六花、欠けることなく (ふみどり)
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序 警察学校
1


 よく晴れた空に流れる春一番。運良く見頃の重なった桜の花びらが、風に乗って空を流れていく。入校式の日に桜が見られるなんて、何とも幸先が良い。

 できる限りの準備は重ねてきた。警察官として、社会正義を守る一員として、為すべきことを為すために。理不尽のなかを生き抜き、自らの目的を果たすために。

 

「……楽しみだ」

 

 どうせ、背負うものは少ない身だ。

 精一杯、自分の思うままに咲いてみようじゃないか。

 

 

 *

 

 

 警察学校には男が多い。女性ももちろん在籍しているが、男女比はすさまじかった。あっちを向いてもこっちを向いても男ばかり。そもそも恋愛禁止ということもあって、特に意味のないやりとりでも男女の交流には気を使うところがある。正直なところ、俺としては非常にありがたい環境と言えた。

 

「柊木、今日の授業でやったところなんだが、少しいいか?」

「ああ」

 

 学習室ごとに割り振られる班にも男しかおらず、何とも気楽なものだった。話しかけてきた降谷のテキストに目をやり、今日の授業を頭の中で振り返った。

 

「あ、待って柊木、そこ俺も聞きたい」

 

 ひょいっと降谷の肩口からのぞき込んできた諸伏に続き、何だ何だと周囲も続く。連なっている様子がカルガモの親子のようで、何だか面白かった。

 

「ああ、そこ俺もよくわかんなかったんだよ、柊木わかんのか?」

「おせーておせーて」

「俺も教官に質問に行こうと思ってたんだよ」

 

 松田に萩原、それに伊達。それぞれが得意な分野をもっている、頼りになるチームメイト。俺なんかにも気軽に接してくれる気の良いやつらだ。

 同じ班になったのが皆で良かったと、俺は心から思っている。

 

 

 *

 

 

 最初に話したのは降谷だった。

 五十音順の関係で部屋が隣になり、荷運びのときに目が合ったのがきっかけだった。金糸の髪と褐色の肌は外国の血を思わせたが、警察学校に入ってきたのだから日本国籍をもっているはず。たぶんあまり気にしないほうがいいだろうと思いながら、俺は笑顔を向けた。にこり、と同じように笑顔を返される。

 

「ああ、隣の部屋の。俺は降谷零だ、よろしく」

 

 イントネーションに違和感はない。やはり日本育ちなのだろう。その華やかで整った顔立ちを見ると、きっと彼も苦労があっただろうと勝手な同情をしてしまう。

 

「柊木旭、よろしく。荷運び手伝おうか? 俺はもう終わったんだ」

 

 そう言って握手に応えると、一瞬だけ降谷は意外そうな顔を見せた。が、すぐに元の笑顔に戻って頷いた。たいした荷物もないのに頷いてくれたのは、きっと俺が話すきっかけを作ろうして手伝いを申し入れたことに気づいてくれたからだろう。よく気のつくやつというのが第一印象だった。

 ちなみに後になって最初の意外そうな顔の理由を聞くと、外見が外見だから物珍しげに見られることのほうが多く、ナチュラルな対応をされることが少ないからだと苦笑していた。やはり苦労は多いようだ。

 その降谷に幼馴染みだと紹介されたのが諸伏だ。

 

「諸伏景光、よろしく」

 

 無表情気味の自己紹介だったからクールなやつなのかと思いきや、ただの人見知りと無表情だと猫目が目立つからそう見えただけらしい。慣れてくるとよく話すし笑うし、少し控えめなところのある気遣い上手のフォロー役だ。火の付きやすい幼馴染をいつも上手く宥めているのを見ては大変そうだなと思っていたのだが、本人的にはたいしたことではないらしい。

 

「慣れてるし、実は結構楽しいんだ」

 

 そう本心から言っている様子の諸伏は、控えめなだけでなく実は結構面白がりであるのかもしれない。これは愉快犯の素質があると見た。

 その次に話したのが伊達班長だった。

 

「よう、お前細いな! ちゃんと食ってんのか?」

「術科始まったらその言葉撤回させてやる」

 

 食堂で早々に喧嘩を売られたのも、もはやいい思い出と言えるだろう。本人曰くそんなつもりで言ったわけではないらしいが、どうも見た目で侮られることが多いだけに流せなかった。名誉のために言っておくと、俺はちゃんと鍛えているし華奢なわけではない。単純に着やせするだけだ。

 そして宣言通り、俺は術科の柔道が始まって早々に伊達に背負い投げを決めて拍手をもらうことになる。撤回する、とちゃんと謝ってくれたので許した。俺もちょっと過敏に反応しすぎたと反省している。別に伊達の恵まれた体格を羨ましく思ってむきになったわけではない。断じて違う。

 最後に話したのが、松田と萩原。学習室が開放され、班の振り分けが決まったときに顔を合わせた。

 

「松田だ」

「萩原研二~ヨロシク!」

 

 言葉が足りなそうなやつと余計なことまで言ってしまいそうなやつ、と対照的な第一印象だった。この二人も幼馴染だという話を聞いて妙に納得したことを覚えている。

 アウトローっぽく見えて実際ガラが悪いくせに情に厚く筋を通す松田と、ゆるく振舞うが周囲のことをちゃんと見て動ける萩原は、お互い欠けているところをうまく補っているように見える。

 しかしこの二人、片方がストッパーになるわけでもなく結構普通にやらかしてくれるので、適当なところで止めてやる必要があるのが何ともはや。罰則が連帯責任だってことをもう少し考えてくれないかな、と笑って言えば自主的に正座をして説教を聞く姿勢に入るあたりは、まあ、可愛いと思えなくもないのだが。

 

「さすがにそろそろ懲りてほしい」

「いや萩原(ハギ)が」

「だってほら、陣平ちゃんがさ~」

 

 反省の色が見えない二人に少し目を細めて見せると、スミマセンデシタ、と綺麗にそろった声が返ってくる。仲良いのは大変よろしいのだが、自重はしてほしい。俺はこの二人のこともすごいやつだと思っているし、これからもできたら仲良くしていきたい。だからこそ、ちゃんと釘をさす必要はある。

 なるべく優しい笑顔を取り繕い、言い聞かせるように声を紡ぐ。

 

「俺、ルール破るやつ嫌いなんだ」

 

 即座に二人は顔色を変え、流れるように土下座を決めた。素直でよろしい。

 

 

 *

 

 

 (ゼロ)が紹介してくれた、柊木旭という男。

 遠慮しがちに笑うやつ、というのが第一印象だった。そっと招かれた人の輪に入り、馴染んでくると安心したように笑い、さらに慣れると馬鹿騒ぎもできるやつ。俺も人見知りな自覚はあるけれど、柊木だって結構なもんだと思う。そのくせ教官や大勢の前では堂々と発言ができるのだからよくわからない。

 柊木と(ゼロ)が席を外しているときにそう仲間内でぼやいてみると、萩原がけらけら笑いながら言った。

 

「あれは多分、ひとを選んだ人見知りなんでない?」

「……どういうこと?」

「いや見た感じ、仲良くなりたい相手にだけ人見知り発揮してるぽいからさ。仕事上の付き合いでイイやってやつには別に嫌われてもいいから結構普通にしゃべるし、むしろずばずばモノ言ってる。けどコイツとは仕事離れたとこでも仲良くしたいなー仲良くしてくれるカナーってやつにはおそるおそる近づいて相手の出方見てる感じがすんだよね」

 

 そう言われて今までの柊木の様子を思い返す。確かにしっくりくるものがあった。

 

「……そう、かも?」

「うん」

「でもそれさ、」

「うん?」

「すごく可愛くない?」

 

 全員で噴き出し、だよな、と笑った。

 柊木はどちらかというと仲間内の馬鹿を説教するポジションのやつだが、それでもどこか弟気質で可愛いところがある。

 

「すっげーしっかりしてるくせにどっか抜けてんだよな」

「びっくりするくらい何でもできるやつなんだがなぁ」

「しかも超イケメンなのに」

 

 それ、と再び全員の声がそろう。今まで言うに言えなかったが、皆同じことを思っていたらしい。

 

(ゼロ)もキレーな顔してっけど柊木も相当だろ」

「確かにあのふたりは並んでるだけで目を引くな」

「降谷ちゃんが王子様系イケメンなら柊木ちゃんは騎士系のイケメンっつーか」

 

 何その例え、と萩原の言葉に噴き出したが、言いたいことはわかる。

 (ゼロ)は俗にいう「甘いマスク」という感じなのだが、柊木はまだ幼さが残るながらも凛々しい顔立ちをしている。これから歳を重ねていけばさらにそうなっていくだろう。

 

「……しかし柊木って、頭良くて顔良くて強くてタッパもあるし性格もいいとか設定盛りすぎじゃねえか。わかりやすい欠点ねえし」

「漫画やドラマに出てきたら夢見すぎってボツにするレベルだろ」

「こんな言い方するとあれだけど、(ゼロ)並み? もしかしたら(ゼロ)以上? に完璧なやつ、多分オレ初めて会ったよ」

 

 幼馴染として長年(ゼロ)の傍にいたが、そんなやつはほかにはいないと思っていた。やはり世間は広いなと思うと同時に、いやでもやっぱり(ゼロ)と柊木は特殊枠だと思いなおす。あんなのが世間に何人もいたら凡人のこちらとしてはたまったものではない。

 

「あいつらふたりともすげーもんな。成績いつもデッドヒートなんだろ?」

「降谷は負けず嫌いでめらめら燃えてんのに、柊木は苦笑いで流してるのが面白い」

「柊木ちゃんってプライド低いわけじゃないんだろうけど、他と比べてひけらかすことはしないよね」

「自分が満足できるレベルに達していればいいって感じかな。大人だ」

 

 大人だなーと声を揃えて四人で笑う。

 負けず嫌いな(ゼロ)を温かく見守り、適度に相手をして上手く煽っているところを見ると柊木は確かに人間ができていると思う。まあ実際、それだけ(ゼロ)を気に入っているからというのが大きな理由なのだろうけれど。

 

「ま、同期に面白いやつがいるのはいいな。そのうち皆で酒でも飲みたいもんだ」

「お、いいね。外出できるようになったら行こうぜ」

「柊木って酔ったらどうなると思う?」

「面白ェこと言うじゃねえか諸伏」

 

 あんな完璧なやつも、酒に酔うと意外な一面を見せてくれたりするのだろうか。皆でにやりと顔を見合わせたところで、かちゃりと学習室のドアが開いた。

 

「ただいま。なんだよ、楽しそうだな?」

「ただいま。……お前らちゃんと自習してたのか?」

 

 教官に呼ばれて席を外していた、笑顔の柊木と呆れた顔の(ゼロ)。おかえりとふたりを迎え、話の流れで気になった質問を投げる。

 

「なあ、柊木って酒強いか?」

「え、弱いけど」

 

 よし飲ませよう、と四人の心の声がそろったのがわかった。うっかり素直に答えてしまった柊木は失敗したと頭を抱え、その肩を慰めるように(ゼロ)が叩く。完璧に見える柊木が、時折こうして可愛いところを見せてくれるのは結構嬉しかったりした。

 六人そろった学習室に、いつも通りの笑い声が響く。

 



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2

「苦手なんだ。自分でも困ってるんだけど」

 

 眉尻をゆるく下げ、それでも柊木は笑った。

 そんなことを言うときまで笑う必要はないというのに。

 

 *

 

 それは、規律正しい警察学校の生活にも慣れてきたころ。

 幼馴染の景光(ヒロ)のほかにも気のいい友人ができ、今更ながら良かったと思う。何より、どの分野においてもいい勝負をしてくれるライバルの存在はとても嬉しい。

 柊木は能力だけでなく人格も申し分ない。頭に血が上りやすいところがある自分とは違い、いつも穏やか且つ冷静に物事の判断ができる。正直なところ本当に同い年なのか疑わしい。

 しかしそんな柊木も、たまに挙動不審になることには気づいていた。それについて本人に確認するべきか、それとも知らないふりをしておくべきか、少しばかり悩んでいる。話したくないことを無理に言わせるつもりはないが、話してくれればサポートできることだってある。たとえお節介でも、力になれるならなってやりたかった。

 

「……降谷、何かあった?」

 

 と、思っていたのを本人に見破られてしまったのだから気まずい思いは否めない。最近何か考え込んでるだろと図星を刺され、情けなく思いながら苦笑いで誤魔化す。

 

「いや、何でもない。少しぼうっとしていただけだ」

「ふうん?」

 

 そっか、と柊木は一旦受け止めた。それから一瞬だけ視線を落とし、すぐに顔をあげて困ったように笑う。誤魔化せなかったか、と反射的に思った。

 

「気になってることがあるんだろ? 後で話そう」

 

 何となく、何を悩んでいるのかまですでに見通されているような、そんな気がした。

 

 

 *

 

 

「……僕の思い過ごしだったら悪い。あと話したくなかったら話さなくていい」

 

 なに、と返した柊木の声は穏やかだった。

 

「柊木は、……女性が苦手なのか?」

 

 数が少ないとは言え、警察学校にも一定数の女性は存在する。もちろん同期にもいるし、先輩や教官、それに出入りの職員。決して警察学校は男だけの場所ではない。

 柊木は、女性とすれ違うときはなるべく距離をとるように道をあける。会話をするときはすっと表情が消え、言葉少なに切り上げていた。その外見ゆえに女性の視線を集めることもあるが、そっと隠れるように誰かの影にまわる。要領のいい柊木だから注視していないと気づけないが、ひとつ気づいてしまえは芋づる式にすべてに気づいた。

 柊木は、明らかに女性と関わることを避けている。

 

「……まあ、うん、気づくよな。そのうち言うつもりではあったんだ」

 

 そして、冒頭に戻る。

 僕だけではなくほかの四人もやはり、という顔をしている。どうやら柊木の様子に気づいていたのは僕だけではなかったらしい。

 柊木は言いたくないというよりは少し困った様子で、何から話せば良いのやら、とゆらゆらと頭を揺らしている。

 

「えーと、……ひとにも言われたことがあるんだけど、俺、どうも死ぬほど女運というものが悪いらしく、……この顔、自分で言ってなんだけど、」

「イケメンだよな」

「イケメンだよ謙遜すんな」

「うんうんイケメンだから自信もって!」

「……ありがとう」

 

 即座に肯定されてしまい、何とも言い難い顔の柊木は肩を落とすしかない。それだけ整った容姿をもちながら謙遜するほうが嫌味だと柊木は知ったほうがいい。

 

「……とにかく、言ってなんだが、うん、モテる。好意をもってくれるぶんにはありがたいと思うんだけど、……好意が過剰になってしまうひとに好かれることが多くて」

「ストーカーでも大量発生したか?」

「陣平ちゃ~んお口チャック~」

「ああ、いいよ萩原、うん、そういう感じ。被害者的な意味で警察の皆さんのお世話になったことも一度や二度じゃなくて、……三度でも四度でもないというか」

 

 はは、と乾いた笑いが静かな学習室に響いた。笑っているのはもちろん柊木ひとりだけ。三度や四度でも足りないとは、いったい今までどれだけ被害に遭ってきたのか。

 

「ストーカー以外にも、まあ、いろいろあって」

「……詳細聞いたらまずいやつ?」

「詳細話して皆が女性不信に陥っても俺は責任取れないけど」

「すまん言わんでくれ」

「うん、彼女さんがいる伊達の前では特に言いたくないし聞かないほうがいい」

 

 もちろん女性が全員そうだなんて思ってないけど、と慌てたように付け加えるが、伊達はわかっているから気にするなと言わんばかりに首を振った。僕も長くご両親の事件を引きずっている景光(ヒロ)を見ていたからわかる。理屈でわかっていても反応をしてしまうものなのだ。

 

「具体的にいうと、手が届かない程度の距離はほしい。極力会話も避けたいし、過度な視線を感じるのもちょっと辛い。近寄りすぎると貧血起こすし、若干の接触でも震えが止まらない。抱きつかれようものなら号泣、嘔吐、下手すれば失神」

「それはちゃんと病名つけてもらったほうが」

「自己暗示かければ仕事中は何とかもつから」

 

 景光(ヒロ)の言葉に首を振る柊木はあくまでも軽い調子。確かに、過度の恐怖症を抱えていれば警察官としての適性がないと判断される可能性もある。気合で誤魔化せる間は病名をつけるようなことはしたくないのだろう。

 

「実際、これでも少しはマシになってるんだ」

「……それで?」

「俺の女性苦手は小学校入る前から始まってピークは高校だった。ひどいときは女性が視界に入るだけでパニック起こしたから」

 

 あまりに歴が長すぎる。いったいどれだけ不憫な生活を送ってきたのかと目頭が熱くなる。外見については僕もいろいろあったが、柊木ほどではない。

 そんな僕たちの様子を見て、柊木はまた眉尻を下げて笑う。

 

「いや、頼むから笑ってくれ。むしろ笑い飛ばせよ。妙に同情されるほうが俺は辛い。もうネタとして使え。事情知ってるやつにネタにされるぶんには俺は何とも思わない」

 

 その、少ししょんぼりとした情けない顔。そんな顔をさせたいわけではない。何か言おうと口を開きかけたが、萩原がなるほどと膝を打つほうが早かった。

 

「つまり柊木ちゃん、その顔で童貞?」

「よし萩原そこになおれ」

 

 ごき、といい笑顔をした柊木の指が鈍い音を鳴らす。

 即座に萩原を押さえつけた松田に、天を仰ぐ伊達、頭が痛そうな目元を隠す景光(ヒロ)。深刻な雰囲気は一瞬で崩れ、学習室にいつもの空気が戻った。

 ぎりぎりと萩原を締め上げる柊木の笑顔に、もう暗さはない。いつもの調子で僕も軽口を投げた。

 

「大声はまずいから静かに頼むぞ、柊木」

「それは萩原次第かな」

「助けてはくれないんだ⁉ 同期が薄情で俺哀しい!」

 

 すまないが尊い犠牲(はぎわら)は黙っていてほしい。

 

 

 *

 

 

 そんな柊木のカミングアウトからすぐ、逆に言葉を選んだように見事に柊木の地雷を踏みぬいた目の前の同期を俺は真剣に殴りたかった。

 

「どうせそのお綺麗な顔で華々しい生活送ってきたんだろ!」

 

 警察官になるのに顔は関係ないからな、今日は俺たちが勝つからな、と言葉を投げ続けるそいつは、どうも気づいていないらしい。柊木がその言葉を聞いた瞬間、笑顔のまま硬直したということを。

 今日行われている教場対抗の体育祭では、日頃の鬱憤を晴らすように白熱した勝負が繰り広げられている。特にうちの教場ととある別の教場が僅差でトップを争っており、しかもうちの教官とその教場の教官が積年のライバル同士ということで、ついつい皆熱くなっているところがあった。

 目の前のそいつもどうやらそのライバル教場に所属しており、しかも自称その教場のエース、らしい。根っから性格の悪いやつというわけではなさそうだが、いくら勝負事が好きで盛り上げたかったといってもそんな言葉を吐いていいはずもない。

 さすがに無神経が過ぎる言葉に前に出ようとするが、硬直を解いた柊木の腕がそれを阻んだ。

 

「……ああ、顔は関係ないな。こっちも負けないように頑張るよ」

 

 俺よりいくらか背の低い柊木の顔は見えないが、声色的にはいつも通りの笑顔を浮かべているのだろう。そして満足そうに頷いた馬鹿が自分の教場の集合場所へ戻っていったのを確認すると、柊木はそのままゆっくりとこちらを振り返る。

 

「なあ、伊達班長」

「……お、おう」

 

 いつもと何ら変わりない笑顔と声が、何故だか今はものすごく怖い。

 

「休憩後の競技、確か騎馬戦だったよな」

「そ、そうだな」

「トーナメント方式だったと思うけど、あの教場と当たるのはいつだっけ?」

「……確か決勝まで残らないと当たらないんじゃなかったか?」

 

 そっか、と一言呟いた後、柊木の足はゆるやかにうちの集合場所へと戻る。

 柊木は確かにいつも通りだ。いつも通りの穏やかな笑顔と声を保っているが、それでも俺にはわかった。まだ柊木とは数か月の付き合いだが、嫌というほどわかる。

 

「おーい、騎馬戦に出るやつ、ちょっと来てくれー」

 

 呑気そうな声で、いかにも自分はいつも通りですという顔をして皆を集める柊木。なんだなんだと気づかない仲間たちがわらわらと集まってくるが、正直逃げろと言ってやりたかった。言えない俺をどうか許してほしい。

 にこにこと笑顔を絶やさない柊木は、仲間に向けて口を開く。

 

「俺の事情で悪いんだけど、皆に協力してほしくて」

「柊木がそういうこと言うの珍しいな」

「何、どうしたんだよ」

「ああ、ちょっと叩き潰したいやつがいてさ」

 

 は、と誰もが柊木の口から出た言葉が信じられずに硬直する。無謀にも聞き直そうとした勇者は、柊木の絶対零度の視線を受けて凍り付いた。何人かの視線が助けを求めるように俺に向くが、俺はただ首を振るしかない。

 

「手伝って、くれるだろ?」

 

 完全にブチ切れた鬼の姿が、そこにはあった。

 

 

 *

 

 

「真ん中、騎馬の堅い組を配置してあったよな。先陣きって飛び込んでくれ。ただし横並びは絶対に崩さずに、後ろはとられないように注意な」

「左翼は一旦様子を見て、正面の敵がまっすぐ突っ込んでくるなら少し退き気味で。だけど敵が二の足踏んでるようなら思いっきり飛び込んでいい」

「右翼、真ん中で突入してる味方の背後を取られないように防御メインで動こう。もちろん狙える隙があれば躊躇わずいってほしいけど」

「俺が後ろのほうから全体を見て指示を飛ばすよ。……ごめんな、偉そうなこと言ってるのはわかってるんだけど、従ってくれるかな」

 

 少し申し訳なさそうな顔を作っているが、副音声で「従わなきゃどうなるかわかってるよな?」と聞こえたのはおそらく俺だけではない。全員がひきつった顔で柊木の指示を頭の中に叩き込んでいるのがわかった。

 俺は自前の癖毛をくしゃりとかきわけて、ひとり遠い目をしている伊達にそっと近寄った。同班の連中も気になったのかこっそりと近づいてくる。

 代表して俺が柊木に聞こえないよう小声で尋ねた。

 

「……おい、何があった」

「松田……いや、俺も無神経な言葉だと思ったんだが、俺が思う以上に柊木にとっては地雷だったというか……」

「なんだよ歯切れ悪いな」

 

 そして伊達から事情を聞き、全員でうなだれる。

 馬鹿か。馬鹿だ。馬鹿なのかな。馬鹿なんだろ。馬鹿なんだろうなぁ。見事なほどに意見が一致した。馬鹿の五段活用。

 そいつもまさかその「お綺麗な顔」をしたやつがその顔のためにさんざん苦労してきて女性恐怖症まで抱えているとは思いもしなかったのだろう。とはいえ、知らなかったから許されるわけでは決してない。

 本当に余計なことを言ってくれた。背中に冷たい汗が流れる。

 

「……誰がブチ切れた柊木の騎馬やると思ってんだよ」

 

 これで俺がしくじって騎手の柊木を落としでもしたらどうなるか。あれだけキレた柊木を見たのは初めてだ、何をされるかわからないところが逆に恐ろしい。

 

「……生きて帰ってね陣平ちゃん……」

「他人事みたいに言ってんじゃねえぞ萩原(ハギ)ィ」

 

 幸か不幸か、この騎馬戦にうちの班全員が出場する。そして柊木は俺たちのことを認め、能力を買ってくれていることくらいは理解している。普段なら照れ臭くも嬉しいことだが、今はその事実がひたすらに重い。

 柊木は「やればできる」やつが「やらない」ないし「失敗する」ことに厳しいのだ。

 

「……絶対に柊木は落とさねえ」

「うわ~。気合い入れますか」

「俺らもハチマキ取られたらアウトだな」

「いや、生き残っても敵のハチマキ取ってないとアウトな気がする」

「柊木だからな。求められるハードルも低くはないだろう」

 

 ぼそぼそと話す俺たちのところに、作戦の説明を終えた鬼がひょっこりと顔を出した。

 

「何してんのお前ら。ちゃんと話聞いてたか?」

 

 にこ、と張り付けたような笑みを浮かべる柊木だが、まるで猛獣に睨まれたように背筋が凍った。いつもならあざとくすら見える首を傾ける仕草でさえ、恐怖をあおるものでしかなかった。

 

「まあ、お前らなら大丈夫だよな」

 

 信頼という名の脅迫に、俺たちはひきつった笑顔で頷くしかない。

 

「――ああ、言い忘れたけど俺の言う勝利は『全員がハチマキを死守』し、『敵のハチマキをすべて奪取する』ことだから。万が一ハチマキ取られるやつがいたら、そいつら次の逮捕術の授業で俺とペアな。敵のハチマキの取り逃がしは、その近辺にいたやつら……そうだな、俺の決め技の稽古に付き合ってくれ」

 

 わかるよな、と鬼は柔らかな笑顔で続ける。

 

「完全勝利以外は勝利じゃねえぞ?」

 

 騎馬戦の開始直前にそう言い放った柊木の目は、少しも笑っていなかった。全員の頬に冷たい汗がつたっていく。

 

「じゃあ皆、頑張って優勝しよう」

 

 そして俺たちは、騎馬戦最強の教場として警察学校の歴史に名を刻むことになる。数々の若い警察官を見送ってきた教官たちですら「騎馬戦最強の」と言えば通じてしまうほどに語り継がれることになるのだが、それがひとりの鬼による私情だらけの恐怖政治の結果であることは知られていない。知らないほうがいいこともある。

 

 

 *

 

 

 勝負に負けた悔しさなのか、ぶちぶちと独り言を垂れるそいつを呼び止めた。一応伊達に目線をやると、こくりと頷かれる。そいつで間違いないらしい。

 

「……何だよ。勝利宣言でもしにきたのか?」

「まあ、間違ってはいないな」

 

 煽るような降谷の言葉に、そいつはぐっと眉を引き上げた。

 怒りのオーラをまとわせてはいるが、さっきまでの柊木の怒りに比べればほんの僅かも怖いとは思わなかった。所詮はガキの癇癪、そんなもの付き合う暇はない。

 

「残念だったな、『お綺麗な顔』したやつにボロ負けしてよ」

「ね、今どんな気持ち? 『お綺麗な顔』で『華々しい生活送ってた』なんて言っちゃったやつに負けちゃってさ」

 

 俺の言葉に、萩原(ハギ)が続いて嫌味を投げる。普段は絶対に嫌味なんぞ言わない萩原(ハギ)も、今回のことにはだいぶ苛立っているのは気づいていた。普段誰とでも軽く付き合うこいつも、こいつなりにちゃんと柊木のことを気に入っているのだ。

 

「な、んだよお前ら……!」

「ああ、ごめんな、別に嫌味を言いに来たわけじゃないんだ」

 

 たださ、と諸伏は言葉を切る。すっと細められた瞳は刃のように鋭く、その表情は氷のように冷たかった。

 

「警察官になるなら、その無神経さは何とかしたほうがいいって忠告したくて」

「ああ。顔だの過去だの、デリケートな部分に土足で踏み込むのは感心しねえな」

 

 何がそいつの地雷かわからねえだろ、と言葉を選んではいるが、伊達も拳を強く握り込んでいる。言葉を聞いたときはつい殴りそうになったとは言っていたが、どうやら誇張ではなかったらしい。

 そしてとどめのように、ライバルへの侮辱を許せなかったそいつが前に出る。

 

「相手の気持ちも考えられないようなやつが、警察官なんて目指すなよ」

 

 言葉を投げつけられたそいつはまだいまいち意味をわかっていない様子だったが、こちらの怒りだけは伝わったらしい。何を言い返すでもなく完全におよび腰になっている様子を見ていると、ひたすらに馬鹿らしくなってきた。もう時間を費やすのももったいなくて、戻ろうぜ、とさっさと後ろを向く。

 言いたいことは言わせてもらった。後のことは知らん。

 

 

 *

 

 

「ああいたいた、お前らどこ行ってたの?」

 

 両腕にたくさんのペットボトルを抱えた柊木は、だいぶいつものテンションに戻ったようだった。騎馬戦で優勝した後、誰もがこいつの顔色を窺っていたが、本人だけはけろりとしていた。恐怖政治の結果を見て「まあ、こんなもんかな」と言い放っただけ。完璧な指揮で優勝を勝ち取った感想がたったそれだけかよとは思ったが、たぶん柊木にとっては至極当然のことだったのだろう。というかお前の憂さ晴らしに巻き込んだ俺らにまず感謝と謝罪を言えよと思う。言わねえけど。

 

「ちょっとな。お前こそ、そのスポドリはどうしたんだ?」

「ほら、騎馬戦も完全勝利したし総合優勝もうちの教場がもらっただろ? 教官がたまにはってご褒美くれたんだよ。はいひとり一本」

「やりい!」

「でもどうせなら甘いものが良かった!」

「スポドリ一本てケチ~!」

 

 そうやってげらげら笑う時間が、実は妙に楽しかったりする。汗まみれ砂まみれの身体を引きずりながら飲むスポドリが不思議なくらいに美味い。

 

「誰がケチかお前らァ! 口を慎め腕立て百回!」

 

 と、油断したところで罰則というものは飛んでくる。反射的に返事をしてその場で腕立てを始めるのももはや慣れたもの。体力を使い切ったあとの身体にはなかなかきついものがあったが、それでも俺たちの口元は緩んだままだった。まったく、こいつらといると退屈することがない。

 ただしケチだと口に出した萩原(ハギ)、お前はあとで締める。

 



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再会
3


 それを目にしたとき、あまりに鮮やかな思い出が蘇った。

 あの騎馬戦はなかなか楽しかった。個性のはっきりした奴らだったから作戦も組みやすかったし、皆も指示通りに動いてくれた。あの完全勝利は皆の協力あってこそだった。

 ああ、そのすぐあとには全員が俺の家に泊まりにきたこともあったっけ。よくあんな言い訳で教官も許可してくれたものだが、まあ降谷と俺がいかにもそれっぽい顔してそれっぽいこと言ったのがよかったのだろう。みんな買い物も掃除も模様替えも手伝ってくれて本当に助かった。遠慮なくこき使ったからへとへとになってたけど、そのお詫びとお礼にと思って大学時代関西で仕込まれたお好み焼きとたこ焼きを振舞ったんだっけ。どこの掃除機かと思うほどのすさまじい吸引力だったな。何枚何個焼いても全然足りなかった。俺も意地になって作り続けたが、結局どれだけ作ったんだろう。相当量の小麦粉を消費したことは覚えている。ことあるごとにまた作れって言われたけど、結局振舞ったのはあれきりだった。

 皆で少し遠くに買い物に出たときは、降谷と並んでたせいか逆ナンにあって目を回したのも最早いい思い出……ではないな、あれは情けない思い出だ。伊達が貧血起こした俺を支え、萩原が上手いこと言って女の子たちを追い払い、諸伏が飲み物を買ってきてくれた。かっとなって女の子たちを怒鳴りつけそうになった降谷に松田は「もっとうまくやれ」なんて説教をしていて、説教するポイントが違うんじゃないかと思ったが口を出す余裕もなかった。面倒を掛けてしまったと謝る俺にあいつらは「気にするな」と笑い、遊び慣れてない俺をゲーセンに連れ出してくれた。シューティングゲームで最高点をたたき出した諸伏はさすがだったし、リズムゲームでは松田無双。降谷とエアホッケーで接戦を繰り広げた後負けたことは、未だ悔しい記憶として残っている。いつか絶対リベンジしよう。

 術科大会では、運動会で叩き潰したアイツに再度喧嘩を売られ……あれはまあいいか、大したことではない。三回目はないことを教えてやれたと思うのでよし。

 それから、―――それから。

 

「―――柊木君?」

「、はい」

「どうした、呆けていたようだが」

「失礼いたしました。いえ、自分の警察学校時代を思い出しまして」

 

 気持ちはわかるよ、と懐かしそうに上司は笑う。

 警察庁の窓の外に真新しい制服の集団が見える。警察学校の生徒が見学に来ているのだろう。俺もかつてはあの中にいたのだと思うと少し感慨深い。

 あの日々は、本当に楽しかった。たぶん、俺の今までの人生のなかで、一番。

 

「君は警察学校でも優秀だったんだろう?」

「真面目には取り組んでいたつもりですが、そこそこいろいろやりましたよ」

「ほう? 気になるね」

「おっと、失言でした。もちろん真面目に学んでいましたとも」

 

 後ろ暗いことでもあるのかい、と言う上司に、まさか、と笑って見せた。ただいろいろと()()()()()()()()同期たちがいただけだ。俺は巻き込まれただけで主犯ではないので、断じて後ろ暗いことはない。

 いい同期にも恵まれましたしね、と心からの言葉を口にすると、上司は微笑ましそうに頷いた。しかし、だからといってゆっくり休憩させてくれるほど生やさしいひとではない。

 

「さて、思い出に浸るのもそのあたりにして、仕事に戻るとしようか。ああ、その書類の山の整理と処理、それからそちらの過去の警備記録も目を通して頭に入れておきなさい。午後の会議までには終えておくように」

「承知しました」

 

 うーん、容赦がない。もちろんそう思ってもおくびにも出さない。

 警察庁警備局警備課に配属されてまだ二年ほど。まだまだ新米として雑用をする一方、少しずつ仕事も任されるようになってきた。

 警備課のやることは主にディフェンスのサポートだ。機動隊が動くような犯罪や災害への対策や緊急事態発生時の指揮、大規模なイベントでの警備、そして要人の警護などの業務管理が管轄になる。全国の機動隊の上役と言っていい。

 もともと現場に出るよりはその指揮管理をする方が向いている自覚があるだけに、やりがいのあった。過去の機動隊の警備記録を見るのも非常に勉強になる。

 配属が決まったとき、上司だ敬え、と伝えたときの機動隊二人の顔を思い出すと今でも笑えてくる。あいつらに無茶をさせないように、あいつらに危険を押し付けることがないように、しっかりと勉強しなければならない。

 

「柊木君、こっちの書類も頼む」

「はい」

「これもついでに」

「じゃあこれも」

「……喜んで」

 

 感傷に浸る間もないほどの仕事量だが、これもまた勉強か。ひとつ苦笑を零してから、目の前の仕事に気合いを入れた。

 

 

 *

 

 

 定時をだいぶ過ぎた時間に上がり、帰路につく。

 いい加減車買わないととも思いつつ、駅からの夜道を歩くのは嫌いではなかった。デスクワークがメインの現状、多少は身体を動かさないと鈍る。

 女性苦手はまだ健在なので公共交通機関は好きではないが、完全に女性に近づかないままでいてはいつまでも治らない。リハビリも兼ねてなるべく人の少ない時間帯に利用するようにしている。さすがにこの歳になるとストーカーに狙われることもなくなったのか、この数年はとても平和だ。

 なるべく早く克服しないと、と考えていたとき視界の隅に知った顔を捉えた。

 

「……お前らまたうろついてたのか」

「げっ」

「うわ、見つかった」

 

 警察庁勤務になってから今日のように帰りが遅くなる日も増えた。そういうときに見つけてしまった、深夜にうろつく未成年たち。自分の職分でないことは重々理解しつつも、時には小言、時には強制的に家まで送還しているうちに交流をもつようになった。

 

「いい時間だぞ、早く帰れ」

「まだ十一時じゃん」

「もう十一時、だ。そろそろ見回りも来る時間だろ」

 

 こういう者だ、と警察手帳を見せた当初は警戒されたが(警視庁か警察庁かの違いなんて一般人には関係ない)、懲りずに話しかけているとだいぶ懐かれたと思う。

 一度は殴り掛かられたことも今では笑い話だ。鍛えてもないガキの拳などに殴られる俺ではないし、ましてこいつらは深夜にふらついてはいるだけで喧嘩とは無縁の平和主義なアウトローだった。マメやタコのひとつもない綺麗な拳にそう指摘してやると、彼らは気まずそうに黙った。

 

「ひーらぎさんこそ、またこんな時間まで仕事してんの」

「今日は立て込んでてな。ほら立て、全く明日も平日だってのにこんな時間までうろつきやがって」

「どうせ学校いってねえし」

「行けよ。勉強はしといて損はねえぞ」

 

 ひーらぎさんまでそういうこと言うのかよ、と拗ねる子どもに苦笑を返した。

 

「勉強は出来なくても何とかなるが、出来た方が得なのは確かなんだよ。損得の問題」

「……ひーらぎさんて変な説教の仕方するよな」

「なんだよ。上っ面の説教してもお前らは聞く耳持たないだろ」

「確かにそうなんだけどさ」

 

 ホント変な人、とけらけら笑うそいつらを帰路に追い立て、その後ろ姿にまたひとつ苦笑を零す。根は素直で可愛い奴らなのだ、伊達あたりと引き合わせてみれば懐くかもしれないなんて考えながら、俺もまた帰路についた。

 

 

 *

 

 

 帰宅し、適当に食事と入浴を済ませて寝る支度を整える。

 明日も早いのだ、早めに睡眠をとらないといけない。そう思ってマグカップを片手にベッドに座ると、ふと写真立てが目に入った。昼間見た警察学校生たちの姿が脳裏に浮かぶ。

 警察学校卒業の日、六人で撮った写真はベッドサイドに大切に飾られている。あいつらとの生活は、本当に楽しかった。基本的に友達の少ない俺にとって、あれほど気心知れた友人が出来たのは初めてだった。こんな気の抜けた顔で笑う自分を初めて見たかもしれない、とその写真を見て思う。

 

「……また、酒でも誘ってみるか」

 

 酒は強くないが、別に全く飲めないわけではないし嫌いでもない。こいつらとなら多少の酒の失敗も許されるだろうという甘えもある。

 警視庁の花形、捜査一課を目指して走る伊達に、希望していた機動隊でおもに爆発物処理に当たる松田と萩原。諸伏と降谷は―――忙しいのだろう、滅多に連絡は取れないが。

 最近なかなか会う機会も作れなかった。明日にでも連絡を入れてみようと決めて、俺はベッドにもぐりこむ。

 その日、久しぶりに警察学校時代の夢を見た。あまりに懐かしく、心地よく、夢が覚めるのが惜しかった俺は、―――これまた見事に寝坊した。

 

「遅刻ギリギリとは珍しいね」

「夢見が良すぎまして……申し訳ありません」

「本当に焦ってきたんだな。寝癖がとれてないよ」

「……。……鏡を見てきてもよろしいでしょうか」

「いや、面白いからそのまま仕事してなさい」

 

 その日一日、上司先輩にからかい通され、俺はなかなかに恥ずかしい思いをすることになる。

 

「たまにはそうやって間の抜けたところ見せた方が可愛げあるよ?」

「ははは、嬉しくないです」

 



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4

「悪い、遅くなった!」

「お、柊木」

「先始めてるぞー」

 

 今日は珍しく松田から飲みの誘いを受け、仕事帰りに贔屓の飲み屋に向かった。この店は個室が完備されているからありがたい。伊達は仕事が詰まっていて不参加、あの馬鹿ふたりは相変わらず連絡が取れないので今日は爆処組と三人だ。

 

「飲み物は?」

「とりあえずビール」

「はいよ~」

 

 注文したビールが届くと改めてグラスを合わせ、乾杯をする。お疲れ~と萩原が呑気に音頭を取るが、今日はその萩原のための会だ。

 自分があまり酒に強くないのは自覚している。酔いが回る前に真面目な話は片づけてしまおう。

 

「さて萩原」

「ん? 何よ改まって」

「ああ、真面目な話だから心して聞け」

 

 きょとんとした後に萩原は姿勢を正した。

 警察学校ですっかり説教を受けるときの態度は学んだらしい。お前そういうところは素直なのに、と小さくため息をつく。

 

「どこかの馬鹿に爆弾を目の前に油断する悪癖があると通報があった」

 

 ぎくりと、わかりやすく萩原の肩が揺れる。

 隣に座る松田は素知らぬ顔でグラスに口をつけた。

 

「……俺はな、萩原。お前のことすごいやつだと思ってるよ」

「……え」

「まだ入庁してそんなに経ってないのに第一線で爆弾処理をするくらい、その能力を評価されてる。普段も軽いふりして誰よりも周囲を見てるし、いつも自分のペースを崩さず、どんな状況にも即座に対応できる。誰にでもできることじゃない」

「ひ、柊木?」

「だからこそ」

 

 萩原が何か言おうとしたその声を遮った。さすがに笑顔も作れない。

 

「だからこそ、驚いたし失望した。どんなに優秀だろうが、爆弾目の前に防護服脱ぐだの一服するだの、お前がそんな馬鹿だとは思わなかった。……なあ、萩原」

 

 俺、殉職を希望するような奴と友達やりたくない。

 殉職と口にした瞬間、口の中に苦い味が広がった。その一言は、俺にとってあらゆる意味でひどく重い。どうか、萩原にとってもそうであってほしい。それだけのことをしているのだと、わかってほしい。

 萩原、ともう一度名前を呼んだ。目の前のそいつが息を呑んだのがわかった。

 

「……柊木」

「何だ」

「……ごめん」

 

 そんなこと、お前に言わせて。

 笑顔を消して真剣な顔になった萩原が、そう言った気がした。

 

「……で?」

 

 一応反省したことは見て取れたので、ついでに言質ももらっておこうとにっこり笑いかける。いろいろと察した萩原は顔をひきつらせた。

 

「……チャント、ボウゴフク、キマス」

 

 何で片言なんだ、と突っ込むのも面倒で、そのまま続きを促す。

 

「それから?」

「バクダンノマエデ、ユダン、シマセン。カイタイヲサイユウセン、シマス」

「慢心は自分と仲間を殺すぞ。殺人者になりたくなきゃ肝に銘じとけ」

「わかった! わかったからもうやめて! 何お前怖すぎんだけど!」

「何て?」

「申し訳ございませんでした!」

 

 涙目の萩原がばっと頭を下げたとき、笑いをこらえていた松田がとうとう噴き出した。さっきからぷるぷると堪えていたが限界だったらしい。

 

「やっぱ柊木に説教頼んで正解だったわ!」

「ちょっと陣平ちゃん、柊木使うのは卑怯でしょ!? こいつの説教マジで怖いんだから!」

「怒鳴るわけでもねえのに何をそんなに怖がんの? 伊達のが怖くない?」

「笑ってねえ笑顔が怖いんだよお前のは! 無表情も怖かったけど! てかわざとだろ、わかってんだぞお前がさりげに腹黒いのは!」

 

 怒らせる方が悪いんだろ、と軽くあしらったところで、ふと気づいた。確か、こいつらのいる隊の隊長は。

 

「……ちょっと待て。その悪癖、上司は止めてないのか」

 

 ぴく、とふたりは一瞬動きを止める。萩原は少し気まずそうに目をそらし、松田は不満そうに鼻を鳴らした。

 

「……止めてないねえ、現状」

「止めてねえな。むしろ煽ってる。『お前らなら大丈夫だろ』ってな」

「……ほー?」

 

 ふたりの上司は長年機動隊に勤めてきたベテラン中のベテランだ。上層からの評価も高く、警察庁でも名前が通っている。ベテランなら爆弾処理の危険性もよくよくわかっているはずなのに、諫めるどころか奨励とは。そしてその上司の煽りを受けて乗せられやすい萩原は慢心し、用心深い松田は反感を抱いている、と。

 よく監査が見逃しているものだ。上層からの信頼が仇になったのだろうか。

 

「ベテランも過ぎれば老害か」

「……ノーコメント」

「早く偉くなれよお前ら。死人が出る前に」

 

 そこまで言うと萩原に苦笑を返された。ホントに旭ちゃんてば容赦ない、と萩原に枝豆に手を伸ばし、松田はだが間違ってねえ、とまた酒を呷る。

 

「……本当頼むよ、二階級特進とか贅沢言わないでこつこつ出世してくれ」

 

 命を投げ捨てた出世なんて、祝ってやれないだろ。

 そう言って苦笑いとともにグラスを掲げると、萩原は少し気まずげに、そして松田は満足げに、泡の消えたビールを掲げた。

 

「任せろ、萩原(ハギ)は見張っとく」

「反省したってば……」

 

 がちん、と三つのグラスが鈍い音を立てた。

 そしてこの一週間後、俺は松田から萩原が爆弾処理に失敗したという連絡を受けることになる。

 

 

 ***

 

 

 看護師の静止の声も聞かず、病院の廊下を走り抜けた。

 ほんの一週間前、萩原は元気に酒を飲んでいた。自分の慢心を反省し、真面目に職務にあたると約束してくれた。そう言った矢先に起きた卑劣な爆弾事件。

 電話をくれた松田の声は、震えていた。

 

「松田!」

「……柊木」

 

 病室前で松田は椅子に腰かけていた。声にいつもの覇気はなく、顔色は蒼白に近い。

 

「……萩原は、」

「今手術が終わったところだ。……お前に説教されて防護服はきっちり着てたからな、近距離での爆破にも関わらず命に別状はないらしい」

「、そうか」

 

 安堵の息が漏れる。ちゃんと防護服はあいつの命を守ってくれた。

 そんな俺とは裏腹に、松田の顔は暗いままだ。いや、暗いというより虚ろというべきか。眉をひそめて声をかける。

 

「……松田? どうした、萩原は無事なんだろ」

「……ああ、生きて、る」

「松田、……どうした?」

 

 声が震えている。いや、声だけじゃない、全身が震えだした。これは安堵ではない。恐怖だ。

 

「爆破の直前、萩原(ハギ)に電話をかけたんだよ。萩原(ハギ)は防護服を着てたから出られなくて、近くにいた隊員がかわりに出た。……いつになく萩原(ハギ)が真面目に解体にあたっているから、もうすぐ終わるから心配するなって、そいつは答えて。柊木に説教してもらって良かったなんて、そう思ったんだよ。……そしたら、急に、電話口が騒がしくなって、タイマーが、とか、爆弾が、とか、……総員退避って声と、一斉に走り出す足音がして、それから、……それから、」

「、もういい! やめろ松田!」

「電話口で、すげえ音が、……萩原(ハギ)が、仲間が、……爆弾で、」

「落ち着け松田! 萩原は生きてる! お前の仲間も死んでない!」

 

 松田の目は虚ろで、俺の声は届いていないようだった。どう見ても普通の精神状態ではない。とにかく落ち着かせなければ、と直後に俺と同じように駆けつけた伊達に看護師を呼んでもらい、そのまま松田も病床に叩き込んだ。

 

 

 *

 

 

「……とにかくまずは、萩原が無事でよかったな」

「ああ。……本当に」

 

 松田が眠ったことを確認し、包帯だらけの萩原の顔をそっと覗き見て、伊達と病院の中庭に出た。投げ渡された缶コーヒーのプルタブを開け、ベンチに座る。

 

「外傷は多いが手術は成功、後遺症も残らなさそうってどんな奇跡だって感じだよな」

「防護服は偉大だよ」

 

 伊達の言葉に軽く相槌を打つ。本当に、これで防護服を着ていなかったらどうなっていたか。考えただけでぞっとする。

 

「まったくだ。……まさかちょっと前まで防護服なしで爆弾解体にあたっていたとは思わなかったが」

「ああ、元気になったら一発殴ってやってくれ。俺はもう説教したから」

「そうさせてもらう。……柊木の説教のおかげであいつ、命拾いしたんだな」

 

 やめてくれ、と苦笑を返した。俺の説教よりむしろ、上司にかわってその危険性をしつこく言い続けた松田の功績だろう。俺はそれを後押ししたに過ぎない。

 それだけ松田は萩原のことを心配していたのだ。だからこそ、萩原が爆発に巻き込まれる場面を見て、そして聞いてしまったその衝撃は。

 

「……松田のアレ、……後に響かねえといいんだけどな」

 

 一過性のパニックならまだいいが、あれが慢性化したらまずい。もし爆弾そのものがトラウマになりでもしたら、爆発物処理班として致命的だ。こういうものは心が強いとか弱いとかそういう問題ではないだけに、先ほどの松田の様子を思い出すと心配になる。誰よりも情に厚い松田だからこそ、ショックは大きかったはずだ。

 

「……なぁに、萩原が目を覚ませばきっと松田も落ち着くだろうよ」

「……そうだな」

 

 どうか、そうであってほしい。

 松田は自分の職務に誇りを持っていた。おそらく今回の一件で萩原は機動隊にはいられなくなる。せめて松田だけでも残っていられればいい。

 

「……萩原の処分はどうなる」

 

 同じことを思ったのか、小さく伊達が言葉を落とした。

 その言葉に、機動隊絡みの似た案件をいくつか思い浮かべる。

 

「……まあ、……事情はどうあれ、爆弾解体に失敗し、隊の仲間を爆発に巻き込み重傷を負わせたことにかわりはない。前例から考えるなら……異動か退職か選べってところじゃねえかな」

 

 法が絡む組織は例外を嫌う。たとえやむにやまれぬ事情があったとしても、為した結果がすべてだ。例外という前例を作ればいくらでも抜け道が作られてしまう。

 

「……そうか。……そうだよなあ」

「……こればっかりは、な」

「だが、きっとそれでも萩原は警察辞めねえよ。あいつは機動隊以外でも十分にやっていける」

「ああ。……まずは、元気になってもらわないとな」

 

 きっと、萩原なら。そして、松田も。

 あいつらなら大丈夫だと、お互い自分に言い聞かせているのがわかった。

 

「……ところで柊木」

「何だよ」

「俺とお前に連絡が来たなら、あいつらにも連絡いってると思わねえか?」

「降谷と諸伏か」

 

 警察学校卒業以来、ろくに連絡も取れないふたり。

 一度だけ警察庁内で降谷らしき影を見かけたことならあるが、それも一瞬だけ。おそらく()()()()()()に行ったのだろうと予測はしているが、それにしてもここまで連絡が取れないとなると疑念が残る。

 そういう部署に行っただけでなく、()()()()()()に就いているのだとしたら。

 

「……松田はたぶん連絡してると思うけど、……まあ、来れないんだろ」

「……今頃何してんだかな。お前も連絡とれねえんだろ?」

「ああ。何となくメールは送り続けてるんだけどな」

「俺もだ」

 

 送り続けているメールは届いているはずだし、きっと見てくれていると思う。それを無視するだけの事情があるのだとしても、連絡先を変えていない以上は縁を切ったということではないはずだ。

 きっとまた会うことは叶うと何となく思っている。何故だか確信に近い予感があった。ただ、そのときどうか―――無事でいてほしい。俺が思うのは、それだけだ。

 

「……萩原と松田が元気になったら、写真でも送ってやろうぜ。きっとあいつらも安心するだろ」

「……ああ、いいな」

 

 いつかまた、六人で写真を撮る日が来ればいい。皆が元気で、笑顔で、馬鹿騒ぎしている写真がいい。

 何だか感傷的になってしまって、横に立つ伊達の顔を見ずに言った。

 

「……お前くらいは普通に元気に警察官やっててくれよ」

「こっちの台詞だよ。俺がそう簡単にやられるか」

「……ああ、そうだよな」

 

 思考によぎった不穏な影は見ないふりをして、飲み干した缶を軽く投げる。それは綺麗な弧を描き、ゴミ箱に吸い込まれていった。

 

 

 




個人的な妄想ですが、私は萩原さんの墓参りが彼らを再会させたのだと思っています。なので六花ではとりあえず音信不通設定です。


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5

 

 あれから間もなく、萩原は目を覚ました。

 数か月の入院を強いられはしたものの順調に回復しており、後遺症も特に心配はいらないとのこと。元気になったら一発殴らせろよ、と軽口を投げる伊達にお手柔らかに頼むわ~といつも通りの返事を返せるくらいには元気になっていた。

 内勤の俺が一番時間の都合をつけやすいので、ちょくちょく俺は萩原のところに顔を出すようにしている。現状世話をしてくれるような彼女はいないらしいので特に気兼ねはしていない。

 

「……なー柊木、事件の話何か聞いた?」

「いまだ進展ナシだ。亡くなった犯人の身元の洗い出しはほぼ済んだらしいが、それでも共犯者の影は見えないらしい」

「……そっか~」

 

 しゃりしゃりと林檎の皮をむきながら答えると萩原は困ったように笑った。

 萩原が負傷した爆弾事件には、犯人がふたり以上いるものと判断されている。公衆電話から爆弾の解除法を教えようとした結果、事故に遭い亡くなった男と、少なくとももうひとり。萩原が解体に当たっていた爆弾を、解体終了直前でタイマーを操作し爆弾させた人物だ。

 

「……言っとくけど俺油断してないかんな! ちゃんと防護服来てたからそりゃいつもより解体のペースは遅かったけど、タイマーは先に切ってたから無事解体できるはずだったの!」

「わかってるよ。お前はその時のベストを尽くしたけど、犯人がタイマーをいじったんだろ。説教するつもりはないよ」

 

 そう言うと見るからにほっと安堵の息をつく萩原。あまりにわかりやすく安心したのが癪に障り、その口に林檎をつっこんでやった。ごほ、と萩原がむせる。ざまあみろ。

 普段から防護服着てちゃんと訓練してれば解体のペースももっと早かったのではないかと思わなくもないが、さすがにそれを口に出すほど俺は冷酷ではない。たらればの話をしてもきりがないし、事実として萩原は生還した。そして自分が機動隊から外される事実を受け止め、自分なりに消化している。萩原はマイペースな分、逆境に強い。しっかりと反省はしても、後悔に潰されることはないだろう。

 むしろ、萩原よりも心配なのは。

 

「……陣平ちゃん、どーしてるか知ってる?」

 

 真っ青な顔で取り乱していた、松田の方だった。

 

「……顔は見れてない。メール送っても、『問題ない』『大丈夫だ』の一点張り」

「……あちゃー」

「見舞いにも来てねえのか」

「たまに来るんだけど、……どっか危なげというか。俺は大丈夫だって言ってんのに、何か通じてないみたいでさ」

 

 松田は一晩病院で休むと表面上はだいぶ調子を取り戻し、退院した。目を覚ました萩原を見たときは心底安心したような顔をしていたが、それでもどこか思いつめたような顔は戻らない。機動隊の仕事には問題なく戻っているらしいのでPTSDはなさそうだが、いつも通りとは言い難かった。

 

「……その松田だがな」

「何?」

「転属を希望した。刑事部捜査一課特殊犯係にな」

 

 萩原は包帯のない左手を額にあてて項垂れた。何やってんのあいつ……と口から呟きが零れる。正直、まったく同感だった。

 

「まあ、却下されたけど」

「だよな。機動隊から一課って何、普通ないだろそんな転属」

「まったくないわけじゃないけどな。……しかも、諦めてなさそうなんだよあいつ」

「マジで?」

 

 納得した様子ではない、と聞いている。萩原という優秀な隊員を失った機動隊は松田を手放したくはないだろうし、どう考えてもこの爆破事件の犯人を捕まえるために希望した転属だ。はいそうですかと希望を通すほど警察は甘くない。

 

「……そう簡単に希望は通さないだろうが、松田が何度も懲りずに転属を願い出れば、上層も根負けするかもな」

「え、ダメでしょそんな私情の絡む転属」

「松田は優秀だ、上からの評価も高い。希望を蹴り続けて辞められたら困るだろ。今のあいつ野に放ったら自分で無茶な捜査しかねないし」

 

 否定できない、と渋い顔をする萩原を前に、俺も溜息をつく。特殊犯係の皆さんには松田が馬鹿やる前にぜひとも爆弾犯を捕まえてほしいものだ。

 

「……ちなみに柊木って俺のお左遷先聞いてる?」

「左遷言うな、転属先に失礼だ」

「はいスミマセン」

 

 萩原の質問をとりあえず切り捨てると、もうひとつ溜息をついた。

 

「左遷どころか栄転になりかねないぞ」

「え?」

「お前の上司が口利いてる。とりあえず閑職にはいかないだろ」

「……ありゃー」

「確かあの人、刑事部長と同期のはずだ。刑事部のどっかってところじゃないか。それこそ一課の特殊犯係とか、下手すれば強行犯係とか」

 

 何とも言えない顔をして萩原は黙った。いろいろと思うところはあるらしい。

 デスクワークの向かない萩原の配属先なんて現場メインのどこかだろうとは思っていた。機動隊として鍛えてきたものを無駄にする手はないし、今まで活かす機会はなかったが萩原は取り調べが上手い。人の懐に潜り込むのが早いのだ。

 

「……まあ、何にせよとにかく身体を治してからだな」

「……ん。わかってる」

 

 じゃあ俺はこの辺で、と鞄を持つと、萩原はありがとね~とへらっと笑う。相変わらずの気の抜ける笑顔に俺もひとつ笑い、軽口を投げた。

 

「退院しないと酒にも誘えないな」

「こっそりお土産に持ち込んでくれてもいいのよ? あと煙草も」

「馬鹿言え。禁酒禁煙してろ怪我人」

「そろそろ限界なんだけど」

 

 堪えろと笑うと、萩原もひでぇと笑う。その笑顔に少しだけ安堵して、病室を後にした。

 

 

 *

 

 

 結局、萩原の異動先は刑事部捜査一課特殊犯係だった。

 爆破事件などその名の通り特殊な事件を扱う、松田が異動を希望した部署。それを聞いてさらに若干荒れ気味だった松田も、時間とともに落ち着いてきたようには見える。しかしどうも、爆破事件があった十一月が近くなるとだめらしい。

 

「陣平ちゃんてば本当に俺のこと好きだからさ~」

 

 そう言って困ったように萩原は笑った。笑ってはいるが、本当に松田が暴走すれば洒落にならないことをよくわかっているのだろう、ちょくちょく俺や伊達に「松田の様子見てきて~」なんて連絡を寄越している。

 相変わらず当の爆弾犯は捕まっていないし、松田も繰り返し異動の希望を出すことをやめはしない。……なかなかままならないものだ。

 そういうままならないことを考えている時に限って、良くないことは起こる。

 

 

***

 

 

「……幸人が捕まった?どういうことだよ」

『俺が知るかよ! なんか、しょーがいがどうって連れていかれたらしくて!』

「傷害? ……あいつ喧嘩したとか聞いてるか?」

『聞いてないよ! つか幸人がそういうことしねえのひーらぎさんだって知ってるだろ!』

 

 オフの日の朝、珍しく深夜徘徊常連の悪ガキのひとりから連絡があったと思えば、何と仲間がひとり警察に連れていかれたという。あの喧嘩と無縁の悪ガキが傷害なんて、笑い話でも有り得ない。

 相良幸人は悪ガキの中でも古株で、あいつが中学生のころから俺も知っている。どちらかというと曲がったことが嫌いで融通が利かないがゆえに反抗期になったタイプで、少なくとも平気で人を傷つけるような奴じゃない。

 

「……わかった、調べてみる。いいか、他の奴らにも伝えとけ、お前らは、何も、するな。落ち着かないのはわかるが、今下手に動く方が幸人のためにならない。わかるな?」

『っ……わか、た』

「よし。……学校にもちゃんと行けよ?」

『……ん』

 

 噛んで含めるように言い聞かせ、電話を切った。とにかくまずは、状況の確認からだ。あいつらがよく連んでいる近辺を管轄にしている署には、くわえ楊枝がトレードマークの同期が配属されている。

 すぐにその連絡先を呼び出せば、相変わらず伊達はすぐに電話に出てくれた。

 

『はい、伊達』

「柊木だ。悪いな、仕事中か?」

『ああ、何だよ緊急か?』

「相良幸人って奴、知らねえか。傷害絡みらしいんだが」

『何だ、知り合いか? ちょうど今、取り調べしてたところだ』

 

 何と伊達がいる班が担当だったらしい。運がいいんだか悪いんだか。いや、情報が手に入りやすいことを考えれば運がいいと思うべきだろう。

 

「相良幸人とは個人的な知り合いなんだ。答えられる範囲でいいから教えてほしい。幸人の状況は?」

『重要参考人で事情聴取だ。一応送検はまだだな』

「……聴取の様子は?」

『連行した当初は俺じゃねえの一点張りだったんだがな。……何分状況証拠が揃いすぎてる。で、それを相良も察したんだろう、今はもう何言ってもだんまりだ。何言っても信じてくれねえんだろと言わんばかりだな』

 

 ああ目に浮かぶ。本当そういうところガキなんだよ、いやガキなんだけど。

 伊達が説明してくれたところによると、事件の発生は昨日の深夜。見回り中の警察官が明らかにリンチ後で虫の息の男子高校生と、その傍にいた相良幸人を発見。被害者の男子高校生はここらでの有数の名門校の制服を着ていて、対して幸人は一応学校には行っていたのか、自前の学ランを着崩していたという。

 幸人には悪いが、確かに勘繰りたくなる状況ではある。

 

『相良曰く自分は殴られていた被害者を庇っただけで、犯人は被害者と同じ制服を着ていた男子学生。そいつは声をかけると同時に逃走。追いかけようかとも思ったが、被害者が今にも死にそうに見えたので慌てて救急車を呼ぼうとしていたところだったそうだ』

「……幸人ならそうだろうな。それで? それなのに重要参考人で聴取ってのはどういうことだ」

『目を覚ました被害者が証言した。自分をリンチしたのは相良だと』

「……何だと?」

 

 助けられたはずの被害者が、相良を犯人だと証言した、と。

 

『被害者は随分と怯えた様子で、あまりきちんと話を聞けてはいないんだが……被害者が証言した『犯人』は、どう考えても相良なんだよ。同じ制服を着た人間なんていなかったと証言している。……状況証拠に加えて被害者の証言まで揃っちまったら、被疑者がだんまり決め込もうが送検できちまう』

「……」

『……柊木?』

「伊達、お前やお前の先輩たちの所感は」

 

 意図せず堅い声が出る。伊達は少し考えて、言った。

 

『……正直すっきりしねえ。上層がやけに送検させたがるのも気になる』

「上層が? きなくさいな」

『被害者がボンボンの通う高校の生徒だから、早めにケリをつけたいだけかとも思ったんだけどな。下手すれば何か圧力がかかってるのかもしれねえ』

「ほー……伊達、これはもしもだけど」

 

 俺は警察庁の人間だ。直接捜査に参加はできないし、してはならない。しかし、俺は自分の人を見る目に自信を持っている。幸人は絶対に、そんなことをする奴じゃない。

 

「もしも俺が手掛かり持って来たら、裏付け捜査動いてくれるか?」

『……あてはあるのか』

「なくはない。ところで伊達、リンチって言ったよな。つまり殴る蹴るの素手の暴行か? 幸人が武器を持ってたとは思えないんだが」

『ああ。被害者の服にゲソ痕はなかったから『殴る』だけだな。素手での犯行だ』

 

 それならわかりやすい証拠をまずひとつ。あいつはそもそも喧嘩慣れしてない人間なのだから。

 

「相良幸人はな、素行こそ悪いが喧嘩とは無縁な不良なんだよ。あいつは右利きだ、拳見てみろ。絶対怪我どころかマメもタコもない綺麗な手してるぞ。慣れてない人間がリンチと言えるほど人殴れば、まず自分の手も無事じゃ済まない」

 

 伊達ははっと息をのんで、すぐ確認する、と答えた。証拠としては弱いが、本当に幸人が犯人なのか疑念を抱かせる材料くらいにはなるだろう。

 

「とりあえず今はそれだけだけど。これから幸人の知り合いのツテ使って目撃証言がないか洗ってみる。有力そうなのがあればすぐ連絡するから確認してほしい」

『……お前、それどういう繋がりなんだ?』

「深夜うろつく迷える青少年たちに帰れ帰れ学校行けと言い続けた結果、懐かれた。あいつら何か見てても素直に警察に情報提供するとは思えないし、俺の方から聞いてみるよ」

『……たまに俺お前がわかんなくなるわ……』

 

 乾いた笑いを漏らす伊達にうるさいと返す。俺もそんなつもりはなかった。

 

「あと、幸人に伝言頼みたいんだけど」

『何だ?』

 

 伝言の内容を告げると、お前らしいな、と電話口で伊達は笑った。

 

 

 *

 

 

「すいません、戻りました」

「長ぇ電話だったじゃねえか」

「ちょっとタレコミがありまして。少し替わってもらってもいいですか?」

 

 聴取室に戻り、面倒を見てくれている先輩刑事に被疑者前の椅子を譲ってもらう。相変わらず相良幸人は、だんまりを決め込んでいた。

 机の上に無造作に置かれた彼の右手には、確かに怪我ひとつない。

 

「……柊木旭、知ってるか?」

「……!」

 

 何を言っても無反応だった相良が、ばっと顔を上げる。

 

「柊木とは同期でな、よく一緒に酒飲んだりする仲なんだ。その柊木から今連絡があった。お前が傷害事件の被疑者だなんてあるわけがない、手がかり探してくるから裏付け捜査をしてほしい、とよ」

「……ひーらぎさんが」

「ああ。そんで、その柊木から伝言だ」

『疑いを晴らす努力を怠るんじゃねえ。釈放されたら説教だ』

『それから。日本警察、舐めんじゃねえぞ』

 

 相良が目を瞠った。ごくり、と息を呑んだのがわかる。

 

「あいつの説教は怖えぞ。覚悟しとくんだな」

 

 そう笑ってやると、大きく見開かれた目から涙が零れ落ちた。ずっと堪えていたのだろう、強がっていてもただの高校生だ。

 震えだした肩を自分の手で押さえながら、その少年は口を開く。

 

「けーじさ、……俺、……やって、ねえ……!」

「……ああ」

「やって、ねえよ……っ!」

 

 本当に、―――柊木の人を見る目は確かだと思う。

 

 

 *

 

 

 結果として、次の日には相良は釈放された。

 柊木からもたらされた目撃証言をもとに近隣の監視カメラの映像を洗い直し、事件発生直後に走り去る該当の制服を着た男子学生の姿と、すでにリンチが発生しているであろう時刻に近くの道を歩く相良幸人の姿が確認された。

 何より、被害者の生徒の証言が翻されたのが決め手だった。

 

「犯人が誰なのかは聞かねえ。だが、本当にそれは彼だったか、もう一度教えてほしい」

 

 事情を察していることをわかってくれたのか、彼もまた罪悪感から目を潤ませ、小さな声で「その人ではありません」と答えてくれた。やはり、「真犯人」への恐怖から事実とは違う証言をしていたらしい。怯え切った彼に感謝を伝え、無理にそれ以上の証言を聞き出すことはしなかった。

 ただ、彼のクラスメイトにはあまり性格が良くないらしい有名議員の御曹司がいることはわかっている。その議員が、警察上層部と仲が良いことも。俺にできたのは被害者のご両親にそれとなく彼の転校を勧めることだけだった。

 

「報告書まとめたので確認お願いします」

「おう」

 

 これまでの経緯を上に報告すべく、紙面にまとめる。プリントアウトして先輩刑事に渡すと、忌々しそうに鼻を鳴らされた。

 

「……どっか不備ありました?」

「違えよ。……胸糞悪い事件だってだけだ」

「……はい」

 

 おそらく、真犯人は捕まらない。捜査を打ち切るよう上から指示が出た。そして俺たちは、それに逆らうことができない。悔しいと、言うほかなかった。

 警察も一枚岩ではないし、潔癖なわけでもない。わかってはいたが、こうもその現実を叩きつけられると苦いものがある。

 

「報告書は問題ねえ。提出しとけ」

「はい」

「……そういや、伊達、その同期だとかいう柊木? はどこの部署の奴だ?」

「警察庁です。警備局警備課だとか」

「……はあ?」

 

 そんなエリートと知り合いなのかよ、と先輩刑事は血相を変えて叫ぶ。

 その反応を見てそういや柊木ってエリートなんだよな、と今更ながら思い出した。立場や権力を振りかざすヤツではないだけに、時折柊木の立場というものを忘れそうになる。そうか、あいつはエリートなのかと改めて頷いた。

 まったく、ルール破りが嫌いな柊木みたいな奴がさっさと出世して上にいってくれれば、現場を走る俺たちももっと動きやすくなるだろうに。

 そんなことをふと思ったのは事実だが、まさかこのあと本当に出世の階段を駆け上がるとは。さすが柊木だな、と俺は苦笑するほかなかった。

 

 




警察組織については突っ込まないでお願い。


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6

 

 幸人が釈放されてからしばらく。

 あのあと幸人には懇切丁寧な説教をプレゼントし、夜中に出歩かないことを約束させた。詳細? 足の痺れでしばらく幸人の足が使い物にならなくなったとだけ言っておく。しかし本人も何やら思うところがあったらしく、学校に行くから勉強を教えてほしいと自分から頼んできた。これにはさすがの俺も涙腺が決壊寸前。どんな心境の変化かは知らないが、喜ばしいことだ。

 事件の経緯は伊達から聞いた。自分の無力を噛みしめつつも、せめて幸人を冤罪から救ってやれて本当に良かったと思う。情けない話だが、今の俺にできる精一杯がこれだったと思うしかない。今はとにかく、もっと自由に動けるよう地道に努力して出世していかなくては。警察内部でのこんな不正、許していいはずがない。絶対に、許さない。

 そう思った矢先の、急な呼び出しだった。

 

「……私が、監察官、ですか?」

「ほとんど見習いの扱いにはなるがね。何せ経験が浅すぎる」

 

 呼び出された先にいたのは、警視庁警務部人事第一課主任監察官、その人は大河内と名乗った。長い名称だが、つまりは監察官の中でも偉い人。監察官とは警察官の不祥事を取り締まる、言うなれば警察の中の警察だ。同時に出世が約束された人が通るエリートコースのひとつとも言える。

 まだたいした結果を残したわけでもない俺が見込まれる理由もわからない。

 

「……恥ずかしながら、光栄に思う以上に戸惑うところです。不躾は承知ですが、理由をお伺いできますでしょうか」

「つい先日の、高校生傷害事件」

「!」

「君も関与していたと聞いたが?」

 

 口止めはしていないのだ、情報が流れてもおかしくはない。ひとつ呼吸を置いた後、言葉を選びながら説明した。

 

「……当初疑われていた高校生と、個人的な付き合いがありまして。彼がそういったことをするようには思えなかったこともあり、彼の友人たちから話を聞きました。その中に有力と言える証言があったので、捜査にあたっていた刑事に報告したまでです。関与と言えば関与でしょうが、違法な捜査と言えるほどではなかったと記憶しております」

「ああ、非常にうまく立ち回ったと言えるだろう。確かに一般人の協力レベルと言って差し支えなく、その結果無実の者を救った」

 

 未だ真犯人の逮捕には至っていないそうだがな。

 その人によって付け加えられた言葉に、奥歯をかみしめる。

 

「……優秀な方々が捜査に当たっていると伺っております。きっとすぐに逮捕されることでしょう」

「いいや、捕まらない。そして君もそれをよく理解している」

「仰っていることがよくわかりません」

「賢いな」

 

 ぶつけ合うような言葉の応酬と、静まりかえるような沈黙。

 改めて、大河内監察官は口を開く。

 

「私は君を高く評価している。真面目で熱心な勤務態度もさることながら、能力の高さをひけらかすことなく内部へ侵入する人心掌握術、状況を瞬時に理解し目的に至る段取りをたてる理解力と構想力。何より、潔癖なまでの警察官としての誇りと、感情に流されることなく法を順守するその堅い意志」

 

 そこまで言って彼はその唇の端をほんの少し上げた。少し声色を明るくして言葉を続ける。

 

「……そうだな、この近辺の不良たちをまとめ上げ、更生へと導くだけでなく協力者にまで仕立て上げたその手腕も評価に入れるとしよう。故に私は君を監察官に相応しいと考える。これでは理由にならないかね?」

 

 思ったよりも俺のことは調べられているらしい。落ち着け、冷静になれ、と自分に言い聞かせる。おそらく今俺は試されている。本当に今後目をかけるべき人材であるか否か、テストされている。

 だからこそ、迂闊に餌に飛びつくべきではない。

 

「……なりませんね。少なくとも、『今』である理由が欠けています」

 

 俺もさすがにぺーぺーと言えるほど新人ではなくなったが、それでもまだ若手の範囲だ。監察官は人を見定める仕事、下手をすれば上層にだって喧嘩を売れる。そんな仕事をまだ若手にさせる理由がわからない。見込んでくれたにしても、他でもっと経験を積んでからでもいいはずだ。

 俺の言いたいことが伝わったのか、大河内監察官はまたほんの少し頬を緩めた。

 

「では、もうひとつ。優秀な人材には、早めに権力を手にしてもらいたい」

「と、言いますと?」

「君は入庁以来、その役職に相応しくない人間をどれだけ見た?」

 

 思わず、硬直した。一瞬で取り戻したが、悟られただろう。動揺を表に出すなどあってはならない。失敗した。

 役職に相応しくない人間? そんなもの、山ほど見たに決まっている。

 

「警察組織に絶望して辞表でも出されれば貴重な人材の流出だ。そうなるよりはその貴重な人材に権力を持たせ、その力を発揮させる場を用意したい。先日の事件で、君は見たくもないものを見ただろう。それゆえに『今』、打診をしている」

「……なるほど」

「受ける気はあるかね? 監察官は嫌われ者だ、恨まれもする」

 

 ―――上等だ。俺のやりたい仕事は、そこにある。俺が真っ当に仕事をしている限り、支えてくれる友人もすでに得た。

 

「若輩ではございますが、謹んでお受けいたします」

 

 敬礼とともにそう答えると、大河内監察官は満足げに頷いた。

 

 

 ***

 

 

「よう、出世頭!」

「ぐ、……この馬鹿力、勘弁しろよ!」

 

 すっぱーんと伊達に背中をひっぱたかれた。絶対赤くなってるぞゴリラめ。

 あれから数か月して、正式に辞令がおりた。警視庁へと出向し、大河内さんの直属の部下として監察官業務にあたることになる。それをどこかから聞きつけたこいつらは、祝いだと言って山のような酒を抱えて俺の家に乗り込んできた。そんなことを言って、実のところただ酒を飲みたいだけだろうと。

 

「出世するだろうとは思ってたが、こんなに早いとはな」

「監察官とか出世コースだろ? さすが旭ちゃーん」

「はは……俺が一番驚いてるよ」

 

 苦笑とともにそう漏らすと、よく言う~と萩原につつかれた。

 

「柊木は人を見る目あるし、向いてるんでない? 能力的には警備案とかそういうの考えるのも向いてるんだろうけど、性格的には監察官のが合ってるかもね」

「そうか?」

「お前、見た目以上に潔癖だし頑固だし冷徹だし、能力ねえのに権力振りかざす奴許さねえからな」

「褒められた気がしない」

 

 そう言うと皆笑いながらビールを呷った。冷蔵庫からつまみにと見繕ったきゅうりの浅漬けを口に放り込みながら、呆れた目で三人を見る。

 

「……まあ、監察官やる以上は建前よりも原則通すけど。お前らも頼むぞ、さすがに同期つるし上げるような真似はしたくないよ」

「ばっかお前、俺らを何だと思ってんだ」

「ああ、心配はしてないけど」

 

 なんだかんだ真面目な奴らだ。かつて防護服を着ないという馬鹿をやった萩原も、今では油断なく職務を遂行していると聞いている。こいつらのことを査問にかけるようなことにはならないだろう。

 もごもごときゅうりを噛みながら、自分の「やるべき仕事」を思い浮かべる。

 

「松田」

「何だ?」

「多分そう遠くないうちにお前に聴取を頼む。よろしくな」

「……どういう意味だ?」

 

 お前の仕事について話を聞きたいわけじゃないと付け加えると、当たり前だと憮然とされた。松田が実は本当に真面目な奴だってことくらい俺もよく知っている。

 狙うのは松田じゃない。その上だ。

 

「お前の上司、反省してないみたいだな」

 

 ぐ、と松田は息をのみ、萩原は硬直する。唯一伊達だけが、変わらない様子でビールを飲み、言った。

 

「やる気か?」

 

 短く何気ない一言だったが、静かになった部屋にはやけに響いた。やる気か、だと? 決まっている。

 

「監察官の話の打診を受けたとき、まず頭に浮かんだのがそれだったんだよ」

 

 上層からの信頼がある? しかも刑事部長を始めお偉いさんに同期がいる? そんなこと俺には関係ない、むしろ上等だ。別に処罰を与えたいわけではないが、自分が何をしているのかは認識させなければならない。

 

「殉死者を出す前に何とかしなきゃならない」

 

 たとえ誰に止められようと、必ず。監察官ならそれができる。そう言うと萩原はちょっと複雑な顔をし、松田はただわかった、とだけ返した。

 

「あ、ちなみに」

「ん?」

「俺仕事場では謙虚で物腰柔らかでいつも笑顔だけど、お前ら笑うなよ」

「笑うだろそんなん」

「笑うわ」

「やめろ想像しただけで無理」

 

 お前猫かぶってたのかよと指をさして笑われたが、警察庁のエリートというのはそんなものなのだ。猫かぶるのが当たり前の職場にいたのだから、そのあたりは笑わず見ないふりをしてほしい。俺もちょっと恥ずかしい。

 

 

 ***

 

 

 監察官という職務を任せられてしばらくは挨拶回りに必死だった。人の顔と名前を覚えるのはさほど苦手ではないが、派閥や微妙な力関係など、気を遣うことがとても多い。綱渡りのような人間関係に慣れるにはしばらくかかりそうだ、と内心で溜息をつく。

 

「疲れたかね」

「いえ」

 

 晴れて上司になった大河内さんは、多分基本的にいい人だ。仕事となると冷徹だが、それ以外のところでは部下にも気を遣ってくれるし、指導も論理的で丁寧だ。俺が問題なく職務にあたれるよう、自ら手本を示してくれようとしているのがよくわかる。この人が上司なのは運が良かった。

 

「これで上層の紹介はほぼ済んだだろう。顔と名前と階級は覚えたかね」

「はい、問題ありません」

「記憶力はいいようだな」

「失礼があってはいけませんから。必死ですよ」

 

 にこりと笑ってみせると、俺の内心を察したように少しだけ唇の端をゆるめた。ではもうひとつ、と新たに歩き出す。

 

「上層ではないが覚えておいた方がいい部署がある」

「部署、ですか? 人でなく」

「ああ。違法捜査の常連だ」

「それは……」

「よく覚えておきなさい。……そして、上手く使うように」

 

 どういう意味だそれ、と放心する俺に構わず大河内さんは廊下を進んでいく。案内されたのは組織犯罪対策部のさらに奥にある小部屋だった。

 

「失礼」

「おや、お珍しい」

「あれ、大河内さん。どうしたんですか? そちらは?」

 

 そこにいたのは、品よく歳を重ねてきた温厚そうな紳士と、エリート然とした頭のよさそうなハンサムな男性。ふと、過去の記憶が蘇る。胸の奥がトクリと音を立てた。

 大河内さんは彼らに構うことなく、俺の方を見て話し出す。

 

「警視庁特命係。人材の墓場と呼ばれる窓際部署だ。そちらが室長の杉下右京警部、そして部下の神戸尊警部補だ。捜査権もないのに捜査に乗り込んでくる、違法捜査の常連だ。よくよくマークしておくように」

「……わざわざご本人方の目の前で言わなくても良いのでは?」

「酷い当てつけだ」

 

 くすくすと神戸警部補は笑みを零し、杉下警部も気にした様子はない。言われ慣れているということなのだろうか。

 

「大河内さん、もしかして彼が噂の?」

「噂の、かは存じ上げませんが、つい数日前より大河内監察官の部下となりました、柊木と申します」

「そうでしたか。特命係の杉下です」

「神戸です。大河内さんから部下自慢は聞いてるよ」

「それは光栄です」

 

 ですが、と一言挟んで笑ってみせる。

 

「同じだけ悪口も言われている気がするのですが、いかがです?」

「それはノーコメント」

「ああ、やはり」

 

 悪戯っぽく笑ってくれた神戸さんにさらに笑い返す。この人はどうやら本当に大河内さんと親しいようだ。ノリも良い、楽しい人なのかもしれない。

 す、と一瞬考え込んだそぶりを見せた杉下さんが、改めて俺をまっすぐ見た。

 

「……恐れ入りますが、もしやフルネームは柊木旭さんでしょうか」

 

 やはり、と口元に笑みがこぼれる。俺が見間違えるわけがないと思っていたけど、やっぱりこの人は、―――あのときの。

 

「もう二十年も前の事件をよく覚えていらっしゃいましたね。改めて、お久しぶりです杉下さん。申し訳ありません、まさか覚えて頂いているとは思わず」

「やはり! 大きくなりましたね」

「お陰様で。……あの時は本当に、お世話になりました」

 

 杉下さんは感慨深そうに、いいえと一言返してくれた。不思議そうな顔をした大河内さんが問いかける。

 

「知り合いなのか? ……事件とは」

「私が小学生になる前のことですが、誘拐されたことがありまして」

 

 なるべく何でもないように言ったつもりだったが、それでも大河内さんと神戸さんは息をのんだ。

 

「その時に私を助けてくださったのが杉下さんでした。よく覚えています」

「あの頃から貴方はとても頭のいい子でしたねぇ。自分の状況を外に伝えるためにあんな方法を使うだなんて、小学校に入る前の子供は普通考えつきませんよ」

「そんな。あんな子供の悪戯じみたもの、正直本当に通じるとは思っていませんでしたよ。杉下さんが読み取って救出に来てくださって、むしろ驚きました」

「恐れ入ります。……そう、ですか、警察に。……なるほど、きっと貴方は、……監察官という職務、向いているでしょうねえ」

 

 少し嬉しそうに、少し悲しそうに微笑んでくれた杉下さん。

 そこに込められた思いなど―――少しも察していないという風に、俺も笑ってみせた。平気な顔で、その一言を返す。

 

「恐れ入ります」

 

 

 *

 

「……まさか杉下警部と知り合いだったとは」

「私も驚きました。警察官になったときから、いつかどこかでお会いできればとは思っていましたが」

「しかし、……君のことは一通り調べたが、誘拐事件の被害者という情報は出てこなかったが?」

 

 当然の疑問に、一瞬どう答えたものかと思ったが、まあいいだろうと頷いた。

 俺には何も後ろ暗いことはないし、大河内さんもそれを言いふらすことはないだろう。何せこうして俺を引き抜いた張本人だ、そんなことをしてもデメリットこそあれどメリットはない。

 にこりと笑って、俺は嘘偽りなく真実を口にした。

 

「上層からの圧力で、立件されていませんからね」

「……何?」

 

 ぴたりと動きを止める。驚愕するその顔に笑顔を向けたまま、続けた。

 

「私を誘拐したのは、ある警察官僚の娘さんでした」

 

 俺の女性苦手のスタートであり、一番大きな原因となった人。

 俺は杉下さんによって救出され、彼女も犯人として確保された。ほとんど現行犯で、状況証拠も物的証拠も、何なら俺という被害者の証言まで揃っていた。

 しかし、握りつぶされた。書類上、俺はただの家出少年として処理されたのだ。

 

「ちなみに当の警察官僚の方はすでにご勇退されておられます」

「……柊木君」

「警察に恨みはありませんよ。仕事に私情を持ち込むつもりもありません」

「……君ならそうだろう。しかし、……それでよく、警察を志したな」

 

 込み上げてきた黒い感情にまたしっかりと蓋をして、奥底へとしまい込む。

 そう、俺は警察官になった。そうなろうとずっと決めていた。俺はこの組織で生き抜いていくために、今まで努力を重ねてきた。

 俺はこれから、この組織でのし上がっていく。

 

「……そうですね。私も、そう思います」

 

 この内心は、悟られるにはまだ早い。

 

 




ようやくクロスオーバー。


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7

 

 カチコチと秒針が時を刻む。

 静まりかえった部屋には、ページをめくる音と紙の上をペンが走る音が流れていた。秒針の音に急き立てられるようにペンの音はどんどん早まっていくが、さて、間に合うか。

 ペンの音を聞きながら、俺は手元の小説のページをめくった。ちょうどきりのいいところまで読み終わったその時、部屋の中にアラームが響く。

 

「よし、そこまで」

「っあー! あと一問!」

「俺はギリセーフ! 間に合った!」

 

 それぞれの前から答案用紙を抜き取ってざっと目を通す。

 幸人に勉強を教えてほしいと頼まれてから、ちょくちょく俺の家で面倒を見てやっていた。最初は幸人だけだったが、最近は他の奴もくっついてきたりする。良い傾向なのでからかうことなく面倒を見てやることにしていた。中高レベルの勉強くらい苦ではないし、俺としてもいい気晴らしになっている。

 

「……うん、だいぶ解けるようになったな。採点するからちょっと待ってろ」

「へーい」

 

 きゅぽんと赤ペンのキャップを抜いて、ひとつひとつの問題を辿っていく。

 高校生のくせに少し前までは中学レベルの問題も解けなかった奴らにしては上出来の結果のように見えた。解答のスピードは問題をこなせば自然と上がっていくものだし、もう少し問題のレベルを上げてもいいかもしれない。

 

「ひーらぎさん、そっちの部屋って何?」

「ん? 寝室」

「よっしゃ」

 

 俺が採点に気を取られている間に、そいつは景気よくドアを開けた。別に良いけどまず家主の許可をとってほしい。

 

「……この際勝手に開けるのはどうでもいいが、よっしゃってなんだ」

「え、こういうときってまずエロ本探さねえ?」

「クソガキ。ないよ」

「嘘は良くないよひーらぎさん」

 

 男なら持ってるだろ普通と面白そうに言われ、そういえば女苦手の話をしていなかったことを思い出す。まあやましいものは特にないので気にすることなく採点を続けることにした。

 その様子に俺よりも幸人の方が気になったらしく、そいつの後を追って首元をひっつかむ。

 

「お前な……その辺にしとけよ」

「何だよ幸人ー、だって気になるじゃん、ひーらぎさんの趣味」

「いやむしろ知りたくない。……ん? ひーらぎさん」

「うん?」

 

 答案用紙に赤をいれる手を止めて、顔を幸人の方へ向けた。

 

「これってひーらぎさん?」

 

 幸人の手にあったのは同期との記念写真だった。六人分の笑顔がこちらに向けられる。

 

「ああ、警察学校卒業した時の写真だな」

「……全然顔変わってねえじゃん」

「数年で早々老けねえだろ。一応俺まだ二十代だからな?」

「あ、もしかしてこの人、伊達さんだ?」

「ああ。一緒に写ってる奴らも同期だ」

 

 へーとじっと写真を見つめるふたり。

 そんなに珍しいものも特に写ってないと思うのだが、と思って顔を上げると、ふたりはやけに真剣な顔をしていた。

 

「……警察官ってイケメンしかなれねえの?」

 

 しみじみとそんなこと言う馬鹿に思わず噴き出す。やばい赤ペンが滑った。答案用紙に歪んだ赤線が浮かぶ。

 

「皆タイプ違うけどイケメンだよな腹立つ」

「特にひーらぎさんとこの金髪の人並んでるとやべえな」

「他の人も普通にモテるだろ。伊達さんは男にモテそうだけど」

 

 よし、今のは伊達に伝えておこう。

 伊達が無理やり連絡先を渡したらしく、幸人とは交流があるらしい。せいぜい次会ったときに締められるといい。

 

「ほら、採点終わったぞ。いい加減戻ってこい」

「へーい」

 

 写真立てを置いて戻ってきたふたりに答案を返し、そのまま解けなかった問題への解説へとうつった。難しい顔をして解説を聞くそいつらの顔を見ていると、口元が緩む。

 根が素直なだけに、こいつらは考えていることがすぐに顔に出る。普段腹の中の読み合いばかりしているこちらとしては、この素直さは眩しくて好ましい。

 先日、松田の上司の査問会を開いた。俺が主導で査問を起こすのはこれが初めてで、出席する上層にとっては俺の手腕を見極める場だったともいえる。

 長年機動隊で職務を果たしてきた経歴から慢心し、部下に対して防護服の着衣、速やかな作業の執行の指導を怠るなど、任務遂行の妨害ならびに部下の生命を危機にさらす行為を行っているとして俺は処罰を求めた。実際に記録を洗い、松田をはじめ部下や関係者からも聴取をとった。死者こそ出ていないが彼の隊の負傷者は少なくなく、松田以外の隊員はどうも職務に対して意識が低い。上司の悪い点をしっかり受け継いでしまっているのは明白だ。

 その上司自身は確かに能力が高いため、ともすれば多少の危機は乗り越えられるのかもしれない。しかし、まだそこまでの実力がない部下が同じように慢心して職務に当たっていれば、いつ何があってもおかしくはない。機動隊の一員として以上に、機動隊で指導にあたる立場の人間として相応しい態度ではない。これが俺の主張だ。

 そしてそれは案の定、「功を焦った若手」の「青臭い正義感」として解釈された。もちろん上層の全員が全員そうであったわけではないが、特にその上司と個人的に親しいと言われる何人かは俺の主張を鼻で笑った。確かに彼の指導には不備があったのかもしれないが、それは処罰に値するほどのものではない、と。

 結果、その査問は表向き「厳重注意」、実際には「その場での口頭注意」程度で終わり、俺としては惨敗だったと言えるだろう。

 その結果については予想の範囲内だったが、そのあと当の本人に呼び止められ、いきなり礼と謝罪を述べられたのにはさすがに面食らった。

 

『部下を、殺していてもおかしくなかった』

 

 査問会で俺の口上を聞いていた当初から顔色を悪くしていたその人は、そのときも思いつめた顔をしていた。

 実際、この人は別に悪い人ではないのだ。少々楽観的な構えがあったところが悪く作用していただけであって、広く慕われている人柄だと聞いている。その職務態度に対して苦言を呈した人たちからも、それだけはわかってほしいと再三言われていた。

 

『今回の処分は覆らないだろうが、俺は職を辞そうと思う。少なくとも俺は、機動隊で職務にあたり指導をする者として、相応しくない』

 

 自分が部下を殺す前にそれを指摘してくれたことをありがたく思う、と頭を下げられた。なかなかに、潔い。思うところがありつつも、萩原が慕っていた理由もわかるな、と苦笑を零して、どこかで小耳にはさんだ話を思い出す。

 

『……貴方ほどの方が職を辞されるというのは、さすがにもったいないでしょう』

『しかし、』

『機動隊に身を置くことが気に病まれるのであれば、どうでしょう、せめて今思い出されたものを後進に伝える職務に当たるというのは』

『……というと?』

 

 確か警察学校の教官に、もうすぐひとつ枠ができるとどこかで聞いた。機動隊で培ってきた能力、そして慢心や油断が自分や仲間の命を奪うかもしれないという実感を伴った危機感。それらはどちらも、現場を走ってきた人にしか伝えられないものだ。ベテランと言ってもまだまだ働き盛りのこの人には、少々物足りない職務かもしれないけれど。

 

『やりがいはある仕事かと思いますよ。これからを支えていく警察官の卵たちに、貴方が今再認識されたものを伝えていくのは非常に重要なことだと思います』

『……ああ、それもいいかもしれないな……』

 

 考えてみるよ、とその人は笑って言った。

 もともと絶対に何かしらの処罰を与えるべきと思っていたわけではなかった。この人が自分の姿勢を省み、改めてくれるのであれば処分など必要はない。そういう意味で、査問会を開くだけの価値はあった。そのあと松田から「上司に頭下げられたんだが」と連絡も入り、俺としては上々の結果だったと思っている。

 俺が落ち込んでいるとでも思ったのか、大河内さんからは不器用な慰めの言葉も頂戴したが、想定内ですのでご心配なくと返したら微妙な顔をされた。

 

『査問会の流れも把握できましたし、ご本人にはきちんと伝わったようなので』

『……上層からの評価は悪くしたかもしれないぞ』

『過分な評価を頂く方が心苦しいですし、私の実力がまだまだだというのは私が一番よくわかっていますよ。今後取り戻せるように励むまでです』

 

 大河内さんにまでご迷惑をおかけしているようであれば申し訳ありませんと頭を下げれば、大河内さんの口から零れたのは大きな溜息。

 

『……まあ、堪えていないのであればいいが』

『お気遣いありがとうございます』

 

 そうにこりと笑って見せた。実際全く落ち込んではいない。

 査問会を開いた甲斐は十分にあった。査問の流れの把握や、ご本人に自身を省みて頂くことができたのはもちろん、「青臭い若手」の主張に対して上層に含まれる役職者がどういった反応を示すかも見ることができた。自分より格下の者の失態への態度というのは人となりが出やすい。励ますか、庇うか、馬鹿にするか、そもそも関心をもたないか。今後俺が上層を利用する必要があったとき、それぞれの人格を把握しておくことは非常に重要になる。

 また、功を焦る馬鹿だと思ってもらった方が俺としても動きやすい。能力をひけらかしすぎれば無駄に警戒される。引き抜かれて注目されている今だからこそ、()()()()()のは得策ではない。馬鹿にされている方が動きやすいというものだ。

 つまり現状として、悲観すべき点は何もない。これからひとつずつ積み重ね、警察内部に入り込んでいくだけのこと。

 薄暗い思考の底に沈んでいた俺は、幸人の声で現実に引き戻された。

 

「ひーらぎさんてば!」

「! ああ、悪い、ぼーっとしてた。どうした?」

「これわかんないんだけど……何、疲れてんの?」

「いや? 本当にぼけっとしてただけだよ。どこ?」

 

 幸人が指さした設問を解説しながら、綺麗とは言えない自分の思惑をまた奥底にしまい込む。

 素直でまっすぐに俺なんかを信頼してくれる愛すべき馬鹿たちと接している時くらいは、仕事のことは思い出さずにおこう。

 策略と打算にあふれた俺の頭の中ほど、彼らにとって悪影響なものはない。

 

 

 ***

 

 

 いつも通りの仕事を終えた後、珍しく大河内さんに声をかけられた。

 

「柊木君、この後時間はあるかね?」

「はい、特に予定はありませんが」

「神戸と飲む予定だが、君も来るか」

「神戸さんと」

 

 大河内さんにも神戸さんにも、もちろん酒の場にも苦手意識はないので飲むこと自体は全く構わない。が、そういえば重要な話を大河内さんにしていなかった。今後も考えれば、伝えておいた方がいいだろうか。この人はそういうのを茶化したり言いふらしたりするタイプではないし、俺としても秘密にしているわけではない。

 

「……大河内さん」

「何だ。無理にとは言わないが」

「いえ、あのですね、……恥を忍んでお話が」

 

 

 *

 

 

「……女性不信か?」

「それに類するものと言えるかと。ですからその、店員にしろ客にしろ、女性が多い場所はちょっと。仕事中は頭が切り替わるので問題はないのですが、プライベートになると、……まだ克服には至らず」

「……そういえば過去の誘拐事件の犯人は、女性だったな」

 

 明らかに気を遣ってくれているその態度に、申し訳なくなって苦笑を返す。

 

「まあ、それだけではないんですが、理由のひとつでしょうか」

「わかった、心得ておこう。今日の店はそう人の多い場所ではない」

「では、是非。お付き合いさせてください」

 

 杉下さんの部下であるという神戸さんとも、是非お話をしてみたかった。普段ではなかなか聞けない話も伺えるかもしれないし、楽しい飲み会になりそうだ。

 

 

 *

 

 

「お邪魔します、神戸さん」

「やあ、君も来たんだ」

 

 神戸さんは快く俺の同席も許してくれて、むしろ楽しそうにメニューを見せてくれた。

 連れてこられたのは普段の俺ならなかなか入らない高そうな店。外で飲むと言えば気軽な居酒屋しか経験がないだけに少々身構えてしまう。

 神戸さんに見せられたメニューには洋酒やワインの名前が気取ったレタリングで並んでいる。

 

「お酒は飲める方?」

「ほどほど、でしょうか。普段はビールばかりで、恥ずかしながら洋酒は全く詳しくないんですけど」

 

 それなら、というと神戸さんはいくつかカクテルを見繕ってくれた。

 その様子を見て思う。この人、慣れてる。洋酒にも、洋酒が慣れてない人間に酒を勧めることにも。まあこれだけハンサムでスマートな対応できる人ならそりゃモテるか、とこっそり邪推した。

 大河内さんは大河内さんで、メニューも見ずにさらりとワインをオーダー。この人も酒には詳しいらしい。

 

「お待たせいたしました」

 

 そうして注文した酒が運ばれてきたのを見たとき、思わず息を呑んだ。

 酒を持ってきてくれた店員は運悪く女性で、震えそうになる手をこらえながら酒を受け取る。大河内さんは一瞬心配そうな目線を寄越し、神戸さんはそんな俺と大河内さんの様子を見てすっと目を細めた。

 

「……君、もしかして女性苦手とか?」

「、神戸」

「ああ、大丈夫です大河内さん」

 

 大声で話したいわけでもないが、必要以上に隠すつもりもない。むしろ信用できる人であれば知っていてもらった方がありがたい。

 そう考えて、苦笑しつつ簡単に事情をかいつまむ。

 

「誘拐事件の犯人も女性……うわ、ごめん、同情する」

「ははは……」

 

 気を遣いすぎてはむしろ俺も困ると思ったのか、軽い調子で神戸さんは言ってくれた。大河内さんは難しい顔をしているが、俺としてもそれくらいのノリの方が話しやすい。

 

「友人曰く、私はどうも『女運が死ぬほど悪い』そうで。ストーカーは数知れず、目の前でキャットファイト繰り広げられるのは日常茶飯事、私が一声挨拶を返しただけの女の子がいじめられるなんてこともあったんですよ。誘拐のことだけなら乗り越えられたと思うんですが、そこまでくるとさすがに」

「うん、無理もないね」

「ああ、仕方がない」

 

 もう笑うしかできないという感じの神戸さんと、本気で同情してくれた様子で頭を抱える大河内さん。まったく、いい人たちだと思う。

 

「もちろん、世の女性全てがそうではないことも頭では理解はしています。克服もしたいと思ってはいるのですが」

「感情面が追い付かないと。そりゃそうだ」

「……無理をすることはないんじゃないか」

 

 無理せずゆっくり克服しようと思ってもう二十年経つんですよ、と遠い目をしながら言うと、そっとふたりは俺から目線を外した。

 

「でも君、これから付き合いもいろいろあるだろうし、お見合いだってあり得るよ?」

「見合いだけなら耐え抜きますが……結婚は現状無理ですね。吐きます」

「……言葉通り?」

「吐きます。あるいは号泣、失神します」

 

 真顔でそう言うと、大河内さんは眼鏡を外して目元をマッサージしながら絞り出すように言った。

 

「……私の部下であるうちはそういった話は断るようにしておこう」

「本当に私は大河内さんの部下でいられて幸せです」

 

 にこっとそう笑ってみせると、神戸さんはまた乾いた笑いを漏らし、大河内さんは一息にワインを呷った。

 

 

 *

 

 

「へえ、神戸さんも元は警察庁に」

「ま、今はしがない特命係だけどね」

「それなりに楽しんでいるようにみえるが?」

「そう見えます? ……まあ、退屈はしませんかね」

 

 ふ、と笑う神戸さんが少し羨ましい。閑職だと言われてはいるが、杉下さんと一緒ならちょっと配属されてみたい気がしなくもない。まあ周囲には全力で止められるだろうが。

 

「大河内さんも警察庁からの出向組ですよね」

「そうだな」

「……。……ではおふたりに、雑談として聞いていただきたいことがあるんですが」

 

 今まで話していた様子を見ても、このふたりは信用できるし、おそらく口も堅い。俺よりずっと長くこの警察組織で生きてきた人たちだ。できることなら俺の疑念を考えすぎだと笑い飛ばしてほしい。そう思って口を開いた。

 

「私の同期に、警察学校を卒業して以来ほとんど連絡が取れなくなった者がふたりいるんです」

「何、辞めたってこと?」

「いえ、そう言った話も、全く。正義感も強く、ずっと警察官になることが夢だったと言っていたようなふたりです、私としては辞めたとは思えません。病気や怪我にも縁のないような、頑丈な奴らでした。仮に辞めたとしても、まったく連絡が取れないのが気にかかります。それなりに親しかったつもりでいますし、そんな不義理なふたりではなかった」

「……そのふたりは、優秀だったかね」

「非常に。片方はオールマイティに、片方は射撃に特化していました」

 

 神戸さんは特に表情を浮かべないままグラスに口を付け、何でもないように言った。

 

「じゃあ、そういう部署でそういうことをしてるんじゃない? あまり首を突っ込まない方がいいと思うよ、君のためにも、彼らのためにもね」

「そうだな。ない話ではない」

 

 大河内さんもワインに口を付け、チーズをつまんだ。「そういう部署」「そういうこと」、それは察している。ただ俺が気になっているのは。

 

「その可能性も考えました。ただそう考えたとき、……嫌な考えが浮かんでしまって」

「嫌な考えって?」

「彼らは確かに優秀でした。ですが、その『そういう部署』は、かなりの秘密主義で、配属される人間も相当に厳しく選抜されるはずでしょう。いくら警察学校で優秀だったといっても、所詮は学校での成績です。実際に警察官として職務にあたったことがない人間を、おいそれと引き抜くものなのでしょうか」

 

 大河内さんと神戸さんがぴたりと動きを止めた。俺は構わず続ける。

 

「実務経験のない人間を引き抜き、……もし潜入任務にあたらせているんだとしたら、その理由は何なのか。警察学校を卒業したばかりの彼らを、潜入任務に就かせるメリットとは? ……私の頭で考えつくのは、彼らの顔と立場がまだ知られていないという点しかありませんでした」

 

 どこにも顔が知られていない。そう、相手組織にも、―――警察内部にも。

 もしそうであるとしたら、それだけ危険な組織が、警察の内情を知る手段を持ち得ているということを意味する。警察内部に情報を流している者がいるのか、すでに()()の人間が入り込んでいるのか。

 警察の中に鼠がいる。それこそ、俺がもっとも懸念していることであった。

 

「……考えすぎですかね、やっぱり」

 

 そう言って手元のカクテルに口をつける。

 さすがは神戸さんチョイス、慣れていない俺でも飲みやすい。

 

「……考えすぎだろう」

「……うん、考えすぎじゃない?」

 

 そう繰り返してもふたりの表情は硬い。笑い飛ばしてくれることを期待してこんな話をしたというのに、どうもそう上手くはいってくれないらしい。

 そうですかと小さく言うと、ワイングラスを揺らしながら大河内さんが低い声を落とした。

 

「……思うところがあっても、不用意に探るような真似はしないように」

「もちろん、心得ています」

 

 ぼそりとつぶやかれた大河内さんの忠告に、苦笑しながら頷いた。もちろん、不用意に探るようなことはしない。

 もし探るならば、入念に準備をしてから、慎重に。絶対に、へまなどしてやるものか。

 

 



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8

 返事をしていないメッセージが降り積もっていく。意外とマメなやつらなんだよなと呆れる反面、どうしたってそれは嬉しかった。いつ切れてもおかしくない繋がりを、一生懸命に繋ごうとしてくれるのが有り難くて。

 正直を言えば、連絡のすべてを禁じられているわけではなかった。公安に配属され、随分と早くから潜入任務に就いているとはいえ、最大限の注意を払うならば個人的なやりとりの少しくらいは問題はない。ましてなんだかんだで優秀なあの同期たちなら、僕やヒロが不利になるようなことは絶対にしない。それはよくよくわかっている。

 それでも連絡を躊躇ってしまうのは―――何故だろう。決して会いたくないわけでも話したくないわけでもないのに。

 連絡を返せなくて申し訳ないと思う。それでも連絡をくれるのが有り難いと思う。だからこそ、だろうか。だからこそ、―――せめてもう少し、明確な成果を得たと自分で思えるときまでは、という気持ちがあるかもしれない。彼らに、お前らとの連絡を絶っていただけの成果はあったぞ、と。

 明確な成果―――組織の幹部たちを蹴落とすか信頼を勝ち取るかして、より組織の中核に入り込むくらいの。酒の名前(コードネーム)をつけられる程度ではまだ弱い。何かと言えば銃を持ち出す気難しい酒(ジン)にも口を出させないくらい、もっと核心に近いところへ。

 ネクタイを緩め、警視庁の休憩所の壁によりかかる。細く長く息を吐き、紙コップに入った珈琲に口を付けた。あまりに安っぽい味の珈琲は、かえって気を抜くのにはちょうどよかった。

 こういう気分のときは、よく彼らからのメッセージを見返している。近況報告や、「一回くらい返事しろ」という文句やら、日々の愚痴やら、どうでもいいことまで。それらをひとつひとつたどっていくこの時間は、僕が「降谷零」であることを忘れないために必要な行為だった。

 ふと、画面上部に新たなメッセージの通知が浮かんだ。やはりというか、同期の中でも一番の筆まめからだ。彼からのメッセージはいつも、僕に向けられたものというより日々の雑記に近い。彼の半生から察するに、おそらく「親しい友人にメッセージを送る」という行為そのものに慣れていないのだろうと思う。たまに夕飯の買い物メモを送ってくるのには笑ってしまった。

 しかし、どうやら今回のメッセージはそんな平和的な内容ではないようだった。

 

「、ゼロっ柊木のメッセージ見た?」

 

 革靴が床を叩く音が近づくと同時に、幼馴染みの少し焦った声が飛ぶ。今日はヒロも所用を片付けに警視庁に登庁していた。

 珈琲を飲み干し、カップをゴミ箱に放り捨てて視線をヒロに向ける。

 

「相変わらず柊木のメッセージは落差が激しいな。日常のことも重要なことも同じテンションで送ってくるところがらしいというか」

「それは本当にそう」

 

 柊木からのメッセージは、とうとう上層が根負けしやがった、と恨みたっぷりの一文から始まっていた。

 萩原や松田の因縁の一件については知っている。同期たちからも次々とメッセージが送られてきたし、警察側の発表も耳に入ってきた。

 マンションに仕掛けられた爆弾、交通事故で亡くなった犯人、解体途中で突如爆発した爆弾に、巻き込まれた萩原、何よりも未だ捕まっていないもうひとりの犯人。

 大怪我を負った萩原が無事復帰したと聞いたときには胸をなで下ろしたものだが、萩原よりもむしろ松田のほうが危ういということも聞いている。絶対に犯人を捕まえてやると、幾度となく捜査一課への転属届を出しては蹴られ続けていると言うことも。

 しかし耐えかねたのか、上層もとうとう折れてしまったらしい。まあ爆破事件を担当する特殊班係でなく強行班係だったのは、折れてはやるけど少しは頭を冷やせという上層の配慮だろうか。とはいえ、因縁の日である十一月七日に送られてくるカウントダウンFAXがちょうど来るタイミングでの辞令とは。

 だったらせめて伊達の捜査一課への異動も同じタイミングにしてほしかったと、柊木にしては珍しい愚痴のような一文も添えられている。今の部署で数々の功績をあげた伊達も、捜査一課への異動が内々に決まったらしい。

 

「……伊達班長の栄転を素直に喜んでやれないのが申し訳ないな」

「特殊班に萩原がいるとはいえ、ひとりで松田を抑えきれるかわからないもんな。いくら萩原が一番松田の扱いをわかってるって言っても、随分荒れてるみたいだし」

「そうだな、特に松田は頭に血がのぼりやすいから、……変に暴走しないといいんだが」

 

 つい言葉が深刻になる。が、だからと言って自分で動こうとは思わなかった。不安はあるが、反面で大丈夫だろうという妙な確信をあったからだ。

 何せメッセージの一番最後、近況報告としていろいろ書いたけど、とかつて僕と首席を奪い合った男はさらりとこう言っている。

 

『勝手な行動をとる可能性が高い警察官をマークするのは俺の仕事。何とかするから心配しないで自分の仕事に集中しろよ』

 

 ヒロも同じことを思っているのか、口では心配だと言いながらも顔は苦笑している。迷いはあるにしろ、自分で動こうとは思っていないようだった。

 

「……結局は柊木や皆に任せるしかないんだけどね」

「ああ。……きっと大丈夫だ」

 

 柊木はやると言ったらやるやつだ。萩原だって松田が馬鹿する前に爆弾魔を捕まえるべく奔走するだろうし、伊達もきっと松田を無理矢理でも気晴らしに連れ出して気を逸らすくらいのことは絶対にやっている。

 友人の危機も知れないのに、手を出してはならない今の状況がもどかしい。しかし、自分が手を出さなくてもきっと何とかしてくれる友人たちがいることは、誇らしくもあった。

 また手元の端末の画面が明るくなる。今度はメッセージでなく着信だった。画面に表示されているのは、プラチナブロンドを揺らす性悪な酒。

 

「……呼び出しだ」

「ベルモットか。今日はオフじゃなかったのかよ……」

「よくあることだ、仕方ない。ヒロ、お前も通知来てるぞ」

「ん? ……俺も呼び出しだ」

 

 やれやれ、と二人して息を吐き、頭を切り替える。

 

「すぐに準備しないとな」

「方向同じなら送っていこうか」

「お、助かる。……安全運転で頼むぞ?」

「当たり前だろう」

 

 僕はいつも安全運転じゃないかと返すとヒロに生温い目を向けられたのが気になったが、今は時間がない。さっさと格好(そと)性格(なか)を「黒」に変え、僕たちの職務を果たさなければ。

  

 ―――だから、そっちは頼む。

 

 内心でそう呟いて、頭を「バーボン」に切り替えた。

 

 

 ***

 

 

 相変わらず音信不通の同期たちにメッセージを送りつけ、自宅のソファに深く腰掛けてゆらゆらと頭を揺らす。

 何とかすると大口を叩いた以上、何とかしなければならない。

 萩原に松田の見張りを頼むにしても、班が違えば当然限界はある。あの頑固でひとの言うことを聞かない松田のことだ、どうせ命令違反でも何でもして十一月七日に贈られてくるだろうFAXは意地でも見る。そしてきっと、勝手な行動に出る。

 さて、ならば俺にできることは。いくつか行動パターンを考えるが、やはり当日の犯人の動きがわからない上に、動かせる駒が自分ひとりではできることが限られる。せめていくらか手足が欲しい。できることなら言わずともこちらの意図を汲んでくれて、自分の行動には自分で責任を取り、何より俺が信頼できるような。

 そこまで考えたとき、脳裏に大河内さんの言葉が蘇った。

 

『上手く使うように』

 

 ―――ああ、なるほど。ふと射し込んだ一筋の光明に、口角が上がるのを感じた。

 

 




さくさく進んでいきます。
ところでご指摘も頂きましたが、警察ほか実在する組織について、現実と乖離する部分はかなりあります。それは私の不勉強だったり意図的だったりするものですが、お詳しい方には相当な違和感や不満を生むものかもしれません。
あらすじに注意書きは書いていたつもりでしたが、回りくどい言い方だったかと反省したので率直になおしました。リアルを追求したい方にはおすすめできない物語です。


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9

 運命の十一月七日は、いっそ嫌味なほどの晴天だった。

 あらかじめ休みを取っておいた俺は、そっと自分の仕事場に顔を出す。

 

「おはようございます」

「おはよう。どうした、今日は休みだったはずだろう」

「うっかり財布を忘れてしまいまして。ああ、あった」

 

 引き出しからあらかじめ残しておいた財布を取り出し、少し恥ずかしそうに掲げて見せる。

 

「では、私はこれで失礼します」

「ああ」

 

 ほんの小芝居だが、俺が今日と言う日に警視庁にいてもおかしくないための理由付けだ。何かことを為そうというときは、こういう細かいところも手を抜かない方がいい。

 そして俺はその足で、ある部署へと向かう。事件が起きると外出することも多いそうだが、他の部署の様子を見る限り特に大きな事件が起こっている様子はない。ならばきっといつも通り、()でいてくれるはずだ。

 

「おはようございます」

 

 実はここに顔を出すのは挨拶の時以来になる。

 その小部屋にいたふたりはちょっと驚いた顔をして、それでも快く俺を迎えてくれた。

 

 

 *

 

 

 捜査一課に送られてきたFAXには、数字でなく犯行予告と受け取れる暗号文。

 爆弾は正午と十四時のふたつ。「円卓の騎士」に「七十二番目の席」、「戦友の首」とはまた……この犯人、世に言う中二病という奴だろうか。ナルシシズムをこじらせたガキの作る文章かと思う。

 FAXからひとつめの爆弾は杯戸町ショッピングモールの大観覧車にあることを導き出した松田は、案の定そのFAXを手に荷物を取る。

 完全に予想通りの展開に、俺はやれやれとその前に立ちふさがった。

 

「どうも」

 

 にこりと笑って見せると、わかりやすく顔を引きつらせた松田。

 俺の存在に気づいていなかった捜査一課の刑事たちも驚いた顔をしている。気配を消してたとはいえ、普通にさっきからここにいたのだけれど。視界の端で萩原も驚いた顔をしているのが見えた。

 

「ひ、柊木監察官?」

「何故こちらに……」

「まあ、勘でしょうか。来なければいけない気がしましたので」

 

 そのまま、呆けた松田の手からさっとFAXを抜き取る。

 

「!」

「爆弾事件の担当は特殊犯係です。萩原巡査部長、これを」

「、はい!」

「柊木!」

「敬語。貴方に捜査権はありませんよ、松田巡査部長」

 

 俺の言葉にかっときたらしい松田は、そのまま拳を振り上げる。ここまで計算通り。

 ちなみに俺は現場に出ることのない完全なデスクワークの人間だが、それでも完全に頭に血が上った奴の拳を受けるほど鈍ってはいない。もちろん、そんな奴の隙を見逃すほども。

 くわえて見た感じ今ここに俺の弱みを見せても利用できそうな階級の人間はおらず、捜査一課には人情味溢れる昔ながらの刑事が大半を占めることも調査済み。ついでに言うと、この角度なら防犯カメラにも写らないし俺の右手の動きなんて()()()()()()()にしか見えない。

 これは正当防衛だから、と内心で言い訳した俺は松田の拳を軽くかわし、逆に松田の腹に拳を叩き込んだ。

 

「……ありゃ~」

 

 絶句する捜査官たちの中、萩原のマヌケな声だけが部屋に響いた。声もなく崩れ落ちる松田を片腕で支え、いつも通りの調子で言う。

 

「ああ、どうやらお疲れのようですね、彼は。確か彼の上長は目暮警部でしたか」

「い、いかにも」

「彼を早退させたいのですが、構いませんか? ちなみに彼の早退理由は体調不良ですし、皆さんは何も見てはいない。よろしいですね?」

 

 混乱していた目暮警部はひとつ呼吸をして自身を落ち着かせると、まっすぐとこちらを見つめた。

 

「……彼がこういう行動に出ることをご存じだったのですかな?」

「松田は警察学校時代の同期で、個人的に親しいんです。そのFAXのことは聞いていましたし、無茶をすることは予想できましたので、一応と思いまして。先ほどの彼の解釈は正しいと思います。すぐに大観覧車に捜査員を送るべきかと」

 

 後半は特殊犯係の警部、萩原の現上司に向けて言った。即座に頷いたその人は矢継ぎ早に指示を飛ばす。

 

「では、私はこれで。あ、ちょうどいいところに特命係のおふたり!」

 

 俺の後ろでずっと待機していてくれたおふたりに、ようやく声をかける。呼ぶだけ呼んでずっと待たせていたのだから、申し訳ない限り。

 

「恐れ入りますが神戸さん、少し手を貸して頂けませんか? 彼を病院に連れて行かないと」

「あ、そういう役回りね。了解了解」

 

 意識を失った松田を受け取った神戸さんはおもっと声を漏らして抱えなおした。俺は軽く笑って言う。

 

「細身に見えますが、元とはいえ機動隊でも生え抜きのゴリラですから。訓練真面目にやってたぶん重いんですよ、この筋肉ダルマ」

「ねえ、ときどき同期に対して必要以上に口が悪くなるのやめよ? 面白いけど」

 

 ひょこっと俺の傍にきた萩原がため息交じりに笑う。

 

「敬語」

「はいはいすいません。FAXください」

「はい、どうぞ」

 

 FAXを手渡すと、萩原がそっと顔を寄せて小声で言う。

 

「……来てくれて助かった」

「いや。……萩原」

 

 同じく俺も声を潜めて言う。これを言ったことがバレたら俺は監察官ではいられない。

 

「ん?」

「俺も動く。何かあったら連絡してくれ」

「……了解」

「あと車貸して」

「……んも~~~いいけどさ~~~」

 

 小声でやり取りをして、萩原から車のキーを受け取る。無理するなよ、とかけられた声にああ、と笑って、俺は刑事部を後にした。

 心の中で、自分の言葉に多分、と付け加えながら。

 

 

 *

 

 

 萩原の車を拝借し、助手席に松田を詰め込んでハンドルを握った。特命係のおふたりも、躊躇いを見せず後部座席に乗り込む。

 

「柊木さん。病院に行くと仰いましたが、どこの病院か見当はついているのですか?」

「え?」

「先ほどの松田刑事の推理は見事なものでした。彼の言う通り、ひとつめの爆弾は杯戸町ショッピングモールの大観覧車でおおよそ間違いはないでしょう。問題は、もうひとつの爆弾です」

「……もうひとつの爆弾は、どこかの病院にあると?」

 

 よく呑み込めていない神戸さんに、もう一度あの暗号文を諳んじる。そして、俺の推測を言葉にした。

 

「文中にあった『我が友の首』です。円卓の騎士の時代、たいていの騎士は十字がデザインされた仮面をつけているんですよ」

「……病院の地図記号?」

「私も同意見です。こじつけじみてはいますが、可能性はあるでしょう」

「お言葉ですが、都内だけでも病院がいくつあると?」

 

 そう、数ある病院の中からひとつの「あたり」を探しだすのは困難を極める。どれだけの人員を投入したとしても不可能だろう、そしてその動きを察知された瞬間に遠隔操作で爆破される可能性が高い。だから犯人の思考を読み、行動を読み、「あたり」に見当をつけて、そこから爆弾を探し出さなくてはならない。

 俺は呼吸を落ち着かせつつ、思考の道筋を言葉に直した。

 

「犯人は四年前の爆弾事件と同一犯とみてほぼ間違いない。ならば、警察に対して強い怨恨を抱いているはずです。爆弾を『花火』と表現していることを考えても、その爆弾はおそらく甚大な被害をもたらす、それなりに目立つ場所に設置されていると読みます。この子供のような気取った文章から幼稚かつ短絡的な性格がうかがえますし……子供なら、自分が作った花火が打ちあがるところを見たがるでしょう。そして、爆弾の時間差はたった二時間」

「つまり……それなりに規模が大きく、この時間は診療時間内で多くの患者がいる病院。加えて、観覧車とそう遠くない距離にあるところ?」

 

 神戸さんの言葉に頷き、杉下さんが言葉を引き継ぐ。

 

「ええ、個人経営のクリニックは除外してもいいでしょうね。入院患者もいるような大型の総合病院のほうが人も死角も多く、爆弾も設置しやすい」

「それからもうひとつ。少し前にニュースになりましたよね」

 

 元警察官という異例の経歴を持つ、大物代議士の入院。

 そう口にすれば、後部座席のふたりは息をのんだ。

 

「入院先まではニュースで流れませんでしたが、少し調べれば一般人でも簡単にわかります。警察に怨恨を抱くなら標的のひとつとして数えてもおかしくないし、そうでなくても代議士を爆弾の危機にさらしたとなれば警察の面目は丸つぶれ。それなりに大きく取り上げられたニュースです、犯人が考慮に入れてもおかしくないと思いませんか」

 

 証拠は何もない、憶測の域を出ないが、何もないよりずっといい。信号に引っかかって舌打ちをする。いや、落ち着け、焦るな、時間はある。

 なんとか平常の声を装って、言った。

 

「入院先は、米花中央病院です。幸いにも警視庁からも近い。……お二方、松田巡査部長を病院に連れて行くついでに、少し院内を散歩しようと思うんです。恐れ入りますが、お付き合いいただけませんか?」

「ええ、喜んで」

 

 にっこりと笑う杉下さん。対して神戸さんは、苦笑して言った。

 

「……素直に爆弾探すって言えばいいのに」

「私がそんな職務外の行動をとるわけがないでしょう?」

 

 大河内さんに怒られてしまいますと続けると、神戸さんは声を上げて笑った。

 

 

 *

 

 

 気を失ったままの松田をいったん目立たないように病院のロビーに転がし(声をかけてくれた看護師さんには神戸さんが「よく寝てるでしょう?」で押し通した)、観覧車の方向から見える場所を中心に病院内を見て回る。

 すぐに杉下さんから連絡が入った。松田を拾って指定の場所に走る。

 

「杉下さん!」

「柊木さん、こちらです」

 

 待合室の隅に設置してあるベンチの下。明らかに怪しいとわかる黒い箱が置かれている。箱の存在を確認して、引きずってきた松田をその辺に転がした。

 

「松田を叩き起こして爆弾処理に当たらせます」

「ええ、確か彼は元爆発物処理班でしたね。僕と神戸君は病院側に事情を説明してきます。ここはお任せしても?」

「もちろんです。よろしくお願いします」

 

 ふたりを見送った後、一応軽く松田を揺さぶってみたが、まあ起きない。そんなに強く殴ったつもりはなかったんだけどな、と思いながら思い切り松田の頬を平手で殴った。

 

「、ぶ!?」

「よし、起きたな」

「ひ、……いらぎ? テメエよくも!」

「こっちこそ説教は後だ寝坊助! 見ろ!」

 

 爆弾を見た瞬間、松田の目の色が変わった。

 すぐに周囲を見て自分の鞄を確認し、引き寄せる。その中には愛用しているであろう工具類。予想の範囲内ではあるがよくもまあ後生大事に持ち歩いているものだ。

 いくつか工具を取り出し、注意深く爆弾をチェックする。

 

「……柊木、上着貸せ」

「? 何だよ」

「やけに密閉されたつくりになってやがる。感光起爆装置がついている可能性が高え。上着で光を遮るからその分厚い上着とっとと寄越せ寒がり」

「るっせえほらよ。……待て、お前その手に持ってんの何だ」

 

 松田の手にはどこをどう見ても機動隊爆発物処理班御用達の赤外線暗視スコープ。松田は特に気にした風もなくしれっと言い返した。

 

「私物」

「嘘つけ。お前さては古巣離れるときにかっぱらってきたな?」

「型が古くなったから処分予定だった奴なんだよ。見逃せ」

 

 これが片付いたら絶対機動隊に引きずってって頭を下げさせる、だから今は何も見てない聞いてない、そう自分に言い聞かせていると、特命係のふたりが戻ってきた。

 

「避難指示は出してきたよ」

「ええ、幸いにもこちらの爆弾の爆破まで時間があります。問題はないでしょう」

「そうですか、ありがとうございます。松田、どうだ?」

「爆弾の形状から考えても四年前の犯人に間違いねえな。五分で余裕」

「そうか、それなら……」

 

 と、その時、俺の携帯が着信を告げた。相手は萩原。嫌な予感がする。

 

「失礼。……はい、柊木」

『あ、旭ちゃ~ん? 実は今、観覧車で爆弾とランデブー中なんだけど』

「……お前つくづく運がないね」

 

 いやホントにね~と笑っているが、観覧車と言う狭い空間に爆弾と閉じ込められ、しかも電話を掛けてきているということは、当然防護服を着用していない。四年前のあのときより、状況は悪い。

 状況説明の手間を省くために携帯をスピーカーに切り替えた。

 

『どうやら犯人は最初から観覧車に警察官を閉じ込める予定だったっぽい。さっき爆弾の液晶パネルに文字が流れた』

 

 観覧車に乗ることになった経緯の説明と、その液晶パネルに表示された内容に怒りで目の前が赤くなる。それでも何とか平静を保つべく深呼吸。爆弾から顔を上げようとした松田を抑え込み、解体を続けさせた。

 

『爆破三秒前にもうひとつの爆弾の場所教えてくれるらしい。警察官的にこれ死ななきゃと思うんだけど、できりゃ死にたくないんだよね。何か策ない?』

「……まず、萩原。盗聴器は?」

『確認済み。ないよ』

「よし、そんなお前に朗報だ。今もうひとつの爆弾を松田が解体中」

 

 電話口で、萩原が息をのんだ。

 

「松田、その爆弾を仕掛けたのは四年前と同一犯で間違いないな?」

 

 萩原に聞かせるために、あえて再度確認をいれる。松田はにっと口元をあげて大声で答えた。

 

「萩原ァ、お前の目の前にある爆弾、水銀レバーついてねえか」

『おー陣平ちゃん、起きたんだ。ついてるよ』

「こっちもだ。まず間違いなく同一犯とみていい」

 

 他の形状も手癖も一致する。松田がそう断言したことを踏まえ、ゆらりと頭が揺れた。思考を走らせ、この状況における「最適解」を弾き出す。

 

「柊木さん」

「、」

「僕たちは観覧車に向かいます。よろしいですね?」

「……よろしくお願いします」

 

 さすが杉下さん、判断が早いし的確だ。

 萩原の車のキーを受け取り、杉下さんは足早に去っていく。神戸さんもどうやら何をすべきか理解しているらしい、ウインクをひとつ残して杉下さんに続いた。特命係のおふたりを呼んだのは本当に正解だった。

 お二人がそちらに向かってくれるなら、何も問題はない。

 

「萩原」

『何?』

「お前は解体作業を続行しつつ、すぐに上司に連絡を。二つ目の爆弾の処理が進んでいることを報告し、目の前の爆弾を解体する許可を正式にとれ」

『え、それ必要?』

「必要だ。ただし、それを絶対に上司以外の人間に悟らせるな。上司にも顔に出さないよう前置きしてから説明しろ。おそらく爆弾犯はその観覧車のすぐ傍にいる」

『な、』

「正午になるその瞬間まで、犯人に自分の思い通りにことが進んでいると思い込ませろ」

 

 正午になっても爆弾が爆破しないことを悟ったとき、犯人は初めてこちらの爆弾に意識を向けるだろう。そのときにはすでに松田が解体を終えている、これがベストだ。

 

「萩原、松田、いけるか」

『問題なし』

「余裕」

「よし。じゃあ萩原、切るぞ。ちゃんと上司に許可取れよ?」

『りょうか~い。……また後でな』

 

 萩原の上司の警部は念には念を入れるタイプのひとだと聞いている。爆弾犯が観覧車のすぐ傍にいることを知れば、杯戸町ショッピングモールの完全閉鎖くらいまでは手を回してくれるだろう。最悪、居合わせたひと全員に身体検査するか監視カメラを全チェックするかすれば犯人は特定できる。

 増援として杉下さんと神戸さんも現場に向かっている。ここからショッピングモールまで車なら数分。おそらく犯人確保は問題ない。

 後はもう、元爆処組を信じるだけだ。さて、俺は俺にできることをするとしよう。

 

「松田、俺は一応、避難状況の確認してくる。パニックになってないか心配だ」

「おー。解体ももう終わるから、終わったら連絡する」

 

 避難は危険から遠ざかればいいというものではない。逃げてきた先で落ち着いて行動できているか、逃げる途中に怪我はしていないか、逃げ遅れた人はいないかなどメンタルケアも含め気を配らなければならない部分がたくさんある。特に怪我人病人の避難というのはより注意が必要だ。

 災害時の対応なども管轄になる警察庁警備局警備課で勉強したことが、こんなところで活かせるとは。

 

「松田、あと頼むぞ」

「……誰に言ってんだ、バーカ」

 

 松田にそう一言残し、俺も病院の廊下を走った。

 

 

 *

 

 

『解体完了♡』

『終わった』

 

 どちらがどちらからのメールかなんて一目瞭然だろう。あのふたりらしいメールの文章に、思わず笑ってしまう。

 そして、神戸さんからの連絡。

 

『犯人確保したよ。特殊犯係に引き渡した』

 

 感謝のメールを送り、とりあえず安堵の息をつく。何があったと騒ぐ例の代議士の相手も適当にこなしつつ、引き続き医師や看護師に避難について指示を飛ばしながら、まだまだあるやるべきことを頭の中に思い浮かべていた。

 爆弾犯との因縁との決着は完了、だがこの事件を片づけたというにはまだ早い。自分がかつてない窮地に追い込まれているにも関わらず、不思議と今の状況を楽しんでいる自分がいる。

 この程度の大勝負、いちいち怖気づいてはいられない。

 

 

 ***

 

 

 査問会には慣れてきていたが、まさか「こちら側」に立つことになろうとは。内心苦笑をしつつ、ずらりと並んだ上層部の視線を正面から受けた。

 

「では、今回の爆弾事件における柊木旭監察官および松田陣平巡査部長の対応について、査問会を執り行います」

 

 大河内さんがいつもと変わらぬ声で査問会の開催を宣言する。

 まあ、こうなるだろうと覚悟はしていた。犯人が捕まろうと爆弾処理が成功しようと、俺も松田も自身の職分を逸脱した行動をとっている。

 本来ならば病院で不審物を発見した瞬間、俺たちは速やかにその旨を警視庁に報告し、爆発物処理班を呼ばなければならなかった。それを怠って、その権利と義務をもたない者が、しかも装備もなしに爆弾処理にあたったのだ。病院内の一般人を危機にさらしたと言われても仕方がない。まして、俺は監察官としてそれを窘めなければならない立場。それなのに問題行動を見逃すどころか、ほとんど俺がその状況に持って行ったようなものなのだから問題視されて当然、監察官としての素質を疑われる行動と言える。

 松田には今回の爆弾解体は俺の許可があったと証言するように口を酸っぱくして言ってある。別に庇うつもりがあって言っているのではなく、こういう場に慣れていない松田より俺が弁明をするために。

 ちなみに萩原は呼ばれていない。権利と義務をもたず、装備なしで爆弾解体を行った点では松田と同じだが、爆破まで時間がない状況でゴンドラに閉じ込められたこと、また解体にあたって事前に上長に報告し許可をもらっていることから無罪放免。上司の許可を取れと言ったのはこういう意図があってのことだ。

 もうひとつついでに言うと、特命係のおふたりの行動はもはやいつものことなので、見ないふりがされている。あのふたりはよほどの問題行動を起こさない限り、良くも悪くもいないものとして扱われるのだ。羨ましいと思うべきか憐れむべきか大変微妙なところ。

 大河内さんが事件の経緯を説明し、俺たちの行動の問題点を列挙していく。その内容はほぼ予想通りのもの。

 

「まずは状況の説明を聞こうか」

「では、私から」

 

 す、と一歩前に出た。

 まず間違いなくこの査問でお咎めなしはありえない。だが、あの爆弾解体に緊急性があったこと、爆処を呼ぶ余裕がなかったことを認識させれば処分を軽減することは可能だろう。

 まだ警察をクビになるつもりはない。そっと息を吸って、口を開いた。

 

「まず、今回米花中央病院において爆弾を発見したことは、全くの偶然です。爆弾予告については警視庁を出発する際に耳にしており、発見した爆弾は予告文で提示されていた『ふたつめの爆弾』の可能性が高いと判断したのです」

 

 建前上、松田は体調不良で早退したことになっている。それなら松田と俺が病院にいること自体は何もおかしなことではない。米花中央病院をわざわざ選んだ理由? 松田のかかりつけの病院だからです。嘘も方便だ。

 

「また、四年前の爆破事件に関わっていた松田巡査部長から、当時の事件と同一犯の可能性について説明されました。もし本当に同一犯であれば爆弾は遠隔操作が可能なタイプである可能性が高く、犯人の意志ひとつでいつでも爆破されてしまう。しかし、予告状の文面を考えれば、ひとつめの爆弾の処理が完了するまで犯人はこちらの爆弾に意識を向けてこない。ならばひとつめの爆弾の爆破時刻までに解体してしまうのが最も安全な道であると考えました」

 

 そこで改めて隣にいる松田を手で指す。ぴくりと松田の肩が震えた。

 

「幸いにも松田巡査部長は少し前まで機動隊において爆弾処理を任されていた人物であり、かつ、本人もその義務感から防護服のない状態でも爆弾処理を買って出てくれました。爆発物処理班を呼べるだけの時間があればよかったのですが、ひとつめの爆弾の爆破まで一刻を争う状況であったため、彼の爆弾処理を許可しました。私は監察官たる立場以上に警察官である立場から、彼に爆弾を任せ、一般市民の避難に尽力した次第です」

 

 まったく長台詞は疲れる。嘘と本当を混ぜ込みながら、それらしい説明を作った。そして申し訳なさそうな顔を見せ、上層の表情を探る。

 ああ、近日中に査問にかける予定のひとりが、にやにやと気色の悪い笑みを浮かべてこちらを見ている。少しは隠す努力をすればいいものを。

 

「そして結果、爆弾は解体、一般市民にも影響は出ず、犯人も確保された、と」

「結果良ければすべてよし、などと申し上げるつもりはございません。己の職分を忘れ、彼の解体を許可したことは事実です。そして松田巡査部長もまた、人命のかかった緊急の事態であったとはいえ、その権利もない状況で、しかも十分な装備もなく爆弾解体にあたりました。どうぞ、厳正な処罰を」

 

 上層の印象のなかで俺は「青臭い正義感を振りかざす若手」のまま。ならばこの程度の嘘ならそう疑われることもないだろう。

 さりげなく「人命のかかった緊急の事態」を強調し、頭を下げる。俺に続いて、松田も頭を下げた。こういうときは形だけでも反省を態度で示すものだ。

 

「ふむ……」

 

 難しい顔で黙る警視庁のトップに対し、表情を隠すことも知らない馬鹿はにやにやと言い募った。

 

「結果がどうあれ、職務を忘れたことに変わりはない。相応の処罰があるべきでしょう。経験があろうと処理班でもないものが解体など! しかも防護服のない状態で! 柊木君、それは一般人のみならず、松田巡査部長すらも危険に追いやる行為だと理解していたはずだね?」

 

 ほう、そう来たか。松田の処罰をさて脇に置いてでも、とにかく俺を追い詰める方向に持っていきたいらしい。それも、一般人のみならず松田の命すらも危険に晒したという点で。

 その馬鹿さ加減には呆れずにはいられない。俺を追い詰めるつもりで、まさか自分の首を絞めにくるとは。口元が緩みそうになるのを必死に抑えた。

 

「まあ、義務感故の行動に懲戒はさすがに気の毒だ。依願退職あたりが妥当では?」

 

 喜色満面の顔を視界に入れないよう努力しつつ、発言の許可をとろうと口を開きかけた、そのときだった。

 

「……しかし、いつぞや防護服を着ずに解体に当たらせていた者に対して、厳重注意で済ませることに強く同意したのは貴方ではなかったかな?」

 

 他のお偉いさんからの指摘に、そいつはぴたりと黙った。俺が言おうとしたことを先に指摘されたことに少し驚く。指摘したひとの隣に座っている高そうなスーツも完全に呆れた顔で頷いていた。

 そう、指摘されたのは萩原と松田の元上司の査問の件だ。その方の名誉のために言っておくが、決してこのニヤケ面は彼と懇意だったということはない。こいつは俺という若手が偉そうなことを言うのが許せなかったらしく、「厳重注意」という処分に強く同意していた。つまり俺が気に入らないが故に押し通した処分に、今こうして自分の首を絞められているというわけである。

 法の下では皆がフェアだ。「甘い処分」という例外は、一度作ってしまえばそれ以降ずっと「前例」として記録に残る。その後同じことをして処分を受ける者が出ても、基本的にその「甘い処分」を参考に処罰が決められるのが常だ。何事にも例外をつくるべきではないというのはそういう点にある。

 彼と親しかったが故に厳重注意で済ますべきと主張した人たちも、気まずげな顔をしていた。

 

「しかも今回は急を要する状況であったが、それはただの怠慢だった。怠慢への処分が厳重注意で、義務感故の行動が依願退職とは、いささか公平性に欠けるだろう」

 

 その声に、次々と賛同の声が上がる。

 

「同感ですな。確かに褒められた行為ではないが、このふたりが多くの人命を救ったことを軽視すべきではない。病院で爆破なんぞ起こったらとんでもない被害になっていたはず。しかも柊木くん、元警察庁警備部警備課の人間らしい、見事な避難指示だったと聞いとるよ。入院されていた代議士の先生からもお褒めの言葉を賜った」

「恐れ入ります」

「松田くんの爆弾解体技術も素晴らしかったと。現役の隊員ですら真似できるかわからんほどの技術だとか」

「……恐縮です」

 

 松田も戸惑ったように返事をした。よし、流れが変わった。

 

「しかも柊木くんがすぐに特殊犯係に連絡をしてくれたおかげで優秀な警察官を殉職に追いやらずに済んだわけだ。警察官ならば確かに時には一般市民のためにその身を投げうたねばならん。しかし、無事に帰還してくれるならそれに越したことはない」

「状況を正しく把握したうえで人命を最優先し、義務感から起こした服務規程違反と言えるでしょう。事態に緊急性があったこともよくわかりました。もちろん表立って褒めることはできませんが、私としては褒めてやりたいくらいの気持ちですね」

 

 正直なところ、意外と皆味方についてくれたことに少し驚く。

 確かに俺も松田も間違ったことをしたとは欠片も思っていないのだが、それが警察組織として許されるかは別物だ。意外と人間らしい感性をもっているひとは多いんだなと、到底口にはできない感想が浮かぶ。

 じっと皆の話を聞いていた警視総監は、そこでようやく口を開いた。

 

「柊木監察官、松田巡査部長」

 

 は、とふたりで姿勢を正す。

 

「これからの警察の未来のためにも、今回の件を不問にすることはできん。だが、今回の君たちの行動は警察官として正しい行いであったと、わしは思う。今後も日本警察の一員として、よく職務に励むように」

 

 はい、と敬礼を返して、査問会は終了した。詳しい処分は後日知らされるというが、この分ならそう酷いことにはならないだろう。

 

 

 *

 

 

「……お前いつもあんなことしてんのか」

 

 査問会後、ぐったりと警視庁内のベンチに座る松田に苦笑して、缶コーヒーを差し出した。よろよろとそれを受け取る松田。慣れない場はよほど堪えたらしい。

 

「まあ、追い詰められる側は初めてだけど」

「お前な……。……ここまで読み通りか?」

「いや? もっと絞られると思ってたよ。まあ、お前については俺が解体の許可出したって体にしたわけだし、そう重い処分にはならないと踏んでたけど」

 

 ぱきゅっと缶コーヒーのプルタブが軽い音を立てた。

 

「……お前の方は?」

「クビにはならないだろ。俺、優秀だし。せいぜい出世コースから外れるくらいかな」

「問題じゃねえか」

「お前をひとりで暴走させるのに比べれば大したことない」

 

 そう言うと松田はぐ、と黙った。一応自覚はあるらしい。

 

「すっきりしたか。犯人逮捕はさせてやれなかったけど、萩原と一緒に爆弾解体できたんだ、それでよしとしてくれ」

「……。……心配かけて悪かった」

「わかってんじゃん。仕方ないから許してやるよ」

 

 ふ、と笑うと、松田は気まずげな顔をして不貞腐れた。

 これであの爆弾事件の妄執からは解放されただろうか。すっきりとした顔をしているから、きっとそうだと思いたい。しばらくはまた隈ができてないか見張るとしようと、その横顔を見ながら思う。

 そう思っていたとき、「いた!」と声を上げて萩原が駆け寄ってきた。俺たちが査問を受けるという話を聞いて、一番青い顔をしていたのはこいつである。

 

「査問は? 大丈夫なの?」

「……あれ、どうなるんだ? 柊木」

「ま、悪くて減給かな。少々出世には響くかもしれないが、その程度だろ」

 

 伸びをしながら答えると、松田はうげ、と声を上げた。

 

「ただでさえ安月給なのに減給かよ……」

「心配すんな、その間は萩原が援助してくれる」

「……何か結構大丈夫そうってこと? まあメシくらい奢るけどさ」

「ああ、心配しなくても大丈夫だよ」

 

 多少今後に響いたところで、俺も松田もそんなことを気にするタイプではない。第一、やるべき仕事をきちんとやっていれば、これくらいの失敗はいくらでも取り戻せる。松田だって優秀な警察官だ、危惧するほどのことじゃない。

 そんな空気を察したのか、萩原はようやく安心したような笑顔になった。

 

「……柊木の減給の面倒は誰が見んの?」

「減給ったって多分俺お前らよりもらってるぞ」

「よし次の飲みは柊木の奢りな」

「よっしゃー!」

「お前らな……」

 

 呆れた顔で言うが、ようやくこの馬鹿ふたりの呑気な顔を見られて嬉しく思う。

 警察学校時代から湿気た顔が似合わない奴らだ。ふたりがそうやって馬鹿をやってくれないとこちらも調子が出ない。

 

「あ、そうだ柊木、俺飲みもいいけどアレ食べたい、柊木のお好み焼き!」

「おお、いいな。たこ焼きも頼む」

「ええ……お前ら昔より食う量増えてるだろ……一体どんだけ焼けばいいのか想像もつかないんだけど」

「材料買いこめるだけ買いこんで、なくなるまで焼けばいいじゃん?」

「それでも足りなかったら追加で買ってくればいいだろ」

 

 早速いつもの傍若無人を発揮しだしたふたりに、ため息をつきながら苦笑を返す。結局俺も、説教だの何だのしながら同期には弱いのだ。

 

「そのうち、……わかったよ、近いうちにな。今年中には時間つくるから」

 

 そう言ってやるとおう、とふたりは元気よく返事をする。その返事の良さも息の合い方も、本当に昔から変わらない。まったく、とついつい俺も笑った。

 とりあえずずっと心配していた伊達にもさっさと連絡をしてやろう。きっと結果報告のメッセージを今か今か待っていてくれる、降谷や諸伏にも。粉もの焼くって言ったら返事くれないかななんてのんきなことを考えつつ、俺は携帯に手を伸ばした。

 まさか今度は諸伏に危険が迫っているだなんて、そんなことは考えもせずに。

 




論理的な文章書けるひとは本当にすごいなって思います。


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9.5

おまけ。


 あの事件からしばらく、また彼はひょっこりと特命係に顔を見せた。査問にもかけられたと聞いたが、全く堪えてなさそうで少し安堵する。

 

「お礼に伺うのが遅くなって申し訳ありません。あと賄賂と思われたら困るので手土産はナシです。すみません」

 

 杉下さんはくすくす笑いながら構いませんよ、と返した。

 真面目ながらも茶目っ気を忘れない彼のことは、僕もわりと気に入っていた。ユーモアのわかる有能な人間というのは、話していてとても楽しい。

 

「査問会お疲れ様。お咎めはきた?」

「処分自体は軽く済みましたよ。それよりも……」

「それよりも?」

 

 柊木くんはす、と深刻な顔を作る。

 

「……大河内さんから、深い深いため息をひとつ頂戴してしまいました」

 

 ゆっくりと首を振りながら「私としたことが……!」と言わんばかりの芝居がかった雰囲気に、思わず吹き出す。キャリアで出世街道を邁進しているくせに、気取ることなくこういう会話ができる子は珍しい。是非偉くなってもそのままでいてほしいものだ。手綱を握らなくてはならない大河内さんは苦労するかもしれないけれど。

 

「しかし、素晴らしい推理でしたね。貴方も、松田刑事も」

「恐れ入ります。松田にも伝えておきますよ、素直じゃないんで喜んだ顔は見せないでしょうけど」

「ああ、彼とは仲良いんだっけ」

「ええ、警察学校の同期なんです。悪友ですかね」

 

 捜査一課に配属されたばかりの松田刑事のことはよく知らないが、ワイルドで一匹狼なタイプに見えた。一見優等生タイプの柊木くんと仲が良いのは少し意外に見えるが、柊木くんは柊木くんでぶっ飛んだところがあるようだから気は合うのだろう。

 いろいろと抱えるものが彼にあるのは何となくだが察している。だからこそ彼にも心を許せる人がちゃんといるという事実は、年上のお節介ながら喜ばしく思えた。

 そんな軽い雑談をして彼が部屋を去ってからすぐ、入れ違いに珍しい人物が特命係に顔を出した。

 

「……どうも」

 

 不愛想、というよりは、少々気まずそうに彼はやってきた。トレードマークのサングラスは胸ポケットにひっかけ、落ち着かなさげに指でいじっている。

 

「ついさっきまで柊木くんも来てたよ」

 

 それを聞いて、松田刑事はさらに気まずげな顔をした。ああ、彼は柊木くんほど素直なタイプではないのだろう。何となくちょっかいかけたくなる可愛い奴なんです、とさきほど柊木君が言っていたのを思い出す。こうしてみると、ワイルドな一匹狼というよりは懐かない子猫に見えてきた。なるほど可愛いかもしれない。

 

「……ありがとうございました」

 

 きちんと礼を言うために、気まずさを抱えながらも特命係に顔を出したのだろう。見た目に似合わず律儀で真面目な性格というのは本当らしい。それを微笑ましそうに見ながら、杉下さんが答えた。

 

「僕たちは柊木さんの散歩にお付き合いしただけですから」

「そうそう、爆弾見つけたのもただの偶然」

 

 僕も杉下さんに続いて軽く言葉を付け足した。表向き、あの爆弾の発見はあくまでも「偶然」だ。

 それを聞いた松田刑事は、ほんの少しだけ表情を緩める。

 

「そういうことになっているのは聞いてますが」

「ええ。それにしても、……本当に、仲がよろしいのですねぇ」

「あんなんですが、……いい奴なんで」

 

 そう言った松田刑事の顔は、どこか自慢げにも見えた。

 彼が部屋を去った後、しみじみと呟く。

 

「……いいもんですね、男同士の友情ってのも」

「ええ、本当に」

 

 同期の桜とは言うが、あれほど仲が良いのも珍しい。聞けば、今回の事件で大きく貢献をした萩原刑事も同期なのだという。

 優秀ながら癖のある若手たちが、今後警察組織をどう生き抜いていくのかと思うと、少し胸が躍った。まず間違いなく、あの破天荒さは上層を悩ますことになるだろう。

 

「……彼らが出世するの、ちょっと見てみたいですね」

「それは同感です。きっと、」

 

 愉快痛快な職場になるでしょうね。

 杉下さんの言葉に、確かに、と心の中で大きく頷いた。

 

 



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10

 実をいうと、休日に外出することはあまりない。

 食料品など必要な買い物は仕事上がりに済ますし、そもそも男のひとり暮らしだ、生活必需品もたかが知れている。下手に出歩いてうっかり女性とぶつかりでもしたら大変なのだ、誰って俺が。街中で卒倒するなどという失態だけは避けたいので、極力ひとりでの不必要な外出は避けている。自分で言って情けない。

 しかし今日は幸人たちに参考書を選んでやる約束をしていた。無事に外出を終えられることを祈りながら、少しでも人目を避けられるよう帽子をかぶった。今日は冷えるしちょうどいい。待ち合わせ場所はすぐ近くの本屋。腕時計を見てそろそろ出ようと靴に手を掛けたとき、スマホが着信を告げた。

 

「幸人? ……はい、どうした?」

『あ、ひーらぎさん? あのさ、今約束してた本屋に向かってたとこなんだけど』

「? ああ」

『ほら、ひーらぎさんの家に警察学校卒業したときの写真あったじゃん。伊達さんも写ってる奴』

 

 玄関で靴を履きながら、ベッドサイドに置いてある写真立てが頭に浮かぶ。

 それがどうしたと続きを促せば、えーっと、と幸人は精一杯記憶を探るように唸る。

 

『あの写真の、……えっと、背が高くて茶色っぽい髪の人。ほらあの、……ひーらぎさんの左隣にいた、ちょっと灰色っぽい色の目した』

 

 特徴的にも諸伏のことだろうか。いやなんで音信不通のあいつの話になる?

 嫌な予感がして先を急かすと、何と諸伏らしき人物とすれ違ったのだという。

 

『何かみょーに足早でさ。まわり気にしてたし、あれ多分何かから逃げてんじゃないかな。考えすぎ?』

「……幸人」

『うん?』

「接触はしてないな? あとそいつどっち向かった?」

『すれ違っただけ。方向的に廃ビル群の方じゃねえかな、あそこ人目ないし』

 

 こいつ、優秀かよ。

 徒歩の予定を変更して、玄関口においてあるバイクの鍵を取った。単車もいいけどやっぱ車にしようよ〜と萩原には散々文句言われたが、こうなるとやっぱ買っといてよかった小回りの利く移動手段!

 

「幸人、悪いけど参考書はまた今度な。皆にも伝えといてくれ」

『やっぱやばい系?』

「お前はすぐにその場を離れて、見たことは忘れろ。誰にも言うな。いいな」

『……へいへい』

「幸人」

 

 何、と相槌を打ったそいつに、頬を緩める。

 

「対応百点満点。ありがとな」

 

 そう言うと、電話口で幸人が息をのんだのがわかった。

 日常の中で感じた違和感に、下手に首を突っ込むことなくすぐに誰かに相談する。これは平穏無事な生活を送る上で非常に大切なことだ。平穏を守る立場としても非常に有難い。

 

「じゃあ切るぞ」

『……ん。……気を付けて』

 

 少し前まで反抗期をこじらせていた幸人がひとの心配までできるようになったとは。

 その成長を噛みしめながら、俺は急ぎバイクにまたがった。

 

 

 *

 

 

 廃ビル群の地理は把握している。バイクの排気音を響かせながら、考えろ、先を読め、と必死で頭を回転させる。

 仮定として、諸伏は何者かから逃走中。おそらくひとり。街中の方からこちらに向けて逃げてきたのなら、人目のつかない奥に向かっていくはず。ならばと先に廃ビル群の奥までバイクで乗り込み、路地裏を走った。あいつが徒歩でここに向かったなら、おそらく先回りはできているはずだ。

 通る可能性の高い道に当たりをつけ、そっと気配を隠す。慌てた足音が聞こえてきた。音からして成人男性、しかも走り慣れた音。ちゃんと鍛えている人間が走っている音だ。

 タイミングを計り、走ってきた男の姿を確認して路地裏に引きずり込んだ。

 

「諸伏、俺だ!」

 

 すぐに暴れて反撃しようとした諸伏の口元を抑え込み、小声で叫ぶ。諸伏はすぐにぴたり、と動きを止めた。口元を押さえている掌の下で、諸伏の口が「ひいらぎ」と動く。

 拘束を外すと、ばっと振り向いた諸伏は信じられない顔をして俺を見た

 

「おま、……何で、」

「話は後だ、すぐにこの場を離れるぞ」

「!」

「バイクで来てる。こっちだ」

 

 

 *

 

 

 とりあえず尾行に気を付けつつ諸伏をうちまで連行した。未だ混乱した様子の諸伏に、落ち着かせようと珈琲を渡す。

 

「誰に追われてるのかは知らないが、お前の事情に無関係な俺のところにいるとは思わないだろ。尾行もなかったし」

「あ、ああ……」

「……まあ、うん、久しぶりだな」

「ああ、……警察学校を卒業して以来か」

「随分メッセージ無視してくれたもんだな。俺は悲しい」

 

 う、と諸伏は気まずそうな顔で黙る。一応悪いとは思っているらしい。

 

「まあ、そういう部署にいったんだろうとは思ってた。それで?」

「え?」

「事情を知らない俺にできるのはお前をあの場から連れ出すことくらいだ。お前、これからどうするんだ?」

「……俺は」

「一時的にお前を匿うくらいはできるが、問題の根本的解決にはならないだろ?まさか単独任務で切り捨てられたとか言わないよな」

 

 諸伏は黙った。おいマジか。

 

「……正直、俺にもよくわかってないんだ。何が、どうなっているのか」

 

 これは埒が明かないと踏んで、ひとつ賭けに出ることにした。

 諸伏と同じタイミングで姿を消したあいつなら何か知っているかもしれない。誰が味方かわからないこういうときに無闇に人に頼るのは得策とは言えないが、あいつと諸伏が敵対しているとは考えにくい。諸伏が警察を裏切るとは思えないし、降谷もまた、志を同じくする奴を、まして長年の付き合いがある幼馴染を裏切るはずがない。

 他人に見られる可能性だけはちゃんと考え、文面を作成した。送信した数秒後、着信音が鳴り響く。この反応の早さ、どうやら俺は賭けに勝ったらしい。

 

「はい」

『今のメッセージはどういうことだ!』

 

 痛む耳を押さえながら、通話をスピーカーモードに切り替えた。聞こえてくる降谷の声に、諸伏もびくりと反応する。口元に人差し指をたてて諸伏に声を出さないよう指示をしながら、言葉を続けた。

 

「言葉のままだ。俺はお前の幼馴染の所在を知っている。いいか、これからいくつか質問する。イエスかノーで答えろ、いいな?」

『っ……何だよ!』

 

 これだから頭に血がのぼりやすい奴は。

 相変わらずの同期に少々呆れながら、盗聴の危険も考えつつ言葉を選んだ。

 

「お前はここ数年のお前の幼馴染の事情を知っているな?」

『……イエス』

「現在、そいつがどんな状況に置かれているかも」

『イエスだ』

 

 想定通りの答えに安堵する。それならばと、面と向かって言ったら殴られるだろう愚問を投げかけた。

 

「お前は、俺が知ってる『お前』だな?」

 

 かつて一緒に馬鹿騒ぎをして、警察官になるべく競い合ってきた仲間のままかと、言外に問いかけた。決して、幼馴染を裏切るような奴ではなく。

 降谷は低い低い声で答えた。

 

『……いくらお前でも殴るぞ?』

「イエスかノーで答えろっつってんのに。相変わらず気が短い」

『うるさい! もう質問はいいだろ!』

「俺が昔お好み焼き作ってやったの覚えてる?」

 

 は、と降谷は気の抜けた声を出した。おそらくマヌケ面を晒しているだろう想像がついて、つい笑った。

 俺が同期たちにお好み焼きを振舞ったのは一度だけ。記憶力のいい降谷なら忘れてはいないだろう。

 

「そこにいる。尾行されるなよ」

『すぐに向かう!』

 

 ぶちっと電話が切れて、いっきに部屋が静かになる。ひとつ溜息をついて、諸伏に笑いかけた。

 

「降谷も相変わらずだな?」

「……ああ。変わらないよ、……何も」

 

 ようやく口元に小さな笑みを漏らした諸伏に、少し安堵した。

 

 

 *

 

 

 それにしてもいきなりのピンポン連打と遠慮のないノックは本当にやめてほしい。

 鍵開いてるぞ、と言った瞬間に、そいつは玄関のドアを蹴破らんばかりの勢いで侵入してきた。見慣れた金髪は、諸伏の姿を確認してそのまま、安堵の息とともに膝をつく。

 

「良かった……」

「……心配かけたな、ゼロ。柊木に助けられたよ」

「柊木……」

「ん、改めて久しぶり。お前も顔変わらないな」

 

 にっと笑って見せると、降谷は少し潤んだ目で、ぎこちなく笑い返した。

 

「人のこと言えないだろ」

「お前よりはマシだ。そういえば諸伏、俺はあごひげ剃ったほうがいいと思う」

「えっ」

 

 挨拶代わりの軽口がひどく懐かしい。

 少しだけ笑った後、降谷は表情を改めた。

 

「柊木、お前はこちらの事情を知っているのか?」

「いや、何も。今日のも完全な偶然だよ」

「偶然?」

 

 寝室にあった写真立てを取り、ふたりに見せる。

 

「いろいろあって俺はこの近辺の悪ガキたちと知り合いでな。そのうちひとりが教えてくれたんだよ、この写真に写ってた奴……諸伏が、やけに人目を気にしながら逃げるように廃ビル群の方へ向かったって。それで俺はまさかと思いつつバイク飛ばしたってわけ。あ、通報くれた本人にはきっちり口止めしてあるから問題はない」

 

 しかし、この写真だけでしっかり顔を覚えていたとは、幸人の奴なかなか覚えがいい。うすうす察していたが、本当に将来有望なのかもしれない。

 過ぎた偶然に降谷はどこか納得しきれない様子だったが、本当なのだから仕方がない。俺を疑うよりは諸伏の運の良さを疑ってほしい。

 

「……とりあえず納得しておく。柊木、……俺たちは」

「お前らの所属だの事情だのは、まあ聞かせてくれるなら聞くけど、言えないならそれでもいいよ」

 

 ぎくり、とふたりは肩を揺らす。

 そんな素直な反応ができるくらい、気を抜いてくれている事実が嬉しい。

 

「ただ、まあ……そうだな。俺の所属の話はしただろ?」

「、」

「……え?」

 

 即座に俺の言いたいことを理解した降谷の目がきらりと光り、混乱が抜けきっていないらしい諸伏は戸惑ったように瞬きをした。

 降谷の様子を見るに、俺がずっと抱いていた懸念はあながち間違いでもなかったらしい。

 

「俺の立場が使えるなら、使ってもいい」

 

 俺としても、このタイミングは悪くない。

 内心でお好み焼きとたこ焼きは年明けに延期かなと元爆処組たちに謝りながら、俺は楽しい楽しい()()()()()に励むことを決めた。

 

 

 



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11

「ね、お願い!」

「無理」

「そこを何とか」

「無理」

 

 しつこく食らいついてくるそいつを軽くあしらって新聞に目を通す。

 例の爆弾犯が逮捕され、俺が捜査一課に来た目的は達した。が、だからといって機動隊に戻してくれなどとは言えるわけもなく、俺は腹をくくって強行犯係として職務に従事していた。

 新聞の見出しを眺めながら、犯罪事件多すぎねえかこの町、と呆れたようにため息をつく。

 

「もう、松田くんてば!」

「いい加減諦めろ」

「本人に聞いてくれるだけでもいいから!」

 

 さっきからしつこく話しかけてくるのは、交通部の宮本由美だった。俺の指導係の佐藤と仲良いとかで、何度か話す機会があった。別に悪い奴ではないのだが、とにかく「この手」のことになるとしつこい。

 

「柊木監察官の同期なんでしょ?」

「無理」

 

 あいつに女を紹介なんてしたら最後、冗談抜きで息の根を止められる。お前のこと友達だと思ってたんだけどな、と笑っていない笑顔を浮かべる魔王の顔が脳裏に浮かんだ。俺に自殺願望はない。

 

「……つーか何で交通部のお前がんなこと知ってんだよ」

 

 そういうと宮本はさっと後ろを親指で示した。そこには手を合わせる佐藤の姿。お前かよ。

 

「もしかして彼女持ち? あんな超優良物件だもの、女のひとりふたりいてもおかしくはないわよね」

 

 いた方が健全なんだろうけどな、と内心でひとりごちる。あれだけイケメンでハイスペックな野郎に女ができたことがないなんて、誰に言っても信じないだろう。俺だってあいつの女性恐怖症を知らなかったら信じるわけがない。

 逆ナンを食らって貧血を起こしていた姿が脳裏に浮かび、思わずため息がでる。

 

「彼女がいようがいなかろうがあいつの紹介はしねえし、合コンに連れ出しもしねえ。わかったら柊木のことは諦めな」

 

 ついでにハギに言っても無駄だぞ。

 そう付け加えると、宮本は目に見えて膨れた。

 

「何、呼んだ〜?あれ、宮本ちゃんじゃん」

 

 ふらりと戻ってきた萩原に、宮本はこれ幸いと飛びついた。話を聞いた萩原は、あー……と苦笑をする。

 

「……ちょっと無理かな~」

「は、萩原くんまで…!」

 

 萩原の口が音もなく殺されちゃう、と動いたのがわかった。同感。

 困った顔であいつだけは勘弁してやってと言うと、さすがにまずいと思ったのか佐藤も止めに入った。

 

「もう、その辺にしときなさいよ由美」

「美和子まで」

「ここまでダメだって言われるのは、それなりの理由があるってこと。そうじゃなくても監察官っていう立場なんだから、あんまり近づこうとすると迷惑になるかもしれないじゃない」

「悪いけど、そーいうこと。あ、合コンなら俺が行きたいな~誘ってね?」

 

 むーとむくれながらも、そろそろ休憩が終わるらしい宮本は交通部に戻っていく。全く、ようやく嵐が去った。

 

「……ごめんなさい、つい口が滑って」

「別に隠してはねえよ」

「そうそう。むしろ佐藤ちゃんにも気を遣わせて悪いね~」

 

 あいつ本当にそういうのダメでさ、と萩原がそう言うと、佐藤は申し訳なさそうな顔をしつつ笑った。

 

「……本当に仲が良いのね」

「同期で同班、共同生活送った仲だからね」

「柊木監察官はその時から優秀だったの?」

 

 何気ない佐藤の問いに、かつてを思い出し少々遠い目になる。

 優秀、いや確かに優秀だった。それは間違いない、のだが。

 同じことを思ったのか、萩原も遠い目をしている。

 

「……もはやあれを優秀なんて言葉で片づけていいのかねぇ……」

「あれはあのふたりがおかしい」

「ふたり?」

「柊木と、もうひとり。そいつも俺らと同班だったんだが、とんでもねえ化け物だったんだよ。他を寄せ付けずにずっとふたりでトップ争い繰り広げてた」

 

 座学では同点一位が基本。普通に満点とか取りやがる化け物どもだ。術科では柔道でも逮捕術でも接戦を繰り広げ、時間を延長しても決着がつかないなんてこともざらにあった。勝ち負けには大して拘りないと言っていた柊木も、勝ちを譲ってやるほどプライドは低くない。

 見ていて面白くはあるし両方を応援もするが、あそこまで行くと「よくやるわあいつら……」という呆れの方が大きくなる。

 

「そういえば、松田君のお腹に一発入れてたわよね……?」

「あっはは、あれ小気味よかったわ~」

「うるせえ。人のことゴリラだの筋肉ダルマだのさんざん言ってくれたらしいが、こっちからすればあいつの方が断然ゴリラだ」

 

 まだ俺の腹にはでかい青あざが残っている。それを見た柊木は反省や申し訳なさなど欠片も見せず、「良かった俺鈍ってないな!」の一言。 反射的にまた拳を作りかけたが、今回ばかりは俺が悪いのでやめた。ちなみに「もっと止め方あっただろ説得とか」と苦し紛れに言うと、「だから説得したんだろ? 物理的に」としれっと返された。本当にあいついつか殴る。

 

「でも、あれ見て柊木監察官の印象変わったって人、多いのよね」

 

 謙虚にいつもにこにこしながらも、デスクワーク派の内勤エリートには違いない。しかも柊木は見た目だけなら優男で、着やせすることも相まって腕っぷしが強いようには見えないのだ。現場を走ってる人間からすれば悪い印象こそなかっただろうが、見くびられていたというのが本当のところだろう。そこであの暴挙だ。

 

「無茶をやろうとした友人を力づくでも止める、実は熱いところのある人なんだって。しかも自分の職域を越えてでも事件解決のために尽力したんだもの、見直した人は多いみたい」

 

 当の「無茶をやろうとした友人」としては非常に複雑な気分だが。

 顔に出ていたのだろう、そんな俺を見て萩原は我慢できずに噴き出した。とりあえずその頭を一発ひっぱたく。

 

「まだまだ監察官としては見習いでも、きっとすぐに実力を付けて出世するんだろうって」

 

 その言葉に、つい瞬きをして萩原と顔を合わせた。

 そういえば()()柊木がまだ「監察官」としても舐められている状況だということは小耳に挟んでいた。本人もそれでいいんだとか何とか笑っていたが、あれはたぶん「本当のことだから」という意味でなく「そのほうが都合が良いから」という意味だ。

 猫かぶり野郎の嘘くさい笑顔が脳裏に浮かび、くっと肩が揺れる。

 

「な~に笑ってんの陣平ちゃ~ん」

「うっせ、お前も顔が笑ってんだよ」

 

 数日前にしばらく忙しくなるからお好み焼きは年明けで許して欲しいなんてメッセージを送ってきたあの野郎は、たぶんそろそろ()()()気なんじゃないかと察している。

 何せ、こちらがドン引くくらいにはすさまじく機嫌が良かった。何かあったのかと伊達が尋ねても、すぐにわかるの一点張り。

 

「いつまで『見習い』で誤魔化す気なのかねえ、うちの出世頭は」

「そう長くはねえだろ。あれは絶対やる気だぜ」

 

 それも、相当に()()()()ことを。

 

 

 ***

 

 

 証拠は十分、根回しも完璧。おまけに天気も良いとくれば、何て良い査問会日和だろう。今日と言う素晴らしい日に、今まで好き勝手やってきた報いを存分に受けてもらおうじゃないか。

 俺は自分にできる最高の笑みを浮かべながら、数々の証拠を並べ立てる。

 

「以上がこちらの調査結果です。随分と罪を重ねておいでのようで」

 

 パワハラセクハラなんて可愛いもの、重要機密の漏洩、備品の窃盗および横流し、横領、恐喝、いやこれはパワハラ超えて傷害もつくな。捜査員(もろふし)が危機に瀕することを承知の上で情報を流していたことが立証されればもう少し罪状がつくかもしれない。その辺りは査問後の聴取と裁判で頑張って頂こう。

 真っ青な顔に脂汗を浮かべるそいつは、警視庁内でもそれなりの地位にいたが、普段は大して目立つこともない大人しい男だったという。どうせ不正がバレない様に大人しく振舞っていたのだろうが、その気になればそんな化けの皮を剥ぐくらい容易いものだ。

 

「わ、かぞうが……!」

「その若造相手にへまをやらかしたのはご自身では?」

「柊木」

「失礼いたしました」

 

 大河内さんの諫める声に素直に謝罪をするが、笑顔は崩さない。

 警察から情報が流れているという前提の上で調査を始め、また警察庁所属の降谷の情報が流れた様子がないことから、おそらく犯人は警視庁にいると睨んだ。加えて漏洩した情報は諸伏の顔のみで、氏名や経歴など他の情報は流れていないという。となると諸伏が直接関わったことのある人間とは考えにくい。ならば、間接的に関わったことのある人間はどうだろう。たとえば、諸伏の所属の情報もわずかに入ってくるであろう、警視庁の事務方や総務、経理に関わる部署で、それなりの地位にいる人物ならば。そこまで当てを付け、給料のわりに金回りの良い人物がいないかを調べてからは早かった。

 そいつの背後についても全て調べはついている。こいつが誰と癒着し、誰に賄賂をおくり、どうやってそれだけの罪状を隠してきたのかも。

 まったく馬鹿の振りをしておいて良かった。俺の前だと皆さん油断してぽろぽろ手がかり落としてくれる。あまりにも気軽に喋ってくれるので公安(ふるや)の手を借りるまでもなかった。手がかりさえもらえれば、俺程度の権力でもある程度の調べはつく。

 

「弁明は聞くまでもないかと思いますが、いかがでしょう」

 

 事前に話を通してあった警視庁のトップに目を向けると、その人は重々しく口を開いた。

 

「……残念だよ」

「け、警視総監!」

 

 その声を合図に会議室の扉が開いた。何人もの捜査官がそいつを取り囲み、その腕に手錠をして引っ立てていく。何とも晴れ晴れした気分だ。ハンカチでも振って見送りたい。

 そいつは捜査官に引きずられながら、何とかその首をこちらに向け、血走った眼で捨て台詞を叫んだ。

 

「後悔するぞ、必ずな!」

 

 何て無様で、汚い声だろう。

 確かにこれでこいつの背後にいた人間は俺を危険視しだすだろう。馬鹿の振りが通じなくなるのは残念だが、俺としては情報を得る手段がひとつ減るだけのこと。

 何より、すでにあらかた調べは済んでいる。その「背後」たちが、今後俺に牙をむいてくるのだとしても。

 

「……それごと踏みつぶしてやるよ」

 

 警察官の身で汚職を働いたばかりか、諸伏を危険な目に遭わせた奴らに容赦などしてやるつもりもない。

 誰にも聞かれないように、そう呟いた。

 

 

 *

 

 

 査問会から数日後、改めて降谷と諸伏がうちを訪ねてきた。

 簡単に査問会であったことを説明すると、降谷は満足そうに頷き、諸伏は少しひきつった顔で笑う。

 

「……それまた随分と容赦のない……」

「当たり前だろ。罪状が多すぎる」

「本当にな。……しかし、助かったよ柊木。警察内部の不正となると俺も畑が違ってくるから手を出しにくいんだ」

 

 降谷は警察庁警備局警備企画課「ゼロ」に、諸伏は警視庁の公安にいるということはすでに聞いている。言わなくていいと言ったのに、協力してもらうなら話すのが筋だと押し通したこいつらは、どこかすっきりとした顔をしていた。

 

「それが俺の仕事だからな。まあまた何かあったら言えよ」

 

 もう連絡を絶たないでくれるなら、だけど。

 そう付け加えると、ふたりはさっと目をそらした。

 

「で、今後どうなるんだ? 俺は一応他言するつもりはないけど」

「……俺は引き続き潜入任務にあたり、景光には当分内勤で俺のサポートをしてもらう。連絡を絶つつもりは、……その、ない。上にも、今回のこともあって協力関係を結ぶ許可をもらった。……今更かと思うかもしれないが」

「……俺も。任務のためとはいえ、メッセージ無視してごめん」

 

 ふたりの言葉に、良かったと笑う。

 本来潜入任務にあたる人間と接触するのはタブーなのだろうが、ふたりの邪魔になるようなへまをするつもりはないし、今回のように役に立てることだってあるかもしれない。

 どこか知らないところで勝手に危ない目に遭っているくらいなら、同じ危険に巻き込んで立ち向かわせて欲しい。直接手を貸せることは少なくとも、きっと何かできることはあると思うから。

 どちらにしろしばらく東都が拠点になるからどこかで顔を合わせるかもしれないしな、と降谷は苦笑して言う。

 

「ただ、俺は今、安室透と名乗ってる。基本的に外で遭遇したらそっちの名前で頼む」

「了解。……けど、東都が拠点なら俺に話すだけじゃ足りないんじゃないか? むしろ外に出るあいつらのほうが遭遇の確率高いと思うけど」

 

 部屋に沈黙が落ちた。降谷の褐色の頬に冷や汗が流れる。

 あいつらとは言うまでもない、ずっとこのふたりの安否を案じながら返事のないメッセージを送り続けていた残り三人の同期たちだ。

 

「……。……上手く言っといてくれないか……?」

 

 ふむ、と考えるふりをする。同じ警察組織に属する人間としては、それくらい協力してやるべきなのだろう。が、それは別に本来の俺の職務ではないし、降谷のかわりに殴られそうな案件なんて引き受けたくないし、何より―――降谷と諸伏が苦戦するような相手と対峙しているのであれば、協力する人間は多い方が良い。

 そういうわけで、俺の答えは考えるまでもなく決まっていた。

 

「やだよ」

「……柊木」

「嫌だ。大人しく事情説明して口裏合わせとけ。なぁに、運が良ければたったの三発ずつ殴られるだけだ。あいつら立派なゴリラに成長してるから鼻の骨くらい折れるかもしれねえけど、まあ死にはしないって」

 

 本気で頭を抱えだしたふたりに肩を震わせつつ、これたぶんお好み焼きとたこ焼きの焼く量がさらに増えるやつだな、と遠い目をした。

 



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12

 あまり呆けて硬直することなどないやつらだけに、この反応はちょっと面白かった。

 年も明けて何とかそれぞれの仕事を調整し、材料という材料を買い込んで集まったその日。早く焼けとうるさい欠食児童どもに「待て」と言い聞かせ、そろそろかなと時計を見ていたそのとき。

 控えめなノックのあとに返事を待たずに開いたリビングのドア。鍵は開いているから勝手に入ってこいと伝えていたふたりは、さすがに少々気まずげに見える。

 

「……えーと、久し振り?」

「……相変わらずみたいだな、みんな」

 

 誤魔化すようにへらっと笑った諸伏と、少し硬い笑顔ながらも嬉しそうな声音を隠しきれていない降谷。

 驚きが許容量を超えたらしい三人はしばらく無言で目を瞠っていたが、いち早く我に返ったのは伊達だった。ふたりから目をそらさないまま、横にいた俺にぼそりと言う。

 

「……柊木」

「うん?」

「この部屋の両隣、それに上下に住人はいるか?」

 

 伊達の意図がわかった俺は、にんまりと笑う。騒音問題まで気にしてくれるあたり、伊達はどこまでも「班長」だなとこっそりと思った。

 

「いないこともないけど、ここ防音しっかりしてるから気にしなくていいよ」

「そうか、なら良かった。……確保ォ!!」

 

 その言葉には頭より身体が先に反応してしまう刑事の性。

 伊達の言葉に即座に反応した松田と萩原は、瞬時に降谷と諸伏(ひぎしゃ)に飛びかかった。

 

 

 *

 

 

「で、どういうことか説明してもらおうじゃねえか」

 

 一悶着どころか三悶着ほどあったあと、被疑者ふたりは床に正座。その正面に伊達が仁王立ちをし、松田は隣で面白そうにふたりを眺め、萩原は降谷の前にしゃがんでその頬をつんつんとつついていた。降谷が苛立ちで震えているのでそろそろやめた方がいいと思う。

 ちなみに俺は少し離れたソファで騒動を眺めながらビールを飲んでいた。同期の馬鹿騒ぎを肴に飲む酒が美味い。

 

「……いや、何で俺たち正座……?」

「説教聞くときは正座するもんだって旭ちゃんもよく言ってたっしょ?」

 

 いや、俺のせいにしないでほしいけれど。確かに警察学校時代にそんなことを言った覚えはあるが、そのときに正座をしていたのはおもに萩原(おまえ)と松田だ。

 諸伏はすでに足に来たらしく、ぷるぷると震え始めている。

 

「く……! 柊木、お前は何で他人事みたいな顔でビール空けてるんだ!」

「いや他人事だろうよ。俺何年も連絡無視したりしてないし」

 

 ぎくっとふたりは肩を震わせる。だらだらと冷や汗を流すふたりにため息をついて、伊達は言い聞かせるように言った。

 

「この際、お前の所属だとか今まで何してたとかは聞かねえよ。俺たちも警察だ、察するもんもあるしな」

 

 ばっとふたりが顔を上げる。

 その顔を見ながら、だけどな、と伊達は言葉を続ける。

 

「だがな、このタイミングで俺たちに顔を見せた理由は説明してもらうぜ。柊木、俺の勘じゃ、それにお前が関わってる気がしてならねーんだが?」

「へえ、刑事の勘ってやつ?」

「あ、捜査一課への異動おめでと班長」

「ありがとうだが今じゃねえんだわ諸伏」

 

 柊木、と松田にも疑り深い視線を向けられ、ビールをテーブルに置いて両手を開く。別に隠すつもりはない。今日はそのつもりで皆を集めたのだから。

 

「せめて俺たちが今後の対応に困らねえ程度の事情説明はしてくれるんだろーな。この感じだと柊木の()()()()()、まじで関係してんだろ」

「うんうん、れーくんひろくん、ちゃんとお話しような~」

 

 真面目な話なんだろと声色を変えた萩原に、降谷と諸伏も表情を改め、しっかりと頷いた。

 

 

 *

 

 

 ことの経緯を聞いた三人は、揃って両手で目を覆った。

 

「……柊木が上機嫌で大掃除した理由はよーくわかった」

「むしろナイスというか。懲戒免職まで行ったんだっけ?」

「俺が懲戒程度で許すかよ。逮捕送検までこぎ着けた」

 

 ただの身内の不正として処理されかねなかったのを阻止して刑事事件として立件。我が身に火の粉が飛ぶことを恐れてか立件を阻もうとしたやつもいたようだが、そうはなるものかと手を回した。傷害までやっといて立件なしはない。

 そんな俺に松田と萩原は拍手。当たり前だろうと言いたい。

 

「……それについては本当に助かったよ柊木。ほとんど柊木ひとりで証拠を集めたんだろう? それもあんな短期間で」

 

 必要なら自分が動かせる捜査員も使って欲しいと降谷も申し出てくれたが、本当に必要になったら頼らせてもらうからと断った。引き続き潜入任務にあたっている捜査官やそのサポートに余計な仕事を増やすわけにはいかない。

 

「それが俺の仕事だから。監察官って肩書きは意外と動きやすいんだよ」

「けど、下手をすれば握りつぶされてもおかしくないくらいの案件だっただろ。さすが、上手くやったんだな」

「ああ、握りつぶそうとしたやつらのぶんも証拠握ったからな」

 

 感心したような諸伏の言葉ににこりと笑うと、部屋の空気が音を立てて凍ったような気がしたが別に気にはしない。今後を考えるとついつい顔がにやけた。

 

「ひとりあぶり出したら他の不正の証拠も出るわ出るわ、あとは査問会開くだけのやつらが順番待ちしてるよ。さすがに上層何人も一斉に首すげかえるのはまずいってんで上司に止められたけど、数年掛けて全員入れ替える。いやあ気の毒に、みんないつ俺に呼び出されるんじゃないかと戦々恐々してんじゃないかな」

 

 今後が楽しみだな、と言葉を締める。何か全員顔が青いような。

 降谷までドン引いた顔をしていることには驚いた。お前も同類だと思っていたのに。

 

「知ってた……俺実は旭ちゃんのお腹ん中がまじで真っ黒だって知ってた……」

「柊木お前、そこまで楽しそうにひと苛めるやつだったか……?」

「監察官って怖いんだな……」

「違うぞヒロ、怖いのは監察官じゃない。柊木だ」

「いや、ああ……俺の同期は心強ェわ……」

 

 めそめそしたふりしながら松田の後ろに隠れるな萩原。松田、俺は別に心は病んでないので心配そうに言わないで欲しい。それにしみじみと頷く諸伏はともかく、生真面目に訂正する降谷、お前は後で殴る。伊達、お前にドン引かれるのは一番心に来るからやめてくれ。

 いや、俺別にもうお前ら相手に猫被っていたつもりはなかったんだけど。

 

「……俺が不正の類い嫌いなのも、まして優秀なのも、今に始まったことじゃないだろ」

「それをいっそ不思議そうに言えるお前はすげえよ」

「うん、さすがゼロと渡り合う男」

「それはどういう意味だヒロ」

 

 頬を引きつらせた降谷ががっしりと諸伏の足を掴む。正座が限界にきていたらしい諸伏は無言のまま倒れ伏した。しびれきった足にそれは辛い。合掌。

 

「で、話戻すけどよ。諸伏の身の安全は保障されたのか?」

「現状はとりあえずな」

「情報漏洩の程度は? 本当に顔だけか?」

「ああ、本名も流れてない。死亡偽装も上手くいった。これ以上調べられることはないだろう」

「どんだけ危険なとこに潜り込んでんだよ……」

 

 うわあという顔で言う松田に、悶絶していた諸伏はかろうじて苦笑を浮かべた。

 流出したのは顔と、警察官である事実のみ。思ったより被害は少なく済んだと考えるべきだろう。本名や経歴が流れなかったのは本当に運が良かった。

 

「それならむしろ、下手に隠れるよりも普通に過ごしてたほうが良さそうだな」

「柊木?」

「本名がバレてないなら偽名を使う必要もないし、諸伏の情報流した元凶も檻の中。だったら現状対策を考えなきゃいけないのは素顔だけだろ。よっぽど訓練受けた人間でもない限りひとの顔なんて曖昧なもんだし、髭でも剃れば十分に誤魔化せるんじゃないか。変装を重ねた方が違和感が出て怪しまれる可能性がある」

「おお、逆転の発想」

 

 同意見、と頷いた降谷の横で、おそるおそるといったふうに手が上がる。ようやく復活した諸伏はこれ以上なく真剣な顔で言った。

 

「髭……そらなきゃだめか?」

 

 そこかよ、と。

 全員の呆れた顔を受け、俺は仕方なく立ち上がる。洗面所に繋がるドアを開け、持ち帰ってきたのはごくごく一般的な髭そり。灯りを受けてきらりと光ったそれに、諸伏はさっと顔色を変えた。

 

「……ちょっと待って、まさか」

「はい、マル対確保」

 

 それだけですべてを察した刑事たちが即座に諸伏を拘束する。さすがに公安で鍛えられただろう諸伏も、ゴリラ三人の前では無力だったらしい。

 

「ちょ、本当に待って、冗談だろ?」

「往生際が悪いな。じゃあ皆、『諸伏景光は自身の安全確保のために髭を剃るべき』について決議をとる。賛成者挙手を」

 

 さっと三人分の手が上がった。それでも少しも拘束が緩む様子がないのはさすがと言っておこう。

 絶望的な顔をした諸伏は、縋るような視線を降谷に向ける。いつもならこの視線に負けてしまう降谷も、今回は静かな目をしていた。ひとつ呼吸をおき、意を決したように手をあげる。同時に諸伏は驚愕に目を見開いた。いや何でこんな真剣な顔してるんだろうこいつら、端で見ている分には完全な茶番である。

 すまない、と降谷は絞り出すように言った。

 

「気の毒には思うが、ヒロのためだ。このところの腑抜けっぷりもひどかったし、気分転換にもなるだろう。……それに、ヒロ、ずっと言えなかったが……僕も個人的にその髭はないほうがいいと思う……!」

「え、……ええ!? 勧めたの皆なのに!?」

「はい、では全会一致で判決が出ました。剃ります」

「ま、待って! まずは本人の意志を聞こう!?」

「却下。動くなよ、怪我するぞ」

 

 勧めたのは松田だけだし普通に悪ふざけだったんだよなあと内心で呟きつつ、俺は手の中のソレを握り直す。髭そりが低く唸り始めたと同時に、諸伏の哀れな叫び声が部屋に響いた。

 ゴリラたちの拘束のおかげもあり、刑の執行はすぐに完了した。

 しくしくしくと純潔を奪われた乙女のごとくすすり泣く諸伏を余所に、俺たちは夕飯の支度を再開する。慰めるように降谷がその肩を叩いているが、髭とかどうでもいいから手伝えと心底思う。

 全員分の取り皿を運びながら、それにしても、と伊達はしみじみと言った。

 

「随分と若返ったな、諸伏」

「悪かったな童顔で!」

「え、実は気にしてたの?」

「は、ンな気にすんなよヒロの旦那ァ、お前以上の童顔がふたりもいるだろ?」

「殴るぞ」

 

 いや誰も降谷のこととは言ってない、と口に出そうとした瞬間にハッとする。

 今松田は童顔がふたりと言った。当然諸伏のことでもなければ松田(じぶん)のことではないだろうし、伊達はどちらかというと老け顔で、萩原はまあ年相応。実年齢より下に見られるという雰囲気ではない。そしてふたりの童顔のうち、ひとりは降谷。

 ということは、だ。

 

「……え、もうひとりの童顔ってもしかして俺? 嘘だろ俺年相応だと思ってるんだけど!」

「お前は勤務中こそ年相応だがプライベートは雰囲気がガキ」

「顔関係ねえし! 松田こそサングラスで童顔隠してるくせによくひとのこと言えるな!」

「よーしその喧嘩買ったァ!」

 

 ついついヒートアップしてぎゃーぎゃーと言い合いを重ねていると、何かに堪えきれなくなったらしい諸伏が噴き出し、それにつられて皆が笑い始める。諸伏と降谷の目が少し潤んで見えたが、たぶん笑いすぎたせいだと思う。

 笑いがおさまった頃には警察学校時代とまったく変わらない、気の抜けた顔を見せていた。

 

 

 ***

 

 

 じゅうじゅうと焼ける音に、食欲をくすぐる香り。俺もずいぶんと久しぶりだ。

 そろそろかと景気よくひっくり返せば、綺麗に焼けた生地が顔を見せた。おお!と腹をすかせた大きなガキどもが歓声を上げる。

 

「よし。ソース取って」

「ほい!」

 

 さっと差し出されたソースを丁寧に塗って、マヨネーズ、そして鰹節と青のり。もういいだろと視線で訴えるそいつらに苦笑を返しつつ、ざっくりと格子に切り分けた。俺のお好み焼きは関西仕込みなので切り方も関西流です。

 

「もういいぞ」

「いただきますッ!」

 

 OKを出せば声を揃えると同時にのびてくる箸。熱い熱いと言いながらお好み焼きに食らいつくそいつらに、本当に俺は今日何枚焼くんだろう、と少し気が遠くなる。

 二枚目、三枚目と仕上げを終えると、松田が期待したまなざしを俺に向けた。はいはいお前はたこ焼きだったなと、温まったたこ焼き器にサラダ油を塗り、生地を流し込んだ。わざわざ業務用スーパーまで行ってカットしてあるタコの大袋を買ってきたが、はたして足りるだろうか。足りないとか抜かしやがったら自分で買いに行かせるけれど。

 

「そうか、それで処分も軽く済んだのか」

 

 もごもごと口を動かしながら降谷が言う。

 話していたのは松田が大暴走した例の爆弾事件、そしてその後の査問会のことだった。たいしたお咎めがなかったことくらいは連絡をしていたが、さすがに詳細を説明するには文字数が足りなかった。

 

「状況的に対応としては間違ってなかったと思うが、本来ならもう少し重い処分になっていてもおかしくなかっただろ」

「実際運が良かったよ。査問に馬鹿がいてくれて助かった」

「まあ見事に墓穴ほってたわな」

「ああ、例の柊木を目の敵にしてるって奴のこと?」

 

 ああいうのを無様って言うんだろうなとしみじみ言う松田に、思わず大きく頷いた。俺が気にくわないなんて限りなくアホらしい私情で動くからそういうことになる。

 ぽりぽりとセロリを咀嚼しながらたこ焼きの焼け具合をチェックした。よし、いい色だ。

 

「そっちも近いうちに鉄槌は下す」

「……ああいう場で柊木に締めあげられるとか絶対嫌だわ俺」

「お前そんなに査問会怖かったの?」

 

 俺らみてぇな現場の人間はお偉方と渡り合うのに慣れてねえんだよ、と松田は不貞腐れたように言う。確かに、現場メインはなかなか上層に会う機会はないか。

 

 「じゃあまあ、お疲れさんということで」

 

 ひょいっと松田の皿にたこ焼きを入れてやると、目が輝く。

 最近よく眠れるようになったというこのでっかいガキは、一時期落ちていたらしい食欲まで回復させ、今は周囲が引くくらいすさまじい量を食べているというのは晴れて同僚になった伊達情報。たくさん食べるのはいいことだが、これは冗談でなく買い足しが必要なんじゃないだろうか。

 

「それにしても、特命係だったか? よく協力してくれたよな」

「窓際部署だって聞いたけど、実際どうなんだ? 今の話じゃ相当優秀なように聞こえるけど」

 

 諸伏と降谷の言葉に、あー…とある程度「特命係」の現状を知っている刑事部三人は、遠い目をした。刑事部、特に捜査一課とは微妙な関係を築いているという話は聞いている。

 事件現場に乗り込んできて勝手に捜査をしているかと思えば、急に呼び出して「犯人がわかりましたので逮捕をお願いします」。一応自分たちの手柄にはなるが、気分的には相当複雑なのだろう。

 

「……まあ、上に嫌われて窓際にいるだけだから、優秀は優秀だ。特に杉下警部はな」

「あの人、一を知ったら十どころか百まで推理しそうだよな~」

「そういや何でお前が特命係と一緒だったのか聞いてねえ。知り合いなのか? 柊木」

 

 ごもっともな質問に、うーんと少し首を傾けた。まあ、いいか、下手に誤魔化すより言ってしまおう。もう警察学校にいたときとは違う。警察組織の現実くらい全員すでに飲み込んでいるところだろう。

 

「杉下さんは、俺の恩人なんだよ」

「恩人?」

「ああ。俺、誘拐されたことがあるんだ。俺のトラウマ人生のスタート」

 

 時が、止まった。

 

 

 *

 

 

 俺なりにかいつまんで事情を話せば、五人はそろって頭を抱えていた。それでもお好み焼きを食べる手を止めないのだから器用なものである。

 

「……女性苦手の本当の理由って、それか?」

「いや、ストーカーっていうのも本当だよ。正確に言うとその誘拐が大元で、立ち直ろうとしてたときにストーカーだのキャットファイトだのでトドメ刺されたというか」

「泣けてきた」

「たこ焼き食うか?」

「食べる……」

 

 目頭を押さえながらも諸伏は皿を出してきた。さすが、警察学校にいたときより数段強かになったと思う。俺はとても良いことだと思います。

 

「それに、……警察官僚の、不正」

「さすがに警察官になろうとしてるときにそんな話するのは気が引けてな。だから警察学校のときは言わなかったんだよ」

「それで、よく……」

 

 警察官になったな、と。降谷はそう言いたかったようだが、ぐっと口を閉じた。

 そういえば大河内さんにも同じことを尋ねられたことがある。おそらく、杉下さんも内心では同じことを考えているだろう。

 まあ俺が警察官になろうと思った理由はいろいろあるが、今この場で言えることがあるとするなら、それは。

 

「……俺の思う『警察』は、杉下さんだよ。そうあるべきだとも思ってる」

 

 かつての忌まわしい記憶。縛られて身動きも取れず、薄暗い部屋に閉じ込められた。そんな俺をじっと見つめる、おぞましい笑顔の女性。

 あの空間から救い出してくれたのは、優しくて力強い手。その手は、もう大丈夫ですよ、と頭を撫でてくれた。

 どうして忘れられるだろう、あのときの気持ちを。

 

「ま、実は俺の父親も警察関係者だし、今はお前らもいるからな」

 

 警察への恨みが全くないとは言わない。けど、「警察」に憧れをくれた存在もまた、強烈すぎた。

 だから俺は、―――だから。

 

「……あ、焼きすぎだ。お前ら早く食え」

 

 ホットプレートの温度を落とすと、さっと箸が飛んでくる。

 これ以上この話を続ける気がないことを理解してくれたのか、そのまま皆お好み焼きを口に詰め込んでいた。熱ッと猫舌の松田が悲鳴を上げる。馬鹿め。冷えたお茶を差しだしてやると、松田はいっきに飲み干した。

 そんな松田の様子に苦笑しながら、伊達が空気を変えるように明るい声で言う。

 

「柊木、お前も食べろよ。じゃないと食べつくしちまうぞ、俺たちが」

「お前らの食いっぷり見てるだけで胸焼けしそうなんだけど」

「食わなくてもいいんだぞ柊木、その分俺が食う」

「お前は少し遠慮しろ大食らい。機動隊の時並みに食べてたら太るぞ」

 

 そんなヘマはしねえ、と適温になったお好み焼きをまたばくばくと口に入れる。そんな松田に苦笑と溜息をひとつ漏らすと、俺も箸をとった。

 嗚呼、この空気は久しぶりだ。賑やか過ぎる夜が、ゆっくりと更けていく。

 




柊木さん、実はひげ剃りのあたりから結構酔ってます。
ちなみに作者はひろみつくんの顎髭とても好きです。なくても好きです。


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13

 自分のデスクで端末と向かい合い、ひとつ小さく息を吐いた。

 とっくに終業時刻は過ぎており、先ほどまで残っていた上司や先輩たちもすでに帰宅している。俺が遅くまで残ることはそれほど多くないせいか、からかい混じりの心配の言葉を頂戴したが、近く俺が開く予定の査問会の資料の確認だといえば疑うひとはいなかった。もちろん嘘である。そんなもの就業時間内にと完璧に仕上げている。

 カチ、カチ、とマウスをクリックしながら過去の資料を読み進めていく。

 画面に映っているのは、これまでに行われた査問会や調査の詳細。どんな警察官がいて、どんな不正を疑われ、どんな結果に終わっているのか。それからこれまで警視庁が受け持ってきた犯罪事件の数々。どんな事件が発生し、誰が捜査を行い、犯人はどうなったのか。

 どれも特段極秘の資料ではない。別に昼間に見ていても大きな問題があるわけではないのだが、年末に執行した()()()以来、さすがに周囲の目がうるさい。

 ただでさえ睨まれやすい監察官という立場、過去を探っているのを見られるのは必要以上に警戒心を煽るだけだ。全力で上層に喧嘩を売ったとは言え、あれが「実力」なのか「まぐれ」なのかを周囲が決めかねている今、熱心すぎるさまを見せるのは悪手だろう。

 

『相当噂になってんぞ』

 

 そうこっそりと俺の耳に入れてくれたのは、捜査一課にきて早々頭角を現している伊達だった。

 

『普段にこにこして謙虚な姿勢を崩さない優男が、嬉々として上層いたぶってたらしいってよ。お前のイメージ戦略大丈夫か?』

 

 そうからかい混じりに言われては苦笑するしかなかったが、実際に周囲の反応は顕著だった。

 いくら嫌われ者の監察官とは言え俺はほとんど見習いの扱いだったし、謙虚に振る舞っていればさほど避けられることもなかった。そのせいで女性も怯まず近づいてくることには頭を抱えていたが、まあ仕事とわりきって失礼にならない程度に何とか逃げていたのだ。

 それなのに、査問会後の周囲の反応と言ったら。

 

「……考えてみれば、久し振りか」

 

 あの、動物園にいる動物になったかのような気まずさ。檻もないのに間に何か阻むものがあるような、近づくのは気が引けるが注目はせざるを得ないという、あの感じ。学生時代は毎日がこんな状況だった。あのときはそれなりに辛く感じたものだが、今は違う。

 女性を含め、誰も近づいてこないのはかえってラク。強がりでなくそう思えるのは、そうやってこの状況を笑い飛ばしてくれる存在があるからだということは理解している。

 

 ―――あの頃の俺には、そんな存在はいなかった。

 

 ゆっくり息を吐きながら目を閉じる。今日確認したかったものにはすべて目を通した。あまり遅くなって明日に響くようなことになってはならない。こきりと首をならし、目を開ける。今日はここまでにしようと再びマウスに手をやったところで、傍においていたスマホの画面がついた。

 メッセージの通知とともに表示されていた名前は、その「得がたい存在」のうちのひとり。つい自分の目元が緩んだのを感じた。

 

 

 ***

 

 

「スーツにまで気をつかわなきゃいけないなんて大変だな」

「いや柊木だって気をつかってるだろ? 体裁的な意味で」

 

 降谷からの連絡を受け、今日は諸伏の日用品の買い出しに付き合っていた。

 潜入から離脱してはや数か月、いまだ諸伏の外出は制限されているそうで、プライベートでも出来るだけひとりで出かけることは避けているらしい。ストーカーに慣れていて気配や視線に敏感なお前ならヒロの付き添いに適任だとか抜かした降谷、言いたいことはわかるけどちょっと歯に衣着せろと思う。

 申し訳なさそうな顔で待ち合わせ場所に現れた諸伏に気にするなと手を振り、いくらか日用品を買ってまわった。これで最後だと案内されたのがこの洋裁店だ。

 公安捜査官は潜入時などを除き、基本的にはスーツで仕事をしている。が、何せ被疑者を追いかけて全力で走ることもあれば拳銃を上着の中に吊り下げる必要もある仕事だ。身体に合っていないスーツでもし動きに支障が出れば文字通りの命取り。だから毎日の戦闘服であるスーツはきちんと採寸して縫ってもらうことにしているのだという。

 諸伏がもつ布地のサンプルを横目に見ながら、どうかなと首を傾けた。

 

「そりゃまああんまり貧相なのは着ないけど、無駄にいいの着て目ェ付けられるのもな。俺自身は大してこだわりないし、一応『気取らないエリート』っていう設定でいるし」

「設定ってな……」

「どうせ良くは思われない立場だけど、自分から印象を悪くしに行く必要はないだろ」

 

 何の気なしにそう言うと、ふと諸伏が押し黙る。不思議に思って視線をやると、何だか妙に困った顔をしていた。

 

「……柊木って、意外とというか、人からどう見られてるかよく考えてるよな」

「……余計なトラブルは回避したいと思うのは普通だろ。面倒ごとが多い人生送ってきてるし」

「ああ、だから自分の演出も上手いし演技も出来る」

「……諸伏?」

「俺さ、正直不思議だったんだよ。ゼロと俺に配属先から声がかかったのは警察学校にいたときだ。……ゼロはわかるよ、あいつは本当に優秀だから。だけど、何で俺だったんだろうって」

 

 ゼロとずっと張り合っていた、お前じゃなく。

 わずかに細められたまなじりに、その言葉が本心であることを理解した。

 

「柊木の目立った欠点なんて女性苦手くらいだろ。しかもそれは俺たちしか知らなかったはずだ。なのに、」

「……諸伏」

「……悪い、そんなこと言われても困るよな。ただ本気で不思議だったんだよ、ずっと」

 

 そう言って諸伏は苦笑し、布見本に目を戻した。

 俺ではなく、諸伏が公安に選ばれた理由。そんなもの考えるまでもなく明白だと思うのだが、意外と本人は気づかないものらしい。

 

「諸伏」

「うん?」

「わかりやすいところから行くぞ。第一に、前も言ったと思うけど俺の父親は警察関係者だ。俺自身に警察官の知り合いはそんなにいないけど、俺の顔はそこそこ父に似てるらしいし、どっかで父が俺の写真とか同僚に見せてるかもしれない。つまり俺が潜入していた場合、身バレの危険はお前より高かった」

「……え、」

「第二に、俺は不得意な分野こそ少ないが、お前の狙撃ほどわかりやすい特技はない。お前、警察学校のときに射撃のセンスと目の良さを見込まれたんだって? 訓練を重ねたらやっぱり優秀な狙撃手に化けたんだって降谷が自慢してたよ。それだけ秀でた技術があれば潜入先で重宝される可能性も高いだろうな」

「え、えっと、」

 

 急に慌てだした諸伏に構わず、言葉を続けていく。諸伏が自分をどう評価しているのかは知らないが、俺からすれば十二分に優秀なやつだと思う。友人としての贔屓目を抜いても、安心して背を任せられる捜査官だ。

 思えば、こういうことを口に出したことはあんまりなかったかもしれない。言わなくても伝わっていると思っていたというのは甘えだったか。反省するとしよう。

 

「第三、お前は相手の警戒を解くのが上手い。誰とでも仲良くなれるし、少し話すだけで相手の懐に潜り込める。萩原もそういうの上手いけど、お前だって相当だよ。それから第四、使命感と忍耐力かな、普通の人間がこんなに長期間行動制限されて正気でいられると思うなよ。バレないためっつったって、外出制限されて仕事仕事仕事、気晴らしすらなかなかできない環境なんだろ。堪えられる人間はそう多くないよ」

「ひ、柊木、」

 

 少しずつ諸伏の顔が赤くなっていく。

 別に一生懸命褒めているつもりはない。俺にとってはただ思っていることを口に出しているだけなのだが、やはり諸伏にとってはいい薬のようだ。

 

「第五、お前らの仕事は成功したところで一切表にでない。世間的に評価されることなんてほぼないし、それを誇りとする組織だ。他人からの評価を求めることなく、やるべきことを迷いなく遂行できる人間じゃないと務まらない。つまり、だ。―――長年何をやってもトップレベルの結果を示す奴の隣にいながら、腐ることなくずっと努力を続けてきたお前以上に公安に相応しい奴、どこにいるっていうんだよ」

 

 そう言ったときの諸伏の顔と来たら。

 耳どころか首まで真っ赤、目は真ん丸に見開かれ、口は半開きのままわなわなと震えている。是非とも写真に残したいものだが、たぶんレンズを向けた時点でバレてしまうだろう。何とも残念なことだ。

 やれやれ、とつい顔が苦笑をつくる。

 

「……そういう意味では降谷が羨ましいな。俺にはそんな奴いなかった」

 

 嫉妬にも羨望にも、特別扱いにも慣れている。降谷と違って俺には何かと事情があったのも事実だけれど、俺を俺としてみてくれる友人なんて、まして一緒に努力してくれる友人なんて俺にはいなかった。少なくとも、お前らに出逢うまでは。

 

「納得できたか、諸伏」

 

 にやりとそう言ってやると、耐え切れなくなったらしい諸伏はもう勘弁してくれと蹲った。別に勝負をしていたわけではないが、何となく勝った気分だ。よきかな。

 

「お前の仕事ぶりは知らないけど、優秀な奴しか所属できない場所でずっと戦ってるんだ。何でとか余計なこと考えてんなよ、ただでさえ酷使してる脳がオーバーヒート起こすぞ」

「今現在お前のせいでオーバーヒート起こしてる……」

「見りゃわかる。ここまでわかりやすく赤面するやつ久々に見た」

 

 うるさい、と弱弱しい声が落ちる。

 それにまたつい笑うと、恨みがましい目線がこちらに向けられた。諸伏にしては珍しい、ふてくされた顔。

 

「……じゃあ、ゼロがスカウトされた理由は何だと思う?」

「日本が好きすぎるから」

「納得しかない……」

 

 わかりきったこと聞くなよと付け加えれば、諸伏はようやくいつものように声をあげて笑った。

 

 

 *

 

 

 採寸を終え、スーツをオーダーして店のドアを開ける。

 店に入る前までとは違い、何となく気楽そうな諸伏の表情に少し安心した。無自覚なのか、出かけ始めの諸伏は本当にピリピリしていた。仕方がないと言えばそうなのだが、外出るたびにそれでは本当に精神が参ってしまう。

 

「これで俺の用は終わったけど、柊木はどこか行きたいとこある?」

「ああ、じゃあスーパー付き合ってくれ」

「スーパー? 夕飯の買い物?」

「まあそれもあるけど。せっかくだから今日はお前と一緒に行きたい」

 

 我ながら完璧な笑顔でそう言った瞬間、即座に察した諸伏は盛大に頬を引きつらせた。

 

「……米? あと何の大瓶? 醤油? 酒? みりん?」

「あと砂糖と塩。何でああいうのって同じタイミングで残り少なくなるんだろうな? さすがに重いし順番に買い足そうと思ってたんだけど、諸伏がいるなら遠慮するほうが失礼だよな。頼りになる友人をもった俺は本当に幸せだよ。ありがとう諸伏、お前がいてくれて嬉しい」

「そういうセリフはもう少し別の場面で聞きたかったかな!」

 

 まあ気にするなと歩き出せば、ハイハイと苦笑した諸伏の足が自然と続く。なんやかんやで諸伏も嫌がっていないのはわかっていた。

 

「もうわかってるしいいんだけどさ、本当に本性隠さなくなったよな。柊木が控えめな性格だと思っていた時期が俺にもありました」

「何言ってんの、俺はずっと変わらないだろ」

「嘘つけ。全然違う」

「嘘じゃないって」

 

 そんな軽口を叩きながら歩く道が、ただただ楽しい。

 




スーツ云々と狙撃云々は適当です。
でもよくあんなにスーツで走れますよね。すごい。


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14

 柊木にヒロを任せた次の日、いつものように警視庁で端末と向かい合う幼馴染みは久しぶりにすっきりとした顔をしていた。

 

「おはよう」

「ああ、おはよ。あれ、今日はこっちに来る日だったか?」

「少し書類の確認がしたくてな」

「そっか、お疲れ」

 

 にっと笑うヒロの顔に、陰りはない。じわじわと安堵が胸に広がっていく。

 

「昨日は気晴らしになったか?」

「おかげさまで。けどひどいんだぜ柊木の奴、俺の用事が済んだ後どっか行きたいかって聞いたらすげえいい笑顔で『スーパー』っつって」

「……さては荷物持ちか」

「正解、腕痛くなるくらい持たされた。料理酒だの醤油だの、果ては米まで買ったんだぜあいつ! しかも十キロ! そのうえにさらに塩に砂糖に小麦粉まで乗せて!」

 

 手があるうちにまとめ買いしとかないとなと笑う柊木は紛れもなく魔王だったとヒロは切々と訴える。容易に想像ができて笑えた。柊木は気を許した相手に対して良くも悪くも遠慮をしない。最初の猫かぶりが嘘だろと言うくらい堂々と手伝わせるので、もはや一周回って許せてしまう。

 なんだかんだと楽しそうに昨日の話をするヒロを見て、いい気晴らしになったようだとそっと息をついた。

 組織から離脱して以降、ヒロの消耗具合は本当にひどかった。何の経験もない俺たちが例外も例外として潜入任務に送られたときからずっと、無茶ばかりしてきた。常に命の危険と隣り合わせ、目的のためならばと罪を重ねる。ましてヒロはスナイパーとして潜入したのだ、俺よりもずっとやりたくもない罪を重ねただろう。それでも任務のために、公安のために、日本国家のためにと尽くしてきたというのに、任務は失敗に終わった。

 決して「スコッチ」がミスをしたわけではない。俺も、公安の仲間たちもよくわかっている。情報の扱いには細心の注意を払っていたのに、まさか全く関係のない部署の人間から情報が洩れるとは誰も想定していなかった。厳格で知られる彼の上司さえ、悔しさと安堵に身を震わせてヒロを迎えた。

 

『すまない、……すまない! よく、……生きて帰ってくれた……!』

 

 絞り出すように響いた上司の言葉は、今でも耳に残っている。しかしそれにも、ヒロは上手く応えられていなかった。声をかければ反応はするし会話もするが、どこか上の空で地に足がついていないような。きっと時間が解決してくれるだろうとは思いつつ、俺はとにかく声をかけ続けた。

 柊木が元凶の罪をすべて暴き、さんざんいたぶって懲戒どころか送検まで持って行ったと聞いたときは、公安の関係者が皆歓声を上げた。ちなみにこの一件のおかげで公安内でも柊木の評価は非常に高い。接触が許されるのもそれゆえだ。

 その後はヒロもだいぶ元の明るさを取り戻し、久しぶりに同期たちと再会した時には昔のように笑っていた。

 もう大丈夫だと、そのときは思っていた。甘かったと言わざるを得ない。

 

『……ヒロ?』

『うん? どうかしたか、ゼロ』

『大丈夫か』

『……何がだ? 強いて言うならお前の器物損壊のおかげで寝不足だけど』

『それについては本当にすまん』

 

 表面上は元通りだ。よく笑うし、よく喋る。要領よく仕事をこなし、自分のペースを見失わない。だが、これでも長い付き合いだ。他の誰にわからなくても、俺にはわかる。

 ヒロの灰色の瞳が、ずっと空虚なままだということに。

 もともと人一倍忍耐力に優れ、取り繕うことも上手い男だ。心に抱えるものがあってもそう簡単に口にはしないし、まして弱音を吐くタイプでもない。いまだ潜入を続けている俺に対して引け目を感じていることも察していた。きっと俺では、何もしてやれない。

 それならばと、買い出しと気晴らしだと言って柊木にヒロを連れ出してもらった。ひとの機微に敏い柊木なら何か察してくれるかもしれないし、ヒロも柊木にだったら少しくらい心の内を吐露するかもしれない。そつのない柊木だ、少なくとも悪化はしないだろうと踏んで。

 そして今、実際にヒロの瞳に光が戻っている。きっと何かあったのだろう。さすが柊木、期待以上の成果だ。……幼馴染としては、ちょっと悔しい。

 

「……何だよゼロ、にやけた顔で。いいことでもあったのか?」

 

 それは、お前の方だろ。

 そう思いつつも口には出さず、何でもないと答えた。

 

 

 ***

 

 

 心理状態は身体機能にも影響を及ぼすというが、こうも顕著だとは。

 柊木と気晴らしに出てからしばらく、俺は今日も気持ちのいい目覚めを迎えた。

 

「……こうも極端だと我ながら呆れるというか……俺も単純だな」

 

 誰も聞いていない独り言と苦笑を零して、俺はベッドからおりた。

 言うつもりは全くなかった、かねてからの疑問を口にしてしまったときは本当に失敗したと思った。あんなのはただの八つ当たりだ。だというのに、柊木ときたら。

 

「……あいつ、わりと恥ずかしいこと普通に言うんだよな」

 

 生来の素直さなのか、柊木は人を褒めることにも、自分が思ったそのままを口に出すことにも抵抗がない。好意は素直に示すし、照れることも意地を張ることもほとんどない。

 当分ない話だろうが、もし柊木の女性恐怖症が治って恋人でもできれば、一切照れることなく惚気るのだろう。それも多分、無意識で。

 珈琲を淹れ、簡単に朝食の支度をする。近頃味をあまり感じなかった食事も、ようやく味わう余裕ができた。いったいどれだけ消耗していたのかと自分で呆れる。

 

『―――長年何をやってもトップレベルの結果を示す奴の隣にいながら、腐ることなくずっと努力を続けてきたお前以上に公安に相応しい奴、どこにいるっていうんだよ』

 

 そんなことを言われたのは初めてだった。確かにゼロと一緒にいれば比べられることもよくあったし、一緒に何をやっても俺よりずっといい結果を出すのがゼロだ。誰かに褒められるのも、認めてもらうのも、全て。

 嫉妬がなかったとは言わないが、そんなすごい奴が俺のことを幼馴染だ親友だと言ってくれるのは嬉しかったし、俺は俺として頑張ればいいと思っていた。ゼロに勝つために努力をするわけでもないし、誰に評価されなくてもいいと。だけど。

 

「……あれは失態だ……」

 

 いくら仕事中ではないとは言え、平常心を失って表情のコントロールも全くできなかった。職場であんな姿見せたら間違いなく異動待ったなし。

 柊木は必要のない嘘はつかない。あれもただ、心から思っていることを口にしただけ。表情と声色から、それくらいはわかる。わかるからこそタチが悪いんだと言いたいあのタラシめ。

 悔しさ半分恥ずかしさ半分で内心叫びながら、ぬるくなった珈琲を喉の奥に流し込む。そろそろ身支度を整えて家を出なければいけない。

 潜入の失敗は、正直だいぶ堪えた。しくじった覚えもないのに俺の身分が明らかになり、自決を考えながらもとにかくスマホを処分しなければとただ走った。俺は誰を、何を信じていいのかわからなかった。

 何があった? 俺が失敗をしたのか?

 それとも誰かが俺の情報を? ―――誰、が?

 頭の中に疑問符が飛び、混乱が過ぎてそれまで俺のサポートをしてくれていた公安の仲間さえ疑った。経験に乏しい俺を、あんなに支えてくれていたのに。

 俺の情報を流した奴が捕まり、これでひと安心だなと同僚に肩を叩かれても心は晴れず、俺はそんな自分自身に絶望すら感じていた。

 

『外的要因があったとは言え、重要な潜入任務に失敗した』

『きっとよく組んでいたバーボンにもNOCの疑いがかかっただろう。俺はゼロの任務遂行の邪魔をしてしまった』

『命がけで任務にあたる公安の仲間意識は強い。その仲間に、疑いを抱いてしまった。俺の生存をあんなに喜んでくれた仲間を疑ったなんて』

『こんな俺は、公安にいていいのだろうか』

 

 そんな暗い思考があれ以来ずっと俺の中で渦巻いていた。たぶん、もともとそんなに持っていなかった自信というものを根こそぎなくしていたのだと思う。

 そんな俺に、気遣いでも何でもない、柊木の心のままの言葉は響いた。

 

『人を見る目が確かなお前が、そう言ってくれるなら』

『俺はまだ、公安で頑張れるかもしれない』

 

 我ながら本当に単純だ。ずっと抱えていた黒いものがこんなに簡単に消えてしまったのだから。そんな自分自身に苦笑を零しながら、ジャケットを羽織る。柊木に選ぶのを手伝ってもらったネイビーのスーツは、ひどく身体に馴染んだ。

 

「……あ、また柊木にお好み焼き作ってもらおう」

 

 いまいち味の分からない状態で美味いとわかっているものを食うほどむなしく、悔しいことはない。先日の荷物持ちの代金がわりにたかりに行こう。ゼロに相談して予定を調整しなくては。

 支度を終えて鞄を持った俺は、いつものように玄関のドアを開け、一歩を踏み出す。さて、今日も火が付きやすい幼馴染の補佐に励むとしようか。

 

 

 ***

 

 

 ようやく今日の分の仕事を終え一息ついたとき、スマホの着信音が自室に鳴り響く。手に取り相手を確認すると、柊木だった。

 

『ああ降谷、今いいか?』

「大丈夫だ。どうした?」

 

 柊木とは定期的に連絡をとっている。もちろん他の奴らとも雑談のようなやり取りを交わしたりしているが、頻度は柊木がダントツに多かった。

 

『悪ガキどもが変なもん見たらしい。杞憂かもしれないが、ちょっと気になってる』

「詳細頼む」

 

 柊木の言う「悪ガキ」、仲間内ではふざけて「非行少年ネットワーク」なんて呼んでいるが、彼らの存在はまったく馬鹿にできない。その働きはまさにホームズの手足であり目や耳となった「ベイカーストリートイレギュラーズ」そのもの。偶然とはいえヒロの逃走を助けただけでなく、柊木がため息をつく程度には優秀な諜報員になりつつあった。

 彼らは街に溶け込み、どこにいても特に怪しまれることはなく、常にそっと耳をそばだてている。まあたいていは伊達がどこそこで仲睦まじくデートしていたとか、伊達が照れくさそうに結婚情報誌を購入していたとか、そういった情報らしいのだが(伊達は真剣に頭を抱えていた)、たまに妙に引っかかる情報を持ってくることがあるらしい。柊木としては協力者のような使い方はしたくないようだが、せっかく得た情報を渡さないのもどうかということで、こうして報告を上げてくれている。

 その情報の精度と量は現役捜査員顔負けのレベルで、いっそ全員公安に引き抜くかと言ったら冗談でもやめろと怖い顔をされた。

 

「……なるほど。確かにそれは妙だ」

『もうその近辺には近づかないよう釘刺してあるから』

「ああ、その方がいいな。わかった、後はこっちで調べる」

『よろしく』

 

 いつもながら優秀だなと笑いながら言うと、優秀すぎて困ってんだよと心底困った声で柊木が返した。

 

『何なのあいつら、街で迷子見つけたら保護者のとこまで送り届けてやってるし、大荷物抱えたご老人がいたら家まで運んでやってるし、こないだなんかコンビニで万引き犯捕まえやがったんだぞ。凶器持ってるかもしれねえのに喧嘩のやり方も知らない奴らが手ェ出すなって締め上げたけど。今や近所でも評判のいい子たちだよ』

「……それはもう不良と言っていいのか?」

『俺もそう思う』

 

 怒っていいか褒めていいかわからなくなっているらしい柊木に、つい噴き出す。どう考えても柊木の影響だろうに、本人にその自覚がないのだから面白い。

 

「そういえば柊木、ヒロと出かけた日、何かあったか?」

『何かって? 特に何もなかったけど。俺が諸伏をこき使ったくらいで』

「こき使った自覚はあるんだな。……いや、ヒロの顔色が良くなっていたから」

 

 そう言うと柊木は、あー……と声を漏らした。何か心当たりがあるらしい。

 

「いや、無理には聞かないが。……良かったと思って」

『……まあ、もう大丈夫なんじゃないか、たぶん。俺もよくわかってないけど』

 

 本当に柊木もよくわかっていないらしい。無意識にひとを立ち直らせるなら、お前のそれはもう才能だ。苦笑するしかない。

 まあ、と柊木は軽い声で続けた。

 

『ひとにメシたかれるようになったらだいたいもう大丈夫だよ。萩原や松田もそうだった』

「何だそれ」

『あいつら皆してお好み焼きとたこ焼き食べたがるんだよ。気に入ってくれんのは嬉しいんだけど、またあの量焼くのかと思うとちょっと気が遠くなる』

 

 何でもないようにそう言う柊木に、そういえば前のお好み焼きは松田の事件の直後だったな、と少し遠い目をした。

 僕の同期たち、わりと大変なことに巻き込まれているわりに少々呑気すぎやしないだろうか。いや、確かに柊木のお好み焼きは美味いけど。うん、……食べたいな。

 

「……柊木」

『うん?』

「今僕が取り組んでいる、大きい仕事」

『うん』

「それが無事片付いたら、そのときもまたお好み焼き頼む」

『お前もかよ』

 

 仕方ねえなあ、と呆れたように言うその声を聞いていると、不思議と安心した。本当に柊木は、変な奴だ。お前がそうやって笑ってるうちは、大抵のことは何とかなるような気がしてくるのだから。

 

『降谷』

「何だ?」

『お好み焼きくらいいつでも焼いてやるから、早く外でも降谷って呼べるようになってくれよ』

「……ああ」

 

 柊木の柔らかい言葉は、耳に心地いい。……ああ、ダメだ、瞼が下がってきた。

 

『……降谷? 起きてるか?』

「おきてる……」

『ほとんど寝てんじゃねーか。疲れてたんだろ、長話して悪かったな』

「ひいらぎ……」

『何だよ』

 

 お前がいてくれて、よかったよ。

 そう口を動かし、そのまま()は眠りについた。

 

 

 *

 

 

「……え、何寝たの降谷……?」

 

 あんな最大級のデレを投下しといて寝落ちとは。

 本当に寝落ちしているなら多分最後の言葉は覚えていないだろう。録音していなかったことを心から悔やみつつ、通話を切った。

 

「……諸伏のことばっか心配してたけど、お前だって精神やられてたんだろうに」

 

 諸伏といい降谷といい、公安組は顔に出にくいから厄介だ。

 松田くらいわかりやすく荒れてくれればフォローもしやすいというのに、全く可愛げがない。思うところがあるなら少しくらいは何かしてやりたいと思うのに、なかなか隙を見せてくれないというか何というか。

 俺がこれだけ堂々と迷惑を掛けにいっているのだから、あいつらも同じくらい堂々と迷惑を掛けにくればいい。……こういうことも言わないと伝わらないのか。我ながら人付き合いの経験値がたりなすぎて手探り感が否めない。こういうことが得意なのは萩原だ、そのうち話を聞いてもらおう。

 まだまだ努力しなきゃいけないことだらけだな、と苦笑してスマホをベッドサイドに置いた。といっても、別に悲観はしていない。

 今できないなら、これからできるように努力すればいい。今できることのなかから、やるべきことを見つければいい。たいていのことはこのふたつに尽きる。

 とりあえず、お好み焼きでもたこ焼きでも、あいつらのためにできることがあるのは誇らしく思えた。大学時代に作り方を叩き込んでくれたバイト先のおっさんたちに感謝をしつつ、電気を消してベッドに潜り込む。

 

「……頑張ろ」

 

 ふと口から零れた小さなつぶやきは、ベッドの中でほどけて消えた。

 



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15

「はは、そういうことちゃんと考えるのすげー旭ちゃんって感じだわ」

「……貶されてる?」

「何でよ。褒めてるって」

 

 考えないやつよりずっといいっしょ、と萩原は上機嫌でビールに口を付ける。

 今日はしばらく追っていたようやく事件が片付いたという萩原から誘いを受け、俺の家でふたり酒を飲んでいた。ほかのやつらにも一応声を掛けたそうだが、まあ二十四時間体制で仕事にあたる人間の身体がそうそう空いているわけもなく。

 実は飲み会で六人揃うことなんて稀も稀で、こうしてサシ飲みしたり数人だけ集まることの方が多かったりする。それでも数ヶ月に一度の楽しみとして、何とか六人で集まる時間を設けている辺りにはもはや皆の執念すら感じていた。

 のびてきた後ろ毛を適当にくくった萩原は、ぷは、と景気よく缶を空にした。

 

「確かに公安組は顔に出ないっつーか隠したがるからな~」

「下手なこと言ったらかえってプライド刺激しそうだし……」

「うんうん。でも旭ちゃんはその辺うまいことしてると思うけどね?」

「……そうか?」

 

 適当なテレビ番組をBGMに、並んでソファに座り酒とつまみを広げる。

 萩原とふたりならちょうどいいと思って公安組のことを話題にしてみたのだが、萩原は軽い調子を崩さない。しかし自分の言葉にはちゃんと自信があるように見えた。

 ぷち、と口の中で枝豆が弾ける。

 

「この前庁内で偶然ヒロくんと顔あわせてさ。ちょっと立ち話したけど、ほんとにもう大丈夫そうだったよ。憑き物が落ちたような顔してた」

 

 ヒロくんが元気になったんなら降谷ちゃんも大丈夫だろうし、と萩原は軽く手を振った。

 確かに諸伏は何となく元気になったような気はしていたが、まあ俺よりその辺に鋭い萩原が言うのなら本当に大丈夫なのだろう。

 それなら良かったと小さく息をつく。萩原はそんな俺に苦笑し、気にしすぎだってと肩を叩く。

 

「旭ちゃんてみょーに人間関係に苦手意識もってるよねえ。そんな心配しなくて旭ちゃんはちゃんとしてると思うよ? 俺らだって別に旭ちゃんにやなこと言われたとかそんな覚えないし、職場の猫かぶりも上手くいってんだろ?」

「経験値不足の自覚があるんだよ……職場の猫かぶりはお前らの真似」

「真似?」

「諸伏五割、萩原四割、伊達一割くらいの割合で参考にしてる」

「ははっ数字が具体的すぎ! 降谷ちゃんと陣平ちゃんは?」

「参考にしたら多方面に喧嘩売り歩くことになるだろ」

「わかってる~」

 

 やっぱちゃんとしてんじゃん、と萩原の手の中で新しい缶があけられる。

 俺たちのなかで対外的な人当たりの良さで言うならその三人になる。コミュニケーション能力という意味なら萩原が一番なのだろうが、少々軽さが目立つので職場向きなのは諸伏のほうだと思ってその割合になった。

 降谷もちゃんとするときはしているのだろうが、俺が見てきたのはわりと頭に血が上りやすくて慇懃無礼も普通に吐く感じの「降谷零」なので。いつか職場での立ち振る舞いを見る機会があったらまた観察してみよう。松田については残念ながら論外だ。職場で大きな喧嘩を起こしてないのは奇跡と言える。

 うーん、と萩原は少し考えるように視線を浮かせた。

 

「旭ちゃんが自分のレベルで納得できないってんなら頑張るしかないけど、何でも必要以上に極めることはないんでない? 職場内のことはともかく、普段のことなら俺らでもカバーできるかもしんないしさ。んで、旭ちゃんも俺らが困ってるときは助けてよ。ダチってそういうもんじゃん?」

「……適材適所?」

「そゆこと。旭ちゃんは旭ちゃんで他にいっぱいすごいとこあるんだし。ほら、人を見る目とかすごいじゃん? 警察学校時代、ヒロくんのご両親の仇、あのひとに最初に目ェ付けたのも旭ちゃんだったよねえ?」

「あれは別に……」

 

 正直を言えばほとんど勘に近いそれ。数々のトラブルに巻き込まれてきた経験から、腹に一物ある人間は何となくわかるというだけだ。

 確かにそれに助けられたことは多くあるが、きちんとした根拠があるわけではないだけに何となく特技とは言いがたい。

 

「なーに言ってんの、勘でもあってりゃいーんだってそういうのは。にしても旭ちゃん、言っていいのかわかんないけど実は女性関係で得たスキル多いよね?」

「まあ、ストーカーのおかげで視線には敏感になったよな。尾行にも絶対気づける自信ある」

「うわあ。……ひょっとしてあれ、作戦立てるのが得意なのもそう?」

 

 ごく、とビールを飲み込んだ喉が音を立てる。

 何でそういうことが得意になったのかと言われれば、確かにそれは長年の積み重ねだと言うほかない。

 

「……萩原、小中高どれでもいいから、通学路思い浮かべて」

「え? うん」

「家出て道を歩いて学校に着いて、自分の席に着くまで。その間、()()()()()()()()()()()()は可能だと思う?」

「……。……え、無理じゃん……?」

「俺は毎日考えてた」

 

 もちろん、下校時もだ。そう遠い目で言えば、萩原はさっと目元を押さえた。

 家を出るタイミング、歩くスピード、通るルートはもちろん、道のどの辺りを歩けばいいのか。曜日や日、その当時に視線を感じていた相手の思考・行動パターンも含め、ありとあらゆる情報から必死に知恵を絞った。言わば毎日がミッション・インポッシブル。それを何年も続けていれば多少は頭も鍛えられるというものだ。

 なるほど、そう言われれば確かに女性苦手から得られるものは多かったのかも知れない。ははは、と乾いた声が口から漏れると同時に、口にちくわきゅうりを突っ込まれる。

 

「おっけー旭ちゃん、もういいよ。言わせてごめん」

「別に。昔の話だ」

 

 どんな経緯で身についたものであれ、役に立つならそれでいい。俺だけでなく、皆の役にも立てるなら尚のこといい。

 そうだな、とちくわきゅうりを咀嚼して飲み込んだ。

 

「俺もできることするし、頼れるとこは頼らせてもらう」

「ん、それでよし!」

「で、さっそく頼りたいことがあるんだけど」

「お? いーよいーよ研二おにーさんに言ってみなさい。今度はどこの女の子?」

「女性問題を前提に話聞こうとすんのやめてくんない?」

 

 いや、あってるところが哀しいんだけど。

 結局何だかんだと萩原に話を聞いてもらっているうちにとっぷりと夜は更けていく。こういう萩原の聞き上手はまだ真似できないなと、すっかり酔い潰れた萩原に毛布を掛けながら思った。

 



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16

 憧れだった念願の部署に配属が決まった。

 警察の花形と言っていいだろう捜査一課は、殺人や強盗などの凶悪事件を管轄とする。そこにいるのは相応に評価されている優秀な刑事ばかり。まだまだ半人前の自分では力不足だろうけれど、精一杯尽力したいと思う。

 きゅっとネクタイを締めて、よし、と気合いを入れた。

 

「俺が教育係の伊達だ。よろしくな」

「た、高木と申します! よろしくお願いいたします!」

 

 教育係として紹介されたのは、刑事という職を絵に描いたような強面の男性だった。大柄で威圧感があるが、にっと笑う目元は優しげで。元気がいいな、と僕の肩を叩いた伊達さんは、いかにも頼り甲斐がありそうだった。

 

「まあ、気負わずいこうや」

 

 これから僕は伊達さんについて、刑事のいろはを勉強することになる。

 

 

 *

 

 

 配属されてしばらく。

 ようやく職務について基本的な事柄をおさえ、たまに事件にも同行させてもらえるようになった。目の当たりにする現実の事件は、やはりフィクションとはくらべものにならない。冷静に被害者のご遺体と向き合い、現場や証拠を調べることに慣れるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 

「まあ、誰も最初はそんなもんだ。初めて事件現場を見て吐かねえ奴の方が珍しいんじゃねえか」

「そ、そういうものですか……?」

「普通、見る機会ねえからな」

 

 そりゃそうだ。

 誰かの手によって命を奪われるのと病気や寿命でお亡くなりになるのでは訳が違う。無理やり命を奪われた場というのは、何とも言い難い陰惨な空気があった。

 現場を思い出して少し気が重くなりながらも、コンビニで買ってきたパンを警視庁のまずい珈琲で胃の中に流し込む。

 

「報告も終わったし、午後は聞き込みいくからな」

「はい」

 

 午前中に現場検証を行い事件性が認められたため、午後からは現場周辺の聞き込みだ。伊達さんの聞き込みの仕方をよく見ておかなくては。何より、少しでも早く手掛かりをつかんで犯人を逮捕し、被害者の無念を晴らさなくてはならない。

 む、と気合をいれる僕を見て、伊達さんはふと笑った。

 

「お前、意外と根性あるな」

「? そうですか?」

 

 おう、と伊達さんが頷いたとき、後ろから伊達さんを呼ぶ声が飛んできた。

 

「伊達、ちょっといいか」

「松田。どうした?」

 

 伊達さんの同期だという、松田さんだ。

 癖のある黒髪とサングラスがトレードマークのワイルドなイケメンで、元機動隊という珍しい経歴をお持ちだとか。その経歴にそぐわず、細身ながらしっかりと鍛えられた体躯をもち、犯人確保においては非常に有難い戦力なのだと噂を聞いている。先日腕相撲したら延々と勝負がつかなくて引き分けになった、と伊達さんが笑っていた。

 

「ふたりとも休憩中なのに仕事の話~? 真面目だねぇ」

 

 そこにひょいっと乗り込んできたのは特殊犯係の萩原さん。

 この人もおふたりの同期だと伺った。普段はのんびりとマイペースに振舞うが、ひとたび事件となれば人が変わるというのがもっぱらの評判。前にあった事件で懲りたから仕事中は気を抜かないことにしたんだよね~と笑って言い、伊達さんと松田さんに当たり前だと頭をはたかれていた。

 伊達さんと一緒にいるせいかよく話しかけてくれて、係こそ違うがとても話しやすい人だ。

 

「ハギお前ニンニク臭えぞ」

「マジで? ごめんごめん、ラーメン食べたんだよね。後で煙草吸って消してくるわ」

「それは消してねえ、上書きだ」

 

 呆れた顔で言う松田さんに大して変わらないって~と萩原さんは笑った。

 この人たちの気安い会話は、年上の先輩に対して非常に失礼ながら、仲が良いのが伝わってくるので微笑ましい。

 

「相変わらず仲が良いですね」

 

 僕の思いを代弁するかのように、近くにいた白鳥さんが言う。周囲の諸先輩方も、苦笑を浮かべつつどこか微笑ましげだ。

 

「何度言わせんだよ、腐れ縁だ」

「やだ陣平ちゃんたらつ・れ・な・い、いでっ」

「うぜえ。殴んぞ」

「いやもう殴ってるだろ」

 

 悪ノリする萩原さんに容赦なく拳を振るう松田さん、そして苦笑しつつ見守る伊達さん。それを見て、俺の同期たちもどうしてるかなと少し懐かしく思う。もう少し落ち着いたら連絡をしてみるのもいいかもしれない。

 

「ここに柊木監察官が加わったらどうなるのか、見てみたい気もします」

「……わしにはうまく想像できんな」

 

 白鳥さんの言葉に、目暮警部は苦笑した。

 柊木監察官、初めて聞く名前だ。つい好奇心に駆られて聞き返した。

 

「柊木監察官というのは? 監察官って、あの監察官ですよね」

 

 警察官の不正を取り締まる、警察の中の警察。エリート街道のひとつで警察庁からの出向の人が多く、優秀かつ将来有望な人が配属される部署だとか。身内のあらを探すという職務上、あまり好かれない立場だというのも聞いている。

 僕の言葉に、周囲にいたいろんな人からぽんぽんと答えが返ってきた。

 

「伊達たちの同期なんだと。異例の引き抜きで若くして監察官になった人だ」

「エリートですさまじく頭が切れるとか。腹が立つレベルのイケメン」

「ばっさばっさと上層の不正を暴いて査問会でいたぶってるって評判だよ。品行方正な優男に見えるんだけどな」

「ああ、最初はただのエリートの優男だと思ってたんだけどなぁ?」

 

 にやり。そう音がしそうなくらい先輩方が笑ったとき、松田さんがぎくりと肩を震わせた。伊達さんと萩原さんもにんまりと悪い笑顔になる。

 

「例の事件は、もはや伝説だよなぁ松田?」

 

 苦虫をかみつぶした顔というのはこういう顔を言うのだろう。サングラスの奥の瞳は心底嫌そうな色を浮かべている。そのまま松田さんは自分のデスクにあった煙草の箱をさっと掴み歩き出そうとしたが、萩原さんと伊達さんが松田さんの両肩にぽん、と手を置いて阻止した。

 

「自分の黒歴史の話になりそうだからって逃走することないんでない?」

「まあ煙草吸いに行くのは後にしとけや。せっかくだから可愛い新人にお前と柊木の伝説的事件の話をしてやろうぜ?」

「お前ら……!」

 

 さっと萩原さんが羽交い絞めの体勢にうつる。ばたばたと松田さんは暴れているが、確か萩原さんも元機動隊、松田さんと言えど逃れられないらしい。

 

「ま、俺もそんときはまだここにいなかったから聞いた話なんだけどな」

「伊達テメッ、オイこら離せ萩原ァ!」

「はいはい落ち着こうね~」

 

 伊達さんが話してくれた事件の話は、僕が今まで見てきたフィクションよりもずっとドラマチックで、そしてリアルだった。

 

 

 *

 

 

 かつての事件を話して聞かせている間、高木の目はずっと輝いていた。ヒーローものを見る子どものような、純粋な憧れを浮かべた顔。これは話し甲斐がある。

 後ろで殺気立った獣がとんでもない目つきでこっちをにらんでいるが、軽く無視をして事件の流れをたどっていく。萩原が重傷を負った爆破事件の話から、例の観覧車と病院の爆破未遂事件、そしてその後の査問会の話まで。

 特に松田の暴走と柊木の拳一発の件については事細かに語った。爆笑した萩原に十回は聞かされたので詳細まできっちり頭に入っている。

 

「す、すごい、本当にドラマみたいな話ですね!」

「そうだろそうだろ」

「事件は刑事ドラマみたいですけど、暴走する友人を拳で止めるところはまるで青春ドラマ、」

「マジでやめろ!」

 

 耳を真っ赤にした松田が叫ぶ。いまだ羽交い絞めの腕を緩めない萩原は音もなく爆笑。周囲の同僚たちも皆笑っていた。

 たまにこうやって事件の話をしては、皆で松田をからかっている。それは最初のうち勝手な言動から反感を買っていたという松田が皆に受け入れられた証拠とも言えるだろう。あの事件以降、人が変わったように真面目に職務にあたるようになった松田を誰もが認めていた。まあ根は真面目な松田だ、こちらからすれば元に戻っただけなのだが。

 

「あの事件以来、まあ松田も変わったわけだが」

「うるせえです」

「はは、柊木監察官もなぁ。かなり印象変わったというか、なあ?」

 

 エリートという立場を鼻にかけることなく、謙虚で、礼儀正しくて、誰に対しても敬語で、どんな状況でも笑顔を崩さない、完璧を絵に描いたような男。しかも超がつくイケメンで、若くして監察官に引き抜かれたということもあり、警視庁内でも有名人だったらしい。

 中身を知っている俺たちからすれば笑えることこの上なかったが、柊木なりの世渡りなのだろうとその本性を言うようなことはしなかったし、同期であることすらもあまり公にしないようにしていた。別に言いふらすことでもない。

 しかしこの事件で柊木へのイメージはかなり変わったと言っていいだろう。もちろん良い方にだ。

 

『一発で松田を沈めたぞ』

『機動隊あがりの奴を、内勤のエリートが?』

『あいつら同期で友人だってよ。想像つかねえ』

『しかも偶然爆弾見つけて松田に解体させたって』

『それ監察官としてまずいだろ……』

『でも、そのおかげで特殊犯係の萩原が助かったらしい』

 

 松田を一発で沈めた腕っぷしも、その容赦のなさも。病院で()()爆弾を見つけた際にとった行動も、その決断力も。

 刑事ドラマにあるような現場とキャリアの確執は実際あれほどあるわけではないが、やはり現場の人間には自分たちこそが実際に事件を解決しているのだという自負がある。現場を走る人間だという、誇りがある。だからこそ、柊木の行動は衝撃だったのだろう。

 そして、事件の詳細を知れば知るほど柊木が何を思ってそういう行動に出たのかが理解できた。人命を最優先し犯人の思考を読んだ結果、職務に反してしまったのだと。現場を知り尽くした人間だって、爆弾を目の前にしてそこまで冷静に判断ができるか怪しいものだ。

 

『現場を知らん若手だと思っていたが、大したもんだ』

 

 これが話を聞いた大半の人間の感想だろう。

 しかも査問会においては自分の行いについてろくに言い訳もせず、自ら厳重な処罰を求めたらしいというのも噂になっていた。どれだけ正しいことをしていても、ルール違反に違いはない。そう態度で示した潔さも、見た目に似合わない男気も、柊木の評判を高めるのに一役買っていた。

 さらにこの直後に諸伏の件で大きな不正を暴いてみせたのだから、その後の柊木の評判たるや、言うまでもない。

 

「すごい人なんですね、柊木監察官て」

「うんうん、旭ちゃんすごいんだよね~」

 

 本性アレだけどね、と萩原が心の中で付け足したのが察せられて思わず笑った。実際すごい奴でいい奴なのだが、何せたまに魔王でたまに鬼でたまに暴君なのでこちらとしては素直に褒め難いところがある。あの笑顔の裏に隠されたものをいつか話してみたいものだが、多分誰にも信じてもらえないだろう。あいつの擬態は完璧だ。

 

「監察官の方に恐れ多いですけど、いつかご挨拶してみたいです」

「やめとけ、本来監察官なんてやばいことしねえ限り関わらねえ奴なんだからよ」

 

 けっ、とようやく羽交い絞めから解放された松田が不機嫌そうに言う。さんざん暴れる松田を押さえつけていた萩原はいたーい、と軽く腕を振っていた。

 

「まあどっかで見かけたら挨拶したらいーよ。警視庁内でも有数のイケメンだからすれ違ったらすぐわかるんでない?」

「そんなに格好いい方なんですか」

 

 感心したように言う高木に、萩原はすっと真顔になって言った。

 

「柊木が制服着て立ってるだけで、防犯相談や道案内を頼みたがる女の子が集まって長蛇の列ができた」

「……それは冗談でなく?」

「冗談だったら良かったよね」

 

 実習から戻ってきた柊木が学習室に入った瞬間号泣したことをよく覚えている。仕事の時間は堪え切れたが、気が抜けるとだめだったらしい。もはや無意識で涙が流れるらしく、音もなく泣き続けた柊木はとにかく哀れだった。

 ただ、俺たち六人で使う学習室に入ると気が抜けるという事実がちょっとだけ嬉しかったのは秘密の話。

 

「……それ本人的には相当な黒歴史だからやめてやれ」

「あーごめんごめん。皆さんも秘密にしといてやってくださいねー? さすがに本人本気で落ち込んでたんで」

 

 軽く萩原が言うと、皆苦笑して頷いてくれた。

 こうやって好意的に噂話をされるようなエリートはなかなかいない。徐々に柊木の味方が増えてきているということだろう。監察官という立場上、癒着を疑われる馴れ合いはよろしくないが、味方が増えること自体はきっと柊木にとっていいことだ。

 

「ま、そんなんだからぐいぐい来る女基本的に嫌がるんですよねえあいつ」

 

 ぴく、と近くにいた女性たちの幾人かが動きを止めた。

 なるほど、萩原の奴、それを言いたくてその話をしたのか。同じく察したらしい松田も、さりげなく続く。俺も乗っておこう。

 

「露骨なアピールは萎えるだろうな」

「仕事場で言い寄ってくる奴も眼中にないだろ。それに応えるそぶりでもみせようもんなら即刻左遷だ」

 

 だから、下心で柊木に近づくのはやめろよ?

 言外にそう言えば、どことなく女性陣がしょんぼりしていた。悪いが諦めてほしい。

 

「俄然お会いしてみたくなりました」

 

 好奇心を全開にした高木が意気込んで言う。

 今のところ紹介する気はあまりないが、どこかですれ違ったら教えてやるくらいのことはしてやろう。松田も言ったが、本来あんまり馴れ合ってはいけない奴だ。

 その後、俺が知らないうちにどこかで柊木とすれ違ったらしい高木は、芸能人と遭遇したがごとく興奮していた。本当にびっくりするくらいイケメンさんですね、と男の後輩にまで言われるあいつの顔面の出来栄えはいっそ恐ろしい。

 まあすれ違ったくらいならいいかと軽く流していたのだが、後日心底不思議そうな柊木の言葉を聞いて俺は綺麗にビールを噴き出すことになる。

 

「何かお前の部下だっていう……高木巡査? に挨拶されて握手求められたんだけど、いったい俺のことどう説明したの?」

 

 高木お前、挨拶もあれだが握手はねえだろと。

 肩を落として頭を抱えた俺の横で、柊木はひたすらに首をひねっていた。

 



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17

 始めた頃は欠伸を連発していた俺も、最近は目覚ましがなくても起きられるようになった。

 鳴り響く前にアラームを切り、ひとつ伸び。顔を洗い、警察官にしては少し長い髪を軽くゴムでまとめた。簡単に胃に水とエネルギーを放り込んで、トレーニングウェアに着替える。同じくトレーニング用のシューズを履き、軽くストレッチをして走り始めた。

 早朝の空気は気持ちがいい。柔らかく冷えた空気が肌を撫で、わずかに残っていた眠気を奪ってくれる。ペースよく走りながら、よくランニングコースに使っている公園に向かった。

 ただでさえ激務に就いているというのに、誰に言われるでもなく早朝に走るだなんて。毎朝そう自分に苦笑しながら、なんだかんだと結構長い間続いている習慣だ。

 俺は自他ともに認めるマイペースである。頑張るときはもちろん頑張るが、人と自分を比べて成果に焦るようなことは決してなかったし、俺は俺としてやっていけばいいと思っていた。だから周囲にいるやつらがどれだけすごいやつらでいようと、俺は俺のペースを乱すこともなかったし、頑張りすぎることもなかった。

 それがほんの少しだけ変わったのは、いつからだろう。

 やはりきっかけはあの爆弾処理の失敗だろうか。公安組を除いた三人が、揃いも揃って泣きそうな顔をしていたのにはさすがに驚いた。

 

『心配、かけやがって……!』

『この馬鹿、治ったらまず正座で説教三時間は聞いてもらうからな』

『そのあとは俺から鉄拳だこの野郎……本当に、良かった……!』

 

 心配、かけちゃったな、と。三人の声で自分が生きていることを実感し、俺までちょっと泣きそうになったのはばれていないと思いたい。

 それに、誰にも言ってないことだが、深夜にこっそり病室を覗き込んでくる奴がふたりいたことを俺は知っている。俺が寝たふりをしていたことに気づかなっただろうそいつらは、小さな呟きだけを落としていった。

 

『……堂々と見舞いに来れなくてごめんな』

『無事でよかった……』

 

 そのころはその音信不通だった友人ふたりの事情なんて知らなかったが、きっと面倒な仕事をしているであろうことだけは予測していた。そんな中でも俺の顔見に来てくれるって、俺ちょっと愛されすぎでは。お前ら本当に俺のこと大好きね。

 そりゃ仲は良いし気が合う自覚もある。けど、ここまで俺のこと気にかけてくれるなんて、とさすがに胸がくすぐったかった。

 そのあとももう大変、この事件のせいで陣平ちゃんは荒れるし、刑事部来て馬鹿やろうとするし、俺はまた爆弾とデートする羽目になったし、解決したと思ったら今度は何か諸伏が危ない目にあったらしいし、柊木は査問で魔王発揮して出世するし、公安組とまた会えるようになるし、……いや俺の警察官人生、十年もたってないのに激動過ぎでは。俺もうちょっと平和的に警察官やるはずだったような、と思ってももう後の祭り。

 きっと今後もさらなる騒動に巻き込まれたりするのだろう。けどやっぱり、気の良いあいつらと縁を切る気になんてさらさらなれなくて。

 それならせめて、生き残るためにも少しくらいは対策をしておいた方がいいだろう、と。俺に出来ることは限られているかもしれないが、せめて鈍らない程度には身体を鍛え、気晴らしも含めて人付き合いちゃんとして人脈作って、柊木の防波堤も兼ねつつ合コン行ってコミュニケーション能力も鍛えて。

 自分にできるちょっとしたことくらいは、やっておこうと思った。何かが起きたとき、少しでも力になれるように。自分にできることを、増やしておきたかった。

 まーそれで朝練なんて安直だけど、なんて自分に苦笑しながら走り続けていると、視界の端に見知った顔が見えた。

 

「……あれ、伊達班長に高木くん?」

「おお、萩原じゃねえか」

「萩原さん、おはようございます」

 

 どうやら張り込み帰りらしいふたりは、明け方にも関わらず元気な顔をしている。

 

「お前こそ走り込みか? 珍しいことしてるじゃねえか」

「俺だって身体が鈍らないように考えてるんです~。機動隊に比べたら全然運動量足りないし、三十路を前に太ったら嫌じゃん?」

 

 いつものようにへらっと笑って言って見せると、そりゃ確かに、と伊達も苦笑した。

 さすがに素直に頑張ってるのだというのは気恥ずかしくて、そうそう俺たち、もう今年二十八だかんね、いつまでも若いと思ってると急に太りだすからね、と続けると伊達も納得したようだった。

 

「毎日走ってるんですか? 激務の最中にトレーニングまで……すごいですね」

「気が向いたときだけだって~。高木くんもあと数年たったらわかるよ、三十路近づいたら身体鈍るのすぐだから」

「おい悲しくなるからやめろ」

 

 その渋い顔の後ろに、随分とスピードを出して走る車が見えた。あれはどう見てもスピード違反―――というか、おいちょっと待て、何でこっちに、

 

「危ねえ!!」

 

 ブレーキ音は最後まで聞こえなかった。

 

 

 ***

 

 

「……居眠り運転の車が突っ込んできて交通事故」

「しかも例の婚約者さんの両親にご挨拶に行くその朝に……」

「どうする伊達、お祓い行く?」

「うるせえんだよお前ら!」

 

 もはや若干涙目の伊達は、その左足に大きなギプスを付けていた。病室で騒ぐなと窘めるが、これはさすがに気の毒だ。伊達は泣いていい。

 車が突っ込んできたところを萩原に助けられたという伊達は、かろうじて直撃は免れたものの躱しきれず、数か所の打撲と骨折。命にこそ別状はないものの、しばらくの入院を強いられた。いや、これは運が良かったと言うべきだろう。

 

「大したことなくて良かったな。珍しい萩原のファインプレー」

「珍しいってひどくない? いやぁさすがにびびったわ~」

「伊達の部下だっていう刑事は無事だったのか?」

「うん、高木くんは避けたときにできた擦り傷程度だって」

 

 高木くんと言えば前に握手求めてきた彼のことだろう。実直そうな顔が脳裏に浮かぶ。

 あれ以来彼はすれ違うたびにしっかりと挨拶をしてくれる。そしてそのたびに伊達がひどく微妙な顔をしているのが非常に面白い。大した怪我がないのなら良かった。

 

「ま、命があっただけ良かっただろ」

「それはそうなんだけどな……」

 

 松田の言葉に、伊達は暗いまま声を返した。

 

「何だよ、どうかしたのか?」

「……彼女のご両親が」

「ご両親が?」

 

 伊達がぼそぼそと言うところによると、彼女のご両親はさすがにこのタイミングで起きた事故に不安を抱いたらしい。しかも伊達は、張り込み帰りとは言え半分勤務中に事故に遭ったようなもの。大事な娘を預けるのに、刑事と言う危険の大きい職に就いている人はどうなのか、と。

 とはいえ、その人格は娘からも聞いているし、娘も結婚をやめる気はないと言っている。ならば、と条件が付けられた。

 

「……俺が現場復帰して、三年間大きな怪我無く刑事として務められたら、結婚を許すと」

「……事故は仕事と直接関係はないが、まあ不安に思う気持ちはわからなくないか。危険が多いのは事実だし」

 

 とにかくタイミングが悪かったなと降谷が言うと、伊達はがっくりと肩を落とした。その肩を萩原がにまにま笑いながら叩く。

 

「あと三年は独身だねえ。ドンマイ」

「萩原ァ……!」

「え~命の恩人にそういう態度とっちゃう~?」

「ぐっ……!」

 

 歯噛みする伊達に苦笑して俺は言った。

 

「まあ、逆に言えば三年無事に仕事してれば結婚許してくれるんだろ? 真面目に働いてりゃ三年くらいすぐだよ」

 

 別れるつもりはないんだろと付け加えれば、伊達は当然だと頷いた。それなら何も問題はない。

 

「なら大人しく、その美人の婚約者に看病でもしてもらえよ」

「あ、急に同情する気が失せた」

 

 すっと真顔になった諸伏の言葉に、俺も、とそれぞれしらけた声が零れる。お前らな、と伊達が言うとまた皆で笑った。

 

「そういやその婚約者さんは?」

「仕事行ってる」

「え~俺ご挨拶したかったなぁ」

 

 誰が会わせるか、と伊達が不貞腐れたように言う。なんでだよ、と松田が言うと、さらに伊達は渋い顔をした。

 

「お前ら絶対あることないこと彼女に吹き込むだろ」

「何言ってんだお前、嘘は言わねえよ」

「そうそう、あったことしか言わないって、お前の警察学校時代の話とか」

「だから嫌なんだろうが!」

 

 萩原や松田ほどではないとはいえ、伊達だって過去何もやらかしてないわけじゃない。さすがに彼女にそれを知られるのは嫌なのだろう。

 そしてそう言われればやりたくなるのが俺たちだ。

 

「伊達の婚約者さんなら俺も話せるかなぁ」

「お、柊木チャレンジすんの?」

「だって俺しか詳細話せない伊達の黒歴史とかあるだろ?」

「頑張れ柊木、応援してる」

「お前ら本当にやめろ」

 

 伊達の大事な人なら、俺だって挨拶くらいはしたい。きっといい人だろうから、他の女性よりは大丈夫。多分。正直自信があるわけではないが、話す努力くらいはしたいと思う。もちろん、どうやらべた惚れらしい伊達が許してくれるならだが。

 

「止めたかったらさっさと退院しないとね。このまま入院してたらいつ俺たちと彼女が鉢合わせするかわかんないぞ?」

 

 面白そうに諸伏が言うと、伊達は苦笑して頷く。ふと思いついたように萩原が口を開いた。

 

「というかお前ら顔見せていいの?」

「俺は大丈夫。所属の話さえしないでくれれば」

「紹介の必要ができたら俺のことは『安室透』で頼む。警察関係者だとは言わないように。適当に『友人』くらいで誤魔化してくれ」

 

 お前らもな、と降谷に言われ、了解とそれぞれ頷いた。すると諸伏が面白そうに言葉を続ける。

 

「『安室透』の性格はゼロとは全く違うから、その辺も気をつけて」

「何、潜入用の性格?」

「敬語で物腰柔らかいふりして、本性は嫌味ったらしく性格が悪いっていう設定」

「つまり猫かぶりの時の柊木と、魔王の時の柊木みたいな感じか」

「よーし松田その喧嘩買うぞ」

「ヒロもな」

 

 俺は松田の、降谷は諸伏の頭を掴み力を籠める。誰が魔王だ。いででででと悲鳴をあげるふたりをよそに、伊達と萩原は愉快そうに肩を揺らす。

 

「ま、早く退院しろよ、伊達」

「仕事は山積みなんだ、休んでる暇はねえぞ」

 

 入院中もくわえ楊枝をやめないタフな友人は、すぐ復帰してやるよ、といつものように頼もしい笑顔を見せた。

 

 



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閑話 幸福論・表

 最初は、萩原だった。

 爆弾解体の現場において、何と解体途中に防護服を脱ぎ煙草で一服。タイマーは止めていたようだが、犯人は遠隔操作によって爆弾を爆破。至近距離から爆破を受けた萩原は、そのまま帰らぬ人となった。

 それから、松田。

 萩原の敵討ちのために因縁の爆弾事件に挑んだ。爆破予告の暗号を解読して爆弾をいち早く発見するも、復讐心や己の命よりも多くの民間人の安全を優先し、解体を中止。多くの人命と引き換えに、観覧車の中でひとり散った。

 次に、ヒロ。

 潜入捜査中、公安警察であることが組織に露見し、その逃走中に自ら心臓を撃ち抜いた。俺や他の仲間、家族のデータが入ったスマホとともに。俺はその場に居合わせたあの男を、心の底から憎んだ。お前ほどの男なら自決だって止められたはずなのに、と。

 そして、伊達。

 捜査一課強行犯係として数々の事件を解決し、美しい婚約者とも出会った。しかし、その彼女のご両親に挨拶に向かうはずだった朝、居眠り運転の車に轢かれる。自分の手帳と、そこに挟まれた指輪を部下に託し、眠りについた。

 では、もうひとり、あいつは? 警察学校でずっと競い続け、誰よりも努力家で誰よりも優しくて誰よりも頼りになったあの男は、いったいどこに?

 場面が切り替わる。いつの間にか雑踏の中にいた俺は、視界の端で彼を捉えた。

 

「ひいら、」

 

 しかし名前を最後まで呼ぶことはできなかった。

 彼は俺に気づかないまま、いつものように優しい笑顔を浮かべて歩いている。誰とも知らない女性と、手をつないで。

 

「、あ……?」

 

 その瞬間、唐突に理解した。

 彼は俺の知っているあいつじゃない。あいつは女性と手をつないで歩くなんてことはできない。まして、あんな心からの笑顔を向けることなんて絶対無理だ。

 だから彼は、俺の知っているあいつじゃない。彼はきっと、―――そう、女性恐怖症にならなかった、「誘拐事件に遭うことのなかった柊木」だ。

 あいつはきっと、誘拐事件に遭わなければ女性恐怖症になんてならなかった。そしたらきっと、あんなふうに愛する女性を得て、当たり前の幸せを手に入れることができる。俺たちがいなくても、笑っていてくれる。

 ―――ああ、よかった、柊木だけでも、幸せなら。他は皆、死んでしまったけれど、お前だけでも、笑っているのなら。

 俺は何があっても、命に代えてだって、お前やお前の大事な人が笑うこの国を守り抜こう。たとえお前が、俺たちのことを知らなくても構わない。俺たちと出逢うことがなくても、構わない。お前まであいつらのように死んでしまうくらいなら。

 どうかお前だけでも、幸せに。おれはさみしいなんて、おもわないから。

 

 

 ***

 

 

「……で、それが休日の朝っぱらからピンポン連打して俺を叩き起こした理由?」

「………」

 

 滝のように汗を流しながら正座をする降谷を前に溜息をつく。

 ようやく朝日が昇り始め、鳥の声が聞こえだす。俺は基本的に早起きだが、さすがにこの時間に起きることはない。

 つい十数分前、連打される玄関のチャイムに飛び起きた。ドアスコープからおそるおそる外を確認すると、そこに立っていたのは死んだような顔をした降谷。何があったのかとドアを開けた瞬間、そいつは飛びついてきた。それほど体格差はないとはいえ、相手は見た目以上に鍛えている生粋のゴリラ。その重さを支え切れずに尻もちをつく。

 

『……降谷? 何かあったのか』

『柊木』

『何だよ』

『お前は警察官だな』

『はぁ?』

『俺たちと警察学校で出逢ったよな』

『……お前とは個室が隣だったな』

『女性と手をつないで歩けるか』

『お前は俺に死ねと言ってんのか』 

 

 言うわけないだろ、と強い口調で返された。そしてそのまま、ごく小さな弱い声で、言うわけがない、と繰り返した。何かわからんが地雷だったらしい。

 わかったわかったと言いながらその背をぽんぽんと叩いた。

 

『よくわからんが深呼吸して落ち着け』

 

 そう言うと、降谷は素直に深呼吸を始めた。吸って吐いてをゆっくりと繰り返し、少しして降谷はそっと俺から離れ、無言のまま靴を脱いで部屋に上がった。廊下を過ぎてリビングにつくと、降谷はくるりと俺の方に向き直って、唐突にその場に正座した。

 そして、―――俺はこんなに折り目正しい土下座、初めて見たかもしれない。

 

 

 *

 

 

 土下座をしたまま降谷が話したところによると、どうもとんでもなく夢見が悪かったらしい。しかも目を覚ましても夢と現実の境が曖昧で、ついうちまで乗り込んできてしまったそうだ。

 とりあえず俺は正気に戻ったらしい降谷に頭を上げさせる。

 

「俺とお前以外全員死んだ挙句、俺は誘拐事件にも遭うことも、お前らに逢うこともなく生きていた設定で幸せそうに笑ってた夢、ねぇ」

「少なくともお前だけは夢の中でも生きてたからとりあえず柊木の家に来た」

「時間考えろよ。せめて連絡いれろ」

「悪かった」

 

 自分でも何をやっているのかと落ち込んでいるらしい。降谷がここまで暴走するとは、本当にリアルすぎる夢だったのだろう。やれやれと首を振りながら、金の中に沈むつむじを見下ろした。

 

「……で、その夢、その『幸せそうに女性と手をつないで歩く俺』を見た後は?」

「? そこで終わりだ。目が覚めた」

「……終わり?」

「ああ」

「お前馬鹿なの?」

 

 何を考えるよりもまず口から零れ落ちた言葉に、降谷はきょとんとしていた。

 

「何お前その『俺』をそのまんま見送ったわけ? 何やってんだよ、そこはお前、そのゴリラ的腕力をぞんぶんに発揮して『俺』を殴り飛ばすところだろうが。鼻骨や歯の数本くらい遠慮なくもらっとけよ、自分の夢ん中で可愛い子ぶってどうすんだハニーフェイスゴリラのくせに」

「誰がハニーフェイスゴリラだ後で絶対殴るからな。……殴り飛ばすってお前」

「殴り飛ばせよ。何ひとりで幸せな顔してんだって」

 

 そう言うと、降谷は鳩が豆鉄砲を食らったような顔。

 心底呆れた俺は、もうため息をつくしかない。

 

「俺だけ幸せになってどうすんだよ」

 

 ほかの皆が全員殉職し、お前も「ゼロ」として日本国家のために独りで必死に戦い、なのに俺はそれを知ることすらなく笑っていろと。

 そこに何の意味があるのか、お前ちょっと言ってみろと思う。

 

「俺そこまで薄情じゃねえわ」

 

 たとえどんな苦難があろうと、お前らと出逢わなきゃよかったなんて絶対思わない。何が起ころうと、それだけは有り得ない。俺が、どれだけお前らを頼りにしてるか。どれだけお前らに助けられているか。

 どれだけ、お前らに感謝しているか。

 

「……お前の夢で言うと、俺は誘拐事件に遭遇しなきゃお前らに逢うこともなかったってことになるんだろうけど」

 

 だと言うのなら、俺は。

 

「誘拐事件の犯人にだって感謝してやるわ」

 

 まあそんなもん絶対に認めないけど、と最後に付け加えると、降谷はきゅっと堪えるように唇を噛みしめた。全く、この強情め。

 

「俺もお前もあいつらも生きてるよ。だったら皆で笑って皆で幸せになりゃいいだろ。誰かだけなんて小せえこと言ってんなよ、それでも俺と首席を奪い合った男か」

「……お前は本当に、普段どうやって謙虚の仮面をかぶってるんだ? お前ほど自信家で強欲な男、僕は見たことないぞ」

「褒め言葉として受け取っとく」

 

 寝癖のついた頭をがしがしとかき、時計を見る。まだ夜明けを過ぎてほんの少し、普通なら朝からの出勤でもまだ寝ている時間だ。

 

「何か腹立つから全員にモーニングコールして起こしてやろ。俺だけ起こされるなんて納得がいかない」

「だから悪かったって、」

 

 スマホを手に取り、とりあえずあいうえお順で電話をかけてやろうと伊達の電話番号を選択した時、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。だからこの早朝に、何なんだよいったい。というかこのタイミングの良さはまさか。

 硬直した俺と降谷が動けないでいると、チャイムの主は俺が寝ていると思ったのかピンポンピンポンとどこかのゴリラのように連打を始めた。これはもうゴリラのうちのひとりだな、ハニーフェイスゴリラの仲間のどれかだな。よし殴ろう。

 外の様子を見るのも諦めてドアを開けると、そこにはひとりどころかゴリラの一団が揃っていた。

 

「あ、おはよう旭ちゃん、寝起き~?」

「はよ」

「ごめんな、朝に。あれ、もしかしてその靴、ゼロが来てるのか?」

「チャイム連打して悪かったな、一応止めたんだが」

 

 言葉の上では謝りつつも、実は少しも悪いと思っていないそいつらを前に、俺はいつもの笑顔を作って言った。

 

「全員正座して頭差し出せ。ちゃんと歯ァ食いしばれよ」

 

 

 *

 

 

 頭にこぶを作って正座する四人を前に、俺は仁王立ちをしていた。ちなみに降谷は俺の後ろで呑気に珈琲をしばいている。

 

「一応言い訳は聞いてやる」

 

 早朝からうちに乗り込んできた理由を聞いたところ、何と全員降谷とほぼ同じ夢を見たのだという。それぞれ自分が死に、そしてまだ生き残っている者を見守る夢。違うのはそれぞれの視点から見ているというだけで、内容自体は本当に同じだった。一体どんな偶然なんだそれ。

 

「俺ァ張り込み終わりに本庁で仮眠とってたら魘されてたらしくてな。事故から復帰したばかりだし、あんまりにも顔色が悪いってんで帰れって言われてよ」

「今日休みだし二度寝しようと思ったんだけどさ~。まあ、目が冴えちゃったからついっていうか?」

「俺も似たようなもんだ。今日は遅出なんでな、ちっと顔見てから出勤しようと思っただけで」

「いやぁ、夢で最後に生き残ったのゼロと柊木だけだけど、俺がゼロの家行くわけにはいかないだろ? いくつもある隠れ家のどれにいるかわかんないし、なら確実にいるだろう柊木の方に乗り込むかなーって。ちなみに出勤は午後から」

 

 他の奴も生きてるのはわかってるけど、ほら、な?

 そう言って曖昧に諸伏は笑った。夢の中で死んだ奴らが万が一にも現実でも死んでいたら嫌だから、とりあえず夢でも現実でも生きてる方の顔を見て現実を確認したかったということだろうか。

 揃いも揃ってリアルな悪夢を見るって、お前らどんだけ仲が良いんだ。俺だけ除け者か。うるさい、さみしくなんかない。さすがにそんな夢見たくない。

 

「……お前らは生きてるし、俺は誘拐事件の被害者で女性が苦手だし警察官だし、お前らとも腐れ縁続いてるよ。何なのお前ら、そんなに俺を薄情にしたいの? 降谷に独りで働かせて俺はのうのうと彼女つくって笑ってるような男だとでも言いたいの? もっぱつ殴るぞ」

 

 半ばうんざりしながらそう言うと、そいつらは失敗を誤魔化す子供のように笑う。

 

「ああくそ、無駄に早起きしちまった」

「ごめんって~」

「欠片も謝る気ねえだろうが。……お前ら、一応言っておくが、俺確かに女性苦手は治したいけどそれは別に誰かと付き合いたいとか結婚したいとかいう意味じゃないからな」

 

 え、と降谷も含めてゴリラどもは固まった。

 夢の内容的にもしやと思って言ってみたが、どうやら図星だったらしい。

 

「自分に苦手なもんがあるのにいまだに克服できてねえのが悔しいだけだよ。あと女性だからって理由だけで人を遠ざけるのが失礼だと思うだけだ。仮に治ったとしても、現状誰かと付き合いたいとか思ってない」

 

 よほど好きな人ができれば付き合いたいとか思うのかもしれないが、ただ恋人という存在がほしいとは思わない。今はとにかく仕事に集中したいし、何より。

 

「お前らと馬鹿騒ぎしてる方が楽しい」

 

 そう言ってやると、揃いも揃って目をまんまるにして、破顔した。

 ホントもーそういうところだよ旭ちゃんてば~と笑う萩原を一発ひっぱたき、こきりと肩を鳴らした。

 

「お前らどうせ朝飯食ってねえんだろ。降谷、俺の分も珈琲いれて」

「やった、作ってくれんの?」

「馬鹿言え、お前らが作るんだよ。諸伏いるしサンドイッチくらい作れるだろ。ハムとレタスと卵とチーズの使用を許可する。買いだめしたパン冷凍してあるから」

 

 俺の睡眠削った分くらいは働け、と背を向けるとブーイングが飛ぶ。無視して顔を洗いに洗面所に行くと、諸伏が指示を飛ばす声が聞こえてきた。致命的な不器用がいるわけでもなし、料理上手が陣頭指揮を執るなら相応に食べれるものが出来上がるだろう。

 

「柊木、オリーブオイルある?」

「戸棚の下。お好きにどーぞ」

 

 この後食べたハムサンドは、ちょっと驚くくらいに美味しかった。

 

 



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閑話 幸福論・裏

 これは、夢だ。

 目の間にはいつも通りの日常がある。いつも通りでないのは、俺の目の間には何故か透明な壁があるということだけ。熱くも冷たくもない、透明なのに触れば存在は確かにある、そんな壁だ。軽く叩いてみたがなかなかに硬そうだ。

 目の前の日常が色を変えていく。見慣れた五人の姿が映った。少し幼い気がして、よくよく見れば制服を着ていた。ああ、これは警察学校にいる時の。

 いつも通りじゃれあう彼らを見つつ、ふと違和感を覚えた。これは、―――俺がいない。学習室には五人分しか椅子がなく、降谷の隣の部屋では知らない顔が寝起きをしていた。

 夢だとわかりながらも何となく不審で、嫌な予感がしながらも呑気に笑うあいつらの姿を見ていた。

 と、場面が切り替わる。機動隊の隊服を着た、萩原がいた。どうやら仕事中らしい。……おい、待て、解体は終わっていないのに、何故。

 轟音と、目もくらむ光、そして黒煙に、燃え盛る炎。

 それが何を意味するのか、わかってしまった。はぎわら、と俺の口が動く。言葉になったのかはわからない。

 そして続く、あいつらの「その瞬間」。観覧車と、松田。拳銃と、諸伏。トラックと、伊達。―――やめろ、夢でもそんなもの見たくない。

 また場面が切り替わる。雑踏の中に独り佇む降谷がいた。ああ、良かった、お前は無事か。少し安堵した瞬間、気づく。その瞳にある、絶望と諦念、そして安堵。はっとして、降谷の視線の先を追った。

 そこには、俺がいた。誰とも知らない女性と、手を繋いで。

 その時、唐突に理解した。あいつらが揃って見たという悪夢、そうかこれが。激情が胸の中で暴れだす。ふざけるな、と勝手に口が動いた。

 力任せに世界を阻む壁に拳を叩き込む。何を呑気に笑っているんだ、何で自分だけ幸せな顔をしているんだ、あいつらを、 なせておいて、降谷にあんな顔をさせておいて。殴っても殴っても壁はぴくりともせず、俺の声は届かない。

 また場面が切り替わる。今度は、見慣れた自分の家だった。ただいま、と目の前の「俺」が言った先にいたのは、―――何の冗談だ。

 聞き覚えのある「おかえり」と、聞き覚えのない「おかえりなさい」。悪趣味にもほどというものがある。

 そこには、俺の知らない「三人家族」の姿があった。

 一心不乱にその「幸せな世界」に拳を叩きつける。やめろ、そんなに幸せそうに笑うな、何で、やめろ、俺は!

 

「俺は、」

 

 お前はそれでいいのかもしれない、けど、俺は。

 少なくとも、「現実」を生きる俺は。

 

「俺は、……そんなもの、望まない!」

 

 世界に、ひびが入った。

 

 

 *

 

 

 乱暴に肩が揺らされる。馴染んだ声が、耳に届いた。

 

「……起きろっつってんだろ柊木!」

「……松田?」

 

 目を開けると、訝し気な松田の顔があった。その後ろで他の奴らも心配そうにこちらを見ている。

 

「珍しく転寝していると思ったら、魘されてたぞ」

「疲れてんじゃないの? なかなか起きなかったし」

「無理はしない方がいいぞ。眠いんならせめてベッド行け」

 

 萩原や伊達も声を掛けてくれた。諸伏の手にはブランケット。俺のために引っ張り出してきてくれたのだろう。降谷は湯気の立つマグカップを差し出してくれた。珍しい、この家にハーブティなんかあっただろうか。

 

「……ありがと」

 

 まだどこか頭がふわふわしている。いったんマグカップをローテーブルの上に置き、近くにあった松田の顔に手を伸ばした。

 

「あ? ……いっ!」

「……良かったやっぱり夢か~」

「そういうのはてめえで試せこの野郎!」

 

 松田が仕返しと言わんばかりに容赦なく頬をつねってくる。いたいいたいと笑いながら、溢れそうになる涙を誤魔化した。

 あれは、夢だ。父さんも母さんも、もういない。それで、―――それで、いいんだ。そう思ってしまう親不孝な子供でごめん。

 どうか、ふたりは俺の希望と共に逝ってくれ。俺は、ふたりの死と共に生きていく。あったかもしれない幸福で残酷な夢より、今目の前にある残酷で幸福な現実を選ばせてほしい。

 よく伸びるな、といっそ感心しながら俺の頬をつねる松田に苦笑しながら、俺は罪悪感を心の奥にしまい込んだ。

 



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閑話 夏の六花

 暑い夏にはやっぱりビールがいい。

 個人的には枝豆とちくわキュウリがあればつまみはOK。でもそれだけではこの大食らいたちは満足しないので、今日は唐揚げも添えて。

 

「やっぱ夏はビールだねー!」

「俺たちは年がら年中ビールだけどな」

 

 上機嫌にビール缶を空にする萩原と、やっぱり機嫌よく唐揚げを口に放る松田。同じく諸伏も唐揚げをぱくりと口に入れ、美味い、と笑顔になった。

 

「やっぱり柊木の料理は美味いな。自分で作ったのより美味く感じる」

「お前俺に胃袋掴まれてどうすんの」

 

 そう言うと諸伏ははっとして、これはもう柊木と結婚して飯を作ってもらうしかないと真剣な顔で宣うので思わず吹き出した。

 

「いや待て、そういうことなら俺がもらう。柊木のたこ焼きは俺のもんだ」

「え~ちょっと待ってよ、俺だって旭ちゃんのお好み焼き大好物なんだけど~?」

「はは、相変わらずモテモテじゃねえか柊木」

「俺は自分より稼いでないやつと結婚する気はねえけど?」

 

 けらけら笑う伊達の言葉をそう切り捨てると、三人はがっくりと肩を落として見せた。すると黙ってビールを呷っていた降谷が不敵に笑う。

 

「つまり僕しか無理だな、柊木」

「え、降谷のとこってそんなに儲かるの……? 階級同じなのに……?」

 

 特殊な部署にはいろいろあるんだよと降谷が言うと、三人は世の中金かと嘆いてみせた。お前らそろそろその茶番やめろ、おもしろいだろーが。

 

「まあお前ら柊木は諦めていい相手探せ?」

「うっせーお前は黙っとけ!」

「さりげに指輪見せつけんな腹立つ!」

「伊達にも婚約者がいるのになんで俺には……!」

 

 何と言われようと伊達は揺るがない。余裕ではっはっは、と笑って見せるそいつに苦笑を漏らす。結婚こそ延びてしまったが、順調に交際を続けているようで何よりだ。

 

「でも悪いな柊木、いつも料理作らせて。集まるのもいつもお前の部屋だし」

「いいよ別に。料理は苦じゃないし、場所的にもここが一番集まりやすいだろ」

 

 俺の家は警察庁、警視庁からもそう遠くなく、皆の家からもほぼほぼ等距離だ。帰るにしろ呼び出されて出動するにしろ、ちょうどいい場所にある。

 

「何よりいつも綺麗だしな!」

「お前は部屋を掃除しろ」

 

 掃除が苦手だという萩原の部屋は結構に酷いらしい。

 顔に似合わず綺麗好きの松田が「あいつの部屋で酒飲むのは無理」と真顔で言いきった。確かに捜査一課の萩原のデスクも、ものが多くて綺麗とは言い難い。たまに見かねて松田が軽く整理しているそうだ。お前ら本当に仲良いな。

 

「萩原は松田と結婚した方がいいんじゃ……?」

「やだよ、口うるさいし尻に敷かれる」

「いい度胸だハギィ……!」

 

 お前がちゃんとしてりゃ俺だって言わねえよと、そう言いながら松田はぎりぎりと萩原を締め上げる。ギブギブと萩原は叫ぶが松田は意にも介さず、俺たちも面白いので放置。松田の言っていることは九割九分間違ってないので止める気にもならない。

 

「萩原、あんまり松田の手を焼かせるなよ。お前の面倒見続けて松田が一生独身貫いたらどうするんだ」

「何それやめて、ないと言えないあたりが怖いから」

「だからお前がちゃんとすりゃ済む話なんだっつーの!」

「いでででででごめんって!」

 

 その時はきっと萩原も一生独身だな、と諸伏が言うと、萩原は嘘と叫ぶ。

 そんな軽口に笑っていると、ふと降谷が外に目をやった。

 

「どうかした?」

「いや、向かいのマンションの部屋、まだ七夕飾り出してるんだなと」

「ああ、あの部屋は旧暦の七夕まで出してるみたいだ。去年もそうだったよ」

 

 なるほど、と降谷は頷く。

 もう八月に入ったが、地方によっては旧暦で数えて八月に七夕祭りをするところもあるらしい。そこの住人ももしかしたらそういうところの出身なのかもしれない。

 

「七夕ねえ。昔短冊書いたな~」

「彼女ができますようにって?」

「何でわかんの?」

 

 図星かよ。今も同じことを書くだろう萩原はへらっと笑った。

 

「伊達が書くなら『安全第一』『無病息災』か?」

「少なくとも三年は怪我できねえからな」

 

 からかうように松田が言うと、伊達は苦笑して返した。諸伏ならなんて書くんだと伊達が降ると、諸伏は少し考えて答えた。

 

「気軽に外を歩きたい」

「何かすまん」

「いや、違うわ、ゼロの暴走癖が治りますように、だな」

 

 俺昨日まで三徹してたんだ、おもにゼロの尻ぬぐいで!

 そう諸伏が元気よく答えると、さっと降谷は目をそらした。オイお前今度は何壊して誰を怒らせたんだ。

 

「俺ホント諸伏尊敬する……」

「ああ、このバーサーカーの後始末なんて仕事、続けられるだけすげえわ」

「よせよ照れるだろ~」

 

 にこにこと笑う諸伏と、だらだらと冷や汗を流す降谷。

 この幼馴染ズは、基本的に降谷が優勢なように見えるが、やっぱり最終的には諸伏に軍配が上がる。というか諸伏じゃないともう降谷のコントロールなんてできないのだろう。

 

「松田の願い事は?」

「ん? ……たこ焼き食いたい」

「それは柊木に直接言えよ」

 

 彦星も織姫も多分困るぞそんな願い事。

 伊達がそういうと、松田はくるりと俺の方を向いた。

 

「たこ焼き食いたい」

「繰り返すな面白いから。はいはいそのうちな」

「いつもそう言って流すだろうが」

「じゃあ次回な」

「よし」

「えっ旭ちゃんそれはたこ焼きだけじゃなくてお好み焼きも焼いてくれるよね?」

 

 ばっとこっちを向いた萩原にはいはい、と適当に頷くとやったーと萩原は両手をあげた。ああ、こいつもだいぶ酒が回ってきている。

 

「松田の食い意地も相当だな」

「機動隊のときに胃袋拡張してから戻んねえんだよ。食っても食っても足りねえ」

「それで太らないんだからさすがというか……」

「運動はしてるからな」

 

 そう言ってまた松田は唐揚げをつまむ。いや待てよ、ちょっと見ない間に唐揚げ減りすぎでは。松田この野郎。

 

「降谷と柊木は何て書くんだよ、短冊」

 

 松田にそう言われ、ふと降谷と目を見合わせた。そのまま数秒考え、口を開く。

 

「降谷にエアホッケーでリベンジできますように」

 

 俺がそういうと降谷以外はそろって噴き出し、降谷は呆れた顔で俺を見た。

 

「……それ警察学校時代の話だろ……お前実は根に持ってたのか……?」

「いや、そういえばリベンジしてないなって」

「いつでも受けて立つぞ。次も僕の勝ちだがな」

「いや、次は俺が勝つ」

 

 実は結構悔しかったのね旭ちゃん、と笑う萩原をよそに、俺はビールを呷った。

 降谷ほど度を越した負けず嫌いなつもりはないが、楽しかったのでもう一度やりたいし、そりゃ負けるよりは勝ちたい。

 

「で、降谷は?」

「……そうだな」

 

 何やらと考えながら、降谷はぐるりと俺たちを見まわした。それからひとつ、うんと頷く。

 

「自分で叶えるから短冊はいい」

 

 またこいつはそういうこと言う。

 全員で一斉にため息をつくと、降谷は何だよと驚いたように言った。何だよってそりゃ、お前は本当にそういうところあるよなという話だ。

 

「降谷ってばまたそうやってかっこつけるんだから~」

「今抱えてる案件を無事終える、に一票」

「いや降谷だからもっとこう、日本平和的な」

「待てよ伊達、それだと俺たちを見まわした理由が説明できない」

「お前ら本気で当てにかかるな」

 

 苦笑する降谷をよそに、諸伏がしれっと爆弾を落とした。

 

「甘いな皆、ゼロの願いなんて『外でも俺たちに名前を呼んでもらいたい』に決まってるだろ~?」

「ヒロ!」

「あれ、違う? じゃあ『気兼ねなく一緒に出掛けたい』? それとも『十年後も二十年後も一緒に酒飲みたい』?」

「それ以上言わなくて良いから!」

 

 顔を赤くした降谷に俺たちは三秒ほど固まってにやりと笑った。そんな俺たちを見て、降谷はひくりと頬を引きつらせる。

 

「そーかそーか、察してやれなくてごめんなれーくん」

「うんうん、俺たちも一緒に気兼ねなくお出かけしたいよれーくん」

「三十年後も一緒に酒飲もうなれーくん」

「早く外でも名前呼べるように頑張ってくれよれーくん」

「うるさい!」

 

 そんな可愛い願い事、俺らが叶えてやるに決まってるだろうが。

 褐色の肌を赤く染めた同期を全力でからかいながら、また皆でビールを呷った。

 

 




個人的に萩原さんズボラの松田さん几帳面説を推してるんですが、どうなんでしょうね。でもきっと実際はふたりともちゃんとしてるんだろうなと思います。


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出逢い
18


 

 数か月に一度、いつも要領よく仕事をこなす同僚兼後輩が、いつになく熱心に仕事を片づけ帰る日がある。決まってその日の次は休みか午前休を取り、また元気そうな顔をして仕事場にやってくるのだ。

 同時に彼の幼馴染だという俺の上司も、急な案件は端から片づけて時間を空けている。何をしているのかは知っていた。

 

「よく休めたか」

「風見さん。はい、お陰様で」

 

 にこりと人好きのする笑顔を浮かべたそいつは、機嫌も体調もよさそうだった。

 一時期の消耗具合を知っている身としては、その顔を見ると安心する。警察学校を卒業してすぐに危険な組織への潜入を命じられ、果ては身内の裏切りで死にかけたひとつ下の彼とはそれなりに親しい。自分の上司と彼が個人的に親しいというのも大きかった。

 

「それは何よりだ。ではこれが追加の書類」

 

 ぱさりと紙束をデスクにおいてやると、笑顔を崩さないまま目だけ遠くなった。ずいぶん器用なことをする。

 そっとその書類を手に取って目を通すと、あちゃーと目元を覆った。

 

「……今度はビル壊したんですか……」

「……状況的に、仕方がなかった、とは思う」

「上司だからって庇わなくていいんですよ風見さん。どうせ何の躊躇もなく壊したんでしょ」

 

 うわーこれ徹夜だな、とその紙束を未処理の書類の山に乗せた。

 危険な組織に顔がバレている以上、諸伏はあまり表だって動くことはできない。それゆえ警視庁に閉じこもり、降谷さんの書類仕事のほとんどを肩代わりしている状況だ。その仕事量も内容もどれだけのものか知っているだけに、うずたかく積まれた書類を見ると本気で同情してしまう。

 

「……手伝うか?」

「ありがたいですけど、風見さんだって寝てないでしょう」

「まだ一日徹夜しただけだ」

「徹夜してんじゃないですか。いざというときにひっぱわり回されるのは間違いなく風見さんなんですから、体力は温存しといてくださいよ」

 

 それを言われると反論はできない。黙ってしまった俺を見て諸伏は面白そうに笑った。

 

「大丈夫です、昨日しっかり休みましたから」

「……飲み会は楽しかったか?」

「あれ、オレ飲み会だって言いましたっけ」

「お前が定時で上がって次の日休むときはたいてい飲み会だろう。決まってその日は降谷さんも仕事いれないようにしているしな」

 

 それは確かにバレバレですね、と諸伏は笑い、楽しかったですよ、と続けた。

 

「学生のとき並みに馬鹿騒ぎできるので、何も気兼ねせずに済んでありがたいです」

「それはいいな。しかし、そんなに仲が良い同期も珍しい」

「そうですか? まあ気は合うんですかね」

 

 その同期の話は聞いている。

 諸伏、降谷さんと、警察学校時代に同班だったという彼ら。

 警視庁刑事部捜査一課強行犯係の伊達刑事、松田刑事、同じく特殊犯係の萩原刑事。そして、警務部人事第一課の柊木監察官。それぞれ優秀と聞いているが、この柊木監察官に関しては特に公安内でも評価が高い。

 何せ、諸伏の情報を流した犯人を突き止めたのは彼だからだ。

 

『降谷さん、諸伏の情報を流した犯人については……』

『そちらは別の人間が動いている。しばらく様子見だ』

『別の人間? 我々公安以外の人間ということですか』

『ああ。……心配するな、あいつならやってくれる』

『……というと?』

 

 僕がもっとも信頼する仲間のひとりが珍しく本気で怒っていてな、という電話口の降谷さんの声音は、少し笑っていた。

 

『そういう職務に就いている人間が調べている。問題ない』

『……わかりました』

 

 降谷さんにそこまで言わせる人物がいるとは、とそのときは驚いたが、それからひと月も経たないうちにその件で査問会が開かれたと聞いたときにはもっと驚いた。

 たったそれだけの期間で犯人を探し当て、逮捕の段取りを立てたというのか。しかも、警視庁内でも地位のある人間を査問会に引きずり出した結果が。

 

『……懲戒どころか、逮捕、送検……?』

 

 警察上層部の主だった人間に十分すぎる根回しを行い、ありとあらゆる証拠と証言を揃え、犯人と癒着していた者の妨害など意にも介さず握りつぶし、犯人に一言の反論も弁明すらも許さなかった。逮捕する捜査員まで待機させていた彼の手腕には舌を巻かざるを得ない。何という徹底した潔癖すぎる正義だろう。

 後から彼が降谷さんと首席を争った同期だと聞いたときには、いっそ納得するしかなかった。俺が心から畏怖している上司のライバルならば、なるほど優秀に違いない。

 

「諸伏」

「何ですか?」

「前々から気になっていたんだが、柊木監察官はどういう人物なんだ?」

「柊木ですか? うーん……」

 

 諸伏は少しだけ視線を彷徨わせて、口を開いた。

 

「魔王?」

「……ん?」

「鬼とか悪魔とかいろいろ言ってるんですが……いや、暴君? あ、しっくり来た。暴君ですね」

「……柊木監察官のことを聞いているんだが?」

「だから柊木の話ですよ」

 

 確か聞いた話では、容姿端麗品行方正、常に敬語で謙虚な姿勢を崩すことなく、笑顔を絶やさない好青年だったはずだ。確か、完璧が服を着て歩いているような男だと。

 

「ああそれ外面(そとづら)です。自分の有能さを知ってる奴なので、面倒ごとに巻き込まれないように猫かぶってるんですよ」

 

 さらりと諸伏は言ったが、それは俺が聞いていい話なのだろうか。

 風見さんは言いふらしたりしないでしょう、と諸伏は軽く笑い、続けた。

 

「いい奴なのは本当ですけど、親しくなればなるほど一切の遠慮をしなくなる奴で。隙あらば俺たちをこき使う暴君です。自分のテリトリーに入れた人間は全員好きなように使っていいと思ってますねきっと」

「……それでも『いい奴』なのか」

「いい奴ですよ」

 

 全力でこき使う代わりに、自分のテリトリーに入れた人間に手を出すのは許さないんです。

 そう言った諸伏の顔はどこか嬉しそうで、自慢げで、なるほどいい友人なのだと察せられた。口ではあれこれ言っているが、やはり信頼しているのだろう。

 

「あ、警察官的な部分を言うなら正義感は人一倍です。特に不正の類やらかす奴に対しては慈悲も容赦もなく蹴落として高笑いしますね」

「高笑い……」

「デスクワーク中心の内勤のくせに腕っぷしも強くてですね。見た目からは一切想像つきませんけど降谷と並ぶゴリラです」

「ゴリラ……」

 

 俺の中にあった「柊木監察官」が音を立てて崩れていく。

 

「……なかなか、……愉快そうな同期だな」

「いつか紹介しますよ。きっと風見さんには懐くと思うので」

 

 柊木の言うことなら降谷も聞くから味方につけとくといいですよと軽く笑う諸伏にさすがに頭を抱えた。

 降谷さんに、お前に、柊木監察官、そして未だ名前しか知らない彼ら。さぞ彼らの教場を担当した警察学校の教官は大変だったことだろう。心の底から同情する。

 

「あはは、それはもうたくさん正座させられましたね」

「そこは一回で懲りろ」

 

 

 *

 

 

「……ああ、柊木の話か」

「諸伏曰く、『暴君』だと」

 

 警視庁に登庁した降谷さんへの報告を一通り終え、たまにはと缶コーヒーを渡された。ありがたく受け取って軽い雑談を交わす。ふと、降谷さんにも柊木監察官のことを聞いてみようと思って話を切り出すと、降谷さんは少し噴き出し、なるほどと笑った。どうやら異論はないらしい。

 

「まあ、信頼故の言葉だろう。いい奴だよ」

「そう伺っています」

「能力的にも人格的にも非常に頼りになる。いっそ引き抜きたいくらいだ」

 

 多分、そう簡単には引き抜かせてくれないだろうが。

 そう言う降谷さんは、本気で残念そうだった。彼がいてくれれば、降谷さんの仕事も少しは楽になるのだろうか。そうであれば是非とも来ていただきたい。

 

「性格的には監察官という職務が合っているんだろうが、そもそもあいつの一番の特性は群を抜いた作戦立案能力だ。そういう意味でこちらの仕事もあうと思うんだがな」

「作戦立案、ですか」

「自ら現場で走るよりは人を動かして目的を達成する方が向いている奴なんだ。警察学校の運動会で、騎馬戦があるだろう?」

「はい」

「うちの教場は柊木が全指揮を執ってな。誰ひとりハチマキを取られることなく、敵の騎馬全員のハチマキを奪って優勝したよ。何回戦かあったが、全てだ。いまだに語り継がれているらしい」

「それは……」

 

 たかが騎馬戦、されど騎馬戦。運動会の一種目のことであろうと、それほどの完全勝利はそうやすやすと掴めるものではない。

 ちなみに僕は先陣を切ってハチマキを取った、と降谷さんは得意げに笑った。

 

「目立つことが基本的に嫌いな奴だし、ゼロでも十分やっていけるだろうに」

「……十分目立つ方のように思いますが」

「本人的には不本意なんだよ。今、警察のイメージを上げようと広報課が躍起になっているのを知っているか?」

「ああ……はい」

 

 このところ活躍している、難事件をいともたやすく解決するという探偵たち。

 ずば抜けた頭脳に加えてかなりのイケメン揃いで、事件を解決してくれるのは有り難いと言えなくもないが、完全に警察の立場がない。しかも成人した大人ならまだしも、最近は未成年の高校生探偵とかいうのも話題になっているとか。メディアも喜んで取り上げていて世間も完全に芸能人扱い、そして我が物顔で現場に乗り込んでくるのだから頭が痛いことこの上ない。

 彼らが重んじられるにつれて、警察はどんどん軽んじられていく。警察とはそもそも社会における犯罪の抑止力でなければならない。イメージ悪化は致命的だ。

 

「上層もイメージアップに頭を悩ませていると」

「ああ。そこで考えられた案のひとつに、警察の広告塔を立てるというのがあったらしい」

「広告塔?」

「顔のいい探偵がもてはやされるなら、こっちも顔のいい警察官を出せばいいんじゃないか、という安直な案だよ」

 

 そこで柊木に白羽の矢が立ったらしいが全力で断ったそうだ、と降谷さんは堪え切れないと言うように笑いだした。

 

「飲み会で延々愚痴られたよ。断っても断っても食らいついてくる広報の連中に辟易していたところに、とうとう上層からも半分命令として広告塔になるよう要請されて、そこまで言うならパワハラで査問会開いてやるとブチ切れたところを上司に止められたんだと」

「……本気で嫌だったんですね」

「初めて辞表を書くことを考えたと真顔で言っていた」

「結局どうやって断ったんですか?」

「彼の上司が口を利いてくれたそうだ。何とか穏便に断ったらしい」

 

 そのまま放っておいたら本当に柊木が辞めると思ったんだろうな、と降谷さんは軽く笑う。しかし、そこまで広告塔に推されるという彼の容姿はいったいどれほどのものなのだろう。ここまでくるといっそ気になる。目の前にいる上司も相当に顔が整っている方だと思うが、柊木監察官はそれより上なのだろうか。

 

「しかし、その話を一緒に聞いていた刑事部の同期たちは渋い顔をしていたよ。よほどその名探偵たちに手を焼いているんだろうな」

「刑事部にとってみれば、彼らの活躍は自分たちの無能の証明も同然ですからね。それなら探偵より先に事件を解決しろという話ですが」

「まあ、そう言ってやるな。実際、必要な捜査手順を守っている刑事部にとってみれば、それらをすべて無視して勝手に動く探偵より早く事件を解決するのは至難の業だ」

 

 必要な捜査手順を守って得た証拠でないと、証拠能力は認められないんだけどな。

 そう言って、降谷さんは空になった缶をゴミ箱に落とした。

 

「……ああ、話がそれた。柊木や刑事部の同期についても機会があれば紹介しよう。彼らは僕の『協力者』という扱いだ、顔くらいは知っていた方がいいかもしれない」

「わかりました。素性だけは把握しておきます」

「そうしてくれ」

 

 同期のことを語る降谷さんの顔には、いつもの厳しさが一切なかった。

 代わりにあったのは、確かな信頼と、友愛。諸伏と同じく警察学校を出てすぐに潜入任務に就いた降谷さんにとって、彼らの存在がどれだけ大きいものなのか、その表情だけでわかったような気がした。俺は降谷さんの右腕として、彼のサポートを任されている。彼らが降谷さんにとってかけがえのない存在ならば、俺もできる限り彼らを気にしておくことにしよう。

 公私のすべてを国に捧げていると言っても過言ではないこの人が、これ以上「私」を捨ててしまわないように。その両肩に国を背負うその背中を見つめながら、そう思った。

 

「ところで風見」

「はい」

「先日差し入れたたこ焼き、あれは柊木の手作りだ」

「……冗談ですよね?」

 

 あの美味さは絶対に老舗の店のこだわりの味だと思ったのに。

 



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19

 

 このおふたりのおかげでだいぶ洋酒にも慣れてきた。

 ビールほど気軽に飲めるわけではないけれど、たまに飲む分には美味しいと思える。

 

「刑事部の方はどうだ」

「殺気立ってますね。まあ、当然でしょう」

 

 直属の上司である大河内さんが話題に出したのは、最近の刑事部について。

 探偵とはいえ民間人が捜査現場に乗り込んでくる現状を、やはり刑事部は快く思っていないらしい。神戸さんは肩をすくめながら答えた。

 

「特に昔気質の刑事さんというか、ベテランほど嫌そうですねえ。俺たちが事件を解決するんだっていう意識が強い人たちはもう怒り心頭」

「だろうな」

「まだ僕たちは現場で出くわしたことはないですけど、杉下さんもさすがに困った顔をしていましたよ。危険も大きいですし、証拠壊されたりしたら大変ですしね」

 

 公務執行妨害になりかねないのに、無茶をする人たちがいるものですね、と紅茶を片手に零していたと聞き、確かにと俺も頷く。

 

「私の同期たちも苦い顔をしていました」

「ああ、そうらしいね」

 

 最近荒れ気味だから見ててわかる、と神戸さんは苦笑を漏らした。

 

「でも、そのおかげというか、君の同期三人とも最近検挙率すごいらしいよ?」

「そうなんですか?」

「うん、何が何でも民間人より先に犯人捕まえるって意地になってるらしくてさ。片っ端から事件を解決してるんだって。あ、もちろん無理な自白とかそういうことはさせてないよ?」

「させてたら私が責任をもって鉄槌をくだしますよ。しかし、そうですか。頑張ってるんですね」

 

 仕事の愚痴は聞いていたが、そこまで成果をあげているとは知らなかった。

 まあそれぞれ優秀な刑事には違いない。自分の特性を生かして、事件の解決に繋げているのだろう。同期として鼻が高い。

 

「確か松田刑事と萩原刑事は昇任試験受けるって話じゃなかったかな。この分ならいけるんじゃない? 確か伊達刑事は一足先に通ってたよね」

「ええ。……ああ、道理で」

「道理で、とは?」

「彼らとの飲み会はたいていうちで宅飲みなんですが、先日の飲み会以降、うちの本棚から何冊か法律関係の本が消えていたので」

 

 何の気まぐれかで誰かが持って行ったんだろうとは思っていたが、あいつらが勉強用に持ち出したのだろう。試験のために勉強するとは言いにくかったのかもしれない、特に松田は変なところで照れる奴だ。

 

「……窃盗罪……」

「はは、構いませんよ。試験後こっそり返されているでしょう」

 

 ため息交じりに一言絞り出した大河内さんに、軽く笑う。

 

「……まあ、彼らのような刑事が上に行った方が良いのは事実だな」

「おや、珍しく素直に褒めますね、大河内さん」

「実際、若手のわりに優秀だろう。……事件捜査に民間人を交えることに前向きな刑事よりずっといい」

「……何ですって?」

 

 同期が褒められたことよりも、そのあとの言葉の方が捨て置けなかった。さすがにあいつらもそこまでは言ってなかった。

 

「……進んで民間人の力を借りて事件を解決しようとする動きがあると?」

「まだ噂に過ぎん。こちらも大きく動くつもりはない」

「あー……もう大河内さんの耳にまで入ってるんですね」

 

 不服そうにワインに口をつける大河内さんに、神戸さんが困ったように笑った。しかしその目には確かに、冷めた色が見える。

 

「ま、うちの上司も結構正義感で暴走する人だけど、彼らもそうなんじゃないかな。ベクトルは全く違うけどね」

「……事件解決のために手段を択ばないのは表に出ない警察だけで十分でしょう」

「同感だよ。困ったものだね」

 

 これがエスカレートしたら、捜査一課総入れ替えだってあり得るのにね。

 何気なく神戸さんは言ったが、最悪それだってあり得る。部署そのものに問題があると判断されれば、人員の刷新は当然だ。

 

「……柊木、しばらくは様子見だ。わかっているな」

 

 そう大河内さんに釘を刺されては、さすがに俺としても動くわけにはいかない。ちょっとだけ口をとがらせ、わかりましたと返すと、くすくすと神戸さんが笑った。

 

「良かった、きみ一応大河内さんの言うこと聞いてるんだね」

「上司のお言葉を聞くのは当然じゃないですか。まして大河内さんならなおさらです」

「警察の広告塔になるところを救った貸しは大きいはずだな?」

「生涯御恩は忘れませんとも」

 

 きりっと大真面目な顔を作って返すと、大河内さんは唇の端だけで笑い、神戸さんは遠慮なく吹き出した。大河内さんが止めてくれなかったら、冷静でなかった俺は本気でパワハラ容疑の査問会を開いていた。早まらなくてよかった。

 

「せっかく君、相当レベルのイケメンなのに」

「この顔は目立つ代わりに犯罪を誘発しますので」

 

 別に自分の顔が嫌いなわけではないが、この顔目当てにストーカーが大量発生した過去があるのは事実だし、そもそも広告塔になるということは俺の存在が広く知られるということだ。万が一にも過去俺をストーキングしていた女性に俺の現在を知られるようなことはしたくない。

 

「……しかし、大河内さん。いくら様子見と言われても、万が一その現場を目撃してしまった場合は、さすがに黙っているつもりはありませんよ?」

「ああ、それで構わん」

 

 黙認しろと言っているわけじゃない、という言葉を聞いて、安心した。話が話なだけにあまり大事にはしたくないが、見逃すつもりはないということだろう。機を待てということなら、俺も少しくらいは我慢できる。

 

「……これは好奇心として聞くけど、その『万が一』のときは君、同期のことも吊るし上げるの?」

「当たり前じゃないですか」

 

 本人たちは過ちを犯してこそいなくとも、「過ちを犯す同僚を止められなかった責任」というものがある。そりゃできることなら俺だって進んで罰則を与えたくはないが、それは俺の私情に過ぎない。

 

「私が仕事に私情を挟まないことを誰よりも知っている奴らです。そんな私に付け入る隙を与える方が悪いんですよ」

 

 何の気なしに手元の洋酒に口をつけると、神戸さんが苦笑したのがわかった。大河内さんは当然と言わんばかりの態度でチーズをかじっている。

 

「うん、愚問だった。ごめん」

「いえ」

 

 俺としても、そうならないことを祈っているのは事実ですから。

 そう続けると、神戸さんもひとつ頷き、大河内さんは小さくため息をついた。

 

「……もう一杯どう? 付き合うよ」

「では、お言葉に甘えて」

 

 どうも今日の酒は、いつもよりほろ苦い。

 

 

 *

 

 

 飲み会の帰り道、終電をホームで待ちながら松田と萩原にメッセージを送る。

 

『窃盗犯に告ぐ。持ち出した本は試験終了後に返却するように』

 

 ふたりとも手がすいていたのか、すぐに既読がついた。ぴこんと軽い音がして返信が届く。

 

『バレたか』

『ごめーん♡』

 

 ちっとも悪びれない様子に苦笑しながらメッセージを作った。

 

『昇任できたら許してやる』

 

 実際本当に、優秀な奴らだと思うのだ。

 松田は現場の状況や証拠を、論理的につなぎ合わせていくのが得意だ。事件現場という「結果」に向けて状況がどう動いてきたのかを推理する力がある。

 萩原は状況より人を見て動くタイプだ。関係者の表情や目線、仕草から情報を読み取り、それぞれの関係性や隠し事の有無を見抜いて真相に近づいていく。

 もちろんすでに警部補になった伊達も、経験値からか目の付け所が良く、常に正しい方向に着実に捜査を進めていく。関係者から重要な証言を引き出すのも上手い。

 上に行くなら、ちゃんと能力と正義感を兼ね備えた、彼らのような警察官がいい。

 

『わかってる』

『ちゃんと勉強するって~』

 

 座学も別に苦手な奴らではない。面接も何とか上手いこと取り繕うだろう。

 しかも最近の活躍ぶりがめざましいというのなら、過去のいろいろを差し引いてもおそらく昇任は難しくない。

 

『お礼にビールと小麦粉と豚肉つけて返すね おまけにイカもつけちゃう♡』

『仕方ないから俺もビールと小麦粉とタコつけて返すわ』

『お前ら露骨にもほどがあるだろ』

 

 作れってか、俺にお好み焼きとたこ焼きを作れってか。どこまでもブレない彼らに、思わずひとりで苦笑する。

 

『昇任できたら作ってやるよ』

『やった!』

『任せろよ』

 

 彼らが上に進み捜査一課の暴走を止めてくれることを祈りながら、俺は終電に乗り込んだ。

 




ここから本格的にコナン君たちと関わっていきます。
「相棒」とのクロスオーバーにしたこと、また「柊木旭」の立場と信条的にどうしてもオリ主が公式のキャラクターとぶつかる部分は出てきます。ただし、後味の悪いものには絶対にしません。
公式ならびに公式キャラを貶める意図は一切なく、それ以降で円滑な関係を築くために必要な流れとして書きます。

それでも嫌な予感がされた方はこの先をお読みいただくことはお勧めしないと明記しておきます。ご了承ください。


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20

「まず、これを見てくれ」

 

 珍しく降谷に警視庁の会議室に呼び出された。

 何があったのかと来てみれば、顔をそろえた同期たち。スーツに身を包んだ降谷に渡された書類にざっと目を通し、なるほどと膝を打つ。

 

「安室透の生い立ち設定か」

「ああ」

 

 降谷が潜入に使っている『安室透』。

 諸伏曰く降谷とは似ても似つかない性格だそうだが、降谷としてはそれなりに使いやすく、重宝しているという。

 

「これから僕は、『安室透』として毛利小五郎に接触し、しばらくはその近辺で潜入を続ける」

「毛利小五郎って、あの毛利探偵か」

 

 思わずと言ったように、伊達が口を挟んだ。

 最近高校生探偵が鳴りを潜めたと思ったら、急に台頭してきた名探偵「眠りの小五郎」。卓越した推理力で次々と難事件を解決し、その推理ショーのスタイルがまるで眠っているかのように見えることからそんな風に呼ばれているらしい。

 伊達と松田は面識があるようで、あのおっさんかと少し困った風に零している。

 

「ああ。間違わないでほしいのは、僕が潜入している『組織側の立場』からさらに毛利探偵の付近に潜入するということだ」

 

 つまり、組織側が毛利探偵に目を付けている、と。

 どういう関係なのかは知らないが、民間人の立場であんなに派手に立ち回っているんだ、相応に恨まれたり変な情報を握っていたりしてもおかしくない、が。

 

「つまりその組織的に、お前が毛利探偵の付近に潜入することによってメリットがあんの?」

「詳細は言えない」

 

 へえ、ととりあえず頷いておくと、苦笑した諸伏が一応と言う感じで口を挟んだ。

 

「別に毛利探偵が黒だと言っているわけじゃないからな? ちょっと周囲に気がかりがあるだけだよ」

「別にあのおっさんが黒だとは思っちゃいねえよ」

「まあ、いろいろ言いたいことはあるが、悪い人じゃねえんだよなあ」

 

 不満そうに言う松田と、苦笑する伊達。

 以前騒がれた高校生探偵に比べれば、きちんと公安委員会に認可された職業探偵である毛利探偵に活躍された方がまだマシといつぞや漏らしていたのが思い出される。民間人は民間人だし推理ショーは頂けないが、それ以外は比較的にまともな人だと伊達も言っていた。

 それで、と萩原が口を開いた。

 

「毛利探偵の付近に潜入って、具体的にどうすんの?」

「いくつか候補はあるんだが、話の流れもあるからな。確定したらまた連絡するが、この設定は基本的に変わらないからしっかり頭に入れておいてくれ。というかその書類は回収するから今ここで覚えろ」

「うえ、マジで?」

「しっかり頼む。何せ、」

 

 失敗したら僕が死ぬからな。

 冗談になってない冗談を言う降谷の頭を、すっぱーんといい音をさせて諸伏がひっぱたく。

 

「笑えない冗談はさておき、よろしく頼むな?」

「ヒロ……!」

「何?」

 

 にこっと笑う諸伏に、降谷はうっと言葉を詰まらせた。今のはお前が悪い。苦笑しつつ目を通した書類を降谷に返した。

 

「もういいのか?」

「ああ、覚えた。で、肝心の俺たちとの関係性はどう説明する気なんだ?」

「数か月前に僕の『探偵の仕事』の関係で遭遇した、で十分だろう。そうすれば守秘義務が発生するからお互いに詳細は言わずに済む。それで友人関係に発展した」

「表向きはそれで充分だろうが、お前の潜入してる組織的に大丈夫なのか?」

 

 松田の指摘に、軽く降谷は首を振って答える。

 

「組織には『日本警察の情報を手に入れるため』とでも言えば済むさ。組織内での僕の立ち回りは情報収集役だからな。むしろそういう意味では、警察官の友人をもっていることはメリットにすらなりえる。……まあ当然、僕の正体がバレればお前たちにも危険が及ぶ可能性はあるが」

「何をいまさら」

「同感」

「お前がバレなきゃいい話」

「そういうことだな」

 

 何の気なしに揃って答えると、降谷も諸伏も笑った。お前たちの所属を聞いたときからとっくに覚悟はできている。

 

「また、詳細が確定次第連絡する。頼むから本名で呼んだり、僕と『安室透』のギャップで笑わないでくれよ。特に萩原」

「何で俺だけ名指しなのよ降谷ちゃん」

「お前は気分で僕たちの呼び方変えるから」

「そりゃそうだけど間違わねーわ! ねえ旭ちゃん!」

「はいはいそうだな」

 

 何やら訴えてくる萩原を片手で止めながら、今後のことを考える。毛利探偵は確か元刑事という話だ。軽く調べておくことにしよう。

『安室透』潜入成功の連絡が飛んできたのは、それから二週間後のことだった。

 

 

 ***

 

 

 この喫茶ポアロで一番お客様が少ないのは、ちょうどティータイムが終わる今くらいの時間。もう少し時間がたつと、少し前に入ったイケメンスタッフを目当てに立ち寄るJKの皆様が来店されてまた賑やかになる。

 今のうちに店内の片づけを済ませておかなければとテーブルを拭いていた時、かららんと来店を告げるベルが鳴った。

 

「あ、いらっしゃいま、せ」

 

 お客様に目を向けて、思わず一瞬固まった。

 無造作ながらも整えられた黒髪に、すっと通った鼻先。意志の強そうな瞳はよく見れば長い睫毛に縁どられ、ゆるく結ばれたうすい唇が理知的な印象を与えている。手足も長くスタイルもいいが、何より姿勢と所作の美しさが品の良さを感じさせていた。

 まさに安室さんに並ぶイケメン。何この人すっごいかっこいい。

 

「……?」

 

 初めてのご来店なのか、店の中を軽く見渡して不思議そうな顔をされていた。何とか頭の中を仕事モードに切り替え、笑顔でお客様をお迎えした。

 

「一名様ですか? カウンターにどうぞ」

「……どうも」

 

 少しそっけない声で返事を返し、目が合わないままカウンターに座った。そのままブレンド、ホットで、とぼそりと呟き、持っていた鞄から文庫本を取り出す。

 そんななんてことない動きまで様になるってイケメンすごい……とつい感心しながら、ご注文をお受けしてポアロが誇るイケメンに声をかけた。

 

「安室さん、ブレンドひとつお願いします」

「はーい」

 

 倉庫から補充の珈琲豆を持ってきてくれた安室さんの愛想のいい返事が響く。ひょいとカウンターに顔を出し、お客様の顔を見て笑みを深めた。

 

「いらっしゃいませ。来てたのか」

「ああ。お疲れ」

 

 どう見てもお知り合いであるようで、なるほどイケメンの友達はイケメンなのかと奇妙なほどの納得感。ついおふたりを眺めていると、安室さんと目が合った。

 

「?」

 

 どうかしましたか、と言わんばかりの態度で首をかしげる安室さん。そうだ、お客様がどんなにイケメンだろうといつもと変わりなく仕事しなくては。

 無理やりふたりから視線を外し、気になる心をおさえながらまたテーブルを拭く作業に戻る。

 結局そのお客様は、小一時間ほど珈琲を片手に読書をされてお帰りになった。

 時折一言二言安室さんと言葉を交わしていたようだけど、できる限り耳に入れないように心掛けたので内容はわからない。お客様の話を聞こうとするなんて店員失格。いつもと同じように働くよう心掛けたけれど、ちゃんとできていただろうか。

 

「すみません梓さん、お掃除お任せしてしまって」

「いえいえ、大丈夫ですよ」

「さっきの、友人なんです。僕が働いていることを聞いて、来てくれたみたいで」

「そうだったんですね」

 

 安室さんがどことなく嬉しそうな顔をしているので、きっと本当に仲の良いお友達なのだろう。あまり私生活の見えない人の意外な一面を見たようで、少し嬉しい。

 

「特定のお客様にこういう言い方、あんまり良くないのかもしれませんけど……ものすごいイケメンでしたね……」

 

 真剣な顔でそういうと、安室さんも真剣な顔で答えてくれた。

 

「多分、僕が人生で出逢った中で一番のイケメンだと思います。正直、芸能人やモデルも目じゃないですよね」

「むしろモデルと言われた方が納得します」

「ははは、彼、あれでも公務員ですよ」

「公務員」

 

 あのルックスに公務員なんて、さぞおモテになることだろう。そんな考えが顔に出ていたのか、安室さんは苦笑して言った。

 

「いろいろお察しの通りだと思います」

「あ、ごめんなさい。……けど、この時間帯で良かったですよね。もう少し遅かったら安室さん目当てのJKたちが……」

「ええ、だからこの時間に来たんだと思いますよ。彼はあまり騒がれることが得意じゃないので」

 

 安室さんの言葉に、確かにと頷く。あまり愛想のある人ではなかったし、女の子に囲まれてにこにこするタイプには見えなかった。

 

「……最初、あまりのイケメンに動揺してしまって……店員失格です」

「そんな。しっかりお仕事されていたじゃないですか」

「イケメンは安室さんで慣れていると思っていたのに……!」

「はは……光栄ですが」

 

 彼も気にしていませんでしたよ、という安室さん。

 

「多分また来てくれると思うので、その調子でお願いしますね」

「はい! 次は絶対『いらっしゃいませ』をどもったりしません!」

「さすがは梓さんです」

 

 む、と決意表明をすると、安室さんはどことなく嬉しそうに、安心したように笑った。

 

 

 ***

 

 

 やはり、この人は真面目で仕事熱心な女性だ。おおよそ予想通りの展開に、内心安堵する。

 あえて柊木には、このポアロに女性の店員がいることを伝えていなかった。あの女性恐怖症がどれだけひどいものかはよく知っていたが、梓さんは(自分で言ってなんだが)僕の顔の良さを理解しながら特に興味をもたない稀有な女性だ。仕事熱心で、勤務中に特定の客に何かしらのアプローチを起こすこともまずない。

 つまり、柊木のリハビリにちょうどいい相手なのだ。

 

『……せめて心の準備くらいさせといてくれないか……』

 

 小声で泣きごとを漏らした柊木に、「安室透」の顔を崩さないまま何のことかわからないという風に笑顔を向ける。不貞腐れたように唇の端を下げた柊木が面白い。何とか微笑みは保ったまま珈琲を差し出したが、内心で笑っているのを察したのか柊木はさらに苦い顔。気を抜いた柊木の表情筋は、実はわりと素直だ。

 

『心配するな、俺の顔にも動じない珍しい女性だよ』

『自分で言うか。……まあ、きゃーきゃー言う人じゃないのはわかったけど』

『そのあたりは保証するよ』

 

 そう言うと、柊木は自身を落ち着かせるように珈琲を口に含んだ。そして少し驚いたように瞬きをひとつ。どうやらお気に召したらしい。

 

『まあ、ゆっくりしていけよ。店が賑やかになるまでもう少し時間があるから』

『……そうさせてもらう』

 

 少々居心地悪そうにしながらも、柊木は持っていた本を開いた。

 家の外で安らげる場所が少ない柊木も、とりあえず僕がいる間はこの店に通ってくれるだろう。お節介は重々承知で、自身の女性恐怖症を治そうと細々と努力を続けている柊木の助けになればいい。柊木にポアロのことを教えたのは、そういう思惑もあってのことだった。

 

「あ、安室さん、そろそろJKの皆さんがいらっしゃる時間ですよ! ハムサンドの仕込みお願いします!」

 

 もう柊木から頭を切り替えて仕事のことを考えている彼女に感心しつつ、わかりましたとカウンターに引っ込んだ。

 

 



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21

 

 あれ以来安室さんのお友達だという超絶イケメンさんはふらりとポアロに来てくれるようになった。決まって安室さんが出勤の日の、人の少ない時間帯。ブレンドを一杯だけ頼んで、本を片手にのんびりと過ごされている。

 相変わらず少しそっけなくて目も合わないけれど、決して邪見にはされないし使った後のカウンターはいつも綺麗。それにお帰りになるときは必ず「ごちそうさま」の一言。ちゃんと話したことはないしお名前も知らないけれど、間違いなくいい人だと思う。

 もちろんお客様に対して個人的に親しくなりたいなんて思わないけれど、ここまで来たらファンというか目の保養。ご来店されたらちょっとだけ嬉しくなるのは仕方がないと思う。

 仕事の帰り道にそんなことを考えていたら、思い浮かべていたその人によく似た後ろ姿が視界の端をよぎった。

 

「……あれ……?」

 

 スーツを着たその人のすぐ傍には、見知らぬ女性の姿があった。

 

 

 ***

 

 

 かららん、と軽やかな音が店内に響く。

 入ってきたのは梓さん曰く「目の保養」の同期だった。

 

「いらっしゃいませ」

「あ、いらっしゃいませ!」

 

 僕の声に続いて梓さんも柊木に入店の挨拶をする。

 いつもなら目も合わせないままブレンド、とだけ言ってカウンターに座るのだが、今日は違った。意を決したように梓さんに目を向けて、口を開く。

 

「……先日は、ありがとう」

 

 ()()柊木が、プライベートで、ぎこちないとはいえ自分から女性に笑いかけた。

 あの、「あえて言うなら好みのタイプは俺に興味をもたない人」「俺を合コンに巻き込んだ瞬間本気で縁を切る」と真顔でほざいていた柊木が。

 ここで手に持っていた皿を落とさなかった僕は偉いと自分で思った。

 

「そんな、お気になさらないでください。カウンターどうぞ」

「……ブレンドで」

「はい!」

 

 どこか嬉しそうな梓さんに安室さんお願いします、と言われてやっと僕は正気に戻った。今見ていた光景はなんだ、夢か。

 

「は、い。……梓さん、彼と何か?」

「大したことではないんですけど、先日偶然外でお会いして」

「いえ、大したことないわけがないんです。僕は彼がプライベートで女性に笑いかけるのを初めて見ました」

「そんなに?」

 

 梓さんが驚いた顔を見せるが、事実だ。

 もちろん何とか取り繕わなくてはならない事態の時は別だが、柊木が自分の意志で女性に笑いかけたのは僕が知っている限り初めてだ。

 気まずそうな顔をした柊木は、拗ねたように口を開く。

 

「……情けないことに助けられたんだ。礼儀くらい心得てる」

「助けられた?」

「………………逆ナン」

 

 項垂れるようにうつむいた柊木に全てを察した。普通の野郎相手であればそれくらい自分で何とかしろと思うが、柊木なら仕方がない。

 

「……友人がご迷惑をおかけしたようで、すみません、梓さん」

「いえ! こういう言い方するのもなんですけど、結構……その、しつこい人だったみたいですし。お酒も飲んでたみたいで、なかなか諦めてくれなくて」

「それで見かねて助けてくださったんですね。……だったら菓子折りのひとつくらい持ってこないか」

「もう、安室さん! こうしてまた来てくださっただけで十分ですよ!」

 

 気まずそうな顔をしつつも、柊木の顔に嫌悪感は見えない。

 なるほど、梓さんとの接触はリハビリになるかもと思っていたが、本当に良い方向に進んでいるらしい。それならここらでネタ晴らしをしておいた方がいいだろう。

 

「梓さん、改めて、僕の友人の柊木旭です。ちゃんと紹介していませんでしたね」

「……柊木です」

「あ、榎本梓です。柊木さんて仰るんですね」

「ええ。以前柊木について、騒がれるのが苦手、とお話したと思いますが、正しく言うと女性が苦手なんです」

 

 え、と固まる梓さんに、安室、と慌てる柊木。

 騒ぐ柊木を無視し、僕は「安室透」の笑顔のまま続けた。

 

「ナンパの類は特にダメでして。助けて頂いてありがとうございました」

「そ、それはいいんですけど、それじゃ私あんまり接しない方がいいんじゃ……!」

「いえ、梓さんはちゃんと店員とお客様としての距離を考えてくださるでしょう? だからリハビリにもなると思って、彼をポアロに呼んだんです」

 

 勝手なことをしてすみません、と頭を下げると梓さんは頭をあげてください、とわたわたと手を振った。

 

「私は構いませんけど、むしろ何かご不快なことを……!」

「それはない。……安室」

「何か失礼がある前に伝えておいた方がいいと思わないか?」

「……せめて伝え方ってあると思うんだが」

 

 苦々しい顔の柊木を笑顔で黙らせる。

 

「柊木も梓さんにはだいぶ慣れたみたいです。懐かない犬だとでも思って気軽に接してやってくださいね」

「誰が犬だ」

「えええええ……」

「榎本さん、ごめん、安室の言うことは気にしないで」

 

 おっと、また柊木から梓さんに話しかけた。これは経過も上々、あとであいつらにも連絡しておこう。

 

「あの、本当にご不快じゃありませんか?」

「不快だったら店に来てない。……あんまり距離が近かったり、触れたりしない限りは、大丈夫。苦手なのは……たとえば安室目当てに通ってるっていう学生さんたちとかの、そういう感じだから」

「ああ……」

 

 納得したように、そして少し同情したように梓さんは頷いた。

 モテすぎるのも考えものよねとか考えているんだろう。大正解です。

 

「……目を合わせるのも、得意じゃなくて、……申し訳ない」

「いえそんな、お気になさらないでください。……でももし何か不手際がありましたら、遠慮なく仰ってくださいね」

「そんなことは今後もないと思うけど……お気遣いありがとう」

 

 とりあえず次の課題は、そのぎこちない笑顔を取り繕うところだろうか。

 ちなみにこの後、柊木が誤解を生む連絡を回したらしく、俺のスマホには四人からのメッセージが届いていた。

 

『柊木から降谷がいじめるってメッセージ来たんだが、お前何やったんだ?』

『いじめかっこ悪い』

『せんせー! れいくんがあさひちゃんをいじめてまーす!』

『いくら疲れてるからって柊木に八つ当たりはよくないよ?』

 

 どうやら俺が今日のことをこいつらに報告することを見越して先手を打ったらしい。若干苦笑を漏らしつつ、俺は返信のメッセージを打ち込んだ。

 

『断固として無罪を主張する』

 

 後で詳細を伝えれば、多分こいつらも面白がって柊木をポアロに引きずってくるだろう。女性とまともに会話をする素の柊木なんてレアすぎる。

 他の同期たちがポアロに乗り込んでくる日も近そうだと笑みをこらえつつ、俺はスマホをポケットにしまい込んだ。

 

 ***

 

 

「梓さん! 何で教えてくれなかったの?」

「ど、どうしたのいきなり」

 

 店に飛び込んできた元気なお客様に、思わず後ずさる。

 その後ろに常連のお友達と、いつもの男の子。ポアロの上の階に住んでいる彼女たちはよくこの店にも顔を出してくれる。その親友だという彼女もすでに顔見知りだった。

 

「もう、園子、迷惑でしょ!」

「だって蘭!」

 

 いつも元気なお客様ではあるけど、今日は何やらあったようで。教えてくれなかったって、いったい何のことを指しているのだろう。

 

「ほら梓さん、これ見て!」

 

 ずい、と目の前に出されたのは、彼女のスマートフォン。

 表示されているSNSには、誰ともわからない呟きがひとつ。

 

『ポアロに超絶イケメンがふたり! 店員さんは知ってたけど、お客さんらしきもうひとりも超イケメン! 店員さんと仲良さそうに話してたし、友達かな?』

 

 さすがに写真はついていなかったが、誰のことかすぐにわかった。

 さあっと血の気が引くのを感じる。柊木さんがいらっしゃるのはいつもほとんどお客様がいないときだったけど、もしかしたら店の外からでも見ていたのかもしれない。

 おそらくこれこそ、柊木さんが本気で嫌がる類のもの。

 

「これ、誰のこと? 梓さんなら知ってるでしょ?」

「え、えっと……。……と、とにかく、お席にどうぞ?」

 

 園子ちゃんは決して悪い子ではないのだが、イマドキの子らしいというか、イケメンが好きでミーハーなところがある。暴走しがちなところもあるから、うまく誤魔化さないと柊木さん目当てで店に通いかねない。

 何と説明したものかと考えていたところ、安室さんが休憩から帰ってきた。

 

「ああ、皆さん。いらっしゃいませ」

「安室さん! こんにちは!」

「はい、こんにちは。今日もお元気ですね」

 

 にこりと安室さんが笑うと、園子ちゃんはまたきゃあきゃあと歓声を上げる。

 ここは私よりも安室さんに何とかしてもらおう。柊木さんの友だちならきっとベストな対処もわかっているはず。

 

「あ、安室さん……!」

「? どうしたんですか?」

「ねえ安室さん、これ見て!」

 

 またずいっと突き付けられた呟きを、安室さんの目が辿る。そして納得したように苦笑した。

 

「なるほど」

「安室さんの友達?」

「多分、そうだと思います。参ったな、こんな風に情報が出回るなんて」

「……へえ、本当に安室さんのお友達なんだ!」

 

 それまで興味なさそうにしていたコナン君が、驚いたように声をあげた。抑えきれない好奇心が顔に出ている。

 

「酷いなコナン君、僕にだって友達くらいいるよ」

「えへへ、ごめんなさい」

 

 まあコナン君の気持ちもわからなくはない。

 安室さんは探偵という職業もあってか、自分のことはあまり語ろうとしない。いつもにこやかでスマートに仕事をこなす姿を見ているだけに、柊木さんと親し気に話している姿を見るのは何だか新鮮だった。

 

「その友達って本当にイケメン? ポアロにはよく来るの?」

「まあまあ、落ち着いてください園子さん。顔は整っていると思いますよ。ポアロにもたまに来てくれます。けど、いつも人の少ない時間帯を見計らって来るので、なかなか皆さんと会うことはないかもしれませんね」

「そんなぁ……!」

 

 がっくりと肩を落とす園子ちゃんに、蘭ちゃんはもう、と少し怒った顔をする。

 

「ダメだよ園子、ポアロにもその人にも迷惑になっちゃう」

「だって超絶イケメンって気になるじゃない……!」

「……そんなにかっこいい人なの?」

 

 ぽろりと零れたコナン君の疑問に、思わず安室さんと目を見合わせた。そんなにかっこいいというか、何というか。そんな言葉で片づけていいのか疑問だというか。

 

「……安室さん」

「ええ、正直に言って構いませんよ」

「下手な芸能人やモデルなら目じゃないくらいかっこいいの」

 

 ええっと園子ちゃんと蘭ちゃんは声を揃えた。

 彼女たちの好奇心を煽るようなことは言わない方がいいのだろうけれど、安室さんの許可も得たから! 正直に! だってあんなイケメン絶対そうそういない!

 

「正直、安室さんとあの人がお店にいるだけで絶対ポアロの売り上げが違うと思うんです。 絶対ご本人には言えませんけど」

 

 イケメン相乗効果ですさまじい客数になるに違いない。いやでも、皆テーブル占領してお店の回転が悪くなるからむしろ売り上げダウンか。難しいところ。

 

「まあ、もし機会があれば紹介しますよ」

 

 そう苦笑する安室さんに、園子ちゃんは絶対だから、と鼻息を荒くしている。柊木さんに遭遇したら大変なことになりそうだ、と少し頭が痛い。

 

「ねえ梓さん、その安室さんのお友達って、どんな人なの? お仕事は?」

「うーんコナン君、あんまりお客様のことはお話しできないなぁ」

「あ、そっか。ごめんなさい」

 

 ごめんね、と笑いかけると、コナン君も僕もごめんなさい、と笑ってくれた。

 お客様の個人情報を簡単にお話するのは店員として失格。というか私も公務員ってことしか知らない。

 

「気になるのかい? コナン君」

「え、あ、……う、うん!」

「じゃあ特別に教えてあげよう。彼はね、」

 

 警察の人だよ。

 安室さんがにこりと笑いながらそう言った瞬間、コナン君がぴたりと固まった気がした。

 

「警察の人って、刑事さんですか?」

「いえ、彼はあまり現場には出てこない部署の人なので、蘭さんたちとも面識はないと思いますよ」

「そうなんですね」

 

 イケメン警察官か~会ってみたい、と叫ぶ園子ちゃんに苦笑しつつ、私はすっかり取るのを忘れていたオーダーを尋ねた。

 

 

 ***

 

 

 梓さんが持ってきてくれたオレンジジュースに口をつけながら、考える。

 ベルツリー急行の一件で、安室さんが黒ずくめの組織の仲間、バーボンだということはわかっている。その安室さんの友人と言うだけでも怪しいのに、まさかの「警察の人」。どこまで本当のことかわからないが、調べる価値はある。

 

「せっかくの手がかり、逃してたまるかよ……!」

 

 ぼそりとそう呟くと、ささやきを拾った蘭に聞き返される。何でもないよと子どもらしく笑って、俺はその人に接触する術を模索し始めた。

 

 



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22

 

 安室さんの友人だという警察官と接触を図ろうと、それから折を見てはポアロに足を運ぶようになった。学校の帰りに必ず窓の外からそれらしき人がいないか覗き込んで確認するが、なかなかターゲットは現れない。

 さりげなくその人のことを聞いてみるが、やはり来店しているのは平日の昼間。さすがに学校をサボるわけにもいかず、俺は頭を抱えていた。せめて名前がわかれば調べようがあるのだが、梓さんは客の個人情報を漏らすようなことはしない。

 手詰まりかと思っていたところに、チャンスが降ってきた。

 

「コナン君、確か来週学校の創立記念日よね?」

「! うん」

 

 そうか創立記念日、平日なのに堂々と休める日がある。

 

「悪いんだけどその日、私は学校だしお父さんも仕事があるみたいだから、お昼はポアロで食べてくれる?」

「うん、わかったよ蘭姉ちゃん!」

「外に遊びに行ってもいいけど、ちゃんと夕方には帰ってくるのよ?」

「はーい!」

 

 よし、しかもポアロに行く口実までできた。その日にターゲットが現れるかはわからないが、少しでも希望があるなら賭けるしかない。

 俺は決意を込めてぐっと両手を握りしめた。

 

 

 ***

 

 

 かららん、とドアベルが鳴り響く。

 最近たまに会話ができるようになった目の保養のお客様が、少し眠そうな目をしながら店に入ってきた。

 

「いらっしゃいませ。あれ、今日安室さんいませんよ?」

「知ってる。最近忙しいみたいだな」

 

 ブレンドよろしく、と一言を落として柊木さんはカウンターに腰かける。

 安室さんがいない日に来店されたのはこれが初めてだ。それだけポアロに親しんでくれたのかと思うと、何だか嬉しくなる。

 

「そうだ柊木さん、SNSのこと聞かれました?」

「ああ……安室に聞いた。気にしないで、こう言ってなんだけど、慣れてる。盗撮もなかったし名前が広まってるわけでもないから」

「慣れて……るんですか……」

「残念ながらね」

 

 柊木さんは少し肩をすくめて文庫本を取り出した。

 おっと、長話は厳禁。すっとカウンターに引っ込んで、ブレンドの用意を始めた。

 するとまた、かららんとドアベルが鳴る。入ってきたのは、最近特によく姿を見かける好奇心旺盛な男の子だった。

 

「あらコナン君、いらっしゃい」

「こんにちは!」

「今日、学校は?」

「創立記念日でお休みなんだ。だからポアロでごはん食べなさいって蘭姉ちゃんが」

「そうだったの」

 

 道理で今日は道を通る子供さんが多かったわけだ。

 今日はポアロで本読んでてもいいかな、と尋ねるコナンくんにもちろんと頷く。この子はお店で騒ぐようなこともしないし、いざ店が混みだしたらそっと家に帰ってくれるとても頭の良い子だ。たまに本当に小学一年生なのかと思うほど察しのいい子なので、私も安心してOKを出せる。

 

「ありがとう! 僕オレンジジュース飲みたい!」

「はーい。お好きな席に座ってね」

 

 うん、と店内を見渡したコナン君は、ふと柊木さんに視線を向けてぴしりと固まる。うんうん、わかる。小学一年生の男の子が見ても絶対かっこいいよね柊木さんは。

 その視線に気づいたのか、柊木さんも本から視線を外し、コナン君に顔を向けた。

 

 

 ***

 

 

 うわ、本当にすごいイケメン。その人を見た第一印象はそれだった。

 カウンターの端に座って文庫本を開くその姿は、一枚の絵画かというくらい様になっている。ただそこにいるだけで目を引いてしまう造形と存在感には圧倒されるものがあった。

 同時に、直感する。きっとこの人が、安室さんの友人の「警察官」。このチャンス、逃すわけにはいかない。

 

「こんにちはっ」

「……こんにちは。坊や、ひとりか? 学校は?」

「今日は学校の創立記念日で休みなんだ。家の人出かけちゃって、ポアロでごはん」

「ああ、なるほど」

 

 うん、と元気に返事をすると、梓さんが苦笑して間に入る。

 

「こーらコナン君、お客様のお邪魔しちゃダメでしょ?」

「構わないよ。……ひとりでいるのもつまらないだろ。座るか?」

 

 梓さんを制して笑みを浮かべたその人は、本当に優しそうな人に見えた。

 わーい、と言ってその人の隣の席に飛び乗るが、その人は気にした様子もない。

 

「僕、江戸川コナン。この上の小五郎のおじさんに預かってもらってるんだ」

「へえ、毛利探偵の。俺は柊木旭。いい名前だな、コナン君」

 

 ひいらぎ、あさひ。

 ありがとう、と答えながら、その名前をしっかりと脳に刻み込む。次にいつ顔を合わせることができるかわからない以上、できるだけ情報を引き出さなければならない。

 

「ねえねえ、柊木さんてここで働いてる安室さんのこと知ってる?」

「? 友達だよ」

「やっぱり!」

 

 俺のこと知ってるの、と柊木さんは不思議そうに尋ねた。いや、あんたのことは超絶イケメンとしてすでに知られてるぞとはさすがに言えない。

 

「安室さんがお話してくれたよ。すっごくかっこいい、警察のお友達がいるって!」

 

 柊木さんのことだよね、と反応を窺う。

 しかし柊木さんは、特に動揺も見せずじゃあ俺のことかな、と苦笑した。「警察」を否定はしなかった。どうやら本当に警察関係者らしい。

 

「どんなお仕事してるの?」

「……そこで仕事の中身聞くあたり、警察に詳しいのか? たいていの子は、警察官って言ったら刑事か交番のおまわりさんを思い浮かべるのに」

「僕、ミステリー大好きなんだ。警察の人が出てくるお話も読んだから、少しはわかるよ」

 

 そっか、たくさん本を読んでるんだな、と柊木さんは淡く微笑んだ。

 つまり刑事でも交番駐在員でもないらしい。警察と一口に言っても相当幅は広い。いったいこの人は、どういう立場の人なのだろう。

 さらに聞き出そうとしたとき、背後で来店のベルが鳴った。

 

「コナン君、ちょうど良かった」

「え、……高木刑事と佐藤刑事!」

「突然悪いね、こないだの事件で預かった証拠品を返そうと……ひ、柊木監察官!?」

 

 俺の隣にいる人を見た瞬間、高木刑事は文字通り顔色を変えた。佐藤刑事とふたりでばっと敬礼の姿勢に入る。

 監察官、とつい口の中で繰り返した。

 

「……あー、いえ、私は今日休みなので。そうかしこまらないでください」

「し、しかし……」

「と言うかやめてください、民間人の前ですよ」

 

 困ったように言う柊木さんは、特に慌てることなくふたりを窘める。

 失礼いたしました、とふたりは敬礼を解くと、柊木さんはやれやれと言わんばかりに首を振った。

 

「……柊木さんって、監察官なの……?」

「まあね」

「こ、コナン君、柊木監察官とお知合いかい……?」

「今日初めてお話したよ」

 

 そ、そうなの、と佐藤刑事にしては珍しく歯切れの悪い返事が返ってきた。

 とにかく、と高木刑事は以前の事件の関係で警察に預けていた証拠品を俺に渡し、お休みのところ失礼いたしました、とまたひとつ敬礼をしてポアロから出て行った。

 ぽかんとしていた梓さんが、思わずという風に口を開く。

 

「……監察官って、どういうお立場なんですか……?」

「警察官の不祥事を取り締まる仕事。まあ警察の警察というか」

「警察の警察! へえ、そういう部署もあるんですね!」

「エリートの人がいるところだよね? 柊木さん、偉いんだ」

 

 そうでもないよ、と柊木さんは軽く流すが、そんなことはない。

 出世を約束された人が通る道だし、見たところ柊木さんは二十代からせいぜい三十代前半。普通そんな若い人が配属されるような部署ではないはずだ。

 

「高木刑事も佐藤刑事もあんなに畏まってたのに?」

「あのふたりは階級も歳も下だから。警察は上下関係にうるさいんだよ」

「ふたりのこと知ってるんだ」

 

 捜査一課に同期がいるから噂くらいはね、とそう言って珈琲を飲みほした柊木さんは、ちらりとポアロの時計を見る。

 一瞬考えるそぶりを見せ、そのまま伝票を手に取った。

 

「そろそろお暇するよ。またな、コナンくん」

 

 そう言ってぽん、と俺の頭に手を置いた柊木さんは、会計を済ませてポアロを出て行った。追うに追えないまま背中を見送り、改めてカウンターに座りなおす。頭の中の情報を整理するように目を閉じた。あまりきちんと話はできなかったが、収穫はあった。

 あの若さで、監察官。相当に警察内で評価されているということだろう。そして監察官なら、警察内部について得られる情報量は他より多いはず。ある程度の機密情報も得やすい立場だ。そんな人が、バーボンと「友人関係」。

 いくつか可能性は考えられる。まず、バーボンの正体を全く知らないまま黒ずくめの組織に警察の情報を流してしまっているという可能性。それから、バーボンの正体を知っていながら警察の情報を流し、黒の組織に与しているという可能性。この場合、柊木さん自身が組織の一員ということもあり得る。逆に柊木さんがバーボンを探っているという可能性は……いや、監察官という立場上、さすがに考えにくい。

 とにかく、高木刑事や佐藤刑事は柊木さんのことを知っていることもわかった。機会を改めて、そちらからも話を聞いてみよう。

 

「はい、コナン君、ケーキどうぞ」

「え、僕頼んでないよ?」

「柊木さんが、お近づきのしるしに、だって」

 

 お昼ご飯のあとにお腹に余裕がありそうだったら出してあげてって、と笑う梓さんがふふふと笑う。よく見たら俺が飲んでいたジュースの伝票もない。もしかしてと改めて梓さんを見ると、にっこりと微笑まれた。

 つい、力が抜ける。考え事に気を取られていたとはいえ、あまりにもスマートに奢られてしまった。ささやかながらも優しさが滲む微笑みが脳裏に浮かぶ。

 柊木さんの正体はまだわからないが、あの優しい笑顔は偽りではないと思いたい。柄にもなく、そう思った。

 

 

 ***

 

 

「……あれが例の、江戸川コナン君、か」

 

 伊達と松田がたまに口にする、毛利探偵にくっついてくる小学生。

 隠してはいるが、どうやら子供には似合わない卓越した推理力と知識を兼ね備えていて、自ら事件現場に飛び込んでくるという。その能力自体はたいしたものだが、警察から見れば危なくて仕方がないと、特に子供好きの伊達はため息をついていた。事件捜査が本来どれだけ危険なのか、何とか教えられればいいんだがとぼやいていたのを覚えている。

 その話を聞いたときはどんな問題児かと思ったが、話してみれば意外や意外、確かに少々子供らしく振舞っていたようだが、人の話をきちんと聞けるし、ちゃんとものを考えられる子のように感じられた。なのに伊達や松田の静止を聞かず捜査に飛び込んでくるというのは、どういうことなのだろう。

 

「……事件捜査になると人が変わりでもするのか……?」

 

 実際その姿を見てみないと何とも言えないが、そんなに馬鹿な子には見えなかったが。何となく釈然としない気持ちを抱えながら、念のため奴らに報告をすべくスマホを取り出した。

 

 



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23

 

 とある穏やかな昼下がり。

 休日の午後のティータイムも終えて、ポアロの店内もだいぶ落ち着いてきた。人が少なくなったころを見計らってか、最近よく来てくれる男の子に声をかけられた。

 

「あ、ねえ安室さん! 僕安室さんのお友達に会ったよ!」

 

 ああ、とその言葉に目尻を下げた。その報告はすでに本人から上がっている。

 予想はしていたが、彼は持ち前の好奇心で自分から柊木に話しかけにいったという。当たり障りのない程度の話で終わったようだが、さて、この小さな探偵君は柊木との接触で何を思ったのか。

 

「彼から聞いたよ。仲良くしてくれたんだって?」

「ジュースやケーキをご馳走してもらっちゃったんだ。お礼を言いたいんだけど、連絡先がわからなくて」

「僕から伝えておくよ。わざわざありがとう」

 

 にこりとそう笑って返すと、だよなーという顔をされた。もちろん、そう簡単に連絡先を教えたりはしないとも。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいがきんちょ、それ例の超絶イケメンの話じゃないの?」

 

 ばっと身を乗り出したのはいつも元気な鈴木財閥のご令嬢。コナンくんとの接触よりも、彼女との遭遇の方が正直怖かった。

 その様子にちょっと呆れた目を向けつつ、コナンくんは軽く頷く。

 

「そうだと思うよ。びっくりするくらい格好良かったから」

 

 わかる。男の目から見ても柊木は相当なイケメンである。こんな子供にまでそう言わせるのだから、そのルックスの良さがわかろうというものだ。

 

「僕、カウンターに座ってるだけで絵になる人初めて見た」

「もー! 会ったならすぐ園子お姉さまに連絡しなさいよ!」

「創立記念日でおやすみだったときだよ。だから園子姉ちゃんは学校」

「きいいいい! 私だって超絶イケメンに会いたい!」

 

 そんな園子さんを窘めつつ、蘭さんがこちらを向いた。

 

「すみません、コナンくんご馳走してもらっちゃって聞いて……本当なら私からもお礼を言いたいんですけど」

「お気になさらず。彼もコナンくんと話せて楽しかったと言っていましたから」

 

 これも別に嘘ではない。普通にいい子そうに見えたけど事件になると人が変わりでもするのか、なんてメッセージで零していたおり、柊木としてはコナンくんに対して悪い印象はもっていないようだった。よく監察官なんて立場知ってたよなとのんきに宣った柊木は、少なくともコナンくんを「警戒すべき対象」とは見てはいない。

 警察でも偉いひとなんだって、と子どもっぽくコナンくんを見ながら、さすがにちょっと油断しすぎじゃないのかと思う反面、柊木がそう思うならそれでいいとも思った。

 何せ、柊木の人を見る目は理屈では語れないところがある。

 

「え、……イケメンでしかもエリート? 最高じゃない!」

「はは、とても優秀な人なんですよ」

 

 適当に相槌を打ちながら、もちろんこれも嘘ではない、と内心で呟いた。柊木は間違いなく優秀だ。未来の警視総監なんてもっともらしく噂されているとも聞く。

 まだ二十九の柊木には気の早い話だろうが、もしそれが実現すれば警察はもっとクリーンな組織になるだろう。監察官という職務がなかったとしても、基本的に筋の通らないことは嫌がる奴だ。ぜひとも順調に出世の階段をあがってほしい。

 

「それにしても安室さん、そんなひととどうやって知り合ったの?」

「少し前の探偵の仕事でちょっとね。守秘義務があるからあんまり教えてあげられないけど、ある事件で出会って意気投合したんだよ」

「そうなんだ」

 

 にこにことコナン君と笑顔をかわす。しかし本当に、好奇心の強い子だ。そんなに探られると、俺としても君を探りたくなってくるのだが。

 コナン君が知り合いの捜査一課の刑事に柊木のことを尋ねたこともわかっている。どうやら話を聞いたのが柊木に憧れている刑事だったとかでほとんど柊木を褒めたたえる内容で終わったようだが、それも当然だ。

 柊木は探ったところで何も出てこないし、そもそも「バーボン」相手だろうが「降谷零」相手だろうが機密情報は漏らさない。同期で集まる酒の席でも絶対にだ。少々の仕事の愚痴をこぼしたとしても、誰ひとりとして「言ってはならない情報」は口にしない。

 だからこそ刑事部も公安部も警務部も関係なく、今でも付き合いを続けていられるのだ。その一線はきっちり守られている。

 

「……ねえ安室さん、ちょっと耳貸して」

「なんだい?」

 

 ふと何か思い当たった様子のコナンくんの横で、すっと膝を折る。耳に掛かる息がくすぐったい。

 

「―――もしかして柊木さんて、女の人苦手?」

 

 ああ、そのことか、と苦笑するしかない。

 やはりというか、驚いたというか、気づいてしまったらしい。この子はひどく洞察力に優れているから、梓さんとの応対で察してしまったのだろう。

 一応、迂闊に肯定する前にしゃがんだままコナンくんの大きな瞳を覗き込んだ。

 

「どうしてそう思うんだい?」

「柊木さん、僕と話をするときはちゃんと目を合わせてくれたのに、梓姉ちゃんのほうは全然見ようとしなかったんだ。でも仲が悪いって感じもしなかったし、梓姉ちゃんも気にした風もなかった。それに、この前柊木さんの話をしたとき、梓姉ちゃんは園子姉ちゃんに柊木さんの話をするの、やけに困ってるみたいだったから。柊木さんが女の人のことが苦手で、梓姉ちゃんもそれを知ってたんだとしたら辻褄が合うなって」

 

 柊木さんくらい格好いい人なら今までもきっとたくさん女の人に騒がれただろうし、そういうのを嫌がる人もきっといるよね?

 続けられた言葉に、もう苦笑するしかない。

 

「……実はそうなんだよ。それも相当なレベルで、ポアロに通っているのもリハビリを兼ねているんだ」

「やっぱりそうなんだ。……じゃあ、園子姉ちゃんに会ったら」

「正直、大変だと思う」

「え、何? 何よ、私のこと?」

 

 ううん何でもないよ、とコナンくんは元気に返事をし、ええ何でもないですよ、と僕も同じ顔で笑ってみせる。

 横目で小さな探偵くんに目を向ければ、綺麗な青もこちらを向く。

 

「……僕、園子姉ちゃんに柊木さんの話しないようにするね」

 

 言わなくても理解してくれたコナンくんに苦笑しつつ、助かるよと本音で言った。

 そう、この子は事件さえ絡まなければちゃんとひとを気遣えるいい子なのだ。柊木のデリケートな部分を、他に知られないように配慮ができる程度には。

 鋭すぎるうえに好奇心が強すぎる、しかもおそらく何か隠し事をしているであろうコナンくん相手に油断はできないが、柊木に関してだけは協定を結んでもいいかもしれない。

 

「コナンくん」

「なぁに?」

「彼はね、本当に僕の友人なんだよ。いい奴なんだ」

 

 するりと心から出てきた言葉を、コナン君がどう思ったかはわからない。だけど、そうなんだ、と言ったその笑顔に、企みや疑いの色は見えなかったように思う。

 

 

 ***

 

 

 柊木さんについて、灰原や赤井さんにも確認をした。

 バーボンの「友人」でエリートの「警察官」。その外見的特徴と「柊木旭」の名前も伝えたが、ふたりともその存在に心当たりはないらしい。

 

『知らないわ。確かに組織の性質上、警察に組織の一員がいてもおかしくはないけれど。心当たりはないわね』

『聞いたことはないが……もし日本警察に奴らの仲間がいるのだとしたら厄介だな』

 

 結局、まだ柊木さんの正体はわからない。

 はっきりしたのは、柊木さんが警視庁内でもかなり評判のいい監察官であるということと、女性が苦手であるということだけ。

 高木刑事に柊木さんのことを尋ねると、まるで待ってましたと言わんばかりにそれはもう存分に語られた。正直、迂闊に電話したことを心底後悔するほどに。

 

『本当にすごい人なんだよ!』

 

 さすがに職務の内容が内容だけに詳細は教えてくれなかったが、どうやら本当に有能な人のようだ。しかも穏やかで謙虚、そのくせしっかり筋は通す人柄から、かなり評判はいいらしい。そのルックスも相まってかなりの有名人なのだと聞いたときには、それならさすがに組織からの潜入ではなさそうか、と胸をなで下ろした。普通、潜入をするならできる限り目立たないように振舞うはず。いや、安室さんを考えればそうとも言い切れないのかもしれないけど。

 女性が苦手なことについても、おそらくあれは偽装ではない。梓さんと目を合わせなかっただけでなく、できる限り近づかないように必ず一定の距離を保っていた。梓さんもおそらく直接接触しないようおつりやレシートをトレイに入れて渡していたが、それ以上に柊木さんがかなり気を張って距離を保っており、しかも極力自然に見えるように振る舞っているのはよく観察すればわかる。

 安室さんがやけにあっさりとそれを認めたのは意外だったが、あれは純粋に園子を警戒してのことだろう。

 園子ならきっと柊木さんを見かけた瞬間にまっすぐ飛びついていく。普通の人でもあんな勢いで来られたらビビるのに、女性が苦手な人ならなおさらだ。その場面を想像しただけで頭が痛い。多分、安室さんもそうだったのだと思う。

 柊木さんを本当に友人なのだと言った安室さんの言葉を、俺はどこかで信じようとしていた。柊木さんは安室さんにとって利害も組織も関係ない、ただの友人なのだと。

 組織の一員であるバーボンの言葉を額面通りに受け止めるなんていつもの俺なら馬鹿げていると考えるだろう。だけど、そう言った時の安室さんの笑顔も、柊木さんが俺に向けてくれた笑顔も、どうにも嘘だとは思えなかった。

 

『珍しいわね』

 

 柊木さんのことを尋ねたときに、灰原に言われた言葉が蘇る。

 いつも通りのちょっと皮肉気な笑みに声を乗せて、灰原は言った。

 

『いつもの貴方なら、すぐに盗聴器を仕掛けて尾行しているのに』

『俺を何だと思ってんだよ……』

『あら、事実でしょう?』

 

 さらりと言い返され、黙った。確かに、今までのことを思えば否定はできない。

 

『それとも何か、思うところでもあったのかしら』

 

 そう言われて浮かぶのは、やはり柊木さんの淡い笑顔だった。

 いきなり見ず知らずの子どもに声をかけられても戸惑うことなく、穏やかに話をしてくれた。俺を子ども扱いするくせに決して軽んじはせず、適当なことも言わなかった。そういう扱いをしてくれる「大人」はそう多くなくて、ひどく新鮮だったような気がする。

 

『……わかんねえけど、あの人にはそういうことする気が起きなかったんだよ』

『そう。別にどうでもいいけれど、無茶をしてくれなくてよかったわ。組織に貴方の正体がバレたら、私まで危険なんだから』

『へーへー、わかってますよ』

 

 絆された、のだろうか。

 心のどこかで、柊木さんは無関係な人であってほしいと願っている自分に気づく。同時に、赤井さんの言葉も脳裏に蘇った。

 

『ボウヤの目を信じたいところだが、確証が持てるまで信用はしない方がいい。組織はそれだけ狡猾な奴らの集まりだ』

 

 もちろん、赤井さんの言うことは、正しい。でもやっぱり、―――信じたい。

 結局のところ、やるべきことはひとつしかない。柊木さんが黒か白かはっきりするまで、確固たる証拠が見つかるまで、柊木さんを探るしかない。ありとあらゆる可能性を検証し、ありえないものを除外して、残ったものこそが真実だ。

 俺は何とか柊木さんともう一度会うために、二度目の接触方法を考え始めた。

 

 



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24

「それじゃ、いつの間にか試験受けてやがったヒロ萩原松田の昇進を祝って」

 

 かんぱーい、と軽く声を合わせつつ、完全に拗ねている降谷に笑う。

 どうやら三人が昇任試験を受けていたことをひとりだけ全く知らなかったらしい。俺や伊達も諸伏が試験を受けていたのは知らなかったが、降谷にまで秘密にしていたのか。

 

「秘密にしてたというより、言う暇がなかったんだよなぁ。だってゼロ、最近ほとんど警視庁来てなかったろ?」

「連絡手段はいくらでもあったはずだ」

「そんな怖い顔するなって」

 

 じとりと諸伏を見る降谷を諸伏がまあまあと宥める。そんな様子に笑いつつ、萩原と松田はたすたすとテーブルを叩いた。

 

「いじけ降谷はほっといて、ほら早く焼いてよ旭ちゃん。ご褒美ご褒美」

「そうだぞ早く焼け柊木。こちとら限界まで腹減ってんだ」

 

 目の前にはすでに温まっているホットプレートとたこ焼き機。

 この窃盗犯二名はしっかりと有言実行をして、小麦粉だの肉だのをしこたま買い込んできた。いや、別に構わないのだが、さすがにちょっと呆れたというか。伊達だけは平和そうにその様子を見ながらけらけら笑っている。

 

「まあ無事合格して何よりだな。大丈夫だろうとは思っていたが」

「やーホント法律とか久々に勉強したわー」

 

 旭ちゃんに本借りて勉強しといてよかったよ、と軽く笑う萩原。

 こいつは決して座学が苦手なわけではないのだが、基本的に暗記に向かない。単純に勉強自体そこまで好きではないというのもあって、六割の力で勉強して八割の結果を出すタイプと言うか、要領の良さで点を稼ぐ。

 

「俺は面接の方が嫌だ」

 

 松田の場合、座学は普通にできる。というか真面目に勉強する。

 面接の方も、松田は単純に目上への取り繕いに苦手意識がある分緊張してしまうだけで、そう下手なわけではないと俺は思っている。機動隊でさんざん上下関係を叩き込まれたのか、いつの間にか敬語はちゃんと使えるようになっていた。

 

「まあ、諸伏のおかげで何とかなったけどな」

「そりゃよかった」

「何だよ、何かアドバイスでもしたのか?」

 

 たこ焼きの生地を流し込みつつ、座学も面接もさらりとこなしたであろう諸伏に尋ねた。諸伏はなんてことないように、いつもの笑みをさらに濃くする。

 

「どんな面接官よりも仕事モードの柊木監察官のが絶対面倒だからビビることないよって」

「ああ、どんだけ性格の悪い面接官がきたとしても、笑顔で説教する柊木の方が格段に怖いしえぐいに決まってるからな。そう思ったら全く緊張しなかった」

「オイそいつらの皿と箸を没収しろ」

 

 させるか、とふたりはしっかりと皿と箸を抱え込んだ。

 肩を震わせる伊達と萩原は百歩譲って許すが、確かにそうだなと真顔で言った降谷、お前は許さない。

 

「だってお前の説教って的確に責められたら嫌なところ突いてくるだろ」

「あーわかる。切り口がえぐいんだよなあ」

 

 警察学校時代、誰よりも俺に説教されたふたりはけらけらと笑いながら言う。くるくるとたこ焼きをひっくり返しながら、俺は苦い顔で返した。

 

「二度と同じことしないように説得するのが説教なんだから、当たり前だろ」

 

 過ちを犯した相手に正論を叩きつけるのは簡単だが、それではなかなか相手に響かない。特に相手がそれを過ちだと理解しながら行っている場合は、「ダメなことだからしちゃいけない」なんて言われてやめるはずがない。それでは説教をする意味がない。

 だから俺は、その行為が自分自身の首を絞めるという方向に、あるいはその行為をしないことで自分自身の得になるという方向に話をもっていき、「その行為をしてはならない理由を相手自身にもたせる」ことが重要だと思っている。かつて学校へ行っていなかった馬鹿たちに、「勉強しろ」とは言わず、「勉強はできた方が何かと得だぞ。面倒も少なくて済む」と繰り返し唱えたように。

 どうやらこのやり方は松田曰く「えぐい」らしい。まあ確かに俺も性格のいいやり方ではないことは承知している。

 

「ま、その説教のおかげで俺は生きてるんだけどね~」

 

 けろっと言い放った萩原に、むしろ松田の方が一瞬凍る。

 近距離で爆破に巻き込まれておきながら一切堪えてないその図太さ、本当に松田にわけてやって欲しい。そう内心溜息をつきながら、ああ感謝しろよと軽く答えた。

 

「うんうん柊木の説教スキルに感謝」

「せめて説得スキルって言ってくれ」

「大して変わんないっしょ」

 

 いや、俺の印象が変わる。そう真面目な顔で言うと、また皆笑い出した。

 やれやれと焼きあがったたこ焼きをひとつ持ち上げると、さっと松田が皿を出してきた。ぽいっと置いてやるとぱっと松田の顔が明るくなる。お前好物目の前にすると精神年齢二十くらい下がるの何なの、可愛いかよ。

 

「そういえば柊木」

「んー?」

「江戸川コナンに接触したんだよな」

 

 じっとこちらを見つめながら聞いてきた降谷の言葉に、お好み焼きの生地を混ぜながら適当に返事をした。

 上を向いていた伊達のくわえ楊枝がすっと下を向き、松田の眉がぴくりと動く。

 

「そう問題児には見えなかった、だっけか?」

「とりあえず第一印象ではな。確かに小学校一年生とは思えないほど頭の回転がいいのはわかったけど。……別にお前らが言ってたことは疑ってないよ。 ただ俺のイメージとは違ってたってだけ」

 

 ちょっと声のトーンが下がった松田に、思ったままを答える。伊達は少し苦笑した。

 

「まあ、事件がなきゃただの頭のいい子どもかもなぁ」

「というか事件に巻き込まれすぎなんじゃないの? お祓い勧めた方が良くない?」

「それは言えてる」

 

 あまり興味のなさそうに萩原はたこ焼きを口に放り込み、諸伏も苦笑して頷いた。

 探偵が事件を呼ぶとは言うが、さすがに呼びすぎだろう。そのうちコナンくん自身も事件の被害者になってしまいそうなのは心配だ。元刑事で俺より年上の毛利探偵相手ならまだしも、さすがに小学校一年の子ども相手に自業自得なんて言葉を使いたくはない。

 彼はまだ未成年で、守られるべき子どもなのだから。

 

「えらくお前のことが気になってるらしいぞ」

「へえ」

「……興味なさそうだな」

「好きに探ればいいだろ。俺に後ろ暗いところなんか欠片もない」

 

 小学一年生が俺の何をどうやって調べるつもりかは知らないが、俺はどこを探られても痛い腹なんてない。女性苦手の件ですら別に隠してはいないのだ。

 柊木らしい、と笑う降谷の顔が、一転して悪い笑みに変わった。

 

「まあそれはさておきだ、柊木。お前、俺がいなくてもポアロに来れるようになるなんて成長したじゃないか」

 

 随分、梓さんに懐いたんだな?

 そうにやりと笑う降谷に、ひくりと頬が引きつった。こいつ、コナンくんに接触したことを伝えたときは特に何も言わなかったくせに。

 それを聞いた同期たちの目がきらりと光る。

 

「何、ようやく旭ちゃんにも遅すぎる春到来?」

「てっきり降谷がいる日に坊主と接触したんだと思ってた。お前、そんな面白いこともっと早く言えよ」

「良かったなぁ柊木、順調にリハビリ進んでるじゃねえか」

「えっなに柊木、好きな子できたの?」

 

 諸伏の言葉の最後を切り取るようにざくっと音を立ててお好み焼きにへらを突き刺せば、即座に諸伏は違うのねごめんと両手をあげた。別に俺は怒ってません。

 

「確か刑事部でもちょっと噂になってる可愛い子っしょ?」

「何人かその子目当てにポアロ通ってるらしいな。美人なのか?」

「可愛いし愛想も気立てもいいよ。何より僕や柊木の顔に怯まない」

 

 おお、と降谷の言葉に歓声があがる。ああ全く、頭が痛い。

 

「……確かにリハビリはさせてもらってるし助かってるけど、特別な感情はない。というか降谷、お前わかってて言ってんだろ」

「わかってはいるが、プライベートで素のお前と会話が成立する唯一と言っていい女性だろう。特別になったら面白いなと」

「面白いで話を進めるな、彼女にも迷惑だ」

 

 きっぱりと言い切ると、つまんなーいと萩原がぼやいた。そういうこと言う奴にはお好み焼きはやらない、というと慌てて謝ってくる。

 

「しかしまさか柊木がそこまで懐くとはな。今度俺も行く」

「あ、俺も俺も。行こう行こうと思ってたけどなかなか時間作れなかったんだよね」

「確かに興味あるなぁ。俺も」

「うーん、ポアロくらいならきっと俺もセーフだよな」

 

 お前ら本当に俺を何だと思ってるのかと。しかし確かに自分でもリハビリの順調さには驚いているので口には出さないでおいた。

 特別な感情こそなくても彼女にはちゃんと感謝をしているし、人間として好感を持ってもいる。ごくごく自然に配慮をしてくれる彼女の店員としてのスキルは本当に大したものだ。

 

「……ポアロが騒がしくなるぞ、いいのか」

 

 わいわいとポアロに集まる予定を合わせるそいつらを見ながら悔しまぎれに降谷にそういうと、すっと降谷はトリプルフェイスを切り替え、「安室透」の笑顔を作って答えた。

 

「お客様が増えるのはいいことでしょう?」

 

 心底殴りたい、その笑顔。

 腹立ちまぎれに俺は手元のビールを一気に飲みほした。

 

 



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25-1

文字数的にバランスが悪いので区切りました。


 高く飛び跳ねたサッカーボールが、俺の遙か頭上を越えていく。

 上を向いた瞬間、太陽の光が目に飛び込んで、少し眩しい。

 

「何やってんだよ元太!」

「悪い悪い」

 

 えへへ、と笑うそいつに背を向けて、俺はサッカーボールを追いかける。

 今日は少年探偵団の奴らと一緒に、少し大きな公園にサッカーをしに来ていた。力任せにボールを蹴りがちな元太のおかげで、さっきから走り回ってばかりだ。

 

「お、あった」

 

 少し離れた植え込みに、ボールが転がっているのを見つけた。周囲に人影はないし、植え込みも傷ついた様子はない。よかった。

 ボールを拾って戻ろうとしたとき、よろよろとベンチに近づき、どっかりと腰を下ろした男性の姿が目に入った。顔は見えなかったが、あの動き方からして体調が悪そうだ。しかし周囲に連れらしき人は見えない。気になってその人に駆け寄った。

 

「お兄さん、大丈夫……柊木さん?」

「ん……? コナンくんか……?」

 

 そっと顔を上げると、ずっともう一度会いたいと思っていたその人だった。顔色は真っ青で、指先が少し震えているのがわかる。

 

「柊木さん、体調悪いの? 顔真っ青だよ」

「ああ、いや、……ちょっと人に酔ってね。心配して声をかけてくれたのか、ありがとう」

 

 柊木さんはそう弱弱しく微笑むが、人に酔ったってこのあたりそんなにひと気があるわけでもないのに。飲み物でも買ってきたほうがいいかと周囲を見渡すと、顔に影がかかった。

 

「あれ、知り合い?」

「萩原」

 

 いつのまにか傍にいたのは、柊木さんと同じくらいの年齢の男の人だった。ゆるく下がった垂れ目は優し気で、少し長い髪が良く似合っている。ほい、と柊木さんにペットボトルを渡したその人は、どうやら柊木さんの連れらしい。

 

「お兄さん、柊木さんのお友達?」

「そうだよ~。柊木のこと知ってんだ」

「うん。ねえ、柊木さんすごく体調悪そうだけど、病院に連れて行かなくて大丈夫?」

「ん~とりあえず貧血起こしただけみたいだから」

「ああ、少し休めば大丈夫だよ。ありがとう、コナンくん」

 

 柊木さんの言葉に萩原さんはひとつ瞬きをして、まじまじと俺を見つめた。

 

「そっか、君が江戸川コナンくんか。噂は聞いてる、事件現場うろちょろしちゃだめだぞ~」

「僕のこと知ってるの?」

「伊達や松田知ってるでしょ? おにーさんこれでも刑事でね、奴らの同期なんだ」

 

 そう言って萩原さんはぐしゃぐしゃと俺の髪をかき回した。手つきは優しいがその腕は力強くて、しっかり鍛えている人なんだと感じられる。

 

「伊達刑事や松田刑事の同期?」

「そ。俺は萩原研二、よろしくね。あ、ちなみに柊木も同期だよ」

 

 つまり、柊木さんが前言っていた「捜査一課にいる同期」というのは伊達刑事や松田刑事のことだったのか。

 そういえば、伊達刑事と松田刑事が同期というのは誰かに聞いた気がする。正直なところ、老け顔気味の伊達刑事と童顔気味の松田刑事が同期で同年というのは結構驚いた。

 

「お休みの日に一緒にいるなんて、仲が良いんだね」

「腐れ縁って奴かな~。お、ちょっと顔色マシになってきたな」

「ん……悪い、いつも」

 

 申し訳なさそうに言う柊木さんに、いーからと軽く笑って流す萩原さん。「いつも」という言葉がひっかかって聞き返した。

 

「柊木さん、貧血気味なの?」

「貧血気味というか……」

「んー、コナンくんって、柊木の女苦手知ってる?」

 

 そういえば柊木さんは、「人に酔った」と言った。「人ごみに酔った」ではなく。

 まさかと思いつつ、安室さんからちょっとだけ聞いたと答えると、柊木さんがあの野郎と力なくつぶやいた。

 

「いやぁ、柊木の結構重症だから、近づきすぎると貧血起こしちゃうんだよね~」

「そ、そんなにひどいの?」

「や、貧血で済んだからむしろ良かったんだけど。よく堪えたね旭ちゃ~ん、リハビリの甲斐あってマシになってんじゃない?」

「そもそもお前が待ち合わせに遅刻しなきゃ逆ナンなんて来なかったんだよ……!」

「ごめんて」

 

 歯噛みするように言う柊木さんに、けろっとした様子で萩原さんは謝った。どうしよう、これは本当に園子に会わせてはいけない。

 

「そういうわけだから病院は大丈夫。コナンくんも柊木が女の子に声かけられてたら助けてやってくれな~?」

「う、うん……?」

 

 困ったように頷くと、だいぶ顔色の戻った柊木さんが、萩原の言うことは気にしなくていいから、とため息をついた。

 そのとき、後ろから俺を呼ぶ声を足音が聞こえてきた。

 

「あ、いたいた! どうしたのコナンくん」

「こんなところにいたのかよ~おせぇぞコナン!」

「なかなか戻ってこないから探しに来たんですよ」

「ああ悪い悪い、体調悪そうな人を見つけたから、ついな」

 

 そう言うと、そいつらの視線がすっと俺の後ろに移る。ぱっと歩美の顔が輝いた。

 

「わあ、お兄さんすっごくかっこいいね! 芸能人みたい!」

 

 そういえば、柊木さんの苦手とする「女性」は子どもも含まれるのだろうか。歩美や灰原は大丈夫なのかと、そっと後ろを窺う。

 

「えーと、ありがとう」

 

 柊木さんは特に辛い様子も見せず、困ったように笑うだけ。

 これは大丈夫なのかと萩原さんに視線を移すと、俺の視線に気づいた萩原さんはぱちりとウインクをしてくれた。どうやら女性は女性でも子どもは大丈夫らしい。

 

「体調悪いっていうのはお兄さんですか?」

「うん、少し貧血を起こしてね。もうだいぶ良くなったから大丈夫だよ。コナンくんを引き止めてしまってごめんね」

「まだ少し手が震えてるわ。動かない方がいいわよ」

 

 灰原がそう言うと柊木さんは自分の手に目をやり、ぐっと握り込む。ちょっと恥ずかしそうな顔で言った。

 

「うん、もう少し休んでるよ。皆は公園に遊びに来たんだろう? 俺のことは気にしなくていいから、遊んでおいで。連れもいるし、大丈夫だから」

 

 せっかくの偶然だ、この機会を逃したくはない。が、柊木さんは体調不良、萩原さんもいるし、こっちには少年探偵団もいる。探りを入れるのはまた日を改めるしかないかと思ったそのとき、空気を割くような悲鳴が公園に響いた。

 

 

 ***

 

 

 悲鳴を聞いた萩原とコナンくんは反射的に走り出し、俺も子供たちにここを動かないように、と声をかけて地面を蹴った。というか待てコナンくん、君はダメだろ。

 悲鳴の元はどうやら公園に併設されていたカフェ。今日は天気がいいから窓を開けていたのだろう、そこから悲鳴が届いたらしい。何があったのかと驚いた顔をした客たちを尻目に、バックヤードへ飛び込んだ。

 

「警察です、何かありましたか?」

 

 ばっと一番乗りの萩原が警察手帳を出して声をかけた。

 追い付いてみるとそこには真っ青な顔で座り込む女性。彼女が震えながら指さした先には、苦しんだ表情のまま動かない男性が倒れていた。

 

「っ……!」

 

 俺はすぐに駆け寄って脈拍と瞳孔を確認する。

 

「……柊木、どう?」

「……亡くなってる。蘇生は……無理だろうな」

 

 そう言うと女性がひっと悲鳴をあげて、さらに震えが大きくなる。おそらくこの女性が悲鳴の主で、第一発見者だ。

 

「萩原、その人連れて行って落ち着かせてやって。俺は本庁に連絡する。……コナンくん、この部屋に一歩でも入ったら怒るぞ」

「う、」

「了解。さ、いったん離れましょうか。コナンくんもおいで、そこのイケメン怒るとマジで怖いから」

 

 悔しそうに詰まるコナンくんと女性を連れて、萩原は離れていった。

 俺もものに触れないようにそっと部屋の入り口に戻る。事件か事故か、それとも病気かは現状わからないが、とにかく人を呼ぶしかない。

 できれば殺人でない事を祈りながら、俺はスマホを取り出した。

 

 

 *

 

 

「で、何でお前らがいるんだよ……」

 

 先遣隊である機動捜査隊が到着し捜査を始めて間もなく、捜査一課からも刑事が到着した。やはりというか、臨場したのは目暮警部を始めとする目暮班。昇任後目暮班から外れたという松田も、今日は人手が足りないとかで目暮班のフォローに来たらしい。俺たちを見て苦い顔をする松田に、苦笑を返した。

 

「やだ陣平ちゃん顔こわーい」

「残念なことにというか、偶然ですよ」

 

 お前も職務中なら切り替えろ、という思いを込めて敬語で返すと、松田はさらに苦い顔。俺はともかくお前は職務中なのだから敬語を使え。

 店のフロアに従業員や店にいた客たちが集められ、それぞれ事情聴取に入る。

 被害者はこの店の店長。従業員は第一発見者の女性を含めて四名、それに常連と言える客が二名に、今日初めて来たという客が数名。何気なくそれぞれの話を聞きつつ、犯行現場を思い返した。

 事件でなければいいとは思ったが、遺体の様子を見る限り多分あれは薬物による中毒死。毒殺の可能性が高い。それなら、毒あるいは毒をいれてきた容器をもっているひとが犯人だ。外部犯の可能性も否めないが、ここにいる人の中に犯人がいるのなら身体検査をすればはっきりするだろう。

 

「では、誰か現場に入った人は?」

「私が。悲鳴を聞いて駆けつけ、脈拍と瞳孔の確認をするために入りました。すでに手遅れでしたので、そのまま部屋を出ましたが」

「では、状況を詳しくお聞かせ願えますかな?」

「もちろんです。しかしその前に」

 

 ん、という顔をする目暮警部を前に、背後でうずうずしている子供たちの方を振り返った。やれやれと苦笑してみせる。

 

「どこか空いている部屋はありませんか? この子たちをこのままここにいさせるのはさすがに気が引けます。現時点で殺人の可能性も否めない以上、家まで送ってあげたいので、どこかで別室で待っていてもらいたいのですが」

 

 結局コナンくんの友人たちも我慢が利かなかったらしく、気づいたときには店の中に入り込んでいた。俺たちで犯人を見つけるぞ、なんて息巻いていて、その横でコナンくんがため息をついている。いや、君も同じ穴の狢だと気づいてほしい。

 

「あ、そ、それなら、そちらに、従業員用の休憩室が……」

 

 第一発見者の女性が、今だ震える手をおさえながら手を上げてくれた。

 

「では、そちらをお借りします。ありがとうございます」

「ああ、じゃあ俺がこの子らについてますよ。俺は現場に入ってないし、ずっと彼と一緒にいたので証言できる内容も同じになるでしょうから」

 

 じゃあ皆行こうな~と萩原が朗らかに声をかけると、えー、と子供たちのブーイング。

 そういえば少年探偵団を名乗っている子たちがいるという話も聞いていたが、どうやらこの子たちのことらしい。

 

「歩美達も手伝う!」

「俺たちも犯人捕まえるぞ!」

「捜査に参加します!」

 

 なるほど、これはめんどくさい。

 人当たりはいいが別に子供好きではない萩原も、うーん、と困ったように笑った。

 

「ダメよ」

 

 そこに、ぴしゃりとした声が響く。ずっと彼らの後ろの方で黙っていた茶髪の女の子が、無表情のまま切り捨てた。

 

「貴方たち、刑事さんの言うことを聞きなさい」

「えー……」

「だってぇ……」

「行くぞ、おめーら」

 

 コナンくんがダメ押しをして、ようやくしぶしぶといった感じで子供たちは歩き出した。萩原はあきらかにほっとした顔で、やれやれと歩き出した。

 

「萩原」

 

 何、と振り返った萩原に、にこりと笑いかける。

 その瞬間、萩原の笑顔が盛大に引きつった。

 

「よろしく」

「……えー……」

「よろしく」

「……はーい」

 

 俺の意図を正しく理解してくれたらしい萩原は、そういうの苦手なんだけどな……とぶちぶち文句を言いつつ、子どもたちを連れて休憩室に向かっていった。

 

「……柊木監察官、今のは……?」

「子どもたちの面倒をよろしく、という意味ですが?」

 

 不思議そうに聞いてきた高木刑事にそう答えると、ああ、そういうことですか、と頷いた。うーん、君はもう少し人を疑うことを覚えた方がいいかもしれない。

 

「では、悲鳴を聞いたときからの説明を」

「わかりました」

 

 簡単に説明をすると、フム、と目暮警部は頷いた。

 俺や萩原が悲鳴を聞いて駆けつけたことは防犯カメラの映像からはっきりしている。警察官だということを差し引いても、俺たちに疑いがかかることはないだろう。

 

「では、貴方もしばらく子供たちと一緒に待機していただきたいのですが、よろしいですかな?」

「もちろんです。では、失礼しますね」

 

 横目に、松田が警部を始め捜査員を現場に呼んでいるのを見る。何か現場で気になることがあったらしい。

 休憩室に向かって歩きながら、俺の耳が捜査員たちの会話から漏れ出る情報を拾っていく。毒殺で確定、やはり殺人。そして店内からは毒物を持ち込んだ容器が見つからない、と。これは捜査が難航するかもしれない、と思ったとき、この店の常連客だという女性の姿を視界の端にかすめ、一瞬違和感を覚えた。

 ふと、ひとつ仮説が浮かんだ。つい足を止めかけたが、まあ松田なら気づくだろう。そう思い直して休憩室に向かう角を曲がれば、何故かそこにいるのは休憩室にいるはずの彼。

 あきらかにやばい、なんて顔はしないでほしい。やれやれと思いながら、にこりと笑顔を作った。

 

「どこに行くんだ? コナンくん」

「ぼ、僕、ちょっとトイレ!」

「そのわりに君の足が向いていたのは現場の方だな。トイレは向こうらしいよ」

「そ、そうだっけ?」

 

 間違うところだった~と冷や汗を流す小さな探偵くん。確かにトイレと言われれば引き止めるわけにもいかないが、何やってんだ萩原の奴。

 おそらくこうやって普段から事件現場に飛び込んでいたのだろう、松田や伊達が嘆くはずだ。頭の回転が小学生離れしているのは事実であるだけに、子どもが捜査に関わるなとか危険だからやめなさいとか言っても聞かないのだろう。実際、本人も遊んでいるつもりではないのだろうし。

 いいだろう、それならもう少し上の子どもに対する扱いで、君に接することにしよう。

 

「じゃあ、行こうか」

「……え?」

「事件現場。行きたいんだろ?」

 

 

 *

 

 

 コナンくんの手を引いて、事件現場となった部屋の入口前に来る。

 ドア横にいた捜査員にえっという顔をされたが、笑顔で黙らせた。いや本当に申し訳ない、お仕事ご苦労様です。

 現場にはすでにご遺体はなく、目暮警部や松田をはじめとする刑事がそろって現場検証を行っていた。いち早くこちらを見咎めた松田が、眉を吊り上げる。

 

「……何やってんですかね、柊木監察官」

 

 その声で皆俺たちの存在に気付いたのか、皆ぎょっとした顔でこちらを見る。俺はいつもの笑顔を崩さずに答えた。

 

「社会科見学の付き添いですかね。ああ、こちらのことはお気遣いなく、ここから動きませんから」

「しゃ、社会科見学って……」

「……柊木監察官」

「お気遣いなく」

 

 重ねて言うと、ものすごく嫌そうな顔の松田はちゃんと捕まえといてくださいよ、と言って目線を現場に戻した。俺が引かないことを察してくれたらしい。

 他の刑事たちも戸惑っていたが、松田にならって意識を現場検証に戻した。

 

「っ……!」

 

 繋いだ彼の右手から、焦る思いが伝わってくる。

 そっと目線だけでその顔を盗み見ると、その瞳はまるで燃えているようだった。捜査をしたい、調べたい、話を聞きたい。事件に対する好奇心以上に感じられるのは、どこか使命感に似たもの。()()()()()()()()()()()()()と、そんな声が聞こえてくるようで苦笑した。彼の行動原理が少しわかったような気がする。

 俺はコナンくんの手を一旦離し、目線を合わせるようにしゃがみこんだ。現場の方を見つめていたコナンくんがはっと驚いた顔でこちらを見る。

 

「前から話は聞いてたよ。毛利探偵の後ろにくっついて事件現場に入り込んでくる小さな探偵くん」

「え、」

「とても頭のいい子で目の付け所も良く、大人顔負けの推理力を発揮して事件を解決に導いているってね。正直、その話を聞いたときはどんな問題児なのかと思ったんだ。事件をゲームのように思っている子なんじゃないかってね」

「そ、んなこと思ってない!」

 

 反射的に叫んだコナンくんに、頷いた。

 そう、君はちゃんとわかっている。犯罪事件にまとわりつく苦しみや哀しみも、人の命の重みも、わかっている。むしろ()()()()()、君は事件を捜査するのだろう。しなくてはいけないと思っているのだろう。

 だが、俺はそれを止めなければならない。法的な理由、職務上の理由、もちろん俺個人の主義としての理由で、俺はそれを見過ごすことはできない。

 だから俺は、こういう言い方をしよう。

 

「……何を言うよりまず、君に謝らなくちゃいけないな。俺を含め、全警察官が」

「……え?」

「君、自分より頭のいい警察官に会ったことないんだろ」

 

 場の空気が、凍った。

 

 

 ***

 

 

「君、自分より頭のいい警察官に会ったことないんだろ」

 

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。にこやかな表情とは裏腹に、まっすぐに突き刺さってきたナイフのような言葉。よりにもよって大勢の警察官がいる前で、その言葉はあまりに無慈悲につきつけられた。

 

「な、……そんな、」

「遠慮しなくていいんだよ? 情けないよな、同じものを見ているはずなのに、君はその違和感に気づいて、大の大人は気づかない。しかも警察学校でちゃんと捜査手法を学んできているにも関わらず、だ。そりゃ口を出したくもなるよ」

 

 な、と笑う柊木さんの笑顔は、ポアロで俺に笑いかけてくれた時の笑顔とは全く違っていた。あんなに優しかった笑顔が、今はとてつもなく怖い。慈しみの色は一切なく、その瞳には何の感情も宿っていなかった。

 

「俺が代表するのもおかしな話だけど、日本警察を代表して謝るよ。警察に任せておいたら事件は解決しない。犯人は捕まらないし、被害者の無念も晴らせない。だから君は危険を冒してでも捜査をしたがるんだろう? 本当に申し訳ない」

 

 そう言ってしゃがんだまま頭を下げる柊木さんに、頭を上げて、と叫んだ。まさかそんなことを言われるとは思わなくて、混乱で頭が回らない。

 

「そ、そんなこと、思ってないよ! 刑事さんたちは優秀な人ばかりなんでしょ?」

「そうかな? じゃあ何で、君は事件の捜査に関わろうとするの?」

 

 探偵小説によく出てくる「名探偵」に頼りっぱなしの「警察官」みたいに、日本の警察も事件は解決できないと思ってるからじゃないのか?

 そう問われるが、俺の口はうまく音を紡いでくれない。

 そんなことはない、と言いたかった。だってあれは、小説の中での話だ。日本警察は世界的に見ても優秀なのは間違いなく、日本の平和は彼らの尽力の賜物だ。

 しかし、同時に「でも」と頭のどこかで叫ぶ声がある。事件に行き詰まれば小説家の父さんのところに連絡が来た。父さんが海外に出るようになってからは、俺のところにも。あまりに明白なことを指摘すれば感謝され、さすがだと君だと讃えられる。

 いや、でも、とぐるぐると思考がまわりはじめた俺を見て、柊木さんは面白そうに言葉を続けた。

 

「……まあ、どういう理由であれ、ダメなんだけどね。ところで話は変わるがコナンくん、俺の仕事の話、したよな」

「え、……監察官?」

「そう、ダメなことをした警察官を叱る仕事だ。君が事件現場に一歩でも足を踏み入れ、現場にいる警察官が君の存在を黙認したら。俺が何をしなければいけないか、わかるかな」

 

 賢い君なら、わかると思うんだけど。

 そうにっこりと微笑まれて、文字通り血の気が引いた。監察官は「ダメなことをした警察官を叱る仕事」、間違ってはいないがそんな生易しい言葉では表現するのは相応しくない。服務規程違反など、内部罰則を犯した警察官を調べ上げ、処罰することが監察官の仕事だ。

 つまり、俺がここで動けば。

 

「君の行動で叱られるのはね、君じゃないんだよ」

 

 俺は自分が休みだからって見逃したりはしない。

 そう笑顔で言いきった柊木さんを前に、俺の口はもう動かなかった。そんな俺の様子を見てまた柊木さんはにこりと笑い、わしゃわしゃと俺の頭をなでた。

 

「……信用ならないかもしれないけど、とりあえずこの事件については心配しないで。今日来てくれている刑事さんたちは皆優秀な人たちだ。これくらいの事件、すぐ解決してくれるよ。……ねえ?」

 

 言葉の最後は、柊木さんと俺の話を聞いていた全員に向けて。

 笑顔は崩していないが、その瞳は欠片も笑っていない。今になってようやくわかった、きっとこれが、柊木さんの「監察官」としての顔。

 高木刑事も言っていたじゃないか、穏やかで謙虚だが、しっかり筋は通す人柄だと。職務に忠実で、たとえ警察上層が相手だろうが何だろうが、決して不正を見逃しはしない人だと。そう言った本人も今、真っ青な顔で冷や汗をかいている。

 そのとき、ひとりだけ平然としていた松田刑事が、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「言われるまでもねえよ」

「ま、松田くん?」

「高木、常連客だっていう女連れてこい」

 

 

***

 

 

 そこから先は鮮やかだった。

 松田が指名したのは、俺も違和感を覚えたあの女性。この事件のキーになる毒の持ち運び方法。耳に入った限り、毒はほんの少量で十分で、おそらく粉末状。それを、人目をかいくぐって持ち込み、持ち出す方法は。

 明らかと言えば明らかだ。きちんと身なりに気を遣い、むしろファッションに拘っていることが見て取れるのに、ひとつだけ不釣り合いな男物の時計。時計の針は動いておらず、裏には真新しいいくつもの傷。

 俺ならこんな傷は残さねえけどな、と松田は現場の戸棚に残されていた工具を手に取った。聞けばこの女性、かつてはこの店で働いていた経験があるらしい。自分が犯行のために持ち込んだ工具も、もともとこの店にあった工具類に紛れ込ませれば目立たないと思ったのだろう。

 松田の器用な指がくるくると動く。外された時計の裏蓋に、細工された形跡のある内部と、明らかに()()が入っていたらしい空洞。

 犯行の流れを松田の明瞭な言葉が辿っていく。言葉が重ねられるたびに女性の顔色が蒼白に近づいていき、もはや事実は明白だった。

 松田はかけていたサングラスを外し、女性の目をまっすぐ見つめて言った。

 

「時計の中まで調べねえだろうと高をくくってたか? 悪いな、警察(おれら)もそこまで甘くねえよ」

 

 蒼白になった女性は、そのまま膝をついた。

 さすが松田と目線をやれば、同じく目線で当たり前だと返される。どこか戸惑った様子の刑事たちは手錠をかけた被疑者をパトカーに連れていき、とりあえず事件はひと段落。

 それなら今度は俺の出番と、現場に残る刑事たちに笑顔を向けた。それぞれぎくりとした顔で姿勢を正す。わかっているようで何よりだ。

 

「事件解決、お疲れ様です。ところで、私が皆さんにも聞こえるようにコナンくんとお話した理由、わかりますね?」

 

 呆然と松田の推理を聞いていたコナンくんが、ぴくりと肩を揺らした。

 青い顔をしたその人たちは、誰ひとり口を開かない。

 

「返事」

 

 短く投げつけた言葉に、びくっと肩を揺らしてはい、と声を揃えた。

 

「今日のところは何も見ていません。コナンくんが現場に入ることはなかったし、事件は松田警部補が解決してくれました。しかし、どこかの警察官が事件捜査に積極的に民間人を巻き込んでいるという噂はすでにこちらの耳にも届いています」

 

 誰のことかわかってんだろうな、と言外に告げればもはや返事をすることも出来ない様子の彼らはただただ硬直していた。

 

「心得ておいてください。今後の職務態度によっては、我々も仕事をしなくてなりません」

 

 それは決して本人たちだけの話ではない。上官には、指導力不足という責任を。同僚には、止められなかった責任を。

 俺が職務を果たすなら、誰ひとりとして見逃しはしない。

 

「仮にこの案件を私が担当することになれば、個人でも班でもなく、課全体の問題として捉え、然るべき処罰をくだします。……ああ、ご心配なく。松田だろうが伊達だろうが萩原だろうが、等しく容赦はしませんから」

 

 そう言って、もうひとつ呼吸を置いた。職務としての説教はこんなもんだろう。だから、あとは。

 俺の中で何かが切り替わり、笑顔を作っていた顔の力が抜ける。

 

「……監察官として申し上げるべきことは、以上です。そしてここからは、私個人として……いや、俺個人の意見として捉えていただきたい」

 

 俺の言いたいことも、少しだけ。

 今日は休みだ。職務中じゃないんだから、少しくらい言ったっていいだろう。これは監察官である以上に、警察官として。

 

「犯罪事件の捜査に関わることは、少なからず犯人及びその周囲から恨みを買う可能性は否めない。職務として捜査にあたる刑事はそれを覚悟してしかるべきだが、それに民間人を巻き込むのは、違うだろ」

 

 そういう職業だと理解したうえで警察官の職務にあたる人間と、民間人は違う。

 俺たち警察は「守る側」で、民間人は「守られる側」だ。決して民間人を「守る側」にしてはならない。そのために警察はあると、俺は思う。

 

「捜査に参加させることは危険に巻き込むことと同義だ。その責任を理解しているか? 百歩譲って知恵を借りること自体はわかるよ、自身に足りない知識や知恵をもった専門家に教えを乞うことが必要な時もあるだろう。だがその時は力を借りると同時に協力者の身を護る手段も考えて然るべきだ。そこまで考慮したことがあったか?」

 

 たとえば知恵を借りた専門家の顔や名前が外に出ないよう情報を統制したり。たとえば捜査に協力することの危険性をきちんと説明し、協力者本人がその事実を大声で言わないように求めたり。状況によっては警備をつける必要さえあるかもしれない。

 それを、理解しているか。

 

「協力させるだけさせてあとの危険は知りませんなんて、あまりにも無責任だと思わないか?」

 

 俺たちの仕事は、罪を犯した人間を捕まえることだ。

 それ以上に、罪のない善良な人々を守ることだ。

 

「民間人を守るどころか危険に晒してるんだぞ。少しは警察官としてのプライド持てよ」

 

 それだけ言い捨てると、またひとつ呼吸をおき、俺はにこっと笑った。切り替えについてこれないのか、また皆びくっと震える。

 

「とまあ、その噂の方々に会えたらそう言いたいなと思っていました。まさか皆さんのことではないと思いますが、一応心に留めておいてくださいね」

 

 そして松田の方を向き直り私の聴取は必要ですかと朗らかに尋ねれば、すっかり呆れた様子の松田はハイハイと頭を掻いた。

 

「聴取は受けてもらいますが、ガキどもを送っていった後で構いませんよ。パトカーと俺の車を出します。ガキどもを送っていって、そのまま本庁に向かうってことで」

「それは助かります。行こうか、コナンくん」

 

 まだどこかぼんやりしているコナンくんの手を引いて、俺は松田とその場を離れた。

言わなくちゃいけないこと、言いたいことはちゃんと言った。この先のことは、彼ら自身が考えるべきことだろう。

 これでも変わらないようなら、本当に容赦はしてやれない。

 

 

 *

 

 

 萩原と少年探偵団たちが待つ、休憩室に向かう廊下。

 松田に一声かけて、足を止める。俺はもう一度、コナンくんと視線を合わせた。

 

「!」

 

 びくりと彼の肩が震える。いじめすぎたかなと苦笑しながら、俺は口を開いた。

 

「もう少しだけ話そうか、コナンくん」

「ひ、いらぎさん」

「俺が言いたいことはわかってくれたと思う。何であの場にいた刑事さんたちに、あんなふうに言ったのかも」

 

 コナンくんへの説教を彼らに聞かせ、彼らへの説教をコナンくんに聞かせた。

 ちゃんと人のことを考えられる人間なら、「自分のことで怒られる」ことよりも「自分のせいで誰かが怒られる」ことの方が精神的に辛い。それをわかっていて、あえて聞かせた。我ながら性格の悪いやり方だと思うが、効果的なのは事実だ。

 思いつめた顔をしたコナンくんは、小さく頷く。

 

「やっぱり君は賢い子だな。……君の根底にあるのは、強い正義感だ。それはとても尊いものだし、否定するつもりはないよ。ちょっと発揮の仕方に問題があるけどね」

「!」

「だから、妥協点を見つけよう」

 

 妥協、とコナンくんは繰り返した。

 そう、俺は決して君の幼い正義を否定したいわけではない。

 

「君はきっと何か事件があったとき、他の誰も気づかないようなことに気づくことができたんだろう。……これは俺の勝手な想像だけど、そういうときに気づいたことを警察に伝えようとしても、『子どもは引っ込んでろ』とか言われることもあったんじゃない?」

 

 少し考えたコナンくんは、こくりと俺の言葉に頷いた。やはり、と苦笑する。

 そうして言葉を聞いてもらえなかったことが、無茶な行動をとるようになった原因のひとつなのではないかと思う。現場に乗り込むことはどうしても許してやれないけど、せめてそれくらいなら。

 

「子どもだろうと誰だろうと、善良な民間人の貴重な意見を聞こうともしないなんて、警察官としてあるまじきだと思わないか? なあ松田」

「……ソウデスネ」

 

 頷けよ、と言外に伝えつつ松田に話を振ると、しぶしぶ同意してくれた。

 

「もし今後そんな警察官に出会ったら、連絡してほしい。ちゃーんと俺から言って聞かせるよ。はいこれ俺の名刺。メールはあんまり見れないけど、電話は基本いつでも出るから」

 

 え、と慌てるコナンくんの手に、名刺を握らせる。

 名刺と俺の顔を交互に見るコナンくんは、もしかしたら初めて小学一年生の子供らしく見えたかもしれない。

 

「これでも俺はたいていの現場の刑事さんよりは偉いからね。権力使ってでも頭の堅い刑事さんに君の言葉を聞くように言い聞かせると約束するよ。もちろんそれ以外の時に電話してくれても構わない。内勤とは言え俺も警察官だから、何か役に立てることもあるかもしれないし」

 

 最終的に俺の顔を見てぽかんとしたコナンくんの頭に、ぽんと手を置いた。

 

「その代わり、事件現場に入ったり、危ないことに首を突っ込んだりするのはなしだ。何かあったら、まず警察に連絡すること。俺でもいいし、松田や、伊達や、萩原だっていいよ」

 

 俺たちは君の言葉をちゃんと聞くし、疑わない。困っていたり、危ない目にあっていたりしたら、絶対に助けてみせる。頼りないかもしれないけど、それが俺たちの仕事だから。

 

「これが俺にできる精一杯の妥協だ。聞いてくれるかな、コナンくん」

 

 少し唇を震わせたコナンくんは、一度口を開いて、閉じた。そしてもう一度口を開いて、しっかりとした口調で言い切った。

 

「よろしく、お願いします」

 

 ―――やっぱり君は、賢い子だね。

 そう言って頭を撫でてやると、少しだけ目を潤ませたコナンくんは、初めて年相応の笑顔を見せてくれた気がした。

 



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25-2

 子どもたちを見てるなんて言わなきゃよかった。

 わいわいと騒ぐ子供たちを見ながら、俺は心底後悔していた。「少年探偵団の出番ですね!」「どの人が怪しいと思う?」なんて話している子供たちを見ていると頭が痛くなってくる。

 子どもが苦手なつもりはないが、別に好きなわけでもなければ扱いに慣れているわけでもない。とりあえず何とか事件が一区切りつくまでやり過ごすかという考えに逃げようとしたとき、柊木のイイ笑顔が脳裏に浮かんだ。

 

『よろしく』

 

 あれは魔王モードの笑顔だった。

 その「よろしく」の意味はわかっている。わかりたくなかったけど、わかっている。あいつの指示に従わなかったらどうなるのかも嫌ってほどわかっている。あれは子どもたちが事件捜査に首を突っ込まないよう説教しておけという意味だ。

 いや俺だって、相手がまだ普通に会話ができる年代の相手なら警察官としてそれっぽいことくらいは言える。だが、小学一年生相手にどういうレベルで言い聞かせたらいいというのか。俺には子どもどころか弟妹も、親戚の子すらいないのだ。

 どうしろっての、と遠い目をしたとき、以前の飲み会で柊木が「説教は説得」なんて言っていたのを思い出した。

 実際、子どもたちに正論を振りかざして言い聞かせても仕方ない。危ないからダメといっても通じないだろう。俺も子どものころはダメと言われたことほどやりたくなった。

 とにかく、「今」事件に関わるのをやめる理由ができればいいのだ。多少めちゃくちゃで筋が通っていない理由でも、「今」納得してくれればそれでいい。本当の理由はこの子たちが成長していく中で理解していくだろう。

 となると、まずはこの子たちのことを知らなくてはと改めて子どもたちを見渡したとき、ひとり減っていることにようやく気付いた。

 

「え、……こ、コナンくんは?」

「たった今、トイレに行きましたよ?」

「にいちゃん、ぼうっとしてたから聞いてなかったんだな!」

 

 あっやばいそれ絶対現場に乗り込んでる奴。

 さっと顔色を変えた俺を心配してくれたのか、カチューシャを付けた女の子が心配そうに声を掛けてくれたが、うん、大丈夫じゃない、後で魔王に殺される。

 

「……大丈夫だよ……」

 

 などと言えるはずもなく、俺は無難に頷くしかない。

 これは、とにかく今ここにいる子たちにだけでも言って聞かせるしかない。事件の詳細はわからないにしろ、殺人犯がいるかもしれないこの状況で俺がこの部屋を出て探しに行くわけにはいかない。

 一番の問題児はそっちに任せたぜ柊木、松田、と内心やけになりながら、まずはそれぞれの名前を聞いた。歩美ちゃんに、元太くんに、光彦くんに、哀ちゃん。え、哀ちゃんて呼ぶなって? 灰原さんならいいの? 大人びた子だ。

 

「私たち、少年探偵団なの!」

「難事件をいーっぱい解決してきたんだぜ!」

「今回の事件だって、僕たちの手に掛かればすぐ解決ですよ!」

 

 微笑ましいは微笑ましいが、犯罪事件に巻き込まれて平然としているのは大変よろしくない。事件に巻き込まれすぎて感覚が麻痺している部分もあるのかもしれない。

 

「へえ、今までどんな事件解決したの?」

 

 と聞いてやると、我先にとその三人は喋りだした。九割くらい盛った内容なのだろうが、俺はうんうんと頷いてやる。

 うん、悪い子たちではない。別に誰かを困らせたいわけでもなく、むしろ逆だ。いいことをして、褒められたい。正義の味方になりたい。そういう、子どもなら誰でも持っている願望の矛先が、「少年探偵団」として事件捜査に向いているようだった。

 

「……それでねっそれでねっ、そこでまた、コナンくんが解決したの!」

「いっつもずるいんだよなぁコナンの奴。ひとりでいいとこ持っていってよぉ」

「本当ですね……って、そういえばコナンくん、遅くないですか?」

 

 はっと気づいた光彦くんに、灰原さんが薄く笑って言った。

 

「ひとりで現場に行ってるのかもしれないわね」

 

 ええっと叫んで三人が立ち上がった。

 いやそういうこと言うとこの子たちも行きたがるのわかるでしょ灰原さん。さっきはこの子たちに言うこと聞くようにって言ってたのに今更面白がって煽らないでほしい。

 

「こうしちゃいられません、僕たちも行きましょう!」

「はいはいストップ~。確かにコナンくんは現場に行こうとしたらしいけどね、柊木に捕まったみたいだよ」

 

 内心の動揺をおくびにも出さず、スマホを片手に笑って見せた。

 え、と立ち上がりかけた三人が止まる。

 

「あ、柊木ってのはほら、さっきまでおにーさんと一緒にいた人ね? アイツも警察官なんだけど。そいつがコナンくんを捕まえて、今お説教してるんだって」

 

 でまかせだが、十中八九間違ってない。おそらくそれで柊木もなかなかここに来ないのだろう。聴取自体はそんなに長くかからないはずだ。

 

「あのかっけーにいちゃんか。でもよーあのにいちゃんの説教って怖くなさそうだよな」

「そう思うだろ? ……実はめちゃくちゃ怖い」

すっと表情を消して言うと、えっと子供たちは聞き返した。

「……そんなに?」

「俺も刑事さんだけどね、凶器を持った殺人犯は怖くないけど柊木の説教は怖い」

 

 えええっと子供たちは叫ぶ。

 残念ながらこれは嘘ではない。武器を持った殺人犯を捕まえるか柊木の説教を聞くか選べと言われたら俺は間違いなく前者を選ぶ。殺人犯は確保すれば終わるが、柊木の説教は本気でやめることを約束するまで絶対終わらない。多分俺と同じくらい柊木の説教を受けてきた松田も同じことを言うだろう。

 

「だから大人しくここで待ってような。お説教に巻き込まれたくないだろ?」

 

 はーい、としぶしぶながらも頷いた子供たちは、顔を見合わせてちょっとだけいじわるそうに笑った。

 

「ちょっとだけいい気味ですね、いつもコナンくんひとりで行っちゃいますから」

「いっぱい怒られればいいよな、俺たちを置いて行ったんだから」

「そんなこと言ったら可哀想だよ。……でもやっぱりちょっとズルだよね」

 

 ズル、か。歩美ちゃんの言ったその言葉が、少しひっかかった。正義の味方に憧れる子たちなら、きっとズルは嫌がるだろう。

 そう思ったとき、するりと俺の口から言葉が滑り落ちた。

 

「でも、君たちもズルしてるだろ?」

 

 え、と三人が固まってこっちを見た。

 そして怒涛の勢いで言葉を投げてくる。どうして? 歩美達ズルくないもん! 俺たちズルなんてしてねーぞ! コナンくんはズルかもしれませんが、僕たちはそんなことしてません!

 その勢いに苦笑しつつ、んーとね、と俺は言葉を選びながら答えた。

 

「だって君たちも事件に関わったりしてるでしょ」

「だって歩美達少年探偵団だもん!」

「事件調べるのは当たり前だろ!」

「コナンくんが僕たちを差し置いて捜査をしていることをズルだって言ってるんです!捜査をしていることじゃありません!」

 

 だから捜査すること自体がズルなんだって。

 さて、どういえば伝わるか。ふと、子どもたちのサッカーボールが目に入る。

 

「君たちさ、サッカーの試合見たことある?」

 

 突然全く違う話題を振った俺に、三人はきょとんとした。代表して光彦くんが答える。

 

「Jリーグの試合なら皆で何度か観に行きました」

「そっか、サッカー選手ってかっこいいよな~。一生懸命練習して、そんで監督とかいろんな人に認められて、ようやくあんな大きなスタジアムで試合できるんだもんな。だから応援したくなる」

「は、はい」

「じゃあさ、その試合の最中に、サポーター席に座ってた人が突然ピッチに乱入してったらどう思う?『俺、サッカー上手いから一緒にプレイしてやるよ! 俺が点を取ってやる!』なんて言いながらさ」

 

 その場面を想像したのか、一瞬で三人は眉を吊り上げた。

 

「そんなの、絶対ダメ!」

「ずりーぞ!」

「モラルに欠ける行為です!」

 

 うん、ダメだよね、と頷いた。

 そして重ねて問いかける。何故ダメなのか、と。

 

「え、だって……サッカー選手じゃないもん」

「そんなのかっこわるいしよ……」

「ええっと……そりゃあ、プロじゃないから、でしょう?」

「うんうん、全員合ってると思う」

 

 そう、外野からプロじゃない人が乗り込んでくるのは、「ダメ」で「ズル」し「かっこわるい」んだ。君たちもよくわかってるじゃない?

 

「おにーさんたちはね、学校でたくさん勉強して試験に合格して、また警察学校でたくさん勉強して、今でも毎日いろんな人に教えられたり叱られたりしながら、ようやく刑事になっていいよって、事件の捜査をしてもいいよって許してもらうんだ」

 

 俺たち刑事にとっては現場がピッチで、事件がサッカーの試合だ。ただし、練習試合なんて一個もないし、絶対に負けることは許されないけれど。

 事件をサッカーの試合に例えるなんて不謹慎だと特に降谷あたりから殴られそうだが、この場だけのことだから許してほしい。厳密に言わなくてもいろいろ違うけど、とりあえずニュアンス伝わりゃいいんだって!

 

「そこに警察学校どころか小学校も出てない君たちが乗り込んでくるのはズルじゃない? あ、もちろんこの場にいないコナンくんもだよ?」

 

 俺たちいっぱい勉強していっぱいトレーニングしてようやく許してもらったのにさーと拗ねたように言ってみせると、今まで考えたこともなかったのだろう、三人はぽかんと口を開けていた。

 

「……歩美達、事件解決するのはいいことだって思ってたけど、……ズルだったの……?」

 

 ぽつりと、歩美ちゃんのつぶやきが落ちる。

 俺の拙いお説教でも、一応感じるところはあったらしい。

 

「……そうね」

 

 唯一じっと黙って俺の話を聞いていた灰原さんが、ようやく口を開いた。

 

「警察学校って、すごく厳しいところなんですって。朝も昼も晩も勉強して身体鍛えて、あまりの厳しさに逃げちゃう人もいるそうよ。そういう試練をクリアすることなく事件捜査だけやるなんて確かに虫のいい話よね、ズルかもしれないわ」

「そ、そんなぁ……哀ちゃん……」

 

 じわりと、歩美ちゃんの大きな瞳に涙が滲んだ。

 

「たとえば皆が、こんな怪しい人を見たよっていう話を聞かせてくれるだけなら、すごく有難いし、それはズルじゃないんだけどね。それは俺たちにとってすっごく嬉しい応援だから。だけど、わざわざ怪しい人を探しに行ったり、事件が起きた場所に自分から行こうとするのはズルかなぁ。おにーさんが言ってること、わかる?」

 

 わかります、と呟いたのは光彦くん。

 ズルはダメだよな、と元太くんもしょんぼりと頷いた。

 とりあえず、伝えたいことは伝わっただろうか。そう思ったとき、ドアをノックする音が響いた。

 

 

 *

 

 

 どうやら事件はすでに解決したらしい。

 入ってきたのは柊木に松田、そしてコナンくん。やはり一緒だったらしい。さぞ柊木に叱られてへこんでいるのだろうと思いきや、そうでも……ない……? あれ、説教したんじゃないの、と不思議に思いながらも、パトカーと俺の車でこの子ら送ってくから、という松田の言葉に頷いた。

 

「じゃあ二つにわかれてくれる? 家が近い者同士でくっついてくれると助かるな」

 

 そう言うと、灰原さんとコナンくん、元太くん光彦くん歩美ちゃんでわかれた。

それなら、俺がパトカーで後者三人を送っていこう。人数的に柊木は松田の車に乗ればいい。

 送ってった後は本庁な、と言った松田に片手を上げて応えたとき、後ろからそっと裾を掴まれた。

 

「ん? ……あれ、どうしたの灰原さん」

 

 かがんで目線を合わせてやると、灰原さんは裾を掴んでいた手を離した。相変わらず無表情で、何を考えているのかイマイチわからない。

 

「お説教、もうちょっといいたとえ話はなかったの?」

「あれ、それ言っちゃう……? おにーさん結構頑張ったんだけど……」

 

 開口一番のダメだしに、俺は苦笑した。どちらかというと慣れないなりに善戦したと言ってほしいところ。

 

「……でも、あの子たちには響いたみたい。多分これで、少しは大人しくしてくれると思うわ。……ありがとう」

 

 それだけ言うと、灰原さんはするりと身を返して松田の車の方に走っていった。ほんのわずかに聞こえたお礼と、ちょっとだけ見えた照れた顔はきっと俺の気のせいではない。

 何だ、ちゃんとお礼が言えるいい子じゃないの。慣れないことをした甲斐はあったかなと少しだけ笑いつつ、俺もパトカーに向かって歩き出した。

 

 ***

 

 

 それぞれを送り届け、本庁での聴取もひと段落。

 休みが休みにならなかったと溜息をつきつつ、俺は何故かうちに乗り込んできた松田と萩原に飯を食わせていた。

 

「何で俺がお前らに晩飯作らなきゃいけないんだろう」

「え、そういう約束だったじゃない?」

「それは今日付き合ってもらったらって話だったろ。結局一日何もできなかったじゃねえか。というか松田、お前聴取とかいいのかよ」

「いいんだよ、俺は今日ただのフォローだったんだし。第一あんなしょぼくれた顔見ながら仕事なんざしたくねえ」

 

 あー、と遠い目をする。それなりに言うこと言ったので、むしろへこんでもらわないと困るのも事実なのだが。

 

「結局、目暮班にも問題児にも説教かましたんだよね?」

 

 その割に少年の方は、あんまり落ち込んでなかったみたいだけど。

 萩原の台詞に、松田と目を見合わせた。

 

「……まあ、コナンくんにはだいぶ手加減したかな」

「ああ、相当に優しかった。お前あんなに優しい説教もできるんじゃねえか」

「えっそうなの? てっきり泣いて謝るまで言葉責めするもんだと思ってたのに」

 

 人聞きが悪いセリフを吐いた萩原のおかずを一皿取り上げると、ごめんなさいと言葉が飛んでくる。食を握ってる奴に対して暴言吐くと痛い目見るぞ、いい加減覚えろ。

 

「頭が良かろうが小学一年生だぞ。子ども相手なら俺だって手加減くらいするわ」

 

 手加減をしていようと、ちゃんとこちらの言いたいことが伝わればそれでいいのだ。コナンくんにはちゃんと伝わっている。あの後きちんと連絡先を交換したが、コナンくんは本当に嬉しそうだった。隣にいた灰原さんはなぜかその様子を二度見していたけれど。

 

「……わかってはくれた感じ?」

「たぶん。目暮班も……まあわかってくれてねえんなら捜査一課の人員が綺麗に入れ替わるだけだな。ふたりとも、昇任早々悪いけど降格を覚悟しろよ」

「え、俺も?」

「させねえよ」

 

 不機嫌そうに松田は唸った。どうやら伊達と一緒にもう一度説教をするつもりらしい。毛利探偵のことも含めて、ちゃんと線引きはさせると言ってくれた。それならきっと大丈夫だろう。

 

「そっちの方はどうなんだ?」

「えー、少年探偵団? うーん、多分捜査に首突っ込むのがダメなことなんだっていうのはわかってくれたんじゃない?」

 

 なら、とりあえずは良し。

 萩原に説教を任せるのは不安もあったが、何とかこなしたらしい。確かにあの子たちも目に見えてしょんぼりしていたし、うまく話を持っていたのだろう。これから無茶をしないでくれるならそれで十分だ。

 

「じゃあ今日片づけるべき案件はあとひとつだな」

「え、何?」

「なあ萩原、何で俺は今日、休憩室の『外』でコナンくんと鉢合わせたんだろうな?」

 

 そう言うと萩原はげっと顔色を変えた。

 何だあの坊主のこと逃がしたのか、と松田が面白そうに乗っかってくる。

 

「俺、よろしくって言ったよな?」

「え、それ、あの子たちにお説教のしとけって意味でしょ?」

「面倒見ることも説教することも逃げないよう見張っとくこともまとめて『よろしく』っつったに決まってんだろが。なに子どもひとり見逃してんだ」

「え、あ、……ごめんなさい!」

 

 素直で結構だが、いくらなんでも殺人犯が近くにいる状況で保護対象の前で気を抜くのは頂けない。

 メシ食った後説教な、と笑ってやると、俺ホント今日ついてないと萩原は肩を落とし、松田はその横で堪えきれずに噴き出した。

 




サブタイトルは「六花の正義」でした。


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26

 

 優しい声音で紡がれた、刃のような、銃弾のような、鋭い言葉だった。

 そんなつもりはなかった。そんなはずはなかった。心の奥でそう叫んでいたことは否定できない。だけど、そんな甘えを許さないくらい、あの人の言葉は「真実」だった。

 

『君、自分より頭のいい警察官に会ったことないんだろ』

『君の行動で叱られるのはね、君じゃないんだよ』

 

 俺は、この柊木さんの言葉を、声を、きっと一生忘れない。それだけ強烈で、衝撃で、俺の今までの全てを叩き壊すような「現実」。今も思い返すだけで、自己嫌悪と罪悪感で吐きそうになる。

 でも俺は、忘れない。忘れてはならない。そして、繰り返してはならない。そう思う。

 

『これが俺にできる精一杯の妥協だ。聞いてくれるかな、コナン君』

 

 だってあの人は、俺の言葉を信じると言ってくれたのだ。

 薬を飲まされ身体が縮んでしまったとき、俺を保護した「警察」は、誰ひとりとして俺の言葉を信じてくれなかった。それどころか笑い飛ばして、端から相手にもしてくれなかった。

 頭ではわかっている。人が幼児化しただなんて夢物語、誰も信じるわけがない。いくら俺が十七歳だと、工藤新一だと叫んでも、信じる方がおかしい。けど、それでも俺は信じてほしかった。俺の言葉を、聞いてほしかった。ただの子どもの戯言だと、考えることすらなく切り捨てないでほしかった。

 柊木さんが俺を信じると言ってくれた時、頭によぎったのはそのときのことだ。柊木さんは、あのとき俺を保護した「警察」とは、違う。俺の話を、ちゃんと聞いてくれる。

 

『いつでも連絡しておいでよ』

 

 帰り際にそう笑ってくれた柊木さんに、仮に俺が「工藤新一」だと名乗ったらどういう反応を示すのだろうと思った。きっと、頭から信じることこそなくても、考えてくれる。事情を聞いてくれて、そして、納得のいく説明があれば、あの人は、―――きっと。

 そんな人とかわした約束を、見つけてくれた妥協点を、俺は破りたくない。破りたく、ないのに。

 

「どうした、新一」

「!」

 

 はっと思考の海から引き上げられる。

 心配そうな顔をした阿笠博士が俺の顔を覗き込んでいた。

 

「あ、……悪い博士、スケボーの調整終わった?」

「それはもう少しかかるが……どうした、この前事件に出くわしてから君の様子がおかしいと、哀くんも心配しておったぞ」

「灰原が?」

 

 ぼんやりしていて覇気がない、大人しくしていてくれるのは助かるが、何だか気味が悪い、と。博士の言葉に、にゃろう、と苦い顔をする。当の本人は、また地下室に籠って端末と向かい合っているようだ。

 

「それ心配してねーだろ」

「何を言う、哀君は素直じゃないだけじゃよ。それで、何があったんじゃ? 事件は無事解決したんじゃろう?」

「事件は、な」

 

 俺が首を突っ込むよりも早く、松田刑事は真実に辿りついた。そう、俺が動かなくても事件は解決することを、松田刑事はしっかりと証明してみせたのだ。それもまた、俺にとっては衝撃を受けた事実のひとつだった。それがあの人たちの仕事で、当たり前のことなのに。

 

「何じゃ、歯切れの悪い。君の言うとった、あの組織の一員と友人だという警察官も一緒だったと聞いたが」

「……ああ」

 

 そう、その事実が、今はどうしようもなく重い。

 この部屋に盗聴器はない。沖矢(あかい)さんに聞かれることもないだろう。

 

「あの人は、絶対に組織と繋がってたりなんかしない。まだ確たる証拠があるわけじゃねえけど、絶対違う」

 

 ぽつりぽつりと、あの日あったことを辿っていく。いつもの推理なら明快に順序よく話せるのに、何故か今回に限って上手くまとめきれず、要領を得ない説明だったと思う。だけど博士は途中で遮ることなく、ただじっと俺の話を聞いてくれた。

 何とか最後まで話しきったとき、博士は少しだけ笑って、柔らかい声で言った。

 

「そうか、そうか。……いい警察の人に出逢ったんじゃな。いや、いい『大人』に、と言うべきかもしれん」

「博士……」

「それで、君はどう思ったんじゃ、新一」

 

 思うところがあったから、こうして今も考え込んでいるんじゃろう?

 そう言われて、何とか説明しようと、自分の中のもやもやしたものを言葉の形に整える。

 

「……目暮警部や、他の刑事さんたちにも迷惑かけたくないし、事件への関わり方はちゃんと見直そうと思う」

「うむ」

「頼っていいって言ってくれた柊木さんを、信じたい。危ないことはするなって……何かあったら相談してほしいって言われて、……組織のこととか、話したいって、初めて思ったけど、……言えねえ」

 

 組織のことや幼児化のことを話すということは、灰原のこと、そして赤井さんのことを説明するということだ。だが、柊木さんにそれを話してバーボンに情報が渡らないという保証はない。ふたりの関係性や、柊木さんの友人を名乗るバーボンの目的が見えない以上、柊木さん自身のリスクを考えても、今相談することは得策とは言えない。

 俺だけならまだしも、灰原や赤井さんの命もかかっている。下手なことは、できない。

 

「……信じたいし、話したいのに、結局俺は、柊木さんが見つけてくれた『妥協点』を守れねえんだ」

 

 俺の正義を信じると言ってくれたあの人との約束を、俺は守れない。

 その事実があまりに重くて、苦しくて、辛かった。

 

「約束を守れんことが、辛いのか」

「……うん。柊木さんには……多分、失望、されたくない」

 

 約束を守ってくれなかったのかと、あの人に言われるところを想像しただけで背筋が冷たくなって涙が出そうになる。でも、俺が柊木さんに正直に話をして、万が一バーボンにそれが伝わってしまったら関係者全員の命が危うい。組織に潜入しているキールの命もだ。

 どうしたらいいのかわからない。こんな気持ちは、初めてだった。

 

「……わしもその人に会ったわけではないから何とも言えんが、新一、そう結論を急がなくてもいいんじゃないかの」

「え?」

「組織のことや今までのことを、今すぐ説明しろと言われているわけでもない。そのバーボンが気になるなら、ふたりの関係性を見極めてからどうするかを考えても遅くはないじゃろう。どうもお前は辛抱が足りん」

 

 昔からそうじゃがな、と博士は笑った。

 

「事情が事情だけに慎重になるのは当然じゃろう。とにかく今は、信頼できる警察官ができたということを喜んでおいたらどうじゃ。その柊木さんだけでなく、同期の松田刑事や伊達刑事、それからその日一緒にいた萩原刑事だったか? 彼らが信頼できるということもわかったんじゃろう?」

 

 きっとお前が本当に困ったとき、彼らはお前が子どもだからと疑うことなく、お前を助けてくれる。そういう存在がいてくれることが、どれだけ有難いことか。

 

「まずは得たものを喜べ、新一」

 

 そして焦るなと、博士は穏やかに続ける。

 ぐるぐると同じところをループしていた思考がゆっくりと落ち着き、もやもやとしていた心が少しだけ軽くなった気がした。

 少しだけ呼吸をおいて、また俺は口を開いた。

 

「……博士」

「ん?」

「灰原は柊木さんのこと、何か言ってたか?」

「む、……組織の気配は感じなかった、とは言っておったかな。あと顔がいいと」

 

 付け加えられた言葉に思わず笑った。灰原から見てもやっぱり、柊木さんは相当なイケメンだったようだ。

 

「むしろ萩原刑事のことの方を話しておったぞ。ふにゃふにゃしていて軽く見えたが、子供たちにお説教をするならあれくらい適当な人の方がいいのかもしれないとか何とか」

「ああ……そういや事件に首突っ込まないよう上手く言ってくれたとか言ってたな」

「うむ。あの子たちも学んでくれればいいんじゃがのう」

 

 正義感や勇気は大事だが、身の丈に合った行動と言うのも大事じゃからのう、という言葉にうっと詰まりつつ、再びスケボーの調整に戻っていく博士の背中を見送った。

 

「……結論は、出ねーな」

 

 ひとつ溜息をついて、俺は呟く。

 ここ数日、何度も何度も同じことを考えた。俺はどうしたらいいのかと、頭が痛くなるくらい考えた。それでも結論が出ないなら、とりあえずは安全策で現状維持をするしかない。

せめて少しでも前に進めるように、そうだ、柊木さんに連絡して話をしたいと言ってみよう。いつでも連絡していいと言ってくれたあの人の言葉に、甘えてみよう。そしてポアロに呼び出して、運よくそのときに安室さんがいれば、その関係性も多少は見られるかもしれない。そうでなくても、俺はもっと、あの人の話が聞きたい。

 俺は少し緊張しながら、スマホの画面をタップした。

 

 

 *

 

 

 いつも通り軽快な音を奏でるベルに迎えられ、俺はポアロに足を踏み入れた。

 目の前のカウンターにはお目当ての人、その向かいには見慣れた店員。

 

「いらっしゃいコナン君」

「やあ、こないだぶりだな」

 

 何よりもまず思ったのは、この光景を目の当たりにしたらSNSに上げたくなるのも仕方ないかもしれない、ということだった。タイプの違うとんでもないイケメンがふたり並んで、しかもこっちに向かって笑いかけている。もしかしたら俺は今、非常に贅沢な光景を見ているのかもしれない。

 今日は休日だが、柊木さんの希望で人が少なそうな時間帯に待ち合わせをしていた。ぱらぱらと何人かテーブル席に座っている客はいるが、運よく女性客はいない。いなくてよかった、もしいたら絶対黄色い悲鳴が店内に響いていた。

 

「……どうした?」

 

 固まってしまった俺にきょとんとした柊木さんはよくわかっていないようだったが、その横でそっと安室さんが唇をかんだのが見えた。あれは俺の内心を読んだうえで笑うのを堪えたな、くそう。

 

「何でもないよ! ごめんね柊木さん、遅くなっちゃって」

「時間ぴったりじゃないか、俺が早く来ただけだよ」

「コナン君、何飲む?」

「アイスコーヒーがいいな」

 

 ひょいっと柊木さんの隣の椅子に飛び乗った。運がいい、今日は安室さんの出勤日だったのか。いつものようにかしこまりました、と穏やかな笑顔を残して、安室さんはアイスコーヒーの準備をしていく。

 

「家の人にはちゃんとポアロに行くって言ってきたか?」

「うん。柊木さんのことは詳しくは言わなかったけど……そういえば柊木さん、『監察官』のことは小五郎のおじさんには言わない方がいいって言ったよね? あれってどうして?」

 

 電話口で言われたことだ。もし自分のことを尋ねられたら、警察官ということは言ってもいいけど監察官と言うことは言わない方がいい、と。結局特に何も聞かれなかったので、蘭にもおっちゃんにも「友達と会う」としか説明はしていないが。

 

「監察官は身内のあらを探して手柄を上げる仕事だからね、あまり好かれる立場じゃないんだよ。毛利探偵も元刑事だろう? いい顔はしないかと思ってね」

 

 そうか、あまりに柊木さんが慕われているという話を聞いていたから忘れていた。

 そもそも好かれない立場なのに、おっちゃんは刑事を辞めさせられた身、つまり監察官の査問を受けて依願退職の処分を受けた身だ。逆恨みをするような人ではないが、確かにいい気はしないかもしれない。

 

「そっか……」

「俺は別にいいんだけど、あえて毛利さんを不快にさせることもないからな」

「うん、納得した」

 

 そうか、と柊木さんは穏やかに笑う。

 本当に、前回見た「監察官」としての顔とは別人だと、改めて思う。こんなに優しく笑う人なのに、あの時の笑顔は背筋が凍るくらい怖かった。

 

「はい、アイスコーヒーどうぞ」

「ありがとう」

 

 そっと出されたアイスコーヒーに口をつける。安室さんはそのままにこりと微笑んで、柊木さんに話しかけた。

 

「そういえばその毛利先生が零していたけど、先日警視庁の目暮警部が先生に会いに来たそうだよ。事件じゃなくて、謝罪のために」

 

 ごく、と俺の喉が大きな音を立てた。

 知っている、あれはあの事件の日からほんの数日後のことだった。学校帰りに事務所の階段を上がっている時、ちょうど目暮警部が事務所から出てきて鉢合わせた。

 目が合ったとき、俺も目暮警部も一瞬固まった。俺は気まずさのせいでどういう顔をしたらいいかわからなかったが、警部は俺のそんな気持ちを察したように苦笑して言った。

 

『やあコナン君、学校帰りかね』

 

 そっと俺の傍まで階段を下りて、目線を合わせてくれた。

 うん、と頷いて、俺は意を決して頭を下げた。

 

『ごめんなさい。……たくさん、迷惑をかけてしまって』

『……いいんだコナン君、頭を上げなさい』

『ううん、……僕、自分がやってることの意味、全然わかってなかった。……警部さんたちを馬鹿にしてたつもりなんかない、だけど、……僕がしていたのは、ダメなことだった』

『頭を上げなさい、コナン君』

 

 少し強い調子で言われて、おそるおそる頭を上げる。

 再び顔を合わせた目暮警部は、やっぱり微笑んでいた。

 

『そうだな、君が全く悪くないというつもりはない。特に事件現場に飛び込んでくるところに関してはな。だが、それ以上に、……わしらの考えが甘かったんだ』

 

 警察官として、すべきこと。その意義。わかっていたつもりで、わかっていなかった。

 

『守るべき君たちを危険に晒していた。それは警察官としてあってはならないことだ。その話を、今毛利くんにもしてきたところだよ。……本当に、すまなかった』

『目暮警部……』

『わしらに悪いと思う必要はない。毛利くんや、……優作くん、それに新一くんに頼ってばかりいたのは事実なのだから』

 

 自分の名前が出てぴくりと肩が震えた。

 目暮警部は特に気にすることなく、言葉を続ける。

 

『いいかね、君もそれなりに事件に巻き込まれてきて、毛利くんほどとは言わなくても顔や名前を知られている。もし何か変わったことや、怪しい人物を見かけたらすぐに相談してほしい。狙われる可能性もないとは言えんからな』

 

 真剣な顔でそう言われ、俺はうん、と頷く。目暮警部はそこでまた微笑んで、蘭君によろしくな、と言って帰っていった。

 その日は小五郎のおっちゃんもなんだか考え込んでいるような様子で、夕飯の席で一言だけ俺たちに零した。

 

『蘭、コナン』

『何、お父さん』

『どうしたの?』

『おめーら、何か変なことがあったらすぐ言えよ』

 

 特に表情を変えず、おっちゃんはそれだけ言った。変なことって何よと蘭は返したが、変なことは変なことだよと言って、それきり何も答えなかった。そしてその後も、ほんの少しだけ、変わった。何がというと難しいが、まず明らかに変わったのは、依頼人の話を聞く際に、絶対に俺や蘭を同席させなくなったということ。

 目暮警部とどんな話をしたのかはわからないが、おっちゃんなりに俺たちを守る方法を考えた結果なのだろう。

 

「そうか」

 

 特に感情の乗っていない柊木さんの相槌で、はっと意識が戻った。

 柊木さんは特に気にした様子もなく、カップに口を付けている。

 

「僕も詳細は聞いてないんだけど、何かあったのか、君なら知ってるかい?」

「さあ」

 

 するりと柊木さんがかわしたところで、テーブル席にいた別の客がオーダーを呼んだ。はい、と返事を返して、安室さんがカウンターから離れる。

 その隙にと、俺は柊木さんに小声で話しかけた。

 

「……目暮警部たちに、何か処罰はあるの?」

「とりあえず、俺は今のところ仕事をする予定はないよ。俺が決定的な場面を見たわけでもないし、告発されたわけでもないからな」

「……そっか」

「全部、これから次第だ」

 

 そう言った柊木さんの言葉を、噛みしめた。

 これから次第、そうか。……俺も、気を付けなければ。

 そう決意を新たにしたそのとき、かららんとベルが来客を告げ、見知った声が耳に飛び込んできた。

 

「あ、コナン君。……あれ、そちらは……」

 

 入ってきたのは、買い物に行っていたはずの蘭と園子だった。俺の隣にいる柊木さんを見て蘭はきょとんとしていたが、蘭に続いて入ってきた自称イケメンハンターは、さっと目の色を変えた。これは、―――ヤバいのでは。

 

「きゃあああああ超絶イケメン! もしかして貴方が安室さんの……!」

 

 いっきに距離を詰めてきた園子を何とか止めようと腰を浮かせたその時、俺は背後から回ってきた力強い腕に、勢いよく持ち上げられた。

 

 

 ***

 

 

「本当に申し訳ありません! ほら、園子!」

「も、申し訳ありません……」

「頭を上げてください、おふたりとも」

 

 内心必死で笑いをこらえながら、頭を下げる女子高生ふたりにいつもの笑顔を返す。

 予想通りというか、「超絶イケメン」を目の前にした園子さんは、柊木に対していっきに距離を詰めた。多分、両手をとって近距離で挨拶をしようとでもしたのだろう。

 当然ながら柊木がそれを許容できるわけでもなく、とにかく必死だった柊木は、隣にいたコナン君を持ち上げて盾にするという暴挙に出た。

 

『……へ?』

 

 お互い近距離で顔を合わせ、何があったかわからずぽかんとする園子さんとコナン君。コナン君という盾を両手で持ち上げ、彼女からできる限り距離を取ろうと腕をぴんと伸ばす柊木。ちなみに園子さんを視界に入れないように顔を背け、若干震えていた。

 こんな面白い構図、安室(ぼく)ではなく降谷(ぼく)だったら全力で笑っていたのに!

 今も隙あらば笑いだそうとする腹筋を全力でおさえながら、柊木の女性苦手の話を聞いて謝り倒す蘭さんと園子さんを前に、柊木のかわりに謝罪を受け取る。

 

「本当にお気になさらず。ちゃんと説明していなかった僕も悪かったんです。あ、でも園子さん、初対面の男性に迂闊に声をかけるのはおすすめしませんよ」

「はい……あの、柊木さん? だっけ? あ、あれって、体調悪くさせちゃった……?」

 

 さすがに申し訳なさそうな園子さんは、そっと柊木の方を見て言った。

 俺は柊木の姿を確認することもなく、いいえ、と首を振った。

 

「大丈夫、あれはただの自己嫌悪です」

 

 どうせカウンター席で項垂れているのだろう、自分に対する呪詛のような柊木のつぶやきと、必死に宥めるコナンくんの声が背後から聞こえてくる。

 

「いくら何でもコナンくんを盾にするなんて……警察として……いや人としてダメだろ……アウトだろ……情けなさ過ぎる……何やってんだ俺は……」

「ひ、柊木さん、誰だって苦手なものはあるよ! 今のは園子姉ちゃんが悪いから!」

「守るとか大口叩いといて盾にするとか最低だよな……ごめんなコナン君……俺の方が約束破ってるよな……」

「僕は全然気にしてないから! 本当に気にしてないから! 柊木さん話聞いて!!」

 

 堪えろ俺の腹筋、そして表情筋。少しでも気を抜いたら全部崩れるぞ、堪えてみせろ降谷零、安室透のキャラクターを守れ、そうでなくては公安など務まらない。

 そしてごめんねコナン君、そいつ滅多に落ち込まないけど、本気で落ち込んだら完全にキャラが壊れる奴なんだ。落ち込むところまで落ち込んで、励ましなんて全く耳に入らない奴なんだよ、面倒で面白いだろう?

 そろそろかな、と俺はカウンターを振り返り、一通り自分への呪詛を終えたらしい柊木に改めて声をかける。

 

「ほら柊木、そろそろ正気に戻ってくれ」

「あ……? あ、ああ……」

 

 俺の声で柊木はゆるゆると頭を上げ、何とかふたりの方に身体を向けた。

 しかし目線は相変わらずふたりの方に向けられない。向けようと努力はしているが、身体のほうが嫌がっているらしい。梓さんでだいぶ慣れたと思ったが、やはりまだ無理なようだ。

 

「本当に、すみませんでした……」

「いや、……でも、本当に、知らない奴に声をかけるのはやめたほうがいいよ……君の方が危ない場合もあるから……」

「気を付けます……」

 

 園子さんに悪気があったわけではないのは柊木もわかっているのだろう。

 だがまだ顔色は戻らないし、冷や汗と震えが止まらない。だいぶ取り繕えるようになった柊木だが、一度取り繕いが崩れるとなかなか戻れないのは変わらずか。さっさと連れ帰った方がよさそうだ。

 

「柊木、僕の勤務はあと十分で終わるから、少し待っててくれ。交代の梓さんが来たら送っていくよ」

「いや、俺は……」

「その状態で、人通りの多い休日の街中を歩いて帰れる自信があるのかい?」

「よろしく頼む……」

 

 また項垂れた柊木は、あっさりと白旗を上げた。

 来たばっかりなのに、ごめんなコナン君……と柊木が呟くと、気にしないで、とコナン君は苦笑した。

 

「また、お話してくれる?」

「もちろん、いつでも」

 

 ぽん、と頭に手を置かれたコナン君は、嬉しそうに笑う。

 先日の一件で柊木に懐いたことは聞いていたが、どうやら本当だったらしい。コナン君には珍しい年相応の無邪気な笑顔に、柊木のタラシは本当に才能だなとこっそり笑った。

 この後梓さんが出勤し、また頭を下げる女子高生ふたりと笑顔の小学一年生を残し、柊木を家まで送り届けた。

 ちなみに柊木を愛車に乗せたのはこれが初めてで、張り切ってその素晴らしい走りを体感させてやったというのに、その感想は「法定速度守りながらあんな危険運転ができるってお前、いっそ才能だぞ」だった。解せない。

 

 



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27

 いつも人が少ない平日のランチ終わりのこの時間、今日もまた最後のひとりのお客様を見送って、フロアが無人になった。……む、こういう日は、たいてい。

 そう虫の知らせが伝えてきたとき、いつものようにベルと共に入店されたのは、最近たまーに目が合うようになった、内心ちょっとだけファンのお客様。いつもと違うのは、少しだけ気まずげな顔をされていて、その後ろに楽しそうな一団がついていたこと。

 

「いらっしゃいませ」

「……今日はテーブル席、いい?」

「はい、どうぞ! ええと、五名様ですね?」

 

 そうでーす、と軽く返事をしてくれた少し長い髪を後ろでくくった方に、喫煙席で、と付け加えたサングラスが似合う方。それから猫目を面白そうに細め、本当に柊木が成長してる、と呟いた方と、良かったなあ、とそれに同意して頷く大柄な方。

 それぞれ個性のある方々だけど、とにかく思うのは。

 

「いらっしゃいませ。本当に来たのか」

「よ、安室。仕事ご苦労さん」

「こちらの方々も安室さんのお知合いなんですか?」

「ええ、柊木を通して知り合った友人です」

 

 なるほど、やはり。

 

「やっぱりイケメンのお友達はイケメンなんですね……!」

 

 数秒沈黙の後、柊木さんを除いた四人は揃って噴き出した。それを見てようやく、内心を口に出してしまったことに気づく。すみません、と慌てて伝えると、柊木さんは小さくため息をついて後ろの四人に向かって口を開いた。

 

「……お前ら、少しは堪えろ。店の中で騒いだら迷惑だろ」

「い、いや、わかってんだけど、」

「悪い悪い、なるほど、柊木が通うわけだな」

 

 何とか笑いを堪えながら猫目のお兄さんが零すと、柊木さんには珍しい少し拗ねた顔をして、黙ってテーブル席の方に歩き出した。

 あら、いつもの穏やかな顔はとにかくかっこいいけど、ああいう表情をされるとちょっと可愛いかも、なんて思いつつ、お冷の用意を済ませる。

 安室さんにそれを差し出すととゆるく首を振られ、梓さんが行ってあげてください、と背中を押された。お友達なら自分で持っていけばいいのに、と不思議に思いながら、ちゃんと接客の笑顔を作ってお冷を運ぶ。

 

「お冷どうぞ」

「お、ありがとな」

 

 手前に座った大柄のお兄さんが気を利かせてコップをそれぞれに配ってくれる。さすが柊木さんのお友達と言うか、親切な人だ。

 

「いきなりごめんね。お姉さんが『榎本梓』さんだよね?」

「え、はい、そうですが」

「安室や柊木から話は聞いてるよ。こいつのリハビリに付き合ってくれてるって?」

 

 髪を後ろでくくったお兄さんが、こいつ、と柊木さんを指しながら言う。柊木さんは若干眉間にしわを寄せて、躊躇いなくその指を掴み本来曲がらない方向へぐぐぐと引っ張った。

 

「いでででで痛いって旭ちゃん! 何だよ照れることないだろ!」

「うるさい、仕事の邪魔だ」

「か、構いませんよ柊木さん! リハビリに付き合ってると言われても、私は本当に何もしてないんですけど」

「このご面相を前に普通に仕事してくれるだけで十分『してる』んだよ」

 

 サングラスのお兄さんは、面白そうにそう言って紫煙を吐き出した。

 その横で頬杖を突きながら、猫目のお兄さんは続ける。

 

「言ってなんだけど、柊木相手に普通に接してくれる女の子、そうそういないから」

 

 それは、まあ、そうだろう。

 詳細は知らないけれど、先日園子ちゃんがとうとうやらかしてしまったと聞いている。柊木さんのルックスのレベルは本当にモデル顔負けというか、そこに座っているだけで絵になるような人だから今までもさんざん騒がれてきたはず。それこそ、女性が苦手になってしまうくらいには。

 

「だからつい俺たちも気になって、ついてきちゃったんだよ。柊木が普通に女の子と会話するなんて、今まで本当になかったから」

「地道に努力してきた甲斐はあったじゃねえか。なあ、柊木」

 

 大柄なお兄さんの言葉に、柊木さんは唇の端を思い切り下げながらも、お陰様でと、小さく返した。さっきと同じ、その拗ねたような表情には皆さんへの感謝と信頼が確かに感じられて、何だか微笑ましい。

 

「アンタもありがとなぁ。これでも本人、相当感謝してるんだぜ」

 

 まだうまく会話ができない分、ちゃんと伝えられてないみたいだがな。

 そうお兄さんに言われ、え、と固まる。思わず柊木さんを見ると、やっぱりまだ視線は上手く合わないけれど、少し迷いながらも口が動いた。

 

「……いつも、ありがとう」

 

 恥ずかしそうにというよりは、少し申し訳なさそうに紡がれた言葉。

 大したことはしていないのだからお礼を言う必要なんてないのにとも思いつつも、接客業においてお客様から頂く「ありがとう」ほど嬉しいものはない。

 

「……こちらこそ、いつもありがとうございます」

 

 そんな気持ちを込めてそう返すと、ようやく柊木さんと目が合い、まだ少しだけぎこちないながらも、そっと微笑んでくれた。

 

「……あ、ごめんもう無理……俺ブレンドで……」

「あ、はい! ごめんなさい!」

 

 さっとメニュー表で顔を隠した柊木さんに、旭ちゃんそこはもうちょい頑張ろ、と一つ結びのお兄さんが柊木さんの肩をぐらんぐらんと揺らし始めた。さすがに公の場で卒倒したくない、とメニューの裏からか細い声が聞こえてきて、思わず笑う。

 

「ったく、締まらねえな。……ああ、俺もブレンド。いやもう全員ブレンドでいいぜ」

「ふふ、はい、ブレンド五つですね。少々お待ちくださいませ」

 

 サングラスのお兄さんに言われた注文をさっと書き込み、一礼して席を離れた。

 後ろからはまだわいわいと賑やかな声と、約一名分の弱弱しい声が聞こえる。柊木さんには申し訳ないと思いつつ、やっぱりまた笑ってしまった。

 

「すみません、うるさくて」

「いえいえ、そんなことないですよ。安室さん、ブレンド五つお願いします」

「はい」

 

 安室さんも穏やかに苦笑しつつも、やっぱり微笑ましげにテーブルを見つめている。この人のそんな表情もなんだか珍しくて、何だか羨ましくなってきた。男の友情っていう奴? そういうのもいいかもしれない。

 

「良いお友達なんですね」

 

 そう言うと、安室さんはその大きな目をぱちくりさせ、もう一度彼らの方を見て、それからまた笑った。

 

「ええ、楽しい人たちなんです」

 

 その言葉はいつも通り安室さんのものだったが、そのときの表情はいつもと違っていて。何だろう、ちょっとだけ安室さんらしくない、いたずらっ子のような顔をしていた。

 

 

 ***

 

 

「……何だ、本当に春到来の気配なし? つまんね」

「萩原、本気でその指折るぞ」

 

 ゆらりと距離を詰めると、萩原は冷や汗をかきつつヤダヤダ冗談じゃ~ん、とホールドアップ。お前は本当に何を期待してんだ。

 

「でも確かに、本当にいい子みたいだな。だけど……いやホント柊木が普通に女の子と話してるのすっげえ違和感」

「わかる」

 

 いつもと変わらない笑顔のまま言い放たれた諸伏の言葉に、松田が深く頷いた。俺は苦い顔をしつつも、今までが今までなだけに言い返せない。

 まあまあと伊達が苦笑しながら言う。

 

「素直に成長を喜んでやれよ。とりあえずひとり、ちゃんと話せる相手ができてよかったじゃねえか。柊木にとっては大進歩だろ?」

「ま~今まで考えればすごいことだし、ぼちぼち行くしかないよね~」

 

 俺なんか食べようかな、と萩原は俺の手元を覗き込む。何かおすすめあるかと聞かれて、ふと思った。

 

「……そういえばブレンド以外頼んだことない」

「そうなの?」

「普段から長居はしてないから」

 

 ああ、と皆が納得したように頷いた。

 店が混み始めそうな気配が出たらすぐに退散したいので、いつでも出られるようにフードメニューは頼んでいない。

 

「俺も腹減ったな、何か食うか」

「……この、メニューに書いてあるハムサンドって、もしかして?」

「ああ、そうらしいよ。前柊木の家で作ったやつ。ゼロにレシピ渡したんだ」

「確かにあれは美味かったよなぁ。手が込んでたし」

 

 思い出すのは早朝に全員がうちに乗り込んできたあのときの、サンドイッチ。

 確かにあれは美味かった。確か味噌だのオリーブオイルだの使っていたし、きっとこだわりがあるのだろう。

 

「でも、作るのが安室ならいつでも食べれるね。他にしよ」

「頼んでくれていいんだよ? いつでもは作ってあげられないからね?」

 

 気配を消して近づいてきたそいつに、萩原はぎくりと肩を揺らした。降谷は「安室」の顔を崩さないまま、にこにことブレンドをテーブルに並べていく。

 

「それで、ご注文は?」

 

 にっこりとどこか圧を感じさせる降谷に、萩原はメニューの後ろからハムサンドにします……と小さく答えた。かしこまりました、と答える降谷は満足げだ。こいつ本当にプライド高いよな、知ってた。

 

「他はどうする?」

「あー……俺、カラスミパスタ。確か他の班の誰かが美味いって言ってたな」

「ああ、梓さん特製のカラスミパスタは刑事さんたちの間で大人気なんだよ。柊木もたまにはどうかな?」

 

 伊達の言葉を受けて、梓さんも喜ぶよ、とにこりと笑った降谷。何となく断りづらい。別に、彼女を喜ばせたくて頼むわけじゃないけれど。

 

「……じゃあ、俺も」

 

 何となく気まずいままそういうと、降谷の笑みが濃くなる。何か癪。

 松田も松田でくつくつと笑いながら、俺も食うわ、とカラスミパスタを追加。その横で、じゃあ俺は安室特製の方にするかなーと諸伏が朗らかに笑った。

 

「それでは、カラスミパスタ三つとハムサンド二つだね。少々お待ちくださいませ」

 

 にこにこと笑いながらテーブルを離れる降谷に、ようやく萩原は安堵の息をついた。わかってんだけど調子狂うわー……というつぶやきに、苦笑する。あんなに大人しくて礼儀正しい顔の降谷なんてそう見られないので、その気持ちもよくわかる。

 

「それはそうと柊木、ここで子供を盾にして女の子かわしたって?」

「その話をするなら俺は今すぐ帰るぞ」

「顔こっわ」

 

 確信犯で愉快犯の諸伏がけたけたと笑う。あれは落ち込みが過ぎて、一週間ほど引きずった。いや、今でも思い出すだけで死にたくなる。子どもを盾にするくらいなら自分が卒倒したり号泣したりする方がどれだけかマシだ。

 降谷から連絡がいったらしく、あの後同期からもからかい交じりの慰めのメッセージをもらったが、諸伏からは慰めついでに「ゼロがイケメン崩壊するくらい笑ってた」という密告ももらったので、降谷のことは許さない。とりあえず道路交通法を無視する白いRX―7を最近よく見かけると交通部にチクっておいた。どうせ偽造した免許くらい持っているだろう。「安室透」として罰金食らえばいい。

 

「子どもってあの坊主だろ? ホントに連絡とってんのか」

「そんなに頻繁にじゃないけどな。一応反省はしてくれたみたいだよ。ああ、少年探偵団の方も大人しくしてるらしい」

 

 まだたまに暴走しそうになるが、そのたびにあの茶髪の女の子がちくりと「ズル、するの?」と言うとぴたりと止まるとか何とか。そう言うと、萩原は少しだけほっとした顔をした。

 

「そりゃ良かった。慣れないことした甲斐があったわ~」

「まさか萩原が人に説教する日が来るなんてなぁ。しかもちゃんと子供たちに言うこと聞かせられるとは」

「頭ん中がガキのまんまだから同じ目線で説教ができたんだろ」

「やだ陣平ちゃん、聞き捨てならな~い♡」

 

 うんうんと感心したように頷く伊達に、松田はさらりと言った。萩原はひくりと頬を引きつらせ、俺結構頑張ったんですけどと言葉を重ねる。

 その言葉に苦笑しつつ、俺も口を開いた。

 

「相手の目線に合わせて話ができるのは萩原のいいところだよ、松田」

「旭ちゃん……!」

「たとえ説教の中身が『お前それいいのかよ』と思う内容でも、伝わればいいんだ」

「何この上げて落としてくるスタイル」

 

 説教は内容よりも結果って言ったの柊木なのにと萩原はさめざめと泣いてみせる。あれ、俺は普通に褒めたつもりだったのだが。

 

「お待たせいたしました」

 

 そのタイミングで、降谷が頼んだ料理を順番に運んできた。相変わらず楽しそうだね、と言葉をそえて。

 

「楽しそうに見えんの? 俺いじめられてるんだけど!」

「うん、皆で萩原をいじめるのが楽しそうだ」

「あれ安室ってもっと優しい性格じゃなかった? もっと言葉選んでくる奴じゃなかった?」

「やだなあ、何を言ってるんだい? 僕はずっとこうだよ」

 

 設定若干ねじまげてでも萩原をいじめることをやめない降谷にいっそ感心する。

 俺の味方なんてどこにもいない、と涙を流す萩原に、松田は吹き出し、諸伏は遠慮なくけたけたと笑った。

 

「今日はこの後、また柊木の家?」

「そのつもり。安室も来る?」

「どうしようかな……少し仕事もあるし」

「柊木が車買うっていうからいろいろ店見てカタログもらってくる予定なんだが」

「行く」

 

 一瞬で降谷の目の色が変わった。予想通りの展開。

 

「つまりこれからディーラー巡りかい?」

「ああ。こいつ、見張ってないと適当に目についた軽四で済ませそうでな」

 

 面白そうに松田が言うと、すっと降谷の笑顔が濃くなった。

 オイそれ「安室透」じゃなくて「降谷零」の笑顔だろ、やめろ仕事中に。

 

「……軽四。いや、軽四が悪いとは言わない。最近のは形も性能もいいのが多いし、小回りが利くのも素晴らしい利点だと思う」

「……安室」

「だけど致命的に柊木には似合わないんじゃないかな? ルックスや地位との釣り合いも大事だと思うよ?」

 

 今晩、僕もカタログをもってお邪魔するね?

 圧を感じる笑顔で言われて、もうどうにでもしてくれと頷いた。致命的に似合わないってなんだ、軽四の何が悪い、どうせ家族つくって乗せる予定もないし、車なんて動きゃいいじゃねえかといろいろと思うことはあるが、口に出すと絶対面倒なので言わない。

 スポーツカー買わされないように気を付けよう心に決めつつ、カラスミパスタを口に入れた。あ、美味い。

 

「そういや柊木、何で車が必要になったんだ?」

「だってお前ら出世して前より忙しくなっただろ」

「? ああ」

「荷物持ちに使えなくなっていろいろ不便でな」

 

 バイクだと積載量に限界あるしと何気なく付け加えると、一拍おいて俺が特によく「使う」三人、松田萩原諸伏が真顔になった。

 

「すぐに車買え」

「今日中に車種決めよう」

「次の休みには買いに行けるようにしような」

 

 そんなに荷物持ちから逃れたかったのだろうか。

 俺そこまでこき使ったっけ、と首を傾げると、三人からジト目で見つめられた。

 

「柊木ってそういうとこあるよな」

「うん、もう諦めてるけどさ」

「素で暴君なんだもんなー」

「暴君? 俺が?」

 

 別にお前らを配下なんて思ってないけど、ときょとんとすると、三人は一斉に溜息をつき、伊達と降谷は苦笑した。え、何で?

 苦笑した降谷がそうだ、と思い出したように口を開いた。

 

「そういえば最近なんだけど」

「何?」

「犬を飼い始めたんだ」

「お前どこにそんな暇あんの?」

 

 降谷のおかげで連日寝不足の諸伏の表情が、すっと消えた。

 



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28

「ゼロ、俺はな、何も犬を飼うなと言ってるわけじゃないんだ。ただ、お前はいくつも顔を使い分けて大変な生活を送っているわけだろ? そこにわざわざ犬の世話って仕事まで加えなくてもいいんじゃないかっていう話でな? 命を育てるんだ、適当な世話なんか許されないし、犬だったら散歩とかも必要だろ? 俺としては、その時間をちゃんと自分の休息のために使ってほしいんだよ。そのために俺は毎日身を粉にして書類をさばいているわけだしな? いや、犬を飼うことで癒しになるっていう考え方もあると思うし否定はしないよ。だけど、そのために世話に手間のかかる犬を飼うくらいなら、登庁して書類の一枚も片づけてほしいっていう俺の気持ちもわかってほしいというかな?」

 

 最近あんまり見なかったな、この光景。警察学校時代はたまに見たけど。

 何となく懐かしい思いを抱えながら、降谷に正座をさせ、その目の前で仁王立ちをして笑顔のまま言葉を重ねる諸伏を見る。なんだかんだでお互いに甘い奴らなので滅多にないが、ごく稀に降谷が諸伏を怒らせると見られる光景だった。

 外野から下手に横やりを入れると巻き込まれることをよく知っているので、俺たちは遠巻きにそれを見ながらビールを呷る。

 ちなみに降谷の横にはちょこんと小さな白い犬が行儀よくお座りしている。お目見えしようと思ったのか、わざわざキャリーバッグにいれてうちまで連れてきていた。

 

「の、野良犬だったんだけど、懐かれて……離れてくれなかったんだ」

「情が移ったのはわかったけど、別に自分で飼う必要はなかったんじゃないか?たとえば交友関係の広い萩原に言って、貰い手を探すことだってできたはずだろ?」

 

 諸伏のもっともな言葉に、降谷がう、と口ごもる。

 完全に犬を拾ってきた「子ども」と元居た場所に返してきなさい、と叱る「母」の図だ。諸伏ママは滅多なことでは怒らない代わりに一旦怒ると怖い。

 降谷が返す言葉を必死に探していたその時、座っていたわんこが立ち上がり、とてて、と諸伏の足元に駆け寄った。

 

「あ、こら、ハロ」

 

 きゅうん、と諸伏を見上げ、尻尾を振るわんこ。ぴくり、と諸伏が震えた。まるで遊んで、とでも言うように首をかしげてみせる。また諸伏はぴくりと震えた。

 

「……ヒロ、……可愛いだろ?」

「いや、あのな……」

「可愛いだろ?ハロっていうんだ」

 

 名前を呼ばれてハロくんは嬉しそうに一声鳴いた。ぱたぱたと振り続ける尻尾は止まらない。ダメ押しとばかりに降谷はハロくんを抱き上げ、あざとくその前足を振ってみせた。

 

「可愛いだろ?」

「……可愛いけどさぁ……!」

 

 はい陥落。諸伏は膝をついて項垂れた。くっそ可愛い……という声が聞こえてくる。それを見た降谷は勝ち誇った笑みを浮かべた。

 ほぼほぼ予想通りの展開に俺たちも苦笑。そもそも諸伏は動物好きで犬好きなのだ。降谷の勝利は最初から目に見えていた。

 

「卑怯だぞゼロ……そのためにわざわざその子連れてきたんだろ……!」

「何の話だ? 僕はうちの子自慢がしたかっただけだ」

 

 ふふんと笑って見せる降谷に、諸伏が歯噛みする。

 そろそろいいかと、俺はふたりに声をかけた。

 

「その辺にしとけよ、諸伏」

「だけどな柊木!」

「気持ちはわかるけど、その子も完全に降谷に懐いているみたいだし、今更引き離すのも可哀想だろ」

「う……」

 

 再び床におろされたハロくんは、見慣れない部屋に来たにも関わらず、特に怯えた様子もなく降谷にくっついている。それだけ降谷を信頼しているということだろう。

 

「降谷だって、お前の気持ちをわかっていないわけじゃない。きっとこれからお前にまわされる書類の量だって減るはずだ、そうだろ?」

 

 頷けよ、という念を込めて降谷を見ると、降谷は一瞬硬直しつつも頷いた。すまなかった、ちゃんとお前に無理させないように考える、とはっきりと言う。降谷は言ったことは守る奴だ、これで少しは諸伏の生活も改善されるだろう。

 

「……俺はお前に無理をしてほしくないんだ」

「わかってるよ。心配かけてすまない、ヒロ」

 

 降谷が苦笑を返したところで、とりあえず説教は終了。結局のところ諸伏は降谷が心配なだけなので、ある意味ひどい痴話喧嘩を見せられた気分だ。やれやれと手元のビールを呷る。

 

「諸伏、説教終わったんならお前もカタログ見るの手伝えよ」

「旭ちゃんたら本当にどれでもいいとか言うしさー。全く、未来の警視総監様が適当な車とか乗ってたら爆笑通り越して泣けてくるってのに。せっかくだから格好いいやつ買おうよ格好いいやつ!」

「……え、何、未来の警視総監て」

「一課でのお前の呼び名。期待されてるぞー?」

 

 伊達の言葉に何て返したらいいかわからず、ただ苦笑する。できるだけ出世は頑張るつもりだが、警視庁のトップとはまた気が早い。

 そのとき、ぽてっと膝に軽い感触。ん、と下を見ると、ハロくんが俺の膝に両足を置いていた。

 

「柊木は動物平気だったよな?」

「ああ。しかし都内に野良犬なんて珍しいな。しかも人懐っこい」

 

 わしゃわしゃと頭を撫でてやると、気持ちよさそうに耳を倒してくれた。白い毛並みはふわふわとしていて、日ごろしっかりとブラッシングされていることがよくわかる。降谷が抜かりなくシャンプーもしているのだろう。

 

「賢い子なんだ。柊木のこともすぐ覚える」

「……だからって、お前が面倒見れないときに預かる気はないからな?」

 

 うっと降谷は詰まった。やはり。

 諸伏の御説教から逃れるためだけでなく、俺の部屋に慣れさせて、仕事が忙しくて帰れない日は預けようとでも思っていたのだろう。いくら俺が内勤で、ある程度勤務予定が予測できるからって人を当てにして生き物を飼うのは良くない。

 

「拾ったからには自分で面倒見ろよ」

「わかってる……」

 

 気まずそうに頷いた降谷は、それはともかくと鞄から分厚いファイルを取り出した。嫌な予感。

 

「で、これが僕のおすすめの車のリストと詳細だが」

「お前この短時間にどうやってそれ用意したんだ」

 

 お前は夕方までポアロで勤務、その後そう時間を置くことなくうちにやってきたはずだ。こんな分厚いデータファイルをまとめる時間なんてあるはずがない。

 えっなに見せて見せてと車好きの萩原は目を輝かせているが、頭の痛そうな顔をした諸伏は苦々しく言う。

 

「……ゼロ、風見さん使ったな?」

 

 その低い声に、降谷は顔色を変えることなくしれっと言い返した。

 

「印刷だけ頼んだ。データ自体は俺が趣味でまとめていたものだ」

「仕事以外のことで部下をこき使うなよ……あの人だってお前のせいで結構寝てないんだからな?」

 

 そう目を吊り上げる諸伏の言葉に、ん、とファイルを開いていた萩原が反応する。

 

「その『風見さん』って、公安部の風見裕也警部補?」

「何だ萩原、知ってるのか?」

「ちょっと前に臨場した爆破事件、テロ容疑があるっつって公安に引き継いだんだけど、その時に顔だけ見た。エリート然とした嫌味っぽい奴だと思ったけど、降谷にこき使われてる部下さんなのか。急に気の毒になってきたわ」

「常日頃振り回されている可哀想な人なんだ。邪見にしないであげてくれ」

 

 萩原の言葉に深く深く諸伏は頷いた。確かに俺も降谷の部下とか絶対なりたくないもんね、と萩原も頷く。カタログから目を上げた松田と伊達も、そりゃ気の毒だと同意した。その様子に降谷は憮然として言い返す。

 

「お前ら僕を何だと思ってるんだ。僕だってちゃんと『上司』やってるぞ」

「ちゃんと『上司』やってる奴は部下を寝不足にしたりしねえと思うぞ」

 

 うりうりとハロくんの顎元をくすぐりながら俺が言うと、降谷はうっと言葉に詰まった。部下に無理をさせないのも上司の仕事だよなーと話しかけると、ハロくんはこてりと首を傾げた。可愛い。

 

「……それはともかく車選びだ、柊木。人任せにしすぎるのは良くない」

「無理やりな方向転換」

「都合が悪くなると逃げるのは良くないぞ、ゼロ」

「うるさい」

 

 とにかく、と降谷は萩原の手からファイルを抜き取り、俺に押し付ける。うわ、おっも。これ全部読む気がしねえんだけど。というかこれ趣味でまとめてたってお前本当に仕事しろよと思う。

 

「今後現場にまわされる可能性がないとは言えないだろう。そういうとき、もしかしたら自分の車で犯人を追わないといけないかもしれない。だからちゃんと車は選んだ方がいい」

「カーチェイス前提に車選ぶのやめよ? 俺もっと平和に出世するはずだから」

「絶対にそうだと言い切れるか?」

「真顔やめろ、怖くなるだろうが」

 

 脅しにかかる降谷にやれやれと首を振りながらファイルを開く。中の資料は確かに見やすくまとめられているが、量が量だけにやはりげっそりとしてしまう。

 

「お前ならこれくらい一時間かからず読めるだろ」

「仕事じゃあるまいし、一時間もかかるような車の資料読みたくねえよ……降谷、おすすめ上位三点をプレゼンしてくれ。一車種あたり五分な。萩原も言いたいことあったら補足して」

 

 おっけー、と萩原は上機嫌で手を上げる。諸伏も俺の隣で聞く姿勢に入り、ちゃっかりハロくんを抱き上げてわしゃわしゃと撫でていた。

 

「上位三点、一車種あたり五分だな。しっかり聞いてろよ」

 

 いきなりのプレゼンに特に怯むこともなく、むしろ嬉々として話し始める降谷に、まるで水を得た魚だな、と少し苦笑した。ちなみにプレゼンは八割方聞き流すつもりだが、とりあえずそれがバレないように車種名だけ覚えておこう。

 

 

 *

 

 

 熱のこもったプレゼンを聞き流し、終わっただろうところで拍手を送る。降谷はやりきったと言わんばかりの笑顔で、萩原と固い握手をかわしていた。

 萩原の車好きは以前からだが、いつのまに降谷もこんなにハマってしまったのだろう。諸伏に視線を向ければ、RX-7見て以来ハマったみたい、と耳打ちされた。降谷もわりと影響を受けやすいところがある。

 

「それで、どうするんだ柊木?」

「とりあえずお前のおすすめ三つを次の休みに試乗してみるよ。それから決める」

「そうか! また相談に乗るからな!」

「何だったら試乗も付き合うからね!」

 

 ありがとう、と笑顔を返すと、ふたりは満足げに頷いた。よし、聞き流したことはばれてない。まあ一応乗るだけ乗ってみよう、それから決めればいい。

 

「じゃあちゃんといい車買うんだぞ柊木、もう荷物持ちしねえからな」

「そこまで念押さなくても……ちゃんと荷物持ち頼んだ後は飯作って埋め合わせしてただろ」

「確かにいつもリクエストしたもん作ってもらえたのは嬉しかったけど~」

 

 米の大袋と調味料の大瓶持たされるのはさすがにちょっと勘弁かな……と萩原が遠い目で続ける。諸伏と松田も全力で頷いた。残念。

 

「というか何でいつも俺らなんだよ、降谷と伊達にさせた話は聞いたことねえぞ」

「降谷は純粋に予定が合わないし、あんまり外で接触するのもなと思って。あと伊達は婚約者さんとの時間優先したいかなと」

 

 俺もさすがにお前らに彼女ができたら遠慮するんだけど。

 そう続けると、三人そろって項垂れた。お前らモテそうなのに何で彼女できないんだろうな、と追い打ちをかけようかと思ったがさすがに殺されそうなのでやめた。ドンマイ。

 

「あー、まあ、俺は予定が合えば付き合うぞ、柊木」

「助かるよ、伊達」

 

 苦笑する伊達に笑顔を返す。こういうところが彼女できる奴とできない奴の差なのではないだろうか。そうかもしれない。

 そのあとも車のカタログをぱらぱらと見たり、ハロくんとじゃれて遊んだりしているうちに時間は過ぎていく。いつものように空のビール缶が山になるころ、俺は食べ散らかしたつまみの皿をキッチンで洗っていた。酔っ払いたちがハロくんとじゃれる声がリビングから聞こえてくる。

 

「柊木」

「ん? ああ、まだ皿あったか。ありがと」

 

 リビングにいたはずの降谷がいつの間にか背後に立っていた。見逃していた空の皿を持ってきてくれたのだろう、濡れた手でそれを受け取る。

 再び洗い物に戻るも、降谷はその場を動こうとはしなかった。

 

「降谷? どうかしたか?」

「……柊木」

「ん?」

 

 深く考えずに聞いてくれ。

 飲み会の夜に似合わない真面目な声に、思わず手を止める。

 

「警戒する相手から情報を聞き出す場合、お前ならどうする?」

 

 そういうのはどう考えてもお前の方が詳しいのでは。そう思いつつも、とりあえず真面目な質問らしいので真面目に答えておく。

 

「心理的に揺さぶって、プレッシャーをかけた後に一旦油断させる。そんで情報を守り切ったと相手が安心した時に罠を張るかな」

 

 二段構え、あるいは三段構えで口を割るように誘導する。監察官としてもたまに使う手だ。

 俺の答えを聞くと、降谷はそうか、と頷いた。安心したような、少し申し訳ないような、変な顔をしている。

 

「……何だよ」

「何でもない。特に意味はないから気にしないでくれ」

 

 とてもそうは見えないが、言わないからには言わないだけの理由があるのだろう。そう思ってそれ以上質問を重ねることはしなかったが、確かにその時の降谷は、何か決心したような顔をしていた。

 平和で穏やかなはずの夜が、静かに更けていく。

 

 



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閑話 ポアロにて

 おっちゃんが俺や蘭を仕事に連れて行かないようになってから、ポアロで食事をすることが増えた。部活で忙しい蘭は申し訳なさそうにしていたが、俺は特に気にしていない。おっちゃんがなるべく俺たちが学校に行っている間に仕事を片付けようと努力していることも知っている。むしろ気を遣わせてしまうことを申し訳ないと思いながら、今日も軽快なドアベルに迎えられた。

 今日は休日だが、ランチタイムを少し過ぎているためか店内はそれほど混み合っていない。いらっしゃいませ、という声に迎えられてカウンターの方へ目をやると、見知った顔がカップを傾けていた。

 

「お、坊主じゃねえか」

 

 カウンターを挟んで安室さんと向かい合っていたのは、くわえた楊枝がトレードマークの伊達刑事だった。にかっと人好きのする笑みをこちらに向けてくれている。

 

「伊達刑事、こんにちは」

「おお、こんにちは。今日はひとりか?」

 

 うん、と頷いて伊達刑事の隣に座ると、安室さんがさっとお冷を出してくれる。

 

「注文はどうする? コナン君」

「じゃあハムサンドとアイスコーヒーで」

 

 かしこまりました、と安室さんは笑った。伊達刑事はコーヒー飲めるのか、すげえな、とぽすぽす頭を撫でてくれた。

 伊達刑事は俺のことを子ども扱いしつつも、以前からよく話を聞いてくれるひとだった。怪しいものを見た、思いついたことがある、そんなことを耳打ちすればちゃんと考えて動いてくれる、数少ない大人だ。よくよく思い出してみれば、なんだかんだと松田刑事も俺の言葉を聞いてくれる。

 今更にしてようやく気付いた事実に、ちくりと胸が罪悪感で痛んだ。

 

「そういや坊主、柊木に手酷く叱られたんだと?」

 

 ぎくり、と肩を震わせる。俺の気まずげな顔を見て取ったのか、伊達刑事は変わらない笑顔でからからと笑って見せた。

 

「まああいつの説教怖えからなぁ。一応あいつなりに手加減はしたつもりらしいぞ」

「て、手加減……?」

 

 つまりあの追い詰め方は本気ではなかったと。

 あまり知りたくなかった事実にごくりと喉が鳴る。絶対に受けたくないけど柊木さんの本気の説教とはどういうものなのだろうか。

 

「柊木のマジ説教気になるなら松田か萩原にでも聞くといいぞ。あいつら警察学校時代から死ぬほど柊木に説教されてきてるからな。まあそれでも懲りねえんだからすげえんだが」

「えっ松田刑事も?」

 

 萩原刑事はまださほど話したことないのでひととなりはわからないが、松田刑事ならそれなりに付き合いはある。少々柄は悪く見えるがとても真面目で頭のいいひとだ。そんな彼でも説教を受けるようなことがあったのだろうか。想像ができない。

 

「はは、コナン君、意外と松田はやらかすタイプだよ?」

 

 ハムサンドを俺の前に置いた安室さんが笑う。

 

「松田も萩原も柊木を通して友達になったけど、なかなか面白いひとたちでね。さすがに勤務中は真面目だと思うけど、プライベートでは結構ぶっ飛んでるというか。伊達とも柊木を通して知り合ったんだ」

「そうなんだ」

「安室、ぶっ飛び具合についてはお前もひとのこと言えねえだろ」

「ひどいな。皆よりはずっとマシだと思うんだけど」

 

 よく言うぜ、と伊達刑事は苦笑する。親しげに話すふたりに、少し違和感を覚える。柊木さんを通して知り合ったと言うが、そのわりには付き合いの長さを感じさせるような。

 少し首を傾げていると、そうだ、と伊達刑事が思いついたように言った。

 

「坊主、少し時間あるか?」

「時間? 大丈夫だよ」

 

 そうかそうかと頷いて、伊達刑事は安室さんに目線をやった。

 

「安室、少し長居しても構わねえか? 混んできたら出るからよ」

「構わないけど、何をするんだい?」

 

 その言葉を受けて、伊達刑事は再び俺を見てにんまりと笑った。

 

「ちと前に、車道をスケボーで爆走してた命知らずがいるって話を聞いてなぁ」

 

 ハムサンドを頬張っていた手が、ぴたりと止まる。

 

「何、メシ食ったあとで構わねえからよ。少しばかり交通安全教室ってやつをやってみようと思ってな」

 

 とりあえず交通ルールから確認しような?

 いい笑顔でそう言った伊達刑事。背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

 

 

 *

 

 

 正直、道路交通法を含む諸々の法律はほぼ諳んじられるレベルで把握している。

 危ないことをしていたのは事実だし、様々な反省も兼ねて大人しく伊達刑事の講義を受けていた。最新の法律事情や実例を踏まえてくれたので非常にわかりやすくはあったが、申し訳ないことにほとんどのことを知っていた。

 それが顔に出てしまったのか、伊達刑事は少し苦笑して言う。

 

「もう知ってるって顔だな」

「! あ、ええと……」

「まあだろうとは思ったぜ。下手したら坊主、俺より法律詳しいんじゃねえか?」

 

 そうにかっと笑う伊達刑事に申し訳なさが込み上げる。挙動不審になってしまった俺の頭を、まあ気にするなとぐしゃぐしゃかきなでた。

 

「だがな坊主、お前は法律を知ってはいるが、理解してはいないんだよ」

 

 思わぬセリフに、え、と固まる。視界の端で、安室さんが少し笑ったのが見えた。

 だってそうだろ、と伊達刑事は言葉を続ける。

 

「理解してるなら、何で法律を破るんだ?」

 

 う、と言葉に詰まる。一刻を争う状況であったから、と言いたいところだが、柊木さんの言葉を聞いた今なら取るべき選択肢が他にもあったことはわかる。

 そんな俺を見て、ひとくち水を飲んだ伊達刑事は優しい声で言った。

 

「もちろん、坊主には坊主の思うところがあったんだろうけどな。……そうだな、何つったらいいのか……坊主、法律ってのは、何のためにあると思う?」

「え……」

 

 何のために、法律があるのか。

 突然の問いに、ぱっと答えが浮かばない。何のため、といえば、それは。

 

「……皆が平和に暮らすため?」

 

 同じ国、同じ社会で、より平和に、より安全に、共に生きていくために定められたルール。多くの法学者が頭を悩ませながら築いてきた、人類の偉大な発明のひとつ。

 俺の答えを聞いて、伊達刑事は満足そうに頷いた。

 

「そうだな。皆が笑って暮らせるように、人間としてよりよく、正しく生きられるように定められているものだ。何せ作っているのは人間だから完璧なものではねえが、それでも完璧に近づこうと皆が頭捻って考えてる」

 

 じゃあそれを踏まえて、と伊達刑事は続けた。

 

「道路交通法、いや交通ルールがあるのは何のためだ?」

 

 今度は自然と、口から言葉が漏れた。

 

「……皆が安全に外を歩くため」

「だな。わかるか? 坊主。お前は法律を知ってはいるが、何のためにある法律なのかを理解できていなかった。だからスケボーでとんでもねえスピードで危険な走行を繰り返した。違うか?」

 

 今度こそぐうの音も出ない言葉に、俯くしかなかった。

 法律は知っている。文言も諳んじられる。けれど、本質を理解していないからいざというときは軽んじてしまう。そう言われては反論などできるはずもない。

 

「ルールってのは内容も大事だが、何故そういうルールがあるのかを考えることも大事ってことだな。……これは俺の持論だがな、ルールはただ守ればいいってもんじゃねえと思うんだよ」

 

 俯いた俺の後頭部に、ぽん、とあたたかい大きな手が置かれる。

 

「ルールを守るのはもちろん大前提なんだが、ルールで禁じられていないことはしてもいいのかっつったら、別問題だろ? まあゲームとかなら『ルールを利用する』ってこともあるんだろうが、法律っていうルールではそう考えてほしくはねえな」

 

 法律というルールの本質を理解しないまま文言の表面だけを辿り、ルールで禁止されていない部分でそれぞれが勝手に動き始めてしまったら。

 法律の穴をついて、自分のことだけを考えて動くようになってしまったら。

 

「それは、犯罪者の発想に限りなく近いもんだ」

 

 数々の犯罪を相手に日夜戦っている刑事の言葉が、重くのしかかる。

 

「とまあ、ちっと脱線しちまったな。もちろんあくまで俺の意見だ。世間にゃ反論もあるだろうし、これが正しいってわけじゃねえ。だが、気が向いたら考えてみてくれ」

 

 頭の上の手のひらが、慰めるように優しく動いた。

 うん、と小さく頷くと、よし、と頭上から声が降ってくる。その声に励まされて顔を上げると、伊達刑事の瞳は優しく微笑んでいた。

 

「長々話しちまったな。安室、ブレンドおかわり頼むわ。坊主にも何かやってくれ」

「えっ」

「かしこまりました。コナン君はアイスコーヒーおかわりでいいかな? 試作品のケーキもあるから是非食べてみてほしいんだけど」

「あ、安室さん!」

 

 別にいいよ、と言おうとするも、俺の奢りだから気にすんなと伊達刑事に止められる。いや、奢りだと申し訳ないから止めようとしているのだが。

 と、思ったところで背後から予想外の声。

 

「きゃーやっだ航クン男前~♡ 俺ブレンドとカルボナーラね」

「こっちもブレンドとミックスサンドな。伊達の伝票につけとけよ」

「萩原刑事に松田刑事!」

「お前らどっから湧いたァ!」

 

 いつのまにやら俺たちの後ろにいた二人は、にやりと笑って手をあげた。驚く俺たちに構う様子もなくカウンター席に座って、まあ気にするなと軽く言う。

 

「ちなみにふたりとも結構最初から話を聞いてたよ?」

「言えよ安室……!」

「せっかくの法律講座に水を差すのも悪いと思って」

 

 にこにことパスタをゆで始めた安室さんは、どう見ても愉快犯の顔をしていた。

 

「いやーいい話だったね、伊達先生の法律講座!」

「うるせえ」

「照れんなよ。まあまあの教師っぷりだったぞ」

 

 にやにやにやにやと伊達刑事を見つめるふたりはそれはそれは愉しそうで、そういえば松田刑事のこんな顔は初めて見たかもしれないとふと思った。プライベートではぶっ飛んでいると言っていたが、なるほどこういう顔もするひとなのか。

 

「んだよ坊主、俺の顔に何かついてるか?」

「あ、ううん、ごめんなさい」

「あーあれでしょ、陣平ちゃん仕事中いっつも仏頂面だから違和感あるよね! だけどホントは普通に喋るし普通に笑ういい子だから、怖がらないで仲良くしてあげてね!」

「よしハギ面貸せテメェ」

 

 わあわあと騒ぎが始まりそうになったところで、安室さんがにっこりと微笑む。

 

「ここ、お店だってわかってるよね?」

 

 はい、すみません。声を揃えたふたりに、思わず伊達刑事と同時に噴き出した。

 あまりに自然であまりに愉快な流れに笑いが止まらず、震える肩を何とか止めようとするがおさまらない。

 このひとたち、いつもこんな会話をしているのだろうか。そのあたたかさが、伝わってくる信頼感が、傍から見ているだけでもひどく心地いい。

 

「安室、ちゃんと伝票わけといてくれよ」

「えーっ伊達ってばそんなけち臭いこと言っちゃうの」

「昼飯代くらいで細かいこと言うなよ伊達、男を見せろ」

「お前らが言うな」

 

 軽く交わされるテンポのいい会話に、沈んでいた心が少し軽くなる。

 罪の意識も、申し訳なさも、これから自分がやると決めたことへの決意も、俺の心には強く残っている。けれどどうか今だけは。今だけは、この心地のいい空間に浸っていたい。

 しかしどうしても、安室さんの顔を見て笑うことだけはできなかった。

 

 




本にしたときの書き下ろし①


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緋色
29


『心理的に揺さぶって、プレッシャーをかけた後に一旦油断させる。そんで情報を守り切ったと相手が安心した時に罠を張るかな』

 

 同感だよ、柊木。僕でもそうする。

 そうやって「楠田陸道」の情報を手に入れた。FBIのちょろさは好都合だが、ここまで来ると呆れを通り越して同情する。そういえば「あの男」の潜入がバレたのもFBIの失態だったと聞いた。ああ、本当に同情するよ。

 今回もまた仲間の失態のために、お前は僕たちに捕まるんだから。

 

 

 *

 

 

 目の前に座る、ピンクブラウンの髪に眼鏡をかけた男。

 夜分の客にも関わらず僕を招き入れ、お茶まで振舞ってみせたのだから驚きだ。よほど自分たちの策に自信があるらしい。……ああ、舐められたものだ。

 

「ミステリーは、お好きですか?」

 

 確信をもって並べていく、死体すり替えのトリック。単純だが効果的で、現場を確認した日本警察の目を欺いてみせた。誰がこの策を考えたのかも予測はついている。

 おそらくはあの男本人ではなく、彼の小さな協力者。

 

「『まさかここまでとはな……』ですか……。私には自分の不運を嘆いているようにしか聞こえませんが……」

「ええ……当たり前にとらえるとね……。だが、これにある言葉を加えると……その意味は一変する……」

 

 君の頭脳には本当に驚かされるばかりだよ、小さな探偵くん。ただの子どもではないことは察していたが、こうも踊らされるとはね。だが、それもここまでだ。

 

「まさかここまで……『読んで』いたとはな。……そう、この計画を企てたある少年を、賞賛する言葉だったというわけですよ……」

 

 目の前の男はそれでも顔色を変えない。マスクの下の表情も、変わった様子はなかった。言葉を重ねながら、そっと自分のスマホをテーブルに置く。

 

「連絡待ちです……」

 

 俺の読みが正しければ、そろそろカーチェイスに突入しているだろう、来葉峠にいる彼ら。人員は十分に配置してあるし、何より「保険」も用意してある。

 

「現在、私の連れが貴方のお仲間を拘束すべく追跡中……さすがの貴方もお仲間の生死がかかれば、素直になってくれると思いまして。でもできれば、連絡が来る前にそのマスクを取ってくれませんかねぇ……沖矢昴さん。いや……」

 

 目前の人物を、まっすぐに見据えた。

 

「FBI捜査官……赤井秀一‼」

 

 目の前の人物は、表情を変えることはない。白いマスクと、その『沖矢昴』のマスク、二重に重ねた仮面の下で、いったい彼はどんな表情を浮かべているのだろう。

 わかっている。きっとおそらくは、策が成功したという、勝利の表情。

 

「……と、言うと思ったでしょう?」

 

 しかし、そうは問屋が卸さない。

 

 

 ***

 

 

 ああ、来た来た。

 俺はただの保険のはずだったが、どうやら出番がやってきたらしい。手入れの行き届いた愛用のライフルを改めて構える。たとえ警視庁に缶詰めになって書類の相手ばかりをしていようとも、こいつの訓練だけは欠かしたことがない。

 俺が唯一、あの超人たちに勝るもの。鈍らせるわけにはいかなかった。

 

「……おおっと、こいつは驚いた」

 

 対象の車をスコープ越しに見つめる。見えた人影は三つ。運転席と助手席に見える影は予測通り、驚いたのは後部座席にいるあの目つきの悪い男。

 これは好都合だ。どうやら運まで俺たちに味方しているらしい。

 彼がその場に姿を現す可能性も想定はしていたが、それはあくまで天が味方した場合、FBI捜査官たちが自分の車に彼を乗せていることにも気づかないほど鈍かった場合、そして、それだけ赤井とその協力者が俺たちを舐めていた場合だと、そう考えていた。

 

「……相変わらずの悪人面だ」

 

 スコープ越しに見る顔にそう笑いながら、耳につけていたイヤホンマイクのスイッチを入れる。そして改めて狙いを定めた。

 

「裏をかいたつもりなんだろうが、悪いな、ライ」

 

 お前んとこの小さな探偵よりも、うちの策士の方が上のようだぜ?

 俺は照準を合わせ、ためらいなく引き金を引いた。

 

 

 ***

 

 

 僕は改めて、目の前に座る男に笑って見せる。ほんの少し、その眉元が動いた気がした。

ここまで来てもその程度にしか動揺を表に出さないとは、さすがと言っておこう。どうやら奥様と同じく、俳優の才能までおありになるようだ。

 

「マカデミー賞の授賞式はよろしいのですか? 工藤先生」

 

 彼の背後にあるテレビの中で、最優秀脚本賞が発表される。スポットライトを浴びたのは、工藤優作の姿だった。ふふふ、と堪えきれずに笑ってしまう。

 

「受賞おめでとうございます、先生。今回の映画は拝見していませんが、僕、ナイトバロンシリーズ好きなんですよ。こんな出会い方でなければ、本や色紙を用意してサインをお願いしたかったんですが」

「僕が工藤優作? 何を言っているんですか、彼なら今テレビに映っているでしょう」

「奥様は変装がお得意だそうですね? あまり舐めないでください、いくら世界的に著名な貴方でも、出入国の記録までは誤魔化せない」

 

 記録によれば、工藤夫妻は昨日日本に帰国し、その後すぐに工藤有希子さんのみがアメリカへ飛び立っている。そう、工藤優作氏は日本を出ていない。マカデミー賞の授賞式に出られるわけがないのだ。

 

「それからこの家……ざっと見ただけでも玄関先に二台、廊下に三台、この部屋には五台の監視カメラがありますね? 目的は録画か……いえ、おそらくは今この状況を、別室で見ている誰かがいるのではありませんか?」

 

 状況と事情をすべて把握している「誰か」が、ともすれば貴方に指示を出すために。そしてその「誰か」、僕の読みが正しいならばおそらく。

 

「江戸川コナンくん。見ているんじゃないかい?」

 

 監視カメラのひとつに向かって、笑いかける。カメラの向こうのことなどわかりはしないが、向こうの焦りが伝わってくる気がした。

 すまないね、コナン君。君の策は本当に見事だった。もし僕が独りだったなら、間違いなく君に裏をかかれていただろう。

 そのとき、テーブルの上のスマホが震えだした。

 

「すみません、失礼します。……はい」

『カモがネギしょってきたよ』

「……状況報告は端的にわかりやすく」

『ははは、……例のFBI捜査官二名および、赤井秀一を来葉峠にて確保』

 

 く、と唇の端が持ち上がった。まさか、奴のほうから来てくれるとは。

 

「被害は?」

『こちら側は特になし』

「わかった。後は手筈通りに」

『了解』

 

 おそらく、コナン君にはすでに赤井が捕まったという連絡は入っているだろう。目の前の彼は特にイヤホンを付けている様子もなく、状況をどこまで理解しているかわからない。だが、その頭脳のほどが評判通りなら、ある程度察してはいるだろう。いったい、どちらに軍配が上がったのか。

 僕は改めて、未だ変装を解かない目の前の男に向き合った。

 

「貴方がたが庇おうとした男は、すでにこちらで確保しました。大人しくこちらの指示に従っていただければ、決して危害を加えることも、もちろん先生の名声を貶めることはしないとお約束しましょう。しかし、こちらの指示に従っていただけないようであれば、ファンとして非常に心苦しく思いますが、相応の対処を取らせていただきます」

 

 まずはその変装を解いていただけますか、工藤先生?

 そこまで言って初めて、目の前の男は白いマスクを外し、微笑んだ。その穏やかな微笑みは決して赤井のものでも、もちろん沖矢昴のものでもない。

 

「なるほど、確かにこちらの敗北のようだ。恐れ入ったよ」

 

 そして眼鏡を外し、首元からいっきにマスクをはがす。

 現れたのは、よく書籍やテレビでも拝見する、世界的有名な小説家の顔。

 

「確かに私は工藤優作だ。コナン、お前も来なさい」

 

 すまないね、あの子は上の階にいるから待たせてしまうが、と微笑む工藤先生に、構いませんよ、と僕も笑った。

 

「しかし、完全に裏をかかれたよ。こちらの計画もなかなかだと思ったんだがね」

「ええ、よくできた計画でした。こちらに優秀なブレインがいなければ裏をかかれていたのは僕たちの方だったでしょう」

「ほう?」

 

 ということは、我々の裏をかいた人物は他にいるのかな?

 そう面白そうに言う工藤先生に、にっこりと笑って見せた。

 

「さて、どうでしょうか」

 

 小さな足音が階段をおりる音が聞こえてきた。ゆっくりとこの部屋に近づいてきて、ドアをノックする。先生が入りなさい、と声をかけると、躊躇いがちにドアが開かれた。

 

「こんばんは、コナン君」

「……こんばんは、安室さん。……ううん、……降谷零さん」

 

 なるほど、そこまでたどり着いていたか。いや、名前にまでたどり着いたのは赤井の方だろう。病院で「ゼロ」の言葉に反応してしまったこと、FBI捜査官との関わり方、……いくつもヒントを落としてしまった。あれは失態だった。

 

「僕のこと、わかっているようだね?」

「……日本警察に、『ゼロ』という俗称で呼ばれるところがあるのは知ってる。降谷零さんの名前を調べだしたのは、赤井さん。貴方の本当の名前は『降谷零』さんで……降谷さんは、『ゼロ』、公安警察の人だよね?」

「やれやれ、反省しないといけないな。君の前でヒントを落としすぎた」

「確かに降谷さんが『ゼロ』だって思ったのは病院の事件やジョディ先生のお友達の事件のときだけど、その前から降谷さんのことは悪い人じゃないかもしれないと思ってたよ」

「へえ? どうしてだい?」

 

 硬い表情をしていたコナン君が、少しだけ頬を緩めた。きゅっと握りしめていたその両手を、少しだけ緩める。

 

「柊木さんだよ」

「……柊木?」

 

 唐突に出てきた名前に、少し驚く。

 確かにアイツは俺の本名や所属を知っているが、どんな状況で誰が相手だろうと僕のことを漏らすはずがない。うっかりヒントを落とすようなことだって、柊木に限ってあるとは思えない。

 

「ミステリートレインの一件で、『安室透』さんが『バーボン』……悪い奴らの仲間だってことを知った。だから柊木さんが『安室』さんの友達だって聞いたとき、柊木さんのことも疑った」

 

 悪い奴の友人で、しかも警察関係者。「降谷零」を知らない者から見れば、「バーボン」が情報を抜き取るために近づいたか、それとも「バーボン」と協力関係にあるか、考えられるのはそんなところだろう。

 

「だけど、……柊木さんのことを知れば知るほど、違うと思ったんだ。柊木さんは決して口の軽い人じゃないし、監察官として重要機密を漏らすことの危険性は誰より知っているはずだ。たとえどんなに親しい友人だろうと情報を漏らすとは思えない。『バーボン』だって、情報が目的ならもっと口の軽そうな相手を選ぶよね? ……それに」

 

 あんなに潔癖な正義を掲げる人が、民間人の平和と安全を守ることこそ警察の仕事だと言い切った人が「組織」の仲間だなんて、どうしても思えなかった。

 そう強い瞳で言い切ったコナン君に、思わず笑みを漏らす。―――その通りだ。そんなこと、絶対にあるわけがない。

 

「でも、実際に『バーボン』と柊木さんは友達だってふたりとも断言した。だから最初は混乱したけど、……逆なのかもしれないって、考えた」

 

 柊木を「安室の友達」と考えるのではなく、安室を「柊木の友達」だと考えるべきなのではないだろうか。つまり、柊木を「黒」だと疑うのではなく、むしろ「安室」が「白」だと疑うべきなのではないかと考えたと、コナン君は言う。

 

「だから安室さんは、本当は悪い人の敵なんじゃないかって、そう思ったんだ」

 

 推理と言うよりは、まるで願望のようなそれ。さすがに参ったな、と前髪をかき上げた。まさか柊木の存在からそんな風に疑われるとは。

 

「……言っただろう? 柊木は本当に……僕の友人なんだよ」

「うん。……柊木さんは僕に言ったんだ。俺『たち』は、君の言葉を聞くし、疑わないって」

 

 その「たち」には、降谷さんも含まれてる?

 少しだけ不安そうな色をその大きな瞳に浮かべて、コナン君は言った。そんなことを言ったのかアイツ、と少し苦笑しながら、頷く。

 

「もちろん。というより、君が嫌だと言っても聞かせてもらうし、それが君の真実だというのなら信じるさ。だからコナン君、君も、来てくれるね?」

 

 確保した三人はすでに連行しているはずだ。

 君と工藤先生にも、俺たちの巣まで来てもらわなくてはならない。

 

「……全部、話します。だから降谷さん、もうひとり紹介したい奴がいるんだけど」

 

 貴方を信用するから、そいつのこと守ってほしいんだ。間違いなく貴方たちにとっても、必要な奴だから。

 真剣な顔でそう言った小さな探偵に、僕もしっかりと頷いた。

 

 

 *

 

 

「……久しぶりですね、赤井秀一」

 

 警察庁の、あまり人が立ち寄らないエリアの一室。深夜と言うこともあり、警察庁内はひどく静かだった。目の前に座るそいつの息遣いが聞こえる程度には。

 FBIの三人は後ろ手を手錠で拘束され、椅子に座らせている。もちろん周囲には見張りとして公安の人間を配備。険しい顔でこちらを睨みつけるふたりとは打って変わって、赤井自身はいつもと変わらずすました顔をしていた。

 

「ああ、久しぶりだな。……今は降谷零くんと呼ぶべきかな?」

「どうぞ、お好きなように」

「工藤優作氏と江戸川コナン君は、無事か」

「ええもちろん、……今はね」

 

 僕がそう言葉を付け加えた瞬間、アンドレ・キャメルは立ち上がろうして周囲に押さえつけられ、ジョディ・スターリングは動かない手を必死に暴れさせ、激高した。

 

「あのふたりは一般人よ? 何をする気なの!」

「やめろジョディ」

「しかし赤井さん!」

「黙れと言っている、キャメル」

 

 やはりというか、まともに話ができそうなのは赤井だけらしい。FBIの人材不足には本当に同情しよう。そんな思いを込めてひとつ溜息をつくと、もう一度睨まれた。僕を睨む暇があるなら、自分たちの無能ぶりを嘆いたらどうだろうか。

 

「今は、ということは、交渉の余地はあるということか?」

「ええ、交渉の相手は貴方の上司になるでしょう」

「そうか、ならばいい。ジェイムズは彼らを見捨てるような真似はせんだろう」

 

 現在ジェイムズ・ブラックには迎えを寄越している。もう一時間とかからず警察庁に到着するだろう、交渉はそれからだ。

 

「俺の身柄も、その交渉次第か?」

 

 こうして拘束されたら、さっさと組織に売られるものと思っていたんだが。

 そうかすかに笑って見せる赤井に、少し眉を寄せた。

 

「僕としても、そのつもりだったんですがね」

 

 いかにも残念、と言わんばかりに、首を振ってみせた。赤井の身柄を組織に売り渡せば、組織における僕の地位はもっと確固たるものになる。「あの方」や「ラム」にももっと近づけるかもしれない大手柄になるというのに。

 

「もったいない、と言われまして」

「……もったいない?」

「ええ」

 

 そいつを敵方に売ることがその案件の決定打になるっていうんなら話は別だけど、そういうわけじゃないんだろ?

 不思議そうな顔で言い放った我らが「ブレイン」の顔が、脳裏に浮かぶ。

 

『お前の生活から察するに人手足りてないんだろ? 敵に売る以外の使い方ができるんならひとまず手元に置くべきじゃないか? とりあえず情報搾り取って走らせるだけ走らせろよ。使えるもんは使っとけ。そんで他に使い道がなくなったら売ればいいんじゃねえの? 俺ならそうするけど』

 

 何の気なしにそう言い放ったあいつは、本当に恐ろしい。あいつが味方であったことは、もしかしたら僕たちにとって最大の幸福だったかもしれない。もし敵だったらと考えると、それだけで寒気がする。

 目の前の「人間」相手にはどこまでも慈悲深いのに、頭を仕事モードに切り替えて人を「駒」としてしか見なくなった時のあいつは、人のことは言えないが本当に「ひとでなし」、まさに合理主義の鬼だ。

 

「コナン君も貴方のことを気にしていましたしね。ここで貴方を組織に売ったら、彼の協力も得られなくなりそうだ」

 

 彼は工藤先生、そして一緒に連れてきた二名とともに別室で待機してもらっている。一応監視はつけているが犯罪者のように扱うつもりはない。とりあえず明日は学校を休んでもらうことになるだろうが、できる限りは元の生活に早く戻れるよう考えるつもりでいる。もっとも、彼が話してくれるという「真実」によっては、そうもいかないだろうけれど。

 

「……君に助言をした『ブレイン』と、あの距離から俺の手にあった拳銃を弾き飛ばし、車をパンクさせた『凄腕のスナイパー』には、是非お目にかかりたいものだ」

 

 く、と赤井は不敵に笑ってみせる。ああ憎たらしい、組織にいるときからコイツのことは気にくわなかった。FBIだとかそういうことを抜きにしても、多分コイツとは仲良くなれないし、なりたくもない。生理的に無理というのはこういうことを言うのだろう。

 

「それも交渉次第でしょうね。貴方の上司がこちらの不興を買わないことを祈っていますよ」

「せいぜい楽しみにしているさ。ところで降谷君、煙草が吸いたいんだが」

「一生禁煙してろヤニ中毒」

 

 緊張感のない赤井に苛立ちを抱えたまま、もうすぐ到着するであろうジェイムズ・ブラックを出迎えるべく部屋をあとにした。

 さあ、これから忙しくなる。

 

 




ここから緋色編。


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30

 

 それは、工藤邸に乗り込む前夜のこと。

 仕事を終えて帰ろうとしていた柊木を警視庁の一室に呼び出した。

 

「……いきなり何なんだよ」

 

 仕事後で少しくたびれた様子の柊木は、俺とヒロのほかに誰もいないことを確認して首元のネクタイを緩めた。いつもの品行方正な態度が崩れ、素の柊木が顔を出す。

 

「俺だけ呼び出すって、何かトラブルか?」

「いや、ちょっと雑談がしたくなったんだ」

「意味わかんねえんだけど。諸伏、降谷寝てねえの?」

「うーん、確かに昨日は俺も降谷も徹夜だったかなぁ」

 

 そう苦笑するヒロをよそに、呼び出しといて雑談って何なんだよ、俺帰りたいと、遠慮なく文句を言う柊木に少し笑う。ああ、早く帰りたいというならさっさと済ませてしまおう。

 

「柊木、昔よく戦略立てて遊んだの覚えてるか」

「警察学校の時の? ミステリーにあった事件とか実際にあった事件を題材にして自分ならどう対応するかって言い合ってた奴?」

「ああ」

 

 一番最初のきっかけは、確か有名な刑事ドラマの話になったことだったと思う。銀行での立てこもり事件を、ドラマの中の刑事たちは鮮やかに解決していた。しかしフィクションはフィクション、まだ卵だったとはいえ警察官を志していた自分たちからすれば、その制圧には抜けも多かった。

 

『あれじゃ人質が危険だよな』

『ああ、拳銃を所持している犯人に対してあの行動は無謀だと思う』

『犯人側との会話も成立してんだから、もう少し粘ってもいいと思うんだよ』

『確かに、交渉の余地があるなら時間をかけてでも安全策に出るべきだろう』

 

 ああだこうだと話し合い、いつの間にか白熱して、それから他のミステリーや事件においてもそんな話をするようになった。時には他の同期たちも巻き込んで議論を重ね、そのたびに感じる、柊木の作戦立案能力の高さ。

 日ごろの見せる優しさとは裏腹に、どこまでも冷静に冷徹に容赦のない策を練る柊木に、正直なところコイツの本性はどこにあるんだと、二面性を疑いもした。だが、いつだって被害者だけでなく制圧にあたる警察にも被害が出ない策を考えるコイツを見て、やっぱり優しい奴なのだと反省したことを覚えている。

 

「あの遊びを、もう一度やりたいんだ。柊木」

 

 そうにこりと微笑んで見せると、全てを察した柊木はすっと表情を消して立ち上がろうとした。それを柊木の背後に立っていた景光がさっと押さえつける。

 

「まあまあ柊木、ほら遊びだから。ちょっとだけ付き合ってやって?」

「どう考えても遊びじゃねえだろそれは。俺は警務部の人間だぞ、そっちの仕事はそっちでやれ。越権行為と情報漏洩も承服できない」

「遊びだよ柊木、俺が警務部の人間を公安の事件に巻き込むわけないだろ?」

「その嘘くさい笑顔をやめろ。……何だよ、作戦ならお前だって立てられるだろ」

「だがお前には劣る」

 

 そうすっぱりと言うと、柊木は驚いたように瞬きをした。何だよ、俺が敗北を認めるのがそんなに珍しいか。悔しいが事実なんだから仕方がないだろう。

 

「これは遊びだ、柊木。お前はただ、これから俺が説明する作戦について、思ったことを言ってくれればいい。個人名や地名、詳細を言うつもりはないし、作戦自体にお前を巻き込むことは決してない。フィクションの話だとでも思ってくれ」

 

 そこまで言い切ると、柊木は苦虫をかみつぶしたような顔になって、座りなおした。結局、柊木は俺たちの「お願い」に弱い。

 ごめんな柊木、お前が断らないのを知っていて頼んでいる。

 

「……フィクションの話なんだよな、降谷」

「ああ、フィクションだよ」

 

 柊木の背後でヒロが親指を立てる。

 それに笑顔を返し、俺はあのいけ好かない赤井秀一確保の段取りを説明し始めた。

 

 

 ***

 

 

 ゼロが作戦の流れを説明する間、柊木は遮ることなくじっと話を聞いていた。時折指が何かを辿るように動き、頭がゆっくりと左右に揺れる。柊木が考え事をするときの癖だ。

 全ての説明が終わったとき、柊木は十秒ほど目を閉じて考え、またゼロを見据えた。

 

「概要は把握した。敵組織とはまた別の、第三者的組織の一員である『対象』を確保したいってわけだな」

「ああ。この作戦、どう思う」

「別に悪くはないんじゃないか。作戦自体はシンプルだが、その方が動きやすいし。……ああ、一応大前提確認しとくけど」

「何だ?」

 

 この作戦やお前が「対象」の変装に確信をもったことを相手にバレている可能性は。そう問われ、ゼロが数秒考える。今までの行動を振り返っているのだろう。

 

「……そういえば、バレている可能性もあるな」

「じゃあダメだその作戦、抜け道がある」

 

 あっさりと柊木は切り返した。え、とゼロとふたりで硬直する。

 

「その変装がどれほどのもんなのか知らねえけど、もとの『対象』の本来の姿とは全く違う、別人レベルなんだろ?」

「ああ、変装としては相当なレベルだと思う」

「完璧な変装であるという前提で考えて、正体がバレたことを悟った『対象』はどうするか。俺なら中身を入れ替えるね」

 

 時が止まった。変装の「中身」の入れ替わり。赤井と別の死体をすり替えて死亡偽装までやってのけた奴らだ、有り得る。声も見た目も変えてしまう完璧な変装であるがゆえに、中身が入れ替わっていても気付けない。

 しかもおそらく赤井の変装は赤井自身の技術によるものでなく、変声機や特殊なマスクに頼ったもの。それなら、他の誰にだって「沖矢昴」になることは可能だ。

 

「中身に誰使うかは……微妙だな、同じ組織に属する仲間か、また別の協力者か。潜伏に外部の協力者の存在は不可欠だし、そこらへん調べてみればいいんじゃねえの」

 

 外部の協力者、そう言われて浮かぶのはやはりあの小さな探偵。いやしかし、彼では体格が違いすぎる。他の協力者と言われれば―――たとえば、あの家を貸している工藤家の人間。

 同じことを思い至ったのか、その瞬間ゼロと目が合った。

 

「……ヒロ、彼らの所在を確認してくれ。出入国の記録も含めてだ」

「了解」

 

 スマホを取り出して連絡をまわした。確か息子である工藤新一は行方が知れないらしいが、工藤夫妻は海外に生活拠点があったはず。最近の帰国の状況についても調べておこう。

 

「あとはそうだなー……お前本当にカーチェイス好きな」

「別に好きと言うわけでは」

「カーチェイスを追い込み漁的に使うのは悪くねえと思うけど、とどめと言うか保険は別に用意しておいた方がいいんじゃねえか」

 

 カーチェイスだけで何とかしようと思ったら、追いかける側だって無茶しかねないだろ、大事故になるぞと呆れた様子で言われ、む、とゼロは黙った。

 

「ちなみに保険ってたとえば?」

「お前自分の特技も忘れたの?」

 

 ちょっと口を挟んでみると、柊木はさらに呆れた様子で、疑問に疑問を返された。えっ俺の特技ってまさか。

 

「地理的条件にもよるけど、ある程度カーチェイスの場所が絞り込めるなら狙えるスポットはあるはずだ。数でこちらが勝るなら、足さえ潰しちまえばこっちのもんだろ。自分たちの車ぶつけて止めるよりは平和的だし安全なんじゃないか」

 

 お前の言う「平和的」って何だろうと頭の片隅で思いながら、来葉峠の地理を頭の中に思い浮かべた。道は入り組んでいるが、確か途中でストレートの道がある。俺は赤井のようにロングレンジを正確に的に当てる技術はないが、そこそこの距離であればたとえ動く対象相手でも外さない自信はある。昼間のうちに下見しておけば、決して不可能な策じゃない。

 ゼロに向かって頷いてみせると、同じように頷きを返された。

 

「ま、その辺踏まえて練り直せば何とかなるんじゃないか」

 

 こき、と柊木は肩を鳴らす。めんどくさいと言わんばかりの顔に、思わず苦笑した。ゼロの策を受けてそれだけの指摘をさらりとできるのに、柊木的には大したことをしたつもりはないらしい。ゼロからすれば、そういうところも含めてなかなか柊木に勝てないのが悔しいのだろう。

 

「ああ、悪いな。『フィクション』の話に付き合わせて」

「本当だよ。まあ、その『フィクション』の作戦が成功するよう祈っておくよ。ようやくお前らにも手足ができるようで安心した」

 

 その言葉にえ、とゼロは固まった。柊木もきょとんとする。

 この作戦の成功後については、ゼロと俺とでは意見が分かれていた。赤井を組織に売ることでより深く組織に食い込もうとするゼロに対し、それは早計ではないかと俺は止めていた。別に情で赤井を助けたいと思うわけではないが、FBIはどうやらCIAからの潜入しているキールとコネクションを持っているようだし、赤井自身も相当に優秀な捜査官だ。みすみす餌にして捨てるには惜しくないかと、俺はそう主張していた。

 

「何、そいつ捕まえた後は使わねえの?」

「使うって……」

「敵組織に売ろうとでもしてたか? それも悪くはないけど、もったいなくないか」

「もったいない?」

 

 焦りすぎるのはお前の悪い癖だぞ、と柊木はさらりと言って、言葉を重ねた。

 連日徹夜をしてしまうほど人手が足りてない現状で、わざわざ使えそうな手足をさっさと売ってしまうなと。情報収集なり荒事なり、使って使って使いつぶして、それ以外の使い道がなくなったときに売ればいい。

 そう笑顔で言い放った柊木に、きっと悪魔はこういう顔で笑うんだろうな、と俺は思った。俺公安でわりとヤバイこともそれなりにやってきたけど、コイツの発想の方が怖い。

 

「……なるほど」

 

 そして確かに、という顔で頷かないでほしい。確かに、確かに理には適っているけども。

とりあえず赤井を売ることはやめてくれたらしいので、もうそれだけでいいかと遠い目になった。

 感謝しろよ赤井、この悪魔のおかげでお前命拾いしたぞ。多分死んだ方がマシってくらい使いつぶされるけど。そこは違法捜査含め数々の犯罪行為を繰り返した代償として甘んじて受け入れてもらおう。

 

「んじゃ、もういいか?」

「ああ、いきなり呼び出して悪かったな、柊木」

「別にいいけど。もうこんな『遊び』は勘弁だぞ」

「ああ、もちろん」

 

 柊木の言葉に、ゼロはにこりと笑顔を見せた。その笑顔に少し違和感を覚える。これは、何か隠している時の顔に見えるのだが。

 

「……降谷?」

 

 柊木も何かを感じ取ったのか、少しけげんな顔でゼロを見つめた。ゼロは笑顔を崩さないまま、何だ、と軽く返事をする。

 

「……。……俺にできることなら手伝うし、言えないことは聞かないが」

「助かる」

「けど、何か企んでんなら俺が怒らない程度のレベルで頼むぞ」

「それはどの程度のレベルだ?」

「オイ真顔で返すな」

 

 冗談だとゼロが笑い、柊木も苦笑を返す。

 じゃあな、と帰っていく柊木を見送り、俺たちもデスクに戻った。

 

「作戦を立て直す。諸伏は夜が明け次第、スポットの下見に行ってくれ。それまでは仮眠でいい、明日に向けて万全に体調を整えろ」

「了解」

「風見、工藤夫妻の所在は?」

「こちらに出入国の記録が」

 

 渡された書類に、ざっと目を通す。一瞬でゼロの唇の端が上がった。先に記録を見ていたのであろう風見さんが、不思議そうな顔で言う。

 

「明日は確かマカデミー賞の授賞式がアメリカであるはずです。もう出国していないと間に合わないはずですが……」

「間に合わせる気がないということだろう。当たりだな」

「さすがあいつだな。じゃあ俺は心置きなく仮眠してくる」

 

 ひらりと手を振って仮眠室へ足を向けた。

 背後からはゼロが矢継ぎ早に指示を飛ばしているのが聞こえてくる。明日の作戦に向けて明らかに高揚している幼馴染に、ふと苦笑した。

 

「……しかし、何を企んでるんだ、あいつ」

 

 さっきのゼロの顔は、確かに何かを企んでいる顔だった。しかも、柊木に対して。今回のこと以外でも、何か柊木に頼み事でもする予定なのだろうか、と首を傾げつつ、俺は仮眠室の狭いベッドにもぐりこんだ。

 そして俺はそのちょうど二十四時間後、完全に柊木の読み通り、赤井の手にあった拳銃を弾き飛ばし、その車のタイヤに鉛玉もぶち込むことになる。うんうん、最終的に誰も怪我してないんだから、これは「平和的」の範囲、のはず!

 そう無理やり自分を納得させて、俺は肩にライフルケースを担ぎあげた。

 

 

 ***

 

 

 初めて向かい合った初老の捜査官は、到着した段階で覚悟を決めた顔をしていた。こちらが迎えをやった理由も、到着した先が警察庁だった理由も、もうとっくにわかっているのだろう。

 

「……うちの捜査官のことはいい、協力してくれた彼は無事だろうか」

 

 彼と言うのは、コナン君のことだろう。おそらくこの捜査官は、この夜の詳細を知らない。工藤優作氏が関わっていることを知らないから、「彼ら」と言わず「彼」と言ったのだ。

 開口一番に確認するのが協力者の無事だったことには、素直に感心した。

 

「ご心配なく。危害は加えていませんし、今後もそのつもりはありません。もちろん、罪に問うこともしないつもりです」

「……ご恩情に、感謝する」

 

 すっと綺麗に頭を下げた彼に、国は違えど確かに「警察」なのだと実感した。だったら最初から法に則ったやり方で動いてほしかったものだが、それをしなかった理由、できなかった理由もだいたい察している。

 

「そちらの捜査官も、拘束はさせてもらっていますが無事ですよ。無傷です」

「……日本警察は、随分と優しいようだ」

「そうでしょう? ……日本警察に捜査協力を求めなかった理由は、こちらの内部に鼠がいる可能性を考えていたからですね?」

 

 ジェイムズ・ブラックは一切の顔色を変えず、そっと目を伏せた。そして、ゆっくりと頷く。

 

「……FBIも長く例の組織を追っているが、未だに実態を掴み切れていない。ただわかっているのは、世界各国にまたがる犯罪シンジケートであり、おそらく相当に地位の高い……たとえば資産家や政治家といった、影響力の強い人物とつながりが考えられるということ。そして、何かと日本と言う国と縁があるということくらいでね」

 

 日本にいる、「影響力の強い人物」が組織とつながっている可能性が、否めなかった。その「人物」が、日本警察の動向や情報を得られる立場にいないという保証がなかった。

 

「だから日本警察を避けたんですね。こちらに捜査協力を持ち掛けることで、何らかの情報が組織へと伝わってしまうかもしれないことを危惧した」

 

 随分と舐められたものだ、と思う。しかし半面、組織と直接関わりのある人物ではなかったにしろ、確かに日本警察にも鼠がいたのも事実だ。そのせいで景光の潜入は失敗に終わり、今だって堂々と顔を晒せない生活が続いている。

 

「……しかし、そちらのしたことは違法捜査に他ならない」

「承知している。私のことも拘束し、FBIに正式に抗議を送ってもらって構わない」

 

 謝罪の言葉が出ないのは、間違ったことをしたとは思っていないからだろう。彼らの目的は、ただ「組織を壊滅させること」。その目的に向けて彼らは彼らの最善を尽くし、この国で捜査を続けた。そしておそらくはそれが発覚した時、どうなるかも理解していた。少なくともこの人は、その覚悟をもって日本に来ていたのだ。

 

「……国が違えば文化が違い、主義が違う。正義や捜査に対する考え方も当然異なるでしょう。そういう意味で、貴方方のやり方を肯定こそできなくとも否定はしません」

 

 そう言うと、彼は初めて驚いたように目を瞬かせた。どうやらこの展開は予想していなかったらしい。少しだけ唇の端を上げて、微笑んで見せた。

 

「取引しましょう、Mr.ブラック。正式に日本警察と捜査協力の協定を結んでください。そうすれば貴方がたはFBIからお叱りを受けることもなく、今後も日本で捜査を続けることができる。捜査協力の協定開始の日付を誤魔化せば、今までのことも不問にできます」

 

 本国への強制送還は、貴方方も本意ではないでしょう?

 そう微笑むと、彼もまた数拍おいて苦笑し、肩をすくめてみせた。

 

「そちらの要求は?」

「FBIがもつ、組織に関わる全ての情報を。キールとの繋がりもあるでしょう、そちらから得た情報も共有していただきます。また、捜査における指揮権は我々がもちます」

「君たちの手足になれと」

「何か不服でも? ここは我々の国だ、これ以上の好き勝手は許さない」

「ちなみに、断った場合はどうなるのかね?」

 

 面白そうに尋ねた彼に、そうですね、とあえてもったいぶって見せた。

 

「もちろんFBIからのお叱りは受けて頂きます。それから違法捜査の対価として、……『赤井秀一』の身柄を頂きましょうか」

 

 ぴくり、と彼の肩が揺れた。ああ、動揺を見せたな。強がってみせても、やはり仲間の身は心配らしい。交渉事において動揺を見せることは、急所を晒すことに等しい。

 

「彼を組織に売り渡します」

 

 そして俺が組織での地位を固めるための、犠牲になってもらう。もちろんそのあとは、責任をもって組織を潰すので是非安心していただきたい。

 そういう気持ちを込めて笑って見せると、彼はすっと両手を上げた。

 

「取引に応じよう。我々は君たちの指揮下に降りる」

「ご英断に感謝します」

 

 ではさっそくその用意を、と腰を上げると、降参の意志を示した彼は苦笑した。

 

「君の話は赤井君から聞いていたが……話に聞くより、ずっと恐ろしいな」

 

 ずっと有能で、ずっと冷徹だ。うちの捜査員たちにも、見習わせたいほどに。

 その素直な賞賛に、僕は少し考えて、改めて笑った。

 

「ええ、恐ろしいでしょう? 僕()()は」

 

 優秀な人間は、決して僕ひとりではない。

 

 



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31

 FBIとの正式協定の話も終えて、そろそろ夜明けも過ぎ、朝の出勤ラッシュが始まろうかと言う時間になった。ヒロや風見に少し休んではと勧められたが、そんな暇はない。というより、とんとん拍子に進む事態に高揚して眠れそうにない。

 FBI、そしてCIAの情報を得られるようになったことは非常に大きい。しかも、かなりこちらに有利な条件での協定も結べた。何年もかけて進めてきた捜査がこれで一気に進むかもしれない。そう思うと、少々の疲労や睡眠不足など気にもならなかった。

 さて、次の仕事に取り掛かるとしよう。僕はノックをして面会室代わりに使っている会議室の扉を開けた。

 

「おはようございます。その様子だと、あまりよく眠れなかったようですね」

 

 そこに座っていたのは、工藤優作氏、江戸川コナン君、そして阿笠博士と灰原哀さん。後者ふたりはコナン君たっての頼みで連れてきていた。彼女はひどく不安そうな顔でこちらを見ている。彼女を保護してほしいというその事情も、まだ聞けていなかった。

 

「降谷さんこそ、寝てないんじゃないの?」

「仕事が詰まっていてね。……さて、先に君の懸念事項を片づけておこうか、コナン君」

 

 椅子に腰かけながらそう言うと、ぴくりとコナン君の肩が震えた。少し不安げな瞳が、それでも精一杯強がりながら僕の顔を見る。

 

「赤井秀一を組織に売り渡すことはしないよ。FBIと正式に捜査協力をすることになった」

 

 そう言った瞬間、コナン君は大きく安堵の息をついた。その様子を見て、工藤先生と阿笠博士が苦笑する。

 

「……ねえ」

 

 しかしひとりだけ、彼女だけが不安そうな顔を一転させひどく険しい表情を浮かべていた。地を這うようなその声に、コナン君と阿笠博士はぎくりと肩を揺らす。

 

「確認させてもらうけれど、『沖矢昴』は『赤井秀一』の変装だったということで、間違いないのかしら」

「? そうだね。君は知らなかったのかい?」

 

 コナン君と一緒に来た時点で、彼女も共犯なのだろうと思っていたのだが。そう思いつつ返事をすると、彼女は恐ろしい目つきでコナン君たちを睨んだ。

 

「ええ、知らなかったわ。隣の家にあの男が住んでいたことも、盗聴器をしかけられたりスマホをハッキングされたりして逐一行動を監視されていたこともね!」

「だ、だからそれはオメーの護衛のために仕方なく……」

「仕方なく? 仕方なくって言ったの貴方。百歩譲らなくてもストーカー、犯罪よ!」

 

 昨晩のうちに念のため、阿笠博士の許可をとって一応彼の家を調べさせてもらったが、いくつもの盗聴器が見つかった。事情を聞いていなくてもコナン君が彼女を保護してほしいと言った以上、彼女は組織に狙われる何らかの理由があるのだと推測していた。

 その彼女の家に盗聴器があったのだから、もしや組織の手が、と考えていたのだが、最悪な方向で違ったらしい。

 

「……これで赤井をいつでも逮捕できるな」

「被害届を出すわ! 捕まえて頂戴!」

「落ち着け灰原! 降谷さんもとりあえず待って!」

 

 これは確実に逮捕できる。赤井を脅す材料が増えたことに内心ほくほくとしながら、改めて俺は胸ポケットから警察手帳を取り出した。

 これを出して自己紹介するなんてどれだけぶりだろうか。

 

「改めて、警察庁警備局警備企画課、通称『ゼロ』所属の降谷と申します。これより皆さんの身柄は公安で預からせていただく。指示に従っていただけるようであれば手荒なこともなく、できる限り早く元の生活に戻って頂けるよう尽力することをお約束します。よろしいですね?」

 

 一瞬で空気が切り替わる。

 工藤先生はす、と目を閉じ、阿笠博士は驚きつつも真剣な顔で僕の言葉を受け止めた。灰原さんはきゅ、と唇を結び、コナン君は決意したように口を開く。

 

「俺たちにも自己紹介させてください、降谷さん」

「自己紹介?」

「俺の本当の名前は、工藤新一。ここにいる工藤優作の息子で、帝丹高校二年生、十七歳です。それと……」

「……私は宮野志保、組織でのコードネームは『シェリー』。貴方とはベルツリー急行で話したわね、バーボン」

「……詳しく話を聞こうか」

 

 それが君の真実なら、僕はそれを信じよう。そんな決意と共に頷くと、彼らはゆっくりと今までの経緯を話し始めた。一言も聞き漏らすことのないようじっと耳を傾け、僕は脳内の情報を整理していった。

 

 

 *

 

 

 長い長い、話が終わる。概要だけかいつまむという話ではあったが、概要だけでも優に数時間を必要とした。それだけのことを彼らは経験してきたのだ。

 

「……概要は理解したよ」

「……信じてくれるの?」

「そんな調べればすぐバレるような嘘をつくほど君は馬鹿じゃないだろう。形式上、指紋とDNAは提出してもらうけどね」

「DNAって……」

 

 そう言い淀んだ灰原さん―――宮野志保さんを、僕は正面から見据えた。確かに、よく似ている子どもだとは思っていた。明美にも、―――エレーナ先生にも。

 蘇る懐かしい思い出にそっと蓋をして、僕は「公安」の顔のまま続ける。

 

「宮野明美のDNAのデータがある。それと照合させてもらうよ」

「! お姉ちゃんの……」

 

 彼女の遺体は無縁仏として秘密裏に葬られた。もし、いつかそれを許されるときが来たら、お墓の場所くらいは教えてあげたいものだ。明美も、きっと妹に会いたがっている。

 

「そのデータも踏まえて、君たちの存在については機密情報という扱いで報告を上げる。この事件に関わる公安の人間、それから……まあFBIにも共有することになるだろう。現状外に漏らすつもりはないから安心してほしい」

「現状、というのは?」

 

 さっと工藤先生が口を開いた。こういった説明においてよく使われる「現状」という言葉だが、さすがに見逃さなかったか。さすがにそのあたりは経験値が違う。

 

「現状と申し上げた理由は二つあります。一つは、『現状』外にもらす必要がないからしないというだけで、今後もしその必要が出ればその限りではないということ。もう一つは、『現状』私が実質この案件の指揮を執っていますが、今後もそうだという保証がないということです。もし別の人間が指揮を執り、その人間が必要だと判断すればその限りではありません」

 

 特に感情を込めることもなくそう説明すると、工藤先生はまたも思案するように目を閉じ、阿笠博士は焦ったような表情を見せた。対象ふたりもぐ、と唇を噛む。

 僕たちは公安だ。日本国家のために動くのであって、子どもふたりのためには動けない。彼らの犠牲で国が守れるのであれば、躊躇なくそれを実行しなくてはならない立場なのだ。

 僕は一度立ち上がってドアの外にいた風見に飲み物を頼み、また席に戻った。

 

「では、ふたりの身柄は今後どうなる?」

「監視下に置くことにはなりますね。私としては我々の監視から逃げようなどと考えないこと、要請に対しては素直に応じることを確約頂けるのであれば、基本的には今まで通りの生活で構わないと思っています」

「あら、随分優しいのね」

 

 犯罪者である私を捕まえないの、と皮肉気に笑った彼女に、呆れた顔を返した。この子は自分の立場をそんな風に理解しているのか。

 

「勘違いをしているようだが、我々から見た君は『保護対象』だよ、宮野志保さん。君は確かにいくつかの法律に反してはいるが、そもそもの出生や育ってきた環境が悪すぎる。君の罪を問おうにも、『無理に犯罪に協力させられた被害者』として捉えられる可能性が高いだろうね」

 

 この答えを想定していなかったのか、彼女はその目を真ん丸にして呆けた。

 ああ、その顔の方が子供らしくていいな。たとえ本来の年齢が十八歳であろうと、未成年であることに変わりはない。子どもは子どもらしくなんて言うつもりはないが、あえてひねくれた視点で世の中を見ることもない。

 そう教えてくれる人が、彼女にはいなかったのだろう。

 

「ただ、君の持っている組織の情報は我々にとって得難いものだ。その情報の提供を約束してくれるなら、という話にはなるが。そうすれば阿笠博士ともども、今まで通りに生活してもらって構わない」

 

 監視はつけるけど、赤井のように盗聴器をつけるつもりはない。そう付け加えると、志保さんはきゅっと唇を結んで俯き、阿笠博士は苦笑してその頭に手を置いた。

今までの経緯を話してもらった中で、阿笠博士の家が彼女にとってどれだけ大切な場所なのかは察したつもりだ。できることなら、それを奪いたくはない。

 

「どうだろうか、宮野志保さん」

「……私の知っていることは全て話すわ。できる限りの協力も約束する。ただ、ひとつお願いしたいのだけれど」

「何だい?」

「アポトキシン4869の研究は続けさせて。何としても解毒薬を完成させなければならないの」

 

 そう言った彼女の瞳には、強い意志が浮かんでいた。これまで自分がしてきたことへの罪悪感、償い、そしてそれ以上に、研究者としての意地だろうか。自分の決めたことを貫こうとするその姿勢は嫌いじゃない。

 

「許可しよう。解毒薬が完成した暁には、薬を必要とする人への投与も認める。もし投薬実験にモルモットが必要だったら言ってくれ、赤井を派遣しよう」

「貴方が話の分かる人で本当に嬉しいわ。よろしくね降谷さん」

「ちょっと待って!」

 

 そう志保さんと握手をしたところでコナン君、もとい新一君が叫んだ。

 もしかして赤井のこと素で嫌っていないかと新一君は言い募るが、仕事に私情は挟まないにしても僕だって人間だ。

 

「特に理由なくこいつだけは無理っていう奴、いない?」

「わかるわ。生理的に無理なのよね」

「嫌いな理由もあげようと思えばあげられるけど、結局言葉にできない部分から無理なんだよ」

「お姉ちゃんの元彼でなくてもあの人は無理」

 

 もう一度志保さんと目を合わせて頷き、堅い握手をかわした。エレーナ先生の娘さんだとか明美の妹だとかそういうことを抜きにしても、彼女とは仲良くなれそうだ。

 そんな僕たちを見て阿笠博士は苦笑し、新一君は頭を抱える。

 

「良かったのう、哀君」

「……ええ」

 

 安心したように笑う博士に、志保さんも淡く微笑んだ。その笑い方はエレーナ先生によく似ている。いつか彼女と、そんな昔話をする日が来れば嬉しい。

 

「工藤新一君、君が今後も毛利探偵事務所にいるつもりなら、それでも構わない。ただし工藤先生、貴方については……」

「わかっている。私も当分は生活拠点を日本に戻し、自宅で生活しよう。妻も明日には帰国するだろう、彼女にもそうしてもらうよ」

「結構です。一応念押しさせて頂きますが、ご子息をつれて逃亡などとは考えないように」

 

 公安警察の恐ろしさは理解しているつもりだよ、と工藤先生は苦笑した。正直なところ哀さんよりも、この人の方が何を考えているかわからないという点で面倒だ。今までが今までなだけに、捜査に横やりを入れてきそうでつい警戒してしまう。

 

「私としても、二度と故国の土が踏めなくなるようなことはしたくない。息子の身の保証さえ頂けるのなら、大人しく自宅で仕事をしているよ。この件に関して他言することもないと誓う。妻にもきちんと言い聞かせよう」

 

 思ったよりも殊勝な返事が返ってきて拍子抜けした。はっきり言って逆に胡散臭いが、今はとりあえずその言葉を信じるとしよう。彼も人の親だ、是非ご子息のためにも賢明な行動をとって頂きたい。

 

「今までが今までだから信用されてないのは理解しているさ。好きに監視をつけてくれて構わないよ。新一、お前はどうする?」

「俺は……」

 

 少し考え込んだ新一君に、そっと目線を合わせた。彼の今後について話す前に、これだけは確認しておかなくてはならないと思っていた。

 

「新一君、君はベルモットと関わりがあるね?」

「え? ええ、さっき話した通りです」

「ベルモットはなぜか、君と蘭さんには手を出すなとうるさくてね。心当たりはあるかな」

「ベルモットが?」

 

 む、と彼は考え込むが、どうもピンと来ていないらしい。あの魔女が君たち以外の人間に対してどれだけ非情で容赦がないのかを知らないのかもしれない。それだけベルモットにとって、新一君と蘭さんは特別なのだ。

 

「……俺にも、よくわからないです。幼児化のことも知っているのに、組織にバラしてもねえし……確かに母さんとは仲が良いみたいだけど」

「……なるほど?」

 

 工藤有希子さんが帰国されたら、彼女からも話を聞く必要があるだろう。できる限りの情報を集めること、情報を集める手段を増やしておくこと、それが今、僕がやるべきことだ。

 

「―――工藤新一君。君には我々の『協力者』になってもらいたい」

 

 すべては日本国家の安寧のために。そのためなら、何だってしてみせる。

 俺の言葉を聞いた新一君は目を丸くし、工藤先生は眉をひそめた。

 

 




(書いたの数年前なので20歳で成人ということでお願いします……)


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対組織
32


 昔から虫の知らせと言うのだろうか、嫌な予感は何となく当たる方だった。

 いつも通り目を覚まし、いつも通り朝食を食べ、いつも通り出勤する。嫌な予感が消えないくせにいつも通りに警視庁に到着してしまったものだからむしろ気味が悪い。

 抱えていた案件もある程度ひと段落したし、今そんなに危惧しなければならないような案件はないはずだ。それなのに首の後ろは何だかぞわぞわして油断するなと訴えてくる。仕事場のドアを開けようとした瞬間には、ぞっと寒気がした。

 いったい何だってんだと、やけになって勢いよくドアを開ける。

 

「……あれ、おはようございます」

 

 そこに立っていたのは、直属の上司である大河内さんだった。いつもと変わらないしかめっ面で、ああ、と一言声を出す。いつも俺が一番乗りなのに、まさか大河内さんが先に来ているとは思わなかった。本当に嫌な予感しかしない。

 

「……柊木くん」

 

 それなりに親しく話せるようになったこの人が俺を「くん」付けで呼ぶのは、決まって仕事の話をする、それも改まったとき。何だよ特に大きな失敗をした覚えはないんだけど。おそるおそる何でしょうか、と答えると、大河内さんはぐっと眼鏡のブリッジを上げた。

 

「今すぐ最低限の荷物をもって警察庁に向かいなさい。すでに警察庁のロビーに迎えがいるそうだ。そのあとは迎えの指示に従うように」

「……大河内さん?」

「君には質問も拒否も許されていない。すぐに向かいたまえ」

 

 切り捨てるような口調に、大河内さんよりさらに上からの命令であることを察した。今朝からの嫌な予感はどうやらこれだったらしい。

 警察庁に呼び出されるなんて訳がわからないが、大河内さんに問いただしても困らせるだけで何も答えてはくれないだろう。ならば今は、従うしかない。

 

「……承知しました。すぐに向かいます」

 

 最低限の荷物でいいと言うのなら、今持っている手荷物だけで十分だ。そもそもデスクには持ち出し禁止の資料と、本当に必要最低限のものしか置いていない。

 大河内さんに一礼して背を向けると、背後から声が飛んできた。はい、と首だけ振り返ると、大河内さんもすでに俺に背を向けていた。

 

「……健闘を祈る」

 

 そういうフラグ立てるの本当にやめてほしい。

 そう内心で苦笑しながら、はい、と答えて俺は警視庁の隣の建物へと向かった。

 

 

 *

 

 

 警察庁のロビーに足を踏み入れると、まだ早い時間であるせいか閑散としている。迎えと言うのは誰のことかと周囲を見渡すと、こちらに向かって歩いてくるスーツの男性が目に入った。

 

「失礼、柊木旭さんとお見受けいたします」

 

 短髪に眼鏡をかけた少し神経質そうな男性。年は同じくらいだろうか。丁寧な物言いに頷くと、彼は懐から警察手帳を取り出した。

 

「警視庁公安部の風見と申します。どうぞこちらへ」

 

 ああ、例の降谷の部下で毎日こき使われてる公安部の可哀想な人ってこの人か。確かに何か疲れた顔してるわ、お気の毒に。そう遠い目で現実逃避をしながら、左手に持っていた鞄がみしりと音を立てた。この人が俺を迎えに来るということは、つまり。

 連れられた先は、警察庁にいたころでもあまり来る機会のなかったエリアにある小部屋だった。手前には簡単な応接用にテーブルとソファ、部屋の真ん中にデスクがあり、そこにはPC端末がひとつ。それから壁際にぎっしり分厚いファイルの詰まった本棚がいくつか。誰かの個室だろうか。

 

「詳細の説明は明日、この時間にこの部屋で、とのことです。それまでにここにあるすべてのファイルの内容と、この端末に保存されているすべての情報を把握しておくように、と」

「……明日の、この時間」

「はい。ちょうど二十四時間後ですね」

 

 端末にどれだけのデータが保存されているのかは見てみないとわからないが、少なくとも壁にあるファイルの資料だけでも相当な量だ。これを、二十四時間。とりあえず睡眠時間や休憩時間が考慮されていないことだけは確かだった。

 

「先ほどの廊下の突き当りがトイレ、そちらの冷蔵庫には簡単ですが飲み物と食べ物を用意してあります。どうぞご自由に」

 

 そのまま風見さんは静かに一礼して退室し、その小部屋には俺と大量の資料だけが残された。何が何だかよくわからんがとりあえず、しなければならないことだけはわかった。

 

「―――降谷を殴ろう」

 

 そんな決意を胸に、俺は荒々しく鞄を投げ捨てた。

 

 

 ***

 

 

 初めてゼロからその話を聞いたときは、さすがに冷静ではいられなかった。

 確かに、確かにあいつは有能だ。今回の案件もあいつのおかげで成功したと言ってもいい。群を抜いた作戦立案能力、それは俺たちに欠けていたものでもある。喉から手が出るほどあいつの能力は欲しい。だけど。

 

「……向いて、ないだろ、どう考えても……!」

 

 思わずゼロの胸倉をつかみ上げると、唸るような声が出た。ゼロは一切の抵抗をすることもなく、ただ静かな目で俺を見返した。

 

「そうだな。だが、必要だ」

 

 そう静かに告げる。

 わかっている。俺も痛いほどよくわかっている。俺たちは公安だ、日本国家の秩序と安寧のためなら、何だって。―――そう、何だって。

 

「……わかってるよ。俺たちに、あいつは、必要だ」

 

 けど、それでも。俺の脳裏に、へらりと笑うあいつの顔が浮かんだ。優しくて、努力家で、穏やかで、いつだって迷いなく行動し、俺の命だって救ってくれた。

 本当に、いい奴だ。感謝もしてる。だから、日の当たる場所に、いてほしかった。

 

「……ヒロ。お前にはアイツの補佐についてもらう」

 

 ぽつ、と表情を変えずにゼロは言った。首元にあった俺の腕を外し、きゅっと手首を掴む。

 その青みがかった瞳がまっすぐ俺を捉えた。

 

「支えてやってくれ」

 

 その言葉は、懺悔のようにも聞こえた。

 

 

 ***

 

 

 ちょうどあれから、二十四時間。

 あんな無茶ぶりを伝えたのは自分だが、正直なところ普通に無理だと思う。あのファイルと端末に詰め込まれているのは、これまでの組織に関わる全ての捜査の資料だ。数年どころじゃない、もっと長い時間をかけた捜査のすべてがまとめられている。

 壁の本棚のファイルだけでもすべてチェックするのには数日かかるし、さらに端末にはその数倍のデータが入っているのだ。徹夜しようが何だろうが無理なものは無理だろう。そう思いつつ、降谷さんに続いて部屋に入る。すでに正体を聞いた工藤新一くん、宮野志保さん、そして赤井秀一も俺に続いた。傍から見れば何という不可思議な集団だろうか。

 

「入るぞ」

 

 軽くノックをし、降谷さんがドアを開ける。そしてドアが開ききるか開ききらないかと言うその瞬間、中から飛び出してきたのは硬く握られた拳だった。

 予測していたのか、すんでのところで降谷さんは顔面に向かっていた拳を止める。

 

「……そこは素直に殴られるところじゃねえのか降谷ァ……!」

「何のことだかわからないな。おはよう柊木」

 

 ぎりぎりと拳から力を抜かない柊木さんと、力負けすまいとこちらも腕を震わせつつ、それでもにっこりと笑顔で挨拶をしてみせる降谷さん。何だこれ。思わず顔を引きつらせたところで、後ろにいたFBIがヒュウと口笛を吹いてみせた。

 

「とりあえず部屋に入れてくれ。紹介したい人たちもいるんだ」

 

 そう言われてちらりと自分を含む数名を見た柊木さんは、諦めたように溜息をついて拳を下げた。がしがしと頭をかき、応接用のテーブルに積んでいたファイルを適当にどける。昨日よりも少し荒れた雰囲気の部屋は、柊木さんの努力を物語っていた。

 

「柊木、全て頭に入ってるな?」

「ああ」

 

 おかげで久しぶりに徹夜した、と不機嫌そうに言う柊木さんに、えっと声が出そうになる。この部屋にあるすべての資料を読んだというのか、たった二十四時間で? しかも全部暗記したと? それをやってのけたという柊木さんも、やってのけることを確信していた降谷さんも、本当に人間なんだろうか。いや、おそらく違う。

 

「とりあえず降谷、何の説明よりまず俺に見せるべきもんがあんだろが」

「見せるべきもの?」

「工藤新一君、宮野志保さん、それからFBIの赤井秀一さんだろ。そっちにいるのはお前の部下の風見さん。俺は何て自己紹介すればいいんだよ」

 

 本気で不機嫌そうに言い捨てた柊木さんに苦笑して、降谷さんは忘れるところだったと懐から書類を出した。印鑑つきの、正式書類。そこに書かれていたのは。

 

「え、……異動、辞令……?」

 

 思わず言葉を漏らしたのは工藤君だ。そう、そこには確かに、「異動」の二文字が書かれている。異動先は警察庁警備局警備企画課、日付は昨日、そして名前は当然「柊木旭」。

 警視庁警務部監察官室監察官だったのは一昨日まで、昨日からこの人は正式にゼロの一員となり、降谷さんの同僚となったのだ。

 

「……ということらしいので、昨日から警察庁警備局警備企画課の人間になりました、柊木旭です。赤井さんは初めましてですね、どうぞよろしく」

 

 眉間のしわを取り繕うこともせず、柊木さんは赤井に右手を差し出した。特に気を悪くした様子も見せず、いっそ面白そうに彼はその握手に応える。

 

「FBIの赤井秀一だ。よろしく頼む」

「どうも。随分と日本で好き勝手してくれたそうで」

「それについて言い訳はせんよ。かわりにどうぞ好きに使ってくれ」

 

 いい度胸です、とそう言って柊木さんは視線を工藤くんにうつした。工藤くんはぎくりと肩を震わせつつ、覚悟したように頭を下げた。

 

「……すみませんでした」

「それは何について謝ってんだ、新一君」

「危ないことをする前に頼って、相談しろって言ってくれたのに、……俺は」

「そうだな」

 

 そうため息交じりに柊木さんが同意すると、工藤くんはまたぎくりと肩を震わせる。

 

「俺がそう言ったときにはすでに、危ないことの渦中にいたんだろ」

「それは……」

「しかも、降谷の……『安室透』の正体を半分しか知らなかった。途中でうすうす察したのかもしれないけど、確証はなかったんだろ。つまり君から見れば俺は組織の一員と繋がってる可能性だってあったわけだ。そんな相手に他の事件のことは相談できても組織絡みのことなんて相談出来ないだろ、当たり前だよ。むしろその状況で俺に相談してきたらもっとよく考えろって説教するところだわ」

 

 え、と工藤君は顔を上げた。柊木さんの顔は相変わらず不機嫌そうだが、それでも工藤君を責めているような気配は見えない。むしろほんの少しだけ、その瞳には優しさの色があった。

 

「君は匿っていたFBI捜査官を守ろうと最善を尽くした。確かに褒められたもんじゃないやり方だが、誰かを守ろうとするその姿勢を否定は出来ないよ。命のかかった場面だ、必死にもなる。……前にも言ったろ」

 

 君の正義を、否定するつもりはないよ。

 柊木さんがそう言った瞬間、じわりと工藤君の瞳に涙が浮かんだ。それを何とか押しとどめようと、彼はぐ、と歯を噛みしめる。

 

「まあ今回もやり方が悪かったのは事実だ。その辺はしっかり反省して今後繰り返さないように努めてくれ。見逃してもらえるのは今だけだと心に刻んでおくように」

「は、い……!」

「それはそうと、俺は君のおかげで降谷に巻き込まれたのでとりあえずデコピンな。顔上げろ」

「え」

 

 ガッといい音がした。いやこれデコピンでしていい音じゃない。

 額をおさえて悶絶する工藤君をよそに、しれっと柊木さんは言い放った。

 

「ガキが泣くの我慢してんなバーカ」

 

 そしてその頭にティッシュの箱を落とす。工藤くんはうつむいたまま、ティッシュを数枚掴んで鼻をかんだ。その様子を横目に見つつ、赤井が口を開いた。

 

「坊やのおかげで巻き込まれた、ということは、君が『ブレイン』か?」

「ブレイン?」

「俺たちを見事に捕まえてくれた、来葉峠の一件だよ。降谷君に助言をした『ブレイン』が別にいると聞いていた。君じゃないのか」

 

 ああ、と柊木さんは思い出したように頷いた。そう、その件の成功をもって柊木さんはゼロへと引き抜かれた。降谷さんの強い推挙と、その助言で例の計画を成功へと導いた功績によって決まった異動。そうでなければ、さすがにここまで急な異動は有り得ない。

 

「俺はそんなつもりなかったんですがね」

 

 やれやれと、柊木さんは首を振る。「俺は! 越権行為を! しない!」と言い張る柊木さんに説き伏せて話を聞いてもらったと聞いている。いやいやでも話を聞いて、その結果これだけの成果をあげるのだから恐ろしい人だ。

 

「では俺を組織に売るのはやめるよう言ってくれたのも君だろう。おかげで命拾いをしたよ、感謝する」

「俺は売るのはいつでも出来るから他の使い道がなくなるまで使いつぶせと言ったんですが」

「使い道がなくなる前に組織を潰せるよう尽力するまでだ」

「なるほどポジティブ。降谷と相性が悪いわけだ」

 

 そういうものか、と不思議そうに言う赤井に、柊木さんは降谷ですからね、と頷く。話題の人物はひくりと頬を引きつらせた。

 

「柊木、おしゃべりはそこまでだ。……引き抜かれた理由はわかってるな?」

「作戦たてるのが下手な降谷のせい」

「……ああ、もうそれでいい。この案件、例の組織に関わる全ての捜査の指揮を、お前に任せる」

 

 部屋に沈黙が下りた。

 その話はすでに降谷さんから聞いている。組織に潜入し最前線で戦う降谷さんには、全体を俯瞰で捉え指示を出す役割は物理的に難しい。特に今後、合衆国勢との合同捜査になるなかで、せっかく得た指揮権を潜入中の降谷さんは生かせない。

 指揮官が必要だった。優秀で、FBIとも渡り合いこき使う胆力があり、何より最前線を走る降谷さんが心から信頼できるような指揮官が。それを出来るのは、柊木さんをおいて他にいない。降谷さんはそう断言した。

 

「……お前は俺を買いかぶりすぎなんだよ」

「過小評価してるくらいだと思っているが?」

 

 しれっと言い返されて、柊木さんはため息をつく。また髪をがしがしとかいて、手近にあったミネラルウォーターのペットボトルを煽った。

 

「わかってるよ、正式な人事異動だ。拒否権はねえんだろ」

「そういうことだ」

「職務は果たす。仕事だからな」

 

 事実上の敗北宣言に、降谷さんは満足そうに頷いた。

 改めて降谷さんは笑顔で工藤君、宮野さん、赤井に向き直る。

 

「と言うわけで、本案件の指揮官になった柊木だ。今後皆さんの身柄の一切は彼が持つので、柊木の言うことにはきちんと従うように。柊木、現状から何か変更は?」

「新一くん、宮野さんは今も普通に学校行ってるって話だったよな」

 

 こくりとふたりは頷いた。必ず学校外では監視と言う名の警護をひとり付けている。今のところふたりは特に不審な行動はとっていないし、ふたりに近づく不審な人物もいない。

 

「念には念をいれさせてもらおう。ふたりとも、宮野さんは降谷に、新一くんは俺に、家から出るとき、学校に到着した時、学校から出るとき、家に帰ったときに一言報告を寄越すこと。遊びに行くのも自由だが、どこか遠出する際にも必ず報告。なるべくこちらが居所を把握できるようにしてほしい。面倒だろうがサボらないでくれ」

 

 ふたりは真剣な顔でまたひとつ頷いた。こちらから言わせてもらえばかなり甘いというか、自由度の高い生活を許している。それくらいの報告はしっかり行ってほしい。

 

「赤井さんについてはまた他のFBI捜査官とも交えて今後の話をしましょう。詳細は後程ということで」

「了解」

 

 赤井が短く返すと、柊木さんはまたやれやれと頭をかいた。

 

「それ以外は特になし。……この後の予定は何かあるのか?」

「他の捜査官にお前の紹介をするつもりではあるが、何かあるなら柊木の意向優先で構わない」

 

 それなら、と柊木さんはソファに座りなおす。

 

「新一くん、宮野さん、ふたりが組織とどんな接触があったのか、おおよそは降谷からの報告書で把握している。そのうえで申し訳ないんだが、もう一度話をしてほしい。どんなにわずかでも構わない、組織に関わったすべての事柄について話してくれ。君たちが受けた印象なんかも省略せずに、主観的な見方で構わない、思い出せる限り全部だ」

 

 そのうえで、今後の捜査方針を考えたい。

 そう言った柊木さんは、すでに「指揮官」の顔をしていた。

 

 




ようやく本番。


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33

 するするとふたりの言葉が耳に入ってくる。寝不足の頭には少々堪えるが、それでも脳細胞を無理やり動かして思考をつなげていく。報告書の無機質な文字からは決してわからない、彼らが対峙した「組織」の姿。

 組織とは言え、それに所属しているのはやはり人間だ。彼らをただの「犯罪者」としてみるのではなく、ひとりの「人間」として捉えれば見えてくるものもある。彼らには彼らの思想と、思考と、感情がある。策を練るならまずその部分を押さえなければ、彼らと言う「人間」を理解しなければ、肝心なところでしくじるというものだ。

 ジン、ウォッカ、キャンティ、コルン、ベルモット、そしてラムと、正体不明の組織のボス。彼らという人間を辿っていく。失敗は出来ない。

 だから、現状における最適解を―――最適解を?

 思考がぴたりと止まり、目の前に文字の波が押し寄せた。脳内を流れていく情報、これは丸一日かけて見た、これまでの組織に関わる全て。組織の情報だけではない、どうやってその情報を手に入れたのか、その手法もすべて。

 そこにあったのは、公安警察の「正義」。時には倫理も道徳も踏みにじり、その罪の重さを知りながら、それでもなお日本国家の秩序と安寧のために。

 その報告書の最後、最新の報告。来葉峠での一件、そこで結ばれた協定と新たに得た情報、そして「保護対象」と、「協力者」。

 

「……ごめん、新一くん、ちょっと待って」

「え?」

「降谷」

 

 記憶をたどりながら組織の話をしてくれていた新一くんを片手で制した。そう、報告書のその部分を読んだとき、俺は確かに疑問に思った。そして後からちゃんと、降谷に確かめなければならないと、そう思って。

 ぐるぐるとめぐる思考に頭を押さえながら、視線を降谷にうつした。相変わらずそいつの瞳は一切の動揺を示さない。凪いだ海のようだ。

 

「宮野さんが『保護対象』で、―――新一くんが『協力者』なのは、何故だ?」

 

 そいつはいつもの笑みなど一切浮かべていない。ただただ無表情で、まるで俺がそう問うのをわかっていたかのように、あっさりと答えた。

 

「お前がどんな策を練るのかわからなかったが、彼が必要になる可能性もあると踏んだからだ。本人の許可も取っている」

「? 降谷さんにそう言われて、はい」

 

 そうだろう、と降谷が新一くんに目線をやると、新一くんは特に考えた風もなく頷いた。

 つい眉間を指で押さえた。落ち着け、ここで降谷を怒鳴りつけたところでどうにもならない。降谷はただ、公安捜査官として職務を果たしているだけ。そう、目的のためなら「何でもやる」、公安の正義を執行しているだけ。だから降谷を責めるのはお門違いだ。

 いや、本来なら、俺だって。ゼロに配属されたいま、―――やるべきことは。

 

「……新一くん、最初で最後の忠告だ。協力者を降りろ」

 

 強い声でそう言うと、まだまだ世の中を知らないその子供は、目を大きくした。本当にこれはわかっちゃいない。わかるはずもない、本来ならわからなくていいことだ。

 公安の協力者になるということが、どういうことかなんて。

 

「保護対象ならまだいい。協力者になるのがどういうことか君はわかっていない。今ならまだ引き返せる」

「……柊木さん、」

「ああ、こう言っても君は引かないだろうな。今までいろいろやらかした罪悪感も含め、協力者になることで少しでも役に立てるならと君は考える」

 

 降谷がそう誘導したのだと、気づくこともなく。

 何で誰も止めねえんだ、何で誰も指摘しなかったんだ。公安の人間はまだしも、彼の父親やFBIのアンタは何で止めない。この子どもは知恵を絞って生命を救った恩人じゃねえのかよ。―――わかっている。こんな思考、ただの八つ当たりだ。おそらくは協力者になるという意味を公安以外の人間はちゃんと理解していない。

 何よりも()()指揮を執る意味を、きっと降谷と諸伏くらいしか理解していない。

 

「……新一くん、俺はこの案件の指揮官になったんだ。だから、組織壊滅に向けてあらゆる策を練り、手を打たなくてはならない。それも公安として、『ゼロ』としてだ。この意味、わかるか」

 

 困惑した顔で新一くんは俺を見る。視界の端で赤井さんが少しだけ眉をひそめたのがわかった。

 

「君が『協力者』であるなら、俺は君を使うぞ。君の存在もその身体の秘密も、君の周囲も含めて。最低な手段で『工藤新一』と『江戸川コナン』を利用する。一切の容赦なくだ」

 

 それが公安の正義だ。日本国家の秩序と安寧のため、使えるものは躊躇なく、容赦なく、それでこの国が守れるのであれば。

 初めて新一くんは少し顔色悪くし、それでも何とか口を開いた。

 

「……具体的には?」

「言えない」

「……俺のことは構いません。けど、俺の周囲はやめてほしい」

「聞けないね。相手は君の存在を知った瞬間に君の周囲ごと始末するような奴らだ。君の存在を利用することは、君の周囲を利用することと同義だと考えてくれ。何より、君の大事な人も、とっくに存在を知られているんだろう?」

 

 ベルモット、魔女と評される幹部に。

 そう付け加えると、さっと新一くんの顔色が変わった。

 

「蘭に手を出すな!」

「だから協力者を降りろと言ってんだ!」

 

 思わず声が大きくなる。ぐ、と拳を握りしめて平静を保つ。だから降りろと言っているんだよと、内心で同じ言葉を繰り返した。

 公安は協力者を可能な限り守るが、それはつまり同じだけ、いやそれ以上に危険に晒すということだ。それでも守り抜くと約束して協力者になってもらうのだ。

 

「……この事件に関わるからには、君ひとりのことでは済まない。極力守るつもりはあるが、当然危険にも晒すし、……胸糞悪い使われ方をすることも覚悟してもらうことになる」

 

 引き返すなら、今のうちだ。そう言って、俺は立ち上がった。

 未だ一切の感情を示さない降谷に向かって言う。

 

「お前らよく徹夜で泊まり込みしてるならシャワールームくらいあるよな?」

「ああ。使うか?」

 

 こくりと頷くと、降谷は風見さんを見た。風見さんは案内します、と言ってドアを指す。

 

「少し席を外すよ。一時間かからず戻るから少し冷静になって考えろ」

 

 それだけ言って、俺は風見さんの後に続いてその陰気な部屋を出た。

 どうか、賢明な判断をしてほしい。俺に、君を使わせないでほしい。俺が祈るのはそれだけだった。

 

 

 *

 

 

 冷たいシャワーを浴びて頭を冷やす。わずかに残っていた眠気は消え去り、頭に残ったのはあの報告書の山にあった組織の情報と、ふたりから得た組織の姿、「工藤新一」、そして「毛利蘭」。何度考えてもはじき出される最適解は変わらない。

 

「さっぱりしたか?」

 

 タオルで水気をぬぐっている最中に聞こえたのは、姿が見えないと思っていた奴の声。

 

「何だお前、いたのか」

「酷い言われようだな。いたよ」

 

 振り向いた先にいた諸伏は、いつぞや一緒に選んだネイビーのスーツを着て、いつもと変わらない顔で笑っていた。そのままゆっくりとした歩みで、近づいてくる。

 

「本当なら俺もお前たちと一緒に話をする予定だったんだけどな。降谷の雑務の片づけと、お前がこれから使うデスクの片づけしてたんだ」

「そりゃご苦労さん」

「ああ。ちなみに新しい盗聴器の性能テストも兼ねてばっちり盗聴してた」

「盗聴が日常的に行われる職場とか本当に嫌なんだけど」

 

 まあそう言うなよ、と諸伏は朗らかに笑う。

 俺は構わずに風見さんが用意してくれた着替えを身にまとい、短い髪をざっと乾かした。それを待っていたのか、諸伏はちょいちょいと手招き。

 

「何だよ」

「いーからいーから」

 

 そう言って連れてこられたのは、透明なガラスで囲まれた喫煙室だった。シャワーを浴びたばかりだというのに、煙草の匂いが蔓延したそこに引きずりこまれる。

 そのままほい、と渡されたのは煙草の箱と安っぽいライターだった。

 

「……俺吸わないんだけど」

「知ってる。……俺ももともと吸わなかったんだけどさ、潜入決まってから吸うようになった」

 

 煙草って、頭の切り替えにちょうどいいんだよな。

 そう言って、喫煙室の壁にとん、と寄りかかる。

 

「組織の一員『スコッチ』に頭を切り替えるのに重宝してた。ちゃんと切り替えないと精神やられちまいそうでさ。だからまあ、潜入が終わってからは吸ってないんだ。使ってないし、そのライターあげるよ。あ、煙草はちゃんと買いなおしたから湿気ってないぞ」

 

 頭を切り替えろと暗に言われているのがわかる。

 手の中にある小さな箱とライターを、まとめて握りしめた。

 

「珍しく私情を交えたな」

 

 さっきの忠告は、私情だろ?

 そう言った諸伏は、これまでと何ら変わりのない笑顔だった。

 わかっている。公安として職務を全うするのなら、あれは言う必要のない言葉だった。彼が自分の意志で協力者になったのだと思わせたまま、ただ利用してやればよかった。降谷がそうしたように、本当はそうすべきだった。

 

「……あれが、最初で最後だ」

「ん、心配はしてない。柊木はちゃんと職務を果たせる奴だから」

 

 俺はその言葉に応えることなく、無言で煙草を一本取り出し、口にくわえる。煙草の残った箱はポケットに入れ、ライターに火をともした。すっと息を吸いながら、煙草にその火を近づける。慣れない煙に少し咳き込んだ。

 

「……まずい」

「はは、俺もそう思う」

「よくこんなもん吸えるな」

「だよなあ」

 

 けらけらと笑う諸伏は本当にいつも通りで、相変わらず取り繕いの上手い奴だと感心する。―――心配をかけたことくらい、わかっていた。きっと諸伏だけでなく、降谷にも。あいつは誰より職務に忠実だが、根は本当に情に厚い奴だから。

 

「……諸伏」

「ん?」

「戻ったら、ちゃんと『指揮官』やるから」

「ああ、よろしく頼むよ」

 

 これから俺がお前の補佐やるからよろしくなと笑う諸伏に、そりゃこき使わせてもらおうと笑い返す。すっと真顔になってお手柔らかにと宣った諸伏に、そういえばいつぞやこいつは俺を暴君と呼んだことがあったなと思い出す。その期待には応えてやろう。

 

「そういや柊木、シャワーの間にスマホ震えてたぞ」

 

 先に行くわ、と喫煙室を出ようとした諸伏が思い出したように言う。

 そういえば昨日から一度もスマホを確認してなかったことを思い出し、すっと胸ポケットに手を入れた。

 

「今の状況について、あいつらには言っても大丈夫。それ以外はダメかな」

 

 そう言った諸伏を見送り、スマホの画面を見た。

 案の定というか、メッセージをくれたのはあいつらだった。

 

『急な出向だって? お疲れ~』

『出向ってどこ行ってんだ? 土産買って来いよ』

『急すぎて驚いたわ 気を付けてな』

 

 萩原、松田、伊達。

 数日前に会ったばっかりだってのに、まるでもうずいぶんと会っていないかのように感じられる。どうやら俺は表向きには出向ということになっているらしい。土産と言われても、残念ながら俺がいるのは隣の建物だ。

 

『出向じゃない 詳細は顔面詐欺ゴリラに聞いてくれ そしてあいつ殴ってくれ』

 

 最早説明もめんどくさくて、全てを降谷に丸投げする。

 話してもいいとは言われたが、どこまでセーフなのか俺には匙加減がわからない。それならわかっている奴からちゃんと説明させた方がいい。

 ぴろん、とメッセージが返ってきた。相変わらずこいつは誰よりも返信が早い。

 

『察した 自分で殴れ 鼻骨折ってイケメンを男前にしてやれ』

 

 思わず喉の奥が揺れた。何とも松田らしい。

 そうか、イケメンを男前に。最初の拳は読まれていたし、あいつの顔面に一発くれてやるにはさすがの俺も隙を狙わないと難しい。もう一度狙ってみよう。

 

『ありゃ~ 俺は奥歯もらっちゃうのがおすすめ♡』

 

 さらっと物騒な返信しやがったのは萩原。こいつは地味に怒っている。

 前歯じゃないだけ優しいよね、とか言ってるけどどの辺が優しいんだそれは。そしてやっぱり自分で殴れってか、お前ら加勢はしてくれねえのかよと思う。

 

『そういうことかよ…… あんまり無理するなよ とりあえず夜は寝ろ』

 

 ごめん、もう徹夜したわ。唯一優しい言葉をくれる伊達に内心遠い目をしながら、今後の自分の生活を思うと寒気がした。俺も夜はちゃんと寝たい。作業効率が落ちる。せめて飯は食えよ、と言葉を続けられるが、そういやまともに飯も食ってねえ。この後ちゃんと食べよう。ありがとう伊達、俺の身体の心配してくれんのお前だけだわ。

 

『また連絡する』

 

 そう一言だけ返して、俺はスマホを再度ポケットにしまい込んだ。

 ずっとくわえていた煙草の煙を最後にもう一度すっと吸い込むと、短くなったそれを灰皿に押し付ける。舌に残る煙草の味は苦いし、吸い終わった今でも何となく煙たくて肺と喉に違和感がある。吸い続ければ、いつか慣れる日も来るのだろうか。

 まあ、―――これに慣れることがいいことなのかはわからないけれど。そんなことを思いながら、俺は喫煙室を後にした。

 

 

 *

 

 

「答えを聞こうか、新一くん」

 

 部屋に戻ると、さっきよりも部屋の中はどことなく荒れた雰囲気だった。丸一日かけて荒らしたのは俺だが、これは俺がいない間にひと悶着でもあったのか。降谷も赤井さんもまるで表情は変わっていないが、宮野さんだけは眉間にくっきりとしわを寄せている。

 新一くんは覚悟を決めた顔で、口を開いた。

 

「柊木さん、確認させてください。……柊木さんは、もしかしてすでに、俺や俺の周囲を利用する作戦、思いついているんじゃないですか?」

「……そうだね」

「その作戦において、俺や俺の周囲が実際に危険に巻き込まれるのは、柊木さんの策がうまくいかなかった場合の話?」

「まあ、そうだな。ただし積極的に利用はする。胸糞悪い方向でな」

 

 嘘をつく必要もないので、ありのまま答える。俺の思いついた策は、失敗に終われば彼が破滅すると言っていい。身体の安全こそ守ることは出来ても、彼は一生平穏な生活に戻れなくなる。彼も、おそらくは彼の周囲も。それだけのリスクのある策だ。

 成功すれば問題ないといえばそうだが、最低のやり方には違いない。自覚している。

 

「……その作戦が失敗すれば危ないけど、得るものは大きい?」

「ああ。組織壊滅への大きな一歩になる」

 

 部屋にいた全員がぴくりと反応した。別に大袈裟に言ったつもりはない。

 何故今まで組織相手にここまで手こずったのか。今までの捜査で欠けていたものは何なのか。組織を壊滅に追いやるために何が必要なのか。そう考えたとき、この策の意義は非常に大きい。

 

「柊木さん」

 

 彼の瞳は、澄んでいた。

 

「俺は降りません。利用してください」

「……覚悟があって言ってるね? 言っておくが、倫理と道徳投げ捨てた俺はひとでなしだぞ」

「俺たちを使うことが柊木さんの思う最良の選択なら、それで構いません」

 

 俺は、俺より頭のいい警察官が、作戦を成功させてくれると信じます。

 そう言った彼の声に、表情に、瞳に、一切の迷いはなかった。俺は洗ったばかりの髪をくしゃりとかきあげる。

 

「……何てタチの悪い脅し方だ。脅迫罪でしょっぴいてやりたい」

「え~僕子どもだからわかんな~い」

「クソガキ」

 

 たぶん今日初めて、彼の前で笑みを見せる。苦い笑みだっただろうが、それでも彼は俺に笑い返してくれた。

 

「必ず成功させる」

「貴方を信じます」

 

 俺はその小さな手と、堅い握手をかわした。

 

 



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34

 自分なりに正しくありたいと思って生きてきた。正義を掲げる職を志すなら、その職に就いたなら、それに相応しい人間でありたいと。

だから、罪悪感はないかと聞かれたらあると答える。こんな手段しか選べない自分の未熟さが恥ずかしい。手段を選ぶ余裕もないことが情けなくて仕方がない。

 だけど、迷いがあるかと聞かれたらないと答える。こんな手段しか選べないけれど、それでも俺が思いつく中ではこれが最適解。だったら、やるしかなかった。

 

「じゃ、捜査員の紹介頼む」

 

 新一くんと宮野さんの話を一通り聞き、状況と闘うべき敵の姿はとりあえず把握した。それなら次は、自分の持っている武器の確認だ。

 そう言うと降谷はひとつ頷いて口を開いた。

 

「公安の人間で、この件メインで動いているのは俺と風見と諸伏の三人。もちろん必要とあればそれに適した人間を公安または別部署から見繕って動かすことになる。この件の重大さは上も理解してくれているから、ある程度の融通はきかせてくれる」

 

 そこでああ、と思いついたように降谷が風見さんを見た。

 

「ちゃんと紹介してなかったな。彼は風見警部補、警視庁公安部で直接俺と接触できる数少ない人員かつ、俺の直属の部下と言っていい」

「風見裕也です。よろしくお願いいたします」

「ああ、そうだった」

 

 さっと俺も立ち上がって、風見さんにまっすぐ向き合った。昨日から会って話しているのに、ちゃんと挨拶もしていない。正直それどころじゃなかった。

 

「柊木旭です。降谷や諸伏からお話は伺っています。よろしくお願いします」

 

 すっと頭を下げてみせると、風見さんは慌てたように言った。

 

「あ、頭を上げてください! 自分は下の立場です、どうぞお気遣いなく」

「柊木、威厳というのも大事だぞ」

「そういうもん? 今まで部下とかいなかったから……そのうち慣れますので、風見さんもご容赦ください」

 

 すると風見さんは何とも言えない顔をして、はい、と頷く。

 威厳と言われてもどうやって出せばいいのか。うーん、と首をかしげると、赤井さんは軽く笑って言った。

 

「随分と謙虚なんだな、君は」

 

 日本人らしいというか、何というか。

 そう言われて、きょとんと赤井さんを見返した。謙虚、俺が? そしてようやく気付く。今までは監察官という地位こそあれどそんなに権限があったわけでもないし、周囲から余計なやっかみが来ても面倒なのでトラブル回避のために猫をかぶっていた。だが、もうその必要はないのだ。

 

「……俺、猫かぶりが癖になってたのか……」

「ああ、正直気持ち悪い」

「真顔で頷くな殴るぞ。言っておくが『安室透』のが数倍気色悪いからな」

 

 ぺちぺちと自分の頬を叩き、もとの調子を取り戻す。もう謙虚の仮面はいらない。自分の実力を隠すよりも示していかなければならない立場だ。特に赤井さんをはじめとするFBI捜査官の前では強気なくらいでちょうどいい。

 

「ちなみにお前が鬼で魔王で暴君だというのはすでに公安内で広がっている。今更取り繕っても腹の底を疑われるだけだからやめておけ」

「へえ、その噂の大元は誰だ?」

「諸伏だ」

「わかった」

 

 よし、やっぱり期待に応えて全力でこき使おう。

 笑顔でそう決心すると、風見さんがそっと目を背け、頭の痛そうな顔をしていた。なるほど、彼も俺の噂は諸伏から聞いているらしい。

 

「他の捜査官については今その諸伏が、」

 

 降谷がそう言いかけたとき、こんこんとノックが響く。すぐに諸伏です、失礼します、と聞きなれた声。何故かそのとき、赤井さんの肩がぴくりと震えた。

 入ってきたのは、諸伏と初老の紳士。初老とはいっても身のこなしは相当に鍛えられたもので、油断のない目線の配りからもその洞察力の高さが伺える。

 

「貴方が新しい指揮官だろうか。私はジェイムズ・ブラック、FBIだ」

「ええ、柊木旭です。よろしくお願いします」

 

 顔に笑顔を乗せて、握手をかわす。

 なるほど、彼がFBI捜査官のリーダーか。少しの隙も見せないその様子は、確かに歴戦の猛者というに相応しい。こんな人まで使わなくてはならないとは、ますます油断はできない。隙を見せた瞬間に指揮権を奪われそうだ。

 

「……降谷くん」

 

 続けて話をしようとしたとき、口を挟んだのは赤井さんだった。嬉しいような悔しいような、なんだか不思議な顔をしている。反対に、話しかけられた降谷はほんの少しだが、楽しそうに見えた。あれは多分、内心ざまあみろとか考えている。

 

「何か?」

「彼について、説明はもらえないのか?」

 

 赤井さんが親指で指し示したのは俺の後ろに立つネイビーのスーツ。諸伏自身も、顔を背けて肩を震わせていた。これはひょっとして。

 

「……生きてること知らなかったんですか?」

 

 俺がそういうと、赤井さんは押し黙る。

 事情を知らないらしいMr.ブラックや新一くん、そして宮野さんがきょとんとしていて、風見さんはほんの少しだけ唇の端を上げていた。

 その様子に、俺も苦笑して続ける。

 

「諸伏、改めて自己紹介したらどうだ」

「はいはい。初めまして、警視庁公安部所属の諸伏景光です。三年前まで組織に潜入していて、コードネームは『スコッチ』。『バーボン』や『ライ』と組んで仕事に当たったこともあります」

 

 面白そうに諸伏が言うと、新一くんはえっと声を上げた。その横で宮野さんが、貴方がと驚いた顔をしている。どうやら諸伏のことは知っていても、「スコッチ」のことまでは聞かされていなかったらしい。

 

「……そんな気はしていたが、本当に生きていたとはな。来葉峠のスナイプは君だろう。相変わらずいい腕だ」

「ライに言われると悪い気しないな。おっと、今は赤井か」

「……死ぬには惜しい男だと思っていたよ」

「光栄だ」

 

 お前より死んだふり上手かっただろ、と諸伏がにやりと笑うと、赤井さんは降参と言わんばかりに両手を上げた。降谷は当然とでも言いたげな笑みを口の端に浮かべている。

 

「なるほど、降谷君以外にもコードネームをもらえるほど深く潜り、生き残った捜査官がいたということか。やはり日本警察は侮れんな」

 

 いっそ感心したようにMr.ブラックは肩をすくめた。そう褒められれば悪い気はしないが、残念なことに談笑を続ける余裕はない。眠気が来ないうちに話を進めようと口を開いた。

 

「メインで動いているFBI捜査官は四人のはずでは?」

「あとのふたりは目を付けていた組織の関係者に張り込ませている。ジョディ・スターリング捜査官とアンドレ・キャメル捜査官だ。申し訳ないが紹介はまた次の機会にさせていただきたい」

「なるほど」

 

 必要とあればこちらも本国から追加の捜査官を派遣させると彼は続けるが、現状ではさほど手勢は必要ない。必要なのはただ、情報だ。

 

「そちらの捜査資料も拝見したいのですが。出来ればCIAのも」

「FBIのものに関しては今追加データを含めて送ってもらっている。CIAは難しいだろう、キールと協力関係を結んでいるとはいえ、CIAと組んでいるわけではないのでね。CIA側は未だ大きく動くつもりはないということだろう」

「CIAは、この捜査協力のことをすでに?」

「知っていると考えていい。FBI本部から情報が流れていてもおかしくはない」

 

 ふうん、と小さく息を漏らす。

 全てが終わるまで静観していてくれるならそれはそれで構わないが、こちらの捜査が俺の考えている通りに進んでいけば、捜査協力を持ち掛けてくる可能性もあるかもしれない。無視できる相手ではないだけに、面倒だ。

 

「それで、今後の方針をお聞かせ願いたい」

 

 ソファに座り直したMr.ブラックの目が、すっと細められた。

 その様子に、もはや懐かしさすら覚える。これは、あの時と同じ。俺を呼び出し、監察官になることを持ちかけてきたときの大河内さんと、同じ。俺という人間を見定める目。

 俺はひとつ微笑んで、まっすぐにその目に応えた。

 

「そう特別なことをするつもりはありません」

 

 定石通りの手を使っていく。ひとつひとつを、確実に。

 

「組織の情報網の確認と、組織に所属するスナイパーの所在と顔の割り出しです」

「定石だな」

「ご不満でも?」

「とんでもない」

 

 俺が苦笑して言うと、赤井さんはさらりと返した。

 情報網については言うまでもないだろう。こちらの動き、何よりも「バーボン」「キール」の素性だけは守らなくてはならない。どこにどんな鼠が紛れているのか、組織がどうやって情報を得ているのか、その確認がまず必要だ。

 また、どんな手段で組織を潰すにしろ、スナイパーと言う存在は本当に厄介だ。日常の中でこちらが狙撃される可能性も否めないし、もし本当に彼ら相手に掃討作戦を仕掛けるようなことになった場合、向こうに腕のいいスナイパーがいるというだけで危険度は跳ね上がる。邪魔な存在だからこそまず把握し、排除を考えたい。

 

「降谷、しばらくは組織の中核よりも情報網と腕のいいスナイパーの存在の洗い出しに注力してくれ。あえて幹部を探る必要はない」

「……情報網とスナイパーの確認が必要なのはわかるが、幹部を探る必要がない、というのは?」

 

 組織のボスを探らなくていいのかと、青みがかった瞳が問う。視界の隅で宮野さんの肩がびくりと震えた。どうやら彼女はボスのことを知っているらしい。

 とりあえず今は見なかったことにして言葉を続ける。

 

「あらゆる諜報機関が長い年月をかけて幹部に探りをいれ、捜査を進めてきた。それでも尚、ボスの正体どころか側近のラムの正体も明らかにならないまま、今に至る」

「……何が言いたい」

「怒るなよ。潜入捜査官の腕が悪いと言ってんじゃない、あまりにも用心深すぎる組織だって話」

 

 俺がそう言うと、降谷は少し眉を顰め、赤井さんはフム、と顎に手を当てた。Mr.ブラックは腕を組んだまま、じっと俺を見据えている。

 

「何故この組織がここまで危険視されるのか、それはその徹底した秘密主義故だ。日本警察が調べただけでも、あらゆる諜報機関が幾人もの潜入捜査官を送り込み、失敗している。組織の実態は限られた古参の幹部のみが把握していて、許された者以外がその秘密に近づこうものなら即処分。潔癖が過ぎるな」

 

 だからこそ。そう、だからこそだ。

 

「逆に言えば、組織の実態―――ボスやラムの正体、それに組織の目的さえわかればほぼクリア。正体さえわかれば相手はただの物騒な反社会的組織だ。何も怖がる必要はない」

「……つまり?」

「回りくどい言い方はよせよ柊木、どういう手段をとる気なんだ?」

 

 焦れた降谷は今にも噛みつきそうな様子で、困った顔の諸伏は続きを促した。FBIのふたりは静かな顔を崩さない。

 

「回りくどく調べてまわるから時間がかかるんだ。そんな面倒なことしなくても、答えを知ってる奴に直接聞けばいい」

 

 あっさりとそう言うと、部屋にいた全員が固まった。

 ああ、これはわかる、何言ってんだコイツって目で見られている。あまりにも簡単なことだと思うのだが、俺はそんなにおかしなこと言っただろうか。

 

「……柊木……それは……いや、お前が冗談を言うわけないな……本気で言ってるんだよな……」

「ああ、わかるだろ降谷、俺は仕事で冗談は言わないし、負け戦には挑まないよ」

 

 勝算があって言ってる。

 そうにっこりと笑うと、老練の捜査官の眼鏡の奥の瞳がきらりと光った気がした。

 

「詳細を聞かせてもらいたい」

「申し訳ありませんが、それはそちらの捜査資料を拝見してからにさせてください。今はただ、情報が必要です。俺の策の成功率を上げるためにも」

 

 この策を説明したところでFBIに実行できるとは思えないし、きっとする気にもならないだろうが、邪魔もされたくはない。

 余裕の笑みを浮かべ、彼と数秒間にらみ合った。先に折れたのは彼の方だった。

 

「……明日には捜査のデータが送られてくるはずだ。届き次第共有しよう」

「ええ、お待ちしています」

 

 それからいくつか今後の確認をし、その場は解散とした。すぐに動けるものでもないのでとりあえず睡眠をとりたい。さすがに疲労を感じる。

 ひとつあくびを漏らすと、真剣な顔をした降谷が話しかけてきた。

 

「柊木。一応確認しておくが、お前の策で組織の正体がわかるから、俺はその次の段階……組織を探るのではなく潰すために、組織のスナイパーと情報網を探ると思っていいか」

「ああ」

「わかった。そのつもりで調べる」

「よろしく」

 

 ひとつ頷いた降谷は、そのまま風見さんを従えて会議室を後にした。さっそく捜査に向かったのだろう、相変わらず元気なやつだ。俺は眠い。Mr.ブラックも、一旦状況を本部に報告すると言って席を立つが、赤井さんはソファに座ったままだった。何か用でもあるのだろうか。

 特に気にした風もない諸伏は、空気を変えようとしたのか、少し明るい声で言った。

 

「柊木はどうする?」

「帰って飯食って寝る。明日またここ来ればいいか?」

「そうしてくれ。送るか?」

「車買ったの知ってるだろ、いいよ。……ああ、ふたりとも送っていこうか?」

 

 じゃあお願いしますと新一くんは頷き、居眠り運転はしないでねと宮野さんはさらりと言った。

 一晩の徹夜くらいで居眠り運転するほど柔ではないが、結局買ってしまった降谷と萩原おすすめの車は油断するとスピードが出すぎる。同乗者もいることだしいつも以上に安全運転で帰ろう。

 

「じゃ、お先に」

「ああ、……柊木」

「うん?」

「これからよろしく頼むな、指揮官殿」

 

 そう言って、諸伏はにこりと微笑んだ。念押しのようにプレッシャーを掛けてくる諸伏には、もう笑うしかない。

 

「そっちこそよろしく頼むぞ補佐。こき使うから」

「もちろん」

 

 笑顔の諸伏と紫煙をくゆらす赤井さんを残し、俺たちは会議室を後にした。

 

 

 ***

 

 

「……随分と、仲が良いんだな」

 

 柊木たちを見送った後、ぽつりと赤井が言葉を漏らした。別に皮肉を言っている雰囲気ではない。本当に思ったままの感想なのだろう。

 

「そうだろ? いい奴なんだ」

「ただの『いい奴』に指揮官が務まるとは思えんが」

「そりゃ、ただの『いい奴』じゃないからさ」

 

 お前だってわかっただろ、と言うと、赤井は唇の端だけで笑った。どうやら異存はないらしい。

 

「本来は温和な人間なんだろうな。だが、仕事となるとどこまでも感情を排して冷徹になれる。そういう人間は珍しくもないが、彼はかなり極端なようだ」

「面白いだろ」

 

 そう言うと、赤井は少し黙った。すうっと煙草の煙を吸ってから、そうだなと小さな声で呟いた。―――ああ、やっぱり赤井は根が甘い。

 

「お察しの通り、あいつは公安に向いてないよ。工藤新一に忠告をしてしまうくらいにはね」

「それをわかっていて引き抜いたのか」

「それくらい、あいつの頭脳はずば抜けてるんだ」

 

 俺たちに、どうしても必要な人材だった。

 最初こそ俺も反発してしまったが、わかっている。柊木は公安に全く向いていないのに、相応しすぎるくらい相応しい。

 出来ることならここには来てほしくなかったなんて、それは俺の私情に過ぎない。

 

「……付き合いは長いのか」

 

 俺の言葉から何かを察したのか、赤井は軽い声になってそう投げかけてきた。赤井なりに気を遣って何でもない話題を振ったつもりらしい。

 少し苦笑しつつ、珍しい気遣いなのでありがたく乗っておくことにした。別に秘密にすることでも何でもない。

 

「警察学校の同期だよ。降谷もな」

「なるほど、それであんなに親しいのか」

「ああ、すごかったんだぜあのふたり。入校当初から降谷と柊木ですさまじい首席争い繰り広げて、最初から最後までずーっとデッドヒート。お互い認め合ったライバルってわけ」

「それであのプライドの高い降谷くんが協力を求めたのか。……諸伏くん」

 

 改めて赤井にそういう呼ばれ方をすると違和感がひどい。何、と聞き返すと、赤井は面白そうに言った。

 

「そのデッドヒートは、結局どちらが勝ったんだ?」

 

 おっと、そこを聞いてくれるのか。俺はにやりと笑って、続ける。

 

「……どっちだと思う?」

 

 すると赤井もく、と笑って、どっちと答えても痛い目を見そうだ、と煙草を灰皿に押し付けた。それに正解と答えつつ、俺はまた軽く笑った。

 最終的にどちらが首席だったのかは、是非本人たちに直接聞いて確かめてほしい。きっと面白いものが見られるだろう、尋ねるのが赤井ならなおさら。

 その場面を想像しているうちに、ほんの少しだけ心が軽くなるのを感じた。

 

 



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35

 FBIの捜査資料が入ったメモリを持ち指示された通りに向かった部屋には、すでに修羅場の気配が漂っていた。いや、部屋にいるふたりのうち、ひとりはしっかりと睡眠をとったのか昨日よりも幾分かすっきりした顔で書類をめくり、もうひとりは一心不乱に端末のキーボードを叩き続けている。修羅場の気配は主に後者だ。

 

「ああ、赤井さんおはようございます」

「おはよう。FBIの捜査資料を持ってきたんだが」

「どうも」

 

 ひどく顔の整った指揮官はメモリを受け取ると、良ければそっちのソファどうぞと軽く言った。またデスクに戻った彼は端末でそのメモリを読み込み、ファイルを確認している。

ふーん、と特に感慨もなく画面を見つめ、何の気なしに傍のデスクにいる男に声をかけた。

 

「諸伏、終わった?」

「終わるか! お前な、確かにこき使えとは言ったけどこの量、普通に今日丸一日かかるから!」

「何だよ、いくつか追加捜査頼んだだけだろ。何でそんな時間かかってんの?」

「人を動かすにも! いろいろあるの! 雑務全部投げやがって!」

 

 補佐ってそういう役回りだろ、と不思議そうに言う彼に、諸伏くんはそりゃそうだけどと叫んでいる。

 なるほど、確か鬼で魔王で暴君だったか、しっかりと期待には応えているらしい。

 

「赤井さん、他の捜査官は?」

「ジェイムズは本部とのやり取りで手が離せんらしい。ジョディとキャメルは昨日と同じく張り込みだな。その張り込み対象のデータもメモリに入っている」

「そうですか。赤井さんはこの後は?」

「君の指示があるなら従うが」

 

 じゃあ三十分で目を通すのでちょっと待っててくださいと聞こえたが、その量を三十分とか正気だろうか。

 

「概要に目を通すだけなので。煙草吸っていいですよ、灰皿そこにありますから」

 

 俺の内心を見透かしたように彼はさらりと言い、テーブルの端にあった灰皿を指さした。すでに数本の吸い殻が乗っている。彼も喫煙者なのだろうか。

 改めて視線を彼に戻すと、すでに彼は捜査資料に集中しているようだった。スクロールの早さを見るに、なるほど相当なスピードで読んでいるらしい。どうやら三十分は誇張でも何でもなかったようだ。

 俺はその邪魔をしないよう、大人しく待つことにした。

 

 

 *

 

 

 三十分後、本当に読み終わったという彼は俺の前に座った。尋ねてきたのは捜査資料のいくつかについての確認のほか、組織のメンバーの人となりについて。ボウヤや志保に求めたように、客観的事実だけでなく主観的な印象もすべて話せという。事実のみを求められることが多いだけに、何となく不思議な気がしながら出来る限りの記憶をたどった。

 

「君は随分と人柄を知ることにこだわるな」

「結局はそれぞれも人間ですからね。いざというときに彼らがどう判断して動くかは把握しておきたいんですよ」

 

 それぞれの組織の構成員のデータを見つつ、彼は頭の中の情報を整理しているようだった。

 

「リーダー格というか、やはり脅威なのはジンですかね」

「ああ。奴は頭も切れるし銃の扱いも相当で、何より組織への忠誠心と残忍さは他に類を見ない。幹部間に大きな上下関係はないが、そいつが中心になることは多いな」

「ふむ。諸伏」

 

 目線を資料から話さずに、彼は背後のデスクに座っている諸伏くんに声をかけた。何だ、と彼は端末の後ろからひょっこりと顔を出す。

 

「降谷に追加で指示。情報網及びスナイパーを調べる際、それぞれの忠誠心の程度も見定めるように伝えてくれ。具体的に言うと、組織ないしボスがヤバくなったときに助けるか逃げるか」

「了解……だけど追加の指示もいい加減にしないとそろそろ降谷も怒るぞ柊木……」

「あいつ目の前に仕事積まれると燃えるタイプだろ。まして俺からの指示なら負けず嫌いに火が付くから、文句は絶対に言わないし完璧にこなす」

「……言えてるけどさ……」

 

 どっちかというと風見さんが苦しみそうだなとさらりと言う柊木くんに、わかってんなら手加減してあげてくれよ……と諸伏くんは死んだ目をしていた。

 どうやらどこの国でも補佐役が苦労するのは同じのようだ。

 

「赤井さんはジンと因縁でも?」

「因縁と言えるかはわからんが、潜入していたころから毛嫌いはされていた」

 

 まあ、それは降谷君にもだが。自分自身、あまり人に気を遣える方でもないことは自覚しているし、嫌われる相手にはとことん嫌われることが多い。ジンにしろ降谷君にしろ、初対面時から妙に嫌われていた気がする。

 

「……ああ、なるほど」

 

 じゃあジンもそういうタイプか、と柊木くんはひとり納得したようだった。ゆらりゆらりと頭を揺らす彼を見ながら、視線だけでその意味を問う。

 それに気づいた柊木くんは、少し苦笑した。

 

「いえ、貴方と相性が悪いということは、ジンも降谷と似たようなタイプかなと」

「……そうか?」

 

 何て言うのかな、と彼は首を傾げる。

 印象だけで話しますけど、と前置きして彼は続けた。

 

「赤井さんって、命令遵守とか無理なほうじゃありません? 自分が納得する理由がないと従わないというか、命令より自分のやりたいことを優先するというか」

「……」

 

 思わず沈黙し、耳だけ働かせていたであろう諸伏くんがぶふっと噴き出した。脳裏に任務終了後にはいつも大きなため息をついていたジェイムズの姿が浮かぶ。

 

「ああ別に、それが悪いとか責めてるわけじゃなくて。たとえば降谷は真逆なんですよ、自分の感情を殺してでも職務に徹し、命令は遵守する。公私をきっちり分けて、迷いなく『私』よりも『公』を優先する奴です」

 

 でも、貴方は違う。貴方は多分、自分の正義と感情をもとに、いざというときは「公」よりも「私」を優先する。

 柊木くんは全てを見透かしたような静かな目で、俺を見据えた。

 

「だから、『公』に……命令遵守に拘るタイプには嫌われやすいんですよ。多分ですけどね」

「……その理屈で言うと、ジンも『公』を優先するタイプということか」

「おそらくね。目の前に憎い貴方が現れても、たとえば組織のボスとやらが殺すなと言うなら殺さない、そういう人なんじゃないかと思っただけです」

 

 確かに、ジンはボスの命令には絶対に従っていた。多少不満があろうとも、必ず。

 そして俺は、確かに納得のいかない命令には従いたくない。もちろん妥協できる点は妥協するが、命令無視をして叱責を食らったことも大いにある。そもそも、FBIに入ったのもその力を利用して父の死について調べるためであり、別にFBIやアメリカのために働いているつもりはない。

 

「……まあ、否定は出来ないな。ジンのことも、俺のことも」

「再三言いますが別に責めちゃいませんし、悪いことだとも思いませんよ。主義の問題ですから」

「君の命令にも従わないかもしれないが?」

「従わない可能性があることをわかってさえいればやりようはあります。貴方の命令違反も計算にいれればいいだけの話でしょう」

 

 さらりと言った彼に、思わず瞬きをした。彼は特に気にした風もなく、ぱらぱらと他の幹部の資料にも目を通している。

 

「……命令違反を許すと?」

「許しませんが、命令違反しそうだなと思ったときにはそれに対しても対策は考えておきます。俺、別に貴方を完全に信頼するつもりないですし」

 

 俺を信頼しないことを隠し立てする気もない彼に、思わず笑えてきた。なるほど、あらゆる可能性を排除しない彼は確かに優秀な指揮官だ。こうも感情を差しはさまず、淡々と目的の達成だけを考えられる人間はそういない。

 肩を震わせた俺に、柊木くんは不思議そうな顔をして言った。

 

「俺、何か変なこと言いました?」

 

 しかも自分は特別なことを言ったつもりはないときた。これは相当に愉快な人間なのかもしれない。

 思わず未だにキーボードを叩き続ける彼に声をかけた。

 

「諸伏くん、彼は確かに有能で、しかも面白い指揮官だな」

「だろ。だけど赤井、柊木は怒るとマジで怖いから、命令違反はおすすめしない。正座で三時間も説教聞きたくないだろ」

「三時間はなかなかだな、ジェイムズの叱責でも三十分が精々だぞ」

 

 笑いながら軽口の応酬をすると、柊木くんは微妙な顔。さすがの俺も自分より年上の相手に説教なんぞしたくないんですが、とぼそりと言うのでまた噴き出した。

 

「説教を受けたくはないが興味はあるな」

「そんな理由で命令違反やらかしたら即刻組織に売り渡しますからね」

「それは怖い」

 

 くつくつと笑いつつそう言うと、やれやれと柊木くんはため息をつき、眺めていた組織幹部の資料をざっとまとめてテーブルに置いた。

 

「もういいのか?」

「ええ、俺の考えていた流れで問題なさそうなので」

「昨日は教えてくれなかったな。詳細は教えてもらえないのか?」

「流れだけざっくり言うと、組織の秘密主義を叩き壊して、構成員のスナイパー捕まえて、残りをまとめて確保する感じです」

「秘密主義を叩き壊す、というのは?」

 

 そう言うと、柊木くんはすっと表情を消し、まっすぐに俺を見据えた。その顔には何の感情も浮かんでおらず、整いすぎたその造形も相まってまるで人形のようだ。

 

「ここまで貴方も同じ情報を得たはずです。思いつきませんか?」

「……」

「……いえ、すいません。見下してるわけじゃないんです。ただ……」

 

 やはり貴方は、優しい人だなと。

 無表情で無感情にそう言った彼は、それ以上何も答えてはくれなかった。

 

 

 ***

 

 

 考えた策の流れをざっと説明すると、三人はさすがに険しい顔をしていた。眉間にくっきりと大きなしわを寄せた降谷が先陣を切って口を開く。

 

「柊木、工藤新一を容赦なく利用すると言った理由はわかった。だが、それはあまりにもお前のリスクが大きすぎる。引き入れたばかりの指揮官をこんなに早く失うわけにはいかない」

「この案件の指揮官が俺なら、つまり責任者も俺だろ。俺が行くのが一番効果的だし、筋ってもんだ」

「筋ってお前な……!」

 

 なお言い募ろうとする降谷に苦笑しつつ、紫煙をくゆらせた。ここ数日で一気に煙草の数が増えた。俺もこれで松田や萩原に吸いすぎだと怒れない。

 

「失敗するつもりはねえよ。仮に失敗しても得るものはある。諸伏、準備を頼む」

「……」

「返事はどうした」

「……柊木、そのやり方は潜入以上に危険だし、お前の周囲まで危ない。他に方法はないのか」

 

 俺の周囲という言葉に、つい瞬きをした。俺をゼロに引き入れるときに身の上は全て調べ上げたものと思っていたが、そうでもなかったのだろうか。

 

「俺、家族いないぞ」

 

 さらりとそう言うと、降谷と諸伏はえっと固まる。その様子を、むしろ風見さんが驚いたように見た。ああそうか、ふたりには父親のことを零したこともあったかな。そして詳細まで話したことはなかった気がする。

 

「親類の話も聞いたことないし、お前らも知っての通り友達も少ない。現在交流があるのは、お前らを除けば刑事部の三人くらいだ。あいつらには悪いが、少々危険に晒したところで簡単にやられる奴らでもない。一応警告くらいしとけば大丈夫だろ」

 

 軽くそう言うと、ふたりは戸惑ったように俺を見た。公私の両方で俺を心配してくれているのはわかっている。だが、これは俺が弾きだした最適解だ。誰に何を言われようと、俺以上の良案を持ってきてくれない限り退くつもりはない。

 

「お前らが祭り上げた指揮官様のお言葉だ。俺以上の策がないなら大人しく従え。それとも何かな、お前ら」

 

 俺を危険に晒す覚悟もなく、俺を指揮官に仰いだのか?

 そう笑顔で言うと、ふたりはぐっと押し黙る。数秒沈黙が流れ、先に口を開いたのは諸伏だった。

 

「……わかった。準備する」

「ああ」

 

 その返事に満足げに頷くと、降谷も観念したように溜息をついた。そしてがしがしと頭をかき、いらだったように言う。

 

「対象の動きを明日までに確認してくる。お前の策に必要な舞台は用意する」

「よろしく」

 

 同期ふたりが観念したとき、それまで沈黙を守っていた風見さんが遠慮がちに口を開いた。その顔には、わかりやすく疑念と不安が浮かんでいる。

 

「……柊木さんのお考えに異議を唱えるつもりはありませんが、……その、それは……」

「上手くいくのか、ですか?」

「いえ、その……」

 

 風見さんは答えにくそうに言葉を濁す。俺はその素直な反応に少し笑った。

 言いたいことはわかっている、資料の上の組織幹部の情報だけを考えれば、この作戦は間違いなく失敗する。だが、直接彼らと対峙してきた、新一君や宮野さんに赤井さん、そして降谷の言葉から見えてきた、その「対象」の姿を考えれば。

 

「成功します。させてみせる」

 

 最後にすっと煙草の煙を吸い込んで、吸い終わった煙草を灰皿に押し付ける。舌に残る嫌な苦さに気づかないふりをして、俺は三人に笑いかけた。

 

 




次回、柊木さんぶっ倒れるの巻。


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36

 ガラス張りの喫煙室の中で、煙草に火をつける前にスマホを取り出す。俺が連絡を取り合う人なんて限られているので、奴らの名前は常に目に付くところにあった。詳細を説明する気はない。送信したのは、たった一言。

 

『ごめん 巻き込むかもしれない』

 

 いくら俺に親しい人間が少ないとはいえ友人にまで手を伸ばしてくるかは微妙だが、可能性がないとは言えない。少々危険に巻き込まれたところでどうこうなる奴らじゃないことも知っているが、危険に晒すかもしれない事実は重かった。

 喫煙室の壁にとん、と寄りかかったとき、返信が届いた。

 

『好きにしろよ むしろ庇おうとしたらぶっ飛ばす』

『もともと旭ちゃんに助けられた命だし気にしなくていーよ 健闘を祈る♡』

『彼女は巻き込むなよ 俺のことは気にすんな』

 

 相変わらずの返信の早さと、それぞれらしい返信に苦笑を漏らす。これで、言質をもらったということにしておこう。お前らがいいと言ったんだ、今後何があっても文句は聞かない。そう自分に強がって、俺は煙草に火をつけた。

 

「……感傷に浸るのはここまでだ」

 

 思考を切り替え、そっと目を閉じる。

 失敗は出来ない。失敗はしない。俺だけじゃない、新一くんや、彼の周囲の平穏もかかっている。そして成功すれば組織の壊滅に一気に近づける。新たな潜入捜査官を考える必要もない。

 

「柊木、時間だよ」

 

 喫煙室に入ってきた諸伏に声をかけられる。その声にぱちりと目を開けた。

 俺よりも諸伏の方が緊張した面持ちであることに少し笑う。

 

「……余裕だな。俺は胃が痛い」

「余裕じゃねえよ。行かなくていいなら本当に行きたくない」

「ああ……まあそうだろうな」

 

 俺の言いたいことをわかっているのだろう、諸伏は遠い目をした。言うなれば「対象」は、トラウマドストライクの年上の美女だ。策を考えたのは俺だけど逃げたい。

 

「まあ、やるんだけどな」

 

 何だろう、全力で逃げたいのに全力で楽しくなってきた。くつくつと笑う俺を、諸伏が呆れたように見る。

 

「初めて知ったけど、俺、追い込まれると燃えるのかも」

 

 そんなこと俺たちは警察学校の時から知ってたぞ、とぼやく諸伏の言葉に、俺はもうひとつ噴き出して煙草を灰皿に押し付けた。

 

 

 *

 

 さて、バーボンからの密告によるとこの辺りのはずなんだが。くるりと周囲を見渡すと、綺麗なブロンドの髪が見えた。

 まさか人生初のナンパがこれとは、と苦笑しつつその隣に追い付いて声をかけた。

 

「あれ、お姉さん、ハリウッド女優のクリス・ヴィンヤードさんによく似てますね。もしかしてご本人?」

「人違いよ」

 

 こういう風に声をかけられるのには慣れているのだろうか、こちらを見もせずにその人はばっさりと切り捨てた。なるほど、ナンパってこうやって断るのか。

 

「これは失礼、シャロン・ヴィンヤードさんの間違いでしたか」

 

 ひるむことなく言葉を続ければ、彼女は僅かに肩を揺らす。

 

「それとも、ベルモットとお呼びした方が?」

 

 そこで初めて、彼女は俺に視線を向けた。表情こそ変えていないがその瞳には明確な警戒心と敵意が見え隠れしている。俺はにっこりと微笑んで見せた。

 

「誘われていただけますか? ふたりきりでお話したいのですが」

「……いいわ」

 

 ―――さて、ここからだ。

 

 

 *

 

 

「まずはこの席に座ってくださったことに感謝します、ベルモット」

「御託はいいわ。……随分見晴らしがいいのね、ここ」

 

 彼女を案内したのは近くの大型の公園の四阿だった。緑に囲まれて見晴らしも良く、人が近寄ればすぐにわかる。もちろん民間人も含め、誰も入ってこられないように手配済みだ。

 

「捜査員が近くにいないことを証明しようと思いまして。貴方の座っている位置は柱の死角でスナイプも無理ですし、こちらなりに貴方の身の安全を保証したまでです」

「でも、盗聴器はあるんでしょう?」

「よくおわかりで。これです」

 

 ことりと身に着けていた盗聴器をテーブルの上に置いた。

 あまりにあっさり取り出したことに驚いたのか、ベルモットは何も言わず俺を見据える。それににこりと笑顔を返して、俺は懐に手を入れた。

 

「……ふうん。それで、私に何の用かしら」

「率直に申し上げますと、こちらに寝返ってほしいんです。ちなみに俺はこういうものです」

 

 取り出して見せたのは、正真正銘俺の警察手帳だ。本名も階級も嘘偽りなく、もちろん手帳の表紙には「警察庁」。もちろん本物ですよ、と微笑みかけると、さすがにベルモットもひとつ瞬きをした。

 

「……呆れた、本名と所属まで晒すなんて。よほど私を仲間に引き入れる自信があるのかしら」

「貴方が俺の思っている通りの人なら、おそらく」

「ふふ、いいわ、強気なバンビは嫌いじゃなくてよ? 話だけでも聞いてあげる」

 

 誰がバンビだ。内心そう思ったがもちろん顔には出さない。

 俺は警察手帳を懐にしまいなおし、改めて口を開いた。

 

「こちらが求めるのは貴方が持つ限りの組織についての情報、ならびに作戦への協力です。見返りは、貴方の身の安全と今後の生活の保証と言ったところですかね。何かご希望があるようであれば交渉には乗ります」

「……それだけ?」

 

 拍子抜けしたように言うベルモットに、ええ、と笑いかけた。そしてただし、と前置きして鞄からタブレットを取り出す。画面を照らし、ベルモットに向ける。

 

「この取引に乗って頂けない場合、彼についての情報を公開します」

 

 その画面の人物を見た瞬間、ベルモットの顔色が変わった。

 

「随分ご執心のようですね? 貴方が陰ながら守っている江戸川コナン、―――いえ、」

 

 工藤新一。その名前を出した瞬間、額に黒く堅いものを押し付けられた。まったく、銃がご法度のこの国でよくもまあこんな物騒なもんを持ち歩いてくれるものだ。

 

「ポーカーフェイスが崩れていますよ、貴方らしくもない」

「……日本警察も堕ちたものね。民間人を巻き込むなんて」

「自ら危険に飛び込んできたのは彼の方ですよ。今や彼は我々の『協力者』、どんな形で協力してもらおうとこちらの勝手というものです」

 

 公安警察のやり方、少しはご存知でしょう?

 そう薄く笑って見せると、彼女は少しだけ眉間のしわを濃くした。やはり、彼女にとって工藤新一は特別な存在らしい。友人の息子と言う以上の何かがあるように思えてならない。そしてそれは、工藤新一に対してだけでない。

 

「彼の情報が組織に流れれば、真っ先に命を狙われるでしょうね。もちろん彼は『協力者』、その身の安全は全力で守らせていただきますよ? まあ、今まで通りの普通の生活はもう無理でしょうけれど。……ああ、でも貴方の所属する組織は、こういうとき新一くんの周囲ごと抹殺しようとするんでしたっけ?」

 

 たとえば彼の家族。

 たとえば「江戸川コナン」に関わったすべての人々。

 

「たとえば、貴方の大切な『エンジェル』も」

 

 突きつけられた拳銃の先が揺れた。

 何故毛利蘭をエンジェルと呼んで守ろうとするのか、詳細は知らない。だが、バーボンにはふたりに手を出さないように釘を刺し、毛利蘭が宮野志保を庇った際にはどけと叫びながら最後まで彼女に銃口は向けなかったと聞いた。

 ベルモットは非情な犯罪者だが、それでも確かに彼らに対して何らかの特別な感情を抱いている。それだけは確証があった。

 

「……警察が民間人を人質に取って犯罪者を脅すとは思わなかったわ」

「秘密主義だと名高い貴方が見せてくれたせっかくの弱みです、利用しない方が失礼でしょう?」

 

 芝居がかったように両手を広げてみせると、彼女は動揺をしまい込んで余裕の笑みを浮かべてみせた。さすが世界的な銀幕のスター、取り繕いが上手いし早い。

 

「それでも私がこの取引に乗らないと言ったらどうするの? 貴方、本名まで晒して、殺されるわよ。貴方の周囲ごとね」

「生憎と周囲と呼べるような人もいない身の上でしてね。もしこのまま貴方が引き金を引くというのなら殺人の現行犯で逮捕、逃亡しても国際指名手配をかける手筈は整っています。また、この場で貴方が手を下さないというのなら、つまり俺自身が組織の人員をおびき寄せる餌になれるわけですね? 願ったりですよ」

 

 そして俺を殺そうとのこのこやってきた奴らを片っ端から捕まえ、どんな手段を用いてでも情報を吐かせる。仮に情報を持っていなくてもいい、欠片でも組織と関わっているのならどんな末端でも使い道はある。無駄にするなんてそんなもったいないことはしない。

 

「ちなみに、工藤新一の情報を公にするというのもはったりではありません」

 

 全世界に流すような真似はしませんが、と前置きをして笑顔のまま続けた。

 

「組織に情報を流すのはもちろんですが、そうですね、世界各国の諜報機関にも流しましょう。肉体の幼児化なんて不老長寿につながる人類の夢だ、それがもたらす利益は計り知れない。多くの国々が幼児化する薬を作った天才的科学者と、その薬を服用したサンプルという切り札をもつ日本警察に協力を持ち掛けてくるでしょう」

 

 だが、ただでこの案件には関わらせてやらない。それまで組織の捜査を行っていればその情報を提供してもらうし、行っていなければそれなりの情報を用意してもらう。そうでなければこの「美味しい話」には乗らせない。

 

「彼らと言う餌に釣られた各国の諜報機関は連携し、本気になって貴方方の秘密を暴きにかかる」

 

 容赦のない魔女狩りが始まるだろう、組織の構成員の居場所はこの世界のどこにもなくなる。それでも組織は、その秘密主義を守り抜けるだろうか?

 

「国益が絡んだ『国』は、それはそれは恐ろしいと思いますよ」

 

 国のためという大義名分は、時として人を狂わせる。それこそどんなことも、きっとやってのけるだろう。俺たち公安警察のやり方すら生ぬるく思えるくらいに。

 そこまで言って、俺は少し肩の力を抜いた。すっと息を吐いた俺を警戒するように、ベルモットは少しだけ目を細める。

 

「まあ、出来ればそんなことはしたくないんですけどね」

 

 苦笑してそういうと、ベルモットは鼻で笑った。そりゃそうだ、ここまで言っておいて「やりたくない」とかどの口が、ということだろう。俺もそう思う。

 

「俺たちの目的はあくまでもこの日本国家の秩序と安寧、そして国益です。だから本来は、宮野志保と工藤新一を確保した時点で貴方に取引なんぞ持ち掛けず、今言ったことをしても良かった。そちらの方が手っ取り早いですしね」

 

 他国との連携は面倒だが、日本が有利に立ち回れるだけの材料は揃っている。組織の幹部に協力を求めるなんてリスキーなこともする必要はなかった。

 

「ですが、俺の欠片程度の良心が、民間人を生贄にするような真似は避けたいと叫んでましてね。あえて自分の顔と本名を晒して、こうして交渉の場を設けました。あ、ちなみに俺、公安警察におけるこの案件の責任者です」

「良心なんて笑わせるじゃない、単に他国にその薬の利益をわけてやるのが癪なだけでしょう?」

「ああさすがにバレてますか、否定しませんよ」

 

 ははっと笑うと、彼女は撃鉄を起こした。それでも俺は笑顔を保つ。そして少しだけ声色を落とし、ゆっくりと彼女に言った。

 

「守ってくれませんか?」

 

 笑顔のまま、少しだけ首を傾ける。

 脳裏に浮かんだ、俺を信じると言った新一くんの顔。彼女が取引に乗らなければ、俺は今言ったことをそのまま実行する。俺自身の手で、彼と彼の周囲から平穏を奪う。それが、個人よりも国家を優先する俺の職務だ。

 良心が痛まないかって? 痛むに決まっている。それでも、やるんだ。

 

「ひとでなしの俺から、貴方の宝物を。貴方自身の手で、守ってくれませんか」

 

 俺を悪魔と呼ぶなら呼べばいい。

 

 

 *

 

 

 ベルモットとの交渉を終え、俺はその足で警察庁に向かった。

 部屋に入ってすぐ、金髪を短くそろえた眼鏡の女性に掴みかかられる。ああ、この人がジョディ・スターリング捜査官か。後ろにはアンドレ・キャメル捜査官もいる。まったく最悪なタイミングでの顔合わせだ。

 

「貴方……っ!」

 

 怒りをにじませたその瞳に、無感情な視線を返す。

 そういえば彼女は工藤新一やその周囲と親しいだけでなく、ベルモットとも因縁があったはずだ。確か親の仇だったっけ、冷静でいられないのも無理はないのかもしれない。まあ、俺には関係のないことだ。

 

「やめたまえ、ジョディ君」

「ジョディ、その手を離せ」

 

 Mr.ブラックが制止し、赤井さんが彼女の手を掴んで離させた。そのまま彼女をその腕で押しのけて下がらせる。

 

「すまない、柊木くん」

「お気になさらず」

 

 気にした風もなく笑顔を返した。それを見て、赤井さんは何か言いたげに口を開いたが、そのまま口を閉ざした。本当は彼も同じことをやりたいのだろう。

 

「アンドレ・キャメル捜査官にジョディ・スターリング捜査官ですね。改めて初めまして、柊木旭と申します。今後ともよろしく」

 

 その挨拶に、案の定返事はない。そしてそのままFBI捜査官の前を通り過ぎ、彼らの前に立った。今日彼らを呼ぶように指示したのは俺だ。

 

「……新一くん」

 

 俺がそう呼ぶと、彼はぴくりと反応し、顔をあげた。彼の後ろには、工藤優作氏も静かな顔をして立っている。

 

「……さすが柊木さんですね! ベルモットを寝返らせるなんて……これでベルモットから組織の情報をもらえれば、捜査は格段に進みますね!」

 

 いつも通りの顔を取り繕っても、震えるその手は隠せていない。まあ、こういう反応してくるだろうとは思ったけど、やっぱりこの子はクソガキだ。

 俺は下手な笑顔を浮かべる彼の脳天に、拳骨を叩き落した。

 

 

 *

 

 

 ごっといい音が部屋に響いた。

 誰もが驚いた顔で息をのみ、当人は頭を抱えて悶絶している。一応手加減はしたが、それでも相当痛かったと思う。俺の拳も痛い。

 

「いいか、俺がやったことや言ったことを考えれば本当にお前が言うなって感じだけど、誰も言ってくれないようだから全部棚に上げて俺が言ってやる。物わかりが良すぎんだよクソガキ」

 

 ぷるぷると震えながら、涙目の新一くんが俺を見上げた。

 何で拳骨食らったのかまるでわかっていないという顔だ。本当にそう、何でこの子はこうもたやすく危険や恐怖を乗り越えようとするのか。

 

「俺は確かに君を利用すると言い、君はそれを承諾した。だがその詳細も伝えることなく俺は君を人質に使ったんだ、駒として物として扱った。俺はそれに対して文句を言うなとまで言ったつもりはねえぞ」

「……え」

 

 わかるか、と。そう言ってその瞳をまっすぐに見つめた。

 俺はこの案件の責任者だ、だから他の捜査官に文句を言われる筋合いはない。俺が決めたことだから従え、そうでなければもっと良い策を持って来いと言うだけだ。

 だが彼は違う。彼は「協力者」であって俺の「部下」じゃない。まして彼は脅されて協力者になったわけでもなく、ただ善意から俺たちに力を貸してくれる「協力者」だ。

 俺に使われるにしてもせめて事前に詳細を教えてほしかったと、もっと他の方法はなかったのかと、そう喚いていい立場なのだ。

 

「たとえどんな状況であろうと、自分や自分の大切な人の平穏を脅かした相手を許すな。それらしい理屈に踊らされて仕方のないことだと諦めるな。弁えることが大人になることじゃない、恐怖を乗り越えることが勇気じゃない」

 

 乗り越えちゃダメな恐怖だって、あるんだ。

 俺がそういうと、その大きな瞳から涙がひとつ零れた。

 

「そんな風に利口ぶってるから俺みたいな奴に利用されるんだ。せっかく出来のいい頭持ってんだ、もっと賢く立ち回れ。状況がどう転んでも自分の守りたいもん守れるように頭使えよ。恐怖を乗り越えて危険に飛び込もうとするな、研ぎ澄ませて危険を回避するくらいしてみせろ」

 

 怖がれ。怖がって、その恐れる展開を避けられるように頭を使え。あえて危険に挑むな、挑むならその勝算を数えて最悪の事態を避けられる手を打ってからにしろ。

 自分を、大切なものを、その行く末を、そう簡単に人に預けるな。

 

「あんたもですよ、工藤先生。何てめえの息子を危険に晒されてすました顔してんだ。まず彼女よりもあんたが俺に掴みかかってくるべきだろ。頭が良かろうが所詮は十七のガキだぞ、自己責任求めるにはまだ早い未成年に、なんて事件に関わらせてんだ。あんたはもっと早く、この事態を避けられたはずじゃねえのかよ」

 

 本当に俺が言うことじゃない。だけど俺の口は止まらなかった。ずっと、言いたかった。

 

「息子さん、頭は切れるか知らんが少なくとも俺には及ばねえし、まだまだ大人の世界をわかっちゃいない。だから俺みたいなこずるい奴にいいように利用される。……ちゃんと近くで、見守ってやれよ」

 

 せめて、成人して独り立ちするくらいまでは。俺に子供はいないけど、それが親の役割だってことくらい、わかる。少なくとも俺のクソ親父は、そうしてくれたから。

 

「……柊木くん」

 

 そこで初めて工藤先生は、口を開いた。その声はあくまでも静かで、しかし何かを抑え込んでいるような圧があった。

 

「今回の作戦を成功させてくれて、心から感謝する。息子を、『世界』から……『君』から守ってくれて、本当にありがとう」

 

 そして、深く頭を下げた。まっすぐで、綺麗で、誠実だった。頭を下げたまま、言葉を続ける。

 

「この案件の指揮官が、君で、……本当に良かった」

「……今その発言します? 俺が言ってること伝わってますかね」

「伝わっているとも。だからこそだ」

 

 そっと工藤先生は頭を上げて、苦笑を漏らした。そして息子に目線をやる。

 

「新一」

 

 励ますように、促すように声をかけた。

 新一くんは涙にぬれた顔を袖でごしごしと拭き、真っ赤な目で俺を見た。

 

「……柊木さん、言ってることめちゃくちゃじゃなかったですか? ていうか俺、少し前に貴方を信じますってかっこつけたんですけど」

「まあ、俺も途中から自分が何言ってんのかわかんなくなったよね、ニュアンスで理解して。あの握手の時、もうこの子一回危険に晒してわからせるしかないなとは思ったよ。君を利用しますなんて言ってる相手を何で信じるんだよ馬鹿だろ」

 

 あの雰囲気に流されるなんて君も大概ロマンチストだなと鼻で笑ってやると、新一くんはむ、と頬を膨らませる。真っ赤な頬が大きく膨らんで林檎のようだ。

 

「二度とこんな大人を信用するんじゃねーぞ」

 

 そう言って、涙で濡れた顔にハンカチを押し付けた。

 

 

 *

 

 

 工藤親子とFBI捜査官が部屋を出た後、実は同じくその部屋でじっと話を聞いていたそいつがようやく口を開いた。

 

「よし柊木お疲れ! トイレ行く? エチケット袋? それともシャワー? あ、ベッドも今空いてるよ」

「何を言ってるんだ諸伏」

 

 は、と声を漏らした風見さんが諸伏を見たとき、ずるりと膝の力が抜けるのを感じた。あ、これ無理だ、久々に来た。倒れ込みそうになったときすぐさま肩を支えてくれた、力強い腕。

 

「やっぱり限界来たか。よく堪えたよ」

「ふるや……」

「とりあえずソファに横になるか。吐き気は?」

「だいじょうぶ……」

 

 もはや力も入らず、降谷に引きずられるままにソファに転がる。ぐるぐると視界が回り、手足が冷たくなっていくのがわかる。ぶるりと寒気に震えたとき、諸伏がばさりと毛布を掛けてくれた。手が届く位置にペットボトルを置かれる。

 

「ああ風見さん、話してませんでしたね。完全無欠に見える柊木ですが、唯一の弱点がありまして。何と女性全般アウト。特にベルモットみたいな年上美人は一番苦手。下手に接触するとこうなります」

「……は?」

「まったく、ベルモットとの交渉中もいつ倒れるかとひやひやしてたぞ。さっき掴みかかられたのも実は危なかっただろ」

「おもいださせないでくれ……」

 

 まだ世界が回っている。まだマシになったとは言え、さすがにトラウマ直撃レベルのベルモットは無理だ。むしろ俺はよく堪えた。一応顔には出さなかったつもりだが、隠し通せただろうか。

 

「……冗談では……ないんですよね……」

「お恥ずかしながら……」

 

 今後ベルモットと接触を持っていくことを考えると真剣に気が重い。でも、あの役は俺にしか務まらない。まだ降谷のことはバラせないし、諸伏のことももちろんだ。風見さんは交渉役には向かない。そして合衆国勢には任せられない。

 

「そういや、ベルモットが寝返ったことまだキールに伝えないよう念を押しといて……あと降谷もまだ正体バラさないでくれ……出来ることならお前のことは最後まで隠し通したい……」

「了解。わかったからお前は一回休め。……まさか本当に、あの魔女を引き入れるとはな」

 

 油断はできないが、本当に寝返ったなら大きすぎる収穫だ。

 そう続けた降谷に、かすかに頷いた。ベルモットは多分、俺たちが知りたいことをほぼすべて知っている。ラムやボスの正体、組織の全体図、もしかしたらボスの目的も。まだ詳細は聞けていないが、約束だけは取り付けた。

 脳裏に、彼女との最後の会話が蘇る。盗聴器では拾えない距離でかわされたあの会話は、たぶん誰にも聞こえていない。

 その場を去ろうと俺に背を向けたベルモットは、首だけで俺のほうを振り返って言った。自分が裏切るとは思わないのかと。それに対して俺はゆるく首を振る。

 彼女は裏切らない。何故なら彼女は、きっと俺と同じだと思うから。

 

『……これは本当に、俺個人としての勝手な想像ですけど』

 

 闇の中で見つけた光は、眩しかったでしょう?

 そう言うと、ベルモットは初めてわかりやすく動揺した。

 

『貴方は裏切りませんよ。少なくとも、彼らを危険に晒すことはしない』

『……わかったように言うじゃない』

『眩しいものなら俺も知っていますから』

 

 貴方が言う「天使」のように、綺麗な奴らではないけれど。

 

『そういう存在って、裏切れませんよね』

 

 苦笑してそう言うと、ベルモットは何だか複雑な顔をした後、ひとつ溜息をついて、くるりと俺に背を向けた。

 

『変な子ね、貴方』

 

 さっきと今と、どちらの顔が本物なのかしら。

 その言葉に、くすりと俺は笑う。

 

『もちろんどちらも、俺ですよ』

 

 また連絡しますね、とそう言った俺の言葉に、彼女は答えなかった。

 あの反応はきっと図星だと思っていいだろう。彼女は絶対に、自分が見つけた光を守ろうとする。だから組織ではなく、こちらにつく。

 

「……眩しいんだよなぁ」

 

 何か言ったかと聞き返した諸伏に何でもないと言って俺は目を閉じた。

 瞼の裏に浮かんだのは、底抜けに明るく笑うそれぞれの笑顔。今でも俺の部屋に飾られている、六人で撮ったあの記念写真だった。

 

 



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37

 今日は解散だと背中を押され、そろって部屋を出る。一言では言えない感情と思考が頭をぐるぐると回った。煙草を吸いたい。

 廊下に出た新一は一度立ち止まり、また涙をぬぐった。柊木くんから押し付けられたハンカチには涙のシミが出来ている。

 

「涙は止まったかい、新一」

「……うっせえ」

 

 からかうように優作が言うと、拗ねたように新一は言った。目は赤くなっていたがもう涙の気配はない。

 彼の涙を見るのはこれで二回目だ。そのどちらもトリガーは柊木くんの言葉だ。それだけで、柊木くんの言葉が新一にどれだけ影響を与えているのか察せられる。

 新一は唇をきゅっと結んでからジョディを見上げ、改めて口を開いた。

 

「……ジョディ先生、ありがとう」

「新一……」

「心配してくれたことはわかってます。ジョディ先生だけじゃなくて、皆さんも。……だけど、できればこの件で柊木さんを責めるのはやめてください」

 

 柊木さんの言葉でわかってくれたと思うけど、と前置きして新一は続けた。

 

「……柊木さんは、何度も忠告してくれた。この件だけじゃなくて、他のことについても、ずっと。それでも、―――公安の仕事や、この事件に協力することの意味を今日まで理解しなかったのは俺なんです。柊木さんに『俺』を使わせてしまったのは、俺だから」

 

 本当はすごく優しい人だから、あの作戦に罪悪感がなかったはずがないのに。それでも職務を全うして、そのくせ俺がちゃんと自分や自分の守りたいものを守れるよう、俺の足りないところや甘いところまで教えてくれた。

 そう言った新一は、確かに微笑んでいた。

 

「……多分こんなこと言ったら柊木さんに『お前馬鹿じゃないのか』ってまた説教食らう気がするけど、やっぱり俺は、……柊木さんに感謝しかない」

 

 言いそうだ、とつい内心で頷いた。何で自分を危険に晒した相手に感謝するんだと、心底呆れた顔をする柊木くんが容易に想像できて少し笑う。

 今回の柊木くんの策は、やはり全面的な賛同は出来ない。得るものがどれだけ大きかったとしても、結果的に誰も傷つかなかったとしても、どうしても。だが、決して否定も出来なかった。それが彼の職務であり、俺が思うよりずっと彼は考え、悩み、苦しみ、そのうえであの交渉に挑んだことくらいはわかる。

 正しくないとわかっていても、やらなければならないことはある。俺が明美を利用して組織に潜入したのも、そうだった。

 

「……そうだな。彼の言葉には、私も身につまされたよ」

 

 ぽつりと優作も言葉をもらす。少し目を伏せたその姿には確かな哀愁が感じられる。子どもを守るべき父として、大人として、思うところがあったのだろう。新一が協力者になることを止めなかったのは俺も同じだ。確かに軽率だった。

 

「……ええ、私も冷静じゃなかったわ。明日、ちゃんと彼に謝罪する」

「自分もです。……失礼な態度をとってしまった」

 

 ジョディとキャメルが言葉を漏らすと、ジェイムズも頷いた。俺たちの中で唯一、ジェイムズだけがあの交渉を最後まで落ち着いて聞いていた。

 

「彼は彼のやるべきことをやったのだ、相応の信念と覚悟をもって。だからこそ彼は、一言の言い訳も漏らさなかった。そして君たちの態度を責めることもしなかった」

 

 何と批判されようとも、どれだけ責められようとも、やるべきだと思ったから断行したし、かと言ってそれを認められたいとも、正当化したいとも考えなかったから。

 長年あらゆる捜査に携わってきたジェイムズの言葉が、重く響く。

 

「柊木くんの交渉もそうだが、私としては他の公安の捜査官たちも見事だと思ったよ」

 

 降谷くん、諸伏くん、風見くんも同じ部屋で交渉の内容を聞いていた。彼らは俺たちの動揺など気にすることもなく、交渉の流れを聞きつつ周囲を見張る捜査員に指示を出し、必要とあらばベルモット確保のために動員する準備を完璧に整えて。友人として柊木くんを案ずる気持ちもあっただろうに、おくびにも見せなかった。

 彼らは柊木くんの覚悟に全力をもって応えているように見えた。その姿勢に、敬意をもたずにはいられない。

 

「学ぶべき点は多そうだな。我々も、君も」

 

 そうジェイムズが新一に笑いかけると、新一も苦笑して頷いた。

 

「俺はまだ、協力者なことに変わりないから……俺は俺のできることを考えて、……できることがないならそれはそれで今の俺の力量なんだと納得して、……できることを増やせるように頑張ります」

 

 いつか俺も、俺の頭で考えて、柊木さんや誰かの役に立てるように。ただ利用されるのではなくて、対等な立場で「協力」ができるように。

 そう言った新一の瞳には、燃えるような決意が見えた。

 

「あの彼と対等か。なかなか大きく出たじゃないか、新一」

 

 からかうように言ってやると、新一は楽しそうに笑った。

 

「目標は高い方が燃えるでしょ?」

「違いない」

 

 子どもがひとつ階段を上る姿を、目の当たりにした気がした。

 

 

 ***

 

 

 翌日、出会い頭にFBIの捜査官たちに頭を下げられたことにはさすがに面食らった。失礼な態度をとってすまなかったと言われても、別に俺は全く気にしていないし謝罪を求めたつもりもない。というかどういう心境の変化だ。

 背後で予想外が過ぎて慌てる俺を笑っている気配がする。諸伏、後で覚えてろ。

 

「……さてはあのガキなんか言いました?」

「どうかな。当面の新一の目標は君と対等になることだそうだ」

「何で止めないんですか」

 

 目標にするならもっと健全なものがたくさんあるだろう。よりにもよってこんなこずるい大人を引き合いに出すこともない。そう言っても赤井さんはただ唇を歪めるばかり。いや本当に止めてやってほしい。

 苦笑したMr.ブラックが、改めて尋ねる。

 

「それで、ベルモットとの今後の接触については?」

「数日後、直接会う手筈をつけました。さすがにいきなり核心を聞いても答えてくれないかもしれないので、初回はボスやラムのことよりもスナイパーや情報網のことをデータにまとめてきてもらうつもりです」

 

 ふむ、とMr.ブラックは思案するように目線を浮かせる。

 何事にも段階というものは必要だ。重要度の高い情報を聞くのは回数を重ねてある程度こちらのことを知ってもらった後の方がいい。距離感が定まらないうちから核心を聞くと、嘘は言わずとも真実を言わない可能性が高い。言葉遊びが上手い相手には特に用心がいる。

 

「ベルモットから得る情報にもよりますが、その後は組織に対する忠誠心の強いスナイパーを確保する作戦に進もうと思います」

 

 おそらく対象はキャンティとコルンになるだろう。まずは彼らを確実に、捕まえる。

 作戦の段取りの大枠は考えてある。あいつらは怒るかもしれないが、お叱りは甘んじて受けるとしよう。何なら拳の少しくらいは受け入れるつもりでいる。と言ってもあいつらはあいつらで俺に甘いところがあるので、メシでも作ってやればそれで手を打ってくれるとも思う。ちょろくて助かる。

 

「ああ、降谷、ベルモットと会うとき、お前も同席してもらう。予定調整よろしく」

「構わないが……俺のことは最後まで隠したいと言っていなかったか?」

「だから『降谷』じゃなくて『バーボン』で来てくれ」

「!」

 

 察した降谷が驚いたように瞬きをしたあと、にやりと笑った。楽しい悪戯を思いついたような、「降谷」の笑い方だった。

 

「つまり俺はベルモットと同じように、寝返った人間として動けばいいんだな?」

 

 今後の作戦においてベルモットと降谷に協力してもらわなければならない場合もあるだろう。ベルモットへの信頼を示す意図も含め、バーボンがこちら側の人間であることは早めに伝えておいた方がいい。かと言って、情報のすべてを晒す必要はない。

 万が一俺の策が崩れたとき、降谷が逃げのびる可能性をわずかでも上げるためにも、降谷が公安だということは極力漏らしたくなかった。これまでも、これからも、降谷以上に組織に深く潜り込める人間が現れるとは思えない。降谷を失うことだけは絶対に避けなければならないのだ。

 

「バーボンがこっちに寝返った理由は適当に考えといてくれ。俺も適当に話を合わせる」

「了解」

 

 楽しそうに降谷は笑った。相手がかの大女優でも、嘘と本当を織り交ぜた降谷の言葉なら誤魔化せるだろう。

 

「言うまでもないことですが、皆さんも特に外で降谷と接するときは今まで以上に細心の注意を払ってください。決して降谷が公安の人間だということが露見しないように」

 

 俺が皆を見まわしてそう言うと、皆はしっかりと頷いた。

 そこでさっと赤井さんが手を上げる。

 

「キールについては?」

 

 ベルモットの寝がえりの話は指示通りまだ伝えていないがと続けられ、少し考える。

 俺はまだ彼女に会ったことはないし、その特性もよくわからない。CIAからの潜入捜査官なら相応に優秀だということはわかるが、俺の指示に従ってくれるとも思わないのでむしろその存在はある意味危険だ。

 さすがに邪魔をしてくるとまでは思わないが、彼女は彼女の、CIAとしての思惑で動くだろう。いずれ協力を頼むことがあるとしても、今はまだ早い。

 

「……ええ、ベルモットの寝返りのことはまだ伝えないでください。もちろんバーボンのこともです。他はこれまで通りで構いません。向こうが何か言ってきたら共有をお願いします」

「了解した」

 

 じゃあ後はそれぞれの捜査にと言いかけたところで、先ほど頭を下げてくれた実直な捜査官に声をかけた。

 

「そういえばキャメル捜査官」

「、はい!」

「確かFBIでも有数のドライビングテクニックの持ち主だと伺いましたが」

「は、そのように自負していますが」

 

 下手な謙遜をしないあたり、逆に有難い。そう思いつつ、俺は満足げに頷いてみせた。なるほど、運転が得意。とても助かる。

 

「この近辺を中心に、出来る限りの道路情報を頭に入れておいてください。最近は工事も多いです、常に最新の情報を頭に入れておくようにお願いします。いつそのテクニックを発揮してもらうとも限りませんから」

「了解しました」

 

 しっかり頷いてくれたのを確認し、笑顔を返す。

 いつというか、すぐに発揮してもらうことになるので是非とも頑張ってほしい。次の作戦は楽しいことになりそうだなあと内心笑いつつ、俺は改めてそれぞれに指示を飛ばした。

 



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38

 いつものように出勤してみると、昨日の夜「俺ももう帰るからお前も帰れ」と言って俺を追い出したはずの同期兼上司が、昨日と同じスーツで端末の画面を見つめていた。

 

「……徹夜したな?」

「……ああ、おはよう諸伏。次の作戦考えてたら止まらなくなってな」

 

 こきりと首を鳴らしたそいつの目の下には、薄く隈が出来ていた。基本的に健康的な生活習慣を心掛けているはずだが、このところたまに隈を見かける。

 

「俺に帰れって言っといて……全く、仮眠行ってきたら?」

「そうだな……あ、諸伏、それ今日の朝刊か? 見せて」

「仮眠は?」

「新聞読んだら寝る」

 

 やれやれと首を振りつつ、朝刊を投げ渡した。悠々と柊木はキャッチして一面から目を通す。

 

「何か大きな事件あったか?」

「いや、今日の朝刊はわりと平和だったぞ」

「おい爆弾事件起きてるじゃねーか、どこが平和だ」

「犯人捕まってるなら平和の範囲内」

 

 昨日パトカーがうるさかったのはそれだろう。大きな事件だから多分萩原も臨場して頑張ったのではないだろうか。

 出世して以降も我らが同期は優秀な検挙率を誇っていると聞いている。

 

「……この事件の規模なら萩原も多分徹夜だな」

 

 同じことを考えていたのだろう柊木が、ぼそりと呟く。今頃萩原はくしゃみでもしているかも、と少し笑った。

 

「でも大きい刑事事件はそれくらいだな。後はまあ最近の政治云々の話と……ああ、前の法務大臣がやらかした不正の裁判の判決が出たとか、首都高のトラック横転事故の話とか、未発見だった歴史上の偉人の愛刀が見つかったとかかな。さしてめぼしいものはなかったと思うぞ」

「……そうか」

 

 今ほんの少し柊木に動揺があった気がしたが、瞬きする間にいつも通りの顔に戻ったから気のせいだったかもしれない。そのままぱらぱらと新聞をめくり、あっという間に最後のテレビ欄までたどり着いた。相変わらずすさまじい速読だ。

 

「じゃ、俺一時間くらい寝てくる。シャワー浴びてから戻るから」

「了解。今日はデートの日だろ? ちゃんと隈消して来なよ」

「かわりに行ってくれないか」

「真顔で言うな。ほら、おやすみ」

 

 心底嫌そうな顔でおやすみ、と言った柊木は仮眠室へと向かって行った。まあ、嫌がる気持ちもよくわかる。今日はベルモットとの約束の日なのだ。

 ベルモットとバーボンを一度に相手にするなんて芸当、柊木くらいにしか出来ないだろう。

 

 

 ***

 

 

 彼女に指定された先は、隠れた雰囲気のバーだった。

 まだ早い時間なので営業している様子はなく、少し警戒しつつ扉を開けると、中にはベルモットがひとりカウンターに腰かけてグラスを傾けていた。

 

「遅いわ。レディを待たせるなんて男の風上にも置けないわね」

「おかしいな、俺の時計では時間ちょうどなんですけど」

「待ち合わせの時間前にスタンバイしておくのが男の嗜みよ」

「それは失礼。覚えておきましょう」

 

 苦笑して彼女の隣に腰かけた。カウンターの奥にはさまざまな種類の酒が並んでいる。

 

「飲みたいなら勝手にしたら」

「生憎と車で来てまして。強いわけでもないので遠慮しておきます」

 

 見たことのない酒の種類も多く、興味本位でぼんやりとボトルを眺める。

 もっぱら飲むのはビールだし、洋酒も少し覚えたとはいえ詳しいとは言い難い。ああ、あれスコッチか。その隣にはバーボンもある。知った名前の酒を何となく目で追っていると、カウンターを滑るように隣からメモリが飛んできた。

 

「……お望み通りの情報よ」

「ありがとうございます。中身拝見しますね」

 

 持ってきていた小型の端末を取り出す。彼女が偽の情報を出すとは思っていないし、メモリに細工をしているとも思わないが、念には念を入れたい。

 

「……やはり忠誠心が強い腕利きのスナイパーはキャンティとコルンですか」

「そのふたりがダントツでしょうね。仲間意識も強いわ」

「へえ。……なるほど。さすがベルモット、欲しい情報がすべてまとめられていますね。これなら次の作戦も問題なさそうだ」

「……次のターゲットは、そのふたりってことかしら」

 

 そう言ったベルモットに、にこりと笑顔を返す。

 

「そうだと言ったら、邪魔をしますか?」

 

 俺の顔を見て数秒沈黙したベルモットは唇の端だけで笑って、まさか、と嘲るように言った。どうやら彼女は仲間意識というものを持ち合わせていないらしい。

 

「私は貴方が約束を守るならそれでいいわ」

「もちろん、工藤新一の身柄も秘密も責任をもって守りますよ。毛利蘭にも手出しはさせません」

 

 彼女から出された条件は、ただそれだけ。

 ふたりのことを、その身の安全だけでなく、穏やかで普通の生活も含めて守ること。

 むしろ、ベルモットがそう言ってくれるのは有り難かった。その「約束」のおかげで、俺は公私の両方の理由で彼らを守ることが出来る。

 

「それじゃ、今日の話は終わりかしら」

「ああすみません、今日は紹介したい人もいるんです。ちょっと待ってください」

「紹介?」

 

 ベルモットが眉をひそめたところで、また店のドアがゆっくりと開いた。適当な時間に来いとは言ったが、相変わらずタイミングのいい奴だ。

 

「失礼、遅くなりましたか?」

「バーボン……!」

 

 余裕の笑みを浮かべた降谷を見て、ベルモットが顔色を変えた。

 

 

 *

 

 

「……やはりNOCだったというわけ?」

 

 一瞬で落ち着きを取り戻したベルモットは、余裕の笑みを浮かべつつ降谷を見据えた。それに対して降谷は芝居がかったように両腕を広げる。

 

「だから違うと何度も言っているじゃありませんか。僕はNOCじゃない、立場的には今の貴方と同じですよ。……大切な『宝物』を守るために組織を裏切り公安警察に寝返った貴方とね」

 

 その言葉に、ベルモットはかすかに眉をひそめた。

 うわ、性格の悪い煽り方しやがる。内心そう呆れつつも表面ではため息をつくに留めた。

 

「……どういうことかしら」

「彼の言う通りですよ。彼は公安警察の人間ではありません。貴方と同じく、条件付きでこちらについてもらっている『協力者』です」

「警察の情報を手に入れようと彼に近づいたんですが、話してみると結構話のわかる人でしてね。それならと思って彼につくことにしたんですよ」

 

 ふふ、とバーボンの顔で笑いながら、降谷はカウンターの中に入った。どれがいいかな、と遠慮なく酒を物色する。オイお前飲む気か。

 

「……貴方が出した条件は?」

「ふふ、秘密です。でも、大したことじゃありませんよ。そうでしょう?」

 

 もちろん条件内容など決めてないので軽くまあな、と話を合わせておく。バーボンはそもそも秘密主義で通していると聞いている。別に秘密のままでも違和感はないだろう。

 お目当ての酒を見つけたのか、降谷はグラスを用意して緩やかに酒を注いだ。

 

「まあ、条件なんて適当でいいんです。ほら、せっかくできた友人とは仲良くしたいでしょう?」

「……えっ俺お前と友人だったの?」

「ひどいな、友人のためと思って危険を冒して情報を手に入れてきたのに……やっぱりこれはいらないかな?」

「そういえば俺、お前とはとても仲の良い友人だった気がする」

 

 芝居がかったように泣きまねをしながら、懐から取り出したメモリを自分の酒に落とそうとするのをとりあえず止める。中に何の情報が入っているのかは知らないが、降谷がバーボンとして集めてきた情報なのだろう、こういうのは振りでも心臓に悪いからやめてほしい。

 そんな俺の心中を察してか、またふふ、と笑って俺にそのメモリを投げて寄越した。

 

「……随分親しいじゃない」

「友人ですから」

 

 本当にNOCじゃないのという疑いを隠すことなく、ベルモットは降谷を見つめた。そこで余裕で笑顔を返すあたり、さすが腕利きの潜入捜査官だと思う。やっぱりこういうところは真似出来ない。

 とりあえずさっさと話を済ませてしまおうと俺は口を挟んだ。

 

「今後、ふたりに協力してもらうこともあるかと思いましてね、早めに顔合わせしておこうと思ったんです。秘密を共有できる相手がいるというのは気楽でしょう? お互いに弱みを握り合うことにもなりますし」

「つまり、お互いに貴方を裏切らないよう見張っておけというわけね?」

「話が早くて助かりますね。その通りです」

 

 もちろん、ベルモットの裏切り防止策のひとつでもあり、バーボンが窮地に陥ったときに助けるための策のひとつでもある。お互いがお互いを見張り合い、逆に言えばフォローできるというだけでそれぞれの生存率は跳ね上がる。もちろん、ふたりが協力することで作戦の幅が非常に広がるのも有難い。

 この次の作戦はバーボンに動いてもらうが、いずれベルモットにも情報提供以外の形で手を貸してもらうことになるだろう。

 

「是非お互いに仲良くしてください。これまでと同じようにね」

 

 俺がそう言うとバーボンはにっこりと笑みを返し、ベルモットは不快そうに眉をひそめた。その様子にまた笑いつつ、俺は立ち上がる。

 

「もう帰るのかい?」

「忙しくてな。今日は車で来てるし、お前の酒に付き合うのはまた今度だ」

「それは残念」

「ベルモットも、また連絡します。次はちゃんと時間前に伺いますよ」

「一秒でも遅れたら帰るわよ」

 

 心しておきますとだけ言葉を残し、俺はふたりに背を向けた。

 最初の接触としてはこんなもんだろう、次の作戦に必要な情報はちゃんと手に入ったし、ふたりの顔合わせも完了した。あの様子なら多少疑われても降谷は軽く煙に巻く。

 俺は振り返ることなくドアを開け、外に出て太陽の光を浴びてようやく息をついた。とにかく長居は無用、俺の女性苦手をベルモットに知られでもしたら絶対に面倒なことになる。

 

「……とりあえず、今は目の前のことに集中だな」

 

 ベルモットと「核心」の話をするのは、次の作戦でこちらの本気を示してからでも遅くはない。ふたりから渡されたメモリをきゅっと握って、俺は自分の車の方へ足を向けた。

 

 

 ***

 

 

 そっと自分のグラスに入れたバーボンに口をつける。独特のほろ苦い甘みが口の中に広がった。

 

「……随分と気に入ってるようね?」

 

 ベルモットの言葉に、唇の端を上げた。

 気に入っている、そう見えただろうか。「安室透」「バーボン」として設定した性格は本来の俺とはまったく異なるもので、それぞれの立場にいるときは出来る限りその「顔」になり切って振舞う。そうすると不思議なもので、好き嫌いや感情までそれぞれの「顔」に合わせて感じるようになった。

 

「ええ。面白いでしょう? 彼」

 

 降谷零にとって、柊木旭はとても良い友人だ。そしてまた、異なる「顔」の自分も彼のことは気に入っている。「バーボン」とて例外ではない。

 

「彼は本来真っ白なんですよ。真っ白なのに、職務において黒として振舞うことを躊躇しない。血に塗れることも、泥で汚れることも厭わない。それなのに、やっぱり彼は白いままなんです。どんなに汚れても、芯までは染まらない」

 

 茨の道を自ら選ぶんですよ、染まってしまった方が楽なのに。

 公安の仕事は汚れ仕事も少なからずある。長く務めている者の中には、警察官になった当初はもっていたはずの罪悪感を投げ捨ててしまっている者もいる。俺としてはそうなる前に別部署に異動すべきだと思うが、無理もないと思う。

 確固たる信念をもって日本のために働き、「本来やってはいけないこと」だとわかりながら違法作業に勤しむのは、精神的に辛い。良心も痛む。その痛む良心を抱えながら、それに耐えながら、それでも職務を果たす。それが公安警察の務めだ。公安に来てそう日もたっていないのに、柊木はそれをよくわかっていた。

 罪悪感を捨てることなく、自分の「罪」を正当化することなく、痛む良心を正面から見据えながら、それでもなお為すべきことを。

 バーボンからすればそんなものは愚の骨頂だ。自分のことしか考えない「僕」にとっては、愚かとしか言いようがない。だからこそ、見ているのは面白い。

 

「見てみたくなったんです、彼がどこまで『白』でいられるのか。いつまで彼が、自らの『心』を捨てないまま職務を果たせるのか」

 

 最後まで「白」のままでいてほしいような、いっそ「黒」にも染まってほしいような。どちらに転んでも見ているのは面白い。だから「バーボン」は柊木旭を気に入っているし、協力者になることを選んだ。

 組織にいるよりも、彼の行く末を見る方がよっぽど愉快だと思ったのだ。

 

「NOCではなくともスパイだという現状は、とてもスリリングで刺激がありますしね」

「……貴方本当に性悪ね、バーボン」

「おや、ひどいな」

 

 呆れたようにこちらを見るベルモットに、くつくつと笑う。

 貴方だって、彼に対して思うところがあったからおとなしく言うことを聞いているのだろうに。ただ脅されただけで素直に言うことを聞くほど、彼女は安くない。

 

「貴方こそ、どうして? 彼らのことが心配なだけなら、やりようは他にもあったでしょう」

 

 それこそ、柊木旭をさっさと暗殺してしまえばいい。難しくはあるだろうが、彼女が本気になって計画を練れば不可能ではないはずだ。

 

「……心からの言葉は、わかるからよ」

 

 聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ベルモットは呟いた。一瞬見せたその切なげな表情はすぐにかき消されたが、あの交渉の会話を聞いていた俺は、ベルモットが柊木のどの言葉を指しているのかはすぐにわかった。

 

『人でなしの俺から、貴方の宝物を。貴方自身の手で、守ってくれませんか』

 

 あれは間違いなく、柊木があの場で零した「本音」だった。公私の両方で、心からそう願って出た言葉だった。柊木の「甘さ」ともいえるその言葉は、どうやら魔女の心も溶かしたらしい。

 俺はそっと、ベルモットに笑いかけた。

 

「手を組みましょう、ベルモット。どうせ彼に目をつけられた以上、この組織の崩壊は決まったも同然です。沈むとわかっている泥舟に乗るよりも、泥舟の沈没を早める側にまわった方が賢明でしょう?」

「……随分高く買ってるじゃない」

「事実ですよ」

 

 彼は組織に終末を告げます。それも間違いなく、近いうちに。

 そう言うと、ベルモットは皮肉気に笑った。

 

「まるでヘイムダルね?」

「北欧神話ですか。彼がヘイムダルだとしたら、今すでに終末を予感してギャラルホルンをミーミルの泉に取りに走っているところでしょう」

 

 ヘイムダル―――「世界を照らす輝き」という名を持つ、北欧神話の「白き神」。ラグナロクが到来するとき、彼はそれを知らせるためにギャラルホルンを吹き鳴らす。

 

「もっともヘイムダルとは違って、彼がギャラルホルンを吹くのは神々に危機を知らせるためでなく、本当に『終わり』を告げるためでしょうけど」

 

 お前らが好き勝手する時代は終わったのだと、彼が自ら告げるのだ。

 神々の中でもっとも容姿が美しく、暁の光の化身と呼ばれるヘイムダル。柊木のルックスにも、その「旭」という名にも、よく似合っている。

 

「彼の奏でる角笛の音色は、どれほど美しいのでしょうね」

「……本当に悪趣味だわ、貴方」

 

 にこにことそう言うと、ベルモットは呆れたように手元のグラスに口を付けた。

 

 

 ***

 

 

 警察庁の執務室に戻ると、諸伏と風見さんが書類を片手に作業をしていた。疲れた顔をしていたのだろう、顔を合わせた瞬間にふたりは苦笑する。

 

「お疲れ」

「お疲れ様です」

 

 風見さんに差し出されたペットボトルを有難く呷る。短時間で済ませた分、今日は倒れずに済みそうだ。心配そうに風見さんがこちらを見ている。申し訳ない。

 

「大丈夫です。資料は集めてもらえましたか」

「そちらが指定された近辺の道路地図、その中にある信号のサイクルのデータです」

「あとその近辺に店を構えている協力者のリスト。……それから、」

 

 伊達と松田の、この先一か月分の勤務予定。

 それを差し出した諸伏は、隠してはいたが非常に微妙な顔をしていた。何に使うんだこのデータ、と表情が言っているのがわかる。俺は苦笑しつつそれを受け取った。

 

「助かる」

「……柊木」

「あいつらは俺たちの『協力者』で、非常に優秀な刑事だ。状況判断が正確で、少ない情報からでもきっと俺の意図を読み取ってくれる、頼りになる奴らだ。そうだろう?」

 

 だからこそ、手を借りる。だからこそ、使わせてもらう。

 次の作戦には、どうしても「刑事部」、それも「捜査一課強行犯係」の手が必要だ。伊達も松田もメインは殺人や傷害の捜査だから今回の作戦的には少し畑は外れるかもしれないが、「人手が必要な捜査」になれば応援として呼ばれるだろう。

 

「あ、風見さん、公安部からドライブテクのある人間を……そうですね、五人ほど選んでおいてください。人数分の車の手配もお願いします」

「了解しました」

 

 さっと風見さんが部屋を出ると、もう一度俺は諸伏に向き直った。

 

「そういえば諸伏、お前キャンティやコルンと面識はあったって言ってたよな」

「え? ああ。一応何回か話したことはある。あいつらスナイパー相手には特に仲間意識の強かったから、わりと親し気に声をかけてきたよ」

 

 それなら、と今まで得た情報から推測したことを尋ねた。これが合っているかどうかで作戦の危険度が全く違ってくる。外れているならもうひとつ対策を考えなければならない。

 

「……ああ、そういえばそんなこと言ってるの聞いたことあるな。こだわりがあるとか、スナイパーとしての美学とか、そういう感じのことを言ってたと思う。スコープ通して獲物を見るのが好きなんだと」

 

 よし、ビンゴ。それなら伊達や松田にそう危険はないはずだ。あとは俺が、きっちりと計算をしてタイミングを計るだけ。この作戦は全て、タイミングがものを言う。

 満足げに頷いた俺を見て、諸伏は思わずといった感じで口を開いた。

 

「何を企んでるんだ?」

 

 俺はその言葉ににやりと笑って、一言だけ。警察官として本来あるまじき言葉を、口にした。

 

「ちょっと強盗事件を起こそうと思って」

 

 その時の諸伏の顔ときたら、それは見ものだったと言っておく。

 

 




黒ずくめの組織における必須スキル「ポエム」ですが、作者にはこれが精一杯でした。難しい。


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39-1

「伊達」

「おう、松田か」

 

 いつも通り登庁して早々、よく知ったサングラスに声をかけられた。ちょうどいい、俺もこいつに会ったらまず聞こうと思っていたことがある。また連絡すると言ったきり、今朝までずっと何も言ってこなかったあいつについて。

 

「柊木から意味不明なメッセージが来たんだが」

「お前もか?」

 

 驚いてそう返すと、松田も驚いたようだった。

 あいつにしては珍しい、文章にもなっていなかったメッセージ。忙しかったのか、詳細を伝える気がないのか、俺のところにきたメッセージには意味不明な言葉だけ。

 

『青のダッジ・バイパー トランク確認 深追い無用』

 

 何のことやら。

 車に興味のないあいつがそんな車種を知っていたことにも驚いたし、トランク確認って何のことだ。少なくとも俺の知り合いにダッジ・バイパーに乗ってる奴はいない。メッセージを返しても返事がないどころか既読もないときた。

 

「……なんだそりゃ」

 

 俺のところに届いたメッセージを覗き込んだ松田が、思わず言葉を漏らす。

 お前のところには何てメッセージが来たんだと聞いてみれば、ん、と松田も画面を表示させて俺の目の前に突き出した。

 

『お目当ては廃倉庫 トランクを開けさせるな 容赦無用』

「……なんだこりゃ。ご丁寧に地図までつけて。ここ行ってみたか?」

「さすがにこれだけの情報で遅刻する気にはなれねえよ、すぐ向かえってんならそう書くだろ。お目当てってのも何のことだか……詳細聞いても返事もしやがらねえし」

 

 わけわかんねえ、と松田はがしがしと頭をかく。

 柊木は基本マメな奴だし、言葉をめんどくさがるようなことはしない。こんなにらしくないメッセージを送ってきたからには何か意図があるのだろうが、これだけでは全く意味がわからない。

 

「……萩原にも聞いてみるか」

「さっき会ったから聞いた。何もきてねーってよ」

 

 松田曰く、先日の爆弾事件以来目の下に隈を作っている特殊犯係の同期は、「えっ俺には何も来てないんだけど! 旭ちゃんひどくない?」と事件の調書を片手に喚いたという。萩原に送っていないのは、あいつが今死ぬほど忙しいことをわかっているからだろうか。

 そう思ったとき、背筋に冷たいものが走った。

 

「……松田、何か嫌な予感がしてきた」

「言うな。……俺もだ」

 

 萩原と違って今()()()()()()()()()()()()俺たちに、()()柊木が意味深なメッセージを送ってきた理由。あいつは、無駄なことは絶対にしない。

 柊木が「何か」を企んでいることを理解したちょうどその瞬間、俺と松田のスマホが同時にメッセージの着信を告げた。松田と顔を見合わせ、おそるおそる画面を見る。そこにはやはり、柊木からのメッセージ。

 

『頼んだ』

 

 だから何をだ。

 そう叫びそうになった時、捜査一課に強盗事件発生の一報が飛び込んできた。

 

 

 ***

 

 

 東都の地図が映し出された画面に、いくつかの点滅した光が走る。信号のサイクルも問題なし。これなら計算の修正はいらないだろう。

 悪いな伊達、松田。お前らならきっと、あのメッセージから俺の意図を読み取って動いてくれるって信じてるから。

 そう内心にやりと笑うと、目の前のマイクに向けて口を開いた。

 

「作戦に変更はありません。皆さん事故のないように気を付けて」

 

 イヤホンからそれぞれの返事と、車のエンジン音が聞こえた。あれ、聞こえなきゃいけないはずの声が三人分聞こえなかったなぁ。

 

「返事が聞こえませんよ強盗犯さんたち? 後処理が面倒なので間違っても捕まらないように」

 

 俺のその一言に、後ろにいた風見さんと諸伏が噴き出した。ヘルプを頼んでいる公安の捜査員たちも、それぞれの前の端末から目を離さないまま、少しだけ面白そうに肩を震わせる。同時にイヤホンから、あいつの笑い声も聞こえた。

 

『本当にいい性格してますね、貴方。最高です』

「お前に言われるなんていっそ光栄だよバーボン」

 

 そちらの状況は、と尋ねると、随分と機嫌よく、問題ありません、の一言。

 

『いつでも行けますよ』

 

 その頼もしい言葉に口角を上げ、俺は自分のスマホを取り出した。

 伊達と松田の返信はうるさいが、今は無視させてもらう。おそらく奴らもすでに登庁し、お互いのスマホを見せ合っている頃だろう。

 そして、俺が「やる気」だということを悟った頃だ。

 

『頼んだ』

 

 一言だけメッセージをふたりに送り付け、またスマホをポケットにしまった。頼りにしてるよ、ふたりとも。そう内心で呟き、口を開く。

 

「カウント始めます。今からジャスト一分後、作戦開始」

 

 この国で好き勝手をやってくれた奴らへの反撃は、ここから始まる。

 

 

 ***

 

 

 柊木との通信を切り、イヤホンの回線を切り替える。耳に飛び込んできたのは、ヒステリックな女の声だった。

 

『なんだいバーボン、任務の前に他の奴と連絡なんて余裕じゃないか!』

 

 その声に、その女がいる向かいのビルの方に身体を向けて、笑って見せた。道路を挟んでいて俺の目ではよく見えないが、きっとスコープ越しにこちらを見ているのだろう。

 

「すみません、情報提供者からの連絡だったもので。まあ、こちらには腕利きのスナイパーがふたりもいるんです。余裕があって当たり前でしょう?」

『ふん、見え透いた世辞はいいよ。今のところ姿も形も見えないけど、そのターゲットが来る時間は間違いないんだろうねえ?』

「僕の情報は確かですよ、間もなくです。退屈だからって無関係な兎を狩るようなことはしないでくださいね?」

 

 後始末が面倒ですから、と僕が言うと、もうひとつ鼻を鳴らし、ようやく堪え性のないスナイパーは黙ってくれた。向かいのビルに身体を向けたまま、視線だけを下に落とす。

 キャンティとコルンがいるのは向かいのビルの屋上、俺がいる場所より少し上に位置する。そのビルには、いくつかの小さな店が入っていた。そのうちのひとつ、一階にある小さな質屋。そしてちょうどその前に、古めかしい青い車が止まっている。

 ああ、これから起こることを思うと楽しみで仕方がない。

 

『……バーボン』

「何ですか? コルン」

 

 珍しくコルンの方から話しかけてきた。

 いつものごとくその声は無機質で何を考えているのかわからないが、今の声は何となく不審そうな色を含んでいた。

 

『お前、楽しそう』

 

 今の顔もスコープ越しに見られているのだろうか。そんなことありませんよ、と言おうとしたそのとき、空気を貫くような大きな銃声が響く。

 一分経った、スタートだ。

 

 

 ***

 

 

 突如として耳に入った銃声に身構える。

 当然、アタイたちが撃ったものではない。こっちはまだターゲットの姿すら確認してないというのに、いったい何があったってんだ!

 

「バーボン、今の銃声は!」

『僕にも全く……貴方がたではないんですね?』

「俺たち、違う」

 

 続いて聞こえてきたガラスの割れる音と、車の激しいエンジン音。下を見ると、すごい速さでぶっ飛んでいく車が見えた。

 

「あれは、」

『―――キャンティ、コルン、すぐに離脱してください。作戦は中止です』

「バーボン?」

『どうやら貴方がたがいるビルの一階に、強盗が入ったようです』

「強盗?」

 

 下の店からは店主だろうか、見るからに焦った男が飛び出してきた。

 このビルにはちんけな店しか構えていなかったはず。そんな場所に、しかもこのタイミングで強盗だって?

 

『今急発進した車が強盗犯のようです。この場所は警視庁からもそう遠くない、すぐにそこにも警察がやってくるはず。付近にはすぐに検問が張られるでしょう。僕は拳銃しか持っていませんし何とでもなりますが、貴方がたのライフルは目立ちますよ?』

 

 早く逃げた方がいいんじゃないですか?

 この状況すら楽しむように言うバーボンに、盛大に舌打ちをする。こういう嫌味ったらしいところ、本当に気にくわない男だ!

 

「コルン、逃げるよ!」

 

 こくっと頷いたコルンと共に、ライフルをケースにしまい込む。長居は無用だ、銃刀法なんぞで捕まるなんて冗談じゃない!

 

 

 ***

 

 

「強盗犯逃走開始」

「刑事部への通達も予定通り、検問の指示も出ました」

 

 公安の捜査官たちの報告が上がってくる。現状、予定通り。バーボンからも対象二名が逃走に入ったと報告もきた。

 

「検問の指示の詳細は?」

「検問の配置は想定通りです。被害者の証言より、強盗犯は『運転手を含め三名、実行犯はおそらく外国人の男性と女性。男性は長身で黒い帽子とサングラス、女性は短めの明るい茶髪が特徴。逃走に使われた車両は明るい青色であまり見ない外国車』、それを踏まえて疑わしい車両があれば止めるように、とのこと」

 

 よし、指示通り上手いこと証言してくれたようだ。

 被害者は決して嘘を言ってない。そもそも強盗に入られてパニックに陥っている被害者の証言なんて曖昧なものだ、これだけ覚えていればむしろ上等だと刑事部は考えるだろう。

 

「対象誘導班、準備をお願いします。それから強盗犯三名へ、逃走の指示と保護の用意を。重ねて言いますが、事故を起こさないように細心の注意を払ってください」

 

 公安らしい統率された返事を聞いて、少し口元を緩めかける。それをきゅっと締め直し、東都の地図が映し出されたモニターを見据えた。

 

 

 ***

 

 

「全く、ついてないね!」

「俺、撃ちたかった」

 

 愛車に乗り込んで東都の街を走る。他の車なんか吹っ飛ばしてこの場を離れたいところだが、サツがうようよしているこの状況ではそうもいかない。

 アクセルを踏み込みたい気持ちをぐっと抑え、緩やかに道を走っていく。

 

「とにかく隠れ家に戻るよ」

「ああ」

 

 今日の任務は、バーボンが持ってきた情報が発端だった。

 あのいけ好かない情報屋が言うには、組織の情報がどこかから漏れている様子があるという。今後行う任務の情報の内容などが主で、現状ではさほど影響は出ていないが、情報が洩れているというその事実そのものが問題だ。

 

『情報の送り先は特定できていませんが、鼠の行動はある程度調べがついています』

 

 鼠が隠れ家のように使っている場所というのが、バーボンが立っていたビルの一室だった。書類上では空き部屋であり室内も家具ひとつない空き部屋だが、鼠が不定期に訪れていることが確認されているという。

 

『調べたところ、スパイはふたり組。ひとりが室内に入り、その間もうひとりはビルの入り口で見張りをしています』

 

 投げて寄越された写真には、ふたりの男が写っていた。組織の構成員は数が多い上に、すぐ死んじまう奴も多いから入れ替わりが激しい。アタイには見覚えがないが、組織の下っ端にでも紛れ込んでいたのだろう。

 

『正確な身元はまだわかりません。ですが……』

『そいつらぶっ殺せばいいんだね?』

 

 その通りですなんですが、とバーボンはうさんくさい笑みを浮かべた。とはいえ、とバーボンは言葉を続ける。

 

『一応、本人の口からお話を伺いたいので。次に彼らがこのビルに現れる日、待ち伏せをしようと思うんです。必要なら場所を変えて飼い主の名前を教えて頂こうかと』

『ハン、お上品な言い方をするじゃないか。待ち伏せして急襲、拉致って拷問して口を割らせようってんだろう?』

 

 バーボンの笑みが深くなった。

 否定をしないその口元は、相変わらず胡散臭い笑みを形作っている。

 

『それが出来ればベストなんですけれど、抵抗される可能性も否めません。当然ながら、逃げられるくらいなら片づけてしまいたい。どちらにしろ生かしておくのはひとりで十分なので、見張り役は始末しないといけませんしね』

 

 だから、おふたりの力を借りたくて。

 平気な顔でそう宣う優男に、口元をゆがめた。

 

『いいよ、最近ぶっ放してなくて物足りなかったんだ。コルンも乗るだろう?』

『撃てるなら、やる』

 

 ただしアンタがしくじったらアンタの脳天ごとぶち抜くよ、とそう言うと、バーボンは望むところです、と平気な顔で笑った。

 そんな風に話していたのに、まさかこんな形で失敗するだなんて。

 

「全く、あんなちんけな店に、しかもこんな時間に強盗って正気じゃないね!」

「キャンティ」

 

 そう毒づいたところに助手席のコルンから声をかけられ、何だい、と腹立ちまぎれに返すと、長い付き合いのコルンは気にした様子もなく、あれと前を指さした。改めて正面を見ると、警察の検問が行われている。

 遅かったか、と舌打ちをした。

 

「コルン、ダッシュボードにアタイたちの免許証が入ってる」

「わかった」

 

 当然、偽造したものだが、一見した限りでは偽物とはわからないほど精巧につくられている。今道を引き返しても却って怪しまれるし、おそらく検問はここ一か所ではない。実際アタイたちは強盗犯でも何でもないのだ、堂々と通ってやればいい。

 唯一見られたらヤバイ愛用のライフルはトランクに収まっている。さすがに検問でそこまで確認されることはないだろう。

 

「さっさと切り抜けるよ」

「ああ」

 

 こんな状況に陥らせたバーボンの脳天に必ず鉛玉をぶち込んでやると心に決めながら、検問で渋滞している道をゆっくりと進んだ。

 




長めなので前半後半でわけています。


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39-2

 強盗事件の発生からすぐ、検問を敷くように命令が下りた。

 被害者からもたらされた犯人や逃走車両の特徴を頭に叩き込む。青の外車というところにわずかなひっかかりを覚えたが、とにかく部下とともに命令された配置に車を飛ばした。

 

「伊達警部補、お疲れ様です!」

「お疲れさん」

 

 すでに先に到着していた班が検問の支度を終えていた。今のところ通過した中には不審な車両はなかったという。

 犯人は逃走後、姿をくらませている。どこまで入念に計画されていたのか、自動車ナンバー自動読取装置、通称「Nシステム」の設置場所を上手く避けて逃走したらしい。目立つ車を使っているくせに、変なところで用意周到な犯人だ。車を乗り換えている可能性も否めないが、とりあえず青の車両は全チェックだな。

 一台一台運転手に声をかけ、強盗事件発生の旨を伝え、念のため免許証の提示を求める。大人しく見せてくれる人もいるし、そうでない人もいる。まあこれだけ渋滞させてるんだ、急いでいる人にとってはいい迷惑だろう。しかしこちらも仕事なので、笑顔ですべて受け流す。刑事になったばかりのとき、教育係だった先輩刑事に一番に教えられたのは「刑事なんざ嫌われてなんぼだ」という言葉だった。特にこういうときは「まさに」と思う。

 懐かしい思いが胸をよぎったそのとき、視界の端に鮮やかな青が見えた。

 

「……青の、ダッジ・バイパー……」

 

 思わずそう呟くと、隣にいた部下にどうかしましたか、と声をかけられる。はっとして、目の前の車への対応に戻った。

 脳内に蘇る、柊木からのメッセージ。青のダッジ・バイパー、まさに逃走に使われた「明るい青色であまり見ない外国車」だ。もちろん確定ではない。確定ではないが、柊木のメッセージが、この状況を見越してのものだったとしたら。

 その車両の番になったとき、さりげなく部下に目線をやった。部下が無言で頷いたのを確認し、運転席側へ回り込む。

 

「すいません、警察です」

「見りゃわかるよ、なんの騒ぎだい? こっちは急いでるんだけどね!」

 

 運転していたのは、左目の下にある蝶のタトゥーが印象的な、気の強そうな女だった。そしてその奥には、痩せた男。座ってはいるが、身長はかなり高い。どちらもカタギではなさそうだ。しかもなるほど「青い外車」だけでなく、「おそらく外国人」の「短めの明るい茶髪の女」と「黒い帽子にサングラスの長身の男」まで一致ときた。しかしひとり足りない。犯人は三人組のはず。

 

「この近くで強盗がありましてね、まだ逃走中なもんでこうして車を確認させてもらってるんです。いやしかしいい車ですね、ダッジ・バイパー、しかも初代だ」

「お喋りは結構だよ。免許証でも見せりゃいいのかい?」

「こりゃどうも、拝見します」

 

 差し出された免許証を受け取って確認する。目立って不審な点はないが、持ち主が怪しいせいか、どうも出来すぎているような違和感を覚える。―――偽造か?

 どちらにせよ、このまま通すわけにはいかない。

 

「おふたりさん、すいませんが一旦下りて頂けます?」

 

 そう言うと、女は眉を吊り上げた。

 

「急いでるって言ってるだろ!! さっさと通しなよ!!」

「その強盗犯が逃走に使った車が、ちょうどこんな感じの外車でしてね。該当する車は一応確認させてもらってるんですよ。なぁに、座席やダッシュボード、トランクの中を見せてもらえれば構いません」

 

 トランク、その一言を出した瞬間にその女は肩を揺らした。

 柊木のメッセージにもあった、「トランク確認」。どうやら本当に、そこに見られたくないものがあるらしい。人数誤魔化しに仲間をトランクに隠しているのか、それとも質屋から盗った高級品の類か、はたまた脅すのに使った拳銃か。

 

「確認、させていただけませんかね?」

 

 そうにっこりと笑ってみせた瞬間、目の前の青が急発進した。

 

「!」

 

 とっさに車から離れ受け身を取る。伊達さん、と部下が叫んだが問題はない。あともう二年ほど、俺は意地でも怪我はできない。

 そのまますぐに立ち上がり、部下に声をかけて車に乗り込む。他の奴らにはそのまま検問を続けるように指示を出し、部下の運転する車でダッジ・バイパーの後を追った。

 

「こちら伊達、本部応答願います!」

『こちら本部、どうした』

「職質をかけた車両が検問を突破しました! 乗っていたのは強盗の実行犯の特徴に該当する男女二名、ひとり足りませんでしたがトランクの確認を嫌がりましたので隠れている可能性もあります! 現在追跡中!」

『何? 車両の特徴は!』

「青の初代ダッジ・バイパー、こちらも特徴に該当します!」

 

 続けて車のナンバーを告げると応援をすぐに向かわせる、絶対に逃がすな!と命令が飛んできた。了解、と返して一度無線を置く。そしてそのままポケットからスマホを飛び出し、別の場所で検問に当たっている同期を呼び出した。

 

『あんだよ伊達、お前今追跡中じゃねえのか』

「おうよ。松田、聞いたろ、青のダッジ・バイパーだ」

『……!』

「よくわからんが、そういうことらしい。切るぞ」

 

 それだけ言って、電話を切った。

 伊達さん、呑気っすね、と目の色を変えて前の車を追う部下が叫ぶ。それに苦笑しつつ叫び返した。

 

「どんな時でも平常心! 刑事としての心得だ憶えとけ!」

「ご指導ありがとうございます! うわっと、」

「事故んなよ!」

「努力します!」

 

 とは言ったものの、先ほどからかなり危ない。確か柊木からのメッセージは「深追い無用」だったが、いったいどこから先が「深追い」なのやら。犯人が逃走している方向的に、松田に届いていたメッセージの場所に向かっている可能性もある

 つまり俺はここまでで、ここから先は松田にバトンタッチ? むしろいったん逃がして油断させろってか?

 そう思ったとき、全身に急ブレーキの衝撃を受けた。

 

 

 ***

 

 

 伊達の連絡を受けてすぐ、俺はひとつ舌打ちをして車に戻り、無線をつないだ。

 

「こちら松田、本部応答願います」

『こちら本部、どうした』

「検問を突破したのは青のダッジ・バイパーだと伺いました。それについて、気になることが」

『何だ』

「知人が零していた話ですが、今は使っていないはずの廃倉庫の付近で最近珍しい車をよく見かけると。出来すぎた偶然ですが、確か青いダッジ・バイパーという話でした。方向もあっています、もしかしたら」

『! 場所はわかるのか』

 

 はい、と返事をして地図を頭に思い浮かべる。本当に伊達の追いかけている車がそこに向かっているのだとしたら、今ならまだ先回りが出来る。

 

『松田、お前の班の者を連れてそこに向かえ。当たりだとしたら他に仲間がいる可能性もある。くれぐれも油断するな。状況によっては拳銃の発砲も許可する!』

 

 了解、と告げて窓から顔を出し、部下たちを呼び戻した。簡潔に情報を伝え、車を走らせる。

 あの野郎、この状況をすべて把握していやがったとしたら、俺や伊達が配備される場所まで読んでいたことになる。いや、それも含めて指示をしていたのか。

 ったく、人を使おうってんならきっちり作戦の詳細まで説明しろってんだ、今度という今度は絶対にあの無駄にイケメンな顔殴ってやる!

 

 

 ***

 

 

 背筋に冷たいものを感じて、ぶるりと身を震わせる。あっこれ多分伊達か松田のどっちかに殴られるフラグだな。いや絶対松田の方だ。ごめんて。

 

「A地点、通過しました」

「追っていた車の方は?」

「A地点にて急停止、妨害完了です。接触もなく、お互い被害はありません」

 

 それは良かった。伊達に今怪我させたらまたあいつの結婚が遠のいてしまう。さすがにそれは申し訳ないので、早めに追跡を終えさせてもらった。

 無茶なカーチェイスは大事故のもと、キャンティたちにはさっさと伊達を振り切らせる。それでもしばらくは危険運転を続けるだろうから、その経路上で事故りやすそうな場所には公安の腕利きドライバーを配置。信号のサイクルを含めて計算し、どれだけの速度で走ればいいか指示を出した。これでダッジ・バイパーはどんな危険運転をしようとも、事故らず安全に隠れ家に帰れるというわけだ。

 

「B地点、無事通過しました」

「C地点、問題ありません」

 

 どうやら彼らは順調にドライブを楽しんでいるらしい。後は松田の方か、と思って後ろを向くと、真面目な顔の風見さんと楽しそうな諸伏がこちらを見た。

 

「松田刑事が本部に『知人からタレコミがあった』という報告を上げました。例の廃倉庫に向かっています。この分なら先回りは間に合うかと」

「ちゃんとパトランプもつけず目立たないように向かってるあたり、松田はわかってるよなー。あとは松田次第じゃないか? あ、強盗犯も無事保護したってよ」

 

 あとは松田次第、その状況にまで持っていければ九割方作戦の成功は見えている。が、最後の最後まで油断は出来ない。見逃していることはないかと改めて思考を巡らせながら、咥えた煙草に火をつけた。

 

「何か不安要素でも?」

 

 そんな俺を不思議に思ったのか、隣にいたMr.ブラックが言う。すっと煙を吐き出して、彼に苦笑を返した。

 

「作戦自体は順調です。俺が心配性なだけですよ」

「優れた指揮官は総じて心配性だと言うが、本当のようだな」

 

 その言葉にさらに眉尻を下げる。

 そりゃそうだ、と思う。心配だから、不安だから、いくつものパターンを考えて、何重にも保険を作って、少しでも安心できるように頭をひねるのだ。どれだけ頭をひねっても、俺は俺の作戦を完璧だとは思わない。思えない。ひとつ手を間違えばひとの命を奪ってしまうような作戦だ。どれだけ考えても考えすぎることはない。

 

「松田刑事、廃倉庫に到着。部下とともに倉庫を探索の上、待ち伏せるようです」

「対象車両、F地点通過。まもなく廃倉庫に到着します」

 

 その声に、はっと意識を戻した。―――ここまで来たら、本当にもう松田に任せるだけだ。どうか無事に終わらせてくれよ、とただ祈る。

 これが自分の考えた作戦だとわかっていても、祈ることしか出来ないことが歯がゆかった。

 

 

 ***

 

 

 指定の倉庫に到着し、車を目立たない場所にとめる。

 入口にまわって拳銃を手に中を窺う。物音はしない。いっきに戸を開けて、拳銃を構える。よし、誰もいない。さほど広くない中には、簡単なテーブルとイス、それに酒瓶とグラスがいくつか。誰か人がいたことは間違いなさそうだ。

 数名の部下には外で身を隠すように指示を出し、倉庫の戸を一度閉める。幸いにも柱などの遮蔽物が多い、ここに残った数名くらいなら身を隠せるだろう。

 

「……来るでしょうか」

「……さあな」

 

 部下の言葉に、俺自身も即答は出来なかった。

 正直なところ、確証はない。だが、決して無駄なことはしない奴が、しかも相手を出し抜く策を考えさせたら超一流の、とんでもなくえげつない奴が、わざわざ寄越してきたメッセージだ。これで何もないとは到底思えない。

 あいつのメッセージにあった、「トランクを開けさせるな」。伊達に「トランク確認」と言っておきながら俺に「開けさせるな」と言ったのは、この状況から考えればおそらく「トランクを開けさせると俺たちが危険だから開けさせるな」という意味。おおかた、トランクに入っているのは拳銃の類と言ったところだろうか。だから最初からわかるように書けっての、とは思うが、柊木の意図はわかっている。

 あえて俺たちに余計な情報を与えないことで、俺たちが柊木の予想外の行動をとることを避けたのだろう。腹の立つことにあいつは俺たちがどういう状況で何を考えどう動くかを完全に把握している。どれだけの情報を与えれば想定通りに動くかと考えたうえで、あの不完全なメッセージだったのだ。何とも腹立たしいが、柊木から追加の連絡が来ていないあたり、俺たちはあいつが思う「最適解」を辿っているはずだ。ならば、今は待つしかない。

 小さくため息をついたその時、外から特徴的なエンジン音が聞こえてきた。皆の顔に緊張が走る。ぴくりと反応する部下たちに動くな、とサインを送り、息をひそめた。

 エンジン音が、倉庫の前で止まる。車のドアが開く音がして、がらがらと倉庫の戸が開く音がした。また車が進み、倉庫の中に入り切ったとき、エンジンが切られた。

 狙うべきは再度ドアが開き、車の外に足を踏み出した音がした、その一瞬。

 

「警察だ! その場を動くな!」

 

 俺の声を合図に一斉に飛び出し、拳銃を構える。倉庫の戸も勢いよく開き、外にいた部下も飛び込んできた。

 驚いた顔でこちらを見るのは、運転席から降りようとしていた女と、その近くに立っていた男。ふたりは反射的にダッジ・バイパーの後ろにまわろうと走り出した。

 

「確保! トランクを開けさせるな!」

 

 いち早く倉庫の入り口付近にいた部下が先回りし、トランクの前に立ちふさがる。

 どきな、と女は叫ぶが、そんなこと言われてどく馬鹿はいない。確保しようとする部下を振り切ろうと、今度は入り口に向けて走り出した。男の方は走るのに慣れていないのか、すぐに部下が取り押さえた。コルン、と女が男の呼び名らしいものを叫ぶも、立ち止まる気配はない。

 女相手に手荒にするのは趣味じゃねえが、逃走を図ろうとする被疑者なら話は別だ。しかも、柊木のお墨付きも得ている。

 頭をよぎったのは、柊木からのメッセージの、最後の一言。

 

『容赦無用』

 

 俺は逃げる女の背中に手加減せずタックルを決め、地面に押さえつけた。

 

 

 ***

 

 

 キャンティ、コルン確保の旨は、すぐに公安部にも連絡が来た。

 知らせを聞いた瞬間、ヘルプに来ていた公安捜査官たちからも歓声が上がる。逮捕にあたった刑事も特に怪我はないとのこと。ということは松田も無事だ。思わず大きな安堵の息をついた。そんな俺を見て、諸伏は苦笑する。

 

「松田が丸腰の相手に負けるわけがないって言ったのはお前だろ?」

「……何事にも『もしも』ってもんがあるだろ」

 

 作戦前、諸伏にキャンティとコルンについてひとつ確認をした。それは、キャンティとコルンはライフル以外の武器を持ち歩かないのではないかということ。

 スナイパーであることにひどくこだわっているという情報のほか、赤井さんの死亡を偽装してキールを組織に戻した際のキャンティの行動。キールと同じ車に乗っていたキャメル捜査官を、大した距離もなかったはずなのにわざわざスコープを覗き込み、ライフルで撃とうとしたという。

 もしかして、と思った。ベルモットから寄せられた情報を見ても、ふたりはスナイプ以外の任務を行っていない。それぞれの愛用のライフル以外の武器を使ったという記録が一切なかった。

 ならば、と思った。ライフルさえ持てない状況に追い込めば、大したリスクもなく確保が出来るのではないか。体術に優れているなんて情報もないし、捜査一課に異動して以降も真面目にトレーニングを重ね、犯人確保で非常に戦力になっているというあの筋肉ダルマなら、余裕で捕まえられるのでは、と。

 

「一応病院行ったらしいけど、伊達も大丈夫だってよ。むち打ちすらなさそうって話だ」

「そうか」

 

 もうひとつ、安堵の息。

 刑事に必要な、ある種の図々しさと言うか、相手に何と思われようと職務を全うする図太さと言うか、そういうものを伊達はちゃんと身に付けている。そんなあいつがキャンティ相手にビビるわけがないし、トランクを確認する流れにまで違和感なく持っていけると踏んで検問での煽り役を伊達に任せた。

 無事トランクを確認できれば銃刀法違反、トランク確認を拒否して検問を突破すれば公務執行妨害。どちらにしろ罪状は出来る。実際は強盗犯でも何でもない彼らを刑事部に逮捕させるためには、何としてもここで何かしらの罪状を作っておく必要があった。

 

「被疑者の連行は?」

「まもなく警視庁に到着するとのことです」

 

 どこか満足げに言う風見さんの言葉に、ひとつ頷いた。ここまでくれば、後はこちらの仕事だ。下手に取り調べをされる前に、こちらで身柄は頂いておこう。

 

「風見さん、裏の理事官に話はつけてあります。キャンティとコルンの身柄を引き取りに行ってもらえますか」

「了解しました」

 

 そのときに、と一言付け加えると、珍しく風見さんが苦笑して言った。

 

「……それでよろしいんですか?」

「ええ。よろしくお願いします」

 

 再度風見さんは頷き、部屋を出て行った。

 俺は部屋にいたヘルプの捜査官たちに、笑顔を向ける。

 

「皆さんお疲れさまでした。お陰様でキャンティ、コルンの確保は完了。この手柄は刑事部に譲ることになりますが、こちらが手柄を上げていくのはこれからです。とっても忙しくなりますので、今後もよろしくお願いしますね」

 

 そう言うと、やり切った笑顔の捜査官たちが、また一斉に返事を返してくれた。音声だけ聞いていたであろう、無線の先の捜査官たちも、同様に。

 そんな円満な雰囲気に水を差すように、勢いよくドアが開いた。

 

「Hey,こちらへの労りの言葉はないのかしら……?」

 

 地を這うようなその低音に、俺はにっこりと笑顔を返す。

 

「お疲れさまでしたお三方。最高の強盗役でしたよ」

「よく笑顔で言うわね貴方!」

 

 真っ黒な服に身を包んだジョディ捜査官は、キャンティによく似た明るい茶髪のウィッグを勢いよく取った。その後ろでキャメル捜査官はぐったりと生気のない顔をしており、赤井さんはサングラスを外して適当にしまった。

 

「まさか日本に来て強盗に手を染めるとは思わなかったよ」

「滅多にない経験が出来てよかったですね。今後強盗事件を追うときにでも役に立つかもしれませんよ」

「……いや、文句を言うつもりないさ、指揮官殿のご命令だ」

 

 そう言って赤井さんは肩をすくめたが、まだジョディ捜査官は怒った顔をしているし、キャメル捜査官はため息をついていた。

 正直とても面白いし、少しばかりいい気味だと思わなくもない。

 

「雰囲気だけでもキャンティに似せるにはジョディ捜査官にお願いするのが一番でしたし、キャメル捜査官のドライブテクも是非拝見したくて。でも事前に店舗のオーナーに協力は依頼してありますから罪悪感を覚える必要もないですし、ちゃんと逃走経路と保護の段取りも組んで逃がしてあげたでしょう?」

 

 ちなみに強盗に協力してもらった質屋のオーナーは公安の「協力者」だ。少々窓ガラスを割って店内を荒らしたが、もちろん実際は何も盗んではいないし、この強盗事件自体、適当なところで捜査を打ち切るように影の理事官に依頼をしてある。

 強盗実行犯にはキャンティによく似た髪色のウィッグをかぶったジョディ捜査官と、帽子とサングラスを身に着けた赤井さんを。逃走の運転役にはキャメル捜査官を起用した。こちらも信号のサイクルやNシステムの配置を考えて最短・最良の逃走ルートをちゃんと用意したのだから文句を言われる筋合いはない。日本警察とカーチェイスなんてことにならないようにタイミングも考えた。

 

「……ひとついいだろうか柊木君」

「何ですか?」

「実際のところ、キャンティ役のジョディと運転手のキャメルが必要なことはわかる。だがキャメルが運転手とコルン役を兼ねても良かったんじゃないのか?」

 

 その方が人数の計算も合うだろう。

 暗に自分は必要だったのかと赤井さんに言われて、にっこりと笑って見せた。

 

「使い潰すって、言ったでしょう?」

 

 俺の言葉に、ほんの少しだけ赤井さんの口元が引きつった。俺の後ろで諸伏が笑いを堪えているのが空気でわかる。

 

「……なんて冗談ですよ、冗談! 日本に来て好き勝手してくれた報いをほんの少しばかり受けろなんて、全く思ってませんから!」

 

 おや今度は誰かヘルプの捜査官が噴き出しかけたな。何をやっているんだ公安部、内心どれだけ愉快でもポーカーフェイスは保ってもらわないと。まあ多分この場に降谷がいたら盛大に爆笑してるだろうから、今回は何も言わないが。

 

「とにかくお疲れさまでしたお三方。今日はゆっくり休んでくださいね」

 

 反論を許さないまま、俺は三人の無言の不満を笑顔で切り捨てた。ちなみにちゃんとその場にいたMr.ブラックは、最初から最後まで何も言わずに苦笑していた。

 

 

 ***

 

 

 警視庁の刑事部に向かう途中の廊下に、伊達・松田両刑事は揃ってこちらを待ち構えていた。柊木さんが何かしらのメッセージを送っていたのは知っている。公安の者が手を出しに来るのを察していたらしい。

 

「公安部の風見と申します。先ほど確保された被疑者二名は、公安部で引き取らせていただく」

 

 俺がそう言うと、伊達刑事は肩をすくめ、松田刑事は小さくため息をついた。

 伊達刑事は黙ったまま手に持っていた書類を差し出した。なるほど、完全に準備万端で待っていたようだ。被疑者の身柄の移動に必要な書類はすでに記入され、あとはこちらで書き込むだけになっている。

 

「……アンタのことは噂だけ聞いている」

 

 書類を受け取ると、静かな声で伊達刑事が話し出した。答えることなく無言を通すと、彼は苦笑して言葉を続けた。

 

「あいつらは元気か? 特にあいつは……あんまり『そこ』に、向いてねえだろうし」

 

 誰のことを言っているのかは、すぐにわかった。伊達刑事の言葉には、ただ友人を心配する色だけが見えている。

 

「……その『彼』から、伝言を預かっている」

 

 他の情報を伝えることは許されていない。だから俺の口から言えるのは、これだけだ。

 

『ごめんもありがとうも、全部終わったらちゃんと直接言いに行くから』

 

 そう伝えると、伊達刑事はそっと目を閉じ、松田警部はまた少し息をついた。

 

「……つまり全部終わるまで会わねえつもりかよ」

「そうらしいな。全く、文句言えるのはいつになるんだか」

 

 不機嫌を前面に出す松田刑事に伊達刑事は苦笑した。そして改めて俺の方を向き、言った。

 

「風見さん、そいつに伝言頼むわ。『さっさと終わらせろよ』って」

「ついでに、『ひとりだけ連絡なかったから萩原が拗ねてる』もヨロシク」

 

 何とも言えずまた無言でいると、気が向いたらでいいんで、と松田刑事に肩を叩かれる。そんじゃあ後よろしく、とふたりは刑事部へと戻っていった。

 その背中を見送り、改めて手元の書類に目をやると、裏に付箋が貼られているのに気付いた。走り書きの文字で、その筆跡は三人分。

 

『無茶すんなよ ちゃんと食べて寝ろ』

『今回の協力の報酬、たらふく食わせろよ』

『俺だけ除け者ひどくない?』

 

 本当に、いい友人なのだろう。立場に関係なく確かに繋がっているその関係に、どこか眩しさを覚えた。

 



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40

 キャンティ、コルンの逮捕から一夜明け、俺は各社の朝刊を開いた。

 昨日の強盗事件について大々的に報道されている。いまだ犯人は逃走中、付近の住民は警戒を続けるように、と記事は締められていた。その記事から離れて随分と後半に、身元不明の男女、違法にライフルを所持していたため銃刀法違反で逮捕、とある。しっかりと新聞を読み込む人でなければきっと見逃してしまうだろう。それくらいささやかな記事だ。

 俺はそれを見てひとつ笑みを漏らし、煙草に火をつけた。

 

 

 ***

 

 

 ああ、愉快だ。

 こちらに向いているベレッタの銃口にすら笑えてくる。

 

「ですから言っているでしょう? 百歩譲って任務の失敗までは責任を取りますよ。逃がした男たちの正体は僕が責任をもって突き止め、始末しましょう。しかし、キャンティとコルンの逮捕まで僕のせいにされては困ります」

 

 強盗事件という不測の事態に任務の続行を断念せざるを得なかったその責任だって、本来僕のものとは言い難い。そんなもの、誰にも予測などできないのだから。

 

「僕はちゃんと彼らにすぐ逃げるように忠告しましたよ? 僕も彼らも、逃走したタイミングは同じです。それでも僕は無事逃げおおせ、彼らは逃げられなかった。それは他の誰でもない彼ら自身の責任でしょう」

 

 それとも身を挺して彼らの逃走まで面倒を見るべきだったとでも?

 そう笑って見せると、ジンは舌打ちしてベレッタをおろした。その様子に、もうひとつくすりと笑う。ジンとてわかっているのだろう。キャンティとコルンの逮捕は、彼ら自身の失態だ。

 そう見えるように、この作戦は立てられたのだから。

 

「……フン」

「あ、兄貴」

「あの二人ならそう簡単には口は割らねえ。捕まったところで大した打撃にはならねえよ」

 

 かわりのスナイパーならいくらでもいる、そうジンは吐き捨てたが、おそらくジンも気づいている。彼らは「最悪の形」で逮捕され、その逮捕には「幹部二人が捕まった」以上の意味があるということを。

 ジンの内心を思うだけで胸が躍った。愉快で仕方がない。

 

「話は終わりですか? それでは僕は引き続き、鼠の足取りを追います」

「バーボン」

「何ですか?」

 

 氷のように冷たい視線が、僕を貫いた。

 

「二度目はねえ」

「それは怖い。では、頑張るとしましょうか」

 

 そう言って僕は背を向けた。ふふ、と零れ落ちる笑みが止まらない。さて、存在もしない鼠の足取りでも適当に作るとしよう。

 

 

 *

 

 

 愛車に乗り込んだところでスマホが震える。誰からのメッセージかと確認すると、思わず口角があがる。柊木に警察庁への登庁が遅れる旨を連絡し、車のエンジンを唸らせた。

 指定された場所にたたずんでいたのは見知ったプラチナブロンド。傍に車をとめると、彼女は躊躇なく乗り込んだ。

 

「ちょうど僕も連絡しようと思っていたんですよ、ベルモット」

「キャンティとコルン、あれは彼の仕業ね?」

 

 僕の言葉に答えることなく、彼女は言い捨てた。

 

「もちろん。今、その件でジンに呼び出されていたところです。さすがのジンも、あれがすべて仕組まれていたものだとは考えていないようですね」

「公安ではなく刑事に逮捕させたのは、そのため?」

「それも理由のひとつですが、それだけではありませんよ」

 

 あまりに愉快で、つい喉の奥が揺れる。それが勘に障ったのか、ベルモットは不快そうにこちらを見た。

 彼女の口が文句を紡ぐ前にと、僕は問いを投げかけた。

 

「この組織は非常に強大ですが、ベルモット。組織やあの方に心からの忠誠を誓っている人間は、全体のどれだけいると思います?」

「……何よ急に」

「僕が見たところでは、多く見積もって三割くらいかなと思うんですが」

 

 ベルモットは不審そうに眉をひそめた。適当にドライブを続けながら、言葉を続けていく。

 

「では残りの七割は?―――自らの目的や保身のために、組織に属することを選んだ者。脅されてやむを得ず従っている者。あとはただのし上がりたいだけの野心家や、自分の欲求のために人を殺したい者とかですかね。組織には従うけれど、従う必要がないなら従わない、従う相手は必ずしもこの組織である必要がない、そういう人たちでしょう」

 

 彼らのことを、柊木は「邪魔」だと評した。ただでさえ巨大な敵を相手にするのに、いちいちそんな奴らまで相手にしていられない、と。

 

「彼の目的は『組織の構成員を全員捕まえること』ではない。あくまでも『組織を崩壊させること』です。……ここまで言えば、聡明な貴方ならおわかりでは?」

 

 ベルモットが息を呑むのがわかった。どうやらようやく理解してくれたらしい。

 あの「無駄なことはしない」柊木が、わざわざ強盗事件まで起こして刑事部を引きずり出し、殺人でも殺人未遂でもない、「銃刀法違反」なんて罪でキャンティとコルンを捕まえた、その最大の意味は。

 

「組織の、―――弱体化を狙ったっていうの?」

「ええ。逮捕すべき人間の選別を行ったと言ってもいいでしょう」

 

 脳裏に浮かぶのは、淡々と今回の説明をする柊木の姿。徹夜で策を練っていたのか、あくびを噛み殺しながら、作戦の概要をまとめた書類を片手に言葉を重ねる。

 

『逮捕だけなら簡単です。しかしどうせなら、その逮捕には逮捕以上の意味をもたせたい。端的に言うと、キャンティとコルンにはとても無様な形で捕まってもらいます』

 

 幹部が捕まると言うだけでも組織にとっては大きなニュースだが、たとえば公安やFBIと銃撃戦の末に捕まったのであれば、ある意味組織にとってもまだ予想の範囲内、下手をすれば名誉の負傷のような捉え方をされるかもしれない。

 しかし、と柊木は続けた。

 

『任務に直接関係のないところで、その組織の存在すら知らないだろう刑事に公務執行妨害や銃刀法違反なんかの罪で逮捕されたとすれば、どうでしょう』

 

 組織も結局は人の集まりだ。構成員それぞれに心はあるし、それはいくら統率しようとも強制できるものではない。柊木はそれをよくわかっていた。

 

『確固たる忠誠心をもっている構成員はとりあえず置いておきますが、たとえば何らかの、自身の目的のために組織に身を置いている構成員は、どう思うでしょう。はい、キャメル捜査官』

『えっ……そりゃあ……そんな組織にいて大丈夫か、と不安になるでしょうか……』

『俺もそう思います。財力だったり保身だったりそれぞれ事情は異なるでしょうが、その大前提にあるのは組織そのものの威信です。この組織に所属していれば自分は安全―――というと語弊はありますが、それに近い感情は少なからずあるでしょう』

 

 その威信を、叩き壊す。

 さらりと言い放たれたその言葉に、会議室の空気が変わった。

 

『何も知らねえ刑事相手に銃刀法なんてしけた罪で捕まるマヌケが幹部を務める組織なんて、俺なら絶対に嫌ですね。どう思うよバーボン、スコッチ、ライ』

『ええ、僕も絶対に嫌です』

『お断りかな』

『確かに有り得ねえ』

 

 三人そろって笑顔で切り捨てると、柊木は満足そうに頷いた。Mr.ブラックも興味深そうに頷いて同意する。

 

『有能で手強い者ほど引き際は心得ているものだ。組織が信用ならないと思えば、まず抜けることを考えるだろう』

『ええ。組織に脅されて協力させられていた者も同様です。諦めていた抵抗を改めて考えるかもしれない』

 

 自力で抜けるならそれはそれ、その気配を察知すればバーボンやベルモットに秘密裏に補助させる。公安の保護や司法取引、FBIの証人保護プログラムをそれとなく示唆させるだけでも違ってくるだろう。情報さえ提供してくれるなら、こちらとしてもそれなりの待遇は用意できる。

 そう説明した柊木に、諸伏は感心したように頷いた。

 

『それなら新たに情報を得られる可能性も出てくるな』

『ああ。だが組織への忠誠が薄くとも、組織を見限らない者もいるだろう。たとえば人を傷つけることそのものが目的だったり、組織でのし上がることが目的の野心家だったり』

 

 まあつまり、組織の先を考えられねえ馬鹿だということですが、とだんだん言葉を選べなくなっている柊木に少し笑った。柊木は仲間内ではまだ言葉遣いが柔らかいほうだが、意識して直しているだけで実はわりと口が悪い。

 

『そこはバーボンに誘導をかけてもらって、まとめて逮捕します』

『どう誘導する?』

『キャンティとコルンが逮捕されて幹部の席が空いた、狙うなら今だと煽ってくれ』

 

 功を焦った馬鹿は、我先にと任務に就くだろう。その矛先は、今回暗殺できなかった居もしない「鼠」に向けられる。

 柊木はそこで堪えきれずに欠伸をひとつ。

 

『……鼠が現れると見せかけるあのエリアが、俺たちにとって絶好の狩り場になるわけだな?』

『ああ、公安やFBIの捜査官をあのあたり一帯に張り込ませ、やってきた馬鹿を一匹一匹捕まえる。狩り場が狩り場として機能する間はそれで地道に捕まえよう』

 

 組織における「実働部隊」を削るという意味でもやる価値はあるし、もちろんその馬鹿のねぐらから得られる情報もあるだろう。キャンティ、コルンの逮捕で表立った手柄を上げられなかった公安捜査官たちにはここで活躍してもらう。

 そう言った柊木の瞼は半分ほど下りていた。

 

『キャンティとコルンが捕まった後なら、そのあたり一帯に捜査官がいることは不自然ではない。堂々逮捕しても、そこまで仕組まれたものだとは多分考えないでしょう。考えたとしても確証はもてないはずだ』

『……そうやって組織の構成員を削れるだけ削り、確実に逮捕しないといけない忠誠心の高い者を見定めるってことね』

『はい。あんなでかい組織潰すのは面倒なので、できるだけ小さくなってもらおうと思います』

 

 ジョディ捜査官の言葉に頷き、眠気を誤魔化そうと思ったのか柊木は煙草に火をつけた。そろそろ柊木には煙草の数を控えるように言った方がいいのかもしれない。

 

『ついでに、組織がそうやって弱体化していけば、忠誠心の高い者たちも焦りだすでしょう。迂闊な行動が増えるかもしれないし、内部分裂や抗争が起きてもおかしくはない。それはそれで組織の弱体化につながるので、是非とも仲間内で潰し合ってもらおう』

 

 そうやって弱り切ったところで、王手をかける。

 

『とりあえずこの作戦の概要と意図はそんなもんですが、何かありますか』

 

 その言葉に異議を唱える者は誰一人としておらず、次々と賛同の声が上がる。Mr.ブラックがとりあえず少し休んだらどうかね、と苦笑すると、柊木はそうさせてもらいます、と煙草を消した。

 

『それぞれの役割分担と指示はまとめといたんで読んでおいてください。異論は聞きません。必要な準備は各自済ませておくようにお願いします』

 

 そしてさっさと柊木は退室し、その後役割分担を見たFBIの三人は顔色を変えることになったわけだ。今でもその時の赤井の顔を思い出すと笑ってしまう。ざまあみろ。

 

「……バーボン」

 

 ベルモットの声に、はっと意識を戻した。

 緩やかにドライブを続けながら、何ですか、と変わらない笑顔で問う。

 

「もしかしたら、彼は本当に、―――」

 

 囁くようなその言葉の続きは、愛車のエンジン音にかき消された。しかし、彼女が何を言おうとしたのかは、十分にわかる。

 

「やっぱり彼は、本当にヘイムダルなのかもしれませんね」

 

 耳慣れない角笛の音色が、空に響いた気がした。

 

 

 ***

 

 

 煙草の煙をくゆらせていると、バーボンの仕事を片づけた降谷が帰ってきた。組織の方は、と尋ねると、問題ないの一言。

 

「ジンも全て仕組まれたものとまでは考えていないようだ」

「お前もお咎めなし?」

「咎められる筋合いはないからな」

 

 そう余裕で笑う降谷に、そうかと返した。とりあえず無事ならそれでいい。そういえば、と降谷は持っていた珈琲を呷り、口を開いた。

 

「キャンティとコルンはどうだ?」

「キャンティは罵詈雑言、コルンは黙秘」

 

 公安で身柄を預かった二人にさっそく取り調べをかけたが、今のところ碌な証言を得ることはできてない。まあもともとスナイパーとしてのし上がった二人だ、大した情報を持っているとも思わないし、期待はしていない。

 

「とりあえず檻の中にいてくれればそれでいいよ。邪魔しないでくれるなら十分だ」

「そうだな。……ベルモットに会ったぞ」

 

 今回の作戦の意図は伝えた、とやけに楽しそうに言う降谷に、首をひねった。

 

「それで遅くなったのか。何でそんな楽しそうなの?」

「お前の策で度肝を抜かれる人の顔を見るのはなかなか愉快でな」

「性格悪い」

「お前が言うな」

 

 軽口を投げながら顔を見合わせ、同時にくっと笑う。

 

「……正直なところ、本当にこの案件の終わりが見えてきて、驚いてる」

 

 苦笑をしつつ言う降谷に、俺もひとつ頷いた。半世紀以上かけて育ってきた組織を相手にしているのだから無理もない。俺としても、本当ならもう少し時間をかけてことを進めても良かったと思うところもある。だけど。

 

「……できるだけ早く終わらせたいんだ」

 

 この案件を終わらせたら、やりたいことがたくさんある。帰りたいところがある。脳裏に浮かぶのは、やはりベッドサイドの写真立て。

 そんな自分に苦笑をしながら、できるだけ効率のいい策を考えるから協力よろしくと言うと、降谷は当然だ、と大きく頷いた。

 

 



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41

 順調が過ぎる、と思う。

 狩り場には連日馬鹿のように獲物がつめかけ、尾行にも気づかないままねぐらまで案内してくれる。そしてそのねぐらには組織に関わるもののみならず、長年公安が探し求めていた情報も結構にあった。裏世界というのは案外世間が狭いのかもしれない。

 おかげでこちらときたら毎日仕事仕事、休みが欲しいとまで言わないから睡眠時間くらいは確保したいというのに、そうもいかない。

 

「柊木、これ追加の報告書」

「ん」

 

 諸伏に渡された報告書に目を通していく。……ああ、例の指名手配犯捕まったのか。

 情報源は馬鹿な獲物だけではない、組織から逃亡を図った者たちのなかにも重要な情報をもっている者は少なくなかった。バーボンとベルモットの誘導により保護された彼らは、組織の支配から逃れた解放感もあるのだろう、堰を切ったように持っている情報を吐き出してくれる。

 組織の脅威はあの秘密主義あってこそ、そのベールさえ剥がしてしまえば攻略自体はそう小難しく策を立てる必要はない。そろそろ雪がちらつこうかという季節だが、できることならこの冬が終わるころには組織を片づけてしまいたかった。―――そう、余計な横やりが入る前に。

 

「……ところで柊木、お前最後に寝たのいつ?」

「今朝仮眠はとった」

「時間は?」

「二時間」

 

 溜息をつかれるが、これは仕方がないと言いたい。というかお前だって最後に寝たのいつだと聞くと、諸伏も遠い目をした。

 

「……昨日の夜」

「時間は?」

「……三時間?」

「変わんねえよ」

 

 そして同時に溜息をついた。

 

「……あの狩り場がこんなに盛況になるとは思わなかったんだよ……組織の実働部隊、本当に馬鹿すぎだろ……他の奴らが捕まってるって聞いたら警戒するのが普通じゃねえのか……危ない橋と思えば避けろよ……狩り場が機能するのはせいぜいひと月そこらだと思ってたのに、もう三か月だぞ……」

「それに気づかない奴らだから下っ端なんだよ……バーボンやベルモットも相当うまく煽ってるらしいし……」

 

 確かにあの二人が本気になって人を扇動したらそりゃあ馬鹿は簡単に引っかかるだろう。想定より上手くいきすぎている状況に、こちらの対応もギリギリなのが実情だ。少々手加減をして頂きたい。

 

「組織の方も、自分から捕まりに行く下っ端に構ってる暇ないんだろ」

 

 組織から逃亡してきた者によると、組織の威信を保とうとした幹部はどうやら強硬手段に出ているらしい。

 早い話が恐怖政治だ。少しでも組織に逆らう者は粛清され、死の恐怖で構成員を支配している。俺からすれば下策も下策だと思うが、今までの組織のやり方を考えればそうするほかなかったのかもしれない。予想していなかったわけではないが、残念ではある。

 

「……資金ばら巻いて構成員を引き留めることを期待してたんだけどな」

 

 大きな金の流れができれば、その資金源を探ることでさらに情報を集めることもできたのに。金を持ってる奴がバックにいることはわかっているのだ、できたらそちら側の情報も揃えておきたい。放っておいて後で面倒になるのは、絶対に下っ端よりスポンサーだ。

 やれやれと首を振ると、諸伏は疲れた顔で笑った。

 

「まあ、そちら側の情報も少しずつ集まってるじゃないか」

「まあな」

 

 探るうちに浮かび上がる、財界の大物だの政界の大物だの、めんどくさい相手がごろごろと。構成員というよりは本当にスポンサーなのだろう。半世紀分の歴史がある組織だ、どこかで協力関係になったか、弱みでも握ったか。おそらく下手に手を出したら警察上層からのストップが来るレベルだ。

 俺は組織を潰せればそれでいいので、報告だけ上げて後は勝手にやってもらおうと思う。そんな面倒なもん相手にしてられない。

 

「……柊木」

「ん?」

 

 少し声を改めた諸伏に、俺は報告書から顔を上げた。

 

「お前のことだからちゃんと考えがあるんだろうけど、まだ『核心』には迫らないのか?」

 

 核心、つまりボスやラムの正体と、目的。

 あれから何度かベルモットとは直接会って情報のやり取りをしているが、いまだにその話をしたことはなかった。宮野志保のこともあえて見逃してるだろと指摘され、それはそうと素直に頷いた。彼女も十中八九ボスやラムの正体を知っている。

 俺は何と言ったものかと少し考え、口を開く。

 

「もう少し組織を弱らせてからかな。王手の直前でもいいと思ってる」

「何で?」

「俺、そもそもボスやラムがそんなに脅威だとは思ってないんだよ」

 

 そう言うと、諸伏はえっと目を見開いた。予測の域を出ないけど、と前置きして言葉を続ける。

 

「何度も言うが、あの組織の秘密主義は異常なレベルだ。相応の資金力や武力、人員を持っているにもかかわらず、ボスもラムも隠れすぎだと思わないか」

「……それは、まあ」

「顔や名前を隠さなきゃいけない理由があるとしたら、それは何なのか。……俺は、正体さえわかれば逮捕はそんなに難しくないからだと思う」

 

 早い話、本人やその周囲に警察の捜査をかわすだけの力がないのではないかと。すると諸伏はわずかに目を見開き、しかしすぐに表情を改めた。

 

「……つまり?」

「たとえばだ。ボスは病床にあってろくに動けない」

「!」

「たとえば、な。そんな風に、それこそ資金だけはあっても、顔や名前がバレてしまえば所在が掴めてしまう、指名手配でも掛けられると逃げるのが難しくなってしまう、そんな相手なんじゃないかと思うんだ。あとは表の世界で顔や名前がすでに売れてたりとか……正体がわかれば目的も読めてしまうとか……そんな感じかな」

 

 残念なことに、犯罪者は犯罪者でも、大物が過ぎればそれなりに堂々と世間を歩けてしまう時代だ。調べようと思えばヤクザやマフィアのトップくらい、顔も名前も経歴もすぐにわかる。それを考えれば、この組織のボスだってもっと堂々としていても良かったはずなのだ。大物すぎるが故に手を出せない、そういう存在になってしまった方がむしろ自由に動ける。ただ用心深いだけだと言ってしまえばそれだけだが、そうしなかった理由があるのではないかと考えていた。

 

「仮にその憶測が当たっていたとすれば、多分向こうはこっちが正体を知ったと察知した瞬間に何らかの手を打ってくる。どんな手を打ってくるにしろ多分厄介だ。いくら俺がボスの正体を知らない体でこれからの動きを考えたとしても、やっぱり正体を知ってると無意識に余計なことをして察知されるかもしれない」

 

 だったら、いっそのことまだ知らない方がいい。知っていて知らないふりをするよりも、知らないままでいる方が俺としても気が楽だ。

 

「……俺の言ってることわかる?」

「……どうせボスもラムも正体さえわかれば捕まえるのは楽なはずだから、ぎりぎりまで正体知らないままでいても支障はなく、むしろこちらが正体を知ったことを察知されて警戒される方が面倒ってこと?」

「ああ、そういうこと」

 

 そう言って報告書に目を戻すと、諸伏が苦笑したのが気配でわかった。

 

「……珈琲飲むか?」

「よろしく」

 

 納得したらしい諸伏は、そのまま俺に背を向けた。

 とにかく今は、ボスやラムより組織そのものの弱体化だ。削れるところまで削りきってしまわないと、とどめには進めない。最後のとどめをより安全に進めるためにも、そこを妥協するつもりはない。このままなら、そう難しくはなさそうだ。

 そう思ったとき、報告書の最後の部分が目に留まった。保護した元構成員から得た、組織の現状についての情報だ。

 

「……数名の幹部、ならびに有力構成員が行方不明……」

 

 小さな呟きだったが、諸伏の耳にはちゃんと入っていたらしい。諸伏はカップに珈琲を注ぎつつ、軽く答えた。

 

「ここんとこ、幹部だの幹部候補だのが死んだり消えたりしてるらしいな」

「NOCか」

「可能性はある。何か気になったか?」

 

 他国の潜入捜査官が、組織の崩壊に巻き込まれないように撤退した可能性はある。放っておいても勝手に崩壊すると見込んで母国に帰ったのかもしれない。それだけ内部から見ても組織の弱体化が進んでいると考えれば、それは別に構わない。だが。

 

「……」

「柊木?」

 

 はい、と珈琲の入ったカップを差し出され、ひとつ礼を言って受け取った。俺はブラック派だと言っているのに、このところ諸伏はいつもミルクを入れて渡してくる。ブラックだと胃に悪いからろくに休んでいない今くらいはせめてミルクを入れろとのこと。その通りなので最近はミルク入りで我慢している。

 

「……いや。やっぱり組織壊滅は急いだほうがいいな」

「今も十分早足だろ。何を懸念してるんだ?」

「他国からの横やりだ」

 

 成り行きでFBIと手を組んでいるが、他国と連携するのはメリットもあればデメリットもある。引き上げたNOCから組織の崩壊が近いことを悟った各国が、利権目当てに日本警察に協力を持ち掛けてくる可能性はゼロじゃない。組織で行われているアポトキシン4869の研究データや、それ以外にも使い方によっては金になる研究データは相当にあるだろう。優れた知恵や技術はそれだけで価値がある。狙う国も多いだろう。

 他国が捜査に加われば手も情報も増えるが、それ以上にめんどくさい。違法捜査と言う弱みがあるFBIとは話が違う。指揮権と利権の奪い合いになる。

 だからこそ、できるだけ早く「他国の協力を必要としない」と傍から見ても明らかな段階まで捜査を進めてしまいたかった。

 

「ここまで来たら組織を潰すことはそう難しくない。だけど俺は、あくまでも『日本にとって利益になるように』組織を潰さなきゃならない」

 

 組織に引導を渡すのは、日本警察でなければならないのだ。だからこそ、今何より恐れているのは組織の動向ではなく、他国の動向だった。ここまできて他から口を出されたくはない。何より、宮野さんや新一くんの平穏な生活は何としても守らなくてはならない。指揮権を奪われれば、彼らの身柄だってどうなるかわからない。

 

「……まだ他の国ならいいけど、特に……」

 

 そう言葉を続けようとしたとき、ドアをノックする音が響いた。反射的にはい、と返事をすると、入ってきたのは降谷と風見さん。

 

「お疲れ」

「ああ、お疲れ。柊木、聞いたか」

「何を?」

 

 嫌な予感が、首の後ろを伝った。

 険しい顔をした降谷が、後ろにいた風見さんに目配せをする。眉間にくっきりとしわを刻んだ風見さんが、俺に書類を差し出した。

 ぞわりと、俺の中の何かが警報を鳴らし始める。

 

「CIAからの協力要請だ」

 

 降谷の言葉に、思わず両手で顔を覆った。

 

 

 ***

 

 

 確かに睡眠不足も相まって疲れた顔をしていることも多かったが、ここまで死んだ目をしているのは久々に見たかもしれない。

 無理もない、ここまで来て余計な横やりだ。特に、柊木にとっては指揮権の取り合いと言う大きな負担を強いることになってしまう。何でこんな要請を受けたのかと、僕としても上に全力で食らいつきたい。

 

「……上手い手使うな、CIA……」

 

 要請がまとめられた書類をめくりながら、相変わらず死んだ目で柊木は言う。上手い手って、とヒロが聞き返した。

 

「キールを自分のところの諜報員だと明かした上で、連絡の取れない自国の諜報員を救出したいから手を貸してほしいという体での要請だ。助けを求めてきてる以上、上も断る理由がねえ」

「ああ、これ以上手は必要ないなんて言い訳を使わせないようにそうしたんだろうな。まして相手が相手だ」

 

 柊木と同時に溜息をついた。残念なことに、そもそもこの国は合衆国に弱いのだ。

 

「しかしその体なら、指揮権は柊木さんにあるまま……ですよね?」

「一応はね。ただし、隙あらば奪おうとはしてくるでしょう」

「キールの違法捜査は弱みにならないのか?」

「その辺はとっくにうちの警察上層丸め込んでるだろ。こっちが自力で拘束したFBIとは事情が違う。CIAが正式に申し込んできた以上、これは合衆国の意向だ。上でとっくに話がついてる」

 

 間違いなく、柊木の言う通りだろう。正式に話が通っている以上、CIAにはFBIのような弱みがない。向こうが救援を要請した形である以上、少なくとも最初は柊木の指示に従うだろうが、最後まで全面的に協力してくれるとは思えない。

 

「俺たちの目的は日本国家の秩序と安寧、FBIの目的は合衆国内における犯罪者の逮捕と国内の治安維持、そしてCIAの目的は合衆国の国益だ。ぎりぎりFBIとの協力までは妥協できるけど、CIAとは明らかに目的が異なるだろ……馬鹿かよ上層……勝手に頷くなよ……」

 

 さすがの柊木も愚痴っぽくなっている。無理もない。柊木は多分最初から、組織よりも他国のことを気にしていた。キールになるべく情報を渡さないようにしていたのもそのためだろう。「組織を壊滅させる」という「手段」よりも、「日本国家の秩序と安寧」という「目的」をずっと見据えてきたのだ。

 

「……で、CIAさんたちはいつ来るって?」

 

 ヒロの言葉に、柊木はまたちらりと書類に目をやって、来週、と小さく答えた。しかも、対策を考える時間もほとんどないときた。

 

「……知ってたけど上層って現場のこと考えないよなぁ」

「ああ、今更だな。……いや、うん、結局はちゃんと会って話して向こうの出方を見ないと対策も何も決められねえな」

 

 むしろ俺たちよりFBIの皆さんが気の毒かもな。

 柊木がそうぽつりとつぶやいたとき、部屋にノックの音が響いた。入ってきたのは、今ちょうど話をしていたMr.ブラックだった。

 

「……お揃いと言うことは、CIAの話はすでにご存知かな」

 

 ひどく冷静な声で、彼はそう言った。その表情には何の感情も浮かんでおらず、心のうちを全く読ませない。捜査官を束ねる者に相応しい見事なポーカーフェイスだ。

 

「ええ、たった今聞きました。来週からいらっしゃるそうですね」

 

 代表して柊木が答えると、彼は何か考えるように小さく頷いた。

 

「……柊木くん」

「お立場、お察しします。そちらの国にはそちらの国の思惑があるでしょう。貴方は今まで以上に自分の考えで動くことができなくなった。そうですね?」

 

 これまではある程度自分の判断で捜査を行ってきた彼も、今後はそうもいかなくなるだろう。

 ただの「犯罪事件の捜査」でなく「国益が絡んだ案件の捜査」になってしまった以上、彼も相当動きにくくなるはずだ。上に頭を悩ませているという点では、僕たちも彼らも変わらない。

 

「……捜査にはこれまで通り全力を尽くそう。それを覆すつもりはない」

「十分です。俺も別に、貴方の立場を悪くしたいわけではありませんから」

「……柊木くん」

「はい」

 

 どうか、油断をしないでくれ。そして私たちを含め、信用しないでほしい。

 彼にとってはそれが精一杯の誠意で、忠告だったのだろう。重く響くその言葉だけを残し、彼は退室した。

 部屋に沈黙が流れる。口を開いたのは、やはりというか、柊木だった。

 

「……まあ、俺が指揮権渡さなきゃ済む話だよな」

 

 呑気そうな声でそう言ったが、その瞳には気楽な色など欠片もない。今まで以上の決意と覚悟で、彼の瞳は燃えている。本気になった柊木に、敵などいるはずがない。張り合えるのは自分くらいだと僕は本気で思っている。

 それなのに俺はどこか、かすかに見える不安の影を消せずにいた。

 

 




何度でも書きますが、実際の組織とは何の関係もありませんし完全なフィクションですし、作者の拙い知識で書いていきます。ご了承ください。


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42

 風見さんに案内されてやってきたのは、ハンサムな顔立ちの男性だった。屈強でいかにもエージェントという風の男性を二人引き連れ、その人はにこやかに笑って自己紹介をする。日本語も堪能らしい。俺も笑顔で挨拶を返し、右手で軽く握手をした。とても感じの良い人だ。

 こんな状況でなければ、きっと俺もこの人の腹の内を探ろうなんて思わないだろう。

 

「彼女―――こちらではキールと呼んだ方が通りが良いでしょうか。キールとは長く連絡が取れていません。彼女も我々CIAにとって非常に大切な仲間の一人です。どうか救出にご助力願いたい」

「ご心痛、お察しいたします。もちろん、でき得る限りの協力は惜しみません」

「有難い」

 

 お互いに笑顔で会話を進めていく。

 正直なところ、Mr.ブラックのようなベテランが来るものと思っていたが、大きく外れた。おそらく歳はさほど変わらないのではないだろうか、年上ではあるだろうが赤井さんくらい? それでも握手した掌はタコやマメで硬くなっていたし、身のこなしに隙もなく、会話も淀みない。

 何というか、これは―――こんな言い方は非常に癪だが、おそらく彼は「同類」だ。

 

「ここ最近の日本警察の活躍ぶりは伺っていますよ、何でも例の組織の幹部を逮捕されたとか」

「お恥ずかしながら運が良かった結果です。あれは我々の功績とは言い難いので、どうかそんな風に持ち上げないでください」

「なるほど、日本の方は謙遜がお得意だと聞いていますが、これですね?」

 

 ははははは、と表面上和やかに会話を続ける。ああめんどくさい、本来俺は言葉遊びを楽しむタイプではない。にこにこと顔に笑顔を貼り付けながら、内心で毒づいた。

 

「しかし、その日本警察で指揮を執っておられたのがこんなに若い方だとは。ああすみません、嫌味とかではなく受け取って頂きたいのですが。若くしてそれだけの功績を上げられるのは、それだけ優秀だという証拠ですから」

「恐れ入ります。ご期待にそえられると良いのですが」

「その辣腕を拝見できるのが楽しみですよ。では、この後ほかの方にもご挨拶しなくてはならないので」

「これは引き留めて申し訳ありませんでした。ではまた、明日から」

「ええ、よろしくお願いいたします」

 

 そしてまた、風見さんに案内を任せて彼らを見送った。扉が閉まって数秒、部屋に沈黙が流れる。彼らの足音が遠く離れていったのを確認し、同じ部屋で会話を聞いていた中のうちの一人に声をかけた。

 

「赤井さん、貴方が一番正直そうだからお伺いしますけど」

「何だ?」

「俺、いくつに見えます?」

 

 また部屋に沈黙が流れる。赤井さんは数秒黙った後に、いつもと変わらない声を装って口を開いた。この人は基本的に人を気遣うのが下手だが、下手なりに何とかしようとしているのは知っている。

 

「正直そうだという俺を選んだからには、正直に言った方がいいんだな?」

「ええ。正直に、です」

「……着ているスーツと指揮官と言う地位を加算して二十五、六あたりかな。知っているだろうが東洋人は基本的に若く見えるんだ」

「なるほど。では、スーツと地位を差し引いたら?」

 

 たとえば俺が適当な私服を着て、指揮官だということを言わなかったらどうでしょう?

 俺がそう言うと、赤井さんはまた数秒黙った後に、真剣な顔で改めて確認した。

 

「……正直にと、言ったな?」

「言いましたよ」

「……二十そこそこ。ティーンでも通じるかもしれん」

 

 赤井さんの言葉に、両手で顔を覆って天を仰いだ。黙って聞いていた諸伏がドン引いた顔で言葉を漏らす。

 

「何でお前そう自分から地雷を踏みに行くの……? 馬鹿なの……?」

「うるっせえわ現実は現実として知っておきたかったんだよ! けど絶対お前らよりマシだからな! 赤井さん、諸伏と降谷はいくつに見える!?」

「やめろ巻き込むな聞きたくない!」

「俺は童顔じゃない!」

 

 くわっと問いを投げかけるとさすがに赤井さんも若干眉間にしわを寄せ始めた。俺に聞くなと言いたいんだろうがアンタの事情なんぞ知ったことか。かつて童顔を顎髭で隠していた諸伏は耳をふさぎ、全力で認めない降谷は叫ぶ。降谷お前はいい加減認めろ、俺から見てもお前は相当な童顔だから。

 

「……スーツと地位から来る印象は偉大だという言葉で許してくれ」

「ほれ見ろ! ほれ見ろ! 絶対俺だけじゃねえからな!」

「赤井ィィィィイイ!」

 

 少し顔をそむけた赤井さんがそう言うと、ばっと降谷が飛び掛かりに行こうとしたので羽交い絞めでおさえる。興奮してじたばたしているが、徹夜後の降谷の勢いくらいなら俺でも十分に止められる。

 ちなみに俺は今日のファーストコンタクトに向けて隈を消せという厳命が下ったので、久しぶりに八時間寝た。

 

「言わなくていいって……言ったのに……」

 

 そして諸伏はさめざめと泣いていた。本気で気にしているのは知っているが、もう顎髭を蓄えることは絶対に許さない。俺の部下なら身なりはちゃんと整えろという名目のもと、徹夜明けだろうと毎日ちゃんと髭をそらせていた。本音? ご想像にお任せする。

 

「ねえ、ここまで来たら聞くけど、貴方たち一体いくつなの?」

 

 好奇心に負けたらしい勇者ジョディがおそるおそるそう尋ねると、大人しくなった降谷とまだ泣いている諸伏がピクリと震えた。代表して俺が答える。

 

「二十九ですよ。三人とも同じ」

 

 そう言ったときのFBI勢の反応ときたら。

 さすがのMr.ブラックはそっと目を閉じただけに見えたが、それでもぴくりと肩が震えたのが見えたし、赤井さんからは「……ホォー」といっそ感心したような言葉が漏れた。ジョディ捜査官の口が小さく「嘘、年上……?」と動き、キャメル捜査官は「これが東洋の神秘……」と頷いていた。キャメル捜査官、多分それ違う。

 俺たちの立場的にそれほど若いとは思っていなかったが、いざちゃんと年齢を言われると何となく信じがたいと言ったところだろうか。身分証の生年月日でも見せてやろうかこの野郎。

 

「お二方聞こえてますからね。……俺に至っては春には三十路になるのに……」

「その顔で三十か。詐欺だな」

「いくら正直にったって殴りますよ赤井さん」

 

 反射的に叫ぶと赤井さんは肩をすくめた。そのまま数秒沈黙が続き、俺たちは三人そろってため息をつく。

 

「柊木、俺やっぱ髭伸ばしたいんだけど」

「却下」

「パワハラだ!」

「うるさい潜入時代とは違えんだよ、登庁するなら身なりを整えろ」

「俺は……童顔じゃない……!」

「降谷、お前は気にしすぎな」

 

 ―――ああ、少し気がまぎれた。たまにはこういう会話をしておかないと、精神の方が先にやられる。よし、と気合を入れ直して手を打った。

 

「気を取り直して仕事もどるぞー」

「おー」

「柊木、俺は組織のほうに行ってくる。手筈変更なし」

「了解、気を付けてな」

 

 さっさと仕事にとりかかろうと俺と諸伏はデスクに戻り、降谷は「バーボン」となって外に出て行った。切り替えについてこれないのかジョディ捜査官とキャメル捜査官はぽかんとし、Mr.ブラックは苦笑、赤井さんはわずかに口角をあげて煙草に火をつけた。

 くすりと笑ってMr.ブラックは口を開く。

 

「素晴らしい切り替えだね」

「たまにアホな会話もしておかないと頭おかしくなりますからね」

「ははは、挨拶代わりだよなぁ」

 

 俺のすることは何も変わらない。だったら気負いすぎる必要はない。こんな気の抜けた会話をするくらいの余裕は持っているべきだ。

 俺は肩をこきりと鳴らし、改めて端末に向かい合った。

 

 

 *

 

 

 それから、CIAも交えての捜査が始まる。

 挨拶をしてくれた「彼」が完全な主力で、他二人はサポートあるいは実働部隊というチームであるらしい。彼は今までの捜査の流れを把握したうえで、合衆国やそのほかの国における情報の提供も熱心に行ってくれた。

 さすがは世界一の大国の諜報機関、入ってくる情報の量も精度も桁が違う。俺自身は日本国外のことまで面倒を見るつもりはなかったが、確かに海外にいる構成員にも必要ならば手を打たなければならない。そういう意味で彼の参入は非常に有益なものになりつつあった。

 

「―――なるほど! 素晴らしい策です、これならば被害もなく逮捕できるでしょう」

「恐れ入ります。風見さん、諸伏、この方向で用意を」

「了解しました」

「ああ、間に合わせる」

 

 いくつかの事案で俺が指揮を執る際も、意見は言うものの余計な手出しはせず、しかも素直に賞賛の姿勢を見せる。懸念があれば指摘もしてくれるし、彼自身の能力も相当であることが感じられるだけに、正直俺は拍子抜けしていた。もっとがつがつと指揮権を奪いに来るものと思っていたのに。

 足を引っ張られるとまでは思っていなかったが、隙を見せればすかさず突いてくるとは考えていた。あえて隙を作ってみせても不思議なほど乗ってこないし、乗る姿勢も見せやしない。最初は単純に警戒されているのかとも思ったが、さすがに悠長すぎる。腹の中が見えないその様子が、かえって気色悪かった。

 

「……Mr.柊木」

「何でしょう?」

「正直なところ、貴方ほど優秀な方が日本警察にいらっしゃるとは思っていませんでした」

 

 決して甘く見ていたつもりはないのですけれど。

 そう言って淡く微笑んだ彼は、瞬きをする俺を気にすることなく言葉を続けた。

 

「貴方も、彼―――Mr.降谷も、そして貴方がたの部下の方も。非常に有能で、勤勉で、意識も高い。もちろん正義感も強い。長く誰にも尻尾を掴ませなかった組織を追い込んでいる捜査官とはどんな方々なのだろうと思っていましたが、こうして目の当たりにすると納得するほかありません。共に捜査ができることを、心から嬉しく思います」

 

 この笑顔とこの言葉を受け、それでも彼を疑える人間ってどれだけいるのだろうか。そう思えるほど、彼の瞳には善意と尊敬しか見えなかった。

 しかしそれでも尚、疑い続けなくてはならないのが俺の立場と言うもので。

 

「……そこまで持ち上げられると、かえって恐縮してしまいますよ、ミスター」

 

 油断はしない。初対面で直感した、彼は俺と同類だと。今の彼の台詞は、ともすれば心からの想いなのかもしれない。だが、心からの想いと、職務は別だ。相手のことをどれだけ賞賛しようと、尊敬しようと、「やるべきことはやる」。おそらく彼はそれができる人間だ。発する言葉の端々から、彼のプライドの高さを感じている。

 

「ひとつひとつ、捜査を積み重ねているだけです。貴方だって同じ状況に立てば同じことをなさるでしょう」

「私に貴方ほどの作戦立案能力はありませんよ」

「おや、合衆国の方もご謙遜をなさるんですね?」

 

 二人して談笑しているこの光景は、傍から見れば仲良く見えるのかもしれない。が、俺としてはひどく消耗する会話だった。相手を警戒しているということを悟られてはいけない。「バーボン」ならこの状況をスリルがあるといって愉しむのかもしれないが、俺としては気疲れするだけだ。まったくめんどくさい。

 

「しかし、だいぶ作戦も終盤のように見えますが、とどめはいつ頃を想定されているのですか? 焦るつもりはありませんが、長引かせれば長引かせるほどキールの救出も遠ざかる」

 

 建前上バーボンやベルモットにキールの現状を探らせたが、どうも彼女は未だ監視が厳しい状況らしい。NOCの疑いを受けた点ではバーボンも同じはずだが、やはり一度FBIの手に落ちているというのは大きいのだろう。キャンティ・コルン逮捕の際に捏造した「鼠」はFBI関係者の可能性が高いとバーボンに報告させたので、それもあってのことかもしれない。

 キールが自由に動けない以上、こちらとしても接触のリスクは犯せない。さっさとキールを組織から連れ出してCIAが捜査に関わる理由をなくしてやろうかとも思ったが、まあ無意味だろう。上手くキールを連れ出せたとしても、おそらく適当な言い訳をつくって居座り続ける可能性のほうが高い。組織の壊滅前に合衆国に追い返そうなんてことは考えない方が良いだろう。確率の低い賭けに出て余計な仕事を増やすこともない。

 組織の弱体化はかなり進んだ。CIAからの情報もあり、さらに作戦の進みは加速している。今はもう年末だが、この分なら最後の作戦は―――。

 

「年が明けて、もう少し……あとひと月か、ふた月。それくらいでしょうか」

 

 ボスとラムの特定と、確保。ジンとウォッカの逮捕。最後の作戦でやるべきことはほとんどそれだけになるだろう。

 目下の脅威はジンだが、作戦の大枠はできている。幸いにも、ジンをおびき寄せる最大のカードは手元にあるのだ、キャンティやコルンの逮捕のように面倒なことを考える必要はない。逮捕の際にいかにこちらの被害をなくすかは考えなくてはならないが、逆に言えば考えるべきはそれだけだ。さほど気を揉む必要はない。

 だから本当に、警戒すべきは目の前で温和に笑う彼の腹の中だけなのだ。どう邪魔をしてくるか、それとも邪魔をしないのか、それすらもわからない。

 

「ひと月か、ふた月……そうですか。何とか彼女が、その間無事でいてくれればいいのですが」

「ええ、こちらとしてもできる限りのサポートをするように指示を出してあります」

「感謝します、Mr.柊木」

 

 アンタの目的は何なんだ。

 そんな本心をそっとしまい込み、俺はまた彼の握手に応えた。

 

 

 ***

 

 

 デスクに突っ伏す柊木の頭の横に、そっと珈琲を置いてやる。さんきゅ、とか細い声がぽつりと聞こえた。その声に苦笑しつつ、俺は柊木のデスクに寄りかかる。

 

「柊木って意外とああいうの苦手だよな」

「ああいうの?」

「腹の探り合い」

 

 俺がそう言うと、柊木は少しだけ顔を上げて、弱弱しく俺を睨んだ。眉間にくっきりとしわが寄っている。残念ながら怖くもなんともない。

 

「……自覚してるよ。ああいうのは降谷やお前の方が上手い。どうあがいても経験値には負ける」

「怒るなよ。苦手って言ったのは悪かったけど、できてないわけじゃない。慣れてないし言葉遊びを楽しむ性質でもない分、得意でもないってだけだろ?」

「怒ってない。……一番彼と接するのは俺だ、もっと上手く探りを入れられればいいんだけど、全然何企んでるのかわからねえ」

 

 頭の痛そうな顔をして、柊木はミルクたっぷりの珈琲に口を付けた。

 別に柊木は腹の探り合いが下手なわけじゃない。それこそ監察官時代だって似たようなことはやっていたはずだ。だが、本人がそういうやり方をあまり好まない上に、今回は相手が悪い。世界一の大国の諜報機関の中でもおそらく生え抜きの諜報員。そりゃあそう簡単に腹の内を読ませてはくれないだろう。

 

「どう考えても狙いは宮野さんなんだよなぁ……」

 

 ぶつぶつと柊木が言葉を漏らす。今ある情報から考えて、柊木の脳はやはり「CIAの目的はアポトキシン4869」だと弾き出しているらしい。それに異論はないし、おそらく間違いない。問題は、どうやって彼女を獲得するつもりなのかということだ。いくら日本の方が立場が弱いと言っても、合衆国も圧力をかけて宮野さんを奪うような真似はしないはずだ。何事にも建前や体裁というものがある。

 だからこそ柊木は、彼がこの案件の指揮権を奪い取り彼女の今後を決める権限を狙ってくると踏んでいた。

 

「確かに、傍から見てても指揮権奪いに来てる感じはしないな」

「隙作っても食いついてもこねえ」

 

 なら、どうやって。

 ゆらゆらと頭を揺らしていた柊木が、突然びくりと止まる。そして忘れてた、と慌てだした。

 

「どうした?」

「いや、念のため新一君に警戒しろって連絡しておこうと思ってたんだけど、なかなか時間作れなくて」

 

 さすがにCIAの彼がどこで聞いているともわからない状況で連絡などできなかったのだろう、今は彼もホテルに帰っているし、一般家庭なら夕飯前の時間だ。

 

「……ああ、新一くんか? 柊木だ」

 

 幾分か優しい声で、柊木は話し出した。なんやかんやで柊木はあの小さな探偵をわりと気に入っているらしい。未成年だし、守らなくてはという義務感のようなものもあるのだろうが、少しばかり珍しいと思わなくもない。

 こういう言い方をすると語弊があるが、狭い世界で生きてきた柊木には実は「すきなもの」は少ないし、本人的にもあまり増やそうという意識はないらしい。そんな奴が探偵少年を「気に入った」なんて、何か通じるものでもあったのだろうか。

 

「……ああ、だから今まで以上に警戒をしてくれ。万が一CIAを名乗る人物が接触して来たらその場で俺に連絡を。今後どんな状況に陥ったとしても、俺は君たちとCIAが接触する際、絶対に公安の人間を同席させる。場合によってはFBIにも警戒が必要かもしれない。……ああ、何せ相手は、……」

 

 CIAだから。おそらくそう柊木の口が動こうとしたとき、その切れ長の目が見開いた。視線が忙しなく動き、また頭が揺れ始める。どうした、と声をかけようとしたとき、さっと柊木が片手でそれを制した。

 

「……あ、ああ、いや、何でもない。そういうことだからご両親や宮野さん、阿笠さんにも情報を共有して警戒を頼む。それじゃ、また」

 

 それだけ早口で言って、連絡を切った。その指が、少し震えている。まだ視線は忙しなく動いていて、顔はだんだんと青ざめてきた。

 

「柊木、どうした」

 

 少し強い口調でそう言うと、真っ青になったそいつがびくりと震えた。ようやく目が合う。こんなにひどい顔の柊木を見たのは、本当にいつぶりだろうか。

 

「……諸伏」

「ああ」

「……悪い、ちょっとまだ混乱してる。ちゃんと話すから、ちょっと時間くれ」

 

 考えて、もしそうなら、対策まで詰める。

 随分と思いつめた様子に、さすがに問い詰めることまではできなくて、わかった、と頷くほかなかった。こいつがここまで狼狽えるなんて、相当のことだ。こいつの出来のいい脳味噌は、いったいどんな「答え」を弾き出したのだろう。

 

「……今日はもう急ぎの案件もないだろ? 帰って休めよ、諸伏」

「露骨に追い出そうとするなよ。……わかった、でもお前もちゃんと休めよ?」

 

わかってる、と下手な笑い方をした柊木に溜息をつき、俺は荷物を取った。ちゃんと話すと言った以上、自分の言葉は守ってくれるだろう。思考をまとめてから話したいというのなら、今口を割らせるわけにもいかない。

 

「明日、聞くからな」

「……うん」

 

 それだけ宣言をして、俺は柊木に背を向けた。背中に聞こえたかすかな呟きには覇気がなく、―――不安しか、なかった。

 

 

 ***

 

 

「……どうしたんだろ、柊木さん」

 

 通話の切れたスマホを眺め、ひとりごちる。

 いつもの俺の無事確認の報告はメッセージで行っていたから、柊木さんの声を聞いたのはもう数か月ぶりだ。組織壊滅に向けて忙しくしているだろうことは予測していたが、それにしても今の会話の切り方は不自然だ。途中で何か、思いついたような。

 

「どうした? 新一」

 

 後ろから話しかけられ、振り向く。今日はスケボーの調整がてら工藤家に帰ってきている。変わらず俺は毛利探偵事務所で世話になっているが、お互いの無事確認も兼ねてちょくちょく両親がいる実家に顔を出すようにしていた。

 

「柊木さんから連絡があって」

「ほう? 何か進展でも?」

「CIAとも捜査協力することになったらしいんだ」

 

 CIAが、父さんは俺の言葉にかすかに眉間にしわを寄せた。俺は軽く頷き、柊木さんに言われたことをそのまま繰り返した。

 

「念のため、今まで以上に警戒をするようにって。CIAの出方がいまいちわからないから、もしCIAが接触を図ってきたらすぐに連絡してくれってさ」

「……なるほど」

「でも話の途中でやけに慌てだして、すぐ切れた」

 

 何か急用でもできたのか、それとも何か思いついたのか。柊木さんらしくない慌てぶりが少し気になる。いったいどうしたのだろう。

 

「……新一」

「ん?」

「柊木君にもう一度連絡を取ってくれないか」

 

 私の杞憂であればいいのだけどね。

 何が、とは聞けないほどに、その時の父さんは真剣な顔をしていた。

 

 



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43

 柊木の様子が気になっていつもより少し早めに出勤してみると、やはりというか、昨日俺を早々に追い出した指揮官様は隈を作っていた。応接用のソファに座り、くっきりと眉間にしわを寄せて目を閉じている。煙草を咥え、頭がいつものようにふらふら揺れていた。

 確実に寝てない上に、何だこの部屋の煙たさは。即座に換気扇を「強」に切り替えた。

 

「柊木」

 

 少々の怒りを含んだ声で名前を呼ぶと、ゆっくりと柊木は目を開けた。そして俺を見て、ぱちりと瞬きをひとつ。煙草を灰皿に落として、もうそんな時間か、と朝日がさしている窓を見た。灰皿の中はかつてないほど吸い殻でいっぱいになっている。

 煙草を勧めたのは俺だが、これはまずい。おそらく身体的にも、精神的にも。

 

「……柊木」

 

 昨日、柊木はいったい何に辿り着いたというのだろう。こいつがここまで考え込むほど事態は危ういということなのだろうか。残念ながら同じものを見ているはずの俺は状況を掴めていない。だからこそ柊木を巻き込んだし、だからこそ柊木を引き入れたのだが、こいつの優秀すぎる脳味噌が、柊木自身を傷つけることは重々承知していた。

 それならせめて、支えるくらいのことはしてやりたいのに。

 

「……うん」

 

 俺の言いたいことをわかっているのだろう、柊木はそのまま少し俯いた。そしてまた顔を上げて、俺をまっすぐに見つめる。

 

「昨日の夜、最悪のシナリオが浮かんだ」

「ああ」

「けど、……ごめん」

 

 最適解が。

 そこまで言って、柊木はまた俯いた。灰皿に山になった吸い殻に、よれたスーツ、乱れた髪に、よく見れば少し震えている指先。一晩ずっと、考え続けたのだろう。いつもなら大抵の策をひとつふたつと思いつく柊木が、ここまで追い込まれているなんて。

 

「……柊木、何もお前ひとりで全部考える必要はないだろ。情報を共有して、皆で考えれば、」

「ダメだ」

 

 珍しく柊木が強い言葉で俺の言葉を遮った。こんな言い方をするのは本当に珍しい。俯いたままの後頭部が、それだけは許さないと告げている。何故、とらしくない友人に驚いた。柊木は人に頼ることをちゃんと知っている。人の手を借りたくないなんて考えはしない。

 

「……風見さんなら、いい。でも、降谷にはダメだ」

 

 絞り出された声は、弱弱しかった。

 ゼロに言えない理由を聞いても、柊木は緩く首を振るだけで何も言わない。

 

「……俺には言える?」

「……うん」

 

 でも、本当にちょっと待って。

 そう言って柊木は両手で顔を覆い、天を仰いだ。まだその指先の震えも引いていない。俺はため息を一つついて、切り替えた。

 

「今日の予定は? CIAもFBIも情報収集で出払ってるよな。バーボンは組織の案件で遠方だから戻るのは早くても夕方、風見さんは警視庁で雑務処理だけど」

「……とりあえず午前は外出」

「外出? 珍しいな、どこ行くんだ」

「工藤先生が話したいって」

 

 探偵君を通して呼び出されたという。何の話だとうさんくさく思う反面、まあたまには外に出るのも気分転換になるだろうと前向きに考えることにした。探偵君や宮野さんの無事確認も、直接しておくに越したことはない。

 

「じゃあ俺も行く」

「え?」

「今のお前に運転させたら確実に事故る。一人で来いとは言われてないんだろ」

 

 言われてはないけど、と柊木はひとつ瞬きをした。こいつ、どうやら今自分がどれだけ酷い顔をしているかわかっていないらしい。とりあえず仮眠させ、シャワーに突っ込み、朝飯を口に突っ込もう。まだ早朝だ、それくらいの時間はある。

 無理やり柊木を立たせると、でもまだ、と言い募ろうとするので、俺はにっこりとでかい駄々っ子に笑いかけた。

 

「膝枕がご所望かな? 今なら子守歌のサービス付き」

「おやすみ」

 

 いや、そこまで即答しなくてもいいと思うんだけど。

 

 

 ***

 

 

「ああ、彼らはCIAだ。私はむしろ、その『シナリオ』の方が自然だと思うね」

「……工藤先生、」

「新一の父として、伺いたい」

 

 彼ら相手に、どう戦うつもりなのかを。

 

 

 ***

 

 

 報告のために戻ってみるといつもの執務室はもぬけの殻で、珍しいことがあるものだと首をひねった。ヒロはまだしも、柊木はほとんど執務室を出ることはない。何か呼び出しでもあったのだろうかとスマホを取り出したとき、ノックの音とほぼ同時にドアが開いた。

 

「あれ、戻ってたのか。お疲れさま」

「ヒロ。一人か?」

「ああ、柊木なら阿笠さんの研究所だよ」

「阿笠さんの?」

 

 ヒロが言うには、引きこもってばかりの柊木の気分転換のために志保さんや新一くんの無事確認という建前で柊木を連れ出したのだという。

 最初は軽くお茶をして終わるはずだったのだが、柊木の隠し切れない隈と顔色の悪さに彼らはそれはそれは驚いたらしい。仕事に戻ろうする柊木を、もう少し休んでいって、いやむしろ寝ていってと引き止め続け、最終的に隙をついて麻酔銃で落としたとか。

 

「昨日も考え事してたら徹夜したらしくてさ。ちょうどいいからそのまま寝かせてきた」

 

 いい笑顔でヒロは言うが、公安的には非常によろしくない。しかし柊木の身体についてはさすがに僕も心配していた。怒るべきか褒めるべきか悩んだ挙句、後者が勝る。

 

「いっそそのまま明日も休ませるか」

「ああ、さっき連絡来たけど、CIAもFBIも二、三日は来れなさそうだと」

「それならちょうどいいな」

 

 志保さんや新一くんにも連絡をまわしておけば、柊木が仕事をしないように見張っていてくれるだろう。公安に来て以来、柊木はろくに休んでいない。体力もあるし自己管理もちゃんとしている奴ではあるが、たまにはしっかり休ませないと。

 

「それにしても、相変わらず新一くんは勇気があるな」

「麻酔銃のことか? まあ柊木が起きたらばっちり説教されるだろ」

「他人事みたいに言ってるけどお前も共犯なんじゃないのか」

 

 さすがの新一くんも、誰かの後押しがなければ柊木相手にそこまでの強硬手段はとらないだろう。暗にお前が指示したんだろと視線で言えば、けろりとヒロは自白した。

 

「休めるときに休まなきゃだろ?」

「それは同意するが、説教一時間は覚悟しろよ」

「俺正座弱いんだけどなぁ」

 

 ぼやく幼馴染に、ふっと笑う。

 柊木が休みならヒロや風見にも休んでもらおう。雑務は片づけなければならないが、少しくらい休息の時間があったっていいはずだ。懸念事項は尽きないとは言え、この案件も終盤に差し掛かっている。最後の最後で倒れるなんてことになれば洒落にならない。

 

「……お前も少し休めよ、ヒロ」

「ああ、ゼロもな」

 

 たまには風見さんも誘って夕飯どっかで食べるかと笑った幼馴染に、僕も笑顔を返した。

 

 

 ***

 

 

「あーはいはいそーゆーこと。そりゃー俺にメッセージ送る必要はないですねえ」

 

 ようやく仕事が落ち着き、三人で飲める時間を作ることができた。個室のある居酒屋で柊木が仕組んだと思われる強盗事件の顛末を、除け者にされたハギに説明する。

 朝っぱらから送られて来た意味不明のメッセージに、突如発生した強盗事件、そして強盗犯ではないのに逮捕されたあきらかにカタギではない二人組、そしてその身柄を引き取りに来た降谷の部下。

 話を聞いて案の定むくれたハギはぐいっとビールのジョッキを呷った。

 

「そう拗ねるなよ。お前も忙しかったし、遠慮したんだろ」

「いーや、単純に必要なかったからだね絶対。旭ちゃんがそんなとこで気ィつかうわけないじゃん」

 

 フォローにまわった伊達も同感なのか目をそらした。正直俺もそう思う。普段の柊木ならともかく、仕事におけるあいつは合理主義の鬼なので、間違いなく必要がなかったから連絡をしなかったのだろう。

 

「ったく、文句のメッセージ送っても既読無視だしさー」

「しかし本当に連絡取れなくなったな。諸伏や降谷は今まで通り遅いなりに返信くれるのに」

 

 何となくの事情だけは二人の方から聞いている。柊木の作戦立案能力を見込んで公安に引き抜き、あの二人が長年抱えている案件の指揮を執っていると。さすがというか、そのおかげで案件が終わりに近づいているとも。

 確かにそのあたりの能力は警察学校時代からずば抜けていたが、大した経験もないのに相応の結果を示しているというのだから、あの暴君は恐ろしい。

 

「……旭ちゃん、精神やられてないといいけどねー」

「何だよ、いきなり」

「だって柊木だよ? あの身内認定した奴には無自覚でクソ甘な柊木が、多分怪我とかしないように手ェ回してたんだろうけど、それでも松田と伊達を巻き込んだわけじゃん」

 

 どうせそうするしかなかった自分を力不足だって責めて、馬鹿みたいに自己嫌悪してるよ。

 ほんともー仕方ない奴、とハギはまたビールを呷る。俺と伊達はすっと目を合わせ、同時に肩を落とした。

 

「あり得る……ていうか間違いねえ……」

「あいつ本当にそういうとこあるよな……見えないけどプライド高えし完璧主義だし……その分無駄に自分追い込むんだよなぁ……」

「相当ヤバいやつ相手にしてんだろうし、手段なんか択ばずとっ捕まえりゃいいのにねぇ?」

 

 俺だって旭ちゃんが言うならちょっとの無茶くらい聞いてやるのにさ~とハギはくだを巻く。ペースが早かったせいか酒のまわりが早そうだ。潰れてもらっては困ると水をオーダーする。

 

「……そんな旭ちゃんだから、諸伏や降谷のことだってなるべく危険に晒さない策を考えようとすんだろうね。それが命取りにならないといいけど」

「何らしくねえこと言ってんだ、萩原」

 

 酔いで思考がネガティブに走ったのか、縁起でもないことを言うハギの手からビールを奪う。あっと伸びてくる手を抑え込みジョッキを伊達に渡した。

 

「柊木が甘いのは否定しねえが、大丈夫だろうよ。そのための補佐だ」

「ああ、確かに」

 

 受け取ったジョッキをハギの手が届かないところに置き、伊達は苦笑して続けた。

 

「意外とその辺厳しいんだよな、諸伏ってやつはよ」

 

 

 ***

 

 

 酷いことを言っているのはわかっている。

 俺のことを嫌ってくれてもいい。憎んでくれてもいい。それでも俺は言うよ。

 

「お前が言ったことを、そのまま返すぞ」

 

 俺たちを危険に晒す覚悟もなく、指揮官を務めていたのか?

 びく、と柊木は叱られた子供のように震えた。

 

「俺に嘘が通用すると思うなよ。お前の頭にはあるはずだ、その最悪なシナリオを逆手に取る『最適解』が」

 

 ただ、お前がその策を使いたくないだけなんだろう?

 俺の言葉に、柊木はただ両手を握りしめた。

 

 

 *

 

 

 工藤先生に呼び出された日から一日おいて、その次の日。出勤すると、すでに柊木はデスクに座っていた。俺を顔を向け、いつもと変わらぬ笑顔でおはよう、と挨拶をする。よく休めたのか、その目の下から隈は消えていた。

 

「さて、諸伏」

 

 綺麗すぎるほど綺麗な笑顔の柊木に、引きつった笑みを返す。ああ、スーツで正座はしたくないな、しわになる。そんなことを思っていると、柊木はすっと俺のデスクを指さした。

 

「この二日で滞っていた分の仕事は片づけた。報告書の修正、足りてなかった必要書類の提出、次の作戦で動かす人員および車両の手配と、それから捜査員が上げてきた情報のまとめ直し、ついでに共有用に英語翻訳。午前のうちに終わらせろ」

「……えっ」

「おかげさまでこの二日よーく休めたんでなぁ、仕事が捗ってしょうがねえんだ」

 

 午後には別の仕事があるからよろしくな?

 ああ、いい笑顔をしている。二日前の追い詰められた顔が嘘のようだ。元の調子に戻ったことを喜べばいいのだろうか。いや無理、喜べない。だってその量を昼までとか絶対無理だから。鬼か? 鬼なのかな? あっ違った暴君だった。説教じゃなくて仕事でやり返してくるとは思わなかったちくしょう。これは完全に麻酔銃のことを根に持っている。

 

「……よく休めただろ?」

「ああ、新一くんに二時間説教できるくらいには元気になったよ。全く、恐ろしいもん作るよな、阿笠さんは」

「それは確かに」

 

 けどアレ、いいな。

 そう呟いた柊木は、完全に「指揮官」としての顔をしていて。

 

「……諸伏」

「ん?」

「とりあえず、今できる準備は昨日のうちに済ませた」

「!」

 

 柊木はいつもと変わらない顔で、何でもないように言う。その無機質な声色に、何故か俺の背筋に冷たいものが走った。何を、今更。そうしろと言ったのは俺なのだ。

 

「風見さんには協力を頼むが、絶対に降谷に悟られるな。CIA、FBIも同様、他の公安捜査官たちにもだ。対組織の最後の作戦の目途が立ち次第、本格的に動く」

「……お前の言いたいことはわかったけど、本当にゼロには秘密にしておくのか?」

「ああ」

 

 降谷にはバーボンとして動くことに集中してもらう。

 小気味いいくらいにきっぱりと柊木は切り捨てた。秘密にするメリットについてはすでに聞いているが、俺としてはデメリットもそれなりにあるように思えた。

 

「異論があるのか?」

「まさか。従うよ、指揮官様」

 

 だが、柊木がその方がいいと思うならそうなのだろう。今更柊木の言葉を疑うはずもない。肩をすくめて自分のデスクに座り、端末に向き合った。

 

「柊木」

「うん?」

「……せめて十五時くらいまで締め切りのばしてくれない……?」

 

 俺の心からの懇願を聞いた柊木は、語尾にハートマークをつけんばかりのノリで却下と切り捨てた。あまりに綺麗な笑顔に俺の口元がひくりと揺れる。

 クリスマスも近い今日この頃、俺は近いうちに柊木を人の多い駅前あたりに放置することを心に決めた。せいぜい逆ナンする女の子に囲まれて情けない顔を晒せばいいと思う。

 

 



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44

 誰もいない廊下に、俺の声はよく響いた。

 

「―――ええ、宮野志保は譲りません」

 

 断固とした声で、スマホの向こうにいる相手に言い切った。俺がこれからやろうとしていることの大前提は、彼女の身柄を決して合衆国に譲らないこと。何としてもそれだけは認めさせておかなければならない。

 

「仰る通り、合衆国とことを構えないようにするためには彼女と工藤新一の身柄を引き渡すのが一番楽な手段です。少なくとも、日本にとって損はない。一見ね」

 

 そう、一見だ。彼らを他国に引き渡すことは、有能な人材と画期的な研究を合衆国に渡してしまうというだけではない。「保護対象」や「協力者」である彼らを他国に渡すということが何を意味するのか、この人にわからないはずがない。

 

「公安警察が保護対象及び協力者を他国に売り渡したなんて前例は、決して作るべきではありません」

 

 公安警察の捜査に、協力者の存在は不可欠だ。彼らは我々の目となり耳となり足となり手となる。それゆえに確固たる信頼関係を築き、時にはともに危機を乗り越えることだってある。そしてその関係は、公安が彼らを守り抜くという前提があってこそ成り立つものだ。

 

「特に今回はベルモットの存在があります。そんなことをすれば、彼女は容赦なく契約を破った我々に牙をむき、そして公安警察の裏切りを声高に喧伝するでしょう」

 

 公安警察は、協力者を裏切った、と。

 そんなことになれば、今すでに存在する「協力者」は公安警察に不信感を抱くだろう。新たな協力者を得ることも難しくなる。それはつまり、公安警察の弱体化に他ならない。国家の治安維持を引き受ける我々の弱体化は、すなわち国家の危機だ。一時の外交問題のためにこの国の将来を危機にさらすようなことは許されない。

 

「……彼らを引き渡すことを選択肢から消すつもりはありません。しかし、それはあくまでも最終手段であるべきです」

『つまり、最終手段を取るまでもなく片付けられると言うんだな?』

 

 低く、威圧感のある声が耳に響く。電話ということもあるが、ひどく無感情に聞こえた。できるかどうか、その事実のみを尋ねられている。

 

「ええ、できます」

 

 俺は迷うことなく断言した。最終手段なんて使わせない。俺が指揮を執る以上は、絶対に。妥協した勝利だって許すものか、俺が目指すのはいつだって。

 

「完全勝利以外は、勝利ではありませんから」

 

 俺の合格ラインは満点のみだ。その信条はずっと変わらない。

 電話口で、低い声がふと笑ったのがわかった。頼もしいな、と言葉を続ける。納得してもらえたかはわからないが、この人が基本的にこちらのやり方にあわせてくれる人だということは知っている。

 

『お前に任せる。抜かるなよ』

「もちろんです、理事官」

 

 ぷつりと通話が切れる。さあ、これで上の許可は得た。

 俺のやるべきことはもう決まっている。完全勝利に向けて、俺のもつありとあらゆるカードを使い、粛々と終わりに向けて駒を動かしていくだけだ。俺ならできる自信は、ある。そう、手段を択ばなくていいのなら。

 スマホを床に投げ捨てたい思いを握りつぶして、俺は執務室へ足を向けた。

 

 

 *

 

 

「……CIAが、そんな……?」

「可能性の域を出ませんが、対策は必要だと思っています」

 

 眼鏡の奥の瞳は、驚愕と動揺で揺れていた。しかし、疑っている様子はない。そして数秒後には落ち着きを取り戻し、まっすぐに俺を見据えた。

 

「俺に、できることはあるでしょうか」

「もちろん。貴方の協力が必要不可欠です」

 

 あいつを守るためにも、手を貸してください。

 俺の言葉に、降谷の右腕であるその人は、力強く頷いた。

 

 

 *

 

 

 日々が過ぎていく。クリスマスも年越しもとうに過ぎ去ったが、仕事以外の何かをしていた覚えがない。まあ毎年何をするわけでもないだけに、特に感慨もなく終わった。まあ降谷は餅が食べたいとしょんもりしていたので、せめてと思って雑煮を差し入れたら泣かれた。お前疲れてるんだよ、こき使ってるの俺だけど。

 CIAは相変わらず腹の底が読めないなりに情報提供に協力的だし、FBIも精力的に捜査に動いてくれている。徐々に組織の力を削いでいき、もはやかつての巨大シンジゲートは見る影もない。相変わらず資金は潤沢なようだが、潤沢なのは資金だけだ。

 もう、そろそろいいだろうか。そう思ったとき、俺のスマホが着信を告げた。

 

「はい」

『例の件、終わったわよ』

「さすが、早いですね」

 

 ベルモットに頼んでいたのは、ある製薬会社の機密情報の横流しだ。組織に関わる情報を抜き取り、その企業もとっとと潰すつもりでいる。それなりに大きい企業だ、弱体化した今の組織にとって大きな痛手となるだろう。

 

『……ねえ』

「何です?」

『ヘイムダルは、いつギャラルホルンを吹き鳴らすのかしら』

 

 唐突な話題につい瞬きをした。そういえば俺のことをそんな風に例えたとバーボンが言っていたような気がする。随分と気障なことを言うものだと少々呆れたし、だいたいヘイムダルは神々の黄昏(ラグナロク)の最中、悪神ロキと相討ちになって死んだとされているのだ。縁起でもないからやめてほしいと思う。

 とりあえず、ベルモットが何を言いたいかはわかった。

 

「……そろそろ、と思っていたところです。貴方に、一番大事なことを聞かなければならない」

『そうでしょうね。……今夜』

「え?」

 

 今夜二十時、いつものバーで。

 一秒でも遅れたら許さないわよと言い捨てて、一方的に通話を切られた。思わず手の中にあるスマホを見つめる。何となく感慨深いものが込み上げた。そうか、とうとう。

 核心の話は、なるべくなら向こうから切り出してほしいと思っていた。ベルモットが俺たちの動きを見て確実に組織を潰せると判断してくれれば自分から話してくれるだろうと。そうなれば彼女はきっと、余計な言葉遊びをしたりもせず、偽りのない情報を提供してくれると信じて。

 

「……ベルモットか?」

 

 自分のデスクで仕事を片づけていた諸伏が、こちらをまっすぐに見つめていた。何の話をしていたか、もう察しているのだろう。俺は緩やかに微笑んで、頷いた。

 

「今晩二十時、行ってくる」

「了解、気を付けてな」

「Mr.柊木?」

 

 少し離れたテーブルで資料を手に話し合っていた他の捜査員たちも、こちらを見つめていた。CIA、FBI、そして公安捜査官。それぞれの思惑を隠した瞳が、俺に向けられている。

 

「終わりが見えてきましたね」

 

 終わりを迎えたその瞬間、微笑んでいるのはどの顔なのだろう。

 まあ俺は間違いなく笑ってるけどな、と弱気を打ち消し、俺は手元の珈琲に口を付けた。

 

 

 *

 

 

「あら、今日は飲んでるのね」

 

 後ろから掛けられた声に振り向くことなく、俺はグラスを軽く持ち上げた。飲んでるも何も、営業中のバーに入って何も頼まないでいられるほど俺の神経は太くない。

 静かだが品の良いジャズが流れる店内はほどよく薄暗く、他の客の会話も聞こえそうで聞こえない。マスターの顔すらはっきりとは見えないのだから、これはもう密談にはうってつけの場所と言っていいだろう。

 

「何飲みます?」

「貴方は?」

「スコッチです」

「そう。……以前にそのコードネームの幹部がいたわね」

 

 確か、公安からのNOCだったかしら。

 彼女はそう言ってカウンターに腰かけ、適当にオーダーをした。

 そういえば彼女には諸伏のことは言っていない。バラす必要も会わせる必要もなかったからだが、最後の作戦によっては伝える必要が出てくるだろう。

 現状のままなら特に必要ではないが、正直CIAよりはベルモットの方が信用できるだけに、バーボンが降谷であることもバラさなくてはならないかもしれない。注意深く計画を立てる必要がある。

 

「特に深い意味はないオーダーだったんですが……彼のことはご存じで?」

「名前とスナイパーだったってことしか知らないわ」

 

 軽く雑談を入れている間にベルモットがオーダーしたカクテルが差し出し、マスターはまたすっと身を引いて離れる。ここのマスターはあまり客に話しかけるタイプではないようだ。

 

「身辺に変化は?」

「特にないわ。CIA(カンパニー)の手出しもないわね」

 

 CIAが捜査協力していることはベルモットにも伝えてある。組織側に余計な横やりを入れる可能性を考えてのことだが、どうやら本当にノータッチ。キールに連絡を取ろうとする姿勢くらい見せればいいものを、まずは組織の壊滅が最優先と言って彼らは自分たちから組織に接触しようとはしなかった。狙いは完全にこちらだということだろう。何ともわかりやすい。

 

「まあ、どうでもいいわ。……これが、貴方たちがずっと欲しがっていた情報よ」

 

 差し出されたメモリを緩やかに受け取って懐にしまう。ベルモットの手が震えていた気がするが、気のせいかもしれない。

 これで、必要な情報は揃った。確認次第、最後の作戦を考えなければならない。

 

「感謝します」

「必要ないわ」

 

 改めて、彼女をまっすぐに見つめた。正直とても辛い。だが、俺は彼女に伝えなくてはならないと思う。

 彼女にとってこの組織の存在がどんなものだったのか、俺にはわからない。けれど、この核心の情報を差し出すことには相当な抵抗と決意があったはずだ。それでも彼女は自分からそれを提供してくれた。

 彼女の、大切な宝物を守るために。

 

「―――感謝をさせてください、ベルモット」

 

 すっと目線を下げて、軽くだが礼をした。

 必ずあなたとの契約は守り抜いてみせる、その意志を示すために。

 

「……相変わらず、変な子ね」

 

 そう言ってカクテルに口をつけるベルモットに苦笑を零しつつ、正面に向き直った。椅子に座りなおし、スコッチで口を湿らせる。彼女に一言断り、煙草に火をつけた。

 

「それはそうとベルモット」

「何よ」

「今頂いた情報にもよるんですけど、おそらく最後の作戦には貴方の協力が必要になります」

 

 ぴたり、と彼女は一瞬動きをとめた。

 

「その時は協力をお願いできますね?」

 

 にっこりと微笑みかけると、ベルモットは眉間にくっきりとしわを寄せ、彼女もまた煙草に火をつけた。呆れたようなうさんくさそうな目線に、構わず微笑み続ける。

 

「……一瞬前の殊勝な態度はどこにいったわけ?」

「見間違いでは?」

 

 そう切り返すと彼女は数秒だまり、ふと不敵に笑った。

 足を組みなおし、肩にかかったプラチナブロンドは払いのける。その表情、その仕草は、俺の目から見ても魅力的に思えた。ちっとも心は惹かれないし、できることなら今すぐにでも走って逃げたいけれど、それでも彼女は美しい。

 

「お手並み拝見、させてもらおうかしら」

「ご期待に沿えるよう努力しましょう」

 

 やはり彼女には、その笑顔がよく似合う。

 

 

 *

 

 

 警察庁に戻る前に、スマホの画面をタップした。

 着歴、メール、メッセージ、そしてSNSをチェックする。流れる文字を目で追った。よし、特に異常なし。

 

「……熱いな」

 

 久々に飲んだせいか、いつもより酒のまわりが早い。熱く火照る顔をぱたぱたとあおぎながら、酔い覚ましに少し歩く。

 

「……ダメだなぁ」

 

 アルコールで正直になった俺の思考回路は、自己嫌悪で埋まっていく。頬が冬の冷たい空気で冷やされるにつれ、だんだんと暗いものが胸の中に渦巻いた。

 決意も覚悟も、したつもりなのに。まだ俺は、こんなにも甘いのか。

 

「……こんなんじゃ、また叱られるな」

 

 これではいけないと軽く頭を振り、先ほどまでより早足で駅へと向かった。

 今はもう、落ち込んでいる暇すら惜しいのだ。自己嫌悪など、時間の無駄でしかない。そう自分に言い聞かせて、俺は思考を切り替えた。

 

 

 *

 

 

 ベルモットからもたらされたデータを、覗き込む。

 ボスの正体、ラムの正体、そして目的、組織のこれまでの変遷。十分すぎるデータが、これまで数多くの捜査員が求め続けた情報が、そこにはあった。情報を吟味するに、決して嘘とは思えない。ボスの正体も、予想していたとは言えないまでも驚愕するほどの人物ではなかった。しかし、とんでもない大物には違いない。

 逮捕自体は簡単でも、捕まえた後のほうが厄介な気がしなくもない。が、それは俺が考えることじゃない。

 

「……情報はすぐに共有します。まずは裏取りからですね」

 

 まずはすぐに宮野さんに情報を共有し、確証を得る。視線を降谷に移すと、万事理解したとばかりに大きく頷いた。

 これまで捜査に関わってきた捜査員が、真剣な顔で俺のデスクの前にずらりと並んでいる。とうとう、ここまで来た。皆の顔がそう言っていた。

 

「一か月」

 

 ひとつ呼吸を置いて、言葉を声に乗せる。

 

「本日よりおよそ一か月後を目安に、最後の作戦を執行します。組織のボス、その腹心であるラム、今だ凶行を続けるジン、それに従うウォッカ。彼ら全員の逮捕をもって、組織に引導を渡します」

 

 緩慢な動作でデスク前の椅子から立ち上がる。迷うことは何もない。

 絶対に、やり遂げてみせる。ここまで来たら、完全勝利以外の結末は許さない。

 

「終わらせましょう、全て」

 

 執務室に、全員の力強い返事が響いた。

 

 



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45

「君はきっと、あらゆる手段を用いて彼女や息子を守ろうとしてくれるだろう? 向こうからすれば、それは邪魔で仕方がないはずだ。彼らが君を高く評価すればするほど、ね」

「……ええ」

「邪魔をされないように、より確実な手段をとってくると、私も思うよ」

 

 何せ彼らは、合衆国の国益を第一とするCIAだからね。

 工藤先生のその言葉に、俺はそっと目を伏せた。

 

 

 *

 

 

 まずは、確実に潰す。油断をするつもりはない。反撃の隙も与えず、一気に全てを終わらせる。執務室には緊迫した空気が流れていた。

 

「ラムは定期的にボスのいる館に通っているようです。二人揃う日に仕掛けましょう。その同日同時刻にジンとウォッカも誘き出し、逮捕します」

「二箇所同時か。君が両方指揮を執るつもりかね?」

 

 Mr.ブラックの心配そうな言葉に、苦笑して首を振った。さすがの俺も、両方に目と耳を配れるほど自分を過信はしていない。

 

「ボス側の指揮を、Mr.ブラック。貴方にお任せしたい」

 

 すると彼を始めFBIの捜査員たちが揃って驚いた顔をした。何をそんなに驚いているのだろう、俺は決して彼を軽んじてきたつもりはないのだが。

 

「そちらの作戦は、難易度こそそう高くはないですが、ボス所有の館―――アジトの制圧戦になります。ジン・ウォッカ逮捕は少数精鋭での短期決戦になるでしょうが、ボス・ラム逮捕は大人数を動かすことになるでしょう。長期戦も考えられる」

 

 大人数を動かしたことも、長期戦の指揮をとったことも、俺にはない。おそらくは諜報員であり歳もそう俺と変わらないCIAの彼も同様だろう。

 

「貴方の経験を、買います。俺よりずっと長く捜査の指揮を執ってきただろう貴方の方が、きっとその作戦の指揮官に相応しい。そう考えました」

 

 CIAが来たあとも、彼は全く変わらなかった。心のうちで思うことがあったとしても、決して表には出さなかった。何も変わらず、粛々と彼の部下を動かし、時には自ら動き、捜査に貢献してきた。目立った功績こそないけれど、彼がいたから上手くいった作戦は多い。

 俺は決して、Mr.ブラックを過小評価するつもりはない。そんな俺の考えを汲み取ってか、彼はきりりと表情を改め、頷いた。

 

「引き受けよう」

「よろしくお願いします」

 

 それを確認して、俺も笑みを返す。ラムの相手は面倒かもしれないが、こちらの動きを気取られなければ問題はないはずだ。情報の管理を徹底すればいい。

 

「では、ボス・ラム側をMr.ブラックが、ジン・ウォッカ側をMr.柊木が指揮を執るということですね? チーム分けはどうしましょうか」

「ジョディ捜査官とキャメル捜査官はMr.ブラックの補佐についてください。他のメンツは俺の方にもらいます。Mr.ブラック、かわりにFBIの他の捜査員や公安の人間をそちらに投入しますので。必要な人数を揃えさせます」

「ああ、ジンとウォッカが相手だ、少数精鋭を考えるならその方がいいだろう」

 

 人数の偏りが激しいが、こればかりは仕方がない。制圧戦はそれなりの人数が必要だが、個人の能力以上に指揮と統率がものを言う。彼ほどの指揮があれば、現場の人間は一定以上のレベルがあれば特出した能力は必要ない。

 

「ボス側はこちらから仕掛ければいいが、問題はジンの方だな。だいぶ気が立っている上に警戒心が強くなっている。俺やベルモットが呼び出したとしても応じてくれるかわからないぞ?」

「そこは問題ないよ」

 

 恰好の餌があるだろ?

 そう言ってにっこりと笑うと、察した降谷はぱっと輝く笑顔を見せ、諸伏は思い切り口元を引きつらせた。

 

「恰好の餌、というと?」

 

 ()()の因縁を知らないミスターが不思議そうに言う。

 それにまたにこりと笑みを返し、「恰好の餌」に向かって微笑みかけた。

 

「貴方の存在があれば、きっとジンも喜んできてくれると思いませんか?」

 

 ねえ、赤井さん?

 当の本人はすっと肩をすくめ、手を開いた。

 

「もちろん従おう」

「ありがとうございます。バーボン、やることわかってんな」

「ええ、喜んで。ところでひとつ提案なのですが」

「何だ?」

 

 こきり、と降谷はいい笑顔で指を鳴らした。その音に諸伏はそっと項垂れ、風見さんはさりげなく目をそらす。

 

「僕が赤井の存在を暴き出し、捕まえたことにするんでしょう? それなら赤井が無傷のままではリアリティがないと思いませんか? さすがに原型がわからなくなってしまうのは問題ですが、少々流血するくらいが妥当だと思うんですが」

「建前はいい、本音は?」

「いい機会だから一発くらい殴らせろ」

 

 構わないだろと緩く首を傾ける降谷に、仕方ないなと頭をかいた。実際、確かに無傷のままではリアリティがない。適当にメイクでもしてもらおうかと思っていたが、まあ実際に怪我をさせる方が手っ取り早いのは事実だ。

 

「正直なのは嫌いじゃない。許可するから作戦の直前まで待て。まだ早い」

「了解した」

「ちょっと待ってくれ柊木くん。それは俺に大人しく殴られろと言う意味か?」

「別に大人しくしてなくていいですよ。ちょっとくらい反撃食らった方がバーボン側にもリアリティ出るし」

「やれるもんならやってみろ。ただし赤井、この一発は志保さんから託されたものだ、その意味はわかるな?」

 

 ぴたりと赤井さんが動きをとめた。その頬にたらりと汗が流れる。

 いくらその身辺を護るためとは言え、盗聴だのハッキングだの、中身が十八歳の女性相手にやる行為ではない。どうやら降谷は宮野さんに「私のかわりに一発殴っておいて」と依頼されていたらしい。なるほど、なおさら止める理由はない。

 

「……甘んじて受けよう」

「当然だ」

 

 ふふんと笑った降谷に苦笑する。

 気を取り直して作戦の説明に戻った。

 

「バーボンからジンに『赤井を捕まえた』と連絡を入れさせます。降谷、お前がいまだに追っていることにしてる『鼠』の件、ちゃんとFBIの関係者だってことにしてあるんだよな?」

「ああ、お前の指示通りだ。なるほど、そこから赤井が釣れたことにするのか」

「組織の情報を流出させた『FBIの関係者』を探るうちに赤井さんの生存がわかり、捕獲したという体にする。それだけでジンは釣れるだろうが、キールのことにも触れておこう」

 

 ぴくり、とCIAの彼が反応した。

 一応彼らの建前は「キールの救出」だ。そのあたりも考慮に入れておかなければならない。どちらにしろ赤井さんの生存が発覚した時点でキールは粛清の対象となるだろう。一応は救済の手が必要だ。

 

「ジンから連絡を入れさせて、キールも同様に呼び出してくれ。どうせ赤井さんを殺すならキールの目の前で、とでも言えばいいだろ」

「組織からすればキールは命を懸けて赤井を救ったことになるわけだからな。わかった、そのあたりは上手くやる」

「そしてジン・ウォッカの逮捕と同時にキールを救出するわけですね? その流れで行けば作戦当日までキールの無事は保証される。ああ、ありがとうございますMr.柊木!」

「当然のことですよ」

 

 感激したように握手を求められ、さらりと返す。

 俺は彼の腹の底には気づいていない、そういう振りを貫かなければならない。もっとも、俺の頭の中にあるものが正解かどうかは未だにわからないわけだけれど。

 とにかく、極力警戒をされずに、俺が反撃しやすい状況にもっていくこと。そして彼の話の中から、彼の真意を探っていくこと。

 すべての作戦が完了するまで、決して気は抜いてはいけない。

 

「当日の流れについては?」

「それはまたおいおい。まずは舞台づくりに注力しましょう。どんな作戦も、事前の準備がものを言いますからね」

 

 最後まで気を抜かずに行きましょう。

 様々な意味を含んだその言葉に、それぞれが力強く頷いた。

 

 

 *

 

 

『あ、柊木さん? 今大丈夫?』

「ああ、大丈夫だよ。どうした?」

『父さんが一応これまで作ったものを確認してもらえって。データ送っておいたので、時間あるときに見てもらっていいですか?』

「了解、今日中には確認して返事するよ。順調?」

『今のところは、多分』

「心強いな」

 

 

 ***

 

 

 珍しく少し時間があいたので、俺はゼロと休憩をとっていた。

 と言っても、いつもと変わらない執務室で珈琲を飲んでいるだけ。仕事は山積みでろくに休みも取れていないが、作戦まであとひと月たらずと思えば少々のことは堪えられる。

 

「なあ、ヒロ」

「何だ?」

 

 柊木はちょっと過去の資料を確認してくると言って席を外している。

 おそらく実際のところは、自分が立てた作戦のためにあらゆる手を打っているのだろうが、それはゼロの知らなくていいことらしい。

 

「どうでもいいことなんだが、最近柊木がやけにスマホを気にしていないか?」

 

 おっと、鋭い。俺は素知らぬ顔でそうかなと返すが、まあ確かに増えたよな、と思う。さすがというかこの幼馴染、気づかなくていいところまでしっかり気づいてしまう。優秀。

 

「いや、もしかしたら上層からの連絡とか、余計な仕事が増えてるんじゃないかと思って」

「それはないと思うけど。理事官には話をつけたって言ってたし」

 

 裏の理事官からは好きなようにやっていいという許可をすでに得たらしい。今の理事官は確かにあまり口うるさい人ではないが、それでも軽く言質を取ってきたというのだから相変わらずうちの指揮官様は世渡りが上手い。

 

「……そうだよな。柊木に何か負担がかかっているわけじゃないならいいんだ」

「大丈夫だろ。案外、仕事の合間に猫の動画でも見て癒されてるのかもしれないぜ?」

「……もしそうだったらあいつ相変わらず可愛いな?」

 

 真顔で言うゼロに噴き出しつつ、そうだな、と二人で笑う。

 まだ本当のことが言えなくてごめん。でも、柊木の言う「完全勝利」に繋げるためだから。

 内心でほんの少しだけ罪悪感をくゆらせつつ、俺はいつも通りに笑って見せた。

 

 

 ***

 

 

「Mr.柊木! よろしいですか?」

「はい」

 

 彼に差し出された資料にあったのは、今は使われていない廃ビルだった。ふむ、周囲の建造物もほぼ無人、大きな窓もあって見通しもいい。

 

「作戦の舞台ですが、そのビルが条件に沿っているかと思いまして」

「確かに、良さそうですね。決定は周囲の状況を確認してからですが、第一候補にしておきましょう。ありがとうございます、ミスター」

「何よりです。では周囲の状況確認に行かせましょう、私はこのビルや周辺建造物の所有者を確認しておきます」

「よろしくお願いします」

 

 すぐさま彼は補佐たちに指示を飛ばし始めた。相変わらず有能で、仕事が早い。

 着々と準備は進んでいた。ベルモットとバーボンの報告を聞く限りこちらの動きが悟られている様子はないし、順調と言っていいだろう。

 あとは当日の詳細を詰め、ベルモットにも協力を仰ぎ、ボスの館がある鳥取県警にも応援要請入れ、―――それから、俺がやっておかなければならないことも、もう少し。工藤先生の方は進捗を見る限り問題はなさそうだ。

 

「おっと、時間か」

「柊木?」

「悪い、俺ちょっと人に会う用があるから行ってくる」

「わかった。戻りは?」

「一時間せずに戻るよ」

 

 ばさりとジャケットを羽織る。さすがに相手が相手だ、身なりはちゃんとしておかないと。そう思いながら歪んでいたネクタイも直す。

 そんな俺を、赤井さんが不思議そうな顔で見た。

 

「君がそう身なりを気遣うのは珍しいな」

「お偉いさんに会う時くらいはね。この国はそういうところ厳しいんですよ」

「柊木君にも苦労があるようだ」

 

 ふ、と微笑んだ赤井さんに、苦笑を返す。

 これから会う人は多分そんなに気にする人ではないけれど、こちらの誠意を示すためにも身なりと言うのは重要なツールだ。気に入られたいとは全く思わないが、少なくとも敵に回したくない人ではある。そして、今回は何としても協力を取り付けなければならない。

 すっと息を吐いて、肩をひとつ鳴らした。

 

「それじゃ、すぐ戻るから」

「ああ」

 

 俺にとっては、因縁の相手でもあった。

 そう思うと浮かび上がる、心の奥底の黒いもの。今までとは違い、そのこみ上げてくる黒いものを見据えても冷静でいられる自分に気づく。

 これは俺が大人になったということなのか、どうなのか。そんな自分に少し苦笑しながら、俺は執務室を後にした。

 

 

 ***

 

 

 俺以外の人員が調査や報告で外に出たころ、柊木が戻ってきた。少し疲れた顔をしているが、どこかやり切ったような表情だ。この表情なら、上手くいったとみていいだろう。

 

「お疲れさん」

「ああ」

 

 ばさりとジャケットを投げ捨てて、柊木は大きく伸びをした。肩が凝った、と愚痴を漏らす。そんな指揮官様に苦笑をしつつ、俺は温かい珈琲を淹れて渡してやった。

 

「サンキュ」

「ああ。……成果は?」

「上々」

「何より」

 

 柊木が話をつけてきた相手について、詳細を聞いているわけではない。しかし、柊木の表情から察するに思うところがある人物だというのは予想がついていた。

 それでも、必要だから、と。それ以外に手段がないから、と。

 腹を決めた柊木は、本当にありとあらゆるものを使い、準備を整えている。今までの柊木なら絶対に選ばなかった道を、余所見もせずに突き進んでいた。

 そんなお前に、俺がしてあげられることは何なのだろうか。

 

「柊木」

「うん?」

「夕飯、どうせここで食べるんだろ? 買ってきてやるよ、何がいい?」

「ゼリー飲料」

「焼肉弁当な、わかった」

「聞けよ」

 

 そんな夕飯を俺が許すわけないだろと返せば、柊木もまあそうだよなと苦笑した。

 俺は、お前を支えるためにここにいる。お前が全てをもって俺たちを守ろうするなら、俺だってちゃんとその覚悟に応えてみせる。

 全員で笑う、完全なハッピーエンドに繋げるために。

 

「ちゃんと食って、力つけてくれよ」

 

 お前は俺が守ってみせるから。

 

 

 ***

 

 

 スマホを開き、アプリを開く。

 いつも通りチェックをしていくと、あるひとつの画像が目に留まった。

 

「……諸伏、風見さん」

「うん?」

「どうしました?」

 

 二人に、気になったその画像を見せる。

 俺のスマホを覗き込んだ二人は、すっと目を細めた。

 

「もうひとつ、手を打った方がいいかもしれないな」

 

 俺の言葉に、二人は同時に頷いた。

 

 



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46

 とあるアドレスにその画像を送りつける。

 ああ、なんて愉快な画像だろう。勝手に口角が上がる。珍しく降谷とバーボンの感情が一致した。まあそれも仕方がない。それだけ無様で愉快な画像なのだから。

 貴方もそう思うでしょう、と送りつけたアドレスの持ち主に内心で語りかける。それに応えるかのように、スマホが着信を告げた。

 

「―――はい。メールは見ていただけましたか?」

 

 ねえ、ジン。

 今も不機嫌な顔で煙草でも吸っているであろう彼の姿が目に浮かぶ。今の画像は何だという、あまりにも答えのわかりきった問い。

 余裕の欠けた早口に、どうしたって笑いが込み上げてきた。

 

「見た通りですよ。いくら貴方でも、彼の顔は覚えているでしょう?」

 

 憎い憎い、あの男。あの方が「シルバーブレッド」と呼んで恐れた、あの。

 どういうことだ、と響く低い声には隠しきれていない動揺がうかがえる。それはそうだ、確かに奴はキールが殺した。ジンもその瞬間を見ていたし、日本警察もその死を確認した。だというのに、奴は生きている。

 ジンに送りつけたのは、顔に大きな痣をつくり椅子に縛り上げられた赤井の姿だった。

 

「例の情報漏洩の件、FBIが絡んでいるという話はしたでしょう? 不思議だったんですよ、調べれば調べるほど、彼らの手際が良すぎて。あまりにも、我々の手口を理解しすぎていた」

 

 僕も調べあげるのには苦労しましたよ、とあえてゆっくりした口調で笑ってみせる。電話口でフンと鼻を鳴らされた。

 

「当然ですよね、―――組織に潜入経験のある者が手引きをしていたのですから」

 

 探りに探った結果、浮かび上がったのは死んだはずの男。かつてこの組織で『ライ』と呼ばれ、裏切り者として粛正されたはずの赤井秀一だった。

 もう一度、愉快で仕方がないというように笑ってみせる。憎い憎いあの男のあんな無様な恰好を見ることができたのだ、バーボンなら全力でせせら笑うだろう。

 

「まだ生かしてあります。貴方も彼の死ぬところが見たいかと思いましてね」

『場所は』

「これから送りますよ。そこでお願いなのですがジン、貴方からその場所にキールを呼び出してくれませんか」

 

 一瞬だけ間をあけて、クク、と低い笑い声が聞こえた。察しのいい彼のことだ、それだけでこちらの意図を理解してくれたのだろう。幾分か機嫌のいい声で続ける。

 

『最期の逢瀬でもさせてやろうってのか?』

「キールがFBIかどうかはさておいても、命をかけて赤井を守ったことに違いはありません。せめて最期くらい、会わせてあげたいじゃありませんか」

 

 もしかしたら、深い仲だったのかもしれないでしょう?

 そう言うとまた喉の奥を揺らし、相変わらず悪趣味な野郎だとジンは言う。お前だって笑っているじゃないかと思ったが言葉には出さず、そうでしょうか、ととぼけてみせた。

 

「僕はあまりキールと親しくありませんから、僕が呼び出しても応じてくれない可能性があります。ですが、貴方が任務だとでも言って呼び出せば、彼女は間違いなく来てくれるでしょう。彼女もこれ以上、疑いの種を増やしたくはないはずですからね」

『感動の再会を演出してやると?』

「ええ、きっと感激でむせび泣くことでしょう。もっとも、流すのは真っ赤な涙かもしれませんがね」

 

 ジンの性格はわかっている。あの男は、裏切り者を惨めに死なせるためと言えば断らない。予想通り、いいだろうと軽く返した。

 

『お前の悪趣味なショーに乗ってやる』

「ありがとうございます。確かキールは今日本にいるはずですね? では明日の正午、指定の場所に」

 

 通話を切り、目の前にいた男に笑いかけた。これで準備は整った。ジンが来るとなればウォッカも共に来る。後は目の前の彼が立てた策のままに動くだけ。

 通話を切ったのを確認し、柊木はひとつ頷いた。柊木もまたその顔に笑みを浮かべる。

 

「明日の正午だ」

「ああ、手筈通りだな」

 

 そして柊木も、その手に持ったスマホに目を落として口を開いた。先ほどから通話をつなげ、スピーカーの状態になっている。

 

「聞こえましたか、Mr.ブラック。こちらも予定通りです」

『ああ、聞こえたよ。まずは第一段階クリアといったところかな』

「ええ。そちらも予定通り進めてください」

『了解した』

 

 明日の正午、こちらが作戦に動くと同時に、鳥取にいる彼らもボスの館へと乗り込むことになっている。同時に仕掛け、同時に片付ける。ふたつの作戦が終われば、長い長い組織との戦いは幕を閉じる。もう少し。もう、少しだ。

 

『次に話をするのは、お互いの勝利報告になるだろう』

「心強い。まあ、どう考えてもこちらのほうが先に終わりますからね、大人しく貴方の報告を待っていますよ」

 

 ジンとウォッカの両手に手錠をかけて。

 そう柊木が軽く応じると、Mr.ブラックも愉快そうに笑ったのが聞こえた。

 

『では、互いに健闘を祈るとしよう』

「はい。―――良い報告を、お待ちしています」

 

 ジェイムズ、と、柊木が彼のファーストネームを呼んだのを初めて聞いた。電波の向こうで、歴戦の捜査官が軽く息をのんだ気配がする。少し嬉しそうな様子で彼も応えた。

 

『……ああ、必ず。私に任せてくれたことを感謝するよ、アサヒ』

 

 その言葉で通話は切れた。柊木は一瞬だけスマホに目をやり、そのままポケットにしまい込む。こきり、とひとつ首をならし、周囲を見渡す。

 その瞳はただ静かに凪いでいて、少しの気負いも感じさせない。ただ、いつも通り。いつも通り、なすべきことをなすだけだと、その瞳は無言で語っていた。

 

「では、予定通り明日の正午、作戦を開始します。カメラのチェックも兼ねて、対象のビルとその付近を交代で監視しましょう」

 

 粛々と指示を出していく姿には、いっそ貫禄すら感じた。

 柊木を公安に引きずり込んでからたった数ヶ月、されど数ヶ月。当初と比べても、やはり雰囲気が違う。彼の言葉に従っておけば間違いない、そう心から思える指揮官のどれだけ得がたいことか。柊木を引き抜いた俺の判断は間違っていなかった。

 そんなことを考えていると、ぱちりと目が合った。

 

「降谷、お前はちゃんと仮眠とっといて」

「そんなにヤワじゃないぞ?」

「知ってるけど、明日はお前がしくったら全部崩れるんだよ。万が一、億が一がないように休んどいて」

 

 かわりに明日は、絶対に、気を抜くな。思考を止めるな。迷いなくその場の最善を遂行しろ。

 

「俺が作戦終了を宣言するまで、な」

 

 そう真っ直ぐに俺を見つめる視線に、当たり前だろうと首を傾げる。これは気が昂っているのを咎められているのだろうか。

 この数ヶ月間、先走るな、焦るな、冷静になれ、と、柊木からそればかり言われてきた気がする。お前の数少ない欠点だから心して改善しろと、何度言われたかわからない。

 ひとつ深呼吸をし、改めてその視線に応えた。

 

「わかった」

「ならいい。じゃ、また明日な」

 

 ひら、と手を振った柊木は、すぐに俺から視線を外して他に指示を出し始めた。

 その横顔に何となく違和感を覚えなくもなかったが、態度に出さないだけできっと柊木も緊張しているのだろう。そう自分を納得させてその場を後にした。

 

 

 ***

 

 

「おや、貴方も監視に加わるのですか? Mr.柊木」

「どうせ眠れませんからね」

 

 驚いたように言う彼に、苦笑を作って返してみせた。

 不確定要素が紛れ込まないように、作戦の舞台となるビルには交代で監視をつける。といっても、すでに設置してある監視カメラの映像を見続けるというだけのこと。何かあった時に指示を仰いでもらえばいいだけで、別に俺が見張る必要はない。だが、どうせ眠れそうもないのだ。それなら何かしていた方がいい。

 

「お気持ちはわかりますが……横になるだけでも休息になるでしょう。貴方こそ明日の作戦の要なのですから」

「もちろん、ずっと見張っているつもりはありませんよ。ちゃんと交代してもらいます」

「……OK、わかりました。ではMr.柊木、私にも参加させてください」

 

 え、と瞬きをすると、温和な顔に苦笑を浮かべた彼は小さく肩を竦めてみせた。やれやれ仕方のない人だ、と言いたげだ。

 

「私は明日、貴方の補佐という形にはなりますが、実際そう仕事がある訳でもない。少しくらい仕事をさせてください、貴方にばかり仕事をさせているのはさすがに心苦しい」

「それは……わかりました、ではお願いします、ミスター」

「はい、おまかせを。では早速私が見張りますので、どうぞ貴方はお休みになってください」

 

 そのまま作戦の時間まで寝坊してくださっても構いませんよ、とおどけて言う彼に、ちゃんと交代の時間には起きてきますよ、と笑って返して背を向けた。

 部屋を出てしばらく廊下を歩くと、諸伏と風見さんが待っていた。諸伏の手にはスマホが握られている。

 

「貴方がこちらにいらしたということは、懸念が当たっていたということですか」

「どうも、その可能性が高いですね。あいつらに連絡は?」

「問題なし。プロに任せとけってよ」

 

 諸伏の言葉に、「元」プロのくせに、と笑った。とはいえ、かつてベテランすら軽く押しのけた具術を鈍らせるほど、プライドの低い奴らではないことは知っている。

 

「細心の注意を払え、とだけは伝えておいてくれ。余計なお世話だろうけど」

「はは、わかった」

「では、こちらも手筈通りに」

「ええ。風見さんも、よろしくお願いします」

「もちろんです」

 

 いつも通り生真面目に頷く風見さんに微笑んで、ぐるりと大きく首を回した。ごき、と鈍い音が響く。

 泣いても笑っても、明日決着がつく。いや、泣くような結果には絶対にさせない。明日のこの時間には勝利を得て笑っていなければ。

 

「柊木?」

 

 黙り込んだ俺に、諸伏は心配そうに声をかけた。ひとつ苦笑をこぼして、ずっと俺たちを支えてくれている二人に目線を戻す。

 これまでありがとう、そして最後までよろしく。そんな気持ちを込めて、言った。

 

「俺たちの命、二人に預けるよ」

 

 俺たちを、守ってくれ。

 それは、信頼という名の脅迫であり、脅迫という名の信頼。

 この二人にだからこそ、言えた言葉だった。

 

 

 *

 

 

「柊木くん」

 

 仮眠室に向かっていたところを思わぬ人に呼び止められた。返事をして振り向く。同時に口元をおさえた。ダメだ、やっぱり笑う。

 

「……いい加減、人の顔を見て笑うのはやめてもらえるか」

「すいません、無理です」

 

 左頬を大きく腫れさせた赤井さんの顔は、それはもう面白い。元がいいだけに尚更破壊力があった。おもに腹筋的な意味で。

 見た目はあれだが、それでも骨や歯は無事だというのだから、降谷にしてはちゃんと加減をして上手く殴ったらしい。

 あんなに全力の笑顔の降谷は久しぶりだ。ストレス発散にもなったのなら何よりだと思うことにした。

 

「……少し話さないかと思ったんだが、もう休むところだったかな」

「いえ、大丈夫ですよ。煙草でもご一緒しましょうか」

「ああ」

 

 そして揃って喫煙室へ。すっかり俺の肺も汚れたもんだ、と変な風に感慨深い。ニコチンがないと落ち着かないなんてことはないが、精神安定剤のひとつになっていることは否めなかった。

 二人で並んで煙草の煙を燻らせる。

 

「……柊木くん」

「なんです?」

「何を企んでいる?」

 

 視線を合わせないまま煙を吐き出した。

 企んでいるとは、まったくひどい言われようだ。

 

「……赤井さん」

「何だ」

「俺はね、これでも警察官なんですよ」

 

 そりゃ今は公安なので手段を選ばないところはありますがと付け加え、改めて口を開く。

 

「だから、正しいと思うことしかしません」

 

 これは、強がりか。自分で言っておいて、少し首を捻る。上手く言葉にできない。

 

「とは言え、」

 

 言葉を選びつつ、自分の内心に近いものを組み立てていく。

 どうも昔からこういうものの説明は苦手だった。自分のことなんて自分が一番わかっていないのかもしれない。最近になって特にそう思うようになった。

 

「正しいにも、いろいろあるでしょう」

「……そうだな」

「たくさんの正しいの中でも、今俺は……そう、多分、私情だらけの『正しい』を選んでます」

「……ホー?」

 

 それは珍しいな、と言われるが、実はそうでもないことを自覚していた。いつだって俺は、私情を公の事情で覆い隠してきた気がする。公の自分を説得できるだけの理屈と証拠を用意して、自分の気持ちを優先してきたような。

 仕事に私情は差し挟まない、そうずっと自分に言い聞かせてきたけれど、効果はあったのかなかったのか。

 

「……まあ、悪いようにはしませんよ。多分ね」

「そうか」

「そういえば赤井さん」

「何だ?」

 

 前に言ったことを撤回します。

 そう言うと、赤井さんは何の話だ、と不思議そうな顔。また大きな痣が目に入り、少し笑った。

 

「貴方を完全に信頼するつもりがないと言ったことをです」

 

 俺は、貴方を信頼する。

 赤井さんはすっと煙草の煙を吸い込み、大きく吐き出した。

 

「……光栄だ、と言っておこう」

 

 さあ、果たして喜ぶべきことだろうか。俺の信頼はきっと軽くはないし、裏切ることを許さない。喉の奥で少し笑って、灰皿に煙草を押し付けた。

 

「明日、よろしくお願いしますね」

 

 貴方は貴方の、思うように。貴方が「赤井秀一」である限り、俺の策は崩れない。

 

 

 *

 

 

 薄暗いビルの一室。目を閉じてその時を待っていた。カツ、カツと二人分の革靴の音が聞こえてきた。念のために手にしっかりと手入れをした銃をもつ。

 扉が開いたその瞬間、拳銃を向けた。

 

「……バーボン」

「どうも。失礼、念の為ですよ」

 

 ジンとウォッカの姿を確認し、すぐに拳銃を下ろす。そして、すっと横にずれて、後ろに座らせていた「彼」を示した。

 

「では、感動の再会をどうぞ」

 

 両手を後ろに回して椅子に座る、憎い憎いその顔。ぐっとジンの口角が上がり、ずかずかとその前に立った。

 

「久しぶりじゃねえか。まさか本当に生きてやがるとはな」

「……」

 

 銃口で顎を持ち上げられるが、無言を貫く。痣ができている頬を見て、ジンはまたクク、と笑った。ウォッカも愉快そうにその様子を見守る。

 

「キールは?」

「今こちらに向かっているらしい。五分もせずに着くだろうぜ」

 

 ウォッカの言葉に、こちらも口元に笑みをのせる。

 大事なのは位置取りとタイミング。特に、位置取りは重要だ。悟られず、怪しまれず、そっとその椅子の隣に立つ。

 

「まだ殺さないでくださいよ?」

「ああ、かつてお前を守った女神に礼を言う時間はくれてやるさ。……ご到着か」

 

 銃口をそらさないまま、ジンが振り返る。その先にいたのは、真っ青な顔で冷や汗を流すキールだった。

 

「っ……!」

 

 咄嗟に身を翻そうとする彼女に、ウォッカが拳銃の銃口を押し付ける。ぎくりとキールが動きを止めた。

 

「せっかくの再会に挨拶もなしとは、ちっとばかり冷たいんじゃねえか?」

「ウォッカ……! どういうことなの!!」

「それはこちらの台詞だぜ、キール」

 

 なぜ、お前が殺したはずの男が生きている?

 ジンの言葉に、キールは奥歯を噛み締め、叫んだ。

 

「知るはずがないでしょう!! 赤井秀一は確かに私が殺したし、貴方もそれを見ていた! 日本警察に確認だって取らせたのよ!!」

「ああ、からくりは知らねえよ。だが、事実としてこいつは生きている。なあ?」

 

 キール、と拘束されたその人の口が動いた。ジンは笑みを深め、キールは信じられないものを見たように身体を震わせる。

 傍から見れば、まるで救いを求める哀れな男とそれを振り払う冷酷な女の図と言ったところだろうか。何と愉快で無様な悲劇だろう、愉悦の笑みは止まらない。

 

「どうやら女神にも見放されたらしいですね。薄汚いFBIの犬には相応しい末路でしょう」

「ああ、どうやら挨拶も必要ねえらしい」

 

 ジンは、改めて椅子に拘束されたその人の頭に銃口を押しつける。少し身体をずらし、正面にいるキールにもその様がよく見えるように。

 

「今度こそ、命運も尽きたな」

 

 ゆっくりと、見せつけるように撃鉄を起こした。

 

「赤井、秀一……!」

 

 一発の銃声が響く。ただし、その音を奏でたのはジン愛用のベレッタではなく。

 窓ガラスの破片が飛び散る。ベレッタが宙を舞い、ジンが左手を押さえた。アニキ、とウォッカの叫びが響く。その隙をつき、キールはウォッカの腕を蹴りあげその銃を弾き飛ばした。

 

「!」

 

 勢いよく扉が開き、風見が、CIAの二人の捜査官が飛び込む。体勢を立て直す隙も与えないまま風見はウォッカに向けて引き金を引いた。飛び出すのは鉛玉ではなく、阿笠博士特製の麻酔弾。時計型麻酔銃をもとにしてさらに薬の効果を高めたものを銃の形に直してもらった。さすがというかその威力は素晴らしく、少々薬物に耐性があるくらいではこの薬には耐えられない。

 ウォッカは音もなく倒れ、改めてその場にいる全ての捜査員の銃口がジンに向けられた。キールはCIAの捜査員に見覚えがあったのか、その顔を見て目を見開いている。

 

「ぐ、……!」

 

 顔を憤怒に歪ませたジンが、割れた窓の先を見る。このビルより少し低い、無人の建物。その屋上で今もライフルをこちらに向けているのは―――。

 

「……赤井、秀一、だと……!?」

 

 そう、()()の赤井秀一だ。ジンの呟きに、椅子に拘束された振りをしていたその人はふっと笑い、立ち上がった。

 べりっと勢いよくその変装を剥ぐ。

 

「ごめんなさいね、ジン」

「ベルモット……! てめえ、裏切りやがったか!」

「ええ、組織はもう終わりよ」

 

 手負いの獣は手が付けられないと言うが、まさに今のジンはそれだった。怒りという怒りがその全身に迸り、その顔はまさに鬼か獣か。

 そんなジンに、ベルモットは少しだけ切なげな表情を見せ、そして。

 

「……さよならね」

 

 その手にあった銃を向け、麻酔弾を撃ち込んだ。

 ゆらりとジンの身体が揺れる。まさか、この薬が効かないはずがない。二歩、三歩とよろめき、それでもなお弾き飛ばされたベレッタの方へ向かおうとするが、やはりジンも人間だった。

 

「……ろして、やる……!」

 

 呪いのような言葉を吐いて、ジンは倒れた。長い銀髪が床に広がる。―――これでようやく。ようやく、ジンを捕まえられる。

 その光景に息をつこうとした瞬間、脳裏に我らが指揮官の声が蘇った。

 

『明日は、絶対に、気を抜くな。思考を止めるな。迷いなくその場の最善を遂行しろ』

『俺が作戦終了を宣言するまで、な』

 

 まだ、作戦終了の宣言を聞いていない。密かに右耳に付けられていたイヤホンに手をやる。この光景を監視カメラで見ているはずの柊木から、通信が来ない。

 何気なく目線を前にやると、―――何故かひとつの銃口が、僕のほうを向いているような。はっと目を見開いた、その瞬間。

 俺の右耳と左耳の両方が、銃声を捉えた。

 

 



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47

 彼は、俺が尊敬する年下の上司の同期で、友人で、最大のライバルだ。その能力は確かに桁違いで、次々と作戦を立てては成功させていく。降谷さんからの指示がなくとも、彼の言葉には従うべきだと疑い無く動けるほど、優れた人だった。

 そんな人が、俺に、任せてくれた。

 

「よろしくお願いします、風見さん」

「……はい」

「あれ、不安そうですね」

 

 思わず歯切れが悪くなってしまった返事に、柊木さんは苦笑した。いえそんなことは、と言葉を続けるが、その先が出てこない。

 この人や、俺の上司は、有能だ。俺なんかより、ずっとずっと。そして、いま俺に任されたことは、本当に失敗が許されることではなく。

 もし俺が、失敗すれば。―――裏切れば、あるいは怖気付けば。

 

「……柊木さん」

「何でしょう」

「貴方は、」

 

 どうしてそんなにも俺を信じてくれるんですか。

 口にしてから、言うべきではなかったと後悔した。これはただのコンプレックスだ。俺だってそれなりに仕事ができる自負はある。ただ、どうしたって彼らには敵わない。劣等感がないと言ったら嘘になる。

 柊木さんと共に働いた数ヶ月、ひたすらサポートに徹したこともあって手柄のひとつも立てられてはいない。俺が柊木さんの信頼を勝ち得ているとは思えなかった。

 俯きかけた視界の端で、柊木さんがふうんと首を傾けたのが見える。

 

「……風見さん」

「、はい」

「公安警察としての、日本を守る一人としての貴方に問います」

 

 降谷零は、この国に必要な人間ですか?

 は、と息が出た。そんなもの、考えるまでもなく決まっている。

 

「必要です。間違いなく」

 

 これまでずっと、その背中を追ってきた。その働きを、その覚悟を、その誇りを、ずっと見てきたのだ。

 知っている。あの人がどれだけ恐ろしくて、どれだけこの国を愛しているのか。そればかりはきっと、柊木さんだって敵いやしない。

 柊木さんは、俺の答えを聞いてにっこりと微笑んだ。

 

「俺もそう思います」

 

 そして、彼は言葉を続けた。

 

「それ以外に、貴方を信頼する理由が必要ですか?」

 

 その言葉に、息を詰まらせる。

 柊木さんは俺の様子など気にもせず、俺はいらないと思うんですけどねと朗らかに宣った。壮麗な顔に、作り笑いでない楽しそうな笑みを乗せて彼は言う。

 

「貴方は降谷の右腕でしょう。降谷は、信頼できない人間を傍には置かないし、使えない人間を補佐にはしません」

 

 その笑顔が、言いたいことはわかるでしょうと語りかけてくる。そんな顔をされては頷く以外の選択肢がない。

 俺は、降谷さんの右腕なのだから。

 

「……弱音を吐きました。申し訳ありません」

「いえ。それで?」

「必ず、遂行してみせます」

 

 守ってみせる。その両肩にこの国を背負う、彼を。

 ジンが倒れ伏すと同時に、CIAのひとりが持っていた拳銃の銃口が降谷さんを捉える。彼が引き金を引こうとしたその瞬間、俺は彼に全力で当て身を食らわせた。

 

 

 ***

 

 

 銃声と同時に、顔の横を弾丸が通り過ぎる。いくらか髪が散ったのか、わずかに焦げ臭い。―――何が起こった。当て身を食らわせた風見はすぐに体勢を整え、彼に麻酔弾を撃ち込む。それを見たもうひとりのCIAも即座に俺に向けて銃を構えるが、引き金を引くことは叶わない。窓の外から飛んできた弾丸によって弾き飛ばされた。

 

『……どういうことだ』

 

 彼には珍しい、焦りと困惑を含んだ声がイヤホンから聞こえてくる。

 

『なぜCIAが降谷君を狙う?』

 

 俺が、狙われている。何故、 疑問がぐるぐると脳を巡る。何より、先ほどの銃声。確かに俺は両耳でその音を捉えた。素のままの左耳からだけでなく、イヤホンをつけている右耳からも。それの、意味することは―――まさか。

 脳裏でまた彼の声が蘇る。この数か月、言われ続けてきたこと。先走るな、焦るな、冷静になれ。俺が今、すべきことはなんだ。なすべきことをなせと、そう言われたじゃないか。

 ほとんど反射的に隠し持っていた麻酔銃を取り出し、赤井に拳銃を弾き飛ばされた彼に弾を打ち込んだ。ほぼ同時に、ベルモットが驚愕した顔のキールに麻酔弾を撃ち込む。

 

「……そういうことね」

 

 嫌悪に顔を歪ませた彼女に構うことなく、俺は立ち上がった風見に叫んだ。

 

「風見、ジンとウォッカは予定通り拘束し連行! そしてCIA捜査官二名は殺人未遂容疑で緊急逮捕だ! キールもその共犯の疑いがある、同様に拘束しろ! 確実に監視のもとに置き、一瞬たりとも目を離すな!」

「はい! 連行するために待機させていた人員を増員し手配します!」

 

 取り急ぎジンとウォッカには俺と風見が持っていた手錠を後ろ手にかける。ガムテープでもあればCIAの拘束もしたかったところだが、手持ちがない以上はしばらく目を覚まさないことに賭けるしかない。後は、連行するための追加の人員が到着するのを待つだけ。

これで、いいんだよな? 焦る気持ちを押さえながら、マイクに向かって叫ぶ。

 

「柊木、追加の指示はあるか? 応答しろ!」

 

 とにかく声が聞きたかった。さっき聞こえた銃声は気のせいだと、無事だと言ってほしい。祈りに似た気持ちでイヤホンを耳に押し付けた。

 

「柊木!」

『……そんなに叫ばなくても聞こえてるよ、降谷』

 

 穏やかな声が、鼓膜を揺らした。

 

 

 ***

 

 

 ジンとウォッカが、ビル内部に入ったことを確認した。各所に仕掛けられた監視カメラの映像が、ビルから少し離れた場所に停められた車内のモニターに映る。

 

「映像、音声ともにクリア。ジン、ウォッカ、まもなく対象の部屋に到着します。キールはまだのようですね」

「ええ」

 

 モニター車には俺とミスターの二人だけ。先程まで諸伏がいたが、作戦中は車の周囲を警戒してもらうため、外に出ていった。その諸伏から、キール到着、と無線が入った。その数秒後、監視カメラに彼女が映り込む。

 

「キール……!」

「とりあえずは元気そうですね」

「ありがとうございます、Mr.柊木」

 

 仲間の無事を喜ぶ彼に笑顔を返して、目線をモニターに戻した。

 ここからはもう、俺にできることはない。できることは、全てした。本当に、全て。人事を尽くしたのなら、あとは―――天命を待つのみ。

 

「キール、接触しました」

「始まりましたね」

 

 これで、ようやく終わる。そう時間のかかる作戦ではない、決着まで数分だろう。

 同時に、俺にとっての戦いは()()からだ。高鳴る鼓動を呼吸でおさえ、成り行きを見守った。

 

「……Mr.柊木」

「はい」

 

 モニターからは目を逸らさない。隣にいた彼が少し身を引き、俺の背後に立ったことがわかる。彼の静かな声には何の感情も乗っておらず、ただただ無機質に響いた。

 

「貴方は本当に優れた方だ。貴方と共に任務にあたったこの数ヶ月は、私にとって非常に有意義な時間でした。貴方から学び得ることもとても多かった」

「……お互い様ですよ、ミスター。貴方はとても良い仕事相手で、いいライバルでもありました」

「光栄です」

 

 モニターに映る、ほぼ一瞬の銃撃戦。―――片が付いた。ジンすら騙し通したベルモットの変装は見事で、風見さんの冷静な対応も素晴らしい。

 ジンとウォッカが、倒れ伏した。

 

「……とても……残念です。Mr.柊木」

 

 貴方は、優秀すぎた。

 後頭部の近くで、かちりと金属の音が聞こえる。それが何を意味するのか、彼が何をしようとしているのか、俺にはわかっていた。そっと目を閉じ、口元を緩める。

 ただ、その銃声を受け入れた。

 

 

 *

 

 

 銃声は背後からではなく、モニター車の入口付近と、イヤホンから響く。

 そっと目を開けると、目の前の画面に映っているのは困惑した表情の降谷に、やり切った顔の風見さん。直後に響いた銃声と赤井さんの焦った声は、彼が迷うことなく降谷を守ってくれたことを証明している。

 

「、ぐ……!」

「……動かないでくれよ。次は当てる」

 

 俺の背後には右手を押さえるミスター、モニター車の入口近くには拳銃を構えた諸伏が立っていた。その顔は冷静に見えて確かな怒りが宿っており、その言葉が脅しでないことを物語っている。

 

『柊木!』

 

 必死な顔で降谷が俺を呼んでいる。この状況でもちゃんと冷静に動いて指示を出せるなんて降谷も成長したものだ。そんなことを思う自分に、笑った。

 さあ、ここから先は俺の舞台。勝者は俺で、今起きている全ては俺の思惑通りでなければならない。この先の全ても、俺が描いたままに進む。()()()()()()()()()()()()

 不安を殺せ、安堵を殺せ。このうるさい鼓動を、掌の汗を、決して悟られてはならない。ひたすら余裕に、傲慢に、全てはお見通しだと笑ってみせろ。俺に弱みなど存在しない、俺に勝てるわけがないのだと思い込ませろ。

 俺は何事も無かったかのように、マイクに顔を近づけて話しかけた。

 

「……そんなに叫ばなくても聞こえてるよ、降谷」

『! 柊木!』

「増援が来るまでその場に待機、赤井さんも万が一彼らが早く目を覚ましてしまったときのために警戒を続けて下さい。ベルモット、もう少しお付き合いを」

『……了解した』

『仕方ないわね。それで? そちらからも銃声が聞こえたような気がしたのだけれど?』

「ああ、聞こえましたか」

 

 

 マイクの感度を高めて、この場の会話がすべて伝わるように設定をいじる。ゆっくりと立ち上がり、いまだ右手をおさえる彼に向き合った。

 

「……俺の杞憂であればいいと思っていましたよ、ミスター」

「……ここまで読まれているとは思っていませんでした」

 

 さすが貴方は優秀だ、そう言った彼はうっすらと冷や汗をかきつつも笑っていた。そしてさらに言葉を続ける。いったいいつから気づいていたのかと問われ、さていつからだったかな、と考える。

 

「最初から違和感はありました。どう考えても貴方たちの目的は『宮野志保』であるはずなのに、捜査の指揮権を奪いに来る様子も、彼女に接触しようとする様子もありませんでしたから」

 

 いくら合衆国からの圧力があろうとも、ただ彼女を寄越せと言われて頷く日本警察ではない。何事にも体裁と道理は必要で、合衆国とてそれくらい弁えている。だからこそ、うやむやのうちにこの捜査の指揮権を奪われ、事後処理の主導権まで握られることを恐れていた。しかし、その様子が全くない。

 

「こちらを見定めているのは感じていましたが、手は出してこない。しかし、このまま大人しくキールの身柄だけを救出して帰ってくれるとは到底思えない。だから、考えました。指揮権を奪う以外の、この案件の主導権を握る方法を」

 

 彼らはCIAだと、そう口にしたときに気づいた。そう、彼らはCIA、合衆国の国益を第一とする組織。彼らの詳細な活動内容は明かされていないが、かつて暗殺禁止という大統領令を出され、しかも今はそれを撤回された事実がある。合衆国のために、職務として人を殺すことがあり得る組織なのだ。

 その発想に至ったとき、俺は背筋に冷たいものを感じた。日本警察でこの案件に深くかかわっているのは、俺を含めて四人と少ない。特例で指揮を執っている俺と、潜入任務に就いている降谷を「排除」してしまえば、残るのは風見さんと諸伏の二人。サポートメインで動いている彼らが中心になって捜査を続けられるとは考えにくい。かといって、今から他の指揮官を連れてきて何とかなる案件でもない。

 彼らが「暗殺」という選択肢をとることは十分にあり得る。だが確証があるわけではなかったし、ただ暗殺を失敗させるだけでは意味がなかった。二度目三度目と狙われることがないよう、暗殺を完璧に防いだ上でCIAに「暗殺は不可能」あるいは「メリットよりデメリットが大きい」と思わせる必要がある。端的に言えば、とりあえずミスターの心はへし折らなければならない。正直、不可能だと思った。

 案自体は浮かばないわけではなかったが、どう考えても俺には手札が足りず、何より降谷を危険に晒すことになる。それを策に数えたくなかった。

 

「……正直なところ、本当に降谷と俺の暗殺を狙いに来るかは可能性でしかありませんでした」

 

 確証をもったのは今朝のことだ。あいつらのおかげでそれがはっきりした。まさか()()助けられるなんて、と頼もしくなりすぎた彼らを思う。

 たくさんのひとに手を借りた。使えるものは全部使った。だからこそ俺は、絶対に負けられない。この自信満々な笑顔を、崩すことは許されない。

 

「しかし、可能性があることだけでもわかっていれば十分。おかげで、俺たちは今も生きている」

「……それはどうでしょう」

 

 彼はそっと左手をポケットに入れる。その様子に銃を構えなおした諸伏を片手で制した。彼の切り札はとっくにわかっている。

 

「このモニター車にひとつ、そして彼らがいるビルにふたつ」

 

 ぴたり、と彼の動きが止まる。まさか、とその顔は物語っていた。ポケットから覗く左手に握られていたのは、赤いボタンのついたいかにもなスイッチ。この反応からして数と配置に間違いはないらしい。

 つまり、何の問題もない。

 

「昨晩は見張りを代わっていただいてありがとうございました。その間に貴方の部下の方々が仕掛けてくれた爆弾は解除させていただきましたよ。わりと単純なつくりだったそうですね、解体には五分とかからなかったそうです。貴方が見張りをしていた短い時間で仕掛けたせいか、隠し場所も安直で見つけ出すのもそう難しくなかったと」

 

 彼と見張りを交代した、今日の早朝。俺がモニターを覗き込んでいるその間に、風見さんと諸伏、そしてあいつらが走ってくれた。裏の理事官に連絡をまわしてあいつらを動けるようにしてもらい、ただひとことだけメッセージを送って。

 

『たすけてくれ』

 

 すぐに既読がつき、メッセージが返ってきた。ずっとあいつらからのメッセージを無視し続け数か月ぶりに俺からメッセージを送ったというのに、そんなことを一切感じさせない返事だった。

 

『何すりゃいいんだよ。日時と場所と詳細教えろ。あと報酬もな』

『やっと研二くんの出番? 今度は除け者なしだからな!』

『お前の珍しいSOSに俺たちが動かないわけねえだろ?』

 

 改めて諸伏から連絡をしてもらい、指示を出した。俺が見張りをしていたその数時間のうちに、ビルとモニター車を徹底的に洗ってもらった。俺と降谷が死ななければ意味がないのだから、ある程度場所と威力の見当はつく。捜索されることを前提としていない以上、そう難しいトラップが仕掛けられているはずもない。

 優秀な警察官が五人もそろって本気で捜索を行えば、元爆処のエースが二人も揃っていれば、爆弾を見つけ出してばらばらにすることくらい造作もなかった。

 

『……口を挟んですまないが柊木くん、つまり彼らは自爆するつもりだったということか?』

 

 不意に赤井さんの声が届く。

 そう、この場を爆破すれば、俺たちだけではない、彼ら自身も巻き添えとなる。爆弾の威力を考えれば、生き残れたのはせいぜいスナイプのために距離をとっていた赤井さんくらいだっただろう。

 

「ええ。対外的にはその爆弾は組織の最後の抵抗とでも判断されるでしょう。そうなればむしろ、日本の捜査員だけが死んでいる状況は違和感が残る。だから彼らもまとめて死ぬつもりだった」

『だが、それでは』

「ええ、そうなれば生き残るのはFBIだけです」

 

 赤井さんが息をのむ。

 そう、鳥取にいる三人と赤井さんが生き残る。そうなれば当然指揮を執るのはMr.ブラック、つまり合衆国側になるだろう。まして彼は今ボスを捕まえるべく動いており、おそらく成功させる。そうなれば彼がこの案件の主導権を握るのは何らおかしいことではない。

 そしてMr.ブラックは当然、合衆国に逆らえない。

 

「彼らは合衆国のためにある。そのためなら少々の命が散っても構わない。日本警察の命も、……CIAの命もね」

 

 その覚悟はいっそ立派だと言ってやろう。公安だって、状況によってはそれに近い判断をするかもしれない。決して肯定はしないが、それが彼らの職務で存在意義なのだから。

 

「……本当に、貴方は恐ろしい人だ。Mr.柊木」

 

 爆弾のスイッチを床に落としたミスターは、静かな声で言った。今までの温和な顔を投げ捨て、その瞳に鋭さを、その口元に酷薄な笑みを宿している。

 

「だからこそ、貴方だけでも手段を択ばず殺しておくべきでした」

 

 合衆国のために。

 彼にとってはこれ以上ない賞賛の言葉なのだろう、素直に受け取っておくことにする。そう考えて笑みを返した。彼は言葉を続ける。

 

「それで? 私たちをどうされるおつもりですか?」

 

 逮捕でも、何でも、どうぞお好きなように。

 彼は余裕を崩さないまま両腕を開いてみせた。まあ、どうするかって、逮捕はするのだけれど。その先の流れがどうなるかなんて、だいたい予想はつく。こちらにとってそれは決して悪い展開ではなかった。

 

「……まあこの映像も撮れてますし、殺人未遂の現行犯逮捕ですよね。キールについては微妙ですが、貴方の部下のお二人も同様に逮捕。CIAの捜査員が功を焦って暴走し、殺人を図るも失敗という筋書きがあてがわれて、CIAが日本警察に謝罪。まあ力関係考えたら表沙汰にすらならないかもしれませんが、とりあえず案件の主導権は渡さずに済みそうですね」

 

 今後の展開なんて、まあそんなもんだろう。宮野さん、新一くんの身柄を渡さずに済むのならとりあえず問題はない。ミスターは俺の言葉に満足そうに頷いた。

 

「ええ、仰る通りになるでしょうね。残念です、例の薬の研究者をこちらにもらえないのは」

「言葉と表情が一致してないんですけどねえ」

「おや、そう見えますか?」

 

 しらじらしい。任務の失敗をしておきながら呑気なものだ。まあ、その理由もわかる。この任務に失敗したところで、CIAにとっては少々日本警察に謝罪をするだけ。得るものこそなくても、失うものはほとんどない。

 宮野さんの身柄が得られずとも、薬のデータやそれ以外の怪しい研究のデータはまだ手に入れられる可能性はまだ残っている。彼自身は相応の処罰を受けるかもしれないが、彼ほど狂信的に任務に忠実な人間であれば合衆国に被害がなければそれでいいと考えているのだろう。

 

「ところでミスター、ひとつお伺いしたいことがあるのですが」

「ほう、なんでしょう?」

「貴方には協力者がいるはずだ。それも、日本警察の上層に」

 

 彼の笑顔は揺らがない。

 そう簡単に口を割ってくれないことを承知で、俺は構わず続けた。

 

「CIAがこの案件に参加しやすいように根回しを行い、暗殺が成功した際にはそれを『殉職』として処理することができるほどのお偉いさんと、繋がってますね?」

 

 その人の事、教えてくれませんか?

 笑顔のミスターは、なんの事だかわからないというように首を傾げてみせた。

 CIAが世界各国、それも要人に協力者を持っているのはもはや周知の事実だ。そうやって合衆国に都合のいいように他国を動かしていくのがCIAの常套手段。実際に過去、CIAと関係があったとされる日本の要人も多い。

 今回もその存在があるのは確信していた。何しろ、あまりにもCIAの行動が大胆すぎる。しかし、その正体を暴くことはできていない。どこでどう情報が漏れるかわからない状況で捜査員を動かし、こちらが暗殺に気づいていることを悟られるわけにはいかなかった。

 だからこそ、何としてもここで口を割らせる必要がある。上層に合衆国と繋がっている人間がいるのはこの際どうでもいい。ただし、合衆国と日本の国益を両立できるのであれば、だ。今回の件は明らかにやりすぎだ。

 彼は、口を開く気配を見せない。

 

「……ま、教えてくれませんよね」

 

 地位の高い協力者というものはいくらでも使い道がある。こんなところで失いたくはないだろう。ならばやはり、こちらも切り札を出さねばならない。妥協した勝利は決して完全勝利とは言えないのだから。

 俺はミスターから視線を外すことなく、ポケットの中のスマホに手を伸ばした。

 

 



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48

 スマホに手をやり、該当の人物にコールする。きっと首を長くして待っていたであろう彼女は、すぐ電話に出てくれた。

 

『出番かしら』

「ああ。用意は?」

『あとはエンターキーを押すだけよ』

「さすがだね」

 

 短い言葉を交わし、スピーカーモードに切り替える。俺は改めてミスターに向き直った。

 

「もう一度お伺いします。快く協力者の名前を教えてくれませんか?」

「いったい何の話です?」

 

 にっこりと微笑む彼に、苦笑する。アンタがそのつもりなら、もう仕方がない。公安お得意の違法作業、それもとっておきのやつをご覧頂こう。

 車内のキーボードをいじり、モニター画面を片っ端から切り替えた。そして同時に流れる、動画、画像、音声。ああ、何度見ても素晴らしい出来!

 

「……な、」

 

 さすがの彼も、今度ばかりは度肝を抜かれたようだった。大口を開けて放心するその様子に愉快でたまらないというように笑い、それぞれのモニターを指し示す。

 

「どうですか? 何が見えます?」

 

 そこに映っていたのは、例えばCIAから諜報員に向けた正式な任務の指令書。その詳細。例えば、ミスターがCIAに対して暗殺任務について報告している電話の様子。そしてその音声データや、やりとりしていたメッセージの文面。

 その全てが示すのは、「CIAが彼に日本警察の捜査官を暗殺するように命じた」という事実。

 

「馬鹿な……! 有り得ない!」

「ええ、仰る通り。有り得ません」

 

 にっこりとそう言うと、まさか、と彼の口が動いた。

 そう、貴方が考えている通り。この映像、画像、音声、その全ては。

 

「よく『できて』いるでしょう?」

 

 

 *

 

 

 工藤先生に呼び出されてお邪魔した阿笠博士の研究所。そこには工藤先生と新一くんだけでなく、当然のように宮野さんと阿笠博士も同席していた。

 暗殺という「最悪のシナリオ」の「打開策」を諸伏に吐かされ、俺は項垂れていた。降谷を囮になんかしたくない、その気持ちがあっただけではない。この作戦を進めるには、足りないカードがふたつある。片方は―――俺がいらないプライドを捨てればまだ何とかなるかもしれない。問題はもうひとつ。

 CIAの口を割らせるための、明白な交渉材料を得ること。言うことを聞かせるだけの、弱みを握ること。

 

「……現行犯逮捕だけじゃダメなんですか?」

「ダメだな。自分が捕まる程度のことでビビる奴がわざわざこんな手仕掛けてくるとは思えない」

 

 新一くんの言葉をすぱりと否定し、二人の安全確保だけを考えるならそこで満足してもいいんだけど、とひとりごちる。そこでダメですよ、と叫んだのはやはり新一くんだった。

 

「柊木さんたちを売るような人を見逃すなんて! しかも、警察官なのに!」

 

 新一くんらしい、正義に燃える言葉に苦笑する。全ての警察官が正義のために動いていたら、きっと監察官なんて職務は必要なかっただろう。

 

「……確かに、彼女と息子の身の安全以上の話になるのなら、それは私たちが口を出すことではないが」

 

 一呼吸置いて、工藤先生は続けた。

 

「君たちはそれでいいのかい?」

「良くないですよ」

「良い訳がない」

 

 即座に俺と諸伏の声が続いた。その即答ぶりに工藤先生は苦笑する。

 ああ、ちっとも良くはない。妥協した勝利なんて負けも同然、今後の俺たちの身の安全や仕事への影響を考えても、是非とも逃がさず締め上げたい。

 そう、必要な手札さえ、揃えば。

 

「……そうだね、現行犯逮捕だけではカードが足りないだろう。せめて、その暗殺が個人の暴走でなくCIAの命令だという体にできればいいんだがね」

 

 それについては俺も同感だし、先生が何を考えているかもわかっているつもりでいる。証拠なんて、ないなら作ればいい。だが。

 

「しかし、公安の捜査官は動かせません。ただでさえ、それをするためには相当に特殊な知識と技術をもつ人間が必要で、……え、」

「そうだとも柊木くん。相当の特殊な知識と技術をもつ人間が必要だ。ところでここに、海外事情に詳しい上に交友も広く、しかも英語も堪能な人間がいると思うんだが」

 

 泰然と微笑むその人は、長い足を組み替えてくるりと周囲を見回す。

 

「小説家というのは便利な職業でね、友人たちに少々妙な質問をしても取材だといえば快く教えてもらえるんだよ。おっと、加えてここにはあらゆる科学技術に精通した天才的科学者がふたりもいるし、それから隣の家には天才的な変装術と変声術、演技力を備えた元女優もいるね」

「……俺もいるんだけど」

「ああもちろん、うちの息子も英語は堪能だし、機械にも強い。君との連絡係としても相応しいだろう」

 

 ぶすくれる新一くんの頭を、ぽすぽすと工藤先生が撫でる。確かに、彼らほどの能力があれば可能かもしれない。そうは思うが、しかし。

 

「何故、という顔をしているね」

「……先生」

「今まで君たちには多大なる迷惑を掛けてきたと思う。だからこそ、わずかなりとも力になれればと思うよ。そう思うのはおかしいことかな?」

「……」

「よしわかった、本音を言おう。ひとつ頼みを聞いて欲しいんだよ、柊木くん」

 

 初めから素直にそう言えばいいものを。先生以外の全員が半眼になってじとりと彼を睨めつける。はははと乾いた笑いを零して、先生は続けた。

 

「君をモデルにして、小説を書きたい」

「……は」

「もちろん、名前や他にもフェイクをいれて、そうだと知る人にしか君がモデルだとわからないようにすると約束しよう」

 

 俺を、モデルに。

 目立つことがそもそも嫌いな俺は、多分ものすごく正直にとても嫌な顔をしたと思う。バレるとかバレないとかそういう話ではない。生理的な嫌悪感すら覚える。だが、たったそれだけで、手を貸してもらえると言うのなら。

 

「……そもそも先生以外の人はいいのか?」

 

 俺の様子に苦笑した諸伏が、さっと口を挟んだ。しかし新一くんはそもそも乗り気だし、母さんも絶対ノリノリでやるよ、と一言。阿笠博士もわしにできることなら、と力強く頷いた。あとは、もうひとり。

 

「……やるわよ」

 

 やらないわけ、ないじゃない。

 そう言った彼女の瞳は、こんな言葉では足りないほどに燃えていた。こんな目を、こんな表情をする子だっただろうか。彼女の相手は専ら降谷に任せていたから、そもそもそんなに彼女のことを知っている訳ではないけれど。それでも何だか、意外だった。

 

「全員一致だね。さて柊木くん、あとは君の答えひとつだ」

 

 私たちを「協力者」として使う気はあるかな?

 朗らかに笑う工藤先生の顔に拳を叩き込みたい気持ちを抑えつつ、俺は頬の引き攣りをおさえ、頷いた。

 

「……よろしく……お願いします……。……でも俺絶対その作品読みませんからね」

「あ、俺読みたいです」

「ありがとう諸伏くん、是非君たちにはご意見を伺いたいな」

「おうコラ諸伏」

 

 わかっている。工藤先生は、こちらがあまり良い印象を抱いてないことを理解した上で、俺が頷きやすいように交換条件を出してくれたのだということを。どうもこの人に対してはガキっぽい反感で動きやすい。反省しよう。

 そんな自分にため息をついた時、宮野さんが一歩前に進み出た。

 

「柊木さん」

「……どうしたの?」

 

 彼女の瞳は、相変わらず燃えていた。何となく気圧され、少し身をひく。すると彼女はもう一歩前に出た。

 

「貴方が何をしようとしているのか、私たちが何をするのか、理解したうえで言うわ。それ、私の存在を使えばもっと強力なカードになるわよね?」

 

 一瞬考え、確かに、と頷きかけたが、いやいやと慌てて首を振った。

 何を言っているんだこの子は、何もそこまでリスクを負う必要はない。公安の力を駆使して彼女の存在や秘密は守ってみせるし、もしその方法をとるならできる限りの対策は打ってもらうが、それでも彼女のことが公になってしまう可能性はゼロじゃない。

 

「宮野さ、」

「リスクが大きいって言いたいんでしょう? わかってるわよ」

 

 わかって言ってるの、とぐいぐい前に出てくる彼女に、瞬きをする。どうしたのだろう、彼女は常に冷静であったし、基本的により安全な道を選択するほうだと思っていた。

 

「……見てわかるでしょう? 私は怒っているの」

 

 キッと睨みつけられ、俺が何をしたというんだと言いそうになって気づいた。彼女が怒りの矛先を向けているのは、俺たちではない。彼らなのだと。

 

「……公安に私のことをバラしてから、これからどうなるのかずっと不安だったわ」

 

 工藤くんは大丈夫だと言ったけど、私があの組織に属していたのは事実だし、作ってはいけない薬を作っていたのも事実。良くても監視付きの軟禁生活を送らされるか、国家で飼われて指示された研究を行うことになるか。それでも、あの組織から守ってもらえるなら、他の人を危険にさらさずに済むのなら、それでもいいと諦めていた。なのに。

 そう語りだす彼女の声には真摯なものが感じられ、口を挟むことを許されない雰囲気があった。

 

「……外を歩く時に警護がついているとは言っていたけど、私が窮屈に思わないように気を配ってくれて。外出を制限することも、誰かと会うことも制限することもなく、学校にも普通に行けるよう配慮してくれたわね」

「……そりゃ普通のことでは」

「普通じゃないから言ってるのよ!」

「アッハイ」

 

 そっと口を挟んでみたが、その剣幕におされて黙る。

 彼女は犯罪組織に属さざるを得なかった立場なのだし、こちらの要請にも非常に素直に従ってくれた。しかも情報提供にも協力的なのだから、さすがの公安もそんな子に非道を働く必要はない。いや、手段を選ばないとはいえ一応これでも警察なので。

 いろいろと言葉が浮かんだが、とりあえず黙っておくことにする。感情的になった女の子の扱いなど俺にわかるわけもない。

 

「……しかも、公安に協力し始めてすぐ、ベルモットが寝返ったと聞いて」

「!」

「キャンティとコルンが逮捕されたのも新聞で見たわ。……不自由ない生活を許してもらえるだけで十分と思っていたけど、初めて……希望をもった」

 

 もしかしたら本当に、組織がなくなるかもしれない。お姉ちゃんをあんな目に合わせた奴らが、捕まるかもしれない。

 

「……そう思って、数ヶ月よ。……捕まるんでしょう? ジンもウォッカもラムも、……あの方も」

「……ああ、必ず捕まえる。組織も潰すよ」

「それを聞いて、……私がどれだけ喜んだか、わからないでしょうね」

 

 どれだけ貴方達に感謝したか、わからないでしょう?

 そう言った彼女の大きな瞳には、涙が滲んでいた。

 

「宮野さん、」

「なのに!」

 

 突然の剣幕に、部屋にいた全員がぎくりと身を震わせる。君、そんな大きい声出せたのか。

 

「何なのよそいつら突然割り込んできて! どうしてこのまま平和的に話を終わらせてくれないのよ! 何なの合衆国、大人しくキールだけ回収して帰ればいいじゃない! 何で余計なこと企むのよ! ―――私を、なんだと思っているのよ!」

 

 はいごもっとも。ソウダネと頷く以外に何ができただろう。彼女の勢いは止まらない。

 

「私をまるで、研究をするだけのモノみたいに! ……私を合衆国に連れ去って研究を続けさせようとするなら、CIAは私にとって組織と何も変わらない!」

 

 そんなの、絶対に嫌。―――嫌だと、言えるようになったの。

 肩を震わせ、両手を握りしめて彼女はそう言葉を絞り出した。そうか、とその顔を見て思う。彼女はようやく自分の望みを、望みとして口にできるようになったのだと。

 それが俺たちの働きによるものであるなら、何よりも誇らしい。

 

「……貴方たちはまた私を守ってくれようとしてる。私が合衆国に行かずに済むように、手を打ってくれている。国家の関係を考えたら、私を売り渡す方が楽に進むことだってあったはずなのに」

「……」

「だから、私は、―――感謝をしているの。だから、自分にできることはやりたいの。だから、貴方に『お願い』をしているのよ。手を貸してあげてもいいと言ってるんじゃない。守られているだけじゃなくて、私にも貴方達とともに戦う手段があるのなら戦わせてほしい。CIAに意趣返しをできる手段があるなら協力させてほしい。―――私は、守られるだけで満足するような、お姫様じゃないの」

 

 その真摯な言葉に、ひとつ呼吸をする。

 彼女が考えなしに言っているわけじゃないのはわかった。そこに明確な覚悟と決意があることも。

 そういうのに弱いんだよな、と自分に苦笑しながらソファから立ち上がり、彼女の前でしゃがんで目線を合わせた。負けたと言うように苦笑を向ける。わかったよと言えば、彼女の瞳が輝いた。

 

「同期の悪友ども曰く、俺は鬼で悪魔で魔王で暴君らしいからな。君が俺に武器をくれるなら、俺は全力をもってCIAの心をへし折ると約束する」

 

 君をモノ扱いした奴らを、完膚なきまでに叩きのめしてみせると約束しよう。

 

「君の願いと覚悟を聞き入れる。是非力を貸して欲しい」

「……ええ、」

 

 完璧な武器を、用意してみせるわ。

 怒りと決意に燃える彼女は、ひどく苛烈に輝いていた。

 

 

 *

 

 

 彼らの知識と技術の結晶である数々の証拠が流れた後、ひとつの画面に顔を隠した女の子の姿が映される。彼女はおもむろに口を開いた。

 

『助けて、ください。せっかく外に出られるようになったのに、また、どこかに連れ去られる。私を助けてくれた人たちが、殺されてしまう。……助けて、ください』

 

 音声を変えてはあるが、それは見る人が見ればはっきりとわかる。宮野さんだ。涙まじりの喋り方は、大いに見た人の同情を買ってくれるだろう。何て見事な演技力。もともと器用な子というのもあるが、今回は元大女優の演技指導も受けたそうだ。これを見ていったい誰が嘘泣きだなんて思うのだろう。まったくもって、吹っ切れた女の子というのは恐ろしい。

 それを見てまた目を見開いた彼に向かって、口を開いた。

 

「筋書きはこうです、ミスター」

 

 映像の少女は、その類まれな天才的能力故にある犯罪組織によって囲われていた。その犯罪組織に目を付けていた日本警察は、CIAやFBIの協力を得つつ捜査を行い彼女を救出、そして犯罪組織の壊滅まであと一歩というところまで追い込んでいる。しかし、その彼女の能力に目を付けたCIAは、捜査にあたっていた日本警察の捜査官を暗殺し、彼女の身柄を横取りすることを目論んでいた。それに気づいてしまった彼女は、何とか阻止しようと奮闘するが、やはり自分の力では限界がある。そこでこうしてできる限りの情報を集め、外部に情報を発信し、救いの手を求めようとした。

 

「今、この全てを世界中に発信する準備が完了しています」

 

 引き金を握る彼女が、この会話を聞いている。

 今度こそ本当に冷や汗をかいている彼の肩が、揺れた。本来、この手の情報戦はCIAの十八番。だからこそ、彼にはわかるはずだ。今自分が置かれているその状況。このカードがもつ、その重みを。

 

「……作られた情報ということはすぐにバレる!」

「仰る通り。すぐにCIAは虚偽だという証拠を揃えて反論に出るでしょう。しかし、そのころにはすでに、この情報は世界中に広まっている」

 

 情報戦と言うのは難しいもので、有利な状況をつくるためにはいくつか鉄則がある。まずは、確実に先手を打つこと。それも、相手側に悟られて対策を取られる前に発信し世界に情報を信じ込ませること。

 

「情報の真偽なんてどうでもいいんですよ。貴方たちの方がよくご存じのはずだ。真実なんてものは必要ないんですよ。世界の大多数が信じさえすれば、嘘であっても本当になる」

 

 世界なんて、所詮は人間の集まり。人間はいつだって、自分たちにとって都合のいいものを信じる。そうやって世論の操作は行われてきたし、そうやって人心というものは利用されてきた。もはや世界の真理と言っていい。

 

「後からCIAが確たる証拠を揃えて反論してきたところで、誰がそれを信じます?あれは嘘だ、作られたものだなんて言って、誰が心から納得してくれますかね? 世界は信じたいものを信じるし、少女の涙が強いのは万国共通。しかも世界一の大国の諜報機関の一大スキャンダルだ、どれだけ合衆国が躍起になって火消しをしてもそう簡単にこの疑惑の火は消せませんよ。CIAのトップの首程度で足りるかどうか……ああ、この場合、首を差し出すトップはどちらになるんでしょうね?」

 

 CIA、つまり中央情報局長官の首か、それとも。

 

「貴方達って、合衆国の大統領直属の監督下にあるんですよね」

 

 CIAのスキャンダルとはすなわち、大統領、そして国家のスキャンダルそのもの。

 そうひとりごとを言いながらにっこりと微笑んでみせると、彼の顔色は青を通り越して白くなった。その白い肌に、青白い血管まで浮いて見える。

 彼は、自分自身のことに関心がない。逮捕されようが、命を落とそうが、合衆国のためになるのなら。ならば、その心意気を大いに評価し、全力で合衆国に喧嘩を売ってやろうじゃないか。合衆国を人質にして、脅迫という名の交渉を持ち掛けてやる。何せ俺は鬼で悪魔で魔王で暴君、情け容赦など必要ない。この俺に喧嘩を売った浅慮な自分を恥じるといい。

 

「さて、そろそろ増援が到着するころです。貴方を連行しないといけない」

 

 猶予などくれてやらない。考える必要などないはずだ。他国にいる協力者たった一人の身柄と、世界一の大国たる自国のメンツ。秤がどちらに傾くかなんて明白も明白。

 そうでしょう、と最高の笑顔を作る。

 

「どう、しますか?」

 

 脱力した彼は膝をつき、両腕をだらりと落とす。紫に近い色になったその唇が、ゆっくりと開いた。

 

 

 *

 

 

「協力感謝するよ宮野さん。少しは気が晴れたかな」

『ええ、お陰様で。それじゃ私は紅茶でも飲んで、貴方達の完全勝利の報告を待つことにするわ』

 

 いつもの調子でそう言う彼女に少し笑って、そのまま通話を切った。

 同時に、ビル内部を映していたモニターに、公安の増員が映っていることに気づく。よし、増援が到着した。あとは彼らを連行し、裏切り者の横っ面を殴りに行くだけ。

 

「諸伏、彼の拘束と連行を頼む」

「了解」

 

 完全なる敗北を享受した彼に、もう抵抗の様子はない。諸伏に任せておけばとりあえず問題はないだろう。続けてマイクに向けて話しかける。

 

「風見さん、そのまま彼らの連行の指揮をとってください」

『はい!』

「赤井さん、Mr.ブラックに報告と、向こうの状況の確認をお願いします。必要であれば俺に報告を」

『……了解した』

「ベルモット、これで貴方との契約は完了です。貴方を協力者から解放する。報酬や貴方の今後については改めて場を設けます」

『はいはい、わかったわよ』

 

 そのあとに一瞬間をおいて、ずっと呆けていたそいつに笑いながら音声を飛ばす。

 

「降谷」

『、……ああ』

「お前はどうする?」

 

 俺はこれから警察庁に戻るけど、お前もいくか?

 そう言うと、正気に戻ったらしい降谷が心底腹立たしいという顔になって、叫んだ。

 

『俺も行く! すぐにそっちに行くから待ってろ! いいか、待ってろよ! 俺に秘密で話を進めやがって、全部説明してもらうからな!』

 

 そう叫ぶと同時に降谷がモニターから消えた。これは全力疾走しているに違いない。思わず吹き出すと、後ろから忌々しそうな小さな声が聞こえる。

 

「……呑気なものだ。本当に見事ですよ、Mr.柊木」

「お褒めに預かり光栄ですね、ミスター」

「しかし、何も知らない友人を囮に使うなんて、さすがなかなか冷徹ですね? しかも、憤り憎む様子すら見せないとは」

 

 せせら笑うように言う彼は、どう見ても負け犬の遠吠えだった。そんな彼に苦笑をひとつ零す。

 そういう風に見えたのだとしたら、俺の猫かぶりも大したものだ。そう思ったとき、俺はほとんど無意識のうちに左足に重心を乗せ、浮いた右足をまっすぐ前に叩きつけていた。

 ミスターの顔の横にあったキーボードのキーがいくつか吹っ飛ぶ。同時に後ろ手でマイクのスイッチを切った。

 

「公安の捜査官として、指揮官としては、貴方に憎しみやそれに類する感情は持ってはいません。貴方達は職務に必要な行為を行ったにすぎず、そこに『暗殺』という事項があっただけ。そう考えます」

 

 だがもちろん、俺個人としてはまた別問題だ。

 

「……でも俺はね、本当は自分の縄張りに手を出されるの、死ぬほど嫌いなんですよ」

 

 思いのほか、低い声が出た。獰猛な感情が表に出ようとするのを、押し込める。

 

日本(ひとんち)を土足で荒らしたばかりか、日本警察(おれのもの)にまで手を出しやがって」

 

 怒らないわけがない。憤らないわけがない。状況が許すなら、たかが殺人未遂の現行犯程度で手を打つはずがなかった。

 アンタは職務に忠実な俺に、心から感謝をするべきだ。

 

「この程度で済ますのは今回限りだ。次はありとあらゆる手を使って、テメェの飼い主ごと潰す。世界一の大国だろうが諜報機関だろうが、この俺を敵に回したらどうなるか思い知らせてやるよ」

 

 これが脅しじゃねえこと、アンタならわかってくれるよな?

 また蒼白になった彼にそれだけを言い残し、諸伏に任せて外に出た。モニター車に背を預けて、降谷が来るのを待つ。

 その間にと、スマホをコールしてある人物に繋げた。

 

「柊木です。内通者が判明しました。これから警察庁に戻りますので、お約束通りご助力をお願いします」

 



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49

 CIAに叩きつける()()についての話をした後、思い出したように工藤先生は言った。

 

「それはそうと、この作戦にはもう一枚カードが必要だろう。そちらは大丈夫かい?」

 

 さすがにそちらは私たちではどうすることもできないが、と言う工藤先生に苦笑した。多分大丈夫です、と返すと、宮野さんが不思議そうな顔でこちらを見る。

 

「まだ何か必要なものがあるの?」

「まあね。けど、これは権力とコネクションの問題だから」

「……ああ、そっちのことか。けどお前、今までさんざん上層に喧嘩売っといて味方とかいるのか?」

 

 心底意外そうな顔をする諸伏にも、苦笑を返すしかない。

 まあ監察官の時に喧嘩を売りまくった自覚はあるが、それでもそれなりに目をかけられたりもしてたんだけどと内心だけで反論するが、今回頼れそうな味方がいないのは事実だ。

 

「……俺のツテじゃねえよ」

「ん? 違うのか?」

 

 じゃあ誰だよと問いかける諸伏に、ちょっと眉尻を下げ、言いたくないなと思いながら口を動かした。

 

「……親父の」

「え?」

「親父のツテに、そういうのを紹介してくれそうな人がいるんだ」

 

 できれば、もう会うつもりはなかったのだけど。

 

 

 *

 

 

 俺の姿を見つけた途端突進してきたと思ったら、即行で腕を掴まれてRX‐7に放り込まれた。パトランプ付けないなら安全運転な、と言ったらすごい目で睨まれる。

 

「法定速度は守る」

「安全運転と法定速度遵守はイコールじゃないんだよ」

「うるさいその話はいいんだよ」

「いや警察官としてはとてもよろしくない、」

「柊木」

「……はいはい」

 

 軽いノリに付き合ってくれる気はないらしい降谷は、そのままアクセルを踏んだ。一応思ったよりは安全運転。

 それで、とさっそく話を切り出される。

 

「CIAの暗殺のこと、いつから気づいてた」

「……いつだったかな……年末くらいか」

 

 随分前だな、と降谷の頬がひくりと引きつった。それには気づかなかったふりをして窓の外で流れる景色を眺める。随分前と言うほど前でもないと思うんだけどナーと内心言い訳めいたことを呟いた。

 第一そのときも可能性に思い至ったというだけで、確信を持ったのは本当に今朝だ。

 

「今朝、あいつらが爆弾を見つけてくれるまでは推測の域を出なかったよ」

「……まさか爆弾まで持ち出してくるとはな」

「ああ、予防線張っといて良かった。正直危なかった」

 

 予防線、と降谷が繰り返す。できる限りCIAから目を離したくなくて、俺は「街の目」を使う決断をした。「協力者」たちの顔が次々と頭に浮かび、思わずため息をつく。

 もう数年の付き合いになる奴もいるが、いつのまにあんなに頼りになるようになったのかと、嬉しいような申し訳ないような不思議な気持ちになる。彼らの力を借りたくはなかったが、借りずにはいられないほど優秀なネットワークに育ってしまった。

 

「……俺のベイカーストリートイレギュラーズは優秀なんだよ」

 

 今もこの近辺に溶け込んで生きる悪ガキたち。そこを卒業し、もう働いているような奴らにも声をかけ、恥を忍んで頭を下げた。お前らを利用するつもりはないと言っておきながら頼ってすまない、これが最初で最後だから、どうか助けてほしいと。

 

『何すりゃいいの?』

 

 一番最初に返事をくれたのは今や大学卒業を目前に控えた幸人だった。

 CIAの三人の顔と車両の情報を送り、彼らを見かけたら片っ端からその様子を報告してほしいと頼んだ。すると幸人は、全員分のメッセージ受け取ってたらスマホの通知死ぬよ、とSNSを勧めてくれた。

 

『全員に鍵つきアカウント作らせるからフォローしといて。ダミー混ぜながら報告流させるから、あとはひーらぎさんの方で判断よろしく』

 

 しかも、その報告の仕方と言ったら。

 キッチンカーの前でクレープをアップにした画像を上げたと思ったら、そのサイドミラーにはミスターの顔がうつっていたり。久々の再会、とか言って肩を組んでいる画像を上げたと思ったら、その後ろでCIAの車両が信号待ちをしていたり。何だお前ら優秀か。というか将来何になるつもりなんだと、正直本気で頭を抱えた。

 そしていったいどこでこんなやり方学んだんだよ……と愚痴を投げれば、速攻で「ひーらぎさんの悪影響」と山のような返信が届く。そんな英才教育をした覚えはないと言い返しても、「ひーらぎさん、英語わからねえって言った俺たちに何見せたか覚えてる?」の一言。

 そういえばスパイものの洋画を勧めたこともありましたね。何でもいいから英語に興味もてばいいと思っただけなんだよ。その内容じゃなくて英会話に注目してほしかったんだよ。閑話休題。

 

「流してもらった画像の中に、気になるものがあったんだ」

「それは?」

「一週間前、宿泊しているホテルに戻る彼らの手に、銀のジェラルミンケースがあった」

 

 そう大きなものではない。ただ、今までそんなものを持っているところは見たことがなかったし、少なくともその日の朝、警察庁に向かう途中と思われる画像には写っていなかった。つまり、警察庁からの帰り道に、どこかに立ち寄って、手に入れてきたことになる。

 

「彼らは何か購入する時、基本的に宅配を頼んでいたみたいなんだ。金持ちと言うか何というか、荷物をあんまり持ちたくないタイプらしいんだよな。なのにそのケースだけは後生大事に持って帰った」

「しかも一週間前と言ったら……今回の作戦の詳細を煮詰めたころか?」

「ああ、タイミングが良すぎたのもあって邪推せざるを得なかった。仮に彼らが本気で暗殺を企てていて、仮にそのケースがそのために用意したものであるなら、その中身は何なのか?」

 

 そう思ったときにふと浮かんだのは、何故か一度吹っ飛ばされた経験のある萩原の顔。まさかと思いつつも、ミスターの思想と思考を考えれば「有り得る」と判断した。むしろ、その方が「手っ取り早い」とも。

 そう思ったときにはすでに、あいつらにSOSのメッセージを送りつけ、あえて「それ」を仕掛けさせる隙を与えた上で、こちらがそれを探し出し解体するだけの時間を作る算段を立てていた。

 

「運が味方したと言わざるを得ないな」

 

 それが爆弾であるという確たる証拠はなかった。もちろん、本当に彼らが俺たちを殺そうとしているという確証も。

 いくつか可能性を考えた中で、一番可能性が高いと思うものから対策を打っていったが、たまたまそれが当たっていたというだけに過ぎない。本当に、運が良かった。

 

「……経緯はわかった。それで?」

「何だよ」

「本題だ。何故俺に黙っていた?」

 

 流れる景色をぼんやり見つめていた目を、数秒閉じた。まあ聞くよな、と思う反面、こいつ本当に自覚ないんだな、と内心溜息をつく。

 なるべく何気ない口調を装って、俺は言った。

 

「諸伏がNOCだとバレた時のことを覚えてるか」

「? ああ」

「あの時お前、どれだけミスを重ねた?」

 

 降谷が息を呑む。さすがに心当たりはあるらしい。

 あの日の降谷との通話やうちに飛び込んできたときの様子からいろいろやらかしている気はしていたが、当時の捜査資料を見たときには本当に愕然とした。冷静でないときの降谷が相応にポンコツなのは知っていたが、職務中にここまでポンコツになるとは。本当に心底呆れたし、肝が冷えた。

 

「はっきり言う。お前があの後も潜入を続けていられたのは、単純に運が良かったからだ」

 

 あの時の降谷は、組織の誰かに見つかる可能性のある状況で、「バーボンらしくない行動」を取りすぎていた。見つからなかったのは、NOCの「疑いがある」程度で今日まで潜入を続けられたのは、実力じゃない。運の問題だ。

 

「お前の強みで弱みだよ。職務中でも身近な人間の危機に過敏に反応する」

 

 そう言うと、降谷はきゅっと唇を噛み締めた。

 俺だってある程度のことは予測できるし、計算外だって計算に入れて策を考えてみせる。だが、降谷ほどの奴の「暴走」を読み切れるかは怪しいと思った。俺の策を乱すだけの能力が、降谷にはある。

 特に今回の作戦は、ギャンブル的な側面も強かった。風見さんと諸伏に任せたとはいえ、降谷が死んでもおかしくなかったし、もちろん俺が死んでもおかしくなかったのだ。

 

「確かにお前にも情報を共有して自分の身を守ってもらうことも考えた。反面、お前の甘さと日頃の暴走具合、それから対組織の作戦の肝はバーボンになるだろうことを考えたら教えない方がいいとも考えた。で、結局後者に軍配が上がったわけだ。その程度には俺、お前に好かれてる自覚もあったしな」

「……」

「反論があるなら聞いてやる」

「……お前のそういうとこ本当に腹が立つ……!」

 

 歯噛みするようなその言葉を、事実上の敗北宣言だと捉えた。とはいえ、今日の降谷は俺の危機かもしれない状況でも、やることはやってのけた。降谷も成長したということで、その辺の評価は改めておこう。

 

「……それで!」

「今度はなんだ」

「内通者がわかったのはいい! だがそもそもCIAの証言だけじゃ何もできないぞ! 裏も取れてないし、俺たちには身内を締め上げる権限がない! 階級も向こうの方が上すぎる!」

「とりあえず声のボリュームを落とせうるさい」

 

 しかし、降谷の言った通り。俺はもう監察官じゃないし、そもそも警察庁には警察庁の監察業務を行う人たちがいる。そして特殊な部署にいるとはいえ、警部程度の俺たちには限界がある。

 だから、カードが必要だった。俺たちの言葉を肯定し、動いてくれるだけの権力の後ろ盾が。

 

「……助っ人は呼んである」

「助っ人?」

「ああ」

 

 腹の中が真っ黒な、とっておきの権力者(たぬき)を。

 

 

 *

 

 

 阿笠博士の研究所を訪ねた次の日、俺はある場所に足を運んだ。平穏に生きる大半の人々にとっては縁のない、罪を犯した者を反省させるための施設―――刑務所だ。

 無機質な面会室の椅子に座って、その人を待つ。時計の音が、やけに耳にまとわりついた。透明な壁の向こうでがちゃりとドアが開く。俺は反射的に立ち上がって礼をした。

 

「お久しぶりです、先生」

「お、旭くんじゃねえか。久しぶりだなぁ」

 

 まあ座んな、と言ったその人は今も服役中の犯罪者であり、元法務大臣という経歴を持つ政治家であり、―――俺の父が、命を懸けて守ったひと。

 父さんは警視庁警備部警護課で要人警護を担当する、いわゆるSPだった。特にこの人に高く評価されていたらしく、よく指名されては先生の警護についていたと聞いている。俺が初めて先生に会ったのは父さんの葬儀だったが、俺の過去のことも何やらと詳しく知っていて、父さんが相当にこの人の事を信頼して慕っていたことはわかっていた。

 

「……来てくれるとは、思わなかったんだがな」

「ええ。俺も来るつもりは、ありませんでした」

 

 その日も、いつも通り父さんはこの人の警護についていた。政治家というのは難儀なもので、どれだけ真面目に働こうが命を狙われる可能性がなくならない職業である。

 この人を狙ったのは、過激な思想をもった人間だった。どこかから拳銃を手に入れて、それを先生に向け―――その弾丸を受けたのは、父さんだった。

 命にかえても対象を守る、それがSPだ。俺は父さんがいつも机の引き出しに遺書をいれているのを知っていたし、葬儀でこの人に深く深く頭を下げられても恨む気持ちなど微塵も起きなかった。あれこれと世話をしてくれるこの人に感謝をしつつも、葬儀や遺産について一区切りする頃にはそれも断った。俺は警察官になるつもりだから、貴方との関係はここまでにしたいと。

 

『貴方と縁があると言うだけで、そのつもりはなくても何かしらの特別待遇があるかもしれません。俺はそれを望まない』

 

 自分の力で這い上がりたいから、とこれまでの感謝と共に告げると、先生はわかったと頷き、しっかりやんなと俺の肩を叩いてくれた。だからもう会うつもりはなかった。汚職で逮捕されて尚絶大な影響力を誇る、この人には。

 しかし、今回はそうも言っていられない。

 

「今更どの口が、とお思いになるかもしれませんが、お手をお借りしたくて」

 

 ほう、と先生は面白そうに笑った。言ってみな、と視線だけで促される。

 

「ご存知かもしれませんが、無事、警察官として働いています。今は警察庁で、特殊な部署に配属されておりまして、非常に厄介な案件に関わっています」

 

 何から説明すべきか、何まで説明していいのか。頭の中で綱渡りをしながら、言葉を辿っていく。

 

「FBIや、CIAも絡んでいる案件で、」

 

 どう伝えればいいのだろう。何を説明すればこの人は協力してくれるのだろう。この人はこの人でとんでもない古狸だ、政治家と言うのはそういう生き物だ。

 今更にして実感するが、実は俺も相当テンパっていたし緊張していたらしい。上手くこの人を説得する言葉が出てこない。どんなに言葉を飾ったって、老練の狸には見抜かれると思った。

 それならきっと、ただ俺は率直に伝えるしかないと。

 

「―――友達の命がかかっています」

 

 あれ、おかしいな。何で俺、泣きそうな声を出しているんだ。

 

「今、もしかしたら、俺の大事な友達の命が危機にさらされているかもしれないんです。絶対に、死なせたくない。そのために今、策を練っています。それに俺の友達を売った人間も、何としても捕まえてやりたい。そいつが、警察上層でふんぞり返っている奴の可能性が高いのなら、なおさら」

 

 目の前のその人は、ただただ静かな瞳で俺を見返した。

 

「そのためなら、何だってします。誰にだって頭を下げるし、何だって利用する。貴方はあのとき、俺に言ったでしょう。俺には、俺の父には、大きな借りがあると。できることなら、何でもすると。それを今、返してください。俺に今必要なのは、権力者の後ろ盾です。それも、金だ利権だで左右されない、信用のできる後ろ盾だ。元法務大臣で警察官僚にも知り合いが多いだろう貴方なら、そういう人を知っているんじゃないかと思って、ここに来ました」

 

 どうか、手を貸してください。

 俺がそう言うと、先生は数秒間黙り、そして微笑んだ。政治家らしい、見た人を安心させる笑顔だった。

 

「いい顔するようになったじゃねえか、旭君」

「……最後にお会いしてから十年近く経つんですよ、俺だって成長します」

「はは、そうさなぁ、立派になりやがって。……人の命がかかってるとなれば、俺も一肌脱がねえとなぁ。これでも元坊主、無益な殺生は嫌いなんだ」

 

 実家がお寺で人命を何より尊ぶこの人は、法務大臣在任中も死刑執行命令書への署名は一切しなかった。そして一流の政治家と言う生き物は、言葉をごまかしはしても嘘の類は言わない。言質を取られるのを嫌がるからだ。

 

「話せる範囲で詳しく話してみな」

 

 紹介できる当てがあるかどうか、考えてやる。

 にやりと笑ったその人に、俺は改めて口を開いた。できる限りに端的に、今の状況を説明する。一通り話を聞いたその人は、静かな目で改めて言った。

 

「……旭君よ、『誰にだって頭を下げる』と言ったな?」

「言いました」

「それが例え、てめえと因縁のある奴でもかい」

 

 警察上層で、俺と因縁のある奴。そんな人は限られている。しかも先生は、かつて俺の身に起こったことを知っている。つまり、先生が言っているのは。

 だが、()()()()()()()()()()()()

 

「もちろんです、先生」

 

 俺にとって大事なのは過去じゃない。今、この時だ。

 そう言い切った俺に、先生は満足そうに頷いた。

 

「なら、あいつに話を通しておこう。だが、俺にできるのはお前さんの話を聞いてやれと言うことだけだ。説得するのは自分でやんな」

「十分です」

「お前さんのことだから杉下にはもう挨拶したんだろ?」

「特命係の杉下さんですか? はい」

 

 なら、杉下にも連絡をしておこう、と先生は微笑んだ。どうやらそのひとと杉下さんには直通のパイプがあるらしい。

 手はずを整える約束をしてくれた先生に、俺は深々と頭を下げた。

 

「……旭君よ」

「はい」

「ますます親父さんに似てきたな」

 

 イイ男になりやがって、とからからと笑うその人に、つい苦笑した。

 

「やめてください、あんなクソ親父」

「言うねえ、若造が」

 

 

 *

 

 

 警察庁に到着し、まっすぐにその内通者の執務室を目指す。自然と足早になり、足音が大きくなっていった。俺は、怒っている。職務で俺たちを殺そうとしたCIAも許せるものではないが、お前のそれは私欲に過ぎない。私欲で人の命を売り、その罪を隠蔽しようとしたことは絶対に許さない。許してはならない。

 形だけのノックをして、返事も聞かずにその部屋に足を踏み入れた。部屋の中央にある机を前に、そいつはふんぞり返っていた。

 

「、何だお前たちは」

 

 不快そうな顔を隠しもせず、俺たちを見てそう言う。おや、俺たちのことは知らないらしい。なるほど、ろくに調べることもせずCIAの要請に乗ったというわけか。いっそ笑えてくる。

 

「つれないことを仰いますね。せめて顔と名前くらいは知っておいて頂けませんか」

 

 貴方がCIAに売り払った、捜査官のことくらい。

 俺がそう言うと、彼はすっと目を見開いた。この反応はあたりだと確信をもつ。たとえ暗殺が失敗したところで、自分の名前が出ることはないと高をくくっていたのだろう。随分と、舐められたものだ。

 

「いったい何の話をしている? 無礼にも程がある、出ていけ!」

「しらばっくれますか」

「だから何の話をしているというんだ! もういい、所属と名前を言え!」

 

 まあ、認めるはずもない。罪を認めた先にあるのはその身の破滅だ。

 何人かの足音が開いたままのドアから聞こえてくる。来てくれた、と少し目を伏せた。

 

「失礼しますよ。やあ柊木君、早かったんですね」

 

 後ろに何人ものお付きを連れて執務室に入ってきたその人。その人を見た瞬間、彼だけでなく降谷までその顔色を変えた。警察に身を置く人間なら、まあどこかで見たことはあるだろう。

 大物も大物、この警察組織全体でトップから数えて五指に入るほどの権力者。

 

「官房長……!」

 

 警察庁長官官房室長という、もはや「とにかくとんでもなく偉い人」としか言えない立場のこの人。

 虎の威を借りて申し訳ないが、これもまた戦略のうちと主張する。

 

 

 *

 

 

 杉下さんを通して顔をつないでもらうと、ひと気の少ない公園を指定された。この寒い時期に、と思いながらベンチに座ってその人を待つ。約束の時間から少しして、背中合わせになっていた反対側のベンチに人が座った。

 

「会ってやれって言われたから来たけど、まさか君だったの」

「あれ、光栄です。俺のことをご存じなんですか?」

「一時期、僕のことを嗅ぎまわってたでしょ」

 

 ああ、バレている。そりゃそうか、と苦笑しながら頷いた。バレても構わないと思いながら探ってはいたのだが、やはりお見通しだったらしい。

 

「大河内くんがとんでもないのを引き抜いてきたって噂も聞いていました。若手の快進撃はなかなか見ものでしたよ」

「恐れ入ります」

「まさか、かつて警察の不正の犠牲になった子どもが警察官になっているとは思いもよらなかったけどね」

 

 直球で言われて小さく息を飲んだ。そう、それこそが俺とこの人の因縁。

 今も俺の深くに刻まれた忌まわしい記憶。このひとは、かつて俺を「家出少年」に仕立て上げたうちのひとりだった。

 

「僕のことを嗅ぎまわってたのも、その関連でしょ?」

「ええ。あの時の事件に関わっていた人で今の警察にいる人は少ないですから。……どんな人なのかなと」

「そう。で、僕のことを調べた感想は?」

「……納得、でしょうか」

「へえ?」

 

 監察官になったばかりのころ、その権限を利用して事件に関わった人々のことを調べた。その当時の警察の状況なんかも含め、できる限り。

 するとそこから、見えてきたものがある。

 

「当時の警察は、だいぶ不安定だったんですね」

 

 権力の集中の仕方も、派閥の在り方も危なかった。どこかのバランスが崩れれば、警察組織そのものが傾いてしまいそうなほどに。もし俺が「家出少年」でなく、「誘拐事件の被害者」になっていたら、いったいどうなっていたか。

 もちろん、だからといって罪が隠蔽されていいわけではない。どんな理由があろうと罪は罪で、それを隠そうとするのは決して正しくない。

 きっと少し前の俺なら、どんな理由があろうと許せないと、そう言ったと思う。だけど、今の俺には何故か。

 

「……不思議と、恨む気持ちはないんです」

 

 ずっと抱えていた黒いものは今も消えていない。だけどちゃんと、直視はできるようになった。今こうして因縁の相手のひとりであるこの人と話していても、黒いものは浮上することもなく大人しいまま。自分でも少し、驚いている。

 少なくとも、警察学校に入った頃の俺だったら、こんなことは言えなかった。あの頃の俺と今の俺の違うところ。それが何なのかと聞かれれば。

 

「警察官になって、……いろんな形の正義を見ました」

 

 ルール破りは嫌いだった。ルールに則っていれば正しいのだと思っていた。けど、世間は、正義は、そんなに簡単じゃなかった。警察官になってたくさんの人と出逢った。たくさんの人と話をした。

 どこまでも真実だけを追い求める新一君の正義。

 組織の壊滅のために国境やルールを飛び越えたFBIの正義。

 自国の利益のためなら命すら切り捨てるCIAの正義。

 事件解決のためなら民間人の手を借りることも良しとした目暮班の正義。

 捜査権がなかろうと事件が起きれば捜査を断行する杉下さんの正義。

 恵まれない子供たちのために汚職に手を染めた先生の正義。

 そして、この国の秩序のためなら何だってやってみせる、公安の正義。

 全肯定できるものはひとつもない。だが、全否定できるものもひとつもないと思った。だって彼らは、自分が正しいと思うことを貫いているだけなのだ。そこにあるのは私欲よりも使命感、そして正義感。信条の違いこそあれど、どうしてそれを否定できるだろう。この世に絶対的な正義などありはしないのに。

 

「……調べた限り、貴方は私欲で動くような人ではない。俺を『家出少年』に仕立て上げたのも、貴方なりの正義があってのことでしょう。だったら、俺は貴方を責められません」

 

 だってきっと、俺が貴方の立場であれば同じことをするから。少なくともこの人はただ、日本警察を守ろうとしただけだったのだと思うから。すでに公安としてたくさんの法を踏みにじっている俺がこの人を責めるなんて、それこそお門違いだ。

 そう少し笑うと、その人はふうんと感情を感じさせない声で呟いた。

 

「まあ昔の話はいいんですよ。俺は今の話がしたくてお呼びしたんです」

「今君が指揮を執ってる例の組織の話?」

「ご存知なんですね」

 

 僕も公安に関わっていたことがあるからね、とその人は何の気なしに言った。それは話が早くて助かる。

 

「ではCIAのことも?」

「わざわざ捜査協力とかよくやるよね」

「ええ、本当に。まだ可能性の段階なんですが、そのCIAが公安(うち)の保護対象の身柄欲しさに俺たちを殺しにかかるかもしれません」

 

 官房長は数秒押し黙り、少し低い声で、ない話じゃないねと呟いた。続けて、なるほど、とも。

 

「誰か内通者がいるんだ? それも警察上層に」

「おそらく。CIAにその名前を吐かせます」

 

 その内通者の締め上げを、貴方にお願いしたいんです。貴方が決して、利権や保身で動く人ではないと見込んだうえで。

 そう言葉を続けると、官房長はゆっくり足を組み替えた。

 

「見込んでくれるね」

「俺が調べた限り、貴方は日本警察のために大局を見て動ける方ですから」

「日本警察のために、君たちよりその内通者の方を取るとは考えないの?」

 

 その言葉につい肩が揺れる。俺はそこまで自分たちを軽く見てはいない。

 

「利権ほしさに自国の人間を売り渡すような輩と秤にかけられて負けるなら俺たちもその程度の存在だったということですね。とりあえず俺は若くしてゼロに引き抜かれたうえに、世界的犯罪シンジゲートをものの数か月で壊滅寸前にまで追い込んでるんですけど」

 

 加えてその世界的犯罪シンジゲートに潜入して幹部にまで上り詰め、今も尚内側からその組織に探りを入れている優秀な捜査官と、天才的な頭脳で新種の毒薬を開発したこれまた優秀な科学者の存在もある。

 これで内通者の方を取るなら馬鹿と言うほかない。

 

「……いいでしょう、そのとどめは僕が請け負います」

「ありがとうございます」

「かわりに、合衆国との交渉は僕に任せてくれる? CIAの落とし前も」

「どうぞご自由に。逮捕後の組織員の身柄を交渉材料に含めて頂いても文句は言いませんよ。ただし、俺たちの身の安全と保護対象及び協力者の身柄は絶対に譲りません」

「はいはい、わかっていますよ。しかし随分と大盤振る舞いだね」

「警察の仕事は悪い奴らの存在を暴いて捕まえるところまででしょ。悪い奴らをどこでどう裁くかは職務外なので興味がありません」

 

 面白いことを言うね、と少し官房長が笑ったような気がした。

 

「杉下が紹介してきたからあいつに似てるのかと思ったけど、そうでもなさそうだ」

「杉下さんには恩義もありますし尊敬していますが……そういえば杉下さんみたいになりたいと思ったことはありませんね」

「なるほど、君は人を見る目があるみたいだ」

 

 それじゃ、とその人はベンチから立ち上がり、ぱたぱたとスーツについた埃を払った。

 

「その時がきたら連絡してください。とどめは受け持つけど、そこに至るまでに失敗しないようにね」

「ええ、こちらも命が懸かっていますから。よろしくお願いいたします」

 

 ベンチに座ったまま、その人の背を見ることなく礼をした。大局的な正義を見るこの人は、俺たちが日本警察のために働く存在である限り切り捨てはしないだろう。せいぜい役に立つ駒であるように、心掛けていくだけだ。

 気に入られたいとも思わないが、できることなら敵に回したくはない相手。そして今回は、何としても協力を取り付けなければならなかった相手。何て心の内が読めない人だろうか。先生といい、全く煮ても焼いても食えなそうな古狸というのは恐ろしい。

 官房長の気配が完全に消えたあと、俺は大きく安堵の息をついた。

 

 

 *

 

 

「な、何故貴方がここに……!」

「内通者の名前がわかったって柊木君から連絡をもらったんですよ。彼?」

「はい。CIAには合衆国を盾にして吐かせたので間違いないかと」

「そのあたりもあとで報告して頂戴ね。じゃあ、とりあえず来てもらおうかな」

 

 音もなく前に出るのは、官房長の後ろにいた人たち。びしっとスーツを決めたその人たちはおそらく警察庁の監察官だろう。うわあ本物のエリート様たち。

 さっとそいつの両側に立ち、椅子から立ち上がらせて部屋の外へ引きずり出した。他の人たちはこの執務室にあるものをがさがさと段ボールに詰め始めた。これは彼の存在を丸ごと洗うつもりらしい。

 

「か、官房長、違う、違います! 私はそんな……!」

「うん、ちゃんと話は彼らに聞いてもらうから。間違いだったらその時はその時、もしも合っていたら」

 

 この部屋の持ち主は、警察にいられなくなるだろうね。

 特に変わらない調子で言った官房長に、彼は真っ青な顔でこちらを睨みつけた。

 

「このまま終わると思うなよ!」

 

 うーん、既視感。いつだったか、確か査問会でお見送りした誰かが同じようなことを言っていた気がする。そういえばあの人どうなったんだっけ。いつどんな仕返しをしてくれるかと楽しみにしていたのに、結局何も起きていないような気がする。俺に喧嘩を売るからにはしっかりと有言実行してほしいものだなと思いながら、笑顔で彼を見送った。やれるもんならやってみろ、今度は官房長の力を借りずに潰してみせる。

 連行していくその人たちの姿が見えなくなったところで、改めて俺は官房長に向き直った。

 

「ご助力ありがとうございました」

「いえいえ。君も降谷くんも無事で何よりです」

 

 唐突に名前を呼ばれた降谷はぴしっと姿勢を正した。さすがの降谷も恐縮した様子で、恐れ入ります、と少し震えた声を上げる。目上に対して緊張する繊細さは持っていたらしい。

 

「裏の理事官からもいろいろと話は聞きましたよ。組織の壊滅までもう少しだって?」

「ええ、鳥取でボス逮捕に当たっているFBIの作戦が成功すれば、無事」

「そう、お疲れ様。最後までしっかりお願いしますね」

 

 はい、と二人そろって敬礼を返すと、官房長はひとつ頷いて部屋を出て行った。騒がしかったその部屋がいっきに静まり返る。どっと疲労がやってきた俺たちは、ほとんど同時に壁に背を付けた。

 

「……いったいどういうコネクションなんだよ官房長って……大物すぎるだろ……」

「そのあたりの説明は後でな……おっと」

 

 ポケットの中でスマホが暴れだす。画面に表示された名前を見て口角が上がった。

 

「はい、柊木です。……ええ、……いえ、それは。……はい。わかりました、ありがとうございます」

 

 簡単な報告を聞き、通話を終える。俺の隣で、降谷が期待を込めた目で俺を見ている。そう、今の電話はお前が思っている通り。さすが彼は優秀だ、こんなに早く向こうの作戦を終えてくるとは思っていなかった。

 

「降谷」

「ああ」

「ただ今をもって本案件におけるすべての作戦の終了と、―――完全勝利を宣言する」

 

 俺たちの勝利だ。

 ぶつけ合った拳は、痛みを感じないくらい爽快だった。

 

 



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50

 事実上、組織が壊滅した。長い、長い戦いだった、らしい。

 俺にとっては数か月のことであったが、思うところのある人は多かったようだ。どこから情報が漏れたのか、こっそりとお褒めの言葉や、差し入れを賜ることがあった。それだけ組織に煮え湯を飲まされた人が多かったということなのだろう。有難く受け取りつつ、今日も今日とて事後処理に精を出している。

 

「いやあ本当、案件の本番は逮捕じゃなくて事後処理だよな」

「わかる。刑事ドラマで描かれない部分が一番きつい」

 

 執務室に響くタイプ音。カタカタカタカタ、そろそろ気が狂いそうだ。

 作戦だ交渉だよりは頭を使わなくていいので楽と言えば楽なのだが、如何せん量が多い。俺と諸伏だけでなく、降谷と風見さんも端末を持ち込んで作業をしている。止まることのない四人分のタイプ音はそこそこ精神を削っていた。

 

「降谷、珍しいな、誤字あるぞ」

「本当か、すまない。すぐ修正する」

「ああ」

 

 誤字にチェックを入れて降谷に送り返す。その様子に、諸伏が苦笑して口を挟んだ。

 

「柊木って、事務作業強いよなぁ。ミスもないし」

「もともと俺はデスクワークの人間だから。監察官業務だって仕事の八割は書類だぞ。前の上司はそういうミスにやたら厳しい人だったしな」

 

 ふと、脳裏にあのしかめっ面が浮かんだ。監察官の業務そのものはまだ半人前でもいい、だが誰でも防げるミスはするなと最初に俺に言ったあの人はお元気だろうか。なんだかんだといい人であったから、心配してくれているかもしれない。こちらが落ち着いたら顔を見せに行きたいものだ。

 

「ついでに言うと、心底めんどくさかった仕事をやらずに済んでとても気分がいい」

 

 思わず本音を漏らすと、三人は揃って苦笑した。降谷の苦笑だけ少し苦みが強い。またお前はそういうことを、と言わんばかりの表情だ。

 

「……手柄を取られたも同然だぞ?」

「手柄と心の平穏どっち取る? 俺は後者だね」

「……ある意味柊木さんらしいというか」

「あ、風見さんもわかってきましたね、そうです柊木は合理主義という名のめんどくさがりです」

 

 笑顔のまま諸伏に追加の仕事を送りつける。それに気づいた諸伏はうわっと悲鳴をあげた。この暴君、と叫ばれるがそれがどうした、暴君相手に喧嘩を売る方が悪い。

 一番面倒な他国との交渉という仕事を官房長が担ってくれている。これはある意味案件の責任者の仕事なので、これを官房長に任せるということは官房長がこの案件の最終的な責任を担うということだ。そして案件の手柄というのは、基本的に責任者のものになる。

 しかし別に手柄目的でこの案件に飛び込んだわけではない俺としては、はっきり言ってどうでもいいことだった。合衆国のお偉いさん相手に腹芸やるくらいなら手柄のひとつふたつ喜んで捧げるというものだ。

 その交渉の結果がどうなるかはまだわからない。捕まえた組織の構成員がどう裁かれるのかも。だがそれも、俺にとってはどうでもいいことだ。

 俺はただ、俺の手にあるものが守れればそれでいい。

 

「だいたいボス逮捕の花形であるMr.ブラックを見てみろ、完全なる気疲れでげっそりしてただろうが」

 

 俺がそう付け加えると、三人は確かに……と揃って遠い目をした。

 もちろんFBIのリーダーとして交渉の舞台にも立っている彼は、合衆国に背中を蹴っ飛ばされながら官房長と対峙するという地獄を強いられている。あの海千山千の官房長を相手にするというだけで気の毒なのに、そこに「CIAの暴走」という弱みまであるときた。

 CIAの暴走は直接Mr.ブラックに関係しているわけではないが、それでも同じ国に属する組織がやらかした不祥事にかわりはない。官房長のことだからそれも上手く使ってちくちくと彼を苛めていることだろう。本当に気の毒というほかない。

 作戦を終えた後、東都に戻ってきたMr.ブラックは、作戦の報告をするよりも先に口を開いた。

 

『何を言うよりまず、言わせてほしい。……無事でよかった……!』

 

 FBIの面々も、誰一人としてCIAの企みを知らなかった。共謀の可能性も考えなかったわけではないが、その可能性は限りなく低いと判断して思考から消した。俺がミスターの立場なら、間違いなく彼らを巻き込むことはしない。

 彼らは彼らの、いや、彼ら「個人」の正義で動く傾向が強いからだ。Mr.ブラックだって基本的には私情を殺して任務にあたる人ではあるけれど、それでもやはり己自身の正義で動く人であるように思う。だから彼らはきっと、俺たちを殺す作戦に賛同などしない。そんな命令には従わない。他の手はないのかと、最後まで訴え続ける。場合によっては己の正義に従って俺たちに警告をし、守ろうさえするだろう。そんな敵か味方かもわからない不確定な駒は、最初から計算に入れない方がいい。俺ならそう考えるし、きっとミスターもそうだろうと踏んだ。

 だからこそ俺は、赤井さんを「こちら側の人間」として計算に入れたのだ。

 

『彼らは彼らの職務を果たし、俺達は俺達の職務を果たしました。それだけのことです』

『柊木くん、』

『実際、かすり傷ひとつありません』

 

 日本警察、舐めてもらっちゃ困ります。

 そう言って無事を証明するように両手を開くと、Mr.ブラックは苦笑した。その後ろにいるFBIの面々も、これだからこの人は、と言わんばかりの表情で。

 

『赤井さんにはいい仕事をして頂きましたし、FBIにどうこうという気持ちはありませんよ。むしろ感謝しています。赤井さん、貴方を信頼して良かった』

『……まさか君の言う信頼がそういう意味だとは思わなかったぞ』

『諸伏曰く、俺の言う信頼は脅迫と同義らしいです』

 

 違いない、と赤井さんはニヒルに口元を歪めた。

 あの状況ならこの人は間違いなく降谷を守ってくれると確信していた。たとえ合衆国が降谷を殺そうとしても、絶対に彼はその指示に従わない。何せこの人は()()()()()()()()()()()()()()()()()なのだから。

 

『……もし君の信頼を裏切っていたらと思うとゾッとするな』

『やだなぁそんな』

 

 俺の信頼を裏切っていたら、なんて。

 

『せいぜい赤井秀一という存在をFBIごと消すくらいですよ』

 

 場の空気が凍った。後ろから諸伏のため息が聞こえる。にこにこと笑いながら冗談ですよと続ければ、そういうことにしておこうと赤井さんはゆるく首を振った。

 俺の信頼を裏切るということは、降谷を見捨てるということだ。その時はまあ、俺だってそれなりのことをさせてもらうだろう。

 

『まあ所詮イフの話です。貴方が降谷を見捨てるはずがないとわかっていましたから。ほら降谷、命を助けてもらったんだ、ちゃんと礼を言え』

『……』

『構わんよ。降谷くんの口から礼なんて聞いた日には地球が終わってしまいそうだ』

 

 そう笑う赤井さんに、ぐぬぬと降谷は歯噛みする。やれやれ、この二人が和解する日は遠そうだと、苦笑した。同じことを考えていたらしいMr.ブラックと目が合い、互いに肩を竦める。

 別に仲良くなれとは言わないが、この二人はこの二人でいいライバルになると思うのだが。

 

『改めて柊木くん、任務は達成したよ』

『ええ。ボスとラムの逮捕、お見事です』

 

 ありがとう、と彼は微笑み、そっと右手を差し出された。その手のひらを見て俺は微笑み、そして。

 

「……あの時本当に柊木さんは鬼だと思いました」

 

 回想の最中に口を挟んできたのは胃が痛そうな風見さん。いやだなぁ鬼だなんて、もはや今更だろうに。

 

「俺はナイスだと思った」

「俺は愉快と同情が半々かな」

 

 別に大したことはしていない。差し出された手のひらに、ごっそりと隠し持っていたものを乗せただけだ。とんでもない桁の数字が印刷された、請求書の束を。

 

『何もう大団円みたいな空気出してるんですか』

 

 大団円は、やっぱり遺恨をなくしてからでしょう?

 そういうと、すっとMr.ブラックの頬に冷や汗が伝う。

 

『いえ、別に違法捜査のことはもういいんですよ、もちろん。書類上貴方がたは正式に捜査協力を依頼したことになってますし、その辺のことを今更ぐちぐち言うようなことはしません。けど、ちょっとはしゃぎすぎましたよね? たくさんものを壊して損害を与えましたよね? それ全部誰が頭下げたと思います? 日本警察なんだな、これが。いや本当に今から頭下げろだなんてそんな一銭にもならないことは言いませんよ。でもね、』

 

 払うものは払って、誠意を見せてもらわないと。

 そう続けたあとの彼らの顔は、それはそれは見ものだった。

 

「鬼だと思いました」

「いやほら、舐められちゃダメだと思って。二度と日本で好き勝手やる気が起きないように、心だけは折っておこうと思って」

「鬼だと思いました」

「……風見さん本当に言うようになりましたね」

 

 失礼しました、と眼鏡のブリッジをあげるその人が欠片も悪いと思ってないことはよくわかる。この人俺に遠慮しなくなったな。いいけど。

 

「……後から交渉の場で官房長に言われるよりはいいと思うんだけどなぁ」

「ゼロならどっちがマシ? 俺はどっちも嫌だ」

「そりゃあヒロ、どっちも嫌だろ」

「やった俺官房長と同列だ、ちっとも嬉しくねえ」

 

 はははははと三人で笑う。その水面下では仕事の押し付け合いという攻防が繰り広げられたが、まあ俺に勝てるはずもない。降谷はひとつ舌打ちをし、諸伏はまたも顔を引き攣らせた。

 

「……天敵呼ぶか……?」

「殺すぞ」

 

 降谷の言葉に思わず物騒な言葉が出た。イケメンが壊れてるぞと諸伏に笑われるが余計なお世話だ。

 降谷の言う()()。いや前から十分に天敵だったのだけれど、それが明確になったと言うか。

 そう、ベルモットである。

 

『それで? まずは言い訳から聞こうかしら』

 

 作戦終了から数日後、俺は降谷と諸伏を連れてベルモットに会いに行った。相変わらず例のバーの椅子に座り、ベルモットだけがその手にグラスを持っている。営業時間前なので他に人はいない。

 

『何の話です?』

『やっぱりNOCだったんじゃないの。それに貴方、スコッチね? リストの写真を見たわよ』

『ああ、そのことですか』

 

 そういえば結局言わないまま作戦に突入したんだった、と笑った。降谷も「降谷」として不敵に笑い、諸伏は誤魔化すように苦笑している。

 

『嘘はついていませんよ』

『へえ?』

『バーボン、そして安室透は協力者ですが、ここにいるのは俺の同僚である降谷零です。あとスコッチとかいう奴は死んだらしいですが、彼は諸伏景光と言いまして』

『改めて初めまして、安室透でもバーボンでもない降谷零だ』

『どーも、もうスコッチじゃない諸伏景光です』

『……それが通用すると思ってるの?』

 

 にこ、と笑って答えない。ベルモットは忌々しそうに眉をひそめた。まあ細かいことは言わないでもらおう、どちらにしろベルモットにとってはさして関係のないことだ。

 

『貴方は約束を果たしてくれました。貴方の宝物の身柄は、今後も含めて守り通します。例の薬のデータも宮野志保に渡され、今解毒薬の開発を進めているそうですよ』

 

 そう、とベルモットは小さく呟いた。すぐにとは言わなくても、そう遠くない未来に新一くんは元の身体を取り戻すだろう。そして元通りの、大切な人と共に過ごす平穏な生活に戻るのだ。

 

『貴方のこれまでの罪も不問とします。好きなように生きればいい。ただし、あくまでも見逃すのはこの国と合衆国における今までの罪についてのみ。その他の国の対処は保証しませんし、どちらにしろ今後貴方が問題行動を起こせば、』

『捕まえるの? この私を?』

 

 不敵に笑う彼女に、俺も笑顔を返した。そんなもの、答えは決まっている。

 

『捕まえますよ。俺たちの手で、必ず』

 

 俺の後ろで、二人も笑っているのが気配でわかる。ああ、決して逃がしはしないとも。俺たちの国を荒らす輩は、例外なく捕まえるべき敵なのだから。

 彼女はふっと微笑み、右手を差し出した。意外だ、彼女がこういうことを求めてくるとは。うわ正直やめて欲しい無理と心底思ったけれど、ここで断るのも無粋というもの。

 手の震えをおさえつけ、握手に応える。きゅっと握られただけでも怖気がたったというのに、あれ、引っ張られて、え?

 

『あ、』

『うわ、』

 

 後ろの二人からそんな声が聞こえたのと同時に、彼女の顔が間近に迫り、口元に柔らかい感触。そう、ちょうど顎の左横、小さな黒子がある辺り。女性ものの香水がかすかに鼻腔をくすぐり、さらりとプラチナブロンドが流れる音が聞こえた。―――え?

 

『……う、』

 

 視界が揺れる。涙が込み上げ、脚の力が抜けた。胃からものが逆流しようとするのを感じ、必死に口元をおさえつける。背中を支えてくれたのは諸伏だろうか。俺の半歩前で、庇うように立つ降谷の背中が見える。

 

『あら、本当だったのね、女性恐怖症!』

 

 愉快そうに笑った彼女は、まさしく魔女というに相応しい。今の俺にはこの世のどんな化け物より恐ろしい生き物に見える。

 確かに俺の事を少々調べればわかることだが、それをここで持ち出してくるとは思わなかった。

 

『美人のキスで卒倒なんてとんだバンビね? 可愛いじゃない』

『……ク、ソババア……!』

『あーら言うわね、次は唇にキスが欲しいのかしら?』

『その顔で俺の吐瀉物を受け止めたいと? とんだ悪趣味だな!』

 

 女性に対してこんな口を聞いたのは生まれて初めてかもしれない。だが構わない、この悪趣味なクソババアはたった今俺にとって人生の天敵になった。その罪を不問にすると言った過去の俺を殴ってやりたい。ムショに叩き込んだ方が絶対に世のためで俺のためだ。

 

『ふふ、唇へのキスは再会の挨拶にとっておくことにするわね』

『ぜったいにもうあわないにほんからでてけくそばばあ』

『柊木、どうどう、口が回ってないぞ』

『……失神しないだけマシになったな、柊木』

 

 諸伏はともかく、本気で感心したように言う降谷、てめーは後で殴る。何でお前はそう、たまに変なところで天然な台詞をかますのだろうか。

 涙目の俺をくすくすと笑いながら、美しくも性悪な魔女はするりと背を向ける。

 

『グッドラック、可愛いバンビたち』

 

 そう言って彼女は、振り向くことなく去って行った。コツコツと品良くヒールの音を響かせて、颯爽と。

 その背を見送った俺達はとりあえず。

 

『……お前らもバンビだってよ』

『嘘だろ……』

『俺は童顔じゃない!』

 

 そんな、彼女との別れだった。できれば本当にもう会いたくないが、何となく彼女の連絡先を消せずにいる。いや本当にもう絶対に会いたくないのだが。

 そんな思い出したくもない回想に胃を痛めていると、唐突にノックの音が響く。反射的にはい、と返事をすると、入ってきたのは案件の責任者になったその人だった。

 

「官房長……!」

 

 ざっと全員が立ち上がり敬礼をする。楽にして、と言われて右手を下ろした。

 

「一応、この件も片付いてきたから話をしておこうと思ってね。事後処理はどう?」

「進捗で言うなら七割といったところです」

「そう、それなら問題ないかな」

 

 問題ない、その言葉に少しだけ眉をひそめるが、官房長は特に気にした風もなく言葉を続けた。世間話でもするように、声の調子は全く変わらない。

 

「合衆国との交渉も大筋は合意が得られてね。まあ細かいことは省くけど、日本警察としてはそう悪くない落とし所に落ち着いたと僕は考えています。君がうるさかった協力者たちについても、他国に口を出されることはありません」

「ありがとうございます」

「ただし」

 

 きた、と思わず身構える。約束を反故されるとは思っていないが、何かしらの条件を出されるとは思っていた。下手なことは言えない。少し身構えて官房長を見た。

 

「そんなに構えないでよ。僕だって鬼じゃありません、そんなにひどいことを要求するつもりはありませんよ」

「……」

「君、結構顔が正直だね。……宮野志保さんには、どこか国立の研究所に所属してもらえるよう伝えといてくれる?」

 

 研究内容は問わないし、別に住み込みで研究しろとも言わないらしい。

 条件としては悪くはないが、何せ相手は古狸。一応と思い念を押しておく。

 

「所属さえすればいいんですね?」

「うん」

「彼女の行動や交友を制限するようなことは?」

「そんなことしたら君たち怒るでしょ」

 

 当たり前だ。俺はもちろん、彼女に対して思うところが多大にあるらしい降谷が決して黙っていないだろう。

 そっと降谷に目をやると、目線が交わる。こくりと降谷が頷くのを確認して、俺は官房長に目線を戻した。

 

「わかりました。そのように」

「よろしく。あとは君たちについてだけど」

 

 ぐるり、と官房長は改めて俺たちを見渡した。

 

「正式なことはもう少し先になるけど、まあ大きい案件を片付けてくれたからね。それぞれ階級はひとつずつ昇進。降谷くん、君は課長補佐あたりのポストで、前線よりは人を動かす立場に行ってもらうから」

「! はい!」

「風見くんは引き続きゼロとの繋ぎ役」

「はい!」

「諸伏くん、君もサポート側ね。柊木くんの補佐役、評価されていますよ」

「ありがとうございます!」

「それで、柊木くん」

 

 はい、と答えた。何で俺一番最後、と少し首を捻りつつ、腹の底を読ませてくれない狸と向かい合った。

 

「君の今後についてはね、それは揉めました。頭使える人間はどこも足りてないからね。人気者だよ、君」

「……はあ、光栄です」

「困っちゃったから、とりあえず僕が一番困ってるところに行ってもらうことにしました」

 

 つまり、また異動か。

 そう思ったとき、心の中の何かがきしりと音を立てる。―――あれ、なんだ、これ。

 官房長はそのままの調子で続けた。

 

「ちょっと監察官戻って、警視庁の掃除をしてきてくれる?」

「……はい?」

「君がいなくなったあと、また叩けば埃がでる輩が大きい顔をするようになってね。大河内くんたちも頑張ってくれてるんだけど、人手が足りないらしくて」

 

 それも、どんな妨害にも屈せず、あらゆる不正を暴き立てて上層にも平気で喧嘩を売っちゃうような()()()が足りないと。

 官房長の言葉に一瞬考えた。もしかしなくてもそれは俺のことなのだろうか。そっと俺以外の三人が視線を外す。お前ら笑いを堪えてるのバレてるからな。

 

「僕も、警察官の不正には思うところがないわけではなくてね。彼らがいるとやりにくいことがたくさんあるんですよ。だからちょっと片付けをお願いします」

「部屋の掃除のように言わないんで欲しいんですが」

「君にとっては大して変わらないんじゃない?」

 

 この人、俺をなんだと。さらに言い返しそうになるのをぐっと抑えて、はい、と頷いた。どうせ人事に口を出す権利なんか俺にはない。もうなるようになればいい。

 

「数年である程度綺麗にしてね。またすぐ異動になるかもしれないし」

「……というと?」

「君、目立つし有名になっちゃったから。どこかの人事が動く度に引き抜きを虎視眈々と狙われるよ。公安はもちろんだけど、刑事部とかもね」

 

 なるほど、便利屋と認識されたらしい。内心で遠い目をする。どこの部署に配属されようがベストを尽くすだけだが、なんだろうこの複雑な気持ち。いや、職務はちゃんと果たすけども。

 

「とりあえず、来月付で戻すから。それまでに後処理片付けてね」

「はい」

 

 来月なら事後処理もぎりぎり何とかなるだろう。改めて敬礼を返すと、官房長はよろしく、と一言だけ置いて去って行った。

 一気に執務室の空気が緩み、それぞれ自分の椅子に座り込む。俺の椅子もぎしりと音を立てた。息を吐く。身体の力が抜ける。ああ、俺もう公安じゃなくなるのか。

 

「……これはとりあえず昇進を喜ぶべき?」

「まあ、そうだな。おめでとう、風見、ヒロも」

「ありがとうございます降谷さん。そちらこそ課長補佐とはおめでたいですね」

「何がいいんだ風見、現場に出られなくなる」

「お前は柊木を見習って人を使うことを覚えろよ。……柊木?」

 

 どこか遠くに聞こえていた三人の会話。諸伏に名前を呼ばれてようやく、現実に引き戻される。

 

「え?」

 

 大きな感情のうねりが、静かに襲いかかる。頬に、冷たい水が流れるのを感じた。

 

 

 ***

 

 

 柊木さんの陶器のような頬に、涙が伝った。当の本人はその事実に気づいていないのか、不思議そうな顔をしている。俺たちの視線に気づき頬に手をやって、ようやく自覚したらしい。

 気づいた瞬間に何かが溢れ出たのか、顔を歪めて思い切り机を殴った。

 

「ひ、柊木?」

 

 諸伏の叫びなど聞こえていないかのように、柊木さんはああくそ、と悪態をつき頭を掻きむしる。ちらりと見えたその右手は赤く腫れていた。

 

「何どうした監察官戻りたくなかったか?」

「うるせえそこはどうでもいいんだよ!」

「落ち着け柊木」

 

 あわあわと諸伏が駆け寄り、思わずと言ったように降谷さんも立ち上がる。俺はどうすることもできず、腰を浮かせたところで固まった。

 

「俺は、……俺は!」

「柊木?」

 

 自分でも混乱しているらしい柊木さんの口からは、次の言葉が出てこない。言葉を探すように、涙で濡れた瞳が忙しなく動く。

 この人がこんな風に取り乱すところは初めて見た。自分に拳銃を向けられた時だって平気な顔をしていたと聞いているのに、いったい何が琴線に触れたというのか。

 

「……くやしい、んだ」

 

 絞り出した言葉は、あまりにも弱々しい。ひくり、と小さい嗚咽が追いかけてくる。

 悔しい、と彼は言うが腑に落ちない。柊木さんは十二分にその職務を果たし、完全な勝利を掴んだはずだ。降谷さんや諸伏も同じことを考えたのか、怪訝な顔をしている。

 

「……何が悔しいんだ。完全な勝利だっただろう」

 

 戸惑ったように降谷さんが言うと、柊木さんはきっと降谷さんを睨みつける。その勢いにおされたのか、降谷さんは珍しくぎくりと肩を揺らした。

 

「お前を危険に晒した!」

「……は?」

「お前を囮にした! 他にもたくさん、やっちゃいけないことを、」

「待て待て柊木、」

「俺は!」

 

 お前たちを、完璧に守りたかったんだ!

 そう叫んだ柊木さんは、まるで駄々をこねる子どものようだ。

 

「手段を選ばず完全勝利なんか当たり前なんだよちくしょう! だって何やったっていいし反則とかねえんだからな! 俺は、『手段を選んだ上で』完全勝利に繋げたかったんだ! 俺が俺に許せる方法の中で策を考えて、そんで完璧に勝ちたかったんだよ! 俺ならそれができたはずなんだ!」

 

 ―――できなかったけど。

 ずび、と鼻を啜りながら彼は傲慢を言葉に乗せる。

 

「……は、」

 

 思わず、息の音が漏れた。

 何を唐突に泣き出したのかと思ったら、全くこの人は。そう続けてしまいそうな言葉を呑み込む。しかし口の端に浮かんだ苦笑までは呑み込めない。

 その気持ちはどうやらふたりも同じらしく、俺よりもずっとこの人を知る同期で悪友のふたりも仕方ないなと言いたげな顔で苦笑していた。

 

「お前、あいっかわらず馬鹿だなぁ」

「ああ、それも特大のな。全く、俺よりずっと傲慢で自信家だ」

「うっせえ実力が伴ってりゃいいんだ!!」

 

 ぐすぐすと涙を流す彼は、―――何と表現したらいいのだろう、本当にただの子どもに見えた。純粋で、傲慢な綺麗事を吐き、俺ならそれができたはずだと本気で悔しがるその様は、ひどく滑稽で人間的だ。

 かみさまのように多くを思い通りに転がしてきたこの人の、こんな姿が拝めるとは。

 

「風見さんまで笑って! ……ああくそ、諸伏!」

「っと」

 

 スーツのポケットを探った柊木さんは、そのまま小さな何かを諸伏の顔目がけて投げつける。すんでのところでキャッチした諸伏は、掴んだ手を開いて呟いた。

 

「……ライター?」

「それはお前に預ける! いいか、やるんでも返すんでもねえ、『預ける』からな!お前の判断で必要だと思ったら俺に返せ! そしたら、そんときは、」

 

 またぐっと息を飲み込んで、傲慢な子どもは勢いのままに叫んだ。

 

「そんときは絶対、誰のことも危険に晒さない、無関係なやつを巻き込んだりしない、安心安全で効率の良い、労力を最低限ですます作戦考えてやる! いいか、絶対に誰も傷つけたりしねえし、その可能性だって許さねえ作戦考えてやるからな!!」

 

 高らかで優しい叫びは、執務室に吸い込まれて消えた。ぜいぜいと肩で息をする柊木さんに、堪えきれなくなった降谷さんと諸伏が同時に噴き出す。

 

「あっお前ら、何を笑って、わ、」

「よーしよしよーし、お前は相変わらず可愛いなぁ。知ってた知ってた、お前しっかりしてるのに一番精神年齢低くて弟気質なんだよなぁ」

「だれが、ぶ、こら、やめ、」

 

 わしゃわしゃと両手で上司の頭を撫でる諸伏。その顔はにやけきっていて、全く、公安らしさの欠片もない。

 降谷さんもやれやれという様子で彼の横に立ち、ぽんぽんとその肩を叩いた。

 

「次も期待してるぞ、指揮官殿」

「何で上からなんだよ、こら、いい加減やめろ諸伏!」

 

 柊木さんは楽しそうに笑う諸伏の手を払い除ける。完全に拗ねた子どもというか、むしろ三人まとめてじゃれ合う小動物のよう。そういえばこの三人は全員歳下なのだと唐突に思い出した。

 何だかおかしくなってきた俺は、柊木さんに近づいてハンカチを差し出した。

 

「ひどい顔してますよ。三歳の子どもよりひどい泣き方だ」

「本当に言うようになりましたね風見さん」

 

 いいけど、と盛大に拗ねてしまった彼は、俺の愛用のハンカチを荒っぽく奪い取る。涙はともかく鼻をかむのは勘弁して頂きたいのだが、聞いてもらえないだろうか。

 

 



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51

 この廊下を歩くのも久しぶりだった。

 無機質な廊下は冷えていて、俺の足音がよく響く。もう春も近いとはいえ日当たりの悪いそこは冷気が強い。少し腕をさすりながら慣れた廊下を進んだ。目当ての部屋に到着し、軽くノックをして中に入る。

 

「お久しぶりです、大河内さん」

「……君か」

 

 変わらないしかめっ面で俺を迎えたその人は、端末に向けていた目をこちらに向けた。キーボードから手を離す。仕事の邪魔をしてしまっただろうか、申し訳ない。

 

「来週からこちらに戻るということで、ご挨拶に。行くのも急なら戻ってくるのも急で申し訳ありません」

「君のせいではないだろう。……君は表向き、法務省に出向していたことになっている。話をあわせておきなさい」

「法務省。わかりました」

 

 法律の勉強してましたとでも言えばいいのだろうか。少し自分で笑いつつ、頷いた。

 そこで改めて大河内さんは俺を顔を見つめ、痩せたな、と呟いた。

 

「何分激務でして。すぐ元に戻しますよ」

「まあ、体調に問題がないのならいいが、疲労は蓄積しているだろう」

 

 そう言って差し出された書類には、「有給届」の文字。相変わらず怖い顔してクソ甘いというか、変なところで気をつかう人だ。

 

「一週間ほど休みをとりたまえ」

「しかし、」

「こちらも受け入れの体勢が整っていない。来週すぐに来られても引き継げる案件がないから手持無沙汰になるだけだ。それに」

 

 デスクにあったカレンダーの「ある日付」を、とんとんと指で叩く。気づいていないとでも思っていたのか、とでも言いたげに睨まれた。

 

「君は毎年この日、有休を取っていただろう」

「……よく覚えておられますね」

「バレンタインとこの日くらいだからな、君が何としても休みを取ろうとするのは」

「ははは……」

「その日も含めて一週間、それだけあれば疲労もいくらか取れるだろう。そのあとはこの数か月を取り戻すつもりで働いてもらう。そのつもりでいるように」

 

 もちろんです、と敬礼を返した。そんな俺を見て、大河内さんは満足そうに頷く。そしてさっと立ち上がって、俺の前に立った。ぽん、と肩を緩くたたかれる。

 

「詳細は聞いていないが、明確な成果を残したことだけは聞いている。……よくやった」

 

 その珍しいお褒めの言葉がくすぐったい。へへへと笑うと大河内さんも少しだけ唇の端を上げた。

 改めてまっすぐに大河内さんの目を見て、言う。

 

「今後とも、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」

「ああ。―――期待している」

 

 

 *

 

 

 とりあえず挨拶を済ませ、さてどうするかと警視庁の廊下を歩く。

 顔だけ知ってる顔見知りに何人か声をかけられたが、適当に流した。この調子だとおそらく明日には俺が本庁に戻っていることを知られているだろう。なんとまあ、本当に顔が売れてしまったものだ。

 せっかくだからあの人にも挨拶していこうと決めたところで、廊下の先に見知った顔が見えた。向こうもまた、俺の顔を見てぴたりと動きを止め、同時に敬礼する。俺は苦笑し、その二人に近寄った。

 

「お久しぶりですね、佐藤さん、高木さん」

「お、お久しぶりです!」

「しゅ、出向中だと伺っておりましたが……!」

「来週からまた監察官に復帰しますので、ご挨拶に」

 

 お疲れ様です、と揃って言われてまた苦笑。そういえば虐めるだけ虐めて、ここのリカバリーはしていなかったと今更ながら思い至る。

 伊達と松田にもしっかり締め上げられたらしい彼らは、その後きちんと弁えて職務に当たっていると聞いていた。

 

「……ご活躍の噂は伺っていますよ」

 

 二人はぴくりと肩を揺らす。

 

「目暮警部や他の皆さんにもどうぞよろしくお伝えください」

 

 なるべく柔らかい声でそう言うと、二人は戸惑ったように、そして少し嬉しそうに敬礼した。それにひとつ微笑んで、彼らの前を通り過ぎる。

 少々の失敗なんて誰にもあることで、問題はそれを如何に反省し、今後に繋げていくかだ。彼らが彼らなりの答えを出して職務にあたっているというのなら、それで十分。捜査一課を締め上げるなんて面倒なことは極力したくないのだ、反省してくれてよかった。

 少し通り過ぎた先で、背後からよかったと小さく零す声が聞こえる。俺もそう思うよ、と内心で呟き、目当ての小部屋へ足を進めた。

 

 

 *

 

 

 お久しぶりです、と言って入ったその部屋の二人は、相変わらず暇なようだった。

 紅茶を淹れていたらしいその人に、君も飲みますか、と尋ねられる。紅茶はあまり嗜まないが、せっかくなので頂いておこう。

 

「ろくに説明もできなかったのに、官房長に連絡を取って頂いてありがとうございました」

「いえいえ。お役に立てたなら何よりです」

「助かりました。本当に」

 

 香りのよい紅茶を受け取りながらそう言うと、杉下さんはにっこりと微笑んでくれた。その後ろで神戸さんが苦笑している。

 官房長を巻き込まなきゃいけないような案件に関わってたんだ、とぼそりと言われ、誤魔化すように手を開いた。ええ、言えないけど大変だったんです本当に。

 

「来週から監察官復帰だって?」

「ええ。また大河内さんの下で働くことになります」

「腕が鳴る?」

「そりゃもう。聞けばまた大きな顔してる方がいるらしいじゃないですか」

 

 監察官として頑張らないといけませんよね、と笑顔で言うと、神戸さんも愉快そうに笑った。変わっていなくて何より、とその笑顔が言っている気がした。

 

「……ところで柊木さん」

「はい?」

「以前からお伺いしたかったことがあります。この機会にひとつ、よろしいでしょうか」

 

 その真摯な口調に、思わずカップをおいて姿勢を正す。何となく、聞かれることはわかっていた。その視線にひとつ苦笑をして、こちらから口を開く。

 

「……俺が警察官を志した理由、ですか?」

「おや。先に言われてしまいました」

 

 かつて大河内さんに同じことを尋ねられ、適当に言葉を濁したこともあった。同期たちも聞きたそうにしていたが、俺に気をつかって聞こうとはしなかった。

 警察の不正の被害を受けながら、それでも警察官を志した理由。きっと、杉下さんもずっと気になっていたのだろう。

 

「―――かつて俺が被害者となった誘拐事件は、犯人が有力な警察官僚の娘であったために証拠はすべて握りつぶされ、事件のあった事実そのものが隠蔽されました。俺は誘拐事件の被害者ではなく、人騒がせな家出少年として扱われた」

 

 えっと神戸さんが息を呑む。そういえば誘拐事件のことは話しても、事件の隠蔽については話していなかったかもしれない。俺としても警察組織の中で大きな声で言えることではなかった。これを喧伝していたら、とっくに俺も警察上層に潰されていただろう。

 

「俺の父が警察官だったことも大きかったんでしょう。男手一つで俺を育ててくれていた父は、警察上層からの圧力に逆らえなかった。……父の涙を見たのは、あの時が最初で最後です」

 

 幼い俺を抱きしめて、泣きながら謝り続ける父。幼さ故にその理由も俺にはわからなかったけれど、いつも笑顔で強いひとだと思っていた父のそんな姿は強く印象に残っていて、今でも鮮明に思い出すことができる。

 

「杉下さんも事件の後に一度俺に会いに来てくれましたよね。そして、頭を下げてくれた。あの時は本当に驚いたんですよ、俺にはあんなに優しくしてくれたひとが、悔しさ全開、怒り心頭な顔してて」

「それは失礼しました」

 

 杉下さんは緩く苦笑するが、本当にあの時の杉下さんは怖かった。俺に対して怒っているわけではないとわかっていても委縮してしまうくらいには。

 あの優しい手と優しい声の人がこんな顔をするのかと、本当にびっくりしたことを覚えている。

 

「少し後になって、ようやくその意味を理解しました。あの事件がなかったことにされたという事実、そして父や杉下さんの言葉の理由も。それで……何て言うんでしょうね、俺は……知りたいと、思いました」

 

 どうして、警察官なのに正しいことができないのか。

 どうして、正義を執行する機関において正義が行われないのか。

 どうして、正しいことをしたはずのひとたちが苦しまなければならないのか。

 今にして思う、俺は本当にただ()()()()()()のだと。ずっと俺は警察を―――いや、警察に身を置きながら正義を行わない人々を恨んでいるのだと思っていた。だから復讐に行くのだと、中身のない復讐心を秘めていた。だけど、その復讐心もしっかりと見つめてみれば中はからっぽ、そこにあったのはただの疑問。

 俺は多分、最初から恨んでなんかいなかった。憎んでなんかいなかった。復讐なんてめんどくさいこと考えてもいなかった。

 

「ただ、正義がどんなものなのか知りたかった」

 

 正義を謳いながらそれを踏みにじった警察に行けば、何か見えてくるものがあるんじゃないかと思った。他の人に言わせれば、多分「それだけ?」と言われてしまうような理由。でも俺は、きっと本当にそのためだけに、警察官を志した。

 ―――今気づいた、俺が新一くんに何となく厳しく言えないのは、彼の中に俺と似たものを見たからかもしれない。

 真実を求め、そのために突っ走ってしまう彼。

 正義を求め、そのためこれまでの人生を費やしてきた俺。

 求めるものや手段の違いこそあれど、他が見えてないという意味では同じというか、むしろ俺のほうが極端かもしれない。

 そんな自分に少々苦笑しつつ、俺は言葉を続けた。

 

「……結局今でもよくわからないんですけどね。警察官としてあるまじきとは思いますが、まあ定年くらいまでに何か見つかるといいなと思っています」

「……なるほど」

「すいません、ちゃんとした答えを返せなくて」

 

 とんでもありません、と杉下さんはどこか穏やかな顔をしている。今の答えで腑に落ちてくれたのだろうか。俺ですらわかっていないのに、さすが杉下さんは頭のいい人だ。

 

「立ち入った質問をしました。申し訳ありません」

「いえ。……杉下さん、覚えていますか?」

 

 事件の後、頭を下げに来てくれた貴方が俺に言ったこと。

 そう言うと、杉下さんはひとつ瞬きをして、ええ、と少し言いにくそうに頷いた。その様子にふふっと笑い、あの時の杉下さんの言葉を諳んじてみせた。

 

『今は意味が分からなくても構いません。けれど、どうか覚えていてください。世の中は理不尽です。どれだけ努力を重ねても、どうにもならないことはあります。しかし、努力次第で、変わることも確かにあるのです。それだけはどうか、忘れないでください』

 

 この言葉を聞いたときは、よく意味が分からなかった。だが幼心に忘れてはいけないのだと思い、何度も反芻した。その結果、今でもさらりと諳んじられるくらい、俺の深いところに刻まれる言葉になっている。

 

「この言葉の意味を理解したとき、―――警察官になることを決めたとき、俺は決めたんです。俺が飛び込もうとしている世界がどれだけ面倒でどれだけ理不尽であったとしても、その中で生き残れる人間になろうと。そのためにずっと、できる努力は片っ端からしてきたつもりでいます」

 

 理不尽に立ち向かえるような。理不尽を受け流せるような。俺が俺らしいままで、突き進んでいけるだけの能力を手に入れる、そのためだけに頑張ってきた。

 

「だから、今の俺があるのは杉下さんのおかげなんです。本当はずっとそう言いたかったんですけど、機会を逃し続けて今になってしまいました。―――ありがとうございました。世の中やこの組織がどれだけ理不尽だろうが、俺は闘い抜いてみせます。絶対に」

 

 深く深く頭を下げた。見えないところから、ぐっと息を呑む音が聞こえる。頭をあげてください、と小さな声が落ちる。

 そっと頭を上げると、杉下さんは変わらない笑顔で微笑んでいた。

 

「貴方なら、きっとできます。いいえ、きっとではありませんね。―――間違いなく、できます」

 

 心から敬愛するその人の言葉に笑顔を返し、俺はきっちりと敬礼をして見せた。

 

 

 ***

 

 

「これはもう怒っていいと思うんだよね」

 

 佐藤ちゃんや高木君には顔見せたくせに何で俺たちのところには寄らないんだと、いの一番に俺たちに会いに来て頭下げるべきじゃないのかと、さすがの萩原も頭にきているようだった。松田の運転する車という狭い密室でわめくなと言いつつも、内心では俺も大きく頷く。

 そこの廊下でお会いしましたと興奮する高木に聞いて初めて、柊木が監察官として戻ってくることを知った。その当人はどこに行ったと三人で高木を締め上げにかかったところで特命係の神戸さんが通りすがり、彼ならさっき特命係に寄ってったよの一言。

 刑事部のすぐ近くに来てんじゃねえかと三人そろって憤慨したタイミングで送られてきたのが、頑張ってはいるがまだまだ人付き合いの経験値が足りない馬鹿からのメッセージ。

 

『今日、うち来れる?』

 

 そういう経緯で俺たちは片っ端から仕事を片づけ、こうして三人で柊木の家に向かっているというわけである。

 

「とりあえず出会い頭に一発殴る」

 

 眉間にくっきりとしわを寄せた松田の物騒な決心に、さすがにやめろとは言えなかった。本当にまともに顔を見るのはどれだけぶりだろう。さんざん心配させた挙句、意味深なメッセージだけ投げて協力までさせたのだ。その案件が終わったのなら、せめてまず頭を下げにくるべきだろうと思う。

 柊木の住むマンションに到着し、足早にその部屋へと向かう。部屋の前のインターホンを押し、返事も待たずに乗り込んだ。案の定鍵はかかっていない。見慣れた靴があったので降谷と諸伏も来ているのだろう。リビングにつながるドアを開けると、そこに座っていたのは数か月ぶりのイケメン。

 そいつは俺たちを確認すると綺麗な所作で座りなおし、そっと床に手をついて頭を下げた。

 

「ろくに説明もせずにこき使ってごめんなさい。本当に助かりましたありがとう」

 

 それはそれは、ひどく折り目正しい土下座だった。出鼻をくじかれた俺たちはもはや脱力してその場にしゃがみ込む。

 

「めっちゃ素直……」

「知ってた……」

「さすが柊木……」

 

 怒るとか殴るとか言う気力を奪われた俺たちを見て、柊木の両側に座っていたそいつらも面白そうに笑った。いやお前らも土下座する側だろーが何笑ってんだと思う。

 

「久しぶりだな」

「悪いね、終わるまで随分かかっちゃって」

 

 すがすがしい顔をした二人の顔に、もはや陰りも険しい色もなく。本当に片づけたんだなと、一目見てわかるような笑顔だった。特に降谷の何も考えてない顔というのは、随分と久しぶりに見たような気がする。

 

「……柊木、来週から本庁で監察官復帰だって?」

「ん? ああ。でも来週は大河内さんの温情で休みもらったから、正しくは再来週からだな」

 

 頭を下げたまま言う柊木に、いい加減頭あげればと萩原が言うが、意外とこの姿勢は楽とか言って柊木は頭をあげようとしない。よくよく見ればゆったりと脱力してストレッチのような体勢になっている。こいつ土下座の意味知ってるのだろうか。

 

「……本当に全部終わったのか?」

 

 怒るのも馬鹿らしくなってそう言うと、ああ、と降谷が頷く。

 

「事後処理も含めてほぼ終わり。残っているのは他国との交渉部分で、そこは上の仕事だからな。俺たちがやるべき仕事はとりあえず終わった」

「その上での昇進と異動だよ。俺たち一個ずつ上がったんだ。悪いな三人とも、もう俺の方が上だぞ」

「えっそれはおめでとう」

「ありがとう。俺もこれで現場に出ることは減るだろうな」

 

 やれやれと降谷が溜息をついているが、さすがにお前はそろそろ落ち着いた方がいいと思う。降谷は実働として優秀だが、何でも自分でこなしてしまいがちだ。下を育てていくためにも、人を動かすことを覚えていくべきだろう。

 

「ん? じゃあ諸伏、お前もう普通に外出できんのか?」

 

 思いついたように松田が聞くと、諸伏はそれは嬉しそうに笑った。

 

「ああ! もちろん多少の警戒は必要だけど、相手してた奴らもいなくなったし、俺も今後は潜入よりはサポートメインの仕事になるから顔も名前も隠す必要がない。いやぁ自由に外歩けるっていうのはいいな!」

「そりゃあ良かったなぁ! つまり、外でお前らの名前を大声で呼んでもよくなったわけだ?」

 

 俺がそう言うと、二人はにっと笑う。

 つまりまた、六人で気兼ねなく外出ができるようになったというわけだ。こいつらがどれだけプライベートを犠牲にして職務に当たっていたのかよく知っているだけに、その報告は嬉しかった。

 今後は暇を見つけて、こいつらも外に連れ出すようにしよう。陽の光を浴びながら呑気に笑うこいつらの顔をもう一度見られるというのなら、それは本当に嬉しいことだ。

 

「じゃあいいタイミングだしそろそろ花見とか……ん? 旭ちゃん?」

 

 頭を下げたまま反応を返さない柊木に、そっと萩原が近寄る。降谷と諸伏もまさか、という顔で柊木の様子を伺った。聞こえてきたのは安らかな寝息、そしてゆったりと上下しているその背中。

 

「……え、柊木?」

 

 改めて諸伏がその呼吸を確認したが、そのまま諦めたように首を振る。

 残念ですが、爆睡ですって手遅れみたいな言い方すんなそいつ生きてんだろうが、と言おうとしたところで盛大に萩原が噴き出した。

 

「ちょ、マジで寝てんの? その姿勢で? 何それごめん寝じゃんさすが旭ちゃん素で可愛い!」

 

 確かにすげえなこいつ、と松田はさっとスマホを取り出して連写する。

 あの柊木のごめん寝画像なんて貴重も貴重というか、よし、俺も撮ろう。そしてナタリーに見せて、こんな奴なんだと一緒に笑おう。さっとスマホを取り出して連写した。悪いな柊木、でも話の途中で寝る方が悪い。

 

「……まあ確かにここ数か月めちゃくちゃな生活送ってたからな……」

「寝落ちも無理ない、か。とりあえずベッドに運んでやろう。ちょうどいい、ちょっと柊木に秘密でお前らに話したいこともあったんだ」

 

 秘密で、と聞き返すが、柊木を運んだら相談させてくれ、と降谷が笑う。どうやら悪い話ではなさそうだ。公安組が柊木を寝室へと運んでいく。その途中で萩原があっと声を出し、近くにあったチェストの引き出しを遠慮なく開けた。

 

「えーと、確かこの辺に……」

「お前いくら勝手知ったる家でも引き出し普通に開けんなよ……」

「旭ちゃんはそんなこと気にしませんー。あ、あった」

 

 萩原が取り出したのは、黒マジック。まさか、と呆れと悪戯心が同時に湧き上がる。

 

「話の途中で寝る方が悪くない?」

 

 そのときの萩原の笑顔は、ここ数か月で一番と言って良いくらい輝いていた。

 

 

 ***

 

 

 ふと、目が覚める。部屋が暗い。慣れたベッドで寝ていたようだが、ベッドに入った記憶がなかった。確か数か月ぶりに六人で揃ったような気がしていたのだが、夢だったのだろうか。

 時間を確認しようとスマホを探す。枕元にあったそれを手に取ると、メッセージが来ていた。萩原からのようだが、画像が添付されている。働かない頭を無理やり動かしながら、メッセージをタップした。

 画面いっぱいに表示されたそれを見て、反射的に洗面所に駆け込んだ。

 

「……うわっマジでやりやがった……」

 

 左頬いっぱいに大きく豪快に書かれた「おかーり!」。

 右頬には繋がりがちで勢いのある「お疲れさん」。

 額には角ばった小さな文字で「遅いんだよ」。

 そして届いた画像では、落書きされた顔で爆睡している俺のまわりで馬鹿三人がピースをしていた。全く、やってくれる。ただただおかしくなって、鏡の前でひとり笑った。帰ってきたんだなと、その文字に触れて思う。

 触れた瞬間に、気づいた。

 

「……ってこれ油性じゃねえか何してくれんだあいつらあああああ!」

 

 



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52

 よく晴れた空に流れる春一番。午前に吹く風はまだ少し冷たいが、今日はいい天気になると天気予報では言っていた。もう少し日が高くなる頃には暖かくなり、春の訪れを実感させてくれるだろう。

 俺は朝早く起きて拵えたお弁当を片手に下げて、朝の挨拶をしにそこに訪れていた。

 

「……おはよう」

 

 家からそう遠くないところにある墓地で二人は眠っている。この日だけは毎年必ず墓参りをしている。父さんが生きていたときから、一度も欠かしたことはない。

 母さんは、あまり身体の強いひとではなかったらしい。俺を身ごもったときも、出産による危険を医者から伝えられていた。それでも産みたいと強く押し通し、俺を産んでくれたと聞いている。俺の誕生と引き換えに、母さんは亡くなった。

 それから父さんは男手ひとつで俺を育ててくれた。俺の知る限り、再婚を考えたことはなかったと思う。どんなに忙しくても必ずこの日にはここに連れてきてくれて、旭はこんなにでっかくなったぞ、とお墓に報告をしていた。

 外面(そとづら)ばかりいいくせに本当は口より先に手が出るタイプだった父さんとは、そりゃあ何度も殴り合いの喧嘩をしたけれど、それでもやっぱり大切に育ててくれたと思う。俺がひとりで無茶をしようとすると、自分で責任も取れねえ未成年(ガキ)の分際で勝手をするなとよく拳骨を食らったものだ。

 関西の大学に行って父さんの元を離れても、ちゃんと気にかけてくれていた。死ぬほど忙しいくせに、と悪態をつきつつも、そんな父さんが好きだったし尊敬もしていたと思う。

 俺の二十歳の誕生日が近くなって、せっかくだから晩酌するかと誘われたときは嬉しかった。ちゃんと自分の責任を自分で持てるようになって、ようやく父さんと対等に話ができるのだと。

 俺は自分の誕生日のその日、新幹線に飛び込んで久しぶりに家に帰った。けど、何時になっても父さんは帰ってこなかった。

 殉職されました、という知らせを受けたときのことはあまり覚えていない。けれど、哀しいとか寂しいとかそれ以上に、父さんらしいと思ったとは誰にも言えなかった。

 対象を守る仕事に誇りを持っていた。それに、子どもは大人に守られるべきという考えの人だった。だから、俺が未成年(ガキ)でなくなったから、仕事に殉じ、母さんに会いに行ったのだと。

 父さんのパスケースにはいつも母さんの写真が入っていた。俺が笑うと、笑い方が一緒だと少し寂しそうに言った。父さんは、確かに母さんを愛していた。それをよく知っていたからかもしれない。父さんにとって、殉職は誇りを貫いた結果であり、母さんとの再会と同義なのだと、そう思えてならなかった。

 泣きもしねえでしっかり挨拶して偉いじゃねえか、と葬儀のあと先生に背中を叩かれたけれど、そう思っていたからきっと独りになっても正気でいられたのだと思う。

 ―――父さんは、やるべきことをやって母さんに会いに行ったのだ。

 

「……父さんが死んで、十年か」

 

 今日、俺は誕生日を迎えた。俺にとっては俺が生まれた日以上に、二人が亡くなった日だ。

 

「掃除は昨日済ませたからいいよな。お花もお線香もちゃんとやったし」

 

 今日という日に予定が入ってしまったから、昨日のうちにやるべきことはやってしまった。だから今日は、顔見せだけ。作法的にダメなのかもしれんがそこは許してほしい、毎年来てるだけ褒めてくれ。

 

「今日さ、予定が入っちゃったんだよ。悪いけどそっち優先させて。いいだろ?」

 

 だって、友達との約束なんだ。

 まるで言い訳をする小学生のような物言いに、自分で笑った。本当に小学生だったときは友達もいなかったから、こんなこと言うのは初めてだ。三十路にして初って自分で笑うわ、本当に何言ってんだろう、俺。

 

「なあ、父さん、母さん、」

 

 俺、父さんが大反対した警察官になっちゃったけど。警察って本っ当にクソめんどくせえ組織だなと思うけれど。それでも俺は警察官になって良かったし、今後も絶対に後悔なんてしないと思う。たとえ今後、何が起こったとしても。―――だって、

 

「俺、友達を守れたんだ」

 

 少々納得の行かない部分はあるが、それでも皆、五体満足で無傷だ。

 

「反省点は多大にあるけど、結果だけ見ればとりあえず及第点だろ」

 

 そう言うと風が強く吹き、それで満足すんな馬鹿野郎と父さんに頭を叩かれた気がした。相変わらず手厳しい。しかし、その通りだ。

 

「次はもっと上手くやってみせるよ」

 

 そう言うと今度は優しい風が吹き、知らない手に頭を撫でられた気がした。まるで頑張って、と言うように。

 俺はふ、と微笑んで、手に提げていた弁当入りのバッグを握り直す。

 

「じゃ、ちょっと遊びに行ってくるよ。来年、また来るな」

 

 いってきますと言って両親に背を向ける。背中を押してくれた風に紛れ、誰かの声が聞こえたような気がしたが、―――まあ、気のせいだろう。

 そんな自分に苦笑し、俺は振り向かずに足を進めた。

 

 

 *

 

 

「お、旭ちゃんこっちこっちー!」

「遅かったな」

「悪い悪い」

 

 時間に少し遅れてしまったせいか、俺以外の五人はとっくに集まっていた。

 近くの公園の、茂みをいくつか抜けた場所。そこには大きな桜の木が一本だけあって、知る人ぞ知る花見の穴場になっていたらしい。俺もこんな場所があるのは知らなかった。

 

「見事な満開だな」

「ああ、いい日に当たったな。それはそれとして弁当寄越せ」

「はいはい勿体ぶってたヒロくんたちもお弁当出そうね〜」

「本当に花より団子だな、お前らは」

 

 松田によって俺の手から弁当が奪い取られ、萩原につつかれた降谷がやれやれと背に隠すように置いていた包みを取り出す。

 今日の弁当係は俺と諸伏降谷ペアだ。いつもの如くとも言う。

 

「お、さすが美味そうだ」

 

 色とりどりの諸伏降谷コンビの洋食中心お弁当と、地味だけどとりあえずこいつらの好物を詰め込んだ俺の弁当。中身が被らないようにだけ打ち合わせをして、あとは適当に作った。

 どうせこいつらは味より量だ、数さえあればいいだろう。いつもより少しくらいは気合いを入れたが、どうせ凝ったものを作ったところで次の瞬間には消えている、とはいえ。

 

「……足りるかな」

「いいんだよ、メインは夜だからな」

 

 降谷の言葉に夜、と聞き返すと、諸伏にさっと紙コップを持たされ、お茶を注がれた。珍しくビールじゃないのかと不思議そうな俺に気づいたのか、伊達がにやりと笑った。

 

「何だ聞いてねえのか? 昼間の花見は前哨戦、本番は夕飯だ」

「はーいここで今日のスケジュールを発表しまーす。まずはここで花見しつつ弁当を食います。食いつくして一服したら腹ごなしに買い物に出かけて夕飯の材料を買います。当然旭ちゃんの奢りです。そんで旭ちゃんとこ行ってごろごろして、お好み焼きとたこ焼きを食べまァす!」

「待てツッコミどころが複数あった」

「すべて却下します!」

 

 ばっさりと切り捨てた萩原はいい笑顔だ。俺は今日花見としか聞いていないし、夕飯の予定なんて完全なる初耳だ。

 

「というか何で俺の奢りなんだよ」

「俺らをこき使った分だ、お前が払うのは当然だろ」

「……わかった俺が払うのはこの際いい、だけど降谷と諸伏の分まで俺がもつのは納得いかない」

「ん? 確かにそうか」

「いや、異議を申し立てる」

 

 伊達が納得しかけたところを、さっと降谷が遮った。

 

「詳しくは言えないが、今回の案件において僕は非常に重要な事実を柊木に秘密にされていた。釈明は聞いたが謝罪はもらっていない。よって僕も柊木に奢ってもらう権利があると主張する」

「あれ、謝って……なかったな。なかったけどお前も納得してただろ」

「僕は傷ついた」

「よし判決、降谷は奢ってもらう権利がある」

 

 松田の判決に伊達と萩原も異議なし、と続く。いやまず裁判員の選出に疑問を呈したい。チェンジだチェンジ、俺に不利すぎる。じゃあ俺も、と諸伏も楽しそうに手を上げた。

 

「上司になった柊木はパワハラ三昧で大変でした。慰謝料として奢ってくれても罰は当たらないと思います」

「判決、やっぱり今日は全部柊木の奢り」

「控訴」

「棄却」

「理不尽だ……」

「諦めろ」

 

 今日俺たちは倒れるまで食うし、お前は倒れるまで飯を作る。だから特に酒に弱いお前はビールも夜まで禁止、俺たちも夜まで飲まねえ。

 いつになく真剣な表情でそう言う松田に、たまにこいつ真顔の使い所間違ってんだよなと思いつつももうどうにでもなれとハイハイと頷いた。ここまで来たら俺の意見など通るはずもない。

 

「ま、だから昼間はお茶で我慢な」

「別にいいだろ、楽しみは取っておくもんだ」

 

 諸伏の言葉に、伊達が楽しそうに頷く。

 それじゃあとりあえず、と降谷が紙コップを掲げた。それぞれも紙コップを持ち上げた。

 

「お疲れ。乾杯!」

 

 乾杯、とそれぞれの声が綺麗に揃った。

 

 

 *

 

 

 腹ペコたちが弁当箱を空にする作業を始めてまもなくのこと。がさりと茂みが動き、ひょっこりと顔を出す意外な顔があった。

 

「ああ良かった、やっぱりいたね」

「え、神戸さん!」

 

 ハンサムな顔に笑顔を乗せたその人は、やあ、と言いつつ俺たちのところに歩いてきた。いつものスーツなところを見ると、どうやら今日はお休みではないようだ。

 

「あ、神戸さん、この場所教えてくれてどうもでした!」

「いえいえ。このメンツを見る限り、人目の多いところで花見なんてしたら大変なことになりそうだしね」

「神戸さんがこの場所教えてくれたんですか」

 

 刑事部通りかかったら花見の穴場の話をしてたからついね、と笑うその人は、どうやら同期たちと比較的いい関係を築いているようだ。特命係とはいろいろと複雑な関係のようだったが、まあ神戸さんは気のいい人だ。なんだかんだで気が合ったのかもしれない。

 

「で、どうしてここに?」

 

 不思議そうに松田が聞くと、神戸さんはにっこりと笑って手に持った紙袋を掲げてみせた。

 

「君たちが花見の計画を立ててるってちょっと口を滑らせちゃって。不思議なことに今朝出勤してみたら特命係の机の上にメモとこの近くの駅のコインロッカーのカギがあったんだよ」

 

 ひらりと見せられたメモには、俺にとってはよく見慣れた角ばった字。名前は書いていないが、さすがに自分の上司の筆跡は間違えない。

 

『どうせ特命係は今日も暇だろう。この鍵のロッカーに入っているものの処分を頼む。昼までには確認するように。もらいものだが、俺の好みではない』

 

 それがこれ、と渡された中身は、相応の値段がしそうな日本酒の瓶。これはいい酒だ、と降谷がぼそりと呟いた。

 

「それで、そのロッカーを見に行こうとしたときに僕の上司も声をかけてきてね」

『神戸君、ついでに花の里にも寄ってください』

 

 花の里は杉下さん行きつけの小料理屋さんなんだよ、と差し出されたのはずしりと重い重箱。黒い蓋を開けてみると、中には美しく彩られたちらし寿司が入っていた。美味そう、と歓声があがる。

 

「最後におまけ、これは僕からの差し入れ」

 

 確かビールよく飲むって言ってたよね。最後に渡された紙袋には、いつもよりちょっとお高めのビールが何本か入っていた。俺の好きな奴、と諸伏が嬉しそうな顔をする。

 

「けどごめん、もしかして今日は酒飲まない日? お茶ばっかりだね」

「大丈夫です、夜は酒飲む予定なんで!」

 

 ありがとうございます、と笑顔で礼を言う萩原に皆が続く。神戸さんも笑顔を返して、どういたしまして、と楽しそうに言った。

 

「ちなみにこれ、賄賂じゃないからね」

「念押されなくてもわかってますよ。特命係が何かやらかしたら容赦はしません」

「そのへんは少し手加減してほしいかな……」

「聞こえませんね。……また、こっそり特命係に遊びに行きますね」

「バレないようにしなよ、大河内さんはいい顔しないから」

 

 うまくやりますよと返すと、まあ君ならそうだろうけどと軽く返される。

 ハメを外しすぎないようにだけ気をつけて、と言ってその人は帰っていった。こういうことがさらりとできるあの人は、やはりスマートな大人だと改めて思う。

 

「お前、相変わらず上司にも杉下警部に気に入られてんな」

「否定はしないけど、俺だけじゃなくてお前らもだよ。大河内さんも杉下さんも褒めてたから」

 

 マジで、と驚いた顔をする刑事部組に頷き、有難く頂こうと笑った。

 お酒の類は夜にまわすとしても、弁当が食いつくされそうな今、重箱のちらし寿司はありがたい。美しく盛り付けられたそれも一瞬で崩されるんだろうなと少し遠い目をしつつ、登庁したら一番にお礼を言いに行こうと心に決めた。

 

 

 *

 

 

 桜吹雪が流れ、美しいちらし寿司も消えそうな頃。またひょっこりと茂みから顔を出したのは、ふたつの小さな影。

 

「あれ、コナンくんと灰原さん?」

 

 驚いたように萩原が声を上げると、大きな荷物を抱えた二人はこちらに駆け寄ってきた。新一くんは笑顔で、宮野さんはいつも通りの無表情。

 しかし、少し得意そうな色が二人の顔からは見て取れた。

 

「良かった、間に合って」

「二人とも、どうしてここに?」

「……差し入れに来たのよ。お世話になったし」

 

 私たち、もうすぐ引越しするから。

 その言葉に、わずかに目を瞠る。そうか、薬の完成が近いのか。思わず二人の顔をまじまじと見ると、新一くんはにっと笑い、宮野さんもふっと小さく微笑んだ。

 はい、と二人が差し出したのは、見覚えのあるサンドイッチと珈琲入りのポット。そういえばしばらく行けてない、とたいした時間も経っていないのに何だか懐かしくなる。

 

「ポアロで用意してもらったの。珈琲とハムサンド」

「梓姉ちゃんから伝言だよ。『安室さんが辞めちゃった後も、ハムサンドの味はちゃんと守ってます。良かったらまた来てくださいね!』だって」

 

 差し出されたそれらを受け取り、ありがとうと笑った。それにしても何で花見のことを知ってたのかを尋ねると、安室さんから聞いたのと宮野さんが言った。

 

「スーパーで安室さんに偶然会って、立ち話をしたときに」

 

 お酒は飲まないって聞いたから珈琲を持ってきたのよ、という灰原さんに、降谷はそうだったかなと固い声。なるほど、嘘だ。降谷は今も定期的に阿笠博士の研究所に訪問して彼女の様子を見ているはずだから、そのときにでも口を滑らせたのだろう。本人も失敗した、と苦笑気味だ。

 

「そうか、わざわざありがとな。引っ越しても元気でやれよ」

「どこ行ってもちゃんと大人しくしてるんだよコナンく〜ん。灰原さんも元気でね」

「もう事件に飛び込むんじゃねーぞ」

 

 二人の正体を知らない刑事部三人はそう言って笑う。松田はそっけない口振りだったが、それでも笑って新一くんの頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。

 俺が知らない間にも、何度か事件に巻き込まれたということは小耳に挟んでいた。だが話を聞く限り、新一くんは確かに変わったと思う。きっと元の身体に戻っても、前のような「日本警察の救世主」は現れない。彼のファンには申し訳ないが、彼や彼の周囲のためを思えばきっと、その方がいい。

 

「元気でな、『コナンくん』、『灰原さん』」

「また会えるのを楽しみにしているよ」

 

 俺と降谷の声が続き、諸伏もにこりと笑った。諸伏は『江戸川コナン』と『灰原哀』を知らない。そして俺たちは、二人とまた会えることを知っている。

 

「うん。またね!」

「ええ。また、ね」

 

 そう笑って走っていく二人の後ろ姿を、皆で見守った。もう事件に巻き込まれないといいけどね、と萩原が言うと、そうだなぁと伊達が苦笑した。

 

「巻き込まれねえのが一番だが、まあ巻き込まれても大丈夫だろ」

 

 さらりという松田に、そうなのかと相槌を打つと、そいつは面白そうに続けた。

 

「自分の手に負える範囲を理解できる程度には、ガキじゃなくなったからな」

 

 どこかの誰かの説教、相当に効いたらしいぜ。

 そう言われてつい苦笑する。偉そうなことを言った自覚はある。彼と自分が似た者同士と気づいてからは、少々いたたまれない気持ちもある。

 第一、きっかけは俺の言葉だったとしても、結局は彼が自分でちゃんと考えて出した答えだ。それは俺が何を言ったとかは関係なく、そして正しかろうが正しくなかろうが、きっと尊いものだと思うわけで。

 

「……そうだな。きっと、元気にやってくだろ」

 

 考えて、行動して、反省して、また行動して。それができる人というのはたいてい強いし、何よりもっと強くなれる。俺と対等になるだなんて妙な目標を持ち出さなくても、きっと彼は彼としていい男に育っていくだろう。それこそ俺が、頼りにしたくなるくらいに。

 

「……嬉しそうだな? 柊木」

 

 面白そうに俺の顔を覗き込む降谷に、誤魔化すように笑顔を返した。

 

「さて、お前のつくるハムサンドとどっちが美味いんだろうな?」

「馬鹿言え、僕がつくる方が美味いに決まってる」

 

 お手並み拝見、と皆でハムサンドを頬張った。

 なるべく近いうちに、ポアロの彼女にも味の感想を言いに行ければいいと思う。

 

 

 *

 

 

「……それにしても遅えな」

 

 ハムサンドの八割が消えたころ、伊達が腕時計を見て呟いた。何かあるのかと瞬きをする。俺の視線に気づいた伊達は、ちょっとなと誤魔化すように笑った。誰かほかに呼んでいるのかと首をひねったとき、本日三回目の唐突なお客人が現れた。

 

「す、すいません遅くなりました!」

「もう、高木君! 傾けないように気を付けて!」

 

 頭に葉っぱを乗せ何やら箱の入った袋を下げた彼と、そんな彼を叱咤する彼女。つい先日顔を合わせて話をした高木くんと佐藤さんだった。

 何で彼らがここにいるのかと思うのと同時に、遅えぞと声が飛んだ。松田だ。

 

「す、すいません……!」

「もう、仕事関係ないおつかい頼んだのそっちでしょ?」

「あはは、ごめんって佐藤ちゃ~ん。高木君も悪いね~」

「い、いえ! って、え、安室さん?」

 

 お久しぶりです、とそう言葉を続けた高木君に、降谷はぎろりと目線と向けた。

 

「安室? 誰だそれは」

「えっ」

「警察庁警備局警備企画課の降谷だ。お前たちの部下か? 指導はちゃんとしろよ」

 

 警察手帳を取り出しつつ「降谷」の顔でそう言うと、「警察庁」の文字に目を真ん丸にした二人は、蒼白になって敬礼する。

 

「し、失礼いたしました! あ、あまりに知人に似ていらしたもので!」

「どういう知人かは知らないが、別人だな。以後、気をつけるように」

 

 しれっとした顔をでそういう降谷に、皆こっそり笑いを堪える。そういう体で話を進めるというのなら、話はあわせておかなくてはならない。

 そんな俺たちの様子を見て思うところがあったのか、何かに気づいた顔をした佐藤さんはぺし、と高木くんの肩をはたいた。

 

「いたっ、何ですか佐藤さん!」

「ほら高木くん、頼まれてたもの」

「あ、そうでした! はい!」

 

 そう言って高木君が差し出した袋を、悪いな、と伊達が受け取る。紙袋から取り出された箱にはこの近くにあるケーキ屋の名前がプリントされていた。

 

「それにしても可愛いですよねコレ。てっきりどなたか女性か親戚のお子さんがいらっしゃるのかと、……え? あれ、すみません、確か柊木監察官のフルネームって……」

「……柊木旭ですが、何か」

 

 もう嫌な予感しかしなくて、額をおさえる。

 にやりと笑った伊達の手には、どう見ても子供用の、非常に可愛らしくデコレーションされたホールケーキ。果物と一緒に飾られたホワイトチョコのプレートには、「あさひちゃん おたんじょうびおめでとう」の文字があった。

 

「……俺は幼稚園児か?」

 

 あまりに可愛らしいそれに思わずそう言うと、同期の連中は一斉に噴き出した。はいはいそれ持って、と萩原にケーキを持たされ、さすが旭ちゃんよく似合うね、と親指を立てられ写真を撮られた。

 その親指は景気よく折ってやりたいし、そのスマホも心から叩き割ってやりたい。祝おうという心意気は嬉しいのだけれど、どうしてこの悪友どもは素直に喜ばせてくれないのだろう。

 

「これ、柊木監察官のためのケーキだったんですね……」

「今日お誕生日なんですか! おめでとうございます!」

「はは……ありがとうございます……」

 

 少し同情したような佐藤さんと素直に祝ってくれる高木君に堅い笑顔を返すと、じゃあ次これな、と諸伏に綺麗にラッピングされた箱を差し出された。とりあえずケーキを一旦置いてそれを受け取る。

 

「三十路一番乗りおめでとさん」

「うるせえありがとう」

「これは俺たち皆から。まあ開けてみろよ」

 

 促されて丁寧に包みをはがす。中から出てきたのは、質のいい木目の写真立てだった。まだ写真は入っておらず、綺麗にデザインされたカードが入っている。

 

「定番のプレゼントで悪いけどな。そんでその中身はこれからだ。高木くんだっけ、悪いんだけど写真頼める?」

「! はい、もちろんです!」

 

 諸伏が取り出したデジカメを受け取り、察した高木くんは少し距離を取った。佐藤さんも同じように離れる。

 完全に展開に置いて行かれている俺は瞬きしかできない。

 

「え、写真?」

「そうだよ、むしろ本命はこっち」

 

 はいもっかいケーキ持ってと萩原に促され、ケーキを持ち直す。いつの間にか俺を中心に皆が集まって来ていた。ほらちゃんとカメラの方向いて、と戸惑う俺の肩を萩原が叩く。

 

「俺たちのことがだーいすきな旭ちゃんのために、写真のプレゼントってわけ」

 

 とろりと優しい目尻をさらに下げ、満面の笑顔でそいつは楽しそうに言った。いつだって周囲を気遣って笑うそいつの言葉に、その親友が続く。

 

「嬉しいだろ? お前未だに警察学校卒業したときの写真飾ってるもんな」

 

 真面目で頑固で、いつだって真っ直ぐに突き進むそいつは、カメラを意識してか愛用のサングラスを外して仕舞った。

 その隣で、いつも頼りになる太陽みたいなそいつもにかっと笑う。

 

「その隣にでも並べといてくれよ、この写真」

 

 何故か今日に限って、俺の脳の処理速度が落ちている。うまく言葉に応えられない。何だろうこの気持ちは。胸の中に渦巻く感情をうまく表現できず、頬の筋肉も上手く動かせない。

 

「何難しく考えてるんだよ、柊木」

 

 ここ数か月ずっと俺を支えてくれた、俺を守ってくれた力強い腕が、肩にかかる。

 そういうときは「ありがとう」って言えばいいんだよ、と優しい声が耳元で響き、言われた通りに口が動く。

 ありがとう、拙く紡いだ言葉に、皆がまた笑った。

 

「全く、何をまだ呆けてるんだ。ほら、笑え」

 

 卒業式の時みたいに、馬鹿みたいに笑え。

 ずっと競い合ってきたライバル、肩を並べてくれたそいつも、そう言って不敵に笑う。その顔を見るとなんだか気が抜けてきて、ふはっと子どもみたいに噴き出した。

 そのままカメラに目を向けると、俺を見たふたりが何だか驚いた顔をした気がする。けれどまあいいやと、気にせず流した。忘れかけていたけど、今日は俺の誕生日だ。少しくらい羽目を外したっていいだろう。

 

「撮りますよー!」

 

 空の蒼さ、頬を叩く春一番、桜の香り、視界にちらつく桜の花びら。そして近くに感じる宝物の気配。

 俺はきっと今日という日を、こんなに幸せな誕生日を、生涯忘れることはない。

 

 六花、咲き誇る。

 寝室のベッドサイド、卒業式の写真の隣。

 年甲斐もない馬鹿みたいな笑顔で、ひとりも欠けることなく、今も尚。

 ―――そしてきっと、いつまでも。

 

 




完結です。お付き合いありがとうございました。


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蛇足 柊木旭という男

 むかしむかし、それはそれはかわいらしい少年がおりました。

 少年のかぞくはおとうさんひとりだけでしたが、少年はおとうさんのことがだいすきだったので、まいにちしあわせにたのしくくらしておりました。

 あるひ、少年はおとうさんにたずねました。

「おとうさんは、まいにちなにをしているの?」

 おとうさんはまいにちあさはやくでかけて、よるおそくにかえってきます。

「おとうさんは、おしごとをしているんだよ。けいさつかんなんだ」

「けいさつかん?」

「ひとをまもるおしごとだよ。せいぎのみかただ」

「わあ、かっこいい!」

 ぼくのおとうさんは、ヒーローなんだ!

 少年は、うれしそうにわらいました。

 そしてまいにち、こういっておとうさんをみおくるようになりました。

「いってらっしゃい、きょうもせいぎのみかたがんばってね!」

 おとうさんは、少年のじまんでした。

 

 ところが、少年がすこしおとなになったころ、じけんがおこりました。

 少年があまりにかわいかったので、おんなのひとにつれさられてしまったのです!

 おとうさんはひっしにさがしまわりました。

 おとうさんのなかまもいっしょにさがしてくれました。

 すぎしたさんというとてもあたまのいいけいさつかんが、さがしだしてくれました。

 少年は、やっぱりけいさつかんはせいぎのみかたなんだ、とおもいました。

 

 しかし、少年がいえにかえっても、おとうさんはないています。

 ないて、少年にくりかえしくりかえしあやまります。

「どうしておとうさんがあやまるの?」

「おとうさんがけいさつかんだからだよ」

 少年がおとうさんのなみだをみたのは、あとにもさきにもこのときだけでした。

 そして、すぎしたさんもまた少年にあいにきて、あたまをさげました。

「どうしてすぎしたさんがあやまるの?」

「ぼくがむりょくだからです」

 すぎしたさんは、とってもくやしそうなかおをしていました。

 

 少年はたくさんかんがえました。

 かんがえてかんがえて、ようやくふたりがあやまったりゆうがわかりました。

 でも、やっぱりわかりませんでした。

「どうしてせいぎのみかたなのに、ただしいことができないんだろう」

 そうかんがえて少年は、いや、なんかちがうな、とおもいなおしました。そもそも。

「せいぎって、なんなんだろう」

 わからない。わからないけど、わかるようになりたい。

 そうおもった少年は、とりあえずけいさつかんになることにしました。

 すくなくともまわりのおとなは、けいさつをせいぎだといったからです。

「よし、たくさんべんきょうしてからだをきたえよう」

 どんなりふじんにもまけないような、つよいひとにならなくちゃ。

 

 少年は、たくさんべんきょうしました。たくさんからだをきたえました。

 おんなのひととかかわるのはこわかったけれど、なんとかがっこうにもいきました。

 うまくともだちもつくれなくてさみしかったけれど、それでもがんばりました。

 がっこうというせかいにいると、たくさんのるーるをおそわります。

 るーるはまもらなければならないもので、やぶってはいけないもの。

 じゃあ、るーるをまもっていればせいぎなのかな?

 少年は、よくわからないなりにるーるをまもることにしました。

 けいさつかんになるには、ぜったいにほうりつをまもらなければなりません。

 これはそのれんしゅうだと、少年はすべてのるーるをまもりました。

 

 少年は、けいさつかんになるためのがっこうにいきました。

 うまれてはじめて、ともだちができました。それも、ごにんも。

 とてもとてもうれしくて、ずっとなかよしでいたいなぁとおもいました。

 みんなといるときだけは、せいぎのことをかんがえませんでした。

 みんなといるときだけは、むかしじゃなくていまをいきていられました。

 

 少年は、けいさつかんになりました。  

 たくさん、たくさんいろんなことがありました。

 たくさん、たくさんいろんなひとにであいました。

 たくさん、たくさんせいぎのかたちをみたのです。

 

 せいぎを、ぶきにつかうひともいました。

 せいぎを、たてにするひともいました。

 せいぎを、こわだかにさけぶひともいました。

 せいぎを、ふみにじってでもまもろうとするひともいました。

 少年も、いつしかせいぎを「つかう」ことをおぼえました。

 かたちのないそれを、ふりかざしました。

 かたちのないそれを、たてにしました。

 かたちのないそれを、ふみにじりました。

 しょうじき少年は、あまりふかくかんがえていませんでした。

 ただ、みんなのことをまもるのにつかえそうだからつかっただけなのです。

 それをわるいことだともおもえなかったのです。

 

 ほかのひとがつかっていたせいぎもそうでした。

 だってぜんぶ、なにかをまもろうとしたのでしょう?

 だってぜんぶ、なにかをすくおうとしたのでしょう?

 そのきもちをひていすることは、きっとかみさまにだってできません。

 そもそも、かみさまがさきにせいぎをつくっておかなかったのがわるいのです。

 しごとをさぼったかみさまに、もんくをいわれるすじあいはありません。

 

 ぜんぶただしくてまちがっていて、それがせいぎなのだとおもうことにしました。

 ただかんがえるのがめんどくさくなっただけなのかもしれません。

 だってきっと、こたえなんてずっとでないのです。

 たったひとつのせいぎがあるのなら、きっとこんなになやんだりはしないのでしょう。

 おとなになってけいさつかんになった少年は、おもいました。

 せいぎとかけいさつとかけっきょくよくわからない。

 そんなもののせいでととってもめんどくさいせかいにとびこんでしまった。

 そんなもののせいでとってもめんどくさいじけんにもまきこまれてしまった。

 けれど、それでもやっぱり、けいさつかんになってよかったなぁと。

 よなかだというのにさわがしいみんなのこえがあると、そうおもうのです。

 

 *

 

「ビールも小麦粉も豚肉もタコもなくなったので今日はここまで!」

「うっそだろまだまだ足りねえぞ俺ァ!」

「文句があるなら材料買ってこい」

「よしハギ、スーパー行け。近くのは二十四時間営業してる」

「え、俺なの?」

「全く、仕方ないな……」

「そういってスマホを取り出すなよゼロまさか風見さん使う気じゃないよな?」

「……わかったわかった、俺が行ってきてやるよ」

「ヒュー!さすが班長!」

「あ、つまみの追加もよろしく。俺チータラ」

「へいへい、家主様が言うんじゃ仕方ねえ。他は?」

「さきいか!」

「ナッツ!」

「洋酒も適当に頼む」

「あ、俺からあげ食べたい」

「ひとりで持てるわけねえだろうがせめてもうひとり来い!」

「じゃあハギ」

「ハギだな」

「何かごめんな」

「よろしく萩原」

「だから何で俺。ジャンケンしよ?」

「家主様の言うことは?」

「旭ちゃん酔ってるね? んも~はいはい行ってきますよ~」

「ったく、大人しく待ってろよ」

 

 

彼は、万が一にも殉職してほしくなかったから友達を叱りました。

彼は、殉職の危険を冒していた友達を止めなかったその上司を叱りました。

彼は、私欲から情報を流して友達を窮地に追い込んだ警察官を締め上げました。

彼は、友達が妄執から解放されるよう、ルールを無視して好きなようにさせました。

彼は、友達を処罰なんかしたくなかったので、その原因たちに説教をしました。

彼は、友達に頼られたのが嬉しくて、いやいや言いながらもその案件に挑みました。

彼は、友達に頼られたその案件を完璧に解決したくて、関係者に釘を刺しました。

彼は、友達を危険に晒すその組織も、横やりをいれてくる奴らも許せませんでした。

彼は、また六人で笑うために、組織を潰し、他国に喧嘩を売り、勝利しました。

そこには正義感も使命感もありません。一から十まで完璧に「私情」でした。

全て開き直った彼は、平気な顔でこう宣います。

「公私混同の何が悪いんだ? それらしい建前をつくるだけの能力と権力があるかどうか、結局のところそれだけだろ?」

 



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番外(時系列関係なし、ifあり)
門出


 あの人に会う前の俺が今の俺を見たら、いったい何を思うのだろう。

 未だに着慣れないスーツに身を包み、卒業証書の入った筒で自分の肩を叩きながら、通っていた校舎を見上げた。多分信じられないって顔をするんだろうなと自分で笑う。もしかしたらこんなの俺じゃねえって怒鳴り散らすかもしれない。

 そこまで考えてようやく、俺も少しは大人になれたのかななんてらしくもないことを思った。反面、大学卒業くらいで大人になれたら苦労しねえのに、と自嘲する。

 珍しく感傷に浸っていたそのとき、スマホが震えた。画面に表示された名前を見て、うえっと変な声が出る。

 

『裏門』

 

 たった一言のメッセージに、すでにいろいろとバレていることを察した。メッセージのやり取りはしていたが、顔を見るのは軽く数年ぶりだったりする。

 俺はあの人に今日が卒業式だということを伝えた覚えはない。余計なことを吹き込んだのは誰だと悪態をつきつつ、裏門に足を進めた。

 相変わらず、立ってるだけで絵になる人だ。久しぶりなのに全く顔が変わってない。

 

「ああ、幸人」

 

 柊木さんはいつも通りの柔らかい笑顔と声で俺を迎えた。

 久しぶり、と軽く応じた後、めんどくさそうな顔を作って言う。

 

「卒業式のこと知ってたの?」

「ああ。お前な、あいつらに『卒業式のこと言うな』なんて言ったら面白がって逆に喋るに決まってんだろうが。結構な人数から連絡来たぞ、今日顔出してやってくれって」

「あいつら……!」

 

 どうやらかつての仲間たちが余計な気を回したらしい。

 別に、卒業式のことを知られたくなかったわけじゃない。ただ、卒業式に柊木さんが来たら、きっと尋ねるだろうことがあると思っただけで。

 

「おおかた、卒業どうこうよりも俺に進路を知られるのが嫌だったんだろ?」

 

 あっさりと言い当てられて、思わず不貞腐れる。ここまでわかってるならもうすべてあいつらが喋ってしまっているのだろう。別に後ろ暗いわけではないが、何となくの気まずさと恥ずかしさが頭の中で暴れだす。

 

「良かったじゃねえか、公務員試験通って」

「……全部知ってんならさっさととどめ刺してよ」

「とどめとは何だ。別にからかったりしねえって」

 

 なあ、未来の警察官?

 柊木さんは面白そうに笑った。からかったりしないと言っておきながら、その声には明らかにからかいの色が含まれている。

 

「……別にひーらぎさんがどうとかは関係ねえからな!」

「はいはい」

「聞けよ!俺はただ、」

「うん」

 

 俺はただ、と繰り返すと、柊木さんはからかいの色を消してゆったりと俺を見た。

 昔からこの人は、こういう目で俺たちの言葉を聞いてくれる人だった。疑いも見せず、遮りもせず、ちゃんと最後まで言葉を聞いてくれた。そういう人だから俺たちにとっては数少ない、心の内を明かすことが出来る人だった。

 誰にも言わずにいた本心を、その瞳に促されて言葉にする。

 

「……昔の……あの、リンチの事件。あの後、あの被害に遭った奴から、手紙もらったんだ。伊達さんを通して」

 

 高校生の時に遭遇した、例の事件。傷害事件も冤罪も、全てテレビの向こうの話だと思っていたが、たやすく覆された。柊木さんや伊達さんがいなかったら、俺は本当に逮捕されていたかもしれない。今でも思い出すだけで背筋がぞっとする。

 だが、俺以上に怖い思いをしていた人がいたのだとその手紙で知った。

 

「明らかに震えた手で書いた文字でさ、……すっげえ何回もごめんなさいって書いてあんの。俺がやったって証言したって聞いたときはマジでムカついたけど、本当にそうとしか証言できないくらい心折られてたんだなって」

 

 嘘の証言をしてしまったことへの後悔、しかし本当のことを言うことが出来ないことへの謝罪。犯人への恐怖が痛いほどに伝わってきて、彼を恨むことなど出来なくなってしまった。

 涙の跡が残ったその手紙は、今でも大事に取ってある。俺の、決意の証として。

 

「……あの事件の犯人、捕まってないんだよね?」

「ああ」

「で、被害者は転校してどっかいったって」

「そうらしいな」

「おかしいじゃん」

 

 何でやった方が捕まんなくて、やられた方が逃げちゃうの。

 俺の言葉に、柊木さんは笑顔を崩さないまま少しだけ眉根を寄せた。柊木さんや伊達さんが精一杯のことをしてくれたのはわかっている。それでも、納得なんてしたくなかった。この際俺のことはどうでもいい、だけど。

 

「何で悪いことしてない奴が、やられた方が、泣き寝入りしなきゃいけないんだ」

 

 もしかしたら今でも、彼は怯えているかもしれない。いつ犯人に見つかるのか、どこかで遭遇しないか、また殴られるんじゃないかって震えているかもしれない。犯人が刑務所にでも入らない限り、その恐怖はきっと消えない。

 そう思ったら、俺の進路はもう決まっていた。

 

「悪いことをした奴を、ちゃんと捕まえたい。悪いことしてない人が安心して暮らせるようにしたい。だから俺、警察官になる」

 

 普通の人が、普通のまま暮らしていけるように。

 そう言うと柊木さんは優しく瞳を細めた。それでいい、と言うように。

 

「……ガキくせえって笑わねえの」

「笑わねえよ」

 

 俺よりずっと立派な理由だ、と笑う柊木さんに、思わず聞き返す。

 

「ひーらぎさんは何で警察になったの?」

「ヒミツ」

 

 さらっと誤魔化されてえーっと声を上げると、柊木さんも声を上げて笑った。これは本当に言うつもりがないらしい。柊木さんが警察になった理由、聞いてみたい気もするが無理に聞き出すことでもない。

 どんな理由があって警察になったにしろ、柊木さんはしっかりと務めを果たしている。と、伊達さんから聞いたことがある。俺にとってはそれで十分だ。

 別に柊木さんに憧れて警察官になるわけではないけれど、―――間違いなく、柊木さんは俺にとって憧れの警察官のひとりなのだから。

 

「警察学校無事卒業出来たら俺の名刺やるよ」

「舐めんな、絶対逃げたりしねえから」

「ああ、だろうな」

 

 柊木さんは改めて、俺を頭からつま先までじっくり見て頷いた。走り込みと筋トレでもやってんのか、とこれまたさらっと当てられて何だか悔しい。

 

「幸人」

 

 俺より少しだけ背の高いその人の顔を見上げると、柊木さんはいつものように笑っていた。出逢ったころから全く変わらない、本当に変わらな過ぎてこの人実は歳を取らねえんじゃないかと疑ってしまう、いつも通りの笑顔。

 

「ほら、手ェ出せ」

 

 手を出す前に腕を取られて何かを押し付けられた。握らされたのは、新書サイズの黒い手帳。新品ではなく、中にはたくさんの書き込みが残っている。よく見慣れた柊木さんの字だった。

 

「俺が警察学校にいたときにいろいろメモってた手帳。あそこはあそこで面倒な世界だからな、まあ読みたかったら読めよ。丸腰で挑みたいってんならそれはそれで止めねえけど」

「……いいの、もらって」

「いいよ、何となく取っといただけだから」

 

 書き込んだ内容を見るに、そこにあったのは警察学校の情報だけではない。伊達、という文字や、他にも苗字らしき名前が見える。日記というほどではなくとも、柊木さんが日々感じたことや思い出も書き込まれているようだ。そんなものをもらっていいのだろうか。

 俺の迷いを見て取ったのか、柊木さんは苦笑していいから持っとけ、と軽く言った。

 

「書いたことは全部覚えてるし、もう思い出に浸る必要もないからな」

「え?」

「今の俺にはいらねえもんってことだよ」

 

 何かの役に立つかもしれないし、持ってろ。

 そう言われては、受け取るしかなく。小さくありがと、と呟いた俺に、柊木さんは満足そうに頷いた。

 もう一度幸人、と名前を呼ばれる。

 

「改めて、大学卒業おめでとう」

 

 そして死ぬほどめんどくさい組織の入り口へようこそ。

 悪戯っぽく笑った俺の憧れの警察官は、ひどく綺麗な敬礼をしてみせた。

 

 

 *

 

 

 いつかの数年後、あるかもしれない未来。

 

「本日より捜査一課に異動になりました、相良幸人と申します。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!」

「教育係の松田だ。まあよろしくな」

 



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春を待つ

▼あったかもしれないif話
▼時系列的には景光くんと再会後、かつ組織壊滅前。柊木さんは監察官
▼原作コミックス86、87巻にありました「啄木鳥」の話をもとにしています。その内容を知っていないとわかりにくい部分がかなりあります
▼オリ主柊木さんのほかにオリジナルキャラが登場します。そのうち一名は名前アリでかなり出張ります。
▼個人的に書きたかったのは前半の事件部分じゃなくて後半なので、事件はふわっと読んでいただけると。
▼解釈については本当に好き勝手書きました。見逃してください。


 珍しい人からの連絡というものは、たいてい面倒ごとである。

 スマホの画面に表示されたその人の名前を見て、俺は思わず眉根を寄せた。

 

 

 *

 

 

 俺にとっては初めての長野という土地、東都とは違う空気の匂いに少し首を傾げた。

 待ち合わせの駅の駐車場に車を停め、外に出てひとつ伸びをする。さすがに長時間の運転は身体が強張った。肩を回しつつ改めて駅へ向かおうとしたとき、背後から見知った声が聞こえた。

 

「よ、柊木」

 

 にっこりといい笑顔で俺を迎えてくれたその人の名前は白樺正樹。警察学校のひとつ年上の先輩で、俺たちの前の代の首席だった優秀な人だ。

 何かと面白がりながら俺たちの面倒を見てくれて……と言えば聞こえはいいが、警察組織における上下関係は絶対である。面倒をみてもらった以上にこき使われた覚えが多大にある。悪い人ではないのだが、多分いい人でもない。

 

「お久しぶりです、先輩」

「よく来てくれたな。本当に車で来たのか」

「新幹線苦手で」

 

 毎日地下鉄で通勤してリハビリをしているとはいえ、長時間女性もいるだろう密室に閉じ込められるのは俺にとって非常に苦痛である。せっかく指定席を取っても、隣や近くの席が女性だったら座ってはいられない。

 俺の女性苦手を知っている先輩は相変わらずか、と面白そうに笑った。そう、俺の深刻な悩みをさらっと見抜いた上に指さして笑うような素敵な性格の先輩なのだ。

 

「結局いつまで長野にいられるんだ?」

「二泊三日のつもりでいます」

「そっか。むしろよく休みもらえたな」

「……上司に恵まれまして」

 

 行くからには得られるものは得てこい、と言った大河内さんは本当に抜け目のない人だと思う。人脈をつくれる機会を捨てるものではない、と会うべき人のリストをその場で渡された。一応有給をとって長野に向かうというのに、どこまでもうちの上司は仕事人間だ。

 

「今日はさすがに疲れたろ。県警に顔出すのは明日にするか?」

「いえ、言うほど時間もありませんし、先輩さえよろしければ今日のうちに」

「お、やる気だな」

「呼び出した本人がよく言いますね」

 

 とびきりの面倒ごとを持ち込んだのはアンタだろうに。

 呆れ顔でそう返すと、先輩は警察学校の時と何ら変わりのない悪戯っぽい笑顔で笑った。ぺしぺしと俺の肩を叩き、朗らかに言う。

 

「頼りにしてるぜ、後輩♡」

 

 この人は降谷や俺のことを色眼鏡で見るようなことはなく、他の先輩が少なからず見せたような嫉妬や羨望の色を示したこともない。ただただにこにこと他の奴らと同じように俺たちを扱い、しごき、世話を焼いてくれた。

 素直な伊達なんかは先輩のそういうところを見て「いい人だな」なんて零していたが、当事者だった俺たちはよくわかっている。この人はただ、先々役に立ってくれそうな後輩に恩を売っていただけなのだということを。

 いい笑顔の先輩に、俺は引きつった笑顔で頷くことしか出来なかった。

 

 

 *

 

 

 ホテルに荷物を置き、仕方なしにスーツに着替えた。オフとはいえ、挨拶まわりをするのに私服では行く勇気はない。

 助手席に乗った先輩のナビに従いながら、長野県警に向かう。

 

「お前の上司抜け目ないな。紹介しようと思ってた人全員リストに載ってるわ」

「そういう人なので」

「とりあえずこの人たちは紹介するよ。あとそれからもう一人、ついでに」

「ついで?」

 

 ああ、と先輩は楽しそうに笑った。出世云々には関係ないけど、と前置きして続ける。

 

「一目でわかったよ。そっくりでな」

「誰がですか」

「会えばわかるって。向こうも挨拶したいって言ってたよ」

「?」

 

 もったいぶった物言いに、少し眉を顰める。まあまあ気にするなと笑う先輩に、はあ、とため息まじりに頷く。

 ところで、と横目で先輩を見た。

 

「本題の方は?」

 

 先輩は笑顔を崩すことなく、しかしほんの少しだけ声のトーンを下げて、挨拶まわりの後でな、と呟いた。

 

 

 

 

 白樺先輩が長野県警に出向してきたのは数ヶ月前だという。所属は刑事部捜査三課、おもに窃盗事件を扱う部署で指揮を執っているらしい。

 

「特に大した仕事はしてないけどな。三課にはベテランが揃ってるし、勝手に成果はあげてくれる。有難いよ」

 

 しれっと先輩は言うが、県警の廊下を歩くだけで方々からお声がかかるところを見ると、相当に上手くやっているのだろう。よく馴染んでいることが見て取れる。

 

「……さすが人心掌握はお手の物ですか」

「人聞きが悪いな柊木。まるで俺が打算で動いているような言い方をするなよ」

 

 打算以外の何でアンタが動くというのか。

 そんな言葉を丁寧にしまい込み、失礼しましたと棒読みを返す。

 先輩の後ろに続いて県警の廊下を歩きつつ、挨拶すべきと言われた人に笑顔と名刺を置いていった。しちめんどくさい作業だが、やれと言われた以上は仕方がない。

 どこかで役に立てばいいけどと思いつつ、ここが最後だと連れてこられたのは捜査一課。特有のぴりりとした空気が肌を刺す。

 

「白樺か」

「すみません黒田捜査一課長。お取り込み中でしたかね?」

 

 構わん、と書類を片手に立っていたのは大柄な隻眼の男性。なるほど、事故の後遺症がどうとは伺っていたがそういうことか。

 

「ちょうどヤマがひとつ片付いたところだ。何かあったか?」

「警察学校の後輩が長野観光に来てまして。どうせならと思って挨拶に連れ回してるんです。柊木」

「職務中に恐れ入ります。警視庁警務部監察官室監察官の柊木と申します」

 

 監察官、というと部屋の空気が一瞬止まった気がした。監察官という立場上珍しいことではないが、どうも過剰反応する人が多い気がしている。穿った見方をしているだけなら良いのだが。

 そんな気持ちを微塵も見せず、俺は笑って名刺を差し出した。

 

「ああ、聞いた覚えがある。若くして監察官に引き抜かれ、警視庁で派手にやっているとか」

「これでも随分大人しくしてるつもりなんですがね」

 

 面白そうに言う黒田捜査一課長に、軽口を返した。それでも彼は、俺を警戒する様子もなければ気を悪くした様子もない。なるほど、外見よりずっと柔らかい方のようだ。

 

「黒田兵衛だ。うちの悪事でも暴きに来たのか、監察官」

「長野県警には長野県警の監察の方がおられるでしょう。本当に観光ですよ、……いえ、観光のつもりだったんですよ、先輩にスーツを持ってこいと言われるまでは」

「せっかく来るならいろんな人を紹介してやろうという先輩の優しさに何という言い草かな、柊木クン」

 

 大変失礼致しました、と目を逸らすと捜査一課長はまた面白そうに笑った。周囲にいた刑事たちにもどこか気の毒そうな苦笑を向けられる。

 

「それに、諸伏警部にも是非挨拶をと」

「諸伏に?」

「白樺管理官、そちらが?」

 

 すっと前に出た、涼やかな眼差しの細身の男性。綺麗に手入れをされた口髭に品を感じる。何よりその顔の造形、見覚えがあった。

 

「ええ。柊木、わかるか?」

「……恐れ入りますが『諸伏景光』という名前に聞き覚えは……?」

「実の弟です」

 

 つまり諸伏のお兄さん。

 驚きに目を見開いた俺に先輩は企みが成功したように笑い、諸伏警部もまた口元に笑みを浮かべた。

 

「改めまして、長野県警捜査一課の諸伏高明と申します。弟とは警察学校の同期で同班と伺いましたが」

「ええ。諸伏にはお世話になりました。本当によく似ておられますね」

 

 そうですかと彼は首をひねるが、その仕草すら諸伏によく似ている。長野県警に兄がいるとは確かに言っていたが、こんなによく似ているとは。わざわざ挨拶をと言ってくれるくらいだ、仲の悪い兄弟ではないのだろう。

 とはいえ、諸伏警部が「今」の諸伏の状況を知っているとは思えない。

 

「……今も、弟とは連絡を?」

 

 ほら、来た。

 おそらくそれを尋ねたかったのだろう、警部の瞳には心配と探りの色が見えた。彼には申し訳ないが、諸伏には諸伏の事情がある。俺がそれを漏らすわけにはいかない。

 

「いえ、それが……警察学校を出て以来、連絡が取れていなくて。諸伏、元気にしていますか?」

 

 俺は知らないけど貴方の方こそ家族なら知っているでしょう、とそんな風に受け取ってもらえるように、少し心配げな笑顔を作る。

 信じてくれたかはわからないが、諸伏警部は少し残念そうに眉尻を下げた。

 

「……実は、警察学校の卒業の直後から私も連絡が取れなくなっています。風の噂で警察を辞めたと聞いたのですが、今もどこで何をしているやら」

「! ……そうだったんですか」

「あれも子供ではありません。どこかで元気にしているだろうとは思うのですが、些か心配でして」

 

 本当ですねと頷くと、彼は何か弟の噂を聞いたらご連絡頂けませんか、と名刺を差し出してきた。有難く交換して、名刺入れにそっとしまう。

 嘘をつくのは心苦しいが、俺が諸伏の邪魔をする訳にはいかない。ほかの同期にも話を聞いてみますと口にすれば、諸伏警部は少し申し訳なさそうにお気遣いなく、と微笑んだ。

 

「失礼、話し込んでしまいましたね」

「いえ、こちらこそ職務中に大変失礼いたしました」

 

 その場はそれで終わったが、気のせいでなければ最後まで諸伏警部の瞳の探る色は消えなかった気がする。余計なことは言わなかったつもりだが、俺はそんなに嘘が下手なのだろうか。

 捜査一課を離れ、先輩について廊下を進んでいく。何の気なしと言った風に先輩は口を開いた。

 

「お前本当に諸伏のこと知らねえの?」

「メール送ったりはしてるんですけどね。一向に返信が来ないんですよ」

 

 エラーにはなってないので届いてはいると思うのですが、と一言付け加える。俺の前を歩く先輩の顔は見えないが、ふーん、といつも通りの返事が聞こえてきた。

 さて、信じてくれたか、どうか。腹芸に関してはどうあがいても先輩の方が上だ。その心の内を読む努力すら放棄し、俺は窓の外に目をやる。長野についたときには真上近くにあった太陽が、少し傾いていた。

 

「……挨拶まわりは終わりですね?先輩」

「ああ」

 

 かちゃりとノックもせずに先輩は扉を開ける。

 小さなその部屋には真ん中にテーブルがひとつ。その上にはいくつかのファイルが乗っていた。

 

「それじゃあ、本題といこうか」

 

 にこやかだったその笑みが、瞬時に消えた。

 

 

 ***

 

 

 本庁の監察官だというその優男。白樺管理官は「観光のついで」と言ったが、どこまで本当なのか。

 気になって聞けば、本庁では上層相手だろうと何であろうと、不正という不正を暴き出している怖いもの知らずなのだと言う。やはり、楽観視すべきではない。

 もし、彼が長野県警の闇を暴きにここまで来たのだとしたら。

 

「……邪魔はさせない」

 

 計画の実行を、早めなくては。

 

 

 ***

 

 

 先輩がひそかに集めたというその証拠の数々。

 軽く振舞うこの人も、一皮むけば俺たちの前の代の首席、しかもすでに多方面から高い評価を得ている非常に優秀な人だ。そんな人が揃えたそれらに、不備などあるはずもなく。

 

「……真っ黒じゃないですか」

「やっぱそうかー」

 

 だよなー、と先輩はあっけらかんと言った。

 感心したくなるほどに資料も報告書も隙が無い。これが公になれば、監察は動かざるを得ないだろう。あまりにも明白な不正の証拠があるのに、それをわざわざ俺に見せた理由は何なのか。おおよそ見当はついた。

 先輩が揃えたこれらは、「不正があったという事実」こそ明確になっているが、「誰が」の部分については決定打に欠けている。組織的に行われた不正であるがゆえに、実行犯が不明瞭だ。

 

「根が深すぎますね。もはや県警全体の不正と言っていいレベルだ」

「そうなんだよな~。もちろん全員じゃないが、これを公にするのを阻止できるレベルのお偉いさんは絡んでるらしい。残念なことに監察にもな」

「つまり、俺は伝令役ですか?」

 

 この証拠を、警察庁あるいは警視庁の、信頼のできる人に流すために。

 とりあえず不正があったという事実さえ明るみに出れば、本格的な監査が入る。誰がどう不正に関わったかは、その調査の中で明確になっていくだろう。

 俺がそう言うと、先輩はにこにこと変わらぬ笑みを浮かべた。明確な返事はなかったが、その笑みは答えを物語っている。

 

「うちの上司は話のわかる人ですし、お偉方にも顔が利きます。動いてくれると思いますよ」

 

 そうか、とその人は一言だけ呟いた。何となくまだ何かあるような気がして、先輩の様子を伺いつつまた資料に目を通す。

 不正の実態、関連する事件の捜査資料。それに関わった警察関係者のリスト。ひとつひとつの情報を繋ぎ合わせながら、見落としがないか頭を働かせた。

 そして気づく、リストにあった警察関係者のひとりに付け加えられた注意書き。加えて捜査資料にあった、不幸にも巻き込まれた一般人の名前。

 

「……先輩」

「ん?」

「この拳銃乱射事件の被害者」

「お前にしては気づくのが遅かったな」

 

 まさか、と先輩の顔を見る。その笑顔に変化はない。

 

「先輩、このやり方は」

「俺はお前に説教されるつもりはねえよ」

 

 笑顔のまま、言い募ろうとした俺の言葉をばっさりと切り捨てる。ぐ、と黙ると、いっそ楽しそうに先輩は口を開いた。

 

「柊木、お前まだアレ言えるか」

「アレ?」

「警察の服務の宣誓」

 

 突然の話題に瞬きをひとつ。

 警察学校に通った者なら、必ず暗記したであろうその心得。促されるままに、俺の口は動いた。

 

「―――私は、日本国憲法及び法律を忠実に擁護し、命令を遵守し、警察職務に優先してその規律に従うべきことを要求する団体又は組織に加入せず、何ものにもとらわれず、何ものをも恐れず、何ものをも憎まず、良心のみに従い、不偏不党且つ公平中正に警察職務の遂行に当ることを固く誓います」

 

 はいよく出来ました、と先輩は笑った。

 そして言う。俺、結構これ大事だと思ってるんだよな、と。

 

「警察官だって人間だ、憎しみをもつなとは言わねえよ」

 

 だが、その感情をもって動こうとしてしまった時点で、俺はそいつを警察官として認めない。

 

「相手が一般人であったなら俺もこんな手段は択ばない。だがそいつは警察官だ。どんな理由があろうとそいつがその道を選ぶなら、俺はとっとと刑務所にぶち込んで頭を冷やさせるべきだと考える」

 

 犯罪に立ち向かう職務に就く以上、警察官は人を守る術を教え込まれる。それは同時に、人を傷つける術を知ってしまうということでもあった。そんな立場だからこそ、犯罪に手を染めることなどあってはならない。罪を犯すという発想すら、持ってはならない。

 

「それを、警察官になったときに俺たちは誓う。だろ?」

 

 先輩がそう言ったとき、スマホの着信音が響く。

 俺に構うことなく電話に出ると、先輩は二、三会話をしてすぐに通話を終えた。そして改めて俺の方を見て、笑う。

 

「柊木、お前はもうホテル帰れ。また改めて連絡する」

「……動いてしまったんですか、そいつ」

「残念なことにな」

 

 全く残念ではなさそうに言った先輩に、言いたいことが腹の底からせりあがってくる。しかし、そのすべてを呑み込んだ。

 先輩のやったことを全肯定は出来ない。しかし全否定も出来ない。そして、現状俺に出来ることは何もない。ならば俺は、せめて最悪の事態に陥らないように祈るだけだ。

 

「……ちゃんと止めてくださいよ」

 

 そう絞り出した俺に、一瞬だけ先輩は申し訳なさそうな顔をした、気がした。しかし、そんな殊勝な顔をするところを見たことがないので気のせいだったのかもしれない。

 

「当然だろ」

 

 そう言った先輩の顔には、やはり迷いは見られなかった。

 

 

 ***

 

 

「例の本庁の監察官、随分長いこと白樺と話してたようだ」

 

 挨拶回りだけが目的なら、会議室にあれほど長く居座る必要はない。しかも、普段から腹の底が読めない白樺が突然連れてきたのだ。そこに何も意味がないとは到底思えない。そして、この長野県警に、監察官を呼ぶ意味があるとすれば。

 

「……あのふたりが話していた会議室にPC端末はない。白樺も持ち込んだのはいくらかの紙の資料だけのようだ。あの監察官も、会議室に入る前は持っていなかった資料ケースを持って出て来たらしい」

「そうか、そりゃあ好都合だ」

 

 その資料を頂くついでに、少しばかり痛い目を見てもらえばいい。

 

「相手は現場も知らねえエリート様だ。それで十分だろうぜ」

 

 まずは、そいつが泊っているというホテルを特定しなければ。

 こういうとき、警察官という肩書は何とも便利なものだ。内ポケットに入っている警察官の証を取り出して、皮肉気に笑った。

 

 

 ***

 

 

 監察官である柊木の存在をちらつかせればきっと動くだろうと思っていた。しかし、こんなに早く動いてくれるとは。

 柊木と別れた俺は、再びその部屋に足を踏み入れる。

 

「……何だ、今度はひとりか、白樺」

 

 たびたび失礼します、と礼をする。

 隻眼の捜査一課長は、何かの捜査資料を片手にデスクで仕事をしていた。最近出向してきたばかりのこの人は、どう考えても例の不正には無関係だ。そして、相手が誰であろうとその言葉に耳を傾けてくれる人だということは知っている。

 そのうえで、口を開いた。

 

「貴方の部下が、罪を犯そうとしているかもしれません」

 

 片方だけの瞳が、鋭く細められた。

 

 

 ***

 

 

 今関わっている強盗事件について重要な証言があったという体で、俺はその人を連れて妻女山に来ていた。

 日も暮れつつあるこの時間、わざわざ山中に入るような馬鹿はいない。誰にも見られずにことを為すには最適な状況だ。

 

「本当なんだろうな油川、ここに強盗犯が潜伏してるってタレコミがあったのは」

「本当ですよ、もう少し先です。それから油川じゃなくて秋山だって言ってるじゃないですか」

 

 細かいことをぐちぐち言うなとぼやかれるが、俺にとっては細かいことではなかった。両親の離婚で姓が「秋山」になったからこそ、俺は「啄木鳥会」の真実を知ることが出来たのだから。

 

「……竹田班長」

「あん?」

「九年前にあった拳銃乱射事件、覚えてます?」

「九年前……?」

 

 突然なんだ、とでも言いたげな表情で班長は記憶を探っている。数秒経ってああ、と思い出した。

 

「あれか、ヤクでラリった野郎が街中で拳銃を乱射した事件」

「ええ。あれって啄木鳥会が流した拳銃ですよね」

「そうだったかもな。それがどうした」

 

 それがどうした、と。

 自分たちが金目当てで売り払った拳銃によって事件が起きたというのに、そんな一言で済ませるのか。良心の呵責というものを欠片も持ち合わせていないというのか。ならばやはり、こうするしかない。

 

「妹です」

「……あ?」

「その事件で命を落としたのは、当時中学生だった、俺の妹です」

 

 懐から取り出したのは、押収物からくすね、これから啄木鳥会が売りさばくはずだった拳銃。それを見た班長がさっと顔色を変える。見せつけるようにゆっくりと、その銃口を班長へと向けた。

 おい、冗談はやめろ、と私腹を肥やし続けた罪人は後ずさる。

 

「冗談だと思いますか?」

 

 艶子、今、仇を取ってやる。

 脳裏に浮かんだのは、額から血を流して地面に横たわる、可愛い妹の姿だった。

 

 

 ***

 

 

 警察手帳をチラつかせて証言を得た。

 あのエリートの優男が泊まってるホテルの部屋。何故かは知らないが、本人はひと気の少ない場所にある静かな部屋を希望したらしい。これは好都合だ。決行は深夜まで待つつもりでいたが、この分ならその必要もあるまい。

 フロントのスタッフに適当な口実を作って奴が泊っている部屋に電話を掛けさせ、部屋にいることを確認させる。

 

「……お部屋におられるようですが」

「こりゃどうも、捜査にご協力感謝します。すいませんね、急に変なこと頼んじまって」

 

 へらりと笑ってフロントを後にする。

 刑事として何年も務めていれば、捜査令状がなくとも人を一般市民を言いくるめて言うことを聞かせることくらい出来る。警察手帳にはそれだけの威力があるのだ。そのうえ甘い汁も吸えるとあっては、これだから警察は辞められない。

 

「三枝さん、部屋わかったぞ」

「そうか」

 

 では行こう、と同班の細身の警部補は言う。

 その手に持つバッグには、押収品からくすねてきたスタンガンが入っていた。

 

 

 ***

 

 

 引き金に指をかけたその時、どこかからその声が聞こえた。

 

「では、現行犯で確保」

 

 はっとしたその瞬間、拳銃を持った腕をひねりあげられる。肩と腕に鈍い痛みが走り、思わず拳銃を取り落とした。ばっと顔を上げると、俺の腕をひねりあげていたのは。

 

「……何で、三課の……!?」

「おうクソガキ、あぶねーことしやがるじゃねえか」

 

 その傍でやれやれと拳銃を拾い上げたのもまた、長野県警捜査三課のベテラン刑事。何故、彼らがここに。

 はっとして声が聞こえた方に顔を向けると、そこにいたのは、やはり。

 

「白樺管理官……!!」

「はいどうも。しかし、俺だけじゃありませんよ」

 

 次々と顔を出す、捜査一課の面々。それぞれ怒りと無念さを露わにした表情を示す中、無表情のその人はすっと前に進み出て、口を開いた。

 

「竹田にも手錠を掛けろ。みっちりと事情聴取をせねばならん」

「黒田捜査一課長……!」

 

 捜査一課長の指示で竹田の腕にも手錠が掛けられる。

 放心していたそいつは、その手錠の重みでようやく我に返ったらしい。逆上して一課長に食って掛かった。

 

「一課長、俺は被害者です!何で俺にまで手錠を……!」

「竹田ァ、いい加減年貢を納めろ、みっともねえ」

 

 口を開こうとした一課長に先じてそう言ったのは、手の中で俺が持っていた拳銃を弄ぶ三課のベテランだった。相変わらずの皮肉気な笑みをたたえながら、その瞳には明確な侮蔑が見える。

 

「何かやってるだろうとは思ってたんだよ、何せ刑事の安月給の割にやけに派手に遊んでたしなァ? しかも大した手柄もねえのにとっとと昇進しちまうと来たもんだ。どうせ繋がってるお上に口でも利いてもらってたんだろ?」

「お前のいる、『啄木鳥会』だったか? もう終わりだぜ、証拠は全部揃ってんだそうだ」

 

 なあ管理官、と俺の腕をひねりあげる刑事は白樺管理官に顔を向けた。そこでようやく管理官はその無表情にいつもの笑顔を乗せる。しかしやはり、目は少しも笑っていなかった。

 

「もう、さんざん甘い汁は吸ったでしょう?」

 

 その報いを受ける時が来ただけですよ、とさらりと宣う。そして、と俺のほうにも顔を向ける。視線が絡んだその瞬間、背筋にぞくりと冷たいものが走った。

 

「どんな理由があろうが、憎しみに負けた貴方に警察官たる資格はありません」

 

 何の感情も含まれていない言葉だった。ただ事実を、淡々と述べるような。俺に、何の興味もないとそれだけでわかるような。何故か、俺は何も言えなかった。その言葉以外の何も、俺の耳には入らなかった。何かが、壊れたような気がした。

 ひどく遠い場所で、連行しろ、という声が聞こえたような気がした。

 

 

 ***

 

 

「いやあすみませんね、身内を張らせるような真似させて」

 

 そう朗らかに言う少し前に来たばかりの若い上司は、どうやら少しも悪いとは思っていなさそうだった。

 全責任は自分がとるから油川―――秋山をマークしてほしいと言われた時には、何を考えているのだろうと思ったが。ケチな泥棒を追いかけるのが仕事の俺たちにまっすぐに頭を下げるその姿勢は、認めてもいいと思った。上層から駒扱いされるのにはとっくに慣れっこの俺たちも、貴方方の力が必要ですなんて言われたら、そりゃあ若造の言うことでも少しは聞いてやるかという気にはなるわけで。

 

「俺たちは上司の命令に従っただけなんでね」

 

 そう言うと、白樺管理官はまた人好きのする笑みを見せた。この笑顔に騙されてはいけないと思いつつも、なんだかんだで三課の刑事は皆、最終的には彼の言うことに従っている。お偉いエリートのくせに、変な奴だ。

 

「そういや管理官、別の奴らの方は大丈夫なんです?」

 

 思い出したように、今回タッグを組んで秋山を張っていたそいつが言う。

 

「管理官の後輩とかいうの、見張らせといたんでしょう?」

「ああ、そっちの方は……っと、ナイスタイミング」

 

 鳴り響いたスマホは、どうやらその後輩くんからのようだった。随分と顔のいい優男だったが、見るからにこの管理官に振り回されているように見えた。警察学校における上下関係が絶対なことを知っているだけに、同情しかない。どうせこの男に会ったときからこき使われているのだろう。気の毒に。

 はい、と笑顔で電話に出た腹黒管理官は、終わったかの一言。電話口からは気の毒な彼の声が漏れ聞こえる。

 

『はいはい終わりましたよ、というか俺が狙われるのも読んでたでしょ。一言くらい心配の声があってもいいと思いません?』

「俺の自慢の後輩ならきっと大丈夫だろうと思って。どうせ傷一つないんだろ?」

 

 そうですけど、と不満げな声が聞こえる。

 柊木さんに何か、と諸伏が口を挟んだ。すると管理官はそれに応えるように通話をスピーカーモードに切り替える。

 

「三枝警部、鹿野警部補両名がホテルに乗り込んで柊木を襲撃したようです」

 

 そう言うと、その場に残っていた捜査一課の連中が息をのむ。あいつら、そこまで腐ってやがったか、と大和が言い捨てた。

 そのまま一課長がスマホに向けて話しかけた。

 

「柊木君、黒田だ。本当に怪我はないのか」

『ああ、黒田一課長、恐れ入ります。ええ、予想はしていましたし、無傷です。ホテルの部屋のドアを開けたところを襲い掛かられましたが、取り押さえました。鹿野警部補がスタンガンを所持しておりましたので、気絶させてどこかに連れ去るつもりだったようです』

「……取り押さえた?」

 

 思わずと言ったように一課長が繰り返す。俺を含めた皆も目を丸くしていた。まるで鍛えているようには見えない優男だったが、歳を重ねたとはいえ現場を走る刑事二人を相手に「取り押さえた」とは。

 それを察したのか、管理官は面白そうに言う。

 

「あいつ細身に見えますが、脱いだらすごいんですよ」

『ちょっと言い方考えてもらえますか、先輩』

「本当のことだろ。投げ飛ばしでもしたのか?」

『投げ飛ばしついでに肘鉄入れて気を失ってもらいました』

 

 さすがだな~と管理官はさらりと言い、後輩君は警察関係者なら自分の身くらい守れて当然でしょうと当たり前のように宣う。なるほど、管理官が便利に使いたくなるくらいには優秀な後輩のようだと苦笑する。何にせよ、怪我がないならそれに越したことはない。

 

『とりあえず俺を見張っててくれた三課の方々に引き渡しましたので』

「ああ、無事でよかったよ」

『よく言いますね、人を餌にしておいて』

 

 秋山巡査部長が動かなかった場合のことも考えて俺という「監察官」を連れまわして喧伝し、啄木鳥会の「誰か」をあぶり出そうとしたんでしょう?

 そう言われても、管理官の笑顔は揺らがない。むしろさらに濃くなった。

 

「そう拗ねるなよ柊木、ちゃんと警護つけといてやっただろ?」

『俺を張ってた三課の皆さん、俺が危なくても手を出すなと厳命されてたって話なんですけど』

「いやあ持つべきものは有能な後輩だよな! じゃ、また聴取でな!」

 

 さっと言い捨て、管理官はぷつっと通話を切った。

 数秒の沈黙が流れた後、大和がアンタなあ、と口火を切った。

 

「啄木鳥会のあぶりだしにしたって、もっと方法があったんじゃねえのか! わざわざ東都から後輩連れてきて危険に晒す必要まであったのか!?」

 

 何より、と勢いのまま大和は管理官に詰め寄る。

 

「確かに秋山のしたことは許されることじゃねえ! だが、監察官を連れまわして今回の犯行を煽ったのはアンタだろ! 罪を犯させる前に秋山を止めることだってできたんじゃねえのか!? なあ、エリートの管理官さんよ、違ェのか!?」

 

 よせ大和、と一課長が大和を制する。

 鼻息の荒い大和を前にしても、管理官は一切の顔色を変えなかった。ただ、いつも通りの口調で言う。

 

「何と思っていただいても結構です。認められたいとも思いません。俺は啄木鳥会に入り押収した拳銃を横流しして私腹を肥やした罪だけでなく、」

 

 警察官でありながらその心に殺意を抱いたという罪を、見逃したくなかっただけです。

 そう言った管理官の声には、言葉に表現できない重みがあったような気がした。

 

 

 ***

 

 

 さんざんな長野旅行だったと、旅行鞄を車に詰め込む。いやもうこれは旅行じゃねえか、と一人ため息をついた。

 

「何だお前、やけに辛気臭い顔してるな」

 

 と、思ったら後ろから聞こえてきた、その元凶の声。心底嫌な顔を作って振り向いた。

 

「……先輩、どうも」

「おう。何だよお前、見送りに来てやった先輩に対してその顔は」

「むしろ何で笑顔で迎えられると思ったんですか」

 

 お陰様でさんざんな長野でしたよ、と恨み言を吐けば、長野に罪はないだろと正論を返された。そうですね罪があるのは貴方です、とそうも言えずに、ハイハイと適当に流した。

 先輩は俺のそんな態度にも構わず、ほい、と紙袋を差し出す。

 

「何です?」

「俺と、三課の人たちと、それに一課の人たちから土産。それぞれおすすめの長野の特産入れてくれたらしいから期待できると思うぞ」

 

 紙袋を覗き込むと、ぎっしりと地元名産であろうお菓子や総菜、お酒が詰め込まれていた。もはや紙袋が破れそうなほどに詰めこまれたそれはさすがに重い。この分だと用意してくれたのはひとりやふたりではないのだろう。有難く受け取りつつお礼を言った。

 

「皆さんにもよろしくお伝えください」

「ああ。……柊木」

「はい?」

 

 改めて顔を上げると、先輩は警察学校時代から変わらない、いつも通りの笑みを浮かべていた。

 

「これに懲りずにせいぜい俺の役に立ってくれよ、後輩♡」

 

 その分、俺もお前らを助けてやるから。

 相変わらずの言葉の裏にそんな意味を感じて、苦笑する。

 本当に、この人は。

 

「……何で警察学校の上下関係って、こんなに面倒なんでしょうね」

 

 次にこき使うのは俺以外の奴でお願いします。

 そう言うと、先輩は声を上げて笑った。

 

 

 *****

 

 

 襲撃のあと県警に向かい、ようやく一通りの聴取がひと段落したとき。やれやれと聴取室を後にすると、諸伏さんが声を掛けてきた。

 

「お疲れさまでした、柊木さん」

「諸伏さん。お疲れ様です」

 

 さすがに眠そうですね、と言われ、隈でも出来ているのだろうかと目元をこする。

 早朝から車を飛ばして長野に入り、そこから県警の挨拶回りを終えて今度は「啄木鳥会」について。そして最終的に闇討ちされかけて撃退し、事情聴取を終えればもう夜が明けている。確かにさすがに寝たい。もともと俺は朝型の人間で徹夜は得意ではないのだ。

 

「ええ、お許しが出たのでホテルに戻って仮眠を取ろうかと」

「そうでしたか。……そのあとは、すぐ東都に?」

「いえ、もう一泊してから帰る予定です」

 

 そのつもりで予定も組んでいる。日程に余裕があるのに体調を万全に整えることもなく長時間運転には挑みたくない。

 俺の言葉を聞き、では、と彼は口を開いた。

 

「今夜、一杯付き合っていただけませんか」

 

 

 *

 

 

 指定された先は、少々お高めに見える個室のある飲み屋だった。飲み屋といっても小料理屋や料亭と言った方が近いかもしれない。諸伏さんがいても何ら違和感のないほど、上品で落ち着いた店だった。

 

「お酒は?」

「では、少し」

 

 日本酒は平気ですか、と聞かれ、大丈夫ですと頷く。

 運ばれてきたのは長野の地酒らしい。どうぞ、と諸伏さんのおちょこに注ぎいれると、貴方も、とお酌を返された。

 

「ここは地元の特産品を使った料理が美味しいんです。これも長野の地酒ですよ」

「そうだったんですか。お気遣いありがとうございます」

 

 はるばる東都から来た俺に気を遣ってくれたのだろう。長野に来てから慌ただしくてろくに観光も出来ていない。せめて近場の名所や美味しいものくらいは食べて帰ろうと思っていたのでその心遣いが嬉しい。

 喉を流れる地酒は爽やかで、飲みなれない俺でも美味しく感じた。料理との相性もとてもいい。これは飲みすぎないように気をつけなければ。旅先で、しかも友人のお兄さんの前で酔いつぶれるような醜態は晒せない。

 

「今回の件はお疲れさまでした。貴方は長野に呼ばれてから詳細を聞かされたと伺いましたが」

「ええ」

 

 事前に聞かされていたのは、長野県警で監査すら巻き込んだ不正が行われている可能性があるということだけだった。可能な限り証拠資料を揃えるから監察官としての意見を聞かせてほしい、そう言われて長野まで来た。

 データでやり取りすればいいのではとも思ったが、先輩は「とにかく来い」の一点張り。思えばその時点でもっと警戒すべきだった。白樺先輩の傍若無人に慣れすぎて違和感すら持たなかった自分が悔しい。

 

「体よく利用された形になりましたね。まさか餌にされるとまでは思っていませんでしたが」

 

 あの人のやることですからもう諦めてますけど、と溜息とともに言うと、諸伏さんは苦笑と共に言った。

 

「白樺管理官は昔からその調子なのですか?」

「ええ。それはもう理不尽に振り回されこき使われ……俺のいた班は特にですね。そのくせ、他の人が俺たちを理不尽に扱うのは許さなかったんですが」

 

 俺たちに向けられた嫌味は先輩が百にして返していた。

 俺たちに向けられた嫉妬は先輩が鼻で笑って切り捨てていた。

 俺たちに向けられた悪意は、俺たちが知らないうちにその芽を摘まれていた。

 否応なしに目立つ立ち位置にいた俺たちを、少なからず守っていてくれたことはわかっている。たとえその理由が「将来的に自分のため」という先輩の言葉通りであったとしても。

 確かに俺たちは、助けられていた。

 

「良い人ではないですが、悪い人でもないんですよ。多分」

 

 多分とつくのが哀しいところ。

 だが、きっとあの人に声を掛けられて動くのは俺だけではない。少なくとも同班だった連中は皆、先輩から声を掛けられたらなんだかんだ言いながらも動くのだろう。まーたあの人か、と諦めてその言葉に従ってしまう程度には、俺たちも手懐けられている。

 諸伏さんは小さく笑い、わかる気がしますと頷いた。

 

「ベテラン揃いの三課の皆さんをまとめあげた手腕は見事と言うほかありません」

「昔っから人を使うのが上手い人なんですよ」

 

 ぽつぽつと世間話を続けながら目の前の皿を空にしていく。

 ときどき美味い、と言葉を漏らすと諸伏さんによる地元の食べ物事情の解説が飛んできたり。地元愛というのもあるのだろうが、もともとが博識な人なのだろう。節々にその広く深い知性が感じられて、ただの世間話でも興味深い。

 物静かな人かと思ったけど結構喋るなこの人、と思ったとき、空のおちょこに気づいた諸伏さんはまた徳利を掲げた。

 

「いかがです?」

「恐縮です」

 

 大丈夫だ、まだいける。自分の酒量を計算しつつ、俺もおちょこを手に取った。

 ゆっくりと酒を注ぎながら、おもむろに諸伏さんが口を開いた。

 

「君に勧む金屈卮

 満酌辞するを須いず

 花発けば風雨多し 

 ―――人生別離足る」

 

 聞き覚えがあった。日本でも非常に有名な、于武陵による漢詩「勧酒」。

 別れをテーマにしたこの詩は、井伏鱒二が現代語訳をしたことでも知られている。むしろ日本では、その現代語訳の方が有名かもしれない。

 つい、諸伏さんに応えるように俺の口をついて出た。

 

「この杯を受けてくれ、

 どうぞなみなみ注がしておくれ。

 花に嵐の例えもあるぞ、

 さよならだけが人生だ」

 

 特に最後の「さよならだけが人生だ」、この文句は一度くらい聞いたことがあるだろう。俺も詳しい方ではないが、多分学校の授業か何かでも聞いたような気がする。今でも諳んじられる程度には気に入っていたのかもしれない。

 

「失礼、ふと思い出しただけなのですが」

 

 少しだけ瞳に寂しさを滲ませた諸伏さんは、苦笑して言った。いえ、と相槌を打つと、少し重い沈黙が流れる。

 この食事が始まってから一度も、諸伏さんの口から諸伏のことは出てこない。何となく諸伏のことを出そうとした雰囲気は何度か感じ取ったが、そのたびに彼は別の話題を口にした。その複雑な胸中は、俺にはわからない。

 もしかしたら彼は、諸伏の状況を察しているのかもしれない。「警察を辞めた」という風の噂、不自然な音信不通、それ以外にもきっと得られる情報はわずかながらにあっただろう。これだけ頭の良い人なら、それらを繋ぎ合わせて「潜入」という答えを導き出してもおかしくはない。それを確かめる術が存在しないということもまた、わかるはずだ。

 仮に俺が諸伏の現状を知っていても、決してそれを口に出来ないということも。

 

「……さよならだけが人生だ、というのは、何とも的を射た訳ですね」

 

 その一言には、いったいどれだけの想いが込められているのだろうか。

 何と返したらいいのかわからなかった俺は、少し黙った後、少し躊躇いつつ口を開いた。

 

「……確か、さよならだけが人生ならばまた来る春は何だろう、と書いた人もいましたよね」

「寺山修司ですね」

 

 さすがは博識、さらりと答えが返ってきた。俺はそういうものに詳しくないので、解釈がどうのと議論することは出来ない。

 だがまあ、詩や言葉というものはそもそも解釈など自由だろう。

 

「……さよなら、という言葉は『左様なら』から来ていると聞いたことがあります」

「そう言われていますね。左様なら、つまり、『そういうことなら』別れましょう、というところでしょうか」

「ええ。『そういうことなら』別れましょう、残念ですね、と言ってるようで、さよならという言葉自体に別れを惜しむ感情が込められていると俺は解釈してます。日本語って面白いなとこれを知った時は思ったんですけど」

 

 浅学を晒しているようで、自分が詳しくない話は正直あまりしたくない。その気持ちを上手く隠せず、何となくしどろもどろな話し方になる。

 しかし諸伏さんは、笑うことなくじっと俺の言葉に耳を傾けてくれた。

 

「……個人的に、この解釈にはもうひとつ言葉を添えたいなと」

「というと?」

「さよなら……『そういうことなら』、残念ですがお別れしましょう。でもきっと、」

 

 いつかまた、再会を。

 そこまで言うと、諸伏さんの手が一瞬止まった。

 

「別れを惜しみ、再会を願う……いえ、もしかしたら、再会を『誓う』。俺はさよならを、そういう言葉だと思ってるんです」

 

 さよならだけが人生かもしれない。別れを積み重ね、それでも生きていくのが人間なのかもしれない。だけどその別れはきっと、辛いだけのものでも、苦しいだけのものでもない。またきっとどこかで出会いましょうと、希望を積み重ねて生きていくのだと。俺はそう思いたい。

 つまり俺が何を言いたいのかと言うと。

 

「さよならしたからって、もう会えないとは限らないでしょう?」

 

 どうか、再会を諦めないで欲しい。

 貴方の弟は、五体満足で生きている。危険を乗り越え、立派に職務を果たしている。今はまだ、貴方にそれを知らせることは出来ないけれど。聡いこの人ならきっと言葉にしなくてもわかってくれると信じて、俺はじっと諸伏さんの瞳を見つめた。

 じっとこちらを見つめていた、猫目がやわく細められる。

 

「……ええ、そうですね」

 

 僕としたことが、少々感傷的になりました。

 彼はそう言って手元のお猪口に口をつける。一息に飲み干し、微笑んだ。

 

「では僕は、また来る春を待つとしましょう」

 

 せめてそう遠くないことを祈りますよと言ったその人の笑い方は、やはり例の同期にそっくりだった。

 

 

 *

 

 

 長野から戻り、その事件がすっかり思い出になったころ。

 珍しく、諸伏から集合のメッセージが飛んできた。しかもどうも飲み会ではなく、もらいものの消費を手伝ってほしいらしい。珍しいこともあるものだといつも通りの五人を迎えてみれば、諸伏の手には何やら大きな箱入りの紙袋。

 

「調理が必要なものか?」

「ああ、湯がかないといけないから鍋貸してくれ」

「湯がく?」

 

 諸伏はやけに嬉しそうに箱をあけて、じゃーんと俺たちに見せた。お、これは。

 

「長野特産高級蕎麦セット六人前!」

 

 おおっと歓声が上がる。特に食に対して貪欲なグラサンと和食が大好きなガングロは子どものように目を輝かせた。いや、これは正直俺も嬉しい。以前長野で食べた信州蕎麦は本当に美味しかった。

 

「えっこれどうしたの、貰い物って」

「ほら、長野に兄がいるって話はしたことあっただろ? 潜入してからはずっと連絡とってなかったんだけど、全部片付いたし久しぶりに電話してみたんだ」

 

 少し恥ずかしそうにしつつも嬉しさを隠せていない諸伏。実を言うと、気を遣わせるだけになるだろうと思って諸伏さんと会ったことは諸伏に話していない。心配していたと伝えたところでどうすることもできない諸伏にとっては負担になるだけだろうと思ったし、その時が来たら諸伏が自分から連絡を取るだろうと思ったからだ。

 きっと諸伏さんも喜んでいるだろう。嬉しそうな顔の諸伏が微笑ましい。

 

「そんで話の中で、久々に蕎麦が食べたいって言ったら送られてきてさ。お前らの話もしたから六人前なんだと思うんだ。だから皆で食おう」

 

 そう満面の笑みで言う諸伏に、よっしゃ湯がくか、と袖をまくった。

 

 

 ***

 

 

 いただきます、といつも通り三十路の集まりとは思えない声が響く柊木の家。続いて「なにこれ美味い」「蕎麦の味が濃い……」「えっ蕎麦ってこんな美味いの?」「このつゆも美味いな……」そんな声がぽんぽんと飛んでくる。そして止まらない景気のいい蕎麦をすする音に、不思議なくらい笑えてきた。

 俺はさっとスマホを取り出しカメラを起動する。そして全員の顔と蕎麦が入るようにスマホを構えた。

 

「はい一旦スマホ見てー。いやちょっとスマホ見ろって言ってるだろ松田。あっコラ隠れるな柊、ほら、ちゃんと全員入って」

 

 かしゃりと音を立てて、そんな一場面を記録する。相変わらず馬鹿面で、何人かは蕎麦をすする途中のまま。あまりにもいつも通りの俺たちだが、いつも通りだからこれでいい。

 

「何だよいきなり写真撮って」

「そりゃ蕎麦の送り主にちゃんと美味しく頂きましたってお礼言わなきゃだろ?」

 

 メール画面を起動し、写真を添付。そして何か一言―――何がいいだろう。

 ただお礼を言うだけでは、何か違うような気がした。少し考えたとき、ふと幼いころの記憶がよみがえる。そういえば東都に引越しして、ゼロと友達になって、それが嬉しくて兄さんに電話をしたことがあった。

 ああ、そうだ。確かあの時、兄さんにこう言ったんだ。兄さん、覚えてるかな。

 

『高明兄さん 俺、東京で友達ができたよ』

 

 ゼロだけじゃなくて、こんなにも。ずっと俺と一緒に笑ってくれる、友達が。

 

 

 ***

 

 

 スマホがメールの着信を告げる。

 ポケットに手を伸ばして届いたメールを確認すると、最近数年ぶりに連絡をしてきた弟からだった。一言のメッセージと、送った蕎麦を頬張る彼ら。

 思わず少しだけ笑みを漏らして、そっと携帯をしまう。今は勤務中だ、私用のメールの返信は後でゆっくりするとしよう。

 

「……んだよコウメイ、何かあったか?」

「何です? 何もありませんが」

 

 もはや腐れ縁の男は、失礼にも不審そうに私の顔をまじまじと見る。

 

「やけに浮かれてるじゃねえか」

 

 そう指摘され、少々面食らう。浮かれてなどいただろうか。そんなつもりはなかったのだが、改めて表情を引き締め直す。

 

「何でもありません。……が、そうですね」

「あん?」

「管鮑の交わり」

「……あ?」

 

 この数年、弟に何があったのかは知らない。ある程度の予測がつかないこともないが、それは兄として、警察官として、尋ねるべきではないことだ。そして、その予測が正しければこの数年相当に苦労をしただろう弟が、友人に囲まれてあんなにも気の抜けた顔で笑っている。それはきっと、彼らの存在のおかげなのだろう。

 立場も関係のない親しい友人というものは、非常に得難いものだ。それを景光が得ているという事実。それが何よりも、喜ばしい。

 

「……いえ、ひとりごとです」

 

 今度はおやきの詰め合わせでも送ってやるとしようか。

 そう思ったとき、再度スマホがメールの着信を告げる。今度は何だと画面を見ると、先ほどの写真には隠れるようにひっそりと映っていた彼から、ひとことだけ。

 

『春、来たでしょう?』

 

 ええ、来ましたよ。

 待っていた甲斐があったというものです。

 



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六花、紡ぐ

 それは珍しい、降谷(ゼロ)からのメッセージだった。

 深夜ちかくに送り付けてきて、何かと思えばその早朝に集合しろとのこと。

 相変わらずの傍若無人に何だコイツと思いつつ、あまりに美味そうな餌をぶら下げられては向かわざるを得なかった。そしてそれを、俺は今心底後悔している。

 

「……俺は朝イチとれたての美味い魚が食えると聞いて、この早朝に眠い身体引きずってきたんだが?」

 

 当直の徹夜明けに、海面の照り返しは辛い。愛用のサングラスをかけていても目がびりびりと痛かった。

 なのに呼び出した当の本人と来たら、わざわざ用意してやったぞ感謝しろと言わんばかりの表情で釣り竿を差し出している。いや間違いなくこいつはそう思ってる。

 傍若無人が服を着て歩いているようなそいつは、しれっとした顔で言い放った。

 

「釣れたらちゃんと捌いてやるよ」

 

 なら釣ってから呼べ。

 心底そう思ったが俺が口でこいつに勝てるはずもなく、ゼロがただ俺たちに魚を食わせてくれるような生易しい性格でないことを考えていなかった俺も悪い。コイツからの連絡だった時点で予測すべきだった。反省。

 

「てっきり朝イチ獲れたての魚買ってきて料理してくれるもんだと……そんな甘い話あるわけないのにね……降谷ちゃんだもんね……」

 

 ゼロの後ろで、遠い目をした萩原が手の中でウキを弄んでいた。

 その傍で、傍若無人に慣れきってもはや楽しんでいる猫目が笑う。

 

「ははは、まあそう言うなって。釣りも楽しいよ」

 

 やったことあるかと聞かれて力なく首を振ると、じゃあ初挑戦だなと諸伏から元気な声を掛けられた。

 もうどうにでもなれという気になり、とりあえずゼロから釣り竿を受け取る。

 

「松田も初心者か。じゃあ俺が面倒を見よう」

「初心者と経験者がちょうど三人ずつで良かったな~」

「三人ずつ?」

「おう、俺も経験者だ」

 

 しゃがんで竿の用意をしていた伊達が、首だけこちらに向けて言う。

 その傍でしゃがみこんでいる奴も初心者らしい。まあ、正直したことないだろうとは思った。聞くだけで泣けてくる寂しい青春を送っていた超絶イケメンは、お前何歳だという顔をしてきらきらと目を輝かせている。

 

「伊達、これでいいのか?」

「お、ちゃんと結べたな」

 

 そうだ、こいつたまに精神年齢五歳になるんだった。

 幼児もかくやというほどに目を輝かせた柊木は、手元でちまちまと釣り糸を結んでいたらしい。出来栄えを伊達に確認してもらうその姿は、もはや親子のようだった。いや二人は同い年だし、むしろ伊達より柊木の方が誕生日は早いのだが、もう雰囲気的に仕方がない。

 

「見てないでお前も準備しろ、松田。来るのが遅かったから竿の用意は済んでる」

「……おう」

「ハギも用意出来たな。じゃあ餌つけるか」

「はいは~、て、……え、餌って……」

 

 ぱかりと諸伏が開けた小箱に入っていたのは、―――名状しがたい、いや名状したくない感じの、まあ、小さな虫だった。

 中を見たハギがさあっと顔色を変える。

 

「うえっきもい!や、ちょっと待って俺そういう虫は無理!!」

「何だ、情けないな」

 

 呆れたようにゼロは言うが、かく言う俺も好んで触りたくはない。ゼロが付けてくれるほど心優しい奴ではないことくらいわかっているので、仕方なく覚悟を決める。

 にこにこ笑顔の愉快犯は、楽しそうに小箱をハギの顔に寄せて遊んでいた。鬼か。

 

「まあ普段見ない類の虫だからな。柊木は大丈夫か?」

 

 苦笑する伊達にそう言われて柊木も小箱を覗き見る。

 どんな反応をするかと思ったが、うーんと首をひねり、まあ平気と答えた。

 

「毒持ってたり噛んだりしないなら、別に」

「相変わらず旭ちゃんったら判断基準が理性的……」

「所詮虫だし。松田も苦手?」

「……好んで触りたくはねえな」

 

 やるけど、と言葉を付け加えると、満足そうにゼロは頷いた。やっぱりお前付けてくれる気なしかよちくしょう。

 その様子に伊達と柊木は苦笑している。

 

「まあ、とにかく美味い魚食うために頑張ろうぜ」

 

 せっかく早朝に集まったんだしよ、と笑う伊達に、溜息を返すしかなかった。

 

 

 ***

 

 

 とにかく、眠い。

 いつもの早朝のトレーニングよりさらに早く起きたこともあり、気を抜けば瞼が下りてきそうだ。すぐに釣れてくれれば眠気もまぎれるのだろうが、さすがにそう都合よく釣れるわけもない。

 

「ふあ……、」

 

 思わずあくびを漏らすと、隣にいたヒロくんが眠そうだなと苦笑する。

 

「そっちは眠くない感じ?」

「眠気のコントロールはわりと得意だから。よく叩き起されたり連日徹夜してたりしたからな!」

 

 その言葉にかつての上司その一はそっと目を逸らし、かつての上司その二は特に気にした様子もなく鼻歌を口ずさんでいた。

 ちなみに柊木の鼻歌は音痴ではないが、どこか微妙にリズムがズレている。俺たちといるときしか鼻歌を歌うことはないので知られていないが、実は旭ちゃん、リズム感が微妙らしい。

 

「それについてコメントは?」

「……すまなかったとは……」

 

 面白そうに松田が聞くと、降谷がぼそぼそと答える。柊木はと話を振ると、そういうときは悪びれない旭ちゃんはしれっと答えた。

 

「こき使えって言ったのは諸伏だ」

「さすが暴君だなオイ」

 

 苦笑する伊達に、もう柊木の部下はごめんだな……と遠い目をする諸伏。

 詳細は知らないが結構な暴君ぶりだったと聞いている。俺も旭ちゃんの部下になるのは御遠慮したい。絶対「え、これくらいお前ならできるだろ?」ってぎりぎりの死線を走らされるのは目に見えている。

 そのとき眠い目を擦っていた松田が、ふと思いついたように口を開いた。

 

「お前ら柊木の腹黒さに気づいたのいつ?」

 

 その言葉に、特に考えることもなく四人揃って即答した。

「初めて説教されたとき」と、俺。

「運動会のマジ切れのとき」と、伊達。

「教官言いくるめて全員の外泊許可奪い取ったとき」と、諸伏。

「深夜の模擬パトロール訓練で先輩達を返り討ちにしたとき」と、降谷。

 当の本人は平気な顔ではははと笑った。

 

「全部警察学校入学してふた月も経ってないときの話だな。ところで話題のチョイスと即答ぶりに悪意を感じるんだが」

 

 気のせいだろ、と松田はさらりと流す。

 変わらずけらけら笑う諸伏が、松田はいつなのと話を返せば、いまだ眠そうなグラサンヤンキーもまた即答で返す。

 

「大人しく言うこと聞くふりしながら、いびってきた先輩の靴ひも踏んで転ばせたのを見かけたとき」

「え、松田見てたの?」

 

 思わずと言ったふうに言葉を漏らした柊木に、揃って噴き出す。

 やっぱあれわざとかと松田が笑うと、柊木はおっと、と自分の口を塞いだ。

 

「しかもお前、わざと地面がぬかるんでるところ狙って転ばせたろ。あの頃はまだお前大人しかったから半信半疑だったけど」

「めんどくさかったから早く終わらせたかったんだよ。ドロだらけの服でいたら教官に叱られるだろ、だから早く着替えに行ってくれると思って」

 

 さっすが旭ちゃーん、と笑うと、見られてるとは思わなかったと当の本人はボヤいていた。

 旭ちゃん、俺が言うのもなんだけど反省するところが違うと思う。

 

「あとから仕返しとか大丈夫だったのか?」

「そのすぐあとに白樺先輩に目ェ付けられたから」

 

 あー、と全員が納得した声を揃えた。

 白樺先輩というのは、なんだかんだで俺たちの面倒を見てくれた、これまたとても頭のいい先輩だ。柊木がそれ以上絡まれないように適当に釘をさしてくれたのだろう。あの奥底の見えないにこやかな顔が脳裏に浮かんでぞっとする。

 

「やっぱりいい先輩だな、あの人は」

「いや、自分が存分に俺で遊ぶために邪魔だっただけだと思う」

 

 うんうんと伊達が言ったのを、眉間に皺を寄せた柊木が即座に否定した。多分旭ちゃんが正解。あの人はそういう人だ。

 長野県警に出向していると噂で聞いたが、あの腹黒性悪愉快犯な愛すべき先輩はお元気だろうか。こき使われそうだから会いたくはない。

 

「いやぁなっつかしいねぇ。もうそこそこ前になるのに覚えてるもんだな」

「何ジジくさいこと言ってんだ萩原。たかが十年くらいだろ」

「たかがって何よ陣平ちゃん。十年って結構なもんよ?」

 

 不思議と鮮明に思い出せる、こいつらとの時間。

 それだけ強烈で、退屈しない時間を過ごしてきたということだろうか。十年後にも同じように思い出せそうだから不思議なものだ。

 

「……つまり俺らの付き合いも十年くらいか」

「はは、切れそうもない腐れ縁だな」

「全くだ」

 

 感心したような伊達に、さらっと笑う諸伏、そして苦笑する降谷。松田と柊木の口元にも、穏やかな微笑みが浮かんでいる。

 

「……その腐れ縁のよしみで頼みがあんだけどよ、お前ら」

 

 少しの沈黙が流れたあと、伊達が声を改めた。

 視線をやると、自分の釣竿を見つめたままの伊達の横顔は、少し緊張した面持ちで言った。

 

「ちょっと改めて時間つくってくんねえか?」

「……今じゃだめなのか?」

 

 同じく声を改めた降谷が、聞く。

 伊達は少し口元を綻ばせ、答えた。

 

「あー、えっとな。……せっかくだから、二人揃って話してえんだよ」

 

 まず、彼女を紹介させてくれ。

 そう言われて思い出す。ああ確かに、あれからもう三年だ。

 緊張した空気が解け、また皆で笑った。

 

「とりあえず柊木、覚悟決めとけよ」

「さすがに初対面で卒倒はちょっとね〜」

「そうだ聞いてくれ、先日ようやく梓さんと笑顔で会話することに成功したらしい」

「お、リハビリの成果だな!そっかこの前の赤飯はそれか」

「柊木……一応彼女には事情説明しとくからな……」

「はははお前らマジでうるせえ」

 

 いつもの軽口が戻ってきたとき、ぽちゃりと伊達のウキが音を立てた。

 



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六花、言祝ぐ

 こんなに緊張した顔をした柊木を、かつて見たことがあっただろうか。

 公安に引き抜いて例の案件の指揮官を任せたときですら、ここまでがちがちに緊張はしていなかったように思う。まあ、原因がわかっているだけに何とも言えない。

 居酒屋の個室に集合し、今日初めて「彼女」と顔を合わせた。事情を聞いているという彼女は、距離を取った方がいいと考えたからだろう、伊達に半分隠れるようにして口を開いた。

 

「あの、……この距離なら大丈夫かしら。ナタリーです、初めまして」

「あー……柊木?大丈夫か?」

 

 伊達も続いて声を掛ける。二人の声を聞き、一瞬柊木が固まった。すぐには返事をせず、ひとつ呼吸をする。深く息を吐いたとき、一緒に柊木の力が抜けたような気がした。表情がほぐれ、わずかに余裕が生まれている。

 その顔を見た同期たちも、お、という顔をしたのが見えた。

 

「……初めまして、柊木旭です。お気遣いありがとう」

 

 そしてなんと柊木は、緩く微笑んでさえ見せたのだ!

 あら、と少し驚いたようにナタリーさんがつぶやくが、もはやそれどころではない。一瞬で顔色を変えたのは俺たちの方だった。

 

「どしたの旭ちゃん、何か悪いもんでも食べた?」

「飲んでないのに酔ったのか?どこまで下戸なんだよ」

「いやもしかして熱でも……体調悪いか?帰って休むか?」

「まだ飲んでないから今なら送ってやれるぞ」

「悪かったな、体調悪いのに無理してきてくれたのか」

「お前らちょっと正座しろ」

 

 ごきりと柊木の指がいい音を立てる。気にせずその額に手を当てると叩き落とされた。どうやら熱はなさそうだ。ということは。

 

「さては誰かの変装か……?」

「いい加減マジで殴るぞ降谷」

 

 柊木の顔が本当に怖くなってきたところで、紅一点が噴き出した。ごめんなさい、と小さく零しながら、肩を震わせている。

 

「本当に仲が良いのね。聞いていた通りだわ」

 

 目尻に浮かんだ涙を拭いながらナタリーさんが言う。何を言ったんだよと松田がつっこむと、伊達は苦笑して誤魔化した。

 

「で、大丈夫なの?旭ちゃん」

 

 萩原の言葉に、柊木はナタリーさんを見つめながらうーんと首を傾げ、大丈夫っぽいと軽く言った。確かにその顔にもう緊張は見られず、いつも通りの呑気な顔をしている。

 

「……柊木が女性の前でこんなに平気な顔をしてるなんて……」

「諸伏うるさい」

 

 口元をひん曲げた柊木に、本当のことだろと皆で笑う。

 少し安心した顔のナタリーさんが、改めて柊木に話しかけた。

 

「普通にお話しても大丈夫かしら?」

「ああ、大丈夫だと思う。気を遣わせて悪いね」

「いいえ、大丈夫なら良かったわ。航くんからよく話は聞いていたから、できれば仲良くしてもらいたかったの」

 

 よろしくねと笑う彼女に、よろしくと笑う柊木。微笑ましい光景なのに違和感しかないのが何ともはや。全面的に柊木のせい。

 自己紹介と世間話をしつつ、酒と肴を片づけていく。ナタリーさんは控えめだがノリは良く気遣いも上手で、時間は和やかに進んでいった。

 二人の出会いの話を聞いてはひやかして、伊達の黒歴史の話をしてはナタリーさんを笑わせて。伊達の事故の話になったときには、彼女が深々と萩原に頭を下げて慌てさせていた。女性相手に慌てる萩原というのはなかなか珍しいので面白い。柊木も自然にナタリーさんと会話をしていて、実は女性苦手が治ったのではないかと疑ったが、店員の女性にはビビっていたのでそうでもないらしい。いったい柊木は何を感じ取っているのだろうか。

 話をしているうちに、数か月後に予定しているという結婚式に話題がうつる。

 

「んじゃ、式の日取りもほぼ決定なんだ?」

「ああ。招待状は改めて送るからよろしくな」

「ご祝儀は期待すんなよ、お前もよく知ってる安月給だ」

「端から期待してねえから安心しろ。……そのかわりじゃねえが、お前らに頼みがあんだよ」

 

 お、とそれぞれの手が止まる。頼みごとがあるという話は今日呼び出される前から聞いていた。少し改まった様子で、伊達とナタリーさんが姿勢を正す。

 

「仕事で忙しいのはよくよくわかってるから断ってくれても全く構わないんだが、披露宴の余興、お前らに頼めねえか?」

 

 突如落とされた爆弾に、俺たちは揃って瞬きをした。

 

 

 ***

 

 

 日を改めて、伊達以外の五人で集合した。例のごとく柊木の家だが、今日は酒ではない。伊達とナタリーさんから受けた依頼についてだ。

 

「引き受けたはいいが、何をするかだな」

 

 む、とゼロが難しい顔をして言う。

 二人の依頼を、俺たちは二つ返事で受け入れた。そりゃあ仕事は忙しいが、腐れ縁の同期のめでたい席のことだ。できる限りのことはしてやりたい。俺以外の皆も同じ気持ちだったのだろう。期待するなよと口では言いながら、その日解散してすぐ、この打ち合わせの日取りを決めていた。

 だからこうして皆で集まり、難しい顔をしているわけである。それなりに器用な人間が集まっているが、だからといって人に見せられる特技があるわけでもない。

 が、ひとりだけにんまりと笑っている奴がいた。

 

「俺、ひとつ思いついてるんだけど、いい?」

 

 そう言って萩原が取り出したのは、スマホだった。用意していたらしい動画を、俺たちに見せる。

 画面にうつっていたのは、国民的人気を誇る男性アイドルグループのライブ映像だった。笑顔とファンサービスを振りまく五人のアイドルに、女性ファンからの黄色い悲鳴が響いている。

 

「これやんない? ドラマの主題歌やった曲だからたいていの人知ってるし、テーマとしてもあってると思うんだよね」

 

 確かに歌詞から察するに、彼らが歌っているのはどうやら友の新しい一歩を応援する曲だろうか。そのドラマも確か友情色の強いストーリーだったので、俺たちが伊達とナタリーさんに贈る曲としては悪くない。

 それでもどうも弱腰になってしまうのは、目立つことに対して消極的だからだろうか。いい歳して、という考えも正直なくはない。

 

「……つまり、歌って踊れと?」

「小難しいこと考えるよりは手軽でよくない?」

 

 これ、手軽か? おそらくそう思ったのは俺だけではない。誰でもダンスまで楽しめる曲として売れているだけあり、その振り付けはとんでもなく難易度が高いというわけではなさそうだが、一曲を踊り切るのであれば相当に練習も必要だろう。

 

「……この歳になって歌って踊るってお前な……」

「そうは言うけど陣平ちゃん、このアイドルさんたち俺らより年上よ?」

「アイドルとパンピーを同じ土俵で考えるお前がすげえわ」

「大丈夫自信もって、俺たちちゃんとイケメンだから。特にれーくんと旭ちゃん見てみ? ぶっちゃけアイドルよりかっこよくない?」

「否定しにくいところ持ってくるのやめろ」

 

 漫才を繰り広げる萩原と松田をよそに、ゼロはまじまじと映像を見ながらふむ、と頷いた。

 

「……ダンスや歌の技術はさておくが、コピーする分には何とかなるんじゃないか?」

「マジかよゼロ……」

 

 思わず言葉を漏らすと、ゼロは平気な顔で続けた。

 

「実際、手っ取り早く盛り上げるという意味ではいいと思うぞ。ヒロだって歌はうまいじゃないか」

 

 ゼロはそう言うが、うまいというほどのレベルでもない。そしてダンスなどやったこともない。

 しかし口ではあーだこーだ言っている松田も真剣な顔で映像を見ていて、一応乗り気でいることはわかる。そして確かに、無理に笑いを取って盛り上げに行くよりはやりやすい手段であることも事実だ。

 とにかく練習するしかないか、と小さくため息をつく。

 と、ふと先ほどから黙ったままの奴が一名いることに気付いた。他の奴も気づいたのか、そろってそいつの方へ目線をやる。

 

「…………………………」

 

 そこには、青い顔をして冷や汗を流す柊木の姿があった。

 

 

 ***

 

 

 どんなものであれ、余興をすれば少なからず人の注目を集めるものだ。それは柊木も覚悟していたのだろうが、まさか全力で笑顔を振りまくアイドルの真似事、進んで視線を集めに行くことをするとまでは予想していなかったのだろう。

 青い顔で若干震えている旭ちゃんに、発案しておいて何だがこれはまずいかと慌てて口を開きかける。別に思いついたから言ってみただけで、他の案を考えたって構わないのだ。

 そう思って別のに、と言いかけたところで遮ったのは当の本人だった。

 

「やる」

 

 え、と全員が固まる。

 

「皆でやれば多少は視線も分散されるだろうし、リハビリにもちょうどいい。他に案があるわけでもないし……何より、」

 

 俺だって、ちゃんと二人の結婚を祝いたい。

 どう見てもただの強がりだ。けれど、覚悟だけは伝わった。嫌だろうが苦手だろうが、やると言ったら聞かないのが柊木なのだ。やめるかと聞いたところで絶対に頷くはずがない。やだ旭ちゃんマジ頑固~。

 そんな旭ちゃんに皆で笑い、じゃあ軽くやってみるかと、近くの公園に場所を変えた。そして、別の意味で旭ちゃんには驚かされることになる。

 

「……なあ柊木、お前ふざけてやってんじゃないんだよな?」

「……松田、わかって言ってるだろ? 俺はいたって真面目だよ」

「……だよな、悪い」

 

 真顔で言った柊木に、思わず松田の方が謝った。

 簡単にパートを決めて、わかりやすいサビ部分から動いてみる。さすがそれぞれ運動神経も覚えも悪くない。腕はこうか、ステップはどうだと言いながら動きを確認し、実際に合わせてみた。

 が、音楽が入ると不思議なほど揃わない。原因はわかっている。柊木だ。

 

「……自覚あるけど俺リズム感ないんだ」

「そうみたいだな。動き自体はあってるのに致命的にリズムが外れてる」

「こらこら降谷」

 

 冷静にばっさりと言う降谷を思わず宥めるが、旭ちゃんは怒ることもなくもう一度じっと見本の映像を見つめる。

 何をやっても人より成果を出す姿しか見たことがなかったせいか、旭ちゃんが何かに躓くというところを初めて見た気がする。思わずそう口に出すと、柊木は画面から目を離すことなく答えた。

 

「日常生活と仕事に必要ないことはだいたいできないんだよ、俺。リズム感っていうのもそうだけど、そもそも飲み込みも良くない」

「いやそんなことはないだろ」

 

 思わずと言った風に諸伏がフォローに入るが、特に気にした様子もなく柊木はさらりと言った。

 

「良くないんだよ。ものによっては人の五倍十倍練習がいる。自覚してるから落ち込んでも拗ねてもないよ。その分練習するだけだから」

 

 本当に本心を言っているらしい柊木は、気にした風もない。そしてまたスマホを置いて、動きを確かめるように練習を始める。その後ろ姿を見て、思わず四人で目を合わせた。何を言うでもなく揃って小さく笑い、ひたすら練習するその背中に続く。

 

「はいはい旭ちゃんまたリズムずれてる~。右手上げるところが一拍遅いんだよ」

「左足も違うんじゃねえか?そこは手と足一緒に動くんだ」

 

 俺と松田でその両肩を叩き、そして降谷が柊木の前に立つ。

 

「俺が前で一緒にやるから真似してみろ」

「じゃあ音楽もう一回流すぞー?」

 

 なんやかんやと世話を焼き始める俺たちに苦笑しつつ、柊木はよろしく、と言って真剣な顔で練習を再開した。

 

 

 ***

 

 

「……お前前回一番できてなかったのに何で二回目になると完璧なんだよ……!」

「練習したからだよ。松田そこステップ違う」

 

 努力に関して加減というものを知らないこいつは、しれっと俺の動きにまで指摘をしてみせた。前回の練習から数週間、いったいどれだけ練習をしたのかと想像するだけで頭が痛くなる。クソ真面目もここまでくると病気だと思う。

 

「何というかさすがだな、柊木」

「足引っ張りたいわけじゃないからな」

 

 感心したようなゼロに、歌も一応歌詞と音は覚えたと柊木はさらりと返した。頭が痛い。別に何が悪いというわけではないが、ここまであっさりと追い抜かれると悔しいものがある。くそ、俺も次までには完璧にしてやる。降谷ほど病的な負けず嫌いではないが、俺にだってプライドくらいはある。

 その後も何度か動きを合わせ、歌のパートを確認した。たまにミスはあるものの何とか形にはなってきていて、このままあと数度練習を重ねればとりあえず見せられるものにはなるだろう。

 しかし発案のハギと来たら、何故かそれでは満足しないようで。

 

「アイドルやるからにはファンサも義務じゃん?」

「義務なの?」

「信じるな柊木。だいたい俺たちはアイドルをやるんじゃない、披露宴の余興をやるんだ」

 

 え、と真顔で繰り返した柊木を降谷がさっと止める。まーたハギが何か言い出したと呆れた目をやる俺たちに、ハギは何故だか妙に熱弁した。

 

「何言ってるの降谷らしくもない! やるからには全力! やるからには徹底的に! それが降谷だと思ってたけど俺の見込み違いだったのかね! まさかファンサくらいでビビるなんて!」

「……何だと?」

「こらこらこらゼロ、そんな挑発に乗るなってば」

 

 ヒロが暴走癖のある幼馴染を止めにかかるが時すでに遅し。ゼロの目には完全に火がついていた。お前こんなに乗せられやすくてどうやって潜入とかしてたんだよと思う。

 

「アイドルをやるってことはつまり、ひとに夢を見せること!希望をあげること!そして笑顔になってもらえるよう頑張ること!ファンサだってその一環!」

 

 やるからにはそこまで徹底的にやんなきゃでしょ!!

 萩原(ばか)が高らかにそう宣う。ふと、隣にいたヒロと目が合った。なあ、萩原疲れてるのか、と視線で聞かれた気がしたが、俺は黙って首を振る。

 疲れていようがいまいがハギの頭の壊れ具合はいつものこんなものだ。俺の心を察してくれただろうヒロは、黙って空を仰いだ。

 残念なことに、ここまで来てしまったら大抵やらざるを得ないのが俺たちなのだ。

 

「やるなら徹底的に、というのはわかった。しかしファンサというのは具体的にどんなものがあるんだ?」

「さすがれーくん、そうこなくちゃ! ライブ映像見て研究しよ!ほら三人も早く!」

 

 未だよくわかっていない様子の柊木と、ため息をつくしかない俺とヒロも、仕方なくハギに続く。

 やるからには徹底的にやらなければ、というのはわかる。中途半端なことをして場を盛り下げるのも避けたい。ここまで来てうだうだとごねるなんてガキくさいこともしたくなかった。となればもう、腹をくくるしかないわけで。もう一度ヒロと目を合わせて互いに苦笑し、この先十年分くらいの恥を投げ捨てる覚悟を決めた。

 余談だが、せっかくダンスと歌をマスターしてきた柊木も、今度はファンサのウインクができずに苦しむことになる。

 

 

 ***

 

 

 本日はお日柄もよく。その言葉で始まるスピーチを聞いていると、今日という日が来たことを実感する。

 慣れない礼服を身にまとい、隣にはドレスで着飾ったナタリーがいて。ふと目が合うと、幸せそうに微笑んでくれる。こんな幸せが、他にあるものか。ようやくこぎつけた彼女との結婚に、頬が緩むのは止められなかった。

 披露宴は和やかに進んでいく。時折目頭が熱くなったりはしたがそこは意地で抑え込む。無理しなくていいのに、と隣の彼女は笑うが、俺にも一応プライドというものはある。部下も来てくれている手前、涙を見せたくはない。

 そんな俺の我慢すら見越してか、にやにやと同期どもは笑っていた。この野郎、と思いつつ改めてやつらのテーブルに目をやると、気づいた。柊木の顔のこわばりがひどく、たまに震えている。

 実のところ、何やら歌って踊るとは聞いていたが詳細は聞いていない。リハーサルに立ち会ったプランナーのひと曰く、「本当にプロじゃなくて警察の方ですか? 絶対盛り上がりますよ!」だそうだがいったいどれだけ気合いを入れたのだろう。それに柊木、そんな顔するなら無理しなくて良かったんだぞと本気で心配になる。他の四人に関してはいつも通りというか、むしろどこか吹っ切れた顔をしていた。本気で何をやるつもりなんだお前ら。

 そうこうしているうちにやってきた、余興の時間。さっと五人が立ち上がってマイクを受け取り、前に出た。組み合わせが意外なのか、会場がどよめく。何故かいそいそと手荷物をもって前に出てくる数人の女性が見えた。筆頭の宮本がひどく楽しそうな笑顔だが、何か聞いているのだろうか。まあ、あの柊木が前に出ると言うだけで喜ぶのはわかるが。

 すっと前に出た萩原が、人好きのする笑顔を見せて口を開く。

 

「えー、本日の余興を務めさせていただきます、新郎の同期、萩原と申します」

 

 そのままテンポよく松田です、柊木ですと自己紹介を重ねていく。どうやら仕切り役は萩原が行うらしい。

 

「航さん、ナタリーさん、ご結婚おめでとうございます。さて、今回余興をとおふたりに頼まれたわけですが、何せ特に芸もないアラサー警察官五人組、実は何をするか非常に頭を悩ませました。しかしそんな俺たちに天啓を与えてくれたのは、他でもない新婦ナタリーさんの一言でした」

 

 え、とナタリーと目を見合わせる。

 萩原はにやりと笑って、下手なものまねをしてみせた。

 

『航くんにも聞いていたけれど、貴方たちアイドルみたいにかっこいいのね』

 

 そういえば、確かに顔合わせの飲み会でナタリーがそんなことを言った気がする。

 

「と、言うわけで」

 

 萩原の言葉を引き継ぐように、その肩に手を置いた降谷が不敵に笑う。

 

「歌って踊ります」

 

 その言葉を合図に、音楽が流れだす。

 ぱっと最初のポーズを取ってみせたそいつらは、確かに本職かと言うほどに決まっていた。イントロで曲を察した女性陣は黄色い声を上げ、先頭を陣取っていた宮本たちはさっと荷物を取りだす。その手に持っていたのはペンライトとうちわだった。か、完全にアイドルのステージ……!

 スタートは、諸伏のソロだった。伸びやかな声が会場を包み、一瞬で空気を作り上げる。いい声をしているとは前々から思っていたが、歌もうまいらしい。

 音楽の盛り上がりに合わせて動き始めるそれぞれ。お前ら何でそんなにキレあるんだよ、いや揃いすぎだろ、どんだけ練習したんだよ、仕事だって相当忙しかったはずなのに。頭の中でそんな言葉が次々と浮かんでくる程度には、完成度が高い。

 いくら運動神経の良いやつらとは言え、一朝一夕でこのクオリティには仕上がらなかっただろう。この余興のためにどれだけ時間を割いてくれたのかと思うと、また目頭が熱くなる。

 

「……すごいわね、皆さん」

 

 小さくナタリーに耳打ちされ、ただ無言で頷く。

 諸伏と降谷が楽器をやるという話は聞いたことがあるが、それでも音楽に造詣のあるやつらではなかったはずだ。しかも特に諸伏と柊木は目立つのを好まない。それでも盛り上げる余興を考えて、きっととても練習して、披露してくれたのだ。

 会場で盛り上がっているのは女性陣だけではない。ヒットした曲だけに知っている人も多かったようで、男性陣も音楽に合わせて揺れているし、あまりのクオリティに感心している人もいる。いや待て高木、何でお前は女性陣並みに目を輝かせているんだ。お前どんだけ柊木のファンなんだ。いや見なかったことにしよう。

 ばっと五人が揃えてポーズを決めたところで、さっと松田が前に出る。今日は当然サングラスもなしで、その強気な目で笑ってマイクに口を寄せる。勢いのある声で刻まれるラップは、男の俺が聞いていても恰好良い。女性陣の歓声が天井を突く。

 と、何かに気付いたらしい松田が歌いながら隣にいた諸伏の肩を叩いた。ん、と二人で正面を見て、そして笑い、マイクを持っていない方の手で一点を指さす。

 そして同時に、口パクで「ばん!」。

 うちわを持った女性がひとりへたり込んだ。そして歓声がさらに黄色くなり、自分も自分もとそれぞれがうちわをかざしだす。ファンサービスまで仕込んできやがったらしい。

 その後も続々と、ピースを作る降谷に、ひらひらと手を振る萩原、少し恥ずかしげにウインクをする柊木。松田と萩原はふたりでハートを作ってみせ、あるうちわを見た柊木はさすがにひとりではきつかったのか諸伏を引きずってきて一緒に投げキス。そしてファンサービスもこれが最後と、ステージ中央で堂々のバク転を決めた降谷!

 そこまでやりきったやつらを見ていて、思う。余興を頼んだことは全く後悔していないし、ここまで盛り上げてくれて本当に有難く思う。思うのだが。

 完璧主義が二人(ふるやとひいらぎ)と、愉快犯(もろふし)やるときはやるやつ(まつだ)、そして趣味・悪ノリ(はぎわら)

 こいつらに頼んだ時点でとんでもないことになることくらいは考えておくべきだった。いや違う、ちゃんと感謝している。しているが、「えっお前らそこまでやるか……?」と思ってしまっただけだ。さすが自慢の同期、やるとなったときの徹底具合がすごい。

 会場が最高潮に盛り上がり、きっと誰もがここをアイドルのライブ会場だと錯覚したあたりで、曲はフィニッシュを迎える。歓声と拍手に惜しまれたそいつらは、汗を軽く拭いながらやり切った顔。いや本当すげえよお前らは……と拍手をしていたところに、さっとマイクを渡される。

 

「好きなように突っ込みを入れろ、だそうです」

 

 楽しそうに笑って言ったスタッフさんに首を傾げつつ、受け取った。まだ続きがあるのかと目線を戻すと、含み笑いの萩原と目が合った。お前何企んでやがる。

 

「一緒に盛り上がってくださった皆さん、ありがとうございます! アラサーでもこんだけやれるんだぞってところをお見せできたでしょうか!」

 

 楽し気に手を振る萩原に、松田が近づいて呆れたように笑う。

 

「まさかこの歳になってアイドルの真似事をやるとはな……」

「まーたそんなこと言って陣平ちゃんったら! 大丈夫自信もって、ラップすげー恰好良かったし、何よりちゃんとイケメンだから! 自信もって!」

「うるせえ知ってるわ」

 

 真剣な顔で言う萩原に、堂々と「イケメン」を認める松田。興奮冷めやらない会場に笑いが漏れる。そんなふたりに、いやいやと近づいたのは諸伏だった。

 

「結構頑張って盛り上げたけどさ、まだちょっとイケメン具合足りなかったんじゃないか? 練習が足りなかったかな」

 

 だってほら、と俺たちの方をちらりと見て続ける。

 

「こんなに恰好良くキメてるのに、俺たちが歌って踊ってる間もナタリーさんはずっと伊達に寄り添ってたんだぜ?」

 

 あら、と少し照れたようなナタリーの声が漏れる。

 そうだそうだと、降谷と柊木も乗ってきた。

 

「あんなにファンサービスも研究したのにな。俺はバク転だってしっかり決めたし、柊木に至ってはこのところずっとウインクの練習をしてたんだぞ」

「そうそ……ってお前それ言わなくていいところだろ……!」

 

 練習したのか柊木。健気に鏡の前で練習したのか柊木。悪い、想像するだけで笑える。柊木に完璧のイメージを持っていたやつらは「えーっ」と声を上げていた。

 気を取り直した柊木が、コホンと咳払いをして改めて言う。

 

「でもほら、伊達……航さんはいいやつだから」

 

 いつも通りの柔らかな笑顔、柔らかな声で続けた。

 

「俺たちにとっても頼りがいのある自慢の同期じゃないか。ゴリラなだけで」

 

 おい気のせいか、今余計な言葉が付かなかったか。にやりと同じ顔で笑いやがった四人も、乗っかっていく。

 

「まあそうだな、優しいよな。ゴリラだけど」と諸伏。

「頭もいいし仕事も出来るよな。ゴリラのくせに」と松田。

「腕っぷしもあるしね~。あ、ゴリラだから?」と萩原。

「包容力もあるんじゃないか?ゴリラだしな」と降谷。

 

 あまりに息の揃った言いように、思わず手元のマイクにスイッチを入れる。

 

「言いたい放題だなオイ! というかお前らも十分ゴリラだろうが!」

 

 思わず叫ぶと、ええっと大袈裟に驚いてみせるそいつら。完全にいつもの飲み会のノリ、ただのおふざけで悪ノリだ。幸いにも、会場も笑いに包まれる。

 

「俺たちのどこがゴリラに見えると?」

「顔が綺麗なだけのゴリラじゃねえか。柊木お前林檎片手で握りつぶせるだろ」

 

 しれっと暴露した柊木の特技に、会場が騒然とする。にこりと対外用の笑みを作ってみせた柊木は、いやだなぁと軽く言う。

 

「左手ではできないよ」

「つまり右手なら余裕なんだろうが」

 

 そんな俺たちの会話にけらけらと笑う萩原がまあまあと柊木の肩に腕を回した。

 

「こーんなイケメン五人がちょーかっこいいところ見せても揺らがないくらい、ナタリーさんが伊達にべた惚れだっていう話なんですよねえこれが」

「ナタリーさんだけじゃねえだろ。新郎だって結婚が決まった後の飲み会で俺ら相手に五時間惚気やがったんだから」

 

 松田の言葉にうっと詰まる。ナタリーが目を輝かせて本当なのと聞いてくるが聞かないでほしい。あの日は自分でもどうかと思うくらい浮かれていたのだ。

 

「俺が作ったつまみを食べて『ナタリーが作ったやつの方が美味い!』って言ったことは未だに根に持ってる」

「そこは諦めろ柊木、愛情の差だ。お前の料理はただのストレス発散だろ」

 

 拗ねてみせた柊木に苦笑しながら降谷が言う。俺はそんなことまで言っただろうか、結構に酔っていたので何を口走ったのかあまり覚えていない。

 

「まあつまり、びっくりするくらい相思相愛の二人なんですよってことです。な?」

「そーだな。もう末永い幸せとか祈らなくても勝手に幸せになるだろ」

 

 雑にまとめた諸伏に、呆れた顔を作ってみせた松田が引き継ぐ。そして不敵な笑みを口元に浮かべたまま、降谷が続けた。

 

「ええ、だから俺たちも『お幸せに』なんて絶対言ってやりません」

「そこは独身貴族のひがみとして許して!」

 

 楽しそうに萩原が口を挟むと、会場がまたどっと笑う。

 そして穏やかな顔に戻った柊木が、改めて口を開いた。

 

「そういうわけなので、俺たちから贈る言葉はこれくらいです」

 

 そこでひとつだけ呼吸をして、合図も何もなしにそいつらは全員で声を揃えた。

 

『結婚、おめでとう!』

 

 今度こそ堪えきれなくなった涙がひとつ、頬を伝うのを感じた。

 

 

 ***

 

 

 冷たいタオルが身に染みる。

 余興を終えて一旦ロビーに出た俺たちは、とりあえず水を片手に休憩をしていた。情けないことに堪え切れなくなった俺は、ソファに倒れ込むように座っている。さっと冷やしたタオルを顔にかけられた。諸伏だろうか、準備が良すぎていっそ腹立つ。

 

「よく最後までもったね旭ちゃん」

「最後の方、手ェ震えてたけどな」

「うるせえ……」

 

 必死で堪えていたが松田には見抜かれていたらしい。悔しい。けらけらといつものように笑う諸伏がつん、と俺の頭をつつく。

 

「ったく、投げキスに俺を巻き込むなよな~やるけどさ~」

「ひとりはむり……」

「何ガキみたいなこと言ってんだお前」

 

 松田にからかわれるも、今は言い返す気力もない。あとで一発殴ってやると心に決めると、降谷が伊達、と言ったのが聞こえた。

 少し離れた場所から靴音がひとつ近づいていてくるのが聞こえる。

 

「おう、皆お疲れさん。本当にありがとな。で、柊木は無事か?」

「……あいさつがわりにかくにんすんのやめろ」

 

 思わずそう言うと、悪い悪いと笑う声が聞こえた。伊達がひとりでいるということは、ナタリーさんはお色直しだろうか。

 

「……いや、本当にありがとな。あんなに気合い入れてくれるとは思わなかったよ。盛り上がりもすごかった」

 

 むしろすごすぎだろ、とぼやく声も聞こえ、皆で軽く笑う。俺たちに任せたんだから当然だろと降谷が言うと、思い知ったわと伊達も笑った。

 

「おかげさんで最後まで良い披露宴で終われそうだよ。お前ら本当に二次会来ないのか?」

「お誘いは有り難いが、柊木もこの調子だしな。今日は披露宴までにしておくよ」

「あんなに目立っちゃったら二次会もすごいことになりそうだしね~」

 

 降谷と萩原の言葉に続いて、諸伏が伊達に聞こえないようにぼそっと明日仕事だしな……と呟く。この一日の休みをもぎ取るのにどれだけ苦労したのか、考えるだけで泣けてくる。

 

「そうか……じゃあ、また改めて新居に呼ばせてくれな。柊木、ナタリーがお前に唐揚げの作り方習いたいってよ」

「りょーかい……レシピとかないから勘で覚えてって伝えといて……」

 

 わかった、と幸せそうな声色で伊達が言う。いや、幸せ「そうな」、ではないか。こんなに嬉しげな声をしておいて、幸せでないなど有り得ない。

 

「……伊達」

 

 ようやく少し眩暈がおさまってきた。顔からタオルを外して、伊達の方に目線をやる。眩しさに負けて目が上手く開かない。

 何だ、という声を頼りに、そちらに向けて笑いかけた。

 

「俺、お前とナタリーさん見て、初めて結婚っていいかもって思ったよ」

 

 あんなにも幸せそうに寄り添う、ふたりを見ていたら。

 愛する誰か、信頼する誰かと、一生を共にする約束をしたふたりを見ていたら。

 結婚は確かにそれはふたりが選んだ「幸せ」の形で、たくさんある幸福のなかのひとつだと思うから。それをほんの少しだけ、羨ましいと。

 生まれて初めて、そう思ったのだ。

 

「……えっどうしよう旭ちゃんこれバグってない? 壊れてない?」

「やっぱ人前で歌って踊るなんて無茶するから……とりあえず俺、タオルもう一度冷やしてくるな」

「ついでに水と氷も頼んできてくれ、ヒロ。薬もいるかもしれない」

「いっそ救急車呼ぶか?絶対頭やべえだろ」

「俺たちの披露宴のために無理させて本当にすまねえ柊木……!!」

 

 目が慣れてようやく愛すべき同期たちの顔が見えるようになった俺は、とりあえず手近にいる松田から順番に殴っていこうと拳を握りしめた。

 




書籍にしたときの書き下ろし②でした。


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「六花」

都合上、今回は書き方を変えています。


 この物語の主人公には、モデルがいることをまず明記しておきたい。彼と交わした言葉の全ては、今でも鮮明に思い出すことが出来る。それだけ彼は、私にとって非常に衝撃的で、非常に魅力的な人物であった。そう、彼の物語を紡いでみたいと思うほどに。

 そして書いたのがこの物語の原案であるが、残念ながらモデルである彼は「自分が主役の物語なんて照れくさくて読めない」と言って原稿を読んではくれない。それならばと、私は彼の友人たちに手を借りることにした。

 彼の五人の友人たちは、傍から見ても非常に仲が良く、お互いのことをよくわかっている。きっと良い意見をくれるだろうと思い原稿を渡したのだが、結果は惨敗だった。

「まだまだですね、先生」

 彼らは異口同音にそう言って、笑った。あいつはこんなもんじゃありませんよと、得意げな顔をして。

 

 サングラスがよく似合う彼は、言う。

「あいつはもっと、冷徹だ」

 こんなまだるっこしいことはしない、最短の道をいつだって選ぶ合理主義の鬼ですよ、と。

 

 豪快に笑う彼は、言う。

「あいつはもっと、優しい」

 人を否定することが苦手なんですよ、仕事外には限りますがね、と。

 

 人懐っこい猫目が印象的な彼は、言う。

「あいつはもっと、容赦がない」

 特に俺たちのことはもっと雑に扱うし、何なら徹底的にこき使います、と。

 

 緩く下がる目尻が優しげな彼は、言う。

「あいつはもっと、素直だ」

 素の時は思ったことをそのまま口にしちゃうし、人の言葉も抵抗なく受け入れる子供みたいな奴です、と。

 

 ずっと彼と競い合ってきた彼は、言う。

「あいつはもっと、プライドが高い」

 謙虚なように見えて、自分が積み重ねてきた努力を決して軽視はしません、と。

 

 彼らの口から語られる「彼」の姿は一層魅力的で、私はそれからまた大幅な書き直しを余儀なくされた。幾度となく書き直し、幾度となく彼らから意見をもらい、ようやく完成したのがこの物語である。彼の友人たちには本当にお世話になった。この場を借りて謝辞を伝えたい。彼らの協力なくしてこの物語は成立しなかった。本当にありがとう。

 もちろん、モデルになることを嫌々ながらも許してくれた彼にも、心からの感謝を。この話をした時の心底嫌そうな彼の顔は、今でも思い出すと笑ってしまう。それでも了承してくれて、本当にありがとう。

 この物語は私にとって傑作のひとつであると同時に、筆力不足を痛感させるものとなった。どれだけ言葉を尽くしても、主人公よりモデルである彼の方が魅力的なのである。気高く、優しく、職務に忠実で、それでいて人間的な彼をどうにか表現しようと努めたが、今の私にはこれが限界らしい。

 誰よりも桜が似合う彼の正義を、わずかでも伝えられればと願うばかりである。

 

 *

 

 と、いうのが当初書いていた物語の前書きである。そう、最初は、そんな物語を書くはずだった。しかしやはり、どうにも納得のいく作品が書けない。どうしても、主人公が「彼」になってくれないのだ。

 締切も迫り、どうしたものかと頭を抱えていたところ、助け舟をくれたのはまさかの息子だった。「彼」やその友人たちのことも知っている息子は、こっそりと原稿を読んでいたらしい。それを私が咎めるより先に、愚息はさらりと言った。これではだめだと。

 

「あの人、こんなに『ひとり』じゃねーよ」

 

 恥ずかしながら、衝撃が走った。その時書いていた物語の主人公は確かに「ひとり」だった。しかし、現実の彼は?もちろん「ひとり」であるわけがない、あれほどまでに互いを理解した友がいるというのに!

 それに気付いてからは早かった。登場するキャラクターを追加し、構成を練り直し、エンディングも書き換えて。結局、当初考えていた物語とは全く違うものになった。しかし、絶対にこちらの方がいい。そう思えるだけの出来になったと自負している。そして、タイトルも変えた。物語が変わったのだから、当然といえば当然である。

 全く新しい物語になったこれを、改めて彼の友人たちに見てもらった。五人とも、気恥しそうな顔で及第点をくれた。ガッツポーズなど何年ぶりにしただろうか。

 そうして完成したのが、この物語である。改めて言おう。

 誰よりも桜が似合う「彼ら」の正義を、その絆を、わずかでも伝えられればと願うばかりである。

 

 六つの花の生き様を、どうか感じて欲しい。

 

 

 

 ―――工藤優作著『六花』前書きより抜粋。

 

 この作品は作者たっての希望で日本のみで出版され、今後も含め翻訳の予定はないという。すでに続編の執筆にも取り掛かっており、その作品には同作者の作品『緋色の捜査官』の主人公も登場すると明言されている。

 

 

 ***

 

 

 「お、皆ニュース見ろよ」

 

 いつものごとくビール缶を傾けながら、伊達はテレビを指した。特に意味のない雑談に花を咲かせていた酔っ払いたちも、その声に釣られて画面に目を向ける。そこには、見覚えのあるハンサムな男性が映っていた。

 

「工藤先生じゃん」

「へえ、何か賞とったのか、『六花』」

 

 画面の中で多くのフラッシュに照らされる工藤氏は、マイクを向ける記者たちに笑顔を返していた。

 今回工藤氏が受賞したのは、一般大衆向けの娯楽小説に与えられる賞である。これまでも数々の賞を受賞してきた工藤氏だが、普段は本格ミステリを専門としていたこともあり、この賞を受賞したのは初めてだとテロップが流れた。

 

「へ~初めての受賞なんだ。意外」

「工藤先生と言えば本格ミステリだからな。畑が違ったんだろう」

「俺も工藤先生の他の本読んだことあるけど、『六花』は毛色が違うもんな」

 

 諸伏がどこか愉快そうに言う。

 対CIAの作戦において手を借りるかわりに、小説の主人公のモデルとなることを許可した柊木。そして当初はモデルとなるのは柊木だけだったが、いつのまにやらその主人公の周囲の登場人物にも、どこか覚えのある人間が揃っていた。

 

「いや~かっこよく書いてもらったよねぇ俺たちも」

「ま、一番いいところは主人公が持ってったけどな?」

 

 にやりと口角をあげた降谷の言葉に、視線は柊木に集まる。当の本人は、何も聞いていないように素知らぬ顔でビール缶を傾けていた。

 

「結局お前は読んだんだっけ?なあ主人公サン」

 

 からかうように松田が言うと、ようやく「主人公」はめんどくさそうに眉を顰める。そして口元に缶を寄せたまま、そろりと逃げるように目線をそらした。その反応に、驚いたように諸伏は瞬きする。

 

「えっ読んだの柊木。あんなに嫌がってたくせに」

「何も言ってないだろ」

「いやその顔は読んでるだろ。わかるよ」

 

 さらりと言い返され、眉間のしわを深めた。なかなか口を開こうとしない柊木に、にやにやと笑いながら萩原はその肩に腕を回す。

 

「なーに旭ちゃん照れてんの〜? いやいや誰だって自分をモデルに小説書かれたら気になるって。読んじゃうって。照れなくていいよっていででででで旭ちゃんギブギブ指が抜ける!!」

「萩原マジでうるせえ」

 

 指離して、と喚かれてようやく柊木は肩に回っていた手の指を離す。渾身の力で引っ張られて赤くなった中指に、萩原はふうふうと息を吹きかけていた。その姿に苦笑しつつ、伊達は柔らかい声で問い直す。

 

「読んだのか?」

 

 からかいの色が消えたことを察してか、ようやく柊木は幾分か気まずそうに口を開いた。

 

「……お前らがモデルになったキャラクターも出てるって新一くんから聞いて、興味湧いたから。献本も貰ってたし」

「なるほどな。それで?」

「何だよ」

「感想は?」

 

 降谷に言われ、柊木は一瞬考える素振りを見せる。形のいい瞳がゆるく細められ、そしてまた開いてテレビ画面を見る。そこにはインタビューに答える工藤氏の姿があった。

 

『本にも書いたのですが、この主人公たちにはモデルがいるんです。この受賞も彼らあってのことですから、改めてお礼を伝えたいですね。彼ら自身の信条やキャラクターが魅力的だったからこそ、こうして多くの方に楽しんで頂ける物語になりました』

 

 そのコメントに続けて、アナウンサーが言葉を続ける。この「六花」はベストセラーとして増刷に増刷を重ね、既存のファンだけでなく、新規の読者にも広く受け入れられているらしい。モデルが実在すると明記されていることから、近年イメージダウンを危惧されていた警察の株が上がっているとかいないとか。

 これを読んで警察を目指すことを決めました、と答えている若い読者への街頭インタビューの様子も放送された。

 

「……あんなに持ち上げられると複雑だなと……」

 

 思わずと言ったように漏れた柊木の言葉に、確かに、とほかの面々も苦笑を漏らす。良いように書かれることは照れくさくも嬉しいことだが、綺麗なだけの仕事でないことはよく知っている。

 

「……面白かったし、誰が誰のモデルかってのもちゃんとわかったし、まあかっこいいキャラクターだったと思うよ、皆。ただなんて言うか……そんないいことばっかりしてるわけでもないだろ、俺もお前らも」

「はは、言いたいことはわかるよ」

 

 リアルにしては泥臭さが足りないよな、あの話。

 そう言って諸伏は新しいビールのプルタブを開け、柊木のもつビールにこつりとぶつける。

 まあそこはねぇ、と萩原は自分の口にさきいかを放り込んだ。

 

「全部が全部は書けないっしょ。たとえば陣平ちゃんが聞き込み下手すぎて逆に不審者として通報されちゃった話とかさ」

「そうだな、聞き込みした相手に惚れられてプレゼント渡されそうになったところを断ったら本庁前で大泣きされた萩原の話とかな」

「お前らは本当に何やってんの?」

 

 俺達は大真面目に仕事してたんだ、と真顔で言う馬鹿ふたりに柊木は天を仰ぐ。本当に同期を査問にかける日も近いのではないだろうか。

 まあまあ、と伊達は柊木の肩を叩きながら手持ちのビールの最後の一滴を飲み干した。

 

「かっこよく書いてくれたんだし良いじゃねえか。警察のイメージが良くなることは上層も喜んでるんだろ?」

 

 この小説のことは警察内でも評判にはなっていた。巷の名探偵たちのために下がっていた評価も見直されつつあると好意的に受け止められ、また単純に警察小説として面白い、と警視総監が絶賛したとの噂も流れている。

 警察のイメージアップの施策として広告塔にされそうになったことのある柊木としては大変有難い話だった。そこだけは感謝してもいいと柊木も思っているが、警察の株を上げることも考えて書いたのではないか、とも少し思っていた。「日本警察の救世主」が奪ってしまった警察への信頼を少しでも取り戻そうという、工藤氏のいらぬお節介なのかもしれない。

 

「まあ俺たちは下書き段階というか、あのストーリーになる前のものから読んでるからなおさらそう思うんだろうが、『六花』はよく書けてると思うぞ。特に主人公についてはな」

 

 面白そうに口を挟んだ降谷の手にはピーナッツ。それをぽりぽりと咀嚼する降谷に、そうだったか、と柊木は首を捻った。自分のことであるせいか、いまいち腑に落ちていないらしい。そんな彼に笑いながら頷き、降谷は長年のライバルにこう告げた。

 

「ああお前そっくりだったよ、最終的には僕たちを頼る可愛いところとかな」

 

 その言葉に周囲はあー、と納得したように深く頷き、「主人公」は盛大に口角をひん曲げて拗ねることになる。

 



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柊木旭は勇者ではない

 俺は知っている。柊木旭は、決して勇敢ではないということを。どちらかと言えば臆病で、心配性で、悲観的で、一番最悪の状況を想定して動くやつだということを。

 だから、わかる。強く握られた手は震えを隠すため、強気な言葉は動揺を悟らせないため。ここですべてを終わらせて、後顧の憂いを断つために。

 

「……俺の杞憂であればいいと思っていましたよ、ミスター」

 

 (ゼロ)を危険にさらすこの作戦を、誰より嫌がっていたのは柊木だった。どれだけ予防線を張ろうとも、それだけは、と言いたがらない柊木にこの作戦を吐かせたのは俺自身。作戦の断行を決断させたのも俺だった。今でも、それを間違っていたとは思えない。CIAを前に不敵なほど堂々と笑ってみせる柊木を見て、間違いだったなんて誰が言えるだろうか。これを強がりだと見抜ける人間なんて、本性を知っている俺たちくらいだ。

 切り札を出そうとポケットに手を入れたミスターにも、柊木は嫌味なほど余裕な顔で笑ってみせる。

 

「昨晩は見張りを代わっていただいてありがとうございました。その間に貴方の部下の方々が仕掛けてくれた爆弾は解除させていただきましたよ。わりと単純なつくりだったそうですね、解体には五分とかからなかったそうです。貴方が見張りをしていた短い時間で仕掛けたせいか、隠し場所も安直で見つけ出すのもそう難しくなかったと」

 

 暗殺の可能性に気づき、あいつらに助けを求めた柊木。たったひとこと「たすけてくれ」だけのメッセージだったが、心の底からの声だったのだろうと思う。それだけ、柊木は追い込まれていた。(ゼロ)が、組織が、ミスターが、俺が、柊木を追い込んだ。

 公安に来て以降柊木ができる限りあいつらとの連絡を絶ったのは、あいつらと話をすると弱音や甘さが顔を出す自覚があったからだと思う。公安として、その指揮官として、冷徹に徹するためには、切り捨てざるを得なかった。

 あの寂しがりには、本当に辛かっただろう。

 

『旭ちゃん寂しくて死んでない? 大丈夫?』

『いやあいつ兎じゃねえから。言いたいことはわかるけどよ』

『そんだけきつい事件(ヤマ)なんだろなあ。ああ、詳細はいいぞ』

 

 柊木からのヘルプに飛んできたそいつらも、そんなことを言って笑っていた。よくわかっている、と苦笑すると、三人そろって柊木だからな、と声をそろえる。風見さんですら、少し呆れたように笑っていた。

 爆弾のことを説明すれば、一瞬で険しい顔になる伊達と、目を輝かせる馬鹿ふたり。ねえお前ら状況わかってる? この案件、かなりの佳境なんだけどわかってる?

 

『まっかせろ腕は鈍らせてねえ!』

『じゃじゃーん、なんと工具を持ち歩いてる超熱心な俺たちです!』

『諸伏、本当にこのふたりに任せて大丈夫なんだろうな?』

 

 すいません風見さん腕だけは確かなんです頭に問題があるだけで。何も言えず両手で顔を覆う俺をよそに、まあまあと慌てた伊達が真顔の風見さんを必死に取りなしていた。

 しかしいざ爆弾を前にすれば迷いのない手つきでそれを解体していくのだから、本当に何ともまあ。爆処も惜しい人材を手放したものだ。いや自業自得だけど。綺麗に解体した部品をひとつ残らず回収し、それ以上仕掛けられたものがないことを確認して、三人に礼を言った。何を今更、と予想通りの言葉が返ってくる。

 

『爆弾関係ならまた呼んで良いぞ、強盗騒ぎはもうごめんだがな』

『今回は除け者にしなかったから許す!』

事件(ヤマ)ももう終盤なんだろ? 朗報待ってるぞー』

 

 その様子をモニターしていた柊木には、音声までは届いていない。けれど、爆弾解体の報告をしたときの柊木の顔にはわずかに優しい微笑みが乗っていた。そうか、と答えた瞬間には、それも消えてしまっていたけれど。

 きっと、「そこ」に戻るために、柊木は堪えている。自分だけではなく、俺と、(ゼロ)と一緒に「帰る」ために。それがわかっているからこそ「公安」に徹しきるそいつは見ていてどこか苦しくて、だけど目を背けることが許されないのはわかっていた。

 策を弄し、目の前の相手を嘲笑う柊木をつくったのは、俺たちだ。

 

「もう一度お伺いします。快く協力者の名前を教えてもらえませんか?」

 

 自身の勝利を確信している人間の顔に見えるだろう、内心では震えているくせに。どれだけ完璧な切り札を作って対策したとして、想定外がないとは限らない。ここまで手を尽くしてこの展開に持ってきたのなら、ほぼほぼ結末は見えているというのに、それでも。

 工藤先生や探偵少年、そして宮野志保さんにまで全面協力頂いて作り上げた「違法作業」。まったく、とんでもないものを作ってくれたものだ。本当にこれが全世界に発表されたら、俺たちだって、特に全責任を負っている柊木だってただでは済まないというのに。全部わかった上で、交渉が決裂したときは本当に自分が全責任をとる覚悟をもって。

 顔色を急激に悪くしていくミスターから、それでも銃口はずらさない。追い込まれた人間は何をするかわからないことくらい骨身にしみてわかっている。いざというときは、その脳幹に向けて引き金を引く覚悟はあった。柊木には止められていたが、この状況で柊木を喪うことだけはあってはならない。殺人の罪を背負うことも、俺にとっては今更だ。

 と、思っていたが、どうやらミスターは逆上するタイプではなかったらしい。

 

「……さて、そろそろ増援が到着する頃です。貴方を連行しないといけない」

 

 最後の選択を迫られたミスターは、膝をついた。

 内心でだけ、気を抜かない程度に小さく息をつく。青白い口からこぼれ落ちた名前を脳に刻み、視線だけで柊木を見た。

 

「諸伏、彼の拘束と連行を頼む」

 

 了解、と答えて一歩二歩とふたりに近づいた。片手で拳銃を構えたまま、逆の手で懐の手錠を探る。

 これで柊木と(ゼロ)が警察庁のそいつを捕まえればとりあえずは一段落。ずいぶんと恐ろしい助っ人に協力を取り付けてあると聞いたときには、お前本当に何者だよと思ったものだが、事情を聞いたときにはもっと驚いた。自分の深いところに刻まれている因縁まで巻き込んできた柊木には、本当に頭が上がらない。

 ミスターを拘束しようとしたとき、やめておけばいいものを、彼はまた顔を上て言い募る。負け犬の遠吠えほど見苦しいものはないが、よりにもよって死ぬほどキレているやつの地雷に飛び込むのだから、さすがに本気で馬鹿だなと思った。

 柊木は、少なくとも俺ほどは怒りを殺すことに慣れていないのに。

 

「何も知らない友人を囮に使うなんて、さすがになかなか冷徹ですね? しかも。憤り憎む様子すら見せないとは」

 

 柊木の擬態がなかなかのレベルとはいえ、その腹の中を見抜けない自分の度量を差し置いてこの言い草。困ったように苦笑した柊木を、さすがに止める気にはなれなかった。

 がしゃ、とキーボードが吹っ飛ぶと盛大な音を聞きつつ、モニター車の修理費用って結構高いんだけどな、とすっかり器物損壊に慣れた俺はそんなことを思う。マイクのスイッチを切ったのは、冷静さに欠いたところをほかに聞かれたくなかったからだろうか。

 

「……公安の捜査官として、そして指揮官としては、貴方に憎しみやそれに類する感情は持ってはいません。貴方たちは職務に必要な行為を行ったにすぎず、そこに『暗殺』という項目があっただけ、そう考えます」

 

 そんな風に割り切れる柊木だったら、きっとここまで苦しまなかった。

 

「でも俺はね、本当は自分の縄張りに手を出されるの、死ぬほど嫌いなんですよ」

 

 柊木のこんな低い声、多分初めて聞いた。こんなに瞳孔が開いているのも、多分初めて見た。基本的に、怒らない人間なのだ、柊木旭というやつは。怒って見せても、適当に自分の怒りをいなして消化できる人間なのだ、本当に。

 少なくとも暴力なんて安直な手に出ることは今まで一度もなかった。きっと、これが最初で最後であるように思う。今の柊木の表情を見ると、そう願わざるを得ない。

 

日本(ひとんち)を土足で荒らしたばかりか、日本警察(おれのもの)にまで手を出しやがって」

 

 大きく出たな、と思いつつ、本心なんだろう、と内心で苦笑する。そういえばどこかの誰かも「俺の日本」なんて大きなことを言っていた。ふたりの見ているものはきっと全然違うのに、それでも同じようなことを言うのだから不思議なものだ。

 

「この程度で済ますのは、今回限りだ。……次はありとあらゆる手を使って、テメェの飼い主ごと潰す。世界一の大国だろうが諜報機関だろうが、この俺を敵に回したらどうなるか思い知らせてやるよ」

 

 ああ、この言葉に嘘はない。本当にやめてやってくれよ、とすでに心の折れているミスターを横目で見て内心でつぶやく。

 柊木のように、その手にあるものが少ないやつほど振り切ったときは怖いのだ。少ないからこそ、ひとつでもその手からこぼれ落ちることを許さない。奪おうとする相手には誰だろうと牙をむく。普段が温厚ぶってるだけにそのあたりの落差がかなり極端であることを、柊木自身も自覚しているのかどうか。

 柊木が腹の中で飼っているこの獰猛さ。さっきまで内心で震えていたはずの柊木に、その気持ちすら忘れさせてしまうほどの激情。どうか、もう発揮されることがなければいいと思う。いつか、柊木自身を傷つけてしまう前に。

 ふ、と柊木だけに聞こえるように小さく息を吐く。ぴた、と柊木が動きを止め、その瞳から怒りが引いた。突き出していた脚を下ろし、いつも通りの顔を見せる。

 

「じゃあ諸伏、よろしくな」

 

 その笑顔を見て、安堵の息をついたことは悟られてしまっただろうか。

 

 

 *

 

 

「なあ柊木、今回のいろいろで思ったんだけどさ」

「何だよ」

「柊木って実は結構びびりだしチキンだしネガティブだし、そのくせキレると怖いのな?」

「喧嘩売ってんなら買うぞ」

 

 違う違う、と俺は口元をひん曲げる指揮官殿に笑顔を向ける。

 

「やっぱお前は物語に出てくるような完璧な勇者じゃないよなと思ってさ」

「当たり前だろ。俺もお前もせいぜい村人AとBだ」

「ははは! そうだよな、いや俺が言いたいのはさ、」

 

 剣を持った自信満々な勇者に助けられるよりも、木の棒しか持ってないびびって震える村人Aに助けられる方が感動的でありがたみがあるなってこと。

 俺がそう言うと、柊木は三秒ほど考え、それでも困惑した顔で俺の方を向いた。

 

「……つまりどういうこと?」

「うん、だからつまりな、」

 

 勇者じゃないのに助けてくれてありがとうってことだよ。

 そう言うと、ぱちぱちと長い睫を揺らして瞬きした柊木は、困ったように笑ったのだった。



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太閤名人との出逢い

 俺はどうしたらいいんだ。そんな言葉ばかりが、頭の中でぐるぐると巡る。

 いや、わかっている。結局のところ、俺にとれる選択肢は限られていて、いつだって最終的にこいつらに話を聞いてもらうしかないのだ。

 

「いや久々にマジで顔色悪いね? どうしたのよ」

「どうせ女絡みだろ。今度はどんな質の悪いのひっかけたんだよ」

「今回は違う」

 

 松田の言葉を受けて反射的にそう返すと、全員が驚いたように一瞬固まる。違うのか、と伊達が心配そうな顔で言った。

 

「となると本当に何があったんだ? お前が女性関係以外でそんな顔したこと初めて見たかもしれねえぞ」

「……今回は男なんだよ」

「……ん?」

「だから男にストーカーされてんだよどういうことだよちくしょう!!」

 

 こいつらのこんなに間抜けな顔久々に見た、なんて思う余裕も俺にはなかった。

 

 

 *

 

 

「……おとこ」

「確かなのか?」

 

 降谷に問われて頷く。

 そして周囲に漂う「あ、こいつとうとう……」というこの雰囲気。全員ぶっ飛ばしてやりたい。その心底哀れんだ目をやめろ。

 

「気づいたのは二週間くらい前……警視庁ちかくで視線を感じるようになって。視線の主はすぐに見つけられたけどどう見ても男なんだよ……ていうか俺の目が間違ってなければ結構な有名人でしかも既婚のはずなんだよ……」

「有名人でしかも既婚」

「お前魔性にもほどがあるだろ」

「うるっせえ!!」

 

 じわりじわりとにじんできた視界。とりあえず落ち着けと諸伏に肩を叩かれる。それで、と宥めるように続きを促された。

 

「つまり被疑者の身元まで特定できてるんだろ? そいつの名前は?」

 

 脳裏に浮かぶ、その「ストーカー」の顔。テレビにもちょくちょく出ていて、その顔は前から知っていた。俺としてはそれなりに好印象をもっていたし、結婚の報道がでたときだってめでたいくらいの感想はもったのだ。かなりの愛妻家であると言われているのに、何故。

 絞り出すように、その名前を告げる。

 

「……プロ棋士の、羽田秀吉……」

 

 

 *

 

 

 まさかこんなところに繋がりがあるとは。

 初めて聞いたその血縁関係に、俺は即座にスマホを取り出し時差も何も考えないままその人物にコールする。

 数回のコール音の後に、彼はいつも通りの低い声で応えた。

 

『君から連絡をくれるなんて珍しいな』

「どうもこうもねえわ今すぐ日本に来やがれこの野郎」

『……何があったんだ?』

 

 よしよしいったん落ち着け、と苦笑して(いる振りをして内心絶対面白がって)いる諸伏は俺の肩を叩き、スマホを抜き取る。通話をスピーカーの設定にして海の向こうにいる彼に話しかけた。

 

「赤井か? 俺、諸伏。久しぶり」

『ああ、諸伏くん、久しぶりだな。それで、柊木くんは何を荒れているんだ?』

 

 俺にはまったく心当たりがないんだが、という不思議そうな声に叫び返しそうになるのを萩原に押さえ込まれる。話進まないからちょっとおとなしくしてよう、と宥められ、それをはずそうとした腕は松田に押さえられた。ちくしょうこのゴリラども。

 

「羽田秀吉さん、知ってるよな」

『弟だが』

「うん。その弟さんがな、柊木のストーカーしてるっぽいんだよ」

 

 数秒、電話口で沈黙がおりた。

 

『……冗談だろう?』

「冗談じゃ、!」

「おっとっと、はいはい旭ちゃんおとなしくして! 気持ちはわかるから!」

『秀吉はクレイジーなレベルの愛妻家だぞ。柊木くんがどれだけ魔性の男であっても、秀吉が妻を裏切って男に走ることは絶対あり得ない」

 

 だれが魔性の男だ!!

 全力の叫びは萩原の手の中に飲み込まれる。とうとう伊達にいい子だから落ち着けな、と頭を撫でられ始めた。いったいお前らは俺を何歳児だと思ってるんだ!

 そんな俺を見ながらため息をついた降谷が、嫌そうな顔をしながらスマホに話しかける。

 

「だが実際、複数回に渡って自分の後をつける彼の姿を柊木が確認している。柊木はこの手の被害者としてプロの域だぞ。偶然や間違いとは思えない」

『ああ、降谷くんか。……その手の被害者のプロという言葉にはとりあえず言及しないでおくが、もし本当に弟が柊木くんをつけ回しているんだとしたら、それはストーカーというより何か誤解があるんじゃないか』

「誤解だと?」

 

 ああ、と赤井さんは落ち着いた声のまま続ける。ふるやはあとでなぐる。

 

『秀吉はもともと頭が切れるし、常識的な感性を持ち合わせている。その秀吉がそんな馬鹿をやっているんだとしたら、考えられる理由はひとつだろう』

 

 彼女に事情を聞くなら俺よりも君たちの方が話が早いと思うが、とどう聞いても「俺は関わりたくない」という本音が透けて見える赤井さんのことには、宮野さんにでも協力してもらって絶対に何らかの形で嫌がらせをしてやろうと決めた。

 

 

 *

 

 

「ほんっとうにすみませんでした!!」

 

 夫の頭を一緒に押し下げながら頭を下げる彼女。結婚後も変わらず仕事を続けているという、警視庁交通部交通課の宮本由美警部補だ。噂は聞いたことがあったし、伊達の結婚式では間接的に世話になったが、面と向かって話をするのはこれが初めてだ。

 警視庁から少し離れたところにある公園のひとけのないエリアとはいえ、この光景を誰かに見られてはいないかと少しヒヤヒヤする。

 

「宮本さん、とりあえず頭を上げてください。羽田さんも」

「でも……!」

「誤解がとけたなら俺としては十分なので」

「す、すみません……」

 

 ようやく頭を上げることを許された太閤名人。いつもと変わらぬ寝ぐせがぴょこんとはねているのを見て、あの寝ぐせってキャラ作りじゃなくて本当に素なんだなと全く関係ないことを思った。

 

「まさか、柊木監察官を追いかけ回すなんて……!」

 

 伊達や松田を通して彼女にコンタクトを取り事情を説明すると、彼女はその日のうちに太閤名人を締め上げて吐かせたらしい。日頃から妻に弱い彼はすぐに全面的に容疑を認め、供述を始めたという。そして、その内容がまた。

 

「ゆ、由美タンが不倫なんかするわけないってわかってはいたのですが……」

 

 そう、俺は話したこともなかった彼女との不倫を疑われていたらしい。何でそんな誤解に至ったんだと聞いたときには、今も俺の後ろにいる伊達が天を仰いだ。

 

「由美タンが同僚の方の結婚式に出席して以降、何度も柊木さんの映像や写真を見直してペンライトとうちわを振ってかっこいいかっこいいって連呼をするから、もしかしたらと思って……!」

「だからあれはアイドルに憧れるようなもんだって言ったでしょーが!」

「ははは……」

 

 笑う以外に俺に何が出来るというのか。

 そういうわけで彼は俺と彼女の間に何かあるのではと勘ぐり、俺の後をつけ回していたのだという。今でもたまに車ではなく公共交通機関で出勤をしていたので、俺のことは警視庁付近を張っていて見つけたのだろう。いや太閤名人って相当忙しいと思ってたんだが、もしかして実は暇なのではないだろうか。愛妻家は愛妻家でも、妻のこととなると周囲が全く見えなくなるタイプの愛妻家だったらしい。

 

「とにかく、ご理解いただけたと思いますが、宮本警部補とは直接お話したのも今日が初めてです。誓って特別な関係ではありません」

「はい……本当にご迷惑をおかけしました……」

 

 そうもう一度頭を下げられて、ひとつ息を吐く。とりあえずこれで解決だろうか。

 急に両肩が重くなったと思ったら、後ろにいたはずの松田と萩原がいつのまにか隣に来ていた。そして面白そうに笑いながら口を開く。

 

「いやぁ良かったよねえほかにバレる前に片がついてさ」

「お互いにな。太閤名人が妻の不倫疑ってストーカーなんてとんでもねえスキャンダルだし、柊木だって不倫なんて疑惑だけでアウトだろ。まして、相手が身内ならな」

「そ、そんな……!」

「いや、俺は別に、」

「そーよチュウ吉! 本当に反省しなさいよ、警察官の不倫とか普通に懲戒なんだからね!!」

 

 いや否定はしないけど片付いたんだからそんなにいじめなくても。

 みるみるうちに太閤名人は蒼白になっていき、もはや涙目になっている。

 

「本当に、申し訳ありませんでした……!」

「いや、ですから。俺は解決したならそれで十分なので……」

「そうはいきません! 先ほど兄からも連絡が来ましたが、兄も貴方にはお世話になっていると申していました。そんな方にご迷惑を掛けてしまうなんて……!」

 

 どうやら赤井さんも一応連絡はしてくれたらしい。

 深々と頭を下げ続ける彼に、これじゃらちがあかねえと内心で舌打ちをする。宮本さんにはその披露宴での余興について情報統制をしてもらったという借りもあるし、俺としてはもうしないでくれるならそれで十分。だがそれだけじゃ引いてくれそうにない様子に、俺は苦笑して彼の肩を叩いた。

 

「じゃあ羽田さん、ひとつお願いをしてもいいでしょうか」

「! 僕に出来ることなら!」

 

 ばっと頭を上げた彼と、目が合う。ああこのひと、目元が赤井さんにそっくりだ。

 

「本当にお時間があるときでいいんです。将棋、教えていただけませんか」

「、え」

「駒の動かし方くらいはわかるんですけど、ちゃんと将棋を指したことが、今までなくて。一度ちゃんとやってみたかったんです。太閤名人に教えを請うなんて贅沢すぎるかもしれませんけど」

 

 いかがでしょう、と笑うと、ようやく彼の顔に少し色味が戻った。きらりと目が輝き、口元に笑みが戻る。身体を起こした彼と、同じ高さで目線が交わる。

 

「もちろん、是非!」

「よろしくお願いします」

 

 そして交わした握手に、彼とは仲良くやっていけるような気がした。

 

 

 *

 

 

「柊木さんは本当に筋がいいですね。これなら多分兄に勝てますよ」

「マジで? 今度来日したら挑んでみよう」

「待ってくれ秀吉さん、赤井も将棋が出来るのか? なら僕も勉強する」

「……降谷さんは兄と何かあったんですか?」

「話が長くなるから聞かない方がいいよ。あ、王手?」

「おや、いい手ですね」

 




ともだちがふえました。


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その鏡が映すもの

「チェスを、ご教授いただけないかなと」

 

 久しぶりに特命係でひとりの時間を楽しんでいた、昼下がり。正午を告げる鐘が鳴ると同時に、彼はひょっこりと顔を出した。その顔は少しばかり恥ずかしげな色があり、人見知りをする子どもが話しかけてきたような微笑ましさを覚える。

 幼いころを知っているとはいえ、彼ももう三十路をすぎた成人男性だというのに。そんな自分に苦笑をしながら、かまいませんよ、と席を勧めた。

 

 

 *

 

 

「今日は神戸さんおやすみですか?」

「ええ、今日は僕だけです」

 

 彼は有給を取っていましてね、とポーンをひとつ進めた。そうなんですか、と生返事をしながらも彼はむっと眉間にしわを寄せる。

 駒の動かし方を知っているだけでゲームをしたことはないという彼だが、なかなか筋のいい駒運びを見せてくれていた。もともと理屈だてて物事を考えられる彼だ、こういったゲームは得意なのだろう。

 ゆっくり考えていいですよ、と僕が言うよりも早く、柊木くんはナイトを動かす。なるほど、やはり筋がいい。

 

「柊木くんは本当にチェスは初めてですか? ずいぶん手慣れているように見えますが」

「チェスは初めてです。あ、でも最近将棋はやってます」

 

 ほう、と相づちをうつと、柊木君は顔をあげて楽しそうに続けた。

 

「最近すごいひとと知り合ったんですよ。ご存じでしょう? 将棋の太閤名人!」

「それはそれは! では彼に指南を?」

「贅沢なことに。忙しいひとなので滅多にないんですが、たまーに一局打ってもらうんです。これでもようやくちょっと褒められるようになったんですよ」

 

 少しだけ自慢げにいう彼が微笑ましい。それは名人に褒められたことの自慢なのか、かのひとと知り合いだという事実への自慢なのか。それとも、―――純粋に新しい友人が出来たことへの自慢だろうか。楽しそうな彼を見て、僕もひとつ頷きを返す。

 

「駒こそ違えど、ゲーム自体はよく似ていますからね。なるほど、君が手慣れているように見えたのはそういうことでしたか」

「といっても、今かなり必死なんですけど。やっぱり勝手も違いますし……あっ」

 

 僕がビショップを動かすと、柊木君はしまったと言わんばかりに声を上げる。にっこりと笑いかけると、その顔が悔しそうにしかめられた。気を抜いているときの彼の表情筋はわりと素直だと言ったのは、彼の同期のなかの誰だったか。

 

「……じゃあ、こう」

「では、こうしましょう」

 

 さらにナイトを動かした彼の手が終わると同時に、こちらのナイトも一手進める。

 うっ、とまた声が漏れた。むむむ、と彼は長考する姿勢にはいる。その眉間のしわを眺めながら、手元に置いておいたティーカップに口をつけた。少しぬるくなってしまった紅茶に、おっと、と立ち上がる。改めて湯を沸かしながら、おかわりはどうですか、と尋ねると、今いいです、と食い気味に返された。その返事にふふ、と笑いながら、ティーポットを温める。

 

「……次の手考えるのにちょっと時間もらってもいいですか、杉下さん」

「かまいませんよ。ごゆっくり」

 

 そう返すと、彼は大きく息をついて椅子に座り直す。五手前が失敗だったかな、と小さくつぶやきながら、虚空のチェス盤をたどっていた。残念ながら悪手だったのはその前だ、と指摘してやるのはこのゲームを終えてからにしておこうか。

 そう思いながら、紅茶の用意を進めていく。

 

「あー……杉下さん」

「ええ、君の分のおかわりも今淹れているところですよ」

「……ありがとうございます」

 

 その恥ずかしそうな顔にまた笑みを返して、それで、と僕は続けた。

 

「何か心境の変化でもあったのですか?」

「……というと?」

「君、わかっていて言っているでしょう」

 

 さらにそう重ねると、少し視線をうろつかせた彼は、諦めたように肩を落とした。

 

「……別に、心境の変化というほどのことでは」

「そうですか? 少し前までの君なら、将棋やチェスを楽しむようにはあまり見えなかったのですがねえ」

 

 目的をもって、覚悟をもって、そして今までの人生のすべてをかけて警察という道を志した彼。それもかなり極端というか、《警察》に必要のないものは極力切り捨ててきたかのような。彼の今までの言動からの予測に過ぎないが、おそらくそう間違ってはいないだろう。

 いつだったか、特殊犯係の彼が笑顔で堂々と言っていたのが思い出される。

 

『旭ちゃん、俺らしかまともに友達いないんで!』

 

 そんな本当のことをと松田刑事は笑い、おまえらなぁと伊達刑事は苦笑した。

 

『いやだから俺たちがいろいろ連れ出してやらなきゃじゃん? 俺聞くだけで泣いちゃったよあのさみしすぎる青春時代』

『あの顔面で生まれたばかりにな……。いや絶対アイツの性格もあるだろうけど』

『友達はほしいけど勉強やトレーニングが最優先って感じで生きてたんだろうしなぁ……誰か止めてやれってんだよ全く』

 

 いや旭ちゃんは止めてもとまんない、と萩原刑事は手を軽く振り、それな、と松田刑事は頷いた。

 

『杉下さんくらいのひとが言わないと止まんなかったんじゃない?』

 

 おやおや、と僕が言うと、ほんとですよ、と萩原刑事は笑った。

 

『あいつ、杉下さんのこと大好きですからね』

 

 その言葉に、僕は何て言葉を返したのだったか。思わず、小さな笑みが漏れる。

 

「……杉下さん?」

「何ですか?」

「いえ、ぼうっとされてたので。もしかしてお疲れでした?」

 

 大丈夫ですよ、と言いながら、彼に新しいカップを差し出した。礼を言ってそれを受け取った彼は、湯気の立つ紅茶にそっと口をつける。そのまま、吐息とともに言葉を落とした。

 

「……ちょっと、最近、身辺が落ち着いたというか、心情的に一区切りつきまして」

「ほう?」

「警察官という職務については、まあそれはそれとして、今後も考え続けるんですけど。……少し、別のものにも目を向けてみたくなって」

 

 ちょっと息をついたら、ずいぶんとまあ、取りこぼしてきたことに気づきまして。

 そういった彼は、何故だかひどく幼い子どものように見えた。幼い子どもが、世界の広さを知ったような顔をしていた。

 

「俺、今までとにかく警察官になることと生きていくことに必要なもの以外は触れてこなかったんですよ。趣味といえる読書も、そもそも知識の吸収と読解力の向上、……あとコミュニケーションの参考にとか……とにかく、そういう理由で始めたものなので」

 

 好きとか嫌いとか、楽しいとか楽しくないとか、そういうことを考えないまま生きてきたのだと、彼は言う。

 

「だから俺、たとえば食事の好みとかないんですよ。栄養バランスさえ整って、食べれる程度にまずくなければいいというか……今までそれで別に不便はなかったんですけど、……もうちょっといろいろ目を向けてもいいんじゃないかって」

 

 とりあえず手近なものから挑戦してみることにしたのだ、と。少し照れくさそうに言う彼は、再会したときよりもずいぶんと肩の力が抜けたようだ。しばらく前の《出向》を際に雰囲気が変わったような気はしていたが、理由は尋ねまい。どんな理由であろうと、ようやく彼が彼自身のために生きることを考え始めたのだ。それは彼にとって、ひどく喜ばしいことであるように思う。

 ひとつ頷いて、改めて彼に問うた。

 

「まだゲームの途中ですが、どうですか? チェスは」

 

 君にとって好ましいものになりそうですか、と尋ねると、彼は笑って大きく頷く。

 

「将棋もそうですが、頭を使うゲームは好きみたいです。良さそうな手を見つけられたらうれしいですし」

「それは何よりです」

 

 好ましいものと、そうではないもの。楽しいと感じるものと、そうでないもの。そして、大切だと思うこと、そうでないこと。人生を歩んでいれば、おのずとそういうものを見つけ、他者と比較し、《自分》を見つけていく。自分が出逢うものすべて、そこから得た経験や感情は、自己を映し出す鏡のようなものだ。

 ひとつの目的のみを見つめ、脇目もふらずに人生を走ってきた彼は、今まさにようやく、《鏡》に触れて自己を見つめようとしている。

 

「……チェスや将棋のほかにも、何か始めるご予定が?」

「うーん、まあ、いろいろ考えてはいるんですけど。……何がいいかなと思って同期たちに話してみたら、そりゃもうろくでもない案ばかり出されまして」

 

 爆弾処理とか……と小声で柊木君が零したのを聞き、僕としたことが思わず笑いそうになったので、咳き込んだふりをしてごまかした。それを言ったのは松田刑事か、それとも萩原刑事か。ある意味いざというときに役立つ技術ではあるのだが、せめて機械いじりくらいの言い方は出来なかったものか。

 

「とりあえずまだましな案だったお菓子作りを、次にやってみようかと。仲間内にそういうのが得意なやつがいるので、今度ケーキの作り方を教わることになりました」

「嗚呼、それはいいですね。……では、柊木君」

 

 次に特命係に来たときには、紅茶の入れ方を教えてあげましょうか。

 え、とひとつ瞬きをした彼に、小さく笑いかける。

 

「手作りのケーキに、紅茶を添えてみるのはどうでしょう。紅茶も茶葉の種類から入れ方、もちろん茶器も含めて非常に奥が深いものです。試しに嗜んでみるのも、面白いかもしれませんよ」

 

 ぱあっと顔を輝かせた彼は、是非、と明るく声を上げた。僕もひとつ頷き、しかしその前にチェスですね、と言葉を付け加えると、柊木君はにやりと笑って自陣のポーンを手に取る。

 

「これでどうです?」

「……おや、」

 

 良い手ですね、と思わず零すと、また彼は自慢げに笑う。しかし、と僕はひとつ指を振って、駒を手に取った。

 

「まだ、詰めが甘い」

 

 チェック、と駒を進めると、あっと声をあげた柊木君は、拗ねたように口元を歪める。

 杉下さんに勝つまではチェスにハマりそうです、と悔しげに呟いた彼に、思わず吹き出した。



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遠慮のかたまり

クリアアサヒならぬクリアユウヒのネタを頂いて書いたもの。


 遠慮のかたまり、という言葉がある。おもに関西圏で使われる言葉だそうで、大皿料理や箱入りお菓子なんかをわけたとき、最後の一個が残ってしまうことを言うそうだ。俺にとっては日常的に使う言葉ではないが、皿の上にぽつんと残った最後のたこ焼きを見てその言葉が浮かんだ。

 といっても、この状況でこれを《遠慮》と称するのは限りなく間違っているのだろうけれど。

 

「誰が今日のために人数分の材料買い込んできたと思ってんだよ。どう考えてもこれを食う権利は俺にある」

 

 熱弁する松田の手にはいつもの銀色の缶。さて今日何本目だったか、と俺も同じ色の缶を傾けながらぼんやりと考える。俺はスーパードライよりクリアユウヒ派なんだけどな、と思いつつもそれを喉に流し込んだ。ビールの選択権は買い物をした奴にあるので仕方がないが、少しは家主に気を遣えと思わなくもない。

 いやいや何言ってんの、松田の言葉に首を振ったのは萩原だ。新しい缶を手に取り、ぷしゅ、とそのプルタブを開ける。

 

「旭ちゃんに頼み込んで今日という日をセッティングしたのは俺よ? お好み焼きたこ焼きとそれはそれはしつこく言い続けたのは俺。つまり今日粉ものが食べられたのは俺のおかげで、だからこそこれは俺が食うべき」

 

 ほんとにしつこかったな、こいつ。いつもは「粉もの!」「今度な」で終わる会話が、「お好み焼き」「たこ焼き」「粉もの」「食べたい」「ねえ」「食べたい」こんなメッセージがそれはもう毎日。お前は粘着系ストーカーかと。積極的にトラウマ抉りにくる萩原にちょっと本気でブロックしてやろうとかと思いましたが折れてやった俺は優しい。

 いやいやそもそもだな、と萩原の頭を押さえ込んで、伊達が新しい缶を手に取る。

 

「今日は俺が大きい事件を片づけた祝いって建前の飲み会だろ? だったらここはやっぱり、俺を立てるべきじゃねえのか?」

 

 建前と本人が言ってるあたりどうなんだとは思うが、確かに今日は、伊達が世間を騒がせていた連続殺人事件を解決した祝いという体の飲み会だ。一応最初の乾杯までは皆覚えていたと思う。ちなみに俺は今の今まで忘れてました。そういえばそうだったね。ビール美味しい。この手のことに伊達が参加してくるのは珍しいのだが、今日は結構に酔っているらしい。

 いやいやちょっと待てって、と伊達のビール缶に自分のをぶつけたのは諸伏だ。

 

「確かに今日の主役は伊達だけど、山積みの書類片づけてお祝いに駆け付けた俺のこともちょっとは労ってくれないか? ていうか俺が来た時には皆食べ始めてたし、お前らはもう腹いっぱい食べただろ?」

 

 俺まだ全然食べてない、とか口元に青のりをくっつけて言われても、と正直思った。諸伏が仕事の関係で途中からの参加になったのは本当だが、その分かなりのハイペースで食べて飲んでいたのを俺は知っている。あと、松田や萩原の取り皿からこっそりたこ焼きをかすめ取っていたのも知っている。公安ではスリも必要スキルなんだろうか。公安すげえ。今の顔色から諸伏が酔っているのかどうかは判別できないが、この状況を全力で面白がっていることだけは明白だった。ミスター愉快犯。

 そして、いやいや待ってくれ、と口を挟むやつがもうひとり。まさかこいつまで、と思ったが、その顔は真剣だった。

 

「俺は食べたい」

「……ゼロ? 酔ってるか?」

「俺は食べたい」

「わかった、まず降谷は水飲め、な?」

「俺は食べたい」

「え、どしたのれーくん、いつもはこの程度じゃ酔わないのに」

「俺は食べたい!」

「アウトだな。柊木、水くれ」

 

 松田に言われ、同じ言葉しか繰り返さない真顔に、とりあえずミネラルウォーターのペットボトルを投げつけた。可愛げのない酔っ払いはゆうゆうとそれを受け止め、キャップを捻ってそれを喉に流し込む。一息ついて、また一言。

 

「俺は食べたい」

「降谷、もう寝ろよ」

 

 泊まってっていいから、と仕方なく声をかけるが、それでも降谷はたこ焼きから意識を離さない。お前そんなに食い意地張ったやつだったっけ、と思ったが、多分これはいつもの負けず嫌いが発動しているだけだろう。ここで引いたら負けとでも思っているようだ。

 まったく、たかがたこ焼きひとつで何をやってるんだか。もうめんどくさいのでお前らジャンケンでもしろと言えば、何故だか馬鹿たちはまためらめらと闘志を燃やしだす。

 

「後出しは反則だからな」

「そんなことしなくても研二くん勝つし?」

「知ってるか? じゃんけんにも勝利の法則ってのがあるらしいぞ」

「あはは、心理戦とか付き物だよな。ちなみに俺はパーを出します」

「おれがかつ」

 

 いやほんと、遠慮のかたまりとは何だったのか。

 ところで、たいていの人間は、特に意識しない限り利き手でじゃんけんをすることが多いように思う。たとえ利き手に何かを持っていたとしても、わざわざそれを置いてジャンケンに挑むことが多い気がする。いや俺の気のせいかもしれないが、実際に今こいつらは何故だか箸を置き、互いを牽制するように睨みあった。そう、さっきまで凝視をしていた降谷ですら、目的のブツから目を離して。

 つまり俺が何を言いたいかといいますと、遠慮のかたまりどころか争いの火種になり果ててしまった《危険物》は、制作者として責任をもって処理しないとな、という話です。

 ジャンケン、と俺以外の全員が利き手を出すと同時に、争いの火種は俺の口に消える。ちょうどよく冷めたたこ焼きが美味しい。よく咀嚼して、ビールと一緒に喉に流し込む。

 男五人分のうるさい悲鳴が、深夜の部屋に響いた。




柊木さんだいぶ酔ってます。降谷さんは仕事の連絡が入った瞬間に冷めます。


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柊木旭襲撃事件

こんな事件もあったかもね、という冒頭。


 俺が通り魔に襲われたと知るや駆けつけてくれる悪友たちには、申し訳なくもありがたいと感じる。いや本当にそう思うのだが。

 

「何だ、顔は無事か。不幸中の幸いだな」

「うんうん、とっさに腕でかばったって? 顔はキレーなままだね」

「しかし顔目掛けて劇物とは、本当に悪質だな」

 

 心配されているはずなのになんとなく素直にうなずけない言葉に、じくじくと痛む腕の火傷に堪えながらため息をつく。同時に俺のスマホが通知を告げた。メッセージが二件、公安にいる悪友たちからだ。

 

『話は聞いた。顔は無事で何より』

『軽傷って聞いてとりあえず安心したよ。顔に傷がつかなくて良かったな』

 

 いや、だから。

 

「何でお前ら基本顔の心配なわけ?」

「旭ちゃんの国宝級のイケメンに傷とか許されないじゃん?」

 

 素で言い返してきた萩原に苦い顔をすると、まあまあと伊達が苦笑する。

 

「悪い悪い、これでも安心したんだよ。通り魔に襲われて病院に搬送されたっていうからどんな大怪我だと思ったのに、とりあえず腕の軽い火傷で済んだってんだから」

「にしてもお前、たるんでんじゃねえの? 視線だの殺気だの、普段ならすぐ気づくくせに」

 

 松田にそう言われ、言い返せずに黙る。正直なところ、俺もそのあたりの察知能力にはそれなりの自信を持っていた。数々のストーカー被害によって磨かれたスキルだが、これのおかげで危険から逃れられたことも多い。それが今回は全く役に立たなかった。気が抜けていたと言われればそれまでだが、なんとなく腑に落ちない。

 んー、と首をひねりながら萩原が口を開く。

 

「背後から声をかけられて、振り向いた瞬間を狙った犯行だったんだよね?」

「ああ、男の声だったと思う。一瞬だったし暗かったから相手の姿はあんまり見えなかったけど、いつのまにか背後に立ってて、振り向いた瞬間に瓶が目に入った」

「で、ぶっかけようとしてきたからとっさに瓶ごと振り払って、腕に少量かかる程度で済んだと」

 

 このところは犯罪被害も落ち着いていただけに、久しぶりに被害者になってしまったことにうんざりした。慣れたなんて言葉は使いたくはないが、劇物かけられても「めんどくさい」という感想になるあたり俺もかなり毒されている。

 とはいえ、ここまで殺傷能力のある被害は久しぶりだ。

 

「ま、傷害事件には違いねえからな、多分うちの班が担当することになる」

「松田のとこか。そりゃよろしく」

「おう」

 

 部下が来たらまた詳しく話を聞くからな、と言われて頷く。俺のいろいろと面倒な事情を知っているやつ相手なら話もしやすい。そう思って少しほっとした。

 対して松田は心底嫌そうな顔で、とりあえず、と盛大にため息をついて言った。

 

「ここしばらくしつこい女とすでに振った女の顔と名前、思い出しておけよ」

「……。……えっ俺それをお前や幸人の前で言うの……?」

「あのな、居たたまれねえのはこっちだわ馬鹿野郎。大人しく吐け」

 

 背筋がぞっとした俺と即座に言い返した松田の様子に、伊達と萩原は盛大に肩をふるわせていた。



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深夜パトロール実習の話

 少し古い話をしよう。僕たちが警察学校に通っていた頃の話だ。

 今もあるのかわからないけれど、当時警察学校には夜間のパトロール実習があってね。拳銃をはじめ危険なものも多く保管している警察学校に不審者が侵入することのないよう、実習も兼ねて校内をパトロールするんだ。基本的に二人ひと組でペアを組み、深夜の学校をぐるりと一周することになっている。

 そう、それで僕は柊木とペアを組むことになったんだ。たぶんこれも恒例なんだろうけど、僕らが担当だと知った先輩たちにはさんざん脅かされたよ。「ここの倉庫ではかつて訓練について行けなかった者が自殺をしてそれ以来幽霊が~」とか「あそこの角は不審者が隠れやすいからかつて刃物をもった暴漢が~」とか、よくある怪談話みたいなものだね。パトロールのルートを指示した教官にまで脅かされて、これはむしろ怖がって見せた方がいいのかな、なんて柊木と笑ったりしたものさ。

 深夜になって校内のパトロールを始めても、もちろん気を抜いたりはしなかったけど、平和な散歩くらいの調子だったんだ。そう、開始十数分の間くらいはね。

 最初は僅かな物音だった。ほとんどの者が寝静まっているはずなのに、僕らの背後から確かに足音がしてね。それもひとりやふたりじゃなく、しかも明らかに声を押し殺していた。

 とっさに、隣の柊木と視線を合わせたよ。

 

『……柊木』

『三秒な』

 

 一、二、三、と呼吸を合わせて走り出すと、背後からいくつもの足音が追ってきた。不審者かと身構えたけど、少し重めの動きにくそうな足音が気になってね、走りながら後ろを向いたら―――まあ驚いたよ。

 

『……先輩か?』

『ああ、訓練の一環なのか嫌がらせなのかどっちだろうな』

 

 そう柊木も走りながら疲れた顔をしていたね。いや身体的でなく精神的疲労の方の。

 僕たちの背後に迫っていたのは、逮捕術の防具をつけてソフト警棒をもった集団だったんだ。防具と暗闇で顔は見えなかったけど、隠さなくなったそれぞれの声に聞き覚えがあった。

 

『イケメン ニクイ』

『イケメン優等生 ニクイ』

『エリート キライ』

『ブットバス』

『ヤッチマエ』

 

 いや、どこの森の猩々たちかなと。とっさに森に帰れと叫ばなかった僕らは偉かったと思う。

 もちろん先輩たちもただのノリだったと思うよ? 社会正義の要たる警察官の卵が、まさかそんな私怨というか嫉妬で後輩をボコりにくるわけがないじゃないか。ただ、そんな異様な殺気をまき散らす集団に追いかけられるこちらの身にもなれというかね。

 もっとも、訓練であれ嫌がらせであれ大人しくやられる気はなかった。建物の隙間を縫うように走りながら、とりあえず僕は広い場所に出るべきだと柊木に言ったんだ。校庭あたりで迎え撃とうと。

 けど、一瞬考えた柊木は笑顔で首を振ってね。

 

『いや、倉庫裏に行こう』

『倉庫? あそこは狭いし、何より行き止まりだぞ?』

『ああ、袋小路だな。その方がいい』

 

 いいから、といつになく柊木は強気に言うから僕はそれに従った。行き止まりについた僕らは、防具でかためた集団に追い詰められた形になったんだ。

 行き先を誤ったなとせせら笑う先輩たちを前に、柊木ときたらいつになく満面の笑みを浮かべていてね。そう、寒気がするくらいに。

 

『ああ、追い詰められてしまったナァ。武器をもった集団相手に追い込まれたんだから、まあ、普通に抵抗しても許されますよね?』

 

 ぎく、と先輩方が一気に硬直したのが面白かった。

 

『そして少しばかり()()()()()()()()、致し方ありませんよね?』

 

 ごき、と柊木の指から景気のいい音が鳴る。

 

『ところで、まさか警察官を志す方々が自身の後輩を多数で追い込み、武器を持ってボコるなんて、さすがにやりすぎだって教官も怒るんじゃないですかね? ええ、卑怯にもほどがあるというか、もはやリンチで暴行罪ですし? あ、これはただの独り言ですよ、だって俺は皆さんの()()なんて気づいてませんし』

 

 ざ、と片足を引いた柊木は完全に臨戦態勢。満面の笑みの目だけは笑っていなくて、顔には完全に「全員潰す」と書いてあったな。

 その後の詳細は柊木の名誉のために伏せるけれど、まあ僕の率直の感想としては、柊木こいつ訓練よりルール無用の殴り合いのほうが強いんだなとか、いつも適当に流してたけどやっぱり先輩たちのやっかみや嫉妬には苛立ってたんだなとか、心理的に自分たちのほうが全力で暴れられる状況を作りにいくなんて相当な策士だなとか、それから、そう。

 ―――柊木って、実は相当かなり性格悪いんだな、と。

 

 

 ***

 

 

「つまり僕が何を言いたいかというと、例の件でCIAを全力で脅したのも柊木の一面に違いないから、君が柊木に無理をさせたなんて心配をする必要はないということだよ、志保さん。大丈夫、柊木はいいやつだけど聖人君子ではないから」

「ええ、いま心から安心したわ」

「自分もノリノリだったことを意図的に省略した説明はどうかと思う。……ちょっと待って宮野さんそんな目で見ないで、絶対降谷のが全力で暴れてたから。備品壊しまくって教官にやりすぎって怒られてたから」

「ははは、柊木とふたりで正座させられたのは後にも先にもあのときだけだったな」

 

 ちなみに白樺先輩は僕たちが倉庫の方へ向かいだした途端に離脱して高みの見物を決め込んでいたらしい。「教官の指示で襲撃に行っただけなのに悪役に仕立てられるとかごめんだから」と笑っていた。

 あのひとはそういうところがある、とふたりしてため息をついた。



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泣き虫の鬼

 そこそこ長い付き合いのこいつは、はたから見れば「完璧」に見えるらしい。

 まあ確かにルックスはとんでもねえレベルだし、頭もよければ腕もたつ。しかもそとづらは徹底的に取り繕っていて、品行方正で穏やかな好青年も演じられる。まあ本性を知らなければ完璧な人間だと思ってしまうのも無理はないのかもしれない。しかし俺としては、そんな柊木が見せるこんなめんどくせえ姿の方をわりと気に入っているわけで。

 

「……柊木君も落ち込むことあるんだね?」

 

 特命係の小部屋にある机、そこを陣取った柊木は盛大に影を背負ってぶつぶつと呪詛を吐いている。年に一回あるかないかくらいの頻度でこの姿をさらす柊木だが、神戸さんが見たのは初めてだったようだ。隠しきれないドン引き具合に俺は笑ってサングラスを外した。

 

「面白えでしょ」

 

 いや面白いって君ね、と困ったように神戸さんは繰り返す。その後ろで苦笑をしていた杉下さんは、上品なティーカップに紅茶を注いでいた。

 

「柊木君、きみ、飲みますか?」

「……いただきます……」

 

 のろのろと顔を上げて、ひどく情けない顔を俺たちに向ける柊木。ここで噴出さなかった俺は褒められていい。たぶん笑っていたら冗談抜きで柊木の本気の拳が飛んできていただろう。それはそれで面白そうだが、さすがに本庁で暴力沙汰はまずい。

 

「失礼しまーす松田いますかーってあれ、旭ちゃんもいるじゃん。どうしたの?」

「おう萩原、なんか用か」

「さっき自分のタバコなくなったからって俺のまるごと持ってったっしょ。返して」

「ああ、悪い悪い。お前のまずいな」

「ひとの奪っといてこの言い草だよ全く」

 

 投げ返したタバコを軽くキャッチすると、萩原はそれで、と柊木の前の椅子に座った。

 

「何落ち込んでんの旭ちゃん。最近その呪詛言うのも減ったと思ってたのに」

「はぎわら……」

「交通とこの女の子の件は俺がうまいことしてあげたじゃん? あ、警察庁の同期の女の子の話がこじれた? それともまた変なラブレターでももらったの? いい加減恥を忍んで生安に相談いったら?」

「何で女性関係限定なんだよ、あと交通部の件は片付きましたお世話になりました!」

 

 涙目の柊木には内心抱腹絶倒。相変わらず女関係でもめそうになるたびに萩原にヘルプを頼んでいるらしい。しょうがないなあと言いながら萩原も断らないのだから、結構柊木に頼られるのがうれしかったりするのだろう。

 もはやその現状に慣れ切った俺はまたそんだけトラブルに巻き込まれていやがったのかといっそ感心するだけだが、横で聞いていた杉下さんと神戸さんはさすがに何ともいいがたい顔をしている。

 

「旭ちゃんが巻き込まれるトラブルなんて九割九分女性関係っしょ。それとも今回は違ェの?」

「ち、……がってて、ほしかったというか、でも実際ちょっと違うというか……」

 

 またもやがっくりと肩を落とす柊木に、思わず、く、と喉の奥を鳴らす。案の定ぎろりとひとのひとりくらい殺しそうな目線が飛んできたが、今さらそれを気にするほど細い神経はしていない。

 仕方がないので、なかなか口を開かない柊木にかわって事情を説明してやることにした。別に、面白いから教えてやるわけではない。あくまでも親切心だと念をおしておく。

 

「監察官の仕事の一環として、事故起こしたり道交法違反したやつら集めた安全運転講習ってのがあるんだが知ってっか?」

「ん? ああ、うん、聞いたことあるけど。何、旭ちゃんそれで失敗でもしたの?」

「俺は仕事で失敗なんてしない」

 

 おーおー、落ち込んでてもプライドの高さは健在ときた。実際、講習だけならば柊木にとっては何の問題もなかっただろう。もともと法律の知識は豊富だし、大勢の前に立つことも、誰にとってもわかりやすい説明をすることも柊木にとっては得意分野だ。そう、だから油断していたのだろう。まさか、そんな落とし穴があるなんて。

 

「いつも通りの『控えめなにこにこ笑顔の監察官』で講習やったら最前列から順に女性陣で埋め尽くされたうえに、休憩時間になるたびに講習の対象じゃないやつまで紛れ込んでどんどん人数が増えてったんだと」

「しかも『今後の講習も是非柊木監察官に!』っていう陳情が監察官室には山のように届いてるって」

「くわえて講習を受けたいがためなのかはわかりませんが、女性警察官の交通違反が増えているそうです。本当に、警察官としていかがなものかと思いますが」

 

 俺の言葉に神戸さんが続き、杉下さんがとどめをさした。ぶわっと涙腺が刺激されたらしい柊木は今にも涙が零れそうで、いやお前三十路にもなってその涙腺の弱さどうなんだとは思うが、いかんせん顔がいいために涙目さえも似合ってしまう。この顔を画像に残したら俺はひと財産稼げるだろう。殺されるだろうからやらねえけど。

 事情を理解した萩原はあー……と頬杖をついて視線を迷わせる。

 

「いや、うん、でも旭ちゃんはちゃんと自分の仕事を果たしたんでしょ?」

「したはしたけど、俺の仕事は規律を破った警察官を反省させて同じ過ちを繰り返させないことだ。これじゃ意味がない」

「けどこればっかりは旭ちゃんのせいじゃないでしょ。そんなお馬鹿さんたちのために柊木が落ち込むことないよ。つーかそれ警察官としてあるまじきだし?」

「ええ、萩原刑事の仰る通りかと思いますよ。道路交通法違反もまた確かに犯罪です。それをあえて行う精神は、決して警察官に相応しいとは言えないでしょう」

 

 ずび、と涙目の三十路は鼻をすすった。どう見てもガキにしか見えないその顔に、その辺にあったティッシュの箱を投げつける。こんなときまで可愛くないそいつは、軽々と顔の前でそれを受け止めた。

 

「三十路にもなって泣いてんじゃねえよ泣き虫」

「泣いてねえ」

「鼻すすっといて何言ってやがる。だいたいな、お前に失策があるとすればその『品行方正』保ったまま講習やったところだろ」

 

 そう言ってやると、ぱちり、と柊木はひとつ瞬きをした。

 そして無言のままティッシュをとり、ず、と景気よく鼻をかむ。丸めたティッシュをゴミ箱に放り入れたころには、柊木の目はすっかり据わっていた。

 

「講習会ってのはつまり悪いことやった奴らにその罪の重さを思い知らせてやる、一種の『査問会』だ。そうだろ?」

 

 そう言ってにやりと笑ってやれば、調子を取り戻したらしい柊木は、それはそれは人形染みた美しい微笑みを浮かべた。

 長い付き合いの俺たちは、知っている。柊木がこの顔をする意味を。その後に、何が起こるかということも。

 

「おっ調子戻ったね旭ちゃん!」

「しっかり絞めてこいよ、柊木監察官」

 

 うん、と素直に頷いた柊木に、神戸さんは頭が痛そうに額をおさえ、杉下さんは微笑ましそうに大きく頷いていた。

 

 

 *

 

 

 余談だが、そのしばらく後に開かれたという安全運転講習では、阿鼻叫喚の悲鳴が響いたという。柊木旭がやり切った笑顔で監察官室に戻ってきたと、その上司が零していたとか何とか。

 しかしその講習会で柊木が何をやったのか、詳しいことは誰も知らない。



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次なる事件

まあこういうのもアリかなと。続きはないです。導入のみ。
ここまできたら赤井さんはわりと軽やかなひとのイメージです。


 スマホに表示された連絡先に、おや、とひとつ瞬きをした。

 実を言うと、このひとから連絡をもらうことは別に珍しくない。合衆国アレルギー持ちの悪友にバレると後がうるさいので余所で言うことはないが、何故だか数ヶ月に一度程度は電話を寄越すひとではあった。

 たいていは世間話と生存確認だが、たまに日本が絡む厄介な事件の情報なんかも横流ししてくれている。本人曰く「FBIにいる目的は達したからいつ辞めさせられても構わない」ので、自分が必要だと思うことは遠慮なくすることにしたらしい。降谷と合わないのはそういうところなんだよなぁと思いつつ、もらえるものは有り難くもらうことにしていた。

 しかし、今回は時間が珍しい。時差を数えれば、いま合衆国は早朝のはずだ。深夜ならまだしも、朝という時間帯にあまりに似つかわしくないひとなだけに、何となくひっかかるものがある。とはいえ、まあ、仕事が仕事なだけに徹夜くらいはしてもおかしくはない。とりあえず通話をタップすれば、慣れた低い声が鼓膜を叩いた。

 

『おはよう柊木くん、良い朝だな』

「赤井さんてびっくりするくらい朝が似合いませんよね。こっちは夕方です」

 

 軽口を返せば、電波の向こうで喉を揺らす音がする。ふ、と息を吐いたのが聞こえたから、おそらくは一服の最中というところだろうか。

 

「この時間は珍しいですね。仕事ですか?」

『そんなところだ。何かと立て込んでいたところに、少し一悶着あってな』

「一悶着?」

 

 ああ、と少し低い声が落ちる。赤井さんらしくもなく、言葉を選んでいる様子だった。どうやら今日は雑談をかわす余裕はないらしい。

 

『ジンを覚えているか』

「……それは、まあ」

 

 唐突に出た名前に、かつての記憶が蘇る。

 無理矢理引きずり込まれ、指揮を任せられた例の件。半世紀掛けて世界の闇に根を張った犯罪シンジケート。そして、その中核に在った狂犬。

 まあ最後はあっけないものではあったが、彼の存在がなければ組織を潰すのはもう少し楽だっただろう。それだけの実力のある犯罪者だったと言える。

 

「貴方の宿敵(こいびと)が、何か?」

『君に会わせろと言ってきた』

「……は?」

 

 ジンは今、合衆国にある特別な刑務所に収監されていると聞いている。逮捕後の被疑者の扱いなど俺の知ったことではないので詳しいことは聞き流していたが、確かそこそこ大人しくしており、脱獄を画策しているような様子はないという話だったはずだ。

 そもそもジンは、俺の存在などほぼ知らないはずなのに。

 

『正しく言うと、あの最後の逮捕劇の指揮を執った人間との面会を希望している。俺も気になってジンの面会に行ったんだが、それ以外のことを言おうとしなくてな』

 

 自分に引導を渡したやつのツラくらい拝ませろ、ただそう言って笑っていたのだと言う。

 

『こちらとしてはジンの要求など聞く必要はないんだが、君相手ならこれまで黙秘してきた情報を喋っても構わない、と』

「……。……何か企んでるんですかね」

『今の状況では手がかりが少なすぎてな』

 

 どうだろう、と赤井さんは静かに言った。

 

『少し休暇を取って、合衆国でバカンスを過ごしてみないか』

「嫌ですけど」

『少しは検討してくれ』

 

 愉快そうに笑う赤井さんの声を聞きながら、窓の外に目を向けた。陽が沈んでいく西の空は、不気味なほど真っ赤に染まっている。

 あ、これ何かまた変なもんに巻き込まれる気がするな、と首の後ろにちくちくしたものを感じた。同時に、今抱えている仕事の引き継ぎの段取りが脳内を駆け巡っていく。

 

「……いや、赤井さん、俺今公安所属じゃないんですよ」

『知っているとも。まあいいさ、ゆっくり考えてくれ』

 

 君の平穏を祈っている、と少しも心のこもっていない一言とともに、通話は途切れた。つい、はは、と硬い笑い声が口から漏れる。

 

「……降谷と諸伏に連絡いれとこ……」

 

 頼むからもう巻き込まないでほしい。



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六花、惚気る

 このひとの辞書に、社交辞令という言葉はなかったらしい。相変わらずどう見ても堅気には見えないそのひとを見て、改めて思う。

 どう見ても犯罪者側だよなぁ、と決して口にはできない感想を浮かべつつも、あっだから潜入捜査できたのか、と変な風に納得をした。

 

「俺の顔に何かついているか?」

 

 冷えたお茶で一息ついたそのひとは、不思議そうに首をかしげた。

 

「イケメンな目と鼻と口が」

「なるほど、他でもない君にそう言ってもらえるとは光栄だ」

「はははうるさいんですけど」

 

 唇をゆがめて笑うそのひとが連絡をよこしてきたのはほんの数日前のことだった。いきなりスマホを鳴らしてきたと思えば「日本に行く。会えないか」という何とも簡潔なメッセージ。降谷でも諸伏でもなく俺に連絡をよこしてきたことがなんとなく意外だったが、確かにいつか呑もうという話をしていたな、と思い出してOKをした。呑もうと言ってきたのは確かに赤井さんからだったが、本気だったらしい。物好きな人だ。

 しかし俺としては、正直こんなに目立つ人とは外でなんぞ会いたくないわけで。

 

「すいませんね、こっちの都合で場所決めちゃって」

「俺が構わんが、むしろ君こそ良かったのか?まさか自宅に招待してもらえるとは思わなかったよ」

「あんまり外出をしないので、ひと呼ぶのは慣れてるんです」

 

 ホー、と軽く赤井さんは相槌を打ち、ちらりと俺の顔に目を向けた。

 

「そのルックスにその性格でその能力なのに女性が苦手だったか、君も難儀だな」

「おい待て誰だ口割ったのは」

 

 また俺から目線を外したその人は、煙草を取り出してさあな、とつぶやく。

 別に隠してはいない。隠してはいないが、自分の知らないところで話が広がるのはさすがにいい気がしない。眉間にしわを寄せた俺を見て赤井さんは苦笑する。

 

「心配するな、俺以外の捜査官は知らない」

「……別に知られることは構いません。が、もし職務中にそれを取り繕えていなかったんだとしたら、それは俺としては大問題なんですけど」

「ふむ……そうだな、うすうすと感じるところがあったのは事実だ。だが、ある人物に鎌を掛けるまでは俺も確信は持てなかったよ」

「……いいでしょう、その人物が誰かは聞かないでおきます」

 

 おおかた新一くん、次点で宮野さん、大穴で風見さんといったところだろう。いや、風見さんならたぶん馬鹿正直に申告してくるだろうから、前者ふたりのどちらかか。とっくに赤井さんも知っていると思って認めてしまった可能性が高い。

 知られてどうということでは決してないのだが、何となく気まずい思いが捨てきれない。そんな俺に構うことなく、赤井さんは白煙を吐き出した。

 

「……ああ、断りもなく吸ってしまったが構わなかったか?」

「構いませんが、この部屋灰皿ないですよ。携帯灰皿ありますね?」

「ああ。……ないのか?灰皿」

 

 その意外そうな顔に、そういえば、とふと思う。あのときはそれはもう、ヘビースモーカーと言われても仕方がないほどの本数を吸っていた。赤井さんは煙草を吸う俺しか知らないのかと思うと、なんだか妙な気分になる。俺が吸っていたことを知っている人はむしろ少数派だ。

 

「もう吸ってないんです。というかもともと吸わない人間で」

「ホー?あれだけ吸っていたというのに、やめられたのか」

「意外とあっけなかったですよ。特に抵抗なく」

 

 赤井さんも止めたらどうですか、と無理を承知で言うと、無理だ、とやはり一蹴された。きっともうその肺はその服と同じくらい真っ黒なのだろう。いくらトレードカラーとはいえ、肺の色まで徹底することはあるまいに。

 

「どれくらい日本にいるんです?」

「二週間ほどを予定している」

「一応聞きますが、休暇ですね?」

「正真正銘、休暇だ。ライフルもないぞ、身体検査でもするか?」

 

 両手を広げてみせた赤井さんに、それなら結構、と俺も自分のコップに口をつけた。

 FBI捜査官の「休暇」と言われるとどうも印象がよろしくないが、同じことをしてくるほど馬鹿ではないだろう。何より、俺や官房長が出来る限りのいやがらせをしてむしり取れるだけむしり取ってやったのだ。懲りてもらわなくては困る。

 

「しばらくジェイムズは日本と聞くだけで震えていたぞ」

「それは重畳、……いえさすがに気の毒と言っておきますよ。俺だって官房長は相手にしたくありません」

「日本には怪物が多すぎないか?」

「官房長が怪物なのは同意しますが、多すぎるってのはどういう意味です?」

 

 にこっと笑って見せると、赤井さんは無言で目をそらした。言いたいことがあるならはっきり言えばいいものを。

 

「怪物にわざわざ声を掛けて会いに来るとは、貴方も酔狂ですね。せっかくの休暇なのに」

「わかった、怪物と言ったこと謝ろう」

「はは、別に構いませんよ」

 

 こほん、と赤井さんはひとつ咳ばらいをして、改めて続ける。

 

「君に声を掛けたのは、……ひとつ聞きたいことがあったんだ」

「へえ、なんです?」

 

 これは間違いなくたいしたことじゃないな、と変な風に面白がりつつ、赤井さんの次の言葉を待つ。意を決した顔で口を開いた赤井さんの口から出たのは、想像以上にくだらないものだった。

 

「君と降谷君、警察学校の首席だったのはどちらなんだ?」

 

 口の中にお茶が残っていなくて良かった。思わず口元に手をやり噴き出すまいと抑えたが、結局ぶふっと間抜けな音が漏れた。いや無理だろう堪えられるか。無駄にシリアスやハードボイルドが似合うその顔でそんなどうでもいいこと聞かないでほしい。

 ああ、うすうす察してはいた。このひとは相当に有能で頭が切れる捜査官なのに、私生活ではとんだポンコツ、しかも結構天然。何だこのひと面白い。

 

「それを、聞くために、わざわざ、俺に……?」

「いや、ただ話をしてみたかったというのもあるんだが」

 

 きっと首席のことを聞きたかったのも、ただ話をしてみたかったというのも本当なのだろう。いや、もしかしたら話をしたかった、というのが一番なのかもしれない。

 ふと思った。このひと、雑談というものが得意なようでそうではない。気遣いができるようで苦手。多分、人付き合い全般が出来るようでそうでもないのだろう。そんなひとが、わざわざ俺に声を掛けて、こんなくだらない質問を持ちかけて。そこには確かにおさえきれなかった好奇心もあるのだろうが、もしかしたら別の意図もあったりするのだろうか。たとえば、そう、たとえば。

 これをきっかけに、もっと親しくなりに来た、とか。

 

「……っ!」

「柊木君?」

 

 再度噴き出しそうになるのを堪える。思わず俯くと、心配そうな赤井さんの声が聞こえてきた。待て待ておさえろ、この想像があっていようが違っていようが笑うのは失礼だ。というか人付き合いのことでひとを笑えるほど器用でもないだろ俺も。俺の寂しい青春時代と友人の少なさは自覚している。

 俺はそう、きっと、……この質問に、ただ答えればいい。今までよりも、小さじ一杯分くらいの親しみを加えて。多分、そういう感じでいいんだろう。たとえ赤井さんにそんな意図がなかったとしても、きっと俺の心境に何かしらの変化があったのだと軽く受け止めてくれる。それくらいの器はあるひとだ。

 

「……いえすみません、首席の話でしたね。諸伏にでも何か聞いたんですか?」

「ああ、それは熾烈なデッドヒートを繰り広げていたと。だが最終的にどっちが勝ったのかと聞いたらはぐらかされてな。本人たちに聞けと、面白そうに」

 

 ああ、目に浮かぶ。そういうところが愉快犯(もろふし)なのだ。どうせこう聞き返してほしくて、わざわざ答えをはぐらかしたのだろう。

 

「で、赤井さんはどっちだと思ってるんです?」

 

 沈黙が流れる。そして数秒後、赤井さんはさっと両手を上げる(ホールドアップ)。俺はその姿にまたひとつ噴き出した。意地悪なことをしてしまった。

 

「ははは、俺赤井さんのそういうとこ嫌いじゃないですよ」

「……柊木君」

 

 じとりと睨まれ、はいはいすみませんとまた笑う。

 かつての懐かしい記憶、もう十年近くも前になるのか。まわりから茶々入れされながらも、降谷と張り合うのを楽しんでいたあの頃。結局今も昔も、俺と降谷の関係性は変わっていない。

 

「……そういえば赤井さん、俺ちょっと前に久しぶりにゲーセンに行ったんですよ」

 

 いきなりの話題転換に、赤井さんはきょとんとする。いやいや話を誤魔化したわけではなくちゃんと関係のある話なので聞いてほしい。あの日のことを思い出して笑いながら、言葉を続けた。

 

「降谷の提案だったんですけどね。たまには柊木の願いを叶えてやるなんて上から目線で言うから何かと思ったら、連れられた先がゲーセンで。警察学校にいたときにも行ったことがあったんですが、そのとき俺、降谷とエアホッケーで勝負したんです」

 

 あ、エアホッケーってわかります?と振ると、赤井さんはどこか戸惑った顔のまま頷いた。

 

「警察学校の時は、俺が初めてだったってこともあって負けちゃったんですよ。僅差でしたけど。で、ふざけ半分でいつかリベンジしたいって言ったのを覚えてたんでしょうね。降谷の奴、リベンジのチャンスをやるよって。チャンスだけなって笑うんですよ」

「……ああ、それを言った顔が容易に目に浮かぶな」

「ええ、降谷らしいあの顔です。はははすげえムカつきましたね」

 

 強気で不敵な、負けてやるつもりはさらさらないと語る笑顔。しかし負け通しというのは面白くない。今回は勝たせてもらう、と俺も笑って返した。相手が簡単に勝てる相手ではないと知っているからこそ、そのぴりりとした空気が心地いい。降谷と何かで張り合うときは、それがいつも嬉しかった。

 

「何点マッチだったかな。いやあ白熱しましてね、普通たぶん数分で片が付くゲームだと思うんですけど、これがまた終わらない終わらない。結局数十分打ち合ってたんじゃないかな。頭フル回転だし瞬きできないし全力で打ち合うしで、もう汗だくになりましたよ。一緒にゲーセンきてた他数名も、最初のうちは声援くれてたのに途中で飽きだしましてね」

 

 どっちの勝ちでもいいからお前らいい加減蹴りつけろ、と腹減り松田が騒ぎ出したのはゲームがようやく終盤に差し掛かったころだったか。相変わらずの負けず嫌いだねえと萩原すら苦笑して。まあお前ららしいけどなぁと伊達は面白がり、いつの間にか諸伏は俺たちへの差し入れに飲み物をふたつ手に持っていた。俺も言葉のうえでは悪い悪いと言いつつも、やっぱりそう簡単に勝ちを譲ってやる気にはなれず。度を超えた負けず嫌いの降谷についても言うまでもない。

 俺が全力で遊べるゲームはそう多くないのだ。勝つにしろ負けるにしろ、愉しまない手はない。滲む汗をぬぐっていると、降谷に声をかけられた。

 

『なんだ、ずいぶんと疲れているようだな?デスクワークばかりで鈍ったんじゃないのか』

 

 俺と同じように汗をにじませているくせに、よく言う。愉快そうに煽る降谷に、俺も言い返した。

 

『デスクワークで鈍ってる俺と接戦だなんて、お前こそ鈍ったのか?ああ、今は前線に出させてもらえないんだったか』

 

 じゃあ仕方ないよな、と言葉を付け加えると、ひくりと降谷の片頬が引きつる。何人かが噴き出したのを気配で感じた。

 正しく言うと前線に出させてもらえないのではなく、出世したから立場的にあまり出られないだけなのだが、基本的に最前線に出たがる性分の降谷には刺さったらしい。降谷の持つマレットがみしりと音を立てたのを覚えている。

 

「そこからまた白熱。お互いマッチポイントになったときは燃えましたね」

「ゲーム器具は壊れなかったのか?」

「赤井さん俺たちをゴリラか何かだと思ってるでしょ」

「降谷君に限っては間違ってないと思うが」

 

 それは同感、と言うと認めるのか、と赤井さんも笑った。仕事中に見せるニヒルな笑みではなく、本当に面白がっているような笑い方だった。このひとこんな風に笑うのか、と少し意外に思ったが、口には出さない。指摘するのも野暮というものだろう。

 

「最後の一点のラリーがいちばん長かったんじゃないかな。もう負けてたまるかの意地の張り合い。お前らガキかってさすがに後でからかわれました」

「君たち相手にガキ扱いか。親しいんだな」

「それなりに長い付き合いでして。……いやー、あれは我ながらいい勝負でした」

 

 負けたんですけどね。

 そう一言付け加えて、もうひとつ微笑む。気遣いも気兼ねも不要だ。だって俺は、本当に楽しかったんだから。

 

「と、つまり何が言いたいかと言うとですね。俺、結構降谷には勝ててないんですよ」

 

 警察学校で首席を取ったのは、降谷です。

 そう言うと、赤井さんはそっと煙を吐き出した。細く白い線を描いたそれは、ゆらりと天井に上って消える。

 

「……君の場合、勝敗という結果よりもその過程を重視しているからというのもありそうだな」

「はは、そうですね、降谷ほど負けず嫌いではないので、それはあると思います。でも別に、手は抜いてませんよ。本気で勝ちに行くから楽しいんですし」

「ああ、だろうな。……そうか、首席は降谷君だったか」

 

 予想は当たっていましたか?と振ると、そのあたりの話は勘弁してくれ、と流される。別に予想通りだと言っても怒るつもりはないのだが。

 

「……っと、そろそろいい時間ですね。すいません、飯の支度します」

「ああ、もうこんな時間か。何か手伝うか?」

「……煮込み料理以外のものつくれるようになったんですか?」

「レパートリーは増えていないが野菜くらいは切れるぞ」

「アンタは料理を舐めすぎです」

 

 これはひとりでやったほうが早そうだと判断し、立ち上がりかけた赤井さんを押し戻す。キャベツの千切りくらいは任せようかと思ったが、この人にやらせるととんでもない厚さのキャベツになりかねない。お好み焼きはキャベツの食感も重要なのだ、適当なことをしてもらっては困る。

 と、そのとき、ちょうどいいタイミングで玄関のチャイムが鳴った。

 

「赤井さん、あいつらだと思うんで出てもらっていいですか」

「了解した」

 

 赤井さんが軽く頷いて立ち上がり廊下に出る。その間も近所迷惑の馬鹿どもはチャイムを鳴らし続けていた。いや止めてくれよ伊達、お前だけが頼りなんだぞ。

 今日赤井さんがいることは、あいつらには言っていない。さて、俺ではなくあの人が出迎えたら、あいつらはどんな反応を示すのか。考えるまでもなく予想がつく。

 ピンポンの連打が止まり、がちゃりとドアの開く音がした。想定通りの叫びがキッチンまで響く。

 

「何でお前がいるんだ赤井ィィィィイイ!!」

「うわっ何だどうした降谷落ち着け!!よしよしどうどう!!」

「あれ赤井、何だ来てたんなら連絡くらい寄こせよな。久しぶり~」

「んだよ、この悪人ヅラお前らの知り合いか?」

「陣平ちゃん、さすがにもうちょい言葉選ぼっか?」

 

 その場にいなくてもそれぞれの表情が簡単に想像できる。いつにも増して賑やかになりそうな予感に、俺は頬がゆるむのを止められなかった。

 



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髪を切る話

 少し休ませてくれ、と降谷がうちに乗り込んでくるのは別に珍しいことではなかった。立地的にちょうどいい場所にあるこのマンションは、土日を問わず忙しい同期たちの休憩所としても使われている。

 カレンダー通りの休みが与えられている内勤の俺は、仕方ないなと言いながら悪友どもを迎えて寝かせてやったり餌をやったりするのが常なのだが、今日もそうだった。

 もたれかかるようにソファに座り込んだ灰色のスーツ。少しパサついた金糸はその忙しさを物語っているように思う。

 

「あ、枝毛」

「……何をしてるんだ、柊木」

 

 ぷちりと一本引っこ抜いてゴミ箱に捨てれば、恨みがましい目線を向けられる。ふと目に入った金の後頭部、ついでに枝毛を見つけた故の特に意味のない行動だったが、そんな顔を向けられればむしろ笑顔を返したくなるというものだ。

 

「降谷に枝毛って何か意外だな。ストレス?」

「ストレスを溜めるほど自己管理ができてないように見えるのか」

「疲れ切った顔で休みにきた野郎の台詞じゃねえな」

 

 ソファの後ろから冷たいお茶の入ったグラスを差し出せば、少しふてくされたような顔で受け取る。この機嫌の悪さ、珍しく本当に疲れているらしい。近頃仕事が詰まっているという噂は聞いていたが、降谷ほどの処理能力の高いやつがこれほどの疲労を見せるとは。

 本当に暇がないのだろう、少し見ないうちにもともと長めの髪が深く目に掛かっている。

ソファの背もたれに腕をおいたまま、降谷がグラスを空にするのをぼんやりと眺めていた。

 

「のびたな、髪」

 

 さらりと揺れる金糸は綺麗だと思う。だが、降谷が外見以上に合理性を重視する人間だと言うことは知っていた。

 ああ、と降谷は今気づいたように前髪をつまんだ。

 

「そういえば邪魔だな。柊木、ハサミないか」

「……え、今切んの?」

「切った髪は自分で片付ける」

「それは別にいいけど。……もしかして降谷って普段から自分で切ってる?」

「ああ」

「後ろも?」

「理髪のプロでも扱いにくい毛質らしい。面倒だから自分で切ってる」

 

 なるほど、さすが天元突破レベルで器用な男。

 それはそれは、と半ば呆れてハサミを取りに戸棚に向かおうとすると、自分の前髪が目に入った。そういえば俺もそろそろ切らないといけない。

 

「……降谷、俺もそろそろ髪切りに行くけど、一緒に行かない?」

「一緒に? 確か柊木は元『不良少年ネットワーク』の子に切ってもらってるんだったか」

 

 かつて面倒を見た不良少年のうちのひとりが、今では立派に夢を叶えて美容師として働いている。まだまだ新人だったころにカットの実験台になっていたのだが、営業時間外に切ってもらえるのがありがたくて結局今も頼んでしまっていた。ちなみにちゃんと正規の料金を支払っている。

 

「もう見習いは脱したらしいけどな。他の客に騒がれることもないし、結構有名だっていう店長さんに同席してもらうからその面倒な毛質も相談できるかもよ」

「ほー?」

「俺はよく知らないけど、その店長さん界隈では知れたひとなんだと。()()()()顧客を抱えててかなり交友が広いらしい」

「ならお願いしようかな」

 

 にっこり。交わされた笑顔の意味は、まあ、そういうことだ。

 取り出そうとしたハサミを戸棚に戻し、じゃあ適当に連絡入れとくよとスマホを手に取った。今はもう俺の手を離れた『不良少年ネットワーク』だが、それでも残った繋がりは俺なりに大事にしていた。俺にとっては数少ない、気安い会話のできる相手だ。

 

「ただし変なことに巻き込むなよ。民間人だぞ」

「当たり前だろう。柊木の友人を巻き込むなんて恐ろしくてできないさ」

 

 お前が本気でキレると意地悪く笑った降谷の頭を、当たり前だとぺしりとはたいた。

 

 *

 

「……ねえひーらぎさん、ひょっとしてイケメンのダチってイケメンしかいねえの?」

「……確かに皆なぜだか顔はいいけど、別に顔で選んではない」

「柊木に言われると何となく複雑」



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いつか、その隣に並ぶ日まで

 正直なところ、まさか俺がここに配属になるとは夢にも思っていなかった。

 多くの一般人が「警察といえば」と聞かれれば想像する部署であり、ドラマや小説にもよく出てくる定番中の定番、そして警察の花形、捜査一課。しかも警視庁の捜査一課とか、聞き違いかと思って聞きなおしすぎて怒られた。抜擢といえば聞こえはいいが、どっかで誰かの思惑が働いた結果なんだろうなと冷めた目で見ている。

 とはいえ、俺がやることに変わりはない。

 

「本日より配属になりました、相良幸人です。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!」

 

 指導係の先輩は、何か複雑そうな顔をしていた。

 

 

 *

 

 

 どこかで見たことのあるひとだと思っていたが、通りがかりついでに肩を叩いてくれた伊達さんを見て思い出した。そうだ、ひーらぎさんの家で見た写真。ということは、このひともひーらぎさんの。

 ちょっとついてこいと言われた先は、警視庁の各階にある休憩エリア。無造作に缶コーヒーを投げつけられて、慌てて受け取った。とりあえず座れ、と言われて、おとなしく缶を両手に持ってベンチに座る。安っぽいそれが、ぎしりと音を立てた。

 

「まず、最初に言っておくことがある」

「、はい!」

 

 壁に背を預けて立つ松田さんの顔は、ひどく苦い。メモのために手帳を取り出そうとしたが、それはいい、と止められた。

 

「仕事に関わる話じゃねえ。……相良お前、柊木旭、知ってるな?」

「……はい」

 

 その名前を出されて、おとなしく頷く。やっぱり、松田さんはあの写真のひとりだ。

 

「じゃあ、柊木の立場については?」

 

 言われて、はたと気付く。警察学校を卒業したら名刺をもらう約束だったが、ひーらぎさんも俺も忙しくて会う暇が作れず、連絡すら取る暇もなかなかなくて、結局もらえずじまいだった。それなりに偉いだろうことは察しているが、所属や階級については聞いたことがない。

 知らないです、と答えると、松田さんは深いため息をついた。

 

「……本当に説明してねえのかよあの野郎……」

「ま、松田さん?」

「あいつそういうところ抜けてるっつーか変に楽天的っつーか……どうせどっかで誰かが説明するからいいだろとか思って頭から抜けてんだろあいつ。腹立つわ」

 

 あ~と項垂れる松田さんに、どうしていいかわからない。思わず零れ落ちた謝罪の言葉に、いやお前は別に悪くねえだろ、とそっけない言葉が返ってきた。癖のある髪をぐしゃぐしゃと掻いて、めんどくさそうに松田さんは口を開く。

 

「警視庁警務部人事第一課監察官、階級は警視。順調に上役蹴落としながら出世街道三段跳びで駆け上ってる、そとづら完璧のキャリアのエリートだよ」

「え、……え? ……はああ監察官!?」

「声がでけえ!」

 

 反射的にすみません、と叫ぶが、……監察官? あのひとが? 多分偉いとか言うレベルじゃないし、松田さんの言葉にもいくつか突っ込みどころがあった。何から聞いていいかわからず口を開けては閉じていると、松田さんはまたも深い深いため息をつく。

 

「監察官の仕事くらい、説明しなくてもわかるよな」

「それは、はい」

 

 警察の警察とも言われる、身内の不正や怠慢を罰する部署。出世が約束されたひとが通る道だと聞いたことがある。何かやらかさない限り縁のない部署だと思っていたが、まさかあのひとがそこに。

 

「だから、言っておく。柊木と知り合いだってことは、誰にも言うな」

 

 力を込めるでもなく、抜くでもなく、平坦な声だった。俺は、ひとつ息をついて言葉を返す。

 

「……それは、ひーらぎさんのために、てことですか」

 

 松田さんは少し目線をあげ、考える様子を見せた。それから眉間に皺を寄せて、首をかしげる。そして改めて俺を見て、言った。

 

「……柊木は仕事中完全に猫かぶってるからな、人間関係は上手くやってるほうだと思うが、それでも敵は多い。ただでさえ嫌われ者の監察官って立場にくわえて、あいつ上層に喧嘩売りまくってるからな。柊木と知り合いだなんてばれてみろ、お前も目を付けられるぞ。それがひとつ」

 

 ぺーぺーの段階で上層に敵なんか作りたくねえだろ、と松田さんは言う。ちょっと待って喧嘩売りまくってるって何。怖くて聞けない。

 

「何でお前がうちに抜擢されたのかは知らねえけど、まあ異例は異例だ。それを柊木の口添えがあったなんてありえねえ噂を立てられたくねえだろ、お互い。これもひとつ」

 

 実際ひーらぎさんてそういうことできるくらい権力あるんですか、と余計な口を挟むと、ぎろりと怖い目で睨まれた。権力関係なく、やろうと思えばあいつは大概のことはできると返されたが、権力関係なくってのはどういう意味だろうか。

 

「それにあいつは、良くも悪くも目立つ。本庁でも多分知らねえ奴はほとんどいねえくらいの有名人だ。そんなやつの知り合いが捜査一課で新米やってるなんて知られたら、お前も相当の注目を集める」

 

 誰もが、お前を通して柊木を見、柊木を通してお前を見る。

 そう言う松田さんは、めんどくさそうな様子を見せながらも声は真摯だった。

 

「お前はお前としてこれから経験と実績を重ねていかなきゃならねえんだ、余計な先入観を周囲に与える必要はねえ。お前だって、柊木の知り合いなら優秀で当たり前とか言われたくねえだろ」

 

 それは正直きっつい。俺は自分が凡人なことも、むしろ要領がいい方ではないこともよくわかっている。あんたは本当に人間ですかレベルで有能なひーらぎさん並みの働きを求められたら潰れてしまう自信がある。

 確かに、と頷いて気付いた。ひーらぎさんとの繋がりを他言するな、というのは。

 

「ひーらぎさんとのことを誰にも言うなってのは、……俺のためですか?」

「正確には俺のためだな。お前が変に目立ったら俺まで目立つだろうが、めんどくせえ」

 

 ただでさえ柊木の同期ってバレたときはうるさかったのに、松田さんは本気で嫌そうな顔をしている。それが本音なのか建前なのかは俺にはわからなかったが、とりあえず自分に都合の良いほうで判断しておこう。思わず、頬が緩む。多分このひと、素直じゃないだけでいいひとだ。

 それを見咎めてか、松田さんはさらに嫌そうな顔になって続けた。

 

「あのな、本当にシャレにならねえんだぞ柊木と繋がりがあるのバレたら。上層のあーだこーだもそうだが何より女どもだな。群がられて今彼女いるかだの好きなタイプはどんなだの、延々柊木について質問攻めされんだぞ」

「……やっぱひーらぎさんてモテるんですね」

「モテるどころじゃねえよ。仕事にならねえからって毎年バレンタインに有給とるようなやつだからな」

 

 そういえば毎年二月ごろになると憂鬱そうな顔をしていたような。いやちょっと待って本当にどういうレベルでモテるんだあのひと。そりゃあの顔にあのスタイルにあの頭の良さにあの性格……って並べてみたら本当にモテる要素しかねえ。やっぱりあのひと人間じゃない。

 わかったか、と松田さんは心底嫌そうな顔で言う。

 

「俺や伊達、あと特殊犯にいる萩原ってやつは事情を知ってるからいいが、他で口を滑らせるなよ。あとどっかで柊木の猫かぶり見ても笑ったりすんな。どれだけ面白くてもだ」

「どれだけ……面白くても……?」

「お前、常に敬語でにこにこ笑顔の柊木想像できるか」

「無理です」

「そういうことだ」

 

 うわあ。声というより音が口から零れ出た。いやだってそれ……うわあ。

 気持ちはわかると言わんばかりに松田さんに肩を叩かれる。でもそれが本庁での柊木なんだと言われ、欠片も想像できないながらに頷いた。俺の知ってるひーらぎさんは、品行方正を千切りにしてお好み焼きに入れてこんがり焼くようなひとなんだけど。あのひとの作るお好み焼きはめっちゃ美味い。思い出したら腹減ってきた。閑話休題。

 

「…きっと偉いんだろうとは思ってましたけど、いろいろ想像以上で驚いてます」

 

 今までだってひーらぎさんのことをあまり大声で言うようなことはなかったし、これからもそのつもりはなかったけれど。やっぱりあのひとはすごいんだなぁと、そんなことをしみじみと思う。今まで身近な存在だったひとが、急に雲の上の存在になってしまったような。

 そんな俺を見て、初めて松田さんは少しだけ口元を緩めた。苦みの強い笑みだったが、笑うと少し幼い印象を受ける。

 

「ほかで話すなとは言ったが距離を取れとは言ってねえからな、その辺勘違いすんなよ」

「そう言われても…」

「拗ねた柊木はそれはそれで面倒だからな、適当に構ってやれ」

 

 あいつ寂しさで死ぬタイプだぞ、と面白そうに笑う松田さんに、俺もつられて笑った。

 わかっていたけど、このひと本当に柊木さんの友達なんだ、と強く実感する。それも、俺のように頼り切りの関係じゃなくて、きっともっと対等な。

 

「今の台詞ひーらぎさんに伝えていいですか?」

「やめろ馬鹿」

 

 わかったんなら戻るぞ、と俺に背を向けたその姿は、どこかひーらぎさんと似ているような気がした。

 

 

 *

 

 

『へー松田が教育係か。運が良いな、お前』

「そう思う?」

 

 その夜に、何となくひーらぎさんに電話を掛けた。すでに帰宅しているというひーらぎさんは特に気にした風もなく電話に出てくれ、今までと変わりない態度で接してくれる。

 松田さんのことを話しても、特に驚いた様子は見せなかった。

 

『松田は理屈でものを考えるやつだから。精神論振りかざすタイプとは違って、ああでこうでって順序だてて説明するだろ。本人はめんどくさそうにするだろうけど、指導には向いてるやつだと思うよ。少しばかり気は短いかもしれねえけど、筋は通すやつだし』

 

 それは確かに、と思わず頷く。ひーらぎさんのこと以外もいろいろと説明や指導を受けたが、理屈を通して話してくれるので理解がしやすかった。質問にもひとつひとつちゃんと説明をくわえて答えてくれたし、面倒見のいいひとなのだろうと思う。

 説明わかりやすかった、と言うと、そうだろ、と少し自慢げに返された。

 

「……それはそうとひーらぎさん」

『ん?』

「俺、今日初めてひーらぎさんの所属とか聞いたんだけど」

 

 柊木監察官、とあえてそう呼ぶと、電話口に沈黙が落ちた。これはどういう無言だ、と少し焦りつつ次の言葉を待つ。数秒後に返ってきたのは、あまりに呑気な声だった。

 

『……言ってなかったっけ?』

 

 ああそういや名刺渡しそびれてたか、と何でもないことのように。このひと本当にこういうとこ、と思わず大きなため息が出る。

 まあまあ、とあくまでも軽い声でひーらぎさんは続けた。

 

『公の場で会うことがあれば相応の態度で接してくれよ新米刑事。それ以外は別にいいけど』

「いいの?」

『本当はあんまりよくねえから他で言うなよ。俺は別にいい』

 

 いいのかよ、と続けそうになるのをぐっと堪えた。正直、今更ひーらぎさんに敬語なんてくすぐったくて仕方がないというのが本音だ。人前では弁えるにしても、それ以外でくらい今まで通りでいさせてほしい。

 それにしても、とひーらぎさんはしみじみと言う。

 

『そういうこと言われると、幸人もおとなになったんだって思うな』

「ねえ俺成人して随分経ったんだけど? ひーらぎさんより酒も強いんだけど?」

『酒の強さは関係ねえだろーが。……いや、まあ』

 

 そろそろ子ども扱いもやめてやらねえとな、と。

 そういうひーらぎさんの声は、温かくもあり、冷たくもあった。ひやりと、ほんの少しだけ背筋に冷たいものを感じた。しかし不思議と、それを嫌だとは思わない。

 

『おおかた松田に、俺との繋がりは公言すんなって釘刺されただろ』

「……うん」

『俺はどっちでもいいけど、お前の立場を考えたらそっちの方がいいかもな。その辺はお前の判断に任せる。とはいえ、せっかくある繋がりを使わないのも損だ』

 

 だから、と続けるひーらぎさんの声は、今まで聞いたことがないような雰囲気を纏っていた。

 

『どうしても助けが必要だと思ったら連絡してきてもいい。俺に出来る範囲でだが、手は貸してやる。……ただし、』

 

 その内容如何によっては、俺はお前を見限るからな。

 ぞわりと、背筋に悪寒が走る。ふと腕を見ると鳥肌が立っていた。ぞくぞくするその感覚は気持ち悪いのに、不思議と俺の口角は上がっていく。ようやく、と達成感に似たものすら覚える。

 そんな自分に笑えてきて、肩が震えだす。額に手を当てて、自室の天井を仰いだ。見慣れた天井の灯りに向けて、手を伸ばす。届くはずがない光なのに、何故か今なら届くような気がした。

 

「……ひーらぎさん」

『ん』

「俺、ようやく『おとな』になれた気がするよ」

 

 ひーらぎさんは、未成年ガキを見捨てるようなことは絶対にしない。子どもは大人が守るもんだって、そういう主義のひとだ。そうして今まで与えられてきた庇護はとても心地よいもので、俺たちにとっては救いでもあった。本当に、感謝は尽きない。けれど。

 いつまでも護られているわけにはいかないと思っていたのも、また、事実だ。

 

「……よっぽどのことがあったら頼らせてもらうけど、ちゃんと俺は俺でやってくから。松田さんや伊達さんもいるし、大丈夫」

 

 そう言うと、ひーらぎさんも少し笑った気配がした。そして、いつも通りの声に戻って、そうか、と小さな声が落とされる。その音の温度を察して、考えナシの俺と来たら思わず言ってしまった。

 

「あ、もしかしてひーらぎさん寂しい? そういや松田さんがひーらぎさんは寂しさで死ぬタイプだって、」

『へえ?』

 

 あっと口をおさえたがもう遅い。

 後で松田に連絡いれておくよ、と恐ろしいほどに穏やかな声が聞こえてくる。これ俺明日松田さんに殺されるんじゃないだろうか。ははは、と温度のない声で笑うひーらぎさんに、さっきとは全く違う悪寒が背筋を這う。

 

『口は禍の元だって、いい勉強になったな? 幸人』

 

 今後留意するように、と事務的な口調で電話は切られた。

 

 

 *

 

 

 この翌日、自分は何も怒ってないしパワハラだの何だのうるさい昨今にくそ長い説教や罰を与えるつもりは全くないと宣う松田さんに、書類の束を手渡された。それは過去にあった事件の捜査資料で、これはと尋ねると、松田さんは不気味なほどの笑顔を作る。

 

「今日使う資料だよ。これをもとに、供述調書を始めとする捜査資料全般の書き方と読み方を叩き込んでやる。ちなみに今日中に全部覚えてもらうから」

 

 その台詞はパワハラじゃないんですかなんてとても言えなかった俺は、引きつった笑顔でよろしくお願いしますと言うほかなく。遠い目をした視界の端で、伊達さんが苦笑しているのが見えた。あ、でも助けてはくれないのね、いやわかってたけどな!!

 その夜には知恵熱が出たし死ぬかと思ったけど、最後に「根性あるじゃねえか」と褒めてくれたあたり、松田さんもずるいひとだと思う。



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宵の一幕

 シャワーを済ませ、適当にひっつかんだ部屋着を手に取る。そこでようやくそれを確認し、あ、と小さく声を漏らした。三秒ほど考え、まあいいかととりあえずそれを着る。まだ湿っている髪をタオルで拭きながら、リビングにいたそいつらに声をかけた。

 

「ごめん、これ誰のTシャツだっけ?」

 

 いつもの五人の目線が俺の着ているTシャツに集まる。俺~、と手を挙げたのはやっぱりというか、萩原だった。

 

「ああ、萩原のだったか。着替えるの面倒だし借りるよ」

「いいよ~、置きっぱにしてたの俺だし」

 

 うちに集まるのが定番になっていることもあり、我が家にはいつのまにかそれぞれの私物が結構紛れ込んでいる。着替えに関してはわけて置いていたつもりだったが、いつの間にか混ざってしまったのだろう。

 体格も似ているのでサイズも問題なく、そもそもその程度のことを気にするような間柄でもないので、俺はそのまま髪を乾かそうと洗面所に戻ろうとした、のだが。

 Tシャツを見た瞬間に顔色を変えた降谷は、そのままさっと立ち上がって裾を掴む。

 

「柊木、着替えろ」

「え?」

「いいから着替えろ!」

「うわっいきなり何!? 」

 

 がばっと裾を持ち上げる降谷の目は本気で、シャツがのびるどころか破れてしまいそうだ。訳が分からずとにかくその腕を抑え込む。

 その後ろであちゃー、という顔で眉を下げたのが諸伏だ。

 

「ゼロ~、いくらなんでも大人げないぞ」

「きゃ、やだれーくんたら旭ちゃんが俺の着てるからって嫉妬~?」

「ハギは黙れ!」

「俺ちょっとお前のことはそういう風に見れないからごめん!」

「柊木も乗るな!」

 

 ぐいぐいと引っ張られるのを押さえながら、自分の着ているTシャツが目に入る。こいつ、もしかして。

 

「まさか『あめりか』が気に入らないから脱げって言ってんの?」

「だったら悪いか!」

 

 何のネタなのか、俺が来ているのは真っ白の生地にただ『あめりか』と書いた文字だけがプリントされているTシャツだ。どんな悪いふざけの産物なのかは知らないが、萩原の私物であることを考えてもどうせ大した意味のないTシャツだろう。それにまでこうも過剰反応を示すとは、全くこいつの合衆国アレルギーはひどすぎる。

 

「わかった、着替えてくるからやめろ、のびる!」

 

 そういうと降谷はぱっと手を離した。全く、頑固にもほどというものがある。溜息をつきながらシャツの皺をのばすと、降谷が鼻を鳴らすのが聞こえた。

 

「お前そのアレルギーほんと治した方がいいぞ……」

「別にアレルギーじゃない」

「どの口が言うんだか。萩原、ちょっとのびたかも」

「あはは、いーよ。何かでもらったネタTだし」

 

 部屋着にしかしてないし別にいいって~とへらりと笑う萩原。その横で松田が諸伏に何であいつ合衆国そんな嫌いなんだ、と聞き、諸伏は苦笑しながら首をゆるく振った。まあ降谷のアレルギーには原因こそあっても理由はない。強いて言うなら「嫌いなやつがいるから」それだけだろう。

 しかしまさかTシャツごときでここまで過剰反応されるとは、とやれやれとため息をつく。面倒だが着替えるか、と背を向けかけたところでそれにしても、と伊達に感心したような目を向けられる。

 

「お前今もちゃんと鍛えてるんだな。しっかり腹筋割れてるじゃねえか」

「そうか?」

 

 何となく改めて裾をめくりあげると、確かに割れた腹筋が目に入る。おお~、と気の抜けた歓声が上がった。

 警察学校を卒業して以来、身体を動かすことは目に見えて減った。無論、俺はそういうことがあまり必要ない立場だからなのだが、俺としては以前出来たことが出来なくなるのは面白くない。とても面白くない。なので定期的にトレーニングをこなし、自分の身体が思うように動くかどうかは確認するようにしていた。

 

「まあでも、お前らだって普通に割れてるだろ」

「そりゃ第一線で走ってりゃな」

「デスクメインの旭ちゃんがそこまで鍛える必要はないのに、全くプライド高いんだから~。どうせ同じくデスクのれーくんも割れてるんだろうけど」

「当然だろ」

 

 ふふんと笑った降谷も、ぺらりと自分のシャツをめくる。もちろんというか、がっつりと割れた褐色の腹が露わになった。うーん、俺よりも筋肉量多そう。

 

「何で俺より重そうなのに俺より脚はやいんだろうな、お前」

「鍛え方が違うんだよ」

「言いやがったな」

「はいはいストップな。そういやまた二人で勝負したんだって?」

 

 ビールの缶を揺らしながら、諸伏はけらけらと笑う。

 少し前、ちょうど桜が満開だったころ、降谷にたまにはとトレーニングに誘われた。軽く走って済ませるつもりだったが、やはりというか勝負になり、短距離走で何回かタイムを競った。何度かは勝てたが、それ以上に負けた。おかげで昼飯を奢らされたのでちょっと悔しい。確かに警察学校の時から降谷の方がちょっとだけ速かったのだが、今もその微妙な差は埋められていなかったようだ。

 その話をすると、お前ら相変わらずだなと呆れたように松田に言われる。

 

「昔っからゼロが一番早かったんだったか」

「つっても旭ちゃんもほとんど変わんないくらいはやかったけどね。その次が陣平ちゃんかヒロくんだったっけ」

「あー……でも筋肉ついて体重増えたから今は多分もっとタイム落ちてんな。今は諸伏のがはやいだろ」

「んー、俺もどうかなぁ」

 

 俺と班長は長距離派だもんねと伊達の肩を叩く萩原に、持久走なら負けねえよと笑う伊達。

 あの頃から十年、さすがにコンディションも変わってくる。どれだけ鍛えようとも身体に衰えは出てくるし、それと上手く付き合いながら身体を動かしていくしかないのだろう。そろそろ健康に気を遣わないといけない齢にもなってきたしなぁ、とそんな年寄り染みたことを思って、苦笑した。

 まだまだ若いつもりでいるが、確実に年月は流れている。

 

「……トレーニング増やすかな」

「何だ、またタイム競うか?」

 

 小さく言葉を漏らすと、耳聡い降谷がにやりと俺の顔を覗き込む。それにまたひとつ笑って、言葉を返した。

 

「さすがに俺も負けっぱなしは面白くない」

「柊木、いい加減お前も結構な負けず嫌いだって認めた方がいいぞ」

「降谷ほどじゃない」

 

 というか降谷の悪影響だ。

 そう断言すると、降谷以外の四人がなるほどと大きく頷く。ひとのせいにするなと喚く降谷を尻目に、じゃあ着替えてくるわと自室に足を向けた。

 

「あ、ちょっと待って柊木!」

「何?」

「いーからちょっとこっち向いて、はいポーズ」

 

 諸伏に言われて訳の分からないままピースをつくった。同時に、かしゃりという軽いシャッター音。いつのまにか諸伏の左手にはスマホがある。

 

「……何?」

「いや、ただの記念」

「記念って」

「いいからいいから。ほら、着替えて来いよ~」

 

 いい笑顔で手を振る諸伏に何となく薄気味悪く思いながら、俺はそのまま部屋に戻って適当な部屋着に着替える。

 諸伏の意図を理解したのは、そのすぐあとのことだった。

 

『アメリカに来るなら歓迎するぞ』

 

 海の外からのそんなメッセージに降谷は憤慨してスマホに向けて喚き、俺たちは呆れ、諸伏ひとりがけらけらと笑っていた。

 諸伏曰く、これだからゼロをからかうのはやめられない、らしい。




脚の速さなどは捏造です。
確かついったでアンケとった結果をそのまま反映させたような気がする。


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今を生きる

 確かに、ふとしたきっかけで脳裏に浮かぶ影はある。別に忘れているつもりはないが常に意識しているかと言われればそうではないし、さすがに幼少時の記憶など少しずつぼやけているのを感じる。十年も経てば心の整理だってついているし、俺としてはさして気にしていないというのが本音なのだが、まあ他からすればそりゃ気も使うというものなのだろう。

 俺が促したわけでもないのに自主的に土下座を決めてみせたそいつは、いつになく本気で落ち込んでいるようだった。

 

「本当にごめん」

「……いや、俺は別に」

 

 別に怒ってもいないのに土下座をされても。

 助けを求めるように悪友たちに目をやれば、諸伏はごめんとばかりに手を合わせ、あとの三人は当然だという顔で萩原を見下ろしている。

 今日はいつもの飲み会ということでうちに集まっていたのだが、俺が皿の用意をしているうちに諸伏が何やら口を滑らせたことが事の発端らしい。

 

「いや、ごめん、何かもうすっかり皆知ってる気になってオレが余計なことを」

「それは別にいいけど。正直俺も誰にどこまで喋ったか曖昧だし……けど、そっか、言ってなかったか」

 

 俺の父が警察関係者であり、すでに殉職しているということを。

 記憶を辿るが、確かに警察関係者であることしか言っていなかったかもしれない。諸伏には組織壊滅作戦で父の伝手を使うという話をしたときに言ったのだったか。俺としては特に隠していたつもりはなく、言う必要がなかっただけのこと。

 だいたい、父さんのことと萩原の過去の悪癖についてはまったくの別問題だ。

 

「……防護服のことでお前に説教したのは、別に父親のことがあったからじゃない」

「わかってる。……けど、たぶん、……思い出させただろ」

 

 頭を下げたままの萩原の表情は見えない。しかし、きっとひどく()()()ない顔をしているのだろう。いつも軽く見せてはいるが、萩原は本来誰よりも他者を慮る性質だ。しかも滅多にその手のことで失敗をしないだけに、今回のことは堪えたらしい。

 当事者である俺が気にしてないんだからそれがすべてだと思うのだが、さて、どうやってこの硬くて重い頭を上げさせたものか。

 少し考え、そうだな、とその後頭部に改めて目をやる。

 

「確かに思い出しはしたよ。……警察官の職務には多かれ少なかれ命の危険が伴う。うちのクソ親父はそれをわかってたからいつも引き出しに遺書入れてたし、きっと自分の身を守るためにあらゆる対策をしてたと思う。それでも殉職した」

「……ああ」

「だからお前の悪癖を知ったときはふざけんなって思った。死んで欲しくなかったから防護服着ろって言った。で、お前はちゃんとわかってくれただろ」

 

 萩原は改めてくれた。松田がうるさかったからとか、俺の説教が恐かったからとか、別に理由は何でもいい。萩原は防護服を装着して爆弾の解体に当たるようになり、結果的にこうして今も無事に息をしている。

 

「死ぬ前に改善してくれた。お前は生きてる。それでいい」

 

 ぺし、と軽くはたくようにその肩に手を置いた。ぴくりと肩が揺れ、のろのろと頭が上がる。案の定、萩原は似合いもしない情けない顔をしていた。何って顔してんだ、と小さく笑った。

 俺が説教をするのは改めてほしいからだ。考えてほしいからだ。だから、それでいい。

 

「それでいいよ、萩原」

 

 謝らせたかったわけでも、そんな顔をさせたかったわけでもないのだ。

 俺の言いたいことを理解してくれたのか、萩原はちょっとばつの悪そうな顔でぎこちなく笑う。指先で頬を掻く仕草にはいまだ戸惑いが見えたが、いつもの調子を取り戻そうと努力しているのはわかった。

 あーあ、と黙って聞いていた松田が声を上げる。

 

「あいっかわらず変なとこでお前は甘ェな柊木」

「済んだことでとやかく言うほど暇じゃないよ。ほら、お好み焼きの用意するから手伝ってくれ」

「ああ、ホットプレート出すぞ。柊木」

「うん?」

「一応お前の意志は理解したし納得もしたが、何か気に障ることがあったらちゃんと報告するように。飲み込んで終わらせるなよ」

「降谷の目には俺がそんなに遠慮してるように見えんの? 普通に言うよ」

「勝手に言って本当にごめんな、柊木」

「だから気にしなくていいって」

 

 はい支度の続き、と身体を起こしたところでぽんと伊達に背を叩かれた。まったく、どいつもこいつも気にしすぎだと思う。

 のろのろと立ち上がった萩原も、まだ何となく眉尻が下がっていた。

 

「……長い付き合いでも、やっぱり知らないことはあるもんだね~。旭ちゃん、もしかしてまだ俺らが知らない重い過去とかある?」

「ん? そうだな、母さんは俺を産んだときに亡くなって、父さんが殉職したのも俺の二十歳の誕生日ってこととか?」

 

 え、と部屋の空気が凍ったような気がしたが、まあここまで来たら気にすることもないだろう。あえて明るい声で、構わず続ける。

 

「だから俺にとっては誕生日は両親の命日で墓参り。もう恒例行事なんだよな」

「待って待って待って、俺が本当に悪かったからそんな軽く言わないで!!」

 

 ぐらぐらと萩原に揺さぶられながら、俺はそれでもただ笑う。

 両親の死は俺にとってすでに受け入れたことで、今や「日常」になったこと。それをわざわざ「傷」として嘆くつもりはなかった。何故って俺は、それでもわりと結構幸せだと笑って言える自信があるからだ。

 俺が大事にすべきは、今、このとき。その信条は、これからも変えるつもりはなかった。



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答えなき問い

蘭ちゃんの進路、また原作の捏造を含みますのでご注意ください。


 その日、俺は珍しくポアロのボックス席に座っていた。

 漂う珈琲の香りはいつもと同じく心地よいのに、どことなく緊張した空気が漂っている。原因はわかっている。俺の前に座っている、真剣な顔をした彼女だ。その隣に座る新一君もどことなく居づらそうな顔をしている。

 その彼女、毛利蘭さんは、意を決したように口を開いた。

 

「お忙しいのにお呼びだてしてしまって申し訳ありません」

「……それは別に構わないけど」

 

 ただ何故俺を、と思っただけで。

 俺と彼女の接点は以前にこのポアロで顔を合わせ、そして俺のリハビリにもなるからと新一君が紹介してくれたという程度のものだ。テーブルを挟んで会話するくらいなら問題こそないものの、それほど気軽に話ができる関係とは言いがたい。なのに今日は俺に用があるからと、新一君を通して呼び出しを受けていた。

 カップを傾ける俺を前に、彼女は緊張した面持ちをしている。

 

「今日はその、お伺いしたいことがありまして……」

「うん」

「柊木さんは、私の父のことはご存じでしょうか」

 

 それはもちろん、と軽く頷いた。今でこそメディアに出ることはなくなったものの、少し前に一世を風靡した名探偵「眠りの小五郎」。警察関係者でなくても知らなかったらニュースを見ろという程度の有名人だ。俺は直接顔を合わせたことはないが、そのひとが今いる店の上に事務所を構えていることも知っているし、彼の刑事時代の経歴も調べたことがある。

 

「探偵になる前は警察官だったことも?」

「知ってるよ。……ああ、もしかして毛利さんが聞きたいのは警察官を辞めるきっかけになった事件のことかな」

 

 はい、と頷いたあと、彼女ははっと気づいて慌てたように首を振る。

 

「あの、父が警察を辞めることになったことについてどうこうというわけではないんです! それに納得がいっていないとか、そういうことではなくて!」

「うん」

「その、……何ていったらいいのか、わかりませんが……いえ、本当は納得していないのかもしれません。父が母を助けるためにやったことですから、全部が全部間違っているとは、どうしても思えなくて。でも、正しいことではないというのもわかっているんです」

 

 ただ、とうつむきかけていた彼女は前を向いた。その瞳に浮かんでいるのは確かな決意。ああ、これと同じ目を俺はどこかで見たことがある気がする。さて、誰だったか。

 

「私、大学で法律を学びたいと思っています。具体的な職業はまだ決めていませんが、その関係で働きたいとも。だから、……だから、このもやもやに区切りをつけたくて」

 

 ルールと感情の間で揺れ動いてしまっている自分をどうにかしたいのだと、彼女は言った。自分なりの答えを見つけ、けじめをつけて今後の学びにつなげたいのだと。

 

「そのために、現役の監察官でいらっしゃる柊木さんのお話も伺ってみたいと思ったんです。当時、父がその責任をとって依願退職したという事実に対して、柊木さんはどのようにお考えでしょうか」

 

 なるほど、と俺は頷いた。もうひとくち、カップに口をつける。

 十年以上前に起きたその事件については知っている。毛利探偵の経歴を調べたときについでに調べたし、立場的に過去の査問会についてはおおよその内容は頭に入れてある。

 当時、取調中の被疑者が署内で彼の妻を人質にとり、毛利探偵は人質に構わず拳銃を発砲。その弾丸は人質の脚をかすめた。この発砲が妻を救い、被疑者の逃亡を許さないためだということはわかっているし、毛利探偵が優れた射撃の腕をもっていたこともまた事実。しかし、俺が監察官としてこの案件を見たとき思うのは、そりゃまあ。

 

「……監察官としての俺の意見は、甘くないけど」

「お気遣いなく。覚悟しています」

「なら言うよ。俺なら依願退職も許さない。懲戒免職を求める」

 

 あっさりと言うと、彼女の隣で新一君が目元を覆った。彼女が覚悟して俺の見解を聞きに来たというのなら、俺はそれに応えるのが筋というものだろう。

 毛利さんの瞳は、揺らがなかった。

 

「毛利探偵が発砲した理由も聞いてる。犯人の逃走において、まともに歩けない人質なんて邪魔なだけだ。あえて人質の足を狙うことで解放を狙ったんだろう」

「……それでも、懲戒免職」

「動機を考慮しないとは言わない。だがそれ以上に事実を事実として見なくてはいけない」

 

 それだけ、毛利探偵のしたことは重い。彼は査問会で、事実の証言はしてもそれ以上を言い募ることはしなかったと聞いている。おそらくは彼自身もその重みを理解しているからだろう。

 

「毛利探偵は人質にされた妻を助けるためにあえて軽傷を負わせ、犯人を確保した」

「はい」

「言い方を変えよう。当時、取り調べに当たっていた刑事は人質をとって逃走をはかった被疑者に対し、近くにいた上官の指示を仰ぐことなく拳銃を発砲。発砲は二度。その一発目は意図的に人質を狙っていた」

 

 そう言うと、目の前のふたりは顔色を変える。

 先入観を排除し、事実のみを並べ立てるだけで印象はずいぶん変わる。それも、悪い方に。残念なことに、重要視されるのはその「事実」なのだ。

 

「……まあ、百歩譲って上官に指示を仰がず発砲したことまではいいかな。急を要する事態であり、どちらにしろ許可された可能性が高い。指示を仰いでおけばその発砲は上官の責任になるわけだから、賢い選択ではなかったと思うけどね」

「……そゆとこ汚い大人ですね、柊木さん」

「大人ってのは汚いもんだよ、処世術ってやつだ」

 

 さらりと言ってみせると、まだまだおとなの世界を知らない彼はうへえと苦い顔をする。もし彼が今後何らかの組織に属するようになれば、いやでも実感することだろう。上司や部下、その間を行き来する責任という死ぬほどめんどくさいもの、そしてその利用の仕方を。もっとも、私立探偵として開業するのであればさほど必要のない技能かもしれないけれど。

 おっと、話がそれた。だいぶ温くなってしまった珈琲に口をつける。

 

「刑事が一般市民に怪我をさせたという事実は重い」

「……それが、母を救うためだったとしても?」

「むしろ何で救うためだったら傷つけてもいいんだ? 無傷で人質を解放させるよう目指すのが警察の鉄則だよ。俺からすれば、人質との親密な関係性に甘えて無茶を選んだようにしか見えないけど」

 

 毛利さんは真剣な顔のまま、口を開かない。強がりなのか、覚悟のうえだったのか、俺にはわからない。俺はただ、聞かれたことに答えるだけだ。

 とはいえ、これ以上は酷だろうか。

 

「……もうやめとく?」

「、いえ! 最後まで聞かせてください」

 

 いい覚悟だ、と少し笑った。泣かせてしまうかなと少し心配していたけれど、彼女の瞳にはその気配も見えない。

 

「それから、法という観点でみるともうひとつ、考えなきゃいけないことがある」

「それは?」

「前提条件はどうあれ、毛利探偵は人質を傷つけることで解放させた。それを不問にしてしまうと、それは『前例』になるんだ」

「前例……」

「……それ以後似たようなことが起こった場合も、許されてしまうってことですか」

 

 難しい顔で言った新一君の言葉に、頷く。

 ルールというのは、扱いが難しい。だから、どのように意義を定め、どのように解釈するか、たいていは「前例」から判断するのだ。プロの法律家だって、公判に挑む際はまず判例から調べ上げる。

 

「人質を傷つけることで解放させた警察官を、警察が許すことはできない。今後一般市民が人質にとられるような事件が起きた際に同じ対処をさせないために。何で毛利探偵のときは良くて自分のときはだめなんだとか言うような馬鹿を生まないためにもね」

 

 そういう馬鹿に限って、前提条件が違うんだと説明しても納得しないんだこれが。これまで対峙してきた馬鹿たちが思考の端をよぎる。監察官として面倒な案件にも対処してきたなかで、そういう馬鹿たちに有無を言わせないように職務を果たすことが重要なのはよくよく理解させられた。

 まあ、逆の立場になれば俺も間違いなくその詰めの甘さをつくので、あまり馬鹿だ馬鹿だともいえないのだが。

 

「そんなわけで、俺なら一番重い罰を言い渡す」

「……はい」

「……けど、実際に毛利探偵に下されたのは懲戒免職じゃなくて依願退職だった」

 

 え、とうつむきかけていた毛利さんが再び顔を上げる。

 理屈だけを言えば毛利探偵がしたことにはそれだけの重みがある。けれど、理屈だけで査問が進むわけではないのもまた、事実なのだ。

 

「懲戒免職はあくまでも俺個人の意見で、情状酌量を限りなく排した意見だよ。実際の査問ではきっとそっちの方もちゃんと議論されたんだろうね。犯人の逃走を許さず早期に再度確保したという功績もあるし」

 

 当時の査問会のメンバーも半数くらいは想像がつくが、さて、毛利探偵をかばったのは誰だったのか。予想がつくようなつかないような、なんとなく面白い。

 

「さっきは厳しい方向にこの案件を言い換えたけど、―――愛する妻を人質にとられた刑事は一刻も早く妻を解放するため、最短・最効率の手段を選択。少々無茶な手段ではあったが、刑事の確かな拳銃の腕と、妻との間にある確固たる信頼関係により断行した。これもまた、事実には違いない」

 

 依願退職という判断は、毛利探偵を許すこともできないが、その決断のすべてを否定することもできないという葛藤の上での結論だったのだろう。俺がその査問を担当したとしても、結局は同じ結論に達したような気がする。

 

「理屈と感情、両方の面で起きた事実を解釈し、その間で揺れながら落としどころを見つけていくしかないんじゃないかって思うよ。君のお父さんが受けた罰は、そういう意味で妥当だったと思う」

 

 これで答えになっているか、と彼女の顔を見ると、どこかすっきりした表情をしていた。そして、ありがとうございます、と深く頭を下げられる。

 

「自分でも、……もっと考えてみます。もっと勉強して、きっと何度でも」

「いい心掛けだと思うよ。この手の問題に正答なんてないからね」

 

 正答がないからこそ、考えることに意義がある。考えることを放棄したときに、ひとの成長は終わってしまうのだから。

 毛利さんの顔を見て、新一君もまた安堵した顔をしていた。俺の容赦のなさを知っているからこその顔だと思うと、少々苦笑してしまう。

 と、そのとき、ポアロのベルが来店を告げた。

 

「あれ、毛利さんいらっしゃいませ」

「おう梓ちゃん、珈琲頼む……って何だ蘭、お前も来てたのか。探偵坊主に、……そちらは?」

「お父さん!」

 

 何というタイミングか。焦った顔の毛利さんにもっと焦った顔の新一君。二人が何か言おうとする前に、俺はソファから立ち上がった。懐から黒い手帳を取り出す。

 

「毛利小五郎さんですね、ご高名はかねがね伺っております。警視庁警務部人事第一課所属の監察官、柊木と申します」

「けい、……監察官?」

 

 警察手帳に印刷された警視の文字を見て敬礼しかけたその手が、止まった。しかし、一瞬の硬直のあと、改めて綺麗な敬礼がこちらに向けられる。

 

「警視の方とは知らず、大変失礼いたしました」

「お気になさらず。敬礼も結構ですよ、毛利さんほどの方に畏まられては私も恐縮してしまいます」

「恐れ入ります。……娘と、その友人が、何か?」

 

 硬い表情で敬礼を解いた彼に、にこりと仕事用の笑みを向ける。

 

「新一君とは個人的に知り合いで、娘さんとも彼を通して知り合いました。大学進学を前に進路を悩んでいらっしゃるとのことで、少し話を聞かせてほしいと頼まれたんです。それで大学のことや仕事の話を、簡単にですがさせて頂いておりました。……しかし、未成年のお嬢さんとお話しする以上、まず保護者の方にご挨拶させて頂くべきでしたね。配慮がたりず申し訳ありません」

 

 誓って申し上げますが、娘さんとふたりで会ったことは一度たりともありません、と付け加えると、新一君と毛利さんもこくこくと頷いた。

 毛利探偵は特に疑う様子もなく、そうでしたか、と頷いた。

 

「お忙しいところを娘のためにお時間を割いて頂いて申し訳ない」

「とんでもないですよ。私のような若輩の言葉でも、何かの参考になれば幸いです」

「その若さで監察官を務められる方が何を。……柊木監察官」

「何でしょう」

 

 唐突で申し訳ありませんが、と一呼吸置いて、目の前の彼は真剣な表情のまま続けた。

 

「大河内春樹さんという方をご存知でしょうか」

 

 かつて監察官を務めていらした方なのですが、と言葉を添えられる。俺は、表情を変えなかった。彼の口からその名前が出るとは思っていなかったが、その因縁は知ってる。

 

「ええ、今は主席監察官を務めておられます。私の直属の上司にあたりますね」

 

 当時毛利探偵の査問を担当したのは、大河内さんだった。情け容赦のかけらもなく事実という事実をすべてあぶり出し、依願退職の処分を言い渡した、当の本人である。

 俺の言葉を聞いて毛利探偵は、そうでしたか、と小さく言葉を漏らし、そして続けた。

 

「ご無礼は承知のうえですが、大河内監察官にご伝言をお願いできないでしょうか」

 

 ほう、と意外そうな声が漏れそうになるのを、すんでのところで堪えた。構いませんよ、と言葉を返すと、毛利探偵はひとつ呼吸をおき、口を開く。

 

「……いえ。やはりやめておきます」

「よろしいんですか?」

「はい。申し訳ない、こちらから言っておきながら」

「お気になさらず」

 

 残念、などと思ってしまうのは下世話な好奇心だろうか。恨み言だったのか、はたまた感謝の言葉だったのか、それともまた別の言葉だったのか。さすがに突っ込んで聞くのは失礼というものだろう。

 

「お時間をとらせまして失礼いたしました。私はこれで失礼します。蘭、新一、失礼のないようにな」

 

 それだけ言葉を残して、毛利探偵は俺たちに背を向けた。珈琲はまたにする、と榎本さんに一言断ってポアロを後にする。

 妙に緊張していたらしいふたりは、心底安堵したように息をついた。

 

「何だよ大袈裟だな」

「あんまりおっちゃんと関わりたくないって言ったの柊木さんでしょ」

「んなこと言ってないよ。毛利探偵が気を悪くするかもしれないって言ったんだ」

「父はそういうの態度に出ちゃう人なので……あの、大河内さんと言うのは?」

「うん、俺の上司。そんで毛利探偵の査問を担当した監察官だよ」

 

 ぴたり、とふたりが動きを止める。

 

「何を伝えたかったんだろうな、大河内さんに」

 

 当時の話を、大河内さんに聞いたことがある。記録からわかるレベルのことはあっさりと教えてくれたが、それ以上のことはあまり教えてくれなかった。妙に話したがらない大河内さんの態度が気になって、それとなく当時を知っているひとから話を聞いたところ、わかったことがある。

 人質の足を撃ったことについて、毛利探偵は言い訳をしようとはしなかった。潔くないとでも思ったのだろうか、何故撃ったのか、わざと当てたのか、そのあたりの説明をあまりしようとはしなかったらしい。そのまま当人が口を閉ざしたままであれば、おそらく本当に毛利探偵は懲戒処分を受けていただろう。その重い口を割らせ真実を吐かせたひとこそ、当時の担当監察官、つまり大河内さんだったらしい。

 どんな取り調べを行ったのかは知らないが、それなりの攻防があったことだろう。是非とも見て勉強したかったものだ。

 

「まあ、見た感じ恨み言ではなさそうだ」

 

 あらゆる情報を集め、適正な処罰を与える。きっと大河内さんも当時、それだけのために尽力をしたのだろう。私情を挟まず、理屈と感情の双方からその罪の重さを見極め、依願退職を申し渡したのだ。

 苦笑した新一くんが、言う。

 

「……おっちゃんは逆恨みするタイプじゃないですよ」

「そうみたいだな。変に勘ぐって申し訳なかった、反省するよ」

「……柊木さん」

「うん?」

 

 改めて、毛利さんの方に顔を向けた。

 父親の態度を見て、また何か思うことがあったのだろうか。先ほどまでとはまたどこか違う笑顔を浮かべている。その瞳には、いくらかの誇らしげな色が見えた。

 

「今日はお話を聞かせて頂いてありがとうございました」

「いえいえ」

「いつか、……いつか、父とも話をして頂けませんか」

 

 え、とひとつ瞬きをする。

 毛利さんはそんな俺にまた笑って、続けた。

 

「いつか、機会があれば」

「……そうだね。いつか、機会があれば」

 

 本当にそんな日が来るのだろうか、とは思うが、とりあえず頷いておいた。

 査問を受けた元刑事と監察官が個人的に話すなんてとんでもない話だなと思いつつも、もしそんなことが実現するのなら、と脳裏にあの仏頂面が浮かぶ。それはきっと、担当の監察官が徹底的にその案件に向き合った結果なのだろう。

 俺は良い上司に恵まれたものだ、と改めて思った。




柊木さんとおっちゃんが絡むとしたらこの案件だろうなとずっと思っていました。
二元論で語ることができないからこそ難しい。


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系譜

指定の台詞を頂いて書いたSS。
某警察マンガからネタを頂きました。


 担当していた事件もようやく一区切りがつき、やれやれとデスクに戻る。口うるさい同僚に見つかると面倒だと思って欠伸は我慢していたが、どうやらすでに大半の同僚は帰宅したらしい。珍しく今日は落ち着いてたな、と俺は堂々と大きく欠伸をした。

 

「お、戻ったか松田。お疲れさん」

「伊達か」

 

 そんな俺の肩を叩いたのは、同期で悪友の伊達だった。こいつも今抱えている事件はなかったはずだが、後ろで高木が何やら資料を片手に難しい顔をしている。何か指導でもしていたのだろうか。定時で帰れる職ではないとはいえ、もうとっぷりと夜も更けている。

 

「事件がなかったときくらいさっさと帰してやれよ」

「あ、いえ伊達さんは自分のために残ってくださったんです。ちょっと勉強を……」

「勉強?」

 

 そうそうそれでお前に聞きたかったんだ、と伊達が頷いた。

 

「今年、高木が巡査部長の試験受けるんだよ。それでほら、俺たちの代で裏取引されてたあの資料、お前持ってないか?」

「あー……」

 

 巡査部長の昇任試験では実務のほか、憲法や行政法といった法学の知識も問われる。まんべんなく勉強しろと言われればそれまでだが、何分激務の警察官、出来る限り勉強は効率的に行いたい。そういうときに重宝されるのが、簡単に言うと頭がいいやつが作った勉強用の資料だ。勉強する内容なんて毎年そう変わりはないので、出来のいい資料は何年も受け継がれたりすることもある。

 まあ俺たちの場合、無駄にそういうのが得意な奴らが警察学校時代に試験対策用に作ってくれたものがあった。言わずもがな、首席と次席、そして三席までが手と口を出して作り上げた完璧なレジュメで、担当教官も「これを見れば昇任試験まで完璧」と言わしめた出来である。実際、同期の間でうちうちに取引され共有されたそれのおかげで、うちの代の試験突破率は目覚ましいものがあるらしい。

 もちろん俺も大いに活用した。しかし、試験後はどこにやったんだったか。

 

「捨てた覚えはねえからうちのどっかにはあると思うが……お前は持ってねえの?」

「元データはあるが、ほら、手書きで補足書き込んだりしてただろ。それもあった方がわかりやすいかと思ってな」

「なるほどな。多分探せば出てくるからコピーさせてやるよ」

「ありがとうございます!」

 

 真面目に勉強しろよ、と軽口を叩くと、もちろんですと真面目な顔を返された。高木の性格上クソ真面目に机に向かうだろうし、あの資料を丸暗記すれば法学で点を落とすことはまずない。この分だと近く高木巡査部長が誕生するなと小さく笑った。

 

「伊達さんも作成に関わった資料なんですよね?」

「俺はちょっと口出したくらいだけどな。まとめたのはほとんど首席と次席だよ。悔しいが法学であいつらに勝ったことなくてなぁ」

「常にほとんど満点叩き出すあいつらがおかしいんだよ」

「満点!?」

 

 そんな簡単なテストじゃないですよね、と言われて俺と伊達は同時に頷く。しかし本当に毎回そんな点数叩き出していたのだからあいつらの頭はおかしい。

 はははと伊達も乾いた声で笑う。

 

「懐かしいな、座学の苦手なやつらが揃ってそいつらに頭下げて頼み込んだんだよ。片方は苦笑しながら、片方は渋々の様子だったが結局一晩で形にして、どうせなら完璧なもの作るから意見くれって俺んとこに持ってきたんだよな」

 

 苦笑したのはまだ人見知りと猫かぶりの取り切れていなかった柊木で、渋々だったのは楽をしようという魂胆があるようで気に食わなかった降谷だろう。自分たちの勉強にもなるからいいじゃないか、それとも自信がないのかと柊木が降谷を煽っていたのを覚えている。

 それだけ聞いたらまるで柊木がいい奴のようだが、ちょくちょくこの資料を盾に周囲を脅しつけていたので騙されてはいけない。何だったかでハギの馬鹿が柊木の怒りに触れたとき、あの野郎、ハギ用に書き込みを追加したその資料をシュレッダーにかけようとしやがった。

 

『せっかく作った資料だけど……これでお別れだ、哀しくとも』

『うそ待ってごめん旭ちゃんマジで謝るごめんごめんなさいそれだけは!!』

『ほかに言うことは?』

『二度とやりません申し訳ございませんでしたァ!!』

 

 ならばよし、といい笑顔をした柊木は本当に悪魔だった。いや確かあれはハギが全面的に悪かったのだが、でもやっぱり悪魔の笑みだったと思う。

 そういえば高木にとって柊木はすでに「憧れの人」であるらしいが、いつかその夢をぶっ壊してやりたいものだ。握手まで求めた相手が鬼で悪魔で魔王で暴君だと知ったときにはどんな反応をするのだろう。正直めちゃくちゃ面白そうなので、柊木も早く職場での猫かぶりをやめればいいと思う。閑話休題。とりあえずこれを作成したひとりが柊木であることは言わない方がいいな。勉強に使うどころか神棚に飾りかねない。

 思い出から高木に目を戻せば、すでに気合い十分の様子で目に炎を燃やしていた。

 

「そんなすごい資料を頂けるなら何としても合格しないとですね……!」

「んな重く考えるこたねェよ。お前が落ちても伊達が指導責任を問われるくらいだ」

「さ、さらにプレッシャーかけないでくださいよ!」

「こらこら松田。まあお前なら大丈夫だろ。質問あったら聞きに来いよ」

 

 そんでお前の後輩が試験受けることになった資料渡してやれと伊達が付け加えると、高木はもちろんですと嬉しそうに笑った。




指定の台詞「これでお別れだ、哀しくとも」


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ポケモンクロス①

▼六花の内容をもとにしたパロディです
▼作者の趣味と欲望によるポケットモンスタークロスオーバー
▼六花世界にポケモンがいたら? こうなってたら作者が楽しい

▼とくせい「シンクロ」の拡大解釈を含みます
▼考えるな、感じろ


「はじめましてイーブイ、ぼくはあさひ! 今日からよろしくね!」

 おひさまみたいなこだ。

 そうおもったのを、よくおぼえている。

 

 あさひのおとうさんにだっこされて、ぼくははじめてあさひにあった。あさひはまだちいさくて、ちいさかったぼくをすこしおもそうにうけとめてくれた。

 いつもきらきらわらう、とてもやさしいあさひのことはすぐにだいすきになった。

 なでてくれるてはあたたかくて、まなざしはやわらかくて、ぼくのことをよぶこえはここちよかった。

「あさひはね、朝のおひさまの光のことだよ。ほら、あれがぼくのなまえ」

 こっそりよあけのじかんにおきて、おひさまがかおをだしたときにあさひはおしえてくれた。ぼくはあさひにぴったりのなまえだとおもった。あさひは、あたたかくて、やわらかくて、ここちいい。

 あさは、あさひのじかんだ。

 

 そんなあさひが、なんにちかかえってこなかったひがある。

 おとうさんはいっしょうけんめいさがして、ぼくもいっしょうけんめいさがして、それでもみつからなくて、こわかった。すごくすごくこわかった。

 かえってきてくれたときにはほんとうにあんしんしたんだ。でも、あさひはすごくおびえたようすで、ぼくをぎゅっとして、ひとばんじゅうないた。おとうさんもずっとぼくごとあさひをぎゅっとしていたけど、それでもあさひはずっとふるえてた。こわかったんだね、つらかったんだね、いっしょにいてあげられなくてごめんね。

 そのひからずっと、あさひはよるにうなされる。ふるえて、ひどいあせをかいて、いやだ、こっちをみるなってねむりながらなくんだ。そのたびにおこしたり、そのたびによりそったり、ぼくにはそんなことしかできないけれど。

 ぼくはあさひをまもれるようにつよくなろうとおもった。

 

 あさひはバトルがあまりすきじゃないみたいだった。

「イーブイがいたいのはいやだなぁ」

 ぼくがバトルをねだると、そういってちょっとこまったようにわらうんだ。だけど、ぼくはつよくならなくちゃいけないから、バトルのれんしゅうがしたい。いたいのなんてへいきだよ、だってあさひをまもりたいんだ。

「……うん、わかった。じゃあぼくもバトルの勉強をするよ」

 ぼくのおねがいごとをきいてくれたあさひは、それからいっしょうけんめいべんきょうしてた。ほんをよんだり、ほかのひとのバトルをみたり、おとうさんのはなしをきいたり。あさひはとってもあたまがいいから、どんどんくれるしじがよくなっていったとおもう。だってぼく、ぜんぜんまけないしぜんぜんいたくない。

 あさひはほんとうにすごいんだ。

 

 どんどんあさひのしんちょうがのびて、おとなにちかづいていって。

 それでもやっぱりあさひはあさひのまま、ぼくのことをだいじにしてくれるのがうれしかった。

 おおきくなってもまだおんなのひとのことはこわそうだけど、でもなんとかこくふくしようとがんばってる。すこしずつだけどだいじょうぶになってる。こわくてもにげたくても、それでもまえにすすもうとするあさひは、つよいこだよ。ずっといっしょにいるぼくがいうんだから、まちがいない。

 けいさつかんになるんだって、いっしょうけんめいがんばるあさひは、かっこいい。

 

 だいぶあさひがうなされるのもへったころ、こんどはおとうさんがいなくなった。

 あさひのときとちがったのは、もうかえってこないっていうこと。まっくろなふくをきたあさひは、たくさんのひとにあたまをさげて、たくさんのひとにあたまをさげられていた。

 とってもやさしい、とってもかっこいいおとうさんだった。もうあえないってきいて、なみだがでた。あさひもつらかったはずなのに、あさひはなかなくて、やさしくぼくのなみだをぬぐってくれた。

「……イーブイ、俺は」

 おとうさんがねむっているおはかのまえで、あさひはかみしめるようにいった。

「俺は、警察官になるよ。さいごまで父さんのことは説得できなかったけど」

 もっとがんばらないとなってなきそうにわらったあさひのかおをみて、ぼくはじぶんのなみだをふりはらって、ひとこえないた。あさひがもっとがんばるなら、ぼくももっとがんばる。いっしょに、がんばる。

 

 それから、かんがえた。ぼくはあさひのためになにをしてあげられるだろう。

 つよくなれたと、おもう。バトルでまけることはぜんぜんない。だけど、もっと、あさひのちからになりたい。

 なかなかおもいつかなくてこまっていたけれど、またひさしぶりにうなされているあさひにきづいて、おもいついた。

 あさひがないてしまう、よる。あさひのじかんがくるまえの、このくらやみ。

 ぼくが、まもってあげる。

 

 つきのひかりにつつまれる。ぞわりと、からだのなかのすべてがしんどうして、かわっていく。

 つよくなりたい。まもってあげたい。やさしくてつよいあさひの、ちからになりたい。

 ちゃいろだったけなみがくろくなる。てあしがのびて、からだがおおきくなる。つきのひかりがここちいい。よやみのなかでもあさひのかおがはっきりとみえるようになった。

 あさひのまくらもとにのると、いつもよりおおきなおとでベッドがきしんだ。

 

 いまのぼくには、ぼくのきもちをきみにつたえるちからがある。

 ぼくのきもちと、きみのきもちをいっしょにするちからがある。

 どうか、まけないで。だいじょうぶ、あさひはつよいこだ。じぶんのつよさをおもいだせれば、あくむなんてこわくないよ。ほら、まけないで。

 あさひのひたいにはなさきをよせて、ぼくのきもちをのせる。

「い、……ぶい……?」

 あさひのくちからそうこえがもれて、あさひのふるえがとまった。こきゅうがおだやかになって、しずかにふかいねむりにおちていく。ああ、うまくいった。おもいだしてくれたんだね、あさひがとてもつよいこだってこと。

 でもぼく、もうイーブイじゃないよ。まちがえないでね。

 

 これでよるはぼくのじかんになったから、これからよるはぼくがまもってあげる。

 あさひのじかんがやってくるまで、ぼくがなんどだって「あさひはつよいんだよ」っておしえてあげる。

 きみのためにできることがふえて、うれしい。

 

 ぼくのすがたをみておどろくきみのかおがみたいな。

 はやく、あさひのじかんがくればいい。

 そうおもいながら、ぼくもあさひのまくらもとでまるくなった。

 

 おもったとおり、めをさましたあさひはとってもおどろいていた。そしてすごくくやしがっていた。

「進化の瞬間を見逃すなんて!! なんで起こしてくれなかったんだよイーブイ、ちがったブラッキー!!」

 おまえってやつは、といいながらあたらしいぼくのけなみをわっしゃわっしゃとなでるあさひ。

 あくむをみたつぎのひにはかならずあったくまが、きょうはない。

 ぼくはけなみをぐしゃぐしゃにされながら、ただわらった。あとでちゃんとブラッシングしてね。

 

 それからあさひは、けいさつかんになった。

 にんげんのともだちもできて、たのしそうで、まいにちがんばっておしごとしてる。

 ぼくもずっと、そのそばにいた。

 たまにバトルをしたりもするけれど、あいかわらずあさひのさいはいにくるいはない。

 

「お前のブラッキー強すぎじゃねえ……?」

「かくとうタイプ相手でも余裕ってどういうこと……?」

「こうかばつぐんのこうげきも、あたらなければ問題ない。そういうトレーニングしてきたもんな? ブラッキー」

 じまんげにいうあさひに、ぼくもはなたかだかでひとこえなく。

 あさひのじまんがぼくで、ぼくのじまんがあさひなのが、なによりうれしい。

 

「さてじゃあもう一戦、いけるか? ブラッキー」

 おひさまみたいにわらうじまんのともだちのことばに、ぼくはたからかにへんじをした。

 

 

 あさと、よるのおはなし。

 あさひのじかんと、ぼくのじかん。



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ポケモンクロス②

▼前話の設定を引き継ぎます
▼剣盾で沼ったためガラルに連れてきました。剣盾キャラ出ます
▼六花の手持ちは出てきません(ブラッキー以外)お好きにご想像ください

▼捏造設定「ブルーガラル」
ガラル地方の警察組織のなかでもワイルドエリアを管轄する精鋭部隊。イングランドの騎士団勲章、ガーター勲章がそのリボンの色にちなんで「ブルーリボン」と呼ばれていることからもじって捏造しました。(キルクス担当はホワイトガラル、ルミナスメイズ担当はピンクガラルとかだと面白いかなという妄想)
▼六花はブルーガラルに所属しています

▼まああんまり深く考えなくて大丈夫です
▼考えるな 感じろ


 ぱち、ぱちと焚火がゆっくり燃える音は、ひどく心を落ち着かせた。

 木陰で柔らかな太陽を受けながら、手元の文字を読み進める。隣では相棒が時折大きな口を開けて欠伸をする。そのたびに腕を伸ばして首元をくすぐってやれば、また気持ちよさそうに目を閉じた。この静けさのなかの穏やかな時間もまた、キャンプの醍醐味というものだろう。

 ぱらり、とまた一枚ページをめくった時、ブラッキーがざっと立ち上がる。

 

「どうした?」

 

 声をかけると、その鼻先は上空を示した。見上げると、そこには晴天に美しく輝く緑の竜。その背には、いつの間にか長い付き合いになっている年下の友人がいる。

 

「おっいたいた!」

 

 騒がしくなりそうな気配に、栞を手に取った。持っていた本に挟み込み、鞄の中にしまう。相棒はやれやれと言わんばかりに黒い尻尾を振った。

 

「よーアサヒさん久しぶり! ブラッキーも元気そうだな」

「久しぶりってほどでもないだろ」

 

 キバナ、と彼の名前を呼ぶと、褐色肌の青年は嬉し気にまなじりを下げた。青年というよりは少年というほうがよく似合うその笑い方に、昔から変わらないな、と年寄りじみたことを思う。

 俺は彼が少年と呼べるころ、ジムリーダーでもなくチャレンジャーとして旅を続けていたころから彼を知っている。仕事上の成り行きといえる出会いだったが、キバナは妙に俺たちを慕い、こうしてたまに会いに来てくれた。

 

「フライゴンも元気そうで何より。で、わざわざ俺を探しに来たのか? 用があるなら連絡くれれば良かったのに」

「探しに来たっていうか、最近この辺でよく超絶イケメンがキャンプしてるってSNSに流れてたからさ、アサヒさんかなと思って確かめに来た」

「まじかよ」

 

 ここはワイルドエリアの中でもレベルの高いポケモンの多い、あまりひとが来ないエリアだ。こんな場所にいてなお、噂になってしまうとは。こういうとき、情報社会というものは恨めしい。うんざりしたようにため息をつくと、キバナは楽しそうに笑った。

 

「そうやってこそこそしてるから噂になるんだって。アサヒさんもSNSデビューしたら?」

「写真嫌いなんだよ。ロトム、カメラ向けるな」

「ひどいロト~」

 

 くるくるとキバナのまわりとまわるスマホロトムまで楽し気だ。まったく、こっちは死活問題だというのに。慰めるように、ブラッキーの鼻先が俺の手のひらにすり寄る。そのまま緩くなでてやると、もっと撫でろというように耳を倒す。そして再び鼻先を上げて、俺の手のひらをちょん、とつつく。ああ、わかってるよブラッキー、俺だって気づいてる。

 

「……ところでキバナ、お前ここに来るまでに不審な集団を見かけなかったか?」

「不審な集団?」

 

 そう繰り返して、ようやくキバナははっとした顔で俺を見る。

 

「……あー……オレさまひょっとして、仕事の邪魔してる感じ……?」

 

 にっこりと笑顔を作ってやると、実は「仕事」というものに対して非常に真面目な彼はぱんっと景気のいい音を立てて両手を合わせた。

 

「ごめん! やっぱ帰るわ、次はちゃんと連絡してから来るから!」

「うん、次はそうしてくれ。けど今回は大丈夫、むしろお前が派手に来てくれたおかげで早く片付きそうだ」

 

 遙か遠くから飛んできた高レベルのフライゴン、そしてその背に乗るガラルでも有数のポケモントレーナー。徹底して身を隠してきたやつらも、その姿を見てさすがに驚いたのだろう。キバナに気付かれバトルにでもなれば敵うわけはないし、そうでなくてもキバナという存在はいるだけで目立つ。そんな彼の来襲を見て、後ろ暗い事情のある奴らはどうするか?

 決まっている。安全な巣を捨てて、逃亡を図るのだ。

 いつの間にか、辺りが霧に包まれる。ワイルドエリアで霧が出ること自体は珍しくもないが、これは自然に発生した霧ではない。異変に気付いたキバナが周囲を見渡す。フライゴンも臨戦態勢に入った。

 

「キバナ、フライゴン、大丈夫」

「アサヒさん、」

「俺たちだけで十分だ。ブラッキー、位置はわかるか?」

 

 当然、と言わんばかりにブラッキーはきゅう、と鳴いた。その赤い瞳は、揺らぐことなくある一点を見つめている。好戦的な口もとから、ちらりと犬歯が覗いた。

 ブラッキーに見えているなら、逃すことはない。結果を期待していなかった仕事半分オフ半分の張り込みだったが、思わぬ収穫だった。知らず、自分の口角が上がっていることに気付く。

 相棒の名前をもう一度呼んで、続けた。

 

黒い眼差し(にがすな)

 

 しろいきりが徐々に晴れていく。

 

 

 *

 

 

「……で、あいつら結局何だったわけ?」

「詳細は言えないが、まあ密猟団だ。行動パターンを分析した限り、この辺にアジトがあると踏んだんだが正確な位置まで掴めなくてな。キャンプついでに張ってみたんだよ」

 

 連行されていく黒服の集団を見送る。逮捕と同時に呼んだ仲間に、後の処理を任せていた。得ずして仕事をしてしまったわけだが休みは休みなので、面倒ごとは任せておこう。

 

「まさか洞窟掘って隠れてるとは思わなかったな。しかも移動するときには抜かりなく《しろいきり》をつかって徹底的に姿を隠していたらしい。道理でなかなか見つからないわけだ」

「……ひょっとしてむしろオレさまお手柄?」

「調子にのんな。普段のバトルとは勝手が違うんだ、首突っ込んじまったことを反省しろ」

「……へーい」

 

 トップジムリーダーを務めるキバナは強い。強いが、正々堂々ルールの中で行われる公式バトルとこういうものは話が違う。迂闊に首を突っ込めば、彼自身にだって危険が及ぶかもしれないのだ。犯罪なんてものには、関わらないに越したことはない。

 

「アサヒさん、お疲れ様です!」

「ああ、お疲れ様」

 

 ガラルの警察組織の中でも特殊な部署、この広大なワイルドエリアを取り仕切るWA警備隊。その証である青い勲章から、俺たちは《ブルーガラル》と呼ばれる。まだ真新しい青いリボンを胸に飾った彼は、畏まった態度で俺に敬礼を向けた。

 

「小隊長より伝言を承っております! 仔細の報告は次回出勤時に書面にて提出、それから、……その……」

「はは、どうせ嫌味でも言ってたんだろ。言いにくいなら明日にでも本人から聞いとくけど」

「……『休めと言っても休まない馬鹿につける薬があればいいのにな』とのことです……」

「ん、伝言確かに受け取った。言いにくいこと言わせて悪かったな」

 

 いえ、と恐縮した態度を見せる肩をひとつ叩くと、彼はそのままそそくさと仕事に戻っていった。全く、あいつも少しは伝達する部下のことを考えてやればいいのに。

 

「……小隊長ってレイさんだよな?」

「ああ。我が身棚に上げてよく言うよなあいつ」

「いや絶対どっちもどっちだって」

「少なくとも俺はあいつより休み多いぞ」

 

 ただ、休みの日にいろいろ遭遇することが多いだけで。

 それが働きすぎだと言ってるんだ、と大きくため息をつく《小隊長》殿の顔が脳裏に浮かんだが、知らぬふりをしてかき消した。休みの日まで制服持ち歩いて出動に備えてるお前に言われたくねえんだよ。

 

「……そういや初めてアサヒさんに会ったときも、アサヒさんだけ私服だったような」

「よく覚えてるな。あのときはお前らのおかげでせっかくのオフにワイルドエリア大捜索に駆り出されたんだよな」

「お前らってまとめないでもらえます~? あれはダンデのせいだろ」

「泣きべそかきながら通報してきたやつがよく言うよ」

 

 そう言ってやると、かつて泣きべそをかいていたガキは表情筋の全部を使って遺憾の意を表明する。二十歳を超えたとは到底思えない表情に、思わず吹き出した。

 もう十年ほど前になるだろうか、あれはまだ俺もブルーガラルに配属されて間もなかったころ、数少ないオフの日にワイルドエリアの地理を覚えようと散歩をしていたときのことだった。急なスマホの着信に出てみれば、同じくブルーガラルに配属された同期が切羽詰まった声で言う。

 

『アサヒちゃん今どこ!? ……ハシノマ? オッケー近いね! 緊急招集、まだルーキーのジムチャレンジャーが高レベル地域に迷い込んじゃったらしいんだけど、今日に限って案件重なっちゃってて捜索の人員が全っ然足りない! そういうわけで大至急巨人の鏡池集合でヨロシク!』

 

 そして向かってみれば、そこには涙ながらに友人の捜索を訴えるキバナがいたというわけだ。度を過ぎる方向音痴のライバルが、どうやら今の自分たちの手には負えないようなレベルのポケモンたちが生息するエリアに迷い込んでしまったらしい、と。助けに行こうとも思ったが、今の自分では一緒に遭難してしまいかねない、と。

 随分と取り乱しているくせに、自ら助けに行くという無謀を選ばなかったキバナ。なるほど、ピンチでも最善を選択できるというのはトレーナーとして有望だ、と同期とともに感心したのを覚えている。

 

『だから、ダンデを……っ』

『とりあえず君、落ち付こうな』

『、』

 

 猫目の同期が、ライバルの救助を訴え続けるその肩をぽん、と叩いた。まっすぐに、そのターコイズの瞳をじっと覗き込む。視線に射すくめられて怯んだキバナににこりと笑って、続けた。

 

『よく焦って友だちを追いかけなかったな。いい判断だよ』

『ああ、心配だったろうによく堪えたもんだ。偉いぞ坊主』

 

 同期の中でも一番体格に恵まれた彼が、オレンジのバンダナごとキバナの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。何すんだ、と抵抗されてもものともせず、豪快に笑った。

 

『心配すんな。すぐ見つけてやるよ』

『そうそう、おにーさんたちこれでもすごいから! 青いリボンは伊達じゃないよ~?』

 

 癖の強い髪の同期がニヒルに笑い、その肩に腕をのせた垂れ目の同期が安心させるように茶々を入れる。

 そして、いつも自信満々の態度を崩さない、金の髪に褐色の肌をもつ同期がモンスターボールを手に取り、笑った。

 

『大丈夫だ。絶対、助ける』

 

 だからここで、待っていてくれと。その言葉を噛みしめたキバナは、涙を拭って、勢いよく頭を下げた。

 

『よろしくお願いします……!』

 

 そしてまあ、その後すぐに超絶方向音痴ことダンデは無事救助されたわけなのだが。何せダンデはダンデなものだから、遭難していた自覚すらなかったうえに相棒が道中で進化したことを嬉々として話し、キバナの逆鱗に触れることになる。片やキレて飛び掛かろうするキバナを押さえ込んで宥め、片や呑気が過ぎるダンデに説教をするというよくわからない事態になった。正直なところ捜索よりもこちらの方が大変だったような気がする。

 それからもちょくちょくとワイルドエリアで顔を合わせ、個人的な交流をもつようになった。そんな縁で出会った少年たちが、今やトップジムリーダーとガラルのチャンピオン。全く世の中わからないものだ。

 未だ拗ねた顔のキバナに、また笑って今日は時間あるのかと尋ねる。今日はオフ、と聞いて、それならばと袖をまくった。

 

「カレー作るけど、キバナ、食ってくか?」

「食う! アサヒさん俺辛口がいい!」

「はいはい、向こうにマトマがなってたからいくつか採ってきて。……ん、ブラッキー? ああ、お前相変わらずモーモーチーズ好きな。わかったよ、トッピングはチーズにしよう」

 

 カレーと言った瞬間にモーモーチーズを探り出して俺に押し付けてくる相棒に苦笑しながら、鍋を用意する。同時に、スマホロトムがくるくるとまわりながらメッセージを告げた。

 

「メッセージきたロトよ~。『カレー五人分追加』ロト!」

「何あいつら俺の監視でもしてんの? 真面目に仕事しろよって返事しといて」

「ロト! 即レスロト~『昼休憩! 腹が減っては戦は出来ぬ!』」

「くっそ、きのみ献上しなきゃ食わせねえって返信!」

 

 そうロトムに叫んだところでキバナが帰ってきた。が、おかしなことに足音がふたつに増えている。

 

「アサヒさんごめん、ダンデ拾った~」

「お久しぶりです! アサヒさんのカレーが食べられると聞いて!」

「お前方向音痴のくせに何でこういうときだけ鼻が利くんだよ! キバナ、ダンデ、そのまま回れ右して追加のきのみ収穫してこい! クラボとオッカを探し出せ! 出来ればモモンとザロクも追加!」

 

 了解、と昔のように無邪気に笑ったふたりはまた走り出し、俺は大きくため息をついて鍋に水を追加した。軽い昼飯にするつもりが、こうなったら彼ら全員の腹を満足させるまで終われない。足りない分の材料くらいは同期が調達してくるだろうが、少しは俺の労力というものを考えてほしいものだ。というかオフは休めっつったの誰だあの野郎。

 

「……密猟団捕まえるより骨が折れるよな、ブラッキー」

 

 思わず傍らの相棒に愚痴を落とすと、ブラッキーは少し首を傾げて考え、そしてまた荷物のところに戻って鞄を漁り、また上機嫌で俺の元にすり寄る。その口には、かぼそいホネのたくさん入った大袋。

 

「……チーズの次は、ボーンカレーをご所望かな……?」

 

 きゅう、とそれはそれは可愛らしい声を出して、満面の笑みを見せるブラッキー。欲しいものをねだるときだけは日頃のプライドをかなぐり捨てて全力で甘えてみせるこの相棒は、こういうときにあくタイプなのだと思い知る。

 

「作ればいいんだろ作れば……!」

「きゅう♡」

 

 身内に甘い自分の性質を心底恨みつつ、俺はホネの袋を咥えたままのブラッキーの両頬を柔らかくひっぱった。



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個性《柊木旭》

▼拙作「六花、欠けることなく」の夢主、柊木旭(仮)が登場する、「僕のヒーローアカデミア」のパロディなのかクロスオーバーなのかわからないものです
▼ヒロアカのキャラクターが出ます。ヒロアカをご存じの方向けです
▼コナンのキャラクターは一切出ません
▼どの世界でも柊木さんは警察官なのです

▼息をするように捏造を含みます
▼ホークスと降谷さんって似てるところあるなぁ、と思ったのがきっかけです


 俺の事情を知るひとに、よく正気を保っていられるな、と言われたことがある。普通なら精神が崩壊しててもおかしくないぞ、と。

 メンタルケアに携わるひとの言葉だっただけに、重みはあった。が、そのときにはすでに《柊木旭》を受け入れていた俺の口は、そうですかねえという呑気な言葉が漏れるだけだ。

 結局のところ、これが《個性》だろうが《妄想》だろうが、もっと違う超常現象的な何かだろうが、俺は結局《柊木旭》として生きるしかないのだ。俺のスーツの内ポケットには、いつだって警察手帳が仕舞われている。

 

「お、柊木クンやん!」

「ファットか。遠路はるばるご苦労さん」

 

 今日は捜査協力のためにサー・ナイトアイの事務所に訪れていた。どうも好き勝手始めているらしい死穢八斎會、当然その捜査には俺たち警察も関わっている。

 過去、このプロヒーロー《ファットガム》とともに違法薬物関わりの案件を潰しまわった経験を買われ、今は部署的に畑違いの俺もこうして捜査に駆り出されていた。ファットガムとはその捜査以来の付き合いで、齢が同じということもあり、それなりに親しく話す仲だ。

 

「ホンマ大阪から東京は遠いわ~。見てこのスリム具合、移動だけで痩せてもうた」

「どこが痩せたってんだよBMIヒーロー。どうせ移動中も駅弁山ほど食ってんだろ、プラマイゼロどころかむしろプラスだわ」

「いやっ柊木クンたらノリ悪い! そこは《痩せて綺麗になったな》くらい言うてくれんとファットさん泣くで!?」

「相変わらず口の回るやつだな……死穢八斎會の件で来たんだろ?」

 

 その名を出すと、ぴたりとファットは動きを止める。すっと真剣な目を向けられ、俺もひとつ頷いた。

 

「俺もその関係で今日は来たんだよ。今はクスリ関係の担当じゃないんだが、そのときの経験を買われてな。警察の方の指揮を執ってる」

「せやったんか。柊木クンの指揮があるなら捜査の進展も早そうやな」

「だといいけどな。……ファット」

「なん?」

 

 死穢八斎會に、個性を消すクスリ、そこに関わるひとりの少女。そして、そこにちらつく敵連合の影。サー・ナイトアイや警察としての見解では、死穢八斎會と敵連合の結託の線は薄いとみているが、さて。どうも俺の目には死穢八斎會を潰して終わりの案件には見えなかったが、とはいえ証拠も何もない状態で前線にたつヒーローを振り回すこともない。

 相変わらずトトロか最高級クッションかと思えるような腹に軽く拳をいれて、俺は誤魔化すように笑った。

 

「しっかりメシ食っとけよ」

 

 ひとが聞けば、それは何の変哲もない、ただの挨拶のような言葉。けれど、ファットにはそれで十分に通じる。それなりに危ない案件に、ともに立ち向かってきた経験があるからこそ。

 俺の《警告》に一瞬目を見開いたファットは、委細承知という様子でいつものように笑う。

 

「ほな東京でも食い倒れしてこかな! ところで柊木クン今日の夜時間ある?」

「今日は無理。仕事が詰まっててな」

「えええタイミング悪ぅ…東京で食い倒れるならまず柊木クンの粉もん食べな始まらんのに。何で関西出身やないくせにあんなに美味いねんやっぱキミ関西人やろ」

「残念ながら東京生まれの東京育ちだな。この案件片付いて時間が取れたら作ってやるよ」

 

 腕壊れるまで焼いてもらうわ、と楽しそうに言うファットに、洒落にならねえよと苦笑する。

 今では()()()ほど作ることがなくなってしまった俺の得意料理。作るたびにわずかな切なさと懐かしさを覚えるが、食いつくしてもらえるのはやはり嬉しかった。

 それじゃあ俺はサー・ナイトアイに会って来るから、とその横を通り過ぎようとすると、ほな、とまんまるトトロも手を挙げた。

 

「久々に顔面国宝(イケメン)見て安心したわ。相変わらずええ《個性》やな」

「誰が顔面国宝だ。この顔は個性だけど《個性》じゃねえっつの」

 

 相変わらず口の回るこの男は、余計な一言を残すのを忘れない。いつも通りの俺の返しを聞いて、陽気な関西人はからからと笑った。

 

 

 *

 

 

「もうその顔は《個性》でしょ。魅了とか催眠とかそういう」

「しばくぞ」

 

 サー・ナイトアイとの話を終え仕事場に戻ってみれば、何故か俺の執務室のソファでごろごろしている赤い羽。もう長い付き合いになる彼は、いつも通りの顔でへらりと笑う。

 

「いやーモテますもんねえ旭さん。会うひと会うひとみーんな目がハート。よっ世界一のイケメン! 国宝級の男前!」

「俺で遊びにきたならとっとと帰れクソガキ」

「あれ、今日機嫌悪い?」

 

 仕事が山積みなんだよ、と赤い羽をもつプロヒーロー《ホークス》に構わずデスクに鞄を投げ置いた。今日得た情報を資料にまとめ、明日以降の捜査計画も組みなおさなくてはならない。年端もいかない少女を虐待して違法薬物を精製している可能性がある以上、一刻も早くその娘を保護してあげなくては。

 パソコンを立ち上げた俺を見て、ホークスは他人事のように口を開く。

 

「相変わらず仕事熱心ですねえ旭さん。もう定時過ぎてんでしょ?」

「昼夜問わず働いてるプロヒーローに言われたくねーよ。というかホークス、お前東京まで仕事か?」

「協会に呼ばれましてね。まあもう終わったんで、先生の顔でも見てこうかと。あわよくば夕飯でもたかろうかと」

「少しは本音を隠せ」

 

 あと先生はやめろ、と言うとだって先生ですし、とかつて面倒を見ていた優秀な生徒はいつもの笑顔を崩さない。

 

「旭さんは俺の先生ですよ」

 

 腹の内が見えないその笑顔に、俺の教育が間違っていたのだろうか、と小さくため息をつく。俺の真似だとホークスは言うが、そんなところ真似すんなと思う。

 何故か生まれたときから《柊木旭》という《誰か》の一生分の記憶をもって生まれた俺は、この()()()()()世界ですら奇人変人の類として扱われた。当然と言えば当然だろう、この《身体》に与えられた別の名前を受け入れることも出来ず、教わったことのない知識を俺は《記憶》としてすでに持っていた。

 しかもこの顔、その《柊木旭》と同じくとんでもなく整っていて、しかも両親には全く似ていないというおまけつき。魔性と表現するしかないこの顔は、それはそれは多くのひとを犯罪へと導いた。

 決してそれは俺のせいじゃない。俺のせいじゃないが、一般人でしかなかった両親は惑った。苦しんで、俺を手放す選択をした。当然だと思うし、同情こそすれ恨む気にもならない。

 あのふたりは、決して俺を傷つけたり疎んだりはしなかった。ただ、受け入れられなかっただけ。それは決して、罪ではない。俺が《柊木旭》なんて《個性》をもって生まれたせいだ。

 結果として俺は公的機関が管理する施設に預けられ、《柊木旭》と名乗って生きていくことになったわけである。そして、一生を警察官として生き抜いた記憶を買われ、何故だか公安が面倒を見ていたヒーローの卵の世話まで任せられた。

 俺のあとをついてまわっていたちまちました小鳥が、いつのまにやら大きくふてぶてしく育ち、今やこの国でも有数のプロヒーロー。とっくに巣立ちして生まれ故郷の福岡でヒーロー活動に勤しんでいるくせに、東京に来るときには必ず俺のところに顔を出すのだから、変なところで律儀なやつである。

 

「ホークス、そこにいるのは勝手だけど俺しばらく仕事するぞ」

「旭さんは晩飯どうすんです?」

「一時間で片付けてそのあと食べる。作る気力はないから何か買うよ」

「久しぶりの旭さんのメシ……」

「今日は諦めろ。事前に連絡しなかった方が悪い」

 

 ちぇー、とちっとも残念がっているように見えない鷹は口をとがらせる。いつ福岡に帰るんだと聞けば、明日の昼には東京を出るという。さすがは忙しいプロヒーロー、と思いながら、家の冷蔵庫の中身を思い浮かべた。確か、鶏肉はまだ残っていた。

 

「……鶏のから揚げ」

「!」

「今晩のうちに仕込んで明日の朝揚げてやるよ。好きだろ」

「やった! あ、今日旭さんとこ泊まっていいですよね?」

「はいはい。じゃあ俺仕事するから」

「じゃ、俺ちょっと外出てきますねー。一時間したら戻るんで!」

 

 さっと羽ばたいた赤い翼に、珈琲、と投げかけると、了解、と楽しそうな声とともに一羽の鷹が窓から飛び立つ。一時間後に彼が戻ってくるときには、その手には珈琲とふたりぶんの夕飯が握られていることだろう。先の先まで読めと教え込んだ可愛い生徒は、抜け目なく俺の教えを実践してくれる。

 

「…個人的には生徒っつーか家族なんだが」

 

 お互い家族に関してはデリケートなところがあるので本人の前で言わないが、俺の感覚としては生徒というより家族に近く、弟や息子のように思っているところがあった。甘やかしてはならないと思いつつも、ついつい甘くなってしまうのは反省している。まあそこは幼少から面倒を見ていたやつの欲目と、―――どこか()()()()()()()()に似て育ってしまったせいだろうから、大目に見てほしいと思うところだ。

 改めて時計を見る。やるべきことを頭の中で整理し、優先順位と効率を考慮して片付ける順序を決めた。こきりとひとつ肩をならして、パソコンに向かう。一時間と区切ったからには、時間通りに仕事を終わらせなくては。

 なんだかんだで親しい顔によく出会う一日だったことを喜びながら、俺は集中してキーボードに指を走らせた。

 

 

 ***

 

 

 本当は、わかっている。

 柊木旭と名乗ってはいるが、俺の名前はちゃんと別にあることを。柊木旭は、俺とは別の《誰か》であるということを。

 けれど、俺はそれでも《柊木旭》を名乗り続ける。

 

「いつまで《柊木旭》やるつもりや、自分。……ホンマはちゃんと、わかっとるんやろ。それで、ええんか」

 

 いつのまにか付き合いが長くなりつつある悪友は、少し硬い口調でそう言う。本当に《俺》のことを心配してそう言ってくれているのはわかっているが、俺は苦笑を返すしかない。

 だって、仕方がないんだ。《柊木旭》は俺の目から見ても有能な警察官で、とても頼りになる存在なのだ。俺が《柊木旭》でいる間は、きっと《俺》でいるよりもたくさんのものを守れるから。

 

「……いつか、教えてくださいよ。《旭さん》の、本当の名前」

 

 幼少から面倒を見てきた、弟のような、息子のような彼は、そう言って少し切なげに笑う。俺だってお前の本当の名前は知らないんだが、とは言えなかった。彼に知識や振る舞いを教えてきたのは《柊木旭》の方なのに、どうして《柊木旭》じゃなくて《俺》を知ろうとするのだろう。

 別に、知らなくていいと思うんだ。《柊木旭》がいなきゃ、何もできない《俺》のことなんて。

 

「素晴らしい《個性》だよ。僕でも見たことのない、非常にレアな《個性》だ」

 

 目の前に立つ巨悪は嗤う。ニィ、と口角を上げ、芝居がかったように両手を広げた。

 

「おそらくはその遺伝子のどこかに刻まれた、過去の《誰か》の記憶と人格をそのまま受け継ぐ《個性》! あえて名前をつけるなら記録保存(メモリーストック)と言ったところかな? 嗚呼、素晴らしいよ。その《個性》はまさに、」

 

 転生や永久の命に限りなく近いものだ。

 これを奪われるわけにはいかない、と一歩下がる。《個性》を失ってただの《俺》になるのも大打撃だが、それ以上に、こいつにだけはこの《個性》を渡してはいけない。この巨悪の思考と思想を、後世に遺させてはならない。

 

「さあ、    くん。僕から逃げ切れると思うかい?」

 

 どこで知ったのか、久しぶりに《俺》の名を聞いた。暗に諦めろと言われて、思わず口角が上がる。残念ながら、《俺》にも《柊木旭》にも、諦めるという選択肢だけは存在しない。

 まっすぐに、その存在を見据えた。

 

()()()()()()

 

 だから俺は、逃げもしないし負けもしない。

《柊木旭》の結末は、いつだって完全勝利しかありえないのだから。



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たすけろください

六花集合後、緋色前くらいの時間軸です。


『たすけろください』

 

 一斉に送られてきた日本語になっていない文章に、メールを受け取った五人は同時に同じことを思った。

 ──また、女絡みか。

 

 *

 

「で、今回はどういう事案なんだ?」

「……偶然、ある警察上層のお偉いさんの家族に出くわしたんだよ」

 

 例のごとく柊木の家に集まった僕たちは、すでに半泣き状態の本人を前にしていた。急なことでも全員集まれたのは奇跡的としか言いようがない。こればかりは柊木の日頃の行いか、それとも全員招集することは滅多にない柊木のために全員が時間をむしり取ってきたか。おそらくは両方だろう。

 たいていのことは笑ってこなす柊木がここまで取り乱すのは女性関係だけ。しかも少々のことならいつもハギに相談して話を片付けているはずだ。わざわざ全員に連絡を飛ばしたからには、いつも以上の面倒な理由があるのだろう。

 しかしこんな情けない顔をしていてもイケメンはイケメンだなと逆に感心する。つい口に出したらお前が言うなと松田に頭をはたかれた。後でやり返す。

 それに一生懸命笑ってみせようとしたが表情を取り繕う余裕も残っていない柊木が零したところによると、たまに挨拶をかわすレベルに親しいお偉いさんの家族と仕事帰りに偶然鉢合わせ、そのご令嬢に一目惚れされてしまったとか。

 

「そのお偉いさん自身は普通にホワイトでいい人なんだよ……少々思い込みが激しくて娘さんを溺愛してるくらいで……俺のことも評価してくれてて……『君になら可愛い一人娘を任せられる』って……」

 

 そう言葉を続ける柊木の長い睫毛に、そろそろ水滴が乗りそうだ。

 柊木に目を付けたことについては見る目があると言ってやりたいが、本人の意向もちゃんと確認してやってほしい。まあ柊木も義理があった分はっきりとは言えなかったんだろうが。

 やれやれと僕は口を開いた。

 

「それで、そのご令嬢は?」

「連絡先を交換させられてメールのやり取りしてる……返信しなくても一時間に一回くらいの頻度でメールが来てて」

「返信しなくても?」

「一時間に一回?」

「それでも我慢してる方らしい……一応仕事中にスマホ見れないことは伝えてるんだけど……」

 

 全力で遠慮しても昼に弁当を作ろうとしてくるわ、帰りの時間や家の場所、休みの予定を聞き出そうとしてくるわ、果ては誰のとは言わないが結婚後の人生設計の話まで持ち出されているらしい。

 これは完全に柊木の地雷案件、とふと隣に目をやれば、うわあと言う顔をしたヒロと目が合った。ふるふると首を振るヒロに思わず頷く。

 とはいえ、警察という立場から考えるとこれは難しい。

 

「……だが、そのレベルだとストーカーで訴えるのはまだ難しいな。警察官僚の娘なら誰も手を出したくないだろうし、柊木の立場もある」

 

 お前もあまり表沙汰にしたくないんだろうと言えば、柊木はこくりと頷いた。

 

「となると、そのご令嬢さんに柊木のこと諦めてもらうしかないってこと?」

「無理じゃねーの? 相手が相手だけに猫かぶりも外せないだろ」

 

 松田の言葉に柊木の瞳がまた一層潤んだ。それに気づいた松田が慌てて頬杖を外し、身を乗り出した。

 

「おま、本気で泣きそうになんなよ!」

「せんせー、じんぺいちゃんがあさひちゃんを泣かせてま~す」

「俺は泣いてねえ!」

 

 いろいろ我慢ができなくなってきたのであろう柊木がぴるぴると震えだした。いやしかしお前、何でそんな情けない顔になってもイケメンなんだ、おかしいだろ。

 

「い、一応言うけど、多分悪い子じゃないんだ。ストーカーというより、その、ちょっと押しが強すぎるって感じで、向こうも俺がその気がないのはわかってて、でも諦めきれない感じというか、何が何でも欲しいモノは手に入れたいというか……」

「なあ柊木、それを世間一般ではストーカーって言うんだぞ」

「暗いジメジメした粘着質な感じがないだけ俺としてはだいぶマシなんだよ伊達! 盗撮盗聴尾行妙な贈り物もないし周囲に対する嫌がらせもない! だけど無理!!」

 

 つまり今まで経験したストーカーの中ではマシな部類ではあるけれど、だからと言って堪え切れるレベルでは決してないと。いや堪える必要はないんだがな。というかお前本当に今までどんな目にあってきたんだ。

 ったく、と頭をがしがしと書いた松田が、ん、と柊木に彼のスマホを差し出した。

 

「まつだ……?」

「つまり一応は話し合いの余地がありそうな相手なんだろ? ならすっぱり断りの連絡いれろよ。本気で外堀埋められる前に手を打った方がいい」

「ん、確かにね。ほら旭ちゃん、今なら俺たちもいてやるから、勇気出して頑張ってみよ~?」

「俺何歳児だよ……」

 

 ぶちぶちと文句を言いつつ、萩原に頭を撫でられても柊木は抵抗しない。伊達も苦笑してそれに続いた。

 

「何にせよ、ちゃんと拒否の意志を伝えることは大事だと思うぞ? お前のことだから、相手の気持ちとかそのお偉いさんへの義理とか気にして、あんまりはっきりとは伝えられてねえんじゃねえか?」

「……」

 

 そっと口を閉じた柊木は、どうやら図星だったらしい。

 意外とというか、柊木は女性相手にもなるべく傷つけないように立ち回る。あくまでも仕事外の、悪意のない相手に限った話だが、根本的に人を拒否するのが苦手な性質なのだ。

 

「何とかお相手さんに拒否の意志を伝えて、出来るだけ早くそのお偉いさんにも頭下げればまだ何とかなるんじゃないか? 正式な見合いでもないし、そのお偉いさんも話が通じない人ではないんだろ?」

 

 言い聞かせるように優しくヒロが言うと、柊木は唇を横一文字に結んだままこくりと頷いた。

 よし、柊木の震えが止まった。

 

「仕事に集中したいから今は私生活のことは考えられない、そう伝えるだけだ。多少ごねられても折れるんじゃないぞ」

 

 そうして一番誕生日が早いくせに一番末っ子気質の甘ったれは、僕たち全員に励まされてようやくスマホの画面に指を滑らせたのだった。

 こういうところが可愛いと思うのだが、それを知っているのが僕たちだけだという事実が、何となくくすぐったい。

 

 

 ***

 

 

「……何でこうなったんだろうな」

「陣平ちゃん、それは言わないお約束」

 

 はは、と乾いた笑みを零すハギも、さすがに遠い目をしていた。

 何が悲しくてカップルばかりのプールに男二人で来なくてはならないのだろうか。

 

 *

 

 数日前、俺たちの前で柊木は意を決し、そのご令嬢とやらに連絡をした。丁寧に丁寧に断りの言葉を並べ、申し訳ないと伝えるアイツの対応に、聞く限り不備はなかったと思う。

 しかし、相手が悪かった。辛抱強く言葉を重ねる柊木にもめげず折れず、漏れ聞こえた言葉は『諦めきれない』。なるほど、声の調子からしてかなり気の強い女らしい。時間がたつにつれ、柊木の顔色が青を通り越して白くなっていく。

 

「──わかりました」

 

 そろそろまずい、と思ったところで、案の定もはや完全に目が死んでいる柊木がとうとう根を上げた。諦めに満ちた声は、もはやもの悲しい。

 

「では、一度だけです。それでも私の意志が変わらなければ、このお話はなかったことに」

 

 その一言を絞り出した柊木はそっと通話を切り、そのまま──まっすぐ後ろに倒れた。

 

 *

 

 女性との会話に堪え切れず卒倒した柊木がぼそぼそ話し出したところによると、彼女は「こんな電話での言葉で諦められるわけがない、せめて一度ちゃんと会って話したい」「チャンスが欲しい、それでも無理なら諦める」と言って譲らなかったとか。

 それ以上会話を続けることに堪え切れなくなった柊木は根負けして妥協、一度だけデートをすることに。行き先は、彼女の要望で夏らしくプールだ。

 

「水着で悩殺しよう的な発想かな? 旭ちゃんにはマジで逆効果だけど」

「……まあある意味良かったんじゃねえか」

「何で?」

「泣いてもプールの中なら目立たねえし、卒倒しても熱中症だと誤魔化せる」

「あ、なるほど」

 

 デートの約束を取り付けられた柊木はなりふり構わず俺たちに泣きついた。

「頼むから誰か付いてきてくれ、マジで無理」と、あんなに真剣な顔の柊木を見たのはもしかしたら初めてだったかもしれない。どこまで必死だったのか、掴まれた肩が手の形に赤くなっていた。お前よくそれで普段俺らのことゴリラとか言えるなと思う。

 それで何とか時間の融通がつけられた俺とハギは、仕方なく男二人でプールに乗り込み、対象二人を見守る羽目になったというわけだ。

 

「しかしさすがというか、……目立ってるな」

 

 シンプルなサーフパンツにパーカーを合わせただけの柊木だが、そこに立っているだけでモデルのように様になる。言うまでもなく周囲の女性の視線を一身に浴びていた。

 本人は我関せずという顔をしているが、それなりに付き合いのある俺たちにはわかる。あれは、出来ることならすぐにでもその場から走り去りたいと考えている顔だ。

 

「あらー……旭ちゃん、今日生きて帰れるかな?」

「死なせたら俺たちが殺されるぞ、柊木のモンペに」

「あいつら本当に旭ちゃんのこと好きだよね~」

 

 何が何でも守り切るんだぞと念を押してきたクソ真面目のゼロに、オレたちも行ければよかったんだけどとしょんぼりしていた諸伏、悪ィが頼むぜと肩を叩いてきた伊達。

 普通ならいい歳した野郎相手に心配しすぎだろと言うところだが、何せ対象が柊木だ。本人に事情がありすぎるというのもそうだが、本来たいていのことは自分で片付けてしまう性質のやつに全力で頼られたなら、そりゃあ応えてやりたくもなるというものだろう。

 頑張んないとね、と軽く言うハギもまた、抜かりなく周囲の気配を探りながら柊木を視界に捉え続けている。オフなのにやってることは完全に張り込み(しごと)なんだよなと内心でため息をつきつつも、しっかり同じことをしている自分が笑えた。

 

「あ、来たみたい」

 

 柊木に向かって大きく手を振る女性、おそらく彼女が例のご令嬢なのだろう。

 いくらか年下だという彼女は、まあそれなりに美人と言っていい。華やかな水着を身にまとい、一生懸命柊木のために着飾ってきたのが見て取れる。相手が柊木でさえなければ、その努力を微笑ましく思えたかもしれない。そういう意味ではあの子も気の毒かもな、と思った矢先、彼女は躊躇なく柊木の腕に抱き着いた。

 

「ありゃ」

「うわ、」

 

 一瞬硬直しても笑顔を崩さなかった柊木はさすがと言っておこう。

 あれは泣くのを我慢している。偉いぞ柊木、そのまま堪えろ。さすがに往来で泣くアラサー同期は見たくない。

 

「……あー、積極的だね、肉食系女子って奴?」

「やっぱ今日柊木死ぬかもな」

「どうしよう俺たちも殺されちゃうねえそれ。おっと、移動し始めた」

「よし、追うぞ」

 

 ある程度距離をとって尾行する旨は柊木に伝えてある。よほどのことがない限りは特に手を出すつもりもないが、一応いるというだけでアイツは安心するらしい。どうやら俺たちの存在にはすでに気づいていたようで、一瞬だけこちらに目線を送ってきた。

 ほんの少し素の情けない笑顔をこちらに向け、すぐに顔を戻す。

 

「……相変わらず人の視線には敏感だなアイツ」

「歴代のストーカーのおかげで磨かれたスキルだと思うと切ないよね~」

 

 やめろ萩原、本当に泣けてくる。

 

 *

 

 そのあとのデートは、まあ順調だったと言っていいのではないだろうか。

 ウォータースライダーに乗ったり(二人乗りで密着するのが無理だったんだろう、それぞれ一人で乗っていた)、流れるプールに浮かんでいたり(抱き着こうとしてくる彼女を必死にかわしていた)、彼女が作ってきたお弁当を食べたり(まずいわけではないと思うが、噛まずに呑み込んでいた)、よくあるストローが二つ刺さっているジュースを飲んだり(ストローに口を付けてはいたがあれは絶対飲んでない)と、深く考えなければ微笑ましいデートに見えると思う。……絶対に笑顔を崩さない柊木の努力が涙ぐましい。

 たまに声をかけてくる逆ナンをかわしつつ、俺たちもずっと後を追っていた。ハギがちょこちょこスマホをいじっていると思ったら、来ていない三人に実況中継をしていたらしい。

 

「あいつら、なんて?」

「降谷ちゃんが、さすがに夕方くらいで限界だろうから解散する様子がなかったら仕事の呼び出し装って帰らせてやれって」

「妥当なところだな」

「あとヒロくんが、エチケット袋の用意はいいかって」

「ああ、絶対後で昼飯の弁当分吐くからな」

「それから伊達班長が仕事終わりに差し入れ届けに柊木の家行くってさ。ゼリーとアイスどっちがいいかって」

「もはや扱いが病人」

 

 まあ十中八九ぶっ倒れるのであながち間違いとは言えないが。

 ぼちぼち日も傾き、帰る客も増えてきた。柊木も意を決したのか、彼女に向き合って真剣な顔を作っている。

 

「……萩原、もう少し近づくぞ」

「はいは~い」

 

 そっと二人の声が聞こえる位置まで距離を詰めた。

 

「……私の気持ちは変わりません。お気持ちは本当に嬉しく思いますが、お付き合いをすることは出来ませんし、今後こうしてお会いすることも出来ません。貴方のお父様には私の方からきちんとお話をさせていただきます」

「そんな、旭さん……! 確かに今の私はまだまだ至らない点は多いかもしれません、けれど、絶対に貴方に相応しい女性になってみせます!」

「そんな風に仰っていただけることは身に余る光栄です。しかし、どうぞそのままの貴方を受け入れてくださる方をお選びください」

 

 貴方の隣に相応しいのは、私ではないでしょう。

 きっぱりと言い切った柊木に、少し感心した。お前、女相手でもちゃんと言うこと言えるじゃねえか。

 

「そんな……!」

 

 その言葉に、彼女は目を潤ませた。ドラマのヒロインさながら口元に手をやり、流れる涙をぬぐうこともなく。

 一瞬の隙をつき、柊木に抱き着いた。

 

「あ、」

 

 俺と萩原の声が揃う。

 当然その声も聞こえていない彼女は、柊木の胸元に頬を摺り寄せ、そしてそのまま背伸びをし、顔が近づいた──ところで柊木はばっと彼女を引き離す。

 

「旭、さん……?」

 

 柊木の頬に涙が伝う。表情はもはや笑顔を作れず、目が虚ろになりかけていた。

 完全にキャパオーバーしたのだろう、ふらりとゆらぎながらも、二歩、三歩と下がり、何とか倒れないように踏ん張っている。

 ──これはまずい。

 

「あ、旭さ、……私、……っごめんなさい……!」

 

 彼女がその場を走り去るのと同時に、俺たちは柊木に駆け寄った。

 目の前にいるのに視線が合わない。その肩を掴んで揺さぶる。

 

「オイ柊木! 柊木!?」

「旭ちゃん? 俺たちのことわかるー?」

「あ、……」

 

 未だ目線が合わないながらも、その口がはくりと動く。

 しかし言葉が紡がれることはなく、俺たちの言葉も届いてないようだった。

 

「ハギ、俺が柊木に肩貸すから荷物頼む」

「了解」

 

 柊木が()()なるところを見たのはまだ数回だが、しばらく()()()()()()()ことは知っている。

 俺たちは柊木を半ば抱えるようにしてすぐにその場から撤収した。

 

 *

 

 結局、柊木が会話できるほどに復活したのは、俺の車に乗り込んだ後だった。

 俺がハンドルを握り、萩原が後部座席でぐらぐら揺れる柊木の面倒を見る。荷物も積み込んでエンジンをかけたとき、柊木ははっと我に返った。

 

「……はぎわら?」

「お、戻ってきた。だいじょぶ?」

「ようやく起きたか」

「……まつだ」

「おう」

 

 三秒ほど固まった柊木は、そのままぶわっと音が出そうなほど涙を溢れさせる。そして隣にいた勢いよく萩原に飛びついた。

 

「うおっ!?」

「あああああああ怖かったあああああああ!!」

「いっ……! わかった旭ちゃん怖かったのわかったからちょっと腕緩めて!! マジで締めてる!! 肋骨きしんでるからホント!!!」

 

 突如として始まったやり取りに、不謹慎とわかりながら噴き出した。

 

「あっこら、何笑ってんの! あいててて本当痛い、痛いってば柊木!!」

「いやこれお前笑うだろ。おーい柊木、聞こえてっかー」

「きこえてる……」

「よし、萩原は好きにしていいが俺の方には来んなよ、運転中だからな」

「……うん……」

「さては柊木テンパりすぎて精神年齢幼児レベルまで落ちてるね!? いたっ締め上げるなってば柊木!! マジでお前の腕力洒落になんねえんだから!!」

 

 柊木の家について車から降りるまで萩原から離れることはなく、その間ずっとえぐえぐと泣き続けた。

 絵面が面白すぎて運転中ひらすら爆笑をこらえ続けたが、どう考えても俺は悪くない。柊木が萩原に泣きついて締め上げる図ってお前、笑う以外の選択肢がないだろと思う。

 

 

 ***

 

 

 家に帰って即行胃の中のものを吐き戻し、軽くシャワーを浴びなおしたころには、今日仕事だった三人もうちに乗り込んできていた。

 まだ早い時間なのに急いできてくれたのだろうか。さすがに申し訳ない。

 

「あ、旭ちゃん適当に服借りたよ?」

「ああ、うん……ごめん萩原」

 

 いーよ、と軽く笑った萩原が着ていた服は、俺の涙で見事にぐっしょり濡れているはずだ。車の中での騒動を思い出したらしい松田は、また小さく肩を揺らしている。

 

「松田……さすがの俺も傷つく……」

「ふ、くく、ああ、悪かったよ、面白すぎてな」

 

 真剣に同情されるよりは笑い飛ばされる方が気持ち的に楽なのは確かだが、そう全力で笑わなくてもいいと思う。確かにさっきまでの自分のことは俺自身忘れてしまいたいけれど。

 

「柊木、俺らのことはいいから少し横になったらどうだ?」

「ああ、まだ顔色が悪いぞ」

 

 伊達と降谷の言葉に甘えてそのままソファに転がった。

 諸伏がばさりとタオルケットをかけてくれて、傍に飲み物を置いてくれた。

 

「サンキュ」

「どういたしまして。ま、デートが終わって良かったね」

 

 無事に終わったとは言い難いけど、と小さく言うと、諸伏も困ったようにはははと頬を掻きながら笑顔を作る。

 

「彼女、走って逃げちゃったんだって?」

「柊木が泣いたの見てすげー動揺してたな」

「『そこまで私のこと嫌なの!?』って感じ? うーん、拒否っていうのは伝わったと思うけど、どうなるかなあ」

 

 もはや彼女の最後の表情を覚えてもいない俺は頭を抱えるしかない。

 どう考えても気を悪くさせてしまったのは事実だろうが、謝罪の連絡をした方がいいのか、それともこのまま連絡を絶つべきなのか。ぐるぐると思考が堂々巡りをしていたところに、俺のスマホから走る一瞬のバイブ音。

 部屋に沈黙が流れ、視線がスマホに集まった。

 

「……まさか?」

「いや、でもまさか」

「さすがに早くない?」

「でもタイミング的に……」

「とにかく、確認するしかないだろう」

 

 ほら、降谷が俺にスマホを差し出す。

 明るくなった画面にごくりとつばを飲む。若干震える手でスマホを受け取り、メッセージを開いた。

 

「……。……、……ん?」

「何その反応」

「……その彼女からの、メッセージなんだけど」

「やっぱりか。彼女は何て?」

「……諦めては、くれたらしいんだけど……?」

「良かったじゃないか。何だよ、その歯切れの悪さ」

 

 どう反応していいかわからないまま、降谷にそのスマホを投げ渡した。五人が一斉に画面を覗き込み、揃って目を点にする。

 

『逃げてしまって本当にごめんなさい』

『貴方の涙に、私では到底貴方の隣は務まらないと理解してしまいました』

 

「……涙を流す姿すらあんなに美しい貴方の隣には、立てない……?」

「まるで芸術品……一枚の絵画のようで……?」

「その美しさに堪え切れず逃げてしまった私をお許しください……?」

「まさに創造主のつくった美しさ……?」

「地上に舞い降りた天使に、私ごとき下界の人間が手を触れてはならないのです……?」

 

 父には私からきちんとお話しておきます、という一言でメッセージは締められていた。綴られていた文章はまるでポエムのようで、何というか、……何というか。

 何もないとわかっていても、俺の手はつい自分の肩甲骨に伸びる。硬い骨の感触だけが手のひらに残り、当たり前のことながら羽など生えているはずもなく。

 俺はどう反応していいかわからないまま、とりあえず口を開く。この顔で今までいろんな評価をされてきたけど、と自分で思うよりずっと戸惑った声が零れた。

 

「……天使(じんがい)扱いされたのは初めてだなぁ」

 

 一瞬の沈黙が流れた後、まるで爆発したかのような笑い声が部屋に響いた。

 

 



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のこされたもの

柊木さんのお父さんの話です。


 ひとりぶんしか気配のないこの家にも、すっかり慣れてしまった。ひとつ晩酌でもと適当なグラスと酒瓶を取り出す。つまみはまあいいだろう、そんなに飲むつもりもない。少しだけ、浸りたいだけだ。

 食卓のテーブルに写真立てをそっと置いて、椅子を引いた。見慣れた彼女の笑顔に、少し口角を上げる。

 

「……来月で旭の奴、成人だよ。あっという間だなぁ」

 

 なあ、汐里(しおり)。語りかけた笑顔は動かず、言葉も発しない。写真なのだから当たり前なのだが、そんな当たり前がちくりと胸を刺した。

 俺たちの息子は来月、二十歳の誕生日を迎える。つまりそれは、彼女がこの世を去ってから二十年という月日が流れることを意味していた。

 汐里は、もともと身体の強い方ではなかった。出産に堪え切れるかは五分五分だと医者からも言われていた。だから俺は子どもをつくることにも躊躇があったが、彼女自身が強く望んだ。

 

『貴方と私の血が混ざった子を、この腕に抱きたいの』

 

 身体は弱くても決して意志は弱くなかった彼女は、繰り返しそう言った。もちろん子どもが欲しかったのは俺も同じ。何度も話し合って、健康には気を遣っていこうと二人で決めて、そうして授かったのが旭だった。

 しかし努力の甲斐なく、汐里は旭をその腕に抱き、微笑みを遺してこの世を去った。私のお願いごとを叶えてくれてありがとうと、いつも通りの優しい笑顔だった。その笑顔もその声も、俺の脳に深く深く刻み込まれている。人の記憶は声から薄れていくと言うが、20年たった今でもはっきりと思い出せた。

 グラスに酒を注ぎ、軽く呷った。

 彼女を喪ってからは随分と目まぐるしかった。初めての子育ては失敗ばかりで、働きながらの育児には随分と頭を悩まされた。自分で言葉を話せるようになってからは旭の賢さに助けられたが、今度は別の問題で悩まされる。あのクソガキときたら俺と汐里の顔を完璧にいいとこどりしてくれたものだから、それはそれは見事なほどに美少年だったのだ。

 

 ──何度思い出しても、情けなさで死にたくなる。

 

 あの事件のこと、俺の無力さ、そして、旭に残ってしまったトラウマ。旭の前で涙なんぞ流してしまったのはあの時だけだ。自分の身に起きたこと、その顛末を理解していない旭はただ目を丸くしているだけだったが、それもまた俺の心を抉った。まだ幼い、何もわからない旭のことは、俺が守らなくてはならなかったのに。

 

「……俺が死んでそっちに行ったら、まずその説教から始まるんだろうな」

 

 いや、その前に旭の心の傷を思って泣くのだろうか。傍にいられなかった自分を責めるのだろうか。一通り自分を責め終えたら、あの女に全力で呪いでもかけるかもしれない。いや、もうかけている可能性の方が高い。汐里はそういう奴だった。大人しい顔をして内心では結構に過激なことも考える、決して温厚とは言えない強い女性だった。その辺り、どこか旭にも受け継がれているようで頭が痛い。

 

「血っていうのは恐ろしいよなぁ……旭の奴、やっぱりお前に似てるぞ」

 

 顔立ちだけの話ではない。普段は隠れているその苛烈さ、自分の意志を貫き通す強さ。そしてその、笑い方。見え隠れする汐里の面影に、嬉しさと切なさを覚える。

 

「……二十年、か」

 

 長いような、短いような。

 旭はすくすくと大きくなって、小学校中学校高校、そして関西の大学へ通うために家を出ていった。立派に育ってくれていると思う。成績は驚くほど優秀だし、台所にひとりで立てるようになってからは家事の類も覚え、今や料理の腕など敵わない。性格も……まあひねくれた生意気なガキではあるが、性根までひねているわけではない。何を思ったが警察官になるなどとほざいていていることを除けば、胸を張って自慢の息子だと言えるだろう。そんな旭が成人して、本当に俺の手を離れていく。

 嬉しいかって? そりゃ嬉しいさ。我が子の成長を喜ばない親がどこにいる。

 寂しいかって? そうだな、そうかもしれない。たったひとりの我が子、彼女の最期の贈り物。唯一残った「家族」だ。寂しさくらいはある。

 

 ──どこか、安心したんじゃないかって?

 

 グラスの酒をまたひとくち呷った。

 

「……心配すんな、馬鹿は考えちゃいねえよ」

 

 彼女の笑顔に、改めて語りかける。

 この二十年、再婚なんて一度も考えなかった。言い寄ってきた相手もいないわけではなかったのだろうが、俺の眼中には入っていなかった。

 俺の唯一は今も昔も、これからもずっと。

 

「……汐里」

 

 彼女を喪ったときの苦しみは、哀しみは、とても言葉で表現できるものではなかった。それだけ愛していた。それだけ愛されていた。俺にとって、本当に唯一の存在。旭がいてくれなかったら俺は生きることをやめていたかもしれない。

 

「……旭が俺の手を離れるからって、俺のやることが終わったわけじゃねえからな」

 

 あのクソガキが本当に警察官にならないように見張らなきゃならねえし、女性恐怖症もまだ治ってねえ。随分と狭い世界で生きてきた分、まだまだ世間というものもわかっちゃいない。教えることはたくさんある。まだまだ導き手が必要だ。

 

「……当分、面倒見てやるさ」

 

 成人したくらいで投げ出すような真似は、しねえよ。

 グラスに残った酒をいっきに呷る。空になったグラスをテーブルに置くと、かたりと軽い音を立てた。

 

「俺と、お前の、大事な息子だ」

 

 俺はお前を、その笑顔、声、思い出、喪失の苦しみも、哀しみも、寂しささえも全てひっくるめて、愛してる。あんまり口に出しては言ってやれなかったけど、本当に、それだけ愛している。

 そんなお前と俺の息子なんだ、何よりも愛おしくて当然だろう? たかが成人したくらいでほっぽり出して、自分だけ楽になる道を選ぶわけがないだろう?

 

「お前が遺してくれた俺たちの『旭』だ。出来るだけ面倒見て、……いつか本当にもう大丈夫だと確信できる日が来たら、」

 

 あのどこか危なっかしいクソガキだ、きっと俺が寿命を迎えるその時までそんな日は来ないだろうけど。

 

「……その時は、」

 

 続きを言葉にしようとして、やめた。どうせ何十年か後の話だ、口にするほどのことでもない。

 晩酌はここまでにしようと、グラスを持って立ち上がった。

 

「片づけて寝るわ。付き合ってくれてありがとな。アイツに誕生日は帰ってくるように連絡したから、今度は三人で飲もう」

 

 旭の酒癖はどっちに似ているのか、確かめるのが楽しみだ。

 




酒癖を確かめることはできませんでした。


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大晦日

何年か前に書いたやつ再掲。


 自他ともに認める情緒に欠ける人間性故か、別に年を越すからと言って大した感慨があるわけではなかった。強いて言うなら今年は何があったっけとか、そんなことを炬燵でぬくぬくと考えるくらいである。

 現場に出るわけでもない俺なので、有難くも年末年始はきちんと休みをもらえる。口に出したら殺されてしまいそうだが、別に休みをもらっても本を読むくらいしかすることがないのでいっそ書類のひとつでも片付けたいものだと思っている。

 

『貴方も立派なワーカホリックなのね』

 

 飛んできたメッセージに、即座に返した。

 

『きみの旦那ほどじゃないよ』

 

 すると一分とかからずに涙を流すキャラクターのスタンプが返ってくる。気の毒だと思いつつ、ちょっと笑ってしまった。仕事に理解のある彼女だから本気で泣いたり落ち込んだりしているわけではないだろうが、こうも返事が早いということは本当に暇なのだろう。

 ナタリーさんとは、こうして時折メッセージをかわす程度の間柄になっていた。世間一般で言う女友達というものなのだろうと思う。俺に女友達とか感慨深くて泣けてくる。

 年末の挨拶ついでに、特に意味のない雑談を続けていた。

 

『知っていたつもりだったけれど、警察官って本当に忙しいのね』

『部署にもよるけどね。特に伊達たちは花形の捜査一課だから』

『身体壊さないのが不思議だわ』

『そんな柔なやつは捜査一課とか配属されないよ』

 

 事件とあれば東奔西走、時も場合も選ばない犯罪事件に立ち向かう警察官は、どうしてもプライベートを犠牲にしなければならないときがある。たとえ新婚であろうと年末年始だろうと、なかなか家でゆっくりなど許されないのだ。残念なことに肩代わりしてやれる立場ではない俺は、大人しく炬燵に籠るしかない。

 

『せっかくお節作ったのに、食べてもらえるのは先になりそうね。仕方ないけど残念』

 

 実を言うと、少し前にナタリーさんからお節やお雑煮の作り方についてアドバイスを求められていた。

 と言っても俺も毎年真面目に作っていたわけではないので、とりあえず欠食児童どもがリクエストしてきたときに作ったもののレシピを渡した程度なのだが、それなりに気合いをいれて作ったという話は聞いている。日持ちがするものとは言え、出来ることなら元日に食べてもらいたいという気持ちはわからなくもない。

 それなら、とスマホの画面に指を滑らせた。

 

『届けに行こうか』

『え?』

『車出すよ。どうせろくなもの食ってないだろうし、着替えと一緒に渡してやったら。手が離せないようだったら俺が捜査一課に置いてくるよ』

 

 ついでに俺も差し入れを適当に置いてこよう。捜査一課と、特命係と、あと公安は……どうだろう。先に連絡してお伺いを立てておけばいい。

 

『でも、いいの?』

 

 いいも何も、どうせ俺も暇なのだ。休みの俺が顔を出したら嫌味かと言われそうだが、まあそこはそれ。俺が渡すやつらは文句言いつつも差し入れを残さず平らげるだろうし、それ以外のやつにどう思われようが今さら特に気になどしない。

 

『俺も適当に差し入れの準備するから、一時間後でいい?』

『もちろん大丈夫! ありがとう旭くん!』

 

 じゃあ後で、と返信して、もぞもぞと炬燵から脱出する。

 さすがにスウェットで本庁に行ったら卒倒される気がするので適当に着替えるとして、あとは差し入れを何にするか。彼女のように真面目にお節など用意していない。

 面倒なのでもうおにぎりくらいにしておこう。塩気を強めにしておかずを少しはつけておけば腹にも溜まる。

 俺の仕事は職務を怠る警察官を締め上げることだが、まあ真面目に働く警察官相手なら応援をすることがあってもいいだろう。年の瀬でも関係なく汗を流しているだろう悪友たちの顔を思い浮かべ、キッチンに立った。

 さて、おにぎりの具は何にしようか。

 




ちなみにナタリーさんと柊木さんの会話の内容は伊達さん関連オンリーです。


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どうか、貴方に幸福を

柊木さんの寂しい高校時代のはなし。
モブ先輩目線です。


 彼はよく図書室の中でも一番奥の、あまり日当たりのよくない席に座って本を開いていた。

 その精巧すぎる横顔を見たときは思わず三度見してしまったし、美を愛する芸術家の理想という理想を詰め込んだ人形が座っているようだと本当に思った。それはきらびやかで華美な美しさではなく、どちらかというと素数や数列のような均整の取れた美しさ。調和がとれているという言葉がこれほどまでにしっくりくるひとがいるなんて、と思わず感嘆してしまったほどだ。

 その胸元にあった名札を見るに、どうやら彼はひとつ下の後輩らしい。そういえば、とんでもなくかっこいい後輩が入ってきたと友人が騒いでいたような気がする。確か名前は、そう、柊木くん。柊木、旭くんだ。

 少し興味がわいて、情報通の友人に彼のことを尋ねてみる。アンタが興味を示すなんて珍しい、なんて言いながら、彼女は堰を切ったように話し始めた。見目麗しく、成績も優秀で運動神経もよく、それでいて常に孤独である彼のことを。

 

「別に愛想がないとかそういうわけじゃないんだよ、クラスの男子と話してるのも見たことあるし。でも女子には絶対近づこうとしないし、話しかけられたらとにかく逃げるんだよね。ま~あれだけモテてたら嫌になってもしょうがないんじゃない?」

 

 いつ見かけてもだいたい独りで、ぼうっと外を見つめているか、本を開いているのかなのだと彼女は教えてくれた。他とつるむのを好まない、ミステリアスな人間なのだと。

 そういうものなのだろうか、と内心で少し首を捻ったが、私とて彼のことを知っているわけではない。表向きは小さく頷いて、話を聞かせてくれてありがとう、と礼を言うと、別にいいよと言うように軽く手を振った彼女は、にんまりと笑った。

 

「本にしか興味がないアンタから見ても、柊木くんはかっこよかったんだ?」

 

 からかいを含んだ声に苦笑して、どうかな、とだけ返した。私は彼を見てかっこいいというより美しいと思ったわけなのだが、それをうまく説明できそうになかった。彼に抱いたこの感情は、どちらかというと小説に登場するキャラクターを知りたいという気持ちに近い。あるいは、美術館に飾られた絵画を見て、それを描いた画家の想いを知りたいと思うような。

 何となく、私は彼を目で追うようになった。放課後や昼休みには図書委員という体で図書室の受付を陣取り、彼が来るのを待つ。ストーカーをしたいわけではなかったので、なるべく彼を見ないようには気を配った。ひとの視線というものは案外当人に伝わってしまうものだ。私は彼の読書の邪魔をしたいわけではない。彼に関わりたいわけでも、なかった。

 彼が図書室に通い始めたのは、私が二年生の時の初夏。それから丸一年と、少し。受験勉強が本格化して私が図書委員をやめるまで、彼が図書室の片隅で本のページをめくるのを感じていた。彼は本を借りることはなかったので一度も言葉を交わすことはなかったし、目が合ったこともなかった。きっと彼は、いつも私が図書室のカウンターに座っていることも知らない。彼に恋情を抱いているつもりは全くないのに、まるで片思いでもしているかのような心地だった。

 受験を終えて卒業式を迎え、久しぶりに私は図書室を訪れた。別れと涙で騒がしい教室から少し離れたこの場所は、いつものように静かだ。卒業式にわざわざ図書室に訪れるもの好きなど私くらいで、誰もいない図書室を悠々と歩く。そしてふと、何となく気まぐれで、いつも彼が座っている一番奥の席に座ってみた。ぎぎ、とくたびれた椅子が鈍い音を立てる。

 教室のざわめきは遠く、目の前の窓から見えるポプラの木が風に揺られる微かな音のほうが大きく聴こえた。やはり日当たりはあまりよくないし、天井の蛍光灯もちょうど自分の体が影になって手元を照らしてはくれない。読書を楽しむにはどう考えても不向きな席だ。けれど、彼はずっとこの席で本を開いていた。ただひたすらに、ページをめくっていた。

 なぜ、と思った。彼はずっとこの席を選んで座っていた。ほかの席が空いていても、必ず。どうしてだろう、とぼんやりとポプラの葉が風に流されるのを見つめる。どうして彼はこんなにはしっこの、寂しい席に座っていたのだろう。

 話したこともない彼の気持ちなど私にはわからないが、何となく、この席で読書を楽しんでいたわけではないような気がした。

 

「……さみしい」

 

 やはり、寂しい席だ。孤独で、温かみのない場所だ。そういえば私は、彼が読書の合間に感情を見せたり、まして読書後の満足げな表情を見せたりすることもなかったような気がする。そういった感情を表に出すひとばかりではないけれど、その気配すらも感じたことがなかった。これまで彼は、相当な冊数をここで開いていたはずなのに。

 ふと、思った。ひょっとして彼は、読書が目的ではなかったのではないか、と。

 にわかに強い風がポプラを揺らした。ばさり、とその大きな枝がしなる。幾枚かの葉は枝を離れ、地面に打ち付けられた。私は、何となく葉が地面を這っていくのを目で追っていた。地面を離れまいとする葉を、強い風が容赦なく吹き飛ばしていく。

 

「……さみしかったんだね」

 

 特に何を思うでもなく、そんな言葉が口をついた。自分で自分の言葉に少し驚いて、思わず指先で口をおさえる。何となく決まりが悪くて、誰にも聞かれていないだろうかと周囲を見渡した。相変わらず、私以外の気配はない。それに安堵して、私は立ち上がる。

 彼は、寂しかったのかもしれない。寂しくて、寂しいからこそ此処に来た。独りがつらかったから、一人でいられる場所にあえて逃げてきたのだ。――なんて、すべて私の空想にすぎないけれど。

 小さく息をついて、その机をなぜる。冷たい木目を、指でなぞった。脳裏に、彼の調いすぎた横顔が浮かぶ。

 もしもまたどこかで会えるのなら、彼が幸福に包まれている姿を見てみたい。たとえば彼の寂しさなんてはねのけてくれる「誰か」と、笑って歩いていてほしい。人形のような静謐で調えられた様子は確かに美しかったけれど、日当たりの良い場所で心を許せる誰かと笑う彼の姿も、きっと人間的で美しいことだろう。

 いや、それを見たいなどと烏滸がましいことは言うまい。ただ、彼にそんな日々が訪れればいい。ただ、そう願っている。



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墓参りIF

ハロ嫁が地上波初登場した日についったにあげたやつ。
柊木さんがいて、それでも公式通りのことが起きていたとしたら。

ハロ嫁の一年前、ふたりきりの墓参り。


 秋も深まったこの季節、晴れているのに冷たい風が線香の煙を揺らしている。

 両手を合わせるとじゃらりと数珠が軽い音を立てた。そのままを両目を閉じる。いつもこのとき、何を思ったらいいのかわからない。伝えたい言葉は山とあるが、そのほとんどが説教と罵詈雑言だ。さすがに気が引ける。

 それならどうしてわざわざ命日に墓参りをするのかと言われれば、このタイミングでなければ会えないやつがいるからだ。

 

「早いな、柊木」

 

 ざ、とじゃりを踏みしめて近づく足音。

 久し振りに聞く声は、少しも変わっていなかった。

 そっと目を開け、声の方へ顔を向ける。

 

「お前が遅いんだよ、降谷」

 

 かつて肩を並べ、競い合った同期。

 あまり顔をさらせない職務に就いているという、公安の捜査官。

 もう、唯一と言っていい存在になってしまった友人だった。

 

「……少し痩せたか?」

「俺は健康そのもの。目の下に隈つくってるやつには言われたくないな」

「たまたま仕事が詰まっていただけだ。僕だって健康だよ」

 

 降谷は萩原の墓の前でかがみ、腕に抱えていた花束を供える。そのまま立ち上がって数珠を取り出し、両手をあわせた。

 墓前に沈黙が流れる。強く吹いた風が近くの落ち葉を攫っていった。

 

「……降谷」

 

 風に紛れて俺の言葉がぽつりと落ちる。

 手を合わせていた降谷が、少しだけ顔を上げた。

 

「……皆、死んだ」

 

 出逢えて良かったと本気で思っていた。

 生まれて初めてできた認めあえる友人たちだった。

 一生、大事にしたい縁だった。

 

「……死んだんだな、」

 

 何年経っても、ちゃんと受け入れることはできそうになかった。

 だって、何でこうも次々と亡くなっていくんだ。日本警察の殉職者数がどれだけ少ないと思っているんだ。

 何でお前たちばかり、ーー何で俺の大事なひとばかり、

 

「……どうしたら、恨まずにいられる?」

 

 それぞれ死に至った事情は違う。原因も違う。その結果に至った想いもきっと違う。

 だけど、俺は、ただ、もう、何もかも。

 この先は言葉にしてはならない。すべきではない。警察に身を置く者として、ーー皆の友人として。

 そうわかっているのに、俺と来たら、

 

「どうしたら、」

 

 次の言葉を口にしようとした、その一瞬。

 俺より重い体重をしっかり掛けて踏みつけられた足先に、声を上げるもより先に蹲った。

 ぼやけてしまった視界の端で、情け容赦という言葉を都合良く忘れたらしい友人は素知らぬ顔で息をついていた。まったく、とか言いながら腕組みをしているこのゴリラ、そろそろ本気で殴らせて欲しい。

 ふるや、とようやく絞り出した俺に、迷いのない蒼が向けられる。

 

「俺は死なない」

 

 空気を断ち切るような、きっぱりとした声だった。

 

「俺は死なないぞ、柊木」

 

 表に顔を出すことすらできないような職務に就いているくせに。常に拳銃を携帯する程度には危険の中を生きているくせに。

 どこにそんな根拠があるんだよと、そんな反論すら許さないような声。

 

「……降谷、」

「お前は僕のライバルだろう。だったらそんな情けない顔をさらすな」

 

 相変わらずの寂しがりめ、とからかうように落とされた声に、視界の滲みが酷くなる。ぐっと噛みしめた奥で、音になれなかった言葉が渦巻いていた。

 足先の痛みを堪え、ゆっくりと立ち上がる。

 

「……これ、絶対腫れてるぞ。加減しろよお前」

「つい力が入った。悪い」

「少しも悪いと思ってないよな」

「お前を正気に戻すためだ。加減なんてしてられないだろう」

 

 確かに、脳内に渦巻いていた重苦しい霧が晴れたような。

 本当にひどい顔だったぞと投げられた軽口にうるさいと声を返し、肺を空にするくらいに息を吐ききる。再び息を吸う頃には、頭の中はずいぶんと冷静になっていた。

 

「……降谷」

「ああ」

「自分が言ったことは守れよ」

「当然だ」

 

 また息を吐いて、吸う。ゆっくりと呼吸を続けていく。

 隣からもかすかに呼吸をしている音が聞こえる。当然だ、降谷も生きている。

 冷たい風が吹き抜けていくが、降谷(かぜよけ)のおかげで寒くはなかった。

 

「……柊木」

「なに?」

「大丈夫だ」

 

 降谷の言葉はいつも唐突だ。

 何が、とは聞かなかった。ただ、そうか、と。

 俺にはそれだけで十分だった。

 そこで一歩分身を引いた降谷に、時間が来てしまったことを理解する。

 

「寝る時間は確保しろよ。効率落ちるぞ」

「心配ない。お前こそ栄養をきちんと摂れ、いざというときに力が出ないぞ」

「必要量は食べてんだよ」

 

 いつもの不遜な笑顔が向けられる。

 俺もきっと、いつも通りの顔で笑っている。

 もう、大丈夫だ。

 

「すまない、時間だからもう行く。松田の墓は夜にでも行くつもりだ」

「ああ、俺はもう済ませたから。気を付けてな」

 

 じゃあまた、と軽い言葉を交わす。

 そして何の余韻も残すことなく、さっさと降谷は去って行った。まるで明日明後日にはまた会うくらいの気安さだが、今はそれが嬉しかった。

 改めて萩原の名前が刻まれた墓石に目をやり、ひとつ息をつく。

 

「じゃあ、……また来年」

 

 らしくないと思いながら、萩原に向けて言葉を残す。

 ずっと手に持っていた数珠が、少しだけ温かくなったように感じた。

 




「(お前は)大丈夫だ」



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運命の王子様

六花における、もうひとりの主人公のお話。


 王子様を、夢見ていた。

 ごきげんようと微笑んで見せるだけの毎日から、私を連れ出してくれるような。

 

 エリート警察官僚の父、良家の母、家は裕福で、それなりに頭脳も外見も恵まれて生まれてきたと思う。他所から見ればどれだけ恵まれているのかと羨ましがられる生活なのだろう。実際、羨ましいと言われたことも、嫉妬を受けたことだって何度もある。そのたびに私は「良家のお嬢様」らしく、困ったように微笑んで見せるのだ。

 大学からの帰り道、夏の暑さが落ち着いてようやく半そででは辛くなってきた。うすいカーディガンに包まれた二の腕をきゅっと握る。この道を歩くのも、大学卒業までのあと一年と少し。

 卒業したら私は、父が決めた相手と結婚をする。私を外見通りの「オジョウサマ」だと信じて疑わない、父の部下である人と。

 

『初めまして』

 

 どんな人だったのか、正直あまり覚えていない。優しそうな人だったとは思う。顔はあまり見なかったけれど、その声は穏やかだった。

 父だってさすがに問題のある人に私を嫁がせるような真似はしないだろう。あの男は世間体をとても気にするから、問題のある人を義理の息子になんて迎えたくないはずだ。きっと、あの人は私のことを大切にしてくれる。愛や恋以前に、とりあえず「妻」として。

 それで、十分。今までだって、父や母の勧めを無下にしたことなんてなかったし、そうして上手く生きてきたのだから。

 秋めいた冷たい風が頬を撫でた。そろそろ本格的に秋物の服を出すよう言っておくべきかもしれない。陽が隠れて風が吹くと少し肌寒い。そう思ったとき、ふと近くの公園のベンチが目に入った。

 子供たちが楽しそうに遊ぶ公園の、少し外れたところにあるベンチ。雲の切れ間なのか、そこだけ優しい陽だまりが出来ている。引き寄せられるように足を進めた。普段は寄り道なんてしないけれど、今日だけ。少しだけだから、と自分に言い訳をしてベンチに腰掛ける。

 あたたかい。そのぬくもりに目を細める。

 寄り道をしたのが久しぶりなら、公園という場所に足を踏み入れたのも久しぶりだ。こういう場所で気軽に遊ぶことさえ、私には許されなかった。というより、その選択肢なんて始めから用意されていなかった。それがどれだけ息苦しい生活だったかなんて渦中にいる私には気づけない。気づいたのはいつだろう、ここ数年のうちのことだった。

 後悔しているわけでも、嘆いているわけでもない。不幸だとも思わない。だってそれが私の当たり前で、そのかわりに得たものがあることも理解している。対価のある不自由を嘆くほど、子どもではなかった。

 ただ、そう、――何というのだろう。夢を見てしまうことくらいは、あった。

 

『きっとお嬢様も、王子様と出逢えますよ』

 

 かつて私の面倒を見てくれていたばあやは、王子様が出てくる絵本に目を輝かせる私にそう言った。その眦は優しくて、声は温かくて、何度もせがんで絵本を読み聞かせてもらったのを覚えている。

 思いもよらないところで王子様と出逢い、新しい世界に連れ出され幸せになる、よくあるシンデレラ・ストーリー。現実に有り得ないのはわかっていても、それへの憧れはいまだにこの胸に燻っている。

 自嘲せずにはいられない。そんな夢を見たところでむなしいだけ。私に許されるのは、せめて父が連れてきた未来の夫が本当に「まとも」な人であることを祈ることくらいだ。

 ふと足元にボールが転がってきた。続いてごめんなさーい、とボーイソプラノが響く。何気なくボールを手に取った。走ってくる子どもの足音に、返してあげようと顔を上げる。

 

 ――呼吸の仕方を、忘れた。

 

 五歳くらいだろうか、さらりとした黒髪に、子供らしい愛くるしい色の頬。きらきらと輝く瞳を嬉しそうに細めていた。

 

「ボール、ぼくの、です」

 

 えへへっと上機嫌で笑う彼。

 自分でも訳がわからない感情が膨らんでいく。

 同時に頭の中で警鐘が鳴る。声が響く。

 生まれたときからずっと、私を「私」にするために律してきた理性の声。

 

『だめ』

『わかるでしょう?』

『気づいてはだめ』

 

 そう、気づいてはいけない。

 あまりに可愛い男の子、だから少し驚いてしまっただけ。

 震える手でボールを差し出すと、ありがとう、ございます、と少し言いにくそうに彼は言った。敬語、頑張って使っているのかしら。そのいじらしさに少しだけ安堵する。そう、微笑ましいと思うのが「正しい」。

 ボールを受け取った彼は、何かに気づいたように瞬きをする。少しだけ首をひねって私の顔を覗き込んだ。

 

「おねえちゃん、いたい?」

「え……?」

 

 その感情から目をそらす私の必死の努力を嘲笑うように、彼は言った。

 

「ないちゃいそうなお顔してる」

 

 どうして貴方は、そんな顔で、そんな言葉を口にするの。

 どうして気づいてしまうの。

 そう零れ落ちそうになる言葉を、残った理性をかき集めて押し込める。

 

「……なんでもないの」

 

 ほら、戻らないと、お父さんが待っているわよ。

 視界の端で少し心配そうにこちらを見ている影が見えた。遠目だけれどよく似ている。きっと彼のお父さんだろう。

 彼は少し困ったようにお父さんと私を見比べる。本当に大丈夫よ、と念を置くと、こくりを頷いてお父さんのもとへ走っていった。

 その背中を見送り、彼のお父さんもこちらに向かって軽く頭を下げる。私もひとつ会釈を返して立ち上がった。

 そのまま彼らの姿を振り返ることなく、いつものようにゆったりと歩を進め、公園を後にした。歩き方ひとつとっても品位が表れる。そう躾けられて、ゆっくりと品良く歩くよう癖づいていた。なのに今は公園から離れるにつれ、だんだんと歩みが早くなるのを止められない。

 頬をつたう雫になんて、気づきたくなかった。気づかざるを得なかった。どうして、どうして、とただただ内心叫びながら風を切る。とうとう小走りから全力疾走になって、家の門を勢いよく開けた。家政婦の声になんて気づかないふりをして、自分の部屋に飛び込んで鍵をかける。

 ああ、これは。

 これは、――恋だ。

 私の心は、奪われてしまった。十五は年下だろう、幼い彼に。

 何て愚かな。何て馬鹿な。自嘲する余裕さえない。私の心を奪ってくれる、夢にまで見た王子様。そのベールをはがしてみれば、まさか。――まさか。

 その運命の残酷さに、私はただ嗚咽をあげることしか出来なかった。

 

 どうして私の王子様は、幼い彼だったのだろう。

 どうして私の王子様は、愛の意味さえ知らないような、彼だったのだろう。

 どうして私の王子様は、応えてもくれないのに私の心を返してくれないのだろう。

 

 わかっているの。

 苦しくてもこの初めての恋にしがみついているのは、私の方だってこと。

 わかっているの。

 王子様にとって、私はお姫様でも何でもないってこと。

 

 だって勇気を振り絞ってもう一度彼に声をかけたとき、――彼は私のことを覚えてすらいなかったのだから。




それは確かに、双方にとって「愛」という名の「呪い」でした。


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柊木本丸① とうらぶクロス

柊木さん元警察官で審神者やってます。


 とにもかくにも気が重い。

 自分は仕事ならばたいていのことは割り切って実行できる人間だと自負していたが、何せ本丸に籠もっていると対人ストレスが皆無なので耐性が薄れているのかもしれない。男士しか周囲にいない環境があんなに楽だとは思わなかった。警察学校よりさらに気が楽ってどういうことだ快適すぎる。

 ひたすらに野郎としか接触のない審神者生活のなか、数少ない苦痛な任務がこの会議だ。わざわざ時の政府の施設に足を運び、多くの政府関係者や審神者の前で戦績を発表する。

 いや、会議の必要性はわかる。戦果の報告は当たり前のことだし、それに対する評価は当然必要だ。審神者同士で戦果を共有することで切磋琢磨させる狙いもあるだろう。強いて言うならリモートでやればいいじゃねえかとは思うが、まあ対面のほうが不正を見抜きやすいとか一応の利点もある。だから審神者会議への出席に納得していないわけではない。嫌だろうが気が重かろうが、やらなければならない「職務」なのだから。

 仕立てのいいスーツの袖をさすりながら、俺は大きく溜息をついた。

 

「主ってば溜息もう何回目~? 大丈夫だって、今日もめちゃくちゃ格好いいから」

 

 俺も負けずに可愛いし、と紅く輝く爪を見せながらにっこりと笑う。長く俺を支えてくれているはじまりの刀が可愛いことに異論はないのだが、俺が必要以上に着飾っていることについては不安しかない。

 

「……俺は目立ちたくないんだよ」

「だから言ってるっしょ、主が目立たないとかそもそも無理」

 

 この前の篭手切の反応も面白かったよね、と言われて思わず口をキュッと噤む。

 面白かった、というのは顕現時、つまり刀剣との初めての対面のことだ。審神者の祈りを道しるべに依り代に降りた彼らはひとの身を得、名乗りをあげる。それに審神者が応えることで主従の契りとなるそうだが、俺の場合、何故だかまともに名乗りを上げてくれる刀のほうが少なかった。

 

「『私は篭手ぎ、……是非一緒にすていじのれっすんを!!』ってもうね、笑うしかないって」

「歌って踊るのは……もういい……」

「え、やったことあんの? 主がアイドルやるなら俺ばっちりプロデュースしちゃうけど」

「冗談でもやめて」

 

 自分の顔が整っている部類であることは自覚している。何なら三日月が「ほう、これは……」と感心するレベルであるらしい。

 しかし残念なことに、石切をして「……苦労したんだね」と涙させ、青江に強ばった笑顔で「気休めにしかならないけれど、少し綺麗にしておこうか。何をって、……聞きたいのかい?」と刀を抜かせた程度には面倒な顔面なのだ。

 幼い頃に誘拐されたことに始まり、まあ、うん、それはそれは苦労した。今では完全なる女性苦手に発展し、触れるほどに近づかれれば失神し、何なら過度な視線を受けただけで貧血を起こすほどである。一応リハビリの甲斐あってだいぶマシにはなったが、いまだに完治とは言いがたい。

 だから女性の審神者も多く出席するこの会議は、俺にとってひたすらに苦痛だった。初めてそれを清光に打ち明けたときは、もう何も言わなくていいと寄り添ってくれた。「主の顔を考えれば納得すぎて何も驚けない」という言葉は聞こえなかったふりをした。

 こんのすけとも相談し、会議の欠席も提案されたが、それは俺のプライドが許さなかった。仕事は仕事、夢だった警察官という職を辞してまで審神者として在ると決めたのだ。中途半端にしていては、背中を押してくれた悪友たちにも顔向けができない。

 頭を仕事モードに切り替えていれば問題ない、女性の審神者や政府職員とはなるべく距離をとる、だいたい刀剣男士の容姿を見慣れている彼女たちがそんなに騒ぐわけがない、そう思って俺は堪えた。堪えてきた。

 だというのに、――まさか魅了や洗脳効果のある呪具だのまじないだのを差し向けられるとは思わないだろ。

 どうやら「人間」で「刀剣男士に並ぶ容姿」、ついでに「審神者としての戦績も良好」は大いに彼女たちを刺激してしまったらしい。

 会議の会場に向かえば道中から帰路まであれこれと理由をつけては話しかけられ、戦績の報告中には黄色い声が飛び、文や贈り物を押しつけられる。しかも少しでも対応を間違えようものなら彼女たちの背後に控える刀剣男士が殺気立つ。いや俺にどうしろってんだお前らも少しは主を諫めろそれでも臣下か。清光のフォローがなければ俺は殺されていたかもしれない。

 毎回満身創痍で会議から帰ってはぶっ倒れる俺を見て、さすがにまずいと刀たちは話し合ったらしい。どうにかして彼女たちを近づかせない方法はないだろうか、と。

 その結果が、厳正なるくじ引きの結果選ばれた、本丸きっての伊達男、燭台切光忠が選んだフルオーダーの細身のスーツ。どういう理屈だよと。「絶っっっ対これが一番似合うから!!」と熱弁されて仕方なく大枚をはたいたブランドものだが、カフスボタンまでこだわりぬいたそれは、俺が着るには少々派手なような。

 髪を整えられ香水まで振りかけられた俺は歓声をあげる刀剣たちの盛大な拍手で繰り出されたのだが、まだ誰に見られているわけでもないのにひどく落ち着かない。

 

「……こんな作戦上手く行くのか……?」

「ま、そこは燭台切を信じとこーよ。大丈夫、文句なしに俺の主は格好いい」

「知ってる」

「主はさ、それこそボロを着たって絶対目立っちゃうんだって。主が着たらすり切れてヨレヨレのデニムもヴィンテージに見えるんだから」

「それも知ってる」

「だから逆に、とことん格好良くキメて誰も近寄れないくらいの存在感を出せばいいんだよ」

「それがちょっとよくワカラナイ」

 

 疑わしく思いながらも大人しく勧められるままに袖を通したのは、光忠があまりにも楽しそうに支度を手伝ってくれたからだ。着物を推していた歌仙や「これお前が参考に見てたアイドルの衣装では」と思われるものを掲げていた篭手切は少し悔しそうだったが、それでも俺の身支度を整える誰もがとにかくひたすらに楽しそうだった。

 支度の間には代わる代わる刀剣たちが部屋を覗きにきては「よっ色男! いいじゃねえか!」「これは驚きだな……三日月、きみ、負けるんじゃないか」「はっはっは、主はいけめんだからなあ」「本当によくお似合いですよ、主君」「会場の女の子たちの方が倒れちゃわないかな」「むしろその方がいいのでは?」「写真集……これは売れるたい」なんて言葉を残していく。博多の言葉は聞き捨てならなかったので一期に無言で目を向けた。頭が痛そうに頷いてくれたので何とかしてくれることだろう。

 童話の王子が着るような衣装を推していた清光の次に付き合いの長い彼も、にこにこと俺を見つめ、言った。

 

『どんな格好しててもあるじさんはあるじさんだし、ずーっと格好いいけど! おめかししたあるじさんも、やっぱり世界で一番格好いいから!』

 

 ボクも一緒に行けないのが残念だな~とはしゃぐように腕に抱きついた乱。その横で、衣装が乱れるだろーと笑って諫める清光。皆が笑顔だった。

 いつも俺の指揮で前線を走ってくれる彼らがこんなに喜んでくれるのなら。まあ、どうなるかわからないけど、一回試してみるくらいはいいか、と。

 あれこれと考えている間に転移装置が到着を告げる。この扉が開けばそこは時の政府。廊下にも会場にも多くの人間がいて、うるさいほどの視線を身に受けることになる。

 ふっと息を吐いた。清光と目が合う。大丈夫、と清光は頷いた。

 

「じゃ、始めよっか」

 

 愛刀を傍らに、俺は戦場へと臨む。

 

 *

 

「……いやめっちゃくちゃ絡まれたんだけど……!」

「いやホントごめんデコりたりなかったか~~~!! 次こそ絶対、絶対に皆ひれ伏すくらい格好よくしようね!! もう後光差すくらい狙ってこ!!」

 




「審神者会議」がトレンドに入ってたときにリクエスト頂いて書いたやつ。

さて、柊木さんが守ろうとしている「歴史」とはどちらを指すでしょうか。
どっちでも闇深くなりますね。なんともはや。


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