転生したらウイポ馬主だった件 (佐月檀)
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IF集
IF もし追随なき快速少女を所有していたら


 本編の執筆があまりにも行き詰まったのと、体調不良でモチベーションがだだ下がりなため、息抜きにこれを投稿しました……。
 よかったら、読んでってください……。
 無理矢理一話にまとめてるため、かなり短めです。


 所有馬が初出走してからたった一年半で、わけのわからない出来事が起こっていた。

 この目に映るは――所有馬に騎乗している騎手が四本の指を立てている光景。

 涙を滴らせつつ、笑みを湛えて。

 騎手――倉田隆景さんは目元を拭ったのち、大きく右腕を突き上げる。

 その騎乗馬も大歓声に沸く観衆を見据えながら、栄光の証明としてウイニングランを行う。

 

 ただただ信じられなかった。

 顎が閉じない。それを手で無理矢理押し戻して。

 雨がしとしとと降り落ちる。ハンカチで顔面を覆い。

 感情の限界の域を超え――言葉を失った。

 

 愛らしい桃色のメンコで覆われてはいたが、そこから垣間見える愛馬の表情は恐らく誇らしげなものだった。

 それはたぶん、俺という馬主へ向けた、最大限の愛情だったのかもしれない。

 

 ――1975年GⅠエリザベス女王杯。

 この日の芝2200mは、まるであっという間に決着がつく電撃戦のようだった。

 

 

 

 あり得ない出来事というのは、俺について回っているのだろうか。

 黒鹿毛の仔馬をブラッシングしつつ。この仔馬と出会った経緯を思い返してみる。

 

 この仔馬は当歳セリに出されていた。こう聞くだけならば、なんの変哲もない仔馬だろう。

 しかし――もし、本来なら当歳セリには出ないような馬であったなら。

 史実を知り得ているからこそ、この出来事の異常さがわかってしまう。

 そんな出来事に遭ったのなら信じられるが、史実を知っているならなおさら信じないようなことだ。

 

 仔馬に視線を注ぐ。

 どうしてか、仔馬もこちらに目を合わせてくれる。とても可愛いのだから、またもや人参を与えてしまった。

 ――仔馬の頭上に『☆テスコガビー』という馬名が表示される。

 そう――なぜだかはわからないが、彼女がたまたま訪れた当歳セリに売りに出されていたのだ。

 

 テスコガビーという名牝は、良血かつ馬体も整っていた。

 本来なら庭先取引ぐらいでしか入手できないだろうレベルなのだが。

 だがこの世界ではなぜかセリに登場した。

 馬名を視認した時には、驚愕のあまり腰を抜かしかけてしまった。

 まるで唐突に金属バッドで殴られたぐらいの衝撃。

 身体中に電撃が迸り、心臓がますます拍動していった。

 あんまりにも衝撃的すぎたせいで。

 

 それでもなんとか競り落とせたことは、幸運中の幸運だろう。

 この仔馬はいずれ、超大物になる。

 それがこの時から待ち遠しかったが、まさかあそこまでいくとは。

 

 俺どころか関係者ですら、予測不可能だった。

 

 

 

 馬運車からテスコガビーが降ろされる。

 レースを終えて休養に入るというわけではない。

 

 彼女は既に、ラストランを駆け抜けた身だ。

 

 テスコガビーがヒヒンとこちらを呼びかける。

 それに応じて、俺は彼女の頭部を散々に撫でてやる。

 

 競走生活を一言でまとめるなら、テスコガビーを止められる馬は誰もいなかった。

 阪神ジュベナイルフィリーズ(芝1600m)を十二馬身で圧勝して、周囲を震え上がらせ。

 桜花賞(芝1600m)、オークス(芝2400m)、秋華賞(芝2000m)でそれぞれ十八馬身、十七馬身、十九馬身という着差を叩き出して。

 エリザベス女王杯(芝2200m)でも十四馬身で圧勝。

 年度代表馬にも選出されたが、なおも彼女は止まらなかった。

 

 四歳になると、GⅠ大阪杯(芝2000m)、ヴィクトリアマイル(芝1600m)、GⅠ宝塚記念(芝2200m)、GⅠ天皇賞(秋)(芝2000m)を連勝して。

 フィナーレにジャパンカップ(芝2400m)で海外の強豪馬もTTGもまとめて蹂躙した。

 

 もはや最強という言葉以外は見つからなかった。

 俺にとっての最強馬は、文句なしにテスコガビーだろう。

 

「……厩舎が寂しくなりますね」

 

 俺たちと共にテスコガビーに別れを告げるため、わざわざ牧場にまで足を運んでくれた人物――伊坂周二先生がそう呟く。

 

「俺にとってガビーという馬は、あまりにも鮮烈すぎました」

 

 涙声で言うのは、全戦に渡ってテスコガビーに騎乗し続けてくれた騎手である、倉田隆景さんだ。

 倉田さんの初重賞勝利はテスコガビー、初GⅠ勝利もテスコガビー、さらには牝馬三冠を達成したとあらば、もう彼女のことしか考えられなくなるのは必然だったのかもしれない。

 

 陣営のスタッフが次々とテスコガビーに感謝を告げていく。

 そうしてやっと、倉田さんの番となった。

 

「……っ……ありがとう……俺なんかを乗せてくれて……本当に……ありがとう……」

 

 遂に倉田さんの涙腺が崩れてしまう。

 それを心配してか、テスコガビーが鼻先で倉田さんの肘を突く。

 まるで「しっかりしなさいな」とでも言っているようで、微笑ましかった。

 テスコガビーとの記憶は、倉田さんにとって永遠の思い出となってくれるだろう。

 

 最後に伊坂先生テスコガビーの前に出る。

 伊坂先生はテスコガビーの頭部に額をくっつけ、ただ一言。

 

「――ありがとう」

 

 テスコガビーは目を瞑る。

 今までの記憶を巡らすように。

 楽しかったことも、苦しかったことも。彼女は噛みしめているようだった。

 

 テスコガビーは現役を退き、繁殖牝馬となる。

 史実とは違って、彼女の仔が駆け抜けるところを、いつかこの目で。

 

 

 

 これは――きっとあり得ないだろう出来事があり得てしまったからこそ、出会えた物語。

 どこまでも果てしなく、駆け抜けて。




 それはきっと、あり得ないことだから。




 需要があったらこのIFのテスコガビーのレース描写も書きまっせ。


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IF Ruffian(Ⅰ)

 もし『狂気の逃げ馬』ではなく、『黒き閃光』が初所有馬だったら?


 この日――川崎競馬場には激震が走った。

 場内は静まり返り、やがてどこからかどよめきが上がっていく。

 ただただ驚嘆するばかりだった。

 あまりにも衝撃的なその走りに。

 黒鹿毛の牝馬――その鞍上は一本の指を掲げる。

 

 その姿はまるで――自分たちこそが絶対だと宣言しているようだった。

 黒き閃光は確かに群を射抜き、ひとつの頂に立ってみせた。

 そんな牝馬の馬主である俺でさえ、言葉を失っていた。

 彼女の競馬を一言で表すなら、魔王そのものだ。

 他の追随など許さず、徹底的に叩き潰し、勝利を目指す――ただそれだけ。

 牝馬につけられた馬名の意はかなり物騒だったはずだが、どうやら走りはそれ以上に物騒だったようだ。

 

 黒鹿毛の牝馬の名は――ラフィアン。

 史実では米国競馬で名を馳せ――散っていった、屈指の名牝である。

 そんなラフィアンなのだが、今彼女は米国ではなく、日本――それも地方の川崎競馬場にその姿を表している。

 JpnⅠ全日本二歳優駿、ダート1600m。

 その舞台で、ラフィアンは他馬に埋めようのない差を見せつけた。

 十九馬身という、絶望せざるを得ない着差をつけて。

 

 

 

 時は遡って1972年。

 米国に渡り、そこで当歳馬のセールに参加していたが、なかなか良さそうな馬には巡り会えなかった。

 米国は世界有数の馬産地である。セールも盛んであるため、良馬との巡り合わせを狙っていたが……そんなに甘くなかった。

 

 だが――幸運の女神は、俺に微笑んでくれたのかもしれない。

 溜め息を吐き、重くなった腰を上げた時だった。

 

 一頭の当歳牝馬が登場した――ここまではどうとも思えなかった。

 当歳牝馬は会場内を落ち着きなく見渡していた。

 その姿が愛らしく、視線を向けてみたら――当歳牝馬と目が合ってしまう。

 同時に、彼女の頭上に信じがたい馬名が表示される。

 

 そう――『☆ラフィアン』と。

 瞬間、自然と俺の手が掲げられていた。

 次々と手が挙がるも、それでも譲る気はまったく起きなかった。

 かなり手痛い出費にこそなったものの、俺は当歳牝馬を連れ帰る権利を得て、帰国の途につく。

 競走馬になったらラフィアンという馬名をつけよう――なんて密かな楽しみを秘めて。

 

 

 

 1974年に戻って、全日本二歳優駿を圧勝してから。

 ラフィアンの様子見と今後の方針の相談も兼ね、栗東にある伊坂周二厩舎を訪れ――唖然とすることになった。

 

「伊坂先生、こんにちは。早速ですが、あれはどういうことで……?」

 

「……あれは勘弁してやってください」

 

 困り果てたように溜め息を吐く伊坂先生を横目に、ダートコースを駆け抜けていくラフィアンの鞍上を確認してみる。

 

「……何をやってるんですか、小田部さん」

 

 騎手――小田部信夫さんは俺の存在に気づいたようで、ラフィアンの手綱を引いて止めると、そそくさと鞍から降りる。

 

「ああ、オーナー! こんにちは! ラフィアンはとてつもなくいい調子ですよ!」

 

 こちらを向いて、挨拶を投げかけてくる。

 それでもラフィアンの手綱を手放そうとしない様子から、余程気に入った馬のようだ。

 いずれ怪文書でも書きそうな勢いだが……そうなった際は必ず買わせてもらうとしよう。

 

「……なぜここに?」

 

「ラフィアンのためならどこにだって行きますよ!」

 

 この有様である。相当に脳を焼かれている。

 小田部さんは関東で名を馳せる名手。そのはずなのに、ここ最近はなぜだかずっとラフィアンにつきっきりだ。

 

「可愛いでしょう、ラフィアン」

 

「べっぴんさんですね、わかります」

 

「そこは私も同意しますね」

 

「伊坂先生!?」

 

 まさか伊坂先生からも返答が飛んでくるとは思わず、つい振り返ってしまう。

 

「頑固者ではありますが、けっこう可愛い仕草もしてくれましてね。厩務員も私も、この通り骨抜きにされています」

 

 伊坂先生は苦笑しつつ肩を竦める。

 どうやら、ラフィアンは伊坂厩舎の人気者のようだ。

 

「ラフィアンは可愛いんですよ。意外と人懐っこい面もあって。ただうちの牧場長はラフィアンに散々にやられましたがね……」

 

「ありゃまあ……」

 

「……そういえばオーナー。次走はいつにします? 自分としてはいつでもどこでもいいですが」

 

 すっかり忘れていたことを小田部さんに尋ねられ、我に返る。

 

「ああ、そうでした。その件でおふたりにお話がありまして」

 

「……はい?」

 

「まさか……アメリカに遠征、とか?」

 

「なぜわかるのですか……」

 

 関東の名手の読みとやらは本当に恐ろしい。

 自分が話そうとした内容が見抜かれたのだから。

 だがそうなると話は早かった。

 

「しばしの休養を挟み、ダート1800mのGⅠケンタッキーオークスに出走させたいのですが……どうでしょうか?」

 

「確かにその言葉を待ってましたが、ケンタッキーダービーにしません?」

 

「えっ」

 

「……小田部くんに便乗する形になりますが、海外遠征するならケンタッキーダービーを大目標にしたほうがいいかと。牡馬相手だとさらに力を発揮してくれるようですし」

 

「……前哨戦はどうします?」

 

「ちょっと間隔が空いているダート1800mのGⅠフロリダダービーが理想ですね。少しでも疲労を取って挑みたいです」

 

 ……史実での結末を鑑みるなら、確かにそのローテーションがいいかもしれない。

 だが史実での勝ち馬は……いや、立ち向かうとしよう。

 ラフィアンが立ち向かうなら、俺も覚悟を決めねばなるまい。

 

「では――来年の三月末。アメリカに乗り込むとしましょう」

 

 伊坂先生が拳を突き出すと、いつの間にかラフィアンを引いてきていた小田部さんもそれに合わせて突き出す。

 最後に俺が突き出し、三人同時に拳を掲げる。

 その行動と同時に、ラフィアンが天に向って嘶く。

 

 ラフィアンを連れてアメリカに乗り込む――史実を知っている俺からしたら、少しおかしさを覚えることだったが、そんな雑念はすぐに振り払う。

 

 ラフィアンはきっと、生きて帰る。

 運命などぶち壊して、振り切ってしまえ。

 俺たちがその助けとなるのだから。




『ラフィアンの背 著者:小田部信夫』


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1975年
プロローグ 馬名看破


 こういうチートものってないな……と思い立って書きました。
 史実馬の馬名と知識がわかるのは相当なチートだと思います。


 真夏の猛暑が肌を焼き焦がす。直視したら目を痛めそうな陽射しが、槍の穂先となって頬を貫く。

 じっとりとした感覚が口いっぱいに広がる。お湯のような、お湯とも言い難いような唾液が口内を循環する。

 それをゴクリと飲み込むと、面を上げ、向き直る。

 

 向き直った方には、ひとつの黒い毛の塊が身を震わせていた。

 一頭の、仔馬だった。脚は細く、馬体はみすぼらしく、覇気も垣間見えない、酷い言いようでしか表せられないぐらいに、弱々しい存在だった。

 だけれど、俺にはひとつの確信がある。間違いなく、この馬は走る。だって――

 

『☆カブラヤオー』

 彼が後世にまで伝わる名馬だということが、俺にはわかるのだから。

 

 

 1972年、北海道――襟裳。

 牧場に敷き詰められた芝生が風でなびく度、どこか青っぽいすっきりした匂いが鼻腔を通り抜けていく。芝生の独特の香りなのだろう。

 風が冷気を運んできてくれるため、その気持ちよさで今にも芝生の上で寝転びたいぐらいだ。それに今日は特段機嫌がいいのもある。

 

 二度目の人生で初めて、馬を購入したからだ。

 前世では絶対になし得ないであろう幻想を、この手で掴んでしまったのだ。

 二度目の生を授かり、二十三年は経ただろうか。少し前に襟裳に自身の牧場を開設し、そして三日ほど前に当歳馬を一頭購入したなんて、前世の俺どころか今世の十代の俺でも信じないだろう。

 この牧場の風景を前世の俺に見せて、あっと驚かせてやりたいところだ。

 さらにいえば、この当歳馬の血統と生年も見せてやりたい。前世の俺ならびっくりして痙攣し動かなくなる自信がある。

 

 改めて、黒鹿毛の仔馬の方を見やる。

 すると、仔馬の頭上に『☆カブラヤオー』という表示が出現する。

 そう、俺にはわかる。将来、この仔馬が『狂気の逃げ馬』と呼ばれるようになることが。

 転生してからだ。俺にのちの名馬となり得る馬がわかるようになったのは。前世ではそんな特殊能力じみた能力は何ひとつ有していない。

 

 だが、その能力のおかげでこうしてのちのカブラヤオーを購入できている。

 史実のように狂気的な大逃げで皐月賞、日本ダービーを勝ってくれれば御の字だが、まず史実通りにはならないだろうという確信がある。

 なぜなら、カブラヤオーの馬主が史実と違って俺だからだ。史実のカブラヤオーと同じ厩舎、同じ騎手であればなんとかなりそうだったが、そのような伝手もない。はっきり言って不安で仕方ない。

 そして何より、史実の1970年代とは違い、なんとこの時代から2022年なら存在するはずのレースがある。恐らくであるが、この世界は『ウイニングポスト9 2022』の世界なのだろう。でなければ、この時代に高松宮記念や秋華賞、ましてやGⅠといったグレード制があるわけない。

 

 不安要素だらけだ。カブラヤオーの厩舎、鞍上はどうなるか。また、中央競馬なら、厩舎は美浦か栗東なのだが、この選択次第でカブラヤオーのクラシックでの勝敗は決定するかもしれない。

 とてもではないと言えないほどの不安が、脳を覆い尽くすばかりだった。

 

「この先、どうなることやら……」

 

 願うような、嘆息交じりの呟きが風で掻き消される。

 カブラヤオーを購入した理由は、実力馬であることはもちろん、賞金稼ぎも目当てだ。特に勝ってほしいのは、やはり日本ダービー。ここを早めに勝っておかないと二度と勝てなくなる気がした。

 だけれど、カブラヤオーには無理せず走ってほしい。史実と同じ結末を辿ったら、目も当てられなくなるだろう。

 

 祈るように手を合わせる。カブラヤオーの無事完走と、牧場の繁栄を願って。




 少しでもお楽しみいただけたなら幸いです。読んでくださってありがとうございます……!


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飛び越え、それから期待

 カブラヤオーを買って三年を経て。

 あれから、牧場経営はかなり安定してきている。どれくらいかといえば、牧場の施設をほんの少しでこそあるが拡張できるくらいには。

 牧場スタッフは少人数だが、精鋭揃い。特に牧場長を任せている方は、精鋭中の精鋭といっていい。

 そんな牧場長こそが――

 

「オーナー、少々お話がありましてね」

「ん? どうしましたか? 牧野さん」

 

 歳は三十代くらいはあるだろう男性、牧野良夫(まきのよしお)さんだ。『ウイポ』プレイヤーにとっては、かなり馴染みのある名前ではないだろうか。

 もともとどこかの牧場に勤めていたらしいが、どうにも馴染めず辞めてしまった矢先に、こちらの牧場に再就職したということだ。

 牧野さんは少し慌てた様子でこちらに駆け寄ると、こう話してくれた。

 

「オーナーが購入してきた馬なんですけれど、二歳馬が柵を飛び越えようとするわ、全くバテる様子がないわで……競走馬としては大成しそうなのですが……けっこうヒヤヒヤしています。いつ脱走するかわからないので……」

 

 苦笑を浮かべて、ハンカチで額の汗を拭うと、続けて口を開く。

 

「あと、オーナーがアメリカで買ってきた一歳馬も馬とは思えないぐらい落ち着いているというか、落ち着きすぎているというか……」

 

 どうやら、昨年と一昨年に購入した馬に関することのようだった。

 前者の柵越えに関しては、正直想定外だった。あの馬は史実だと脚部不安を抱えていたはず。もし誤って柵に激突なんかしたりした場合には、目も当てられない。

 後者はまあ、そうだろうとしか。史実でも引退後は子供の笑顔を見ていることが趣味だったと言われるような馬なわけで。ただ競走能力と闘争心は同年代のとある『怪物』以上のものを誇るだろう。

 

「牧野さん、ちょっと確認しに行きましょう」

 

 

 

 広大な面積に張り巡らされた青々と茂った芝。その上で彼らは歩き回っていた。

 一頭の雄大な黒鹿毛の頭上には『☆グリーングラス』、一歳馬の黒鹿毛の方には『☆シアトルスルー』と表示される。

 ――そう、彼らは史実に名を残す名馬たちである。

 そんな彼らを、馬主として所有し、この牧場に繋養している。かなり恐れ多いことだ。

 それにしても、グリーングラスが柵を飛び越えようとするというのはどういうことだろうか。『ウイポ』の方には柵越えイベントがあるため、まさかそれだろうか。史実だと奇跡の名馬とされるトウカイテイオーの逸話だったはずだが。

 

 ――すると。

 

 突然のことだった。グリーングラスが柵を飛び越えたのだ。

 

 まるで――脚部不安など綺麗さっぱりなくなっているような、そんな脚の使い方だった。

 自身の脚を信じ、そのバネで彼は飛んだ。俺にはそれが、史実を飛び越えたかのように見えた。

 一歳馬のシアトルスルーが唖然とした様子でグリーングラスの方に顔を向けている。人間でいう『これはびっくり!』状態のようだ。

 牧野さんと俺も唖然とする。しかし即座に我に返ると、グリーングラスに慌てて駆け寄る。

 

 幸い、グリーングラスの馬体には全く異常が見られず、当のグリーングラスは満足そうにブルルッと鳴くと、柵の方を振り向き、また飛び越えて戻っていった。これはこれで心配であるが。

 

「……なんだったんだ、今のは」

 

 牧野さんが声を震わせて呟いた。俺もそれに同じような感情を抱いている。

 

 

 

 グリーングラスの柵越え事件というトラブルこそあったが、その後は特に何事もなく、平穏に時が過ぎていった。

 しばらくし、俺は牧場からとある場所に出向く。その場所こそが、去年、条件戦を勝ってくれたカブラヤオーのいるところである。

 

 ――栗東トレーニングセンター。そこの厩舎の一角に、カブラヤオーを預託した。

 

「こんにちは、オーナー。カブラヤオーの調子は絶好調ですよ」

 

「こんにちは伊坂先生、カブラヤオーを預かってくださったことには何度お礼を言ったらいいのやら……」

 

「いえいえ。あれほどのいい馬を預けてくださったことを、こちらが感謝したいくらいですよ」

 

 にっこりと和やかな笑みを浮かべる方こそ、カブラヤオーを預かってくださった調教師の伊坂周二(いさかしゅうじ)先生だ。

 牧場を訪れ、二歳になったカブラヤオーを見つけるや否や「いい馬ですね。もし良ければ、預からせていただけませんか?」と申し出てくれた。預託先が見つからなかったため、本当にありがたかった。

 伊坂先生はカブラヤオーにかなりの期待を寄せているようで、カブラヤオーのことになるとやけに口が回りだすのだ。かくいう俺もだいぶ期待しているのだが。

 

 そんな俺たちの期待を背負ったカブラヤオーは、その期待に見事応えてくれた。

 十一月の新馬戦(東京芝1800m左回り)を圧勝すると、立て続けに十二月の条件戦である葉牡丹賞(中山芝2000m右回り)も逃げて圧勝してくれた。

 あのカブラヤオーの狂気的な逃げを馬主として間近で見れるなんて、夢にも思わなかった。それだから、レース中に勝ってもいないのに感涙してしまったため、他の馬主さんに怪訝な視線を向けられてしまうこととなった。

 

 そんなことはともかくとして、伊坂先生のもとを訪れたのにはやはり理由がある。

 

「カブラヤオーの次走、どうしますか? 個人的にはリステッドかGⅢ辺りがいいのですが……」

 

「でしたら……GⅢの共同通信杯、芝1800mはどうですか? 東京競馬場なので、ダービーを見据えるということでも」

 

「なるほど、ダービーですか。いいですね、そこにしましょう」

 

「登録しておきます。鞍上の倉田くんにも初重賞に向けて頑張ってほしいものです」

 

 次走は意外とすんなり決まった。

 GⅢ共同通信杯。二月の東京競馬場で行われる芝1800mの重賞競走だ。

 どうやら、鞍上を務めてくれる騎手にとっても初重賞勝利の好機であるらしい。

 

「倉田くんはカブラヤオーに乗ることを一番楽しみにしてくれていますからね。こちらもそれに応えて仕上げていきますよ」

 

「ありがとうございます。どうかカブラヤオーをよろしくお願いします」

 

 俺は感謝の意を込めて、頭を深く下げる。

 カブラヤオーの初重賞挑戦は、大変なことになりそうだ。




 読んでくださってありがとうございます。本当にありがとうございますとしか言えない……。


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強敵、それでも大逃げ

 二日に一回ぐらいの投稿ペースじゃないと身体が保たないっす……。


 この日の東京競馬場は、熱気で溢れ返っていた。

 まだ冬なのにも関わらず、肌を焦がすような熱さが場内を支配している。

 額に冷や汗が滲む度、ハンカチを取り出しては拭いている。今か今かと自身の馬が発走するレースを待ち侘びているのだが、新馬戦、条件戦とはまた違う緊張感で全身が固まる。

 

 なるほど、これが重賞かと思い知る。重賞に持ち馬を出走させる馬主たちは、いつもこの緊張感と戦っているのだろう。でなければ、呑まれてしまう。

 今からカブラヤオーが重賞を走る。ならば俺も戦わずして何が馬主か、何が陣営か。

 カブラヤオーがこの重圧に立ち向かっているのだ、俺にも戦えない道理などないと己を奮起させる。

 

「頼むぞ……」

 

 そう呟いて、共同通信杯の出走馬表に改めて目を通す。

 今回の出走頭数は十二頭。カブラヤオーは最内枠である一枠一番からのスタートとなっている。それでもなお、六番人気という低評価だったが。

 だがそれは仕方ないところがある。カブラヤオーは条件戦を勝ち抜いてきたばかりで、今回が重賞初挑戦。そして相手関係もある。

 

 ――十一番、一番人気テスコガビー。昨年のGⅠ阪神ジュベナイルフィリーズを圧勝し、最優秀二歳牝馬に選出された強豪牝馬だ。

 史実では桜花賞とオークスを大差で圧勝し、二冠牝馬となる名牝。スピードで押し切るような逃げを大得意とする。

 カブラヤオーにとって、最大の天敵になり得る名馬が、このレースに出走してきているのだ。

 

 カブラヤオーとテスコガビー。史実だと二頭は一度だけ対決し、そのときはカブラヤオーが辛勝している。

 今思えば、二頭がこの世界でも対決することは必然的な運命だったのかもしれない。

 共同通信杯。史実の1975年に二頭が激突した際は別のレース名であったが、このレースでカブラヤオーとテスコガビーは激闘を繰り広げた。

 

 ならば、鞍上こそ違えどこちらのカブラヤオーもテスコガビーと渡り合えるはず。人気と評価こそ、史実を知っている俺からすれば逆転しているが。

 カブラヤオーの鞍上は倉田隆景(くらたたかかげ)さんという関西の若手騎手。史実だとトウカイテイオーの皐月賞、日本ダービーでの鞍上。そしてのちにあの短距離王ロードカナロアとカレンチャンの調教師となる方だ。

 

 倉田さんとは伊坂先生の紹介で知り合い、カブラヤオーに全戦に渡って乗り続けてくれている。まさにありがたい存在だ。

 のちの名調教師でもあるため、この縁は大切にしたい。

 倉田さんなら、俺のカブラヤオーを重賞初勝利に導いてくれるだろう。カブラヤオーの適性、弱点、脚質を把握しているだろうから。

 

 出走馬表から目を外し、パドックの方を見やる。

 厩務員に引かれ、緑のメンコを装着したカブラヤオーがパドックを闊歩する。

 しばらくすると騎乗合図が発せられる。カブラヤオーに駆け寄って騎乗するのは、倉田さん。青を基調とし、黄色い星々が散りばめられ、袖は白と真紅の二色で染められた、そんな勝負服を身に纏って登場する。

 

 カブラヤオーの首元を撫で上げると、手綱を握り、ゴーサインを出す。

 彼らが駆けていく。俺たちの夢を背負って、駆けていく。

 返し馬としてターフ上を駆けるカブラヤオーを眺めて、思わず両手を包み込むように握ってしまう。

 

 手汗が滲み出ていた。やはりこの場の重圧感に慣れるのには、時間が必要なようだ。

 カブラヤオーと倉田さんの勝利と無事を祈るばかりだった。

 

 

 

 しばらくし、全馬がゲート入りを終える。

 競馬場が静寂に包まれた刹那――

 

 ――それは、火蓋を切った。

 

『スタートしましたっ! 一枠一番カブラヤオー、それから一番人気十一番テスコガビーが好スタートを切りました!

 おっとここで逃げ馬二頭が並んだ! テスコガビーはどうする!? テスコガビーはどう出るか!? 鞍上倉田隆景が手綱をぐいっと押してカブラヤオーがペースを上げました。テスコガビーは二番手に控える態勢。カブラヤオー、カブラヤオーが差を一馬身、二馬身、三馬身……と大きくリードを広げ始めました。カブラヤオーが先頭であります。

 テスコガビーが追走しています、テスコガビーが二番手。昨年の最優秀二歳牝馬はやや外に持ち出し始めております。最内をすいすい通ってカブラヤオーが単独先頭。リードは六馬身ほど』

 

 カブラヤオーが大逃げを決め、テスコガビーが二番手に控える態勢。俺が知っている史実とは真逆の展開となっている。

 それにカブラヤオーがレース展開を引っ張っているため、ペースが非常に速い。1000mのタイムが気になるぐらいだ。

 

 残り800m辺りだろうか。カブラヤオーに騎乗している倉田さんがさらに手綱を押す。カブラヤオーもその合図に呼応するかのように脚の回転を速める。

 どうやら、ここらで押し切るつもりのようだ。

 

『コーナーを曲がって、最終直線! カブラヤオー、なんとカブラヤオー、カブラヤオーが未だに単独先頭であります! テスコガビーが必死に追うが届くかどうか!

 カブラヤオーに鞭がポーンポーンと入っております! カブラヤオーが先頭! しかしテスコガビー、テスコガビーが食らいついてきました! その差は六馬身、五馬身と縮まっていく!

 カブラヤオーが逃げ切るか!? それともテスコガビーが差し切るか!? どちらだ!? どちらだ!?

 

 ――カブラヤオーが逃げ切って一着! カブラヤオーが勝ちました! 鞍上倉田隆景が左手を上げました! テスコガビーは惜しくも二着! カブラヤオーとの差は一馬身ありました! 六番人気カブラヤオーが大逃げでテスコガビーを破りました!』

 

 ああ、ああ、勝ってくれた。カブラヤオーと倉田さんが、あのテスコガビー相手に逃げ切ってくれた。

 もう、限界だった。地面にぽたりと雫が落ちる。

 

 目元をハンカチで何度も拭うも、一向に止まる気配はなかった。

 仕方なく、そのままウィナーズサークルに向かうことにした。

 

 ウィナーズサークルでは、優勝レイを引っ提げたカブラヤオーに、ゼッケンを掲げた倉田さん、それから調教師の伊坂先生などの関係者が勢揃い。

 目元から溢れすぎて、もはや枯れそうだった。

 

「やりましたね、オーナー」

 

 伊坂先生がガッツポーズを決めながら、喜びを隠せない笑顔でこちらに話しかける。

 

「ありがとうございます……! 本当に、なんと言っていいのやら……!」

 

「いえいえ。私など微力です。カブラヤオーと倉田くんが頑張ってくれました。この頑張りのおかげで、本格的にクラシックへの道が拓けました」

 

「先生、僕はカブラヤオーの手綱を押しただけです。あとはカブラヤオーが自分で勝ってくれましたよ。……本当にいい馬ですよ、彼は」

 

「倉田くんだって仕掛けの合図を送ったり、日頃から調教で乗ってくれたりしてるんだけどねぇ。

 そういえばオーナー、次走はどうしましょうか? 私としては皐月賞トライアル、中山の芝2000mのGⅡ弥生賞に出走させたいのですが……」

 

「俺も同意見です。できればそれでお願いします」

 

「わかりました。この勝利を絶対にクラシックに繋げましょう」

 

 こうして、GⅢ共同通信杯は幕を下ろした。

 俺たちのカブラヤオーが、史実のようにテスコガビーに打ち勝つという結果で。




 カブラヤオーVSテスコガビーはどうしても書きたかったのです……。


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登竜門、そこから本番前

 投稿が遅くなってしまったマン。


 中山競馬場には、風が穏やかに吹いていた。

 夏であるなら、やや熱を含み、蒸し暑さを増幅させてそうなそよ風だった。

 だが今は春。桜の花弁を巻き込み、散らしていく様は、中山競馬場に新たな時代の訪れを知らせているようにも見えた。

 

 ――そう、競馬で春といえば、三歳馬のみが挑める一生に一度だけの大舞台、クラシックであろう。

 クラシックに挑める三歳馬たちは、一世代の中でも選りすぐりの強豪ばかり。

 競馬関係者ならば、誰もが挑みたい大舞台でもあるのだ。

 クラシックで台頭した馬が、やがて古馬となり、新たなる時代を切り拓いていく。俺の認識としてはこれだ。

 しかし、中にはクラシック最有力候補に名を挙げるが、直前で故障し、クラシック出走どころか引退を余儀なくされた馬や、二冠を制したのに、故障により三冠目への出走を断念、引退した馬もいる。

 競馬とはままならないものである。クラシックには栄光もあれば、その影に無念や雪辱もある。

 

 今こうして、中山競馬場を見渡していると、騎手はもちろん、馬でさえ必死に掴み取ろうとしているように見える。そう、クラシックへの出走権を争って。

 鞭を打ち、手綱を押し、息を入れ、馬と騎手が一心同体となる。

 勝ちたくて堪らない。そんな気迫を互いに発し合い、そして彼らは、優先出走権へと手を伸ばす。

 

 先頭に立ち続けているのは、一頭の逃げ馬。

 俺にはその馬が、手綱を握る騎手と一体化しているように見えた。その光景はまるで、漆黒の弾丸のようだった。

 彼らの間には、目には見えない絆がある。なんとなくだが、そのような確信があった。

 

 気がつけば、風が一層強まっていた。

 観客席を見やれば、開いている競馬新聞を必死の形相で握りしめ、飛ばされないようにしている中年男性の姿がある。風はそれぐらいに強かった。

 だがそれは、このレースの決着の合図のようにも思えた。

 

『最終直線に入って、カブラヤオーです! カブラヤオーが未だに先頭であります! 後続が必死に追うが、その差は縮まるどころか開いている! 四馬身、五馬身、六馬身……いったいどれほどの実力馬なのか!? これはもう決まった! これはもう決まった!

 カブラヤオーが一着! カブラヤオーが華麗に逃げ切りました! なんと六馬身! 後続に六馬身もつけての圧勝劇となりました! GⅡ弥生賞を制したのは、無敗のカブラヤオーであります!』

 

 GⅡ弥生賞――皐月賞のトライアルレースで逃げ切った馬こそ、俺のカブラヤオーだった。

 鞍上の倉田さんが鞭を掲げる。その表情は、この競馬場を覗くような青空よりも晴れやかに見えた。

 

 

 

 弥生賞を勝ったということは、カブラヤオーの皐月賞出走は確実となったこと。

 春が深まってきた四月。俺は鼻歌を歌いながら、栗東にある伊坂先生の厩舎を訪れた。

 カブラヤオーに会うことも目的のひとつだが、伊坂先生や倉田さんとも話したくなったからだ。

 

「ああ、オーナー。こんにちは」

 

「伊坂先生、こんにちは。すみません、どうしても来たくなってしまって」

 

「いえいえ、構いませんよ」

 

 穏やかな笑みがより一層深まったようにも思える。伊坂先生も楽しみにしてくれているのだろう。

 

「ええ、言わずとも察しておりますよ。カブラヤオーと倉田くんですね? 今は芝コースで倉田くんが乗ってくれていますので、行きましょうか」

 

 あっさりと内心を看破されたものの、それなら話は早かった。

 

 芝コースで軽めに追われている緑のメンコを被った馬、あれこそがカブラヤオーであった。

 

「倉田くん、オーナーが来たよ!」

 

 伊坂先生がそう呼びかけると、カブラヤオーに乗っている倉田さんは手綱を引き、追いを止める。

 首元を二、三度撫でてから下馬し、カブラヤオーを厩務員に引き渡すと、こちらに駆け寄ってくる。

 そして、肩で息をしながら、こちらに一礼した。

 

「こんにちは! オーナー!」

 

「こんにちは、倉田さん! ……大丈夫ですか?」

 

「ああ、いつものことなんでお気になさらず!」

 

 倉田さんは腕で額を拭い、快活に笑う。

 続けて大袈裟に両手を広げ、肩を竦める。

 

「いやぁ、凄いですね、カブラヤオーは! 今日も手応え抜群! いつでも皐月賞に臨めますよ!」

 

 さらに笑みを深め、童心を踊らせているような声音だった。倉田さんはカブラヤオーに乗ることをますます楽しみにしてくれているようだ。

 クラシックは生涯一度の大舞台。ホースマンたちの気合いの入れようは凄まじいものだ。

 

「いよいよ皐月賞。ここまで来れる馬だとは思っていましたが、どうやらカブラヤオーは、我々の予想を遥かに凌駕しているようです」

 

 厩務員に引き連れられたカブラヤオーの首元を撫でながら、伊坂先生は表情を強張らせる。

 倉田さんの方を振り向くと、うんうんと頷いていた。

 

 やはりといっていいか、カブラヤオーはこちらの杞憂など蹴り飛ばしてくる名馬だった。

 この調子ならば恐らく――いや、確実といえるレベルで皐月賞を勝てるだろう。

 クラシック一冠目、皐月賞にはある格言が存在する。

 

 ――最も速い馬が勝つ。それは仕上がりにおいても、純粋なスピードにおいてもだ。

 なればこそ、カブラヤオーの仕上がりとスピードを見せつけようではないか。

 

「カブラヤオーは、速い馬です」

 

 拳を握り、唇を結う。

 皐月賞は必ず勝つ。この陣営で、絶対に。

 

「勝ちましょう、必ず」

 

 伊坂先生が首を縦に振り、倉田さんの方を振り向く。

 倉田さんは、先ほどの頷きより、さらに大きく頷く。

 

 今こうして、カブラヤオー陣営は団結する。

 俺たちの今の目標はただひとつ。カブラヤオーと共に勝つことだ。




 次回、クラシック一冠目、皐月賞。


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狂気の大逃げ、そして戴冠

 投稿は疲れる。けど頑張ります、ハイ。


 胸の奥から、熱い何かが込み上げてくる。この何かをマグマに置き換えると、まるで自分自身が火山になったような気分だ。噴火寸前の火山であるようだが。

 鏡などあるはずがないため、詳細にはわからないが、今の俺の顔は茹でられたタコそのものなのだろう。

 口から火どころかマグマを吹き出せそうだ。いや、それでは火山ではないか。

 だが、タコは茹でられたら全身が真っ赤に変色する。俺も緊張したら顔が真っ赤に様変わりする。つまり、俺はタコなのかもしれない。

 

 そんなくだらない暴論で自身の緊張を解そうとしているが、一向に表情が柔らぐ様子はない。

 それも仕方ないのかもしれない。今から馬主として目にするのは、自身の持ち馬がGⅠを駆けるところなのだから。

 再確認のため、改めて出走馬表に目を落とす。

 

 十八頭中の十八番、大外枠にカブラヤオーと鞍上である倉田隆景さんの名前が記されてあった。危うく出走馬表を投げ捨てそうになるが、マナー違反どころか人前でやっていいことではないうえ、ランダムに決定されてあるため、なんとか思い留まる。

 大外枠の十八番という単語を繰り返し呟いてみる。すると、胸の奥から先ほどの熱さとはまた違う、今度は泥のような生温かい熱が込み上げてくる。だからそこで思考を打ち切る。目の前で行われる現実を目の当たりにせねばならない。

 

 次にパドックに目をやる。

 この場まで勝ち抜いてきた強豪の三歳馬たちが厩務員に引かれ、周回している光景が目の前に広がる。

 空には雲ひとつなく、太陽がその姿を現し、競馬場を照らす。そんな中を十八頭の馬たちは闊歩する。そう、陽射しで作られたそれぞれの栄光への道を。

 だが、この一冠を奪取し、皐月賞馬となるのはカブラヤオーだ。俺はそう信じて疑わない。というか疑おうにも疑えない。やはり所有馬というのは可愛いものである。

 

 当のカブラヤオーに視線を注ぐ。

 首を少々揺らしているが、いつも以上に絶好調といったところか。

 前走の弥生賞と同じように圧勝とまではいかずとも、十分に勝利を狙えそうだ。

 出走馬表を握る手に思わず力が入ってしまう。だけれど、もはやそんなことは気にならなかった。

 

 この大舞台を、皐月賞を、満足のいくように駆け抜けてほしい。そんな欲張りな願いを胸に秘めて。

 今度は胸だけでなく、目頭も熱を帯びてくる。

『いざ参らん、狂気の逃げ打て、カブラヤオー』と記された馬券の形をした白紙を握る。応援馬券代わりに自作したものだ。

 白紙には既にいくつもの皺ができていた。握り潰しすぎたようである。

 

 間もなく騎乗合図が発せられる。これからだ、この世代で最も仕上がりの速い馬が決まるのは。

 

 

 

 中山競馬場が静寂に包まれる。

 瞬きする間もない一冠目。

 

『――スタートしましたっ!』

 

 静寂が一瞬にして歓声へと変わっていく。

 競馬場全体に響き渡るは、各々の声援。

 

『さあ、大外枠から飛び出してカブラヤオーがいった! カブラヤオーが内に食い込んでいった! 先頭は逃げ馬カブラヤオー! 鞍上倉田隆景が手綱を押している! 二番手にエリモジョージ、カブラヤオーに競りかけるか。いや競りかけない。エリモジョージは二番手で様子見か。

 やはりいった! やはりいったぞ、カブラヤオー! リードを四馬身ほど取っている! ここでも大逃げを炸裂させるかカブラヤオー。倉田隆景は落ち着いた様子で我が道をいっております』

 

 逃げて、逃げて、逃げまくる。

 倉田さんの表情は窺い知れない。だがわかることがひとつ。

 ――倉田さんは本気で逃げ切るつもりだ。

 

『1000mを通過しました。未だにカブラヤオーのペースは緩まない。このまま押し切るつもりか倉田隆景。超ハイペースを展開しております。

 おっとここで競りかけていった! エリモジョージ! エリモジョージが迫ってきた! 仕掛けた仕掛けた、エリモジョージが仕掛けた!』

 

 ――エリモジョージ。稀代の癖馬とされ、カブラヤオーとはまた違う狂気性を発揮する逃げ馬。

 史実ではエリモジョージは無尽蔵のスタミナを有していた。とすると、最終直線でカブラヤオーの逃げが少しでも鈍った瞬間に食らいつき、差し切るつもりかもしれない。

 しかも鞍上はかの『天才』。一瞬でも気を緩ませると、あとは食われるのみだろう。

 カブラヤオーにとっても、倉田さんにとっても厳しい展開になってきている。

 

 だが、その展開がどうした。

 

『最終直線であります! 残り300m! 先頭は鞭が入ってカブラヤオー! 先頭はカブラヤオーのまま! エリモジョージが迫ってくる! エリモジョージが迫ってくる! しかしなかなか差が縮まらないか! このまま逃げ切るか! 栄光まであと200m!

 カブラヤオーが突き放した! なんとなんとここで後続を突き放す! 振り切った、振り切った! 後ろからはなんにも来れない! 後ろからはなんにも来れない! 後続は伸びない! カブラヤオーが逃げて差したァッ!

 

 カブラヤオー、今一着でゴールイン! カブラヤオーです! 今ここに、無敗の皐月賞馬が誕生しました! 倉田隆景とカブラヤオーであります!』

 

 

 

 カブラヤオーが無敗の皐月賞馬となってくれた。そう、なってくれたのだ。

 夢を見ているのだろう。いや、これは現実。紛れもない現実だ。頬をつねっても目覚める気配がない。

 ウイニングランを行うカブラヤオーと、観客席に向かって手を振る倉田さん。心なしか、倉田さんの目には涙が溜まっていたように見えた。

 

「おめでとうございます。カブラヤオー、強かったですね」

 

「あっ、ああ、ありがとうございます!」

 

 ちょうど隣席していた四十代から五十代くらいの馬主さんからお祝いの言葉を頂く。

 しかしこの方は、どこかで見かけたことがあるような気がするが。

 

「申し遅れました、私、メジロという冠名で馬主をしております。北見豊武(きたみとよたけ)と申します。以後、お見知りおきを」

 

「ああ! あのメジロの!」

 

 やっぱりだった。この男性こそ、メジロ軍団の総帥であった。

 メジロ軍団を率い、牧場を経営するオーナーブリーダー。天皇賞の盾を欲し、悲願を叶えようと奔走する。それこそが北見豊武さんという馬主だろうか。

 だがまさか、この場で顔見知りになれるとは思っていなかった。嬉しい誤算である。

 

「カブラヤオーはとても速い馬でしたね。流石無敗の皐月賞馬です」

 

 北見さんが温和な微笑みを浮かべる。声音も明るいため、心から祝ってくれているようだ。

 

「ですがエリモジョージに競りかけられたときはヒヤッとしましたよ! いやぁ、まさかあそこから加速するなんて……」

 

「そうですね。恐らくですが、あんな芸当を見せられたらメジロムサシでも厳しいでしょう」

 

「……!?」

 

 思わず池から飛び出てしまい、必死に水を求める魚のように口を開閉してしまう。

 今の発言はメジロムサシですら敵わないかもしれないという、事実上の負けを認めた宣言にも取れてしまう。

 北見さんの口からそんな言葉が飛び出てくるのも、完全に予想外の出来事だった。

 

「……あなたは馬を大切にしそうな目をしています。どうかこれからもぜひ、そのスタンスを貫いてください。申し訳ないです、時間を頂いてしまって」

 

「ああ、いえいえ! それでは!」

 

 動揺したまま、慌ててウィナーズサークルへと駆け出していく。

 だが駆けていくさなか、北見さんの言葉が脳内で再生される。

 

『……あなたは馬を大切にしそうな目をしています』

 

 混乱と感動が交錯し、脳が今にもオーバーヒートしそうだったが、なんとか持ち堪える。

 あの言葉はいったいどういう意味だろうか。そんな考察を振り払い、俺は皐月賞馬カブラヤオーのもとへと歩いていった。




 メジロファントムしゅき。


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『大陸震わす下剋上』

 ……サブタイトルで察した読者さん、多い説。


 ――一目惚れだった。

 脚は今にも折れるのではないかと思えてしまうほどに細く、馬体も小さくてみすぼらしい。

 だが彼には、どうにも他にはない何かが具わっているように見えた。

 どうしても気になって、俺はその馬の血統を尋ねた。

 するとどういうことか、このみすぼらしさをさらに際立たせるような雑草血統で塗り潰された血統表が渡された。

 

 なるほど、これはセリに出そうとしても売れ残るな。生産者の方には非常に申し訳ないが、馬体と血統表を見てそう確信した。

 この仔馬の生産者は近々行われるセリに出し、売り払おうと考えているようだった。

 ならば先回りしてやろう、と生産者を金でぶっ叩いて半ば無理矢理に購入した。

 

 けれど、その馬に日本円にして一億円を払ったとしても、なんの悔いも残らない。

 だって彼は、いずれ下剋上を成し遂げる名馬なのだから。

 仔馬の頭上に表示される馬名を見上げながら、俺は呟いた。

 

「お前はきっと、大物になる」

 

 その直後に撫でようとしたら、手に頭突きを食らったのはいい思い出だ。

 

 

 

「……あの馬、気性が激しすぎます……」

 

 牧場長の牧野さんから、困り果てたようにそう言われたのは、購入して三日後のことだった。

 実を言えば、史実を知っている俺からしたら、超優良馬のような感覚であった。だが、彼は生まれつき気性が悪く、馬体もみすぼらしく、血統も雑草塗れ。俺が牧野さんの立場になることを想像しても、確かになぜこの馬を買ってきたと問い質したくなるだろう。

 悪く言うなら、あの馬にそれほどの価値はあるのか、ということである。

 

 断言しよう。間違いなくある。

 それも、あの馬を競走馬として稼ぐ賞金以上に。

 

「牧野さん、大丈夫ですか?」

 

 だがそれはそれとして、牧野さんがぐったりとなって戻ってきたため、心配ではある。

 あの馬の将来もそうだが、俺たちの身の安全も考慮せねばならないようだった。

 

 

 

 再び仔馬と対面しに放牧地の方に赴いてみると、目の前には、予想していた景色が展開されていた。

 あの仔馬が、たまたまその場に置いてあった鉄たらいを踏みつけまくって、凹凸だらけにしていたのだ。

 仔馬に視線を向けると、頭上には『☆ジョンヘンリー』という馬名が表示される。

 

 そう――この仔馬こそ、かの米競馬史に燦然と輝く英雄となり、その勇名を轟かせるようになるのだ。俺からしても信じがたいが。

 雑草魂の塊が下剋上を成し遂げ、米王者まで上り詰めた。まさに一種のアメリカンドリームと称することができるだろう。

 

 だからこそ、馬名を見ずとも、生年と馬体のみで彼を判別し看破できた。

 それほどに、ジョンヘンリーという名馬のエピソードは濃すぎるものが多い。気性の荒さ、みすぼらしい馬体、セリ、そして血統というキーワードで確信に至った。

 

 いずれジョンヘンリーと名付けられる仔馬がこちらに気づくと、珍しく大人しめな歩調で寄ってくる。

 柵からひょこりと顔を出してきたので、試しに撫でてみると、目を横線のようにして瞑り、いかにも気持ち良さげな表情が窺えた。

 そんな表情をされれば、ニンジンだって与えたくなってしまうが、ここは我慢。

 しばらく撫で回していると飽きが訪れたのか、ヒンと一鳴きすると、柵から顔を引っ込める。そして柵から少し距離を取り、ゴロンゴロンと寝転んだ末に眠りにつく。お昼寝タイムのようだった。

 

 ジョンヘンリーとなる仔馬は、今は静かに寝息を立てる。彼の才が目覚めるのは、来るべき時が訪れたら、だろう。

 いずれ来るその時を、密かに楽しみにさせてもらうとしよう。




 この年生まれで所有する馬はアファームドかジョンヘンリーかでかなり迷ったのですが、エピソード的にわかりやすく、万能性が高いジョンヘンリーにさせていただきました。
 ちなみにサブタイトルは『ウイポ9 2022』でのジョンヘンリーの二つ名です。ご存知で看破された方は多いと思いますが……。


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最優、それを証明

 レースシーンがムズい定期。


 誰もが焦がれるその刹那。

 そこで瞬きなど厳禁。刮目せねばならない一時。

 府中の最終直線を駆け抜け、栄冠を手にすることができる者は、ただ一頭。

 日本競馬においてこれ以上ないといえるほどに重んじられる、世代代表を決める戦い。

 それこそが、東京優駿、日本ダービーである。

 

 牡馬クラシックにはそれぞれ格言がある。一冠目の皐月賞では最速が勝ち、三冠目の菊花賞では最強が勝つ。ならばこの日本ダービーでは、何が最も優れていればいいのだろうか。

 ダービーにおいて最も必要とされるものは、枠順や展開といった運である。

 運次第で枠順が決まり、それによって位置取りやペースなどの展開も変動してくる。

 当然、有力馬だとしても展開についていけなくなれば沈んでいくし、絶好のポジションに着けても切れ味を発揮する間もないまま溜め殺しなんて事態もあり得る。

 

 逆にいえば、変動の波を乗りこなした馬こそが勝利を手にし、ダービー馬に輝ける。

 そう、要はあらゆる展開に臨機応変に対応でき、他を置き去りにするほどの能力があったら勝てるということだ。それができたら苦労しないのだが。

 

 だけれど、俺の中では自信がある。絶対的ともいえるほどに。

 涼しくも仄かに温かい空気が肌を撫で上げる。今年も日本にダービーの春が訪れていた。

 春風に彩られた栄冠。俺としてはここでぜひとも勝ち取ってほしい。

 

 この大舞台の、この一瞬のために、カブラヤオーは勝ち上がってきたのかもしれない。

 皐月賞とは異なる、胸を圧迫させるような張り詰めた空気感が、そうだと思わせてくる。

 ダービーは一生に一度。残酷でもあるが、それだけに、ダービーの頂に登り詰めたい。日本のホースマンの誰もが憧れ、挑んできた。

 

 俺たちが目指すは、その頂。最速を証明したなら、最優の座にも着いてほしい。

 二冠を戴けば、残すは最強の証明。カブラヤオーを菊の大舞台へ、未知の領域へ誘うだけだ。

 そうなると、この大舞台は落とせない。もちろん、カブラヤオーが無事な前提でこそあるが。

 

 ふとパドックを見渡し、厩務員に引かれているカブラヤオーに目を向けると、小刻みに首を揺らして力強く脚を進めていた。

 見たところだが、脚の動かし方は柔らかく、周囲を気にする様子も窺えない。

 まさに絶好調。これ以上ない仕上がりといっても過言ではなかった。

 伊坂先生にも感謝せねばなるまい。わざわざ牧場を訪れてくれたうえ、カブラヤオーの預託も引き受けてくれたのだから。そしてカブラヤオーに期待してくれて、皐月賞を勝たせてもらい、このダービーに出走させてくれた。

 

 カブラヤオーがこの大舞台に立てる理由は恐らくひとつだろう。陣営がカブラヤオーを勝たせようと一致団結したからだ。

 俺は馬主として、伊坂先生は調教師として、倉田さんは騎手として。みながみな、ひとつの想いを秘めたからこそ、ここまで来れた。

 あとは勝つだけ。そのために準備してきたのだから。

 

 倉田さんがカブラヤオーに駆け寄り、鞍に騎乗する。カブラヤオーの首元を二度優しく叩くと、手綱を握りしめる。

 ゴーグル越しから、倉田さんの表情が窺える。その表情は今まで見たことがないほどに決意を固めた、真剣なものだった。

 カブラヤオーにゴーサインを発して、駆け出す。それだけでも、人馬一体という言葉を無意識に想起してしまう。

 もはや祈ることすら忘れ、ただただ呆然と疾走する様子を眺めてしまうほどに。それぐらい、彼らが一体化しているように思えた。

 

 次々と返し馬として駆け出していく馬たち。彼らはみな、勝利を求め争う。

 もうすぐファンファーレが響き渡る。そう、世代最優を決める戦いの合図が。

 両手を合わせて祈る。手は情けなく震えていたが、そんなことは気にもならなかった。

 カブラヤオーの無事と――勝利を願って。俺が今、馬主としてできることはそれぐらいだろうから、せめて願う。それが伝わるかもしれないのだから。

 

 

 

 カブラヤオーが内枠の三番に収まり、他馬も次々と収まっていく。

 大外枠の十八番がゲートインすると、東京競馬場は静まり返る。

 

 そう、間もなくだ。間もなく――その時は訪れる。

 十秒とも、一分とも思えてしまうような一瞬だった。

 

『スタートしましたっ――!』

 

 ガシャン、という音と共に、生涯一度の大舞台はスタートを告げた。

 スタートと同時にポンと黒い影が飛び出していった。

 カブラヤオーが好スタートでそのまま先頭を掻っ攫っていったのだ。

 倉田さんが手綱を押して押して押しまくる。すんなりハナを切り、早くも後続に差をつけ始める。

 

『カブラヤオーがスーッと前に持ち出しました。鞍上の倉田隆景はまだ引き離すつもりです。二番手との差は現在四馬身ほどであります。ここで振り返って手綱を持った倉田隆景。カブラヤオーが先頭で、リードは四、五馬身ほどでしょうか』

 

 やはりカブラヤオーは先頭を突っ走る。

 逃げて、逃げて、逃げまくる。それこそがカブラヤオーの競馬であり、本能である。

 後続はここではまだ仕掛けない。たとえ仕掛けたとしても、カブラヤオーの餌食になるだけという判断なのだろう。

 十二ハロン――2400mはスタミナと脚の両方が必要な距離だ。下手に脚を使わず、カブラヤオーを差し切るつもりだろうか。

 

 競りかけていく馬はなく、己が本能のままに駆け抜けていく。

 つまり、今のカブラヤオーは完全にフリーな状態だ。

 下手にマークしようものなら、ペースが速くなるばかり。しかもカブラヤオーは粘れるほどの体力を持っているというおまけつき。

 史実でとある名手が『ルドルフでも厳しい戦いになる』と話すだけある。名馬というのは規格外である。

 

『残り1000mを切りましたが、カブラヤオー、カブラヤオーが未だに先頭であります。逃げ切るかカブラヤオー、この2400mを、ダービーを本当に逃げ切るのかカブラヤオー。倉田隆景は落ち着いたまま手綱を持っております』

 

 2400mを逃げ切るには、とてつもないスタミナとスピード、馬自身の根性が必要となる。ましてダービーならばなおさらだ。

 しかもカブラヤオーは一番人気。本来、一番人気の逃げ馬というのには何頭か競りかけてくるものだ。

 しかし、カブラヤオーの場合は逆に競りかけてきた馬を超ハイペースに巻き込み、沈ませる。

 狂気的なペースで逃げ、勝ってしまうことから『狂気の逃げ馬』と呼ばれていた。

 ――その本懐が今、鋭い牙を剥こうとしていた。

 

『間もなく最終直線! カブラヤオーが最内を通って逃げる! 最内を通って逃げる逃げる! 二番手はエリモジョージ! しかし脚色が悪いか! 残り400mを切ってもなお、カブラヤオーです! カブラヤオーでありますッ! 無敗の皐月賞馬が、カブラヤオーが二冠に向けて逃げ切り態勢に入りました! 後続との差は現在、六馬身ほどあります! 残り200m! 差が広がる広がる! 二番手エリモジョージ、これは粘ることが精一杯か! カブラヤオーが逃げて差した、カブラヤオーがまたまた逃げて差したァッ!

 

 カブラヤオーが今、一着でゴールイン! カブラヤオーです! カブラヤオーと倉田隆景、見事捻じ伏せ、逃げ切りました! 二着はエリモジョージ! しかしカブラヤオーとの差は七馬身ほどありました! カブラヤオー、頑張った! ダービーを逃げ切りました! 無敗の二冠馬の誕生でありますッ!』

 

 東京競馬場の掲示板。その一着の欄にカブラヤオーの馬番である三番が表示される。

 勝ってほしかった。まさか、その願望が本当に叶うなんて、まったく実感がなかった。

 放心していたが我に戻り、慌ててウィナーズサークルに駆け込む。

 

 その場には既にカブラヤオーのゼッケンを掲げた倉田さん、伊坂先生、カブラヤオー陣営が揃い踏みしていた。

 

「やりました……やりましたよ……! オーナー……!」

 

 伊坂先生が歓喜に震えながら腕で目元を何度も拭う。かくいう俺も目頭の熱さにもう耐えられそうにないのだが。

 涙を流している大の男たちが抱き合う光景は普段なら異常なのだが、この場では関係ない。伊坂先生への感謝も込めて、力強く抱擁させていただく。

 少々苦笑いしていた倉田さんの姿が見えたのは気のせいだと思いたいが。

 

 抱き合うのを止め、ダービーの優勝レイを背にかけられたカブラヤオーの頭を強く擦るように撫でまくる。

 カブラヤオーは一瞬目を見開くが、すぐさま頭を俺に委ねる。やはり馬の気持ち良さげな表情は見ていて癒されるものだ。

 だが、まずはこの言葉をカブラヤオーにかけてやらねばなるまい。

 

「おかえり、カブラヤオー」




 カブラヤオーしゅき。


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入厩、それから騎手決め

 投稿が遅くなってしまって申し訳ないマン。


 厩舎に充満する獣が発する独特な匂いが、鼻腔を掻き乱していく。好き嫌いこそはっきりと分かれるが、こういう匂いは好みだ。

 奥へ奥へと進んでいく。馬房を横切りながら、この厩舎に滞在する馬たちに挨拶をしながら。たとえ馬であろうと、礼節を欠くことがあってはならないだろう。

 もう少し進んでいく。厩舎のところどころから差し込む陽射しが、明るい未来を示唆しているように思えた。

 

 やがて足を止め、振り向く。辿り着いた場所は、ひとつの馬房だった。

 馬房を覗き込むと、そこには黒い塊が鎮座していた。

 その塊に、俺は一声かけるとする。

 

「こんにちは。久しぶりに来たぞ、()()()()()()()

 

 黒い塊はピンと耳を立てると、馬脚を現して四足歩行の巨大馬となる。

 巨大馬――グリーングラスはこちらに振り返り、口を天に突き上げて嘶く。まるでこちらの挨拶を理解しているように。

 のっそのっそと巨体を揺らめかせて、グリーングラスは馬房の柵に頭を擦りつけるように寄せる。撫でてとでも言わんばかりに。

 せっかく栗東にある伊坂先生の厩舎に来たのだから、撫でないわけがない。

 

「伊坂先生、撫でてもいいですか?」

 

「大丈夫ですよ、グリーングラスは大人しいですから」

 

 柵の隙間に手を入れ、頭を上から下にかけて撫で回す。

 グリーングラスの表情はすっかり綻び、先ほどまで巨体から醸し出されていた威圧感など見るまでもなく消え去っていた。

 馬の体毛はやはり触れ心地がいい。俺でもグリーングラスと同じような顔になりそうだ。

 

「いやしかし、これほどの馬を預けていただけたのは予想外でしたね。カブラヤオー以外にもいるのかと」

 

「はははっ、グリーングラスはいい馬ですよ。以前は柵を飛び越えたりして一悶着ありましたけどね。……あと一頭、一歳馬がいるんですけどね」

 

「えっ」

 

 あまりの情報量にオーバーヒートし、今にも湯気が沸き立ちそうなぐらいに顔を真っ赤に染め、興奮を隠せない伊坂先生に苦笑しつつ、グリーングラスの方を見向く。

 相変わらず可愛い顔をしている馬だ。仕草も一々可愛いから、猫可愛がりしたくなってしまう。だがそうすると、馬にとってもこちらにとっても悪影響が及ぶため、節度を保って接していることを心がけている。それはそれとして愛くるしいが。

 

 しかし彼もいずれ、競走馬となり、ターフを駆け抜けていく優駿となるのだ。

 勝ち星をあげてくれることも嬉しいが、何よりも無事にレースを終えてくれることの方を願わずにはいられない。

 それから、グリーングラスにはやがてぶつかるであろう強敵も現れる。かの『天翔ける名馬』と『流星の如き貴公子』とは必ず激突することになるだろう。

 

 だが、グリーングラスとて名馬の器だ。そう簡単に負かさせはしないだろう。

 古馬路線、いや、クラシックで相対するであろう強敵たちを思い浮かべる。

 彼らは仕上がりが早く、一方でグリーングラスは晩成型。はっきりいってしまえばクラシックで打ち勝つことはかなりの難題かもしれない。

 それでも、俺はグリーングラスが勝ってくれると信じている。所有馬贔屓と指されればそれまでだが、彼らと激闘を繰り広げ、その末に勝利を掴んでほしい。

 

 ふと、ある懸念が電撃のように頭をよぎった。

 

「……そういえば伊坂先生、新馬戦はいつの予定で?」

 

「今が十月なので、それから二ヶ月後の予定です。クリスマスプレゼントはグリーングラスの勝利ですね」

 

 思わずホッと息を吐き、安堵する。どうやら予想以上に育成が順調のようだ。

 

「ところで、騎手はどなたの予定でしょうか?」

 

 次点で気になっていたことを尋ねる。だが伊坂先生は首を捻り、目を細める。

 

「申し訳ないです、まだ決まってないのですよ。倉田くんに依頼しようとしたのですが、カブラヤオーと被ってしまいそうで」

 

「そうでしたか。でしたら、ひとつお願いがありまして」

 

「……ほほう? お願いとは?」

 

 咳払いして、俺は告げる。

 

「ある若手騎手を、グリーングラスに乗せてほしいのです」

 

 

 

「こんにちは、伊坂先生はいらっしゃいますか?

 

「ああ、来てくれたのか。わざわざすまないね、遠くから来てもらって」

 

「いえいえ、構いませんよ。僕のような新人でもお役に立てることなら」

 

「今まさにキミが役立つ時だよ、的田弘(まとだひろし)くん。ある馬に乗ってほしいんだ、十二月の新馬戦で」

 

「よろしいのですか? 乗鞍がないので乗らせてもらえるなら乗りますが……」

 

「いいんだよ、オーナーが望んでいることだから。じゃあ、早速調教で乗ってくれ」

 

「えっ」




 的田くん、将来はマークの名手になってそう。


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悲願と悲願

 昨日から慌ててプロットを書き直していたマン。


 あのダービーから五ヶ月も経ち、京都競馬場には秋風が漂う季節。

 俺の所有馬であり、愛馬である二冠馬カブラヤオーは、新緑に煌めくターフを鳥籠から解き放たれた鳥のように駆け出す。

 本来ならば叶えられなかった、クラシック三冠目となる菊花賞への出走。

 だがこの場に彼は立っている。そう、菊花賞に出走できているのだ。

 

 鞍上の倉田さんと共に返し馬を行うカブラヤオーを遠目に眺めていると、どうしてだろう、目元から水が滴ってくる。

 堪らずハンカチを取り出し、目元を拭う。今日は快晴だが、雨が降っているようだ。

 ハンカチ越しに目元を抑える。間違いない、今日はゲリラ豪雨だ。でなければ、こんなに大量の雨が足元に滴るわけがない。

 鼻までむず痒くなり、顔面はもうびしょ濡れだった。他から見たら、酷い顔をしているに違いない。

 

「……気に障ったらすみませんが、いい顔をされてらっしゃる」

 

 心底感嘆するような声が、俺の耳に行き渡る。

 ハンカチを顔から外すと、声の主はすぐにわかった。

 

「ああ、北見さんでしたか。すみませんね、雨でこんなになっちゃって」

 

「いえいえ、確かに大雨が降り注いでいますからね。傘を持ってくるべきでした」

 

 北見さんは苦笑しつつ肩を竦める。

 どうやら、俺と同じく傘を所持し忘れたようだった。

 

「それにしても、あなたはとても馬想いなのですね」

 

 北見さんの口から、思いがけない言葉が飛び出す。

 笑みを深めて、彼はさらに口を開く。

 

「雨を降らせるほど馬の出走を喜んでいらっしゃる。勝ち負けの世界でありますから、勝って喜び、負けて悲しむという馬主はいらっしゃいます。しかしそのご様子からして、出走するだけでも歓喜に震える馬主がいるとは。私の目では見たことがありませんよ」

 

「いえいえ、北見さんには及びませんよ」

 

「及ぶ及ばないではないのです。あなたは馬主として、そして、一観客のように競馬を楽しんでいる。その証明として、日本ダービーでは応援馬券を自作されていましたから」

 

 北見さんは深呼吸するように息を吐くと、笑顔のまま遠目に晴天を眺める。

 

「その姿勢は、ビジネスマンの理想形というより、競馬を心から愛する馬主の究極形だと思います。あなたは心の底から馬を愛し、馬を大切にする。私にはどうしてもそのように映るのです」

 

「……そうでしょうか? 俺は一介の馬主に過ぎませんよ」

 

「あなた自身はそうお思いでしょう。競馬はひとつのビジネスでもありますから、どうしても勝ち負けのみに拘る方も多いのです。……そういえば、牧場も持っておられましたよね?」

 

「は、はい……そうですが……」

 

「来年頃になるのですが、とある馬を買っていただきたくて……。私自身はその馬の産駒が走っているところが見たかったのですが……」

 

「……まさか、メジロアサマをお売りになるつもりで?」

 

「その通りです。種牡馬として引き取っていただければ」

 

 メジロアサマという馬は、史実においてもメジロの悲願であった天皇賞を勝利した名馬。

 そんな名馬を、本気で手放すつもりなのだろうか。

 北見さんの表情を窺うと、真剣そのものだった。

 

「……し、しかし、メジロアサマは天皇賞馬。メジロの悲願であったはずでは?」

 

「はい、そうなのです。それは今でも変わりません。

 ……ですが、メジロアサマを種付けしても不受胎ばかり。メジロ牧場内から疑問の声もあがり始めておりまして」

 

「なるほど……そのため、我々に購入してもらおうと」

 

「はい、押し売りのようで申し訳ありませんが。金額は一億円、厳しければその半分でも大丈夫です。

 ……電話番号を渡しておきます。後日、返答をいただければと思います」

 

 電話番号が記載された名刺を手渡され、それを受け取る。

 北見さんは懇願するような震えた声音で、言葉を続ける。

 

「……どうか、よろしくお願いします」

 

「……わかりました。検討させていただきます」

 

 競馬場内でまさかの交渉があったことは完全な予想外だったが、気を取り直し、ターフの方を振り返る。

 

 場内は既に静まり返っており、今か今かと時の訪れを待ち侘びていた。

 

 

 

 ――そして、十八頭の強豪たちが飛び出していった。

 

 十八番から黒い弾丸が放たれる。カブラヤオーが好スタートを切ってくれたのである。

 

『スタートしましたっ! 二冠馬カブラヤオーは好スタートを切って、一気に先頭を奪います。ぐんぐん引き離していくカブラヤオー、やはり大逃げであります』

 

 カブラヤオーと後続との差は四、五、六馬身と開いていく。

 京都の芝3000mは、カブラヤオーでも粘りきれるかどうかの瀬戸際な距離。しかし、だからこそ大逃げを打つのだろう。

 

 その証拠に、カブラヤオーで逃げる倉田さんが不敵に微笑んだように見えた。

 

『1000mを通過しましたが、これは超ハイペースであります! 前どころか後ろも総崩れしそうなほどであります! コクサイプリンスはついていくのが精一杯か!』

 

 カブラヤオーが大逃げを打ったことにより生じる超ハイペース。それで他馬をすり潰し、逃げ切ろうという作戦なのだろう。カブラヤオーを信じきっていないとこんな大胆な作戦は実行できない。

 2000mを通過していく頃には、遂に後退し始める他馬も出てき始めた。

 恐らく、倉田さんの作戦が効き始めたということだ。

 

『残り800m! カブラヤオー、カブラヤオー、カブラヤオーだ! カブラヤオーが三冠を目指して突っ走っております! 未だに先頭はカブラヤオー! 二番手コクサイプリンスとの差は六馬身! 持ち堪えてくれ、カブラヤオー!』

 

 倉田さんが鞭を打つ、手綱を押す。

 残り400m。最後の最後、三冠達成まで目前となった。

 

『ポーンポーンと倉田隆景の鞭が入った! カブラヤオー先頭、カブラヤオー先頭! 無敗で三冠達成なるか!? カブラヤオーだカブラヤオーだ! だが後方からコクサイプリンス来ている! コクサイプリンス来ている! カブラヤオーここまでか!? カブラヤオー頑張れ、カブラヤオー頑張れ!

 カブラヤオーが伸びた! カブラヤオーが粘って伸びた! カブラヤオーが再び伸びた! なんという逃げ脚!

 

 カブラヤオーが一着! カブラヤオーが一着! 二着にはコクサイプリンス! カブラヤオーであります! 無敗の三冠馬が今、京都に舞い降りましたッ! 二着との差は二馬身ほど! 神戸新聞杯、日本ダービー、皐月賞のような圧勝ではありません! しかし勝ちました! 勝って証明しましたッ! その強さを! 大外も、距離も関係ありませんでした!』

 

 

 

 十八番のゼッケンを、倉田さんと共に掲げる。俺も倉田さんも、大雨のせいで顔面がびしょ濡れだった。

 伊坂先生はトロフィーを手にし、そんな俺たちに微笑んでいた。

 

「やった……やった……やったよ……遂に……!」

 

 倉田さんは拳を握りしめ、歓喜に震える。

 当の俺はというと、カブラヤオーに舐められまくって顔が違う意味で酷いことになっていたが。

 倉田さんにゼッケンを手渡し、カブラヤオーを撫でて撫でて撫でまくる。

 カブラヤオーもそれに呼応し、こちらを舐めて舐めて舐めまくる。

 

 カブラヤオーの首元を叩いて、告げる。

 

「ありがとう……ありがとう……! カブラヤオー……!」

 

 

 

「倉田騎手、レースの方はどうでしたか?」

 

「最高の手応えで臨めました。先生の仕上げがとても良かったです」

 

「カブラヤオーはどうでしたか?」

 

「いつもより輝いて見えましたし、気合いも十分でした。カブちゃんにしては闘志が凄まじかったです」

 

「ご自身にとって最強馬というのは?」

 

「もちろん、カブラヤオーです。この馬と一緒なら、どんな馬にも勝てそうです」

 

「最後に次走については?」

 

「そこを聞きますか。GⅠ有馬記念の予定です。何も異常がなければ出るかもしれません」

 

「ありがとうございます。以上、倉田騎手の勝利インタビューでした」




 騎手の脳を焼くのって楽しいよね。


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狂気の逃げ馬VS条件不問のタフガイ

 とんでもないレコードタイムっていいよね。


 カブラヤオーが無敗のまま三冠を達成したという情報は、日本競馬界を激震させた。

 あのシンザン以来の三冠馬が誕生したのだ。日本競馬界が沸かないわけがなかった。

 菊花賞での大歓声は耳が割れんばかりの凄まじいものだった。それでカブラヤオーが驚かないか心配していたが、案外そんなことはなく、杞憂だったようだ。

 ウィナーズサークルに向かおうとして席を立った際、他の馬主からは恐ろしいぐらいに祝福されたが、今思い返すと、次は勝つという意思表示だったのかもしれない。馬主業にもまだまだ慣れねばなるまい。

 

 そんなシンザン以来、いや、シンザンも成し得なかった無敗の三冠馬が次走として選択したレースは、GⅠ有馬記念。

 舞台は暮れの中山の芝2500m。ファン投票により選出された優駿たちが集う、日本競馬の総決算とされる大レースだ。

 カブラヤオーにとって、初めて古馬とも相対するレースとなる。だが問題はそこだけではない。

 

 馬主席に座り込み、出走馬表を見つめる。

 カブラヤオーは十四頭中の十四番――菊花賞に続き、まさかの大外である。史実ではとある名手が騎乗する馬がいつものように大外枠を引き、あえなく撃沈することが風物詩とされていたことがあったが、いざ自身の馬が大外枠となってしまったときの立場は心苦しいものがある。

 中山の芝2500mで大外枠というのは、天皇賞(秋)での一番人気は勝てないというジンクスと同じぐらいに厄介だ。それにカブラヤオーは逃げ馬であり、スッと前に持ち出して内に着けなければ追いつかれ、瞬く間に囲まれてしまうだろう。

 

 それから、出走馬も豪華メンバーが勢揃いである。

 二冠馬キタノカチドキ、カブラヤオーと同世代の実力馬イシノアラシやら。だがそんな中でも群を抜いて警戒したい馬がいる。

 ――フジノパーシア。今年の秋の天皇賞馬であり、重馬場巧者としても知られ、直線一気に放つ豪脚は侮れない。

 今回はフジノパーシアが大得意とする重馬場ではなく良馬場であったため幸いだが、それでもカブラヤオーに迫り得る最有力馬の一角だろう。

 

 大外枠にどう対応するか、フジノパーシアの豪脚をどう凌ぐか。間違いなく鞍上の倉田さんの腕が要求される場面となる。

 返し馬としてターフ上を疾走するカブラヤオーに、場内から歓声があがる。

 自身の持ち馬がこうも人気になると、馬主としては嬉しくなってしまい、ついつい微笑みを浮かべてしまう。

 カブラヤオーは見るまでもなく絶好調。伊坂先生が「最高の仕上がりです。これなら勝てますよ」と言及してくれるだけある。

 

 そういえば伊坂先生で思い出したが、有馬記念の前日にグリーングラスがデビュー戦の中山の芝2000mを勝利で飾ってくれた。

 好位に着けると、最終直線で馬群を割り、あとは抜け出すだけ。そういう競馬で圧勝してくれたため、先行きは明るい。鞍上を務めてくれた的田弘さんの騎乗も上手かった。

 伊坂先生も的田さんも口を揃えて予想以上の馬と評してくれているので、グリーングラスの今後にも期待が膨らむ。

 

 改めてターフの方を見向くと、ゲート入りは既に始まっていた。

 倉田さんがカブラヤオーの首元をポンポンと叩き、手綱を握りしめる。

 どうやら、覚悟は決まったようだった。

 

 他馬が次々とゲート入りしていく中、最後にカブラヤオーが係員に引かれ、すんなりとゲートインを完了させる。

 

 場内が静寂に包まれ、緊迫感が高まった瞬間だった。

 

 ――戦いは、ガシャンという音と共に火蓋を切った。

 

『スタートしましたっ! 早速カブラヤオーがいったカブラヤオーがいった! 場内、歓声が沸いております! おっとカブラヤオーが最内へ切り込んでいく! カブラヤオーが最内に位置取って逃げる逃げる! イシノアラシも積極策で二番手。二番人気の秋の天皇賞馬フジノパーシアは前方から数えて九番手の位置。キタノカチドキはやや内を通って五番手。

 さあ、三冠馬がいったぞ! 無敗の三冠馬が逃げ切り態勢! 鞍上倉田隆景、手綱を緩くして逃げさせた。二番手イシノアラシとは五馬身差。やはり大逃げだ、カブラヤオー!』

 

 カブラヤオーが大逃げを炸裂させ、みるみるペースが速まっていく。

 このペースだと下手をすれば、1000mをスプリント戦のようなタイムで駆け抜けるのではないだろうか。

 だがそれでも、倉田さんの表情にはどこか余裕が見え隠れしているように見えた。

 これはカブラヤオーだからこそできる芸当であるからなのだろうか。

 

 1000mを通過していく頃には、やはり力尽きて垂れていく馬が現れ始めた。

 それもそのはず、この超ハイペースはもはや2500mのものではなく、1200mのものなのだから。

 カブラヤオーが『狂気の逃げ馬』と称されるのが、このような超ハイペースを展開すること。そしてそんな中でも耐え抜き、逃げ切ってしまうこと。

 とてつもなく恐ろしい逃げ馬だと再認識させられる。

 

『2000mを通過して、間もなく最終コーナー。カブラヤオーがまだまだ粘る! フジノパーシアが大外をぶん回して上がってきている! イシノアラシ、キタノカチドキは後退! 人気馬二頭のマッチレースだ!

 残り300m! フジノパーシアが来た! フジノパーシアが来た! いやカブラヤオーが逃げ粘る! カブラヤオーが差を離した! 早々に大勢は決した! カブラヤオーが逃げて差した! カブラヤオー、どんどん離していく! 倉田隆景は持ったまま! 後ろからはなんにも来ない! フジノパーシア、懸命に追うがもはや届きそうにない! これだ、これだ、刮目せよ、瞠目せよ! これこそが、三冠馬の実力だァッ!

 

 カブラヤオーが一着! カブラヤオーが一着! 二着フジノパーシア! 三着はようやくイシノアラシ! カブラヤオーとフジノパーシアの差は、なんと九馬身差! やはり強かった! 無敗の三冠馬が強かった! 倉田隆景が観客席に向かって手を振っております! カブラヤオー、強い! これで四冠目! 最強馬の誕生でありますッ!』

 

 

 

 強すぎて、言葉を失ってしまった。それほどに鮮烈な勝ち方だった。

 フジノパーシアも、イシノアラシも、キタノカチドキも、どの馬もカブラヤオーには近づくことすらできなかった。

 最終直線では常識など鼻で笑えるぐらいに伸びており、タイムに関してはとんでもないレコードタイムを叩き出していた。

 ウィナーズサークルに駆け込むと、カブラヤオーがケロッとした様子でこちらを見つめていた。

 一方、倉田さんを含め、伊坂先生ですら未だに唖然としていた。

 

「……勝ち、ましたね」

 

 伊坂先生がカブラヤオーの方を振り向いて、ようやく口を開く。

 

「え、ええ、勝ちましたが……あんな勝ち方して大丈夫ですか?」

 

「カブラヤオーは疲れてもいない様子なので大丈夫と思います。倉田くんは鞭を最初の二、三発ぐらいしか入れていませんでしたし……」

 

「まあ、とにかく勝利を喜びましょう!」

 

 こうして、俺たちの一年が締めくくられた。

 有馬記念という大舞台を勝利し、四冠目を手にしての年越しとなった。

 

 

 

 

 

 

【1975年有馬記念 結果

 

 一着 カブラヤオー 2:29:6(日本レコード)

 二着 フジノパーシア 九馬身

 三着 イシノアラシ 大差(十一馬身)】




 フジノパーシアしゅき。


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1975年エピローグ 大きな一歩

 繁殖牝馬を買うぜ……。
 だからお守りをあげるね、はい。


 雲が点々と存在する青空。雲間を縫って陽射しが差し込むが、真夏のようには眩しくはない。

 だけれども、陽光がもたらしてくれる暖かさと冬ならではの寒々しいそよ風の組み合わせは、こちらに程よい体温を与えてくれていた。

 心なしか、それぞれ二歳、一歳に差しかかろうとしていたシアトルスルーとジョンヘンリーも、心地よさそうに目を瞑る。

 

 有馬記念を経てから幾数日。あれからというもの、牧場には様々なものが舞い込んできた。

 様々なものといっても、人とかではなく、馬なのだが。

 

 まず始めに、一頭の種牡馬がこの牧場で繋養されることとなった。

 そう、その種牡馬こそが、菊花賞の際に北見さんから購入を持ちかけられた天皇賞馬メジロアサマである。

 有馬記念の数日後、今日より三日ほど前にメジロアサマは輸送され、こちらに到着した。もちろん、北見さんから提示された金額である一億円を支払ってのことだ。

 北見さんからは去り際に、無念そうに「お願いします」と消え入りそうなほど小さく震えた声で告げられた。胸の奥底では申し訳なさが募るばかりだった。

 

 だがその後、事態はまさかの方向へと転がっていった。

 突如として、何かを載せた馬運車がこの牧場に停まる。

 何事かと尋ねると、なにやら、こちらに繁殖牝馬を輸送してきたとのことだった。

 

 馬運車から降ろされた牝馬は、思わず驚嘆してしまうぐらいに艶やかな鹿毛であった。

 慌てて牧場スタッフが駆け寄り、こちらに呼びかけてきた。

 

 スタッフが肩で息をしながら、俺に手紙を手渡す。

 驚くことに、差出人は北見さんからだった。

 恐る恐る手紙を開封すると、中には牝馬の血統書と北見さんからの直筆のメッセージが添えられていた。

 

 曰く、繁殖牝馬の名はシェリル。フランス出身の牝馬だという。

 曰く、メジロアサマのおまけのようなものという。

 曰く、できればシェリルとメジロアサマの仔が見てみたかったという無念。

 

 熱くなっていく目頭を片手で抑え、手紙を握りしめる。

 ――1977年にシェリルにメジロアサマをつけよう。もし史実と同じように、あの馬が誕生するとするなら。それに一縷の望みを託そう。

 北見さんの想いを受け止め、天を見上げると、薄暗い雲間から一筋の光が差しかかった。

 

 その光は、馬運車から降り立ったシェリルを照らし出すスポットライトのようだった。

 必ず、1978年にあの名馬を産ませてみせよう。拳を握り直し、俺はそう誓った。

 

 そんなさなかに、また馬運車がやってきたのだ。

 混乱を通り越して困惑する俺は、数秒を経たあとにようやくその意味を思い出す。

 

 メジロアサマを購入したならば、種付けするために繁殖牝馬が必要だった。

 シェリルが輸送されたことに動揺しまくっていたからか、その繁殖牝馬がその日に到着するという予定を完全に頭からすっ飛ばしてしまっていたのだ。

 こちらの購入した繁殖牝馬もまた、全体的に美しく整った鹿毛のべっぴんさんだった。

 

 見つめると、『モンテオーカン』という馬名がその牝馬の頭上に表示される。

 そう――史実では『太陽の帝王』、『賢弟』と称された名馬たちを産むであろう牝馬を購入することができたのだ。

 もちろん、それらの名馬たちを誕生させるのもひとつの目的だが、メジロアサマをつける繁殖牝馬の入手も不可欠だった。

 結果的にはまさかのシェリルという名牝がやってきてしまったため、主目的を見失いつつあるが。

 

 とにもかくにも、一頭の種牡馬と二頭の繁殖牝馬が牧場で繋養されることとなったのだ。厩舎も拡張せねばなるまい。

 

 身だしなみを整えながら、そう決意する。

 スーツに身を包み、気合いを入れるため頬を叩く。

 今から向かう先は、ホースマンにとっての名誉のひとつを授けられる場所なのだから。

 

 

 

 会場に入ると、そこはホースマンだらけの聖域であった。

 馬主、調教師、騎手やらの日本競馬関係者が一斉に集うこの場こそ、そう、年度表彰だ。

 年末に行われるそれは、その年の年度代表馬だったり、リーディングジョッキーだったり、リーディングトレーナーだったりを発表し、表彰していくというもの。

 今回は伊坂先生のお誘いもあり、この場に足を運ぶことと相なった。

 

 しばらく会場をうろついていると、ひとりの男性と目が会い、声をかけられる。日頃からお世話になっている伊坂先生だった。

 

「オーナー! 探しましたよ!」

 

 そう言って肩を竦めつつも、伊坂先生は笑顔のまま。

 

「あっ、伊坂先生。もしかして表彰、終わりました?」

 

「まだまだですよ。あと五、六分後ぐらいですね。ですが、年度代表馬はもう察している方が多いようですが」

 

「本当ですか? どの馬でしょうね……?」

 

「はははっ、どうですかね」

 

 互いにニヤけて、その時を待ち侘びる。

 

「今年はいい競馬を見れましたか? 伊坂先生」

 

「ええ、最高の競馬を見れましたとも」

 

「伊坂先生と同じ気持ちの馬主がいるようですが、その方に何か一言」

 

「もっと馬を預けてください、と言っておきますね」

 

「その馬主ですが、どうやら先生の厩舎に新しく二歳になる牡馬を預けようとしているようですよ」

 

 伊坂先生がこちらに振り向き、目を見開く。

 俺は人差し指を立てて、口元にかざす。

 

「……よろしくお願いします」

 

 伊坂先生が驚愕しているさなかであるが、間もなく表彰式が始まりを告げる。

 遂にその時が訪れる。もはや心の弾みは止まらなかった。

 

 

 

『これより、1975年の競馬を賑わせてくれたスターホースたち、ホースマンたちを表彰する、年度末の表彰式を開会致します

 

 まず、最優秀馬主賞、最優秀生産者賞は――』

 

 最優秀馬主賞と最優秀生産者賞から始まり、次々とリーディングジョッキー、リーディングトレーナーが発表されていく。

 それからが競走馬たちの表彰だった。

 

『最優秀二歳牡馬は、テンポイントでございます!』

 

 その馬名に思わず耳が傾く。来年にグリーングラスと相対することになるだろう強敵の名を、しっかりとこの場で覚えておくとしよう。

 

『最優秀三歳牡馬は、カブラヤオーでございます!』

 

 拍手の嵐が巻き起こる。ガッチガチに固まったままの身体で、ぎこちない礼をしてしまい、顔を赤く染めてしまう。

 

 しばらく時が流れ、遂に年度代表馬の発表にまで行き着く。

 会場が一瞬、静まり返る。

 

『年度代表馬は…………なんと三百票満票でございます! 無敗四冠馬カブラヤオーでございます!』

 

 一段と拍手で鳴り響く音が大きくなる。

 カブラヤオーが年度代表馬、それも満票での。

 俺は両腕を掲げ、思わず喜びを露わにする。

 

「おめでとうございます! オーナー!」

 

 伊坂先生の一声が、こちらの耳に響き渡ると同時に。

 

 おめでとうございます、という声が会場のあちらこちらからあがり始める。

 満票で年度代表馬になるということはあまりにも至難。そこまで認められたカブラヤオーには、本当に頭が上がらない。

 

 

 

 表彰式を終え、会場から牧場へ戻ると、空は薄暗い茜色に染まっていた。

 何もないのに自然と言葉が零れた。

 

 ――ありがとう。来年もまた、と。




 目指せ、二年連続の年度代表馬。


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1976年
差し切って、逃げ切って


 1976年編、開幕。
 大阪杯さん……。


 時代というのは、いずれ移り変わっていくものだ。

 無論、それは競馬にも当てはまる。世代交代ともいうが。

 どんなに強かろうと、どんなに速かろうと、やがてその時はやってくる。

 

 所有馬にその時が訪れたら、俺は何を思うのだろうか。

 カブラヤオーは四歳と古馬になり、グリーングラスも三歳となった。

 シアトルスルーも二歳を迎え、競走馬への道を辿ろうとしている。

 そんな彼らにも、いつかはやってくる。

 

 特にカブラヤオーにとっては、次世代との戦いになるだろう。

 無敗で三冠を達成し、満票で年度代表馬に選出された古馬相手に、次世代を担う若駒たちはどういう立ち向かい方をするのか。

 天を翔けるように抜き去るか、流星の如く突き破るか、狙い澄まして討ち取るか、一瞬の豪脚で差し切るか。

 それとも――スーパーカーのような圧倒的な出力で押し潰すか。

 いずれにせよ、カブラヤオーという絶対王者を打ち倒そうとする次世代が現れることは間違いない。

 もちろん――容易に負かされるつもりはないが。

 

 冬を越しての四月。麗らかな春を迎え、激戦は再び開幕しようとしている。

 春のGⅠ戦線となると、強豪たちが再集結する。彼ら彼女らはぶつかり合い、栄光を欲する。

 かくいう俺たちも、GⅠタイトルという栄光を求め、立ち向かう。

 

 ――GⅠ大阪杯。阪神競馬場の芝2000mで行われるそれで、無敗の三冠馬カブラヤオーが再始動した。

 追い切りでの手応えは抜群、体調も万全といえる状態で出走したカブラヤオーは――結果から明かせば、とてつもない逃げ切りを演じ、追い縋るフジノパーシアを完全に置き去りにし、十一馬身という埋めようのない大差を着け、圧勝してくれた。

 これでカブラヤオーはGⅠ五勝目を飾ることとなり、前年の年度代表馬の威光を示した。

 

 その後に伊坂先生や倉田さんとも協議を重ね、カブラヤオーの次走、そして春の大目標はGⅠ宝塚記念という決断を下した。

 天皇賞(春)というGⅠもあるにはあるが、カブラヤオーに3200mという距離は流石に長すぎるため、回避という方針だ。

 また、宝塚記念には、昨年に牝馬二冠を達成したものの怪我で秋を全休し、共同通信杯ではカブラヤオーとも戦ったことのあるテスコガビーが復帰する予定のようである。

 

 史実では果たせなかった再戦であるが、再度彼らの激闘を目にすることができるというのは、感慨深いものがある。

 カブラヤオーを徹底的に仕上げてもらい、宝塚記念に臨もうではないか。

 今一度、テスコガビーと決着をつけよう。

 

 一方で、グリーングラスの方も順調すぎるといえるほどに順調だった。

 今年の初戦として京都の条件戦である梅花賞(芝2400m)を勝利すると、立て続けに阪神で行われたリステッドのすみれステークス(芝2200m)、若葉ステークス(芝2000m)も連勝してくれたのだ。

 特に若葉ステークスは皐月賞へのトライアルレースでもあるため、ここを勝って優先出走権を得られたことはあまりにも大きい。

 

 そんな皐月賞だが、競馬新聞は完全に二強ムードという見方をしていた。

 無敗の二歳王者テンポイントと、無敗の弥生賞馬トウショウボーイの一騎打ち。そのように予想を添えて書かれていた。

 無敗であればグリーングラスもいるだろうと憤ったが、思い返すとグリーングラスにはまだ重賞勝ちという実績がない状態だった。それもそうだった。

 だがそれでも、その二強ムードを打ち崩す。グリーングラスはそれほどの馬なのだから。

 

 どうか鞍上の的田さんと共に、駆け抜けてほしい。

 そう祈るばかりだった。

 

 

 

 快晴となった中山競馬場には、今年も独特の熱気が漂う。

 だが、この熱気にも慣れてきたのか、以前と違って圧迫感はなく、自然と心が弾んでいた。

 今年の皐月賞にもやはり十八頭の選ばれし強豪たちが集う。

 その中でも抜きん出て注目を集めていた馬が、『貴公子』と称されていたテンポイントだった。

 

 陽射しにより、さらに煌めきが増すテンポイントの馬体には、多くの観客が言葉を失っていた。

 グッドルッキングホースという言葉があるが、それはテンポイントのためにあるのかと錯覚しそうになるぐらい。それほどに美しい馬であった。

 悠々とパドックを闊歩する様は、まさしく『貴公子』に相応しい佇まいである。

 

 目線をテンポイントからトウショウボーイへ移す。

 史実では『天馬』といわれるほどの圧倒的なスピードを武器に、数々の名勝負を繰り広げ、テンポイント、グリーングラスと並びTTGの一角とされた名馬。

 はっきりいって、諦観こそしていないが、この名馬を相手取るには今のグリーングラスではまだ物足りない。

 恐らく的田さんを鞍上とするなら、グリーングラスは真っ先に外から貼りつくようにトウショウボーイを徹底的に追い詰めようとするだろう。

 

 果たして、その騎乗がどこまで通用するか。

 史実より何ヶ月も早いTTG対決を観戦させてもらうとしよう。

 

 騎乗合図が発せられ、的田さんがグリーングラスに駆け寄る。

 的田さんはグリーングラスの頭を撫でると、鞍に跨がる。

 他馬が返し馬を行う中、的田さんがゴーサインを発し、グリーングラスも駆け出していった。

 

 俺たちの想いを背負って、若き人馬は頂点を目指しに行く。

 

 

 

 全頭の返し馬が終わり、ゲート前に集結する。

 続々とゲート入りを済ませていき、トウショウボーイは四番、グリーングラスは五番、テンポイントは十四番の枠に入っていく。

 

 そして――この世代の激戦が、火蓋を切った。

 

『スタートしましたっ! トウショウボーイ、テンポイント、二強が飛び出していった! しかしスッと下げて、トウショウボーイはやや内寄りの三番手、テンポイントはやや外の五番手。二強はこういう位置取りとなりました。

 トウショウボーイの外、真横に張りついている無敗のグリーングラス、鞍上的田弘であります。この鞍上は穴馬に乗せると怖い男であります。

 トウショウボーイは前がやや塞がったか、外も塞がっているがこれは大丈夫か? テンポイントは己が道を行くように競馬を進めております。

 

 1000mの通過タイムは、一分台であります。それほど速くもなく、遅くもないペースです。馬群が縦長に広がっております。

 テンポイントがややポジションを押し上げつつある! ここで仕掛けるかテンポイント! 隙間を突いてトウショウボーイが抜け出し、グリーングラスが外から追ってくる!

 残り600m! コーナーに差しかかって、テンポイントだ! テンポイントが先頭に立った!』

 

 テンポイントが先頭に立つと同時に、歓声が沸き上がる。

 だがその背後には、既にトウショウボーイが迫ってきていた。

 

『残り300mで、トウショウボーイがやってきた! 来る! 来る! トウショウボーイが物凄い脚でやってくる! テンポイントはここまでか!? トウショウボーイの外からグリーングラスが猛追! グリーングラスが猛追するが、差がなかなか縮まらない! トウショウボーイがテンポイントを差し切って、グリーングラスから逃げ切ったァッ!

 

 トウショウボーイが勝ちましたァッ! トウショウボーイです! テンポイントと、猛追する穴馬グリーングラスを抑え込み、皐月賞を無敗で制しましたッ! 二着には、四分の三馬身差まで詰め寄ったグリーングラス! 三着にはテンポイント! お見事でした、トウショウボーイ!』

 

 

 

 レースを終えて、悔しそうに拳を握る的田さんと伊坂先生のもとを訪れる。

 

「……あとちょっと、でした。僕が至らないばかりに……」

 

 震えた声音を発して、的田さんは唇を噛みしめる。

 そんな的田さんの肩に、伊坂先生は手を置き、ポンポンと叩く。

 

「いや、あれは今できうる最良の騎乗だった。誰もキミを責めはしないよ」

 

「そうですよ、的田さん。ですから、次こそは勝ちましょう。日本ダービーでギャフンと言わせましょう!」

 

「伊坂先生、オーナー……」

 

「オーナー、グリーングラスは引き続き的田くんでよろしいですか?」

 

「はい。あれほどの騎乗を見せてくれたのだから、文句などありませんよ」

 

「オーナー、伊坂先生……本当に、ありがとうございます……!」

 

 皐月賞での雪辱を、グリーングラス陣営として日本ダービーで晴らしてみせよう。

 胸に手を置き、一呼吸したのち、告げる。

 

「日本ダービーで逆襲しますよ、みなさん」




 クライムカイザーしゅき。


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『壮観なる鋼鉄艦』

 馬名は九文字まで? う、ウイポ世界なんで……。


 今年も四月が終わりを告げ、五月を迎えて。

 日本競馬の春のGⅠ戦線がさらに熾烈となっていく中のことだ。

 五月の始め。五月末まで所有馬がレースに出走する予定もなく、繁殖牝馬への種付けも終えたため、暇ができ始めてきた頃。

 昨年に米国でジョンヘンリーを購入したことを思い返していると、どうしてだろうか、もう一度米国に渡りたくなってきたのだ。

 

 どう足掻いても、どう抵抗しても、自分の欲望に組み伏せられてしまう。

 幸いなことに、資金にはかなりの余裕があったため、大人しくその欲望に従うことにした。

 馬を買うとするなら、今年に産まれた当歳馬を買いたい。身体が頑丈な仔馬ならばもっとウェルカムだ。

 まだ見ぬ馬を求め、再び未開の領域へ渡る。そこで出会う馬に、想いを馳せながら。

 

 

 

 米国から戻ると、牧野さんが呆れ返った様子で仁王立ちしていた。

 なにがなんだか状況がさっぱりわからない中、開口一番に放たれた言葉は、矢のように俺の胸に突き刺さった。

 

「また無断で買ってきたんですか!? オーナー!?」

 

 もはや言い訳のしようもない。だがこれに関しては、反省するつもりはない。

 困惑しているような様子で、やや黒みがかった芦毛の仔馬がこちらに視線を注ぐ。

 牧野さんはその仔馬に気づくと、我に返り、深く息を吸う。

 

「……すみません、大声をあげてしまって」

 

 申し訳なさそうに頭を下げる牧野さんに、どうしても胸の内に気まずさが募っていく。

 どんよりとした息詰まる空気が漂い始めてきたため、今回ばかりは反省するとしよう。

 

「いえ、こちらもすみませんでした。無断で仔馬を買ってきてしまって。次からは知らせてから買ってきます」

 

 振りかぶるように頭を深く下げる。こうでもしないと、この気まずすぎる空気は打ち消せないからだ。

 牧野さんは面を上げて、苦笑いを浮かべる。

 

「……今回はお互いさま、ですかね」

 

「そうしましょうか」

 

 空気が和らいだところで、俺は血統書を取り出し、牧野さんに差し出す。

 それを受け取ると、牧野さんは唸るような声をあげながら、目を通していく。

 一、二度頷くと、納得したのか血統書を返してくれた。

 

 牧野さんは仔馬の方を一瞥すると、不安そうに一言。

 

「……本当に走りますか? この馬は……?」

 

「ええ、走りますよ。()()()()()を信じてやってください」

 

 芦毛の仔馬の方に目を向け、自信満々に即答する。

 背中が痒くなってきたのか、あるいは先ほどの空気から逃れるための逃避なのかは不明だが、背中を擦るように寝転がる仔馬がいる。

 しばらく見つめていると、こちらに気がついたと思われる仔馬が元気よく駆け寄ってくる。

 

 すると、仔馬の頭上に『☆スペクタキュラービッド』という馬名が表示される。

 そう、黒みがかった芦毛の彼は、いずれスペクタキュラービッドとなる存在だ。

 

 米国における芦毛のアイドルホースといえば、真っ先といっていいほどに名が挙がる馬。それこそがスペクタキュラービッドという名馬である。

 史実ではアイドルホースとしても名を馳せていたが、強さも別格といえるような名馬だった。

 その強さを強調する話こそが、他がスペクタキュラービッドを恐れたが故に回避した結果、スペクタキュラービッドの単走となってしまったレースだろう。

 

 そんな名馬となり得る仔馬を米国から購入できたという点は、自画自賛していきたいぐらいだ。

 スペクタキュラービッドといちいち呼ぶのは長すぎて舌を噛みそうになるため、俺はスペちゃん、もしくはスペと呼んでしまっているが。

 

 こちらの自信に満ち溢れた表情で諦めがついたのか、あるいは信じようとしたのか、俺からはわからないが、牧野さんは頬を緩ませる。

 

「わかりました。オーナーがそこまで言うのであれば、信じてみましょう」

 

「ありがとうございます、牧野さん。というわけですから、ジョンヘンリーの面倒もお願いします」

 

「ちょっと用事を思い出しました。すみません、ちょっと事務所に」

 

「なんでですか!? ジョンも可愛いじゃないですか!」

 

「あの馬は殺気が凄まじくて怖いのですよ!」

 

「そんなセントサイモンみたいな言い方しないでくださいよ!」

 

「あれは我が牧場のセントサイモンですよ! オーナーに対する接し方が特殊なだけで!」

 

 そうこう言い争いをしていると、またいつの間にかスペは俺たちとの距離を取り、寝転がり始めていた。

 人間でいうなら、胃を痛めつつある状態なのだろう。原因は俺たちなのだが。

 

 牧野さんとの言い争いは事務所に持ち込むようにするしかあるまい。心の中で、そう決意して。




 スペ(クタキュラービッド)ちゃんしゅき。


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刺客が穿つは、今この一時

 TTGCとかいう化け物揃い世代。


 レースというものは、一時も一瞬も目を離せない。

 いつ展開が動くか、いつどの馬が仕掛けるか、またはどんな馬が突っ込んでくるか、あるいは逃げ切るか。見逃すまいと瞬きすらできない。

 特に今から行われるレースでは、仕掛けのタイミングは展開を左右する要因のひとつとなるだろう。

 一秒の遅れすら許されない、生涯一度の栄冠を懸けたデッドヒート。

 彼らがそんな大舞台に立つ。本来であれば、この時点ではまだいなかった第三の強者も添えられて。

 

 ――東京優駿、日本ダービー。十二ハロンの果てには、何が待ち受けるのだろうか。

 天馬が再び飛び立つか、貴公子、あるいは刺客が逆襲するというのか。それとも、また他の馬がこの栄冠に登り詰めるか。

 

 俺が夢を託した馬はもちろん、所有馬であるグリーングラスだ。

 前走の皐月賞では『天馬』トウショウボーイにあと少し及ばず惜敗。だが実力があるということは証明し、現在は三番人気となかなかに支持を集めている。

 狙い澄ますは一番人気である無敗の皐月賞馬トウショウボーイただ一頭か。前走では徹底的にマークしていたがそれでもなお、凌がれた。

 トウショウボーイの勝負根性を見くびってしまっていたのかもしれない。あの馬がとてつもない馬であることを嫌でも再認識させられてしまった。

 

 だが今度こそは勝ってくれる。なぜだか、そう思えた。

 ひょっとすると、やはり所有馬贔屓なのかもしれない。馬主になってからというもの、グリーングラスがますます好きになってしまったことから、たぶんそうなのだろう。

 所有馬が勝つと脳が焼け焦げるといわれているが、強ち間違いではない。グリーングラスが勝ち星をあげてくれる度に、脳が震えているかのような興奮が一気に押し寄せてくる。

 そんな楽しさと嬉しさもあるからこそ、競馬はやめられないし、止まらない。

 このままだと俺の脳はいずれ溶けてなくなるかもしれない。それでも、競馬をやめる気はないが。

 

 一度思考を打ち切って、競馬新聞を取り出し、また別の思考を始める。

 競馬場にはなるべく競馬新聞を持ち込むようにしている。流石に舞わせる度胸はない。

 下馬評が推している本命馬は、やはりといっていいかトウショウボーイだった。

 ここまで無敗で勝ち上がってきた馬であるため、信頼性は段違いということなのだろう。

 対抗馬も二番人気のテンポイントと、かなり堅実な予想となっていた。もし俺に前世というものが具わっていなかったら、これと同じような馬券を買っていた。記念馬券の可能性もあるが。

 

 されどその予想は、覆されてしまうだろう。大外枠の十八番に目を向けつつ、そこに記載されている馬名を小声で呟く。

 ――クライムカイザー。そう、史実ではこの馬こそが観衆の予想した結果を大きく捻じ曲げ、大番狂わせを巻き起こした。

 刹那の輝きを、クライムカイザーは放ったのだ。

 

 一方で、三番の枠にはグリーングラスの名がある。先行馬としては有利な枠でこそあるが、肝心のマーク対象であるトウショウボーイがちょうど外の六番にいってしまい、前走のようにすんなりと外から貼りつき、スタミナですり潰すように徹底的にマークというわけにもいかないため、かなり苦戦を強いられる。

 だが的田さんならば、状況をすぐさま読み込んでグリーングラスにとって最適な位置に取りついてくれる。そう願うしかない。

 

 競馬新聞から目を外し、パドックの方を向くと、既に返し馬が始まっていた。

 グリーングラスにも的田さんが騎乗し、手綱を持つとすぐさま駆けていく。

 

 今から東京競馬場で開幕するは、選りすぐりの強豪ばかりが集う大激戦。

 一生に一度の残酷で華やかなターフに、彼らは挑んでいく。

 

 

 

 今年も優駿たちがゲート前に集結した。

 この中でダービー馬の栄冠を手にできるのはただ一頭。

 死闘の末に、栄冠を勝ち取れる優駿は、果たして。

 

 クライムカイザーが大外の十八番に収まって、遂にその時は訪れようとしていた。

 

 この日、この一時、この瞬間から全てを懸けた競走が――ゲートの開く音と共に火蓋を切った。

 

『スタートしましたっ! 六番トウショウボーイ、好スタートでポンと飛び出しました。そのまま先頭を奪います。十二番のテンポイントも好スタートだがやや下げた。グリーングラスは内に着けて四番手の位置。

 人気馬三頭は先団に集中しております。馬群が凝縮されたまま最初のコーナーに向かいます』

 

 グリーングラスがトウショウボーイをマークするような素振りを見せない。それどころか、テンポイントや他馬にも振り向く様子がない。

 いったいどうしたことか、と胸騒ぎがしだす。

 こちらから眺めて、的田さんの表情は窺えない。だけれど、きっと勝ちにいってくれているのだろう。そう、彼なりに。

 

『トウショウボーイが二番手に下がった。トウショウボーイが二番手にやや後退。これは大丈夫かトウショウボーイ。場内からはどよめきが聞こえ始めました。テンポイントはややポジションを押し上げての三番手。グリーングラスはその真後ろ、なんと真後ろであります。こちらも大丈夫なのか、的田弘。

 ――1000mの通過タイムは、58秒9。平均的なペースとなりました。遅くもなく、速くもない。そんな展開です。

 後方の十四番手には十八番のクライムカイザー、直線勝負に持ち込むか。トウショウボーイは二番手。それに続いてテンポイント、グリーングラスであります。

 1400mを通過して残り1000mとなりました。各馬はまだまだ仕掛けません。トウショウボーイもまだ二番手。三強はどっしりと構えております』

 

 800mを通り過ぎたあとだろうか。グリーングラスに騎乗している的田さんが不自然に外を一瞥した気がしたのは。

 もしかすると、ここからが正念場かもしれない。

 

「さあ、最後の直線! トウショウボーイだ! 無敗の皐月賞馬、『天馬』トウショウボーイがその翼を広げました! トウショウボーイ先頭、トウショウボーイ先頭であります! 場内、大歓声があがっております! テンポイントもやってきた! しかし差が縮まない! テンポイントは手応えが怪しい!

 

 ――大外から黒い影が忍び寄ってきたぞ! なんだこれは!? クライムカイザーだ! クライムカイザーがトウショウボーイに並びかけて、躱した! トウショウボーイ危うい! トウショウボーイは危うい! クライムカイザー先頭、なんと十八番のクライムが先頭!

 トウショウボーイ二番手、しかし脚色が非常に悪く後退している! クライムカイザーだ! クライムカイザーだ! 今この時を支配するのかクライムカイザー!

 これはクライムカイザーか!? クライムカイザーが勝ち切るのか!?

 

 大外から緑がやってきた! なんとさらに大外からグリーングラスが来た! 来たぞ来たぞ、グリーングラス、『緑の刺客』がやってきたぞ!

 残り200! 並んだ! クライムカイザーと並んだ! 互いに鞭が入っている! 互いに鞭が入っている! 登り詰めるかクライムカイザー! 差し切るかグリーングラス! どっちだ!? どっちだ!? もつれ合っている! もつれ合っているぞ!

 

 二頭が並んでゴールイン! やっぱり怖かったグリーングラスと、大番狂わせを狙ったクライムカイザーが、ほぼ同時にゴール板をくぐり抜けました! 写真判定であります!』

 

 

 

「的田さん、伊坂先生」

 

「ああ、オーナー。いらっしゃいましたか」

 

 伊坂先生が苦笑いを浮かべる一方、的田さんの表情は険しいままだった。

 

「……オーナー」

 

「ええ、的田さん。存じ上げておりますよ。大丈夫です、グリーングラスと共によく頑張ってくれました」

 

「……っ」

 

 的田さんが目元を腕で拭う。拭われた目は、赤くなっていた。

 

「まさか、とは思いましたが……」

 

「ええ、そのまさかですよね」

 

「とりあえず、オーナー、的田くん。向かいましょう、グリーングラスと共にいるべき場所へ」

 

 

 

 

【1976年日本ダービー 結果

 

 一着 グリーングラス 2:26:3

 二着 クライムカイザー ハナ差

 三着 トウショウボーイ 四馬身】




 やっぱり怖かった的田弘!


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狂気の逃げ馬VS追随なき快速少女

 強すぎる逃げ馬が揃うと超ハイペースになるってそれ一番言われてるから……。


 グリーングラスが栄光のダービーロードを駆け抜けて、ひと月が経った。

 二年前に最初の所有馬であるカブラヤオーがデビュー戦を逃げ切ったことから、俺の馬主業は本格的に始動し、そして――今。

 ダービーを連覇した馬主となり、さらには無敗の三冠馬まで所有している――前世の俺、いや、一年前の俺にこの現状を伝えようとしても、恐らく信じてくれないだろう。

 

 確かにカブラヤオーでダービーを夢見て、グリーングラスであの死闘を熱望していた。

 だがまさか、本当に叶うとは夢にも思わなかった。

 カブラヤオーは理想を遥かに凌ぐほどのダービーでの逃げ切り勝ちを見せてくれたし、グリーングラスはダービーという大舞台でトウショウボーイとテンポイントを破り、果てにはクライムカイザーとの手に汗握る一騎打ちを勝ってくれた。

 彼らに期待していた理想はほとんど叶えてくれたといっていい。

 

 それでも、まだ止まるつもりはない。

 我ながらなんという欲深さだと自嘲せざるを得ないが、俺は未到のロマンへと辿り着きたいのだ。

 人馬が至れなかった、IFのその先。

 たとえば、あの馬にあの騎手が乗れていたら。あの馬が無事だったなら。あの馬があのレースに出れていたなら。あの馬が日本馬だったら――。

 自己満足かもしれないが、そんな理想を叶えるために俺は奔走する。

 競馬にたらればは禁句というが、叶えたいものは叶えたいのだ。それが人の欲望の恐ろしさというもの。

 

 だからこそ、今目の前で起きている出来事には、興奮するしかなかった。

 阪神競馬場。返し馬を終え、各馬がゲート前で円を描くように周回していたこの場には、なんとも形容しがたい緊張感が漂っていた。

 それもそうだろう。だって夢のようなレースをまた目にすることができるのだから。

 

 ――宝塚記念。春のグランプリとされ、六月に開催されるこのGⅠレースには数多の有力馬が集結したが、その中でもある二頭が群を抜いていると評されている。

 

 無敗の三冠馬カブラヤオー。前走の休養明け初戦を大差で圧勝し、三冠馬は健在であることを示した。

 二冠牝馬テスコガビー。桜花賞とオークスをぶっちぎった快速馬であり、また、昨年の共同通信杯ではカブラヤオーと激突している。

 

 無敗の三冠馬と快速の二冠牝馬の再対決。このレースで最大といえるほどに注目されている点は、やはりこれだろう。

 共同通信杯のときのようにカブラヤオーが捻じ伏せるか、あるいはテスコガビーが速さにものをいわせぶっちぎるか。

 

 それから、この二頭にはある共通項がある。

 そう、互いにハナを切ってそのまま逃げ切ることが得意――つまり、逃げ馬ということである。

 どちらが先手を打ち、逃げ切るか。または敢えて控えて差し切るのか。

 言葉では表せられない熱気が観衆の期待を物語っていた。

 

 やがて四番枠に緑色のメンコを被った黒鹿毛の馬――カブラヤオーが収まる。

 それに続くように桃色のメンコを装着した馬――テスコガビーは六番枠へ。

 

 プライドを懸けた、この大一番。

 勝ち馬は果たして――。

 

 

 

 ――遂に火蓋が切られた。

 

『スタートしましたっ! 四番カブラヤオー、好スタート! 六番のテスコガビーもいいスタートを切りました!

 さあ、逃げ馬の先行争いか!? それとも早くも隊列が決まるか!? カブラヤオーがスッと先頭に躍り出ました、カブラヤオー、カブラヤオーが先頭であります。おっとテスコガビーもいった! 並びかけにいったぞ! どうするんだどうするんだ!?

 晴れ空に照らされたターフの上で先頭で駆けていくは二頭であります。カブラヤオーとテスコガビーが並走するように駆けていっております。激しすぎる先行争いとなったぞ! これは超ハイペースは免れないか! 後続がなんとかついていっております!

 早速縦長といった隊列になりました、追い込み馬はだいぶ厳しい展開! 三番フジノパーシアが外目を突いてやや上がっていきました。先団には今年の春の盾の覇者、一番エリモジョージが着けております。

 

 ここでカブラヤオーが再び先頭です! テスコガビーが二番手に控えた! 二番手テスコガビーと三番手エリモジョージの差は五馬身。先頭のカブラヤオーとテスコガビーの差は二、三馬身と広がってきております。

 1000mを通過して、通過タイムは……56.9! 狂気的なハイペースであります! やはり逃げ馬二頭が怖かった! 予想以上の超ハイペース!

 ついてこれるかとばかりに、カブラヤオーは先頭を突っ走っております! カブラヤオー、カブラヤオーがいっております!

 残り800m! おっとここでフジノパーシアがいった! フジノパーシアが仕掛けたぞ! まくっていったまくっていった! しかしテスコガビー抜かせない! テスコガビー抜かせない!

 残り600m、コーナーを回って最終直線です! やはりカブラヤオーだ! カブラヤオー圧勝! 二番手テスコガビーが再び追ってくるがもはや届かない! じりじりと差を詰めるのが精一杯! ここでエリモジョージが突っ込んできた! 内ラチを走るかのようにエリモジョージが突貫してきた!

 しかし残り200m! やっぱりカブラヤオーだ! もう何も来れない! 春のグランプリは、三冠馬の手に渡ったァッ!

 

 カブラヤオーが独走状態のままゴールイン! 場内がどよめきいっぱいに包まれております!』

 

 

 

「伊坂先生」

 

「オーナー、どうされました?」

 

「もうなんとも言えませんね、カブラヤオーの強さには……」

 

「ははは、何を今さら。無敗で三冠を勝った時点でもう何も言えませんよ」

 

「それから、テスコガビーは三着でしたか」

 

「ええ、カブラヤオーの超ハイペースにやられたようですね。仕方ないといえばそれまでですが……」

 

「テスコガビーが二着以内には入ってくると思ってましたが、まさかエリモジョージがいきなり突っ込んできて二着とは……」

 

「あの馬は読めませんね。一応注意しておきたいですね」

 

「ですね……」

 

 

 

 

【1976年宝塚記念 結果

 一着 カブラヤオー 2:09:9

 二着 エリモジョージ 六馬身

 三着 テスコガビー 一馬身】




 シャフリヤールしゅき。


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来訪者とアメリカンドリーム

 皇帝の脳は焼き尽くすもの。いいですね?


「シアトルスルーに乗せていただきたい」

 

 目の前で二十代半ばの男性が土下座をしそうな勢いで、大きく頭を下げてきた。

 彼の目的はただひとつ――そう、この厩舎に属するシアトルスルーだろう。

 どこから聞きつけたかはわからないが、恐らくこの来訪者は、シアトルスルーの能力を知っているのかもしれない。

 男性は頭を下げたまま意地でも動こうとしない。

 

 困り果てた、あるいは戸惑っているような、そんな表情で伊坂先生がこちらを見合わせてくる。

 ああ――どうしてこうなった。

 内心で思わず頭を抱えてしまった。

 

 

 

 時は遡って。あの男性が来訪する直前。

 カブラヤオーとグリーングラスが牧場でのびのびと休養している中、俺はシアトルスルーが入厩した栗東トレーニングセンターに顔を出しに訪れた。

 事前に伊坂先生から許可も得て、久々にシアトルスルーのもとへと足を運んだ。

 しばらく顔を出さずかれこれ七月。俺の顔など覚えているのだろうかと自嘲せざるを得ない。

 

 栗東の伊坂厩舎に着くと、厩舎の前で伊坂先生が出迎えてくれていた。

 伊坂先生は笑みを湛えながら、

 

「グリーングラスもカブラヤオーも頑張ってくれました。彼らには感謝しかありません。今は放牧中ですが、元気にしていますか?」

 

「ええ。飼い葉ももりもり食べてて、とても元気ですよ。こんなに暑いというのに」

 

 そう言って、互いに苦笑する。

「なら良かったです」と伊坂先生はどこか安心したように胸を撫で下ろす。

 

「特に宝塚記念での他馬の消耗は激しかったですからね。テスコガビーは残念ですが……」

 

「そうですね……骨折引退とは……」

 

「カブラヤオーが無事そうで私としてはホッとしてます。故障した馬が出てくるとヒヤリとしてしまいますが……」

 

「競走馬の脚は消耗品ですからね……カブラヤオーがある意味異常なのかと思えてきました……」

 

「あんな超ハイペースで走ってたら普通は壊れますよ、あれ。

 ――あっ、そういえば、シアトルスルーでしたね」

 

「はい、今日はシアトルスルーを訪ねに」

 

 伊坂先生が腕で厩舎の方を指す。

 

「すみません。では、行きましょうか」

 

 伊坂先生が歩きだし、俺の足が一歩進んだ瞬間。

 

「すみません、伊坂周二先生はいらっしゃいますか?」

 

 ひとりの男性が訪れ――時は戻る。

 

 

 

 開口一番に「乗せてください」と言い放たれたことに、驚愕せざるを得なかった。

 その次に困惑という感情が出てきてしまう。

 来訪者の目的はシアトルスルーに騎乗することなのだから、騎手であるのは確定だろう。

 だが何度顔を覗いても名前までには辿り着けない。

 

「……あのー、お名前は?」

 

 俺がそう尋ねると、男性はハッと我に返ったように顔を上げる。

 

「失礼しました。関東に所属しております、騎手の小田部信夫(おたべのぶお)と申します。どうかシアトルスルーに乗せていただけないでしょうか?」

 

 来訪者から飛び出した名前に開いた口が塞がらない。

 伊坂先生の方を一瞥すると、ブンブンと首を横に振る。

 

「まさか関東のトップジョッキーが営業しに来るとは……」

 

 小田部信夫という騎手は、史実だと競馬好きであるならほとんどが知る関東の大名手の一角。

 騎手界にエージェントという騎乗依頼仲介者をもたらしたことでも有名である。

 そんな男であるなら――シアトルスルーに騎乗したいという売り込みにはどこか納得してしまった。

 確か史実でも外国産馬には詳しい騎手のひとりだったはずだ。

 

「で、シアトルスルーに乗りたいというのは……?」

 

「こちらに凄まじい調教タイムを叩き出す外国産馬がいると聞き及びまして。それがシアトルスルーという馬だと」

 

「……血統はちょっと地味ですが?」

 

「それでもなんとなくわかるんです、この馬は走るって」

 

「……どのぐらい走ると思いますか?」

 

「そうですねぇ……間違いなく世界レベルではあると思います。どこまで通用するかはまだ未知数ではありますが」

 

「……小田部さんが今まで乗ってきた馬で例えると?」

 

「例えられる馬がいないレベルですね。なんとしてでも乗りたいです」

 

 もう一度、伊坂先生を一瞥する。

 俺の視線に気づいた伊坂先生は、ただ頷くだけ。

「オーナーに委ねます」ということだろうか。

 

「……わかりました。そこまで言うのであれば、八月最終盤の新潟である新馬戦、そこで必ず乗ってください」

 

「……! ありがとうございます! 必ず予定を空けておきます!」

 

「これはついでですが――」

 

「……はい」

 

「シアトルスルーに、会っていってください」

 

 

 

 小田部さんはシアトルスルーと対面するなり、

 

「やはり……シアトルスルーはいずれ大成しますよ。世界レベル――いや、世界最強レベルになります」

 

 そう言い放つものだから、俺からしたら遠い目をするしかなかった。

 自身が愛した最強馬に関する怪文書を執筆するほどの者だ。覚悟はしていたものの……これは予想以上だったが。




「小田部くん」


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果てなき夢への発走

『シアトルスルーの背 著者:小田部信夫』


 関東のやり手である小田部さんと知り合ってから、遂に約束が果たされる時が訪れる。

 八月の最終盤――新潟競馬場の芝1600mで行われる新馬戦。

 その新馬戦から、新星が生まれ落ちる。

 そんな様子を表すように、競馬場内はとても新馬戦とは思えない緊張感で包まれていた。

 

 一頭の黒鹿毛がパドックに姿を見せるなり、観衆が息を呑む音がこちらにも伝わってくる。

 八頭の若駒が競い合い、勝ち抜くのだが、視線はただ一頭にしか注がれていなかった。

 その視線の先は、五番の黒鹿毛――小田部信夫さんが騎乗する予定のシアトルスルーである。

 

 この圧倒的な注目度に、馬主としては誇らしくもあるが、同時に緊張感の一部が俺に差し向けられているようでならない。

 そのおかげか、はたまたそのせいか、先ほどから背筋に冷たい水が伝いまくっている。

 足もガタガタと震えて止まらない。おかしい、GⅠの馬主席で痛いほどに慣れたはずなのだが。

 

 やがて騎乗合図が発せられると、小田部さんがゆったりとした足取りでシアトルスルーに歩み寄る。

 異常なぐらいの注目度の高さの要因なのだが、原因というか元凶は間違いなく小田部さんだろう。

 関東の硬派なやり手が関西馬、それも微妙な血統の外国産馬に乗るなど、傍から見たら狂っているようにも思える。

 そんなことを今、小田部さんは仕出かしているのだから。

 

 周囲の視線など気にする様子もなく、小田部さんはシアトルスルーの手綱を取る。

 するとどういうことか、小田部さんの口角が釣り上がった。

 それはまるで――勝利を確信しているような微笑みだった。

 

 ゴーサインを発し、駆けていく。

 一歩、また一歩と走るたびに小田部さんの笑みは深まっていく。

 まるでスルメを噛みしめ、味わっているような表情だ。

 鞍から伝わるシアトルスルーの手応えを楽しむかのように。

 そして――シアトルスルーがどういう勝ち方をしてくれるのか、心を踊らせているように。

 

 その姿は、まさに理想と巡り合った人間そのものだった。

 この姿を直に目の当たりにしてしまってから、俺の中の印象は怪文書執筆名手というより理想を直視してしまった狂信者に移り変わってしまった。

 とんでもなく失礼だが、これを見てしまったからには……仕方ないというものだろう。

 

 

 

 シアトルスルーは五番のゲートに収まり、静かに時を待つ。

 馬主席から眺めていても、シアトルスルーの落ち着きようは素晴らしいというより異常さが際立っていた。

 ゲートに入っても落ち着きを失うどころか、じっと待ち構えるばかり。

 ゲートを理解しているような素振りに、流石の小田部さんも動揺しているようだった。

 

 そのせいだろうか――

 

 ゲートが開いた瞬間、初っ端から小田部さんが手綱を押して押して押しまくったのは。

 

『スタートしましたっ! 圧倒的な一番人気、五番シアトルスルーが飛び出て……鞍上小田部信夫は手綱をグイグイ押しています。後続と四、五、六馬身……かなり差を広げていきます』

 

 ちらりと小田部さんが後ろを振り返った頃には……後続とは六馬身もの差がついていた。

 みるみるうちに小田部さんの顔が青ざめていく――そんな様子が馬主席からでも窺えた。

 恐らくだが、小田部さんの中では逃げるつもりなど毛頭なかったのだろう。

 だからこそ、このようになってしまってはもう逃げ切る他ない。そう、1600mというマイルをだ。

 

 だが小田部さんは決心したように手綱を抑え直す。

 自身が盲信する馬がここで負けるはずがない――そう考えたからこその持ち直しだろうか。

 このまま逃げ切る作戦に急遽変更したようだ。

 

『シアトルスルーが逃げます、逃げて逃げて逃げまくります。このまま逃げ切るのかシアトルスルーと小田部信夫。後続との差は八馬身に広がっております。

 1000mの通過タイムは……っ!? なんと57秒! とても二歳馬が出していいタイムではありません! これは果たして保つのか!? シアトルスルー!』

 

 ざわめく場内。それすらものともせずに淡々と逃げ続けるシアトルスルー。

 もはや言葉を失って、開いた口が塞がらなかった。

 シアトルスルーは本来アメリカのダートで活躍した名馬……なのだが、新潟の芝をすいすいと推し進んでいく。

 芝への適性を見せつけながら、シアトルスルーが仕掛け始める。

 

 最終直線に入り――小田部さんは手綱を押さず、敢えて持ったまま。

 もはや勝負は決した。なぜなら――

 

 押さずともシアトルスルーが伸びに伸びているのだから。

 大逃げでの消耗はどこにいったのやら。楽々とゴール板にまで至った。

 

 掲示板に表示されたタイムは――1:33:9という、馬主の俺でも目を疑うようなタイムであり、着差に関しては文句なしの大差と、信じられないことが目の前で起きていた。

 

 だがこれは、アメリカンドリームの始まりに過ぎなかった。

 

 

 

「小田部信夫騎手、おめでとうございます。どうしてもシアトルスルーの勝ちっぷりを伺いたくて……」

 

「ああ、いいよ。シアトルスルーに関して話したいことは山ほどあるからね」

 

「ありがとうございます。早速ですが、シアトルスルーの乗り心地はどうでしたか?」

 

「うん、恐ろしいぐらいによかったよ。たとえるなら……いい意味で操作が効きすぎるスーパーカーだね」

 

「では、小田部騎手の中ではこの馬が最速と?」

 

「いや、最速どころの話じゃないね。この馬は――最強だよ、世界最強レベル」

 

「……! そこまで言い張るとは……! それほどの馬、ということですね?」

 

「そう、だね。僕の中での最強が覆るぐらいだから」

 

「そこまでとは……。もう少しお伺いしても?」

 

「ああ、いいけど」

 

「では次ですが――」




 ルドルフの脳は真っ黒焦げよ。


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刺客と貴公子の一騎打ち

『TTGが倒せない 歌唱:クライムカイザー』


 九月に入り、秋競馬が本格的に始動する。

 夏の猛暑が過ぎ去り、枯れ葉が舞い散る涼やかな秋となれば、春では苦汁を飲んだ馬も本格化を迎えるというもの。

 その一方で、春で見事な勝ちっぷりを見せてくれた馬が再び大舞台を制するか、あるいは桜のように散っていくのか。

 今年のダービー馬であり、俺が所有するグリーングラスには、そのようなことなど些事に過ぎなかった。

 

 菊花賞のトライアルのひとつ、芝2400mのGⅡ神戸新聞杯。

 九月末の阪神で行われたその重賞を、グリーングラスはいとも簡単に制してみせた。

 最終コーナーの一歩手前でロングスパートを仕掛けて、あとは逃げ切り。

 そのような勝ちっぷりを見せてくれたことにより、クラシック三冠目――菊花賞では最有力馬と目されるようになった。

 

 それでもまだ、気が抜けないが。

 神戸新聞杯を勝利で飾ったあと、伊坂先生から衝撃的な一言が飛び出す。

 

「トウショウボーイなのですが……毎日王冠を叩いてから天皇賞(秋)に出走して、三冠馬打倒を目指す、と……」

 

 その一報に思わず目を丸くしてしまう。

 だが続く一言がさらに背筋を凍らせた。

 

「毎日王冠以降、トウショウボーイは島広彦(しまひろひこ)に乗り換えるようです。……どうやら、本気でカブラヤオーを打倒しようとしてますね……」

 

 事実上のトウショウボーイ陣営からの宣戦布告。

 しかもトウショウボーイの鞍上は、『ターフの魔術師』とまで謳われた名手の島広彦さんだ。

 島さんといえば、確かに史実でもトウショウボーイに騎乗していたことでも有名だが、こうも早くトウショウボーイに騎乗するというのは流石に予想外だった。

 

「間違いなく一筋縄じゃあいきませんね……」

 

「そうですね……」

 

 これは恐らくだが、トウショウボーイと島広彦はカブラヤオーにとって最大の難敵といえるレベルだろう。

 たとえカブラヤオーが逃げようとしても、ただでは逃してくれない。そんな強敵が現れたのだ。

 

 だが――背筋は凍てつけど、心はなぜだか、熱かった。

 未だ無敗を貫く三冠馬カブラヤオーを打ち倒せるかもしれない馬が名乗りを上げた。ならばこちらも迎え撃たねばなるまい。

 

「……相手が『天馬』だろうと、『貴公子』だろうと、カブラヤオーなら勝てます。そう信じてますから」

 

 伊坂先生に強く訴える。

「もちろん」とばかりに、伊坂先生は深く頷く。

 天皇賞(秋)は、激戦となるようだ。

 

 

 

 十月となり、秋も更けてきた頃。

 遂に秋のGⅠ戦線が火蓋を切った。

 秋の三冠目――GⅠ菊花賞。

 神戸新聞杯を叩き、十分すぎるほどの仕上がりで、グリーングラスが出走する。

 

 競馬新聞を開くと、そこに記載されていた内容は、この菊花賞は二強であるということだ。

 十八頭中の十一番、一番人気グリーングラス。春では皐月賞こそトウショウボーイの二着だったが、日本ダービーでは逆襲の勝利。前走の勝ち方、そして血統面から3000mのスタミナも十分。大本命の一頭――

 

 グリーングラスに関して綴られていた内容に、思わず瞠目する。

 自分としては満足な内容でまとめられていたため、素直にこの記事を称賛したい。

 もちろん、テンポイントの方も簡潔かつわかりやすく書かれていて、感嘆してしまうほどだった。

 

 だが今日の菊花賞はこのようにすんなりと決まらないような気もしている。

 グリーングラスは一番人気のダービー馬なのだが――あれでもまだ本格化前。

 本当のグリーングラスは、四歳以降からだろう。

 

 しかし勝算はあるかと問われれば、間違いなくある。

 その勝利の鍵を握る要素こそ、グリーングラスの鞍上である的田さんだ。

 グリーングラスにはよく調教でも乗ってくれているため、癖や走り方、スタミナもだいたいは把握しているだろう。

 あとはどうやって乗るか――だ。

 

 これに関しては的田さんの好騎乗を祈るしかない。

 相手はテンポイント。史実では長距離レースの天皇賞(春)を勝利しているから確実に伸びてくる。

 その追撃をどう凌げるかが今回の鍵だ。

 

 

 

 ゲート前を巡回していたグリーングラスと、それに騎乗する的田さんがゲートに収まる。

 グリーングラスは全馬のゲート入りをじっと待ち侘びていた。

 よそ見することなく、見据える先は――菊のゴールのみ。

 的田さんも表情を強張らせる。淀の大舞台だが、やはり緊張している様子だった。

 彼らは人馬一体となる。この淀の坂を越え、そして栄光に至る。

 

 ――勝負の火蓋が切られた。

 

『スタートしましたっ! テンポイントが好スタート、グリーングラスも好スタートであります。グリーングラスは先団、前目につけましたが……おっとここでテンポイントがグリーングラスの真後ろにいった。テンポイントは獲物を狙い澄まして、狩ろうとしているぞ。グリーングラスは大丈夫か。まさかまさかの刺客が標的にされている!』

 

 額から水が滴り落ちる。

 グリーングラスを武士だと誰かが呼んでいたが、言い得て妙かもしれない。

 武士は寝首を掻かれ、暗殺されることもあった。つまりだ。

 

 今まさに、狩られようとしている。

 

 的田さんはがっちりと手綱を抑えていたが、ほんの少し騎乗フォームが硬く見えた。

 余程プレッシャーをかけられているのだろうか。だがそれでも落ち着きを見せている辺り、そこは的田さんという勝負師らしかった。

 非常に追い込まれている状況ではあるが。

 

 1000mを通過してもなお、テンポイントがグリーングラスを狙っている。

 まるで的田さんがグラスワンダーという名馬に乗ってスペシャルウィークを追い詰めた時のような――そんな芸当を的田さんが逆に食らっていた。

 

 1200、1400、1600、1800、2000……。

 それでもまだ、テンポイントはマークの手を緩めなかった。

 流石にこれ以上はまずいと鑑みたか、グリーングラスが徐々にポジションを押し上げていく。

 四番手から三番手へ、三番手から二番手へ……。

 その押し上げと同時に、テンポイントも動きだす。

 外から被せるように、グリーングラスにぴったりと並びかけてくる。

 

 これにより、グリーングラスは二番手で最内に閉じ込められる形になってしまった。

 そのまま――最終直線に入ってしまった。

 

『さあ、最終直線! テンポイントだテンポイントだ! グリーングラスは最内で動けない! グリーングラスは最内で動けない! グリーングラスはここまでだ! ならばそれゆけテンポイント! 鞭など要らぬ、そのまま押せ! グリーングラスを突き放す! 的田弘は懸命に鞭を入れるがもうこれは届かない!

 関西の星が輝いた! 関西の星が輝いた! 輝きが歓声と共に京都を包み込んだ! 残り100mでもテンポイントだテンポイントだ! グリーングラスがようやく伸びてきたが絶望的!

 テンポイントが勝った! テンポイントが勝った! 見たか関東馬とダービー馬よ! これこそが『貴公子』テンポイントだ! テンポイントが歓声に迎えられてゴールイン! 二着は二馬身離されてグリーングラス!』

 

 全身の力が抜けていく。血が引いていく。

 ある程度予想はしていたが、テンポイントにしてやられた。

 徹底的にマークされ、最内に封じられ――完敗した。

 

 これにより、皐月賞はトウショウボーイ、日本ダービーはグリーングラス、菊花賞はテンポイントとクラシックは分け合う形となった。

 だが――グリーングラスが四歳になってからはこうはいかせない。

 

 今度こそ、テンポイントに勝つ。

 その想いを拳に込めて、握りしめた。




 以下、カブラヤオーを倒せる馬のネタバレ。苦手な方は注意。









 十全なカブラヤオーを倒すには、カブラヤオーよりスタートが上手く、なおかつ超ハイペースにも耐えうる、長距離適性が非常に高い逃げ馬を持ってくるしかない。

 ――倉田隆景


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狂気すらも通り越して

 さては涙腺がチケゾーだな、この馬主。


 菊花賞を経て、もうひとつの大勝負が始まる。

 GⅠ天皇賞(秋)――東京の芝2000mで行われる八大競走の一角には、秋の盾を求めて、やはり強豪馬たちが集結。

 昨年度の覇者フジノパーシア、今年の天皇賞(春)を制したエリモジョージなど――しかし、さらに注目を集めていた馬が二頭。

 

 昨年に無敗で三冠を達成し、未だに無敗記録を伸ばし続ける古馬王者カブラヤオー。

 全戦で騎乗している倉田隆景さんを鞍上に、府中の直線を難なく逃げ切るのか。

 逃げ切りを願われて、一番人気である。

 

 片や今年の皐月賞でテンポイント、グリーングラスら同世代を退けた『天馬』トウショウボーイ。

 毎日王冠では『魔術師』と称される島広彦さんに乗り換わり勝利。ここでも強豪古馬らを押し退け台頭するか。

 天性のスピードを期待され、二番人気である。

 

 観衆の視線の先は、ほとんどこの二頭のみ。

 完全なる一騎打ち。観客や競馬新聞などのメディアからしても、そのような予想がされていた。

 カブラヤオーとトウショウボーイの実力は、それほどに抜けているのだから。

 

 だがこのレースは俺からすれば、夢のような一大決戦だった。

 目から雫が滴ると、あとは決壊したかのように流れ出てくるばかり。

 東京競馬場全体は晴れ晴れとしていて良馬場だが、俺が座っている場所だけは天候不良のようだ。

 史実では実現しなかった『狂気の逃げ馬』と『天馬』の対決。

 どうやら、お天道さまは俺の顔だけに雨を降らせ、このレースを見れなくしようとしているに違いない。

 

 ハンカチで荒々しく顔を拭いまくって、ようやく雫が止まる。

 この晴れ舞台を、目を逸らさずに見ておかねばなるまい。カブラヤオーの馬主として、そして一競馬ファンとして。

 

 馬主として願うことは勝利と無事。

 競馬ファンとして願うことは胸が熱くなるような激闘。

 我ながら欲張りだ――と自嘲せざるを得ない。

 だがそれでも願いたい。何度だって、何度だって。

 

 ゲート前では、十六頭の競走馬たちが各々に鞍上を乗せ、巡回している。

 観衆も関係者も、息を呑んで見守る。その様子はまさに嵐の前の静けさだった。

 ――『狂気の逃げ馬』か、はたまた『天馬』か。

 決戦の開幕を合図するようなファンファーレが東京競馬場に鳴り響いた。

 

 やがてファンファーレが鳴り終わると、また一頭、また一頭とゲートに収められていく。

 トウショウボーイが入った枠は、十番。

 一方でカブラヤオーが入った枠は、十六番。

 

 馬主席からゲートを覗いてみると、カブラヤオー鞍上の倉田さんが笑みを浮かべているように見えた。

 まるでこの緊張感、静寂を楽しむように。そして最高の馬の背を味わうように。

 倉田さんが手綱を握って――

 

 ガシャン、という音が響き渡った。

 ゲートが開いた途端、トウショウボーイが見計らったかのように飛び出す。

 だが――

 

『スタートしましたっ! トウショウボーイが好スタートを切りました。しかしカブラヤオーがさらにいいスタートを決めてくれた。やはりカブラヤオーだ、ここでも大逃げを打つようだ。

 エリモジョージがトウショウボーイに競りかけていったが、トウショウボーイは行かせました。二番手はエリモジョージ、春の天皇賞馬であります。三番手に控えた、島広彦とトウショウボーイ。今日も末脚を炸裂させるかトウショウボーイ。島広彦がその瞬間まで手綱を抑えております。

 さあ、カブラヤオーが先頭だ。二番手エリモジョージとは既に三馬身の差がついている。まだまだ飛ばすようだカブラヤオー。このペースで保つのか。

 エリモジョージが追走。エリモジョージがカブラヤオーを捉えようとしているぞ。だが離されている。

 トウショウボーイはじっと三番手待機。仕掛け時を見計らっているか、あるいは超ハイペースを考慮してか。

 

 前半1000mを通過しました――っ!? なんと55秒台! あり得ないほどのペースだ! ここまでするのかカブラヤオーは!? あまりにも狂気的すぎる!

 これは大丈夫か、カブラヤオー! これは大丈夫か、カブラヤオー! しかし倉田隆景は手綱を持ったまま! 冷静であります!』

 

 耳を疑うような通過タイムが掲示板に表示される。

 心臓がドクン、ドクンと鳴るのがわかる。

 だが信じるしかない、カブラヤオーと倉田さんを。

 

『残り600m! 後方待機のフジノパーシアに鞭が入ったが、動く気配がない! フジノパーシアの手応えがあまりにも悪い!

 カブラヤオー、カブラヤオー、カブラヤオーがぐんぐん伸びる! あまりにも脚色が良すぎる! エリモジョージに必死の鞭が入ったが、カブラヤオーがさらに突き放す!

 だがここでトウショウボーイが一気に来た! 直線勝負だ! 残り400mで直線勝負に持ち込んだ!

 しかしカブラヤオーとの差はまだ七馬身ほど! もうこれはカブラヤオーの独走か!? トウショウボーイが必死に追いかけるが――カブラヤオーとの差は縮まない! まったく縮む様子がない!

 カブラヤオー圧勝! 三冠馬がまた無敗記録を伸ばした! トウショウボーイは届かない!

 残り200mでもなお、カブラヤオー、倉田隆景は持ったまま! 『天馬』相手にも余裕の逃げ切りとは恐れ入った! この馬に勝てる馬はいるのか!?

 

 カブラヤオーが見事な圧勝劇を演じ、今ゴールイン! あまりにも非情な強さで、他馬を捻じ伏せましたァッ!』

 

 

 

 ウィナーズサークルに出向くと、そこには厩務員に引かれ、レース後とは思えないほどに軽い足取りで歩くカブラヤオーがいた。

 もはや言葉が出てこなかった。あんな超ハイペースで走っておいて、これなのだから。

 

「いやぁ、驚きましたよ、カブちゃんには。伊坂先生とお話して、いつもより行かせてみたらあんなことになっちゃうんですから」

 

 十六番のゼッケンを掲げた倉田さんが苦笑する。

 苦笑どころのレベルではないのだが……今日は勝ってくれたし、無事だから良しとしよう。

 

 天皇賞(秋)の優勝レイを背に提げたカブラヤオーを撫でると、気持ちよさそうに目を瞑る。

 夢を見ているようだった。

 カブラヤオーが天皇賞の優勝レイを背に提げている――それは、史実では叶わなかった光景だから。

 改めて、思わせられる。

 

 ――カブラヤオーのファンでよかった、と。

 

 

 

 

【1976年天皇賞(秋) 結果

 

 一着 カブラヤオー 1:56:3

 二着 トウショウボーイ 七馬身

 三着 エリモジョージ 四馬身】




 僕にとってカブラヤオーという馬は、『超えるべき理想』。いつか必ず、あの馬を超えるような速さを持つ馬と出会いたい。

 ――倉田隆景

 確かにカブラヤオーは逃げ馬で、俺も逃げを得意とする騎手。
 でも自分だとあの馬で逃げ切れる気がしない。乗りやすさはありそうだけれど、あの馬を三冠馬にしてくれなんて頼まれたら、なら俺を降ろしてくれと懇願しちゃうね。

 ――逃げを得意とするミスター・ローカル

 カブラヤオーは最強馬の一角だよ、間違いなく。テスコガビーに乗って共同通信杯を負けた時、一頭だけ手応えが恐ろしくあったんだ。それがカブラヤオーだったんだよ。
 ……悔しくはあるけど、騎手の性としては一度だけでもいいから乗ってみたかった。

 ――テスコガビーの主戦騎手を務めた名手

 日本でレース映像を視聴する機会があったのだが、カブラヤオーの日本ダービーを見て思わず『アンビリーバボー!』と叫んじゃったね。
 ペースメーカーでカブラヤオーに競りかけろなんて言われたら、首を横に振るしかできないね。

 ――イタリア出身の名手

 乗れるものなら乗ってみたいですね。どういう馬だったのか、とても気にはなっています。
 特に天皇賞(秋)で乗ってみたいです。父が乗っていたトウショウボーイに一泡吹かせたいので。

 ――日本が誇るレジェンドジョッキー


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世界へ向けて

『フランスの凱旋門賞牝馬が倒せない 歌唱:ダリア』


「……それは本当ですか? オーナー」

 

 こちらを見つめる目は見開いていて、動揺と驚愕が入り混じったような表情――伊坂先生は、信じられないものを見るかのような視線を向ける。

 栗東の伊坂厩舎。ここに預託している三頭の様子見と、伊坂先生へのとある報告も兼ねて、そこを訪れたのだが。

 報告を聞いた瞬間から、伊坂先生の顔色が明らかに変わっている。

 

「はい――本当ですよ。テスコガビーを購入して、アメリカからアレフランスも購入してきました」

 

「テスコガビーはともかく、アレフランスを購入したというのは……?」

 

「ああ、凱旋門賞勝ちのある繁殖牝馬ですね。とてもいい馬体でしたし、父がシーバードだったので。思わず購入してしまいました。……かなりの出費にはなったのですが」

 

 伊坂先生の口が水から打ち上げられた魚のように開閉する。

 ある程度の反応は予想していたのだが、まさかここまでとは。

 

「……アレフランスは世界が誇る名牝ですよ。それを購入できる日本人馬主とは……」

 

「……まあ、その分、かなりの出費にはなりましたがね……」

 

「だいたいおいくらぐらいで……?」

 

 無言で指を三本立ててみせる。約なのでだいたいだが。

 すると伊坂先生はまたもや目を見開く。

 

「……話は変わりますが、カブラヤオー、グリーングラス、シアトルスルーの様子は?」

 

 流石にこれ以上はまずいと察してしまったがため、無理矢理にでも話を変える。

 伊坂先生もそんな空気を知ってか知らずか、「こちらです」とコースへ招き入れる。

 

 ……その際、伊坂先生の足が震えていたのだが、どうしても指摘する気にはなれなかった。

 

 

 

 十一月も中盤に差しかかり、さらに寒さが強まる。

 だがそんな寒さなど意にも介さず、黒鹿毛の二頭が並んで芝コースを駆け抜けていく。

 レースでもないのに、これが本番かのような――そう思い込んでしまうぐらいに、カブラヤオーとシアトルスルーの併せ馬は圧倒的だった。

 双方とも騎乗しているのは――全戦で鞍上を務めている主戦騎手。

 つまり、カブラヤオーには倉田さん、シアトルスルーには小田部さんが乗って走っているのだ。

 

 コーナーを曲がり、直線コースに突入していく。

 カブラヤオーは内、シアトルスルーは外。それぞれのポジショニングを以って決着をつけようとしていた。

 互いに鞭が入る。

 倉田さんも小田部さんも、相当に白熱しているようだった。

 

 今の芝コースは、二組だけの世界。

 もうすぐだ。この併せ馬の勝者が決まる。

 

「――そこまで!」

 

 伊坂先生の一言によって、両馬の鞍上が手綱を引く。

 二頭はすんなりとその指示に従い、徐々に速度を落とし、やがて止まる。

 その直前だった。カブラヤオーが僅かに前に飛び出ていた。

 

「いやぁ、倉田くんのカブラヤオーも強い。まったく振り切れないとは」

 

「いえ、小田部さんが乗っているシアトルスルーも相当でしたよ。負ける気は毛頭ありませんでしたけど」

 

 両馬の鞍上は笑顔を浮かべていたが、空気は明らかにピリついていた。

 ホースマンが自身の脳を消し炭にした馬に関わるとこうなる。改めて思い知らされた。

 

 カブラヤオーとシアトルスルーの併せ馬を遠目に眺めたところで、伊坂先生に向き直る。

 

「そういえば、伊坂先生。カブラヤオーとシアトルスルーなんですが……」

 

「……はい?」

 

「カブラヤオーは来年の大阪杯を勝ったら、シアトルスルーは今年の朝日杯を勝ったら海外遠征させませんか?」

 

「……! 本当ですか!?」

 

「はい。カブラヤオーは大阪杯を勝利したら渡仏。芝2400mのGⅠサンクルー大賞典、GⅡフォワ賞を経て、凱旋門賞へ。

 シアトルスルーはサウジアラビアロイヤルカップ、デイリー杯二歳ステークスを勝ってくれましたし、朝日杯に出走して勝利したら渡米。ダート1800mのGⅠサンタアニタダービーを経て、ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークスへ。それらを勝ちましたらトラヴァーズステークス後、BCクラシックに。

 ……どうでしょうか?」

 

「二頭とも世界クラスですからね。私もそう考えておりました」

 

「では……!」

 

「はい。来年は海外遠征を決行する方向でいきましょう」

 

「……! ありがとうございます!」

 

「そのために、まずカブラヤオーはジャパンカップ、有馬記念、来年の大阪杯。シアトルスルーは朝日杯を勝たなければなりませんね」

 

 伊坂先生は解すように腕を回す。

 

「調教にも一層励まねば……!」

 

 どうやら、伊坂先生にもスイッチが入ったようで。

 カブラヤオーたちの調教にさらに熱を注入しそうだ。

 

 カブラヤオーはジャパンカップと有馬記念、グリーングラスは有馬記念、シアトルスルーは朝日杯を目標に――それぞれまた駆けだす。

 

 

 

 まだ見ぬ怪物がエンジンを動かし始めたことなど、失念したまま。




 ヒシスピード兄貴……。


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世界をも呑み込む狂気

 エクセラーとかいうみんなのトラウマ。


 今日の府中のターフは、いつもより湿気っているようだ。

 競馬新聞を片手に、顎に手を置く。

 天候は生憎の曇り空。青空など欠片も見えやしない。

 馬場状態は稍重といったところだろうか。

 前日に突如降り注いだ雨がここに来てやはり響いてきた。

 

 GⅠジャパンカップ――ダービーと同じ舞台で行われるは、海外から実力馬が招かれる国際的な大レース。

 本来の歴史ならば、この年にジャパンカップなどまだ創設されていない。

 だがどういうわけか、この世界だとジャパンカップは昨年から創設され、海外馬を招聘して開催している。

 その第一回ジャパンカップなのだが、結果を明かせば――予想はしていたものの、想像を遥かに超えるレベルで日本馬が蹂躙され、海外馬に掲示板を独占されていた。

 日本の馬産を鑑みれば、まだまだ海外には及ばない。

 そう認識され始めたのが、昨年のジャパンカップだ。

 そう――史実より早くにジャパンカップが創設されたがために、この年からジャパンカップを勝利しようという動きが強まっている。

 

 日本競馬のレベルを世界へ近づけるため、そしてやがては世界の頂を奪取するため。

 日本のホースマンは、世界へと歩み寄ろうとしていた。

 

 その想いを胸に、今日が訪れた。

 俺の想いも、伊坂先生の想いも、日本のホースマンの想いも背負って、三冠馬が出陣する。

 来訪してきた海外馬を討ち果たさんがために、その走りを見せつける。

 

 残念ながらTTGはいない――トウショウボーイとテンポイントは激戦の疲労が抜けず、無念の回避となったようだ。

 グリーングラスは有馬記念一本に絞る。まだまだ本格化前であり、世界と戦うのはそれからだ。

 

 故に――未だ無敗街道を突っ走る三冠馬が打って出た。

 三冠馬カブラヤオーの狂気的な大逃げはどこまで通用するのだろうか。

 ダービーと同様の大舞台で、世界に立ち向かう。

 

 海外馬が六頭も訪れたが、その中でも注目すべきは仏国のサガロ、米国のイントレピッドヒーローだろう。

 特にこの稍重となった府中のターフは、欧州馬であるサガロにやや有利に働く。

 サガロの末脚から、カブラヤオーが逃げ切るか。

 カブラヤオーが一番人気、サガロ、イントレピッドヒーローがそれに続いている。

 ここで世界への扉を開いてみせる。

 返し馬として駆けていったカブラヤオーと倉田さんの背を遠目に、祈るように両手を合わせる。

 

 

 

 ファンファーレが鳴り終わり、ゲート入りの時。

 十六番――その馬番のゲートにカブラヤオーはすんなりと収まる。

 このレースは十六頭立てであるから、つまりカブラヤオーは大外ということだ。

 だがそれでも祈る。いや、信じている。

 カブラヤオーの逃げ切りを、日本から世界への扉を開くことを――。

 

 ――ガシャン、という音が鳴り響く。

 

『スタートしましたっ! 各馬、揃ったスタートのようです。しかし三冠馬カブラヤオーがスッと前につけました。前走と同じように逃げ切りを図るか? 二番手とのリードは三、四、五馬身……と軽快に飛ばしていきます』

 

 鞍上の倉田さんは前傾姿勢でカブラヤオーの手綱を握る。

 ここでも大逃げ――やはり倉田さんは超ハイペースの消耗戦を仕掛けるようだ。

 だが東京競馬場の芝2400mを逃げ切るというのは容易ではない……といいたいところだが、カブラヤオーの場合は別だ。

 むしろもっと飛ばせとも思えてしまう。

 

『さあさあカブラヤオーが逃げた! カブラヤオー、倉田隆景が人馬一体となって逃げていったぞ! 海外の強豪たちはこれにどう対応するか!? 逃げているのは日本が誇る三冠馬だ!』

 

 600mを通過した辺りでも、カブラヤオーの逃げ脚は衰えない。

 それどころか、さらにリードを広げていた。

 

『1000mの通過タイムは……56秒3! またまた恐ろしいタイムだ! 『狂気の逃げ馬』は伊達ではない! サガロが六番手にやや位置を押し上げたがこれはどうだ!?』

 

 通過タイムのアナウンスが聞こえただけで、場内に大歓声が響き渡る。

 本当に世界に勝てるのか――日本競馬の期待が一気に膨らんでいく。

 

『残り600mを切って、コーナーに入った! 先頭はカブラヤオー、カブラヤオーだ! 消耗戦だ! 消耗戦となった! フジノパーシアが一気に脚を伸ばしてきた! 次いでサガロが仕掛けていった!

 さあ、最終直線だ! 日本の意地が、世界に通用するのか!?

 カブラヤオーが先頭、倉田隆景が手綱を押して押して押しまくっている! フジノパーシアがやってきている! フジノパーシアがやってきているが、カブラヤオーが再び突き放す! なんということだ! 世界に勝てそうだ!

 想いは三冠馬に託されたぞ! 逃げ切れ、頑張れカブラヤオー! サガロがフジノパーシアをあっという間に躱した! イントレピッドヒーローは伸びが苦しい!

 残り200m! サガロが必死に追うが……カブラヤオー突き放した! カブラヤオー突き放した! もう届かない! これはもう届かない! 世界よ、刮目せよ! これが日本の三冠馬カブラヤオーの凱旋だ! これこそが日本の競馬だ!

 

 カブラヤオーが今ゴールイン! 独走でした! カブラヤオーが世界相手に圧勝劇を繰り広げました!

 右腕を突き上げた! 鞍上、倉田隆景! 思わずガッツポーズ!』

 

 

 

 こうして第二回にして、ジャパンカップは日本馬が逃げ切り、世界を圧倒してみせた。

 日本でも世界に通用する――そのような希望をもたらしてくれた。

 

 ジャパンカップの優勝レイで着飾ったカブラヤオーと対面すると、スッと頭を差し出してきた。

 

「ははは、こやつめ」

 

 少々荒々しく撫で回すも、カブラヤオーは一切嫌な顔せず、むしろ心地よさそうにさらに頭を委ねてきてくれた。

 それを微笑ましく、伊坂先生と倉田さんは見つめていた。

 

 世界への扉は開かれた――ならば、あとは世界に乗り込むまでだ。

 

 

 

 

【1976年ジャパンカップ 結果

 

 一着 カブラヤオー 2:22:1

 二着 サガロ 七馬身

 三着 フジノパーシア 三馬身】




 カツラギエースしゅき。


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自由なる夢VSスーパーカー

 怪物対決定期。


 十二月を迎えた阪神競馬場には、またもや多くの観客が押し寄せている。

 前週に開催された二歳牝馬限定のGⅠ阪神ジュベナイルフィリーズでの興奮は未だに続いているようで、冬だというのにどこか暑苦しささえ覚えてしまう。

 ――朝日杯フューチュリティステークス。阪神競馬場の芝1600mで行われる、二歳王者決定戦。

 史実ではかつて朝日杯三歳ステークスとされ、中山競馬場で行われていたが、公式的な馬齢表示が変更されてからは、朝日杯フューチュリティステークスという形に落ち着き、開催地も阪神競馬場に移った経歴がある。

 そんな朝日杯なのだが、今日はただならぬ熱気が漂う。

 若駒たちが競い合い、来年の飛躍へと繋げるGⅠ競走――けれど今日は、明らかに何かが違う。

 

 まるでクラシック――それこそダービーが開催される直前のような。

 そのような雰囲気が観客席から見て取れる。

 ここでひとつの馬に思い当たる。

 俺の所有馬――シアトルスルーに比肩しかねない『スーパーカー』の存在に。

 

 朝日杯には十八頭ほど出走できるはずだが、パドックには七頭の若駒しかいない。

 どうしてしまったのだろうか。恐れることはないというのに。

 ただ怖い馬がいるとすれば――一番の馬だろう。

 ゼッケンには、こうあった。

 ――マルゼンスキー、と。

 別格、という一言に尽きる馬だ。

 あまりにも強すぎたがゆえに、世代を食らってしまった名馬。

 この世界でも新馬戦を十四馬身差で制すると、GⅡ東スポ杯二歳ステークスすら十三馬身差で圧勝。

 もはや敵なし、といえる――が、そうはいかせない。

 

『スーパーカー』の如きエンジンを搭載する名馬を相手取るは、本当に馬なのか疑いたくなるほどの怪物。

 無敗でここまでやってきて、ただで負けるわけにはいかない。

 世界を目指すには、マルゼンスキーも蹴散らさねばならない。

 七番のゼッケンで着飾った黒鹿毛が、一段と光って見える。

 小田部信夫さんが駆る米国産馬――シアトルスルーは、首を揺らしながら闊歩する。

 

 厩務員に引かれていくさなか、シアトルスルーがマルゼンスキーに視線を向け――何事もなかったかのように目を逸らす。

 まるで、興味などないとばかりに。

 やがて騎乗の号令が発せられると、小田部さんがシアトルスルーに駆け寄ってくる。

 

 小田部さんはシアトルスルーに乗るなり、割れ物を扱うかのような手つきで首元を撫で回す。

 しばらくその行為を経たあと、手綱を握り、シアトルスルーを駆けさせる。

 彼らが見ている景色は、いったいなんだろうか。

 ゴール板の果てには、彼らしか見ることのできない、壮観な景色が広がっているのだろう。

 

 

 

『今年も若駒たちのぶつかり合いとなりました、GⅠ朝日杯フューチュリティステークス。芝1600mであります。

 今日の見どころはなんといっても、無敗馬対決であります。互いに前走は十馬身以上のぶっちぎり。それに逃げて勝っております。これほど心踊る対決はなかなかお目にかかれないでしょう。

 各馬、ゲートに収まりつつあります。ゲート入りを嫌がる馬はいません。静かに、静かに、その時を待ち侘びています。最後に七番シアトルスルー、鞍上小田部信夫が収まります。

 

 ――朝日杯フューチュリティステークス、間もなく発走です!

 

 スタートしましたっ! マルゼンスキー、シアトルスルーが共に抜群のスタートを切りました! 二頭並んでいきます! 後続をぐんぐん突き放していく!

 さあさあ、やはりこの二頭! この二頭がいった! シアトルスルーとマルゼンスキー! 一番人気シアトルスルーと二番人気のマルゼンスキーが、並んで走っている! 後続との差は六馬身だが、ヒシスピードがもう鞭を打って追ってきている! まだ1400mはあるぞ!

 シアトルスルーとマルゼンスキーが完全に並んでおります! 膠着状態! 互いに牽制し合ったままか! ヒシスピードが必死に追いかけている! しかしなかなか差が縮まらない!』

 

 シアトルスルーとマルゼンスキーの対決という、マッチレースにも等しい夢の決戦。

 追走しているヒシスピードには申し訳ないが、レースは完全に二頭が支配している。

 ここは所有馬贔屓であるが、シアトルスルーに勝ってほしいところ。

 無敗の米三冠馬は、伊達ではないはずだから。

 

『前半の1000mは――ッ!? 56秒2! 二歳戦にしてはあり得ない通過タイム! これはどうなる!? これはどうなる!? 決着が楽しみだ!

 残り500mで、間もなく最終直線だ!

 まだ二頭並んだまま! まだ二頭並んだまま! マルゼンスキーに鞭が入った! マルゼンスキーに鞭が入った! しかしシアトルスルーとの差は広がらない! ここでシアトルスルーにも鞭が入って、叩き合いに――いや、マルゼンスキーを突き放し始めた! 加速し始めたシアトルスルー! このエンジンは誰にも止められない!

 マルゼンスキーとの差が一、二馬身と広がっていく! これは大勢決したか!? もはや勝負は決まったか!? 怪物が怪物を捻じ伏せている!

 

 シアトルスルーが突き放してゴールイン! シアトルスルー、小田部信夫です! 小田部信夫が鞭を掲げております! 外車対決は、シアトルスルーに軍配が上がりました! もはやこのエンジンは、誰にも止められない!』

 

 

 

「シアトルスルーで朝日杯を制しました、小田部信夫騎手、おめでとうございます。早速ですが、今のお気持ちを」

 

「……今日は僕の騎乗ミス、ですかね。反省点ばかりです」

 

「マルゼンスキーと並んで走った時の手応えはどうでしたか?」

 

「並びかけてきた時点で確信しましたよ。――これは勝ったな、と」

 

「超ハイペースはどう対応できましたか?」

 

「いや、対応するというより、自然と馴染みましたね」

 

「最後に一言、お願いします」

 

「じゃあ、言っちゃいますね。

 ――シアトルスルーこそが、最強馬です」

 

「ありがとうございました、小田部信夫騎手の勝利インタビューでした」

 

 

 

 

【1976年朝日杯フューチュリティステークス 結果

 

 一着 シアトルスルー 1:32:1

 二着 マルゼンスキー 四馬身

 三着 ヒシスピード 大差(十二馬身)】




 ヒシスピード兄貴ェ……。


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幕間 東京競馬場・芝2400m・良馬場 夢の第――レース

 息抜き投稿。完全趣味の幕間。


 気がつくと――そこは東京競馬場。その馬主席に鎮座していた。

 周囲を見渡してみる。誰もいない。

 ターフを覗き込んでみる。誰もいない。

 まったく以てわけのわからない状況に巻き込まれているようだ。

 

 俺以外に誰も存在しない競馬場。

 普段は人がいたり、レース直前に発する熱気が凄まじいものだから、こういう状況だとなんだか新鮮な気分だ。

 人や馬のいない競馬場――それを競馬場と呼んでいいのかわからないが、内部構造がそうだと思しきものであったため、東京競馬場とする。

 

 東京競馬場の広大なコースを眺めてみると、そこにはやはり壮観な景色が広がっている。

 ここで馬が走っている場面をついつい想像してしまうと、胸の内が熱くなってくる。

 込み上げてくる熱を今にも解き放ちたいぐらいだ。

 

 しばらくコースを見下ろしていたら、どうにもターフの上を走りたくなってしまった。

 競走馬と同じ舞台を味わえるのは、今だけ。

 ならば行かない道理がないだろう。

 そうしてコース上に降りようと移動しかける直前、最後にもう一度だけ壮観な景色を味わいたかったため、再び見下ろすと。

 

 いい意味で信じられない光景が広がっていた。

 

 十頭というやや少頭数ながらも、競走馬が各々騎手を背に、ゲート入りを済ませているではないか。

 あまりにも突然の出現。

 だがもはやそんな不思議など気にもかからなかった。

 慌てて観客席に移動し、今から繰り広げられるであろう激闘を待ち望む。

 

 席に座ると同時に――それは開かれた。

 

『スタートしましたっ! 十番、好スタートを決めました! そのまま鞍上■■■■がぐいぐい押してハナを切ります。この馬にペースを握らせると超ハイペースになるぞ! 後続はどう対応してくるのでしょうか』

 

 緑のメンコを被った黒鹿毛の馬が好スタートを決めると、ハナを切る勢いのまま後続を引き離していく。

 その走りに見覚えがあり、ゼッケンを見てみると――やはりあの馬だった。

 

『先頭カブラヤオー、カブラヤオーが先頭。やはり『狂気の逃げ馬』が逃げていきました。あのダービーでの逃げて差すを、ジャパンカップでの狂気的な大逃げを期待しております。

 二番手追走はドイツ産のノヴェリスト。鞍上の■■■■は逃げるカブラヤオーを捉えるべく仕掛けていきました。次いで三番手にデインドリームとその鞍上■■■■。こちらもカブラヤオーを追っていきました。

 四番手、先団に着けたのはトレヴ。そのやや後ろにレイルリンク、さらにはエネイブルと続いています。

 七番手に控えたパントレセレブル、それをマークするようにシャーガーもおります。シャーガーの半馬身ほど後ろにはモンジュー、さらにはエレクトロキューショニスト。エレクトロキューショニスト、今日は後方待機を採った。

 最後方にはスノーフェアリー。あの豪脚を強豪たちに見せつけるか。

 

 前半の1000mは58秒6! ハイペース! やはりハイペースになりました! カブラヤオーにペースを握らせると怖かった!

 先頭はカブラヤオー、後続との差は三馬身ほど。それを追走しているノヴェリストとデインドリーム。

 ここでエレクトロキューショニストが上がってきたか。五番手、四番手と位置を押し上げた。その前にはトレヴがつけております。

 レイルリンク、エネイブルは先団。パントレセレブルはエネイブルのすぐ後ろ。シャーガーはパントレセレブルがっちりとマーク。モンジューはシャーガーのやや後ろ。

 スノーフェアリーは変わらず最後方。ここからどう仕掛けるのか』

 

 各馬が府中のターフを駆け抜けていく。

 明らかに日本馬ではない馬たちも走っているが、もう気にしない。

 東京競馬場といえば、2400m。そうだとするなら、もうすぐ。

 そうして、彼らは決着へと駆けていく。

 

『最終コーナーを曲がって、直線勝負! カブラヤオー、鞭が入ってカブラヤオーが先頭だ! ノヴェリストは脚色が厳しい! デインドリームは伸びてきている! しかしカブラヤオーには届きそうにない!

 後方、大外を突いてスノーフェアリーがすんごい脚で上がってきた! エネイブルは後退している! ハイペースが祟ったか!? トレヴ、エレクトロキューショニストも鞭を打って上がってくる! 遅れてモンジューもやってきている! しかしトレヴとモンジューはやや脚がキツいか!?

 レイルリンク、パントレセレブルが猛然と追い上げてきている! レイルリンクは内、パントレセレブルは外を突いて上がってきている! そのパントレセレブルのさらに外! シャーガーが末脚を炸裂させ、パントレセレブル、レイルリンクをあっという間に躱した!

 残り400m! カブラヤオーが先頭だが、差が詰まってきている! 差が詰まってきている! 二番手にはシャーガーが上がってきて並びかけようとしている! スノーフェアリーは大外から上がって三番手!

 カブラヤオーとシャーガーの差が、三、二、一……と縮まってきている! シャーガーの脚色があんまりにも良すぎる! カブラヤオーが粘る粘る粘る! だがシャーガーが優勢だ! やや遅れてスノーフェアリーも接近してくる!

 

 残り100mで……並んだ! 並んだ! だがこれ以上縮ませない! カブラヤオーが意地を見せつけるか!? それともシャーガーが差し切るか!?

 どっちだ!? どっちだ!? 大外からスノーフェアリーが一気にやってきた! しかし二頭にはやや届かない!

 カブラヤオーか!? シャーガーか!? もつれ合ったままゴールイン! これは大接戦でゴール!

 

 ――シャーガーがやや体勢有利か! 写真判定であります!』

 

 

 

 手に汗握る激闘――あまりにもいいものを見せてもらった。

 もし馬券を売っていたなら、一直線に買いに行ってただろう。

 東京競馬場の掲示板には、確定という文字がでかでかと赤く点灯していた。

 

 勝ち馬を見ようとコースを見渡してみると、そこには誰も何もなかった。

 まるで夢のように、すべて消え去っているではないか。

 

 

 

「おはようございます、オーナー」

 

「ああ、伊坂先生。おはようございます」

 

「普段より生き生きとされていますが、何かあったので?」

 

「はい、とてもいい夢を見れたもので」

 

「ほほう。気にはなりますが……申し訳ありません。カブラヤオーやグリーングラス、倉田くんと的田くんが芝コースで待っているので行きましょう」

 

「ですね。行きましょう――有馬記念に向けて、最後の追い切りへ」

 

 

 

 

【東京 夢の第■■レース 結果

 

 

 一着 シャーガー 2:21:7

 二着 カブラヤオー ハナ差

 三着 スノーフェアリー 3/4馬身】




 どうしても書きたかったから書いた。反省はちょっとしている。


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過去も未来も置き去りに

 プロットを見直してたらどうしても書きたくなった。連載を再開するとは言わない。


 暮れの中山は昨年と比べて、さらに大勢の観客が押し寄せていた。

 その中には、十代から二十代ほどの若い客や家族連れなんかも見受けられる。

 ハイセイコーが出走してくるのか、と思えてしまうぐらいには。

 あのアイドルホースが出走するのならば無理はない。だってアイドルホースといわれるほどに日本競馬を盛り上げたもの。

 だが競馬新聞を一読してみてもハイセイコーの名は載ってすらいない。

 ならばなぜ? と疑問がもっと膨らむ。

 

 自分自身が何かしたつもりはない。ジャパンカップか、それとも天皇賞(秋)でカブラヤオーが圧勝劇を演じたことが起因するのだろうか。

 もしくはTTGのクラシック分け合いという相互的なライバル関係だろうか。

 これはないとは思うが……カブラヤオーの競走生活を辿った番組が放送されたからなのか。

 

 ふと思い返してみる。

 カブラヤオーの競走生活を辿るといっても、普段から行っている調教や昨年の有馬記念まで。

 尺の都合もあるのだろうが、今年のレースっぷりは残念ながら放送されず。

 ただ番組内では当時のレース映像を使用していたり、大方は事実で構成されているため、個人的には満足ではあったが……。

 まさかその影響もあるというのか。

 

 改めて思い知らされる。

 メディアの発信力とは恐ろしい、と。

 

 さて、大勢の観客でぎゅうぎゅう詰めとなった中山競馬場だが、ちらほらと緑色の頭巾を巻いている人も見受けられる。

 座っている場所もやや固まっている傾向にあるため、どうしても三国志における黄巾党に似た集団に見えて仕方ない。

 ……あれはいったいなになのか、あとで伊坂先生辺りにでも聞いてみることにしよう。

 

 現実逃避するようにパドックを覗く。

 出走頭数は――たったの八頭。

 だがこういう状況にも関わらずこれほどの盛況を見せているというと、日本競馬の盛り上がりを再認識せざるを得ない。

 パドックを巡回している所有馬は二頭。

 倉田隆景さんが手繰る三冠馬カブラヤオーと、的田弘さんが操るダービー馬グリーングラスだ。

 カブラヤオーは八番、グリーングラスは三番である。

 

 この有馬記念は、カブラヤオーにとっては負けられない一戦。

 二年間無敗記録と秋古馬三冠、そして海外遠征が懸かっているからだ。

 グリーングラスにも勝ってほしいが、カブラヤオーの大偉業もこの目で目の当たりにしたい。

 ジレンマとはまさにこういうことである。

 

 他の主な出走馬は一番のトウショウボーイ、二番のテンポイント、四番のクライムカイザー、七番のエリモジョージ、五番のフジノパーシア、六番のテイタニヤといったところ。

 正しく夢のグランプリである。

 

 間もなくして騎乗合図が発せられ、各々の鞍上が駆け寄り騎乗していく。

 そののち、駆けだす。

 各馬の騎手が手綱を取り、それに呼応して走り抜ける。

 俺にとっての夢はもうすぐ。もうすぐ始まる。

 

 

 

 係員に引かれて、次々とゲート入りを済ませていく各馬。

 トラブルもなく、順調なゲート入りだったが、それはまるで嵐の前の静けさのようでもあった。

 最後にカブラヤオーがゲート入りを済ませて――

 

 ――遂に夢のグランプリが発走した。

 

『スタートしましたっ! カブラヤオーがいいスタートを切って、トウショウボーイも上手く出ました! 出遅れは一頭もありません! 各馬、順調な出だしであります!

 やはりいったカブラヤオー! 倉田隆景が手綱を押してハナを奪います! エリモジョージがスーッとカブラヤオーに競りかけていく! トウショウボーイもついていきます! テンポイントは四番手で待機か! グリーングラスが外から上がっていく! テイタニヤ、フジノパーシアは後方に控えている! クライムカイザーは最後方追走!

 

 正面スタンド前を通過して、真っ先に西陽を浴びたカブラヤオー、それからエリモジョージにトウショウボーイ。かなり飛ばしているようなペースでしょうか。

 テンポイントは内につけて、グリーングラスはやや外を回っている。

 フジノパーシアがややポジションを押し上げて、テイタニヤ、クライムカイザーと続いています。

 馬群は縦長、縦長に伸びております。追い込み馬、後方勢にはとても厳しい展開であります。

 

 前半の1000mは57秒2! 超ハイペース! やはりカブラヤオー、カブラヤオーの大逃げが炸裂した! 二番手には二、三馬身ほど離されてエリモジョージ。エリモジョージ、大丈夫か! やや後退し始めている! エリモジョージは後退! エリモジョージは後退!

 二番手トウショウボーイ、三番手に上ってきたのはテンポイントではありません。外から上がってきましたグリーングラスです。テンポイントは四番手であります。

 三冠馬か、天馬か、貴公子か、ダービー馬か。誰が勝つかまったくわからないまま、最終コーナーに入りました!

 カブラヤオーが先頭! カブラヤオー持ったまま先頭! だが! だがグリーングラスが外から一気に上がってくるか!? まだ最終コーナー! しかしグリーングラスには鞭が入った! トウショウボーイ、テンポイントも手綱が動き始めて最終直線!

 

 カブラヤオー、先頭! カブラヤオーが先頭だ! ここから伸びてくるかカブラヤオー! だがグリーングラスがジリジリと差を詰めてきている! グリーングラスが……なんと並んだ! 並んだ! あのカブラヤオーに並んだ! トウショウボーイは伸びない! テンポイントは追走が精一杯!

 グリーングラスとカブラヤオー、互いに鞭が入っております! 壮絶な叩き合いであります! 一騎打ちであります!

 残り200mで、グリーングラスがアタマ差抜けた! グリーングラスが抜けております! カブラヤオーは内で二番手! 万事休すか!? 三冠馬が敗れるか!?

 しかしもう一度カブラヤオーが追い上げる! カブラヤオーがグリーングラスとの差を縮める! もう一度カブラヤオーか!? グリーングラスが制するか!?

 どちらだ!? どちらだ!? テンポイントが三番手に突っ込んできているがもう届きそうにない!

 カブラヤオーか!? グリーングラスか!? もつれ合ったままゴールイン!

 

 大激戦、大接戦でゴール! これは写真判定であります!』

 

 

 

 慌ててウィナーズサークルに顔を出すと――そこにはやはり伊坂先生がいた。

 それから、彼らも。

 

「……私の厩舎、そしてオーナーの所有馬のワンツーですね。まさか有馬でワンツーを飾るとは」

 

「そうですね。俺としてはとても嬉しいですけどね」

 

 あれほどの熱戦を見せつけられて、興奮できないわけがない。

 

「いやぁ、負けるかと思いましたが……彼が予想以上に頑張ってくれましたね」

 

 騎手――倉田隆景さんが、黒鹿毛の馬の頭部を撫で回す。

 ――そう、この有馬記念の勝者は。

 

 

 

 

【1976年有馬記念 結果

 

 一着 カブラヤオー 2:29:9

 二着 グリーングラス ハナ差

 三着 テンポイント 二馬身】




 緑色の頭巾の集団……鏑矢党のこと。カブラヤオーの応援団で、カブラヤオーのメンコと同じ緑色の頭巾を身に着けているのが目印。


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1976年エピローグ まだ見ぬロマン

 連載再開するぜ。


 狂気的な逃げは、過去も、果てには未来すらも置き去りにした。

 誰も追えない、たった一頭の独走。

 傷ひとつない三つの冠を戴いたあとに手にしたさらなる栄光。

 数多の強豪が彼を追った。

 しかし――ついてこれる者など存在しなかった。

 彼の走りはトップスピードで先頭を駆け抜けること。ただそれだけだった。

 日本競馬史に燦然と輝く史上初の無敗三冠馬。

 その馬の名は――

 

 ――1975年有馬記念勝ち馬、カブラヤオー。

 

 

 

 年度末表彰が閉会し、拠点である牧場に戻り、育成場を訪れてみると、そこに広がっていたのは、もうすぐ二歳になる牡馬が暴れ回っている光景であった。

 すぐに誰かわかってしまう――そう、ジョンヘンリーである。

 牧野さんが必死にジョンヘンリーの引き綱を引いているが、けっこう引っ張られまくっている。

 飛び跳ねまくるわ、飛び跳ねまくるわ。ホップ、ステップ、ジャンプが見事に決まっている。

 こうして見てみると、ジョンヘンリーという馬の身体能力の高さが窺えるが……それはそれとして気性があまりにも悪すぎる。

 史実で騸馬にされてしまうのも納得といった具合だ。

 

「ちょっ、オーナー! たっ、助けてくださーい! 力強すぎて引くどころか引かれてますー!」

 

 ……まずはジョンヘンリーをなんとかして牧野さんを救出するとしよう。

 

「おーい! 来たぞー!」

 

 俺の声が響き渡ると、ジョンヘンリーは立ち止まり、耳をピンと立て、キョロキョロと辺りを見回す。

 立ち止まってくれているジョンヘンリーを驚かせぬよう、ゆったりと歩を進め、彼の前に現れる。

 そうすると牧野さんを引っ張りながら駆け寄ってきてくれた。

 ジョンヘンリーの首元を撫で回し、まずは動きを止める。

 その隙を突いて、牧野さんは一旦ジョンヘンリーから離れる。

 言わずもがな、牧野さんはボロボロであった。

 

「だ、大丈夫ですか? 牧野さん……」

 

 ジョンヘンリーの額を撫でつつ、牧野さんの状態を尋ねる。

 

「危なかったです……すみません、オーナー……」

 

 言うまでもなく、明らかにぐったりとしていた。

 

 

 

 ジョンヘンリーの馴致をふたりがかりでなんとか終え、事務所に戻ったはいいものの、互いにボロ雑巾のような状態になっていた。

 

「気性が……激しすぎる……」

 

 ソファに腰かけた牧野さんが溜め息を交えて呟く。

 俺としても、あれには頭を抱えるしかない。

 

「……ジョンヘンリーの預託先、どうします?」

 

「伊坂先生に押し……預かってもらう予定です。あの荒馬を御せるかはわかりませんが……」

 

 一方で俺は、もうひとつのソファに顔を埋めて答える。

 伊坂先生が俺たちと同じように頭を抱える光景が容易に想像できる。

 厩務員が頭突きを喰らわないかが少し心配だが……その時はその時だろう。

 可愛い愛馬は凶暴である。

 

「あっ、そうそう。オーナー、表彰はどうでした?」

 

 思い出して、ハッとする。

 ジョンヘンリーに気を取られすぎてしまっていた。

 ソファから起き上がり、三本の指を立てる。

 

「ひとつ目、シアトルスルーが最優秀二歳牡馬に。

 ふたつ目、グリーングラスが最優秀三歳牡馬に。

 三つ目、カブラヤオーが最優秀古馬牡馬、そして……二年連続で年度代表馬に選出されました!」

 

「えっ、本当ですか!?」

 

「何を仰る。本当ですよ」

 

 ふたりで抱き合い、飛び跳ねる。

 それぞれが表彰されたこと、それからカブラヤオーが再び年度代表馬に選出されたことに。

 

 二年間無敗に加えて、無敗のまま秋古馬三冠達成。

 決定的な要素は、やはりそれらだったようだ。

 

「やりましたね! カブラヤオーがまさかここまで活躍してくれるとは……!」

 

 まさにその通り。感無量である。

 テスコガビーも、TTGも蹴散らした果てに見える景色は、さぞいいものに決まっている。

 

 三つの冠には未だ傷ひとつなし。

 この勢いを保てれば、必ず世界にも手が届く。

 そう――まだまだ道は続いているのだ。

 来年、カブラヤオーは国内で一戦したあと、勝利すればフランスに渡る。

 日本の三冠馬を凱旋させる――世界に日本競馬を見せつける。

 

「本当に底が見えませんよ、カブラヤオーは」

 

 俺はただ笑みを浮かべる。

 来年も、まだ見ぬロマンを追い求めるとしよう。

 

 

 

 

 ――その時が迫っていることなど、露知らず。




『無敗三冠馬が倒せない 歌唱:テスコガビー』


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1977年
最強布陣


 1977年、開幕。
 その勇姿は、次代へと。


 目に焼きついたのは、見慣れていても見慣れぬような光景であった。

 阪神競馬場――GⅠ大阪杯、芝2000m。

 そこにはやはりといっていいか、数多の強豪馬たちが出走。

 春の中距離GⅠ戦線の先陣を切らんと、栄光を目指して人馬はターフを駆け抜ける。

 人はロマンを懸けて、馬はそれを背負って駆ける。

 GⅠというひとつの頂、ビッグタイトルを獲得するがために。

 

 この大阪杯には一頭、群を抜いていた馬が出走してきていた。

 天翔ける馬――『天馬』トウショウボーイである。

 前年には無敗で皐月賞馬となり、日本ダービーこそ敗れ二冠を逃すが、その後の古馬GⅠ戦線でも掲示板を確保。

 なかなかに手堅く、安定感のある実力馬だ。

 

 そんなトウショウボーイだが、前走の有馬記念では追走することが精一杯で敗北。

 前々走の天皇賞(秋)でも善戦止まりと、秋はビッグタイトルに恵まれず。

 だからこそ、もう一度トウショウボーイに栄光を。

 陣営も、ファンもそれを望んでいるに違いない。

 

 ――その望みは、儚く砕け散ったのだが。

 

『――最終直線に入っても、先頭はカブラヤオー、カブラヤオーだ! 倉田隆景が鞭を打つ! 三冠馬が他の追随を許さない! 無敗街道を突っ走るか! このまま逃げ切るのか! カブラヤオーが変わらず先頭! 他馬を圧倒している!』

 

 なぜなら――トウショウボーイを善戦止まりに追いやった怪物がいたのだから。

 やや外に追い出した二番手にいる鹿毛の馬体――トウショウボーイと、先頭に立つカブラヤオーとの距離はひたすらに広がっていく。

 カブラヤオーがトウショウボーイを完膚なきまでに叩き潰しているという、見慣れていても見慣れぬ光景が目の前にあった。

 

 鞍上の倉田さんが一発、二発と鞭を入れるたび、カブラヤオーの脚勢が増していく。

 トウショウボーイの鞍上である島広彦さんも必死に手綱を押して鞭を入れる――が、差は広がるばかり。

 

 確かにトウショウボーイは『天馬』と称されるだけあって、まるで空を翔けているように凄まじい推進力を以てターフを駆ける。

 並大抵の馬どころか、俺が所有するグリーングラス相手にすら勝ちを拾えるかもしれない――それほどに強く、速い。

 

 だが今回ばかりは相手が悪すぎたとしか言えない。

 

『残り200m! もう決まったもう決まった! これは決まったと言わずしてなんと言おうか! 今年も鏑矢が桜吹雪の間を縫っていった! カブラヤオーとトウショウボーイとの差は四馬身! もはや縮めようがないぞ! 三冠馬の独壇場はまだまだ続いている!

 

 カブラヤオーが今、ゴールイン! カブラヤオーです! 三冠馬が桜を背に凱旋しました! やはり強かった! いや、あまりにも強すぎた、カブラヤオー! 二着には四馬身離されてトウショウボーイ! ただただカブラヤオーが強かった!』

 

 

 

 グリーングラスがGⅡの阪神大賞典(芝3000m)を勝利してくれてから二週間後。

 伊坂厩舎の馬房には、今年の大阪杯の覇者がじっと佇んでいた。

 特にこれといった異常もないまま厩舎に戻ったカブラヤオーは、馬房内に設置されている袋から飼い葉を食んでいる。

 食欲旺盛で元気いっぱい。そんな愛馬の姿を眺めていると、どうしても頬が緩んでしまう。

 

 カブラヤオーの馬房前には俺含め三人。

 あとのふたりは、伊坂先生と倉田さんである。

 

「ヘトヘトになるどころかピンピンしてますね、カブちゃんは」

 

 苦笑しながら、倉田さんが口を開く。

 あれだけ逃げたあとなのにこんなに元気なのだから、確かに苦笑してしまう気持ちがわかる。

 あんまりにも頑丈すぎる。異常といっていいぐらいに。

 

「まあ、そこはカブラヤオーが元気なだけでよしとしましょう。倉田くんだってカブラヤオーに乗ってたいでしょ?」

 

「そのご指摘は突き刺さるのでやめてくださいよ」

 

 伊坂先生からの言葉に、困ったとばかりに笑う倉田さん。

 一方の俺といえば、傍らでそんなやり取りを見せてもらい、微笑ませてもらっていた。

 カブラヤオーは気にせずむしゃむしゃと飼い葉を食んでいたが。

 

 そのようなやや混沌とした状況になりつつあることに気づいたのか、「ともかくとして」と伊坂先生は居住まいを正し、こちらに向き直る。

 

「カブラヤオーの大阪杯勝利、やりましたね。皐月賞馬のトウショウボーイが相手でも勝てたことは大きいですよ」

 

「カブラヤオーはもう五歳になりますからね。どうかとは思いましたが……勝ってくれて一安心です」

 

 言っての通り、カブラヤオーは既に五歳馬。

 ベテラン中のベテランの古馬である。

 

「倉田くん、乗った感覚としてはどうでしたか?」

 

「そうですね。手応え抜群のまま最終直線に入れて、いつものように逃げ切り……といった感じでした。特に違和感なんかは」

 

 鞍上を務めてくれる倉田さんからしても、カブラヤオーにはまだ手応えが残っていると感じられたようだ。

 このままいければ、もしかしたら……。

 

「伊坂先生、渡仏して初戦のサンクルー大賞典は勝てそう、ですかね?」

 

「メンバー次第なのでなんとも言えませんが、この仕上がりと調子を維持できればいけると思いますよ」

 

 そうだとするなら、きっと勝てる。

 信じる他ないだろう。

 

「グリーングラス、シアトルスルーのほうもだいぶ調子がよさそうですからね。このまま押し切りますよ」

 

 ならば一安心だ。ホッと息を吐いてしまうぐらいには。

 

 阪神大賞典を勝ったグリーングラスは春の盾――そう、GⅠ天皇賞(春)を勝ちにいく。

 天皇賞(春)には菊花賞で完封させられたテンポイントも出走してくるようなので、雪辱を晴らしたいところ。

 

 シアトルスルーは既に渡米し、今週のサンタアニタダービーに出走予定。

 そこを勝てたならケンタッキーダービーを始めとした米三冠に挑むつもりである。

 鞍上はもちろん、小田部信夫さんだ。

 

 日本にグリーングラス、欧州にカブラヤオー、米国にシアトルスルー――そういった布陣で、今年もビッグタイトルを狙っていく。

 

 

 ――しばらくして、とある一報がもたらされた。

 シアトルスルーがサンタアニタダービーを逃げ切り。着差は七馬身差と、大楽勝であったという報せが。

 日本馬による海外GⅠ初制覇。その瞬間こそ多忙で見逃してしまったが、ケンタッキーダービー以降は見逃すわけにはいかない。

 こうなったらグリーングラスのほうも負けられない。

 天皇賞(春)で、テンポイント相手に勝利をもぎ取ろう。

 

 

 

 

 ――タイムリミットまで、あと六ヶ月。




 春の盾は、もうすぐだ。


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狙うはただ一頭

 3200mは描写するのが難しすぎるぞ……。


 春の盾獲り――天皇賞(春)が間近に迫るなか、栗東トレセンにはピリピリとした緊張感が張り巡らされていた。

 天皇賞(春)といえば、京都競馬場の芝3200mで開催されるGⅠであり、古くから存在感を放つ八大競走の一角である。

 出走できるのは、四歳以上の古馬のみ。数多の激戦をくぐり抜けた猛者たちが集結する、日本競馬屈指の長距離レース。

 

 史実において、この時代の日本競馬では、春の盾はとても重要な位置づけにある。

 持続力があり、成長力があり、スタミナもスピードも充実している――勝ち馬に求められる条件としては、これらの要素ではないだろうか。まあ、そんな理想を体現したようなサラブレッドなどそうそういないのだが。それがたまに現れるのだから競馬はやめられない。

 

 伝統の春の盾。秋の盾と並び称される大レース。

 その前週にあるのだから、日本のホースマンが緊迫するのは当然といえる。

 どの馬が出走して、どんな競馬をして、どのように勝つのか――気になる要素は盛りだくさんである。

 

 そんなふうに緊迫しているホースマンには、もちろん俺も含まれる。

 なんせ所有するグリーングラスが出走するというのだ。前週にあって緊張しないわけがない。

 けれどもだからこそ、こうして栗東トレセンを訪れたのだが。無論グリーングラスのもとへ足を運ぶ。

 

「グリーングラスの様子はどうですかね?」

 

「抜群にいい動きをしてくれていますよ」

 

 俺の問いかけに、隣を歩く伊坂先生が答える。

 GⅡ阪神大賞典(芝3000m)を叩き台に使ってもなお、グリーングラスの状態は万全であるという。

 

「脚、大丈夫そうですか? 違和感なんかあったり」

 

「まったく大丈夫そうです。違和感なども見受けられません。阪神大賞典を経て闘志には火が点いていますし、勝機は十分あります。ただ……」

 

 表情を苦いものに一変させ、伊坂先生は続ける。

 

「問題は出走馬にテンポイントがいるという一点のみですね。菊花賞、京都ではどうなることやら……」

 

 そう、菊花賞でグリーングラスを破った『貴公子』テンポイント。それとまたもや相まみえるというのだ。

 俺の所有するグリーングラスと同じく関西馬であり――この天皇賞(春)で人気を集めており、最有力馬だと見なされている。

 

 競馬新聞によれば、想定一番人気はテンポイント。この世界では菊花賞馬であることが最大の決め手となったのだろう。

 そして二番人気こそが、昨年のダービー馬であるグリーングラスとされている。

 見出しでは大々的に『TGの一騎打ち、決戦来たる』と書かれ、実際、どちらが勝つかという論争がたびたび起きている。

 

 それが決着するときこそ、来週の天皇賞(春)である。

 まさに負けられない一戦。ホースマンとしてのプライドでも、菊花賞での雪辱的にも。

 

 と、思考を巡らすうちに芝が敷き詰められた馬場が目に入ってくる。

 俯かせていた面を上げると、芝コースを疾駆する人馬が。

 

 そう、グリーングラスと主戦騎手の的田弘さんだった。

 春の盾を奪取すべく、本来なら関東に所属している的田さんがわざわざ栗東まで乗りに来てくれている。以前からかなりの頻度で調教に乗りに来てくれているのだが。いったい何が的田さんを突き動かすのだろうか。

 菊花賞での完敗か、あるいは自身をダービージョッキーに輝かせた馬への恩返しか、はたまた別の要因か――。

 

 いずれにせよ、的田さんも的田さんで天皇賞(春)に向けて気合いが入っているのだろう。

 こうしてやれることをやりに来てくれているのだから。

 

 と、気づけば傍らに控えていた伊坂先生が姿を消していた。

 どこへ行ったのか、気にかかって周囲を見回すと、

 

「おーい、的田くん! もういいぞ!」

 

 グリーングラスのほうに歩み寄り、口元に手を添え、メガホンのようにして呼びかける伊坂先生を見つける。

 その呼びかけに応じて的田さんは手綱でブレーキをかけ、疾走を止める。

 と、ここで俺の存在にようやく気づいたようで、慌てて下馬し、ペコリと一礼したのち、小走りでやってくる。

 

「すみません! どうにも熱中しすぎてたようで……」

 

「いいんですよ的田さん。むしろこんなに調教に乗ってくれるのはありがたい限りです。今後ともグリーングラスに乗っていただければ……」

 

「ちょっ!? 頭を上げてください! 僕のほうこそ乗せてくださいと言いたいですよ!」

 

「そうまで言っていただけると嬉しいですね。鞍上はなるべく固定しておきたいので。それに……」

 

 グリーングラスが厩務員を引きずりながら、こちらに歩いてくる光景を傍目に。ふっ、と微笑んでしまう。

 

「グリーングラスはあなたがお気に入りなようですからね」

 

 まるで「構ってくれ」とでも言っているかのように頭を的田さんの後頭部に擦りつけてくるグリーングラス。

 愛らしい姿ではあるのだが、的田さんはやや押され気味。これには厩務員も苦笑いしていた。

 

 お気に入りの騎手を背に、遂に緑の武士(グリーングラス)は戦場に赴く――。

 馬主である俺からしたら、勝利を願うことしかできない。けれどもだからこそ、祈り、願うのだ。

 彼らの安全と、あわよくば勝利を。

 

 

 

『春先の京都競馬場に、十六頭の強豪が集いました。春の盾、最高の栄誉を手にするのはいったいどの馬でしょうか? 大本命の貴公子テンポイントか、昨年のダービー馬グリーングラスか、はたまた伏兵か。伝統の長距離GⅠ、天皇賞(春)。ただいま十六番のテンポイントが収まります』

 

 馬主席から見えるのは、既にゲート入りを済ませた各馬。

 九番に入ったグリーングラスは、ゲートに入っても動じることなく落ち着いた様子で佇んでいる。あとはもう、スタートを待つだけ。

 

 大外枠に収まった菊花賞馬テンポイントも、落ち着いているようだった。

 狙うはただ一頭。作戦は既に決まっているのだから。

 

『1977年天皇賞(春)が、TとGの競走が、幕を開けます!』

 

 そうして、時は満ち――間もなく告げられる。

 

 乾いた音と共に、優駿たちは飛び出していく。

 

『スタートしました! テンポイントが飛び出したテンポイントが飛び出した! 好スタート! テンポイントは好スタートを切ってくれました! 内に切り込むテンポイント! ここは最内に着けるべきと読んだか、テンポイント! しかし逃げ馬にいかせて三番手、テンポイントは三番手の位置です。不気味に潜んでおります。

 グリーングラスはやや出負けしたか六番手。これは既に勝負あったか、グリーングラス、的田弘は前から数えて六番手であります』

 

 思い描いていた以上に、グリーングラスはのっそりと出てきた。対するテンポイントは抜群としか言いようがない好スタートを決めてきたのだから、これには焦るというもの。

 それでも、淡々とレースは進んでいく。

 グリーングラスは馬群の真っ只中、中団のやや前目。そう、六番手の位置。

 あそこから抜け出すのは容易ではない。しかもこれは3200mという長丁場であって、垂れていく馬も多い。

 そんな中でいったいどうやって抜けてくるのだろうか。見てみたいが……どうしても目を背けたくなってしまう気もする。

 

『第一コーナー、最初の坂に差しかかります。さあTとGはどのようにいくのでしょうか。テンポイント、グリーングラス、両者ともスタートからのポジションをキープしております』

 

 グリーングラスは未だに馬群に包まれたまま。この状態で坂を登るというのは、かなりのスタミナロスに繋がってしまう。

 ……的田さんは何を考え、どう動くつもりなのだろうか。

 段々と胸騒ぎがしてくるが、今はそんなことなどに思考を割けない。

 ただ、提示された作戦は守っているのだろうと、不思議とそう思えた。

 

 1000m――テンポイント、グリーングラスともに動きなし。

 通過タイムは1:02:5――遅くもなく、早くもない印象であった。

 淡々としたペース。だがそうでないと馬が保たないこともあるかもしれない。

 

 京都競馬場の、3200mという長丁場。

 観客が待ちわびるのは、TとGの一騎打ち。

 祈るように、手と手を絡める。

 胸の奥からドクンドクンと響く。

 果たしてどうなのか――妙に心臓が拍動する。

 

『2000mを通過して、残り1200mを切りました。春の訪れと共に台頭するのはどの馬か。間もなく最終直線となります!』

 

 残り1000m。グリーングラスは未だ中団。テンポイントもまだ動かない。

 残り800m。テンポイントの手綱が押され始める。グリーングラスは抜け出せない。

 残り600m。テンポイントが逃げ馬二頭を躱した刹那――!

 

『やはりテンポイント、テンポイントだテンポイントだ! 抜け出したのはテンポイント! グリーングラスはやってこないか!? 緑の刺客はどうした!? テンポイントは既に抜け出している! テンポイントの独走!

 

 いやグリーングラスがやってきた! グリーングラスやってきた! 的田弘の、グリーングラスがやってきた! ダービー馬が追い上げてきた! テンポイントに並びかけるか!? 並びかけるか!? 貴公子が負けじと踏ん張っている! 残り200m! テンポイント引き離せ! テンポイント引き離せ! だがグリーングラスが、グリーングラスがアタマ差抜けた! テンポイント、テンポイントは差し返せない! 貴公子の喉元を穿ったグリーングラス!

 

 グリーングラスが今、ゴールイン! 貴公子討ち取ったり! グリーングラスが、緑の刺客があっさりと貴公子テンポイントを討ち取りました!』

 

 

 優勝レイで着飾ったグリーングラスと、九番のゼッケンを手に持つ的田さん。

 京都競馬場のウィナーズサークルには、俺たちグリーングラス陣営が立っている。俺は馬主なだけだが。

 贈呈された春の盾を天に掲げる。その際に思わず飛びそうになったが盾が危ないのでやめておいた。

 

 だがこれで菊花賞での無念は晴れただろう。

 グリーングラスの実力を存分に引き出せて、テンポイントに勝利できたのだから。

 それにしても……最終直線でのグリーングラスの瞬発力はどこから来たのだろうか。

 そこが少々謎だったが、もう気にしないことにした。

 

 とにもかくにも、今はGⅠ二勝目を飾ってくれたグリーングラスを称える他ないだろう。

 

 

 

 

「……また買ってきたんですか?」

 

「……はい」

 

 周辺を元気よく飛び跳ねまわる当歳馬を傍目に、牧野さんから早速説教を受けることとなってしまった。

 なんたってまたアメリカから当歳馬を買ってきたのだ。しかもかなりの良血馬だし。

 放牧地を走り回る当歳馬を見つめて、内心で頭を抱える。

 

 ――どうして買えてしまったんだ、と。

 

 

 当歳馬の頭上には、『☆ダンジグ』という馬名が表示されていた。




 おは大種牡馬。


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アメリカ最高峰の舞台、その前に

 落ち着きなさい、小田部くん。


 シアトルスルーに初めて乗ったときから、僕は壊れ始めていたのかもしれない。

 なんたってシアトルの鞍上となって以降、今ではシアトルのことしか頭にないのだ。

 今までの僕なら、ただ手応えがいいだけの実力馬という認識しかしてこなかったのに。

 これまで騎乗してきた馬たちが霞んでしまうぐらいには、僕の価値観は引き裂かれてしまっていたようだ。

 だけれど、それでいいとも思えてしまう。

 いや、むしろそうでなければダメなような気すらしてしまう。

 

 僕にはシアトルが馬ではない何かに見えてしまう。

 たとえるなら……そう、夢そのものだ。

 こんな馬に乗りたい、という僕の夢が凝縮され、馬に生まれ変わったとしか思えない。

 それぐらいに、あまりにも。

 

 シアトルスルーという名馬は、僕の中で絶対的な最強馬だ。

 

 

 

 

 四月にあったGⅠサンタアニタダービー(ダート1800m)をシアトルが圧勝し、それからの五月。

 今日も今日とて、アメリカのダートコースで調教に勤しむシアトルには、僕が騎乗している。

 手綱を扱いて仕上げるだけ。そんな行為だけでも、シアトルのグッとくる手応えには毎回毎回感動しそうになってしまう。

 サンタアニタダービーでの彼は輸送もあってだいぶ不調だったが、今では朝日杯でマルゼンスキーを打ち破った際――いや、それ以上に調子を上げつつある。

 これならば、今いるチャーチルダウンズ競馬場が誇る大レース――ケンタッキーダービー(ダート2000m)も楽勝そうだ。

 

 米一冠目のケンタッキーダービー――シアトルが手にするに相応しい栄冠のひとつ。

 間違いなく米国中から数多の強豪三歳馬が集まるだろう。確かに試練が待ち受けるだろう。

 もっとも――シアトルスルーならばその全てを打破できるが。

 ああ、僕はどこまでも壊れてしまっている。

 だけれど、そう、これでいい。むしろこうなったほうが競馬の楽しさを再認識できた気がする。

 僕はただ、シアトルを盲信し、邪魔にならないよう乗るだけ。

 この馬ならばどんな騎手であろうと、どんな窮地に陥ろうと米三冠全てを勝ち抜いてしまうだろう。

 もはや最強馬以外の何ものでもない。

 

 僕を壊す馬など、この世にいないと信じていた。

 僕が馬を盲信するなど、ないことだと思い込んでいた。

 そう。これだから競馬はやめられない。

 

 今年のケンタッキーダービーをリサーチする限り、シアトルに勝つような馬はいない。

 もしシアトルに圧勝するかもしれない馬が現れるとするなら、その馬は間違いなく五年連続で年度代表馬に選出されたケルソや快速馬ドクターファーガーなど、歴史上に名を残す名馬クラスだ。

 まあ、そんな馬がそうそう現れて堪るかという話なわけだが。

 

「ミスター・オタベ、オーナーが来たぞ」

 

 と――ケンタッキーダービーに想いを馳せているうちに、いつの間にかオーナーがいらっしゃったようだ。

 今僕に声をかけてくれた男性はアメリカの調教師で、名はベブ・ファバードというらしい。

 サンタアニタ競馬場でのシアトルの走りっぷりに感動したようで、彼からは「ぜひオーナーを紹介してくれ」と頼み込まれている。

 そのオーナーが遂にアメリカにやってきたからか、彼の声音はどこか弾んでいたように思える。

 そんなファバードは僕に声をかけるなり、早歩きでオーナーがいるらしい方向へ行ってしまった。

 シアトルの疾走を止め、下馬したところで――早くもファバードに連れられて彼はやってきた。

 

 ファバードがやや興奮気味に話しているからか、彼にしては珍しく少々引き気味であったが。

 最初こそオーナーは顔を引きつらせていたが、シアトルを見かけると笑顔を浮かべ、こちらに手を振って駆け寄ってくる。

 

「小田部さーん! お疲れさまです!」

 

「オーナー、お待ちしておりましたよ。あまりにも待たせるものだから先にGⅠを勝っておきましたよ」

 

「ハハハ! それは頼もしい!」

 

 オーナーは快活に笑う。その言葉が本心であることはすぐにわかった。

 

「ミスター・オタベ、この方がシアトルスルーのオーナーだな?」

 

「ああ。彼がオーナーだぜ。シアトルの他にもとんでもない馬を多数所有しているからね、敵に回さないようにな」

 

「そんなことなどするつもりはないさ!」

 

 ファバードは笑い飛ばしたが明らかに目が泳いでいた。さては何かやらかす予定だったのかもしれない。

 

「ああ、オーナー。遅くなりましたね。彼はアメリカの調教師で、ベブ・ファバードといいます。まあ、伝手はあったほうがいいと思うので、紹介しておきます」

 

「シアトルスルーのオーナー、以後お見知りおきを」

 

「は、はぁ……」

 

 ファバードの話になるたびに、オーナーの表情に暗雲が差す。

 何かあったのだろうか……探らないでおくが。

 

「あっ、そうだ! 小田部さん! シアトルスルーはどうです?」

 

「サンタアニタダービーのときは絶不調でしたが、今は持ち直して万全まで持っていけてます。いつでも出れますよ」

 

「本当に頼もしすぎますね、小田部さんは」

 

「これほどの馬に乗せてもらってますからね。僕が乗っていたいのもありますが」

 

「ハハハ、流石変態怪文書名手」

 

「…………?」

 

「すみません、なんでもないです」

 

 なにやら蔑称のような言葉を吐かれた気もするが、敢えてスルーすることにしよう。

 ともかく、ケンタッキーダービーまであと三日しかない。心が高ぶりに高ぶる。

 

「オーナー、ケンタッキーダービーどころか、米三冠全て勝ちますよ。なんたってシアトルは……」

 

 

 ――最強馬なので。

 

 そう断言するのは、一頭の馬に脳と常識を焼き尽くされた騎手だった。




【シアトルスルーに脳を焼かれた人 ~アメリカのある調教師~】


「なんだあの馬は!? 不調そうなのにサンタアニタダービーを勝ったぞ!? けっ、血統は……ハアッ!? マイナー血統じゃあないか!?
 良血でもないのになぜあそこまで走るんだ……いったい何が違うんだ……。あれは、あれは間違いなく、セクレタリアトに匹敵する存在になるぞ!? なぜあんな血統で……。
 ……やっぱり、走る馬は走るか。ハハハ、ハハハハハ! ボクの完敗だよ! よし! もう良血に拘りすぎるのはやめやめ! 走る馬はとことん走る! ジャパンからの来訪者よ! 感謝するよ! いつかキミのオーナーと会ってみたいものだ!」


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アメリカ最高峰の舞台、一冠目

 1970年代に次々と最強格の名馬を生み出すアメリカ競馬くんは加減して?


 五月二週目――遂に時は満ちた。

 そう、この日こそ僕が待ちに待った日。

 ケンタッキーダービーの開催日であり、アメリカ競馬が大いに盛り上がる日であって、アメリカ中から有力三歳馬が集結し競い合う決戦だ。

 アメリカ競馬最高峰の、ひとつの祭典。

 全米の騎手が輝かしい栄冠の前で、各馬に騎乗し争奪戦を展開する。

 そして勝利し栄冠を戴くのは、傑出した人馬の一組。

 ダービーと名がつくだけあって誉れある栄冠であり、敗者に対してはどこまでも残酷な大レース。

 それが開催されるチャーチルダウンズ競馬場に、僕は最強馬(シアトルスルー)と共に舞い降りた。

 真っ白な芦毛の誘導馬に導かれて、本馬場入りを果たす。

 土で固められたダートを力強く踏み鳴らしながら、シアトルは闊歩する。

 気合いと仕上がりは十分。それに調子も万全。正しく十全なシアトルだ。

 

 ケンタッキーダービーに日本馬が挑むのは、これが初めて。

 勝つためのデータは皆無。でもそれでいいんだ。

 そんな不安要素なんてシアトルにとっては肌に貼りつこうとしている蚊のようなもの。

 たとえ貼りついたとしても、即座に叩き潰されるのがオチだ。

 そう考えれば考えるほど、シアトルに乗れるという喜びに勝るものはない。

 もし僕がシアトルに乗れず、他の騎手が手綱を取るとするならば。

 もし他馬に騎乗した際、シアトルと相対することとなってしまったならば。

 僕はどんな実力馬に乗っていたとしても、すぐさま勝利を投げ捨ててしまうだろう。

 

 だってシアトルは、常識など容易く壊してくるから。

 どんな騎手が乗っても最強。そのような馬を相手取り、破ろうとするのは、米三冠馬セクレタリアトとベルモントステークスで当たってしまったぐらいには絶望的ではないのだろうか。

 つくづく思い知らされる。シアトルに乗れて幸せだと。

 

 ゲート前まで辿り着き、シアトルはじっと待ち構える。

 相変わらずこの落ち着きようは異常ともいえる。まるで勝負を、競馬をわかっているようで、これだけでも恐ろしさが見て取れる。

 ゲートから目を逸らさず、視線を注いでいるのにはわけがあるのだろう。

 僕は鞍上だからわかる。そう、スタートで出遅れないよう集中しているのだ。

 シアトルにとってスタートは最重要項目のひとつ。他馬に対しての必勝策だ。

 もうここまで来ると人間のように思えてくる。今度、ランチにでも誘ってみようか。

 

 と、係員がシアトルを引き始める。

 シアトルもこの意図がわかるようで、素直に従い、すんなりと十四番枠に収まる。

 前哨戦のサンタアニタダービーは圧勝。けれどもやや過小評価されているらしい。

 シアトルは三番人気で、オッズは確か七倍か八倍辺り。

 舐められているとしか思えなくて、胸が熱くなってくる。

 日本馬が勝つわけない。そんなふうに考えられているのだろう。

 

 こうなってくると、自然と口角が釣り上がる。

 よろしい、ならば――結果で示すとしよう!

 

 

 

 刹那、ゲートから全十六頭が放たれる。

 始まりは告げられた。そう、レースの火蓋が切られたのだ。

 シアトルは真っ先に飛び出てくれた。僕の促しなど不要だった。

 スタートから猛烈なダッシュをつけ、颯爽と先手を奪う。

 それから切り込むようにして、最内に進路を変更する。

 何か気配がする。真後ろから。シアトルを逃すまいとする気配が。

 ちらりと一瞬だけ。後方を振り返れば。

 やはりいた。シアトルと脚質を同じとする、ジェイオートビンという馬が。

 このままいっても脚色は衰えない。徹底的に猛追してくる。

 

 だったら――と、シアトルの手綱を緩める。

 シアトルも意図を理解してくれたようで、徐々に二番手のジェイオートビンを引き離していく。

 まだ600m。だがこれでいい。

 再び後方を振り返れば。四、五馬身ほど離されたジェイオートビンがいた。

 先頭は独走状態。まあ、無理もない。

 ついていけば残りの直線で伸びなくなるだろうから。

 

 シアトルが独走状態のまま、1000mを通過。

 どよめきが聞こえる。悲鳴が聞こえる。

 大方、大逃げに対する反応だろう。

 これならまだ気づかれていない。

 1000mの通過タイムは恐らく57秒台の超ハイペース。

 こんなので保つはずがない。僕だって普通の馬ならそう思う。

 けれどシアトルは、普通の馬ではない。

 だからこそ、僕はシアトルに手綱を委ねている。

 

 残り800m。後続との差は五、六馬身。

 あれほど大逃げしているというのに、シアトルはまだペースを上げたいらしい。

 仕方ない。全てを委ねるとしよう。

 手綱による抑えを完全になくした途端――白鳥(シアトル)は解き放たれる。

 ぐらり、と。一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 そう、僕の体勢が崩れかけていたのだ。

 すぐさま立て直し、手綱を握る。

 観客席からのどよめきも、ダートを踏みしめる音も、何もかもが聞こえない。

 あるのはただ、真っ白な世界。シアトルとふたりっきりの、独走だ。

 

 だけれど、自然と熱くなってくる。何かが込み上げてくる。

 それはまるで、楽しいという感情だった。

 普段の騎乗ならそう思わないはずなのに、この瞬間、この一時が、どうしようもなく楽しい。

 ああ――そうか。理解してしまった。

 この感情は、()()()()()()()()

 

 ゴール板をくぐり抜けたであろう瞬間、目に入ったのはチャーチルダウンズ競馬場に敷き詰められたダート。

 シアトルの手綱を引いて減速させ、一本の指を立てる。

 

 アメリカ競馬に思い知らせてやる。これがまだ、序盤に過ぎないことを。

 観客席からは大歓声が聞こえてくる。だがアメリカ競馬の関係者は呆然と立ち竦んでいた。

 

 まずは一冠目。ケンタッキーダービーを、シアトルスルーが勝たせてくれた。

 

 

 

 

「小田部さん小田部さん! すんごい競馬をしてましたね!」

 

 関係者としてトロフィーを受け取る直前、偶然居合わせたオーナーから開口一番、そう言われる。

 

「……あれはですね、シアトルが自分でいったんですよ。で、あんな競馬になりました」

 

 頭を掻きながら、オーナーに応える。

 今にして思えば、このオーナーはいったい何者なのだろうか。

 シアトルを発掘し日本に持ち込んだ馬主だが、明らかにただ者ではない。

 恐らく、いや、確実にシアトルレベルの馬をまだ隠している。

 そんな気がしてならないが、今はただ、ケンタッキーダービーでの勝利を味わうとしよう。

 

「大逃げから九馬身ぶっちぎって勝つとか……シアトルはやっぱり名馬ですね」

 

「正しくその通りですよ。これほどの馬に乗せていただけて感謝しております」

 

「それはどうも!」

 

 足早にオーナーは立ち去る。たぶん表彰台のほうへ。

 その際、どこか焦っていたような気がしたのは……流石に気のせいだろうか。

 

 

 

 

【1977年ケンタッキーダービー ダート2000m 良馬場

 

 シアトルスルー 2:00:4】




 競馬蹂躙! 日本馬に侵略されるアメリカ競馬!


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蹂躙して進出

『シアトルスルー先頭! シアトルスルー先頭! 日本競馬を背負って、シアトルスルーが駆け抜ける! 内につけて逃げる逃げる逃げる! 追ってくるのはいない! もう、誰も追ってこれない! 強い、強すぎる! もはや独走劇! これはシアトルスルーで決まっただろう! 

 

 シアトルスルーが、先頭でゴールインッ! 小田部やったッ! シアトルスルー、小田部信夫がとうとうやってのけましたッ!

 アメリカ最高峰の大舞台、それを三つ、三つです! 見事勝ち抜いて、トリプルクラウンを戴きましたッ! 傷のひとつもない、無敗での戴冠となります!

 ベルモントパーク競馬場、その観客席からの大歓声に応えるようにして、小田部信夫が三本指を掲げました! これは恐らく、今勝ち取った三冠目を意味しているのでしょう。日本馬が、シアトルスルーが、小田部信夫が、アメリカ競馬の喉元に刃を突きつけました! 今正しく、日本馬がアメリカ競馬の頂点のひとつに君臨したのですッ!』

 

 

 

 

 

 六月――ベルモントパーク競馬場。

 米三冠目のレースであるダート十二ハロン(2400m)のベルモントステークスは、日本調教馬の米三冠達成という、前代未聞の締め括りを迎えた。

 ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークス。

 これら三つの大レースを日本馬が無敗のまま勝ち抜いていったのだから、アメリカ競馬からしたら驚くしかない。

 いきなり日本馬から猛烈な打撃を三度貰ったことになる。しかもアメリカ競馬を象徴するレースであるケンタッキーダービーで自国の有力馬が悉く捻じ伏せられているのもあり、プライドはズタボロに違いない。

 しかしそうであっても称賛すべきものは称賛してくれた。無敗で三冠達成時、スタンドから拍手喝采の旋風が巻き起こったのは嬉しかった。日本馬が勝ったというのに。

 

 アメリカ競馬のそんな面には内心で好感を抱く。

 だがその好感がすぐさま悪い方向に塗り替えられるのは、ある人物が俺の前に立ってからだった。

 

「シアトルスルーのオーナー、少しよろしいか」

 

 アメリカの調教師――ベブ・ファバード。

 史実では米三冠馬アメリカンファラオを始めとし、数々の名馬を手がけた名伯楽。

 俺は彼のことを知っている。そして、その未来も。

 

 だから正直、俺はこの人物をあまり相手にしたくない。

 

「……ミスター・ファバードですか。何用で?」

 

「ハハハ、そう畏まらず」

 

 どうやら俺の発する剣呑な雰囲気に気づいたようだ。表情を綻ばせ、快活に笑いかけてくる。

 

「申し訳ないのですが、時間があまりないので焦ってるんですよ」

 

「何を仰るのです。まだ帰国便に乗るわけでもないでしょう」

 

「はは、看過されましたか」

 

 まずい、まずい、まずい。

 どんどん焦燥が心を覆い尽くしていく。

 ポケットからハンカチを取り出して、額を拭う。

 完全に話のペースを握られている。逃さない、ということだろうか。

 

「それで、ご要件は?」

 

「では単刀直入に。我が厩舎に、馬を預ける気はありませんか?」

 

「…………」

 

 予想していた要件だった。こうなるだろうとは予見していた。

 あれだけ日本所属馬で大暴れして目をつけられないわけがない。シアトルスルーが無敗で米三冠馬となったのだから、なおさらに。

 

「……それはなぜ?」

 

「お恥ずかしながら、シアトルスルーのような馬をいずれまた見つけるだろうと読みまして。ですから、今度はウチにも預けてほしいのです」

 

 その理由はあまりにも単純だった。わかり切っていた魂胆だった。

 けれども、この人にそう話されるのは、かなりまずかった。

 

「……ふむ」

 

 考える素振りをして、説き伏せる術を探る。

 だがあれほどストレートに来られると、流石に分が悪すぎる。

 断る口実を見つけようにも、それがなかなか見つけられない。

 

 ……待てよ? シアトルスルーのような馬、と彼は言っていたはず。

 だとしたら、こちらはこう返すとしよう。

 

「シアトルスルーのような馬、ですか。申し訳ないのですが、ミスター・ファバードはシアトルスルーに何を感じたのです?」

 

「それはもちろん、競馬のロマンを。彼には私も多くの夢を見せてもらいましたよ。中でも血統が好きですね。我々が求めていたアメリカドリームとはまた違うアメリカンドリームを秘めていました」

 

「つまりは下剋上、というのでしょうか?」

 

「日本風に言うならそうですね。私は彼に思い出させられたのです。競馬のロマンを、下剋上を、大いなる夢を」

 

 その返答に目を見開いてしまう。

 彼は思い出したという。だとしたらこのベブ・ファバードという調教師は、恐らくだが。

 

「……もし俺の馬を預かるのでしたら、違法薬物の使用だけはやめてください。俺も厄介事に巻き込まれるので」

 

 完敗だった。この際、こうはっきり言ってしまうことにした。

 

「ええ、シアトルスルーに誓って。絶対に使用などしません」

 

「わかりました。では……といきたいところでしたが、アメリカに拠点を持っていないのです。いわゆる放牧先です。それがないことには、どうしても不安が残ってしまって」

 

「でしたら、私が探しておきましょう。こじんまりとした牧場で大丈夫ですか?」

 

「ええ。できれば、ある程度施設が残っていたら最高ですね」

 

「では、探しておきましょう」

 

 ……なんだか少しだけ、善行を為した気がする。



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春の波乱と夏の吉報

 春のGⅠ戦線の締め括りとなるのは阪神競馬場の宝塚記念(芝2200m)。

 ファン投票により出走馬が変動する、グランプリとされるレースなのだが、今年の締め括りは波乱という終わり方を迎えた。

 

 

 

『逃げたぞ逃げた! エリモジョージが逃げていった! 気まぐれジョージがここに来てやる気を見せたぞ! 先行したトウショウボーイは伸びが悪い! グリーングラス、次いでクライムカイザーが追ってくる! テンポイント……テンポイントも鞭が入って伸びてきた! しかし先頭はエリモジョージのまま! 六番人気のエリモジョージ、エリモジョージが逃げ切る! このままだと逃げ切ってしまう! テンポイントは追うがこの脚色だと厳しい! エリモジョージ、波乱を巻き起こすかエリモジョージ! だがそれを許してなるものかとグリーングラス、的田弘が突っ込んできた! ダービー二着のクライムカイザーも脚を伸ばしてテンポイントを躱す! だがエリモジョージが粘る! なんだこの粘りは! 差があまり縮まらない! グリーングラスがじりじりと差を縮め始めるがもう届きそうにない!

 

 エリモジョージが逃げ切った! エリモジョージが今、先頭でゴール板をくぐり抜けました! 六番人気のエリモジョージ、有力馬らを打ち倒しました! 天馬、貴公子、ダービー馬など何するものぞ! 気まぐれジョージの大駆けの前に、各馬は屈しました! 二着グリーングラス、三着クライムカイザー。かなりの大番狂わせとなったのではないでしょうか!』

 

 

 

 

 

 エリモジョージの大激走に追いつけず、グリーングラスは二着を確保したものの、トウショウボーイは五着、テンポイントは四着と、本命視された馬はほとんど大崩れする結果となった。

 もちろん、競馬場には馬券の紙吹雪が舞うこととなってしまった。

 その紙吹雪には、どこか無情さを感じざるを得ない。あんまりにも儚い。

 

 エリモジョージの逃げ切りを許してしまったグリーングラス鞍上の的田さんは地下馬道で「完全にノーマークでした。僕の騎乗ミスです。グリーングラスなら勝ち切れるレースを、僕のせいで獲り逃してしまいました。本当に面目ありません」と拳を震わせてこちらに頭を下げてきた。

 ただそうだとしても、ここで的田さんを降板させるのはグリーングラスのためにならない。

 グリーングラスは的田さんが鞍上だからこそダービーを勝てた。今でもそう思っている。

 それに的田さんは将来的な実績を鑑みても仲良くしておきたい。これは俺にしかわからないかもしれないが、彼はのちに名手となるのだから。

 

 というわけで、「次は天皇賞の叩きに京都大賞典(GⅡ・芝2400m)なのでね、またよろしくお願いします」と声をかけておいた。

 これで幾分かは安心したはず。ただ的田さんは深々と頭を下げるばかりだった。

 

 

 

 

 

 春のGⅠ戦線で活躍した馬は大きく分けて三頭。

 一頭目はマルゼンスキー。朝日杯こそ敗れたが、その後は連勝を重ね、熱発で皐月賞こそ回避したが日本ダービーには出走。ラッキールーラをちぎり捨て、圧勝でダービーの栄冠を手にした。次走は札幌記念(GⅡ・芝2000m)の模様。

 二頭目はカブラヤオー。未だ無敗街道を突き進み、いよいよフランスに乗り込んだ。大阪杯ではトウショウボーイを完封し、五歳になってもその力は健在であることを見せつけた。次走はフランスのサンクルー大賞典(GⅠ・芝2400m)。

 三頭目はグリーングラス。阪神大賞典、天皇賞(春)を立て続けに勝利したが、宝塚記念ではエリモジョージの激走を許してしまう。立て直しは必須で、次走は京都大賞典。

 

 ここまで振り返ると、どうしても年末の有馬記念には心を弾ませてしまう。

 カブラヤオー、TTG、マルゼンスキー――史実では相争うことのなかった時代の覇者たちが、この世界では激突しようとしている。

 これは正しく、夢のような決戦。誰もが想像した夢のグランプリになるのではなかろうか。

 そしてその夢を経たあとでも、夢は続いていく。新たな優駿が新たな時代を切り拓いていく。

 たとえば、今俺の目の前にいるジョンヘンリー。こうして撫でろ撫でろと甘えに来るが、彼は間違いなく一時代を築く優駿となる。

 今は共に泥んこ遊びをしているあの二頭もそうだ。芦毛のスペクタキュラービッドに、鹿毛のダンジグ。

 快速馬二頭も人々を熱狂させてくれるに違いない。彼らは未来の優駿である。

 

 伝説を打ち立てるであろう優駿たち。彼らがここに揃い踏みしているのは、またある意味で伝説なのだろう。

 そう考えれば、この牧場はもしや怪物たちが棲み着く魔窟ではなかろうか。……その怪物を棲み着かせたのは誰だろうな。俺は知らない。

 

「オーナー!」

 

 と、突然耳に入ってきたのは、牧場長の牧野さんの一声。

 何事だろう。急用など……いや、ありましたわ。

 

「よしよし、ごめんな、ちと急用を思い出したから外すぜ」

 

 ジョンヘンリーをひと通り撫で終え、牧野さんのほうに駆け寄る。

 

「オーナー! か、か、カブラヤオーが!」

 

「え!? どうしたんです!?」

 

 まさか何かあったのか。事故でも起きてたら目も当てられない。

 しかし牧野さんからもたらされた一報は、むしろ吉報だった。

 

「倉田隆景さんを鞍上にサンクルー大賞典を逃げ切り勝ち! 初戦の海外GⅠを制覇しましたよ!」

 

 一瞬、固まってしまう。

 そう、もたらされた吉報とは、カブラヤオーの海外GⅠ勝利。

 彼の逃げはフランスでも通用したようで、欧州の芝をものともせず逃げ切ったという。

 しかし臆病なカブラヤオーをよく海外遠征させたな、と自分の勢いにある意味感服してしまう。

 それもそれでよく成功したものだ。カブラヤオーと伊坂先生、倉田さんにはある種の敬意を覚える。

 

「凄いですね、カブラヤオーは。あんなに臆病だったのに」

 

「そうですね。ですが最近はその臆病さも改善されてきているようですよ」

 

「……え?」

 

「馬群はまだ怖がるんですが、並びかけられるのは少し平気になってきたようで。シアトルスルーやグリーングラスと併せ馬をしたり、今まではほぼなかったのですが、他馬の鳴き声に返事をしたり。彼も成長しました」

 

 ここに来て、牧野さんから予想外の言葉が飛び出してきた。

 その内容に感慨深いものがあるし、込み上げてくるものがある。

 これでようやく理解した。あのカブラヤオーは、

 

 

 

 

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 もしかしたら、凱旋門賞も勝てるかもしれない。

 菊花賞の時点で確信すべきだった。カブラヤオーは史実を超えた、と。

 三冠馬となった時点で、カブラヤオーは己を超えていた。

 鏑矢はどこまでも果てしなく。海を超え、戦いの火蓋を切る。

 カブラヤオーは遂に世界最高峰の舞台に赴く。誰もが夢見た大舞台へ。

 ああ――その時が楽しみだ。




【1977年宝塚記念(GⅠ・芝2200m・良) 結果


 一着 エリモジョージ 2:14:1
 二着 グリーングラス 一馬身
 三着 クライムカイザー 一馬身】


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狂気の逃げ馬VSアーチの門番

 後書きにカブラヤオーの能力をウイポ風ステータスにしたものがありますので、興味のある方はぜひ。


 パリロンシャン競馬場。長い歴史を持つフランスのその競馬場の関係者席に、俺たち――カブラヤオー陣営はいた。

 本来の史実ならばパリロンシャン競馬場ではなく改修前のロンシャン競馬場なのだが、そこは1975年に改修を終え、今俺たちがいるパリロンシャン競馬場になったのだという。

 あんまりにも時代が進みすぎている気がしなくもないが、おかげで2020年代レベルで深くて柔らかい欧州の芝となっている。

 これならば、攻略法が見いだせる。欧州血統のカブラヤオーであればこの馬場をものともしないはず。

 

 と、言いたかったところだが……。

 先ほどからシャワーのようにきめ細かい雨が降り続けている。それも三日前ほどからだという。

 この調子だと、間違いなく凱旋門賞があるロンシャンの芝は重馬場であろう。

 しかも相手も悪いかもしれない。伊坂先生から手渡された出走馬表に目を移す。

 

 今年の凱旋門賞には十六頭が出走。カブラヤオーの馬番はまたもや運悪く大外の十六番。

 有力馬は十五番のフランス所属馬エクセラー、三番のアイルランド所属馬であり英ダービー馬ザミンストレル、そして七番のアイルランド所属馬であり史実勝ち馬であるアレッジド。

 いくらカブラヤオーといえど、一筋縄ではいかない強豪が集結してしまった。

 特に警戒すべきなのは、いや、有力馬全てを警戒しないといけない。隙を見せたが最後、有力馬のどれかに差される。

 幸いなのがカブラヤオーは前走のフォワ賞(GⅡ・芝2400m)でロンシャンを経験済みだということ。

 だがそれも決定的なアドバンテージにはならない。降雨のせいで芝が湿ってしまっているのだから。

 

「オーナー、どうされましたか? そんなに気難しそうな顔をされて」

 

 見かねたのか、俺の隣にいた伊坂先生が話しかけてくれる。

 

「日本馬には不利なデータが揃いすぎててですね、もしかしたら、と思ってしまって……」

 

「ははは、確かに、これほど雨が降るとなるとカブラヤオーも未経験の重馬場になるでしょうしね。前走のフォワ賞、前々走のサンクルー大賞典ではあまり強い馬が出てきませんでしたからね。不安になるのも仕方ありません」

 

「まあ……そうですね。すみません、怖気づいてました」

 

 自分でも気づかないうちにだいぶ怖気づいてしまっていたようだ。俺も堂々としてなければ。でなければカブラヤオーに申し訳ない。

 

「ああ、伊坂先生。そういえばシアトルスルーのほうは?」

 

「はい、夏のケンタッキーダービーと呼ばれるトラヴァーズステークス(GⅠ・ダート2000m)も制して米四冠。現在は大目標のBCクラシック(GⅠ・ダート2000m)に向けて調整中ですね」

 

「あれは白鳥というより、不死鳥ですからね……もう誰にも止められませんよ」

 

 シアトルスルーのほうはあまりにも順調すぎる。米三冠後にしばらく休養を経ても調子を崩さず、四冠目も圧勝。

 このままいければ、グランドスラムも夢ではないのかもしれないが……今はカブラヤオーのほうに集中だ。

 遠目からしか見えないが、カブラヤオーと倉田さんは落ち着いた様子で返し馬を行っている。

 ここまで無敗。だとすれば、この凱旋門賞も手にしてほしいところ。

 日本馬として最初にこの頂に登り詰めるのは、カブラヤオーであることを信じる。

 

 

 

 ゲート前がだんだんと騒々しくなってくる。それはまるで十六頭の返し馬が終わったという合図のようだった。

 係員が現れ、一頭、また一頭とゲートに収めていく。そのたびに騒々しさが静けさへと変わっていく。

 やがて最後の馬が収まる番となる。倉田さんを鞍上に、カブラヤオーが十六番ゲートに入っていく。

 

『スピードシンボリ、メジロムサシ、日本の強豪が敗れ去ったこの凱旋門賞で、遂に夢は叶うのか!? 三冠馬カブラヤオーが世界に挑みます!

 

 

 スタートしました! カブラヤオー、好スタート、好ダッシュでいきなり飛び出ていった! 三冠馬が歓声と共に飛び出ていきました! これはどうなる!?

 先頭、ハナを切ったのは、やはりカブラヤオー! 日本が誇る無敗の三冠馬です! 早速リードを広げていきます!

 二番手アレッジド、アイルランド調教馬。これはカブラヤオーに追走していく様子。その一馬身ほど後ろ、ザミンストレルが追走。最後方に怖い怖いエクセラーが構えております。

 各馬、一コーナーに差しかかります。先頭はカブラヤオー、倉田隆景。二番手アレッジドとの距離は三馬身! これは大逃げ態勢か! 三冠馬の大逃げが、世界にも炸裂する!』

 

 カブラヤオーが二番手以下の後続を早速引き離していく。

 やはり世界に勝つにはこれしかない。そう、大逃げである。

 カブラヤオーの持ち味を活かしつつ、決してスローペースに持ち込ませない戦法。ここでも狂気的な大逃げが役立つとは。

 

『1000mを通過しました。通過タイムは、スプリントのようなタイム! なんと凱旋門賞、重馬場のロンシャンであり得ないタイムを叩き出している! これが三冠馬、狂気の逃げ馬の真髄か!

 カブラヤオーは二番手アレッジドから四馬身のリードを保っている! 頑張れカブラヤオー! もうすぐ偽りの直線、フォルスストレートだ!

 いや、しかし! ここで、ここに来て、なんとびっくりエクセラーが仕掛け始めた! 一気にペースが乱れる!

 エクセラーが大外から一気に四番手! 四番手でザミンストレルを躱そうとしている! 残り800mを切りました!』

 

 頼む、いってくれ。日本の夢を、無念を、呪縛を、ここで晴らしてくれ。

 

『残り600m! エクセラーが、エクセラーが三番手! 二番手アレッジド! カブラヤオーをマークしている! しかし先頭のカブラヤオー、未だリードを譲らない!

 残り400m! さあ、最終直線! カブラヤオーにポーンポーンと鞭が三つ入りました! カブラヤオー、頑張れ! 日本の悲願はもう少し! あと一伸び! あと一伸び! なんとか伸びてくれ!

 カブラヤオー伸びる! カブラヤオー伸びる! 頑張れカブラヤオー!

 エクセラーはやや伸びが悪い! いっぱいになっている!

 残り200m! カブラヤオーがこのまま逃げ切るか! このまま逃げ切ってくれカブラヤオー!

 ああ! しかしここに来て外からアレッジド! アレッジドが、この時を待っていたようにじりじりと差を詰めてくる!

 粘るカブラヤオー! 迫るアレッジド! どちらだ!? どちらだ!?

 アレッジドが、並びかけてくる! 残り100mで、並びかけてくる! そして躱した! 躱した! カブラヤオーを差し切った!

 

 そのままゴールイン! 躱したところ、躱されたところが、無情にもゴール板直前!

 無敗の三冠馬カブラヤオー、ここで敗れた! ここで、この大舞台で、敗れてしまった!』

 

 

 

 

 ああ――開きかけていた頂への扉が、再び閉じられる。

 まさかアレッジドがあのような末脚を使ってくるとは……まさに頂への扉を守護する門番のようだ。

 鞍上の倉田さんは、呆然とした様子で雨天を眺めている。

 かくいう俺も、呆然とするしかなかった。

 

 

 

 

 

【1977年凱旋門賞 結果

 

 

 

 一着 アレッジド 2:22:9

 二着 カブラヤオー アタマ差

 三着 エクセラー 四馬身】




○カブラヤオー


 牡 父ファラモンド 母カブラヤ 1972年生
 スピード:77(79が最上限)
 適性距離 1600m~3000m
 馬場適性 芝◎ 洋芝◎ ダート○
 脚質 大逃げ、逃げ
 成長型 早め・持続
 瞬発力:A
 勝負根性:S+
 健康:S
 精神力:B+
 賢さ:B+
 柔軟性:S+
 パワー:S


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Foregoとの決戦前、狂気の逃げ馬はここまで

 ウイポ10でセクレタリアト、ミスタープロスペクター、フォアゴー所有はよ。


 凱旋門賞を惜敗という結果で終え、俺たちは日本に帰国した。

 三冠馬となり限界を超えたカブラヤオーでもなお、世界にはあと一歩及ばず。非常に悔しい結果となってしまった。

 あと少し、あと少しの差のように見えるが、俺からするとその差は絶望的に開いていた。

 この時代の日本と欧米はあまりにも格が違いすぎる。馬産だって、調教だって、騎乗だって。

 ありとあらゆる技術に差がありすぎたのだ。

 

 今回はカブラヤオーで遠征したためなんとか二着に食い込めたが、これがグリーングラスとなるとさらに厳しい。グリーングラスには申し訳ないが、せいぜい五着が限界だっただろう。

 輸送面や芝質の違いという影響も大きいが、それ以前に慣れの差という壁が高すぎる。

 今年の凱旋門賞は降雨によって重馬場。こうなってくると、比較的軽い芝を得意とする日本馬は善戦すらできない。

 何度も言うが、今回はカブラヤオーが異常すぎるだけ。あれほど水を吸った芝をものともせず進んでいくうえ、日本競馬のようなタイムを叩き出すのだから、手応え的に勝てると確信してしまったほどだ。結果は惜敗だったが。

 

「カブラヤオーはよく頑張ってくれましたよ。……いやぁ、悔しい」

 

 馬房から頭を覗かせるグリーングラスに人参を与える伊坂先生。その声は酷く震えていて、鼻をすする音も聞こえてくる。

 グリーングラスが心配そうに顔を寄せている辺り、伊坂先生は泣いている。余程悔しかったのだろう。

 レース後、倉田さんも「僕のせいでカブちゃんを引っ張ってしまった」と号泣しながら話してくれたから、凱旋門賞という大舞台は日本競馬にとって夢そのものなのだろう。

 史実を知ってしまっている俺からすると、この夢がいずれ呪いのような何かと化していくのは、見ていて辛いものがある。

 そんなことを思う俺も、夢を担うひとりとなってしまったのだが。

 

 しかし凱旋門賞挑戦はしばらく見送りたい。勝てそうな馬が生まれるまで、ここは息を潜めたい。

 今所有している馬たちだと、間違いなく返り討ちに遭う。恐らく、ジョンヘンリーが完成したとしても二着が限界かもしれない。かといってダンジグは距離とスタミナが不安すぎる。

 こうなってくると、現在所有している馬の中で候補は限られてくる。

 ただその馬は史実を鑑みても不良馬場を苦手とする。後世で『太陽の王子』という異名を与えられるぐらいには。

 

 とすると、1978年に生まれてくる馬が頼りになるかもしれない。来年を楽しみに待つしかないだろう。

 

 そういえばジョンヘンリーで思い出した。つい考えごとに耽ってしまい、伊坂先生の厩舎を訪れた理由を失念してしまっていた。

 

「伊坂先生、すみません。ちょっとご相談が」

 

「……はい、どうされましたか?」

 

 伊坂先生のテンションが低い。というより、低すぎる。余程凱旋門賞での惜敗が堪えたのか。

 

「ジョンヘンリーなんですが……鞍上のほうはどうしましょう?」

 

「ああ、既に決めてますよ」

 

「早っ!?」

 

「ジョンヘンリーが育成を終えて入厩する時、ここを主戦予定の騎手が訪れますので、その際にご対面をお願いしようかと」

 

「あ、ありがたい」

 

 テンションは低すぎるが、仕事は早すぎる。なんなのだ、このお方は。

 

「ああ、そうでしたか。こちらもお伝えしなければならないことが……」

 

 なにやら嫌な予感しかしないのだが。所有馬の故障とか、なにか様子がヘンだとか、そういうことでなければいいのだけど。

 

「……恐ろしいですが、聞きます」

 

「えーと、今シアトルスルーが遠征しているBCクラシックなのですが……」

 

 ゴクリ、と生唾を飲み込む。いったい何があったのだろうか。

 

「出走馬がシアトルスルー含め、僅か三頭になりそうです」

 

「…………え」

 

「で、その出走メンバーがですね、一番フォアゴー、二番がシアトルスルー、三番エンシェントタイトルとなっています」

 

「う、嘘でしょ……」

 

「本当です」

 

 予想はしていたが、まさかケルソに匹敵する大名馬が出走してくるとは。それに加え、西海岸のアイアンホースまでもが相手となろうとは……。

 警戒すべき相手はもう決まっている。フォアゴーという馬だ。

 

「俺的にはフォアゴーを最も警戒したいのですが……」

 

「私も同意見です。あれの追い込みは怖いですね」

 

 1970年生で米三冠馬セクレタリアトとの対決経験もある騸馬フォアゴー。アメリカ競馬にしては珍しい直線での豪脚一閃を武器とする名馬だ。

 フォアゴーにとってはニ回目となる米三冠馬との対決。ここは負けられないとばかりに仕上げてくるのは間違いない。

 こうなってくると、流石のシアトルスルーも逃げ切れるかどうか未知数だ。それでも上手くやってくれると信じるしかないが。

 ただ、フォアゴーとシアトルスルーの一大決戦となると、どうしても心が弾んでしまう。

 

 名騸馬フォアゴーか、米三冠馬シアトルスルーか。豪脚か、逃げ脚か。

 確実に名勝負となるだろう。

 

「ああ、それからですね、オーナー」

 

「はい?」

 

「カブラヤオーの様子がちょっとおかしいんです」

 

 一瞬、時が止まったかのような衝撃を受ける。

 

「え、大丈夫なのですか!?」

 

「幸い、怪我はなさそうなのですが……凱旋門賞でのダメージが大きいのだと思います。ちょっと歩様に乱れが……」

 

 ああ、ここで確信してしまう。

 これ以上はいけない、と。

 

「……本当に悔しいですが、カブラヤオーは……有馬記念を回避して、引退させましょう」

 

 伊坂先生が目を伏せる。申し訳ないとばかりに。

 

「カブラヤオーの検疫が終わった後日に、引退を発表しましょう。もちろん、倉田さんもお呼びして」

 

 

 

 斯くして、狂気の逃げ馬はここで身を引くこととなった。

 だがその走りは、産駒にも受け継がれていくだろう。

 

 

 

 ――カブラヤオー、引退。種牡馬入り。




 カブラヤオー 初年度種付け料:1500万円


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アメリカ最高峰の舞台、ブリーダーズカップ

 晴天となったサンタアニタ競馬場。アメリカのブリーダーズカップデーの開催日となったそこに到着し、何時間を経ただろうか。

 ブリーダーズカップが間もなくクライマックスに差しかかり、観客席のボルテージは最高潮に達しつつある。関係者席とはいえその中にいると、まるで競馬場そのものと一体になっているような気分になる。

 観客、馬主、実況、そして人馬が白熱し、この競馬場を盛り上げている。

 競馬はエンターテイメントである――どこかで聞いた言葉だが、この壮観な景色を見ていると、それもひとつの形なのだろうと頷ける。

 自身の所有馬が出走するのはブリーダーズカップ・クラシック(GⅠ・ダート2000m)という、アメリカ競馬の最高峰のひとつに数えられるほどの大レースだ。

 

 このブリーダーズカップ自体も最高峰なのだが、その中でもBCクラシックは群を抜いているといえる。

 理由としてはまず賞金額。ブリーダーズカップデーで開催される大レースの中では、破格すぎる高額賞金を誇る。……詳細な額は忘れてしまったが。

 次点は距離。ダートの十ハロン――2000mという距離はケンタッキーダービーと同距離であり、アメリカ競馬にとっては王道的だろう。ファンを熱狂させるには十分だ。

 

 これらの要素もあるからこそ、BCクラシックは最高峰と見られ、例年のように有力馬が多数出走するかのように思われたが……。

 今年はたったの三頭。そう、三頭だけだ。これには俺も目を丸くしてしまう。

 あんまりにも強すぎる馬が出走していたりするとこうなる。というか、これがもし日本競馬だったら競走不成立だ。

 

「クラシック、少なすぎませんかね……」

 

「仕方ありませんよ、メンバーがメンバーですから」

 

 ちょっとした不満を口にすると、伊坂先生が諦めたような表情で返答してくれる。

 たった三頭で行われるアメリカ競馬最高峰のクライマックス。今思い返せば、その三頭が最強馬であるため、こうなるのは必然だったのかもしれない。

 

 

 

 やがて時が訪れた。BCクラシック、三頭の最強馬による狂宴が。

 芦毛の誘導馬に導かれて、三頭は本馬場入りを果たす。

 一番、豪脚一閃、ウッドウォードステークス(GⅠ・ダート1800m)四連覇の名騸馬フォアゴー。

 ニ番、その快速に並ぶ者なし、日本からの挑戦者である無敗のトリプルクラウンホース、シアトルスルー。

 三番、名騸馬はもう一頭、西海岸のアイアンホース、エンシェントタイトル。

 

 最強馬三頭が集結し、この場で覇を競い合う。正しく最強馬決定戦。

 三頭がゲート前で周回する。もうすぐだ、もうすぐ開幕する。ドリームレースと呼んでも過言ではない狂宴が。

 

「……いよいよですね」

 

「ですね。あとはシアトルと小田部騎手に託しましょう」

 

 係員に引かれ、ゲート入りが始まった。

 

 

 

 

 

『今年は僅か三頭。しかしその三頭はどれも最強馬。我らが日本のシアトルスルー、小田部信夫はニ番に入っております。ウッドウォードステークス四連覇を達成したフォアゴーは一番、三番にエンシェントタイトルが今係員に引かれて入ります。

 トリプルクラウンホース、シアトルスルー、ここでも夢を積み重ねるか!? 日本競馬の夢背負って、今駆け抜けます!

 

 

 スタートしました! シアトルスルー、エンシェントタイトルが飛び出ていきました! フォアゴーは下がって後方待機のようです! 飛び出ていったニ頭、シアトルスルー、エンシェントタイトルは先頭争い! これは競り合っています!

 フォアゴーはニ頭には付き合わず控える態勢。シアトルスルーが僅かに前か。しかしエンシェントタイトルは逃しません。外から馬体を併せ、徹底的にマークしています』

 

 冷や汗が背筋を伝う。ハンカチで何度額を拭いても流れ落ちてくる。

 所有馬のシアトルスルーが外から馬体を併せられて最内に閉じ込められている。初っ端から非常に厳しい展開だ。

 シアトルスルーが僅差で前に出ているが、このまま競り合っていれば伸び脚を欠き、フォアゴーに差されてお終いだろう。

 小田部さんはどう動く。この展開、他馬に対して。

 

『シアトルスルーが最内からするりと抜けていきますが、エンシェントタイトルも追走していきます。ニ番手エンシェントタイトルと三番手フォアゴーとの差は二馬身ほど。シアトルスルーの半馬身後ろからエンシェントタイトルがプレッシャーをかけにいきます。シアトルスルーはどうする、シアトルスルーはどうする。後方にも恐ろしい馬が控えているぞ。

 1000mを通過しましたが……56秒2! 非常に早い! 非常に早すぎる! 超ハイペースとなっております! それでも先頭のシアトルスルー、脚は保つのか!? 小田部信夫は何を考えている!?』

 

 場内が徐々にどよめきに染まっていく。

 一番人気のフォアゴーは未だ後方、ニ番人気のシアトルスルーはこの超ハイペースで保つのか、三番人気のエンシェントタイトルはシアトルスルーを躱せるか。

 どよめきには、そんな不安も混じっているようだった。

 

『残り600mを切りました! さあ、間もなく勝負どころ! シアトルスルー先頭! シアトルスルーがまだ先頭! しかしエンシェントタイトルがじりじりと迫ってきている! これはどうなるか!? これはどうなるか!?

 残り400m! 最終コーナーで、遂にエンシェントタイトルに鞭が入った! シアトルスルーはまだ入れていない! だが抜かせない! シアトルスルーとエンシェントタイトルが並んだまま、最終直線だ!

 シアトルスルーが先頭! エンシェントタイトルは二番手! しかしシアトルスルーには引き離されつつある! ここでやってきた! 満を持して、豪脚を伸ばしてきたのはフォアゴー! シアトルスルーとの差が一気に縮まっていく!

 だがまだ先頭はシアトルスルー! この脚色はやや厳しそうだ! フォアゴーが並びかけてきそうだが、なかなか前に出られない! シアトルスルーが驚異の粘りを見せている! しかしフォアゴーが差し切った! フォアゴーが差し切った!

 いや、最内から、なんと最内からシアトルスルーが差し返す! シアトルスルーが差し返した! もはやニ頭の一騎打ち!

 シアトルスルー! シアトルスルー頑張ってくれ! シアトルスルーがもう一度先頭! フォアゴーが再び伸びようとしている! 頑張れシアトルスルー! ゴール板はもうすぐだ!

 シアトルスルーが伸びる! これは奇跡のもうひと伸び! シアトルスルーが、ここでド根性を見せつけた!

 

 

 シアトルスルーが今ゴールイン! 先頭! 日本馬が今、アメリカ最高峰の舞台を、先頭で完走しました! 小田部やった! 小田部はよくぞやってくれました!

 二着には1/2馬身差でフォアゴー、三着には五馬身離れてエンシェントタイトルです!

 日本馬が、米最強馬に輝きました! 小田部信夫が腕で目元を拭っております!』

 

 

 

 

 

「い、い、い、伊坂先生! み、見ましたか!? シアトルスルー、シアトルスルーが!」

 

「はい、はい! 見ましたとも! ……ええ、ええ!」

 

 伊坂先生と抱き合い、互いに狂喜する。

 世界最高峰の大舞台、BCクラシック。それをシアトルスルーがとてつもない勝ち方で勝ってくれたのだから。

 

「オーナー! 表彰式に行きましょう! 小田部騎手もきっと! きっと我々並か、それ以上に喜んでいるはずです!」

 

 アメリカ競馬の一大イベント、ブリーダーズカップデー。その日、日本馬がBCクラシックを手にし、史上初の日本馬によるブリーダーズカップ制覇が成し遂げられた。

 

 

 

 

 

 

【1977年ブリーダーズカップ・クラシック GⅠ・ダート2000m・サンタアニタ・良馬場 結果

 

 一着 シアトルスルー(日) 1:57:4

 二着 フォアゴー(米) 1/2

 三着 エンシェントタイトル(米) 五馬身】




「シアトルか、もしくは……」

「小田部さん、本を書いてみない? 競馬関連で」

「じゃあタイトルは『シアトルの背』で」

「えぇ……」


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揺れる秋古馬王道路線

 この年の年度代表馬選考が荒れそうなことに今気づいた。


『さあ、最終直線! 天皇賞(秋)、秋の盾を巡って、府中の長い長い直線に差しかかった!

 先頭はエリモジョージ! 宝塚記念勝ち馬の、エリモジョージであります! これを二番手から追うのはトウショウボーイ! さらには大外からグリーングラスも来ている! テンポイントは伸びを欠いているか! テンポイントはかなり厳しそうだ!

 先頭はまだ、まだエリモジョージ! エリモジョージが先頭のまま! しかしトウショウボーイだ、トウショウボーイが一気に抜き去りそうだ! 大外を回ってグリーングラスも迫る! 的田弘は負けられない! だがそれはトウショウボーイの島広彦とて同じこと! エリモジョージはいっぱいになっているようだ!

 トウショウボーイ、抜け出した! エリモジョージを差し切って、今先頭に立ちました! しかし! 大外から猛烈な脚でグリーングラスがやってきている! グリーングラスがまた突っ込んできた! それでもトウショウボーイだ! トウショウボーイがまだリードを保っている! グリーングラスは届かない! これは届きそうにない!

 

 天馬トウショウボーイだ! 2000mの大舞台で、再び羽ばたいた! 今先頭でゴールイン!

 トウショウボーイが勝ちました! 左腕を大きく掲げた島広彦! 京都大賞典を勝って臨んだグリーングラス、僅か、僅かな差を縮められず二着に敗れました! 三着には粘ったエリモジョージ! テンポイントは無念の五着!』

 

 

 

 

【1977年 天皇賞(秋) GⅠ・東京・芝2000m・良馬場 結果

 

 

 一着 トウショウボーイ 2:00:2

 二着 グリーングラス アタマ差

 三着 エリモジョージ 3/4

 四着 ハードバージ 二馬身

 五着 テンポイント ハナ差】

 

 

 

 

 

 

 TTGが揃い踏みし、トウショウボーイが勝利を手にした天皇賞(秋)から約一ヶ月後。

 今年も、世界中から強豪が集まってくる国際GⅠの開催日となった。

 GⅠジャパンカップ(芝2400m)。欧米の有力馬を招聘し、日本馬がそれに挑むという構図になる……そうなるはずだった。

 だが馬券師たちは昨年のカブラヤオーのように日本馬がまた勝ってくれると見ているようで、一から三番人気は日本馬となっている。

 海外からの有力馬筆頭はフランス所属のエクセラー。凱旋門賞では大まくりを仕掛けての三着だったが、このジャパンカップでは四番人気だ。

 俺からすればせめて複勝だけでも買っておけ、と言いたいところなのだが、それは史実を知っているからこそだ。

 

 一方で上位人気三頭。こちらは完全にTTGで固まっている。

 一番人気がトウショウボーイ、二番人気がグリーングラス、三番人気がテンポイント。

 昨年のクラシックを分け合った三強が揃うというのは、やはりロマンがある。

 この中にカブラヤオーやマルゼンスキーも加わればなおさら盛り上がっていたが、カブラヤオーは既に引退、マルゼンスキーは札幌記念勝利後は脚部不安で長期休養と、なかなか揃わない。

 そのような状況だからアメリカでグランドスラムを成し遂げたシアトルスルーを出走させようとしたが、伊坂先生から「来年のサウジカップ(GⅠ・ダート1800m)まで、しばらく休ませてやりましょうよ」と止められてしまった。今では猛省している。

 

 グリーングラスのローテーションに関しては京都大賞典勝利後にグリーングラスの疲労を鑑みつつ、伊坂先生、的田さんと協議して決定したもの。ハードではあるが、秋古馬王道路線には全て出走する予定だ。

 休養を経た京都大賞典は一着、天皇賞(秋)では仕上がっていたものの二着。

 さて、グリーングラスの初GⅠ勝利となった日本ダービーと同舞台、ジャパンカップではどうだろうか。

 

 今年は十六頭立て。肝心のグリーングラスの馬番は大外枠の十六番。

 スタート直後の位置取りは鞍上の的田さん次第。どのような競馬を見せてくれるのだろうか。

 的田さんにとっても、グリーングラスにとっても思い出深い東京競馬場で、勝利を掴めるか。

 

 

 

 

『各国から強豪集う国際GⅠ、ジャパンカップ。府中の芝2400m、今年も日本馬か、それとも外国馬か。果たして、どのような結末を迎えるのでしょう! ジャパンカップ、間もなく発走致します!

 

 

 スタートしました! トウショウボーイ、テンポイント、エリモジョージが好スタートを切りまして、エリモジョージが先頭にいきます。やはり逃げていくのはエリモジョージ。ここでも先頭は指定席、エリモジョージがいきました。

 二番手に着けたのはトウショウボーイ。この大舞台でもエリモジョージを捉えに出ます。三番手にはテンポイントがいて、グリーングラスは外を回りながら五番手の位置。外国馬、フランスのエクセラーは最後方待機です。

 各馬、最初のコーナーに入ります』

 

 かなり苦しそうな位置取りなのだが、これは大丈夫なのか。

 だがスタート直後から内に切り込んだ馬はかなり多い。無理に内に着けるわけにはいかないようだった。

 それでも外を回りながらの競馬はかなり厳しいはず。ペースは比較的ゆったりとした流れだが、最終直線での伸び脚が心配だ。

 

『1000mの通過タイムは1:02:1、やや遅めのタイムか。エリモジョージはスローペースで逃げている。トウショウボーイは依然二番手でエリモジョージをマークしている。そこから一馬身ほど後ろにテンポイント、関西のテンポイントがいます。

 グリーングラスは馬群の外、六番手。やや前目の位置なのは変わらず』

 

 スローペースなど意にも介さないように外を回るグリーングラス。こうなってくると最終コーナーはどうしてくれるのか気になってくるところ。

 

『残り600m! ここで逃げるエリモジョージを躱してトウショウボーイが先頭! トウショウボーイが先頭に立って、最終コーナーに差しかかります!

 先頭はトウショウボーイ! エリモジョージはやや後退気味! そのエリモジョージを一気に躱してテンポイント! テンポイントがトウショウボーイに迫る! 外からテンポイントが襲いかかってくる! トウショウボーイは粘ろうとしているが粘れない! テンポイントが差し切って先頭に! 最後方からエクセラーも来ているが、それより先に大外、大外からグリーングラスが末脚を放ってきた!

 先頭はテンポイント! 大外二番手グリーングラス! 的田弘のグリーングラスか!? グリーングラスだ! グリーングラスの脚勢がよさそうだ! ダービー馬が再び府中を制するか!? グリーングラスのさらに外からエクセラーが追う! 凄まじい豪脚! しかしその前にグリーングラスが勝ちそうだ!

 

 グリーングラスだ! グリーングラスだ! 関西馬グリーングラスが天皇賞(春)以来のGⅠ制覇! グリーングラスがゴールイン! エクセラーの猛追を凌いでグリーングラス! 昨年のダービー馬が見事、海外の強豪を退けました!

 二着には最後追い込んできたエクセラー。三着には関西馬テンポイント。秋の天皇賞馬トウショウボーイは沈んだか!』

 

 

 

 

 ウィナーズサークルでは、グリーングラスに騎乗した的田さんが必死になって涙を堪えていた。

 伊坂先生が「グッジョブだったよ! なんとか勝ち切れたね!」と笑顔を浮かべて的田さんに話しかけたが、当の的田さんは「グリーングラスに非常に申し訳ない競馬をさせてしまいました」と目元を赤くさせ答えていた。

 どうやら、的田さんにとっても今日の競馬は反省点ばかりだったようだ。

 

 

 

 

【1977年ジャパンカップ GⅠ・東京・芝2400m・良馬場 結果

 

 一着 グリーングラス 2:25:6

 二着 エクセラー 1/2

 三着 テンポイント 一馬身

 四着 エリモジョージ 二馬身

 五着 クライムカイザー 二馬身

 六着 トウショウボーイ クビ差】

 

 

 

 

 

 

『中山の最終直線は短い! ここを制するのはどの馬か!? 先頭エリモジョージ! しかしあっという間にテンポイントが躱していく! 二番手はトウショウボーイ! そのあとグリーングラスが追い込んでくる!

 強い! テンポイント、強い! 菊花賞馬がようやくGⅠを再度制するか!? グリーングラスが突っ込んでくる! だが差を縮ませない! テンポイントだテンポイントだ!

 

 テンポイントが先頭のまま、ゴールイン! 最後はグリーングラスの追い込みも封じて、ようやく古馬GⅠを手にしました! 有馬記念を勝ったのは、関西のテンポイント!

 二着にはグリーングラス。三着にはトウショウボーイ』

 

 

 

【1977年有馬記念 GⅠ・中山・芝2500m・良馬場 結果

 

 一着 テンポイント 2:30:1

 二着 グリーングラス 二馬身

 三着 トウショウボーイ 一馬身

 四着 クライムカイザー 3/4

 五着 エリモジョージ 一馬身】




 来年は……。


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1977年エピローグ 引退式とデビュー前

 年度代表馬と顕彰馬の選出基準が壊れちゃう。


 暮れの中山には、多くの観客が押し寄せていた。

 その視線が向けられる先は、ただ一頭。

 凱旋門賞後に引退を発表したカブラヤオーと、その主戦であった倉田隆景さんだ。

 夕陽が沈みゆく光景をバックに、カブラヤオーは鞍上の倉田さんと共に、観衆の前を通り過ぎていく。

 湧き上がる大歓声に応え、観客席に向け、倉田さんが右腕を大きく振る。

 

「寂しくなりますねぇ、カブラヤオーがいないとなると……」

 

「……そう、ですね。カブラヤオーは俺だけじゃなく、多くの人々にも夢、ロマンを与え、それに応えてきました。本当にね、偉大な名馬ですよ……」

 

「私も、カブラヤオーから多くのものを貰いました。……今度は私が、カブラヤオーの産駒を育て、彼に恩返しをする番ですよ」

 

 伊坂先生は何度も何度も、腕で目元を拭っていた。

 こうして伊坂先生が涙するのは珍しい。言葉にしている通り、やはりこの人も、カブラヤオーから多くのものを受け取ったのだろう。

 つまるところ、伊坂先生もカブラヤオーに魅了されたひとりというわけだ。

 

『今年度に引退します、三冠馬カブラヤオーであります。全戦に渡って手綱を取った倉田隆景騎手が、涙を堪え切れず目元を幾度となく拭っております。史上初めて、無敗のまま三冠を達成したカブラヤオー。残念ながら凱旋門賞制覇こそなりませんでしたが、カブラヤオーは常に先頭を征き、我々に多くの希望、多くの光を与えてくれました。気が早くはありますが、カブラヤオー産駒が今から楽しみであります。

 

 

 ありがとう、カブラヤオー! さらばカブラヤオー! またいつか、会える日まで!』

 

 倉田さんが下馬し、カブラヤオーの手綱を引いてこちらにやってくる。

 緑のメンコをしたカブラヤオーの姿をファンに見せるのも、これが最後だろう。

 けれどその勇姿は、永遠に、忘れ去られることはない。

 大逃げ馬にして三冠馬。異色の名馬は、人々の記憶にいつまでも焼きつくのだ。

 

「ありがとう……! カブちゃん、今まで本当に、ありがとう……!」

 

 号泣しながら、倉田さんが手綱を引く。

 カブラヤオーはそっと、倉田さんの顔に自身の額を合わせる。

 この光景で、俺の涙腺は限界を迎えた。

 馬が人に寄り添う光景というのは、いつ見ても泣けてしまう。涙腺が緩いとかどうこうじゃない。見るだけで昇天してしまいかねない。

 

 倉田さんはカブラヤオーの頭に手を添え、撫でる。

 割れ物を扱うかのように、そっと優しく。

 ダメだ、これ以上は俺が保たない。それでも永遠にこの光景を堪能していたい。そんな自分がいる。

 

 カブラヤオーと倉田さんを祝福するように、またもや歓声が湧き上がる。

 こうして目の当たりにすると、こう実感できる。

 

 カブラヤオーは、確かに愛されていたんだと。

 

 

 後日、新しく購入し事務室に設置したラジオから、なんとカブラヤオーの話題が飛び出してきた。

 お笑い馬券師だったか、そういう類の方がカブラヤオーの名前を幾度となく口にしていた。

 そこからさらに時を重ねると、今度は競馬そのものを主題にしたラジオが流れ始めたのだが、その際もカブラヤオーの話題で持ち切りだった。

 他にもトウショウボーイやらテンポイントやらシアトルスルーやら、そういった名前も出てきていたが、一番話題になっていたのはカブラヤオーだった。

 

 ここまでされると、もう思い知るしかなかった。

 カブラヤオーたちのおかげで、競馬ブームの気運が高まりつつあると。

 

 

 

 

 

 預託馬の様子見も兼ねて、伊坂先生の厩舎を訪れると、少しげんなりした様子の伊坂先生が出迎えてくれた。

 

「お、オーナー、助けてください……」

 

 開口一番、助けを求められたのだが。

 だいたい察しはつく。察したくないが。

 

 

 調教コースに通されると、予想通りの光景が目の前に広がっていた。

 そう、つい最近入厩したジョンヘンリー。彼が人を背に荒れ狂うという、そんな光景だ。

 

 ジョンヘンリーは暴れながら走っている。調教をつけている人からすると堪ったものではない。

 それでもなんとか走らせている辺り、ジョンヘンリーの背に乗る人はただ者ではないのだろう。

 

「すみません、ジョンヘンリーの背に乗っている彼は?」

 

「ああ、彼ですか。……おーい! オーナーが来ましたよ!」

 

 その一声に反応して、下馬し、ジョンヘンリーを引いてこちらにやってくる。

 

「ああ! オーナーさんですか! すんません、自己紹介が遅れてしまって……」

 

 ジョンヘンリーをなんとか御するとはなかなかのやり手。きっと気性難の扱いが上手い騎手なのだろう。

 

「自分、山南克弥(やまなみかつや)っていいます! よろしくお願いしますわ! ジョン、オーナーさんやってきとるで。ほら、挨拶せな」

 

 名前を聞いて、合点がいく。

 なるほど、確かに彼ならジョンヘンリーを乗りこなせるかもしれない。

 

「一月のデビュー戦、ワイが鞍上務めますんで、そこはよろしくお願いします! あっ、ちょっ、ジョン! 暴れんでくれって!」

 

 たぶん……上手くやってくれるだろう。




 1977年度 表彰馬

 最優秀三歳牡馬:シアトルスルー
 最優秀古馬牡馬:カブラヤオー
 最優秀ダート馬:シアトルスルー



 年度代表馬:シアトルスルー(187票、カブラヤオーは113票)
 顕彰馬:カブラヤオー


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ウィキペディア風百科『カブラヤオー』 ※ネタバレ注意

 ※警告!

 この項目には、物語の今後や根幹に関わるネタバレが含まれます。
 本当に閲覧しますか?



 本当によろしいですか?



 後悔しませんね?


 カブラヤオー(1972年~2009年)とは、史上初めて無敗でクラシック三冠を達成し、さらには凱旋門賞でも好走するなどした、日本競馬が誇る怪物の一角。

 出走したレース全てで狂気的なまでの超ハイラップを刻んでいることから、『狂気の逃げ馬』と称され、愛された。

 また、種牡馬としても怪物を生みだした。

 

 

 性別:牡

 毛色:黒鹿毛

 生年:1972年

 没年:2009年(37歳)

 父:ファラモンド 母:カブラヤ

 生産国:日本

 調教師:栗東・伊坂周二

 主な勝ち鞍:クラシック三冠(皐月賞、日本ダービー、菊花賞)、秋古馬三冠(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)、宝塚記念

 表彰:年度代表馬(1975年、1976年)、最優秀3歳牡馬(1975年)、最優秀古馬牡馬(1976年、1977年)

 

 

【幼駒時代】

 

 当歳馬時代のカブラヤオーは、非常に見栄えが悪く、その姿は馬主や調教師たちからは不評で、「とても買えない」と言われてしまうほどだった。

 だが、そんなカブラヤオーを一瞥して購入を即決した馬主がいる。その人物こそ、当時は若年の馬主だったオーナーであった。

 オーナーは「引き取り手がいないなら今すぐにでも買わせてくれ」と頭を下げ、その態度に生産者側は困惑しながらもカブラヤオーを売却。

 こうして、牧場での育成を経て、カブラヤオーは伊坂周二厩舎に預託されるのだが、現時点では誰がこの見栄えの悪い馬が三冠馬になろうなどと予想できていただろうか。

 

【競走馬時代】

 

 預託されて一目見たとき、調教師の伊坂周二は期待でいっぱいになったという。

 オーナーから「化け物のような馬ですよ。……たぶん」と話されていたのもあるが、従順で人懐っこく、柔軟性もある。それらの要素を踏まえて、伊坂は「重賞のひとつやふたつは貰ったな」と確信する。

 

 11月に東京競馬場で行われる新馬戦(芝1800m)に出走。鞍上に全戦に渡り手綱を取ることとなる倉田隆景を据え、デビュー戦を迎えた。

 ここでは9頭中7番人気と、非常に低い評価だったのだが、それを嘲笑うように大逃げを打ち圧勝。着差は8馬身。当時、伊坂はこの結果はまあまあとコメントしていたが、一方で倉田は衝撃を受けたという。

 

「今でも思い出せるぐらい、凄まじい手応えで逃げてくれましたからね。なんなんですかね、あのカブちゃんは……」

 

 勢いに乗り条件戦の葉牡丹賞(中山・芝2000m)も楽勝すると、いよいよ重賞制覇に乗り出す。

 2月の共同通信杯(GⅢ・東京・芝1800m)。このレースに出走したカブラヤオーだが、運悪く昨年の2歳女王テスコガビーと当たってしまう。

 しかしこれで怯む陣営ではない。13頭中11番人気という低評価を受けながらも、好スタートから大逃げに打って出る。

 最終直線ではテスコガビーの猛追によりだいぶ差を縮められたが、のちの二冠牝馬相手に一馬身残して勝ち切る。

 これが倉田にとっても、カブラヤオーにとっても、重賞初勝利となった。

 

 そのあとも弥生賞(GⅡ・中山・芝2000m)を圧勝。皐月賞では本命と目され、1番人気に支持される。

 ここからが、カブラヤオーの大逃げ伝説の幕開けとなった。

 皐月賞(GⅠ・中山・芝2000m)では競りかけてくる他馬を意にも介さず、楽々と逃げ切り。

 日本ダービー(GⅠ・東京・芝2400m)は距離不安を囁かれるが、それでも1番人気に。期待に応え、ここも圧勝で飾る。

 休養を挟み、秋の神戸新聞杯(GⅡ・阪神・芝2400m)での勝利を叩きに、いよいよ菊花賞(GⅠ・京都・芝3000m)へ。

 無敗での三冠が懸かった一戦。カブラヤオーはそれすらも逃げ切り勝ちで収め、史上初の無敗三冠を達成する。

 

 セントライト、シンザンですら成し遂げられなかった無敗のままでの三冠。その偉業を、この馬は大逃げという玉砕的な走りで成し遂げたのだ。

 3頭目の三冠馬となったカブラヤオーは、日本競馬の締め括りである有馬記念(GⅠ・中山・芝2500m)に出走。

 カブラヤオーは有馬の大舞台で、伝説を創り上げた。

 前半1000mをスプリントのようなタイムで通過すると、最終直線でも手応えは鈍らず、フジノパーシアらの差し脚を完封し圧勝。

 無敗三冠馬が無敗のまま有馬記念を制覇。それを初めて成し遂げたのが、カブラヤオーだった。

 

 4歳になってもカブラヤオーは止まらない。年明け初戦の大阪杯(GⅠ・阪神・芝2000m)でも他をちぎり捨て勝利。

 宝塚記念(GⅠ・阪神・芝2200m)では故障から復活したテスコガビーが出走してきたが、これすらも退ける。

 まさに止まるところ知らずの『狂気の逃げ馬』。カブラヤオーはまだまだ伝説を打ち立てる。

 

 天皇賞(秋)(GⅠ・東京・芝2000m)ではひとつ下の三強世代、TTGの一角であるトウショウボーイがカブラヤオーを打ち倒すために参戦。

 しかしカブラヤオーには敵わなかった。カブラヤオーに逃げ切られ、トウショウボーイは返り討ちに遭う羽目に。

 トウショウボーイを完封した勢いそのままに、カブラヤオーはジャパンカップ(GⅠ・東京・芝2400m)にも出走。

 雨により重くなった芝をものともせず、海外馬すら蹴散らし圧勝。

 

 まさに無双といえるカブラヤオーなのだが、次走の有馬記念は少し危うい辛勝となってしまった。

 同じく伊坂厩舎所属であり、TTGの一角であるグリーングラスに最終直線で並びかけられてしまう。

 これには流石の倉田も大慌て。

 

「あのときばかりは、負けたかと思いましたね。だけど、なぜか伸びてくれたんですよ」

 

 そう、カブラヤオーは土壇場で二の脚を発揮。叩き合った末に、グリーングラスになんとか辛勝。

 無敗のまま有馬記念連覇という大記録を打ち立てたところで、カブラヤオー陣営は凱旋門賞(仏GⅠ・パリロンシャン・芝2400m)を最終目標に、渡仏するローテーションを発表。

 そのための前哨戦として大阪杯に出走したが、もはや蹂躙といえるような逃げっぷりで他を圧倒。トウショウボーイを再びちぎり捨てた。

 

 そうして6月。遂にカブラヤオーはフランスへ渡り、現地の大レース、サンクルー大賞典(仏GⅠ・サンクルー・芝2400m)に出走。

 生涯の相棒、倉田隆景と共に、海外馬相手に見事な逃げ切りを見せつける。

 フォワ賞(仏GⅡ・パリロンシャン・芝2400m)でも力を見せつけると、いよいよ凱旋門賞に挑戦。

 

 しかし、結果はアタマ差抜け出されての2着。勝ち馬はアレッジドという、アイルランド所属馬だった。

 生涯初めてにして、唯一の敗戦。この瞬間を以て、カブラヤオーの無敗記録は途切れてしまう。

 

 帰国後、カブラヤオーは有馬記念に出走予定だったという。

 しかし、ロンシャンでのダメージが余程大きかったのか、歩様に乱れが見られ、出走を断念。

 5歳ということもあって、引退と相成った。

 

【種牡馬時代(※ネタバレ注意)】

 

 

 

 引退後は種牡馬入りし、初年度種付け料が1500万円という超高額価格で設定されるが、内国産馬というのが災いし、あまり種付け依頼は来なかった。

 だが父父のシカンブルに注目し、オーナーはシーバードを父に持つアレフランスという牝馬にカブラヤオーを種付けさせた。

 すると初年度産駒から、いきなり三冠牝馬を輩出。

 しかし初年度でGⅠ勝ち馬はその産駒だけだったため、他の生産者からの種付け依頼はそこそこ増える程度に留まる。

 

 その状況を狙ったのか真偽は不明瞭なままだが、1979年の年末にフランスから10億円でカブラヤオーの購入を打診される。

 しかしオーナーはそれを拒絶。こうしてカブラヤオーは日本に留まったが……種牡馬引退時、カブラヤオーの最終的な種付け料は950万円であった。

 

 カブラヤオーは27歳まで種牡馬を続け、28歳に種牡馬引退。功労馬として繋養される。

 

 

 

【功労馬として(※ネタバレ注意)】

 

 

 

 種牡馬引退後も、カブラヤオーは功労馬として牧場を支え続けた。

 カブラヤオー目的で訪れるファンだったり、カブラヤオーの主戦騎手だった倉田がたまにやってきたり、様々な人間と関わるのだが、どの人間相手でも大人しかったという。

 特に子供相手には優しく、自ら鼻を差し出して撫でさせたこともあったようだ。

『狂気の逃げ馬』という物騒な異名からは想像もできないくらい、穏やかに余生を送っていたのだが……。

 

 

 

【最期】

 

 

 2009年、10月。カブラヤオーを馬房から出した直後、嘶いたかと思えば、急に倒れ込んでしまった。

 すぐさまオーナーが駆けつけると、カブラヤオーは一鳴きしたあと、静かに目を瞑ったという。

 享年37歳。異名からは程遠い、安らかな眠りであった。




 ご長寿カブラヤオー概念……。


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1978年
悲劇から始まる1978年


「はあ……」

 

 朝になって早々溜め息を吐いてしまう。

 手に持っている競馬新聞から目を逸らす。現実から目を背けるように。

 

 1978年という年を迎え、日本競馬も新たなスタートを切ろうとしていた。が、年の始めから悲劇は突然にして起きてしまった。

 

 俺の前世でもその出来事は起きている。だからこそ、身構えてはいたのだが……本当はそうならないでほしかった。

 一月に行われる日経新春杯(GⅡ・京都・芝2400m)。そのレースで、ある一頭の馬が故障してしまう。

 その馬は、グリーングラスとも幾度となく激戦を繰り広げた、昨年の有馬記念勝ち馬だったテンポイント。

 

 致命的な故障であったが、つい最近まで治療が施され、持ち堪えていたようだ。

 しかし……残念ながら、先ほど競馬新聞でテンポイントの安楽死が伝えられた。

 無念としか言いようがない。この世界でも、彼は名馬である。これは断言できる。

 競馬に神さまという存在がいるのなら、その神さまには人の心がわからないのだろう。

 これほどの名馬が突然の死を迎えるのは、あまりにも辛い。

 

 だが向き合うべき現実はこれだけではない。

 視界に入れたくない現実を目の当たりにせねばならない。今から目にするのは、自分の所有馬に関する出来事なのだから。

 

 目を背けたくなるような出来事が書かれている競馬新聞に、今一度目を向ける。

 ああ、競馬新聞を読むのが、こんなに憂鬱なのは久しぶりかもしれない。

 

「シアトルスルー……よく頑張ってくれたよ……」

 

 目元から涙が溢れ、零れそうになる。

 再び海外遠征しサウジカップに出走したシアトルスルーなのだが……余程現地が合わなかったのか体調不良で調整ができず。

 鞍上の小田部さんの指示にはなんとか応えてくれて、逃げを打つ。ここまではよかった。

 けれども、最終直線ではとうとう捉えられ三着に敗れてしまう。

 

 現地でも圧倒的な人気を集めていただけに、日本競馬のみならず世界中の競馬メディアがシアトルスルーの敗北を報じた。

 報じるのはやめてほしいが、体調不良での敗北なら仕方ない。それでも三着に逃げ粘ってくれたシアトルスルーを褒め称えたい。

 

 小田部さんも悔しそうに表情を歪めつつも、本調子のシアトルスルーはこんなものではないと信じている。

 実際、本調子とはあまりにかけ離れすぎていた。でも世界最高峰レースのひとつで三着。調子さえ取り戻してくれればどうとでも立て直せる。

 

 シアトルスルーの次走はメイダン競馬場で開催されるドバイワールドカップ(GⅠ・ダート2000m)。

 体調はよくなりつつあるらしい。伊坂先生からもたらされた情報が正しければ、確実に勝てる。

 トリプルクラウンホースの真髄、今度こそお見せしようではないか。

 

 

 

 

 放牧地へ出てみれば、可愛い所有馬たちが遊び回っている。

 一歳馬のダンジグと、もう一頭――モンテプリンス。

 二頭は走り回ったり、飛び跳ねたり、各々動いている。

 これには思わず微笑んでしまう。表情筋に優しい。

 

 言わずもがな、馬というのは愛らしい。

 ひとつひとつの挙動や仕草もそうだが、たまに愛嬌を振りまいてくるような寄り添い方をされると堪ったものではない。

 そうされた途端、俺は星と化す。いわゆる昇天というものだ。

 真っ白に燃え尽き、灰と帰す。尊さと可愛さをぶつけられた人間はだいたいそうなる。

 

 このままでは俺も天に召されかねないため、一旦撤退としよう。

 すると、普段はあまり人を近寄らせないダンジグが歩いてきたではないか。

 遠目には水溜りを蹴り散らしているモンテプリンスの姿も。ああ、なんと愛らしい。

 だが目の前に来たダンジグにとどめを刺された。

 柵の間から頭部を差し出してきたので、限界にまで至った俺は、ダンジグを驚かせないようゆったりと近づき、彼の頭部をそっと撫でる。

 まさに致命的な一撃。いや、モンテプリンスの時点で致命傷を負っていたが。

 

「ああ……尊い……」

 

 俺はダンジグを撫でながら、真っ白に燃え尽きてしまった。

 可愛いさと尊さが悪い。俺は悪くない。だから精々悶えさせてくれ。

 

 しばらく撫でていると、飽きたのかダンジグは移動してしまう。

 ほぼ微動だにしなくなった俺を傍目に、ダンジグはモンテプリンスのもとに駆け寄る。

 そうしてダンジグも水遊びをし始める。

 

「……ドバイワールドカップもだけど、幼駒の生まれる四月も楽しみだなぁ」

 

 その独り言は、虚空に呑まれていった。




 競馬の神さまは邪神定期。


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三月を越えて

 三冠馬カブラヤオー引退、トウショウボーイ引退、マルゼンスキー故障引退からのテンポイント予後不良、シアトルスルーがサウジカップで惨敗とか、日本競馬ファンは心が折れそうなんですが……。


『さあ、阪神の直線勝負! 馬群は一塊となっている! 大外からやってきた! 末脚を使ってやってきた! 無敗馬ジョンヘンリーと山南克弥! 先行集団を一気に撫で切って先頭に躍り出た! 追える馬はいない! ジョンヘンリーが引き離していく!

 ジョンヘンリーが先頭でゴールイン! やはり無敗馬! ここでも強かった無敗馬! 出遅れながらも末脚だけで勝ちを掴んでみせました!』

 

 

 

 

 阪神のリステッド・若葉ステークス(芝2000m)を終えた馬たちが次々と地下馬道にやってくる。

 若葉ステークスの勝ち馬となり、皐月賞への優先出走権を勝ち取ったジョンヘンリーも、山南さんを乗せたまま戻ってくる。

 ジョンヘンリーの様子は余裕を保ったまま。疲労面では問題なさそうだ。

 山南さんが鞍上から降り、ジョンヘンリーの背から鞍とゼッケンを外す。

 

 馬のほうは余裕そうだったが、一方で騎手は若干息を切らしている。

 それもそうだろう、騎手からしたら、今日の競馬はあまりにも余裕のなさすぎる競馬だったから。

 出遅れた時点で騎手だけでなく陣営も焦るというもの。レース中に荒ぶらなかっただけ前走の条件戦よりかはマシかもしれないが。

 

「山南さん、大丈夫ですか?」

 

「な、なんとか……」

 

 これでも今回は折り合いをつけれたほうで、前走までがもっと酷かった。

 ジョンヘンリーに乗るたび山南さんは燃え尽きている。こんな現状で大丈夫なのだろうかと、正直不安しかない。

 

「じょ、ジョンは、今日は折り合えてました……出遅れさえ、どうにか、できれば、ゼェ……ハァ……大きなところも、狙え、ます……」

 

 うん、大丈夫じゃなさそうだ。とはいえジョンヘンリーから山南さんを降板させる気はないが。

 こうなってくるとクラシックはかなりキツい。ジョンヘンリーがいくら実力馬でも、その能力を活かせねば敗退は間違いない。

 

 ジョンヘンリーの気性はかなり激しい。そのせいで、史実では騸馬にされたほど。

 史実で所属していた米国と今いる日本とでは、騸馬にする基準がけっこう違う。

 気性を和らげるためにするのは共通だが、日本だと滅多にない。

 そう考えるとなんなのだろうか、日本競馬は頭鎌倉武士かな。

 ともかくとして、ジョンヘンリーの気性難はどうにかせねばならない。

 

 騸馬にするか――否。わがままではあるが彼の産駒が見てみたい。

 ではどうするか――根性でどうにかするしかない。先ほど日本競馬は頭鎌倉武士と述べたが、どうやら俺も当てはまりそうだ。

 

「皐月賞の優先出走権は大きいです。次もどうかジョンヘンリーのことをお願いします」

 

「ま、まあ、自分もなんだかんだ、あの馬、気に入ってますからね……。次も任されました」

 

 皐月賞でも山南さんが騎乗してくれるというのなら心強い。

 勝てるかどうかは本番にならないとわからないが、十分な結果は出してくれるはず。

 

 

 

 

 ドバイ・メイダン競馬場。

 砂漠に囲まれたこの競馬場で、遂に大一番が迎えられようとしていた。

 ダート十ハロン(2000m)、GⅠドバイワールドカップ。

 

 とてつもない賞金額を誇る大レースに、一頭の日本馬が挑もうとする。

 休養明けのサウジカップこそ不調により三着に敗れたが、このドバイで雪辱を果たしたい王者シアトルスルー。

 昨年に米グランドスラムを達成したというのもあってか、サウジカップで敗れたにも関わらず一番人気に推されている。

 

 このレースに出走する頭数は十一頭。

 世界でも最高峰のひとつに数えられる賞金を目当てに、世界中から強豪が集う。

 それでもシアトルスルーなら勝ってくれる。

 今回も小田部さんを鞍上に据えての出走。シアトルスルーは返し馬から絶好調といったところ。

 

 日本の夢を背にドバイに降り立った白鳥――いや、不死鳥。

 それが再び、羽ばたくときが訪れた。

 

『日本の夢掴めるか!? 今年のドバイワールドカップにトリプルクラウンホース、シアトルスルーが挑みます! ゲート入りが終わりまして……間もなく発走となります!

 

 スタートしました! 日本のシアトルスルー、猛然とゲートから飛び出ました! とてもいいスタートを切りました!』

 

 素人目でもわかるぐらい、スタートはよかった。

 その勢いに乗って先手を奪う。鞍上の小田部さんは手綱を握ったまま。

 二頭ほど先頭のシアトルスルーを突いてくるが、どちらもそのスピードに追いつけずそれぞれ二番手と三番手に控える。

 

 シアトルスルーは淡々と逃げるだけ。それだけで、後続は必死になって追ってくる。

 だが完調状態のシアトルスルーには、誰も追いつけない。

 ただ逃げるだけ。逃げて逃げて逃げる。

 だというのに、いつの間にか後続との差は三馬身ほど開いているではないか。

 間違いなく、1000mの通過タイムは破滅的なタイム。57秒台ぐらいかもしれない。

 

 けれども不死鳥は羽ばたくことをやめない。

 他を置き去りにしたまま、飛び立ってしまうのだ。

 

『最終直線! 最終コーナーを回りまして、メイダン競馬場の最終直線!

 先頭は逃げる逃げるシアトルスルー! 先頭は決して譲らない! シアトルスルーが復活する! アメリカンドリームが蘇る! 鞍上の小田部信夫は手綱を扱くだけ! 鞭など要らぬとばかりに、完全に独走態勢に入った!

 後続との差は、六馬身、七馬身と広がっていく! これこそがシアトルスルーの本領か!? トリプルクラウンホースの、真の実力か!?

 

 シアトルスルーが先頭のまま、逃げ切った! 今ゴール板をくぐり抜けました! シアトルスルーの完勝でした!

 日本馬として史上初めて、ドバイワールドカップを制覇しました! トリプルクラウンホースのシアトルスルーです! 小田部信夫は小さくガッツポーズ!』

 

 

 

 

 シアトルスルーのドバイでの圧勝劇は、まさに圧巻としか言いようがなかった。

 ドバイワールドカップを勝利したことによって、俺の牧場もさらに発展させられる。

 ただ……シアトルスルーの問題は引退後かもしれない。




『シアトルの背』の発刊年を1984年にするべ……。


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荒ぶる英雄、それから、いずれ来る白き悪夢

 実はジャパンカップに参戦したことがある史実ジョンヘンリーさん。


 案の定としか言いようのない光景が、目の前に広がっていた。

 中山競馬場、皐月賞。芝2000mのGⅠ。

 またもや彼がやらかした。

 

『皐月賞、間もなく発走の時刻となります!

 

 スタートしました! あーっと! ジョンヘンリーが出遅れた! ジョンヘンリー、これは出遅れてしまった! 前のいきますのがサクラショウリ、先行していきます』

 

 ジョンヘンリーは大一番でも出遅れてしまう。

 間違いなく問題は気性にある。まあ、憂慮していたのがここでも当たってしまったとなると、頭を抱えるしかない。

 それでも鞍上の山南さんはめげずに最後方から競馬をしてくれた。そのおかげで、こちらに一筋の光をもたらしてくれた。

 

『クラシック一冠目、皐月賞、最終直線に入ります!

 短い直線! 先頭で、逃げに逃げるのがサクラショウリ! これは逃げ切ってしまうぞ! これは逃げ切ってしまうぞ! サクラショウリが逃げ切り態勢に入っている!

 外からシービークロス! 芦毛の馬体が追い込んでくる! だがそれ以上の脚色が大外、最後方から飛んできている! 豪脚一閃、ジョンヘンリーだ!

 残り100m! サクラショウリ先頭! 二番手ジョンヘンリー! 一気に脚を伸ばしてくる!

 しかしサクラショウリが粘る! サクラショウリがなんとか粘る! ジョンヘンリーが来る! ジョンヘンリーが来る! サクラショウリに並びかける!

 

 

 だが並んだところでゴールイン! 僅かにサクラショウリ、ほんの僅かにサクラショウリか!? 写真判定となりました! しばらくお待ちください!

 

 

 ……今出ました! 皐月賞、勝ったのはサクラショウリ! 見事粘り切りました! あと一歩、ハナ差で二着がジョンヘンリーであります!』

 

 

 

 

 まさにあと一歩、あと一歩及ばなかった皐月賞となったが、山南さんは笑みを湛えていた。

 どこか不敵な、何かを閃いたような笑みだった。

 

「山南さん、お疲れさまでした。皐月賞は――」

 

「オーナー、わかりましたわ」

 

「……はい?」

 

「ワイなりに掴んだかもしれませんわ、ジョンヘンリーの乗り方を」

 

「そっ、それは本当ですか!?」

 

 山南さんは笑みを深める。

 その笑みからは、かなりの自信が感じ取れた。

 

「次、どこいきます?」

 

「えーと、皐月賞で二着だったので、伊坂先生との相談次第ではありますが……恐らく日本ダービーになります」

 

「なるほど、そこでなんですけどね――」

 

 

 

 ――自由に乗らせてもらって、ええですか?

 

 笑う。山南さんは笑っているだけなのに、その表情がまるで鬼のように見えてしまう。

 歯を剥き出しにし、獰猛な笑みを湛える。

 次こそは勝利を確信したような笑み。

 背筋に冷たい何かが伝う。そうなるほどに、山南さんの笑顔は獰猛だ。

 

「ダービー、勝ちますよ。ジョンなら、勝てます」

 

 口角を上げたのち、山南さんは頭を下げる。

 

「だから、お願いします。ダービーでは自由に乗らせてください」

 

 ジョンヘンリーという馬の手応えを掴んだからこそ、山南さんはここまでするのだろう。

 だとすれば、今の俺の選択肢はひとつ。

 

「わかりました、上手く乗ってくださいね」

 

 今の俺にできるのは、そう口にすることだけである。

 

 

 

 

 

 牧場にある育成場では、一頭の芦毛馬が坂路コースを駆け上がっていた。

 もはや説明するまでもない。米国から購入したスペちゃんこと、スペクタキュラービッドだ。

 二歳になりいよいよ入厩間近となった現在、本格的な育成に入り、こうして走らせたりしている。

 スペクタキュラービッドの背に跨り、馴致を施しているのは牧場長の牧野良夫さん。

 今日はどうやら、馬なりで走らせているようだ。

 

 俺も馬に乗って馴致をつけてみたいのだが、やろうとしたら落馬しそうになって危なかったことがある。

 そのため、落馬しかけた以降は牧野さんだったり、他のスタッフだったりにやってもらっている。面目ない。

 

 にしても、スペちゃんは意外にも生き生きと楽しそうに走っている。

 一部の人はこういう馬を競走族と呼ぶらしい。走る馬もこんなに可愛いのに。

 まあ、スペクタキュラービッドという競走馬自体はだいぶおかしいのだが。

 

 と、牧野さんがスペちゃんから下馬する。スペちゃんの頭を撫でたのち、引き綱を引いてこちらにやってくる。

 

「……なんですかね、この馬」

 

「その言葉をそっくりそのままお返ししたいです」

 

「走らせると相当なんですよ、この馬。芦毛なのに」

 

「そりゃあ、UMAですし……」

 

「芦毛馬でここまで走りそうなのは初めてですよ……」

 

 スペちゃんのほうを向く。肝心の本馬は辺りをキョロキョロと見回していた。そういうところだぞ。

 

「スペちゃんどうです? 走りそうですか?」

 

「走りますよ。調教だけじゃなく、レースでも」

 

「あの牧野さんがここまで言うとは……やはりUMAは全てを解決する……」

 

 牧野さんが相当な評価を下すのも珍しいが、頷ける。だって史実を知ってしまっているし。

 

 だがこれでわかるのは、スペクタキュラービッドが予想の遥か上をいくかもしれない、とんでもない馬だったということだ。

 

「あ、そうだ。オーナー」

 

「はい?」

 

「シェリルの仔、メジロアサマの産駒が無事に産まれましたよ!」

 

 唐突にもたらされた吉報。その言葉を聞き届けたと同時、放牧地のほうに全力ダッシュで向かう。

 

「……行動は早いんだよなぁ」




 スペクタキュラービッドVSシアトルスルーとか書いてみたかったけど、年代がね……。


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悲願の継承

 メジロティターンでダービーを勝つのは気持ちいいからみんなやれ。


 メジロアサマを父に持つシェリルの仔が産まれたと聞いて、全速力でシェリルのいる馬房に向かう。

 父メジロアサマ、母シェリル。そんな血統の仔が産まれたのなら、あの人に伝えなければならない。

 メジロ総帥である北見豊武さんは、メジロアサマ産駒を夢見続けていた。

 こういう形になってしまったとはいえ、どうか執念の結実を目にしてほしい。

 

 シェリルの馬房に赴くと、そこにはある人物が先にやってきていた。

 

「北見さん!? どうしてここに!?」

 

「ははは……私としたことが、先んじてオーナーの挨拶に伺うべきでした。どうかご無礼をお許し願いたい」

 

「それはいいのですが……」

 

 いつ来たのだろう、という疑問が喉元から出かかる。

 

「先ほど、シェリルの仔が産まれていると聞きつけましてね。慌てて飛んできた次第です」

 

「そうだったのですね。すみません、連絡も何もせず……」

 

「ああ、いえいえ! シェリルの仔が産まれたとあらば、いつでも飛んできさせていただきますよ!」

 

 それにしても、と北見さんは言葉を続ける。

 

「まさか、まさかこの配合とは……ああ、夢にまで見た仔ですよ……」

 

 シェリルの側に佇む芦毛の仔馬に目をやる。

 すると『☆メジロティターン』という馬名が、俺の目に表示される。

 

「北見さん、この仔は――」

 

「ああ、見たかった、この配合を見たかった……! まさか本当に産まれてくれるとは……!」

 

「あ、あの……?」

 

「あっ、す、すみません。どうしても興奮を隠せず。飛んだご無礼を」

 

 咳払いして、仕切り直す。

 この仔馬が産まれたのならば、この話を切り出さねば。

 

「北見さん、この仔馬なんですが……」

 

「まさか、売りに出されるおつもりですか?」

 

 あからさまに北見さんの表情が曇る。

 

「まあ……それはそうなんですが。ですが売却先が――」

 

「この仔馬はあなたが生産してくださった、私の夢ですよ!? それだけは、どうか! どうかお考え直しください!」

 

「ちょっ、北見さん!?」

 

 肩を掴まれて、思わず声を荒げてしまう。

 そこで自分がしたことに気づいたのか、我に返った北見さんが肩から手を離してくれる。

 

「……売却先はいったいどこに?」

 

「あなたのところですよ、北見さん」

 

 北見さんは一瞬だけ大きく目を見開く。

 まさか、売られるとは考えてなかったのだろうか。

 

「……申し訳ないですが、お断りします」

 

 ……え?

 

「確かに、私の夢はここに果たされました。その仔を欲しくないといえば嘘になります。ですが……その仔馬も、母馬も、父馬も、もう既にあなたのものなのです」

 

「つまりは……」

 

「はい、これはあなたのもの。ここでポンと夢を渡されるというのは、私の矜持、プライドが傷つくだけです。ですから私は、この仔馬を敢えて拒絶しましょう」

 

「………………」

 

 ああ――やられた。

 これがオーナーブリーダーの、メジロの誇り。

 俺は彼を、メジロ総帥を見くびってしまっていたかもしれない。

 

「……この仔はいずれ、ダービー馬になるかもしれません。種牡馬となった暁には、つけてみたいものですね」

 

 北見さんの表情は、先とは打って変わって、あまりにも穏やかなものだった。

 どこか惜しむように、悔しげに。それでも彼は微笑む。

 

「……先のご無礼、大変失礼しました。では、私はこれで」

 

「あの!」

 

「…………」

 

「ひとつだけ、ひとつだけお願いがあります!」

 

 北見さんは振り返らない。

 決してその表情を見せない。

 今から大変失礼な言葉を吐く。

 だが口にしなければ。

 そうしなければ、俺の気が晴れない。

 

「メジロの名を! メジロの冠を! この仔馬につけてもよろしいでしょうか!?」

 

 問いかけても、北見さんは振り返らない。

 

「……それは、なぜです?」

 

「あなたは父馬も俺の所有となったと、そう仰っしゃられた! であるなら、メジロアサマのメジロというのはただの馬名となったはず! だからその名を、仔に継がせるというだけです! しかしメジロと名づけるのなら、あなたの所有馬との関係がややこしくなってしまうため、一応はあなたの許可をいただきたいのです!」

 

「お言葉ですが、意味が矛盾していませんか? メジロアサマはもうあなたのもの。ややこしくなるのは認めますが、だというのならば、私の許可など必要ないはず」

 

「いいえ! 意味はあります! あなたに、この仔馬の名づけ親のひとりとなってほしいからです!」

 

「…………っ」

 

「だからこそ、あなたの冠名をいただきたい! この仔馬には、メジロという、父の名の一部があるべきなんです!」

 

 それでも、北見さんは振り返らない。

 だけれど、肩が小刻みに震えていた。

 それは怒りというより、動揺に近いのかもしれない。

 

「……わかりました。メジロという冠名の使用、許可します」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

「……どうか、この仔をダービー馬に。我々が叶えられなかった未知の領域へ、導いてやってください」

 

 その言葉だけ残すと、北見さんは足早に立ち去っていく。

 

 メジロには、悲願がもうひとつある。

 それは、ダービー馬を送り出すこと。

 確かに天皇賞制覇も第一目標であったというが、ダービーも同じくらい重要視していた。

 北見さんは恐らく、メジロアサマの産駒に天皇賞制覇だけでなく、ダービー制覇という夢も見せてもらいたかったのではないだろうか。

 

 彼の悲願、メジロの悲願。

 あまりにも大きすぎるものだが、この仔馬――メジロティターンに託すとしよう。

 きっと、勝ってくれるはず。




 引き継ぎありで1976年からスタートするとシェリルを貰える謎。


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『幻影の如き圧勝劇』

 アイルランド産馬だ、わーい。


 四月という月も過ぎ去り、五月。

 牧場の放牧地。そこにはつい最近に産まれた当歳馬が放牧に出されている。

 今所有している当歳馬は三頭。

 牧場で産まれたメジロティターン、モンテファスト、そして……。

 

「あっ! また買ってきましたねオーナー!」

 

「ばっ、バレたァッ!?」

 

「そりゃバレるに決まってますよ! 堂々と放牧してますし!」

 

 牧野さんのあまりの正論に、俺は何も言い返せない。

 まさにクリティカルヒット。致命傷を負ったわけだ。

 

「どうせまた海外から買ってきたんでしょう! これで何回目なんです!?」

 

「ははは……うん、はい」

 

「……で、血統は?」

 

「……はい?」

 

「血統書ですよ! 血統書! それを確認しないと気が収まりません!」

 

 慌てて血統書を懐から取り出し、手渡す。

 こうも早く血統書を要求されると、とうとう諦めがついたのかもしれない。

 だとすれば、流石に申し訳なさも湧いてくるというもの。

 

「次回以降は予め伝えておきます……」

 

「あ、ああ……お願いしますよ!」

 

 どうにも気まずさが生じるなか、牧野さんは黙々と血統書に目を通す。

 

「……この馬、いくらぐらいしたんですか?」

 

 血統書に目を向けつつ、牧野さんは唐突に問いかけてくる。

 アイルランド産の良血馬というのもあってだいたい……まずい、今さらながら自分の金銭感覚が狂っていることに気がついてしまった。

 

「確か、一億ぐらいだったような……」

 

「まあ……この血統だと、そうなりますよね。父のグレイトネフューは、欧州だと相当な良血馬ですからね」

 

 牧野さんは頭を抱えながらも、血統書を返却してくれる。

 この血統書に記載されている父と母は、俺にとっては見覚えがある。

 父グレイトネフュー、母シャーミーン。しかも1978年生となれば、行き当たる馬は一頭しかいない。

 

「ですけど、こんなゴリゴリの欧州血統、本当に日本で走りますかね? 私としてはそれが一番不安で……」

 

「走りますよ! ……たぶん」

 

「そのたぶんはなんですか、たぶんって。確信を持ってくださいよ」

 

 改めて、鹿毛の仔馬に目を向ける。

 この仔馬もいずれ、名馬となりえる素質を秘めている。

 それをどこまで引き出せるかどうかは、今でも史実でも未知数だが、やるしかない。

 俺の知っている史実では、この仔馬はクラシックディスタンス――2400mという王道距離だと無敵を誇る。

 ラストランでは距離が合わず惨敗してしまったが、それでも底がないと思わせるほどの強さを有していた。

 

 目の前を走り抜けていく仔馬に視線を注ぐ。

 表示されたのは『☆シャーガー』という馬名。

 そう、彼は将来、あの英愛ダービー馬シャーガーとなるであろう存在。

 これほどの馬をアイルランドから買いつけれたのは、本当に予想外だった。

 

「しかし……この馬、2400mとか、中距離が得意そうですね。ダービー勝ちを目指すのもいいかもしれませんね」

 

 牧野さんの呟きに目を見開いてしまう。

 なんでわかるのか、これが俺にはわからない。

 

「仕上がりも早そうですからね。それに……」

 

「はい?」

 

「この仔、英ダービーやキングジョージ、果てには凱旋門賞すら手にしてくれるかもしれませんよ」

 

 一瞬、今度は牧野さんが目を見開く。

 

「今度はこの馬で、凱旋門賞に挑もうというわけですね」

 

「はい。あまりにも悔しいので、国内で勝てたら海外遠征させようかと」

 

 拳を握りしめる。

 そのせいで爪が手の平に食いこむが、こんな痛みも感じれないほどに、思考が激情に染まっていく。

 

「血統的には欧州血統ですが、馬場適性がわからないからまだなんとも……」

 

「個人的には芝に適性がありそうな気がしますけどね……」

 

 史実を知っている転生者などと暴露すれば、どうなることやら。

 正直、想像もしたくない。

 

「……オーナー的にはどう思われますか?」

 

 牧野さんはシャーガーへ目配せし、問うてくる。

 

「大物になってくれると信じます。というか、信じるしかないので……」

 

「一億も注ぎ込みましたからね」

 

 これには苦笑いするしかない。

 耳の奥深くに突き刺さる言葉を貰ってしまった。

 

「まあでも、エイプリルフールのたびに現れるような馬にはさせませんよ」

 

「……?」

 

 牧野さんは首を傾げるだけ。

 対して、苦笑するのは俺。

 

 この仔馬がシャーガーならば、エイプリルフールで現れるようになってはいけない。

 そんなネタは、そもそも作らせない。

 シャーガーには、ぜひとも血を繋いでほしいという想いもある。

 絶対に、誰にも邪魔させない。




「シャーガーが発見されたってよ」

「え、マジ?」


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幕間 もしもこの世界の競馬ゲームにカブラヤオーが登場したら

 いったいどんな強さになるんだろう、と妄想しつつ書きました。
『ウイポ10』の発売が今から楽しみです。
 前半は物語、後半は競馬ゲームにおけるカブラヤオーの説明となっております。


 史実においても、この世界においても、カブラヤオーという名馬はとんでもない強心臓と超ハイペース逃げを武器とする。

 特にこの世界では屈腱炎などの大きな怪我をしていないうえ、無敗で三冠すら達成している。

 レースだと前半1000mでいつものように57秒台を叩き出すし、そんな大逃げを打っても他馬をちぎり捨ててしまう。

 

 まさに恐ろしすぎる『狂気の逃げ馬』。

 ある種の恐怖の象徴なのかもしれない。

 だが持ち馬であるカブラヤオーが、そう称されるのも頷ける。

 

 

「……カブラヤオー強すぎないか?」

 

 ゲームのコントローラーを投げ捨てかけるが、寸前で踏み留まる。

 今こうしてある競馬のゲームプレイしていたのだが……特定年に登場するカブラヤオーが鬼かと嘆きたくなるぐらい。

 あんまりすぎる強さで、クラシックに挑戦したゲーム内での俺の所有馬を叩き潰して、無敗三冠を達成したのだ。

 しかもゲーム内でのカブラヤオーの登場がゲーム開始直後からと来た。

 明らかに初見殺しだし、初心者殺しでもある。

 

 だが、このようなゲームをやってみて実感する。

 

「やっぱりカブラヤオーって、強かったんだな……」

 

 誰から見ても、どのような視点でも強かったのだろう。

 ゲームでの所有馬が手も足も出ないところを眺めていると、いかにあのカブラヤオーが異常だったのかがわかる。

 カブラヤオーへの対策をしようにも、大逃げされて蓋をして封じることすら許してくれない。

 果てには、プレイヤーの目の前で容赦なく三冠を達成してくる。製作者に人の心はなさそうだ。

 

 確かにカブラヤオーの強さはわかるのだが……こうも初っ端からカブラヤオーをお出しされると、なぜかあとになって登場するシンザンやセントライトなど、歴戦の三冠馬ですらまだ温情のように思えてくる。

 攻略本を買って確認してみたのだが、一応セントライト、シンザン、カブラヤオーの能力はほぼ互角だという。

 初見殺しの度合いは大逃げしてくるカブラヤオーの印象が強すぎるが。

 

 まあ、シンザンもシンザンでどのような位置でも確実に伸びてくる……が、体感だとカブラヤオーのほうが厄介な気はする。

 ペースを壊してくるし、しかも垂れない。

 やっぱり、この競馬ゲームに人の心はなさそうだ。

 

 セントライトも、シンザンも、確かにとんでもない強敵だ。

 カブラヤオーの初見殺しがあまりにも強すぎるだけだ。

 プレイして最初期に運良く皐月賞への出走に漕ぎつけたと思いきや、出走馬にカブラヤオーがいたときの絶望感。

 完全にプレイヤーの心を折ろうとしている。

 

 流石は『狂気の逃げ馬』――相対する他馬は全てちぎり捨ててしまう。

 にしても、登場させるタイミングというものがあるのではなかろうか……。

 

 

 

 

 

【攻略本から抜粋:カブラヤオー】

 

 

【プロフィール】

 

 

 父:ファラモンド

 母:カブラヤ

 性別:牡馬

 主な勝ち鞍:クラシック三冠、秋古馬三冠など

 

 

 1970年代の日本競馬にて、史上初めて無敗でクラシック三冠を制覇した名馬。

 レースに出走するたび、大逃げを打ち、超ハイペースを展開するため『狂気の逃げ馬』とも。

 また、日本馬として初めて仏国の凱旋門賞を善戦した。

 

 

【ゲーム内ステータス】

 

 

 実在馬としての登場:ライバル馬○ 繁殖馬☓

 主戦騎手:倉田隆景(関西)

 脚質:逃げ

 主な出走レース:クラシック三冠、春秋古馬王道路線

 馬場適性:芝

 スピード:SS+(ゲーム内最高クラス)

 距離適性:1800m~3000m

 根性:SS+

 末脚:S+

 位置取り:B+

 特殊能力:狂気の大逃げ、差し返し

 

 

【対策】

 

 

 危険度:SS(当たったら諦めるべし)

 

 

 序盤で当たったら諦めるべし。最序盤の牡馬クラシックなどに登場する。

 ゲームをかなりやり込み、カブラヤオーの展開する超ハイペースに耐えれる馬を用意する他ない。

 ただそこまでしても、ようやくカブラヤオーと同じ土俵に立ったに過ぎない。

 スピードと相当切れる末脚を持つ馬でないと、太刀打ちすらできない。

 勝ち方としてはカブラヤオーを徹底的に猛追し、最終コーナーでまくり、躱すしかない。だがこれがまた至難。

 マークさせるとさらにペースを上げてくる。そのため、スタミナ勝負と末脚勝負を同時にやれる馬が必須。

 また、最終直線でカブラヤオーを差すのは極めて危険。粘りに粘るうえ、差し切ったとしても差し返してくるというおまけつき。

 カブラヤオーに勝つなら、最終コーナーでまくって躱し、カブラヤオーの差し返しを耐え切る他ないという結論が出た。

 

 なお、あまりにも強すぎて編集部でカブラヤオーに勝てた者はいない。




 最序盤鬼畜カブラヤオー。


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春の盾と新種牡馬カブラヤオー

 天皇賞(春)連覇はメジロマックイーンの十八番だから……。


『さあ、淀の坂を経て最終直線! 先頭はまだ、まだ粘っているエリモジョージ! だがすぐ後ろからグリーングラスが一気にねじ伏せるか! グリーングラスか!? エリモジョージか!? どっちだ、どっちだ!? 粘ろうとするエリモジョージ、先頭を窺うグリーングラス! グリーングラスが猛追する! グリーングラスが猛追する!

 

 ここでグリーングラスが抜け出した! 緑のメンコ、グリーングラスが先頭に躍り出た! エリモジョージは追い縋るが届きそうにない! 叩き合い、競り合いは、グリーングラスが制した!

 ならばあとはゴール板のみ! 今、一気に、それをくぐり抜けました!

 今年も制した春の盾! 京都の、淀の桜を緑に染めたグリーングラス! 昨年はテンポイントを、今年はエリモジョージを破り、見事な天皇賞(春)連覇を達成しました!』

 

 

 

 

 京都競馬場のスタンドに渦巻くのは、拍手喝采の波。

 天皇賞(春)。芝3200mという長丁場を要する、春の古馬GⅠであり、例外なく数多の強豪が集いし激戦区。

 伝統あるこの春の盾を連覇というのは、並大抵の馬ができるものではない。

 

 グリーングラスが名ステイヤーだったからこそ、成し遂げれた。

 鞍上が淀に強い的田さんだからこそ、導いてくれた。

 調教師である伊坂先生にも、重ね重ね御礼を申し上げねばなるまい。

 陣営が一致し、挑んだからこその結果だ。

 

「グリーングラスも的田さんも、よくやってくれましたね。伊坂先生の調整もよく活きたようです、本当にありがとうございます」

 

「そうお声がけしてくださると、報われた気がしますね。とにもかくにも、的田くんがよくやってくれました。グリーングラスの天皇賞(春)連覇、おめでとうございます」

 

 笑って、伊坂先生がこちらに頭を下げる。

 この連覇は、俺たちにとっての喜び。

 そしてグリーングラスの強さの証明でもある。

 

 馬主席からウィナーズサークルに向かえば、そこには既にグリーングラスと的田さんが待ってくれていた。

 的田さんはグリーングラスの首元を二度優しく叩いて、笑顔を見せる。

 彼にとって、グリーングラスというのはかけがえのない馬になっているのだろうか。

 まだ若手だからないだろうが、そのうち、「僕がいなくてもやっていける」と言い張って降りそうなのが怖いところ。

 実際、史実で実例があるのだし。

 

「的田くん、どうや? グリーングラスの乗り心地は?」

 

「最高に決まっていますよ。僕なんかにはもったいないぐらい」

 

 このお方、いつかはやらかすな。

 俺がそう確信したのは、的田さんが伊坂先生に対して発した言葉からだった。

 できればそのまま乗っていてほしい。なんならグリーングラスの鞍上に縛りつけてやろうか。

 と、まあ、冗談はここまでにしておいて。

 的田さんも心底、この勝利を嬉しがっているようだった。

 

 天皇賞(春)からの次走は、伊坂先生との相談の末に決定した宝塚記念。

 昨年のリベンジを果たしたいところなのだが……。

 今年もどうやら、一筋縄ではいかないようだ。

 

 現段階で出走を表明している陣営がいる。その陣営こそ、昨年度の覇者エリモジョージ。

『気まぐれジョージ』と名高き癖馬が今年も出走するというのだから。宝塚記念はペースを警戒しながらのレースとなろう。

 昨年と同じようにしてやられるわけにはいかない。天皇賞(春)を勝利したのだし、余力があれば宝塚記念も勝ってほしい。

 

 その前に、ジョンヘンリーが出走するダービーも開催される。こちらにも注目しておかねば。

 皐月賞馬サクラショウリか、それとも外国産馬ジョンヘンリーか、あるいは伏兵か。ダービーは混戦と見られている。

 日本ダービー、宝塚記念、どちらも非常に心が躍る。開催はまだまだ後日だというのに、高揚感が全身を駆け巡る。

 ジョンヘンリーは山南さんに、グリーングラスは的田さんに手綱を委ねる。彼ら騎手が馬と心を通わせ、勝利へと結びつけてくれる。

 

 他にも楽しみはある。スペクタキュラービッドがそろそろ入厩間近となっているのだ。七月の始めには入厩するのではないだろうか。

 預託先は栗東に厩舎を構える馴染みの伊坂先生となる。預けたら早速誰を乗せるか決めておきたいところ。

 

 

 

「牧野さん、ちょっといいですか?」

 

 一枚の手紙を机の上に置き、牧野さんを呼び出す。

 

「はい、どうかされました?」

 

 そう返してくれたので、早速用件を切り出す。

 

「ちょっとカブラヤオーに会わせたい人というか、騎手の方がいましてね」

 

 おおよそ見当がついたように牧野さんは頷く。

 

「わかりました」

 

 

 

 それから一時間ほど経ると、ひとりの人物がこの牧場に顔を出す。

 若々しい男性、そう、騎手の倉田隆景さん。その人がわざわざ北海道にまで出向いて、カブラヤオーに会いに来てくれた。

 

「いきなりですみません、オーナー。今日はよろしくお願いします」

 

「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします」

 

 カブラヤオーの馬房がある厩舎に入り、見回していると。

 倉田さんは迷うことなく一目散にカブラヤオーのもとに歩み寄る。

 

「なんでわかったんです?」

 

 ちょっと気になったために尋ねると、

 

「なんとなく、匂いというか雰囲気というか、カブちゃんだなってすぐにわかったんです」

 

 そのような答えが返ってきた。

 ……馬に脳を焼かれるのは、案外、恐ろしいことなのかもしれない。

 

 するとカブラヤオーも倉田さん気配を察したのか、馬房から顔を覗かせ、鼻先をぎゅっと倉田さんの肩に当てる。

 倉田さんは嬉々としてカブラヤオーの首元をそっと撫でる。どこか気持ちよさそうに目を瞑るカブラヤオーは愛らしい。

 

「……元気そうですね、カブちゃん」

 

「とても元気いっぱいですよ。種付け後も甘えん坊なままで」

 

「カブちゃんらしいや」

 

 笑んで、倉田さんはハープを奏でるかのような手つきでカブラヤオーに触れる。

 

「……僕にはね、夢があるんですよ」

 

 カブラヤオーに視線を注ぎ、倉田さんが口を開く。

 

「カブちゃんの子供に乗って、少しでも恩返しがしたいんです」

 

 言葉を紡いで、想いを告げる。

 

「カブちゃんにはたくさん貰いましたから、今度は僕がやる番なんです」

 

 覚悟を決めたように、カブラヤオーからそっと手を離す。

 

「オーナー、どうかお願いします。もしカブちゃんの子を所有するのでしたら、よければ僕を乗せてください」

 

 大きく頭を下げて、倉田さんは願い出る。

 懇願するように、縋るように。

 ……ああ、この人はカブラヤオーに脳を焼かれている。いや、焼かれすぎている。

 

「テスコガビーとアレフランスにつけましたから、所有したらぜひ乗ってください」

 

「……っ、ありがとうございます!」

 

 

 カブラヤオーも罪な馬だ。彼ほどの人物をここまで染め上げてしまうとは。

 恐らく、この人はもう止まらない。たぶん、カブラヤオーを追い続けるようになろう。

 ……まあ、無敗三冠馬だから無理もないのだが。




 短距離馬たちが黙ってなさそうなんですが……。


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真の英雄は、稲妻の如く現る

 既に脳が焼かれすぎて灰と化している方々が何名かいらっしゃるが、大丈夫だな。


 午後の東京競馬場に満ちているのは、肌を焦がしそうなほどの熱気。

 各々から溢れる熱気が集い、この府中にそびえる競馬場を包み込んでいる。

 その熱気はどこからというと、スタンドにいるファンからだったり、馬券師からだったり。もちろん、競馬関係者からもだ。

 あるレースに出走する強豪たちがパドックに躍り出てから、熱気は徐々に増し始めている。

 かくいう俺も手を忙しなく動かしたり、視線を右往左往させたりしていて、落ち着きなどない。

 やっぱり、何度体験していてもこうなる。こうなってしまうのだと。

 それほどに、ダービーという一生に一度のGⅠは、迫力やら盛り上がりやらが違う。

 

 1978年度東京優駿、日本ダービー。すべてのホースマンの憧れであり、情熱であるこの競走の盛況ぶりは、昨年を遥かに上回っている。

 三冠馬カブラヤオーの独走、TTGの群雄割拠、マルゼンスキーの楽勝。それらを経て、東京競馬場、ダービーの舞台はさらなる活気で溢れ返っている。

 周囲を見渡しても人、人、人……スタンドは満員状態といっていい。

 ここまで盛り上がるとは。そう内心で感嘆する。

 史実ではハイセイコーブームが巻き起こったとはいえど、世間には競馬という文化が浸透し始めた頃。それなのに、この世界では東京競馬場に大衆が押し寄せている。

 

 カブラヤオーが無敗で三冠を達成した辺りだろうか。やけに競馬場への来場者が増えているような気もする。

 この大観衆が渦巻かせる熱気の中を、優駿たちは放たれた矢のように突き抜けていく。

 その結末こそ、ダービーという栄冠。人々からの祝福を一斉に浴びる、誉れ高き競走。

 三歳の若駒たちがその栄誉を求めて争い、たった一頭のみが勝ち取れる。生涯でたった一度だけ挑戦し、勝利できるのが、この日本ダービー。

 

 今年も粒揃いの三歳馬。皐月賞での結果により、混戦気味となったダービーだが、結局は皐月賞馬サクラショウリが最有力と見られている。

 

「オーナー、こちらにいましたか」

 

 顎に手を添え、思考を巡らせていると、不意に隣から声が聞こえる。

 振り向いてみれば、そこにはやはり、あの人物が。

 

「こんにちは、伊坂先生。ははは……これからあるダービーが楽しみすぎましてね」

 

「わかりますよ。私の厩舎からもオーナーの持ち馬が出走しますんで、正直落ち着かなくてですね」

 

 意外な言葉が耳に入る。今まではダービーであろうとなんであろうとほとんど緊張を見せなかった伊坂先生が、ここに来て初めて緊張を口にするとは。

 余程仕上げが悪かったのだろうか、あるいは……。

 

「どうです? 今年は。ダービーに自信はありますか?」

 

「ありすぎて緊張してしまうぐらいですよ。これで負けたら、オーナーとジョンヘンリーに見せる顔がありません」

 

 なるほど、その発言からして仕上げには相当の自信がある、か。

 

「ジョンヘンリーは確かに手のかかる馬ではありますが。ですけど、手がかかるほど、なぜだか愛着が湧いてくるんですよ。不思議ですね」

 

「でしたら、このダービーはまた一味違うと?」

 

「勝てたら、ですがね。……今日のダービーはなんとしてでも勝ってほしい、そんな気分ですよ」

 

 伊坂先生は微笑む。だけれど俺には、それが不気味に見えて仕方ない。

 

「失礼を前提としてですがね。ここだけの話、ジョンヘンリーはカブラヤオー以上の素質を秘めていますよ。カブラヤオーにはなかったものがありますから」

 

「……なかったもの、ですか?」

 

「ええ、それがですね――凶暴さ、なんですよ」

 

「……えぇ」

 

 思わず困惑の声が零れてしまう。まさか、そう来るとは。予想外もいいところだ。

 

「確かに、ジョンヘンリーは気性が激しいですが……」

 

「ええ。乗り手すらも尻込みしそうになるほど凶暴で、威圧感がありますからね。断らずに乗ってくれた山南くんにはある意味感謝していますよ」

 

「あそこまで気性難となると、騸馬にされることもしばしばありますからね……」

 

「そうなんですよね。だからオーナーにも感謝していますよ。あれほどの傑物をこのまま預けていただいたことに。あの馬にはぜひとも種牡馬入りしてほしいですよ」

 

 伊坂先生からそんな言葉を聞くとは思いもしなかった。色々と突っ込みたいが、今はそうしている場合じゃない。

 各出走馬が返し馬を終え、間もなくファンファーレが響き渡ろうとしている。そう、開戦の時が訪れる。

 

「山南さん、なんというか、楽しそうですね」

 

 ふと思いついた言葉を口にすると、

 

「山南くんも、私と同じように、今日のダービーを待ち侘びていました。『絶対負けられへん』と何度も呟いていましたから」

 

 伊坂先生含め、陣営がジョンヘンリーにほとんど焼け野原にされているようだった。

 というか、山南さんも相当に入れ込んでいるな……。

 

 そうこうしているうちに、既にファンファーレは鳴り終わっている。あとは各馬がゲート入りを済ませ、発走するだけ。

 

 ジョンヘンリーは内枠の三番。皐月賞での好走が評価され、四番人気に収まっている。

 まあ、今現在まで重賞勝ちの実績がないのだから、妥当といえば妥当かもだが。

 

 次々と枠入りを終えていき、最後に十八番の馬が係員に引かれ、ゲートに収まる。

 

 

『世代の頂点を決める東京優駿、日本ダービー! 群雄割拠を統一するのは、果たしてどの若駒か!?

 

 

 ――今、スタートしました!

 

 皐月賞馬、皐月賞馬サクラショウリが、サクラ軍団のエースが飛び出していった! サクラショウリが好スタートですが、三番手まで下げて控えました。サクラショウリは先団、先行していく態勢か』

 

 スタートを一瞥し、胸を撫で下ろす。

 三番の馬に視線を移す。今日はどうやら、やる気に満ち溢れているようだ。

 だが敢えて下げて最後方に控えている。ここからどうするというのか? 山南さんはどう乗るつもりなのだろう。

 

『今日は上手く出ましたジョンヘンリー。最後方のジョンヘンリー。まずまずのスタートを切ったようです。

 そのジョンヘンリーの少し前、芦毛のシービークロスが最後方から二番手にいます』

 

 間もなく800mを通過し、最初の1000mに差しかかる。

 ジョンヘンリーは位置取りなど完全無視。知ったことかとばかりに最後方のままだ。

 

『1000mの通過タイムは、1:09:6、ややスローペースとなっているか。2400mにしてはやや遅いか。後方待機を決め込んだ馬には少し辛い展開。皐月賞馬サクラショウリは二番手に位置を押し上げている。それをマークするようにインターグシケンが機を窺っている。先行勢がこのままいってしまうのか。残り1000mとなりました』

 

 かなりのスローペースなのだが。このままだと末脚が不発に終わるのだが。

 どう出てくれるのか、山南さんは。ジョンヘンリーはどう動いてくれるのか。

 

 残り800mで、緊張で張り詰めた思考が、展開によって弾けた。

 

『シービークロス! シービークロスがまくっていった! ここで後方から仕掛けたシービークロス! ダービーポジションなどお構いなし! 白い稲妻、シービークロスがやってきた! 外からじわじわと先頭に迫る!』

 

 後方待機を決め込んでいたシービークロスが痺れを切らしたのか、ここに来て仕掛けていった。

 展開が一気に揺れるなか、三番のジョンヘンリーに視線を注ぐ。

 

 まだ、まだ動いていない。このままだと上位入着すら怪しい。

 なぜここまで最後方に拘るのか。いや、何かあるのか。

 

 まさか……本当にそこから? そこから仕掛けるというのか?

 

『残り600m! 最後の直線! 大外に持ち出したのはジョンヘンリー! 最後方から末脚を使ってやってきたのはジョンヘンリー! 二番手インターグシケン! しかし先頭はサクラショウリ! サクラショウリが先頭だが、シービークロスも連れてやってきている! ここで大外、超大外からジョンヘンリー! 山南克弥の夢乗せて! ジョンヘンリーが四番手、三番手! 一気に! 一気に撫で切った! サクラショウリとシービークロス! シービークロスが僅かに前!

 

 残り200! 前二頭、前二頭はこのままいきそうだが、だが二頭を一気に差し切った! ジョンヘンリーが、一気に! 皐月賞馬も、白い稲妻も敗れるか! サクラショウリはシービークロスを差し返したがもう先頭には届きそうにない!

 ジョンヘンリーだ! ジョンヘンリーだ! 若手の山南を背に、最後方一気! もはや勝利は確信した! 日本を震わせる衝撃、その豪脚の持ち主が今ゴールイン!

 

 ジョンヘンリー! 山南克弥とジョンヘンリー! 皐月賞馬も白い稲妻も打ち破って、ダービーを手にしたジョンヘンリー! これはあんまりにも強かった! あんまりにも、強すぎた!』

 

 

 

 

「日本ダービーの勝利騎手インタビューとなります。山南克弥騎手、おめでとうございます」

 

「ありがとうございます! いやぁ、なんとか……なんとか勝てましたわ」

 

「では早速ですが、今日の勝利はいかがですか?」

 

「最高に決まっとります!  まさか、まさかワイを、ワイをダービージョッキーにしてくれるとは……うん、すんません、泣きますわ」

 

「今日の勝ち馬ジョンヘンリーなんですが、乗り心地はどうでした?」

 

「彼自身はとんでもない荒馬なんですけど、今日はなんというかね、勝つ気持ちがこっちにも伝わってきてですね……最高に抜群の手応えを味わえました」

 

「今日は出遅れませんでしたが、そこは?」

 

「ワイも驚きました。まさか……こうもいい感じにね、出てくれるとはね」

 

「では最後に一言、お願いします」

 

「ジョンヘンリー、勝たせてくれてありがとう! 本当に……本当に……」

 

「――以上、勝利騎手インタビュー。山南克弥騎手からでした」




「あの馬を乗りこなすのは……いやー、キツいでしょ」


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怪物VS怪物に向けて

 サウジカップ制覇記念だー!


 ジョンヘンリーがダービーを完勝してから一週間後の東京競馬場は、再び大歓声に湧いていた。

 競馬場全体が揺らごうかというほどのそれを傍目に、青々と茂るターフで勝利を証明するかのようにウイニングランを行う人馬に注目する。

 

 GⅠ安田記念、芝1600mの大レース。

 掲示板に映し出された着順には、本来あり得ない表示が為されていた。

 実況が木霊する。だが気にもならない。

 歓声も、どよめきも、何もかもが耳に入ってこない。

 

 あまりにも衝撃的なレースに、言葉が詰まってしまう。

 目線の先には、自身の愛馬であるシアトルスルー。

 鞍上の小田部さんが右腕を大きく掲げる。表情には笑みがあり、この勝利が余程嬉しかったのだろう。

 

 だけれど、問題は掲示板。それが壊れているのかと思い込みたくなるような、そんな恐ろしすぎるものが目に入る。

 

 一着馬はシアトルスルー。そこまでならまだ理解できるのだが……。

 二着につけた着差は、大差と表示されるだけ。

 おまけにタイムは1:31:1というもの。無論、レコードの文字が載っている。

 

 この時代では考えられないような、とんでもない日本レコードが目の前で叩き出されていた。

 

 

 

【1978年安田記念 結果

 

 

 一着 シアトルスルー 1:31:1】

 

 

 

 

 シアトルスルーが安田記念で化け物じみたレコードを叩き出した後日。

 伊坂先生から招いてもらったのもあって、再度栗東に足を運んだ。

 

 恐らくだが、今日呼びつけたのには何かしらの用がある。

 そうなると、シアトルスルーで再びの渡米か。あるいはまた別のことか。もしくは両方か。

 前者はほぼほぼわかるが、後者がどうにも読めない。ジョンヘンリーが何かやらかしたとかじゃなさそうだし。

 

「お待ちしておりました。すみません、呼びつけてしまって」

 

 厩舎まで歩けば、前にはやはり伊坂先生が立っている。

 

「いえいえ、お気になさらず。今日はどうされました?」

 

「では単刀直入に。シアトルスルーなんですけどね……またアメリカに遠征しませんか? もちろん、大目標はBCクラシックの連覇で」

 

「俺の心を読みすぎていません? ちょうど切り出そうとしてたんですが……」

 

「ははは! これは失礼!」

 

 予想は的中した。シアトルスルーで再びアメリカ競馬を蹂躙しよう、というわけだ。

 

「俺も渡米には賛成です。恐らくですが、小田部さんも乗ってくれそうですし」

 

「……ただ」

 

 伊坂先生の表情が快活なものから打って変わって、陰りを見せる。

 ああ、そうか。そういえば、BCクラシックにはあの()()()()()()()()()()()も出走する可能性が高いのだった。

 つい最近、超良血馬な好敵手を降して、ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークスを制した名馬がいると小耳に挟んだ。

 

「シアトルスルーが勝てるかどうかわからない相手もいます」

 

「……その相手というのは?」

 

 既に検討はついているが、問いかける。

 

「今年の米三冠馬……()()()()()()です」

 

 やはりかと頭を抱えるしかない。まあ、知っていたというのは口に出さないが……。

 

「あれは間違いなくBCクラシックにまで駒を進めてきます。恐らくですが、一騎打ちになるかと……」

 

「なるほど、米三冠馬同士の一騎打ち、というわけですね」

 

「はい。BCクラシック前にいくつかのレースを叩こうとは思いますが、途中であの怪物と激突する可能性もあります。

 ……改めてお伺いしますが、どうしますか?」

 

 神妙な面持ちで、伊坂先生はこちらを見据える。

 

「もちろん行きますよ。昨年のトリプルクラウン、いや、グランドスラムホースとしてここは打って出ないわけにはいきませんから!」

 

「打倒怪物、ですね。わかりました。シアトルスルーは夏に渡米して、まずはGⅠパシフィッククラシック(ダート2000m)、それからジョッキークラブ金杯(ダート2000m)、最後に大目標のBCクラシック……それでよろしいでしょうか?」

 

「はい! そのローテーションで!」

 

「わかりました。ではそのように登録を。……ああ、それからですね」

 

「……はい?」

 

 他にも用事があるようで。正直こちらがまったく読めない。

 

「……今日はもういないんですけどね、どうしてもオーナーに会いたいという騎手がいまして」

 

「その方は?」

 

「けっこうやんちゃなイケイケでしたね。確か……

 

 

 日原成樹(ひはらせいき)という名前です」

 

「……え?」

 

 その名が伊坂先生の口から発せられて、思わず凍りついてしまう。

 

 まさか、この世界でもそのトップジョッキーの名を耳にしようとは。

 いったい何が目的なのかはまったくわからない。

 

 ただ、会ってみる価値はあるかもしれない。

 なにせ、こちらでも恐縮してしまうレベルの名手なのだから。



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緑の刺客VS気まぐれジョージ

 6月もいよいよ終わりへ差しかかろうとする今日この頃。

 阪神競馬場、上半期の日本競馬を締めくくらんとする春のグランプリ。

 この大舞台で響くのは、熱狂か、どよめきか、喝采か。

 いずれにしても、盛り上がることは間違いなし。グランプリと名がつくだけあって、出走馬も強豪揃い。俺たちグリーングラス陣営からしても相手にとって不足なし。

 現在の時点では、春の天皇賞馬グリーングラスが1番人気。このグランプリで1番人気に支持されたとあれば、もちろん期待してしまう。

 それでも無茶はしすぎない範囲で。せめて無理なく怪我をしない範囲で走り抜けてほしい。俺はそう願うばかりだ。

 

 一方で2番人気は昨年の宝塚記念勝ち馬エリモジョージ。こちらを惑わすような逃げを打つか、それとも乾坤一擲のハイペースを刻むか。まったく作戦が見えてこないのが厄介なところ。

 前走の天皇賞(春)でこそグリーングラスは勝てた。だが宝塚は2200m、1000mも距離が短縮されている。天皇賞とはわけが違う。

 

「伊坂先生、エリモジョージについてはどう思われますか?」

 

 どうにも気にかかって、傍らに座る伊坂先生に尋ねる。

 

「私から見たらですが、状態はかなり良さげですね。ただこちらのグリーングラスと真っ向勝負するとは、あんまり思えませんね」

 

 競り合い、または末脚勝負に持ち込めば、確実にグリーングラスが有利になる。あれもあれで能力は高いが、流石にグリーングラスと叩き合うというのは分が悪い。

 ともあれ、エリモジョージがどういった作戦で打って出るか不明瞭な以上、警戒するに越したことはない。

 

「昨年と同じような敗北は、できれば避けたいですね」

 

「なるべくならそうですね。的田さんの騎乗にもかかっている部分がありますから」

 

 騎乗合図と共に駆けだし、グリーングラスの鞍に跨る的田さんを遠目に、昨年の宝塚記念を振り返る。

 TTGが揃い踏みしたグランプリではあったが、エリモジョージが逃げてスローペースに持ち込んだことで、一気に総崩れとなってしまった。

 1着エリモジョージ、2着グリーングラス、3着クライムカイザー――。

 どの陣営も唖然とした、いや、唖然とせざるを得なかった。こちらを幻惑するような逃げにしてやられたなんて、完全に想定外だったから。

 

 だが、その雪辱は今日の宝塚記念で晴らさせてもらう。

 ファンファーレが響き渡り、次々とゲートに収まっていく各馬。

 グリーングラスは16頭中の4番、エリモジョージは13番。

 双方ともゲート入りを済ませてあとはスタートを待ち侘びるだけ。

 

 阪神競馬場が静まり返る、緊張の一瞬。

 

『今年も強豪集った春の仁川! 上半期のグランプリ、GⅠ宝塚記念! 制するのは果たして!?

 

 ――スタートしましたっ! ポンとエリモジョージが飛び出した! グリーングラスも好スタートを切って、人気馬はそれぞれ上々の立ち上がり! さて先頭を行きますのは、13番エリモジョージ! やはりハナを主張したエリモジョージ! 手綱を押してエリモジョージが先頭へ!

 その外目から、スーッと機を窺うグリーングラスと的田弘。今年こそ悲願のグランプリ制覇なるか! 観衆の期待を一身に背負ったグリーングラス! 春の天皇賞に続いてここも制覇なるでしょうか!』

 

 グリーングラスが好スタートを切ってくれたことに内心で胸を撫で下ろす。

 発馬直後になにかしらのアクシデントがあったとなれば、目も当てられない。

 この大舞台を完走してくれるだけでもいい。それだけでも満足だ。

 

『先頭、先頭はエリモジョージ! エリモジョージが先頭! そのすぐ真後ろにグリーングラスがつけている。エリモジョージをがっちりと捉えている。今回は逃がさないとばかりにエリモジョージを狙っているぞ! その差はなかなか開かない!

 1000mを通過して、タイムは1:04:3、やや平均的なペースに持ち込まれました。先頭は依然エリモジョージです。エリモジョージが先頭だ。グリーングラスも依然エリモジョージをマークしたまま、残り800mを切りました!』

 

 ここから、ここからだ。決着をつけるための舞台は、もうすでに整ってある。

 ならばこそ、あとは――駆け抜けるだけだ。

 

『残り600m! さあさあグリーングラスだ! 緑の武者が外に持ち出して、先頭を撫で切らんとしているぞ! エリモジョージは最内、最内につけて粘ろうとしているが果たして!? 先頭は、まだ、エリモジョージだ!

 グリーングラス、来ている! 的田弘が押して押してグリーングラスがやってきている! だが、だが先頭エリモジョージ! 残り400mでもなお、エリモジョージが先頭だ!

 グリーングラスは伸びている! グリーングラスは確かに伸びているが、やや苦しい! エリモジョージが粘り切ってしまう! エリモジョージが再び逃げ切ってしまうぞ! 並びかけてはいるがなかなか躱せない! アタマ差抜けてまだ、まだエリモジョージ!

 グリーングラスはもはや万事休す! ここはエリモジョージの根性勝ちか! この宝塚でも再び春を巻き起こすかエリモジョージ!

 

 グリーングラスとエリモジョージが、並んでゴールイン! 僅かに、僅かに! エリモジョージが体勢有利か!』

 

 

 

 地下馬道でグリーングラスと的田さんを出迎える。彼らは茫然自失としていて、特に的田さんは顔から血が抜けたみたいになっている。

 彼らは全力を以て挑んでくれた。負けこそしたが労わってやりたい。

 

「的田さん、いい騎乗でしたよ」

 

「…………」

 

「……的田さん?」

 

 声をかけても、的田さんは見向きこそするが声を発さない。

 流石に不安になってしまう。どうしたものか。

 と、不安に思っていた矢先、的田さんの目元から雫が流れ落ちていく。必死に目を伏せてはいるが、それでも隠し切れていない。

 的田さんはグリーングラスから降りると、鞍を取り外し始める。ただ淡々と、目元を拭いながら。

 

「まさかエリモジョージがあんな勝負根性を発揮するなんて……」

 

 伊坂先生が的田さんの心情を代弁するように呟く。そう、最終直線。残り400m以降で仕掛けてもまったく躱せなかった。普通なら躱せるはずなのに。

 あの展開でエリモジョージが粘り切ってしまうなんて……失礼ではあるが完全に想定外だった。

 

「あれが気まぐれジョージの本領か……」

 

 そう呟いて、俺はただただ、立ち竦むしかなかった。

 だが、今は的田さんのメンタルが心配だ。あの場面、あの展開で取りこぼしたことに、かなり自責の念を感じてしまっているかもしれない。

 これからもグリーングラスに騎乗し続けてほしいが……どうなるか。

 今回の敗北は、まさに痛手となってしまった。ここから、どう巻き返すか……。

 

 

 

【1978年宝塚記念 結果

 

 

 1着 エリモジョージ 2:13:8

 2着 グリーングラス クビ

 3着 ホクトボーイ 5馬身】



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天才×天才

 9月、真夏の猛暑を乗り越えた先に待ち受けるのは、秋のGⅠ戦線。

 その戦線に乗り込む俺の所有馬は2頭、グリーングラスとジョンヘンリーだ。

 ジョンヘンリーは今月のGⅡ神戸新聞杯(阪神・芝2400m)からGⅠ菊花賞へ。グリーングラスは10月のGⅡ京都大賞典(京都・芝2400m)からGⅠ天皇賞(秋)へ。それぞれ出走させるつもりではある。

 ……正直、不安要素しかない。

 グリーングラスは的田さんが絶不調に陥っていて、ジョンヘンリーは長距離が未知数すぎる。

 いくらこの2頭が名馬とはいえ、調子が悪かったりレース条件が合わなかったりすると、あっさり負ける。こればかりはある程度整えないとどうしようもない。

 今、俺の顔を舐めに舐めてべちょべちょにしている芦毛だってそうだ。史実ではピンを踏んで負傷してしまい、その結果の敗北を喫している。それはそうとあとで顔を洗わねば。

 どれだけ速かったりしても、どれだけ万能だったりしても、どれだけ力強かったりしても。どうしようもないときはどうしようもないのだ。

 芦毛のスぺちゃんこと、スペクタキュラービッドを宥めながら、どうしようもなさを打破する方法を探る。

 

 栗東の伊坂厩舎に来てから何時間は経ったであろう。その合間に、ことあるごとにスぺちゃんは甘えてくる。

 俺を見かけるとすぐさま顔を寄せようとしてくる。可愛いが。流石に調教中は真面目に走っている。

 ただ伊坂先生や担当厩務員には、そんなに過度に甘えてこないそう。これも愛らしく思えるが。

 

「スぺちゃん……」

 

 伊坂先生が苦笑する。こんなに懐かれているところを見せられて、ちょっと落ち込んでいるみたいだ。その気持ちは複雑なのだろう。

 

「調教はけっこう走るし、操縦性も非常に高い……芦毛は走らないとは……」

 

 伊坂先生の口から漏れたジンクスで、ふと思い出す。

 ――スペクタキュラービッドがとんでもない勝ち方をした新馬戦を。

 8月の新潟競馬場。そのダートコースに、彼は降り立った。

 若き騎手が手綱を取るというのもあり、人気は8頭中の4番人気というもの。オッズは8倍、そこそこといえよう。

 だが――レースは一方的だった。

 ゲートが開くと真っ先に最後方待機を選択。あの瞬間だけであれば、鞍上が何を考えているのかまったくわからなかった。

 それでも最終直線手前、やや強引に先頭を奪い取ると、あとは差が開いていくだけ。

 あれは間違いなく地力が違う――改めてそう確信できるようなレースっぷりだった。

 芦毛は走らないというジンクスを、あの場にいた観客はみな一様に忘れていたのではなかろうか。

 

 しかし、今現在はこうして甘えてくれている。普段とレース時のギャップが凄まじすぎる。

 

「先生、オーナー、いいでしょ? スぺちゃん」

 

 いきなり声をかけられて、伊坂先生ともども振り向く。

 かけてきた張本人は、その美貌でこちらに笑いかけてくる。

 

「ああ、最高の馬です、スぺちゃんは」

 

「でしょでしょ?」

 

「ちょっと日原くん……」

 

「まあいいじゃないですか、伊坂先生」

 

「……ですかね?」

 

 ラフな口調を注意しようとした伊坂先生を制止する。

 目の前に立つ騎手――日原成樹さんへ向き直り、うんうんと頷く。

 

「ありゃあ並大抵の馬じゃないですよ。オレが乗ってきた馬の中で、あれほどの馬はいなかった。とんでもない馬に巡り会えたみたいですよ」

 

 日原さんは続けざまにスぺちゃんの魅力を語っていく。

 なんだかちょっと小恥ずかしかったが、自分のことではないと割り切って聞き入る。

 

「……ああ、そうだ。言い忘れてた」

 

 日原さんはポンと手を叩いて、「ちょっと失礼」と耳元に近づいてくる。

 

「……オーナー、新馬戦のあれ、申し訳ないんですが、わざとああやって乗りました」

 

「……マジ?」

 

「です。流石に、あそこまで引き離すとは想像もしてなかったですけど……」

 

「えーと、つまり、スぺちゃんは後方待機が合ってるってこと?」

 

「あー、いや。そうじゃなくて。どんな展開でも勝ち切れるような競馬ができるってことです。つまりね、変幻自在なんですよ。……あっ、ちなみに伊坂先生はすでに知ってます」

 

 やはりといえばやはりだが。どうやらスペクタキュラービッドという名馬に、脚質なんてものは関係なさそうだ。

 

「ですけど、しばらくは追い込み一辺倒にしてみようかと」

 

 などと考えていると、日原さんがとんでもない発言を繰り出す。

 

「まあ、様子見ってところですね」

 

 苦笑しつつ、日原さんは囁きかける。

 なかなかにとんでもない。天才と称された騎手はどういう思考をしているのやら。

 

「伊坂先生」

 

 ならば、少し意地の悪いことをしてみるか。

 俺の呼びかけに応じた伊坂先生は、こちらに向かって首肯する。

 

「日原くん、スぺちゃんなんだけどね。次、アメリカの2歳GⅠシャンペンS(ダート1600m)だから。よろしくね」

 

 その爆弾発言に日原さんは唖然とする。

 それもそうか、誰だって新馬戦の次に海外遠征を敢行しようとは思うまい。

 だけれど、こうやって日原さんの驚愕した顔を拝めるのは、ちょっとばかり新鮮味があった。



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秋GⅠとアメリカンGⅠ

 スペちゃんが10月に渡米してからというもの、俺の所有馬たちは前哨戦こそ勝利した。

 そう、前哨戦こそ、だ。ジョンヘンリーは神戸新聞杯、グリーングラスは京都大賞典を勝ってそれぞれ本番に挑んだはいいのだが……。

 

『さあ先頭、先頭はサクラショウリ! 皐月賞馬がまだ粘っている! 鞭が飛んでいるが、これはどうだこれはどうだ! 後方からは他馬が迫ってきているぞ! サクラショウリは危ういか! サクラショウリは脚色悪し! だがジョンヘンリー、ダービー馬は――まったく伸びてきません! ジョンヘンリーは馬群に埋もれている! クラシックホースは万事休す! クラシックホースは万事休す!

 しかし外から一頭、なにか飛んできた! ――インターグシケン、インターグシケンが強烈な一撃を伴ってやってきた! 外からサクラショウリを抜き去って、皐月賞馬を軽々と抜き去って、今先頭に立ってゴールイン!

 インターグシケンです! インターグシケンでありました! これは驚きました! あっと言わせられました! 菊花賞、勝ったのはインターグシケン! 皐月賞馬サクラショウリは粘りに粘って2着か。ダービー馬ジョンヘンリーは5着辺りが精いっぱいのよう』

 

 菊花賞に出走させたジョンヘンリーは、最終直線に差しかかった瞬間に敗北を察してしまった。

 最終直線が短い京都競馬場でも最後方周辺に位置取ったジョンヘンリーではあったが、その最終直線でも伸びてくるような末脚は発揮できず。あの様子からして、ほぼほぼスタミナ切れのようだ。

 ジョンヘンリー5着に大敗したが、グリーングラスの天皇賞(秋)はというと――。

 

『グリーングラスはまだ来ない! グリーングラスはまだ来ない! 1番人気のグリーングラスはどうなっている!? 春の天皇賞馬はどうなっているのか!? 先頭はまだ、まだエリモジョージ! しかし外からテンメイ! さらにプレストウコウ! ようやくグリーングラスも上がってきている! それでも前に追いつけるかどうか! エリモジョージは厳しい! エリモジョージは逃げ切れないか!

 エリモジョージが捉えられた! テンメイとプレストウコウが競り合いながら先頭争い! グリーングラスも外を回してやってきているが、この二頭に届くかどうか! 的田が懸命に手綱を押している! 的田弘が必死に鞭を振っているが! 先頭、抜けた! 抜けた! 抜けた! プレストウコウだ! プレストウコウだ! グリーングラスが上がってきた! 一気に脚を伸ばしてくるが届かない! 先頭はプレストウコウのまま! 秋の府中が銀に染まった! 春の天皇賞馬、春のグランプリホースを破って、プレストウコウがゴールイン! やりました、やりました! プレストウコウがやりました! 2着は僅かにグリーングラス! 3着はテンメイ! 世代を背負って、プレストウコウが大本命馬を破りました!』

 

 エリモジョージを警戒しての競馬となったが、逆にその作戦が仇となってしまった。

 相手の術中にはまらぬよう、的田さんは中団に控えた。だが、グリーングラスが大本命であるのを完全に失念していた時点で、ほぼ負けは確定しているような状態だった。

 テンメイなどの他馬から執拗なマークを受け、得意の最終コーナーで先頭に立ち押し切るという競馬ができず、外を回して伸びるのがやっとというなか、プレストウコウにしてやられた。

 プレストウコウに1馬身差をつけられての完敗を喫してしまう。

 

 と、まあ国内だけなら負けてはいるが、一方でスぺちゃんはどうなっているか。

 

「……スぺちゃんって、もしかして馬のような何かですかね?」

 

 などと伊坂先生がこうして振り返ってくるぐらいにはなっている。

 

「だからスぺちゃんはUMAですって……」

 

「あれで馬とは……」

 

 信じられないものを目の当たりにするように、目を見開いて伊坂先生が呟く。

 その言葉は俺だって呟きたい。史実だと2000mまでならセクレタリアト並とも謳われたほどだ。格が違いすぎる。

 

「シャンペンSといい、先のBCジュヴェナイルといい……スぺちゃんが強すぎて……」

 

 結論からすると、スぺちゃんはアメリカに遠征しても全勝した。だいたい合計16馬身も突き放して。

 

「まあ、他のホースマンからしたら絶望的でしょうな……」

 

「あんなのにダートで勝てる馬とかいますかね?」

 

「今帯同しているシアトルスルーぐらい、ですかね?」

 

「小田部さんと日原くんを会わせてはいけないね……」

 

 彼らなら確かに、最悪大喧嘩に発展している未来が見えてしまう。

 どちらも馬に脳を焼かれすぎて、話し始めると止まらなくなる。

 どちらも気が強く、思い入れを語るとたぶん激突し合う。そういう事故だけはさけねば。

 

「シアトルスルーもシアトルスルーでとんでもない強さをしてますけどね……」

 

 伊坂先生の言葉で、パシフィッククラシックを7馬身、ジョッキークラブ金杯を9馬身で逃げ切ったシアトルスルーの姿を思い起こす。

 

「あれを維持できたらアファームドにも勝てそうですけどね」

 

「ジョッキークラブ金杯では有力3歳馬のアリダーを蹴散らしましたからね、互角以上にには渡り合えるかと」

 

 伊坂先生は力強く頷く。それも強い期待を込めてのものだろう。

 よく考えたら、アリダー相手に9馬身差もつけるとか相当な気もするが。まあ、今さらだから気にしないでおく。

 

「それにしても――いよいよですね」

 

「そうです、ね」

 

 サンタアニタ競馬場。今現在は静寂に包まれ、今か今かと時を待ち侘びる。

 ――間もなく発走されようというレースで、最強馬が決まるかもしれないからだ。

 

「BCクラシック、間もなくですよ」

 

 ごくりと息を呑む。手に汗が伝わっていく。

 

 

 さあ、もうすぐ。もうすぐ始まる。

 ――最強VS最強が。



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最強を懸けた一戦

 今回は小田部さん視点です。


 この場が静寂に包まれてから、僕の胸は弾み、昂る一方だった。

 最高の名馬に乗って挑むのだ。この大舞台は決して負けられないものだ。

 ブリーダーズカップ、それもクライマックスのクラシックとなると、やはりスタンドは賑やかになってくる。

 僕の相棒であるシアトルも、どこか嬉しそうにスタンドを眺めていた。

 この盛況っぷりだと確かに、自然と力が湧いてくるような気がしてくる。

 大舞台ほど燃えるというが、その言葉も強ち間違いではないのだろう。

 

 さて、出走する他馬を見渡してみれば。

 今年の米三冠馬アファームド、その宿敵アリダー、欧州から移籍してきた実力馬エクセラー、それから他二頭……。

 

「シアトルなら勝てる」

 

 小声ではあるが、自然とそんな言葉が口から零れる。

 それでも油断大敵。僕の慢心でシアトルが負けたとなると、一生後悔しても後悔し足りない。

 どんな最強馬が相手だろうと、シアトルスルーは負けやしない。

 だからこの場で示してやろう。真の最強というものを。

 

 

 

 誘導馬に導かれてゲート前まで歩を進める。

 僕の心臓はこの上なく拍動していた。一定のリズムを刻みつつ、力強く響く。

 係員に引かれて、3番枠に収まる。

 鼓動がますます強くなっていく。全身の血液が温まってくる。

 もはや他馬など目にも留まらなかった。頭にある光景は、ただただシアトルの競馬をするという決心のみ。

 

「いこうぜ、シアトル」

 

 一言かけて、前を向く。

 その直後――遂にゲートが競走の始まりを告げた。

 刹那、シアトルは一気に駆けだす。鳥籠から放たれた鳥のように。

 シアトルは自分が為すべき競馬を理解している。僕が手綱で促すまでもなく、先手を奪い去る。

 今はただ、手綱を持っているだけ。それだけで十分だ。

 

 背後から感じる気配は二頭。恐らくはアファームドとアリダーなのだろう。

 推察するに、二頭ともシアトルに狙いを定めたようだ。こうなると逆に誇らしくなってくる。

 あれほどの傑物たちが日本馬をマークしている。その事実だけでも口角を上げそうになる。

 

『やはり先頭いきますのは、日本のシアトルスルー。鞍上の小田部信夫はがっしりと手綱を持って、悠々と逃げていきます。

 シアトルスルーをマークするように、二番手はアメリカの最強馬アファームド、そのあとアリダーと続いています。

 果たしてBCクラシック連覇なるか、シアトルスルー。昨年のグランドスラムホースがこの大舞台で先頭に立っております』

 

 600m、700m、800m……と通過してもなお、睨み合ったまま。

 だが先頭に立ってみてわかる。1000mの通過タイムは恐らく58秒台。かなりのハイペースだ。

 

『1000mの通過タイムは58.3! これは早い! 流石に早すぎる! それでも先頭で逃げるシアトルスルー! このまま逃げ切れるのか、逃げ切ってしまうのかシアトルスルー!』

 

 こんなハイペースでもシアトルをマークするあたり、どうやら相手も本気で勝ちに来ているようだ。

 1200mを過ぎていくころに、最内に着けたまま敢えてペースを落とす。

 今にも迫ってきそうな栗毛の馬体を尻目に、その状態を維持する。

 さあ、ここからだ。ここから勝負といこうではないか。

 

『最終コーナーを回って、最終直線! 日本馬の連覇か!? アメリカの奪還か!? 間もなく決着となります!

 先頭はまだ、まだシアトルスルー! 小田部信夫はまだまだ持ったまま! 一気に2番手以下を突き放していく! 単独先頭! 最終直線でも日本馬が先頭だ!

 2番手のアファームドは伸びを欠いているか! シアトルスルーには近づけそうもない! 3番手から一気にアリダー、さらに大外からエクセラーも来た!

 しかし先頭はシアトルスルー! 3馬身、4馬身と引き離す! 外からのアリダーも伸びてきているがこれは2着争いか!

 シアトルスルーだ! シアトルスルーだ! サンタアニタ競馬場の最終直線、残り200m! しかしもはや勝負は決したか! シアトルスルーが突っ走る! 連覇を狙ってひた走る!

 5馬身、6馬身! シアトルスルーだ! シアトルスルーが突き放して今、ゴールイン!

 やりました! 史上初めて、BCクラシック連覇! その快挙を、日本の馬が成し遂げました!』

 

 

 

 ゴールを駆け抜けた瞬間、僕の目元から熱い何かが込み上げてきた。

 夢だったアメリカ競馬、その頂点に最高の名馬と立てているのだから。

 今日だけは狂喜乱舞しても許されるだろう。スタンドに向かって大きく手を振ってみる。

 歓声に満ちているこの競馬場は僕にとって、最高の思い出となるはずだ。

 関係者席でもオーナーと伊坂先生がハイタッチを交わして喜びを分かち合っているのが見える。

 

 ならば僕も、思いきり喜びを露わにするとしよう。

 僕は騎手用のヘルメットを外すと、それを天高く投げ飛ばした。

 ヘルメットは空で舞い踊る。僕の心情を表現するかのように。

 僕はそっと、シアトルの鬣に顔を埋めた。

 

 

 

「伊坂先生、やりましたね。連覇ですよ、連覇」

 

「ええ、ええ! まさかシアトルがあそこまでの強さを見せつけてくれるとは」

 

「いやぁ、スぺちゃんも勝ってくれて、最高ですよ! 今にもまいあがりそうです! ……そういえば伊坂先生、ちょっとお願いが」

 

「はい? なんでしょう?」

 

「シアトルスルーですが――ラストランは有馬記念にしませんか?」



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ダービー馬VSダービー馬

 狂気の逃げ馬VS眠りに誘いしもの――ファイッ!


 アメリカから帰国して、牧場に戻ってみれば。そこに広がっていたのは、やはり見慣れた新緑。

 放牧地に赴けば、1歳馬のダンジグがまだ幼いシャーガーの毛並を舌で整えている。

 いわゆるグルーミングという一種の親愛的行為なのだが、シャーガーも目元を綻ばせてまんざらでもない様子でされるがまま。

 すっかり緩みきった表情で、2頭の幼駒は触れ合う。

 そんな光景を見逃すわけにはいかない。俺はそう意気込んで、牧柵に腕、腕の上に頭を乗せ、2頭から醸し出される尊さを味わわせてもらう。

 

「いい……」

 

 だらしなく綻んだ口から、ふとその言葉が零れる。

 彼らの行動をひとつひとつ観察していても新たな発見ばかりだ。

 

「あのー、オーナー?」

 

「んん? ああ、牧野さんですか。彼らは本当に仲がいいですねぇ」

 

「それはそうなのですが……」

 

 牧野さんはなぜか目を泳がせている。口に出すことを躊躇うかのように。

 

「どうしました? 牧野さん?」

 

「あ、いやー……そのですね……」

 

「……なにかありましたか?」

 

「なにかあったというか、そのですね……」

 

「……もしかして、あれですか?」

 

 左に目を向け、ふわふわした物体と戯れるカブラヤオーを指す。

 

「そうですね……」

 

 牧野さんは頭を抱えながら再び口を開く。

 

「カブラヤオー、あのクッションにハマりすぎてですね……」

 

「あー……」

 

 なんとなくではあるが、牧野さんの言葉が理解できた。

 というより、そうなった元凶はあれを与えた俺だが。本当に申し訳ない。

 

「とにかく離したがらないのでちょっと困ってます」

 

「ふわふわって人だけではなく馬も狂わせてしまうのですね……」

 

 改めて、あのクッションの効果を思い知ってしまうとは。

 カブラヤオーでさえ夢中になってしまうその威力は、間違いなく本物と認めざるを得ない。

 

「……事故さえなければいいんじゃないんですかね」

 

 クッションに頭を委ね休眠に入るカブラヤオーを、互いに遠い目で眺めるしかなかった。

 

 

 

 

 11月末、東京競馬場。

 晴れ渡る青空の下、超満員のスタンドが見据えるのは、ゲート前で周回を行う出走馬たち。

 いわゆる輪乗りを行いつつ、だんだんと競馬場内から騒々しさが消えていく。

 

「よろしかったのですか? オーナー」

 

 馬主席に座っていると、ふと伊坂先生から声をかけられる。

 

「このぐらいなら大丈夫ですよ」

 

「2頭ともいい仕上がりですが……」

 

「はい、だからこそ一度見てみたかったのですよ」

 

「その気持ちはわかりますが……」

 

「ははは、伊坂先生もそうでしたか。まあ、()()()()()()()()()()にはどこか惹かれるものがありますからね」

 

 ダービー馬同士の競走――この場ではすなわち、グリーングラスとジョンヘンリーの対決。

 1976年のダービー馬グリーングラスと、1978年のダービー馬ジョンヘンリー。彼らが激突し合うその瞬間を、俺はこの目に焼きつけたかった。

 伊坂先生には無茶な申し出をしてしまった。互いに次走はジャパンカップに定めていたとはいえ、2頭のダービー馬を出走させたのだから。

 

「グリーングラスが1番人気、ジョンヘンリーが4番人気ですか……」

 

 人気に関しては妥当だと認めるしかない。

 安定感のあるグリーングラスと、前走で5着に敗れたジョンヘンリーとでは、どうしてもこの差は生じてしまう。

 

「どちらもやる気十分ではあるのですがね」

 

 伊坂先生は苦笑しつつも「どちらも好走しそうですけどね」と続ける。

 

「的田さんと山南さんはどうです?」

 

 ふと気にかかって、ふたりの騎手の様子を尋ねてみる。

 

「的田くんは必死に隠してはいましたが、だいぶ焦りを感じているみたいでした。一方で山南くんは闘志を漲らせて前走からの挽回を図るとしてました」

 

「……大丈夫ですかね、的田さん」

 

「正直けっこう深刻かと……」

 

 こうなってくると、どうしても的田さんが心配だ。

 大事なければいいが……どうなるか。

 

 やがてファンファーレが鳴り渡り、スタンドの熱気も最高潮に達する――そんななか、俺はひとり表情を強張らせる。

 

 

 

 16頭の出走馬中、グリーングラスは12番枠、ジョンヘンリーは13番枠にそれぞれ収まり、場内は再び静寂で満たされる。

 

 

『欧米各国からの来訪者たち、どれもこれも強豪揃いではありますが、日本馬はどう立ち向かうのでしょうか。国際GⅠジャパンカップ、間もなく発走となります。

 ――――全馬、ゲートに収まりまして、さあ、日本馬は外国馬相手にどういう立ち回りを見せるか? 外国馬もどうやって日本勢を破ろうとするのか?

 

 ――スタートしました! 各馬、まずまずの出だし。前に行きますのは――」

 

 グリーングラスは4番手、ジョンヘンリーは14番手という互いを意識しないような位置取り。

 2頭のダービー馬は、それぞれ自身の競馬に向き合うようだ。

 

「ジョンヘンリー、上手く出てくれましたね」

 

 伊坂先生がホッと胸を撫で下ろす。

 激しすぎる気性ゆえに立ち遅れることがあったジョンヘンリーでも、今日は出だしから調子がよさげだ。

 それでも息を呑む。ここからだ。ここからどういう競馬をしてくれるか。

 

 

『グリーングラス、鞍上の的田弘。前走での雪辱をこのジャパンカップで晴らせるか。1番人気に見事応えられるか。今年の日本総大将は4番手の位置。グリーングラスは4番手であります』

 

 

 グリーングラスは馬場の真ん中から先行集団に取りつくような形。

 俺からしたら、上手く好位に着けられているように思える。

 しかし一方で、伊坂先生は心配そうにグリーングラスを眺めていた。

 

「こりゃあ、まずいかもな……」

 

 小声ではあったが、伊坂先生の口からそんな言葉が漏れる。

 だがすぐにその意味を理解してしまう。

 

 

『1000mを通過しまして、前半は1:00.4、やや平均的ではありますがこれはどうだ。グリーングラスは3番手、2番手と進出していきました』

 

 

「……焦ってますね、明らかに」

 

 俺がそう分析すると、伊坂先生も頷き返す。

 

「そのようですね。冷静さを失ってはなりませんが……」

 

「残り1400mですからね。しかも最終直線も長いですから」

 

 グリーングラスは先頭の逃げ馬に標的を定めたようで、半馬身ほど後ろに着ける。

 対してジョンヘンリーはペースを読み切ったのか、15番手に。完全に直線勝負へ持ち込む態勢だ。

 

「……()()()()()()

 

 残り800mへ差しかかろうとした頃、伊坂先生の呟きが耳に入る。

 その言葉が気にはなったが、もうすぐ最終直線。視線はターフを向いていた。

 

 

『間もなく最終コーナー、間もなくであります! 府中の長い直線! 制するはどの馬だ!

 先頭グリーングラスへ! グリーングラスが一気に抜き去る! グリーングラス、的田弘が手綱を扱いて扱いて先頭だ!

 グリーングラス、突き放す! 先頭に立って離す! 連覇を狙って引き離す! だが、だが! 外から、外から外国産馬! ダービー馬ジョンヘンリーが大外を回ってやってきている! 山南の鞭が飛んでいる! 鞍上がゴーサインを出して突き抜けてくるジョンヘンリー!

 内はグリーングラス、大外はジョンヘンリー! しかし並ばない! 並ばない! あっという間に、ジョンヘンリーが抜き去った!

 残り200mで、一気にジョンヘンリー! 一気にジョンヘンリー! グリーングラスは懸命に追っているがもう届かない!

 

 ジョンヘンリーが今、1着でゴールイン! 勝ちましたのは、4番人気のジョンヘンリー! 年上のダービー馬相手に下剋上を成し遂げました! 鞍上の山南が大きく右手を掲げております! 再び府中を震撼させましたジョンヘンリー!』

 

 

 

 

 

「実はですね、グリーングラス対策は打ってましたわ」

 

 地下馬道でジョンヘンリーから下馬し、鞍を外した山南さんが何気に衝撃的な一言を発する。

 

「噓でしょ……」

 

「いや、かなりの馬ですから本格化前のジョンヘンリーだとどうやろ思ってたんですが、なんとか勝てたんでひと安心です」

 

「ちなみにその対策というのは?」

 

「ああ、簡単な話です。グリーングラスとちょっと距離取ったんです」

 

「ああ……」

 

 その一言だけで納得してしまう。

 なるほど、山南さんはすでに見破っていたわけだ。

 

「あれと叩き合うとなると分が悪すぎますから、外埒から強襲するようなイメージで差しにいきました。展開も向いてくれたんで助かりましたわ」

 

 にこやかな表情でジョンヘンリーの頭を撫でる山南さんだが、彼も一介の勝負師だと改めて認識させられる。

 

 一方で的田さんは酷く落ち込んでいるようだった。

 顔を俯かせたまま下馬し、鞍を外していく。

 だけれど今回ばかりは、フォローができない。

 焦りから生じた早仕掛けの結果、ジョンヘンリーにやられた。

 今日のレースに関しては……申し訳ないが一言を添えさせてもらおう。

 

「……的田さん」

 

 呼びかけると、的田さんは今にも泣き入りそうな表情を向けてくる。

 

「その焦燥はあなただけのものではないんです。今回はグリーングラスにも焦りが伝わっていました」

 

「…………すみません……」

 

「……もうこの際だから言いますが、あなたを降板させようとはまったく思っていませんよ。だからせめて、グリーングラスとちゃんと向き合って、自分たちの競馬を見出してください」

 

 余計な言葉を添えた気はするが、それでもいい。

 今はただ、彼らにとって悔いのない競馬を見つけてほしい。それだけだ。




 グリーングラスVSジョンヘンリー――ジョンヘンリーの勝利!

 カブラヤオーVSクッション――クッションの勝利!


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全てを振り切って

 小田部くん。


「有馬記念、いよいよですね」

 

 茜色に染まりつつある空を見上げて、隣に立つ伊坂先生が告げる。

 中山競馬場、有馬記念、芝2500m――。

 1978年も終わりを迎えようとしている。日本競馬の総決算であるGⅠ有馬記念を以て、GⅠ戦線にはひとまずの終幕がもたらされる。

 

「今年のダービー馬こそいませんが、これは大いに盛り上がりますよ」

 

 伊坂先生からは嬉々としているような声があがる。

 

「俺の所有馬からはシアトルスルー、グリーングラス。他だと菊花賞馬インターグシケン、皐月賞馬サクラショウリ、年度代表馬トウメイを母に持つテンメイ……かなり揃いましたね」

 

「一筋縄ではいかないみたいですが、個人的にはグリーングラスとシアトルスルーの対決に注目しております」

 

 この中山競馬場を訪れた観衆も、多くはグリーングラスとシアトルスルーの一騎打ちになるだろうと予想しているようだ。

 だが、伊坂先生も気にかけていたのは少し驚いた。日頃から併せ馬でよく眺めている光景かと。

 

「伊坂先生も気にされていたのですね」

 

「はい、併せ馬ではよくやってますが、流石に実戦となると展開もありますから、どうなるのかまったくわからないのです」

 

「……伊坂先生的には?」

 

「グリーングラスの複勝を買いたかったです」

 

「競馬関係者ですからね……」

 

 まあ、グリーングラスは恐らく2着以上には突っ込んでくるだろうし、その買い方もわからなくはない。

 調教師という立場的に馬券を買えない伊坂先生に、少々悲しみを感じるが。

 

「伊坂先生、シアトルスルーのほうは?」

 

「この距離こそ経験はありませんが、余裕で走れそうですよ」

 

 まさかの即答で、目を丸くしてしまう。

 

「鞍上は変わりなく小田部さんですから、シアトルスルーにとってはかなり有利なレースになりそうです」

 

「そうですかね……」

 

 誘導馬を先頭に馬場にその姿を現したグリーングラスに視線を向け、首を傾げる。

 

「グリーングラスもグリーングラスで、やってくれそうですが」

 

「けっこう仕上げましたからね。これには的田くんも微笑んでましたから」

 

 グリーングラスと的田弘、シアトルスルーと小田部信夫。

 これらの人馬がどういう動きをするかで、展開は決まるかもしれない。

 

 さてどうなるか……。

 

 

 

『冬枯れの中山、有馬の舞台に集ったのは、どれもこれも実績馬たち。日本競馬の総決算であり、一大決戦でもあるこのグランプリ。16頭の強豪による競走をさあ、ご覧あれ。

 ――最後に16番、小田部信夫騎乗シアトルスルーが枠入りを終えます。

 暮れの中山、冬枯れのターフ、年末のグランプリ、制するのは果たして! GⅠ有馬記念――!

 

 

 スタートしましたっ! ややバラついたスタート! 注目馬は各々どのような位置に着けていくのか!

 まず行きましたシアトルスルー、大外枠でも関係なし。やはり一気に先手を奪っていきます。1番人気馬は逃げていきます。2番手には菊花賞馬インターグシケン、そのあと3番手に、馬場の真ん中を通ってグリーングラス。こちらは今日の2番人気です。

 皐月賞馬サクラショウリは5番手、前目を見ながらの競馬か。各馬、600mの標識を通過していきます』

 

 

 シアトルスルーが先頭を奪取し、それを他が追う展開。そうなりつつあるが、ペースはどうだ。

 馬群は縦長に伸びてきている。後方に控える追い込み馬には不利な状況なのだが、まだ600m~800m辺り。ここで仕掛ける馬はいないだろう。

 

 

『先頭はシアトルスルー、リードは2、3馬身ほど取っています。それからインターグシケン、さらにはグリーングラスと、逃げていく米三冠馬を追う形。

 1000mの通過タイムは1:01.4。やや遅くはありますが、展開への、後方勢への影響はどうか。

 まだ悠々と逃げるシアトルスルー。このまま逃げ切ってしまうのか! 鞍上の小田部の読みはどうだ!

 馬群は縦長に形成されています。後方勢、追い込み馬には非常に厳しい展開』

 

 

 残り800mへ差しかかりつつある。グリーングラスと的田さん、シアトルスルーと小田部さんはどのように仕掛けるか。

 

 

『残り800mを切って、間もなく最終コーナー。先頭はまだ、まだシアトルスルー。だがインターグシケンが競りかけてきた! ここでインターグシケンが仕掛けて、シアトルスルーを捉えにいく! グリーングラスはまだ動かない!

 最終コーナーを回ります! 夕陽を、歓声を浴びながら、間もなく最終直線! 最後の攻防!

 グリーングラスに鞭が入った! グリーングラスに鞭が入った! 的田弘、手綱を扱き始めた!

 さあ、有馬記念! 最終直線! 先頭、逃げる逃げるシアトルスルー! 競りかけたインターグシケンはズルズルと後退! だが入れ違うように、グリーングラス! グリーングラスがシアトルスルーに襲いかかる! シアトルスルーはまだ鞭を入れず! 小田部信夫はまだ持ったまま!

 やや外を回ってグリーングラス! グリーングラスが突っ込んでくる! シアトルスルーとの差が4馬身、3馬身と縮まっていく! しかしまだまだシアトルスルー先頭だ! 粘るか!? 差すか!? どちらだ!? どちらだ!? グリーングラスががシアトルスルーに並びかける! ようやく小田部が手綱を押す! ここで小田部が手綱を押した!

 グリーングラス、一杯か!? グリーングラス、一杯か!? 残り100mで、シアトルスルーが再び突き放す! やはりこの馬は強い! これが世界最強か! シアトルスルーだ!

 

 シアトルスルーが1着! 1着でゴールイン! 1馬身離されて2着にはグリーングラス! 3着にはサクラショウリのようです!

 やはりここでも強かった! 米三冠馬シアトルスルー、圧巻の勝利です!』

 

 

 

【1978年有馬記念 結果

 

 

 1着 シアトルスルー 2:31.9

 2着 グリーングラス 1馬身

 3着 サクラショウリ 5馬身】

 

 

 

 

 

「伊坂先生……」

 

 思わず、目を見開かざるを得ない。

 あのグリーングラスが最後に突き放されて完敗する。彼だってかなりの名馬だというのに。

 だけれど今回は、相手が相手だったか。負かしにはいったが、返り討ちに遭ってしまったようだ。

 

「とんでもないものを見れましたよ……」

 

 伊坂先生も唖然とした様子で、こちらに振り向く。

 

「シアトルスルーってやっぱり馬のような何かですね」

 

 苦笑しつつ、俺はそのような冗談を発する。

 こんなレースを見せつけられると、歴代の米三冠馬とも競わせたくなる気持ちが湧いてくる。

 だがこれでお終い。そう、シアトルスルーはここで引退だ。

 鞍上を務めてくれた小田部さんは、きっと悲しむが喜んでもくれるだろう。

 シアトルスルーなら、必ず大種牡馬になってくれる――と。

 

 

 

 

 しかしこの時点では、まだわからなかった。

 まさか小田部さんが本を出版するなどとは――。

 

 

 

「すみません、オーナー。よければなんですけど、これどうぞ」

 

 有馬記念から何日か経て。牧場を訪れた小田部さんから、一冊の本を手渡された。

 タイトルは――『シアトルの背』。完全に怪文書集と思しき本だった。




 シアトルスルー、引退。初年度種付け料は1300万円。


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1978年エピローグ 時代を紡ぐ

 名馬が競走から身を退く光景というのは、どこか寂しいものがある。

 昨年、日本競馬史を大きく揺るがした、日本調教馬による米三冠、並びにグランドスラム制覇。

 その立役者はもはや悔いはないとばかりに、共に走り抜いた鞍上を伴い、とうとう引退を迎える。

 彼が成した夢は、どこまでも遠く、果てなく継がれていくだろう。俺はそう信じている。

 

 自由なる夢を乗せた白鳥は、新天地へと飛び立った。

 けれども彼の魂はいずれ、この地へ戻ってくる。無論、彼の生国にも。

 シアトルスルーは間違いなく、小田部信雄と共に在り、その勇姿は永久に残り続けるだろう。

 

 新たなる伝説として、そして、これはある意味幕開けでもある。

 のちに続く名馬たちも、きっと数々の伝説を打ち立てるに違いない。

 

 

 

「また買ってきたんですか? オーナー?」

 

 牧場のそこら中に降り積もっている雪にも劣らないほど冷ややかな視線を、場長の牧野さんから注がれる。

 今、俺の傍らに立つ鹿毛の牝馬を指しているのだろう。牧野さんは肩を竦めて、溜め息を吐く。

 

「……で、いくらなんです? その繁殖牝馬は?」

 

「うん、1200万円です」

 

「…………は? ……え?」

 

「1200万円ですよ。最近モンテオーカンを売却したんで、それで得た資金の一部で買ってきました」

 

「いや! 1200万円も大金ですけれど! オーナーにしては安すぎるのでは!?」

 

「まあ、スピードシンボリを父に持つ若い繁殖牝馬とはいえ、かなり安く売ってくれたな、と」

 

「ちなみにどこからその繁殖牝馬を……?」

 

「シンボリさんの牧場からです。いやしかし、海外遠征に関して根掘り葉掘り聞かれたんですが、答えられる範囲で答えたら、だいぶ値切ってくれまして」

 

 牧野さんが終始唖然としっぱなしだが、これもつけ加えておかねば。

 

「ああ、そうだ。それとちょっと前に、アメリカにある牧場を買い取らないか、という話も来てて。ただ、俺だけ使えるのも忍びないので、メジロの北見さんに所有権の半分を押しつけてきました。資金に関しては、まだまだ余裕のある俺が賄うという形で」

 

「はぁ!?」

 

「牧場名はレイクビルファームです。まあ、北見さんに命名を押しつけたんですけどね」

 

 牧野さんはわなわなと震えながら、頭を抱えている。

 

「や、やりすぎでしょう……」

 

「まあ、やりすぎたとは思ってます。反省はしていません」

 

「いや、してくださいよ!?」

 

「だって日本競馬を少しでも底上げしたいんだもん……」

 

「だからってやり方が派手すぎますって!」

 

 間髪入れずに牧野さんが言葉を飛ばしてくるが、それもそうだ、なにせ日本競馬のレベルアップのためにと、ここまで資金を投入できる馬主がいるかと。

 ただ、まったく後悔などしていないし、むしろ使い道ができたくらいだ。

 それに北見さんがお礼とばかりに紹介してくれたシンボリさんも、大切な繁殖牝馬を買わせてもらって、逆にとんでもないものを得られた気分だ。

 

「そうだ、この繁殖牝馬の名前なんですが、スイートルナっていいます。気軽に呼んでやってください」

 

「そこはわかりました……」

 

「生まれてきた仔には、いずれなにか大きいところを勝ってほしいですね」

 

「よくそんな呑気でいれますね……」

 

「馬産には根気がいりますからね。仕方ないです」

 

「ごまかさないでください!」

 

 牧野さんが声を張りすぎて肩で息をしている中、俺はまだ口を開く。

 

「そういえば、来年から競馬番組が一部変更されるようですね」

 

 懐から資料を取り出して、牧野さんに手渡す。

 

「えーと……確かに一部重賞が変わってますね……」

 

「まあ、ちょっとした変更のようですから、そこまで気にする必要はなさそうですが……」

 

「ダートの三冠競走が整備されるわけでもありませんしね……」

 

「そうですね。油断はなりませんが」

 

 ところで、とつけ加えて。

 

「来年、伊坂先生のところに入厩予定のダンジグはどうですか?」

 

「うーん、そうですね……」

 

「脚部不安とか、ありませんか?」

 

「最初はほんのちょっとそうだったんですが、ちょっと鍛えたらそうではなくなりまして」

 

「……ダンジグには、健康面での不安がないと?」

 

「まあそんなところです」

 

 ホッと肩を撫で下ろす。もし史実のように故障などしてしまえば、元も子もない。

 

「ダンジグには期待しててもいいですよ、オーナー」

 

「……ほう?」

 

「彼、オーナーが思っている以上にいい馬かもしれませんよ」

 

 牧野さんはニヤつきながらそう告げると、では、と言葉を残して背を向ける。

 

 

「……あれ、これ、もしや相当?」

 

 俺はただ、唖然とする他なく、気がつくとスイートルナに引かれそうになっていた。



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1979年
白いネズミ


 例年の如く春が深まってくれば、馬産地には、新たな命が産み落とされる。

 4月の中頃。その時期になってくると、牡馬クラシックの一冠目、皐月賞が開催される。ホースマンにとっても、ファンにとっても、ある種の開幕週だ。

 ただ、生産者はこの月になると一層忙しさを増してくる。

 そう、サラブレッドの出産シーズンに差しかかろうとしているのだ。

 

 どんな仔馬が産まれてくるのか、母子共になんの異常もないか。楽しみであると同時に、肝を冷やす瞬間でもある。

 だが無事に産まれ、その仔馬が競走馬として駆けていく姿というのは、やはり感慨深いものがあるのだろう。

 

「伊坂先生、自分たちの馬が走るっていうのは、やっぱり感慨を覚えるものなのでしょうか?」

 

「そうですね。ましてや、クセのある馬が走って何事もなく帰ってきてくれたら、うん、調教師冥利に尽きますね」

 

「馬に懸けてるという点では、ある意味ファンと一心同体ですかね?」

 

「まあその場合は、懸けてるというよりは賭けてますからね……」

 

 苦笑交じりに返されると、ぐうの音も出ない。

 

「でも、応援という意味では同じかもしれませんね」

 

「馬に想いを託す点は、共通しているのですね」

 

「その通りです。……想いを託した馬が三冠馬とかになってくると、腰を抜かしそうになるんですけどね」

 

「伊坂先生、腰の骨は大丈夫ですか?」

 

「安心してください。厩舎の仕事でもう慣れてます」

 

「慣れてはいけない気もしますが……」

 

「……ところでオーナー、こうして牧場にお招きいただいたのには、理由があると見てますが……」

 

「ああ、そうですね。一頭、見てもらいたい仔馬がいましてね」

 

「そういえば、オーナーもいよいよ生産に力を入れ始めていたのですね」

 

「まだ繁殖牝馬は四頭のみですけどね」

 

 だが、そのうちの一頭がどこか不思議な仔馬を産んでくれたから、今日はそのお披露目というわけだ。

 

「一応、血統をお伺いしても?」

 

「はい。父がカブラヤオー、母がアレフランス、母の父がシーバードですね」

 

「……カブラヤオー、ですか。元気にしていますかね」

 

「ふわふわクッションにハマってます」

 

「三冠馬よ……」

 

 伊坂先生は微笑しつつも、その目は朗らかだった。

 やはり自身にも思い出深い名馬が、健やかにしてくれているとなると、どこか感慨深いのだろう。

 

「今は放牧地に出ていますので、そちらに行きましょう」

 

「カブラヤオー産駒、となると立派な馬ですかね」

 

「……あー、まあ、はい」

 

 その馬体に関しては、一度目の当たりにしてもらおう。

 うん、そうするしかない。というより、言い訳のしようがない。

 

 

 

「えーと、この時期って雪は降ってました?」

 

「今は春なので、ほとんど降ってませんね」

 

「……そうなると、あれは」

 

 放牧地で母馬の傍らに佇む小さな白を指して、伊坂先生は顎に手を置く。

 

「はい、毛色ですね」

 

「あんなに真っ白いとなると、明らかに芦毛ではないですね」

 

「そうですね、まさか産まれてくるとは思いませんでしたが……」

 

「というと、あの毛色は……()()、でしょうか?」

 

「そう、なりますね。もうちょっと近くで見てみましょうか」

 

「ありがとうございます。……オーナーが引きに行かれるのですね」

 

「運動ですよ、運動」

 

 母馬のアレフランスの引き手を持ち、誘導すると、その様子に気づいた仔馬もちんまりとした足取りでついてくる。

 

「よし、ありがとうね。伊坂先生、見ていってください」

 

「ありがとうございます。では…………お、おう……」

 

 伊坂先生は引きつったような笑みを浮かべる。眉をピクピクとさせて。

 こればっかりは無理もない。なにせ――

 

()()()()()()()()()()……」

 

 脚部はひょろっこいし、厚さも皆無だし、さらっとあくびもしているし。散々である。

 

「……まあ、入厩できるようになったら、いつでもどうぞ」

 

「……ありがとうございます」

 

 予想していたとはいえ、伊坂先生の反応も芳しくない。

 まあ、この馬体を目の当たりにすれば、そうもなるだろう。

 

「そういえば伊坂先生、グリーングラスたちのほうは?」

 

「今のところはどの馬も順調です。グリーングラスは阪神大賞典も勝って、天皇賞(春)三連覇に向けて調教してます」

 

「いやぁ、どうなるかわからないのが怖いですね……」

 

「まあ、勝つも負けるも馬次第ですからね」

 

「ジョンヘンリーはドバイシーマクラシックを勝って、現在は放牧中ですね。うちの牧場で休養してます」

 

「しかし、ドバイのGⅠを勝つとは。鞍上の山南くんもよくやってくれました。それから、海外遠征となれば……」

 

「スペクタキュラービッドもですね。今は再度アメリカに行ってて、当地のサンタアニタダービーを6馬身差で圧勝したとか」

 

「日原くんもよくやってますね。スペちゃんのおかげと彼は言っていましたが……」

 

「彼も彼で思うところがあるのでしょう。次がいよいよケンタッキーダービーなので、とても楽しみにしています」

 

「ですね。あれほどの馬でしたら、もしかしたら……。シアトルスルーに匹敵するほどだと思っているので、頑張ってほしいです」

 

 伊坂先生からそのような言葉が飛び出したのは少し予想外だったが、それほどにスペちゃんに期待しているのだろう。

 こうなってくると、やはり胸が弾んでくる。

 

 国内は天皇賞(春)、米国はケンタッキーダービーと、この先に想いを馳せて。

 そうしていると、またもや、白毛の牝馬があくびをしていた。



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過去も未来も超えてゆけ

 記憶にある中では、天皇賞(春)三連覇と聞くと、どうにも寒気に見舞われる。

 思い起こす光景は、ある芦毛のステイヤーが黒い刺客に敗れ去った瞬間。この京都競馬場をどよめきが覆った。

 今こうして、自分たちがそうなるかもしれない大舞台に立つというのは、どうしても身が引き締まる。

 我らがグリーングラスがいかに強いステイヤーだとしても、波乱は起こりえるもの。

 

 気づけば、競馬新聞がしわに塗れるほど、強く握ってしまっていた。

 冷や汗は止まらないし、肩も震えている。胸に手を当てても、いつもの倍近くは拍動しているのではなかろうか。

 

「……頼むぞ、グリーングラス、的田くん」

 

 隣で、顎に手を当てうずくまるような体勢でいる伊坂先生が、ポツリとそう呟く。

 天皇賞(春)三連覇。誰も成しえないこの偉業に挑もうというなら、ここまで緊張感を漂わせるのはもはや必然かもしれない。

 ひと呼吸置いて、返し馬を終えていく各馬に視線を注ぐ。

 

「……グリーングラスは、強いんだ」

 

 思い込ませるように零す。あれは間違いなく名馬であって、俺の知る『緑の刺客』なのだから。

 

「伊坂先生……自信のほうは?」

 

「……お恥ずかしながら、五分五分ですね。自信と不安で」

 

「仕上がってそうですけどね……」

 

「はい、そこはきっちりと」

 

「あとは……」

 

 一頭の鹿毛に視線を移す。以前グリーングラスを破った名馬に。

 

「逃げ馬次第、ですかね?」

 

「あの馬が逃げるとなると、展開がまったく変わってきますからね……」

 

「……エリモジョージ、俺たちにとってはトリッキーな相手ですね」

 

 このレースは、天皇賞(春)は。間違いなくエリモジョージがペースを握ろうとしてくる。

 だが問題は、どんなペースに持ち込んでくるかがわからないというもの。

 

「グリーングラスは6歳ですが、エリモジョージは7歳馬。それもあって人気はちょっと落としてますが、こちらにとっては油断ならない相手です」

 

「伊坂先生が想定している中で、最悪なペースは?」

 

「1000m時点で1分を切っていて、なおかつグリーングラスが外を回っていたら、です。……枠順もいいとは言えませんから」

 

 18頭中の16番。グリーングラスがスタートするのはその枠から。

 

「……道中は的田さんの判断能力が問われますか」

 

 ならその不利を覆すのが、操縦者である騎手というもの。

 

「3200mという長丁場、どう乗り切るのやら……」

 

 

 

 ゲートに入っていく各馬の姿を目の当たりにして、緊張感がより強まっていく。

 だが同時に、胸からはまた違うなにかが込み上げてくる。なにやら熱いものが。

 

「それゆけ、グリーングラス……!」

 

 

 

 俺の言葉が歓声に飲み込まれる瞬間――

 天皇賞(春)が開幕を告げた。

 

 

『スタートしましたっ! おっとグリーングラス、ポンと出ました。1番人気グリーングラスが好スタートを切りました。拍手が沸きます、拍手が沸きます。しかし行かせまいとエリモジョージ、3番エリモジョージがハナを取りに行きます。グリーングラス、争わずスッと下がります。4番手から5番手辺りに下がっています。

 先頭は、やはり先頭はエリモジョージ。エリモジョージが逃げを打ちました。古豪エリモジョージが逃げます。若干後ろ、エリモジョージの半馬身ほど後方にサクラショウリ、逃すまいと続いております。グリーングラスは前方を眺める形、4番手に位置を取っていますが、外、やや外を回っています』

 

 

 淡々と状況が告げられていく場内を、並々ならぬ熱が包み込む。

 それでもグリーングラスと的田さんは、粛々と自分たちの競馬をしていくだけ。

 たとえ三連覇であろうと、天皇賞であろうと。グリーングラスを信じて突き進んでいく。

 エリモジョージらを前に、人馬は臆することなく立ち向かう。

 

 ――――だが。

 

 的田さんがなにかに気づいたように最内へ切り込む。そこでまさかと、掲示板へと目をやる。

 

 

『1000mの通過タイムは、59.7! かなり速いペースとなった天皇賞(春)! これは大丈夫か!? これは大丈夫なのかエリモジョージ!?』

 

 

「……これ、は……」

 

 ふと横に顔を向けると、伊坂先生が頭を抱えていた。

 

「やられたっ……!」

 

 苦い表情を垣間見せる伊坂先生で、この状況を理解する。

 

「エリモジョージ……()()()()()()()()()()()()()、か」

 

 ということは、あちらにかなり意識されている。グリーングラスを打倒するための逃げだというのなら。

 

「伊坂先生……!」

 

「やはり、ひと筋縄ではいきませんね」

 

「これ、まずいですね…………ん?」

 

 先頭に立つエリモジョージがここでサクラショウリに差を縮められていく。これだけのハイラップを刻んで失速、しかも残り1400m付近というと――

 

「……すぐ捕まえないと……!」

 

 自然と、そんな言葉が口から飛び出す。

 間違いない、あれは間違いなく。

 

()()()()()()()()()()()ッ……!」

 

 頼む、頼む、頼む。

 ただただ、気づいてくれと。ひたすら祈るしかない。

 現在グリーングラスは5番手。前目ではあるが、このまま最終直線となれば。

 心理戦という意味では、こちらの敗北は濃厚だ。

 

『間もなく残り1000mを通過していきます。2番手サクラショウリは後退気味。ここで単独先頭はエリモジョージとなります。まだ、まだエリモジョージが先頭であります。グリーングラスは、グリーングラスはいつ仕掛けるか。じっくりとじっくりと構えております』

 

「どうだ……!?」

 

 的田さんは手綱を握って、鞭はまだ持ったまま。

 もうすぐ残り900mとなろうというのに、いつ仕掛けるのだろうか。

 

「このままでは……」

 

 顔を覆おうとしたその一瞬。

 

『あーっと、グリーングラスが仕掛けた! グリーングラス、的田弘が手綱を押して仕掛けていきました! 一気に動きます! 一気に展開が動きます! グリーングラスが上がっていった!

 間もなく最終直線! エリモジョージが先頭で、さあ天皇賞(春)、盾の覇者は果たして!? 最終直線に差しかかります! 外からグリーングラス来た、グリーングラスがやってきました! エリモジョージが粘っている! まだ粘っている! 図ったかエリモジョージ! このまま逃げ切れるか!? しかし外、外からグリーングラス! グリーングラスが! 突っ込んできた! 撫で切るかグリーングラス! 的田はやっぱり怖かった! 必死に鞭を打って、グリーングラスが、エリモジョージを、躱していきます!

 躱した! 躱した! グリーングラス、エリモジョージと半馬身ほどのリード! 三連覇濃厚! 三連覇濃厚! グリーングラスの三連覇だ! グリーングラスの三連覇だ!

 

 先頭、グリーングラスがゴールインッ! 勝ちましたのは、三連覇を目指したグリーングラス! 見事に、見事に天皇賞(春)三連覇を成し遂げました! 大仕事をこなしました的田弘!』

 

 ほんの一瞬。それだけで、勝負は決した。

 まさか春の盾を三連覇するなど、先ほどまでは思うことさえできなかったのに。

 

「……あっぱれ、グリーングラス、的田くん」

 

 唖然とした様子で、伊坂先生が呟いた。

 

 

 

 

 

【1979年 天皇賞(春) 着順

 

 

 1着 グリーングラス 3:19.7

 2着 エリモジョージ 1馬身

 3着 カシュウチカラ 4馬身】

 

 

 

 

 

「……グリーングラス、宝塚記念は回避ですか」

 

「まあ、天皇賞での疲労が抜けきらないようですしね、牧野さん」

 

「そうですか。……それにしても、春の盾を三連覇とは。すごいことを成し遂げてくれましたね」

 

「グリーングラスも的田さんも、素晴らしい仕事をしてくれましたよ。……まさか的田さんが三連覇しようとは」

 

「……オーナー?」

 

「ああ、いえ。数奇なこともあるものだなと」

 

「ところでオーナー、来年産まれる幼駒の予約をしたというのは本当ですか?」

 

「本当ですよ。牝系もよさげでしたし。繁殖牝馬は買っていませんが。確か名前は……」

 

 

 ――ニホンピロエバートでしたね。秘めてるのはスティールハートの仔だったような。



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尽くを灰に

「ちょっとちょっとキミ、うん、キミだよ、キミ。突然で申し訳ないんだけどね、一回だけでも乗ってみてほしい馬がいるんだよ」

 

 初見での印象としては、胡散臭さしかない調教師だと、自分の中で断定されていた。

 そんな印象だったがために、初めは断ろうとした。そう、もう少しで手放してしまうところだったのだ。

 

 口から出かけた言葉を飲み込めたきっかけは、そのセンセイのあるひと言だった。

 

「キミに似合いそうな、ロックな馬だと思うよ。ちょっとでもいいから、乗ってみてほしいなぁ。もちろんただでとは言わないよ」

 

 なるほど、なら面白そうだと。単純に、どんな馬なのか気になってしまった。

 その時のオレがどういう顔をしていたのかはわからないが、きっと、悪どく際どい笑みを浮かべていたように思う。

 

 あのセンセイに誘われて、オレは魔境に踏み入ろうとしていたのだと。

 件の馬に騎乗し、気づくことになる。

 

 

 

 

「二度目のケンタッキーダービーなのですが、まさかこうもなろうとは……」

 

 スタンドの関係者専用ゾーンにて。

 隣に立つ伊坂先生が大きく溜め息を吐き、肩を竦めてみせる。

 

「いやぁ、参りましたね。こんなに降るなんて」

 

 暗雲と、そこから注がれる細やかな雨粒を見上げて。対して俺からは、乾いた笑いしか出てこなかった。

 ――ケンタッキーダービー。チャーチルダウンズ競馬場・ダート2000m。

 今年の米国最大のダービーは、悪天候での開催と相成った。

 

「……しかし、ここまでダートが重くなると」

 

 続けようとして、口を結ぶ。

 いや、この言葉は無粋か。そう判断して。

 ただ反対に、伊坂先生は不安げに雨空を見上げていた。

 

「大丈夫なのか? いくらスペクタキュラービッドでもこうなると……」

 

 あんまりにも不安そうな姿がこちらにも伝播してきそうだったため、

 

「なに言ってんですか、伊坂先生!」

 

 大仰に、背中をバシンと強く叩いてみる。普通はやったらダメなのだが。

 ただやっぱり、こういう時こそだ。

 

「ここは一回、信じましょう。スペちゃんと日原さんがどう乗り切るのか。こうは言ってはなんですが、俺は逆にウズウズするぐらい気になってますよ」

 

「……オーナーに励まされるとは」

 

「その反応はなんですか伊坂先生」

 

「おっと、これは失敬」

 

 目を向けてみれば、伊坂先生の表情に笑みが戻っている。

 これなら、心置きなく観戦できるものだ。

 

「さて来ますよ、そろそろ」

 

 

 

 さあ米国よ、灰の天才にどう立ち回ってくる。

 

 

 

 

 15頭。今回ケンタッキーダービーに出走するという競走馬の数だ。

 だがこの最高峰の頂に上り詰められるのは、やはりただ一頭。

 しかし、今日のケンタッキーダービーにはどこか異様な盛り上がりがある。

 

「頼むスペちゃん、勝つとこみせてくれぇっ!」

 

「このために日本から来てんだ! 負けちまったら承知しねぇからな!」

 

「日原も気張れよー! 落ちるんじゃないぞー!」

 

 そう、なんと日本から応援団が駆けつけていた。

 たった一頭の日本馬、それだけのために。

 

 ゲート入り直前、日原さんは嬉しそうに笑んでみせて、スタンドの一部に大きく手を振る。

 まあ目立ちたがりな気質もある彼のことだ。苦にするどころかむしろ力にしてしまうだろう。

 

 11番ゲートに入り、日原さんがグッと手綱を握ったように見えた、その瞬間――

 

 

 

 ジリリリリ、という合図と共に、ガシャン、と火蓋が切られた。

 

 

『スタートしましたっ! 昨年に米2歳王者に輝いたスペクタキュラービッド、唯一の日本馬が好スタートを切ってくれました! 続いてアメリカ勢、コースタルが行きます。

 しかしスペクタキュラービッドは下げます。中団、いえ、やや後方に着けます。スペクタキュラービッドは後方からとなります。

 さあ日本馬一頭! スペクタキュラービッドは15頭中13番手、かなり後方に下げましたが、これはどういう騎乗なのか。鞍上日原成樹の手綱捌きにも期待しましょう。

 先頭、逃げる形になったのは――』

 

 

 さあどう来る? どう行く? どう動かす?

 日原さんの読みやら考えやらはまだわからない。

 だがきっと、やってくれるはずだ。

 史上ふたり目、史上二頭目の快挙を。

 

『1000mの通過タイムは1.04.8。不良馬場も相まってかなりのスローペースとなりました! 後方にはスペクタキュラービッド、日本馬がいますが、これは大丈夫か。泥に塗れながらも突き進んでいきます。

 残り1000mを切って、馬群はぎゅうぎゅう詰めの団子状態となっています。スローペースでこれはどうか、日原騎乗スペクタキュラービッド。

 ここからの追い上げは見られるのか。昨年のような末脚を発揮できるのか。

 残り800m。最終コーナーへ差しかかって、後方勢、アメリカのプライヴェイトアカウントが上がっていきました! 他馬も上がっていく上がっていく! スペクタキュラービッドはどうか!?』

 

 

 ふと日原さんの腕に視線を注げば。

 ――――抑えてはいないが、まだ動かしてもいなかった。

 

 

『残り500m! 最終コーナーを回って、日本馬はどうだ!? スペクタキュラービッドは追い込めるのか!? まだ9番手! しかし! 持ったまま! 持ったまま! まだ持ったまま! ジワジワと他馬を呑み込んでいく!

 400mを切ってまだ、先頭はコースタル! アメリカのコースタル! 外からプライヴェイトアカウント! 外から襲いかかってくる! だが、だがさらに! さらに外から! やっと来た来たスペクタキュラービッド! 日原成樹の手綱が動いた! 押して押してスペクタキュラービッドが! 3番手! 競り合う両馬を! 外から撫で切ったァ!

 鞭は使わず! 一気にねじ伏せる! スペクタキュラービッドが! 残り100mを独走している! 大歓声に包まれて! 場内、沸いております!

 

 

 ――スペクタキュラービッドが今、突き放してゴールイン! ……鮮やかッ! 鮮やかでした日原とスペクタキュラービッド! この雨天を、この泥を、この群れを、突っ切って、今日本馬が! 2頭目の大快挙を成し遂げてみせました!』

 

 

 

 

『ヒハラ! ヒハラ! ヒハラ!』

 

『ヒハラ! ヒハラ! ヒハラ!』

 

『ヒハラ! ヒハラ! ヒハラ!』

 

 泥に塗れた芦毛馬の鞍上が、着けていたゴーグルを外し、コールする観客に笑顔を向ける。

 

「やってやったぞおおおお――ッ!」

 

 雨空に拳を突き上げ、声高らかに。

 自らの勝利を、宣言する。

 

 

 

 

 

 

 

 

【1979年 ケンタッキーダービー 結果

 

 

 1着 スペクタキュラービッド 2.03.4

 2着 プライヴェイトアカウント(米) 7馬身

 3着 コースタル(米) クビ】



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いつかキミのように

 ケンタッキーダービーという頂に上り詰めたのなら。

 もうひとつ、いや、あとふたつ。三つの冠を制するには、それらのレースも優勝する必要がある。

 と、そういうわけで二冠目、ピムリコ競馬場で開催されるプリークネスステークス(ダート1900m)にも出走したわけだが……。

 

 

『さあ米二冠目、プリークネスを制するのは!? アメリカ馬か、日本馬か!? 最終直線に向き、各馬、仕掛けていきます。先頭は、先頭はなんと、なんとスペクタキュラービッド! ケンタッキーダービー馬スペクタキュラービッド! 鞍上日原、今日は前目に着けて押し切りを狙います! 前走とは打って変わって! プライヴェイトアカウントが追うが、届くどころ差は開く一方! 7、8、9馬身……突き放す突き放す!

 

 

 スペクタキュラービッド、今ゴールイン! やはり日本馬! ケンタッキーダービー馬が見事やってくれました! 拳を突き上げて、日原も歓喜を露わにします!

 勝ちタイムは……1.53.2! 惜しくもレコードには届きませんでしたが、見事な勝ちっぷりを見せてくれました!』

 

 

 と、このようにスペちゃんが圧勝してくれたのだ。

 となると、残る一冠はベルモントパーク競馬場のGⅠベルモントステークス。

 無敗で米二冠を達成したとなれば、三冠達成への注目度はなおさら高まるばかりだろう。

 日本調教馬での達成となると、1977年にシアトルスルーが名手を背に成し遂げたのが記憶に新しい。

 聞いたところによると、日本競馬内でもスペクタキュラービッドが三冠馬となるのかどうか、そういう話題で持ち切りだという。

 

 日本からの期待に応えて、ベルモントも勝って歴史的快挙をもう一度、といきたいところではあるが……。

 今度ばかりはそう簡単に勝てそうな気がしない。

 

 史実において、スペクタキュラービッドという名馬は2000mならば()()()()()()()()()()()()()()()()のだと、そんな評価を下されている。

 本当にセクレタリアトと対決したならばどうなるか、というのはさておいて。

 ()()()()()()()()――その枕詞が、俺の緊張感をより刺激する。

 なにせ、このベルモントステークスが2400mという距離で行われるのだから。

 

 実際、史実では安全ピンを踏み抜いてしまうというアクシデントこそあったものの、ベルモントでは無念の敗退を喫している。

 俺だけが知る実例があることによって、なおさら不安に駆られるというもの。

 

「……伊坂先生、スペちゃんの脚元、大丈夫でしょうか?」

 

「え? え、ええ。今のところはまったく異常はありませんでしたね。生き生きとしてました」

 

「ならいいのですが、やっぱり不安ですね」

 

 晴天の下、赤茶の砂が風に運ばれる。

 ベルモントステークスの出走頭数は僅か7頭。

 そのうちの5番、それがスペちゃんの馬番だ。

 

 日原さんは「勝ちますよ、絶対に」とコメントしてくれていたが……結果はどうなるのかわからなさすぎる。

 一応人気もスペちゃんが一番人気で、オッズは1倍台と、完全に一強と予想されてはいるが。

 

 

 

 発走時刻間近に迫って、ゲート入りも次々と済まされていく――そんな光景を目にすると、自然と肩に力が入ってくる。

 深呼吸して、呟く。

 

「――頼む」

 

 

 

 そして――運命の始まりを告げるように。ゲートが開け放たれた。

 

 

『――さあ、スタートしましたっ!

 5番スペクタキュラービッド、好スタート、好ダッシュを決めました! スタンド、拍手喝采が沸きます! 拍手喝采が沸きます! その勢いのままスペクタキュラービッドがハナを切ります! スペクタキュラービッドがプリークネス同様の逃げ切り、押し切りを図るか!

 鞍上の日原成樹、自信を胸に力強く手綱を押して押して押します! 行った行った、スペクタキュラービッド! 三冠の懸かったスペクタキュラービッドがいった!』

 

 

「伊坂先生、どうですか? これは」

 

「日原くんは作戦があると言ってましたが……まあ、けっこういくんですね、彼」

 

「2番手とのリードは2、3馬身ほど。まあまあの逃げ、でしょうか?」

 

「うーん、たまになにを考えてるのかよくわからない競馬をしますからね」

 

「天才かなにか、ですかね……?」

 

「まあ上手い時は上手いですから」

 

 

『1000mの通過タイムは1.00.6! 少し速いペースとなりましたベルモントステークス! 先頭は依然スペクタキュラービッドですが、すぐ後方にはアメリカのコースタルが構えています。米三冠の偉業を成し遂げるか、スペクタキュラービッド。このまま逃げ切りを図ろうとしています』

 

 

「思ったよりも速いが、大丈夫なのか……?」

 

 伊坂先生が眉をひそめて呟く。

 未知の距離でこのペースともなれば、不安になるのも仕方ない。

 ただこのペースで逃げるとなると……。

 

「ここからどう()()()? 日原成樹騎手」

 

 それでもあの天才タッグはやってくれるはずだ。

 

 

『残り800mを切りました。後方2頭、位置を押し上げにかかっています。スペクタキュラービッドを捉えられる位置取りか。中団、先団の馬も徐々に動き始めます。

 スペクタキュラービッドと二番手コースタルとの差は少しづつ詰まりつつあります。これはどうか、スペクタキュラービッド。一番人気スペクタキュラービッド、逃げ切れるのか。

 残り600m、最終コーナーにかかっても、先頭はまだ、まだスペクタキュラービッド! 二番手との差は1馬身ほど! 日原成樹はまだ手綱を抑えている! ここから行くのかスペクタキュラービッド!

 

 残り400mを切って、最終直線へと、三冠目へと差しかかっていきます! 先頭スペクタキュラービッド! 手綱が動いてスペクタキュラービッド! しかし鞭は打たないか! 二番手はコースタル! この脚勢はどうか! 先頭へ躍り出られるか!

 しかし、しかし! まだ先頭はスペクタキュラービッド! 2、3馬身がなかなか縮まらない! 手綱を押して、三冠ロードを突っ走る!

 残り100mだが、もう決まった! もう決まった! 差が縮まらない! 差が縮まらない! アメリカンホースを押し退けて、スペクタキュラービッドが駆け抜けていく!

 

 ――スペクタキュラービッドが今、ゴールイン! 完勝です! 完勝でした!

 1979年、今ここに、史上2頭目の無敗の米三冠馬が誕生しました! スペクタキュラービッドが……っ……やりました! 関西の若きホープと共に、トリプルクラウンを勝ち取ってみせました!』

 

 

 

 

 

「日原成樹騎手、スペクタキュラービッドでの米三冠達成おめでとうございます。ケンタッキーダービー、プリークネス、ベルモントと続いて完勝でしたが、実感のほうは?」

 

「うーん……そう、です、ね。正直ね、こんな名馬と出会えるなんて……これはオレが勝ったわけじゃないんです、スペが勝ってくれたんです。なのでね、実感はあんまり、ですね」

 

「そうですか。では、最終直線での手応えのほうはいかがでしたか?」

 

「ずば抜けてますね、この馬は。まだケンタッキーダービーでの手応えのほうがよかったですけど、それでも最後、踏ん張ってくれました。ベルモントはちょっと長かったみたいです」

 

「つまり距離は合っていなかった、と?」

 

「うん、そうです。最後はちょっとばかり慌てましたけど、そこをスペが……っ……うん、カバー、してくれて、ね……。まだまだ下手なんですよ、オレは」

 

「今回は馬の力で勝ったようなもの、と?」

 

「はい。最初は脚を溜めつつ逃げ切るつもりだったんですが、思っていたよりも詰められまして。まあ、完全に作戦負けです。スペが踏ん張ってくれました」

 

「なるほど。では最後に、なにかひと言を」

 

「今はただ、スペにありがとう、と言いたいです、はい」

 

「ありがとうございました。こちらアメリカから、日原成樹騎手の勝利騎手インタビューでした」




「あの馬は、オレにとって永遠の思い出で、永遠に残る心の傷、かな。あれには本当に後悔しかなくて、もし今会えるのなら、土下座でもなんでもして、ひたすら謝りたいよ」


 ――かつて天才と呼ばれていた男


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