そして奈落へ墜ちてゆけ (しゅないだー)
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地上〜夜のはじまり〜
#0 自分は如何にして黎明卿の一番弟子となりしか


 

 

 何故、と問われてすぐに答えられる者はそういないのではないか。けれど自分は人にそう問わずにはいられなかった。

 

 何故命を賭してまで奈落(アビス)に潜るのか、と。

 

 ある者は名誉の為だと。

 ある者は一生食うに困らない財産の為だと。

 ある者は深淵の底に潜む未知を解き明かす為だと。

 

 いずれも立派な志である。だが答えるまでに数瞬かかるのは、きっと。

 アビスとはそういう物だから、それに他ならない。

 どんなに崇高な使命で取り繕おうとも、灯りに群がる羽虫のように人はあの魔物の口に惹き付けられてしまう。ただそれだけの事に過ぎないのだ。

 そう理解しているのに尚問う事を止められないのは、何処かにそんな夜のような暗い諦観を捻じ伏せる眩い夜明けを心の底では求めていたのかもしれない。幸か不幸かその何かに自分は巡り合う事ができた。

 その出会いは同時にこのそう長くも無い探窟家人生を、取り返しのつかない奈落へも(いざな)ったが。

 

─────────────────────────────────

 

 あれは確か岸壁街出身の孤児である自分が、青笛になってすぐの事だったと思う。

 最初にアビスへ潜ろうと思った動機は、確か金だった。貧しい人間と、貧しい場所で、貧しいパイの一欠片を争って日々糊口を凌ぐ暮らしからどうにかして抜け出したかった。

 そんな人生を覆すには、ここでは探窟家にでもなるしかなかった。暗い路地裏から盗み見るようにして眺めた深層からの帰還者達は皆輝いているように思えた。

 孤児院での教育も受けられず、他の探窟家の技術を目で盗み、日銭を稼ぎながらやっとの思いで勝ち取った赤笛。

 最初に一層で探窟を始めた時は「何故アビスに潜るのか」なんて下らない質問は思い浮かばなかった。ただ生き抜く事に必死だった。並の探窟家からすれば都合の良い食料でしかないツチバシでさえ、自分には命を脅かす巨大な原生生物だったから。

 その余裕が出てきたのはツノナキを一人で討伐する事に成功してからだった筈だ。一層の草食動物とはいえ、頭部の巨大な角に刺し穿たれたり踏み殺される赤笛も少なくない。

 そんな代物を一頭だけだったとはいえ、自分一人で誘い出し、突進を躱して罠に掛け縊り殺した。硬い皮にナイフを入れ、肉を剥ぐ。達成感と共にそれと同じ位虚しさが湧いてきたのを覚えている。

 

 アビスに潜るという事は、それだけで何かを奪う事を意味している。

 そこに暮らす命を、先人達が残した遺物を。

 それでも何故人は深淵の底に憧れて止まないのか。自分が先の問いを出会う人に投げ掛け出したのもその頃だった。

 

 

 そうして更に長い時間と労力をかけて、齢十五程で二層に潜る許可と青笛をようやく得たのだ。逸る気を抑え切れずに単身誘いの森へ挑んだ気持ちも少しは理解してもらえるのではないかと思う。

 ヤドカカエ、トゲアルキ、上ではお目にかかれなかった原生生物を観察するだけでもあっという間に時間が溶けてゆく。

 陽の光が直に射し込む一層とは全く異なる鬱蒼と茂った密林を思わせる環境に胸が弾み、夢中になって遺物発掘に励んだ。

 今になって思えば無謀極まりないがそれでも獣避けは十全に、二層特有の原生生物や環境も頭に叩き込んで臨んだ事もあり探窟は順調に進んでいた。そんなビギナーズラックに浮かれつつ一層とは比べ物にならない実入りにほくほく顔で戻ろうとした自分の帰路を阻んだのは、原生生物ではなく人だった。

 

 撃たれたと気付いたのは確か銃声がしてからだった筈だ。アビスではあまり耳馴染みの無い破裂音の後に、腹部が異様な熱を持ったのを覚えている。痛みはまだ来なかった。

 混乱する頭で辺りを確認すると、銃声を放った相手はすぐに見つかった。どうやら木陰に隠れるようにして潜伏していたらしく、獣にしか気を配っていなかった自分の浅慮を呪う。ゆっくりと敵意がない事を示すように両手を上げながら座り込んだ。

 恐らく異国の探窟家であろう浅黒い肌の男はこちらが解せない言葉を使って喋り、見慣れぬ意匠の銃を構えている。取り回しの良さそうな小さな重心に、子供である自分の腹も貫通し切らない威力。まず間違いなく対人用だった。

 腹から溢れ出す鮮血を、無理矢理服を千切った襤褸布で止血しながら男を威嚇するように睨み付ける。その時自分を満たしていたのは恐怖でも怒りでもなく、悔しさだった。

 まだ青笛の自分にも、探窟家の矜持という物は一丁前に備わっていたらしい。どうせ死ぬのならアビスの手にかかって死にたい、そんなちっぽけな矜持が。

 

 ゆっくりと近付いてきた男は片手に持った人相書きをこちらに突き付けて何やら叫んでいる。どうやら「この男を知っているか」と聞いているらしい。御尋ね者か行方不明者か、いずれにしても素直に吐けば助けてくれるのだろうか。生憎と自分に見覚えはなく、黙って首を横に振る。

 恐らく追う側である筈の男のどこか怯えの混じった表情だけが酷く印象に残った。

 

 舌打ち混じりに男が撃鉄を起こす音を合図に、背筋と片腕だけで飛び上がるようにして銃を持っていた方の腕を蹴り抜く。枯枝を踏んだ時のような、指の骨が折れる小気味良い音がした。

 勢い良く遠くに転がって崖から落ちていく銃を見ながらざまあみろ、と吐き捨てる。依然として状況が好転した訳でもないが、目の前の男に一泡吹かせてやったという暗い達成感に心の内が満たされた。

 さてここからどうするかと考えた瞬間、脳天に星が走る。噛み締めていた奥歯にひびが入ったのを感じた。

 殴られたと気付いたのは数瞬経ってからだった。怒りで顔を紅潮させた男の手が自分の首にかけられる。

 

「か……は……」

 

 酸素を求めて魚のように虚しく喘ぐ。薄白んでいく視界の中で、どうにか引き剥がそうと手を振り回す。

 哀しいかな、親子ほども違う体格差の前では蟷螂の斧もいい所だった。潰された喉笛からひゅーひゅーと聞こえる空っ風のような音だけが脳髄に響く。

 ここで自分は死ぬのだ。この暗い陽も碌に差さない場所で自分は何かの糧となる事もなく、ただ役目を終えるのだ。

 そもそも自分にそんな大層な役目なんて与えられた事があったか?

 

 嫌にゆっくりと時間が流れる。きっと走馬灯を見るほどの思い出も自分にはなかったのだろう。

 そう思った矢先、何かが風を切るような音と共に男の動きが止まる。次の瞬間、自分を突き飛ばすと耐え兼ねたように地面に突っ伏して胃の内容物を地面に広げ始めた。明らかに上昇負荷の症状だが、男がそれを受けるほど高低差があったとは思えない。やっと通るようになった気道から懸命に息を吸う。酸素不足で朦朧とした頭を動かそうと自分の頬を張った。

 こいつの昼飯はヒトジャラシだったんだろうな。銃創に当てた布から滲み出てくる血に気が遠くなりながらも、そんなどうでもいい感想がぼんやりと浮かんだ。

 もう訳が分からない、好きにしてくれ。そう投げやりになりながら目を閉じた時。

 

 声がした。

 

──二層分の呪い針(シェイカー)ですが、やはり探窟慣れしていない人間にしか効果はありませんか。ギャリケー、確か四層で採掘した用途不明の遺物がありましたよね。せっかくの機会なので御協力願いましょう。

 

 数分後、異国の探窟家の劈くような悲鳴が逆さ森に響く。何をしているのか考えたくもなかった。

 霞む視界を何とか擦って開いた先には、数人の男がいた。皆一様に同じような外套を羽織り、仮面を付けている。恐らく探窟隊だろう。二層で最も名を聞くのは不動卿オーゼン率いる『地臥せり(ハイドギヴァー)』だが、それとはどうも様相が異なるように感じた。リーダー格と思しき細身の男が仮面を取って近付いてくる。その胸にはまだ新しい黒笛が提げられていた。

 

──少し拝見していましたが、とても素晴らしい身体能力ですね。タマウガチのような身体のバネ、腹部を撃たれながらも抵抗を……おっと、無闇に動かない方が良いでしょう。内臓が傷付いていますから。

 

 そう言いながら男は止血のために当てていた布を取ると、あまりの激痛に呻く自分を意にも介さず鉗子のような物を傷口に捩じ込んできた。摘出した弾丸を興味深そうに胸ポケットに入れた後、縫合など一通りの処置を行ってはくれたが。

 

 鎮痛剤が効き始めてようやく冷えた頭で彼らをよく観察すると、自分を治療した男の顔があの異国の探窟家が見せてきた人相書きと一致している事に気が付いた。それで合点がいく。

 目の前の彼はどこかの国の御尋ね者で、自分を助けるのは決して善意などではなく、探窟家組合の心証を良くし活動を行いやすくする為だろう。だがその理屈が今の自分にはとても心地良かった。

 無償の愛やただ与えられるだけの善意、それより怖い物など早々ない。

 

──君の名前を教えて頂けますか? ああ、これは失礼。人に名を尋ねる時はこちらから名乗るのが礼儀でしたね。私はボンドルド。見ての通り黒笛です。

 

 少し迷った後、口内に刺さっている歯の欠片を血の混じった唾と共に吐き出しながらモルグ、とただ一言だけ返す。

 自分の名前を反芻するように呟いている男に対して、痛みに朦朧としながら己の口が絞り出したのは助けてくれという懇願でも、どうしてもっと早く来てくれなかったのかという叱責でもなかった。

 

 何故命を狙われてまでアビスに潜るのだ、という問い。

 

 思えば既にその時から、目の前の男が人と呼ぶにはあまりに逸脱しているという事を本能で理解していたのかもしれない。

 奇妙な仮面を手に携えた男は突然投げ掛けられた脈絡のない質問に困惑するでもなく、自分に向かってそっと空いた方の手を差し出した。特段これといった変わった特徴がある訳でもない、至って普通の人の手を。

 

──私はただ夜明けを見届けたいのですよ。次の二千年に足を踏み入れる為に。

 

 目の前の男は自分の問いに迷い無く、淀み無く答えた。アビスの魔力をも塗り替えるような、本当に心の底から人類の歴史を一歩進めたいと願っているその狂気に足が震えた。その声色には嘘偽り無く、私欲の欠片も感じ取れなかった。リスクを背負ってアビスに潜る以上、どれだけ口当たりの良い高尚な建前を吐こうともそこには大なり小なり打算が含まれる。

 金の為。

 名誉の為。

 

 そんな欲望が一切感じ取れない人間を自分は今まで見た事がなかった。いるのか? そんな人間が。

 目の前の相手が、単に人の皮を被った何かにしか見えなくなってくる。

 なのに、ついていきたいと思った。この人が口にする『夜明け』とは何なのか知りたいと思った。

 この怪物に関わるという事は己の身を切り売りするのに等しいと逆立つ(うなじ)が、本能が告げている。

 だがそれでも。差し伸べられた手を取ってしまった時、初めて知った。

 

 狂気とは憧れに似ているのだと。

 

「自分を、弟子に、して下さい」

「おやおやおや……部下はともかくとして、弟子は初めてですね」

 

 潰れた喉笛と鉄錆の味がする口腔から、絞り出すようにして乞うた願い。それが自分の祈手(アンブラハンズ)としての最初の一歩、そしてずっと続いていく長い夜の始まりだった。

 

「しかし旦那、これはもしかすると一番弟子ってやつでは?」

「いけませんよ、グェイラ。人が考えて選んだ事を嘲笑うのは」

「馬鹿にしてないっすよ、面白いと思っただけで。アルドレは四層で死んじゃったし猫の手くらいには使えるじゃないんすか、一応青笛っぽいし」

 

 どこか牛を思わせる仮面を着けた男が笑いながら自分の身体を軽々と抱え上げた。まだ傷も閉じ切っていない腹に走った痛みに、思わず声を漏らす。

 

「よお一番弟子、俺の事は先輩って呼べよ」

 

 

─────────────────────────────────

 

 

 黎明卿、新しきボンドルド。

 不可侵のルート開拓から始まり、深界五層での活動を可能にした拠点『前線基地(イドフロント)』の建設、各種探窟技術の発展から新薬開発に至るまで人類の探窟史をその手で大きく進めた偉大な白笛である。

 

 そんな彼をサポートする探窟隊『祈手』は大きく2つの役割に分かれている。研究や雑用を補佐する非戦闘員、そして白い外套を身に纏った死装束(シュラウド)と呼ばれる戦闘員。

 その腕利きの中でも特に広く知られているのは灰のギャリケーだろう。火炎放射器を得物とし、合同探窟隊の戦隊長を務め得るほどの実力と装備を保持している。またアビス内の原生生物に造詣が深く、判断力も優れている古参でもある。

 

 そしてもう一人。

 

 まだルートも確立していない頃の深界五層(なきがらの海)より単身で帰還し、その功績で月笛から黒笛へと成った若き祈手。

 上昇負荷をも恐れず縦横無尽に空間を利用しながら荒々しく戦うその様を、対峙した者は「まるで星が墜ちるようだ」と揶揄した。黎明卿の先鋒として他の探窟隊と競り合う事も頻繁にあった彼には随分敵が多かったと言われている。故にそうあれという呪いと嘲りの意を込めて付けられたそれは、いつしか彼自身を表す二つ名となった。

 

 墜星のモルグ、と。

 

 

 

 



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#1 墜ちた星

 

 

 このオースという街は、広いようでずっと狭い。中心にはアビスと呼ばれる大穴が鎮座し、周囲を海に囲まれているせいだ。

 アビスの中には地上とは全く異なる独自の生態系が広がり、先人達の遺産である遺物が眠っている事もあって、この星最後の神秘だとか何だか大層な呼ばれ方をしているらしい。

 そんな環境もあってオースの主な産業は遺物の発掘、それを海外に高値で売り捌く事で生計を立てている。直径1000mはある大穴を取り囲むようにして建造された町並みは、そんな営みを千何年と続けてきた。変わり映えする事がない暮らしの傍にはいつもトコシエコウが香っていて、そして今日みたいに風が強い日には薄っすらと潮の香りがする。

 探窟家達を支えるこの街は退屈ではあったが、それは決して悪い事ではない。少なくとも我が身を危険に晒しながらアビスに潜む原生生物と鎬を削るよりはよっぽど健康的だと自分は思う。

 今の自分の職場、滑落亭の入り口へ繋がる石段に座り込んでそんな取り留めもない事を考えていた。首に下げている黒笛を特に理由も無く弄ぶ。

 

 

 自分が探窟家を辞めて、数年が過ぎようとしていた。

 今は"黎明卿"と呼ばれている白笛の元で働いていた日々を少し懐かしく思う。まだ背も伸び切らぬ歳にあの人と出会い、弟子入りを志願した。

 幾度も深層に潜り、紙一重で命を得ながらそこで生きていく(すべ)を学んだ。あの人や他の祈手(アンブラハンズ)は自分にとって良い師匠ではあったが、それが決してその人格を担保するとは限らない事に気付いたのは月笛を得てからだった。

 遺物の横流し、生態系の破壊、違法な人体実験。傍から見れば悪人と後ろ指を差される事も納得の行く所業だった。それでも『新しきボンドルド』は自分にとってただ一人『先生』と呼べる存在だった。自分の特性を理解し、埋もれていた才能を開花させ、適した装備を与えてくれた。無償の愛がそこにはあった。

 あの人の為ならどれだけ多数の競合探窟家とも、どれほど強大な原生生物であろうとも刺し違える。それくらいの覚悟はあった筈なのに。

 

 それでも、"あれ"だけは何故か耐えられなかった。全身の細胞一つ一つがそれに触れる事を拒否した。黎明を望む探窟家を、白笛に押し上げた特級遺物。

 

 随分と前置きが長くなったが、とどのつまり。

 自分は祈手の恥晒しだという事だ。

 

 ─────────────────────────────────

 

 

「デャホーデ!」

「えっ、あっ、はい! 失礼しました、何でしょう!?」

 

 浸っていた感傷が泡のように消え、今という時間に引き戻される。

 腰掛けている石段から飛び跳ねるようにして恐る恐る声の主へ向き直った。まだ開店時間ではないとはいえ、仕込みもせずにこんな所でぼんやりとしているのを見られれば店長から大目玉を食らう事必至だ。

 

「今日はハモロゲ丼やってるか?」

 

 米をハモロゲ出汁で炊き、様々な具を乗せた丼料理。その名前を口にする男の、顔に施された入れ墨のような装飾には馴染みがあった。ほっと胸を撫で下ろす。大柄な男はもう一度「デャホーデ」と独特な挨拶を投げると自分の隣に腰掛ける。

 

「クラヴァリさん、帰ってたんですね」

 

 単独行の天才と名高い彼は人の良さそうな顔で屈託なく笑った。若干痩けた頬はきっと探窟帰りだからだろう。

 首に下げられている黒笛は四層までの立入りを認められている事を表している。それは裏を返せば五層、そして最早人が人の姿のまま戻る事が叶わない六層への侵入は許されていない。ただ例外もあり、白笛に付き従う探窟隊は黒笛や月笛であっても深層への立入りが便宜上許されている。

 そもそも三層、四層の時点で黒笛であろうと単独行にはかなりのリスクが付き纏うが、それでも必ず五体満足で戻ってくるこのクラヴァリという探窟家を少なからず自分は尊敬していた。

 

「今回は三層までだ、どうにも様子がおかしくてな。タマウガチを見かけた」

 

 命穿ち(タマウガチ)、正式名称はトカジシだがその名前で呼ぶ者は殆どいない。

 深界四層(巨人の盃)を代表する原生生物であり、その危険度は理不尽の域に踏み込んでいる。網を通す程の靭やか且つ強靭な針には猛毒があり、もはや予知能力といっても差し支えないレベルの勘の良さも相俟って数多の探窟家を屠ってきた。真正面から対峙すれば十全な準備を整えた黒笛でさえ危ういだろう。

 そんな四層の頂点が何故自らの縄張りを放棄して三層に現れたのか理解できず、思わず首をひねった。

 七層から飛んで来るサカワタリや気流に乗って上の階層に昇ってくるベニクチナワとは訳が違う。そもそもタマウガチの食性は藻といった植物性で、餌を求めていたとしても渇いた第三層(大断層)にやってくる筈がない。

 

「なんでわざわざ階層を跨いで……」

「さあな、まあ見掛けたのは一体だけだ。一応念には念を入れて戻る際に監視基地(シーカーキャンプ)の『不動』に伝えておいたが」

「なら安心ですね」

 

 二層の守人であるその名を聞いて納得したように頷く。白笛はその身に一杯の尊敬と祝福を受けているが、その実皆大なり小なりイカれている。ただその中でも"不動卿"動かざるオーゼン、あの人はかなりマシな部類だ。きっと早急に対処してくれるだろう。

 

「ああ、白笛と言えばお前知ってるか? 黎明が……」

「今日はやってますよ、ハモロゲ丼」

 

 続きを遮るように強引に話を最初に戻す。

 このオースという街では稲作が行われていない。米は海外から輸入するしかなく肉などの食材も基本的にはアビスから賄えるが、自然を相手にしている事もあっていつ如何なる時でも目当ての食材、目当ての料理を食べられるとは限らない。

 その中でもうち(滑落亭)はかなり頑張っている方だとは思う。

 輸送手段を含めたより安全なアビスへのルートが確立すれば話はまた変わってくるだろうが、現状では未だ難しいだろう。目当ての料理が今日は出てくるか先に確認するのは、店の手間を減らす為の探窟家のマナーでもあった。

 

「それは助かる、久し振りの米を慈しむとするか。またあれにありつける幸運の為なら願掛けの甲斐もある」

 

 自分がその話題を嫌っている事を察したのか、彼は快く話題を変えてくれた。

 

「そろそろ店開きですから、どうぞ中へ。そしてお帰りなさい」

 

 年季の入った重々しい観音開きの扉を開く。

 探窟家御用達酒場、滑落亭。

 

 その不吉な名前には『縁起の悪い場所に行く事で、代わりに探窟には幸運を持って行って欲しい』という主の願いが込められている。普段はいがみ合っている探窟隊同士も、この場では大人しく情報を交換し、出された料理や酒に舌鼓を打つ。

 

 祈手改め、滑落亭の料理番。

 墜星のモルグなんて仰々しい二つ名が付けられた自分にしては、悪くない働き口だと思う。

 

 ─────────────────────────────────

 

 

「おい見ろ、またお前の先生とやらが名を売ってるぞ。五層までの直通エレベーターだとさ」

「止めてくださいよ、黎明卿の話。自分が祈手辞めてもう幾年は経ってるんですけど。今はしがない料理番です」

 

 丸縁眼鏡を掛けた壮年の男性が、椅子に座ったまま今朝の新聞を投げ付けてくる。彼こそがこの滑落亭の店長で、地上に戻ったはいいものの働き口に困っていた自分を拾ってくれた大恩人である。

 その右足は膝から下が欠けており、行き場を失った様にゆらゆらと揺れていた。

 

「はん、その胸に下げてる黒笛が泣いてらあ。祈手辞めたなんて言っても幾らでも売り込み先はあるだろうが、白笛の元探窟隊なら地臥せりだって嫌な顔はしないだろうよ」

「そんなの不義理じゃないですか、それに探窟はもういいんです。冒険はこっちに帰ってくる時十分堪能しました」

 

 滑落亭は一言で言ってしまえば、探窟家の為のキッチンだ。

 アビスで採れる野草や肉に加え、異国から輸入した米などの食材を美味しく召し上がってもらう事でこの街の稼ぎ頭である彼らの英気を養っているという訳だ。

 コックは探窟隊の料理番や引退した者、給仕も探窟だけでは到底食べていけない青笛などが賄っている。その中においてまだ現役の黒笛といって差し支えない自分が飯炊きをしている事は、傍目から見ればかなり異質だろう。

 実際ここで働き始めてそれなりに経つが、殆どの従業員に未だに腫れ物に触れるような扱いをされる。仕方が無いと言えば仕方が無い。

 不機嫌そうな顔をしている店長を尻目に厨房に入る。

 彼も元は名の知れた探窟家だったらしい。足を失って最早アビスに潜る事は叶わなくなったが、それでも行き場を失くした夢を託すようにこの滑落亭を開いたそうだ。

 ふと考える。

 夢の中で死ぬのと、夢を追い切れずに生きる。本当に不幸なのは一体どちらだろうか。どっちでもいいな。

 

 今日上がってきた食材には珍しくタチカナタが含まれていた。一層に生息する巨大な甲殻類で、身はシンプルに茹でてやると美味い。味噌もまた珍味で酒の肴として人気だ。今日の主役は間違いなくこいつだろう。

 他の料理番に声を掛けながら手際良く作業を進めていく。

 スリルこそないものの、確かに誰かの役に立っているという実感で心が満たされていった。

 生きていくのにロマンは必要無い。これが今の自分の生活だ。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 そんな日常が崩れてゆく、一つ目の出来事。

 滑落亭の常連でもある黒笛、ハボルグさんが店を訪れたのはある日の夜更け、まだ酒盛りの続く店を早上がりしようとした矢先の事だった。敵同士である事も多い探窟家の中で、朗らかな性格の彼を嫌う人はいなかった。自分の数少ない交友関係の一人でもある。

 そんな彼が持ち込んできたのは何とも奇妙な話だった。

 

「月笛が先導して成りたての赤笛四人に一層について仕込んでやる、って催しだったらしいんだがな。一人も帰ってきていないんだと」

「それは……変ですね。一人二人なら滑落事故も有り得ますが。原生生物の線にしても一層で全滅するとしたらゴコウゲかな、でも月笛が子供を連れてあれの縄張りを侵すミスをするとも思えないし」

 

 月笛は三層までの探索を許されている、言わば師範代だ。赤笛を少々連れていた所で一層の環境に躓くようではその笛を背負えない。

 何とも言えない薄気味悪さが話の節々に漂っていた。

 

「ああ。とりあえず夜明けを待って捜索隊を出すらしいが、事態が事態だ。組合から依頼が出てる」

 

 何となくその先が読めた。わざわざ彼が自分の元を訪れたという事は確実に黒笛案件だ。そして余程人手が足りないらしい。

 

「現在地上にいる有志の黒笛に捜索願いだ。三層でのタマウガチ目撃例もあるしな、一層とはいえ何が起こっているか分からん以上月笛を出すのは組合も不安らしい」

「……」

「どうする?」

「通しで一年は潜ってないんですよ、自分。ブランク長過ぎですって」

 

 少し考えさせてください、そう言って自分の部屋へ戻る。寝床と簡単な物入れくらいしかない、小さな部屋だ。

 染み付いた料理の匂いを落とすように、洗面所で顔を洗う。鏡に映っていた顔は自分の物である筈なのに、いつまで経っても見慣れない。暗い海を思わせる深藍色の髪は、一部分だけが幾度もの探索でかかった負荷により白く濁り、奇妙に捻れていた。所謂『奈落髪』という奴だ。

 その上に頬にはマドカジャクに付けられた傷痕が深く残っている。御世辞にも上等とは言えない面だ。

 それに幼い頃に腹一杯食べられなかったからか、同年代にも見劣りする体格。偉丈夫の多い祈手の中では文字通り子供のようだった自分を思い出す。

 

 ……赤笛と言えば、まだ殆ど子供だ。このアビスにおいて笛を下げ、遺物で稼ぐ以上そこに大人も子供も関係無い。それが道理だ。道理だが。

 

「……行くか」

 

 物入れの奥に仕舞い込んだ白い外套を取り出す。

 死装束(シュラウド)と呼ばれる祈手の中でも戦闘に長けた者しか着る事の許されていないこれに、祈手を辞めた自分が袖を通すのは後ろめたい気持ちもあったが、他に探窟用装備も持ち合わせていない。流石に仮面を被る事は止めた。刻まれた幾何学模様をなぞると、ぼんやりと光るそれをもう一度収める。

 バックパックにハーケン、ロープ、応急処置セットを詰め込む。捜索には迅速さが肝要だ。時間がかかればかかるほど、生存率は大きく下がる。

 削れる荷物は削った方が良い。必要最低限の武器であるナイフ二本をベルトに差し、蔦を切り開く為の鉈を腰に提げる。

 

 

 最後に、ベッドの下に置いていたある遺物を手に取る。

 通常の安全靴より一回り程大きいサイズの靴に幾つもの孔が空いている、そんなデザインだった。青笛の頃から自分を何度も助けてくれた相棒とも言えるそれに、少し迷って履き替える。

 

「いっ……」

 

 足を入れた瞬間、鋭い棘で刺されたような痛みが走る。何とか堪えようと数分の間、じたばたとベッドの上で転げ回っていた。

 

「だからこれ使うの嫌なんだよな……」

 

 やっと痛みが収まり、誰へという訳でもない悪態を一頻りついた後。

 胸に下げた黒笛にそっと触れると、夜のアビスへ繰り出した。

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 ハボルグさんと合流してまず手渡されたのは、一丁の銃だった。

 

「弾に加工した石灯を詰めてある。信号弾として使ってくれ」

「何か見つけたらこれで知らせろって事ですか」

「ブランクがあるんだろ? 何かあっても先走るなよ」

 

 素直に礼を言って受け取る。最近は実戦に身を投じる事もなく、どれくらい身体が鈍っているか自分でも分からない。

 

「他の黒笛も多少は来てるな……俺は方舟の方を探してみる」

「じゃあ自分は丘を見てみますよ。未踏域だったらもうそれは仕方ないです」

 

 このアビスでは一層、二層といった低階層でさえ未だに誰の手も入っていない未知の地形が発見されることがある。未踏域と呼ばれるそこに何らかの理由で入り込んでしまい、出られなくなっていたとすれば息のある内に救助できる可能性は限りなく低いだろう。

 瀑布ゴンドラの方に向かうハボルグさんと別れ、多階層の丘を目指す。一層の中でもかなり深い場所にあり、ゴコウゲと呼ばれる蜘蛛に似た原生生物の縄張りも含まれている場所だ。

 腰に付けたランタンを灯りにアビスを駆ける。街灯一つないこの場所では本当に奇麗に星が見える。

 何だか家に帰ってきたような、そんな訳の分からない懐かしさが込み上げてくるまま目的地に辿り着く。だが、すぐにそんな感傷は消える事になった。

 足を踏み入れた途端、辺りに漂っている異臭に気が付いたからだ。鼻をつく饐えた臭い、今までの経験がこれ何かの死臭だと告げている。

 

 その正体はあっさりと見つかった。

 腹を切り裂かれ、臓腑を撒き散らしたゴコウゲの死骸が草地に転がっている。咄嗟に信号弾を空に向かって放つ。一層切っての捕食者を無惨に殺した何かが近くにいる。まだぴくぴくと微かに動くその様を見るに、この惨劇が起きてそう時間は立っていないだろう。

 目を閉じて辺りの環境音に耳を澄ませる。

 

 

 おかあさん、おかあさん。

 

 

 最悪の想像を胸に忍ばせて声の方へ向かう。

 そこにあったのは白い羽毛、長く伸びた鑢のような舌、人と聞き紛う哀願。

 三体のナキカバネが丘の上に陣取っていた。コロニーを形成している途中なのだろうか、倒木で器用に巣のような物を作り始めている。

 

 その上で、とっくに息絶えた月笛と思しき男が臓物を貪られていた。

 

 

 鐘を打つ心臓を何とか鎮め、辺りを観察する。よく見れば、その内の一体は岩陰の隙間に隠れる何かに舌を巻きつけていた。目を凝らしてみると中にいるのは……どうやら赤笛だ。引きずり出されないよう必死に抵抗していたのだろうか。

 

 ハボルグさんが到着するのを待つ猶予は恐らくない。 

 音を立てないようにそっと屈んで、靴に仕込んである遺物を起動させる。地上に戻って以来使う機会こそなかったが、壊れていない事を祈るしかない。

 

 

『──泡沫に沈む(テンペスト)

 

 

 先生(黎明卿)に名付けてもらったこの遺物は至極単純で、故に暴れ馬だ。周りの空気を吸い込み噴出する、それだけのシンプルな機構。だが操作を誤れば無様に上昇負荷を受けるか、地面に叩き付けられるかの二択だ。

 何れにしても、ブランクの空いた自分に乗りこなせるかは五分五分といった所だろう。 

 渦を巻きながら靴へ吸い込まれていく空気が、眼前のナキカバネを威嚇するように音を立てた。啜り泣きにも似た鳴き声を上げて獣がこちらを睥睨する。左右非対称の眼球が悍ましく蠢く様は、二層という低階層に住む原生生物でありながらこの大穴(アビス)という場所がどういう物か端的に指し示していた。

 並の人間ならば少し食いでのある餌にしかなれないであろう致命的な存在。死ぬか生きるかの生存競争の中には人の崇高な理念などポケットの中の毛糸屑よりも役に立たない。

 

「落ち着け……」

 

 自分へ言い聞かせるようにしながら鉈の位置を確認し、空いた手に二本のナイフを忍ばせながら改めて三体の場所を頭に叩き込む。少し離れた所で夢中になって月笛を貪っているのが一つ。岩の隙間に隠れている赤笛を穿り出そうとしているのが一つ。そして自分に対して今翼を広げて飛び掛かろうとしているのが一つ。

 タイミングを合わせて息を大きく吐きながら、真正面から飛んでくる爪をすり抜けるようにして躱す。

 ナキカバネの特徴の一つとして、頭頂部にある右眼が挙げられる。学者達によればこれは視野をより立体的にし、死角を無くす働きがあるらしい。兎にも角にも要するに右眼は狙い辛い、潰すなら左眼からだ。

 

 すれ違い様、ナイフの一本を左眼に突き立てる。悶えるようにその場で足踏みをする獣の左翼を掴んで、身体を駆け上がるようにしながら空中へ飛ぶ。3m、まだ上昇負荷は考えなくていい。そのまま重力に身を任せて落ちるようにしながら、残った右眼にナイフを捻じ込んだ。

 転がって受け身を取ると、すかさずその鼻っ柱を崖の方に向かって渾身の力で蹴り飛ばす。鼻骨を折った確かな手応えがあった。よろけたナキカバネはそのまま絶叫と共に足を踏み外して落ちていった。

 

 

 一体がやられたのを見て、残りはようやく目の前にいる相手がただの餌ではない事に気付いたらしい。月笛の死体、岩陰に隠れていた赤笛。それぞれの目的を放棄してこちらを威嚇するように吼える。二体同時は分が悪い。手前側にいる月笛を喰らっていた個体に狙いを定めた。

 

 遺物によって足元から吹き荒れる風に身を任せ、瞬間的に加速する。

 

「……ッ!?」

 

 気付いた時にはナキカバネの胸に勢い良く激突していた。脳が揺れるような衝撃に思わずふらつく。どうやら制御に失敗したらしいが、面食らっているのは向こうも同じだ。

 腰に提げていた鉈を抜くと、勢いよく喉笛に突き上げる。獣の白い羽毛が、喉から漏れ出る風を切るような音と共にみるみる鮮血に染まっていく。暫く藻掻いていたが、やがて声を上げる事もなく地に臥した。

 

 すぐさま動かなくなった死骸から鉈を引き抜こうと手を掛ける。抜けない。

 

「嘘だろ……」

 

 筋繊維が刃に絡んでいるらしい。こんな事ならちゃんと研いでおけばよかった。鉈を諦めて最後の一体に向き直る。不動卿は素手で獣を引き裂くらしい。黒笛の自分もその真似事くらいはできる事を祈るしかない。

 

 狙うは首、一撃で叩き折る。加速を上手く扱いながら爪や舌を躱して懐へと潜り込んだ。そのままの勢いで上段蹴りをナキカバネの頭に命中させる。

 インパクトの瞬間、遺物に貯めた風全てを解き放つ。轟音と鎌鼬、到底人の身に許される筈がない速度の代償に、蹴りを入れた足が軋むのを感じる。大した手ごたえもなく、獣の頚椎が折れる枯木を叩き割ったような音がした。まだ微かに動くその頭を思い切り踏み砕く。

 

 終わった。

 

 

 完全に沈黙したナキカバネの死骸を乗り越えて、痛む足を引き摺りながら岩の隙間へ歩いていく。驚かせないようそっと覗き込んだ中には赤笛が四人、しっかり揃っていた。あの月笛はきっと自分のなすべきことを全うしたのだろう。巣の上でだらしなく開かれた瞼をそっと閉じてやり、祈る。

 

「怪我はない?」

 

 赤笛達にそう訊ねると、足を掴まれていた年長者であろう女の子が瞳一杯に涙を浮かべながら黙って首を縦に振る。他三人も極度の緊張で衰弱しているものの、外傷はなさそうだ。

 

「もう少し待ってたらもう一人おじさんが来るから、そうしたら帰ろう。お腹減ってない? これ食べる?」

 

 バックパックの中に眠っていた行動食4号を差し出す。一口齧るなり皆一様に何とも言えない顔をしているのを見て、久々に笑みがこぼれた。

 程無くして来たハボルグさんに呆れた顔でたんまり絞られながら帰路を往く。黒笛も怒られるんだね、と後ろでひそひそ耳打ちし合っている赤笛に対して情けないやら恥ずかしいやら、ただ俯くしかなかった。

 

「お前、自分でブランクが空いてるとか言ってただろう。何の為に信号弾持たせたと思ってるんだ」

「いや本当にすみません、返す言葉もございません」

「ったく、まあ無事で良かったよ。本当によくやった」

 

 乱暴に、だが確かに親しみの篭った手が自分の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回す。頭を撫でられるという経験があまりなく、思わず肩をすくめる。けれど何だか悪くない気分だった。

 

 

 三層に現れたタマウガチ。一層にコロニーを作ろうとしていたナキカバネ。

 何処か心の隅に引っかかるものの、とりあえず今は蓋をして日常に戻る。それを繰り返していけばいい。

 

 ─────────────────────────────────

 

 そんな日常が崩れてゆく、二つ目の出来事。

 件の赤笛捜索からまだ一週間も経たない頃の事だった。いつものように探窟家たちへ振舞う料理を作っていた自分の肩を店長が叩いた。

 

「モルグ、お前に客だぞ」

 

 客、と言われて首を傾げる。孤児であった自分の交友関係は決して広い方ではない。祈手となってからも友人よりは敵が多い、況してや今自分がこんな所で飯炊きをやっているのを知っている探窟家はそういないだろう。

 キャラバンから仕入れた異国の香辛料を鍋に加えながら冗談交じりに返す。

 

「客ですか、指名までされるなんて自分も出世しましたね」

「馬鹿、違う。(ハンズ)だ」

 

 思わず味見をしていた匙を取り落とす。

 

「確かグェイラとか言ってたな……ああ何だ、いるじゃねえか店の中に」

 

 近くにいた青笛に調理を引き継いでもらうと、急いで厨房を出る。店長が指し示す先にあったのは見知った顔。ツチバシの焼串をつまらなさそうに頬張っていた男は自分の姿を認めると、懐かしそうに笑って手招きした。

 

「よお、一番弟子。そんなに見つめんなよ、照れちゃうだろ」

「先輩、何でここに」

 

 まあ座れよ、そう言われておっかなびっくり机を挟んで着席する。申し訳程度に頼んだのか、机に並べられている何品かの料理は冷めていた。

 

「旦那からの言伝だ、簡単に伝えるぞ。今非常に手が足りていないので五層での作業に協力してもらえないか。それが不可能であれば枢機に還す光(スパラグモス)の返却をお願いしたいってさ。何か質問は?」

 

 聞きたい事は山のようにあった。この数年間今まで接触を図る事もなかったあの人が、わざわざ祈手を差し向けてまで自分を呼び戻す理由。逃げるようにして前線基地を出た自分に対して思う所はないのか。けれど今一番知りたいのはそんな事ではなかった。

 時化た海のような心を鎮める為に、大きく息を吐く。吸う。もう一度吐く。

 

「とりあえず、一つだけ教えてください」

 

 じっと彼の瞳を見つめる。

 

「先輩は、精神隷属機(ゾアホリック)を使ったんですか」

「ああ。それが今の祈手の条件だ」

 

 目の前の男の瞳の中に揺らぐ何か。そこにあの人の面影が隠れているような気がした。

 

 

 

 ─────────────────────────────────────────────────

 

 

『泡沫に沈む』

 競売名:テンペスト

 

 靴状の遺物加工品。等級としては二級に当る。

 三級遺物である"空気まんじゅう"や黎明卿が独自に収集した二級遺物"消えない渦(シュトローム)"を元に製作。とある祈手の為にチューンナップされた専用装備であり、市場には出回っておらず競売名も黎明卿が独自に名付けた。

 装着すると内部に仕込まれている原生生物由来の刺胞が脚部の神経系に接続される事で、直感的な操作を可能とする。

 裏面や側面にある吸気口から空気を吸い込み、必要に応じて排気口から噴出するのが主な効果であり、暑さを凌ぐ送風機程度から人や原生生物を容易に吹き飛ばしうる程の風量まで調整が利くが、あくまで貯め込んだ空気を噴出するだけであり使用までに少々時間を要する。

 移動から落下対策、体術と織り交ぜての戦闘など多岐に渡って応用できるが、上昇負荷が致命的であるアビス深層においては使い所が限られ、また扱い自体も極めて難しく長年の修練が必要である。

 

 

 

 

 

 

 






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#2 逃亡者

 

 

 先生はまず、何でも自分で試してみる人だった。

 決して善人とは言えなかったが、己の快楽の為に他者を傷付ける事は一切無く、そこには奈落の未知を解き明かすという芯が一本通っていた。

 いつか大穴を埋め尽くす程の羽虫が発生した時、先生は即座にその発生源である湖に猛毒を流した事があった。貴重な水場を潰し周辺の生態系を破壊したと非難轟々ではあったが、それでも先生の判断が遅れていればアビスから溢れた羽虫はオースの街に雪崩込んでいただろう。

 

 先生は過ぎ去っていく事柄を(かえり)みない。

 故に探窟家の誇りと伝統を踏み躙り、この奈落に夜明けを齎す者として"黎明卿"という二つ名で呼ばれてこそいるが、意味の無い犠牲を良しとしない徹底的な現実主義者(リアリスト)でもある。流される血に必ず意味を持たせる、そういう人だ。五層までのルートを開拓したはいいものの、六層に降りる手段に行き詰まった時もそうだった。

 

 人が人の形を維持したまま戻る事が叶わない、それが六層の上昇負荷。故にそこへ行き着くまでに要求される資格も、それまでとは一線を画す。なきがらの海を下り、還らずの都へと辿り着く為の祭壇を動かすには白笛が必要不可欠だった。

 

 その原材料である命を響く石(ユアワース)を作るのに必要なのは身も心も捧げる、端的に言えば人一人の命を消費する。だが先生は祈手達にそれを良しとする事を許さなかった。

 先導卿は所持している遺物の力でなきがらの海を下る事ができるという。なら私達にも他に手段がある筈ですよ、というのが先生の言い分であり。それに利用できそうな遺物を合法非合法の手段を問わず収集する、それが祈手としての自分の仕事だった。

 遺物の所有権は基本的に地上へ持ち帰った際に確定する。つまり限り無く黒に近いが、それまでに強奪すれば建前としてはこちらの所有物となる。自分が墜星などという仇名を付けられた理由は、まあ推して図るべしだろう。

 そんな日々の中、先生が精神隷属機(ゾアホリック)という名の特級遺物を手に入れたのは、ちょうど自分が祈手を辞めて前線基地を出る一年ほど前の事だった。

 

 使い手の精神をコピーし、他の人間に植え付ける。擬似的な不死を齎すそれは常に黒い噂が付き纏っていた。使い手は尽く発狂、自殺、複製体による自身の殺害。

 そんな代物が本当になきがらの海を越えるのに役立つのか、と疑問には思った。だが自分には学がなかった。ただ言われるままに遺物を収集し、先生を狙ってきた賞金稼ぎを捕らえて引き渡す。何の実験に使っているか定かではなかったが、考える理由もなかった。

 そしてある日を境に、精神隷属機を収納している研究室から先生は出てこなくなった。不安ではあったが心配はしていなかった。

 

 久々に研究室から出てきた後ろ姿に声を掛けようとして、凍り付く。

 

──あの、先生じゃない、ですよね。

 

 目の前の男が被っている仮面は確かに師の物であったが、その体格は大きく異なっていた。その胸には左手と左手を握り合わせた歪な白い笛が輝いている。

 

──私ですよ、モルグ。私を使ったんです。この方法なら白笛を量産する事も可能かもしれませんね。

 

 幾度の実験の果て、あの人は自分自身を白笛とした。そんな簡単な事実を自分は受け入れられなかった。最早目の前にいるのは敬愛していた師ではなく、あの人の形をした何かでしかなかった。

 それと同時に、心の片隅では彼ならそれをやってのけるだろうという納得もあった。

 祈手に精神隷属機の使用を推奨するようになったのもその頃だろう。同期を取る事でより効率良くアビスを探索し、未知を解き明かす。けれど自分の細胞はそれに触れる事を拒否していた。きっと、それは恐らく。

 

 自分はボンドルドという人物を心の底から畏れ、それと同時に尊敬していたが。決して彼になりたい訳ではなかったからだと思う。

 

 自分は、ただ先生と。

 ……今更そんな事を言っても詮無い。兎にも角にも、そういった成り行きで自分は前線基地を後にする事にした。

 君達の意思を尊重します、と彼は言っていたが素直に額面通り受け取れるほどお人好しではなく。使用を強制される前に離れたのは苦肉の策の果てだった。

 

 五層からの単身帰還はかなり危険な賭けではあったが、全くの無策という訳でもなかった。

 まず一つ目の理由として帰還するルート構築にこれまでの探窟経験が活かせる事。

 当時の黒笛と比較しても、先生の護衛として深層に潜る機会はかなり多かった。本来四層より下の環境を早々知る機会はない黒笛にとって、これは大きなアドバンテージだったと言えるだろう。特に五層切っての捕食者『カッショウガシラ』への対策を学べていたのは大きい。

 

 二つ目は経験則から、アビスの中心から離れるほど比較的上昇負荷が軽くなる傾向がある事を知っていた事。

 これに関しては一概にそうと言える訳でもなく、分の悪い賭けだった。三層より上はまだしも、四層や五層の負荷は生命の危機に直結する。よってさらに保険を掛けて、層と層の境目はアビスの端かつ可能な限り原生生物と遭遇しない。そんなルート構築が必要不可欠だった。

 

 そして最後に、その時自分が死装束(シュラウド)として戦闘や移動に適した遺物を装備していた事。

 

 等級不明『枢機へ還す光(スパラグモス)』。

 二級遺物『月に触れる(ファーカレス)』。

 遺物加工品『泡沫に沈む(テンペスト)』。

 

 "泡沫に沈む"を主装備として、接近戦主体の"勝負服"として嘱望されていた自分に与えられていたそれらを使い潰し、後は天運に身を任せて上を目指した。

 元からの強みである機動力を触腕によって更に活かす"月に触れる"、そして足りない攻撃力を補う"枢機へ還す光"。それを以てしてもタマウガチやベニクチナワといった原生生物との接敵を可能な限り避け、亀の如き進みでやっと次の層に辿り着く。

 睡眠も碌に取れない極限環境。行動食4号のお陰で食料にだけは困らなかったが、単独行が如何に困難であるかをこの身で知った。五体満足で生きて帰れたのは本当に神の御技と言ってもいいだろう。

 決してそれが二度は無い事くらいは理解している。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 時は滑落亭、自分が先輩から黎明卿の言伝を受け取っていた頃に戻す。

 目の前の男もまた精神隷属機によってその精神を植え付けられていた事を知り、少なからず衝撃を受けていた。そんな自分を慰めているつもりなのか彼は優しげに呟く。

 

「まあ別に今すぐどうこうって事はねえよ、あくまで俺達は予備みたいなもんだ。何かあれば俺達が代わって"旦那"になる。それだけだ」

「……それで、今はその何かが起きてるんですね」

 

 先輩は確かめるように辺りを見回す。滑落亭には他の探窟隊も多く出入りする。基本的には盗み聞きをするような躾がなっていないのは早々いないが、手癖の悪い連中もいる。今日の所はひとまずいないか。

 

「今回の件だが、旦那の意向でまだ組合に報告は入れてない。報告入れたらどうにかなるかって言われたらそんな確証もないし、今前線基地(イドフロント)をガサ入れされるのは面倒なんだよな」

 

 白笛が所持を許されているのは一級遺物までだ。それを律儀に守っている者がどれほどいるか知らないが、少なくとも建前上『精神隷属機』を所持している事が知られるのは避けたいのだろう。

 

「何処から話すかな……そうだな、少し前に殲滅卿が絶界行(ラストダイブ)したろ?」

 

 殲滅卿、殲滅のライザ。現白笛の中で最強の呼び声名高い彼女が先の探窟でとうとう絶界行、深界六層へと姿を消したのはまだ記憶に新しい。巨大な原生生物や二、三十程度の異国の探窟家など、彼女の持つ無尽槌と呼ばれる一級遺物の前では上等な床の染みにしかなれない。

 

 

「それに加えて旦那が研究の妨げになるってんでこれも組合に報告してないが、実は神秘卿と先導卿も潜ってる」

「無茶苦茶じゃないですか」

「無茶苦茶だよ」

 

 今確かアビスに潜っている白笛は計五名。その内三人がもう二度と戻ってくる事ができないという空恐ろしい事実に背筋がぞくりとする。仮に五層以上で白笛の力を借りなければならない案件が発生したとして、それを現状では黎明卿と不動卿のみで対応しなければならないという事だ。

 

「それでやっと本題だ。三匹の怪物が降りて環境が変わったからか知らないけどな、登ってきたんだよ。滝を伝って深界六層(還らずの都)の原生生物が」

 

 俄には信じ難い話であった。高さにして1000mはある滝を遡上する怪物がいるのか? だがそうでもない限り、祈手を黎明卿が直々に派遣する事もないだろう。それにアビスでは階層を下る事に原生生物の危険度は比例して増す。故に無駄に命を落とさない為に、笛という制度で一層毎に厳しく管理を行っているのだ。

 

「その原生生物の討伐って所ですか? わざわざ自分を呼ばなくても上等な祈手は揃ってるでしょう」

 

 苦虫を嚙み潰したような顔で先輩が頬を掻く。

 ふと三層にいたタマウガチ、一層に上がってきたナキカバネの事を思い出す。奴等が上の階層に来たのは決して偶然ではなく……自らより強大な何かに住処を追われて来たのだとしたら? 

 

「死装束の七割がそいつに壊された」

「……は?」

「ギャリケーも入れた、あいつは生きてるけどな。兎も角それくらいリソース注ぎ込んでも決定打を与えられなかったって事だ」

 

 御馳走様でした、そう言って席を立つ。それを見た先輩は此方へ歩いてくると、肩を掴んでもう一度自分を座らせる。

 

「いや、ギャリケーさんに殺れないのに自分が行っても意味無いですって!」

「相性の問題だよ、アウトレンジが効かねえんだ。あいつは火炎で距離取りながら戦うだろ」

「原生生物相手に接近戦仕掛ける奴なんか馬鹿ですよ」

「じゃあお前は筋金入りの馬鹿だな」

 

 一頻り言い合った後、暫し沈黙が流れる。兄弟のように気さくに接してくれていた頃を思い出し、少しだけ懐かしさが胸の内に込み上げた。

 

「んで、最初に言ったろ? 白笛三人の応援は頼めない。不動卿は旦那の事滅茶苦茶嫌ってるから、当てにできるか分からない」

「それで前衛張ってた自分に白羽の矢が立ったと」

「頼めるか?」

「お断りします、『枢機へ還す光』は渡すので」

 

 

 誰だってお断りするだろう、こんなもの。

 

 

 ──────────────────────────────────────────────────────────────────

 

『死装束』

 

 祈手の中でも選び抜かれた戦闘員であり、トレードマークとも呼べる白い外套の下には各人様々な遺物で武装している。

 軍隊のように高いレベルで規律の取れた連携と個々人の戦闘力の高さで黎明卿の障害を排除し、白笛になってからはボンドルドの戦闘用ボディも兼ねている。

 彼が黒笛時代の頃は墜星のモルグが前衛を張り、遺物で戦線を掻き回しながら灰のギャリケーが相手の退路を放った火で封じつつ仕留めるのが定石であった。

 

 

 

 

 

 



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#3 生きる、もしくは飯を食う


お陰様で評価バーにも色を付けて頂きましてありがとうございます!
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 自宅の狭い厨房の中で軽く肩を回す。以前仕留めた際に分けてもらったナキカバネの肉塊が俎板(まないた)の上に鎮座していた。赤身と脂肪の境目に、包丁の刃先で切れ目を入れて筋を切る。ナキカバネの肉は少々硬いのでこの一手間が美味しく食べる為のコツだ。保存も兼ねて各種香辛料やサイノナを刻んで作った調味液に漬け込んでおいたので、臭味はかなり抜けているだろう。

 たっぷりの油を傍らで温めておきながら、小麦を挽いて粉にした物を詰めている缶を手に取る。大皿の上にそれを空けようとして中身が殆ど無くなっている事に気が付いた。弱ったな、と顎に手を当てて思案していたが、やがて妙案を思い付く。

 

「ねえ、鞄の中に棒みたいな形の焼菓子があるからさ。ちょっと取ってくれる?」

「焼菓子? ……これ行動食4号じゃないか、罰が当たるぞ」

 

 まだ新しい青笛を下げた少年が呆れたように呟きながら、包み紙からそれを出してキッチンに持ってきた。礼を言うと、深層探索の為に開発された完全栄養食と言われる行動食を片手で細かく砕く。

 これは栄養こそ豊富だが薄っすらとした塩味しかしないので粉代わりに使うには丁度良い。下味のついた肉にそれを満遍なくまぶすと、溶いたササリの卵にさっと潜らせて中温で数分揚げる。良い揚げ色の付いたそれを食べやすい大きさに切って予め炊いておいたマゴイモを粒加工した物の上に乗せ、野菜や果実、香辛料を煮詰めたソースを一回しする。食欲を唆る香りが部屋中に充満した。

 

「という訳で、青笛昇格おめでとう」

「どうも」

 

 目の前で肉に齧り付く少年は、名をジルオといった。まだ子供と言っても差し支えない歳だが、先日青笛を手に入れた将来有望な探窟家である。殲滅卿の弟子と聞けば、その才能は推して知るべしだろう。

 自分が五層から単身帰還する際、まだ赤笛だった頃の彼と偶然一層で鉢合わせてからの付き合いだった。味のしない食事に飽き飽きとしていた自分に分けてくれた握り飯、それの礼として時々こうやって食事を振る舞う。お互い白笛と縁深い事からそれなりに話も弾み、自分が潜らなくなってからのアビスの様子についても彼から仕入れていた。

 

「しかしあんたが一層とはいえ、もう一度アビスに潜るとはな。最初に会った時は二度と勘弁って顔だったのに」

 

 年相応に肉を口一杯に頬張りながら、彼が師匠譲りの不敵な口調で尋ねてくるのを酒を呷りながら躱す。普段はあまり飲まないが今日は友人の祝いだ。少しくらい良いだろう。

 

「赤笛だったからね。子供が好きなんだ、可愛いし」

「そうは見えないな。寧ろあんたはガキなんざ嫌いだと思ってたよ」

 

 聡い子だ。伊達に殲滅卿に師事していた訳ではないのだろう、よく人を見ている。脳に沁み込んでくる酔いのせいだろうか。柄にもない事を喋りたくなる。

 

「……探窟家になった時、きっと皆『自分の冒険はここから始まる!』って胸躍らせると思うんだ。沢山稼いで、深層へ潜って、奈落の底へ辿り着いてやろうって」

 

 アビスへ潜る際に成りたての赤笛を何度も見てきた。一様に希望溢れる、まだこの奈落に潜む悪意を知らない顔だった。

 

「でもそれは原生生物であったり、アビスの呪いその物であったり。自分ではどうにもならない何かに不可能だと思い知らされる。お前はその器ではないと」

 

 自分の場合はそれが異国の探窟家だった。直接的に負わされた傷というよりは、アビスの中でさえも誰かを貶めようとする人間の浅ましさに嫌気が差した。金のために始めた探窟ではあったが、それでも回数を重ねる内に如何に人の手が入ろうとも、その全てを明かす事のないアビスの底知れ無さに敬意を抱いていた。

 それだけに浅層でさえ他人を陥れようとする者がいる事に絶望した。自分達が力を合わせ、その命を賭してもきっと七層に辿り着く事すらできない。況してや人同士で争っていては尚更だ。

 だから自分は諦めた。行く手を阻むアビスの神秘に抗う力を手に入れたとしても、人の底知れぬ悪意にそれが追い付ける訳がない。

 

「それでも人は賢いから、適当な所で折り合いを付ける。それができずに己の力量を過信した者からここでは死んでいく。でも本当に一握り、ただ憧れのまま突き進む人達がいる。きっとそれが白笛なんだと思う」

 

 だから自分は託した。きっとこの身が滅びようとも、どれだけの人の悪意に晒されようとも。あの人ならばどんな手段を用いても必ずこの奈落に夜明けを齎すと、そう思わせてくれたから。

 悪意を踏み潰す善意。全ての好奇を背負って立つ黎明。

 

「自分はもうとっくの昔に折り合いを付けてしまったから。まだ可能性に満ちている君達が……嫌いとは少し違うかも、多分羨ましいんじゃないかな。だからこれからも頑張って羨ましがらせてくれよ、少年」

 

 自分でもよく分かっていないんじゃないか、と溜息をつくジルオへ冗談めかして話を結ぶ。

 

「精々励むとしよう。しかしせっかく階級が上がっても、潜れないのなら仕方がないな」

 

 彼は汚れた口元を拭いながら憂鬱そうに呟いた。実際その通りで、今一部の探窟家を除いてアビスに潜る事はできない。組合が一時的に青笛以下のアビスへの立入りを禁止したのだ。奇妙に捩れた生態系は、既存の危険度に当てはめる事ができず一層であっても赤笛・青笛の安全な探窟を保証できないとの事らしい。安全な探窟なんてものがあるなら是非ともこの目で拝んでみたいが。

 ともかく現状は月笛以上が潜った際に少しでも異なる階層にいる原生生物を討伐してもらいながら、後はアビスの自浄作用に任せるしかない。根本的な原因が不明である以上、そういった対症療法に甘んじる他なかった。

 ただ、もし先日自分が先輩(グェイラ)から聞いた話が真実であるとすれば。その六層から来た原生生物を処理できれば、少しは環境回復に寄与できるのだろうか。

 

 御馳走様でした、と律儀に手を合わせるジルオを孤児院まで送り届ける。街はいつもよりも静けさに満ちていた。アビスに異変が起きれば、このオースという街も少なからず影響を受ける。その呪いと同じ位に自分達は奈落から恵みを受け取って生きているからだ。よって、死ねば自分達の魂はそこへ還ると言われている。

 

「自分は、どうやって死にたいのかな」

 

 異国の探窟家に腹を撃たれた時、こんな死に方は真っ平ごめんだと願った。どうせ死ぬのならアビスの糧になりたいと。それなら今の自分はどうなのだろうか。このまま料理を作って、奈落へ潜っていく探窟家達を見送る。決して悪くない死に方の筈だが、何故か以前よりも心惹かれなかった。

 誰とも無しに月夜に向かってそんな事を呟く。当然、返事はなかった。

 

 ─────────────────────────────────

 

 滑落亭の方も普段と比べて活気に欠けていた。一番の要因としては三層でのタマウガチ目撃情報だろう。あの図体でどうやって険しい大断層に住み着いているのかは分からないが、一人前と呼べる月笛に二の足を踏ませるには十分な理由だ。

 

「客はいますけど、何とも景気が悪いですね」

 

 控室で店長といつものように雑談を交わす。いつも眉間に刻まれている皴が今日は殊更に深く見えた。この店では毎日のように探窟家が訪れ、食って飲み、そしてアビスへ潜っていく。(あたか)もそれが最後の晩餐であるかのように。

 見送る事しかできないこの仕事を店長は心から愛し、それと同時に憎んでもいた。贔屓にしてくれていた探窟家の訃報を聞く度、彼の眉間の皺は増々深くなる。

 

「お前、何で此処にいる」

 

 突然の厳しい物言いに面食らう。何か粗相をしただろうかと恐る恐る彼に尋ねる。何分かの押し問答の末、ようやく店長の不機嫌の理由に辿り着いた。

 

「何だ、てっきり俺はお前があの祈手に連れ戻されるんじゃないかと思ったんだがな」

「馬鹿言わないでくださいよ、自分はもうこの暮らしが性に合ってるので。恐ろしいったらありゃしませんよ、今のアビスに潜るなんて」

 

 どうやら誤解があったらしい。自分が祈手に復帰してこの店を出て行くのだと思ったそうだ、馬鹿馬鹿しい。

 おかしいな、と頻りに呟く店長に「ないない」と手を振って笑う。仕事に戻ろうとした自分の背中に何気なく投げられた言葉に、思わず足が止まる。

 

「だって迷ってるだろう、お前。ここに来た時からずっと」

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 五層からの帰還を果たした後、暫く生活に困る事は無かった。黎明卿の近況を報告し、一層までのルートを詳細に述べるだけで探窟家組合からは莫大な報奨金が出た。それほどまでに単身での深層からの帰還は困難である。環境に精通し、上昇負荷をやり過ごし、深層の原生生物を相手取る。況してや五層、歴代白笛の中でも上澄みしか行えない離れ業だろう。自分は本当に運が良かったのだ。

 

 アビスに潜るのを止めたからといって、オースから離れる気にもならなかった。海路を選べば異国へ行く事も容易ではあったが、伝手も無いまま新天地を目指す気概はなかった。

 奈落の傍らで生まれた者は、その魂までも奈落に縛られている。幾度も聞いたそんな文言がずっと頭の中に響いていた。

 持て余す時間をどうにかする為に働き口を探し始めたのもその頃だ。単に誰かから必要とされたかったのかもしれない。しかし幼い頃からそれ一本であった自分から探窟を取ってしまえば、大して残る物はない。そう気付くのにも時間はかからなかった。

 

「お前、黒笛の癖に働き口を探してるんだってな」

 

 滑落亭で何の当てもなく、自分の無能さに飽き飽きとしながら飯を食べていた時だった。机を叩くようにして壮年の男性が自分に話し掛けていた。名前が売れた事で他の探窟家に絡まれる事も増え、この男もその類だろうと高を括る。無視して肉を食んでいると尚も男は尋ねてくる。

 

「探窟はしないのか」

「もう、そんな気はないです。放っておいてくれませんか」

 

 あまりのしつこさに辟易してつい返事をしてしまう。生来の身体の小ささもあって人から舐められやすかった自分は、気弱な性格を隠す様に棘を身に纏っていた。悪意に対する最も有効なカウンターは、それもまた悪意だ。しかし男の顔を睨み付けるようにしていた自分に投げ掛けられた言葉は、意外なものだった。

 

「じゃあお前、ここで働け。給仕から始めろ、やる気があるなら料理も教えてやる」

「……は?」

「死んだ様な面でうちの料理つつきやがって。人間様が生きるってのは美味い飯を食うって事だ、馬鹿野郎」

 

 懐かしい記憶。

 退屈ではあったが、奈落で墜ちた星だった自分を人間にしてくれたのはきっとこの人だった。

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 お前は迷っている。そう言われて、心臓の奥に冷たい痛みが走るようだった。きっとそれは、自分が本当にそうである事に気付いてしまったからだ。畳み掛けるように店長が呟く。

 

「黎明卿の話を聞きたがらないのもその裏返しだろ。本当は気になってるから遠ざけてんだ」

 

 言い返そうとして言葉に詰まる。否定し切るだけの自信が今の自分にはなかった。代わりに震える声で彼に尋ねる。それを自覚してしまえば取り返しが付かなくなりそうで、何だかべそをかいてしまいそうだった。

 

「店長、自分どうしたら良いと思います?」

「お前が決めろ。探窟家だろうが」

 

 当たり前のように一蹴される。探窟家を買い被り過ぎだろう、という言葉をぐっと堪えて大して詰まってもいない頭を回転させる。自分が本当にやりたい事は。

 数分のち、ぽつりとそれは口から零れた。

 

「一言、会って謝りたいです。謝った上で『やっぱり無理です』って伝えたい」

 

 命を救ってもらい、一人前の探窟家にしてもらった。決して綺麗な仕事ばかりではなかったが、それでもあの日々を単に無かった事にして割り切れる程大人でもなかった。たとえ道を分かつ事になったとしても、あの人の記憶に残る自分が不義理である事は避けたかった。

 ああ、そうか。何処まで行っても自分はあの人(先生)を嫌いになれないのだ。見放せないのだ。

 

 精算の時。

 

 見せてもらった夢に礼を言い、ちゃんと筋を通して訣別する為の精算。そんな言葉が脳裏にぼんやりと浮かんだ。

 

「なら黎明卿に退職願叩き付けて来い。行って気が変わったならそれも良い。ただ後悔だけはするなよ」

 

 自分に言い聞かせるように呟く店長は暫く俯いていたが、吹っ切ったように顔を上げる。一人の探窟家の瞳をしていた。

 

「俺達は何処まで行ってもアビスから離れられない。未練残したままなら尚更だ。だからその足がちゃんと二本付いてる内に行ってこい、奈落の底まで」

 

 お世話になりました、と思わず頭を下げる。

 自分にはきっと三人の父がいる。岸壁街というスラムとはいえ、自分にこの生を授けてくれた一人目の父。

 次にただ生きる為に探窟家を始めた自分に、生き永らえる術を教えてくれたのが二人目の父(黎明卿)

 そしてやる事を失った自分に、人として生きる事を教えてくれた三人目の父(店長)

 

 まだ早えだろ、ちゃんと帰って来いよ。

 慈しむような声でそう言いながら自分の頭を撫でる手はとても温かった。絶対に生きて帰って来よう、たとえアビスに絶対は無いとしても。そう静かに決意した。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

「というか、先輩はどうやって五層から上がってきたんですか? まさか自力で?」

「冗談だろ、旦那の指示で一層と五層を繋ぐゴンドラを試作してるんだよ。それを試験的に使わせてもらったんだ。帰りもそれだ、ただでさえ下に大仕事待ってんだから余計な体力使いたくないしな」

「ならこんなに気負って準備して来なくても良かったですかね」

 

 オースから少し外れた地にその設備はあるという。どういう用途で使うのか知った事ではないが、まだ幼い子供でさえも深層に辿り着ける物を目標としているらしい。

 一通りの探窟用装備と遺物を身体に仕込んで、自分と先輩(グェイラ)はその出発地点を目指していた。店長と別れたその足で先輩の滞在先を訪ね、同行を承知したのだ。

 

「お前、ちゃんと地上の友達に挨拶してきたか?」

「一応は。というかさっきから言ってますけど、枢機に還す光(スパラグモス)を返して先生に詫びを入れたら帰りますよ。憂いを断ちに行くんです」

「はいはい、分かった分かった」

 

 話に上がっていたのは枢機に還す光だけだが、その他に借りたままにしていた遺物も探窟用の中のリュックに詰め込んで来ている。使わないに越した事はないのだが、まず優先するべきは五体満足で前線基地(イドフロント)に辿り着く事だ。

 

「……あ? 嘘だろ? マジで言ってる?」

 

 そのゴンドラとやらに待機している他の祈手と通信機で先輩は何やら話し込んでいたが、何とも言えない顔をしながらこちらに腕で×マークを作っている。どうやら何かしらの要因で頼みの綱のそれが使えないらしい。

 

「箱自体お釈迦にされたか、綱を切られたか。何れにしてもまともに使うのは難しいだろうな」

 

 冷静に考えて一層から五層までは12000mある。途中で拠点を作り、乗り換えながら降りたとしてもそう上手く事が運ぶとは思えない。寧ろ先輩が行きだけとはいえ無事に辿り着けた事が奇跡だろう。

 

「じゃあつまり、そういう事ですか」

「ああ、一層から五層まで自力で降りるしか無い。弱ったな、こんな事になるなら本腰入れて武装してきてたんだが」

 

 これを生涯最後にしようと決めた奈落(アビス)への旅。

 何の因果かそれが黒笛であるとはいえ、僅か二人で深界五層を目指す羽目になり。おまけに道中の環境は恐らく以前よりも混沌としている。

 恩師に退職願を叩き付けに行くにしてはあまりに過酷な旅路だと、上昇負荷がかかっている訳でもないのに頭が痛んだ。

 

 

 

 

 







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深界へ〜未明に沈む〜
#4 I'm back Abyss!


日刊ランキングに載せて頂いておりました!
今後も精進して参りますので応援して頂けると嬉しいです。


 

 深界一層、アビスの淵。

 大穴を取り囲むようにして形成されている街、オースを深度0mとして1350mまでがそれに当る。上昇負荷は軽い目眩と吐き気に留まり致命的な原生生物もいないため、まだ見習いとも言える赤笛にも探窟が許されている。

 景観としては陽の光が直に当たるのが要因なのか地上にも似た自然が特徴であり、そこに住む生物も比較的温厚で食料にしやすいため、捕れた肉はよく滑落亭や他の料理店に供される。発見される遺物の価値こそ低いが、ここもまた多くの恵みをオースに齎しているのだ。

 まだ朝露滴る青草が裾を濡らすのを感じながら、自分達は瀑布ゴンドラへ続く道を歩いている。そこを経由し、風乗りの風車をさらに下って深界二層へと至る事が当座の目的だった。

 

「しかしこれと言って異変も見られませんね。組合も少々性急だったんじゃないですか」

 

 そう先輩に話し掛ける。

 一層に作られかけていたナキカバネのコロニーを報告し、探窟制限の一端となったのは自分だが。改めてこの目で確かめてみると大して実害もないように思えた。やっぱりあれは余程のレアケースだったのかもしれない。

 

「いや、どうだろうな」

 

 先輩がそう言って指差した先には粘ついた糸で体中を巻き上げられ、鋭い前脚で刺殺されたと思われるインビョウの死骸が転がっていた。深界二層の逆さ森付近に棲み、縄張り意識の強いインビョウがこの付近まで上ってきている事実はやはり異常だと認めざるを得なかった。この個体は運悪くゴコウゲに捕まったようだが。

 どことなく人にも似たような体躯が無残な姿を晒しているのはあまり気分の良いものではない。足早にその場を去りつつ、先輩と改めて旅程を確認する。

 

「とりあえず一層は手早く抜けるぞ。二層の監視基地(シーカーキャンプ)で情報集めつつ三層のルートを組み立てる」

「タマウガチがいるなら雑にいつも通り行くのは危険ですしね。不動卿が討伐してくれていればいいんですが」

 

 赤笛、青笛にとっては常に命の危険と隣り合わせである低階層だが。腐っても自分達は達人と評される黒笛だ。それなりに準備を整えていれば一層二層の原生生物に遅れを取る事は滅多にない。つまりこの辺りは単なる通過点、流れ作業に過ぎず余計な時間を取られるのは避けたい。

 

「ちぇっ、いるなあ……」

 

 先輩が面倒臭そうに呟くのに頷いて同調する。

 少し離れた所に見えるはしっとりと赤黒く光るその甲殻。どこか海老や蟹といった海洋生物を思わせる意匠をしているそれは、紛う事なきタチカナタだった。頭部と見紛う程に仰々しい巨大な鋏は、高速で打ち鳴らす事で衝撃波を発生させ外敵を倒す為にある。一層に出没する原生生物の中では輪をかけて巨大であり、赤笛の犠牲者も少なくない。近縁種なのだろうか、色の違う個体が他階層でも目撃されているのも特徴だ。

 

 そんな取り留めもない事柄が頭の中に浮かんでは消える。少しでも探窟のリスクを減らす為に様々な原生生物の情報を頭の中に叩き込んだ弊害か、今どうでもいい事までつい考えが及んでしまうのが悪い癖だ。

 

「やるか?」

「いや……止めときましょう」

 

 そう先輩に耳打ちする。

 タチカナタは視力が弱く、余程大きな音でも立てない限り近寄り過ぎなければ実害はない。頭部の甲殻が特に脆いという弱点も判明しており、脅威度としてはそこまででもないのだが、如何せん衝撃波という攻撃手段に対しては避ける事も難しい為、差し当たっての理由が無ければ相手をするメリットもない。

 二人で頷き合うと、抜き足差し足で刺激しないよう進む。だが近づくに連れ、次第にそのタチカナタに起こっている異変に気付く。

 

「いや先輩、あれ死んでますよ」

「えっマジ? いや本当じゃん、でも寿命じゃねえな。外傷あるし」

「ええ、でもそれにしては割と綺麗ですね。このクラスがやり合ったらもっと酷いですよ」

 

 そう考えを巡らせている内に、答え合わせの時間は存外早く来た。

 後方から聞こえてくる、金属のような物を噛み合わせる耳障りな音。先程確認した物よりも一回りは大きな体躯のタチカナタがそこに居た。状況から鑑みるにこいつが縄張り争いを制し先の個体に致命傷を与えたと見て間違いない。体表に刻まれている傷からそう時間は過ぎていないだろうが、それは同時にまだ気が立っていると考えて相違ないだろう。

 ゆっくりと前へ進む。願わくばこのまま行かせてくれ。

 そんな思いも虚しく、後ろから忙しない音と共に土煙を上げながらタチカナタが加速する。仕方なしに背負った荷物を揺らしながら逃走を始めた。

 一層の個体にしてはサイズが大きく、弱点である頭部に攻撃を当てるのは中々骨が折れそうだ。

 

「先輩確か得物は銃でしたよね? 弾勿体無いんでスルーしましょう」

「OKOK、なあ。久々にあれ見たいからやってくれよ」

「本気で言ってるんですか!? ……じゃあまた風車近くで」

 

 先輩が横方向に離脱するのを見届けると、大声を出してタチカナタの気を引きながら走り続ける。確かこの先真っ直ぐ走り続ければ崖になっていた筈だ。数匹のヒトジャラシが何事かと言わんばかりに散っていく。

 

 自分が特に先生に買ってもらっていたのは、戦闘能力ではない。『墜星』などという不名誉な仇名を賜ったのはどちらかと言えばこの移動手段のせいだ。アビス内において下降とは不可逆である。降りる事こそ容易いものの、そこから帰るには上昇負荷という名の呪いが付いて回る。

 故にこの自殺にも似た技術を絶界行(ラストダイブ)になぞらえて、先輩には愚直行(フールダイブ)だなんて揶揄われていた。実際傍から見れば大して違いもないのかもしれないが。切り立った断崖の向こうに広がる、薄青い空を切り裂くように飛んでいるサカワタリに目を細める。

 

 

 目の前の崖に対して速度を緩める事なく、そのまま飛んだ。

 

 

 命綱なんてそんな殊勝な物はない。

 自分のすぐ後ろに迫っていたタチカナタも同様に速度を落とし切れず、崖下へ滑り落ちていくのを確認する。腹の下をぞわりと撫でるような浮遊感が全身を包んだ。

 

『──泡沫に沈む(テンペスト)

 

 素早く遺物を起動させる。足元で冷たい空気が渦を巻いた。

 祈手は白笛の探窟隊という観点から見ると、黎明卿自体が新参という事も相まって個々人の練度は高くない方である。しかし自分達はそれを技術(テクノロジー)で補う。

 

 祈手の装備は、それ自体が規格外という事だ。

 

 重力に身を任せながら、崖の壁面に対して迷わず手を伸ばす。衝撃と共に夥しい量の火花が散るが、高密度の素材で作られている手袋には傷一つない。速度が雀の涙ではあるが緩むのを感じると、"泡沫に沈む"から時折空気を排出し、姿勢制御を行いながら地面までの距離を測る。見誤ればその辺の獣の餌か汚らしい染み、或いはその両方になるだけだ。

 衝突する寸前、壁面を渾身の力で蹴る。それと同時に貯まり切った空気全てを爆発させるように噴出させる。その勢いで落下の速度を横方向への推進力に変え、転がるように肘や背中を使った五点で着地した。

 久々ではあったが下が柔らかい草地であったのも幸いしてか、特に怪我もない。裾に付いた土埃を払いながら辺りを見回す。期せずして目的地である風乗りの風車近くまで来る事ができたようだ。少なくとも目視では脅威となる原生生物はいない。多少のアクシデントこそあったが、良いペースと言える。

 ほっと一息つくと、腹の虫が途端に鳴き始めた。どうやら先輩が降りてくるにはまだ時間がかかる。なら多少、趣味に走っても許されるだろう。

 辺りをぶらりと散策しながら、トコシエコウや野草を採取しつつ気長に待つ。今日は何を作ろうか。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

「お前やっぱイカれてるよな」

「先輩には及びませんよ」

 

 あの後地面に叩き付けられて事切れていたタチカナタを見つけ、それで味噌汁を作っている自分を見ての一言だった。味見をしている自分にぶつけられる先輩の呆れた視線を首を竦めて躱す。

 

「身も美味いんですけどね、良い出汁が取れるんですよ」

「聞いてねえよ」

 

 殻から出汁を取って棒ミソを溶かし、その辺の野草を刻んだ物とタチカナタの身を具として贅沢に使った一品だ。先輩に勧めると「急いでるんだからな」と口では言うものの、手近にあった石に腰掛けている。

 思えばアビスには美味いものが沢山あるんだぜ、と最初に教えてくれたのはこの人だった。二人で言葉を交わす事もなく、湯気の立つ味噌汁に口を付ける。あまり時間はかけられなかったにも関わらず、素材が良いのか深い味わいが心身を満たした。

 

「……美味いな」

「お粗末様です、味噌の方は珍味なのでちゃんと処理しておけば不動卿への手土産になりますよ。あの人確か呑兵衛でしたよね」

 

 二層の番人の名前を出すと同時に背中にぞくりと悪寒が走る。個人的にあの人と顔を合わせるのは避けたかったのだが、我儘は言っていられない。

 

 一級遺物、千人楔。

 一刺しするだけで千人力を得られると言われているそれは、等級的には黒笛には所持が許可されていない。白笛である"不動卿"動かざるオーゼンはそれを百本以上その身に宿しているという。それもあってか彼女には「30人以上乗ったゴンドラを引き上げた」だとか「10mもある岩を支えた」など多くの逸話が残っており、それは今も更新され続けている。数十年白笛をやり続けている実力は折り紙付きで、蓄えた知識は正しく生き字引と言えるだろう。言えるのだろうが。

 

 溜息を吐いて足首を撫で擦る。ナキカバネの頸椎を砕き、高さ数十mはある崖からのダイブにも応えてくれた左足。そこには確かに一本の千人楔が埋まっていた。

 

「……不動卿に会わずに済ませられませんかね」

「無理だろ」

 

 儚い願いを先輩に一蹴されながらも、空にした鍋に手を合わせる。

 がっくりと肩を落としながら踏み入るは深界二層、誘いの森。まだ地上の面影を残した一層とは異なり、重力に逆らっているとしか思えない逆さ森やナキカバネ、オットバスといった強大な原生生物が行く手を阻む。赤笛が立ち入る事はその者を自殺と見なす、それ程までに危険度が跳ね上がる。

 さらにそこから先の深界三層以降は、もはや本来人が踏み入っていい領域ではない。それでも憧れを止められない狂人の為に、次なる目的地の監視基地(シーカーキャンプ)は存在する。戻ってきた探窟家を労い、新たに深淵へと沈んでゆく彼らを見送る。今回の自分達は紛れもなく後者だ。

 そんな事をぼんやりと考えながら、薄暗い森の中へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 



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#5 地に臥せるは守人達

 

 

「ザポ爺、あの仮面さ……祈手じゃない?」

「ほう、珍しい事もあるのう。もう一人は仮面着けとらんし、単なる連れじゃろか」

「けど白い外套だ、死装束(シュラウド)かもね」

 

 二層の奥深くにある地獄渡り。その先に広がる天上瀑布を下った先に第三層(大断層)は存在する。月笛以上でなければ立ち入る事もできない6000mもの大穴は翼を持つ原生生物の独壇場である。這うようにしてその岩壁を降りようとすれば瞬く間に叩き落とされ、その身体が地面に打ち付けられる前に彼らの腹の中に収まっているだろう。

 そんな層と層の境目近くに位置するのが不動卿と彼女の探窟隊の住処、監視基地(シーカーキャンプ)だ。門番であり守人とも言える彼らは実を言えば、ほんの少しだけ退屈していた。三層の異変を解決する為に彼らの主人である不動卿は下層に潜っており、探窟家の往来自体もめっきり減っていた事に起因している。

 そんな状況の中で留守を任されている月笛を下げた若い男と老人が、備え付けられた大望遠鏡より祈手である二人を眺めていた。

 

「祈手って言えば俺、墜星に借りがあるんだよね。今回は違うみたいだけど」

「イェルメ……揉めるなら外で頼むぞい」

「だから今回は違うって」

 

 イェルメと呼ばれた何処となく軽薄な印象を受ける男は、鬱陶しそうに老人に口を尖らせて言い返した。客人を迎える為にゴンドラを降ろしながら彼は呟く。

 

「しかし……今"下"に降りるのは止めといた方が良いと思うけどなあ」

 

 監視基地を訪れるという事は、まず間違いなく更に下層を目指している可能性が高い。白笛の探窟隊とはいえ、この時期に一体どんな物好きだろうか。言葉とは裏腹にほんの少しだけ彼は胸が躍っていた。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 アビスでは層を跨ぐごとに、全く異なる様相の地形が広がる。一層が地上にも似た草原を思わせるなら二層は鬱蒼と茂った密林を想起させ、その仄暗さはまるで人を拒絶しているかのようだ。

 葉が発酵する独特の匂いを踏み付けながら、注意深く身を隠しつつ監視基地を目指していた。

 

「モルグ、獣避けはまだ効いてるか? これは絡まれたら面倒じゃ済まないぜ」

「とりあえず低階層に特化させてるんですけど、裏目だったかもしれませんね。こいつらに効くかどうか……」

 

 そうぼやく自分達の頭上では、宙を舞う三層の原生生物が二層のそれを虐殺する惨状が広がっていた。元より大断層という環境で鎬を削ってきた彼らにとって、木々に依存し大した翼も持たないインビョウやトゲアルキは格好の的なのだろう。

 これほどまでに三層の生物が幅を利かせているのは正直想定外だった。獣避けもアビスの原生生物全てに対して一概に効果を発揮する訳ではない。層を跨げば危険度も食性も異なるそれらに対して単一の獣避けが効くはずもなく、何なら同じ階層であっても複数を使い分けたい。

 

「一匹取っても最悪ですよ、速度こそ落ちてますけど枝葉のせいで軌道が読み辛い。叩き落とすのは無理です」

「でもあいつら自身にとってもやり辛いのは変わらない筈だからな。三層の要因取り除けば勝手に帰っていくだろ」

「つまり不動卿はまだ対処出来ていない、って事でしょうね。まあ三層自体がかなりやり辛いですから……」

 

 頭上でオニツチバシとマドカジャクが激しく嘴と牙を突き立て合う姿にげんなりとする。オニツチバシも善戦しているが、やはり数の暴力には敵わないだろう。マドカジャクの興味がこちらに向く前に急いで通り過ぎようと、気持ち足を早めた時だった。

 啄んで投げ捨てられたのか、突然飛んできた血でべっとりと濡れた肉片が顔に貼り付き、思わずたじろぐ。目に入った鮮血を拭おうと足がふらついた時、曇った視界の中で何かが白く輝いた気がした。

 嫌な予感がする、あれは三層にしかいない筈だ。

 

「……あ」

 

 クウイサリ。

 大きさとしてはササリと同程度、脅威とはとても呼べない程のサイズだが。稲妻を思わせる白く発光した身体には高圧の電気が流れており、触れれば重度の熱傷は避けられず、運が悪ければその部位が焼け落ちる。

 そんな代物が死角から自分の顔面に向けて飛んで来ていた。払っても手を焼かれ、そのままぶつかれば大層な伊達男になる事間違い無し。

 本来であれば目立つため、そもそも避けて通るか遠くから処理するかの二択だが。今回は枝葉で視界が遮られ、駄目押しの肉片で発見が遅れた。

 咄嗟の事に思考が止まる。

 

『──宵に惑う(オービット)

 

 後方から放たれた銃弾が自分の鼻先を掠めると、急激にその弾道を曲げてクウイサリの脳天を撃ち抜いた。まだ爆ぜた音を立てながら微かに発光している鳥の死骸を跨ぐ。

 

「ぼーっとすんなよ、火傷じゃ済まないぞ。(なま)ってんのか?」

「……有り難いんですけど、撃つ時一言くらい声掛けてくれませんか!?」

 

 まだ鐘を打つ心臓を手で抑えながら振り返る。まだ硝煙の立つ短銃を手に、先輩が仮面の上から頬を掻いていた。祈手としての先輩(グェイラ)は戦闘要員ではなく、どちらかと言えば黎明卿の実験などを補佐する助手としての役割を担っている。

 かといって全くそういった荒事に携わっていない訳ではない。寧ろ黒笛として、一般的な探窟家よりは余程腕が立つ。自分に基本的な体術を仕込んでくれたのもこの人だ。更に恵まれた体格も持ち、これで死装束(シュラウド)でないのだから驚きだったが、本人曰く「疲れるのは嫌だから」らしい。

 

「ほら見えてきたぞ。監視基地(シーカーキャンプ)

 

 地獄渡りを越えた先、逆さに生えた大木を利用して造られたそれを懐かしく眺める。先生が黒笛だった頃は何度もここを経由して三、四層へ潜っていた。

 降ろされてきたゴンドラに乗り込むと、緩やかに引き上げられる。少々の上昇負荷に晒されるがこのくらいは慣れたものだ。威嚇するように飛び回る原生生物に気持ち身体を縮こませながらじっと待つ。

 あまり地臥せりとは良い思い出がないのだが、贅沢は言っていられない。願わくば今日の番がシムレドさんでありますように、そんな事を考えながら到着する。

 

「ようこそ、監視基地へ。そっちの兄さんは祈手(アンブラハンズ)だろ? もう一人は……」

 

 一番出会いたくないニヤけ面がそこにあった。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 アビスに潜るに際して短い時間の中ではあるものの、改めて自分は装備を調えてきた。死装束である事を示す白い外套はそのまま使わせてもらっているが、祈手の最大の特徴である仮面は荷物の中に仕舞い込んである。今回はそれが功を奏したのかもしれない。

 

「どっかで会った事ある? 祈手だよな」

「……無いんじゃないですかね。仮面忘れちゃったんですよ」

 

 目の前の相手は自分が誰か上手く認識できていないようだ。正体がバレればまず間違いなく揉めるのでこれは僥倖と言えるだろう。このまま下層について聞く短い間だけでも誤魔化せれば。

 しかしそんな淡い願いはあっさりと潰えた。男がじっと自分の足元を眺めている。

 

「その靴、見覚えあるわ。びゅーびゅーうっせえやつ」

 

 ゆらりと男が低く構える。血の気が多過ぎる、地臥せりはこれだから。迷わず荷物を投げ捨てて防御態勢を取る。

 

「お前"墜星"だろ」

 

 下からの突き上げるような掌底を咄嗟に仰け反って躱す。後コンマ数秒反応が遅れていれば、顎先に良いのを貰っていた。

 

「顔合わせては初めてだなあ? 意外と可愛い面してんじゃねえの」

「ああ、仮面着けてないからそのニヤけ面がよく見えるよ」

 

 安い挑発に対して安い挑発で返す。このくらいの小競り合いは何度となく繰り返してきた。

 

 イェルメ。

 "不動卿"動かざるオーゼンの専属探窟隊『地臥せり(ハイドギヴァー)』の一員であり、若くして月笛を手に入れている腕利きだ。

 しかしながら手癖が悪く、黒笛への昇格を何度も蹴られている問題児でもある。三、四層では収集した遺物を巡って競り合った記憶があり、何度も痛い目に遭わせたり遭わせられたりした。

 とどのつまり、お互い様の腐れ縁という事だ。

 

 人中を狙った突きを片手で捌き、腿を狙ったローキックを放つ。相手が靴でそれを受けると、一先ず距離を取る。手の内はお互い知り尽くしている状況、どう打開するか。

 

「イェルメ! 外でやれと言うたじゃろう!」

 

 ザポ爺さんの見当違いな突っ込みを聞き流しながら、遺物を起動させようと靴に手を掛ける。狭い室内の方が自分は戦りやすい。そこかしこに足場があり、この監視基地内は比較的負荷が軽い。つまり自分の強みを最大限に活かせる。此方も相応のダメージは受けるだろうが、腕の一本でも折ってやれば抑えられるだろうか。思考が死装束時代の頃に切り替わっていく。

 

「ちょちょちょ、待て!」

 

 先輩に思いっ切り頭を叩かれて我に返る。全く関係の無い所で無駄に体力を消耗する所だった。

 

「こっちも揉めに来た訳じゃないんスわ、黎明卿の要請で五層に向かう途中なんで。下層についての有益な情報があればお聞きしたいな、と」

 

 手土産を渡しながら冷静に本来の目的を果たす先輩の姿に、思わず己を恥じる。

 イェルメも不承不承といった感じではあるが、大人しく引いた。脛に傷あるような奴だが、探窟家として深層を攻める事の困難さをよく理解している。頼んだ資材を嫌そうな顔をしながらもきっちりと揃えてくれた。

 

「なるほど、不動卿は現在三層にいると」

「この間討伐の為にシムレドを連れて出立したんじゃが、どうも時間がかかっておるようでの。正直今の出発は勧められん」

 

 言外に白笛が手こずる程に面倒な事案が発生している、と伝えていた。だがそれは自分達が足を止める理由にはならない。

 

「忠告は有り難いんスけど、行かせてもらいます。黎明卿これ以上待たせる訳には行かないんで」

 

 笑いながらそう告げると先輩は再び腰を上げ、出発するぞと自分に目で合図する。本当に身体を休める暇もない。

 

「……今のこの異変は、黎明卿と何か関係があるんじゃろうか」

「どうなんでしょうね。不動卿にお会いしたら元気そうだったとお伝えしときますよ」

 

 先輩とザポ爺が腹の底をお互い読み合いながら天上瀑布へ向かう最中、自分とイェルメは脛を蹴り合っていた。

 三層を目の前にして、改めて此処から先は人の領域ではない事を痛感する。端から端を見渡す事も難しいほどの大穴へ今から飛び込んでいくと考えると、心底探窟家とは因果な商売だと思う。

 ふと思い立って後ろを向くと、地臥せりとして見送りに来ていたイェルメに手を振った。これで最後にするつもりは毛頭ないが、アビスの深層に潜るという事は常に命を分の悪い賭けに張るようなものだ。

 

 だからこれは単なる気まぐれだ。奴は少し驚いたような顔をしていたが、すぐにそっぽを向いてふん、と鼻を鳴らす。

 それを背中で聞きながら岩場に手をかける。昔の感覚を少し取り戻せたような気がした。

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 風の吹き付ける音が嫌に耳障りだった。苔生した洞窟の岩壁からイワナメが這い擦り回っている気配を肌で感じる。

 

「しかし普段より下りやすいかもしれませんね、先輩」

「空飛んでる奴が少ないからな。ハーケン打ってロープで降りてもいいぜ、見ておいてやるよ」

「冗談でしょ」

 

 腰に下げたランタンで先も見えない横穴を照らしながら、徐々に下層へと降りていく。監視基地を発ってから1,2日といった所だろう。

 大断層を抜けるには凡そ二つのルートがある。

 まず天上瀑布からそのまま底までロープなどを使い崖を伝って降りる方法。効率としてはこれが一番良いのだろうが、はっきり言って自殺行為である。碌に抵抗もできない宙吊りの状態で6000mを下れば、地面に着くまでに三層の原生生物の生き餌にしかならない。

 よって大多数の探窟家は、無数に空いた横穴を通って少しずつ下を目指すルートを選ぶ。勿論のこと、中にも危険な原生生物はいるが崖を伝うルートよりもずっとマシだ。中に住んでいるネリタンタンは食料や寝床の代わりにもなり、思ったほど極限の状況を強いられる訳ではない。

 ただこのルートの問題点として横穴が複雑に入り組んでおり、時々顔を外へ覗かせて自分達が現在どこにいるのか確かめる必要がある。

 

 ネリタンタンの肉を軽く焼いた物をおやつ代わりにしながら一度外の状況を確認するために、横穴の出口へと向かった時の事だった。

 狭い足場で身体を休めるように、それは四足を折り畳んで寝そべっていた。

 

 大断層の狭い足場には不釣り合いな丸々とした体躯。

 それその物が掠めるだけで致命的な矛であり、盾である猛毒を含んだ針毛。

 行動どころか感情すら読み取るのも困難な、奇妙に孔の空いた顔面。

 そして、一目見ただけで感じる(うなじ)を焦がすような殺気。

 

 四層の死神、タマウガチが其処に居た。先輩が唾を飲み込む音が嫌にはっきりと聞こえた。視界がその獣を認識した瞬間には、それは臨戦態勢を取りながら此方に突っ込んでくる。

 

『──枢機へ還す光(スパラグモス)

 

 考えるよりも先に、獣に対して左手に備え付けていた遺物を起動していた。空気が凪ぐのを肌で感じ、僅かにタマウガチが後ずさる。

 数秒のラグの後に振り抜いた光の刀身は空を切り、堅い岩壁を(ほど)き斬った。凡そこの遺物が通らなかった物をこれまで見た事はないが、如何せん射程が短く燃費が悪過ぎる。

 ただでさえ俊敏で攻撃を当てるのが難しいタマウガチに対して、最悪の択と言えるだろうが仕方ない。

 

「先輩! 四ツ辻で!」

「っ、死ぬなよ!」

 

 緊急用の集合場所を簡潔に伝える。

 ここで退けば奥まで押し込まれて自分も先輩も毒針の餌食になるのが関の山、今はとにかくこの横穴から出して先輩の安全を確保するのが先だ。後ろに走り去る音を聞きながら、更に前へ踏み出す。もう一度"枢機へ還す光"を起動し、牽制しながら強引に出口へ飛び出した。かといって狭い足場でタマウガチとやり合うのは自殺行為である。

 

 敢えて足場を蹴り宙にその身を投げ出しながら叫ぶ。

 

「"月に触れる(ファーカレス)"!! 開け!!」

 

 その言葉に反応するように、右手に仕込んでいた遺物から黒く濡れた触腕が飛び出し、壁面の突起を掴んで捉えた。

 遺物の力で強引に壁に張り付きながらも、タマウガチからは決して目を離さない。先輩はもう行っただろうか。

 目の前の獣が今までどうやってこの環境で暮らしていたのか、今ではありありと分かった。綱をも通す強靭な針を崖の隙間に突き刺し、自らの強靭なバネを裏付ける筋力で以て岩壁を縦横無尽に行き来する。

 足場から足場へ駆け伝う分には十分と言えるだろう。寧ろ縦の動きが加わる分、探窟家にとっては逃げるにせよ戦うにせよ、やり辛さに拍車が掛かっている。

 三層の原生生物にとっては触れるだけで死に至る怪物がこうも我が物顔で鎮座していれば、それは二層にも逃げ込みたくなるだろう。

 

 二級遺物を複数、枢機へ還す光に至っては恐らく一級に相当するものの。それらで武装して尚、今相対しているこの獣に致命打を与えられるビジョンが見えてこない。正しく『理不尽』という危険度に相応しい。

 

 だがそれでも今の手持ちで逃げ切れなければこの旅は終わる。先生に義理を通す事もできず、店長との約束も果たす事ができない。

 それは、あまりにも虚しいだろう。

 "泡沫に沈む(テンペスト)"を起動させながら、静かに呼吸を整えた。

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

『宵に惑う』

 競売名:オービット

 

 中折式の短銃を三級遺物『暗い灯火(ストーカー)』などを用いて加工した品。

 アビス内の力場に干渉する事で、予め指定した方向に弾道を曲げる事ができる。その特性から深層へ潜るほど効果が顕著となり、シンプルかつ使用に際してデメリットが無い事から狙撃や索敵などに向いているが、咄嗟の状況に対応する事が難しく見た目ほど汎用性は高くない。

 また弾にも遺物由来の素材を使用しているため、弾数が限られるのも難点である。

 

 

『クウイサリ』

 

 三層の原生生物。危険度としては要警戒。

 小型の鳥のような形をしており、大断層の壁に住み着く虫類などを餌としている。身体から高圧の電撃を放つ事で外敵から身を守っており、群れとして集まった時には危険度は致命的にまで跳ね上がる。

 大断層の横穴の中で発見された時、電撃によって光り輝く様子が漁火(いさりび)に似ている事から名付けられた。

 

 

 

 

 

 

 



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#6 遠くに在りて思うは

 

 

──月笛昇格、おめでとうございます。

 

 あれは祈手に所属して数年が経った頃だっただろうか。

 仮面越しの声はいつも優しかった事を覚えている。凡そこれまで、先生が声を荒らげる所を見た記憶がなかった。それが普段の実験や探窟の際に見せる残酷さと結び付かなくていつも困惑していた。いや、きっとあの人にとってそれは残酷でも何でもなく。自分への労いも、人道を外れた行いも等しく"必要"な事でしかないのだろう。

 

 ひとまず祝いへの礼を言うと、彼から白い外套を手渡された。祈手(アンブラハンズ)においてそれは死装束(シュラウド)である事を示すものだ。上手く状況を飲み込めず、手に持ったそれと先生の顔を交互に見ている自分の頭にぽんと手が置かれる。恐る恐る顔を上げると、先生はゆっくりと口を開いた。

 

──君の特性に合わせた『暁に至る天蓋』です。動作を阻害しないように防御性能を維持しつつ、軽量化を行いました。機動性にも問題ない筈です。

 

 着てもいいんですか、と尋ねると先生は黙って頷いた。逸る気持ちを抑えながら袖を通す。少しサイズが大きく、どちらかと言えば服に着られているようだった。重量感のある見た目に反して軽い。軽く肩を回しても引っかかる感じも無く、すんなり馴染んだ。破顔するのを隠し切れず、そわそわとする様はまるで玩具を買い与えられた子供のように見えただろう。

 

──君は前線を張ってくれていますから。いつも助けられていますよ。

 

 何と返すのが正解なのか分からなくて押し黙る。本当に自分にこれを着る資格はあるのでしょうかだとか、とても嬉しく思っていますだとか。伝えたい事は山程あるのに、胸が一杯になるとすぐに言葉が出なくなるのは自分の悪い癖だった。

 

──そういえば一つ尋ねたいのですが、君はどうして率先して前に立つのでしょう? リスクも相応に多いと思いますが。

 

 その頃から自分は今の立ち回りを確立しつつあり、戦闘の際にも陽動などを担当するようになっていた。口調からして、本当に単なる疑問だったのだろう。そんな事を聞かれても自分でもよく分からないのだが、それでも自分なりに考えてみる。

 

「あの、何て言うか、自分のやり方に合っているというのもあるんですけど……祈手に入るまでずっと自分は一人だったので」

 

 一つ一つ選ぶように言葉を絞り出す。人と話すのが苦手だった。孤児であった時も大人に口先で煙に巻かれ、探窟で得た利益を掠め取られた事も少なくない。沈黙は、自分がこのアビスで生きていく為の一つの手段だった。

 祈手に所属して初めて、人と会話するメリットと楽しさを知った。祈手に所属している人間は年齢も生い立ちも様々だ。手本にできる者が沢山いる中で敢えてこの拙い敬語を自分の言葉として選んだのは、きっと先生の見様見真似だった。

 

「皆が死ぬの、嫌なんです。先生も先輩もギャリケーさんも、自分にとって大事だから。自分が前に出ればその分、他の祈手が狙われなくなるので」

 

 そう答えると先生は仮面に手を当て、暫く考え込んでいた。

 

──申し訳ないのですが、一旦それを脱いで頂けますか? 

 

 何か粗相をしてしまったのだろうか。一度与えられた期待を取り上げられる事は、その頃の自分にとって最も恐ろしい事だった。それを察したのか、先生は優しげな声色で理由を説明する。

 

──いいえ、君の優しさは美徳です。けれどどうも無茶をしてしまうようですから。それを踏まえてもう少し改良します。大丈夫、必ず良い物に仕上げますよ。

 

 その約束は果たされた。

 あの人は地上で言われているような冷血漢ではない。人並みに笑い、人並みに悲しみ、人並みに憧れを抱く。ただ、それが少しズレている。

 人は生きている限り、自分の感情に縛られずにはいられない。平等に接しているつもりでも無意識下では全てに優先順位を付けてしまう。だが先生にはそれがない。本当に全てを『等しく』扱っている。

 だから祈手を労うのも、これまで数多の探窟隊が積み上げてきた伝統を踏み潰しながら底を目指すのも、本質的には同じなのだと思う。恐らくその思考を自分は一切理解する事はできないし、理解したいとも思わない。ただ、それでも。

 

 どれだけ皆に悪し様に言われようとも、どれ程人の道を外れようとも。あの日、ただ死ぬのを待つ事しかできなかった自分にとって。

 あの人は、たった一人の夜明けだったのだ。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 外套の内側に仕込まれた注射器(シリンジ)の針が突き刺さる痛みで目が覚めた。一拍置いて薬剤が流し込まれ、身体が沸騰したように熱くなる。単独で動く事が多く、遺物の特性から上昇負荷を受けやすい自分に対して先生が『暁に至る天蓋』に搭載した機能の一つだ。

 意識が消失した時、自動で体内に薬剤を注入し強制的に覚醒させる代物で回数に限りがある。使えて確か、あと二回だ。

 ぬるりと目に流れ込んでくる血を拭い、状況を整理する。

 

 

 

 

 先輩を逃がし、タマウガチと命懸けの鬼ごっこをしながら自分は奴をある場所に誘い込もうとしていた。大断層の中でも下部に当る『落石回廊』だ。アビスに於いて上に登る事はかなりのリスクを負う以上、極力行動範囲が狭くなる行動は取りたくないのだが。

 "枢機へ還す光(スパラグモス)"が現状当てられない以上、撃退手段を他に頼るしかない。そこで選んだのが地形を利用する方法だった。落石回廊はその名の通り、壁面に空いた穴から常に大量の落石が底に向かって雪崩落ちている。

 

 これまでタマウガチと会敵した経験から、奴はこちらの意識その物を先読みしているのではないかと予想していた。だから自分が攻撃しようと考えた時には既に回避行動を取られている。ならば、自分の意志が介在しない自然現象であればダメージを与えられるのではないか。

 分の悪い賭けではあったが、他に策を思い付かない以上それを実行する他なかった。触腕を器用に操り、紙一重でタマウガチの針毛を避けながら目的地を目指す。普段はダイラカズラの上、凡そ1000m以上を縄張りとする獰猛さは健在で、足場を所々伝いながらも猛烈な勢いで崖をほぼ垂直に降りてくる様は四層で出会った時以上に脅威だった。

 その様に気圧され、あわや追い付かれるという時。すんでの所でタマウガチが動きを止めた。落石回廊に差し掛かり、これ以上の追撃は自分の身に危険が生じると判断したのだろう。針毛をハーケン代わりにしながら崖を登ると、横穴の一つにその姿を消した。

 

 ひとまず安堵した途端、がくんと姿勢が崩れる。靴に仕込んである遺物が完全に沈黙していた。

 

「こんな時に……!」

 

 最早相棒とも言える"泡沫に沈む(テンペスト)"は、深層で酷使し続けた事の代償なのかたまに"空気詰まり"を起こす。吸い込むだけ空気を吸い込んだあと、うんともすんとも言わなくなる異常に悩まされた事は決して少なくない。

 遺物の補助無しに触腕だけで全体重を支えるのは不可能に近く、況してや上から幾つも転がり落ちてくる岩に対して適切な処置など取れる訳がなかった。

 必死で身を捻るも避け切れず、背中に岩が激突する。打ち込んである千人楔のお陰で骨こそ折れずに済んだものの、衝撃で呼吸が出来なくなり、意識がふっと途切れた。

 

 

 

 

 

 時間にして数秒だが、それを"暁に至る天蓋"によって強制的に叩き起こされた。ちゃんと覚えている、意識も朦朧としていない。だが事態は最悪を更新し続けていた。

 

 二級遺物『月に触れる(ファーカレス)』。

 腕に装備した装置から黒い触腕を伸ばす汎用性の高い遺物だが、あまりに扱い辛い事から死装束(シュラウド)の中でも使っていたのは自分とビドゥーくらいだ。

 そして何よりの問題点として、この触腕は原生生物由来の物である事が挙げられる。つまり彼ら自身の存在を脅かすものに対峙した際、本能的に自らを守るような行動を取る時がある。端的に言えば、言う事を聞かなくなるのだ。

 使い手(自分)が弱っている事を察してか、普段潜んでいる装置の中に身を隠して出てくる様子がない。

 突如として崖に張り付く手段をも失い、空中に投げ出される。必死で触腕を伸ばそうとしても一切反応が無い。となれば、後は不調気味の相棒に頼るしかなかった。履いているそれを渾身の力で殴り付ける、荒療治だが仕方ない。

 だが一撃加えても反応する様子は無く、焦りと苛立ちが募ってくる。ここまでの速度で落ちれば小手先の着地法など焼け石に水、確実に死ぬ。

 

「動け!!」

 

 哀願にも似た絶叫に応えたのか、何かが弾けるような音がした。

 それが"泡沫に沈む"の異常である事に気付いた時には手遅れだった。詰まった空気が一気に放出されたからか、物凄い速度で上に向かって(・・・・・・)吹き飛ばされる。

 

 三層の上昇負荷。

 それは二層の負荷である重い吐き気や頭痛に加えて平衡感覚に異常をきたし、幻覚や幻聴に苛まれる事を意味している。基本的に上昇負荷は受ければ受けるほど、多少はそれに慣れてくる。

 

 ただ、何mだ? 今何m自分は上昇した? 

 

 視界が上下左右反転し、胃の内容物がせり上がる感覚に耐え切れず吐き戻す。もろに上昇負荷を受けているという事は、少なくとも20m以上は打ち上げられている。頭が鉛を流し込まれたように重くなり、そんな思考すら酸欠で纏まらなくなる。

 今、自分は天に向かって落ちているのだろうか。回転しながら落下しているせいか、吐瀉物が喉に詰まって上手く吐き出せない。胸を掻き毟るも、意識は段々遠退いていく。

 

 そんな折に突然何かに外套の襟を掴まれ、引き摺り込まれるようにして横穴の奥に放り投げられた。

 受け身も碌に取れず、全身を強かに打ち付けて悶える。排水溝のような音を立てながら呼吸を妨げていた吐瀉物を全て吐き出すと、地面に身体を投げ出す。

 

「底から飛び上がってくるイカれたのがいると思ったら……なんだ、あのろくでなしの取り巻きじゃないか」

 

 溜息混じりの絡みつくような声が耳に残った。

 気分が悪い。割れそうな程に痛む頭を誰かが揺さぶっている、やめてくれ。

 弱々しく手を払い除けると、その何十倍もの力で頬を張られた。衝撃で視界が白く染まるものの、痛みで意識自体ははっきりしてきた。気付けにしてはあまりに手厚い一撃に辟易しながらもゆっくりと身体を起こして張り手の主に目を向ける。

 

「あ……え……?」

「命の恩人に挨拶くらいしても良いだろうに。それとも祈手は皆、君みたいな輩の集まりなのかい」

 

 幾度ものアビス深層からの帰還を物語るうねり曲がった奈落髪。2mは優に超える巨躯。そして空中で制御不能になっていた自分を掴み、片手で投げ捨てる剛腕。

 そのどれもが間違いなく、目の前の探窟家がある人物である事を示していた。

 

 全探窟家の憧れ、奈落の星(ネザースター)、白笛。

 その中でも一二を争う実力を持つと言われている、"不動卿"動かざるオーゼン。

 生ける伝説が其処に立っていた。

 

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『暁に至る天蓋』

 

 ボンドルドが探窟や戦闘用の祈手用に誂えた全身鎧。

 祈手一人一人の性質に合わせて調整されており、内蔵されている装備なども様々。モルグに充てがわれた一着は耐刃性など防御力を最低限維持しつつ限界まで機動性に特化しており、灰のギャリケーとの連携を意識してか耐熱性に特に優れているのが特徴である。

 内部には意識消失の際にリカバリーの役割を果たす薬剤を注入する機能や、ナイフなどの近接戦闘用の武器を格納する設備、『泡沫に沈む』による姿勢制御を補助する仕組みが備わっている。

 死装束である事を示す白い外套と一体化しており、オーバーサイズのフードがチャームポイント。

 

 

 

 

 

 



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#7 交渉


感想評価等いつも励みにさせて頂いております。なるべく週1更新できたらなあとは思っています。


 

「えっと、今回は窮地の所を救って頂きまして……」

 

 硬い岩床に正座して粛々と礼を述べる。乾いた吐瀉物が襟に付いて何とも言えない臭気を漂わせるのを、何でもないという顔でやり過ごす。三層に不動卿が滞在しているという事は予め聞いていたが、まさか出会(でくわ)すとは思っていなかった。

 

「私はてっきり自殺志願者だと思ったんだけどね。要らないんならあの時売ってくれなかったその千人楔、置いて行ったらどうだい」

「それは本当にこう……失礼を……はい……」

 

 ねっとりと絡み付くような視線で見下される。いや、本人には見下すつもりはないのかもしれないが如何せん身長差が過ぎる。達人と称される黒笛の唯一上を行くのが彼ら白笛であり、そこには文字通り天と地ほどの差がある。

 そして白笛が所持を許されているのは一級遺物まで。つまり本来それより格下である黒笛が千人楔(一級遺物)を所持しているのは、端的に言って違法という訳だ。

 自分に刺さっている千人楔は以前の探窟で偶然発掘した物だが、競売にかける前に先生が買い取って貸与してくれた。つまり建前としては一応白笛の所持物であり、合法ではあるが。実利を兼ねた千人楔蒐集家である不動卿にとって面白くないのは道理だろう。事実として地上で何度も売らないか、と圧を掛けられたのを覚えている。

 

「オーゼンさん、あまり虐めてあげないでくれよ」

「ん? 人聞きが悪いねぇ……まあいいさ」

 

 そう不動卿に声を掛けてくれたのは黒笛のシムレドさんだった。

 脛に傷持つ者達の集まりである地臥せりに所属しているとは思えないほど温厚な人であり、屈託無く話しやすい事から合同探窟隊が編成される際も重要な役割を果たしている。笛の色からも察せられるように実力も申し分ない。

 三層の異変を鑑みて不動卿は数を集めるのではなく、少数精鋭で事を片付けようとしたのだろう。イレギュラーな事態であり、並の月笛では無駄な犠牲を増やすだけである事は火を見るよりも明らかだ。

 

「お二人がこちらにいらっしゃるという事は……やはりタマウガチですか」

「君も見たんだろ」

 

 自分が頷くと、怠そうに彼女は一言だけぽつりと洩らした。洗濯物を家に干してきているのに天気が悪くなってきた、そんな気の抜けるような声色だった。四層の死神を相手取っているとは思えないこの様が白笛たる所以なのかもしれない。

 

「最初に言っておくとあの針は私には通らない。けれどねェ……この岩場であちこち飛び回られたらこちらも決定打に欠けるんだよ」

 

 不動卿が白笛の中でも一目置かれているのは、(ひとえ)にその生命力の強さだ。身体中に打ち込んでいる無数の千人楔によって人間とは思えないほどの強靭な肉体に、真正面から挑んで打ち勝てる生物はそういない。

 ただ接近戦主体であり、今回のように上下の移動を強制される事案は相性として最悪なのだろう。

 

「君、黒笛ならタマウガチ討伐のセオリーくらい頭には入ってるだろ」

「……回避される事を端から織り込んで広範囲をカバーできる攻撃手段を用いるか、少なくない犠牲者を許容して数で攻める。現状はそんな所でしょうか」

「模範解答だ。ライザがいれば無尽槌(ブレイズリープ)で手当り次第に足場を崩して追い込めたんだけどね」

 

 きっとこれから先も殲滅卿がいたならば、という事態に多くの探窟家が遭遇するに違いない。それほどまでに彼女の戦闘力は異質であり、この深淵における光となっていた。

 

「で、どうするんだい? 四層に降りるなら今の内だと思うよ」

 

 タマウガチが不動卿の事を警戒して近付かないなら、確かに彼女の言う通りだった。あくまで自分の目的は三層の安寧を守る事ではなく、五層の前線基地(イドフロント)に辿り着く事だ。ただ、まだ退く訳にはいかない。

 

「お二人を手伝わせてもらえませんか」

「手伝う? 間抜けな花火みたいに打ち上げられていた君が?」

 

 意を決して呈した申し出に対して、不動卿は冗談はやめてくれと言わんばかりの口調で返す。それに危うく呑まれそうになりながらも食い下がる。

 

「自分はタマウガチに致命傷は与えられませんが、誘い出す事くらいはできます」

「……へえ。君が役に立つかどうかはともかく、そこまでする理由はあるのかい?」

 

 機動力だけなら白笛にも劣らない自信があった。上手くタマウガチを誘導し、不動卿の元へぶつける事ができれば討伐の目はある。

 

「まだ上に連れがいるんです。置いていけない」

 

 沈黙が流れた。先生と不動卿は恐ろしいほど馬が合わない。元とはいえ、その側近とも言える自分の提案など突っぱねられてもおかしくなかった。

 

「乗ろう。どの道八方塞がりなんだ、仕方ないね。少し辺りを見てくるから考えをまとめておきな」

 

 ほっと息を吐く。不動卿の助力がなければ先輩との合流は恐らく難しい。帰路の事を考えればリスクを背負ってでもここで討伐しておきたいのも本音だ。水場でまだ吐瀉物で汚れている口を洗いでいると、後ろから軽く背中を叩かれた。

 

「……シムレドさん」

「さんは付けなくていいよ、笛は同じだろ。それにしても下から飛んできた時は流石に驚いた、災難だったな」

 

 アビスに潜ってから先輩以外と初めてまともに交わす雑談だった。祈手に所属した当初、先生からよく言われた事を思い出す。

 

──会話、食事、睡眠。いずれも私達が"人"として生きていく上での基本ですよ。怠ってはいけません。

 

 そう言って開発したのがあの味気無い行動食である事を鑑みると、やはり先生はズレているのだろう。それでも今もその言葉は自分の中に息づいていた。頬を軽く叩いて立ち上がる。

 

「ご飯食べませんか、腹が減っては何とやらですよ。自分が作りますから」

 

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 薄切りにしたネリタンタンの肉を軽く炙る。味付けはシンプルに岩塩のみで決め、彩りに軽くサイノナを散らせば完成だ。

 本当ならもっと凝った料理を振る舞いたいが、深層に潜る際は如何に荷物を減らすかが生存率にも大きく関わってくる。保存料としても使える塩や一部の香辛料を除いて、美味しい食事に必要な物など嵩張る荷物でしかない。行動食なんて物が持て囃されるのも道理だろう。

 

 三人で大した会話もないまま黙々とネリタンタンの炙りを口に運ぶ。とろけるような脂についつい顔が綻んでしまうのを気合で引き締めていると、気を使ってくれたのかシムレドさんが話を振ってくれた。

 

「そもそもなんで五層へ行きたいんだ? 風の噂じゃ"墜星"は祈手を辞めたって聞いてたんだが」

「辞めた……というか逃げ出しただけで。だから筋を通しに行きたいと思ったんです」

 

 そういうもんかね、と首を傾げる彼に愛想笑いを返していた時だった。ぽつりと不動卿が口を開いた。

 

「君、自分が"おかしい"ってちゃんと自覚してるのかな」

 

 暗く淀んだその瞳に息を呑む。その真意を計りかねて言葉を紡げずにいると、彼女は小さく溜息を吐いた。

 

「まあいいや、”顔欠け"についてだけど」

「ちょっ……と待って下さい」

 

 口に付いた脂を指で拭っている不動卿の一言に割って入る。知らない単語が出てきた事にもそうだが、それ以上に先程の発言の真意が気になる。狼狽しながら尋ねると彼女は露骨に面倒臭そうな顔をした。答えるつもりはないらしい。

 

「タマウガチを見たんだろ? 顔、欠けてなかったか?」

 

 そう言うシムレドさんに促されるまま、仕方無くタマウガチと対峙した時に思いを馳せる。正直目の前の状況に対処する事に精一杯で、顔がどうこうまで覚えていない。言われてみれば欠けていたような気がしなくもなかったが、確信は持てなかった。

 

「覚えて……ないですね」

「あいつらは一匹で縄張りが1000m近くあるからな。俺達は追いやられて縄張り争いに負けた個体が三層に登ってきたと睨んでる」

 

 肯ける考察ではあった。そもそもこの状況自体がイレギュラーであり、確信に足る物など一つもないが。とにかくタマウガチ一匹に狙いを絞って作戦を練るしかないだろう。限られた時間の中では不測の事態にばかり気を配っていられない。

 簡略化された大断層の地図を広げ、作戦地点に印を付けていく。

 

「四ツ辻……四つ組縦穴窟付近で決着を付けます。あの辺は比較的足場が多いのと恐らく自分の連れがいるので。人手は多いに越したことはありません」

「笛は?」

死装束(シュラウド)ではないですが黒笛です。少なくとも足手まといにはなりません」

 

 作戦と呼ぶには拙いそれを口頭で軽く説明すると、荷物をまとめる。大きく息を吸い込むと、上へ繋がる横穴の奥へと足を踏み入れた。イワアルキを避けるようにして緩やかな坂道を上る。上昇負荷による幻聴が微かに聞こえてくるのを頭を振って掻き消しているうちに、目的地へと辿り着いた。

 

 五層に降りるまでに想定される難関の一つ、タマウガチ。それがまさかアビスに戻って最初に正面からぶつかる相手だとは思わなかった。白笛が付いているとは言えど、三人揃って五体満足で切り抜けられれば奇跡といっていいだろう。

 その先に待ち受けているのが果たして最良の結果なのかは分からないが、とにかくやれる事をやるだけだ。そう言い聞かせると横穴の出口から射す光へ向けて足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 



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