 エアグルーヴがそう問いかけた。彼女の口からは、幾度となく飛び出ていたショパンの名。今回ばかりは、その重みが違っているようにすら感じられた。

 

「どこまで……そうだな」

 

 僅かに返答に困る秋名へ、エアグルーヴは続けた。

 

「例え、私が狂乱したものと思ってくれてもいい。だが、私はあの娘のことを信じたい……」

 

 哀愁の瞳が、僅かに濡れていたことを知った秋名は、彼女の手を取り、言った。

 

「エアグルーヴ。君の望みを言ってくれ。僕は君の杖だ。君が望むと言うのなら」

 

 エアグルーヴは、秋名の左腕を掴み、彼の顔を深く覗いて言った。

 

「――あの娘の所へ行きたい。あの娘が一人で泣いている」

 

「……わかった。行こう。あの娘のところへ!」

 

 二人はその場から駆け出す。一つの足音が、二つに鳴る。全ては、憂いた未来(ショパン)の為に。

 

 

 そんな二人の背中を、視線で追う鹿毛の姿が一人。彼女は携帯を取り出し、通話を開始する。

 

 

織戸(トレーナー)? アタシだけど」

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 エアグルーヴが去った後の保健室。その場を誰も動こうとはしない。

 

 ブライアンは乾いたタオルを顔に乗せて、天井を仰ぎ。

 

「……みんな、あの子供に狂わされていく。エアグルーヴもそうだ。あんたらも同じだ」

 

 そう呟いた。

 

「失礼な。私は狂ってなどいないよ」

 

 タキオンは保健室にある薬品たちを物色しながら、ブライアンへ背中で答えた。

 

「未来人を提唱するやつが、狂っていないとでも言うつもりか」

 

「何度も言わせないで貰いたい。あくまで仮説とは可能性の話だ。あらゆる事象に対し、偏見と先入観を捨てているに過ぎない」

 

「じゃあ何故、ショパンは未来から来た」

 

 ブライアンは顔に掛かったタオルを投げ捨てる。ひらひらと舞ったタオルは行き場をなくし、床に力尽きた。

 

「そうだねぇ、では、ここからは空想の時間としようか。私もより私見を強めに語らせてもらおう」

 

 タキオンはエアグルーヴが去った後のベッドへ腰を掛けて、足を組む。

 

「先ず、前提の固定だ。ショパン君は未来から来たものとして考察を行う。最も、未来人に関する研究資料とは非常に少ない。語れることは、創作物(SF)からの引用が多くなるだろう。ケースとして考えられるのは、過去の調査。未来から相対し、過去の世界の造りを調査するため。等が挙げられる……が、ショパン君がその役割を担っているとはどうも考えにくい」

 

 指で空中をなぞる。その指は難解な数式を描いているようにも伺えた。

 

「では、もう一つのケースとは何なのだろう。未来人が目的意識を持って、過去へ来る理由とは」

 

 タキオンはブライアンにシニカルな笑みを添え、人差し指を向けた。それでもブライアンは口を開こうとはしなかった。

 

「どうしたんだい? そんなに難しい問いかけだったかなぁ」

 

「……詛呪された未来を変えるため」

 

 二人の背後で、ルドルフが誰に充てるでもなく呟く。

 

「詛呪された未来とは?」

 

 タキオンの視線と指先が、ルドルフへ向いた。だが、彼女はそれ以上の回答を躊躇った。

 

「例えば、未来のトレセン学園がエイリアンの侵攻によって陥落しているのかもしれない。はたまた、未来のトレセン学園は実に質が落ちて、不良ウマ娘の巣窟になっているかもしれない。窓ガラスは全て割れて、壁という壁に落書きがあるんだ。ああ恐ろしいねェ。それは確かに詛呪だ」

 

 ベッドに倒れこみながら、おどけるように言う。

 

「何が言いたいんだ。真意を話せ」

 

 ブライアンは自分の掛けていた椅子を蹴り、タキオンの前へ立つ。

 

「これも考察の一環だ。あらゆる可能性を考慮しなければならない。……なぁ、会長。君は何か知っているんじゃないのかい。ショパン君とエアグルーヴ君が邂逅したとき、彼女は大切なヒントを落とさなかったのかい」

 

 ルドルフの顔が、一つ青ざめる。組んでいた腕を解いて、額に添える。

 

 この学園の、誰しもが知っている話だった。学園内を逃げ回った不審ウマ娘ショパンは、エアグルーヴの顔をその瞳に映した途端に、泣き崩れた。そして、彼女を深く、深く抱擁した。

 

 まるで喪った何かを、手にしたかのように。

 

 誰もが、ルドルフでさえもが、それを芝居(ウソ)だと踏んでいた。だが、先に提示された前提の固定。ショパンが嘘を一切として吐いていないという条件。それが適用される――即ち。

 

「未来でエアグルーヴの身に何かが起こっている……それも、生命に関わる程の何か。それを伝える為、または回避を目論んで」

 

「私も同じ見解だ……最も、これも仮説だがね。だが、そうすれば見えてくるかもしれない。ショパン君が、花壇を荒らし、学園から去った理由だって」

 

 一人取り残されたのはブライアンだった。二人の余りに現実離れした論述に、頭を掻きむしり、理解が追い付かないことを嘆く。

 

「まるでわからん。どう見えてくるんだ。結論は何だ。あいつの真意は」

 

「そうだねぇ。例えば、エアグルーヴ君に自身を否定して貰う為……なんてのはどうだい?」

 

「否定? 何の為に」

 

 タキオンはベッドから立ち上がると、保健室の隅に追いやられていたホワイトボードを引っ張り出す。マーカーのキャップを外すと、詛呪=X、悲劇=Yと起き、愁嘆な未来=X×Yと記した。

 

「ショパン君は未来で起こった悲劇を変える為に、この時代へ遣ってきた。ではその悲劇とは。先ほど会長が言ったことでも代入しておこうか」

 

『悲劇=エアグルーヴの災難』

 

「次だ。ショパン君の目的(ねがい)は、その悲劇の回避。その手段が、花壇の破壊。破壊の意図を因数分解すると何が見えるだろう。学園への叛き、管理者への(あだ)、己の攻撃欲求の昇華。と言ったところか。さらにもう一段踏み込もう。それが花壇でなければならなかった理由だ。学園への攻撃、もしくは自身の癇癪を鎮める為の行為というのなら、それは花壇である必要はない。ガラスでも割るほうがよっぽど楽だ。だが、ショパン君は花壇以外の何も荒らしてはいない。であれば」

 

『管理者への仇』に大きく丸印がつく。ホワイトボードを滑るマーカーの音と、シンナーの臭いがこの部屋に漂う。

 

「管理者というのはエアグルーヴ君のことだ。端的に言えば、ショパン君はエアグルーヴ君を狙って、間接的な攻撃をしなければならなかった。何故間接か。直接的では、ショパン君の目論見を果たせないから。原点に返ろう。ショパン君の目的は、悲劇の回避」

 

「矛盾だ。エアグルーヴを救うために、エアグルーヴを攻撃したということになる」

 

 ブライアンがそういった。だがタキオンは『そうかな』と不敵に笑う。

 

悲劇(Y)の真因は詛呪(X)にある。つまり、詛呪が消えれば、悲劇も消える。そう推論したときに、こういう代入は出来ないかい?」

 

 そしてタキオンは、詛呪=XのXを指で消し……。新しき変数を記入した。

 

 

 

 

『詛呪=ショパン』

 

 

 

 

 

詛呪を無(X=0)へと導く為に、ショパン君はエアグルーヴ君から否定される(パラドックスを引き起こす)必要があった。女帝の怒りを買い、殺される必要があった……短慮さ故の幼き数式(思考プロセス)。実に哀しきiだ」

 

 マーカーのキャップを締める音だけが、静かに鳴った。

 

「ショパンの目的は……エアグルーヴを救うための、自決……?」

 

「そう考えることも出来るということだ。そしてエアグルーヴ君は、何らかの理由でその真因にたどり着いている。だからこそ、あの娘(・・・)の下へと向かっていった。ショパン君が願う歪な未来を、否定するために。これが一つの解だ。採点を願おう」

 

「なぁ、教えてくれ。ショパンとは、善なのか、悪なのか。敵なのか、味方なのか……」

 

 ブライアンが言った。タキオンはふぅと息を吐き、答えた。

 

「この話には、最初から善も悪も、敵も味方もない。そこにあったのは、ただの純粋だ。私はそう思っている。答え合わせをしたいなら、ショパン君に直接訊くしかない。その為にも、ショパン君を捕らえる必要はあると、私は思っている」

 

 どうだい、会長。とタキオンがルドルフを一瞥して言った。

 ルドルフに宿るは、ただただ、沈黙だった。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 プッシュ・スターターを介して、セルモーターがエンジンをクランキングする。1秒にも満たない時間で、燃料には火が付き、水平対向エンジンは活動を開始する。

 

 車のヘッドライトが40m先の未来を照らす。秋名はパーキングブレーキを下ろし、Dレンジへ接続し、ステアリングを切り込んだ。

 

 トレセン学園の職員用駐車場の出口へと向かう。だが、その付近には数台のヘッドライトの群れ。

 

 けたたましく、鼓膜を劈くようなドライサウンド。所謂腹下直管(ハラシタ)とでもいうのだろうか。ロケットカウルに、三段シート。絞ったハンドルに跨るのは、奇抜な髪形を施し、黒いマスクで顔の半分を覆ったウマ娘たち。

 

「……僕たちを待っているつもりか」

 

 秋名はパーキングブレーキを引いて、その場に降り立つ。彼に相対するように、一人の鹿毛が、バイクの群れから抜け彼の前に立つ。エアグルーヴも続いて、車から降りた。

 

「ああ、アンタが秋名サン? 悪ぃ。俺のダチからさ、迷子探して欲しいって頼まれてんだよ。あのー、ショパンだっけ? どこに居るか教えてくれねぇ?」

 

「捜索協力なら間に合ってる。あの娘は僕たちで探す」

 

「別に、取って食っちまおうって話じゃねぇさ。人数が多いことに越したこたねぇだろ? ちょうど学園も大変なことになってるみてぇだし」

 

 彼女たちから、明確な敵意こそ伝わってはこない。だが、先の生徒会のこともあると、秋名は彼女らを訝しんだ。

 

「私たちからも、お断り申し上げます」

 

 そういって、秋名と不良ウマ娘たちの間に割って入る、一人のウマ娘。それは、秋名の自宅近くでショパンを捕えようとした、分隊のリーダー。その背後には、生徒会の右腕を担う精鋭たちの姿。

 

「すっげぇ……XJRだぁ……。あっちはゼファー400。あっちはCBX400F……」

 

「ウオッカ。集中しろ」

 

 生徒会の正規軍。その姿に不良ウマ娘たちの空気も僅かに淀む。

 

「お断りって……別に悪い話してるワケじゃないだろ! 見つけてやるって言ってんだよ!」

 

「ショパンの捜索は、生徒会指揮の下、施行されています。一般の生徒及び外部の方々の協力は、今の所正式に賜っておりません。ですので、どうかお引き取り願います」

 

「って言われてもなぁ。こっちもそれなりの報酬が用意されてる話だから。黙って引き下がる訳にはいかねぇんだよなぁ」

 

「それが本音ですか。ならば、最悪は実力行使となりますが……?」

 

「……おもしれぇ」

 

「はぁい、ストーップ」

 

 彼女らの背後から、高らかな声。それが鳴るほうへと視線を向ければ、タキオンと生徒会二人がそこにいた。

 

「暴力とは実に非論理的且つ愚の骨頂! 篤実なウマ娘にあるまじき行為だ。肯定しがたい。……にしてもポッケ君。確かに私は君にショパン君の捜索を依頼したが、やり方が余りに愚直過ぎやしないかい?」

 

「だあってよぉ、タキオン! 知ってそうな奴に訊くのが一番早いじゃんかよ! なぁ、見つけたらファミレスパフェ、マジで奢ってくれるんだよな!?」

 

「……随分と安く釣られてるんだな」

 

 ブライアンが腕を組み、そういった。

 

「ジャングルポケット。理由は如何なれ、同心協力の願い出は感謝しよう……だがこの件、生徒会としては、不承知とさせてくれ」

 

 ルドルフが言った。ふぅんとタキオンは鼻で鳴いた。

 

「彼女も言った通り、ショパンの捜索は、現在生徒会が預かっている事案だ。この不承知は、君たちの安全を保障する為のものと心得てほしい」

 

「まぁ……会長さんがそういうんなら……」

 

 すまない。と一言置いたルドルフは、エアグルーヴの下へ。そして、彼女と視線を交わす。彼女の瞳は変わらず据わっている。

 

「エアグルーヴ。君の先ほどの発言、君の本心の基と知って構わないか」

 

「ええ……変わりはありません」

 

「君は、ショパンの居場所を知っている?」

 

 こくりと、彼女の顎が縦に動く。

 

「その情報を、我々に提供する意思は」

 

 ……今度は、横に動く。

 

「会長。私は貴女に背いたと非難される覚悟さえもあります。ですが、それでもあの娘のところへ行きたい。生徒会副会長としてでなく、(エアグルーヴ)として。例え、生徒会を破門されたとしても」

 

「君の、後悔のない選択とは、それなのかい」

 

「愚昧です。私とは」

 

「……必ず、ショパンと共に学園へ戻ってくると、私に誓え」

 

 エアグルーヴはルドルフへ頭を下げると、再び車の助手席へと乗り込む。秋名はサイドブレーキを解除し、車は国道へと乗った。

 

「何故、止めなかった」

 

 車が去った後に、ルドルフに問いかけたのはブライアンだった。彼女の問いに、ルドルフは自分が弱かったからだと答えた。

 

彼女(タキオン)の立てた仮説を正とするのなら、エアグルーヴとショパンは、互いの命で繋がっている存在だ。どちらかを選べば、どちらかは犠牲となる。そこに我々が介入する権利はあるのだろうか。彼女の為に、彼女の命よりも大切なものを奪う権利が、私たちにあるのだろうか。それを選べるのは、エアグルーヴただ一人だけだ……この問題は、余りに至大だ。私はその前から、逃げたんだ」

 

 ルドルフの声色は、僅かに揺れていた。その唇さえも。全ては敗北を噛み締めていた。

 

「もういい……。あんただけが背負うな。信じよう、エアグルーヴを」

 

 ブライアンはルドルフの右肩へ額を寄せた。

 

 

「あーあ。これでパフェもおじゃんかぁ。なータキオン。他の仕事でもいいからさぁ、奢ってくれよパフェ~」

 

「そうだねぇ、なら、新薬の治験なんてどうだい……」

 

 

 その時、学園前の通りを一台のバイクが猛スピードで抜けていく。その場にはカーボンマフラーから吐き出されたエキゾーストノートが、ドップラー効果となり、その場に留まる。

 

 それの進行方向は、秋名の車が向かった方向と同じ方向。

 

 

「ンだぁ。はえーなーアレ」

 

「あれ、GSX-R750! すっげぇ……」

 

「ねぇ、後ろに乗ってたの、トレセン学園の制服じゃなかった?」

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 東京――夜の国道を、一台の日本車(レヴォーグ)が駆け抜けていく。目指す場所は、あの娘が待つ所。

 

 車のオーディオからは、どこかのラジオDJが選曲したレッド・ツェッペリンの"Stairway to Heaven"。秋名はそれを左手で消す。

 

「あの娘は本当に、向日葵畑?」

 

「ああ。きっと」

 

 エアグルーヴがペンダントを開く。そこに座る、一人の淑女。だが、そこに一つの違和感。

 淑女の背景の向日葵畑が、とろりと溶けていく。そんな錯覚を、エアグルーヴは覚えた。

 

「どうしたの?」

 

「トレーナー。以前、私が言ったことを覚えているか。ショパンが未来から来たウマ娘だと言ったらどうするかと」

 

「ああ。まだ、答えを言っていなかったね。……今なら少しだけ、信じていいのかもしれない。君が信じるというのなら、尚のことだ」

 

 そうとまで言ったとき、車のルームミラーに違和感を感じる。そこに映る単眼のヘッドライト。空中を浮遊するオーブのように、その火の玉は、彼の車の背を追いかけていた――瞬間、そのオーブは車を追い越す。レヴォーグのヘッドライトの光によって、露わになる青い意匠に包まれた二輪車(フルカウル)

 

 ライダーは後輪をフルロックさせ、慣性に任せたパワースライドでスピードを殺し、ブレーキターンへと接続する。そして、スキール音を響かせながら、秋名の進路の上に立ち塞がった。

 

 秋名は反射的にフットブレーキを踏み込み、車を停止させる。車のノーズの先。GSX-750Rに跨るのは、一人の成人男性と、タンデムにはトレセン学園の制服を着たウマ娘。

 

「……礼司か」

 

 秋名がそう零した。ライダーはフルフェイスヘルメットのスクリーンを開け、彼へ叫んだ。

 

「司ぁ! お前、どこに行くつもりだよ! 聞いたぜ。お前、ショパンの逃走を手伝ったんだってな。お前、マジでどうかしちまってんじゃねぇのか! お前このままじゃ学園は愚か、URAからだってクビ飛ばされるかもしんねぇんだぞ……。目ぇ覚ませよ! 考え直せ! ショパンから手を引け! お前の為だ!」

 

 秋名はシートベルトを外し、車から降り立つ。

 

「……すまない。礼司。でも、僕達は行かなきゃならない。あの娘が待っている。一人で、ずっと」

 

「ハッキリ言うぜ。らしくねぇよお前。ずっと賢い選択を取ってきたお前が、あんな子供の為に。暴挙だぜ……」

 

「それで構わない」

 

 秋名は再び車へ乗り込むと、アクセルを床まで踏み込む。フルスロットルの伝達によって命令を受けた4WDが地面を蹴り上げる。そしてバイクの横を潜り抜けて、再び織戸へテールランプを見せつけた。

 

「クソッ! ファイバ! 捕まってろ!」

 

 タンデムの担当(ファイバトリガー)へそういうと、織戸は再びヘルメットのシールドを下ろし、スロットルを一気に開け、テールスライドで向きを変える。バイクの視線が捉える先は、秋名のテールランプ。機動性、加速性だけであれば、四輪よりも分がある。だが、車のテールを捉える前に、彼のバイクを赤信号と激しく往来する車が遮った。

 

 

――

 

 織戸のバイクが追いつく前に、交差点を抜けられたのは幸いだった。今のところ、ルームミラーにこの車を追うヘッドライトの姿はない。だが、機動性で勝るバイクを完全に振り切って、残り数キロの向日葵畑まで辿り着くことができるだろうか。

 

 秋名は路肩に車を停めた。トレーナー? と訊くエアグルーヴへ彼は言う。

 

「エアグルーヴ。別行動をしよう。礼司はきっとこの車を追ってくる筈だ。僕が彼を巻く。君は一刻も早く、ショパンの下へ」

 

 少しの躊躇いの後、エアグルーヴはシートベルトのバックルを解除する。そしてサイドドアのレバーを握ったとき、その手を一度止め振り返り、秋名の背中へと腕を回した。

 

「どうか、無事で」

 

「……お互いに」

 

 そうして、エアグルーヴは地上へと降り立った。

 

 

 

――

 

 

 快調に吹け上がる749cc DOHC 4気筒(インライン)。この可能性があれば、親友の車を追うことだって難しい話ではない。

 

 そしてスクリーンの中に映り込む、車のテールランプ。彼の右手に、一層の力が入る。

 だが、タンデムに跨り、彼の背中に縋るファイバトリガーは、あることに気が付く。彼女の視界の隅、歩道を反対へ駆けてゆくエアグルーヴの姿。

 

 彼女は数回織戸の背中を叩く。バイクはその場で急制動。崩しそうになるバランスを力で堪えた。

 

「何だ! どうかしたか!」

 

「エアグルーヴだ! あいつら、別行動するつもりだ!」

 

 ファイバトリガーはヘルメットの顎紐を解き、タンデムを降りる。メットホルダーへ、ヘルメットを括り付けて、担当トレーナーの織戸へ言った。

 

「きっとどっちかはブラフだ。アタシがエアグルーヴを追う!」

 

「OK……俺があのバカを止めてくる」

 

「スッ転ぶなよ! お前、運転荒いんだから!」

 

「ウルセェ! とっとと行け!」

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

『おかあさん』

 

『私が未来から来たって言ったら、信じる?』

 

『ごめんなさい……私は、お母さんを……』

 

 あの娘の言葉が、幾度となく頭を駆け巡る。あの娘の笑顔、泣き顔。何時しか昵懇となってしまった記憶。全てが哀しく、愛おしい。

 

 

 

 あの娘に逢いたい。今すぐ逢いたい。もう一度、話がしたい。募る想いが、大地を(はし)る。

 

 

 

 彼女の目尻から再び汗。アイシャドウのラインが崩れてしまおうとも、彼女はそれを拭うことなく駆け続けた。

 

 学園指定靴(ローファー)のヒールから、12/8のリズムが弾き出される。それらは都会の海原へと消え去ってゆく。

 

 駆け続ける彼女へ風が吹く。丁度、汽水域を跨ぐ橋の上。しかしそこで、彼女のヒールの音は突如として終わりを迎える。唯でさえ人間と比にならない程の脚力を持つウマ娘、故にその脚力を以て長時間走り続けることを想定されていないローファーが負けるのも必至だった。

 

 ばりと、音を立ててローファーは壊れる。それに足を取られ、彼女はその場に両手を付く。彼女のローファーは、爪先部分のアウトソールが本体と乖離し、最早靴としての機能を果たさなくなっていた。

 

 エアグルーヴはローファーを脱ぎ捨て、ソックスのみの裸足で再び駆け出す。保護する為のものがない故、路面から入力されるそのダメージは、彼女の脚へダイレクトに蓄積されてゆく。

 

 だが、それでも構わない。裸足の痛みに耐えながら、彼女は駆けて行く。ただひたすら、あの娘が待つ場所へ――。

 

 

「エアグルーヴ!」

 

 

 背後で追手の声が聞こえた。だが、振り返ってはならない。足を止めるな……。

 だが、追手の声は次第に大きくなっていく。二人の距離は縮まってゆく。当然だ。裸足の彼女が本気で走れる筈もない。

 

 やがて、追手の声は、エアグルーヴの肩を捕まえる。

 

「待てよ!」

 

 そこに居た、一人の鹿毛。エアグルーヴと同じく、ひどく息を切らす。エアグルーヴはその場に両膝をついて、沈んだ。

 

「……おまえ。あの子供のところへ行くつもりかよ。なぁ、皆言ってんだよ。副会長(おまえ)は気が振れちまったんじゃねぇかって」

 

 ファイバトリガーは、エアグルーヴと同じく膝をついて、諭すように語りかけた。

 

「まだ、間に合うんだ。頼む、引き返してくれ。お前、これ以上こんな妙なことに関わり続けたら、この先どうなるか分かんねぇんだぞ。アンタはこの学園の憧憬なんだよ。皆がアンタを羨んで夢を見ている。アタシだってそうだ。だから、こんな下らねぇことでアンタが壊れちまうのなんて、誰も望んじゃいないんだよ。アタシはアンタに、オークスの借りがある。それを晴らすまで……あんたには女帝で居続けてもらわなきゃ、意味ないんだよ!」

 

 橋の上の夜風が、二人をやさしく包み込む。遠くで凪の歌すら聞こえる。

 

 エアグルーヴの胸の中で打ち震えるファイバへ、エアグルーヴは彼女の両手を取った。

 

「……すまない。皆に迷惑を被らせていることは自覚している。気が触れていると蔑まれようとも、否定はしない。だがそれでも、私は行かなければならないんだ。あの娘のところへ」

 

「なんで……だよ」

 

「それが、あの娘(未来)との約束だから。信じてくれなくとも構わない。だが、ショパンは決して悪ではない。それだけは言える。私はあの娘と会話をしてくるだけだ。私は壊れたりなどしない。そして必ずや、またお前たちの前に、女帝として姿を現すことを約束しよう。だから、頼む。……行かせてくれ。あの娘のところへ」

 

「……どうしても、行くつもりか。そんな、裸足のくせに」

 

「裸足でも、足は動く……」

 

 エアグルーヴは静かに立ち上がると、再び裸足のまま、ファイバトリガーに背を向けて歩き出した。

 

 どさ。と彼女の足元で音が鳴った。それは、未だに壊れていないファイバトリガーの運動シューズ。

 

 振り返れば、裸足の彼女が居た。

 

「裸足で走ってちゃ、足壊しちまうぞ。貸してやる。だけど、必ずアタシのところへ返しに来い。ショパンと二人で、必ず」

 

「……ありがとう。ファイバ」

 

 とんとんと、彼女の足にフィットした運動靴の爪先を叩く。そして再び、エアグルーヴは駆け出した。

 

 

「……なんであいつ。あんな母親みたいな顔ができるんだ」

 

 

 孤独に取り残されたファイバトリガーの呟きを、陸風が遮った。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 数キロそこから進むと、上り勾配の坂が姿を現した。そこを1km程上る。ふと、電飾に包まれた都会の街が輝いて見えた。その上死点には、欠けたるを知らない月の姿。

 

 街灯と月明かりだけを頼りに駆ける。ただひたすら、駆け続ける。瞳から汗を、体中に涙を纏って。

 

 ようやく見えてきた、小さな駐車場。車は一台すらもない。その脇には、かつてショパンが二人の手を引いて導いてくれた遊歩道があった。エアグルーヴはそこへ踏み入れる。

 

 そこからは、僅かだった。月明りに照らされ、黄金色に揺れ続ける、幾つもの向日葵。そこの遊歩道。砂砂利佇み、ただひたすらにそれらを眺める、一人の黒鹿毛の少女の姿――。

 

 

 エアグルーヴは、彼女の名を呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「――ショパン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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さよならは遠い未来に出会うための約束 


 流され続けて、ひとりここまで来た。

 月明りに照らされ、黄金色に揺れる向日葵の群生。

 そこは、父と母の記憶の場所であり、彼女(・・)の過ちの場所。

 太陽を亡くし、俯いた向日葵達の視線は、一人の幼子へと向いていた。

『ああ、来たよ。親不孝者が』今の彼女には、風に揺蕩う葉の唄が、そう聞こえた。

 そういえば、ペンダントはどこに遣ったんだっけ。知らない。失くしてしまった。あれだけ大切にしていたペンダントだったのに。

 ペンダントの中の母を見て、いつも思った。お母さんに実際逢えたのなら、それはどれ程の幸いなのだろうと。何度か夢にも見たことさえある。だから、母と過ごした時間は、彼女にとって他の何にも代えられない程に、甘い時間だった。

 甘い。甘い。脳や感情が溶ける程に甘い。それらは身体に蓄積され、蓄積され。



 何時しか猛毒へとすり替わった、



 溜め込まれすぎた愛情が、身体を内側から侵した。

 しかし、どれだけ自分が苦しもうとも、それが贖いにはならない。彼女の罪は、その存在自体なのだから。

 だから、壊せばいい。変えてしまえばいい。呪われた運命を歪曲してしまえば、してしまえば。



 全部、ぜーんぶ変わる筈だ。

 母が苦しんで死ぬこともない。父が自身に苛まれることだってない。

 皆、みーんな幸せになるんだ。

 ショパンという存在を、皆が忘れて。皆が幸いに導かれるのだ。

 

 そうだ。今までの時間とは猶予だったんだ。
 彼女が幼くして消えてゆくことを哀れんだ女神からの、慈悲の時間だったのだ。

『一生分の幸いを、そこで味わいなさい』と。

 そうだったに違いない。

 じっさい、幸せだったのだもの。痛いくらいに。哀しいくらいに。そして、その時間は、神様にお返ししなければならないのだ。

 
 ショパンは両手で、CDケースを握る。

『幻想即興曲 オムニバス ショパン』

 エアグルーヴが何よりも大切にしている宝物。中には、曲目の書かれたカード。そして、父と母が共に初めて勝利を掴んだあの日の記憶……もう一枚。

 地方のトレセンで、ショパンが初めて栄光を掴んだ、あの日の思い出。

『大切なものは、大切なものの中へ仕舞っておく』

 それが女帝の心というのなら、この写真は…………。

 ショパンはCDケースを閉じた。……酷く葛藤した。でも、やらなければならない。

 自分がこの時空を乱し、壊さなくてはならない。これはまだ、第一小節目に過ぎない。だから。だから……。

 CDケースを、両手で大きく掲げる――そして、それを地面へと叩きつけた。

 バキ、とCDケースが一瞬の悲鳴を上げた。透明のポリスチレンに、一つの大きな傷跡。

 もっとだ。もっと、もっとやらなければ。

 ショパンの足元には、学園から盗んだ除草剤があった。それを手に、悲しく睨むは、向日葵たち。

 ここが父と母の思い出の場所。……だったらそれも、壊してしまおう。


 悲しい夜風が、ショパンの心の灯を吹き消すように吹き抜けた。

 さぁ、父と母へさようならをしなくては。


 除草剤を両手で抱えたとき――彼女の声がようやく届いた。


 ――――ショパン。と







 

 水平対向4気筒エンジンと、直列4気筒エンジンの音とヘッドライトが、夜の静寂を切り裂くように駆け抜ける。

 

 はやり平坦な市街地では、軽量かつ機動性に勝るバイクが有利か。ならば起伏に富んだコースへと誘えばいい。

 

 秋名は車のセッティングをスポーツモードへと切り替えて、東京の中心街から少し離れた峠道へと踏み込んだ。右に左に、深いRが二台を待ち受ける。秋名はややアンダーステア気味の車両を、ステアリングで強引に捻じ伏せ、センターラインを割りながらもコーナーを抜ける。

 

 対する織戸は、深いRに対し、バンク角度を最小限に抑えたリーンインにて対応する。コーナーを抜ける速度は僅かにバイクが有利か。しかし、市街地の綺麗な舗装路とは大きく異なる路面コンディション。路面のヒビや落ち葉の溜りが、小柄軽量な二輪車に牙を剥く。

 

 二台のエグゾーストノートが絡み合う。二人のドッグファイトは、未だ始まったばかり――。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

「ショパン」

 

 

 

 そう、エアグルーヴが声を掛けた時に、黒鹿毛の少女は、少しだけ驚いた顔をした。

 

「……おかあさん。どうして」

 

 明らかな戸惑いを隠せない。しかし、その戸惑いの中に、ほんの少しの喜びがあったことを、彼女は自覚しない。

 

「こないで……」

 

 ショパンの口からは、再びエアグルーヴを拒絶する言葉。

 それでもエアグルーヴは、一歩をショパンに向かって踏み出す。

 

「だめ……来ちゃだめ……!」

 

 何故。とエアグルーヴが訊ねるも、ショパンは激しく首を横に振った。

 彼女の手には、学園で管理していた除草剤。かなり強力な代物だ。ショパン程度の幼子が扱うには、余りに危険すぎる程に。

 

「その除草剤で何をするつもりだ……花はそういう風に扱うものではないと、お前には教えたつもりだ」

 

「でも……でもっ。こうしなきゃいけないの……そうじゃなきゃ……そうじゃなきゃ!」

 

 ショパンの胸が激しく上下する。表情は既に瓦解し、不穏と絶望に満ちていた。体中が凍えるように震えている。

 

「何があったんだ。お前に。……私は、お前の味方であり続けたい。だから、話してくれ」

 

「それは……無理だよ……」

 

 ショパンの瞳から、一筋の雫が零れ落ちる。そして彼女は、自分の罪を語った。

 

「私は……おかあさんを殺してしまったんだから」

 

「……何」

 

「死んじゃうの――お母さんは未来で死んじゃうの!!」

 

 途端、風が甲高い音を引き連れて、二人の間を縫うように吹いた。それに踊らされ、二人の鬣と尻尾はただ哀しく靡いた。

 

 風と踊る静寂の中、それでもエアグルーヴは沈黙を貫いた。

 

 ショパンは、震えた唇を開き、自嘲するような引き攣った笑みを浮かべ、言った。

 

「おかあさん。私ね……未来から来たの。信じてくれなくったっていい……でもね。本当なの」

 

 彼女の瞳から流れた雫は、顔の輪郭をなぞり、地面へと落ちてゆく。続いてそれが、ふたつ、みっつ。やがては、数えきれない程。

 

「おかあさんは未来で、トレーナーさんと結婚して、一人の子供を産むの……それが、原因で……死んじゃうの……私はその未来を……変えにきたの」

 

 ショパンはその場に除草剤を落とし、緩慢に体を揺らしながら、エアグルーヴの下へと歩み、彼女の両手を握った。

 

「お願い……おかあさん。トレ―ナーさんと結婚しないで……トレーナーさんのことを好きにならないで。……私を産まないで……お願い……お願い……」

 

 彼女の顔は、涙に満たされた。そして、自らの否定をエアグルーヴへと訴えた。

 

「ショパン……」

 

「お願い。お母さん……死なないで……私なんか……産まないで……」

 

 涙を孕んだ顔は、赤く脹れていた。彼女を握る手は、やはり震えていた。――当然、怖いのだ。

 この世から自分が消えてゆく。誰の記憶に留まることもなく、ショパンという存在は最初から無かったものとして扱われる。即ち、死と同義なのだ。否、死よりもずっと残酷だ。

 

 だけど、母殺しの罪を背負って生きて行く覚悟もない。幼い彼女の精神が、その葛藤に耐えられる筈もない。

 

 ……本当は、目の前に居る母に助けてほしいと叫びたい。この苦しみから救ってほしいと。だけど、それはできない。だって彼女は――酷くて、悪い娘なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 途端。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふわりと、彼女の体を、優しい何かが包んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、どうしても知ってる(・・・・)香りだった。優しく、懐かしく、暖かい。娘だけが知る、母親の香り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ショパンは直ぐには気が付かなかった。エアグルーヴが彼女を抱擁した(抱きしめていた)ことを。

 

 

 

 

 

「…………………え?」

 

 

 

 咄嗟には理解出来なかった。だが、エアグルーヴはただ無言で。

 

 

 

「おかあ……さん……?」

 

 

 

 ショパンはただ茫然と、エアグルーヴの抱擁を理解できずに居た。

 雲の狭間に現れた月が、女帝の顔を照らす。そこにあったのは――慈しみだった。

 

 

 

「なんで……どうして……」

 

 

 

 女帝の愛に戸惑うショパン。そんな彼女を、女帝は囁くように導いた。

 

 

「私は未だ、人の母親になったことがない。だから、母親の気持ちというのはわからない。だが、ショパン。お前が、本当に私の子だというのなら、きっとこうする」

 

 

 とろり、とろり。女帝が囁く甘い吐息。

 

 

「私を信じてくれるの……?」

 

「随分と待たせてすまなかった。どうして気付かなかったのだろう。お前はこんなにも近くに居てくれていたのに」

 

 エアグルーヴの懐は、どうしようも無い程に暖かかった。だから、だからこそ。どうしても哀しかった。

 

「だめ……おかあさん……。だめ。私なんて産まないで。私は、おかあさんの大事なものをたくさん壊したんだよ。大事にしてた花壇も、CDだって! 私は、お母さんから憎まれなきゃいけないの! お願い……私のこと、嫌いになってよ……」

 

 彼女の声は身体は凍えていた。何度も引き付けのような引っ掛かりを残しながら、母へ訴えた。

 私の居ない世界で、幸せになってと――。

 

「――たわけ。子のことを憎み、嫌う親など、居るものか」

 

 エアグルーヴは、ショパンの頭を抱えて、己の胸元へと引き寄せた。

 

「私は、お前のように未来など見えない。未来での自分がどうなっているのかさえも未だ知らない。お前は、私の(わざわい)を、お前を以て消そうと言ってくれた。……だが、私は問いたい。お前の居ない未来は、本当に正しい未来なのか」

 

 エアグルーヴは懐から、ペンダントを取り出す。蓋の中には、何時(なんどき)も、清く、正しく、麗しい女帝の姿。微笑みを手向ける先は、ようやく理解できた、やさしいあの娘。そのペンダントを、彼女の首に提げ、ペンダントの蓋を開く。そこに居る、彼女の母。溶けかかっていた向日葵(背景)が、再び鮮明に蘇ってゆく。

 

「お前の言う通り。未来の私は既に居ないのかもしれない。だが、お前は居るのだろう。ショパン。誇り高き、女帝の血を継いだお前が。……そうだというのなら、私は何一つとして憂わない」

 

 おかあさん。とショパンは再び呟いた。もうその瞳から、涙が止まることはない。決壊したダムのように、このまま体が枯れてしまうのではというほどに。

 

「お前には教えた筈だ。命とは紡がれるものであると。例えこの命、尽きるその日が来てくれようとも、愛が想いが死ぬことはない。お前が女帝の意志を継ぐ者として、明日を生きてくれるというのなら、この身体、喜んでお前に差し出してやろう」

 

「おがあざん……どうして……どおして……」

 

「だってお前は――私の大切な娘なのだから……そう、お前が教えてくれた」

 

 

 

 

 ――ショパンは激しく嗚咽を漏らす。まるで生まれたての赤子のよう。残酷な程の母の愛情を、その小さな体で受け止めきれず、飽和する。溢れた愛情が、涙となって滴っていく。

 

 

 

「おかあさん……おがあ……ざん……う……う゛ぅ…ああ……ああ……あああああ……」

 

 

 大きく口を開けて、顔中を涙色で塗りたくして。大好きな母を抱きしめて。心行くまで泣き叫んだ。

 

 

 

 エアグルーヴはただ、月夜に照らされ奏でられる、彼女の夜想曲を、ただひたすら聴き続けていた。

 

 

 月光に照らされた、ショパンのペンダントが輝く。やがてその光は、二人をやさしい世界へと閉じ込めて――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、エアグルーヴの懐から、少女の香りが消える。

 温もりを失い、空になった腕が、静かに寂寥を呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 舗装の整備すらもままならない、国道――酷道。

 アスファルトの劣化によるクラックや、ギャップ。それら路面からの入力がサスペンションを伝わり、ステアリングホイールへとキックバックされる。

 

 一瞬だけ前輪が浮く感覚さえも伝わる。それでも見据えるは、ヘッドライトが照らす100m先の不透明な未来。

 

 バックミラーに映る過去は、彼の軌跡を追う単眼のHIDヘッドライト。バンピーなコースはオンロードバイクの不得意分野に違いないだろう。だが、それでも織戸は秋名の後を追う。

 

 エアグルーヴは無事にショパンの下へ着いたのだろうか。その気がかりを残しながら、ヘアピンコーナーに深く切り込む。タイヤから悲鳴(スキール)が鳴る――途端、車の前に向かい側からのヘッドライト。

 

 対向車の存在に後手を取った秋名は、即座にカウンターステアを当て、アウトラインに孕みながらもコーナーを抜ける。だが、車の挙動は一時的に乱れる。そこを織戸は見逃さず、車が空けた隙にバイクの車両を捻じ込み、オーバーテイク。

 

 このまま、再び秋名の車を制止しようと、ブレーキターンへ接続しようとした矢先。彼の前に突如として現れる落石。道路脇に佇むサッカーボール程の大きさのそれが、ヘッドライトに照らされ明るみになった。

 

 瞬間、身体を捩って落石を回避する。しかし、グリップの許容を一時的に超えたリアタイは横滑りを起こす。このままドリフト状態を維持できれば幸いなところだが、タイヤグリップは途中で息を吹き返す。故に起こること、慣性の法則に則った全てのライダーが恐れる現象――ハイサイド。

 

 GSX-750Rの一瞬の咆哮と、カウルがアスファルトに削られる音だけが、闇夜の空へ轟く。織戸はそのまま、アスファルトへと叩きつけられた。

 

「礼司!」

 

 秋名は車を停めた。そして落車した織戸の下へと駆け寄った。

 

「ああっ、クソが! いってぇ……」

 

 仰向けで悶える彼の右腕からは、血が滲んでいた。僅かに痙攣しているその腕は、素人目から見ても折れていることが分かった。織戸は左手でヘルメットの顎紐を外し、秋名の補助あってそれを脱いだ。

 

 礼司、と彼の名を呼ぶ秋名へ、織戸は答えた。

 

「……わかったよ。俺の負けだ。ドーセ、説得しても止まんねぇんだろ、お前は。早く行ってこいよ、ショパンの所へさ」

 

 織戸は這いずるようにガードレールへ凭れると、左手で煙草を咥え、ライターを添える。だが、火は着かなかった。

 

「どうした。待ってんだろ、アイツが。早く行けよ、ケツ蹴っ飛ばすぞこの野郎」

 

 咥えていた煙草を吐き捨ててそう言った。君は? と秋名が問うと、ショップのオヤジを叩き起こして迎えに来させると言った。だが、携帯は彼の懐にはなかった。周囲を見回してみると、地面に叩きつけられ粉砕した、哀れな鉄くずの姿がそこにあった。

 

 じゃあノジュクだなァ。と彼は笑って言う。だが、少し動くたびに発せられる彼の呻き。身動きが取れない彼を、骨折の痛みが苦しめる。

 

 秋名は、織戸の左腕をとった。そして、彼の肩を担ぐと、車の助手席へと座らせた。

 

「いいのかよ。さっさと行かなくてさ」

 

「君を病院に送り届けた後でも遅くはないはずだ」

 

 秋名は運転席へ乗り込み、セルを回す。その場で車を転回させ、走った酷道を引き返す。

 

「……この間の発言は取り消すわ。やっぱお前、変わってねぇ」

 

 リクライニングを深く倒して、何かに安堵したようにそう言った。

 

「なぁ、教えてくれよ。ショパンってナニモンなんだ」

 

「……正直なところ、僕にもよくわからない。だけど、あの娘は放っておいてはいけない娘だと、何処からか声が聞こえるようなんだ」

 

「どっから?」

 

「例えば、遠くの未来から……とか」

 

「そーゆーのって、運命とか赤い糸とかって言うんじゃねーの」

 

「どうだろう。でも、ひとつだけ言えることがある。あの娘は、きっと他人じゃない。まるで家族と過ごしているかのような安心を、あの娘からは感じるんだ」

 

 スポーツモードを解除する。織戸は左手で勝手にオーディオを弄り、セックス・ピストルズの"God Save The Queen"を再生した。

 もう一度シートに凭れ、ふと秋名の横顔を見て、独り言のように言った。

 

「お前、ヒトの親みてえな目してんな。なぁ、もしホントにショパンがマーティ・マクフライだったらどうする。お前の娘だなんて言い出したら」

 

ショパンは未来人(バック・トゥ・ザ・フューチャー)か。そうだね。きっと、信じるとおも………………………う?」

 

 

 

 

 

 

 車は急に路肩で停車する。

 織戸は運転席の秋名の顔を覗いた。彼はステアリングに頭を埋めるように、顔中から汗を滴らせ、ひどく狼狽していた。

 

「おい、どうしたんだよ」

 

「なぁ……礼司。僕たちは今、何の話をしていたんだっけ……」

 

「何ってお前……そりゃあ、ショパ……ん…………?」

 

 二人は視線を合わる。秋名の狼狽が、織戸にも伝播するようだった。

 

 そして、秋名は言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ショパン……って、誰……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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想いは時の海を越えて 


未来から来た不思議な娘に出会った。

その娘は、少し小胆で臆病で、然れども温順で。背丈は私の胸元程までしかなく、鬣は黒鹿毛。

その娘は私のことを母と呼んだ。無論、私は子を儲けた覚えなどない。

当然、私は憤った。見知らぬ娘の母にされてはたまったものではない。しかれども彼女は、どうしても私の愛を欲っした。

周囲の友人、トレーナーやお母様は、多少の当惑を抱きながらも、次第にその娘を受け入れていった。

その狭間、どうしてもその娘を拭い切れぬままでいるのは、私だけなのだろうか。

少女の名はショパンと言った。

それは、少し不思議な名だった。奇しくも、私の愛する音楽家と同じ名を持つ娘だったのだから。

初めて聞く筈なのに、どうしても懐かしい名だったのだから。







































追記


私は少女と約束をした。


遠くの未来での再会を。


例え、皆が彼女の名を忘れても、私は決して忘れない。


私は何時までも信じ続けている。あの娘と再会を果たせる、その日を。






 

 西の丘――何かと落ち着かない、二台の外国産車が都営駐車場へと踏み込む。

 

 陰鬱なまでに暗い無人の駐車場を灯すのは、月と自動販売機とポールライト程度のもの。ボルボとジュリアは滑り込むように車を停める。白線をほぼ無視したVIP停めにも等しい。

 

 車を降りた三人は、駐車場脇の遊歩道から■■■畑があった場所へと走る。砂砂利にはオンロードの二輪車が付けたであろう轍。

 

 そして見つける。横転したバイクと、その傍らで身を寄せ合って意識を失う二人のウマ娘。

 

「ロータス! クライスラー!」

 

 メルセデスは直ぐに駆け寄って二人の名を呼んだ。牧野は二人の胸に耳を当て、腕を握って脈の動きを探る。どちらも正常。目立った外傷もない。

 

 メルセデスが再度二人の名を呼んだ時、クライスラーの瞼が僅かに動く。

 

「んぅ……ンだよ……うるせぇよ……ママ(・・)…………へ?」

 

 正気を取り戻したとき、そこが西の丘であることに気が付く。少なくとも、実家のベッドではない。

 

「え……あ、いや! 今のナシ!」

 

 心地の良い微睡に絆されて、うっかり漏らしたクライスラーのヒミツ。汗顔の至りで後退った時、隣のロータスが遅れて覚醒し。

 

「……あんたってママ呼びだったんだ。いいこと聞いたワ」

 

 と、開口一番、口端を吊り上げた顔でそういった。

 

「お前! ゼッテェ言うなよ! 言ったらブッコロ……」

 

 途端、副生徒会長二人は暖かい何かに包まれる。それは、生徒会長の慈愛(抱擁)

 

「よかった……二人とも……無事で」

 

 僅かな涙声でそういった。彼女の懐で、副会長の二人は互いの顔を少しだけ見合わせて、メルセデスへ心配を掛けたことを詫びた。

 

「それにしても、君たち、一体何が」

 

 秋名が二人に訊ねる。

 

「何って……わかんねぇ。急に頭痛くなって……そうだ! 向日葵畑(・・・・)!」

 

 クライスラーの口からその文言が飛んだ時、その場にいた全員の脳髄に電流が走った。秋名は頭を抱える。再び、脳内を何かが塗り替えて……否、あるべき過去を修復するように、向日葵畑と、そこに纏わる記憶が蘇る。

 

 それは、メルセデスや牧野も同じだった。

 

「ねぇ……そこ」

 

 ロータスが北東の方角を指して言った。そこは、向日葵の成る畑。しかし、今は未だ向日葵は咲いてはない……筈だった。

 

 

 

 

 全員の視線の先。そこには、月光に照らされ、夜風に揺蕩う――いくつもの向日葵。

 

 

 

 

 不思議と、そこだけは明るかった。まるでスポットライトに照らされるかのように、優しい黄金色に包まれていた。

 

「……昼間は、咲いてなんていなかった筈だ」

 

 瞬きさえも忘れた秋名はそこに向かって、一歩を踏み出す。もう一歩、もう一歩。何かに導かれるように。

 

 ぶうん。ぶうん。と耳元で羽虫の声がした。彼が手を開くと、そこに一匹の妖精(テントウムシ)が降り立った。彼の手の中を少しだけ歩き回ったテントウムシは、再びその手から飛び立つ。

 まるでついてこいとでも言わんように、とある方角へ飛ぶ。彼はテントウムシに誘われ、禁忌と知りながらも向日葵畑の中へと踏み込んだ。

 

 秋名さん!? と背後から彼を呼ぶ声さえ、今は聞こえない。

 

 ぶうん。ぶうん。テントウムシはとある場所へと羽を下す。そこは、誰かの小さくて愛らしい、お鼻。

 

 

 

 

 

 

 ――向日葵畑の中で深く眠る、黒鹿毛の少女のお鼻。

 

 

 

 

 

 

 秋名は言葉を亡くした。

 彼の背を追って、向日葵畑へ踏み込んだ牧野達もまた同様に、沈黙の海へと葬られた。

 

 

 テントウムシは、少女のお鼻の上を歩き回る。それは、むずむずとした違和感をお鼻の持ち主へと訴えかけて。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ひっくしゅ!」

 

 

 

 

 

 

 と、一つの衝撃を引き起こす。

 それをキッカケとして、少女は意識を覚醒させる。

 

 

 ゆっくりと瞼を開く。今の彼女の瞳に、夜の月明かりとは優しかった。

 

 瞼を開いた先にあったのは、向日葵たちと、大人たちの姿。

 

 少女は秋名の顔を見た。あの時(・・・)と比べて、白髪も皺も増えているその顔は、本当に久しく見た気がした。

 

 

 

 

 そんな彼に、少女は静かに囁くように。

 

「おとうさん」

 

 と、そういった。

 

 

 

 秋名は、膝から崩れた。

 少女を、娘を深く、深く抱きしめて。ありがとう、ありがとう神様……と十数年振りに流す涙と共に、激しく震える声でそう言った。

 

 その背後では、メルセデスや牧野でさえも、顔を覆う姿があった。

 

 しかし少女は、秋名の背中に手を回すと

 

「ごめんなさい……おとうさん。わたし……おかあさんを助けられなかった」

 

 と言った。

 

 

 

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『行方不明のウマ娘、ひと月を超えて奇跡の生還』

 

 連日、その見出しが街を彩った。特にその他として大きなニュースがなかったことも手伝い、ショパンの生還は衆目を集めた。

 

 ショパンが入院している病院には、大勢のメディアが押し寄せることが予見された。だが、療養中の彼女を守ったのはURAとトレセン学園だった。ショパンの完全復帰まで、マスコミたちを近寄らせない。彼女に関する情報は、警察とURAが間接的に公表している情報のみ。それは『少女の容態は安定しており、目立った外傷も見受けられない。失踪した経緯については調査中』という、大衆からしてみれば少しばかり刺激の足りないものだった。だがそれは、ショパンを世間の見世物にするつもりはないという、彼らの意志の表れでもあった。

 

 現状も、病院側はマスコミたちの対応には追われずに済んでいる。マスメディアたちが妙に大人しい背景には、URAのポスト理事とも囁かれるシンボリルドルフが圧力をかけているのではという噂も立ったが、真偽は不明だ。

 

「では、私たちは一度失礼いたします。ショパンちゃんの様子から、事件性はないと判断したいですが、この空白の一か月間については、引き続き調査協力を願いたいです」

 

 そういって、少年課担当の女性警察官は秋名へ頭を下げ、医療ベッドに座るショパンへ、今日はありがとうと言って部屋を後にした。

 

 秋名は一つ息をこぼして、椅子に座ると、未だ少し憂いた瞳を解けない娘の頭を撫でた。

 

「今日は疲れたね。後で売店にお菓子を買いに行こうか。そうだ、明日はお祖母ちゃんが遊びに来るって言っていたよ。外出許可を貰って、お散歩でもしようか」

 

 そういっても、ショパンの瞳は今一つ。

 

 ショパンの空白の一か月。彼女はその一か月について何も語ろうとはしなかった。

 秋名自身も、そのことについては深くは触れなかった。彼女が発見されたあの日、ショパンが最後に言った言葉。『私はお母さんを助けられなかった』その言葉が、妙な躊躇いを生む。だから、それ以上を訊けなかった。

 この娘は本当に過去へ行っていたのかもしれない。そして、メルセデスが言ったように、パラドックスによる自決を図ったのかもしれない。……そんなことを考え出すと、再び腐心が顔を覗かせるようだった。

 

 秋名はそんな疎ましさを誤魔化すように、空気の入れ替えだと言って窓を開けた。春の終わりを告げる風が、病室内に流れ込む。その風に乗ってくるかのように、一風変わったエンジンサウンドも、病室内へと流れ込んできた。

 窓から外を覗くと、病院の敷地内に入ってくるアルファロメオ・ジュリアと、マセラティ・ギブリの姿。その後ろにR35 GT-Rが続く。そして、カウルに傷が入ったままのZX-4Rが駐輪場へ。

 

 みんなが来たね。と秋名が言う。

 

 しばらくすると、こんこんこんと、ショパンの病室を訪ねる音がした。秋名が扉を開けると、そこにはメルセデスを始めとした生徒会と、牧野。そして、シンボリルドルフとナリタブライアンの姿があった。

 

 ひとつ挨拶を交わすと、彼女らが病室へと入ってくる。メルセデスからは、皆からの見舞い品と、フルーツバスケットを渡された。バスケットの中には、季節にしては少し早い桃もあった。

 

 バスケットを机の上に置くと、皆の興味はショパンへと。

 牧野は、ショパンの両頬に手を添えて、随分と顔色が良くなったと顔を綻ばせた。牧野の言葉を聞き、どれ、私にも顔を見せておくれ。と言ったのはルドルフだった。

 

 ショパンの前に、ルドルフとブライアンが立つ。ショパンは反射的に毛布で顔を隠そうとした。やはり二人のことは未だに少し怖いらしい。

 

「戦々恐々としなくていい。何も君を咎めに来た訳じゃない。少し、顔が見たいな」

 

 優しく解くような声色だった。ショパンは恐る恐ると毛布から顔を出す。

 

「最後に会った時は、未だ君は乳飲み子だったと記憶している。……エアグルーヴに少し似てきたな。兎に角、無事でよかった」

 

 ショパンの頭を少し撫でてそう言った。

 

「……エアグルーヴ(あいつ)の娘か」

 

 ブライアンは、ルドルフよりも一歩離れたところから、腕を組んだままそういった。会うのは初めてか? とルドルフが訊く。ブライアンは直ぐに回答はしなかった。

 

「昔、どこかで会ったことがある気もする。……確かに、あいつと同じ目をしているな」

 

 ショパンにエアグルーヴの面影を重ねそうになった時、僅かに込上げてくる感情に嘘をつくように、ブライアンはショパンから視線を外した。

 

「この一か月間、何処で何をしていたのかと問うのは、禁忌か?」

 

 抜けるよう青空を、窓から眺めながらブライアンがそういった。

 

「何も答えを急ぐことはない。先ずは彼女の休息だ。今は時間に浸ればいい」

 

 ルドルフがそう言ったとき、ふと、フルーツバスケットが置かれた机の上に、一枚の写真が置いてあることに彼女は気が付く。それは、麗しく咲き誇る向日葵達を背に、こちらへ優しい微笑みを向ける、生前のエアグルーヴの記憶。今は純銀の写真立てに飾られて、そっとショパンを見守っていた。

 

「エアグルーヴ……彼女の加護を、感謝する」

 

 ルドルフは瞑想に浸るように、かつての部下へと目を瞑った。ふと、ひとつの気がかりが、彼女の肩を叩く。

 

「そういえば、秋名君。例のCDは、彼女へ?」

 

 秋名は数回首を横に振った。少し踏ん切りが付かなくて、と自嘲するように言った。

 彼は数刻、項垂れたようにして時間を置くと、鞄を開きCDケースを取り出した。

 

「ショパン。これ、覚えてる? 会長さんが、君に渡したものだ。お母さんは、どうしてもこれを君に渡したかったらしい」

 

 ショパンに差し出される、CD。『幻想即興曲 オムニバス ショパン』と銘打たれたCDケース。しかし、そのケースには大きなヒビ。

 

 ショパンは両手で受け取り、直ぐに気が付く。それが、自分がつけた傷であることに。

 それを抱えたまま、しばらく彼女は沈潜した。

 

「ショパン。その中身、貴女はまだご覧になってはいなかったでしょう。……貴女のお母さんからの、メッセージがその中に」

 

 メルセデスがそういった。

 

 ショパンは、ゆっくりとそのCDケースを開けた。中からは、二枚の書類と一枚のICカード。

 

 ICカードは、トレセン学園の学生証だった。その顔写真に写るのは。

 

「……私?」

 

 ショパン自身――即ち、それはショパンの学生証。西暦は、ちょうど今年。しかし、20年の時を経たその学生証は、時相応に色褪せていた。

 

 おい、どういうことだ? と、そのCDケースのことを知らないブライアンはルドルフに問いかける。しかし、ルドルフは沈黙で首を横に振るだけだった。

 

 続いて、手紙をとった。一枚は、後世の生徒会役員たちへ充てた嘆願。そしてもう一枚は――未来の誰かへ宛てた、願い。

 

 

 

 母の直筆に、ショパンの呼吸が一瞬止まる。

 

 

 

 

 

 

 

 そこには、こう書かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

『女帝の意志を継ぐ者へ』

 

 

 

 

 

 

――

 

 

 女帝の意志を継ぐ者へ

 

 

 お前がこの手紙を手にしてくれる日を、ずっとここで待っていた。

 

 

 先ずは、トレセン学園への入学おめでとう。

 

 

 本来であれば、直接言って然るべき祝辞だが、叶わない故、ここで許してくれ。

 

 

 お前も知っての通り、トレセン学園とは、厳然たる場所だ。甘えも、泣き言も、全てが許されない。

 

 

 そこを、お前は一人で歩いていくことになる。数多の苦難に直面することは、必至だろう。

 

 

 残念ながら、私はもうそこには居ない。直接お前を導いてやることもできない。だが、心配などしていない。お前は一人で歩ける娘だと、信じているから。

 

 

 私は、お前に大切なことを全て授けたつもりだ。

 

 

 女帝としての在り方。命の道徳。正しい優しさ。

 

 

 それらを正しく理解できるお前であれば、きっと自分のその脚で、未来を切り開くことが出来る筈だ。

 

 

 過去の事など振り返ってくれるな。お前が正しく居られるその未来こそが、私の意思(ねがい)であり、意志(いのり)なのだから。

 

 

 お前には、私の意志をその胸に、今日を生きてくれることを願っている。

 

 

 女帝の意志を継ぐ者(私の大切な愛娘)へ、お前に輝かしい栄光と未来があらんことを、心から祈る。

 

 

 

 エアグルーヴより。

 

 

 

――

 

 

 とろり、ほろりと、その手紙に一つの雫。

 

「どうして」

 

 ショパンは呟く。

 

 

 

「……ショパン」

 

「おとうさん……あのね。お母さんはね、知ってたんだよ。私が生まれてきちゃうと、お母さんが死んじゃうってこと。知ってたんだよ。だからね。私、お母さんにお願いしたの。『私なんか、産まないで』って。でもね、でもね、お母さんは私にこの未来をくれたの。……どうして。死んじゃうってわかってたのに、どうして。……どうして!」

 

 あの日、枯れる程に流した筈の涙が、再び彼女の頬を伝う。

 どうして母は、自分の命よりも私を選んだのだ。嗚咽を漏らしながら、父へ言った。

 

 父は、娘を激しく抱擁する。彼の瞳にも、大きな雫があった。

 

 

「決まっているじゃないか! お母さんは……それほど迄に君を愛していたんだ。すべては、君の為だと。……君の誕生。君の未来こそが、お母さんの願いだったんだ」

 

「そんな……おかあさん……おかあさん……」

 

 ショパンの顔が、激しく濡れる。どれだけ泣いても、涙は止まってくれなかった。

 

 ごめんなさい。おかあさん。こんな私の為なんかに。そう言おうとした。だが、それは違う。

 

 彼女が母へ言うべき真の言葉とは、決して謝罪ではない。

 

 

 

 

 

 

 

「ありがとう……ありがとう。おかあさん……」

 

 

 

 

 

 

 止め処なく溢れる涙で、やっと言えた、感謝(ありがとう)

 

 

 

 彼女(ショパン)の、涙色の幻想即興曲。それは、天国の母へ届いているだろうか。

 

 

 

 

「……ああ、俺、こういうのダメだわ」

 

 クライスラーは目元を覆って、病室を後にする。ロータスもそれに続く。

 

 メルセデスは、その光景に耐えられず、両手で顔を隠すようにして欷泣していた。それは牧野だって同じ。

 

 

「それがお前の有情か。変わらないな……昔から」

 

 ブライアンは、どこまでも抜け行く青空へ向かって、その充血した瞳を数回瞬く。

 

「エアグルーヴ……確かに君は、最期まで女帝だった。改めて心から、敬服しよう」

 

 再び純銀の写真立ての中の彼女へ、ルドルフは言った。

 

 

 

 

「ショパン……生きよう。お母さんの為に。今日という日を、明日を、未来を。強く、強く……生きていこう」

 

 

 

 

 

 

 

 父と娘は亡き母へ誓う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 必ずや、貴女の夢見た未来を、この手で描いていこうと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

「なぁ、カフェ~」

 

「……何度同じ話をすれば気が済むんですか。タキオンさん」

 

「だって! 私はすぐそこまで辿り着いていた筈なんだよ! この世界がひっくり返るような、大発見をした筈だったんだ!」

 

「でも、思い出せないのでしょう。だったら、もういいじゃないですか」

 

「そんな薄情な! なぁ思い出すの手伝ってくれよカフェ……カフェ~!」

 

 

 

 

 

 

「あの、寮長(アマゾン)さん。お皿、一つ多いみたいですけど?」

 

「あっれ~? おかしいなぁ。いっつもこれくらいで用意してた筈なんだけどなぁ」

 

 

 

 

 

 

 

「各員に通告。ルドルフ会長より、花壇荒しの件は、犯人不明として処理すると連絡があった。今日からは、花壇の復興に向けた、美化委員たちのフォローに入る」

 

「え? それでいいんスか?」

 

「……ルドルフ会長の御意向だからね。花壇以外の被害は今のところ無いから、犯人捜しよりも先ずは花壇の修復をって。……にしても、犯人って分かってた気がするんだけどな。なんだっけな……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なんだか、学園が急に静かになった気がしますわね。少し前まで、何か騒ぎがあった気がするのですが」

 

「んぁ? あー……。アイツ(・・・)未来に帰っちまったらしいからなぁ。くそう、パームシュガーにはアタシ一人で立ち向かう運命なのか……くぅ、ちょっとツタヤでハルマゲドン借りてくるわ」

 

「……? あいつ……とは? あ、ちょっと、ゴールドシップさん!? お待ちくださいまし! 一体何方のことなんですの!」

 

 

 

 

 

――

 

 

「んー? 確かにあんたに運動靴を貸した記憶はあるけど、なんで貸したんだっけ……? 確か、橋の上で靴貸して、アタシは裸足で帰って、トレーナーはバイクで事故ってて……なんでだ……?」

 

 ファイバトリガーは、エアグルーヴから差し出された運動靴を舐めるように見まわし、そういった。

 

「……さぁな。だが、こいつに助けられたのは本当だ。ありがとう。ファイバ」

 

「んぅ……まぁ、いいや。じゃあ、確かに返してもらったよ。よし! こっからはまたライバル同士だ。首洗って待ってろよ。女帝エアグルーヴ!」

 

 彼女に人差し指を向けるファイバに、エアグルーヴは一言、ああと残して踵を返す。

 

 

 

 

 かつん、かつん。少しだけ湿ったヒールの音が、廊下に響く。

 リズムは安定した全拍子、だが、その調べはマイナー調。

 

 

 

 

 

 この学園から、否、この時代からショパンが去った翌日。

 

 

 誰しもが、ショパンのことを記憶になど残していなかった。

 

 寮の自室へ向かえば、『なんだか部屋が広くなったみたい』とファインが言った。

 

 トレーナー室へ赴けば、『今日はなんだか、いつもより静かだ』と秋名が言った。

 

 

 ショパンとは、幻だったのだろうか。

 あの娘と過ごした日々は、偽りだったのだろうかと不安が過る。

 

 そんな憂いを残したまま、エアグルーヴは生徒会室へと戻る。

 

 そこでは、段ボールを解体するブライアンの姿。何事かと問えば、顎で会長席を指す。

 

 そこにあったのは、以前壊れたオーディオの代わりとして、新しく購入された真空管式のオーディオ。

 

 コンパクトながらも、トラディッショナルな木目の意匠に、ルドルフは満悦の様子を隠さない。

 

 高かったのでは? と問いかける女帝に、今年の予算は上手くやるから目を瞑ってくれとルドルフは微笑む。

 

「折角だ。リクエストを受けよう。エアグルーヴ、何が聞きたい?」

 

「私でいいのですか?」

 

「勿論、心ばかりの労いと受け取ってくれ」

 

「では――ショパンを」

 

 その時、ブライアンの耳がぴんと動く。何かを思い出したというような表情だった。

 

「そういや、会長。例のアレ(・・)もショパンとか言わなかったか?」

 

 ブライアンの口から、ショパンの名。そわっと背中を何かが撫でる感触がした。

 

 ああ、そうだった。とルドルフは机の引き出しを開け、とある学生証をエアグルーヴへ差し出す。

 

「君はこの生徒に心当たりはあるかい? 何でも、ひと月程前にURAから送付されたものらしいんだが、如何せん、該当する生徒がいないものでね」

 

 エアグルーヴは、学生証を手に取り、息を止める。

 

 

 

『初等部 B組 ショパン』

 

 

 

 どうだい? 何か知っているか? と問うルドルフへ、エアグルーヴはこくりと頷き、これは持ち主へ私から返しておきますと、それを懐へ仕舞った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静かな生徒会室。優しく彩るは、ショパンの幻想即興曲。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66
【記憶】まだ見ぬ君への愛の詩 


 

 

 7/24 

 

 今日は、久しく休暇が取れたから、妻と出かける計画を立てていた。

 『どこへ行きたい?』と僕が訊ねると、妻は『西の丘へ行きたい』と言った。

 

 西の丘といえば、向日葵畑があるところ。僕たちの思い出の場所でもある。

 

 早速、二人で支度にかかった。とはいっても、僕は何時もの襟付きのシャツへ着替えて、あとは精々眼鏡を拭く程度のものだ。

 

 しかし、妻の支度とは何かと時間がかかる。僕は持て余した時間、住宅雑誌を読み漁っていた。

 

 センターカラーを飾っていたのは、今時モダンなリフォームマンション。和洋折衷、広いリビングと畳の和室が同居する空間が温かい。妻やお義母さんも、このような部屋が好みだと言っていた気がする。だが決して安くはない。マクラーレンがコレクションできてしまう値段だ。

 

 次の特集は、激安の穴場アパート。風呂なしのトイレは共用で、築は僕より年上。但し駅近で、家賃は東京にしては目を見張る程の破格。僕も学生の頃はこのくらいのアパートに住んでいた。流石にトイレは共用ではなかったが、貧乏だった昔が懐かしいものだ。

 

 更にページを捲ると、今度は理想の一軒家特集。この雑誌の読者から投稿された家を紹介しているらしい。

 今回紹介されていた家は、都内の三階建て。玄関前に4人家族と飼い犬が揃ってピースサイン。こちらのご主人の拘りポイントは、秘密の小部屋と広い庭なのだそう。書斎からのみアクセス可能な屋根裏の小部屋。そこには、ご主人専用のオーディオ・ルームがあるのだそう。小部屋の中央に置かれた、真空管式のアプリファイア。パワーアンプは別体らしい。それでJBL製のパッシヴスピーカーを鳴らす。最近のお気に入りは、スティービー・レイ・ボーンやBBキング。エリック・クラプトンにラリー・カールトンだと書いてある。ウイスキーを嗜みながら、彼らのブルースに陶酔するのだと、ロックグラスにジャック・ダニエルズを注いだご主人の陽気な写真があった。

 

 隠し部屋というのは、いつも少年の心を擽ってくれる。オーディオルームというのも男の憧れだ。ちょうど、妻もクラシック音楽を嗜むウマ娘。同意を得るに難くないのかもしれない。と、ページを捲る。

 

 広い庭には、子供たちの為の簡易遊具が揃っている。この広さを利用して、週末はご近所さんを呼んでバーベキュー。気が向けば、テントを張って自宅キャンプ。テントから顔を出す幼い子供たちの写真が、とても愛らしかった。

 

『うらやましい』

 

 本心がうっかり心から出てしまう。それを妻は聞き逃さなかった。

 

『何を読んでいる』

 

 と訊ねてきた来た妻を見た。彼女は白いワンピースに身を包んで、アイシャドウに至るまで隙なく仕上げられていた。思わず、とくりと心臓の鐘が鳴る。

 

『いやぁ、家だよ、家。この賃貸も何れは手狭になる。もう少し、広い家が欲しくなるだろうと思ってさ』

 

 そういうと、妻は僕の隣に掛けて。

 

『広ければいいというものでもない……二人が快適に過ごせる空間が担保されていれば、それでいい』

 

 といった。

 

『二人? 三人の間違いだろう?』

 

 僕は、妻の下腹部に手を添えて言った。だが、妻は。

 

『いいや、二人だ』

 

 と言った。どういうこと? と僕が訊くと、彼女は、準備が出来たから早く行こうと、らしくもなくはぐらかした。

 

 運転席に僕、助手席に妻。いつものポジションだ。エンジンを掛けた時に、インストゥルメントパネルから、総走行距離(オドメーター)が見えた。既にこの車、地球を2周以上もしているらしい。そろそろ買い替え時。その言葉が頭を過った。

 

 途中、ディーラーに寄っても? と僕が訊く。妻は顎で了承してくれた。

 街中を少し走れば、国内外問わず様々なディーラーショップが並んでいる。

 

 特定のブランドを決めるつもりもなかったので、僕たちは街中の有料パーキングに車を停め、ディーラーが並ぶ通りを歩いた。

 

 今は国産車(スバル)に乗ってはいるけど、次は何にしようか。少年のような高揚感が身を包んだ。

 

『やっぱり、ドイツ車がいいかな。フォルクス・ワーゲン。アウディ。BMW……ベンツは少し高いかもね』

 

 と、ショウウインドウから見える綺麗なセダンの意匠に見とれた。

 

 途端、彼女が僕の袖を引いた。きっと下手なブランドよりも合理性を好む彼女なら、国産車で十分だと言うだろうと思った。だったら、トヨタかホンダかな。もう一度スバルでもいいけど。

 

 だけど彼女は、とあるブランドを指して言った。

 

『私はあれが好みだ』

 

 彼女の指の先にあったディーラーは、スウェーデン車のボルボだった。少し意外だった、日本では比較的マイナーなブランドであったから。

 

 彼女の腕に引かれるまま、僕たちはボルボのディーラーへと足を運んだ。

 

 エントランスを潜ると、3ナンバーのSUVタイプが真っ先に目に入る。随分と大型だ。それに目を取られていると、スーツ姿のスタッフが声を掛けてくれた。

 

 お探しですか? と訊ねる彼へ、冷やかしだよと僕は言った。それでもスタッフは笑顔で、胸に手を添えていた。きっと僕みたいな冷やかしを、何人もボルボユーザーへと昇華させたのだろう。その自信が垣間見えた。

 

『でも、どうしてボルボ?』

 

 入念に車を吟味する妻へ、僕は訊いた。そうすると、彼女は、ここのブランドの得意はなんだ。と訊いた。えっと、と詰まる僕の代わりに答えたのは、スタッフだった。

 

『世界一を誇る安全性でございます。大切なお客様方を、誰一人として不幸にしない』

 

 妻は黙って頷いた。結局その日は、パンフレットとスタッフの名刺だけを貰ってディーラーを後にした。

 

 自分の車まで戻る途中、妻は、軽くて安価な国産車は心配だ。何があっても、貴方たち(・・・・)を守ってくれる車がいい。と言った。

 

 僕は妻の背を追いながら、ボルボのパンフレットに目を落とす。だが本当は、横目でちらりとホンダのCIVIC TypeRを見ていた。

 

 もう少し車を転がし、ICで高速に乗る。ジャンクションから分岐して二つ目のICで降りれば、西の丘とは直ぐだった。

 

 一キロほど、坂を上る。都会の街が少し小さく見える。

 駐車場は閑散としている。これほどのスポットだというのに、こんなに知名度が低いのは勿体ないと思いつつも、誰にも邪魔されない穴場としては最適だとも思った。

 

 駐車場の脇から遊歩道へ歩けば、向日葵の群れが顔を出す。太陽の恵みを受けて、健気に咲き誇る彼らは、どうも美しい。そこを僕たちは、手を繋ぎながら綺麗に歩く。

 

 途端、妻が僕の肩をたたく。ここで私の写真を撮ってくれないか。と言った。

 

 僕は少し驚いた。妻が自分から進んで被写体になりたいと言ったのは、今まで連れ添った記憶の中でも殆ど無かったのだから。僕は鞄から、ミラーレス一眼カメラを取りだすと、キャップを外し彼女へレンズを向けた。ISO感度やシャッタースピード、F値を手動(マニュアル)で設定しようと考えたが、僕の下手な撮影で彼女の怒りを買う結果だけは避けたいもの、だから、プレミアムオートモードに設定してファインダーを覗いた。

 

 ファインダー越しに映る彼女は、やはり美しかった。太陽の光を受けて、鹿毛の鬣と尻尾が麗しく靡く。

 

 向日葵畑を背景に、微笑む女帝の姿。このまま写真コンクールに提出すれば、最優秀賞は疑い無しだろう。

 

 だが、一つだけ気になることがあった。こちらを向く、彼女の微笑み。その宛先は、僕ではない、誰かのような気がした。多分、思い過ごしだろうけど。

 

 妙な違和感を無視して、僕はシャッターを押した。

 

 

 

 

 

 

11/8

 

 同僚の礼司に子供が生まれた。

 

『見に来いよ、子供を抱く練習をさせてやる』

 

 だなんて僕に言うんだ。それでも、親友の子供は一目見ておきたい。そう思った僕は、彼の家へ赴くことにした。

 

 妻の手を取って、結局納車したボルボの助手席へと導く。少しお腹が大きくなってきた彼女。丁寧にエスコートせねばという僕の気遣いを、心配しすぎだと笑った。

 

 彼の賃貸マンション。来客用の駐車場がないというと、礼司は電話口でその辺に路駐しろだなんて言った。僕は少し躊躇ったけど、お腹が大きくなった妻を無駄に長くは歩かせたくはないと、止む無く路駐した。じっさい駐禁エリアでないにしろ、僕の車を避けて通る軽自動車を見て、少し忍びない気がした。

 

 インターホンを鳴らし、出てきた僕たちを出迎えてくれたのは礼司だった。

 上がれ上れと上機嫌に言う彼。リビングに上がると、ベビーベッドの中に天使はいた。

 

 まだ0歳の男の子。今度生まれてくる僕たちの子より、少し先輩というわけだ。

 

 少しすると、彼の奥さんが、お茶とお菓子を持ってきてくれた。どうだ、可愛いだろう? と言ってくるファイバトリガーさんの顔は、母親の顔そのものだった。

 

 抱いてみろよ。と礼司が言った。自分の子なのに、ずいぶんと安売りじゃないかと僕が言うと、お前らだから心配してないだけだと礼司は笑う。

 

 僕はそっと赤ちゃんを抱きあげた。すると、急に泣き出すんだ! 慌てた僕に、下手だなお前。貸してみろよと先輩面する礼司。だけど、礼司の腕の中でも、赤ちゃんは泣き止まない。

 

 嘘だろお前!? お前のオヤジだぞ! と赤ちゃん相手にも容赦のない突込みを入れる礼司の姿が、少し可笑しかった。

 

『とーちゃん! 何やってだよ! ったくもう! 折角寝かしつけたのに』

 

 と、ファイバさんが礼司の腕から赤ちゃんを奪う。そうすると、まるで魔法にかかったように、赤ちゃんはおとなしくなった。母の力とは偉大だと、思い知らされた。

 

『お前はどうする? エアグルーヴ』

 

 とファイバさんは妻に言った。妻は、少しだけいいか? と赤ちゃんを受け取った。

 

 赤ちゃんは妻の腕の中、不思議と泣かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1/1

 

 妻と二人で初詣。現役時代だった頃は、あのレースに勝てますようにと願っていたが、今の願いは『安泰』だった。

 

 そのあと、二人でおみくじをひいた。……二人揃って『凶』

 縁起でもないと、僕はそれを枝に結んだ。だが、妻はそれを捨てなかった。

 

 理由を訊くと、妻はおみくじの内容を見せてくれた。その、出産のところ。

 

『子は無事』と書かれていた。

 

 その言葉を、妻は消化しているようだった。

 

 その横顔が、どうしても儚く見えた。……所詮は、おみくじだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 2/9

 仕事へ出ようとした僕を、妻が呼び止めた。

 どうしたの、と問いかける僕。妻は、僕の首に手を回して、何かを結んだ。

 しゃらん、と細い金属チェーンの音がした。

 

 それは、ペンダントだった。写真が入ったロケット・ペンダント。

 

 中の写真には、あの日僕が向日葵畑で撮影した、妻の姿。

 

『何時も私のことを忘れてくれるな』

 

 彼女は確かにそういった。このためにわざわざ写真を。自分を思い出させるために。か。そんな彼女に、少しだけファンシーさを覚えた。堪らず、彼女の唇を奪った。そのまま彼女の胸に手を伸ばそうかとも思ったが、あくまで朝は紳士でなくてはならない。それが女帝の杖としての振舞い。

 

 嗚呼、こんな愛しい妻を置いて仕事など行きたくない。少年のような我儘が、心を支配する。しかし、そこはネクタイという首輪を巻かれた社会人。彼女から唇を外し、もう一度ペンダントを見た。

 

 向日葵畑を背景に、こちらへ優しく微笑む彼女が、憧憬のよう。それは、100万ドルでも安い宝玉にも等しい。

 

 そんな僕に、妻は重ねてこういった。

 

『大切にしておいてくれ。それはきっと、いつかきっと、私たちの大切な子を守る、お守りにもなる筈だ。その時までずっと、守っていてくれ』

 

 僕にはよく、意味が分からなかった。だが、彼女の瞳はすべてを見通しているかのようだった。

 

 ……結婚してから、時折見せる。妻の、少しだけ理解し難い言動。彼女には一体、何が見えているのだろう。そして、それを語るとき、彼女の表情は、少しだけ哀しくなる。

 

 ……考えすぎなのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 3/2

 日に日に、妻のお腹は大きくなっていった。妻のお腹に手を添えると、少しだけ命を感じた。

 

 あまり自由に動けなくなってきた彼女に代わって、僕がメインで家事を行った。

 

 だけど、料理をすれば『野菜はもっと細かく切ること、味も濃すぎる』と言われ、掃除をすれば『細かいところを見逃しすぎだ』と叱責される。

 

 流石に家事師範。その肥えた目は決して甘くはない。さすがに厳しいな、と少し思った。

 

 だが、妻は言った。

 

『私がいなくても、一通りは熟せるようになっていてほしい』

 

 と。確かに、彼女の外出や出張があったときに、子が居ながら、父が何もできなくては困ると、僕は納得した。

 

 一通り、家事を済ませ、妻の横に座る。彼女は上出来だと僕を褒めた。

 

 二人でベビー用品のカタログを見て、時間を過ごす。ちらりとカレンダーを見る。予定の日も、そう遠くはない。

 

 いよいよ来週から、妻が入院する。そして僕はいよいよ、父親になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 4/23

 

 

 4/24

 

 

 4/25

 

 

 4/26

 

 

 4/27

 

 

 4/28

 

 

 4/29

 

 

 4/30

 

 

 5/1

 

 

 5/2

 

 

 5/3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 5/4

 

 4/23に、子が生まれた。そして、妻が死んだ。

 

 未だにこれが、現実だとは思えずにいる。

 

 あの時何があったのかは、よく覚えていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、妻は産まれてきた娘へ言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『また逢えてよかった』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 娘の名は『ショパン』に決まった。……妻の遺言だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
















 ▲/□

 娘が帰ってきて、少しだけ日が流れた。

 一応、退院はしたけれど、もう少しの間は実家で過ごさせることにした。

 今日は、二人で家の掃除をした。これでも僕は、妻の薫陶を受けた身だ。掃除のテクニックは一通り心得ているものと自負していたが、娘のほうが一枚上手。てきぱきと要領よく、身のこなしが軽い。それは妻の動き宛らだった。はたきのアイテムを手に、掃除というダンスを踊る娘に、妻の面影が重なる。

 また、こんな日常が、戻ってきてくれるとは思わなかった。

 リビング、ダイニングキッチンと掃除して、次に物置を掃除していた時、日記が出てきた。若かりし頃の記憶だ。

 懐かしさを覚えてそれに浸っていると、ショパンから叱られた。

 だから、掃除を終えて、一人こんな時間にひっそりと読んでいる。

 そして、十数年ぶりに、またこうして筆を執っている。

 ……過去を振り返っていると、やはり思ってしまう。たった一日だけでいいから、もう一度妻と過ごしたいと。

 あわよくば、妻と娘と、三人で過ごしたいと。

 さすがに、贅沢かな。


 


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4月23日 幻日








今日は、年に一度だけ訪れる、誰かの大切な日。










それは、出会いの日であり、別れの日。










そんな大切な日に、もしも願いが叶うとしたら、あなたは何を望みますか?




























 

 

 カーテンの隙間から射す淡い光芒が、一人の草臥れた男の瞼を苛める。

 

 窓の外では、小鳥たちの織り成す優しい三声コーラス。希望の朝とはよく言うが、早朝の微睡の時間とは、どうしてこうも億劫なのだろうか。

 

 娘はしっかりと自立して、学園へ羽搏いていったというのに、大人である自分がこの体たらくか。

 薄く開けた瞼でスマホの電源を入れる。4月23日 日曜日 午前8時20分。

 

 目立ったニュースは特にはない。小さく吐息を吐いて、再び布団へ目を閉じる。

 

『おい、朝だぞ。何時まで惰眠を貪っているつもりだ』

 

 ふと、聞き馴染んだ女性の声が、彼の鼓膜を突く。少し慌てた彼は布団を蹴り、上体を起こして、声が鳴る方を見る。

 

 

 

 そこに居たのは、何時も清く、正しく、麗しい……鹿毛の鬣を靡かせる一人のウマ娘。そして、彼女は――秋名の妻。

 

 

 

「いやぁ、今起きようと思ったところ」

 

 秋名は妻へ誤魔化しを吐く。だが、彼女の瞳に嘘は通用しない。女帝の視線に刺される男、結局はその沈黙に気圧されて、嘘を自白し、御免と挨拶。

 

『今日は大切な日だ。現を抜かしてないで、早く支度を済ませてくれ』

 

 妻は秋名へそういって、背を向ける。

 

「……?」

 

 その妻の背中。20年も連れ添った彼女の背中に、一瞬だけ妙な違和感を感じたのは気のせいなのだろうか。

 

 

 

 

◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 

 

 

 

「君は、いつ帰ってきたんだっけ」

 

 食パンにマーガリンを少しだけ。ドイトン・コーヒーのローストされた香りが、寝起きの鼻を擽る。トランジスター式のオーディオから鳴るのは、フレデリック・ショパン。

 

『いつ、とは』

 

 彼女は質問を返す。秋名は返された質問に戸惑う。自分でも、何故こんな質問をしたのかがわからないから。

 

『寝惚けているのか。さっさと食べて顔を洗ってこい』

 

 妻の瞳は笑っている。その話題を引き延ばすつもりはないらしい。それでも、やはりそれでも、随分と久しく妻の顔を見た気がしてならない。……こんな当たり前の日常(・・・・・・・)の、何を疑っているのだろう。

 

 朝食を終えて、顔を洗う。鏡に映る自分とは、やはり年相応に草臥れている。皺は増えて、白髪も隠せない。

 

『早く支度を済ませろ。悠長に構えている時間はないぞ』

 

  と、妻が彼の背中に言う。振り返った先にあった、妻の顔。それは、鏡の中の秋名よりも、ずっと若々しく、麗しい。やはり、現役を退いても、女帝。若さを保つ努力を怠っていないといったところか。だが、しかし。それにしては、随分と若すぎる気もした。若さを保っていると言うより、そもそも歳をとっていないといった方が似合う程に。

 

 ……今日は何か、感覚がふわふわとしている。それを自覚しながら、歯ブラシを咥えた彼の視線の先には、朝の掃除に余念のない妻の背中。現役時代の華奢さと比べれば、僅かに緩やかになった体の稜線。それは、母親になった者としての体のつくり。それは暖かく、どこか儚い。そして、どうも言語化できない聊かな違和感を孕む。

 

 秋名はふいに、彼女の鹿毛の尻尾を触った。彼女は僅かに驚きつつも、首だけを彼へ向けて、何か付いているか? と微笑む。秋名は、ごめんと一言を飛ばして、慌てて手を放した。

 

『娘がいないからと、朝から節操がないのは頂けないぞ』

 

「いやぁ、そういうつもりじゃあ」

 

『では、どういうつもりだ?』

 

 妻は夫の顔を下から覗き込む。それもどこか、愉し気に。少しだけ目を細めて、彼の不浄な心を読み解こうとするよう。その表情は、麗しくもシニカル。

 

「……参った」

 

 その視線に忍びない秋名は、根を上げる。

 夫の降参に満足を覚えた妻は、彼の頬を指で突くと、娘が待ってるぞ。と言った。

 

 彼女の支度は既に万全だった。白いワンピースに、灰簾石の瞳を修飾するアイシャドウ。そのワンピース、まだ持っていたんだ、と秋名が言う。妻はただ一言、気に入っているから。と答えた。

 

 そして、ようやく身支度を終えた二人は、ボルボ・V60へと乗り込む。秋名が運転席、妻が助手席。いつものポジション……の筈。

 

『安全運転で頼む。この間のような(・・・・・・・)荒い運転は、もう(・・)するんじゃないぞ』

 

「え……あ、ああ。そういえば、そんなこともあったっけ」

 

 プッシュスタートで、エンジンを始動。重厚かつ静謐なサウンドは、女帝のバ車として相応しき品格を演出する。

 マンションの駐車場から出て、国道に就く。今日は不気味な程に道が空いている。この時間帯、日曜日というのなら、数kmの渋滞も珍しくないというのに。

 

「今日は街が静かだ」

 

 それらの印象を受けて、秋名はそう零す。妻は彼の隣で、そうか? と据わった声で言う。奇妙なことに、信号にすらも引っ掛からない。

 

『今日は特別な日なんだ。きっと女神たちが働きかけてくれているのだろう』

 

「女神……か。君もそういうことを言うんだね」

 

『たまにはな……ほら、見えてきたぞ』

 

 彼女が指す先――東京競技場。懐かしい場所だと彼女は小声で呟く。秋名にさえも聞こえない程に小さな声で。

 

 

 

◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 

 

「久しぶりに来たな……ここ」

 

 秋名は周囲を見回す。20年の時を経て、変わったところもあれば、変わらないままのところもある。

 競技場への入場ゲート付近に、かつての勇士達を飾った、写真(メモリアル)。シンボリルドルフ、フジキセキ、オグリキャップ、ナリタブライアン……そして、エアグルーヴ。

 

 若かりし頃の妻の姿。当時は未だ、伴侶という関係には程遠い所に居た。だが、何時しか時は二人を導き、懇意を育ませ、比翼の連理を授けた。……人は後ろ向きに未来へ入ってくと、どこかで聞いた。よく言ったものだと感嘆する。

 

『もういいだろう』

 

 妻が秋名の袖を引く。振り返れば、少しだけ面映ゆい表情の彼女。幼い日の自分の写真に、妙なこそばゆさを覚えているかのよう。あの娘が待っているから。と彼女は、メモリアルの前に佇む秋名の手を取る。そんな彼女を見たときに、秋名はふと思う。今日の妻の姿、帽子も被らなければ、変装用のサングラスもしない。

 

 仮にでも、あの女帝・エアグルーヴだ。彼女がこの競技場へ来ているというのなら、その場の衆目を集めることは想像に難くないというのに。周りの観客たちは、誰一人として彼女に見向きもしない。……いくら現役を退き、暫くの時間が経っていると言えど、その周囲の無関心さには多少の奇妙さを覚える。周囲の人々には、彼女の姿が見えていないとでも言うつもりなのだろうか。

 

 秋名はその違和感を腹に落とせぬまま、妻に手を引かれ、レースの観戦席へと踵を鳴らした。

 

 

――

 

 芝右の1600m 天候は晴れ、バ場も良好。時計の針が、12:45を指そうとしている。

 

 スターティングゲートの前で、時が迫るのを只管(ひたすら)待つ戦士たちの姿。そこの、14番ゲート付近には、黒鹿毛の少女の姿。

 

 少女はこちらに気づいたのか、手を振り、駆け寄ってくる。

 

「来てくれたんだ! お母さん!」

 

 すっかりと晴れた瞳でそう言った。

 

『たわけ! 集中を失念するんじゃない』

 

「ごめんなさい! でも、私、頑張ってくるから! きっと!」

 

『ああ……勝ってこい』

 

 母から娘への、激励。娘は踵を返すと、自分のゲートへと向かった。

 

「大丈夫かな、あの娘は」

 

 秋名が零す。

 

『まさか、自分の娘を信用していないとでも言うつもりか?』

 

「いやぁ……そうだね」

 

 秋名はコースの埒に腕をかけて、競技場の風光を見渡す。穏やかな天気に包まれた

 妻と二人、娘の雄姿を見守りに。そのシチュエーションに、妙な既視感を覚える。

 

「ねぇ、僕たちは、前も一度こうして娘のレースを見に来なかったかい?」

 

『……そうだったか?』

 

 そう答える彼女の表情は、記憶に悩まされてなどいない。思い出すことを放棄しているというより、秋名の問いをはぐらかしているように思えた。

 

「何か、覚えがある。前もこうして、僕と君とで、あの娘のレースを見ていた気がする……」

 

 とん、と妻が彼の肩に手を置く。

 

『今見るべきは、目の前のあの娘のレースだ』

 

 既にスターティングゲートは開かれていた。16人のウマ娘たちの足音が、いくつも重なり観客席へと轟く。娘は先頭集団の中で息を潜めている。

 

 それでも秋名は、目の前のレースに集中できないでいた。何故なのだろう、自分の娘が走っているというのに。どうも今朝から、拭いきれない何かが、彼の第六感を刺激しているよう。見えない違和感に、彼の表情が少し曇る。

 

 だが、隣の妻の表情は、彼とは対照的な太陽だった。

 

『そうだ! 考えることを忘れるな! そうだ……いいぞ……!』

 

 正真正銘、娘を想う母親としての顔が、そこにはあった。まるで、かつての(しがらみ)から解放されたかのような――綺麗な表情だった。

 

 途端、妻が秋名の腕を大きく抱く。

 

『今は、今だけは何もかも忘れよう。何も考えずに、あの娘の帰りを見届けようじゃないか』

 

 瞬間、実況が大きく唸る。レースは終盤。直線の先のゴールラインへ向かって、先頭三人のスリーワイド。二人の(ライバル)に挟まれて、あの娘は駆ける、駆け続ける。

 

 観客席が潮騒のように揺れる。三つ巴の、一騎討。

 

 そして妻は、静かに

 

 

『――行け。ショパン』

 

 

 と言った。

 

 

 

 

 

 ――芝右1600。今日の勝利の女神は、黒鹿毛の少女(ショパン)へと、微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 

 

 

 

「ただいま……」

 

 少しだけ草臥れた男の声が、闇夜の中へと吸い込まれてゆく。その闇夜を照らしてくれるのは、電球色の照明と、妻子の明るい声。

 

「ただいま!」

 

 娘はその瞳をきらきらと輝かせ、久しぶりの実家に高揚する。靴も揃えずに脱ぎ散らかそうとするものだから、母からお耳をつねりとされ、ヒーンと鳴く。

 

 晴れて未勝利を駆け抜けたショパン。両親はそれを祝ってやろうと、トレーナーへ断りを入れて、実家へ娘を連れ帰った。学園と実家が近い故に成せる業という訳だ。

 

 娘は褒美は何がいいかと訊かれ、お決まりの人参ハンバーグを妻へと強請る。

 妻――母は腕を捲り、エプロンを施し、台所に立つ。そこは彼女の戦場だ。そこでの彼女は、孤独の戦士。だが、今日だけはその限りでもないらしい。母の隣に立つ、援護兵の姿。

 

『お前は疲れているだろうに、休んでていいものを』

 

「ううん! 私も手伝うの!」

 

 母娘が並んで台所に立つ。二人の背中は、どうしても愛おしい。

 

 ……だが、やはり。秋名はその光景にどうも既視感を覚える。どうも似たような光景を、何処かで見ていると、彼の記憶が叫ぶのだ。

 

 そして、薄々気付き始めている。

 

 今朝からどうも見え隠れする、数々の違和感。その根源は、妻なのではないかということを。

 

 

 

 

 

◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 

 

 

「じゃあ、おやすみ」

 

『ああ』

 

 そういって、二人は同じベッド。だが、それは単身用(シングル)のベッド。妻の分のベッドはないのだろうか。

 秋名がそう訊いても、私と一緒に寝るのは嫌か? と彼女は笑ってまたはぐらかす。

 

 その時、僅かな風が寝室へ流れ込む。それと共に鳴る、ドアヒンジが僅かに鳴く音。

 そこに居たのは、自分の枕を持って、面映ゆい表情をする娘の姿。

 

「今日だけ……一緒に寝ていい?」

 

 と訊いてくる。

 

 妻は布団を捲って、早く来いと言った。娘は表情を明るく、布団へと潜り込む。

 父と母、間に娘。三人は揃って川の字。

 

 そこから、1分も経たないうちに、娘の寝息が聞こえる。

 妻は、就寝した娘のお耳を、くにくにと触って顔を綻ばせる。

 

 しかし、その綻んだ表情は、どうも切ない。

 

『今日という日が、終わらなければいいのに』

 

 妻は小さな声で囁く。秋名にも聞こえない程、小さな声で。

 彼女は娘の頭を、自身の胸に抱きよせる。

 

 その時に、ふと気づく。……夫が、妻の顔を、穴が開くほどにじっと見つめていることに。

 

『どうかしたか?……残念だが、この娘が居る手前、相手(・・)はしてやれんぞ』

 

「……いや」

 

 秋名は一声を置いた後に、言った。

 

「君は、どうしてそれほど迄に若いんだ……?」

 

 妻はふっと鼻を鳴らして

 

『世事か。己の伴侶が何時までも若々しいことは、悪いことではなかろう。……あえて言うなら、努力をおこた』

 

「それにしては、若すぎるんだ」

 

 はっと、彼女の瞳が少し膨らんだ。

 

「……だって、僕と君とはもう、20年以上の連れ添いがある筈なんだ。……生き物というのは、老いには絶対抗えない。僕がそうであるように、君もそう(・・)でなくてはならない筈なんだ。だけど、君はどうしても若すぎる。君だけが、時が止まっているかのようなんだ」

  

 秋名の息は、少しだけ荒い。気付きたくない、何かに気付こうとしている。

 

『疲れているんだ。……無理をするな。早く休もう』

 

 途端、秋名はエアグルーヴの頬に手を添えた、そして――

 

「……違う……違う。だって君はもう……居ない(・・・)筈なんだ」

 

 秋名は、己の言葉に恐怖していた。声が激しく揺れていた。

 

 (エアグルーヴ)は、(秋名)の手を取って、何かを諦めたように、そっと言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

『そうか――気付いていたのか』

 

 

 

 

 

 

 彼女は哀しく笑っていた。

 

 

「……これは、夢なのか、君は、幻なのか」

 

『夢と現実の幻日(はざま)だ。もう、夜明けが近いんだな』

 

 エアグルーヴは、秋名の手を取って、また微笑む。

 

『今日は、大切な日だ。だから、少しだけ我儘を言ってみたかったんだ。夫と娘と、三人で過ごしてみたいと。……女神は、優しかったんだ』

 

 エアグルーヴは右手でショパンの頭を、左手で秋名の手を包んだ。

 

 途端、途轍もない程の微睡が、急に秋名を襲う。視界が眩む。彼女の姿が、徐々に見えなくなってくる。それでも指先の感覚だけで、エアグルーヴを求めた。

 

『今日は楽しかった。例え幻だったとしても、貴方たちと共に過ごせてよかった。……有難う』

 

「待って……! 行かないで……! お願いだ。君が逝くのなら……僕も連れて行って……」

 

 最早、枯れるような声しか出なかった。それでも見えない目で、エアグルーヴを探し続けた。

 

『たわけ……。貴方がいなくては、この娘はどうなる。ショパンには、貴方が必要だ。温もりをくれる家族が必要なんだ』

 

「あ……ああ……あ……」

 

 秋名の顔を覆いつくす、涙の雫。既に目は見えなくとも、涙だけは、零れ続けた。

 

『私は二人を、何時までも想い続けている。だから、だから』

 

 エアグルーヴの声が次第に遠のいていく、終わる。幻日(まぼろし)が終わる。女神の悪戯という光の屈折により生まれた、エアグルーヴという太陽の幻日が、消えてゆく。

 

『貴方……そして、ショパン。二人とも……』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 愛してる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 心から

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

「……っは!」

 

 自宅のベッドで覚醒する。彼の体は、大量の汗に苛まれている。

 

 激しく呼吸を繰り返す。今、この時間が現実なのか夢なのかを疑う。

 

 20秒の時が流れる。そしてようやくここが、孤独の男の部屋だと知る。妻の姿など、あるはずもない。

 

 すべては……夢だった。

 

 

 

「う……う゛っ……うぅ……あ゛……あぁ……」

 

 苦しい。どうしても、苦しい。もう少し、もう少しだけでいい、もう少しだけ夢を見ていたかった。

 

 夢で流した涙は、現実とリンクしていた。この歳になって尚、涙の止め方がわからない。

 

「……おとうさん?」

 

 寝室の出入り口から、少女の声がした。そこには、寝間着姿のショパンがいた。

 

「おとうさん……泣いてるの?」

 

 ショパンが訊いた。

 

「……ああ。夢を見たんだ」

 

 最早涙を隠しようがない彼は、目元を手で覆って、頷いた。

 

「お母さんに逢えた夢……?」

 

 秋名は、覆っていた手を外してショパンを見た。……彼女の顔も、涙で濡れていた。その顔で、必死に微笑んでいた。

 

「私もね……夢を見たの。私のレース、お母さんが見に来てくれたの。それでね、それでね……私、ちゃんと勝てて、お母さんが褒めてくれて。そして、私とお父さんとお母さん、三人で過ごしたの。それでね……おかあさん、私が眠る前に最後、言ってくれたんだ。……私とお父さんのこと、愛してるって」

 

 一つ語る度に、涙がいくつも零れた。大きく揺れ続ける感情に、呼吸も大きく乱される。それでも、語り続けた。

 

「お母さんね、やっぱりすごく優しかったんだ。そして、とっても暖かかったんだ……」

 

 秋名はベッドを降りると、ショパンを深く抱きしめた。それを皮切りに、ショパンはまた、大声で欷泣した。その激しい涙は、秋名へも伝染する。

 

 ふと、部屋のカレンダーが目に入った。日付は、4月23日。そして秋名は、二人が見た夢の真実に気が付く。その夢は、彼女からの贈り物であったということに。

 

 

 

 

 

 4月23日。その日は、妻の命日。そして――ショパンの大切な日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 秋名は、必死に涙を押し殺して、言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ショパン……お誕生日、おめでとう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼の部屋の隅に佇む純銀の写真立て。その中に居る妻は、何時までも二人へ微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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【最終話】女帝の意志を継ぐ者へ

 

 きらりと差し込む夏の兆し、淡く立ち込める幽かな蜃気楼。

 

 翠萌ゆる記憶の季節に、四季たちはフォルテシモの祈りを捧ぐ。

 

 今日も夫々を生きる子供たちが、深い幸いへ導かれますようにと風は唄い、飛禽は季節の祈りを翼に載せて自由な未来へと旅立つ。

 

 飛禽の翼が、一瞬だけ陽光を遮る。そして再び陽射を感じた時に、ようやく夏の知らせを少女は心で受け取る。

 

 手庇(てひさし)で太陽を覗く。南の空へ高く上ったそれは、仰々しくも、神々しく。燦爛でありつつ、どこか懇篤で。お前の罪や過ちを、その光で全て消し去ってくれようと、薫風を介して囁いてくれているようだった。

 

 そんな彼の、古い許しの歌を、少女はつんと錐のように尖った鼻息で笑う。

 

 そんなものなんて無くったって、わたしは一人で歩いていけるもの。ペンダントを胸から提げた少女は、一束の花を両手で抱えて、心で続ける。

 

 私の罪は決して消えることはない。でも、消えなくてもいい。私はその原罪と向き合って生きていくことができるのだから。――母のその誇りを胸に、今日を戦うことができるのだから。

 

 昨日を憂い、今日に戸惑い、明日に怯えたあの日々は、何時しか彼女の心の傷となり、痛みを経て、優しい記憶へと変わり、彼女自身の生きる理由へと繋がっていく。

 

 もう迷うことなんてない。一人で泣くこともない。彼女の身体には、誇り高き女帝の血が流れているのだから――その心には、女帝の意志という灯が、何時までも点り続けているのだから。

 

 少女は太陽から踵を返すと、自分の脚で一歩を踏み出す。

 冷たく固い石畳。そこをゆっくり歩く少女の踵から、2分の2拍子のリズムが弾かれる。時にゆったりと、時に抑揚を付けて、彼女が奏でる幻想即興曲(クラシック)

 

 暫く踵を鳴らせば、一人の聴客(オーディエンス)が彼女を待っている。

 彼は一言、大丈夫? と少女へ訊く。少女は朗らかな笑みを描きながら、こくりと頷く。

 

 そして一人の足音は、二人の連弾へと変わる。父と娘の踵の組曲。静かな霊園(コンサートホール)に、それが鳴る。

 

 そこから、十数小節を刻んだところで、二人の組曲は終焉を迎える。まるでそこが終止線と言わんように、二人の前には墓石が建つ。

 

 そこには刻まれている。二人が心から愛した、母の名が。

 

 

 

 

『エアグルーヴ』

 

 

 

 

 少女(ショパン)は両膝を着くと、手に抱えた花束を、その墓石へと捧げる。それは、菊やカーネーションを始めとした色取り取りの花々たち。その中には、菫も顔を覗かせている。

 

 二人は手を合わせ、沈黙の中で、彼女の面影と邂逅する。

 

 二人の記憶に描かれる、彼女(エアグルーヴ)との思い出。それは、もう恐れる記憶などではない。

 二人の中に大切に輝く、美しい思い出なのだ。

 

 

「お母さん。私ね、お母さんが言ってた意味。やっと分かった気がしたんだ。誰かの想いは、ずっと紡がれていくものだって」

 

 ショパンは、灰簾石の瞳から生れ持った藍玉の瞳を、その墓石へと映す。そこに陰り等はもうない。彼女の『いい天気』がそこにはあった。

 

「例えお母さんはもう居なくても、お母さんの心はいつもここ(・・)にある。私は気付かなかったの。本当はずっと前から、独りぼっちなんかじゃないってこと。……そう、お母さんが教えてくれた」

 

 秋名は片膝を付いて、ショパンと同じ高さに目線を揃え、墓石に語り掛けるショパンの唄をひたすら聞き続けた。

 

「お母さん。私、きっと強く生きていく。お母さんから貰ったこの命を、私もまた未来へ紡いでいきたいから。女帝(おかあさん)の意志を、これからもきっと」

 

 ショパンは両膝を離し、立ち上がる。さぁ、また暫く、母とはお別れだ。私は未来へ歩いて行かなきゃ。

 時間を掛けた、最後の深呼吸に想う。

 

「おかあさん――私を生んでくれて、本当にありがとう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ずっと、ずっと。大好きだよ。おかあさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□ 

 

 

 没した者たちが眠る世界から、現実の世界へと踵を返す。

 一歩一歩、未来へ踏み出す度に、背中に居る妻との距離が離れていく。

 

 名残惜しく、縋りたい気持ちが未だにあるのは確かだ。だけど、もう振り返ることも、後悔することもしない。

 

 娘と同じように、彼もまた妻の意志を継ぎ、未来へ歩き出さなければならないのだから。

 

 数歩先を行く娘の背中を追いかけてゆく。少しだけ成長した娘の背中に、当時の妻の面影が重なる。

 

 霊園の駐車場へと続く坂の上で、微笑む娘が彼に手を振る。

 

「お父さん! 早く早く! 映画、始まっちゃうよ!」

 

「ああ、今行くよ」

 

 そこから駆け出そうとしたとき、秋名は一瞬だけ時間を置く。そして背中にある霊園へ視線を映す。

 

「……君だけに言わせるのは、やっぱり公平じゃないよ。だから僕も言う。エアグルーヴ――愛してるよ。心から」

 

 そして秋名は坂の頂上に向かって、駆け出した。

 

 

 

 

――

 

 

 駐車場まで戻ってきた時、そこの木陰の下で、ボルボ・V60が主の姿を健気に待ち続けていた。

 

 キーレス・リモコンで鍵を解除すると、ショパンが助手席に乗り込む。続いて秋名も運転席へ乗り込もうとしたとき、やたらと厚みのあるボクサーサウンドが背後から聞こえた。

 

 視線を返した先には、白いポルシェ・911 GT3が駐車場の敷地へと入ってくるのが見えた。

 随分と懐かしい車だと思った。昔トレーナー現役だった頃の先輩トレーナーが、全く同じカラー、同じモデルのポルシェに乗っていた記憶が、未だにあるのだから。

 

 その車は、秋名のボルボの近くへ停まる。そのドライビングシートから出てきたのは、どこか見覚えのある栗毛のウマ娘。

 

 彼女は秋名へ軽く会釈をする。秋名もつられてそれを返す。

 そして彼女は墓場のほうへと、花束を持って静かに歩いて行った。

 

 そのポルシェ。テールの部分にいくつかのステッカーが貼ってあった。

 

 一つは、ショップを表す〈SPEED CREATE GARAGE -JIN-〉のステッカー。

 

 そしてもう一つ。〈Red(7s) Sprinter〉と記された手製のステッカー。

 

 秋名もう一度、彼女の背中を視線で追う。そして彼女が何者かに、ようやく気が付く。

 

「……お父さん? どうしたの?」

 

 ショパンが秋名に問う。

 

「ううん。なんでもないよ。行こうか」

 

 そういって、秋名は運転席へ乗り込み、車のエンジンを始動させた。

 

 

 

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□ 

 

 

     

 

『女帝の意志を継ぐ者へ、お前に輝かしい栄光と未来があらんことを、心から祈る』

 

 その手紙をショパンはCDケースに仕舞う。ちょうど、選手控室においてあるCDプレーヤーから『幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66』が終わるところだった。

 

 ショパンはそのCDも回収する。その時、部屋を訪ねる音がする。

 入っていいですよ。と彼女が言ったとき、扉の向こう側から現れたのは彼女のトレーナーではなく、父の姿だった。

 

 秋名は体操服姿の娘をその瞳に映すと、感慨深さを感じるように、数回頷いた。

 

「準備は大丈夫? 緊張はしてない?」

 

 秋名がそう問う。

 

「ううん。緊張はしてる。でも、この緊張の先にきっと何かがある筈だから。お母さんだって、いっぱいそんなのに耐えながら走ってきたんだから。だから、私にだって出来るはず」

 

 ショパンのその瞳。不純物の一切ない藍玉の瞳を、アイシャドウが修飾する。それは、エアグルーヴが使っていたものと、全く同じもの。

 

 ショパンは自身の首からペンダントを外すと、父の首へと巻く。

 

「ちょっとの間預かってて。なくしちゃだめだよ!」

 

 にこりと笑ってそういった。

 

「ああ。確かに預かったよ。頑張っておいで、ショパン!」

 

 

 

――

 

 

『京都競技場、第9R 芝右2400m 睦月賞。天候は雨、バ場は稍重となっております』

 

 ショパンの周りを、9人のライバルウマ娘たちが殺気立った様子で、見通しの悪いコースを睨む。

 

 この空気が怖くないかといえば、少しだけ嘘になるけれど、でも何も恐れることはない。

 

 少し湿った空気を全身に吸い込んで、肺へと叩き込む。幾度となく重ねた柔軟運動が、彼女の硬かった体をしなやかへと変える。

 

「ねぇ、君」

 

 ふと、背後から声が掛かる。何かとよく競争相手から絡まれるのも、母親譲りらしい。

 視線を返した先に居たのは、ショパンと同じ黒鹿毛の娘。黒いメンコを着けて背筋をぴんと張っている。

 

「あ、はい?」

 

 初対面の相手と話すとき、胸元に手を持っていく癖はまだ抜けきらないが、それでもショパンは彼女に応じる。

 

「君、確かあのエアグルーヴの娘……なんだっけ。これは良いカード当てちゃったな。君を負かして、この睦月賞、私がもらうよ。そうすれば、私の実力も、晴れてお墨付きってワケだからさ」

 

 随分と強気な娘だった。彼女は外側の10番ゲートだというのに、この自身の溢れように、瞳の色が煌めく。そして彼女はショパンへ手を差し出す。私の宣戦布告を受け入れろというメッセージなのだろう。

 

 少し前の彼女であれば、それに気圧されて怯んでいたかもしれない。でも、ショパンは彼女の手を握った。

 

 そして

 

「ううん。勝つのは私だよ。エアグルーヴの娘だからこそ、きっと勝ってみせるんだから」

 

「ははっ! 流石は一番人気。楽しみにしてるよ。ショパン!」

 

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□ 

 

 

 

 今日は娘の大一番。しかし天候は生憎に包まれている。観客席を見渡せば、観客たちは皆屋根の下。または雨合羽や傘に身を隠す。しかし秋名は、傘も差さずにコースの埒に腕をかけ、娘の時間をそっと待ち続けた。

 

 彼の首に提げられたペンダントの蓋を開く。そこに佇む、一人のウマ娘。優しい向日葵畑を背後に、白いワンピースに身を包み、柔らかく温かい表情をこちらに向ける生前の妻の姿。

 

 彼はずっと、彼女の笑みは彼へ向けられたものではないと思っていた。だがそれは少し違った。

 

 彼女が向けた笑みの宛先は、秋名"だけ"でもない。ショパン"だけ"でもない。

 

 ショパンと秋名、"二人"へ向けられたものだったのだ。どちらかが欠けていてもいけない。それに気が付くまで、10年余年は掛かった。

 

 秋名は大きく天を仰ぐ。そして雲の澪の遥か向こう側に居る妻へ語り掛ける。

 

「見えてるかい。エアグルーヴ。あの娘が走るよ――君の娘が」

 

 そして蓋を閉じたとき。

 

「秋名さん」

 

 背後から麗らかな声色。振り返った先に居たのは、生徒会長(メルセデス)。傘の下から覗かせる青鹿毛(ストレートヘアー)が、彼へと微笑む。

 

「やぁ、君も来てくれたんだ。遠かったろうに」

 

「私だけじゃありませんよ」

 

 メルセデスは、視線を観客席の上へと向ける。

 VIP専用の屋内観戦席。その窓の向こう側に、シンボリルドルフと、ナリタブライアンの姿があった。

 

「まさか」

 

 秋名はそう零す。二人は秋名の存在に気付き、ルドルフは秋名へ小さく手を振った。

 

「牧野さんも、屋内のほうにいらっしゃいますよ。まだ小さいお子さんが、キッズルームから離れてくれないって嘆いていました」

 

「東京でもないのに……」

 

「皆、ショパンのファンですから」

 

 メルセデスはにこりと笑った。少し、雨脚が強くなる。メルセデスの傘を雨水が強く叩く。

 

「秋名さんも、屋内へいらしたら? 傘も差さないで、濡れてしまいます」

 

「かまわないさ。娘だって濡れながら走るんだ。じゃあ僕も、そうでありたい。僕は彼女(ショパン)のファンだから」

 

 秋名がそういったとき、彼の隣で傘を閉じる音が聞こえた。

 メルセデスもまた、傘の下を抜け、憂いた天気の下に身を晒す。

 

「じゃあ、私も」

 

 そういって。

 

 

 

 

 

 メルセデスが傘を閉じて数刻後、10個のゲートが、一斉に開いた。

 

 

 

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□ 

 

 

『スタートしました。スタンドから見て右手奥からのスタート。まずは2番のタイセイアプローズ。ダッシュよく出ますが、かわして5番のイイデフューチャー…………2バ身離れて後方から4番手にショパン』

 

 実況の音が、夫々の耳によく届く。10人のウマ娘が踵で奏でる重奏曲。その主旋律(メロディ)を飾るのは誰なのだろう。

 

 横並びひとつは、やがて隊列を成していくように、一直線へと姿を変える。

 

 そこは、一人の世界。誰にも導かれない自由な世界。

 

 自由さゆえに、歩き方を間違える娘だって多い。だけど、彼女は知っている。そこでの正しい歩き方を。

 

 しっかりと前を見据えて、ひたすら考えて、そして、自信と誇りを以て邁進していく。

 

 たったそれだけ。でも、単純なようで、それはとても奥深い。それをショパンは知っている。それを教えてくれたウマ娘がいたのだから。

 

 彼女から教わったことは沢山あった。両手で抱えきれない程に沢山もらった。そしてそれを、今度は自分のチカラに変えていかなければいけない。

 

 彼女はエアグルーヴではなく、『ショパン』なのだから。

 

 ……周りの娘たちの動きが変わる。皆が夢を確信へと変えるその時間がやってくる。

 

 ショパンの瞳には、一瞬観客席が映る。そこには、彼女を心から推してくれる多くのファンの姿。視線が雨で濡れていても、それははっきりと見えた。そして、ふと思った。この私の姿を、天国の母も見てくれているのかな……と。

 

 ならば、ファンの皆、そして貴女へ捧げたい――私の、勝利へのクラシックを。

 

 ショパンは先頭を走る集団へ向かって、一つ、姿勢を低く構えた。

 

 

 

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□ 

 

 

 

 

 

 

 女帝の名を語る重みを知っているか?

 

 

 

 その名を語るもの、保険の言葉などない。その称号を背負う者は何時も戦う、己を喰らいに掛かる重圧を相手に。抗う為には力を持つ他がない。誰かに泣きつき甘え、救われることなどない。

 

 だから、その称号を背負う者は、己に鞭を打つ。女帝の称号に相応しい存在で在り続ける為に。たった一つの言い訳すらも許されない、無情な世界で、己に抗い続ける。

 

 皆が苦しみ嘆くその世界で、ひたすら歩き続けていかなければならない。

 

 そんな残酷な称号を、お前は背負ってくれると言った。

 

 ならば、託したい。お前に女帝としての夢を、希望を――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女帝の意志を継ぐ者よ、常に正しく、優しくあれ。

 お前のその正しい優しさは、何時しか迷える者たちを導く、光になる。

 

 

 

 

 

『4コーナーカーブから直線に向いて、8枠の2人抜き出ているが、ヤマカツポセイドン抜けて出ていく。その差、2バ身、2バ身半と開いていきます……が一気に迫ってくる、4番のショパン!』

 

 

 

 

 

 女帝の意志を継ぐ者よ、幸いであれ。

 過去の事を憂いてはくれるな。お前はこんなにも、皆に愛されて生まれてきたのだから。お前の幸いこそが、皆の幸いなのだ。

 

 

 

 

 

『ショパンが3番手から2番手に上がって、先頭へ追っていきました! ステイザコース現在3番手!』

 

 

 

 

 

 女帝の意志を継ぐ者よ、不屈の心をその胸に。

 立ち止まってくれるな。その歩みを止めてくれるな。迷うことはあってもいい。だが、止まってはいけない。一人で歩み続けたその先に、必ず明るい未来が待っているのだから。

 

 

 

 

 

『変わって先頭はショパンに代わる! ショパン先頭でヤマカツポセイドン2番! 追ったステイザコース3番手から2番手に接近!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女帝の意志を継ぐ者へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ショパン!! ショパン今、先頭で!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 永久なる賛美と、栄光を――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






『有難う。あの娘が世話になった』

「礼を言われる筋合いはない。あの娘は、私の子だ」

『そうか。そうだったな』

「なぁ、一つ訊きたい。その時を迎えた未来(わたし)は、何を思った」

『……どうだったかな。ただ、とても暖かかったことは覚えている。あの娘の温もりを肌で感じた時、苦しみよりも、安堵が勝った……ああ、この未来は、決して間違ってはいなかったんだと、心から思った』

「……」

『未来には、幾通りの選択肢がある。若き日の過去(わたし)は、未来は必ず変えられるものと、そう思っていた筈だ。だが、あの娘に逢って心は変わった。変えられる未来に、変わらない未来を望んだ』

「ロミオとジュリエットは、未来を変えなかった」

『その通りだ。二人が静かに眠れる場所が唯一そこだというのなら、きっと二人は何度でも同じ場所で眠りに就くのだろう。そして二人の歴史は後世へと紡がれ、人々の希望となり、我々が知る未来がやってくる』

「あの娘と私も、同じか」

『……怖いか?』

「いいや、少し不安に思うだけだ。何れ生まれてきたあの娘が、ちゃんと一人で歩いて行けるのかと」

『だから過去(わたし)の下へ来たのではないか。憂うな。あの娘はちゃんと、わたし(・・・)の想いを正しく理解してくれている。あの娘は、賢い娘だ』

「……」

『ふふ、まだ青いな。肌の張りに出ている』

「なっ! やめろ! 抓るな!」

『ふふ。まだあの娘と引けを取らないくらい、いい頬肉じゃないか。もっと若さを楽しめ。若人よ』

「……未来のわたしは、少しお母さまに似るのだな」

『失望したか?』

「いいや……少し、安心した」



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あとがきとイラスト紹介

 

各位。

お世話になっております。作者のマシロタケです。前作よりお付き合い頂いてる方はお久し振りです。

 

『女帝の意志を継ぐ者へ』全32話をもちまして完結とさせて頂きます。

 

今回、テーマとさせて頂きましたエアグルーヴの史実上のラストクロップ・ショパン。

 

初めてその話を聞いた時には、感情が大きく揺れたことを未だに覚えてます。

 

だから、せめて創作の中で、二人の幸せな時間を描いてみたいと思ったのが本作始動のキッカケでした。

 

ですが、外したくないテーマもありました。それが、二人の『別れ』です。

 

現在も実際のショパン号は、セラピーホースとして某所でお仕事をしています。そんな彼が実際に味わった、母を喪った腐心。それを乗り越えて、競走馬として活躍し、今を迷える子供たちに隔てなく愛を授けている。そこへ繋がる話をなんとか表現してみたいと考えてました。実際上手くやれたかはさておいて、自分の持てる全てをこの作品には捧げたつもりです。

 

伴って、本作では『原作キャラ死亡』を扱うものとなりました。これは正直どこかで叱られるんじゃないかと内心ビクビクしながらやってたわけですが、意外にも皆さまに暖かく迎え入れて頂けて、感謝のひと言です。

 

前作同様、決して短くない上に、作者の趣味全開垂れ流しで、正直読みにくいところもあったかと思います内容の本作でしたが、皆様ご多忙の中、時間を割いてまで拙作にお付き合い頂けましたことを、心より感謝申し上げます。

 

 

 

エアグルーヴ号へ最大限の敬意を。ショパン号へ心からの祝福を。

 

 

 

◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 

 

ここからは少しだけ、頂いたFAを紹介いたします。

 

今後追加で頂けた分がありましたら、こちらの方へ掲載いたしますので宜しくお願いいたします。

 

 

SLあーもんど氏より

いただいたショパンのイメージイラストです。実は僕のオーダーは殆ど入ってないです。ほぼSLあーもんど氏のオリジナルとなってます。

 

【挿絵表示】

 

 

 

こちらはミニショパンちゃん。キュートで愛らしいですねぇ

 

【挿絵表示】

 

 

 

完結記念に頂いたFAです。

向日葵畑が良い……

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

pixiv用の表紙にと頂いたものです。

pixiv版にはこちらを表紙設定しております。クオリティすげえ……

 

【挿絵表示】

 

 

 

こちらはワンピースなショパンちゃん。

本編から3年後をイメージしているそうです。ちょっとだけ大人味? そして油断大敵!

 

【挿絵表示】

 

 

 

★3[Allegro Affettuoso]

『誰よりも正しく、誰よりも優しく、誰よりも憧れを目指して』

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

こちらはkrsk氏より頂いたちびショパンです。

『おかーさん♪』って言ってそうで可愛いですねぇ

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

 

◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 

 

追記:その1

この度私事ですが、瑞穂国様主催の合同『ウマ娘母親合同2』へ参加させて頂くことになりました。勿論テーマはショパンとエアグルーヴの関係を。配布場所等は未だ未定ですが、ご興味のある方は是非後報をお持ちください。8/12(土)のC102にて、『ウマ娘母親合同2』が頒布されます。サンプルも公開されてありますので、ご興味のある方は是非。【サンプル】ウマ娘母親合同2

 

追記:その2

何れですが多分オマケシナリオを書くと思います。忘れた頃にやってくると思うので、もし覚えていれば読んであげてください。

 

追記:その3

7s Sprinterのおまけシナリオ完結させてなくてほんと御免なさい。ちゃんとやります。忘れてないです。

 

 



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恋慕 ハ長調 作品 BONUS TRACK
Dark bayを追いかけて




 たわけ。子のことを憎み、嫌う親など、居るものか



 お前には教えた筈だ。命とは紡がれるものであると。例えこの命、尽きるその日が来てくれようとも、愛が想いが死ぬことはない。



 だってお前は――私の大切な娘なのだから……そう、お前が教えてくれた



 愛してる――心から



 ああ……また(・・)逢えてよかった…



 ―――ショパン



 

 ……パン

 

 

 

 ショパン

 

 

 

 ねぇってば

 

 

 

 ねぇ聞いてるの?

 

 

 

 

「ショパンってば!!」

 

「……んえ?」

 

 彼女はようやく己の顎を支える腕の杖を外し、空間を劈き唸る仲間の方へきょとんとした表情を向けた。

 ふと、自分は何を考えていたのだろうか。見上げる空の奥彼方で、愛しく優しく懐かしい誰か(・・)の声が聞こえていた気がする。それは、誰なのだろう……だなんて。気が付けば、いつも心は彼女(・・)の面影に満たされる。

 

 まだ、母に甘えたいという幼い心が抜けきらないのだろうか。そろそろ大人にならなくちゃいけないというのに。自分は一人で歩いて行けると、彼女に誓った筈なのに。

 

 ショパンは左手でペンダントを優しく包むと、一つ暖かい溜息を零し、話を聞いていたのかという友人の問いにこくりと嘘を頷いた。

 

「それでさ、この夏だよ、この夏。この夏をどう過ごすかがカギになるワケよ」

 

「どう過ごすって言ってもねぇ、どうせトレーニングとレースで終わっちゃうんじゃないの」

 

「それじゃあ去年と同じじゃないのさ。アタシらだってもう中等部生なわけよ。ここでどんと大きい変化(・・)ってモンがないとさ」

 

「変化って何よ」

 

「そりゃあアンタ……作るんじゃないの」

 

「作るって?」

 

「ボーイフレンド」

 

 随分と沸き上がる無駄話(ガールズトーク)。今日のトークテーマは夏の過ごし方についてらしい。

 しかし、そこは年頃の少女たちの会話。季節の話になると、そこに付随するのは異性の話。皆が頬を僅かに紅潮させ、心の細波が耳や尻尾に形となって表れる。

 

「ぼ、ボーイフレンドって!」

 

「ここいらで登っとくんじゃないの。大人の階段ってヤツ」

 

「もぅ、コウマったら。ショパンも何か言ってあげてよ」

 

「え、私?」

 

 ただ漫然と、その無駄話をラジオのように消化していたショパン。ふいに振られた話題に、ピンと耳が立つ。

 

「そうだショパン。あんたはどうなの? この夏、カレシとか作るわけ?」

 

「ええっと……」

 

 友人の少し意地悪な笑みに、ショパンもまた少し頬を紅潮させ、口元を淀ませる。この手の話はどうも得意ではない。

 

「私は別に、男の子だなんて。それにまだ中等部生なんだし……」

 

「だぁめだよ! そんなんじゃあ! 若いうちってのはホント一瞬なんだからさ! 命短し恋せよウマ娘って言うでしょ! よぉし決まりだ! 今年の夏は派手な水着でオトコ探しだ!」

 

「もぉ、コウマったら……」

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

 

「あの、トレセン学園の入構の手続きって、ここでいいんですか?」

 

 南に上った日が、少しだけ西に傾いた頃合いだった。

 トレセン学園の正門を潜り、東側に佇む本部施設。そこの総務課に訪れた一人の少年が職員に向かってそういった。

 

「ご訪問の方ですか? ご予約等は」

 

「あ、いえ……そういうのはしてないんですけど。あの、正門付近に居た緑色の服を着た職員さんが、ここに行って手続きすれば入れるって」

 

 少年は職員と目を合わせず、半ば言い訳でもするかのような語り口だ。緊張と声変わりによる不安定な声色。相手は両親でもなければ、自身の通う学校の先生でもない。赤の他人であり、本物の社会人だ。

 

 即ち、少なからず少年にも社会性というものが求められる。仲間同士で交わされる砕けた語調や、両親や先生に向けた甘えを含んだような生意気な発言も、当然できるわけがない。

 

 しかし言うまでもなく、少年のその社会性というスキルは乏しいもの。外の世界では、父と母が他人という社会人とコミュニケーションをとってくれるのが常だったのだもの。

 

 金銭のやり取りさえ終えれば済む買い物の話でもない。さてこの先、どう話を進めたらいいんだっけか。どうすれば、目的を果たせるのだろうか。少年は聊かな不安の中、そう思った。

 

「ああ、そういうことですか。でしたらこちらにお名前とご連絡先、後、ご用件のご記入をお願いします」

 

 そういうと、女性職員は一枚の用紙を差し出す。再生紙で作られたそれ。一番上のタイトル部分には『入構許可申請書』と書かれており住所、氏名、年齢などの空欄が用意されている。

 

「あ、あの。俺、ペンとか持ってなくて」少年が少し上ずった声で言う。女性職員は表情を変えず「そちらにあるペンをお使いください」とペン立てを左手で指す。少年はそこからボールペンを借りると、改めてその用紙に向かう。

 

 落ち着いてみれば、かなり単純な書類。だが、少年にとってはたったこれだけでも未知の世界。大人の書類だ。こんなのいつも、母が代わりに書いてくれていた。

 

 ペンを持つ手が少し震える、額には汗もじんわりと。

 大丈夫だ、難しいテストを受けているわけじゃない。とはわかっているのだが。慣れない緊張というのが少年の手に悪戯をする。

 

「ところで、ご用件とは?」

 

 ちょうど、住所を書き終えた時に職員がそう訊いた。少年は少しだけ体を強張らせ、職員の方を見た。別にやましいことなどないのに、何かを問い詰められているような感覚がしたからだ。

 

「あ……。その、父さ……父に届け物を」

 

 そういった少年の足元には、少し膨れた紙袋。デパートのカラフルなロゴが入った、少し大きめのサイズ。その中からは、書類の束が顔を覗かせている。

 

「お父さん?」

 

 職員が少年が書いている書類を覗き込むように見る。書いている途中のものをあまり見られたくないと、少年は腕で書類を隠そうとするが、細やかな抵抗空しく。

 

 少年の氏名欄に『織戸 蒼介(おりと そうすけ)』と記載されているのを、女性職員はみつける。

 

 あ、と彼女が声を出し、赤い淵の眼鏡のブリッジを親指で押す。

 

「もしかして、織戸先生の息子さん?」と少年に訊く。少年は浅く頷く。

 

「ああ、そうだったんだ。ふぅん」と職員は少年の顔をまじまじと見つめる。

 

「あの、これ、書けたんですけど」職員の視線から逃れるように、少年は記入済の書類を突き出した。

 

「ああ、うん。これで大丈夫です。じゃあこのカードを首から提げて見えるようにしてください。終わったら、またここに返しに来てくれればいいから」

 

 と、職員は青いネックストラップを少年に手渡す。そこには『入構許可証』と書かれたカードが入っている。少年がそれを見つめてると。

 

「お父さんのお使いか。大変だけど、偉いね」と朗らかな笑みで職員が言った。

 

 だが、少年にとってみれば、その言葉は少し子ども扱いされているようにも感じて、あまり快いものではない。おれは一人でここに来て、一人で手続きだって済ませたんだぞ。と心の中で粋がってみても、それをアウトプットできないのなら空しいものだ。

 

「じゃあ、ども」

 

 少年は入校許可を手に、逃げるように本館を後にした。

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

 

「すげぇ……マジでみんなウマ娘」

 

 学園の構内、そして校舎へと踏み込んだ蒼介が零した小さな感嘆。

 当然といえば当然だ。ここは全国からウマ娘界のエリートたちが集う学校。皆が耳をピンと生やし、尻尾を得意に振りながら、蒼介のすぐ横を通り過ぎる。

 

 人間の女性とは明らかに違う体のつくり。しなやかな身体の稜線と、思わず目を惹かれるような脚線美……。

 ふと、蒼介の視線に気が付いた一人の生徒が、彼へシニカルな瞳で微笑みかける。また、それに気づいた蒼介は、見透かされていることの恥ずかしさと、自分の浅はかさに耐えきれず、足早にその場を去った。

 

 なんだ、なんだ。ウマ娘がなんだってんだ。別に珍しくとも何ともない。街を歩けばその辺にウマ娘なんているし……だいたい、おれの母さんだってウマ娘なんだ。別に珍しくなんてない。そうだ、そうだ。

 

 と、心の中で悪態にも似た言い訳を続ける。それでも急ぐ鼓動は止められない。紅潮した頬は飲酒でもした後のようだ。どうすればこの心のボヤは消えるのだ。悶々としながら、蒼介は総務課から貰った学内地図を頼りに、父の下へと早歩き。

 

 三階に上がったところを、南へ。そうすれば、教官室とトレーナー室がずらりと並ぶ廊下に出る。ここまで来れば、さすがにウマ娘の数は減る。そして、また大人たちの姿が増える。

 

 蒼介は小さく会釈をしながら、室名札を一枚一枚小さく読み上げて、そして『織戸 礼司』の室名札を見つける。

 

 いちおう、父親の部屋といえどノックはすべきかと右手で拳を作って数回叩く。中から反応は何もない。引き戸に手をかけてみる。しかし、扉は開かない。どうやら鍵が仕事をしているらしい。

 

「あれっ!? 嘘だろっ」

 

 押しても引いても駄目らしい。蒼介は引き戸から手を放し、数回頭を掻いた。

 

 目的地が開かずの間。さて、どうしたものか。

 スマホを開いても、父からの返信はない。最後に来たメッセージは『悪い、俺の部屋に来てくれ』の一言だけ。

 

 深い溜息一つ。そして、廊下の窓から外の様子を眺める。

 学園の中を行き交う人々、その殆どはウマ娘。たまにヒトがいたとしても、それは父ではない。

 

 ふと、その窓から花壇が見えた。この学園で管理されているのであろう大きな花壇。

 その中で、ゆらゆらと鮮やかな花々が優しく揺蕩う。花の名前なんて知らないけど、なんとなく、青いながらにも『綺麗だな』という率直な感想が心で漏れた。

 

「……?」

 

 その色鮮やかな花壇の片隅に、とある人影を見つける。

 ……それが人ではなくウマ娘だったのなら、ウマ影と言った方が正しいのだろうか。その影には耳と尻尾が生えている。

 

 彼女は尻尾を薫風に靡かせ、花壇の周りを遊歩している。

 時折屈んで花の様子を観察したり、香りを嗅いでいるらしい。

 

 そのウマ娘の特徴、黒味がかった綺麗な赤褐色のショートヘアー。

 そういえば、ウマ娘の場合は、その髪色に応じた専用の呼び名があると父から聞いた。例えば蒼介の母の場合、明るい赤褐色の髪色が特徴だ。その毛色のことを確か鹿毛と言う。

 あの娘の場合はどうだろう、日の光を受け、赤褐色に輝くその毛色は鹿毛なのだろうか。しかし、鹿毛と言うにはやけに黒味が強い。であれば。

 

「黒鹿毛……」

 

 無意識に口から答えが出た。

 しばらくその黒鹿毛を視線で追っていると、彼女はとある紫色の花の前で再び屈んだ。その時、その娘の横顔が少し見えた。まだあどけなさの残る、おおよそ中学生程のウマ娘。おれとあまり歳は変わらなさそうだなと蒼介は思った。

 

 しかし、彼女の花を我が子のように愛でる柔らかいその表情、まるで母親の顔そのものだ。そしてその表情を、蒼介は知っているような気がした。

 

 昔、遠い昔。思い出せないほどずっと昔に、彼女によく似たような誰かが、自分にそんな風な表情を向けてくれたことがある気がする。彼の母ではない。ほかの……ウマ娘。

 

 それが誰だったのかは思い出せない。だけど確かに、その一瞬の暖かい景色の欠片だけが、彼の記憶の中に留まっている。

 

 気が付けば、蒼介の視線は黒鹿毛の少女の横顔へと吸い込まれるように。

 ふと、黒鹿毛の少女と蒼介の視線が重なる。その時にようやく彼は気づく。自分がそのウマ娘に見惚れてしまっていることに。

 

 どくん。彼女と視線が重なった時に、心臓が鉛のような悲鳴を上げた。

 彼は慌てて視線を解き、窓のない壁へと身を隠す。息を潜めて30秒。再びそっと花壇を覗く。

 花壇に先ほどのウマ娘の姿はない。少しだけ辺りを見渡すと、そのウマ娘は花壇から踵を返し、仲間たちと校舎へと歩いて行く姿が見えた。もうこちらの様子など気にも留めていない。

 

「……なにしてんだろ、俺」

 

 勝手に見惚れて、勝手に狼狽し。ここは父の職場だというのに。自己嫌悪の溜息をもう一度。

 しかしながらも、蒼介の視線はあの娘の背中。一歩一歩を踏みしめる度に揺れる優しい尻尾――。

  

「蒼介!」

 

 突然、廊下に響く野太くも通りのいい男の声。

 ぐっと、首根を掴まれ現実に引き戻されるかのような感覚が蒼介を襲った。

 

「あ……父さん」

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

「ったく、悪ぃな。よし。これで俺が午後の授業で処刑される心配も無くなったワケだ。良かったな一家が路頭に迷わなくて済むぞ。母ちゃんも未亡人にならなくて済む」

 

 蒼介から紙の束を受け取ったおおよそ40半ば程の男は、教官室の椅子に深く凭れながらそう言った。

 

「だってよオ、あのイかした織戸先生が今日の分のワークシートを忘れてきたから今日は課題無しだなんて生徒たちの前で言ってもみろよ。大ブーイング、罵詈雑言の嵐からの総スカンだぞ……いや、そうでもねぇのか」

 

 よくもまぁ、一人でよく喋るヒトだよなと蒼介は応対用のソファで菓子を摘まみながらそう思った。

 

「母さんも呆れてたよ。これで何度目だって」

 

「俺だって多忙な身なんだ。忘れモンのひとつやふたつ。それを支えてくれるのが家族のヤクメってもんだろうが」

 

「……たまったモンじゃない。俺、もう帰るよ」

 

 蒼介は手に持った菓子の包装を屑籠に投げ入れ、荷物を持ち、ソファを立った。

 

「……わかった。悪かったよ蒼介。素直に謝るし、荷物を持ってきてくれたことには感謝する。だからさ、その、機嫌直せよ」

 

 蒼介の父、礼司は椅子から降り、部屋を出て行こうとする息子の背に呼びかけた。

 

「別に、俺、怒ってるわけじゃないよ。午後から約束あるからさ」

 

 しかし、蒼介の顔色は未だに明るくはない。父とは頑なに視線を合わそうとしない

 何が怒ってるわけじゃねぇだ。ホントはヘソ曲げて拗ねてるくせによ。と礼司は喉元まで出かかった言葉を飲み込み、蒼介の肩を叩いた。

 

「お前、飯まだだろ。せっかく来たんだ。食ってけよ」

 

 そういって、教官室の戸を蒼介よりも先に開けた。

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

「そういや、何で今日はお前だったんだ。いつもは母ちゃんが持ってきてくれる」

 

「母さんなら、今日は人と会う約束があるからって」

 

「人と会う約束?……まさか不倫だったりしねぇよな」

 

「寮生活してた頃の同室の人だってさ。なんでそういうことしか言わないわけ」

 

「ばか。冗談に決まってんだろ。お前、オヤジの軽口くらい流せるようになんねぇとこの先やってけねーぞ」

 

「付き合ってらんない。やっぱり帰ろうかな」

 

「わかったわかった。もう控えるさ」

 

 礼司は頭を掻きむしって、「めんどくせぇ年頃だな」と小さく呟き、ヘルシー定食の雑穀米を口へ運ぶ。

 蒼介は父の呟きを聞かなかったことにして、ハンバーグ定食の付け合わせを摘まみ、トレセン学園の食堂を見渡した。

 

 既に昼食時間のピークは過ぎたか。そこにいる学生たちの数はまばらで、テーブルに残るのはお喋り族か、昼寝族か、或るいは無限に飯を掻きこむ底なし胃袋か。

 

 もちろん、そこにいる学生たちも皆ウマ娘。皆がそれぞれの鬣を揺らしながら、耳や尻尾をぴんと生やして……。

 

 蒼介は無意識の下、否、はっきりとした期待の中で探してしまう。

 

 さっきの黒鹿毛の娘が、まさかここに居たりしないだろうか……だなんて。

 

「おい、聞いてんのか蒼介」

 

「……聞いてる」

 

 父の声に慌てて視線を戻す。

 

「嘘こいてんじゃねぇぞ。話聞いてねぇヤツってのは大体わかんだ。これでも父ちゃん、"先生"だかんな」

 

 父さんみたいな人でも先生になれるんだという言葉を蒼介は飲み込んだ。

 そして礼司は蒼介が先ほどまで向けていた視線の先を見る。そこには数人のウマ娘たち。おおよそ高等部の娘たち。蒼介よりも幾つか年上の娘たちというわけだ。

 

 その娘たちの特徴……まぁ所謂出るとこ出てて、スカートは短く、そこから覗かせる絶対領域というのが悩ましい。年頃の男子からすれば魅惑的というか扇情的というか、そんな感じ。

 

「ハァ、まぁ、お前には少しシゲキの強い場所だったかもしんねーな」

 

「……何言ってんの。別に、そういうんじゃねぇから」

 

「何、隠すこたねぇさ。お前ももうそういう年だろうが。っていってもまぁ、相手がウマ娘ってのはちょっと勧めねぇがな」

 

「自分だってウマ娘と結婚したくせに?」

 

「だからだよ。人間の女にしといた方がずっとラクだった」

 

「じゃあ何、母さんのこと嫌いなの?」

 

「なわけあるかばか野郎。それとこれとは別のハナシだ」

 

「……よくわかんないや」

 

 蒼介は父から視線を逸らす。この人との会話はいつもこうだ。と父への不満を溜息で語った。

 そんな息子の不満を、礼司は溜息から感じ取る。彼もまた、息子から視線を逸らし、少し頭を掻いた。

 

 気難しい性格で、面倒な年頃だとは知っていたが、やはりどうもやりにくいものだなと礼司は思った。

 しかし、そこは人の親。難しい年頃だからこそ会話を重ねるべきなのだと、礼司は息子への話題を頭で探した。

 

「そういやお前、今日学校はどうした。サボりか?」

 

 おれも昔はよくサボったモンだ。後にそう続けようと思った先。

 

「開校記念日。今朝も言ったろ」

 

 蒼介は父を少し睨むようにして言った。

 

「あ? そうだったっけか」

 

「……父さんは所詮俺の話なんて聞いてないんだ」

 

「あ、いやすまん蒼介。ちょっとど忘れだ。その……」

 

「別に、怒ってないよ。父さんも忙しいんだろ」

 

「……」

 

 蒼介はハンバーグの最後の一切れを口へと運ぶと「俺、もう帰るよ」と父の返答も待たずに荷物を持ち、食器を返却口へと返しに行った。

 

 段々と距離が離れていく息子の背中に、礼司は何も言えなかった。

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

「っと、どっちなんだっけ」

 

 地図を片手に蒼介はトレセン学園の構内を右往左往。

 この後友人たちとの映画の約束があるというのに、このままでは待ち合わせの時間に遅れてしまう。

 

 しかし、この広すぎる構内は彼をなかなか出口へと導いてはくれない。校舎を抜ければ大きい中庭。中庭を抜ければ練習場、練習場を抜けた先にはまた校舎……。

 

 いつまでもここで油を売るわけにはいかない。蒼介は少し小走り気味で、正門があるであろう方角を目指す。

 

 そして、学園の新校舎を抜けたとき、蒼介はとあるものを見つけ、あっと声を出す。

 それは、この学園を象徴する石像、三女神像。

 彼女たちが抱える甕から滴る甘美な水の囁きが、確かに蒼介の耳にまで届いていた。

 

 しめた。この像があるということは、正門は近いはずだ。蒼介はもう一度地図を確認する。

 記憶に間違いはない。確かにこの三女神の像から、受付をした本館まではそう遠くはない。それをこの地図は示している。

 

 蒼介は安堵の息を吐き、地図を仕舞おうとしたとき、ふと地図の中に記された『花壇』という文字を見つけた。

 

「花壇……」

 

 その花壇がある場所。地図を確認しても、父が居た教官室の廊下から見渡せる場所に位置しているのは確かだ。つまり、その花壇は蒼介が教官室前の廊下から見下ろしていた花壇そのものというわけだ。

 

 ということは、つまり。

 

 

 ――『あの娘』がいた場所だ。

 

 

「……」

 

 沈黙の15秒。そして蒼介は爪先を正門方向でなく、花壇のある方向へと向けて踵を鳴らし始めた。

 

 三女神像を通り過ぎ、おおよそ1分弱。甘く優しい仄かな香りと、色とりどりの花々が蒼介を迎え入れる。

 

 黄色く、赤く、時に青く。鮮やかで、艶やかで、とても麗しく。百花繚乱の中を、蒼介は静かに歩いた。

 

 そして、『あの娘』が居た紫色の花の前へ。周囲を見渡すが、当然あの娘は居ない。

 蒼介もあの娘と同じように、その場で屈んでその花を見た。

 

 紫色の花の名は菫というらしい。どこにでも生えているような多年草だと花に添えられたプレートに記載がある。あの娘はこの花が好きなんだろうか。

 

 蒼介はその花をじっと見つめる。しかし、じっと見つめたところでそれはただの花だ。その花の何を楽しめばいいのか、その花に何を想えばいいのか。花に対する知識を殆ど持ち合わせていない彼にとって、その花の理解というものはとても遠くにあるもののように感じた。

 

 そしてようやく我に返る。自分は一体、何をしているんだろうかと。

 

 あの娘の横顔を追いかけて、わざわざ用もない花壇までやってきたのだ。時間もないというのに。

 

 おれ、本当にどうかしちまってるんじゃないのか。と自嘲気味に嗤い、その花壇から立ち去ろうとしたとき、きらりと菫の花壇から一瞬の光が放たれる。それが、蒼介の目を刺激した。

 

「……?」

 

 花壇に向かって目を凝らす。またきらりと光った。どうもそれは太陽の光を反射しているらしい。

 蒼介は光の根源に向かって手を伸ばす。手の中に硬い感覚が生まれる。

 

 それは、少しくすんだ琥珀色のペンダント。気品があって、優しさすらも感じられる装飾品だ。

 しかし、チェーンが壊れてしまっている。

 

 誰かの落とし物なのだろうか。本館の受付の人に渡しておくべきだろうと、蒼介は花壇から踵を返し、本館へ向かう途中、花壇を抜けたくらいの場所で少女たちの声が聞こえた。おそらくここの生徒たちの声だろう。だがその声、少し焦燥に駆られているようだった。

 

「食堂のおばさんも見てないってさ」

 

「事務にもそんな落し物は届いてないって」

 

「そんな……」

 

「ねぇ、今日は着け忘れてきたとかじゃないの? そのペンダント(・・・・・)

 

「ううん、そんなはずない! 今朝もちゃんと着けてきてたの……」

 

 おおよそ4、5人ほどのウマ娘たち。そのうちの一人は、胸元を抑えて項垂れている。

 

 その項垂れている少女の特徴…………黒鹿毛のウマ娘。

 

「えっ」と蒼介は一瞬声を出した。その黒鹿毛、間違いない。あの時花壇で見た、あのウマ娘。

 

 そして、彼女たちの言うペンダントとは。蒼介はそっと右手に握ったままのペンダントを見た。

 

「どうしよう……なくしちゃったんだ……どうしよう……」

 

 黒鹿毛の少女の声が震えていく。

 

「落ち着きなショパン。もう一回、今日行ったところを思い出してさ」

 

「でもさぁ、もうそろそろ休み時間も終わっちゃうよ。次確か移動教室だしさ、あんまり探してる時間ないんじゃないの? いいトコで切り上げて行かないとさ」

 

「アンタねぇ、ショパンがこんなに困ってんのにさ、ハクジョーってモンだよそれじゃ」

 

「えーマジ? でもアタシ遅刻で叱られんのヤだよぉ」

 

「ううん……あとは自分で探すから。皆は先に行ってて。私も時間までには戻ってくるから」

 

 黒鹿毛の少女は物憂げな表情で、仲間たちへ「ごめんね。有難う」と残し踵を返す。

 しかし、彼女が振り返ったその先、少女の視界に見知らぬ男の子が現れた。彼は茫然と立ち尽くし、こちらをじっと見つめている。

 

「あの男の子誰?」と仲間の一人の娘が言った。そして皆、首を横に振って「知らない」という。

 

 その男の子の視線は黒鹿毛の少女に一直線。少女は戸惑いながらも、頷くようにそっと会釈をした。

 

「ね……ねぇあの……」

 

 先に言葉を発したのは少年の方だった。右手をおもむろに差し出し、はっきりしないような声でつづけた。

 

「ペンダントって……これ?」

 

 少年の右手の中で輝く物体。僅かに褪せた琥珀色のペンダント。

 

 それを見たとき、黒鹿毛の少女の瞳は丸くなり、少年の手に飛びついた。

 

「ああっ! ペンダントっ!」

 

 少女は少年の右手を両手で支えるように握る。そこにあるペンダント。間違いなく彼女のものらしい。

 

「これ、私のなんです! 有難う! ああ、よかった……」

 

 少女の瞳がじんわりと滲むのが見えた。蒼介は何か見てはいけないものを見たような気がして、思わず視線を少女から逸らせた。

 

「どこにあったんですか?」と少女が訊ねる。「あの、花壇の菫……だっけ。あのところ」と蒼介は答えた。自分でも少し、声の通りが悪いなと思った。

 

「有難う。本当に有難う。これ、私のとっても大切なものなんです」

 

 ペンダントは再び少女の手に。返ってきた宝物を慈しむ少女の顔、それはやはり、どこかで見たことがあるかのような顔だった。

 

 その顔に、また蒼介は意識を吸い込まれる感覚に陥る……。

 

「ショパン! もう授業始まっちゃうよ!」

 

 仲間からの呼びかけに少女は慌てて踵を返す。

 

「ごめんなさい! きっとお礼はするから! 本当に有難う!」

 

 夏風に押されるように、黒鹿毛の少女は綺麗な鬣と尻尾を靡かせて、仲間たちと共に校舎へと去っていった。

 

 その後ろ姿を、蒼介は恍惚と見えなくなるまで視線で追っていた。

 

 

 

 



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ラジカル・ティーンエイジャー

 

「出逢いは風の中、恋に落ちたあの日から、気づかぬうちに心はあなたを求めてた……」

 

 大量の書類を両手で抱え、踵からミディアムスローな全拍子を弾くは青鹿毛の(ストレート)

 今日も平穏に流れていく暖かい日常へ微笑みを手向けながら、お気に入りの懐かしいポップスを口遊む。

 

 幼い生徒たちから挨拶を貰えば、その場で立ち止まり挨拶を返す。

 今日も幼子たちはそれぞれのドラマを抱え、すくすくと育っている。それを肌で感じられるこの瞬間こそが、彼女にとっての小さな歓び。

 

 その娘たちの背中を見送り、生徒会長(メルセデス)は自身の帰るべき場所を目指すべく、踵を鳴らす。

 

 再び懐メロを口遊み、丁度その曲が転調したときに、彼女はようやく辿り着く。『生徒会室』そう室名札に書かれた部屋へと。

 

 ここに籍を置いてどれくらいの時間が経ったのだろうか。室名札を見たときにふとそう思った。

 生徒会長としての肩書を拝命し、慌ただしい日々を駆け抜けていく中で、何時しかここは彼女の帰るべき場所となっていった。だがしかし、ここも何れは、次の世代の生徒会たちの帰るべき場所となるのだ。

 

 ……言い換えてしまえば、何れは彼女もここを去る日が来るということだ。

 それを考えてしまった瞬間、彼女の心から情緒的な思いが滲む。

 それは自らも歴史の歯車となり、次の世代を迎えられることへの歓びなのかもしれないし、ここで過ごした愛おしき日々を手放さなければならないという寂寥なのかもしれない。 

 

 そんな困った感情を誤魔化すように、彼女は両腕いっぱいの荷物を片腕に預け、ドアノブを握る。

 

 ふと、扉の向こう側で誰かの話声が聞こえる。副会長たちなのだろうか。彼女はそのままノブを回し、生徒会室へと足を踏み入れた。

 

「ただいま戻りました」

 

 部屋の中の応対用のソファには、白毛の副会長"ロータス"が居た。彼女はメルセデスの声を聞いたときに「おかえりなさいです、会長」といつもの気だるい声で言った。彼女の手には何やら光る物体。アクセサリか何かなのだろうか。彼女はそれと睨めっこ。

 

 そして、そのそのソファ向かい側の席には、ちょこんと座する黒鹿毛の姿。

 

 その影を見たメルセデスは、目をぱちりと見開いて、小さく歓喜した。

 

「おや、ショパン。いらっしゃっていたのですね。こんにちは」

 

「あ、会長さん。その、お、おかえりなさい……です」

 

 少しだけ頬を照らしたショパンがそういった。

 

「うふふ、ただいまです。ショパン」

 

 メルセデスはにこりと微笑んで、両腕で抱えていた荷物を生徒会長席に置き、二人の下へ。「二人は何をしているのですか?」と後ろ手を組んで問いかけた。

 

 そうすると、ロータスが右手を開いて手の中にある光る物体をメルセデスへ見せた。

 

「ああ、ペンダントですか。また、壊れてしまったのですか?」

 

 ショパンは少し申し訳なさそうに頷いた。彼女がここに訪れる理由は大体それなのだ。 

 

「直りそうですか?」とメルセデスはロータスに訊ねる。

 

「……厄介ですね。前の時みたいに丸カンが外れただけならペンチで修理はできるんですけど、今回はチェーンそのものが切れてますからね。多分、金属劣化で切れたんだと思います。古いものですし」

 

「直らないですか……?」

 

 そう訊いたのはショパン。不安に彷徨う声をロータスへ。

 ロータスは腕を組んで、いつもの気怠く無表情な顔を少し顰める。

 

「うーん……。溶接でもすりゃ直らなくはないけど、そうやって無理やり直してもチェーンとしての強度は落ちるからさ。どうせなら交換した方がいいよ。大切なお母さんの形見、守りたいんならさ。今回はその男の子(・・・)が見つけてくれたから良かったけど、次は本当に失くすかもしれない」

 

 ショパンは少しだけ俯いて小さな溜息を一つ。

 このペンダントは大切なものなのだ。それは中の写真だけではない。ペンダントの本体から、チェーンに至るまで、何から何まで大切なものなのだ。

 

 それの一部を変えろと言われるのは、やはり少し心苦しいものがある。ショパンは机に置かれたペンダントをじっと見つめた。

 

「仕方がありませんよショパン。形あるもの、何時かは崩れる時が来るものです。名残り惜しい気持ちも十分に察しますが、ここはロータスの言う通り、大切なペンダントを守るためにチェーンを新調することも決して悪いことではありません」

 

「でも、私、ほかにチェーンだなんて持ってませんし……」

 

「クライスラーから貰えば? あいついっぱいシルバーアクセ持ってるし、チェーンの一つ二つくらいワケないでしょ」

 

「……そうですか?」

 

「私からもクライスラーにお願いしてみますよ。不要なチェーンがもしあればと」

 

 メルセデスはショパンへにこりと微笑みかけた。生徒会長の微笑みに、彼女の心も少し解れる。

 しかし、メルセデスの微笑み。その奥には、何かが潜んでいるような気がした。

 

「……それで?」

 

 おもむろにメルセデスが訊いた。

 

「それで……?」

 

 ショパンはメルセデスの言葉の意味を飲み込めず、鸚鵡返し。

 メルセデスは、こほんと一つ咳払いを交えて、微笑みというには少し蕩け過ぎた表情をショパンへ向けていた。

 

「その……ロータスの言う男の子(・・・)とは何の話でしょう?」

 

 メルセデスが訊いた。

 

「へぇ?」とショパンは呆気にとられた表情を。ロータスは掌で目元を覆って「まずった」と呟く。

 気が付けば、メルセデスはロータスの横へしっかりと腰を据えていた。その男の子(・・・)の話を聞く気でいるらしい。

 

「ええっと、あの、その」

 

 しどろもどろながら、ショパンはペンダントを紛失したこと、見知らぬ男の子がそれを見つけてくれたことをメルセデスへ話した。

 

「へぇ。……へぇ~~。左様でしたかぁ……。そうですか……そうですかぁ……」

 

 メルセデスは頬に手を当て、とろりと蕩けた締まりのない表情を。それはまるで美味しいスイーツを舌鼓したかのよう。

 そんな生徒会長の顔ばせに、ショパンはどう反応してよいのやらと戸惑う。

 

「ありませんからね、会長。ペンダントから始まる恋物語なんて」

 

 ロータスは呆れたように深くソファに凭れ、腕と肢を組んで言った。

 

「そう決めつけるのは早計というものですよロータス。この出会いに満ち溢れた世の中、何がきっかけになるというのは誰にも分らないものなのです。一目惚れもあれば、互いを理解し合う過程に生まれる心だってある。大きな事件から育まれる愛情もあれば、小さなペンダントから産まれる恋心だってきっと……全ては女神様の思し召しなのです。そして彼女らの細やかな祈りは、偶然という魔法となって当事者たちを一つの糸で結ぶのです」

 

「こ……恋?……糸?」

 

 蕩けた生徒会長の口から弾かれる芸術歌曲(ロマンス)に、当然ショパンはおいてけぼり。

 

「いいよほっといて。いつものことだからさ」

 

 ロータスは雑誌を膝に置き、小指で耳の先端を搔きながら言った。対するメルセデスは胸の前で両手を組み合わせ、瞳を閉じて続けた。

 

「いいえ、大切な我が生徒の春の気配をなおざりにはできません。よろしいですかショパン。次にその男の子とお逢いする機会があった時には、抱える心に耳を澄ませ……」

 

 メルセデスがそこまで言ったときだった。

 

「あ……」とショパンは少し張ったような声を出した。

 

 彼女の瞳は少し丸い。その表情からは何かを誤った後のような狼狽が読み取れた。

 

「……如何なさいました? ショパン」とメルセデスは閉じていた瞳を開き、ショパンへ訊いた。

 

「あ、あの、いえ。その私、その男の子にお礼するって言っちゃったんですけど、その、名前聞くのわすれちゃって」

 

「別に、その男の子、きっと部外者でしょ。だったら本館で受付してるんじゃないの。その名簿とか見せてもらえば」

 

「それはできませんよロータス。来訪された方々の詳細は個人情報の類として保護されることになっておりますから。一般の学生がそう気軽に調べられる情報ではありません」

 

「会長でもダメなんですか?」

 

「うーん……むつかしいことを訊きますね。何かしら正当な理由さえあれば事務職員立ち合いの下可能ではありますが、個人情報を閲覧できるほどの事由となるとそれこそ、誰かの失踪であるとか、大きい事件に巻き込まれてしまっているとか、それ程の話になってしまいます。虚偽の申告をするわけにもいきませんし……」

 

「そうですか……」

 

 ショパンは深くソファに沈み込むように項垂れた。

 

「でもさ、見つけてもらった時にお礼は言ったんでしょ? だったらさ、そこまで気に病むこともないよ。その男の子だって、高々落とし物拾った程度、本気でお礼を期待してるわけじゃないだろうしさ」

 

 とロータスが声を掛けようとも、ショパンの表情は今一つ浮かない。

 こりゃまいったな、とロータスがまた耳を掻いたとき。

 

「心配は無用です。その男の子とはきっとまた逢えますよ」

 

 とメルセデスは諭すように言った。

 

「人とは不思議なもので、逢いたいと思い続ければいつかは再会を果たせるものなのです。いいですか、想い続けることが大切なのですよ」

 

 再びメルセデスは瞳を閉じて胸の前で手を組んだ。

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

 

「なー、ぶっちゃけどうだったよ」

 

「まぁ、ちょっと王道系かなとは思ったけど、俺的には全然アリ」

 

「いや、俺もナシとは言わねぇけどさ、やっぱ出来すぎなんじゃねぇのとは思っちまうよ。短距離から中距離の世界に移って、そんで秋天取っちまう映画なんてよ」

 

「え、でもあれ、実話ベースの話なんじゃねぇんだっけ」

 

「は、嘘だろ! いねぇだろそんなやつ! なぁ、蒼介!」

 

「……え?」

 

 友人の声に、蒼介は現実に引き戻される。

 どうやらもう、映画は終わって劇場からは去った後らしい。

 

 そして今、彼の目の前にはハンバーガーとポテトのセット。道理で油っぽい臭いがしていたわけだと蒼介は思う。しかしそれらはどれも手付かずのまま。

 

「なんだお前、食わねぇんだったらポテトもらうぜ」

 

 と伸びてきた友人の手を払いのけ、蒼介はポテトを口にした。

 

 そうか、おれは友人たちと映画を見ていたのか。とその時にじわりと記憶が蘇る。

 しかし、それはどんな映画だったのだろう。ウマ娘が活躍する映画だってのは覚えてはいるが、どんなシナリオでどんなラストだったのかはよく覚えていない。

 

 ただ覚えていたのは、そう、主役のウマ娘が、妙に"あの娘"に似ているなと思ったことだ。

 

 そこからは、不思議と記憶がない。頭の中が何かで満たされるような感覚がずっと続いて、気が付いたらこのファストフード店にいたというだけだ。

 

「で、蒼介的にはどうだったんだよあの映画」

 

 友人の一人が彼に訊ねた。

 

「別に、いいんじゃねぇの」

 

「いいんじゃねぇのって、どの辺がよかったとかねぇのかよ」

 

「無理だよ。こいつ、主役のウマ娘に鼻の下伸ばして夢中になってただけだからよ。映画なんてわかりっこねぇよ」

 

「はぁ?……なワケねぇだろ」

 

 友人からの揶揄いを無視して再びポテトをとる。

 だがしかし、友人の言うことが丸っきり間違いでもないというのが少し悔しかった。

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

 

「ただいま」

 

 少年のその声が玄関に響いたのは、おおよそ19時に差し掛かる頃。

 映画を見終わった後にファストフード店へ寄り、そこからゲームセンターだの、カラオケだのを回れば時間とは瞬く間に蒸発するもの。

 

 玄関の二重ロックを内側から掛けて、靴を脱ぎ揃えて、玄関からリビングへと通じる室内ドアを開ける。そしてもう一度「ただいま」と今度は少し小さな声で言う。

 

「ああ、お帰り蒼介。悪かったな。父ちゃんのお使い行ってもらってさ」

 

 そう、鹿毛の鬣を揺らして蒼介の帰りを出迎えたのは、彼の母。

 淡いチェック柄のエプロンに身を包み、濡れた手をタオルで拭きながら、蒼介ににこりと微笑んだ。

 

「別に、大したことない」

 

「そっか。晩御飯、もう食べるか?」

 

「いや……まだ後ででいいや。ちょっと食べてきちゃったから」

 

 食卓に目を向けると、未だ幼い二人のウマ娘の姿があった。鹿毛と黒鹿毛の二人は目の前のシチューに夢中。

 

「ほらファイト、ボス。お兄ちゃんが帰ってきたぞ」と妹たちに母が声を掛ける。しかし蒼介は「いいよ、んなこと」と少し気恥ずかしそうに、リビングを後にする。

 

 階段を上がり、廊下の少し奥にあるおおよそ6畳程の部屋。それが蒼介の部屋。

 特にこれといったものはない。あるのはベッドと机と、流行りのメジャーバンドのポスターと、父から貰った古いエレキギター。あとは空気の抜けたサッカーボール程度か。

 

 蒼介は荷物を床に投げ捨てると、そのままベッドへ倒れこみ、天を仰ぐ。

 

 今日は流石に疲れたなと思った。

 思い返せば今日一日、色んなことがあった。初めて父の職場に行ったこととか、友人たちと映画に行って、その後も遊びまわったこととか……"あの娘"に出会ったこととか。

 

 ……"あの娘"。それは、黒鹿毛の、片目が隠れるようなショートヘアの少女。蒼介とあまり歳の変わらないくらいの、瞳の綺麗な……ウマ娘。

 

 ああ、まただ。また、あの娘の無垢な横顔が、慈しみの微笑みが、頭の中を満たしていく。

 

 ずっと、ずっと。この感覚が続いている。映画にも集中できないほど、友人たちから上の空だと言われてしまうほど。ずっと、ずっと。

 

 蒼介は右手を天井へ差し出す。

 

 あの娘が握ってくれた手の感覚が、未だ鮮明に蘇るようだ。

 それはとても柔らかくて、どうしようもない程に暖かくて……。

 

 次第に右手が震えていく。妙に呼吸が浅いのはどうしてだろう。

 そしてベッドから起き上がることができない、重い何かが伸し掛かっているようだ。

 

 どん、どん。と体の中で暴れてるのは心臓なのか。体を振動させるほどのベロシティは脳をも揺らす。

 

 おれは一体どうしたんだろう。おれの身体はどうなっちまったんだろう。

 

 この世に生を受けて十余年。今までこんなことは一度たりともなかったはずだ。

 

 これは、呪いなんだろうか。あの娘がおれにかけた呪いなんだろうか。

 

 体のすべてが絆されるようだ。こんな感覚、おれはしらないよ。

 

 あの娘の名前は何と言ったっけ。確か周りの娘たちはこう呼んでた。

 

「……ショパン」

 

 その言葉を口に出した時に、ふわりと身体が浮くような、魂を吸い取られるような感覚に陥る。

 

 このまま気を失ってしまいそうだ。あの娘の呪いに、おれは倒れるんだ。

 

 自分の部屋の、自分のベッドの上で蒼介は溺れる。あの娘の横顔に、微笑みに溺れていく。

 

 意識が少しずつ遠のいていく。小さな糸が彼の正気をようやく保っている。一階のリビングから聞こえてくる家族の声は、今の彼からは遠い場所にあるようだ。

 

 そして蒼介は堕ちていく。底のない深い闇夜へと。堕ちるところまで堕ちていく。その刹那にも、あの娘の影が脳裏に映った。

 

 あの娘とは、もう一度どこかで逢えるのだろうか。蒼介が最後に考えたことはそれだった。

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

 

「はぁ!?……ったく、だからちゃんと準備してから仕事に行けってあれほど言ったのに……で、どこに置いてんだよ……」

 

 蒼介があの娘に出会って1週間が過ぎた頃の朝。雀の囀りの代わりに聞こえてきたのは、蒼介の母の嘶き。

 

 スマホのマイクに向かって、端末の向こう側にいるだらしのない旦那へと吠えている。織戸家では珍しくもない光景だと蒼介はコップの牛乳を飲み干して、パンの残りカスが溜まった皿を流しへと持って行く。

 

「えー……今日の日付のついたレジュメって、12-5ぉ? ねぇよそんなもん……、ん、なんだこれ。はぁ!? オマエっ、なんだよこの本は!!」

 

 父の部屋で探し物をしている母。どうやら見つかってはいけないものが見つかったらしい。それが何かとはおおよそ想像がつく。きっと母を怒らせるような雑誌に違いない。

 

 これでよく十何年も夫婦をやっていられるもんだな、と蒼介は制服に身を包んで学校指定の鞄を持ち、「おにーちゃ、がっこう?」と訊いてくる妹たちの頭を少しなでて「行ってくるよ」と返す。

 

「ああ、蒼介もう行くのか? 気を付けて行って来いよ」と通話を終えた母の手には、先週と同じくらいのボリュームのある紙の束。

 

 それを見た蒼介は足を止めた。

 

「母さん、それ」

 

「え? ああ。ばか父ちゃんの忘れ物だよ。まったく、先週も蒼介に届けさせたばっかなのにさ、また届けてくれだってさ。ったく、何回同じことさせりゃあ気が済むんだか」

 

 苦労している母の愚痴。しかし、それは蒼介には届かない。

 

「ねぇ、それ、また父さんに届けるの?」

 

「ああ、まぁね。でもまぁ、これはいいからさ。蒼介は早く学校にいきなよ」

 

 父の職場へ届け物。それは先ほど母も言った通り、先週もあった出来事。

 そこで蒼介は出会った。あの黒鹿毛の少女と。

 

 ……だとすれば、また逢えるということなのだろうか。もう一度父の職場へと行けば、あの娘とまた、逢えるのだろうか。

 

「……蒼介?」

 

 硬直し、動かない息子へ母は訊ねる。そうすると、おもむろに蒼介は言った。

 

「ねぇ、母さん。それ、俺が届けてくるよ」

 

「は? でもお前、学校が……」

 

 母がそれを言い終わる前だった。蒼介は母の手から父の書類を奪うと、そのまま自宅を出て駆け出して行った。

 

「あ、おい! ちょ、蒼介!」

 

 これでも元GⅠウマ娘の血を引く息子。人間にしては妙に足は速いほうらしい。

 気が付いた頃には、母の耳から息子の足音はフェードアウトしていた。

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

 

「……母ちゃんから電話で聞いてはいたけどよ、なんでお前が来るんだ?」

 

 蒼介の父、礼司は紙の束が入った袋を引っ提げて、激しく息を切らし、汗が滲んだ制服姿の息子を見た。

 

「べつに、なんだっていいだろ。忘れる父さんが悪い」

 

 蒼介は少し乱暴に、父へ袋を突き出す。

 

 しかし、礼司はただそのまま、息子の顔をじっと見つめていた。

 

「受け取らねぇよ。なんで学校をフケてまでお前が来たんだ。俺の質問に答えろ」

 

「……学校なんてサボっちまってもいいっていつも言ってるのは父さんのほうだろ」

 

「はは、ちがいねぇ。だけど、問題はそこじゃねぇ。お前がそうまでしてここに来た理由だ。母ちゃんだって手は空いてたんだろ。先週はあんだけ拗ねてたお前が、どういう腹積もりなんだ。気味が悪くて受け取れねぇや」

 

「何か疑ってんのかよ、俺のこと」

 

「疑いたくはねぇがな」

 

 礼司は椅子に深く掛けると、ふっと鼻で笑った。

 蒼介には答える手札がなかった。言えるもんか、また、あの娘に会うためだなんて。

 

「……答えたくない」

 

 父に対する反抗と、本心と慣れない嘘と、悪者になり切れない良心。精一杯の回答がそれだった。

 

「何故だ」

 

「……ひっぱたいてもいいよ」

 

 二人の沈黙が約20秒。それは途方もなく長い時間のように感じた。

 

 そしてようやく、礼司は蒼介の紙の束を受け取った。

 

「わかった。聞かないでやるよ。ただしまぁ、なんだ。できるだけ学校は行け」

 

「……ありがとう。父さん」

 

 蒼介はそのまま父の教官室を飛び出す。そして、正面の廊下の窓を見た。

 

 花壇には人……否、ウマ娘が鈴なりになっている。

 

 彼女らは如雨露やスコップを手に、花壇の手入れ中らしい。

 

 ようく目を凝らす。すると花壇の、紫色の花のあるところに

 

 

 

 ――あの娘がいた。

 

 

 

 彼女もスコップを片手に、活動へ参加しているらしい。

 

 彼女の、花を慈しむその横顔、忘れるわけがない。

 

 蒼介はすぐにその場から駆け出した。

 

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

 

 三女神像の横を通り過ぎ、色とりどりの花々達の花道を蒼介は小走りで駆け抜けていく。

 

 そしてトレセン学園の花壇まで辿り着く。そこそこにウマ娘はいる。結構な人数でこの花壇を管理しているらしい。

 

 そこで右に左に首を振る。どこだ、あの娘は。あの娘はどこだ。

 

 彼の存在に気づいた数人のウマ娘は、見知らぬ男の子を訝しむ。

 

 しかし、例え不審に思われても構わなかった。父に殴られる覚悟でここへ来たのだもの……。

 

「ねぇ、そこの君。何してるの。君、誰?」

 

 とん、と彼の背中を叩く女性の声。

 

 その声のする方を見ると、そこには白毛のウマ娘がいた。左腕に副会長と美化委員長のふたつの腕章。彼女は蒼介を訝しむように腕を組んでいた。

 

 当然といえば当然だ。ここは、ウマ娘たちが通う日本有数の教育施設。人間の、ましてや他校の制服に身を包んだ男子がいるなど、通常ではあり得ない話なのだ。

 

「いえ……あの」

 

 気怠そうな表情からでも感じ取れる訝しみに、蒼介はたじろぐ。

 

 しかし彼女は蒼介の入構許可証と書かれた首提げを見ると「ああ、もしかして迷ったってクチ? 正門はこっちじゃないよ。あれだったら案内しようか?」

 

 しかし蒼介は羞恥心など投げ捨て、持てるすべてを捧げて白毛のウマ娘に訊いた。

 

「あの、その、ショパンって娘……ここにいますか」

 

 蒼介は自分がどうしようもない程にばかだと自覚した。けれども、けれども。

 

「ショパン……」

 

 おおよそ中学生くらいの男の子。そして、彼が言うショパンの名。

 

 彼女は何かに気が付いたように、あっと一瞬声を出す。蒼介に何か声を掛けようとしたが、それを止めて花壇へ振り返り「ショパン!」ととある少女の名を呼んだ。 

 

 彼女の声に気がついた黒鹿毛の少女。彼女はその鬣と尻尾を揺らし、小走りで白毛の先輩の元へ。

 

「ロータス先輩、どうかしました……」

 

 黒鹿毛の少女は息を止める。だってそこにいた男の子は、忘れない。忘れるはずがない。

 

 蒼介もまた、息を止めた。また、逢うことができた黒鹿毛の少女。琥珀色のペンダントのチェーンがシルバーカラーになっていることに気が付いた

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

 

「そうだったんだ。お父さんに届け物で」

 

「まぁ、うん、そう」

 

 二人は花壇の近くのベンチに並んで座ると、互いに顔を見合わせることなく、正面を向いたまま喋っていた。

 

「ごめんなさい。私、お礼するなんて言っちゃったんですけど、何も用意できてなくて。お花の飾りとかだったらすぐ作れるけど、きっといらないですよね。男の子なんだし」

 

「別に、気にしなくていいよ。落とし物届けたくらい」

 

 互いにぎこちのない時間が続いていく。

 周りのウマ娘たちは口元を隠すようにしてショパンと知らない男の子の噂話。あることないこと、なんでもござれ。

 

「でも、どうして私を訪ねてくれたんですか」

 

 とショパンが訊いた。

 

「え、何でって……」

 

 答えなんてあるはずもない。だって、君を追いかけてきただなんて本人の前で言えるはずもない。

 

「いや、父さんの部屋から君が見えたから。その、ペンダント大丈夫かなって思ってさ」

 

 そうすると、ショパンはペンダントの意匠を蒼介に見せて「お陰様で」と微笑んだ。

 

「そう、なら……よかった」

 

 わからない。ここからどうすればいいのかわからない

 あの娘に逢いたい一心で、学校までサボってここへ来たのだ。だが、いざ逢ってみるとどうだろう。そこから続けるストーリーが見つからない。

 

 何を言えばいい、どうすればいい。おれはこの娘を、どうしたいんだ。

 

 言葉に詰まる蒼介、こんな時、気の強い母ならどうするのだろう。饒舌な父ならどうするだのろう。そう思った。

 

「ごめんなさい。もう授業始まっちゃうから。織戸君だよね。もう覚えたから、次はきっと、何かお礼が出来るように」

 

 そう言ってショパンがベンチを立つ。そして蒼介にひらひらと手を振ると、そのまま彼に背を向けて学園へと歩いていく。

 

 あの娘の背中が離れていく。また、あの娘を見失う。

 

 本当にまた、次があるのか……。そう思ってしまった瞬間。

 

「――待って!」

 

 それは、考えるよりも先に口に出た言葉だった。

 蒼介の言葉に背中を掴まれたショパンは、慌てて振り返り、きょとんとした表情を彼に向けた。

 

 そこから奇妙な沈黙。呼び止められたのに、目の前の男の子は何も言わない。

 だって言えるはずがない。その先を何も考えていなかったのだもの。

 

「あの、織戸君……?」

 

 ショパンが蒼介に声を掛ける。

 

 蒼介はまた、考えるよりも先に口を動かした。

 

「ねぇ、君。あの映画、見た?」

 

「映画?」

 

「そう、今やってるやつ。あの短距離走者(スプリンター)の」

 

 ショパンはふるふると首を横に振った。

 

「その映画さ、その、主演の娘がさ、君にそっくりなんだよ。ホントだぜ、本当に君そっくりなんだ、だからさ……」

 

 蒼介はもう一度呼吸を整えて。

 

「今度の日曜日、俺と一緒に、その映画見に行かない……?」

 

 君さえよければ。蒼介はそう付け加えた。

 

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

 

 

「……何やってんだ、アイツ」

 

 教官室前の廊下から、礼司は息子が一人のウマ娘と何かを話しているのを見つけ、そう零した。

 

 その相手の娘、妙に見覚えのある娘だ。

 

「あいつ……確か司の……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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