思想が強すぎる単独強襲刀剣無双リコリス【完結】 (難民180301)
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1話

○月✕日 

 DAで暮らし始めて今日で十年。千束先輩以外の友達はいまだゼロ。部屋も先輩が出ていって以来ずっと一人で使ってる。

 

 なんでぼっちなんだろう?

 

 この田中、自分で言うのもなんだけど優秀な子だ。八歳でファーストになったし、任務達成率は100%だし、人柄もたぶんいい。見た目は司令いわく「良くも悪くも特徴がない」らしいけど、まあ悪くはないと思う。

 

 なのにみんな田中を遠巻きにする。辛い。

 

 今日は死を悼んでもう寝よう。

 

 

○月✕日 

 京都からセカンドの子が転属してきた。井ノ上たきなちゃん。クールな黒髪美人で射撃の腕がえげつない。

 

 フキ先輩のチームで活動するらしい。

 

 チームで任務、いいなあ。田中はずっと単独強襲しかやってない。

 

 今日も死を悼む。

 

 

○月✕日 

 井ノ上さんばっかりずるい。

 

 井ノ上さんが任務でやらかしたんだけど、なんと千束先輩の喫茶リコリコに左遷っぽい。実質栄転じゃん超羨ましい。毎日千束先輩と会えるとか天国。

 

 と思ったけど、よく考えたら田中も毎日会おうと思えば会えるな。暇なとき店に行けばいいだけだし。でも地味に遠いんだよな。

 

 それとたぶん、これから忙しくなる。井ノ上さんが情報源の鉄砲屋さんもろとも皆殺しにしちゃったので、鉄砲が千丁くらい行方しれずになった。違法な鉄砲を使った犯罪、すなわち田中たちの仕事が増える。

 

 これはチャンスだ。

 

 ばしばし活躍して司令に直談判してやろう。一人ぼっちはイヤですって。

 

 死を悼む。

 

 

○月✕日 

 今日は非殺傷任務を四件こなした。

 

 横流しされた鉄砲をいくつか回収できたけど、例の千丁とは無関係。有益な情報もなし。

 

 疲れた。

 

 

○月✕日 

 最悪。しんどい。

 

 任務から帰ってきたら、井ノ上さんと千束先輩が模擬戦でフキ先輩たちをボコったと聞いた。千束先輩とはすれ違いになって会えなかった。

 

 最近任務が忙しくてリコリコに行く暇もない。

 

 ああ、千束先輩の乳触ってちょーちょいちょいちょいって言わせたいなあ。

 

 

○月✕日 

 痛ましかれかし、惨かれかし。

 

 サードの子たちがたくさん死んだ。地下鉄を襲撃する悪漢どもを迎え撃ったものの、爆破されて生き埋めになったそうだ。

 

 田中もそっちに参加させてもらえれば、いくらか力になれたのに。

 

 おっぱい先輩に会いたい。

 

 

○月✕日 

 千束先輩おっぱいに会えた。司令が田中の任務の補助を喫茶リコリコに頼んだらしい。井ノ上さんもいた。

 

 かっこいいところを見せられたと思う。捕縛対象を無力化した後、いらない戦力たちの死を悼んでいるところに先輩たちがやってきた。

 

 だけど先輩に「死を悼むな」とかいう内容の説教を食らってしまった。いくら先輩でも無理を言いすぎだ。

 

 死は痛ましく惨たらしくなければ悼むことができない。

 

 痛ましかれかし、惨かれかし。

 

 

○月✕日 

 意味が分からない。

 

 任務に失敗した、ということにされた。

 

 この前の先輩たちと出くわした任務だ。無力化した捕縛対象が発狂しちゃって尋問どころじゃないとか。で、なぜか田中のせいで発狂したことにされた。だから任務失敗だって。

 

 田中は何もしてない。無力化した後死を悼んで先輩たちとちょっと話をしたくらいだ。

 

 部屋を出たらサードやセカンドの子たちが田中を遠巻きにして何か言い合ってる。きっと田中の悪口だ。

 

 司令から直接謹慎処分をもらった。個人的な思想を任務に持ち込み対象の精神を破壊した? 思想って何のことか分からない。

 

 田中は真面目に仕事をしてるだけなのに。

 

 もうやだ。

 

 

同日追記

 リコリコに行ったら慰めてもらえた。

 

 千束先輩は神。井ノ上さんは美少女。ミカ先生のお菓子は美味しいし、ミズキさんだけ買い出し行ってて会えなかったけど、なんかリスみたいにかわいい幼女が増えてた。誰も目を合わせてくれないDAより、喫茶リコリコの方がよっぽど天国だ。

 

 ただ、みんなそろって田中のことを「思想が強すぎる」と言ってたのはよく分からなかった。

 

 田中に思想と呼べるほどの考えはない。強いてあるとすれば死を悼む気持ちだけど、こんなの誰でもある。

 

 痛ましかれかし、惨かれかし。

 

 痛ましい彼氏がなんだって? と千束先輩はいつも言う。違うってば。

 

 

ーーー

 

 

 

「たきな、今からでも戻った方がいいよ?」

 

 東京郊外、とある廃倉庫の非常階段を二人の少女が駆け上がる。

 

 それぞれ赤と紺の学生服を身に着け、幼い顔立ちもあいまって女子高生らしい二人だが、これは擬態に過ぎない。彼女らは独立治安維持組織DAによって養成された暗殺者、リコリスである。変哲のない学生鞄には拳銃と予備弾倉が詰め込まれ、身体能力も一般の女子高生とはかけ離れている。

 

 赤い制服の少女、錦木(にしきぎ)千束(ちさと)が歩調を緩めずに言うと、紺の制服をまとった少女──井ノ上たきなはきっぱり言い返した。

 

「いいえ。DAからの直接依頼をないがしろにするわけにはいきません」

 

 リコリスである二人だが、所属はDAとは異なる。喫茶リコリコと呼ばれる特殊な部署に努めており、そこでは喫茶店経営のかたわらで民間の細々とした要請に応えつつ、時折東京本部から回される仕事をこなす。

 

 今回二人が廃倉庫へやってきたのもDAからの要請だ。

 

「『現地で交戦中のリコリスを援護せよ』。この程度こなせないと思われるのは釈然としません」

「いやいや、戻ったほうがいいってのはそういう意味じゃなくって──」

 

 銃声が響く。二人は言葉を切り、反射的に身を低くした。

 

 音は倉庫の内側からだ。「うわ、もうやってるぅ!」と千束が足を早め、たきなもそれに続いた。

 

 事前情報によると、廃倉庫の三階広場で違法な組織同士が銃火器の取引をしている。東京本部のリコリスが現場の制圧と主犯の捕縛のため交戦しており、これを援護するのがたきなと千束の役割だった。

 

 たきなはくしくも銃取引にかかわる任務で元の立場を追われており、DAからの評価のためにも、この仕事にかまない理由はなかった。

 

『悪いことは言わんから今回は見送れ』

『そーそー、夕ご飯食べらんなくなるわよ』

 

 なぜか喫茶リコリコの責任者と従業員は顔をしかめてたきなを窘めてきたが、そう言われると逆に意地にもなる。たきなは鞄に仕込んだ銃把を意識しながら、現場へと急いだ。

 

 そして間もなく、千束たちの言葉の意味を知ることになる。

 

「とりゃー!」

 

 千束が階段から非常扉をぶち破り、中へ侵入。クリアリングを欠かさずに薄暗い通路を進んでいくと、銃声が大きくなっていく。

 

 大きな金属扉に差し掛かり、千束とアイコンタクトでタイミングを合わせる。1,2,3と数えて一息に扉を開け、中へ跳び入る。

 

 そこには地獄が広がっていた。

 

「……えっ」

「うえぇ、遅かったかあ」

 

 集荷場だったのか、天井の高い広々とした空間。そこが見渡す限りの赤と黒に染められている。

 

 その色の源もまた無数に転がっていた。スーツやシャツ、ミリタリージャケットなどをまとった雑多な塊が床にひしめいている。首や腹からとめどない噴流のように血が流れ出し、大きな血溜まりが連結して一面の血の海を形成していた。

 

 その赤色をよく見ると、ピンクや灰色、朱色や黄色などが入り混じり、裸電球の弱い光をぬらぬらと照り返している。リコリスとして優秀な頭脳を誇るたきなには、それらが傷口からはみ出した大腸であり、小腸であり、脳漿、髄液、脂肪、千切れた肉片であることが理解できた。

 

 呆然と立ち尽くすたきな。足がふらつくと、不意に足裏に柔らかな感触がする。

 

 足をどけた先には、こぼれたゼリーのような白いゼラチン質があった。

 

 ああ目玉ですね、と認識したとたん、猛烈な吐き気がこみ上げる。

 

「うっ……」

「たきな!」

 

 リコリスの意地と、胃が空いている夕方であるタイミングも幸いしたのだろう。どうにか吐き気をこらえ、涙でにじむ目を千束に向けた。

 

「なんなんですか、これ……?」

「田中の仕業だよ。こうならないように止めるのが私たちの仕事だったんだけど……この短時間でこれなんだもん、無理無理」

 

 諦めたように首を振る千束。

 

 すると、連続した銃声が響く。一発一発が間断なく連なるそれは、たきなも覚えのあるもの──機関銃の音だ。

 

 音の発生源に目をやると、死体と血の海の向こう、電球の光が届かない闇の中でマズルフラッシュが明滅している。

 

「くるなあああぁぁあ!!」

 

 巨漢が腰だめに銃を乱射していた。

 

 銃口の先には、刃物を両手に構えた少女の姿がある。

 

 射撃を受けたなら遮蔽物で射線を切るか、撃ち返すのが普通だろう。しかしその少女は一切の躊躇もなく弾幕に向かって突進していた。周囲の床が抉れ、捲れ上がる中をまっすぐに。

 

 秒間数十発もの激しいリコイルで弾丸の大半は外れるが、数を撃てば当たるはず。少女の行動は無謀な自殺行為にしか見えない。

 

 すると出し抜けに、少女の腕と刃物が不規則なタイミングでブレる。そのたび少女の目前で火花が弾け、きいん、と硬質な音が響いた。

 

「は……?」

 

 たきなの脳が理解を拒んだ。何してんだあの子。

 

「ひ、ひええああ!?」

「痛ましかれかし、惨かれかし」

 

 なんなく接近し、男の懐に入った少女が何かをつぶやく。

 

 同時に男が電撃を食らったように強く痙攣した。一拍遅れ、首から血が噴水のように迸る。

 

 銃撃をかいくぐって近づき、刃物で頸動脈を切ったのだ。

 

 それだけでも十二分に非現実的だが、少女の奇行は止まらない。

 

「な、何を……!?」

「痛ましかれかし」

 

 少女は崩折れた男の死体に馬乗りとなり、刃物を振るった。

 

 腹が横一文字に切り開かれる。その傷口に手を突っ込み、引き抜くと、その手には内臓らしきピンクの肉塊が握られている。

 

 その工程を素早く、淡々と、機械的に繰り返す。またたく間に血と臓物が撒き散らされ、血の海の面積を増やしていく。

 

 この少女は何をしているのか。対象は既に沈黙している。何のつもりなのか。

 

 たきなが呆然自失としている中で、赤い制服がひらめいた。

 

「なーにやってんだ田中ァ!」

「惨かれかし……いだぁ!?」

 

 千束だ。

 

 千束は少女が男にとどめを刺す前から走り出していた。その勢いで通り過ぎざま、思い切り腕を振るって少女の頭をひっぱたいた。

 

「死人を弄ぶなむやみやたらと血を撒き散らすな! ったく相変わらず無茶苦茶するなぁキミ!」

「あっ、おっぱい先輩。おひさ!」

「誰がおっぱいだコラ!」

 

 少女が立ち上がる。その拍子に引きずり出している最中だったハラワタが手から滑り落ち、べちゃりと血のしぶきを上げた。千束が顔を青くして一歩後退る。

 

「つーか任務はどうしたの? 主犯を生け捕りにするって聞いたんだけど?」

「もちろんこの田中、抜かりなく確保してますとも。たしかこの辺に……あった」

 

 血と臓物と死体の積み重なる中を無造作にうろつき、手を突っ込む少女。死体の下から引っこ抜いたそれは、スーツ姿のひげを生やした男性だった。上等な仕立てのスーツと指輪やネックレスなどの装飾品からして、身分の高い男なのだろう。

 

 その男は両踵と両肘に穴を穿たれ、目はうつろで焦点が合っていない。動く力と正気が失われていた。

 

「ほら、ちゃーんとリーダー格は捕まえてます。田中は偉いでしょ?」

「手足の腱切っちゃったかぁ。手当て急いで、うちらは報告しとくから」

「りょーかい」

 

 千束に言われたとおり、少女は背負った鞄から布や止血帯を取り出し手当てに取り掛かる。

 

 一方、千束はその様子とたきなとの間で視線を巡らせると、インカムを立ち上げながら少女へ背を向けた。

 

 たきなのインカムと目前の千束から音声が同時に届く。

 

「先生聞こえる? 手遅れだった、着いたときにはもうめちゃくちゃ。主犯はちゃんと捕まえてる」

『遅かったか……分かった。たきなは大丈夫か?』

「たーきなー? 大丈夫ー?」

 

 千束が目の前で手を振っている。その後ろで元の色が何色だったかも分からない血みどろの少女が、死体のように黙り込む男を淡々と手当てしている。周囲には足の踏み場もないほどの血、臓物、死体、ときどき空薬莢。嗅覚がようやく目の前の光景に追いついたのか、生ゴミの袋から漂う匂いを何十倍にも煮詰めたような悪臭を感じる。

 

 血と硝煙の匂いに慣れているたきなにとってさえ、この現場はあまりにも非現実的が過ぎた。現実感が急速に薄まり、体がふわふわと軽くなっていく。

 

「たきなぁ!?」

 

 この日たきなは初めて、ストレスによる失神を経験した。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「何なんですかあのリコリス!?」

「おおう、元気そうだな。朝ごはんは食べた?」

「……喉を通りませんでした」

 

 翌日、喫茶リコリコにて。

 

 前日に早退し大事をとって今日も昼まで半休をもらっていたたきなは、出勤して即千束に詰め寄った。店長のミカはカウンターの向こうでさもありなんとばかり苦笑を浮かべている。

 

「どんな戦術をとれば現場をあんな風にできるんですか。ていうか千束とミカさんはああなることを知ってたんですか?」

「ああならないように、補助しに行ったんだよ。まあ田中の仕事が速すぎて意味なかったけど。まずは着替えてきたら?」

 

 ごもっともである。たきなはそそくさと更衣室で着替えながら、昨日の現実とは思えない無残な現場と少女を思い浮かべ、振り払うようにぶんぶん頭を振った。

 

 着替えてからホールに戻ると、千束が心配げに覗き込んでくる。

 

「顔色悪いよ。無理そうならもうちょい休んどく?」

「いえ。それより……」

「昨日のアレが気になるかー。あの子、田中っていうんだけど」

 

 千束はあらかじめ分かっていたようにスラスラと、たきなの気にする情報を話した。

 

 DA東京本部に所属するファーストリコリス、田中。従順かつ忠実で任務達成率は十年間100%。しかし対象の殺傷を前提とした任務では、クリーナーが精神を病むほど猟奇的に仕事をこなす。

 

「DAはなぜそんな人物を野放しにしてるんでしょう」

「任務達成率100%ってのがウケてるんじゃない?」

 

 適当な言い分を補足するように、ミカが口を挟む。

 

「それもある。きつい任務でもとりあえず田中を放り込めばなんとかなる、と上層部の一部は考えているようだ」

 

 上層部は犯罪者の尊厳やクリーナーの心労には頓着しない。困難な任務を完遂する手練が手元にあることのほうが重要で、東京本部もその意を汲んでいるという。

 

「つっても、普段は非殺傷任務だけっぽいよ? 昨日のはファーストの人手が足んなくて、そういうときうちにフォローの依頼が回ってくんの。できればクリーナーの人が病まないようにって」

「ヤツは千束の言うことには従うからな」

 

 なるほど、とたきなはうなずく。

 

 納得はできる話だ。日本が誇る世界一の治安を維持するために、リコリスの仕事は多い。しかし優れた戦力や現場指揮能力を持つ、千束やフキのようなファーストは少ない。現場を地獄に変える田中のような問題児でも、確実に仕事を果たす上に上層部の覚えもいいとなれば、DAは使うしかないのだ。

 

 ただ、新たな疑問も湧いた。

 

「千束と田中さんはどういう関係なんです?」

「元ルームメイトの後輩です。千束先輩にはDAに来たばっかりの頃めっちゃ世話になったのです」

「へぇ……」

「うわぁ!?」

 

 千束の悲鳴でたきなも遅れて気づく。誰だ今の声。

 

 気づくと、リコリコのカウンターに赤服のリコリスが腰かけていた。ふわふわした茶髪を一房のおさげにくくり、良くも悪くも特徴のない女の子らしい顔立ち。首から印鑑サイズの黒い円筒をチェーンで下げている。

 

 たきなはその顔を初めて見るが、声で分かった。一見すれば純朴な少女であるこの人物は、あの倉庫の暗がりで返り血にまみれていたリコリス。

 

 話題にしていたファーストリコリス、田中当人がそこにいた。

 

「びっっくりしたぁ、心臓止まるかと思った!」

「千束先輩のは元々動いてねーでしょ」

「それもそうか、ってやかましいわ!」

「まったく、気配を消して入ってくるんじゃない」

「すんません、つい。えーとみたらし団子セット一つ、あと千束先輩指名で」

「ここはキャバクラかっての」

 

 へにゃっと笑う田中。注文を受け団子を用意し始めるミカ。千束はツッコミを入れつつも気心の知れた風に隣の席へ腰掛ける。

 

「なに、任務放り出して先輩の顔見たくなって来たの?」

「いやそれが、予定してた任務が吹っ飛んだのですよ。あ、そっちの人は初めまして、田中は田中です」

「……井ノ上たきなです。任務が吹っ飛んだって?」

 

 昨日の振る舞いを見ているために多少警戒してあいさつを返す。

 

 そんなたきなとは裏腹に、田中は弱りきった声を出した。

 

「任務失敗です。罰として謹慎喰らいました、はあ」

「どういうこと?」

 

 千束とミカが眉をひそめる。

 

 訥々と、肩を落として田中は語った。

 

 昨日の任務において、田中のタスクはニつ。取引中の組織の末端メンバーの殲滅、および敵首領の生け捕りだ。田中はそのどちらも現場を徹底的に汚す無駄を犯しつつ、成し遂げてみせた。片付けはクリーナーに任せ、生け捕りにした首領を回収班に引き渡し任務を終えた。

 

 問題が発生したのはその後だ。

 

「捕縛したおじさんの頭がおかしくなって、尋問どころじゃねーそうです。そしたら楠木司令が──」

 

『ヤツを狂わせたのはお前の悪癖のせいだろう。死体を弄ぶのはやめろと何度も言ってきたな? 任務は達成しているからと調子づき、個人的な思想を仕事に持ち込むからそうなる。しばらく自分の行動についてよく考えてみることだ』

 

「ひどくね!? 田中のせいじゃねーですよね!?」

「いやー田中のせいだろ?」

「うむ」

「ですね」

「えっ」

 

 憤慨する田中に対し、千束、ミカ、たきなは即答した。間違いなく田中のせいだ。

 

 たきなの脳裏に、口にするのも憚られる阿鼻叫喚の現場の情景がよぎる。捕縛対象は手足の腱を切られ、身動きできない状態で血と臓物に埋もれ、仲間たちが解体される様を目の前で見せつけられたのだ。気が狂うのもうなずける。

 

 田中は子供っぽい顔つきをくしゃっと歪ませた。

 

「ひどいよう……田中は真面目に仕事してるだけなのに……なんで……?」

「ちょーちょいちょいちょい!? 泣かなくていいじゃん、ね、先生お団子早く!」

「ほら、甘いもの食べて元気出せ」

 

 甘い。

 

 千束とミカの態度が甘いように、たきなには見えた。

 

 なんでも何も、現場をあんな風にする悪癖をそのままにしておく方が悪いだろう。重武装した複数人を圧倒できる力がありながら、いたずらに死体を──と、そこで思い出した。

 

 田中は機関銃の弾を斬り落としていた、ように見えた。もしや弾を避ける千束の同類なのではないか。

 

 たきなは思い立ったらすぐ行動する性分である。そっと髪ゴムを指につがえながら、田中の後方に回る。

 

「ああ、お団子おいしい、おいしいよう……」

「たくさん食べな。先生のおごりだ」

「おいおい、何を勝手に」

「ねえ聞いてくださいよ、ひでーんですよ。リコリスの誰も田中と口をきかねーんです。先輩がいなくなってからずーっと一人部屋で、任務は単独強襲ばっかり……なぜに?」

「なんでってそりゃ、思想が強すぎるからでしょうよ」

 

 田中は夢中でお団子をパクつきながら愚痴を吐いている。スキだらけだ。この位置、このタイミングなら必ず当たる。

 

 髪ゴムを射った。

 

 瞬間、田中の腕がブレる。遅れて頬に風圧を感じた。

 

 気づくと、田中はお団子を頬張りながら腕を振り上げていた。その手には黒いつや消し塗装をされた大ぶりのナイフ──マチェットを保持している。

 

 床にはたきなの髪ゴムが真っ二つになって落ちていた。

 

 千束と田中が目を丸くしている。

 

「た、たきな……?」

「あっ、ゴム!? ごめんなさい、田中、つい……」

「やっぱり、田中さんは千束の同類なんですね」

「たーきーなー! 気になるのは分かるけどとりあえず撃って確かめるのやめい!」

 

 うがーっと腕を振り上げる千束をいなし、たきなは納得する。やはり田中は弾が見えている。弾道を見極め、視認できないほどの高速でマチェットを抜き、ゴムを切り落とした今のような芸当が弾丸でも可能なのだ。

 

 しかし田中はバツが悪そうな顔で、ゆるゆると首を横に振った。

 

「田中のこれはただの反射だから、褒められたもんじゃねーです」

「反射、ですか?」

「うん。たとえば何か食べてるとき、変なとこに入ったらむせるでしょ。それと同じ。飛んでくるもんを無意識で切っちゃうのです」

「部屋に蚊が入ってきたときとか超便利なのよー、この全自動虫退治機」

「便利グッズ扱いやめてー」

 

 反射、無意識でそんなことが? 

 

 たきなの疑問に呼応するように、事態は動いた。

 

 田中の真横から、放物線を描いて白い何かが飛んでくる。田中はそれを一瞥すらせず、腕だけが別の生き物のように動き、飛来物を切り払った。

 

 すると白い液体が飛び散り、田中のおさげにした茶髪を白く汚す。

 

「ぶえっ」

「すまん、話が聞こえて興味を惹かれてな。ほい、タオル」

「クルミ!?」

 

 投げられたのはコーヒーフレッシュ、下手人はリコリコの小さな居候兼従業員、クルミだった。

 

 やけに用意がいいことに、とことこと駆け寄って田中にタオルを渡している。

 

「ありがと、いや、この場合はよくもやったなって言うべき……?」

「後者でいいんじゃないか」

 

 少しも悪びれないクルミに、田中も千束もジト目をよこした。

 

「わ、悪かったって。それよりどういう仕組みなんだ? 頭の中に対空レーダーでも入ってるのか?」

「……さあ。でも大したもんじゃねーですよ。大口径弾とか特殊弾頭に反応したら逆効果だし。千束先輩みたいに全避けがベストです」

「えー、私は田中のそれ好きだぞ? ゴエモンみたいでかっこいいじゃん!」

「田中はマトリックスみたいに避けてみたいのです」

 

 たきなはクルミと顔を見合わせ、思いを一つにした。無意識にしろ意識してやるにしろ、ファーストリコリスは弾丸を見切るのが必須条件なのだろうか。非常識な連中である。

 

 タオルで白い脂肪分を拭き取った田中は、クルミに目をやって首をかしげた。

 

「田中は田中ですが、あなたは? はじめましてですよね」

「うん? ボクは、あー、DAの……ここの従業員だ、うん」

「ふーん?」

「そ、そういうわけだ。いや、本当、急に悪かったな、それじゃ」

 

 クルミは突如しどろもどろになって、ぎくしゃくと二階へ姿を消していった。

 

 クルミはDAから姿を隠している身である。DA所属の田中と話し込むわけにはいかなかった。だったら最初から出てこなきゃいいのに、とたきなは呆れた。

 

 そうこうしているうちに田中はお団子セットを食べ終え、一通りの愚痴を吐きつくし、満足げに席を立つ。

 

「あーおいしかった。おっぱい先輩の千束にも会えたし、田中は大満足!」

「いろいろ間違えてんぞ田中ァ」

「謹慎中は暇だろう。また来るといい」

 

 来店時の鬱屈とした表情が嘘だったように、田中は晴れ晴れとした顔をしている。

 

 抜いたマチェットを制服の袖口に仕舞い、きちんと支払いを済ませ、千束たちに見送られて出ていこうとしている。

 

「あの!」

「うん?」

 

 その前に、たきなは呼び止めていた。

 

 気になることは躊躇なく指摘するし、質問する。そうできるのがたきなだった。

 

「なぜわざわざ死体を傷つけるんですか? 急所を狙えば無力化は容易なはずです。昨夜のようにに死体を弄ぶのは、人としてもリコリスとしても、極めて非合理的だと思います」

「ちょっ、たきな……!」

 

 びしっ、と空気が凍った。千束は慌てて手をわたわたさせ、ミカは目元を覆って天を仰いでいる。

 

 田中は無表情だった。感情の抜け落ちた人形のような顔で、瞬きの一つもせずじっとたきなを見返している。

 

 その視線を正面から受け止めていると、田中は口を開いた。

 

「死を悼むためである」

「はい?」

「この田中、日の本の和を穢す大逆の徒を処刑することに否やはない。しかし我々は死に慣れてはいけない、忘れてしまうから。死を受け入れてはいけない、悼むことができないから。健全なる人心によって成立する人の世を保つに供養の精神は欠かせない。死を思ってこそ人は人であることができるから。なかんずく死によって太平に貢献する我々は死への慣れを厳に慎み、陳腐化と日常化に立ち向かい、すべからく衷心からの追悼を捧げるべきである。故にこそ、死は陰惨でなければならない。陰惨で凄惨で無残で残酷で、血と臓腑と糞便の悪臭に満ちた醜悪な死が、真なる追悼に必要なのだ。弾丸は死を遠ざけ、硝煙は死を覆い隠してしまう。刃による痛ましく惨たらしい死こそが死者への手向けになりうる、忘れることができないから。忘れず覚えていることに如く弔いがあろうか、いやない。故に死は痛ましく惨たらしくあらねばならない。不本意であれ日の本の糧となった命を忘れないために、哀悼痛惜の赤心を失わぬために、ひいては日の本の太平と安寧のために。痛ましかれかし、惨かれかし。ここまでは分かるだろうか?」

「え、あの」

「難しく考えずともよい。死者への尊厳に理解があるのなら、ただ思い、唱えればよい。さすれば真の手向けと弔いの何たるかを魂が咀嚼するだろう。復唱せよ。『痛ましかれかし、惨かれかし』」

 

 田中の思想が、言葉が、するすると触手のようにたきなの内側へ入っていく。

 

 情報の濁流に理解が追いつかない。ただ、唯一分かりやすく印象に残るフレーズが記憶に刻まれる。

 

 痛ましかれかし、惨かれかし。

 

「い、いたまし、かれ──」

「すとぉーっぷ!」

「痛い!」

 

 すぱーん、と。千束が田中の尻を引っぱたく音で、たきなは我に返った。

 

「うちのたきなを危ない宗教に勧誘しない! 痛ましい彼氏はもういいから!」

「宗教じゃねーですよう! 千束先輩もさあ、復唱せよ。痛ましかれかし、惨かれかし──」

「するかあ!」

 

 千束に追い立てられるように田中は退店していく。涙目で出ていくそのさまはいっそあわれだった。

 

 程なく戻ってきた千束は、どこか夢見心地のたきなの目を覗き込む。

 

「おーいたきな、戻ってこーい」

「ち、さと。私は……」

「ん、大丈夫だね」

 

 たきなは寝起きのようにぼうっとする頭を抑える。田中の抑揚のない言葉を聞くうち、気づけば意識のレベルが落ちていた。

 

 千束はゆっくりと言い聞かせるように、二つの注意点を告げた。田中の言うことに聞き入らないこと。田中に死について聞かないこと。

 

「悪気はないんだけど、あの子洒落になんないくらい思想が強いのよ。十年前からずっとあの調子なの」

「気の毒だが、あれじゃ一生一人部屋の単独強襲専門だな」

 

 ミカがため息まじりに言うと、かといって指摘するとあのスイッチ入っちゃうし、と千束が顔をしかめる。

 

 悪い子ではない、が、いい子ともいえない。ひたすらに思想が強すぎるファーストリコリス、それが田中だという。

 

 たきなはしばし考えて、

 

「ファーストって変わり者が多いんですか?」

「なんで私を見ながら言うのかなたきなさん?」

 

 純真に首を傾げた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 その夜。

 

「ううむ、よく考えろと言われてもな」

 

 リコリス棟の自室にて、田中は一人日記帳と向き合いながら思案していた。

 

 田中は今回の捕縛対象発狂に何の負い目も感じていない。現場を汚した自覚はあるが、死を悼むために必要なら仕方がない。自分に非は一切ない。

 

 では何がいけなかったのか。何が原因で謹慎処分を受けたのか? 田中は深く考える。

 

 一時期現場の汚れに罪悪感が湧き、それを処理するクリーナーのお手伝いをしたことがある。すると楠木司令は『クリーナーの人格に悪影響が出るからやめろ』と田中を注意した。つまり、任務のためなら現場はいくらでも汚してもいいというわけだ。凄惨な死をどれだけでも手向けにしていい、と楠木は言った。正確には言ってないが、少なくとも田中はそう解釈した。

 

 では結局、何が悪かったのか? 田中には分からない。

 

「ううむ、こんなときは……死を悼もう」

 

 田中は首から下げた黒い円筒からキャップを取り外しつつ、スマホを取り出す。円筒の一端はUSB端子になっており、アダプタを経由してスマホと接続した。

 

 防水ばっちりの円筒型USBに収蔵されているのは、大量のテキストデータだ。スクロールしていくと、漢字、キリル文字、ハングル、簡体・繁体字、アラビア文字などあらゆる言語で人名と年齢が羅列されている。

 

 それは田中が殺してきた人々の名前だった。リコリスとして知ることが許されていない詳細な情報も含め、すべて調査し、記録し、記憶している。名前を見ただけで田中は日時から顔、声まですべて思い出し、悼むことができた。

 

 その数は十年で実に五百名余り。

 

 一文字ずつねぶるように読みながら、死を悼んでいく。

 

 いつものルーティン。

 

 しかし敬愛する先輩と言葉を交わした高揚からか、それとも任務に追われず考える時間があったからだろうか。今日ばかりは新たな発見があった。

 

「えっ……うそ、そんな……こんなことって……!?」

 

 その発見はとるに足らない小さなもの。

 

 しかし思想は飛躍する。ただでさえ強すぎる思想を持つ田中は、ごく小さな発見をきっかけにすさまじいレベルで思考の次元を飛ばした。

 

「気づいてしまった……田中だけが世界の真実に、気づいてしまった……」

 

 恍惚とした顔でしばし固まる田中。

 

 数秒後、再起動。日記帳から一ページ破り取り、鉛筆でメッセージを綴る。 

 

「よし!」

 

 書き上げた文面を指差し確認すると、パジャマから私服のパーカーに手早く着替え、紙は二つ折りにしてポケットへ。

 

 それから愛用のマチェットを両袖口に仕込むと、部屋を出た。二度と戻らない覚悟で。

 

 向かう先は楠木司令のデスク。

 

「田中はがんばるぞ。みんなが死を悼む優しい世界のために!」

 

 田中の表情はかつてないほどに熱い使命感で燃えている。気分は晴れ晴れとして、世界のあらゆるものが尊く輝いて見える。自身の行動がもたらすバラ色の未来が目に浮かぶようだ。田中の心中に躊躇は疑念は欠片もない。

 

 思想が強すぎる単独強襲刀剣無双リコリスの脳みそに、ブレーキなどあるはずもないのだ。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 翌朝、DA東京本部を統括する司令官、楠木のデスクに一枚の紙切れが放置されているのが見つかる。

 

 そこには鉛筆で、以下のように走り書きされていた。

 

『退職願

 

 拝啓

 

 楠木司令へ

 

 世界の真実と田中の使命に気づいたので、リコリス辞めます。お世話になりまして候。

 

 敬具

 

 田中より』

 

「……田中を呼び出せ、大至急だ」

 

 すぐさま部下に命じるが、呼び出しには応答せず部屋ももぬけの殻と判明した。謹慎中の田中に任務はなく、外出届も出されていない。

 

 つまり田中は、失踪したのだ。

 

 ふざけた怪文書一枚残して。

 

「田中ァ……!」

 

 楠木は額に青筋を浮かべ、忌々しげな声を絞り出した。



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2話

□月▲日

 DAを辞めてきた。

 

 楠木司令には悪いけど、世界を牛耳る巨悪と戦うためには仕方がないことだ。田中直筆のまごころ込めた退職願で見逃してほしい。

 

 リコリスのお給金は銀行から慈善団体に全額寄付した。巨悪の懐から出されたお金なんて持っていられない。

 

 これで柵はみんななくなった。

 

 あるのは体と心、それから太郎と次郎のみ。厳しい戦いは避けられないだろう。

 

 それでも田中が逃げるわけにはいかない。悪として処刑されたかわいそうな人たちや、志半ばで死んでいった同志たちのため、そして千束先輩のため。

 

 覚悟しろ、秘密結社め。

 

 

□月▲日

 拠点確保。情報収集。

 

 結社の手がかりは見つからない。

 

 

□月▲日

 情報収集。収穫なし。

 

 

□月▲日

 収穫なし。

 東京のあちこちに洗脳された人たちがいる。きっと何か痕跡があるはず。

 

 

□月▲日

 同上。

 どこの炊き出しにもありつけず、セミでしのぐ。養成所のサバイバル課程の味がした。懐かしい。

 

 

□月▲日

 おじさんたちが優しい。ありがたい。

 おにぎりおいしい。

 

 

□月▲日

 最悪だ。

 

 情報収集をしていたら、千束先輩に出くわした。普段なら会えて嬉しいんだけど、今はダメだ。だって最近水浴びばっかりでお風呂に入れてないし。忙しいからと早々に別れたけど、いつもと距離感が違うのをめっちゃ怪しまれた。

 

 そういえば、喫茶リコリコには結社の手が及んでいるだろうか。

 

 先輩がいるなら無事と思いたいけど、DAの上層部が完全掌握されてるくらいだ。楽観はできない。

 

 一刻も速く結社の情報を集めないと。

 

 

□月▲日

 収穫なし。

 

 

□月▲日

 テロ屋さんたちに遭遇した。

 

 その人たちはサードリコリスをいじめているところで、かわいそうに、深く洗脳されて人を鉄砲で撃つことしか考えられないみたいだった。

 

 鉄砲を人に向けるのは悪いことだ。死んでしまうから。死を受け入れてはいけない。

 

 だから精一杯の凄惨な死を手向けた。

 

 情報部のツテはもう使えないから名前を調べられない。その分、忘れ得ぬ無残な死になるようがんばった。

 

 何人か逃げてくれたのは幸いだった。いつか洗脳が解けるといいな。

 

 痛ましかれかし、惨かれかし。

 

 

□月▲日

 痛い。

 

 リコリスに襲われた。フキ先輩のチームだった。

 

 寝てるところを麻酔銃で不意打ちされた。

 

 やはりDAは結社の傀儡と化している。いろいろと嗅ぎまわってる田中のことを消しに来たんだ。あのまま捕まっていたら洗脳されて殺りくマシンにされていたに違いない。

 

 同志たちはどうにか撒いた。でも今までの寝床には戻れない。新しい拠点を探さなきゃ。

 

 

□月▲日

 千束先輩に捕まった。

 

 今、喫茶リコリコの座敷でこれを書いている。先輩たちは顔を突き合わせて、ときどき田中の方を見ながら話し合いの最中。もしかしたらこのページが遺言書になるかもしれない。

 

 さっき、世界の真実を話した。もしリコリコまで結社の手中だったら田中は終わりだ。千束先輩に刃は向けられない。

 

 でも最期まで諦めない。先輩相手でも、命果てるまで弔いに尽くすことをここに誓う。

 

 ああ、ミカ先生が楠木司令と電話を。

 

 これはまずい。

 

 と思ったら、千束先輩が電話をぶんどって、え、田中のケガ?

 

 うちで飼う? ペットの話?

 

 ここに住む?

 

 誰が?

 

 

 

ーーー

 

 

 

 たきなが田中に再会したのは、喫茶リコリコへの依頼をこなした帰途、公園のベンチで一息ついていたときのことである。

 

「あれ、田中? 何やってんだろ」

 

 先に気づいたのは目の良い千束だった。視線を追うと、パーカーにショートパンツ、帽子を身に着けた田中が足早に公衆トイレへ入っていく。手には空のペットボトルを持っていた。

 

 一分と経たず田中は出てきた。手には水が満タンのボトル。

 

 怪しい。たきなと千束は顔を見合わせると、立ち去ろうとする田中の背を追った。

 

「やあやあ田中ァ」

「ひえっ、千束先輩、と、井ノ上さん……」

「どうも」

 

 会釈しながら観察する。夏場にもかかわらず長袖パーカーなのは、例のマチェットを袖口に仕込むためだろうか。ふわふわした茶髪のお下げは毛先が痛んでいる。目深にかぶった帽子とびくついた態度も相まって、怪しい浮浪者のような雰囲気だ。

 

 千束も同じように思ったのか、訝しげに眉をひそめる。

 

「もう謹慎解けたんだ。私服姿新鮮じゃん。で、何をこそこそやってんの?」

「た、田中に近づくなァ!」

「んん?」

 

 さりげなく千束が距離を詰めると、田中は弾かれるように跳び退いた。

 

 たきなたちが呆気に取られるうち、くるりと踵を返して、

 

「多忙な田中は失礼します!」

 

 自転車並みのスプリントで走り去っていった。

 

 あまりに怪しい。後ろ暗いところがありますと全身で示すかの如き田中をたきなたちは訝しみ、リコリコに帰り着くや否や話題にしようとした。

 

 しかし田中の件は、二つの事件のために棚上げされることになる。

 

 一つは先回り事件。都内各所の反社、犯罪者、海外の違法組織など、DAが標的としてマークしている連中が何者かに襲われている。中にはリコリスを派遣した時点で現場が制圧されていたり、手足の腱を切られ無力化されていたケースもあった。捕縛の後に尋問してみると「結社のことなど知らない!」と口を揃えており、何かの暗号と考えられる。

 

 仕事が減って助かると見る向きもあるが、放置してはDAの名折れ。時代遅れの義賊を特定しようと躍起になっているようだ。

 

「まさか、ねえ?」

「いやいや、ないでしょう」

 

 話を聞いた千束とたきなは一人のリコリスを連想したが、あり得ない。思想が強くても彼女は従順だ。長い付き合いの千束もすぐに「だよねえ、ないない」と首を振った。

 

 そしてもう一つが、

 

「リコリスが襲われた?」

「今月に入って二人目ですね」

「あんたらも気をつけなさいよー」

 

 リコリス襲撃である。単独行動中のリコリスが何者かに襲われる事件が、立て続けに起きていた。窓際部署に近い扱いの喫茶リコリコにDAは情報を出し渋るが、店長のミカや元情報部のミズキにはそこそこの情報網がある。リコリス襲撃は同じリコリスのたきなたちにとっても大事で、田中の怪しげな行動はひとまず流された。

 

 襲撃犯は何者か、何が目的なのか。先回り犯との関連は。何も明かされないままに三人目が襲われた。

 

 幸いにもその三人目のリコリスは生き残ったという。それは何よりとたきなたちが素直に安堵していたとき、喫茶リコリコにある依頼が入った。

 

「若い女の子のホームレス、ですか」

「ああ。訳ありのようだがあまり口を聞かないようだ」

「そこで年の近い私たちに相談にのってあげてほしい、ってわけね。お安いご用、ねえたきな!」

「……千束一人でよくないですか?」

「そんなこと言わずにさー!」

 

 都内各所で随時実施される困窮者向けの炊き出し、そこに最近、年若い少女が現れる。どう見ても未成年なので何とかしてあげてほしい、という某民間団体からの依頼である。

 

 コミュニケーション能力の高い千束だけで向かうのが合理的だと考えるたきなだったが、引っ張られる形で現場に向かう。

 

 テントが設置され、味噌汁のいい匂いが漂う夕刻の公園。

 

 たきなと千束が木陰で待ち伏せしていると、痩せた中年男性の列に小さな人影が混じっているのを見つける。明らかに異質なその人影はしかし男性たちに「なんだまた来たのか!」とか「おっちゃんのおにぎり一個いるか?」とか話しかけられ、恐縮してペコペコ頭を下げていた。歓迎されているようだ。しかしよく見ると、中には憐れみや心配げな目線を投げかける者もいる。

 

 ターゲットに間違いない。

 

 しかし目深に被った帽子と茶髪のおさげは、たきなと千束にとても見覚えがあった。

 

「田中ァ……」

「え、何やってんですかあの人」

 

 田中である。DAが誇る精鋭の暗殺者、ファーストリコリスの田中である。

 

 たきなは混乱した。田中はホームレスになったのだろうか。しかし孤児から暗殺者へと教育されるリコリスに解雇はない。重大な失敗をしてもたきなのように左遷されるか、養成所へ戻されるかの二択だ。家なき子になるのはあり得ない。

 

 が、田中はあり得ないことをしている。炊き出しの職員と男性たちに何度も頭を下げると、おぼつかない足取りで公園を出ていく。

 

 たきなたちは無言で後を追う。

 

 田中が人気のない路地裏に入ったのを見計らい、声をかけた。

 

「田中ァ!」

「あれ、先輩と、井ノ上さん?」

「そうだぞ、先輩だ。しまえしまえ、そんな物騒なもん」

 

 振り向いた田中は、小脇におにぎりを抱えながらごく自然にマチェットを抜いていた。尾行に勘付いていたらしい。

 

 腰に手を当てて千束が言うと、手品のようにマチェットが消え去る。袖口がタネだとは分かっていても目で追えない手際だ。

 

「一体何やってんだ貴様? まさか楠木さんとケンカして家出ってわけじゃあ、ないよね?」

「違うのです」

「では任務ですか? 詳細が明かせないというなら、これ以上は聞きませんが」

 

 何か複雑な任務の一環として家なき子を演じている。

 

 有り得そうな可能性をたきなが口にするが、田中は首を横へ振った。

 

「いーえ。任務じゃねーのです。これは使命。リコリスは辞めました」

「はい?」

「田中は世界の真実と本当の使命を知った。田中がやらねば誰がやる」

「待って待って田中、一回ストップ、タイム!」

「ああ忌まわしい悪の秘密結社め。日ノ本の和を穢し死の有り様を歪める悪逆無道の輩共……地の果てまで追い詰めて一族郎党根絶やしにしてくれる……」

「タイムって言ってるでしょーが!」

 

 田中の喉から忌まわしい呪詛が絞り出された。首から下げられた黒い円筒を強く握り、帽子の陰から爛々とした瞳が覗く。乱れた毛先やくすんだ肌の中で、瞳だけが異様な熱でぎらついている。

 

 千束は困惑げに「あー」と視線を彷徨わせると、田中に向けて一歩踏み出す。

 

「た、田中? とりあえずリコリコに来て、話聞くから──って逃げた!? 待てい!」

 

 田中は逃げ出した。踵を返し、恐るべき瞬発力でロケットスタートを決める。

 

 しかしいつかのような俊足は見る影もなく衰えていた。片足を引きずりながら必死で逃げるその姿はいつ倒れてもおかしくないほどに頼りない。路地を出ることすら叶わずつまずいて倒れ込み、追いついたたきなたちへ手のひらを突き出す。

 

「よ、寄るなぁ! やめて! しばらくお風呂入ってないのです!」

「言ってる場合じゃないでしょ! どうしたのその足!」

 

 近づくと確かに若干すっぱい匂いはしたが、たきなも千束も気にしない。

 

 それよりも足のケガだ。田中は左足の太ももに布切れを巻きつけ、その下から血が滲んでいる。奇しくも先日、殺し屋『サイレント・ジン』との交戦でたきなが負傷したのと同じ箇所だ。しかし銃弾の掠めたたきなのそれと違い、田中の負傷はより深い。

 

 太ももの外側、前と後ろに一箇所ずつ。貫通創だ。

 

「刺し傷ですね。血は止まっていますが、縫合が必要です」

「っつーわけで田中、手当てするから行くよ! ほら立って!」

「問題ねーのです! 大腿四頭筋と靭帯の隙間を狙ったんで、ほっとけばくっつくし、いざってときはアドレナリンで動けるのです!」

「は?」

 

 びっくりするほど低い声で反応したのは、千束である。

 

 慌てていた先ほどから一転、千束の冷たい目が田中を射抜く。

 

「田中ァ……自分で刺した、とか言わないよな?」

「え、あの……」

「どうなの?」

「た、田中が刺したのです……リコリスに襲われて、その、気付けとして……」

「田中ァ!」

「ひゃい!」

「黙って先輩の言うこと聞けぇ!」

「はいっ!」

 

 ごちゃごちゃ言う前に勢いで黙らせる、千束のゴリ押し戦術。従順に口を閉じた田中に肩を貸し、千束は立ち上がる。

 

 一方、たきなは混乱していた。リコリスを辞めた、世界の真実、秘密結社、自分で刺した、リコリスに襲われた──怒涛のように押し寄せる新情報を処理しきれていない。

 

「たきな、考えるのは後にしよ」

 

 その混乱を見越したように千束は言った。

 

 田中を背中におぶりながらスマホを取り出し、タップして耳に当てる。

 

「ミズキ、車回してもらえる?」

 

 

 

ーーー

 

 

 

 喫茶リコリコ店内、夜半。

 

 客足が途絶え、閉店後の催しもないため店は早仕舞して、リコリコは珍客に対応している。

 

「あの、田中は本当に大丈夫なのですが……」

「いいから大人しくしなさい」

 

 田中である。乱雑に布切れを巻きつけただけの傷口に、救急箱で出来る範囲の手当てをミカが施している。

 

「殺し屋から浮浪児に、ねえ。あんたほんと変わってるわ」

「同感だ」

 

 ここまで田中を車で運んだ従業員のミズキは、晩酌に頬を赤くしながら言った。二階でだらだらと携帯ゲームをいじるクルミも同意しつつ、ちらりと田中へ一瞥をくれる。二人の視線は珍獣を見るそれであり、田中は手当てを受けながら釈然としないように口を尖らせた。

 

 そこへ、受話器を置いた千束が戻ってくる。田中のことをいろいろと聞くためDAの楠木司令に連絡を試みていたのだ。

 

「忙しいから後でかけ直すってさ。やっぱり今は特に忙しいみたい」

「リコリス襲撃の件もありますからね」

 

 DAは普段でさえ忙しい上に、今はリコリス襲撃の対応に追われている。いくら田中の案件でもすぐには連絡がつかない。

 

「そりゃそうだ、ってわけで田中ァ? きりきり答えてもらいましょうか」

「ちょうど終わったぞ。明日山岸先生のところへ連れていくからな」

 

 ミカによる手当てが一段落し、田中に注目が集まる。座敷の縁に腰掛けた田中は視線を巡らせ、店の出入り口を見やるが、そちらには千束が腕を組んで仁王立ちしている。反対に勝手口の方面はたきなが陣取っており、丸い瞳と目が合った。

 

 逃げられないと悟ったのだろう。田中は背筋を正して深呼吸すると、首から下げた円筒をぎゅっと握り、毅然と顔を上げた。

 

「『痛ましかれかし、惨かれかし』……。田中にやましいことは何もねーのです。何でも答えますとも」

「リコリスを辞めたって本当ですか?」

 

 まずはたきなから、もっとも気がかりな疑問が飛ぶ。

 

 田中は首肯した。

 

「どうやって? リコリスは簡単に辞められるものではないはずです」

「退職願を書いて、楠木司令のデスクに置いときました」

「……は、はい? 退職、ねがい?」

「はい」

 

 たきなは混乱した。

 

 千束ほか、ミカとミズキ、クルミは言葉の続きを待った。しかし田中が何も言わないので、それだけ? と戸惑い始める。

 

 千束がその空気を代弁した。

 

「田中、それだけ?」

「はい」

「それだけで辞められると思ったの? ていうかちゃんと受け取ってもらえたの? それだけでDAを出ていってホームレスやってたの?」

「はい」

「はいじゃねーよこのアホォ!」

 

 質問を重ねていくと、どうやら失踪してから三週間近く経っていることが判明した。先回り事件発生とぴったり時期が一致する。聞いてみると、田中は悲しげに目を伏せ、

 

「洗脳されたかわいそうな人たちなら、見つけ次第説得したのです……でも話が通じなくて」

「貴様かっ!」

 

 犯人が見つかった。犯罪者イコール洗脳されたかわいそうな人と認識し、暴れまわっていたようだ。

 

 千束が不意に首をかしげる。

 

「ちょい待ち、田中ってそこそこお金持ってたはずでしょ? それ使えばどこにでも泊まれたんじゃないの?」

「初日に銀行行って、慈善団体に寄付しました。あぶく銭なので」

「……」

 

 田中に向けられる視線の質が変わった。珍獣を見る目から、変な生き物を見る目に。

 

「り、リコリスに襲われたというのは?」

 

 気を取り直し、たきなが聞いた。

 

「襲われました。寝ているところに麻酔弾が飛んできて、斬り落としたら中の薬を浴びちゃって」

「で、気付けに足を刺したのか。はっはっは、面白いなこいつ」

「いや、ドン引きよ」

 

 クルミが笑い、ミズキは頬を引きつらせた。

 

 襲撃してきたリコリスはファースト率いるチームだったらしく、眠りこむフリをしつつ足を刺していた田中に、油断して近づいてきたところへ反撃。無力化したセカンドの体を盾にしながら撤退したという。

 

 そこまで聞くと、千束がほっと息をついた。もしもリコリスを殺傷していれば明確な敵対行為であり、越えてはいけない一線だった。それが守られたことに安堵しているのだろう。

 

 気がかりなことは大体聞けた。

 

 ただ、まだ核心には触れていない。野次馬めいた立ち位置のミズキとクルミはさて置き、千束もミカも察しているのだろう。その問いが田中のスイッチを入れてしまうことを。

 

 無論たきなも察している。

 

「どうしてですか」

 

 しかしそれを口にすることにためらいはなかった。

 

 リコリコに居場所を見つけながらも、DAに戻りたいと変わらず思っているたきなだからこそ、聞かないわけにはいかなかった。

 

「どうしてDAを辞めようなんて思ったんですか。DAはあなたを必要としています。実際リコリスが連れ戻しに来たのなら、分かってるでしょう。あなたの居場所はDAにあるのに──なぜ簡単に辞めようなんて思えるんですか」

「たきな……」

 

 空気が張り詰める。痛いほどの沈黙が落ち、ミズキが気まずげに表情を歪ませている。

 

 田中は微動だにせずたきなを見据えていた。その目はまなじりが裂けんばかりに見開かれ、まばたきの一つもしない。数週間前と同じ、スイッチが入った状態だ。

 

「日の本に、そして世界に、真の太平と安寧をもたらすためである」

 

 来た、とたきなは身構える。気をしっかり持ってまっすぐに見返した。

 

「DAは日の本の和を穢さんとする大罪人を事前に特定し、排除することで治安を守る。この理念に田中は深い理解と共感を覚え、命尽きるまで献身に務める所存であった。その果てに死を軽んじることのない理想の世界があると信じ、その実現こそが無きことにされた大罪人たちへの弔いになるとの信条があったからこそ、DAに忠誠を誓っていた。しかしこれは誤りであった。DAのもとで幾十、幾百の人命を大義に照らして処断したところで、我が理想の世界には至らない。むしろ世が乱れるばかりである」

「なっ……」

 

 田中はそこで言葉を切り、たきなは絶句した。

 

 明確なDAへの批判だった。DAでいくら働こうと治安維持はできない、と田中は主張しているのだ。

 

「何を根拠に──」

「ここに」

 

 田中は首から下げた円筒を取り外し、キャップを外した。USB端子だ。

 

 クルミの所有するタブレットを一台借りて、アダプター経由で接続する。セキュリティスキャンの後にファイルを開くと、テキストデータが展開された。

 

「これは人名と、国籍と……趣味特技、将来の夢? なんだこれは、履歴書か?」

「田中の処刑した罪人の記録である」

「ほう」

 

 クルミが面白そうに口角を上げ、たきなは息を呑む。千束、ミカ、ミズキは知っていたのか難しい顔で黙り込んでいる。

 

 一人のリコリスが十年間で殺してきた人物リスト──明らかな機密データだ。

 

「この田中、記録と記憶をもとに故人を偲ぶのを日課としている。故に気づくのが遅れた。数字だ。年度別に処刑した人数を見ていくと、初年度以外はほぼ横ばいか微増傾向である。分かるだろうか? 罪人が増えているのだ。一人の人命ごとに真の太平へ近づいて然るべきにもかかわらず、豈図らんや田中が刃を振るえば振るうほど罪人の数は増えていく。世は乱れ理想の世界が遠のくばかり。なぜか? DAは真なる巨悪を見過ごしている──悪の秘密結社を見過ごしているのである」

「……えっ」

 

 話が飛躍した。空の彼方までかっ飛んだ。

 

 座敷に座る田中は真顔のまま、大真面目だ。

 

「この世は巨悪に蝕まれている。日ノ本だけにあらず、人の世のあらゆる点に巨悪の影が蠢いているのだ。考えてもみてほしい、本来優しさと思いやりに溢れているはずの我ら人の子がどうして、我欲を優先し他者の幸福を害そうなどと考えるのか。どうして他者の失敗をあげつらい、成功を妬む貧しい心が生まれるのか、どうして矮小な違いをさも致命的な欠陥のごとく指弾し侮蔑する輩が現れるのか。人の子とは和を尊び、利他を是とする生物である。その本質に反する今日の有様に何者かの作為を見出さないことは、論理的な思考の上においてはあまりに無理筋であろう。そう、我々は巨悪──悪の秘密結社に侵略を受けている。結社の魔の手は遍く世に跋扈し、彼奴らは世の不安と対立を煽り、人心を食い物とし、風紀と治安に対し紊乱の限りを尽くしている。結社の所業そのものが目的であるのか、はたまた大なる野望の手段であるのかは詳らかではないが、結社の存在が和を尊ぶ我々人類への重大な挑戦であり、脅威であることは明白である。DAはこの脅威と戦わねばならない。だが太平に繋がらざる処刑を任務と称する現状に鑑みると、すでに上層部が結社の触手に絡め取られていると判断せざるを得ない。この田中が手にかけてきた多くの人命のように、結社の洗脳を受け、世を悪に染め上げんとしているのである。故に田中はDAを辞した。巨悪を滅し、田中の背負う死者たちが真の追悼を受ける理想の世に至るため、そして死にゆく誰かが忘れられることのない、日の本の真なる太平のために」

 

 しーん、と。そんな効果音が聞こえるような、どこかコミカルな沈黙が満ちる。

 

「あー、っと……」

 

 クルミはなんとも言えない声を発した。

 

 無理もない。田中が大真面目に語ったのは、現実的な数字からいっぺんに飛躍した、こてこての陰謀論である。フリーメイソンとかイルミナティとか、そっち系の。

 

 つまり田中は、十年間の仕事を思い返しているうち、陰謀論に取り憑かれ、勢いのままDAを脱走してきたことになる。リコリスとしては養成所戻りで済めばまだマシな、非行の極みだ。

 

 それでもたきなは「馬鹿らしい」と吐き捨てることができなかった。

 

 田中の飛躍しすぎた思想の中に、何か響く部分があったのかもしれない。千束も考え込むような顔で、じっとタブレットの画面を見つめている。田中が、リコリスが殺してきた人々の名前、詳細。

 

「……田中はDAには戻らねーのです。なんと言われようと、一人でも巨悪と戦う」

 

 それだけ言うと、田中はそそくさと座敷の隅へ後ずさり、手帳のようなものを取り出した。鉛筆が紙の上を滑る音が、静かな店内に響く。

 

 しばらく微妙な空気が漂う。

 

「先生、ものは相談なんだけどぉ」

 

 するとだしぬけに、千束が口を開いた。

 

「うちで飼えない?」

「……それしかないか」

「下手したら野生のサイコキラーになりそうだもんね。千束、アンタが面倒見なさいよ」

「扱いが猛獣だな。たきなはどう思う?」

 

 目的語を省いたやりとり。

 

 しかしクルミに問われたたきなにも、意味は掴めていた。

 

「いいんじゃないですか?」

 

 このとき、リコリコメンバーの気持ちは一つだった。膝を抱えて手帳と向き合う田中をチラ見しながら思うことはただ一つ。

 

『こんなのを野放しにするのは危なすぎる』

 

 思いが一致すると、千束が笑顔で手を叩く。

 

「よし決まり! お、いいタイミング」

 

 店の電話が鳴り、ミカがすかさず取った。

 

 千束が両手を差し出してちょうだいアピール。ミカが苦笑して受話器が受け渡される。

 

「もしもし楠木さん? うん、田中ならうちにいるよ。うちで受け入れちゃっていい? そこをなんとかー! あ、そうだ、そういえばリコリスに寝込みを襲わせたって本当? いやいや話が通じないからって奇襲はダメでしょ! 百針くらい縫いそうなケガしてんだけど!? そうそう──」

 

 こうして千束が直接話をして、後からミカも口添えした結果。

 

 最早DAでは制御不能と判断したのか、それともリコリス襲撃の対応で手一杯だった都合もあったのか。

 

 思想が強すぎる単独強襲刀剣無双リコリスは、喫茶リコリコへ異動となった。



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3話

◇月▼日

 喫茶リコリコで働くことになった。

 

 昨日は衝撃の事実がたくさん明かされて驚くのに忙しかった。まさかリコリコが秘密裏に結社のことを探る、対結社の最前線だったなんて。

 

 楠木司令もとっくに結社の存在には気づいていた。田中は独力で真実に気づいた功績を評価され、最前線へ栄転となったわけだ。

 

 ただ、リコリコでも結社の尻尾は掴めていない。千束先輩やミカ先生にさえスキを見せないなんて、結社はものすごくかくれんぼが上手いみたい。まるで存在しない敵を相手に一人ずもうをしているようだ。

 

 でも諦めない。

 

 結社さえ倒せば、夢見た世界はすぐそこなんだから。

 

 

◇月▼日

 喫茶店の仕事は大体覚えた。しばらくはそっちに専念し、足が治ってから裏の仕事、つまり結社の情報収集をさせてもらえる。それまではし伏に甘んじることにする。

 

 千束先輩に同居を提案されたから、全身全霊で断った。

 

 おっぱい先輩のことは大好きだし尊敬もしてる。でも一緒に住みたいかと言われると話は別だ。あの人部屋めっちゃ散らかすしなんだかんだと家事押し付けてくるし、そのくせごほうびにおっぱい頂戴と言ったら逆にこっちのお尻を揉んでくるし。

 

 リコリコの隅っこに布団を敷かせてもらったほうがずっといい。

 

 今、布団でこれを書いている。クルミちゃんが押し入れの中でパソコンをいじってる音がする。

 

 夜ふかしは良くない。寝る。

 

 

◇月▼日

 太郎と次郎はロッカーに入れておくことになった。

 

 嫌だと言ったら、千束先輩に怒られた。怖い。

 

 寂しい。

 

 

◇月▼日

 クルミちゃんに秘密結社はアラン機関じゃないのかと言われた。

 

 たぶん違う。だってアラン機関は千束先輩を助けてくれた。この前機関の人がお店に来てたけど、人のいいおじさんだった。きっと悪い秘密結社なんかじゃない。

 

 

◇月▼日

 収穫はなし。

 

 たきなと話した。千束先輩以外で、田中とちゃんと話をしてくれる同年代の人は初めてだった。仲良くなれてうれしい。

 

 鉄砲屋さんを皆殺しにした件も、同志を助けるためにやむなくやったというのだ。仲間思いな超いい子だ。あと美人。

 

 

◇月▼日

 閉店後ボードゲーム大会に参加。

 

 クルミちゃんの強いすすめでTRPGというのをやった。

 

 楽しかった。さすがリアルサンチゼロとかロールプレイが上手いとか、たくさん褒められた。

 

 常連さんとも仲良くなれた、良い日だった。

 

 

◇月▼日

 千束先輩とたきなが同棲を始めた。単独行動中のリコリスが襲われる事件が多発しているので、その対策として。

 

 案の定、たきなが家事をみんな担当するらしい。じゃんけんで分担を決めたというから呆れた。鬼だあの人。

 

 鬼おっぱい先輩にお口チャックのジェスチャーをされたから田中からは何も言えない。たきなは強く生きて。

 

 

◇月▼日

 抜糸して傷が治った。

 

 元々筋肉と靭帯の隙間に刺したから治りは速い。と言ってみたら怒られた。山岸先生怖い。

 

 やっと結社を探す仕事に参加できる。

 

 命大事にが基本方針らしい。何回も言われて耳タコだ。

 

 命は誰にだって一つしかない。とても大事だ。

 

 だから、なかったことになんてしちゃいけない。

 

 

◇月▼日

 失敗した。

 

 敵も味方も命大事に。これは非殺傷って意味だった。千束先輩はたまに言うことがすごく哲学的というか、恐ろしく思想的で分かりにくいときがある。命大事にが非殺傷だなんて誰にも分からない。たきなくらい分かりやすく言ってくれないかな。

 

 あの緑もじゃ髪のテロ屋さんは真島さんというらしい。名前を知れたのは良かった。今度会ったときも洗脳が解けてないようだったら、これ以上罪を重ねる前に、ふさわしい弔いを手向けてあげたい。

 

 理想の世界はまだ遠い。なのに先輩の誕生日は今年もまたやってくる。

 

 早く使命を果たさないと。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 田中を野生に帰すのはあまりに危険である。

 

 喫茶リコリコのメンバーと楠木司令の意見はその点で一致していた。当初は東京支部への帰還を求めていた楠木だが、田中がDAを強く警戒していると知り、リコリコへ収容もといつなぎとめておくことを渋々認めるほかなかった。

 

 異動の手続きは楠木が引き受け、表向きには度重なる素行不良に対する人事処分、要は左遷とする方向で調整。残った問題は、田中をどう言いくるめるかである。

 

「千束が言えばどうにかなるんじゃないですか?」

「それならリアルスプラッターにするのもとっくに辞めさせてるよ。譲れない一線ってのがあんの」

 

 というわけで急遽、リコリコは悪の秘密結社を密かに探るための秘密機関、との設定が作られた。田中はリコリコを拠点として表向きは従業員業務をこなしつつ結社の手がかりを探すことで合意。リコリコの特色である和服ベースの制服もすぐに支給され、リコリコに新たな色が加わった。

 

 指導役はたきなと千束で半々。ミズキとミカも稀に、クルミは皆無である。

 

 たきなは癖の強い田中の性格に当初は警戒していたが、すぐに必要ないと分かった。

 

「と、以上がレジ締めの手順になります。見てますから一度やってみてください」

「りょーかいです。ええと──はい、どーです?」

「いい感じです」

 

 普段の田中は非常に素直で従順だ。一度教えれば大抵のことはすぐに覚えるし、分からない点はその場で聞く。驚くほど扱い易い人材だった。

 

「田中ァ!」

「はいはい、二番と四番のオーダーね」

「田中ァ!」

「クルミちゃんならさっきお風呂行きました」

「あんのリスぅ! 勤務中だぞコラ!」

 

 元々顔見知りだったこともあってミズキとはすぐに馴染み、たきなが舌を巻くほどに以心伝心だった。

 

「店長、手が空いたのですが掃除でもしときます?」

「そうだな、店の前を頼めるか」

「りょーかいです」

 

 客足が落ち着いても怠けることなく、かといって結社がどうこうと言って暴走するでもない。いたって常識的な振る舞いだった。

 

 誰とでも普通に会話し、普通に仲良くなる。平時の田中は見た目通りに純朴な、どこにでもいる平凡な少女にしか見えない。少女の外見を都市迷彩に利用するリコリスとしては、教本に載るレベルの見事な擬態だった。

 

 ただ、時折その擬態が剥がれることもある。

 

「うわぁ!? 何何、何斬ったの今!?」

「へ? あー、蚊がいたみたいなのです」

「みたいっておま、いいから早くそれ仕舞え!」

 

 田中は飛んでくるものを生理反応レベルの反射で切り落とす習性がある。客がいるホールだろうが厨房だろうが、ある程度のサイズ感のある虫がいれば、無意識にマチェットをぶん回してしまうのだ。

 

 この事実にたきなたちは震撼した。はたから見れば田中は突如刃物を振り回すやばい店員だ。かといって、密閉空間でもない限り、夏場にすべての虫をシャットアウトするのは難しい。

 

 よって、千束の口からもっとも簡単な対策が命じられた。

 

「田中ァ! 店内は刃物禁止! 二本ともロッカーに入れてきなさーい!」

「そ、そんな殺生な」

 

 田中は制服の袖口から二振りのマチェットを取り出し、我が子のように抱えて後退る。刃渡り三十センチ前後、マットブラックの分厚い刃と細い柄。和服ベースの制服の袖にはゆとりがあり、中に黒い棒状のシースと思しきものが見えた。当たり前のように制服を改造しているのを見たミカは、重たいため息をつく。

 

 田中は涙目でマチェットを抱きしめながら、訴えた。

 

「太郎と次郎は田中の家族なのです! 家族は一緒じゃねーと!」

「た、たろうと、じろう? DAの支給品に名前つけてるんですか?」

「違います井ノ上さんっ! 太郎と次郎は田中がDAに来る前から一緒にいる家族で、お腹を痛めて生んだ大切な妹たちです! ロッカーに入れておくなんて考えられねーのです!」

「ちょーいちょいちょいちょい! 情報量でぶん殴るの止めてもらえる!?」

「太郎と次郎なのに、妹……? お腹を痛めて……?」

「たきなー! 考え過ぎるな戻ってこーい!」

 

 たきなが混乱しているうちに、千束が先輩パワーのゴリ押しを発動。二本のマチェット──太郎と次郎は鍵付きロッカーに安置される運びとなった。そこは田中の譲れない一線ではなかったようだ。ちなみに丸腰でも反射はするが、マチェットの保持を前提とした動きなので空振りに終わる。刃物を振り回す凶行よりはマシな奇行に落ち着いた。

 

 奇行といえばもう一つあり、休憩時間でのことだ。

 

 田中はクルミに借りたタブレットを、座敷で一心不乱に見つめていた。あまりに夢中なので動画でも見ているのかと思えば、画面には例の、十年間で田中が殺した人名リストが表示されていた。

 

 たきなには意味不明な奇行でしかない。

 

「それ、何してるんですか?」

「井ノ上さん、お疲れ様です。死を悼んでいる。田中は死者を忘れない」

「すでに存在を抹消された犯罪者たちでしょう。覚えているのが合理的とは思えません」

「理非の問題にあらず。人はみな死ぬ、これは万止むを得ん。しかしその死をなきことにしていい道理はない。故に田中が生涯をかけて覚えておくのだ」

「……そうですか」

「そうなのだ」

 

 価値観の違いだろう。たきなは納得してその場を離れる。

 

 すると、千束が信じられないものを見たように口をあんぐり開けていた。

 

「す、スイッチ入った田中と話してる……たきな頭いい?」

「別に難しい話じゃないと思いますが」

 

 千束によると、田中の思想は十年前からちょくちょく聞くもののほとんど理解できないらしい。堅苦しい言葉選びが千束には合わないのかもしれない。

 

 たきなは以降も半分ほどスイッチの入った田中と言葉を交わし、考え方自体はそこまで過激でもないことに気がついた。死んだ人をきちんと悼もう、弔おうというのはとても健全だ。

 

「たきなー、話を聞いてほしいのです。思うに正しき弔いの心とは──」

「はいはい、次の休憩まで待ってね」

 

 田中は問答に付き合ってもらえるのが嬉しかったのか、気づけばたきなを名前で呼ぶようになっていた。千束はそれを意外そうに、ミカたちは微笑ましそうに見守る。

 

 そうして田中が仕事を覚え、常連たちとも順当に親しくなり、ボードゲームにも参加して馴染み出した頃。

 

 四人目のリコリスが襲撃された。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「そういや田中ァ。あんた下の名前何なの?」

「あったけど忘れました。田中は田中です」

「忘れたぁ? そんなんじゃ男が出来たとき困るぞー?」

「困らねーですよ。仮に男の人とお付き合いしたら、その人は田中になります。結婚して子供が出来たら、男の子でも女の子でも田中と名付けます。結婚相手の人だけじゃなく、家系図の遡れる限界まで田中に改名してもらうのです」

「いやこわいって。田中パンデミックかよ」

 

 朝、開店前の喫茶リコリコ。田中はテーブルを拭きながら、ミズキに対しかっ飛ばしたことを言っている。常連からは「田中語」と呼ばれている田中独特の言い回しで、特に考える意味はない。

 

「おはようございます」

「ぐもーにーん、朝から飛ばしてんな田中ァ」

 

 出勤してきたたきなたちへ顔を向けるミズキ、田中。

 

「おはようございます」

「おはよ。聞いたよ、えらいことになってるわね」

「あー、私らはDAじゃないから大丈夫だよ」

「可能性はゼロじゃありません」

 

 えらいこと。先日、DA所属のリコリスが襲撃された件である。田中の失踪に前後して始まった襲撃は今回で四度目を数え、三度目の事件をのぞき襲われたリコリスは殺害されている。治安維持組織の看板に泥を塗るような凶行だった。

 

 たきなたちはDA所属とはもはや言えない立場だが、リコリスである。気を引き締めるたきな。

 

 一方、もう一人戦意を──否、弔意を新たにする者がいる。

 

「痛ましかれかし、惨かれかし……そして日の本よ太平たれ」

 

 田中だ。例のフレーズをつぶやきながら仮面めいた無表情になっている。

 

 千束がどうどう、と手のひらを向ける。

 

「田中、ステイ」

「でも先輩、もうケガは治りました。同志もやられているのです。このままでは結社の思うつぼです」

「情報がないんじゃ動きようがないでしょ。それともアテがあるのかなー、ん?」

「ねーですが、悪そうな匂いのする方に行けば何かあるかもです」

「ああ、匂いね、カビみたいな匂いするよね、ってそんなわけあるかぁ! いいから大人しくせい!」

「はあい……」

 

 田中はしょんぼりと肩を落とした。強引なようだが千束のこの勢いが田中にはよく効く。

 

 その後、ミカはDAに襲撃事件の詳細を尋ねるも機密だからと拒まれ、代わりにクルミが調べることになった。クルミいわく、勝手に調べちゃうから、よー、とのことだ。

 

 これに田中は目を丸くした。

 

「えっ? クルミちゃんってボドゲ無双する以外に取り柄があるのです?」

「ひでえ」

「ぶふっ、あははっ、く、クルミー! 言われてんぞー!」

「田中はもうリコリコの一員だ。話してもいいんじゃないか?」

 

 クルミはDAを含む他勢力から追われている身だ。今やDA所属ではない田中になら正体を明かしていいだろう、とミカ。

 

 クルミも田中の評価が不満だったのか、いささかむっつり顔で立ち上がり、胸を張る。

 

「ボクは電脳戦専門なんだ。お望みの情報をすぐに引き出してやるさ」

「でんのーせん。ほえー」

「なんだほえーって」

「いや、かわいい上にボドゲが得意でしかもパソコンもできるなんて反則だなぁと」

「ふん。褒めても何も出ないぞ。さーて仕事するか」

 

 とか言いながら、満更でもなさそうな顔で二階へ上がっていくクルミ。押し入れの中に設置したマシンの元へ向かったのだろう。クルミは案外チョロい。

 

 こうして田中の焦りとは裏腹に、事件はクルミの情報待ちのまま保留となる。

 

 クルミの仕事は早く、翌日にはDAから情報を抜き出し、二日目には暗号化されたそれらを解析。襲撃犯の使った銃が例の紛失した千丁であることなどが判明する。

 

 そして事態が大きく動いたのは、四日目の夜のことである。

 

「制服がバレてるってクルミが。これなら絶対わかんなーい」

 

 女子高生に擬態するリコリスを、襲撃犯は制服で識別している。クルミの予想に従って千束はファーストの赤服にポンチョを羽織り、外出の支度を整えた。

 

「組長さんのとこに配達行ってきまーす。ついでに田中の顔見せも。行くぞ田中ァ」

「はーい」

「気をつけてくださいね」

 

 田中は飾り気のないパーカーとショートパンツに着替えていた。仕事にも慣れケガも治ったので、外の仕事をさせても大丈夫だろうとのミカの判断だ。予定通り、千束に付いて出発した。

 

 クルミが重大な情報と共に二階から転げ落ちてきたのは、その数分後だった。

 

「これは銃取引のときのドローン映像だ、これが流出して顔がバレてたんだ!」

 

 襲撃犯はリコリスの制服どころか顔で判別している。そしてすでに襲われた四人だけでなく、あと二人のリコリスが顔バレしている。

 

 一人は千束。

 

 もう一人は田中だ。

 

「三人目のリコリスは生き残ったのは知ってるだろ。現場に居合わせた田中が襲撃犯を半壊させたみたいだ。おそらくあいつも狙われている」

「いかんな、これは……」

 

 ミカの重苦しいつぶやきを合図に、リコリコは動き出した。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「田中ァ、ここでの仕事で大事なのは?」

「命大事に!」

「正解! ちゃんと覚えててえらいぞー。敵も味方も命大事に。痛ましい彼氏はなしだかんね!」

 

 人気のない夜道に、千束と田中が並んで歩いている。口にするのは千束が仕事をする上での基本方針だ。

 

 命大事に。今回の配達はまだしも、いざ荒事に田中を連れ出したときに備えて、ケガが治る前から口すっぱく言って聞かせている。

 

 田中も理解はしているつもりだった。だがさりげなく追加された新要素に、激しい違和感を覚える。

 

「はい……はえ? 敵も味方も、痛ましかれ? あの、先輩」

「あ、ごめん電話だ。もしもしもしもしぃ?」

 

 しかし最悪のタイミングで事態が動く。

 

 千束と田中が狙われている、とのミカからの連絡。

 

 直後、背後からヘッドライトが迫り、田中は疑問を呑み込む他なかった。

 

 襲撃犯の初手は前例通り車両による体当たり。田中はとっさに横へ跳びのき、千束はスタントマンの要領で車の上を転がり、受け身を取ったようだ。そのまま死んだふりをしてタイミングをうかがっている。

 

 田中も轢かれたフリをするべきかと迷い出したとき、銃声が響く。

 

「こんな往来で!」

 

 同時に、田中の眼前で火花が弾ける。無意識のうちに愛用のマチェット、太郎と次郎を抜き放ち、弾丸を斬り弾いたのだ。

 

 田中たちを狙った車が道の先で停車し、痩身に緑髪の男が降りてくる。男の握るリボルバー拳銃からは微かな硝煙が上がっていて、おそらく射手と思われた。

 

「よう、ゴエモンもどき」

「いえ、田中です。こんばんは」

「じゃ田中。この前は世話になったなァ」

「それほどでも。洗脳は解けたのです?」

「ああ、バッチリだ」

 

 銃声、火花。切断された拳銃弾が田中の背後で二つの弾痕を穿った。

 

「ハハッ、だよな! こんな銃じゃお前とバランスが取れねえ」

 

 男の口元が嗜虐的な笑みで歪む。

 

 それを合図にしたように、周囲に数台のバンが乗り付け、車内から武装した作業服姿の男たちを吐き出す。殺気だったいくつもの鋭い視線が田中を射抜く。

 

 なんてかわいそうな人たちだろう。やはり洗脳が解けていない。人を鉄砲で撃たないと気が済まないらしい。彼らの尊厳と権利を守らなければ。弔いを受ける権利は誰にでもあるのだから。

 

 しかし田中には迷いがあった。

 

 千束は敵も味方も命大事にと言った。その意味が分からない。

 

「おりゃー!」

 

 途方に暮れていると、千束が動いた。

 

 ポンチョを男たちに向けて投げ広げ、拳銃から非殺傷ゴム弾をめくら撃ちする。幾人かの男たちに命中したのが見えた。

 

 マガジンを空にするとリロードしつつ振り返り、田中の手を取って走り出す。

 

「ポンチョじゃダメかー。とりあえず逃げるよ」

「あ、あの、先輩」

「知り合いなの?」

「えっ、あ、こないだリコリスをいじめてるところに出くわしまして」

「あー、そういう」

 

 口早な最低限のやり取り。疑問を口にしようにも状況が許さない。無事な男たちが背後から追いかけてくる。逃げて撒けるならそれでよし、制圧するにも夜道では巻き添えの可能性がある。とにかく移動が最優先だ。

 

 男たちは執念深かった。千束と田中がしばらく逃げに徹し、暗いため定かではないが自然公園らしき広い空間に至ると、後ろからまたもヘッドライトが迫ってくる。

 

「しつこいなー」

「せ、せんぱ」

 

 千束はおもむろに振り向き、迫りくる車体に拳銃を向ける。

 

 ここでも田中は聞けなかった。車から痩身の男が身を乗り出し、千束を狙っていたからだ。

 

 銃声。千束が体を横にずらす。空気が鳴き、プラチナブロンドの髪が一部弾ける。卓越した洞察力で射線と射撃タイミングを読む千束だからこそ可能な、弾丸を避ける絶技だ。

 

「うわっ」

 

 後ろにいた田中に避けた弾丸が迫り、火花が弾けた。飛んでくるものを虫でも弾でも切り落とす田中だが、千束と違いただの反射行動なので本人もびっくりだ。

 

 千束がすかさず撃ち返すと痩身の男に命中。車から転げ落ちる。

 

 すると後ろから次々と車が押し寄せ、停車するや否や武装した男たちがわらわらと出て来て、千束たちの方へ向かってくる。

 

「いたぞ、あのリコリスだ!」

「人間と思うな! 絶対に殺せ!」

「ハラワタを引きずり出してやる!」

「よくも真島さんを撃ちやがったな、あのイカレ女!」

 

 否、男たちは千束には目もくれず、血走った目と銃口を田中に向けている。距離があるため発砲はしていないが、有効射程距離まで近づいた時点で田中は鉛の雨に見舞われるだろう。

 

「田中ァ、モテモテだねえ」

「あのモジャ髪の人を撃ったの、千束先輩なのに……」

 

 千束のジト目を受け、田中は世の理不尽を嘆息する。

 

 あの男たちは田中がホームレスだった頃に遭遇したテロリストたちだ。せっかく逃げていったのに洗脳は解けず、むしろ憎悪と逆恨みを募らせて悪化しているように見える。躊躇せず人に銃を向けるその様は気の毒でならない。

 

 ヘッドライトに照らされる男たちに目を凝らし、田中は自己流の脅威度チェックを始める。数は二十五名、練度はまちまち。装備は自動小銃が二十、拳銃が五、携行ロケット砲が一。小銃の口径は5.56、装弾数は三十発の一般的な箱型弾倉。作業服のふくらみからして予備弾薬は豊富。二十五名のうち自動小銃装備の二十名が田中に強い視線を送っている。

 

 通常の立ち回りで対処可能と判断した。

 

「千束先輩、あの人たちは田中に任せてもらえねーでしょうか」

「おっけー。私はあのリーダーっぽいやつ捕まえとくね」

 

 短いやりとりを経て二人は動き出す。男たちが近づいてきており、車から落ちたモジャ髪もいつ意識を取り戻すか分からない。判断に猶予はなかった。

 

 だから二手に別れ際、千束が残した言葉で田中は大混乱に陥ってしまった。

 

「命大事に! 敵も味方も、だからね!」

「えっえっ」

 

 千束としては軽い念押しのつもりだったのだろう。

 

 しかし田中にとってそれは、複雑な哲学や思想の難問をいくつも鍋にぶちこんで煮詰めたような究極の問題である。

 

 千束はモジャ髪の方に、田中は武装した男たちの方へ接近していく。道中で田中の思考はかつてない高速で回転する。

 

 先輩の言葉の真意はなんだろう? 命が大事なのは自明だ。味方はもちろん、敵も大事だ。敵と戦う、命を奪う。奪った以上はその命を大切に弔わねばならない。つまり痛ましかれかし、惨かれかし。

 

『痛ましい彼氏はなしだかんね!』

 

 しかしそうではないらしい。痛ましく惨たらしく、忘れ得ぬ死の他にふさわしい追悼の形があるだろうか。田中は必死で考える。加速する世界の中、男たちはすでに銃を構え田中に照準している。

 

 極限状況下、田中の脳みそは千束の言葉を何度も反芻する。命大事に、しかし痛ましからざる形で。

 

 これだ。田中はすべてを理解した。

 

「いいか、一斉に撃て! 所詮ナイフ二本で捌ける量には限りがある!」

 

 田中が駆ける。すでに射程範囲内だが、男たちは田中を引きつけ確実な射殺を狙っている。そこへまっすぐ突っ込みながら、田中は真理を口にした。

 

「敵味方諸共(もろとも)命大事に、これすなわち──弔いの心と見つけたり」

「撃てェ!」

 

 一斉に銃口が火を吹いた。

 

 同時、田中は動きを変える。直進から左右へ不規則に体を揺らし、半身かつ前傾姿勢で被弾面積を減らす。ときにくるくると緩やかに、ときに激しく切り返し、急激な緩急で狙いを絞らせない。

 

 だがいかに巧みな動きをしても数を撃たれると被弾は避けられない。

 

 そういった不可避の弾丸のみ、反射によって切り落とす。マチェットの太郎を保持した腕は無意識下で上下左右へムチのようにしなり、鉛玉を裂く。刃の厚みに沿って弾道が逸れ、真っ二つにされた弾体が田中の後方へ抜けていった。

 

 石畳が弾け、捲れ上がる。弾雨の中、田中は金属が切断されるオレンジの火花をまといながら、急速に距離を詰めていく。

 

「来るな、来るなぁ!」

「化け物が!」

 

 確実を期して田中を引きつけていたのが仇になった。敵集団の一端へ、程なく田中が接敵する。

 

 偶然か故意によるものか、そのタイミングは敵のリロードと一致していた。不意に落ちた静寂と夜闇に、男たちの怒号が響く。

 

「リロード!」

 

 先程まで弾幕を張っていた十名が下がり、後詰めの十名が前に出ようとする。

 

 しかしすでに田中はそこにいる。下がろうとしている男の懐へ入り、太郎を振り上げる。どっ、と肉を叩く音と共に、男の前腕が宙を舞った。

 

 絶叫を上げる男に対し、すかさず次郎を突き入れる。深くは入れない。筋肉と骨の隙間を縫い、肝臓、膵臓、脾臓を刃先で抉る。確実に致命傷だが即死には至らない程度に、刺突をミリ単位で制御する。

 

 血を吐く男を敵集団へ向け蹴り飛ばす。男の体で射線を切りつつ、落ちてきた前腕をボールのように蹴り出した。動揺する男たちの輪の中へ討ち入っていく。

 

 そこからは早かった。自動小銃から拳銃へスイッチする暇さえ与えられず、男たちは急所を刺され、抉られ、次々に倒れていく。果敢にナイフで近接戦闘を挑んだ者は、切り落とされた仲間の腕の流血で目を潰され、五指を切断された後に腎臓を突かれた。田中の背中へ拳銃を撃った者は、銃弾を切り落とされ、すれ違いざまに腹部大動脈を抉られた。断たれた四肢と手指がそこかしこで宙を舞う。

 

 決められた手順をなぞるように、田中は粛々と敵を制圧していく。その目には興奮も感慨もない。ただただ暗くて深い弔意──少なくとも田中が弔意だと信じている澱みがある。

 

 時間にして一分足らず。

 

 致命傷を負った男たちが倒れ伏す中央で、田中はしめやかにつぶやく。

 

「痛ましかれかし、惨かれかし」

「くそ……化け物が」

 

 ぐるん、と田中が振り向く。

 

 かすれ声の悪態を吐いた男の方へ近づき、馬乗りになって顔を近づける。このために、十年で鍛え上げた手先の感覚を駆使して即死を避けたのだ。

 

 田中はたどり着いた真理を実行する。

 

「あなたのお名前を教えてください」

 

 

 

ーーー

 

 

 

 千束と田中の襲撃事件は、結果として痛み分けに終わった。

 

 田中が真理を実行する一方、千束の方は例のリーダーらしき男に不意打ちを受け、拳銃装備の五名にも囲まれ窮地に。そこへ駆けつけたリコリコメンバーによって千束は回収され、強引に包囲を突破しつつ田中も回収。クルミが機転を利かせたおかげで追撃も振り切り、無事喫茶リコリコへ帰還することができた。

 

 リコリコの店内。正座したクルミは眉をハの字にして頭を下げる。

 

「ごめん、たきな」

「あれは私の行動の結果で、クルミのせいじゃありません」

 

 クルミは今回の襲撃だけでなく、たきながリコリコへ左遷された遠因でもあった。しかしたきなは微笑を浮かべ謝罪を受け入れる。迷いなくそうできるほどに、たきなの心はリコリコに影響を受けていた。

 

 クルミは安堵し、元最強のハッカー、ウォールナットとしての力をこれからも貸すことを約束する。手始めにもたらされたのは襲撃犯のリーダーの情報だった。

 

「早速だが、やつの名前が分かったぞ。『マジマさーん!』」

 

 タブレットに映されたのはドローンからの映像。作業服の男たちが、水没したリーダーらしき男の名を呼んでいる。千束とたきなは間近で顔を見ており、名前と合わせて有力な情報といえた。

 

 こうして今夜の騒ぎは、互いに損害を出しつつも情報面ではこちらが有利といえる結果で幕を閉じ──

 

「あのー、田中のこと忘れてないでしょうか……?」

「黙れ小僧」

「なんでぇ!?」

 

 閉じる前に、まだ説教が残っていた。

 

 座敷でミカに手当てされている千束。かなりの窮地だったにもかかわらず腕に多少の打撲程度で済んだのはさすがの立ち回りだった。

 

 そんな千束のすぐ横で、正座させられている茶髪お下げの女。私服のパーカーに斑の返り血をつけたこいつこそ、今夜一番の問題児、田中である。

 

 治療を終え、ミカがカウンターへ引っ込む。

 

 すると千束はむすっとした顔で田中を睨んだ。

 

「ありがと、先生。さて田中ァ」

「はい」

「聞かせてもらいましょうか。なーんーで、あんなことしたの?」

「あ、あんなことって……?」

「クルミ」

 

 千束が呼びかけると、クルミはタブレットを操作して田中の方へ向ける。

 

 リコリコメンバーが現場にたどり着いた時点で田中の方の戦闘は終わっていた。

 

 映像は、致命傷を受け倒れ伏す男たちと、その一人にまたがって何事かをつぶやいている田中を映している。クルミがまた操作すると音声が流れ出した。

 

『お名前を教えてください。お名前を教えてください。他にもたくさんあなたのことを教えてください。身長は? 体重は? 年齢は? 出身は? 特技は? 将来の夢は? 彼女はいますか? 趣味はありますか? 初恋はいつでしたか? 好きな異性のタイプは? 好きな食べ物と嫌いな食べ物は? 休日は何をしていますか? 最近調子はどうですか? お風呂で体を洗うときはどこから洗いますか?  鉄砲の使い方はどこで習いましたか? 結社に洗脳された記憶は覚えていますか? 何か悩みはありませんか? あなたのことをもっと知りたい。決して忘れないために。お名前を教えてください、お名前を教えてください──』

 

 田中は同じ言葉を壊れたラジオのように繰り返している。

 

 その光景は異様だ。初対面時の現場ほどグロテスクではないのに、映像の田中は、あのときよりもはるかに不気味でおぞましく見える。

 

 一方、正座しながら映像を見る田中は、しょんぼりと肩を落としている。

 

「結局、何も教えてくれませんでした……ごめんなさい。先輩の言うとおりにやろうとしたのですが」

「えっ、千束?」

「ちゃうわ!」

 

 まさか千束の指示か、と耳を疑うも違ったようだ。

 

 千束は田中の肩に手を置いて、正面から目を合わせる。

 

「田中。敵も味方も命大事に。何度も言ったし、りょーかいですって田中も言ってたよね? なのにどうしてこんなことしたの?」

 

 咎めるというより、単に分からないような響きがあった。千束もリコリスなので、田中が命のやりとりを経て死人を出したことに思うところはあっても割り切っている。怒っているわけではないのだろう。

 

 実際不思議ではある。田中は嘘や生返事の類をしない。千束のモットーである『敵も味方も命大事に』を指示されてこういった奇行に走るのは意味不明だ。

 

 田中はバツが悪そうにすっかり小さくなって、首から下げたUSBを両手で握りしめている。

 

「だ、だってだって……聞こうとしたらテロ屋さんたちが来て……分かんないからてっきりそういうことかと思って……」

「そういうことって?」

「すなわち弔いの心と見つけたり」

「うわっ」

 

 急にスイッチが入った。たきなとクルミはドン引きする。

 

「敵味方問わず命は大事である。だからこそ奪った命は大切に弔わねばならない。しかし千束先輩は痛ましい死にあらざる弔いを指示された故、田中は弔いの基礎にして奥義、すなわち故人を忘れぬことと理解した。故人の名前、声、来歴、人品骨柄。生前の故人にまつわるあらゆる情報を記憶することで、確かにこの世にあったその人を心に刻み、折につけ思い返し、偲ぶ。これこそ弔いの完成形の一つであり、真理である。我々はどんな罪人も心に負わねばならない。この世に生まれながらの悪はなく、結社の洗脳を受け罪人に堕ちたといえど、人であることに変わりはない。人であるなら、忘れてはいけない。弔いを忘れたそのときこそ、人は人でなくなってしまうから。千束先輩いわくの『命大事に』とは、この弔いの心を示唆するものと解釈し、実行した。以上である」

 

 店内に沈黙が満ちる。かと思えば、ミズキが晩酌をごきゅごきゅ飲む音が響いてそこまで静かではないことに気づく。

 

 たきなは少しずつ田中の思想を咀嚼しながら、重要なことを思い出していた。

 

 それは田中が田中であることだ。最近純朴な少女の一面ばかり見ていたから忘れかけていた。いかにも常識人らしく擬態している目の前の茶髪お下げの少女は、千束さえドン引きする奇人だと再認識する。

 

 たきなが納得する一方、千束は頭を抱えていた。

 

「んいぃーっ! 何食べて育ったらこんなに思想強くなんのよー!?」

「かりんとうはよく食べてました」

「危ない薬の隠語か?」

「ちゃうわ!」

 

 クルミの風評被害めいた疑問を切り捨て、千束は田中に向き直った。

 

「田中ァ! 命大事にってのはそーゆーんじゃなくて、えっとぉ……ううん」

「あ、あの、田中は何か間違えてしまったのですか?」

「いや、間違いというか、んーどう言えばいいんだこれ」

「解釈の違いです」

 

 田中の言うことをようやく理解し、たきなが割り込んだ。

 

「田中。千束の言う『命大事に』は、非殺傷任務という意味です」

「えっ? ほんとに?」

「本当です。以後、リコリコでの仕事はすべて非殺傷任務と考えてください」

「りょーかいです!」

 

 田中は千束の言うことを無視したわけではない。むしろ忠実に実行しようとした。あの不気味な質問攻めも、殺す相手を忘れまいと必死で心に刻もうとしていたのだろう。田中も解釈違いを違和感として察していたようだが、質問するタイミングがなかったらしい。

 

 これで解決、とたきなが息をつく。

 

 すると、わなわな震えて目を瞠っている千束に気がついた。

 

「た、田中マスターだ……! 取り扱い検定一級!」

「そんな資格もらっても困るんですが」

「ほんとにすごいんだって! そっかー、そういえばたきなと田中って似てるところあるからなー」

「嫌です似てませんやめてください」

「田中の扱いひどすぎじゃねーですか!?」

 

 たきなは憤慨した。こんなのと似ているなど軽い名誉毀損である。

 

 田中の思想は強すぎて行動を歪めがちだが、中身は案外普通である場合が多い。よく聞けば奇行の意図を察することなど訳ないのだ。

 

 と反論してみると千束はぶんぶん首を横に振って、堅苦しすぎて何言ってんだか全然分からん、無理無理、と返ってきた。だから素で理解できるたきなは田中マスターなのだと。

 

 そうしてたきなは非常に不本意ながら、田中取り扱いの第一人者になった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 その夜。

 

「おいミカ。あいつもしかして、リコリスに一番向いてないタイプなんじゃないのか?」

「……気が付いたか。だから放っておけないんだ。私もミズキも、千束もな」

 

 田中の思想を理解したハッカーが、店長とシリアスなやり取りをしていたというのは、余談である。







おまけ(楠木司令視点)

「あのバカ者が……」

 DA東京支部、楠木司令のデスク。

 部屋の主である楠木は、副官から手渡された報告書を睨みつけ眉間にシワを寄せた。現在進行形で要らぬ苦労を生みまくっている問題児を今すぐ呼び出して叱りつけたい衝動に駆られるが、それができれば苦労はしない。

 その形相に慄きながら、副官がおそるおそる口にする。

「やはり田中なのでしょうか」
「田中だ。先回り犯は田中で間違いない」

 言下に断言した。

 楠木が睨みつける書類は、情報部からの調査報告書だ。内容は近頃DAを悩ませている先回り犯の正体について。

 独立治安維持組織であるDAは、管理AI『ラジアータ』のビッグデータを利用した監視網によって、犯罪に至る可能性の高い人物や組織をあらかじめマークしている。そういった犯罪者たちの犯行現場へリコリスを派遣するのだが、なぜか何者かが派遣に先回りして犯罪者たちを無力化する事件が相次いでいた。

 先回り犯の特定は困難を極めた。短時間で現場を制圧し姿を消す上、都内の監視カメラやドローンを避けるように行動するためだ。DAとしては組織の威信をかけてこの正義の味方気取りの何者かを探さねばならなかった。

 そしてその正体の手がかりが見つかったというのが、報告書の趣旨だ。

 一つは現場の状況。犯罪者たちが手足の腱を切られる、または打撃によって昏倒させられており、これは田中が非殺傷任務で多用していた手口だ。

 もう一つが、

「切断された銃弾がすべての現場で見つかっている。ヤツ以外にありえん」
「な、なるほど……」
「で、ヤツの姿を捉えた映像というのは?」
「こちらです」

 副官は脇に抱えていたタブレット端末を操作し、画面を楠木へ向ける。

 そこに映っているのは、都内の監視カメラの映像だ。暗い夜道で暗視補正の緑がかかっている。

 夜道の一端に、制服姿の少女が倒れていた。DA所属の暗殺者、リコリスの一人だ。

 そのリコリスのもとへ、画面外から複数人の人影が駆け寄り、制服をまさぐっている。

「三人目のリコリス襲撃の際の映像です。男たちはリコリスの携帯端末を奪っていったようです」

 副官がそう補足した。先回り事件と平行して発生している、単独行動中のリコリスが襲われる事件。その三人目の映像らしい。

 端末を奪った男たちは、倒れたリコリスへ拳銃を向けている。映像には映っていないが、一人目と二人目も車ではねられた後、囲まれてから射殺されており、この三人目も同じ末路を辿るかに思われた。

 しかしそうはならない。

 唐突に、男の一人が激しくけいれんし始めた。体を海老反りにして、画質の荒いカメラ越しでも分かるほどに。

 他の男たちは警戒して距離を取る。倒れたリコリスの包囲が解かれた。

 数秒間体を跳ねさせていた男は、不意にがくりと崩れ落ちる。延髄に何かが差し込まれているのが見えた。

 その背後に小さな人影が立っており、片腕にヒモ状の何かを巻きつけている。

 男たちが発砲した。マズルフラッシュが暗い画面に点滅する。

 人影は紐状のそれを腕にくっつけたまま、身を低くして男たちに迫る。左右へ不規則に切り返しながら距離を詰め、時折火花の閃光が弾けた。

 そうして接敵してからは速かった。男たちの体を盾にし、切断した四肢を蹴飛ばして牽制し、スキを見ては裂けた傷口に手を突っ込んで中身を掻き出していく。

 このまま全滅するかに思われた男たちだが、そうはいかない。

 人影が痩身の男に斬りかかる。頸動脈への一撃を男は上体を反らして回避しつつ、発砲。

 火花が弾ける。すぐさま踏み込み、人影が切払う。男の胸元を浅く切り裂く。

 男は巧みに深手を避けながらコンバットナイフを取り出し、拳銃と合わせて応戦していく。他の生き残りたちは銃を構えているが、まごつくばかりで何もしない。人影の立ち回りによって射線が通っていないからだ。下手に撃てば味方に当たる。

 時間にして十数秒、互角の攻防が続く。

 そこへ強い光が割り込んだ。

 車のヘッドライトだ。人影が跳び退いたところへワンボックスが乗り付け、男たちが飛び込むように中へ入っていき、またたく間に走り去った。撤退したのだろう。

 取り残された小さな人影は、現場を振り返った。紐状の何か、ペースト状の何か、柔らかそうな何かが路面に点々と転がっている。襲われていたサードリコリスも返り血に染まっていた。

 人影がカメラを見やる。特徴の乏しい、強いていえばどこか幼い顔立ち。

「田中だな」

 田中である。楠木宛に怪文書を残してDAから失踪した、精鋭の暗殺者こと田中である。

「これが田中ですか。動きは初めて見ます。本当に銃弾を切っているんでしょうか?」
「でなければとうに死んでいる。無意識の反射で切り落とすらしい」

 楠木は頭が痛そうに眉間を抑えた。

「反射というと、熱いものに触れて手を引っ込める動作のような? そんなことが……」
「理論上は可能、と学者は言っている。人が無意識に行う呼吸や歩行も、複雑な筋肉の動きを高度に自動化して成り立っている。であれば訓練によって、飛来物を切り落とす動作を自動化させることは可能である、とな。まあ眉唾ものだが」

 眉唾ものでも、なぜか実際に出来ているのが田中だった。

 副官は映像に対し妖怪でも見るような目を向けている。路面に散乱した何かが荒い画質で定かではないのは、この副官にとって幸運だった。

 楠木は情報の詳細を問いただす。

「この映像のサードはどうだ。持ち直したか?」
「いえ、うわごとを呟くばかりで聴取には応じられないとのことです」

 うわごと、と聞いて楠木の頭にはすぐに田中の口癖が浮かぶ。

 痛ましかれかし、惨かれかし。馬鹿げた思想だ。胸の内で一蹴した。

「映像の撮影された場所を中心に捜索範囲を広げろ。なんとしても田中を見つけ出せ」
「承知しました」

 こうして三人目のリコリス襲撃を機に田中は尻尾を掴まれ、先回り事件の犯人と同時に貴重な戦力として血眼の捜索を受けた。

 幸いにも田中の寝床は程なく見つかった。都内の廃ビルの一つだ。

 話が通じる相手ではない。ヤツの弱点をよく知るファーストの率いるチームを派遣し、引っ捕らえてから楠木自らが説教をする。そのつもりで楠木は、簡潔に任務を指示した。

「手段は問わない。迅速かつ確実に生け捕りにせよ」

 このときの楠木は知らなかった。

 田中が強すぎる思想をさらに飛躍させ、DAに対しすさまじい警戒心を抱いていたこと。

 生け捕りにされかけたことでその警戒心が更に高ぶり、もはやDAでは制御不能なまでに田中の思想が堅固になってしまうこと。

 そして田中の精勤ぶりを気に入っていた上層部に、異動についてめっちゃネチネチ言われること。

 そんな未来など、楠木には知るよしもなかったのだ。


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4話

9月23日

 今日は千束先輩の誕生日。先輩の家で誕生日会をやった。ミカ先生のケーキがおいしくて、みんな楽しそうに笑ってた。

 

 田中も楽しかった。

 

 でも時間がないのを嫌でも実感する。

 

 早く結社を見つけるのと並行して、また山岸先生や楠木司令に相談しといた方がいいかも。

 

 千束先輩にバレたら絶交は確実だ。こそこそがんばる。

 

 

✕月○日

 今日はパトロールのやり方を教えてもらった。

 

 保育園、組事務所、日本語学校、警察署、その他たくさん。結社の魔の手は日常のあらゆる場所を狙っている。喫茶リコリコの一員として彼ら彼女らの平和を守れることを誇りに思う。

 

 情報収集はミズキさんとクルミちゃんに任せて、田中はできることをがんばるぞ。

 

 

✕月○日

 驚がくの事実が判明した。手と脳が震えて止まらない。

 

 喫茶リコリコが結社の攻撃を受けている。店長兼局長のミカ先生はすでに結社に洗脳されていて、結社のエージェントと内通している。

 

 その証拠を千束先輩が掴んだ。なんと、最大戦力の千束先輩を拉致して洗脳、リコリコを内部崩壊に陥らせる恐ろしい作戦を企てているというのだ。ミカ先生とエージェントは明後日、BAR FORBIDDENなるお店で作戦の打ち合わせをするらしい。

 

 信じがたいことだけど、千束先輩、たきな、クルミちゃん、ミズキさんが話していたから間違いない。田中に話してくれないのはたぶん、まだまだ未熟と判断されたからに違いない。

 

 でも聞いちゃった。聞いたからには動かざるを得ない。千束先輩を拉致なんてさせない。

 

 いざカチコミだ。

 

 

✕月○日

 日の本を乱す結社を田中は許さない。

 

 悲しいお知らせがあった。真島さんが警察署を襲ったらしい。同志たちがカメラに映った真島さんの顔を確認しにきた。優しい人たちに罪をなすりつける結社のやり方は大嫌いだ。

 

 ミカ先生や千束先輩は絶対に結社には渡さないぞ。

 

 

✕月○日

 カチコミは今夜実行される。

 

 千束先輩とたきなが店内に殴り込み、クルミちゃんとミズキさんでバックアップ。仲間はずれの田中は今、車の後ろに隠れてこのページを書いている。もしピンチになったら助太刀するつもりだ。

 

 あの二人ならきっと大丈夫だろうけど。

 

 

同日追記

 エージェントは始末され、ミカ先生は正気に戻った。やったぜ。

 

 千束先輩がしょんぼりしてたのが心配だったけど、元気になってくれた。今日は千束先輩の家でお泊り。さっき珍しくおっぱいを触らせてもらえた。

 

 先輩は変わった人だ。いきなり「空は青くない」みたいな哲学を語りだすから、「空は青いです」って当たり前のことを、ムキになって長々語ってしまった。今になってちょっと恥ずかしい。

 

 千束おっぱいの先輩は、日の本の太平で出来ていた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 喫茶リコリコは和風喫茶店だけでなく、民間の困りごとを依頼として受け付ける、地域のなんでも屋さんめいた一面がある。

 

 先日の襲撃事件で一度は流れたものの、田中もそちらの仕事を初めて請け負うことになった。初日は得意先への顔見せで、付き添いはたきなだ。秘密結社と戦う建前があるので、田中には「日常に結社が潜んでいないかパトロールする」と教えている。

 

 たきなは春、千束に案内してもらったのと同じように田中を町へ連れ出した。

 

「こんにちは子どもたち。田中は田中です。よろしくね」

「たなかはたなか?」

「自分のことみょーじで呼んでる! 変なねーちゃんだ!」

「誰が変だ貴様らも田中にしてやろーか、ああん?」

「にげろ!」

 

 知能指数の水準が近いのか、最初の保育園では園児たちと言い合いになり、あいさつもそこそこに鬼ごっこが始まった。

 

 走り回る田中の首根っこを捕まえて、次の組事務所へコーヒー豆の配達へ向かうと、

 

「おお、たきなちゃんと田中ちゃんかい。田中ちゃんは店以外で会うのは初めてだな」

「ですね。この間は配達が遅れて失礼しました」

「気にすんな、事故だったんだろ? ケガがなくて何よりだ。これからもよろしく頼むな」

 

 と、先日の襲撃による遅配を詫びつつ問題なく挨拶を終えた。すでに店で常連として顔を合わせているのは組長だけでなく、次に警察署で顔を合わせた阿部も同様で、特筆することはなかった。

 

 多少問題が起きたのは日本語学校だろう。講師のアシスタント、日によっては臨時講師を請け負う。

 

 マルチリンガルが標準的なリコリスの例にもれず、田中もたきなや千束のように英独仏露はネイティブレベルで習得している。それなら早速と先方の教師に促され、田中は外国人向け日本語教室の教壇に立たされた。多数の英語話者たちの青い瞳が田中に注目する。

 

「き、緊張してきました」

「田中なら大丈夫です。予習もしてきたんでしょう?」

「そりゃもうたくさん」

 

 最初は固くなっていたものの、田中は事前に教科書を読み込み指導内容を把握しており、授業はスムーズに進んでいった。雲行きが怪しくなってきたのは中盤からだ。

 

「Excellent! you are already pretty fluent, so let me teach some more practical words. Repeat after me, 哀悼」

『アイトー』

「ん?」

 

 田中の言葉を生徒たちが復唱し、たきなは首をかしげる。何か違和感があったような。

 

「供養」

『クヨー』

「ちょっ、田中?」

「死を悼む」

『シヲイタム』

「待ってください田中、田中っ!」

 

 フォロー役に控えていたたきなが割って入る。しかし田中は構わずホワイトボードに日英の単語を書き連ね、死、供養、悼み、弔意などの単語がみるみる白いボードを埋めていく。

 

 生徒たちを振り返った田中は、目をかっと見開いて感情の抜け落ちた無表情をしていた。

 

「Alright, the next one is one of the most common phrase to show respect to the departed. Repeat after me . 『痛ましかれかし、惨かれかし』」

『痛ましかれかし、惨かれかし』

「田中ァ!」

 

 生徒たちは困惑しながらも、なぜかまったく澱みのない完璧な発音で復唱した。たきなはすかさず田中を後ろへ下げ、思想の滲み出た教育内容を修正すべく指導を引き継いだ。

 

 帰り道、たきなは困った思想犯にこんこんと言って聞かせる。

 

「いいですか、田中。個人的な思想は自由です。でも教える内容は教科書通りじゃないといけません。それ以外のことは教えないように」

「で、でもせっかくなら実用的な日本語を」

「ダーメーでーす! 教科書通りに、これはクライアントの要望です。分かりましたか?」

「分かりました……」

 

 田中はしゅんと俯いて、たきなの指摘を受け入れた。その様子にたきなが満足そうに頷く。

 

 たきなは田中の言いくるめ方を心得ていた。思想の是非に少しでも触れるとスイッチが入るためそっち方面の言及は避け、実務的な方向から攻めれば田中はあっさり納得するのだ。

 

 そうして田中が外回りデビューを終え、リコリコの経営により広く関わりだした頃。

 

 リコリコは閉店の危機を迎えた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 喫茶リコリコ、夜半。定刻通りに店を閉め、従業員たちが更衣室で着替えていると、唐突に千束が言った。

 

「田中ァ。お風呂入ってきたら?」

「えっ」

「千束、今日の一番風呂はボクの……むぐぐ」

 

 どうかして聞きつけたクルミが更衣室を覗きながら不平を漏らすと、千束が俊敏にその口を塞ぎにかかる。

 

 田中はたきなと顔を見合わせると、不思議そうに首をかしげた。

 

「はあ。クルミちゃんが良いというなら、いただきますが」

「おう、いけいけ」

「むぐー!」

 

 クルミは眉を寄せて思い切り不満顔だったが、田中は勢いに押されて更衣室を出ていく。微かな足音が聞こえなくなると、ようやく千束はクルミを解放した。

 

「ぷはっ、おい何のつもりだ?」

「大事な話があんの。ミズキは?」

「カウンターで晩酌中ですね」

 

 どうやら相当深刻な話らしく、晩酌中のミズキを更衣室へ引きずり込み、念入りに外のクリアリングを行ってからやっと千束は話し出す。いつにない神妙な顔つきで千束が語ったのは、

 

「リコリコ閉店の危機です」

 

 ということだ。

 

 千束は今日の昼、店長であるミカのスマホの通知画面を偶然目撃した。届いたメッセージの内容は、明後日にミカが何者かと千束の今後について話し合う予定であり、この何者かはDAの司令官、楠木であると。

 

「楠木だとなんで分かる?」

「そうですよ、司令とは限らないでしょう」

「いーや、先生を誑しこんで私をDAに連れ戻す計画じゃわ」

「自慢ですか。結構ですね、必要とされてて」

「あぁ、そうじゃないよたきなぁー!」

 

 たきなはイラっときた。左遷された上に正面からもう必要ないと言われた自分へのあてつけかと。千束の性格を考えるとそんなわけないと分かっていても、カチンと来るものは仕方ない。

 

 千束がたきなに媚びる感じでスリスリしていると、クルミが当然の疑問を口にする。

 

「それがなんで店の閉店と関係してくるんだよ?」

「小さいとはいえ一応DAの支部だからねぇ、ファーストリコリスのこいつがいないと存続できないのよ」

 

 リコリコは業務も指揮系統もDAとは別だが、一応支部の扱いを受けている。支部には戦力と現場指揮権限を認められたファーストリコリスが不可欠で、千束が連れ戻されると潰れてしまうというわけだ。

 

 たきなとクルミは、まったく同じ疑問を持った。

 

「田中がいるじゃないですか。千束がいなくなって、も……田中……」

「そうだよ、あいつもファーストなんだろ? たな、か……」

 

 そして同時に口をつぐんだ。

 

 確かに田中はファーストだが、あの田中である。唐突に陰謀論に傾倒しリコリスを辞めてホームレスになる田中である。権限と戦力がいくらあっても、支部を任せられるかといえば答えは明らかだ。

 

 田中はノーカン。四人の思惑が一致し、田中はなかったことにされた。

 

「じゃ、私が戻りますよ」

「うええん、そんな寂しいぃー」

「たきなはお呼びじゃないんだろ」

 

 クルミのデコにお盆の制裁を与える。良い音がした。

 

 店がなくなればたきなは養成所に戻され、ミズキは出会いの場がなくなり、クルミは潜伏場所を失う。全員困るのは確かなので、取り急ぎクルミに情報収集をしてもらう流れになる。

 

 クルミがタブレットを操作する横で、たきなは尋ねた。

 

「田中には秘密にするんですか?」

「悪いけどそうなるかなー。結社の陰謀だー、とかいって暴走したら手がつけられないし」

「まあ確かに……でもちょっとかわいそうですね」

「うー、私だってほんとは嫌だよ……」

 

 千束が口を尖らせる。

 

 ただでさえあやふやな情報を、独自解釈と理論の飛躍に定評のある田中に与えたらどうなるか。千束もたきなもまったく予想がつかない。ここは心を鬼にして内緒にしておくのが安全だろう。

 

 クルミは程なくミカと何者かの会合場所を特定し、四人はミカの企みを妨害または阻止する方向で動くことが決まる。 

 

「……」

 

 足音も気配もない怪しい人影が、更衣室の外で聞き耳を立てていたことなど、まったく知るよしもなく。 

 

 

 

ーーー

 

 

 

 閉店の危機発覚の翌日。

 

「千束はいるか」

「おー、フキいらっしゃーい!」

 

 喫茶リコリコに珍しい客がやってきた。DAに所属するファーストリコリス、春川フキ。その相棒であるセカンドリコリス、乙女サクラの二人だ。

 

「説明は不要だな。見せたいものがある」

「見んかーい!」

 

 フキは言葉少なにカウンターへ座り、たまたまそこに居たクルミのタブレットを拝借。記録メディアを差し込むと映像が再生され、たきなは息を呑んだ。

 

「署内の監視カメラの映像だ」

 

 作業服の男たちが屋内で自動小銃を乱射しており、昨夜起きたと報道されている警察署襲撃の映像だという。

 

 しばらく映像を見ていると厨房からミカが現れ、フキたちを迎える。無邪気に団子を注文するサクラの一方、フキは赤面をごまかすように声を荒らげた。

 

「千束ォ、どうだ、どいつだ!?」 

「あーあー、そんな叫ばなくても」

「あっ、この人じゃねーですか?」

 

 カメラが切り替わり、映し出された緑髪の男性が指さされる。見覚えのある顔貌にたきなと千束は身を乗り出した。

 

「こいつこいつ! ねえたきな!」

「ええ、間違いありません」

「ですです」

 

 その男性は、相次ぐリコリス襲撃事件の首謀者にして、昨夜警察署を襲った犯人。真島である。数週間前千束を襲った際に名前と顔が割れたものの、目撃者であるたきなと千束の画力が原因でDAに共有できなかった。フキたちは今回の映像から、裏付けのためにやってきたのだろう。

 

「これが真島か……待て、誰だ今の」

 

 眉根を寄せていたフキは、ハッとして振り返る。サクラも遅れて弾かれたように振り向いた。

 

 そこにはしれっとした顔で会話に混じる、茶髪おさげの少女の姿が。

 

 田中である。

 

「こんにちは、フキ先輩と乙女さん。田中です」

「うわっ、あのときのバケモン!」

「……本当にここで働いてんのか」

 

 サクラは嫌そうな顔でのけぞり、フキは忌々しげに睨み返す。

 

「先生に迷惑だけはかけんじゃねえぞ」

「はいっ、田中は身命を賭して役割を果たします」

 

 苦虫をダース単位で噛み潰したような顔で舌打ちを漏らし、立ち上がるフキ。そのままサクラの首根っこを掴み、引きずっていく。

 

「用は済んだ、帰るぞサクラ」

「えっ、でもまだ団子が」

「こいつと同じ空間にいたくねえ」

「そりゃそうですけど、団子ぉ〜」

 

 二人が去ると、店内は若干気まずい空気に包まれた。二人を見送る田中の後ろ姿はどこか寂しげで、一房のおさげが力なく垂れた尻尾のように見えてしまう。ミズキがいたたまれなくなったのか、店内のタブレット型テレビの電源を入れた。

 

 無理もない反応だ。フキ率いるチームは田中の捕獲任務を請け負うも、常軌を逸した田中の熱意によって失敗させられている。多少は塩対応にもなろうというものだ。

 

「変な空気にしてごめんなさい……」

 

 田中がとぼとぼ奥へ戻ろうとすると、その頭に千束が手を伸ばし、わしゃわしゃと撫で回す。

 

「気にすんなって、フキがカリカリしてんのはいつものことだろぉー?」

「気にしてねーです。こんなん慣れてますし、平気ですし。表の掃除してきます」

 

 田中は千束を振り切り、逃げるように外へ出ていった。あちゃー、と見送る千束。

 

 たきなはその様子に、今更ながら罪悪感を覚えた。結社のことで話を合わせているのもそうだが、例のミカの会合のことを仲間はずれにしていることもだ。千束とミズキ、クルミも同感なのか、非常に悩ましげな視線を店の外へ送っている。

 

 しかしたきなはぐっと堪える。どんなに普通の少女らしくしても田中は田中なのだから、暴走を避けるためにも情報は伏せておくべきだ。

 

 そうして痛む良心にフタをして、ミカの会合の日時がやってきた。

 

 一行は帰宅するフリをしつつ、クルミのみ外出と言い置いて、会合場所へ車で移動。無事、ミカの会合の相手と内容を突き止めることに成功する。

 

 すでに人知れず暴走中の思想犯リコリスが、後部座席に潜伏していることには誰も気づかぬまま、一行は解散するのだった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

ーーー

 

 

 

 錦木千束は焦点の合わない瞳をテレビ画面に向けている。気晴らしのために再生している名作アクション映画はまったく内容が入ってこず、吹き替え声優の迫真の演技が鼓膜の上を滑って消えていく。

 

「……」

 

 ミカのスマホを盗み見た二日後の深夜、千束の心にかつてないほどのモヤモヤが蟠っていた。

 

 ミカの会う相手は楠木司令ではなかった。吉松と呼ばれるリコリコの常連客であり、ミカの友人であり──そして千束が長年探していた、命の恩人でもあった。

 

 千束はかつて、アラン機関に命を救われている。類稀な才能と使命を持つ子供と機関に認められ、難病を抱えた心臓を人工のそれに移植・置換されたのだ。

 

 その感謝をずっと伝えたかった。だから二人の会話から吉松が恩人と判明したとき、千束は再会の喜びを胸に、精一杯感謝を伝えた。

 

 しかし吉松にも都合があったのだろう。期待していたような、感動的な雰囲気にはならなかった。

 

『アラン・チルドレンには役割がある。ミカとよく話し合うことだ』

 

 別れ際に吉松の残した言葉が、チクチクと千束の心にささくれを作っている。

 

 アラン・チルドレン。機関に支援され、救われた子供たち。彼ら彼女らには何か世の中の役に立つ才能があり、それは使命とも言われる。千束にもそれがあるのだ。

 

「私の役割、才能かぁ……」

 

 そんなものが分からなくても十分だった。分からずとも誰かの役に立てるし、誰かの救世主になれる。そう思って千束は進んできた。

 

 ただ、吉松の口ぶりや表情を思い返すと、不安になってしまう。自分は使命が分からないまま、道を違えているのではないかと。

 

 ミカに相談しても『それは千束自身で決めることだ』と返ってくるだろう。昔からそうだったし、千束もそう思う。しかし考えても答えは出そうにない。

 

「なんなんだろなぁー……ん?」

 

 モヤモヤしたまま大きく伸びをすると、呼び鈴が鳴った。

 

 ミカの会合に乱入したのが21時、解散し帰宅した今はてっぺんを回っている。訝しげにインターホンで応対すると、モニターに少女の姿が映し出される。サイズの大きなパーカーを着た、茶髪おさげの少女。

 

 田中である。

 

 梯子を登り、ダミー部屋兼入り口の階へ上がって、扉を開けた。

 

「田中ァ。今何時だぁ、おい?」

「ごめんなさい。千束先輩の顔が無性に見たくなって。ご迷惑ならすぐに帰ります」

「ったくもー、どんだけ先輩が好きなんだよ。上がってけ」

 

 苦笑して招き入れる。一人でモヤモヤを抱えているよりは後輩の相手をしたほうがマシだろう。仲間はずれにした負い目もあったかもしれない。

 

「ココアでいい?」

「カルピスぶどう味をロックで。お水はミネラルウォーター、比率は原液と水1:3でお願いするのです」

「おっけーホットコーヒーね」

「苦いの嫌ぁ! すみません調子乗りました!」

 

 奇跡的に冷蔵庫に存在した普通のカルピスを淹れてやると、田中はへにゃっと笑った。

 

 ソファに隣り合って座り、流しっぱなしの映画を見ながら口を開く。

 

「で、ほんとは何しにきたの?」

「え、言いましたよね? 顔が見たくなったのです」

「……まじでそんだけ?」

 

 こくこく頷く田中を見て、千束は思い出した。

 

 田中はこういうやつだ。人が不安を感じたり、何か抱え込んでいるとき、なぜかそれを嗅ぎつけ近くに寄ってきて、寄り添おうとする習性がある。ルームメイトだった頃から変わっていない。

 

「変わんないな、田中は」

「そーですか?」

「そうだよ。十年前からずっと使命のためにがんばってる。なんだっけ、日の本を平和にするってやつ」

「是。秘密結社を倒し、日の本に真の太平と安寧をもたらす。もって田中の背負う死者に報いる」

「うおう」

 

 急に思想が滲んできて千束は引く。

 

 しかし田中のこういうところが、今は羨ましい。自分の使命を疑わず、どんなときでも全力疾走するところが。

 

『アランチルドレンには役割がある』

『お前の使命は何だ』

『何の才能があるんですか』

 

 千束の頭の中をぐるぐる回る言葉。これらにも田中なら即答できるんだろう。

 

 そう思うと自然に、心のもやもやした部分がこぼれ出た。

 

「すごいな、田中は。私には使命も役割も、自分の才能も分かんなくってさ。そんで今、らしくもなくクヨクヨしてるわけなんだけども……あーあ、何言ってんだろな私は」

 

 吐き慣れていない愚痴は、実にとりとめもない。何を言いたいのか千束は自分でも分からない。ただぽろぽろと口が動いただけで、返事を期待したわけでもなかった。

 

 が、反応は劇的だった。

 

 突如、手を強く掴まれる。田中は千束の手を両手で握りしめ、身を乗り出していた。ブラウンの瞳がすぐそこにあり、熱い視線に千束はたじろぐ。

 

「ちょーいちょいちょい、近い近い」

「何者も空の青きを否むこと能わず」

「……なんて?」

 

 何が田中の琴線に触れたのか、スイッチが入っていた。

 

 えげつない言葉の濁流が千束の脳に押し寄せる。

 

「空の青きが如き自明の理を否むは千束先輩といえど不可能である。使命も才能も役割も分からない? 否、貴女は貴女である限りそれらをすべて知悉し、十全に体現している。なぜなら錦木千束の使命と才能と役割は、錦木千束であるからだ。したがって貴女はこの世に生まれたそのときから今に至るまで、使命と才能と役割を果たしていない瞬間は刹那としてないのだ。貴女は存在するだけで世界を一歩太平に近づけ、呼吸一つで闇を払い、一声で人心を癒やす。貴女の優しさと前向きさとひたむきさと純真さと可憐さと綺麗さと率直さと健気さと高潔さと清純さ、思いやりと慈しみ、一所懸命で純粋無垢で天真爛漫で豪放磊落で自由奔放な振る舞いに救われた者たちがどれだけいるか、考えたことはあるだろうか? いくつの曇った心が貴女の太陽よりも眩しい笑顔に照らされ、生きる喜びを思い出したか考えたことはあるだろうか? たとえば井ノ上たきな。彼女は同志を救うための勇気ある判断を命令違反と処断され、居場所を追放された。世界を呪い自刃に果てるほどの絶望と悲哀に苛まれたことは想像に難くない。ともすれば憎悪を募らせた心を結社に侵され、罪人に堕ちていても不思議ではなかった。しかし今の彼女は折につけ幸せに笑み、日々の悲喜こもごもを噛み締め、生を謳歌している。当人の強さもあったろう。だが田中は確信している。貴女の表裏のない純真な好意が、温かな慈しみが、彼女の心を導いたのだと。他でもない田中もそうだった、ミカ先生とて同じくだろう。細かに数え上げればきりがないほどの幸福を貴女は人々に与えていて、それは確かに日の本を太平と安寧へ近づけている。なぜか? 人の世を形作るものは大仰な思想や統治の仕組みではなく、畢竟、一人一人の心であるからだ。錦木千束は、錦木千束として思いのままに生きる。ただそれのみで真の太平を引き寄せる。死を振りまくことでしか貢献できぬ人非人(にんぴにん)の田中とは比較にさえならぬ、世界で唯一の尊い才能にして、役割にして、使命。それが錦木千束なのだ。貴女がかの恩人に憧れ、人を助ける救世主たらんとしていることは承知しているが、然様に憧憬を叶えんとするひたむきな貴女の生き様こそが、救世である。自然体のままで世を救い、太平に献身するその有様は神がかりという他なく、早くも錦木千束を見出したアランアダムスの慧眼には脱帽を禁じ得ない。貴女が生まれ、このように幸せに息づいていることは宇宙創成以来の奇跡であり偉業であるといってもまったく過言ではないのだ。この田中が天地神明に誓って、重ねて断言する。錦木千束の才能、役割、使命、それは錦木千束である。貴女は貴女らしく思いのままに過ごすことで、救世を成している。これは空の青さよりも明々白々な、何人(なんぴと)たりとも否定し得ぬ事実である。ここまでは分かるだろうか?」

 

 千束は俯いて震えていた。田中を直視できない。顔に血がどんどん集まって熱くなっていくのが分かる。

 

 思想が強い。強すぎる直球の千束全肯定思想が脳みそへ怒涛のように押し寄せて、モヤモヤもクヨクヨもまとめてふっ飛ばしてしまった。

 

「えっえっ、千束先輩? 耳真っ赤ですが、大丈夫です? 熱?」

「田中ァ!」

「はいっ!?」

「こっち見んなあっち向け!」

 

 当惑した田中が、ゆっくりと背を向けると、千束はその小さな背中に飛びついた。

 

「千束先輩?」

「こんのっ、田中のくせに生意気言いやがってよぉ。尻揉むぞ?」

「だ、だって千束先輩が変なこと言うから」

 

 田中には大したことを言ったつもりはないのだろう。千束が当たり前のことを分からないというから、当たり前の理屈を説明した。その程度に思っている。

 

「ありがとう、田中」

「はあ」

 

 嫌いになれない。思想が強すぎてたまに何を言ってるのか分からないし、ついていけないときもある。それでもかわいい後輩だと思わざるを得ないのは、田中のこういうところを知っているからだ。良くも悪くもまっすぐで常にエンジン全開、アクセルベタ踏みの思考回路。たまに振り落とされても嫌いにはなれない。

 

 本当に生意気で困った後輩である。

 

 ようやく顔の熱さが落ち着いてきた頃、千束はからかい混じりに言った。

 

「田中。おっぱい触る?」

「触ります」

「おっほ、食い気味。思春期の男子かお前は」

 

 今はとても気分がいい。

 

 背中から回した手を解いて向かい合い、好きなだけ触れ、と胸を突き出す。

 

 ふに、と。田中の指が控えめに触れて離れる。

 

「この田中、もはや一片の悔いもなく……」

「ヘタレか! いいからもっと触るんだよほらほら!」

「みゅ」

 

 田中の頭を力ずくで胸に押し付ける。変な鳴き声とともに田中は体を強く震わせ、それきり糸が切れたように動かなくなる。

 

 心配になって体を離すと、田中は目の焦点が合っていない。恍惚とした表情でここではないどこかを見ているようだ。

 

「そうか、そうだったのか……日の本を太平に導く唯一の道筋……人とは、世界の歪みとは……」

「田中ァ! 人の乳で悟りを開くな、戻ってこーい!」

 

 体を前後に揺すっていると、遠い彼方に向けられた目に少しずつ正気が戻ってくる。

 

 かと思うと唐突に、田中はむっとした顔をする。

 

「先輩! 女の子なんですから、もっと自分の体を大切に! 安売りはダメ!」

「お、おお? もしかして乳で常識悟った感じ?」

「どーゆー意味ですか。田中は元々常識人です」

「嘘つけ」

 

 こうしてぎゃーぎゃー言い合いながら夜が更けていく。すぐに正気に戻ったこともあり、千束は田中の悟りを深刻には考えない。まさか乳ごときで思考を宇宙に飛ばしたとは想像だにしなかった。

 

 午前三時頃、寝落ちした田中にタオルケットをかけながら、千束はぽつりと呟く。

 

「ニンピニンなんかじゃないよ、君は」

 

 それから間もなく千束も寝落ちし、二人そろって朝の開店に遅刻するのだった。 



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5話

✕月○日

 結社を倒すだけではダメだ。それだけでは理想の世界は訪れない。

 

 田中は今日より本当の道を進む。おっぱいが見せてくれた、太平へ至る本当の道を。

 

 楠木司令に電話で相談してみたら、前向きに検討してくれるらしい。やった。

 

 あとは念のため、山岸先生ともよく話をしないと。

 

 

✕月○日

 結社の攻撃を受けている。

 

 田中にはよくわからないけど、原価とか円安とかを通してリコリコの収支を悪化させ、経営破綻に追い込もうとしているらしい。たきなが言ってた。

 

 こればっかりはどこかに殴りこんで解決はできない。今日から田中は可能な限り節制する。

 

 リコリコは対結社の最前線だけど、それだけじゃない。たくさんのお客さんを笑顔にする最高のお店なんだ。結社の侵略に負けるわけにはいかない。

 

 とりあえず田中の食費は全額節制とする。

 

 

✕月○日

 ごはんを狩りに出ようとしたら、先輩とたきなに止められた。で、なぜかミズキさんに叩かれた。殺す気か、って。理不尽。

 

 口惜しい。本当ならお風呂の水道光熱費も削りたいけど、接客業だから身だしなみには気を遣わなきゃいけない。食費さえ削れないならどうやって貢献すればいいんだろう。

 

 

✕月○日

 たきなに褒められた。いっぱい頭を撫でてもらえた。嬉しい。

 

 洗脳された人たちを説得するお仕事をした。そのとき、田中は弾代がゼロ円で使いやすいらしい。

 

 ただ、田中ばっかりずるい、と絡んでくる先輩はめんどくさかった。

 

 

✕月○日

 千束先輩が強すぎる。

 

 今更だけど、鉄砲の弾を避けるって人としてどうかと思う。無敵じゃんあんなの。

 

 先輩が敵陣につっこむと、強そうな男の人たちがばったばった倒れていく。見ていて気持ちよかった。

 

 でも、たきなに撫でられながらドヤ顔してきたのはいらっときた。

 

 田中も負けずにがんばる。

 

 

✕月○日

 無念だ。痛ましい死をモチーフにした田中の新メニューがボツにされた。がんばって考えたのに。

 

 採用されたのはたきな考案のホットチョコパフェだった。あれはあれで斬新な形なので、負けを認める。

 

 

✕月○日

 たきなのがバズった。超忙しい。クルミちゃんのお皿破壊フェスティバル。

 

 

✕月○日

 忙しきかな

 

 

✕月○日

 我々の勝利だ。

 

 喫茶リコリコは開店以来の大幅な黒字を達成。結社の攻撃を正面から跳ね返した。

 

 

✕月○日

 真島さんとバッタリ会った。

 

 結社の洗脳が解けたみたい。この前撃ったお詫びといって、ジュースをおごってくれた。おいしかった。

 

 千束先輩がちょっとしゅんとしてたけど、たきなと話して元気になってた。田中には真似できない。たきなはすごい。

 

 

✕月○日

 脳が痺れている。

 

 世界観が変わった。やはりおっぱいが教えてくれたことは正しい。

 

 結社は人だ。

 

 震えが止まらない。

 

 

後日追記

 昨日、結社が攻撃を仕掛けてきた。

 

 あとちょっとで千束先輩の心ぞうがビリビリされて壊れるところだった。ただでさえ先輩には時間があまりないのに、なんてひどいやつらだ。たまたま田中が山岸先生のとこに来ていたのは運が良かった。

 

 でも、田中は何しに来てたの? って怪しまれたのはヒヤッとした。

 

 バレたら千束先輩に嫌われる。巧みな話術でごまかしといた。

 

 先輩を狙った結社は悪だ。しかし間違いなく人である。

 

 世界観が変わっても、田中の使命は変わらない。

 

 計画を急がねば。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 残暑が過ぎ、そこかしこでセミに代わってトンボが飛んでいる秋口。

 

 喫茶リコリコは再び経営の危機を迎えていた。

 

「このままでは……」

 

 奥の座敷に集まったリコリコメンバーが、クルミのタブレットに注目している。表示されているのはリコリコの経済を示したグラフで、収支を表す折れ線は損益分岐点を悠々とくぐり抜け、鮮烈な赤に輝いている。タブレットを操作していたたきなが眉をひそめ、その心情をクルミが代弁した。

 

「赤字だな」

「依頼で得られる報酬を合算してもこれです。弾薬や移動にかかる経費はどうしてたんですか?」

「DAからの支援金があんのよ。こいつらのリコリス活動費って名目で」

 

 ミズキいわくのこいつら。つまりファーストリコリスの千束と、ついでに田中へたきなは目をやる。また何かろくでもないことを考えているのか、田中は深刻な表情でタブレットを睨みつけている。

 

「独立していると言いながらお金はDAに出してもらっていたと」

「楠木さんみたいなこと言う〜」

 

 千束のバツの悪そうな笑みを見て、たきなは奮起した。このままではリコリコが潰れてしまう。私がなんとかせねばと。

 

「分かりました。以後私が、リコリコの経理をします! まず田中!」

「……えっ、はい?」

「私たちは攻撃を受けています。結社が原料の市場価格や景気を操作することで、私たちを狙い撃ちにしているんです」

「な、なんと! 田中知ってる、兵糧攻めとかそーゆーやつ!」

「お、おいおい」

 

 クルミが止めに入ろうとするのを一睨みで黙らせ、たきなは続けた。

 

「私たちは全力でこれに立ち向かいます。協力してくれますよね?」

「無論です! 田中にできることなら何でもやるのです!」

「よし」

 

 うわぁ、と千束たちがドン引きしているがたきなは構わない。下手に思想を飛躍させて突飛な行動に出る前に、その方向性を誘導するのが扱い方としては合理的なのだ。厳しい収支の改善のために嘘も方便と割り切って、たきなは田中を味方につけた。

 

 こうしてたきな主導のもと、リコリコの経済改革が始まる。

 

「田中。冷蔵庫はすぐに閉めて。洗い物はなるべくまとめて。水道の出しっぱなしは厳禁です」

「りょーかいです! 田中も可能な限り節制に努めるのです!」

 

 まずは簡単かつ細やかな節約から。神経質なまでの指示にも田中は素直に従い、無駄な浪費を一つずつ潰していった。

 

「完全に飼い慣らされとる……」

「千束、人聞きの悪いことを言わないでください。田中は協力してくれてるんです」

 

 その忠犬のような働きぶりに千束が眉をひそめているが、たきなにそんなつもりはない。言い聞かせて力を貸してもらっているだけだ。

 

 しかしたきなは一つ忘れていたことがあった。

 

 素直で従順でも田中は田中であり、強すぎる思想が常に行動を歪めている奇人なのだ。田中が節約について「何でもする」と言えば、田中の基準においての何でもするを意味する。

 

 それを思い知ったのは経済改革翌日の昼下がり、まかないの時間である。

 

「そろそろ良い時間ですね」

「そうだな。今日の当番は田中だったか」

「田中ー、ごはーん!」

「はいはーい」

 

 千束に呼ばれ、厨房から今日のまかない当番、田中がやってくる。両手にお盆を載せており、その上では五つのどんぶりが湯気を上げている。

 

 どんぶりの中身はきつねうどんだった。三角のおあげとたっぷり盛られた薬味のネギで見た目もいい。そういえば期限の近いうどん玉があったな、とたきなは思い出す。

 

 その日の当番によって個性が出るまかないだが、田中はとにかく普通だ。ときどきの冷蔵庫の中身に合わせて無難かつ経済的な品を出す。かつてまかないに迷走したたきなとしては複雑な気分である。

 

 ミズキと、中二階でダラけていたクルミも降りてきて、どんぶりと箸を受け取っていく。

 

「おー、うまそうだな」

「いただきまーす!」

「お好みで天かすととろろ昆布もありますよ」

「田中、どこへ行く?」

 

 リコリコにうどんを啜る音が響く中、田中は天かすと昆布の袋をカウンターへ置いてから、外へ出ていこうとしている。なぜかリコリコの制服から私服のパーカーに着替えていた。

 

 ミカの呼び止めに振り返ると、田中は胸を張る。

 

「田中には元手ゼロのごはんのアテがあるので。これからはまかないも朝も夜も田中の分はけっこう。浮いた食費をお店に使ってほしいのです」

 

 千束がうどんを啜りながら、たきなにジト目を送った。ほら言わんこっちゃない、と言わんばかりだ。

 

「何? そういえば朝も抜いていたが……まさか炊き出しか? やめなさい、アレは本当に困った人が頼るものだ」

「もちろんです」

 

 ミカと千束、たきなが顔を見合わせる。田中がホームレスだった頃に頼っていた困窮者向けの炊き出しにたかるつもりかと思えば、そうではないらしい。だとすると何を食べに出るのだろうか。

 

 元手ゼロの食事があるなら確かに節制の役に立つ。参考になれば、とたきなは軽い気持ちで聞いてみる。

 

「では何を食べに行くんです?」

「食べにというか、狩りに」

「……はい?」

「この時期は、トンボがたくさん飛んでいるのです」

 

 店の空気が凍った。ミカ、千束、たきなは言葉の意味を咀嚼するのに苦戦している。トンボ、狩り、ごはん。

 

 その沈黙を了承と受け取ったのか、田中は悠々と店を出ていった。

 

 数秒後、ようやく意味を理解したたきなたちは一斉にうどんを吹き出す。

 

「ぶっふぉ!? けほっ、た、田中ァ!」

「うひゃ!?」

 

 店を飛び出し、田中の背中に千束が組み付く。羽交い締めにするとたきながすかさず田中の足を持ち上げ、店内へ収容した。吹き出した拍子につゆが鼻に逆流し、千束とたきなは涙目だ。

 

「がはっ、ぐえっ、うぇっほ……」

「しっかりしろミズキ!」

「こんなことで死なれても泣くに泣けんぞ!」

 

 ミズキは変なところに入ったのか死にそうなほどむせていて、クルミとミカが必死で介抱していた。

 

 座敷に正座させられた田中は何が何だか分からないというようにキョロキョロしている。首から下げたUSBを握って上目遣い。

 

「な、なぜに……?」

「田中ァ、貴様……私らの勘違いだよな? 何しようとしてたって?」

「だ、だからトンボを狩りに。美味しくないけどお腹はふくれます」

「ア・ホ・か!」

「えっえっ、でもでも野草だけじゃ栄養バランスが……」

「そーゆー問題じゃありません常識で考えてください」

「常識で? あっ、もちろん誰にも見られないように狩るのです。当番はちゃんとしますし。あと、田中のお給料は全額カットでお願いします。節制のために何でもしますから!」

「っスゥー……」

 

 おいこれどうすんの? と言いたげな視線が千束から飛んできて、たきなは頭を抱えた。確かに協力してほしいとは言ったがここまでやれとは求めてない。

 

 たきなはこの後、クルミのタブレットで図示しながら田中にかかる食費や給料が支出全体で見ればいかに微々たるものであるか、そこを無理に節制することで生じる健康被害および福利厚生リスクなどを長々と説明し、どうにか田中の超協力姿勢を矯正することに成功した。

 

「なるほど、そういうことならりょーかいです」

「なんでそこまで積極的なんですか……」

「リコリコは結社に抗う希望の刃。これを失うは世界の損失。断固阻止」

「ドンマイ、たきな」

 

 苦笑する千束に肩を叩かれ、たきなは崩れ落ちた。よく考えればセルフで飛躍する田中を外から焚き付ければ、暴走するのは明らかだ。しかも本人に一切悪気はないのだからタチが悪い。

 

 危険物につき取り扱い注意、とたきなは改めて肝に銘じた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 喫茶リコリコは店の経営、民間の依頼、そしてDAが対処しない規模の裏の仕事の三つで収入を得ている。田中にはすでに店と民間の仕事を割り振っていたが、この機に裏の仕事も回すことになった。無論、暴走を止めるため千束かたきなとペアを組んでだ。

 

 初回は千束とたきなの働きを見学させる。

 

 場所は寂れた廃ビル、目的は海外の麻薬組織の末端員の無力化だ。角に隠れて目標を確認した千束が、飛び出して引き金を引く。

 

「フゥー!」

「ぐああっ!」

「おーっ、千束先輩カッコイイ!」

「そうだろそうだろー!」 

 

 発射された非殺傷弾は標的の男たちを打ち据え、ついでに後ろの窓ガラスも豪快に破砕した。壁には弾痕が刻まれ、事件の痕跡が克明に残される。たきなは小さくため息をついた。

 

「田中。このように現場を壊すと、クリーナーを使う必要が生じます。そうなると膨大なお金が飛ぶ。どうすればいいか分かりますか?」

「ええと、クリーナーさんを使わないように、できるだけキレイに仕事をする、ですか?」

「そうです。こんなふうにやるのはダメですよ」

「ちょっとー! 人をダメな例扱いすんなしー!」

 

 同日、次の任務。人身売買組織の幹部の無力化と捕縛。

 

 敵の護衛と撃ち合いになり、千束は持ち前の回避能力にものを言わせて全避けしつつ、豪快に非殺傷弾をぶっ放している。非殺傷性のために精度を犠牲にした弾が現場に弾痕を刻みまくっており、遮蔽物に隠れた田中がその様子を指差し、いいの? と言いたげにたきなへ視線を送る。

 

 いいわけがない。たきなはボララップ──非殺傷ワイヤー射出装置で千束を拘束し、ついでにターゲットも拘束した。

 

 二度の見学を終え、ついに田中の出番がやってくる。

 

 同日夕刻、この日最後の任務。国内のテロリスト向けに武器を流している銃商人の捕縛。

 

 商人のアジトは港湾の廃倉庫で、前情報によるとターゲットは商人一人だけ。田中の初陣にちょうどいいとたきなは見ていたが、現場に着くと事情が違った。

 

『護衛を雇ったようだ。依頼の情報が漏れたのかもしれないな』

 

 インカムからクルミのうんざりした声が響く。こういった裏の仕事では稀にあることだ。

 

 たきな、千束、田中の三人は二階のキャットウォークに身を隠しつつ、現場の状況を俯瞰する。

 

 寂れた倉庫には木箱やパレットの山がいくつも放棄され、その合間を武装した屈強な男たちが巡回している。見える範囲で十数人。倉庫の中央には廃材を積み上げた簡易のバリケードが築かれて、その前にずんぐりした二メートルはあろう巨漢が巍然と佇んでいる。ターゲットがいるとすればあのバリケードの向こうだろう。

 

 その状況にたきなは歯噛みする。敵の数はまだしも、装備が厄介だ。田中の初陣などと言ってる場合では──

 

「田中、どう?」

「五分あれば」

「よしっ、じゃあレッツゴー!」

「はぁい」

「えっ、ちょっ、二人とも!?」

 

 たきなが止める暇もなく。

 

 千束との短いやり取りを経て、田中はキャットウォークから一階へ飛び降りた。猫のように音もなく着地すると、滑らかな足取りで遮蔽物に身を隠しながら、巡回中の男たちへ接敵していく。

 

 一人目。宙に舞い上がり、くるくると回転しながら踵を男のコメカミへめり込ませる。短い悲鳴を上げて男は倒れた。

 

 二人目、背後から接近し背中を抉るような肘打ち。エビ反りになった男は、泡を吹いて倒れる。

 

 三人目と四人目は、まず蹴りで一人を昏倒、もう一人の金的を潰し、かがんだところへ喉への蹴り上げ。ダメ押しに背中へ膝打ち。

 

 以下、淡々と不意打ちで数を減らしていく。取り回しのいい散弾銃や短機関銃を装備した男たちは、引き金を引く暇を一切与えられず、流れ作業のように処理されていった。

 

 しかし最後の一人──バリケード前の巨漢だけは相手が悪い。

 

 分厚いベストとやけに着ぶくれした迷彩服、フルフェイスヘルメットにネックガード、関節部にはカウル状のプロテクター。これでもかと防弾、防刃装備を身に着けている。田中のマチェットが通じるとは思えない。

 

 さらに武器も強力だ。独特の直線的なフォルムとドラムマガジンを有するそれは、近距離での火力に特化したフルオートの散弾銃。近接主体の田中との相性は最悪だ。

 

 田中は論外、千束の非殺傷弾やたきなの9ミリパラベラムも通じないだろう。一度撤退して装備を整えなければ。

 

「千束……!」

「大丈夫だって。ほら見て?」

 

 たきなの焦りとは裏腹に、階下の戦場は動いていた。

 

 バリケードに直近の木箱の陰から、田中が何かを投げる。きん、と静かな倉庫内に金属音。9ミリの実包の音だ、敵の銃から抜いていたのだろう。

 

 異常に感づき警戒していたのか、巨漢は弾かれたように散弾銃を向ける。

 

 瞬間、田中が飛び出した。

 

 逆方向へ照準していた巨漢は、矢のように駆ける田中に反応が遅れる。二秒弱で巨漢の懐へ。散弾銃を構える腕の下をくぐり抜けながら、田中は体全体を捻るように回転させ、一本のマチェットを切り上げる。

 

 巨漢の右前腕が、血飛沫を上げて宙を飛んだ。

 

「は?」

 

 銃を取り落とし、絶叫する男。

 

 田中はマチェットを血振りしてから袖口にしまう。散弾銃を拾い上げ、膝立ちになった男の背中へ至近距離で発砲した。前のめりに吹っ飛び、倒れた背中へもう一発接射。巨漢は沈黙した。

 

 銃を捨てると、バリケードの中へ慎重な様子で入っていく。男の絶叫が響き、ぶつりと不自然に途切れる。

 

 程なくぐったりした男の足を引きずって田中が姿を現し、たきなたちへ手を振った。作戦完了の合図だ。

 

 階下へ降りたたきなと千束は、白目をむいて泡を吹く男たちを拘束し一箇所へ集める。散弾銃を防弾ベストに受けた巨漢はきちんと生存しており、止血の後、ターゲットと他の男たちもろとも依頼人へ引き渡した。

 

 帰り道、ミズキの車。助手席に千束、後部座席にたきなと田中が座っている。

 

 非現実的な光景に混乱していたたきなは、やっと我に返った。

 

「いや、おかしくないですか? 田中、変ですよ」

「お、たきながやっと喋った。うんうん、たしかに銃使ったのはらしくなかったねぇ」

「どうせ死なねーならあの方がはえーでしょ。田中は死を忘れない。痛苦に歪む顔を目に、臓腑から漏れ出す汁と糞便の腐臭を鼻に、溢れ出る血潮の苦味を舌に、呪詛と悪罵と断末魔を耳に、肉を裂き骨を断ち、命の灯火を握りつぶす感触をこの手に刻み、死にゆく誰かがいたことを生涯忘れないために刃を──」

「それはもう知ってます」

「あっ、はい」

 

 田中は殺したことを記憶に刻むために近接武器を振るう。だから死人が出ない非殺傷任務ならこだわりはないのだろう。とっくに知っていることを長々と語られたくはないので容赦なく切った。

 

 たきなが受け入れられないのはそこではない。

 

「防刃繊維は普通、切れないでしょう」

 

 田中は最後の一人を無力化するにあたり、敵の腕を切断した。止血処置のついでに見てみると、間違いなく分厚い防刃繊維とプロテクターもろとも断ち切っていた。どう考えてもありえないことだ。

 

 問われた田中は、きょとんとしている。

 

「たきな、もしかして見てなかったのです?」

「何をですか?」

「ほら、こんなふうに」

 

 マチェット、太郎か次郎のどちらか一本を取り出して、両手で握ると、

 

「両手持ち!」

 

 これで分かるよね、とでも言うように笑った。

 

「……?」

 

 両手持ちだからどうした。そもそも防弾・防刃に広く使われるアラミド繊維だけでも同質量の鋼鉄線の七倍の強度があって、現代では他にもスペクトラ繊維やガラス、金属板などのより堅牢な特殊素材が複雑な製法で加工され、最新の装備は機関銃の弾さえ通さない頑強さがあるので、刃物が通るなど万が一にもありえないし、そういった繊維やプロテクターもろとも成人男性の腕を両断するなど現実的に考えておかしいわけで──

 

「たきな、弾切るやつのやることを真面目に考えたって仕方ないよ?」

「……なるほど」

 

 たきなは思考を放棄した。

 

「そんなことよりたきな、たきな! 田中の仕事はどーでしたか? 全員非殺傷で痕跡はあんまりなし! 問題ねーでしょ?」

「それは、はい」

 

 敵に一発も撃たせていないため弾痕はゼロ。最後に田中が使った散弾銃の薬莢や、切断した腕の血痕程度なら依頼人が負担してくれるらしい。想定外の事態にもかかわらず損害と無駄な支出は皆無。文句のつけようがなかった。

 

 素直に完璧でした、と称賛するつもりだった。

 

 しかし田中がこちらに身を乗り出して、何かを期待するような上目遣いをしているので、しぜんにその頭へ手が伸びた。

 

「さすが、えらいですね、田中」

「……うへ」

 

 へにゃ、と笑う田中。

 

 一方、千束は不満顔だ。両手を胸の前でぶんぶん振っている。

 

「田中ばっかりズールーいー! たきな、私もえらいよ、いい子だよ!」

「無駄弾撃ちまくる人はえらくないです」

「んいぃーっ! 次! 次はちゃんとやるから!」

 

 宣言通り、次の日の千束は非常によくやった。

 

 命中精度が悪いなら近づけばいい。回避能力のゴリ押しによって敵の弾幕をかいくぐり、至近距離で非殺傷弾を打ち込む。それも今までのように「大体でいいのよ、大体で」と言っていた大雑把な照準ではなく、相手のみぞおち、金的、肝臓など、急所へ的確に打ち込んで一人一射で無力化し、弾薬費を最小限に抑えた。

 

「撃たせ過ぎです」

「ぐぬぬ!」

 

 しかし痕跡を抑えるには、敵に撃たせてもいけないのだ。

 

 次の任務で千束は完全に本気を出した。クルミに現場の見取り図をスマホへ送信してもらい、敵の裏を取って近接格闘のみで無力化。発砲は敵のも含めてゼロ、痕跡も皆無の完全ステルス。非の打ち所のない仕事なので、ドヤ顔で駆け寄ってくる千束をたきなは撫でるほかなかった。

 

「ふっふーん! 見たか田中ァ!」

「ぐぬぬ」

 

 ここに正のループが成立した。

 

 田中が仕事を完遂したきなに褒められる。自分も褒められたい千束が本気を出す。褒められる千束を羨み、田中がまた完璧な仕事をする。たきなは駆け寄ってくる二人のファーストリコリスの頭を撫でるだけで、裏の仕事の収支が劇的に改善していくのだ。

 

「なんですかこの人たち……」

 

 戦術と呼ぶのも怪しい、非常識な個体戦力によるゴリ押しで敵を圧倒していく二人に対し、たきなは感心とドン引き半々の心持ちだった。リコリスの頂点であるファーストリコリスは全員化け物じみた力を持つとされるが、それにしてもこの二人は度が過ぎているように思う。

 

 とはいえ、たきなも二人に任せきりではない。

 

 ある日、都内某所のバーから依頼があった。店に仕掛けられた時限爆弾を解体してほしいとのことだが、警察ではなくリコリコに頼るあたり何か裏がある。クルミに確認を頼むと案の定、店のケツモチをしている中華マフィア同士の抗争がことの発端らしい。

 

 それでも高額の報酬を目当てに現場のバーへ向かうと、薄暗い店内からバーテンダーと中華風の男たちがこちらを睨みつけてきた。床には分かりやすくぽつんと、いかにも爆弾らしい物体が放置されている。

 

「報酬は用意していますか」

 

 バーテンの男が分厚い封筒をこれみよがしに掲げた。報酬があるなら言うことはなく、たきなは仕事に取り掛かる。

 

「では始めます」

「たきながんばー」

「オペみてーです」

 

 二人に見守られ、たきなは手早く爆弾を解体していった。

 

 優秀なリコリスのたきなにとってこの程度造作もない。念の為工程を解体直前で止め、先に報酬の交渉を始める。

 

 想定通り、依頼人たちはごね始めた。

 

「さあ、終わったら帰るアル」

「報酬がまだですが」

「ほれほれぇ!」

 

 迫る千束に対し、中華風の男二人組が発砲。しかし千束は巧みな近接格闘によって即座に銃を奪い、余裕綽々に返してみせる。

 

 激高した男が弾倉の中身を撃ち尽くすが、千束に当たるわけがない。店が壊れてもあっちの落ち度なので気にしない。

 

「ほあちゃー!」

「ああ、かわいそう」

 

 千束の威嚇に合わせ、それまで空気だった田中が前へ出た。マチェットを一本抜刀し、ゆらゆらと男たちへ近づいていく。

 

「仕事にお金を払わないのは悪いこと。鉄砲を撃つのも悪いこと。きっと結社の洗脳を受けているに違いない。二度と引き金を引けないように、指を落としてあげるのです。それとも手首、腕、足、目、舌、鼻? 全部が良ければそれも結構。痛みで洗脳が解けるかもしれねーです」

「うおう」

 

 千束が後退って道を開けた。想定外だ。田中が若干暴走している。

 

 千束だけでなく、中華風の男たちやバーテンも田中が一歩進むごとに店の奥へ引いていく。たきなからは見えないが、おそらくスイッチが入ったときのあの形相をしているだろう。

 

 中華風の男が、千束に取り上げられた銃を拾い上げる。あ、と思ったときには発砲していた。

 

 銃声、田中の腕がブレるたびに激しく火花が散る。切断された銃弾がカウンター奥のボトルをいくつも破壊した。

 

 弾倉が空になりスライドがロックされても、男は壊れたように引き金を引き続けていた。顔は恐慌で歪んでいる。

 

 田中が無言でもう一振りマチェットを抜く。最近判明したことだが、マチェットを二本抜くのは殺傷のスイッチだ。そのまま身を低く沈めて戦闘態勢をとる。

 

「哀れなる罪人に安息のあらんことを。痛ましかれかし、惨かれ──わっ、何するのです先輩!?」

「落ち着けぇ! ほんっと貴様は忘れたころに暴走するよなぁ!」

 

 千束が後ろから田中に組み付いた。

 

「でもでも先輩、この人たち悪そうな匂いするのです! 生かしておいたら、いずれDAに存在を消されてしまいます! 彼らの権利と尊厳を守らなければならない。衷心からの哀悼を、痛ましく惨たらしい忘れ得ぬ死の弔いを、この田中が全力で捧げるのだ。だから先輩!」

「やかましい! 弔いって言えば何でも許されると思うなよ!? たきな、今のうちに報酬!」

「……いえ、田中にも一理あります」

「は?」

 

 田中の言う悪そうな匂いというのはまったく理解できないが、この店は中華マフィアにシノギを入れる、いわば反社の資金源だ。それに加え仕事の対価さえ払わないのは紛れもない黒、犯罪者に他ならない。殺人が許可されているリコリスとして、犯罪者は即射殺せねばならない。

 

 たきなは納得し、愛銃のセーフティを解除した。

 

「田中、やりましょう」

「御意」

「ちょーいちょいちょいちょぉーい!? たきなさぁん!?」

「千束は早く田中を放してください」

「クリーナー代! 今節約してんでしょー!?」

 

 たきなはハッとした。今はリコリコの存続のため少しでも支出を減らす必要がある。田中と共闘すれば、バーテンと中華マフィアの男たちの死体処理でクリーナーにいくら取られるか。それに田中の凄惨な手法では割増料金は確実。

 

 銃を収め、こほん、と咳払いするたきな。

 

「報酬を払わないつもりなら、この田中を解き放つことになりますが」

「払う、払うよっ!」

 

 効果は劇的だった。バーテンの男が土下座する勢いで頭を下げながら封筒を差し出してくる。

 

 受け取ったたきなは中身を軽く検め、さりげなく爆弾解体の最終工程をさくっと済ませておく。もみくちゃになっている千束と田中を引っ張って、そそくさと退店していった。

 

 帰り際、千束がげっそりした顔で肩を落とす。

 

「こういうとこが似てるんだよぉー」

「似てませんよ。支払いを拒否する反社なんて、リコリスなら射殺を考えるのが普通です。ですよね田中?」

「田中はただ、親切で言っただけですよ?」

「あー、うん、そだね。やべーなこいつら……」

「何か言ったのです?」

「なんにも! さあ早く帰ろう!」

 

 千束はたきなの背をばしばし叩き、田中の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。乱された髪も気にせず田中はへにゃっと笑っている。

 

 たきなは何か不当な評価を受けたような釈然としない気持ちを抱えつつ、リコリコの経営に思考を戻した。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 喫茶リコリコは空前のブームを迎えた。

 

「田中ァ!」

「はい先輩! お待たせしました、ご注文をおうかがいします」

「田中っ!」

「りょーかい! 三点で2,600円になります」

「田中ー」

「ゲームは後! クルミちゃんも手伝って!」

 

 一階も二階も満席の店内を、千束とたきな、田中が忙しなく行き交う。厨房とカウンター内ではミズキとミカがひっきりなしのオーダーを必死でさばいている。田中は座敷から出てきたクルミにも増援を要請して、ホールの業務に戻る。ミズキから完成したスイーツを受け取って、座敷の客へ運んだ。

 

「ホットチョコパフェお待ちどうでーす!」

 

 客たちはパフェの威容に息を呑み、恐れ慄きながらスマホ撮影を開始する。その写真にSNSでいいねがつき、またリコリコの収入が増えるだろう。

 

 ブームの原因はたきな考案の新メニューである。元の人気メニューである錦木千束スペシャルエレガントパフェは千束の機嫌次第で原価が跳ね上がるため、それに代わるコスパの良い新メニュー開発が急務だった。

 

 田中の新メニュー、「痛ましいパフェ」はミカいわく保健所に見られたら即日営業停止な見た目として却下され、他方、たきなの「ホットチョコパフェ」は見事に新メニューの要件を満たした。提供を開始するや否やSNSでバズり、売上の最高記録を毎日更新している。

 

 喫茶店の売上、民間依頼、裏稼業。収入の三本柱を大きく強化することに成功し、リコリコの収支は黒字へ傾いた。

 

 何度も仕事をこなすうち、田中の信用も向上。民間依頼はほぼ一人で、裏の仕事も、クルミの事前チェックで暴走の危険のなさそうな依頼と確定した場合のみ田中一人で行かせてもいいことになった。

 

 十月末。ハロウィンが迫るこの時期は、普段の依頼に加え季節の催し関連の仕事が多く入る。たきなたちはそれぞれ分担して仕事をこなしていった。

 

 そうして順調に収益を上げていくと、余剰分を設備投資に回すことに。ミカは店の雰囲気向上のためレコードプレイヤーを、ミズキとたきなは業務効率のため食洗機、クルミは駄菓子、千束には手作り非殺傷弾の原料などが経費で購入された。

 

 もちろん田中にも権利はあった。収益改善に貢献したし、そもそもお金がかからない子なので、ちょっとは甘やかしてもいいかとたきなは考えて、

 

「田中、何かほしいものはないですか?」

 

 と聞いた。

 

 すると田中は、マチェットを丁寧に砥石で磨きながら、

 

「日の本の太平と安寧、そして死者への報い」

「そうですか。お金で買えるものがあれば言ってくださいね」

「承知」

 

 という感じで話が終わった。

 

 仕事用に他の近接装備など買っても田中には無駄でしかなく、手入れ道具は元から経費で出されている。余剰分はとりあえず非常時に備えプールしておくことになった。

 

 そんなこんなで忙しく過ごすうち、たきなのパフェブームが収束に向かい始める。ブームで得た新規顧客を定着させる戦略へシフトしようかというとき、たきなはついに気がついた。

 

 きっかけはクルミがPCから閲覧していた、SNSの書き込みである。例のパフェを笑顔で給仕するたきなの写真に対し、

 

『笑顔でうんこ持ってて草』

 

 たきなのホットチョコパフェは、言われてみれば排泄物だった。味は高評価だが、一度気づくともうダメだ。

 

 厨房で配膳を待つホットチョコパフェを前に、たきなはうなだれる。

 

「もう、このパフェやめます……」

「気づいたかー。まあ人気なんだからいいじゃん!」

「田中はすごくいい見た目と思うのですが」

「田中の感性で良いと言われても……」

「ミズキさん、たきながひでーんですけど!?」

「そらそうだろ」

 

 田中がぷんすこしていると、店の電話が鳴った。たきなが出る。相手は山岸で、どうやら千束が今日の健診に行ってないそうだ。千束に電話で確認してみても急用と言ってすぐに切られた。何か怪しい。

 

「あ、田中は配達に行かねば」

「私は千束の様子を見てきます」

 

 たきなと田中は店をミズキたちに任せ、それぞれの目的地へ向かった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「真島が家に来たぁ!?」

 

 数時間後、リコリコ店内にミズキの驚愕の声が響き渡る。千束はなんとも言えない顔で、たきなは苦々しげにうなずいた。

 

 千束が健診をすっぽかす理由となった急用とは、真島の来襲だったのだ。千束のセーフハウスに現れた真島に戦意は乏しかったようだが銃を持っていて、千束の手元には愛銃がなかった。千束に銃撃は効かないものの格闘戦のみで制圧するには相手が悪く、膠着状態に陥っていたらしい。

 

「殺ったか、たきな?」

「残念です、目の前にいたのに……」

 

 真島はリコリス襲撃や警察署襲撃の主犯だ。当然出会い頭にたきなもぶっ放したが、軽くいなされ逃亡を許してしまった。声に悔しさをにじませるたきな。

 

 千束はそれに取り合わず、どこか考え込むように首元のチャームへ目を落とした。

 

「あいつもこれ、持ってた」

 

 たきなたちは息をのむ。そのフクロウのチャームは、優れた才能を持つ子どもたちを支援するアラン機関の印であり、支援された証だ。凶悪犯の真島さえ支援されるものか、と騒然とする。

 

「どっかで拾ったんでしょー、吉さんがあんなやつを助けるわけない。ねえ先生?」

「ん、ああ、そうだな……」

 

 カウンター内で俯いていたミカはどこか歯切れが悪い。視線を宙に泳がせ、「ああ、そういえば」と話題を変える。

 

「田中のやつが随分と遅いな。何か聞いてないか?」

「あ、そうだ。いないじゃん」

「いつもならしれーっと会話に混ざってくるのにな」

「組長さんに配達に行ったんですよね? 何してるんでしょう」

 

 田中は日暮れ前に店を出た後、閉店時間を迎えた今まで帰ってきていない。外はもう真っ暗だ。

 

 真島の訪問に気を取られていたリコリコメンバーは、全員同時に嫌な予感を覚える。まさか発作的に思想が宇宙的な飛躍を遂げ、想像もつかない奇行に走っているのではと。

 

 連絡を取ろうにも、田中はちょっとした外出ではスマホを持ち歩かない。今回も置いて行っていた。

 

 本格的に心配になってきたそのとき、

 

「田中が戻りましたー。遅くなってすみません」

「田中ァ!」

「あ、千束先輩。健診行きました?」

 

 絶妙なタイミングで戻ってきた。行きはコーヒー豆入りの紙袋を抱えていたが、今はカルピスの缶を手にしている。

 

「いや、それどころじゃなかったんだわ。それより田中の方はどうしたの? 遅かったじゃん」

「真島さんとおしゃべりしてました」

「……は?」

 

 たきなは耳を疑った。何食わぬ顔ですごいことを言われた気がする。

 

「だから真島さんですって。延空木の近くでばったり会って、洗脳が解けたって言うから、おしゃべりしてたのです。仲間思いの良い人でした。これお詫びに、って奢ってもらいましたし」

「何やってんの田中!? いや真島もだけど!」

「敵にもらったものを飲むなんて……! 田中、ペッしなさい、ペッ!」

「変なの入ってたら分かりますよう」

 

 田中はカルピス缶を庇うように身を引いた。

 

 タブレット端末をいじりながら、クルミが笑う。

 

「ははっ、やるなぁ田中。確認が取れたぞ。延空木周辺のカメラを洗った。見てみろ」

 

 たきなたちがおそるおそる画面を覗くと、見覚えのある路地の自販機の横に、並んで立つ田中と真島の姿があった。画質も荒く音声までは拾えないようだが、ジュースを片手に並び立つ姿は敵同士の距離感とは思えない。

 

 クルミはくつくつ笑いながら、

 

「このまま仲良く大団円、なんてな」

「そんな都合の良いことあるわけないでしょう。まったく、田中? 相手に戦意がなくても、敵と談笑なんて非常識ですよ」

「はーい。あ、今千束先輩が目、逸らしたのです」

「ぎくっ」

「千束? もしかして千束まで……?」

「ちょ、ちょいちょい! 私まで巻き込まないでくれますぅー?」

 

 たきなはなんだか頭が痛くなってきた。

 

 とりあえず田中のフリーダムな動きはある程度仕方ないので、釘を差せるほうに差しておくことにする。

 

「千束。私からの電話は必ず三コール以内に出てください。出ない場合は危険と判断して次のワンギリですぐに向かう通知とします! 嫌ならすぐ出るように」

「お、おう。つまりどこにいても来てくれんの!?」

「それと他のセーフハウスに移ってくださいね。あと田中はスマホをちゃんと携帯してください普通に不便です」

「えーあそこ一番気に入ってんのにー」

「また遊びに行きますから。田中は聞いてますか?」

「カルピスおいしい」

「ほんとー!? 同棲!?」

 

 目をキラキラさせる千束の横で、田中はこくこく無心にカルピスを傾けている。たきなはむっとして缶を取り上げ、田中が「んあー!」と情けない声をあげた。

 

 その様子をクルミとミズキがニヤニヤして見守っている。

 

「二人同時に相手するとは……やるなあ、たきな」

「あんたほんとにセカンドかよ」

 

 取り急ぎ今日の健診は明日済ませることを千束に約束させ、たきなは仕事に戻る。

 

 そして翌日の健診で、たきなは知った。

 

 千束の余命が、もう長くないことを。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 がしゃん、とガラスの破砕音。それに何か柔らかなものが落下するような低い音が続いた。

 

「……?」

 

 山岸医院の玄関へ駆込もうとしていたたきなは怪訝に眉をひそめ、足を止める。数瞬を思考に費やし、音のした方向へ走る。

 

 たきなは千束の身を案じてここへ来た。昨日キャンセルされた健診へ今日行くはずだった千束だが、またも電話に出ない。真島襲来の件もあり、昨晩決めた取り決めの通り緊急事態と判断。取り急ぎ愛銃に初弾を装填しセーフティをかけた状態で、健診が行われる医院までやってきたのだ。

 

 あの破砕音は戦闘で生じたものではないか。真島や真島の一派がまた仕掛けてきたのではないか。焦燥に駆られ、たきなは医院の裏手へ回り込む。

 

「ぐ……なぜ……」

 

 はたしてそこにいたのは、苦悶の声を上げ窓を見上げる看護士の女性だった。体の片側はガラス片でズタズタに裂かれ、片方の腕があらぬ方向に曲がっている。交通事故に巻き込まれたような有様だが、服装と壊れた窓を見るに医院から落ちてきたようだ。

 

 たきなはあわよくば情報を得ようと、負傷した看護士へ近づいていく。

 

「大丈夫ですか? 何があったんですか?」

「ちっ……!」

「ちょっと、ケガを──」

 

 しかし看護士はたきなを見るなり舌打ちを漏らし、思いがけず機敏な動きで走り出す。困惑するうちに道の角を曲がり、姿が見えなくなった。

 

 訳が分からないが、考えるのは後だ。今は千束の安全確認が最優先と判断し、たきなは医院の表へ回り、中へ。

 

 千束の姿を求め一室ずつ見ていくと、すぐに異常な部屋が見つかった。出入り口の扉の取っ手と鍵の部分に、巨大な爪痕のような切断痕が斜めに走っている。

 

「千束っ! と、田中、山岸先生?」

「先生、先輩は何されたのです!」

「今診てるから待つのよ!」

 

 千束はその部屋で、手術着の前をはだけた状態で手術台に寝かされ、胸に電極のようなものを装着されていた。それを囲むように田中と医院の主、山岸が険しい顔で何かを言い合っている。部屋の窓は破壊されており、先程の看護士はこの部屋から落ちたものと思われる。

 

 三人へ近づいていくと、それに気づいた田中が涙目で縋ってくる。

 

「千束先輩が襲われました! 結社のエージェントにっ!」

「なっ」

 

 また妄想をこじらせて、とはたきなには思えなかった。

 

 田中のただならぬ剣幕と、目の前の千束の状態があるからだ。並みのテロリストならダース単位で制圧できるファーストの千束が、ぐったりと横たわって胸に電極を刺されている。その下に機械じかけの心臓が稼働していることを考えると、不吉な連想をせずにはいられない。

 

「誰か手を貸して!」

 

 山岸が声を上げると、スタッフが駆けつけ、指示を受けながら千束の体を担架に乗せて運んでいく。

 

 追おうとしたたきなと田中だが、山岸が制止した。それから口早に、千束が眠剤を注射され眠っていてじきに目覚めること、人工心臓の件は今から調べることを言い置いて、たきなと田中を待合室へ追いやった。

 

 待合室のベンチでそわそわしながら、たきなはリコリコへ連絡を入れる。千束が何者かに襲われ意識不明。すぐさまミズキが運転する車でミカとクルミが飛んできた。

 

「千束の容態は!?」

「分かりません。ですが心臓に何かされた可能性があります」

 

 顔を見せるなり声を荒げるミカに、たきなは感情を押し殺した声で答えた。ミカは真っ青になり、待合のベンチにどっかり腰を下ろす。険しい顔でクルミとミズキも腰をかけ、リコリコメンバー勢揃いで山岸の診察を待つ。

 

 重苦しい沈黙の中、クルミが苛立たしげにつま先をぱたつかせる音だけが響く。

 

 数時間にも思える時間が過ぎ、建物に西日が差し出した頃、ようやく山岸が待合室へ顔を出した。

 

「勢揃いね」

「千束は!?」

「大丈夫よ。心臓に細工された形跡はないわ。詳しく話すからついて来なさいよ」

 

 詰め寄るたきなとミカをなだめつつ、山岸は「こっち」と歩き出す。

 

 案内された先は病室だった。ベッドに千束が寝かされている。外傷はなく血色も良い。至って健康に見えた。ベッドサイドには電極とケーブルのはみ出たアタッシュケースのようなものが置かれている。

 

 たまらずベッドの傍へ、たきなとミカが駆け寄る。

 

「千束……!」

「だからすぐに目覚めるってよ。それより問題はこっち」

「これは?」

 

 山岸がアタッシュケースを指差すと、クルミが訝しげに電極ケーブルを見やる。

 

「千束を襲った女が残していったものよ。うちにあるのとよく似た人工心臓用の充電デバイス。だけどそれはリミッターが外されてる。使えば急激な高電圧による過充電で充電ができなくなるか、最悪破壊されていたわ」

 

 絶句するたきなたちへ、山岸は冷静に続けた。最近になって派遣された新人の看護士が、山岸に断りなく千束の健診を行い、ビタミン剤の注射を装って眠剤を投入。千束に充電器を装着し、あわや心臓を壊す寸前だったと。

 

 つまり危ない橋を渡ったものの、千束は無事らしい。たきなたちの張り詰めた表情が徐々に緩んでいく。

 

「山岸先生が止めてくれたんですね」

「違うわよ。ちょっとそこのヒーロー、何をさっきから黙ってんのよ」

「……」

「田中?」

 

 その場の全員の視線が、一点に集中した。

 

 待合室でもこの場でも一言も発さず、焦点の合わない目で虚空を見つめる茶髪おさげの少女。田中である。

 

「急に『巨悪が匂い立つ』とか言ってよ、今日は使わない予定の部屋に飛んでったのよ。そしたら部屋の鍵ぶった切って、中にいた女を外に蹴り飛ばしてよ。その子がいなきゃ危なかったかもね」

「マジかよ、お手柄だな田中ァ!」

「お前は千束を助けたんだ。えらいぞ田中」

「……」

 

 ミズキに背中をバシバシされ、背伸びしたクルミに頭をナデナデされる田中。

 

 一方、たきなは忸怩たる思いだった。話を聞くに、あの走り去った看護士の女こそ千束を狙った犯人に間違いない。あの時点では引き金を引くに足る理由はなかったものの、せめて不審人物として捕えておけばと思わずにはいられない。

 

 とはいえ、田中は確かにお手柄だ。悔やむのは先送りにして、たきなも田中の頭に手を伸ばし──ふと気づいた。

 

「田中はここで何を? 今日は定休日でしたよね?」

「……」

「おーい、田中?」

 

 クルミが田中の顔の前で手を振る。ミズキが田中の尻を叩いた。

 

 何度かそうしていると、少しずつ田中の目に光が戻ってきた。

 

「ん……えっ? あ、はい。当然です。ただでさえ短い先輩の命を、もっと短くするなんて非道は許せるはずもなく──」

「田中っ!」

「えっえっ、み、ミカ先生?」

「ただでさえ短い命? どういうことですか?」

 

 ミカの怒声。しかしすでに遅かった。田中はまずいことを口走ったと遅れて気づいたのか、両手で口を抑え顔を青くしている。

 

 大きくため息をつき、頭痛をこらえるように眉間を抑えるミカ。田中の活躍を称える明るい雰囲気は秒で消え去り、通夜のごとく重たい空気が漂う。

 

 山岸とミカは幾度か視線を交わすと、どちらともなくうなずいて、ミカが口を開く。

 

「千束の人工心臓は長くは保たない。せいぜい成人まで……あと二年が限界だ」

 

 千束の余命を知ったたきなは、頭が真っ白になった。



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6話

◇月▼日

 たきなと千束先輩がぎこちない感じになった。

 

 だって知らないとは思わなかったもん。田中のせいだぞー、って先輩にめっちゃお尻揉まれた。ちぎれるかと思った。

 

 たきなだけじゃなくて、クルミちゃんも押し入れで心臓をめっちゃ検索してるみたい。ミズキさんやミカ先生も、ちょっと意識してる感じ。

 

 正直、田中はうれしい。

 

 千束先輩の命をこんなにもみんなが思ってることが。

 

 これでこそ、計画のやりがいもあるってものだ。

 

 

◇月▼日

 真島さん討伐大作戦に出ることになった。

 

 真島さんにはジュースの借りがある。いい人だし、できれば田中がちゃんとした弔いをしたい。

 

 あと、山岸先生を口説けそうにないから、楠木司令にはこの先苦労をかける。その分、働いて報いる。

 

 結社に益するのは業腹なので、今回だけ。

 

 

◇月▼日

 リコリコ総動員で、千束先輩健康長寿計画始動。

 

 なんか、真島さんがアラン機関の吉松さんと仲良しで、だから真島さんから吉松さんにお願いしてもらえば、新しい人工心臓がゲットできるんだって。吉松さんが先輩の恩人なの、地味に初めて知った。

 

 田中が今度の作戦で真島さんに話を聞くことになった。その間、エージェントに狙われてる千束先輩をたきなたちが守る。

 

 千束先輩の命が関わる以上、この仕事は日の本の行く末を左右する大切なものだ。がんばる。

 

 もしうまくいけば、田中はお役御免だ。

 

 

◇月▼日

 手が空いた。

 

 今、延空木のふもとのバスでこのページを書いている。

 

 指示どおり、第二展望台を制圧してからただちに帰投した。後の制御室奪還はフキ先輩率いる他の子たちでやる。田中の仕事は終わり。

 

 弱点攻めされてちょっと危なかった。でも真島さんはどこにもいなくてがっかり。吉松さんもいない。

 

 真島さんどこ?

 

 

 

 

 痛ましい死が、全国ネットで流れている。やった、これであの人たちの命は忘れられない。

 

 

 

 

 真島さんは旧電波塔にいるらしい。行こう。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「えっ、あのパフェやめちゃったの!?」

「たきなが恥ずかしがっちゃって」

「まだ食べてなかったのに……」

「田中ァ! たきなスペシャル一丁!」

「ホットチョコパフェですよう、先輩」

 

 昼下がりの喫茶リコリコ。常連客の残念そうな顔を見るやいなや、千束はすでに提供を停止したパフェのオーダーを厨房へ伝えた。

 

 仕込みがないため多少時間は取るが、例のパフェに複雑な工程はない。パンケーキの上にホットチョコを盛りに盛る田中を後ろから急かし、カウンターへ運ぼうとしたところ、更衣室からたきなが姿を現す。

 

「あー……」

「……」

 

 パフェの極めて個性的な見た目を自覚したたきなは、千束がそれを提供するのを見て恥じらうか怒るか、何かリアクションを取ると思われた。

 

 しかし期待に反し、たきなは無言で顔をそらすと別の業務に取り掛かる。たきなだけでなく、ミカもどこかぎこちない様子でコーヒー豆の瓶を何度も数えていた。

 

「おお、これが例の。すごい見た目だねぇ」

「でしょー? でもすごいのは見た目だけじゃなくて、味もいいんだから!」

「知ってるよ、見た目の割に味はいいってSNSでみんな言ってるから。ところで、なんか今日は静かじゃない?」

「あははー気のせいだよー。ちょっと私用事あるから、ゆっくりしてってくださいね」

 

 千束はパフェを運ぶと、いい笑顔で厨房へ引っ込む。そこで呑気に皿洗いをしている、店のぎこちない雰囲気を作り出した下手人の襟首を掴み、奥の座敷へ連れ込んだ。

 

 壁際に追い詰めて、顔の横にどん、と手をつく。

 

「田中ァ。たきなと先生が超意識しちゃってんだけど? どうしてくれんだぁ?」

「た、田中は悪くないです! 誰だってうっかりはあります! 田中、悪くない!」

「ちょっとは申し訳なさそうにしろやコラァ!」

「うひゃあ!? パワハラ、痴漢!」

 

 田中の無駄にでかい尻をもみしだく。千束も鬼ではないのでその気になればすぐに逃げられる程度に加減しているが、田中は顔を赤らめて悶えるばかりで逃げる素振りはない。千束は八つ当たり気味のじゃれ合いをしばらく続けた。

 

 田中は店を気まずい空気に包んだ犯人である。

 

 昨日、千束は月に一回の健診で何者かに襲われ、人工心臓を狙われた。当初は心臓の破壊が目的かと思われたが、「殺すつもりなら、最初から眠剤じゃなくて毒を投与するはずだ」とクルミが口を出し、おそらく過充電によって充電機能を不全にさせる目的と推測された。その見立ての通りなら、千束は余命二ヶ月を強いられるところだったのだ。

 

 しかしそうはならなかった。なぜか当時、犯行現場である山岸医院に居合わせた田中が、犯人の女を蹴り飛ばしたからである。

 

 これだけなら田中を褒め称えるところだが、田中はその後、うっかり千束の余命がもともと成人までであることを暴露。知らなかったたきなと、知っていたものの改めて意識してしまったらしいミカを巻き込み、喫茶リコリコを気まずい空気に叩き落とした。

 

 田中をいじっていると、押し入れががらりと開く。

 

「あまりいじめてやるなよ。悪気はなかったんだ」

「分かってるよー。ってか、クルミはあんまり驚いてないね?」

 

 押し入れから出てきたのは、リコリコの電脳戦担当の幼女、クルミである。とてとて千束の傍に寄ってくると、もだえる田中の頬を引っ張り始めた。

 

「精密な機械に寿命はつきものだ。心臓なんて複雑なものになると尚更な」

「予想はついてたってこと?」

「ああ、だがこんなに短いとは思ってなかった。もっと早く相談しろよ」

「進んで言うようなことじゃないでしょーよ」

「そりゃそうだが……」

「ちょっ、二人とも!? 田中をいじめながらシリアスな話しないで!」

 

 田中が何かほざいているのは置いといて、千束とクルミは重たい空気の中に沈んでいった。

 

 たきなとミカだけでなく、いつもは駄菓子や店の商品を貪りながらゲーム三昧のクルミさえ、千束の余命を意識してか沈んだ顔をするようになった。ミズキは一見いつも通りだが、晩酌の頻度が下がった。リコリコの全員が千束の命に心を痛めている。

 

 千束にはそれが気に入らなかった。たとえ心配してくれているのだとしても、自分のために誰かの時間や気分を損なうことにはどうしても抵抗がある。それぞれに許された時間に限りがあるのを知っているからこそ。

 

 特にミカとたきなの落ち込みぶりはひどく、たきなに至っては裏の仕事で普段は絶対にしないような失態を犯した。

 

 リコリコの空気を表すような曇天の日。麻薬組織の末端員を制圧、拘束するも、一人に逃走を許してしまう。すぐに追走し無力化したが、たきなは気が気ではない様子だった。

 

「すみません、走らせてしまって……!」

「あーいいよいいよ。向こうのやつらは大丈夫?」

「あっ!」

「私がやっとく! そいつよろしくね!」

「は、走らないでください!」

 

 しおらしいたきなの声を背中に受け、千束はやるせない気持ちになった。すぐに死ぬわけじゃない、と言っても無駄なのだろう。それだけ心配してくれているとわかるから、強く言うこともできない。

 

 拘束した末端員たちをクリーナーに引き渡し、依頼は完遂。たきなとは別々に帰投する流れになり、折悪しく、曇り空から水滴がぽつぽつと降り出した。

 

 そこそこの雨足で、千束は慌てて適当な橋の下へ逃げ込む。雨滴に煙る町並みをぼんやり眺めていると、目をそらしていたモヤモヤに思考が吸い寄せられていく。

 

「田中……」

「呼びました?」

「うおぅ!?」

 

 背後からの呼びかけに、千束は前へつんのめった。

 

 振り返ると、田中がビニール傘を二本持って隣に座っていた。きょとん、と首を傾げている。

 

「おまっ、忍者か!」

「いえ、田中です。迎えに来ました。たきなはもう帰ってます。傘どうぞ」

「お、おう……田中ァ!」

 

 傘を手渡すや否や立ち上がる田中を呼び止め、千束は自身の隣を手で叩く。不思議そうに田中が腰を下ろした。

 

 互いに何も言わず、ざあざあと雨の降る音が橋の下に満ちる。

 

 やがて先に口を開いたのは千束だった。

 

「昨日、なんで山岸先生のとこにいたの?」

 

 それは、千束が心の奥底に押し込めたモヤモヤだ。

 

 田中は、千束を狙った何者かを撃退してくれた。その直後に千束の余命が暴露されたことでリコリコメンバーは田中から気が逸れたらしく、なぜ田中があの場にいたのかを誰も追及しない。山岸に聞いても「口止めされている」と言われるばかり。

 

 田中は困ったように笑って、

 

「言いたくねーです」

「何だとぉ……?」

「な、何されたって言わねーですよ?」

 

 千束が手をわきわきさせてすごんでも、身構えるだけで言う気はないようだ。

 

「じゃあこれだけ答えて。体をどこか悪くしてる?」

「いえ、田中は超健康です。本当に」

 

 嘘は許さないというように強く睨みつける千束だが、田中は正面からそれを受け止め目をそらさない。

 

 心のモヤが晴れた千束はようやく安心して、田中の頭をわしゃわしゃ撫でる。

 

「ならいいのよ。言うの遅くなってごめん。助けてくれてありがと、田中」

「いえ」

「お礼に何でも一つ言うこと聞いてあげる」

「マジですか!?」

「マジマジ」

 

 現金なもので、さっきまで謙虚だった田中は興奮気味に身を乗り出してきた。

 

 モヤモヤと気まずい空気に気を取られ、お礼を言うのが遅れた罪悪感。加えてこの後輩なら変な要求はしない信頼と、純粋に感謝を伝えたい気持ちがあった。

 

 さて何を言うのかと内心ドキドキしていると、田中は心底嬉しそうに笑う。

 

「何でもって言いたましたよね?」

「おー言ったぞ。おっぱい触り放題権にするかー?」

「いーえ。そんなものよりずっとずっと素敵なお願いをします!」

「ほう?」

「ときが来れば分かります。覚悟しといてください、先輩!」

 

 今じゃないのかよ、と拍子抜けする。ただ、田中のへにゃっとした笑みがやけに眩しくて、千束もつられて笑いながら「つまんないことだったら承知しないぞー」と応じた。

 

 軽々しく何でも、と言ってしまったこと。田中の念押しにも軽く答えてしまったことを、千束は後に深く悔いることになる。

 

「よっし、帰るか」

 

 そうとは知らず、降りしきる雨の中、後輩と連れ立って帰投するのだった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 千束が襲われてから数週間後、DA東京本部からリコリコへ要請が下された。真島討伐作戦への参加要請だ。

 

 世界的に活動する戦争屋の真島は、春の銃取引に始まり地下鉄襲撃、リコリス殺害、警察署襲撃などのテロを繰り返してきた。その狙いが今冬に竣工する新たな平和のシンボル、延空木であることが判明したため、これを迎撃、返り討ちにする。

 

 そのための戦力として協力を要請された千束だが、

 

「お断りしまーす」

『多くの人々がお前を優秀なリコリスにするため尽力した。役割を果たせ』

「たきなをDAに戻してあげてください、そしたら考えます」

 

 と、塩対応で電話を切った。

 

 千束の言葉があったためか定かではないが、翌日にはたきなへDA復帰の辞令が下る。しかしたきなもこれに対し、

 

「断ろうと思います」

「なんで!?」

 

 たきなが喫茶リコリコへ配属されたのは左遷だ。作戦上の過失を一人に負わされ、処分される形でここへ来た。配属当初は復帰のために相当な無茶もやらかしており、今回の辞令は渡りに船だったはずだ。それを断るのは意味が分からない。

 

「千束が狙われている今、ここを離れる訳にはいきません」

「はぁー? ちょっとちょっとぉ、たきなったら千束さんのこと好き過ぎか?」

「……」

「そ、そこで黙んなよ」

「とにかく、私はここに残ります」

「……バカだなー」

 

 たきなは何食わぬ顔でリコリコの業務に戻り、千束は知らず顔が赤くなっていた。

 

 そして千束とたきなが残る代わりに、作戦へ駆り出されることになったのは田中だった。DAの楠木司令から、千束と同じく電話口で協力を要請されたのだ。

 

「あー、真島さん討伐作戦? そりゃまあジュースの恩もありますし……えっ、本当です? ウソは嫌ですよ? りょーかいです、はーい」

 

 そのとき田中が何を話していたのかは分からない。ただ、千束には何か裏があるような気がした。

 

「ちょっとDAのお手伝いしてくるのです」

「えー? DAは結社に乗っ取られてるんじゃなかったの?」

「はい。でも今回のは、太平につながります」

 

 田中はDAが悪の秘密結社に支配されていると思い込み、リコリスを辞めようとした。にもかかわらず今回は協力するという。なにか怪しい。

 

 田中だけではなく、リコリコを発つ田中を見送るたきなたちも怪しかった。

 

「田中、例の件をくれぐれも──」

「もちろんなのです。たきなたちも──」

「任せとけ。論文から有力候補を絞り込んで──」

「うっかり死ぬんじゃねーぞ田中──」

 

 田中、たきな、クルミ、ミズキの四人が顔を突き合わせてこそこそ話し合っていた。千束が話に入ろうとすると、わざとらしく解散して田中はさっさとDAへ出発してしまう。たきなとミズキは素知らぬ顔をしていたが、ごまかすのが下手なクルミは露骨に冷や汗を流して目をそらし、他の二人から白い目で見られていた。

 

「なんだよぉ……」

 

 隠し事をされる千束の方は、とても面白くない。口を尖らせてたきなを見ると、気まずげに顔をそらされた。

 

 千束は拗ねた。頬を膨らませ、座敷の隅っこで膝を抱え、ものすごく分かりやすい拗ねてますアピールを敢行した。

 

「千束ちゃん、どうしちゃったの?」

「ケンカでもした?」

 

 と、常連客が来てもアピールを続けた。ぶっちゃけ始めたはいいものの不機嫌を維持するのは性格的に難しく、さっさと構ってもらえればすぐに辞めるつもりだったのだが、このアピールは千束に思いもよらぬ収穫をもたらした。

 

 まる一日を拗ねて過ごした翌日、たきなが私服でリコリコへ出勤してくる。その服は夏に千束が見繕ってあげたもので、見たとたん千束の機嫌が大幅に上向く。

 

 さらにたきなが発した次の言葉で、有頂天になった。

 

「遊びましょう」

 

 リコリコ看板娘二人組は、デートに出かけた。

 

 ご機嫌取りだとは分かっていても、千束はたきなが計画を立ててくれたデートにご満悦で、たいそう充実した一日を過ごしたのだった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 たきなと千束がデートをしたり、例のパフェを勝手に提供してたきなが怒ったり、冬用の新メニューを考案したりしていた頃、田中の方はDAの指揮下で真島討伐のため動いていた。

 

 真島の潜伏場所に踏み入るも、すでにもぬけの空。真島が狙っているという新電波塔、通称延空木で迎え撃つ運びとなる。

 

 寒さが肌に染み入る十二月初旬。社会の表舞台で延空木の完成セレモニーが晴れ晴れと行われる裏で、田中はリコリスのチームと共に延空木の中枢、第一展望台に張り込んでいた。久しぶりにリコリスの赤服姿だ。

 

 破壊が目的であればここが狙われると見ての待ち伏せだったが、これは肩透かしに終わる。

 

『これと同じものを、都内にバラ撒いた』

 

 真島の目的は延空木の破壊ではなく、電波ジャックだった。敵勢力は中枢をスルーして第二展望台へ上がり、電波制御室を占拠。公共の電波で銃をちらつかせ、民衆を暴力へと煽動した。

 

『銃を持った民間人に関わるな! リコリスをあぶり出す、それがやつの真の目的だ』

 

 春の銃取引で得た銃を民衆に与え、暴動を誘発。それに対応するため出てきたリコリスを白日のもとに晒そうというのだ。

 

 リコリスによって保たれる平和と、体制の破壊。

 

 真島の目的が明らかになったところで、リコリスは一度撤退した。

 

 薄暗いバスの中で、田中はリコリスの一人としてブリーフィングに参加している。

 

『真島一味は起爆予想ポイントの第一展望台を通過。現在は第二展望台でエレベーターを切断、籠城中だ。選抜隊は、四つの非常階段で第二展望台を急襲する』

「えっ」

 

 田中は声を漏らした。静かなバス内にざわめきが起きる。

 

 各隊八名で構成される四つの隊が、四つある非常階段にそれぞれ配置され、第二展望台へ突入。バスのスクリーンにはその隊のメンバーが表示されたのだが、一つ異常な点がある。

 

『delta隊 田中』

「一人で隊とは言わねーでしょう!?」

『田中、質問は挙手して行え』

「はーいはいはい!」

『何だ』

「田中一人ぼっち! 後七名は!?」

『ラジアータの戦術的判断だ、異論は認められない。説明を続けるぞ。アルファ、ブラボー、チャーリー隊は第二展望台奪還後、エレベーターを復旧。第一展望台で待機するサード部隊と合流し、電波制御室を制圧する』

「デルタ隊は?」

 

 質問したのはアルファ隊隊長、ファーストリコリスの春川フキである。よく聞いてくれました、とキラキラした目を向ける田中。

 

 楠木司令が平坦な声音で答える。

 

『デルタ隊は他三隊に先んじて展望台を強襲する。可能な限り敵を排除し、撹乱しろ』

「また単独強襲……」

 

 仕事だから仕方ない。田中はぼやきつつ、不満を呑み込んだ。

 

『なお、展望台を制圧後、デルタ隊は帰投しろ。電波制御室の奪還はアルファ隊が行う』

「……了解しました」

「はーい」

 

 他のサードリコリスたちが困惑ありありの声をあげる一方、田中は従順に頷き、フキは何かを察したような含みのある了解を返す。

 

 その後は合流後の制御室奪還に関するこまごましたすり合わせが行われ、大方質問が出尽くしてから、田中は再び挙手する。

 

「これは非殺傷任務ですか?」

『……違う。敵を見つけ次第、皆殺しにしろ』

「りょーかいです」

『他に質問は? なければ全員、作戦時間まで待機しろ。以上だ』

 

 司令部との通信が切られ、バスに明かりが戻った。スクリーンが巻き取られ、車内にいたたまれない空気が満ちる。

 

 田中が物欲しそうにちら、と隣のリコリスを見やる。ひっ、と怯えの混じった声を漏らし、あさっての方向を向いた。反対隣のリコリスを見ると、負けじと睨み返してきたが、冷や汗を流してうつむき、動かなくなった。二人の怯えが伝播したのか、バス全体に地獄めいた雰囲気が漂い出す。

 

 田中は納得して深く頷くと、首元のUSBをぎゅっと握った。

 

 こうして通夜よりも静かな待機時間を乗り越え、作戦開始時刻がやってきた。

 

 

 

ー--

 

 

 

 東西南北四つの非常階段のうち一つに配置されたデルタ隊隊長の田中は、二段飛ばしで階段を駆け上がっていく。展望台への突入タイミングは任意でよいとのことだった。早く真島に会うため、一応階段へのトラップなどを警戒しつつ可能な限り素早く動く。

 

 特に何事もなく上り詰め、非常扉をゆっくり開いて中を伺った。

 

 第二展望台は、四つの支柱によって空中に浮かぶ巨大なガラス張りの楕円だった。中にはドーナツ型の足場が二つ設置され、二階層の間をエレベーターで行き来する構造になっている。

 

「……?」

 

 下層の非常扉から見る限り、敵兵力は脆弱だ。作業服に防弾ベスト、短機関銃と散弾銃装備の男たちが複数名。トラップの類は見当たらない。四つある扉のすべてに大量のトラップと兵力が待ち伏せしているかと思ったのに、男たちはフロアを三々五々巡回するばかりで、ときどき他愛もない猥談を交わし笑い声を上げている。明らかに士気と練度が低い。

 

 ふと、真島との語らいが脳裏をよぎる。

 

『最近仕事がきつくてな。時代遅れの辻斬りに出くわして、仲間が大勢やられた。いつから日本はこんなに物騒になっちまったんだ?』

『えっ、辻斬り? そんなのが日本にいるのです? なんて卑劣な! 田中が見つけたらきっと成敗してやるのです!』

『……おお、頼むわ』

 

 真島は不幸にも通り魔に遭遇したらしく、人手不足だと嘆いていた。おそらく足りない兵力を日雇いテロリストで補っているのだろう。

 

「司令部、こちらデルタ1。第二展望台に突入し、撹乱します」

 

 これならいける。田中は自己流脅威度チェックの後、インカムで一報を入れてから、太郎と次郎を袖口から抜く。床を蹴り、ドーナツ型のフロアを吶喊。

 

「来たぞ──」

 

 男たちが何かを叫んで引き金を引くものの、すでに遅かった。

 

 凄まじい瞬発力をもって、直近の男たちへ肉迫。

 

 一人目、股間から脳天へ向けて斬り上げ、切れ目に腕を突っ込む。根本まで入れた腕を引き抜くと、ぐちゃぐちゃに掻き回された臓物が濁った汁と共に宙を舞った。

 

 その体を直近の敵へ蹴り飛ばし、射線を切りながら接近。二人目、顎下から脳天へ斬り上げながら通過する。田中の背後で男の顔面がずるりと、仮面がずれるように落ちていった。

 

 三人目、散弾銃を向けている。二人目の体を盾に一発やり過ごし、ポンプアクションのスキに後ろへするりと回り込む。両手持ちした太郎を、プロテクター装備の太ももへ横薙に振るう。切断された両足へ男が倒れ込むより早く、太郎と次郎を両の二の腕へ叩き込む。四つの動脈と四肢を切断され、血の海が広がった。

 

「例の忍者だ! リップ隊急げ!」

 

 上から声。上層フロア、斜向かいの手すりから男たちが身を乗り出してこちらを狙っている。銃種は短機関銃。

 

 田中はダルマになった男の胴体を担ぎ上げ、フロアの手すりを乗り越える。ガラス張りの壁面を駆け上がり、上層フロアへ移動した。

 

 そのままダルマの胴体を盾にして、短機関銃装備の集団に近づいていく。銃声と共に、胴体の防弾ベストにいくらか着弾する。

 

 ある程度距離を詰めたところで、胴体を投棄。左右への激しい切り返しで弾幕をかいくぐり、不可避の弾のみを切断して接近していく。

 

「いたっ!?」

 

 無意識に弾丸を切り裂くと同時、肩に鋭い痛みが走った。

 

 しかし動きを止めれば蜂の巣にされて死ぬ。肩を押されるような圧力を、力ずくの踏み込みで押し返し、前へ。

 

 すると、敵はすでに間合いに収まっていた。手近な男の太もも、上腕を連続して切断。

 

 すかさず、血を吹き上げる男の足を蹴り上げた。太い血管から溢れる血潮が振り撒かれ、複数人の目を潰す。怯んだところへ接近し、四人目、五人目、六人目を肉と臓腑の塊へ変える。そのままペースを保ち、七、八、九──オーバーサイズの袖口に仕込んだシースへ太郎と次郎を猫の爪のように出し入れし、片手持ちと両手持ちを切り替えながら、淡々と処理していく。

 

 程なく上層の敵は全滅した。下層へ戻る前に、田中は出血する肩口、三角筋へ指を突っ込む。

 

 リコリス制服の防弾繊維によってか、弾体は浅い箇所にとどまっていた。取り出してみると、思わずため息が漏れる。

 

「むむ……」

 

 血まみれの金属片。小指の先ほどもない鋭利なそれは、田中が過日の雑談で真島に漏らした、弱点によるものだ。

 

『反射、ねえ。ってことは切るもんを選べねえのか』

『そうなのですよー。だから千束先輩みたいに全避けする勢いで動くんですけど、てきとーに動いてるだけなんで当たるときは当たります。大口径弾は切ったら逆に怪我しちゃうし、田中はダメダメです』

『切ったところで弾が消えるわけじゃねえからなァ。アニメや映画みたいにゃいかねえよ』

『うんうん。特に苦手な弾があって、リップっていうのですが──』

 

 R.I.P弾。ホローポイントと呼ばれる特殊弾頭の一種で、着弾と同時に弾頭が分裂、放射円状に拡散する。斬るものを選べない田中がこれを切ると、分裂した弾頭に被弾してしまう。

 

 それだけではなく、田中は致命的な弱点をもう一つぽろりとこぼしていた。

 

『大口径っていうと、どのくらいまで切れるんだ?』

『両手持ちでぎりぎり二十ミリまでですねー。三十ミリからはお手上げなのです』

『……二十口径、の間違いじゃねえよな?』

『もうっ、真島さん。田中だってそのくらいの知識はあります。二十ミリ、なのです』

 

 もし田中の苦手な機関砲まで用意されていたら、苦戦は必至だ。あれの弾は両手で切ることはできても運動エネルギーが大きすぎて、弾道がほとんど逸れない。三十ミリにもなると、切断した弾体にそのまま被弾してしまうだろう。

 

「真島さん、ひどい……」

 

 むすっ、と頬を膨らませる田中。洗脳が解けたと言っていたのに、実際は探りを入れていたらしい。絶対後で文句を言ってやる、と誓った。

 

 それから下層へ舞い戻り、同じような調子で刃を振るう。弱点の弾はあまり数が用意できなかったのか、他に使ってくる者はいなかった。大口径機関砲も出てくる気配はない。

 

 景観を望む展望台の構造上、遮蔽物は少ない。しかし一度でも接敵すれば、敵の体でいくらでも射線を切れる。数が多ければ多いほど田中には有利に働く。

 

 任務として取り組む以上、田中は容赦しない。皆殺しの指示通り無慈悲に命を奪い、溢れんばかりの弔意を表明する。

 

 痛ましく、惨たらしい死をもって。

 

「痛ましかれかし、惨かれかし」

 

 そうして最大限命を尊重しながら、田中は第二展望台を血と臓腑に染め上げていった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 旧電波塔。十年前にテロリストたちに占拠され、爆破されたかつてのランドマークだ。爆破によってひしゃげた骨組みに傾いだ展望台がめり込む形で補強・保存され、テロの脅威を乗り越えた平和のシンボルとして知られている。下層部は一般公開されているが、展望台含む上層は関係者以外立入禁止となっている。

 

 そんな旧電波塔の展望台で、千束とたきなは大の字になっていた。

 

「たきなー、下で待ってろって言ったじゃんかよー」

「電話に出ないのが悪いんでしょう。嫌ならすぐ出てください」

 

 展望台にはシャッターが下ろされ、一部が破壊されている。手すりには、四月から東京の裏社会を湧かせているテロリスト、真島が縛り付けられていた。意識はなく、ぐったりしている。

 

「……吉松は?」

「おっと、そうだ。上見てくるね。ヨシさーん!」

 

 閉じられたシャッターを操作するたきなに先んじて、千束は展望台の上階へ上がっていった。

 

 二人がここへ来たのは、吉松の救出のためだ。千束の命の恩人である吉松が真島に囚われ、旧電波塔に幽閉。命が惜しければ一人で来い、とハッカー経由で連絡があった。

 

 当然、たきなはごねた。絶対に一人では行かせないと。

 

 しかし人質がいる以上要求を呑むしかない。人質を助け次第連絡を入れる条件でたきなと一旦別れ、千束は一人で旧電波塔を登り、真島の手下を無力化しながら展望台で吉松を発見する。

 

 が、そこで真島が姿を現した。真島は暗所で自身の聴覚を活かし、逆に千束の優れた洞察力を封じ、一方的に追い詰めた。

 

 そこへたきながシャッターをぶち破り乱入、どうにか真島を無力化し今に至る。

 

 なお、旧電波塔のふもとに着いた時点でDA本部と田中に真島の所在を連絡したが、さすがにどちらからも返答はなかった。大規模作戦の最中に、作戦不参加のリコリスからの連絡に対応する暇はないのだろう。

 

「ヨシさん! ここにいたんだ、大丈夫? 撃たれてないですか?」

「ああ、掠めただけだ」

 

 上階に行くと吉松はすぐに見つかった。オールバックのくすんだブロンドにきっちりしたスーツ姿。駆け寄って声を掛けてみると、思いのほか元気な声が返ってくる。

 

「来てくれたんだね、千束」

「そりゃ、あんな写真見たら……あ、携帯ないんだった」

「やつは死んだか?」

 

 え、と千束は返答に詰まる。

 

 吉松は千束の肩を掴み、何かを期待するように強い視線で正面から見つめてくる。

 

「私をこんな目に遭わせた真島を殺したか。殺してくれたんだろう?」

「ヨシさん……」

 

 千束は胸に穴が空いたような虚無感を覚える。同時に、数時間前のミカの懺悔が頭を過ぎった。

 

『言った方が良かったのか!? お前の生き方は間違いだ、殺しを重ねれば、シンジはまたお前を助けてくれると、言えばよかったのか。教えてくれ千束……!』

 

 吉松は、そして過去においてはミカでさえ、千束を殺しの道具として見ていた。類稀なる殺しの才能を千束に見出したからこそ、吉松はその才能をアラン機関として支援するため、人工心臓を与えたのだと。

 

 ショックだった。それでも千束は、生き方を選ばせてくれたミカに感謝こそすれ、恨みは一切ない。それをミカに伝えた。

 

 とはいえ、だ。

 

 恩人で救世主の吉松に、面と向かって殺しを期待されると──千束は言葉に詰まって何も言えなくなってしまう。

 

「殺してないのか!」

 

 吉松は乱暴に千束の肩を突き飛ばした。

 

 千束がいくら気持ちを伝えても、吉松とは噛み合わない。

 

「人生において役割が明確な人間は少ない。だが君にはある! これほど幸せなことはない」

「幸せ……殺しが私の幸せなの?」

「そうだ。それによって君は、人類と世界に貢献できるのだから」

 

 人類、世界、貢献。

 

 そのワードに反応したのか、千束の脳に刻まれた、やたらと思想の強い後輩が声を上げた。

 

「ヨシさん。私の役割ね、錦木千束みたいなんだ」

「何?」

「錦木千束の役割は、錦木千束なんだって。よく分かんないけど」

「……壊れかけの人形のゼンマイを巻いたと思ったがね。頭の方は壊れたままだったか」

 

 辛辣な言葉と冷たい目。千束は頭をがつんと殴られたようなショックで二の句が継げなくなる。

 

 絶句しているうち、吉松は千束の銃を奪い、非殺傷弾を抜いて実弾を装填した。躊躇なく千束に照準し、条件反射で回避する千束。

 

 すると、後ろから別の銃声が轟く。吉松の頭部からわずか数センチの箇所に弾痕が穿たれた。

 

「動くな。次は眉間に撃ち込みますよ」

「たきな、銃を下ろして!」

 

 たきなだった。先程の吉松とのやりとりを聞いていたのか、吉松を冷酷に睨みつけている。

 

 たきなは銃を向けたまま、吉松のたくらみを次々と看破していく。真島に武器を与え、千束にけしかけていたこと。千束を旧電波塔へ呼んだのも真島との共謀によるものだということ。真島は四月の銃取引から始まって多くの騒動を起こしてきたが、その裏には吉松がいたこと。先月、千束の人工心臓を壊そうとしたのも吉松の企みだったこと。

 

「だけど、そんなことはもうどうでもいい。そのケースさえ手に入れば」

 

 吉松の足元。無造作に置かれたアタッシュケースにたきなが一瞬、目をやる。

 

 その瞬間、千束の勘が警鐘を鳴らした。

 

「クルミが掴みました。その中に千束の命が──」

「たきなっ!」

 

 たきなが反応し、振り向こうとするもわずかに遅かった。

 

 上方、展望台の梁から一人の女がたきなへ飛びかかる。ぴっちりしたタクティカルスーツを纏ったその女は、先月千束の心臓を狙った看護士だ。

 

 背中に膝蹴りを食らう形になったたきなは、うつぶせに組伏せられてしまった。

 

「ぐっ……!」

「たきな!」

「動くな、千束」

 

 吉松の声に呼応し、女がサバイバルナイフをたきなの首にあてがう。わずかでも動けばたきなの頸動脈が切断される。

 

「ヨシさん、やめて!」

「いいや。自分の手で、止めさせるんだ」

 

 吉松は千束に歩み寄ると、実に優しい手付きで、先程取り上げた千束の愛銃を握らせる。実弾が入ったそれを、初心者に教えるように手を添えて狙いをつけさせた。照準先は、たきなを組み伏せる女だ。

 

「小脳を撃ち抜きなさい。君なら簡単なはずだ。わずかでも狙いが甘いと、指先の痙攣だけで彼女はたきなちゃんを殺すよ」

「よ、ヨシさん……!」

「さあ、千束」

 

 吉松は、千束を殺しの天才としか見ていない。ここに来てやっと千束にも理解できた。

 

 優しげな口調から一転、吉松は無感情に言う。

 

「君の役割を取り戻せ。撃つんだ」

「う……くぅ……!」

 

 拍動のないはずの心臓が、早鐘を打っている錯覚がする。冷や汗が吹き出し、呼吸が荒くなる。にもかかわらず、才能の一端を示すように、手先は震えることなく女の小脳へ正確に照準を合わせ続けている。

 

 女は吉松の言葉を聞いても、一切ためらうことなく銃口を見つめている。射殺されるのを受け入れているようだ。

 

 組伏せられたたきなの、苦しげな顔が目に入った。白く細い首筋に、逆手に握られたナイフの刃が食い込み、血が一筋垂れている。

 

「撃て」

 

 撃たなければ、たきなが死ぬ。殺される。本当に? 指や手の腱、ナイフの刃を狙えば──ダメだ、腱には射線が通っていないし、手先を狙えば貫通してたきなに当たる。

 

 選択肢は一つしかない。女を殺せば、たきなが助かる。

 

 人に助けられた命で、人の命を奪えば、たきなは助かるのだ。

 

「撃て!」

「う……うあああっ!」

 

 絶叫を上げ、千束は引き金を──

 

「敵味方等しく、命大事に」

 

 引く必要がなくなった。

 

 聞き慣れた声が響くと同時、またも展望台の梁から人影が降ってくる。茶髪の一房おさげを尻尾みたいに揺らし、たきなと女の隣に音もなく着地したその少女は、血まみれのマチェットを無言で血振りした。

 

「こんにちは。真島さんを探しに来た田中です」

「何だと……?」

「た、田中っ! たきなを」

「もちろんです、先輩」

 

 田中がへにゃりと、いつもの気の抜けたような笑みを浮かべる。

 

 それを合図に、女が苦悶の声を上げる。胸元に右腕を抱え込むが、先程までナイフを握っていた右手が消失していた。それはたきなの首元に、ナイフを握ったまま落ちている。降りてくるのと同時に女の手を斬り落としたらしい。

 

 たきなに跨がったまま痛みと出血でよろめく女の脇腹に、田中は抉るような中段蹴りを繰り出した。女の体がくの字に折れ、弾かれるように吹っ飛んで動かなくなる。

 

「たきな、大丈夫です?」

「ええ……助かりました、田中」

「よかった」

 

 たきなを助け起こすと、続けて田中は一本のマチェットを両手持ちにして、身を低く沈める。

 

「ヨシさんっ! 田中、何してんの!」

「えっ」

 

 田中はほんの瞬きほどの間に、吉松との距離をゼロにしていた。千束が間に割り込んで手首を掴んでいなければ、吉松に凶刃が襲いかかっていただろう。

 

 千束と組合いながら、田中は首をかしげる。

 

「吉松さんは大事な常連さんです。結社に利用されないように、指を落とします」

「やめろっ!」

「な、なんで怒るのです……? 非殺傷ですし、コーヒーカップは持てるのですよ?」

「いいからやめて! 怒るよ!」

 

 怒鳴られた田中が涙目になり、後退る。

 

「ケースはいただきました」

 

 一方、たきなはケースを確保していた。半身の姿勢で後ろにケースを庇い、吉松へ銃を向ける。

 

 しかし吉松はうろたえることなく、人を食ったような笑みを浮かべる。

 

「無駄だよ、たきなちゃん」

 

 見せつけるようにネクタイを外し、シャツの前をはだけさせる。その胸には、真新しい一筋の切り傷が入っていた。

 

 傷を指し示しながら、吉松は微笑む。

 

「千束。君を生かす心臓は今はここだよ。私を撃って手に入れるんだ」

「狂ってる……!」

「馬鹿にしないで撃てるわけないでしょっ! た、たきな……!」

「その心臓引きずり出してやる! 離して千束っ!」

 

 それほどまでに殺しをさせたいのか、と驚いている暇はなかった。ケースを捨て置き、鬼気迫る形相で吉松に迫るたきなを千束が体を張って止める。そうしながらも、頭は冷静に状況を判断していた。

 

 ブラフだ。おそらく人工心臓はあのケースの中にある。わざわざ空のケースをここに持ってくるはずがない。

 

 が、それを力ずくで奪おうとは思えない。すぐにでも命が尽きるわけではないし、後二年の人生と、とうの昔に割り切っている。自分があのケースの中の心臓を諦めることで、病を抱えるどこかの誰かの命が助かる結果になるなら、それこそ千束の望むところだった。

 

 膠着した状況に、吉松は悔しげに顔を歪める。

 

「充電機能を故障させ、余命二ヶ月まで追い込めば、結果は違ったかもしれないな……まったく君には参ったよ。田中の落とし子は伊達じゃないね」

「はあ」

「田中ァ、ダメだからね!」

「田中っ、早くそいつを斬ってください!」

 相反する指示を受けた田中は、千束の制止を優先した。マチェットを袖口に仕舞い、棒立ちになる。たきながより強く暴れ出す。

 

 千束はともかくとして、容赦のないファーストとセカンドのリコリスが一人ずつ。手駒の姫蒲が倒れた今、吉松に切れるカードはない、と千束は見た。

 

 しかし吉松は諦めない。千束の才能を正しく世界へ届けるためなら、仲間はおろか自身の命すらも利用するほどに彼は粘り強い男だった。

 

 もみ合いになっている千束とたきなから、田中へと視線を巡らせる。

 

「田中ちゃん。誰よりも使命に忠実な君なら分かるだろう。その生き方がどんなに幸せなことか」

 

 田中を言いくるめようとしている。慌てて口を挟もうとする千束だが、少しでも気を抜けばたきなが制止を振り切って吉松を射殺してしまう。二人のやりとりを聞くことしかできなかった。

 

 吉松は無警戒に田中へ歩み寄り、両肩に手を乗せる。田中が痛みを堪えるように「んっ」と声を漏らした。

 

「君の先輩は役割から目を背けようとしている。類まれなる殺しの才能を無駄にしている。不憫だとは思わないか?」

「先輩の意思でそうしているなら、不憫ではねーでしょ。そもそも幸不幸は当人の決めることです」

「違うね。神からのギフトを十全に発揮し、この世界に貢献する。それこそが人生の意味であり、誰しもが約束された幸福なんだよ。人の意思が入り込む余地はない」

「だとしても、貴方は間違っています。千束先輩のギフトは錦木千束ですから」

「ほう?」

「確かに千束先輩は才能に溢れてます。その気になれば女版ジョンウィックかメイトリクスかってくらい、人をたくさん殺せるでしょう。でもその才能は氷山の一角です。吉松さんは、千束先輩の声と顔と心と体と、気高さと可愛さと可憐さと美麗さと尊さと優しさと素直さと率直さと健気さとひたむきさを知っていますか? 千束先輩の存在そのものがどれほど多くの人心を救い、世界に貢献しているか分かっていますか? 先輩は存在そのものが役割で才能で使命なのです。思うがままに生きるだけで日の本を真の太平へ導く、救世の化身です。殺しの才能なんてほんの一端だけを使命だと決めつけるのは視野狭窄ですし、それを無理強いするのは人道に悖ります。才能を世界へ届けるのが機関の役割であるなら、十年前に先輩の命を救った時点で役割は終わっているでしょう。先輩を助けていただいてありがとうございました」

「なるほど」

 

 吉松が頷くと同時、懐から拳銃を取り出して田中へ向けた。

 

 かと思うと次の瞬間には、きん、と高い金属音が響き、田中が両手持ちしたマチェットを振り抜いた姿勢で残心していた。

 

 何が起きたのかと千束が目をやると、トリガーガードからハンマーにかけてを両断された拳銃が床へ落下するところだった。

 

 苦々しい顔で、吉松はグリップだけの銃を投げ捨てる。

 

「田中とはいえ所詮は子供か。存在そのものが使命? そんな曖昧な解釈で世界にどう貢献する。人を助けたから救世だと? バカバカしいにも程がある」

「世界を見るのはいつだって人です。形作るのもまた人です。だから人心すなわち世界で、田中とアラン機関の目指すところは同じです」

「実に幼稚な世界観だね。そんなものと機関の崇高な使命を同列に語らないでくれ」

「同列ですよ。日の本を、世界をもっと良くしようとしています」

 

 心底忌々しげに田中を睨みつけ、吉松はケースを回収すると、倒れた女の元へ歩み寄る。手首を切断された右腕にネクタイを巻きつけ、止血処置をしてから、呻く女に肩を貸す。

 

 千束に論戦の帰趨はよく分からなかったが、雰囲気からして田中の優勢のようだった。今度こそ対抗手段がなくなったと見たのか、吉松は踵を返し、

 

「私は諦めんぞ。生きている限りは、絶対にな」

 

 強い口調で言い置いて、展望台を出ていく。

 

 それを見たたきなが、爆発したように一層強く暴れだした。

 

「心臓が逃げるっ! うああああっ!」

 

 千束に阻まれ狙いも定かではないまま、感情のままに引き金を引く。吉松の周囲に火花が弾けた。

 

「ヨシさんを殺して生きてもっ、それはもう私じゃない!」

 

 激高し、スライドがロックされても尚引き金を引くたきなの背を撫で、なだめる。

 

「嫌だ……後二年なんてやだ……もっともっと長く……一緒にいたい……」

「ありがと。でも私は、ほんとはもういないはずの人。ヨシさんに生かされたから、たきなにも出会えた」

 

 元より短い命なのは承知済みだった。だから短い命を精一杯生きようと、やりたいこと最優先で生きてきた。たとえすれ違いがあったとしても、恩人と殺し合いをしてまで生きながらえるつもりなど、千束には毛頭ない。

 

 それでもたきなは諦め切れないのか、棒立ちの田中に目を向ける。泣き出す寸前の子供のような目を。

 

「田中ぁ……!」

「うっ、そんな目をされると……」

「ダメだからね?」

「わ、分かってます。先輩はとことん気高い人ですよ、もうっ。……その代わり」

 

 田中はたきなの耳元で、何かを囁く。長い耳打ちで、千束にはぼそぼそとして判然としない。

 

 しかしたきなには目に見えて効果があった。今にも泣きそうだった顔が希望に満ち、安心しきった笑顔を経て、いつもの凛とした、たきならしいすまし顔に戻った。

 

「信じてますよ、田中」

「任せて」

「な、なんだなんだ?」

 

 田中とたきなの間で視線を行ったり来たりさせる千束。

 二人は顔を見合わせると、示し合わせたように笑って、口を揃えた。

 

「秘密です」

 

 そのとき不意に、風が吹き荒れる。ローターの激しい回転音が下から近づいてきて、展望台の割れた窓の外に一台のヘリが現れた。

 

 扉がひとりでに開くと、中からリコリコの頼れるハッカーが声を張り上げる。

 

「お前ら無事かー!? ミズキがうるさいから早く乗れー!」

 

 

 

ーーー

 

 

 

 ヘリに揺られ、千束、たきな、田中の三人は情報を共有する。

 

 わざわざ高いヘリをチャーターしてまでクルミとミズキが三人の回収に来たのは、仕事のためだった。

 

「依頼ぃ? リコリスの救出が? 誰の依頼よ?」

「それはミカに聞け。ああ、これを預かったぞ」

 

 喫茶リコリコに急な依頼が入ったという。所用のため不在のミカから預かった、予備の非殺傷弾が千束とたきなに渡った。

 

 千束はすぐさま愛銃から実弾を抜いて非殺傷弾を装填。その拍子に首から下げたフクロウのチャームに目が止まる。乱暴に引きちぎって、ポケットに入れた。

 

 クルミはいじっていたタブレットの画面を千束たちに向ける。

 

「依頼はこれだ」

「うっわ……」

「田中の仕業ですか」

「精一杯、死を悼みました」

 

 画面に流れるのは都内のニュース映像。延空木で作戦に従事しているリコリスたちが映されており、「タワー内で惨劇、女子高生巻き添えか」とテロップが出ている。真島の計略により、リコリスが公にされてしまった。

 

 クルミがなんとも言い難い苦笑いを浮かべる。

 

「ケガの功名だな。あんまりにもグロすぎて世間のほとんどはフェイク映像と受け取っている。隠蔽はどうとでもなる」

「ええっ!? フェイクって、なんでぇ!?」

「田中、落ち着け。どうどう」

 

 なだめながら、そりゃそうだと千束は映像を見返す。

 

 延空木の第二展望台。その内部には地獄が広がっていた。足の踏み場もないほどの血溜まりがフロアを埋め尽くし、その中に人体の手足が人形のパーツのように転がっている。四肢をもがれた胴体は腹を縦一文字に切り開かれ、下処理した魚のワタのような肉塊がフロア中に点々と転がっていて、腸と思しき紐状の物体が手すりに絡みつき、ガラス張りのあちこちに原型を留めていない赤黒い粘性の何かがこびりついている。

 

「話には聞いていたが、凄まじいな。ちょっとは加減しろよ」

「クルミちゃん、仕事で手抜きはダメなのですよ」

 

 血と臓腑にまみれた展望台のそこここで、リコリスたちが苦しんでいる。膝と頭を抱えてうずくまっていたり、呆然と焦点の合わない目で虚空を見つめていたり、ひたすらに嘔吐していたり。その中で唯一のファーストリコリスの春川フキが気丈に仲間たちを介抱しているが、立て直すのは困難に思われた。

 

 ふと、血の池の中にお面が浮かんでいるのを千束は見つける。それはやけに精巧な厳つい男のお面で、まるで生身の顔面をそのまま切り取ったかのようだ。視線を巡らせると、顔の正面の断面図を晒している死体が転がっていて、開かれた頭骨の前部分から、うどん玉のように大脳がどろりとこぼれ落ち──

 

「うん、こりゃフェイクだわ」

「先輩!?」

 

 その惨劇は過度に痛ましく、惨たらしい。

 

 安全神話に守られて生きる人々は、人の死の痛ましさ、惨たらしさを知らない。田中のもたらした非現実的なまでの惨状は、かえって正常性バイアスを煽り、これほど痛ましいものが本物な訳がないと決めつけられてしまった。

 

「たしかに、素人からすれば趣味の悪いB級ホラーにしか見えませんね」

「が、がんばって忘れ得ぬ死を……みんなの心に刻まれたと、思ったのに……なぜ人は死から目を逸らすのだ……」

 

 田中はひどく落ち込んでいる。抱えた膝に頭をうずめ、拗ねてしまった。

 

「ま、逆に嘘くさいと大多数が言ってるわけだが。DA上層部はリコリスが公にされたと問題視していてな。延空木内のリコリスを処分するつもりだ」

「ほんでそういうことするやつらは〜?」

「リリベルだー」

 

 操縦席のミズキの合いの手に、千束が応える。

 

 女子だけで構成されるリコリスと対を成す、男子の暗殺者集団、リリベル。公然と晒されたリコリスをリリベルによって抹殺し、すべてなかったことにしようと上層部は企んでいるようだ。

 

「ラジアータで情報操作すればいいのでは?」

「攻撃を受けてダウン中だ」

「え、じゃどーすんの? いつもの手使えないじゃん」

 

 DAの誇るスーパーAI、ラジアータを使った事件の隠蔽はDAの常套手段だ。それが使えないのではリコリスの隠しようがない。

 

 田中が勢いよく顔を上げ、挙手する。

 

「はい! 同志たちの手を汚させるわけにはいかねーです! 田中に任せてください!」

「……どーするつもり?」

「リリベルの人たちを、二度と引き金の引けないようにしてくるのですっ!」

「貴様もう黙ってろ」

「ひどい!?」

 

 少なくとも田中は本気で言ったのだろうし、実際できそうだからタチが悪い。仮にできたとしてもいずれ物量で押しつぶされるのは目に見えているが。

 

「田中ジョークは置いといて、ほら、これを制御室に挿してこい。後はなんとかしてやる」

 

 クルミはタブレットでの作業を切り上げると、リス印のUSBメモリを千束に手渡す。

 

「ウォールナットに任せろ」

 

 どんな仕組みかは分からないものの、とにかく延空木の制御室にこれを持っていけばどうにかなるらしい。

 

「そろそろ着くわよー」

 

 窓のすぐ外に延空木が見える。下から侵攻するリリベルを避けるため、上から直接制御室へ向かう手筈だ。

 

 千束はたきなと田中を促して、ヘリを飛び降りた。

 

「そういえば真島さんって結局どこに……ま、後でいっか」

 

 旧電波塔内のどこにも真島の姿がなかったという重大な情報を、さらりと後回しにする田中に、誰も気づかないまま。



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7話

◇月▼日

 色々、あった。ありすぎた。

 

 真島さんがどっか行ったのと、一番大きなことは千束先輩の心臓だ。ミカ先生が吉松さんからもらってきてくれた。これで千束先輩は大丈夫だ。

 

 田中は何一つ成し遂げられなかった。真島さんを送り出すことも、吉松さんを説得することも、リリベルの人たちをごまかすことも、任せられたことを何もできなかった。

 

 やはり田中の結論は正しい。実践のタイミングを慎重に見極めよう。

 

 

◇月▼日

 素晴らしい事実が判明した。

 

 山岸先生によると、新しい人工心臓は今のより倍以上は長く保つらしい。それだけ時間があれば救世には十分だし、千束先輩のやりたいこともたくさん出来る。もしかすると永久に壊れない心臓が作られて、千束先輩が孫とひ孫と玄孫に囲まれ150歳でたきなに看取られる将来も来るかもしれない。

 

 明るすぎる未来に田中、感無量。

 

 

◇月▼日

 リコリコは今日から通常営業。

 

 千束先輩は急に未来が広がったのにピンときてないみたいで、難しい顔で考え込んでた。でもたきなと話すとすぐに元気になって、「ワイハでも行くか!」と言い出した。クルミちゃんが旅券を作って、明日の健診が済んだらすぐ出発するらしい。

 

 すごく困った。田中も連れてかれちゃう。

 

 タイミングがどうのこうのと言ってられない。明日やるべきことをやってしまおう。

 

 

◇月▼日

 クリーナー、お腹の中身、千束先輩の未来、597名の弔い、日の本の先行き。すべてよし。

 

 この田中に出来ることはもはやない。役割は今日で終わり。

 

 田中は田中を成就する。

 

 長生きしてね、千束先輩。

 

 

 

 

 

◇月▼日

 ・・・

 

 

 

ーーー

 

 

 

 結果として、真島討伐作戦はすべて丸く収まった。

 

 延空木上層部の非常扉から侵入したたきな、千束、田中の三名は、独断で制御室奪還を試みていた春川フキ率いるアルファ隊と合流。電波制御室を無事奪還し、最強のハッカーウォールナット謹製のUSBを端末へ差し込んで、事件とリコリスのカバーストーリーを公共の電波で流布。リコリスとDAの秘匿は守られ、リリベルは任務の意義を失い撤退していった。

 

 戦いを終えたリコリス一行は、制御室から第二展望台への帰路を歩んでいる。

 

「あ、あの! 私たきなにずっと言いたいことがあって……ありがとう、あのとき助けてくれて。それと、ごめん」

「何のことですか?」

「えっ?」

 

 道中、突如としてアルファ隊の隊員──蛇ノ目エリカに謝罪されたたきなは、きょとんとして聞き返した。感謝はともかく、謝られる心当たりがなかったからだ。

 

 同じくアルファ隊、乙女サクラが意地悪げに笑う。

 

「代わりにアンタが追い出されたおかげで、まだDAにいられるんすよ、コイツ」

「ああ、そういうことですか」

 

 たきなは遠い昔のように春のことを思い出す。敵の人質になったエリカを助けるため、たきなは司令を無視して敵を皆殺しにし、その責を問われリコリコへ左遷された。後に組織的な保身も背景にあったと判明したが、そもそもたきなの行動の原因はエリカが人質に取られたことだ。

 

「司令にちゃんと話すべきだった……」

「たしかに。ひどいやつだ」

「えー!? そうだけど、そうなんだけど!」

 

 左遷直後なら思うところもあったろう。しかし新しい居場所を見つけた今では、声にからかいの色がにじむ。エリカにも伝わったのか、眉をハの字にしつつも肩の荷を下ろして安堵したような表情だ。

 

 気安く話していると、たきなは不意に視線を感じる。

 

 振り返ると、田中がいた。ぼっちだった。

 

 一行の先頭でフキと千束が駄弁り合い、その後ろにたきなたちがいて、田中はしんがりで気配を消していた。警戒しているというより、単に寂しそうに俯いて、とぼとぼ歩いている。

 

「田中、こっち」

「……うへ」

「えっ」

「うおお!?」

 

 手招きすると、小走りで寄ってくる。その頭を慣れた手付きで撫でるたきな。へにゃりと笑う田中に、エリカ、サクラは慌てて距離を取った。

 

「た、たきな、危ないよ! その子田中だよ!?」

「そうっすよ、だってそいつ──」

 

 タイミングが良いのか悪いのか、一行は制御室への通路から、第二展望台に差し掛かっていた。

 

 床と展望ガラスは乾いた血液と、未だにぬらぬらと汁気のある臓物に塗れている。死体というより肉塊と呼ぶべき塊が点々と散らばり、その間をリコリスたちが撒き散らした吐瀉物が埋めている。筆舌に尽くし難い猛烈な臭気が鼻をついた。

 

 先頭の千束とフキは顔をしかめ、できるだけ汚れの少ないルートでエレベーターへ向かう。

 

 エリカとサクラはもはや吐くものもないのか、顔を青くして口を抑えるだけだった。

 

「こ、ここをこんなにしたの、ソイツなんすよ? イカレてますよマジで……」

「まあ、若干やりすぎとは思いますが。田中もちゃんと考えてやってるんです。ですよね、田中」

「……うん」

 

 田中は一つうなずいたきり、俯いてUSBを握りしめ、口を閉じる。強い思想を語る気はないようだ。

 

 ある程度田中の考えを理解しているたきなは、目前の惨状を不気味に思う一方、不思議でもあった。

 

 たきなを含むほとんどのリコリスは、射殺や爆殺された死体を前に取り乱すことはない。なのに田中が斬殺した死体には恐怖する。死体が意味するものは同じ「死」であるはずなのに、どうしてこんなにも印象が違うのか。

 

 思案を切り上げて、たきなは一行を促す。

 

「早く行きましょう。長居はしたくありません」

「ええ……」

「たきな、たくましくなったんだね……」

 

 地獄のような展望台を踏み越え、エレベーターに到達。千束とフキと合流する。

 

 後は下へ降りて、それぞれDAとリコリコへ帰投するだけだ。一時出向扱いの田中もリコリコでいいだろう。千束が真島に使った多くの非殺傷弾の費用を考えると、たきなはもう頭が痛くなってくる。

 

「下へ参りまあす。あーっ! 私のバッグ!」

 

 そうしてわずかに気の抜けたタイミングで、エレベーターガールと化した千束が外へ駆け出す。

 

 なぜか、とても不自然なことに、床の汚れていない箇所に横合いからぼとりと、サッチェルバッグが投げ出された。千束はそれを拾い上げ、フキは苛立たしげな声を上げる。

 

「おい、千束ォ……」

「見て、これ。たきなにもらったやつ!」

 

 バッグには、たきなが贈った犬のキーホルダーが付いている。間違いなく千束のものなのだろう。

 

 しかし旧電波塔で落としたそれがなぜここに。

 

 疑問に思うと同時、銃口がエレベーターに向けられる。

 

 真島だ。無力化し、クリーナーに回収されたはずの真島が、悠々と千束に向けて歩きながらこちらへ銃口を──

 

 銃声とマズルフラッシュ。かと思うと、視界が白く埋め尽くされる。

 

「くっ……!」

「うわぁ!?」

 

 防弾エアバッグだ。フキが自身のバッグに仕込まれたそれを展開し、フルオートの射撃を防いでいる。初弾と数発は後ろに抜け、サクラが悲鳴を上げた。

 

 扉が閉まり、射撃も止む。ゴンドラが自動で下へ動き出し、千束と真島が取り残された。

 

「千束ぉっ!」

 

 とっさに開ボタンを連打するも、意味はない。

 

「全員無事か!」

「っぶな! おいコラ! こんな狭いとこで刃物振り回すなよ!」

「えっ、ごめんなさい」

 

 サクラの前に位置した田中が頭を下げている。手にはマチェットが握られていて、サクラの背後に複数の弾痕が刻まれていた。

 

 エアバッグから逸れた弾を田中が切ったのだろう。

 

「サクラ。そいつはお前を守ったんだ。ちゃんと礼を言っとけ」

「えっ!?」

 

 サクラは田中を見、背後のガラスを見る。サクラの体を中心に左右へ偶数個の弾痕が散らばっていた。バツが悪そうに口を尖らせるサクラ。

 

「……助かったっす」

 

 田中はへにゃ、と笑った。

 

 それから間もなくエレベーターが停止し、電力が遮断されたとフキに通信が入る。予備電源でエレベーターは動くものの長くはもたないため、急ぎ下へ撤退するよう指示が下った。

 

 当然、たきなは固辞した。たとえ千束でも、真島を一人で相手取るのはリスクが高い。何しろほんの数時間前、千束の非殺傷弾を体中に撃ち込まれ拘束されたにも関わらずすでに起きて歩いているような男だ。千束なら何とかしてくれると楽観することは到底できなかった。

 

「好きにしろ」

 

 元よりたきなは喫茶リコリコの指揮下で動いているし、与えられた仕事を終えていた田中もそれは同じだ。フキたちに見送られ、二人はエレベーター上部の脱出口から離脱。縦穴から通風孔を経て非常階段へ這い出し、第二展望台へ駆け上がる。

 

 非常扉に鍵がかかっていたが、障害にはならなかった。

 

「えい」

 

 ぎゃり、と耳障りな金属音を響かせ、両手持ちしたマチェットで鍵をドアと壁の一部ごと田中が叩き切る。

 

 扉を開いて中へ踏み入ると、そこは勝敗の瀬戸際だった。

 

 吹き抜けに落下していくスマホに、必死に手を伸ばす千束。その背中に銃口を向ける真島。

 

 千束は視界外からの銃撃は避けられない。

 

 考える前に体が動いた。慣れ親しんだウィーバースタンスから、瞬時に狙いをつけ、引き金を絞る。機械のように精密な射撃によって、真島の拳銃が弾き飛ばされた。

 

「青い方かよ、早かったなァ……!」

「真島さぁん!」

 

 その間にもう、田中は真島に向けて突進していた。身を低く沈め、両手持ちのマチェットを腰だめに構えている。

 

 真島が短機関銃の銃口を向けるが、すでに距離は詰まっている。

 

 田中は突進の勢いそのままに、体を地面と水平にして跳んだ。

 

「先輩の前なので今はこれでっ!」

 

 ドロップキックだった。体をくの字にして真島が吹っ飛び、吹き抜けに落下する。

 

 展望ガラスは防弾ではなくとも分厚い特別製だ。割れて落下死はしまい。

 

 かと思われたが、がしゃん、と破砕音が響く。

 

「あーっ! スマホ落ちたぁ!」

「千束、どういうことですか!?」

 

 手すりから吹き抜けを見下ろすと、割れたガラスの穴に千束が手を伸ばし、悲鳴を上げている。スマホが落ちたらしいが、そこまで重要なことか。

 

「アレないと延空木が爆発するんだって!」

「はあぁ!?」

「おおお落ち着くのです二人とも! クルミちゃんっ、クルえもんに頼めばなんとかなります!」

「クルミっ!」

『無茶言うなよハッキングは魔法じゃないんだぞ!?』

 

 インカムからノイズ混じりの悲鳴が聞こえる。

 

 そのやりとりをあざ笑うように、真島の声が響く。

 

「ハハッ、あと十秒で時間切れだ。どうにかできるならやってみな」

 

 真島は展望ガラスに張り巡らされた骨組みにしがみついていた。たきなに銃を弾かれた方の手はしびれているのか、片手一本で宙吊りになっている。その下には奈落のような闇が大口を開けていた。

 

「真島さんっ!」

「真島ぁ!」

 

 田中が吹き抜けに降り立ち、千束と共に真島へ近づいていく。もう片方の手を出せというように手を差し伸べるが、真島は口角を釣り上げ獰猛に笑う。

 

「じゃあな」

 

 あ、と声を上げる間もなく。

 

 手が骨組みを離れ、真島は奈落へと姿を消した。

 

 事態を受け止めきれず、固まる三人。そうしている間にも時間は流れ、爆破予定時刻となる。

 

 延空木の周囲に、大輪の花火が咲いた。激しく、しかしどこか牧歌的な爆発音が耳に響く。

 

『……完成セレモニー用の花火を爆弾に見立てていたようだ』

「あんにゃろー……」

 

 爆破を騙ってまで千束と二人きりで、何をしたかったのか。たきなには、真島の真意は図りかねる。

 

 ともあれ、延空木と真島をめぐる一連の事件は、こうして終幕を迎えたのだった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

ーーー

 

 

 

 喫茶リコリコ、深夜。

 

 もうじきてっぺんを回ろうかという時間帯、店長のミカを除くリコリコメンバーが総出で帰還した。

 

「ああー疲れた……もう動けん……」

「ち、千束? 大丈夫ですか? まさか心臓がもう……」

「だーっ、普通に疲れただけだっつーの!」

「ボクも疲れた。田中ー、何か甘いものをくれ」

「ぶはーっ、仕事終わりの一杯は格別だわ!」

「クルミちゃんはホットチョコの残りで、ミズキさんのツマミはウインナーでいいですかね?」

「うむ、頼むわ」

 

 真島討伐作戦を終え、やっと帰ってこられた。ミズキがウキウキと一升瓶を取り出し、田中は厨房で甘いものとウインナーを用意して、カウンターへ置く。たきなは千束のそばでおろおろと胸に耳を当てようとしている。

 

 リコリコの日常が戻ってきた。千束は座敷に寝っ転がって、ほっと息をつく。

 

 色々なことがあった。吉松との対立、真島との対決、リコリスの隠蔽とリリベルとの対峙。

 

 真島の計略で全国報道されたリコリスだが、クルミとラジアータの情報操作によって『延空木完成を記念し今冬公開予定の、女子高生たちが延空木内で謎のクリーチャーに遭遇するゴア描写マシマシの新作映画のプロモ映像』だったことにされた。表向きは都の予算でグロ映画を作っていたことになるので、現時点で都庁はクレームでパンク状態になっているらしいが、クルミは「知らん」とにべもない。

 

 その後、千束との戦闘の末延空木から落下した真島だが、結局死体は見つからなかったそうだ。どこまでもしぶとい男である。

 

 真島の真の目的だった「DAによって保たれる平和の破壊」は、阻止された。あの映像が本物だったと気づいている少数の日本人に、疑念の種を植え付けたことで、依頼は達成されたとは本人の談だが、そこまでは千束の与り知らぬことだ。

 

 DAの事後処理が落ち着けば、真島を取り逃がしたことで楠木司令が苦情を入れてくるだろう。目に見えた展開だ。千束の頬が緩む。

 

「たきな、人前で乳を触るなってば」

「動いているか確認しないといけません」

「耳当てても分かんないでしょー?」

「だから余計に確かめないといけないんです!」

「ちょ、ちょいちょいっ、動くなくすぐったいってぇ!」

 

 たきなとじゃれ合っていると、リコリコの扉が開く。

 

 最後の一人、ミカが帰ってきた。ひどく沈痛な面持ちをしている。片手に杖、もう一方の手にはやけに見覚えのあるケースが──

 

「せ、先生? それ──」

 

 それは、吉松が持っていた、人工心臓を収めたアタッシュケースだ。

 

 ミカはケースをカウンターに置くと、平坦で、しかしどこか強い感情を押し込めた声音を絞り出す。

 

「千束。二年後、手術を受けるんだ」

「え、いや、なんで、それ……」

「シンジとは──吉松とは、縁を切った。もう二度と会わない、と約束させた」

 

 リコリコに重たい沈黙が満ち、千束は胸が張り裂けそうな気持ちだった。

 

 ミカは、千束が生き方を自分で選ぶことを良しとした。吉松は、千束が殺しの才能を生かした生き方をするよう望んでいた。きっと二人は対立し、口論になって、その末に心臓を譲り受けたのだろう。

 

 自分のせいで仲違いをさせた。

 

「千束」

「千束先輩」

 

 目を伏せる千束の両手が、左右から握られる。たきなと田中だ。相棒と後輩のぬくもりを受け、沈んだ心が持ち直す。

 

「ありがと、たきな、田中」

 

 落ち着いた気持ちで、ミカと向き合った。

 

「分かった。吉松さんとケンカしてまで、先生が手に入れてくれたんだもん。新しい命、使わせてもらうね」

「……ありがとう」

 

 声を張っているわけではない。むしろ声量は囁き声に近いにも関わらず、その一言の節々から迸る強い思いに、千束たちは圧倒された。一体吉松とどれほどの苛烈な口論(・・)を経て袂を分かったのか、千束には想像もつかない。

 

 が、それでも千束の行く末を案じる気持ちだけは、何よりも明瞭に伝わっていた。

 

「それはこっちのセリフ! ありがとう、先生」

 

 微笑むミカと見つめ合っていると、千束は照れくさくなり、顔を逸らす。

 

「たきな、たきな!」

「田中、田中っ!」

 

 相棒と後輩が手を取り合って喜んでいる。ミズキはうまそうに一杯飲み干し、クルミはホットチョコを頬張りながら不敵な笑みを浮かべていた。自分よりも周りの方が喜んでいるようで、千束はなおさら照れくさい。

 

「嬉しそうにしちゃってまあ……そだ、田中。ちょっとそこに立って」

「はい?」

 

 ふと思い出して、千束はスカートのポケットに手を入れる。その中身を田中へ放り投げた。

 

 田中は飛んでくるものを無意識に切る習性がある。千束の目にすら映らない高速でマチェットが振るわれ、それは真っ二つに断ち割られた。

 

「な、何です今の? あっ、フクロウ!」

「千束、いいんですか?」

 

 あわてて田中が拾い上げたのは、フクロウのチャームだった。アラン機関の支援を受けた証。吉松との唯一のつながり。たきなと田中は目を丸くしていた。

 

「いいの。ヨシさんとはもう会わない。そうなんでしょ、先生?」

「ああ」

 

 縁を切った、約束させたとミカは言った。千束はその言葉を信じているし、旧電波塔でのやり取りを経て、分かり合えないことは痛いほどに理解できた。

 

「決別、ってやつ」

 

 吉松との縁はこれで終わり。

 

 田中が守った残り二年と、ミカが勝ち取った新しい命で、千束は新しい人生を歩む。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 千束の人工心臓のメンテナンスと充電を担当する山岸に、新たなそれを検めてもらうと、大幅に耐久性が向上していることが分かった。従来品の倍以上保つらしい。

 

 そう聞いても千束にはぴんと来ない。あと二年と割り切っていた命が、二十年以上に延長されたことを、どこか他人事のように受け止めていた。

 

 どんな顔をすればいいのか分からない。そんな気持ちが顔に出ていたのか、たきなと田中が左右に寄り添ってきて、口々に言った。

 

「今まで諦めてきたこと、全部すればいいじゃないですか」

「そうそう。先輩は思うがままに生きる。やりたいこと最優先で」

 

 諦めてきたことを全部、思うがままに。そんなふうにしている自分を想像すると気分が上向いてきて、ウキウキとワクワクが溢れんばかりに湧いてきた。

 

「ワイハ行くかぁ!」

 

 南国へ喫茶リコリコの出張店舗を開く。現地でカフェと人助けの仕事をやりつつのんびり過ごす。今までのようにやりたいこと最優先で濃密に過ごすのも悪くないけれど、せっかく時間があるのだから、ゆっくり生きてもいいかもしれない。

 

 リコリコメンバーは唐突な提案に戸惑いつつも、全員賛成。クルミが人数分の旅券を確保し、出張の段取りが整っていく。

 

 人工心臓は万が一にも紛失しないよう、地下に新設した堅牢な金庫に安置された。どれほど堅牢かというと、戦車でも破壊できず、田中の両手持ち攻撃でも切れない代物だ。解錠には六桁の暗証番号二つに加え千束とミカの指紋と虹彩認証が必要という徹底ぶり。むしろうっかり開け方を忘れて困りそう、と千束はひそかに思っている。

 

 こうして新たな門出を迎える千束だが、すべて順調とはいかなかった。

 

「なんだよ田中ァ、行かないの?」

「ちょっとどうしても外せない急用が……すみません。用が済んだら合流します」

「待ってますから」

 

 田中は出発の二日前、同行をキャンセルした。それなら全員合わせるかとクルミが提案するも、「それは申し訳ないので」と強く固辞され、田中以外で先に発つこととなった。

 

 そしてもう一つは、千束の定期健診。現行の人工心臓のメンテナンスと充電に際してだ。

 

 心臓に関することは万事問題なかった。しかしそれとは別に、極めて重大な情報が発覚したのである。

 

 診察室、レントゲン撮影した心臓の状態を山岸が説明していたときのことだ。

 

「現行の心臓は今のところ健在よ。最長で二年、激しい運動を毎日やっても一年半は確実に保つわよ」

「なかなかしぶといですなぁ、ヨシさん」

「執刀医はそっちで用意してるのよね? 至れり尽くせりじゃない」

「そうなのよー、気が早いっての」

 

 すでに執刀医はクルミが手配しており、向こう二年間のうち必要が生じれば、最優先で千束の手術を執刀する内容で契約しているらしい。千束が生きるために盤石の態勢が整っている。千束からすればちょっと大げさじゃないか、と思わないでもない。

 

 それを聞いた山岸は、ほっと息をついた。

 

「これでようやく、あの子の無茶振りも落ち着きそうよ」

「あの子って?」

「田中のことよ」

 

 頭が痛そうに眉間をおさえ、長い長いため息をつく。

 

「あの子はほんっとうに、毎年毎年……何回ひっぱたいてやろうかと思ったか」

「え、何? なんで?」

「『千束先輩に田中の心臓をぶち込むにはどうすればいいのです?』ってよ。しつこく聞いてきてたのよ、あいつ」

 

 絶句している間に、山岸はつらつら語った。

 

 田中は数年前、どこで聞きつけたのかは分からないが、千束の人工心臓のメンテナンスを担当する山岸に相談を持ちかけてきた。今の心臓が耐用年数を迎えた後、自分の心臓を移植するにはどうすればいいか、と。

 

 荒唐無稽な話だった。大前提として移植には移植を受ける患者の合意が必要になる。千束が合意するはずはないので諦めるのよ、と山岸が言うと、

 

『いざとなったら不意打ちで昏倒させるからじごしょーだくでおっけーです!』

 

 と田中は答えた。

 

 百歩、いや千歩譲って事後承諾だとしても、心臓のドナーになりうるのは脳死判定を受けた患者だけで、生体移植などありえないと反論すると、

 

『田中はどこをどう刺せば人が死んだり生きたりするか知っています。その気になれば、意図的に脳だけを死なせることもできるのです!』

 

 と、答えた。つまりいざとなれば、自傷によって脳にダメージを与え、無理やりにでもドナーになると。

 

「追い返したのよ、そんときは。医者をナメんなって言ってよ。そしたら次の年も同じ話をしにきて、その次も……まあ根負けよ」

 

 山岸は、田中に心臓移植に関する簡単な教えを授けた。実際の事例、脳死判定の詳細、費用。言うことを事細かに、前のめりになってメモを取る姿勢に山岸は絆された。医院で出来る範囲の適合条件をテストし、田中の心臓はドナーとしての医学的諸条件を満たすことが分かった。

 

 それを契機に、田中の計画──本人いわく「千束先輩に心臓をぶち込む最高で完璧な計画」は具体性を帯びていった。去年の千束の誕生日以降、DAの楠木司令にも相談。腕のいい医者と設備の整った病院を手配できないかと持ちかけ、「前向きに検討」の一言で躱されていた。

 

 十一月前後には、必要な費用が用意できた、と連絡があった。移植は国外で行えば数億はくだらないが、国内でドナーが見つかれば数百万で済む。リコリコの余剰資金と田中の給金を合わせれば足りる額で、もし足りないなら『何でもして』補う、と田中は意気込んでいた。

 

 が、金とドナーを用意しても、患者の合意と生体移植の壁は超えられない。

 

 その点をいかにクリアするかと悩んでいた折、真島事件が発生。

 

 様々ないきさつで人工心臓が手に入り、千束は今後数十年は元気に過ごせる。田中のはなから無謀な計画は完全に頓挫したため、山岸も心置きなくネタバラシ出来たのだという。

 

 千束はゆっくり、じっくりと後輩の考えを受け止めていく。

 

「ふーん、なるほど……私が襲われた日、医院に居たのも?」

「そ、口説かれてたのよ。事後承諾で生体移植してくれるブラックジャックを紹介して、ってよ。アホかって話よ」

「ほっほーう」

 

 千束の声が一段、低くなった。

 

 山岸の言うとおり、田中の計画は荒唐無稽で無理無茶無謀でアホそのものだ。

 

 それでも千束には、田中が微塵の疑いもためらいもなく、百パーセント本気で動いていたことが分かった。正しいと思えば一直線、やりたいこと最優先の千束をしてちょっとは落ち着いて考えろ、と思わざるを得ない暴走特急の後輩。悪気なく、先輩をただ助けたいからと必死だったのだろう。

 

 だからこそ、千束は田中が腹立たしい。自己犠牲を本気で企んでいたことが。

 

「田中ァ……!」

 

 ハワイ行きをキャンセルした理由も分かった。計画が立ち消えて口が軽くなった山岸から今日話が漏れ、千束が怒ると考えたのだろう。つまり、田中は怒られたくなくて逃げているのだ。

 

 怒る理由が増えた。

 

「あの子、私が怒っても聞かないのよ。一回お灸を据えといてくれる?」

「おまかせあれ」

 

 悪い笑みの山岸と結託し、千束は困った後輩への怒りを研ぎ澄ませる。とりあえず、出会い頭に組伏せてお尻百たたき、と心に決めた。

 

 その決意を胸に、ミズキの車で店へ舞い戻る。

 

 だがしかし、田中の逃げ足は速かった。

 

「お待たせしましたぁー! みんなの千束ちゃんが帰ってきましたよー! そして田中ァ! 隠れてないで出てこいやぁ!」

「あっ、千束ちゃん。おかえり」

「おかえりなさい!」

「おかえり。田中ちゃんはまた何かやらかしたのかい?」

 

 愛しいリコリコへ帰りつき、ぶっ壊す勢いで扉を開けると、常連客たちが歓迎してくれる。ミカもにっこりとほほえみ、付き添いのたきなも嬉しげで、ミズキもうるさそうにしながら笑っている。

 

 しかし田中の姿はどこにもない。クルミもいないが、この時間ならまだ寝ているのだろう。

 

「たっだいまー!」

 

 常連たちへ一人ひとり絡んでいく。

 

 ひとしきり店内を駆け回ると、手でひさしを作り、中二階から肝心のターゲットを探しにかかる。

 

「で? 田中の小娘はどこに隠れてんのかなー?」

「ああ、田中なら今朝早くに出かけたみたいですよ。例の急用でしょう」

「は?」

 

 逃げやがった。

 

 百叩きじゃすまさねえぞと決意を新たにしていると、たきなにも言うべきことがあると思い至る。奥の座敷、クルミの押し入れがあるスペースに連れ込んで、声をひそめる。

 

「たきな。何か謝んなきゃいけないことあるよね?」

「……え? 何の話ですか?」

 

 白を切るたきなに、良い笑顔で千束が迫る。

 

「田中の心臓、私に入れるつもりだったんでしょ?」

 

 思い出すのは旧電波塔で、退いていく吉松を追撃しようとしたたきなに、田中が長い耳打ちをしていたこと。おそらく田中はあのとき自身の計画を打ち明け、千束が助かるならとたきなは納得したのだろう。

 

 だとすれば千束は気分が悪い。計画の強引さもそうだが、何より田中を犠牲にすることにたきなが納得したのだとしたら、甚だ腹立たしい。

 

 犯人を追い詰める探偵のように説明していく。すると、次第にたきなの顔から表情が消え、般若もかくやな形相に変じる。

 

「なんですか、それ」

「た、たきなさん? もしかしなくても、怒ってます?」

「当たり前ですっ! そんな無茶苦茶な計画聞いてません! ていうか千束は、私がそんなのに賛成したと思ってたんですか! ふざけないでください、田中と千束のどっちかなんて選べるわけないでしょう!」

「そ、そっか……じゃあ、あのとき田中はなんて言ってたの?」

 

 田中の計画は本当に知らなかったらしい。怒り心頭のたきなの声は客席にまで届き、常連客たちが目を丸くしていた。

 

 だとすればあの耳打ちはなんだったのかと聞くと、

 

「楠木司令と山岸先生のコネで、心臓のドナーと医者とお金はもう全部用意してあるから、安心しろって……千束が移植に合意する見通しも立ってるからって……他でもない田中が言うから、信じたんです……」

 

 千束の怒りゲージが一段階上がった。

 

 つまり田中は例のアホな計画のうち、もっとも重大な部分をボカシて伝えたのだ。すなわち、ドナーとは田中であることを。

 

 千束とたきなはしばし見つめ合うと、固く手を取り合った。二人の心は、あの田中とかいう困った生き物をお仕置きしたい一念で完全に一致している。

 

 たきなの怒声が効いたのか、押し入れが開いてクルミが起きてきた。寝起きのぼさぼさ頭だが、目つきは鋭く、手元の小さな何かを睨みつけている。千束とたきなはそれを認め、目を見張る。

 

「クルミ、おはよー」

「……ああ、おはよう千束、たきな」

「おはようございます。それ、田中のですよね。なぜクルミが?」

「分からん。今起きたら枕元に、書き置きと一緒に置いてあった」

 

 クルミが持っているのは、メモ用紙と黒い円筒形のUSBだった。

 

 それと共にクルミが差し出してきたメモ用紙を見ると──千束は言葉を失った。驚愕のあまり何も言えなくなる。

 

『このデータを悪くないように扱ってください。お手数ですが、どうかよろしくお願いします』

 

「あいつはこういうことをするヤツだったか?」

「ううん、ない。絶対ない」

 

 田中は死人を忘れない。それを記録したUSBは、防水をしっかりしているからといって風呂場にも持ち込むほど大切にしている。相手がクルミとはいえ、他人に渡すはずがない。

 

「あいつは今朝ここを出たんだよね?」

「は、はい。三時間ほど前です」

「待って……あーもう、スマホ通じないし! もしもしフキ?」

 

 スマホですぐに連絡を取るも、電源が入っていないらしい。矢継ぎ早にDA本部の友人、フキに連絡する。

 

「そっちに田中行ってない?」

『あ? 来てるわけないだろ。居れば騒ぎになってすぐ分かるからな。何なんだ突然──』

「ごめんっ、緊急事態っぽいから後で!」

 

 通話を切る。

 

 リコリコメンバーはミカをカウンターへ残して、後の四人は奥へ集合。顔を突き合わせる。

 

「うちのペットが逃げたんだけど!」

 

 田中は失踪した。 

 

 

 

ーーー

 

 

 

 同時刻、都内某所、廃ビルの一室。

 

 田中はむき出しの荒れたコンクリート上に正座し、下着姿になっていた。傍らにリコリスの赤服が丁寧に折りたたまれており、正面には愛用のマチェット、太郎と次郎が抜身で置かれていた。

 

「クリーナー、よし。USB、よし。お腹の中身、よし。千束先輩の将来、よし。日の本の太平、よし!」

 

 日記帳を開き、丁寧な指差し確認。それが済むと服の上に日記を置いて、太郎と次郎を逆手に持ち、切っ先を腹部に向ける。

 

 やるべきことはすべて終わった。後は使命を果たすだけだ。

 

 日の本を太平へ導く本当の道を見つけた田中に、葛藤や躊躇は欠片もない。気分は晴れ晴れとして、世界のあらゆるものが尊く輝いて見える。自身の行動がもたらすバラ色の未来が目に浮かぶようだ。

 

「痛ましかれかし、惨かれかし」

 

 慣れ親しんだ言葉を最期に言い遺し。

 

 田中は切腹した。



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8話

 夢を見ている。田中が二歳か三歳の頃の、覚えている限りもっとも古い記憶だ。

 

 場所はおそらく鍛冶場。熱い火を噴き上げる炉がすぐ近くにあって、赤熱した二本の刃物に、汗みずくの男たちが槌を振り下ろしていた。

 

 田中の目の前には、腹を開かれた妊婦がいる。羊水と血の混じったどろどろした液体の中に、双子の妹たちがうずくまっていて、田中は誰かに何かを言われ、妹たちへ刃物を振り下ろした。

 

 妊婦は血の泡を吐きながら、

 

「痛ましかろう、惨かろう。たちまち肉は腐れ落ち、蛆が湧き、瘴気と疫病(えや)みを撒き散らしおる。これが死である。死をひさぐ我々こそ、死のかくあるべきことを忘れてはならぬ。痛ましかれかし、惨かれかし」

 

 そう言って、息絶えた。

 

 すると、刃物を鍛えていた男たちが割り込んできて、妊婦の腹の中で死んだ妹たちを取り上げる。腹部からこぼれる未発達な小腸は、絹糸のようだった。

 

 鍛冶台に乗せた妹たちに、男は灼けた刃物を突き立てる。じゅっと音が鳴って、肉の焼ける匂いがした。

 

 次に男は、血と肉片のこびりついたその二振りの刃物を、田中に向ける。額に汗して誇らしげに笑いながら、

 

「おめでとう、我が娘。今日よりお前は田中である。姉妹ともども、日の本に尽くせ」

 

 田中の腹に刃を刺し、引き抜いた。

 

 呼吸もできない強い痛みと熱さの中で、灼けた刃の上に自分の血肉と、妹たちのそれが混ざり合っているのが見えた。

 

 こうして田中は田中になって、大切な家族を得た。昨日のように思い出せるいつかの記憶。

 

「わたし、にしきぎちさと! あなたは?」

 

 次の記憶は、花が咲くような笑顔の幼女から始まる。

 

 その幼女の名前があまりにも素敵で、田中は名乗るのをためらった。比較するほどの知識がなくとも、なんとなく平凡な響きがあるのは分かっていた。

 

 けれどちさとは、恥じらいながら名乗った田中に対し、

 

「すっごくすてきななまえだね! なんかほっとするっていうかー、ふつうっていうかー」

 

 田中は、自分の名前が大好きになった。その子のことも大好きになった。

 

「いたましかれかし、むごかれかし。しをひさぐ田中がひのもとをたいへいにみちびく。かばねの山にむくいるために」

「??」

 

 田中は自分の言っていることの意味が分からなかったし、幼女はもっと分からなかったのだろう。しきりに首をひねっていた。

 

「たいへーって何? ひのもとって?」

「へーわ。あと、やさしい。ひのもとは、せかい」

「それ、すごいね。へーわでやさしいせかい!」

「すごい? みたい?」

「みたーい!」

 

 きっと、お互いに深い考えは何一つなかった。正しく意味を共有できているかも怪しいやりとりだった。

 

 それでも田中は、嬉しかった。意味も分からない自分の理想が肯定された。そのために生きようと本気で考えるようになって、誓いを立てた。

 

 田中の理想を追究する。

 

 そして初めて肯定してくれたこの人に、理想の世界を見てもらうのだと。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 目を覚ました田中の視界に広がったのは、二人の美少女の心配げな顔だった。

 

 体が重く、動かしにくい。白い壁とシーツ、点滴の台と心電図が見え、病院のベッドの上だと分かった。

 

 美少女のうち一人は、夢に出てきた幼女をそのまま成長させた外見をしていた。

 

「ごめ……なさい。ちさと、せんぱい……」

「……っ! 謝るなら最初からやるなっての……!」

「先生を呼んできますっ!」

 

 田中のもっとも敬愛する先輩である、千束。もう一人の黒髪美人は仕事の同僚、たきなだった。

 

 たきなは俊敏に退室すると、ほんの三十秒とかからず白衣の女性を連れて戻ってきた。その女性はよく心臓のことで相談していた女医、山岸だ。

 

 山岸は田中の瞳孔に光を当て、見当識を確かめ、おおむね問題ないと見るや淡々と現状を説明していった。

 

 田中は腹部の刺し傷により一時生死の境をさまよい、三日間眠っていたこと。ここが都内の病院であること。傷は残るが、奇跡的に後遺症もなく完治するだろうことなど。

 

 セリフを読み上げるような山岸の言葉を聞くうち、徐々に意識がはっきりしてきた。すると唐突に、猛烈な焦燥が身を焦がす。

 

「た、太郎と次郎はっ!? 田中の家族はどこですか!?」

 

 腹を痛めて産んだ二振りの妹が手元にない。病室の見える範囲にもない。

 

 腹部の激痛を無視し慌てて起き上がろうとすると、千束に肩を抑えられる。

 

「落ち着いて。リコリコで預かってる。ロッカーの鍵はここ」

「よかったぁ……」

 

 田中が持ち歩いていた鍵は、千束の指に引っ掛けられている。手元にないのは寂しいものの、場所さえ分かれば不安も和らいだ。

 

 安堵すると、たきなが俯いて、肩を震わせているのに気がついた。

 

「よかった……? 何がよかったっていうんですか?」

 

 山岸は気まずげに目をそらし、「一応患者だから、暴力は厳禁よ」と言って逃げるようにそそくさと出て行った。

 

 そのときやっと気づく。千束の表情から感情が抜け落ちていること。俯くたきなが拳を強く握り、目元を光らせていることに。

 

「ああ……良くはねーですね。仕留め損ないました。一生の不覚なのです」

「田中ァ、お前──」

「ふざけないでくださいっ!」

 

 千束を遮り、たきなが前に出る。ベッドに両手をつき、田中に詰め寄った。

 

「クリーナーに依頼した上で自殺って、ありえないでしょう!? なかったことにしていい命はないって、そう言ってたじゃないですか! 何考えてるんですかっ!?」

 

 初めて見る形相のたきなを見上げながら、そうだった、と田中はぼんやり思い出す。

 

 田中はクリーナー──死体を含む事件の痕跡を処理する業者に依頼を出した。女子高生一人の死体、すなわち割腹自殺した田中を片付けてもらえるように。そうして誰からも忘れてもらえるように。

 

 田中は人体の急所を知悉している。まずは太郎にて腹を一文字に裂き、次に次郎で腹部大動脈をえぐり、確実に死ぬつもりだった。

 

 しかし、使い慣れたはずの二振りの刃先は不可思議に狙いを逸れ、一つは腹膜をかすめるように背へ突き抜け、もう一つは横隔膜をわずかに切りつけた。そのためすぐに呼吸困難に陥り、やり直しの力もないまま這いつくばってしまった。

 

「クルミが見つけてくれなかったら死んでました……! 本当に何のつもりだったんですか!」

 

 はて、と内心で首をかしげる。スマホはリコリコに置いてきたし、都内のカメラも避けたのにどうやって、と。

 

 考えても分からないことを考えていると、千束が口を開く。

 

「田中。知ってるよな? 私は命を粗末にするやつは嫌いだ」

「そう見えますよね」

「だけど実際は命を大事にしてるって、また理屈こねるんだろうけど──」

「いえ、粗末にしてるのです、実際。認めます。でもそれが田中の使命です。田中は太平へ至る真の道を知った。知った以上、それに準ずる行動を取るのが田中である」

 

 千束は、実に頭が痛そうに額を抑え、大きくため息をつく。

 

 たきなも同じようにして深呼吸すると、千束と顔を見合わせてから、田中へ向き直る。

 

「分かりました。聞かせてください、田中の考えてることを」

 

 田中は心が軽くなった。たきなはいつだって逃げたり怯えたりせず、正面で腰を据えて話を聞いてくれる。だから田中は気兼ねなく、田中を伝えることができる。

 

「田中は重大な過ちを犯していた。悪の秘密結社を倒したとて八千代の太平は訪れない。重要なのは悪を討つのではなく、人類の理解と人心の救済であった。優しさと思いやりの生物である人類が、不和と対立、猜疑と不安に支配され悪を成している現状に、結社の作為を見出せることは周知の事実である。人々は結社の洗脳によって善性を失い、我欲のために他者を害することを是認し、罪人へ堕ちる。しかしそうであるなら、結社は何者に洗脳されたのか? 無辜の民を洗脳し凶行へ走らせる巨悪を、何者に指示されて行っているのか? ここに及んで更なる上位の悪を仮定するのは、突飛にして蒙昧な陰謀論と言う他ない。天地逆転がごとき世界観の転換を伴うものの、論理的な思考における答えは唯一つである。人は、悪になりうる。結社のなき時代に悪を犯した最初の数人と、この時代においてもごく少数の人間は、何者に唆されることもなく自然の成り行きとして悪に堕ちる。悪の秘密結社の正体とは、人にあらざる悪意の集合や怪物などではなく、悪に堕ちた人そのものであった。矛盾なき論理の導きとはいえ疑念を禁じ得ない驚天動地の結論ではあったが、千束先輩に狼藉を働いたかの女がたしかに血の通った人間であった以上、認めるより他はない。さにあらば、今日(こんにち)の世界を支配する結社を仮に絶滅させたとて、やがて第二第三の結社が生まれ堂々巡りの陥穽に陥ることは明白である。したがって、結社を討つことに意味はなく、罪人を処刑するDAもまた恒久の太平に貢献しえない。その点は田中が十年間に積み上げた五百余りもの(かばね)が証明している。むしろいたずらに命を散らすことで憎悪と報復の連鎖を促し、世を乱す結果となる。ここに求められるは対症療法にあらず、人の世の根本治療──すなわち、人心の救済である」

 

 言葉を切った。千束は分かったような分かってないような顔でうなずいている。たきなはしっかりと理解しているようで、早く続きをと目で促してくる。

 

 人が善性だけの生き物でない以上、結社を潰してもまた新たな結社が現れる。

 

 本当に必要なのは、人を導き、救うことだ。

 

「善悪併せ持つ人々の心は均衡を保ち、故あって一方へ傾く。生まれついた環境、貧困、差別、迫害、戦争、飢饉。世に跋扈する理不尽と不条理がゆとりを奪って悪へ誘い、一度悪性に浸った心は善性を取り戻すこと叶わず、結社の手先に堕ちる。これを防ぐもっとも確実な手立ては不条理と理不尽の排除であるが、それらなくして人の世は成り立たないのは明らかであり、根拠なき理想論と言わざるを得ない。反面、もっとも現実的かつ建設的な手立てこそ、導きと救いである。善性と気高さに満ちた優れた人格者によって人々の心を正しい方向へ導き、たとえひとたび道を誤ろうと、寛容と慈愛の手を差し伸べ、悪性の落とし穴から救済する。現人神の所業である。無論、女神とはいえ個人である以上救える範囲は限られる。だがまったくそれで良い。衷心からの優しさと思いやりは人の心を打ち、波紋のように伝播していく。女神がただ生きて存在しているだけで、世を形作る人心は善性へ傾き、やがて日の本のみならず世界の端々まで太平が満ちるであろう。そして女神の名前こそ、誰あろう、錦木千束その人である」

「……ん? 私ぃ?」

「なるほど」

「えっ、納得してる? たきなさん?」

 

 困惑する千束に、田中は強く射抜くような視線を向けた。

 

「以前、言った。錦木千束の才能、役割、使命は錦木千束だと。千束先輩はただ思いのままに生きてほしい。それのみで多くの心が救われる」

「お、おう……」

「事実として、田中は二度救われた。一度目は十年前。二度目は昨年の晩夏。正しい道を示してくれたものは、おっぱいであった」

「なんて?」

「おっぱいであった。おっぱいが、救済こそ太平の道なりと」

「おっぱいが?」

「おっぱいが、蒙を啓いた」

 

 何とも言い難い空気が病室に満ちる。

 

 思い当たる節があったのか、千束は耳まで赤くなった。

 

「人の乳でどんだけ悟ってんだお前は!?」

「千束……胸に哲学書でも詰めてるんですか?」

「んなわけあるかぁ!」

 

 千束は全力でツッコんだ。当人には分からないだろうが、田中にとって千束の乳房は確かに宇宙だったのだ。

 

 緩んだ空気を引き締めるように、たきなは一つ咳払い。

 

「んんっ。考え方を変えたのも、千束が女神なのもまあ分かりました。でもそれがどう自害につながるのか話が見えませんね」

「そうだそうだ!」

 

 田中は数秒考え込んで、結論から入った。

 

「田中が使命を果たすためである。田中は永久(とこしえ)に続く日の本の太平を実現し、過去に築かれた屍の山に報いることを使命としている。先に述べたおっぱいの預言により、太平の実現には千束先輩の生存が必要不可欠と確信し、かねてよりの腹案であった心臓の生体移植計画を水面下で進めていたものの、ミカ先生の果断なる行いによって千束先輩の長寿は約束された。もはや田中の愚考など必要なく、千束先輩が生きている限りいずれ日の本は太平に至る。この尊い道程に田中が入り込む余地はない。なぜならこの田中はすでに壊れているからだ。死を(ひさ)ぐほかに能のない、暴戻無道の廃疾者、それがこの田中である。千束先輩のごとく人心を救うなど、獣が空を飛べぬがごとく、鳥が宙へ至れぬがごとく、この人非人には望むべくもないのだ。日の本の太平に貢献できぬ以上、この田中に価値はなく、されば速やかに腹を切り使命に殉じるが筋の通った行いである。以上、事理明白な帰結で……ある……のです、よ?」

 

 結びの言葉が尻すぼみになっていった。千束の顔からまたも表情が抜け落ち、たきなに至ってはどこか殺気のある真顔になっているからだ。

 

 中盤までは良かった。ただ、後半になるにつれて少しずつ二人の怒気が増していった。

 

 田中には、これ以上に噛み砕いて説明する力がない。おっぱいをきっかけに本当にやるべきことを悟り、でも自分にそれができないのは分かりきってるから自刃する。もちろん絶望して自暴自棄になったわけではなく、救済の化身こと千束に希望を託して果てるのだ。どこまでも正しく、胸を張れる行いだ。

 

 千束とたきなは、同時にため息をついた。

 

「田中ァ」

「田中」

「はい?」

 

 分かってくれた。納得してくれた。田中は優しい言葉を期待して顔を上げ、

 

「シバくぞ?」

「ぶっ飛ばしますよ?」

「なんでぇ!?」

 

 大いに混乱した。

 

「いやー、うん、私に色々期待しすぎだろってツッコミは一旦置いとくな? それよりまず……ちょいちょい、たきなステイ!」

「一回ビンタします止めないでください」

「ここ病院だぞ!?」

「ひええ!?」

 

 真顔でいきりたつたきなに、田中は心底戦慄した。やはりこの世は理不尽と不条理ばかりである。

 

「撤回してください。田中が壊れているだの廃疾者だの……挙げ句のはてに、使命を果たせないから自刃する? 吉松と同じっていうかもはやそれよりタチが悪い」

「タチが悪くても……それが、この田中の幸せです」

「田中!?」

 

 もはや話は通じない。田中は点滴を抜き、体中が発する痛みと息苦しさを無視してベッドから降りた。

 

「幸せは当人が決めること。田中は腹を切り、使命に殉じて幸せになるのです」

 

 千束が苦々しげに眉間にシワを寄せた。

 

 吉松は、千束の幸せは殺しをすることだと言った。しかし何が幸せなのかは本人だけが決められるものだ。

 

 田中にとっての幸せは、

 

「日の本の太平と安寧、そして死者への報い。そのために血の一滴、骨肉の一片までも捧げてみせる」

 

 家族と一緒に使命を果たす、ただその一念のみである。

 

 窓際に歩み寄り、窓を開ける。冬の冷たい空気が肌を打つ。下を見ると、そこそこに地面は遠い。三階ほどだろう。

 

 たきなと千束は目つきを鋭くして、リコリスの鞄に手をやっている。

 

 田中は構わなかった。たきなの9ミリ弾はもちろんのこと、今の容態では千束の非殺傷弾でさえ致命傷になりうる。二人は撃たないだろう。

 

 田中は窓枠に足をかけつつ、千束に手を差し出した。

 

「千束先輩。ロッカーの鍵、ください」

「いや、渡すわけ──」

「何でも一つだけ言うこと、聞いてくれるんでしょ?」

 

 千束は「あっ」と声をあげた。今思い出した、というように。

 

「本当は二年後、田中の心臓を受け入れてって言うつもりでした。でもその必要はなくなった。田中のわがままに使います」

 

 田中の頭に、輝かしい逃走プランが浮かび上がる。鍵を受け取り、窓から飛び降り、着地してリコリコへダッシュ。到着次第ロッカーに保管した家族を回収し、邪魔にならない場所まで移動して、切腹。クリーナーは呼べそうにないので土の上が望ましい。

 

 早くくださいと言わんばかり、改めて手を突き出す。

 

 千束は渋々、胸ポケットに入れていた鍵を取り出し──

 

「よーし動くな田中ァ」

 

 その鍵に、45口径の銃口を突きつけた。たきなは目を見張り、田中は頭が真っ白になる。

 

「ちょっとでも動けば鍵をぶち抜くぞー。そしたら太郎と次郎とはもう二度と会えないなぁ?」

「えっ、千束? そんな脅し通じるわけ──」

「やめてぇ! 家族は一緒じゃねーとヤダ! 何でもするから許して!」

「ええ……」

 

 田中は屈服した。あわあわと手を上下させ、涙目で膝をつく。

 

「よーしベッドに戻れい。ほんでケガが治るまで大人しくしな。いい?」

「ぐぬぬ、この卑怯者ぉ……」

「おー、そうだよ。女神でもなんでもない、普通の卑怯もんだよ。こんなのに希望を託すなんて無責任だよねぇ?」

「そ、そんなことは──」

「田中がいなくなったら、真島のやつと組んでテロテロしちゃおっかなー? 思うがままに生きてるからなー」

「ええ!? 無茶苦茶ですよ先輩っ!」

「だから、そうだってば」

 

 田中はなすすべもなく捕まって、ベッドに戻された。やりとりのさなかにたきながナースコールを押していて、程なく血相を変えた看護士がやってくる。

 

 病室を出ていく際、千束は鍵をちらつかせて、

 

「私が世界を救うっていうなら、ちゃんと見届けろ。それが貴様の新しい使命。分かったら、きっちりケガ治せよー」

 

 と、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。

 

 たきなはそれを胡散臭そうに見つめてから、田中に向き直って、

 

「下手な真似をしたら、太郎と次郎がどうなるか分かってますね?」

 

 がっつり脅迫して出ていった。

 

 そうして田中は二振りの家族を人質に取られ、自刃を封じられたのだった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 腹に穴が空いている状態で動いたために、田中は丸三日間熱を出して寝込んだ。

 

 ようやく見舞い客を迎えられるほどに体調が整った頃、ミカ、ミズキ、クルミの三人がやってきた。立って挨拶をしようとするも肩を抑えて止められ、目礼に留める。

 

 ミカは菩薩のように穏やかな瞳の奥に、激しく燃える炎を宿していた。

 

「もう体調はいいのか」

「はい。今月中には退院できそうです」

「そうか、そうか」

「……あの、店長? もしかして怒ってます?」

「お前の体調によってはビンタでもしているくらいには、な」

「ひっ」

 

 当然、千束の育ての親であるミカも、命を粗末にすることは好まない。田中の行為は傍から見ればケンカを売っているようにしか見えないのだろう。

 

 怖くなって、田中は目をそらす。仏頂面のクルミと目が合った。

 

「く、クルミちゃん。クルミちゃんが田中を見つけたと聞きました。助けてもらってありがとうございました」

 

 わずかに目を見開くクルミ。

 

「意外だな。恨み言でも言われると思ってたぞ」

「命は大事です。誰にだって一つしかない。だからありがとうなのです」

「……本当にお前、歪んでるよ。まっすぐ過ぎるくらいに、歪んでる」

 

 口をへの字にしてクルミが黙り込み、代わりにミズキが前に出た。

 

「命が大事ならなんであんなことした?」

「それはそれ、これはこれ。田中は田中に殉じます。でないと死者に申し訳が立たない」

「いい加減にしろよガキっ! オッサンたちがどんだけ心配したと──」

「ミズキ、やめろ。もういい」

 

 ミズキの肩を掴み、ミカが首を横へ振る。もはや処置なし、というように。

 

「私たちが何を言おうと、この子には届かない。あの子たちに任せよう」

「ちっ……田中ァ! アンタには晩酌のアテを作る使命があんの! それを忘れんなよっ!」

 

 おそろしく俗っぽい使命を課しながら、ミズキたちは出ていった。

 

 入れ替わりに、作戦行動中並みの張り詰めた表情で千束とたきなが入ってくる。

 

 二人は無言でベッドの横の椅子に腰掛けると、物理的な重圧さえ感じる鋭い視線で田中とにらみ合う。さながら真剣の切っ先を向け合うがごとき緊張感が病室に満ちた。

 

 田中の勘は、戦いの気配を感じ取る。

 

 その予感は次のたきなの一言で、見事的中した。

 

「完全論破、してやります」

 

 すらりと抜かれたのは言葉の刃。理論の鋼が正面から田中の思想に振るわれる。

 

「田中は死をひさぐ、つまり殺し以外に能がないから死ぬと言いました。この時点で間違っています。自分がリコリコで何をしているか忘れたんですか? 接客、掃除、会計、厨房、まかない、それから語学学校、保育園、警察のヘルプ、迷子、ペットの捜索、その他色々、表の仕事だけでもこれだけの方面で田中は活躍しています。裏の仕事だって、やろうと思えばすべて非殺傷で容易にできる実力があるのは明らかです。それだけじゃない、千束も私も田中に命を救われてます。サクラもそう。殺すどころか命を救ってる。したがって、殺し以外に能がないというのは、自分が見えていない子供の世迷言です。田中はやろうと思えばなんだってできる。つまり、自害の理由は何もない。そうですね?」

「断じて否」

「えっ」

 

 が、言葉の刃は空振りに終わった。

 

 さらりと身を躱し、田中の反撃。

 

「田中は死を鬻ぐ以外に能がないため死を選ぶ。この言説には何者も覆せない前提が二つある。一つ、田中は日の本の太平を実現し死者に報いねばならないこと。二つ、そのために死力を尽くして献身すること。当初、田中は刃を振るい罪人を処刑することで太平に貢献できると信じていた。しかし年々増加する罪人の数から間違いに気づき、結社の打倒こそ正しい行いと考えた。おっぱいはその論を更に先鋭化させ、結社を構成しうる人心への救いと導きこそ、太平に至る真の道だと説いた。田中はこの道の踏破が使命であったが、この田中は死を鬻ぐ田中であるから、その他の手段で貢献することは能わない。いかに尋常一様の職能があろうと、太平の実現に繋がらないと明らかである以上、この田中の役割は終わっている。道を踏破する先輩に希望を託したのち、速やかに自刃する所存である。でなければ現今の日の本を築く屍の山に顔向けできない。この田中は田中の矜持にかけて、田中に悖る行いだけは決してしたくない。頼む、たきな。我が朋友よ。田中に田中を、成就させてはくれまいか」

「……っ!」

 

 たきなは言葉に詰まり、黙り込んだ。

 

 田中は別に、何も能力がないから死ぬ、と言っているのではない。日の本に太平をもたらす能力がないと確信したから、自刃するのだ。それが本当に可能なのは千束であり、田中ではないから。

 

 きっと分かってくれると期待を込めて、たきなを見つめた。

 

 が、たきなよりも先に返答したのは、千束だった。田中が希望だと信じる千束。

 

「なんで……そんなこと言うの……っ」

「えっえっ、先輩?」

「千束!?」

 

 千束は号泣していた。大粒の涙をぽろぽろこぼし、しゃくり上げながら、とぎれとぎれに言葉を紡ぐ。

 

「たいへーとかひのもととか……世界とか人類とか……どうでもいいよ。そんなのより大事なのが、たくさんある。先生が作ったお店、コーヒーの匂い、お客さん、町の人、美味しいものとかきれいな場所、仲間、一生懸命な友達と……一生懸命過ぎて訳分かんない後輩……それが私の全部。日の本がどうとか……知らない。どうでもいい」

「ど、どうでもって……わ、分かりました。先輩がそう言うならいいです。思うがままに生きていただければ、きっと日の本の太平は──」

「知らない知らない! そんなのより田中が大事なのっ!」

 

 千束の顔が目と鼻の先に迫った。涙にきらめく赤い瞳と正面から見つめ合う。

 

「言ったじゃん。たくさん大切なものがあって、それが私の全部なの。一つでも欠けたら私が私じゃなくなっちゃうよ……ほんとに真島と組んでヤケを起こすかもしんないよ……? やだよ、そんなの……だから、田中……」

 

 生きて、と。

 

 俯いて、消え入りそうな声で、千束はそう結んだ。

 

 田中はこのとき初めて、自分の中の確固たる信念が揺らぐのを感じた。錦木千束という希望の中に、田中は一人の後輩として息づいていて、それはとっくになくてはならないほど大きなものだから、日の本の太平のためには──

 

 違う。田中はゆるゆると首を振った。

 

 使命も役割も矜持も関係ない。そんなのはすべてどうでもいい。

 

「ごめんなさい、先輩」

 

 痛む腹を無視して上体を起こし、ぐずる千束を抱きしめる。

 

「田中は生きます。だから泣かないで。泣かないでください、先輩」

 

 千束に泣いてほしくない。そんなことのために田中は腹を切るのではない。田中を成就することで千束が悲しい思いをするくらいなら、使命を擲ってでもいい。とにかく泣かないでほしいと、田中は心からそう思った。

 

「ほんと? 生きる?」

「生きます」

「ほんとのほんと? 約束する?」

「ほんとのほんとです。約束するのです」

「そっかぁ……」

 

 千束はしばらく嗚咽を漏らし、田中の病衣を涙と鼻水で濡らして、たきなはその様子をかたずを呑んで見守っていた。

 

 数十分後。

 

 弾かれたように千束が立ち上がり、踵を返す。表情は見えなかったが、なぜか耳が真っ赤だ。

 

「じゃ、帰る。さっさと傷治せよ、田中ァ」

「えっ、あ、はい」

「行こ、たきな」

 

 そそくさと病室を出ていく千束。

 

 唖然と見送る田中は、残されたたきなを見やる。たきなは頬を膨らませて、田中を睨みつけている。

 

「論理じゃなくて泣き落としが有効なんて……釈然としません。こんなのずるいです」

「ずるいって、え? たきな?」

「早く治して戻ってきてください。じゃないと太郎と次郎を売り飛ばしますから」

「やめてぇ!」

 

 ぷい、とそっぽを向いてたきなも出ていく。

 

 家族を人質に取られ、約束までさせられた田中に選択肢はもはやなく。

 

 一日でも早く傷が治るよう、大人しくしておく他なかった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 ミカ、ミズキ、クルミの大人組三人は、千束とたきなが田中を説得すると予想していたらしい。もう切腹はしないと田中が約束して頭を下げると、胸を撫で下ろしていた。

 

 およそ一ヶ月に及ぶ入院期間のうち、大人組は足繁く見舞いに来てくれた。ミカとはリコリコの些細な出来事を雑談し、常連客が田中の不在を寂しがっていると語った。店では影を薄くしているつもりの田中にはあまりピンとこなかった。

 

 ミズキは田中が生きると決めてからは怒りを収め、店で晩酌するときと同じく、やれ男は見る目がないだのここに超絶優良物件がいるのにだの、ひたすらに愚痴を語った。多少辟易しつつ、田中は聞き役に徹した。

 

 クルミには、もっとも気になっていた件のネタバラシを頼んだ。失踪した田中を、どのように見つけたかである。

 

 聞かれたクルミは不敵にニヤリ、と笑ってみせた。

 

「ウォールナットをナメるな。都内には表と裏の合わせて無数にカメラがある。それら全部に映らず、リコリコから三時間で行ける距離と場所は相当に限定される。後は一つ一つをドローンと人間で確認していけば簡単に見つかったよ」

「ほえー」

「ほえーって何だよ」

「もしかして、クルミちゃんってリコリコで一番非常識なのかなって」

「お前にだけは言われたくないな」

「クルミえもんって呼んでいい?」

「却下だ、語呂が悪すぎる」

 

 都内のカメラを丸ごと全部乗っ取ったらしいクルミが一番やばい。田中は心中でそう決めつけた。

 

 大人組がそのように訪ねてくる一方、千束とたきなは一度も来なかった。寂しいと言ってみると、ミカは「それなら一日でも早く良くなれ」と急かした。

 

 そんなことを言われても、一般的な十代後半の体しか持たない田中にはどうしようもない。ベッドの上で退屈な時間を凌ぎつつ、どうにか一ヶ月をやり過ごした。

 

 二月初旬。冷え込む真冬の朝、病衣から私服のオーバーサイズのパーカーに着替え、ミズキの車に乗り込んで、寝床兼職場の喫茶リコリコへ向かう。

 

 すでに入り口の扉にはOPENの札がかかっており、中からはコーヒーの香ばしい匂いがする。

 

 いささか緊張しながら中へ入ると、千束とたきなが並んで待ち構えていた。

 

「おかえり」

「おかえりなさい」

「た、ただいまです。あの──」

「田中、これをどうぞ」

 

 たきなに手を取られ、握らされたのは、鍵だった。太郎と次郎を保管するロッカーの鍵だ。

 

 さすがに信用を取り戻すまではお預けだろうと覚悟していたので、田中は慮外の喜びに口元を緩める。

 

 が、たちまち絶望に曇ることになった。

 

「あとこれ、千束先輩様からプレゼント」

「えっ」

 

 千束は田中の後ろに回り込み、首元に手を回す。何かが巻かれる感触がしたかと思うと、かちり、と鍵の締まったような音がした。

 

 戸惑っていると、正面に回った千束が手鏡を用意していた。

 

「な、なんですこれ?」

「退院祝いのプレゼント! 似合ってんぞ田中ァ」

「店長とクルミさんが手作りしたチョーカーです」

「いやあの、チョーカーっていうより……」

 

 鏡に映った自分の首に巻かれたもの。リコリコの制服と同じ、明るい橙色のそれは、チョーカーよりもむしろ──

 

「ちなみにGPS機能が付いてます」

「それと鍵がなきゃ外せないから」

「首輪じゃねーですかっ!?」

 

 首輪であった。

 

「おー、田中おかえりー」

 

 奥からあくびをしながら、クルミがやってくる。ぼさぼさ頭を気にもせず田中を見上げると、首元で視線を留めた。

 

「それ作るの苦労したんだぞ? 絶対壊すなよ。壊したら千束とたきなのスマホに警報が飛ぶからな」

「ハイテク!?」

「それと二人から一定以上の距離を取っても警報が鳴る。あとバイタルも拾ってて……面倒だな。とにかくもう自害はできないものと考えろ、いいな?」

 

 田中の自害を防止するハイテク手作り首輪、もといチョーカーらしい。清々しいほどに信用されていない。

 

 尊厳を失った田中は、涙目で千束にすがりつく。

 

「先輩っ! こんなの、ひどいですよう!」

「安心しろって、お肌に優しい素材選んだから」

「そういう問題じゃ……ひぃんっ!? な、何です!?」

 

 尻の肉をちぎれんばかりに掴まれて、田中は嬌声を上げた。首をひねって見てみると、千束の手が田中の尻を鷲掴みにしている。

 

 力づくで座敷まで引きずられ、千束の太ももにお腹を乗せる形で固定された。

 

「な、なんですかこれ! なぜ田中は辱めを受けているのです!?」

「山岸先生から聞いたぞ田中ァ」

 

 ぎくり、と田中の肩が跳ねた。

 

「私に心臓をぶち込もうとしてたんだって? いざとなったら事後承諾でやるつもりだったらしいな?」

「しかも、都合の悪い部分は隠して私に教えましたよね。危うく騙されるところでした」 

「いえ、そのう……」

「その、何? 裏は全部取れてんだよ」

 

 田中は暴れた。水揚げされたマグロのごとく千束の膝の上で跳ねた。

 

 しかし不利な体勢の上に、病み上がりで現役リコリス二人の膂力に敵うはずはない。力ずくで抑え込まれ、田中は必死で助けを求めた。

 

「て、店長、ミズキさん、クルミちゃんっ! 助けてぇ!」

「……すまん」

「ケジメって大事よね」

「いい薬になるだろ」

 

 世界は理不尽と不条理に満ちている。大人組に田中の折檻を止める者はいなかった。

 

「田中ァ!」

「うぎゃー!?」

 

 すぱーん、と。無駄にでかい尻をシバき回す良い音と、田中の汚い悲鳴が響き渡った。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 燦々と降り注ぐ陽光と青い海。潮風にヤシの木が揺れる砂浜に、喫茶リコリコのハワイ出張店舗が営業していた。現地でレンタルした移動式トレーラーをリコリコのモダンな色合いに装飾し、上質なスイーツとカフェを提供している。

 

 切腹騒動で一時取り止めになったハワイ出張は、色々と落ち着いた春頃に改めて実施された。

 

「Enjoy!」

「あー、電話電話!」

 

 今しも現地人にたきなが品を手渡して見送り、千束はトレーラーに備え付けの電話に対応する。ミカは黙々とコーヒーをドリップし、ミズキはアイドンスピークイングリッシュと言うだけの装置と化して運転席に陣取っている。クルミはメニューの看板を背負ってトレーラー周辺をうろつき、文字通り看板娘と化していた。

 

 一方、田中は何をするでもなく、トレーラーのすぐそばの砂浜にパラソルを広げて、ぺたんと座り込んでいる。袖口を大きく長く改造されたオーバーサイズパーカーと、ホットパンツ。袖の中には二振りの家族を納刀している。すぐ横の砂地に、地元の金物屋で買ってきた無骨なマチェットが突き立っていた。

 

「んあー……」

 

 古びた日記を開いてはいるが、ページは白紙だ。鉛筆の芯が紙に近づいたり離れたりして、黒い点をポツポツと落とす。諦めて日記を閉じた。

 

 表から陽気な客と、千束の元気なやりとりが聞こえてくる。

 

「Hey, what is Special Ninja Coconut?」

「Ah, you have good taste! With this menu, you can enjoy a real Ninja wazamae and special coconut! I'm sure you will be blown away!」

「Seriously!? I' ll go with this!」

「Got it! たきなー、田中ァ! スペシャル忍者よろしくぅ!」

「はーい」

 

 呼ばれた田中は重たい腰を上げ、マチェットを抜いて表に出る。普通の少女然とした田中を見た南国の青年は、ワクワクした顔から一転、訝しげに眉根を寄せた。

 

 砂浜の上で、距離を取ってたきなと向かい合う。たきなの手にはココナッツ。目配せでいつでもいい、と伝える。

 

 たきながココナッツを投げた。

 

 無意識の反射が発動しない程度の山なりの軌道で、ココナッツが迫る。田中は切れ味の鈍いマチェットを両手で斬り上げ、ココナッツの上から三分の一程度の箇所を切り飛ばした。ココナッツを受け止めながら、わざとらしい残心を挟んで大げさな血振り。切り口にストローを差す。

 

 唖然とする客に、ココナッツジュースを差し出した。

 

「Once again, Tanaka cut a worthful object, ご、ござる……」

「……WAZAMAE!」

 

 歓声が湧いた。注文した客だけでなく、遠目から窺っていた通行人たちも拍手を送っている。

 

「さんきゅー、さんきゅー! 喫茶リコリコをよろしくぅー!」

「うぅ……」

 

 千束が調子よく答えているが、田中としては取ってつけたようなござるが非常に恥ずかしい。こそこそと影を薄くしてパラソルの下へ引っ込み、それがまた忍者っぽいと好評を生む。

 

 スペシャルニンジャココナッツは、ハワイで千束が考案した、田中専用の新メニューだった。作り方は簡単で、現地で安く仕入れたココナッツを田中に投げつけ、切り口にストローを差して提供するだけ。地元民や観光客はココナッツの硬さをよく知っており、それを豪快に切り伏せるパフォーマンスは受けが良かった。相乗効果を狙って、田中には派手な残心やござる口調などを使うよう教育している。

 

 田中はパラソルの下で膝を抱えた。新メニューを提供している間は、それに専念して他の業務は休むことになっている。注文が入るまでは手持ち無沙汰だった。

 

「よー、忍者。またつまらぬものを切ってしまったなぁ?」

「クルミちゃん……もーやめてよ恥ずいんだから……」

 

 ぼけっと海を眺めていると、看板娘状態のクルミがやってきた。

 

 どっこいしょ、と隣に腰を下ろして、同じく海を見る。サボりにきたのだろうか。表から千束とたきなの明るい声が聞こえてくる。

 

「ここに来てから随分と退屈そうだな。痛ましい彼氏をやれないのが不満か?」

 

 なんとはなしに、クルミが口を開いた。

 

 田中は首を振る。

 

「んーん。全然。もちろん敵がいるなら死を悼むけど、いないなら別にいい。ただ……」

「何だ?」

「田中はどうすればいいのか、分からない」

 

 訥々と、田中は語った。オレンジの首輪を指先でなぞりながら、毎日の虚無感を言葉に変える。

 

「この田中は、田中に殉じるのが唯一正しい方法だと思ってた。だけど千束先輩に泣かれて、間違いに気づいた。だから今も生きてる。でもね、本当にただのうのうと生きてるだけで、田中を成就できるのかなって。それが分からない」

「……成就だの殉じるだの、『田中』ってなんなんだ?」

「この田中の生き様。日の本の太平を実現し、今日(こんにち)を築く屍の山に報いることである」

「ほーん。ま、分かんないならこれから見つければいいんじゃないか? 幸い、千束は大丈夫だ。お前が焦る必要はもうないだろ」

「えっ、焦る? なんで?」

「気づいてなかったのか」

 

 クルミは呆れ顔で田中を見上げ、「お前は焦ってたんだ」と続けた。

 

 田中は元より、二年後に自身の心臓を千束に譲って死ぬつもりだった。だからそれまでに太平を実現しようと躍起になっていた。

 

 しかしDAでの仕事が太平につながらないと気づき、かといって具体的な方法も浮かばず、縋り付いたのが陰謀論だった。分かりやすい悪者を用意して、それを倒してしまえば手っ取り早く太平が訪れる。突飛な飛躍の裏には焦躁と絶望があって、それに気づかないまま際限なく思考が煮詰まり、挙げ句に自害を試みた。

 

 そのように、当人ですら気づかない心理をクルミは理路整然と説明した。

 

 田中は首をひねる。

 

「そう、だったのです? 田中は焦っていた?」

「そうだよ。だからもう焦るな」

「うわわっ……みゅ」

 

 クルミは田中の後頭部に手を回し、強引に引き寄せた。薄い胸板に顔が押し付けられ、優しい手付きで撫でられる。

 

「お前はもう十分がんばった。これからはもっと力を抜け。ゆっくりやれ。誰も急かしはしないから」

「……」

「癖になる撫で心地だな。でかい犬みたいだ」

「……」

「田中?」

 

 微動だにしなくなった田中を訝しみ、クルミが体を離す。

 

 田中の瞳は焦点が合わず、虚空を見つめていた。ブラウンの瞳の中に宇宙と涅槃と浄土が広がっている。クルミの顔から血の気が引いた。

 

「おい、嘘だろ……!」

「そうか、そうだったのか……世界のあるべき姿……救いと導き、伝道と啓蒙……女神を知らしめねばならぬ……!」

「なんでそうなるんだ田中!? 言っちゃなんだがボクの胸だぞ! 見境ないのかお前っ!?」

 

 自身の命と魂をかけてやり遂げるべきことを悟った田中に、迷いはなかった。頭が冴え、総身に力が漲り、魂に使命感が迸る。きりっとした顔つきでクルミと向き合い、頼もしげに笑う。

 

「ありがとう、クルミちゃん。おかげで目が覚めたのです」

「ま、待て……!」

「大丈夫、田中を信じて」

 

 田中は猫のように素早くしなやかに立ち上がり、パラソルの日陰からトレーラーへ駆け寄る。車内で雑談中の千束とたきなの元へ行くと、二人は頬を引きつらせた。

 

「千束先輩、たきなっ。共に救いと導きをもたらすのです!」

「ついに来ちゃいましたか、いつものが……」

「ちなみに今回のきっかけは?」

「クルミちゃんのおっぱい!」

「おいおいついに無から悟りやがったぞコイツ」

 

 胡乱げに聞いていたミズキがドン引きし、他方、ミカは慈母のような微笑で見守っている。クルミはもう諦めたのか、看板を背負ってうろつく作業に戻っていた。

 

 千束とたきなから否定的な空気を嗅ぎ取って、田中は最強のカードを切った。

 

「千束先輩、なんでも言うことを一つ聞いてくれるんでしょ」

「うぐっ」

「まさか約束を破る先輩じゃあねーですよね?」

 

 しばし視線を泳がせていた千束だが、ついに観念したのか、たきなの首に腕を回して据わった目つきで睨み返してくる。

 

「ええい、女に二言はねえ! なんでも来いやぁ!」

「私まで巻き込まないでくださいよ!」

「たきなにもお願いするつもりだったのでちょうどいいのです。では話をしましょう、人心を救い導き、世界のあるべき姿を取り戻す方法とはすなわち──」

 

 こうして恒例行事よろしくスイッチの入った田中が語り出し、主に拒否権のない千束と、ついでにたきなが巻き込まれ、ハワイを中心にちょっとした騒動を引き起こすことになる。

 

 その渦中に据えられたリコリコメンバーは、ドン引きしたり、苦笑いしたり、おかしそうに笑ったりして、口を揃えてこう言った。

 

 思想が強すぎる、と。



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おまけ

カットしたちさまじ休憩シーン


 延空木、第二展望台。銃声と爆音が響き、夕日に染まる首都を一望する展望ガラスに亀裂が走った。

 

 大胆にグレネードを放った真島は、手すりから爆煙を見下ろしてほくそ笑む。しかし赤い人影が煙を飛び出し、展望ガラスの曲面を駆け抜けて再び足場に舞い戻ってくる。

 

 その人影は千束だった。ファーストリコリスの赤服をまとい、特徴的なコンペンセイターを取り付けた愛銃を油断なく真島に向ける。真島は口角を吊り上げ、歯をむき出しにして短機関銃を千束へ照準。両者引き金を引くと同時に動き出し──

 

「うおおっ!?」

「うわっ!」

 

 バランスを崩した。

 

 第二展望台は肉塊、臓物、血液、吐瀉物に塗れている。二人はかつて人体だったそれらに足を取られたのだ。

 

 千束はマシな方で、汁気のある脳漿と思しき物体を踏みつけ滑るも、どうにか手すりにしがみついて転倒を回避した。

 

 一方、真島は悲惨だった。強い腐臭を放つ大腸らしき褐色の何かを踏み、転倒。運悪く転んだ先にリコリスの吐瀉物があって、片方の腕が汚物に塗れた。

 

 互いに転ぶタイミングが違えば容赦なくそのスキを突いただろう。だが図ったように同時だったので、事態のバカらしさも相まって緊張感が薄れた。どちらともなく笑い出す二人。

 

「ぶっ、あっはっはっは! きったなー、ゲロまみれじゃん!」

「うるせー。お前だって靴に脳みそついてんぞ」

「うおマジか怖っ!?」

 

 真島は汚れたジャケットの上を脱ぎ捨て、千束は誰かの脳みそっぽいペーストを床にすりつける。延空木が目前のテロリストに爆破される瀬戸際だというのに、緊迫した気分が削がれてしまった。

 

 それは真島も同感だったようで、近場の自販機を無造作に撃つ。取り出し口に缶が溢れ出し、一つを千束に投げ渡した。

 

「休憩だ」

 

 二人は奇跡的に汚れていない一画を見つけ、並んで腰を下ろす。嗅覚疲労で悪臭はほぼ感じない。展望ガラスから見える空は橙色から徐々に藍色に染まりつつある。

 

 ジュースのプルタブを開けながら、千束は何気なく聞いた。

 

「お前結局何がしたいの?」

「これだよ」

「どれだよ」

「命がけの勝負。俺が初めて恐怖を感じたやつとのな」

 

 真島は十年前、かつてのランドマークである旧電波塔を巡るテロで千束と対峙、敗北している。その因縁に拘りがあるだけで、延空木の破壊自体は目的ではないという。

 

 爆破はブラフかと千束の頭によぎるが、そうでなかった場合の被害が大きすぎる。起爆装置になっているスマホの奪取はやはり必要だろう。

 

「俺は世界を守ってるんだぜ? 自然な秩序を破壊するお前らからな」

 

 真島はなおもうそぶく。DAによって維持される偽りの平和と秩序に立ち向かう。秩序に排除された弱者、すなわち反体制側の味方をすることでバランスを取るのだと。

 

「あんたですら自分を良い者だと思ってるのね。ほんとの悪者は映画の中だけか」

「だから映画は面白いんだろ? 現実は正義の味方だらけだ。良い人同士が殴り合う、それがこのクソッタレな世界の真実だ」

「みんな、自分の信じたいいことをしてる。それでいいじゃん?」

「ハハッ、あの忍者女みたいにか?」

「あー……それは……」

 

 痛い指摘だ。千束は言葉に詰まった。

 

 良い人同士が殴り合うことがあっても、それぞれ信念があって行動するならもうそれでいい。

 

 とはいえ、何事にも限度はあるだろう。あの後輩の信念と思想は強すぎる。

 

 真島は心底おかしそうに笑う。

 

「あの女は傑作だよ。あんだけ真っ直ぐに歪んでるやつは見たことねえ」

「ちょーいちょいちょい、人の後輩を傑作とか言うなし」

「言わせろ、そのくらい。あの女、純粋な善意で殺しにかかってきやがった。仲間が五十人近く殺されたんだぜ。まったく傑作だ」

「……悪気はないのよ、あの子」

「だから尚更歪んでんだよ……うめえなコレ」

「マジ? よこせ」

 

 真島の缶を奪って呑んでみると、確かにうまい。

 

 その間に真島は続ける。

 

「アレは俺と同類だ。人の死の重みを取り返そうとしている」

「ふーん?」

「この前聞いてみたんだよ。死んだ俺の仲間のこと覚えてるかって。そしたらアイツ──」

 

『名を知ること叶わずとも、命を忘れることはない。一人目は延髄への刺突、二人目は鎖骨下動脈切断及び腹部大動脈へ九ミリの刺突、三人目は大脳、小脳、脳幹の切断、四人目は四肢の動脈切断、五人目は肝臓への貫通創、六人目は袈裟斬りにて脊髄、肺、心臓の切断、七人目は──』

 

「全員分はっきり答えやがった。たしかに命を大事にしてるよ、気持ち悪いくらいにな」

「まあ、田中だからなぁ……」

 

 千束は何気なく、第二展望台を見渡した。数時間前まで生きた人間だった肉塊が散乱している。その元になった一人ひとりのことを、田中は必ず記憶しているのだろう。

 

 リコリスは皆死を受け入れている。犯罪者へ銃口を向けることにも、引き金を引くことにもためらいはなく、失われる命をずっと引きずろうなどとは誰も考えない。そんなことでは心が保たないから、ドライに切り替えて次の仕事にかかる。

 

 だから田中は異端扱いされる。誰よりも命を大切に思い、その重さを残虐な死で自分と周囲の記憶に刻みつけようとするから。

 

 自然な秩序の破壊に抗う真島と、死の重さを取り戻そうとする田中。現行の流れに逆らう点で言えば、二人は確かに同類だった。

 

 しかし一つ、重大な違いがある。

 

「たしかに、ちょっと似てるとこはあるな」

「だろ?」

「でもめっちゃ大きい違いがある」

 

 千束は意地が悪そうに口元を緩める。

 

「あいつはかわいい後輩だ。でもあんたは物騒なテロリスト。月とすっぽんじゃん?」

「ハハハッ、そりゃそうだ!」

 

 千束はこの後、変わらない良さを説いた。今の流れに抗って世界を変えるのは立派だが、変えなくても世界には大切なものが溢れている。自分にとってはそれで十分なのだと。どちらともなくリロードして、戦いを続けた。

 

 その戦いの後、大切なものの一つであるかわいい後輩が、割腹自殺で世界から欠けようとするなどとは、このときの千束は夢にも思わないのだった。






読んでくれてありがとうございました。
あー楽しかった。


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