ブルーアーカイブを、もう一度。 (トクサン)
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プロローグ
もう一度、箱庭へ


 

 我々は望む、七つの嘆きを。

 我々は覚えている、ジェリコの古則を。 

 

 ■

 

「……私のミスでした」

 

 ――白い車内。

 

 流れゆく雲に、照らされる朝日。窓から差し込む昇ったばかりの日差しは、車内に腰かけた二人に影を伸ばす。

 正面に腰かけた彼女の頬には、赤い血が滲んでいた。

 ヘイローを喪った彼女は既に弾丸のひとつでも致命傷と成り得る。銃弾の掠めた頬は、今尚血が止まっていない。人と変わらぬ、脆弱な肉体。

 

「私の選択、そしてそれによって招かれた全ての状況」

「結局、この結果に辿り着いて初めて、あなたの方が正しかったことを悟るだなんて」

 

 ゆっくりと、語り掛ける彼女。

 俯いたままの表情は影に隠れ伺えない、そも見え隠れする感情は察して余りある。彼女の選択――それを、自分は否定できない。

 する権利など、存在しない。

 この選択肢に至って尚、それでも確かに彼女はキヴォトスを想っていたのだから。

 

「……いまさら図々しいですが、お願いします、先生」

 

 強く、言葉が耳を叩いた。

 それは彼女が最後まで通した意地を投げ捨てて行う――懇願。

 

「きっと私の話は忘れてしまうでしょうが、それでも構いません」

「何も思い出せなくても、恐らくあなたは同じ状況で、同じ選択をされるでしょうから」

「ですから……大事なのは経験ではなく、選択」

「あなたにしか出来ない選択の数々」

 

 繰り返す世界で大事なのは経験ではない、選択。

 積み重ねた『経験値』(レベル)などではない、あの時、あの場所で、【私】(先生)が果たせなかった選択を――今度こそ。

 瞼裏に浮かぶ情景。

 

 砂漠に沈んだアビドス。

 壊滅したゲヘナ、トリニティ。

 影の中に消えたアリウス。

 赤に沈む――キヴォトス。

 

 例え記憶の中であったとしても、それを見届けたのは他ならぬ自分自身。対峙した連邦生徒会と連邦捜査部――何かを犠牲にし続けてでも、キヴォトスを生かす為に彼女は進んだ。それを自分は否定し、そして残ったのは――彼女と自分の、二人だけ。

 

「だから先生、どうか――」

 

 そうだ、だからこそ。

 果たさなければならない。

 今度こそ――私の生徒を救う為に。

 彼女の存在しない、箱庭(キヴォトス)で。

 

 ■

 

「……先生、起きて下さい」

 

 声が聞こえる。

 誰かが――呼ぶ声だ。

 

「先生!」

 

 直ぐ横から響いた声に、思わず目を開いた。

 視界に飛び込んでくるのは、尖った耳に黒い髪を持つ女性。そして場所は――見慣れた連邦生徒会のロビー。先生と馴染んだ声を出した主は、何とも言えない表情で此方を見下ろしていた。

 

「……」

「少々待っていて下さいと云いましたのに、お疲れだったみたいですね、中々起きない程に熟睡されるとは」

 

 どこか――聞き覚えのある言葉だった。

 先生と呼ばれた男は目元を二度、三度拭い周囲を見渡す。まるで此処がどこか、注意深く確かめる様に。そして呼びかけた女性を見つめた後、静かに呟いた。

 

「リン――」

「はい、七神リンです……寝ぼけている訳ではないようですが、状況の説明は必要ですか、先生?」

「……いや、問題ない」

 

 告げ、立ち上がる。ソファで寝入っていた為か、少しだけ腰が痛んだ。

 自身の手足を見る、爪先で床を打ち両の掌を握る。見慣れた腕だ、使い慣れた足だ――けれど、違う。

 

「随分、落ち着いていらっしゃいますね……呼び出されたばかりだというのに」

「うん……まぁ、慣れているからかな」

「慣れている――いえ、失礼しました、野暮というものでしたね、詳しくは聞きません」

「助かるよ」

 

 先生は静かに笑って手を振った。調子を見るに問題なさそうだ、と判断したリンは「こちらへ」と告げ歩き出す。行き先はロビーに存在するエレベータの一つ。ボタンを押し込み、中に入り込んだリンは先生を促す。数秒、目を細めた彼はエレベーターに乗り込み、ガラス張りの街を眺めながら上層へと昇って行く。

 硝子の向こう側に見えるのは廃墟ではない――美しい、そして懐かしいキヴォトスの街並み。

 それを、じっと見つめる先生。その様子に驚いたと思ったのか、或いは単純に別の感情を見たのか。ふっと笑みを浮かべたリンは彼に告げた。

 

「――キヴォトスへようこそ、先生」

 

 ■

 

「ちょっと待って、代行! 見つけた、待っていたわよ! 連邦生徒会長を呼んで来て!」

「主席行政官、お待ちしておりました」

「連邦生徒会長に会いに来ました、風紀委員長が現在の状況について納得のいく回答を要求されています」

「トリニティ自警団です、連邦生徒会長に直談判を――」

 

 レセプションルームに足を踏み入れた途端、四人の女性が隣にいるリンを見つけ声を張り上げた。どれも見覚えのある顔だった。ユウカ、ハスミ、スズミ、チナツ――懐かしい顔ぶれだ。その対応を迫られていたのだろう、行政官の面々は助かったという表情を浮かべている。反対に、リンは露骨に表情を歪めた。

 先生は小さく呟く、あぁ、【ここから】なのかと。

 

「あぁ……面倒な人たちに捕まってしまいましたね、まぁ理由は分かり切っていますが」

「分かっているなら何とかしなさいよ! 数千もの学園自治区が混乱に陥っているのよ!? この前なんか、うちの学校の風力発電所がシャットダウンしたんだから!」

「連邦矯正局で停学中の生徒たちについて、一部が脱走したという情報もありました」

「戦車やヘリコプターなど、出所のわからない武器の不法流通も2000%以上増加しています、これでは正常な学園生活に支障が生じてしまいます」

「こんな状況で連邦生徒会長は何をしているの? どうして何週間も姿を見せないの、今すぐに会わせて!」

 

 ユウカ、チナツ、ハスミの順に不満――というよりも現状を捲し立てる生徒たちに、リンは額を押さえている。これから行動する時に、と思っているのだろう。その対応すら惜しいと。先生はそんなリンを尻目に、一歩踏み出し告げた。

 

「――連邦生徒会長は今、席に居ない、現在行方不明だ」

「え!?」

「……!」

 

 普段見ない大人だからだろうか、それともこの学園には珍しい人間だからか、或いはその発言の内容からか。目を見開いた彼女達は一瞬目を見合わせ、それから問いかけた。

 

「この大人の方はいったいどなた? どうして此処に?」

「私は――先程このキヴォトスに呼び出された、先生だよ」

「……先生、なのですか?」

「えぇ、先生の身元は保証します、彼は連邦生徒会長が特別に指名した方です」

「連邦生徒会長が指名って……今、先生が行方不明になったと」

「事実です、結論から言うと、連邦生徒会長が失踪しサンクトゥムタワーの最終管理者がいなくなった為、連邦生徒会の行政制御権が失われました」

「はっ!?」

 

 驚愕の声を上げる青髪の女性――ユウカ。

 ミレニアムのセミナーに所属する彼女の事はよく覚えていた、以前も何かと理由をつけてシャーレを手助けしてくれた彼女。尤も、既に彼女自身その記憶はないだろう。

 そして彼女の愕然とした表情の理由も察して余りある。

 連邦生徒会の持つ行政制御権――それが失われた場合、連邦生徒会は文字通りあらゆる機能が停止する。何せ連邦生徒会を連邦たらしめる源である。キヴォトスの管理は当然、ごく一部の自治区の管理すら危うい。鎮圧行動など以ての外――キヴォトス全域が混乱に呑まれるのも無理もない。

 リンは眼鏡を指先で押し上げながら云った。

 

「認証を迂回出来る方法を探していましたが、先程解決しました――この先生が、フィクサーとなります」

「……先生が?」

「先生は元々、連邦生徒会長が立ち上げたある部活の担当顧問として、此方に来る事になっていましたから」

「それは?」

「連邦捜査部、シャーレ」

 

 彼女の言葉が鋭く響く。連邦と名が付く以上、この連邦生徒会に属する組織である事は確実である。そして、そのような話を彼女は全く聞いた事が無い。前例もない。

 

「便宜上部活と呼称しておりますが、一種の超法規的機関です、所属は連邦組織になりますのでキヴォトスに存在する全ての学園の生徒たちを、制限なく加入させる事が可能なものです、更に各学園の自治区で、制約なしで戦闘行動も許可されています」

「――とんでもない部活ですね、いえ、部活というよりは最早一個の戦力ですか」

「チナツさん、あくまでシャーレは部活、そして現状所属しているのは先生のみ、今動かせる戦力はありません」

「………」

「シャーレの部室は外郭地区にある一棟です、連邦生徒会長の命令でその建物の地下にあるモノを――先生を其処にお連れしなければなりません」

 

 どこかぼかした云い方に白髪の生徒、トリニティ自警団であるスズミが問いかけた。

 

「その、あるものとは?」

「連邦生徒会の行政制御権を取り戻す為のもの、と云っておきます」

「――かなり重要なものらしいですね」

「えぇ、ですから直ぐにでも向かう必要が」

 

 云うや否や、リンは手元の端末を操作し何処かへと連絡を入れる。数度、コール音が鳴った後、投影されたホログラムには菓子を片手にのそりと身を揺らす少女の姿が映った。一瞬、リンの表情が苦々しいものに変わるも、もう慣れたものなのか苦言を飲み込み要件を告げる。

 

「モモカ、シャーレの部室に直行するヘリを手配して」

『シャーレ? ああ、外郭地区の……あそこ今、大騒ぎになっているけれど』

「大騒ぎ? どういう事ですか」

『矯正局を脱出した停学中の生徒が暴れているの、もう戦場だよ、戦場』

「……は?」

『連邦生徒会に恨みを抱いて、地域の不良たちを先頭に周りを焼け野原にしているみたい、本当かどうか知らないけれど巡航戦車まで手に入れて来たみたいだよ』

「何て、タイミングの悪い……」

『連邦生徒会所有のシャーレ部室を占拠しようとしているみたい、まるでそこに大事なものがあるみたいな動きだけれど――あ、頼んでいたデリバリーが来たから、また連絡するね先輩!』

「………」

 

 ブツ、と通信が切れる音が響いた。訪れる沈黙、リンが手に持った端末がみしりと軋みを上げた。心なしか四人が一歩距離を取っている気がする。先生は静かに、「大丈夫?」と問いかけた。

 

「……大丈夫です、少々問題が発生しましたが大したことでは」

 

 眼鏡を押し上げ、僅かに震えた声で告げるリン。それから彼女は目前に立つ四人を見つめる、じっと、穴が空く程に。

 

「……な、なによ?」

 

 悪寒が走ったのだろう、ユウカは身を捩りながら訝し気な表情を浮かべる。反しリンは満面の笑みを浮かべ、まるで何でもないかのように云った。

 

「いえ、丁度此処に各学園を代表する、立派で暇そうな方々がいらっしゃったので、心強いなと思いまして」

「――え?」

「さて、キヴォトスの正常化の為に働きましょうか、皆さん」

「え、ちょ、ちょっと待って!? どこ行くのよ!?」

「それは勿論」

 

 笑みを浮かべたまま、彼女はいっそ爽やかな口調で告げた。

 

シャーレ(戦場)です」

 






『クソ程長い後書き』

 普段はクソ長い後書きとか、前書きとか極力書かない様にしているのですが、どうしても抑えられなかったので此処で発散します。

 サオリピックアップの頃に始めたのですよ、ブルーアーカイブ。
 それでね、チュートリアルガチャを回して出て来たのがヒフミ。
 その次に貰った石で出て来たのがヒフミ。
 スタートダッシュガチャで出て来たのもヒフミ。
 君、そんなに私の事好きなの? と思っておりました。
 でも君のEXスキル強いですね、デコイペロロ様、お世話になっております、火力ないけど。

 しかし生徒は皆可愛いですね、皆さん個性があって大変に宜しい、爽やかグラセフとは良く云ったもので。
 トリニティもゲヘナもアビドスも素晴らしい、初めて一ヶ月も経っていないから全然分からんけれど。
 ストーリーが良いと聞いていたので、ちまちま見ております、楽しいですね。
 けれど任務を進めないと先が見れないのがつらいです、先生もっと早くレベル上がって大人でしょう? 
 はやくしないとレポート口にぶちこみますよ。
 
 しかしあれですね、大人でありながら生徒とは異なる肉体というのが良いですね。
 生徒と違って先生は弾丸一発が致命傷ですから。

 あーあ! 便利屋68の皆が強盗に向かった場所に偶々先生が居て、「先行制圧は基本」みたいな感じで爆弾なり銃弾なり叩き込んだ後、ズタボロの腕とか足もげた先生の姿を見て、「先生……?」とかなって自分のしでかしたとんでもない真実に絶望するハルカとか見てぇなぁ! 私もな~!
 後、散り散りになったアリウススクワッドを散々甘やかして依存させて、デロデロに幸せにした後、任務の最中に先生が狙撃で心臓ぶち抜かれて愕然とした表情で手を伸ばすサオリとか見てぇなぁ私もなァ! きっと凄く可愛いンだろうなぁ!
 その後、先生の心臓ぶち抜いた相手に憤怒の形相で仇討ちに向かったら花丸百点。

 でもやっぱり個人的に本編で最高に盛り上がったシーンは、ヘイロー破壊爆弾から身を挺してヒナを救ったシーンですね。
 爆炎が去った後に自分を抱きしめて倒れた先生に、「先生!」と嬉しそうに云った後、先生の下半身が丸々無くなっている事に気付いて蒼褪めたCGは正に芸術でした。はー、最高ですねシロコのファンになります。

 最後はちょっと辛かったですね、キヴォトス全体を救う為にキヴォトスを裏切り、最後の大人としてアロナを除く全ての学園と敵対した先生が嘗ての生徒たちと対峙するシーンは胸が苦しくなりました。まぁそれを救う為に連邦生徒会長が出て来た所とかめちゃ熱くなりましたが! 全くブルアカは最高だぜ!まだ私の先生レベル40だけれど!
 
 皆さんもブルアカの二次創作書いてねはやく役目でしょ。


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まだ少女だった天使達へ

 誤字報告凄く助かります。
 ずっと「ギ」だと思っていた私をお許しください。
 


 

 場所はキヴォトス郊外、シャーレ部室へと続く公道。いざヘリコプターを飛ばして撃墜されたら目も当てられない為、近場までは車両で、そしてシャーレ本棟までは徒歩で向かう事となった。連邦生徒会から人を出して貰い車で数十分、シャーレにある程度徒歩で向かえる距離になった時点で先生、及び『暇な人達』を下車させると、「では、後は任せます、くれぐれも先生をお守りする様に、主席行政官は後程別働隊を率いて合流しますので」と口にして、運転を担当した行政官はサンクトゥムタワーへと戻って行った。

 その去っていく車両の背中を呆然と見送っていた先生を除く四名は、思わず口にする。

 

「――何で私達が戦場に出ないといけないのよ!?」

「……まぁ、サンクトゥムタワーの制御権を取り戻す為に、部室の奪還は必須ですから」

「いや、それは聞いたけれど! なんでミレニアム所属の、しかもセミナーの私がっ……!」

 

 荒ぶるユウカに、ゲヘナ風紀委員所属のチナツは宥める様に声を掛ける。トリニティ所属のハスミとスズミは、「まぁ、こんな事だろうと思った」と何処か諦め気味である。元々正義感の強い二人である、恐らく頼まれなくても同行してくれた可能性は高い。先生は地団駄を踏むユウカの肩に手を置き、笑いかける。

 

「すまないユウカ、連邦生徒会も今は混乱で人手が足りない、どうか頼むよ」

「ぐっ――」

 

 先生の笑みを直視し、どこか言葉に詰まるユウカ。

 初対面の大人の男性である、関わり合いもない、知り合いでもない。だと云うのに何故か――他人な気がしない。

 妙な気分だった、彼に名前を呼ばれると胸が弾む。

 

 ――この人に頼まれると、断れる気がしない。

 

「わ、分かりました、元々連邦生徒会に頼まれたら断れませんし、キヴォトスの――結果的にはミレニアムの為ですから!」

「………」

 

 頬に桜を散し、早口で捲し立てるユウカを隣のチナツが、「何だこいつ」と云わんばかりの目で見ていた。その瞳に映る感情は何だろうか、呆れか、或いは、「ちょろすぎるのでは?」という感情か。どちらにせよやめてさしあげろ。

 ライフルを担いだ長身の女性、ハスミが先生を感心した様子で見つめる。

 

「連邦生徒会所属ともなれば、主要な生徒は把握済みでしょうか? ですが一応、自己紹介を――正義実現委員会の羽川ハスミです」

「あぁ、えっと、ゲヘナ学園、風紀委員の火宮チナツです、よろしくお願いします」

「トリニティ自警団の守月スズミです」

「わ、私は早瀬ユウカです、ご存知の様ですが」

「――うん、宜しく、私の事は気軽に先生と呼んで欲しい」

 

 自己紹介――目の前で名前を告げる生徒達を前に、先生は僅かに眉を顰める。無論、彼女達に悟られない程度に。

 知っている相手を前に、初対面の如く振る舞われるというのは……想像以上に、堪えるものだった。

 否、これは分かり切っていた事だろう。今更、何を傷つく事があるのか。自身にそう言い聞かせ、喝を入れる。こんな事で心に傷を負う事など、許されない。これから歩む、修羅の如き道に比べれば。

 そんな彼の葛藤を他所に進行先を見つめるハスミは、やや険しい表情で告げる。

 彼女の視線の先には屯し、破壊行為に勤しむ不良軍団の姿がある。統率は取れているが最低限、それこそ纏まって行動して好きに暴れろ――程度のものだろう。特に率いているリーダーがいる様子もない。

 

「戦闘を行うのであれば、先生を守る事が最優先――シャーレの奪還は二の次ですね」

「えぇ、先生はキヴォトス外の方、弾丸一発でも致命傷に成り得ますから、どうかご注意を」

「分かっているわ、先生、戦闘は私達に任せて、後方の安全な場所に――」

「いや」

 

 彼女達の提案を、先生は首を振って否定する。

 無論、彼女達と同じように銃を握って戦うつもりはない。肉体的なスペックとしても、銃を扱う技量としても、鉄火場に立つには不適格な存在であると自負している。

 しかし――そんな己にも役割はある。

 

「後方には下がろう、ただ戦術指揮は私が執る、従って欲しい」

「ええっ!?」

 

 先生の言葉にユウカは驚愕し、周囲の生徒も大なり小なり似たような反応を返した。込められた感情は期待、不安、猜疑――しかし、それが誰とも知れぬ相手ならば兎も角、相手は連邦生徒会長が直々に指名した大人。無能である筈がないという、ある種、『連邦生徒会長』に向けられた信頼が先生にも及んでいた。

 

「……いや、でも先生だし――出来て当たり前、なの、かしら」

「信じてくれ」

 

 皆の顔を見返し、真摯に告げる。

 彼女達は一瞬顔を見合わせるも、判断は早かった。愛銃を握り締めながら、皆が力強く頷く。

 

「――了解しました、先生の指揮に従います」

「先生の言葉に従うのは自然な事、よろしくお願いします」

「信じます、先生」

「わ、分かりました――お願いします、先生!」

 

 皆が真剣に、或いは笑顔を浮かべながら承諾する。その信頼が――どうしようもなく心地良い。嘗て失ったものがそこにある。その事実が、彼を心胆から燃え上がらせた。

 

『状況開始、オペレーティングシステム、戦術指揮モード起動します』

 

 ――幻聴だ。

 けれど、確かに聞こえた。あの瞬間、燃え盛るキヴォトスの中で唯一、最後まで自身と共に在った彼女の声が。

 先生は数秒、目を瞑る。深呼吸を一度――そして再び目を開いた時、其処には機械的で冷徹な色が宿っていた。

 地獄の様な修羅場を掻い潜って来た先生と呼ばれる男にとって、戦術指揮(コレ)は自身の全てであり、存在価値そのものである。どれだけ損耗を少なく、苛烈に、冷徹に、淡々とした戦場を描けるかどうか。

 この一戦で、自身の価値を証明する。

 

 進路上に存在する敵性勢力――不良達を見据える。

 この暴動を引き起こした元凶に従う障害、その排除の為に必要な情報と効率的な戦闘行動を頭の中で組み立てる。本来であれば生徒一人一人の役割と得手、思考などのデータが必要になってくるが――その点について、己は既に熟知している。

 

「前衛をユウカ、中衛をスズミとチナツ、後衛をハスミに編成する――敵総数、十名」

 

 指先で凡その距離を測り、障害物と敵の位置、味方の位置を頭の中で構築する。思い浮かべるのは三次元化された盤上、その中で味方を動かし敵を打倒する道筋を描く。

 

「せ、先生?」

 

 豹変した先生の気配に生徒たちはたじろぎ、しかし彼は歯牙にもかけない。予想される敵の動きと味方の動き、それらのシミュレートに脳のリソースの大半を注ぎ込んでいる。外部刺激を限りなくシャットアウトし、組み上がった戦術を口に出し実行。

 

「ユウカ、五十メートル前進、弾倉一つ分射撃後シールド展開、ハスミ、二十メートル前進、遮蔽物に身を隠し後列三人目狙撃、スズミ、四十メートル前進、弾倉半分射撃後、閃光弾前列投擲、チナツ、スズミに随行、援護射撃後頃合いを見て回復剤準備」

「!」

「は、はい!」

 

 唐突に出された詳細な指示、雰囲気の変わった先生には驚いたものの、断言するように出されたソレは自信に満ち溢れている。否、自信というよりは――確信か。

 先生を除く全員が一斉に物陰から飛び出せば、それなりに距離があっても気付かれる。不良達は飛び出した生徒達に気付き、慌てて迎撃態勢を取った。

 

「っ、敵襲~! 敵襲ぅ~!」

『ユウカ、対象のヘイトを』

「了、解…!」

 

 連邦生徒会より支給された無線機を使用し、指示を出す。具体的な方法ではなく、簡素な指示。しかしユウカはその意思を正確に汲み取り、愛銃を腰だめに構えると派手に銃弾をばらまき視線を集めた。一人が運良く、或いは運悪くか射線上に重なり、数発頭部に弾丸を受け斃れる。打ち所が悪かったのか、起き上がる気配はない。

 

『弾倉払底まで三、二、一、シールド展開、今』

「計算、完了ッ!」

 

 派手に視線を引きつけ、弾倉の弾が切れると同時にユウカは演算を完了させる。彼女の『特殊技能』(EXスキル)は電磁シールド防御。自身を中心とした円形のシールドを形成し、表面に弾丸が触れるとあらぬ方向へと逸れるというもの。その為、彼女単騎での生存能力は非常に高い。

 先生はそれを、良く知っている。

 

 派手な掃射に目を引きつけられ、見事にヘイトを買った彼女は複数の銃口に狙われる。一斉に火を噴き、本来であれば彼女をハチの巣にしたであろうそれは――しかし、悉くシールドに拒まれ逸脱する。

 

「閃光弾、着弾、今!」

「うわッ……!?」

 

 視線を引きつけ、反撃を誘い、ユウカを注視していた所に――スズミの閃光弾が投げ込まれる。ユウカを注視していた者ほど光をモロに喰らい、悶えた。

 

『ハスミ』

「――はい」

 

 絶対的な信頼を含んだ声――無線機越しに響く先生の声に、ハスミは力強く返答を行う。障害物の縁に乗せた愛銃、インペイルメントが一拍後、金属音を掻き鳴らし火を噴いた。放たれた弾丸は真っ直ぐ対象へと進み、目を覆って悶える一人の不良、その頭部を弾く。大きく後ろに仰け反った不良はそのまま地面に倒れ込み、数度痙攣してから動かなくなった。

 

「ワンダウン、射撃を継続します、狙いは――」

『前列右から順に、鴨撃ちだ』

「……了解」

 

 コッキングを行い、弾け飛んだ空薬莢を目で追う。酷く落ち着いた心地だった、それは理性的なものではなく、本能的なものだ。この人の声に従っていれば間違いがない、負ける筈がない――そんな信頼とも、確信でもない、漠然とした予感が胸の中にあった。

 

「リロード、完了!」

『前列を突破、目の眩んでいる敵一人にCQC』

「ッ!」

 

 未だ目を覆って立ち直れていない前列は、ハスミとスズミ、チナツが順に撃ち取っている。ユウカはその中を切り裂く様に駆け、中列で今まさに立ち直ろうとしている不良、その一人に近接格闘を仕掛けた。

 

「射撃戦だけじゃないって所、見せてあげるんだから……ッ!」

「うぇッ!?」

 

 鋭く踏み込んだユウカは、そのまま不良が構えようとした銃を前蹴りで蹴飛ばし、そのまま黒マスクに覆われた顔面を銃床で殴る。「ぐえ」、とも「ぐお」、とも聞こえる呻き声をあげ仰け反った不良の腕を取り、反転させた後、ユウカは鮮やかに関節技を決めて見せた。背面を取られ、片腕をキメられた不良は、「あだだだだッ!」と叫びながらタップを行う。だが無論、そんな事で解放される筈もなく。

 

『スズミ、ハスミ、前から順次射撃、チナツ、スズミと同列にて援護射撃継続』

「はい!」

『ユウカ、その不良を盾に前進』

「盾!? えっ、あ、はい!」

 

 背面を取ったまま愛銃、ロジック&リーズンを構えるユウカ。現在構えているのはロジックの方である、火力が必要な場合のみ彼女は二挺運用を行う。軽量かつ反動が小さい9mmパラベラムのサブマシンガンであり、キヴォトス外の先生よりも肉体的なスペックが優れている彼女達にとって片手運用は容易い。

 片腕で人質の盾を保持したまま、愛銃で近くの敵から順に射撃を行う。

 不安定な体勢にも関わらず精度は全く落ちず、閃光手榴弾から立ち直った不良達は慌てて障害物に身を隠す。

 

『チナツ、【盾】に回復剤投与』

「えっ……!? りょ、了解」

 

 前列の敵は全滅、しかし中列、後列の敵が完全に立ち直った。反撃が来ると先生は確信する。既にユウカは敵陣中程まで入り込み、中衛のスズミ、チナツとはやや距離が空く。必然、敵の攻撃はユウカに集中するだろう。

 しかし。

 

「いで、いだッ! あだァッ! やめっ、あばばばばッ!」

「ひ、卑怯だぞ! 人質の盾とか、お前達に人情というものはないのかッ!」

「いや、街で大暴れしているアナタ達が云える立場じゃないでしょう!? いえ、まぁ、私としても少し複雑だけれども……!」

 

 捕獲した不良を盾にし、攻撃を凌ぐユウカ。サイドアタックさえ警戒すれば、前面の盾程効果的なものはない。飛来する弾丸は悉く肉壁と化した不良に被弾し、ユウカへ届く事はない。仲間に射撃する事に抵抗感を覚えれば儲けもの、無論ヘイローが破壊されない様チナツによる注射器の投擲も万全。この間に特殊技能のクールタイムを稼ぎ、序にユウカしか見ていない不良達を横合いから叩く。

 

『……ユウカ、その場で防御、スズミ、チナツは援護射撃準備、ハスミ、後列右端ポイント狙撃、対象【銃】、タイミング合わせ』

「――銃を狙い撃てば宜しいのですね」

『そうだ――射撃時間合わせ、五、四、三、二、一、発射、今』

「ッ!」

 

 先生のタイミングに合わせ、ハスミは狙撃を敢行する。甲高い発射音、同時に銃弾が不良の持っていた銃に着弾、ユウカを狙い撃っていた不良の銃口が横合いに弾かれ、吐き出された弾丸が真横で射撃に勤しんでいた別の不良に着弾する。

 

「いッあだだだだっ!?」

「あ、エッ、ごめ――」

『スズミ、チナツ』

「はいッ!」

「了解!」

 

 空かさず名を呼べば、二人は同時に身を乗り出して今しがた隙を晒した二名の不良を射撃。弾丸は二人の頭部を綺麗に弾き、不良達は揃って昏倒。

 これで残り五名――敵性戦力は半壊。

 

『ユウカ、シールド展開後、閃光弾に合わせて突撃、スズミ、閃光弾投擲後ユウカに続いて突撃、ハスミ、後列左端一人を射撃、五秒以内、チナツ、中央一人を射撃、ハスミ、チナツ両名は対象射撃後、二人の援護射撃に備え――時間合わせ』

「っ……!」

 

 先生の指示――突貫要請にユウカはぐっと腹に力を籠める。敵は戦力半壊に浮足立ち、気勢が削がれている。盾にしていた不良を背後から数発射撃し、無理矢理昏倒させたユウカは崩れ落ちた不良の影でリロードを済ませ、片手間に端末をタップしシールド展開の準備を行う。

 障害物に身を潜めている中衛、後衛の三人も号令が掛かる瞬間を今か今かと待った。

 

『――行動開始、閃光弾用意、三、二、一、投擲、今』

「行きますッ!」

 

 スズミが叫び、安全ピンを抜いた閃光弾を後列深くに投げ込む。二度目の閃光弾、流石に一度目と同じ効果は望めない。飛来したそれを目視した時点で、残った不良達は物陰に身を隠し耳を覆う。しかし、投擲された――という事実が重要なのだ。分かっていても防御姿勢を取るだけで隙が生まれる。

 ユウカは閃光弾が炸裂すると同時に不良の背から飛び出し、叫んだ。

 

「私に弾丸は命中しないっ!」

 

 シールドがユウカの周囲を覆い、防御姿勢を取ったままの不良に肉薄する。右手のロジックで近場の不良を射撃し、背中に隠し持っていたリーズンを抜き放ち、逆の手でもう一人の不良を狙う。二挺持ちによる複数対象同時攻撃――ユウカが『I.F.F』と呼称する、凄まじい技量の早撃ちである。

 両腕を広げる様にして構えたユウカの愛銃が唸り、凄まじい勢いで弾丸を吐き出す。横合いから無防備に攻撃を受けた不良二人は、「いでッ!」、「あがっ!」と叫びながら地面に叩きつけられる。横腹から側頭部に掛けて複数の被弾を受けた不良二名は小さく痙攣し、銃を手放したまま起き上がる事はない。

 

「ッ! 敵無力化――完了っ!」

「あ、当たった……!」

「敵一人鎮圧完了!」

「此方も、命中です」

 

 各々がユウカの突撃に合わせ、対象を絞り射撃、突撃。チナツ、ハスミの二名は中・遠距離から的確に不良の頭部を狙い撃ち、スズミはユウカのバックアップとして突撃。至近距離からライフルの連射を受けた不良は白目を剥いて昏倒している。残った不良達すべてが戦闘不能に陥り、総勢十名の不良達が地面に転がる。その様子を確認した先生は小さく息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜いた。

 

【状況終了、オペレーティングシステム、通常モードに移行します】

「状況終了――」

 

 懐かしい幻聴を再び聞きながら、先生は無線越しに皆の健闘を称え、怪我の有無を問う。幸いにして被弾ひとつなく、完勝ともいえる無傷での勝利に成功した。

 後方待機する先生の元へと帰還した生徒達は、戦闘直後の興奮をそのままに、先生の顔を見つめる。そこにある感情は、分かり易く、同時に先生にとって馴染みのある代物だった。

 

「戦闘がやりやすい、何てレベルではありませんね、凄まじい精度の戦術指揮です」

「先生の指揮、素晴らしいです――」

「これが先生の力……いえ、連邦生徒会長が特別指名した方です、これが当たり前なのかも」

「私達が何も考えなくても、先生の指示に従うだけでこんなにも簡単に」

 

 各々が先生の指揮に対する感想を零す。共通するのは先生が持つ絶対的な指揮に対する畏怖――そして興味だ。連邦生徒会長が直々に指名し、超法規的措置とも言えるシャーレを運営するだけの実力は確かにあると、そう納得できるものが彼には備わっている。

 

「どうやら私達が個々に動くよりも、先生に指揮を任せた方が効率的にも、安全的にも正しい様です――次の戦闘もお願いします、先生」

「あぁ、任せて欲しい」

 

 ハスミの言葉に、先生は力強く頷く。否はない、生徒達も皆、先生に指揮権を預ける事に不安はない様子だった。

 元より、それしか能のない人間である。頸から下はいらない――とまでは云えないが、彼女達の隣に並ぶ為には必須の技能だった。元より備わっていた指揮の才能が、嘗てのキヴォトス動乱によって磨きに磨かれ、今の先生の血肉となっている。

 如何に経験(レベル)の足りない生徒達であっても、十分な意思疎通さえ可能であれば――。

 

「………」

 

 考え、首を横に振る。

 嘗ての彼女達と、今の彼女達を重ねる事は出来ない。それは、どちらの彼女達にも失礼極まりない行為だと思い直した。小さく額を小突き、先生は進路を見据える。

 その瞳に何か、悲哀の念を感じ取ったユウカは小さく尋ねた。

 

「――先生?」

「何でもないよ……先を急ごう、シャーレは直ぐ傍だ」

 

 (いら)えはない。ただ歩き出した先生の背中を見つめ、生徒たちは後に続く。先を往くその背中は確かに頼もしく、大きい筈なのに――何故だろう、彼女達はその背中がどこか、寂しそうに見えて仕方なかった。

 





 この先生が「大人」のカードで、嘗て自分を犠牲にして救ったキヴォトスの生徒達を呼び出すと考えると、その想像だけでご飯が美味しい。
 愛憎と悲哀と妄念の混じった瞳と叫びが聞こえる、聞こえる……。
 これが、美食研究会という事なのでしょうか?


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『生きて』という名の呪い

 

「シャーレの部室は目前よ!」

 

 ユウカが告げ、駆け足のまま全員が前を見据える。公道の向こう側、大通りを一つ挟んだ先に聳え立つ白い棟――連邦捜査部シャーレ。続く道中はあちこちに破壊痕が刻まれ、暴徒達が暴れた痕跡がそこかしこに見受けられたものの、幸いにして進路が寸断されていたり、封鎖される事もなくシャーレ付近へと到達出来た。極めて順調だ、そう思考する先生の手元、握った端末が不意に震えた。送信者の名前を確認し横合いの応答ボタンを押し込めば、リンのホログラムが目前に表示される。

 

『先生』

「リンか」

『はい――先程、今回の騒動を起こした生徒、その主犯が分かりました』

 

 重々しい口調だった。走りながらホログラムを視認する先生は、「主犯」と口の中で言葉を転がす。眼鏡を指先で押し上げながら、彼女はその主犯となる人物の名を告げる。

 

『名はワカモ――百鬼夜行連合学院で停学になった後、矯正局を脱獄した生徒です、似たような前科が幾つもあります、気を付けて下さい先生』

「ワカモ……か」

 

 走りながら呟かれた名前は虚空に溶ける。その名前を知っている、当然だ、先生はこのキヴォトスに所属する主要な生徒、その殆どを記憶しており、一般生徒であっても顔は兎も角、名前だけは頭に叩き込んでいた。そして彼女は俗に云う、一般的な生徒ではない。先生にとっては良い意味でも、悪い意味でも記憶に新しい生徒であった。

 先生は彼女の顔を、今でも鮮明に思い浮かべる事が出来た。

 

 最期に彼女を見た記憶は――燃え盛るシャーレの中だ。

 

 ――血塗れの四肢、垂れ下がった重火器を片手に、朱に染まった髪を払う。罅割れた面頬は既に砂利に塗れ、それでも立つ彼女は美しかった。

 這い蹲り、動けない己を背に庇う彼女の雄姿を――憶えている。

 

『――生涯御守りすると、誓いましたから』

 

 燃え落ちるシャーレ、炎に沈むキヴォトスで微笑む彼女。

 そうだ、終ぞ彼女は――己を。

 

「……っ、先生! 前方に敵影!」

 

 進路上、まるで立ち塞がるかのように展開した不良達、その姿を認めたチナツが叫ぶ。弾かれた様に前を見据えた先生は、その視界に白の狐面を捉えた。今しがた、想起したばかりの姿である。見慣れた面だ、見間違う事など在り得ない。

 それを証明するかのように、狙撃手として優れた視力を有するハスミが告げた。

 

「あれは――騒動の中心人物、ワカモです」

 

 愛銃を肩に乗せ、両手を絡ませるようにして持つ狐面を被った和装の少女。このキヴォトスに於いて最悪に近しい騒動を引き起こす指名手配犯の一人。そんな彼女が不良を引き連れシャーレ前に陣取り、迎撃の姿勢を見せている。

 堂々と直立するその姿をじっと見つめ、先生は彼女の名を呟く。自身の知る彼女はもう、何処にもいないと理解しているのに。

 

「――ワカモ」

「フフ、連邦生徒会の子犬たちが現れましたか、お可愛らしい事」

 

 ワカモは一人、大破炎上した車両の上に陣取って迫り来る四人を見据えている。先生の事は眼中にもない――恐らく、銃すら手にしていないからであろう。或いはもっと別の思惑があるのか、単に連邦生徒会の行政官程度に見ているのか。それは分からない。

 ワカモは接近する先生達を一瞥すると、軽く手を振り払った。

 

「仔細は任せます、攻撃を開始しなさい」

「ひゃっはーッ!」

 

 たった一言指示を出す。それだけで彼女に群がる不良達は各々散会し、思い思いの先制攻撃を開始した。視界の先で幾つものマズルフラッシュが瞬き、甲高い金属音が木霊する。

 

「先生ッ!」

「ぐっ……!」

 

 傍に居たハスミが先生の腕を掴み、慌てて抱き寄せる。幸い弾丸は全てあらぬ方向に逸れたものの、彼我の距離は百メートル前後。十分に殺傷可能距離。先生とそれ程身長の変わらないハスミの柔らかな肉体、そして香りを実感しながら、先生は小さく礼を云った。

 

「……すまない、助かった」

「いえ――それよりも先生、指揮を」

「無論だ、状況開始、やり方は先程と同じで構わない、順次攻撃を開始してくれ!」

「了解」

 

 答え、ハスミが銃のコッキングレバーを弾く。

 先生が残りの三人に目配せすれば、身を隠した各々が頷きを返し、障害物越しに射撃を開始する。弾丸が交差し、金属の跳ねる音があちこちに響く。

 此方は所属する部活が部活なだけに、全員が全員射撃の名手――数は向こうが上、しかし質では此方が勝る。三倍までの数ならば、策を用いない真正面からの撃ち合いで負けない事を、先生は先の一戦で確信していた。

 

「――ハスミ、三時の方向、上方看板の付け根、射撃」

「っ、はい」

 

 不意に、ハスミの横で状況を観察していた先生が指先で景色をなぞり告げる。ハスミが目を向ければ、先生の指先の向こう側に電子看板が一つ。少し古いのか、やや傾いたそれは固定された金具を撃ち抜けば落下するのが分かる。真下には此方を射撃する不良生徒が二名――意図を理解したハスミはコッキングバーを引き次弾を装填、そして一瞬息を止め、射撃。

 凄まじい精度の狙撃は狙い通り看板の付け根を吹き飛ばし、ビルに掲げられていたそれは音もなく落下を開始。看板下で迎撃を行っていた不良生徒二名が看板の落下に巻き込まれ、周囲に派手な破砕音が鳴り響いた。プラグや電灯が砕け散り、破片が虚空を舞う。死にはしないだろうが、戦闘不能は確実。ハスミが満足げにコッキングを行えば、隣で先生が微笑み、「よくやった」と肩を叩いた。

 ハスミの頬に、朱が散りばめられる。

 この人に褒められるのは――悪くない。

 

「すごっ……」

 

 障害物を利用したキルストリークに、前線を張っていたユウカが声を漏らす。直近でその妙技を目撃したワカモも、小さく驚きの気配を漂わせながら狙撃を為したハスミの方向へ視線を向ける。否――その隣の、顔の良く見えない大人か。

 

「これは、随分とまぁ……」

 

 呟き、狐面の奥で目を細める。知らぬ人物だった、連邦生徒会の制服を着込んでいるものの戦う気配はない。距離がある為顔までは視認できないが恐らくは――男性。そして遠目からでもヘイローが確認出来ない。

 となると……外部の人間の可能性が高い。

 ワカモは冷静にそれらの情報をまとめ上げ、時折その大人の男性が身振り手振りで何やら口を開き、その度に生徒達の動きが変化する事に気付く。

 指揮官――或いは隊の司令塔。

 ワカモはものの十秒足らずで、先生の役割を悟った。彼女達の動き、『妙に落ち着いた戦闘気配』にワカモは自身の推測が強ち間違いではないと予感する。キヴォトスのあらゆる組織から逃げ回った嗅覚は伊達ではない。そしてその戦闘指揮が、彼女達の『戦闘性能』を数段上に引き上げている事に気付き、顔を顰める。

 

 ――これはちょっと、やっていられませんね。

 

 敵わない戦闘、敗色濃厚な戦線は早々に放棄するに限る。その辺り、ワカモは非常にドライであった。数は不良達が上、しかし技量、質の一点では正に月と鼈。自身が加勢した所で膠着状態に持ち込むのが精々――そして時間を掛ければ掛ける程、状況は相手方に有利となる。加えてあの戦術指揮、何なら自身が加勢した所で喰われかねない。

 思索は済んだ、結論も出た。立っていた自動車のルーフから飛び降りると、ワカモは近場の不良に向け云った。

 

「――少々やる事ができましたので、あとは任せます」

「え、あっ、ちょ! 大将!?」

 

 それだけ告げ、一方的に戦線を離脱するワカモ。その行動は余りにも素早く、止める暇もない。そして彼女の行き先は――シャーレ。その背中を見つめていた先生は、やはりかと口の中で呟いた。

 

「嘘、逃げられる!? 追撃を――」

「待って下さい、このまま突撃しては危険です、まずはシャーレの前を制圧する事が先決です」

 

 主犯を取り逃してしまうという事に浮足立つユウカ、しかし先生は既にこうなる事を予期していた。彼女の性格を考えれば、戦力不利に陥った時点で撤退準備に入る、或いは何かしら打開する策を講じるだろうと。先生は何処か焦れているユウカの腕を掴み、強い口調で断言する。

 

「ユウカ、彼女は別働隊に任せる、追撃は不要だ」

「っ! わ、分かりました……すみません、先生に従います」

「――あのワカモが何の策もなしに逃走を図るとは思えません、罠の可能性もあります」

「……まるでゲリラですね」

 

 チナツが呟いた罠の可能性に、スズミは顔を顰める。自警団としてその手の輩が嫌いなのだろう、先生にとっては気持ちが良く分かった。何せ、その手の戦術に散々手を焼かされた側なのだから。逃げると見せかけてトラップ、伏兵、極めつけに自爆。本当に碌な記憶が存在しない。

 軽く頬を張り、気を取り直す。何にせよ、敵の主格が消えた今が好機であるのには違いない。攻め入るのであれば今だ。

 先生は浮足立つ不良達の姿を認め、生徒達に号令を掛ける。

 

「主犯が消えた以上、敵は統率が取れていない――このまま真正面から圧し潰す、スズミ、ユウカ、突撃準備、ハスミ、チナツはバックアップを」

「はいッ!」

「了解!」

 

 ■

 

 抵抗は散発的であった。少なくとも真正面からの力圧しでも崩せてしまう程度には脆く、数分後にはアスファルトの上に転がる不良達と、傷一つなく立つ生徒達に分かれている。先生は皆に負傷が無い事を確認した後、隠れていた建物の影から身を乗り出す。

 

「――残敵は」

「人影はありません、狙撃の警戒は必要ですが連邦生徒会からの情報を参照する限り、この周辺で展開していた兵力は今ので最後の様です」

 

 ハスミはライフルを抱えたまま周辺を警戒し、スズミとチナツは目を廻している不良達を担いで路肩に積んでいる。後々拘束し連行する事になるのだが、道路に放置するのも忍びない――というのが彼女達の弁である。確かに、車両が通行した際に轢かれてしまいました、何て事態は避けたい。

 山の様に積まれた不良達の姿を見ながら、先生は吐息を零す。

 

「漸くですね、何にせよシャーレ入り口に到着――」

 

 ユウカが愛銃を担いだまま肩を落とし、目前に高々と聳え立つシャーレを見上げる。しかしその言葉を掻き消すように、傍から妙な金属音が鳴り響いた。まるで鎖を鳴らすような、あるいは重々しい金属が地面を擦る様な――。

 音に気付いた生徒達が顔を顰め、全員が先生を囲う様に集合し、音の出所を探る。音は、段々と近付いて来ていた。

 

「……何、この地鳴りみたいな」

「この音は、まさか――ッ、気を付けて下さい、これはッ!」

 

 ハスミが叫ぶと同時、横合いの建物、その壁をぶち抜いて巨大な鉄の塊――戦車が恐ろしい勢いで突貫して来た。

 装甲に物を言わせた登場はインパクトもそうだが、威圧感も凄まじい。先生は咄嗟の事に反応出来ず、一瞬足が竦む。しかし両隣に居たハスミとスズミが先生の腕を引っ張り、辛うじて難を逃れる。直ぐ目と鼻の先を重々しい重低音を響かせながら戦車が通過し、そのまま火花を散らしてドリフトを決める。

 降り注ぐ破片と粉塵を払い、先生の両腕を掴んだハスミとスズミが驚愕の表情で叫んだ。

 

「巡航戦車クルセイダー一型!? まさか、トリニティの正式採用戦車と同じ――」

「本当に不良が戦車を……!?」

「――ユウカ、戦車後方に迂回! 他は後退しろ、早く!」

「っ、わ、分かりました!」

 

 砲塔が此方を向くより早く、ユウカを除く四名は近場の建物に駆け込む。一人囮を任せられたユウカは脚力に物を言わせて戦車の背後に回り込み、比較的装甲の薄い背面装甲目掛けて射撃を敢行した。感じ慣れた反動と閃光、しかし放たれた弾丸の悉くが甲高い音を立て、無情にも弾かれ地面に転がる。弾頭の潰れた9mm弾が、装甲の厚さを物語っている。

 

「くッ、流石に小銃だと装甲が……!」

 

 呟くと同時、砲塔が回っている事に気付き慌てて距離を取る。そのまま爆音が打ち鳴らされ、砲撃がユウカの立っていた場所を抉った。砕けたアスファルト片が飛び散り、ユウカは道路の上を転がりながら演算を開始、シールドを展開する。爆炎を裂き、砂塵と共に飛び出したユウカは砲塔に捕捉されない様、戦車の周辺を駆け巡った。

 頑丈なキヴォトスの生徒だ、仮に至近弾を受けてもヘイロー損壊には至らないだろうが――長くは持たない、先生は避難した建物の物陰から戦闘を観察し、そう結論付ける。

 

「――ハスミ、徹甲弾か手榴弾は?」

「……徹甲弾に関しては常備していますが、貫通は20mmのスチールプレートが限界です、40mmのクルセイダー一型の装甲を抜けるとは――」

「構わない、正面を狙わなければどうにかなる筈だ、装填後、タイミングを合わせて射撃を」

「……はい」

 

 先生は忙しなく唇を親指で擦りながら、脳内の情報と手持ちの兵装を照らし合わせる。クルセイダー一型、確か乗員は三名。砂漠での運用に難があり、エンジンの寿命が短い。後退速度も遅く、被弾による搭載弾薬の装薬が誘爆・炎上しやすい。狙うとすれば其処――仮に爆発炎上しても、キヴォトスの生徒なら死にはしないという確信がある。しかし、隙を作るにしてもユウカ一人では不安が残る。時間を稼ぐ意味合いでも、前線は二枚欲しい。防御手段を持たない生徒を前衛に出すのは避けたいが――。

 数秒、沈黙を守った先生は覚悟を決め、自身の傍で待機する生徒を見た。

 

「ハスミ、弾薬庫を狙う、場所は――」

「存じております」

「……誘爆を狙う、貫通するまで何度でも射撃を行え」

「了解」

「チナツ、万が一の為に備え回復剤用意、スズミ、悪いが前衛に立って貰う」

 

 先生が冷徹な光を瞳に込め、そう告げる。スズミはその瞳を真正面から見返し、不敵にも笑って見せた。小銃の安全装置を弾き、先生の双眸を見つめ返す。

 

「了解、これもキヴォトスの平和の為、恐れはしません」

「……すまない」

「必要な事です、寧ろ頼って頂いて嬉しい位です」

 

 微笑みすら浮かべ、スズミは立ち上がり戦車を睨みつけた。

 

「やばっ」

 

 先生が声に釣られ目を向ければ、ユウカが戦車の突進を躱し地面を転がっていた。同時にシールドの効果が消える――彼女達の展開するシールドには被弾受容量の他に時間制限が存在する。シールド越しならばまだしも、素の状態で砲撃など受ければ――。先生の脳裏に最悪の想像が浮かび、思わず叫んだ。

 

「スズミ、左方二十メートルの距離で射撃、戦車を引き付けろ!」

「はい!」

 

 飛び出したスズミは敢えて戦車から距離を取り、その側面に向かって射撃を敢行した。弾丸が強かに装甲を叩き、火花を撒き散らす。戦車のアイカメラが素早くスズミを捕捉し、砲塔が回った。

 彼女にはユウカの持つシールドの様な、防御手段が存在しない。咄嗟に近場にあった車両の影に隠れるスズミ。遮蔽物というよりは、殆ど目晦ましとしての運用だった。直後、砲口が火を噴き、空気が抉れる。

 

「ぐッ――!」

 

 風切り音を鳴らし飛来した砲弾は車両を紙の様に貫通し、爆炎がスズミの肌を焼いた。車影から飛び出したスズミは二度、アスファルトの上を転がり、煤に塗れながらも戦意を衰えさせない。しかし、戦車砲を見てから避けるには限界がある、何とか他の遮蔽物を探そうとして――。

 

『スズミ、傍のドラム缶を倒せ!』

「!」

 

 通信機越しに聞こえる声、爆炎と噴煙に覆われる中、スズミは直ぐ傍にあったドラム缶を蹴り倒しすかさず射撃を加えた。弾丸が缶に穴を空け、吹き出した燃料に引火し、スズミと戦車を遮るようにして爆発、炎の壁が広がる。

 どうやら中身は予想通り燃料か何かだったらしい。何の為にこんな場所に放置されているのか、或いは運び込まれたのかは知らないが、今はこの目晦まし一枚が何よりも有難かった。

 

『ユウカ、シールド再展開!』

「もう張り直しました!」

『なら陽動を頼むッ!』

 

 地面に膝を突く形でシールドを再展開し、ユウカが背中を晒す戦車目掛けて射撃を加える。それに気付き、緩慢な動作で砲塔を回すクルセイダー一型。完全に遊んでいる、小銃で装甲を抜けない事を理解した上で、恐怖を煽る様な動きを見せつけているのだ。

 嫌な相手だと思った。しかし同時にそれは明確な隙でもある――搭乗者は自身が絶対的な優位に立っていると疑っていない。

 

「……貫通させるには、ピンポイントに同じ場所を狙う必要があるか」

 

 呟き、戦車を注視し続けた。

 考える――戦車の装甲を撃ち抜く術を。

 必要なのはワンホールショット、如何に堅牢な装甲であろうと撃ち抜けない道理はない。一度で駄目ならば二度、二度で駄目なら三度、面で加える圧力ではない、一点突破の凄まじい貫通力こそ今最も求めるもの。全く同じ個所に連続で衝撃を加えれば――戦車の装甲であっても、理論上は突破可能。

 クルセイダー一型の正面装甲は40mm――大抵、戦車の装甲というものは車体正面、砲塔正面、側面を厚く、高価な複合装甲で守ると相場は決まっている。反してキューポラ、視認装置、スプロケット、ターレットリング辺りはどう頑張っても装甲が張れない。場所を選べば、貫通自体は可能。

 弾薬庫に引火させるならば狙うべき箇所は側面か背面、そしてそれらの装甲は正面装甲と比較すれば幾分か薄い筈。30mmか、25mmか――どちらにせよ針の穴を通す様な狙撃が必須なのは変わらない。そして、それを行えるのは現状ハスミを置いて他にいなかった。

 しかし――。

 

 鈍いとは言え動く的――まずは足を止めるべきだ。

 

 先生はそう考え周囲を見渡す。すると丁度シャーレの対面に位置する四階建ての建物が目に入った。周辺に散らばったドラム缶に、やたらと動き回る戦車――先生の脳裏に一つの打開策が浮かぶ。後で連邦生徒会に怒られるやもしれないが――。

 

「チナツ、ハスミ、手を貸してくれ」

「えっ? ……あ、はい、先生」

「……一体、何をするおつもりで?」

「このドラム缶を向こうの建物に運ぶ、置く場所は此処と、それと……」

「――えぇ、分かりました」

 

 先生は生徒の手を借りて、乱雑に並んでいたドラム缶を建物の中に運び込み、壁際へと押し込む。一階から二階まで駆けまわって、凡その構造を掴んだ後は脳内で爆発の威力と構造をシミュレートする。失敗は許されない、チャンスは一度きりだろう。

 重要なのは配置だった。二度、三度、検算を行い事を進める。

 

「っ、ぐぅ!」

 

 そうこうしている間にもユウカとスズミは戦車の周囲を駆け回り、砲撃を掻い潜りながら挑発射撃を繰り返す。流石に弾切れを嫌ってか、砲撃の頻度そのものは高くないものの、砲撃の威力は抑止力としてこれ以上ない程に機能している。砲塔を向けられただけで、全力の回避を強いられるのだから。既にユウカとスズミの制服には、大小の汚れが目立っていた。

 

「ユウカ! 現状そのまま、スズミ、ユウカと挟むように対角線上で立ち回れッ!」

「先生? ――っ、了解!」

 

 準備を終えた先生が物陰から叫び、先生が何か策を講じたのだと理解したのだろう、スズミとユウカは互いに戦車に射撃し、双方が戦車を挟む形で立ち回る。

 

「ユウカ、スズミ、シャーレ前方の建物へ――ユウカ、壁を背負え!」

「――分かりました!」

 

 最初は意図を理解していなかった二人、しかし互いに先生の指示を聞き、その齎される結果を予測、その意図を理解した。スズミは敢えて大回りで戦車の後方へと周り、反しユウカは戦車正面へと動く。そして互いの立ち位置――スズミとユウカが、戦車を前後で挟み、それぞれがこれ見よがしに足を止めた。今まで走り回っていた相手が足を止める、訝しむ筈だ。戦車前方にはユウカ、後方にはスズミ、砲塔はどちらか一方にしか向けられない。そして正面には壁を背負い、十二分に接近した敵。

 ――罠を疑るか? 疑るかもしれない、けれど、絶対的な優位に酔いしれている相手なら。

 先生の思考をなぞる様に、戦車の履帯が唸り声を上げて、ユウカに向かって突進を開始した。そのまま轢き潰してやるとばかりの加速。宛ら登場時の焼き増し、戦車の突進などキヴォトスの生徒であっても致命傷になりかねない。

 そして、それこそが先生の望んだ展開。

 

「スズミ!」

「はいッ、前方へ閃光弾!」

 

 合図と共に戦車の視認装置目掛けてスズミが閃光弾を投擲した。

 人間を相手にする時よりは効果を期待できないものの、一瞬のホワイトアウトは引き起こせる。閃光弾は戦車の正面装甲に弾かれ、目前で炸裂。ユウカは閃光弾が投擲されると同時に進路上を飛び出し、退避。視界が白く染まり、目測を見誤った戦車が勢いそのままに壁に突撃するのを、ユウカは横合いから目撃した。

 轟音、そして崩壊。壁を突き破り、戦車は建物の中程まで侵入する。壁に衝突した程度でどうこうなる装甲ではない、ものの数秒で持ち直し、再び駆動を開始するだろう。

 しかし、これで良い――これが良い。

 

「発破!」

「はいッ!」

 

 先生が腕を振り下ろし、待機していたチナツが建物内に配置したドラム缶に向かって射撃を加える。漏れ出た燃料に、用意していた火種を放り込めば瞬く間に燃え上がり――引火、爆裂。

 不良達から抜き取り、等間隔で配置していた弾薬が炸裂し、連鎖的にドラム缶が爆発した。即席の爆薬としては十二分な破壊音を打ち鳴らし、建物が揺れる。内壁が吹き飛び、重量を支えていた支柱がへし折れる。支えを失った建物は自重に耐え切れず、前側に向かって一気に雪崩の如く崩れ落ちた。

 無論、建物中程に乗り込んだ戦車は――瓦礫の下敷きである。

 凄まじい破砕音、瓦礫の崩れる音、爆発による耳鳴り。

 爆炎が掻き消え、粉塵が周囲を覆い隠す頃――無情にも履帯が空廻る音が周囲に響く。見れば瓦礫に圧し潰され、大小の凹みをこさえた戦車が必死に脱出しようと藻掻いている姿があった。ドラム缶の爆発程度では装甲を抜く事は出来ない、しかし粉砕した瓦礫で圧し潰す事は出来る。

 舞い散る粉塵を手で払い、藻掻く戦車の傍に近寄った先生と生徒は瓦礫の上に立ち、鉄の塊と化したそれを見下ろす。

 

「これなら外さないだろう?」

「えぇ――当然です」

 

 先生の言葉に、ハスミは引き金を絞る事で答えた。

 

 ■

 

「まさか本当に、対戦車装備もなしに撃破出来るとは思っていませんでした」

 

 爆発炎上した戦車の前で、そんな事を呟くスズミ。中に居た不良達は既に拘束済みである。あの後、戦車を走行不能にした時点で白旗が上がっていたのだが、散々追い回されたユウカが鬱憤を晴らす為に無人となった戦車の爆破を行ったのだった。あれだけ砲撃されればさもありなん、元より撃破するつもりだったので先生は止める事なく彼女の破壊行為を見過ごした。尚、搭乗員であった三名はスズミの公的制裁と、ユウカの私的制裁によって顔面変形を終えている。

 

「何はともあれ、シャーレ到着ね!」

 

 心なしかすっきりした表情でそう告げるユウカ。そんな彼女をどこか菩薩顔で見つめる先生の元に、一本の通信が入る。端末を取り出せば、発信者は「リン」、応答ボタンを押し込むと彼女のホログラムが投影される。

 

「リン? シャーレに到着したよ、見た所他に敵性勢力は見当たらない」

『はい、此方でも確認しています、周辺に展開した敵部隊は見当たりません、シャーレの奪還は一先ず成功でしょう――私も直ぐに到着します、先生はシャーレの地下に向かって下さい……お話はそこで』

 

 それだけ告げ、通信は切れる。先生は少しばかり思考する仕草を見せ、端末をポケットに入れると、大なり小なり汚れの見える生徒達に労いの言葉を紡いだ。

 

「皆、お疲れ様、本当に助かったよ」

「いえ、これもキヴォトス、ひいてはトリニティの為――それよりも先生、今の通信、地下にはおひとりで?」

「――うん、私ひとりで向かうつもりだよ、皆には一応シャーレ内部に敵勢力が侵入しない様に見張っていて欲しい」

「それは――」

 

 愛銃を担いだ四人は互いに顔を見合わせ、難色を示した。その表情は不安と疑念。何せ主犯であるワカモがシャーレに逃げ入る場面を目撃しているのだから。危険を疑るのは当然である。

 ハスミは何処か不安そうな表情を隠さず、先生に向けて提案した。

 

「……シャーレ内部にまだワカモが潜んでいる可能性も否定出来ません、既に離脱した後かもしれませんが、護衛にせめて私達の誰かを――」

「大丈夫」

 

 ハスミの身を案じる提案を、先生は首を横に振って断った。

 彼女達の不安そうな表情に反し、先生は微笑みすら浮かべている。

 何せ――。

 

この中(シャーレ)に入れるのは、私の生徒だけだからね」

 

 ■

 

「うーん、これが一体なんなのか全く分かりませんね、これでは破壊するにしても……」

 

 シャーレ地下、執務用のデスクと書庫が並んだ場所にワカモは一人で立っていた。目前には聳え立つオブジェクトとしか表現できない代物が一つ、一体これが何かワカモには見当もつかない。只の芸術作品にしては歪であり、そもそも連邦生徒会が芸術作品なんてものを後生大事に、こんな場所に保管するのだろうかという疑問が残る。ならばある程度重要な何かなのだろうが、その何かが分からない以上、ワカモにとっては千日手な訳で――あぁでもない、こうでもないと思い悩んでいる内に、制限時間がやって来た。

 

「……あら?」

 

 彼女の耳に、誰かの足音が届く。階段を下って来る音だ、急く訳でもなく淡々としたリズムを刻んでいるそれは、恐らく連邦生徒会の者だろうとあたりをつける。

 もう追いついて来たのかとワカモが担いでいた銃を構え、薄暗い階段を注視する。しかし、そんな彼女の視界に飛び込んできたのは――銃の一つも持たない、丸腰の男性ひとりぽっち。

 白い連邦生徒会の制服に、青い腕章、そして同じく蒼いネクタイ。それらをきっちりと着こなした大人の男性が薄暗い部屋に踏み入る。彼は鋭い眼光で以てワカモを見つめ、その光に似合わない、穏やかな笑みを彼女に向けた。

 思わず、ワカモの喉が鳴る。

 

 そんな風に笑い掛けてくれた人を――ワカモは一人も知らなかった。

 

「――やぁ、ワカモ」

「っ、あら、あららら……」

 

 ワカモは名を呼ばれ、自身の心臓が弾んだのを自覚した。構えていた銃口は既に床を捉え、彼女の瞳は彼――先生を捉えて離さない。体が熱を発する、自身の体を巡る血液が分かる。まるで血が煮沸しているかの様。

 一歩、二歩、無造作に近付いて来る彼は全く警戒の色を見せない。自身(ワカモ)が何者であるのか知らないのか――否、連邦生徒会の制服を着込んでいるのだ、そんな事はあり得ない。情報は得ている筈だ、ましてや彼は彼女達を率いていた司令塔、鎮圧に動いていたのであれば自身の素性は割れている筈。

 手を伸ばせば届く距離で足を止めた先生は、微笑んだままワカモに問い掛ける。声は低く、落ち着いていた。

 

「此処は連邦捜査部シャーレ、今日から私の家になる場所だ……それで、私の家に何か御用かな?」

「あ、あぁ……」

 

 じっと返答を待つ先生、反しワカモは舌が上手く回らなかった。何かを云わなくてはならないのに、伝えたい言葉がある筈なのに、肉体は精神に反して全くいう事を聞かなかった。深く、吸い込まれそうになる瞳、綺麗だと思った。

 真剣で、イノセントで、見ているとこっちが恥ずかしくなる様な。若々しく、けれどある部分は酷く老成していて。強く輝くそれは、ある種覚悟を宿した人間の瞳であった。

 

 こんな風に、微笑まれたことはなかった。

 こんな真剣に、誰かに見つめられた事はなかった。

 こんな綺麗な異性に、出会った事がなかった。

 初めての事ばかりで、ワカモは混乱の極みに陥った。

 故に、ワカモは。

 

「し、し……」

「し?」

「失礼致しました~っ!」

 

 脱兎の如く逃げ出した。

 先生も捉えきれぬ程の俊敏さで、その脇を抜け――ついでにそれとなく先生の香りを深く嗅いで記憶し――階段を凄まじい速度で駆けて行く。

 目の前に居た筈のワカモが消え、背後の足音で逃げ去ったのだと気付いた先生は、咄嗟に振り返り口を開いた。

 

「ワカモ!」

「ッ!」

 

 叫ぶような声掛けに一瞬ワカモの足が止まる。

 

「次は、ちゃんと遊びに来てくれ――待っているから、ずっと」

「~っ!」

 

 その言葉を聞き届け、ワカモは更に速度を上げる。最早床を蹴り砕くのではないかという力強さで暗闇に消えていく、その背中を先生は見送る。完全に姿が見えなくなり、足音さえ聞こえなくなって――先生はそっと、力なく笑みを零した。

 

「……変わらないな、君は」

 

 言葉は誰に届く事もなく、溶けて消える。

 対峙して分かった、その純情さも、その献身も、何一つ変わってなどいない。当然と云えば当然だろう、何せ彼女は、彼女なのだから。仮面越しに透けて見える彼女の想いが、いつまでも背中に巻き付いて離れない。

 炎越しに見えた彼女の笑みが――忘れられない。

 

 ――『あなた様――どうか、生きて』

 

 最期まで自分に付き従い、全てを敵に回して尚、自分に微笑み続けた少女。炎の中、自分に投げかけた言葉は、彼女にとっての祈りだったのだろうか。

 今はもう、分からない。答えを知る世界も人も、何処にもない。すべては炎の中に消え、灰となった。

 けれど今の先生にとって、投げかけられたそれは祈りでも、祝福でもなかった。

 きっと、己にとって。

 

 それは――。

 

 





 二つに分けようかとも思ったのですが、小分けにするのは私がやられて嫌な事なので丸ごと提出しました。
 ゲーム内だとハンドガンで戦車の装甲ぶち抜いていますけれど、アレどうやっているのでしょうね。何かこう、説明できない力が働いているのか……ままええわ。
 
 今、ものっそいシリアスムーブかましていますが、プロローグ終わったらユウカの太腿に挟まりに行く先生になるのでお待ちください。

 書いていて思ったけれど、まだプロローグってこれマジ? 先生が血袋になるエデン条約編まで何十万字必要になるの? 再構成二次創作書き切る人って愛が重いんですね、素敵だと思います。私はメンヘラなので愛された分だけしか愛せそうにありません、だからブルアカの星3が出た分だけ愛し(書き)ます。
 おら! 星3出せ!(げしげし) こちとらヒフミが5人来とるんじゃい! いい加減別なキャラ欲しいのですよ本当にお願いします対抗戦全然勝てないし神秘攻撃キャラアスナとチセしか居なくて本当マジヤベェんですのよ!

 今日は一万二千字書き切ったので明日は多分お休みします。


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青春のマエストロ

 

「先生、お待たせしました」

「そんなに待っていないよ、リンちゃん」

「リンちゃ……いいえ、今は構いません」

 

 ワカモが走り去って一分もしない内に、連邦生徒会のリンはシャーレへと到着した。階段を速足で下り、地下室へと踏み込む彼女。もしワカモと鉢合わせしていたら、色々と面倒な事になっていたのだろうなと先生は苦笑を零す。少し揶揄う意味も込めて「ちゃん」付けで呼べば、面食らった彼女は何かを言いたげな表情を浮かべるも、咳払い一つで済ませた。

 

「此処に、連邦生徒会長の残したものが保管されています――幸い、傷一つなく無事ですね」

 

 そう云うと彼女は、デスクの傍に配置されていたケースから何かを取り出し、先生に差し出す。

 

「――受け取って下さい、先生」

 

 リンから差し出されたそれは――一見、何の変哲もないタブレットであった。

 傷一つない新品は少しだけ寂寥感を抱かせる。先生は感情を飲み込み、それを受け取った後、静かに表面を撫でつけた。薄いフィルム越しの画面、この感触だけは変わらない。

 

「これが、連邦生徒会長が先生に残したもの――【シッテムの箱】です」

「………あぁ」

 

 頷き、そっと指を這わせる。暗い画面は、己の表情を反射させていた。何かを噛み殺した、酷い顔だと思った。薄暗い地下室でなければ、目の前のリンに不安を抱かせたに違いない。

 

「市販のタブレットと外装は同じですが、中身は別物、正直私達も実態を把握しておりません、製造会社も、OSも、システム構造も、動く仕組みそのものも、全てが不明」

 

 タブレット――シッテムの箱を見つめながら、そう告げるリン。つまり、このタブレットはブラックボックスの塊であると。何一つ分かっていない正体不明の機器、連邦生徒会長はそれを先生の為に用意していた。分からなくて当然だ、先生は胸中にて呟く。

 何せこれは、オーパーツの一つなのだから。

 

「連邦生徒会長は、このシッテムの箱は先生のもので、先生がこれでタワーの制御権を回復させられる筈だと云っていました」

「そうか、彼女が」

「はい、私達では起動すら出来なかった代物ですが――」

 

 リンが一つ頷き、先生はそれを横目に起動ボタンを押し込む。ややあって、軽い起動音と共に青白い背景が表示された、そして空かさず差し込まれる、パスワード要求。

 

「………」

 

 黙した口とは反対に、指先は滑らかに文字を打つ。

 もう何度も耳に、口に、指で描いた代物だった。

 

【我々は望む、七つの嘆きを。】

【我々は覚えている、ジェリコの古則を。】

 

 ――「シッテムの箱」へようこそ、先生。

 生体認証及び認証書生成のため、メインオペレートシステム、「A.R.O.N.A」に変換します。

 

 ■

 

 青い、蒼い教室。

 床一面に広まった水面に、乱雑に配置された机。遥か向こうには水平線が広がり、頭上を仰げば蒼穹が世界を覆っている。サンドバンク宛らの、孤立した青の教室。反射する水面が眩く、微かに目を細める。

 唐突に広がった世界、或いは瞬間移動とも見紛う唐突な切り替え。混乱はなかった、見慣れた場所、通い慣れた教室だ。

 暫く周囲を見渡し、そしてすぐ傍に――机に伏して、眠りこける少女がひとり居る事に気付いた。

 

「っ……!」

 

 その顔を見た途端、あらゆる感情の波が先生を襲った。それは後悔だったのかもしれない、或いは自身に対する怒りか。複雑すぎる感情の波は、しばし先生の思考と動きを止める。

 唇を痛い程に噛み締め――しかし先生は全ての感情と言葉を飲み込み、口を開いた。

 

「――アロナ」

「むにゃ……んも、ん……ふあ」

 

 先生の声に反応し、上体を軽く起こして眠たげな眼を見せる少女。澄んだ水色の髪に、白いリボンのアクセサリ。彼女の目覚めと共にヘイローが現れ、左右に揺れていたアロナの瞳が先生を捉えた。

 

「――え? あれ、ん……えッ!?」

 

 二度、三度、目を摩るアロナ。そして目前に居る人物が、自身の待ち焦がれていた人物だと理解した途端、飛び起きた。

 

「せ、先生っ!? うえっ、私、あれッ……!?」

 

 口元を拭い、自分の体を見下ろして皺になった部分を必死に伸ばす。そして椅子を蹴とばす勢いで駆け出し、先生の目の前に立つ。爪先から頭の天辺まで、じっと見つめ何度も何度も瞬きを繰り返す彼女は、震えた唇で問いかけた。

 

「この空間に入って来たという事は、ま、まさか先生ですか!?」

「うん、そうだよ」

 

 分かり切っていた問だろう、しかし聞かずにはいられなかった。これがもし夢だとしたら、もしかしたら、そんなあり得もしない幻想を疑った。

 答えを聞いた彼女は感激したように目を見開いて。

 

「うわ、あわあ、おち、落ち着いて、落ち着いて――!」

 

 自身の頬を抓ったり、わたわたと忙しなく足踏みしたり。そして指折り数えて、自身の役目を全うしようと口を開いた。

 

「えっと、その! あっ、そうだ……まずは自己紹介から! 私はシッテムの箱に常駐しているシステム管理者であり、メインOS、そしてこれから先生をアシストする秘書の――」

「アロナ、だよね」

「……えっ!?」

 

 遮る様な先生の言葉に驚きの表情を浮かべるアロナ。まさか、名前を知られているとは思わなかったのだろう。『彼女』の想定では、自身は全ての記憶を失っている筈なのだから。先生は驚きに固まるアロナを、穏やかな表情で見守った。

 

「せ、先生……もしかして憶え――い、いえ、知っているのですか、私の事?」

「うん、勿論、知っているよ……随分、感情豊かになったね」

 

 応えると、アロナは分かり易く顔を輝かせた。それはどれ程の歓喜だろう、目を潤ませ唇を戦慄かせ、ぐっと握り締めた両の拳は小さく震えていた。ばっと顔を上げた彼女は、様々な感情でごちゃ混ぜになった胸内をそのままに口を開く。

 

「やっと――やっと! わ、私は此処で先生をずっと、ずっと待っていて、それで……」

「あぁ、それも知っている――ごめん、長い間待たせてしまって」

「い、いいえ! いいえ!」

 

 体全体で否定するアロナ。その目尻に、涙が滲んでいるのに先生は気付いた。本当に――どれだけの時間、彼女は此処で待ち続けていたのだろうか。

 

「そ、そうだ先生、先に生体認証を――」

「あぁ、そうだった」

 

 束の間の再会――けれどそれよりも先にやるべき事がある。アロナは目元を拭いながら指先を立てる。そう云えば、そんな事もしていた。人差し指を差し出すと、彼女はぱっと笑顔を浮かべた。

 

「はい、アロナ」

「わ、わ……お、お願いします!」

 

 先生の差し出した指に、自身のそれを重ね合わせる。アロナの指先は――僅かな暖かさを感じる。所詮電子情報であると理解していても、それでも彼女の残滓を感じずにはいられない。

 先生の指先を押し返す彼女の指、アロナはどこか照れたようにはにかんだ。

 

「ふふ、まるで指切りして約束するみたいですね!」

「……そうだね」

 

 あぁ、そうだとも――その約束を、今度こそ果たす為に此処に来たのだ。

 

「えっと、それでは指紋を目視で確認するので、少しお待ちを!」

「頼むよ」

「どれどれ……」 

 

 そう云い、じっと指紋を見つめるアロナ。その双眸は真剣みを帯び、僅かな偽装も許容しないとばかりに光っている。しかし、それが長くは続かない事を良く知っていた。最初は真剣だったものが、数秒もすると、「まぁ、これで良いかな?」みたいな顔に変わる。相変わらず、性格が変わっても根本的な部分は一緒らしい。

 

「……はい、確認終わりました!」

「流石アロナ、最先端だね」

「エッ!? へ……へへっ、そうでしょうか? そうですよね! 何て言ったってアロナですから! 先生の秘書ですから! ビシッ!」

 

 指を離し、何度も頷くアロナ。彼女の仕事ぶりを褒めれば、その小さな胸を精一杯張って背を反らす。その仕草すら、今は愛おしい。

 

「さてアロナ、此方の事情を聞いて貰っても良いかい?」

「はい! このアロナに万事任せて下さい!」

 

 ■

 

「――成程、先生の事情は大体把握しました」

 

 先生が粗方の事情を説明し終えた時、アロナは既に神妙な顔つきに変わっていた。「むむむ」と唸りながら首を捻り、似合わない皺を眉間に寄せている。

 

「連邦生徒会長は行方不明、そのせいでキヴォトスのタワーを制御する手段がなくなったと」

「あぁ、因みに連邦生徒会長の行方について知っていたりする?」

「いいえ、私はキヴォトスの情報の多くを保有していますが……連邦生徒会長については殆ど情報がありません、彼女が何者なのか、どうしていなくなったのかも」

 

 申し訳なさそうにそう告げるアロナ。「そっか」、と告げながらも先生は半ばその事を確信していた。彼女がそのような分かり易い足跡を残す筈がないと、無形の信頼を何処かで抱いていたのだ。

 

「ですが、サンクトゥムタワーの問題は私が解決出来そうです」

「お願いしても良いかい?」

「はい、アロナにお任せください! 直ぐにサンクトゥムタワーのアクセス権を修復して見せます!」

 

 ■

 

 青い教室へと転移した先生――しかし、傍から見れば先生はその場から動いていない。背景の表示されたタブレットを手に、目を瞑る先生。リンは暫くの間、そんな先生の様子を訝し気に観察していたが――。

 

「! これは……」

 

 不意に、ジジ、という音が周囲に響いた。そして一拍後、シャーレの電力が復旧し、頭上の電灯が点灯する。息を吹き返すように電力系統が回り始め、あちこちから設備の駆動音が響いていた。

 

「シャーレの機能が――復活した?」

 

 ■

 

「サンクトゥムタワーのadmin権限を取得完了――先生、サンクトゥムタワーの制御権を無事回収出来ました、今サンクトゥムタワーは私、アロナの統制下にあります」

 

 むん、と腕を組み鼻を鳴らすアロナ。「どうでしょう、凄いでしょう?」、と言いたげな雰囲気に先生も笑みを零す。

 

「つまり、今のキヴォトスは先生の支配下にあるも同然です!」

「そうか、ありがとう」

「へへっ……!」

 

 その苦労をねぎらう様に頭を撫でつければ、口元を緩ませ肩を揺らすアロナ。

 

「先生が承認さえしてくだされば、サンクトゥムタワーの制御権を連邦生徒会に移管できますが――どうしますか?」

「………」

 

 その一言に、先生の手が止まる。彼の脳裏に過ったのはSRT、rabbit小隊。彼女達から端を発した騒動の一部、そこから雪だるま式に膨れ上がった悪意と恐怖――神秘を巡ったゲマトリアの暗躍。

 此処で制御権を手元に置き続ければ――或いは、惨劇を回避出来るのかも知れない。一瞬でも、そう思考してしまった。しかし、それを成してしまえばシャーレは不信感を抱かれる事になるだろう。制御権を手放さぬ超法規的組織……どう考えても好意的に見られる筈がない。今後の活動には必ず支障が出る。

 それに、キヴォトスをどうこう出来る権利を手に入れたとして、それを自身はどう使うというのか。管理を行うのであれば連邦生徒会が適切であるし、破壊するならばまだしも先生が願うのはキヴォトスの安寧。

 手に余る力だ――それならば。

 

「ん、大丈夫だよ、連邦生徒会に制御権を渡して――でも、その前に一つ、アロナにやって貰いたい事がある」

「はい?」

 

 アロナの瞳を覗き込むように、膝を突いた先生は彼女に願う。

 力の中に、毒を仕込む。

 気付いた時にはもう、その毒が回る様な――巧妙な代物を。

 

 ■

 

「――完了しました、ではサンクトゥムタワーの制御権を連邦生徒会に移管します!」

「うん、お願い」

 

 アロナによる制御権の移行、それを頼み先生は意識を現実に戻す。閉じていた瞼を開く、青から灰色へ、蒼穹の下から薄暗い地下室へ。しかし、再び目を開いた時、既に電気系統は回復し室内は明るく照らされ、薄暗い暗闇は何処にもなかった。

 見れば端末で何処かと連絡をしているリンの姿、彼女は先生が戻ったと気付くや否や会話を切り上げる。

 

「……はい、分かりました」

 

 通話を切り、此方を向くリン。目を開いた先生を上から下まで見つめると、彼女は眼鏡を押し上げ礼を告げた。

 

「サンクトゥムタワーの制御権、その確保が確認出来ました、これで連邦生徒会長がいた頃と同じように、行政管理を進められます……お疲れ様でした先生、キヴォトスの混乱を防いでくれた事、連邦生徒会を代表して深く感謝いたします」

「いや、これも私の仕事だからね」

 

 そう云って微笑み、首を振る。リンも肩の荷が下りたのか、ふっと柔らかく笑みを返した。少なくともこれで、連邦生徒会が全く動けないという状況はなくなる。キヴォトス内の混乱も、そう遠くない内に収束する筈だ。

 

「ここを攻撃した不良達と、停学中の生徒についてはこれから追跡、討伐を行いますのでご心配なく」

「あぁ、うん、その辺りは心配していないよ――まぁ、程々にね?」

「約束は致しかねます」

 

 その回答に苦笑を零す。まぁ、暴れたのは本人たちの意思だ、強くは云うまい。

 

「それでは、シッテムの箱は渡しましたし、私の役目はここまでの様――あぁ、いえ、もう一つだけありました」

「?」

 

 背を向け、視線を此方に投げかけるリン。

 

「折角です、連邦捜査部――シャーレを案内しましょう」

 

 ■

 

「ここがシャーレのメインロビーです、長い間空室でしたが漸く主人を迎える事が出来ました」

 

 リン直々に案内されるシャーレ、内部は大きく分けて『オフィス』と『居住区』の二つ。改めて説明されると、部活と呼ぶには聊か過剰な設備としか思えない。オフィスには視聴覚室、体育館、図書館、実験室、射撃場、教室、格納庫が揃っている。

 射撃場にはあらゆる兵装と弾薬が、格納庫には戦車、装甲車、ヘリコプターすらも収納可能。屋上へと直通するリフトには、修理や整備の為のツール一式が揃っている。

 居住区には自習室、トレーニングルーム、休憩室、ゲームセンター、食堂、菜園、更にはコンビニまで完備されていた。

 最早、学園の一つでは? と問われても否定は出来ない。大きさもそうであるが、シャーレと呼ばれる組織が連邦生徒会のの中でもどれだけ特殊なのか思い知らされる。

 

「此方です、先生」

 

 オフィスのロビーから横合いを抜け、視聴覚室の奥にある部屋の一室。

 そこの扉を開けると――。

 

「ここが、シャーレの部室です」

「………」

 

 懐かしい。

 懐かしい――部屋だった。

 スチールの棚に、ぽつんと置かれたPCとモニタ、横合いに付ける形で配置された日直用のデスク。そして奥に見えるホワイトボード。以前は此処に、生徒達の落書きがこれでもかと書き綴られていたものだが――。

 今は真っ白に、その地肌を晒している。プリントの一枚も張り付けられていないそれを見つめながら、先生は暫くの間感傷に浸った。

 漸く帰って来たのだと――その実感が沸々と湧き上がる。

 

「先生のお仕事は、基本的に此処で行うと良いでしょう」

「そうだね、そうしよう――それで、私はこれから此処で何をすれば良いのかな」

「………」

 

 先生の問いかけに、リンは一瞬言葉を詰まらせた。

 

「……現在、シャーレは権限だけはありますが目標のない組織ですので、特に何かをしなくてはならないという強制力は存在しません、キヴォトスのあらゆる学園の自治区に出入り可能で、所属に関係なく先生が希望する生徒を部員として加入させる事も可能です――非常に、ユニークな組織、部活です」

 

 やや言葉を選んだ発言だった。彼女自身、シャーレをどう扱って良いのか決めかねているのだろう。それは、様々な思惑が絡んだ結果とも言える。連邦生徒会長直下の組織を、連邦生徒会が勝手に動かす訳にもいかない。出来るのは精々命令ではなく、要請だけだ。無論、命令系統に変更があればその限りでもないのだろうけれど。

 

「つまり、何でも先生がやりたい事をやって良い……という事ですね」

「そう聞くと、まるで意味が分からない組織だ」

「全く以て」

 

 ふっと笑みを零すリンと先生。其処に至る感情は全く以て、一致していた。

 

「何故、この様な組織を立ち上げたのか本人に聞きたくとも、連邦生徒会長は行方不明のまま……現在連邦生徒会は連邦生徒会長の捜索に全力を尽くしている為、キヴォトスの問題に対応出来る程の余力がありません、支援物資要請、環境改善要望、落第生への特別授業手配……管理、維持するだけならば兎も角、こういった要望や苦情に応えるだけの時間も人員も足りていないのが現状です」

 

 真剣な表情でそう告げる彼女は、事実あらゆる問題に頭を悩ませているのだろう。組織のトップが消えるという事は、そういう事だ。舵を取る人間がいなくなれば自然、組織の統率は弱まり右手と左手が別々の事をしがちになる。組織内の引き締めだけでも手一杯だろうに、それに加えキヴォトス全てに目を配るなど。

 

「ですが、或いはシャーレなら――」

 

 故に、この場所の、少なくとも《今》の役割は明確であった。先生を見つめる瞳、それを真っ直ぐ見返しながら思考を巡らせる。

 

「こういった、キヴォトスの問題を解決出来るかもしれません」

 

 それはリンの希望的観測なのか、それとも。

 それだけ口にし、目を伏せた彼女はそっと視線をデスクの方へと向けた。見れば既に幾つかの書類が束になって置いてある。丁寧に分別されてはいるが、全て重ねれば相応の量になる。

 

「――現在キヴォトスに発生している問題に関しては、先生の机の上に置いておきましたので、気が向いたらご一読下さい」

「……最初からそのつもりだった?」

「いえ、先生の方針も伺っていませんでしたから、受けて頂ければ儲けもの程度です――しかしまぁ、連邦生徒会長直下とは云え仮にも連邦生徒会に連なる組織なのですから、手を空いたままにしておくなんて勿体ないでしょう?」

「はは、相変わらずだ」

「?」

 

 先生の反応に、リンはどこか不思議そうな顔をした。

 以前から知っていたかのような言動に、疑問を抱いたのだろう。しかし、先生はそれ以上語らない。

 

「兎角――すべては先生の自由です、何をなさるのも、何をなさらないのも」

「………」

 

 その言葉は、今の先生に相応の重さがあった。

 何を選んで、何を選ばないのか。

 その選択によって――キヴォトスの明日は変わるのだから。

 

「それではごゆっくり――必要な時はまたご連絡いたします」

 

 ■

 

「セミナーの方でもサンクトゥムタワーの制御権を連邦生徒会が取り戻したことを確認しました」

 

 シャーレ前、警戒に当たっていたユウカが告げ、連絡していた端末を片手に頷く。一通りの案内と受け渡しを終え、連邦生徒会の面々が既に周辺の安全を確保した旨を伝える為、先生は一度地上に戻っていた。ロビー前で愛銃を片手に周辺を警戒していた生徒達は、正式に依頼を達成した事を知りほっと安堵の息を漏らす。

 

「ワカモは自治区に逃走してしまった様子ですが……そう遠くない内に逮捕されるかと、一先ずはここまで、ですね――後は担当者に任せます」

「お疲れ様でした先生、先生の活躍、SNSで話題になってキヴォトス全域に広まってしまうかもしれませんね?」

「はは、そんな大袈裟な」

「存外、大袈裟でもありませんよ」

 

 先生が肩を竦めて謙遜を口にすれば、端末を片手にハスミが微笑む。少なくとも今回の件が既に各学園に報告されている事を彼女は知っていた。遅かれ早かれ、シャーレは話題の中心に据えられるだろう。あらゆる学園、生徒が所属可能な超法規的組織の発足――話題にならない筈がない。

 ましてやその主人が、無能とは程遠い人物なのだから。

 

「これでお別れですが近い内に是非、トリニティ総合学園にお立ち寄りを先生、歓迎いたします」

「私達のトリニティ自警団にも、是非」

 

 トリニティに所属するハスミとスズミが自校を強く勧め、先生も、「都合が付いたらお邪魔するよ、何れ各学園の生徒会長の面々と協議する事もあるから」と頷く。

 

「私も風紀委員長に今日の報告を――先生、ゲヘナ学園にいらっしゃった時は是非風紀委員会を訪れて下さい」

「ミレニアムサイエンススクールに来て下されば、またお会い出来ますから、待っていますからね、先生!」

 

 ゲヘナとミレニアム、チナツとユウカの二人にもお誘いを頂き、各々が学園の方向に去っていく。今日の出来事が出来事なだけに、その背中からは疲労感が滲み出ているものの、その足取りは確りしていた。いずれ礼を用意しなくては、そんな事を考えながら皆の背を見送り、先生はひとりシャーレへと戻った。

 

 ■

 

 学園に戻る皆を見送った後、先生は静かにシッテムの箱を立ち上げる。

 シャーレの部室から青い教室へと景色は切り替わり、先生は机の上に座って足を揺らすアロナに声を掛けた。先生の入室に気付いたアロナも、机の上から飛び降り彼の元へと駆け寄る。

 

「あ、お疲れ様です、先生!」

「アロナも、お疲れ様」

 

 どこか所在なさげにしていたアロナも、先生の前で天真爛漫な笑顔を見せる。そんな今にもとび跳ねそうな彼女の髪を撫でながら、先生は懐古の念に目を細めた。

 

「皆さんは……」

「一先ず報告に帰ったよ、それぞれ学園の立場もあるから」

「そうでしたか、ふむふむ、それでしたら先生、まず何をするにしても先立つものが必要ですから、先生の目にかなった生徒をヘッドハンティングに――!」

「アロナ、その前に一つ伝えたい事があるんだ」

 

 熱い口調で語るアロナに、割り込む。

 その、どこか強い想念の籠った言葉にアロナは目を瞬かせた。

 

「伝えたい事、ですか?」

「あぁ――私は、以前失敗した」

 

 暗雲とした感情が籠る。しかし、これは語らねばならないと先生は自身に言い聞かせた。それは自身の恥であり、過去であり、後悔の記憶である。酷く抽象的で要領を得ない言葉だろう。しかし、それでも彼女は理解すると確信していた。

 

「良かれと思った事、或いはどこか一線を引いていたのだと思う、私は先生だ、生徒を教え導くものだ――だから私は常に、先生足れと己に言い聞かせ律して来た……良き大人である為に」

 

 それが大人の責務であり、生徒を導く上での資格だと思っていたのだ。理想論だとは分かっている、けれどその理想を追い求めずに何が教職者か。たとえそれが脆く儚い空想だとしても、諦める事は出来なかった。理想を体現するのが先生の仕事であると、最後まで生徒に寄り添い、支え、その手を決して離さない理解者であれと。

 少なくともあの時、全てが炎の中に消える最期の瞬間まで。その信念こそが尊ぶべきものだと信じていたのだ。

 今でもその根底は変わらない、けれど。

 

 けれど――理想を描き続けるという事はつまり、仮面を被り続ける事と同じだ。

 

 自身の中にある自分らしさ、或いは人に曝け出す事を憚る様なほの暗い感情、教職者らしからぬ、大人らしからぬ側面を隠し続ける事。そういった弱い面を隠し、然も聖人で在るかのように振る舞い続ける。

 きっと、本当の意味で理解し合うには、それでは駄目なのだ。

 自分の前では気を張らなくて良い、本当の自分を見せて良い、弱い面を見せても良い――生徒にそう云い続けていた自分が、自分自身にそれを許さないという矛盾。

 相手を理解するだけでは本当の絆など生まれない、自分を理解して貰わなければ――それは独りよがりな絆に過ぎない。

 偽物だ――その偽物を自覚していたからこそ、己は最後まで生徒達を信じ切れなかった。彼女達が涙を流し、懇願し、それでも尚最期の大人として偽悪を演じ、キヴォトスを裏切る形となったのだ。

 愛する生徒の為に、彼女の願いの為に、理想を守るために――その愛する者達を裏切る。

 何て、矛盾。

 

 彼女達の嘆きを憶えている。

 彼女達の慟哭を憶えている。

 彼女達の悲壮を憶えている。

 涙にぐしゃぐしゃになった顔で、私の額に銃口を向ける――その瞳の色を、憶えている。

 

 もう二度と、あんな結末は起こさない。あの時選ぶ事の出来なかった第三の選択。キヴォトスの崩壊でもない、【先生の死】でもない、例えどれだけの艱難辛苦が降り注ごうと、己は己の生存と生徒達の救済、キヴォトスの安寧を諦めない。

 

 今度こそ、今度こそ。

 

 先生と呼ばれるに足る、本当の意味で教え導き――そして手を引くのではなく、ほんの一歩でも良い、先を往き、そして。

 この世界を共に歩む者として。

 

「私は、彼女達と本当の絆を育みたい」

「……先生」

 

 強く、強く断言する。

 嫌われても構わない、否、虚飾の好感よりも嫌悪の方が余程良い。ぶつかり、話し合い、言葉を交わした上で関係が築けるのであればそれもまた、本当の絆に違いはない。

 この世界を救う為に、来る災厄を退ける為に、何より――生徒達とその未来の為に。

 だからこそ、先生と呼ばれた己は。

 

「故に私は――己の性癖を隠さず生きると決めた!」

「はい! アロナは先生を応援………えっ?」

 

 





【未来にあるかもしれない日常(アーカイブ)――時計じかけの花のパヴァーヌ編後】

「先生、アリスは今日新しい知識を得ました! 今日、ハナコから教えて貰ったのです、実は先生は体に黙示録の獣を封印していて、股の間に穢れたバベルの塔というレア・アイテムを有していると! その事をモモイに聞いたら、『えっ、何、どうしたの、何でそんな事聞くの!?』と顔を赤くしていました、ミドリは、『いや、ちょっと分からないかなぁ、塔っていう表現は中らずと雖も遠からずカモ……』と恥ずかしそうで、ユズは『し、知らない、あの日の夜は、別に、何も無かったし……!』とロッカーの中に閉じ籠っていました! 先生、穢れたバベルの塔って何ですか!? 伝説の装備か何かですか、どうしたら譲って頂けますか!?」
「うん、アリス、今日も元気で大変宜しいね、それはそうとしてその質問、答えるの今じゃなきゃ駄目? どうしても駄目? 先生、アリスが突然お風呂に突撃してきて吃驚しているのだけれど、見えるかな? 先生ね、今入浴中なんだ、だからね、ちょっとオフィスで待っていて欲しいというか……」
「………」
「アリス? 何で満面の笑みでじっと私を見ているんだい? ……そのポケットから出したものを仕舞いなさい、アリス? 写真、写真だよね、撮っているよねそれ? もしかして動画? ねぇ、ちょっと、アリス? アリス!?」



「パンパカパーン! アリスは『先生の入浴写真』を手に入れた!」
「ちょ、アリス! 待ちなさい、人のパソコンで勝手に、私の裸体を印刷するんじゃない! ちょ、まって、本当待って! 今体拭いているから、マジで待って! ヴァルキューレが来ちゃう! 明日の紙面一面に先生が載っちゃう! てかプリントでかっ! そんなポスターみたいなサイズで先生を印刷したの!? 何で!?」
「アリスは逃げ出した!」
「アリスッ! アリスぅ!?」



「アリスは回り込まれる事無く、逃げ出す事に成功した!」
「……もし、そこの方」
「? アリスの事ですか」
「えぇ、そうです、その手に持っている写真、ポスター? ……どうかお譲り頂く事は出来ませんか?」
「先生のレア・アイテムを? うーん……あっ! トレードイベントですね! でも知らない人とイベントを起こしちゃいけませんって、ミドリが云っていました!」
「それは――失礼を、私は黒服と申します、此方は……」
「マエストロ、と」
「私の事はゴルコンダとお呼びください」
「それで、如何でしょう? 金銭でしたらお支払い致します、金額は――この位で」
「わぁ! こんなにゴールドが沢山……これだけあれば暫く新作のゲームが買い漁れますね! データは保存済みですし、分かりました! アリスはこの現物をお譲りします!」
「クックックッ……これはこれは、素晴らしい、契約成立ですね」
「アリスは大量のゴールドを手に入れた! では、アリスはこのゴールドでゲームと大型プリンターを買って来ます! アリスは移動呪文を唱えた! どぅるんどぅるん!」



「……これは、何でしょうか」
「あぁ、ベアトリーチェ、来ていたのか」
「えぇ、領地の管理と計画がひと段落ついたので……それでマエストロ、壁に貼り付けられたこれは何ですか?」
「あの者の裸体だ、美しい――黄金律とは、彼に宿ったものであったか……これもまた芸術」
「………黒服?」
「クックック、ベアトリーチェ、素晴らしい思いませんか? 先生の肉の器、何と神秘的な代物か」
「………ゴルコンダ?」
「このテクスチャもまた、あぁ先生、やはりあなたこそがメタファー……」
「そういうこった!」
「…………」

 その後、アリスがゲーム部で、「先生の穢れたバベルの塔は目測で〇〇センチでした!」と発言し結果的に先生が死ぬ。
 ベアトリーチェは他のゲマトリアが居ない時にポスターを剥がしてアリウス領地にあるゴミ集積場に投げ捨てる。そして、そこで物資を探していたアリウスのヒヨリに拾われ、ポスターはアリウススクワッドの懐へと消えるのだった。



やっとプロローグが終わりました、此処から先生の青春(ブルーアーカイブ)が始まる訳ですね。
一万字超えたので次は明後日だと思います。基本的に一万超えで二日に一回、五千で毎日投稿という感じです。まぁこの定期投稿がいつまで続くか、低見の見物をさせて貰いましょう。
私は下で、待っているぞ。

【ヤンデレスの形而上精神学について】

さて、後書きでおまけ時空書いたし、ちょっと位性癖語っても……バレへんか!
生徒を庇った後に四肢の捥げた先生と、嘗て在りし日の写真を見比べて辛そうな顔をする生徒が見たいなぁ、私もなぁ。
良く私は後書きで先生を抹殺しますが、実際に殺すつもりは毛頭ないんですよ。
違うんですよ、皆さん私を誤解しています、別に私は生徒に悲しい思いをさせたい訳ではないのです。
ただ、自身の為に身を顧みず、それこそ命を擲ってくれた先生に対し、その傷の証をまざまざと見せつけられる苦しみと、それ程までに大事にされていたのだという肯定感と、この人は私が守らなくてはいけないという使命感と、先生を独占できる理由を手に入れたというほの昏い背徳感の中で揺れ動く、生徒の精神の葛藤が見たいだけなのです。
大体ヤンデレが好きな人は皆メンヘラなんです(偏見100%)、自身を低く見積もっているから肉体など惜しくないし、寧ろそれで相手が自分を気に掛けてくれるのなら寧ろプラスじゃんと考えてしまう人間なのです、目に見える形で愛を欲しているからこそ、その絶対的な愛を求める為に身を投げうち、失った部位を撫でつけながら、「この傷がある限り、相手は自分を愛してくれる」と倒錯的な愛の証明に熱心なのです。別段、相手に傷を見せつけ悦楽に浸っている訳ではないのです。ただ、それを見せつける事で相手が感情を揺らし、それを以て相手の抱く自身への愛を実感しているだけなのです。
あれ、こう書くと何かヤンデレっぽいな……ままええわ。
つまりこの作品の先生はメンヘラなのです。(偏見100%)
この文章真夜中に書いているのですが、次の日もう一度読んだら、「何いってんだコイツ」と思いました。いやでも、昨日の私が云っているしそうなのかな? そうなのかも……。そこんとこどうなん、昨日の私? これが愉悦? まぁそれはそう……。

大体ですねぇ! ヤンデレとメンヘラの違いなんてですねェ! 自分本意か相手本意かの違いでしかないのですよォ! メンヘラは相手が浮気したら、恋人をブス☆。ヤンデレは恋敵をブス☆するんですよォ! 「お兄ちゃんどいて、そいつ殺せない!」はヤンデレなんですよ! ヤンデレはッ、純愛はッ! 意図して相手を傷つけないッ! そもそもヤンデレ=包丁みたいな風潮めちゃ好きじゃないけれど! 
スクールデイズの言葉と世界を見て下さいよ! あれこそヤンデレとメンヘラの対比でしょう!? 言葉が主人公に暴力を振るった事がありましたか!? 全部見たことないから知らんけれど! 振るっていたぁ!? ならごめん! 私が間違っていたわ! ヤンデレとメンヘラの違いとか全然分からんわ! ホラ吹いたわ!
はーアホらし、帰って頭コハルになろ。皆もパンティ五人衆(パンデモニウムソサエティの意)で過酷なイロニーすると良いよ。じゃ。


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幕間
主よ、われ汝を仰ぎ望む


 

「はぁーッ! ユウカの太腿に挟まりたいなァ、私もなぁ!」

「先生、セクハラです」

 

 ワカモの起こした騒動諸々、かつキヴォトスの行政制御権を取り戻してから数日。

 シャーレの知名度は先の騒動で多少広まったとはいえ、ポッと出の組織として信頼性は皆無に等しく、また手元に戦力もコネも何もかもが足りない為、先生は地道にシャーレ周辺の困りごとを一つ一つ取り除いていた。

 そんな折、ミレニアムサイエンススクールのセミナーに所属するユウカがシャーレへと訪れ、ミレニアムサイエンススクールのセミナーがシャーレと友好関係を結びたい旨を表明。そしてその際、机に山の如く積まれた書類と散らばったレシート類を見て、セミナー会計の性が暴走。特に玩具屋で購入した、「スーパーロボット合金EX、お値段十万円」が癇に障ったらしく、「先生の支出記録、私が直接確認します!」と家計簿を探し出す始末。

 無論、先生と書いてダメ人間(戦術指揮以外)と読む彼がそんなものを付けている筈もなく、領収書を片っ端から引っ張り出しての整理を開始し今に至るのだった。

 

 カリカリと頬杖を突きながら片手でペンを動かすユウカは、先の先生の発言に頬を赤く染めながらもふんと鼻を鳴らした。机の下ではもぞもぞと足を何度も組み替えている。数日前、あの悪魔的とも言える指揮でワカモ率いる不良群を蹴散らした先生とは性格が余りに異なる。というかこんな言葉を口にする人だったか? と別人すら疑った。或いは、こっちが素なのかとも。

 

 ――まぁ、別段此方が素だろうと自分は別に……いえ、教職者として問題があるかもしれないけれど、そちらの方が人気が出ないかもしれないし、あ、いえ、確か男性は少しオープンな方が女性に好意的に見られるという統計があった様な……? 

 

 テーブルの上でペンを動かしながら百面相を繰り返すユウカ、赤くなったり青くなったり、嬉しそうにしたり愕然としたり、そんな彼女の表情を柔らかな笑みで見つめていた先生。その事に気付いたユウカは、キッと表情を鋭く変貌させ口を開く。

 

「というより、本人が前に居るのにそういう事云いますか普通? 最低です!」

「ごめんね太腿、ユウカの事見ていたらつい……」

「太腿!? 誰が太腿ですか、私の本体は太腿なのですか、流石に怒りますよ!」

「ふふっ、ごめんごめん、ちょっと揶揄っただけだよ」

 

 引き出しと財布から領収書を引っ張り出しながらそう口にすれば、ユウカは片目を瞑ったまま先生を見る。その表情を見て先生は思った、まんざらでもない顔をしているなぁと。

 やや腰を浮かせていたユウカは椅子に座り直し、露骨に溜息を吐き出した。

 

「全く……私だから許してあげられるんですからね、他の生徒にそういう事を云ってはダメですよ? 傷つく子だっているかもしれませんし、本当にセクハラになっちゃうんですから」

「あぁ、勿論だよ、こんな事を云うのはユウカだけだから」

「ッ!? へ、へぇ、そうですか、ふーん、へーっ……」

 

 先生が真剣な表情でそう告げれば、ふっと目を逸らし何でもないかのように口をとがらせるユウカ。しかし微妙に口の端が歪んでいる、上の方向に。絶妙に緩んだ口元は「V」の字を描き、頭の上に汗が見える。どうやら喜んでくれたようだと、先生は胸を撫で下ろした。

 

「ところでハスミも凄く良い太腿しているよね、今度トリニティで――」

「先生?」

「ごめんて」

 

 一瞬で腕を払い、手に持っていたペンをくるりと回転させ先生の目前に付きつけるユウカ。その表情は酷く冷たく先程とは一転、何なら眼球に突き刺してやろうかという覚悟が見え隠れしていた。先生を見つめる二つの眼光は余りにも害意に塗れている。彼女にはやりかねないという気迫があった。流石に他の女性の話題を此処で出すのは配慮に欠けていたかと反省し、そっと財布から取り出した領収書を彼女の傍に差し出す。気持ちとしては免罪符である、只単に仕事を増やしているだけだが。

 それを見た彼女はふんともう一度肩を揺らし、ペンを握り締めて領収書を乱暴に手繰り寄せた。

 

「全く……先生、良いですか? こんな風に領収書の整理を手伝ってくれる生徒なんて、本当に私くらいですし、何ならセクハラ紛いの発言を笑って許してくれるのも、キヴォトス中探してもきっと私だけです、先生はもっと有難がって感謝するべきです! だというのに、こんな二人きりの状況で別の女性の名前を――いえ、そうではなく、えっと、そう! まだそんな態度を取るならもうこれっきりですからね、二度と手伝ってあげませんから!」

 

 腕を組んで鼻を鳴らし、「私、怒っています」と全身でアピールするユウカに対し、先生は酷く悲しそうな表情を浮かべた。

 

「それは――とても困るな、私はユウカ(の書類処理能力)なしでは生きていけない」

「えッ!?」

 

 先生の衝撃発言に、腕を組んでそっぽを向いていたユウカが凄まじい勢いで振り向いた。その目はぐるぐると渦を巻き、指先は忙しなく蠢いている。

 実際以前も彼女には随分と世話になった自覚があった。会計としての彼女がシャーレに所属していなければ、随分と前にシャーレは経済危機に陥ったに違いない。

 

 ――私なしでは生きて行けない……それってつまり、ぷ、プロポーズって事!? うそ、嘘! だって私達、まだ数日前に知り合ったばっかりで、いえ、そもそも先生と生徒の間柄でそんな恋愛関係なんて……でも先生はキヴォトス外の人で、それなら私達が恋仲になっても規則上では問題ない? 違う違う、そういう問題ではなくて! 私はミレニアムサイエンススクールのセミナー所属で、先生は連邦生徒会所属のシャーレ顧問なのだから! 関係上問題が……ないわね? あれ、もし先生と恋仲になったら連邦生徒会、というかシャーレとの繋がりも強固になるし、何なら将来性という点でも――

 

「ユウカ?」

「連邦捜査部、生徒会、ミレニアム、セミナー……でもそうしたらトリニティとゲヘナ……いえ、そんな事で尻込みする理由は――」

 

 何やら急に考え込み、ぶつぶつと呟いているユウカを見た先生は苦笑を零す。また色々考えているのかなぁと。そしてこうなった彼女は暫くの間、周囲に注意を払わない事を先生は知っていた。

 先生は思考に没頭するユウカを他所に机の中に潜り込む。

 薄暗い机の下、その向こう側には綺麗に重ねられたユウカの太腿が――。

 

「まぁ、ちょっと位……バレへんか!」

 

 先生はそう満面の笑みで告げ、ユウカの太腿に挟まれる為に前進を開始した。

 

 ■

 

「あんなに怒らなくても良いじゃん」

 

 とぼとぼとシャーレを後にする先生は、そんな事を呟きながらコンビニを目指す。その片手は頻りに腹を摩っており、心なしか背中が煤けて見えた。

 結論から言うと、先生の行いは許されなかったし当たり前のようにバレた。

 ユウカの太腿に顔を挟ませた時点で、「あ」とも「え」とも取れるユウカの口の形が視界に入り、それから万力の様な力で顔を挟まれた後――太腿は柔らかかったので、天国と地獄が半々であった――凄まじい力でのボディブローを決められた。

 顔面を殴られなかった事に感謝するべきか、或いは嘆くべきか。鈍痛がゆっくりと全身に行き渡る感覚は筆舌に尽くし難い。度重なる先生の暴挙に、流石のユウカも噴火し、先生はそれを鎮火させるべく近場のコンビニで販売している、『エンジェル24、フルーツカップパフェ』を購入し差し出す腹積もりなのである。税込み九百八十円、これも領収書を取っておかなければならないのだろうか、と先生は悩んだ。

 しかし、まぁ、我ながら残当である。というかここまでやって未だに、「フルーツパフェ奢って下さい!」で済んでいるのが奇跡というか、何というか。ユウカって意外とアレな男性がタイプなのだろうか、少し将来が心配であった。

 

 残念ながらシャーレ併設のコンビニではパフェの販売が行われていなかったので、少しだけ遠目の同系列店に赴く事になった。平日昼間、人通りの少ない通りを歩いている最中――あぁ、今日も良い天気だなぁ、などと呑気に空を見上げていると。

 不意に、先生は足を止めた。

 

「―――」

 

 止まったのは、視線を落とした先に見覚えのある背格好が映ったからだ。

 前から歩いて来る女子生徒――帽子を深く被り、コートを靡かせながら颯爽と歩く彼女を、先生は良く知っていた。ずきりと、脇腹が痛みを発する。幻痛だ、それは分かっていた。

 向こうも立ち止まって自身を凝視する存在に気付いたのだろう。訝し気な表情を浮かべ同じように立ち止まると、先生の恰好と顔を注視する。その手は肩に掛けたライフルのグリップに伸びていた。

 

「何だ、何か用か………? 大人の、男性――それに、その制服と腕章は」

「君は……」

 

 互いに数歩踏み込まなければ手が届かない距離。それが今の先生と彼女の距離感。僅かに目を細めた先生は、小さく、呟く様な声量で告げた。

 

「アリウス分校、アリウススクワッドのサオリ」

「ッ!?」

 

 分かり易く、彼女――サオリの目が見開かれた。

 吊り下げたライフルのグリップを握り締める音、次いで安全装置を弾く音。幸いにして銃口こそ向けられなかったものの、サオリの瞳は鋭く先生を射貫いていた。彼女の靴底がアスファルトを擦り、半身になった彼女の体がコートに遮られる。

 ――早撃ちを仕掛けられた場合、反応すら出来まい。先生は冷静に、そう思考した。

 

「……成程、彼女が云っていた外的要因、連邦生徒会長が直々に指名したというのは貴様か――連邦捜査部、シャーレの先生」

「――もう認識されているのか、流石だよ」

 

 それはどちらに向かっての言葉だったのか。サオリか、或いはその背後に居る存在か。

 殺意すら籠った視線を向けられながら、先生の態度は微塵も揺らがない。あるがままの自然体、いっそ不自然なほどリラックスし、サオリと対峙していた。

 

 不気味だとサオリは思った。自身の実力に絶対の自信があるのか、それとも殺されはしないと高を括っているのか。サオリの目からして、先生には大した力がある様には思えなかった。少なくとも近接格闘でも、銃撃戦でも――負ける気はしない。

 仕掛けるべきか、一瞬そう考える。しかし計画の前段階で騒ぎを起こすような真似は避けたい。その間隙を縫うように、先生の致命的な一言がサオリの胸を貫いた。

 

「エデン条約の妨害……いや、会場の爆破強襲、まだ計画しているのかい?」

「ッ!」

 

 余りにも唐突な言葉だった。

 もし此処で余人がそんな発言を聞いたところで、まさかと鼻で笑う様な――そんな突拍子もない言葉。

 しかし、それを真剣に計画しているサオリ――アリウス分校にとっては余りにも聞き捨てならない発言であった。思わずと云った風に踏み込んだサオリが、先生の襟元を掴む。サオリより十センチ程身長の高い先生ではあるが、単純な膂力であればキヴォトスの生徒が勝る。襟元を引かれ、僅かに腰を曲げた先生。まるで接吻を強請るかのような姿勢だった。しかし実際は異なる。ほんの数センチしか離れていない距離で、サオリと先生は顔を突き合わせる。

 先生の胸元にはサオリの持つライフルの銃口が、コート越しに当てられていた。

 

「貴様……! 一体、どこまで知っている!?」

「待て、早まるな」

「貴様に指図される謂れはないぞ!」

「違う、君に云ったんじゃない――あぁ、でも疑問に答える事は出来るよ」

 

 至近距離で見つめ合ったまま、先生はやはり飄々とした態度で云った。

 

「マダムから君がどこまで聞いているのかは分からない、或いは彼らゲマトリアの実態を掴んでいないのかもしれないけれど――態々自治区から出てこんな場所まで来たんだ、計画は順調に進んでいるのだろう? 凡その事は大体、知っているとも」

 

 先生の言葉にサオリは歯を軋ませる。ライフルの引き金に掛かった指が、微かに震えた。

 

「私達が何をしようとしているかも、か」

「うん、そして君たちが『彼女』と呼ぶ存在――ベアトリーチェが何をしようとしているのかもね」

「………」

 

 暫く、沈黙が二人の間に降りる。正面から見つめ合い、先生は胸元に銃口を突きつけられて尚、その態度を崩さない。サオリはこの、不気味で超然とした大人を前に焦燥感を抱いた。連邦捜査部シャーレ――超法規的な権力を持つ組織が、アリウスの動きに気付いているという事実に。

 

「……邪魔をするか、大人が」

「する、と云ったら君は此処で私を撃つかい?」

「無論――貴様は危険だ、彼女の言葉が身に染みた、貴様が存在するだけで計画が頓挫しかねない、例え多少の騒ぎになろうとも、今ここでシャーレを潰せるのであれば十分だ、後顧の憂いは早めに断つに限る」

「それは……過大評価だよ」

「アリウスの決起を知っている時点で、侮れる筈がないだろう」

「君達からすれば、そうか」

 

 ライフルの銃口は逸れず、視線もそのまま。

 一秒経過する毎に空気が重くなり、サオリの指は引き金に沈む。先生はそんなサオリをじっと見つめ、どこか悲しそうな表情で云った。

 

「今此処で、ベアトリーチェが何を企んでいて、君達を嵌めようとしている――何て云っても君は信じないだろうし、納得もしないだろう、だから今、この場で止めようとは思わない」

「………」

「代わりに――」

 

 告げ、先生は懐に手を差し込む。今まで何のアクションも起こさなかった人物が起こした行動。鎮圧するべきか? グリップを握り締めたサオリは一瞬判断に迷った。しかし、このマダムが危険視する者がどれ程のものか、何をしてくるのか――単純に武力で以て対応してくるのか、興味があった。

 故に、どんな行動が起きても対応できるよう、ぐっとサオリの表情が険しさを帯びる。

 そして先生がゆっくりと懐から取り出したものは。

 

「――ご飯、一緒に食べない?」

「………?」

 

 定食屋のクーポン券であった。

 

 




 怪文書じゃないよ、純愛だよ。

 折角の休日なので書いた分上げます、多分明日も上げます。
 その代わり今日休む筈だった分、火曜日は休むと思いますのでよろしくお願いします。

 信頼上げまくった生徒の前で血塗れになるのも良いけれど、好感度上げに上げた生徒に笑って裏切られる先生を見せて、ブチギレるトリニティと内心慟哭しながら戦うアリウスの修羅場とかめちゃ見たいからご飯食べさせるね。
 色々良くしてくれた先生に震える銃口を向けながら、過呼吸気味に引き金を引くサオリとか、これ以上美しいものはないでしょう。


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主よ、御許に近づかん

誤字脱字報告、とても助かります。


 

「いやぁ、此処のご飯が美味しくてね? 誰かと一緒に食べたくて仕方なかったんだよ、サオリと会えたのは実に良いタイミングだった」

「………」

 

 昼時、少しだけ混雑した様子の定食屋。木製の看板には【カツ屋】の文字、カツを売りにしているキヴォトスの定食屋にてサオリと先生の二人は相席していた。和式の室内には左右を挟んで幾つかのテーブルが用意されており、自身で座布団を敷き座るスタイルで思い思いに食事を摂っているキヴォトスの人々が見える。その左右から香る食事の匂いに、サオリの腹がきゅうと鳴る。

 幸いにしてその音は多少の話声に搔き消され、周囲に聞こえなかったようだが、サオリは自身の腹を摩りながら一人思った。

 どうして私はこんな場所に居るのだ、と。

 

 そもそもからして、自身はアリウスの所属、対面で呑気そうにメニューを眺めている男は連邦生徒会のシャーレ所属である。そして先生と呼ばれる男は、アリウス分校が何をしでかそうとしているのか、それを良く理解している。

 自身と目の前の男は、敵同士なのだ。

 だというのに。

 

「あ、これメニューね、私は豚カツ定食で良いかな、サラダ付きの奴で」

「………」

「それでサオリ、何か気になるメニューとかあった?」 

 

 そんな事を微塵も考えていなさそうな大人が一人、此方に向かってメニューを差し出してくる。胡乱な目で先生を暫く見つめていたサオリであったが、全く堪えずに不思議そうな目を向けて来る先生を相手にするのも馬鹿らしくなって、乱暴な手つきでメニューを受け取った。

 それから手元のメニューに目を落とし、顔を顰める。

 

「項目が、多い」

「んー、それじゃあ私と同じのにする? 豚カツ定食、美味しいよ」

「………好きにしろ」

「じゃあ、そうしよう」

 

 何を食べても所詮、腹に入れば同じだ。そう考え先生に一任すると、彼は店員に注文を手早く済ませた。その間、周囲を見渡すサオリ。何気ない動作に見えるが、彼女にとっては敵情視察に等しい。

 呑気そうに食事をするスーツ姿の犬、ソース味と書かれたボトルを啜るロボット、学校を抜け出して来たのだろう、何やら騒がしくしながらカツの奪い合いをするゲヘナの生徒。

 

「……成程、人の多い場所ならば迂闊に手を出せないと踏んだか、確かに身を隠して活動している私にとっては――」

「うん? いや別に、そんな事は考えていないよ――はい、これ」

 

 この様な場所に態々誘い込んだ先生の魂胆を暴こうと口を開けば、即座に否定され代わりに差し出される見た事もない代物。平皿に載せられた胡麻と塩、それに小さなすり鉢とすりこぎ棒。サオリは押し付けられたそれを呆然とした表情で見つめ、目を瞬かせた。

 

「……何だ、これは」

「すり鉢とすりこぎ棒、豚カツに浸すソースを作るんだ、こうやって……」

 

 先生が手本として、平皿から胡麻をすり鉢に移しゴリゴリと磨り潰して見せる。暫くの間、先生のその動作を見ていたサオリは、恐る恐ると云った風に胡麻をすり鉢に入れる。

 

「………こう、か」

 

 そして見よう見真似で同じよう胡麻を擦った。

 

「良いね、そんな感じ、まぁ程度はお好みで、潰し終わったら此処にソースを流し込んで――完成だ」

 

 十分に磨り潰した胡麻の中に、テーブルの横合いに置いてあった特製のソースを適量流し込む。そうしてすり鉢に出来上がったソースを見せると、サオリは不思議なものを見る目ですり鉢を見下ろした。

 

「ソースは甘口、中辛、辛口があるから好みで選んで大丈夫だよ、因みに辛いのは得意?」

「……好んで食べたりはしない」

「なら甘口かな、私も甘口だからお揃いだ」

「………」

「お待たせしました~、豚カツ定食並、サラダ付き二名様~!」

「お、早いな」

 

 そっと目の前に置かれる豚カツ定食。白米、味噌汁、サラダ、豚カツ、漬物――定食としてはポピュラーな品揃え。湯気を立てているそれらを見たサオリは、無意識の内に唾を呑んだ。

 先生は割り箸を手に取り頂きます、と告げ味噌汁をひと啜り。途端、口の中に広がる熱、この絶妙な塩辛さが良い、身体全体に染み渡る様だ。

 ふはー、と気のない顔を晒す先生を見つめていたサオリは、しばし沈黙を守った後に口を開いた。

 本当ならば、食べるつもりなどなかった。

 しかしこうまでされると、生殺しである。碌な食事を摂れない環境もあり、サオリの鋼の精神は既に罅割れていた。

 

「……おい」

「ん、何だい?」

「私のものと貴様の配膳を交換しろ」

「別に良いけれど、一体何で――あぁ、何だ、そんな心配しなくても良いのに」

「………」

「味噌汁はもう、口を付けてしまったけれど」

「それで良い、全ての品に一度口を付けろ」

「はは、徹底しているなぁ」

 

 先生はサオリの言葉に苦笑を漏らしながらも、云われた通りに一通りの品を少量口に含む。それを確認し、先生の顔色や呼吸をつぶさに観察していたサオリは、特に害無しと判断し自身の前に出された定食と先生の前に出された定食を無言で交換する。これでもし、解毒剤の類を最初から服用していたのなら、とんだ役者だと内心で呟いて。

 少しばかり躊躇った様子ではあったが、数呼吸分置いて漸く箸に手を伸ばした。

 カツをひと切れ掴み、自分の作ったソースに恐る恐る浸して、口に入れる。

 

「……はむ」

 

 さくり、と衣を食む感触。そして中の肉に歯を立てれば、じゅっと肉汁が口の中に広がった。そして舌に伸びる、自身の作ったソースの味。甘口の中に胡麻の風味が混ざって、肉の旨味と何とも言えぬ香りがサオリの鼻腔を擽った。

 

「――!」

 

 思わず、と云った風に目を見開く。そして何度も口の中でカツを噛んだサオリは、そのまま白米に箸を伸ばし、口の中に放る。炊き立ての飯に、分厚い肉、そして誰かの作った暖かい汁物――全部が全部、サオリの知らない代物だった。

 

「ふふっ、美味しいだろう?」

「ッ! ぐ……ま、まぁ、悪くは……ない」

「それは何よりだ」

 

 暫くの間、サオリは夢中で食事を摂っていた。そんな彼女の姿を、先生はのんびりと箸を伸ばしながら見ていた。その事に気付いたサオリは赤面したが、どうやら本格的に毒の類はないようだと、内心で胸を撫で下ろす。そうなると、本当にこの男が何をしたいのか分からなくなる訳だが――。

 先生は特になにをする訳でもなく、サオリと同じように食事をしながら、小さく呟いた。

 

「……もっと早く、美味しいものを沢山食べたかったと、そう云っていたからね」

 

 声は喧騒の中に消え、サオリに届く事はない。

 

「? 何か云ったか、シャーレの先生」

「――いいや、何も……何も云っていないよ、あぁ、そう云えば此処、テイクアウトも頼めるんだ、流石に味噌汁は付かないけれど白米、サラダ、豚カツ、漬物の付いたセットで」

「!」

「スクワッドの皆の分、頼んでおくね」

「………」

 

 サオリは何か云いたげな顔で暫し先生を見つめ、けれどそれ以上言葉を発する事無く、白米で感情諸共言葉を飲み込んだ。

 

 ■

 

「いやぁ、食べた食べた、やっぱり食は人間の原動力だね」

「………」

 

 昼過ぎ、腹一杯に食事を済ませた二人は店を出て、大通りへと戻って来た。相変わらず疎らな人通りを眺めながら、先生は先程会計で受け取った弁当の入ったビニール袋をサオリに差し出す。重なった弁当は四人分、アリウススクワッド全員の食事が入っている。

 

「はいコレ、頼んでいた定食セット、皆の分とサオリのも入っているから、夜にでも皆で一緒に食べると良いよ」

「………」

 

 差し出されたソレを、おずおずと受け取るサオリ。次いで、先生は懐から一枚のメモ用紙を取り出し、胸ポケットから抜いたペンで何事かを書き留める。

 

「それとこれ、私の直通回線、何かあったら連絡して、いつでも良いから」

「………」

「端末を渡されても、GPS追跡を疑って素直に受け取れないだろう? だから、回線だけ教えるよ」

 

 差し出されたのは、複数の文字列で構成された先生直通の回線。サオリは暫し迷ったようにメモを見ていたが、『最悪、利用するだけ利用すれば良い』と自身に言い聞かせ、それも受け取った。

 ちらりと見えた彼女の端末は、液晶が罅割れ、外装が剝がれていた。本当の事を云えば、きちんとした端末を贈りたい。バッテリーだってヘタっているだろうに。しかし、それは彼女が警戒する事だと、先生はぐっと我慢する。

 

「また一緒にご飯を食べよう、出来ればスクワッドの皆も一緒に」

「………」

「それじゃあね、サオリ」

 

 それだけ告げて、先生は背を向けシャーレに歩き出す。

 与えるだけ与えて、何も貰わずに去っていく。その姿にサオリは何か、言いようのない不安感を抱き、咄嗟に彼を呼び止めた。

 

「っ――シャーレの先生」

「うん?」

 

 足を止め、振り返る。

 先生の視界に、酷く苦々しい表情を浮かべたサオリが映った。その胸中は分からない、しかし苦しそうな、嫌そうな、けれど云わずにはいられないような。そんな表情を浮かべた彼女が、俯きながら口を開いた。

 

「その、何だ……馳走になった」

「――うん、また御馳走するよ」

「……次はない、大人の世話になるのは、ごめんだ」

 

 そう云うと、先生は苦笑を浮かべ――今度こそ立ち去って行く。

 その背中を見送りながら、サオリはコートの中に手を伸ばした。本来であれば、あの無防備な背中を撃ち抜くべきなのだ。愛銃のグリップを握り、安全装置に指を掛ける。無防備な背中だ、警戒など微塵もしていない、撃てば――必ず当たる。

 しかし、逆の手で持ったビニール袋が音を立てて揺れ、サオリの視線が其方を向く。

 そこにはアリウススクワッド全員分の食事が入っていた。

 仄かに鼻腔を擽る、カツの匂い。サオリが今まで食べた事もないような、温かい香り。愛銃を握り締めたまま、小さくなっていく先生の背中を見つめる。

 そして彼の背中が曲がり角に消えるまで、サオリはその場を動かなかった。

 

「……一飯の恩義だ、今日は見逃す」

 

 呟き、銃のグリップを手放すと、背を向けて歩き出す。

 がさりと、手にぶら下がったビニールが音を立てた。

 

「毒であっても、残飯よりはマシ……か」

 

 ささやかな幸せではあるが、まともな食事を分隊全員に食わせてやれる。サオリはそう考え、少しだけ笑った。

 

 もし先生が悪辣な策士であるのなら、先程の食事には敢えて毒を混入させず、善意を匂わせて人数分の弁当を渡し――一網打尽にするだろう。

 まるで害虫の巣を根元から絶やすように、それが賢い【大人】のやり方だと分かっていた。

 分かっていて、サオリは思った。それならそれで、構わないと。最後にマシな食事をして死ぬのなら、そういう最期も受け入れようと。どうせ自分達に碌な最期など訪れない、幸運も不幸もない。未来も、そして過去も。

 

 ――どうせすべては、空しいのだから。(Vanitas vanitatum et omnia vanitas)

 

 言葉は風の中に掻き消され、サオリもまた――路地の暗闇に消えて行った。

 

 ■

 

「ワカモ――攻撃しちゃだめだよ」

 

 曲がり角を抜け、入り組んだ路地裏に入った先生。大通りとは異なり、入り組んだ路地は常と異なり人の姿が無い。夜ならば此処にまたブラックマーケットの住人や、ゲヘナの生徒が屯していたりするものだが――明るい内は存外、危険が無い事を先生は知っていた。

 先生は誰も居ない虚空に向かって言葉を紡ぐ――傍から見れば不可思議な行動。しかし一拍置いて先生の言葉に応じる様に、目前に影が落ちた。

 

「いけずなお方……ずっと私の視線に気付いていらしたのに、他の女性と逢引きだなんて」

 

 ビルの壁を蹴り、先生の前へと音もなく着地した影は――狐面に和装、長銃を肩に掛けたワカモ、その人であった。

 狐面越しに見える眼光は、鋭く先生を捉えて離さない。この圧には、ずっと前から気付いていた。正確に云うのであればシャーレを出た辺りから、ずっと。

 ワカモのどこか拗ねた様な物言いに、先生は目尻を下げる。

 

「ただご飯を一緒に食べただけだろう? 一緒にご飯が食べたいのなら今度、何か食べに行こうか……あぁ、いや、外出だとワカモの面が取れないよね、それならシャーレで私が何か作ろう」

「っ! 宜しいのですか? 先生の手料理を、この私が独占――!?」

「大袈裟だなぁ」

 

 自身の頬を両手で包み、いやんいやんと体を揺らすワカモ。彼女にとっては、先生の手料理というだけで何よりも価値が在る食事であった。それこそ、無遠慮に手を伸ばす輩が居れば問答無用で撃ち殺す覚悟を決める程度には。

 

「それより、サオリの事ずっと狙っていたよね?」

「えぇ、だって――あなた様に銃口を向けたのですよ?」

 

 そう告げたワカモの瞳から、ふっと光が消えた。肩に担ぎ、掴んだ愛銃のストックが軋む。放たれる重圧から彼女が酷く怒っているのだと感じられた。

 一歩、先生の傍へと踏み込んだワカモが云う。

 

「私の心、身体、この髪の毛の一本に至るまで全て、全てあなた様のもの――同時に、あなた様の体も心も……私のもの」

「――まぁ、生徒の為の先生と云ってしまえば、それも強ち間違いではないのかもしれないね」

 

 肩を竦め、先生はワカモに一歩近付くと、そっとその艶やかな黒髪を撫でた。最初、先生に触れられたワカモは肩を跳ねさせ、驚いた様子であったものの――暫くすると肩の力を抜き、そっと先生の胸に凭れ掛かる。

 

「んぅ……ねぇ、あなた様、重い女は御嫌いですか?」

「まさか、大好きだよ、さっきも私の言葉を守ってくれただろう?」

「えぇ、本当に、何度あの頭を撃ち抜いてやろうかと思った事か――ですが、あなた様に言い含められておりますので」

「良い子だ」

 

 そう云って先生が僅かに面をずらして額に唇を落とすと、「あぅ」と呻いたワカモが耳を真っ赤に染めた。

 

「これから先、私を害する生徒が現れるかもしれない、けれど極力君には傷ついて欲しくないし、傷つけて欲しくない、これは……私の我儘だけれど」

「あなた様――」

 

 少し、悲しそうにそう告げる先生。その胸中にどれ程多くの感情が渦巻いているのか、ワカモには分からない。暫し沈黙を守った後――彼女はゆっくりと頷いて見せた。

 

「……あなた様の御心のままに」

 

 狐面の向こう側で微笑みながら、ワカモはそっと先生の胸板に手を当てた。

 きっと、この優しい先生は心の底から争いを疎んでいるのだ。誰にも傷ついて欲しくない、傷つけて欲しくない、それは酷く悲しい行いだから――。何と気高い心か、何と清らかな心か、その輪の中に自身が入っているという事実にワカモは言い知れぬ高揚感すら覚える。

 けれどこの世界は、キヴォトスという箱庭は、先生にそう在る事を許さない。

 ワカモはそれに勘付いていた。彼がどれだけ叫んでも、希っても、必ず『その時』(破綻)は来るだろう、と。

 だから、せめて――せめて自分だけは、最後まで彼の傍に侍ろう。

 

「あぁ、ですがあなた様……もし、あなた様が怪我をする様な事があれば――」

「うん、まぁ、その時は――ワカモの判断に任せるよ」

「えぇ、ありがとうございます」

 

 微笑み、先生の顔を見上げながら、ワカモは思った。

 例え、どんな結末を迎えようとも――人知れず、貴方の心が痛まぬ様に、このワカモが必ず御守りしてみせる、と。

 

 ワカモという少女はただ云われるがまま、想い人に制御されるままを良しとしない。先生に悟られぬ様、その目を塞ぎ、耳を塞ぎ、影の中で先生を傷つける者共を消してみせよう。荒事、裏事、汚れ仕事は慣れ切っている。汚れと云うのは、こびり付いて中々落ちないものだ。だから根気強く、時間を掛けて、少しずつ掃除していく。

 そして綺麗になったキヴォトス(敵対者の消えた街)で、先生の願望(恒久平和)は成就するのだ。

 その未来を想い――ワカモは暫し、想い人の温もりに身を預けた。

 

「そう云えば、今日はいつから私をストー……尾こ……監視していたんだい?」

「朝方からずっと! ソファで横になって寝入るあなた様のお顔、可愛らしかったです♡」

「そっかぁ」

 

 とても嬉しそうな口調で報告するワカモに、先生は考えるのをやめた。この手の人物とは真正面から事を構えてはいけないのである。先生はそれを実体験として知っていた。

 

「あぁ、そう云えば――あなた様?」

「うん?」

 

 ワカモは不意に一歩先生から離れると、その短すぎるスカートを僅かに摘み、くっと上に持ち上げて見せた。絶妙に、見えそうで見えない角度。それを維持しながら綺麗な流し目を送る彼女(あざとい)

 先生は思わず天を仰ぎ、自身の顔を覆った。あぁ、見られていたのかと。

 

「――太腿、お好きなのですか?」

「……忘れてくれると嬉しいなぁって」

 

 声が震えていなかった事だけが救いだった。

 

 ■

 

「ただいまァ、いやぁ色々あって疲れ――」

「お帰りなさい、先生?」

「あっ………」

「随分遅かったですねぇ、私の【パフェ】(クソデカボイス)を買いに行くだけなのに、もうお昼過ぎですよ? 一体どこまで買いに行かれたのですか?」

「えっと、それは……ですね」

「まぁ良いですよ、先生の事ですから他の生徒のお尻でも追いかけていたのでしょうし……何やら美味しそうな匂いもしますから、何となく想像はつきます、私も先生と一緒に食べるつもりだったのですけれどねぇ、お昼ご飯」

「ヒェ」

「ええと、それで――肝心のフルーツカップパフェは何処にあるんですか?」

「……ないです」

「は?(威圧)」

「ごめん! いや、違うんだよ、違くないけれど、外で偶々こんな場所で会うとは思っていなかった人にあったというか、何というか……」

「――やっぱり女ですか」

「お、女というか、生徒、です」

「女じゃないですか!」

「そりゃあキヴォトスの生徒だから性別上は女性ですけれども! 生徒って云ってッ! 女って表現されると、何か、嫌だ!」

「私にプロポーズまでして、早々に浮気ですか!? 最低ですねッ!」

「えっ、プロポーズ!? 何の話!?」

「なっ……まさか、白を切るつもりじゃ――!」

「結婚して良いの!? 本当に!? じゃあ私達、結婚しようかユウカ!」

「ッ――先生ぇェッ!」

「え、ちょ、何で怒っ――いや、やめてッ! 顔はやめてユウカ! やめッ……」

『せ、先生ぇ……』

 

 シャーレの明日はどっちだ。

 

 





 フフ……へただなあ、先生。へたっぴさ……! 
 欲望の解放のさせ方が下手。先生が本当に欲しいのは……生徒の泣き顔。(こっち)
 これを日常の中でチンして……ホッカホッカにしてさ! 幸せな日常との落差に飯が上手い(やりたい)……だろう!? 少しずつ、少しずつ日常を重ねて、後で一気に食らう! これが美味い、最高に美味い……!
 フフ……だけれど、それはあまりに値が張る(文字数が多い)から……こっちの……しょぼい閑話でごまかそうって言うんだ……。
 先生、ダメなんだよ! そういうのが実にダメ……! 
 せっかく生徒の泣き顔でスカッとしようって時に、その妥協は傷ましすぎる……!
 そんなんでご飯を食べてもうまくないぞ! 嘘じゃない、かえってストレスがたまる! 見られなかった至高の泣き顔がチラついてさ、全然スッキリしない(飯が美味くない)……! 心の毒(愛されたい)は残ったままだ、自分へのご褒美の出し方としちゃ最低さ!
 先生、贅沢ってやつはさ……小出しはダメなんだ! 
 やる時はきっちりやった方がいい……それでこそ次のシリアス(泣き顔)への励みになるってもんさ……! 違うかい?

 と班長が仰ったので明日はお休みです。明後日、またお会いしましょう。
 恐らく次か、もう次の話位から「アビドス廃校対策委員会」に入ります。

 取り敢えず今の所、閑話分一本と、アビドス最初の戦闘前後まで書き切ってあるのですが、このペースで行くとアビドスの話を書き切るのに何十万字と必要になりそうな気配があるので、要所要所の戦闘をカットする事にしました。ただ、重要なシーンはカット無しで書こうと思いますので、その辺りはご安心下さい。
 
 というかこのユウカ、割と原作ママなのですが、ちょっとチョロ過ぎて心配になって来るんですよね。一緒に一回戦っただけで書類仕事を手伝い、財布を握って来る異性……絶対重い(確信)。こういう重い生徒程、先生が血塗れになった時の反動が大きいのです。最初は書類だけ、会計管理だけ、支出管理、健康管理、そして何かと理由を付けてシャーレに入り浸るようになり、洗面台には歯ブラシが増えて、最初は分けていた寝床が一緒の部屋になって、徐々に距離が狭まり、何時しか同じベッドで寝るようになるんです素敵ですね。
 で、そんな想い人がある日血塗れになって死にかけるってワケ。何と美しい。ついでに手足何本か捥いであげるね先生。



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深淵に覗かれた先生

今日は投稿がないと思った? 私は思った。


 

【エンジェル24】

 

 シャーレが活動を始め一週間が経過した頃。先生が消耗品や飲料の類を購入しに、シャーレ内部のコンビニ店内に入ると、見慣れた顔の店員さんではない、頭一つ分小さな少女が店番を行っていた。おや、と先生が眉を上げるのと、その少女が先生の入店に気付くのは殆ど同時。手持無沙汰にレジの前で佇んでいた少女は、先生を見るや否や笑みを作り元気に声を上げた。

 

「い、いらっしゃいませ、エンジェル24です!」

「やあ、お邪魔するよ」

 

 そう云って先生が少女の前に立てば、彼女は予想だにしない客の姿に驚きを見せる。

 

「え、大人の人……? も、もしかして噂の先生ですか?」

「噂かどうかは分からないけれど、先生とは呼ばれているよ、此処シャーレの顧問担当だ」

 

 先生が柔らかな笑みで以てそう告げれば、心なしか少女の顔色が青くなった様な気がした。

 

 ――こ、この人があの、女子生徒たちが頻繁に出入りしていると噂される、この怪しい建物の先生……! というか此処、体育館とかゲームセンターとかもあるし、一体何する場所なのかも分からない……!

 ――万が一この人に嫌われたら私、もしかして大変な事に……!? この建物の主人っぽいし! 何があるか分からないし! もしかしたら、そ、そういう部屋も……!?

 

 青くなったり、赤くなったり、かと思えば、「あわわ」と左右を見て、「て、店長ぉ……?」と呟いたり。先生はその奇行に首を傾げるが、数秒して助けも希望もないのだと悟った少女、ソラは明らかに引き攣った笑みで頭を深く、それはもう深く頭を下げた。

 

「わ、私はソラです、今日からこのコンビニ、エンジェル24でアルバイトをする事になりました! よろしくお願いします!」

「うん、宜しく、私もちょくちょく利用する事になると思うから」

「は、はい!」

「それにしても――」

 

 呟き、先生はソラの恰好を上から下までじっと見つめる。どこか探る様な視線に、ソラは額と背中にそっと冷汗を流した。何だろうか、何か粗相をしてしまっただろうか、不味い事を云ってしまったのだろうか。もしかして私、処されちゃう? 

 その後の事を想像し、ソラは自身の心臓が急激に早鐘を打ち始めた事を自覚した。

 震える指先を合わせながら、恐る恐る問いかける。

 

「な、なんでしょうか……?」

「いや、やっぱり前の店員さんより幼く見えるなぁって」

「あ、私、中学生ですので、そのせいだと思います」

 

 何だぁ、そんな事かぁ~。

 想像していた百倍は何て事のない質問に、ソラは目に見えて安堵していた。

 

「中学生を雇ってくれるところはあまりないのですが、ちょっとお金が必要な事情がありまして……へへへ」

 

 肩を竦めて恥ずかしそうに笑うその姿からは、何とも言えない不憫さが滲み出ていた。

 

「雇ってもらえたのは良いのですが、このコンビニ、以前襲撃されたり、戦車に突っ込まれたりしたことがあると聞いたので……初日からちょっと不安です」

「あぁ、ワカモの時の――」

 

 ソラの言に、先生はほんの一週間程前の事を思い出す。戦車に突っ込まれてはいないが、直近まで襲撃はされている。危険度で云えば然程変わりないだろう。実際、直ぐ傍で銃撃戦が起きたのだから。

 

「それにその、先生以外このお店に来る人も殆どいないみたいですし……」

「ははは、まぁシャーレは活動を始めたばかりだから、これから客足は増えるよ」

「だと良いのですが……」

 

 ――自分で云っていて不安になって来た、このお店、大丈夫なのかな……。

 

 ソラが先生の体越しに店内を見れば、先生以外の客は皆無。このシャーレ屋内店に於ける主な客層は、先生が全体の八割程度で、残り二割は連邦生徒会からやって来た行政官であったり、先生がシャーレに連れ込んだ――とソラは思っている――生徒達であったりする。

 

「も、勿論お買い物はいつでも大歓迎ですよ! め、面倒くさいなんて事決して思っていませんから! エンジェル24は文字通り二十四時間、三百六十五日、ずっと開いていますので、必要なものがある時はいつでも来て下さい!」

「労働基準法とは、一体何なのだろうね」

「ろうど……? 何ですか、それ」

「気にしないで、私も似たような労働環境だし、お互い死なない様に頑張ろう」

「は、はい! 頑張りますッ!」

 

 鼻息荒く、がんばるぞいと云わんばかりに両手の拳を握るソラ。こんな歳から社畜とは、キヴォトスにはまだゲマトリアの他にも払うべき闇があったのか――先生はそんな事を考えながら、目尻から滲みそうになっていた涙を拭った。

 

「とりあえずお買い物、良いかな?」

「あ、勿論です! 何をお買い求めですか?」

「そうだね……それじゃあ、えぇと、このスタミナドリンクと、コピー用紙とUSBに――」

「はい、はい、ドリンクに、用紙と……」

 

 リストアップしたものを片っ端から籠に入れ、レジに持ち込む先生。それを小さな手で掴み、バーコードリーダーで読み取り袋詰めするソラ。そして不意に、先生は店内に無かったものを一つ、ソラに注文した。

 

「あ、最後に女性用の下着を下さい」

「はい、えっと、後は女性用下着――」

 

 途端、もの凄い勢いで先生を見るソラ。品物をレジ袋に入れていた姿勢から、凄まじい勢いで首が跳ね上がり先生を凝視していた。

 

「え、あ、えっと、女性用下着、ですか……?」

「うん、ちょっと入用で」

「……先生って、実は女性だったり?」

「ちゃんと男だよ」

「あわ、はわ――」

 

 ――やっぱり、やっぱり『そういう人』だった!

 

 ソラは確信した。内股になり、必死に自身の下着を守ろうとする姿勢は先生に疑問の目で見られているとも知らずに。ソラは赤くも青くも見える顔色で、恐る恐る先生に問い掛ける。

 

「し、下着って、私のですか……?」

「え、いや、普通に新品のだけれど……何でそんな発想になったの?」

「き、着ちゃうんですか?」

「? そりゃあ、下着は着る為にある訳だし」

 

 一体何を云っているのだろうか、この子は。そんな表情でソラを見下ろす先生に対し、真っ赤な顔で店内裏から在庫を持ってくるソラ。彼女はそっとビニールにパッケージングされた女性用下着を入れ、レジを静かに叩いた。

 

「え、っと――お会計全部で此方になります」

「カードでお願いします」

「は、はい」

 

 大人のカードで支払いを終えた先生は、膨らんだビニール袋を下げ穏やかに告げる。

 

「ま、またのお越しをお待ちしております!」

「うん、また近い内に来るね」

 

 去って行く先生の背中を見つめながら、額に流れる汗を拭ったソラは力強く呟く。

 

「シャーレの先生、やっぱり噂通りの人だったんだ……!」

 

 ソラの中で、先生が『一等ヤベェ奴』にランクインした瞬間だった。

 

 ■

 

「アスナ、新しい下着買って来たよ」

「わっ、本当に買って来てくれたんだ~! ご主人様ありがとう!」

 

 シャーレの部室に戻って来た先生は、タオルを被ってソファに座る少女に向かってビニール袋を手渡す。メイド服としか言えないような格好に、大きく曝け出された上乳、最初に彼女と出会った時の先生の反応が、「エッッッ!?」であった事からその際どさが分かるだろう。尚、それは前回の話であり、今回は特に仰々しい反応などは見せていない。

 私は、成長しているのだ――先生は誇らしげに胸内で呟いた。

 

 タオルを被ったままの少女――アスナは、ビニール袋から下着だけを抜き出し、パッケージを開封しながら口を開く。

 

「でも災難だったね、水撒きに巻き込まれるなんて」

「まー、でもご主人様と一緒に過ごせたからプラマイゼロ! 寧ろ差し引きプラス的な? 濡れたのも下だけだし、全然問題なし!」

「相変わらず前向きだ」

 

 苦笑いを浮かべながら、先生はアスナとの出会いを思い返した。

 ミレニアム内部での先生の評判は高く――恐らくセミナー(ミレニアム生徒会)のユウカが、シャーレに通い詰めてくれているからだろう――それに伴い、ミレニアムサイエンススクールの中でも、複数の部活がシャーレとの接触を図っていた。

 その中でCleaning&Clearing(C&C)として活動するメンバー、コールサイン01(ゼロワン)のアスナは、いつの間にか――本当にいつの間にか部室の中で掃除、洗濯、炊事を行っており、朝起きたらアスナの顔が目の前にあって腰が抜ける程に驚いた事を、先生は昨日の事の様に憶えていた。

 最初の頃は、「え、何で君此処にいるの、何処から入ったの? というかあれ、私達ここだと初対面だよね?」、と混乱の極みであったが、三日も経てば、「あれ? もしかして最初からこうだった? そうかな……そうかも……」となり深く考える事はなくなった。

 いつの間にか、「ご主人様」と呼ばれるようになっていたが、それ自体は以前もそうだったので問題ない。しかし然も数年間一緒に同棲していますが何か? みたいな雰囲気を出すのはおしっこちびりそうになるのでやめて欲しい。

 同棲(不法侵入)初日に、「あれ、ご主人様、寝る前のストレッチ忘れているよ?」とか云われたら誰だってちびる。君どこから私の日課を知ったの。

 

 そして彼女の凄い所は、ユウカや他の生徒がシャーレにやって来ると、それとなく気配を消し何処かへ消えてしまう事だ。そして彼女達が学園に帰ると、「ご主人様、夕ご飯買って来たよ~」と戻って来る。

 メイドは忍者だった? 先生は訝しんだ。

 尚、それがアスナにとって、「何となく嫌な感じがするからお出掛けしようっと、ついでにご主人様のご飯買って来なくちゃ!」という最早、何でそうなっているのかが分からない程の危機管理能力によるものだという事を先生は知らない。

 

「下着が買えなかったら何も履かないで帰る羽目になるところだったよ~」

「それは色んな意味で危ないからやめてね」

「ふふん、でもご主人様こういうの好きでしょう?」

 

 そう云ってアスナは挑発的な表情を浮かべると、何も履いていない状態でスカートをひらひらと揺らす。その何とも言えない扇情的な行為に、ふっと笑った先生が肩を竦めながら、真面目な表情で告げた。

 

「――大好きですねぇッ!」

「あははは、ご主人様素直すぎ~!」

 

 けらけらと笑うアスナ。大人は嘘つきではないのです、間違いをするだけなのです。一通り揶揄って満足したのか、「じゃあ下着替えて来るね~!」と洗面所に向かうアスナ、その背を見送り、先生はそっと肩を落とした。相変わらずマイペースというか、何というか。しかし、そちらの方面で揶揄うのは正直勘弁してほしい。いつか本当に間違いを犯してしまいそうで恐ろしいのだ。

 アスナが着替えている間、先生はコンビニに行く前にポットで沸かしていた湯を使い、インスタントだが紅茶を入れ始めた。常ならアスナが淹れていただろう。しかし存外、アスナは自身の淹れる紅茶が好きだという事を先生は知っていた。

 彼女は先生の淹れた紅茶を、酷く嬉しそうに飲むのだ。

 

 ふと、窓の外を見ると雨が降り始めていた。先ほどまではカラッとした天気だったというのに、最近の空は模様が全く読めない。

 

「ただいま~、あっ……ご主人様、紅茶入れてくれたの?」

「うん、身体が冷えるのは良くないからね、砂糖とミルクはいつも通り入れたよ、それで良かった?」

「うんうん、助かるー!」

 

 着替え終わり、いつものミニスカメイド服を綺麗に着こなしたアスナは、小走りで先生の隣に腰を下ろすと、今しがた淹れたばかりの紅茶を手に取る。C&Cともなれば、その辺りの所作は大したもので、全く音も立てずに紅茶を口に含んだ彼女は一拍置き、満面の笑みを浮かべた。

 

「はーっ、おいし! この一杯の為に生きているかも!」

「いやいや、別に普通の紅茶だろう? きっとアスナが淹れてくれた方が美味しいよ」

「全然違~う! ご主人様、こういうのは誰が淹れてくれたかっていうのが重要なの!」

「……そういうもの?」

「うん!」

 

 紅茶をソーサーに戻したアスナは、胸に手を当てながら自身の持論を高らかに語って聞かせる。

 

「ご主人様が私を想って淹れてくれた、それが重要、ちょー重要! ほら、料理は愛情って云うでしょう? だから、ご主人様の愛が沢山詰まったこの紅茶は、美味しくて当たり前なの!」

「へぇ」

 

 紅茶を啜りながら生返事を返す。愛情が入っている前提なのか、先生は少しだけ宇宙の真理に思いを馳せた。いや、まぁ、愛情が入っていない訳ではないのだ。入ってはいる、間違ってもアスナに対し悪い感情を抱く事はない。ただ、それを確信しているとばかりに口にされると、流石の先生も少したじろいだ。

 少しの間、二人の間に沈黙が流れる。窓を叩く雨音が室内に木霊し、二人は暖かい紅茶を啜りながら束の間の平穏を享受する。

 

「……ねぇ、ご主人様?」

「うん? 何だい、アスナ」

 

 不意に、アスナが口を開いた。

 隣に座る先生の肩に、そっと頭を乗せ、呟く様な声量で告げる。

 

「私さ、まだご主人様の事全然知らないし、ご主人様が何で【そんな風】になったのか想像も付かないけれど、愚痴とか、弱音の類なら幾らでも聞くし、ストレスの発散にも付き合ってあげるから――だからさ」

 

 言葉を切って、アスナは先生を見上げる。彼女の表情は、少しだけ揺らいだ感情を必死に笑顔でごまかすような、満面の笑みだというのにどこか悲しみが見え隠れする。そんな表情で、彼女は云った。

 

「それでも駄目になっちゃいそうな時は……アスナと一緒に、逃げちゃおっか」

「―――」

 

 先生は一瞬、言葉に詰まった。

 それは、返す言葉がないとか、彼女の言葉に感じ入ったとか、そういう事ではない。

 只、勘の鋭いアスナが己の状態を見抜き、正しく理解した上でその言葉を投げかけたのだと悟った時、先生は酷く動揺したのだ。哀しさや、嬉しさと云った感情とは解離した想いであった。

 その揺らぎを悟られない様に、先生は努めて平静に笑う。どこか、少しだけ嬉しそうに。

 

「まだ知り合って数日だろう、何で、そんな風に云えるんだい? 私が悪人だったらどうする?」

「ん~、勘? というか、ご主人様が悪人とかありえないし! 私の勘、結構当たるんだよ?」

 

「あぁ……良く、知っているとも」

 

 先生はアスナから目を逸らし、呟いた。

 仮面に罅が入る、先生の『本当の色』が垣間見える。自身を覆い隠した先生の皮が剥がれる瞬間――アスナは甘える仕草で先生の胸に髪を擦りつけながら、先生の瞳を覗き込む。

 

 ――この目だ。

 

 アスナは思った。

 自身を見つめる、この瞳が自分を狂わせる。

 アスナという個人を見つめながら――どこか、遠くを見ている様な。或いは別の誰かを見ている様な。

 確かに先生は自身を視界に収めているだろう、唯一無二の自分の名前を呼んでくれているだろう。けれど、彼が時折見せる瞳の奥には、胸の中には――自分ではない、別の誰か(違うアスナ)が居座っている。

 自分を通して、別の誰かに言葉を投げかけている。

 自分を通して、その誰かをずっと見つめている。

 

 ――ずるい。

 

 先生にそれだけ想われている、別の誰か(私ではないアスナ)が憎い。

 醜い嫉妬だと理解していながら、この先生にそれだけの疵を残した相手が――羨ましくて仕方がない。

 たった数日の積み重ねしかない? そんなもの、アスナにとっては何の理由にもならない。

 この人だと思ったのだ。

 この人以外ありえないと、自身の勘が叫んでいたのだ。

 だから、アスナは先生に寄り添う。衣食住だろうと何だろうと、自身が手厚くサポートする。おはようからお休みまで、先生に尽くし、想い続ける。

 そうすればいつか、きっと、その先生の瞳に映る誰か(アスナ)は――本当の自分(この世界のアスナ)になれると思ったから。

 

「先生」

「うん?」

「先生ってさ、いつか女の子に刺されそうだよね!」

 

 アスナが意趣返しの意味を込めてそう云うと、先生は何処か面食らったように目を丸くして――それから苦笑いを零して、云った。

 

「……そうだね、そうならないよう気を付けるよ」

 

 もう、生徒の手で死ぬなんて結末は――。

 

 





 先生を血達磨にして生徒の泣き顔を観察するのはまた明日だ、許せサスケ。
 と思ったが書きたくなったので書き綴ろう、喜べサスケ。
 毎日投稿で七千字って結構エグイと思うのだがどうなんだ、サスケ。
 でも次で漸くアビドスに入れるぞ、嬉しいなサスケ!

 幾つかの感想や何なら私の個人メールにまで、「サオリが好感度高い状態で先生撃ったらどないなるんですか、それが気になってもう待ちきれないんです、ペロロ様の靴下あげるので教えてください」と仰る方が出現したので、『エデン条約が行われた』、『サオリの好感度が高』、『周囲に味方はいない』、『原作通りのストーリーラインで、先生は事前の騒動を防げなかった』との仮定から、【サオリが先生を撃ち殺しちゃったらどないなるの?】を解釈していこうと思います。

 他に誰もいない場所で先生と対峙したサオリは、まず銃口を向けながら中々撃つ事が出来ません。これまでコツコツと好感度を稼いでいたので、そんな恩人であり淡い想いを抱き始めた対象を撃つことを躊躇ってしまいます。
 しかし、アリウスのメンバーに散々、ヴァニヴァニ(Vanitas vanitatum omnia vanitas.)――すべては空しい――と云い続けて来た手前、先生を撃たないという選択肢が取れません。何せ、生まれた時からずっとそういう風に育てられた訳ですから。
 自分達は救われる事など無く、そのような想いを抱く事自体が烏滸がましい、酷く汚れた存在なのだという自覚から、先生と自分が結ばれる事はない、先生は光の存在で、自分は薄汚れたスラムの孤児。先生が結ばれるのは、自身たちを裏切ってまで光を求めたアズサや、今騒動を収拾しようと走り回っている表側の生徒達であると思ってしまいます。
 ならいっそ、此処で殺してしまえば、そんな生徒達と幸せになる先生の姿を見なくて済む。そういう醜い劣等感と羨望、未来への絶望という衝動的な感情の爆発により発砲してしまいます。

 それで万が一、当たり所が悪く、先生が死亡してしまった場合。

 どてっぱらに穴が空き、悲しそうな、辛そうな、けれど彼女が気を病まないように、せめて笑って死亡した先生の表情を見て、サオリは自身が何を仕出かしたのかを自覚します。最初は呆然と硝煙を漂わせるライフルを構えたままだったのが、広がった血が爪先に触れ、鼻をつく鉄の匂いに、「ッ!?」と慌てて飛び退きます。
 生徒のヘイローを破壊するのとは異なる、無力で、脆弱で、ただ自身を真っ直ぐ見て、優しく、暖かな手で包んでくれるような存在を、自分が撃ち殺したという事実に、絶望と恐怖と後悔と、ありとあらゆる負の感情が綯い交ぜになった表情を浮かべるのです。

 それで、其処にトリニティのミカがやって来る訳ですね!

 先生に庇われ、救われ、挫けそうになった時、常に隣に居た存在。辛くなって膝を着きそうになった時、「大丈夫」と手を取り、微笑んでくれた先生が血の中に沈み、微動だにしなくなった姿。
それを青を通り越して白くなった表情で見つめたミカは、呆然と先生からサオリへと視線を移します。
 立ち上った硝煙と、今にも死にそうな表情を浮かべるサオリ。状況証拠としては完璧です。
 多分、血を吐く様な全力の咆哮を上げながら、サオリに飛び掛かるのではないでしょうか。

 そこでサオリは、諦めて、ミカの殺意の中に救いを求めるのでしょうか。 
 私の解釈は、少し異なります。

 サオリは衝動的とはいえ、エデン条約襲撃計画の為に、先生を殺害してしまいました。それはつまり結果的とはいえ、彼女にとって計画は先生より『重い存在になってしまった』という事です。
【先生を犠牲にしてまで実行されるこの計画に、失敗は絶対に許されない】という感情の発露ですね。

 奇しくもミカが、ちょっとした悪戯の範疇でアリウスと手を組み、ティーパーティーの友人セイア襲撃に加担し、「ちょっと脅して、監禁してくれたら良いから!」と頼んでいた筈が、殺害にまで発展してしまい、愕然としたように。

「セイアを喪った以上、もう戻る事は出来ない」、と思ってしまったミカ。
「先生を喪った以上、計画に失敗は許されない」と思ってしまったサオリ。

 サオリもまた、先生を喪う事によってミカと同じ場所まで【堕ちる】事が出来たのです。
 美しい友情ですね。

 その後は恐らく、どちらかのヘイローが破壊されるまで、全力で殺し合うのではないでしょうか? 勝って負けても大切だった先生は戻って来ませんし、シャーレは先生が死亡したので事実上の崩壊、最終的にベアトリーチェの儀式阻止も出来ませんので、キヴォトスは赤の中に沈みます。先生のせいです、あーあ。

 もし、先生が撃たれた後、辛うじて生存していた場合は這ってでも二人を止めて血に塗れながら二人に抱き着きます。なんやかんやでミカ諸共サオリも攻略し、ベアトリーチェも聖徒会もろとも大人のカードを使ってコロコロします。
 尚、その時召喚された前の世界の生徒達は、腹に穴を空けて血塗れの先生の姿を見て、最期の記憶がリフレインし、トラウマスイッチ、オン。
 憎悪と悲壮と絶望と激昂を撒き散らしながら殺到する生徒達に対し、ベアトリーチェに濡れ衣を着せる先生。
「ぷるぷる、わたし悪い先生じゃないよ、全部あのベアトリーチェって奴がやったんだよ」
 仕方ないね。ベアトリーチェは塵も残りません。
 その後、アリウススクワッドはなんやかんやあって保護観察処分という事でシャーレ所属となり、先生と手となり耳となり、幸せに暮らしましたとさ。
 ついでにセクハラしても、「全く……仕方のない人だ」と優しい微笑みを向けて来るサオリに先生は喀血し、ヒヨリのおヘソに顔を埋めて一命をとりとめました。どっとはらい。

 感想でアリウススクワッドの皆に一杯美味しいご飯を食べさせて、ちょっと油断したお腹になった皆のお腹を摘まんで、半殺しにされながら一緒にダイエットをしたいと仰った方が居て天才だと思いました。何て幸せな日常、美しい愛。
 ダイエットのランニング中にトラックとか突っ込ませて先生を轢き殺したくなりますね! 
 隣で話していた先生が唐突に消えて、代わりに真っ赤な血が、「お揃いだね」と笑いながらプレゼントされたサオリのランニングシューズにこびりついていたら、もう何もいう事はありません。忘れられない誕生日になったねサオリ。
 死んで尚、生徒達の心に生き続けるなんて……。
 かーっ! みんねアロナ! 卑しい男ばい!




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アビドス編
砂漠の銀狼


誤字脱字報告、ありがとうございます。


 

『先生、起きて、起きて下さいよー!』

「ん……」

 

 耳元から聞こえる、聞き慣れた声で意識が浮上した。僅かに痛む頸、そして凝り固まった肩。それらに顔を顰めながら目を開けば、視界に広がったのはシャーレのオフィス。防弾ガラスの向こう側から差し込む朝日に目を細め、自身がソファに横になっている事を確認し、身を起こす。

 体の節々から骨の軋む音が鳴った。死んだように眠っていたのか、己は。そう思考し大きく伸びをする。

 そしてすぐ脇に転がる端末を手に取り口を開いた。

 

「……アロナ?」

『おはようございます、先生、いつも云っていますが睡眠はベッドの上で行うのが望ましいですよ?』

 

 声に対し、返事は直ぐに帰って来た。液晶に映ったアロナが腰に手を当て、どこか呆れたような表情で告げる。勿論、理想はそうだろう。しかし先生は肩を竦め苦笑を浮かべたまま云った。

 

「知っているよ、ただまぁ、昨日は徹夜でやる事があって――」

『昨日というか、毎日じゃないですかぁ』

「そりゃあ……キヴォトスにどれくらい学園があると思っているんだい? 毎日徹夜にもなるさ、現状シャーレには人も居ないし、暫くの我慢さ」

 

 欠伸を噛み殺し起き上がる先生。だらしなく髪を搔きながらポットに近付き、傍にあったカップをひっくり返すと紅茶を注ぐ。

 どうやら今日は珍しく、ユウカやアスナの居ない日らしい。ワカモの視線も感じられない――時計を見ればまだ朝早く、寝入ってから三時間程しか時間が経過していなかった。それでも、もう一度寝る気にはならない。今此処で布団に入ったら、きっと爆睡してしまうという確信がある。キヴォトスに来てから先生はショートスリーパー一直線であった。

 温かいものを飲めば眠気も覚めるだろう、そう考えながらカップにティーパックを垂らす。紅茶の完成を待ちながら、先生はアロナに問い掛けた。

 

「それで、何か変わった事は?」

『相変わらず細々とした要望書、申請書の類は多いですけれど、緊急のものは特に――あ、そう云えば手紙が一通届いていました!』

「手紙? 電子メールではなくて?」

『はい、これは先生に一度読んでもらった方が良いかなと思って――』

 

 端末からホログラムが表示され、先生の机を指差す。見れば机の上にぽつんと、今時珍しい便箋が置いてあった。置かれたそれを手に取り眺めれば、見覚えのあるシールで封止めがされている事に気付く。

 そのマークは、とある学校のシンボル――太陽のマークに、三角形。

 

「………」

 

 先生はそっと中身を取り出し、開く。書き綴られた文字は丸みを帯びており、柔らかな手つきでそれらの文字をなぞった。

 

《連邦捜査部の先生へ》

《こんにちは。 私はアビドス高等学校の奥空アヤネと申します。 今回どうしても先生にお願いしたい事がありまして、こうしてお手紙を書きました。》

《単刀直入に言いますと、今、私達の学校は追い詰められています。それも、地域の暴力組織によってです。》

《こうなってしまった事情は、かなり複雑ですが……。どうやら、私達の学校の校舎が狙われている様です。》

《今はどうにか食い止めていますが、そろそろ弾薬などの補給が底を突いてしまいます……。このままでは、暴力組織に学校を占拠されてしまいそうな状況です。》

《それで、今回先生にお願いできればと思いました。先生、どうか私達の力になっていただけませんか?》

 

「アビドス高等学校、か」

 

 綺麗に折りたたまれた手紙を閉じ、そっと呟く。ホログラムで先生の傍に近寄り、手紙を覗き込むアロナは不思議そうに問いかけた。

 

『先生、アビドスをご存知でしたか?』

「うん、知っているよ――尤も書類上は、という但し書きが付くけれど」

 

 呟き、先生は内心で吐き捨てた。

 嘘だ、書類の上だけの話ではない。あの、共に走り抜けた日々を忘れなどしない。

 例えどんな結末であったとしても、自身が生徒達と共に過ごした日々を忘れる事など出来ない。無意識の内に手紙を握りしめ、先生はその事に気付くと慌てて力を抜く。少しだけよれてしまった手紙を指先で伸ばしながら、云った。

 

「そうか……もう【始まる】時期なのか」

 

 手紙を畳みながら、窓硝子越しに蒼穹を見る。

 これから始まるのだ――自分達の、生徒たちの、キヴォトスの。

 

 全ての運命を左右する出来事が。

 

「アロナ」

『はい、先生!』

「アビドスに出張する、シャーレの施錠を頼むよ」

『今日ですか!? 流石、大人の行動力! 了解しました、アロナにお任せ下さいッ!』

 

 そう云ってホログラムを消すアロナ。先生が不在の間、キヴォトスの管理はアロナに一任している。出張先でも書類仕事はしなくてはならないので、この辺りの準備は重要だ。

 取り敢えず軽くシャワーを浴びて、出張の準備をしなくてはならない。必要なものは多い――クラフトチェンバーも動かす必要があるだろう。先生は出来上がったばかりの紅茶を一息で飲み干し、強く口を拭った。

 

「……今度こそ、救うと決めたんだ」

 

 どうか、待っていて欲しい。

 

 ■

 

「格好良く決めた果てに迷子になる良い歳の大人がいるってマジ?」

 

 広大なアビドス、その住宅街で迷子になっている先生と呼ばれていた男。肩に掛けた出張用のバッグと端末を片手に呆然と立ち尽くす彼は、宛ら砂漠のど真ん中で遭難した要救助者――事実、そうなのだから仕方がない。

 記憶が薄れていた、というのもあるが、『実際、何度か向かった事あるし、余裕でしょう』という良く分からない自信から軽装でやって来てしまったのが仇となった。シャーレから公共交通機関を乗り継ぐ所までは良かったのだ、しかしアビドスは既に自治区として機能していない為、公共交通機関は通っておらず、アビドス高等学校までの道のりは徒歩。マップ機能に沿って歩いていても、最早嫌がらせとしか思えない程の距離を歩き続け、暑さも相まって注意力が散漫になり、いつの間にか予測ルートから外れて――という具合であった。

 というか良く考えてみれば、アビドス高等学校に向かう時は常に誰かしら出迎えがあったのだ。今考えると、彼女達は自身が迷子にならない様に先導役としての意味合いもあったのだろう。

 何という事だ、先生は愕然とした。自身は女子高生に案内して貰わなければ出張も出来ない、方向音痴であったのである。

 真実に気付いてしまった先生はその場に崩れ落ち、道路のど真ん中で横たわってしまう。

 

「ミレニアムのマイスター達が創ってくれた未来直行義肢があれば、私だって……いやでも、今更足を切り落とすとか怖くて嫌だ……私は……私は、貝になりたい……」

「……?」

 

 先生が自身の不甲斐なさに絶望し蹲っていると、不意に背後から自転車のブレーキ音が聞こえた。音に釣られるようにして振り向くと、其処には――。

 

「あの……」

 

 此方を見下ろし、困惑した表情をした銀髪に狼耳の生徒――シロコが立っていた。自転車に跨り、バッグに愛銃を突っ込んだまま先生を見る彼女は、先生の知る未来の姿とは少しだけ異なる。先生は暫く彼女の姿を見つめていたが、動いた事で死体ではない事が分かったのだろう。シロコの困惑の表情が、安堵のそれに変わった。

 

「あ、生きていた……道のど真ん中に倒れているから、死んでいるのかと」

「――シロコ」

 

 無意識の内に先生が呟き、シロコは少しだけ目を見開いて驚く。先生は自身の口が彼女の名を呟いた事に気付き、思わず口を噤んだ。

 

「私の事、知っているの?」

「……うん、まぁ、一応ね」

 

 流石に寝転がったまま相手をするのは失礼だと、起き上がって制服の汚れを払う。白い連邦捜査部の制服は、汚れが目立つ。手で払うと、幸いにして付着していたのは砂利だけの様で、直ぐにその純白を取り戻した。

 気まずい内面を悟られない様、咳払いを一つ零し場を持ち直す。

 

「ごめん、恰好の悪い所を見せたね、少しお腹が減ってしまって――」

「……ホームレス?」

「いやいや、違うよ、実は――」

 

 ■

 

「用事があって数日前にこの街に来たけれど、御店が一軒もなくて脱水と空腹で力尽きたと」

「……一応、食糧と水は持ち込んでいたのだけれどね、全然足りなかった、ははは」

「そっか、ホームレスじゃなくて遭難者だったんだね」

 

 シロコの先生を見る目が、【帰る場所のないホームレス】(かわいそうな人)から【道に迷った人】(かわいそうな人)に変化した。変化――したのだろうか? 先生は突然自信が無くなった。余り変わっていないような気がしたのだ。

 こんな数日放浪してしまうのも、シロコに可哀そうな人を見る目で見られるのも、全て自身の不徳――否、本当にそうだろうか?

 シャーレから出発して数日間経っても目的地にたどり着けないアビドスが悪いのではないだろうか? 自身がこんな醜態を晒しているのは己の準備不足などではなく、非常識な自治区の広さを誇るアビドスそのものが悪なのでは? 先生は思った、そうかもしれないと。そっと先生はアビドスそのものに責任転嫁し、自身の自尊心を守る。

 先生の自我は一層強固なものとなった。

 

 シロコはどこかやつれた様子を見せる先生に、遠くの方を見ながら痛ましそうに告げる。

 

「市街地の方に行けば御店もあるけれど、こっちの方は公共交通機関もないし、大変だったでしょう?」

「うん、正直もう歩きたくない位には」

 

 先生がそう云って肩を落とせば、シロコは何かを思い出したのか背負っていたバッグを漁り、一本のドリンクを先生に差し出した。

 

「……はいこれ、エナジードリンク」

 

 内容物は九割方残っており、ラベルには『エネルギー補給に最適!』の謳い文句が踊っている。ここ数時間、飲まず食わずで周辺を彷徨っていた先生にとって、それは素晴らしい魅力を放つ代物だった。まさに、砂漠の中のオアシス――。

 

「ライディング用なのだけれど、今これくらいしか持っていなくて――えっと、コップは」

「頂きます!」

 

 迷いはなかった、というよりも飲まず食わずの状態で死にかけていた先生にとって、それは考慮に値する問題ですらなかった。

 先生はボトルを受け取ると、キャップを外し一気に飲み出す。余りの剣幕と素早さに、シロコが反応する余地もなく、先生が飲み口に唇を付けている姿を見て、はっとシロコの頬が赤く染まった。

 

「ッ! あ、それ……」

「―――ぷはッ! 生き返ったァ!」

 

 先生が久方ぶりの水分に息を吹き返せば、シロコは何か言いたげに口をもごもごと動かしている。その事に首を傾げれば、シロコは目を瞑って首を横に振った。本人は気にしていなさそうだし、態々口に出さなくても――そう判断したのである。

 

「……ううん、何でもない、気にしないで」

「そう? じゃあ改めて、本当に助かったよ、ありがとう」

「まぁ、うん」

 

 頬を掻きながら、何とも言えない表情で頷くシロコ。そして不意に、先生の腕に巻きつけられた腕章が目に入った。青に流星の白線、そして中央にシンボルマーク――横合いから見たそれは、連邦生徒会が身に着けているものと酷似している。

 

「その制服に腕章、連邦生徒会の人だよね、こっちには私達の学校くらいしかないけれど――もしかして、アビドスに行くの?」

「あぁ、うん、そうなんだ、アビドス高等学校が目的地」

「そっか、なら久々のお客様だ」

 

 先生の目的地がアビドスだと分かると、目に見えてシロコの雰囲気が柔らかくなった。砂漠化が進み、殆どの住民が居なくなった今、アビドスに訪れる人物など皆無に等しい。それこそ、訪れる人物は悪意を持った者が殆どだろう。

 そんな中、先生の様な大人が訪れる事など、本当に稀であった。

 

「案内してあげる、此処からなら近いよ」

「あー……その、言い難いのだけれど」

 

 先生はボトルをシロコに返しながら、生まれたての小鹿のように震える足を指差した。宛ら採掘機の如く、前後左右にカクカクと震えるそれは残像すら発生させる。

 

「足が、限界なんです」

「………えっと」

 

 シロコは凄まじい勢いで左右に振れる先生の膝を見て、とても、とても困ったような顔をした。流石にそんな状態で歩かせるのは酷だと思ったのか、周囲を見渡し移動手段を模索する。

 

「どうしよう、この辺に車とか――」

「申し訳ないのだけれど、後ろに乗せてくれないかな、その自転車に……」

「えっ、二人乗りって事? でもこれ、一人用だし」

「なら、背負って欲しい」

「………」

 

 明らかに、「えぇ……」という表情を浮かべたシロコは、数秒頭を悩ませるようにして黙り込む。しかし現状、車もなければ公共交通機関もない。自転車二人乗りは――出来なくもないだろうが、余り推奨された行為ではないし、何より危険が大きい。

 それなら、まぁ、背負った方が良いかとシロコは判断し、頷いた。

 

「まぁ、二人乗りよりはその方が良いか」

 

 呟き、ロードバイクを降りると路肩に停めて鍵を掛ける。尤も、この辺を通る人間などそれこそアビドス高等学校の生徒位なので、誰かに盗難されるような心配など皆無だろうが。鍵をバッグに入れ、先生の前で背を向けるとそのまま屈んで手を差し出した。

 

「それじゃあ、はい」

「申し訳ない、申し訳ない……」

 

 謝罪をしながら、よたよたと覚束ない足取りで背中に進む先生。その手が肩に触れようとした時、不意にシロコの背がピンと張った。

 

「あっ、待って」

「ん?」

 

 もうシロコの背中に身を預けようとしていた先生は、直前の制止に疑問符を浮かべる。背中越しに先生を見るシロコは、心なしかその耳を赤く染めていた。

 

「えっと、さっきまでロードバイクに乗っていたから、その、沢山掻いた訳ではないけれど……汗が」

「――それが良いんじゃないか」

 

 先生は非常に真剣な表情で、そう告げた。それを拭うなどとんでもないと、その状態だからこそ良いのではないかと。その両の瞳は真剣で、本気で、プライドに輝いていた。何の為に戦っているのかを理解している、戦士の目だった。シロコはそんな目をした大人を見るのは初めてだった。

 その心意気に気圧されながら、シロコは頬に朱を散らす。

 

「うーん、ちょ、ちょっと良く分からないけれど……気にならないなら、まぁ良いか」

「どうぞよしなに」

「……変わっているね」

「良く云われるよ」

 

 全く以て本当に。

 先生がシロコの肩に捕まり、その身を背中に預ける。男性の硬い体の感触を感じながら、シロコは一気に立ち上がり、先生を背負った。何度か位置を調整しながら、動いてもずり落ちない様確りと太腿を掴む。先生も長い間自治区を彷徨っていた為か、少しだけ汗の匂いがした。

 けれど別段、嫌な匂いではない。

 

「それじゃ、しっかり捕まっていて」

「すぅううう、うん、スゥウゥウウ、ありがとスゥウウう」

「………」

「――えっ、ちょ、待ってシロコ? なんか早くない、凄い勢いで景色が、シロッ、シロコ? シロコさん? 待って、もう少しゆっくり走っ、シロコ? シロコさんッ!?」

 

 気にしないと云われても、流石に恥ずかしい。

 心は乙女なシロコであった。

 

 





 皆さん感想で性癖開示し過ぎでは?
 性癖展開している性者の猛者も居ますし……。
 まぁ私も性域に引きずり込まれた以上、必中効果に抗う為、性癖展開しますけれど。
 愉悦? ――失礼だな、純愛だよ。

 
 補習部でテストを全部終えた後、誰もいない教室にコハルを呼び出して、「せ、先生! こんな場所で、一体何するつもり!?」と敵愾心を露にするコハルを壁ドンして、怯えたような、どこか期待するような目で此方を見上げるコハルの制服を一枚一枚脱がせていき、これ以上脱いだら下着が見えてしまうという所まで手を伸ばして、内心で「わ、私これからしちゃうんだ……! 先生と、そういう事、しちゃうんだ……!」と胸を弾ませたコハルに脱がせた制服をもう一度着させてそっと教室から立ち去りたい。

 きっと数秒程呆然とした後、「え、あれ……ぇ、せんせい?」となって混乱した眼差しで自身の体を見下ろした後、もしかして先生の好みの体型じゃなかったのかもとか、下着をもっと大人っぽいものにしなくちゃ興奮してくれないのかも、とか色々考えて恥を忍んでハナコとかに大人な下着とか、異性の誘い方とかを聞きに行くのだ。ハナコはハナコで日頃から、「エッチなのは駄目!」と宣っているコハルが突然下着や異性の誘い方何てものを聞いてくるものだから、一体どうしたのだと訝しみ、コハルが赤面しながら、「せ、先生と、ちゃんとそういう事したいから、前は私が馬鹿で、駄目だったから……興奮して貰えなかったから」と涙目で宣い、もう二歩も三歩もコハルの方が大人の階段を登っているのだという事実と、いつのまにか想い人を盗られていたという事実に影で涙して欲しい。

 その後、どこか大人びた格好でバッチリ決めたコハルと先生がデートをして、めちゃくちゃ良い雰囲気でシャーレまで戻って来た時、それとなくそういうアピールをしたコハルに先生は困った顔で額に唇を落とし、「また明日ね、コハル」と優しい声で囁かれ渋々引き下がるのだ。それでも確かに自分は一歩ずつ進んでいるという実感と、先生とのこれからに思いを馳せて、最初はショボショボ歩いていたのに、トリニティに戻る頃にはスキップなんてしているんだ。

 それで翌日、先生の参加したエデン条約の会場が誘導弾頭(ミサイル)で吹き飛ぶ瞬間を中継で目撃して、補習部みんなと呆然として欲しい。瓦礫の中から飛び出した腕が一本、その腕章に「シャーレ」の文字と、真っ白な制服が真っ赤に染まっているのを見て、悲哀と絶望とどうにもならない現実に絶叫して補習部の皆に取り押さえて貰いたい。

 先生が死んだという事実と、絶望し泣き喚く友人――コハルを背後から必死に押さえつけながら、自分も泣きたいのに只目の前にある現実を受け入れるだけで精一杯で、大事なペロロ様のリュックに踏み痕を残しながら、慟哭するコハルとモニタを見つめるヒフミも見たい。あれだけ大事なペロロ様だったというのに、唐突に奪われた友人と想い人を前に、その愛すら霞んでしまう大事なものだったのだと気付いて、もう手遅れなのにそれ自覚した自分に絶望して欲しい。

 その後、なんやかんやアロナの助力で辛うじて生きていた先生と遭遇して、泣きながら喜んで欲しい。再会した時の補習部の皆はきっと、とても良い笑顔を浮かべていると思うのです。
 まぁその後、サオリに撃ち殺されるんですけれどね初見さん。
 これが本当の二撃決殺(ブリーチ)――やっぱり師匠はオサレだなぁ。



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運命の開始地点

独自設定と解釈に御注意ください。


 

「ただいま」

「おかえり、シロコ先輩――うわっ!? 何!? そのおんぶしているの誰!?」

「わぁ、シロコちゃんが大人を拉致してきました!」

「拉致!? もしかして死体!? シロコ先輩、ついにヤっちゃったんですか……!?」

「皆落ち着いて、バレなきゃ犯罪じゃないわ! 死体を隠す場所を探すわよ、体育倉庫にシャベルがあるから、それで――」

「………」

 

 アビドス高等学校、その一室。先生を背負ったまま校内へと入ったシロコは、いつも通り対策委員会の部室に足を踏み入れ、同時に掛けられた心無い言葉の数々に微妙な表情を浮かべていた。

 普段どんな風に見られているのか心配になりつつ、「あぁ、此方でも変わらないのだなぁ」と少しだけ安堵した先生。

 如何にも文芸部室と云った部屋の中には、ホワイトボードと長机、スチール棚にぎっしり詰まったファイルが並んでいた。時折、テーブルの上に見える弾薬と銃器が物騒ではあるものの、キヴォトスでは一般的な風景であろう。

 部屋の中に居たのは三人、黒髪赤眼鏡の少女と、猫耳にツインテールの少女、そして最後に明るい髪に笑顔を張り付けた、胸部装甲が「デッッッ!」な少女。先生はそれらのメンバーを横目に、小さく手を挙げて見せた。

 

「い、生きている、生きています……」

「し、死体が喋った!?」

「いや……普通に生きている大人だから、うちの学校に用があるって云われて」

 

 そう云いながらシロコが先生を下ろす。暫くシロコの背中で休んだ為――そしてアロマセラピーによって精神力が回復した為――先生は少しよろけながらも、自分の足で確りと立つ事が出来ていた。

 

「えっ、死体では、なかったのですか……?」

「拉致じゃなくて、お客さん?」

「そうみたい」

 

 皆が皆、顔を見合わせ、先生を見つめる。その中にはどこか訝しむ目もあった、当然だろう、突然自分たちの学校にやってきた大人の男性。彼女達の状況を考えれば警戒するのは当然と言える。

 分かっていた事だが、嘗て共に戦った仲間から送られる心無い視線に、少しだけ胸が痛んだ。

 

「お客さんなのは分かったけれど、一体誰なの?」

「……えっと、私の汗の匂いが好きな大人のひと」

「……?」

 

 瞬間、全員の頭上に疑問符が浮かんだ。

 シロコの汗が好きな――大人の人?

 

「シロコ、シロコさん、それだと誤解を与えてしまいます、まるで私が汗で興奮する変態みたいに聞こえちゃうでしょう」

「……違うの?」

 

 違わないけれど。

 先生はその言葉を全力で飲み込んだ。今、此処でそんな事を口にすれば疑いが深まるのは火を見るよりも明らか。シロコの言に疑問符を浮かべていた生徒も面々ではあるが、突拍子が無く、尚且つ彼女の性格を良く知っているからだろう。冗談か悪ふざけの類だと流し、金髪の温和な生徒――ノノミが一つ、手を叩く事で話を打ち切った。

 

「まぁ、それは置いておいて、お客様がいらっしゃるなんて、とっても久々ですね!」

「そ、それもそうですね……でも来客の予定ってありましたっけ?」

「んんッ! えぇと、私はキヴォトス連邦捜査部シャーレの顧問です、此方のアビドス高等学校から手紙を頂き、出張して参りました――よろしくね」

 

 先生はここぞとばかりに大人の威厳を発揮し、そう云って自身の腕章と、普段はポケットに入れたままにしているIDカードを差し出した。シャーレの管理を一手に任されている先生だけが持つ、連邦捜査部シャーレ顧問の証明である。

 それを覗き込んだ生徒達は、一様に驚き、次いで両手を上げて歓声を上げた。

 

「……え、ええっ! まさか!?」

「連邦捜査部シャーレの先生!?」

「わぁ、支援要請が受理されたのですね! よかったですね、アヤネちゃん!」

「はい! これで……弾薬や補給品の援助が受けられます!」

 

 手を取り合い、満面の笑みで喜び合うアビドス。それだけ彼女達の戦いが孤独で、辛く、苦しいものだったのだろう。見れば部室の中にあるコンテナや弾薬箱には、もう殆ど内容物が残っていなかった。本当にギリギリの戦いだったのだ、赤縁の眼鏡を掛けた少女――アヤネの目尻には涙すら浮かんでいた。

 

「あ、早くホシノ先輩にも知らせてあげないと……あれ、ホシノ先輩は?」

「委員長は隣の部屋でお昼寝中、私が起こしてくるから」

「お願いします、セリカちゃん!」

 

 セリカと呼ばれた猫耳を生やした少女が小走りで部室を後にし、アヤネが先生に向き直る。改めてメンバーの紹介と、救援に対するお礼を告げようとした所で――。

 

「っ、銃声!?」

 

 不意に、校舎の外から甲高い発砲音が鳴り響いた。

 咄嗟に傍に居たノノミが先生の頭を抱えて屈み、シロコが愛銃を抜き放って窓に身を寄せる。そっと外を覗き見れば、校門の向こう側から威嚇射撃のつもりか、空に向かって銃撃を行うヘルメットを被った集団の姿が見えた。

 窓から頭だけを覗かせていたシロコの表情が露骨に歪む。

 

「ヒャッハー!」

「今度こそ終わりにしてやるぞ! 奴らは既に弾薬の補給すら受けられていない! 押しまくれ! 数で押し続けろ! 学校の占領までもう少しだッ! あッ! 校舎には余り撃ち込むなよ! 私達の住処になるんだからなッ!」

 

 かなりの人数の不良達が空に向かって銃を乱射しながら、学校の校門に殺到している。銃器を持った者から土嚢、弾薬箱を担ぐ者まで。本気で校舎を攻略するつもりなのだろう、ドローンを扱うアヤネが端末を確認し、悲鳴のような声を上げた。

 

「わわっ、武装集団が学校に……! あれは、カタカタヘルメット団です!」

「あいつら……性懲りもなく!」

 

 シロコが愛銃のコッキングレバーを引くと同時、セリカが何者かを抱え部室に飛び込んでくる。その肩には彼女の愛銃がぶら下がっており、この短時間に戦闘準備を終えた事が伺えた。

 

「ホシノ先輩連れて来たよ! ほら先輩っ、寝ぼけていないで、起きて!」

「むにゃ……まだ起きる時間じゃないよぉ」

 

 腕の中で抱えられた小柄なピンク髪の少女――ホシノが呻きながら呟く。その目はしょぼしょぼと萎んでおり、四肢はだらんと脱力していた。アヤネが傍に駆け寄って声を張り、セリカが必死に揺り起こすも一向に自力で立とうとしない。

 

「ホシノ先輩! 襲撃、襲撃です! ヘルメット団が攻めて来たんですよ!」

「んぐ……そりゃあ、大変だねぇ……」

「先輩、しっかりして! 出動だよ、装備を持って学校を守らないとっ!」

「――私に任せて」

 

 必死に声を掛けるセリカとアヤネを前に先生は静かに庇ってくれたノノミに礼を告げ、一歩踏み出す。一体何をする気だと訝し気に見るセリカと、先生ならば或いは、と身を引くアヤネ。

 先生は眠るホシノの傍に屈み込むと、小さく息を吸い込み――囁いた。

 

ホシノ、愛しているよ(クソイケボ)

「――んひぃ!?」

 

 唐突なASMR(大胆な告白)攻撃に飛び起き、耳を抑えたホシノが後退りながら先生を凝視する。その耳は真っ赤に染まり、先程まで薄らとしか開いていなかった両目はこれでもかという位に見開かれていた。

 

「んへッ、誰!? 何、何なの!?」

「やぁ、おはようホシノ、私はシャーレの顧問、先生(ASMR)だよ」

「へ、シャーレ……?」

 

 どこか呆然とするホシノに、また銃声が響き渡る。あいつら弾薬を無限に持っているのか? と訝しむ先生を前に、アヤネはよろよろと立ち上がったホシノに詰め寄った。

 

「と、兎に角、ヘルメット団が攻めて来たんです! 直ぐ迎撃に出ないと……!」

「すぐに出るよ、先生のお陰で以降弾薬の補給は受けられそうだし、ある分だけ使い切る」

「はーい、皆で出撃です☆」

 

 全員が愛銃を手に取り、部室を後にする。ホシノはそんな彼女達の様子を見て、静かに溜息を吐き出した。

 

「うへぇ……良く分からないけれど、何となく状況は理解したよ」

「うん、流石ホシノだ」

 

 先生が笑顔でそう云うと、どこか恨めしそうな目でホシノが先生を見た。仕方ないのだ、以前も彼女が眠そうにぐずっていた時、これが一番効果的だったのだから。なので私は悪くない、先生は己に強くそう言い聞かせた。

 

「私はここからオペレートしますので、先生はサポートをお願いします!」

「分かった、任せて」

「……じゃあ、私も出撃してくるね」

 

 皆の後に続き、ホシノも愛銃のセミオートショットガン、『Eye of Horus』を手に取って部室の扉を開く。しかし、その扉を閉める寸前で彼女は背中越しに声を上げた。

 

「シャーレ顧問の先生、だっけ――」

「うん?」

 

 先生が振り向き、同じように先生の方へと視線を寄越すホシノ。

 その瞳は酷く冷たく――昏い色に輝いていた。

 

「――アヤネの事、お願いね? 先生なんだから、生徒は守ってよ」

「……あぁ、勿論」

 

 数秒、二人の視線が交差する。

 視線を反らさず、真っ直ぐ此方を見つめ返す先生の瞳に、ホシノは鋭かったソレをいつもの眠たげなものに戻した。

 それから彼女は部室の扉をそっと締め、遅れて廊下を駆ける音が響く。

 

『――こちらシロコ、ヘルメット団を目視した』

『ちょ、思ったより多い!? 何でこんなにッ……!』

『わぁ、大人気ですね、私達~』

『ノノミ先輩!? そんな呑気な事云っている場合じゃないでしょう!?』

『うへー、本当に多いねぇ、おじさんも直ぐ合流するよ~』

 

 端末越しに聞こえる生徒達の声。アヤネはテーブルの上に配置した操縦桿と操作盤を忙しなく動かしながら、液晶内蔵画面(HUD眼鏡)を見つめ声を上げる。

 

「えっと、ドローン偵察による敵性反応は、一、五、十、十五、二十……お、凡そ三十人!」

『そんなに居るの!?』

 

 セリカが悲鳴を上げ、アヤネが厳しい表情を浮かべる。先生は誰にも分からぬよう目を細め、小さく悪態を吐いた。

 ――以前より、人数が多い。

 

『ん……この数だと弾薬、ギリギリかも』

『小隊規模かぁ、本気だね、向こうも』

『どうしましょう、このまま迎撃しますか?』

「――皆、聞いて欲しい」

 

 先生は大きく息を吸い込むと、端末越しに声を張り、全員の注目を集め――告げた。

 

「私が戦術指揮を執る、従ってくれ」

 

 一瞬、隣のアヤネを含めた皆の間に空白が生まれる。

 この大人に指揮を任せる――それは、大丈夫なのか? 思考に上るのはその一点。

 しかし、同時に連邦捜査部シャーレの評判はSNSや掲示板などで何度も目にした。何ならクロノススクールの報道部が、【Metube】で動画を上げていたのを思い出す。

 内容は連邦生徒会長が特別に指名した大人が顧問を務める事、そしてその『先生』が彼のワカモの起こした騒動を見事収拾して見せた事。その評判は大抵良い方向のもので、この辺鄙なアビドスにも聞こえてくる程のもの。

 だからこそ、一抹の望みを掛けて手紙を送ったのだ。蜘蛛の糸でも良い、この現状をどうにかしてくれる、誰かの手を求めて。

 数千の学園が存在する中で、本当にアビドスに来てくれるなんて、少しも思わなかったけれど――最低限の信頼(命を預ける信頼)を既に、アビドスの皆は先生(シャーレ)に抱いていた。

 

『――ん、件の騒動については聞いている、先生の指揮、私は信じたい』

『他の選択肢はないんでしょう!? なら、頼るしかないじゃない! 本当に頼んだわよ先生!? 失敗したら承知しないからッ!』

『分かりました、先生を信じます☆』

「せ、先生、お願いします!」

『おじさんも――まぁ、今は信じようかな』

 

 全員が全員、思う所はあれど頷いて見せる。

 先生はそれを確認し、深い感謝の念を抱きながら――自身の最大の武器であるタブレット(シッテムの箱)を取り出した。

 

「ありがとう――何、大丈夫さ、相手は高々三十人、十倍差ならまだしも、この程度は何でもない」

 

 アヤネも入れてアビドスは五人。十倍には、あと二十人足りない。

 その強気な発言に、隣に座っていたアヤネも呆気にとられる。しかし、先生にとっては本当に、何でもない様な戦闘なのだ、これは。

 それを証明するように、先生の顔には薄らと笑みが張り付いていた。

 だと云うのに、瞳だけは冷たく、鋭い。酷薄、と呼べる表情を浮かべる先生は静かに髪を掻き上げ、目線を落とした。

 

「――さて」

 

 手に持ったシッテムの箱に、万が一の為に持参していた外部バッテリーを接続する。ボタンを押し込み起動を確認すると、画面上に蒼穹が躍った。

 準備は整った、これから始まる――キヴォトスの命運を賭けた、最初の戦い。

 

「大事な一戦だ、大人の力、此処で証明して見せよう」

 

 ■

 

「アロナ」

『はい、先生! 状況を開始! オペレーティングシステム、戦術指揮モードを起動します!』

 

 あの頃とは違う、溌剌とした声色が先生の脳内に響く。

 同時に電子音を鳴らし、シッテムの箱、その液晶にアビドスの地形データが映し出される。更に一拍置いて、周辺に展開する敵性勢力の位置情報がぽつぽつと表示されはじめ、十秒も経過すれば校門周辺に陣取る不良達の配置が丸見えとなった。

 この箱がある限り、地形・敵数・配置・戦闘装備(防御・攻撃属性)、全てが手に取る様に分かる。ワカモ騒動の際には手元になかった先生の持つ最大の牙――それがこのシッテムの箱であり、これが戻った以上、今の先生に敵はない。

 先生は表示されたコンソールに文字列を入力しながら、アビドスの生徒全員とシッテムの箱にリンクを確立させた。

 

「――今から全員の【ヘイロー】を介して敵の位置情報と詳細な指示を送る、ARやHUDの様なものだから副作用の心配はないよ、最初は驚くかもしれないけれど慣れて欲しい」

『え、ちょ、先生!? ヘイローを介して、って一体……!』

 

 セリカが全員の言葉を代表して声を上げるも、先生の手は淀みなく動き続け、入力を終了した瞬間、アロナが両腕を突き上げデータリンクが完了した。

 

『データ解析完了、個別パターン承認、回路形成、先生から生徒へ、相互パス構築――完了! 情報転送開始します!』

 

 アロナが勢いよく腕を振り下ろすと同時、先生を中心に蒼い光が周囲に弾ける。途端、アビドス高等学校の面々の頭上に浮かぶ輪――ヘイローが光り輝き、手足に小さな痺れが走った。

 

『――ッ!?』

 

 全員の視界に走るノイズ、痛みはない。そして数度瞬きを終えればノイズも消え去り、周囲を見渡せば視界に赤い人型の輪郭が表示された。

 ――敵勢力であるカタカタヘルメット団の潜む場所だ、それが壁越しからでも視界にはっきりと表示されていた。

 更に敵の構える銃から発射されるであろう弾丸の予測線、演算から導き出される遮蔽物の安全箇所と危険個所、現在の場所から射撃を行って命中する確率、手に持っている愛銃の残弾、残りの弾倉、立体化した周辺地形の3Dマップ、湿度や風の有無――それらの情報が視界に、直感的に分かり易い形で表示されている。

 全員が一瞬、目がおかしくなったのかと擦るものの、表示は一切変化しない。

 

『せ、先生、これって……』

「私が戦術指揮を執っている間、有効なサポートだと思って欲しい、敵の位置情報はリアルタイムで更新されるから、殆どその場に居るものと思って貰って構わない、でも危険域や射線に関しての演算予測はあくまで予測、過信はしないでくれ」

 

 そう、これが先生の持つ最大の武器であり、嘗てキヴォトスを裏切り、対峙して尚ごく少数の戦力で戦い続ける事が出来た秘策。

 キヴォトスの行政制御権すら手中に収める事が出来る超高性能AI、アロナ――その演算機能と情報収集能力を用いたリアルタイム情報共有機能。そこに本来であれば不可能な、「ヘイローへの干渉」という反則染みた行為を【契約】によって行う、完全情報武装。先生の指揮能力も重なって凄まじい相乗効果を生み出すこれは、先生の持つ『大人のカード』によって実現されている。

 

 ――先生は嘗て、エデン条約のように、複数の学園が提携しシャーレと敵対した事を思い出した。辛く、苦しい、未来の記憶だ。先生にとっては思い出したくもない、運命の底。しかし、その災禍が無ければ己は、此処までの力も、決意も、手に入れる事は出来なかっただろう。

 クラフトチェンバー(補給物資生成装置)とシッテムの箱、一部キヴォトスを離反した凄腕の生徒を擁し、殆ど自給自足可能なシャーレに籠城した当時を思い返すと、我ながら良くやったものだと乾いた笑いが込み上げる。

 

「――さて、敵の第一陣が突入準備を整えている、これを迎撃して出鼻を挫くよ」

 

 それでも、自分は前に進む。今度こそと、その願いを胸に抱いて。

 一瞬、過去に引き戻されそうになった意識を先生は強引に振り切った。

 冷徹な思考で以てタブレットを操作しながら指示を出し、全員の視界にルートを表示させる。今、生徒たちの視界には床に浮かび上がる形で進行するべきルートが見えているだろう。

 

「ホシノ、シロコ、二人は正面玄関で待機、ノノミ、セリカ、二階から窓越しに支援射撃準備、上を抑えてしまえば足は鈍る、アヤネ、ドローンで全体を見て回復と補給をお願い」

「わ、分かりました!」

 

 隣で、「これ、私必要ないんじゃ……」と戦慄していたアヤネは先生の言葉に慌ててドローンの操縦桿を握り、全員のサポートに回る。役割が逆転したが、元よりAI操作のドローンより、人力の方が行える支援の幅は広い。物資の運搬、治療薬の投与、弾薬の補給、万が一の救助――前線に出なくともドローンで行える仕事は山ほどある。

 先生は画面に映る不良達の位置、動きを見ながら思考を巡らせた。不良達は威嚇行為をやめ、続々と校門前に集合している。散発的に突撃して来れば楽に対応出来たものを――集合を待って一気に雪崩れ込む腹積もりらしい。

 土嚢を敷き詰め、一丁前に陣を構築しつつある敵情を見つめながら先生は口を開いた。

 

「……ホシノ、ひと当てしたい、行けるか?」

『うへ、何、先生もしかしておじさんに突撃しろって?』

「いや、最初に出て来る相手のヘイトを買ってくれたらそれ以上は望まないよ、ノノミとセリカのキルゾーンに誘い込みたい、纏まって来ると云っても三十人全員で突撃という事はないだろうし、前を止めれば後ろが詰まる……当然の事だけれどね」

『んー……ま、出来るけれどね、しょーがない、皆の為に頑張りますか』

 

 





 中途半端な所で切って申し訳ない。結構迷ったのですが後半も入れると一万後半になってしまうので、自身の無力感に噎び泣きながら二つに分けました。ペロロ様が腹を切ってお詫び致します。


 ハルカはね、もう本当ね、カワイイ。先生と朝ご飯を一緒に食べる事になって、不慣れな料理でごめんねって云うと、「わわわ私なんかが先生と一緒の食卓何て、しかも手料理!? わた、私、床で良いです、床が良いです!」、とか云って床に座りそうになるのを無理矢理膝の上にのっけて、手作りの料理を食べさせてあげるんだ。最初の内はあわあわしているのだけれど、動くと先生の邪魔になると思って呼吸と最低限の口を開ける動作以外、全部自重するんだ。勿論、料理の味なんか分からないし、冷汗で額が大変な事になる。その事を後で思い出して、「せ、先生の料理の味の感想も云えないなんて……し、死にます! 死んでお詫びしますッ!」と云って暴れるのを抱きしめて抑え込むんだ。暴れると先生が怪我をするかもしれないから、涙を流しながら過呼吸気味に先生の腕の中で必死に震えるハルカ、可愛いね。

 御昼は一緒に観葉植物を育てる、先生はハルカに色々と教えて貰いながら――勿論最初は、「私が先生に、お、教えるなんて、そんな、恐れ多い……!」となっていたが、何度も何度も頼んでいる内に、段々先生に対して申し訳なくなって教えてくれる――植木鉢を揃え、ハルカの秘密基地から少しだけシャーレに雑草を移し、二人で少しずつ育つそれを眺めて一日を過ごすのだ。

 シャーレに来て最初の内は何も出来ずオドオドして、せめて誰か悪い奴が来た時に盾にならなきゃとか思って愛銃を片手に扉の横で蹲って、そんな自分を気に掛けてくれる先生の行動に一喜一憂していたのだけれど、シャーレに通う回数が増えるにつれて段々とそんな日常に馴染んで来て、こんなに幸せで良いのだろうか? という気持ちと、これから良くない事が起こるかもしれない、という漠然とした不安に挟まれながら、けれど好きな人と一緒に穏やかな時間を過ごす事が余りにも心地よくて、少しずつ、本当に少しずつ笑えるようになって欲しい。

 先生に可愛いって思って欲しくて、いつもは全然気にしていない髪の毛を、ちょっとした硝子越しに手櫛で直したり。先生が好きな紅茶の銘柄を記憶して、事務所に戻ったあとこっそり同じものを購入して飲んで、先生とお揃いだと微笑んだり。先生に美しいものを見せたくて、いつもは雑草ばかり摘んでいたのを、道端に咲く野花を不意に育てたりなんかして。私も頑張れば先生の隣に立っても笑われないような、こんな風に、ちょっとは誰かに気に掛けて貰えるような花になれるのかな、なんてすくすく育つ野花を見て考えたりして。

 そして第一話の後書きに戻る。
 ハルカにプレゼントする為に、ちょっとだけ値の張る植木鉢を買う為にお金を下ろしに来た先生。
 その銀行にハルカが、便利屋68の活動資金と、個人的に「先生、いつもお世話になっています」というメッセージカード付きのお高いプレゼントを買う為に強盗に入り、先行制圧の為に爆弾を投げ入れた後――ぐちゃぐちゃになった先生の連邦制服と、植木鉢を買う為にメモしていたお店の住所、見覚えのある筆跡、焼け焦げたメモを見つけて「――せんせい?」となってほしい。
 きっと爆発が起き、確かな結果に手ごたえを感じながら、この仕事が終わったら先生と一緒に少しだけ高い材料を買って、今度は私が料理を作ってあげるんだ――なんて思っていたんだ。そんな未来もう来ないのにね。可愛いねハルカ、素敵だよ。

 あー、先生を幸せにして、その幸せを奪って幸せになりてぇ~。



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やがて死に至る勝利

誤字脱字報告、助かります。


 

 ホシノは先生の通信に答え、愛銃のショットガンを抱えながら校門前に布陣する不良達を見ていた。その隣ではシロコが同じように校門を見据えながら横目でホシノを確認し、静かに問いかける。

 

「……ん、いけそう?」

「まー、大丈夫でしょう、ちょっと人数が多いけれど、一度に全員相手にする訳でもないし――この【目】もあるしね」

 

 そう云いながら、薄笑いを浮かべ瞼の上から指で叩くホシノ。今までは考えられないようなサポート、敵の位置に装備、装填されている弾数に被弾予測線まで付いている。正直これさえあれば単騎であっても相応に戦えてしまいそうだとホシノは思った。一体、これだけの精度の情報を常に観測し続けるなんて、何台のドローンと演算器があれば可能なのだろうかと考えてしまう。

 シロコも同じような心地なのだろう、目線を不良に向けたままそっと頷く。

 

「ん、敵も見やすいし、弾切れも事前に分かる、大人の力って凄い」

「いや、これは大人の力って云うより、あの先生の力だと思うよ~?」

「じゃあ、先生が凄い」

「そういう事だねぇ」

 

 ホシノも頷き、内心で様々な思考を巡らせていると、不意にドローン特有の羽音が聞こえた。廊下の奥に視線を向ければ、見覚えのあるドローンが中型のボックスを抱えて飛んでくる。アヤネの改造ドローンだ、ホシノが手を挙げてアピールすれば、ドローンは二人の中程で滞空を開始した。

 

『ホシノ先輩、倉庫にあった予備の装備を持って来ました!』

「お、助かる~、これでまぁ単騎突出しても、被弾せずに済みそうかな」

 

 そう云ってボックスが切り離され、ホシノの腕の中に物資が落ちた。ドローンが運んできたのは、折り畳み式の黒いバリスティックシールド。携帯性に優れ、突撃銃クラスの弾丸までなら防ぐ事が出来る代物。シールドというものは基本的に使い捨てで、以前の戦闘でメインのシールドが破損してしまった為部室にはなかったのだが、態々倉庫まで取りに向かってくれたらしい。

 

 ボックスから折り畳まれたシールドを取り出し、ケース型のそれを展開する。曲がらない様固定ボルトを確り施錠し、予備の弾薬を盾内側のシェルホルダーに差し込むと、小さなホシノの体をすっぽりと覆えるほどのシールドが出来上がった。

 ダイニーマ加工のハードタイプ、持ち手はスチールチューブで露出する事はなく、外枠を覆う様に盾と同色の耐摩耗ゴム帯が取り付けられている。

 防弾性能はレベル3――7.62ライフル弾を耐弾する事が可能な優れものだ。

 

「よし、完成! それじゃあ、行って来るね~」

「ん、合図が出たら援護するから」

 

 丁度、敵の不良達が前進してくるのに合わせて、ホシノも正面玄関から飛び出す。正面玄関へと前進しているのは、全体の凡そ半分の十五人程。幾つもの銃口が反応して向けられ、視界に弾道予測線が飛び交うものの、単独で飛び出した為か不良からの発砲は無かった。

 かなりの重量の盾を片手で構えながら疾走するホシノは、内心で嘲笑う。

 

「一人出て来たぞ、何だ、降伏か!?」

「残念、私達は徹底抗戦をするって最初から決めているんだよ」

 

 驚異的な筋力とバランスで以て、ホシノは疾走しながら愛銃の引き金を引く。狙いは特に突出していた二名の不良、一人は顔面に、もう一人は腹部目掛けて速射。凄まじい速度で距離を詰めたホシノ、既に間合いは散弾銃の有効射程五十メートル圏内であった。

 マズルフラッシュ、そして銃声。ホシノの疾走に合わせて前進していた不良の一人は、唐突にヘルメットごと砕かれ後方へ吹き飛び、もう一人は散弾を腹に喰らい、悶絶しながら背後に倒れ込んだ。

 地面に落ちた不良の銃を蹴とばし、ホシノは更に距離を詰める。

 

「こいつッ!」

「敵襲! 敵襲ぅ!」

「一人で出てきやがった! 囲め囲め!」

 

 複数の銃口がホシノを捉え、一斉に火を噴く。着弾と同時に凄まじい衝撃が腕に伝わり、ホシノの体全体を揺らした。盾越しに飛来する弾丸は火花を散らし、ホシノの足が僅かに鈍る。

 

「ハッ、集中砲火さえしてしまえば、手も足も――」

「そうでもないよ」

 

 呟き、ホシノは盾を構えたまま――尚も前進。

 盾を垂直ではなく、自身の小柄さを生かし、宛ら傘の如く傾斜に構える。地を這う様な姿勢から、片腕で盾を支え滑る様に疾走。それは宛ら蛇か、雪原を往く狼の如く。

 銃弾の雨を捌きながら、強引に距離を詰めるホシノに最前列に立っていた不良はたじろぐ。そしてホシノは勢いそのままに、腕から突っ込む形でシールドバッシュを敢行した。

 不良は咄嗟に受けようとするもののスピードの乗ったホシノの攻撃に対応出来ず、シールドの下部、その縁に顔面を弾かれ、次いでホシノの銃口が不良の腹部に突き刺さった。不良の体がくの字に折れ曲がり、ホシノと至近距離で視線が交差する。

 

「盾って打撃武器としても優秀だよねぇ」

「うぐッ、ま、待っ――」

 

 鼻血を流した不良に微笑みかけ、空かさず射撃。

 腹部を直に撃ち抜かれた衝撃で不良の体が跳ね上がり、そのまま地面の上に転がった。それを眠たげな眼で見守り、ホシノはショットガンを上に掲げる。

 

「――足、止まったよ~」

『総員、射撃開始』

 

 先生の合図が下り、途端、校舎の二階、一階から一斉にマズルフラッシュが瞬いた。ホシノを囲むようにして動いていた不良達が、ホシノ単騎に突破を許し、その対応に足を止めた瞬間――弾丸の雨に晒される。

 

「うぎッ、さ、誘い込まれた!?」

「も、戻れッ! 此処には遮蔽物も何も無――あがッ!」

 

 ホシノの盾を崩すには、左右に広がって正面以外から射撃を加えるしかない。そう考え突出していた不良達は、鴨撃ちの如く次々と薙ぎ倒され、後方の者達も慌てて土嚢の裏に身を隠す。抵抗の為の射撃は散発的で、ホシノは時折向けられる銃撃を防ぎながら一人ひとり確実に仕留めて回った。

 

『……思ったより脆いな』

「いや、だって」

 

 どこか肩透かしだと云わんばかりの先生に、そっと二階を見上げるホシノ。そこには実に良い笑顔で不良達を撃ち下ろすノノミと、怒り心頭と云った表情で銃撃を行うセリカが居た。

 

「あはは~☆ 汚物は消毒ですよ~!」

「このッ、何度も何度も襲撃して来て、絶対に許さないんだからッ!」

 

 云っている事が絶妙に恐ろしいし、ノノミに至っては最早楽しんでいないか? と疑問視する程の笑顔。

 その両手には凄まじい勢いと轟音を立て弾丸を吐き出すノノミの愛銃、リトルマシンガンⅤ。

 名前にリトルの名を冠してはいるが、その実態は巨大なミニガンである。

 

 別名、無痛(ノーペイン)ガン――人間に向けて放てば瞬く間にミンチとなり、死ぬ瞬間すら知覚できない事からこの名が付いた。発射速度は毎分凡そ4,000発、本来であれば攻撃ヘリや装甲車などに搭載する代物であるが――彼女の場合は肉体のスペックを遺憾なく発揮し、個人携帯火器として使用している。

 使用弾薬は7.62mm、スナイパーライフルにも使用される弾丸であり、100m以内であれば15mmのRHA(均質圧延鋼装甲)を貫通出来る。

 ――それが火を噴き、不良達を文字通り薙ぎ払っていた。

 

 一応、自身の校舎である事を配慮し障害物を破壊して無理矢理引き出そうとはしていないものの、攻撃の痕は弾痕として深々と残っており、その威力と連射力の高さを物語っている。撃ち下ろされる方はたまったものではあるまい。ホシノは少しだけ、相手の不良に同情した。

 

 そして、その隣で撃ち漏らした不良を確実に仕留めるのはセリカ、愛銃はシンシアリティ。標準的なアサルトライフルであり、構成としてはオーソドックスなもの、口径は5.56mm。中距離にも対応できるようスコープも取り付けられており、ノノミの派手な射撃と比較すると如何にもパッとしない銃器であるが、命中率は大したもので一発たりとも撃ち漏らしが無い。確実に頭部か胸部、手持ちの銃器に命中させ、戦闘不能へと追いやっている。

 或いは――彼女の貧乏性が無意識の内にそうさせているのかもしれないが、だとしてもそこまで命中させられるのは大したものである。

 

『流石というか、何というか……いや、頼もしいと云っておくべきだろうね』

「うんうん、おじさんも鼻が高いよ」

 

 盾を横に構え上半身を隠しながら、近場の敵をショットガンで吹き飛ばすホシノはそう云って笑みを浮かべる。進軍していた不良の半数は既に殆どが戦闘不能で、後方待機していた不良達にもノノミによる制圧射撃により何名か負傷者が出ていた。

 正に戦場は阿鼻叫喚、後列の不良達が必死に倒れ伏した仲間を引き摺って回収し、体勢を立て直そうとしている。

 戦果としては上々――いや、それ以上だ。

 

「先生、云われた通り準備出来たよ」

『良いタイミングだ、やってくれ、シロコ』

「ん、任せて」

 

 不意に、シロコが声を上げる。銃撃を行いながら時折スマホ型の通信機を操作していたシロコは、先生の許可を確認し一際強く画面をタップした。

 

「くそ、先発隊がやられた! あの女、二階からミニガンで撃ち下ろすとか頭おかしいンじゃないのか!? というかいつまで撃っているんだアイツ!? 補給は受けられない筈じゃないのか!? ――あん?」

 

 後方で異様な精度で此方を撃ち下ろしてくる連中を忌々しく思いながら叫んでいた不良は、ふと何か聞き慣れない音が近づいて来る事に気付いた。隣で同じように土嚢の裏に隠れ、地面に這い蹲っている仲間を見る。彼女も何やら音は聞こえるものの、何であるかは分からないらしく、疑問符を浮かべている。

 

「……? なんだ、この音」

「さ、さぁ?」

 

 互いに首を傾げる。音はどんどん大きくなり、音は上空から響いているのだと理解した。

 不良二人が揃って音の方向、空を見上げると――中型のドローンが此方を見下ろしているのが見えた。独特なシルエット、左右に膨らんだボックスにローターが貼り付けられ――その左右には小型の誘導ミサイルがぎっしりと詰まっている。

 

「えっ」

 

 思わず声が漏れた。

 カション、とロックの外れる音。

 ドローンの中央ランプが赤から緑に切り替わった。

 

「ロックオン完了――発射」

 

 シロコが端末越しにカメラで不良達を確認、ボタンをタップする。

 同時にスポン、と何か空気の抜けるような音、次いでシュボ、という点火音。

 片側四つ、計八発の誘導弾頭が射出され、白煙の尾を引きながら不良達目掛けて飛来した。それらは後方に陣取っていた不良達の足元に命中し、爆発。爆炎と砂塵が巻き上がり、幾人もの不良達が土嚢と共に宙を舞った。

 ドローンに搭載できる小型誘導弾頭である為、派手さはないもののキヴォトスの生徒を戦闘不能にするには十分な威力。宛ら追尾する強化グレネードというべきか。爆風と爆炎に目を細めながら、シロコが着弾観測を終え、先生に報告を行う。

 

「全弾命中、先生、後衛の敵に大ダメージ、土嚢に隠れていた連中が出て来た」

『良し、これで崩れた――シロコ、ホシノ』

「はいはい、分かったよぉ」

「ん、突撃する」

 

 前衛はノノミとセリカによって殆ど壊滅状態、後衛はシロコの爆撃により大混乱。

 後は雑に詰めても撃退は容易。先生の言葉に呼応し、二人は不良達に向けて駆け出した。

 

 ■

 

 掃討戦は、存外呆気なく終わった。シロコのドローン攻撃によって乱れた後列は浮足立ち、纏まった抵抗をする事無く、数分も後には殆どの不良達が地面に転がっていた。

 

『カタカタヘルメット団残党、校外エリアに撤退中――私達の勝利です!』

「勝っ……た?」

 

 呆然と、負傷者を引き摺りながら撤退していく少数の不良達を見つめながら、セリカが呟いた。

 周囲には飛び散った弾薬箱、土嚢、気絶した不良達が散乱し、地面には無数の弾痕が刻まれている。しかし、建物に多少の傷はあれどアビドス側に負傷者は皆無。ただ、無我夢中だった。先生の指示通り、云われたタイミングに射撃を加え、後は只管に引き金を引いていただけだ。まるで現実感が無かった。

 呆然とするセリカは二度、三度、自身の頬を摘み、現実かどうかを確かめ、フルフルと震え――爆発した。

 

「あ、あははッ! ど、どうよ! 思い知ったか、ヘルメット団め!」

「わぁ☆ 私達、勝っちゃいました!」

 

 思わず立ち上がり、天に向かってガッツポーズを繰り出す。隣で愛銃を下ろしたノノミも、両手を合わせて小さく跳ねていた。

 

「ん、弾薬ギリギリ……でも勝った」

「うへ、疲れたぁ、おじさん、今日はもう動きたくないよぉ」

 

 凹みの目立つ盾を地面に落とし、そのまま猫背で呻くホシノ。その隣では弾倉に残った弾薬を見ながら、シロコが呟いていた。端末を見れば、嬉しそうに笑みを浮かべているアヤネが皆の戦闘を労い、帰還を促す。

 

『皆さんお疲れさまでした! 一度部室に帰還して下さい! 気絶したヘルメット団に関しては先生が既に手配済みとの事で、そのままにして頂いて大丈夫だそうです! ……大丈夫ですよね、先生?』

『うん、その辺りは大丈夫だよ、皆お疲れ様、帰還してくれ』

「ん、分かった、今から帰還する」

「一応、周辺に警戒しながら戻るわ!」

「は~い☆」

「やっと休めるぅ……」

 

 




 どうして作者ではなくペロロ様が切腹するのですか? という質問に関しては、私が切腹するとお腹がイタイイタイになってしまうからです。


 ソラちゃんはね、最初は先生の噂だとか、そういうものを鵜吞みにしてどこか怯えたような、謙った様な態度で接しているのだけれど、コンビニに通う様になっていく内に段々と話し込むような間柄になって、お仕事を偶に手伝って貰ったり、発注ミスをしたチョコを一緒に売って貰ったりしている間に、実は先生がとても生徒思いで、誠実な大人である事に気付くんだ。
 そしてシャーレ店内に来るお客さんも少ない事が相まって毎日先生が来るのを楽しみにするようになって欲しい。二十四時間いつでも大丈夫だと彼女が云っている様に、碌に中学にも通えないから、その人間関係は酷く閉鎖的で、大人というものにどこか潜在的な恐怖を抱いていて、最初はてんぱって色々な誤解や先入観に惑わされていたけれど、いざ先生と少しずつ交流を重ねてみると、包容力があって、優しくて、少なくとも自分が想像していた大人よりもずっと素敵な人だと気付いて、入店のチャイムがなると先生だと思って満面の笑みを浮かべる様な――そして入店して来た人が生徒だったりすると、分かり易く落ち込む――そんな娘になるんだ。

 そして時折バイトを手伝って貰ったり、必要なものを買い込んで交流を深めていく中で、どうしても先生と自分を隔てる壁が在る事にソラは気付くんだ。それは、先生がシャーレの顧問であり、問題が発生した場合は解決に動かなくてはならない事。自分はまだ子供で、先生は自分より幾つか上の、高校生を連れて事件解決に出向く。それがバイトのお手伝い中や、お買い物中であっても、必ず。

 そんな日々を送るうちにどんどんソラちゃんの中で、「先生の役に立ちたい」、「私にもっと力があれば」という思いが強まって行く。自分が先生とコンビニという僅かな空間で、ほんの十数分の間しか触れ合えないというのに、自分より少し年上の――或いは、自分と同じか、それよりも幼くさえ見える――生徒が日直だ交流だと押しかける様子を見て、嫉妬してしまうんだ。

 戦う手段があれば、もっと先生の傍に居られるのに。私と同じ歳くらいの子が戦えるのに、どうして。自分に対する無力感だとか怒りだとか、そういう代物に嫉妬や羨望が入交り、ソラちゃんは必死にアルバイトで貯めたお金の中から何とか費用を捻出して、自分用の銃器を購入するんだ。それでシャーレの射撃訓練場で、先生がいない時にこっそり訓練して、次に先生が戦場に立った時に助けて、驚かせるんだと自分に言い聞かせるんだ。

 そして次に先生が出動した時に、何でもない様にいつも通り見送って、後から隠していた、自分には少しだけ大きな銃を担いで後を追う。そして先生が皆を指揮している背中を見つけて、笑みさえ浮かべて叫ぶ。「先生!」と。
 振り返った時、先生は驚いた表情を浮かべて、ソラはそれを、少しだけ誇らしげに見る。幼さゆえの傲慢と、先生を驚かせたという細やかな結果に頬を緩ませ、私も一緒に戦いますと口を開こうとして、先生の前に聳え立つ巨大な敵を前にして、足が止まってしまうんだ。
 先生が対処している不良同士のいざこざとか、ちょっとした大きな騒動に関しては聞き及んでいたけれど、特殊作戦に関しては全く聞き及んでいなくて、自身の全長どころかビルさえも凌ぐような巨体に足が竦み、恐怖に身が縮む。
先生がソラの傍に駆け寄って、ソラも先生に手を伸ばして。

 生徒達が何故先生から離れて戦うのか、どうして前線に立つのか彼女は理解していなくて。突き飛ばされたソラは何故そんな事をするのか分からなくて、ただ頭上から振り下ろされた巨大な尾に巻き込まれ、磨り潰された先生が宙を舞うのを目の前で目撃して欲しい。
 見栄を張る為に買った、ソラちゃんの体には不釣り合いの銃を抱えながら、地面に叩きつけられ、水音を立てて転がる自分の大好きな先生と、頬に付着した赤色に呆然としながら、「先生……?」と呟いて欲しい。可愛いね。

 その後、真っ白だった制服を真っ赤に染めて、ぴくりとも動かなくなった先生に駆け寄って、必死にお金をためて買った筈の銃を投げ捨てて、先生の体を小さな体で必死に引き摺って欲しい。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、「わた、私の、私のせいだっ!」と泣き喚きながら少しでも遠くに、安全なところに死にかけの先生を引き摺って行こうと足掻いて欲しい。折れ曲がった四肢や、千切れた足から滴る赤の証を目撃しながら、ほんの少しずつ、自分の腕の中で先生が死に近づいているのを実感して欲しい。きっと途中で我慢できなくなって、大声で泣き出すんだ。それでも手と足は止めずに、少しずつ、ほんのちょっとでも先生を引き摺って、そのアスファルトの上に先生の残滓を擦りつけ続けるんだ。

 任務を終えて、大破し沈み行く大敵を背に、笑顔で振り返った生徒達の視界にこの先生が映ったらさぞ美しい画になるんだろうなぁ。
 あー、この事でソラとシャーレ所属の生徒達の間に確執が出来てギスって欲しい気持ちと、でもそれは可哀そうだから不意に、「どうして、どうしてあんな場所にッ!?」と怒鳴られて、「ぁ、い、わ、私、せ、先生の、役に、たちたくて……」と涙に塗れた顔で頭を抱える程度の罵声で留めて欲しいという気持ちがある。

 心が二つある~~~。


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強襲作戦

 

「いやぁ~、まさか勝っちゃうなんてね、ヘルメット団もかなりの覚悟で仕掛けて来たみたいだったけれど」

「ん、三十人何て大勢は初めて、いつも十人とか、多くても十五人とかだったのに」

「まさか勝っちゃうなんて、じゃありませんよホシノ先輩……勝たないと学校が不良のアジトになっちゃうじゃないですか」

 

 部室に戻って来たアビドスの面々は、愛銃をガンラックに立てかけながら深く椅子に腰掛けた。戦闘自体はほんの一時間足らずの出来事だったが、流石に鉄火場となると神経が擦り切れる。それでも、補給の心配がなくなったというのは大きい。シロコはエネルギー食であるスティックメイトを頬張りながら、先生を見る。

 

「先生が居てくれて助かった、多分私達だけだったら対処しきれなかったから」

「そうですね~、本当に素晴らしいサポートでした」

 

 シロコとノノミの言葉に、全員の顔が先生に向いた。

 その脳裏に過るのは、戦闘時に受けた先生のサポート、そして言葉にされずとも視界に表示される先生の指示。いつ、どこに居て、誰を狙い、どう動くべきか――それが視界の中でポイントされた敵であったり、強調表示された銃や土嚢であったり、或いは矢印で表示された場所であったりと、様々な形で生徒を導いていた。

 

「確かに凄い指揮だったわね、あのサポートもそうだったけれど……大人って皆こうなの?」

「いえ、流石にそれはないかと――やはり連邦生徒会長に特別指名される先生だからではないでしょうか?」

「うへ、凄いんだね、先生って」

「そんなに褒められる事でもないさ、それに、これくらいしか出来ないからね」

 

 どこか苦笑いを浮かべたまま、そう告げる先生。生徒達はそれを謙遜と受け取った。尤も本人からすれば謙遜でも何でもなく、本当にそれしか出来ないと思っているのだけれど。

 椅子に座っていたアヤネは先生に向き直り、背筋を正すと真剣な口調で告げた。

 

「えっと、改めて御礼とご挨拶を、先生――私達は」

「アビドス対策委員会、だろう?」

 

 遮る様にそう口にすれば、アヤネが目を瞬かせる。

 

「シロコ、アヤネ、セリカ、ノノミ、ホシノ……全員の名前と、現在の状況は把握しているよ――この学園の生徒が君達五人しかいない事、住民が殆ど居なくなってしまった事、物資が殆ど枯渇している事もね」

 

 そう云って頷く。既に先生はこのアビドスの状況を、少なくとも書類上の事は把握している――無論、それ以上の情報も、実情も知っているし理解しているけれど。

 何せ、実体験なのだから。

 

「そうだ、少し空いている教室を貸してもらえないかな? 置きたいものがあるのだけれど」

「? この隣の教室は空き教室なので、其処なら大きなものでも運び込めると思いますが……」

「分かった、ありがとう」

 

 アヤネの言葉に頷き、タブレットを数度タップする。画面に表示された表記に笑みを浮かべ、そっと呟いた。

 

「アロナ、頼む」

『はい先生! クラフトチェンバーより生成物の固定化を開始します!』

 

 瞬間――隣の教室より大きな物音が響いた、次いで電子音。周囲の電子機器が一瞬ノイズを走らせ、隣に座っていたセリカが飛び上がる様にして立ち上がった。

 

「わっ、なに、何の音!?」

「隣の部屋から……?」

 

 音に驚き、皆が慌てて隣の教室に飛び込む。

 するとそこには――教室の半分を埋め尽くす程の補給物資が積まれていた。

 唐突な物資の出現に、生徒達は目を見開き思わず棒立ちとなる。

 

「す、すごっ、なによこれ!?」

「これは、大量ですね~☆」

 

 ノノミとセリカが積み上がった物資を見上げ呟き、シロコは僅かに警戒する仕草を見せながら物資の傍に寄ると、徐にコンテナボックスの一つを開封した。中に入った代物を一つ一つ手に取り、確かめる。

 

「弾薬に、レーション、IFAK、イヤープラグ……これ、もしかして補給品?」

 

 手に持ったそれを戻し、背後の先生を見るシロコ。先生はその視線に応え、静かに頷いて見せた。

 

「先生、一体どうやって――」

「状況は把握しているって云ったでしょう? 必要なものは大体揃えたと思うよ」

 

 肩を竦め、「これも大人の力って奴さ」と誤魔化す。

 クラフトチェンバーに関しては、連邦生徒会の中でもごく少数のみが把握している代物。残念ながら、生成物だけならばまだしも、その存在そのものを知られる訳にはいかなかった。

 クラフトチェンバー(製造装置)で創り出す事の出来ないものは、恐らく『生物』と『質量が大きすぎる物』を除いて存在しない。食料だろうと、家具だろうと、銃器だろうと、弾薬だろうと、教材だろうと、須らく生成する事が可能。

 必要なのは核となる『キーストーン』と、『生成に必要な対価物質』のみ。この対価物質というものが中々に便利で、先生にとっては塵同然の代物でさえ食料や弾薬に変えてくれる――他所から見れば正に夢の装置だった。

 

 尚、予め素材さえ投入しておけば、シッテムの箱を通じて『生成地点』をポイントする事が出来る。試したことはないが、キヴォトス内であればどこであってもポイント可能だろう。今回は出張前に予め製造予約を行い、完成品をこの場に生成した、という事になる。

 唯一欠点を上げれば、生成物を選んで取り出す事は出来ないという点か。一度ポイントし、取り出せば、生成物は全てその場に転送されてしまう。

 もし選択して生成出来るのであれば、アビドスの住宅街で彷徨っても食料と水に困る事はなかっただろう――先生は少しだけ遠い目をした。

 反対にシロコは補給物資を両手に持ちながら、輝いた瞳を先生に向けている。

 

「凄い量の物資と装備、それに戦闘指揮にサポートまで――大人って本当に凄い」

「シロコちゃんの大人のハードルが凄い事になってそうだね、先生責任取りなよ?」

「えっ、私のせいなの」

「いやいや、先生困っちゃうじゃん! ちょっと委員長!?」

「あはは、でも凄い助かっちゃいますね、弾薬とか物資の類をアビドスまで搬入するとなると、かなりの重労働ですし」

「そうだねー、補給品も底をついていたし、流石に覚悟したよ~、ほんと、良いタイミングで来てくれたね、先生?」

「間に合って良かったよ……特にノノミの銃は、弾薬の消費が激しそうだもんね」

「そうなんですよ~☆ やっぱり分かっちゃいますか」

 

 舌を出しておちゃめな顔を見せるノノミ。そりゃあ、ミニガンなんて担いでいればそうなるだろう。寧ろ今までどう工面していたのか気になるところだ。

 ともあれ、当分戦えるだけの準備は整った。

 後は――。

 

「さて、これで物資の問題は当面解決、それと今回の襲撃は何とかなったけれど」

 

 皆を見渡せば、共通認識なのか――これで終わりだという意識は見えない。

 シロコとセリカは分かり易く顔を強張らせ、吐き捨てる様に云った。

 

「カタカタヘルメット団だよね、攻撃を止める様な奴らじゃない、きっとまた来る」

「私もシロコ先輩に同意見……しつこいし、諦めが悪いもの、あいつら」

 

 彼女達の云う通り、カタカタヘルメット団を名乗る不良達は戦力が揃い次第、またこの校舎に攻めて来るだろう。先の大攻勢で大半の戦力を失ったとは云え、不良達は何もカタカタヘルメット団だけではない。何より言い方は悪いが、その手の不良はこのアビドスに掃いて捨てる程存在している。ヴァルキューレや自警団の手が伸びない辺鄙な場所であるからこそ、彼女達にとっては天国ともいえる環境なのだ。

 その意見に賛成なのだろう、アヤネの表情が曇り、顔が俯く。

 

「攻撃はいつまで続くのでしょうか……ヘルメット団以外にも沢山問題を抱えているのに」

「まぁ、先生のお陰で当面戦えるだけの体裁は整ったけれど、やっぱり元凶を何とかしないとね~」

 

 ホシノはだらんと曲がっていた背筋を正し、不意に笑みを零しながら云った。

 

「そういう訳で、ちょっと計画を練ってみたんだ」

「えっ、ホシノ先輩が!?」

「うそッ……!?」

 

 ホシノの言葉に、明らかに驚いている顔をするアビドスの面々。その反応を見たホシノは、心外だとばかりに頬を掻いた。

 

「いやぁ、その反応はいくら私でも、ちょーっと傷ついちゃうかなー……おじさんだって、たまにはちゃんとやるんだよ?」

「いえ、それはまぁ、知っていますけれど……」

「……で、どんな計画?」

 

 セリカは腕を組みながら、明らかに不審そうな顔で問いかけた。そんなに信頼ないかなぁ、おじさん~……と呟きながら、ホシノは自身の考えを生徒の皆に明かす。

 

「ヘルメット団は再編を終えてまた攻撃してくる筈だよ、この所ずっとそういうサイクルが続いていたし、今回はちょっと大きな攻勢だったけれど、それで諦める連中なら、とっくの昔に諦めているでしょ」

「それは、まぁ、そうね」

「だから今、このタイミングでこっちから仕掛けよう、奴らの前哨基地を襲撃して損害を与えれば、暫くこっちに手を出す余裕もなくなるだろうし」

「えっ、い、今からですか!?」

 

 ホシノの唐突な襲撃提案に、アヤネは目を見開いて声を上げた。他の面々も、驚いた表情を隠せない。此方から攻勢に出る――それは今までアビドスが一度も考えていなかった、否、考えついても出来なかった行動だからだ。

 だからだろう、必ず刺さるという確信がホシノにはあった。

 

「そうそう、今、敵の出払っていた戦力がガタガタで、こっちは補給を済ませて万全の態勢、何なら先生も居るし、負ける要素ないでしょ? どうせ向こうはこっちが補給している事も知らないだろうし、物資がカツカツだと思っている中で攻勢に出るなんて想定していないでしょーし」

 

 ホシノの提案にアヤネは少し不安そうな面持ち――慎重で情報を重んじる彼女からすれば、ホシノの提案は唐突過ぎて余り歓迎出来ないのだろう。反して、シロコやセリカ、ノノミと云った面々はどちらかと云えば賛成寄りの雰囲気であった。

 

「なるほど、ヘルメット団の前哨基地は此処からそう遠くないし――行けない距離じゃない」

「良いと思います、あちらもまさか即日反撃されるなんて、夢にも思っていないでしょうし」

「んー……まぁ、アリ、かも?」

 

 積極的賛成がノノミとシロコ、セリカはホシノの提案という事でやや疑る気配があるものの、理屈自体は通っていると賛成の気配。取り残されたアヤネはあわあわと忙しなく皆の顔を伺いながら、ぐるぐると目を廻した。

 

「そ、それはそうですが……先生は如何ですか?」

「んー」

 

 アヤネが不安そうな面持ちで先生を見る。先生は腕を組み、多少の算段を付けた所で頷いて見せた。このまま当たったとして、まず負けはない。アビドスの面々、その素の戦闘能力が高いというのもあるが、不良達は今大幅に戦力が削がれた状態――仮に先程と同じ規模の不良達と戦闘になったとしても、撃退自体は可能だろうと判断。

 

「逆撃を加えるなら確かに、ベストなタイミングだと思うよ? 皆が出発するなら同行しよう、サポートと作戦指揮は任せて欲しい」

 

 先生がそう言い切ると、アヤネは先生が云うならという表情をして、「分かりました、私も賛成します」と頷いた。

 皆の意見が纏まり、全員の顔に戦意が灯る。

 

「よっしゃ、先生のお墨付きも貰った事だし、この勢いでいっちょやっちゃいますかー」

「ん、善は急げって奴だね」

「はい~、それではしゅっぱーつ!」

「やるならギッタンギッタンのボコボコにしてやるわ!」

「あっ、ちょっと、まだ準備が――!」

 

 部室に愛銃を取りに戻る皆の背を見ながら、アヤネは強襲に必要な装備一式を整えねばと駆け出す。先生もまた作戦を想い、静かにタブレットを握り締めた。

 

 ■

 

 というのがほんの数十分前の話。

 

「うぉぉおお、シロコ、ちょ、ま、待って! 早い! 早い!」

「でも兵は高速を重んじるって、本に書いてあった」

「それを云うなら拙速! いやまぁ、本質的には間違っていないだろうけれども!」

 

 アビドス高等学校を出発して早数十分、先生は現在シロコに背負って貰ったまま移動を行っていた。

 人の居ない公道を爆走するアビドスの面々は、それなりの重量を持つ弾薬やら銃器やら装備やらを纏ったまま、時速四十キロ程の速さで駆け抜けている。

 人間の百メートル走の速度が凡そ三十キロ後半であるが、彼女達の場合は速度でそれを凌ぎ、更に全力疾走のまま何十分も走り続けることが出来た。勿論、個人差はあるが。

 アビドスにやって来た時も、こうしてシロコに背負われていた訳だが――速度はあの時より速い、正直恐ろしい。下心とかそういうものを抜きに、純粋な命の危機に全力で先生はシロコに抱き着いていた。

 

 尚、この時シロコは内心で、先生に全力で頼りにされている事、自身の気分一つで先生の表情を操れる事、涙目で縋り付く先生が存外可愛く見え、昏い愉悦に目覚めかけていた事を自覚し――そっと頬を染めていた。

 

 また、先生の事をおんぶして全力で走ろう。

 何か理由を付けて、絶対やろう。

 シロコは背中に張り付く先生を時折チラ見しながら、内心でそう決心した。

 

「す、すみません先生、学校には移動用の車両が無くて……前は一台確保していたのですが、前回の戦闘で大破してしまって」

「まー、爆薬を搭載して突っ込ませればそうなるよねぇ」

「いやいやいや、というかあっても君達運転免許持っていないでしょう!?」

 

 隣を涼し気な表情で並走するアヤネの言葉に、先生は叫び返す。

 例え後方支援が得意な生徒であっても肉体的なスペックは人間を遥かに凌駕する為、運動性能のみならば先生はキヴォトス内最弱クラスである。体育の授業は自習、これは肉体的に仕方なし。

 先生の言葉に、シロコは頭上に疑問符を浮かべ問い返す。

 

「? 車の運転に、免許って必要なんだ、初めて知った」

「嘘でしょう!?」

「でもヘルメット団の連中、普通に戦車とか運転しているわよね? あいつ等って免許持ってんの?」

「………」

 

 セリカの今更な疑問に、先生は口を噤んだ。そう云えばそうだ、そもそもワカモ騒動の時に出て来た戦車も、あの生徒達はきちんと免許を持った上で操縦していたのか。いや、多分持っていないんだろうなぁ――先生は遠い目をしつつ、キヴォトス内に於ける免許という存在の無意味さに絶望した。

 

「先生? なんだか顔色が悪いですよ? 少し休憩しましょうか? シロコちゃん、先生を背負う係変わりますよ」

 

 不意にノノミが横から覗き込み、先生の絶望顔を見てそう提案する。彼女は一等大きい愛銃(ミニガン)を抱えて尚、余裕そうな表情で走り続けていた。その時に跳ねる双峰に先生は目を吸い寄せられそうになるが、そこは先生の意地で何とか堪える。少なくとも本人は堪えた気になっている。真実は定かではない。

 シロコはそんなノノミの提案に、一瞬目を細めながら、ふいっと顔を反らして拒否の態度を貫いた。

 

「――大丈夫、私は疲れていない、先生も問題ない、先生は私の汗の匂いが好きだから、疲れる筈がない、寧ろ回復する」

「えっほ、ぶおっほ!」

「わぁー☆」

 

 唐突な先生へのダイレクトアタックに、思わず大量に息を吸い込み咽る。隣のノノミは面白そうに笑っており、先生は慌てて首を横に振った。

 

「部室に来た時のシロコちゃんの言葉、本当だったんですねぇ」

「ち、違うんです、誤解です」

「えっ、何、先生ってそいう趣味なの?」

 

 後ろを走っていたセリカが少し引いた顔で呟く。違う、違うよ、誤解なんだ、そう云いながら周囲を見渡す先生。アヤネとホシノの方に視線を向ければ、二人共似たような表情で先生を見ていた。

 

「……まー、人の趣味は人それぞれだから」

「ホシノさん? ちょっと、こっちを向いて云って頂けます?」

「あ、ははは」

 

 アヤネが笑って誤魔化す。いや、誤魔化し切れていない、どこか雰囲気が、「うわぁ」と言いたげなものだった。先生はそっとシロコの背中で涙を流した。違う、誤解なんだ、確かにシロコの汗は嫌いじゃない、けれど私だってTPOは弁える。戦いの前に生徒の髪に顔を埋めて深呼吸するような変態ではないのだ。そういう事をする時は、もっとこう静かで、二人きりで、ムードのあるような――。

 しょげた先生を慰める様にシロコはそっと先生を揺らした。

 

「ん、大丈夫、先生がどんな趣味をしていても私は気にしない、それに何だかんだ云って皆、先生の事は信頼している」

「そうですよー☆ 要らぬ心配ですよ、先生」

「そ、そうです先生、私達アビドスの声に応えてくれたのは先生だけなんですから!」

「そこは、まぁ、そうよね……で、でも、信頼しているのは戦闘指揮に関してだけだから!」

「んー……まぁそうだねぇ」

 

 涙目でシロコの背中に蹲る先生に、ホシノは仕方なさそうな顔で云った。

 

「少なくとも先生は、私が思っていた悪い大人じゃないみたい――疑ってごめんね、先生」

 

 その声色に、僅かな悲しみが籠っている事に先生は気付いた。彼女はずっと疑ってきたのだ、先生だけではない、ありとあらゆる大人を――それがアビドスを守る為だというのは明らかだった。彼女の行動や言動を、自身は責める事は出来ない。少なくとも理解しているし、納得も出来るのだから。

 先生は体を起こし、真っ直ぐホシノを見た。生徒に背負われている姿では、全く以て恰好は付かないだろうが、そんな事はどうだって良い。ただ真摯に、気にしていないと、自分は最初からすべてを受け入れていると――それを彼女に伝えるのが先決だと、そう思ったのだ。

 

「まさか、私が逆の立場でもそうしたさ……そうやって、今までアビドスを守って来たんだろう? なら、ホシノがやってきた事は正しい、今こうして皆がアビドスの生徒で居られるのも、ホシノが頑張って来た結果だ――その一端が見られて、私は嬉しい位だよ」

「―――」

 

 真っ直ぐ瞳を見て放たれた先生の言葉に、ホシノは面食らったような顔をして。

 それから左右に視線を散し、照れたように髪を掻いた。

 

「あ、その……たはは、いやぁ、そう真正面から云われると、何だか照れるねぇ」

 

 俯き、頬を緩ませるホシノ。

 生徒が――子どものままで居られる場所。それを守るのが大人の役目。

 もう、彼女達の未来が絶たれるような結末は、見たくないから。

 

 先生が決意を新たにする中、不意に、アヤネが表情を変えた。

 

「! 見えました、カタカタヘルメット団のアジトですっ」

 

 先行させていた偵察ドローンからの情報だ。どうやら視界に不良達の基地が映ったらしい。全員の顔が引き締まり、足が止まる。

 

「敵のシグナルを多数検知、まだ此方には気付いていません! 先手、獲れますッ!」

「良し、シロコ、一旦此処で下ろしてくれ」

「ん」

 

 先生の言葉に従い、シロコが先生を下ろす。その表情が微妙に残念そうだった事に、先生は気付かない。

 数十分ぶりに地面を捉えた足を何度か踏みしめ、先生は周囲を見渡した。通りは、殆ど寂れた建築物ばかり。近場に出入り口の少ない雑居ビルを見つけた先生は、そこを指差し告げる。

 

「アヤネと私は建物に潜んでサポートを行う、指示は追って視界に表示させるから、無理せず、自分の役割をこなしていこう、編成は前衛がホシノ、中衛がセリカとシロコ、後衛がノノミだ」

「はい、先生☆」

「やってやるわ!」

「任せて」

「まぁ、程々に頑張ろっか」

 

 先生の言葉に呼応し、銃器を掲げた皆が、力強く頷いた。

 





 本編の何と不細工な文章か、毎日更新の大変さを痛感してしまう……。
 それはそれとしてサオリに土下座してASMRとってきて欲しい。最初は「ASMRとは、何だ、新しい銃器か」とか云って、詳しく説明すると凄く嫌そうな顔をしてから、「声が低いからいやだ」とか、「なんの意味がある」とか、結構ゴネるのだけれど何だかんだ必要とされるのに弱いし、先生がそこまで必要とするのならと渋々取ってくれるんだ。
きっと録音になれていなくて、棒読みだったり雑音が入っていたりするだろう。けれどその新鮮さが先生のペロロ様をペロロジラに変貌させるんだ……。
 アリスに頼んだら多分その辺のネットからASMRを勉強して、「アリスはASMRスキルを習得しました!」とか云ってクオリティの高い作品を仕上げて来るのだろうな。
 でも最後に、「楽〇カードマァァァアン!」まで入れてきて先生の鼓膜バイバイになる未来が見えるので遠慮します。

 あー! ヒナをデロデロに甘やかしてあげたいなぁ、私もなぁ!
 誰にも褒められずワーカーホリックになるまで頑張っている子だから、本当に日常の些細な事で褒めてあげたい!
 早起き出来て偉いね、書類仕事頑張って偉いね、野菜も全部食べられて偉いね、今日は早めに寝れて偉いね、今日も元気に登校出来て偉いね、呼吸出来て偉いね。何かと理由を付けてゲヘナに通って、ヒナちゃんの仕事している姿を脇から笑顔で見つめながら、なにかする度に褒めたい。

 そして何だかんだ最初は、「先生やめて、私、そんな子どもじゃない」と云いつつ、不意に書類仕事の最中に褒められた事を思い出して、口元が緩んだりするんだ。慣れてくるとまんざらでもない気持ちになって来て、段々と先生に褒められたくて頑張るようになって生き甲斐を見つけてくれるんだ。

 そしてヒナが褒められ慣れて気力が充実して来た頃に、今度はそんなに頑張らなくて良いよ? 辛いときは休んでね? 先生に頼って良いんだよ? と心配する素振りをしつつ褒める回数を減らしていきたい。

 何となく褒められる回数が減っている事に気付いたヒナが、不意に不安になって、ちょっと無理してでも先生に褒められたくて仕事を頑張り続け、その果てにオーバーワークで倒れた所に、「何でこんなに頑張ったの!?」って恐ろしい剣幕で怒ってあげたい。

 多分怯えと申し訳なさと後悔とが混じった泣き顔を見せてくれるんだ。きっとそれは素晴らしいじゃないわこれなんか胸が痛くなってきた駄目だわDVだコレごめんねヒナちゃん私が悪かったわ本当に申し訳ない(B級映画感)。
 代わりに先生を爆発させるから、返り血浴びてそっちで泣き顔見せてね? 


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小さくとも守り続けた、その証

 切羽詰まっていると推敲も出来ないので、誤字脱字報告助かります。


 

 不良達のアジトへの強襲は、呆気ない程に上手く行った。そもそも三十人程を動員した今回の作戦、どうやらカタカタヘルメット団にとってもかなりの大攻勢だったらしく、撤退したと思わしき不良を除くと基地に詰めていた人員は十名程度。更には敗北の報せを聞き、戦力の再編と治療に走り回っていたのか歩哨の一人も立っていなかった。まぁその点は、補給も碌に受けられない筈のアビドス高等学校が攻勢に出るとは予測していなかったという所も含まれるのだろう。

 兎角、抵抗らしい抵抗は殆どなく、アビドスによるカタカタヘルメット団の前哨基地強襲は、何の障害もなく果たされてしまったのである。

 

「敵の退却を確認、並びにカタカタヘルメット団の補給所、弾薬庫、居住区の制圧を確認しました!」

 

 トラックにすし詰めにされ、撤退していくカタカタヘルメット団。その背を見送りながら、先生は何とも言えない気持ちに浸っていた。撃ち取ろうと思えば、撃ち取れる。しかし何というか、基地を強襲されたと知るや否や、泣き喚きながら逃げ出す不良達の姿を見ている内に、何だか弱い者いじめをしている様な心地となり――トラックに乗って逃げていく不良に関しては、敢えて追撃しない様指示を出した。

 一応、彼女達の持っていた武器は徹底的に破壊し、サイドアームすらなくなった彼女達は戦力として数えられまい。補給して戻って来るにしろ、この基地は後ほど徹底的に破壊させて貰う。復興にはかなりの時間を要するだろう。

 逃げ去って行く彼女達の背を見つめながら、隣に立つセリカはふんっ、と鼻を鳴らした。

 

「どーよ! 目にもの見せてやったわッ!」

「これで暫くは大人しくなる筈だね」

 

 基地周辺をくまなくスキャンし、周辺に敵が居ない事を確認した後、先生はそっと戦術指揮モードを解除した。何気、このモードは電力消費が激しく、バッテリーが無いと長持ちしない。アビドスでの放浪にて最低限の予備バッテリーを残し全て使い切ってしまっていたので、今は節電を心掛けなければならなかった。

 来る前に、少しでも充電しておけば良かった。いや、しかしアビドスの経済状況を考えると、僅かな電力ですら心が痛いというか、何というか――。

 

「セリカ、弾薬庫と補給所の物資は?」

「とーぜん、一片残らず全部かっぱらってやったわ、先生が指示した仮設集積所に今、シロコ先輩が全部持って行った筈よ」

「良し、私の方もトラックを一台確保したから、それに載せて帰ろうか」

「補給と前哨基地強襲の一石二鳥……何だか上手く行きすぎて怖いわ」

「今までの苦労が報われたと思っておくと良いよ」

 

 余りこういう成功体験がなかったのだろう、セリカは後方に積まれる補給物資を見ながら何となく遠い目をしていた。

 

「よーし、作戦終了~……みんな、先生、お疲れー」

「ホシノも、お疲れ様」

 

 最後まで不良達の背を見送り、警戒していたホシノが戻って来る。その姿を認めながら、先生は集積所で荷を纏めていたシロコとアヤネに指示を出した。

 

「アヤネ、シロコ、ドローンで一応周辺の索敵をお願い、ないとは思うけれど別動隊が居たら私に教えて、後は連中が戻ってきたりしないか、ノノミは敵を警戒して待機を、セリカ、ホシノ、私と積み込み作業を頼む」

「ん、了解」

「はーい☆」

「よし、任せて!」

「うへ、おじさんもうクタクタなのにぃ」

「ほら確りして先輩! アビドスの補給品になるんだから! ……あっ、これ読みたかった漫画の新刊!」

「……嗜好品まであるのか」

 

 シロコとアヤネによって予め集積された物資を眺めながら、先生は呟く。セリカは目を輝かせながら次々と補給品をトラックの荷台に積み始め、ホシノも渋々といった動作で動き始めた。先生も手頃なミリタリーボックスの傍に屈み、抱え上げようと縁に手を掛ける。

 

「ん……あの、先生」

「? どうしたんだい、アヤネ」

 

 不意に、ドローンを飛ばし終えたアヤネが先生の傍に駆け寄って来た。その表情は少しばかり影があり、何かを考え込んでいる様子。

 

「何か、おかしいと思いませんか?」

「……と、云うと?」

「カタカタヘルメット団は、何処からこんな物資を集めたのでしょう?」

 

 先生は一瞬、言葉に詰まった。

 彼女ならば或いは――という思考はあった。けれど、こうにも早く気付くとはという驚きが勝る。それを表面に努めて出さない様、己を律しながら続きを促す。

 アヤネは思考に没頭しているのか、先生の表情の変化には気付かず、淡々とした口調で己の思考を漏らした。

 

「住民の居なくなったアビドスの廃屋目当てで不良が集まるのは分かります、目障りな私達、アビドスを攻撃するのも、まぁ、理解は出来ます、治安維持の名目で不良を取り締まったりしていますし……でも――」

 

 そこまで口にして、アヤネは周辺を見渡した。不良達のアジトは、使われなくなった公民館が利用されていた。三階建ての、それなりに大きな建築物。内部にはキッチンやトイレ、シャワールームなども存在し、レクリエーションルームなど、それなりに寝床となる場所もある。

 何より廃墟と呼ぶには――存外以上に清潔で、整備されていた。

 水道は未だ機能し、電力に関しては裏口の倉庫で大型の発電機が複数見つかった。燃料タンクもずらりと並び、食糧や武器、弾薬の類も倉庫別に潤沢。そこまでくれば、彼女が何を言いたのかは察せられる。

 

「このアジト、上手く廃墟を利用してはいますが、妙に整備されていますし、あちこちにある物資の量は明らかにおかしいです、生活の痕からして四~五十人規模で寝泊まりしている様子ですし、それを支える補給源は、財源は一体どこから来るのでしょう? 弾薬も、食糧も、無料ではありません、ましてや此処はアビドス――まともなお店はもう、殆ど無いんですよ? 奪うにしても限度があります」

「……そうだね」

「それに、此処はアジトの一つに過ぎません、不良グループはまだありますし、これは実際に見てみないと分かりませんが、万が一にも他に同規模の基地があると考えると、明らかに彼女達だけで運用出来るとは……背後に、何か大きな――」

 

 そこまで口にして、彼女ははっと口を噤んだ。自身を真っ直ぐ見る先生の視線に気付き、恥ずかしそうに顔を俯かせる。

 

「……いえ、すみません、これはあくまで推測で、考え過ぎかもしれませんし」

「いいや、常に最悪を想定して動いているのだろう? 流石だよ、アヤネ」

「そ、そんな、私何て!」

 

 先生の言葉に首を振り、端末を胸に抱いたまま恐縮するアヤネ。

 

「私、前線で戦う事が出来ませんし、こんな事でしか皆の役に立てなくて――」

「そのサポートが、皆にとって重要なのさ、それに……」

 

 先生は掴んでいたミリタリーボックスを持ち上げ、そっと呟いた。

 

「――戦えないのは私も同じだ」

 

 アヤネのその気持ちは、良く分かるとも。

 戦えない自身の姿を自覚する度、暗然たる心地に襲われる。

 何度、己に戦う力があればと思った事か。

 生徒達の背に隠れ、背中ごしに命令する事しか出来ない己は――酷く無力だ。

 脆弱な肉体、銃弾ひとつで簡単に失われる命、先生という存在は一度戦闘に巻き込まれてしまえば、戦術指揮という項目を除いてお荷物以外の何物でもなく。せめて自衛の為にと磨いた銃の腕は、それでも生徒達に敵いはしない。

 そういう風に、出来ているのだ。

 だから――仕方がない。

 

 ――そう諦められたら、どれ程楽な事だろうか。

 

「――さて、考えるのは良いけれど、此処はまだ敵地だ、早く積み込みを終えてアビドスに帰ろう」

「あ、は、はい!」

 

 アヤネに微笑み掛け、互いに互いの役割を果たす為に動き始める。考えたって仕方が無い、今はただ、身体を動かす事が先決だった。

 トラックに積み込まれていた補給品は大量で、生徒達を乗せて帰る事を考えると本当に積載限界が近い。一際大きなミリタリーボックスを積み込んだセリカは、額に流れた汗を拭いながら先生に報告する。

 

「先生! こっちの弾薬物資は全部積み終わったわよ!」

「お、早いね、ありがとう!」

 

 先生も持っていた補給品を積み込み、食糧や嗜好品の類も詰めるだけ詰め込んでいく。積み込めない分は生徒達のポケットやバッグにこれでもかという程に詰め、弾薬に関しては水やら泥を被せて使用不可能になる様細工を施す。食料に関しては流石に勿体ないので特に手は加えず、嗜好品は一部を除き――電子煙草や青年誌と思われるアレコレ――食料と同上。発電機に関してはまた居座られても困るので徹底的に破壊した。

 後は少々心が痛むものの、カタカタヘルメット団が戻って来た時に備え四方に彼女達の持っていた爆薬を利用してトラップを仕掛けさせて貰った。即席の代物で、効果としてはそれ程期待出来るものでもないが、トラップの仕掛けられた建築物で眠りたいとは思うまい。一応、無いとは思うが一般人が立ち寄らない様、出入り口付近に『トラップ注意』と書いた電子看板を設置しておく。これで万が一侵入して怪我をしても、それは自業自得という事で。

 凡そ出来る事を全てこなし、荷を積み終えた先生は大きく息を吐き、作業を終えたホシノとセリカを労い、警戒していた三名に声を掛けた。

 

「積み込み終了、それじゃあ皆で学校に戻ろっか」

 

 先生の言葉に笑顔で頷く生徒達。

 こうして――アビドス高等学校来校初日、カタカタヘルメット団との初戦闘は終結したのであった。

 

 ■

 

「ただいまぁ~、うへ、やっと帰って来れたぁ~、疲れたよぉー……」

 

 帰還後、鹵獲したトラックから荷物を下ろし、次いでトラックを車庫に入れ、漸く部室に戻って来たアビドスの面々。流石の連戦で肉体的にも精神的にも疲労したのか、愛銃を地面に立て、皆が一人残らず椅子にへたり込む。

 

「皆さん、お疲れさまでした……」

「アヤネちゃんも、お疲れ」

 

 アヤネも疲労感を隠しきれず、長机にべたっと張り付いている。平気そうなのはシロコ位なものか。相変わらずノノミも笑顔を浮かべているが、少しだけ気怠そうな雰囲気が漂っている。

 

「何はともあれ、火急の事案だったカタカタヘルメット団の件が片付きましたね、これで一息つけそうです」

「そうだね、これでやっと重要な問題に集中出来る」

「うん! そこはまぁ、先生のお陰だね、これで心置きなく全力で借金返済に取り掛かれるわ!」

 

 一先ず、大変であった事は変わりないものの、頭痛の種であったカタカタヘルメット団に関しては片が付いた。その事を考えると、疲労した甲斐はあるというもの。セリカが椅子に座ったまま笑顔で先生を振り向き、小さく頭を下げた。

 

「ありがとう、先生! この恩は一生忘れないから!」

「いいや、皆が頑張ったからさ」

 

 心の底からそう思う。少なくとも、今こうしてアビドスが存続しているのは彼女達が頑張った成果なのだから――。

 

「――それで、借金というのは?」

「えッ……あ! わわっ」

 

 しまった、という風に口を塞ぐセリカ。先生は既にその事を知っていると思ったのか、或いは単純に口が滑っただけなのか。

 無論、先生は既にアビドスの事情について全て知っている。しかし、彼女達のいの一番悩んでいる問題を、然も訳知り顔で勝手に解決する事は出来ない。彼女達の信頼が必要だった。少なくとも、助けて欲しいと彼女達の口から言って貰える程度には。

 

「そ、それは……」

「ま、待って! アヤネちゃん! それ以上は――」

 

 アヤネが僅かに顔を顰め乍ら、口を開く。

 それをセリカが止め、そんな二人を見ていたホシノは背凭れに身を預けながら淡々とした口調で云った。

 

「良いんじゃない、セリカちゃん、元々先生はアビドスの事を調べて、その上で来てくれたみたいだし」

 

 ホシノは先生を見る。その目は相変わらず眠たげなものだったが、どこか先生を計る様な意図が含まれている気がした。

 

「――借金の事も、凡そ見当はついているんじゃない?」

「で、でも、態々話すような事じゃ……」

「別に罪を犯したとかじゃないでしょ? それに、先生は私達を助けに来てくれた大人だよ――だよね、先生?」

「……あぁ、勿論」

 

 ホシノの言葉に、先生は強く頷く。

 徹頭徹尾、それだけは変わらない。先生という存在は、彼女達を救う為に存在しているのだから。

 

「……私はホシノ先輩に賛成、セリカ、先生に話しても良いと思う、先生なら悪い様にはしない筈」

「そ、そりゃそうかもしれないけれど! でも、先生だって、結局は部外者だし!」

「確かに先生がパパっと解決してくれるような問題じゃないかもしれないけれどさ、でも、この問題に耳を傾けてくれる大人は、先生くらいしかいないじゃーん?」

 

 どこか茶化したような口調で肩を竦めるホシノ。その目は真っ直ぐセリカを見ている。

 実際、今の今まで手を差し伸べてくれる大人は誰一人として居なかった。だからこそ、これは彼女達にとってチャンスでもあるのだ。

 シャーレという連邦生徒会組織である大人が、彼女達に関心を持ってくれた、手を差し伸べてくれた――その事実が何よりも僥倖。

 

「悩みを打ち明けてみたら、何か解決法が見つかるかもよ? 先生は色んな情報を持っているだろうし、頭だって良い、少なくとも私達よりはずっと、取り敢えず聞いて見て損はないよ……それとも他に何か方法があるのかな、セリカちゃん」

「うぐ、うぅ……」

 

 思わず呻く。正論だと、セリカは思った。

 現実問題、本当にアビドスを救いたいのならなりふり構わず、先生だろうとシャーレだろうと救いを求めるべきであると、頭では理解しているのだ。

 しかし、それでも――胸に巣くう、この暗澹たる想いが邪魔をする。

 

「た、確かに、先生の事は……ちょっとは信頼しているわ! でもそれは、戦闘に関してだけだから! だって、だって今まで大人たちが、この学校の事を気に留めてくれた事なんてあった!?」

 

 意図せず、声が大きくなった。それだけ心が揺れている証拠だった。

 そうだ、今更――今更なのだ。

 大人が今更、手を差し伸べたって、アビドスはずっと前からこんな状態で、砂漠に呑まれ始めた時からずっと、四方手を尽くして戦い続けて来たというのに。

 

「この学校の問題は、ずっと私達だけでどうにかしてきたじゃん! なのに今更、大人が首を突っ込んでくるなんてさ! そんなの……ッ!」

 

 叫び、思わずセリカの目尻に涙が滲んだ。

 自分達だけで何とかしてきたというプライド、矜持。アビドスが今の今まで残っているのは、自分達が努力し、死力を尽くして来たからだという自負がある。

 助けてくれた事には感謝しよう、恩も感じよう、けれど――この借金問題は、アビドスの根幹に関わる問題なのだ。今の自分達の積み重ね、紡いできた想い、ちっぽけで、吹けば飛ぶような、小さな小さなプライド。

 我儘と云えばそうだろう、現実を見ていないと云えばその通り。単なる独りよがりな癇癪、子供の叫びに過ぎない。

 

 けれどそこ(アビドスの真ん中)に、今更大人が踏み込んでくることが――我慢ならない。

 

「私は認めないッ!」

「あっ、セリカちゃん!?」

 

 吐き捨て、部室を走り去る。その背中を先生は、酷く辛そうな、今にも泣きだしそうな顔で見つめ――そんな横顔を、ホシノはじっと注視していた。

 

「っ、私に任せて下さい、様子を見てきますから」

 

 そう告げセリカの後を、ノノミが追う。二人の背中が部室から消えた後、静謐な空気を破る様にしてホシノが声を上げた。

 

「えーと、ごめんね先生、何というか、先生を信頼してない訳じゃなくて、あー……」

「大丈夫、分かっているよ」

 

 ふっと、先程までの表情を噛み殺し――先生は穏やかな笑みすら浮かべて見せる。椅子に座ったまま目を瞑った先生は、酷く平坦な口調で告げた。

 

「私が、大人だからだよね」

「……んー、まぁ、そんな感じ、かな」

 

 頬を掻くホシノ、彼女からすれば何とも決まりが悪い話だろう。

 

「変な話でごめんね、大人を嫌っている癖に、大人に頼るなんて」

「まさか」

 

 先生は彼女の言葉を否定する。彼女の決断を笑うつもりなど毛頭ない。それだけは、ない。

 

「えっと、簡単に説明するとさ、この学校、借金があるんだ……結構、ありふれた話」

「幾ら位?」

「あー……えー………」

 

 知っていて尚、先生は静かに問うた。

 ホシノは気まずそうに、或いは申し訳なさそうに、視線を左右に散し、それから観念したように項垂れ、正直に話した。

 

「……九億円、ほど」

 

 口調は酷く落ち込んでいて、見たくない現実を見てしまったという雰囲気がありありと滲んでいた。

 

「……九億六千二百三十五万円、です、委員長」

「うへぇ、また増えてる……」

 

 アヤネの正確な補足に、ホシノの落ちていた肩が更に深く落ちる。その姿を見てシロコは眉を下げ、アヤネは先生と向き直りアビドスの財政について話し始めた。

 

「これはアビドス、いえ、私達対策委員会が返済しなくてはならない金額です――これが返済出来ないと、学校は銀行の手に渡り、廃校手続きを取らざるを得なくなります」

「……それにしては、大分大きな借金だね」

「……はい、事実完済できる可能性は零に等しく、殆どの生徒は諦めて、学校と街を去ってしまいました」

「そして私達だけが残った」

 

 シロコの悲しそうな呟きに、アヤネは目を伏せた。

 

「学校が廃校の危機になったのも、生徒がいなくなったのも、街がゴーストタウンになりつつあるのも、全てこの借金が原因です……借金をする事になった理由は――」

 

 そうしてアヤネが語って聞かせたのは数十年前のアビドス校。

 始まりは、学区郊外の砂漠で砂嵐が起きた事だった。

 それもただの砂嵐ではない、想像を絶する規模の砂嵐だ。学区の至るところが砂に埋もれ、砂嵐が去ってからも尚、砂が溜まり続けてしまう程の。

 その自然災害を克服する為に、アビドス校は多額の資金を投入せざるを得なかった。

 しかし、土地だけが広い片田舎の学校に、巨額の融資を許す銀行は中々見つからず、時間も惜しいと四方八方に手を広げ、結果――。

 

「結局、見つかったのは悪徳金融業者」

「……はい、最初の内は、すぐに返済できる算段だったと思います――ただ、砂嵐はその後も毎年更に巨大な規模で発生して、学校の努力も空しく、学区の状況は手が付けられない程悪化の一途を辿って、結局アビドスの半分以上は砂漠に呑まれ、その度に借金も、その……」

「膨れ上がって、今の金額になった、という訳か」

「はい……私達の力だけでは、毎月の利息を返済するだけで精一杯でして、弾薬も補給品も、底をついてしまっていました」

「セリカがあそこまで神経質になっているのは、これまで大人の誰も、この問題にまともに向き合わなかったから……話を聞いてくれたのは先生、あなたが初めて」

「……そっか」

「まぁ、そういうつまらない話だよ」

 

 椅子を軋ませながら背凭れに寄りかかり、ホシノが吐き捨てる様に云った。

 シロコも、アヤネも、昏い雰囲気を纏っている。状況はかなり悪い、少なくともそれ程莫大な借金を、生徒の身分で直ぐにどうこう――というのは難しいどころの話ではない。

 殆ど、不可能な話だった。

 生徒達や住人が見限って街を去るのも責められまい、それが分かっているからこそ、彼女達は嘗ての生徒達を悪しき様には云わなかったのだ。

 その雰囲気を悟ったのだろう、ホシノは努めて明るい口調で、おどける様に云った。

 

「だけど暗い話だけじゃないよ、今日漸くヘルメット団っていう厄介な問題が解決したから、先生のお陰で暫く借金返済に全力投球出来る様になったわけ……あ、もしこの委員会の顧問になってくれるとしても、借金の事は気にしないでいいからねー、話を聞いてくれるだけでも有難いし」

「そうだね、先生は十分力になってくれた、これ以上迷惑はかけられない」

「――いや」

 

 告げ、先生は強く、強く拳を握った。

 俯いていた顔を上げ、ゆっくりと目を開く。

 そこには嘗て存在しなかった――意思がある。

 先生は嘗て知った、覚悟だけでは足りなかった。重要なのは意思だ、何があっても挫けぬ鋼に勝る意思だ。嘗ての己のが持ち得なかった、『最後まで生徒を信じる』という意思が足りなかった。

 獲り零した筈の未来を掴み、今度こそ正しき明日を迎える為に。

 

「見捨てる事なんてしないよ、私は皆の――【先生】だからね」

 

 微笑み、言い切る。

 強い覚悟と、意思を灯した瞳で以て。

 皆は先生を見つめ、どこか驚いたような、惚ける様な、そんな顔をしていた。

 

「え、ぁ、それって――」

「最後まで、一緒に頑張るって事さ」

 

 先生がそう云うと、アヤネは椅子を蹴とばす勢いで立ち上がり、深く――深く頭を下げた。

 

「ッ! は、はいっ! よろしくお願いします、先生!」

「……先生も変わり者だねー、こんな面倒な事に自分から首を突っ込もうなんて」

「生憎と性分でね、それに困っている生徒を放っておくなんて、それこそ先生失格だろう?」

「――大人じゃなくて、先生として?」

「うん」

 

 先生の言葉を聞いたホシノは一瞬顔を歪め、けれどそれは直ぐに掻き消され、少しだけ寂寥感の残る――儚い微笑みだけが浮かんだ。

 

「良かった……シャーレが力になってくれるなんて、これで私達も希望を持って良いんですよね?」

「そうだね、希望が見えてくるかもしれない、少なくとも先生が味方してくれるなら」

 

 アヤネとシロコが笑顔を見せる。少なくともそれは此処半年ほど、ホシノにとって見た事もなかった晴れた、穏やかな笑顔だった。

 それを見せられたホシノはそれ以上何も云えなくて、ただ小さく息を吐き出した後。両手を組んだままそっと椅子に沈み込んだ。

 

 ■

 

「………先生」

 

 部室の外、隣り合う教室に身を潜めて、僅かに空いた扉から話を盗み聞いていたセリカ。先生の言葉に、微かに高鳴る胸がある。

 この人なら、もしかして、或いは――本当に力になってくれるんじゃないかという、予感がある。

 

「……っ」

 

 けれどそれを真正面から素直に受け取るには、余りにもひねくれ過ぎて。天秤に乗せられた小さなプライドは、未だ現実を直視して尚も重く傾いていた。

 そっと唇を噛み締め、音もなく教室を去る。

 

「セリカちゃん――」

 

 その背中をノノミは、何も云えずただ見守る事しか出来なかった。

 

 





 此処好き機能、良く分からないのですが読者からすると便利なのでしょうか? 私は余り意識した事がないのですが、栞みたな感じなのかな。要望が多い場合は純愛文を本編に組み込んでも良いかなとも思います。ただ本編とはテイストが違うからなぁ、住み分けって意味だとこのままでも……。あと本編に組み込むと、多分本編の文字数が平均2,000程増えます。
 どっちがええんやろ、悩みますね。

 それはそうとアルちゃんはね、もうね、ポンコツ可愛い。多分ちょっと捏ね繰り回した理論と早口で捲し立てれば何でもしてくれそう。適当に作ったウェブサイトにを見せながら、「アル、今のハードボイルドのトレンドは、バニー服なんだよ、ほら見てくれミレニアム最高峰の戦闘力を持つC&Cの雄姿を、彼女達も、こんな風にキメているんだ、今のアルは時代に置いて行かれているよ?」と云えば、「なななな、なっ、なんですってー!?」と云って翌日バニー服を着て事務所に来そう。多分それを見てムツキは、「くふふっ、アルちゃんまた何か面白い事やってるぅ」となり、カヨコは、「……誰かにまた要らぬ事吹き込まれたんだろうな」と素知らぬ顔で、ハルカはハルカで全肯定マンだから、アルが、「これが今のハードボイルドのトレンドよッ!」と云えば、「そ、そうなんですか!? す、すみませんすみません、私、そんな事全然知らなくて、お、お似合いですよアル様!」と云ってくれる。それに調子づいて多分、一日位気付かない。それで後から先生に、「アレ嘘だよ」って云われて、一日バニーでふんぞり返っていた一日を思い出して、「むきーッ!」と憤慨して欲しい。可愛いね。

 偶にはムツキと一緒にアルに嵌められて欲しい、先生から特別依頼という形で、「キヴォトスを裏から牛耳ろうとしている、巨悪の討伐を頼みたい、これは誰にも知られてはいけない【裏の仕事】――アル、君に最後まで戦い抜く覚悟はあるか?」とか電話口で云われて、「と、とーぜんよッ! この私を誰だと思っているのかしら!? この私に掛かれば、巨悪だろうと何だろうと簡単にボコボコにしてあげるんだからっ!」と張り切る。

 で、いざ単身勇んで乗り込めば、見知らぬ高層ビルのロビーで、何かおしゃれな雰囲気に頭上に「?」を浮かべて待つ事になり、依頼主である先生がやって来て、「せ、先生遅いじゃない、もう、呼び出しておいて遅刻はないんじゃない?」と云えば、先生は先生で呼び出したのはアルじゃないかと云い。二人そろって疑問符を浮かべれば、あれよあれよの内にドレスコードされ、二人で最上階のレストランで食事する事になるんだ。

 え、あれ、何でと混乱するアルと、あー、これムツキかぁ、と早々に察して楽しむ方向に舵を切る先生。(な、な、なんなのこれぇぇぇ)とテンパって白目を剥くアルを宥めながら、穏やかな雰囲気の中で食事を終えるんだ。帰ったら、「くふふッ、楽しかったぁ? 先生との、で、ぇ、と?」とムツキに揶揄われ、また「むっきー!」となって欲しい。
 でも内心で先生とデート出来た事に喜んで、や、やるじゃない、ムツキ! とか思っていて欲しい。

 何かにつけてアルに「可愛い」と云いたい、その髪型良いね、可愛いよ。今日も決まっているね、可愛いよ。その度に、「せ、先生! そこは恰好が良いではなくてッ!?」みたいな事を云うのだけれど、顔は赤いし内心ではめちゃ嬉しそうにして欲しい。そうこうしている内に先生との時間を、とても、とても大事なものであると自覚し始めるんだ。共同経営者としても、パートナーとしても、そしてアルという個人としても、いなくてはいけない人で、大切な人で、失いたくない人だと感じて欲しい。

 先生の前ではずっと恰好をつけていた筈なのに、ふとした瞬間に何の変哲もない少女らしく、たおやかに笑って欲しい。自分は社長だからとか、皆引っ張って行かなくちゃだとか、ハードボイルドらしくしなくちゃとか、そういう、本人が重荷とは思っていなかった筈の色々が抜け落ちて、本質だけになった自分の、本当になんの気負いもない笑みが零れた事に自分自身驚いて――あぁ、そんな笑みを引き出してくれるこの人は、私にとって、本当に大事だったんだって、便利屋の皆に負けない位の信頼と愛情をいつの間にか抱いていたんだって自覚して欲しい。

 で、そんなアルに『先生の殺害依頼』を頼みたい。

 最終章でキヴォトスと生徒の為に全てを裏切った先生、その殺害依頼をアルに押し付けたい。勿論、依頼主は先生自身。
 最初は先生が裏切ったという話に、何かの間違いだと言い聞かせて、その内段々と先生と生徒達の戦いが激化していく内に信じるしかなくなって。それでも先生と戦いたくないと思って、事務所で引き籠っていたアルに、手紙で依頼文を届けたい。
 最期はアルの手で死にたいみたいな事を書いて、アルが過呼吸になる位悩ませたい。便利屋の皆に心配されながら、三日三晩寝ずに考えて考えて考えて。
 その果てに静かに愛銃を手に取ったアルの表情は、きっと美しいのだろうなぁ……。

 あーッ、覚悟を決めて、誰かに殺されてしまう位なら、最期は私が――みたいなヤンデレともメンヘラともいえる、極限の選択の狭間で揺れ、銃を手に先生の元にやって来たアルがッ! 血塗れで、今にも死にそうで、それでもアルが来てくれた事に安堵した表情を見せた先生に動揺して欲しいィッ! この愛しい人を今から自分が殺さなくちゃいけないという現実と、けれど殺さなければ便利屋の皆と共にキヴォトスが危機に陥るという選択と、このまま何もしなければ、ただ血を流し先生は一人で死んでいくという虚しさに、銃口を震わせながら、唇を噛みながら、涙とか鼻水でぐしゃぐしゃになった、「便利屋のアル」と「本質のアル」の中で揺れ動いて欲しいィ!
 心の中で全力で嫌だと叫びながら、それでも先生の為に、便利屋の為に、最期は自分が終わらせたという一途な事実な為に引き金を引いて欲しいィィ! 

 白目を剥いても終わらない現実があるって悲しいねアルちゃん可愛いよ。
 でもほら、先生は皆が立ち直ってくれるって信じているのだから、立ち上がらないと。
 立ち上がらないと、先生が浮かばれないよ。立ち上がって進まなきゃ。
 自分が居なくなっても、きっとアルちゃんなら立ち上がって進んでいけるって信じているんだ、先生は。だから最期を託したんだ、『それでもきっと、アルなら』って。
 信じてくれたんだから、ね? 泣きながらでも良いから、立って、歩かなきゃ。
 歩きなよ、引き金を引いたのは君なんだから。

 あはー、先生撃ち殺した後に呆然とするアルちゃんに、「クロノススクール、報道部です! 今のお気持ちは!?」って勝利者インタビューしてぇ~。


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セリカの不幸な一日

 誤字脱字報告、毎度ありがとうございます。
 報告一度に付き「1ペロロ様ポイント」が付与されます。三ポイントでペロロ様靴下(右)と交換、五ポイントでペロロ様ボールペン、十ポイントでペロロ様キーホルダーを贈呈します。百ポイント集めるとなんと、ペロロ様靴下(左)と交換出来ます。
 嘘です。

 今回試験的に後書きが本編に組み込まれています。不要な方は飛ばしてください。
 【後書き】と記載されておりますので。不評でしたら戻します。
 本編に入れたら文書置換・整形めちゃ楽でした。


 

 翌日、アビドス住宅街。

 閑静かつ人の皆無な住宅街は、ゴーストタウンの煽りを直に受けた区の一つ。比較的綺麗な外観を保ってはいるものの、良く見るとあちこちに砂が溜まっていたり、植物が四方八方伸びていたりする。

 流石にアビドス校に寝泊まりする訳にもいかないので、アビドス郊外にあるビジネスホテルを連泊で確保した先生。アビドス校から辛うじて徒歩で通える距離で、ルートは何度も暗記し万全。バッテリーの充電も済ませ体の疲労も抜いた先生は、からっと晴れた空の下、遭難の心配もなく機嫌良さげに歩いていた。

 そしてふと前から現れた影に気付き、足を止める。

 

「うっ………!」

「? あ、セリカ」

 

 そこには昨日、部室を出て行ったきり戻らなかったセリカの姿があった。先生を見て一瞬顔を顰めたセリカからは、気まずそうな雰囲気と、申し訳なさそうな雰囲気、そして僅かな警戒色が透けて見える。昨日、あんな形で別れてしまった為、想う所があるのだろう。

 

「な、何よ……!?」

「おはよう」

 

 何を云われるかと身構えていたセリカは、しかし笑みすら浮かべて挨拶を口にする先生を見て、毒気を抜かれた。しかし、昨日あれ程の言葉を叩きつけた手前、素直に対応する事も出来ず――。

 

「な、何がおはようよ! 馴れ馴れしくしないでくれる!? 私、まだ先生の事認めてないから!」

「そんな、前は信頼しているって云ってくれたのに……」

「戦闘指揮! 戦闘指揮に関してだけだからッ!」

「私とは、遊びだったのか……?」

「ちょ、何その言い方!? や、やめてよ! そんな泣きそうな顔したって駄目だからね!?」

 

 先生が少しだけ落ち込んだように肩を竦めて俯けば、途端セリカの語気が弱まった。基本的に善人で、根っからの人情家である彼女はこういう表情に弱い。吹けば飛びそうな、今にも涙を零しそうな顔を見れば、おろおろと左右を見渡し、手を出したり引っ込めたりと忙しない。泣き真似は存外得意だった、何せ涙を流す記憶には事欠かない。泣き喚きながら、私の腹を撃ち抜いた生徒の顔を思い出すだけでも一発だった。

 

「まぁ冗談はさておき」

「なっ……ぐッ!」

 

 涙を引っ込め、けろりとした表情で笑みを浮かべる。

 唐突な切り替えに、セリカは揶揄われたと思ったのだろう。唇を噛み締め乍ら何かを言いたげに、先生を睨みつけた。

 

「もしかして、これから学校かい?」

「別に、私がどこに行こうと関係ないでしょ、朝っぱらからこんなところウロついていたら、駄目な大人の見本みたいに思われるわよ」

 

 それだけ云って、もう話す事はないとばかりに背を向ける。その腰に尻尾があったのならピンと一直線に立っていたに違いない。肌にじんわりと伝わる程の怒気を感じた。

 

「じゃあね! せいぜいのんびりしていれば? ふんッ!」

「あ、学校行くなら一緒に行こう」

「――は? 何で私があんたと仲良く学校に行かなきゃいけないわけ? ……悪いけれど今日は自由登校だから、学校には行かなくていいの」

「ん、それならどこに行くんだい?」

「……そんなの、教える訳ないでしょ!」

 

 少し黙り込んでから、セリカは顔を勢い良く逸らした。先生の眉が露骨に下がり、悲し気な雰囲気が漂い始める。

 

「そんな、先生哀しい……」

「なっ、も、もうその手には乗らないからッ!」

 

 表情を曇らせ再び泣き落としを使えば、セリカは一瞬怯むものの、嘘だと分かり切っているからだろう。気丈にも態度を崩さず、先生を睨み続けた。しかし先生も負けじと、その場に崩れ落ち、本当に涙を零しながら訴えた。

 

「このままじゃご飯も食べられない、セリカが何か、悪い事に巻き込まれないか心配で心配で、夜も眠れなくなりそうなんだ……ッ!」

「だ、ぐ、こっ……!」

 

 まさか本当に泣くとは思わなったのだろう。おーん、おん、おんと声を上げて泣き始めた先生に、セリカは慌てて周囲に人が居ないかどうかを見渡した。そして全力で悲観に暮れている先生を数秒見つめ、悩むように肩を震わせた後、空を見上げてやけくそ気味に叫ぶ。

 

「だぁぁぁあもうッ! アルバイト! アルバイトよッ! 別に危ない事はしないし、犯罪に巻き込まれるような事もないからッ!」

「あぁ、そっか、アルバイトか」

 

 すっ、と何事もないように立ち上がった先生は、安堵したように微笑んだ。

 セリカは何か、もう、堪え切れんとばかりに先生へと食って掛かり、その胸元を指先で叩きながら叫ぶ。

 

「あのね、あんたッ……先生には、一応感謝している! ヘルメット団を追い払えたのも、補給をしてくれたのも、全部先生のお陰だから――でも、これからの事は私達だけで何とかするから、首を突っ込まないで! それじゃあね、バイバイ!」

 

 それだけの言葉を先生に叩きつけ、脇目もふらず走り始める。砂塵を撒き散らしながら駆け出したセリカの背中を見つめながら「ふぅむ……」、と先生は唸った。

 そして徐に駆け出し、セリカの隣に並ぶ。体力が万全ならば、先生とてそこそこ早くは走れるのだ。無論、セリカが全力ではないというのも大きいが。

 隣に先生が並走して来た事に、ぎょっとしたセリカは身を仰け反らせ、慌てて足を止めた。

 

「ひゃあ!? ちょ、な、何でついて来るの!?」

「いや、どこでバイトしているのか気になったから……」

「何言ってんの!? あっち行ってよ! ストーカーじゃないのっ!」

「何ならGPSで位置追跡しても――」

「わかった! 分かったってば! 行き先を教えれば良いんでしょう!?」

 

 先生がシッテムの箱を取り出しながらそう云えば、セリカは顔を赤くしながら再三叫ぶ。「もう、何で私がこんな事ぉ……」、と若干涙声で呟いた彼女は懐からファンシーなメモ帳を取り出し、其処に住所を書き殴って先生に突き出した。

 

「はい! 御店の住所! あんたみたいにのんびりしていられないのよ、こっちは! 少しでも稼がなきゃならないんだからっ! それじゃあねッ! もうついてこないでよ!? ついてきたらぶっ殺すからね! あとバイト先に来ないでねッ! ダメ大人!」

「酷い云われようだ」

 

 今度こそ徹底的に先生をこき下ろしたセリカは、ついて来られない様全速力で走って消えた。メモを片手にその背中を見送った先生は、少しだけ悲しそうにぽつりと呟く。しかしまぁ、残当という気持ちはあるので仕方ない。

 メモを片手にうららかな日差しを浴びる先生。どこまでも青い空、白い雲。暫くそうやって立ち止まっていた先生は、ふっと息を吐き出して大きく伸びをする。

 

「さて、と……」

 

 気持ちよさそうに目を細めた先生は、徐に地図アプリを起動した。

 

「――セリカのバイト先を冷やかしに行こうかな!」

 

 ダメと云われたら行きたくなるのが人情である。

 秘密というものは――蜜の味なのだ。

 

 ■

 

「いらっしゃいませ、柴関ラーメンです!」

 

 店内に響き渡る溌剌とした声。前掛けを腰に巻き、三角巾で髪を纏めたセリカが笑顔を惜しみなく振る舞い、接客を行っている。場所はラーメン屋――『柴関ラーメン』。アビドスの中でも数少ない未だ営業中の飲食店で、安い、早い、美味いと周辺では評判の店である。セリカは仲間達にも内緒で、このラーメン店でのバイトに精を出していた。

 

「何名様ですか? 空いているお席にどうぞ!」

「三番テーブル、替え玉追加お願いします!」

「はい! 御注文は……はい、塩と味噌が並み、一つずつで――」

 

 あっちへこっちへ、忙しなく動き回りながら働くセリカ。店内は存外に人が多く――そもそも店自体が少ないので、住民は遠くとも通ってくれたりする――アビドス内でも極僅かな活気のある場所の一つである事が分かる。客は皆、思い思いに食事を楽しんでいた。

 不意に扉が開き、また新しい客かとセリカが笑顔を向ける。

 

「いらっしゃいませ! 柴関ラーメンで――」

「五名でお願いしま~す☆」

 

 古めかしい木製の引き戸を開けて中に入って来たのは、見覚えのある仲間の姿。一瞬、固まったセリカはその現実に意識を飛ばしかけたものの、背後から続々と入って来た委員会メンバーに再起動を果たし、注文用の端末で口元を隠した。

 

「わわッ……!」

「あ、あはは……セリカちゃん、お疲れ様」

「ん、お疲れ」

「アルバイト、頑張っているようだね」

 

 最初に入って来たノノミを筆頭に、アヤネ、シロコ、先生と姿を見せる。先生は一歩、店内に踏み込むと、どこか興味深そうに周囲を見渡す。生徒達はそれを、初めて来た店だからだと思っていたが――先生は懐古の念に浸っていたのだ。懐かしい匂いと、喧騒に。

 セリカは唐突に現れた皆を見渡しながら、愕然とした表情を浮かべる。

 

「み、みんな……先生!? どうしてここに……!? ま、まさかっ、先生!?」

「いや、残念だけれど私ではなくて――」

 

 よもや先生がアルバイト先を皆にバラし、連れて来たのかと睨みつければ、肩を竦めて背後を見る先生。すると一人、遅れて小さな影が店内に足を踏み入れた。

 

「うへ~、やっぱり此処だと思ったよ」

「ホシノ先輩!?」

 

 遅れて来た人物もまた、セリカにとっては見覚えのある人物。相変わらず眠たげに目を細めている彼女は、ふらふらと覚束ない足取りでセリカの傍に寄って行った。

 

「まぁ、セリカちゃんのバイト先といえばここしかないかなーって、だから来てみたの、そしたら大当たり~」

「う、ぐッ……!」

 

 まさか、予想されていたとは露知らず。セリカが呻き声を上げると同時カウンターの向こう側から二足歩行する柴犬としか表現できないような、この柴関ラーメンの店主が顔を覗かせ、声を上げた。

 

「アビドスの生徒さんか! セリカちゃん、お喋りはそれくらいで、注文頼むよ!」

「あ、うぅ……はい、大将、それでは広い席にご案内しますぅ……」

 

 大将に云われては逆らえない。大きく落ち込み、とぼとぼと席へ案内し始めたセリカの後を、ホシノとノノミは楽しそうに、シロコはいつも通り、アヤネは苦笑いで追った。

 案内されたのは奥側の六人席。ホシノとシロコ、アヤネとノノミという席順で座った後、不意にシロコとノノミが同時に先生を見た。

 

「はい、先生はこちらへ! 私の隣、空いています!」

「……ん、私の隣、空いている」

「むッ」

 

 殆ど同時に出た着席の誘い、ノノミとシロコが少しだけ驚いた様に互いの顔を見合わせ、それから再度先生に視線を送る。まるで、どちらを選ぶのかと言いたげに。先生は直立したまま動かず、腕を組み静かに顎先を擦った。まるで、熟考する姿勢。

 

「……? 先生、なにやっているの、早く座りなよ」

 

 奥に座るホシノが不思議そうにそう告げる。しかし、先生は難しい表情を浮かべたまま二人の隣を交互に見ていた。

 

「いや、だが、しかし……」

「ちょっと、先生?」

 

 通路に立つセリカが、訝し気な表情で急かす。先生は二度、三度、四度と二人の隣を見つめながら表情を険しくし、それから強く目を瞑り、云った。

 

「シロコの隣も、ノノミの隣も――捨て難いッ!」

「えぇ……」

 

 迫真の表情で、それこそ血を吐く様な酷烈さを以て告げる先生に、アヤネが顔を引きつらせる。そんなに悩む事だろうかと。実際、たかが席順である。アヤネの反応は実に正常であった。

 

「シロコもノノミも、私にとって大事な存在なんだっ、そんな簡単に決断出来ない……ッ!」

「ただ隣に座るだけじゃん」

「それでもッ!」

「先生って、何て言うか……その、結構、アレだよね」

 

 テーブルを掴みながら苦悩する先生に対し、言葉をぼかしながらホシノが呟く。その表情は苦々しいと云うか、呆れ気味と云うか――しかし、先生としては決して軽視出来る問題ではなかったのだ。どちらかを選ぶという事は、どちらかを選ばないという事。その選択は今の先生にとって、何よりも重い。

 そんな先生の熱意と好意が伝搬したのか、ノノミは頬に手を当てながら、シロコは指先で前髪を弄りながら、少しだけ頬に朱を散らしていた。

 

「先生、そんなに私の事を……」

「ん……まぁ、悪くない心地」

「――こっちもかぁ~」

 

 先生だけがおかしいのだろうと思っていたホシノ、二人のまんざらでもない態度に天井を仰ぐ。

 アヤネはそんな二人に視線を送り、小さく溜息を吐き出した後、そっと席を立ってシロコとノノミに座席移動を促した。

 

「わ、分かりました、先生、私とホシノ先輩が向こうに座りますので、先生は此方の席で、真ん中に座って頂ければ……そうすればホラ、二人と一緒に座れますよ」

「ッ!? 良いのか、アヤネ!」

「え、あ、はい」

「恩に着るッ!」

 

 まるで子供がサンタからプレゼントを貰ったかのような、純真無垢で嬉しそうな表情。そんな顔を浮かべた先生に、アヤネは呆気にとられ――もしかしたら、二人と一緒に座る事に、何かしら意味が在るのかも……何て深読みをしながら座席を移動。勿論、下心以上のものなど存在しない。

 結果的に先生が真ん中、左右にノノミ、シロコが座る形で決着した。

 

「――ふむ」

「――えへへ」

 

 先生を挟むように着席した二人が、頬を緩ませながらどんどん中央(先生)に寄って行く。満足そうな表情で先生は二人の擦り寄りを許容していたが――その内、先生の両肩がミシミシと軋みを上げ始めた。

 心なしか、先生の顔色が蒼褪めていく。というか先生の体積が通常の半分ほどまで圧縮されていた。縦長先生である。

 それを見たセリカが慌てて二人に叫んだ。

 

「ちょ、シロコ先輩、ノノミ先輩、狭すぎッ! 先生がプレス機に掛けられた鉄屑みたいになってるから! 凄く窮屈そうだから! もっと端に寄ってッ!」

「いや、私は平気、ね、先生?」

「はい、あ、もし窮屈なら、私の膝の上でも――」

「人の店で何やってんの!?」

「あはは☆ 冗談ですよ~、セリカちゃん」

 

 縦長になった先生も、「大丈夫だよ、生徒に好かれて幸せさ」と口にするが、その顔色は青を通り越して白になっていた。流石に不味いと思ったのか、シロコとノノミはそっと身を離し、足が触れる程度の距離に収まる。

 何度か深呼吸し、生命の危機を脱し安堵している先生を横目に、ノノミはセリカの制服について言及した。

 

「セリカちゃん、バイトの制服、とっても可愛いですね」

「確かにそうだねぇ、いやぁ、セリカちゃんって制服でバイト先決めちゃうタイプ?」

「えっ!? ち、違うって! 関係ないし! ここは行きつけの御店だったから……!」

「うーむ、私服でも制服でもないセリカちゃん、写真撮っちゃえばひと儲けできそうだねぇ……あ、先生どう? 一枚買わない?」

「――実践用、観賞用、布教用の三枚欲しいかな」

「変な副業はやめて下さい先輩、そして買わないで下さい先生……」

「ていうか実践用って何よ!?」

 

 黙秘する(言えない)

 涼しい顔で口を噤む先生に、犬歯剥き出しで威嚇をするセリカ。二人の様子を仲が良いのか悪いのかと思いながら見ていたシロコは、不意に疑問をセリカにぶつけた。

 

「ん、そう云えば此処のバイトはいつから始めたの?」

「え、あーっと、一週間位前から……かな」

「成程、そうだったんですね、時々姿を消していたのはバイトだったという事ですか☆」

「っ~! も、もう良いでしょう!? それで、ご注文はっ!?」

 

 セリカが恥ずかしそうにボード型の端末にペンを走らせれば、そんな彼女をにやにやと見ていたホシノが下から覗き込むようにして口を開いた。

 

「え~、そこはほら、御注文はお決まりですか、でしょー? セリカちゃぁん、お客様には笑顔で親切に接しないと~!」

「あ、ぐっ、ぬ……ご、ご注文は、お決まりですか……!」

 

 何て迷惑な客だ、先生は自身を棚に上げて思った。しかし、セリカ側としても今の対応は問題があると思ったのか、顔を真っ赤にしたまま丁寧に注文を聞き直す。ホシノ相変わらず楽しそうに顔を緩ませながら、いの一番に手を挙げた。

 

「私はねー、特製味噌ラーメン、炙りチャーシュートッピング付きで!」

「私は、チャーシュー麵をお願いします!」

「塩ラーメンを一つ」

「えっと……そうですね、私は味噌ラーメンで」

 

 次々と決まって行く注文。行き慣れた店なのだろう、誰もメニューを見ていない。先生は手元にあるメニューを指でなぞりながら、さてどうしようと思考を巡らせた。そんな先生を見てホシノは楽しそうに声を上げる。

 

「先生もジャンジャン頼むと良いよー、このお店めちゃくちゃ美味しいんだから、アビドス名物柴関ラーメン!」

「……うん、そうだね、それじゃあ――」

 

 取り敢えず誰も頼んでいなかった醬油ラーメンを一つ頼む。トッピングは味付け卵。

 セリカは皆の注文を端末に書き留めながら、不意に訝し気な表情で問いかけた。

 

「……ところで、みんなお金は大丈夫なの? もしかして、またノノミ先輩に奢って貰うつもりじゃ――」

「あ、私はそれでも大丈夫ですよ、カードの限度額までまだまだ余裕ありますし」

 

 そう云って不意に懐から取り出したるはゴールドカード。アヤネが、「眩しい!」と顔を逸らすほどの光を放っており、その存在感は正に一級品。まさしく黄金、ゴールド――しかし、そんなノノミの太っ腹宣言に、ホシノは首を横に振って応える。

 

「いやいや、また御馳走になる訳にはいかないよー、きっと先生が奢ってくれる筈――だよね、先生?」

 

 正面に座る先生に対し、にやにやと口元を緩めながらそんな事を宣う。無論、奢るなんて話を聞いていない先生は驚きと共に頭の中で財布の中身を心配した。今、現金幾ら入っているだろうか、と。

 

「えっ、初耳なんだけれど……」

「あはは、今聞いたから良いでしょ~! あ、私今日はめっちゃ食べるからよろしく~」

 

 えっ、そんな食べるの? 思わず周囲を見渡せば、アヤネは苦笑い、ノノミは相変わらず笑顔、シロコは無言でサムズアップしていた。隣に坐す、シロコのその瞳には強い食欲が宿っている――食う、こいつは喰う、恐らくとんでもなく食べる。そんな確信を抱かせる程に、食欲に塗れていた。

 先生は無言で席を立とうとした。この負荷に、財布が耐えられるかどうか心配になったのだ。

 しかし、シロコとノノミが無言で腕を掴み、ブロック。残念ながらこの席を選んだのは先生自身である。そしていつの間にかホシノが先生の鞄から財布を取り出し、中身を吟味していた。思わずぎょっとし、ホシノの方へと手を伸ばす。

 

「お、先生~、大人のカードがあるじゃん、これは出番だねー!」

「ほ、ホシノ、人の財布を漁るのはやめなさい!」

「先輩、まさか最初からこうするつもりで、ご飯に誘ったのですか……?」

「んふふ、さぁてね? まぁでも先生としては、可愛い生徒達の空腹を満たしてあげられる絶好のチャンスだよ~?」

 

 先生の大人のカードをふりふりと揺らしながら、ホシノは挑発的な表情を浮かべる。それを云われると、痛い。確かに可愛い生徒の空腹を満たせるのなら、お金など幾ら飛んでも構わないという気持ちが先生にはある。

 だが、それはそれとして覚悟の時間は欲しいのだ。来月は水だけとか、パンの耳だけとか、色々覚悟する時間が……!

 

「――先生、これでこっそり払ってください」

 

 不意に、小さな声でノノミが云った。

 視線を向ければ先生のポケットにそっと、周りから見えない様にノノミが現金を差し入れる所だった。金額は良く見えなかったが万札が数枚、高校生四人の食事代にしては余りにも大きな額。これで足りないという事はないだろう、しかし、先生は彼女の差し出した手をそっと包み、押し戻した。

 

「先生?」

「……いや、大丈夫だよ」

「え、でも――」

「これくらいでどうにかなる様な小さい財布じゃないさ」

 

 笑って、ノノミの厚意に感謝する。大人として見栄を張りたいと云うのもある、生徒達の前で恰好をつけたいという気持ちも。

 けれど、まぁ何だかんだ言って一番は、ホシノの云った通り――生徒の為にご飯を奢ってあげる事が、先生は全く以て嫌ではないのだ。

 

 


 

【後書き】

 

 

 縛られる事も、傷つけられる事もないけれど、一人は寂しいから。

 もうね、カヨコのスタンスは全てこの言葉に詰まっていると云っても過言ではない。人の絡む場所には足を踏み出さないけれど、善意で以て絡みに来た人には律儀に返す。何だかんだ面倒見がよく、自分なんかに構ってくれる人は無碍には出来ないという、どこか自分なんかという思考が隅に在る。

 

 カヨコは、ハルカと似通った部分があると思うんだ。違うのは一人で生きて行けるだけの力が在る事と、アルを妄信していない事、大事な友人であるという意識はあっても、彼女にとって便利屋の皆はあくまで『守るべき対象』なんだ。顔つきが怖いと避けられてきた彼女を何でもない、気の置けない友人として扱ってくれる彼女達に心の中では感謝していて、便利屋みんなに共通する事だけれど、一緒に沈んでしまっても全く後悔しないような雰囲気があると思う。

 

 だからこそデロデロに甘やかしたい、何なら依存までさせてしまいたい! 自立心が強く、大抵の事は一人で済ませられるようなスペックがあるのに、世話焼きで、心の深い部分で一人を恐れていて、繋がりを求めている――一度懐に入ってしまえば、めちゃくちゃ甘い子になるに違いない! 私生活のだらしない、ずぼらな先生であればある程、「仕方がない」とか、「私がいないと」という気持ちになって、カヨコはお世話をしてくれるんだ。

 

 最初の内は、「もう、ちゃんとしてよ」とか悪態をつきながら、渋々シャーレで面倒を見てくれていたのが、時間が経つにつれてこの人は本当に自分がいないと駄目なんじゃないかという考えになり、自分が本当に必要とされているという妙な満足感と、それが憎からず想っている先生であるという事実と、必要とされている限り、自分の居場所は此処にもあるんだと、拘泥たる想いを抱いて欲しい。

 

 カヨコはね、雨の日に電気も点けずに、二人で身を寄せ合って珈琲なんかを飲むんだ。

 砂糖は控えめで、ミルクを少量、黒と僅かな白の混じったそれを見ながら、私にはこれくらいが丁度良いなんて思いながら。時折二人でイヤホンを分け合いながら、種類問わず音楽何て聴いて、けれどそれ程会話がある訳ではなくて、でもその沈黙を許せる関係性が心地良いと、内心で微笑んで欲しい。

 

 不意にカヨコの目尻を撫でながら、カヨコの目は綺麗だねって褒めてあげたい。顔が怖いから人に避けられて、それに対して沈黙を守っていた彼女にとってのコンプレックスが、実は何でもない、先生にとっては寧ろチャームポイントですらあるという事を、これでもかと力説したい。最初は、「やめて、先生」とか云ってそっぽを向くのだけれど、二十分も三十分も如何にカヨコが素晴らしいかを力説している内に、何も言えなくなって、小声で、「ほんと、もう、やめて……」って真っ赤な顔で云って欲しい。

 

 気恥ずかしいから、先生とそういう関係になっても、便利屋の面々の前ではいつもの調子を貫いて欲しい。ポンコツ社長とハルカは気付かず、多分ムツキは薄々勘付いている。それで、多分カヨコもムツキに勘付かれている事に気付くと思う。でもその事に言及しようとすると、「くふふっ、ムツキちゃんは何もしらないよぉ」とはぐらかされる。おちょくり半分と、祝福半分、あとは僅かな寂寥感を湛えてムツキは知らんぷりをしてくれるんだ。相変わらずカヨコには便利屋の面々を仕方なさそうな、それでも愛おしそうな表情で見守って欲しい。

 

 カヨコは十八歳だから、いつも通り二人で珈琲を飲みながら静かに過ごしている最中に。不意に先生の裾を引いて、「ねぇ、先生、私さ、その……合法だよ」って云って欲しい。多分上目遣いで、けれど目線は脇に逸らしながら、真っ赤な顔で云って欲しい。今までの繋がりだけじゃない、もっと強い繋がりを求めて欲しい。

 

 でもねカヨコ、合法でも私の生徒でいる間はそういう事は駄目なんだと窘められて欲しい。その言葉で火がついて、多分カヨコは生徒扱いされると、「先生、私、もう十八だから」って何かとアピールしてくるようになる。遠回しに卒業したら待っていろと云っているのだ。真っ赤な顔で睨みつけながら、けれど二人で見つめ合った果てに、にこっと破顔して欲しい。きっと向日葵みたいに笑ったカヨコは、美しくて、可愛いんだ。

 

 そんなカヨコの前で首吊って死にてぇ~。

 

 いつも通りシャーレに来て、「こんにちは、先生」から、「ただいま、先生」に挨拶が変わった頃に、不意に部屋の中心で首吊って死にてぇ~。

 

 電気が点いていない事に不審がって、「先生……?」と訝し気に部屋の中に入って来たカヨコの目に、天井から吊り下げられたロープに全身を脱力させ、括られている先生の姿を見せつけてぇ~。

 多分先生と一緒に飲む為の珈琲を買って来ているから、呆然とした表情でその買い物袋を足元に落として欲しい。多分最初は何が起こっているのか分からなくて、何分もその場に立ち尽くすんだ。自分の感情を押し込む事には慣れている、出来る筈だと。

 

 でも先生と一緒に過ごした時間で、カヨコは素直に自分の感情を吐露する事にも慣れてしまっていて、不意に自分の目尻から流れ落ちた涙に感情を自覚するんだ。幾つも幾つも流れ落ちるそれをそのままに、小さく唇を震わせて、一歩、踏み出すんだ。

 

 下ろさなくちゃ、って。早く、先生を下ろさなくちゃ。

 生きているかもしれない、まだ間に合うかもしれない、直ぐに措置を行えば、まだ、まだ、と内心で叫んで欲しい。けれど気持ちに反して足は全然動いてくれなくて、全く進まない両足を震わせながら、唐突に、「動いてよぉ!」と叫んで欲しい。

 

 多分足に力が入らなくて、その場に倒れ込み、這いながら先生に近付こうとするんだ。先生を見上げながら、泣き叫びながら、「せんせっ、先生ッ!」って何度も名前を呼んで欲しい。可愛いなぁ。

 

 で、そんなカヨコの姿を見ながら、先生とムツキは「どっきり」の看板を持ったまま蒼褪めるんだ。まさかこんなにガチ泣きするとは思っていなくて、先生もムツキも、「やっちまった」という顔で震えていて欲しい。

 

 吊られた先生人形に縋りつくカヨコが、全力で泣き喚きながら、不意に横合いを見てデスクの下で縮こまっている二人を見つけて欲しい。その後、生きている先生と「どっきり」の看板を抱えたまま、顔を引きつらせて、「ご、ごめん……」とらしくない程、声を震わせて謝るムツキを見て欲しい。

 

 多分カヨコは数秒位固まって、自分の抱き締めている先生が微妙に冷たい人形である事に気付き、もう一回生きている先生を見て、全力で先生に頭から突っ込んで欲しい。多分拳で先生の胸を叩きながら、「生きてでよがっだよぉおお!」ってなる。絶望と緊張と悲壮と暗澹が裏返り、安堵と感謝と希望で胸が一杯になって叫ぶんだ。シャツは涙と鼻水でボロボロになる。でもそれが良い。先生は必死にカヨコを宥めながら謝るんだ、その時ばかりはムツキもきっと全力でフォローしてくれる。

 

 その後は若干機嫌の悪いカヨコを必死で宥めて、便利屋の皆が居る時でも、遠慮せずに先生に引っ付く様になるんだ。アルとハルカが、「あれ、カヨコ? 何か、先生と近くない?」という目で見てきても、素知らぬ顔で先生の隣をキープするんだ。ムツキはムツキで、「まぁ、あんな事しちゃったしぃ」と少しだけしおらしくなる。でも隙を見て、またやろうと画策する。先生も悪ノリする。そんな便利屋とシャーレの間を行き来する日々を送りながら、幸せな青春を過ごして欲しいなぁ。

 

 まぁ最後はキヴォトスを裏切って死ぬんですけれどね。

 

 先生にとって死んでしまったドッキリはきっと、カヨコを『先生の死』に慣れさせる為の代物だったんだ。崩壊しかかったシャーレの中で、何発もの銃弾を喰らって死んだ先生の亡骸を見たカヨコは、きっとこれもまたドッキリなんだと自分に言い聞かせて、泣き笑いしながら先生の傍に、一歩一歩近づいて行くんだろうなぁ。「先生、ほら、起きてよ、知ってる、ドッキリなんでしょ? またそうやって、先生は私を揶揄うんだ、また、ムツキも一緒なの? ねぇ、せんせ……」って云って欲しい。可愛いね。

 

 本編の先生が辿って来た幾つもの世界線、こういう生徒を大人のカードで呼び出すと考えると、もう今から待ち遠しいよね。

 

 はー! 先生を撃ち殺した世界のアルとか、爆殺しちゃった世界のハルカとか、先生が自決を選んだ世界のカヨコとか、そういう世界の便利屋を纏めて大人のカードで呼び出して、とんでもない表情で先生を凝視させてぇ~。

 

 多分自分が辿れなかった希望ある未来を、自分達が手を伸ばしても絶対に届かない、この『今』の先生と歩んでいける背後の生徒達を、羨望と嫉妬と憎悪と絶望に染まった瞳で睨みつけるんだろうなァ! この人がどんな気持ちでキヴォトスを裏切ったのか、あなた達をどれだけ想っているのか、何も知らないくせにッ! とか思っちゃうんだろうなぁああ! 可愛いなぁ! まぁハルカの場合は謝罪マシーンになりそうだけれど。

 

 どれだけ謝っても先生は帰って来ないし、自分の世界に帰ってしまえば独りぼっちなのにね! でもそんなところも可愛いよ、一生そのままでいてね! ありのままのハルカが素敵だよ。

 



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顔の見えない友人

誤字脱字報告、ありがとうございます。


 

「いやぁ~、ゴチでした先生―!」

「御馳走様でした、先生☆」

「ん、お陰様でお腹いっぱい」

 

 食事を終え、店の外へと出た頃にはすっかりと陽も沈み始め、空は暗く周辺は街灯に照らされ始めていた。少しだけ張った腹を擦りながらふらふらと歩くホシノに、同じような張り具合で満足そうに笑うシロコ。ノノミとアヤネは二人と比べれば良心的で、財布は兎も角先生の心は存分に満たされたと云って良い。

 皆を外まで見送ったセリカは、一度店の戸を閉めると忌々しそうな顔で皆を睨みつけ、地団駄を踏みながら云った。

 

「早く帰って、あと二度と来ないで! 仕事の邪魔だからッ! 分かった!?」

「あはは……えっと、セリカちゃん、また明日ね」

「ほんと嫌い! 皆死んじゃえー!」

「ふはは、元気そうで何よりだ~、それじゃあまた明日ねぇ」

「またね、セリカ」

「もう来るな!」

 

 むきーっ、と憤慨するセリカの背を見送りながら、帰路へとつく面々。先生は最後まで怒り心頭であったセリカを想い、申し訳なさそうに頭を掻いた。

 

「あはは……嫌われちゃったかな?」

「んー、単なる照れ隠しだよ、頑張る姿を見せたくないんだ、あの子は」

 

 特に、一人で頑張っている時は。

 ホシノはそう云って先生を振り返る。その瞳は優し気で、先生は一瞬、「誰かとそっくりだね」と口にしようとして、言葉を飲み込んだ。

 反撃でまた財布を軽くされては堪らない、そう思ったのだ。

 

「ま、お腹も膨れたし、今日はもう帰ろうか? おじさん眠くなってきちゃったよ~」

「ん、なら私は先生を送って行く」

「それなら私も御一緒しますよ☆」

「……普通、逆じゃない? 先生が皆を送るべきでは?」

 

 何でもない事の様に発言するシロコ。寧ろ生徒達をアビドスに送り届けようと考えていた先生が恐る恐るそう云えば、前を歩いていた皆が顔を見合わせ、首を傾げた。

 

「でも先生、暴徒とか不良に襲われたら抵抗出来る?」

「先生はその、キヴォトス外の方ですし……」

「不安ですよね」

「先生、よわよわだもんー、そりゃ心配でしょ」

「………はい、すみません」

 

 四人中四人、帰って来た答えは『戦闘力不足』の一言。実際その通りである、暴徒に襲われた場合先生は抵抗する事も出来ない。何せ基本、先生は非戦闘員なのである。

 護身用の拳銃はあっても、所詮9mm口径。ライフル弾ですら『痛い』で済ませるキヴォトスの生徒にとって、神秘も何も籠っていない先生の射撃など、恐らくデコピン程度の威力に過ぎまい。

 結局先生は大人しく送り届けられる事となり、情けないやら申し訳ないやらで、すっかり肩を落ち込ませていた。

 

「それじゃあ、先生の泊まっているホテルに向けてしゅっぱーつ! おーっ!」

「おー」

「お、おー」

「おーっ☆」

 

 ホシノが先頭を切り、腕を突きあげながら出発する。その背をぞろぞろと追う生徒達。夜の散歩は存外に気分を盛り上げるらしく、遠回りだというのに彼女達は笑顔で足を進めていた。

 先生はそんな彼女達の背を見ながら、そっとタブレットの電源を入れた。薄暗い夜の闇に、仄かな青色が混じる。電子の手がそっと先生の肩を掴み、耳元で囁いた。

 

「……アロナ」

『はい、先生』

「首尾は」

『万事、順調ですよっ』

「流石」

 

 誰にも聞こえないアロナの声を聴きながら、先生は生徒達の後を追い、不意にセリカの居る店を振り向いた。

 先生のその瞳は――黒く輝いている。

 ただ只管前を見て歩く生徒達は、その色に気付く事はなく――影は暗闇の中に沈んで消えた。

 

 ■

 

「お疲れ様でしたー!」

 

 頭を下げ、挨拶と共に店を出る。セリカがアルバイトを終え、帰路に就く頃にはすっかり夜も更けており、周囲には人も疎らで元から少ない店も閉まり始めていた。ふーっ、と吐息を吐き出せば、もう春だというのに吐息が白く濁り、思わず手を擦り合わせる。アビドスは昼と夜の気温差が激しい、これも砂漠化の影響だった。

 

「はぁ、やっと終わった……今日は特に、酷い一日だったなぁ」

 

 呟き、疲労感から肩を廻す。立ち仕事には慣れているが、接客と云うのはどうにもまだ慣れない。仕事の内容を思い返し、ふと皆が来た頃の時を回想、憤慨する。特に記憶に残っているのは、デレデレと生徒達と食べさせ合いをする先生の姿。その事を思い出すと妙な苛立ちが胸内で膨れ上がった。

 

「それにしても皆で来るなんて……騒がしいったらありゃしない、人が働いている横で先生先生って、チヤホヤしちゃってさ、何なのアレ、ホシノ先輩、昨日の事があったから態と先生を連れて来たに違いないわ……絶対にそう!」

 

 呟きながら足を進める。きっと、昨日自身が先生と半ば仲違いするような形で部室を後にしたから、要らぬ気を回したのだろう。そう考えると、突然バイト先に押しかけて来たのも理解出来る。多少無理矢理にでも顔を合わせて――という事なのだろう。一緒に過ごせば何とやら、呉越同舟という奴か。

 

「……私がそう簡単に折れると思ったら、大間違いなんだから」

 

 吐き捨て、帰路への一歩一歩を強く踏み出す。

 

「………」

 

 そんな彼女の背中を、妙なシルエットの二人組が見ていた。

 歩道橋の上、赤いフルフェイスヘルメットを被ったロングコートの生徒と、黒いフルフェイスヘルメットを被った中肉中背の生徒。二人は道を歩くセリカを見下ろしながら、口を開く。

 

「――あいつか」

「多分そう、アビドス対策委員会のメンバー――黒見セリカ」

「準備しろ、次のブロックで捕獲する」

「……了解」

 

 ■

 

「……ふーっ」

 

 バイト先からアビドスへの帰路の途中。それ程遠い訳ではないが、近い訳でもない。バイトの疲労感が足を蝕み、セリカは少しだけ足を止め周囲を見渡した。郊外から少し離れた通り、周囲は誰も住んでいないビルや住宅、商店がぽつぽつと見える。人口の集中している郊外から少し離れるだけで人影はなくなり、蟲の喧騒だけが聞こえてくる。夜空を見上げると星が良く見えた。セリカは空に向かって吐息を噴き出しながら呟く。

 

「……そう云えば、この辺も結構人がいなくなったなぁ、前はここまで静かじゃなかったのに――治安も悪くなったみたいだし」

 

 ふと横を向けば、誰も管理する者が居なくなったテナントビル、その壁に描かれた落書き。カラフルなそれらを見つめながら、セリカは顔を顰める。

 

「やっぱりこのままじゃ駄目、私達がもっと頑張らないと……そして、学校を立て直すんだ」

 

 こんな風に好き放題落書きされるようになったのも、人が居なくなってしまったのも、全部全部、アビドス高等学校が力を喪ってしまったから。それを取り戻し、学校に生徒達が戻ってくれば――きっと、このアビドス全域を復興させる事だって叶う筈だ。

 そう気持ちを新たに歩き出す。

 

「取り敢えずバイト代が入ったら、利息の返済に充てて――」

「おい」

 

 不意に、声を掛けられた。

 直前まで気配も無かった、慌てて振り向くと、視界に飛び込んできたのは特徴的なヘルメット姿。つい最近までアビドスを苦しめていた――不良集団の象徴。

 

「……っ! カタカタヘルメット団!?」

 

 叫び、咄嗟に鞄を足元に放り愛銃を構え、安全装置を弾きコッキングレバーを引く。一瞬で臨戦態勢を整えたセリカは、正面に立つ赤いヘルメットの生徒を睨みつけた。

 

「黒見セリカ――だな?」

 

 その問いかけに答えず、セリカは平静を装って周囲を見る。

 足音――そして気配。囲まれた、少なくとも自分の正面に二人、背後には――気配と伸びる影から、恐らく三人。セリカは内心で自身を罵倒する、こんなに接近されるまで気付かないなんて。バイト終わりだからと云って気を抜き過ぎた。

 頭の中で持っていた弾倉の数を思い出しながら、危機的状態であるにも関わらず、セリカは気丈に笑って見せる。虚勢を張るのは、得意だった。

 五人程度なら――自分だけでも何とか制圧出来る。

 

「……あんた達、まだこの辺うろついてんの? あれだけボコボコにされて、まだ足りなかったんだ、なら丁度良かった、今虫の居所が悪かったの、二度とこの辺りに足を踏み入れられない様にしてやるわ――ッ!」

 

 セリカは犬歯を剥き出しにして叫ぶ。声は夜空に吸い込まれて消え、正面の敵に向けて射撃を敢行しようと、素早く銃口を向け引き金に指を掛ける。

 最悪、倒せなくとも構わない。周辺に誰か一人でも住民がいれば、アビドス高等学校なり連邦生徒会なり、通報してくれる事だろう。もしこの連中が周辺の住民まで徹底的に散らしていたのなら、その時はその時――精々派手に立ち回って、目にもの見せてやる!

 苛立ち半分、勇み足半分。そんな心地で挑み、引き金を引いた瞬間。

 

 銃声――音は、セリカの愛銃から放たれたものではない。一瞬早く、それは周囲に響き渡り、飛来した弾丸はセリカの肩に着弾、衝撃に思わず前につんのめった。

 

「ぐ、ッ!?」

 

 撃たれた――背後から?

 咄嗟に射撃ポイントを割り出そうと目線を動かせば、近場の廃墟からマズルフラッシュ。しかも、複数のポイントから一斉に。

 セリカを囲む五名のヘルメット団は微動だにしていない、まるで木偶の様に突っ立ち、見ているだけだ。

 

 まさか――待ち伏せ……!

 

 セリカの脳内に、最悪のシナリオが過った。連中は待っていたのだ、自分が――このエリアに踏み込むまで。

 何度も銃声が木霊し、その度にセリカの体が左右に揺れる。肩や足に弾丸が突き刺さり、思わず呻き声が漏れた。障害物に身を隠そうにも――周辺には狙ったかのように何もない。

 

「あ、ぐッ!? あんた達、最初から私を……ッ!」

「足を止めた――やれ」

 

 赤いヘルメットの生徒が、静かに手を下ろす。左右から銃撃を受けるセリカは動けず、一拍遅れて強烈な砲撃音。聞き慣れたそれに、セリカは思考を巡らせる。

 この砲音は高射砲――違う、この音は、Flak41改か!

 

「ぐぅッ!」

 

 正解を引き当てた途端、砲弾が着弾しセリカの足元が爆発する。

 

 ――市街地で砲撃何て、正気!?

 

 爆風に呑まれ、頭を抱えながら地面の上を転がるセリカ。混乱の極みにありながらも、セリカは努めて冷静であろうとした。

 火力支援、場所を割り出して、どうにかしないと! ――地面に転がりながら、セリカは自身の体に手を這わせる。至近距離での爆発、最悪気絶してもおかしくなかった。如何に頑丈なキヴォトスの生徒であっても無敵ではない。地面に伏せ、砂塵に紛れながらセリカは負傷の確認に努める。

 しかし、銃を片手に出血箇所を探し彼方此方をまさぐるも、傷らしい傷はなかった。

 

 ――負傷は……ない? 砲撃の至近弾を受けて? 

 

 それは、酷くおかしな事である。

 Flak41改の砲撃を受けて、血だらけになるどころか掠り傷一つない。それは明らかに異常、誰にでも分かる程の。

 不意に、鼻腔を擽る甘い匂いに気付く、辺りに漂う砂塵――それに紛れ、微かに。

 セリカは顔を顰めた、砲撃に甘い匂い? まるで繋がらない。爆発に巻き込まれて甘菓子か何かが吹き飛んだ? まさか、そんな筈がない。少なくともセリカの鞄に、そんな余分なものは入っていない。精々栄養補給用のカロリーバー程度のもの。

 

 ――いや、もしかして、これは殺傷目的の爆撃ではない? なら、まさか。

 

 さっと、セリカの顔色が蒼褪めた。気付き、セリカは慌てて口元を覆う。しかし、その程度で吸引を防げる筈もなく。徐々に口元が緩み、妙に気分が落ち着いて来る。先ほどまであった銃撃による痛みが消え――軈て意識も沈んでいく。

 駄目だ、駄目だと言い聞かせても、肉体の作用は容易に精神を飲み込み、セリカの瞼が遂に落ちた。

 散布された笑気ガス(laughing gas)が晴れた頃――そこには俯せで倒れ伏し、ピクリともしないセリカだけが残されていた。

 

「……続けるの?」

 

 黒いヘルメットを被った一人が、倒れ伏したセリカの元に近付きながら銃を見せ、問いかける。言外に、「殺すのか?」と問うていた。

 しかし赤いヘルメットの生徒は、静かに首を横に振って否定する。

 

「いいや、オーダーは生け捕りだ、ヘイローを破壊するつもりはない――車に乗せろ、ポイントまで輸送させる」

「……了解」

 

 頷き、周囲の不良達がセリカを掴み、引き起こす。そのまま路地裏に用意されていたバンに押し込もうとした所で――。

 

「――あぁ、良かった、『そういう選択』をしてくれるんだね、君達は」

 

 不意に、声が響いた。

 男性の、酷く落ち着いた声だった。

 

「ッ!?」

 

 不良達は思わず銃を構え、声の方に銃口を向ける。

 軈て街灯に照らされ、ゆっくりと姿を現した人物は――いつも通りの笑みを浮かべ、彼女達と対峙した。

 白い制服に青い腕章。着込んだコートが風に靡き、対面する不良生徒が重々しい声で告げる。

 

「……連邦捜査部、シャーレ」

「こんばんは――それで、私の生徒に何か御用かな?」

 


 

 

 イズナはもう、何というか馬鹿可愛い。取り敢えず何でも忍術に結び付ければ、何の疑問も持たずに動いちゃうところとか正にそれ。そこがチャームポイント。暇があればきっと、先生の後ろをちょこちょこついていっているんだろうなぁとか簡単に想像できちゃう。見た目狐だけれど中身は忠犬、可愛いね。

 イズナは多分、今まで誰も忍者になりたいという夢を応援してくれなかったから、自身の夢を笑わず応援してくれる先生と、到達点の差こそあれ共に切磋琢磨し高め合う事が出来る忍者研究会の皆を、本当に大切に想っているんだ。失意の中に沈んだ時、躓いた時、落ち込んだ時、励まし、手を取り、笑いかけてくれる誰かがいる。楽しく笑みの絶えない日常の中で、不意に孤独だった時の事を思い出して、「あ、あの、主殿、今更なのですが、私は主殿を見つける事が出来て本当に嬉しいんです、だから――こんなイズナを見つけてくれて……ありがとうございます、主殿」と微笑んで欲しい。

 その後顔と髪をわしゃわしゃに撫でつけたい、「あるじどにょ、顔がとけましゅるうう」とか云う位むにむにしたい。多分良く伸びる。可愛いね。

 

 イズナと二人で映画鑑賞したい。イズナが持ってきた忍者、或いは時代劇映画を二人で一日掛けて見るんだ。先生がクッションを敷いて、足を開いて座ると、「!」と反応したイズナがシュババッ! と素早い動きで先生の間に挟まるに違いない。体育座りで先生の胸に背を預けながら、上目遣いで先生を見た後、「えへへっ」とはにかむんだ。主殿と一緒に映画~、映画~、と妙な歌を歌い始めたり、今日は最高の一日ですね! と先生に頭を擦りつけながら、満面の笑みで過ごすんだ。

 

 後、イズナの尻尾とか耳をブラッシングしたい。一度ブラッシングした時に、イズナの尻尾に顔を埋めたり、耳にふーっと息を吹きかけまくったせいで、真っ赤になりながら尻尾を隠して後退りするイズナを追い回し、ブラッシングしたい。

 多分イズナもイズナでまんざらではないのだけれど、匂いを嗅がれたり、変な気分になってしまうのが嫌で、「あ、主殿、御慈悲、御慈悲を~ッ!」と云いながら捕まる。なんだかんだ云って、先生が真剣な顔でお願いすると断れない。もしくは、「これは忍者が敵に捕まった時、決して屈しない為の訓練なんだ!」と言い含めれば、とっても難しい顔をした後、真っ赤になって一つ頷いてくれると思う。

 でもイズナは、そんな先生の屁理屈に薄々勘付きながらも付き合ってくれるんだ。何だかんだ嬉しそうに自分の尻尾を手入れする先生を見るのが好きで、鼻歌を歌いながら尻尾を梳く先生を見ながら、愛おしそうに微笑むんだ。

 

 イズナに一日百回は「可愛いね」って云いたい。最初の内は忍者と主殿の事しか頭になくて、まさか女性として見られると思っていなかったから、「あ、主殿! イズナを揶揄わないでください!」と真っ赤になって尻尾をぶんぶん振るんだ。

 けれど毎日云われ続けるうちに口がもにょもにょと動く様になって、真っ赤になって俯いて、忍術にしか興味がなかったイズナが朝、先生に会う前に鏡の前で前髪を整えたり、服を手で払ったり、爪を整えたりするようになって。段々と持ち物が女性らしく、ちょっと高めの乳液を使う様になったり、通りの良い櫛を買ったりするんだ。暫くすると、少しだけ女性としての自分に自信が出てきて、今日も可愛いねと云われたイズナは、「えへへっ……」と嬉しそうにはにかむようになるんだ。くそかわ。

 

 イズナはきっとお祭りも好きだから、一人でお祭りに出かけた後、「しゅば、さささ

 っ!」と下手な尾行をするイズナを呼び寄せて、二人で回りたい。適当な理由を付けて傍に侍らせて、「お祭り、楽しいですね、主殿!」と笑っているイズナに、「うん、デート楽しいね」と爆弾を投げつけたい。

 一瞬動きが止まった後、「ででで、デート!?」となるイズナを見守りたい。あぁ、いやでもこれは警護で、とか。これは主殿の身の安全の為に、とか。何やらぐるぐるおめめで考え込むイズナの手を取りながら、「私とデートは嫌かい?」と聞きたい。

 多分凄い勢いで首を横に振ってくれて、それから十秒くらい周囲を見渡し、頭上に汗のマークを飛ばしながら、真っ赤な顔で先生の手を握り返してくれるんだ。可愛いね。

 

 はー、そんなイズナに死に際の介錯を任せてぇ~。

 

 イズナは先生がキヴォトスを裏切った後も最後まで傍に侍ってくれるから、先生が凶弾に倒れて、血を吐きながら崩れ落ちた後、真っ青な顔で駆け寄って来るイズナに介錯を頼みてぇ~!

 

 先生の言葉は絶対で、主として忠誠を、人として敬愛を、男として愛情を持っていた相手に、最期の最期に頼まれた言葉が、「イズナ、介錯、頼む」だったらエモエモのエモ。

 イズナの忍者としての忠節を試す、きっと最期の試練なんだ。

 血に塗れて、浅い呼吸を繰り返す先生に縋りつきながら、涙をぼろぼろ零すイズナに向けて、殺してくれと云った時、多分最初は何を云われたのか分からなくなるんだ。先生がそんな事を云う筈がないという気持ちと、まだ助かるかもしれないのにという希望と、先生の真摯で、真っ直ぐな瞳に射貫かれ、身体が固まるんだ。

 きっと、「で、出来ません、主殿、そ、それだけは、で、出来ません、イズナは、イズナはっ……!」と首を緩く、呆然と振るイズナに、微笑み掛けたい。

 

 それを見た時、きっとイズナは、先生の全ての感情を悟ってくれるんだ。他の誰でもない、イズナの手で死にたいという先生の気持ちと、もう助からないという失意。その中できらりと輝く、イズナへの絶対的な信頼と好意。

 そこにあるのはイズナだからという、絶対不変にして、自身が先生に向けているそれに負けず劣らずの愛と信頼。

 イズナはそれを感じ取って、裏切れないと思ってしまうんだ。

 先生の想う、愛し、信頼し、『強い忍者』なら――そう思って、震える手で銃を手に取ってくれるんだ。内心では撃ちたくないと叫びながら、嫌だ嫌だと震えながら。涙を流し、目を充血させ、がちがちと歯を鳴らしながら、絶対に向けるべきではない相手の額に、銃口を向けるんだ。

 ここで生まれて初めてイズナはきっと、忍者なんか目指さなければ良かったと思ってしまうんだ。

 冷徹無比で恰好の良い忍者、主に忠節を尽くし、その命令には絶対服従。きっと、映画の中で見た忍者なら、こんな状況でも涙ひとつ流さずに完遂するに違いない。

 けれど、こんなにも、こんなにも辛いを想いをしなくてはいけないのかと、イズナは息を荒くして、口を震わせ、嗚咽を零しながら思うのだ。最後まで、「あるじどの、あるじどのぉ……!」と呼びながら。最後はその引き金に指を掛けるんだ。

 

 はー、これが流行りのMTR(看取られ)……このイズナならきっと上忍まで駆け上がるんでしょうね、間違いない。やったねイズナ、夢であったキヴォトス一番の忍者は直ぐそこだぞ! 誰よりも強く、忍者に相応しい存在に君ならなれるに違いないッ!

 まぁ仕えるべき主人はもういないけれど。

 

 

 



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子どもの戦い

誤字脱字報告、助かります。


 

 タブレットを片手に、ごく自然体で現れた先生。彼に銃口を向けながらも、対峙するヘルメット団の面々は即座に動く事が出来なかった。それは、先生から放たれる重圧のせいだ。肩に圧しかかるそれが、物理的な力さえ伴って地面に押し付けて来るような錯覚を覚える。

 原因は――先生の、その目。

 笑みすら浮かべているにも関わらず、先生の目だけは笑っていなかった。鋭く、冷たく、断じて生徒を見る目ではない。自分達を通して、背後にいる何か――誰かを睨みつける様にして見ている気がしてならない。

 小さく息を吞みながら、先頭に立つ赤いヘルメットの生徒が口を開く。

 

「……シャーレの顧問先生が、何の用だ」

「分かり切っている事を聞くじゃないか、君達が今、そのバンに押し込んだ生徒――彼女はアビドス高等学校、対策委員会のメンバーだ、私は最近そこの顧問に就任してね、ちょっとその暴挙は見逃せないかなぁって」

「成程、取り戻しに来たのか」

「んー、どちらかと云うと最悪を回避しに来た、という感じかな」

 

 どこかおどける様に肩を竦めながら、先生は答えた。その雰囲気と動作は余りにもミスマッチで違和感が拭えない。

 真っ直ぐと赤いヘルメットを被った生徒を見つめ、先生は告げる。

 

「本当の事を云うと、【君達】が介入して来ない様だったら私も此処に足を運ぼうとは思わなかったんだ、君たちが彼女を――セリカのヘイローを破壊しなかったから、私はこうして真正面から姿を晒した、だから云ったんだ……そういう選択をしてくれたんだね、と」

「なら、仮に破壊する様に動いていれば」

「当然、阻止したよ――大人の力を使ってでも、ね」

 

 対面する生徒を油断なく見据える先生。その雰囲気に気圧されてか、背後でおろおろするヘルメット団に対し、赤いヘルメットの生徒が一人手を振る。

 

「……早く行け、先生の相手は私達がする――元々、私達の役割は此処までだ」

「りょ、了解です! ありがとうございましたッ!」

「おい、早く出せ!」

 

 二人を除いた全てのカタカタヘルメット団達が慌ててセリカを乗せた車両に乗車し、甲高い発車音を鳴らしながら出発する。それを先生はじっと、微動だにせず見送った。

 車影が闇夜に紛れ、完全に見えなくなってから、赤いヘルメットの不良は口を開く。

 

「……止めないのか」

「云っただろう、私が止めるべきは君達だよ」

 

 先生がそう云って赤いヘルメットの生徒に一歩踏み出せば、彼女は態とらしく音を立てて安全装置を弾いた。それ以上近付けば発砲すると、分かり易い威嚇行為だった。それでも尚、先生は余裕の笑みで言葉を続ける。

 

「ヘルメットを被れば、誰だってヘルメット団に早変わりだ、分かり易いシンボルだよね、隠れ蓑としては打ってつけだと思わない?」

「……何が云いたい、シャーレの先生」

「別段、ただ、こんなにも早いものなのかと思ってね――ゲマトリアは、もっと慎重なのかと思っていた」

 

 途端、先生の目つきが細く絞られ、刃物の様な鋭利さを伴った。

 

「君達を動かしたのはマダムだろう、元々彼ら、彼女らにも横の繋がりはある、互いが互いの戦力、道具を融通し合うのは珍しい事じゃない、問題なのは――君たちを動かすようにマダムへ進言した人物だ」

「………」

「黒服か、マダム本人か、マエストロか、ゴルコンダとデカルコマニーか、誰であってもおかしくはないが、君達を動かせば私が来ると分かっていたのだろうね――随分と高く買われたものだ」

 

 言葉に対し、不良達が選んだのは黙秘。それは答えを知っていてのものか、或いは知らないが故のものか。先生に察する事は出来ない。

 ただ時間だけが過ぎていく。夜の街は静かで、冷たく、不気味だった。不意に、背後に控えていたヘルメット団の片割れが、先生へと銃口を向けた。引き金に指が掛かり、その視線がヘルム越しに突き刺さる。

 

「……問答はどうでも良い、シャーレの先生だろうと何だろうと、邪魔なら消すだけ――」

 

 そして、躊躇いもなく引き金を絞ろうとした時――その銃口に、赤いヘルメットの生徒、その手が翳された。まるで撃つなと云わんばかりに。

 

「よせ」

「……リーダー? でも――」

「私達が撃つよりも、そっちの方が早い……そうだろう?」

「何を――」

 

「――あらあら、先生に銃口を向けてタダで帰れるとでも?」

 

 こつんと、何かが二人の後頭部に当たった。ヘルメット越しに、何かで小突かれたのだと気付く。咄嗟に背後を振り返れば、狐の面を被った和装の少女が二人の後頭部に銃を突き付けていた。赤いヘルメットの不良には長銃を、黒いヘルメットの不良には拳銃を――それぞれ引き金に指を掛けて。

 

「ッ、いつの間に……!」

「――先生が姿を見せた少し後だ、私も気付くのが遅れた」

 

 内心で愕然とする黒いヘルメットの生徒。全く気付かなかった、気配どころか音にさえ。ヘルメットを被っていたから? 否、そんな事は言い訳にすらならない。

 銃口が再び彼女のヘルムを小突き、小さく舌打ちを零して黒いヘルメットの生徒は先生を狙っていた銃を下げる。状況は一転、二人の命は背後の狐面の少女が握っていた。

 

「邪魔なら――何でしたっけ? 確か、消す、とか仰いましたか? 私の先生に向かって? よもやその様な暴言を? うふっ……ふふふふふッ!」

 

 背後からグリップが軋む音が聞こえる。ヘルメットの中で、額に汗が流れた。良く聞かずとも酷く怒り狂っている様子が分かる。しかし、そんな少女の暴走を止めたのも、また先生だった。

 

「ワカモ、駄目だよ」

「ッ! しかしあなた様、この方々はあなた様に対する【殺意】があります! 放っておけば必ず後々の障害になるでしょう、あなた様を害する芽を放っておくなど、このワカモ、とてもとても……!」

「それでも、此処で撃ち合う様な事にはならないよ、それに――彼女達も生徒である事に変わりはないのだから」

 

 数秒の沈黙。和装の少女――ワカモはじっと二人の姿を見つめながら、ゆっくりと引き金から指を離した。

 

「………あなた様がそう、仰るのなら」

 

 銃口を下ろし、二人の間を抜ける様にして先生の傍へと歩みを進めるワカモ。そうして対面して初めて、二人は目前の少女の全貌を目にした。

 

「――七囚人、厄災の狐か」

「この方の前で物騒な名前を呼ばないで頂けます? やはり撃ち殺しましょうか、アナタ?」

 

 不機嫌そうに鼻を鳴らし、仮面越しに見下すワカモ。殺そうと思えば殺せた、そう言外に口にする彼女に、不良二人は沈黙を返す。先生はワカモを宥める様に手を翳し、二人に向かって口を開く。

 

「先ほど云った通り、此処で君達と撃ち合うつもりはないよ、セリカのヘイローを破壊しなかった、その事実で十分だ――今、退くのなら見逃そう」

「……断れば、その狐一匹で私達とやり合うつもり?」

「――あら」

 

 黒いヘルメットの生徒、その言葉にワカモは不思議そうに頸を傾げた。

 

「存外、鈍いのですね、あなた達、本当に二人だけだとお考えで?」

「何を云って――ッ!?」

 

 訝しむ声を上げた途端、一斉に周囲の電灯が光を落とした。それは周囲だけの話ではなく、先生やワカモの立つこのブロック周辺が軒並み全て。世界が一瞬で闇に呑まれ、ほんの数十センチ先の景色すら危うくなる。光の消えた世界を見渡し、不良達は驚愕の声を上げる。

 

「これは、まさかEMP(電磁パルス)か?」

「そんな大層なものじゃないよ、この区画の、ごく一部のエリアの電源供給を絶っただけさ――」

『このブロックの制御権はアロナのものです!』

 

 周囲から光が消えると同時、複数の銃声があちこちから響き渡った。それは、彼女達から僅かに離れた場所から。まさかと思いつつ、端末に向かって声を上げる。

 

「……第一班、応答しろ――第二班、第三班、応答可能な者は!」

『―――』

 

 返答はない。セリカ捕獲の為に配置していた狙撃メンバーが全滅している事実に、赤いヘルメットの生徒は端末を握り締める。

 

「まさか――」

「ニンニン!」

 

 再び街灯の光が灯り、世界が開けると同時――残った二人を囲う様に、人影が降り立つ。

 

「主殿! 周辺の悪者掃討、完了致しましたっ!」

「うわっ、ととっ、ちゃ、着地成こッ、いだぁ! あ、足、足ッ、足捻ったぁあだだだッ!」

「ぶ、部長! 確り、確りして下さい! 傷は、傷は浅いですよっ!」

 

 制服に和装――忍者衣装を組み合わせた三人組。それが高所から宛ら突然現れたかのように、降り立つ。尚一名、着地に失敗し足を抱えながら転がっているものの、長身でメカクレの生徒以外特に反応する事はない。

 ワカモと先生、そして対峙した不良は転がる忍者姿の少女――ミチルを見下ろしながら、何とも言えない表情を浮かべた。

 

「………」

「……あなた様、その、本当に彼女達で宜しかったのでしょうか?」

「――忍者を信じるんだ、ワカモ」

 

 忍者は強い、忍者は凄い、忍者はカッコ良い。

 かまぼこ疾風伝にも書いてあった。漫画は嘘を吐かない。先生は清らかな瞳で以てそう告げた。

 

「――と、まぁ私の周りには文字通り、『影に潜む者』が居てね、暗中での戦闘は大の得意だ、夜戦装備もない中で彼女達とやり合うのは無謀だと思うよ、ましてや――」

 

 先生の指がタブレットを叩き、不良を囲んだ四名の生徒――そのヘイローが輝く。リンクが確立し、全員の視界にありとあらゆる情報が齎される。装備も、地形も、素性も、何もかも、先生の前では隠し通す事が出来ない。

 

「――私のサポートを受けた彼女達に二人だけで挑むのは、お勧めしない」

「ッ!」

 

 先生の前に立ち塞がる四名の壁――先生から放たれた青白い光が過ぎ去った時、彼女達の体が一回りも二回りも大きく見えた。これが、先生に指揮権を委ねるという事。

 現れたばかりの三名――忍術研究部の面々は、先生のサポートを受け、ふっと笑みを零し。

 

「か、影に潜む者……! き、聞きましたか、部長!」

「滅茶苦茶忍者っぽいワードじゃん! 流石先生殿、忍者センスがずば抜けてるぅ!」

「暗中戦闘、影に潜む者、何という心躍る言葉……あ、主殿! イズナ、感動しました!」

「――ちょっと待ってね、今先生恰好付けている最中だからね、少しだけ静かにしていてね」

「はいッ! イズナはちゃんと静かにしていますッ!(クソデカボイス)」

「もうその時点で駄目だねぇ、でもイズナはいつも元気で宜しい、花丸百点あげちゃう」

「やったあぁぁぁぁあッ!」

「あっズルイ! 先生どにょ! 私っ、私も花丸欲しい!」

「あ、わ、私も欲しいけれど……でも今は、うぅ――」

「勿論、二人にも花丸をあげるよ」

「わぁい!」

 

 諸手を上げて喜び喝采を挙げる忍術研究部三名。そんな様子を見ていた不良二名は、何とも言えない雰囲気を纏ったまま銃口を下げる。

 

「――引くぞ」

「リーダー……良いの?」

「……あの足を抱えて転がっていた奴は論外だが、隣の大女はそこそこやる、そしてあのワカモと似た狐耳の女――手練れだ、少なくとも装備不足の状態で戦いたくはない」

 

 手に持ったライフルを握り締め、呟く。現在彼女達は所属を隠す為に市販品の銃を使用しており、カスタムされた愛銃と比較すれば性能は著しく劣る。ましてや銃撃に神秘を込めるキヴォトスに於いて、市販品など撃てれば十分程度の品物。

 此処は撤退が正しい選択だと、背を見せぬまま後退る二人。

 それを見つめるワカモは、まるで挑発するように仮面の奥で嘲笑を漏らした。

 

「あら、尻尾を巻いて逃げ帰るのですか?」

「貴様の相手だけでも面倒だというのに、数でも負けた上で挑む程、愚かではない」

「そうですか、私としては此処で危険な芽は摘み取りたかったのですが、襲って頂ければ合法的に屠れますし……ふふっ、まぁ、先生の願いですもの、叶えて差し上げるというのが良き妻の役目――ふふふっ♡」

「……気狂いが」

 

 吐き捨て、そのまま一定の距離まで離れると、不良達は一気に背を向け駆け出した。

 言葉通り、シャーレからの追撃はない。

 

「連絡!」

「――?」

 

 しかし追撃の代わりに、背中に向けて声が飛んできた。一瞬振り返れば、先生が手を振りながら声を張り上げている。

 

「いつでも、待っているから!」

「………」

 

 一瞬、リーダーと呼ばれた少女の足が緩み――しかし、それから振り返ることなく、二人の姿は闇夜の中に消えて行った。

 最後に一つ、呟きを残して。

 

「――……お人好しの先生め」

 

 ■

 

「さて……皆、悪かったね、急に集まって貰って」

 

 夜の中に消えて行った二人の背中を見送り、先生は残った皆の方を振り向く。

 

「いえ、あなた様の願いであればいつでも何処でも、このワカモ……喜んで駆けつけます!」

「主殿の為であれば、例え火の中、水の中! いつでもイズナを頼って下さいッ、ニンニン!」

「まー、事前に連絡もあったし、私としては先生殿の力になれるなら悪くないって云うかぁ……あ、ツクヨ! 私の恰好の良いシーン撮れた!? 良さげだったら『少女忍法帖ミチルっち』の方に上げるから!」

「えっと、部長が着地したシーンなら、多分……」

「駄目じゃんッ!?」

 

 ワカモとイズナは先生を挟むようにして体を擦りつけ、ミチルとツクヨの両名は相変わらず忍術、忍法の布教に熱心らしい。兎にも角にも、それなりに夜も更けた時間だと云うのに駆けつけてくれた皆には感謝しかない。ましてや万が一に備え、昨日からアビドスのホテルに駐在して貰っているのだから。

 

「ありがとう、助かるよ、シャーレとして自由に動かせる生徒は少なくてね……多くはないけれど夜間手当も出すから、活動の足しにしてね」

「えっ、本当!? ヤッター! ツクヨ、イズナ、帰りにご飯食べて行こう!」

 

 両手を上げ、飛び跳ねながら満面の笑みを浮かべるミチル。しかし、そんな彼女に向け相変わらず猫背なツクヨは、指先同士を突き合わせながら呟く。

 

「いえ部長、この時間だともうお店は閉まっているんじゃあ……」

「あっ、主殿! それならイズナ、主殿の手料理が食べたいですッ! 手料理!」

「は? 私を差し置いてあなた様の手料理を食べる? 極刑では?」

「分かった、分かったよ、なら次の休日に皆で食事をしよう、ちゃんと私が作るから、今日は先に帰っていて欲しい」

「はーい!」

「しょ、承知しました」

 

 ツクヨとミチルが素直に頷き、一先ず解散の流れとなる。皆にはホテルに帰還して貰い、翌日学園に復帰して貰う形だ。

 尚、ワカモは停学中の身なので、一時的にシャーレの宿舎を寝床として開放している。授業も、先生の手が空いている時は開校していたりするのだ。今の所、生徒はワカモだけだが。現在特にこれといった不満もなく、ワカモは良くやってくれている。

 ただシャーレのオフィスに、「先生と私の愛の巣♡」とプレートを掲げるのは勘弁して欲しい。この前、ユウカに見つかって、ほんともう大変だったのだ。ユウカの太腿に縋りつき、泣き落としを敢行しなければ今頃ユウカとワカモの間で、大怪獣大戦が勃発していたかもしれない。先生は一瞬、世界を救ったヒーローの気分になった。

 

「しかし主殿、おひとりで大丈夫ですか? イズナを頼って頂ければ、先程の生徒救出も――」

「ん、大丈夫だよ、ありがとうイズナ」

「あ、えへへっ……」

 

 先生の身を案じ、同行を願い出るイズナ。その頭を撫で、柔らかく提案を断る。気持ちだけで十分嬉しい。現実的な考えならば、この面子を連れて救出に赴くべきだろう。

 しかし、それでは駄目なのだ――。

 ふと横を見ると、誰かのつむじが見えた。良く良く見れば、それは頭を突き出した姿勢で待機するワカモであった。

 

「……ワカモ?」

「――何でしょう、あなた様?」

「………何でもないよ」

 

 突っ込んだら負けなのかな、そう思いながらワカモの髪も撫でる。心なしか、ふんわりとワカモの周辺に柔らかな空気と花が浮かんだ気がした。

 撫でられた姿勢のまま、ワカモはそっと、分かっていますよと云わんばかりの笑みを浮かべる。

 

「ふふっ、あなた様の身を守る、そして心も守る――両方守ってこそ、あなた様の懐刀足り得る、そういうものでしょう?」

「――敵わないな、ワカモには」

 

 彼女は、分かった上で同行を願い出なかったのだ。まるで先生の心と思考を読んだかの如く――昔から彼女は、存外に人の機微に聡かった。或いは、先生だけの心かもしれないが。

 そんなやり取りを傍で見ていたイズナは先生とワカモの顔を交互に見つめ、微かに頬を膨らませた。

 

「……むむっ、何やら好敵手出現の予感――主殿の懐刀を名乗るのならば、ワカモ殿とてこのイズナ、負けられません! 主殿に仕える一番の忍はイズナですっ!」

「……忍には欠片も興味がありませんが、『一番』という部分は少々、気に障りますね」 

 

 互いに頭を撫でられた姿勢のまま、横目で喧嘩をする。互いの尻尾はぶんぶんと左右に振られているのに、放つ雰囲気は剣呑そのもの。恰好は間抜けだが、本人同士は至って真面目だった。

 

「えっと、仲良くね?」

「あなた様のお言葉ですもの、無碍にはしません、ただまぁ――上下関係というものは大事でして」

「良くは分かりませんがこれも忍の定! ワカモ殿が来るというのであれば、受けて立ちます!」

「エッ、ワカモと戦うのッ!? あー……えっとぉ、じゃあ私達、先にホテル帰っているから、余り怪我しないでよイズナ?」

「イズナちゃん、えっと、頑張ってね」

「はい、頑張ります!」

「……ワカモ、その、程々に」

「勿論です、ふふっ……!」

 

 先生成分を存分に補給した両名は、気力体力十分と云った様子で対峙する。ミチルとツクヨは巻き込まれたら堪らんとばかりに早々に離脱し、先生は先生でやり過ぎない様にだけ釘を刺し、同じようにその場を後にした。

 ――実際、ワカモと共に戦ってくれる生徒は貴重なのだ。忍者研究部の面々は含むものこそあっても、それはそれとして口には出さず、また一応は同学園の生徒としての仲間意識がある。イズナはそもそもワカモがどういう人物なのか理解していない節もあり、即席のメンバーとしては十二分に許容の範囲だった。

 

「さて、それじゃあ――」

 

 背後から鳴り響く銃声を努めて無視し、先生はタブレットをタップする。

 

『――先程の車の追跡ですね、先生!』

「うん、首尾はどうだい?」

『バッチリです! あの車がどのルートで、何処にいるのか、アロナの目からは逃れられません!』

「良し、それならアビドスの皆に連絡を」

『はい!』

 

 告げ、アロナがアビドスの皆に連絡を送る傍ら、先生はそっと夜空を見上げる。

 アビドスの生徒は、アビドスの手で救い出さなければならない。

 それが未来へと繋がる道筋であり――ひとり目のゲマトリアと対峙する、近道であるから。

 

 


 

 

 連載開始から二週間が経過しました、ストックは三日目で切れているので、毎日せっせと書いた分だけ投稿してきましたが、ちょっと厳しいので明日はお休みします。本音はブルアカのイベントが開始され、ちょっと走りたいので一日サボります。

 先生の手足を捥げない私をゆるして。

 

 それはそれとしてアコって可愛いよね、その恰好で風紀委員は無理でしょって思うけれど、きちんと仕事を果たしている偉い。パンティ(パンデモニウムソサエティ)はちゃんと見習ってほしい。ヒナ委員長至上主義で、委員長が絡まったら黒も白にしそうなアコ。彼女の疲労は見抜いているし多忙なのは理解しているけれど、エデン条約編で委員長が委員長じゃなくなるという事にめちゃ悲しそうな顔をしていたアコ。

 

 多分アコは先生の事を尊敬はしていても、複雑な感情で見ている様な気がする。ヒナが心から先生を慕っている為、そんなヒナに好意を寄せているアコからすれば面白くないし、何というか今までは私が仕事でもプライベートでも心の支えであったのに、みたいな嫉妬心があると思う。だからシャーレには普段から無理難題を吹っ掛けてやりたいし、何なら先生が忙殺される事に関してはなんの心も痛まない。寧ろそれでヒナ委員長の負担が軽くなるなら率先して仕事放り投げてやるという心地。

 だからゲヘナにやって来てヒナといちゃいちゃする先生を、凄い目で見て欲しい。その後は先生に大量の仕事を押し付けて留飲を下げるんだ。委員長を独占したのですから当然の報いです、って。

 

 でも一緒に仕事をしたり、カフェに呼び出して一方的に愚痴を聞かせている内に、段々と絆されていく気がする。何だかんだ仕事の手腕は悪くないし、自分の事もヒナの事も気に掛けてくれるし、ゲヘナの絶対的な味方という訳ではないけれど、本当に困った時は身を投げ捨てでも助けてくれるし。

 

 だから時間が経つにつれ、存外、悪い人じゃないのかも、って思って欲しい。その内、カフェで愚痴を聞かせる代わりに、他愛もない先生の話や、或いはヒナの普段の行いを愛でるものにすり替わって、アコは二人で過ごす時間が楽しみになっていくんだ。

 先生とモモトークで約束を取り付けた日は、少しでも疲労感を隠す為にファンデーションを多めに塗って隈を隠したり、ちょっと高めの香水を使ったりして、でもそんなことをしている自分に対して、「これはシャーレとゲヘナの関係を良好に保つため」とか言い訳をして。けれどいざ二人で会って話しだすと、自然に笑みが零れて、ゲヘナだとかシャーレだとか、関係云々なんてとっくに頭から抜け落ちて、ただその一時一時を大切に、心から楽しそうに過ごすんだ。

 

 そんな淡い好意とも、恋心ともつかぬ感情を抱いた頃に、「ヒナとお付き合いする事になった」って先生に云って欲しい。

 

 多分、凄く驚いた顔をした後、しどろもどろになって、「それは、お、おめでとうございます……?」とキョドるに違いない。先生と生徒が良いのかとか、それは犯罪ではとか、私の委員長に何をしているのとか、色々言いたい事はあるけれど、不意に胸を刺したチクリという痛みに意識を引っ張られて、文句を言う事が出来ないのだ。

 そしてその日は一日ぼおっと過ごして、ヒナに、「アコ、大丈夫?」と心配されて欲しい。

 

 その後、またゲヘナに来てヒナとイチャつく先生を見て、前とは違う表情を浮かべて欲しい。幸せそうなヒナと先生、相思相愛なのは明らかで、そんな二人の笑顔を見る度に胸を痛めて欲しい。

 

 そこで漸く、自分も先生に好意を抱いていたんだと自覚して、そっと儚い笑みを浮かべるんだ。気付くのが遅かった、もっと早くに気付いていれば、あそこには私が座っていたのかもしれないのに――そんな風に考えて、それでも満面の笑みを浮かべるヒナに文句は一つも出て来なくて、ただ純粋なまでに幸せそうな二人に、アコは静かに身を引くんだ。どうかお幸せにって。委員長が笑っていて、先生が幸せそうなら、自分は何も後悔はないんだって。

 

 はー、そんなアコにヒナが先生を殺害したって報告を聞かせてぇ~。

 

 敬愛するヒナ委員長が、心の奥底では想っていた先生を殺害したって聞いて、頭が真っ白になるアコ見てぇ~。

 キヴォトス動乱で、先生が生徒を裏切って、シャーレの鎮圧を完了したと聞いた後、血塗れの恰好で帰還したヒナ委員長が、能面の様な表情を浮かべて、「先生を殺した」って云うんだ。

 

 それを聞いた時、委員長の帰還を嬉しそうな表情で迎えたアコは、一瞬硬直して、それからヒナの無事の帰還を喜んだ笑みのまま、静かに、「今……何と?」と聞き返すんだ。ヒナは一瞬も表情を崩さず、ただ淡々と、何も感じないと云わんばかりの表情で、もう一度、「先生を、殺した」と云うんだ。

 

 アコは何も言えなくて、ただ胸の中に様々な感情が渦巻いて。笑えば良いのか泣けば良いのか、それすらも分からなくなって、「え、ぁ、は……え?」と顔をぐしゃぐしゃにするんだ。

 ヒナはそんなアコの横を通り抜けながら無言で去って、その場にはアコ一人が残される。

 生きて捕らえるって云ったじゃないですかとか、何で殺す事になったんですかとか、先生を殺しておいて何でそんなに平気そうなんですかとか、云いたい事は山の様にあるのに、言葉には出なくて。

 ただ両手を痛い位に握り締めて、吐息しか漏れない口を何度も開閉させて、それから憎悪だとか悲哀だとか絶望だとか敬意だとか好意だとか信頼だとか、今沸き上がった代物と嘗て抱いていた様々な感情を混ぜ合わせた、凄まじい形相でヒナの背中を睨みつけるアコを見たい。

 

 貴女だから任せたのに、貴女だから身を引いたのにという信頼を裏切られた想いと、こんな事なら私が隣にという昏い後悔と、今まで積み上げて来た敬意や好意が並び立ち、殺したくない、けれど、それでもという感情が上回った時――多分生徒達は、この世で最も美しい表情を浮かべてくれると思うんです。

 

 はーッ! 多分背中からアコに撃ち殺されても、ヒナは笑いもしなければ泣きもしない、ただ申し訳なさそうに、少しだけ目を細めながら、全てを淡々と受け入れるんだろうなぁ! ヒナは心が弱いもんなぁ! 先生が居なくなったら多分立ち上がれないよなぁ! 心の奥底では先生を殺した己を、誰かがきっと殺してくれるって、期待しているんだろうなぁ! そしてアコが先生に好意を感じていた事を薄々勘付いていたヒナは、敢えてアコの前で『そういう風』に振る舞ったんだろうなぁ! 可愛いなぁ!

 まぁ先生はそんな事望んでないと思うけれどね。自分が死んだ後に生徒達が殺し合いに発展する様を先生に見せつけながら隣で柴関ラーメン啜りてぇー。何かお腹減って来たから先生でご飯炊くね?

 

 どうでも良いけれど、ヒナ委員長撃ち殺した後のアコが、先生とヒナ委員長が付き合う前にタイムリープする話とか見たくない? 私は見たい。昨日まで委員長ラブだったアコが、翌日心底嫌悪感を滲ませる態度で接してきて、反対に先生にはベッタベタになって困惑するヒナとかめちゃ見たい。もう遠慮の欠片もない、全力のアコ恋愛攻勢が始まるんだ。未来を変える為に努力するアコは可愛いね。

 その後フラれてヒナと結ばれる先生見て絶望して欲しい。

 

 その未来を変えるなんてとんでもない! アコの精神が擦り切れるか、愛情が勝つか勝負だね。大丈夫! 愛は世界を救うんだ! 君なら出来る! 自分を信じて!

 まぁ世界は救えても、先生を救えるかは別問題だから。先生を救えると思った? 可愛いね♡ 先生救われちゃったらヒナとアコの泣き顔見れないじゃん。ウケる。

 

 

 



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ベツレヘムの星を信じて

 誤字脱字報告、ありがとうございます。


 

 夜のアビドス高等学校、その校舎。薄暗く、明かりも最低限に絞ってある中、その廊下に足音が響いていた。人影は四つ、シロコ、アヤネ、ノノミ、ホシノの四名。彼女達は余程急いで来たのか、所々ヨレた制服と跳ねた髪をそのままに、見慣れた部室の扉を力任せに開けた。

 

「っ、先生!?」

「こんばんは、ごめんね、夜遅くに」

「そんな事、気にしないでください――あんなメールを貰ったら、どんな時間でも飛び起きます」

「それに、こんな時間になってもセリカちゃんが帰って来ませんでしたから、まさかとは思っていたんです」

 

 部室の中には既に、先生が一人で待機していた。青白い光を放つタブレット片手に、真剣な表情で佇む。彼と対峙するように、少しだけ息を弾ませたアビドスの面々が立ち、軽く息を整えながら頷く。

 

「……それでー、先生? あのメールの内容、本当なの?」

 

 一際鋭い瞳で先生を見るホシノが問うた。

 先生は表情を変えず、真剣な面持ちのまま肯定する。

 

「うん、本当だよ――セリカがカタカタヘルメット団に拉致された」

「ッ……!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、全員の顔が強張る。セリカが拉致された――それは先生が皆に送ったメールの内容と一致する。まさかという想いがあった、しかしこんな悪質な冗談を口にする人ではないと、皆が知っている。

 

「先生、それはどうして分かったの?」

「一応私も対策委員会の顧問だからね、生徒がちゃんと家に帰っているかどうかは気に掛けているんだ、それで――」

 

 そう云って、タブレットを操作する先生。開いたのは地図アプリ。生徒達はそれを覗き込み、画面を見つめる。地図上には赤い点が一つ、それも今自分達が居る場所からは随分と遠い場所で点滅していた。ノノミが疑問符を浮かべながら口を開く。

 

「ここは……砂漠化が進んでいる市街地の端、ですよね?」

「うん、因みにコレ、今のセリカの現在位置」

「えっ!?」

 

 皆が驚愕の顔を浮かべ、先生を見た。

 

「悪いとは思ったけれど、セリカがアルバイトからちゃんと帰って来たかどうか位置情報で確認したんだ、そうしたらこの位置が出て来た、これは明らかに普通じゃない」

「……こんな場所、セリカが足を運ぶ理由がない」

 

 シロコが呟き、無意識か小さく唇を噛む。ヘルメット団の所業に怒りを憶えているのだろう。真正面からではなく、日常の中で拉致を行うと云う卑劣な手段、正常な怒りだ。

 不意にアヤネが、表示されたマップを指差しながら口を開いた。

 

「――セリカちゃんの居るこのエリア、以前危険要素分析をした際に、カタカタヘルメット団の主力が集まっていると確認出来た場所です、今はもう廃墟になっていて治安も悪い……隠れ住むなら、うってつけです」

 

 アヤネは嘗て、カタカタヘルメット団に関して片っ端から情報を集めた事があった。何せ執拗なまでにアビドスを攻撃してくる不良集団だ、情報は武器になると考えるアヤネは、その手の情報収集を怠らない。最近は攻勢が激しく防御に回るばかりで余り調べられていなかったが、これまでの情報を忘れる事はない。

 アヤネの言葉にホシノは考え込む様子を見せる。

 

「……なるほどねー、帰宅途中のセリカちゃんを拉致して、自分たちのアジトにご案内――って訳か」

「前回の大攻勢で失敗したから、今度は人質で……って事?」

「そうかもしれないし、単純に戦力を削る為か――兎に角、セリカの身が心配だ」

 

 告げ、先生は生徒達を見渡した。その瞳に、確かな覚悟を宿して。

 

「救出作戦を決行したい――計画(プラン)はもう立ててある」

 

 力強い先生の宣言に、正面に立つシロコが微笑む。ここにきて、否と口にする生徒は居ない。釣られるようにしてノノミ、アヤネも頷き、先生を見た。そこには確かな信頼が込められている――先生ならば、きっと、という信頼が。

 

「流石先生、頼りになる」

「はい、先生が居て本当に良かったです☆」

「それなら急ぎましょう! 夜通し移動すれば、朝までには到着出来る筈です!」

 

 全員が愛銃や遠征の為の準備に奔走する。出発は早ければ早い程良い。

 移動手段は幸い、以前前哨基地を強襲した際に鹵獲した車両があった。あれを使えば、皆に疲労を蓄積させる事無く戦闘まで持ち込めるだろう。

 しかし、皆が準備に退出する中、ひとりホシノだけが部室に残っていた。彼女は椅子に座り、退出した生徒達の背中を眺める先生に向かって、静かな口調で問いかけた。

 

「ねー、先生」

「ん、何だい、ホシノ?」

「――全部、話していないよね?」

 

 その色合いの違う瞳が、先生を真正面から射貫いた。

 一瞬、そのホシノの瞳の輝きに、先生は言葉を失う。それは何と表現すれば良いか、昏くとも輝きを失わず、疑っていながら信頼している。そういう矛盾を孕んだ瞳だった。パイプ椅子に腰掛けた先生の真正面に立った彼女は、淡々とした口調で続ける。

 

「セリカちゃんがカタカタヘルメット団に拉致されたのは本当、位置情報でそれを知ったっていうのも、まぁ、多分本当……でも、それがカタカタヘルメット団の仕業だと断定したのは、アヤネちゃんの云った情報だけじゃない気がする――もっと何か、重要な事を先生は知っている」

「………」

 

 座ったまま、無言を貫く先生。立ったまま、その顔を見つめるホシノ。

 

「先生は、対策委員会に何か、隠し事がある」

「……何故そう思うのか、聞いても良いかい?」

「だって先生」

 

 ふっと、ホシノが口元を緩めた。それは、どういう感情が込められた表情なのか。先生には分からなかった。

 

「――【私達】を見る時、凄く辛そうな顔をするから」

「ッ――」

 

 思わず――本当に思わず、頬に指が伸びた。

 私、という言葉がホシノから出た事に、先生は酷く動揺したのだ。それは、【彼女】の象徴だったから。

 そんな先生の動揺を見たホシノは、からからと声を上げて笑った。

 

「あははー、大丈夫、先生は上手に隠しているよ、少なくとも露骨に出してはいないと思う、気付いているのは……おじさんとノノミちゃんだけじゃないかなぁ」

 

 あとの二人は気付いていないよ、ホシノはそう云って笑みを浮かべ続ける。

 本当に、本当にしてやられた気分だった。もしかしてと、自分がその感情を飲み下せていないのではないかという僅かな不安と、心の隙を突いたやり方だった。

 先生は思わず項垂れ、力ない笑みを浮かべてしまう。

 

「……参ったな、こうも見抜かれるなんて、考えていなかった」

「まー、ちょっとおじさんが鋭すぎるっていうのもあるよ、ノノミちゃんはほら、気配り上手、気遣い上手だからさ」

「良く、知っているよ」

 

 そう云って、先生は口を噤んだ。

 何を云えば良いのか分からなかった。少なくとも、理性が選んだものは沈黙だった。

 

「今回の件だけじゃないよね、先生」

「うん、まぁ……そうだね」

「おじさんには話せない事?」

「話せない、というよりは……話しちゃいけない事、かな」

 

 酷く、悲しそうな顔で先生がホシノを見た。それは、ホシノが初めて見る類の表情だった。寂しそう――ではない、辛そうでもない。ただ、付随する感情の暴発、先生が見せた仮面の奥、その柔らかな本質の発露だった。

 

「これは、私が背負うと決めた、大事な証の様なものなんだ……そんな重荷を生徒に背負わせるような事は出来ない――絶対に」

「………」

 

 先生の言葉は抽象的で、要領を得ない。ただ、それが酷く重く、辛い代物であるという事は分かった。軽く扱えないものだというのも、分かる。

 ホシノは眉間に皺を寄せ、真摯に問いかけた。

 

「……先生が何を背負っているのか、どれくらい重いものなのか、おじさんには皆目見当も付かないけれどさ、一緒に背負いたいって思ってくれる生徒もいるんじゃないのー?」

「――それでも、だよ」

 

 先生の言葉がホシノの言葉を遮った。声は朗らかでさえあった、まるで昼の散歩のついでに口にした様な気軽さがあった。顔を上げ、ホシノを見た先生が優しく微笑む。その顔を見た時、ホシノは息を呑んだ。

 

「こんな思いをするのは――ひとりだけで十分だ」

 

 その顔に映った感情(いろ)を、ホシノは知らなかった。

 どこか退廃的で、刹那的で、絶望の中に希望があり、深い底に沈んで尚――天上に輝く星を掴むような、そんな色。

 まだ、頑張れる。もう少し、踏ん張れる。傷つき、倒れ、その度に立ち上がり、もう少し、あと少しだけと――そんな事を、何百も、何千も、何万回も繰り返してきたような、そんな痛烈な意思を感じさせる瞳が、目の前にあった。

 

 ホシノは先生の瞳を直視できなくなって、咄嗟に目を逸らした。

 先生の持つそれは――ホシノが遠い昔、捨て去ってしまった光そのものだったから。

 目を逸らしたホシノをどう見たのか、先生は頬を掻き、申し訳なさそうに云った。

 

「失望したかい? 皆に最後まで協力すると云いながら、隠し事をする私に」

「……ん、そう、だね」

 

 一瞬、言葉に詰まりながらもホシノは気持ちを切り替える。騙していた――否、隠し事をしていた事に想う事はある。当然だろう。

 けれど、それで先生に対して信頼がなくなるかと云えば、それは。

 

「思う所は、そりゃあるよー、それがもし皆を危険に晒すような隠し事なら、勿論おじさん大激怒、先生だろうとボコボコにしちゃう、皆が反対してもね」

「それはそうだ」

「でも――先生を信じたいって気持ちがあるのも、本当」

 

 そう云ってホシノは微笑む。そこには、確かな信頼があった。先生に対する想いがあった。或いはそれは、信じたいという欲求なのかもしれない。けれど、それでもホシノにとっては大きな一歩だった。

 何度も大人に騙され続けた彼女が――大人である先生を信じたいと、そう思ったのだ。

 

「心の底から先生は対策委員会を助けたいって、そう思っているんだと、それは今までの行動と言動から伝わって来たよ、少なくとも先生は【悪意】を持って騙してくる大人じゃない――それだけは、確かだと思う」

 

 ホシノは、自身の感性を信じていない。どこか悲観的で、退廃的で、自身に対する信頼など既に底を割って久しい。それでも何とかこうして、自分の二本足で立っているのはアビドスの皆が居るからだ。夜な夜なパトロールに出かけ、少しでも自治区の安全を取り戻そうとしているのも、焼け石に水だと理解していながら返済に励んでいるのも、全部、全部――。

 無意識の内に、胸元を掴んでいた。俯き、ホシノは様々な感情を飲み干す。それは迷いだ、先生を本当の意味で信じられるかという、逡巡。

 ホシノはゆっくりと顔を上げ、先生を真っ直ぐ、真剣な面持ちで――けれどどこか、懇願するような色を交えながら、彼女は云った。

 

「ま、これで違いましたってなったら、おじさんの目が節穴だったって事になるんだけれどね? いや、おじさんもそろそろ、何度も大人に騙されるのは嫌だなぁって、だからホラ、先生? おじさんが大人不信にならない様に頑張ってね?」

「大人不信なんて言葉、初めて聞いたよ」

 

「でも――ありがとう、ホシノ」

 

 先生の言葉に、ホシノはにかっと、花が咲く様に笑った。

 

「さぁて、それじゃあおじさんも出立の準備をしてくるよぉ~」

「分かった、私の方は既に支度を済ませてあるから、此処で待機しているよ」

「はいはいー」

 

 肩越しに手を振りながら、ホシノは部室を後にする。そして後ろ手に扉を閉めた所で、ふっと息を吐き出した。

 

「っと、さて」

 

 そのまま準備に赴く――と見せかけて、隣の教室を素早く覗き込む。

 するとそこには、まるで団子の様に連なって盗み聞きを敢行する、アビドスメンバーの姿があった。全員が戦闘準備を済ませ、愛銃と装備を体に括り付けた完全装備。その抜け目のなさに、思わず溜息が漏れるホシノ。

 

「あっ」

「わぁ」

「あ、あはは……」

「ほら、そこの盗み聞き三人衆~」

 

 ホシノが指差しながらそう声を上げれば、気まずそうな顔で立ち上がる三名。いや、ノノミは相変わらず笑顔で、シロコの表情は微動だにしない。申し訳ない雰囲気を漂わせているのはアヤネだけだった。

 

「ん、バレた」

「ごめんなさい、ホシノ先輩が中々来ないから、ちょっと気になっちゃって」

 

 頭を下げる三名に、ホシノは腰に手を当てて苦言を呈す。

 

「まー、確かにそうかもしれないけれどさ、良くないよぉ、そういうのー」

「ごめんなさい」

「すみません……」

「申し訳ないです」

「ん、素直で宜しい!」

 

「――で、皆はどうするの?」

 

 不意に、ホシノは皆に問い掛けた。先生を信じたいという想いはある、しかしそれはあくまでホシノという個人の想いにすぎない。アビドス全体の意思ではないのだ。彼女がそう問えば、三人はそれぞれ顔を見合わせ――それから、何を云っているのだと云わんばかりに笑って見せた。

 

「私は最初から先生を信じている、隠し事があっても先生は絶対に私達を裏切ったりしない、あの人はきっと、そういう人」

「そう、ですね……このアビドスを助けようとしてくれた大人は、先生だけです、多分キヴォトス中からそういう要請が出ているのに、態々こんな遠い場所まで――私は先生の優しさを、善性を信じたいと思っています」

「うん、まぁ凡そ予想通り……それで、ノノミちゃんは?」

「えー、分かっているのに聞くんですか、ホシノ先輩?」

「いやほら、此処は決意表明みたいなものだから」

「なら――私も先生を信じていますよ」

 

 ノノミが微笑み、此処に意見は出そろった。最初から何となく分かっていた結果ではある、心の中でそう呟きながら、ホシノはにっと笑って見せた。そして皆の前で宣言する。

 

「よぉし、それなら満場一致! アビドスは先生を信じる、これで決定!」

「ん、異議なし」

「え、ま、待って下さい、まだセリカちゃんがどうするかは――」

「でも、これからそのセリカちゃんを助けに行く訳ですし、そんな状況で反対出来るとは思えません☆」

「く、黒い! 何か考えが黒いですよノノミ先輩!」

「セリカも意地を張っているだけで、心の底では先生を信頼していると思う……多分」

「まー、シロコちゃんの云う通りかな、おじさんもそう思うよ」

 

 実際、セリカのあれは彼女の意地っ張りな性格が表に出てしまっただけで、本当の彼女は、先生を信頼しているし、恩も感じている。ただ、これまでの過程を――過去を考えてしまって、裏切られるのが怖いだけなのだ。信じた分だけ、裏切られた後の傷は深くなる。だから、信じない、信じたくない、ある程度の所まで踏み込ませても、一番深い所までは踏み込ませたくない。(信じたくない)

 それは酷く、ホシノという少女の根底に似ている。

 

「だから、皆で明日を迎えられるように――セリカちゃんを助けに行くんだ」

 

 呟き、前を見据える。

 皆の揃っていないアビドスなんて、アビドスじゃない。

 誰が欠けても駄目なのだ。

 

「さて、準備は良いかな?」

「……ん」

「えぇ!」

「はい☆」

 

 各々が銃を抱え、気力十分と云わんばかりに声を上げる。そんな愛おしき仲間達を見渡しながら、ホシノは拳を突き上げた。

 

「対策委員会――出撃するよ!」

 


 

 誰が欠けても駄目だと云いながら、自分の身を差し出す生徒の鑑。

 だからアビドスは砂漠に沈んだのだ……。

 

 お待たせ? 待った? 取り敢えずブルアカ存分に走って来ました楽しかったです。

 今後の投稿に関してですが、毎日1万字はきつい事に気が付いたので、二日に一回投稿にしようと思います。天啓が下りたら連日の可能性アリです、あったらラッキー程度に思ってください。時間は八時から、遅くとも十一時頃です。よろしくお願いします。

 何か好きなキャラだと露骨に文量多くなる気がするぅ……ままええやろ。

 皆の好きなご飯シチュエーション、感想欄(性癖博覧会)で待ってるわ!

 

 ムツキはね、普段はおちゃらけて、揶揄っている様に見えるけれど、常に本心をひた隠しにして本当の自分を見せない様にしているんだ。だから真っ直ぐな感情や想いをぶつけられると、とても弱い。どれだけ自分が逃げ回っても、どれだけおちゃらけて躱そうとしても、真っ直ぐな想いは必ず心に響いてしまうから。どれだけ真剣に相手が自分を想ってくれているか分かってしまうから。

 

 だから自分の好意も、相手の好意も、どこか揶揄う様な、馬鹿にするような態度で覆い隠して、『丁度良い距離感』を保とうとする。真剣になればなるほど、真摯であればある程、裏切られた時に、傷ついてしまうから。晴れ着姿のムツキが絵馬のシーンで見せた、先生の真摯な言葉に浮かべた一瞬の哀しい顔。あれがムツキの本質なのだ。

 だからきっと、揶揄うというのは彼女にとっての処世術の一つなのだと思う。彼女は揶揄う事で相手を測っている様な節がある。これくらいやったら怒るかな、とか。これくらいなら大丈夫かな、とか。だからムツキが全力で揶揄う先生や幼馴染のアルは、翻って全力の信頼を預けていると断言できる。彼女にとっての処世術が、本当の意味でいたずらになる瞬間なのだ。

 

 先生に悪戯を仕掛け、一日中振り回した後に、それがバレ、逃げ出す瞬間の一言。

「あーっ、今日はほんっと、楽しかった!」――これだ、この一言に、彼女の魅力は詰まっている。

 

 便利屋とシャーレの交流が深まる中で、恐らくムツキは先生に積極的に絡むだろう。それは単純な先生への興味と云うのもあるが、便利屋の皆と仲が深まる前に、先生がどんな存在かを良く知る為だ。どれだけの悪戯を仕掛けても大丈夫なのか、どの程度の沸点なのか――これは、彼女の絆ストーリーからも察せられる。最初は何て事のない遊び、自分には電気が流れない悪戯。次は、一日中拘束してのボードゲーム(少なくとも二十種類以上)。転換期は、恐らく爆弾収拾が趣味である事が知られた事。

 

 少なくとも一般的ではない爆弾を好むという趣向に、先生が引くでも怒るでもなく、理解を示してくれた事。此処で彼女は決断をしたのだ。それは、次のストーリーで明かされる『一日中悪戯をする』というもの。依頼という体で先生を同行させ、自身のやりたい事にひたすら付き合わせる。恐らくこの中には単純に先生の沸点を見るものもあったと思うが、他にもただムツキがやりたかっただけのものもあると思う。

 そしてすべてがバレた後に放つ、「あーっ、今日はほんっと、楽しかった!」――先生が彼女に心底信頼された瞬間だ。

 

 そんなムツキに真正面から好意を伝えたい。どんな悪戯をしても笑顔で許して、不意に手を引っ張って抱き締めてあげたい。多分最初は目を丸くして、「くふふっ、先生、そんなにムツキちゃんが好きなの~?」と揶揄ってくるだろうから、優しく、けれど強く抱きしめながら肯定したい。

 

 自分はいつも先生に悪戯ばかり仕掛けているのに、少なくとも好かれるような事をした覚えはないのに、そんな自分を好きだと云ってくれる先生にムツキはきっと酷く動揺するんだ。彼女は良く自分で、「可愛いムツキちゃん」と自称するが、それは容姿以外に好かれる要素が無いと自分を卑下している裏返しでもあると思う。そんな彼女を抱きしめながら、ムツキの可愛いところを百個上げていきたい。きっと最初の十個くらいは、「あはっ! 先生、本当に私の事好きじゃん!」と余裕ぶっていたのが、五十を超える辺りでは、「せ、先生、本気すぎ~、あはは……」になって、八十を超えた頃には真っ赤になって黙り込んで欲しい。

 

 多分百個言い終わった後に腕を離そうとすると、ムツキの方から腕を掴んで、そっと先生の胸元に顔を埋めるんだ。その後、どこか拗ねたような、蚊の鳴く様な声で、「もう、百個」と強請るんだ。そうに違いない。

 その事に驚くと、きっと胸元から僅かに上目遣いで、「私の事好きなんでしょ、なら云って、あと百個」と続けて言うんだ。

 それでもう百個言い終われば、ひときわ強く先生を抱きしめた後、ぱっと離れて――「くふふっ! びっくりした? いつも頑張っている先生への御褒美でした~! どう? 嬉しい? 大好きなムツキちゃんに抱き着かれて最高だったでしょう?」といつもの調子で笑いだすんだ。けれど耳元は真っ赤で、瞳はどこか潤んでいる。内心では飛び跳ねる程に嬉しくて、それを表に出さない様に必死なんだ。

 

 多分、先生への真摯な好意を自覚した後でも、彼女は悪戯でしかそれを表現できないと思う。だから時折、先生が腕を広げて、「おいで」と云ってあげる必要がある。ムツキはそんな先生を見て、「あはは! 何、先生、ムツキちゃんを抱きしめたいの~? えー、どうしよっかなぁ~!」と云いながら小走りでやって来てくれる。何なら毎日やっていく内に、段々とムツキの方も慣れてきて、凄く遠回しに催促してきたりする。「先生~、今日のアレ、やってないよ? 忘れちゃったのかな? くふふっ」とか、ちょっと頬を赤らめながら云ってきたら最の高。

 

 先生の胸に蹲っている時のムツキは、いつもの小悪魔的な言動も表情もない、ただ素直に好きな人に甘えて、真摯な感情も好意も発せられるし受け取れる、そんな何処にでもいる少女になるんだ。

 

 こんな形でしか好意を伝えられない自分に、真剣に向き合って愛してくれる人。そんな先生に対して、じんわりと湧き上がる愛情と信頼。ムツキはきっと、本当の意味で信頼して貰うには一番難しくて、けれどだからこそ一等愛が深く、重いと信じている。

 戦闘時に見せるあの凶悪な言動と表情は、その愛の裏返しなのだ。

 

 そんなムツキの前でアルに先生殺させてぇ~。

 

 こころの底から信頼している二人に、絶対に修復出来ない溝を作ってあげてぇ~。

 

 先生がキヴォトスを裏切って、アルに『殺害依頼』を出した後、不眠不休で悩むアルを見て、先生を救いに行くべきかどうか悩んでいるのかもって誤解して欲しい~! アルは絶対抱え込む、ここぞとばかりに抱え込む、みんなに本当の事教えようとかは考えない。いつもなら白目剥いて、「ななな、なんですって~!?」となるアルがガチの本当で苦悩している姿に、ムツキも、「あれ、先生もしかして、本当に不味いの……?」って不安になって欲しい~。いつもは阿呆ほど勘が良いのに、こういう時だけニブニブのニブにしてあげてぇ~。

 

 それでいざシャーレに行くってなった時、例えキヴォトス全てを敵に回しても、先生の味方をするって決めたんだねアルちゃんって笑って欲しい~! アルは何も云わずにでっかい隈を作ったまま、小さく微笑んで、「さぁ、大仕事に行くわよッ!」って虚勢はって欲しい~! 

 先生を助けに行くどころか殺しに行くのに何も知らないムツキちゃん。可愛いね。

 でもいつもは逆の立場だからこれでお相子だよ♡。

 

 それでいざシャーレに突入して、今にも死にそうな先生に向かって大好きなアルちゃんが銃を向けたら、どんな顔するのかなぁ。多分いつもの調子とは違う、本当に戸惑った、焦燥した声で、「ちょ、ちょっと待って!? アルちゃん!? 何してるの!?」って先生の前に飛び出そうとするんだろうなぁ。

 それをカヨコに止めて欲しい~。アルの様子から凡その事情を勘付いていたカヨコに、アルの決断を尊重させてぇ~。鉛を飲み下したような、苦しくて辛くて、それでもやらなくちゃいけないって覚悟決めたカヨコに羽交い締めされて、訳も分からずに本気で焦って、我武者羅に暴れて欲しい。

 まるで先程まで仲間だった大切な人たちが、別の何かに変貌してしまったかのような恐怖を抱いて欲しい。

 

 ハルカはきっと、アルの様子と、先生の銃口を向けられたにも関わらず穏やかな笑みを浮かべているから、様々な事を感じ取って、荒い息を繰り返しながら俯くんだろうなぁ。こういう場面で心の弱いハルカは何も出来ずに、ぼったちになって欲しい欲がある。可愛いね。そのまま先生撃ち殺されるまで良い子で見学してようね、素敵だよ。

 

 あー、この世の悪感情を煮詰めたような顔で先生を撃ち殺すアルに、ムツキは最後まで叫ぶんだろうなぁ。お願いだからやめてとか、どうしてとか、アルちゃんって、何度も名前を呼ぶんだろうなぁ。その度にアルの心が鋼の様になっていくのも知らずに。アルは何だかんだ云って責任感が強いんだ、だからムツキの憎悪も、怨恨の声も、先生の願いも、信頼も、何もかも抱き込んだ上で撃ち殺してくれるに違いない。

 ありがとうって掠れた声で御礼を云った瞬間、先生の頸が弾け飛ぶ様は綺麗なんだろうな。目を見開いて、驚愕と失望と後悔と憎悪とを混ぜ込んだ瞳で崩れ往く先生を見つめるムツキの最後の叫びはきっとショパン国際ピアノコンクールでも優勝できる。

 その後カヨコを力づくで跳ねのけて、叫びながら先生の傍に駆け出すんだろうなぁ。

 そんなムツキを無表情で涙を流しながら見下ろすアルの立ち絵みてぇ~! 一日一悪のノルマに貢献出来て先生も喜んでいるよ。

 

 泣き喚くムツキに背を向けながら、颯爽と立ち去るアル。二人を痛ましそうな目で見つめ、涙を必死に零すまいと唇を噛み締め、その背中に続くカヨコ。無言でぼろぼろ涙を零しながら俯き、荒い息を繰り返しながら先生とアルを見比べ、先生に小さく、本当に小さく頭を下げて、歯を食いしばり、アルの背中を転びそうになりながら追い始めるハルカ。

 その場で先生に縋りついたまま、延々と慟哭を繰り返すムツキ。

 

 先生の死によって便利屋の皆がバラバラになってしまいました、先生のせいです、あーあ。

 

 余談だけれど、この後ってどうなるのかなぁ、やっぱりムツキはアルちゃん殺しにかかるのかなぁ? 私としてはムツキにはアルちゃんを殺す『フリ』をして欲しいなぁ。先生を殺した以上、半端な道は許されないと自分に言い聞かせて、先生の代わりに生徒とキヴォトスを救う義務を負ったアルに、ヘイロー壊す勢いでムツキが殺し合いを仕掛けて、最初は撃退するだけのつもりだったのに、何度も何度も立ち上がって殺しにかかるムツキについ手に力が籠って、致命的な一発を心臓に撃ち込んで欲しい。

 きっとその一発が入った瞬間、「あ――」ってアルちゃんの顔が蒼褪めるんだ。ここまでするつもりはなかったとか、追い返すだけのつもりだったとか、色々頭を過って、けれど至近距離で見つめるムツキの表情は、最期の最後で悪戯に成功した様な、笑みを浮かべているんだ。

 

 先生を殺したからって、アルちゃんを殺す選択肢を取る事も出来ず、中途半端に生きる事にも嫌気が差した。だから同じ、先生を殺したアルちゃんの手で殺されたいって思って、艱難辛苦の果てに遂に彼女の願いは叶うんだ。それと、少しだけ意趣返しのつもりも込めて。自分がアルちゃんを大切にしていると同じ位、アルちゃんも自分を大切にしてくれていたという自覚があるから、そんな自分を撃ち殺した事を、先生と一緒にずっと忘れないで生きて欲しいって感情もあるに違いない。

 自分を信じて夢を追い続ければいつか必ず夢は叶う。良い言葉だ。

 

 ムツキをもその手に掛けたアルちゃんはきっと、呆然とその場に立ち尽くしたまま動けなくなるんだろうなぁ。一人だけならまだしも、二人分。アルちゃんの狭い背中にぎゅうぎゅうに詰まった重荷、正直アルちゃんがどこまで人の死に耐えられるのかは私も分からない。此処で発狂してしまうのか、それとも飲み下す事が出来るのか……。

 

 それはそれとして此処までくると何処まで耐えられるのか見て見たさある。なんか、「この穴、どこまで深いんだろう?」と深い縦穴を覗き込む感じで。

 取り敢えず先生を殺した仇討ちという名目でアルの目の前でハルカとか撃ち殺して欲しい。便利屋を守るために先生撃ち殺したのに、どんどん大切な人が死んじゃうね。元気出して。

 



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友と明日の為に

 

「う……ぐ――」

 

 大きな揺れで、セリカは意識を取り戻した。

 最初に見えたのは薄暗い車内、そして頬に張り付いた冷たい床と、四方を囲まれた狭い空間。暫くの間、そうやって床に横たわったまま振動を感じ続け、自身の意識が徐々に鮮明になっていくのを感じた。

 

 ――こ、こは……。

 

 一体何処なのか、自分に何が起こったのか。そんな思考を続け、不意にセリカの目が見開かれる。

 

「ッ、そうだ、私っ……!」

 

 思い出し、立ち上がろうとして失敗する。見れば両手はきつくケーブルで拘束され、両足は自由であるものの末端に痺れが残っていた。どれだけ気を失っていたのか、今どこに居るのか。まるで分からない。

 

「これ、人員輸送車? あいつら、私を何処に……」

 

 呟き、壁に肩をこすりつける形で何とか立ち上がる。車両の揺れは酷く、車内の扉、その小窓が目についた。唯一光が漏れ出ているそこに、目を近付ける。

 

「外……見えるかな」

 

 揺れに何度か肩を擦りながら、そっと外を覗く。

 すると、其処にはセリカにとって見慣れぬ風景が広がっていた。

 

「砂漠――線路?」

 

 一面に広がる広大な砂漠、所々に埋まった建築物。気を失ったのは夜半であった筈だが、今はもう日が昇り周囲は明るさを取り戻している。そして不意に見えた、埋もれかけの線路。それを目にした途端、セリカの顔が蒼褪めた。

 

「線路があるって事は、ま、まさか……此処、アビドス郊外の砂漠!?」

 

 ――膨大な広さを誇るアビドス。その中でも大部分を占めるのが砂漠地帯であり、嘗てはその広大な土地を移動する為に幾つもの線路が引かれていた。しかし、砂漠に埋まった現在は使用されておらず、アビドス内でも運行している列車はごく僅か。故に、砂漠に埋もれた線路はアビドス高等学校から遠く離れた、砂漠地帯の象徴であった。

 思わず、セリカは力なくへたり込んでしまう。

 

「……そ、そんな、ここからじゃどこにも連絡が取れない、もし脱出したとしても、対策委員会の皆にどうやって知らせれば――」

 

 セリカは自身の体を見下ろし、思わず呻いた。愛銃は当然没収され、荷物のバッグは見当たらない。ポケットに入っていた端末も、取り上げられている。一体どうやって逃げ出せば良いのか、セリカにはまるで見当もつかなかった。

 トラックを奪う? 現実的じゃない。銃器すら奪われた状態で、それも一人で、どうやって。なら端末を奪えば? それも難しい、砂塵の影響で電波の乱れるアビドス砂漠はただですら通信が乱れやすく、圏外になる領域が殆ど。中継器の設置、管理もされておらず、また仮に助けを呼べたとしても救助にどれだけの時間が掛かるのか予想もつかない。

 

「………」

 

 唇を噛み、セリカは俯いた。何をどう考えても、碌な未来が見えない。意識を奪われ、こうして車両に担ぎ込まれた時点で自身の出来る事など皆無に等しい。

 

 ――このまま、何処かに埋められちゃうのかな、誰にも気付かれない様に……。

 

 ふと、そんな考えが脳裏を過った。真正面からではアビドスに敵わないと思ったから、一人ひとり屠る形に変えたのかもしれない。それは何とも、有効な手段に思えた。人数はあちらが圧倒的に上だ、各個撃破に切り替えられたらひとたまりもない。実際、自分はこうして捕まってしまっている。

 

 ――連絡も途絶えて、他の子達みたいに、街を去ったと思われるんだろうな。

 

 今までも、こういう事は珍しい訳ではなかった。

 ある日突然、連絡が途絶える。学校に来なくなる、住所を訪ねても――蛻の殻。律儀に学校を去る旨を伝える生徒は少なかった。少なくとも、セリカの元には。

 少しずつ、本当に少しずつ、人が消えていく。

 そうして残ったのが、対策委員会の五人。

 

「裏切ったって――思われるのかな」

 

 口にした途端、ぎゅっと胸が締め付けられた。

 裏切り――あの仲間たちに、軽蔑した視線で見られる、或いは嫌われる、心無い言葉を口にされる。そう思われる。

 それを考えた途端、セリカの瞳に光が宿り、四肢に力が籠った。

 

「誤解されたまま、皆に会えないまま死ぬなんて……嫌だッ!」

 

 叫び、立ち上がる。走行する車の中で、ふらふらとバランスを取りながら、唯一の出入り口となる扉に向かって、全力で体当たりを敢行する。当然、そんなもので破壊出来る筈もなく、弾き飛ばされ、硬い床に転がった。ぶつかった肩が熱を持ったように痛い、思わず唇を噛み締める。

 

「っ、ぐ……そんなの、ヤダよ……ッ!」

 

 再度立ち上がり、扉に向かって飛び掛かる。しかし、再び硬質的な音が鳴り響き、セリカの体が後方へと弾かれた。悲鳴を上げ、床に叩きつけられるセリカ。内界と外界を隔てる鋼鉄の扉は、相変わらず微動だにせず存在している。

 セリカは両手を床に叩きつけ、呻いた。

 

「う、う、ぐぅ……!」

 

 涙が流れそうだった、自分の無力さに、自分の惨めさに。これから起こるであろう絶望的な未来を考えるだけで、セリカの胸内には暗闇が巣食った。

 しかし、零れそうになる涙を懸命に堪える。

 泣くもんか、泣くもんか、と自身に叫び、歯を食いしばって立ち上がる。扉に叩きつけた肩が酷く痛んだ。まるで熱を持ち、焼ける様だ。けれど、この肩が砕かれようと、腕が千切れようと、セリカは止まるつもりなどなかった。何回でも、何百回でも、何千回でも挑んで見せる、足掻いて見せる。

 

 諦めない、何が何でも――絶対に生きて、皆に会うんだッ!

 

 決意を新たに立ち上がり、扉を睨みつける。胸内で叫び、口からは荒い息が漏れた。「負けるもんか」と、呟いた。呟きは小さかったが、籠っている感情は痛烈で、強固であった。それは心を支配しようとする暗闇に打ち勝つ為に、無意識に出たものだった。

 もう一度、扉に体をぶつける為に小さく腰を落とす。

 そして駆け出そうとした瞬間――車両に一際大きな衝撃が走り、セリカの体が宙に浮いた。

 

「え、ッ、うわぁぁああッ!?」

 

 突然の爆音、そして衝撃。あちこちに体をぶつけながらセリカは訳も分からず叫び、頭を覆って衝撃の波をやり過ごした。そして十秒か、もっとか、頭を抱えて丸くなったセリカは、周囲に立ち込めた砂塵と煙に咳き込みながら周囲を見る。

 

「かはッ、けほッ! けほっ……! な、何!? 何なの……!?」

 

 見れば先程まで微動だにしなかった扉が半開きになり、車両が横転していた。先ほどまで床だった場所は壁となり、肩を預けていた内壁が足の下にある。体の節々の痛みに呻きながら、セリカはゆっくりと立ち上がる。

 

「攻撃? 事故? どうして突然――」

『セリカちゃん発見! 生存確認!』

「えっ……ドローン――まさか、アヤネちゃん!?」

 

 不意に声が聞こえた。

 見れば車を覗き込むようにして飛ぶドローンが一機、その小型スピーカーから聞こえる声に、セリカは俯いていた顔を上げた。

 

「こちらも確認した、半泣きのセリカ発見!」

「っ~~!?」

 

 一拍遅れて、シロコが愛銃を抱えたまま車両の扉を蹴り飛ばし、中を確認する。そこには彼方此方擦り傷を負ったセリカが、呆然とした表情で佇んでいた。

 

「なにぃ~!? うちの可愛いセリカちゃんが泣いていただと! そんなに寂しかったの? ママが悪かったわ、ごめんねーッ!」

「う、うわああぁあ! う、うるさいッ! 泣いてない、泣いてないからぁっ!」

「嘘は良くない、この目で確り見た!」

「泣かないで下さい、セリカちゃん! 私達が、その涙を拭いて差し上げますから!」

 

 シロコが必死に目元を擦るセリカを掴み、外へと引っ張り出す。するとそこには銃撃を行いながらセリカを守る為に横転した車両に駆け寄る皆の姿があった。

 

「セリカァァァァッ! パパも居るぞぉォオオッ!」 

 

 遅れて、タブレットを掲げながら叫び、走り寄る先生。傍にはそんな先生の頭を掴み、必死に姿勢を低くさせようとしながら並走するアヤネの姿。

 セリカは思わず、顔を赤くしながら叫ぶ。

 

「あーもう、うるさいってばッ! 違うったら違うのっ! 黙れーッ!」

「先生、危険ですから頭を出さないで下さいッ!」

「ご、ごめんアヤネ……!」

 

 先生とアヤネが合流し、皆が先生とセリカを守る様に布陣する。横転した車両の周囲には幾人かの生徒が斃れており、また護衛の為なのか二両ほど、同じように転がった車両が遠目に見えた。

 

「というか、一体私の位置、どうやって……!?」

「そこはまぁ、先生の力でちょちょいと、ね」

 

 ホシノが銃弾を盾で防ぎながら、車両の影に隠れる先生を見る。同じように視線をセリカが向ければ、とても良い笑顔で先生は親指を立てた。

 

「ストーカーと呼ばれたのは伊達じゃない!」

「ば……ばっ……! ばっかじゃないの!?」

 

 思わず叫んだ。顔はきっと、酷く赤かったに違いない。

 

「あ、あとで絶対ぶん殴るからね! 絶対だからッ!」

「うへ、元気そうじゃーん?」

「ん、ほらセリカ、手を」

「えっ、あ、うん……」

 

 勢い良く先生に食ってかかろうとすれば、シロコがナイフで両手を拘束していたケーブルを切断する。そして肩に担いでいたセリカの愛銃を手渡した。

 

「これ、運転席に転がっていたセリカの銃、あとこれ、アビドスから持ってきた弾倉」

 

 背負っていた背嚢から弾倉を取り出し、セリカへと差し出す。セリカはそれを受け取り、愛銃に装填しながら、余った弾倉を制服のポケットに詰め込んだ。愛銃は手の中に戻った、仲間だって傍に居る――もう恐れる事など何もなかった。皆の横に並びながら、周辺に疎らに見える不良達を睨みつける。

 

「さて……問題は此処からだね」

「ん、戦術サポートシステムで車両は制圧したけれど、敵陣のど真ん中で孤立無援」

「まー、敵さんも怒り狂って攻撃して来ているし、増援が来る前に逃げ出したいねー」

「包囲されたら終わり、ですね――ッ、ドローン映像、前方にカタカタヘルメット団、多数!」

 

 アヤネの言葉に車の影から顔を覗かせれば、二台、三台と車両が集まり、次々と降車する不良達の姿が見えた。どうやら襲撃に備えて迎えを送っていたらしい。アビドスの動きを読んでいたのか、或いは――。

 

「襲撃が読まれた?」

「重火器確認、それにあの動き……包囲網を構築するつもりです!」

「敵ながらあっぱれ、それじゃー、まぁ、囲まれる前に突破して帰りますかぁ」

「……気を付けて、奴ら、改造した重戦車を持っているわよ」

 

 セリカが吐き捨てる様に云えば、遠くから重低音を鳴り響かせ走行して来る戦車が見えた。先行していたのか、或いは別車両なのか――それはセリカを砲撃した戦車と一致する。

 

「知ってる、Flak41改良型」

「……不良集団が持っていて良い装備ではありませんね」

「数は一両のみですが、正面から相手をする訳には……それに乗って来た車両を破壊されては逃走が困難になります、難しいですが破壊するか、行動不能にする必要があるかと」

「ノノミのリトルで抜けたりしない?」

「んー、正面は無理ですけれど、背面なら多分抜けますね、側面なら暫く撃ち続けないと」

「――ま、大丈夫でしょー、ね、先生?」

 

 難しい表情を浮かべるアビドスの面々に反し、ホシノは笑みすら浮かべて先生を見る。先生はどこか期待と信頼の籠ったそれに、にっと歯を見せる事で応えた。

 

「――戦車には一度、痛い目を見せられたからね、対策はバッチリさ」

 

 告げ、先生は背嚢の中から、白と青いラインの混じった球体を取り出す。それはアビドスからすれば酷く奇妙な代物で、皆は物珍しそうに先生の掌に握られたそれを見つめた。

 

「借りるぞ、ハレ――ッ!」

 

 側面に設置されたスイッチを押し込み、先生は叫びながら球体を空に向かって投げる。

 すると球体は一拍遅れて青白い光をラインに沿って放ち、空中で静止――そして駆動音を搔き鳴らすと、そのまま正面の戦車に向かって突貫した。

 飛来するそれに対し、戦車の機銃が慌てて火を噴くも、球体の大きさは野球ボールよりやや大きい程度。左右に不規則に揺れながら迫り来るそれを捉える事は難しく、射程圏内に戦車を捉えた球体は強力な青白い電磁パルスを撒き散らし、自壊。

 ――周囲の端末が一瞬、ノイズを発し沈黙した。

 

「あれ、もしかしてEMPドローン?」

「ヴェリタスの皆に作って貰った逸品だ、後でユウカにしこたま怒られる領収書付き! 暫く先生、御昼はコッペパンだけかも!」

「えっ、あれ経費で下りないんですか!?」

「安心して下さい先生、御昼は私が御馳走しますよ☆」

「ともあれ、チャンスだねー、皆、準備は?」

「いつでも!」

 

 ホシノの声に応え、皆が愛銃を構える。戦車はEMPの直撃を喰らい制御不能、こうなってしまえばただの硬い的に過ぎない。壊すも奪うも思いのままだ。増援の車両から降りて来た生徒も――凡そ十五人程度。

 アビドスの皆と先生の力があれば、突破は容易。

 

「それじゃ――先生?」

 

 ホシノが先生を見る。

 頷き、先生は進路を指差し号令を掛けた。

 力強く、皆と一緒に帰る為に。

 

「信じているぞ皆、誰一人欠けることなく、学校に帰るんだ――アビドス、出撃!」

「おーッ!」

 


 

 休日なのでいつもより投稿時間早めです。

 ストックが出来てちょっと余裕が出たともいう。

 毎日投稿は投稿五分前まで必死こいて書いていたのでマジ毎日が風紀委員(ゲヘナ)でした。

 投稿管理カンペキ~! うぅ、ユウカ私の代わりに推敲して投稿しておいて……。

 

 コタマのあのストーカー気質なところは結構好きなんですよ、絶対愛が重いから。先生の私物に盗聴器を仕掛けようと試行錯誤して、何なら先生の通信を傍受して盗聴したりしている訳で、ぶっちゃけ私の中ではワカモに迫る程のヤベェ奴認定です。でもそんなコタマを許して、何度盗聴器を仕掛けられても説教程度で済ましてくれちゃう先生、なんという好循環、素晴らしいですね。

 

 その内全く懲りずに先生の盗聴を行うコタマに辟易として、仕事の内容以外なら別に良いと私生活エリアの盗聴を許可して、コタマを喜ばせてあげて欲しい。コタマ自身も駄目だ駄目だと思いながらも、ついつい止められず続けていた盗聴を認められて、きっと涙を流すほどに喜んでくれるのだ。その内コタマは学校が終わった後に、先生の生活音を聞くのが日課になるに違いない。

 

 先生は何をしているのかな、どんな一日を送っているのか、と。何なら自室のスピーカーから先生の生活音を流して、然も自分が先生と同棲生活しているかのような雰囲気に浸ってご満悦になるんだ。

 

 その内、先生の日常音だけでは満足できなくなって、もっとディープな部分まで踏み込む決意をして欲しい。先生から許可を得たからと自分に言い訳して、先生の自室だけでなく、お風呂や寝室にまで盗聴器を仕掛け始める気がする。流石にこれは駄目じゃないかとか、バレたら嫌われてしまうかもとか、色々思いながらも結局誘惑に負けて、日直の日にそれとなく仕掛けて、夜な夜な一人で楽しんでいるんだ。

 

 それで先生は、そんなコタマの盗聴に気付きながらも、「まぁ私だけなら別に良いか、でも他の人にはやらない様に釘を刺しておこう」と、翌日ほくほく顔で現れたコタマに説教して欲しい。

 

 てっきり先生に知られたからにはとんでもない事になるに違いないと、先生に寝室・風呂場の盗聴がバレていると知るや否や蒼褪め、声もなくぽろぽろと涙を流すコタマを先生に慰めて欲しい。号泣しながら、「ご、ごめんなさい、すみません、き、嫌いにならないで、せ、先生……!」と縋り付くコタマに、「他の人にやったらだめだよ?」と先生は優しい笑みを浮かべるんだ。

 自分のそんな汚い面すらも受け入れ、許してくれる先生に対し、きっとコタマは涙交じりに安堵と敬愛と情愛と信頼の籠った、本当に嬉しそうな笑みを浮かべるに違いない。

 

 ここで先生がコタマではない生徒を寝室に連れ込んで、『ハナコッ!』(エッチなのは駄目! 死刑!)をした場合のコタマの顔も見てみたい気もするけれど、今回はもう少しマイルドにしたい。

 

 はー、コタマが盗聴している最中に先生の頸を締めて殺してぇ~。

 

 盗聴だから音しか聞こえない状態で、助ける事も出来ずその場で凍り付くコタマの顔が見てぇ~。

 いつも通り学校が終わった後、シャーレの盗聴を行っているコタマの耳に、突然先生が誰かに襲われている音が聞こえてくるんだ。何かが斃れる音、硝子の割れる音、それから発砲音。

 

 コタマはそのただならぬ様子にきっとヘッドホンを付けたまま、部屋を飛び出すに違いない。先生に何かあったんだ、誰か先生を襲っていると、蒼褪めた顔で恐らくヴェリタスか、生徒会辺りに駆けこもうとするのではないだろうか。

 コタマ自身、自分が荒事に向いているとは思っていない。自分が一人で救助に向かった所で、先生を守り切れる自信が無い。だから少しでも早くこの事を知らせて、シャーレに救助隊を送らねばと考えるんだ。

 

 そんな彼女の耳に鳴り響く銃声、響く先生の呻き声。

 

 その音に、「ひっ!」とコタマが身を竦める。コタマの頭の中で、撃たれた先生が地面に崩れ落ちるイメージが浮かぶ。必死の形相で生徒会室に辿り着き、そこで会計作業を行っていたユウカに、飛びつく勢いで縋り付いて欲しい。

 

 突然生徒会室の扉を凄まじい勢いで開け放ち、驚愕を張り付けたユウカに掴みかかるコタマ。「えっ、ちょちょ、な、何!? 何なの!?」と混乱するユウカに、蒼褪め、涙すら流し、がちがちと歯を鳴らすコタマは云うんだ。「だ、誰かが、誰かがシャーレを襲撃しています! せ、先生が、先生が危ない!」と。

 ユウカはその言葉だけで意識を切り替えて、セミナーとの権限を使ってシャーレ近辺のミレニアム生徒に緊急招集を掛けるに違いない。その間、床に座り込んだコタマの耳元で、先生の呼吸音だけが響くんだ。

 

 誰かの足音、それから僅かな衣擦れ、そして先生の暴れる音と苦し気な声。

 最初は力強かったそれが、段々と小さくなり、呼吸音すら掠れ、宛ら小さな管に吐息を吹きかける様な音に変わった時、ほんとうに、本当に小さな声で、「こたま」と呟いて欲しい。

 

 きっとコタマは床に這い蹲ったまま鬼気迫る顔で、「先生ッ! せんせいっ!」と叫ぶに違いない。声が届く筈もないのに。

 

 涙は止まらなくて、何も出来なくて、先生は傍にいないのに、録音機材は良質なものを揃えたばかりに、まるで隣で先生が絞殺されているような臨場感の中で、コタマは叫ぶんだ。何度も何度も、先生の吐息が聞こえなくなるその瞬間まで。

 

【ブルーアーカイブ】 先生ASMR~あなたの息吹をこの手に感じて~

 先生の許可を取り、その生活音を毎日聞く事が日課のあなた(コタマ)。耳元に聞こえる呼吸音、打鍵音、先生の独り言。そんな先生の何て事のない一日を楽しんでいたあなただったが、ある日そんな先生の様子がおかしい事に気付き……?

 

 こだわりポイント♪

 ・すぐ傍で先生が首を絞められているかのような臨場感。

 ・作業の小休憩にピッタリなドタバタ感。

 ・あの憧れの先生があなたの傍でそんな声を!?

 

 これはこぞって生徒達が買い求めるやろなぁ……。需要に応じてこんな製品を出せる先生は大人の鑑。

 キヴォトスの生徒の性癖を全力で捻じ曲げて行け!

 



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天蓋に辿る影

誤字脱字報告、ありがとうございます。


 

「うへー……おじさん生きてるぅ?」

「生きている、だからちゃんと歩いて」

「あはは……まぁ、気持ちは分かります……はぁ」

「ぜぇ、ぜぇ、あ、あいつら、もう居なくなった?」

「大丈夫みたいです、もう追撃はありませんよ☆」

 

 アビドスの面々が背後を警戒しながら、砂埃に塗れた格好で歩く。大きな怪我はないものの、皆小さな傷をあちこちに負っていた。

 砂漠での包囲網突破――それは何の難しい事もなく終わった。しかし、車両に乗ってアビドス高等学校まで帰還する途中、そこでアビドスの皆は都合四度の追撃を受けた。砂漠で行われるデッドヒート、凡そ六時間に渡って行われた追撃回避戦は正に『カタカタヘルメット団総力戦』の様相を呈し、前哨基地ではない、中央拠点が近かった為だろう、アビドスが最終的に大破炎上させた車両は六台、打倒したヘルメット団の兵士は百名近くに上っていた。

 漸くアビドス校近辺まで帰って来た面々は疲れ果て、今にも地面に寝そべりそうな雰囲気を漂わせている。

 

「いやー、乗っていた車両が壊された時はどうなるかと……結局、丸一日掛ったねぇ」

「タイヤを撃ち抜かれて横転した時が一番怖かったですよ、私」

「ん、でもこうして学校に戻って来られた」

「前哨基地で鹵獲した車両、なくなっちゃいましたけれどね」

「必要経費、寧ろそれ位で済んで良かった」

 

 シロコが頷き、小さく肩を揺する。その横転し、大破炎上した車両を運転していた先生は、相変わらずシロコに背負われたまま微動だにしなかった。

 追撃戦の最中、タイヤを撃ち抜かれ横転した車両からアビドスの生徒達が慌てて先生を救出し、そのまま徒歩で逃走を図る事になったのだが――当然キヴォトス外の人間である先生が、そんな何時間もの全力疾走が行える筈もなく、シロコはアヤネに愛銃を預け、先生を背負う係になっていた。

 先程までシロコの背中から指示を飛ばしていた先生は、ヘルメット団の追撃を振り切った辺りでぐったりとして動かない。思わずセリカが先生の腕を突き、問いかける。

 

「……もしかして、死んでいたりしない、ソレ(先生)

「でも呼吸音は聞こえますよ?」

「すー……はー……」

「あの、先生、今はずっと走りっぱなしだったから、ちょっと、その――」

 

 先生はシロコの背中に張り付いたまま深呼吸をしていた。

 その事に頬を赤くするシロコ。

 瞬間、セリカの額から何かが千切れる音が響いた。

 

「――このッ、変態!」

「えっ、なに、ちょ、まッ! あだっ!」

 

 凄まじい力でシロコから引き離され、地面に転がる先生。綺麗な白制服は既に砂に塗れ、先生は這い蹲りながら必死に弁解を口にする。

 

「何シロコ先輩の匂い嗅いでいるのよッ! 変態、スケベ! 信じらんない!」

「えっ!? 匂いッ!? ち、違う、待ってくれ、誤解だ、今ちょっと、本気で疲労がヤバくて意識飛んでいただけ……」

「途中半分くらいシロコ先輩に背負われていたじゃない!」

「い、いや、考えてみてくれ! 昨日の夜中にセリカの拉致を察知して、その後緊急招集を掛けて、朝方までアビドス砂漠に向け運転し、戦闘を行って、また半日かけて戻って来て……ぶっちゃけ昨日、いや一昨日か? もう三日位寝てないんだ先生!」

「――はぁ!?」

 

 先生の唐突な告白にセリカは困惑の表情を浮かべた。

 三日――三日徹夜? 一体、何でそんな事になったのか。思わず追撃の為に振り上げていた拳が下がる。

 

「な、なんでそんな……」

「いや、えっと、アリウ――じゃなかった、あーっと、まぁヘルメット団の事で思う事があって、最悪に備えるためにシャーレの方で動いたり、連邦生徒会と交渉したり、他の学園との兼ね合いもあって……兎に角色々やる事が一杯あって、根回しをしていたら寝る時間が――」

 

 あはは、と頬を掻く先生。

 良く見れば、先生の目の下には深い隈が刻まれていた。色々な事で必死になっていて気付いていなかったが、先生も本当に限界まで走り回っていたのだろう。

 そして、そんな事をしなくてはならなくなったのは――どう考えても自分を助け出す為だ。

 何かを云おうとした口がもごもごとまごついた、感謝を口にすべきだという理性と、恥ずかしくて代わりに出そうになった罵倒、何だか良く分からない複雑な感情にセリカは顔色を次々と変え、最終的に一つ、深い溜息を吐き出し、腕を下ろした。

 

「ッ―――はーッ!」

 

 乱れた髪を乱雑に掻き、胸内の感情を吐き出す。すべては無理だが、幾分かマシになった気がした。

 座り込む先生を見下ろし、セリカは背中を見せてその場に屈む。

 

「ん」

「……セリカ?」

「んっ!」

 

 背中を見せながら肩に愛銃を掛け、手を後ろに差し出す。いつまで立っても寄って来ない先生に、セリカはやけっぱちになって叫んだ。

 

「……背負ってあげるって言ってんの! 良いから黙って乗れっ!」

「え、あ、はい」

 

 怒鳴られた先生、恐る恐るセリカの背中に身を預ける。先生の重みを背中に感じながら、赤面した顔を見られない様前を見て云った。

 

「に、匂いとか嗅いだら殺すからっ! 変な事も云うな! ていうか、呼吸を止めろ!」

「私に死ねと?」 

「う、うるさい! 黙って! 背負うのは学校までだからねッ!」

「理不尽だ……」

 

 先生はその口調に思わず項垂れしょげた。そんな様子に反し、隣を歩くノノミがニコニコと先生に笑いかける。

 

「ふふっ、良かったですね、先生☆」

「先生、滅茶苦茶罵倒されているのですけれど?」

「――分かっている癖に」

 

 ノノミが目を細め、ふっと笑みを深くする。先生はそれ以上、目線を合わせられなくなって、そっと視線を反らした。くすくすと、ノノミの漏れ出た笑い声が先生の鼓膜を叩く。

 

「……取り敢えず、帰ったらみんなでシャワーを浴びて、治療したら御昼寝ですね」

「その前にご飯食べたーい」

「ん、この際レーションでも良い」

「私は、白いご飯が食べたいです……」

「補給物資の中に、確か即席白米セットとカレー粉があったから、なんちゃってカレーでも作ろうか」

「先生の手作り?」

「インスタントだけれどね」

「……大丈夫なの、そんな安請け合いして」

 

 前を向くセリカが、ぼそっと呟く。

 なんだかんだ心配をしてくれる優しい彼女に、先生は笑みを浮かべて告げた。

 

「――可愛い生徒の為なら、何てことないさ」

 

 ■

 

「……ん」

 

 ふと、目が覚めた。

 最初に目に映ったのは白い天井。場所はアビドス校の保健室、並んだベッドの上で、皆が思い思いの恰好で寝入っている。

 死んだように仰向けで眠るシロコ、横になって眠るノノミとアヤネ、俯せで枕を抱えているホシノ。六つ並んだベッドの上で寝息を立てる生徒を見ながら、先生は飛び跳ねた髪を撫でつけた。

 

 ――シャワーを浴びて、食事を摂って、軽く怪我の治療をした後に、皆泥の様に眠った。時刻は既に夕刻。何だかんだ限界が近かった先生も、厚意に甘えてアビドスの保健室で仮眠をとったのだ。それに倣い、どうやら生徒達も宿舎に戻る事無く保健室で仮眠をとった様だった。

 どれだけ寝入ってしまったのか、未だに靄の掛かった目を擦って眠気を払う。

 ふと、セリカの姿が無い事に気付いた。アビドスの皆が寝入っている中、彼女のベッドだけもぬけの殻だった。先に起きているのか。先生はそっと保健室を後にすると、肌身離さず持っていたタブレットを使用し、セリカの現在位置を特定。

 ――彼女の居る対策委員会の部室へと足を進めた。

 

「――セリカ?」

「あ……」

 

 そっと部室の扉を開けると、長机に愛銃を乗せ整備を行っているセリカの姿が見えた。布の上で分解され、パーツを清掃していた彼女は先生の姿を見るや否や、一瞬目を泳がせる。

 

「先に起きていたんだね」

「……皆疲れているみたいだから、起こす訳にもいかないし」

 

 呟き、先生から目線を逸らすと慣れた手付きで清掃を続ける。壁に立てかけられたパイプ椅子を広げ、セリカの傍に座ると、彼女はガンオイルを手にしながら云った。

 

「砂塵がある場所で銃を使った日は、なるべくその日の内に整備しているの、ジャムで暴発とか怖いから」

「大事な事だ」

「ん、そう……」

 

 不意に言葉が途切れる。部屋の中に訪れる沈黙――先生としては、そんな空気感も嫌いではなかったが、セリカはどこか気まずそうにしていた。何かを云いたげな、そんな表情をしている。

 

「……あ、あの」

「ん?」

 

 ふと、銃を整備していた手が止まった。セリカの視線が先生と手元の銃を行き来している。何度か指先をまごつかせ、それから小さな声で続けた。

 

「え、えっと、ね……」

「うん」

「ちゃんと先生に、御礼云ってなかったと、思って……」

 

 そう云って先生へと向き直り、セリカは深く頭を下げた。その行動に先生は一瞬、面食らう。彼女は顔を真っ赤にしながら、真摯に言葉を紡いだ。

 

「その、あ、ありがとう……色々と」

「――あぁ、どういたしまして」

 

 生徒を助けるのは当然だ、そうでなければ先生としての存在意義が無い。けれどそんな言葉を口にするより早く、ばっと頭を上げたセリカはそっぽを向いた。

 

「……でもっ、この程度で私に認められたとか思わないでよね! この借りはいつか必ず返すんだからッ!」

「はは、分かった、待っているよ」

「な、何よ! 何へらへら笑ってんの!?」

 

 先生の態度に怒りを見せ、セリカは軽く机を叩く。それが照れ隠しである事は誰の目から見ても明らかだった。彼女は手早く銃を組み立てると、それをガンラックに立て掛け部室を後にする。扉を力任せに開け、赤く染まった耳をそのままに彼女は云う。

 

「それじゃあ、私は戻るから! じゃあね! せ……っ、先生!」

 

 去って行くその背中に、先生は緩く手を振る。

 先生の表情は――これ以上ない程に、優しく、穏やかな笑みだった。

 

『……先生、大丈夫ですか?』

「ん、アロナ――?」

 

 不意に、タブレットからアロナのホログラムが投影される。彼女はセリカと入れ替わる形で先生の前に立つと、その表情を不安げに歪めた。

 

『この所、少々無理をし過ぎではありませんか? 百鬼夜行連合学院の時もそうでしたが、幾ら戦力拡充……エデン条約への備えが重要だとしても、このままだと先生の体が――』

「今だけさ、アビドスの件が終われば少し休む、今だけ踏ん張りどころ……ごめんね、心配かけて」

『いえ……私は、その』

「それに、余りに無理して倒れると、トリニティの救護騎士団に怒られる」

 

 その事を考え、先生は苦笑を漏らす。救護騎士団に所属する面々は、何というか濃い。いや、薄い生徒など先生からすればひとりも存在しないのだが、()の組織には一切の痕跡なくシャーレに侵入し、適切な処置を施し、そして消える存在すら居るのだ。

 彼女のお陰で無理が利くという点もあるが、やり過ぎると後が怖い。自重は重要だった。あらゆる意味で。

 先生は去っていたセリカの背中を扉の向こうに幻視しながら、そっと呟く。

 

「それに、やっとアビドスの皆から仲間だと認められたような気がするんだ――この感情は、何度味わっても嬉しいものだよ、勇気と元気が湧いて来る、何だってやってやれそうな気分なんだ」

『先生――』

「――そんな顔をしないでくれ、アロナ」

 

 先生は静かにアロナのホログラムに手を伸ばす。青い世界ではない此処では、実際に感触を得る事は出来ない。しかし、疑似的な干渉を可能とする彼女は、そっと先生の手に頬を寄せた。

 

『――私達(我々)は望む、七つの嘆きを』

「……私達(我々)は覚えている、ジェリコの古則を」

『先生?』

「何だい」

 

 先生の手に頬を擦りつけたまま、アロナは一粒だけ涙を流した。涙は、先生の手を伝って床に落ち――電子体となって消えた。

 

『アロナは、あなたのものです、あなただけの――だから、最期までお傍に』

「あぁ、勿論」

 

 例え、七つの嘆きの果てに――運命が決まっているとしても。

 死がふたりを分かつまで。

 

 ■

 

 高層ビルの一室――光の消えた部屋の中で、モニタの光だけが周囲を照らしている。その光に照らされるのは、スーツを着た巨躯、黒いスーツ姿のロボットと云うべき存在。朱色に光る四つのラインアイが輝き、光るモニタを見据える。

 ややあって椅子に体を預けると、その重みに重厚な皮椅子が軋んだ。

 

「……格下のチンピラ如きでは、あの程度が限界か――主力戦車まで貸し出してやったというのに、このザマとは」

 

 キーボードを叩き、ウィンドウを閉じる。彼の体に纏う雰囲気は――倦怠感。

 計画の推移は順調とは言い難い、特にここ最近は失敗続きと云っても良い。その事実が彼を苛立たせ、多少強引な手段に事を運ばせている。

 

「しかし少しばかり派手に動き過ぎたか? 連邦生徒会に動かれても困る、掃いて捨てる程いる不良共と云えど、減り過ぎては事やもしれん――事は小さく、静かに、少数で行えれば尚宜しい、であれば……」

 

 呟き、デスクの上に放置された端末を手に取る。開いた画面には、呼び出し画面が映った。

 

「――専門家に依頼するとしよう」

 

 手早くナンバーを入力する。番号は最近入手した代物。

 三度のコール音後、女性の声が響く。

 

『はい、どんな事でも解決します――便利屋68です』

「仕事を頼みたい、便利屋」

 

 返答は、静かで迅速であった。

 

 ■

 

「はぁ、はっ……!」

「うわぁぁッ!」

「ぐゥ!」

 

 ――カタカタヘルメット団、アジト。

 その日、カタカタヘルメット団は突如正体不明の勢力に強襲され、全滅の危機に陥っていた。アビドスとの抗争続きで、多くの戦力、補給物資を喪ったカタカタヘルメット団は、再編の為に各地に散っていた同志に呼びかけ、反転攻勢の為に本拠に集っていたのだが――肝心のクライアントから、『契約打ち切り』の旨を伝えられ、どうにかこうにか本社に赴き交渉を行おうと考えていた所に、アジト内部から幾つもの爆発が発生。

 混乱に陥っている所に、少数兵力による奇襲攻撃を受け、アビドスとの戦闘後で兵力も装備も整っていなかったヘルメット団は、逃げ延びた幾人かを除き文字通り全滅の危機に陥った。

 

「あーぁ、こっちは終わったよ、何人か逃げちゃったケド、まぁ誤差だよねぇ~」

「こっちも制圧完了したよ、ボス」

「宿舎と東側、お、終わりました……!」

 

 抵抗していた最後の一人を打倒し、足蹴にしたボスと呼ばれた少女の元に、次々と集まって来る人影。足蹴にされたヘルメット団の不良は、呻きながら少女を見上げる。月明かりに照らされた顔は、影になって伺えない。ただ、コートを着込んだ妖しい雰囲気を持つ赤髪の少女である事は分かった。

 倒れ伏したまま、何とか情報を得ようと不良は口を開く。

 

「う、うぅ……何者だ、貴様ら……」

「――ふふっ」

 

 問われた少女は口元を歪め、冷酷な表情で不良の手に踵を落とす。ヒールに踏み躙られた不良は、突き刺さったピンの痛みに思わず呻いた。

 

「いぎッ……! ぐ、ぅ、貴様、まさか、アビドスの――!」

「アビドス? まさか、違うわよ、こんな不潔で嫌な匂いのする場所をアジトにする連中は、やはり頭も冴えていないのね」

 

 掌を踏み躙ったまま、少女は長銃を担ぎ、酷くつまらなそうな顔で不良を見下ろす。

 

「――いいわ、あなた達を労働から解放してあげる」

「な、に……!?」

「要するにクビって事、現時刻をもってアビドスは私達が引き受けるわ、クライアントからの通達、来ているのでしょう?」

「ふ、ふざけ――!」

 

 何かを口にする前に、少女の爪先が不良の顔面を弾いた。跳ね上がった頭部、脳が強烈に揺すられ、不良の意識を刈り取る。月影になっていた表情が、微かに照らされ――その金色の瞳が不良を射貫いた。

 

「あなた達のその姿勢、悪を語るには美学が足りない、圧倒的にね」

「く……そ……」

「最後に憶えておくと良いわ、私達は便利屋68(シックスティー・エイト)、金さえ貰えれば何でもする――」

 

 徐々に闇へと落ちる不良の視界に、背を向け立ち去る少女の笑みが映った。

 

「――何でも屋よ」

 


 

 この便利屋68って人達カッコよすぎん? きっとバチクソ優秀な、クールでクレバーな人たちなんだろうなぁ……すごいなぁ、憧れちゃうなぁ……。死んでも白目なんて剝かなさそうだし、想定外の事があっても、「この程度、想定内よ」とか云って片手間に処理しちゃうんだろうなぁ。ビジュアルからしてもう、有能そうなバリバリのキャリアウーマンって感じだもんね!

 流石社長! 一生ついていきますッ!

 

 それは兎も角、サオリを幸せにしたい。なんかもう絆ストーリーとか見ているだけで心が痛くなるから幸せにしたい。何で世界はこんなに悪意に満ちているんだ、どうしてサオリに優しくしてくれないんだ、もう一杯傷付いたのだから少しくらい安寧があったって良いじゃないか……。

 

 アリウススクワッドから離れて、一人ブラックマーケットの中で生きるサオリをシャーレに連れて帰りたい。契約書も知らず、最低賃金も知らないサオリをシャーレの宿舎に押し込んで、おはようからおやすみまで養ってあげたい。多分、最初の内は、私にそんな価値なんてとか、これ以上先生の世話になる訳には、とか云って逃げ出そうとするんだ。けれどサオリがシャーレを後にしようとする度、先生が全力で息を切らしながら捕まえに来るんだ。そんな先生の必死な様子を見て、何となく申し訳ない気持ちになって、サオリはシャーレに居候してくれるんだ。

 

 私は、役に立てているか? ……なら良い、それだけで、私はここにいられる。

 サオリの自己評価は、この一言に詰まっている。役に立った分しか対価は貰えない、無償の愛なんて存在しない、役立たずな存在は切り捨てられ、ただ消えていくだけ。

 虚無の虚無、全ては虚無なり(Vanitas vanitatum et omnia vanitas.)

 アリウススクワッドの標語ともいえるこの言葉が、彼女の根本にある。それでもスクワッドを救う為に、まだ子供であった頃から努力し、大人には従順に、少しでも殴られない様に、明日を生きて行けるように足掻いていたサオリはきっと、その殴って来る筈の『大人』(先生)から注がれる無償の愛を、心から信じ切れずにいるんだ。

 

 サオリは初日から先生に、「先生、私は何をすれば良い?」って聞いて欲しい。きっと、自分に何かしらの役割を期待したからシャーレに連れて来たのだと、そう考えて。

 けれど先生は、「サオリが好きな事をすれば良いよ」とだけ言って、後は何も指示も命令もせず、サオリと一緒にただ過ごすんだ。

 

 趣味何てものはないし、訓練と戦闘とその日を生き残るだけで精一杯なサオリは、「好きな事」というのが良く分からなくて、ただ先生の警護の為にオフィスの隅で銃を抱えたままじっと先生を見つめ続けたり、時折射撃訓練場や体育館でひとり訓練をしたりするんだ。たまに先生が手隙の時はサオリに授業をしてくれる。契約書については勿論、一般常識から中学、高校の内容を、少しずつ教えて行って欲しい。

 

 休日は、先生と一緒にお出掛けしたり、ショッピングしたり、一緒に遊んだりすると思う。サオリにとっては娯楽なんてものは未知の領域だから、あらゆる事が新鮮で、きっと先生に、「あれは何だ」、「これは何だ」と聞くに違いない。それを先生はきっと、嬉しそうな笑みで見つめ、ひとつひとつ丁寧に教えてくれるんだ。

 

 サオリは実は、化粧品に目が無い。ブルアカの原作では、コスメを贈ると好感度が大幅に上がる。メイク用品、BBクリーム、グロス、高級香水ザ・ビヨンド……戦闘ばかり学んできたサオリにとって、そういう女性らしさだとか、美容を磨く様な時間はきっとなかった筈だ。そんな彼女が化粧品に目を惹かれた理由が、先生とかだったら実にベネ。

 きっとサオリは先生の隣を歩きながら、広告やポスターで笑う女性に対し、強い劣等感を抱くんだ。こんな風に普通の少女の様に笑えたら、生きられたら。こんな自分が先生の傍に立つのは、不釣り合いなんじゃないかとか、そんな事を考えながら傷だらけの自分の両手を見下ろしているんだ。

 

 だからシャーレから支給される給与を使って、休日にこっそり化粧品を買いに行って欲しい。「化粧水、ふぁ、ファンデーション? アイブロウとはなんだ、眼球に対する打撃か……?」とか言いながら色々買い込むんだ。

 分からない事は先生に聞けば良いと思いながらも、何となく自分の中にあるその、少女然とした象徴を知られるのが恥ずかしくて、きっと先生に隠れるようにして一人で化粧を勉強するんだ。

 

 そしてほんの少しずつ、分からない位の化粧を施すようになって、けれど目敏く気付いた先生に、「サオリ、今日は一段と可愛いね」って云って欲しい。きっと、その言葉でサオリは自分の中にある何か、普通の少女らしさともいえる欲求が満たされた気がして、その事を自覚し恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに、「……そうか」と素っ気なく呟いて欲しい。

 

 そして時間が経つにつれて、そういう普通の少女らしさというものを取り戻していって欲しい。銃の代わりに教科書や雑誌を、マスクの代わりに化粧を、機能性と防弾性だけを追求した服から何て事のない私服を。

 

 先生が寝坊した日なんかは、スマホで料理検索をしながら必死にサオリが朝ご飯を代わりに作ってくれたりするんだ。「上手く出来たかは分からない、その、不味かったら残しても……」と不安そうに差し出されたそれを、きっと先生は号泣しながら完食するに違いない。

 凄い勢いでご飯を食べる先生に面食らいながら、けれどサオリはふっと笑ってくれるんだ。そして、笑った自分に対して驚いて欲しい。まるで、普通の少女みたいに笑うじゃないかと、自分の頬を撫でながら思うんだ。

 

 先生と一緒に過ごす中で、最初は戸惑い、どこか一歩引いた場所で眺めていたのに、気付けば一緒に笑って、何て事のない日常を謳歌している自分に、あぁ、これが幸福なのかと、実感して欲しい。

 

 何も知らず、大罪を犯した自分を引き取り、こうして幸福を与えてくれる先生。そんな暖かな彼の元に自分は居て良いのかと思いながらも、けれど今更離れるなんて選択肢が取れる筈もなく。最後まで、先生に寄り添い続けようと決意して欲しい。

 いつかアリウススクワッドの皆も連れて、新しい一歩を踏み出せるように。すべては虚しい、意味なんてない、そんな事を思いながら生きていたサオリが、初めて前向きな未来を想い描けるようになる。

 そうして漸くサオリは、先生の無償の愛を、心から感じられるようになるんだ。

 

 はー、そんなサオリの前で先生撃ち殺してぇ~。

 

 キヴォトスを救う為に身を粉にしていた先生が、その救った筈の生徒に撃ち殺される瞬間をサオリに見せつけてぇ~。

 

 サオリは警護という理由で先生にべったりだから、その先生がどれだけの苦労を詰め重ねてキヴォトスを救おうとしたのか全部知っているんだ。知っているからこそ、サオリの持つ価値観からすれば、『尽くされたのなら、尽くさなければならない』と思ってしまう。自分が生涯を先生に捧げると決めたように、先生もまた、報われる『べき』なんだと考えるんだ。

 自分達には起きなかったそんな応報を、先生ならきっとって思うに違いない。

 

 けれど現実はそうはならなくて、先生がキヴォトスを裏切ると決めた時、それでもキヴォトスの生徒達ならきっと、って思って、自分と違う光の存在なら、表の存在なら――きっと、理解してくれる筈だと。

 

 そんな思いに反してズタボロの血みどろになった先生を、拘束されたサオリの前に放り投げてぇ~!

 

 信じていたあらゆる事に裏切られて、愕然とするサオリの顔みたーい。自分を救ってくれた恩人であり想い人である先生が、今にも死にそうな瀕死の重体で、床に転がる様子をまざまざと見せつけたい。

 

 きっと少しでも説得しようと、拘束されながらも悲哀と絶望と諦観の底に沈んだ周囲の生徒達に叫ぶに違いない。先生に助けられた筈だと、恩を感じている筈だと、キヴォトスを想う先生が突然、こんな訳の分からない事をする筈がないと理解しているだろうと。あらゆる理屈をこね、情に訴え、懇願するサオリの前で先生は静かに云うんだ。「これで良い」って、「今までありがとう」って。

 何をと顔を蒼褪めるサオリの前で、先生の額に銃口を押し付けたい。説得され、先生を救う道が無いと示され、せめて苦しみがこれ以上続かない様にと、震える銃口を向けて欲しい。

 せめて最後にサオリの顔が見たいと、そんな先生の最後の願いで此処に連れて来られたのなら最の高。先生の僅かな我儘が、サオリにとって取り返しのつかない程の闇になる筈。

 よせッ、やめろっ、やめてくれ! そう叫ぶサオリの前で、ゆっくりと引き金を引くんだ。きっと先生は最後まで薄ら笑みを浮かべながら、微笑んでいたに違いない。

 

 そして銃声と一緒に先生の顔が跳ねた時、サオリは理解するんだ。

 先生はキヴォトスの味方だった、けれどキヴォトスは先生の味方じゃなかった。その事を実感しながらきっと、サオリは絶叫する。拘束された状態で、必死に身を捩りながら先生の名を叫ぶんだ。もう動かない、肉の塊になった先生に対し、胸に残った愛情をよすがに、必死に手を伸ばすんだ。絶望と恐怖と後悔とが綯い交ぜになった、涙に塗れた顔で。可愛いね。

 

 罪に手を染めた時は手を汚す、染める、って云うのに、抜ける時は足を洗うと云う。足を洗っても手の汚れは落ちない、逆に云えば手は一生汚れたままという事になる。そんな汚れた手のままで、未来を夢見たのがいけなかったのかもしれないね。自分で云っていたのに、自分達は表側じゃないって。

 アリウスに居た頃がどん底じゃないんだ、先生を喪った今がどん底なんだ。つまりここからは伸び代しかない、これからはどんどん幸せになれる筈だ。世界は悪い奴ばっかりだよね、皆サオリを苦しめる酷い大人ばかりだ。でも大丈夫、これからはサオリが自分の力で幸せを掴み取るサクセスストーリーが始まる筈だ。頑張って! 私は応援しているよ!

 

 先生をアリウスのメンバーが射殺する展開も考えてみたけれど、あそこのメンバーって何だかんだ云ってサオリに対して従順だし、戦力差とか、道理で物事を考えてないっぽいから、どんな理由があったとしても先生とサオリを裏切りそうにないんだよね。それこそアリウスメンバーを人質にでもされない限りは。というか人質にされたらされたで、また先生の前で崩れ落ちて助けてくれしそうだし。おっ、助けに向かった先生が人質の代わりに死ぬパターンもおいしッ! たまごごはん!

 

 死んだ先生に縋りつくサオリを、遅れてやって来たアリウスのメンバーに見せつけてぇ~。いつも気丈で冷徹で、それでも温かみを持っていたサオリが、真っ黒な瞳で死んだ先生の傍で膝を突いてる姿見せつけてぇ~。

 漸く幸せになれたのに、忘れかけていた虚無の虚無、全ては虚無なり(Vanitas vanitatum et omnia vanitas.)をもう一度、口ずませてぇ~。

 きっと無表情で涙だけを流しながら、「先生、やはり、この世界は空っぽ(虚無)だ」って云うんだろうなぁ。

 立ち上がって、今にも泣きそうな表情で、「リーダー……」と口にする皆と合流して、静かにもう使う事もないと思っていた黒マスクを装着して欲しいぃ~。

 それで崩壊した筈の【シャーレ】を名乗って、キヴォトスの中で報復を始めるんだ。

 サオリは街中で不意に見かけた、少女らしいポスターに殺意すら籠った視線を向けるんだろうなぁ。だって幸せの象徴だもんね、憎たらしいし悲しいし見たくないよね。

 

 思ったんだけど幸せな奴全員ぶち殺したら、最終的に残ったサオリ達が一番幸せって事にならん? これはキヴォトスの中で最も幸せになるサオリの物語、ってキャッチフレーズ入れても詐欺にならんやん。これ失敗した世界の話の筈なのに……。

 つまりハッピーエンド……ってコト!?

 うおっ、美味しいご飯まで炊けてハッピーエンドまで繋げられちゃうなんて、アタイったら天才ね!



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アビドス定例会議

誤字脱字報告、我大変感謝。
箆露露様得点贈呈、特典手袋(右)三点也。


 

「……それでは、アビドス対策委員会の定例会議を始めます」

 

 翌日、アビドス対策委員会部室にて。

 一日休養を挟み、体力気力を回復させた対策委員会の面々は、いつも通り部室へと集まり定例会議を開いていた。以前からも時折開いてはいたものの、ヘルメット団への対処や補給物資の問題云々など、基本的にその場をどう凌ぐかの会議だった様で、今回からは進展が期待されているらしい。

 司会を務めているアヤネは、こほんと一つ咳ばらいをして、扉の近くに座る先生を見た。

 

「本日は先生にもお越し頂いたので、いつもより真面目な議論が出来ると思います!」

「は~い☆」

「期待する」

「何よ、いつもは不真面目みたいじゃない……」

「うへ、よろしくねー、先生」

「うん、宜しく」

 

 各々が定位置に座り、リラックスした状態で会議が始まる。先生も三日ぶりに十分な睡眠がとれたので、目元の隈は取れ心なしか血色も良く見えた。

 

「えっと、まずはアヤネちゃんから話があるんだっけ~?」

「はい、前回の戦闘でも思ったのですが、カタカタヘルメット団は不良集団にしては戦力を持ちすぎています、何台もの車両や弾薬、補給品もそうですが、特に戦車なんて代物、普通そう所有出来るものではありません」

「まぁ、そうだね」

「それで、前回の戦闘で破損した戦車の外装、部品の写真を撮影して、後から調べてみたんです、そうしたら彼女達の使用している戦車は、本来キヴォトスでは使用が禁止されている違法機種である事が判明しました」

 

 そう云ってアヤネが端末をテーブルの上に置き、幾つかの写真を見せる。その写真はドローンで撮影したものらしく、斜め上や真上から撮影されたものが多かった。

 

「それは、つまり正規品じゃないって事?」

「はい、少なくとも各学園が正式採用している戦車では見られないものです、そうなると個人向けや、趣味での販売目的となる戦車となりますが、一般向けで販売されているあらゆる店舗を探しても、内部パーツに該当はありませんでした――つまり、あのFlak41は違法改造戦車です」

 

 強い口調でそう断じるアヤネに対し、シロコは腕を組みながら疑問符を浮かべた。

 

「違法改造程度なら如何にも不良がやりそうな事だけれど……問題は、その内部パーツ?」

「はい」

 

 アヤネは頷き、端末の画面をスライドさせ写真を切り替える。表示された写真には、複雑な機構を覗かせるエンジンらしき物体が映し出されていた。皆がそれを覗き込み、アヤネの言葉を待つ。

 

「私も余り戦車の構造に詳しい訳ではないのですが、ガスタービンエンジンと呼ばれるそうです、本来のFlak41には搭載されていないもので、燃費が非常に悪く、技術的なハードルが高いとか――ただ、その代わり加速性に優れ、比較的軽量で出力に優れるのだと聞きました」

「へぇ、因みにそのガスタービンエンジンっていうのは戦車専用のエンジンな訳?」

「いえ、主にヘリコプターなどを含む航空機の動力源として利用されています、所謂『ジェットエンジン』という奴です、ただ定期的なメンテナンスが必要不可欠で、時間とコストが掛かりますし、戦車用の代物となると数が少なく、比例して値段も高価になります――不良が保持するパーツとしては不適格です」

 

 その言葉に、アビドスの生徒の顔に理解の光が灯った。高価で、メリットもあるがデメリットもあるエンジン。それも本来正規品ではない代物。改造なんてものは特段珍しくもないが、真っ当な手段で手に入らない様なものなら別だ。

 

「確かに、燃費が悪いなら燃料費だって馬鹿にならない、管理の手間もあるならメンテナンスをする人材だって必要、私が戦車を保有するなら燃料が安価でそこそこ動く動力源にする……最初からおかしい話」

「はい、まるで燃費周りの事は気にもしていないような選択ですよね」

「んー、確かに怪しいです」

「って事はなに、ヘルメット団にはパトロンが居るって事?」

「そうです、結論を云うと、不良達を背後から支援している【誰か】が居ます――この部品の流通ルートを割り出して、その存在を引き摺り出したいんです」

 

 全員が、カタカタヘルメット団の背後に居る【誰か】を確信していた。アヤネはパーツの写真を指差しながら、力強く頷いて見せる。流通ルートを辿ればどこからそのパーツが流れて来たのか、そして金の流れも掴めれば財源も明らかになるだろう。百人規模のカタカタヘルメット団全員を養い、補給を請け負う様なパトロンだ。少なくとも個人ではない、恐らく企業かそれに準じる組織、アヤネはそう予想している。

 

「うん、わかった……それならじっくり調べてみよっか」

「危険ですが、何故カタカタヘルメット団はこうも執拗にアビドスを狙うのか、その理由も分かるかもしれません」

「賛成、手が必要な時は云って欲しい」

「はい、その時はお願いします」

 

 賛成多数、アビドスの皆は背後関係を探る方針を固める。取り敢えず、これは時間が必要な事柄だ。メインに動くのはアヤネで、他のメンバーは必要に応じて協力する流れとなった。

 

「……さて、ならカタカタヘルメット団の背後関係に関してはこれで決定としよう、次の議題は?」

「あっ、えっと、では次の議題は――」

 

 先生がそう促すと、アヤネは端末の画面を切り替え、指を立てたまま云った。

 

「学校の負債をどう返済するか――か、です」

 

 途端、全員の目が輝く。今の今まで補給をどうする、ヘルメット団をどうする、という話ばかりだったので、漸くアビドスの根幹に関わる問題に取り掛かれると意気込んでいたのだ。「ご意見のある方は挙手を」、とアヤネが挙手を促せば、途端に椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がった生徒がひとり。

 

「はい! はい!」

「はい、一年の黒見セリカさん、お願いします」

「……なんで、フルネーム? なんか変な感じするのだけれど」

「あはは、まぁ何というか折角の会議だし、そっちの方が気が引き締まるかなぁって……」

「いいじゃーん、おかたーい感じで、今日は珍しく先生も居るんだし?」

「ん、珍しくというより、初めて」

「ですよね! なんだか委員会っぽくてイイと思いま~す☆」

「はぁ……ま、先輩たちがそういうなら」

 

 セリカが頬を掻きながら、しかし気を取り直してびしっと一本指を掲げる。その姿勢は真っ直ぐで、自身の意見に絶対の自信を持っている事が伺えた。

 

「対策委員会の会計担当としては、現在我が校の財政状況は破産寸前としか言いようがないわッ! このままだと廃校だよ、皆それは分かっているよね?」

「うん、それは当然」

「毎月の返済額は利息だけで七百八十八万円! 私達も頑張って稼いではいるけれど、正直利息の返済も追いついていないわ! これまで通り、指名手配犯を捕まえたり、苦情を解決したり、ボランティアをするだけじゃ限界! ――このままじゃ埒が明かないって事! だから埒をあけるために、何かこう、でっかく一発狙わないと!」

「でっかく……って、例えば?」

 

 シロコが頭上に疑問符を浮かべれば、セリカは待っていましたと云わんばかりの笑顔で鞄を漁り、色鮮やかな一枚の紙――チラシを取り出した。

 

「これよ! 町で配っていたチラシ!」

「チラシ……?」

「どれどれー」

 

 セリカがテーブルの上にそれを叩きつける様にして置けば、皆がそのチラシを覗き込む。セリカの表情は満面の笑みで、皆はチラシの文字をそっと目でなぞった。

 

「ゲルマニウム麦飯石ブレスレットで、あなたも一攫千金……」

 

 ホシノの呟きが、音の消えた部室にそっと響いた。

 

「そうッ、これでガッポガッポ稼ごうよ!」

「………これは」

 

 相変わらず何も疑っていないセリカの笑みに、チラシの内容を理解したアヤネの口元が引き攣る。他の面々も凡そ似たり寄ったりな顔をしていた。それに気付かず、セリカは自身のチラシを手に入れるまでの経緯を捲し立てる。

 

「この間、街で声を掛けられて説明会に連れて行って貰ったの、運気を上げるゲルマニウムブレスレットってのを売っているんだって!」

「運気……」

「そう、身に着けるだけで運気が上がるの! で、これを周りの三人に売れば――」

 

 胸に手を当て、具体的な内容を口にしていたセリカは――教室内に蔓延する何とも言えない空気に気付き、ふと言葉を止める。見れば皆、何とも微妙そうな顔で自身を見ていた。その表面に現れる感情は、少なくとも良いものではない。

 

「……みんな、どうしたの?」

「却下~」

「えーっ!? 何で、どうしてっ!?」

 

 ホシノがチラシを取り上げ、そう口にすれば慌ててセリカが食って掛かる。そんなセリカを宥めながら、アヤネはそっと告げた。

 

「セリカちゃん、これ、マルチ商法だから……」

「儲かる訳ない」

「へっ!?」

「そもそもゲルマニウムと運気って関係あるのかな……こんな怪しいところで、まともなビジネスを提案してくれる筈がないよ」

「そ、そうなの? 私、二個買っちゃったんだけれど……!?」

「セリカちゃん、騙されちゃいましたね、可愛いです☆」

 

 セリカが鞄から、何とも言えない【それらしい】ブレスレットを取り出せば、ノノミがとどめの一言を告げる。段々と表情に不安の色が灯り始めたセリカは、ややあって漸く自身が騙されたのだと理解した。

 

「……!?」

「全く、セリカちゃんは世間知らずだねぇ、気を付けないと悪い大人に騙されて、人生取り返しの付かない事になっちゃうかもよー?」

「そ、そんなぁ、そんな風には見えなかったのに……せっかくお昼抜いて貯めたお金で買ったのにぃ」

「大丈夫ですよセリカちゃん、御昼、一緒に食べましょう? 私が御馳走しますから」

「ぐずッ……ノノミぜんぱぁい……!」

 

 ブレスレットを鞄に放り、ノノミにぐずりながら縋り付くセリカ。そんな彼女の頭を撫でつけながら慰めるノノミは何とも言えない包容力に満ちている。アヤネはそんな二人を見つめ、それから気を取り直して声を上げる。

 

「えっと、それでは他にご意見のある方……」

「はーい!」

「……はい、三年の小鳥遊ホシノ委員長――ちょっと嫌な予感がしますが」

「うむうむ、えっへん!」

 

 この委員会のリーダー、ホシノが元気に挙手をする。アヤネが俗に云うジト目というものでホシノを見やれば、分かっているのかいないのか、ない胸を張った彼女が口を開いた。

 

「我が校の一番の問題は、全校生徒が此処にいる数人だけって事なんだよねー、ぶっちゃけ生徒の数イコール学校の力、トリニティやゲヘナみたいに、生徒の数を桁違いに増やせば毎月のお金だけでもかなりの金額になるよ」

「えっ、そ、そうなんですか?」

「そうだよ~、だからまず生徒の数を増やす事からはじめてみない? そうすれば議員も輩出できるし、連邦生徒会での発言権も与えられると思う、だよね先生?」

「うん、まぁそうだね、連邦生徒会内部に元学園出身の生徒が居ると居ないでは大分話の通り易さが違うと思う、こういうのは余り大きな声で云えないけれど、誰だって自分の母校は贔屓したくなるものだから、学閥なんてものはその最もたるものさ」

「それは……鋭いご指摘ですが、でもどうやって……」

 

 生徒の数を増やす――単純な数の力としてもそうだが、考えれば考える程メリットしかない。しかし、そもそも生徒を増やすという選択肢が思考に上らなかったのはそれ相応の理由がある。生徒を増やすというハードルが、アビドスにとって余りにも高いのだ。

 この砂漠化したアビドスから生徒や住民が去って久しく、それを呼び戻すどころか、新規の生徒を迎えるのは至難の業。正直言って、アヤネにはその具体的な方法に見当もつかない。そう云って頭を悩ませれば、にかっと笑ったホシノが任せろと云わんばかりに胸を叩いた。

 

「簡単だよー、他校のスクールバスをジャックすればオッケー!」

「――えっ!?」

「登校中のスクールバスをジャックして、うちの学校への転入学書類にハンコを押さないと、バスから降車出来ない様にする! うへ~、これで生徒数がぐんと増える事間違いなーし!」

「――それ、興味深いね」

 

 ホシノが冗談なのか本気なのか分からない表情でそんな事を宣えば、隣で聞いていたシロコが不意に一歩踏み出した。その顔には――やるなら是非自分も噛ませろという意思が見え隠れしている。

 

「おっ?」

「ターゲットはトリニティ? ゲヘナ? ミレニアム? 狙いを何処に定めるかによって、戦略を変える必要があるかも」

「えーっと、うーん、そうだなぁ……トリニティ? いや、ゲヘナにしよーっと!」

 

 シロコの問いかけに、余りにも適当な決定を返すホシノ。慌ててアヤネが立ち上がり異議を唱える。

 

「ちょ、ちょっと待って下さい! そんな方法で転校とかアリなんですか!? というかそんなやり方をしたら、他校の風紀委員が黙っていませんよ!?」

「うへー、やっぱそうだよねぇ」

「やっぱそうだよねぇ、じゃありませんよホシノ先輩、もっと真面目にやって頂かないと――」

 

「――なら、私に良い考えがある」

 

 先程、ホシノに賛成意思を見せたシロコが、不意に威風堂々とした恰好で宣言した。

 

「………」

 

 思わず、アヤネの顔面が苦渋に染まる。それはもう、「絶対何か変な意見を出すに決まっている」という無形の信頼がそこにはあった。渋々といった様子でシロコを指差すアヤネ。当のシロコは眩いばかりの輝きを瞳に持っていた。

 

「……はい、二年の砂狼シロコさん」

「銀行を襲うの」

「はい!?」

 

 予想を一段どころか二段、三段超える形で出された突拍子もない提案に、アヤネの顔色が真っ白になった。シロコは得意げに頷きながら、自身の温めていた計画を明かす。

 

「確実かつ簡単、ターゲットも選定済み、市街地にある第一中央銀行が狙い目、金庫の位置、内扉開錠用のサーマル、金庫扉開錠用IDキーを持っている責任者の情報、警備員の動線、通報システムの遮断方法、監視カメラ映像のジャック手段、現金輸送車の走行ルートに逃走手段は事前に用意・把握しておいたから」

「えっ、は!?」

「五分で一億は稼げる、はい、これ覆面」

 

 アヤネの反応も何のその、用意した紙袋の中から覆面を取り出したシロコは、テーブルの上に番号の割り振られた色とりどりの覆面、目出し帽を並べる。枚数は五枚、ピンク、青、緑、赤、黄色の順で重なっていた。それを見たアヤネが、この人本気だと顔を引きつらせる。

 

「い、いつの間にこんなものまで……」

「うわー、これシロコちゃんの手作り?」

「わぁ、見て下さい! レスラーみたいです!」

「………」

 

 ノリ気なのか、それとも単純に遊び半分なのか。ノノミは「3」と書かれた緑の覆面を被り、きゃっきゃと燥いでいる。シロコも「2」と書かれた青の覆面を被ると、ふんと誇らしげに鼻を鳴らした。

 ホシノは「1」と書かれた覆面を手に取り、面白そうに笑っている。

 

「いやー、いいねぇ、人生一発でキメないと、ねぇ、セリカちゃん」

「そんな訳あるか! 却下、却下―ッ!」

「そ、そうです! 犯罪はいけませんっ!」

「………」

「そんな膨れっ面しても駄目なものは駄目です、シロコ先輩!」

 

 流石に、銀行強盗を許容する訳にはいかない。シロコの案もあえなく却下となり、会議は踊れど進まなかった。全員が着席し、アヤネが頭を抱えながら呟く。

 

「皆さん、もう少し、こう、まともな意見を――」

「あのー! はい! 次は私が!」

「はい……二年の十六夜ノノミさん、犯罪と詐欺は抜きでご意見をお願いします……」

 

 残った最後の生徒、ノノミが相変わらず温厚な笑みを浮かべながら手を挙げれば、アヤネは一抹の希望を抱いて彼女を指名した。

 

「はい! 犯罪でもマルチ商法でもない、とってもクリーンかつ確実な方法があります!」

「へぇ、それはどんな~?」

「アイドルです! スクールアイドル!」

「あ、アイドル……?」

 

 思っても居なかった方向の提案に、アヤネを含むアビドスの皆が戸惑いを見せる。そんな彼女達を見据えながら、ノノミは自身の描くプランを語って聞かせた。

 

「そうです! アニメで観ました、学校を復興するのに定番の方法はアイドルです! 私達が全員アイドルとしてデビューすれば……」

「むむッ!」

「却下」

 

 先生が反応するも、空かさずホシノが却下の声を上げる。ノノミは意外そうにホシノを見ると、首を傾げた。犯罪性もない、詐欺でもない、皆の出した意見の中では比較的クリーンでまともな意見ではある。尤も、比較対象が酷過ぎるという点はあるが。

 

「あら、これも駄目なんですか?」

「なんで? ホシノ先輩なら特定のマニアに大ウケしそうなのに」

「うへー、こんな貧相な体が好きって云っちゃう輩なんて、人間として駄目っしょー、ないわー、ないない」

「決めポーズも考えておいたのに……」

 

 そう云うと、ノノミは自身の端末を内カメラにしながらピースをしてポーズを決める。

 

「水着美少女団のクリスティーナで~す♧」

「どういう事なの」

「ちょっと! 水着少女団って名前なの!? 嫌よ、だっさい!」

「えー、徹夜で考えたのに……」

 

 セリカの辛辣な言葉に、ノノミは肩を落とす。本人としてはそれなりに本気だったらしい。

 此処に、生徒全員の意見は出尽くし、そして結局何一つ決まっていないという事実だけが残った。

 

「あのぅ……議論が中々進まないのですけれど」

「もう先生に任せちゃおうよ~、先生、これまでの意見の中でやるならどれが良い?」

「えっ、今までの中から選ぶんですか!? も、もう少し真面な意見を出してからの方が――」

「大丈夫だよー、先生が選んだものなら間違いないって」

「ちょ、ちょっと待って下さい、何でそう言い切れるのですか!?」

 

 アヤネが引き留めようとするのも構わず、全員が先生を見る。彼女達はずいっと先生に身を乗り出すと、口々に自身の望む案を押し出した。

 

「まさかアイドルやれなんて言わないわよね?」

「アイドルでお願いします☆」

「………(無言で覆面を被る)」

「私は――」

 

 先生は数秒、考え込む素振りを見せる。計画の妥当性、万が一の挽回方法、得られるメリットに対するリスク。それらを総合的に計り、最後に自身の性癖を付けたした結果――先生の目がカッと見開かれた。

 

「私が――プロデューサーだッ!」

 

 椅子を蹴とばし、立ち上がる。

 その天に轟かんばかりの熱烈な宣言に、アヤネは思わず声を荒げた。

 

「えぇっ!? ほ、本気ですか先生!?」

「いや、だってバスジャックと銀行強盗に比べれば、まだアイドルの方が全然マシかなぁって、先生としても犯罪行為は見逃せないし……」

「あ、いや、それはそうですが、い、いや、でもですね……!」

「あと、単純に私が皆の水着姿が見たい」

「先生ぇッ!?」

 

 このプランを選んだ理由は、計画の妥当性、失敗した場合の挽回方法、メリットとリスク、それらが凡そ一割、残り九割は先生の性癖で構成されている。先生は実に良い笑顔で親指を立てていた。

 

「えー、何、先生、皆の水着姿が見たいの? それって教職者としてどうなのかなぁ」

「先生は生徒に嘘を吐かないと決めたんです、特に性癖周りに関しては」

「それは駄目じゃない? 色んな意味で」

 

 そんな事はない、先生は首を横に振った。だって水着を見たいという言葉に嘘は無いのだ。教師だろうと何だろうと、そこは譲れない。ただ真摯なまでに先生は生徒達の水着が見たかった、とても見たかった、大の大人が地団太を踏んでも見たいという痛烈な意思がそこにはあった。

 しかし、ふと先生はある事に気付く。

 

「いや、でもなー……皆の水着を不特定多数に見せるのは何かなぁ、嫌だなぁ、私の前だけで見せるとかは駄目かなぁ? どう思うホシノ? 先生の前だけで水着ショーとかやってくれる?」

「趣旨が変わっちゃっているよぉ~」

「私は別に構いませんけれど☆」

「少し恥ずかしい」

「えっ、え? 何、噓でしょ!? やらないよね? ね?」

「………」

 

 先生が皆にお伺いを立てると、ホシノは「うへー」と云ったまま机に伸びている。シロコ、ノノミは先生が見たいならと賛成気味。セリカは、「嘘でしょう? 何云ってんのこの人達」と顔を赤く染めていた。

 そんな皆を見ていたアヤネは、遂に小さく肩を震わせ、手元にあったセリカのチラシを力一杯握り締めた。くしゃりと、チラシは折れ曲がる。

 

「い――」

「い?」

「いい加減にして下さいッ!」

 

 この後、先生は地獄と天国の境目を垣間見た。

 


 

 次回、便利屋とラーメンを啜ります。

 アル社長が離席した瞬間に七味一本スープに溶かして、戻って来たアル社長が「あら、こんなにスープ赤かったかしら……?」と首を傾げた所に、「底に溜まっていた分が溶けたのでは?」とか適当な事云って、「ん~、それもそうね」とペカーとした笑顔で麺を啜った後に「ぶぼッ! かかかか、かっらあぁァ!?」って白目剥いた社長を写真に収めて便利屋事務所に飾ってあげたい。

 

 ヒナにデートいこ~! って誘ってアルが留守の間に便利屋の事務所に一緒に行って、帰って来たアルが「あら、先生来てい――ふふふ、風紀委員長ぉぉおお!?」ってなるリアクションをビデオカメラで収めてMetubeにあげたい。その後ヒナにパフェ奢ってお昼寝に子守歌までしてあげるんだ。可愛いね。

 

 

「――この世界には、美しいものが沢山あります!」

 

 純真無垢で、何と穢れが無い事か。アリスはきっとどこまでも素直で、ひたむきで、健気で、だからこそ残酷なんだ。ある意味、最も予測が付かないキャラの一人でもある。アリスにとっては世界のあらゆる事が未知の体験だと思う。それは慣れたゲームでさえ、ジャンルという枠を超えれば体験は無数に広がる。

 

 ちょっとした食事の味に驚いて欲しい。甘いものを食べて、「アリス、これ好きです!」と笑って欲しい。苦いものを食べて、「あ、アリス、これはいらないです……」とにがーっ、という顔をして欲しい。辛いものを食べて、「アリス、み、水が、水が欲しいですッ!」って慌てて欲しい。色んなものを食べて、色んな味を知って欲しい。

 一緒にスポーツを体験して、その肉体強度を見せつけて欲しい。実は泳ぐのが苦手で、水に苦手意識を持っていたりして欲しい。陸上競技や球技では圧倒的な性能を誇るアリスが、水泳になった途端、「あぶぶぶぶ」と云いながら垂直に沈んでいきそう。それを見て先生やゲーム部が慌てて引き揚げるんだ。

 ゲーム部や先生と一緒にショッピングに行って欲しい。可愛い服を買おうと意気込む先生に、「防御力が低そうです! こっちにします!」と云って防弾チョッキを差し出したりするんだ。皆でファッションというものを力説し、けれどよく考えれば自分達も服を買うよりゲームを買っていたじゃんと気付き落ち込んで欲しい。

 偶にはゲームだけじゃなく、アニメや映画を見たり、漫画を読んだり、それが転じて読書好きになったりして欲しい。世界を感じる方法は一つだけじゃないんだと、アリスはきっと目を輝かせながら、様々な体験をしていくんだ。

 

 ほんの小さな子どもが、一歩ずつ大きくなっていくように、先生に手を引かれながら、毎日少しずつ経験値を積んでいくアリス。他人にとっては何でもない、ごく平凡な一日が、彼女にとってはとても大切な、黄金にも勝る体験なんだ。

 お出掛けの後、夕日が見えるくらいまで遊び倒して、ゲームセンターで白熱したり、コンシューマー周りの機器を買い込んだり、漫画やアニメを買い漁ったり、そんな一日を振り返って、「楽しかったぁ」と零しながら皆に、「また行きましょう!」と笑いかけて欲しい。

 彼女は色んなことを学び、理解していくんだ。

 

 でもきっと、彼女は本当の意味で『死』を理解する事が出来ないと思う。

 楽しい体験を、嬉しい体験を、歓喜の感情を皆と過ごす内で理解して、悲しいという感情を強く体験してこなかった彼女は、きっと先生がキヴォトスを裏切り、ゲーム部が決死の覚悟でシャーレ側に付いた時でも、理解出来ないでいる。

 かつて共に様々な事を学んだミレニアムの友人たちが、今にも泣きそうな顔で自分達と先生を攻撃してくる。その理由も、動機も分からないアリスは戸惑いながら攻撃を躊躇う気がする。何で自分達が戦わなくちゃいけないのか、どうしてそんなにも辛そうな顔をするのか――訓練や遊びではない、本気の殺し合いにアリスは胸をざわめかせるんだ。

 楽しいでもない、嬉しいでもない、妙に胸がざわついて、ちくちくして、嫌な感じ。

 

 日に日に激しくなっていく戦火、その中でずっと嫌な感情に浸ったままのアリス。

 世界は美しいもので満ち溢れている筈だと、そんな中でも繰り返し、繰り返し、言い聞かせる。いつかきっと戻れるはずだと、あの黄金の日々に、優しい日々に、きっと。

 

 そして先生が目の前で射殺された時、アリスは漸くその感情の一端を捕まえるんだ。

 

 度重なる攻勢に押され、シャーレ目前まで押し込まれた戦況。出せる戦力を全て出し切り、先生はゲーム部を引き連れて戦線に出るんだ。相手方の生徒からしても、先生は可能な限り生きたまま捕縛、拘束するのが理想。しかし、流れ弾や跳弾なんていうのは予測できないし、仮に予測出来たとしても、先生にそれを避けるだけの身体能力はない。

 

 運悪く、本当に運悪く――後方に下がっていた先生の胸に、跳弾したライフル弾が直撃する。心臓は骨と弾丸に挟まれて圧壊し、先生は驚愕の顔を張り付けたまま後方へと体を流す。後方支援担当のアリスは、きょとんとした顔で、崩れ往く先生を見る。まるで、何が起こったのか分からないと云った風に。

 

 先生の声が不意に途切れ、ゲーム部の皆が振り返り、その光景を見る。先生が鮮血を垂れ流し、倒れ伏す瞬間だ。思わず絶叫し、涙を流しながら先生に駆け寄る中で、アリスだけは倒れ伏した先生を、変わらず無機質な目で見るんだ。知識で知っていても、理解するとは別だから。

 

 ミドリやモモイが倒れ伏した先生を泣き叫びながら引き摺って後退し、ユズが彼女らしからぬ叫びを上げながら憤怒の形相で銃を構える。

 アリスはただ、そんなみんなを見て、胸の中で巻き起こる妙な感情に翻弄され続けるんだ。

 先生射殺の報を聞き、反動で足が乱れた相手方。一時的に敵の猛攻を凌いだゲーム部は、きっと先生の亡骸に縋りながら嗚咽を零すと思う。誰も何も言えずに、ただ先生の服にしがみ付きながらぼろぼろと涙を零すんだ。

 そんな仲間達を見ながら、アリスは云う。

 

「――蘇生アイテムを探しましょう!」

 

 その言葉を聞いた皆が、呆然とした顔でアリスを見る。アリスはいつも通り、ぺかーっとした笑顔を浮かべながら、そういうんだ。

 きっと最初、彼女達は何を云われたのか分からないとばかりに、「そせい、アイテム?」と繰り返す。それにアリスは強く、「はい!」と返しながら、何の悪気も、悪意もなく、それがさも正しい事の様に続けるんだ。

 

「アイテムがなくても、魔法があれば大丈夫です! 蘇生魔法を使える僧侶さんか、教会を探しましょう!」

「あ、アリスちゃん、何を……何を云っているの?」

「――先生を復活させる方法です!」

 

 その言葉にきっと、ゲーム部の皆の表情は一変すると思う。抱くのは怒りか、憐れみか、それともそれを上回る悲哀か。きっとゲーム部の誰かが、涙を流しながらアリスに掴み掛かり、「アリスちゃん、死んだ人間は生き返ったりしない……もう、先生は、復活何てしないんだよ!」って云うんだ。

 けれどアリスは不思議そうに、「嘘です!」って云うんだ。ボロボロと涙を流しながら、皆がアリスに先生の死を伝えようとする。けれどアリスは笑顔でそれらを否定し、微動だにしない。段々と先生を殺された憎悪と後悔と悲しみ、それを理解しないアリスに腹が立って、彼女達は声を荒げるんだ。

 

「ゲームと現実は違うの! 理解してよッ!」

 

 そう叫ばれたアリスは一瞬面食らったように目を見開き、それから数秒考え込むと思う。けれど結局、彼女の意思は変わらなくて、皆の反対を振り切って死体となった先生を担いでシャーレを飛び出すんだ。

 

「先生がもう動かない何て嘘です、アリスは知っています、この世界には魔法があるんです、きっと秘密のアイテムや、蘇生の魔法が隠されています! そういうアイテムや魔法は貴重ですからね! どこかアリスも知らないような場所に、ひっそりと保管されているんです!」

 

 強力な門番やレアモンスターが守っている場所が怪しいんですよ! そう云っていつも通り、何て事のない笑顔を、無垢な表情を、もう動かない先生の骸に向けるんだ。何処にも存在しない、先生を蘇らせる術を探して、彼女はキヴォトスを走り続けるんだ。

 

 アリスは本当の意味で現実とゲームをごっちゃに考えたりしない。ゲームはゲーム、現実は現実と理解している。けれど、自分の胸の中に在る、嫌な感情が、先生の死を認めた途端、何か、強大なうねりとなって自分を覆いそうで、いつまでもその事実を認められないでいるんだ。

 先生を救う術はある、先生は自分に魔法を掛けてくれた、だからきっと、この世界には奇跡も魔法も存在する。それがあれば先生はもう一度自分達に微笑み掛けてくれる。そう言い聞かせる事で、自分が自分でなくなってしまう事を防いでいるんだ。

 

 彼女が本当の意味で先生の死を理解するのは、恐らく機能停止間際か、或いは先生の体が腐敗しきった後か、キヴォトス全てを探し終わった後か。もしかしたら彼女は、それでも先生の死を認めないかもしれない。

 エデン条約で先生が云ったように、死体と思えば死体になる。けれどそれ(死体)を先生だと思えば、彼女にとっては先生になるのだから。

 彼女にとっての楽園(エデン)は、先生が生きていると信じ続ける事なんだ。

 

 先生と一生一緒(物理)なアリスちゃん可愛いね。「先生、お腹空いていませんか?」と云いながら動かない先生の口元にパンを押し付けるアリスちゃんとか想像するだけで可愛さ百倍ワンパンマン。うぅ、アリスちゃん、先生腐るとこみてて……。

 取り敢えず先生を長持ちさせるようにエンバーミング(遺体衛生保全)して少しでも一緒にいられるようにしようね! 先生との約束だぞ!

 

 あ~、アリスちゃんと一緒にうたた寝している最中に、「じゃ~ん、実はドッキリでした~」って先生に云わせてぇ~。

 さっきまで冷たかった先生が人肌の温もりに戻って、唐突に先生が復活したのを目撃したアリスはきっと、面食らって暫く何も言えないんだろうなぁ。信じられないような目で先生を見て、それから恐る恐る先生の頬に触れて、何度も何度もその表面を摩って、それから段々と満面の笑みを浮かべるんだ。

 

「あ、アリス、信じていました! 先生が死んでしまう筈がないんです! 勇者は何度でも蘇るんです! アリス、知っていましたから!」

 

 そう云って先生の胸に顔を埋めて、強く抱きしめて、何度も何度も顔を擦りつけるんだ。流れた涙を見せない様に、やっぱり世界は美しいもので一杯なんだって、安堵と希望と歓喜で胸は一杯になるんだ。

 

 その後、ふっと目を覚まして、路地裏で先生を抱えたまま寝転がっている自分を自覚させてぇ~。

 自分に凭れ掛かる様にして眠る先生は相変わらず冷たくて、アリスは先程までの光景を思い出しながら、「せんせ?」と呟くんだ。

 もう一度彼の頬を摩るも、其処には先程まであった筈の熱は無くて、アリスはきっとあの光景が夢だったと気付く。

 そして彼女は顔を歪ませるでもなく、泣き喚くでもなく、暫くそうやって先生の頬を撫でて、不意にぽろりと涙を一粒だけ流すんだ。

 多分、先生を背負って始めた旅で――一番心が折れそうになった瞬間だと思う。

 

 けれど、ぐっと唇を噛んで、袖で目元を拭って、アリスは先生を背負い歩き出すんだ。

 奇跡も魔法もあるんだって、先生は絶対に死んだりしないって。先程の光景を本当の光景にする為に、何度も何度も、信じる心を擦り減らしながら。

 起きないから鬼籍って云うのにね。

 



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便利屋始動

誤字脱字報告、助かります。
今回15,000字でクソ長です。


 

「いやぁー、悪かったってば、アヤネちゃーん、ラーメン奢ってあげるからさ、怒らないで、ねっ?」

「別に、怒っていません」

 

 アビドス、ラーメン屋柴関にて。

 広い六人テーブルで思い思いに食事に耽る生徒達の中で、アヤネは相変わらずむくれていた。先の定例会議で少々はっちゃけ過ぎたのが原因である、先生もシロコやホシノに混じって小一時間余り説教をされ、正座していた足が痺れた。全員で引き攣った足を抱え転がったのは良い思い出である。膨れっ面でラーメンを啜るアヤネは、左右をホシノとノノミに挟まれながら世話を焼かれる。

 

「はい、アヤネちゃんこっち向いて、お口拭いてー……はい、良く出来ました☆」

「赤ちゃんじゃありませんからっ!」

「……なんでも良いんだけれどさ、なんでまたウチに来たの」

 

 そんな様子を呆れた目で見るのはセリカ。因みに彼女はアルバイト中である。定例会議の後、バイトに向かったセリカを追って皆で入店し、今に至る。ホシノは自分のラーメンを箸で摘みながら、後頭部を掻き笑う。

 

「いやぁ、部室以外で集まれる場所って此処くらいでしょ、それに丁度お腹も減っていたし~」

「アヤネ、チャーシューもっと食べるかい? 先生のあげるよ、ほら、あーん」

「ふぁい、あー……」

「ちょっと先生!? こんな所でイチャイチャしないでっ!」

 

 先生がアヤネに餌付け、もといチャーシューを分け与えていると、不意に入店のベルが鳴った。見れば見慣れぬ服装をした紫髪の少女――ハルカが扉を引き、中を覗き込んでいる。慌ててセリカがテーブルを離れ、少女の元に駆け寄った。

 

「あ、あのぅ……」

「いらっしゃいませ! 何名様ですか?」

「こ、ここで一番安いメニューって、お、御幾らですか?」

「一番安いメニューですか? えっと、そうですね、一番安いのは――五百八十円の柴関ラーメンです! 看板メニューなので、おすすめですよ」

「あ、ありがとうございます!」

 

 セリカがそう云うと、ハルカの後ろから続々と人影が現れた。その数はハルカを入れて四名。何を隠そう――便利屋68の面々である。

 アル、カヨコ、ムツキの三名は店内を見渡しながらゆっくりとした足取りで入店する。その表情はどこか歓喜の念が漏れ出ていた。

 

「えへへっ、やっと見つかった、六百円以下のメニュー!」

「ふふふ、ほら、何事にも解決策はあるのよ、全て想定内だわ」

「そ、そうでしたか、流石社長、何でもご存知ですね」

「はぁ……」

 

 若干一名、カヨコのみが頭が痛そうにしているものの、他三名は歯牙にもかけない。セリカは騒がしそうな便利屋達にも臆さず、笑顔で対応を行う。

 

「四名様ですか? お席にご案内しますね」

「んーん、どうせ一杯しか頼まないし大丈夫」

「一杯だけですか? でも、どうせならゆっくりお席へどうぞ、今は暇な時間なので、空いている席も多いですし」

「おー、親切な店員さんだね、ありがとう、それじゃお言葉に甘えて」

 

 そう云って歩き出したムツキは、ふと思い出したように指を立てた。

 

「あ、わがままついでに、箸は四膳でよろしく! 優しいバイトちゃん」

「えっ? 四膳ですか? ……ま、まさか一杯を四人で分け合うつもり?」

 

 セリカが思わずそう口にすると、途端傍に居たハルカが頭を抱え屈み謝罪を口にし出した。

 

「ご、ご、ごめんなさいっ、貧乏ですみません! お金がなくてすみません!」

「あ、い、いや……! その、別にそう謝らなくても!」

「いいえ、お金がないのは首が無いのも同じ、生きる資格何てないんです、虫ケラにも劣る存在なのです!」

「……ちょっと声でかいよハルカ、周りに迷惑」

 

 いつもの事なのか、カヨコは屈んで謝罪を撒き散らすハルカを見下ろし肩を竦める。しかしそんな様子を見ていたセリカは不意に肩を震わせ、かっと目を見開くと力強くハルカの肩を掴んで叫んだ。

 

「違う! お金が無いのは罪じゃないよ! 寧ろ胸を張ってッ!」

「へ? ……えっ、はい?」

「お金は天下の廻りものって云うし、そもそもまだ学生だし、それでも小銭を搔き集めて食べに来てくれたんでしょ!? そういうのが大事なんだよっ!」

「え、えっと――」

「もう少し待っていてね、直ぐ持ってくるから!」

 

 云うや否や、セリカは注文を伝えに厨房へ走る。それを見ていた便利屋の面々は呆気にとられ、暫くして近場のテーブル席に腰を下ろした。

 

「……何か妙な勘違いをされているみたいだけれど?」

「まぁ、私達はいつもそんなに貧乏って訳じゃないんだけれどね、強いて言えば、金遣いの荒いアルちゃんのせいだし」

「アルちゃんじゃなくて社長でしょ? ムツキ室長、肩書はちゃんと付けてよ」

「ん? だってもう仕事終わった後じゃん? ところで、社長の癖に社員にラーメン一杯奢れない何て実際どうなの?」

「ぐっ……」

「今日の襲撃任務に投入する人員雇う為に、ほぼ全財産使っちゃったしー」

 

 椅子に背を預けながら、ムツキはけらけらと笑う。痛いところを突かれた如何にもやり手のキャリアウーマンと云った風貌の少女、アルは引き攣った笑みを浮かべながらも余裕の態度を崩さない。しかし、それが吹けば飛ぶ程度の虚勢である事は、便利屋のメンバーであれば直ぐに分かった。

 

「ふ、ふふふ、でもこうしてラーメンは口に出来ているでしょう? なんの問題もなし、全て想定内よ」

「たった一杯分じゃん、せめて四杯分はお金確保しておいてよ……」

「ぶっちゃけ、忘れていたんでしょ? ねぇアルちゃん、夕食代取っておくの忘れていたんでしょ? 正直に云いなよ、怒らないから」

「……ふふふ」

 

 ムツキとカヨコの問いかけに対し、アルは答えずただ微笑むだけ。ぶっちゃけ図星だった、しかしアルは自分の失敗を直視出来ないタイプの生徒であったのである。正しくは、直視したくないタイプというべきか。取り敢えず意味深に微笑んでいる自分達のリーダーを見て、カヨコは溜息を零す。

 

「はぁ……ま、リスクは減らせた方が良いし、今回のターゲットは、ヘルメット団みたいな雑魚の手には負えないって点は同意する、でも全財産を叩いて人を雇わなきゃいけない程、アビドスの連中は危険なの?」

「それは……」

 

 今回、ラーメンを一杯頼むのにも困窮したのには理由があった。それが、アビドス高等学校対策委員会の襲撃依頼。アルはこの依頼を行うに先駆け、会社の資金をあるだけ傭兵雇用につぎ込んだのである。何故、という理由に対して口を噤んだアル。それを見たムツキはテーブルに頬杖をつきながら、呆れた様子で云った。

 

「多分、アルちゃんも良く分かってないと思うよ、情報も余り無かったし、だからビビッて一杯雇っているんだよ、傭兵」

「誰がビビっているって!? 全部私の想定内! 失敗は許されない、今回は特に大口取引なんだから! あらゆるリソースを総動員して望む、それが我が便利屋68のモットー!」

「初耳だね、そんなモットー」

「今思いついたに決まっているよ~」

「うるさい! なら今回の依頼を成功させて報酬が手に入ったら、すき焼きを食べに行きましょう! だから気合を入れなさい、皆!」

 

 テーブルを軽く叩きながらそう叫ぶアルに、カヨコとムツキは顔を見合わせる。一方、ハルカはアルの云う「すき焼き」が分からず、ふと問いかけた。

 

「すっ……すき焼きとは、それは一体なんでしょう?」

「大人の食べ物だね、すごく高価な……」

 

 カヨコがそう云うと、ハルカは目に見えて目を輝かせる。

 

「う、うわぁ……私なんかが食べて良い物なのでしょうか? やっぱり、食べた後は腹切りですか?」

「しないで良いわよ! ……ふふふ、ウチみたいな凄い会社の社員なら、それ位贅沢はしないとね」

「へぇ~やる気満々じゃん、アルちゃん」

「アルちゃんじゃなくて、社長!」

「はい、お待たせしました! 熱いのでお気をつけて!」

 

 皆で云い合っていると、セリカが注文のラーメンを手にテーブルへと戻って来る。そしてテーブル中央に置かれたラーメンは――余りにも大きく、山盛りのラーメンであった。思わず、全員が目を見開き驚愕の声を上げる。

 

「ひぇ、なにこれ!? ラーメン超大盛じゃん!」

「ざっと、十人前はあるね……」

「こ、これはオーダーミスなのでは? こんなの食べるお金、ありませんよぅ……」

「いやいや、これで合っていますって、五百八十円の柴関ラーメン並み、ですよね大将!」

 

 皆が訝し気にセリカを見れば、彼女は満面の笑みで首を横に振る。そして厨房に居る人型の犬としか表現できない大将に言葉を投げかければ、彼はカウンター越しに親指を立て頷いた。

 

「ああ、ちょっと手元が狂って量が増えちまったんだ、気にしないでくれ、こっちのミスだからよ、料金は柴関ラーメン並み、一杯分だ」

「大将もあぁ云っているんだから、遠慮しないで、それじゃごゆっくりどうぞー!」

 

 そう云ってセリカはテーブルを離れ、残ったのは山盛りの麺、チャーシューマシマシの柴関ラーメン特盛バージョン。それを見る便利屋の面々の瞳は輝いていた。

 

「う、うわぁ……」

「これは、凄いね」

「良く分からないけれど、ラッキー! いただきまーす!」

「……ふふふ、さすがにこれは想定外だったけれど、厚意に応えて、有難く頂かないとね」

「食べよっ!」

 

 

 大将の厚意に感謝を抱きながら、全員で箸を伸ばし、小皿に取り分けて湯気を立てる麺を持ち上げる。中々食事処が見つからず歩き通した為か、今はその何てことのない麺が物理的に輝いてすら見えた。アルは軽く唾を呑み込み、熱々のそれを一気に啜る。

 瞬間、強烈な旨味を舌の上に感じ、アルは咄嗟に口を手で覆った。

 

「っ!」

「お、おいしいっ!」

「なかなかイケるじゃん? こんな辺鄙な場所なのに、こんなクオリティなんて!」

「――でしょう、でしょう? 美味しいでしょう?」

 

 不意に、テーブルの横合いから声が掛かった。全員が声の方に顔を向ければ、ニコニコと屈託のない笑顔を浮かべた非常にグラマラスな少女が立っていた。彼女は非常に親し気な様子で便利屋の皆に頷いて見せる。

 

「あれ……? えっと、隣の席の――」

「うんうん、此処のラーメンは本当に最高なんです、遠くから態々来るお客さんもいるんですよ」

「――えぇ、分かるわ、色々な場所で色々なものを食べたけれど、このレベルのラーメンは中々お目に掛かれないもの」

 

 アルが少女――ノノミの言葉に同意すると、その後ろから赤い眼鏡を掛けた少女が嬉しそうな笑みと共に現れる。見れば、ノノミの背後にはアビドスの面々が揃っており、いつの間にか便利のテーブルはアビドスとゲヘナの交流会の様相を呈していた。

 

「えへへ……私達、此処の常連なんです、他の学校の生徒さんに食べて頂けるなんて、何だか嬉しいですね」

「きょ、きょ、恐縮です……」

「その制服、ゲヘナ? 遠くから来たんだね」

「私、こういう光景を見た事があります、一杯のラーメン、でしたっけ……」

「うへ~、それは一杯のかけそばじゃなかったっけ?」

「………」

 

 アルとハルカ、アビドスの生徒達が楽しそうに言葉を交わす中、ふと――カヨコの目が彼女達の制服に留まった。胸元に見える生徒証、三角形に太陽のマーク。それは勘違いでなければ、彼女達が受けた依頼の襲撃対象校である、アビドス高等学校の証明であった。

 カヨコがムツキにそっと顔を寄せ、「連中の制服」と呟くと、一瞬訝し気な表情をしたムツキがはっとした顔で彼女達を見る。

 

 あれ、ホントだ、アレもしかしてアビドス?

 多分そう、つまり私達が戦う相手な訳だけれど――。

 そこまで口にして、ふと横目に自分達のリーダー、アルを見る。

 

「うふふふっ、良いわ、こんな所で気の合う人達に会えるなんて、これは想定外だけれど、こういう予測できない出来事こそ、人生の醍醐味じゃないかしら!」

 

 満面の笑みでアビドスと語らう彼女を見て、カヨコは苦り切った表情を、ムツキは面白そうな笑みを浮かべた。どう見ても気付いた様子もなければ、疑る様子もない。完全に気の良いお隣さん対応でアルは笑っていた。

 

「肝心のアルちゃんは気付いていないみたいだけれど?」

「……云うべき?」

「面白いから放っておこ!」

 

 明らかに愉快犯的な思考で放った言葉だが、カヨコはそれ以上何も云わず、ただ手元のラーメンを啜る事に専念した。

 

「………」

 

 そんな便利屋とアビドスを、先生はじっと見つめ続ける。

 ただ、これから起こる事を頭の中で描いて。

 

 ■

 

「それじゃあ、気を付けてね!」

「お仕事、上手く行きますように!」

「あははっ、了解! あなた達も学校の復興、頑張ってね! 私も応援しているから! それじゃあ!」

 

 ラーメン屋柴関を出て、手を振るアル。便利屋とアビドスはその後も和気藹々とした会話を続け、食事を終えた後も和やかな雰囲気で別れる事となった。ノノミやアヤネが手を振り、アルもそれに手を振って返す。彼女の笑顔はこれ以上ない程に満足気で、アビドスの背が見えなくなった後、ふと彼女は寂しそうに言葉を零した。

 

「ふう……良い人達だったわね」

「………」

「………」

 

 そんなアルを見る表情は、実に真反対だった。

 カヨコは苦々しいとしか言いようがない、コイツ本当に気付いていないのかという表情。ムツキは会心の笑み、それはもうこれからの事を考えると面白いとしか云い様がないとばかりの。

 カヨコはアビドスの影が完全に無くなった事を確認し、咳払いを一つ。そして未だ能天気な顔をするアルに問い掛けた。

 

「社長、あの子たちの制服……気付いた?」

「えっ、制服? 何の事?」

「アビドスだよ、あいつら」

「………アビドス?」

 

 カヨコの真剣な表情に、何とも言えない間抜け面を晒しながら言葉を繰り返す。アビドス、アビドス……何かどこかで、そんな名前を聞いたような? そんな風に思考を回し、それから彼女は漸く今回のクライアントから伝えられた『襲撃校』の名前がアビドスであった事を思い出し――白目を剥いて絶叫した。

 

「ななな、なっ、何ですってッーーー!?」

「あははは、その反応ウケる~」

「はぁ……本当に全然気づいていなかったのか」

「……えっ、そ、それって私達のターゲットって事ですよね? わ、私が始末してきましょうか!?」

「あははは、遅い、遅い、どうせもうちょっとしたら攻撃を仕掛けるんだし、その時暴れよ、ハルカちゃん」

 

 アルの絶叫を皮切りに、彼女達も動き出す。ハルカも気付いていなかったようで、今更ながら談笑していた相手が敵だったと知り、今からでも襲撃してこようかと愛銃を握る。彼女はそう云った点で非常にドライであった。例え直前まで談笑していた相手であっても、大切な人の為なら躊躇いなく引き金を絞れる精神構造を持っている。

 アルは先程まで朗らかに、本当に楽しく話せた感性の近しい友人と云うべき存在が、自分達の打倒すべき敵校だと知りその場に崩れ落ちる。その体からは悲哀の念が迸り、心なしか肩が震えている。

 

「う、嘘でしょ……あの子たちがアビドス? う、うぅ、何という運命の悪戯……!?」

「何してんのアルちゃん、仕事するよ? ほら、準備しないと」

「バイトの皆が定位置についたって、後は私達が準備を終え次第命令するだけ」

「本当に……? 私、今からあの子達を……?」

「あははは、心優しいアルちゃんに、この状況はちょっとキツいね~」

「情け無用、御金さえ貰えれば何でもやりますがウチのモットーでしょう? 今更何を悩んでいるの」

「そ、それは、そう、そうだけれど……」

 

 崩れ落ちた格好のまま、アルは涙声で自問自答する。あんなに気の良い人達を、アルは久々に見たのだ。彼女の出身はゲヘナ、それはもう『酷い』としか言えない様な校風であり、基本的に他者を慮る様な生徒は極少数である。それこそ自分本意、我儘、自儘を地で往く連中が殆どで、そんな中で自分達に優しく接し、隣人の友人と語らう様な時間を過ごせたのは便利屋の面子を除いて殆ど初めてだった。

 そんな相手に今から襲撃を仕掛ける? 資金のない自分達に、山盛りのラーメンさえ恵んでくれたのに? 性根の優しい、善人としか云えないあの子達に? その事実を考えるだけで、アルは自分が足元から崩れていくような心地になった。

 地面に這い蹲るアルを見下ろし、カヨコは肩を竦める。大体、こうなる事は予想出来ていた。

 

「これ、完全に参っているね……」

「まぁ、あれだけ意気投合したらそうなるでしょ、復興の応援してるー、なんて云っていたし」

「その復興の邪魔をする訳だけれど、やっている事は真逆だね」

「っ、ぐ……うぐぐッ――こ、このままじゃ駄目よ、アル! 一企業として、このままじゃ!」

 

 アルは地面をばんばんと叩き、顔を上げる。そこには先程までの苦悩を色濃く残しながらも、涙を呑んで襲撃の決意を固めたアルが居た。彼女は立ち上がると、軽く付着した砂を払い勢い良く宣言する。

 

「行くわよ! 皆、準備を!」

「――いや、ちょっと待って貰えるかな?」

 

 しかし、それを直前で遮る人物が居た。便利屋の背後、先程まで誰も居なかった筈の空間から声が響く。それは低く、男性的であった。振り返ると、其処には白い制服を着込んだ大人の男性が立っている。優しそうな笑みを浮かべる彼に対し、ムツキは首を傾げる。

 

「ん~、あれ、大人の人?」

「アンタは……」

 

 カヨコは注意深くラーメン屋の客を見ていた為、直ぐに気付けた。全員を庇う様に一歩前に出た彼女は、前ポケットの中に仕込んだ愛銃を握り締めながら問いかける。

 

「さっき、ラーメン屋に居たよね、アビドスと一緒に」

「そうだよ、一応アビドス対策委員会の担当顧問って事になっているかな」

「……担当顧問? そんな話、上からは――」

「カイザーコーポレーションからは聞いていないのかい?」

「ッ!」

 

 その言葉が出た瞬間、カヨコはポケットの中の拳銃を素早く先生に突きつけた。依頼主を知っている――どう考えても、自分達の立場を知っている人間だった。それはムツキも同じだった様で、バッグの中から容量上入り切らなさそうな愛用機関銃――トリックオアトリックを取り出し、構える。

 

「良く分かんないけれど、敵って事でおーけー?」

「っ、アル様、ここは私が――死ねぇッ!」

「待って待って待って! どう見てもキヴォトスの外の人でしょ!? 弾丸一発で死んじゃうわよ!? ダメでしょ!? 流石に人殺しは駄目でしょう!?」

 

 ハルカが男性――先生を敵と見るや否や、何の躊躇いもなく引き金を絞り射殺しようと動き、慌ててアルはハルカに飛びつく。彼女の中で悪は悪でも、殺人は流石にまずいという意識がある。超えてはいけない一線と云うのは、絶対にあるのだ。

 先生はアル以外の全員から銃口を突きつけられながらも、薄ら笑いを浮かべて両手を上に挙げる。少なくとも、こちらから暴力に訴えるつもりはないというアピールだった。

 

「あはは、撃つのは勘弁して貰いたいかな、彼女の言う通り私にとっては弾丸一発が致命傷だ」

「……そんな弾丸一発で死にかねない担当顧問が、アビドスの生徒も連れずに何の用?」

 

 銃を下げることなく問いかけるカヨコに、先生は淡々とした様子で告げる。

 

「話し合いに来たって云ったら聞いてくれる? 出来れば、こじれる前に」

「話し合いって云うのは?」

「アビドス襲撃を取りやめて欲しい」

「――それは無理」

「……掛った費用を全て負担すると云っても?」

 

 先生の放った言葉に、ぴくりとカヨコの眉間が動いた。

 

「確かに私達のモットーは、御金さえ貰えれば何でもやる……けれど信頼はお金じゃ買えない、失敗ならまだ良い、けれど『裏切り』は私達の業界だとそれ以下の扱い、雇い主を裏切れば皆思う、また裏切るかもしれないって――そんな所、雇いたいと思う?」

「成程、理屈は理解出来るね」

「一応、こっちも仕事でやっているから、中途半端は出来ない……でしょう、社長?」

「うっ――」

 

 カヨコの鋭い言葉に、アルは思わず胸を抑えた。契約を結び、やると云った以上、それをやり遂げる義務が便利屋にはある。それを改めて意識したアルは、虚勢を張りながらも小さく頷いて見せた。

 

「そ、そうよ、確かに心は痛むけれど……便利屋68のモットーは決して裏切れない、例えどんな内容であろうとも、依頼は遂行しなくちゃいけないわ!」

「おー、流石アルちゃん!」

 

 ムツキは明らかに半分馬鹿にした様な口調で笑い、愛銃を放って手を叩く。少なくとも、先生が実力でどうこうしてくる手合いではないと見抜いたのだ。それに最悪、素手での格闘戦闘であっても遅れは取らない。キヴォトスの住人とそれ以外では、それ程までに地力の差があった。

 

「それにぃー、そっちの方がおもし……お金も貰えそうだしねぇ、確かに費用を負担して貰えるのならまぁ、マイナスじゃないかもだけれど、アビドスって今お金ないって話でしょ? 本当に払えるの~?」

「ん、そうだね、確かにアビドスとしてお金を出す事は出来ない、けれど支払うのはシャーレとしてだ、実質私のポケットマネーだからそこは心配しなくて良い」

「――シャーレ? 大人の男性でシャーレって……まさか」

 

 カヨコとムツキの二名が、その言葉にぴくりと反応を返す。脳裏に過るのは連邦生徒会による告知と、クロノススクール報道部によるSNS投稿――何かと話題の新設組織、二人の目が先生の制服、その腕章に吸い寄せられた。蒼く輝くそれに書き綴られた文字は――。

 

「連邦捜査部シャーレの、『先生』か!」

「へぇ――」

 

 カヨコが叫び、ムツキの目付きが変わる。いつでも、どうとでも出来る玩具から――得体の知れない大人に。二人の豹変にアルとハルカは目を瞬かせ、ハルカは恐る恐る隣のアルへと問いかけた。

 

「……? えっと、シャーレと云うのは何でしょうか、アル様?」

「えっ、私に聞くの!? えっと、そうね、シャーレというのは、そのぅ、あーっと」

 

 しどろもどろになって舌を遊ばせるアルに、カヨコは油断なく先生を見据えながら言葉を紡ぐ。

 

「……連邦捜査部シャーレ、連邦生徒会長が組織した超法規的機関、あらゆる自治区に独自介入可能な権利を有し、また独自の権限で戦闘行為すら容認される、学園、部活、派閥問わずあらゆる生徒を制限なしに加入させる事が出来る――フットワークの軽くなった、戦闘特化版連邦生徒会みたいなもの」

「まぁ、有体に云っちゃうとそんな感じだよねぇ」

 

 カヨコの重々しい言葉とムツキの軽い調子に、ハルカは、「そんな組織が……」と驚き、アルはまたしても愕然とした表情を晒し、絶叫した。

 

「――ななな、なっ、何ですってぇーッ!?」

「あ、アルちゃんがまた白目剥いてる、おもしろ~い」

 

 ムツキがけらけらと笑い、アルは小刻みに震える。その脳裏にはキヴォトス内に於けるパワーバランスピラミッドが構築され、その頂点に立つ『連邦生徒会』の隣に、『シャーレ(戦闘特化)』の文字が綴られた瞬間だった。

 アルは意識を取り戻すと、おろおろと手を彷徨わせながら便利屋の皆を見る。

 

「な、何でそんなとんでもない組織がアビドスのバックに居るのよ!? 聞いていないわ!」

「バックに居るって云うか、目の前の先生がシャーレの実質トップだから、どっちかというとアビドスがシャーレ傘下になった、みたいな?」

「私としては、そんなつもりは毛頭ないけれどね」

「……他所からどう見えるかは別の問題、先生がどんな風に考えていてもね」

「あわ、あわわわ、どどど、どうしましょう」

 

 アルは相変わらず、半分白目を剥きながら震えている。そんな彼女の様子を見て、ハルカが愛銃を抱えながら恐る恐る提案した。

 

「あ、アル様、やっぱり此処で始末しておいた方が……」

「余計にこじれるからやめてぇッ!」

「……でも、そうなると確かに、これは酷い依頼だね」

「んー、そうかも、ちょっと分が悪いかなぁ~」

「え、え?」

「いやハルカちゃん、考えても見なよ、シャーレの先生がアビドス側に居るって事は、アビドスに加えてシャーレの戦力も動かせるって事だからね? 先生があっちに付いた時点でこれはアビドスとシャーレ、そして私達の戦いになったって事、最悪トリニティとかミレニアムとか、全然関係ない所とも戦争になるかもね~」

 

 ムツキが何でもない事の様にそう云うと、目に見えてアルの狼狽度が増した。半ばムツキに縋りつく様な形で、彼女は問う。その眼球は右に左に、それはもう泳ぎまくっていた。

 

「えっ、は? トリニティ? ミレニアム? ちょ、えぇッ!?」

「あははッ! アルちゃんめっちゃ震えているじゃーん! ウケる~!」 

「ちょちょ、ちょっと待って、私達ゲヘナ風紀委員会からも睨まれているのよ? それに加えて他の学園からも睨まれたら、駄目じゃない? 何かもう、駄目じゃない?」

「でも依頼は遂行するんでしょ~? さっきそう云ったよね、アルちゃん」

「だッ、ぁ、ご、ぅ……」

「それに、信頼を喪ったら仕事がなくなるって云うのも本当――特にカイザーコーポレーションみたいな大口契約は貴重だから、裏切り何てしたら系列企業全部に白い目で見られる」

「―――」

 

 何かを云おうとしても口に出ない、言葉の代わりに魂が漏れ出ていた。完全に白目を剥いて機能停止したアル。そんな彼女を楽しそうに見つめているのはムツキのみで、ハルカは心配そうに、カヨコは頭が痛そうに見ていた。

 

「というかこれ、万が一この依頼を達成出来てもシャーレと敵対した時点で詰んでるんじゃなーい?」

「……そうかもね」

「あわわ、あ、アル様、しっかり、確りして下さい!」

「―――」

 

 アルが白目を剥いて機能停止してから幾許かの時間が過ぎ、漸くまともに呼吸を開始した彼女は胸に手を当てながら、それはもう青を通り越した真っ白な顔で、先生に問い掛けた。

 

「せ、先生……ちょっと、相談があるのだけれど、良いかしら?」

「――勿論」

 


 

 

 マシロの正義ガチ勢ぶり好き。何より少女×デカ武器はロマンですよロマン。対物ライフルは特にそれの塊と云っても良い。出来ればアタッカーとして使いたかった……。

 マシロは可愛いね、本当なのか嘘なのか絶妙に分かりにくいギャグセンスと、正義実現委員会の名に違わぬ体育会系。それでいながらどこか純真無垢で、けれど「この手を血で汚さずに正義を実現させる何て、出来る訳ないじゃないですか」とも宣う。何ともアンバランスで見た目に反しエキゾチック、いや、ある意味キヴォトスの中ではスタンダードなのかもしれない。

 

 マシロには多分「正義」って理由付けすれば、大抵何でも許してくれるし、やってくれる。水着を購入する時に、「可愛いは正義」という言葉で悩む位だから、それっぽい理由で押せば行ける。

 今日は先生とパトロールしようって云って、マシロを連れ回しながらデートしたい。「あのカフェが怪しい」とか云って一緒に紅茶を飲んだり、「あのクレープを食べて恋人を偽装しよう」とか云って一緒に食べ歩きしたい。何なら映画を見に行って、「最近は映画泥棒という悪い奴もいるんだ」と言いくるめて一日遊び倒したい。

 途中から、「あの先生、これは本当にパトロールなのでしょうか……?」と疑問視するマシロに、正義実現委員会が歩き回るだけで抑止力になるとか、敢えて油断している風を装って潜在的な脅威を引き出すとか何とか云って言いくるめるんだ。「最終的に正義執行に繋がる」と云えばきっとマシロは大丈夫。(無上の信頼)

 

 その内多分、自分がパトロールをしている事も忘れて、先生と一緒に楽しそうな笑顔を見せてくれるに違いない。あの店のお菓子が美味しかっただの、服が可愛いかっただの、見た映画がどんなだっただの、此処が良かった、あそこが正義っぽくて感動した、そういう他愛もない話を先生として欲しい。

 

 彼女自身、正義実現委員会としての側面が強いけれど、実際一皮むけば普通の少女然とした価値観を持つ子どもなのだ。ただ、人が遊ぶ間に正義を学び、実行する事に喜びを感じる。いずれ自分が正義実現委員会を率いて立つ事を考え、寸刻を惜しむその精神性を持っているから、それが表に出ないだけで。

 けれど彼女はきっと、心のどこかで自分と普通の生徒の違いを感じていると思う。普通にお菓子を食べて、紅茶を啜り、何てことのない文庫本の話をする。鍛錬の代わりに肌の手入れを、勉学の代わりに娯楽を、そういうお嬢様然としたトリニティの『普通の学校生活』を横目にした時、ふと彼女に妙な疎外感を感じて欲しい。

 先輩たちを真っ直ぐ見据え、ずっと突き進んでいた彼女にとっての日常は、他者からすると異質に映るだろう。彼女自身、それを恥じる気もなければ改めるつもりもない。彼女曰く、先輩たちと共に過ごす時間は『正義』を忘れかける程に楽しかったから。

 けれど、そういう『感性の違い』というべき部分に、思春期の少女らしい思考で悩んで欲しい。

 

 そしてそれを先生にそれとなく打ち明け、「正義に迷いなどあってはいけないのに」と口にした時、きっと先生は真摯に彼女の悩みを受け止めてくれるのだ。

 マシロを抱きしめ、頭をこれでもかという位に撫でつけ、他人と違う事の何が悪いのかと力説したい。そのままのマシロが素敵だよとか、頑張るマシロを応援しているよと耳元で呟き続けるんだ。その内マシロは、確かに相談したのは自分だけれど予想以上に先生が全力で慰めにくるものだから、タジタジになって、「あの、もう大丈夫ですか」とか、「な、悩みは解決したので……!」と云いながらも先生の腕の中から脱出する事が出来ず、そのまま一時間位先生の腕の中でじっとする事になる、恥ずかしいやら嬉しいやらで真っ赤になるんだ。けれど、そんな風に全力で自分と向き合って、心配してくれる先生に恩義を強い信頼を感じ、それからの彼女はより一層、正義に邁進してくれると思う。

 

 そんな彼女を、それはもうデロデロに甘やかしてみたい。自分の誕生日すら忘れているマシロの傍に居て何から何まで手伝ってあげたい。正しい正義を選べるように、迷わず正義を執行できるように、マシロの中にある『正しき正義』を彼女の望む方向に伸ばしてあげたい。

 ストーリーからして、狙撃手はちゃんとした食事が摂れないみたいな事を云っていたし、それとなく料理で餌付けしてあげたい。その内、任務中に食べるカロリースティックが味気なく思えて、空腹になっても先生の食事を食べたいから我慢するようになるんだ。けれど先生に世話をしてもらっている事を先輩方に打ち明けるのは恥ずかしくて、お腹が鳴ると、顔を赤くしながら「今、ダイエット中なんです」とか何とか言って誤魔化すんだ。その後シャーレに行って、こっそりと先生の手料理を堪能して欲しい。

 狙撃の訓練とか云って、仕事をする先生と机の間に挟まりに来てほしい。「狙撃任務中はじっとしなくてはいけませんから、これも訓練です」とか言って、先生の膝の上に座りに来てほしい。その内先生も慣れて、マシロの頭の上に手を置くのが習慣になるんだ。それを忘れるとマシロが徐に先生の手を掴んで、撫でろと云わんばかりに自分の頭の上に置くようになるんだクソかわ。

 

 マシロ自身は正義を信奉しているけれど、正義実現委員会の一日他部活体験では話題に偏りはあれど問題なく他生徒と会話出来ていたし、本質は真面目で少しだけ頭の固い少女だと思う。どうして正義実現委員会に入ったのか、恐らく『正しさ』に固執する理由があるんだ。正しさとは絶対であるべき、そう考えながらも例外をも認めるその矛盾。

 それは、彼女の絆ストーリーからも分かる。

 

「あなたは機関車を運転する機関士です、ある日、あなたが進入しようとする線路上に五人の人が縛られているのを見ました」

「線路を変えればその五人の命は助かりますが、その時は変えた先の線路に居た人、別の一人が機関車に轢かれてしまう事になります、この場合、どんな選択をするのが正しいのでしょうか?」

「うーん……難しい問題ですね、たくさんの人を助けるのには線路を変えるのが正しいはずですが、そうした場合、本当なら死ななくても良い人が一人、機関車に轢かれてしまいます」

「本来起きるはずのなかった死を防ぐ事と、たくさんの人の命を助ける事――二つのうち、どちらがより正しい選択なのでしょうか?」

「……答えが存在しない正義なんて、あり得ません」

「正義とはいつも、明確な一つの答えが存在しなくてはいけないものなのに」

「うーん……みんなを助けられる方法はないのでしょうか」

「たとえ出題者の意図に反するものだとしても、諦められません」

「私はどんな状況だとしても、一生懸命悩んで、努力して、皆を助けられるように頑張ります」

「――それが、正義の道ですから!」

 

 そう云ったマシロに先生を撃ち殺させてぇ~。

 

 皆を助けられる方法を探したいと云いながら、キヴォトスの為に先生を撃ち殺すマシロの顔みてぇ~。

 

 間違った世界、失敗した世界、燃え盛るシャーレの中でキヴォトスを裏切った先生がマシロの前に現れた時、彼女はどういう選択を取るのだろうか? 最初は恐らく説得しようとするだろう、千も万も言葉を交わして、何とか先生を取り戻そうと足掻くだろう。けれど言葉を重ねれば重ねる程、交わせば交わすほど、先生の決意は固く、信念は鋼である事を知るのだ。

 きっと先生は彼女に全てを語らない、何故裏切ったかも、どうしてこんな事をしたかも、何も語らない。だって、彼女は愚直なまでに『正義』を信じているから。正義である事に固執しているから。だからこそ、分かり易い【悪】を演出する事によって、彼女の引き金を少しでも軽くするのだ。

 それを理解しているからこそ、マシロは悩む、苦悩する。

 先生が何の理由もなく生徒を傷つける筈がない、キヴォトスに反旗を翻す筈がない、清廉で優しく、朗らかで暖かで陽だまりの様な人だ。必ず何か理由がある、無い筈がないのだと。そしてこの時の為に彼女の正義を確固たるものにしていた先生は、問いかけるのだ。

 

 私の命ひとつと、キヴォトス全域の生徒の命――マシロだったらどうする?

 

 完全無欠のハッピーエンド、その結末が用意されていればキヴォトスを裏切る必要などなかった。この世界は既に分岐してしまったのだ、答え(結末)は二つ――先生が死ぬか、キヴォトスが沈むか。

 

 マシロはその言葉を聞いて咄嗟に、先生の事を殴りつけるんだ。倒れ込む先生と自身の拳に走った衝撃にマシロは一瞬はっとした表情を見せ、自身の行動を後悔する。けれど血を流さなければ正義は実現できないと宣ったように、彼女はきっと必要なら先生に暴力を振るう事さえ厭わないと思う。その果てに先生の生存という正義が存在するなら、喜んで彼女は泥を被る。

 あらゆる感情の濁流を噛み殺し、先生を睨みつけ、マシロは「いい加減にして下さいッ!」と叫ぶんだ。

 そして先生に馬乗りになって、脅しとして拳を振り上げながら、「降参して下さい、先生ッ! もう勝負はついたんです! 私と一緒に連邦生徒会に――」と口にし。

 先生は何も云わず、ただ薄らと微笑むんだ。

 それを見たマシロは歯を食いしばり、今にも泣きそうな表情を浮かべる。生徒に暴力を振るわれても、先生はそれすらも許容するのかと。その優しさとも強かさとも云える心に、マシロはもう一度拳を振り下ろす。殴る瞬間に目を瞑り拳を震わせ、殴っている側だというのに酷く辛そうに、痛そうにしながら。

 先生の顔が跳ねる度にマシロは血を吐く想いで、「降参して下さいッ!」と繰り返す。けれどやはり、先生は何も云わない。途中から彼女の声に涙が混じり、最早懇願に等しい声で叫ぶんだ。

 そして彼女の両手が血で真っ赤に染まり、先生の顔が青あざと打撲痕で酷く晴れ上がった時、彼女はついに涙を流し、息を荒くしながら先生の姿を見下ろすんだ。

 

 そしてそれでも尚微笑む先生を見た時――彼女は強い絶望を感じるに違いない。

 どうあっても先生の意思は崩れない、どうあっても先生はマシロの声に頷かない。先生の瞳に宿る、自身やキヴォトスを案じる柔らかな光と、強い決意に、マシロは自身の考えが正しかった事を悟るんだ。

 先生を喪えば、世界(キヴォトス)は救われる。

 

 マシロは覚束ない足取りで立ち上がり、サイドアームの拳銃を取り出すんだ。そしてそれをそっと、先生に向ける。

 瞼も腫れあがり、立ち上がる事も出来ない先生は横たわったままマシロを見上げる。ぼろぼろと涙を流し、歯を打ち鳴らす愛すべき生徒の姿を。

 きっと最後まで彼女は問い掛けるに違いない。「これしかないんですか」と、「この方法しかないんですか」と。銃口を震わせ、全身で撃ちたくないと叫びながら、何度も何度も。

 先生は相変わらず微笑み、云うんだ。

「これが正しい(正義)」と。

 

 それから長い時間を掛けて、マシロには先生を撃ち殺して欲しい。

 本当に射殺するしかないのかという葛藤、憎からず想っていた人を射殺するという躊躇い、『善人』を切り捨てなければならないという現状に対する後悔。運命や不条理に対する憎悪、誰に何をぶつければ良いのか、それすらも分からなくなるほどの激情を抱えて。彼女は最後まで先生の目を真っ直ぐ見て、涙を流し、歯を食いしばり、ぐしゃぐしゃの顔で、先生を撃ち殺すんだ。

 

 燃え盛るシャーレの中で、不自然な程静けさを感じ、ハスミやツルギが駆けつけた時、そこには先生を撃ち殺した後のマシロと、額を撃ち抜かれ、ボロボロになった先生の骸だけがある。そこで彼女は先生を撃ち殺した拳銃を握り締め、俯き、肩を震わせながら、二人に問うんだ。

 正義って、何ですか、と。

 

 正義と云えば何でも(射殺)してくれる良い子だよマシロは……可愛いね♡ そのまま是非とも正義の為に突っ走って欲しい。先生を撃ち殺したんだから今更躊躇う事もないでしょう。これで心置きなく善悪の区別も付けられるね! このマシロなら悪と断じればどんな手でも躊躇わない漆黒の意思を感じる。件の機関車の問題も、数の多い方を即断で選べるでしょう。正義への躊躇いを死に際に持っていってくれた先生には感謝しないとね! ちゃんと先生にありがとうって云うんだよ!

 

 あー、この後、連邦生徒会長のせいで先生が死ぬ羽目になったと聞いた生徒の皆はどんな顔するんだろう。多分、憎悪と憤怒と悪意と殺意に塗れた、凄まじい形相を浮かべるんだろうなぁ。先生が頑張って犠牲になってくれたのに、生徒達の抗争によってキヴォトスは結局沈むんだよね……これが本当の無駄死にってか、ガハハ!

 



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はじまりの協定

誤字脱字報告、大変感謝。


 

「――あ、先生、お帰りなさい」

 

 アビドス校舎、部室に戻って来た先生を前にアヤネが声を掛ける。ラーメン屋柴関から帰る途中、先生は不意に、「ごめん、ちょっと用事が出来たから、先に戻っていて欲しい」と告げ別行動を取っていた。それこそ、止める間もないと云う速度で。

 先生は後ろ手で扉を閉めながら、「うん、ただいま」と頷いて見せる。思い思いに寛いでいた生徒達は先生の恰好を眺め、特に何事もなかったようだと内心で胸を撫で下ろした。実は、もう少しばかり遅かったらドローンで先生を探そうかという話も出ていた。セリカ誘拐の件もあり、今のアビドスは少しばかり安全云々の面で気が立っていると云っても良い。先生はその雰囲気を身で感じながら、申し訳なさそうに頬を掻いた。

 

「遅かったけれど、何かお仕事?」

「んー、まぁそんな所かな、シャーレの方でも色々やる事があってね」

「そうでしたか、何はともあれ無事で――!?」

 

 安堵したように笑みを浮かべていたアヤネが不意に言葉を止め、椅子を蹴飛ばし立ち上がる。その音に部室の皆が驚き、アヤネに視線が集まった。彼女は眼鏡の縁に指を掛けながら、硬い声で告げる。

 

「警戒網に反応がありました! 二、三人ではありません!」

「警戒網? いつの間にそんなもの……」

「先生が補給品として支給してくれたんです!」

「備えあれば憂いなし、ってね」

 

 先生がそう云って親指を立てる。ホシノが呆れとも感心とも取れる瞳で先生を見れば、アヤネはテーブルの下からタブレット端末を取り出し、指を忙しなく動かす。警戒網は校舎を囲う様に配置されており、距離は校舎から凡そ五キロの範囲。そこに侵入した車両、人物をスキャンし、ドローンを派遣する。二、三人程度の小規模人数であれば『来客の可能性』もあるが、それ以上の規模ともなるとカタカタヘルメット団や不良集団の可能性がある。アヤネは眼鏡のディスプレイを派遣したドローンに繋ぎ、学区に侵入した人物の正体を探る。

 

「場所は校舎南五キロメートル地点、数は……十人以上の反応を確認!」

「まさか、ヘルメット団?」

「うへ、前哨基地は潰したし、もしかして本拠から態々出向いて来た感じー?」

「ち、違います! ヘルメット団ではありません!」

 

 眼鏡のディスプレイを凝視するアヤネは、そう云って首を横に振った。恰好も、装備も、アヤネの知っているヘルメット団のものとは異なる。そもそも、トレードマークともいえるフルフェイスマスクを被っていない。彼女達が被っているのは黄色の安全帽、それに抱えた銃はカタカタヘルメット団のソレよりも武骨で――アヤネはその風貌から、彼女達の正体を突き止めた。

 

「これは……傭兵? 恐らく、日雇いの傭兵です!」

「傭兵って、結構高い筈だけれど……何でアビドスに?」

「誰かが雇ったって事だよね? 一体誰が――」

 

 カタカタヘルメット団ではない勢力の襲撃に、アビドスの皆は困惑の表情を浮かべる。しかし、現に仲良くお話しましょうという雰囲気ではなかった。タブレット上に表示される傭兵の雰囲気は物々しい。そもそも、傭兵を引き連れて語る事などそう多くはない。

 

「――考えていても仕方ない、今は出動しよう」

 

 タブレットを取り出した先生がそう告げれば、皆は頷きガンラックの愛銃を手に取った。兎にも角にも、このまま呑気に待つ事など出来ない。そうなればやるべきことは一つ――迎撃だ。

 

「アヤネ、部室でサポート頼む、皆は装備を持って校門前に集合」

「えっ、せ、先生も出撃するんですか!?」

「少し思う所があってね、大丈夫、前線には出ないよ」

 

 そう云って心配するアヤネを宥める先生。隣に立つシロコが愛銃を掲げ、自信ありげに頷いた。

 

「ん、大丈夫、先生は私が守る」

「任せて下さい☆」

「まー、今更いなくなられても困るからねぇ」

「仕方ないから守ってあげる! 絶対私より前に出ないでよ!」

 

 全員がそう云って守護の意思を見せれば、アヤネも納得したのか、やや強張った表情で頷いた。そこには、先生が云うのならば間違いではないという、信頼とも妄信とも取れる感情が見え隠れしていた。

 

「わ、分かりました! 先生の指示に従います!」

「よし、なら――アビドス出撃!」

「おーっ!」

 

 先生の声に応え、生徒達が銃器を掲げる。

 此処に、アビドス高校防衛戦が再度勃発した。

 

 ■

 

『校門前大通りに傭兵集団を確認! 真っ直ぐ此方に向かって来ます、敷地内に入られる前に迎撃を!』

「了解……って、あれ? あの恰好、確か柴関で見た気が――」

 

 セリカが勇んで校門前に陣取れば、遠目に見えるのはどこか見覚えのあるシルエット――特にあの、先頭に立つ少女の恰好は憶えがある。あれは確か、ラーメン屋でアビドスの皆と意気投合したゲヘナの生徒ではなかっただろうか、と訝しむ。

 ある程度顔の見える距離になると、何とも云えない苦り切った表情を浮かべた少女――アルが展開したアビドスの生徒を見ていた。

 

「ぐ、ぐぐッ……」

『何か、凄い苦悶の表情ですが、一体……?』

 

 アヤネのドローンから困惑した声が響き、遂に互いの射程距離内でアビドスと便利屋が対峙する。隠れる事なく、堂々と姿を現した便利屋に、ラーメン屋で会ったゲヘナの生徒だと確信したセリカが怒り心頭と云った様子で食って掛かった。

 

「誰かと思えば、あんた達!? 何よ、そんな傭兵を引き連れて何の用!? ラーメンも無料で特盛にしてあげたのに、もしかして私達の学校を襲撃に来たの!? この恩知らず!」

「あははは、その件はありがと、でもそれはそれ、これはこれ、こっちも仕事でさ」

「残念だけれど、公私はハッキリ区別しないと、受けた仕事はきっちりこなす」

「……成程、その仕事っていうのが便利屋だったんだ」

 

 アルの左右に並んだムツキ、カヨコの言葉に、シロコはそっと銃を構えた。傭兵を引き連れて来た彼女達が何をしようとしているのかは一目瞭然。後衛として離れていたノノミが、頬を膨らませながらアルに苦言を呈す。

 

「もう! 学生なら他にもっと健全なアルバイトがあるでしょう? それなのに便利屋だなんて!」

「ちょ、アルバイトじゃないわ! れっきとしたビジネスなの! 肩書だってあるんだから!」

 

 ノノミの言葉にアルは反論し、慌てて周りの便利屋を指差す。彼女としては、譲れない一線らしかった。

 

「私が社長、あっちのムツキが室長で、こっちのカヨコが課長、ハルカは一般社員よ!」

「はぁ……社長、ここでそういう風に云うと余計薄っぺらさが際立つ」

 

 自信満々に発言するアル社長に対し、カヨコが肩を落とす。そもそも、その肩書が役に立った事などカヨコの記憶に於いて一度もない。その肩書で上下関係があるかと云えば無いも同然だし、便利屋の関係性は至ってフラットだ。勿論給与も一律。友人関係でもあり仕事仲間である彼女達からすれば、所謂『ごっこ遊び』の範疇にしかない。恐らく、大真面目なのはアル社長だけである。

 自信満々に胸を張るアルに反し、シロコは静かに問いかける。

 

「誰の差し金? いや、答えるはずないか――なら力尽くで口を割らせる」

「ふふふ、それは勿論企業秘密よ?」

 

 笑みを浮かべながらアルが徐に右腕を軽く掲げれば、便利屋と傭兵たちが一斉に銃を構える。安全装置を弾く音が周囲に響き、空気が一気に張りつめた。

 

「総員、射撃準備――!」

「ッ……!」

「来る――!?」

 

 アビドスの皆が咄嗟に構え――同時に、アルの腕が振り下ろされた。

 

「発砲!」

「ッ――先生ッ!」

 

 近くに居たノノミが棒立ちになっていた先生に覆い被さり、一瞬、先生の世界は暗闇に覆われた。そして透かさず――複数の銃声。

 しかし、それは本当に一瞬の事であり、各々が一発ずつ発砲した程度の音。それ以上銃声が響く事はなく、直ぐに辺りは静寂に包まれた。

 

「………?」

 

 先生を庇っていたノノミが恐る恐る目を開く。備えていた衝撃や痛みは皆無であり、その後に続く発砲音もない。周囲を見渡せば、アビドスの皆も困惑した表情で便利屋と傭兵たちを見ており、戦闘行為は本当に一瞬だった。良く見れば銃弾は門の壁に幾つかの弾痕を刻んだのみで、アビドスの生徒達には掠りもしていない。

 その成果を見たアルは、ふっとニヒルな笑みを浮かべ――それから背後を振り向き、何度も手を叩きながら叫んだ。

 

「はい撃った! 撃ったから終わりッ! これであなた達のお仕事も終了! 以上、解散!」

「あははは、アルちゃん雑~!」

「……はぁ」

 

 ムツキが楽しそうに大笑いし、隣のカヨコは拳銃を下げながら眉間を揉んでいる。ハルカは相変わらずアルの傍で縮こまっているばかりで、アビドスの生徒からすれば何が何だか分からなかった。アルの一声で周囲の傭兵たちは銃を下げ、終わった終わったとばかりに解散していく。先ほどまでの張り詰めた空気が嘘のように霧散し、まるで狐につままれた気分でアビドスは便利屋を見ていた。困惑したシロコが帰って行く傭兵たちの背中を見送りながら呟く。

 

「これは、一体……?」

「うへ、ちょっとおじさんにも分からないなぁ~」

「戦闘はしない、という事でしょうか?」

「でも、一発は撃っているわよ?」

『一応、気は抜かない様にしましょう、何をしてくるか分かりませんし……』

 

 傭兵を全員帰した便利屋が、ゆっくりとアビドスの方へと歩いて来る。皆が警戒した面持ちで銃のグリップを握るも、一歩前に出た先生が手で制する。それを一番前に立っていたホシノが驚いたような顔で見ていた。

 

「先生?」

「大丈夫だよ、戦闘は起きない、皆、銃を下ろして」

 

 そう云って二歩、三歩と前に出る先生。それを止めようとシロコが手を伸ばすも、それより早く先生とアルが対峙した。アルは先生を薄ら笑いで眺めたまま、淡々とした口調で告げる。

 

「……約束は果たしたわ、これで良いのよね、先生?」

「あぁ、傭兵を引き連れて来たと聞いた時はヒヤッとしたけれど、ちゃんと約束を守ってくれた様で嬉しいよ」

「私達にも面子というものがあるもの、一戦もせずに負けたとあっては良い笑いものよ、それに一応クライアントにも『戦った』という報告をしなくちゃいけないから――」

「校門に数発撃ち込んだ程度で一戦というのも疑問だけれどね」

「い、良いのよ! だって実際発砲したもの、規則上問題ないわ!」

「だ、大丈夫ですよアル様! い、いざという時は私が、そのお悩みを吹き飛ばして見せますから……!」

「やめてッ、物理的に吹き飛ばそうとしないでっ!?」

 

 唐突に始まった言葉の応酬に、アビドスの皆が目を丸くする。

 穏やかな様子で便利屋と言葉を交わす先生。その内容は、少なくとも先生と便利屋が何かしらの契約を結んだというもの。詳細は分からないが、『先生が自分達の知らない間に何かをした』という事だけはハッキリした。

 段々と現状に理解が深まって行く内に、先生の後頭部に視線が集中する。何か言いたげなアビドスの生徒達を振り向き、先生は後頭部を掻いた。

 

『えーっと……先生?』

「うん」

「色々と聞きたい事はあるけれど」

「――つまり、その人たちは敵ではないって事で良いのでしょうか?」

 

 アヤネ、シロコ、ノノミの順で口を開き、先生はその言葉に頷いて見せた。

 

「うん、便利屋の皆は敵じゃないよ、安心して」

「――シャーレの先生に感謝する事ね、アビドス」

 

 ふんと鼻を鳴らし、アルは腕を組んだまま薄らと笑う。傍から見れば何とも悪役らしい、妖しくも昏く意味深な笑みであったが――その様子を見ていたセリカは何とも言えない表情を浮かべ、ぼそりと呟いた。

 

「……なんか、柴関の御店の時と雰囲気違くない? 無理している様に見えるのだけれど」

「む、無理何てしてないから! これが素、これが本来の私なの!」

 

 セリカの的を射た言葉に、必死に虚勢を張るアル。地団駄を踏んで声高に主張するその姿からは、先程まで辛うじて感じられたカリスマの『カ』の字も存在しない。崩れた鍍金の仮面に、アビドスの生徒達は顔を見合わせる。それをムツキは後方から腹を抱えて見ていた。

 

「……まぁ、何でも良いけれどさ~」

 

 不意に、先生の腕に何かが絡まった。良く見ればそれは、小さなホシノの手であり――下から覗き込むようにして先生を見る彼女の瞳は、全く以て笑っていなかった。

 

「全部、説明してくれるんだよねぇ――先生?」

「……勿論」

 

 ぞくりと、背筋に冷たい感触が走る。

 今だけは目の前のホシノが、味方である気がしなかった。

 


 

 早く本編で先生の四肢をモギモギしたいよぉおおお!!

 その生徒を柔らかく撫でる綺麗なおててをぶちぶちさせてよぉおおお!!!

 と゛お゛し゛て゛い゛し゛わ゛る゛す゛る゛の゛!!!!

 

 今の平穏がずっと続くと良いね、先生。

 

 それはそうと、ユズは本当に可愛いね、対人恐怖症っぽくて狭い所が好きで、信頼出来る人以外顔を合わせるのも辛いという所がちょっとガチっぽくて好き。ソラちゃんとユズを一緒に並べて一緒におでこ撫でたい。きっと二人してあわあわしてくれるに違いない。

 

 ユズはゲーム開発部の中でも殆どロッカーで過ごしているそうですが、二人でロッカーに入った時に先生がユズの濃い匂いが中に充満している事に気付いて、一人でロッカーに入る為に争奪戦を仕掛けた説を私は押します。争奪戦に勝ったらきっと先生は無言で深呼吸した後に、「ユズの匂いがすごーい」と云ってユズを真っ赤な顔にさせるんだ。「せ、先生ッ、はやく、早く出てっ!」と扉を必死に引っ張るユズに対抗して一時間位粘りたい。その後ロッカーを取り戻したユズが一人で癒し空間を満喫していると、ふと微かに香る先生の匂いに気付いて、真っ赤になって俯いて欲しい。それ以降、ちょくちょく先生にロッカーを貸し出すようになったらベネ。ユズもきっとミドリに負けず劣らずの卑しい女に違いない。

 

 ハルカとユズとウイとミユをシャーレに集めて放置してみたい。何か起きるのだろうか? 多分何も起きないだろうなぁ。全員俯き気味にもじもじしながら、周囲を見渡して、不意に隣の人と目が合って、「あわわわ」と青い顔でまた俯くに違いない。それで先生がやってきたら露骨に安心するか、涙目で助けを求めるんだ。特にユズとミユは自分達の癒し空間をそれぞれ持ち込んで、「うわぁぁあ、ごみ箱(ロッカー)が動いてるぅ!?」とかやって欲しい。ムツキちゃん辺りが見たら多分腹がよじれる程笑ってくれる。

 

 コンビニの接客アルバイトもそうだけれど、遊園地での着ぐるみアルバイトで、何かで顔を覆っていれば多少対人恐怖症も和らぐという発見を得て、常日頃何か被ったりするようになったらユズも過ごし易そう。ワカモみたいな仮面か、ヘルメット団みたいなフルフェイスヘルメットか、或いはヒフミ推しのペロロ着ぐるみかは分からないけれど、それでまたひと騒動起こして欲しい。ゲーミング部は五千兆色に光るゲーミングお面、マイスター達エンジニアリング部は『日常から戦闘まで、いつでも使える完全防護どこでもヘルメット』、どこからやって来たのか補習部はペロロ様セット一式、そのどれを着用するかで争うんだ。尚、本人はロッカーの中で震えている模様。

 

 サガ2が売れて、ちょっと資金に余裕が出来た後にみんなでゲーム開発合宿とかやって欲しい。というかイベントであって欲しい。

 ゲーム部とみんなで何処かの自然の家とか借りて、其処に大量のゲーム機やらPCを持ち込んで、先生に「なんじゃこりゃああ!」と驚かれながら一週間のゲーム開発をスタートさせるんだ。初日はどんなゲームを作るかで意見が割れて、シューターゲーム作りたい派、音ゲーとかどうかな派、わ、私は格闘ゲームが……派、アリスはエロゲというのが作りたいです!派、で別れるんだ。

 尚、アリスはその後、先生にそんな知識何処から持ってきたのかと聞かれ、生徒には買えない伝説のゲームがあると聞き、ブラックマーケットで情報を漁った事が露見する。

 

 二日目は、取り敢えず意見が纏まらないので、それぞれがゲームのひな形か、或いは企画書を作って発表して、一番出来が良かったものを皆で作ると云う形になる。アリスのエロゲは健全ADVとなり、皆が一日掛けて企画書を書き上げ、夜に発表する事になるんだ。

 そこで選択肢が出て、最終的に先生が誰の作品を採用するか決める。皆がそれぞれ別々の作品に琴線が触れ、先生の一票で制作するゲームが決定するんだ。

 

 作るゲームが決まったら、いざそれを制作する為に頑張ろう! となる訳だが、三日目の朝、起床すると何やら騒がしい事に気付くんだ。するとそこには自然の家の前で屯する不良群たちが居て、「やいやい、此処はアタシ達、『ノビノビ森林浴団』の縄張りだぜぇ!? 誰に断って合宿何てやってんだ~!?」とか言い出す。「ちゃんと管理人に許可取ってるもん!」と叫ぶモモイに、結局戦闘に転がり込むゲーム開発部。

 勿論不良達は蹴散らされ、「お、憶えてろ~!」と逃げ出す。その後もゲーム開発の為の資料作りに森を歩いて撮影していれば遭遇したり、外でバーベキューをしようと思えば匂いにつられてやって来たり、何だかんだ何度も戦う事になる。

 で、不良達はゲーム開発部がなにやらゲームを作っているらしいという情報を得て、最終日にその作ったゲームを盗み出してやろうと画策する。けれど勿論それは先生に見抜かれていて、まんまと待ち伏せにあった不良達は掃討、拘束。「こ、こんなゲームなんぞに現を抜かす奴らに負けるなんて……!」とうなだれる不良達に、ユズが「げ、ゲームは、面白いんだよ!」と力説し、合宿で出来上がったゲームをプレイさせるんだ。その後きっと、不良達は、「お、おもしれぇええ!」と喜んでくれるでしょう。凄く健全な話、ヤバい、背中がかゆくなっちゃう。ここで先生爆殺してぇー……。ままええわ。

 

 ゲーム合宿が終わった後は個別ルートに入るんだ、最終日に作ったゲームの原案を考えたゲーム部の生徒と一夜を過ごす。ユズの場合は夜眠れなくて、自然の家のベランダの隅でじっと夜風に当たっているんだ。それに気付いた先生がユズの隣に座って、特に何を話す訳でもなく時間が過ぎる。その内、ユズがくしゃみをして、鼻を啜りながらそっと先生の腕に身を寄せる。そして不意に、「合宿、終わっちゃいましたね」というんだ。

 外に出るのが得意ではないユズが、こうやってみんなと外に出て騒ぐことを楽しかったと、そう思えた事が先生は嬉しくて、「また来よう」というんだ。ユズは笑みを浮かべて頷いて、「不良さん達に、私達の作ったゲームが面白いって云って貰えて、とても嬉しかった……」と呟き、それから彼女らしからぬ満面の笑みを浮かべて、「やっぱりゲーム作りは、楽しいですねっ!」って先生に笑いかけて欲しい。その笑顔はきっと、月明かりの下でも負けない位に輝いていて、彼女らしい本質が浮き彫りになった、美しい笑みなんだ。

 

 このイベントの後にキヴォトス動乱起こしてぇ~。

 先生にこれからキヴォトスを裏切る旨を聞いて、呆然として欲しい~。

 

 先生からきっと、キヴォトスを裏切ると云われた時、ユズは一瞬何を云われたのか分からなくなるんだ。きっとゲーム開発部の部室で、二人きりで、少なくない好意を抱いている先生と二人きりだから、ちょっと大胆な事をしちゃって――なんてことを考えていたユズは、先生の「キヴォトスを裏切る」の一言で、何も考えられなくなるんだ。

「え」とも「は」とも取れる、小さな吐息の様な言葉を漏らしながら、ただ先生を見上げ、視線を左右に散らすんだ。

 何かの冗談ですか、とユズが返せば、先生は無言で首を横に振る。それ位彼女にとって、先生が生徒と敵対するという未来はあり得ない事だったのだ。自分の足元がぐらぐらと崩れる様な気がして、ユズは暫く言葉を紡げないと思う。

 けれど、彼女は芯の部分で強い、本当に諦めきれないと思った時、ユズは誰よりも強固な決意を抱くと思うんだ。色んな事を考えて、あらゆる感情を飲み下して、これからの未来だとか希望だとか、そういうもの全てを放り投げて。

 ユズはきっと、先生の味方をしようと決める。

 

 そんなユズに、そっと先生はある物を差し出す。それは、嘗てユズが先生に渡した「ユズ・フリーパス券」――一度だけ、どんなお願いでも叶えて貰える信頼のチケット。

 それを差し出し、先生は云うんだ。

「生きて」って。

 多分ユズは、これ以上ない程に絶望の顔を見せてくれると思う。今、この瞬間、信頼の証であるそれを使うのかと。自分が何を願っているのか理解している上で、そんな言葉を口にするのかと。きっとユズは差し出されたチケットを奮えた指先で摘まもうして、何度も何度も失敗する。口を開閉させ、先生の腕を強く――強く握り締める。

 縋りつきながらユズは云うんだ。先生に私が必要な瞬間が来たら、何でも言ってくださいって、そう伝えたじゃないですか――必ず、恩返しするって、言ったじゃないですか……! と。

 私と一緒に来て欲しいと、共に戦って欲しいと。ただ、一言、その一言さえ貰えれば、自分は何の躊躇いもなく先生の傍に居られるのに、と。

 

 先生はそれを、ただ悲しそうな目で見下ろすんだ。その瞳に込められた強い決意は、どうあっても自分じゃ覆せない、強固で、高潔で、踏み込めない領域にあるのだと気付いて、ユズはそれ以上何も言えなくなって、ただ先生に縋りついたまま嗚咽を零して欲しい。そしてきっと先生は彼女が泣き止むまで傍に居てくれるんだ。

 その日はずっと、ユズは先生に引っ付いたままなんだろうな。ゲーム開発部の皆が帰って来た後もずっと先生の腕を離さずに、何も知らない彼女達はずるいだの私もだの何だかんだ言って、ユズと先生は最後の日常を享受するんだ。もうきっとその笑顔を浮かべる事は出来ないのだと、理解しながら、惜しみながら。

 

 先生がいざ事を起こして、ゲーム開発部が混乱しても、ユズは一人チケットを握り締めてロッカーの中で泣いているんだろうなぁ。後日見つかった先生の死体が、ユズのチケットが入っていた封筒を握り締めていたらエモエモのエモ。唇を強く噛み締めながら涙をぽろぽろ流すユズちゃんは可愛い。尚、ユズが先生の願いを無駄にして無理矢理にでもシャーレに加担した場合、文字通り『死ぬまで』戦い切ります。先生が戦死した後も、鬼の形相で暴れ続けると思う。覚悟を決めた女の子は強かで、諦めが悪く、狡猾なんだ。きっとユズが着の身着のままシャーレに「きちゃった」したら、先生も酷く絶望するんだろうなぁ。でもユズちゃんが傷つく所見たくない……生徒には笑っていて欲しい……。死ぬのは先生だけで十分なんだ……!

 

 普段大人しい子が土壇場や大切な人の負傷で豹変するのスコスコのすこ。でもユズちゃんのイメージ像は大切にしたいので、今回は先生の死体は見せずに穏やかな死を迎える事が出来ました。良かったねユズちゃん。

 死ぬより辛い地獄がこれから先待っていると分かっていても、それでも生きて欲しいと願う先生は鬼畜の鑑。一緒に死んでくれって云われた方が、生徒達はきっと楽なのにね。これからユズは虚飾の笑顔で満ちたゲーム開発部で、ずっとゲームを作り続けるんだ。それだけが先生との絆だから、それだけが自分の残されたものだから。その情熱に反し、あらゆるインスピレーションやスキルを磨いた彼女のゲームは多くの称賛を受ける事だろう。

 一番に遊んで欲しい想い人は、もうどこにも居ないのにね。



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あなたは私を信じ、私はあなたを信じた。

いつも誤字報告をして下さる方、本当にありがとうございます。
どうか今後とも、この誤字脱字製造機たる私共々、当小説をよろしくお願いいたします。


 

「……つまり、便利屋68の襲撃を先生が事前に察知して、それを交渉で防いでくれた――って事で良いんだよね?」

 

 尋ねられたホシノの言葉、それに先生は深く頷く事で返答をした。

 対策委員会部室に集合した便利屋とアビドスの生徒達、それなりに広い部室が、今は少しだけ窮屈に感じる。然もありなん、先生を含めたアビドス六人と便利屋四人、計十人が入るとなると精々教室の半分程度の大きさしかない部室では長机、ガンラック、ファイル棚、補給物資諸々で手狭になる。実際パイプ椅子に座るのは便利屋のみで、残りのメンバーは全員立ったまま話を聞いていた。尤も、アビドスの場合は未だ警戒の意味もあるのだが。

 ホシノの言葉を聞いていたカヨコとムツキも、先生に続いて肯定の言葉を返す。

 

「まぁ、有体に云うとそういう事になるかな」

「雇った傭兵費用は先生持ちで、クライアントには『襲撃失敗』って結果だけを伝える、私達は以降アビドス襲撃の依頼を受けないって内容で合意したよ~、あ、今回請求するのは元々雇っていた傭兵のキャンセル料と、さっき連れて来た十人の待機時間プラス戦闘一時間分だけの料金だから、先生が思っているよりは高くないかも」

「それは助かるな」

「……先生、そんな契約をいつの間に――」

「皆でラーメンを食べた帰りに、ちょっとね」

 

 指先で隙間を作りながら、摘まむ動作を見せる先生。

 

「でも、もう少し準備が欲しかったかな、今更だけれどあの傭兵の中にクライアントが仕込んでいた人員が居た場合、実際は襲撃していないという事がバレちゃうし、何ならこうしてアビドスの中に入った所をドローンか何かで観られていれば、内通していると露見しちゃうからね、数発だけ撃って解散させるというのは流石に――いや、その優しさはとても嬉しいし、尊いものだと思うのだけれど……」

「うッ……!?」

「アルちゃんあの時、テンパっていたもんね~、仕方ない仕方ない」

「だからもう少しちゃんと詰めようと云ったのに……というかどうせなら先生に聞いた方が良いって、私ちゃんと云ったよね」

「だ、だだ、大丈夫よ! 全部私の想定内だから! も、勿論考えていたわ、えぇ!」

 

 カヨコの鋭い言葉に、アルは座ったまま胸を反らして何度も頷く。誰がどう見ても考えていなかった反応だった。しかし、其処に突っ込む者はいない。何故ならそれが彼女のスタンダードだから。

 

「まぁ……こうは云ったけれど安心して、少なくともあの傭兵の中に裏と繋がっている生徒はいないから」

「えっ、わ、分かるんですか?」

「うん、顔は一通り見ていたから、表層を浚うだけでも存外経歴は知れるものだよ」

 

 先生がそう口にすると、アルの目が露骨に輝いて見えた。

 

「す、凄い、これがシャーレの、先生の情報力というものね!」

「……一応さっきまで敵同士だったんだから警戒しなよ、社長」

「あははー! でもそっちの方がアルちゃんらしいよ、それに味方なら心強いし!」

「だから社長と呼びなさい! 社長と!」

「あー、えっと盛り上がっている所悪いんだけれど、もうちょっと聞きたい事があってさ~」

「あ、あら、何かしら?」

「……あなた達を雇ったクライアントについて、教えて欲しいな」

 

 ホシノがそう口にした途端、目に見えてアルの雰囲気が変化した。佇まいを正し、彼女はゆっくりと首を横に振る。

 

「――ごめんなさい、それは云えないわ」

 

 一瞬、静寂が訪れた。

 空気が僅かに張りつめる中、アルは申し訳なさそうな表情で続ける。

 

「これは意地悪で云っている訳じゃないの、校門前でも云ったけれど、単純に契約上の問題」

「まぁ、今回は先生の仲裁で手打ちになったけれど、だからと云って私達がアビドスの味方になったかと云えば、そうじゃないし? 私達が今回手を引いたのは、シャーレの顔を立てたからなんだよ」

「……私達便利屋は、シャーレを敵に回したくなかった、だから先生の条件を飲んで一芝居うった訳、私達はアビドスの敵ではないけれど、味方でもない」

 

 それに、例え縁が切れたとしても顧客情報は売れない。それは商売をする上で最低限の信頼。そう口にするカヨコにホシノは肩を竦め、納得したように頷いた。

 

「……まぁ、会社からするとそっか、うん、それなら仕方ないねぇ」

「でも、先生は知っているんですよね? 便利屋の皆さんから聞けなくとも、先生なら――」

 

 そう云ったアヤネの言葉に、アビドスの皆の視線が先生に集まる。先生は皆の視線を受けながら、ゆっくりと頷いて見せた。

 

「――そうだね、便利屋を雇ってアビドスを襲撃させた黒幕については、見当がついているとも」

「! それなら……」

「けれどこの情報を、今伝える事は出来ない」

 

 その一言に、アビドスの皆は息を詰まらせた。

 渦巻くのは疑念、そして――僅かな不信。

 此処に至って先生が情報を出し惜しむ理由が分からない。しかし、そうもあからさまに情報を隠す行為に何か先生に利益があるとも思えない。

 何か、何か理由がある筈だった――先生ならば。

 不信を上回る、先生に対する信頼が、ゆっくりとシロコに口を開かせた。

 

「先生、それは……何故?」

「私も、意地悪をしている訳ではないのだけれど――」

「それは分かります、先生は優しい人ですから、何か理由があるんですよね」

 

 ノノミの言葉に、先生は頬を掻く。その表情は困ったような、申し訳なさそうな、それでも確かな決意が見え隠れするものだった。

 

「理由は、勿論ある」

「それも云えない?」

「………そうだね」

 

 先生は情報を持っている、けれどそれは云えない。

 云えない理由もある、けれどそれも云えない。

 まるで――はぐらかされている様な感覚。

 先生に対する様々な感情が沸き上がる中、不意に先生は口を開いた。

 

「私は、生徒に嘘を吐かないと誓った」

 

 皆が、先生を見上げた。見返す先生の瞳は、どこまでも真摯だった。

 

「けれど、全てを正直に答えられるかと云えば、そうではない――私の知るあらゆる事を無条件に吐露してしまえば、結果的に最悪の事態を招きかねないから」

「………」

「まぁそうは云っても、納得は出来ないよね、そうだな――皆は、運命を信じるかい?」

 

 とても関連性があるとは思えない、唐突な問いかけ。皆が困惑し、互いに顔を見合わせ疑問符を浮かべた。

 

「……えっと、運命?」

「ごめん、少し抽象的過ぎたね、それなら……そうだ、バタフライエフェクトというものを知っているかな?」

「確か遠い国で蝶々が羽搏くと、此方で台風が起きるとか、そういう感じの……」

「そうだセリカ、ニュアンスとしては間違っていない、私が恐れているのはそれだ」

 

 セリカのふわっとした回答に頷く先生。ノノミは眉間に皺を寄せながら考え込み、先生の意図を汲もうと言葉を紡ぐ。

 

「……私達が今此処で、その情報を知る事が何か、良くない事になって返って来ると?」

「正確に云えば、それが分からないから口に出せない、というべきか」

「んー……?」

 

 セリカが頭を抱え、天を仰いだ。考える事は苦手だった、特にこう、哲学的な分野は。

 

「物事には定まったレールがある、その上を滑る様に進行しているのが現在だ、順序と言い換えても良い、例えば今此処で私が情報をアビドス側に伝えたとしよう、現状それが一番手っ取り早いからね――けれどもし、此処で黒幕の情報が手に入らないとしたらアヤネ、君はどうする?」

「え? それは――」

 

 話を振られたアヤネは、一瞬戸惑う。しかし考えれば分かる事だ。此処で便利屋からも、先生からも黒幕の情報が手に入らなかったら。その場合、情報を調達してくるのは自分となる。その手掛かりは以前、手に入れているのだから。

 冷静に思考を纏め、アヤネは淡々とした口調で口を開いた。

 

「……以前に伝えた通り、件のパーツ流通ルートを洗っていたので、そこからカタカタヘルメット団の背後関係まで辿ると思います、便利屋の方々を雇ったのも、カタカタヘルメット団を雇ったのも、恐らく同一組織だと思いますので」

「うん、そうなるよね――けれど此処で情報を得れば、アヤネのその行程は必要なくなってしまう」

「それは、そうですが……」

 

 先生の言葉に、アヤネは言葉に詰まった。

 

「アヤネちゃんの調査する行程が重要って事ですか? でも調べる行為自体は情報を得る為に行う事ですし、先生にこの場で情報を開示して貰う事と、大して差異があるとは……」

「先生がはぐらかそうとしている訳じゃないって事は、何となく分かるけれど、つまり何が云いたいの!? 自分で頑張るのが大切とか、そういう事!?」

「――ちょっと待って」

 

 ノノミとセリカが難しい顔で声を上げる中、不意にホシノが強い口調でそれを咎めた。その表情は何とも、彼女らしからぬ強張ったもので、威圧感すら放つホシノの言葉にアビドスの面々は口を閉じる。

 先生へと一歩踏み出した彼女は、先生を見上げながら疑念の籠った瞳で告げた。

 

「先生、それは変だよ、先生の云い方だと、『それが正しい』と確信している様な云い方だ……此処で先生に情報を聞き出すのがズルみたいな、アヤネちゃんが流通ルートを調べて黒幕を知るのが【正攻法】みたいな、おじさんには先生の言葉が、そんな風に聞こえる」

「………」

「でもそんなの誰にも分からない、だって、それは『結果ありき』の考え方だ、先生のさっきの云い方、あれじゃまるで、先生は未来予知でもしているみたいに、『結果』が分かって――」

 

 ふと、何かに気付いた様に、ホシノは言葉を止めた。

 少しずつ、ホシノは目を見開く。周囲の生徒が訝しむようにホシノを見るが、彼女は全く気付かない。信じられない予想を得てしまったかのように。ホシノは口元を手で覆った。

 

 未来予知――そうだ、未来予知だ。胸内でホシノは、自身の考えに肯定を返す。

 先生の行動は、まるで世界の先を知っているかの様な動きだったのだ。今回も、以前も、その前も。最初から情報を得ていたというのなら納得できる、しかし、実際にそんな事が可能なのか。

 

 ――異様な情報収集能力を持っている先生なら演算である程度未来が予測可能だと云われても、ホシノは驚かない。寧ろ、あんなトンデモ機能を持つ得体の知れない代物を持っているなら、その程度朝飯前に出来たとしても納得出来る。

 しかし同時に、先生はバタフライエフェクトによる誤差が読めないとも先程口にした。大筋の未来を演算で予測する事は出来ても、細かな揺らぎは観測出来ない? その可能性はある。

 先生が持つあの、不思議なタブレットによる未来予知――未来予測である可能性は大変に高い。

 先生は未来を予測出来る、これは良い。

 

 けれど、なら先生のあの――あの表情は何なのだ?

 

 常に自分達に向けられる、優し気で、暖かで、けれど苦悩と悲しみに塗れたあの表情は。

 酷く絶望的で、退廃的で、もう次の瞬間には消えてなくなってしまいそうな深い暗闇を湛えながらも、一歩一歩、傷だらけになってまで歩き続ける――希望と未来を腹の底から信じている。そんな先生の、あの微笑み。

 

 ホシノは先生の時折浮かべるその表情に、非常に強い疑念を持っていた。

 それは彼を信頼し、ある程度頼っても良い大人だと理解した今でも持ち続けている、喉に引っ掛かった小骨の様な代物だった。 

 

 あの表情は、何かを『知っているから』出来る顔ではない。ホシノはそれを、実体験とし理解している。体で、心で、全身で、【感じて来たから】浮かぶ表情なのだ。

 あの優しさも、苦しみも、絶望も、希望も、全て全て、本物――先生そのものだ。情報だけではない、先生の体験そのものなのだ。

 

 なら、そこから導き出される答えは何だ?

 

 先生は未来を予測出来る、だからこそあらゆる物事に先回り出来る、以前のセリカ誘拐事件も、今回の便利屋の件も――否、そもそもこのアビドスに来た【最初】から、先生は用意周到だった。あの大量の物資も、アビドスがどういう状況なのか、そしてこれから何が起こるかを知っていたなら納得出来る。

 けれど、先生の自分達を見る瞳は、『知っているから』では済まされないような深い情愛と信頼に満ちたもの。

 その二つの間にはズレがある、致命的なズレだ。知っているだけで、人はあんな風に笑えない、あんな寂しそうな表情を浮かべない。

 なら、それなら。

 

 ――先生は【体験した上】で『未来を知っている』?

 

 瞬間、ホシノの顔が真っ青に染まった。

 最悪の想像が――ホシノの脳裏に過ったからだった。

 

「――そうだ……そう考えれば、全部、辻褄が……合ってしまう」

「……委員長?」

 

 ホシノの異様な雰囲気と態度に、アヤネが心配げに声を掛ける。

 その声を歯牙にもかけず、ホシノはゆっくりと先生を見上げた。

 先生は未来を知っている、その上で自分達に向けるあの表情、もし自分の考えが正しいのであれば――この人は今尚、地獄の只中に居る。

 ゆっくりと口を開く。目の前に立つ先生の優し気な表情が、今は酷く遠くに思えて仕方なかった。声を、震わせる、舌を動かす。たったそれだけの事が、今は酷く意思の必要な事だった。

 

「先生」

「……何だい、ホシノ」

 

 真っ直ぐ顔を見据える。先生の瞳は、真剣だった。その力強い視線を向けられると、ホシノの胸がぐっと詰まる。呼吸がし辛い、言葉が紡げない。どうか否定して欲しい、違うと云って欲しい。間違いであると、見当違いであると、そう云って欲しい。

 そんな願いを込めて、ホシノは今にも泣き出しそうな、真っ青な表情で言葉を紡いだ。

 

「先生はもしかして……もしかして、だけれど、【私達】(アビドス)を、既に一度――」

「――それ以上喋るな」

 

 酷く冷たい声が響いた。

 彼らしからぬ、硬く、棘のある声色だった。

 

「ホシノ、その先を言葉にするな、絶対に」

「せ、先生……?」

 

 余りにも唐突な豹変に、アビドスだけでなく便利屋の生徒達も面食らう。それは暖かな陽だまりが、一瞬にして夜へと切り替わったかのような。静かさの中に冷たさがある、柔らかで暖かであった分だけ、その変化は劇的で恐怖に満ちていた。

 

「――私も少し馬鹿正直に話し過ぎた、これは、生徒に背負わせてはいけないと、そう自分で口にしていたのに……全く、愚かな事を、よもや悟られるなんて」

 

 深く――深く、息を吐き出す。

 手で顔を覆い、意気消沈とした雰囲気を醸し出す。しかし、その放たれる気配だけは寒々しい。先生の普段とは異なる、冷酷な瞳に晒されたホシノは息を呑み、無意識の内に拳を握り締めていた。

 心臓の鼓動が、やけに大きく感じられる。

 

「ホシノ、君のその予想を私は正しいとも、間違っているとも云わない、けれど、もし私を想ってくれるのならば――どうか胸の中に秘めていてくれ、永遠に、誰にも漏らさずに、それが……背負わせたくないと、そう願った私の最後の希望なんだ」

「……それが、前に云っていた先生の証なの? 背負っている、重荷なの?」

 

 ホシノが問いかける。震える腕を抑え込みながら、先生の背負っているのであろう、その重荷の――余りの重さを想像し、恐怖しながら。

 

「――そうだよ、私が背負うと決めた、その証だ」

 

 ふっと、先生が口元を緩める。それは確かに笑みだった、微笑みだった。けれど、そこに温かみなど欠片もなかった。

 ホシノはその、先生の背負った重すぎる荷物を前に愕然とした。人ひとりに預ける重さではなかった、只人であれば圧し潰され、精神を病み、その場から一歩も動けなくなる様な――そんな代物の筈なのに。

 

 それでも先生は歩いているのだ、傷だらけで、幾多もの痛みを体に、心に負いながら。立っているのも不思議なほどの傷と荷物を、その決して広くはない背中に背負って。

 

「先生、でも……でも、そんなのって――」

「ホシノ」

 

 先生はホシノの言葉を肯定も、否定もしなかった。けれど、殆ど彼女は確信している。自分自身の予測は、きっと正しいと。

 ホシノは不意に泣きそうになった。先生の境遇に同情したとか、悲壮感を抱いたとか、そんな事では決してない。

 ただ、先生がこれまで歩んできたのであろうあらゆる苦難と、これから起きるであろう修羅の道を想い、胸を掻きむしりたくなる様な衝動に襲われたのだ。誰にもその重荷を分けず、一人で抱え、一人で歩き、一人で救い――先生はきっと、ひとりで死ぬ。

 それは誰とも繋がりを持たないという意味ではない、先生はこの世界で、本当の意味でひとりぼっちなのだ。誰にも知られず、悟られず、全てを救って生きるとは『そういう事』なのだとホシノは初めて理解した。理解して、ホシノは叫びたくなった。叫んで、先生に掴み掛りたくなった。それが、先生の重荷を分けて欲しいからなのか、単純に親愛の情から来る発露なのか――もっと別な『何か』なのか、ホシノには分からなかった。

 ただ不条理だと思った、理不尽だと思った。憎悪を向ける対象を選ぶのならば、先生にこの苦難を強いた『何か』だった。

 

 両手を握り締め、俯いたホシノは今にも零れそうなそれを堪える。ふと、先生の顔を見上げれば――彼は、酷く寂しそうに、悲しそうに、いつも輪から外れ、アビドスの皆を眺める様な笑顔を浮かべて、云った。

 

「頼むよ」

「―――」

 

 その顔を見た時、その寂しげな笑みを、自分にだけ向けられた時。

 ホシノは――何も云えなくなった。

 

 息の詰まった唇を、二度、三度震わせ。何かを云おうとして、飲み込んで。それから無理矢理、張り付けたような、下手糞な笑みを浮かべて、ホシノは先生に云った。

 

「……うへ、おじさん、物忘れ結構激しいからさ、多分、そんなに長くは憶えていないよ」

 

 嘘だ。

 ホシノはきっと、最期の瞬間まで忘れないだろう。

 けれど先生は震えるホシノを見下ろし小さく、助かる、とだけ呟いた。

 

「――え、えっと? つまり、どういう事……?」

 

 異様な雰囲気の中、どこか心配そうにホシノと先生を見るセリカが問いかける。二人の雰囲気に呑まれた部室は、酷く昏く静かだった。そんな空気を払拭する為、ホシノは二度、三度、自身の頬を軽く叩き、いつもの調子を取り戻す。

 

「んー……先生に聞くのは悪手、って事かなぁ」

「……分かりました、それなら私の方で黒幕については追ってみます」

「ごめんね、アヤネ」

「いえ、先生とホシノ先輩の様子から……かなり苦渋の決断である事は察せられましたから」

 

 アヤネがどこか気遣う様に、二人に向かって微笑み掛ける。少なくとも今のやり取りで、ホシノが先生にとって不都合な『何か』に気付いたという事だけは分かった。しかし、具体的な内容は分からない。故にこそ、これ以上踏み込むべきではないとアヤネは判断する。

 そんな先生とアビドスを、便利屋は非常に居た堪れない表情で見ていた。

 

「なんか、私達お邪魔みたいね……?」

「唐突な空気感についていけなーい」

「……空気読みなよ社長」

「……あわわ」

「えっ、私のせい……?」

 

 カヨコに脇腹を肘で突かれ、アルは大きく咳払いを一つ。少なくとも、いつまでも此処に居座る訳にはいかない。

 

「と、兎に角、これで私達とアビドスの確執は無くなったわ! 今後ともよろしく、という事で!」

「何を宜しくするのかは知らないけれどね~」

「いや、何かあったらシャーレ経由で依頼を出すかもしれないから、その時は頼むよ、便利屋の皆」

「え、えぇ! 先生の依頼だったら最優先で受けてあげるわ! 何せ私達便利屋68とシャーレは、えぇと……そう! 共同経営者の様なものだからッ! 具体的に云うと、先生のポストは経営顧問ね!」

「初耳だね」

「多分今考えたんだと思うよ?」

「しゃらっぷ!」

「……まぁでも、先生はそこまで悪い大人には見えないし、隠し事はある様だけれど、そんなの生きているなら当たり前、便利屋として仲良くするのには賛成」

「わわ、私は、アル様――社長の決めた事なら、従います!」

「ふーん――えいっ」

 

 ムツキはそんな便利屋面々を見渡した後、何かを考える素振りを見せ――徐に先生の背中に飛びついた。両腕で先生を抱き込み、そのまま頬を先生の頸筋に擦り付ける。唐突な行動に先生は戸惑いを見せ、至近距離で彼女と見つめ合う。

 

「む、ムツキ?」

「あははー! んっ、重い? 苦しい? ちょっとだけ我慢だよー、先生、ん~♪」

 

 そのまま猫の様に先生の首元に顔を埋めるムツキ。そんな姿を便利屋の面々は、「また何か始まった」という顔で。アビドスの皆は驚愕と羞恥の表情で見つめていた。

 

「な、ななッ!?」

「わー☆」

「むッ……」

「ちょ、ちょっと!?」

「―――」

 

 単純に驚くもの、どこか羨望の色を滲ませるもの、羞恥の感情を見せるもの、戸惑い狼狽えるもの――そして。

 

「なるほどね~……」

「な、何しているんですか! 先生から離れて下さい!」

「わっ、引っ張らないでよー、眼鏡っ娘ちゃん」

 

 アヤネに腕を引かれ、無理やり体を引き離されるムツキ。彼女が行ったのは、単純に先生に引っ付く事によって得られる情報の精査。アビドスの面々が先生に対し、どういう感情を抱いているかを知る為だった。

 分かり易く云えば、『地雷』と【モドキ】の分別。

 そして得られた情報に、ムツキは内心で辟易とした。

 全員が全員、少なくとも先生に執着を覚えている様子だった。そして、先程先生と云い合いをしていた矮躯の少女――確か対策委員会の委員長ホシノと云ったか。

 彼女が一番――……。

 

「誰が眼鏡っ娘ですか! アヤネです!」

「あははー、まぁまぁそんなに怒らないでよ、確執は無くなったんだし仲良くしようじゃん?、私としては先生の事気に入っているし、アビドスのメンバーも結構個性的で好きになれそうなんだよねぇ」

 

 そう云って笑いながら、ムツキは先生の腕を抱きしめる。背中に張り付くのはやめたが、離れるとは云っていない。ムツキ個人としても、下心なしに先生の傍は悪くない心地だった。そんな彼女の笑みを誤解したのか、アヤネは顔を赤らめムキになって叫ぶ。

 

「それと先生に引っ付く理由は別でしょう!? と云うか、また引っ付こうとしないで下さい! 離れて、はーなーれーて!」

「あははは、おもしろーい!」

「はぁ……ムツキ、あんまり遊ばないで」

 

 ムツキとアヤネのやり取りを見ていたカヨコが苦言を漏らす。

 

「取り敢えず社長、一度事務所に帰ろう、クライアントにも報告しないといけないし」

「うっ、そ、そうよねぇ……失敗報告を、クライアントに……うぅ」

「気が重いのは分かるけれど、確りしてよ」

「あ、アル様、もしお嫌な様でしたら、私がビルごと爆破して――」

「絶対駄目! 賠償金で大変な事になっちゃう! 良い!? フリじゃないからね!? そ、それじゃあアビドス校の皆さん、またお会いしましょう!」

「……シャーレが間に入るけれど、依頼位は受け付けるから」

「あはは、じゃあね先生♡ 眼鏡っ娘ちゃーん」

「しし、失礼しました!」

 

 そのまま素早く部室を後にする便利屋。その後ろ姿をアビドスの面々は何とも云えない表情で見送り、呟く。

 

「ん……何だか、凄い人達だったね」

「でも、楽しそうな人達です☆」

「まぁ今は、敵同士に成らなくて良かったと思っておこうかー」

「うぅ、アヤネだって何回も云っているのに……」

「……取り敢えず、装備を一回戻さない? いつまでも完全武装のままって云うのも落ち着かないのだけれど?」

「そうだね、セリカの云う通り、一回弾薬とか倉庫に戻そう」

 

 シロコの言葉に皆が頷き、装備を戻す為に部室を後にする。しかし、その最後尾にいたホシノは不意に足を止め、先生に顔を向けることなく呟いた。

 

「――先生」

「……何だい、ホシノ?」

 

 数秒、間が空く。

 廊下から、シロコ達の話声が響いて来る。

 妙な寂寥感を抱えながら、先生はホシノの言葉を待った。

 

「……先生のその重荷、分けて貰いたいと云う生徒が居るかも知れないって、前に云った事憶えている?」

「うん、憶えているよ」

 

「……おじさん――いや、私も」

 

 

『ホシノちゃん見て見てー! アビドス砂祭りの昔のポスター! やっと手に入れたよ~!』

『えへへ、すっごく素敵でしょうー? もし何か奇跡が起きたら、またこの頃みたいに人がたっくさん集まって――』

『っ、そんなもの、あるわけないじゃないですか、それよりも現実を見て下さいよ!』

『は、はぅ……』

『こんな砂漠のど真ん中に、もう大勢の人なんて来るはずないでしょう!? 夢物語もいい加減にして下さいッ!』

『うえぇ、だってホシノちゃーん……ご、ごめん、ごめんね』

『……ッ、そうやってふわふわと、奇跡だの幸せだの何だの……!』

『あなたはアビドスの生徒会長なんですよ!?  もっと確りして下さい! もう少し、その肩に乗った責任を自覚したらどうなんですかッ!?』

 

『あなたの背中にッ、アビドス全員の命運が乗っているんですよッ!?』

 

 あれは――呪いだった。

 

「――ごめん、何でもない」

「……良いよ、気にしないで」

 

 何かを口にしようとして、けれどホシノは――何も言えなかった。ただ強張った肩を落とし、どこか情けなさそうに、悔しそうに、涙を堪えて震えていた。こんな時に何も云えない自分が、酷く情けなく思えて仕方なかった。

 扉を後ろ手にゆっくりと閉めながら、最後に呟く。

 

「先生は――強いね」

 

 涙声のそれは、扉の締まる音に遮られ、掻き消えた。

 そのまま扉の向こうから、ホシノが走り去る音が聞こえてくる。

 先生は近場にあった椅子に座り込み、両手で顔を覆うと、ふっと、口元を歪めた。

 

 滲み出る感情は、自嘲だった。

 

「こんな、何も救えぬ大人が……強いものか」

 

 ■

 

「おや、何処に行っていたのですか、銀狼さん」

「………」

 

 暗い――暗い部屋。

 どこかのオフィスビルの最上階、誰も踏み入る事無く、明かり一つなく、ただ漆黒を人型に固めたような『何か』と、白銀の髪を持つ長身の女性だけが、その部屋には存在していた。申し訳程度に備えられたテーブルと椅子に座り、いつも通り薄笑いを浮かべる黒いスーツ姿の彼は、女性を見つめながら首を傾げる。

 

「ふむ、ご機嫌斜めの御様子ですが、また『先生』の様子を見に行っていたのでは?」

「――私に話しかけるな塵屑」

「これは手厳しい」

 

 女性の言葉に肩を竦めながら、しかし彼は少しも機嫌を損なわない。

 黒いスーツを着た彼と、黒いドレスの様な衣服を纏った彼女は、この部屋の雰囲気も相まって死人の様な雰囲気を纏っている。静かで、昏くて、冷たい。

 女性はソファに腰を落とすと、踵をテーブルの上に乗せ、手元の拳銃を弄びながら吐き捨てた。

 

「……お前は先生を仲間に引き入れたい、私は先生に安寧を齎したい……利害の一致で共に居るだけ、それ以上でも以下でもない、慣れ合うつもりはないと云った」

「それは勿論、そちらのスタンスは理解していますよ――私としても、貴女の存在は非常に貴重で、大切だ、あぁ、それはそれとして例の件、進めてしまっても宜しいので?」

「……現在進行形の計画を前に、宜しいもクソもあるか」

「しかし、嘗ての御学友でしょう」

「【元】だ」

 

 言葉は強く、明朗だった。

 女性の視線が黒い存在へと向かい、冷酷なそれが淡々と告げる。

 

「先生を救えるなら、この世界の友人など――どうでも良い」

「……成程、素晴らしい成長だ、シロコさん」

 

 瞬間、男の直ぐ真横を弾丸が奔った。

 見ればシロコと呼ばれた女性が、彼に銃口を向けている。目にも止まらぬ早撃ちだった。男は喉奥で笑いながら、ゆっくりと両手を挙げる。

 

「――その名前で呼ぶな、次は殺すぞ」

「それはそれは、ご不快に思われたのなら謝罪しましょう」

 

 誠意の欠片もない謝罪に、女は鼻を鳴らす。

 伸びた銀髪を指先で絡めながら、彼女――シロコは呟いた。

 世界で唯一、想い続ける彼に向かって。

 

「……先生、もう少しだ、もう少しで――私達は」

 


 

 今回、本編に大分力を入れました。皆も性癖暴露大会(感想欄)で自分の純愛(こんな泣き顔見たい)を晒して行ってね! 後書きの種になるから! ネタは何個あっても困らない! 皆の元気(泣き顔)、私に分けてくれ! 待っているゾ!

 

 最初に情緒壊して先生狂いにしようと思ったのはおじさん、君なんだ。ごめんね、最初から好感度高いより、疑って疑って、信じたくても信じられなくて、だからこそ気付けた事実に愕然として、目の前で立派に立っている大人が、実は何度も何度も失敗して傷だらけの背中で、そんな部分を必死に隠して朗らかに笑って見せているのを知って情緒壊れた方が、より深い愛を感じられると私は思ったんだ……。立派な先生ガチ勢におなり、ホシノ……。

 

 うぁァアアアアッ! 待っていてねホシノ、もうちょっとで先生の手足捥いで先生の血でホシノの可愛い顔を物理的に真っ赤にしてあげるからねッ! 黒服登場まで待ってね! ごめんね? 待ち遠しいよね? 先生が血塗れになって這い蹲って、それでも希望を失わずに前に進もうとする姿見たいよね? 色々勘付いて先生の時折寂しそうに自分を見る目とか、皆で騒いでいる時に見せる懐かしそうな顔とか、諸々含めて胸が痛くなる思いがあるよね? どうしてそんなになってまで頑張れるのって思っちゃうよね、諦めて、吐き捨てて、それでも最後の一片は投げ捨てられなくて、先輩の模倣をして、自分の手の届く範囲だけでも必死に守ろうとして、それでも何ともし難い現状に諦観の念すら抱いて、そんな現状を打破してくれる先生は眩しく見えるよね。それも、先生がアビドスだけじゃなくて、キヴォトス全部を守ろうとしている事に薄々気付いて、アビドス(手の届く場所)さえ満足に守れないちっぽけな自分と比べて、本当に目を逸らしたくなる位に先生は輝いて見えるよね?

 

 その気持ちわかるよ、自分が嘗て持っていた希望だとか、信頼だとか、未来だとか、そういうものを只真っ直ぐに、真摯に、愚直に求めて邁進する先生はホシノにとって一等星に限りなく近くて、だからこそ手の届かないお星さまなんだ。眩しくて眩しくて仕方ない、直視すれば目が焼けてしまう位に。

 

 だからホシノは、近付きたくても近付けないんだ。踏み込みたくても踏み込めないんだ、こんなにも輝いているものに自分が触れてしまったら汚してしまいそうで、怖くて怖くて仕方ないんだ。先生の背負っている、人ひとりには余りにも重すぎる荷物を分けて欲しいと思いながらも、その役目は自分には相応しくないとか、くだらないことを考えてしまうんだ! だから陰ながら先生を助けようと思っている、心境としては『一週目』の生徒に近い。知ってしまったからこそ、何も知らないくせに……! という感情が、彼女に芽生え始めるんだッ!

 

 その輝くお星さま(先生)を堕としてあげてぇーッ! 信頼と羨望と希望を見出した先生を血塗れにしてホシノの前に投げ捨ててぇーッ! アビドスの為に文字通り『身を削る』先生の雄姿をホシノに見せつけてぇ~ッ! 

 

 星とて落ちれば石屑同然よ! ほら、拾ってホシノ! 今なら星にだって手が届く! 泥と血に塗れて薄汚れてしまっても星は星だよ! これからはアビドスと先生の事だけ考えて生きて行こう! 重荷だって下ろしてしまえば軽くなる! 世界の命運とかどうでも良いよね、先生と仲間達が傍に居れば他に何もいらないもんね! ゲヘナやトリニティが殺し合いを始めようと、ホシノ個人にとってはどうでも良いから! 碌に動けなくなった先生を匿って生きて行こうッ! どうせ先生は『ブルーアーカイブ(青春)を、もう一度』始めるんだからッ! 一回限りのホシノからすれば、たった一回、たった一度の逢瀬だ! 

 良いじゃないか! 限りある命、限りある人生、限りあるブルーアーカイブ(青春)! 何度も先生はやり直すんだろう? 何度も『はじめから』するんだろう? つづきからは無いんだ! それなら一回位、先生の想いを汲まない、ホシノの自儘な世界があったって良いじゃないか! 抱け! 抱けーッ!

 

 ……けれど、残念ながらこれはバッドエンド世界の話――本編では出来ない、出来ないんだよホシノ……! だからこの話は、此処で終わりなんだ。動けない先生に料理を振る舞おうとして四苦八苦したり、アビドスの皆で車いすの先生を押してピクニックをしたり、柴関ラーメンを放課後、皆でシェアしたり、ボードゲームで白熱したり、ドローンレースで先生が優勝したり、歩けるようになった先生とのんびり温泉に行ってマッサージチェア争奪戦をしたり、海に行って焼きそばやスイカ割りをして、花火をしてみんなで思い出を作って夜空に輝く星に手を伸ばしたり――そういう未来は、存在しないんだッ! 君がッ、選ばなかったからッ! どうしてだホシノ!? どうして選ばなかったッ!? あんなに重そうな荷物を背中一杯に背負って、苦しそうに表情を歪めながら歩く先生を見て何とも思わないのか!? 

 

 その姿は眩しいだろうなぁ、尊いだろうなぁ、自分が出来ない事を現在進行形で続けている優しくて暖かな聖人だもんなぁ! でも本人が望んでいたとしても、それでも苦しそうな先生は見たくはないと、その荷物に手を掛ける事が『弱いホシノ』の出来る、醜悪な愛の証明じゃないのか!? 自儘で我儘で醜くて、ただ自分が苦しむ先生を見たくないからという理由で、今まで背負い続けて来た重荷を自分勝手に奪い去る! それが良いんじゃないかッ! それが美しいんじゃないか! それが愛だ! 何故それが出来ない!?

 

 それが本編だからです。

 先生も生徒も苦しんで苦しんで苦しんで、楽になろうとしなかった、楽にしようともしなかった。自分の為ではなく他者の為に、生徒は先生を想い、先生は生徒を想い、その重荷を背負わせ続け、奪わなかった果てに辿り着いた最後の世界線なのです。

 

 だから誰も先生を救おうとしません、楽にしようとはしません、最期まで苦しんで泣き叫んで藻掻いて足掻いて貰います。

 それが先生の願いだからです。

 それが先生を想い続ける生徒の望みだからです。

 

 諦めれば楽になるのに、先生を楽にしてあげたいのに。

 ――シッテムの箱(契約の箱)なんてものがあるから、先生は苦しむのだ。

 そんな風に思う生徒(クロコ)が居るなんて、先生は考えてもいないんでしょうね。(生徒を信じている。)

 信頼と妄信は別物だと、この先生は終ぞ気付かなかったんだ。

 

 ここ(最後の世界)でやられたら生徒会長の努力が無駄になってしまうぞ先生! 先生頑張れ! 超がんばれ! 手足が捥げようと歩き続けるんだ! 奥歯を噛み砕いても進み続けるんだ! 生徒の為に、キヴォトスの為に、生徒達が笑い合う未来の為に! はー、血を流しながらも歩き続ける先生の何と勇ましく美しい事! 素敵だよ先生♡ その姿を生徒達に一杯見せつけていこうね! ほら、生徒達も応援しているぞ! がんばれ♡ がんばれ♡

 その生徒の死体(救えなかった世界)下ろせば、少しは軽くなるよ先生。

 

 



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闇市にて少女と出会う

誤字脱字報告、ありがとうございます。


 

「お待たせしました、変動金利等諸々適用し、利息は七百八十八万三千二百五十円となります」

「えっと、ではこれで――」

「……はい、確認しました、全て現金でお支払い頂きましたので、今月は以上となります、カイザーローンとお取引頂き、毎度ありがとうございます、来月も宜しくお願いいたします」

 

 スーツを着たロボットは笑顔のアイコンを浮かべ、深々と頭を下げた。そのまま堅牢な現金輸送車に乗り込み、音を立てて出発する。その後ろ姿を、アビドスの生徒達は苦々しい表情で見送っていた。

 その日はアビドスが金銭を借用している相手、カイザーローンの集金日であった。この日の為にせっせと金を稼いでいたアビドスは、集めたそれをカイザーローンに手渡し、何とか今月を乗り切ったのである。

 輸送車が角を曲がって見えなくなった後、皆は一様に溜息を吐いて肩を落とした。

 

「………」

「はぁ、今月も何とか乗り切ったね~」

「完済まで後、どれくらい?」

「三百九年返済なので、今までの分を入れると――」

「あー、云わないで! 正確な数字で云われると更にストレス溜まりそうだから!」

「あはは……」

 

 月の終わりの恒例行事。カイザーローンに金を支払った後は、皆で大抵愚痴大会となる。特にセリカは不満を隠さず、不貞腐れながら口を開く。

 

「どうせ死ぬまで完済出来ないんだし、計算しても無駄でしょ!」

「まー、まー、落ち着きなよセリカちゃん」

「それにしても、カイザーローンは何故現金でしか受け付けないのでしょうね? 態々専用の現金輸送車まで手配して……」

 

 ノノミがそう疑問を零すと、隣に立っていたシロコがハッとした表情を浮かべた。それに気付いたセリカが、ジト目でシロコを見つめる。

 

「現金輸送車――……!」

「シロコ先輩、あの車は襲っちゃだめだよ」

「うん、分かっている」

「計画もしちゃ駄目!」

「……うん」

「何で残念そうなのよ!?」

 

 バレなければ犯罪ではないというのがシロコのスタンス。もしセリカが止めていなければ、シロコは嬉々として現金輸送車を襲っていただろう。心なしかしょんぼりとしているシロコを横目に、ホシノはカラカラと笑って云った。

 

「ま、取り敢えず先に解決するべきは目の前の問題の方でしょ、兎に角一度、教室に戻ろ~」

「そうですね、そうしましょうか」

 

 ■

 

「さて、全員揃ったようなので始めます、まずは、二つの事案についてお話したいと思います」

 

 アビドス対策委員会、部室。

 朝早くの集金を終えた生徒達は、いつもの定位置に座ってアヤネの言葉に耳を傾ける。これは定例会議という程のものではなく、朝の情報共有会の様なものだった。

 

「最初に、昨晩の襲撃の件です」

「あの便利屋の子達だよね?」

「はい、もう襲撃はしないと伝えられてはいますが、一応情報があるに越したことはないと思いまして」

 

 そう云ってアヤネは、タブレットの画面を皆に見せた。ホログラムとして拡大されたそれは、生徒全員の目に入る様に展開され、正面から撮影された便利屋の顔をひとりひとり浮かび上がらせている。

 

「私達を襲ったのは便利屋68と呼ばれる部活です、ゲヘナではかなり危険で素行の悪い生徒達として知られています、便利屋とは頼まれた事は何でもこなすサービス業者で、部活のリーダーの名前はアルさん、自らを社長と称している様です」

「あー、そう云えば事あるごとに何か云っていたねー」

「本人にとっては大事な事なのではないでしょうか? 私には良く分かりませんが……彼女の下には三人の部員が居て、それぞれカヨコさん、ムツキさん、ハルカさんと云うそうです」

 

 ホログラムに表示される四名の部員。本人たちは会社を名乗っているが、実態は兎も角、見目だけならばそれらしくも見える。ホシノはパイプ椅子に凭れ掛かりながら口を開いた。

 

「いやぁ、本格的だ~」

「ゲヘナ学園では起業が許可されているの?」

「いえ、それはないと思います……恐らく、勝手に起業したのかと」

「あら、校則違反って事ですね、悪い子達には見えませんでしたが……」

「それが今までかなり非行を積み重ねてきたようでして、ゲヘナでも問題児扱いされています、依頼の方も破壊工作だとか戦闘行為だとかが中心だそうで、かなりの武闘派です」

 

 まぁ、アビドス襲撃なんて依頼を引き受けるのだから、そうなのだろう。なまじカタカタヘルメット団の様な所属無しの連中ではなく、きちんとしたゲヘナ校在籍というのが中々に面倒だった。場合によってはゲヘナとアビドスの衝突に発展しかねない。

 しかし、その辺りの問題は既に解決済みである。先生との仲裁で再び武力衝突する可能性は低いとホシノは判断した。そこは先生を全面的に信頼している。あの人はきっと、生徒同士の争いを好まない。

 

「まぁ、先生も居るし、そこまで警戒する必要はないんじゃないかな、勿論注意はしておくけれどね?」

「そうですね――では、続きましてセリカちゃんを襲ったヘルメット団の黒幕について」

「っ、分かったの!?」

 

 アヤネの言葉に、セリカが椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。

 

「はい、パーツの型番から流通元を探った所、ブラックマーケットの店舗がヒットしました」

「ブラックマーケット……とっても危険な場所じゃないですか」

「そうですね、あそこでは中退、休学、退学……様々な理由で学校を辞めた生徒達が集団を形成しており、連邦生徒会の許可を得ていない非認可の部活もたくさん活動していると聞きました」

 

 アヤネは顔を顰めながらそう言葉を続ける。

 ブラックマーケット――このキヴォトスの中でもかなりの規模を誇る、非正規市場の一つ。表側では認可出来ない様な危険な重火器、装備品、はたまた戦闘車両や武装ヘリ、戦車、何なら学籍情報や偽装学生証まで売られている、なんて噂を調べる内にアヤネは耳にしていた。

 どう考えても碌な場所ではない。

 

「因みに便利屋68は、そのブラックマーケットで何度か騒ぎを起こしているそうです、依頼内容も大抵、このブラックマーケットやその周辺に集中しているとか」

「とんでもない悪党じゃない……」

 

 そんな危険な場所で活動していると聞いたセリカが、げんなりとした様子で呟いた。

 

「でも、という事はブラックマーケットに何かある可能性が?」

「はい、パーツの出所と、便利屋の活動範囲、二つの出来事の関連性を探すのも、ひとつの方法かもしれません」

「なるほどね、良し、じゃあ決まりだ、ブラックマーケットを調べてみよう、意外な手掛かりがあるかもしれないしねぇ~」

 

 ホシノの一言で方針が決まった。一先ず、そのブラックマーケットに向かって探りを入れる。戦車のパーツを販売していた場所、そして便利屋が主に活動する場所――この二つの出来事が重なった此処にアビドスを狙う『誰か』が居るのかもしれない。まだ確証はないし、取っ掛かりの一つに過ぎないが、何もわからない状態から脱する事が出来たと云うのは大きい。

 ホシノの言葉に皆は強い意志を込め、頷いて見せた。

 

「では、先生に連絡を入れておきます、集合場所は――」

「ブラックマーケットの入り口にしよっか」

「了解しました、では、その様にメールを……」

「お願いします☆」

「――よぉし、それじゃあ、アビドス、しゅっぱーつ!」

「おー!」

 

 ■

 

「此処が、ブラックマーケット……」

「わぁ☆ すっごい賑わっていますね?」

「ん、先生、一応あまり離れないで」

 

 ブラックマーケット入口。

 雑多な建物に囲まれた昏い雰囲気のこの場所は、人の喧騒に満ちている。単純な露天商との商談、客人同士の会話、飲んだくれ、喧嘩の騒音、通話音声、出所は様々。アビドスの生徒達は初めて訪れたアングラな雰囲気に、周囲を忙しなく見渡した。アビドスにはない活気、そして漂う怪しげな空気、雑多で煩雑な音の波、そのどれもこれもが生徒の肌を刺激する。

 皆は自然と、先生を中心に身を寄せ合っていた。

 

「本当に、小さな市場を想像していたけれど、街一つくらいの規模だなんて――連邦生徒会の手が及ばないエリアが、ここまで巨大化しているとは思わなかった」

「うへー、普段私達はアビドスばっかりいるからね、学区外は結構変な場所が多いんだよー」

「ホシノ先輩、此処に来たことがあるの?」

「いんや、私も初めてだねー、でも他の学区にはへんちくりんなものが沢山あるんだってさー」

 

 そう答えたホシノは、口元に指を添えながら何かを考える様に天を仰ぐ。

 

「ちょーデカい水族館もあるんだって、アクアリウムって云うの! 今度行ってみたいなー、うへ、お魚……お刺身……」

「よくわかんないけど、アクアリウムってそういうのじゃない様な……」

「なら今度皆で行ってみようか? 少し遠いから、もしかしたら泊まり掛けになるかもだけれど」

「良いの!?」

「えっ、あ、うん、別段入場料は高くないし」

「やったー!」

「……ホシノ先輩、そんなに行きたかったんだね」

 

 先生が軽い気持ちで誘いを口にすれば、ホシノは飛び上がって歓喜の感情を見せる。アビドスから多少遠いものの、一泊すれば行けない距離ではない。偶には息抜きも必要だろう、特に最近は様々な事で根を詰めているから。

 

「皆さん、油断しないで下さい、此処は違法な武器や兵器が取引される場所です、何が起こるか分かりません」

「まぁ、そうは云っても先生が一緒だし……」

「いえ、先生が一緒だからこそ気を引き締めるべきです、先生の場合、銃弾一発でも致命傷なんですから!」

「うっ……それはそう、かも」

 

 セリカはアヤネの言葉に肩を竦め、そっと先生の傍を固める。アヤネの頭の中では、このブラックマーケットはかなり危険なイメージで固まっているらしい。

 

「でも、先生凄く自然体、もしかして来た事ある?」

「あー、まぁ、仕事でね……連邦生徒会の手が届かない範囲は、シャーレがカバーしないといけないから」

「へぇ、先生も大変なのね」

 

 そんな事を話しながら歩いていると、不意に乾いた炸裂音が空に鳴り響いた。

 それはとても聞き覚えのある――銃声だった。

 

「あ、銃声だ」

 

 シロコがぽつりと呟き、担いでいた愛銃を握り締める。

 音は多少遠かったが、備えるに越したことはないと注意を促す為に皆の方を振り向き――。

 

「皆、一応銃を――委員長?」

 

 ホシノが先生を抱きしめているのを目撃した。

 左手で愛銃のEye of Horus(ショットガン)を構え、右腕で先生を抱え込み、その矮躯に似合わぬ力で抱き寄せている。丁度自身の胸に先生の頭を抱える様にしている為、身長差から先生の体が非常に腰に悪そうな形となっていた。

 想像していなかった絵面に、目を見開いたシロコは数秒沈黙を守った後、口を開く。

 

「……何しているの?」

「あ、いや~、たはは……銃声がしたから、咄嗟に」

「ほ、ホシノ、く、首が、くるし……」

 

 ホシノの胸元に頭を寄せられた先生が、彼女の肩をタップする。ホシノは自分がどんな風に先生を抱き寄せているのかを自覚し、慌ててその手を離した。

 

「ご、ごめん先生、いきなりの事だったからさ、おじさん余裕なくて」

「――いや、守ってくれようとしたんだろう? 感謝する事はあっても、責める事はないさ」

 

 先生はそう云ってホシノに笑みを向ける。

 当の彼女は僅かに頬を赤くし、申し訳なさそうに頬を掻いた。

 先生だけは理解していた、彼女の胸内に渦巻く感情――恐怖に気付きながらも、見ない振りをした。小さく、唇を噛む。そんな感情を抱かせたのは、自分の不徳だからだ。

 

「待てッ!」

「コラ! テメェ、トリニティだろう!?」

「う、うわあああ! まずっ、まずいですー! つ、ついて来ないで下さいぃ~!」

 

 ふと、喧騒の中でも一際目立つ声が聞こえてくる。見ると前方から、何やら誰かが追われている様で、声を撒き散らしながら必死に駆けている少女がちらりと見えた。キヴォトスの住人は足が速く、それは宛ら自動車レースの如く。群衆の隙間から、目立つ金髪が見え隠れする。

 

「あれ……あの制服は――」

 

 アヤネが呟き、眼鏡を押し上げる。

 どうやら彼女達の行き先はアビドスの居る方面の様で、群衆を押し退けながら凄まじい速度で接近していた。あれ、もしかしてこれ、こっちに来る? そうセリカが呟いた時には、殆ど顔の見える距離まで近づいており、先生の目が驚愕に見開かれる。ホシノが咄嗟に庇おうと前に出るも、凄まじいステップでホシノを躱した少女は、その後ろに立っていた先生の元へ、吸い込まれるようにして突貫した。

 

「せんせ、えっ!?」

「わわわっ、そこ退いてください~!」

「え、あ、ちょ、待っ――ごはッ!?」

 

 人の波を宛ら電撃の如く潜り抜けていた少女は、勢いそのままに先生と真正面から衝突した。凄まじい速度で接近していた人影に、反応出来ず先生は少女の下敷きとなり、砂埃を上げながら先生と少女は地面に転がる。

 

「せ、先生!?」

「い、いたた……あッ! ご、ごめんなさい!」

 

 少女が蒼褪めた表情で謝罪を口にし、アビドスの皆が先生の元へと駆け寄る。先生は片腕でタブレットの入った懐を守り、もう片方の腕で少女を抱きかかえていた。痛みの響く背中を隠し、何とか引き攣った笑みを浮かべた先生は言葉を紡ぐ。

 

「い、いや、大丈夫だ、それより皆、戦闘準備を――どうやら彼女、追われているらしい……!」

 

 先生がそう口にすると同時、如何にも『私達、スケバンです』と云った風貌の少女二人組が現れる。スケバン二人は地面に転がった先生と少女を一瞥した後、周囲を取り囲むアビドスの生徒達に気付いた。

 

「あ? 何だお前ら、退け! アタシ達はそこのトリニティの生徒に用があるんだよ!」

「あ、うぅ……わ、私の方が特に用はないのですけれど……」

 

 少女が首を引っ込めながらそう口にすれば、今の今まで思考に没頭していたアヤネがハッと何かに気付き、声を上げた。

 

「っ、思い出しました! その制服、キヴォトス最大規模のマンモス校、トリニティ総合学園のものです!」

「そう、そしてキヴォトスで一番金を持っているお嬢様学校でもある! だから拉致って、身代金をたんまり頂こうって訳さぁ!」

「拉致って交渉! 中々の財テクだろうぉ? くくくッ!」

 

 アヤネの声に便乗する形で、自分達の計画を明かす不良達。拉致と身代金という辺りでシロコの耳がピクリと震えたが、隣のセリカが肘で脇腹を突く事で阻止に成功する。

 

「どうだ、お前たちも興味があるなら計画に乗るか? 身代金の分け前は――」

「シロコ、ノノミ」

「ん」

「はい☆」

「……あん?」

 

 先生が少女を抱えたまま二人の名前を呼べば、ゆっくりと頷いたシロコ、ノノミ両名が音もなく不良の背後を取った。そして愛銃を振り上げると、不良の首元目掛けて振り下ろす。ノノミの方は愛銃が愛銃なので、ガコンとも、ドゴンとも取れる鈍い音を搔き鳴らし、不良の頭部が左右に揺れた。

 

「うごぉッ!?」

「あだァッ!?」

「悪人は懲らしめないとです☆」

「うん」

「あ……えっ?」

 

 倒れ伏した不良を前に、金髪の少女――ヒフミは右往左往するのであった。

 

 ■

 

「あ、ありがとうございました、皆さんが居なかったら学園に迷惑を掛けちゃうところでした……その、こっそり抜け出して来たので問題なんて起こしたら……あぅ、想像しただけでも……」

 

 何度も頭を下げ、早口でそう事情を捲し立てたトリニティの少女、ヒフミ。

 ひらひらと手を振りながら、「なんてことはない」と口にする先生は、彼女に怪我が無かった事に胸を撫で下ろした。

 

「えっと、ヒフミちゃんだっけ~? トリニティのお嬢様が、どうしてこんな危ない場所に来たの?」

「あはは……それはですね、実は探し物がありまして、もう販売されていないので購入出来ない代物なのですが、ブラックマーケットでは密かに取引されていると聞いて――」

 

 どこか困り顔でそう口にするヒフミに、アビドスの面々はぴくりと眉を動かす。ブラックマーケットでの探し物、更には通常販売されていない代物、となれば――。

 

「もしかして、戦車?」

「もしくは違法な火器?」

「違法薬物とかですか?」

「えっ!? い、いいえ……そんな物騒なものではなくて、えっとですね、ペロロ様の限定グッズなんです」

「ペロロ……?」

「はい、これです!」

 

 大半の生徒が首を傾げる中、ヒフミは背負っていたバッグの中から奇妙な縫い包みを取り出し、皆に差し出した。

 

「ペロロ様とアイス屋フォーティーワンさんがコラボした、限定の縫い包み! 限定生産で百体しか作られていないレアグッズなんですよ!」

 

 そう云って差し出された縫い包みは――どう見てもアイスを口に詰め込まれて窒息している様にしか見えない、奇妙なペンギンとも、ニワトリとも見える人形であった。今にも飛び出しそうな眼玉や、垂れ落ちた舌が何とも言えない愛嬌――愛嬌? を醸し出している。

 

「ね、可愛いでしょう?」

「………」

 

 セリカやシロコ、ホシノ、アヤネと云った面々は差し出されたそれを見て、言葉に詰まる。可愛い、可愛いのかこれ? そんな表情を浮かべ、周囲を見渡す。幸いにして自分の感性が死んでいる訳でもなさそうで、自分の他にも似たような反応を返している仲間が居ると、少しだけ安堵の色を見せた。

 

「わぁ☆ モモフレンズですね! 私も大好きです! ペロロちゃんかわいいですよねぇ、私はミスター・ニコライが好きなんです」

「分かります! ニコライさんも哲学的なところがカッコよくて! あ、最近出たニコライさんの本、『善悪の彼方』も購入しました! 勿論、初版で!」

 

 反し、ノノミはそのペロロ様と呼ばれた人形の愛嬌が理解出来るらしく、ヒフミと手を取り合い意気投合していた。その様子を見ていた他のアビドスの面々は、何とも言えない表情でその背中を見守っている。

 

「……いやぁ、何の話かおじさんさっぱりだぁ」

「ホシノ先輩、こういうファンシー系に全く興味ないでしょ」

「うむ、最近の若い奴にはついていけん」

「歳の差、ほぼないじゃん……」

 

 自称おじさん、後頭部を掻きながらカラカラと笑う。

 そんなやり取りを繰り広げながら、何となく打ち解けたヒフミとアビドスは何故彼女が不良達に追われる事になったのか、その経緯を細かに聞く事と相成った。

 

「――という訳で、グッズを買いに来たのですが先程の人たちに絡まれて……皆さんがいなかったら、今頃どうなっていた事やら」

「それは何とも、大変だったね」

「あはは、そうですね……えっと、ところでアビドスの皆さんと先生は、何故こちらに?」

「私達も似たようなものだよ、探し物があるんだ~」

「そう、今は生産されていなくて手に入れにくい物なんだけれど、此処にあるって話を聞いて」

「私と一緒ですね、何をお探しに?」

「それは――」

 

 先生が答えようと口を開き、しかしふと――先生は言葉を止めて頭上を仰いだ。それから数秒、固まった先生はじっと虚空を睨みつける。それを不思議に思ったアヤネが先生の袖を引っ張り、問いかけた。

 

「……あの、先生?」

「――アヤネ、上空にドローンを飛ばして」

「えっ?」

「頼む」

「あ、は、はい!」

 

 急な要請であったが、アヤネは先生の言葉を疑う事無く、背負っていたバッグからドローンを取り出し浮上させる。先生が無駄な指示を出す事はないという信頼と、こういう指示をするからには何か――潜在的な敵勢力が迫っているのかもしれないと、アヤネは考えた。ある程度高度を取ったドローンから映像を受信し、眼鏡のディスプレイに表示した彼女は、タブレットでドローンの向きを変えながら周辺を観察する。

 

「何が見える?」

「い、いえ、別段、これと云ったものは、周囲の人混みが見える位で――」

 

 そう云いながらタブレット上で指を躍らせていたアヤネは、しかし群衆の中で妙な動きをしている一団が居る事に気付いた。人影に塗れた街は、一見するといつも通りに見える。だがその中で、幾つかの塊が一つの方向に向かって進んでいるのだ。

 進んでいる場所は――此処だ。

 

「あれは――皆さん、四方から武装した集団が多数! 此方に向かって来ています!」

「はぁッ!?」

 

 唐突な敵襲報告に、セリカは素っ頓狂な声を上げる。先生はヒフミの肩を掴むと、タブレットを取り出しながら近場の建物を指差した。

 

「総員戦闘準備! 大通りで戦うのは得策じゃない、籠城する、あのビルを陣取ろう、ヒフミ、こっちへ!」

「えっ、あ、わ、分かりました!」

 

 ヒフミは先生に手を引かれるまま、外壁にグラフィティの散乱した、三階建ての雑居ビルに避難する。中途半端に開いていたシャッターを押し上げ、近場の廃棄された空の商品棚やら何やらを押し倒し、即興の弾避けとする。

 ヒフミに銃を準備するように言い含めながら、先生はタブレットのアプリを起動させた。

 

「アロナ!」

『はいッ! 状況開始、オペレーティングシステム、戦術指揮モード起動します!』

 

 瞬間、先生を中心に青白い電磁波が広がる。それに触れたアビドスの生徒、そしてヒフミは手足に一瞬の痺れを感じ、そして数秒後には視界一杯に敵の位置や装備が表示される。アビドスの生徒は慣れたものだが、ヒフミは初めての事に驚愕し、視界に映ったサポート情報を手で払おうと、あちこちに腕を振り回していた。

 

「わ、わぁッ!? な、なんですかコレぇッ!?」

「落ち着いて、これは先生の指揮能力、敵の位置とか残弾とか地形、飛来する弾丸の予測線、被弾率、命中率、諸々全部わかる、とても便利」

「便利で済ませられる能力じゃないと思うけれどねぇ~」

「わわ、あわわッ……」

 

 ヒフミはシロコに肩を叩かれ、何とか平静を取り戻す。その間、セリカは建物の裏口や窓を封鎖し、遠くから接近する赤い輪郭――不良達の数に辟易とした。

 

「うわ、めっちゃ居るじゃない……!」

「先程撃退したチンピラの仲間の様ですね」

「望むところ」

「うへー……」

 

 全員が戦闘態勢を整え、安全装置に手を添えていると、遂に群れを成した不良集団が雑居ビルを占拠したアビドスを発見し、叫んだ。

 

「居た、あいつ等だ!」

「よくもやってくれたなァ! 痛い目に遭わせてやるぜッ!」

「いっちょ前に備えやがって、覚悟しろよッ!」

 

 そんな事を口々に言い放ち、空に向かって銃撃を繰り返す。そうしていると周囲に居た群衆が悲鳴を上げて逃げ去り、先生は隣で銃を胸に抱きしめながら目を白黒させているヒフミに語り掛けた。

 

「ヒフミ、戦えるかい?」

「あぅ……ちょ、ちょっと吃驚しましたけれど……だ、大丈夫です! 私にはペロロ様が付いていますからっ! それに、この先生のサポートがあれば私でも――!」

 

 そう云って息を呑み、ぐっと強く頷くヒフミ。銃を持ち直した彼女は、先生を真っ直ぐ見て不格好にも笑って見せた。それを見た先生も笑みを零し、タブレットを掲げ皆に告げる。

 

「良し、それじゃあ――アビドス&ヒフミ、戦闘開始だ!」

「おーっ!」

「お、おーっ!」

 


 

 

【サオリ√】

 

 

「漸く、見つけた――」

 

 不意に、声が聞こえた。

 聞きたくもない――怨敵の声だった。

 ゆっくりとユウカは振り向く。その両手で、愛銃を握り締めて。

 果たして、崩れ往くミレニアムの中で姿を現したのは――見覚えのある制服を羽織った、一人の生徒だった。

 

「……アリウススクワッドの、サオリ」

「その名で呼ぶな」

 

 少女、サオリが酷く冷たい声で告げる。彼女は羽織った嘗ては純白であった制服――血が染みつき、赤黒く変色した先生の(シャーレ)制服を掴んだ。

 ユウカの顔が、目に見えて歪む。その制服は、彼女にとって幸福の象徴だったから。

 

「私達は、シャーレだ」

「……シャーレはもう、存在しないわ」

「いいや、私達が存在する限り、シャーレはなくならない、なくなる筈がない」

 

 声には力が籠っている。そう確信しているのだ――少なくとも、彼女の中では。

 煤に塗れた愛銃を垂らし、サオリは呟く。 

 

「ミレニアムのセミナーも、貴様で最後だ」

「どうして――」

 

 意図せず、声が震える。

 漏れ出そうとする感情に蓋をしながら、ユウカは目の前のサオリを睨みつけ、云った。

 

「どうして、先生の守ったキヴォトスで、こんな真似を」

「どうして?」

 

 ぴくりと、サオリが震える。

 ゆっくりと銃口をユウカに向けた彼女は、殺意の籠った視線を向けた。口調は淡々としていた、しかし込められた感情は――激烈であった。

 

「それは此方のセリフだ、何故先生を殺した、殺す必要があった?」

「……知っているでしょう、そうするしかなかった、それが先生の望みだった、先生はその身を擲ってでも、このキヴォトスを救いたかった――それを、アナタは!」

「私は、先生が死ぬ位ならば、キヴォトスなど、どうでも良かった!」

 

 叫び、一歩踏み出したサオリの表情が炎に照らされた。憎悪と、悲壮と、後悔と、憤怒――極彩色の悪感情に彩られたそれを見たユウカは、痛い程に唇を噛み締める。

 

「エデン、楽園、この箱庭が何れ辿る天上? そんなものに興味はないッ! 先生の居ない世界になんの価値がある!?」

「それは先生の存在を否定する事よ! 先生の守ったこの世界に価値がないなんて、そんな事は云わせないッ!」

「そう思いたいだけだろうがッ! 先生を殺した上で救われたこの世界は、先生よりも価値があるとッ! そう思わなければ自分を保てない、弱い貴様の理論武装だッ!」

「―――!」

「恩に仇を、救済に殺戮を、親愛に殺意で以て答えた貴様らに、生きる価値などあるのか!? 先生がその命を賭して救う価値などあったのか!?」

 

 熱風が、サオリの制服を弄んだ。

 はためくそれを背に、彼女は両手を広げる。

 背後には――燃え盛るキヴォトスがあった。

 

「――見ろ、このキヴォトスを! 先生を喪い、失意に沈む、学園同士で殺し合うッ! この醜い醜い生徒(子ども)の姿をッ!」

 

 炎に沈むミレニアム、崩れ落ちたタワー――サオリの背後で煌々と照らされるそれに、ユウカは唇を噛み締める。

 何もこれは、ミレニアムのみの話ではない。ゲヘナも、トリニティも、百鬼夜行も、レッドウィンターさえ、今は秩序を喪っている。学園内、外問わず罵り合い、殺し合い、命を奪い合う。連邦生徒会の行政権は喪われ、シャーレは事実上の解体、最早誰がトップで誰が敵で味方なのかもわからない。

 

 これが、先生の望んだ結末なのか。

 これが、先生の守った世界なのか。

 

 こんなモノの為に――先生は死んだのか。

 

 サオリは顔を覆い、しかし殺意に満ちた瞳だけはユウカから離さず、叫んだ。

 

「こんなものが――先生の救いたかった世界の筈がないッ!」

「それでも――ッ!」

 

 ユウカは、叫んだ。

 血を吐く思いで、叫んだ。

 

「あの人は、信じていた! 自分が例え斃れても、自分が消えた世界でも、私達は、天使(子ども)は、その幼年期の終わりを迎えられると――! どれだけの苦難があっても、どれだけ険しい道でもッ! 歩いて行けるって!」

 

 胸元を掴む。強く、掴む。

 先生との思い出を脳裏に描くだけで苦しい。息が詰まる、心が渇く。忘れたい、全てを投げ捨てたい、涙を流して悲観に暮れるだけの生き方が出来るなら、どれ程良かった事か。

 けれど、それは出来ない。それでも彼女は前に進むと誓ったのだ。最後に自分を見た、あの笑顔を――裏切る事は、絶対に。

 

「あなたは、その信頼を裏切ったッ!」

「死者の願いを捏造するなァッ!」

 

 振り被ったサオリの拳が、ユウカの頬に突き刺さった。

 全力で放たれたそれはユウカを数歩後方へと押しやり、蹈鞴を踏んだユウカの胸元を、サオリが勢い良く掴む。炎が彼女の表情を照らす、間近で見えたそれは悍ましくも美しく、ユウカに対する殺意と憤怒に塗れていた。

 

「許しが欲しいだけだろうがッ! 託されたと思いたいだけだろうがッ! 先生の死に意味があったと、仕方がない事だと、あれこれ理由を付けて正当化したいだけだろうがッ! お前たちのやっているそれこそが、先生の想いと願いを踏みにじる行為だと何故理解出来ない!?」

「それはっ、アナタでしょうッ!? いつまでも過去を見続け、前に進もうとしないッ! 先生は未来を求めた、私達の未来の為に死んだんだッ! その屍を無意味に、無惨に踏み躙っているのはアナタだッ! 先生の死を、無意味なものにしないッ! ――その為に私は此処に居るッ!」

「死が無意味ではないと思っている時点で、貴様は間違っているんだよッ!」

 

 再び、サオリが拳を振り上げる。ユウカはそれを、辛うじて受け止めた。至近距離で見つめ合い、取っ組み合う。双方の視線が交わり、回った火の手が二人の姿を浮き彫りにする。憎悪と殺意に塗れた視線が、交じり合う。

 

「虚無だろうがッ! 無意味だろうがッ! 死に意味などあって堪るか、死を然も尊いものであるかのように語るなッ! 死は終わりだ、虚無だ! ――仮に、仮にそれがッ! どれ程価値あるものだとしても、私は生きて、先生に隣に居て欲しかったッ!」

「私だってッ――!」

 

 叫び、ユウカがくしゃりと顔を歪め、思い切り頭を振り被った。全力の頭突き、それはサオリの鼻頭に直撃し、サオリの顔面が仰け反る。そのままサオリの胸元を掴み返し、跳ね戻った顔面に拳を叩きつける。ユウカの拳に、赤が舞った。

 

「出来るならそうしたい、そうしたかったッ! けれどそうはならなかった――出来なかったのッ! だからこうして前を向いてッ、傷だらけになりながら歩いているんでしょうがッ!?」

 

 ユウカは涙を流し、叫ぶ。

 それは慟哭だった、それは懺悔だった。最早届かぬ、許しを請う叫びだった。

 

「どれだけの苦難が襲い掛かっても、どれだけの時間が掛かっても! 私達は止まらない、止まれない! あの人に、そう願われたのだから、止まる訳にはいかない――! それが、私達に課せられた、使命だからッ!」

「……やはり貴様らは、云っても分からないか!」

「最初から、そうでしょう――錠前サオリッ!」

 

 銃声が轟く。至近距離でサイドアームを抜いたサオリが、ユウカの腹部目掛けて数発、打ち込んだ。鈍痛と衝撃に仰け反ったユウカを蹴飛ばし、サオリは素早く後退。愛銃を構える。

 ユウカも撃たれた腹部を庇いながら、愛銃を突きつけた。

 燃え盛るミレニアムの中心で――二人は対峙する。

 

vanitas vanitatum.et omnia vanitas.(虚無の空、すべては虚なり)――『それでも』と云える貴様達は、光の存在なのだ、だからこそ私は……ッ!」

「完璧から程遠くても、最善じゃなくてもッ! より良い方向へ向かおうとする意志を、失くしちゃ駄目なの……っ! だから私は……ッ!」

 

 視線が交わる、銃口が揺れる。

 一際大きな炎が音を立てた時、二人の指先が引き金を絞った。

 最期に見えたサオリの表情は――一粒の涙を流していた。

 

「――お前達()を信じていたのにッ!」

 

 

 この後相討ちして、両方とも先生に泣いて謝りながら死んだ。

 

 サオリエンドのその後が見たいから書いてね、すぐでいいよ、とメールが三通位来たので、多分こうなるんじゃないかなぁ~と思いながら書きました。と云うか先生が殺害された世界線はどこもこんな感じで生徒vs生徒の殺し合いになります。この中に放り込まれるダークライ可哀そう……。まぁでも死んだ先生が悪いからしょうがないね。

 

 うぅ、生徒達が戦って傷付く姿みたくない……でも先生モギモギした後はもれなくこの地獄が待っているから……嫌な事でもやるのが大人の条件って誰か云っていた様な気もするし、私頑張って書くよ、うぅ先生、生徒しぬとこみてて……。

 

 心が痛いよォ、何でこんな事するんだよぉ、人の心とかないんか?

 可哀そうだから二人共走馬灯で先生とイチャラブしていた頃の記憶見せてあげるね。おうちデートでもお外デートでもハナコッ! でも自由にしてね、どうせ夢だし。

 

 次からはいつも通りの多分書き殴りに戻るよ! その内後書きの内容清書して、ちゃんとストーリーにして出したいね! いつになるかは分からないよ! でも多分、サクラダファミリアが出来るよりは先だよ! 約束する!

 

 はー、ノアがセミナー裏切った後に、ユウカ率いるミレニアム勢にシャーレ襲撃させて、ヘイローを破壊されたノアに、血を流しながら這い蹲って手を伸ばす先生を見せつけてぇ~。

 苦しそうに顔を歪めながら手を伸ばす先生に、ノアに対する愛情だとか執着だとか、そういうものを感じ取って、自分は最後に見向きもされないのかって、奈落の様な黒い感情を植え付けてぇ~。このユウカを過去に送ったらノアを親の仇みたいな目で見そう。

 ノアとユウカの絡み書きてぇ~。マリーの信仰マシマシ背徳先生執着話も書きてぇ~。絆ストーリー追加されたアスナの無自覚先生殺害話も書きてぇ~。というかC&Cの話全部書きてぇ~。

 書きたいのあり過ぎて死にそう。書きたいというか読みたいの、そもそも私が読みたくて書き始めたんだわコレ。誰か私の代わりに書いて、ペロロ様の靴下あげるから。

 

 

 



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交じり合う糸

 

「ぐぇー……」

「いだァーッ!?」

「ひ、退け! 退け!」

「一旦退却だ!」

「な、なんだこいつら、未来でも見えてンのか!?」

 

 一度の戦闘時間は凡そ十分足らず、押し寄せて来た不良達を千切っては投げ、千切っては投げ――そもそも組織だった攻撃ではなく、近場に居た不良達が集まって兎に角突撃という形だったので、撃退自体はそれほど難しくはなかった。

 しかし、問題は別にあり――。

 

「敵、後退していきます! えっと、後方に増援、数は――」

「また来たの? 上等、幾らでも相手してあげる!」

「ま、待って下さい! これ以上戦っちゃ駄目です!」

 

 シロコが闘志を燃やす中、不意にヒフミが声を上げる。心なしか、表情には焦燥が見て取れた。彼女は撤退していく不良達の背中を見送りながら、セリカが封鎖した裏口を指差して云う。

 

「ブラックマーケットで騒ぎを起こすと、此処を管理している治安機関がやって来ます! そ、そうなったら本当に大事です、大分時間も経ちましたし、まずはこの場から離れて――」

「むぅ……此処の事はヒフミちゃんの方が詳しいから、従った方が良いかも……だよね、先生?」

 

 ホシノがそう口にしながら先生を見れば、タブレットを操作していた先生も小さく頷いて見せた。どちらにせよ、ずっと此処に籠城する訳にもいかない。ブラックマーケットの治安機関が素直に云い分を聞くとも思えないし、面倒事は回避するに限る。判断は早かった。

 

「そうだね、そろそろ潮時だ、私達も撤退しよう」

「ちぇっ、了解」

 

 セリカが唇を尖らせ、銃を担ぎ直す。いちゃもんを付けて来た不良を蹴散らすのは、存外面白かったらしい。ヒフミは施錠されていた裏口の扉を開けると、外を覗き込んで不良達が待ち構えていない事を確かめ、皆に呼びかけた。

 

「こっちです!」

「よし、ヒフミを先頭に撤退しよう、ホシノ、ヒフミに付いて行って、アヤネとノノミ、私が中腹、セリカ、シロコ、殿を頼む」

「分かった」

「はーい☆」

「りょーかい!」

 

 ■

 

「はぁー……此処まで来れば大丈夫でしょうか」

 

 十分か、二十分か。

 不良達の警戒網を抜け、人混みに紛れたアビドスとヒフミ一行は、背後から追って来る影が無い事を確かめ、深く息を吐き出す。先生は最後尾で息を荒げ、その背中をノノミが優しく摩っている。そんな先生を眺めながらホシノは苦笑を零し、ヒフミに向けて口を開く。

 

「それにしても、ヒフミは此処を随分危険な場所だと認識しているんだね、凄い警戒心だ」

「えっ、それは……当然ですよ、連邦生徒会の手が及ばない場所の一つですし、ブラックマーケットだけでも学園数個分の規模に匹敵しますから、決して無視は出来ません」

 

 そう口にして頷くヒフミの表情は真剣だ。土地の広さが全てとは云わないが、これ程までに活発な経済区画を持つブラックマーケットは最早一つの勢力と云って良い。連邦生徒会の手が回っていないのは、此処の上層部が『そういう風に手を回している』可能性すらある。連邦生徒会長が失踪した現在、連邦生徒会の内部はガタガタで、ブラックマーケットにも付け入る隙が出来ていた。監査や調査官に金を握らせて抱き込むなり、或いは他所の自治区で騒ぎを起こして目を逸らすなり、キヴォトスはその手の話題に事欠かない。金と云うのはこのキヴォトスに於いても分かり易い力の一つであった。特にアビドスはその事を良く知っている。

 

「それに様々な企業がこの場所で違法な事柄を巡って利権争いをしていると聞きましたし、ブラックマーケット専用の金融機関や治安機関がある程ですから」

「ぎ、銀行や警察があるって事!? そ、それって勿論、認可されていない違法な団体だよね!?」

「はい、勿論です」

 

 セリカはヒフミの言葉に驚愕の色を見せた。認可されていないとは云え、独自の治安機関を持ち、銀行等の金融機関も保有している。それは本来、自治区が持つ機能の一部であり、ノノミは難しい表情で呟く。

 

「ブラックマーケットだけで運営される銀行や警察だなんて、まるで一つの『学園』――自治区ですね」

「えぇ、中でも特に治安機関は兎に角避けるべきでして、騒ぎを起こしたらまずは身を潜めるのが一番です」

「……ふ~ん、ヒフミちゃん此処の事、詳しいねぇ」

「えっ、そうですか? でもまぁ、その、ペロロ様のグッズの為に何度か足を運んでいるので……」

「なるほどねぇ……良し、決めた!」

「……?」

 

 ホシノが手を打つと、ヒフミは目を瞬かせながら疑問符を浮かべた。

 

「助けてあげた御礼に、私達の探し物が手に入るまで一緒に行動してもらうねー♪」

「え……ええっ?」

 

 ホシノが口にしたのは同行依頼――それも口ぶりから恩を盾にした強制同行である。ヒフミは唐突な宣言に驚きの声を上げ、しかし背後のアビドス勢は、それは良い考えだとばかりに頷いて見せた。

 

「わぁ☆ 良いアイディアですね!」

「成程、誘拐だね」

「はいッ!?」

 

 誘拐という物騒な単語にヒフミの体が固まる。もしかして私、とんでもない人達に助けられちゃった? と若干涙目になった。そんなシロコ達の言動に、セリカは呆れ顔で告げる。

 

「誘拐じゃなくて案内をお願いするだけでしょ? 勿論、ヒフミさんが良ければ、だけれど……」

「あ、うぅ……私なんかでお役に立てるかは分かりませんが、アビドスの皆さんにはお世話になりましたし、それ位なら、まぁ」

「そっか、助かるよ、ヒフミ」

「あぅ」

「よーし、それじゃあ、ちょっとだけ同行頼むね~」

 

 ■

 

「――ふむ」

 

 デスクの上の報告書を眺める巨躯――ギシリと椅子を鳴らしたカイザーPMC理事は、その四本のアイラインを煌々と光らせながら報告書を放る。数枚の紙面にはとある高等学校の生徒五名の顔写真と、それぞれの使用する兵装、数値化された凡その戦闘力が記載されていた。

 隣り合う形で放られた紙面に、便利屋68の顔写真と同じく数値。それらを見比べ、理事は顎を指先で擦る。

 

「興味深い報告だ、戦力分析は確かだった筈だが……計算ミスか? しかし――」

 

 呟き、デスク上の紙面を見つめる。態々電子媒体のそれを印刷してまで紙に認めたのは理由がある。戦力分析は確かな筈であった、カタカタヘルメット団を幾度となくぶつけ、彼女達(不良)の数値を基準としてアビドスの戦力を測った。その測定値は、アビドスと便利屋では後者に軍配が上がる――そうなる筈であったのだ。

 しかし、実際は敗北。そして便利屋から告げられたのは、以降アビドスに対し戦闘行為を行う意思はないというもの。事実上の依頼放棄――別段、弾薬費用、装備諸々全て自費負担だった為、PMC側としてマイナスの要素は一切ない訳だが、戦力としては勝る便利屋が依頼を放棄してまで戦闘を拒否するアビドスに、理事は何か『強い干渉』を感じ取った。

 

「――お困りの様ですね?」

「………」

 

 不意に、声が響く。

 見ればいつの間にか、オフィスの中に黒いスーツに身を包んだ――人型の闇としか表現できない人物が立っていた。理事は一瞬その存在に目を向け、それから再び紙面に視線を落とす。

 

「……いや、困ってはいない、ただ計算に少々エラーが生じた、アビドスの連中の戦力が予想より強かった、それだけの事だ――」

「ふむ……」

 

 彼――黒服は小さく唸ると、足音を響かせながらデスクの前に立ち影を落とす。そして理事が見つめている紙面に目を向けると、徐に口を開いた。

 

「いえ、このデータに不備はありませんよ」

「……何?」

 

 理事が顔を上げ、黒服を見る。

 

「これは単に、アビドスの生徒が更に強くなった、と解釈すべきかと」

「……馬鹿な、データは直近のものだ、そう簡単に強くなるなどありえん」

「――急激な成長には理由がある筈です、或いは、何らかの外的要因があるのやもしれません」

「外的要因だと?」

 

 理事がアイラインを細めると、黒服は何かを考え込む素振りを見せ、それから理事に向かって助言を一つ零した。

 

「存外一月、いえ、数週間もあれば変わるものですよ、一度、アビドスに探りを入れてみるのも良いかもしれませんね」

「………」

「では、失礼」

 

 云うだけ云って、黒服は闇に溶けるように消え去る。それを見届けた後、理事は再び椅子に体を預け、紙面を指先で叩きながら小さく呟いた。

 

「……アビドスに手を貸す何者かが居る、という事か?」

 

 ■

 

「………」

「あ、アル様、大丈夫ですか?」

 

 場所は便利屋68事務所――学生の身分にしては少々立派な事務所の中に、便利屋の面々が思い思いの姿で過ごしていた。そして肝心のリーダーであるアルはというと、一人執務机に座り白目を剥いている。そんな自分達のボスの姿に、ソファに寝転びながら端末を弄っていたムツキが対面に座るカヨコへと問いかけた。

 

「アルちゃん、白目剥いちゃっているけれど、どうしたの? いや、いつもの事と云えばそうだけれどさ~」

「……今月の資金収支計算書を提出しただけ」

「あ~……」

 

 カヨコの淡々とした口調に、ムツキは何とも云えない表情で声を漏らす。

 今月の収支を考えると、どう考えても明るい未来が見えない。ムツキはその現実をまざまざと突き付けられたアルの脳内を想像し、くふふと笑みを浮かべた。

 

「まぁ傭兵に支払った分は戻って来たけれど、元々そんなにお金がある訳でもなかったしねぇ」

「今回の大口依頼を逃したから、次の依頼も決まっていないし、当面収入の宛ては無し、この事務所の維持費用だけでも結構持っていかれるから銃の整備費用とか弾薬費もカツカツ……」

「あはは、見栄を張ってこんな高いオフィス借りているからだよー」

「だ、黙りなさいよ! みんなうるさい! 静かにッ!」

 

 カヨコとムツキの辛辣な言葉に、機能を停止していたアルが再起動を果たし、バンバンと机を叩く。そして椅子に勢い良く座り直すと、ペンを片手に頭を抱えた。

 

「くぅ~、今回の依頼でかなり大金が入ると見込んでいたから、ちょっと色々買い込んじゃったし、装備も一新してツケが……スケジュールも空けちゃったから依頼も来ない、今月はギリギリ何とかなるとしても、来月は予算が――」

「取り敢えずこの事務所引き払ったらー? 私は前みたいに公園でテント生活でも良いよ?」

「あ、アル様、私がバイトで稼いできましょうか?」

「……それじゃ根本的な解決になっていないよハルカ、それで良いなら便利屋じゃなくてフリーター」

 

 カヨコの言葉に、アルは机にへばり付く。このままでは駄目だ、装備はあるのに依頼がない。そうだ、装備、戦力自体は一級品の筈なのだ。私達は強い、とても強い。だから依頼さえ来れば何とかなる、アビドスとか風紀委員会に喧嘩を売る以外であれば達成出来る。

 アルはそう考え、取り敢えず今月――今月だけでも乗り切ろうと決め、立ち上がった。

 

「――融資を受けるわ」

 

 アルの唐突な一言に、ムツキとカヨコは顔を見合わせる。

 

「は? アルちゃんブラックリスト入りしているでしょ」

「違うわよ! 私は指名手配されて口座が凍結されただけっ!」

「そうだっけ? ……あぁ、そうだった、風紀委員会にやられたんだよね」

「くっ、風紀委員会め、嫌がらせに関しては本当に的確よ……!」

「でもどこで借りるのさ? 中央銀行も、出向いた所で門前払いだと思うよ~?」

「う、うるさいってば! 他にも方法はあるんだからっ!」

 

 胸を張り、ふふんと鼻を鳴らしたアルは、これぞ秘策と云わんばかりに告げた。

 

「表で借りられなくても、裏ならどうかしらっ!?」

「………」

 

 その発言を聞いたカヨコの表情が露骨に歪む。どういう展開になるか、何となく先が読めてしまったのだ。指先で額を押しながら、ぼそりと呟く。反し、ムツキはいつも通りの笑顔だった。

 

「嫌な予感しかしないのだけれど……」

「あはは、面白ければ私は全然オッケー!」

「あ、アル様、私はどこまでもお供します……!」

 

 ハルカが愛銃を抱えながら何度も頷くとアルは目に見えて調子に乗り、高らかに出発を宣言した。

 

「よし、そうと決まれば行くわよ皆っ!」

 

 ■

 

「はぁ、しんど……」

「もう数時間は歩きましたよね?」

「これは流石に、おじさんも参ったな~、腰も膝も悲鳴を上げているよー」

「えっ……ホシノさん、御幾つなのですか……?」

「ほぼ同年代っ! というか全然元気でしょホシノ先輩!? ほら、確り歩く!」

「うへー……」

 

 ばしばしとホシノの背中を叩くセリカ。アビドスの面々は既にブラックマーケット内を数時間に渡って歩き回っていた。これもそれも全部、件のパーツの情報が全く手に入らないのが悪い。

 如何に身体能力に優れるキヴォトスの住民と云えど、何時間も歩き通しなのは精神的にも疲れる様で、心なしか最初と比べて歩行速度が鈍化していた。だらだらと先頭を歩くホシノを叱咤するセリカは、ふと背後を振り向き、酷く呆れた目をする。

 

「で、先生は相変わらずシロコ先輩の背中と」

「あ、あはは、まぁ先生はデスクワークが中心ですし、万が一の事を考えると体力温存も正しいかと……」

「すまない、体力のない先生ですまない……」

「ん、任せて、先生は私の背中で休んでいると良い」

 

 先生は歩行開始二時間でダウンし、シロコの背中の住人となっている。心なしかほくほく顔に見えるシロコは、先生の太腿を確りと掴みながら淀みなく歩いていた。

 そんな彼女を横合いから眺めていたノノミは、小さく首を傾げる。

 

「……何だかシロコちゃん、イキイキとしていませんか?」

「私も何となく、そんな風に見えます……」

「――シロコちゃん、先生のおんぶ係、おじさん代わろうか?」

 

 前を歩いていたホシノが不意にそう口にすれば、シロコは一瞬ぴくりと体を震わせ、それから何でもない様に答えた。

 

「問題ない、委員長だと身長的に難しいと思うし、私に任せて、あと十時間でも二十時間でも、私は平気」

「……ふぅん、そっか」

 

 ホシノはそう口にして、以降特に何か口出しする事は無かったが、何となく不機嫌な気がして先生は戦々恐々とした。やはり毎度毎度生徒の背中にお世話になるのは大人として駄目だろうか、いや駄目だろうな。この仕事が終わったら体力づくりの為にランニングしよう、そうしよう。なんて心の中で決意する。

 尚、同行を申し出たシロコのせいで地獄のシロコブートキャンプが始まる事を、この時の先生は知らない。

 

「あら! あそこにタイ焼き屋さんが!」

 

 そんな調子で歩いていた面々の前に、ふわりと甘い香りが漂った。ノノミが目敏く匂いの元を見つけ、指差す。ホシノがノノミの後ろから覗き込むと、ややくたびれた色の屋台が路肩に止まっていた。

 

「あれ、ホントだ、こんな所にも屋台はあるんだね~」

「あそこで少し休みましょう、タイ焼き、私が御馳走します!」

「えっ、ノノミ先輩、またカード使うの!?」

「先生の『大人のカード』もあるよ~?」

「ううん、私が食べたいから良いんですよ☆ 皆で食べましょう? ねっ?」

 

 ノノミが先生の腕を掴んでそう云えば、シロコも背後の先生を見上げる。先生は何処か懐かしそうな目をしながら、「なら、少し休憩にしようか」と頷いて見せた。

 

 ■

 

「まいど~」

 

 サクリと、衣を歯で噛めば中の餡が零れ落ちる。甘すぎず、しかし深いコクのある餡は疲労した体に染み渡り、おやつとしては実に丁度良い量。ベンチに座り、タイ焼きを頬張る生徒の面々は、大量に買い込んだノノミのタイ焼きを両手で持ち、暫しの休息に勤しんでいた。

 

「ん、おいし~」

「いやぁ、丁度甘いものが欲しかったところなんだ~」

「あはは……私も貰っちゃって、すみません、有難く頂きますね」

「ブラックマーケットの食品だからちょっと疑っていましたが、結構本格的ですね……!」

「むぐもぐ」

 

 ベンチに座れなかった生徒は直ぐ隣の植木周りに配置されたブロックの縁に腰掛け、少し大きめのタイ焼きを齧る。ブラックマーケットで販売されている食品である為、少々疑っていたアヤネも今ではその味と大きさ、そして価格設定に驚いている。表側基準で考えると、値段の割に量が多く、餡の味も悪くないのだ。

 シロコの隣に座る先生も、ノノミの厚意でタイ焼きを頬張っているのだが――。

 

「ん、先生も、あーん――」

「あー……」

「ちょっと!?」

 

 シロコが差し出たタイ焼きを口に含み、咀嚼していると、シロコの向こう側に座るセリカが声を荒げ先生を指差した。シロコは目を瞬かせ、首を傾げる。

 

「何?」

「し、シロコ先輩、流石にそれはどうかと……!」

「え、でも先生嫌がっていないし」

「いや駄目でしょう!? 先生も、良い大人が何やってんのよっ!」

「でもシロコに食べさせて貰えるの嬉しいし……」

 

 シロコに差し出されたタイ焼きを再び頬張りながら云うと、ぽっと頬を赤く染めた彼女が恥ずかしそうに先生を見た。

 

「先生……♡」

「シロコ……!」

「いやいやいやいや!」

 

 そんな二人を引き裂く様に、セリカが強引にシロコの肩を引っ張る。シロコはあからさまに不満な表情を浮かべ、セリカを見た。

 

「セリカ、食事の時は静かに――」

「いや違うから! 傍から見て明らかにおかしいでしょう!? 女子高生にあーんされる良い大人ってどうなの!? 駄目でしょう!? 私間違っている!?」

「先生は私にあーんして貰えて幸せ、私は先生にあーん出来て幸せ、何か問題?」

「問題だらけッ!」

「……もしかしてセリカ、嫉妬?」

「なっ、ばッ、は、ハァ!?」

 

 シロコの予想外の一言に、セリカは目に見えて狼狽した。手元のタイ焼きをぶんぶんと振り回し、捲し立てる。

 

「全ッ然ちがうし! そんな事考えてもいないからッ! せ、先生も勘違いしないよでよ!? 私、嫉妬なんて欠片も――」

「はい、先生、あーん☆」

「あー……」

 

 先生は何か言い訳を口にするセリカを他所に、ノノミの差し出して来たタイ焼きを、嬉々として齧った。そんな彼の横顔を見ていたセリカは、一瞬唖然とした表情を浮かべ、それから一瞬にして表情を怒りに染める。

 

「………せ、ん、せ、いィッ!?」

「いだ、あだだだだッ!?」

 

 背後から先生の腕を取り、関節を捻じ曲げてやるとばかりに捻るセリカ。先生は必死に弁明を試みながら、彼女の肩をタップした。

 

「ま、待つんだセリカ! 暴力系ヒロインは昨今流行らないぞッ!? 今の先生のトレンドはゆるふわお姉さん系、あまあま癒しキャラだ! もっとこう、余裕を持って! 具体的に云うと胸部装甲を――」

「何の話を、しているのか、全く、分からないわよッ!」

「アダバ―ッ!」

 

 盛大に投げ飛ばされた先生は、そのまま硬い石床に叩きつけられ、二度、三度転がった後に停止する。「せ、先生!?」とアヤネが驚愕の表情で見ているものの、セリカ的には大したことではない。悪は滅びたとばかりに両腕を組み、顔を背けたセリカは鼻を鳴らして告げる。

 

「全く、何で私ばっかり……! これに懲りたら先生、外でそういう、その、如何わしい事は――」

「うぅ、ホシノ、セリカが虐めるんだ、コブが出来たかもしれない、頭撫でて……」

「おー、よしよし、セリカちゃんは過激だねぇ、おじさんが慰めてあげよう~」

「―――」

 

 投げ飛ばされた先生は這い蹲りながらホシノに縋りつき泣いていた。ホシノは菩薩の様な表情で縋り付く先生を抱き留め、その頭を撫でている。その光景を見た瞬間、セリカの中にある何か、具体的に云うと堪忍袋の緒に限りなく近い何かが切れた。

 担いでいた愛銃を握り、安全装置を弾く。

 コッキングレバーを引いて薬室に弾薬を送り込む金属音が、やけに冷たく周囲に響いた。

 

「……ぶっ殺してやるわ」

「あわわッ、だ、駄目だよセリカちゃん! おち、落ち着いてッ!」

 


 

 朝起きたらブルアカのフレンドがめちゃ増えていて驚きましたわ。感想欄にペッと出していただけなのに、皆さん意外と感想の返信欄読んでいらっしゃるのね……よろしくってよ! 皆さんの生徒、有難くお借りしますわッ! 合同演習で初めてフレンドさんのキャラ借りて戦ったらクッソ楽でおハーブ生えましてよ!! 

 

 それは兎も角マリーはね、生徒の中でも先生の健康と安全を常に祈ってくれるような、先生好き勢の中でも中々上位のメンバーの一人なんだ。ただ、ちょっと奥ゆかしくて、自分から好意を見せていくようなタイプではないから――或いは、教義的な理由かもしれないけれど――トリニティにやって来る先生と話したり、一緒にお祈りしたり、教会周りの掃除なんかもしている内に、段々と先生と一緒に居る時間が心地よく感じてしまって、そんな在り方はシスターとしてどうなのかと苦悩しながらも、先生への好意を確かに自覚し始めるんだ。

 

 トリニティにやって来た先生と他愛もない話をして、仕事をして、帰って行く先生の背中を見送る。そんな毎日に幸せを感じていて、でも少し物足りなくて。いつか風邪を引いた時、先生が部屋に見舞いに来てくれた時みたいに――もしかしたら、もう一度風邪を引いたら、また来てくれるのかな、なんてシスターとしては恥ずべき事だと分かっているのに、そんな悪い事も考えてしまったりして。そんな悶々としながらも先生と過ごす時間を大切に、少しずつ愛情を育むような、そんな純粋で無垢な少女なんだ。

 

 最初は教会やトリニティ中心に先生と逢瀬を重ねていたのに、その内当番や世話を理由にシャーレへと通って欲しい。時折シャーレの中にある、他の生徒の化粧品や私物などを見つけて、悶々とした気持ちを抱いて欲しい。けれど、そんな気持ちを自分が抱いている事を恥じ、それを表に出すことなく常に彼女は笑っているんだ。「信仰上のお願いでして」とか云いながら、その内シャーレにお祈りの為のスペースを作って欲しい。それを先生の私室の傍に設置して、さも先生のテリトリーは私のものだとばかりに自己主張して、けれど本人にはその自覚なく、ただ私は祈りを捧げる為の場所が欲しかっただけと、その滲み出る独占欲を少しずつ外側へと出力していって欲しい。

 

 凄く個人的な意見だけれど、マリーは質素な生活をしていそう。化粧品とかは殆ど、身嗜みを整える程度にしか使っていなくて、お洒落とかもシスター服と平服で事足りるからと最低限の物品しか揃えていない。原作だと彼女の私室の背景は使い回しだったから、どんなふうな部屋なのかは実際分からないけれど、物が少なく、宗教書とか教科書とか、後はちょっとした「キヴォトスの歩き方」みたいな観光書が少しと、物の少ない机にちょこんと観葉植物なんかが乗っている部屋な気がする。

 だから流行とかにも疎いし、甘味なんかも頻繁には口にしない。本人はそれを苦とも思っていないし、それが当たり前になっているから、先生には是非ともマリーを引き連れて遊びまわって貰いたい。

 

 おしゃれなカフェで恋人専用の大盛りを頼んで、「せ、先生、これは……?」と赤面するマリーに「あーん」したい。最初は視線を泳がせ、おどおどしていた彼女も、「溶けちゃうよ?」と云って先生がスプーンを差し出すと、食べ物は粗末に出来ないと恐る恐る口を開いてくれるんだ。そして一口食べて、予想以上に美味しかったそれに目を見開いて口を抑えて欲しい。その後は先生にせっせと食べさせられて、パフェをひとりで完食して欲しい。気付けば全部なくなっていた空の器を見て、先生の分が……と顔を青くした後、「マリーが沢山食べるところを見て幸せだったさ」と先生にイケメン対応して欲しい。かーっ、見んねユウカ! 卑しか男ばい!

 

 その後は遊園地でも映画館でも、水族館でも動物園でも何でも良いから遊びまわって欲しい。服屋とか、アクセサリーショップとか、何ならマリーの部屋の殺風景さを心配した先生が家具屋に連れて行くとかでも良い。マリーの事だから何処に行っても新鮮な反応を返してくれるって信じている。こんな服が似合うんじゃないかとか、いつもシスター服で露出が全くないから少しパンクな衣装で意外性を求めたり、それを恥ずかしそうにしながらも、「でも先生が折角選んでくれたから」と試着してみたり。或いは一緒に香水を嗅いで、これは良い匂い、これはちょっと強いかもとか、何か結婚したての新婚さんみたいなイチャコラをして欲しい。

 

 でも大勢の人の中で過ごしていると、不意に先生と二人きりで過ごす教会の静けさや、あの静謐さを存外自分が好んでいる事に気付いて、そっと先生の袖を引くんだ。「どうしたの? もしかして、疲れちゃった?」と先生が問いかければ、肯定でも否定でもない、少しだけ恥ずかしそうな、申し訳なさそうな顔で佇んだあと、そっと頷いてくれる。

 

 それから人の少ない公園とか、ちょっとした自然の中にぽつんとあるベンチなんかで、甘味片手にぼうっとして欲しい。一般的な娯楽とか、普通の楽しみ方というものを新鮮に楽しみながらも、彼女の中で妙な抵抗感がある事に気付いて欲しい。先生に買って貰って、一口齧ったクレープなんかを眺めながら、「こんなに貰って良いのかな」とか、「こんなに楽しんで良いのかな」とか、信仰と娯楽の間でちょっとだけ罪悪感を抱いて欲しい。でも隣で微笑む先生を見ていると、何となくその罪悪感も薄まって、俯きながらもう一口クレープを齧るんだ。そうして何となく、逢った日はトリニティの傍の公園で、二人でぼうっとする時間を設けて欲しい。

 

 何をする訳でもないし、何か特別な話をする訳でもない。けれどそんな、先生と一緒に居る時間が彼女にとって掛け替えのないもので、先生の傍で祈ったり、クレープを食べたり、ぼうっとする事がマリーにとって一番幸せな時間になるんだ。

 

 ――「先生が幸せでしたら、私も幸せですので」

 

 そんなある日、マリーの懺悔室に先生がやって来るんだ。第一声で先生がやって来たのだと分かったマリーは、しかし匿名性を守るために名前は聞かないし、深くは踏み込まない。ただ、先生にも悩み事はあるんだなと思いつつ、それを打ち明ける相手が自分である事に、ちょっとした喜びを感じて欲しい。

 

 そして先生は云う――近い内にキヴォトスを裏切る、と。

 

 マリーは一瞬、何を云われたのか分からなくて、ただその場で硬直するんだ。談話室の仕切り越しに、顔の隠れた先生は、きっとマリーに全てを打ち明けると思う。何故キヴォトスを裏切らなければならないのか。ゲマトリアの残した契約、打ち込まれた神秘の残り香、外宙からの干渉、崇高の器――そして契約の七つの嘆き、その六つ目が迫っている事。

 マリーは先生の持つ秘密、その悉くを打ち明けられ、何も言えず、ただ混乱し、小さく震えていると思う。あらゆる事に理解が追いつかなくて、津波の如く押し寄せるそれに打ち据えられながら、ただ漠然と、先生が遠くに行ってしまう事だけは理解するんだ。

 

 頭を抱え、震えながらマリーはきっと、今が懺悔中な事も忘れて、「せ、せんせい?」と名前を呼ぶんだ。先生はそんなマリーの様子を仕切り越しに見つめながら、もし自分が、六つ目を終えたら――七つ目の役目をマリーに頼みたいと、そう告げるんだ。

 彼女は意図を理解しながら、多分先生に手を伸ばす。けれど先生がその手を取る事はなく、そっと立ち上がるんだ。「ま、待って、先生! 先生っ!」と必死に手を伸ばすマリーに、先生は最後まで顔を見せることなく立ち去ってしまう。

 そしてマリーが息を切らしてその場を飛び出し、先生の後を追おうとしても、青い教室へと向かった先生の姿はどこにもないんだ。ただ彼女は早鐘を打つ心臓を抑えながら、荒い息を繰り返し、その場に屈み込む。気を抜くと嘔吐してしまいそうな緊張を覚えながら、マリーはきっと考える。どうすれば良いのか、このままでは先生が死んでしまうと。救わなければならない、助けなければならない、ティーパーティーなり、シスターフッドなり、或いは手段を問わなければミレニアムなりゲヘナなり百鬼夜行なり、駆けこめる場所は幾らでもあった。

 けれど、先生を助ける為に奔走する行為、それは――先生の信頼に反する行いだ。

 

 懺悔の内容を、誰かに漏らしてはならない。もしこれが、教義的、法律的な抵抗感のみであったのなら、マリーは喜んで身を擲っただろう。自身が戒律を破る、或いは法律を犯す事で先生の命が助かるのであれば、彼女はきっと悩みはすれど躊躇いはしない。

 しかし、其処に先生の信頼が上乗せされた途端、彼女の足は鈍る。

 

 先生は、自分だからこそ打ち明けたのだという意識がある。それを他者に打ち明けるという事は、その信頼に対する裏切りだと。先生は、死ぬつもりで自分に全てを打ち明けた。それを阻止するという事は、先生の意に反するという事。

 その覚悟を、信頼を犯す事が、マリーは出来ない。多分それが、マリーの『弱さ』だと思う。信仰という壁を一枚捲っただけで、マリーはきっと信念を持ったシスターフッドから、ただのか弱い少女に成り下がってしまうんだ。

 

 口元を抑え、教会の入り口で座り込んだまま、きっと彼女は声もなく涙を零す。今にも零れ落ちそうな程に目を見開いて、歯を食いしばって。口を開けばきっと、恥も外聞もなく泣き喚いてしまうから。そして誰かが彼女の様子に気付くまで、ずっとそうして涙を流し続けるんだ。可愛いね。

 

 うぉ~、先生に嫌われる覚悟、信頼を裏切る覚悟をしたマリーが、直前になって先生を助けようとするけれど、間に合わなくて目の前で先生を撃ち殺される顔見てぇ~。

 

 限界まで教会で祈り続けたマリーが、何日も飲まず食わずで一心不乱に祈り、考え続け。例えそれが間違った選択でも、先生の覚悟を踏み躙る行為でも、それでも先生に生きていて欲しいと、そう決めて愛銃を手にシャーレに向かって、崩れ落ちたロビーや割れ落ちたガラスを見て蒼褪めて欲しい~。息を切らしながら最上階のオフィスに到着して、彼女はそこで血塗れで倒れた先生に銃を向ける生徒の姿を見つけるんだ。思わず駆け出して、「待ってッ!」と全力で叫んで、その声に気付いた先生がゆっくりとマリーを見て、彼女の名前を呟く。

 そして、弾かれる先生の頭部。

 手を伸ばした向こう側で、無惨にも額を撃ち抜かれた先生が崩れ落ちる。

 マリーはきっと彼女らしからぬ、喉が張り裂けんばかりの絶叫を搔き鳴らし、何度も転びそうになりながら先生の傍に駆け寄るんだ。囲っていた生徒を押し退け、先生の頭部を抱きしめ、溢れ出る血を止めようと必死になる。「だめ、だめ、だめ!」と繰り返しながら、先生の頬を掴んで、何度も何度も血を拭う。けれど閉じた先生の瞼はもう二度と開く事は無くて、腕や胸元を伝う生暖かい血液が先生の死を、これは現実だとマリーに刻み込むんだ。

 

 マリーは先生の骸を抱きしめながら、自身の決断の遅さをこれでもかと嘆く事になる。もっと自分が早く決断出来ていれば、嫌われても構わないと覚悟出来ていれば、先生の想いを踏み躙ってでもと、強い決意を抱ければ――!

 きっと彼女は誰かを恨む事が出来ない。憎悪する事も出来ない。それを向けられるとすれば、自分だ。唯一自分こそが原因であり憎悪の対象だと、きっと彼女は自責の念を抱き続ける。全て全て、自分の甘さが招いた結果、彼女は何度も涙を流しながら思うんだ。

 

 先生の骸を抱きしめて、血だらけのままきっと、マリーはシャーレを後にする。他の生徒が手を伸ばしても、「触らないで」と云って跳ねのける。誰の手も借りず、彼女は先生の遺体を教会まで運び込むんだ。遺体の引き渡し要請があっても無視し、場合によっては武力行使すら躊躇わず、マリーは先生をそっと教会の祭壇に寝かせ、じっとその顔を見つめ続けるに違いない。そして七つ目の役目を果たすその時まで、彼女は笑わず、歪まず、ただ自分を憎悪し続けるのだ。可愛いね。

 

 本当は先生を射殺した生徒を撃ち殺してやりたくて仕方ないけれど、最後に残った先生への愛情と信頼と、シスターらしくという先生と紡いだ信仰の残り香が、それを自分に対する憎悪という形で覆い隠して、それに気付かないマリーめちゃスコ。

 けれど、それが唐突に壊れるのがまた素晴らしい。

 

 先生を埋葬した後、泣きそうな顔でそれを見ていた先生を射殺した生徒に気付いて、「何であなたがそんな顔をするのか」とか、「先生を撃ち殺しておいて、何故泣きそうな顔をするんだ」とか、「そんな顔をするくらいなら、殺さなければ良かったのに」とか、マリーの中にあった筈の善性やシスターらしくという規範が唐突に壊れて、ゼロ距離から愛銃(デザート・イーグル)でその生徒の背中をぶち抜いて、倒れ込んだ生徒に馬乗りになって何度も顔面に弾丸を撃ち込んで欲しい。

 

 きっと今まで抑圧していた怒りや憎悪、先生を喪った絶望、後悔、遣る瀬無さが噴き出し、悪鬼の如く歪んだ表情を見せてくれるに違いない。普段丁寧な物腰のマリーが、「懺悔しろ、懺悔しろ、懺悔しろッ!!」と云いながら鬼気迫る表情で生徒の顔面に弾丸を撃ち込む姿とか美し過ぎますよ。これで先生を射殺していた生徒が同じシスターフッドならば尚よろしい。

 

 マリーの祈りは先生を守ってくれましたか? 多分守ってくれたよ、二十秒くらいは。

 立派なシスターになれなかったマリーは、一体何者になるんだろうね。多分もう、純粋な心で信仰する事は出来ないだろうなぁ。幾ら祈っても神様は先生を守ってくれなかったし、先生は蘇ったりしない。でも「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とも書いてあるし、多分大丈夫っしょ。先生もマリーならって信じていた訳だし! 

 でも酷いね神様って、こんな辛い試練をマリーに課すなんて、ちょっと信じられない、人の心とかなさそう。

 



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銀行強盗はじめました

誤字脱字報告、毎度ありがとうございます。


 

「前が見えねぇ……」

「ふん、自業自得よ!」

 

 ボコボコにされた先生は、腫れた両頬を押さえながら崩れ落ち、セリカはそんな先生の前に仁王立ちで佇んでいた。流石に銃撃されては死んでしまうと、せめて打擲で勘弁してくださいと懇願した成果である。成果、と云えるのだろうか。先生は痙攣する肉体でそんな事を思った。百が九十九になった程度な気がしないでもない。

 

「あ、あはは……何というか、賑やかな部活ですね」

「いやぁ、これがおじさんたちの味なもんで」

「多分違うと思います……」

 

 苦笑いを浮かべるヒフミに、のほほんと答えるホシノ。ぼそりと呟いたアヤネの言葉は虚空に消え、彼女達に届く事はない。

 ともあれ、休息を終えたアビドスの面々は再び情報探しを開始し、ブラックマーケットの西へ東へ走り回った――しかし、残念ながらその悉くが空振りに終わり、有用な情報が手に入る事はない。気付けば時刻は昼を回り、纏めた情報を端末で閲覧しながら、ヒフミは呟きを漏らす。

 

「んー、此処まで情報がないなんてありえません……妙ですね」

「やはり、ヒフミさんもそう思いますか」

 

 端末を覗き込むアヤネがそう問いかければ、ヒフミは頷きを返す。

 

「はい、お探しの戦車パーツの情報、絶対どこかにある筈なのに、探しても探しても出てきません、販売していた店舗も直近で閉店したみたいですし……販売ルート、保管記録、全て何者かが意図的に隠している様な、そんな気がします」

「実際、そんな事が可能なの?」

「隠すこと自体は可能ですけれど、幾らブラックマーケットを牛耳っている企業でも、ここまで徹底して情報統制をする事は不可能なはずです、此処には情報を生業にしている情報屋、なんて商売もある訳ですから、幾ら蓋をしても必ずどこかから露呈します」

 

 シロコの疑問に答えながら、ヒフミは端末の画面をスクロールする。そこに記載される文字列はどれも情報の不足を示しており、明らかな『隠ぺいの匂い』を醸し出していた。

 

「となると、この状況は異常という訳ですか」

「異常というより……普通、此処までやりますか? という感じですかね」

 

 端末を指でコツコツと叩いたヒフミは、そう云ってアビドスの皆に顔を向ける。

 

「ブラックマーケットに集まっている企業は、ある意味開き直って悪さ、というより商売をしていますから、逆に変に隠したりしないんです、だってそんな企業周りを見れば幾らでもありますから、寧ろ隠している方が不自然……みたいな」

「あぁ成程、表側だと犯罪でも、こっちでは半ば合法みたいなものだもんね」

「はい、例えばなんですけれど――あそこのビル」

 

 そう云ってヒフミが指差したのは、一見何てことないビルの一つ。強いていうのであれば、ブラックマーケットの中では比較的清掃が行き届いており、外装に落書きや汚れが無い事だろうか。入り口の両脇には銃を抱えたガードらしき人影もあり――尤も、守衛程度はブラックマーケットでは珍しくはない――どこか物々しい雰囲気を感じる。

 

「あれがブラックマーケットでも有名な闇銀行です」

「えっと、闇銀行?」

「はい、ブラックマーケットでも大規模な銀行の一つなんです、聞いた話だとキヴォトスで行われる犯罪の十五パーセントの盗品があそこに流されているとか、横領、強盗、誘拐、あらゆる犯罪行為で獲得した財貨が、違法な武器や兵器に変えられて、また別の犯罪に使用される、循環犯罪の基点です」

「……それって、銀行が犯罪を煽っている様なものじゃないですか」

「その通りです、此処では銀行も犯罪組織のひとつなんですよ」

「酷い話ですね……」

 

 ノノミがそう呟けば、脇で聞いていたセリカが憤慨し足を踏み鳴らす。

 

「酷いどころの話じゃないでしょう! 連邦生徒会は一体なにやってんの!?」

「理由は色々あると思うよぉ、どこもそれなりの事情を抱えているだろうからさ」

「現実は、想った以上に汚れているんだね、私達はアビドスにばかり気を取られ過ぎて、外の事を余り知らな過ぎたかも……」

 

 自分達の知らない区画、その中に潜む闇にアビドスの皆は自身の無知を痛感する。そんな皆を痛ましそうな顔で見ていたヒフミは、ふと何かに気付いた様に顔を上げた。彼女の視線の先には武装した何人もの戦闘ロボット、顔をフルフェイスヘルメットで覆った護衛らしき人物たちが列を成している。

 ヒフミは咄嗟に身を隠し、叫んだ。

 

「っ! あれは、マーケットガード!? 皆さん、此方へ!」

「えっ、わわッ?」

 

 近場に居たホシノの腕を掴み、ヒフミは傍の路地裏へと駆け込む。その焦燥した姿を見たアビドスの皆は、何事かと慌てて彼女の後を追った。

 

「良く分からないけれど、先生! ほら、立って!」

「急ごう」

「わっ、ま、待って下さい!」

 

 セリカとシロコがボロボロの先生を引き摺って隠れ、アヤネが遅れて駆け込んでくる。皆が団子の様に連なって外側を覗き込めば、はっきりと姿を現した護衛の姿が見えた。護衛の人物は皆、黒い制服に黄色いリボン、フルフェイスのヘルメットには悪魔とも骸骨とも取れるマークがプリントされている。ロボットの方は、良く目にする量産型の戦闘機体だった。

 覗き込んでいたシロコが、その列を指差し問いかける。

 

「ヒフミ、あれは?」

「先程お話した、ブラックマーケットの治安機関です、それも最上位組織の隊列ですね……」

「つまり、ブラックマーケットの警察って事?」

「警察位公平なら、まだ良かったのですけれど」

「成程、あれが」

 

 呟き、皆でその隊列を見守る。確かに表側の自警団やヴァルキューレ警察学校の装備と比較すると、何とも武装が物々しい。気配といえば良いのか、放たれるそれも寒々しく、どこか張りつめた空気を感じた。

 

「……パトロール、でしょうか?」

「ん、でも配置が少し変」

「あの並び、もしかして何かの護衛?」

 

 そう口にしたアビドスの前に、ゆっくりと走る厳つい車両が見えて来る。ワイドな車体に後ろの膨らんだ四角い車両。一見トラックの様にも見えるが、その外装甲はライフルなどでは貫通しない装甲車と同じ材質。特に運転席回りと、後部の一部は複合装甲(コンポジット・アーマー)が用いられている様で、僅かに外装が厚い。周囲を警戒しながら走行する(さま)は、襲撃を警戒している様に見えた。

 

「――現金輸送車みたいだねぇ」

「成程、護送だったんだ」

「あれ……あの車両」

 

 ふと、アヤネが眼鏡を押し上げながら呟く。じっと正面に見える輸送車を注視する彼女に、シロコは問い掛けた。

 

「アヤネ?」

「……あのナンバー、見覚えがあります」

「ナンバー?」

 

 セリカが首を傾げ、輸送車のナンバープレートに目を向けるも――特にこれと云って覚えがない。そうこうしている内に輸送車は先程ヒフミが指差した闇銀行の前で一度止まり、それから地下へと続くスロープに差し掛かった。

 

「闇銀行に入って行った」

「………もう少し、近付いてみましょう」

「えっ、危険ですよ!?」

「大丈夫です、ほら、あの物陰なら」

 

 そう云って指差した先には、丁度銀行から影になるようにして設置された自販機が並んでいた。シロコは小さく頷き、素早い身のこなしで自販機の傍へと身を寄せる。そして特に気付かれていない事を確認し、皆に手を振った。セリカが飛び出し、ホシノもその後に続く。アヤネは先生の手を引いて駆け出し、ヒフミも右往左往しながら最終的にはどうにでもなれと飛び出した。

 

「――今月の集金です」

「ご苦労様、早かったな、では此方の集金確認書類にサインを頼む」

「えぇ、勿論」

「……良し、確認した」

 

 スロープを下った先ではシャッターが下りており、その左右には守衛らしき人影。そして輸送車の窓から顔を出している人物が、守衛の差し出した電子紙面に何かを書き記している所であった。先程の位置からは声までは拾えなかったが、此処からなら声も聞こえる。

 

「――開けてくれ、今月分の現金だ」

 

 守衛がシャッターを軽く叩くと、駆動音を掻き鳴らしシャッターが上昇していく。輸送車の窓から身を乗り出してそれを見つめるロボットの姿に、アヤネが口を開いた。

 

「……あの人、やっぱり」

「あれ、確か……あいつ、毎月ウチに来て利息を受け取っている銀行員だよね!?」

「ん、おじさんにもそう見えたよ」

 

 セリカも、今度は気付いた。あの輸送車の助手席に乗っている人物は、今朝方アビドスに集金へとやって来たロボットと同一人物であったのだ。ホシノも同意し、シロコが顔を顰めながら呟く。

 

「……どういう事? どうしてカイザーローンがブラックマーケットに――」

「か、カイザーローンですか!?」

 

 カイザーローンの名前を出した途端、ヒフミが目を見開いて驚愕を露にする。その様子に、どうやら何か知っているようだと思ったホシノは静かな口調で問いかけた。

 

「ヒフミちゃん、知っているの?」

「カイザーローンと云えば、カイザーコーポレーションの運営する高利金融業者です……」

「もしかしてマズイ所?」

「あ、いえ、カイザーグループ自体は犯罪を起こしていません、ただ……合法と違法の間のグレーゾーンで上手く振る舞っている多角化企業というか、何というか……カイザーは私達トリニティ区域にもかなり進出していて、『ティーパーティー』でも目を光らせているという噂なんです」

「ティーパーティー――トリニティの生徒会が、ね」

 

 ホシノの呟きが耳に残る。トリニティ総合学園はその名の通り、複数の学園が統合されて生まれたマンモス校である。当然、それだけの規模を誇る学園の生徒会ともなれば、相応の権力と影響力を有する。その生徒会が目を付けているとなると、無視は出来ない。

 

「もしかして、アビドスはカイザーローンから融資を……?」

「話すと長くなるんだよねぇー……アヤネちゃん、さっき入って行った現金輸送車の走行ルート、調べられる?」

「今、調べています!」

 

 ホシノに指示されるまでもなく、アヤネはタブレットから先程の現金輸送車のナンバーを検索、走行ルートの逆算に走る。しかし、表側、裏側共に該当なし、その結果にアヤネの表情が陰る。

 

「……駄目です、全てのデータをオフラインで管理しているみたいです、全然ヒットしません、ナンバーも車両追跡に該当なし」

「やっぱりそうかぁ」

 

 元から予想はしていたのだろう、ホシノの声色は気楽であった。

 

「……そういえば、いつも返済は現金だけでしたよね、それってやっぱり」

「んー、まぁ色々予想は付くよね」

「私達が支払っていた現金が、ブラックマーケットの闇銀行に流れていた?」

「じゃあ何、私達はブラックマーケットに犯罪資金を提供していたって事!?」

「………」

 

 シロコの言葉に、セリカは憤懣やるかたないとばかりに声を上げる。アビドスから集金し、この闇銀行に搬入する。状況証拠だけを見れば、そう捉えてもおかしくはない。ヒフミが気まずそうに「まだ、はっきりとした証拠がある訳では――」、と慎重な意見を口にすれば、不意に先生が口を開いた。

 

「さっきサインしていた集金確認の書類――」

 

 先生の発言に、アビドスの皆が視線を向けた。その瞳には、どこか期待がある。

 先生ならば何とかしてくれるのではないか――という期待が。

 

「内容を確認すれば、場合によっては証拠になるね」

 

 先生はそう云って薄らと笑う。

 先程、車両に乗車していた銀行員が何かにサインをしていた所を全員が目撃している。確か、集金確認の書類と云っていた。恐らくそこには最低限集金先の名称、所在地、金額、そして担当者の名前まで記載されている筈だった。紙面にアビドスの名前があれば一発だ、アビドスから集金した金銭がこの闇銀行に流れている動かぬ証拠となる。

 その事に気付いたホシノが手を叩き、ふっと笑みを浮かべた。

 

「成程、ナイスアイディア、先生」

「おおー、確かに」

 

 納得の表情を浮かべるアビドスに反し、ヒフミは慌てて首を振る。

 

「で、でも、そんなの無理ですよ、もう書類は中に入ってしまいましたし、忍び込もうにもブラックマーケットでも最も強固なセキュリティを誇る場所です、マーケットガードもあんなに……」

 

 そう云って銀行を見れば、入り口だけでも二名、そして内部にも少なくないマーケットガード、セキュリティが詰めているのが見えた。万が一通報されてしまえば、これを超える大量の兵力が投入されるのは明らか。流石に、ブラックマーケット最大規模の銀行である。

 

「……それ以外で証拠を手に入れる方法は、えーと、うぅん……」

「ん、他に方法はないよ」

「えっ?」

 

 ヒフミがどうにかこうにか、見つからずに件の証拠を手に入れる方法を考えこめば、その肩に手を置いたシロコが――恐らく、ヒフミの気のせいだろうが――とても良い笑顔で微笑んでいるのが見えた。

 彼女は振り返ってホシノに目を向けると、力強く頷いて見せる。

 

「ホシノ先輩、ここは例の方法しかないよ」

「――あー、あれかー、あれなのかぁー……」

「えっ??」

 

 シロコの言葉にホシノは天を仰いで、「マジかー」と云わんばかりに目を閉じる。

 

「あ……! そうですね、あの方法なら!」

「何、どういう事? ……もしかして、私が思っているあの方法じゃないよね?」

「ないとは思いますけれど、もしかしてアレですか……?」

「えっ???」

 

 ノノミとセリカ、そしてアヤネも気付いたのだろう。シロコの提案する手段に当たりをつけ、ノノミは笑顔を、セリカとアヤネは、「まさか」という表情で問いかけていた。

 

「ん、セリカ、アヤネ、これしかない」

「う、嘘!? 本気でッ!?」

「うわぁ……」

 

 力強い頷き。それを見た両名は驚愕と諦めを表情に張り付ける。シロコの云う手段に皆目見当が無いヒフミは皆の反応に目を白黒させ、恐る恐る問いかけた。

 

「あ、あのう、話が全然見えないのですけれど……あの方法って、何ですか?」

 

 ヒフミの問いかけに、アビドスの皆が彼女を見る。どちらにせよ、こうして共に居る以上巻き込むことは確定している。最終確認の意味合いを込めて、シロコが先生を見た。

 

「先生」

「……まぁ、云い出したのは私だし、先生としての立場なら本来止めるべきなのだろうけれど、今回ばかりはね――良いよ、手伝うとも」

 

 そう云って頷いて見せれば、シロコは満足げにヒフミへと向き直った。

 

「残された方法は、たった一つ」

 

 そう、重々しく告げ――彼女はバッグから取り出した『ソレ』を被った。

 

「――銀行を襲うの」

 

 それは、余りにも清々しい宣言であった。

 宛ら、『散歩に行って来るね』と云う気軽さで宣言された内容は、目の前のブラックマーケット最大規模の闇銀行を襲撃するというもの。無論、そんなプランを最初から立てていた筈もなく、突発的な計画である事は明らかである。しかし、彼女の被った青い目出し帽が冗談でも何でもなく、本気で襲う気なのだと伝えるには十分な出来で――数秒、硬直したヒフミはそれから二度、三度瞬きを繰り返し、それから思わず叫んだ。

 

「はいッ!?」

「だよねー、そういう展開になるよねぇ」

「わぁ☆ そしたら悪い銀行をやっつけるとしましょう!」

「マジで? マジなんだよね? はぁー……それなら――とことんまでやってやろうじゃない!」

「……了解です、こうなったら止めても聞く耳持たないでしょうし、どうにかなる……はず」

 

 慌てて周囲を見回せば、ヒフミの周りに立っていたアビドスの生徒全員が既にマスクを着用済み。それぞれ額に番号が振られた目出し帽は、如何にも『これから強盗をします』という雰囲気を醸し出していた。

 こと、この場に於いて銀行を襲わない意思を持っているのは自分だけだとヒフミは気付き、声を荒げた。

 

「はぃィイ!? ちょちょちょ!? ほ、本気ですか皆さんッ!? というか、何でそんなマスクを持っているんですか!? も、もしかして最初から強盗するつもりだったんですか……!?」

「ん、ごめんヒフミ、あなたの分の覆面は準備が無い」

「うへー、って事はバレたら全部トリニティのせいだって云うしかないねぇ」

「えぇッ!? そ、そんな、ふ、覆面……何で、えっと、だから、あ、あぅ……!?」

 

 良く分からない理論で罪を押し付けられそうになったヒフミは、混乱をそのままに何か被れるものはとバッグの中身をひっくり返す勢いで探り始める。駄目だ、流石に駄目だ、そんな罪を押し付けられてしまったら学校に居られなくなるどころではない。涙目で右往左往するヒフミを見ていたノノミは、そんな姿は見ていられないと声を上げる。

 

「そんな! それは可哀そうですよ! 仲間外れは駄目です! ほらヒフミちゃん、取り敢えずこれをどうぞ☆」

「えっ、あ、え?」

「タイ焼きの紙袋! おぉ~、それなら大丈夫そうだねぇ」

「ちょ、え? ちょっと待って下さい皆さん、あ、あ、あ……」

 

 ノノミの厚意――厚意なのだろうか、ヒフミは疑問に思った――によって差し出されたのはタイ焼きの入っていた紙袋。目元の部分だけ穴を空けたそれを、彼女はヒフミに被せる。抵抗する間もなく視界が闇に覆われ、それから丸い穴から覗く狭い世界が目の前に広がった。

 タイ焼きの甘い匂いが、ヒフミを包み込む。今はそれがどうしようもなく憎かった。

 目の前に佇むアビドスの皆が、ヒフミの姿に頷いて見せる。

 

「ん、完璧」

「ちゃんと番号も書いておきました、ヒフミちゃんは五番です!」

「見た目はラスボス級じゃない? 悪の根源だねぇ、親分だねぇ」

「えっ、あ、わ、私も御一緒するんですか!? 銀行の襲撃に、本気で……!?」

 

 ヒフミが涙目でそう問いかければ、にやりと笑ったホシノが告げる。

 

「さっき約束したじゃーん、ヒフミちゃん? 今日は私達と一緒に行動するって」

「う、うああぁ……し、しましたけどぉ……うぅ、こ、こんな事学校に知られてしまったら、何て言い訳をすれば……!?」

「問題ないよ! 私らは悪くないし! 悪いのはあっち! だから襲うの!」

「ん、それじゃあ先生、例の台詞を――」

 

 アビドスの皆が見つめる先には――X(エックス)番のマスクを被った先生が立っている。シャーレの腕章とネクタイを外し、白い外套を腰に結び付け、制服を着崩した先生は――嬉々としてタブレットを片手に宣言した。

 

「アビドス&ヒフミ、出撃!」

「おーッ!」

「あぅ、あわわ……お、ぉー……」

 


 

 アビドス編が終わらないまま三十万字行きそうなのですが何で? 私の予想だと、「まぁアビドスは二十万字あれば終わるでしょう」みたいなノリで始めたのに全然終わらんのですが、エデン条約編マジ誇張なしで二百万字とか必要になる奴では??

 大体この小説を書き始めて一ヶ月経過しましたが、この時点で私のWordに書いた文字数は『277837文字』になります。まぁ、私の中の基準だと一日8300字前後、大体一ヶ月で二十五万字程度書くとして、この時点でアビドス編の中編~後編差し掛かり程度の場所です。つまりアビドス編が完結するのは早くとも11月上旬から中旬あたりなるという事ですね。実質二ヶ月ですから約五十万字。

 それで、仮に最速でエデン条約編に入ったとしても、このエデン条約編はアビドスの三倍、四倍、下手すればそれ以上のボリュームがある訳で、二百万字どころか三百、四百いってもおかしくないと。

 二十五万字書くのに一ヶ月掛ると考えて、百万字で四ヶ月――つまり、下手をしなくとも一年以上書き続ける可能性があるんですね???

 

 死ぬぞ、私が。

 

 まぁ、そんなどうでも良い事は兎も角、ノアの絆を読んで来たのだけれど、何だこのあざとい子は……。周囲の状況を常に観察し、記録しないといけない強迫観念があるって、それはつまり先生と一緒に居る時は常に先生を観察し、記録しているって事だよね。何か靴の汚れで新品かどうかにも気付いていたし、かなり重めの女の子では? 私は訝しんだ。

 更に今だけは私に集中して下さい、とな? 絶対独占欲強いよこの子! なんかそんな雰囲気放っているもの! 記憶力も相まって先生の周辺で起きた事は全部忘れない様な気がする。

 

 以上の事柄からノアは独占欲強め笑顔束縛マシマシ親友ユウカマウントウーマンであると判断致しました。先生と一緒に居る時は一挙手一投足に注視し、先生が忘れていたような事も簡単に答えてくれるような完璧秘書を演じてくれるんだ。多分その内、シャーレ内の事柄に先生より詳しくなると思う。先生がアレどこやったと云えば、「昨日の〇時〇分にデスクの中に」とか答えてくれて、更にスケジュールの管理までお手の物。仕事でシャーレの外に出る事があると、日直でもないのにノアが待機していて、「あら、奇遇ですね先生?」って笑って欲しい。勿論偶然などではなく、ノアが先生の行き先に先回りして出待ちしていただけである。スケジュールを押さえたノアは強いぞ! 

 

 多分これ、ユウカが当番の時もやると思う。それで「何で此処に居るの、ノア!?」ってユウカが憤慨し、「その方が面白――いえ、私も丁度手透きだったものですから」って悪気なく笑ってくれる気がする。ユウカが怒ったり泣いたり笑ったりしている横で、ノアにはいつまでもニコニコしていて欲しいね。ユウカが占いマシーンに多額の金をつぎ込んだ時もニコニコ見守っていたし、絶対こっち側の人物だゾ!

 

 ノアは人のあらゆる事を記憶するのは慣れているけれど、記憶されている事には慣れていない説を推したい。ある日、いつも通りシャーレで業務を行っているノアに、そっとラッピングされたプレゼントを渡すんだ。目を瞬かせ、「先生、これは?」と問いかけるノアに、「いつも頑張ってくれているから、プレゼント」と笑う先生。

 実はノア、ゲーム内で最も好感度が上がる贈り物は『ストリートオブ・ヤンキー』という漫画である。二番目は古典の詩集で、残りは基本書物。ゲームマガジンや百貨辞典、小説なども僅かに上がる。多分彼女は自分がこういう、如何にも少年漫画と云える様な代物を好んでいる事を隠しているような気がするんだ。

 

 ユウカ程、カンペキ~には拘っていないけれど、セミナーの書記としての立場や、どこかミステリアスでクールな雰囲気から、そういうものに興味があっても手が伸ばしづらくて、書店で見かけても一瞬棚の前で立ち止まり、気になるタイトルと表紙を記憶し、それからそっと立ち去る様な事をしている気がする。

 それを目敏く観察していた先生にプレゼントされて、封を開けて中身を見たノアは嬉しいやら恥ずかしいやらで、多分白い肌を真っ赤にすると思う。

「し、知っていたんですか、先生」と震え声で問いかけるノアに、とっても良い笑顔で、「ノアに集中していたからね!」って先生に云わせたい。いつも観察している側のノアに、観察される側の喜びと羞恥を教えてあげたい。きっと彼女は恥ずかしがりながらも、先生が本当に自分を気にかけてくれている、見てくれていると知って内心では歓喜に悶えてくれると思うんだ。

 

 後からこの事をメモする時に、ちょっとだけ筆圧強めだったり、事細かに書かれていたらエモエモのエモ。その内このページだけ妙に何度も読み返された痕跡があって、時折メモ帳を読み返しながら微笑むノアの姿が確認されていたとかいないとか。

 

 あと一度見た事は大体記憶しているらしいし、ノアには是非逆ラッキースケベとかして欲しい。夏とかにシャーレの空調が故障して、今日は日直もいないしちょっと脱いじゃおうかな~、みたいなノリで先生がパンツ一丁になった時にノアに来て欲しい。

「失礼します、先生、ミレニアムに提出されていた書類に不備が――」、みたいな感じに入室したノアの目に、パンツ一丁で書類仕事をしている先生の姿が目に入るんだ。最初は、「えっ――」と驚愕に目を見開いて、それから先生の首から下に何度も目線を向けて、先生思ったより引き締まった体しているんだとか、女性とは異なるごつごつした体に目を奪われて欲しい。先生が「の、ノア?」って声を上げて、初めて彼女は自分が先生を凝視している事に気付くんだ。その後は謝罪して、慌てて部屋を後にして、メモ帳を抱いたまま壁に寄りかかって座り込んで欲しい。多分その後、弱弱しい筆圧で先生の体の詳細をメモしてくれると信じている。

 その後一緒に仕事するうちに、無意識に先生の服の下を想像するようになって、頭コハルになってしまうノアちゃんも嫌いじゃないわ! 多分一週間くらいは先生の顔を正面から見れなさそう。

 

 私、ユウカちゃんのこと大好きですよ。

 まぁ、それは知っているけれど……。

 

 かぁーッ! 見やれこれ! サイドストーリーで臆面もなく大好きですよと伝えるノア、それを当然のように知っていると返すユウカ、この関係性は素晴らしいですよ。好意を認識しながら、当たり前のようにそれを受け入れる土壌が既に出来上がっている。まるで熟年夫婦ですね、よぉしこの間に先生挟んじゃうぞ~!

 

 しかし、ノアに「ユウカと付き合う事になった」と云ったら、驚きつつも内心の感情を押し殺して祝ってくれそうな感じある。その逆で、「ノアと付き合う事になった」とユウカに伝えても、似たような感じがする。互いに好意を持っているからこそ、悔しさや哀しさを感じつつも、受け入れてくれるような感覚が強い。ぶっちゃけそれは便利屋とか、アビドスとか、仲良い所は大抵そうだけれど。内心はどうであれ、彼女達はきっと感情を押し殺して祝福してくれる。彼女達は先生と同じ位、その隣に立つ友人を大切に想っていると思うんだ。

 

 だからノアとユウカには、お互いに幸せでいて貰いたい。ノアとユウカと先生みんなで仕事をしつつ、時折ノアに揶揄われながら文句を垂れつつ仕事をするユウカとか、先生が締め切り間近の書類を持って来て、激怒しながらも手伝ってくれるユウカと、それを見てニコニコしているノアとか。必要書類が見つからなくてノアに縋りつき、答えてもらうのを見て小言を漏らすユウカとか。そう云った日常の一コマの中で、幸せを感じつつ、いつか先生がどちらかを選んだら、この関係も終わるのかな――何て僅かな恐怖と期待を胸に秘めつつ、二人には笑っていて欲しい。

 

 ノアに先生の事殺させてぇ~!

 ユウカが先生の事を想っていると理解した上で、ノアに先生を射殺させてぇ~!

 

 ノアだったら絶対にキヴォトス動乱の時、先生の意図に気付く。今までの先生の行動や発言を全て記録し、記憶している彼女なら先生が打ち明けなくとも、何故先生があんな行動を取ったのか理解して、誰よりも早く先生を殺しに来てくれると思う。

 大好きなユウカちゃんが苦しまない様、先生の愛した生徒達が苦しまない様、多分暗殺者の如く、誰も気づかない内に、誰も傷つかない内に、先生が一人の時にシャーレに忍び込んで、そっと先生に銃口を向けると思う。

 

 多分、先生もそれを悟っているんだ。友人想いの彼女の事だから、そういう選択肢もあり得ると。そして、そっと自分の後頭部に銃口を突きつけ、音もなく涙を流しているノアに向かって、一言、「ありがとう」って云うんだ。その一言でノアの胸の中に、躊躇いとか悲哀とか、先生に対する怒りだとか、不条理に対する憎しみだとか、今まで三人で過ごして来た記憶が過って、それでも歯を食いしばって、涙を流しながら彼女は引き金を引くんだ。

 飛び散った赤を見送った後、ノアはじっとその場に佇むと思う。

 倒れ伏した先生の骸と、飛び散った赤の景色、それをじっと、何時間も見つめ続けるんだ。自分の中に刻み込む為に、絶対に忘れない為に。

 

「昨日の〇時〇分、先生を射殺しました」ってユウカに向かって云って欲しい。

 能面の様な表情で、何も感じていないとばかりの顔で、きっとノアはユウカに報告する。それを聞いたユウカは、先生の反乱を聞いて焦燥しきった顔のまま、「は?」って聞き返すんだ。それから「ねぇ、ノア……もう一回、云ってくれる?」と繰り返す。

 ノアは多分、もう一度同じセリフを、同じ抑揚、同じ無機質さで口にする。ユウカは何度聞いてもその報告が信じられなくて、ノアの両肩を痛い位に掴んで、云うんだ。「ノアが冗談なんて、珍しいじゃない、明日は、雪でも降るの……?」って。

 震えて情けない声で、左右に視線を散らしながら云うんだ。

 

 ノアは、それ以上何も云わずに、ただじっとユウカを見つめ続ける。そうしている内に、ユウカはそれが真実である事に気付くんだ。二人の育んできた時間が、友情が、絆が、それが嘘ではない事を残酷にも伝えて来るんだ。

 ユウカは何かを云おうとして、けれど口を開いた途端、涙がぽろぽろとあふれ出して、何も云えず、ただ涙を流しながら吐息だけを漏らし続ける。そしてノアに縋りつく様にして、多分座り込んでしまうと思う。嗚咽を零しながら。

 ユウカは理解するんだ、ノアがどうして先生を射殺したのか。それが生徒の為でもあり、自分の為でもあると理解してしまうからこそ、声が出ないんだ。友人のその、不器用な優しさが、悲しくあり、憎くもあり、ただ強く、強くノアの腕を握り締めるんだ。

 ノアはそれをただじっと、見つめ続けるんだ。

 

 きっと二人の関係性は、この日を境に変わる。そしてノアの立場もきっと、悪くなる。

 先生が声明を出したその日の内に、一切の説明も求めず、事情も聴かず、先生を射殺した生徒として知れ渡る。だからきっと、彼女は以降辛い日常を送る事になる。いじめがあるかもしれない、心無い言葉を吐かれるかもしれない、或いは暴力に訴える生徒が出るかも知れない。

 そんな中でもきっと、彼女は擦り切れたメモ帳を片手に耐え続ける。何度も何度も読み返し、指先で文字を追い、言葉を繰り返す。先生との幸せな記憶が詰まったメモを読むときだけは、彼女の顔にそっと微笑みが浮かぶんだ。

 

 そんな幸せなメモ帳を目の前で燃やしてあげたい。

 ノアがメモ帳を眺めながら微笑んでいるのを見たゲヘナの生徒辺りが、先生を殺したお前が笑うのが気に食わないと、ノアに強襲を仕掛けて手帳を取り上げるんだ。咄嗟に取り戻そうとしたノアだけれど、数の力には叶わなくて、地面に押し倒されたまま手帳を奪われるんだ。その瞬間、ずっと能面を張り付けていたノアの表情が崩れて、「やめてッ! それだけは奪わないでッ!」と叫ぶに違いない。それは、彼女にとって先生を感じられる唯一の品なんだ。先生との幸せの記録、ある意味ノアを支え続けている支柱とも云える。

 

 それが目の前で燃やされた時、彼女はきっと、「いやっ! 先生、先生ッ!」と彼の名前を叫びながら必死に手を伸ばすと思う。泣きながら、喚きながら、自分の体など知った事ではないと、届かないと理解しながら何度も、何度も手を伸ばすんだ。その手帳が燃えてしまったら、本当に先生が死んでしまう気がして、自分の中にある記憶が、記録が、消えてしまう様な気がして。地面で肌を擦りながら、血を流しながら叫ぶんだ。

 

 灰になった手帳を必死に掻き集めて、ゲヘナの生徒が消え、一人蹲ったまま涙を流すノアの姿を、ユウカはどんな表情で見つめるのだろうか。泣きそうな顔? それとも無感動? 先生への愛が勝れば後者だし、友情が勝れば前者でしょう。頭が良いというのも考えものだねノア。でも凄いよ、ノアは限りなく先生の望んだ未来に近い世界を勝ち取ったんだ! この世界では先生以外死んでいないし、キヴォトスは炎に包まれていない! 平穏なキヴォトスを勝ち取ったノアは誇って良いと思うよ! 先生もきっとあの世で満足しているさ! こういう時はホラ、あれだよねユウカ!

 かんぺき~。

 



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銀行強盗おわりました

誤字脱字報告、ありがとうございます。


 

「お待たせいたしました、お客様」

 

 スーツを着たロボット――銀行審査官がタブレットを片手に歩いて来る。その正面には椅子に座ったまま目を閉じる赤髪の少女、便利屋アルの姿があった。

 場所は銀行内、闇銀行と呼ばれるブラックマーケットの内の一店舗。彼女は腕を組んだ姿勢のまま、不意に震えだすと、勢いよく立ち上がって叫んだ。

 

「――何が、お待たせしましたよ! 本当に待ったわよ! 六時間もッ、此処でッ!」

 

 だん、だんと足を何度も踏み鳴らし、それから自分の背後を指差す。そこには待合の為に設置された柔らかなソファの上で寝入る、便利屋の面々の姿があった。

 

「融資の審査に何で半日掛るの!? 別にウチより先に人もいなさそうだったのに! 私の連れは飽きてソファーで寝ちゃっているし!」

「私共の内々の事情でして、ご了承ください」

 

 アルの怒りを真正面から受けながら、件の銀行審査官は涼しい顔で流す。タブレットを指先でタップしながら、ソファで寝入る便利屋のメンバーをまるで塵を見る様な視線でなぞった。

 

「当行の助けが必要なら、辛抱強くお待ち頂く事も大事かと……あぁ、それとお連れの方ですが、そちらでお休みになられては困ります――セキュリティ、あの浮浪者……いえ、お客様を起こして差し上げなさい」

 

 そう云って手を打ち鳴らせば、壁際で待機していたフルフェイスマスクのセキュリティガードが、寝入っていた便利屋の三人を叩き起こす。

 

「ほら、起きた起きた!」

「むにゃ……うは!? 何々!?」

「………ん!」

「んぐ……あ、す、すみませんっ、居眠りしてすみませんッ!」

 

 ムツキ、カヨコ、ハルカの三人は唐突に肩を掴まれ強く揺すられる。六時間の待機時間でぐっすり熟睡していた三名は、目を白黒させながら周囲を見渡した。そんな仲間たちの姿を、アルは苦々しい表情で見つめている。銀行審査官は咳払いを一つ零すと、手元のタブレットに視線を向けながら口を開いた。

 

「――さて、では今一度ご確認を、御名前は『陸八魔アル』様、ゲヘナ学園の二年生ですね、現在便利屋68の社長との事ですが、しかしこの便利屋はペーパーカンパニーではありませんか? 書類上、財政破綻との記載があるのですが……」

「なっ!? 失礼ね、ちゃ、ちゃんと稼いでいるわよ! まだ依頼料を回収できていないだけで……!」

「はぁ、左様で――それで、えぇと、従業員は社長を含めて四名のみ、室長に課長、そして平社員……これは、肩書の無駄遣いでは? 会社ごっこをしておられるので?」

「ぬ、ぐッ、で、でもちゃんとした肩書は必要だし……」

「後ですね、事務所の賃貸料が高過ぎます、財政状況にあった物件を見つけて頂かないと」

「ちゃ、ちゃんとしたオフィスの方が依頼も来るし……」

「………」

 

 アルが何か一つ言葉を発する毎に、銀行審査官の目は厳しくなる。そのLEDライトめいた瞳が細められ、彼は手元のタブレットを指先で叩いた後、静かに画面を閉じた。

 

「――アル様、率直に申し上げて、これでは融資は難しいです」

「な、ななん、なんですってーッ!?」

 

 白目を剥いて絶叫するアル。寧ろ何故これで融資が受けられると思ったのか、銀行審査官は溜息を零しつつ彼女に憐れみの目を向けた。そこには、寧ろこんな事で時間を取らせるなという倦怠感すら感じ取れる。タブレットの画面をアルの調査資料から別の――ブラックマーケットで請け負っている日雇いのそれに切り替え、淡々とした口調で彼は話す。

 

「まずは堅実な職に就いてみては如何でしょう、日雇いなど手っ取り早く始められるものをご紹介出来ますが、興味はおありで?」

「なッ――」

 

 その言動に、アルはぴくりと額に青筋を立てる。この銀行員の慇懃無礼な態度もそうだが、何処までも人を舐め腐る様な態度――む、ムカつく、もう大暴れして銀行のお金持ち出してやろうかしら……? そんな事を考えながら、アルは担いでいた銃のスリングを握った。

 しかし、既でそれを堪える。

 

 ――いや、それは駄目ね。此処からお金を持ち出せたとしてもブラックマーケットから抜け出すのは至難の業、それにマーケットガードの数が多すぎる。

 

 アルは素早く周囲に目線を配りながら、そう思考する。銀行内に配置されているマーケットガードは、目につく位置だけでも六名。入り口に二名、カウンターの傍に一名、奥側に二名、そして今しがた自分の傍に一名――勿論、それだけだとは考えていない。マーケットガードの詰め所は内部にもあるだろうし、犯行が外に漏れてしまえば増援もやって来る。

 

 ――でも案外、実力はそんなでもなかったりするのだろうか? 装備だけを見れば、確かに違法品で固められている分厳つく見えるが、アルはマーケットガードの実力を傍で見た事が無い。そもそも、マーケットガードと対峙しないように立ち回っていたというのが大きいが、少なくともゲヘナ風紀委員会やアビドスと同格という事はないだろう。私達四人なら、或いは――。

 そこまで思考し、アルは首を横に振る。

 いやいや、やっぱ無理よ、ブラックマーケットを敵に回す何て、そんな勇気無い、と。

 仮に此処で上手く行ったとしても、組織というのはそれだけで恐怖だ。必ず報復に動く、そうなったらもうこの付近で商売は出来ない。ブラックマーケットの影響力は無視できるものではない、学園一つを敵に回すと同じ事なのだから。アルは俯き、唇を噛む。

 

 ――何よこれ、情けない……キヴォトスで一番のアウトローになるって心に決めたのに、私は。

 

 アルは不意に泣きそうになった。今の自分は、夢見ていた真のアウトローには程遠い。融資だの何だの、ツマラナイ事に頭を悩ませて。私が望んでいるのはこれじゃない、何事も恐れず、何事にも縛られない、ハードボイルドなアウトロー……。

 そうなりたかったのに。

 

 そんな風にアルが自身に失望を抱いた途端――周囲が一瞬にして暗闇に覆われた。

 

「な、何事ですか!? て、停電!?」

「えっ!?」

 

 皆が周囲を見渡し、声を荒げる。フロア一帯の電源が落ちた様で、数メートル先も目視出来ない中、アルはその場で立ち尽くした。

 

「一体誰が、パソコンの電源も落ちたぞ!?」

 

 誰かがそう叫んだ途端、直ぐ傍から銃声が鳴り響いた。咄嗟に、アルはその場に屈み込む。便利屋を営む中で育まれた、彼女の危機管理能力であった。

 

「じゅ、銃声!?」

「うわぅ!?」

「何が、っぐァアア!?」

 

 断続的に鳴り響く銃声、悲鳴、そして誰かが斃れる音。暗闇が続いた時間はそれほど長くはなかった、ほんの十秒か、二十秒か、その程度。

 数秒程静寂が続いた後、不意に電気が灯り光が満ちる。戻った視界に映ったロビー中央には――覆面を着けた七名が堂々と立っていた。

 

「全員その場に伏せて両手は頭の上、持っている武器は床に捨てて!」

「云う事聞かないと、痛い目にあいますよ☆」

「あ、あはは……皆さん怪我したくないですよね? だ、だから伏せていて下さいね……」

 

 銃器を片手にそう宣言した色取り取りの覆面を着用した彼女達の傍には、先程まで立っていたマーケットガードが転がっていた。どれも頭部か腹部に弾痕が刻まれている。

 ――あの、十秒そこらの時間でマーケットガードを全員無力化したというの!? 

 アルは地面に屈んだまま、驚愕の表情で彼女達を見る。

 

「ぎ、銀行強盗!?」

「非常事態発生! 非常事態発生!」

「うへー、無駄無駄、外部通報警備システムは遮断済だよぉ」

 

 先程までアルの対応をしていた銀行審査官は、叫びながらタブレットを凄まじい勢いで叩く。恐らく外部へ通報しようと試みたのだろう。しかし、既にそのシステムをダウンさせていた強盗の一味――ホシノは気楽な態度でそう口にし、鋭い視線を銀行審査官に向けた。

 

「な、ななッ……!」

「今通報しようとした~? したよねぇ? もしかして撃たれたいのかな?」

「ひはーッ!? ごごご、ごめんなさいィ!」

「ほらそこ! 伏せてってば! 下手に動くとあの世往きだよ!」

「皆さん、お、お願いだからじっとしていて下さい……あぅう……」

 

 残っていた銀行員を片っ端から地面に伏せさせ、そのままロビー一帯を流れるように制圧。客や銀行員を一か所に纏め、ノノミが朗らかな態度で愛銃――ミニガン(ノーペインガン)――を向ける。動けばミンチだぞという無言の威圧に、客や銀行員は身を震わせ沈黙した。その後、アヤネが全員の携帯端末の類を没収する。

 

「うへー、此処までは計画通り! 次のステップに進もうー! リーダーのファウスト、指示を願う!」

「……えッ!? もしかしてファウストって、わ、私ですか!? リーダーッ!? 私がァ!?」

「えぇ、ファウストがボスです! 因みに私は覆面水着団のクリスティーナだお♧」

「うわ何それ、いつから覆面水着団なんて名前になったの!? ダサ過ぎだし!」

「えー……結構お気に入りなのに~……」

「うへ、ファウストさんは怒ると怖いんだよー? いう事聞かないと怒られるぞー?」

「あぅ、私がリーダー……銀行強盗の? これじゃティーパーティーの名前に泥を塗る羽目にぃ……」

 

 作戦中に突如押し付けられたリーダーの役目に、紙袋を被った五番目の少女――ヒフミは涙目になる。しかし今は落ち込んでいる時間などない、X番のマスクを被った先生が彼女の肩を叩き、いつも通り指示を飛ばした。

 

「ほら皆、迷っている時間はないよ、各員割り当てた仕事をこなす! 戦闘と同じだ! 動いて動いて!」

「ぁ、は、はい、すみません、先せ……い、いえ、ラビ!」

 

 先生の名を呼びそうになり、慌ててコールサインを口にする。隣で人質の監視に勤しんでいたアヤネが、そっと小さな声で問いかけた。

 

「……そう云えば、何でラビなんですか?」

「とある場所の言葉で、『先生』って意味なのさ」

「へぇ~」

 

 先生の雑学にアヤネは感心した様な声を出す。そんな生徒達の様子を見ていた人物が三名――ムツキとカヨコは、ついでにハルカはソファの裏に隠れたまま、彼女達の行動を眺めていた。

 

「あれ、あいつら、もしかして……」

「あ、アビドス……?」

「だよね、アビドスの子たちじゃん、知らない顔も居るけれど」

「何で、よりによって此処で銀行強盗なんか……?」

 

 ムツキとカヨコ、そしてハルカはソファの裏から顔を覗かせながら、「何やっているんだアイツら」とばかりに顔を顰める。いや、ムツキはどこか楽しそうにしているが、カヨコからすれば本当に理解不能な行動である。まさか借金返済の為に強盗を? というか良く見れば先生だって居るじゃないか。制服を着崩して、所属の分かる腕章やネクタイを外してはいるものの、元々少ない男性の大人というのは隠しきれない。一度先生と会った事のある者なら直ぐ分かるだろう。呆れ顔のカヨコは、今しがた銀行員の一人を立たせ、先導させているシロコに視線を移す。

 

「銀行内部の構造把握、監視カメラのジャック、外部通報装置の遮断、警備員の無力化、全て完了している、無駄な抵抗はしない事、ほら、さっさと歩いて」

「う、うぅ……」

「物品はこのバッグに入れて、私達が欲しいのは少し前に到着した輸送車の――」

「わ、分かりました! 差し上げます、現金でも債券でも金塊でも! 幾らでも持って行ってください!」

「え、あ、そ、そうじゃなくて、集金記録――」

「も、もっとですか!? ど、どうぞ、これでもかと詰めました! どうか命だけはッ!」

「あ……う、うーん」

 

 シロコに銃を突きつけられていた銀行員は、バッグの中にこれでもかと付近にあった現金を詰め込む。それを見ていたシロコは、「そういう訳ではないのだけれど」という顔をしながら、しかし一応集金記録や端末など、兎に角目につく金目のものを入れている事に、まぁ良いかという一つ頷いた。

 

「………」

 

 そんな銀行強盗の一部始終を見ていたアルはというと――。

 

 ――や、ヤバーイ! この人達何なの!? ブラックマーケット最大規模の銀行を襲うなんてッ! あ、頭の螺子が数本飛んでいるなんてレベルじゃないわっ!

 

 とても輝いた瞳でアビドス達を見ていた。それはもう、ヒーローを見る様な満面の笑みで。

 今しがた自分が想像していた事柄を、こうもスマートに実行している存在。電源を落とし暗闇の中でマーケットガードを排除、通報システム、監視カメラ諸々を遮断し外部への通報手段を奪う。後は内部に詳しい銀行員を一人先導させ、金銭を奪う。

 全てが全て、スマートだった。自分が想像していた数倍スムーズに事は進行していた。

 

 ――どう逃げるつもりなのかしら? いや、それ以前に、こんな大胆な計画を立てちゃうアウトローが未だに存在するなんて……ッ! 滅茶苦茶手際良いし、超プロフェッショナル! まるでこのためだけに生まれて来たみたい、ものの五分で現金入手までやってのけたわ!

 アルはそんな事を考えながら、シロコからロビーの中央に立つ二人組に目を向ける。

 

 ――一人ひとりが役割に忠実だけれど、特にあの、『X』のマスクを被った人! 周囲に的確な指示を出して、無駄な動きが一切ない! 更にあの紙袋の『5番』! 一見オドオドしている様に見えるけれど、他のメンバーが逐一報告しているわ! きっと彼女がリーダーなのねッ! Xが司令塔で、5番がボス、理想的なツートップ体制……!

 

 ――かっ、カッコイイ……! 痺れるっ! これぞ正に真のアウトローッ! うわぁ……涙が出そうっ!

 

「全然気づいていないみたいだけれど、というか泣き笑いしているのだけれど……」

「うわぁ、めっちゃ嬉しそう、目なんか輝かせちゃって」

「はぁ……」

「わ、私達は此処で待機でしょうか?」

「……社長があんな状態だし、取り敢えず隠れて様子を見よう」

「わ、分かりました」

 

 泣き笑いしながら物理的に輝いた瞳をアビドスに向ける社長に、便利屋の三名は行動を断念。音頭を取る人物が居ない以上、下手に動く事は悪手とカヨコは判断した。取り敢えず、此処に隠れていれば余計な損害を被る事はないだろう。そう考えカヨコはソファ裏に凭れ掛かった。

 

「あの、シロ……じゃない、ブルー先輩! ブツは手に入った!?」

「あ、うん、確保した」

 

 セリカが銀行員に銃を向けながらそう問いかければ、裏から戻って来たシロコことブルーは頷き、膨らんだバッグを掲げる。それを見たホシノは手を挙げ、そのまま出口を指差した。

 

「よっしゃ、それじゃあ逃げるよー! 全員撤収!」

「アディオ~ス☆」

「お、大きな怪我人は居ないみたいですし……すみませんでした、さようならッ!」

「逃走経路は設定しています、急ぎましょう!」

 

 ホシノの一言に、アビドスの皆は出入口へと撤収していく。その様子を見た銀行員の一人が立ち上がり、怒り心頭と云った様子で叫んだ。

 

「や、奴らを捕まえろ! 道路を封鎖、マーケットガードに通報――」

 

 しかし、声を荒げる彼の足元にコツン、と何かが当たる。見下ろせば、それは白い球体であった。

 

「えっ?」

 

 ゆっくりと銀行員が転がって来た軌道をなぞれば、銀行の出入口で『X』のマスクを被った人物が、タブレット片手に立っている。彼はふっと口元を緩めるとタブレットを二度タップした。

 

「――悪いね」

 

 瞬間、炸裂するEMPドローン。戦車用に調整された局所的な強力集中型ではなく、広範囲に広がるタイプの電磁パルスを撒き散らす。範囲が広いため威力はそれ程ではないが、数分足を止める程度であれば十二分な効果を持つ代物であった。

 

「あばばあばばばッ――」

「いぎぎぎぎ――」

 

 唐突に放たれた電磁パルスに、店内のロボット銀行員は強烈な痺れに機能停止、通報システムも破損。銀行員や客の持っていた端末も損傷した。これで通報を行う手段はなくなった。巻き込まれた客は気の毒だが、これからの事を考えると必要経費だし、運が悪かったと諦めて貰う他ない。先生はその結果を見届け満足そうに頷く。

 

「これで時間が稼げるかな?」

「せん――ラビ何しているの!? 急いでッ!」

「あぁ、ごめん、すぐ行くよ!」

 

 セリカの叫びに、ラビこと先生は踵を返す。その去って行く背中を、「去り際までスマート……」と見送っていたアルは、唐突に意識を取り戻し勢い良く立ち上がった。このままあの銀行強盗を見送る訳にはいかない――アルの何か、夢に向かう熱烈な意思とも云えるソレが彼女の両足を動かした。

 

「……お、追うわよ皆!」

 

 云うや否や、機能停止し痙攣している銀行員を突き飛ばし、アルは外へと駆け出す。

 

「えっ、は!?」

「あ、アル様!?」

「あはは~! やっぱりこうなった!」

 

 そんな我らが社長の後姿を見ていた便利屋の面々は、驚きや笑い声を上げながらアルの後を追いかけ、外へと駆け出した。後に残ったのは何が起きたのか分からないと目を白黒させる一般市民と、EMPによりポンコツになった銀行員の数名だけであった。

 


 

 イロハのモコモコの髪の毛に顔を突っ込んで、思いっきり深呼吸した後に咳き込みたい。

 多分彼女は真っ赤になりながら、「も、もしかして、くさかったですか……?」と不安げに聞いて来るだろうから、「全然そんな事ないよッ!!」って満面の笑みで答えた後に、もう一回髪の中で深呼吸して「エッホッゴ!」って咳き込みたい。多分、お日様の様な香りがするんだ。

 

 アリウスのミサキって可愛いよね。私の推しはミサキとカヨコなのですが、それを口にすると、「何かストロングゼロをストローで飲んでいそう、路上で」とか云われるので胸に秘めたまま生きて行きます。地雷系じゃないし、違うし、ぱっと見それっぽく見えたとしてもこれは爆発しても良い地雷だから問題ないし、溢れる愛で何なら爆発ごと愛すし、全然首絞められても余裕ですけれど???

 レポートでレベルアップさせると、「所詮捨て駒でしょう?」と吐き捨てながらも、絆ストーリーでは、「そんな事ないんだって、馬鹿みたいに信じられたら……」とも口にしている。この信じたいけれど信じられない、仄かな希望を胸の中に抱いていながらも、それを表に出す事を恐れている。そんな二面性を持つ彼女が素晴らしく思えて仕方がない、何なら普段無気力で振る舞っている癖に、花粉症で閉所恐怖所で、根本的なところで寂しがり屋。多分普段はその寂しさを、アリウススクワッドの皆で埋めているのだろうなと予想出来る。

 

 このミサキをデロデロに甘やかしてやりてぇ~。もうね、何だろう、この無気力なミサキを兎に角構い倒したくなる。絶対鬱陶しいとばかりに手で払われ、迷惑そうな目で見られるだろうけれど、そんなの関係ねぇとばかりに構い倒したい。野生のミサキを見つけたら保護する事は既に法律で決まっているから。見つけたら、「あ、ミサキだ! 野生のミサキだ! 初めて見た!」と云いながら彼女の後をずっと追いかけるんだ。先生が。

 

 最初の内は無関心で、先生が追って来るのも「何?」って迷惑そうな顔で見ているだけなんだけれど、何時間もそうやってつけているといい加減面倒になって、「いつまでついてくるの? 暇なの? 大人の癖に」って絶対吐き捨てる。その内多分、ミサキのお腹が減って来るだろうから、「シャーレでご飯食べよう、ミサキ」って誘うんだ。ミサキは、「いい」って断ると思うので、その後も延々と尾行を続ける。そして自分が頷かない限り、この追跡は続くのだと理解したミサキは、とても深い溜息と共に、「……それが命令なら」と渋々シャーレに来てくれるに違いない。

 

 ご飯はね、もう先生の給料を吐き出す勢いで一杯作って欲しい。そもそもミサキはちゃんと食事を摂っているかも怪しいし――絆ストーリーではご飯食べられなくて、風邪ひいて倒れたし――何なら暖かいご飯なんて、それこそ随分口にしていないと思う。

 シャーレに到着して、テーブルに並べられたそれを見てミサキはらしくもなく驚くんだ。先生に「さぁさぁ、好きなだけ食べて!」と席に案内されて、たじろぎながら、「……こんなに食べられない」と口にするミサキを、ニコニコ顔で見つめたい。

 ミサキは恐る恐る食事に手を伸ばしながら、じんわりと暖かい料理にどこか、今まで失っていた人間らしい感覚を取り戻すんだろうな。守られる場所も、暖かな寝床もなかったミサキにとって、温かみというのはとても大切なものだと思うから。

 

 食事の後は食休みは大事だとか何だとか理由をつけて、一緒に映画を見るなりゲームをするなりして欲しい。最初は乗り気じゃなかったミサキだけれど、先生には沢山御馳走して貰ったし、これくらいは付き合ってあげても良いと存外すんなり頷いてくれる気がする。

 多分どんな映画を見ても笑いもしなければ泣きもしない、淡々とした表情でそれを眺めるだろうから、その隣で先生には盛大に号泣して欲しい。そんな先生を見ながらミサキは、「えぇ……」みたいな表情をするに違いない。

「先生、これそんな泣く要素あった……?」、と問いかけるミサキに、「全部に感動したぁ!」と強く訴えかけて欲しい。それで次はコメディ映画を見て欲しい。涙の後には笑みが無ければならないのだ。

 

 一緒に映画を鑑賞し、隣で爆笑する先生を見つめながら、ミサキに不意に、笑って欲しい。多分、凄く小さな笑みで、口の端がほんの少しだけ上がる様な。殆ど誤差の様な笑みで良いんだ、ただ全力で喜怒哀楽を表現する先生に、呆れたような、羨ましがる様な、そんな感情を滲ませながら少しだけ笑って欲しい。

 

 先生との映画鑑賞で時間が経過した後は、なし崩し的に夕飯も食べて欲しい。そろそろ夕飯だし一緒に食べようと誘った先生に、渋い顔を向けながらも、どうせ一人も二人も変わらないよと説得され一緒に食卓を囲むんだ。二食もちゃんとしたものを食べるのは久しぶりで、暖かな湯気を立ち上らせるそれを見つめながら、何となく寂寥感というか、これが普通の幸せというものなんだろうかと考えて欲しい。そして、自分の在り方に強烈なコンプレックスを感じて、けれど対面に座って微笑む先生を見つめた途端、そういう劣等感だとかコンプレックスが溶けて消えて。

 それを表に出さない様に、手元の食事を口に運んで欲しい。

 

 夕飯の後はお風呂に入って、歯磨きもして、気付けば先生に寝床まで準備されていて、それじゃあこの部屋は自由に使ってね、お休み! と息を吐く間もなく宿舎に連行され、それなりに広い個室――閉所恐怖症のミサキの為に、先生が二部屋ぶち抜いて作った――に放置されて欲しい。怒涛の展開に目を白黒させながらも、ミサキは多分この部屋が自分の為に造られたものだと気付くと思う。何となくこのまま帰るのも申し訳なく思えて、まぁ一泊くらいなら――とそのままシャーレに宿泊するんだ。

 

 勿論、一度保護したミサキを先生が野に放つ訳もなし。

 翌日、先生は朝八時頃に未だ夢の中に居るミサキの様子を見に来るんだ。ミサキはきっと朝弱いと思う、弱いという事にしてください、グズるミサキが見たいの、私は。枕を抱きしめて熟睡するミサキの部屋に、先生はきっと食事を持って来てくれる。そして何となく起こすのも忍びなくて、そのまま幾らでもミサキの寝顔を観察していて貰いたい。でも流石に先生も仕事があるから、五分くらい眺めた後にミサキの寝顔を端末で撮影して壁紙にし、そっと部屋を後にするんだ。良識的な大人、人間の鑑。

 

 ミサキはそれから十分そこらで、朝食の匂いに釣られて起きると思う。寝ぼけた状態のまま、部屋のテーブルに置かれた食事を見て、ミサキは目を瞬かせる。誰が置いたのかとか、もしかして先生が来ていたとか、寝顔見られたとか色々思うところはあると思うけれど、起床したばかりのミサキはそういうのを全てぶん投げて、多分テーブルの上の食事をもそもそと食べ始めるんだ。可愛いね。

 

 その後、いつもの服装に着替えたミサキがシャーレを後にしようとして、せめて先生に御礼位云っておこうとオフィスに向かい、そこで先生に縋りつかれるんだ。「これ以上借りを作る気はない」と云うミサキに、先生は大人の力を発揮する。

 

 ヤダ~~! いかないで~~! 帰っちゃやだ~~! 悲しいよぉ~~! ミサキと一緒にいたいよ~~! シャーレで暮らしてよ~~! ご飯つくってあげるから~~! ふかふかのベッドもあるよ~~! そんなに見たいなら見せてやる、良い大人が全力で駄々を捏ねる姿を――ッ!

 

 多分ミサキは折れてくれる、ミサキは信頼したいと思える人物の押しには弱い女なんだ、私は詳しいんだ。先生が地面に転がって全力で手足をジタバタさせながら泣き叫べば折れない生徒はいない(威風堂々)。

 何て云ったって、「云われたらなんだってする、何でも云って」、「必要とされるなら、何だって構わない」とまで口にするくらいだからね! 先生はシャーレに居ついたミサキに、「ミサキは私にとって必要だよ」、「唯一無二の生徒だよ」、「ずっと此処に居てくれて良いんだよ」と、「ずっと一緒だからね!」と三食おやつ昼寝付きで毎日甘やかすんだ。最初の内は有難迷惑というか、助かるのは助かるけれど、それはそれとして何でこんなにしてくれるのと、感謝よりも疑念と困惑が勝って来ると思う。

 必要とされるなら何だって構わない、云われた事は必ず実行する、それに嘘はないけれど、こうやっていざ本当に必要にされ始め、自分に有形無形の好意を向けて来る相手には、どう接すれば良いのかミサキは分からないんだ。アリウススクワッドの皆は仲間だった、幼い頃から信頼出来る唯一の同胞だった、けれど先生は大人だ。アリウススクワッドの嫌う大人なのだ。そんな大人に向けられる善意や好意に、きっと彼女は戸惑うと思うんだ。

 

 何でそんなに私に構うの、って唐突に彼女は問い掛ける。先生と一緒に過ごす事が当たり前になり始めて、血色も良くなった頃、全てが全て虚無(ヴァニヴァニ)がスタンスであった彼女が、先生に初めて問い掛ける。

 先生は少しだけ驚いた様な顔をした後に、「私はね、ただ寄り添いたいだけなんだ」って云って欲しい。困っている生徒は放っておけない、自分の出来る範囲で手助けしてあげたい、そういった先生の善意を、以前のミサキは疑っただろう。信頼もしなかっただろう。けれど一緒に過ごして、先生の根っこを知ってしまった彼女は、先生が腹の底からそういう風に考えているのだと理解するんだ。

 だから多分、いつも通り窓枠辺りで膝を抱えながら、「そう」とだけ呟くんだ。その少しだけ緩んだ口元を、膝に埋めながら。

 

 その日から、何となくミサキと先生の距離が近くなって欲しい。先生が仕事をしている最中、いつもは部屋の片隅で膝を抱えていたのが、先生の隣の椅子に座ってぼうっとしていたり。時折無言で珈琲なんかを淹れてくれたりして。食事も、自分は作れないから無言でお皿を用意してくれたりするんだ。可愛いね。

 

 そんなミサキに先生の死体を見せてあげてぇ~!

 少しずつ生まれ出した幸せな居場所をぶち壊してあげてぇ~!

 

 もしサオリよりミサキの方が早く先生に出会っていたら? 敵だと知りつつも絆を深めてしまったら? そんな状態でエデン条約を迎えてしまったら? そしてそこで、リーダーであるサオリが先生を射殺したらどうなるのか、とかも考えたけれど、ミサキは先生が死んだその場に居るのではなく、何も知らない間に事が起きて、何も知らないまま先生の死体を見るのが一番似合うと思うんだ。

 キヴォトス動乱の戦火で死ぬとか、誰かに謀殺されるとか、そういうので炊くご飯もとても美味しいのだけれど、誰がやったのかもわからない、唐突な別れというのも中々に美味しい。味付けごはん。

 

 多分ミサキは先生とシャーレで過ごす中で、名目上は護衛とか日直で傍に侍るけれど、具体的に命令を出さなければ置物に徹するような気がする。だから先生が「買い物に行って来るね」と云っても、護衛を頼まなければ同行はしないし、ただちらりと先生の方を一瞥して終わりだと思う。

 けれど先生が買い物に向かってから何時間も経過して、挙句の果てには雨まで降って来て、何となく帰りが遅いなとか、先生は傘持っていなかったよなとか、そんな事を考えて、窓の外をずっと眺めていたミサキは傘を片手にシャーレを出るんだ。

 いつもならこんな事はしないし、心配なんて以ての他。けれど存外、先生と一緒に過ごすシャーレの居心地が良くて、自分でも悪くないと思い始めた事を自覚して。これは、いつもの御礼だからと自分に言い訳して、雨の中を小走りで進むんだ。

 

 そして、シャーレ傍の裏路地で倒れ伏した先生の姿を見て欲しい。背中に数発、撃ち込まれた銃痕と、破壊されたタブレット。赤と泥にまみれた純白の制服を見てミサキは足を止めるんだ。

 

 彼女は路地裏に差し掛かった時、誰かが斃れている事に気付く。最初は飲んだくれか何かだと思って、けれど近付く毎にその姿が見知った人の恰好と一致して、その死体に見当がついたとき、ミサキは「――は?」と呟く。最初は歩きだったのが、段々と速足になって、気付けば彼女は傘を放り捨てて先生の傍に駆け寄るんだ。

 

 彼女は暫くの間、自分の足元に転がる存在が、先生だと認識できない。けれど腕章や制服、そして見慣れた風貌に、それが先生であると徐々に理解するんだ。手に持っていた紙袋からは購入した食材や、ミサキにプレゼントする為だろう、リボンのついた小さな熊の縫い包みが零れ出ていて、ミサキはそれを見つめながら崩れ落ちる。

 雨の中泥の付着したそれを手に取って、それから先生の頬に指先を伸ばすんだ。けれど触れるか触れないか、その境界線で何度も手を引っ込め、それから小さく震えだす。それは寒さからではなく、先生に触れた途端、それが現実である事を認めなくてはいけないその恐怖心からだ。

 

 ゆっくりと指先が先生の頬に触れて、その冷たさがミサキの指に伝わる。雨に長時間晒された先生の体に、暖かさは微塵も残っていない。それがどういう事を意味するのかは、ミサキは良く知っていた。唇を震わせて、手を握り締めて、首を振る。

 ミサキは泣き叫んだりしない、喚きもしない。ただ涙を流すんだ。ミサキの頬を涙か雨かもわからない冷たさが伝って――あぁ、自分はこの人が好きだったんだと、そこで漸くその感情を自覚して欲しい。

 哀しさや嬉しさを、彼女は表に出したりしない。いつも能面の様な表情を張り付けている。けれど自分の目元から流れるそれに、胸を痛い程に締め付ける感情に、早鐘を打つ心臓に、ミサキは漸く答えを見つけるんだ。

 

 何もかもが虚しい、どうせ捨てられるのに、所詮この世界は――そんな風に口にして、斜に構えて、真剣に、真正面から向かおうとしなかった。先生はいつだって、真っ直ぐ自分と向き合おうとしてくれていたのに。自分を見つめてくれていたのに。「好き」の一言も云えなかった。

 そんな風に考えて、ミサキは両手で先生の顔をそっと包むんだ。そして小さく、「一緒に居るって、云った癖に」と呟く。「やっぱり大人は嘘つきだ」と。

 そのまま先生の顔を抱き寄せて、暫くその場で佇むと思う。そして何分もそうして先生を抱きしめ続け、先生の傍に落ちていた――アリウスのワッペンを握り締め、先生の事を抱き起すんだ、「帰ろう、シャーレに」って云いながら。

 先生の亡骸を引き摺って、ミサキはシャーレへと帰る。その両目に彼女らしからぬ確かな殺意を抱きながら。

 

 生きている間に云えたらハッピーエンドにも成り得たのにね。ミサキには静謐が良く似合うよ。

 ミサキはね、アリウスの中で一番無気力で、斜に構えていて、「肉体なんて」、「世界何て」と宣いながら、寂しがりやなメンヘラちゃんだけれどね、万が一先生が死んでしまったらサオリと同じ位復讐に走ると思うんだ。彼女の場合、自分の体を微塵も大事にしないし、死んだら死んだでこの苦しみから解放されると思っているから平気で自爆とかしてくる。ミサキは精神的に強くもあるし、弱くもあると思うんだ。

 

 このミサキは散らばったアリウス残党を草の根掻き分けても探し出して、絶対殺すウーマンになるのかな。先生が最後に買ってくれた人形をボロボロになるまで肌身離さず持ち歩いていそう。頑張ってアリウススクワッドの皆でキヴォトスを綺麗にしようね。まぁ、スクワッドの誰かが先生を殺した可能性もあるけれど。

 



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人はパンのみにて生きるにあらず

誤字脱字報告、助かります。


 

「はひー、息苦しぃ! もう脱いでいいよね!?」

「のんびりしていられないよぉ、急げ急げ、追手が直ぐ来るだろうから」

「で、出来るだけ早く離れないと、間もなく道路が封鎖される筈です!」

 

 セリカが息苦しそうに被っていた目出し帽を剥ぎ取り、大きく息を吐き出す。そんな彼女を見ながら、ホシノとヒフミは進行方向を指差し告げた。銀行強盗を終えてから凡そ十分ほど、ブラックマーケットの中をやたらめったらと走り回り、追跡を撹乱した後、アビドスの面々はブラックマーケット郊外の境目まで撤退する事に成功した。ヒフミの予想では、そう遠くない内にブラックマーケットと外を繋ぐ道路が封鎖されると考えている。しかし、無論先生がその手の事を考えていない筈もなく、隣に立っていたノノミが笑みを浮かべながら先生を見た。

 

「ご心配なく、万全の準備を整えておきましたから☆ ね、先生?」

「うん、最後にEMPドローンを投げ込んでおいたから、店内の銀行員に暫く緊急通報は出来ないよ、あるとすれば一般市民による通報だろうけれど、店内にいた人達の端末は破損させたし、近場の人から端末を借りて通報出来たとしても最寄りの詰め所は通信システムをダウンさせてある、二番目に近い詰所から出発したマーケットガードによる現場確認、そこから緊急通報が入って封鎖作業――十分そこらじゃ、どう頑張っても無理だね」

「さっすが先生!」

「凄い、手慣れているね先生、次襲う時も誘って欲しい」

「……いや、これきりだからね、シロコ」

 

 心なしか輝いた瞳で自身を見るシロコに、先生は辟易とした表情を浮かべる。皆も先生の言葉で追っ手が来る確率は低いと考えたのか、息苦しい目出し帽を脱ぎ、一息吐く。

 

「追っ手は来ないかもしれないけれど、一応ブラックマーケットからは出た方が良い……こっち、急いで」

「……あの、シロコ先輩、覆面脱がないの? 邪魔じゃない?」

「天職を感じちゃったっていうか、もう魂の一部みたいなものになっちゃって、脱ぎたくないんじゃなーい?」

「シロコ先輩はアビドスに来て正解だわ、ゲヘナだったら……物凄い事やらかしていたかも」

 

 どこか戦々恐々とした目を向けて来るセリカに、シロコはマスクを脱ぐと頬を掻いた。

 

「そ、そうかな……」

「うん、多分……いや、絶対」

 

 シロコがゲヘナに通っていたら――先生はその先を想像し、即座に振り払った。碌な未来が見えない、というかどう考えても犯罪行為に走る。あの学校は良くも悪くも自由であり、法に縛られない。

 いや、そもそも借金という果たすべき目標がなければ、或いは健全なサイクリング狂いで終わる可能性も? そこまで考えて、隣で駆けていたアヤネが声を上げた。

 

「封鎖予測地点を突破、この先は安全です!」

 

 ブラックマーケットと郊外の境目。アーケード街を抜けた先にある歩道橋を渡り、大きな道路を挟む先には見慣れた清潔な街並みが広がっている。そこまで駆け込み、路地裏へと身を隠したアビドスの面々は小さくガッツポーズを取る。封鎖予測地点――これを抜ければ、マーケットガードは追跡できない。良くも悪くもブラックマーケットでのみ力を持つ部隊である、他の自治区に対して独自行動が出来ないという点は他と同じだった。云うなれば国外逃亡――此処まで来れば、安全だ。

 

「やった、大成功ッ!」

「本当にブラックマーケットの銀行を襲って、それも成功しちゃうなんて……」

「よーし、よし、シロコちゃん、集金記録の書類はちゃんとゲット出来た?」

「う、うん、バッグの中にある――はい」

 

 シロコは頷き、背負っていたバッグをそのままホシノに手渡した。妙に重たいそれを受け取ったホシノは、取り敢えず中身を拝見すべく地面に落とし、チャックに手を掛ける。

 

「よーし、よし、これで完璧~、って――」

 

 チャックを開け、中身を覗き込んだホシノは――視界に映った大量の札束に、思わず絶叫した。

 

「なんじゃこりゃあ!? バッグの中に、凄い量の札束が……!?」

「うえぇぇええッ!? し、シロコ先輩、現金盗んじゃったの!?」

「ち、違う、目当ての書類はちゃんとある、このお金は銀行の人が勘違いして……」

 

 ホシノが紙帯でまとめられた札束を両手に持ってシロコを見れば、凄まじい勢いで首を横に振る彼女が奥底の方に埋まっていた電子証明紙を取り出す。一応、目的の代物は入手していた。しかし、まさか現金まで持って来るとは思っておらず、ホシノの顔は心なしか引き攣っている。

 バッグの傍に屈みこんだホシノは、大量に詰められた札束を掴みながら先生に問い掛けた。

 

「……先生、これどれくらいある?」

「ん、そうだね……この位の量だと凡そ一億か、それ以上かな」

「うへ、本当に五分で一億稼いじゃったよ……」

 

 呟いたホシノは肩を落とす。現金を盗み出した――書類だけならばまだしも、これだけの金額を強奪したと知れば、ブラックマーケットも黙ってはいないだろう。大誤算だ、ホシノは頭を悩ませた。

 

「ぃやったァ! 何ぼーっとしてるの! 運ぶわよ!?」

「え、えぇ!?」

 

 反対に、喜色満面なのがセリカだった。彼女は大量に札束の詰まったバッグを見て驚愕し、その後小さく震えながら全力のガッツポーズを見せる。その言動から、セリカはこの金をそのまま使うつもりなのだと分かる。アヤネはそんな彼女を見て、慌てて窘めた。

 

「ちょ、ちょっと待って下さいセリカちゃん! そのお金、使うつもりですか!?」

「アヤネちゃん? 使うつもりって、当たり前だよ、借金を返さなきゃ!」

「そんな事したら……本当に犯罪だよ、セリカちゃん!」

「は、犯罪だから何!? このお金はそもそも私達が汗水流して稼いだお金なんだよ!? それに、そのままにしておいたら、犯罪者の武器や兵器に変えられて、別の犯罪に使われるかもしれない! 悪人のお金を盗んで何が悪いの!?」

「………」

「私はセリカちゃんの意見に賛成です、使い道は兎も角、犯罪者の資金をそのままにしておくのは良くありません、私達が正しい使い方をした方が良いと思います」

 

 今まで一つの方向を向いていたアビドスが、初めて割れた。アヤネは強奪した金銭を使用する事に反対で、セリカは闇銀行にあった以上、悪人の金なのだから躊躇う必要もないと。ノノミは消極的賛成で、犯罪資金にされるくらいならばという考え。

 ノノミの同意を得たセリカは勢いづき、皆に向かって声を張り上げた。

 

「ほらね! これさえあれば、学校の借金だってかなり減らせる! そうじゃなくても、使い道は一杯あるんだから! 装備も弾薬も食料も、何なら校舎の修繕も出来るんだよ!?」

「んむ……それはそうなんだけれど――シロコちゃんはどう思う?」

 

 ホシノが頬を掻きながらシロコの方を見れば、彼女は薄く微笑んだまま首を横に振った。そこには確信に近い――信頼があった。

 

「自分の意見を述べるまでもない、ホシノ先輩が反対するだろうから」

「へっ!?」

「――うへ、流石シロコちゃん、私の事、分かっているね」

 

 驚いた表情のセリカを、ホシノは真っ直ぐと見据える。そして彼女らしからぬ真剣な表情で、ハッキリと告げた。

 

「私達に必要なのは書類だけ、お金じゃないよ」

「――で、でも」

「今回のは悪人の犯罪資金だから良いとして、次はどうするの? その次は? 一回で大量にお金を仕入れて、それで借金を減らしたとする、それで残りの借金を返す為にまた働いて――そして思う訳だ、なんでこんな苦労しているんだろうって、やろうと思えば五分でまた一億稼げるのに……って」

「………!」

 

 何かを口にしようとしていたセリカの口が、中途半端に開いたまま固まった。誰よりも労働に精を出し、率先して金銭を稼いでいたセリカだからこそ、その言葉は響いた。

 そんな彼女を正面から見つめたまま、ホシノは続ける。

 

「慣れって云うのは怖いよ、本当に、知らず知らずの内に思考が染まる、最初は自制出来ていても、ピンチになったら【仕方ないよね】とか云いながら、また強盗に手を出すよ、そしてそうなったら終わりだ、繰り返す内に、何も思わない様になる、平気でお金の為に人を傷つけるようになる――おじさんとしては、可愛い後輩がそうなっちゃうのは嫌だなぁ」

「っ……!」

「悪人のお金で学校を守って何の意味があるのさ」

 

 ホシノの言葉にセリカは言葉を詰まらせた。目の前の彼女の顔と脇に転がされたバッグの中身を視線でなぞる。確かに、と思う所はある。理解も出来る。

 けれど、それでも捨てるには余りにも金額が大きい。これだけあればという気持ちが、どうしても抜け切らない。両手を握り締め俯いたセリカは、絞り出すように呟く。

 

「でも、だからと云って……!」

「こんな方法使う位なら、最初からノノミちゃんのゴールドカードに頼っていれば良かったんだ、違う?」

「……そうですね、私が提案した時に一番反対されたのは、ホシノ先輩でした」

「うへ、だって、ねぇ?」

 

 ホシノが肩を竦めてノノミを見れば、同じように力を抜いたノノミが、ふっと笑みを浮かべて目を伏せた。

 

「いくら頑張っても、きちんとした方法で返済しない限り、アビドスはアビドスではなくなってしまう……そういう事ですか」

「そういう事――だから、このバッグは置いて行くよ、頂くのは必要な書類だけね、これは委員長としての命令だよ」

 

 命令――その言葉は、ホシノには似合わない。

 しかし、委員会の長としての発言ならば逆らう事は出来ない。セリカは両手で頭を抱えると、そのまま地団駄を踏んで叫んだ。

 

「ぐ、ぬ、う、うわああッ! もどかしぃ! 意味わかんない! こんな大金を捨てる!? 変な所で真面目なんだからッ!」

「ん、委員長としての命令なら」

「えっと、私はアビドスさんの事情は良く知りませんが、このお金を持っていると、何か他のトラブルに巻き込まれるかもしれません……災いの種、みたいなものでしょうから」

「あは……仕方ないですね、このバッグは私が適当に処分します」

「ほい、頼んだよ~」

 

 ホシノがバッグをノノミに手渡し、緩く微笑む。そんな様子を見ていたセリカは、やはり諦めが付かないのか臍を嚙んでいる。

 

「んぐ、ぎぎぎっ……!」

「セリカ」

「っ、何よ先生!?」

 

 そんな彼女に歩み寄った先生は、そっと彼女の肩を掴んだ。今にも跳ねのけ、怒鳴り散らしそうな彼女の顔を覗き込みながら、努めて穏やかな口調で先生は告げる。

 

「心配しないで、アビドスの借金は完済出来るよ」

「そ、そんな慰め要らないわよ! 三百年返済よ!? そんな大金、コツコツ集めたって、絶対――!」

「――大丈夫」

 

 声は、強くセリカの鼓膜を叩いた。

 はっと、顔を上げたセリカは先生の瞳を見る。そこには、何処までも強い信頼と、確信――そして先生らしい希望に満ちた瞳があった。

 

「私を信じて」

「ッ――」

 

 セリカはぐっと、唇を噛み締める。

 だって――だって三百年返済だ、ちまちまとアルバイトだけで返済出来る筈がない。セリカは、そう強く思う。この一億を頭金にして、何か別な、大きく稼げるようなビジネスだとか、投資だとか、そういう事を始めた方が余程可能性がある筈なのだ。所詮悪人の金、それも自分達が汗水流して働いた金も混じっている。ノノミ先輩一人に負担を掛けず、学校を救う方法が目の前に転がっているのに。それを――見す見す手放す何て。

 ――けれど、だけれど。

 先生は……完済出来ると云ってくれた。

 そんな慰めに似た言葉を、信頼出来るの? 三百年返済なのに、今までみたいなやり方で返済なんて。無理だ、無理に決まっている、十中八九不可能だ。もっと現実的な方法がある。セリカは胸の中で、そう思うのに。

 

 先生が、そう云うのなら――大丈夫だという気持ちが消えない。

 

「ぐ、ぅ、ぬ、ぁ……ッ~!」

 

 その場に屈みこみ、セリカは強く頭を掻き毟る。それから空を見上げて大きく叫んだ彼女は、二度、三度地面を蹴り飛ばしながら先生に向けて云った。

 

「分かった! 分かったわよッ! だからそんな目でこっち見んなッ!」

「あはは、セリカちゃん、やっと折れてくれましたね」

 

 隣に立っていたアヤネが、どこか胸を撫で下ろしたように口にする。

 兎にも角にも、これでアビドスの意思は纏まった。持ち帰るのは電子証明紙のみ、現金はノノミが処分する。アビドスの復興に、汚れた金は使わない。

 そう方針が固まった所で、アヤネがふと周囲に異変があった事を声高に知らせた。

 

「……っ! 上空のドローンセンサーに感あり、何者かの反応が接近中です!」

「えっ、もしかして追手のマーケットガード!? 此処までは来ないんじゃ……!」

「いえ、これは――べ、便利屋のアルさん!?」

 

 ディスプレイでドローンのカメラを見ていたアヤネは、思わぬ人物に声を荒げる。便利屋68のアル――何故、こんな所に? そう疑問を抱くより早く、アビドスとヒフミのいる路地裏にアルが駆け込んで来た。

 

「はぁ、ふぅ……い、いたぁ!」

 

 声が聞こえた途端、皆は慌ててマスクを被り直す。思わずシロコが銃の安全装置を弾けば、それを見たアルが慌てて手を挙げた。

 

「あ、落ち着いて、私は敵じゃないから……っ!」

 

 必要以上に近付く事はなく、路地裏の入り口に立ったままアルは立ち竦む。アビドスの面々は一応愛銃を握ったまま、そっと互いに近付くと静かに耳打ちをした。

 

「何であいつがこんな所に……?」

「分からない、邪魔なら撃退する?」

「んー、どうかな、戦う気が無い相手を叩くのもねぇ、それに一応向こうはアビドスに手を出さないって云ってくれていたし」

「でも今なら正体も分からない」

「あのぅ、もしかしてお知り合いですか?」

「まあね、そこそこーって感じ?」

 

 こそこそと相談を重ねるアビドスとヒフミを前に、アルは焦がれたように声を張った。その瞳はきらきらと輝き、目の前の皆を見据えている。

 

「あ、あの……た、大したことじゃないんだけれど、さっきの銀行の襲撃見せて貰ったわ、ブラックマーケットの銀行をものの五分で攻略して見事に撤収、アナタ達、稀に見るアウトローっぷりだったわ!」

「………!」

「正直、凄く衝撃的だったというか、このご時世にあんな大胆な事が出来るなんて、感動的と言うか……!」

「え、えぇ……」

 

 てっきり、通報してやるだとか、黙っておいてやるから分け前をとか――そういう後ろ暗いやり取りをするのだと思ってのだが、アルの言葉にアビドスの面々は互いに顔を見合わせ、困惑の空気を漂わせていた。そんな空気が流れているとは露知らず、アルは拳を握り締め、声高らかに叫ぶ。

 

「わ、私も頑張るわ! 法律や規律に縛られない、本当の意味での自由な魂! そんなアウトローになりたいから!」

 

 そう、とても良い笑顔で宣言するアル。

 その笑顔を向けられたシロコは、そっとホシノの傍に寄ると静かに問いかけた。

 

「……一体、何の話?」

「さぁ」

 

 分かる訳がないのである。

 ホシノは肩を竦め空を仰いだ。

 

「そ、そういう事だから、な、名前……名前を教えてッ!」

「は、名前!?」

「その、組織っていうか、チーム名とかあるでしょう? 正式な名称じゃなくても良いから……私が今日の雄姿を心に深く刻んでおけるように!」

「うへ……なんか盛大に勘違いしているみたいだねー……」

 

 どうやら彼女には、自分達が日常的に銀行強盗を行う様な凄腕犯罪グループに見えているらしい。何でそんな誤解を抱いたのかはしらないが、生憎と素顔を晒す訳にもいかないし、事情を話す選択肢もない。そうなると取り敢えず適当に誤魔化すしかないのだが――さて、どうしたものかとホシノが頭を悩ませれば、不意にノノミが声を上げた。

 

「……はいっ! 仰る事は、よーくわかりましたっ!」

「の、ノノミ先輩?」

 

 何やら良くない方向でテンションが高いノノミを見たアヤネが、不安げに彼女の名前を呟く。

 

「私達は、人呼んで……覆面水着団!」

「……覆面水着団!?」

「えぇ……」

 

 背後に立っていたセリカが露骨に顔を顰めていた。尤も、覆面で顔は見えないが。雰囲気が既にげんなりとしているのが先生には分かった。

 そもそも水着じゃないし、その名前はどうなんだ。シロコが恐る恐るアルを見れば――そこには変わらず、瞳を輝かせる少女が居た。

 

「や、ヤバい……! 超クール! カッコ良すぎるわッ!」

「……良いんだ、それで」

 

 どうやらアル社長の感性は、ノノミのソレに近いらしい。

 しかし、このチャンスを逃す訳にはいかない。センスは兎も角、それで納得するならばとホシノは嬉々としてノノミの狂言に乗った。

 

「うへ~、本来はスクール水着に覆面が正装なんだけれどね、ちょっと緊急だったもんで、今日は覆面だけなんだぁ」

「なんか妙な設定つけ足しているし!」

「その場合、先生ってどうなるの?」

「……海パン?」

「ぶふっ!」

 

 先生がぼそっと呟けば、隣のヒフミが噴き出した。

 何と失礼な、後でペロロ様の刑に処そう。先生はそう心に誓った。

 

「そうなんです! 普段はアイドルとして活動していて、夜になると悪人を倒す正義の怪盗に変身するんです! そして、私の名前はクリスティーナだお♧」

「だ、だお♧……!? きゃ、キャラも立っているわ……ッ!」

「うへ、目には目を、歯には歯を、無慈悲に、孤高に、我が道の如く魔境を往く――これが私らのモットーだよ!」

「な、なんですってーッ!?」

「囁くのさ、私のゴーストが……来いよ、何処までもクレバーに抱きしめてやる!」

「あわ、あわわわっ―――!」

 

 ノノミ、ホシノ、先生の順にポーズを決め、それらしい台詞を高らかに叫ぶ。それだけでアルは感動し、白目を剥き、卒倒しそうになっていた。先生は思った、ちょっとコレ楽しいな、と。

 それを残ったセリカ、アヤネ、ヒフミは何とも云えない表情で眺めていた。シロコは少し混ざりたそうな顔をしていた。これも隠ぺいの一環なのである、是非皆にもやって欲しい。

 

「……なにしているの、あの子達、それと先生」

「わー、アルちゃんドはまりしちゃってるじゃん、特撮モノのイベントに連れて行って貰った子どもみたいな顔しているし! 超ウケる~!」

「あ、アル様……」

 

 路地裏に入ったアルを、歩道橋の上から眺めているのはカヨコとムツキ、そしてハルカの三名。闇銀行から駆け出した我らが社長を追って来たものは良いものの、アビドスの面々――アルは未だ正体に気付いていないが――を見つけるや否や、一声もなく駆け出し、宛らサインを強請るファンの如き空気感で突貫した彼女を、三名は生暖かいような、呆れる様な目線で見ていた。 

 アルの対応に苦慮していたセリカは、その後もある事ない事話すノノミの肩を叩き、後方を指差す。

 

「も、もう良いでしょ? さっさと逃げようよ!」

「そうですね――それじゃあこの辺で、アディオス~☆」

「行こう! 夕陽に向かって!」

「夕陽、まだですけれど……」

「愛に生き、愛に死ぬ――それが孤高のラビ」

「ん、馬鹿可愛い先せ……ラビも好き」

 

 告げ、アビドス&ヒフミの即興銀行強盗団は颯爽と退散して行った。

 その背中を笑顔で見送り、何なら両手を振りながら影が消えるまでその場に立ち続け――アルはぐっと両手を握り締め、云った。

 

「………よし! 我が道の如く魔境を……その言葉、魂に刻むわ! 私も頑張るっ!」

「……事実を伝えるべきなんだろうけれど……いつ云おうか」

「面白いから暫く放置で!」

 

 アルのいる路地裏へと合流したカヨコとムツキは、そっと囁き声でそんなやり取りを交わした。

 

「あ、あの……」

 

 思い出に浸るアルの思考を遮る様に、ハルカがおずおずと声を掛ける。その両手には、少しばかり大きすぎるバッグが握られていた。ムツキのバッグよりも一回り大きなそれは、元々ハルカが所持していたものではない。

 皆の視線がそのバッグに注がれる。

 

「このバッグ、どうしましょう? あの人たちが置いて行ったみたいなんですけれど」

「ん? これはまさか……覆面水着団が私の為に?」

「いや、それはないわ……ただの忘れものじゃない?」

「結構重いよ? 何が入っているんだろう――」

 

 そう呟き、ムツキがバッグの中身を覗き込めば――。

 

「………!?」

「ひょええ!?」

「っ、こ、これは……!」

「あわわ……!」

 

 ■

 

「あれ、現金のバッグ……置いてきちゃいました」

「えーっ!?」

「うへー、良いんじゃない? どうせ捨てるつもりだったし、気にしない、気にしない」

「ん、誰かに拾われるでしょ、きっと」

「ですね☆ お金に困っている人が拾ってくれると良いですね」

「あはは……良い事をしたと思いましょう、お腹を空かせた人が、あのお金でお腹いっぱいになれると思えば」

「うぅ……勿体ない、どう考えても勿体なさすぎる! みんなお人よしなんだからッ!」

「大丈夫だよ、きっと必要な人の元に届くからね」

 

 ■

 

「ええぇぇーッ!?」

「うわわわわーッ!?」

「これ……一億位入っているよ」

「……?」

 

 アルが白目を剥き、ムツキが冷汗を掻き、カヨコが顔を顰めながら札束を一つ手に取る。ハルカはそんな皆の姿を見つめながら、小さく首を傾げ問いかけた。

 

「……もしかしてこれで、もう食事抜かなくても良いんですか?」

 


 

 生徒の泣き顔を見る位ね、私は先生の泣き顔を見るのも好きなんだ。大の大人が涙を流すくらい、彼女達、生徒達を愛しているんだと云う実感が得られて、何か美しいものを見たような心地になれて、好きなんだ。

 生徒が悲しめば、先生も悲しむ。

 先生が悲しめば、生徒も悲しむ。

 片方が涙を流せば、もう片方も涙を流す。

 これが愛ですか、素敵ですね。

 

 ハスミは良いぞう、背が高かったり、体格が良い事がコンプレックスになっていて、それをダイエットで何とかしようとしながらも全く出来ていないところがグッド。本人は正義実現委員会に所属しているが、スイーツが大好きで、もし正義実現委員会に所属していなかったら放課後スイーツ部に所属していただろうと宣う程の甘味好き。

 あの体格と露出度で放課後スイーツ部は無理でしょう。

 

 先生とよく甘味デートしていたけれど、その度にダイエット云々と云いながらスイーツをパクパク食べるハスミを眺めていたいね。美味しそうにご飯を食べる少女は、それだけで魅力的に見えるんだ。

 というかもう、ダイエットなんかしなくて良いという事を一時間位懇切丁寧に説明してあげたい。絆ストーリーでも、それで納得していたし、「そのまま素敵だよ」、「ダイエットなんてとんでもない」、「ありのままのハスミが好きなんだ」と先生が力説しまくれば、ハスミは照れながらも、「せ、先生がそこまで仰るのなら」と毎日スイーツをパクパクして笑顔を見せてくれるような気がする。そのままもっと大きくおなりハスミ、それでパンティ(ゲヘナ)にまた泣かされたら先生が慰めてくれるよ。

 

 ハスミはあんなナリをしていてかなり純真というか、世間知らずな所がありそうだよね。先生と翼の事でアンジャッシュ状態になっていた時もそうだけれど、先生が「触りたい!」と云った時に、「人のいないところで」と口にした辺り、人が居ない静かな場所なら触らせてくれるくらい既に信頼と愛情を獲得しているらしい。というか大人の常識云々について、私が知らないだけかも……みたいな発言があったから、何でもない顔をして、「ハスミ、ちょっと太腿貸してくれる?」と聞いたら、なんやかんやあって最終的に貸してくれそう。

 最初は、「えっ……?」と驚きながらも、「でも先生は何でもない様に仰っていますし、もしかして大人の常識では普通の事……なのかしら」みたいに深読みして、多分大体許してくれる。ハスミは懐もバストも翼も太腿も大きい素晴らしい生徒だよ……。

 

 夏休みはツルギの代わりに忙しそうだったし、今度はハスミを連れて行ってあげたい。日々の業務でストレスの蓄積したハスミを、先生が息抜きで海まで連れて行ってくれるんだ。マシロやツルギは以前の事もあって協力してくれると思う。多分本人は、「わ、私は似合う水着がありませんし」とか、「ダイエットがまだ……」とか云って渋りそうだけれど、先生が床に転がってヤダヤダすれば折れてくれるって信じている。

 海では一緒に泳いだり、スイカ割りしたり、砂でお城を作ったり、ツルギやハスミと一緒にやった事を一通り体験するんだ。ハスミは存外泳げなかったりしそう、翼もツルギとかと比べて面積かなり大きいし、もしそうだったら先生に手を引かれながら水泳の練習をして、「は、離さないで下さいね!?」とかやって欲しいなぁ。陽が沈んだら一緒に線香花火なんかして、穏やかに過ごして欲しい。

 線香花火の小さな火花と、月明かりに照らされてはにかむハスミは、きっと綺麗だと思うんだ。

 

 ハスミを甘やかすのも悪くないけれど、彼女の場合は先生を甘やかしてくれそうな感じもある。正義実現委員会の委員長のツルギが先生とハスミ以外意思疎通不可能ウーマンだし、委員長が行うべき外部交渉とかは全部ハスミが代行していそうな感じある。だから書類仕事はお手の物だし、何なら炊事洗濯とか一通り修めていても私は驚かない。何ならシャーレの当番の時に、勝手に先生の私室を掃除してくれていても一向に構わん! 先生がメンタルやられた時とかそっと寄り添って、膝枕なんかをしてくれると思うんだ。彼女の場合、先生とは持ちつ持たれつというか、一方に頼り過ぎず、頼られ過ぎず、文字通り先生と二人三脚で走っていけると思う。先生が躓いた時はハスミがそっと支え、ハスミが躓いた時は先生が支えてくれる。簡単な様で難しい、そういう関係がハスミと先生は築けるんだ。

 

 ゲヘナに先生撃たせてぇ~!

 ハスミのゲヘナ嫌いをもっと強くしてあげてぇ~!

 

 ハスミって滅茶苦茶ゲヘナが嫌いだけれど――それこそ、ゲヘナ産の紅茶を燃やすくらいに――それに先生を殺されたって情報上乗せされたら、もう凄い事になりそう。

 ハルナとかアカリとか、美食研究会とゲヘナ風紀委員会の抗争に巻き込まれた先生が、本当に運悪く重傷を負ったという知らせを聞いて現場に急行して欲しい。

 そこに顔面真っ青になったヒナと、呆然とライフルを握ったまま立ち尽くすハルナが居て、その間に血を流して倒れる先生に必死の形相で応急措置を施すチナツが。

 ハスミは血だらけになった先生を見て悲鳴を飲み込み、それから憤怒の形相でヒナに掴み掛るんだ。「風紀委員長のあなたが居ながらッ、一体何があったというのですか!?」と。けれどヒナは心が弱いから、肝心な時に先生が居ないと何も出来なくなってしまう。まして目の前で先生が銃弾に倒れるのは――エデン条約後と考えればこれで二度目。また先生を守れなかったという失意と後悔と絶望で、ただ涙を流しながら音もなく唇を震わせる事しか出来ないと思う。

 本来他人に見せる事はない、そういう弱い側面を覗かせたヒナに、ハスミは恐らく失望とも取れる一瞥をくれてヒナを突き飛ばす。それを見たアコがぶち切れて、先生の負傷と委員長の傷心で余裕のない彼女はハスミに食って掛かるんだ。地獄かな?

 そこでチナツが予め要請していたゲヘナの救急医学部と、ハスミが手配していたトリニティ救護騎士団がブッキングして欲しい。それできっと、どちらの学園に搬送するかで揉めるんだ。ハスミ側トリニティは先生の負傷はゲヘナの責任として、そんなゲヘナにこれ以上先生を任せられるかと考えるだろうし、ゲヘナ側もゲヘナ側で先生を傷つけてしまった以上、その治療はゲヘナが請け負うのが当然と考える。

 一刻を争う状況だというのに互いに対する不信感から、一触即発の状況になるのは悲しいね先生。そして我慢の限界になったハスミがゲヘナに向けて発砲するんだ、「それ以上口を開けば、頭を消し飛ばしますよ!?」と叫んで、強引に先生の身柄を確保して欲しい。機能停止したヒナの代わりに、アコがこの場でやり合うのは最悪の展開、少なくとも先生の容態を第一に考えるのならどちらでも良いから早く搬送しなくてはならないと判断を下して、そのまま先生はトリニティに搬送する流れとなる。ここでトリニティとゲヘナの確執は決定的なものになって、エデン条約で纏まりかけていた両校が再び対立し始めるんだ。救急車の中ではずっと先生の傍に座って、その手を握り締めながら涙して欲しい感ある。可愛いね。

 

 その後先生には死んでもらっても構わないし、命が助かって貰っても構わない。個人的な最善を述べるのならば、意識はあるのに体は動かない様な状態が望ましい。自分の不注意で折角繋がりかけた両校の絆が裂かれて、全てが水の泡となった現状を、どうにもならない体で眺めて欲しい。その顔見ながらご飯炊くから。きっとハスミは嬉々として先生の世話を焼いてくれるから安心だね先生♡ ハスミは先生を喪い掛けた時に感じた後悔や恐怖、悲壮感をもう二度と味わいたくないと、きっと暇があれば先生の傍に侍る生活をしてくれると思うんだ。何なら正義実現委員会の生徒を独断で先生の病室前に配置するくらいはすると思う。

 多分、トリニティやミレニアムの生徒はお見舞いに来ても許すけれど、ゲヘナの生徒は絶対に病室に入れてくれなさそう。というかこの展開ならゲヘナ孤立するんじゃないのかな? 以前のアリウスの立場にゲヘナが置かれて大変な事になりそう。そうしない為に頑張ったのにね、惨めだね先生♡

 ついでにツルギもゲヘナ嫌いになったら嬉しいなぁ。ヒナはパンデモニウムソサエティから叱咤されて、本人も先生を守れなかった事で心折れたしゲヘナ風紀委員会は機能不全、美食研究会は多分もう二度と美味しいご飯食べられないぞ! 美味しいご飯食べさせたくて先生を連れだしたのかな? 可愛いね♡ うぅ、ゲヘナが可愛そう、こんなのあんまりだよ、ヒナちゃんが泣いちゃう、泣かないで……。その現状何とかしようとして、動かない体に鞭打ってゲヘナに向かおうとして事故に遭う先生、おぉ。哀れ哀れ。やる事為す事全部裏目に出るのは何でなん? だってそういう世界やし、此処だと絶対幸せになれないから諦めてふて寝すると良いぞ先生。

 

 



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幸せの黒い鳥

誤字脱字報告、ありがとうございます。
ペロロ様靴下の在庫が切れ始めたので、手袋あげます。


 

「な、なにこれ!? 一体どういう事なのっ!?」

 

 アビドスの部室にて、セリカの絶叫が木霊する。

 ブラックマーケットでの強盗後、学校へと帰還した生徒達は少しの休憩を挟んだ後、満を持して盗み出した電子証明紙を覗き込んだ。デスクの上に広げられた証明紙には金銭の流れと担当責任者――そしてアビドスの望む、決定的な情報が記されていた。

 証明紙を覗き込む皆の表情は険しい。紙面を指先でなぞるシロコが、淡々とした口調で告げる。

 

「現金輸送車の集金記録にはアビドスで七百八十八万円集金したと記されている、私達の学校に来たあの輸送車で間違いない……でも、その後すぐにカタカタヘルメット団に対して『任務補助金五百万提供』って記録がある」

「それって、つまり……」

「私達のお金を受け取った後に、ヘルメット団のアジトに直行して任務補助金を渡したって事だよね!?」

 

 セリカがデスクを叩き、アヤネは口元を押さえながら言葉を漏らした。

 

「任務補助金って……つまり、ヘルメット団の背後にいるのは、カイザーローン?」

「―――それは」

「カイザーローンがヘルメット団を雇って、アビドスを攻撃させているって事かな」

「り、理解出来ません、学校が破産したら、貸し付けたお金も回収出来ないでしょうに、どうしてそのような事を……!」

「ふーん……」

 

 ノノミが愕然とした表情で首を振り、ホシノが腕を組んだまま唸りを上げる。証拠は出た、決定的だ。カイザーローンは闇金を通じて犯罪行為に加担しており、これまで執拗に攻撃を繰り返して来たカタカタヘルメット団を操っていた黒幕もまた――カイザーローン。

 アビドスから得た金銭をカタカタヘルメット団に提供し、その金銭で武装、弾薬を揃えさせていたのだ。金銭の供与も、一度や二度ではないだろう。そう考えればカタカタヘルメット団の充実した装備も納得がいく。バックにカイザーローンという、ブラックマーケットで一大勢力を築いた企業が付いているのなら、戦車の一台や二台持っていても不思議はない。企業が持っていた戦車を払い下げても良いし、弾薬や整備もお手の物。企業お抱えのメカニックなど、掃いて捨てる程いる筈だ。カタカタヘルメット団単独でも困難な事柄が、カイザーローンが噛んでいると分かった途端面白いように解けていく。

 

「この件、どう考えても銀行単独の仕業じゃなさそうだね、カイザーコーポレーション本社の息が掛かっているとしか思えない、この紙だけだと五百万の提供しか分からないけれど、絶対にそれ以上の金額が動いていると見て良いと思う」

「……はい、そう見るのが妥当ですね」

「私達の稼いだ金銭をカタカタヘルメット団に回して、一体何の得があるのよ!? 襲撃に手を割かれて返済が滞るだけじゃない! 期間を引き延ばして、どうにか利息を引き上げてやろうとか、そういう魂胆な訳!?」

「――いえ」

 

 ヒフミが何とも言い難い、思案に沈んだ表情のまま首を横に振った。

 

「それならもっと別なやり方がある筈です、態々こんな回りくどい方法を使う必要なんてありません、話を聞く限り向こうはアビドスさんから回収した金額以上をつぎ込んでいる訳ですから――全体から見れば赤字、根回しや兵装供与の点から見ても労力が見合っていませんよ」

「そうだね、おじさんも同感かな」

「なら、カイザーローンの狙いは――」

 

 アヤネが言葉を切り、不安げにヒフミを見た。

 回収した金額以上の労力と手間暇をかけ、アビドス襲撃を支援するカイザーローン。これが今以上に金銭をアビドスから回収する為だとは思えない。やり方も迂遠すぎるし、天秤が釣り合わない。そうなると、カイザーローンが求めているのは――。

 

「……お金ではない、アビドスの持つ『何か』という事になります」

 

 ■

 

「みなさん、色々とありがとうございました」

 

 アビドス校、校門前。

 取り敢えず、日が暮れる前にトリニティ総合学園へと帰る事となったヒフミを、アビドスは総出で見送っていた。深くお辞儀をしたヒフミに対し、ノノミは申し訳なさそうに目を伏せる。

 

「変な事に巻き込んでごめんなさい、ヒフミさん」

「あ、あはは……」

「今度遊びに行くから、その時はよろしくー」

「あ、はいっ、勿論です」

 

 ホシノの言葉に、ヒフミは笑顔で答える。トリニティとアビドスはそれなりに離れた位置にあるものの、地理さえ分かっていれば遊びに行けない距離ではない。商店やアミューズメント施設などが少ないアビドスでは買えない様なものも、トリニティ自治区であれば入手出来るだろう。出向く価値は十分にあった。

 

「まだ詳しい事は明らかになっていませんが……これはカイザーコーポレーションが、犯罪者や反社会勢力と何かしら関連があるという事実上の証拠に成り得ます、戻ったらこの事実をティーパーティーに報告しますので! それと、アビドスさんの現在の状況についても……――」

「あー……まぁ、ティーパーティーはもう知っていると思うけれどね」

「は、はいっ!?」

 

 ヒフミが鼻息荒く、カイザーコーポレーションの悪事を暴いてやると意気込めば、どこか水を差す様で悪いけれどと云った風にホシノが頬を掻き、呟いた。

 

「あれ程の規模を持つ学園の首脳部なら、それ位はもうとっくに把握していると思うよ、皆、遊んでばかりじゃないだろうしさ」

「そ、そんな、知っているなら何故、皆さんの事を――」

「――うん、ヒフミちゃんは純真で良い子だねー、でも世の中、そんなに甘くないからさ」

「………」

 

 どこか、棘を含んだホシノの言動に、ヒフミは目を瞬かせる。良い子、というのは本心からだろう。だからこそ、その想いを裏切る様で心苦しいものの――アビドスとしては、その提案は受け入れられない。

 

「ヒフミちゃんの気持ちは有難いけれど、そっちに知らせた所でこれといった打開策が出る訳でもないし、かえって私達がパニクる事になりそうな気がするんだ」

「そ、そうでしょうか……?」

「ほら、今のアビドスって廃校寸前じゃん? トリニティとかゲヘナみたいなマンモス校からのアクションをコントロールする力がないんだよ――云っている意味、わかるよね?」

 

 ホシノはそう云って、意味ありげな目線をヒフミに投げかける。その視線を受けたヒフミは数秒、考え込むように顔を俯かせると、どこか悲しそうな声色で答えた。

 

「――サポートするという名目で悪さをされても、それを阻止する力がない……って事ですよね」

「いえーす、その通り、百点満点」

「……そう、ですよね、その可能性もなくはありません――政治って、難しいですね」

「で、でも、ホシノ先輩、悲観的に考え過ぎなのではないでしょうか? 本当に助けてくれるかもしれませんし……」

「うへ~、私は他人の好意を素直に受け取れない、汚れたおじさんになっちゃってねー」

 

 アヤネがフォローするようにそう言葉を挟めば、ホシノは後頭部に手を当てたまま呑気な口調でそう告げた。

 

「――万が一、って事をスルーしたから、アビドスはこの有様になっちゃったんだよ」

「………」

 

 その言葉に、アビドスは沈黙を返す。

 アビドスがこうなる前の事を、ホシノ以外の生徒は知らない。ただ現在までアビドスに残り続け、一人戦い続けていたホシノの言葉には説得力があった。彼女がアビドスを保ち続けていた戦いの中には――他校による裏切りがあったのかもしれない。そう想像するしかないが、反対の声は出なかった。

 

「それに、協力を要請した所でアビドスには差し出せるものが無いし、お金は勿論、技術力も人員も、土地もね、タダほど高いものはないよ……でしょ、先生?」

「……仮に善意で他校が助けてくれても、その関係は後々響いて来ると思う、助けて貰ったアビドスが下で、向こうが上って具合に――そうなったら良いように使われるかもしれないし、学校の規模からしても逆らうのは難しい、仮に借金が無くなったとしても、カイザーローンがその学校に挿げ変わっただけ……なんて可能性もある」

 

 先生の言葉に、ヒフミの表情は益々暗くなった。単純に、他者に助けて貰って解決万々歳――とはならないのが現実だった。悪者というのは、得てして狡猾だ。弱っている時、人は藁にも縋る。その藁が、浮輪にもボートにも見えてしまうから。そう見えるようにするのが悪者なのだ。

 

「……では、その、アビドスさんの事は抜きに、カイザーローンの事だけでも話すのは」

「まぁ、危険性を周知させるくらいなら良いと思うよ」

「……分かりました」

 

 ヒフミの最低限の提案に、ホシノは小さく頷いた。

 カイザーコーポレーションの問題はアビドスだけの問題ではない。その危険性を周知させるだけでも、アビドスと同じ轍を踏むことは避けられる。

 

「……本当に、一日で色々な体験をしましたね」

「そうだね、凄く楽しかった」

「……楽しかったのはシロコ先輩だけじゃないの?」

「あ、あはは、結構危ない事もしましたけれど、私も楽しかったです、トリニティじゃ出来ない事ばかりでしたから」

「いやぁー、ファウストちゃん、お世話になったね」

「そ、その呼び方はやめて下さい!」

「よっ、覆面水着団のリーダーさん!」

「皆さん……ヒフミさんが困っていますよ」

 

 すっかり主犯に仕立て上げられてしまったヒフミは、首が取れんばかりの速度で左右に振った。流石に、強盗団のリーダーなんて洒落にならない。

 

「と、兎に角、これからも大変だとは思いますが、頑張って下さいね、応援していますから! それでは、またお会いしましょう!」

 

 そう云って駆け出したヒフミは、時折背後を振り向きながら手を振る。そんな彼女を最後まで見送ったアビドス。色々な事が起こった一日ではあったが――確かに、一歩前進した日でもあった。

 

「さて、皆さんお疲れ様でした、今日はゆっくり休んで、明日改めて集まりましょう」

「うへ、それじゃ解散~!」

 

 ■

 

「おはよー」

「……おはよう」

「うわ、アルちゃん顔やばっ、徹夜でもした?」

「ううん、少しは寝たわ……」

「少しって……」

 

 覆面水着団強盗事件から明けて翌日、便利屋の事務所、オフィスへとやって来たムツキは開幕デスクに座るアルの顔色を見て驚愕の声を上げた。後からやって来たカヨコとハルカも、アルの顔を見るや否や驚きの声を上げる。

 

「おは――社長、徹夜した?」

「カヨコまで……そんなに顔色悪いかしら」

「あわわわ、あ、アル様、具合が悪いのですか? い、今すぐ病院に……! ご、ごめんなさい、こんな時に役立たずでごめんなさい!」

「落ち着きなさいハルカ、私は別に、ちょっと色々考える事があっただけだから」

 

 そう云ってひらひらと手を振るアル。眉間を解しながら肩を竦める彼女に、ムツキはソファに腰掛け問いかける。

 

「なぁに、どうしたのさアルちゃん、お金も沢山入って万々歳、一ヶ月どころか何年って活動出来る資金が手に入ったのに、そんな悩む事ある~?」

「あるわ、それはもう、大量に……」

「ふぅん、具体的には?」

 

 ムツキの言葉に、アルはデスクの上で手を組みふっとニヒルな笑みを零すと、どこか遠くを見る様な眼差しで語り始めた。

 

「あのお金はね、あの覆面水着団が私の為に置いて行ってくれたお金なのよ、私の夢を、アウトローの目標を示してくれた彼女達の、無言の応援なの」

「……多分、違うと思うけれど、単に忘れただけじゃ――」

「分かっていないのねカヨコ、アウトローというのは、そういう『粋』な事をする人たちなのよ」

「………」

 

 訳知り顔で告げるアルに、カヨコはそれ以上何をいう訳でもなく、小さく肩を竦める事で答えとした。横目でムツキを見れば、未だにニヤニヤとした笑みを崩さない。カヨコはアルに聞こえない程度の小声で彼女に問う。

 

「……ムツキ、もしかしてまだアビドスの事教えていないの?」

「うん、だってこのままの方が絶対面白いじゃん?」

「……………そう」

 

 長い葛藤の後、カヨコはそれだけ口にしてソファに腰掛けた。多分また、その事実を知った時にアルは白目を剥くのだろうと、確信に近い思いを抱きながら。

 

「だからほら、ここまでのお金を貰ってしまったのならもう、アレじゃない? 何か、『でっかい事』をしたいじゃない? ブラックマーケットの闇銀行を襲いながら、その戦利品である一億円をポンと渡しちゃうような、派手で、粋で、アウトローで、格好良い事をやりたいのよ」

「ふぅん……まぁアルちゃんの考えは分かったけれどさ、それと体調不良がどう繋がるの?」

 

 ムツキが不思議そうにそう問えば、アルはどこか気まずそうに、目線を横に逸らしながら云った。

 

「……何をしようかなって計画を練っていたら、楽しくなっちゃって、気付いたら朝だったのよ」

「遠足前の小学生じゃん、ウケる」

「しょ、小学生じゃないわよッ!?」

「………はぁ」

 

 ムツキの反応に食って掛かるアル、そんなリーダーの姿を見つめながら溜息を零すカヨコ。いつもの便利屋の姿がそこにはあった。前ポケットに両手を突っ込みながら、カヨコは気怠そうにアルへと水を向ける。

 

「まぁ、理由は分かったよ、それで? 社長は何がやりたい訳?」

「ん、ごほん! そうね、私が纏めた案はこの紙に――」

「あっ、それならゲヘナの風紀委員会に喧嘩でも売ってみる~?」

「は、はぁ!?」

 

 唐突な提案。

 ムツキはけらけらと笑いながら、何でもない事の様に云っているが、喧嘩を売る相手が悪すぎる。何ならブラックマーケットの連中に喧嘩を売るより悪い。

 

「ちょちょちょ、ちょっと待って、何でそこで風紀委員会が出て来るのかしら?」

「え、だってアルちゃん派手で、格好良くて、アウトローな事したいんでしょう? キヴォトス最強とも噂されているゲヘナの風紀委員会を襲撃なんて、それはもう注目の的だよ?」

「そ、それはそうかもしれないけれど……!」

 

 言葉に詰まりながら、アルは一定の理解は示した。

 何せ風紀委員会、それもゲヘナ――法律、ルール、規範を知った事ではないと暴れまわる事がデフォルトのゲヘナに於いて、それを取り締まる事が出来る風紀委員会は力の象徴なのである。あらゆる暴虐、知力をそれ以上の力でねじ伏せ、規律を正す、ゲヘナという学校が仮にも崩壊を起こしていないのは件の風紀委員会が存在しているからだった。

 そんな風紀委員会に喧嘩を売る? とても正気ではない。そんな思考を回しているとは露知らず、話を聞いていたハルカが恐る恐る問いかける。

 

「お、お望みなら私が爆破して来ましょうか? 何なら、私の体に爆弾を巻き付けて諸共――」

「やめときなハルカ、それに、風紀委員長のヒナはその位じゃやれない」

「――えっ、ヒナが居る時に襲撃する気?」

「……戦力の大半を担っている彼女が居ない時に襲撃したって、そんなの鬼の居ぬ間に――って奴でしょう、格好よく、アウトローにいくなら正面から、堂々と、社長の理屈ならそうなる」

「あわ、あわわわわ……」

 

 まさか社訓をそんな風に取られるとは思っておらず、アルは右往左往する。ややあって、彼女はデスクを叩くと勢い良く宣言した。

 

「だ、駄目よ! 風紀委員会襲撃は却下!」

「えー、なんでー?」

「何でって、ただでさえ目を付けられているのに、これ以上襲撃なんかして注目されたらとんでもない事になるでしょう!?」

「……さっきと云っている事が真逆だよ、社長」

 

 カヨコの零した言葉はアルに届く事なく、彼女の悲鳴とも怒声とも取れるそれに掻き消された。

 

「と、兎に角! 計画自体はもうあるのだから、そっちの方に――」

「わかったわかった、面倒な話はこれくらいにして、アルちゃん、朝ご飯食べに行こ~? 私、お腹すいちゃった!」

「め、面倒!?」

「ど、どこに行きましょうか? ら、ラーメンなら、柴関とかですか?」

「またあそこ?」

「安いし、美味いし、朝ならそんなに人も居ないだろうし、良いんじゃない? 私、結構あそこのラーメン好きだよ~?」

「まぁ、美味しいのは同意するよ……そうだね、なら柴関に行こうか」

「良し、決まり~!」

「ちょ、ちょっと? 皆? 私、私の話は!?」

 

 アルの声も空しく、皆はオフィスから退出し柴関へと朝ご飯を食べに向かう。最後に扉を潜ったムツキが未だデスクから動かないアルに首を傾げ、指先で外を指しながら移動を促した。

 

「ほら何しているのアルちゃん? 早く行こ~!」

「うぅ……わ、私の徹夜で考えた完璧な計画……い、いえ、ご飯を食べながらでも話せはするし、何なら食事をしながらプランを練ると云うのも、ある意味ではアウトローっぽい? ふ、ふふっ、大丈夫、これも想定内よ……!」

「ラーメン啜りながら悪巧みって、何だか間抜けだね」

「う、うるさいっ!」

 

 今日も便利屋は平常運転である。

 

 ■

 

「おはよう、ホシノ、ノノミ」

「おはよー、先生」

「先生、おはようございます、今日は早いですね?」

 

 午前、先生がアビドス対策委員会へと顔を出すと、其処には床にマットレスとクッションを置き、リラックスしているホシノとノノミの姿があった。特にホシノはノノミに膝枕をされ、普段溶けている体が二倍以上ふにゃふにゃになっている。先生はそんな彼女の姿に苦笑を零しながら、彼女達の傍に歩み寄る。

 

「随分リラックスしているね、ホシノ」

「うへ~、ノノミちゃんの膝枕は柔らかくてサイコーなんだよー、私だけの特等席だもんねー」

 

 そう云ってノノミの膝に顔を埋めるホシノ。ずるい。

 

「先生も如何ですか? はい、どうぞ~☆」

「駄目だよ、ここは私の場所なんだから、先生はあっちの座り心地悪そうな椅子にでも座ってねー」

「私の膝は先輩専用じゃないですよう……」

 

 意地でも離すものかとノノミの膝に縋りつくホシノ、そんな彼女の髪を撫でながら、ノノミは先生にだけ分かる形で囁いた。

 

「今度、誰も居ない時にしましょうね、先生?」

 

 それは悪魔の囁きだった。どこか蠱惑的な笑みを浮かべながらそう宣うノノミに、危うく先生のペロロ様がペロロジラでデカグラマトンになるところだった。それを鋼の精神と、生徒達への愛で辛うじて防いだ先生は、穏やかな顔のまま云った。

 

「――いいや、私は今ノノミに膝枕して欲しいッ!」

「えっ♡」

 

 そこからの動きは、正に一瞬だった。神業と云っても良い。

 宛ら雷の如く、サンデヴィスタンを使ったのかと思う程の高速移動でホシノを抱きかかえ、彼女の代わりにノノミの膝に潜り込む。それでいてホシノには衝撃が全くなく、羽毛を抱くかの様に柔らかな抱擁がホシノを襲った。

 

「せ、先生?」

「ふんッ!」

「あわーっ!?」

 

 先生に抱きかかえられたのだと理解したホシノが頬を赤くし、慌てて抜け出そうとするも、先生渾身のだいしゅきホールド――尚、背後からホシノを抱きかかえて横になっているだけである――を受けたホシノは、それ以上の動きを封殺されてしまう。

 ホシノの後頭部を存分に吸いながら、ノノミの膝枕も堪能する――これぞ先生の選んだ最善手。

 

「私がホシノを抱き、ノノミが私を膝枕する――完璧だぁ」

「わぁー☆」

「ちょ、せんせっ!?」

 

 先生が自身の頭部の匂いを嗅いでいると気付いたホシノが身を捩り、しかし先生はそれを抱きしめる事で阻止。全力で動けば何とでもなるが、それで先生を万が一でも怪我させてしまうと思うと動けない。結局ホシノは顔を真っ赤にしながら、歯を食い縛って羞恥に耐える事しか出来なかった。

 

「ふふっ、こういうのも新鮮で悪くありませんね♡」

「あぁ、素晴らしい、これほど素晴らしい朝は中々ないよ、ホシノの抱き心地も完璧だ、誇ってくれて良い」

「……うへ、それって誇れる事じゃなくなーい?」

 

 そう云って身じろぎするホシノは、せめてもの抵抗として、後頭部でごんごんと先生の胸元を軽く打った。しかし存外鍛えているのか、或いは大人故の体格差か、大して効いている様には思えなかった。その事に不満なのか、唇を尖らせるホシノ。

 

「先生、朝早くから元気すぎ」

「なぁに、ホシノが私の前で取り繕わなくなったのが嬉しくてね」

「………―――」

 

 不意に、直球のストレートがホシノ目掛けて飛んできた。

 そんな言葉を予想もしていなかったホシノは、数秒言葉に詰まる。彼女の様子を見下ろしながら、先生は喉奥で笑いながら続けた。

 

「『おじさん』と【私】、無意識かい? それとも意図的? 最初はノノミの前だけだったんだろう? どちらにせよ、私にとっては嬉しい事なのさ」

「……せんせーって、その内性質(タチ)の悪い女とか引っ掛けそうだよね」

 

 絞り出した声から発せられたものは、それだけだった。先生の腕の中で縮んだホシノは、小さくコン、と先生の胸板を叩く。

 

「それって誉め言葉?」

「……んー、ある意味?」

「多分違うと思いますよ、先輩」

 

 ノノミの突っ込みに、ホシノは小さく笑うだけに留めた。

 

「そう云えば今日は二人だけかい? 他の皆は?」

「んー、シロコちゃんはきっとトレーニングでしょうし、アヤネちゃんは多分勉強しに図書館でしょうか」

「ノノミちゃんは学校の掃除と教室の整頓をしてくれたよね、うへ~、皆真面目だなぁ」

「そういうホシノは何をしていたんだい?」

「ん? 私? 私は当然ここでダラダラしていただけだよ~」

「贅沢な事じゃないか」

「先輩も何かはじめてみてはどうでしょう? アルバイトとか、筋トレとか」

「無理無理ー、おじさんは年齢的に無理が利かない体になっちゃったもんでねー、ほら、何だっけ、諺か何かにあったじゃん、老犬に新しい芸は教えられないって」

「歳は私とほぼ変わらないですよ?」

「気構えの問題さー」

 

 そう云ってホシノは先生の腕の中からするりと抜け出すと、そのまま立ち上がってぐっと伸びをした。そしてそのまま、部室の扉へと足を進める。先生もつられて身を起こすと、彼女はひらひらと手を振った。

 

「……さて、先生も来たし、みんなもぼちぼち帰って来るでしょう、そんじゃ、私はこの辺でドロン」

「あら、先輩どちらへ?」

「今日のおじさんはオフなんでね、てきとーにサボっているから、何かあったら連絡ちょーだい、ノノミちゃん、それじゃ先生も、またあとでね~」

 

 そう云って、扉の向こう側へと消えていくホシノ。そんな彼女を二人は静かに見送った。

 

「ホシノ先輩、またお昼寝でしょうか」

「――どうかな」

 

 妙に硬い表情を浮かべた先生が、そう口にする。時折、先生がこういう空気を纏う事をノノミは知っていた。寒々しく、どこか淀みがあって、何かを考えている顔。この時だけは、光とか、希望だとか、そういう象徴である筈の先生が何か――もっと別なものに見えて仕方なかった。

 思わず、先生の頬に手を伸ばす。ノノミの手が頬に触れると、先生が僅かに驚いた顔で彼女を見た。

 

「まぁ、会議はアヤネちゃんがきちんと進めてくれますし、偶には休息も大事ですね、でしょう? 先生」

「……そうだね、なら皆が来るまで少し待とうか」

 

 柔らかく微笑むノノミに、毒気を抜かれたかのように――先生もまた、緩く微笑む。そこには先程まであった硬さが抜け落ちていた。ノノミはほっと胸を撫で下ろす、先生が何かを抱え込んでいる事を、以前のホシノとのやり取りで皆が知っている。けれどそれを聞き出す気もなければ、自分から知ろうとも思わない。

 せめて自分の前でくらいは笑っていて欲しいから。

 静かに足を畳みなおし、ノノミはそっと先生に向けて太腿を叩いた。

 

「はい、先生、どーぞ☆」

「わぁい」

 

 迷わずノノミの太腿に飛び込んでくる先生。そんな彼の緩んだ顔を見つめながら、ノノミは思った。

 

 こんな風に笑える日々が、ずっと続けば良いのに。

 

 ■

 

「お待ちしておりましたよ、暁のホルス――いえ、今はホシノさんでしたか」

「……その名前は捨てたよ、黒服の人」

 


 

 先生を幸せにして、その幸せを奪って幸せになって何が悪いのだ。

 誰にだって、幸せになる権利はあるんだよ!

 諦めちゃ駄目だ、どんなに辛い目に遭っても、どんなに苦しくても、幸せを求めて歩み続ける事を止めちゃ駄目なんだ!

 幸せを目指して歩く事に意味があるんだ!!

 だからみんなで幸せになろう!!! 幸せの御裾分けって奴さ!!

 

 ところでミチルってさぁ、最初配布って知らなかったんですよねぇ。何かカフェに、すっごいこう、ふにゃふにゃな声で喋る生徒いるなぁ、って思っていたらミチルだったんですよ。あの独特過ぎる声めちゃ好き、あとミチルも好きだけれど「みちぅ」の方も好き。

 

「ドーモ、せんせどにょ、ミチルです……さぁー↑ ごぉよ↑めぇ↓お~!↑」

「んぁ↑ 先生↑どのぉ↓、もー遅かったじゅぁん↑、と↑り↓あえず→、今日私が作った自作ニンジュツ~、み↓て↑み↓な↑い→~」

 

 あの絶妙な感じを言葉にするのは難しい。すげぇよミチルは……。というか忍術研究部の部長だし、イズナレベルじゃなくても何か忍術修行とかしているのかな? とか思ってようつべで絆ストーリー見てたら、ただの忍者オタクじゃないかッ! 忍者(オタク)と忍者(ガチ勢)が合わさって最強に見える。

 

 シャーレに漫画持ち込んで避難所にしていたし、ミチルを日直にしたら徐々にシャーレに住み込み始めそうな感じある。先生のカップ麺を見て、健康に悪いと気遣うのかと思いきや、自分もカップ麺食べながらレスバしていた話とかするし、結構生活レベルは先生と近しいのでは……? 二つのカップ麺を並べて、それを待つ間一緒に漫画を読みながらゴロゴロする先生とミチルの姿が見える見える。

 その内ミチルが、「忍法、こしょこしょの術」とか言って先生にちょっかいを掛け始めて、漫画を読みながら片手であしらっていると、頬を膨らませたミチルが先生に引っ付いて来るんだ。暑い、暑いよミチルとか云いながら頭を撫でれば、「ふふふ、この忍術は既に効力を発揮している……先生が私を構った時点でね!」とかどや顔で宣言するんだ。ほんまあざとい子やでミチルは。

 

 その内夜に、「先生殿~! 今日は一緒に新しい忍術考えよ~!」って先生の私室に突撃してきそう。そのままベッドの上であーでもない、こーでもないと、科学なのか忍術なのか分からないものを考案している内に、ミチルは寝落ちするんだ。そんな彼女に布団を被せながら、先生は仕方なさそうな顔をした後、自分は別室のソファとかで寝そう。その翌日に先生の私室で目覚めたミチルが、周囲に漂う先生の香りに真っ赤になって欲しい。そして先生が同じ部屋にいない事を確かめて、そっと先生の枕に顔を埋めていたらグッド。

 

 ミチルは色仕掛けの術と聞いて、「カメラに向かって投げキッス」と答える位にピュアだし、何なら投げキッスを「そんな破廉恥なの絶対むりぃ~!」という位なので、ハナコの「ハ」の字も知らないぞ! コハルと合わせたら化学反応で爆発しそう。そんなコハルも素敵だよ。

 ミチルと先生は友達の様な距離感が結構続いていそうな感じがする。友愛が異性愛に発展するのはミチルがもっと歳を重ねてからじゃないかなぁ。もしくは先生が亡くなった時だと思う、失って初めてミチルは先生が友達とか、そういう括りとかに収まらない存在だったんだって気付いて欲しい。

 

 キヴォトス動乱で先生が離反したら、ミチルはどうするんだろうなぁ。味方につくのか、それとも敵になるのか。イズナがもう、顔面真っ青にしてシャーレ離反の報告をミチルにしたら、多分混乱して、「え、え?」って右往左往して何も決められないと思う。普段緩く活動している忍術研究部が戦力として役に立つとは思えないし、かと云ってそのまま見捨てる訳にもいかない。ただ、イズナもツクヨも、どこか信頼と覚悟を決めた瞳でミチルを見据えると、彼女は自分の一声で、この二人を死なせるかもしれないという責任を自覚するんだ。

 あのミチルが、大事な部員二人を死地に送る様な命令をするかと云われれば、とても微妙なラインだと思う。先生が味方ならどんな困難も乗り越える自信がある。けれど、その先生がキヴォトスの敵に回った――つまり、先生の味方をするという事は、学園すべてを敵に回すという事。

 ミチルは頭を抱え込んで、一日中考え込むと思う。普段忍術何だと口にしていないで、もっと真面目に射撃訓練をしていればとか、イズナ位体を鍛えていればとか、後悔と絶望と焦燥に呑まれて、吐き気を覚える位に悩むんだ。

 

 恐らくミチルは、部員二人を危険に晒す事が出来ない。かと云って先生を見捨てる選択肢も取れない。だから折衝案を取る。

 忍術研究部はシャーレと敵対はしない、けれど味方もしない。そう口にすればイズナあたりが猛烈に反対するだろうけれど、勿論それは表向きの姿勢。

 忍者は忍者らしく、裏から動くものだと彼女は云う。シャーレが戦う為に必要な物資やアレコレを、秘密裏に流すんだ。そして、いざ先生が危なくなったらその脱出を支援し、匿う。つまり、最悪に備えるのが自分達の役割。

 そう決めて、イズナやツクヨを説得すると思う。先生に死んでほしくないというのは本当、けれど同時に二人を危ない場所に立たせたくないという想いも本物。その二つを同時にこなせる案を、彼女は必死に考えたのだ。イズナは渋々、ツクヨはそれが部長の決めた事ならと従ってくれると思う。

 そうしてミチルは内心で罪悪感を覚えながらも、裏からシャーレを支援する為に動き出すんだ。

 

 その後、もうどうしようもない位にシャーレが追い込まれて、「これ以上は危険」と判断したミチルが、イズナを断腸の思いで前線のかく乱に、ツクヨには退路の確保を任せ、自身は先生を脱出させる為に単身彼の元に向かい、脱出を促して欲しい。ただ、先生は小さく首を横に振って、ミチルに小さなメモリを手渡すんだ。「これを、この場所に届けて欲しい」と云って、地図情報も一緒に。それがあれば、或いは戦況を覆す事も出来るかも知れないと。ミチルは迷って、でも先生が云うのならば何かあるのかもしれないと考えて、「先生はどうするの!?」と叫ぶんだ。すると先生は、どこか茶化したような、或いはお道化た様に笑って、「大丈夫、私にはとっておきの忍術があるからね」って笑って欲しい。

 それを見たミチルが、生死の掛かった場所で、ついカッとなって、「忍術なんて、そんなのある訳ないじゃんッ!」って叫んで欲しい。自分が今まで大好きだったものが、いざ大切なこの時に何の役にも立たない事をまざまざと見せつけられて、それを先生が当てつけの様に口にするから、大好きなそれを自分自身で否定して欲しい。でも先生はそんなミチルを抱きしめて、「そんな事ない」と否定するんだ。

「前線で動いているイズナと一緒に脱出するから、私は大丈夫、そのメモリにはね、私の考えたとっておきの忍術が入っているんだ、いや、ある意味科学かな? それをそこに届けてくれたら、私の計画は完璧になる、大丈夫――私を信じて」

 

 目を見て真っ直ぐ、先生はそう口にする。微笑みすら浮かべた彼に、ミチルは迷うと思う。けれど最終的に先生の言葉を信じて、「絶対に、絶対だからね!? 信じているからッ!」とミチルは戦線を離脱するんだ。イズナに先生をお願いと、万感の想いを込めて託し、先生から預かったメモリーを手に駆け出すんだ。

 これがあれば、先生が助かる。先生が云ったんだ、大丈夫だって。これを届ければ、計画は完璧になるんだって。

 そう思いながら辿り着いた先には、誰も、何もなくて。もしかして地図が間違っていたんじゃとか、何か見落としたのかとか、自分が何か失敗したのかと、真っ青になりながら慌てて、地面を這ってまで先生の云う何かを見つけようとして。

 其処に、ボロボロに泣いたツクヨと、血に塗れ、能面の様な表情で涙を流すイズナが合流するんだ。

 

 最終的に生徒に犠牲者を出さないという意味で、先生の計画は完璧だよ。イズナやミチル、ツクヨがシャーレに残った最後の生徒だったんだ。だから彼女達が生き残れば、先生の勝ち。渡した地図の位置は、追撃部隊に捕捉されない安全圏の端、アロナが即興で割り出してくれたよ、良かったね。

 持たせたメモリには先生がミチルと一緒に考えた忍術と、ミレニアムのマイスター達と考えた、科学で再現できそうな忍術が沢山入っているぞ。良かったね、これで上忍への道が一歩近づいた! ミチルの自作忍術は役に立ちましたか? 今度はこんな事にならない様に、実用的で殺傷能力のある忍術考えようね。先生と一緒に考えた思い出の忍術で生徒のヘイローを壊すと思うと、何か胸がポカポカしてくるな、ミチル!



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ゲヘナ風紀委員会、開戦

誤字脱字は浜で死にました。


 

 暗いオフィス、遮光カーテンが敷き詰められた部屋の中には、二人の人物が向き合っている。デスクに腰掛け、指先を組みながら真っ直ぐ相手を見据える――黒い人型。

 黒服と呼ばれた彼は、対峙するアビドス校のホシノを愉快そうに見つめている。その見定める様な視線に吐き気を覚えながら、ホシノは吐き捨てるようにして口を開いた。

 

「それで、黒服の人……今度は何の用なのさ」

「ふふ、まぁそう焦らずに――珈琲でも如何ですか?」

「……此処で頷くと思う? もしかして、ふざけているの?」

「いいえ、滅相もない」

 

 肩を竦めながら、手元にあった珈琲カップの縁を指先でなぞる。彼はどこか飄々としていながら、余裕があった。張りつめた空気を纏うホシノとは真逆の、温い風を纏っている。どこまでも不気味で、悍ましい人物――それがホシノにとっての、目の前の存在だ。

 

「色々と状況が変わりましてね、再度、アビドス最高の神秘をお持ちのホシノさんにご提案を……と思いまして」

「提案? それはもう――」

「まぁまぁ、話はどうぞ最後まで」

 

 否定を口にしようとするホシノを窘め、黒服はゆっくりとした口調で語って聞かせた。

 

「状況が変わったというのは文字通り、私達の前提条件が崩された――と云いますか、思いがけずに素晴らしい人材(被検体)が手に入りまして」

「………?」

「ホシノさん、あなたが身に秘める神秘はこのキヴォトスでも類を見ない程力強い、しかし……あなたと同等、いえ、場合によってはそれ以上の神秘を秘める方が協力を申し出てくれたのですよ」

「……なら、もう用済みでしょう、呼び出す必要なんてなかった」

「いえいえ、違うのですよ、そうではありません」

 

 僅かに身を傾けた黒服が、緩く首を振って見せる。その動作が一々癪に障り、ホシノは舌打ちを零した。それすらも、目の前の存在は微笑ましそうに受け入れる。

 

「その方は確かに、あなたを凌駕する神秘を内包しておりますが聊か――気難しく、私達に協力する上で一つ条件を設けました」

「それが、私になんの関係があるの」

「連邦捜査部シャーレ」

「ッ――!」

 

 思わず、ホシノは目の前にあるデスクに手を叩きつけた。黒服の傍にあったカップが跳ね、床の上に転がる。しかし黒服は微動だにせず、その不気味な顔面は揺らがない。

 

「その先生を、【彼女】は御所望なのですよ」

「……お前っ!」

「――とは云え、ホシノさん、あなた自身に興味がなくなった訳ではないのです、比較対象は多ければ多いほど良い、その手段もね……故に、そうですね、お気に入りの映画のセリフがありまして、今回はそれを引用してみましょう」

「……お前達みたいな連中でも、映画は見るんだねッ!」

「勿論、私達とて生きておりますから」

 

 睨みつける様に対峙するホシノから身を離し、背凭れへと身を預ける。そのまま優雅に足を組んだ彼は、静かな口調で告げた。

 その顔面は――喜悦に歪んでいる。

 

「――あなたに、決して拒めないであろう提案をひとつ、興味深い提案だと思いますので、どうかご清聴下さい」

「この――下衆が」

 

 ■

 

「いっただきまーす!」

「ひ、ひとりにつき一杯……こんな贅沢しても良いのですか?」

「アビドスさんとこのお友達だろう? 替え玉が欲しけりゃ云いな、サービスって奴さ」

「べ、別に友達って訳じゃ……もごもご」

 

 ラーメン屋柴関、その入り口付近の六人席に座った便利屋68の面々。彼女達は久方ぶりに一人一杯のラーメンに喜びながら、少し遅めの朝食に舌鼓を打っていた。カヨコは自分達以外に誰もいない店内を見渡しながら、ラーメンを啜る。

 

「んぐ、こんなに美味しいのにお客さんが居ないなんて、何か変な感じ」

「場所が悪いんじゃない? 廃校寸前の学校の近くだし、自治区もボロボロじゃん、バスも電車もないんじゃ、通うのも大変だろうし」

「……まぁ、ひと少ない方が私らは嬉しいし、美味しいから良いけれど――」

 

 不意にドアのベルが鳴った。便利屋が入り口に目を向ければ、其処には見知った人影が一つ。ラーメン屋には似合わない純白の制服を着込んだ先生が、大将に向けて手を挙げていた。

 

「大将、やっているかな?」

「おや、先生、見ての通りだよ、好きな席にどうぞ」

「あっ、先生じゃーん♡」

「……シャーレの」

 

 ムツキが最初に声を上げ、それからカヨコが静かに目を細める。先生も便利屋の皆に気付き、薄らと笑みを浮かべながら彼女達のテーブルへと歩み寄った。

 

「便利屋の皆か、やっぱり此処に居たんだね」

「ん、やっぱり?」

「君達、外食が主だろう? この辺で安くて美味しい店と云うと、此処が一番だから」

「……まぁ、それもそっか」

 

 商店の少ないアビドスだと、そもそもの選択肢が限られてくる。コンビニなどで買うのも選択肢であったが、そのコンビニすら少ないのだから仕方ない。ムツキは一度箸を置くと、立ち上がって先生の腕を引いた。

 

「ほら先生、私達と一緒に食べよ~! ねっ、アルちゃん? 良いよね!」

「え、えぇ? いや、まぁ、別に良いけれど……」

「先生は良いの?」

「寧ろお邪魔してしまわないか心配だよ」

「じゃ、邪魔だなんて、そんな……」

 

 先生の言葉にハルカが首を横に振る。何だかんだ云って、便利屋とシャーレの関係は良好である。ムツキが先生の背中に回り込んで彼の背中を押す。

 

「じゃあハイ! 先生は私の隣ねっ! あ、もしかしてアルちゃんの方が良い?」

「ん~、強いて言うならムツキとカヨコに挟まれたいかなぁ」

「――は?」

「くふふっ、先生ってば素直~♡ 仕方ないなぁ、はい、せんせっ!」

 

 先生のトンデモ発言にカヨコが間の抜けた表情を晒し、ムツキは面白そうに笑い声を漏らした。そのまま自分とカヨコの座っていた椅子、その中央に先生の体を押し込む。近距離で顔を見合わせたカヨコと先生が、お互いに視線を交差させた。

 

「やぁ、お邪魔するよ、カヨコ」

「……何か、先生前とイメージ違くない?」

「うん? 私はずっと変わらないよ、私は私さ」

 

 そう云って肩を竦める先生は、確かに外見は以前と変わりない。しかし内面が、もっとこう、油断ならない策士というか、何というか。そんなカヨコのイメージに反し、今目の前に居る先生は飄々としていて軽薄、どうにも以前の先生と重ならない。

 しかし、所詮数度顔を合わせた程度の関係。自分が良く知らないだけかと思いなおし、そっと前髪を払って呟いた。

 

「私みたいな女の隣に座りたいなんて、変な趣味しているね、先生」

「可愛い子の隣に座りたくない男は居ないよ」

「かわっ――は、はぁ?」

 

 唐突な殺し言葉に、カヨコの白い肌がカッと赤く染まった。

 

「ばっ……私不愛想だし、良く怖いって云われるんだけれど? 誰かと間違っていない?」

「いいや、カヨコは可愛いさ、ぶっちぎりで可愛い、可愛さ大会優勝、その顔で微笑まれたら誰だってコロっといく、ずっと微笑んでいてカヨコ、素敵だよ」

「ッ……!」

 

 ばん、と箸を掴んだままテーブルを叩いたカヨコが勢い良く立ち上がり、対面に座るハルカの元へとズンズン歩く。

 

「ハルカ、席代わって!」

「えっ、あ、は、はい……!」

 

 真っ赤な顔のまま叫んだカヨコに、ハルカは何度も頷いてそっと席を立った。そのままぶすっとした表情のまま席に座るカヨコ、そんな彼女を見た先生は変わらず笑みを零す。

 

「対面だとカヨコの顔が良く見えて、これも悪くないね」

「―――………」

「うっわ、先生無敵じゃん」

「ムツキも可愛いよ?」

「え~、何かついでみたいでヤダ~」

 

 そう云いながら楽しそうに先生の肩をぺしぺしと叩くムツキ。尚、机の下ではカヨコから脛を凄まじい勢いで蹴られている。地味に痛いのでやめて欲しい。赤面涙目で睨まれるのは悪くないので、続けて、どうぞ。

 

「す、すみません、こんな私が隣で、ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ」

「――うん?」

 

 ふと、カヨコの代わりに席に座ったハルカが何度も頭を下げながら、先生と距離を詰めない様に椅子のギリギリまで寄って身を縮こまらせているのに気付いた。先生はそんなハルカを見て、徐に両頬を手で挟み、身を寄せる。

 

「ふぎゅ!? せ、せんしぇ?」

「そんな事を云うのはこの口か~?」

「うぎ、せ、せんしぇ、ほ、ほおが、ほおがのびまふ!」

「うりうりうり~!」

「せ、先生!? ちょちょ、ちょっと!?」

 

 ハルカの両頬を捏ねたり、伸ばしたり、やりたい放題をする先生に対しアルが思わず声を上げる。隣でムツキはケラケラと笑い、カヨコは変わらず顔を赤くしながら先生の足を蹴っていた。

 

「――先生さん、生徒さんと遊ぶのも良いが、そろそろ注文してくれねぇと、手持ち無沙汰になっちまう」

「っと、あぁ、すみません大将、では味噌にチャーシュー、餃子セットでひとつお願いします」

「あいよぉ」

 

 カウンターで頬杖を突きながら先生と生徒のやり取りを見ていた大将は、どこか呆れたような様子で注文を促す。先生の注文はいつも通りの品、何度か此処には通っているので慣れたものだ。鼻歌を歌いながら調理を開始する大将を眺めながら、先生はそっとハルカの頬から手を離す。

 

「ふぅ、満足した、ハルカの頬はもちもちだね、大好きだよ」

「ふぇッ!? きょきょ、恐縮です……! だ、大好きですか? だ、だいすき……ほ、頬だけでも……えへっ」

 

 ハルカは俯きながら先生に捏ねられた頬を押さえ、口をVの字にして照れている。先生はそんなハルカを猫可愛がりしながら、そっと呟いた。

 

「うん、だから店に設置してある爆薬は全部リセットしておいてね」

「えッ……あ、は、はい、ごご、ごめんなさい!」

「解除してくれるなら良いさ、私は怒らないよ」

「えっ、ハルカ、もしかしてこの店にまで……」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、な、何かあったら吹き飛ばそうと思って、わ、私なんの役にも立てないので、万が一の事だけは考えておこうと――」

 

 先程の喜色満面から一転、顔を青くしてネガティブモードに入ったハルカに先生がそっと寄り添う。優しく彼女の頭を撫でつけ、幼子に言い聞かせる様な口調でそっと告げた。

 

「大丈夫、実際に事は起こっていないんだ、気にしないでハルカ、それと役に立たないなんて云っちゃ駄目だ、ハルカを必要としてくれている人はちゃんと居るから」

「ぅ……は、はい……ごめん、なさい」

「……先生、もしかして此処には私達をナンパしに来たのかしら?」

 

 アルが若干不審そうな顔でそう口にすれば、先生は目を何度か瞬かせた後、へらっと笑って首を振った。

 

「うん? いいや違うよ、私もご飯を食べに来たのさ、今のは生徒達との細やかな交流」

「細やか……ねぇ」

「生徒と教師の距離感としては、少し近すぎると思うのだけれど?」

「私は今世、性癖に正直に生きると決めたんだ」

「えぇ……」

「なにそれウケる」

「で、でも正直な事は良い事だと、お、思います……」

 

 ハルカのフォローに先生は再び彼女の頬を捏ね繰り回し、「あぶばばぶぶ」と声にならない悲鳴を上げるハルカに、懐から飴玉を取り出して握らせた。

 

「ハルカは良い子だね、ご褒美に飴ちゃんをあげよう、二個あげよう」

「あ、ありがとうございます……?」

「いやまぁ別に、先生の交流の仕方に文句を云うつもりはないけれど……一応この子たちは私の社員なんだから、引き抜きとかは勘弁してよ?」

「大丈夫、アルと皆の仲を引き裂いたりはしないよ、絶対にね」

「……そっ、なら良いわ!」

 

 先生の答えに満足したのか、アルはそれ以上先生の態度に言及する事はなかった。

 

「あ、もし引き抜くなら、便利屋丸ごと引き取るから宜しく」

「……それって、依頼じゃダメなの?」

「便利屋とシャーレ、外向きの評価はどちらが良いと思う? シャーレ所属なら毎月ちゃんとお給料が出るし、福利厚生も充実、シャーレ本棟には宿舎もあるし、シャワー室も完備しているから出勤ゼロ秒、棟内にはコンビニ、食堂、体育館、ゲームセンターに図書館、庭園やトレーニングルームまであるよ? 多分シャーレ所属ってだけで、融資も楽勝、あ、宿舎の利用料金はシャーレが負担するから無料だよ」

「うぐッ……!」

 

 先生の言葉に思わず息を呑むアル。いざこうして聞かされると好待遇――いや、それどころの話ではない。公園生活すら体験した便利屋にとって、三食付きに安定した給与、更には宿舎完備で必要なものが全部揃っている環境は天国にすら思えた。以前のアルであれば、もしくはその待遇の良さに折れて頷いていたかもしれない。

 しかし――しかしである。

 今の便利屋には覆面水着団から贈られた資金があった。アルは胸を張り、鼻を鳴らしながら先生の提案を一蹴する。

 

「で、でも私達は誰の指示も受けない、孤高のアウトローを目指しているのっ! 首輪を付けられるなんてごめんだわッ! 提案は凄く……凄く魅力的だけれど、それはそれ、これはこれよ!」

「……まぁ、数日前だったら頷いていたかもね」

 

 カヨコがラーメンを啜りながら呟いたが、それがアルの耳に届く事はなかった。

 

「それは残念、まぁシャーレとして依頼を出す事はあると思うから、その時は宜しくね」

「えぇ、勿論! その時は任せて頂戴!」

「くふふっ、アルちゃんやる気満々じゃん」

「――へい先生、お待ちどう、注文の品だよ」

 

 気付けば、大将がテーブルの傍に立っていた。先生の前に注文の品が配膳され、何とも食欲を煽る出来立てのラーメンの匂いが鼻腔を擽る。

 

「あぁ、ありがとうございます、大将」

「ごゆっくり」

 

 大将が軽く手を挙げて調理場に戻り、先生は箸を手に取って、手を合わせる。

 

「さて、それじゃあ私も頂こうかな」

「あっ、先生チャーシューあるじゃん、もーらいっ!」

「あ、ちょ、こらムツキ! 先生に失礼でしょう!?」

「良いよ良いよ、何なら、アルも食べる?」

「えっ、別に私は――」

「先生、私には餃子ひとつ頂戴」

「か、カヨコ!?」

 

 普段こういうノリには不参加のカヨコが、先生の注文した餃子を一つ摘まんで持っていく。そんな彼女の姿にアルは唖然としながら、彼女は餃子と自身のラーメンに視線を通わせていた。

 

「良いよ、何ならもう一皿頼もうか? 他に何か食べたいものがあったら注文してね、此処は私が持つから」

「えーっ、先生良いの~?」

「そ、そんな、わ、悪いですよ……」

「気にしない気にしない」

 

 そう云って隣のムツキとハルカの頭を撫でる先生。ムツキは気持ちよさそうに、ハルカは恐縮した様子で俯いている。そんな彼女達の顔を先生は慈しむ表情で見下ろし、告げた。

 

「私は生徒にご飯を奢るのが好きなのさ」

 

 これまでも、これからも。

 多分、こればかりは治らない。

 

「さて、それじゃあ私もお腹が空いたし、頂き――」

 

 そして、次の瞬間――便利屋68のテーブルは粉々に吹き飛んだ。

 上空より飛来した、迫撃砲によって。

 

 ■

 

「着弾確認、効力射!」

「よし、歩兵第二小隊まで突入、包囲開始」

 

 同じ風紀委員の言葉に頷き、イオリはライフルを肩に担いだまま指示を出す。前方には迫撃砲を撃ち込まれ、店の前側が崩れ去った――ラーメン屋柴関の姿があった。

 迫撃砲はピンポイントに便利屋の居る席を撃ち抜き、その精度もあって倒壊には至っていない。引き連れた中隊規模の委員、凡そ二百人が列を成して行動を開始し、イオリはその後ろ姿を眺める。

 

「……イオリ、流石にやり過ぎでは?」

「ん?」

 

 そんな彼女の背後から、チナツがどこか不安げな表情で問いかけた。同じ風紀委員に所属する彼女は、以前救急医学部に在籍していた経緯もあり、衛生兵としての役割も兼任している。後方から店を取り囲む委員たちを見つめ、チナツは苦言を呈す。

 

「他所の自治区で、営業中の店に迫撃砲を叩き込むなど、幾ら何でも――」

「だって此処の自治区……なんだっけ、アビドス?」

 

 気怠そうに眼を細めながら、イオリは周囲を見渡した。そこには活気のない街並み、人の消えた建物が並んでいる。廃墟――とまではいかないものの、ゴーストタウン化が進んでいるのは確かであった。これだけ騒いで、周囲に悲鳴を上げる住人一人いないのだから。

 

「もう廃校寸前って話だし、そもそも自治区として成り立っているかも怪しい、こんな廃墟だらけの街で今更建物が一つ崩れたから何だっていうんだ、それに建物一つで便利屋を纏めて葬れるなら安いものだろうに、この程度じゃパンデモニウムの連中は何も云わない、寧ろ便利屋を取り締まった功績でプラスだ」

「いえ、ですが、民間人の反応もありましたよ? もっと別のやり方でも……」

「どうせこの店の店主のだろう? 大丈夫、着弾地点はちゃんと調整したし、便利屋の連中は店の手前の席だった、ドンピシャで落ちたし店も半壊程度――まぁそれでも怒り狂って出て来た時は、邪魔な連中は悉く殲滅する、公務の執行を妨害する奴は全員敵だ」

 

 そう云ってライフルを担ぎ直すイオリ。彼女の態度に、今何を云っても聞き入られる事は無いのだと悟ったチナツは溜息を零す。目の前の友人は、普段は常識人の筈なのだが命令に対する苛烈さというか、実直さというか――達成する為ならば多少手段を問わない性質がある。ヒナ委員長が居れば止めただろうなと考えつつ、チナツは手元のタブレットに目を落とした。

 

「はぁ……云っても聞きそうにありませんね、兎に角――ん?」

 

 タブレットから電子音、チナツが通知に目を通せばドローンによる動体反応の報せであった。イオリも通知音に気付き、チナツのタブレットを覗き込む。

 

「情報部からです、ドローンに動体反応アリとの事、これは……」

「便利屋の連中、まだ動けるのか、なら包囲した小隊で射撃を――」

「――待って下さいッ!」

 

 イオリが射撃指示を下すより早く、焦燥を含んだチナツの声に振り上げた腕が硬直した。見れば、チナツはどこか鬼気迫る様子でタブレットを凝視している。

 

「この反応、民間人? 生徒ではありません、便利屋と同じ席に、民間人の反応が――」

「はぁ?」

 

 チナツの言葉に、イオリは思わず面食らう。同じ席に民間人――つまり、反応が重なっていたという事か? 迫撃砲はピンポイントに便利屋を狙っていた、相席していたとなると直撃は免れない。

 

「まさか相席していたのか? 運のない奴だ、あの砲撃に巻き込まれたら数時間は動けなくなるぞ」

「いえ、違います、そんなんじゃないんですよ……! この反応、嘘でしょう……!? 事前観測じゃ反応なんて――もしかして持っているあのタブレット? それともミレニアムが? 個人に限定したジャミング……でもこんな、あり得ない……!」

 

 チナツの顔色は酷い、焦燥感が益々強くなっているのか顔色は青を通り越して白になっている。タブレットに釘付けになっている視線は僅かに血走り、イオリはそんな彼女の様子に思わずたじろいだ。

 

「お、おい、チナツ? 一体――」

「や、やっぱり、この生体反応、嘘だ……!」

 

 タブレットを両手で掴みながら、チナツは砂塵に覆われた柴関を見て、叫んだ。

 

「――便利屋と同席していたのは、シャーレの先生ですッ!」

 


 

 爆破を阻止して便利屋と楽しくイチャコラご飯タイム出来ると思った先生? そんなん絶対に許さんぞ、何が何でも爆殺してやる。手足が千切れ飛んだ状態で這いずって便利屋の前で劇的に死んでくれ。

 嘘だよ先生、生きて♡ 絶対に死んじゃ駄目だ、あなたは生徒にとって欠けちゃいけないピースなんだ。だからこんな所でくたばってはいけない。意地汚く生き抜いて、エデン条約の後に信頼・愛情MAXの生徒達の前で死んでくれ!

 

 うぅ、天使と悪魔が喧嘩する……二人共仲良くして……。

 

 ぶっちゃけ最後まで悩んだんだよ先生、私だって先生を傷つけたい訳じゃないんだ。ただ、何か最近ずっと平和な本編続いていたし、ホシノとノノミの膝枕で楽しそうだったから、代わりに先生の四肢の一本くらい捥いだって……バレへんか! って気持ちになっちゃって。折角先生に怪我させられそうなストーリーラインだし、ここらで一丁良いところ見せてやるかって気持ちで頑張ってね先生。

 

 ところで皆さん、美食研究会のアカリって生徒……ご存知ですよね?

 爆発属性でコスト4、範囲EX持ち、ノーマルスキルでは最大火力73%アップに、サブスキルで更に65%も火力アップする、君もしかして前世ゴジラとかだった? という感じの爆発力を持つ☆2キャラクターで御座います。

 私も序盤、大変お世話になりました。まぁ性能はぶっちゃけどうでも良いのですが、皆さん彼女の台詞とかちゃんと聞いたことありますか? 例えば絆アップの時の台詞。

 

「あっははははッ! 先生と一緒に居る時のこの緊張感、嫌いじゃないです!」

「どうしようかな~、先生と一緒に居ると、すこぅし危険な気持ちになりますね~……」

 

 この、何というか、アブノーマルな感じッ! 彼女自身が健啖家で、食べ放題を出禁になる位の大食いだと考えると色々妄想がはかどりますねぇ! 先生食べちゃっても私は一向に構わん! カニバッ的な意味でも、ハナコッ的な意味でも!

 更に彼女、潔癖症なんですよ! 大食いで、潔癖症! 良く見ると確かに彼女、普段は手袋しているんですよね。更に下着も新品のものを持ち歩くと云う徹底ぶり――それでも食事の時は手袋を外しているところを見ると、食に対する真摯な姿勢やこだわりが見え隠れしていますよね。後ですね、彼女のカフェに居る時の台詞に。

 

「うーん、どう考えても……先生の周りには女の子が多すぎます」

 

 独占欲かな? 独占欲だよね? 私はそう解釈するぞアカリィ! 先生を食い倒れツアーに誘って一日独占してくれぇ! 潔癖症なのに先生に対してはそういう気持ちがわかなくて、照れながら「あーん」した箸を自分で使って、「間接キスですね、せんせ?」って流し目して欲しい! 可愛いぞアカリィ!

 後ね、私の一押しがアカリの敗北台詞何ですよ。これは実際に聞いて見ると、何かすっごいドスが利いていて好きなんです。

 

「次回は、ほんの少しだけ、グロテスクにやりましょう」

「ふぅ……ちょっと、頭にきますね――」

 

 腹の底から憎々しい感じの台詞素晴らしい。これ絶対あれだよ! 先生が負傷した時とかに云うセリフだよ! 前者は負傷した先生を抱えながら、撤退する間際に敵に対して吐き捨てる台詞で、後者は先生に対して罵倒か何かされた時の反応だよ! きっとそうだそうに違いない。

 

 この「姉御!」って呼びたくなる様な、普段の丁寧な態度とのギャップ――これは先生を殺す為に生まれた女やでぇ……。多分アカリと先生が結ばれたら、ずぶずぶの甘々になるんやろうなぁ! なんかセリフからして、既に先生に対して『カニバ』か『ハナコ』を我慢している描写がありますし、一回箍が外れたらそのまま行く所まで行く感じある。先生のお手製の料理を毎日食べて行く内に、段々と外食なんかが味気なく感じて、一日三食先生の手作り料理を食べないと満足できない体になって欲しい。先生も忙しいし、普通の人と同じ食事量しか作れていないから、「それじゃ足りなくないかな?」ってアカリに聞くんだけれど、「代わりに愛情が一杯入っていますから」って云ってアカリは大事に食事を口に運ぶんだ。うーん、これは純愛。

 

 ホシノの時もそうだけれどさ、ホシノって魚好きじゃん? その魚に先生を食べさせるじゃん? その様子をホシノに見せてあげるじゃん? 先生を食べた魚を刺身にしてホシノに「一杯おたべ♡」したら、これってアカンのか? 

 でもアカリって何好きなんだろう……結構何でも食べるっぽいし、熊にでも先生食べさせて熊鍋すれば良いのか? でもそれってなんか違くない? 先生が自分から進んで熊とか魚に食べられに行って、「たんとおたべ♡」するなら良いのだけれど、そうじゃないのなら先生食べさせられる生徒可哀そう……。

 

 アカリが先生を物理的に食べるとすれば、ハナコッ! する時に噛み癖か何かついちゃって、隙があれば先生の頸筋とか指先とか、腕周りに噛み付く様になって、最初の内は甘噛みの域を出なかったのに、不意に強く嚙み過ぎて出血して、その血の味が思った以上に美味しくて――みたいなのがとても好き。先生の体が歯型だらけになって、それをユウカ辺りに見られたら修羅バトルになりそう。なって♡ ちがうんだ私は生徒達が傷つく姿が見たいんじゃない、ただ先生を取り合って独占欲剥き出しで争う様が見たいんだ。人間の屑かよ先生ちゃんと反省しな?

 (☝ ՞ਊ ՞)☝ウィィィイイ↑



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便利屋の矜持

誤字脱字報告、ありがとうございます。


 

『――せッ、せ……んせいッ!』

「ぅ……ぐッ……!」

 

 酷い耳鳴りがした。その奥から、誰かが叫んでいる。

 こんな風になるのは何度目か――指折り数える事が出来る程度には、経験した状況だった。最初に聞こえたのは声、そして感じたのは痛み。頭部と背中、それから脇腹、腕全体。数えれば切りがないが、痛覚というのは大事だ。これが無くなると――本当に後がない。

 腕は――取れていない。足も、千切れていない。五体満足、神経の通った感覚に一先ず安堵する。

 しかし視界は不良、霞み、良く見えない、ただ両手に抱きしめた彼女の体温と、床に滑り落ちたタブレットの光だけは辛うじて分かる。軋む体に鞭打って、タブレットと思わしき光に指を伸ばす。タブレット表面には『emergency』(緊急事態)の文字が躍っていた。その下には自身の生体モニタが表示され、本来オールグリーンである筈の人体表記が、所々黄色く点滅している。右上に見えるバッテリーは、ごっそりと減少していた。

 

「……アロナの、防壁が辛うじて……間に合ったのか」

 

 回収したタブレットを掴み、思わず呟く。爆発の瞬間、恐らく向こう側から干渉しこの体を守ってくれたのだろう。まさか、ハルカの爆発を阻止した途端、こんな結末になるとは。まさしく、流れは変えられないという事なのか――或いは、ゲマトリア用に偽装プロトコルを走らせていたのが仇となったか。

 

 ぽたりと、先生の額から赤が滴り落ちた。

 

「ぁ――あぁ………ッ!」

「ハルカ――」

 

 先生の腕の中で、ハルカが酷く震える。

 その瞳孔は開き切って、先生の砂塵に塗れ薄汚れた制服と、今なお頭部から滴り落ちる血を見ていた。ハルカの震える指先が、恐る恐る先生の頬に触れる。がちがちと歯を鳴らすハルカが、何度も何度も噛みながら言葉を紡いだ。

 

「せ、せんせっ、何で、何で私なんか守ッ……わ、わた、わたしっ……!」

「生徒を守らない先生が、何処にいるのさ……!」

 

 血を流しながらも、先生は努めて笑顔を浮かべる。痛みからか、額には汗が滲んでいたが、ハルカにはそれに気付くだけの余裕が無かった。背中に圧し掛かったテーブルの残骸を押し退け、先生は立ち上がろうとする。しかし、膝に力が入らず、その場で両腕を突いた。仰向けに転がったハルカの頬に、先生の赤が垂れる。

 ひっ、とハルカが怯えた目で自身に触れた赤を見た。

 

「ぐッ……キヴォトス動乱の時も、もっと体を鍛えておけばと思って、いたけれど……! どれだけ鍛えようと、所詮私は……人間か……!」

『せ、先生! その場所は危険です、早く移動を――!』

「分かっては……いるよ」

 

 そう云って、先生は自身の足を見た。膝が震え、まともに立つ事すらままならない。頭部に衝撃を受けた為か、平衡感覚も怪しい。様々な感情に呑まれ、硬直し、震える事しか出来ないハルカを見下ろし、先生は決断を迫られた。

 

「先生――ッ!?」

「! カヨコ……っ」

 

 先生が腹を括ろうと覚悟を決めかけた時――砂塵を裂き、崩れ落ちた天井の残骸を押し退け、カヨコが姿を見せる。彼女は血を流し、赤と砂塵の混じった制服を纏う先生を見て、思わず息を呑んだ。表情を険しくし、先生の元へと駆け寄ったカヨコは頭部の出血場所を探し、先生の頬を掴んで目を真っ直ぐ見据える。

 

「っ、頭部から血が出ている、痛みとか吐き気は? 手足に痺れは?」

「大丈夫だよ、ただ、ちょっと自分で歩くのは無理かな……カヨコの方は、怪我はなかった?」

「ッ――私の心配より、自分の心配をしてよッ!」

 

 這い蹲りながらも苦笑を零し、カヨコの心配を口にする先生に対し彼女は思わず声を荒げた。この人はどこまで――ッ! キヴォトスと外の人間では、そもそも肉体的な強度に天と地の差があるというのに!

 そんな思いを噛み殺し、カヨコは徐々に晴れ始めた砂塵に舌打ちを零す。動かす事は悪手と考えながらも、先生の下に腕を潜り込ませて引き起こす。此処に居たら最悪、風紀委員会との銃撃戦に巻き込まれる可能性が高い。しかし引き起こす最中、彼女は先生の背中に深々と刺さった木片に気付いた。恐らくテーブルか何かが爆ぜた時、運悪く突き刺さってしまったのだろう。

 

「ッ……! 先生、背中に破片がっ――」

「ぐっ……抜かないで、最悪、血が足りなくなる」

「っ、くそッ!」

 

 彼女らしからぬ悪態を吐き、カヨコは先生を引き摺りながら未だ倒れたまま震えるハルカに向かって叫んだ。

 

「ハルカ、早く立ってッ! 外に風紀委員会が来ているから、応戦しないとッ!」

「――ぅ、ぁ、あぁ……」

「っく……!」

 

 ハルカは、カヨコの言葉に反応すら示さない。思わず、罵声が口をついて出そうになったのを堪える。

 そんな三人の前に、アルが手で砂塵を払いながら現れた。

 

「けほッ、ゴッホ! な、何よこれ!? 何なの!? 砲撃? 誰よもうッ! ――って、先生!? ちょ、血、血が出ているわよ!? 大丈夫なのソレ!?」

「あ、はは、大丈夫だよ……」

「先生、ちょっと黙って!」

 

 崩壊した周囲に驚愕し、それから血を流しながら引き摺られる先生に蒼褪めた表情を浮かべるアル。しかし今は白目を剥いている時でもなければ、お喋りに興じる場合でもない。

 

「ち、血がこんなに……こ、これ、お医者さん! 病院に連れて行かないと……!」

「もう囲まれている、こんな中先生を担いで外には出られない! まずは押し返すなり、包囲網に穴を空けないと――」

「お、押し返すって、あんな人数相手に……!?」

「――痛ったぁ……アルちゃん、無事~?」

 

 アルの背後から瓦礫を押し退け顔を出したムツキは、目の前に立つアルの姿を認めほっと胸を撫で下ろす。それから彼女の向こう側に居るカヨコに目を向け――彼女の引き摺る、血塗れの先生を見た。

 

「……は?」

 

 ムツキは一瞬、硬直する。自分の視界に映るソレに思考が停止し、砂利と血に染まった先生の制服に、手に持った愛用のバッグを痛い位に握り締めた。

 視線は自然と、柴関を包囲する風紀委員会へと向けられる。ビキリ、と。ムツキの額に青筋が浮かんだ。乱雑に周囲の瓦礫を蹴飛ばした彼女はバッグの中から愛銃を引き抜き、凄まじい形相で風紀委員会を睨みつける。

 

「――あいつら……ッ! アルちゃん! 私達で抑えるよッ! 急いでッ!」

「えっ!? え、えぇッ! あ、あいつ等って、外の風紀委員会よね……? というか、一体なにがどうなって、先生は――」

「風紀委員会が此処に迫撃砲を叩き込んだのッ! そのせいで先生があんなになって、店はぐちゃぐちゃッ! 他に聞きたい事は!? ないよねッ!? ならホラ、行くよッ! まずは連中をぶっ飛ばしてから考えるッ! いつかは戦わなきゃいけない敵が来た、それが今日っ!」

「っ――わ、分かったわよッ!」

 

 ムツキに手を引かれ、アルは慌てて地面に転がっていた自分の愛銃を手に取る。表面に付着した砂塵を払い、弾詰まりなどが起こっていない事を確認した後、アルはカヨコに向かって叫んだ。

 

「カヨコ! 先生とハルカをお願いねッ!?」

「分かっているっ、って!」

 

 一先ず、店の奥へと運べば安全な筈だ。そう考え先生を引き摺っていたカヨコは、カウンターの下から這い出して来た大将を見て驚き、危うく銃に手を伸ばしかけた。

 

「っと、先生か!?」

「っ、大将! 無事で良かった……!」

 

 先生がそう云って微笑むと、大将は先生に駆け寄りながらカヨコの代わりに先生の体を支える。カヨコはそれを見届けると、ホルスターから愛銃を取り出し、弾倉を確認して安全装置を弾いた。

 

「云っている場合かよ! ヒデェ顔色だぞ!」

「――大将、先生を!」

「あ、あぁ、任せろ!」

「いッ……!」

「痛むか、ちっと我慢してくれ先生っ!」

 

 カヨコは外へと向かって駆け出し、先生は大将に担がれる。流石にキヴォトスの住人だけあって、力はある。先生を横抱きにした大将は、そのまま奥の倉庫へと小走りで向かった。その姿を、ハルカは這い蹲ったまま眺めている。

 

「は、ハルカ……!」

「せん、せんせっ……!」

 

 思わず手を伸ばしたハルカに、先生は血の滲む唇のまま――云った。

 

「便利屋の皆を、頼む……っ!」

「―――」

 

 その言葉を最後に、店の奥へと担ぎ込まれる先生。その背中を見送った後、ハルカは自分の頭を抱える様に蹲った。頬に付着していた先生の血が流れ、ハルカの唇に触れる。少量口に入ったそれは、鉄の味がした。

 

 血を流した――先生が。

 私を、私なんかを庇って。

 こんな何の価値もない、塵屑同然の自分を庇って、怪我をした。

 

 ハルカは数秒、蹲ったまま動きを止めた。震えも――止まった。それは、限界を超えた為だった。

 自分には、価値がない。過去、己に与えられたものは嘲りと、罵倒と、侮蔑と、悪意のみだった。それだけが自身の価値を証明する全てだった。だから自分は、何の価値もない塵屑の様に、分相応の生き方をしなければならない。道端で踏みつけられる事もない、誰にも意識されず、何の感慨も与えず、ただそこに在るだけの様な雑草の如く。静かで、無価値で、無感動で、無駄で――思う事もない、思われる事もない、それが自分の生き方。

 大人は、助けてくれない。誰も助けてはくれない――ただひとり、アルという少女を除いて。

 

 便利屋の皆は、優しい。烏滸がましいけれど、友達だと思っている。仲間だと思っている。こんな私が余りにも傲慢で、あり得ない、妄想の様なものだけれど、そう思ってしまっている。

 

 ――じゃあ、先生は(ハルカ)にとって、何だ?

 

 胸に渦巻くのは後悔と懺悔と謝罪と申し訳なさと、それに勝るどす黒い感情。

 ふらふらと覚束ない足取りで立ち上がったハルカは、自分の頬に付着した先生の血を指先で拭い、自分の唇に塗りつける。

 そして未だ左右に揺れる瞳で、床に落ちていた愛銃(ブローアウェイ)を見つけ出し、拾い上げた。砂利に塗れたそれを、指先で乱雑に拭い、安全装置を弾く。

 

「――ぁ」

 

 ふと足元に、先生のくれた飴が砕け、砂に塗れて転がっているのが見えた。先生がくれた、プレゼントしてくれたもの。ハルカは力なく跪き、その欠片を砂ごと、一つ一つ口に放り込む。

 じゃり、と。

 噛むと、砂の味に僅かな甘みがあった。

 鉄と、砂と、飴の味。

 

「……恩返し、しなきゃ」

 

 砂に塗れた口を拭い、立ち上がる。

 

「た、助けて貰ったんだから、い、命がけで、わた、私なんかを、あ、あんな優しくて、良い人が、代わりに血、血なんか流してまで、あ、あんな、あああ、あんな―――」

 

 ふらふらと、愛銃を抱えたまま柴関の出入り口まで進む。迫撃砲によって出入口周りの壁は吹き飛び、殆ど吹き抜けになってしまっていたが、ハルカは丁寧に扉のあった場所から、瓦礫を踏まない様に外へと出た。

 外では既に便利屋と風紀委員会による射撃戦が繰り広げられている。多勢に無勢ではあるものの、どこか鬼気迫る様子の便利屋68の様子に、風紀委員会は呑まれかけていた。

 アルと風紀委員会メンバーである銀鏡イオリは、至急距離で銃撃戦を繰り広げながらも怒鳴り合い、周囲の委員が巻き込まれ、悲鳴が上がっている。

 

「よくもまぁ、こうも白昼堂々と……ッ! ウチの経営顧問を殺すつもりだったのかしら!?」

「経営顧問!? 何の話だッ、私達の目的はお前達便利屋で……というか民間人が同じ席に居たなんて、事前偵察じゃ何の反応も――」

 

 イオリが何かしらの弁明をしている最中、不意にその横腹に向かって銃撃が叩き込まれた。イオリの体が折れ曲がり、反対方向へと吹き飛ぶ。盛大な音を立てて瓦礫に突っ込んだイオリは砂塵を巻き起こし、そのまま沈黙した。

 アルが銃弾の飛来した方向を見れば、ハルカがショットガンを腰だめに構えたまま俯いていた。銃口からは、硝煙が立ち上っている。

 

「ハルカ!?」

「っ、起きたのか……!」

 

 カヨコが拳銃で射撃を敢行しながらハルカの傍に駆け寄り、そのまま最寄りの瓦礫に突っ立ったままのハルカを引き摺り込む。そして未だショットガンを強く握り締めるハルカに、カヨコは強い口調で告げた。

 

「ハルカ、動ける? なら私と前線を張って、社長とムツキが後方で火力を担当するから、直ぐに――」

「……さない――い、ゆる――」

 

 しかし、カヨコの言葉が届いている様子はない。

 ハルカはグリップが軋む程に強く握り締め、その顔は俯いて伺えない。

 

「……ハルカ?」

「許さない、許さない、許さない許さない許さない――ッ!」

 

 訝し気にカヨコが問いかけ、肩に手を掛けた途端――それを跳ねのけ、ハルカは血走った目で瓦礫から飛び出した。咄嗟の事に反応出来ず、近くに居た風紀委員の一人は無防備な顔面に、至近距離で散弾を叩き込まれる。

 

「――ぶっ殺してやるッ!」

「へぶッ!?」

 

 顔面が弾け飛び、そのまま後方へと倒れるゲヘナ風紀委員会メンバー。倒れた彼女を足蹴にし、周囲に居る風紀委員会目掛けて手あたり次第射撃を行うハルカ。弾丸の雨を潜り抜け、時に被弾しながらも決して怯まず。ストックで顔面を殴りつけ、至近距離で胴体を吹き飛ばし、時に全力で踏みつけ意識を奪う。

 ハルカは全身から夥しい殺気と怒気を撒き散らしながら、目に見える範囲の風紀委員に次々と飛び掛かった。

 

「うああァアアアアアアッ!」

「は、ハルカッ!?」

「あはッ、あはははッ! ノリノリじゃん、ハルカちゃん! 良いよ良いよっ、なら私も、先生に怪我させちゃったんだし――本気出さないとねぇッ!?」

 

 ハルカの豹変にアルは驚愕し、ムツキは同調する。カヨコは突出する二人に対し制止を掛けようとして――手足に走った痺れに思わず動きを止めた。

 

「なに――ぅッ!?」

 

 次の瞬間、僅かな頭痛と視界に走るノイズに顔を顰める。そして数度瞬きを終えればノイズも消え去り、視界の中に無数の赤い輪郭が飛び込んで来た。

 ――敵勢力であるゲヘナ風紀委員会の潜む場所だ、それが壁越しからでも視界にはっきりと表示されていた。

 更に敵の構える銃から発射されるであろう弾丸の予測線、演算から導き出される遮蔽物の安全箇所と危険個所、現在の場所から射撃を行って命中する確率、手に持っている愛銃の残弾、残りの弾倉、立体化した周辺地形の3Dマップ、湿度や風の有無――それらの情報が視界に、直感的な形で表示されていた。

 宛ら近未来の戦闘オペレーティングシステム、網膜投影でもされているかのような臨場感に、カヨコは戦慄する。

 

「なに、これ――」

 

 思わず呟き、自身の両手を見下ろした。そして気付く、こんな事が出来る人は――カヨコの知る限り、一人しかいない。

 

「もしかして……先生?」

 

 ■

 

「た、大将、早く避難を……」

「馬鹿、常連のお前さんを置いて逃げられるかよ!」

 

 そう云って壁際に先生を下ろした大将は、先生の目に滲んでいた血を袖で拭う。目の上を少し切ったらしい、頭部の血も止まる様子が無い。しかし、重症ではないという確信が先生にはあった。これよりも酷い負傷を何度となく経験して来た。

 今更、この程度。

 

「大丈夫です、命に関わる傷ではありません……多少脳が揺れて、表面を切っただけですから」

「だとしても、此処で先生を見捨てて逃げちまったら、アビドスの皆に合わせる顔がなくなっちまう、セリカちゃんにも叱られちまうぜ」

 

 そう云って肩を竦める大将に、先生は思わず破顔した。

 

「――やっぱりあなたは、善人だ」

 

 告げ、先生は手元のタブレットに視線を向ける。柴関の店奥、倉庫は今の所安全ではある。しかし時折、銃弾が壁を叩く音が聞こえていた。外の戦闘は激化の一途を辿っている、便利屋と風紀委員会の双方が全力戦闘を行っているのだ――飲食店に問答無用で迫撃砲を叩き込む行為は、どう考えても褒められたものではないが、自身の負傷に関しては完全な事故だろう。向こうも、よもや外部の人間が迫撃砲の範囲内に居たなど思っても居なかった筈だ。何せ今の先生は、先生自身が許可したドローンカメラか、生徒の肉眼でしか認識されない。認識外に対する完全反応遮断(対ゲマトリアプロトコル)を展開している――これが完全に仇となった。

 であるならば、自身が取るべき行動は一つしかない。

 

「アロナ、バッテリーは後、どれくらいもつ……?」

『せ、先生、無茶です! 万が一、先程の様に砲撃を撃ち込まれても防御出来る様に、バッテリーには余裕を――』

「私の生徒が、直ぐ傍で戦っているんだ」

 

 タブレットを強く掴み、先生は顔を上げ、云った。

 

「それを、指を咥えて見ているつもりはないよ」

 

 そこには痛烈な意思があった。

 此処で静観何て事はあり得ない、生徒が戦い続ける限り、先生である自分が何もしないなんて事は――あってはいけない。どれだけの傷を負っても、どれだけの苦境であっても、生徒が銃を取る限り、先生はそれを助ける義務がある。

 例え敗北するとしても、最後の一人が膝を折る、その瞬間まで――先生である己は、共に戦い続ける、そう誓った。

 

「戦闘を止める為にも、便利屋の皆を支援して一度風紀委員会を退かせる、話し合う為にもそれは必須事項だ――エデン条約の為にも、生徒間の不和は出来る限り失くしておきたい」

『先生――!』

「大将、お願いがあります」

 

 アロナの制止を振り切り、先生は大将へと目を向ける。

 

「な、何だ」

「私の背中に刺さった破片、一息に抜いて頂けませんか」

「なッ、馬鹿、それを抜いたら血が出ちまうッ!」

「……この破片のせいで、左腕が余り動きません、いや、動かし辛いというべきか――戦場に立つなら、これは邪魔です」

「先生さん、あんた――」

「お願いします」

 

 深く、頭を下げる。床に血が滴る音と、くぐもった銃声だけが倉庫に響いた。大将は頭を掻いて、唸りながら何度も何かを口にしようとし――しかし、「くそッ」と悪態を吐いた後、先生の肩を叩いた。

 

「……くたばるんじゃねぇぞ先生、アンタが死んじまったら、アビドスの生徒さんが悲しんじまう」

「――えぇ、斃れませんよ、私は」

 

 そこだけは約束する。

 ここで斃れてしまえば、ゲヘナと要らぬ確執を生む。それはエデン条約に於いて、予測できない結果を生むだろう。

 大将は立ち上がると倉庫の中から、古い救急キットを探し出した。ガラスケースの中に入ったそれは、中身こそ綺麗なものだが、ケース表面には埃が薄らと積もっている。長い間使われていなかったのだろう。大将はそれを開きながら、先生の背中に突き刺さった木片に目を向けた。

 

「念の為備え付けてあったモンだ、一応定期的に交換はしているが……」

「構いません、お願いします」

 

 先生が背を向ければ、大将は背中に手で触れる。破片を抜き、消毒液をぶっかけ、傷跡を覆う――やる事は単純だ、残った細かい木片だとか縫合だとかはアロナとクラフトチェンバーの超技術がどうとでもしてくれる。

 大将が息を呑み、木片に手を添えた。

 

「……行くぞ、先生さん――!」

「はい――アロナ」

『っ~!』

 

 アロナが何かを云おうと口を開いた瞬間、大将は突き刺さっていた木片を一気に引き抜いた。背中を貫く激痛に思わず悲鳴が漏れ、先生の体が撓る。

 

「ぅ、ぐぅッ……!」

『――く、クラフトチェンバー、生成物質を固定化しますっ!』

 

 音を立てて転がる血塗れの木片に目を向けながら、アロナは慌てて先生の傍に、必要な物資を転送させた。それは何層にも重ね、積まれた肌色のシート。ぱっと見は人の皮膚を切り取ったような外見をした代物だった。そして、その隣にはプラスチック製の細長いケースが三つ。中身は注射器の様な代物で、丁寧に並べられたまま転送されていた。

 先生の傷痕にガーゼを押し当てながら消毒液を掛ける大将は、唐突に現れたそれを見て目を見開く。

 

「っ、こいつは何だ!?」

「た、大将……それを、私に打ってッ――シートは血を拭って、張り付けて下さい……!」

「分かった、捲るぞ!」

 

 そう頼まれた大将は、慣れない手つきでガーゼを動かし先生の背中を抑える。もう片方の手でケースを開けると、中の注射器を取り出し、一瞬迷いを見せながらも先生のシャツを捲りあげた。

 そして――大将の目に映る、夥しい数の傷痕。

 

「なッ――せ、先生さん、こりゃあ、一体……!?」

 

 それは、明らかに今出来た傷ではない。もっと前からある、古傷だ。背中、脇腹、肩、どこもかしこも見る限り刻まれた、銃創、切創、挫創、刺創、擦創、裂創、爆創――判断できない傷もあれば、明らかに分かる傷もある。刻まれたそれらの、余りの多さと深さに、大将は思わず言葉を失った。

 

「大将、今はッ……!」

「――あ、あぁ!」

 

 しかし、それを説明する余裕も、時間もない。大将は先生の絞り出した声に意識を戻し、先生の肩に注射器を突き立てた。注射器は空気の抜ける小さな音を鳴らし、針もなく先生の体内に薬品を打ち込む。しかし、血は一向に止まらない。心なしか先生の顔色も蒼褪めていた。

 

「止まらねぇ、血が止まらねぇぞ!?」

「注射が効けば問題ありません、そのまま貼り付けて……早く!」

「わ、分かった!」

 

 大将は血塗れのガーゼを放り捨てると、重ねられたシート――人工皮膚を先生の背中に貼り付ける。皮膚は血が付着しているというのに、呆気なく先生の背中に貼り付き、僅かな赤みを残して――出血は一先ず、止まった。

 

「これで……良いのか?」

「えぇ……包帯代わりには、なる筈です」

 

 呟き、先生はその場に這いつくばる。痛みで意識は戻ったが、出血で立ち眩みがあった。致死量にはまだまだ及ばないだろうが――十全なパフォーマンスを発揮するには、少々流し過ぎたかもしれない。

 

「この、皮膚みてぇなのは何だ……?」

「保護膜――人工皮膚って云った方が分かり易いかもしれません、ね」

「血は止まるのか?」

「……布よりはマシでしょう」

 

 答え、先生は捲れたシャツを正し、上着を着込む。一先ずこれで動けるだけの土台は整った。戦闘を行うと云うのに、背中に破片を刺したままというのも格好が悪い。何より、何かの拍子でより深く差し込んでしまえば、本当に取り返しが付かなくなる。先程打ったECも、効果が発揮されてくる筈だった。最悪、今だけでも動ければ、数日寝たきりになっても構わない。

 

「アロナ……」

『先生――』

「砲撃の時は助かった、予想外の砲撃を良く防いでくれたよ」

『……完全ではありません、衝撃や破片を完全に防げなかったアロナが――!』

「それでもだ」

 

 アロナの言葉を遮り、先生は脂汗を流しながら力なく微笑む。

 

「まさか……こんな風に運命が捻じ曲がるとは思っていなかった、想定外だ、それを防いでくれただけでも、儲けものだろう」

『――っ』

「頼むよアロナ、私を――まだ、先生でいさせてくれ」

 

 先生の言葉に、青い教室に佇むアロナは静かに目を瞑った。葛藤があるのだろう、彼女としては第一に先生の安全の確保が最優先。しかし、ここで駄目だと云えば、そのまま生身で飛び出してしまいそうな恐ろしさが先生にはある。実際、そんな場面を何度となく見て来たのだから。

 アロナは目を見開き、数秒先生と視線を交わし――軈て根負けしたように、小さく笑って、仕方なさそうに云った。

 

『分かりました、便利屋の皆さんとラインを繋ぎます――先生は……あなたは、いつだってそうでしたから』

「――ありがとう、アロナ」

 

 ■

 

「くふふッ、何だか良く分からないけれどッ、すっごく便利じゃん!? 爆発範囲まで予測されるんだ、あははっ! すごーい!」

 

 ムツキは自身の視界に現れたサポート項目に、嬉々として順応する。向けられた銃口が見えずとも、飛来する弾丸の予測線がレッドラインとして四方から視認出来る。躍る様に弾丸を掻い潜り、彼女はバッグから次々と爆発物を取り出し、愛銃で銃弾をばらまきながら投擲する。

 爆発した場合の規模、爆発範囲、投擲予測地点――まるで自分の為に存在するようなサポートだと思った。

 

「先生、あんな状態で無理して――っ! 後でお説教ねッ!」

 

 アルは唐突な変化に戸惑い、驚きつつも、それを為したのであろう人物にあたりを付け怒りを覚える。少なくとも、無茶が利く様な体ではなかった筈だ。

 

「でも、これがあれば――っ!」

 

 告げ、片手でライフルを構えたアルは一見、見当違いな方向へと銃口を向け――射撃。

 しかし彼女の視界には、自身の弾頭が辿る道筋がはっきりと見えている。

 アルの放った弾丸は近場の公道、その縁石に弾かれ、障害物に身を隠していた風紀委員会のメンバー、その一人を真横から襲撃した。

 弾丸は狙ったかのように側頭部へと着弾し、彼女は何が起こったのか理解せぬまま意識を失う。

 

「なッ、ちょ、跳弾!?」

「何それ――ぐあッ!」

「あっはは! 命中よッ!」

 

 最早、身を隠そうとも意味を為さない、超高精度の曲がる弾丸。アルの射程範囲内であれば、三百六十度すべてが彼女の射線である。

 

「死んで下さい死んで下さい死んで死んで死んでッ!」

「ちょ、待っ――ごはッ!?」

「こ、コイツ、止まらな――アダァッ!?」

「ハルカ……声は聞こえないか、でも前線の敵は釘付けになっているから、役割は果たしているのは不幸中の幸い――」

 

 カヨコはアルとムツキ、そしてハルカの健闘を横目に呟く。

 狂ったように突撃を繰り返し、至近距離でショットガンを連射し続けるハルカ。此方の声は完全に届いていないが、彼女らしからぬ奮闘が風紀委員会の目を惹いている。特に、その残虐性も注目の的だ。倒れた風紀委員に圧し掛かり、何度も何度も銃撃を叩き込むその様は悪鬼羅刹もかくやという程。ムツキの爆発も派手であり、この二人が目下風紀委員会のヘイトを買っている。その間隙を縫うように、アルとカヨコの射撃が堅実に、確実に敵の数を削いでいる。

 普段の作戦の延長線上ではあるが――良くも悪くも、先生のサポートがそれに拍車を掛けていた。殲滅速度が目に見えて早い。

 

「くそ、何なんだお前等!? こんな、聞いて――」

「――邪魔」

 

 不用意に顔を出した風紀委員会のメンバーを、カヨコは素早く照準し、射撃。頭部に一発、胸部に二発受けた彼女はそのまま崩れ落ち、手元に落ちた銃をカヨコは蹴飛ばす。

 

「――別にそんな、長い間一緒に過ごした訳でもないし、先生の何を知っているって訳じゃない……でも、あの人が生徒想いの善人だって事位、私にだって分かる」

「な、何を……」

「私だって、怒っているって事……!」

 

 吐き捨て、カヨコは次なる風紀委員へと銃口を向けた。

 


 

 次回、アビドス参戦。

 うぅ……先生血塗れになるとこみてて……。

 

 何で先生の手足って四本しかないんだろう?

 もっと一杯あれば、それだけ生徒の愛を感じる回数が増えるのに。

 先生は進化の過程で生徒の愛を考慮しなかったのかな? そういう所あるよね先生、ちゃんと反省して下さい。

 

 前回の後書きは先生が生き残っちゃってごめんね、先生がやっと血を流してくれたから、そっちの方に注力して私の純愛が今回の本編一万字に流れ込んでしまったんだ……基本的に本編で先生が精神的にでも物理的にでもボコボコにされている時は、そっちに愛が傾いてしまうから、その時は、「あっ、そうだよなぁ、本編の先生頑張っているもんなぁ、後書きでも捥いじゃったら可哀そうだもんな」と思って下さい。

 元々後書きは本編が平和すぎて、「んほー、先生ボコして生徒の愛を感じたいけれど、それ本編でやるとストーリーライン狂っちゃ~う……せや! 後書きで先生ボコボコにして生徒泣かしたろ! これでノーベル平和賞は私のモンや!」という発想から始まったものなので、本編で先生がボコされたら消え去るのは自然な流れ。

 最近ずっと投稿、感想返信の反復横跳びだったから作品の評価とか見れていなかったんですが、思った以上に支持者が多くて、「あっ、私のこれって一般性癖なんだ、よかったぁ」って思ったからお気に入りと評価をして性癖カウンター(評価数)を上昇させ、「生徒の泣き顔で、皆を笑顔に」は一般性癖であると胸を張って叫ぼうね。

 ノーベル平和受賞したら壇上でブルーアーカイブ(泣き顔&ピース)への愛を叫んであげるよ! 

 

 そしてイオリスキーの皆さま、ご安心ください。この件でイオリが周囲から孤立したり、シャーレの面々から白い目で見られたり、「アンタのせいで先生はッ!」とセリカに突き飛ばされ、「ち、ちが、私っ、そんなつもりじゃ……!」となる事はありません。

 

 ただちょっとイオリは気難しいので、初手負傷する事により、「あ~、あの時の傷が痛いわ~! 何か血が出てきそうだわ~! めっちゃまだ跡のこっているわ~! たまに夢に見るわ~! つらいわぁ~!」とアピールする事によって、イオリを「ふぐぅ……」させ、合法的に足を舐める事が出来る様になるんですね。損害と賠償請求は大人の特権。

 このまま何かにつけて、「あ~、イオリの背中舐めたら元気出るんだけどなぁ~!」とか、「あ~、イオリの小学校の頃の写真貰えたら傷治りそうだなぁ~!」とか、あらゆる手でイオリを辱めてあげるから、待っていてね♡ 先生の怪我のせいで手も出せないし、真っ赤になりながらも言いなりになるしかないイオリ、美しいべ……。消えろ、光のわだす!

 

 イオリってぶっちゃけ怪我を言い訳にしたらどこまでやってくれるんだろう。信頼度多少あれば『ハナコッ! 管理』とか、『お風呂でハナコッ! プレイ』とかはギリギリ請け負ってくれそうな感じある。でも多分最中は、「変態! ヘンタイッ! キモイ! 死ねッ!」と云ってくるぞ。まぁ先生はそんな事頼まないけれどな! 

 でもお風呂で背中流すくらいなら先生頼みそう。「わ、私は目隠しをするからなッ!」と云って、目を布で覆ったイオリに背中を流すよう頼んで、石鹸とタオルを片手に手探りで先生の背中を探すイオリを、バスタブの中から眺めていたい。多分、「せ、先生? ちょっと、何処にいるんだ……?」ってなって、数分したら気付くと思う。

 おちょくられた事に怒って、顔を真っ赤にしながら目隠しとタオルを床に叩きつけて、「ほんときらいッ!」と云いながらズンズン風呂場を後にするイオリ……うーん、芸術。

 

 その後、何だかんだ言って一人で風呂に入れるのか心配になって、ちらちら風呂場を気にするイオリは良い子だね。先生があがった後、着替えを手伝おうと思って少し経ってから洗面台を覗いたら、思ったより良い体をした先生に赤面した後、周回を重ねても消えない先生のエグイ数の傷痕に蒼褪めて欲しい。

 

「せ、先生、なんだ、その傷痕……」って震えた声で聴いた後、先生は見られたことに気まずそうにしながら、「ま、色々ね」って誤魔化すんだ。その後、バレちゃったなら仕方ないとクラフトチェンバーから保護膜を生成して、背中とか肩とかお腹にそれらを張り付けるんだ。薄い保護膜は皮膚に張り付けると殆ど見分けが付かなくて、先生の古傷を隠してくれる。だから毎日先生は夜にこうやって、自分の傷を隠す為に保護膜を貼っていた。まだ傷が痛むからとイオリにその作業を手伝って貰って、イオリは意気消沈しながら、「この傷は、何だ」、「こっちは、銃創だぞ」って問い掛けるんだ。

 先生は何度も問いかけて来るイオリに、「……もう大分前の事だから、忘れちゃったよ」とお道化た様に軽口をたたくのだけれど、不意にイオリが先生の顔を掴んで、自分の目を真っ直ぐ見つめさせる。

「なら、私の付けた傷も、そうやって忘れるのか!?」、そう云って悲しそうに顔を歪めるイオリに、先生は一瞬、くしゃりと表情を変え、「……ごめん」と呟く。

 その後、お互いに何も話さずに先生の古傷を全部隠し終えた後、「イオリ、添い寝してくれない?」って先生に云わせたい。

 イオリは一瞬、何を云われたのか分からなくて、理解した瞬間耳を赤く染めるのだけれど、顔を上げた瞬間に見えた、先生の寂しそうな、泣きそうな表情に、口をつこうとした言葉は奥に消えて――「傷がどうこうって、云わないの?」って軽口の後に、そっと先生の胸に額を押し付けて欲しい。

 

 そのまま先生の私室で横になって、大人の男性の隣で横になっているってそういう事だよなとか、こんな風に異性と二人きりで同じ部屋とかどうかしているとか、色々思う事はあるのだけれど、そういう雰囲気には全然ならなくて。

 二人の間にあるほんの僅かな距離、少しだけ手を動かせば触れられる距離が、イオリにとってはとても大きなものに見えて。色々聞きたい事も、知りたい事もあるのに、それを聞き出した途端、先生が遠くに行ってしまう様な気がして。私らしくないと思いながらも二の足を踏むイオリに、先生はそっと手を伸ばしてイオリの手を握るんだ。

 そのことにビクンと体を震わせながらも、イオリは先生を見て。

 先生は目を瞑ったまま、静かに、「おやすみ」って云うんだ。

 イオリはそんな先生に、ずるいとか、卑怯だとか、色々言葉を思い浮かべるんだけれど。結局何も云わずに、むくれたような口調で「おやすみっ」って云うんだ。そしてそのまま数分後には寝息を立てる先生を見て、ふっと口元を歪めて欲しい。

 大人でも寝顔はあどけないんだなとか、そんな風に思って。

 

 その翌日、冷たくなった先生の横で起床したイオリが見たい。

 ふと目が覚めて、知らない天井が視界に入って、目を擦りながら身を起こしたら何かが引っ掛かって。良く見たら先生の手を握ったまま寝ていて、そっと視線を移せば、まだ眠ったままの先生が見えて。笑みを浮かべたイオリはそんな先生の頬に手を伸ばしながら、けれど触れる事は躊躇って、「……寝坊助」と呟いてベッドを降りるんだ。途中先生が中々手を放してくれなくて、でもその事が少し嬉しくて、するりと自分の手を抜き取った後、イオリは静かに朝ご飯を用意してくれる良い生徒なんだ。

 ずっと握っていた手はイオリの体温で暖かいから、気付かなかったんだね。でもその先生もう死んでいるんだよ。

 

 朝食が出来て、作った後に何で私、あいつのご飯なんて作っているんだと自問自答して。でも、美味しいと云いながら食事をする先生を考えると、そんなに悪い気分じゃなくて。

 冷める前に先生起こそうと、「先生、朝だぞ?」と部屋に踏み入って、そこで漸く異変に気付いて欲しい。さっきと全然姿勢が変わっていなくて、手を抜き取った時の形もそのままで、イオリは妙な動悸を覚えながら、そっと先生に手を伸ばすんだ。

「せんせ……?」とか細い声で呟いた後、頬に触れた瞬間、その冷たさに驚いて手を引っ込めて欲しい。そのまま、朝だからとか、そろそろ冬も近付いて来たからとか、自分でも良く分からない言い訳を頭の中に浮かべながら、肩を掴んで、「先生、せんせ、起きて?」って口を開くんだ。少しずつ揺する力を強くするのに、先生は全然起きなくて、イオリの声色に段々と涙が混じって、「先生、ねぇ、起きてって、先生、ねぇ、先生ってば!」と、最後はきっと悲鳴なのか呼び声なのか分からない程に、悲哀と焦燥と後悔に満ちた絶叫を聞かせてくれるって信じている。

 

 死因は何であれ、イオリは以降白い目で見られちゃうゾ! だって先生に傷を負わせた犯人だもんな! そんな奴が先生と二人きりで、先生の死体第一発見者とか怪しすぎるもん! おぉ先生よ、こんな所で死んでしまうとは情けない。でも先生にとってはある意味救いかもね、日常の中で死ねたんだし、最後に生徒の泣き顔を見ずに逝けたよ。何呑気に死んでる、もっと大勢の生徒の前で劇的に爆散して血を撒き散らさないと生徒が泣いてくれないでしょう? 先生のお葬式で静かに涙を零すのも好きだけれど、私は目の前で先生がボロボロのぐちゃぐちゃにされて、腹の底から先生の名前を呼びながら必死で這いずって手を伸ばす生徒の絶叫が好きなの、分かる? だからこのエンドはバッドエンドルートとして処理します、トゥルーエンドには程遠いのだわ! もっと鍛えて出直してきんしゃい!

 添い寝した日の真夜中に、イオリが先生の首絞めるルートもすこ。

 

 

 



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――だから生きてね、先生

誤字脱字報告、助かります。
今回一万六千五百字となります、ご注意下さい。


 

「――人影、発見しました! 前方二百メートル先、戦闘中の模様です!」

「な、なにこれ、銃撃戦!?」

 

 アビドス校にて久々の休息を楽しんでいた対策委員会の面々。その休息は、唐突に響き渡った爆発音によって終わりを迎えた。

 部室で屯していたシロコ、アヤネ、ノノミ、セリカの四名は愛銃と装備を搔き集め出撃――爆発の起きた方向へと駆け出した訳だが、其処には弾丸の飛び交う戦場と、阿鼻叫喚の地獄が広がっていた。

 彼方此方で起こる爆発、絶え間ない銃声、悲鳴、怒声――ここ最近、カタカタヘルメット団との戦闘続きであったアビドスだが、その中でもかなり規模の大きい戦闘である事が分かる。巻き起こるそれらを前に、アビドスの皆は困惑の表情を浮かべた。

 

「迫撃砲の痕もあります、何事かと駆けつけて来てみれば、これは――」

「戦闘を行っているのはゲヘナの――あの黒い制服、風紀委員会?」

「それに便利屋の皆さんです!」 

「ハァ!? 何でゲヘナと便利屋が……って、そっか、あの子達追われているんだっけ」

「だとしても、此処はアビドス自治区の筈、他校が他所の自治区で戦闘行為なんて――」

 

 そう云って苦り切った表情を見せるシロコに、セリカはハッとした表情で叫んだ。

 

「と云うか、あそこ柴関の直ぐ傍じゃない!? 大将、戦闘に巻き込まれていないでしょうね!?」

「柴関――……?」

 

 セリカの叫んだ単語に、ピクリとノノミが反応を示す。

 皆が彼女に視線を向ければ、その額にじっとりと汗を掻いたノノミが、どこか血の気の引いた顔色で恐る恐る呟いた。

 

「た、確か先生、部室を出る時に、柴関でラーメンを食べて来ると……!」

「は、はぁッ!?」

「嘘でしょう……!?」

 

 その言葉に全員の顔色が蒼褪める。先生はキヴォトス外の人間である、弾丸一発でも致命傷で、流れ弾だけでも死にかねない。

 全員が一斉に、今なお弾丸が飛び交う戦場に顔を向けた。もしあの中に先生が居るとすれば――ぞっとする想像が脳裏を過る。

 愛銃を抱え直した対策委員会の皆は、誰が云うでもなく柴関に向けて全力で駆け始めた。アヤネが一足早く偵察用のドローンを飛ばし、念の為とタブレットで後続のドローンに接続する。

 

「い、急ぎましょう! 裏から回れば見つからずに柴関へ入れますッ!」

「私が前衛を張る、セリカ、一緒に」

「わ、分かったわ!」

「後ろは任せて下さい!」

 

 先頭にセリカ、シロコのツートップ。真ん中にアヤネ、後方にノノミと分かれ前進。アビドス校に近い柴関はそれ程時間を掛ける事なく到着し、裏路地を使って戦闘に巻き込まれない様動いた彼女達は、一度も接敵する事無く柴関の店舗へと辿り着いた。

 そして、無惨にも入り口が崩れ落ち、瓦礫の散乱する柴関であった建物に呆然とする。辛うじて形は保っているものの、爆弾でも投げ込まれたかのように扉や窓は全壊し、内装もテーブル席が軒並み全損、カウンターも余波で塗装がボロボロに剥げていた。

 

「な、何よこれ、柴関が――」

「ッ……!」

「これは……」

「ひ、酷過ぎます……!」

 

 柴関へと足を踏み入れた対策委員会、その全員が言葉を失う。内装、装飾も吹き飛ばされ、焦げ付いた床がどれ程の爆発だったのかを物語っている。シロコは幾つかの瓦礫を足で退かすと、その一部に血痕が付着している事に気付いた。

 屈み指先で擦ると、まだ固まり切っておらず、指先表面に血が付着する。

 鼻腔を擽る鉄の匂いに、ぞっと、シロコの背筋に冷たいものが走った。

 

「セリカ、これ……――」

「なによ、シロコせんぱ――」

 

 セリカはシロコの指に付着する赤色と、床に引き摺られるようにして伸びたそれに――思わず息を呑んだ。後方で周囲を警戒しながら目を向けていたアヤネ、ノノミ両名も目を見開く。

 まさか、という考えが全員の脳裏に過った。

 

「そ、んな、まさか、先せ――」

「馬鹿云わないでッ! 先生の筈がないわッ! こ、この血が先生のだなんて、証拠もないじゃないッ!? どうせ外の風紀委員の誰かが怪我しただけだよッ! こんなのッ!」

 

 アヤネが口元を震わせ、思わずそんな言葉を口にすれば、セリカが大声でそれを遮る。認めたくないという想いが、声量として吐き出されていた。しかし、そんな彼女も微かに、愛銃を握る指先が震えている。もしかしたら、万が一、或いは――そんな想像が脳裏から離れない。セリカはそんな思考を遮る為に、足元の血痕を何度も踏み躙った。

 

「……或いは、大将の可能性もある」

「――どちらにせよ、放ってはおけません、周囲を探索しましょう! 幸い崩れているのは店の入り口だけです、それ程広い訳では……!」

「せ、セリカちゃんか!?」

 

 皆が店の中で方針を固めていれば、奥の方から声が響いた。全員が一斉に顔を声の方へと向ければ、扉から顔を覗かせている大将の姿が見える。

 

「た、大将!」

「無事だったんだね」

「よ、良かった……!」

 

 一先ず知り合いの生存に全員の頬が緩み――しかし、彼女達の動悸は早まった。

 ぱっと見、大将に大きな怪我は見受けられない。そうなると足元の血痕は彼のものではないと云う事になる――なら、もしそうなら、これは。

 嫌な汗が、全員の背中を流れた。酷く口の中が渇いて、手足の先が冷たくなる気がした。セリカはそれを振り払う様に一歩踏み出し、大将に詰め寄る。

 

「大将、先生の事見ていない!? ノノミ先輩が、先生は柴関にラーメンを食べに行ったって――」

「あ、あぁ、確かに先生さんはウチに来て――」

「そ、それで、先生は何処にッ!?」

 

 アヤネが食い気味にそう口にすれば、大将は面食らいながらも、「こっちだ」とアビドスを引き連れ店奥の倉庫へと向かった。扉を閉め、完全に閉じ籠った倉庫内は薄暗い。爆発で電気系統が狂ったのか、点いている電灯と点いていない電灯がある。幸い掃除は行き届いているのか埃っぽくはないが、妙な冷たさが空気に含まれていた。

 

「さっきまでは起きていたんだ、何やらタブレットを弄っている最中、急に意識を失っちまって」

「意識が無いんですか……? もしかして何処か怪我を――」

「……見りゃあ、分かる」

 

 そう云って大将が首を動かせば、倉庫の奥、壁に凭れ掛かる様にして俯く先生の姿があった。全員が息を呑み、一斉に駆け出す。

 

「せ、せんせ――ッ!?」

 

 セリカ、シロコ、ノノミ、アヤネ――対策委員会の全員が先生の傍に駆け寄り、その状態を目視し、絶句した。純白であった先生の制服は薄汚れ、近付くと強く砂と血の匂いがした。こめかみから頬にかけても血の凝固した痕が見え、上着も肩のあたりがべっとりと血に塗れている。直ぐ傍には血のこびり付いた、木片のようなものが転がっていた。

 セリカは殆ど涙目の状態で先生に掴み掛り、その肩を揺する。

 

「せ、先生ッ! ちょっと、だ、大丈夫なの!? ねぇ!?」

「セリカ、揺らしちゃ駄目!」

「これは――……アヤネちゃん!」

「今、医療用ドローンを呼んでいますッ! スキャンして処置をすれば――」

 

 そこまで口にした所で、不意に先生の瞼が小さく震えた。

 

「ぅ……ッ」

「せ、先生、意識が!」

 

 セリカに揺すられ、生徒達の声を耳にして意識を取り戻した先生。

 彼は薄らと開いた視界の中に、アビドスの皆が映っている事に一瞬驚く。自分が今何をして、どういう状況なのか――二度、三度頭を揺らした先生は、ぼんやりと視界に映る皆の顔を見た。

 誰もかれも、目元に涙を滲ませている。

 見える感情の色は、悲しみだ。

 生徒が――泣いている。

 その事実が先生の折れかけた四肢に、確かな力を与えた。

 

「セリカ……それに、シロコ……――」

「ん、皆も居る!」

「先生、大丈夫ですか? どこか痛い所は?」

 

 ノノミの問いかけに首を緩く振りながら、指先で目元を拭う。固まった血が指先に付着し、先生は漸く今、自分が何をしていたのかを思い出した。便利屋に対するリンクの反動で、一時気を失っていたらしい。手元に転がっていたタブレットを手繰り寄せ、もう一度背中を壁に預ける。

 ヘイロー――生徒の根源に接続する以上、その負担は決して少なくない。疲労、負傷状態でアプリを起動させると、気を失う事もある。今回は運悪く、そちらを引いてしまったようだった。

 

「先生、ちょっと、大丈夫なの……?」

「先生、吐き気や眩暈、痙攣や目の焦点が定まらないとかはありますか? 耳や、鼻からの出血は――」

 

 アヤネが周囲を動き回り、傷口を探し、出血の有無などを確かめる。その様子をセリカは忙しなく見守り、ノノミは隣に立つシロコの肩を叩き、倉庫の出入り口を指差した。

 

「シロコちゃん、私と一緒に出入り口の警戒を、万が一の事を考えると警護は必要です……!」

「……ん、分かった」

 

 頷き、立ち上がった二人は愛銃を手に先生を見下ろす。

 

「セリカちゃんとアヤネちゃんはそのまま先生についていて下さい、セリカちゃん、ホシノ先輩に連絡をお願いします!」

「わ、分かったわ!」

 

 セリカはそう云うと慌てて端末を取り出し、ホシノ先輩へと連絡する為画面をタップする。今はその動作すら煩わしくて仕方なかった。

 

「もう、こんな時にホシノ先輩……何やってんのよっ!」

 

 思わず、そんな悪態が漏れる。こんな大事な時に不在だなんて――画面に映るへらっと笑ったホシノ先輩のアイコンを何度も指で叩きながら、コール音を鳴らす端末を見守るセリカ。

 一、二、三、四、五――繰り返されるコール音、しかしそれが途切れる事はない。

 足を揺すりながらホシノの応答を待っていたセリカは、しかし一向に出る気配のないホシノに思わず唸り、声を荒げた。

 

「――駄目、ホシノ先輩、全ッ然出ない!」

「……委員長、一体何処に?」

 

 不安げな表情でそう呟くアヤネの肩に先生はそっと手を掛け、微笑む。

 

「私は、大丈夫だよ……」

 

 呟き、鈍い足腰に喝を入れ、立ち上がった。

 そんな先生の腕を取りながら、アヤネは咄嗟に支え、思わず苦言を呈す。

 

「先生、まだ立っては――!」

「爆発で少し脳を揺すられただけだ、外見も、派手に出血はしているけれど切っただけ、見た目ほど酷い傷じゃない」

「で、でも、せめて救急ドローンが来るまでは――」

「今は一分一秒が惜しいんだ……――ごめんね、アヤネ」

 

 アヤネに謝罪を口にしながら、先生はタブレットを握り締める。事態は刻一刻と悪化の一途を辿っているのだ。こんな所で、気を失っている暇など無い。そんな先生の表情を見て、何をするのかを理解したのだろう、大将は先生の姿を見上げながら心配げに口を開いた。

 

「先生さんよ、しかし、お前さん、肩に……!」

「――大将」

 

 遮り、唇の前にそっと指を立てる。

 指先の奥に見える先生の懇願するような表情に、大将は思わず口を噤んだ。

 

「シロコ、外はどうなっている?」

「……ゲヘナの――多分風紀委員会と、便利屋68が戦闘中、かなり派手にやっている」

 

 扉を僅かに開け、外を覗いていたシロコが呟く。その表情は不安げで、数秒に一度は先生の方へと視線を向けていた。外の様子も気になるが、先生の負傷具合も気になる。それは隣のノノミも同じであった。

 

「便利屋も頑張っているけれど、相手の数が多すぎる……ゲヘナの風紀委員会は多分、中隊規模」

「中隊って、二百人……!?」

「何でそんな数を――!」

 

 中隊規模の戦術行動と聞き、先生を支えていたアヤネが思わず声を荒げた。

 

「此処はアビドス自治区ですよ!? 他所でこんな大規模戦術行動を起こす何て、ゲヘナは政治紛争でも起こすつもりですか!?」

「……恐らく便利屋68の捕縛の為でしょうけれど、これは余りにも――」

「自治区を管理している学校の許可なく戦闘行動を起こす、これは私達の権利を無視した行いの筈」

「――先生の怪我も、柴関がこんなになったのも、全部あの風紀委員会の仕業なんでしょう!?」

 

 セリカがそう叫んで大将を見れば、その勢いに呑まれた彼は僅かに気圧されながらも頷いて見せる。

 

「……あ、あぁ、いつも通り営業していたら、店の前が突然吹っ飛んでよ、先生と便利屋の生徒さんが――」

「ッ……あいつらっ!」

 

 表情を怒りと憎悪に染め、セリカが歯を剥き出しにして外の風紀委員を睨みつける。その顔には、今にも鉛玉をぶち込んでやりたいという意気込みが見え隠れしていた。しかし、そんなセリカの意気を察しながらも、シロコは首を横に振って告げる。

 

「気持ちは分かるけれど、今は先生を病院に運ぼう、見つからない様に移動すれば不可能じゃない、便利屋が目を惹いているから裏を通れば……」

「いや――」

 

 シロコの言葉に被せる様に、先生は声を上げた。

 

「私も、便利屋と一緒に戦う」

「なっ……!」

「は、ハァ!?」

「先生ッ!?」

 

 先生の予想だにしない言葉に、アビドスの全員が言葉を失う。大将は分かっていた為か、彼女達ほどの驚愕を見せなかったが、ただ不安げな視線だけは変わらなかった。目前に居たセリカが首を振り、一歩先生へと詰め寄る。

 

「ちょ、ちょっと何言ってんのよ先生!? そんな怪我した状態で、戦闘指揮なんて……!」

「そ、そうですよ、無茶です!」

「流石に、それは賛成できない」

「今回の戦闘は、余りにも危険度合いが高すぎますッ!」

 

 セリカ、ノノミ、シロコ、アヤネ――全員が先生の参戦に否定の言葉を口にした。実際問題、先生の衣服は所々血に塗れ、パッと見ただけでも軽くない負傷である事が分かる。そうでなくとも柴関の内装、あの破壊跡――先生が具体的にどれ程爆心地に近い場所に居たのか、アビドスは知る由もないが、そもそも店内が軒並み吹き飛び、店舗前面が崩れる様な爆発を受けて生きている事が奇跡に近いのだ。外見上問題なくとも、内臓が、脳が、無事である保証はない。手遅れになる前に、精密検査を受ける必要があった。

 それでも先生は緩く首を振る。

 

「……今までだって、そうだった、五十人のカタカタヘルメット団を撃退した時も、最初は出来ないかもって、そう思っただろう?」

「それは……ですが、今は状況が違いますし、ましてや今回の相手はゲヘナ風紀委員会ですよ!? 向こうはきちんとした戦闘訓練を受けて、専用の装備まで揃えています! 連携だって……! 確かに便利屋の皆さんと協力すれば、先生の指揮で撃退は出来るかもしれませんが――!」

「それで先生の傷が悪化するようでは、決して賛成出来ません……!」

 

 アヤネの言葉に続き、ノノミが断固とした口調で告げる。

 先生の前に立った彼女は常の温厚な気配を消し、真剣な眼差しで先生を見つめた。

 

「ホシノ先輩が居ない以上、代理としてアビドスを動かす最終決定権は私が持っています、先生の戦闘行為を容認する事は出来ません――今は撤退して、治療を受けて下さい!」

「……それでは、便利屋の皆を見捨てる事になる」

「――っ!」

 

 先生の呟きに、ノノミの表情がくしゃりと歪んだ。

 それは、この期に及んで尚、先生は生徒を優先するのだと云う――その痛ましいまでの精神性に対する、悲しみの発露だった。

 真っ直ぐ先生を見つめるノノミのそれに、先生もまた真摯に視線を返す。何処までも強い決意と慈愛を秘めた瞳が、互いのそれを見据えていた。

 

「――私は先生だ、シャーレの先生なんだよ、生徒を誰一人として見捨てはしない、生徒を守り、教え、導き、寄り添う事が……私の使命だ」

 

 声はそれほど大きくなかった。けれど外の銃声に遮られて尚、先生の声は全員の耳に届いた。哀しいまでの決意を持つ、先生の底――信念の言葉。

 ノノミがひとり、拳を強く握り締めれば――隣り合っていたセリカが、不意に言葉を漏らした。

 

「せ、先生が、先生が皆の先生だっていうのは……分かるよっ!」

 

 声は震えていて、力が無かった。俯いた彼女の表情は伺えない。けれど先生の傍に立つ彼女の肩は、小さく震えていた。

 

「シャーレはキヴォトスの、連邦生徒会の組織だもん、先生の持っている権限とか、立場とか、それがどれだけ重いもので、凄い事なのか、私はまだ全然、ちっとも分かっていないけれど……ッ!」

 

 不意に、セリカが顔を上げる。その頬には一筋の涙が流れていた。

 先生の腕を掴み、彼女は震えたまま懇願を口にする。

 

「でも……でも先生は、アビドス対策委員会の顧問でしょう!? 今は、今だけはシャーレじゃなくて、『私達の先生』で居てよッ!? 他の生徒より、私達を優先してよッ!」

「セリカ、私は……!」

「私達は……私はッ! 先生が怪我するところなんて見たくないのッ! ねぇ……! 分かってよッ!?」

「ッ――」

 

 涙を流し、叫ぶように吐露される――彼女の感情。

 その泣き顔を見た瞬間、先生の脳裏にキヴォトス動乱の記憶が蘇った。

 泣き叫び、銃を向ける生徒。地面に這いつくばりながら、行かないでと懇願する生徒。怒り、拳を振り上げながら、それでも先生に前言を撤回するように求めた生徒。すべて、すべて――その根底にあるのは、『優しさ』と『信頼』、そして相手を思い遣る心だった。

 

 大切だから、喪いたくない。

 大事だから、消えて欲しくない。

 何を置いても――あなたが大切だから。

 

 今、自身の腕に縋りつき、涙を流す彼女は――あの日、先生が救いたくて、救えなかった生徒の姿そのものだった。

 

「先生、私は――この言葉は先生を苦しめるって、多分そうなるって分かった上で、それでも、先生に聞くよ」

 

 シロコが呆然とする先生に、言葉を投げかける。

 ゆっくりとシロコを見る先生、そんな彼に向けて、シロコは云った。

 

私達(対策委員会)と便利屋68……先生にとって、どっちが大事?」

「―――」

 

 一瞬、時が止まった。

 先生の胸が、妙な痛みを発した。今まで守って来た鉄仮面が、粉々に砕けるのが分かった。先生の表情を見たシロコが僅かに目を見開き、それからどこか恥じる様に、或いは後悔するように、シロコは目を伏せる。

 

「……ごめん、卑怯な聞き方をした、先生は今、皆の先生だって、そう云ったのに」

「いや――」

 

 声を、絞り出す。

 想いは、尊いものだ。それは善性の発露だ。彼女達の持つ、光の側面そのもの。

 シャーレは、中立でなければならない。どこか一勢力に、己の意思で贔屓するような真似は出来ない。それはキヴォトス全体のパワーバランスを崩す事に繋がり、牽いては連邦生徒会の不利益に繋がり、キヴォトス全体に混乱を招きかねない――否、そんなものは建前だ。先生の心を守るための、薄っぺらい戯言だ。

 どこかの学園と懇意になり過ぎれば、或いは偏った場所に身を置けば、先生は『生徒の味方』では居られなくなる。シャーレは、先生は、トリニティの味方でもなければ、ゲヘナの味方でもない、勿論、ミレニアムでもない。百鬼夜行でも、レッドウィンターでも、クロノスでも、アリウスでも。

 

 ましてや――【アビドス】の味方でもない。

 

 その事実が、どうしようもなく先生の胸を締め付けた。

 

「――皆が私の身を案じている事、その想い、感情……とても、嬉しく思う」

 

 歯を、食いしばる。

 血を吐く様な想いで、言葉を紡ぐ。早鐘を打つ心臓を押さえつけながら、喉を震わせる。

 

「ありがとう、それしか私は、返す言葉を持っていない、こんな――何も持っていない、何も与える事の出来ない、寄り添う事しか出来ない私を、そんなにも想ってくれて、本当にありがとう」

「な、何を云っているの先生……?」

 

 シロコの戸惑う様な声に、先生は俯いていた顔を上げた。

 皆が自身を想う心、その信頼、好意、とても有難く思う。それこそ涙を流し、感謝したい程に。

 本音を吐露すれば、その想いに応えたいと思った事は一度や二度ではない。彼女達の懇願に、悲鳴に、怒りに、足を止めたくなった事はある。躊躇った事も、顧みた事も、自分自身を呪い殺したくなった事すら。

 けれど――それでも。

 

「――それでも私は行くよ」

「ッ……!」

 

 先生を掴むセリカの力が、ぎゅっと、強まった。

 その痛みを心に刻みながら、先生は沈痛な面持ちのアビドスを見た。

 悲しませる事は分かっていた。怒りを抱かれる事も。けれど、此処で止まれるのならば、自分はこの世界に降り立つ事などなかった。

 

「月並みな言葉だけれど、便利屋もアビドスも、どちらも大切だ、どちらを選ぶとかじゃない、どちらも選んで守るんだ――私の持っている、ありとあらゆる知識と手段を以て、全力で、何が何でも、是が非でも、絶対に、守るんだ」

 

 告げ、強く拳を握る。それがどれだけ困難であろうと、それがどれだけ夢のような話であろうと。先生は諦めない、絶対に。

 シロコが、アヤネが、ノノミが、そっと口を開く。

 

「……私達を選んでと、そう懇願しても?」

「懇願しても」

「先生の傷つく姿を見たくないと、私達が泣いてもですか」

「涙を流しても」

「……どれだけ、言葉を重ねても」

「君達が、幾千、幾万の言葉を重ねても――」

 

「私は、誰か(救済)を諦める事を、したくない」

 

 沈黙が下りた。それは、痛い程の静寂だった。

 先生の哀し気で、辛そうで、けれど真剣な面持ちに、全員が理解した。先生はどれだけ懇願しようとも、希おうと、決してその道を曲げる事をしないと。それは鋼に勝る決意だった、それは泣きたくなる様な覚悟だった。

 

 ――いいや、そうではない。

 シロコは思った。道を曲げないのではない。

 先生は――【曲げられない】のだ。

 

「……ん、分かった」

「し、シロコ先輩?」

 

 呟き、先生を見る。

 アヤネがシロコを見つめ、目を瞬かせた。

 

「便利屋に加勢して、風紀委員会を叩く――私は先生についていく……皆は?」

 

 その言葉に、残ったアビドスのメンバーが息を呑んだ。

 

「こ、こんな怪我をしている先生に――正気ですか!?」

「アヤネ、私は正気、それに先生がこういう目をした時は絶対に譲らない、ホシノ先輩の時もそうだった……それなら、さっさと事態を終息させて先生にちゃんとした治療を受けさせた方が良い」

「それは、ですが――」

 

 シロコの淡々とした言葉に、アヤネは言葉を詰まらせる。此処で口論をするより、先生の目的を達成させ、一秒でも早く治療を受けさせる。それは、ある一つの解決策としては納得出来る。しかし――。

 

「先生、それは……どうしても譲れない事なんですね?」

「ノノミ先輩……!?」

 

 先生に問い掛けるノノミに、再びアヤネは驚愕の声を上げた。

 もしや、先輩も賛同するのかと顔を顰めれば、ノノミはそんな彼女を一瞥しながら先生を真っ直ぐ見据える。

 

「あぁ――私が今、こうして生きて此処に立っている……その理由と云っても良い位だよ」

「そう――ですか」

 

 呟き、数秒目を閉じる。その間に彼女が、どんな風に感情を飲み下したのか、そしてどんな思いを抱いたのか、先生には分からない。

 ただ彼女は小さく息を吐き出し、それから普段通りの柔らかな笑みを浮かべ、頷いた。

 

「……分かりました、私も、御供します」

「先輩ッ!」

「ですが!」

 

 悲鳴とも、非難とも呼べるアヤネの叫びに、ノノミは声を被せ断言する。

 

「これは、私個人の判断です、ホシノ先輩の代理としての判断ではありません、命令も、しません――私は皆の意見を尊重します」

 

 そう云ってアヤネとセリカを見るノノミ、そしてシロコ。

 二人は顔を俯かせ、拳を痛い位に握っている。その顔色は蒼く、酷く辛そうに見えた。

 

「おかしいですよ、だって……先生、そんな血を流して、怪我をして――し、失敗したら、先生が死んでしまうんですよ……?」

「ん、分かって――」

「分かっていませんッ!」

 

 シロコの言葉に、アヤネは彼女らしくない、絶叫で以て答えた。

 胸に押し付けたタブレットを握り締め、数歩よろめいたアヤネは、俯いていた顔を上げノノミとシロコを睨みつける。その頬には涙が伝い、強い怒りの感情が見え隠れしていた。

 

「死ぬって……もう会えないって事ですよ!? 先生が、居なくなるんですッ! 朝も、昼も、夜も、二度と! 永遠にッ! 会いたいってどんなに思っても、会えないんですッ! なのにッ!? なんでそんなっ、あっさり……! 先生も、もっと自分を大事にして下さいよ――ッ!」

 

 最後の声は最早、掠れて消える様な小ささだった。歯を食いしばり、ぽろぽろと涙を零すアヤネ。

 彼女は先生が怪我をした事実に、死を身近に感じてしまったのだ。

 どこか遠くにあった『永遠の別れ』という概念が、すぐ傍に存在するのだと理解してしまった。先生が弾丸一発で死んでしまう脆弱な肉体である事をアヤネは、知識として知っていた。けれどいざ、それを現実として見せつけられた時、アヤネは自分の足元が崩れ去る様な心地になった。

 

 ――本当に、こんなにも脆いのか、先生の体は。

 

 先生の怪我を診察する内に、アヤネのその不安はどんどん肥大化した。アビドスの皆ならば、「痛い」で済むような爆発、攻撃が、先生にとっては致命傷になる。肌にも食い込まない様な小さな破片の飛来が、先生にとっては重症になり得る。ありとあらゆるものが、世界のすべてが、先生を害する為に存在するように見えて仕方なかった。

 そんな先生を――あの、大規模な戦闘に巻き込む?

 

「理解、出来ません……!」

「アヤネ――」

 

 吐き捨て、その場に座り込んでしまうアヤネ。

 その姿を先生は、今にも泣き出しそうな顔で見ていた。

 けれど、涙を流す事は出来ない。

 その資格を、先生は持っていない。

 

「わ、私、は……」

 

 セリカは視線を泳がせ、呟く。

 

「先生の傷つく姿は見たくない、私達以外の、良くも知らない生徒の為に先生が身を擲つって考えると、胸がざわつく……苛々するッ……!」

「セリカ……!」

「でも、それが……先生のやりたい事――なんだよね? 私達がやめてって、お願いしても拒んじゃう位、大事なんだよね? ……そうなんだよね?」

 

 涙交じりに、そう問いかける彼女の、その切羽詰まった表情を見た時、先生は思わず言葉に詰まった。思い切り拳を握り締め、先生は両膝を着いた。自分自身を殺してやりたい気分だった。

 

「シロコ、ノノミ――セリカ、アヤネ」

 

 告げ、先生は深く頭を下げる。

 額を床に打ち付ける勢いで、深く。

 

「すまない、そして、頼む――どうか、私に力を貸してくれッ!」

「ッ、先生!?」

 

 唐突な先生の懇願に、生徒達は目を見開く。

 今だけは痛みを忘れた、立場を忘れた、ただ一人の人間として――懇願した。

 

「私は人間だ、ただの、普通の! 君達と違って弾丸一発で死んでしまう、脆弱で、力を持たない、キヴォトスに於いて最も弱い生き物だ! 君達の助けがなければ生徒ひとり満足に助ける事も出来ない……名ばかりの大人だッ!」

 

 らしくもなく、叫んだ。

 腹の底から絞り出すように声を張り上げた。

 

 先生は力を持っている、大きな力だ、誰かを救える力だ――生徒達を教え、導く為の力だ。

 けれど先生は、あくまで人間で、誰かを支える事でしか戦う事は出来ない。根源はゼロだ、ゼロに何を掛けたってゼロにしかならない。それを一にも十にもしてくれるのは、生徒達なのだ。

 スーパーヒーローの様に格好よく誰かを救う事は出来ない。

 英雄の様に何かを切り捨て前に進む事は出来ない。

 そんな脆弱で、矮小な存在が、先生だ――己なのだ。

 

「でも、そんな弱い私でも――どうしても捨てられない、信念がある……ッ!」

 

 力があれば――そう思わなかった事はない。

 戦う術があれば――そう願った事だってある。

 けれど先生は戦士ではない、戦う者ではない。

 先生は――教え、導く者だ。

 

 だから先生は懇願する。

 どうか私に力を貸して欲しいと。

 どうか私の我儘に付き合って欲しいと。

 救う為に、助ける為に、この身を捧ぐ己を、見ていて欲しいと。

 

 それが生徒にとって――地獄への片道であると知って尚、願う。

 

「私に、どうか皆を救わせてくれッ――!」

「先生……っ」

 

 セリカが、強く唇を噛み締めた。地面に額を擦りつける先生の腕を掴んで、何かを云おうとして、けれど何も言葉が出なくて。表情を歪め、何度も何度も口を開いて――結局、呻き声のような、悲鳴のような、絞り出す声を上げ、自身の頭を掻き毟る。

 それから、先生の肩を掴んで、身体を無理矢理起こした。

 至近距離で交わるセリカと先生の視線、セリカは震え、ぐしゃぐしゃになった顔で叫んだ。

 

「――絶ッ対に死なないでっ! 何が何でも生きてッ! 私が盾にでも何でもなるからっ、這い蹲ってでも生き延びてっ! 良い!? 分かったッ!? 出来ないって云ったらぶっ殺すからッ! 後、帰ったら即治療、即療養だからねッ!? これは約束よッ! 返事はッ!?」

「あ、あぁ……約束する」

 

 宛らマシンガンの如く放たれた言葉に、先生は面食らいながらも強く頷く。これを反故にはしない、絶対に、そう誓う。

 

「……アヤネ、先生の事は私達が守る、絶対に」

「えぇ、そうですね……! 弾丸一発も通しません」

「皆さん――」

 

 シロコとノノミの強い言葉に、アヤネは座り込んだまま呆然と皆を見る。

 涙を拭いながら立ち上がるセリカは、先生の意見に賛同した。反対しているアビドスのメンバーは、自身のみ。

 タブレットを掴んだまま俯くアヤネは、何度も何度も先生の言葉を反芻し、噛み締め――感情を、奥底へと押し込んだ。

 

「……分かり、ました、正直まだ不安で一杯です、本音で云えばすぐに病院に担ぎ込みたいくらい、私は、反対したい気持ちが消えません――でも、此処で無理矢理にでも連れ帰ったら、先生の心は守れないんですよね?」

 

 アヤネが泣き出しそうな、けれど仕方ないとばかりに口元を緩めれば、シロコは同じように笑って頷いた。

 

「ん――先生の体と想いを守る、両方やらなくちゃいけないのが辛い所」

「……分かりました、他所の自治区での戦闘行動、柴関への暴挙、問い詰めたい事は沢山あります、それに――」

 

 涙を拭い、よろよろと立ち上がったアヤネが瞳に強い光を宿し、告げる。

 

「先生に怪我をさせた事、償って貰わないと、気が済みません……ッ!」

「ぐずッ――えぇ、残らずぶっ殺してやるわ!」

「悪い子にはお仕置きが必要ですよねっ!」

「ん、因果応報」

 

 全員が愛銃を持ち、戦意を迸らせる。その姿を見た先生は深い――深い感謝を抱いた。

 

「先生、本当に怪我は大丈夫なんですよね? それだけは嘘、吐かないで下さい」

「――嘘何て吐かない、大丈夫さ」

 

 真剣なノノミの問いかけに、先生は笑いながら頷く。

 もう、弱気な自分は見せない。先生として立つ。鉄仮面を被り直し、深く深く、鍵をする。

 

「私も――今回の強引な手口には思う所がある、少々お灸を据えてやらないとね」

 

 告げ、床に放置されていたタブレットを拾い上げ、立ち上がる。

 足は動く、頭も働く――なら、まだ自分は戦える。その頃にはもう、常の『先生』がそこに立っていた。血のこびり付いた頬を拭いながら、先生は問い掛ける。

 

「行けるかい、アビドス?」

「当然っ!」

「はい!」

「えぇ!」

「いつでも」

 

 問いかけに、彼女達らしい溌剌とした応えが返って来た。その事に妙な充足感を覚えながら、先生は一歩踏み出す。

 

「大将――」

「……無理すんじゃねぇぞ、先生さん」

 

 壁際に座り込む大将を見れば、何とも云えない――憐憫とも、痛ましさとも取れる、悲し気な表情をした彼が居た。大将はひらひらと手を揺らし、ふっと笑う。

 

「終わったら、ラーメン一杯奢ってやるからよ」

「それは、是が非でも生きて帰らないとですね」

 

 肩を揺らし、破顔する。

 疲れた時に食べる柴関のラーメンは、美味かった。

 だから全てが終わった後、食べる柴関のラーメンは――きっと、とても美味い。

 

「良し――アビドス出撃!」

「おーッ!」

 

 生徒達の突き上げた腕を見つめながら、先生は出口に向け歩き出す。

 隅に転がる、注射器二本――それを顧みる事なく。

 


 

 次回、ゲヘナ風紀委員会vsアビドス・便利屋68vsダークライ

 

「おらァアアッ! アコォ! 出てこぉいッ! どうせ独断でチナツとイオリを動かしたんだろう!? お陰様でこちとら死ぬところだったんだぞッ!? 謝罪と賠償を請求するッ! 具体的にはわんわんプレイだッ! わんわんプレイを所望するぞコラッ!」

 

 と叫ぶ先生が見られます。良かったねアコ♡ あとイオリは吸われます(無慈悲)

 注射で無理矢理痛覚殺して動かしている体に限界が来たら、きっと生徒達の可愛い顔が見られるよ。でもきっと先生は耐え切るんだろうね。戦闘終わった後に路地裏で惨めに血反吐を撒き散らす姿を、大事な時に居なくて何も出来なかったホシノに見せつけてあげようね♡ そんな可哀そうな事する訳ないよね先生、折角だからみんなの前で血反吐はこうぜッ!

 

 すんごい、これ。

 先生とアビドスをイチャ♡ラブさせようと思ったら、それだけで一万字超えて「ほげ~」ってなった。最初は結構スムーズにvs風紀委員まで進んでいたんだけれど、「先生怪我してんのに、そんなあっさり戦闘突入する?」って思って加筆(七千字)したらエラい事になった。しっとりアビドス、まぁでもどうせ砂漠やし、雨も降らんからこれくらいの湿度あった方が健康にええやろ(適当)、う~ん、こうやって先生と生徒の純愛文(ラブ・ロマンス)を書いていると、「幸せにおなり……」という親心と云うか何というか、そういう気持ちになりますよね。早く先生の血肉飛び散らないかな。

 

「アビドスと便利屋、どっちが大事?」

 

 先生とキヴォトス全部を秤にかけて、先生を選ぶ女はやっぱり云う事が違うな!

 ヤンデレではハーレムは成立するかもしれないけれど、その中にメンヘラが混じったらハーレムは絶対に成立しませんわッ! だって自分に構って貰えなくなるかもしれないですからねぇ! 比較対象が常に隣にいるって云うのは、優劣問わずに想定以上にストレスでしてよッ! 

 じゃけん、この戦闘が終わったらアビドスの皆を甘々に甘やかしてあげましょうね~! 甘やかしてデロデロにして、一度傷が付いたからこそ、その存在の尊さと大事さを自覚した状態で、もう一度、今度は更に深い傷を目の前で与えてあげましょうね~! 次は臓物一個くらい貰おうかなぁ。エデン条約で手足飛ばす事を考えると、それ位が丁度良いかも。計算通り、かんぺき~なもぎもぎを見せちゃるけんのぅ。

 

 やっと先生にフォーカスを当てた話を書けましたわッ! オリジナルマシマシでごめんあそばせっ! 

 どれだけ生徒に想われていても、この先生はその想いを嬉しく想いながらも決して前進を止めませんわぁ! 前進を止めた結果が一週目の個別エンディング先生でしてよッ! つまり後書きで良く無惨に死んでいる先生ですわねッ! ウケますわね。場所が場所なら実質でぃーぶいでしてよッ!

 生徒の悲鳴に足を止めて、特定の勢力肩入れした結果、軒並みバッドエンドに直行~! そんな事、許せませんわよねぇ?

 

 そしてぼんやりとした記憶を保持しながらも、何とかキヴォトスを救おうと頑張った先生――これが二週目の先生、『原作』に一番近い先生でしてよッ! 確固たる記憶がある訳ではないのだけれど、それとなく周回を匂わせる先生ですわぁ! でも原作と唯一異なる点は、『連邦生徒会長が生存していた』という点ですわねッ! だからアロナは今と異なる、無機質なAI感マシマシの子でしたわ。その辺りもちゃんとアロナ初邂逅時に匂わせておりましてよ!

 先生と生徒会長は一緒に二人三脚でキヴォトスを守ろうと奮闘しましたわ。多分、真っ当な手段であればこの世界線が一番平和になる確率が高かったんじゃないかなぁ? まぁ最終的に失敗して、キヴォトス動乱が勃発し、先生と連邦生徒会長は殺し合う事になったんだけれどね♡ この辺は第一話で匂わせてあるぞ!

 

 因みに一週目の世界線は個別√なので、生徒の数だけ存在していて、二週目は合計で『三つ』存在しています。それぞれ名前を付けるのなら、『アビドス』、『エデン条約』、『秘密』が中心となった世界線。その三つの世界線が統合された最終世界線が、今回の三週目の世界ですね。因みに何で三つなのかと云うと、トリニティと同じ三位一体を基準としております。

 クロコは、この二週目の世界、『アビドス』から今回の世界線に渡って来た生徒です。

 まぁ、察しの良い方ならお分かりかもしれませんが、この記憶の持ち越し、世界線移動などを行ってくるのは、この二週目の生徒達です。各世界線で一人ずつ飛んでくるとしても、最低あと二人、現在の世界に混入してくる訳ですね。まぁ、あくまで最低限の数なので、それ以上居る可能性もありますが。今から修羅場が楽しみで私わくわくすっぞ! でも強すぎる敵は勘弁な! 先生は指揮能力つよつよだけれど、肉体的にはよわよわだからッ! おめぇつぇ~な! 私もっとよぇー奴と戦いてぇぞ!

 

 うぅ、先生を大切に想っているのに、その想いを理解した上で顧みない先生の後姿を見守る事しか出来ないアビドス可哀そう……。

 先生は生徒を守るために身を擲ち、そんな先生を守るために傷つく生徒、何というジレンマ。死んだ方がマシでは? 先生が死んだら生徒が泣いちゃうでしょう!? 

 多分ホシノがあの場に居たら、「この人はこんな風に、生徒の為に身を擲って、生徒の涙に顔を歪ませながら、それでもその悲鳴を胸に刻み、その身を晒して来たんだ」って理解して、心情がクロコ側に傾いちゃうぞ! 

 だってそんな先生見ている生徒側も辛いし、先生本人も辛いし、そんな重荷投げ捨てちゃえば良いのにって思ってしまうもの。ホシノは悲観的で疑り深くて、けれど懐に入れた人物には甘々だからね。それで先生が安らぎを得られるのなら、喜んで泥を被ってくれる良い女だよ。

 

 因みに現在だけでもアビドスの面々の想いは大分重いので、万が一此処で先生が落命した場合、発狂したアビドスによる全面戦争が勃発します。便利屋も、多分ハルカとムツキが激おこして参戦してくれます。アルとカヨコは怒ってくれるけれど、命投げ捨ててまで……っていうレベルではないかなぁ。ゲーム内好感度で云うと、メモロビ一歩手前位。因みに現在のアビドス勢は好感度ハートで二十~三十くらいはあります。アルとカヨコにとってはまだ便利屋>先生、ハルカとムツキにとっては便利屋=先生くらいの違いがある。何でムツキがそんなに好感度高いのかって? 私の趣味ですムツキについての学術論文(純愛)は既に提出してあるのでそちらを参照してください。

 

 んほ~、アビドスの先生の身を案じながらも戦火に身を投じる姿は美しいですね! どれだけ先生が危険な場所に身を置いても、私達が守って見せるって思っているんだろうなぁ、可愛いなぁ。その自身に対する驕りが先生を死に追いやるんですよぉ、シロコがなんでクロコになったのか、彼女達はその本質をまだ理解していないんだ。

 でもアビドスの中で唯一、ノノミだけは先生と一緒に沈んでくれそうな感あるんだよなぁ。復讐云々だとか、先生を生かすだとか、そういう事ではなく、いつまでも先生の骸に寄り添い続ける様な静けさが彼女にはある。

 たおやかに微笑んで、動かなくなった先生を膝枕する彼女の姿が見える見える。

 

 ノノミはあれだなぁ、多分限りなくトゥルーエンドに近いノーマルエンドを終えた先生を出迎える生徒な気がする。キヴォトス動乱を乗り切って、生徒を誰も死なせず、死者も出さず、キヴォトスを救った先生が、傷だらけの姿でシャーレのオフィスに戻って来て。そんな先生を見て、小さく微笑み、「おかえりなさい、先生」って云ってくれるような包容力。

 煤に塗れ、血だらけで、清潔感なんて欠片もないのに、そんな先生の頭を躊躇わず抱きかかえて、きっとそのまま暫く抱擁してくれると思う。そんな胸の中で死んでいる先生は幸せ者だね……あれ、これ実質ハッピーエンドでは? 私は訝しんだ。

 

 やだーッ! 先生にそんな安穏とした終わりは似合わないんじゃいッ! 血塗れになって、腕や足の一本無くなった状態で、這いずりながらタブレットに手を伸ばして、「それでも」って口ずさみながら瞳だけギラギラ輝かせた状態で戦って死ぬんだい! その背後で生徒達が泣きながら「やめて先生」、「戻って来て」って叫んで、その生徒の泣き顔に表情を歪ませながらも、その愛を背に立ち向かう先生が好きなんじゃいッ! 

 

 もしくは動けなくなった生徒を庇いながら、銃撃に身を晒す先生も好き。これ以上銃撃を受けたらヘイローが壊れかねない生徒を抱きしめて、背中で銃弾を受ける先生。絶対あれだよ、瀕死の状態で必死に先生を退かそうとするのに、普段からは想像も出来ない力で抱きしめられて、「先生ッ、やめて下さい!? おッ、お願いですからっ!」って云っても離さなくて。銃声とマズルフラッシュが瞬く中、先生の体に着弾する弾頭が肉を裂き骨を砕く感触だけが、抱き締められた生徒の肌に伝わるんだ。可愛いね♡ うぅ、銃弾を受けながら微笑む先生、本当に格好良いよ……。先生に庇われる瞬間に生徒をループさせてぇ~。先生が死んだと思って呆然としたら、再び先生に抱きしめられる生徒。何かを云うより早く放たれる銃弾、またミンチになる先生。絶叫して、また先生に抱きしめられて――でも実はこれ、先生もループしているんだよね。毎回律儀に地獄のような苦しみに耐える先生は立派だよ、ほら、生徒庇わなければ生き残れるよ? 今回も庇うんだ、ふーん。流石先生! そこに痺れる憧れるぅ! 先生と生徒が可哀そうだよ、やめなよそんな事。先生、生徒の為に一杯頑張っているから好き♡ でも生徒の事ないがしろにするから嫌い!

 逆に生徒が先生を殺す瞬間にループさせたら、生徒は何回目で指を止めるんだろう。

 



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風紀委員会、行政官

誤字脱字報告、大感謝。


 

「痛ったぁ……」

 

 銃声轟く戦場、その片隅。

 アルとの戦闘中、横合いから散弾銃を喰らい、瓦礫に埋もれていたイオリが目を覚ました。脇腹に走る鈍痛に顔を顰めながら、自身の体に降りかかっていた砂塵を手で払い、立ち上がる。風紀委員の制服は押並べて防弾仕様だが、それはそれとして衝撃はきちんと感じてしまう。横に転がっていた愛銃を拾い、残弾がある事を確かめた彼女は砂利の混じった唾を吐き出す。時計を見ると、然程気を失っていた訳ではないらしい。経過したのは、ほんの数分程度だった。

 

「くそ、あいつ等……良くもやってくれたな――ッ!」

「た、隊長!」

 

 そんなイオリの元に駆け込んでくる風紀委員の一般委員。銃を抱えながら駆け寄って来た彼女に対し、イオリは青筋を浮かべながら叫ぶ。

 

「だから私を隊長と呼ぶなって……!」

「便利屋以外の部隊から、たった今攻撃が――!」

「ハァ!?」

 

 その報告に思わず目を見開いたイオリは、近場の瓦礫を蹴飛ばし周囲を見渡した。激怒した便利屋の対処だけでも手を焼いているというのに、他の勢力が戦闘を仕掛けて来たなんて――。

 

「こんな時に、一体どこの誰だ……!?」

「校章は――あ、アビドス校です!」

「アビドス? アビドスって、確かこの自治区の――」

 

 管理校だった筈、その言葉は途中で爆発に掻き消された。爆発は至近距離ではなかったものの、それなりの規模で、幾人もの風紀委員が宙を舞っていた。悲鳴を上げながら地面に転がる彼女達を唖然とした表情で見送るイオリは、爆発の起きた方向へと顔を向ける。

 

「しゃあァ! やってやったわッ! ざまぁ見なさい! 先生に怪我をさせた罰よッ!」

「運搬用のドローンには医療品だけではなく、爆弾だって搭載出来るんですッ!」

「あははは~っ☆ 汚物は消毒ですよ~!」

「ん、先生に血を流させた分、アナタ達も血を流すべき」

 

 そこには、便利屋と同じようにヘイローを光り輝かせた四人組が、銃やら何やらを振り回しながら、好き勝手に暴れていた。見るからに後方支援専門らしき眼鏡の生徒が一人、気炎を吐いて此方に中指を立てる生徒が一人、ドローンと連携して戦う白銀の生徒が一人、明らかに人に向けて撃ってはいけない類の重火器を撃ちまくる豊満な生徒が一人。

 計四人が笑ったり怒ったりしながらやたら滅多らに撃ちまくり、周囲の風紀委員が塵の様に蹴散らされていく。まるで悪夢の光景だった。一瞬、自身は気絶したままなのかと目を擦り、頬を抓ったイオリであったが――夢から覚める事はない。

 つまりこれは、現実である。

 

「な、何なんだ、あいつら……?」

「わ、分かりません、ですが予想以上に強くて……アダぁッ!?」

「危なッ!?」

 

 ノノミのミニガンによる薙ぎ払う様な一撃が、周囲を文字通り一網打尽にする。咄嗟に瓦礫の影に隠れたイオリは助かったものの、横に立っていた風紀委員は顔面に弾丸を貰い、そのまま後方へと弾け飛んだ。顔を地面に擦り付けながら吹き飛ぶ仲間の姿を見て、イオリの顔色が蒼褪める。

 

「――おらァアアッ! アコォ! 出てこぉいッ! どうせ独断でチナツとイオリを動かしたんだろう!? お陰様でこちとら死ぬところだったんだぞッ!? 謝罪と賠償を請求するッ! 具体的にはわんわんプレイだッ! わんわんプレイを所望するぞコラッ!」

 

 不意に、戦場に聞き慣れぬ低い声が響き渡った。

 見れば先の暴れ倒している四人組の後ろで、柴関の崩れた瓦礫の上に立ち何事かを叫んでいる大人の姿がある。恐らく元は白かったのであろう制服は砂塵に塗れ、血の跡も見える。だと云うのに腕を振り回し、延々と怒声を繰り返す姿は元気そのもの。

 

「な、なんだ、あの頭のおかしい大人は……?」

 

 イオリはそんな先生の姿を見てドン引きした。

 

「ちょ、せ、先生! 危ないからッ! そんな所に上って叫んだら撃たれちゃうでしょうッ!? ちゃんと私の後ろに居てッ!」

「先生、わんわんプレイなら後で私がやってあげるから、今は大人しくしていて欲しい」

「し、シロコ先輩、それ何かおかしくないですか……?」

「それなら私も御一緒しますよ~☆」

「ノノミ先輩っ!?」

 

 軽口を叩きながら一切射撃を躊躇わないアビドス勢。最初は撃たれたのだから反撃せねばと疎らに弾丸も飛来していたが、先生の姿が見えた途端、その態度を一変させる生徒がひとり。

 

「あれは――先生ッ!? しゃ、射撃中止ッ! 絶対にあの方を撃たないで下さいッ! 被弾したら事ですよッ!? 射撃中止、射撃――やめろって云っているでしょうッ!?」

「あばッ!?」

 

 チナツは後方で血塗れの先生を視認した瞬間、速攻で戦闘中止の声を張り上げ、云っても射撃を止めない傍の風紀委員を全力で蹴飛ばした。哀れ、蹴飛ばされた風紀委員は瓦礫に頭を打ち付け、昏倒する。

 

「先生!? なんで前線に――!? そうか、アビドスが合流したのか!」

「はッ、先生!? 噓でしょ――って何だ、思ったより元気そうじゃん! 良かった~!」

「うわぁあアアアアアッ! 死んで下さい死んで下さい死んで下さいッ!」

「は、ハルカ!? 落ち着いて、今ほら、何か戦闘停止したみたいだからねッ!? 一旦落ち着きましょう!? ね、ねっ!? ホラ、先生も思ったより元気そうよ!?」

 

 便利屋の皆は先生の叫びに、戦闘へと傾けていた意識を何とか引き戻す。腕を振り回して元気に叫ぶ先生の姿を見た皆が一様に抱く感情は安堵、しかしハルカは変わらず暴走状態のまま、何とかアルが羽交い締めをする事でそれ以上の暴発を防ぐ。

 チナツの射撃中止命令、実力行使すら厭わないそれは徐々に風紀委員会の中で浸透し、銃声が収まっていく。反撃が無ければ自然、アビドスも攻撃の手を緩め、便利屋もまた先生の出現と健在に手を止め、一先ず戦場に静寂が訪れた。

 

「――周囲の戦闘、一時的に止まりました!」

「よぉし、アビドス一旦射撃中止……ゲヘナ風紀委員会、撃つなよ? 良いか、フリじゃないぞ? 私は弾丸一発で死ぬぞ? 今もぶっちゃけ足がガクガクでマジでクソヤバだからな? 私が死んだら、何かもう凄い事になるからな? そこんとこ分かっているか!?」

「内容がふわっふわ過ぎませんか先生……?」

 

 アヤネの突っ込みに取り合わず、先生は片手を上げたまま一歩、一歩、ゲヘナ風紀委員会に近付いていく。最初は困惑した空気を出していた風紀委員会側だったが、人の波を掻き分け駆け寄る人影が一つ。

 件のワカモ騒動で共に戦った生徒の一人――ゲヘナ風紀委員会所属のチナツであった。

 彼女は息を弾ませながら先生の傍まで駆け、その姿を見てくしゃりと顔を歪める。先生は敢えてお道化た様に笑い、声を掛けた。

 

「久しぶり、チナツ」

「先生っ……! すみません、まさかその様な怪我をさせてしまうなんて、私は、取り返しのつかない事を、なんとお詫びしたら良いか――……!」

「気にしないで……とは云えないけれど、事故だろう? 結果的にこの程度で済んだんだから強く責める気は無いよ、それに戦闘を止めてくれたのはチナツだ――ありがとう」

「わっ……」

 

 深く頭を下げ、震えながら謝罪を口にするチナツに、先生は強く頭を撫でる事で済ませる。彼女に対する謝罪と賠償は、これで十分だ。元々チナツがこんな大胆な事をするとは思っていないし、知識として知っている。

 故に――。

 

「それで――イオリ?」

「んぐ……」

 

 近場の瓦礫の影から顔を出し、胡乱な目で此方を見ていた褐色銀髪ツインテール娘を呼び出す。彼女は名指しで呼ばれた事に言葉を詰まらせ、周囲を一瞥した後、観念したような表情で先生の前まで足を進める。

 ハルカに撃たれた脇腹の制服が破れ、僅かに露出しているものの、それ程大きな怪我ではない。というよりも、キヴォトスの住人にとって銃撃による負傷など軽傷なのだ。脇腹を庇う様子もなく、痛みなど感じていないとばかりの振る舞いに、先生は心配の言葉を飲み込み、苦笑を零した。

 

「一応初めましてになるのかな? 私は連邦捜査シャーレ顧問の先生だよ」

「……ゲヘナ風紀委員会所属、銀鏡イオリだ」

 

 ぶっきらぼうに答え、愛銃のライフルを肩に担ぎ直す。先生はそんな彼女の姿を足先から頭の天辺まで一瞥し、ひとつ頷いて見せる。

 

「多分作戦自体はアコが推し進めたのだろうけれど、最終的に店に迫撃砲をぶち込んだのはイオリ、君だよね?」

「……そうだ、最終的に許可を出したのは私だ」

「へぇ、ふぅん、ほぉ~……――いやぁ、凄く痛かったんだよねぇ、見てこれ、血が滲んでいるでしょう? 制服も最初は真っ白だったのに、爆発の砂塵と私の血でこんなになっちゃってさぁ、もうちょっと当たり所悪かったら死んじゃう所だったんだぁ、痛いし怖いしで、ねぇ?」

「うぐッ――」

 

 先生の顔がにやりと歪み、これ見よがしに制服をはためかせ、血のこびり付いた肩などを見せつける。そうでなくとも頬や額、首元など乾いた血の痕跡があちこちに散見され、かなりの出血である事は確かであった。キヴォトス外の人間であるならば、それなりの負傷である――そもそも、迫撃砲に巻き込まれて生きているというのが奇跡なのだ。それを考えれば自身の行為がどれだけ目の前の彼にとって致命的なアクションだったのか、イオリは良く良く理解していた。

 

「アコにも勿論、謝罪と賠償を求めるけれど、実行犯のイオリにも求めちゃっても良いと思わないかい?」

「わ、悪かったよ……流石に今回の件は、その、反省する、ごめんなさい……賠償って、具体的には何だ? 私、その、余りお金は――」

 

 しょんぼりした表情で肩を落とし、目線を落とすイオリ。普段強気で跳ねっ返りな彼女であるが、生死が絡むとなればそうも云っていられない。今回の件は全面的に自身に非があると認め、素直に賠償を支払う姿勢を見せる。

 そんな彼女の姿を満足そうに見ていた先生は、強い口調で告げた。

 

「イオリを吸います」

「す、吸う………?」

 

 先生の言葉に、どれ程の金額を吹っ掛けられるのだと戦々恐々としていたイオリはしかし、予想外の言葉に目を白黒させる。そもそも、「吸う」という単語を人に向けて使った事が無い彼女は、それが何を意味しているのか皆目見当も付かず、疑問符を浮かべながら再び問いかけた。

 

「な、何だ、吸うって」

「イオリの首筋とか髪の毛に顔を押し付けて、深呼吸をします」

「―――」

 

 瞬間、先生の云う『吸う』が何を意味するのかを完全に理解したイオリは――全力でバックステップを踏み距離を取り、銃を抱きしめながら首を横に振って叫んだ。

 

「は、はぁッ!? 何それ!? ぜ、絶対に嫌だッ! 気持ち悪いッ!」

「因みに実行は今なので、程よい汗を感じられそうで非常に胸が高鳴りますね」

「――~ッ! ヘンタイっ、悪魔! 変人ッ! これ以上近寄らないでッ! あっちいってッ!」

 

 先生の満面の笑みを浮かべた渾身のコメントに、イオリは顔を蒼褪めさせながら叫ぶ。そして一歩一歩近づいて来る先生に、自己防衛の為に蹴飛ばそうとして――不意に、先生がその場に崩れ落ちた。

 

「ぐぅッ――……!」

「!?」

 

 にわかに、先生の後方で待機していたアビドスがざわつき、先生は荒い呼吸を繰り返しながら首を垂れる。まだ蹴飛ばしもしていなければ、何をしたわけでもないイオリは困惑し、恐る恐る這い蹲る先生に手を伸ばし、問いかけた。

 

「お、おい、先生、大丈――」

「うッ――げほッ、ごぼっ!」

 

 その手が触れそうになる瞬間――先生の口から、決して少なくない量の赤色が飛び散った。それはどろっとしていて、妙に生々しく、微かに鉄の匂いがする赤色だった。その飛沫がイオリの爪先に付着し、思わず身を竦ませる。

 

「ひッ!?」

「先生ッ!?」

「――ごほッ、これ、は……内臓を……傷つけた、かな」

 

 イオリが先程とは異なる意味合いで顔色を蒼褪めさせ、隣に立っていたチナツが悲鳴染みた声色で先生の名を呼ぶ。慌てて駆け寄ったイオリは先生の肩を掴み、必死に声を張り上げる。

 

「お、おい!? う、嘘だろう!? ちょ、ちょっと!? 先生っ!?」

「い、イオリ、頼む……ッ、せ、せめて――最期に……っ」

 

 口の端から赤を垂らしながら、胸を抑え、そう懇願する先生。その表情を直視したイオリは、顔を赤くしたり青くしたり、忙しなく口元を動かしながら、しかし先生の必死の懇願を無下にする事も出来ず、やけくそ気味に叫んだ。

 

「わ、わか、分かったよッ! 好きにして良いから、吸うなり嗅ぐなりして良いからッ、だから――」

「――あ、そう? 助かる~!」

 

 イオリの承諾を得た先生は、ぱっと苦し気な表情を切り替え、再び笑みを浮かべると素早い動きでイオリの背後を取り、背後から抱きしめながらその後頭部に顔を埋めた。それは匠の技であった、イオリの意思の隙を突いた完璧なだいしゅきホールドであった。

 

「………――は?」

「すぅ~ッ! あーっ、これですよ、これ、シロコやホシノも素晴らしい匂いだったけれど、イオリも良いね、うん、最高、素晴らしい、可愛らしい匂いの中に汗も混じって完璧、間違った、かんぺき~、あ、ついでに足も舐めて良い?」

「は?」

 

 先生に嗅がれた状態でイオリは硬直し、蒼褪めた表情をしていたチナツもまた、その急激な変化に情緒が追いついていない。その間もイオリの後頭部で深呼吸を繰り返す先生に対し、何とか持ち直したチナツは恐る恐る問いかけた。

 

「せ、先生?」

「スゥーッ……ん、何だいチナツ? 今先生、イオリを吸って回復している最中なのだけれど」

「あの赤い液体……喀血か吐血ではないのですか?」

「あれトマトジュース」

 

 そう云って先生は懐からストローの刺さった紙パックのジュースを取り出して見せた。表面には、『新鮮・健康一番! 鉄分補給!』の文字と一緒に手足の生えたトマトが踊っているパッケージが見える。何処からどう見てもトマトジュースだった。

 

「柴関近くの自販機に流れ弾が当たっていてさ、中身が転がっていたんだよね、それをちょっと口に含んで、どばーって」

「……心臓が飛び出るかと思ったので、二度とやらないで下さい」

「はぁい」

 

 疲れた様に、或いは呆れたように、けれど少しだけ安堵を含ませた、何とも表現し難い表情でそう呟くチナツに先生は気の抜けた声を返した。尚、アビドスの面々にはトマトジュースを拾った時に、「ちょっと一芝居打つね」と通達しておいたので、動揺するだけで済んだ。何やら騒がしい便利屋の方向は見ない事にする。

 

「な……か、ッ……ぐ……ぅッ!」

「あ、イオリ、因みに私、今結構血を流していてヤバいので、暴れたりして運が悪いと冗談抜きで死にます」

「――ッ!?」

 

 顔を真っ赤にして、自分が騙されたのだと気付いたイオリが無理矢理突き離そうという気配を見せたので、それを察した先生が先手で釘を刺し、動きを制限する。腐ってもシャーレ、腐っても連邦捜査部――一度失態を犯した以上、これ以上罪を重ねる事など出来まい。ましてや先生が心身ともにボロボロなのは真実なので、割と本気で暴れられたら死にかねないというのがポイントである。

 イオリは口を何度も開閉させ、何かを云おうとして、しかし怒りと羞恥で言葉が出ず、ただ恐ろしい程に青筋を浮かばせていた。そんな彼女の後頭部に顔を埋めながら、先生は勝利の余韻に浸る。いざ暴れられてしまえば先生に成す術などないが、そんな行動を取らないと先生は確信している。

 

「ふふっ、そうだイオリ、良い子だね、君は大人しく私に吸われていれば良いのだよ」

「くぅッ……こんのっ! お、憶えていろよ、シャーレの先生ッ……!」

「憶えているよ、生徒との事は――全部ね」

 

 呟き、先生はふっと一瞬だけ表情を変える。しかしそれはイオリの髪に遮られ、誰に見られる事もなく――それから先生はチナツの持つ端末へと目を向け、告げた。

 

「さて……そろそろ出てきなよ、アコ」

『ふぅ――聞きしに勝る、と云うべきでしょうか……シャーレの先生?』

 

 先生の言葉に、一拍置いて返事があった。

 チナツの持つタブレットからホログラムが投影され、皆の視線が吸い寄せられる。そこには先生にとっては懐かしい人物であり、ゲヘナ風紀委員会の面々にとっては見慣れた人物――ゲヘナ風紀委員会所属、天雨アコの姿があった。

 相変わらず神経質そうな表情に薄らと笑みを張り付けた彼女が、先生に視線を向ける。

 

「あ、アコちゃん……」

「アコ行政官」

 

 イオリはどこか情けない、引き攣った表情で。反対にチナツは責める様な声色で彼女の名を呼んだ。アコは二人の姿を一瞥した後、先生と――そしてその背後に佇むアビドス、便利屋に向けて小さく会釈して見せる。

 

『こんにちはアビドスの皆さま、そして先生、序に便利屋の方々も――私はゲヘナ学園所属の行政官、アコと申します』

 


 

 

 イオリを吸いながら、アコと舌戦を繰り広げる――両方やらなくちゃならないのが、先生の辛い所だ。

 これ以上生徒間の溝が広がらない様に道化を演じながら綱渡りをする先生の姿は美しいべ……失敗したらゲヘナとアビドス・便利屋間に修復不可能な溝が出来ると考えるだけで先生が内心でどれだけ恐怖している事か、銃を向ける相手も守らなくちゃいけないというのが大変だね先生♡ 身を挺して守りなよ先生なんだから。

 

 一見元気そうに見えるのに、ぶり返しが来た瞬間にとんでもない事になる薬物って良いよね。余りにも注射を使い過ぎて、腕をまくったら注射痕がずらりと並んだ先生のそれを見て顔を蒼褪めさせるユウカ――うぅ、先生がODするとこみてて……。先生が薬物なんかに頼って恥ずかしくないの? 健全な精神は健全な肉体に宿るっていうしちょっと弛んでるんとちゃう先生? 手足捥げようと根性で立ち上がらんかい! 血に塗れながらも頑張る先生は素敵だよ♡

 

 もし此処で先生の手足が吹き飛んでいたらなぁ~、多分便利屋の皆もエラい事になっていたんだろうなぁ。まず庇われたハルカが先生の状態に気付くでしょ? 自分の体に滴る温い体温と鉄の匂い、ぐったりと動かないまま自分に覆い被さる先生を見て、「庇われた」と思った瞬間、先生の片腕が吹き飛んでいる事に気付いて、「うあァアアアアアッ!?」って発狂するじゃん? その声を聴いたカヨコが瓦礫を押し退けながら、ハルカに覆い被さって動かない先生を見て、血の気が引くじゃん。本編とは違って腕一本――おまけで足も吹き飛ばしても良いけれど、流石に二つも捥いじゃいます! をする程私は鬼ではない、命拾いしたな先生……まぁどうあれ最後に死ぬがなガハハ!――捥いじゃった訳だから、出血もヤバくて、ハルカは涙を流しながら先生を抱きしめて、「先生ッ! せんせいッ!」って錯乱する。

 

 カヨコは一瞬自失しかけるも、ここで自分が対処を間違ったら間違いなく先生が死ぬという強迫観念から、先生の傍に駆け寄って自分の着ていた服とか諸々で止血を行うと思う。ただその手付きはたどたどしく、顔色は悪いし、震えが止まらないしで動揺が隠せない。

 

 ハルカに先生を奥に連れて行くよう指示しようと考えるんだけれど、先生の名前を呼びながら血塗れの彼に縋りつくハルカを見て無理だと判断し、そのまま引き摺って行こうと考える。その時、アルが合流するんだけれど、「何なのよもう……!」と悪態をつきながら砂塵を手で払いながら足を進めれば、文字通り血塗れの片腕欠損先生と、蒼褪めた表情で先生を見るカヨコ、泣き喚き縋り付くハルカの地獄絵図。

「えっ……?」って一瞬、目の前の光景が何なのか理解出来なくて、目を瞬かせる。アルの姿を認めたカヨコは、震える指先で、「社長、先生の腕、取って」って、先生の体を起こしながら云うんだ。

 

「う、腕……腕って――」、「そこに落ちている奴」って指差した先には、先生の切断された腕が転がっていて、アルは思わず口元を抑えるんだ。「腕があれば、まだ、くっつくかもしれないから」って抑揚のない口調で呟くカヨコに、アルは何も言えなくて、恐る恐る切断されたそれに手を伸ばす。

 

 ほんの数分前までは先生に繋がっていたそれは、温かくて、妙な重さがあって、アルは歯を鳴らしながら、自分の服が汚れるのも構わず抱きしめると思う。

「ど、どうすれば良いの、カヨコ!? ねぇ、どうすれば――」と震える声で問い掛ければ、カヨコは顔をくしゃりと歪めながら、「今考えているから、ちょと黙ってッ!」って荒々しい声で叫ぶんだ。

 

 そこに「痛ったぁ~……アルちゃん無事~?」ってムツキが合流して、アルが歯を鳴らしながら先生の千切れた腕を抱きしめ、当の先生は絶賛血の海で、ムツキは絶句する。「は?」の一言すら漏らせずに、ただ困惑した様に、蚊の鳴く様な声で吐息を漏らし、それから数秒体を硬直させるんだけれど、先生の状態とアルの抱きしめる腕をもう一度見て、「アルちゃん、氷ッ!」って叫ぶんだ。

 

 先生の腕をクーラーボックスか何かに入れて、冷やして病院までもっていけば、まだ望みはあるから。持っていたバッグを投げ捨てて、柴関のカウンターに氷か何かが無いか探し始める。そんなムツキを見ながらアルは、何をすれば良いのか、どうすれば良いのか、足が竦んで動けなくて、「ぁ、ぅ――」と右往左往する。先生の腕を何処かに置いておくわけにもいかず、大事に抱えながらふらふらとムツキの後を追いかけるんだ。

 

 カヨコは先生の体を起こして、引き摺ろうとするんだろうけれど、縋り付くハルカが先生の事を離さなくて、「いい加減にしてよハルカッ!? 先生の事殺したいのアンタッ!?」ってハルカに怒声を上げて、けれど当のハルカは先生の事しか見えていなくて、ただ「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいッ!」と繰り返しながら、先生の制服を強く握り締めて顔面真っ白で蹲るんだ。

 

 柴関に押し入った風紀委員は、そんな地獄絵図を見る羽目になる。

 最初は銃を構えながら素早く踏み込むんだけれど、想定していた抵抗は皆無で、それどころか泣き喚く生徒と血塗れの大人を焦燥しながら引き摺る生徒、そしてカウンター裏で物を次々投げ捨てながら鬼気迫る表情で何かを探す少女と、千切れた腕を抱きしめながら涙を流して右往左往する生徒。

 

 床に広がる血を見て、「もしかして、とんでもない事になっているのでは」と遅まきながらに理解しはじめた一般風紀委員の群れを掻き分けて、チナツが「先生ッ!」と叫びながら押し入る。そこでカヨコに引き摺られる、片腕のない先生を見て、さっと顔を蒼褪めさせるんだ。

 

 カヨコは踏み入った風紀委員に気付くんだけれど、今はそれどころではないと舌打ちを零して、「救護班ッ! 風紀委員なら、いるでしょう!?」って助けを求めるんだ。勿論、チナツは救急バッグを吊り下げながら先生の傍に駆け寄って、素早く負傷状態を確かめる。そんな中、迫撃砲を撃ち込んだイオリが、「おい、一体どうしたんだ――」と店の中に踏み入って……。

 

 んほぉ~! この後、チナツと口論して、イオリが最終的に迫撃砲叩き込んだ実行犯だと気付いたムツキに、「お前ぇェッ!」って物凄い形相で銃口向けられて欲しい~ッ! 最終的に便利屋は捕縛されるし、アコの思惑通りシャーレの先生の身柄は手に入るけれど、結局先生の腕は欠損するし、撤収した後に崩れ落ちた柴関と、気絶した大将、さらに飛び散った血痕の前で呆然とするアビドスが敵に回るぞッ! 因みに情報が広まった場合、百鬼夜行の一部とミレニアムも敵に回る模様。トリニティは元々敵みたいなモンだから変わらないけれど、ティーパーティーのミカは記憶持ちだから、全ギレして単身ゲヘナに乗り込んで来るゾ! ブルーアーカイブ無双、はじまります。

 

 これちゃんと書こうと思ったら一話~二話分どころじゃないな! 後書き分岐ルートで色々書こうと思ったけれど分厚くなりそうだしやめよ! というか今回も先生、生きてるじゃん。何でそういう事するの? ちゃんと絶命してくれなきゃ役目でしょ?

 でもさ~、呆気なく死んじゃうよりはさ~、瀕死の状態にしてさ~、何としてでも先生を生かそうとして必死に頑張る生徒を眺めた方がさ~、お得じゃないかな~って思うんですよ。頑張って手を尽くして、それでも足りなくて、どんどん冷たくなっていく先生を見て流す涙、それにプラスアルファが付くわけだから、お得じゃんね。

 

 皆の前で何度もトマトジュースを吐き出せば、いざ、本当に血を吐いたとしても、「これもトマトジュースだから」って言い訳出来るの、先生ほんとずるいよね。水着じゃなくて下着だと思えば、それは下着だから。文字通り本編の言葉を逆手に取った訳だ、サスガダァ。此処でヒナを記憶持ちにしたら楽しい事になりそうだよね先生、もっと苦しんでね。



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HP『1』のタンク

誤字脱字報告が無ければ、明日の命も危ういでしょう。


 

『こんにちはアビドスの皆さま、そして先生、序に便利屋の方々も――私はゲヘナ学園所属の行政官、アコと申します』

 

 ゲヘナ学園、行政官――その肩書は決して軽くない。

 彼女の出現と共に、場の空気が引き締まった気がした。少なくとも風紀委員会側の面々は背筋を正し、どこか張りつめた雰囲気を発している。先生はそんな彼女達を横目に、アコを真っ直ぐ見つめながら告げた。

 

「それでアコ? スゥーッ、今回の件に関するスゥーッ! 説明は勿論すぅ~……あるんだろうね?」

『……取り敢えず、会話の時くらいは彼女を離して頂けませんか?』

「嫌だ、イオリは今私に対して賠償責任を果たしている最中だから、あっ、勿論後でアコにも請求するから、そのつもりで」

『……私の事も嗅ぐおつもりで?』

「いや、アコはワンワンプレイをします」

『………』

 

 何言っているんだこいつ、という視線を先生は感じたが敢えて無視した。彼女は知らないだけなのだ、ワンワンプレイは彼女のストレス発散にもなり、決して先生の自尊心を満たす為だけの行為ではないという事を。それは先生の持つ、アコに対しての愛情の発露であった。決して性癖の発露ではない、先生はそう自身に言い聞かせた。

 

「アコちゃん、その……」

『イオリ、反省文のテンプレートは私の机、左引き出しにあります、ご存知ですよね?』

「うぐぅ……」

 

 先生に拘束されたまま、イオリは何とも云い辛そうに口を開くが、その前にアコは反省文の提出を言い渡す。それから彼女は深く腰を折り、先生に向けて謝罪を口にした。

 

『一先ず謝罪を、先生――その様な怪我を負わせてしまい、申し訳ございません、私も先生に対してこの様な手段に出るつもりは無かったのですが……少々命令の伝達に齟齬が発生しておりました、こちらの不備です、心より謝罪いたします』

「良く云うよ――まぁ、私の事は構わない、後で存分に取り立てるから……それで、アビドス自治区での戦闘行為に関しての弁明はあるんだよね?」

 

 先生がそう問いかけ、背後に目に向ければ――この自治区を管理するアビドス校の皆が、強い足取りで先生の隣に並んだ。一歩、前に出たアヤネがホログラムのアコを睨みつける。

 

「あなたが――行政官という事は、風紀委員会のナンバー2ですか」

『……確かアヤネさんと仰いましたか――実際はそんな大したものではありません、あくまで風紀委員長を補佐する秘書のようなものでして』

「本当にそうなら、そこの風紀委員たちが、そんな風に緊張するとは思えない」

「だ、誰が緊張しているって!?」

「こら、イオリ、暴れない」

「っ~……!」

 

 シロコの言葉にイオリが食って掛かろうとするものの、先生が問答無用で抱きしめれば、暴れる事もなく沈黙する。そんな彼女の頭を撫でながらアコとチナツのやり取りを眺める先生は、胸の内でこれからの算段を立てる。

 

『あなたは、砂狼シロコさん、でしたか? アビドスには生徒会の面々だけが残っていると聞き及んでいましたが、みなさんの事の様ですね――しかし、どうやら一名足りない様ですが、今はどちらに?』

「今は不在です、そして私達は生徒会ではなく対策委員会です、行政官」

『対策委員会――それでは、生徒会の方はいらっしゃらないという事でしょうか? 私は、生徒会の方と話がしたいのですが』

 

 アコが困ったようにそう宣えば、我慢の限界が来たのかセリカが足を踏み鳴らし、ホログラムに向かって怒鳴り声を上げた。

 

「アビドスの生徒会はずっと前に解散したの! 事実上私達が生徒会の代理みたいなものだから、云いたい事があるなら私らに云いなさいッ!」

「こんな風に戦力を引き連れて、お話をしましょうか、なんていうのは、お話をする態度としてはどうかと思いますけれどね?」

『ふふ、それもそうですね――』

 

 ノノミがらしくもなく嫌味を口にすれば、しかしほんのりと笑みを浮かべたアコが片腕を上げる。

 

『失礼しました、風紀委員会各員、武器を下ろしてください、正式に戦闘を中断します』

「………」

 

 彼女の言葉に、周囲の風紀委員は顔を見合わせながらも銃口を下げ、安全装置を弾いた。その事にアビドスの面々は不審げな目を向け、便利屋――特にアル――はホッと胸を撫で下ろす。兎も角、戦闘が避けられるのならば、それに越した事はない。

 

『先程までの愚行、私から再度謝罪させて頂きます』

「わ、私は命令通りにやったんだけれど!? アコちゃん!?」

 

 アコの心無い言葉にイオリは先生に抱きしめられたまま声を上げる。しかし、返って来たのは呆れとも、失望とも見て取れる視線。肩を竦めた彼女は淡々とした口調で告げた。

 

『命令に、まずは無差別に発砲せよ――なんて言葉が含まれていましたか? ましてや、先生の居る場所に迫撃砲を撃ち込むなんて、一歩間違えたら連邦生徒会そのものと戦争が始まりますよ』

「ぐぅ、い、いや、先生の件は確かにそうかもしれないけれど、状況を鑑みて必要な範囲で火力支援、その後に歩兵の投入、戦術の基本通りにって……」

『他の学園自治区付近なのだから、その辺りはきちんと注意するのが当然でしょうに』

「―――?」

 

 アコの言葉に、アヤネは微かに眉を顰めた。しかし、その違和感の正体を探るより早く、思考が先行する。

 

『罰の一環です、大人しく先生に嗅がれていて下さい』

「あ、アコちゃん~……」

 

 結局イオリが救われる事はなく、先生の腕の中での待機が命じられる。先生と云えば、「お、行政官からの許しが出た、これぞ合法イオリ吸い~」とばかりにイオリを堪能する。それをイオリは身を捩る事で抵抗するしか術はなく、既に半分泣きが入っていた。

 

『失礼しました、対策委員会の皆さん、私達ゲヘナ風紀委員会はあくまで、私達の学園の校則違反をした方々を逮捕する為に来ました――そちらの、便利屋の方々をね』

「うぐ……ッ!」

 

 先生の餌食になっているイオリから目を逸らし、アコは便利屋の面々へと水を向ける。急に標的にされた便利屋の皆はアビドスの影に隠れ、社長のアルは額に冷汗を流した。

 

「あはは~、どうするアルちゃん?」

「……先生が無事だったのは良いけれど、状況は依然最悪だね」

「は、ハルカ! 起きて! 起きてってば!」

「ぅ……許さ……殺――……」

「わぁ、スイッチ切れちゃった?」

「完全に脱力しちゃっているね、社長、首でも絞めた?」

「そ、そんな事する訳ないでしょう!?」

 

 叫びながらもアルは思考を回す。戦うにしても、逃げるにしても、流石に状況が悪い。暴れ散らかした反動かハルカは気を失い、もし万が一アビドスが此処で便利屋なぞ知るかと見放せば、戦力は半減、更に先生次第ではサポートも打ち切られる。素の状態でこの数の風紀委員会とやり合う? ――酷い冗談だった。五分耐えられたら良い方である。アコのそれは死刑宣告にも等しい言葉だった。

 しかし、便利屋による孤軍奮闘――それは現実にはならない。

 

『――あまり望ましくない出来事もありましたが、やむを得なかったという事でご理解頂けますと幸いです』

「やむを得ない……?」

 

 ピクリと、アコの言葉にアビドス全員が肩を揺らした。

 不用意な発言だった、少なくともアビドスの逆鱗に触れる程度には。

 アコのホログラムを見る視線に、殺意が籠る。どこからともなく、安全装置を弾く音が響いた。

 

「先生を殺しかけて、やむを得ない? ふざけてんの? あったまくる……ッ!」

「そうですねー、私も同感です☆」

「………」

 

 セリカ、ノノミ、シロコの順に銃を抱え、先生の前に出る。

 アヤネはタブレットを力一杯握り締めると、ホログラムを睨みつけながら叫んだ。

 

「先生の件もそうですが……他の学校が我が校の敷地内で、堂々と勝手に戦闘行為をする――それを認める訳にはいきません、自治権の観点からして、明確な違反です!」

『あら……』

「まさか、ゲヘナ程大きな学園がこのような暴挙に出るとは思ってもみませんでしたが、ここは譲れません、あなた達はやってはいけない事に手を伸ばしたんですよッ!」

『成程……それがアビドスとしての決定ですか』

 

 アヤネの啖呵を聞いたアコは、数秒目を閉じ、それから仕方ないとばかりに肩を竦める。

 

『……まさか、この兵力を前にしても怯まないだなんて、これだけ自信に満ちているのはやはり、信頼出来る大人の方がいるからでしょうか? ――ねぇ、先生』

「腹芸に付き合うつもりはないよ、アコ」

『シャーレとしても、アビドスと同じご意見ですか?』

「まぁ、便利屋の皆を素直に渡すかと云われたら、ノーと云うしかないでしょう」

 

 先生が笑ってそう答えると、戦々恐々としていた便利屋の面々から歓声が上がる。アルなどは跳ねるように腕を突き上げ、感涙すら浮かべていた。

 

「せ、先生……! 信じていたわ、流石私達の共同経営者!」

「まぁ、先生ならそう云うよねぇ~、あ、援護は私が担当するから」

「ありがと……っく、ちょっとハルカ、全然銃手放さないのだけれど……?」

「夢の中でまだ戦っているんじゃない? そのまま担いじゃったら?」

「……背負っている最中に、ハルカから撃たれたりしないよね」

「あはは、その時はその時って事で~」

「……はぁ」

 

 気を失ったハルカを背負い、一先ず安全圏へと退避させるカヨコ。

 アコは予想の範疇とは云え自身の想定していたルートから外れ始めた流れに、口元を擦りながら考えを巡らせる。元々先生の負傷から想定ルートを外れていたと云うのはそうだが、何なら治療を理由にゲヘナへ連れ込む口実にする事だって出来た。

 しかし、見た目に反し先生はイオリを吸うのに全力で、何なら走るわ飛び跳ねるわ叫ぶわで、とても負傷しているとは思えない。迫撃砲の着弾地点に居たという話だが、あの姿を見ると少々疑いたくもなる。

 負傷はフェイク――否、そんな筈はない。となると何らかの手段で致命傷を回避し、負傷を回復させる方法も持っていると見るのが自然だった。あんな短時間で、少なくともあれ程の血を流しながら、走り回れる程度には。

 何処までも不気味な大人――その事を踏まえ、アコは方針を固める。

 

『シャーレとアビドスの意見は一致、便利屋も素直に捕まる気配はなし……少々、困りましたね――こうなっては仕方ありません、本当は穏便に済ませたかったのですが』

 

 そう云ってアコはふっと微笑むと、先程と同じように片腕を緩く上げた。

 瞬間、空気がひりつく様な熱を帯びた。

 

『総員――戦闘準備』

「ッ!?」

「アコ行政官!?」

 

 その言葉に、風紀委員の皆が再び銃を構える。

 先生の負傷は真実、しかし見た目の派手さに反し現在の負傷具合はそれほど深くないと予想。シャーレの先生を負傷させた件については失態だが、死亡でもなければ欠損でもない、十二分に取り返しが付く範囲。速やかに先生を『保護』し、治療させる事で挽回しよう。連邦生徒会に対する根回しも――業腹だが、あの糸目女に話を持ち掛ければ問題ない。

 チナツの非難の籠った声に耳を貸さず、アコは淡々と戦闘指示を下す。

 

「やっぱりこうなった」

「か、カヨコ!? どどど、どうしましょう!?」

「いや~、こっちはハルカちゃんダウンしちゃっているし、結構ヤバいよ~?」

 

 カヨコが呟けば、アルは愛銃を抱えたまま銃口を向ける風紀委員の数に顔を引きつらせる。ムツキは相変わらず飄々としているが、流石にこうも数が多いと気が滅入るのか、声に余り力がなかった。

 先生はアコのホログラムと風紀委員の面々を眺めながら、静かに告げる。

 

「――取り敢えず便利屋の皆、アビドスも、皆私の近くに集合」

「えっ? わ、分かりました」

「ん、了解」

「……何を考えているの、先生?」

「まぁまぁ、面白そうだしおっけ~! ほら、アルちゃん!」

「ちょ、ちょっと!?」

 

 アビドス、便利屋を近くに集合させた先生は、静かに周囲を見渡し顔を顰める。分かっていた事だが、場所が悪い。背の高い建物も多く、広い公道、少数で多数を相手取るには条件の悪い場所だった。本当ならば走って戦場を変えるべきなのだろうが――先生はタブレット(シッテムの箱)を横目に舌打ちを零す。

 姿は見えないが――既に自分達は包囲されていた。画面には自身を中心としたエリアを囲むように展開する赤い点(風紀委員会)、突破するには手数が足りない。いや、この場合は相手が多すぎると云うべきか。

 打開策が必要だった、それもアコが予想だにしないような。そんな事を考えていると、イオリが身を捩り声を上げる。

 

「せ、先生っ! 私をいつまで抱えているつもりなんだ!?」

「――成程、そう云えばイオリが居たね」

「は、ハァ!? 散々ひとの匂いを嗅いでおいて、何だその言い草っ!」

 

 瞬間、先生の脳裏に馬鹿げた作戦が過った。セリカは盾にでも何にでもしてと云っていたが、今回ばかりは少々強引な手を使わざるを得ない。

 少なくとも、奇抜ではあるが合理的ではある。生徒の心情は抜きとして。

 

「こうなったらイオリには私の人質になってもらいます」

「……!?」

 

 先生の言葉に、イオリは絶句する。本来ならば存在しなかったイオリというカード、敵に回れば手強いが、既に此方の手の中にあると考えれば幾分か気が楽になる。更に、人質と云う形で扱えるのなら戦略の幅が広がる。勿論、イオリを解放するから見逃して――なんて使い方では断じてない。

 先生はイオリを抱えたままアコのホログラムを見据え、呟いた。

 

「どうせアコの目的は私なんだから、最初からこうするつもりだったんだろう?」

『―――!』

 

 一歩踏み出し、笑みを浮かべる先生にアコは僅かに目を見開く。

 便利屋の捕縛という――方便。無論、最初から信じてなどいない。

 そもそもからして、これほどの人数を動員してまで達成すべき目的が便利屋の束縛? あり得ないと、そう断じる事が出来た。

 

「便利屋四人に対して中隊規模の動員? それも、態々他所の自治区まで派兵するなんて普通じゃない、彼女達には悪いけれど自治区侵犯を行ってまで捕まえる様な子達じゃないでしょう、便利屋の皆は」

『……ほぅ』

「なら、此処まで人数を搔き集めて狙う獲物は一人――」

 

 先生の視線が、確かな冷たさを帯びた。

 

「連邦捜査部シャーレ、その顧問である私の身柄だ」

『―――』

 

 今度こそ、アコはその視線を鋭く、どこか末恐ろしいものへと変えた。

 相手が自身に迫り得る――否、同等か、それ以上の人物だと認識した瞬間だった。

 無論、種も仕掛けもある。何せその行動を先生は既に体験しているのだから。アコの思惑を見抜く事など、カンニングペーパーを横目に解答するようなものだった。

 

「ッ!?」

「な、なん、何ですってーッ!?」

「狙いが、先生!?」

『……成程、やはり連邦生徒会長が直々に指名されるだけの能力はある、という事ですか、それにしても、私もまだまだですね――既に気付いていた方もいらっしゃるみたいですし……ねぇ、カヨコさん?』

「………どうせ、そんな事だろうと思ったよ」

 

 アコに水を向けられたカヨコは、ハルカを瓦礫の裏に寝かせながら吐き捨てる。

 便利屋の頭脳担当は愛銃の弾倉を検めながら、静かに言葉を続けた。

 

「私達便利屋は確かに校則違反を犯しているけれど、ゲヘナ全体で見れば大した事はしていない、美食研究会とか、あの辺りと比べれば小悪党も良いところ……他所の自治区に出張ってまで、ましてやこんな大人数で追いかけ回す筈がない」

『流石の情報判断ですね』

「何度、風紀委員会に追い廻されたと思っているの? それにそっちこそ、イオリが柴関に迫撃砲を撃ち込んだと聞いて、大分焦ったんじゃない? 先生が同席していたのなら木端微塵だろうし」

『えぇ、それはもう、正直に申しますと私の机の上が大変な事に――というより今更ですが、良く無事でしたね、先生?』

「――幸運の女神が守ってくれたんだよ」

 

 先生がそう云ってタブレットを指先で擦れば、応えるように微かな振動が伝わった。その言葉をどういう風に捉えたのか、アコは『へぇ』、と気のない返事を口にし、それから一つ頷く。

 

『……まぁ、予定と少々変更はありましたが大筋は変わりません――待機組に集結指示を出しましょう』

 

 そう云ってホログラムのアコが手元のタブレットを弄れば、傍にいたアヤネが思わずといった風に声を上げる。

 

「――っ!? 先生、十二時、六時、三時、九時……四方から風紀委員会の兵力、増援を確認しました!」

「ま、まだいるの!?」

「これは――」

 

 途端、皆の視界に表示される、『敵性反応』の風紀委員、その数が膨れ上がる。赤い輪郭を放つそれらが建物越しに表示され始めたのだ。一つ隣の通り、ビルの屋上、裏路地――続々と姿を現す風紀委員に先生は眉を顰める。

 

「これはまた……随分と集めたね」

『少々やり過ぎかとも思いましたが、シャーレを相手にするのですからこの程度はあっても困らないでしょう、まぁ、大は小を兼ねると云いますからね』

 

 そう澄まし顔で告げるアコに、先生は内心で舌打ちを零したくなった。これで向こうは全力ではないというのだから堪らない。手に持ったタブレットの画面には更に後詰めの部隊――今接近している部隊とは別の、予備隊が更に布陣している事が分かっている。数は凡そ六百人という所、規模としては大隊規模、間違っても十人に満たない勢力にぶつける兵力ではない。

 現在包囲している形とは別に、更に大きな円を描く赤点(風紀委員)――これは正に。

 

「二重包囲網――」

『あら、随分と感度の良いレーダーをお持ちで』

 

 先生の呟きを拾ったアコは、薄らと張り付けた笑みをそのままに頷いて見せた。

 

『そう云えば先程のお話、半分は正解です、確かに私はシャーレと衝突するという最悪のシチュエーションも想定していました、ですが事の発端は――』

「ティーパーティーかい?」

『――そこまでご存知ですか』

 

 遮る様に放たれた先生の言葉に、アコは笑みを深める。情報収集能力は成程、ゲヘナの情報部を凌ぐらしい、と。シャーレと云う組織が、アコの中で益々重要度を上げていた。

 

『えぇ、その通りです、我がゲヘナ校の宿敵であるトリニティ総合学園の生徒会、ティーパーティーがシャーレに関する報告書を手にしていると、うちの情報部から上がって来まして』

「っ! そっか、あの日、ヒフミが――」

 

 アコの言葉に、セリカがはっとした様子で呟く。

 ブラックマーケットで共に走り抜けた記憶、別れ際、彼女は確かにカイザーコーポレーションについてティーパーティーに報告すると口にしていた。その内容に、シャーレに関しての事柄も含まれていたのだろう。それは何もおかしな事ではない。

 

『当初は私もシャーレの事を詳しく知りませんでしたが、ティーパーティーが掴んでいる情報となれば話は別です、私達も同じように知る必要があります――そこで、チナツさんの報告書を確認したのです』

「……行政官、確認するの遅くないですか?」

 

 チナツのどこか呆れたような口調に、アコは取り合わず言葉を続けた。ゲヘナ風紀委員会は激務なのである、特に行政官ともなれば尚更。

 

『連邦生徒会長が残した正体不明の組織、大人の先生が率いる超法規的部活……その権限、規模、独自活動裁量、どう考えても怪しい匂いがしませんか?』

「……まぁ、そこには同意しよう、傍から見れば目的も不明瞭な上、権限だけを持った実態の分からない部活、不審に思うのは当然だ」

『そうでしょう? シャーレと云う組織は私からすると危険な不確定要素に見えます、これからトリニティと結ぶ予定である条約にも、どのような影響が出るのか分かったものではありません――何なら、トリニティに取り込まれ、その権限を盾にゲヘナで好き勝手に暴れられる可能性すらあるのですから』

「………」

 

 先生からすれば、それは「ない」と云い切れる事柄であった。

 しかし、今先程顔を合わせたばかりの相手にそんな口だけの約束をした所で、一体どれ程信頼されるだろうか。先生はアコを良く知っているが、アコは先生を知らない――それは悲しい事ではあるが、仕方のない事でもある。

 アコからすれば、シャーレという強大な権限だけを持った部活は脅威なのだ。いつ、その矛が自分達に向けられるのか分かったものではない――それならば。

 

『ですからせめて条約が無事締結されるまでは、私達風紀委員会の庇護下に先生をお迎えさせて頂こうかと』

「……条約が締結しても、手放す気は毛頭ないんでしょう?」

『ふふ、カヨコさん、それこそ便利な言葉があるではありませんか――大人の事情と』

 

 カヨコの確かな怒りの籠った言葉に、アコは飄々とした笑みで返した。

 自身の勝利を疑っていない笑みだった、余裕の笑みだ。彼女の中で先生を連れ帰り、『保護』する事は決定事項なのだと感じられた。

 その表情を睨みつけるようにして対峙する生徒が四名――アビドスがアコの前に立ち塞がる。その額に青筋を立てて。

 

「――ん、寧ろ状況が分かり易くなって良い、つまり、ゲヘナ風紀委員会は敵」

「……先生を連れて行くって、私達がそれで『はい、そうですか』って云うとでも思った? しかも、先生を怪我させるような連中の所に? ふざけてんの?」

「残念ですが……交渉は決裂ですね」

 

 シロコ、セリカ、ノノミが武器を手に啖呵を切り、アヤネが無言で眼鏡を押し上げる。そんな彼女達を見ていたアコは一層愉快だとばかりに皆を眺め、告げた。

 

『ふふ、やっぱりこういう展開になりますか、では仕方ありませんね、奥空アヤネさん?』

「……何ですか」

『ゲヘナ風紀委員会は、必要ならば戦力を行使する事に一切の遠慮をしません』

「――上等です!」

 

 普段、大人しいアヤネが目を見開き、足元にあった瓦礫を蹴飛ばす。

 そしてタブレットを抱えたまま愛銃であるコモンセンス(拳銃)を振り上げ、全力で吐き捨てた。

 

「先生にこんな、怪我をさせた挙句に自治区侵犯、その上で先生を奪おうだなんて――厚顔無恥にも程があります、やってやりますよ!? ボッコボコのギッタンギッタンですッ!」

「良く云ったわッ! 全員返り討ちにしてやるわよッ!」

「蹴散らしてあげます!」

「強い方が勝つ、シンプルなルールだ」

 

 気炎を吐いて銃を振りかざすアビドス、その隣で彼女達の啖呵を眺めていた便利屋達は、そっと小声で意思疎通を行う。

 

「……社長、どうする? 今なら多分、アビドスと先生が注意を引いているし、私達だけなら逃げようと思えば逃げられるけれど――」

「えー、アルちゃん、もしかしてあんなボロボロの先生見捨てて逃げるの~?」

「っぐ……ッ!」

 

 風紀委員会とアビドスのやり取りにオドオドしていたアルは、カヨコの言動に撤退の二文字を脳裏に浮かべるものの、ムツキのどこか詰まらなさそうな声に体を硬直させる。数秒、一人百面相をしたアルであったが、今尚矢面に立つ先生の背中を一瞥し、やけくそ気味に叫んだ。

 

「に、逃げないわよッ! 先生にはお世話になったしッ! こ、此処で逃げたらハルカが何か病んじゃいそうだしッ! 方便とはいえ、元はと云えば私達を狙った攻撃に巻き込まれた訳だから、恩には恩で報いるのよッ!」

「あは~! それでこそアルちゃんッ!」

「……まぁ、そうだね、先生云々の意見には賛成かな」

 

 頷き、カヨコとムツキは愛銃を構える。元々、この社長が先生を見捨てるとは思っていない。情けなくて、考え足らずで、重要な所でいつも白目を剥いている社長ではあるが――恩知らずではない。

 恩には恩で報いる――右へ左へ、良く言を左右にする便利屋のモットーだが、この言葉だけは変わらず胸にある。本当の意味で便利屋のモットーだった。

 

「……うぅ――ふぁ!?」

「あ、起きた」

「っと、ハルカ、大丈夫?」

 

 そんな形で戦闘準備を進める便利屋は、ふとハルカが目を覚ましたことに気付く。

 瓦礫の影に寝かされていたハルカは目元を擦りながら左右を見渡し、仲間達が自分を覗き込んでいる事に気付き、目を瞬かせた。

 

「良かった、目が覚めたのね!」

「わ、私、えっと、あれ、アル様? た、確か私、風紀委員会の――そ、そうだッ、先生! 先生は!?」

「落ち着いてハルカちゃん、先生ならあそこで元気に風紀委員の匂い嗅いでいるよ~」

 

 ハルカは体を起こすと最初事態を飲み込めていない様子だったが、最後に自分が何をしていたのかを思い出し、先生の安否を必死な表情で尋ねる。すると笑いを嚙み殺した表情でムツキがある方向を指差し、そこにはイオリを抱きしめたままアコと対峙する先生の姿があった。

 

「よ……よかった――ッ! 御無事で……!」

 

 その衣服は血に汚れているものの、二本の足で確りと立っている先生の姿を認めたハルカは、心底安心したと胸を撫で下ろす。彼女が最後に見たのは、大将に担がれて倉庫に姿を消す血塗れの先生の姿だ。それを想えば、あぁやって立っているだけでも、ハルカにとっては救いであった。

 そんな彼女にカヨコは、やっとの思いで引き離した彼女の愛銃を差し出し、云った。

 

「よ~し、起きた所、早速で悪いんだけれど仕事だよハルカちゃん」

「風紀委員会の連中に、一発喰らわせる――行ける?」

 

 その問いかけにハルカは目を伏せ、口元を歪に吊り上げ、銃を手に取った。

 

「――当然です、ふふ、ふふふッ、ぜ、全員、ぶち殺して見せます! あ、アル様、見ていて下さい!」

「そ、その意気よハルカ! アウトローらしく、派手に戦ってやろうじゃないッ!」

 

 ハルカが意識を取り戻し、便利屋は四人全員が参戦の意思を固める。その様子を見ていたアビドスは、これで先生を入れ九人だと意気込んだ。

 

「どうやら、便利屋の皆さんも協力してくれるみたいですね☆」

「丁度良いわ、一緒にやってやろうじゃないッ、風紀委員会の連中コテンパンにしてやるわ! 覚悟しなさいッ!」

「先生の盾になって貰う」

「先生を一緒に守りましょう!」

「――いいや、違うよ皆」

 

 矢面に立ち戦うつもり満々の皆を見渡し、先生は緩く首を振った。先生には秘策があった、風紀委員会の攻め手を防ぐ、渾身の策が。

 イオリを抱きしめたまま、数歩、前に進んだ先生は、アコと銃を構える風紀委員に向かって、全力で叫んだ。

 

「私が――私自身が生徒の盾になるんだッ! 撃ってみろ風紀委員会ッ! イオリは痛いだけで済むかもしれんが、私は弾丸一発で死ぬぞーッ! うぉおオオオッ!」

「や、やめろッー!? 私を巻き込むなーッ!?」

 


 

『生徒に心底信頼され、愛された先生が生徒の前で血を流し、それを見て泣く生徒』フェチ――SSを探しても出てこない、pixivでも何て検索すれば良いのか分からない、曇らせで調べてもヒットするのは一件……。それは宛ら砂漠に咲いた一輪の花を探すが如く旅路。Pixivでブルーアーカイブと検索すれば、健全、非健全問わず様々なイラストが出て来ると云うのに、何故こんなにも私の求めるソレは存在しないのか。

 こうなったらもう、Skebで依頼を出そうか? いや、しかし、幾ら一般性癖とは云え赤の他人に、赤裸々に性癖を見せつけるのは気が引けると云うか――恥ずかしい。羞恥心が勝る。

 一々そんな事を気にしないかもしれないが、『えー、この人、透き通るような世界観で送る学園×青春×RPGのブルーアーカイブでそんな事想像しているの? きもーい』なんて思われたらもう外を出歩けなくなってしまう。それは私にとって死を意味する行為であった、他人に性癖を晒す何てそんな恐ろしい行為、想像するだけでも身震いする想いだった。幾ら一般性癖とはいえ、「先生が血だまりに沈み、生徒が泣く様な話ください!」なんて云えない、幾ら一般性癖とは云え、字面的に良く想われないのは明らかであった。幾ら一般性癖とは云え。

 

 ――なら、自分で書くか?

 

 ふと、そんな天啓が舞い降りた。生徒達と信頼を築くところから、少しずつ生徒に愛され、交流を重ね、笑顔を見せ、それをぐちゃぐちゃのドロドロにするような、可愛い生徒の泣き顔が見られるような小説を……自分で書く。

 地産地消、自給自足、性癖自給率の低下が叫ばれる昨今、それはまさしく逆転の発想の様に思えた。しかし、思わず思考する。馬鹿な! 一体、誰が得をするというんだ!? と。

 

 ――私だ。

 

 私が得をする。というか私しか得をしない。

 人に見せる為ではない、自分の為……! 徹頭徹尾、完全な私得の小説を!

 想定文字数五十万字超え! エデン条約を含めれば三百万字を超えてもおかしくない……ッ! 完結もしていない、後出し設定が来れば崩壊するような状態での執筆……ッ! 正気の沙汰ではない、更にストーリーラインを崩さず、改変を加えながらも原作の透明感を失わないようになど、不可能に思えて仕方なかった。

 私以外誰が見るんだ、こんな小説!? 私しか見ないだろッ!?

 

 飢えていた、私は間違いなく。当時同じヨースターのアークナイツが投稿数四百五十件超えに対し、ブルーアーカイブが六十件しか投稿がない事に。

 第一話投稿時の九月十三日、ハーメルンの『ブルーアーカイブ・カテゴリ』の小説は六十と少しだけだったのだ……しかし、その飢えが確かなブルーアーカイブに対する愛を自覚させた。誰にも、ユウカにも内緒で、私は自由だった。

 

 そして今も自由である。だからどんどん先生には苦しんでもろて、是非とも生徒達の愛を実感して欲しいね。心理的にも肉体的にもぼろ雑巾にされて、それでも生徒の為に這いずる先生は素敵だよ、もっと血を流して♡ おっ、血を噴いた、死ぬのかな? 時間的で移ろいゆく見かけだけの善に縋らずに生きて行くその姿は理解し難いよ先生。

 

 今回はストーリーライン的にアコとの舌戦だったから何かフラストレーション溜まっちゃうな~、そう毎回先生に血を流させる事も出来ないし、誰か先生の心臓ぶち抜いてくれないかな~。でも此処の描写削ると原作の透き通るような世界観が薄れちゃうからなぁ~、仕方ないよなぁ。取り敢えずホシノが合流して、「――先生、どうしたの、それ」って能面のような表情で聞いて来るシーンまではこっちで先生の四肢捥いであげよう。先生嬉しさで手足から涙出ているよ、可愛いね♡ 

 

 本編では登場していなかったけれど、もし先生がトリニティの救護騎士団と絆を育んでいたら、迫撃砲が命中して負傷した時点でセリナがどこからともなくやって来ます。セリナ注射の際にそれとなく先生の皮膚に位置情報を発信するナノマシンか何かを仕込んでいるぞ! 尚、アロナはそのことに気付いているけれど、どこに居ても、どんな状況でも治療をしてくれるので見逃している模様。キヴォトス動乱の時は流石に除外したけれどね! セリナと絆を育んだ先生は時折、「うっ、心臓が……!」とか、「うぐッ、お、お腹が……ッ!」と仮病を口にしてセリナを呼び出し、「どうしましたッ!?」と毎回律儀に飛んでくるセリナと一緒にお茶を楽しんでいたりしていた。悪い大人!

 

 セリナってどんな状況でも先生が負傷するとやって来るから凄いよね。ただ本編ではサオリに腹を撃たれてもやって来なかったし、何か理由があるのか、それともただ知り合っていなかっただけなのか……まぁ、どちらにせよ当小説でも先生がボロボロ♡ になる時は足止めを喰らって貰いますのでご安心下さい。

 

「先生を苦しませるような事は、例えそれが疲れでも怪我でも停電でも、全て私の対処するべき仕事です!」

 

 これ絆ストーリーの台詞ですけれど、凄くありません? 重さで云ったら一トンくらいありそう。このセリナの前でわが身を顧みず、ボロボロになりながら戦う先生を見せつけたい。何で君トリニティなの? アビドスだったら今頃めちゃ笑顔で君のシナリオをプッシュしていたのに……。いや、今からでも遅くはない、何かを始めるという事に、遅すぎるという事はないんだ……! 今からでもセリナ前で血を流しまくろう、先生ッ!

 

 個人的にセリナと結ばれた先生のエンドは、セリナの覚悟が見られるルートだと思う。何度言っても無茶を止めず、矢面に立ち、ボロボロになって生徒に尽くす先生に、セリナは体を大切にして欲しいという想いと、折角結ばれたと云うのに先生にとっては未だ自分も守るべき生徒の一人に過ぎなくて、心の深い部分で、『私は貴方の隣に立っているのに』という、独占欲とも嫉妬心とも取れる感情から、先生を実力行使で『守る』事を決めるんだ。

 この先生は覚悟ガンギマリなので、どれだけ情に訴えても、どれだけ合理的な判断を投げかけても、どれだけ怠惰を誘っても、どれだけ対価を差し出しても、絶対に歩みを止めないし止まらない。時折振り返っては、泣きそうな顔をして、けれど一層その背負う荷を増やしながら進むから、見ている生徒はとても辛い。

 先生を止めるなら、物理的に止めるしかない。セリナはキヴォトス動乱を起こす際も、それを明かされた際、泣く訳でもなく、苦悩する訳でもなく、ただ淡々と――「分かりました」とだけ呟くんだ。最初は本気にされていないのかと疑るのだけれど、セリナの瞳には確かな覚悟と信念が宿っていて、彼女は来るべきその日に備えて着々と準備を進めるんだ。

 

 それで、先生の計画としては最後に自分が撃ち殺されて、晴れてキヴォトス動乱は収束、どんな形であれキヴォトスの崩壊は免れる――という筋書きだったけれど、そこにセリナが細工を仕掛ける。先生は最後に自分を看取る生徒を、最も親しい生徒にする訳だけれど、今回の場合、それはセリナになる。すべての事情を話し、協力を取り付けたと『思っている』先生は、セリナに介錯を任せるんだ。

 セリナは傷だらけの先生の傍に座り込んで、「今まで、お疲れ様でした、先生」と云って注射器を取り出すんだ。いつもと変わらぬ微笑みを浮かべながら針を刺す彼女に、安楽死をさせてくれるのかと考えた先生は、徐々に寄って来る眠気の波に逆らわず、そっと瞼を閉じる。

 安らかな寝息を立てる先生を見つめながら、セリナは彼を担ぎ、静かにシャーレから姿を消すんだ。

 

 セリナに監禁されてぇ~! 朝から晩までお世話される生活に浸りてぇ~!

 先生と自身の愛の巣♡ に引っ越したセリナはきっと、甲斐甲斐しくお世話してくれるに違いないぞ! 「はい、先生、ご飯ですよ、あーん……」とかしてくれるに違いない。先生が拒否すると、少しだけ困ったような顔で、「もう、そんなに恥ずかしがらなくても良いじゃないですか」とか云って笑って、ご飯は勿論、トイレもお風呂も、寝る場所もいっしょ。文字通りおはようからお休みまで、セリナは先生を抱きしめながら、そんな新生活を心の底から満喫するんだ。

 先生は今まで失ってばかりだった、自分の事は二の次で、生徒の事ばかりを想ってきた。だから今度は、自分が精一杯奉仕して、想ってあげるのだと。もう先生が傷つく事はないし、悲しむ事もない、そんな環境に身を置く事が出来たセリナは心の底から嬉しそうな笑みを零してくれるに違いない。可愛いね♡ 

 今まで散々生徒の声に背を向けて、自分のしたいように突き進んできたのだから、それが返って来ただけだよ先生。生徒の事振り回したのだから、自分が振り回されても仕方ないよね。ほら、暴れないで先生、そんな手足じゃ何も出来ないんだから。

 



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救いたかった、あの日のアナタへ

誤字脱字報告が世界に平和を齎します。


「私が――私自身が生徒の盾になるんだッ! 撃ってみろ風紀委員会ッ! イオリは痛いだけで済むかもしれんが、私は弾丸一発で死ぬぞーッ! うぉおオオオッ!」

「や、やめろッー!? 私を巻き込むなーッ!?」

「ちょ、先生ッ!?」

 

 最前列へとイオリを抱えたまま躍り出た先生に対し、風紀委員会どころかアビドス陣営と便利屋もぎょっとした目を向ける。しかし先生は彼女達に視線を向けることなく、続けて叫んだ。

 

「私を信じろ皆ッ! これが最善策だ! 風紀委員会は絶対に撃てないっ、万が一撃って来てもイオリがきっと防いでくれる! 何せこれ以上傷が増えたら、冗談抜きで死ぬからね私ッ! ねっ、信じているよイオリ! 素敵だよイオリっ! そのままずっと私を守ってねッ!?」

「ちょ、ふざけ……!? これ(てい)の良い肉壁だろッ!?」

「非殺傷弾でも、今の私なら死ぬ可能性があるッ! 貴様らに撃つ覚悟はあるか、風紀委員会!? おら来いよ! 銃なんか棄てて掛かって来いッ! ――怖いのか? スゥーッ!」

「ホント、マジやめて! 私を巻き込まないでッ! というかいつまで嗅いでいるんだ先生ッ!?」

「イオリってえっちだよねッ! なんか体臭がほんのり甘くて、ちょっと爽やかな感じがとてもグッドだと思うよ!」

「う、うわァアアッ! も、もういっその事撃てぇ! 私ごと先生(こいつ)を撃てぇええッ!」

「………」

 

 イオリと先生の絶叫を前に、風紀委員会の面々は困惑を隠せない。浮かび上がるアコのホログラムに目を向けながら、周囲の風紀委員はおずおずと問いかける。

 

「あ、アコ行政官、どうすれば……?」

『え、えぇ……――』

 

 問い掛けられたアコは、しかし明確な回答を持ち合わせていなかった。イオリが向こうの手中にある以上、何かしらの交渉やアクションがあるとは思っていたが、まさか先生諸共盾にするとは思っていなかったのだ。

 先生がキヴォトス外から来た大人という情報は掴んでいる、つまり彼の云う通り弾丸一発で致命傷に成り得る状況。そんな中で、いくら相手が自身の身柄を狙っていると分かっているとは云え、躊躇わずに身を盾にするその精神性は理解し難い――或いは何か、撃てないと確信するような【何か】があるのか。

 平時であれば、アコとて非殺傷弾による鎮圧、場合によっては手足を狙った小口径の銃による無力化を図ったかもしれない。しかし、今の先生の負傷状態でそのような選択肢は悪手に思えた。万が一、億が一、先生が死亡するような事があれば――流石に云い訳が効かない。

 そんなアコの逡巡を感じ取った先生は、ここぞとばかりに叫んだ。 

 

「今だーッ! 皆、射撃を開始しろッ!」

「えッ、先生!? で、でも――」

 

 唐突な攻撃指示にアルは戸惑いの声を上げ、先生に視線を向ける。幾ら相手が先生の身柄を抑えようとしているとは云え、撃って来ない保証など無い。ましてや此方から攻撃を仕掛け、一方的に弾丸を撃ち込むようなら、激昂して反撃してくる委員もいるやもしれない――そんな風に先生の身を案じ、銃口を向けられずにいたアルはしかし、左右から鳴り響いた幾つもの銃声に意識を持っていかれた。

 

「先生、信じるわよ!? ヤバくなったらちゃんと私達の後ろに隠れてよねッ!」

「此処に居る全員倒してしまえば、関係ないですよね! えーい☆」

「ん、攻撃は最大の防御、先生が立っている間に出来る限り削る」

「そういう作戦は先に言っておいて下さい先生……!」

 

 思い思いの体勢で、自身の持つ最大火力を叩き込むアビドス。ドローンが誘導弾頭を発射し、爆撃し、愛銃の銃口が火を噴く。先生の背後から体を覗かせ、風紀委員に対し慈悲の欠片も感じさせぬ猛攻を仕掛けた彼女達を、便利屋の面々は引き攣った表情で見ていた。

 

「あ、アビドス連中、容赦ないね……」

「でもちょっと、向こうの方がアウトローっぽくない?」

「なッ!?」

 

 ムツキのどこか挑発するような言葉に、アルの心に火が点いた。アウトローらしいと云われてしまえば、黙ってはいられない。それを志すアルにとって、他所に、それも同じ生徒にそのお株を奪われるのは我慢ならなかった。

 

「や、やってやるわよ! こっちだってアウトローなんだからッ! 皆、射撃を開始しなさいッ!」

「そうこなくっちゃ!」

「ったく、戦略もあったものじゃないね……!」

「こ、今度こそ私が守らなきゃ……守らなきゃ、絶対に、命に代えてもッ!」

 

 アルの号令が響き渡り、便利屋の皆もまたアビドスに並んで射撃を開始する。一斉に瞬くマズルフラッシュ、銃声が重なり虚空に響く。次々と放たれる弾丸は身を隠していた風紀委員を瓦礫毎撃ち抜き、反撃もままならぬ中、戦闘不能者を量産した。

 

「いだッ、あだっ!?」

「よ、容赦なく撃ってきたぞ!?」

「は、反撃を――」

「馬鹿、先生に当たったらどうする!? 死亡したら連邦生徒会と戦争だぞッ!?」

「正気かあいつ等!?」

「というかシャーレの先生、何であの怪我でイオリ隊長を抱えたまま動き回れるんだッ!? 実は怪我はフェイクなのか……!?」

 

 弾丸の雨に晒されながら、混乱の極みに陥る風紀委員。そんな彼女達の視線の先では、イオリを抱えた先生がアビドスや便利屋の皆を守る様に、リロードの声が上がる度、右へ左へステップを踏んで牽制兼威嚇を行っている。

 宛ら舞踊……! 戦場で踊る圧倒的胆力……! 不運(ハードラック)(ダンス)っちまうぜとばかりにステップを繰り出す先生は、その絵面に反し酷く真剣に、冷汗と脂汗を流しながらダンサブルしていた。

 

「生徒達に弾丸はッ、一発たりとも通さないッ……! どうだ、動き続ければ何処に撃っても当たりそうで迂闊に攻撃出来まいッ!? 私の体力を犠牲に行われる神速の横ステップ……英語で云うとゴッド・サイドステップ……! やべっ、足攣りそう……」

「そんな体で無茶するからだろう!? というかコレ、絶対私要らないよな!?」

「スウゥゥウッ、いや、イオリは必要です、主に私の精神安定剤兼呼吸機器として、それにね、生徒が頑張っているのだから先生である私も、出来得る限りの事をしな――ゴパァッ!?」

「う、うわぁァアアアアアッ!?」

 

 イオリを抱きながら反復横跳びを繰り返していた先生は、唐突に彼女の頭に向けて赤い何かを吐き出す。先生に抱きかかえられていた彼女はモロにそれを浴び、顔を真っ青にして叫んだ。

 

「せ、先生ッ!? あ、アコ行政官、これ以上は先生の体がッ……! 先生を手に入れる為に、先生自身を喪っては本末転倒でしょう!? 今すぐ戦闘行為を中止して下さいッ!」

『ッ……!』

「先生っ!? ちょっと大丈夫なのッ!?」

「ごほッ……あ、これトマトジュースだから」

「私の髪にトマトジュースを吐き出すなよぉッ!?」

「でも、向こうは混乱している――このまま押し切れば……」

 

 先生の会心のトマトジュースにより、風紀委員会側は更に攻撃がし辛くなった。一方的に攻勢を仕掛けられる状態で時間だけが経過すれば、自然損害ばかりが増えていく。アコの元にはひっきりなしに通信が入っていた。

 

「第一中隊、三個小隊行動不能! 退却し、再整備に入ります……!」

「第三中隊、負傷者多数……! これ以上の戦闘続行は不可能です!」

『………成程、大体把握出来ました、先生の持つ能力というものを』

 

 呟き、アコは細めた目で先生と生徒達をじっと観察する。

 幾ら撃たれ放題とは云え、損耗が激し過ぎる。銃撃に対する防御訓練を風紀委員会は積んでいるというのに。遮蔽物を用いた回避方法、万が一身を晒す場合の姿勢、心構え、煙幕や装備を用いた防御方法――その悉くが通用しない。

 

『先生本人はふざけた戦い方をしていますが、あの生徒の光るヘイロー――そして自身も動きながら、戦場全体を見通す鷹の目、生徒達が無言で連携を取れているのは先生に秘密があるようですね……とても興味深い』

 

 確かに、見た目は酷いものだ。此方を馬鹿にしていると云って良い。

 しかし自身を盾にする機転、それを実行する胆力、それでいて彼の指揮下にある生徒は『異様なまでに』動きが良くなる。命中率しかり、遮蔽物の利用の仕方然り、果ては跳弾など曲芸染みた行為すら行い、その目は何処に誰が隠れているのか見通すような動きまで見せる。

 ゲヘナ自治区で便利屋と交戦した記録を参照しながら、アコは思考する。明らかに地力以上の能力を発揮していると。少なくとも過去、便利屋はこれ程の戦闘力を有していなかった。つまり、その原因は『先生』にある――直接口頭で指示している様には見えないが、時折彼の視線がタブレットに向かっているのには気付いていた。

 電子機器を用いて指示を送っているのか、或いはもっと別の方法か。

 どちらにせよ、驚異的な能力である事は違いない。

 

『予想を遥かに上回っています、素晴らしい、決して甘く見ていたつもりはありませんが、もっと慎重に事を進めるべきだったかもしれません……ですが、決して無敵ではない――折れるのも時間の問題です』

 

 呟き、アコは手元のタブレットを数度タップした。

 

『第八中隊、後方待機を解きます、シールド展開の上――前進』

 

 そう云って腕を振りかざせば、先生達の前方より、列を成して前進を開始する風紀委員の姿。彼女達の持つ兵装は通常の隊員のそれと異なり、前列には重厚なバリスティックシールドを構え、対爆スーツに身を包んだ隊員がずらりと並んでいる。ずんぐりとしたシルエットに、その体を覆う程の大型の防弾盾。キヴォトス外の人間ならばパワーアシストなしではとても持ち運べない様なそれを、彼女達は片手で運用している。

 その威圧感と見た目のインパクトは抜群であり、第八中隊に気付いたアヤネが思わず声を上げた。

 

「風紀委員会、第三陣を展開しました! あれは、一体……!?」

「っ、アレ……もしかしてシールド!?」

「この状況で更に投入するって事は――」

 

 カヨコが呟き、二度、三度、前列のシールド持ちに銃撃を加える。銃口が跳ね、マズルフラッシュが網膜を焼く。しかし口径の小さいカヨコの弾丸は硬質的な音を立てて弾かれ、その前進を留める事は出来ない。その結果を予想していたとは云え、思わず舌打ちが漏れる。あの大きさと分厚さから、ライフル弾も防弾可能なクラス――レベルⅢ以上は確実だった。

 

「っち、やっぱり硬い……!」

「任せて下さいッ!」

 

 そう云ってノノミが立ち上がり、愛銃のリトルマシンガン(ミニガン)で第八中隊を薙ぎ払う。周囲の瓦礫を粉砕し、乗り捨てられた車両、電子看板を貫通、隅で隠れていた風紀委員をついでとばかりに薙ぎ倒し――しかし、強烈なマズルフラッシュと硝煙が晴れた先でも尚、第八中隊は健在。

 ばら撒かれた弾丸は確かに彼女達の足を一瞬留めたものの、シールドを貫通する事は出来ず、負傷者もない。その結果に思わずのノノミの表情が曇った。

 

「これでも駄目ですか……!?」

「ん、ならこれはどう」

 

 シロコが呟き、指先でドローンに合図を飛ばす。ドローンは一度上空へと舞い上がり、弾頭を第八中隊の頭上から撃ち込んだ。小さくない爆発が次々と起こり、第八中隊の姿は爆炎と砂塵の中に消えた。弾け飛んだ瓦礫の破片が、その威力の高さを物語っている。

 

「や、やったの!?」

「くふふッ、アルちゃんそれは駄目なセリフだよ~!」

「え、えっ!? 駄目なの!?」

 

 アルは瓦礫の影に隠れながらシロコの爆撃を見ていたが、その威力と光景に倒れる第八中隊を幻視していた。しかし、思わず口をついたセリフにムツキは笑みを零し――それを証明するかの如く、爆炎と砂塵を裂きながら中隊は前進を続けている。微動だにせず、黙々と前進を続ける第八中隊の姿に、アルは白目を剥きかけた。

 

「な、何でアレで斃れないのよーッ!?」

「なんて防御力……!」

「これは、かなり手強いね」

「……成程、一方的に撃たれるなら撃たれるで、耐えてやるって事かな」

 

 先生は第八中隊の前進を眺めながら、タブレットを数度叩く。

 アコがこの状況を予想していたとは思わない、恐らくアレは最後の最後――アビドスが崩れ、自身の身柄を拘束する時に投入する為に用意した部隊だ。

 見れば彼女達の兵装は殆ど防御に振られており、サポートによって表示される第八中隊の兵装は『非殺傷(ゴム)弾の装填されたサブマシンガン(短機関銃)』のみ――つまりライオットガンである。

 更に云えば、シッテムの箱による分析、その結果から分かる彼女達の身に纏う対爆スーツ――あれは最早、対爆スーツとは名ばかりの要塞服だった。

 対爆防弾スーツの上にスペクトラを被せて、内部にはダイラタンシー(レイノルズ)を利用した非ニュートン流体、せん断増粘流体を用いたリキッドアーマーが沁み込み、トラウマプレート(セラミック)にE-SAPI――セラミックの裏地に防弾不繊布、一方向強化ポリエチレンと最早対物ライフルにでも備えているのか? と云いたくなる様な仕込みぶり。前方の盾に加えて、万が一弾丸が抜けたとしても微動だにしない防御兵装。アレを着込むとなると百キロはあるだろうに――いや、そもそも弾薬諸々込みで百キロはあるミニガンを振り回すノノミが居る以上、アレが普通なのか? 

 先生は試しにイオリの二の腕を摘まんでみた。柔らかかった。反撃とばかりに後頭部が先生の顎を打った、地味に痛かった。

 

 宛らあの装甲集団は損耗した敵に差し向ける最期の一手、という所か。しかし、ゲヘナがこんな兵装を持つ部隊を保有していたという事を、先生は今の今まで知らなかった。彼女の用心深さが功を為したというべきか、或いは――彼女に入れ知恵した【誰か】がいるのか。

 

「先生、そろそろ弾薬が……!」

 

 不意に、直ぐ後ろでノノミが顔を顰めながら告げた。見れば彼女の足元に転がっている空薬莢はかなりの数で、視界に表示される残弾数も心許なくなっている。元々消費の激しい銃ではあるが、このペースで行けば他の皆の弾薬も尽きるだろう。

 数に差があり過ぎた――更に、あの盾持ちも相手取るとなると。

 

「……だろうね、盾持ちは元々最後の一押しで用意した部隊だと思う、こっちの攻め手が無くなるまで勝負って云いたいんだろう」

「数はこっちが圧倒的に不利、持久戦に持ち込まれたら勝ち目がないよ、先生」

「分かっている」

 

 カヨコの言葉に、先生は頷く。第八中隊の進軍速度は決して早くはない、普通の人間が徒歩で進むような速度でゆっくりと前進している。彼女達がこの場所まで辿り着いた時、それは敗北を意味していた。そうでなくとも第八中隊に目を集めさせ、他の部隊で懐に潜り込むという戦術もあり得る。索敵を怠る事は出来ない。

 更に言えば――バッテリーが残り少ない。

 先生はタブレットに目線を落としながらも、内心で悪態を吐く。元々、柴関へと向かった時に予備のバッテリーは持ち込んでいたのだ。しかし残念ながら迫撃砲の余波で破損し、残量のみで戦う事を強いられている。このまま索敵とサポートを続ければ電源が切れるまで十分――良くて二十分という所か。

 それまでにどうにか、状況を打開する必要があった。

 

「それにしてもこの数……これはアコの権限で動かせる兵力を超えている、この襲撃、或いはアコの独断じゃないのかもしれない」

「風紀委員長が噛んでいるって事?」

 

 カヨコが展開する第八中隊を眺めながら呟けば、ムツキが目を瞬かせながら問いかける。その言葉にぎょっとしたのはアルだ、彼女は風紀委員長に対し人一倍恐怖心を抱いていた。

 

「エッ!? ヒナが来るの!? ちょ、無理無理無理!? 先生を担いで逃げるわよ、早くッ!」

「いや、まだそうと決まった訳じゃないし、落ち着いてよ、社長……」

 

 アルが慌ててそう叫べば、単なる想像だとカヨコが遮る。アコが持つ行政官という肩書は相応に重い、しかしだからと云って全風紀委員を動員できるかと云えば、そうではない。トリニティに負けず劣らずの学園規模を持つゲヘナ、その風紀委員会となれば所属する生徒もかなりの数に昇る。それこそ小、中規模の学校の全校生徒に匹敵してもおかしくはない。

 しかし、だからと云って大隊規模以上、六百名を超える風紀委員を動かせるかと云えば疑問が残る。これがゲヘナ自治区であれば、まだ理由付けして可能ではあるだろう、しかし他所の自治区に遠征してまで動かせるかと問われると――難しい。

 そうなると自然、風紀委員長の関与を疑う事になるが。

 

 しかし、そんな思考に耽る余裕はなかった。カヨコが視線を前に向ければ、既に半分の道のりを走破した第八中隊が迫っている。前線に出ていた風紀委員も次々と第八中隊の裏に隠れる形で撤退し、現在では彼女達が攻撃を一手に引き受けていた。

 アルによる跳弾爆破やドローンによる死角からの攻撃も、持ち前の防御力でビクともしない。集中砲火して装甲を剥ぎ、漸く一人倒れたと思えば、後方から交代の人員が補充される始末。シロコの誘導弾頭も無限ではない、撃ち尽くし取れる手が無くなれば、本当に勝ち目が無くなる。

 敗北の足音が、直ぐ傍まで迫っていた。

 

「先生……!」

「さて――どう打開したものかな」

「くぅ……誰でも良いから早く私を解放してくれ……ッ!」

 

 先生がイオリの髪に顔を埋めながら呟けば、半泣き状態のイオリは涙声で叫んだ。

 

『ふふっ、そろそろ切れる手もなくなってきたのでは? これ以上は流石に、先生とて打開は不可能でしょう――さぁ、では終幕(イシュ・ボシェテ)としましょうか、風紀委員会、総攻撃準備を……』

 

 アコが笑みを貼り付け、その腕を振り下ろそうとした瞬間――不意に、通信音が鳴り響いた。音はアコの持っていたタブレットから。

 アコが驚きに目を見開くと同時、タブレットからホログラムが自動的に投影される。

 

『――アコ』

「!?」

 

 それは白い髪に捻じれた角、矮躯に見合わぬ大きな機関銃を担いだ少女だった。どこか鋭い目つきをした彼女は欠片も表情を動かすことなく、淡々とした口調でアコの名を呼ぶ。

 

『えっ……ひ、ヒナ委員長!?』

 

 アコが叫び、思わず身を正した。

 その様子をアビドスの面々は、興味深そうに見つめる。

 

「委員長……?」

「委員長って――風紀委員会のトップ!?」

 

 セリカが驚愕の声を上げ、身を乗り出す。纏っている制服は確かに、ゲヘナの風紀委員のものに酷似していて、羽織ったロングコートの袖には『風紀』の文字が躍っているのが見えた。

 あれが――ゲヘナ風紀委員会の委員長。

 アビドスの顔つきが、一層険しさを帯びる。

 

『い、委員長がどうしてこんな時間に――』

『アコ、今どこ?』

『エッ、私ですか? 私は、えぇっと、その……げ、ゲヘナ郊外の市内を、風紀委員メンバーとパトロール中でして――!』

 

 目線を左右に泳がせながら、そんな事を口にするアコ。セリカはそんなアコを見て思わず足を踏み鳴らし怒鳴る。

 

「はぁッ!? 思い切り嘘じゃん!?」

「やっぱり、行政官の独断行動だったみたいですね……」

「私の思い過ごしだったか」

 

 ノノミの言葉に、カヨコはどこか安堵したように呟く。

 

『それより委員長、なぜこの時間に……出張中だったのでは? 帰還予定にはまだ早かったかと記憶しているのですが――』

『思ったより早く片付いたから、さっき帰って来た所』

『そ、そうでしたか……! そのぅ、私、今すぐ迅速に処理しなくてはならない案件がありまして、後ほどまたご連絡いたします! 今は、ちょっと、立て込んでいて……ッ!』

 

 アコがそう早口で捲し立てると、ホログラムのヒナが分かり易く眉を顰めるのが分かった。

 

『立て込んでいる――? パトロールなのに珍しい、何かあったの?』

『エッ!? あー、そ、そのぅ、それは……』

 

 指先で円を描きながら、アコは思考する。パトロールで何か大事があった場合、更にそれで行政官であるアコが陣頭指揮を執る事など稀である。それこそ美食研究会が他所の学園に乗り込んで校舎を爆破したとか、温泉開発部が連邦生徒会の建物の直ぐ脇で採掘作業を始めただとか、そういうレベルで漸くといった所。

 勿論、そんな報告は上がっていないし、アコはアビドス襲撃の件を委員長であるヒナに話していない。つまり、何かそれらしい事を云って煙に巻く必要があったのだが――パトロールでかつ自身の手を焼く様な大事、ぱっと思いつく限り最近の報告でそんな代物はなかった。

 こうなったら美食研究会がどこぞかを爆破して逃亡したという事にでもしてやろうか、そう考え口を開こうとして。

 

「他の学園の自治区で、風紀委員を独断で運用しなければならない様な事が?」

『――えっ』

 

 ――その声は、チナツの直ぐ傍から聞こえた。

 ホログラムではない、肉声。その声を認識した瞬間、チナツは驚愕の表情を浮かべ、慌てて振り向いた。

 

「……っ!?」

「ッ――!」

「はッ、あれっ!?」

「!?」

 

 気が付けば、風紀委員の中に紛れるようにして彼女は立っていた。

 肩に羽織った風紀委員のロングコートを靡かせ、その身長に迫る長物(愛銃)を担ぎ、いつも通りの仏頂面で、アビドスと便利屋、そして風紀委員の面々を見ていた。

 

「い、い、委員長ぉ!? い、一体いつから!?」

 

 イオリが先生の腕の中で、悲鳴とも取れる声色で叫ぶ。

 彼女は顔面蒼白で震えるイオリと――彼女を抱きしめる先生を一瞥する。先生の視線と、風紀委員長――ヒナの視線が深く交わった。

 

「……ヒナ」

「――先生」

 

 呟きは、互いの耳に入らない。

 邂逅は一瞬だった。互いの立ち位置は遠く、顔だって辛うじて判別できる程度の距離だったというのに。まるで、至近距離で視線を交わしている様な心地だった。ヒナは先生の瞳の中に強い悲哀と、後悔――けれどそれに勝る、強い希望を。

 先生はヒナの瞳の中に焦燥と苛立ち――そして強い覚悟を見た。

 

 互いに視線を交差させたのは一瞬、けれどそれで十分だった。ヒナは先生から視線を切り、氷の様に冷たく、刺々しい口調で告げる。

 

「――アコ、この状況、説明して……一から十まで、全部」

 


 

 貫通と爆発PTに神秘タンクを持ち込むアコ、ほんとひで。

 次回、やっとホシノおじさんが来てくれるぞ! ちょっと目を離した隙に先生がボロボロの襤褸。うぅ、ホシノ、先生がトマトジュース吐くとこみてて……。

 

 ヒナと「目と目が合う~」していた間も先生はイオリを嗅いでいたし、だいしゅきホールドを継続中である。先生は生徒を肉壁にする人間の屑、でも生徒の為に体を張る人間の鏡。まぁでも仕方ないよね、もう足が云う事聞かなくてイオリに寄り掛らないと斃れちゃうもんね。イオリ抱えて反復横跳びしていたからだと思うんですけれど(名推理)、君みたいな勘の良い生徒は大好きだよ♡ 何だテメェ、黒服キレた……!

 

 やっとヒナちゃんが出て来たね、もう待ちわびて指折り数えていたよヒナちゃん、責任感が強くてワーカーホリックで依存心が強くてよわよわメンタルなヒナちゃん、可愛いね♡ はー、エデン条約終わったら「ねぇヒナ、見てこれ、あの時ヒナが庇い損ねて貰っちゃった銃創、結構くっきり残っているでしょ? ねぇねぇ見てよこれ」ってやりてぇ~! 多分ヒナちゃんは蒼褪めながら自分の服を皺になる位掴んで、俯いて、「ご、ごめんなさい、先生、ご、ごめん、ごめんなさい」って涙声で云ってくれるんだろうなぁ、するわけないだろうが! 私の先生がッ!? 全く人の心を持たない先生はこれだから。罰としてヒナちゃんの前でダルマ確定ね! やだ。だめ、きまり。はいしか云っちゃダメ。痛いもん。罰だから。

 

 ちょっとこの状況でアコちゃんが記憶持っていたらどう動くか考えてみたんですよ。まず、先生を捕獲するところまでは同じだと思うんですよ。ただ、「チナツの報告書を見て、シャーレに気付いた」という点が異なって、最初から先生とシャーレの事を認知している訳だから、当然情報周りは本編アコよりも用意周到です。

 それでもって、先生捕獲プランが本気中の本気、ガチです。

 

 此処で先生をゲヘナに誘致(という名の拉致)をすれば、そもそもエデン条約で先生が負傷する事はないし、解決自体は風紀委員会を総動員出来れば可能だと思考。何ならパンデモニウムソサエティの動きも最初から抑えている訳で、アリウスが動く前に潰すくらいはやると思います。或いは先の事を考え、逆にアリウスと手を組んでマコトを処分、その後アリウスも裏切るとかやりそうなのがアコである。

 キヴォトス動乱に於いても多少立ち回り易くなりますし、更に言えば彼女は先生の為にゲヘナを『使い潰す』事も視野に入れると思いますね。キヴォトス動乱が発生した瞬間に、シャーレの先生はゲヘナの管理下にあると、あたかも漏洩したかのような形で情報を流し、キヴォトス対シャーレから、キヴォトス対ゲヘナにすり替える訳です。後は自分達だけ逃げ出し、自分は先生と、可能ならヒナも連れてめくるめく夢の世界へ――何て計画ですね。

 

 アコのヒナに対する執着とか好意とか、つぶさに観察しているところを見ると『好意を持った対象には一挙手一投足注視する』純愛っぷりですし、そんな相手の為なら自分の学園ひとつ使い潰す事くらいは考えそう、考えて♡ 潰せ~潰せ~♡ じゃないと先生が潰れるんで。

 

 とかまぁ色々未来の事を考えて、アコは例の如くヒナ委員長には内緒でアビドスへ進軍、名目上は「便利屋の捕獲」という事で、以前の記憶を頼りに――恐らく、便利屋とアビドスが戦闘をしているから、その隙を突いて一気に、という感じで考えると思います。

 

 そこでイオリが先生に迫撃砲をプレゼントする訳ですね!

 

 チナツの悲鳴交じりの報告を聞いたら、多分優雅に珈琲を飲んでいたアコが、「――は?」って今までにない位、冷たい声を出すんだ。何で先生に迫撃砲を叩き込む事になるんだとか、便利屋とアビドスが戦っているんじゃないかとか、色々云いたい事はあるけれど、兎に角現状の報告が次々と入って来て、それを脇に退かしながら、「先生は無事なんですか!? 他良いから、それだけは確実に確認しなさいッ!」って叫んで欲しい。

 多分デスクの上にあった書類とか珈琲のカップとかを腕で薙ぎ払いながら、ブチ切れそうになる本能を辛うじて抑えるんだ。血走った目で端末に怒鳴る姿、先生の安否が気になって荒れる生徒の姿は可愛いね♡ 

 迫撃砲を喰らって柴関が倒壊するじゃん? 便利屋の皆が例の如く先生の状態に気付くじゃん? 吃驚しててんやわんやするじゃん? 風紀委員会が恐る恐る中に入るじゃん? 

 そこに両足を瓦礫に圧し潰された先生を助けようと必死になっている便利屋がいるんだ。

 

 まず最初にチナツが蒼褪めて、多分遅れてやって来たイオリも、自分のやった事に血の気が失せると思う。先生の救出に関しては共同作業するけれど、例の如く便利屋とはやり合う羽目になる。先生をガチのマジで殺しかけた風紀委員に便利屋渾身のマジ切れ。捕まる寸前で泣く泣く先生の身柄を諦め、「いつか絶対に殺してやる」という捨て台詞と共に遁走。

 

 血塗れの、両足の無くなった先生を担いで帰還する風紀委員会は多分葬式みたいな雰囲気だと思う。アコはアコで、イオリが迫撃砲を撃ち込んだ店舗内に先生が居て、爆発に巻き込まれ負傷、両足欠損の重症と聞き呆然。その足でゲヘナの救急医学部に駆け込み、出動を要請。そのままセナの運転する装甲救急車に乗り込み、先生の回収に向かう。

 

 到着した現地で、真っ白な衣服が血に浸って赤黒く変色し、膝から下が千切れた先生の足を見て、アコは言葉を失う。こんな事になるなんて思わなくて、とか。何で、前はこんな風にはならなかった筈なのに、とか。色々な言い訳と自分への嫌悪、後悔と悲しみと、これから先生に向けられるであろう感情を考え、凄まじい形相になると思う。そこに実行犯のイオリが、「あ、アコちゃん、その……」って蒼褪めた顔で声を掛けてきて。

 

 うぅ、アコがイオリを罵倒するところ見てて……先生が被弾管理を怠るからこんな事になるんだぞ! 「もしかしたら此処に迫撃砲が落ちて来るかもしれない」、そう考えながらラーメンを啜っていたら助かっていたかもしれないのに。かも知れない生活! かも知れない生活を心掛けるんだ先生ッ! 

 

 この後目が覚めても先生はアコを責めないぞ、ただ無くなった足を寂しそうに撫でつけながら、「命は助かったんだから、儲けものだよ」って微笑むよ。その微笑みが逆にアコとイオリの精神力をガリガリ削っていくぞ! 罵倒されたり、責められた方が寧ろ楽なのに、アコやイオリが先生の無くなった足を見て申し訳なさそうにする度に、先生の方が悲しそうな顔をして、その顔を見て更に二人の精神が削れて――というサイクルに入る、ほんまあざとい大人やで! 流石先生、素敵だよ。 

 

 イオリは何だかんだ言って責任感が強いから、多分積極的に先生の介護を行うと思う。車いす生活になった先生に、「今日は何処に行くんだ?」、「大丈夫、パトロールの一環だから」と云いながら付き添って、記憶持ちでもないのに自分から先生漬けになる先生想いな良い生徒だゾ! アコも業務の合間を縫っては先生の様子を見に来るし、激務でも一日一回は先生に会いに来てくれる。「お加減は如何ですか」とか、「不便はありませんか」と何かと便宜を図るアコに、先生は時折彼女を抱きしめて、「アコこそ、無理しないでね」って頭を撫でてくれるんだ。

 両足を喪う原因を作った自分に、まだその優しさを向けてくれる先生。どうしてそんなにも想ってくれるんだとか、そんなんだから先生はとか、色々云いたい事がある筈なのに言葉は全然出てくれなくて、先生の胸に顔を埋めながら無言でアコは先生に抱き着くんだ。

 

 アコは精神的に強くて、嫌われても全てをやり抜く覚悟、そして冷徹さを持っている。けれど優しさと云うのは、抗い難いんだ。優しくしてくれる人を振りほどく事は、嫌いな人と抱擁を交わす、その何千倍も難しいんだ。

 だから本当は駄目なのに、こんな資格ないのに、私のせいで先生はこうなってしまったのにと、そう思いながらもアコは先生から離れられなくて。そんな自分を嫌悪しながら、先生への恋慕と信頼を募らせていくんだ。

 

 まぁエデン条約でサオリに射殺されるけれどね。

 

 車いすの先生とか、どうぞ殺してくださいと云っている様なものだよね。そもそもこの世界線だとクロコいるから、クロコの存在を察知できなかった時点で終わりゾ。クロコは先生を確保して、自分の保護下に置く気満々だけれど、情報がベアおばに漏れた時点で先生抹殺部隊が向かうので駄目です。アリウススクワッドに関して最初から知っていたとしても、エデン条約までずっと先生を警護して、更に鼠一匹通さないってのは無理がある。何十年と潜伏して機会を伺っていたアリウス一派は忍耐強い、必ず警護の隙を突いて先生を殺害する。このサオリは先生と一緒にカツを食べたサオリちゃんなので、「――せめて、苦しまない様に殺してやる、先生」って囁いて、頭部と心臓に一発ずつ撃ち込んでくれるよ、優しいね♡ 

 先生は多分、銃口を向けられた時、少しだけ悔しそうな顔をした後、今にも泣き出しそうな、けれど必死に取り繕った笑みを浮べて、「ごめんね」って云うよ。

 本当はサオリ達を救いたかったもんね、先生。

 

 翌日、何も知らないアコが、「先生、起きていらっしゃいますか?」って先生の私室をノックして、返事が返ってこないから、まだ寝ているのかなと思って、そっと扉を開けて、射殺された先生の遺体を見つけるぞ。

 そして今度こそ、足が捥げた程度では味わえない、本当に大切なモノが手の中から零れ落ち、二度と手の届かない所までいってしまった喪失感を味わうんだ。今度こそは、もう二度と、そう誓った筈なのにまた先生を喪う心地はどんな感じなのかな? 多分言葉も無く、いつも使っているタブレットを足元に落として、ふらふらと覚束ない足取りで先生の傍に近寄るんだろうなぁ。

 脳裏に過るのはキヴォトス動乱で死んだ先生の姿か。恐らくその時も、今も、同じ薄らとした笑みを浮べて死んでいるのでしょう。それがどうしようもなくアコの記憶を刺激して、先生が死んでいくあの体温が、匂いが、感触が蘇って、絶叫しながら先生に縋りつき、夢ならば覚めろとばかりに自身の髪を掻き毟り、先生の名前を呼び続けるんだ。可愛いね♡

 

 もう二度と、次こそは、そう誓い邁進し努力する生徒の前で斃れる。その時に流す涙にこそ、光あれ! 

 

 ――旧約純愛記 第一章 三節

 



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ゲヘナ風紀委員長

誤字脱字報告がなければ、私の寿命は三日で尽きるでしょう。


 

「ゲヘナ風紀委員長――空崎ヒナ……! 外見情報も一致します、間違いなく本人です!」

「――ちょっと、これは……まずいね」

 

 アヤネの報告と、カヨコの呟きが耳に届いた。ゲヘナ風紀委員長、それは自由奔放かつキヴォトス内に於いて圧倒的な犯罪率を叩き出すゲヘナ自治区を取り締まる、名実ともに風紀委員会のトップに君臨する生徒。その貫禄と雰囲気が、目前に立つヒナという存在からは感じられた。

 その実力を良く理解しているカヨコは、厳しい表情のまま呟く。

 

「ゲヘナに於いてトップの戦闘力、この状況で向こうに味方されたら、勝ち目が完全になくなる」

「……でも、何だか向こうの雰囲気悪くな~い?」

「そうですね、少し静観しましょう、もしかしたら――」

 

 ムツキとノノミの言葉通り、ゲヘナ風紀委員会の様子は非常に気まずい――険悪と云っても良い。それは偏に、ヒナ委員長が放つ威圧感から来るものだ。彼女の周りにはぽっかりと穴が空き、件の第八中隊もヒナの左右に綺麗に整列し、背筋を伸ばしている。尤も、その背中には大量の冷汗が流れていたが。

 

『い、委員長、その、これは……えっと、素行の悪い生徒達を捕まえようと……!』

「便利屋68の事? それにしては少々大勢いる様に見えるけれど、シャーレにアビドス――何故、彼女達と戦闘状態になっているの? そもそも、私はこの作戦行動を認知していない、自治区を越えた作戦行動には事前に私の認可が必要な筈」

『え、えっと……委員長、全て説明いたしますので、どうか――』

「――………いや、もう良い、大体把握した」

『えっ』

 

 ヒナは整列するフル装備の第八中隊、そして対峙する便利屋、アビドスを一瞥し、大まかな状況をその優秀な頭脳で理解する。無論説明は貰う、しかしそれはこの場ではない。

 

「察するに、ゲヘナにとっての不安要素の確認及び排除、そういう政治的な活動の一環ってところね」

『………』

「でもアコ、私達は風紀委員会であって生徒会じゃない――シャーレ、ティーパーティー、それに失踪した連邦生徒会長……そういうのは【万魔殿】(パンデモニウム・ソサエティ)のタヌキ達にでも任せておけば良い、この行動は私達、風紀委員会の領分を越えている」

『ひ、ヒナ委員長……』

 

 アコは淡々とした口調で告げる委員長に何か弁明を口にしようとして、しかしホログラム越しに向けられる、確かな怒りを孕んだ視線に口を噤み、項垂れた。

 

「……詳しい話は帰ってから、この場で弁明は聞かない、通信を切って校舎で謹慎していなさい、アコ」

『――はい、了解しました』

 

 アコ行政官の沈痛な面持ちを一瞥し、一方的な謹慎を申し付けヒナは通信を切る。アコも彼女の雰囲気から、今理由を捲し立てるのは悪手と感じたのか、それ以上何かを口にする事無く、素直に命令を受諾した。

 

「………」

 

 アビドス側は沈黙を守り、風紀委員会側も同上。

 便利屋側は戦々恐々とした様子で、アルに至っては地面に伏せて息を殺していた。そんなアルをムツキは楽しそうに突き、遊んでいたので丸わかりだったが。

 

「――じゃあ、改めてやろうか」

「は、ハァ!? いやいやいやッ!?」

 

 シロコが銃を構え直しながらそう云えば、息を殺して潜伏をしていたアルが思わず声を張り上げ、飛び起きた。その様子を見てムツキは爆笑し、カヨコは頭が痛そうに溜息を吐く。

 この状況で再戦? 正気の沙汰ではない、蹴散らされる未来しか見えない。弾薬もなければ数は依然劣勢、それでいて一人で風紀委員会全員とタメを張れるヒナが参戦した状態で、戦う? その無謀を理解していたのか、アヤネがシロコに食って掛かる。

 

「シロコ先輩っ! ゲヘナ風紀委員長と云えば、キヴォトスでも最強格と名高い、強者中の強者ですよ!?」

「そ、そうよ! ヒナを相手にするなんて自殺行為――」

「やるならもっと万全な状態で、装備を整えてからでないと……此方の弾薬は、既に底をつきかけているのですから! せめて補給を行ってからにして下さい!」

「ん……そっか、ごめん、ちょっと逸った」

「―――」

 

 アルは無言で白目を剥いた。何を云っても無駄だと思ったのだ、このスーパーキヴォトス人達には。彼女達には常識とか、普通の思考だとか、そういうものが一切存在しないのだ。アルは強くそう思った。

 

「――こちらアビドス対策委員会所属、奥空アヤネです、風紀委員長のヒナさん、で宜しいでしょうか」

「えぇ、そう」

「……現状は把握されていますか?」

「事前通達なしでの他校自治区に於ける無断兵力運用、及び他校生徒との衝突、それに――」

 

 ヒナの視線が、そっと先生の体をなぞった。その視界に、血に濡れた制服が映り込む。

 

「シャーレ顧問先生の負傷、かなりの大問題だよ、イオリ」

「あ、ぅ……」

 

 吐き捨てられた言葉に、先生に抱えられたイオリが目に見えて意気消沈した。心なしかツインテールがしなびた様にすら見える。先生はそんなイオリに、「元気出してイオリ、素敵だよイオリ、そんな日もあるさイオリ、スゥーッ!」と元気づけた。

 イオリの後頭部がやや強かに先生の下顎を打った。

 

「……シャーレの先生がイオリを抱きかかえているのは、何か理由が?」

「えーっと、謝罪と賠償の請求中……だそうです」

「……どういう事?」

 

 アヤネの困惑した表情を隠さない説明に、ヒナは疑問符を浮かべ先生を見た。

 先生はイオリの髪に顔を埋めながら、至極真剣な表情で告げる。

 

「イオリのせいで怪我をしたので、賠償責任として匂いを嗅いでいます」

「ちょっと何を云っているのか分からない」

 

 ヒナの顔がちょっと見た事が無い様な色に染まった。

 

「……金銭や何かしらの条約締結などではなく、ただ匂いを嗅がせる事が賠償になると?」

「うん、私にとっては黄金にも勝る対価だ」

「――……そう」

 

 視線を横に逃がしたヒナが、何とも表現し難い顔のまま呟く。世界は広いのだから、理解出来ない趣味嗜好を持つ人だっているだろう。そう強引に考える事で、一先ずその処理を先送りにした。莫大な金銭を吹っ掛けられるよりは、匂いを嗅がれる程度は、まぁ、そう、許容範囲ではないだろうか。ヒナはそう自分に言い聞かせる。

 

「当人同士で決まった事なら、私から特に云う事はない、ただ、この場では控えて欲しい」

「ん、そうだね、なら取り敢えず、イオリ吸いは止めよう」

「……吸い?」

 

 一瞬先生の言葉に疑問符を浮かべるも、先生がイオリから一歩離れた事を確認し、まぁ良いと意識を切り替えた。

 

「……兎も角、此方に不手際があった事は認める――けれど、そちらが風紀委員会の公務を妨害したのも事実、違う?」

 

 ヒナがそう口にすると、にわかにアビドスが殺気立つ。その隣の便利屋も同様に――とはならず、劣勢の状況で尚一歩も引かぬアビドスに内心で戦々恐々としていた。

 

「へぇ――……この期に及んで、良い度胸しているじゃない」

「私達の意見は変わりませんよ、主義主張を、一寸たりとも曲げる気はありません」

「……やっぱりやる?」

「――何でアビドスの連中、あんなに好戦的なんだ」

「やっぱり先生を怪我させちゃったからじゃない?」

「す、すみませんすみません、わ、私が……」

「いや、ハルカは悪くないでしょう、どう考えたって撃ち込んだ向こうが悪い」

 

 カヨコはハルカを上手く宥めながら、一人目を細める。アビドスが戦うとなると、自然便利屋も巻き込まれる事になるだろう。万が一の事を考え、内心で冷汗を掻きながらもカヨコは愛銃の安全装置を静かに外した。

 もし、本当に戦闘に転がり込むとして――目の前の、このヒナだけは確実に戦闘不能に持っていかなければならない。そうしなければ元々小さな勝ち目すら、確実になくなるのだから。

 

 アビドスと便利屋、風紀委員会の間に険悪な空気が流れる。誰かが引き金を引けば、連鎖して即座に開戦が起きそうな緊張感。そんな中、タブレットを握り締めながらアヤネが呟く。

 

「……実際問題、勝てるかどうかは未知数です、せめて、ホシノ先輩が居てくれたら――」

「――ホシノ」

 

 呟きは、ヒナの耳に届いた。ぴくりと、彼女の眉が跳ねる。

 その名前は彼女にとって――ある意味特別な意味を持つ名前だったから。

 

「――小鳥遊ホシノ、か」

「はいはい、お呼びかな~?」

 

 声が響いた。

 それは今、アビドスの皆が求めていた人物の声だった。

 思わずヒナが目を見開き、声の方向へと顔を向ければ、アビドスの後方から呑気に歩いて来るピンク髪の少女の姿が見えた。愛銃を肩に掛け、ケース型の盾をぶら下げながら歩く彼女はひらひらと手を振って見せる。ホシノは周囲の弾痕が刻まれた公道や建物を眺めながら、辟易とした様子で告げる。

 

「うへ~、こいつはまた何があったんだか、凄い事になっているじゃ~ん」 

「ほ、ホシノ先輩ッ!?」

「先輩!」

 

 振り向いたアビドスの皆が顔を輝かせ、ゆったりとした足取りで進むホシノを見る。

 ホシノは頬を掻きながら、「やっほ」と、へらっとした笑みを零しながら皆を見渡し――。

 

「ごめんごめん、ちょっと昼寝していてねぇ、少し遅れちゃ――」

 

 その目が、先生を捉えた。

 

「―――」

 

 先程まで締まりのない笑みを浮べていたホシノが、動きを止める。

 先生の、血と砂利に塗れた制服、べっとりと赤の張り付いた肩口、擦り傷や切り傷の見える頬、口元にこびり付いた乾いた血の跡、酷い顔色に、薄らと見える目の下の隈。

 何があったのか、一目瞭然だった。詳細は分からずとも、先生が【どういう目に遭ったのか】だけは、分かった。

 その眠たげな瞳が、徐々に見開かれる。

 

「――先生?」

「……やぁ、ホシノ、おかえり」

 

 先生はホシノを見て、一瞬だけ逡巡した様な、或いは気まずそうな顔を浮べて、それから先程までのホシノと同じように――へらりと緩く笑って、そう云った。

 恐らく道化を演じようとしたのだろう。しかし今のホシノから見れば、その力ない笑みは寧ろ痛ましく見えて仕方なかった。

 ホシノは一歩、踏み出しながら問う。

 

「それ――どうしたの」

「あー……えっと」

 

 どこか温度を感じさせないホシノの口調に、先生の視線が泳ぐ。何と云えば角が立たないか、そんな悪あがきを最後まで考え。けれど、どう云った所で取り繕える気がしなくて。結局困ったように口から出たのは。

 

「……転んで怪我したって云ったら、信じる?」

 

 そんな、子供だましとも云えない様な言葉だった。

 

「どうしたもこうしたも、道中見てないの先輩!? 色々大変だったのにッ! このゲヘナ風紀委員会の連中が柴関を迫撃砲で吹き飛ばして、店内にいた先生も死にかけたのッ! 先生の服見れば分かるでしょう!?」

「私達が到着した時、意識を失っていた」

「最悪、本当に死んでいたかもしれません……」

 

 先生の言葉に納得がいかないのか、アビドスの面々は次々と口火を切り風紀委員会の所業を非難する。その言葉で凡その状況を掴んだのか、ホシノの視線が展開する風紀委員会――そしてヒナをなぞった。

 

「ゲヘナの風紀委員会、ね……」

 

 呟き、アビドスの隣で待機する便利屋を一瞥するホシノ。

 

「うっ――」

 

 その視線が自身を貫いた時、アルは妙な圧迫感を覚えた。圧力、と言い換えても良い。何か目に見えない力が自身の肩を圧し潰さんと働いている様な、そんな感覚であった。ホシノの視線が外れると、その圧迫感も霧散し、アルは早鐘を打つ心臓を抑える。

 ホシノは一歩一歩ヒナと距離を詰めながら、口を開く。

 

「彼女達――便利屋を追って此処まで来たの?」

「……答える義務はない」

「いやいや、先生あんなズタボロにして、こっちの自治区に無断で踏み入ってドンパチして、挙句の果てに馴染の御店を吹き飛ばされたらさぁ~、誰だって説明して欲しい気持ちになると思わない?」

「………」

「……まぁ、云いたくないなら良いよ、元々そんなに期待はしていないし、それならそれで、他にやりようがある、一先ずこれで対策委員会は勢揃いした事だし――」

 

 ホシノの足が止まる。ヒナと、ホシノの二人は、手を伸ばせば届く様な距離で対峙した。互いの視線が交差する。

 ――ホシノが愛銃の安全装置を外し、先程より数段底冷えのする声で告げた。

 

「改めて戦争をしようか、ゲヘナ(あなた)アビドス(私達)で」

「―――!」

 

 ヒナの前に立つホシノには、強い意志があった。

 例えどれ程の数が相手だろうと、どんな強敵が相手だろうと、その果てに――ヘイローが破壊されようと、絶対に退いてなどやらないという意思だ。ホシノの瞳を見た時、ヒナはそれを直感的に悟った。憎悪と戦意の混じった覚悟が、物理的な重圧となってヒナを圧し潰さんと迫る。背後に立っていたチナツが蒼褪め、一歩、退く程の圧力だった。

 先程まで能面のような表情を浮かべていたヒナが、その視線を鋭いものに変える。愛銃であるデストロイヤー(機関銃)を握る指先に、力が籠るのを自覚した。

 

「……一年生の時とは随分と変わった――そう思ったけれど、やはり人違いじゃなかった、根底はあの時のまま」

「……ん~? 私の事、知っているの?」

「情報部にいた頃、各自治区の要注意生徒はある程度把握していたから」

 

 そう云ってヒナは、その瞳に――痛ましさとも、羨望とも云える光を宿し、言葉を続ける。

 

「特に小鳥遊ホシノ……あなたの事を忘れる筈がない、あの事件の後、アビドスを去ったと思っていたけれど――あなたは未だ、その場所で耐えている」

「………」

「そうか、そういう事か……だからシャーレが――」

「――悪いけれど、余り掘り下げないで欲しいな」

 

 彼女の言葉を遮り、ホシノは声を上げる。

 やや俯き気味だった顔を上げ、下から睨みつける様にヒナを見た彼女の瞳には。

 

「私の記憶は、私だけのものだよ」

「………」

 

 ――殺意すら籠っていた。

 

「……――元より、私は此処に戦いに来た訳じゃない」

 

 数秒、視線を交わしていた両名の拮抗は、不意にヒナが踵を返す事で途切れる。

 コートを靡かせ、背を向けた彼女は、風紀委員会の面々に向かって告げた。

 

「撤収準備、帰るよ」

「えッ!?」

 

 その一言に、周囲の風紀委員が驚愕と困惑の声を上げる。しかしヒナが彼女達を一瞥すると、途端にその声は鳴りを潜めた。周囲を眼力のみで黙らせた彼女は、そのまま先生に視線を移す。

 

「シャーレの先生、イオリの賠償はいつまで掛かる予定?」

「んー……いや、満足したから、今日は解放で良いよ」

「『今日は』、ね――まぁ、先生がそれで良いのなら、別に何も云わないけれど」

 

 小さく笑みを零し、掴んでいたイオリの肩を離す先生。すると小走りかつ、半泣きで委員会の元へと帰還したイオリは、軽くヒナに額を小突かれる。

 

「うぅ、委員長……」

「自分のやった事に対する責任はちゃんと自分でとる事、良い?」

「わ……分かった、いや、分かりました……」

「宜しい」

 

 一つ頷いたヒナはイオリの背を軽く叩き、チナツと合流させる。

 そして彼女と入れ替わる形で先生とアビドスの前に立つと、深く頭を下げた。

 

「事前通達なしでの無断兵力運用、他校の自治区で騒ぎを起こした事、そして――シャーレ担当顧問である先生に怪我を負わせた事……この事については私、空崎ヒナより、ゲヘナ風紀委員長としてアビドス対策委員会、並びに連邦捜査部シャーレに対して、公式に謝罪する」

 

 その文言に、アビドスは一瞬面食らう。

 

「今後、このような事が無いと約束する――どうか許して欲しい」

「――許すとも」

 

 先生はそんな、深く頭を下げる彼女に――それこそ怪我など最初からなかったかのように、朗らかに笑いかけた。

 

「生徒の失敗を許さない先生なんて、居ないよ」

「………」

 

 その答えを聞いたアビドスの皆は、一瞬顔を見合わせ――しかし、先生が決めた事ならばと、やや渋顔ながらも許容の姿勢を見せた。物事には決着が必要である、そしてそれを先生本人が望んだのならば。

 

「色々云いたい事はそりゃあ、山の様にあるけれど……! これだけ怪我をさせておいて、謝って終わりなのとか、もっと色々あるでしょとか……! でも、先生が許すって云うなら、私達はこれ以上何も云わない、でも次はないから! あと、柴関の修繕費とか、周囲の被害の埋め合わせはきちんとしてよッ!? 絶対だからね!」

「ん、正直許し難い感情はある、でも先生の想いを守ると誓ったから……先生が良いと云うのなら、私は何も云わない」

「色々と複雑な想いもありますけれど、幸い致命的な部分は回避出来ましたし、皆と先生が許すなら、私も許します」

「ッ――そう、ですね、線引きは大事です……ただ、今後のアビドスに対して賠償などが生じた場合、容赦はしません!」

「――ハァ……まぁ、おじさんが遅かったのが悪いね、これは」

 

 ホシノに関しては、長い間があった。血塗れの先生を一瞥し、それから頭を下げる目の前のヒナを見つめ――深い、深い息を吐き出す。

 それは鉛を飲み下すように、あらゆる感情を腹に押し戻すように。殺意の籠った真剣な眼差しから、いつも通りの眠たげなそれに切り替わったのを確認したヒナは小さく、「礼を云う」とだけ告げ、背筋を正した。

 

「あと、便利屋68」

「ひぃ!」

 

 アビドスの影に隠れ、息を潜めていた便利屋を横目に見た彼女は、腰の引けたアル達を威圧感のある瞳で射貫き告げる。

 

「ゲヘナ自治区に足を踏み入れる時は、覚悟すると良い」

「―――」

「あ、アルちゃんまた白目剥いちゃった、面白いから写真撮っておこう~っと!」

「そんなの、撮ってどうするのさ……」

「ん~、額縁に入れて飾るとか?」

「あ、それなら、私にも一枚頂けると……」

「ただの嫌がらせだよそれ、ハルカも、そんなの欲しがらないで」

 

 固まったアル社長から視線を切り、撤収準備を行う風紀委員会を横目に見るヒナ。そんな彼女はふと、先生に数歩近付くと、互いが聞こえる程度の声量で囁いた。

 

「――その体で、良く立っていられるね、先生」

「……やっぱり、分かっちゃうか」

 

 唐突に掛けられたその言葉に、先生は苦笑を漏らす。

 

「歩くのも辛いでしょう、座り込んでも良いのに」

「生徒の前では、格好つけておきたいんだ……先生だからね」

「なら、ちゃんと治してね、治療費はこちらで負担するから」

「気持ちだけ有難く、大丈夫だよ、治すアテはあるし、お金も掛からないから」

「……そう、アテがあるのなら、少し安心した」

 

 そう云うと目を伏せ、口元を緩ませるヒナ。彼女も今回の件は寝耳に水だったに違いない、上に立つ者特有の疲労感を見せるヒナに、先生はいつかその疲れを解しに行こうと誓った。

 

「――そうだ先生、アビドス校の問題についてだけれど、少し話しておきたい事がある」

「カイザーコーポレーションの話かな?」

 

 そう先生が口にすれば、ヒナは面食らったような表情を浮かべた。

 彼女にしては珍しい表情に、先生の口元がしてやったりとばかりに歪んだ。

 

「アビドスの棄てられた砂漠、あそこで、カイザーコーポレーションが何かを企んでいる……そうでしょう?」

「……その情報、万魔殿も、ティーパーティーも掴んでいない情報の筈なのだけれど」

「連邦捜査部は伊達じゃない、って事」

「――頼もしいのか、そうじゃないのか」

 

 肩を竦めたヒナに、先生は、「これでも大人ですから」と拳を握って見せた。

 

「なら良い、私の心配は杞憂だった……私達はもう行く、またね先生」

「うん、また――あぁ、そうだ、最後に一つ」

「……?」

 

 風紀委員会と共に歩き出すヒナを呼び止め、大事な事を伝える。

 

「アコに、『次会ったらわんわんプレイを所望する』って伝えておいて」

「………………分かった」

 

 今度こそ彼女は、呆れたような表情を浮かべ、向こう側へと去って行った。

 


 

 

 次回、先生が血反吐撒き散らしながら、惨めに地面をのたうち回る姿を生徒に見て貰います。くっそ無様でございますね。素敵だよ♡ 

 本当は先生が血反吐撒き散らす姿も今日投稿しようと思ったのですが、どうやって血反吐撒き散らそうかな~とか、どうやったら生徒がより先生を愛してくれるかな~と考えていたら、予想以上に長くなってしまったので分割します。非力私許。

 もうみんなの前で盛大に血をぶちまけるか、もしくは限定した生徒の前でぶちまけるか非常に悩んだ。本当に悩んだ。悩み過ぎて何回か先生が死んだ。可哀そう。

 

 結局私は、生徒を絞って先生に血反吐を吐かせる事にした。皆の前で盛大にぶちまけて、その愛を一身に受けるのも悪くないのだが、限定された生徒の前でのみ血反吐を吐くと云う、この『特別感』を私は結局重視した。皆の前で気丈に振る舞い、大丈夫、大丈夫と云い募るのだけれど、ふとした瞬間に限界を超えて、惨めに地面に這い蹲る先生を見る生徒の顔を考えるだけで、「愛されているね、先生」って私は胸がぽかぽかして幸せなのであった。

 誰かを退ける力はあっても、その場で先生を救う事は出来ないんだよ、無力だね、でも今のあなたは最高に可愛いよ♡ 

 

 うーむ、先生が苦しめば苦しむ程、生徒の顔が可愛くなる。もういっその事、片肺くらいイッとくか? 生徒の可愛い顔を見られるのだから臓器の一つくらい安いものでしょう。どうせ外から見たら分からないし。いやでもなぁ~、こんな序盤から先生の残弾減らすのもなぁ、片肺をポケットないないしてもインパクトが欠けますよインパクトが。やっぱり最初は手足千切ってなんぼでしょう。汝欠損を描くならば手足から捥ぐべし、って古事記にも書いてあったし、いや書いてなかったかもしれない、書いてなかったと思うわ、やっぱ自由に捥いで良いわ。良かったね先生!

 

 今回は「人質肉壁作戦に出た先生だけれど、もし発砲する風紀委員が居て、運悪くクリーンヒットしちゃったら、どーなるの?」、という世界の話をしていこうと思います。

 イオリを吸いながら発砲指示をするじゃん? アビドスが発砲するじゃん? 「アウトローなら任せろ~」とばかりに釣られて便利屋も発砲するじゃん? 先生はイオリと一緒にダンスダンスするじゃん? でもやはり一方的に撃たれるストレスって云うのはあると思うんですよ、銃撃を受けても死なないっていうのはそうなんだけれど、痛い事は痛いし、怖い事は怖い。だからシロコの爆撃とか、ノノミのミニガン掃射に怯えた風紀委員の一人が、牽制の意味合いで一発だけ発砲するんですよ。遮蔽物から顔も出さず、腕だけ出して。

 銃声は他の面々のソレに掻き消されて、大して目立った訳でもない。ただ弾丸は何の因果か、先生の眼球を撃ち抜く形でヘッドショットを決める訳ですね。

 最初に気付くのは、勿論イオリです。自分を抱えて右へ左へステップを踏んでいた先生が、急に止まる訳ですから。同時に銃弾が傍を掠める音に肩を竦め、「だ、誰か撃ったのか!?」と思わず叫ぶ。そして自身の髪と肩に滴る、生暖かいものに気付く訳です。

 最初はまた先生がトマトジュースを吐き出したのかと思って、「――おい、先生!?」と怒鳴るのだけれど。

 少しして、身体が背後に引っ張られる訳です。そのまま後方に倒れ込み、イオリは思わず身を捩って、横合いに同じように倒れ伏した先生に、「何やって――」と文句を云おうとして。

 眼球が弾丸に潰されて、そのまま後頭部まで貫通した先生の死骸を直視する訳ですね。

 

 多分、血の気が引くとか、顔が蒼褪めるとか、そういうレベルではないと思います。あれだけ普段強気でツンケンしているイオリですが、人の死なんていうのは経験した事がないと思いますし。ましてや体が頑丈なキヴォトスの住人ですから、頭部を射貫かれて死んだ人間の死体を、今にも触れられる距離で直視する事なんて皆無の筈です。だから恐らく、抱くのは恐怖、ただ純粋なまでに『死』という概念に対する恐怖を見せると思います。

「うわぁあァアアッ!?」と、先生の掴んでいた手を跳ね退けて、絶叫して、イオリは呼吸荒く後退ると思います。その声に気付いたアビドスが先生が斃れた事に気付いて、眼球に空いた弾痕に顔を真っ白にし、セリカは銃を投げ捨てて、転びそうになりながら先生の元へと駆け出し、ノノミはアヤネに手当をと叫び、アヤネは顔を真っ青にして立ち尽くし、シロコはただ、信じられない様なものを見た表情で固まると思う。

 便利屋の皆も先生の異常に気付き、頭部を撃ち抜かれたそれに言葉を失う。ハルカが斃れた先生を見て、「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だッ!」と叫びながら駆け寄り、風紀委員の方でも、アコが『誰が発砲しろと云いましたかッ!? チナツ、手当をッ、急いでッ!』と絶叫。チナツが必死の形相で先生の傍へと駆け寄る姿が見られる筈です。

 勿論クリーンヒットな訳ですから、助かる筈がありません、殆ど即死です。ぴくりとも動かない先生を囲む生徒達は、一様に驚愕と悲嘆に呑まれ、言葉を失う訳ですね。誰がどう見ても助からないと分かる訳です。うぅ、生徒からの愛を感じる……。

 

 此処からはもう、殆ど地獄です。アコは先生を殺害してしまったという事実に錯乱し、命令を下す事も出来ない。チナツは多分、もう駄目だと分かっていても、涙と嗚咽を零しながら必死に手当てを続けると思う。アヤネは先生の傍に屈みこんで、先生の衣服を握り締めながら、「せんせ、起きて、起きて下さいよ……」と揺すり続ける。

 シロコとセリカ、ノノミは弔い合戦です。戦う事も、撤退する事も出来ない風紀委員を片っ端から殺す勢いで薙ぎ倒します。

 便利屋も、多分ハルカとムツキは全ギレで弔い合戦に参戦、アルは先生の死に呆然として、頭が真っ白になると思う。カヨコは突っ込んでいったハルカとムツキに苦い表情を浮かべながら、先生を一瞥して、鉛を飲み下したような色を見せた後、アルを引き摺って逃走準備に入る。カヨコは賢いから、勝っても負けても、この合戦の後には碌な結末が待っていないと理解すると思うんだ。

 

 で、そんな所にヒナがやって来るって訳。

 全く、主役は遅れて登場するっていうのは本当だなッ!

 

 何にも悪い事していないのに、アビドスや便利屋から一身に憎悪を受けるヒナ可哀そう……これで記憶持ちだったらもっと可哀そう。生徒が可愛そうな世界は私も望んでいないので、こんな世界はしまっちゃおうね~。

 因みにここから風紀委員会が戦う方針を固めて、アビドスや便利屋を打倒したとしても、残るのはシャーレ顧問の殺害と、アビドス校自治区の侵犯、並びに同生徒会代理に壊滅的被害を与えるゲヘナ風紀委員会という事になるので、巻き返しは無理ぞ。

 

 ついでにアビドスはホシノおじさん一人を残して全員居なくなるわけですね。

 

 遅れてやって来たら、先生の死体が転がっていて、後からアビドス全員のヘイロー破損を聞かされるおじさんの心情を考えると……な、涙が出ますよ。

 大切な人全員居なくなっちゃったね、唯一信頼出来る大人も、大切だった仲間達も、守りたかった大事なモノ全部、空っぽになってしまったホシノおじさん。

 そこまでして、漸くホシノは守りたかったのはアビドスという土地でも名前でもなく、いつも隣に居た、一緒に笑い合った皆だったのだと気付いて、先生の亡骸の横で呆然として欲しい。頑なに会長就任を拒んで、もうあんな想いはしたくないと自分に言い聞かせて、現実から目を逸らし続けて来た終着点がコレなら、果たしてホシノが歩んで来た今までの道のりは何だったのか。

 

 先生の死体を引き摺りながらアビドスに、一人ぼっちで帰還するホシノ。

 部室の扉の前で佇み、光を喪った瞳でドアノブを見つめる。この扉を開けば、いつも通り笑い掛けてくれる皆がいる気がする。この、抱えた先生だったものも、自分が見ていた夢か何かで、この扉を潜ればいつも通り笑って、「やぁ、ホシノ、お帰り」と云ってくれるかもしれない。

 そんな妄言とも、淡い希望とも云えるそれを抱いて、ホシノは扉を開く。

「お帰りなさい、先輩」と云ってくれるノノミはいない。「ちょっと、また遅刻じゃないの、委員長」と苦言を呈するセリカはいない。「あはは……まぁ、良いじゃないですか」と皆を窘めるアヤネはいない。「ん、委員長も食べる?」とマイペースにカロリーメイトを差し出してくるシロコはいない。

 勿論、彼女が引き摺る骸が口を開く事もない。

 そんな世界は、もうどこにもない。

 

 何もかもが足りなくて、毎日が大変で、未来は暗くて、それでも必死に日々を、青春を生きていた彼女達の残り香に、ホシノはどんな表情を浮かべるのだろうね。多分、血塗れの先生を力一杯抱きしめながら、喉の奥から、憎悪とも悲嘆とも絶望とも後悔とも取れる、絞り出した、低い、唸るような慟哭で以て崩れ落ちるのだろう。あの日、牙を捨てて取った筈の盾は、誰を守る事も出来ずに、ただ床の上に転がるばかりなんだ。

 うぅ……皆愛されていて良かったね、私も本当に嬉しいよ……! でもアビドスの皆が居なくなってしまったのは悲しいので駄目です、致命傷でゲヘナ救急医学部に担ぎ込まれたとかにしない? 生きていれば良い事あるよ! という訳でアビドスは蘇生させます。あ、先生は生き返っちゃダメです、そのまま血だまりに沈んで下さい。死人が生き返る筈ないだろう!? 常識的に考えて欲しいよね。

 まぁ、仮にアビドスが生きていたとしても生死不明で行方不明なのは変わらないので、ホシノはメンタルボロボロのボロ。先生の死骸抱えて部室に籠って、数日したらショットガンも盾も捨てて、嘗て使っていた愛銃()を片手にゲヘナにカチコミに行くと思う。

 ヒナとタメ張れる(と思われる)ホシノが生還度外視で死兵となって突っ込んでくるとか恐ろし過ぎますよ。ゲヘナは反省してね♡ 皆が争うので先生は死んでしまいました、先生のせいです、あーあ。

 



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それでも彼女は手を伸ばす、届かぬ星へと手を伸ばす

誤字脱字報告に救われる命があります。


 

「ふぅ~……っ」

 

 深く、息を吐き出してその場に座り込む。制服が汚れるのも厭わず――或いは、最早どこも汚れているからかもしれないが――地面に腰を下ろした先生の元に、アビドスの面々と便利屋が集まった。その表情に見えるのは、偏に先生への心配。

 

「先生、大丈夫?」

「傷口、開いたりしていないでしょうね――!?」

 

 シロコが先生の肩に手を置き、セリカが口調とは裏腹に心配げに先生の顔を覗き込む。先生はそんな彼女達に笑みを返しながら、軽く手を振った。

 

「大丈夫だよ、ただちょっと、疲れただけさ……ケホッ」

 

 何でもないかのようにそう云うが、先生の顔色は酷いものだった。心なしか、目の下に出来た隈も濃くなっている様に見える。明らかな強がりだ、それは誰の目から見ても明らかだった。

 ホシノはそんな先生の姿を直視し、強い後悔の念を抱く。無意識の内に握り締めた拳が、軋む。

 

「……ごめん、先生――遅くなって」

 

 後悔と怒り――それを向ける対象は自分自身。ホシノの滲ませるそれに、先生は何かを口にする前に、悲しみを覚えた。

 昼寝をしていたなんていうのは、勿論嘘だと分かっている。アビドスの皆を心配させない為の方便だと、或いはアビドスの面々も心の奥底では感じているのかもしれない。ただ、複雑な表情を浮かべるアビドスを見ていると、妙に胸が苦しくなった。こんな事でアビドスの結束が崩れるなど微塵も思ってはいないけれど、優しい嘘で誰かが傷つくのは嫌だった。少なくとも、自身の目の前では。

 それは先生のエゴだ、けれど、だからこそ最後まで貫かねばならなかった。

 堪え所だと、大人としての責任を果たすべきだと、先生は奥歯を噛み締め、笑う。

 

「いいや、こんな事、誰も予想出来なかったよ、運が悪かっただけだ、ホシノが悪い事は何ひとつない、何一つだ」

「………」

 

 そう云って、先生はホシノの頭に手を置こうとして――血のこびり付いた右手に気付き、慌てて左手を伸ばした。ホシノは先生の右手に気付き、小さく唇を噛む。

 だから己は詰めが甘いのだ――先生は自身を内心で罵った。

 

「ゴホッ、んんッ、便利屋の皆も、巻き込んじゃって悪かったね」

「なっ、それは……! 私達の台詞よ、その、一歩間違えたら取り返しのつかない事になっていたのだし……!」

「せ、先生っ……!」

 

 便利屋の皆に水を向ければ、いの一番にハルカが駆け寄り、先生の前で膝を突き、深く頭を下げた。それはもう、地面に頭を打ち付けて死んでやると云わんばかりに。

 

「ご、ごめんなさい、わ、私なんかを庇ったばっかりにっ、ひ、酷い怪我を、こ、これは、ししし、死んでお詫び――」

「はい、ストップ」

 

 頭を下げるハルカの肩を掴み、無理矢理引き起こす。正面に見えた彼女の顔は、涙と鼻水で汚れ、酷いものだった。思わず苦笑して、先生はハルカの涙を指先で拭う。

 

「折角頑張ったのに、ハルカが死んじゃったら私の努力が水の泡だよ、それは悲しいな」

「あ、あぅ……――」

「今度、柴関でラーメンの一杯でも奢ってくれたら、それで良いよ」

 

 そう云って笑う先生に、ハルカは目を丸くして、それから申し訳なさそうにおずおずと云った。

 

「で、でも柴関は、もう――」

「何とかするさ、任せて」

 

 先生が告げ、アビドスを見れば――彼女達は力強く頷き、笑って見せた。

 

「ん、復興に関しては私達も手伝う」

「私達の大好きで、大切なお店ですから☆」

「そうですね、微力ではありますが、全力を尽くします!」

「当然よッ! ゲヘナの連中に絶対弁償させてやるんだから! でも、その前に――……!」

 

 柴関の復興に積極的な姿勢を見せる対策委員会。この調子なら、そう遠くない内に復興が叶うだろう。態々他所の自治区から食べにくる常連だって居るのだ、便利屋もそのひとつ――決して、夢物語ではない事を先生は知っている。

 そんな事を考える先生の傍にセリカは屈み込むと、ふと先生の頬に手を当て、呆れたように口を開いた。

 

「ほら、先生も病院に行かないと! いい加減、顔色ヤバいわよ?」

「あー、はは……まぁ、今回はちょっと無理した自覚があるからね……ケホッ」

 

 軽く咽ながら先生が肩を竦める。自覚はあった。

 どうやら薬の効果が切れかけているらしい。元々その場凌ぎの投薬、二本打ち込んだ所で何時間と効果が保つ代物ではない。

 

「ん、先生は私が病院まで背負って行く、任せて」

「あー……おじさんが背負おうか? ほら、シロコちゃんも戦闘で疲れているだろうし」

「私でも大歓迎ですよ~☆」

「べ、別にどうしてもって云うなら、また私が背負ってあげても良いけれど?」

「――駄目、これは譲らない」

「あ、あの、わ、私でも、全然……」

「しッ、ハルカちゃん、ちょっと面白いから此処で見てよッ」

「……悪趣味」

「先生をおんぶする権利……そういうのもあるのね」

「み、皆さん……」

 

 いつの間にか勃発した、『誰が先生を背負って行くか選手権』、アヤネとしてはそんな事よりも迅速に先生を病院に搬送したいので、救急車を要請したいのだが、互いに火花を散らせて見つめ合う仲間の姿に中々云い出すことが出来ない。便利屋はアビドスの内輪揉めを楽しそうに見つめ――笑顔だったのは大体ムツキだけだが――そんな姿を苦笑交じりに眺めていた先生。

 しかし、ふと胸に手を当て、僅かに顔を顰めると先生は声を上げた。

 

「――ごめん、一つ頼まれ事をしてくれないかな?」

「……頼まれ事?」

 

 先生の傍に立っていたカヨコが疑問の声を上げる。じゃんけんでかたを付けようとしていたアビドスの面々も、先生の声に視線を向けた。先生はタブレットに位置情報を出しながら、アビドスと便利屋の皆に見えるように掲げ続ける。

 

「実は向こうの通りに、乗り捨てられた車があったと思うんだ、多分風紀委員会との戦闘が始まったから、アビドスの住人が車を捨てて逃げたのだと思うのだけれど……今、ちょっと本気で体調が悪いから、少し借りられたらなぁ~って思って」

 

 そう云って、「どうかな」と問いかける先生。勿論、病院まで乗せて貰ったら、ちゃんと洗って元の場所に戻しておくつもりである。持ち主には謝礼を渡そう。

 そう口にする先生の提案に生徒達は顔を見合わせ、思案顔を見せた。

 

「それは……でも、確かに今の先生を背負うよりは、安静かもしれませんね、それに今から救急車を手配するより、そちらの方が早いかも――」

「緊急事態って事で、持ち主も許してくれるんじゃない~?」

「ん~……そうですね、怒られちゃった時は一緒に謝りましょう!」

「先生をおんぶ出来ないのか、残念――でも分かった、先生の安全第一、それなら見て来る」

「な、なら、私は書置きを用意しておくわ!」

「……うん、頼むよ」

 

 どこか安堵した様な顔で、頷く先生。皆の端末に位置情報を送り、それを頼りに早速車の元へ移動しようとする中――ホシノが一人手を挙げた。

 

「――うへ、それならおじさんは此処で先生の事見ておくよ」

「あー……出来ればホシノも、車の方、見て来てくれないかな?」

「? そんなに大人数で見に行く必要ありますか? 万が一の事を考えて、最低一人は傍にいた方が良いかと……」

 

 そうアヤネが問いかけると、先生は気まずそうに頬を掻いて呟いた。

 

「あー、ほら……ほら砂に埋もれていたり?」

「砂嵐なんて起こっていないじゃない……」

 

 セリカが呆れたように呟けば、先生も苦笑を零すしかない。何ならもう数人残すべきではと提案するアヤネに、先生はあれこれ理由を付けて車に向かうよう説得した。流れ弾に当たっているかもしれないから、状態の確認は皆でやった方が早いとか。もしキーが刺さっていなかったら、申し訳ないけれど一応車内を探して欲しいとか。タイヤが砂に捕られていたら、皆で押し出して欲しいとか、殆ど屁理屈染みた代物だったが、一応の理解は得られた。

 カヨコやアヤネ、特にカヨコは訝し気な表情であったが、一先ずホシノがこの場に残るという事で決定する。

 

「良く分からないけれど、それじゃあホシノ先輩、先生の事宜しくね!」

「行って来る」

「お願いしますね!」

「あはは、先生ちゃんと大人しくしているんだよ~?」

「い、行ってきます!」

「………」

 

 結局、ホシノに先生を任せ、便利屋とアビドス組は先生の見つけたという車両の確保に向かった。彼女達の後姿を見送りながら、ホシノは溜息を零す。

 

「ふぅ……皆、あれだけの事があったのに――強いね、本当に」

 

 柴関の半壊、先生の負傷、風紀委員会との戦闘――自分が居ない間に、本当に色々あった。しかし、今、兎にも角にも心配なのは先生の体調だった。迫撃砲が叩き込まれた場に居たという話だが、もしそれが本当ならとっくに死んでいる筈である。しかし、あぁやって戦闘指揮を執っていたという事は、自分が思う程、重症ではなかったのか、或いは単なるやせ我慢か。

 血塗れの制服を横目に、ホシノは口を開く。

 

「えっと、それで先生、傷とか体調の方は……――」

「ゲホッ、こほっ……んん、傷、体調ね、えっと、ゴホッ、こほっ!」

 

 座り込み、背を丸めた先生が咳き込む。

 唾でも気管に入ったのかと、ホシノが屈んで先生の背中を摩ってやれば、先生は手で口を抑えたまま静かに震え出す。

 

「先生?」

「ゴホッ、ケホッ、えほッ、ぐッ――」

 

 咳は、妙な水っぽさを含んでいた。湿った音、というのか、嫌な咳の仕方だった。

 ホシノが眉を顰めながら先生の名を呼べば、大丈夫と云わんばかりに先生がホシノの前で軽く手を振るが――その途中で、限界が訪れた。

 

「ぇッ、ごほッ――げェッ……!」

 

 座っていた体勢から姿勢を横に逸らした先生が、地面に向けて赤を吐き出す。びしゃりと吐き出されたそれは、砂利の混じった地面に赤黒い華を咲かせ、ホシノの背筋を凍り付かせた。

 

「ちょ、せ、先生ッ!?」

「が、ッ、ぅえ、かひゅ、はッ、か、ァ――ッ!」

 

 体を丸めた先生が、何度も何度も血を吐き出す。地面に吐き出される赤が、青白く染まった先生の顔色をより悪いものへと見せる。泡の混じった鮮血は砂利と地面の中に溶け、同時に先生の手を斑に染める。

 呼吸が、酷く荒かった。寧ろ今まで、何故無事だったのか分からない程の状態だった。ホシノは唐突な先生の体調悪化に、頭が真っ白になる。

 いや――唐突ではなかった、少なくとも先生にとっては。

 先生はずっと堪えていたのだ、こうなる事を、必死に、文字通り血を呑み込む思いで。本来ならば生徒達を遠ざけ、路地裏かどこかで血を吐き出し、何食わぬ顔で戻る予定だったのだ――それが、まさか。

 

 呼吸困難に陥った先生の視界に、涙目で自身に縋りつくホシノの姿が映る。

 その涙が、底を尽きかけた先生の気力に、僅かな力を与えた。震える腕を必死に動かし、先生は制服の内ポケットから一本の注射器を取り出す。細長いプラスチックに覆われたそれは、クラフトチェンバーから固定化したEC――三本の内の、最後の一本。

 それを先生はキャップを外し、自身に打ち込もうとして――唐突な鈍痛と嘔吐感に、思わず手放してしまう。

 軽い音を立てて転がる注射器、それはホシノの目の前で止まった。

 

「ぐ、ぅぁ――ひゅッ、はッ、ァ……ッ!」

「っ……な、なにこれ、先生、どうすれば良いの!?」

 

 蒼褪めた表情で注射器を拾い上げたホシノは、か細い呼吸を繰り返す先生に問い掛ける。しかし、最早先生に応える力は残っていなかった。胸を抑えたまま蹲る様に横たわり、ただ苦しみに耐えるのみ。少し気を抜けば、意識が飛びそうだった。呼吸が――息が、続かない。痛みに思考が乱される。即効性があるものの、持続性に難があるECの効果が完全に切れた。加えて、負傷度合いは確実に悪化している。当然だった、寧ろ此処まで動けた事が奇跡だった。

 

「注射器……先生が、これを取り出したのなら、打てって事? これを打てって事で良いんだよねッ!? ど、何処に――」

 

 ホシノは拾い上げたそれを強く握り締めながら、先生の服を掴む。先生がこの状態で取り出した代物なら、恐らく治療か、痛みを和らげるものか、それに準ずる薬品なのだと推察する。

 注射――何処に打ち込む? 普通に考えるのならば腕だ。先生の着込んだ服を捲る余裕も、それだけの考えもホシノにはなかった。兎に角、一刻でも早く打たなければという焦燥感だけがあった。藻掻く先生の腕を掴み、内心で謝りながら袖を捲り上げたホシノは、そのまま二の腕の辺りに注射器を突き立てる。幸い、針などは無いタイプであった為、素人のホシノでも簡単に打ち込む事が出来た。

 軽い空気の抜ける様な音と共に、薬品が先生に打ち込まれる。

 

「――………カハッ! ハッ、ゼッ、ゼェ、うッ……ぐゥ――」

 

 一瞬、痛みに声を上げた先生。ホシノは注射器を脇に放り投げながら、先生の背中を撫で続ける。

 

「せ、先生? ねぇ、大丈夫なの……!?」

「ハーッ、すッ、か、はー……ぜーッ――」

 

 ホシノは、薬品の効果がそれ程早く出るとは思わない。しかし、頼むから効いてくれと願う事しか、今のホシノには出来なかった。この場で、件の男にキヴォトス最高の神秘と煽てられた彼女は、余りにも無力だった。

 或いは――自分がもっと早く合流出来ていれば、こんな事にはならなかったのか?

 そもそもアビドスを離れなければ、こんな事にならなかったのではないか? 

 あの時、先生を呼び止めていれば――先生の苦しむ姿を見ていると、あらゆるこうしていれば(IF)が頭を過った。その殆どが、自分の軽挙と思慮の浅さを後悔するような代物だった。思わず、痛い程に唇を噛み締める。噛み締めた歯が皮膚を食い破り、口内に酷い血の味が溢れた。

 先生がもし、万が一、死んでしまったら。そんな最悪な想像すら脳裏に過る、それ程に目の前の先生の状態は、ホシノから見ても直視し難いものだったのだ。

 けれど、目を逸らす事は出来ない。歯を食いしばり、表情を苦痛に歪めて尚、耐えなければならない現実がそこにはある。それは、ホシノの罪悪そのものだった。

 胸に宿る自分が、今こうして無力を晒す自分(ホシノ)を背後から見つめ――罵る。

 

 あの時、私が先生を呼び止めていればこんな事にはならなかった――そもそも、こんな事になるなんて、分かる筈がないじゃないか、私は先生とは違うのに。

 もっと早く合流出来ていれば、先生はこんなになるまで無茶はしなかった――なら、あの呼び出しを無視しろと云うのか、あれはアビドスの今後を左右し得る話だった。

 そもそも私がもっと強ければ、あのゲヘナ風紀委員会も此処に来なかった――そんな単純な話ではない、私の手は、そこまで広くもなければ大きくもない。

 また喪うのか、先輩(会長)の時みたいに、私はまた、守れずに――そんな事を考えるな、違う、先生は違う、五月蠅い、黙れ黙れ黙れ黙れッ!

 

「――黙ってよッ!? 先生は違うッ、いなくなったりしないッ!」

 

 胸の中にジワリと広がる恐怖と不安に、ホシノは圧し潰されそうになった。先生から流れる血、震える体、荒い呼吸、悪化していく顔色、それらすべてがホシノの感情を嘲笑うかのように感覚を揺さぶり続けた。それに対抗する為にホシノは叫んだ、胸の中に巣くうもう一人の自分は、ホシノの抱く罪悪感そのものだった。

 叫ぶと同時に、涙が出た。それが悲しいからなのか、悔しいからなのか、情けないからなのか、ホシノにはもう分からない。ただ、どうしようもない程に不安で、悲しくて、堪らなかった。

 

「はーッ、はーっ、は、はーッ……――」

「ッ――先生? 先生ッ!」

 

 先生の呼吸が、焦点が、徐々に整う。それが薬効なのか、或いはただの小康状態なのかは、ホシノに判断はつかない。ただ先生の血に塗れた手を強く握り締め、ホシノは先生の背中を摩り続ける。

 

「は――コホッ……大丈夫、だよ、ははッ、ちょっと、ゲホッ、(むせ)た……だけ」

「咽ただけって……ッ、こんな、血まで吐き出してッ!」

「トマト、ジュースさ……」

「これの、どこがッ――!?」

 

 先生は力ない笑みを浮べて、云った。この期に及んで尚、何でもない様振る舞おうとする先生に、ホシノの顔がくしゃりと歪んだ。それ程までに、頼りないのか、自分は。そう思ってしまう程に、先生は優しく、強く――残酷だった。

 いや、違う、ただ先生は生徒に心配を掛けまいと虚勢を張っているだけだ。それは分かっている。先生は大人だ、どこまでも大人なのだ。自分は先生にとって守るべき対象で、頼るべき対象ではなかった。戦力としてならば兎も角、平時の自分はこんなにも弱く、脆く、頼りない。それを突き付けられたようで、ホシノはきつく唇を噛み締め、俯いた。先生に、そんな意図がないと分かっているのに。何も出来ない自分が、役に立てない自分が、情けなくて、無様で、嫌いで嫌いで、仕方なかった。

 それを声に出すべきではないのに、云うべきではないのに。弱いもう一人のホシノが、言葉を紡ごうと口を開いて――。

 

「先生、私は――ッ!」

「――少し、退いてくださる?」

 

 声は、直ぐ真後ろから降って来た。

 どこか感情を押し殺したような、冷たい声。ホシノが驚きと共に振り向けば、其処には狐の面を被った和服の少女が立っていた。先生は緩慢な動作で首を動かすと、背中越しに彼女を見つめ、呟く。

 

「ワ、カモ……」

「はい、あなた様――このワカモ、あなた様のお傍に」

 

 云うや否や、彼女はホシノを押し退け、手にぶら下げていた小型のケースを開いた。中には薬品と思わしき注射器とアンプルがずらりと並んでおり、ホシノは突然の事に目を瞬かせる事しか出来ない。ワカモはその中から迷いもなく一本の注射器を手に取ると、日に照らして表記を注意深く確認する。

 

「こほッ! ゴホッ……それは、TVS-148……かい?」

「はい、シャーレ医療庫から拝借致しました」

「……どうせ、なら……151番を、使ってくれ、ゲホッ」

「――151」

 

 先生の言葉に、ワカモの視線がケースの中へと落ちる。並んだ注射器とアンプルを順に眺め、『TVS-151』の表記を見つけた。手に持っていた注射器を一旦戻し、先生の指定した注射器を手に取る。プラスチックケースを取り外しながら、ワカモは問い掛けた。

 

「……副作用は」

「――ちょっと、痛いだけさ」

 

 ふっと、苦笑いとも、強がりとも云える笑みを零す先生。それを見たワカモは一瞬、仮面の奥で目を閉じ――それから注射器を先生に近付けた。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ、先生に何を――!?」

「見て分かりませんか、御救いするのです、この御方を」

 

 ワカモはホシノの言葉に視線を向ける事もなく、ただ淡々とした口調で云った。淡々とはしていたが、そこには邪魔をするならば撃ち殺してやると、そんな悍ましい感情すら見え隠れしていた。

 ホシノは先生とワカモを交互に見つめ、それからぐっと歯を噛み締め、ワカモの反対側へと回って先生の手を握り締める。選択肢はなかった。

 

「……先生、打つ箇所は?」

「ゴホッ……胸に直接、頼む」

「――承知致しました」

 

 小さく頷いたワカモは、先生の服を掴む。

 こんな状態でなければ、尻尾を振り回して喜びたいような仕草――しかし、余りにも強い血の匂いがワカモに現実を認識させる。せめて、痛みが無いように――そんな事を想いながら先生の制服を捲ったワカモは。

 

 視界に広がる夥しいまでの傷痕に、言葉を失った。

 

「これ、は――?」

「ぇ……――」

 

 反対側から覗き込んでいたホシノは、思わず叫びそうになり、手で口を抑える。同時に、先生を握り締める手に、強く力が籠った。

 ホシノの目に映るのは腹から胸にかけて広がる大小様々な傷、小さな切創から爆創、銃創、擦過傷、刺創まで、或いは先の戦闘で負ったものかと疑ったが、それにしては余りにも傷口が古すぎた。既に塞がり、色と凹凸の歪んだそれは、もはや古傷だ。

 恐らく――先生が、このキヴォトスではない、どこかで負った傷だと思った。キヴォトスに来てから負ったにしては、余りにも多すぎる。まるで傷の上から傷を作る様に、夥しく連なるそれは何か、目に見えない情念が籠っている様にも思えた。

 ふと、ホシノの脳裏に、嘗て先生と交わした言葉が過る。

 踏み込んではいけないと、そう自分に言い聞かせた筈なのに。それを裏付ける様な証拠が目の前に現れ、どうしようもなく心臓が早鐘を打った。そんな話があるのか? あり得るのか? でも目の前のこれはどうだ? 先生は、本当に? 考えるな、違う、そうじゃない、今、大事なのは――。

 言葉を失い呆然とする二人に、先生は苦痛に顔を歪めながら、恥ずかしそうに、云った。

 

「アビドスに来て、結構、経つからね……腕や足は兎も角、こっちは、サボっちゃったよ……こほッ!」

「――…………っ」

 

 その言葉に、ホシノの表情が歪む。ワカモは仮面で表情は分からなかったが、確かに強い感情の揺らぎをホシノは感じた。腹や胸周りの傷と、不自然な程綺麗な先生の腕――そこから推察するのは、それ程難しい事ではなかった。

 ワカモは仮面の奥で強く歯を噛み締め、注射器を握る。思う所はある、尋ねたい事だって、山の様に。けれど、あらゆる感情と疑念を呑み込み、ワカモは役目を全うする。今此処で必要なのは、感情的になって喚き散らす木偶ではない。理性的に考え、行動し、先生を救う生徒だった。

 

「……信じております、あなた様」

「あぁ――頼む」

 

 強く、ワカモは言葉を紡ぐ。

 先生が頷く様を見届け、ワカモは注射器を一息に先生の胸元に打ち込んだ。薬品のメモリが目減りし、先生の体内へと消えていく。その様子を二人は、固唾を飲んで見守った。

 

「………うッ――ゴホッ、えほっ! おぇ、ガ、ゲェッ!」

「っ、先生ッ!」

 

 打ち込んで、一拍――その薬品がどういうものなのか、ホシノは良く理解していない。しかし明らかに異常をきたした先生が再び血を吐き出し、胸を掴んで蹲る。ホシノは涙を流しながら先生の手を握り締め、ワカモを見て叫んだ。

 

「ねぇ本当に大丈夫なのッ!? これ、打っちゃダメな奴だったんじゃないよね……!?」

「っ………!」

 

 ワカモは空っぽになった注射器を握り締めたまま、先生の肩を掴み、唯々沈黙を守る。纏う雰囲気だけは一秒ごとに重くなっていた。しかし、心配は杞憂であった。ワカモの打ち込んだそれは確かに効果を発揮し、暫くすると先生の発作が収まり、呼吸が細く、しかし規則的となる。微動だにせず、蹲ったまま沈黙を守る先生に、両名が恐る恐る語り掛けた。

 

「先生……先生?」

「あなた様……?」

「――……」

 

 先生は地面に横たわり、虚ろな目で二人を見ていた。

 その口が小さく、囁く様な声量で、言葉を紡ぐ。

 

「ご――め……少し、ね、む――」

「……先生?」

 

 声は、殆ど吐息と変わらなかった。しかし、虚ろながらも裏に秘めた意思だけは伝わった。ワカモは先生の手を一度強く握り返し、笑顔で以て告げる。

 

「――えぇ、あなた様、万事このワカモに……お任せ下さい」

 

 先生はその一言を聞き届け、ゆっくりと瞼を閉じ――そのまま意識を失った。

 

「せ、先生……?」

「……意識を失っただけです、落ち着いて、然るべき場所に搬送を」

 

 告げ、ワカモは先生の衣服に手を伸ばす。再び目に入った、その夥しい傷跡に顔を顰めながら、捲れていたシャツを正す。それから開いていたケースを閉じると、ケースを先生の傍に寄せ、静かに立ち上がった。

 

「先生を、どうぞお願い致します、私は別途――やるべき事がありますので」

「……何処に行くのさ」

 

 ホシノが去り行くその背中に声を掛ければ、ワカモは足を止め、振り返ることなく告げた。

 

「……答える必要がありますか? 先に云っておきますと、確かに私達はこの御方の為という共通の目的で動いておりますが――私は貴女達(アビドス)の味方ではありません、徹頭徹尾、先生だけの味方です」

「……そう、ワカモ、って云っていたよね、確か」

「えぇ」

 

 ホシノも、先生の手を握ったまま俯き、振り返ることなく口を開く。

 互いに背中越しで会話する様は、酷く不気味で、空気は張り詰めていた。

 

「七囚人、災厄の狐――ワカモ……それで合っている?」

「その呼称、この御方の前では控えて頂けると――物騒な評判は、御耳に入れたくないので」

「……何でそんな生徒が先生の傍にいるのか、それは聞かないよ」

「賢明ですね」

 

 呟き、ワカモは肩越しにホシノの背中を見つめる。

 その瞳には、隠しきれない苛立ちが含まれていた。

 

「正直、先生をこのような事に巻き込んだ貴女方アビドスを、私は良く想っておりませんので――」

「……ッ!」

 

 その一言に、ピクリとホシノの肩が跳ねた。

 彼女の傍に転がった、砂に塗れた盾を一瞥し――ワカモは吐き捨てるように云う。

 

「守れない盾に何の意味がありましょう? いっその事、嘗ての様に牙を研いでは如何ですか」

「ッ――お前に、何が……!?」

「二度喪う事は、文字通り地獄と存じます」

「ッ……――!」

 

 その言葉に、振り向き、犬歯を剥き出しにして睨みつけたホシノの体が、固まった。強く握り締めた拳が震える。頬を流れる涙の残滓に、ホシノは嘗て味わった地獄の記憶を思い出した。底の底、心の奥に蓋をして、丁寧に丁寧に隠していた、ホシノという少女の根源。他者に容易に触れられたくない、自分の記憶は自分のものだ、誰に触れられ、誰に許すかは、自分で決める。少なくとも、手前勝手に触れられて気分の良いものではない。

 けれど、それを指摘された時、ホシノは漸く自分の感情に気付いた。

 何で、自分はこんなに取り乱したのか――先生が、嘗て先輩と呼び慕った彼女と同じ位、大切だからだ。

 今、自分の居場所にいる、対策委員会の仲間達と同じ位、信頼を、好意を寄せているからだ。

 先生(導く人)だからだとか、シャーレ(偉い人)だからだとか、そういう事ではない。生徒の為に必死になって、アビドスの為に奔走し、全力で手を差し伸べてくれる人だから。ホシノは先生を信じ、受け入れたのだ。

 

 ――そんな当たり前の事を、ホシノは今、漸く自覚した。

 

「その御方は私にとっても大事な、命に代えても守りたい御方です、故に『怠惰』を晒す貴女に、助言を――」

 

 狐面に手を掛け、僅かにずらし瞳を露出させるワカモ。

 金色の瞳と、色合いの異なる蒼穹の瞳が、交差する。片や憎悪と恐怖を、片や憐れみと怒りを抱き、彼女は口を開いた。

 

「既に身に染みて理解しているとは思いますが、喪ってからでは遅いのですよ、足掻きもせずに喪った時、貴女を一番責めるのはきっと――貴女自身です、小鳥遊ホシノさん」

 

 そう告げ、ワカモは踵を返し、今度こそ立ち去った。

 その背中を見つめながら、ホシノは俯き――声を絞り出す。

 腹の底からせり上がった声は、低く、唸る様だった。

 

「そんなの――云われなくたって、分かってる……ッ!」

 

 分かっている、このままでは駄目なのだと。先生は善人だ、生徒を想う――聖人だ。それはホシノの直感から来るものでしかないが、それ程的外れなものではないと強く思う。この人はきっと、生徒の為に身を削り、生徒の為に足掻き、生徒の為に苦しみ――きっと、生徒の為に死ぬ。

 助けたい、救いたい、力になりたい――そんな風に思わない筈がないだろう、手を取ってあげたいと、少しでもその荷を分けて欲しいと、そう思うに決まっている。

 

 ――けれど、この(ホシノの)手は小さいのだ。

 

 余りにも小さくて、短くて、このキヴォトスの中にある、アビドスというちっぽけな居場所を守るだけで、精一杯なのだ。

 救おうと、守ろうと、必死になって搔き集めた平穏は、いつの間にか掌からすり抜け、ぽろぽろと落ちていった。両手一杯に握り締めていた筈の未来は、いつの間にか随分と小さくなっていて、気付けばホシノは自分の居場所を守るだけで精一杯の、そこから飛び出す事も、踏み出す事も出来ない弱い少女に成り下がっていた。

 喪った事で大事なものを知り、守る事の難しさを知った少女は、宝物を得る代わりに、臆病になったのだ。

 

 アビドスと先生――両方を救うには、余りにも頼りない、この両手。

 

 ホシノはそれをぎゅっと、握り締め、先生の胸に顔を埋める。

 小さく呟いた、「ごめんなさい」の一言は――誰の耳に届く事もなく、風の中に掻き消され、消えた。

 

 ■

 

「さて――」

 

 意気消沈するホシノに背を向けたワカモは、ひとり建物の壁をよじ登り、屋上から撤退する風紀委員会を眺める。隊列は整然、足の遅い部隊を先頭に、一番の後方にはヒナ委員長が全体を見渡しながら進行している。

 ワカモは愛銃を肩に担いだまま静かに――呟いた。

 

「そろそろ()しますか、あの女(風紀委員)

 


 

 

 アビドスの皆が先生に対して感情を自覚したのに、ホシノおじさんだけそれがないっていうのは不平等だよね? だからちゃんと意思表明しなきゃ、私は先生を救いたくても救えないし、手を伸ばしても届かないし、気持ちだけで体が動かない、弱くて臆病で先生と仲間を喪う事に人一倍恐怖心を抱いている生徒ですって伝えてあげなきゃ。可愛いね♡ でも大丈夫、先生を信じて。どれだけホシノが自分を嫌悪しても、否定しても、先生は絶対にホシノを見捨てないし、けなしたりしない。どれだけの傷を負っていても、どれだけの苦痛があったとしても、強く抱き締め、頭を撫で、「大丈夫だよ」って云ってくれる。

 

 どんな困難でも生徒の為ならば耐えられる。

 どんな障害でも生徒の為ならば乗り越えられる。

 文字通りどんな犠牲(先生限定)を払っても、どんな悲惨な結末(先生限定)が待っていても、先生は生徒達が居る限り、希望ある未来を信じて進み続けられるんだ。

 だから見ていてねホシノ、君の大好きな先生の雄姿を……!

 

 良いなぁ、羨ましいなァ、この世界の大多数の生徒は。

 先生に想われて、その無尽に等しい愛を享受しながら、何の心配も憂いもなく、ただ諾々と希望ある明日を信じられる今は眩しくて楽しくて仕方ないよなぁ。これから続く未来には楽しい事や嬉しい事が沢山あって、自分達と先生が仲良くそこで笑い合っている未来が、当たり前の様に広がっていると、そう無垢なまでに信じられる今が、どれだけ幸せなのかを知らないんだろうなぁ。

 

 その平和は先生が血反吐を撒き散らしながら歩み続け、人生すべてを掛けて築き上げた、血で固めた砂の城だという事を、彼女達は空を見上げるばかりで気付いていないんだ。だから足元が崩れ始め、はじめて自身の足元を見ろした時、血塗れの先生の上に立っている自分の姿に愕然とするんだ。先生の些細な違和感や、謎の多い部分に触れずに、鈍感に、優しさに、無垢に生きていたからこそ。

 けれどその無垢こそが、優しさこそが、鈍感こそが、先生の望んだありし日の生徒の姿だから、先生はそれを責めたりしないし、寧ろそうなってしまった事で、自分を死ぬほど責めるんだ。ただただ、彼女達の平和を、平穏を、日常を守れないのは自身の力が、考えが、想いが足りないからだと。

 

 それが不信だとか、自己嫌悪だとか、そういう感情から生まれたものではない――ただ生徒を信じ、想っているからこその行動なのが一番辛いんだよ。分かっているの先生? 素敵だね♡ うぅ、先生の血反吐撒き散らす姿が格好良すぎて直視できない……毎秒血を吐いて先生……。



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だから今日を、生きて行く

誤字脱字報告はね、静かで、豊かで、何というか救われていなきゃダメなんだ。


 

「はぁ……」

「イオリ、大丈夫ですか?」

 

 風紀委員会の隊列、その最後尾付近でヒナの前を歩くイオリは、後方で全体を見渡す委員長の姿に怯えながら、呟く様な声量で云った。

 

「ショットガンで脇腹撃たれた上に、がっつりお腹に連射喰らって、部隊は吹き飛ばされるわ、先生にはセクハラされるわ……いや、アレは私が悪かったのだけれど――その上でアコちゃんに怒られるし、委員長には睨まれるし……今日はついていない」

「それは……まぁ、そうですね」

「……あのさ、その可哀そうな犬でも見る様な目、やめてくれないか?」

「……お互い様ですよ、イオリ」

「……そうか」

 

 チナツのどこか疲労感を滲ませる一言に、イオリは項垂れながら答えた。

 そんな言葉のやり取りを行う二人を尻目に、ふとヒナが足を止める。

 背後から鳴っていた委員長の足音が聞こえなくなった事に、前を歩いていたチナツとイオリが気付き、振り返った。

 

「……委員長?」

「――イオリ、チナツ、部隊の皆と先に行っていて」

「え、何で――」

 

 イオリが思わず疑問の声を上げるが、じろりと鋭い眼光を向けられると、言葉を呑み込みおずおずと頷いた。

 

「わ、分かりました」

「りょ、了解」

 

 委員会の面々は、ヒナを置いて先行する。その背中が公道の向こう側に消えていく事を確認しながら、ヒナは愛銃の安全装置に手を添えながら告げた。

 

「……そろそろ出て来たらどう?」

 

 声は虚空に響く。暫く、何の反応もなく、ただ佇んでいたヒナであったが――暫くして、ヒナの前に一つの影が落ちて来た。

 

「――流石、ゲヘナ風紀委員長という所でしょうか」

 

 まるで影の様に、音もなく着地をした少女はヒナと対峙する。そこには愛銃を肩に絡め、見下すようにして立つ仮面の生徒――ワカモの姿があった。

 仮面越しに見つめるワカモの視線と、ヒナのそれが交差する。

 ヒナとワカモのグリップを握る手に、力が籠った。

 

「……そんな殺気を振り撒かれながら云われても、正直困るのだけれど」

「別段――貴女に対しては抱いていませんよ、『それ程』は」

 

 そう云って肩を竦めるワカモは、どこか気怠そうに問いかける。

 

「本命は貴女ではないので、そこを退いて頂けませんか?」

「退いたら、ヘイローを破壊するのでしょう? 狙いは――イオリとアコ、かな」

「えぇ、その通りです、残念ですが先生を害した生徒と、それを目論んだ生徒……害悪は取り除かなければなりません」

「害悪? あなたのそれは、私怨でしょうに――」

「………」

 

 ヒナの言葉に、ワカモの纏う雰囲気がぞっとするものに変わった。

 しかし、それは一瞬の事、瞬きの間にワカモはその感情を内に秘め、淡々とした口調で答える。

 

「認めましょう、私は個人的な感情で貴女の部下を始末したくて仕方がない……正直なところを申しますと、貴女個人も屠りたい気持ちがあるのですよ、私は、――ですが」

 

 言葉を一度切ったワカモは視線をヒナの後ろへと向け、既に背中が見えなくなった風紀委員会の面々を見据える。

 

「今回は部下の暴走と聞いております、貴女はゲヘナにとって重石の役割も果たしていらっしゃる様ですし、見逃しましょう――私も徒に先生を悲しませる真似はしたくありませんので」

「見逃す、ね」

 

 ヒナは呟きながら、その視線を鋭く絞る。目の前の存在がそれだけの大口を叩くだけの実力を持っている事を、ヒナは薄々感じていた。そうでなくとも黒を基調とした制服に狐面を被る生徒など――有名過ぎて誰かと疑る必要すらない。

 厄災の狐、ワカモ。

 SRT特殊学園、FOX小隊が捕縛した事を除けば、ほぼすべての自治区で自儘に暴れ倒し、誰に捕らえられる事もなかった七囚人がひとり。情報部出身でなくとも、多少SNSを齧っていれば耳にした事はある。正面から戦って負けるとは思わない。しかし、簡単に倒せるとも思わない。

 自然、ヒナの纏う雰囲気は重く、鋭いものとなっていく。

 

「ここであの二人を殺害すれば、アビドスや便利屋は勿論……シャーレに疑いの目が向くと思うけれど」

「あぁ、その辺りは問題ありません」

「……?」

 

 ヒナが訝し気に彼女を見ると、ワカモは仮面の下で薄ら笑いを浮べながら答えた。

 

「総て、事故として処理される筈ですから」

「―――」

 

 誰も、馬鹿正直に殺害する気などない。

 物的証拠も、何一つ残す気もない。

 本来ならば、こうして敵対する組織のトップに姿を晒す行為すら危うい。しかし、それだけでは動けないという確信がワカモにはある。ワカモの持つ銃で、真正面から風紀委員のヘイローを破壊すれば、確かに問題だろう。使用された弾薬、傷口の大きさ、施条痕、それらで誰が何で(どの銃で)、どのように撃ち殺したかなど即座に露呈する。

 

 しかし――なにも銃殺だけが葬る方法ではない。

 

 幸いな事に、このアビドス自治区には老朽化し、崩れ落ちたとしてもおかしくない建物が幾つもある。或いは中途半端に開発された状態で砂嵐によって住民が退避し、そのまま手付かずになっている工事現場。或いは錆びた高架。或いは廃棄されたものの中途半端に燃料が残り、機関部も剥き出しになった車両――。

 ふとした瞬間、或いは何らかの運命のいたずらで、致命傷を負いかねない要因は幾つも転がっている。ワカモはそれを、少し後押しするだけで良い。すべては偶然だ。偶然、横合いの建物が崩れ、或いは橋が落ち、廃棄された車両が爆発し、頭上からクレーンが落ちて来る。此処は、そういう場所なのだ。

 

 万が一それが露見したとしても、ワカモという生徒は書類上百鬼夜行連合学院所属、シャーレという文字は学籍の何処にも存在しない。先生との愛の巣に当分帰れなくなるのは悲しいが、またキヴォトス内部をのらりくらりと転々とするだけの話。勿論、先生に知られてしまえば悲しませてしまうので、露見など絶対にさせないが。

 大丈夫だ、目の前の生徒が幾ら先生に訴えかけたとて、高が知れている。そして先生は片方の生徒の意見のみを聞き判断を下すような事はしない。(ワカモ)は愛されている、(ワカモ)は大切にされている、(ワカモ)は嫌われたりしない。

 先生の愛は――絶対だ。

 

「まぁ、その際一緒にヘイローを喪ってしまう方々には、少々酷な事でしょうが……私にとってはあの方以外すべて些事――どうという事ではありません」

「……先生に露見すれば、怒られるだけじゃ済まない」

「先生に対する脅威をそのままにしておくよりは百倍宜しいでしょう? ――勿論、そんなヘマは致しませんが」

 

 ワカモは何でもない事の様にそう云って、仮面の奥で嗤った。

 やると云ったらやる、ワカモはそういう生徒だった。少なくとも先生に関しての事柄は、欠片も手を抜くつもりはない。

 くつくつと喉を鳴らすワカモは、身長差からヒナを見下し、告げる。

 

「先生の愛、先生の安全、両方守るのが妻の役目ですもの、ねぇ?」

「……気狂いね」

「――ふはッ」

 

 ヒナの吐き捨てる様な言葉に、ワカモは不気味に鼻を鳴らした。

 

「どの口で仰るのでしょうか? 或いは、自覚がないのか」

「……何?」

「――貴女とて、先生に対して特別な感情を見せているではありませんか」

「っ―――」

 

 ワカモの喜色すら滲ませたその声は、ヒナの鼓膜を強かに打った。ぴくりと、彼女の肩が跳ねる。図星だった。

 

「あの方とは初対面の筈でしたよね? だというのにあの方を見る貴女の目には、初対面の人間が抱かない様な、拘泥たる想いが見え隠れしている……他の風紀委員には見られない感情が、貴女には見えていらっしゃるのですよ」

「………」

「それは一体、何故なのでしょうか?」

 

 ワカモの問いかけに、ヒナは暫くの間口を噤んだ。

 自身の胸内に渦巻く感情に、自分自身戸惑っているからだった。それが何なのか、己でも釈然としない。

 

「……正直、私にも分からない、シャーレの先生と会うのは初めて、けれど――妙に、胸がざわつく」

 

 自身の胸元を掴みながら、ヒナは言葉を零す。

 

「あの人を見ていると、悲しくて、辛くて、血が凍るような感覚がある、私が私じゃなくなるみたいに、だから妙に――放っておけない」

「ならば、猶更退いて下さいな、先生を害する存在は生かしておく理由がない、そうでしょう?」

「――それは出来ない」

 

 ワカモのそれに、ヒナは強い否定を返し――一歩踏み出した。

 

「私はゲヘナ学園風紀委員会の委員長、部下を守る義務と責任がある……今回の件に関する叱咤は、私の役目――あなたのソレは、私刑に過ぎない」

「ふぅむ」

 

 ヒナの啖呵にワカモは唸り、酷く痛ましいモノを見る様な目で彼女を見つめた。

 

「……難儀なモノですね、力があっても、器がそれに見合わないというのは――いえ、器はある、しかし得手、不得手が合わぬ、という所でしょうか」

 

 呟き、ワカモは愛銃を構えた。

 

「貴女は事実、人の上に立つ器の様です、ですがそれ自体を貴女は疎んでいる……場所さえ違えば、望むように生きられたものを」

「――随分と、知った風な口を」

「ただの感傷です、それに――邪魔をするのなら、誰であろうと消す、それだけの事ですから」

「…………」

 

 ワカモの銃口と、ヒナの銃口が互いに交差する。

 互いの腹は決まっている、双方譲るつもりも、退くつもりもない。そうなれば自然、帰結は一つ。

 

 ――アビドスの辺鄙な街角で、重々しい銃声が同時に鳴り響いた。

 

 ■

 

 白い部屋、白い廊下、無機質に並んだ淡い緑色の椅子を、白い蛍光灯が照らしている。そんなアビドスの寂れた病院の一角で、対策委員会と便利屋の皆は今か今かとひとりの生徒を待っていた。そんな彼女達の視界に、ピンク色の髪の少女が廊下から歩いて来るのが見える。

 

「っ、ホシノ先輩ッ!」

「先生は――」

 

 一斉に立ち上がった皆が少女――ホシノに声を掛け、当の本人は緩く手を振りながら答えた。

 

「うへ、取り敢えず、命に別状はなさそうだって、先生が用意していた薬品が効いたみたい、でも暫くは面会謝絶、大勢の生徒が押しかけて、話すだけでも体力が必要になるからね~」

「そう、ですか……」

 

 呟き、アヤネは深く椅子に座り込む。皆一様に先生の容態を知り、ほっと胸を撫で下ろした。

 風紀委員会との戦闘後、皆に車両の探索を頼んだ先生は時間を置かず倒れ、失神した。その後、先生の云う車両が全く見つからなかったアビドスと便利屋の面々は困惑し、ホシノからの一報を聞きつけ帰還。倒れた先生に大騒ぎしながら、即興の担架を作り上げ、アビドスで稼働している病院に慌てて搬送――という流れであった。

 先生が血を吐いて意識不明と聞いた時は、全員血の気が引いたものだ。しかし、どうやら先生自身この状態を見越していた様で、先生の近場には医療品の入った小型ケースが転がっており、そこから必要な薬品を投薬し終えると同時、意識を失ったとの事。

 つまり、先生は自分の状態を理解して尚、あのような暴挙に及んだという事になる。何が大丈夫だと、アビドスの皆は内心で吐き捨てた。起きたら説教である、絶対に逃がしなどしない。それだけは皆の共通認識だった。

 

 一先ず先生の無事を聞き、安堵の空気が流れている中、セリカが何かを決意したように立ち上がる。

 

「っ、やっぱり、私……!」

「――セリカ、それは駄目」

 

 立ち上がったセリカに目を向けたシロコが、淡々とした口調で告げた。

 セリカが思わず顔つきを鋭くし、声を荒げる。

 

「ッ、でも、シロコ先輩……っ!」

「先生が許した以上、ここから先は私怨になる、セリカは自分の鬱憤を晴らす為だけに、ゲヘナに喧嘩を売りに行くの?」

「……~っ」

 

 その言葉にセリカの表情が歪む。私怨――そう云われて、否定する事がセリカには出来なかった。損得や論理的な理由ではない、極めて感情的な理由でセリカは動こうとしていた。

 

「それにあの時、先生の状態を知らなかったとはいえ、許すと口にしたのは私達……それは、撤回しちゃいけないし、先生も望まない」

「………そう、ですね――先生が生徒達の私闘を望むとは、とても思えません」

 

 アヤネがセリカを見上げながら、ぐっと拳を握り呟く。

 そんな対策委員会の面々を見ていたカヨコは、椅子に座ったまま平坦な声色で告げた。

 

「巻き込んだ私達が云うのもお門違いかもしれないけれど、向こうが正式に謝罪して、賠償まですると云っているのなら、それを一方的に蹴って開戦した場合、非はアビドスにもあるって云われても仕方ない――損得で考えても、此処は堪えた方が良い」

「っ、分かって、いるわよ……!」

 

 理性的なカヨコの言葉に、セリカは音を立てて椅子に深く座り込む。理屈では分かっている、しかし胸にわだかまる、何ともしがたい苛立ちがこびり付いて仕方なかった。

 

「先生も、何であんなになるまで我慢をしていたのよ……」

「皆に心配されたくなかったんでしょ~? あの先生は――そういう人だよ」

 

 アルの呟きに、ムツキは肩を竦めながら答える。ギリギリまで容態を隠し、元気であるかのように振る舞う。あの先生のやりそうな事だと、ムツキは内心で吐き捨てた。何より一番腹が立つのが、そんな先生の状態に気付かず、どこか楽観視していた自分自身だった。

 

「……あ、あの、た、大将さんも、此方に入院する事になるのでしょうか?」

「――あっ、確かそうですね」

 

 どこか険悪な雰囲気になりつつある待合室に、ハルカはふと思い立った事を口にする。

 先生を病院に運び込む際、倉庫で息を潜めていた大将も合流し、共に診察を受けていたのだ。幸い大きな怪我はなかった様だが、爆発に巻き込まれたという事で念の為検査入院となるらしい。傍から見ると直撃を受けた便利屋がピンピンしていて、爆発範囲から離れていた大将が入院とは、何とも不思議な話ではある。

 無論、それはアロナの展開した防御壁の影響であるが、それを知るのは先生とアロナのみであった。

 

「……先生は面会出来ないそうですし、一度様子を見に行ってみましょうか?」

「そ、そうね、御店の事も謝らなくちゃならないし……うぅ」

「別に、アンタ達のせいじゃないでしょ?」

「いえ、でも、ほら……私達があの場に居なければ、御店だって壊れなかった訳だし……」

「なんかアルちゃん、段々とハルカちゃんみたいになってない~?」

「なッ、ち、違うわよ! ただちょっと色々あって、ネガティブになっちゃっているというか……っ!」

「あ、アル様とお揃いですか? こ、光栄ですッ!」

「病院では静かにね、二人共」

 

 席を立ち、移動を始める便利屋。その後にアビドスも続き、その最後尾でノノミとホシノが並ぶ。ふと、ノノミがホシノを見下ろしながら呟いた。

 

「……ホシノ先輩、大丈夫ですか」

「――うへ、何の事かなぁ?」

「何かあったって顔、していますよ」

 

 横合いから放たれるノノミの視線に、ホシノは一瞬言葉を詰まらせた。

 ノノミはいつも通り、柔らかな表情を浮かべている。しかし、その瞳だけは真剣にホシノを捉えていた。いつも通りに振る舞うホシノの中に、妙な硬さがある事に気付いたのだ。

 ホシノはノノミと視線を交差させた後、恥ずかしそうに頬を掻いた。

 

「――そんなに分かり易かったかな」

「いえ、いつも通り振る舞えていると思います、ただ――」

 

 一度言葉を切り、ノノミは前を見据えながら云う。

 

「目だけが冷たいんです、氷みたいに――酷く」

「………」

「先輩も、ゲヘナに仕返しとか――」

「大丈夫、そんな事、考えてもいないよ」

 

 ホシノはノノミの言葉を遮り、断じた。

 別段、風紀委員会に仕返しをしたいとか、そういう事を考えている訳ではない。それは本当だ。それをやっても先生は喜ばないし、誰も幸せにならない。アビドスの立場を悪くするだけの悪手だとホシノは良く理解している。

 だから、偏にホシノが悪感情を抱いているとすれば、それは――。

 

「――ただ、どこまでも小さい私の手に、嫌気が差していただけ……守るために盾を取ったのに、何も、何一つ守れちゃいない、先生の体も、心も……」

 

 ――そして、アビドスすら。

 

 呟き、両手を見下ろしながら強く握り締めるホシノの姿は、とても小さく見えた。只ですら矮小な彼女の体が、一回りも二回りも。けれど、その分だけ底冷えする空気を感じた。ホシノの内に巣食う、自身への苛立ちだとか、憎悪だとか、失望だとか、そういった感情が一心に己へと向かっているのだ。

 その在り方は奇しくも――いつか、セリカを救う前夜の『先生』に似ていた。

 

「……そう、ですか」

 

 そう答えて、ノノミは目を瞑る。

 自身の手の小ささに絶望し、力なき事を嘆く。

 それは――良く、理解出来る感情だったから。

 

 ■

 

「大将、お見舞いに来ました」

「大将、大丈夫?」

 

 大将の入院する病室へとやって来たアビドス、便利屋の面々。本当なら皆で押しかけては迷惑かとも思ったのだが、四人部屋で他に患者もなく、大将ひとりだけという話を聞き、早々に切り上げる事を条件に皆が病室へと踏み入った。

 

「おぉ、セリカちゃん、アヤネちゃん、アビドスの生徒さん皆で来たのか、それに……

 便利屋の生徒さんも」

「やっほ、大将、傷の具合はどう~?」

「大した事はねぇ、ちょっと擦りむいただけだ、実際検査入院だし、早けりゃ明日にも退院よ」

 

 入院ベッドに入り、上体を起こした大将は肩をぺちぺちと叩きながらそう告げる。見た目、確かにそこまで傷はなく、多少表面を擦ったり切ったりした程度であった。一先ず大将の無事に胸を撫で下ろした皆、そんな中アルが一歩踏み出し、気まずそうに大将へと声を掛ける。

 

「そ、そのぅ、大将、御店の事なのだけれど……」

「ん? あぁ、気にすんな、というか便利屋の生徒さんが謝る様な事じゃないだろう? 寧ろごめんなセリカちゃん、バイト先なくなっちまって」

「そういう問題じゃないわよ、大将……」

 

 セリカが呆れたようにそう云えば、大将はカラカラと笑って驚くべき事を口にした。

 

「――()ってもよ、そもそも、もう直ぐお店も畳む予定だったからなぁ、予定がちぃと早くなっただけだ」

「えっ、はぁ!?」

「お、御店を……?」

「ッ!」

「うそッ!?」

 

 それはアビドスにとっても、便利屋にとっても寝耳に水であった。信じられないと、驚愕の顔で皆が大将を見れば、彼は何でもない事の様に後頭部を掻きながら言葉を続ける。

 

「少し前から退去通知を受け取っていてな、どっちにしろあの場所で店は続けられなかったのよ」

「た、退去通知って、何の話ですか? アビドス自治区の建物の所有者は、アビドス高校で……!」

「――そうか、君達は知らなかったんだな」

 

 アヤネが焦燥感を滲ませて捲し立てれば、どこか気の毒そうな表情を浮かべた大将が告げる。

 

「……何年も前の話だが、アビドスの生徒会が借金を返済出来なくて、建物と土地の所有権が移ったんだ」

「えっ!?」

 

 その声は、アビドス全員のものだった。

 そんな話は聞いた事が無い、そんな話は知らない。全員の思うところは同じだ、セリカが動揺から視線を泳がせ、問いかける。

 

「う、嘘、アビドス自治区なのに!? じゃあ、今は一体誰が……!?」

「悪いね、名前はちぃと、出てこないが……」

「そんな……でも、そういう事なら――」

 

 何か思いつめた表情で唇を噛み、一つ、二つ、独り言を呟いたアヤネは、皆を見渡し口を開く。

 

「皆さん、先に学校へ戻っていて下さい、私は少し、確認する事が出来ました……ッ!」

「あ、アヤネちゃん!?」

 

 誰が止める間もなく、アヤネは病室を飛び出す。その背中を見ていたセリカは、同じように飛び出し、扉の前で止まると皆を振り返って云った。

 

「よ、良く分からないけれど、私も行くわ! 一人より二人だしっ! ノノミ先輩とシロコ先輩、あと委員長は先に戻っていて! それと大将、まだ引退とか考えないでよっ! 分かった!?」

 

 それだけ云うと、アヤネに続いて病室を飛び出すセリカ。遠くから、「院内では走らないで下さい~!」という声と、「ごめんなさいっ!」という彼女の声が響いた。

 

「……また、知らなきゃならない事が増えたね」

「ん……」

「そうみたいですね……――大将、どうかお大事にして下さい」

「あぁ、ありがとうな」

 

 厳しい表情を浮かべるアビドスの皆に、内心で悪い事を云ってしまったかと思う大将。それが分かったからこそ、これ以上空気を悪くする前にと、ノノミ、シロコ、ホシノの三名は病室を後にした。

 

「……それじゃあ、おじさん達は行くよ、またね、便利屋68の皆~」

「またお会いしましょうね☆」

「またね」

 

 手を振って病室を出ていく三名、それに便利屋の面々は手を振り返す。

 

「あっ……え、えぇ!」

「ばいば~い」

「ま、また……」

「………」

 

 病室には便利屋と大将だけが取り残された。アルは暫く口を噤み、やがて何かを決意し、一つ頷いて見せる。

 

「――ムツキ、『アレ』、出してくれる?」

「アレ?」

「そう、私達が最近手にした――アレよ」

「ん~? もしかして、アルちゃん……」

 

 ムツキが少しだけ驚いたような顔でアルを見れば、彼女は大将を真っ直ぐ見据えたまま呟いた。

 

「大将もアビドスも、悪くないって云ってくれるけれど、こういうのはキッチリさせないと後味が悪くて嫌だもの、私の目指すアウトローって、そういうものだから……!」

「……くふふッ、さっすがアルちゃん、恰好良い~!」

 

 そう云って笑みを零したムツキは、持っていた無限容量(なんでも)バッグから、幾つもの紙袋を取り出した。ぱんぱんに膨れたそれを受け取ったアルは、大将のベッドへと近付く。

 

「大将、少し宜しくて?」

「お、おう?」

 

 どこからともなく出て来た大量の紙袋に面食らった大将は、そのまま紙袋を押し付けられ、困惑の表情を浮かべた。

 

「これを御店の再建に使って頂戴」

「再建って、こりゃ一体――」

 

 呟き、中を覗けば――そこには目が眩む様な札束がぎっちりと入っているのが見えた。思わず目を白黒させ、目の前のアルと便利屋を凝視する。

 

「おめぇさん、こりゃあ……」

「ゲヘナからも費用は出るでしょうけれど、何時になるか分からないし、私達も柴関のファンなの、大将のラーメンが食べられなくなるのは嫌よ――だから、引退なんてしないでね」

 

 それだけ云うと、アルはコートを靡かせ出入口へと向かった。

 

「行くわよ、皆!」

「あ、アル様……は、はい! 一生ついて行きますッ! た、大将、それでは!」

「くふふッ、それじゃあ大将、お大事にね~!」

「……また、ラーメンを食べに行くから、身体は大事にして」

 

 一足先に病室を後にしたアルを追って、残りのメンバーも大将に一言告げ、退出していく。嵐の如く去って云った便利屋の背中を見つめ、暫くの間大将は残された紙袋に目を落とし、それからそっと呟いた。

 

「――本当なら、引退してゆっくりしようと思っていたんだが……」

 

 ぎゅっと、手渡されたそれを抱きしめ、笑みを浮べる。

 

「これだけされちまって、待っているなんて云われたら……引退なんて、出来っこねぇわな」

 

 ■

 

「ふぅ~……我ながら、最高にアウトローだったわね」

「は、はい! 輝いていましたよ、アル様!」

「アウトローっていうより、単なる良い人だったと思うけれど……」

 

 アビドスの病院を後にし、沈みかけの太陽を背に歩く便利屋は事務所へと向かって歩く。四人揃って無人の道を行くその姿、アルの表情はどこか清々しく、口元には笑みが浮かんでいた。

 アルはふと振り返ると、背中に続く三人に向かって口を開く。

 

「まぁ、今日は色々な事があったから、少し奮発して美味しいものでも食べて帰りましょうか……先生には悪いけれど、待っている側が元気じゃなくなるなんて、一番悲しそうな顔をしそうだし」

「くふふッ、アルちゃん、先生の事分かっているじゃ~ん」

 

 どこか茶化した様な、或いは元気づける様な声色にアルは肩を竦め、問うた。

 

「それでムツキ、お金は……」

「えっ、無いよ?」

「えっ」

 

 思わず、と云った風にムツキを二度見する。

 そこには、「何を云っているのアルちゃん?」と云わんばかりに小首を傾げる、いつも通りのムツキ(親友)の姿があった。

 

「さっき全部渡しちゃったよ? あるだけ全部」

「――………えっ」

「あ、アル様……?」

「はぁ……まぁ、そんな事だろうと思ったよ」

 

 ハルカがおずおずとアルの名を呼び、カヨコは肩を竦めながら溜息を吐く。

 アルは信じられないとばかりに目を見開き、身体を硬直させていたが、ややあって震え出すと空に向かって白目を剥き、絶叫した。

 

「な、ななな、なん、なんですってッ~!?」

 

 声は日の沈み始めた茜色の空に、良く響いた。

 

「えっ、ちょ、え……全部って、あれだけあったお金、文字通り全部!? 一円も残さずにッ!?」

「うん、文字通り全額、私の持っていた分、全部渡したよ?」

「なっ……ばっ――が、ぁ………!」

 

 ムツキの暴挙にアルは言葉を失くし、ぱくぱくと口を開閉させる。蒼褪めた彼女の表情を見つめながら、ムツキは心底楽しそうに笑って云った。

 

「だってそうした方がアウトローっぽいでしょう? お金を渋って渡す何て、ポンと一億円くれた、『覆面水着団』とは反対の行為じゃーん、そんなの、アルちゃんの目指すアウトローでハードボイルドじゃないよ~?」

「―――」

 

 その、的確にアルの心を穿つ言葉に今度こそアルは完全に機能停止する。

 確かに、自分の中にあるアウトロー像、ハードボイルド像に、金を出し惜しむ様な場面は存在しない。寧ろ、眩い程の大金をポンと手渡し、「私には必要ないものだ」とばかりに去っていくクールな背中こそが理想。あの覆面水着団の様に、そう、あの覆面水着団の様に!

 故に、今回のロールは最高だったと云える。その点を考えればムツキの言葉はハードボイルド点数百点満点、文句の付けようがなかった。

 

 ――それはそれとして、無一文になったのは大問題である。

 明日からどうやって生活すれば良いのか? アルが白目を剥くのも当然の事であった。

 

「……全く、手のかかる社長だ」

「あ、あの、アル様、私はまた公園でテント生活でも全然、大丈夫ですので……」

 

 ハルカがアルを元気づけようとそう口にするものの、アルの白目は治らない。

 大抵後の事を顧みず、心の赴くままに行動するからこうなるのだ。カヨコはいつも通り過ぎるアルに呆れながらも、同時に何とも云えない安心感を覚えていた。

 まぁ、これが私達の社長だからね、と。

 

「――ほら、何してんの、行くよ社長」

「か、カヨコ……?」

 

 固まったアルに声を掛けながら、カヨコはバッグの中から財布を取り出す。

 膨らんだそれは相応の金額が入っており、指先でそれを叩きながらカヨコは苦笑を零して云った。

 

「お金の殆どはムツキに預けていたけれど、万が一に備えて私も幾らか預かっていたし、事務所にもちゃんと当面の資金位はあるから、今日少し高いご飯を食べる位は全然問題ないよ」

 

 そう告げると、蒼褪め、機能停止していたアルがみるみる復活し、涙目になりながら拳を突き上げ、カヨコに向かって叫んだ。

 

「――さ、流石我が社の会計担当ッ! 財務管理は完璧ねッ! ほんとッありがとう! 愛しているわカヨコッ!」

「さっきまで無一文になったと思って白目剥いていたのは誰だっけ」

「し、白目なんて剥いてないからッ! こ、これも想定内よっ! カヨコがちゃんと、こういう時の資金を確保してくれていると思ったからこそのっ……! つまり、信頼の為せる業なのッ!」

「良く云うよ……ムツキも、分かっていて渡したんでしょう?」

「え~っ、何の事ぉ~?ムツキちゃんわかんなーい」

「……はぁ」

 

 肩を竦め、カヨコは歩き出す。場所は――考えて、皆に声を掛けた。

 

「ほら、ご飯食べに行くよ、夕食時になったら混むし、早めに移動しないと」

「そ、そうね! 何を食べようかしら……?」

「この前云っていた、すき焼きとか良いんじゃない~?」

「あっ、大人の食べ物です、よね? 確か」

「この辺ですき焼きなんて食べられる場所、あったかな……」

 

 身を寄せ合い、便利屋はアビドスの街中に消えていく。

 辛い事も、悲しい事もある沢山ある。

 けれどそれでも、生徒達は日々を一歩ずつ――生きて行く。

 


 

 本編の便利屋は此処まで絡んでこないけれど、私が便利屋大好きなので是が非でも絡ませます。ストーリーライン崩れない程度にめちゃ絡ませます。便利屋が嫌いな方がいらっしゃってぇ!? いらっしゃいませんわよねぇ!? いらっしゃったら先生の手足を捥いでストレス発散してもろて。

 

 先生が這い蹲って無様に血反吐撒き散らしたからちょっと私の心に巣食う純愛欲が満たされたけれど、やっぱり人間と云うのは欲しがりなものでね、血反吐撒き散らした程度で此処まで生徒に愛されちゃうなら、本編で四肢を捥いだ時なんかもう、すんごい事になるんじゃない? っていう気持ちが沸々と湧いてくるんだ。喪った手で生徒を慰めようとして、伸ばした腕の先に何もない事に気付いて、「しまった」という顔をした先生のそれを見つめる生徒が悲しそうにする話はやく役目でしょ先生の手足は四本しかないんだぞッ! 大事に大事に一本ずつ捥いでいかないなんて人間として恥ずかしいと思わないのかしらッ!? 大人の風上にも置けないですわよッ! なんて人道的な文章なんだ涙でそう。

 

 個人的に主人公が登場しない、別視点の話を長々とされるのは苦手なので先生もそう遠くない内に復帰します。早く起きてね先生、どれだけ体がボロボロだろうと生徒と未来の為に、這い蹲ってでも病院抜け出して戦うんだよ。格好良いね、素敵だよ♡ 早くしないとアビドス沈むぞ。うぅ、先生のせいでアビドスがなくなっちゃうなんて可哀そう、私耐えられない……。

 今度はアロナの障壁なんて甘え許さないからね、ちゃんと真正面から堂々と攻撃を受けようね。その時の先生は美しい……。

 

 本編では先生が無様に血反吐撒き散らす場面でホシノに同席させたけれど、やっぱりアビドス編の主人公は対策委員会、その中でもホシノって感じあるから、ホシノには限界まで先生に寄り添って生きて貰いたいなぁっていう私なりのサービス♡なのです。これにはホシノも涙を流して喜んでくれるやろなぁ……。良い事をすると気持ちが良いね。 

 

 因みに此処でホシノも存在しない車両探索に駆り出された場合、裏路地で一人寂しく血反吐撒き散らしながら注射を打って、ワカモに介護されながらふらふらの体に鞭打って、何でもない様な顔をして皆の元に帰るぞ! 車両なんてなかったよ先生って戻って来た生徒に、「あれ、もしかして、持ち主が戻って来ていたのかな?」なんて嘯きながら。

 

 その後はシロコにおんぶされながら、飄々とした態度で病院に担ぎ込まれて、「まぁ、そんなに大きな傷じゃないと思うし、先に帰って良いよ?」と云う先生の言葉を押し返し、便利屋とアビドスは揃って待合室で待機して、確かに見た目は酷かったけれど、此処まで確り受け答えも出来ているし、もしかして本当に酷い怪我じゃないのかな? ってちょっとだけ楽観視し始めた皆に、「あと少し遅れていたら、取り返しのつかないところまでいっていた」と医師に伝えられて愕然として欲しい。

 

 うぅ、肺を切除して人工心肺つけて先生……。でも生身の先生からしか得られない栄養素があると思うの、人工物より天然もの、わたくしは安全意識の高い人間ですので。無農薬先生! でも食べられなくなる位なら人工物でも良いから生きてね先生。その四肢絶対捥いでやるからな。やだ死なないで先生! うぅ、達磨(だるま)になって地面に転がる先生可哀そう……可愛いね♡ 持ち帰ってペロロ様の中に入れてヒフミにプレゼントしようよ! ヒフミ泣いちゃうじゃん、失望しましたペロロ様が爆発して先生が死にます。あーあ。

 

 カヨコ! カヨコォ~! 先生の異変に気付いて、一人だけ戻って来て先生が裏路地で惨めに喀血・吐血して蹲る姿を見てくれぇ~! 生徒が誰も居ないと油断して、いつも見せない苦痛に歪み切った表情と、今にも死んでしまいそうな覇気のなさに愕然として、蒼褪めた表情をそのままに、背後から「先生……?」って声を掛けてくれ~!

 

 それを聞いた先生がはっとした表情で振り向いて、口に付着した血を拭うのも忘れてカヨコを見るんだ。そしてカヨコが一人で戻った事に気付いた便利屋の皆が探しに来て、「カヨコ~?」ってアルの声が響き、皆に先生の状態を知らせようと口を開いたカヨコを、先生が必死で止めるんだ。

 

 口を塞いで、裏路地の隅にカヨコを抱きかかえたまま身を寄せる先生。肌に触れる先生の冷たさと震えに、カヨコは思わず先生を見て、苦痛に抗いながら必死に笑顔を作る先生を直視して欲しい。きっと先生は最初から『こうだった』んだ、全然無事なんかじゃなかったと気付いたカヨコは、先生を救う為に思考を回すんだけれど、先生の必死に作った笑みがちらついて、思考が真っ白になるんだ。頭の良いカヨコは先生が皆に心配を掛けまいとしているのが分かるし、けれどこのままだと最悪の展開になりかねない。その板挟みになったカヨコはきっと、唇を噛み締めながら「ねぇ、先生、はやく、病院いこうよ、ねぇ、みんな、呼んでいるよ……っ!」って先生の腕を掴むのだけれど、発作の収まらない先生は苦悶の声を押し殺しながら首を横に振るんだ。

 せめて自分が笑顔を作れるようになってから、せめて普通に接する事が出来るまで回復してから、そんな風に考えて惨めに隠れ潜む先生に抱かれるカヨコの心の中は如何程か。先生を喪う恐怖と生徒を想う感情の板挟みになるカヨコ、きっと少しずつ息が細くなっていく先生の腕に縋りつきながら、がちがちと鳴りそうになる歯を必死に噛み締めて、叫び出しそうになるのを堪えるのだろうね。写真撮って飾っておきたいくらい美しいべ……。

 

 この腕の中の生徒はアルでもハルカでもムツキでも良いけれど、やっぱり先生の異変に気付いてくれるのはカヨコが一番可能性が高い気がするなぁ。でもムツキが余裕のない先生を見て、本気で焦る姿とか見てみた~い。普段小生意気で小悪魔なムツキだからこそ、いざそういう場面になった時の感情の震えが映えると思うんだ、泣いていてもムツキは可愛いね♡ 写真撮るよ? 笑顔笑顔! はいチーズ! うぉ、凄い形相……般若かな? でも(私が)幸せならオッケーです! 

 



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深淵へと続く道へ

誤字脱字報告ありがとうございます。
投稿が予定より一時間遅れて日付を跨いでしまって申し訳ありません。
お詫びにペロロ様が腹を切ります。


 

 風紀委員会襲撃事件、及び先生が入院する事になってから――明けて、翌日のアビドス校。

 朝早くから校門前には箒を片手に積もった砂を払うノノミの姿があった。アビドス自治区は不規則な砂嵐に見舞われており、放っておくと砂が道にも積もってしまう。ある程度風で飛ぶといえばそうだが、せめて皆が通る道くらいは綺麗にしておきたいという、ノノミの心遣いがあった。

 それに――じっとしていると嫌な事ばかりを考えてしまう、何かをしている方が多少気を紛らわせる事が出来て、楽だった。

 

「……先生」

 

 箒で砂を搔き集めながら、呟く。

 幾ら気を紛らわせようとしても頭の片隅に残り続ける不安が、ノノミの口から漏れ出た。

 そんな彼女の呟きを掻き消すように、甲高いブレーキ音が鳴り響く。ノノミがふと顔を上げると、シロコが自転車を校門前で止める所であった。ノノミは不安に暗くなっていた表情を切り替え、努めて明るく挨拶を口にする。

 

「あ、シロコちゃん、今日はいつもより早いですね、おはようございます」

「うん……おはよう、ノノミ」

 

 頷き、自転車から降りたシロコは数秒、何かを考えるようにして問いかけた。

 

「……ホシノ先輩、今何処にいるか分かる?」

「ホシノ先輩ですか?」

 

 自転車を手で押し、校門を潜るシロコはいつも通り、余り感情の読めない表情を浮かべている。ノノミはこの時間帯のホシノの行動を頭に思い浮かべながら、予想を口にした。

 

「多分、また学校のどこかでお昼寝の最中かと……」

「……そっか、ありがとう、じゃあ、先に入っているね」

「――?」

 

 そう云って自転車を押し校舎へと歩いて行くシロコ。その背中を見送りながら、ノノミは首を傾げる。何となく、いつもと様子が違う気がした。何がどう違うかと問われると、きちんと答える事が出来ないのだけれど――。

 

「シロコちゃん……?」

 

 焦っている様な、不安になっている様な、そんな空気を纏っている。

 それと、シロコが発していた最後の感情は――怒りだった。

 

 ■

 

 椅子と机の倒れる音が、教室の中に木霊した。

 場所はアビドス別館、本館の更に奥に建てられた、古い木造建ての平屋。一応教室として用いる事は出来るものの、随分前から誰が使用する事もなくなり、自然と倉庫へとなってしまった場所。町からも離れており、非常に静かである為、ホシノはこの別館で昼寝をしている事が多かった。

 それをシロコは、良く覚えていた。

 

「いたた……痛いじゃ~ん、どうしたのシロコちゃん?」

「……いつまでシラを切るつもり?」

 

 倒れた机や椅子に凭れ掛かる様にして、ホシノは苦笑いを零しシロコを見上げる。尻餅をついたホシノを見下ろすようにして立つシロコは、その表情を険しいものに変え、酷く冷たい声で問う。

 そんな物騒な音と会話は、木造で壁の薄い別館では良く響き、シロコを追ってきたノノミの耳に届いた。

 

「今の音――」

 

 呟き、ノノミは廊下を急ぐ。

 

「うへ~、何のことを云っているのか、おじさんには良く分からないなぁ」

「……嘘、つかないで」

「嘘じゃないって~……ん?」

 

 へらへらとシロコの追及を躱すホシノ、一向に本心を明かさない彼女に苛立ちを隠さないシロコ。そんな二人が険悪な雰囲気を醸し出す中、不意に教室の扉が勢い良く開いた。

 

「ホシノ先輩! シロコちゃんッ! 一体どうしたんですか!?」

 

 飛び込んで来たのはノノミ、シロコとホシノは二人揃ってノノミを見つめ、シロコは気まずそうに目線を逸らした。

 ノノミはまず、倒れた机とそれに凭れ掛かるホシノを見る。シロコがホシノに対し、強い憤りを抱いているのは明らかであった。

 

「ノノミ……」

「シロコちゃん、これは一体――」

 

 どこか厳しい表情でノノミが問い詰めると、シロコはぐっと唇を噛み、それから強い眼差しを返した。そこには何か、感情以上の何かがある様な気がした。

 

「……ホシノ先輩に用事があるの――悪いけれど、二人きりにして」

 

 鋭い視線だった。それは、或いは懇願だったのかもしれない。床に座り込んだままのホシノを見れば、相も変わらず苦笑いを浮かべる始末。ノノミは二人を見比べ、それから真剣なシロコの表情を見つめた後――いつも通りの、満面の笑みを浮べて云った。

 

「――うーん、駄目です☆」

「………えっ」

 

 その、雰囲気にそぐわぬ笑みと声色に、シロコは思わず声を上げる。

 

「対策委員会に、『二人だけの秘密♡』みたいなものは許されません、何といっても、運命共同体ですから!」

「っ……でも」

「ですから、きちんと状況の説明もしてくれない悪い子には――」

 

 そう云ってシロコに詰め寄ったノノミは彼女の胸元に指を突きつけ、云った。

 

「お仕置き☆ しちゃいますよ?」

「う、うーん……」

 

 シロコは、思わず言葉に詰まる。

 それが気遣いである事は確かであった。少なくともシロコとホシノが衝突しない為の方便である事は、人の機微に聡いとは云えないシロコにも分かった。だからこそ、その好意を前に出された時、シロコは僅かに気勢を削がれた。

 

「えっとねぇ……実は、おじさんがこっそりお昼寝していたのがバレちゃったんだよね~」

 

 不意に、ホシノが声を上げた。

 机に手を掛けながら立ち上がり、スカートに付着した埃を払う。口調はいつも通りどこか間延びしていて、特にこれと云った感情を抱いている様にも思えない。

 完璧すぎる程に――いつも通りのホシノだった。

 

「私の怠け癖なんて今に始まった事じゃないとは思うけれど、おじさんもここ最近はさ、ほら……先生の事もあったから、ちょっと寝すぎたかも、それでちょっとだけ、ね?」

「あ……」

 

 そう云ってシロコに目を向けたホシノは、ノノミに見えない側の目でウィンクを飛ばす。それを見たシロコは、一瞬何かに気付く様な顔を浮べ、それから申し訳なさそうに頷いた。

 

「……ん、ごめん、私も少し、気が立っていた」

「ま、人にはそういう時もあるよね、おじさんは気にしないよ~? ほら、そろそろ集まる時間だし、行こっか」

「……うん」

 

 ホシノはそう云って、いの一番に教室を出ていく。シロコも倒した机と椅子を直すとその後に続き、ノノミはそんな二人の背中をじっと見つめていた。

 

「………」

 

 何か隠しているのは明らかだった。

 無論、人である以上、何か云いたくない事の一つや二つ、あるものだけれど。

 だとしても、シロコが手を上げる様な程の秘密とは、一体何なのか。

 ノノミは何か――酷く、嫌な予感がして仕方なかった。

 

 ■

 

「――全員、集まりましたね」

 

 時刻は登校時間をやや過ぎた頃。アビドス対策委員会の部室には、先生を除くいつものメンバーが揃っていた。先生の居ない空席を見て、一瞬悲しそうな目をしたアヤネは、しかし強い意志を秘めた眼差しをそのままに、テーブルの上へ書類を並べる。

 

「昨日、大将の発言を受けて、セリカちゃんと二人でアビドス自治区の関係書類を搔き集め、持って来ました、まずは――」

「――先輩達、これ見て」

 

 そう云って並べられた書類の内から、一部を抜き出して中央へと放る。ホシノ、シロコ、ノノミは放られたそれを覗き込むようにして身を乗り出す。それは、少し古さを感じる紙面だった。白い紙の上に線が引かれ、シンプルに区分けされたブロックにそれぞれ記号が割り振られている。ホシノはそれを見下ろしながら、口を開く。

 

「ん~、これって……地図?」

「直近までの取引が記録されている、アビドス自治区の土地の台帳……『地籍図』と呼ばれるものです」

「土地の所有者を確認できる書類、という事ですか……?」

「はい、そうなります」

 

 ノノミの問いかけにアヤネは頷き、何枚か似たような紙面を捲って見せる。そんな彼女にノノミは困惑した様に眉を下げ、云った。

 

「でも書類なんて見なくても、アビドスの土地はアビドス高校の所有で――」

「私も昨日までそう思っていたっ! でも、そうじゃなかったのッ!」

 

 その声は、セリカの絶叫によって遮られた。

 唐突なそれに、アヤネ以外の全員が驚いた様に彼女を見る。良く見ればセリカの目には隈が薄らと出てきており、その瞳には強い焦燥感と不安、そして怒りが滲み出ていた。

 

「大将から聞いた言葉で、まさかと思ったんですよ……倉庫にあったアビドスの関係書類を読み漁って理解しました、柴関ラーメンの建物は勿論の事、このアビドス自治区の殆どが――」

 

 先程まで見せていた地籍図、その台帳を見下ろし――アヤネは断じた。

 

「……私達、アビドス高校の所有では、なくなっています」

「なに、それ……」

 

 ホシノが思わず呟き、食いつく。

 

「……どういう事? 一部だけならまだしも、アビドス自治区の『殆ど』がアビドス所有じゃないって、そんな訳――」

 

 ホシノは手に取った台帳を何枚も捲る。シロコは脇からその紙面を眺めたまま、呟いた。

 

「現在の、所有者――カイザーコンストラクション」

 

 その呟きに、ノノミは目を大きく見開く。

 

「カイザーって、カイザーコーポレーションの系列ですか!?」

「此処にはそう、書いてある」

 

 紙面を指でなぞりながらシロコは厳しい表情を浮かべたまま頷いた。

 そのまま視線をアヤネへと向けたシロコは、問いかける。

 

「それって、柴関ラーメンも……?」

「……はい、大将はその事を知っていた様です、退去命令も随分前から出ていた可能性があります」

 

 その言葉に、シロコの表情が大きく歪んだ。

 知らなかったのは自分達ばかり――アビドスの住人は、既にその事を知っていたのか。もしそうならば、それを押して尚このアビドスに残っていてくれているという信頼を、自分達は知らずに裏切っていた事になる。ぐるぐると、嫌な感情が腹の底に渦巻いた。

 

「あの時、ゲヘナの行政官は、『他の学園自治区の付近なのだから』……と云っていました、自治区の中ではなく、あくまで『付近』と――つまりあの行政官は、戦闘が起こった場所がアビドスの自治区ではない事を、知っていたんです」

 

 アヤネの脳裏に、ゲヘナ風紀委員会とのやり取りが過る。あの、アコ行政官と呼ばれていた生徒は確かに、柴関周辺を『アビドス自治区』とは口にしていなかったのだ。

 

「既に砂漠になってしまった、本来のアビドス高校本館と、その周辺数千万坪の荒れ地、そしてまた砂漠化が進んでいない、市内の建物や土地まで――所有権がまだ渡っていないのは、現在本館として使っているこの校舎と、周辺の一部地域だけでした……」

「ッ……!」

 

 この校舎がアビドス最後の砦――その事実を知らされた瞬間、対策委員会全員の表情が歪んだ。

 

「ですが、どうしてこんな事に? 学校の自治区の土地を取引なんて、普通出来る筈が――」

「……アビドスの生徒会、でしょ」

 

 ノノミの言葉に、ホシノは重々しい口調で告げる。

 

「学校資産の議決権は、生徒会にある……それが可能なのは普通に考えて、その学校の生徒会だけ」

「――はい、その通りです、取引の主体はアビドス前生徒会でした」

 

 そう云ってアヤネが差し出したのは、件のカイザーコーポレーションとアビドス生徒会との取引記録。そこには確かに、アビドス生徒会の名前があった。

 

「でも、アビドスの生徒会は二年前に無くなった筈」

「その通りです、ですので、生徒会が無くなってからは取引自体行われていません」

「そっか――二年前」

 

 ホシノは呟き、目を細めた。

 

「何をやってんのよ、その生徒会の奴らはッ!?」

 

 セリカが叫び、デスクを強く叩く。

 握り締めた拳が、軋む音を立てていた。

 

「学校の土地を売るッ!? それも、カイザーコーポレーションなんかにッ!? 馬鹿じゃないの!? 学校の主体は生徒でしょうッ、どうしてそんな事……ッ!」

「………」

 

 その、腹の底から絞り出した叫びに、シロコはそっと目を伏せる。

 想いは同じであった。守る、守ると――そう口にしていた場所は、そもそも自分達のものですらなかった。その衝撃は、計り知れない。

 

「こんな大事な事に、ずっと私達は気付かないまま……」

「ノノミ先輩、それぞれの学校の自治区は、学校のもの、余りにも当たり前の常識です、当たり前すぎて、借金に気を取られ気付く事が出来ませんでした」

 

 アヤネがタブレットに額を当て、項垂れる。小さく震える肩には、強い後悔の念が見て取れた。

 

「申し訳ありません、私がもっと早く気付いていれば……」

「ううん、それはアヤネちゃんが気にする事じゃないよ」

 

 そんな彼女に、ホシノは否定を返す。

 誰が悪いとか、誰のせいだとか、これは――そういう話ではない。

 

「これはアヤネちゃんが入学するより前の……いや、対策委員会が出来るより前の事なんだから」

「……ホシノ先輩、何か知っているの?」

「あ、そうです! ホシノ先輩も、アビドスの生徒会でしたよね?」

「っ、うぇ、そ、そうだったの!?」

「確か、最後の生徒会の、副会長だったと聞きました」

 

 皆の目がホシノに集まれば、彼女はどこか恥ずかしそうに――或いは懐かしそうな色を見せ、頬を掻いた。

 

「……うへ~、まぁそんな事もあったね、二年も前の事だし、そもそも私もその辺の生徒会の先輩達と、実際に関わりはなくってさ……私が生徒会に入った時には、もう生徒会の人たちは殆ど辞めちゃっていたから」

 

 云いながら、思い出す。

 砂漠に埋もれた街で、設備も碌に揃っていない、徐々に減っていく生徒達、何もかもが足りない環境。今思い返しても、碌な記憶などなかった。

 

「その時はもう在校生も二桁になっていたし、教職員もいない、授業なんてものはもう、疾うの昔に途絶えていた、生徒会室も、多分そうと云われなければ只の倉庫にしか見えなかったと思うよ~? 引継ぎ書類なんて立派なものは一枚もなかったし、ちょうど砂漠化を避けようとして、学校の本館を何度も移していた時期だった事もあってね」

 

 転々する学校に、真っ当な設備や人員など揃う筈もない。数ヶ月単位で変わる本校舎、土地だけは広いアビドスには広域に渡って学校が建てられていたから良かったものを、当初は立派『だった』という本校舎が、今や片田舎の寂れた学校がソレだというのだから笑えない。

 当時の生徒会を思い出し、ホシノは小さく笑った。

 

「――そもそも、最後の生徒会って云ったって、新任の生徒会長と私だけだったし」

「二人だけって……」

 

 その事実に、セリカが言葉を失うのが分かった。

 

「……その生徒会長は無鉄砲で、会長なのに校内でも随一の馬鹿で、私の方だって、嫌な性格の新入生でさ――いや~、何もかもが滅茶苦茶だったよ」

「校内随一の馬鹿が生徒会長……? 何それ、どんな生徒会よ」

「成績と役回りは別だよ、セリカ」

「そもそも、セリカちゃんも成績はそんなに……」

「わ、分かっているってば! どうして急に私の成績の話になる訳!? 一応、突っ込んでおいただけじゃん!?」

「うへ、いやいや、正にその通りだよ、生徒会なんて肩書だけで、おバカさんが二人集まっただけだったからね」

 

 宥めながら、ホシノは心底そう想っているとばかりに頷く。

 そうだとも、生徒会なんて名ばかりの組織だった。全校生徒二桁の状態で、授業も行われず、砂漠化は進行していく。生徒数を戻す目途もなく、砂漠化を止める術もなし、だというのに借金の催告は消えることなく、常に何かに追われて生きていた。

 部室とも云えない様な校舎の片隅で、会長と一緒に顔を突き合わせ、あぁでもない、こうでもないと云い合う毎日。

 それが、実を結ぶこともなく。

 

「何の間違いだか、生徒会なんかに入っちゃって……いや~、あの時はあちこちに行ったり来たりだったねぇ」

 

 砂漠化を止めようと、その言葉に連れられてアビドス砂漠に出向いた事があった。

 人をもう一度集めようと、街を練り歩いてアピールポイントを探した事があった。

 他の学園に協力を要請してみようと、キヴォトスを走り回った事があった。

 住人と協力して何かイベントを開こうと、近所で声を掛け歩いた事があった。

 どれもこれも、突発的で、ただの思い付きで、どうにかなる筈だと、考えの足りない子供じみた発想ばかりだった。

 

 先輩も――(ホシノ)も。

 

「――ほんっと馬鹿みたいに、なんにも知らないままさ……」

 

 吐き捨てた言葉には、深い後悔と悲しみが滲んでいた。 

 ホシノらしくない、重い、鉛の様な感情。それは彼女の底に沈んでいた本心、そして今尚心に巣食っている負の側面そのものだった。

 

「ホシノ先輩……」

 

 彼女の普段見せない負の側面を見た対策委員会は、一瞬言葉を失う。

 何事にもどこか楽観的で、脱力していて、軽々しく笑う彼女が見せる、初めての本質。それに触れたシロコは、ぐっと息を呑み、それから強い口調で断じた。

 

「………ホシノ先輩が責任を感じる事じゃない、昔の事情は知らないけれど、実際に生徒会が解散になった後、アビドスに対策委員会が出来たのは、間違いなくホシノ先輩のお陰」

「う、うん……?」

「ホシノ先輩は怠け者だし、色々とはぐらかしてばっかりだけれど、絶対に皆を見捨てない、大変な時は、誰よりも前に立っている」

「そうです、セリカちゃんが行方不明になった時、真っ先に先生に音頭を取ったのもホシノ先輩でしたし!」

「……うへ、そうだっけ? 良く覚えていな――」

「私、それ初耳なんだけれど!? 何で教えてくれなかったの!?」

「い、いや、そんな態々云う事でも――」

「ホシノ先輩は色々と駄目なところもあるけれど、尊敬はしている」

「……それって誉め言葉なの? 悪口なの……?」

 

 どこかぐいぐいと詰め寄り、言葉を捲し立てるシロコに、ホシノは目を白黒させながら思わず手を翳した。心なしか、その頬には朱が散っている。

 

「ど、どうしたのさシロコちゃん!? 急にそんな青春っぽい台詞を……おじさん、こういう雰囲気はちょっと苦手なんだけれどなぁ!」

「……や、何となく云っておこうかなって思って」

「え、えぇ……」

 

 唐突に押し切り、唐突に退く。

 普段の調子に戻り、ふんすと鼻を鳴らす後輩に、ホシノは何とも言えない表情を浮かべていた。

 

 ■

 

「……それで、どうして前の生徒会は、カイザーコーポレーションにアビドスの土地を売ったりしたのでしょうか?」

「実は裏で手を組んでいたとか」

「いえ、それは違うと思いますよ……」

 

 シロコの言葉にアヤネは苦笑を零しながら否定を返す。

 そもそもアビドス生徒会とカイザーコーポレーションが手を組んでいたのなら、とっくにこの本校舎も手放されている筈だし、何ならホシノもアビドスに残ってはいない。

 

「そうだね~、私もしっかり関わっていないから、昔の活動痕跡から推測するしかないけれど……ちゃんと学校の為を想って、色々と頑張っていた人たちだったんじゃないかな~って思っているよ、だから多分、最初は借金を返そうとして……って感じじゃないかな」

「借金の為に、土地を……?」

「はい、私もそう思います、当時既に学校の借金はかなり膨れ上がった状態でした、手放せるものも多くありません、アビドスはミレニアムサイエンススクールの様に技術力を持っている訳でもありませんし、はっきり云って金銭を用意する手段がなかったと思うんです――」

 

 ホシノの言葉に頷きながら、アヤネは手元の地籍図と取引記録を眺め、言葉を続ける。

 

「ただ、それでもこのアビドスの土地に高値が付く筈もなく、少なくとも借金自体を減らすには至らなかった、恐らく利息の返済に充てたのかと」

「まぁ、いつ来るか分からない天災に、砂まみれの土地、住人も居ない、建物も崩れ放題……そんな土地に大きい値が付く筈もないよね」

「それで、繰り返し土地を売ってしまう負の循環に――という事でしょうか」

 

 ノノミが考え込むようにしてそう呟けば、セリカが露骨に顔を歪めた。

 

「何それ、何かおかしくない? 最初からどうしようもないっていうか……」

 

 言葉にして、改めて思う。

 そうだ、そもそもからして、おかしい話なのだ、これは。

 アビドスは砂漠化をどうにかする為に融資を受けた、それは良い、理解出来る。最初はアビドスも相応に大きな学校だったのだ、正規の場所から借りる事が出来なかったとは云え、多少は返す当てもあったのかもしれない。最悪、本校舎を丸ごと売り払うなりすれば良いと。何なら初期は生徒数も今とは比較にならない程に在籍していた筈だ、協力すれば決して返せなくはない金額だったのだろう。

 しかし、それがどんどん縮小され、砂漠化を止める目途も立たないとなると――少々話が変わって来る。

 だって、どう考えても採算が合わないのだ。生徒と住民の減少する砂まみれの土地に、自治区を管理する事も出来ない学校。そんなところがきちんと返済出来ると、本当にそう思っているのか? と。

 まるで最初から、『返済出来ないと分かった上で』貸し付けている様な――。

 

「――これ、もしかして」

 

 そこまで考えて、シロコは思わず言葉を漏らした。

 

「……シロコ先輩?」

「カイザーコーポレーションは、最初から……アビドスの土地が目当てだったのかもしれない」

「え、え?」

「――あ~、成程、そっか」

 

 シロコの呟きに、最初に納得を示したのはホシノだった。

 

「カイザーローンが学校の手に負えない位のお金を貸して、利子だけでも払ってもらう為に土地を売る様に仕向ける……そういう風に考えれば辻褄が合うね」

「――そういう事ですか……きっと最初は、要らない砂漠や荒廃した土地でも売ったらと、甘言を弄したのでしょう」

 

 アヤネが理解し、その目つきが鋭く紙面を射貫く。

 当時の生徒会にとっては、正に一時凌ぎとは云え現実的な手段の一つに見えたのだろう。少なくとも、利息による増額は防げると。

 

「どうせ砂漠と化した使い道のない土地です、その提案を断る積極的な理由もありません、他所に話を回しても買い取ってくれるかも怪しい……それなら、いっそという形でしょうか」

「けれど、そんな安値で売った所で借金が減る訳がない、土地は減る一方――」

「そうなると、根本的な借金を返済しない限りアビドス自治区そのものが少しずつカイザーコーポレーションのものとなる」

「――元々、そういう計算だったのかもしれないね」

「………」

 

 自身の口から出た言葉に――ぞっとした。

 少しずつ、少しずつ、真綿で首を絞める様に、逃れられない様に。気付いた時には全てが遅い、二進も三進も行かなくなり、全てを奪われるのを待つだけ。

 これは、そういうやり方だった。

 

「アビドスにお金を貸した時点で、こうなる様に全てを……」

「だいぶ前から計画していた罠だったのかもね、それこそ、何十年も前から――それ位、大規模な計画だったのかも」

 

 ホシノは呟き、そっと拳を握った。

 一朝一夕で用意できるものではない。恐らくアビドスがカイザーコーポレーションを頼ったその瞬間から、こうなる事を見越して動いていたのだろう。或いは、最初は本当に金蔓程度に思っていたのかもしれない。しかし、予想以上の苦難に見舞われるアビドスを見て、方針を転換したか――どちらにせよ、碌なものではなかった。

 そして当然、それを受け入れられない者も居る。

 セリカが立ち上がり、テーブルの上に散らばる書類を見下ろし、震えながら云った。 

 

「――何それ、つまり私達は、カイザーコーポレーションの奴らに弄ばれていただけって事……!?」

 

 最初から返済出来ない事が分かって貸し付けていたのなら――つまり、自分達が必死に働いて貯めた金銭も、費やした時間も、そもそも、この『対策委員会』という組織さえも、すべて――連中の(てのひら)だったという事か。

 それは、到底受け入れられるような事ではなかった。

 自身の積み上げて来たすべてが、努力して来た事全部が、否定されるに等しい行いだ。セリカは一瞬言葉を失い、それから手元にある資料を睨みつけ、吐き捨てた。

 

「ッ……ふざけないでよッ! 生徒会の奴ら、どんだけ無能な訳ッ!? こんな好き放題土地を切り取られて……っ! 詐欺みたいなやり方に、騙されてッ……!」

「セリカ、落ち着いて」

 

 やり場のない怒りを声色に乗せ叫ぶセリカを、シロコは窘める。

 正面に座るノノミが、真っ直ぐセリカを見つめながら云った。

 

「セリカちゃん、悪いのは、悪意を持って騙す方です」

「……っ!」

 

 その言葉に、セリカは開いていた口をぐっと閉じる。

 そして力なく座り込むと、拳を握り締めたまま絞り出す様な声で呟いた。

 

「わ、私だって分かっているわよ……! ゲルマニウムのブレスレットとか買っちゃったりするし、下手したらここの誰よりも分かっている! 悪いのは騙した方だって事はッ! でもッ――!」

 

 食いしばった歯に、涙の滲んだ瞳。セリカはテーブルの上で頭を抱え、そのまま蹲った。

 

「悔しいじゃないッ! どうして、こんな……! ただでさえ苦しんでいるアビドスに、どうしてこんな、酷い事を……!」

「……それが、連中のやり方なんだ」

 

 感情の滲んだ声だった。蹲るセリカを、ホシノはどこか悲しそうな目で見ていた。それは嘗ての自分を重ねているからだろうか、そっと自身の手に視線を落とした彼女は、実感の籠った声で呟く。

 

「苦しんでいる人達って、切羽詰まり易くなっちゃうからね、藁にも縋る想いっていうのは結構あると思う、例え一見馬鹿げた話でも、他人に笑われるような事でも――余裕がなくなると、人は何でもやっちゃうものなんだよ……」

 

 ――その結果が【アレ】だった。

 

「ま、良くある話だけれどね? ただそれだけだと思うよ、セリカちゃん」

 

 ホシノの言葉に、セリカはぐっと言葉を呑み込む。

 良くある話、数多ある不幸の一つ――何て事のない、ありふれた悪意。

 それを飲み下せるか否か。或いは、こういうのを『大人になる』というのだろうか。

 もしそうならば、セリカは大人に何てなりたくないと、そう思った。

 ――悪意に鈍感になる事が大人になる条件だなんて、余りにも悲しいではないか。

 

「――状況は、決して良くありません……ですが」

 

 アヤネが、強く、光の籠った瞳で口を開く。

 

「漸く、私達を取り巻くすべてが明らかになって来た気がします」

「えぇ、そうですね」

「カイザーコーポレーションはアビドス生徒会が解散し、土地を購入する方法が無くなった……だからまだ手に入れていない、『最後の土地』であるこの学校を奪う為に、ヘルメット団を雇用していたのだと思います、そして恐らく、便利屋の皆さんも――!」

「……カイザーコーポレーションの狙いは、このアビドス高等学校そのもの」

 

 この場所以外の土地は手に入れた、ならば――このアビドス高等学校さえ手に入れてしまえば、カイザーコーポレーションはアビドス自治区を全て手中に収めた事になる。

 

「そうなると、次の疑問が出てきますが……どうして、土地なのでしょう? アビドス自治区は、もうほとんどが荒れ地と砂漠、砂まみれの廃墟になっているのに……」

「それは、確かに……云っちゃなんだけれど、こんな土地を奪ったところで何か大きな利益になるの……?」

「それは――」

 

 アヤネがそれに答える為に口を開こうとして――不意に、タブレットが音を鳴らした。

 視線を落とすと、テーブルの上に転がったアヤネのタブレット端末に着信通知の表示。

 

「これは……電子メール?」

 

 アヤネがタブレットの画面をのぞき込むと、アヤネのプライベートアカウント宛てに電子メールが届いているのが分かった。通知を開きながら、彼女は首を傾げる。

 

「こんな時に、一体誰から?」

「少し待って下さい、えっと、送信主は――」

 

 一覧から送信者欄に視線を向け、呟く。

 

「『A.R.O.N.A』……アロナ?」

 

 その名前に、アビドス対策委員会の皆は顔を見合わせた。

 

「誰でしょう、アヤネちゃんのお友達ですか?」

「いえ、この様な名前の友人は憶えがありません……」

 

 ノノミの問いかけに対し、アヤネは首を横に振って否定する。

 アロナ何て名前の生徒、アヤネには憶えがない。そもそもプライベートアカウントのアドレスを知っている生徒なんて、それこそアビドスの皆か、トリニティのヒフミ位なものではないだろうか? 立地的に他所の学園と距離のあるアビドスは、必然友人が作り難い。それを不便に思った事はないが、だからこそ目の前のメールが怪しく見えて仕方なかった。

 

「メール、開いてみる?」

「ちょっとシロコ先輩、ウィルスとか仕込んであったらどうするのよ……?」

「一応ウィルスチェックでは特に反応もありませんでしたが、アビドスの公式アドレスは兎も角、私のプライベートアドレスを何処から――」

 

 暫く考え込むも、心当たりのない状態で幾ら思考を回そうとも分かるはずもなく。

 アヤネは一つ頷くと、メールに指先を添えながら告げた。

 

「……開いてみましょう」

「良いの、アヤネ?」

「どちらにせよ、態々私の個人アドレスに送りつけて来たんです、もしかしたら、カイザーコーポレーションからのアクションかもしれません」

「セリカちゃんを誘拐した時みたいに、って事かな」

 

 ホシノの言葉に自然、皆の顔つきが険しくなる。

 全員の視線がアヤネのタブレットに集中し、どこか緊張した面持ちで彼女は画面に触れた。

 

「開きます――」

 

 ディスプレイの中で、メッセージが展開される。

 文字列は少なく、書かれていた文章はたった一つ。

 

『――カイザーコーポレーション、アビドス砂漠にて、動きアリ』

 

「……これだけ?」

「これだけ、ですね」

 

 どこか拍子抜けしたような声でセリカが目を瞬かせ、アヤネは何か他にないか、一番下の欄まで画面をスライドさせ、反転表記がないかなど手を動かす。しかし、どれもそれらしい成果を上げる事はなく、結局そのメールは本当にその文字列一つだけだという事が分かった。

 

「悪戯メール?」

「それにしては、少々、ピンポイントな気が……」

「うーん……」

「私達アビドスを誘き出すための罠、って線は?」

「あり得ますが、そうだとするとタイミングが良すぎませんか? 此方が勘付いたタイミングに被せるなんて、可能でしょうか?」

「……それもそっか」

 

 顔を見合わせ、互いに意見を交わし合う対策委員会。それを見ていたセリカは、じれったいとばかりに立ち上がり叫んだ。

 

「あぁもう、もう難しい事を考えるのも面倒ッ! どうせアビドスの砂漠はうちの自治区なんだから、実際に行ってみれば良いじゃん!」

 

 ずんずんとガンラックまで進み、自身の愛銃を掴んだ彼女はそれを突き出しながら続ける。

 

「どうせこのままじゃどうにもならないんだし、罠なら罠で踏み潰す! 寧ろ分かり易くなって良いし、そうじゃないなら一歩前進! 悪戯なら悪戯で、不安が無くなってスッキリ! 此処で考えて動かないより、この目で確かめた方が早いってッ!」

 

 そう云って鼻を鳴らすセリカを見た皆は、ふっと口元を緩め、頷いた。

 

「……ん、そうだね」

「案ずるより産むが易し、ですか」

「……いや~、セリカちゃん良い事云うねぇ、こんなに逞しく育ってママは嬉しいよ、泣いちゃいそう、ティッシュちょうだい」

「はい、ど~ぞ☆」

「な、何よこの雰囲気!? 私がまともな事を云ったらおかしい訳!?」

「あはは、そんな事は……ですが、セリカちゃんの云う通りです!」

 

 皆が視線を交わらせ、ガンラックの愛銃を手に取る。何があるかは分からない、罠かもしれない、けれど――どちらによ、此処で燻っているよりは何倍も良い。

 

「――行きましょう、アビドス砂漠へッ!」

 

 ■

 

 皆が退出した後の部室――アビドス砂漠へと向かう為に、熱中症対策や防塵対策、そして現在地を見失わない為の用意は必須だった。その準備に対策委員会の皆が奔走する傍ら、シロコは自分のバックから一枚の紙を取り出す。

 そこには、こう書かれていた。

 

『退会・退部届――対策委員会 小鳥遊ホシノ』

 

 その紙切れを強く握りながら、シロコは想う。

 風紀委員会との戦闘時――ホシノ先輩があそこまで長い時間席を外すなんて事、今までなかった。それに、あんなに追い詰められるまで、先輩が来ない何て。誰よりも対策委員会を愛し、率いて来た人だった。そんな彼女が見せた、明らかな『違和感』。少なくない時間を共に過ごした自分だから気付けた。同時に、ノノミも薄々何かに勘付いているのではないかと、シロコはそうも思う。

 良くない事だとは分かっていた、他人のバッグを漁るなんて。

 恐らく、先輩自体も気付いているだろう、この紙を抜き取られた事を。

 

 それでも――先輩がアビドスを去る様な真似は、許容できない。

 

「何か、きっと理由がある……」

 

 呟き、シロコは歩き出す。

 アビドスと皆を守るために。

 自分の居場所を、守るために。

 


 

 生徒の泣き顔を見て愛を感じ隊委員会の開催にあたり、ご挨拶を申し上げます。

 国民の皆様の安全、安心の確保に万全を期すとともに、我が国の純愛社会の発展に寄与するべく、職務に邁進して参ります。

 まずは、昨今の投稿時間遅延化、それに伴う問題の顕在化につきまして、政府としても誠に遺憾に思っており、今回は全国五千兆人のヤンデレスキーの皆さまに対し、ユウカ財務大臣との連携の一例を提示すると共に、今後の方針を交え、良き透き通るような世界観を維持していこうと考えております。

 

 現在、本件に対する見解につきまして、生徒の目の前で先生を血塗れにして泣き顔にした上で愛を感じ隊代表は、「ぶっちゃけ一話七千字くらいで抑えようと思っているのに、気付けば一万二千字とかになっている、その上で後書き三千も書いたら一万五千ゾ? 毎日投稿で三千字でも二日で六千やろうがい! これじゃ毎日投稿で七千五百字書いているようなもんじゃないですか!」と発言しており、政府としては提出された生成物を小分けにする事に関しましては、国際法を著しく侵害するものであると考え、より強い表現で遺憾の意を伝えて参る所存です。これによる執筆時間増加に関しましては、マイナンバーカードと保険証の一体化を加速、代表の健康を増進し、次期代表健康づくり運動プラン策定に向けた議論を進めると共に、来るべき時に備え執筆事業を着実に実施します。

 生徒の泣き顔とそれに伴う情動の変化はまとめて摂取するからこそ効果的であり、そこから生じる泣き顔(愛情)は数少ない人類にのみ発案可能なソリューションの一つでありまして、今後これを世界に広く発信していく所存です。

 

 この、生徒の目の前で先生を血塗れにして泣き顔にした上で愛を感じ隊代表の業務範囲に関しても、専門家の間で意見が分かれるところではありますが、今回に関しましては「本編・後書き」のみの運用に留めております。感想返信に関しましてはまだまだ課題点も多く、今後ともユウカ財務大臣、アコ外務大臣らと議論を重ね、年内の解決を目指しております。

 さらに、革新的な小説の執筆を促進する環境整備や、泣き顔等の品質及び安定供給の確保等に取り組みます。加えて、泣き顔等行政評価・監視委員会の御意見等も尊重し、泣き顔等の安全性の確保や「可哀そうなのは可哀そう」の再発防止に一層取り組む事を目標としております。

 あわせて、全国五千兆人のヤンデレスキー国民の皆様には、今後とも泣き顔等品質及び安定供給確保の為、感想、評価、お気に入り、ここすき、「投稿まだですか?」個人メッセなどによる応援等、委員長、理事をはじめ委員の皆さま、国民の皆様に一層のご理解とご協力を賜りますようお願い致します。

 

 また、日曜日の今日、お布団が私離れ出来ない事で、半日爆睡していた事を此処に告白します。

 うぅ先生、私が血反吐撒き散らしながら小説書くとこみてて……。



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黄金色の砂漠

幼い頃、誤字脱字報告に命を救われました。
前回ペロロ様が切腹しましたが、安心して下さい、ちゃんと切腹したペロロ様には先生が入っていますから。


 

 ――まるで、泥の中に居る気分だった。

 

 意識の覚醒というものは、蘇生の瞬間に酷く似ている。

 微睡は安寧だ、痛みと云うのはいつも現実を認識してからやってくる。だから自分(先生)は、微睡が嫌いだった。その後には大抵、碌でもない光景と結末が待っているから。

 

 薄らと、目を覚ます。

 

 最初に見えたのは白の天井。見覚えのないそれに、しかし先生は慌てることなく視線を動かす。頭の靄は数秒もあれば晴れる、慣れたものだった。最初に確かめるのは四肢の確認、動かすだけではなく、自身の肉眼で確かめる。感覚だけでは『ある』と錯覚する事も珍しくないと知っているのだ。

 天井に翳した両腕に不足が無い事を確かめ、自身の体をゆっくりと起こし、両足を動かす。

 きちんと繋がっている――欠損はない。

 そこまでして、先生は自身の開けた患者衣、その中に見える胸から背中まで半円形に刻まれた新しい痕に気付いた。

 

 ――どうやら、命を拾ったらしい。

 

 先生は口に装着されたオキシマスクに手を当てた所で、横合いの床頭台にタブレットを見つける。誰が用意してくれていたのか、充電ケーブルも繋がれており、グリーンランプが点灯していた。先生はマスクから手を放し、タブレットに手を伸ばす。

 充電はフル、電源ボタンを押し込めば認証画面が開き、先生は自身の指先を翳した。

 

「……アロナ」

『――先生……!』

 

 指紋認証を終えると同時、視界一杯にアロナの顔が広がった。どうやらかなり心配を掛けたらしい、その瞳には涙が滲み、表情には不安と怒りが滲み出ている。

 

「ごめん、今、目が覚めたよ」

『ほ、本当に心配したんですからね!? 先生は、いっつも、いっつも無茶ばっかりして……!』

「申し訳ない……あの後は、皆が私を此処(病院)に?」

『はい、アビドスの皆さんと便利屋の皆さんが、先生を抱えて此処まで……!』

「そっか、悪い事をしちゃったかな」

 

 そう云って頬を掻く先生は、新しく生まれた傷跡をそっと掌で撫でつける。痛みはないが、何となく皮膚が張ったような違和感があった。

 

「それで、一応聞くけれど、私の(臓器)はまだ生身かい?」

『……はい、TVS-151のナノマシンがVC(versatile cell)を定着させました、多少機能回復に時間は必要ですが、少し休めば、直ぐ前の様に――』

「そっか」

 

 それだけ聞き終えると、先生は被せられていたオキシマスクを取り外し、二度、三度、軽く息を吸う。問題ない事を確かめ、枕の横へとマスクを放った。

 

『せ、先生!?』

「アロナ、この部屋の電子機器の掌握を頼むよ」

 

 そう云って、ベッドに腰掛ける先生。アロナは先生の指示に一瞬逡巡する様子を見せるものの、云われた通り室内の電子機器を一通り掌握し、計器の数値やアラートの類を正常値へと操作する。その間に先生は病室に備えられていたクローゼットを物色し、中を覗き込んでいた。

 一人部屋の病室は思いの他広く、必要なモノは一通り揃っている様に見える。シャーレの顧問という待遇故か、或いはそもそも患者数が少ないのか、アビドスが無理を云ったのか。

 クローゼットの中に入っていた患者衣を手に取りながら、先生は呟く。

 

「制服は――流石に穴も開いていたし、血塗れすぎて処分されたかな? シャツの類は別に良いのだけれど、シャーレの制服はなぁ、申請しないと……おっ、腕章発見、これは無事だったか」

『あの、先生! まだ本調子とは程遠いのですから、安静に……!』

「そうも云っていられないんだよね――」

 

 口にし、先生は手元のタブレットに視線を向ける。

 

「私に何かあった時のプロトコルは、ちゃんと踏んでくれた?」

『指示された日付に先生の意識が無かった場合、送信される手筈のメッセージなら、ちゃんと送りましたよ……!』

「それは重畳、助かるよ、なら後はクラフトチェンバーの空いたスロットに、パターン四番の製造をお願い、大分使っているけれど、予め投入していた材料で足りるかい?」

『え、あ、はい……四番、えっと、それなら可能です、ですが予め投入していた材料分だと、恐らくこれで最後になるかと』

「シャーレに戻っている暇はないし、実質これが最後のクラフトか……」

『せ、先生、もしかして――』

「うん?」

 

 アロナの何処か切羽詰まった様な声色に、先生は疑問符を浮べながらタブレットを見た。

 

『病院を、抜け出すつもりですか……!?』

「つもりもなにも……」

 

 どこか呆れたように、或いはお道化る様に、先生は肩を竦めて笑う。

 

「私が生徒達が頑張っている傍ら、呑気に寝ていられると思うかい?」

『う、うぅ~! うぐぅッ~……!』

 

 確かに――この先生がそんな状態で呑気に眠りこける筈がない。云われなくても身を投げ捨て、苦難を背負い込む先生だ。生徒達が動いていると知れば、自然その後を追おうとするだろう。

 分かっていた事だった、予想出来た事だった。しかし、だからと云って無感動にそれを見送れというのも酷な話。

 アロナは青い教室の中心で地団駄を踏み、涙目になりながら叫んだ。

 

『先生は休むべきです! いっつも、いっつも無茶ばかりしてっ! 偶にはアロナの云う事も聞いて下さいよぉ!』

「ははは、私としてもアロナを蔑ろにするつもりはないのだけれどね、今はどうしても時期が悪い、所謂無茶のし時って奴さ――大丈夫だよアロナ、これが終わったらエデン条約まではゆっくり休ませて貰うから」

『私はッ、今、先生にッ、休んでっ、貰いたいんですぅ! というか前もそんな事云っていましたよね!? 何だかんだ云って休まない心積もりですか!?』

「ははは、そんな事ないよぉ」

 

 アロナの言葉を右に左に聞き流しながら、先生は目ぼしい所持品を回収する。アロナがプロトコルをきちんと行ってくれたのならば、今アビドスは砂漠地帯に向かった頃だろう。そうでなくとも、彼女達の現在位置なら端末で調べる事も出来る。

 そして、彼女達が砂漠に向かったとなれば――移動手段が必要だった。

 

「さてアロナ、ミレニアムサイエンススクールの……そうだな、エンジニア部に連絡をお願い」

 

 ぷんすかと頬を膨らませて怒りを見せるアロナに苦笑を零しながら、先生は云う。

 

「――こういう時に頼りになるのは、マイスターだからね」

 

 ■

 

「さて、此処までは順調でしたが……」

「ん、此処から先は砂漠地帯、徒歩で行くしかない」

 

 目の前に広がる広大な砂漠。途中までは車両を使用しての移動も可能だったが、此処から先は砂漠地用の防塵オフロード車か、航空機でもなければ難しいだろう。

 タイヤの空気圧を下げ、タイヤが砂に沈まない様にしたり、各部に砂が入り込まない様にメンテナンスを行ったり、長距離の砂漠を車で走るのには色々と準備が必要なのだ。それもアビドスのような広大な砂漠なら尚更。

 

「アビドス砂漠、砂漠化が進む前から、元々砂漠だった場所かぁ……」

「普段から壊れたドローンや警備ロボット、オートマタなどが徘徊している危険な場所ですから、十分に注意をして進みましょう」

「了解~」

 

 アヤネの言葉に、全員が頷きながら砂漠を見据える。何故かは知らないが、この砂漠地帯にはオートマタやドローン、ロボットの類が良く徘徊しているのだった。砂に沈んだ街に配備されていたものが誤作動を起こしたのか、或いは磁気の狂いだとか、もっと別の理由があるのか。最早調べる理由も、力もなくなってしまったアビドスにとっては謎のまま。

 

「念の為、今一度火器の動作チェックをお願いします」

「砂塵には気を付けないとですね~☆」

「帰ったらまた、分解清掃かぁ……」

「暴発は怖いからね、手入れは大事」

 

 呟き、愛銃の動作を確認したアヤネが前を見据え、告げる。

 

「さて、このアビドス砂漠でカイザーコーポレーションが何を企んでいるのか、実際にこの目で確かめてみる事にしましょう……!」

 

 ■

 

 そして、砂漠を行進し続け――かなりの時間が経過した。

 朝方に出発し、既に時刻は昼を回って久しい、最初は機嫌が良さそうだった砂漠も、奥へ奥へと進むたびに徐々に風が吹き始めた。既に全員が防塵用のコートと、マスクを首に下げている。砂嵐と呼べない様な規模であっても、その只中に放り込まれてしまえば呼吸すら危うくなる。何であれ備えは必要であった。

 銃を懐に抱えながら前進するアビドスは、砂塵に覆われた景色を見つめながら呟く。

 

「うぅ、風が吹く度に小石が足に当たって……痛い」

「でも、大分進んできましたね」

 

 セリカが素足を撫でながらそう呟くと、ノノミは周囲を見渡しながら頷く。

 

「これが、棄てられた砂漠……」

「砂だらけの市街地に行ったことはありましたが、ここから先は私も初めてです」

「いや~久しぶりだねぇ、この景色も」

「先輩は此処に来たことがあるの?」

 

 ホシノが呑気な様子でそう口にすれば、セリカは疑問符を浮べ尋ねた。

 

「うん、前に生徒会の仕事で何度かね~……もう少し進めば、そこにはなんと、かつてアビドスの砂祭りが開かれていたオアシスが!」

「えっ、オアシス? こんな所に?」

「うん、まぁ、今はもう全部干上がっちゃったんだけれどね~、元々はそんじょそこらの湖よりも広くて、船を浮べられるくらいだったとか」

 

 そう云って周囲を指差すホシノ。残念ながら彼女の云うオアシスらしきものは影も形も見えないが、それ程大規模な湖が埋まると聞くと、興味を惹かれる。

 

「ま、私も実際に見た事はないのだけれど」

「砂祭り……私も聞いた事がある、アビドスでは有名なお祭りで、凄い数の人が集まるって」

「そうそう、別の自治区からもそのお祭り見たさに人が来る位だったからね、まぁ、砂漠化が進みはじめるより何十年も前の事だけれどさ」

「へぇ、今はこんな砂まみれの景色だけれど、ここでそんな凄いお祭りがねぇ……」

 

 呟き、相も変わらず広がっている砂の光景を目に焼き付けるセリカ。改めて砂漠化の影響を思い知った。それ程大きな祭りが、嘗てはこの場所で行われていたのだと。ならばきっと、此処もかつては大きな街があったに違いない。けれど今は、その影すら見つける事が出来ない。

 

 ――或いは何十年後か、私達の住む町も砂に呑まれるのだろうか。

 

 その未来を想うと、酷く胸が痛んだ。

 

「前まではこの辺りも、結構住みやすい場所だったらしいからね、当時はこんな砂埃もなかっただろうし……ところでアヤネちゃん、まだ目的地は遠そう?」

「えっと、一応設定したセクターまでは、もう少しですね、間もなく到着するかと」

「もう少しですか、見た所、この辺りは何もなさそうですけれど……」

 

 ノノミが目を擦りながらそう口にすれば、ふと視界の端に影が映った。

 

「ん、あれ……」

 

 シロコも気付き、全員の足が止まる。見れば前方に砂塵に紛れてドローンとオートマタの姿があった。全員が近場の岩陰に身を隠し、アヤネがドローンで偵察を行う。数はそれほど多くないものの、一つの集団として動いている様子だった。

 

「ふむ、ドローンにオートマタか……この辺り、何でかこういうのが良く集まるんだよね」

「あれは、一体何をしているのでしょうか?」

「目的もなく、歩いている様にも見えるけれど」

「……取り敢えず、態々手を出す必要もないし、通り過ぎるのを待とうか」

 

 呟き、全員が大きな岩陰の傍で座り込む。一団はゆっくりとした足取りで行進しており、ドローンはオートマタの周辺を意味もなく回り続けていた。傍から見ると、本当に何をしているのか分からない。或いは、警邏の真似事でもしているのか。

 

 不意に、一際強い風が吹いた。全員のコートが靡き砂塵が大きく舞い上がる。見れば遠くで大量の砂が巻き上がり、ほんの先すら見えなくなる様な風が近づいていた。嵐と呼ぶほどではないが、楽観視出来るものではない。それを見たシロコが思わず叫ぶ。

 

「ッ、風が出て来た……!」

「これは、ちょっと大きいのが来そうだね」

「防塵シートを出しましょう!」

 

 アヤネの言葉に頷き、全員が小分けにして持ち込んでいた背嚢を下ろす。中には段々になって伸びるタイプのパイプが入っており、シロコはそのパイプに持ち込んだ防塵シートを通し、ロープに繋いで岩場にアンカーを打ち込んだ後、ボルトで固定。全員が着込んでいたコートを繋ぎ、簡易テントを作り出した。

 大きさはそれ程でもないが全員が屈めば入り込める程度の大きさで、即席の避難所としては十分に機能する。背嚢を抱えたまま全員がテントの中に避難すると、一拍遅れて強い風が吹いた。

 中には砂利がシートを叩く音が響いている。手足に付着したそれを軽く払いながら、セリカが岩場に背を預け呟いた。

 

「ふぅ……砂とか小石とか、バシバシ当たって痛いのよね、シート一枚あるだけでこんなに快適だなんて――ホント、文明の利器って便利」

「倉庫で埃を被っていたものを引っ張って来ただけですが、まだまだ現役みたいですね」

「……元々は、砂祭りで使う為のテントだったのかも」

 

 シートの内側に、掠れた文字で書き記されていた『砂祭り運営委員会』の文字。シロコはそれを指先で擦りながら呟く。

 

「……アヤネちゃん、ドローンは大丈夫?」

「流石にこの砂塵の中を飛行させると危険なので、現在は岩陰に着陸してフライト待機状態ですが――」

 

 そう云ってアヤネはタブレットを操作し、通信状態が保たれている事を確かめた。一応、アヤネの使用するドローンには防塵・耐水機能が備え付けられており、自らカスタムした分頑丈ではあるものの、流石に砂嵐の中を飛ばせる程の性能はない。

 

「……良かった、この位の距離なら操作も問題なさそうです」

「さっきのドローンやオートマタはまだ近い?」

「いえ、反応は大分遠いです、ただレーダーの精度も現在は正確とは云えないので……取り敢えず、風が収まるまでは待機ですね」

 

 呟き、時が過ぎるのを待つアビドス。そんな中、不意にセリカのお腹がきゅうと鳴った。全員がセリカに視線を向ければ、顔を真っ赤にしたセリカが腹を抑え、思わず捲し立てる。

 

「な、何よ!? 仕方ないじゃない、朝からずっと歩き通しだったし、御昼ごはんも食べてないし……っ!」

「あはは、そう云えばそうだったね……私も少し、お腹が減ったかもしれません」

「うへー、それじゃあちょっと遅いけれど、御昼ごはんにしよっか」

「ん、そうしよう、個人用の携帯食料はあるけれど、確か皆で食べる分は……」

「私のバッグに入っていますよ☆」

 

 そう云ってノノミが背嚢の中に手を入れ、五人分の食糧パックを取り出した。遠征や、戦闘時に持ち運べるレーションである。

 それからノノミは背嚢からアルマイトの容器を取り出し、それに半分ほど水を入れ、皆の食糧パックを中に浸す。あわせてシロコが背嚢から取り出したのは、平べったく、白色の付箋のような代物。セリカが不思議そうにそれを眺めていると、シロコは徐にそれを中程から折り曲げ、容器の中に放り込んだ。

 すると、程なくして容器の中から気泡が浮き始め、湯気が立ち上り始める。ノノミは手際よく中のパックを取り出すと、断熱材でパックを包み全員に配った。アヤネは手渡されたそれをまじまじと見つめ、問いかける。

 

「ノノミ先輩、これ、中身は何でしょう?」

「もち米で出来たお赤飯ですよ~、お赤飯は腹持ちが良いそうなので、こういう時にぴったりかと思いまして」

「へぇ~、こんな食料、うち(アビドス)にあったんだねぇ」

「ん……確か、先生から貰った補給品に入っていた気がする」

「ほんと、先生様々ね……」

 

 パッケージの封を切ると、平べったく固まった赤飯が顔を覗かせた。粘性があるので米が零れる事もなく、中には肉や豆と云った具材も含まれている。暖かい熱を発するそれに唾を呑み込んだセリカは、「頂きます」と呟き、その端を齧った。

 

「っ……お、美味しい……!」

「これは、凄いですね――!」

 

 隣で同じように赤飯を口に含んだアヤネが、どこか驚きを湛えた瞳で手元のパックを見る。携帯食料というものは、大抵どこか栄養補給を優先している節があり、味は二の次、三の次とされるものが殆どだった。だからこそ、多少凝った食料品でも食べられるのならばまぁ、という程度で味に期待などしていなかったが――口にしたそれは、予想していた味の数段以上美味かった。

 

「こ、これ、結構高い奴だったりするのかな……?」

「ん~、どうだろうなぁ、普通のレーションだとそんなに値段は高くないけれど、でも確かに、これなら普段食べたい位の味だね~」

「まぁ、頂いた分はまだ校舎にありますし、食べたくなったらまた皆で食べましょう☆」

「う、うーん、一応戦闘糧食だし、普段食べる用じゃないと思うのだけれど……」

 

 そんな言葉を口にしながら、ぺろりとパック一つを完食するアビドスの面々。空になったパックはノノミが回収し、ゴミ用の袋に詰めて圧縮。パックを熱する為に使用した湯は捨てずに、粉末状の紅茶スティックを入れて茶になった。

 水筒の上部カップに入った茶を啜りながら、セリカはふと呟く。

 

「はぁ、まさか砂漠のど真ん中でお茶を飲めるなんて……でもお腹は満たされたけれど、髪も服も砂塗れで、帰ったらシャワー浴びたい」

「あはは……まぁあれだけ風が吹いたからね、仕方ないよセリカちゃん」

「帰ったらみんなでお風呂に入りましょうか~」

「うへ、裸の付き合いって奴?」

「楽しそうだね」

「いや、別にお風呂なんて皆で入らなくても……」

 

 云いながら、外で未だ吹き続ける風の音に耳を傾ける。

 セリカと同じように茶を啜っていたシロコは、不意に呟いた。

 

「……先生、大丈夫かな」

 

 風の音に紛れて掻き消えると思った呟きは、存外に耳に残った。皆がシロコに視線を向ければ、どこか「しまった」という表情を浮かべた彼女が、申し訳なさそうに俯く。

 

「ん、ごめん、ちょっと……心配になって」

「それは、心配になりますよ、誰だって」

「……大丈夫よ、だって直前まであんなに動き回っていたんだし、今頃院内の廊下でシャトルランでもやっているに決まってるわ!」

「そ、それはちょっと元気すぎる気が……」

「……まぁでも、おじさんもセリカちゃんの意見に同意だよ、先生がそう簡単にヘバっちゃうような姿、あんまり想像できないし」

「それは、確かにそうですね」

 

 ノノミが苦笑を浮かべながら同意すれば、シロコがやや眉を下げ口を開く。

 

「でも、だからと云って自分の体を大事にしないのは駄目だと思う」

「うへ、それはそうだ」

「入院は良くない事ですけれど、これを機に少しでも休んでくれたら良いですね……普段も激務みたいですし」

 

 アヤネが呟くと、ホシノがどこか困ったように肩を竦めながら云った。

 

「まぁ、キヴォトスに幾つ学園があるのかって話だよね、それだけ目を配る場所が多くなる訳だから」

「……そんな中から、アビドスに来てくれたのは、本当に僥倖でした」

「ん、先生には感謝してもし足りない」

 

 そんな話をしていると、徐にセリカが持っていたカップを握り締め、険しい表情で吐き捨てた。

 

「……あぁ、何か先生の話を聞いていたら、ゲヘナ風紀委員会の連中にまた腹が立ってきた……!」

「せ、セリカちゃん、落ち着きなよ」

「それは次に会った時、賠償金を吹っ掛ける事で晴らすと良いよ、借金返済にも繋がるだろうしね」

 

 どこかおどけた様にそう口にするホシノ。

 そして気付けば、あれだけ五月蠅かった風の音が段々と収まり、アヤネがふと顔を上げ告げる。

 

「――風、止んできましたね」

「ん、外を見てみる」

 

 そう云って首をテントの外へと突き出したシロコは、大丈夫だと判断しテント出入り口の封鎖を解く。再び外へと踏み出したアビドスは、僅かに頬撫でる程度の風に胸を撫で下ろし、大きく伸びをした。

 

「……これくらいの風なら、移動も出来そうですね」

「良し、それじゃあシートを片付けて、出発しようか」

「分かった」

 

 頷き、テントの解体を始めるアビドス。ふと、岩に打ち込んだアンカーを抜き取るシロコの目に、大きな影が映った。最初は見間違いかと思ったが、目を擦って再度注視すれば――確かに、岩場ではない何かのシルエットが見える。

 

「――あれは」

「ん? どうしたの、シロコ先輩?」

「セリカ、あれ……」

「あれ?」

 

 そう云ってシロコが指差した方向へと顔を向けるセリカ。まだ遠いが、確かに何か影が見える。岩場か何かだろうかと首を傾げたセリカは、前傾姿勢になりながら目を細めるが――やはりシルエットはハッキリしない。

 

「さっきまで風が吹いていたから、砂埃で見えなかったけれど……巨大な街、工場? 良く分からないけれど、何か、大きい施設が、向こうに……」

「街って、こんな所に? 何かの見間違いじゃなくて?」

 

 シロコの言葉に、どこか疑る様な視線を向けながら隣のノノミへと水を向ける。

 

「ノノミ先輩は見える?」

「いえ、私にはちょっと……ただ、形から岩ではないような……?」

「……アヤネちゃん、ドローンで見れる?」

「あ、はい!」

 

 ホシノが解体したパイプを片手にそう問いかければ、アヤネは着陸させていたドローンを飛ばし、空からカメラを使用し影を拡大した。皆がアヤネのタブレットを覗き込み、画面を注視する。

 

「ドローンカメラですと、これが最大ですが……」

「――確かに、これは建築物だね」

 

 ホシノがタブレットの中に見える、輪郭のあやふやなシルエットを指差し告げる。確かに遠目ではっきりとはしないが、それは人工物の様に見えた。

 

「……こんな、誰も居ない様な砂漠に? 埋もれた街とかじゃなくて?」

「流石にそこまでは分からないけれど、もし埋もれた街ならこんな風に綺麗に露出していないと思う、もっと地中から生えた感じになるから」

 

 答えながら、ホシノは訝しむ。ホシノ自身、砂漠の下に埋まっていた町が砂嵐で露出したとか、そういう可能性を疑っていた。しかし、それにしては随分と高低差が『綺麗』なのだ。周辺には建物を覆う様にして広がる外壁も見える。嘗ての街に、こんなものは無かった筈だった。

 

「兎に角、肉眼で確認出来る位置まで近づいてみましょう」

「えぇ、そうですね」

 

 アヤネの言葉にノノミが頷き、アビドスは正体不明の建築物に向かって前進を開始する。その間、妙な胸騒ぎが消えず、ホシノはそっと愛銃を握り締めた。

 

 ■

 

 建築物は、皆がテントを張った場所から近すぎず、遠すぎずの距離にあった。近付くにつれ、全貌が明らかになる建物群。周囲をぐるりと外壁で囲み、所々に電波塔らしきものが聳え立ち、内部にはトラックや倉庫らしき小さな建物が規則正しく並んでいる。それらを前に、アビドスの皆は呆然と立ち尽くす。

 

「……これは」

「何、これ」

 

 砂漠のど真ん中に突如現れた人工物、少なくともこんなものがあるなんて事を、アビドスは今の今まで知らなかった。

 シロコは周囲を囲む外壁を視線でなぞり、呟く。

 

「この張り巡らされている外壁と有刺鉄線、数キロメートル先まであるよ」

「かなり大規模ですね、これは工場でしょうか? 石油ボーリング施設、ではなさそうな……一体何でしょう?」

 

 ノノミが中を覗き込みながら首を傾げる中、隣に立つホシノは厚く、砂塵に塗れた外壁に手を当てながら口を開く。

 

「――こんなの、昔はなかった」

 

 少なくとも二年前、まだホシノがアビドス生徒会として活動していた時――この砂漠へと足を運んだ当時、こんな大規模な施設は存在しなかった。つまり、この施設は比較的最近建設されていたという事になる。

 いつの間にこんな大規模な工事を――いや、誰も通らない様な砂漠地帯、目を盗んで活動する事自体は難しくない。問題なのは、こんな施設を建てる事が出来る組織があるという事で――。

 そこまで思考を回していたホシノの耳に、不意に銃声が鳴り響いた。

 銃弾は外壁に凹みを刻み、足元の砂が跳ねる。

 

「うわっ、何なに!?」

「っ、銃撃!」

 

 セリカが叫び、シロコは素早く近場の遮蔽物に身を隠す。見れば、比較的外装の整ったオートマタ兵士が銃を手に此方を狙っていた。

 

「侵入者発見!」

「逃がすな、拘束しろッ!」

 

 此方に銃口を向けながら叫び、周囲に集まり出す兵士達。対策委員会は近場の影に身を隠し、愛銃の安全装置を弾いた。

 

「た、確かに無断で入ったけれど、別に悪い事していた訳じゃ……!?」

「警告もなしに、いきなり発砲ですか!」

「しょ、所属不明の兵力が展開しています! 数は十以上……全てオートマタですっ!」

「――良く分からないけれど、歓迎の挨拶なら返してあげた方が良さそうだね?」

 

 ホシノが呟き、その目が険しさを帯びる。

 撃ってきた以上、平和的に会話で解決……という訳にもいかないだろう。声を掛ける間もなく攻撃してきたのだ、この施設の存在を知った者を排除する心積もりなのかも知れない。

 視線で互いに意思疎通を行い、皆が抗戦の意思を見せる。

 どちらにせよ、こんなものを見せられて手ぶらで帰る訳にもいかない。ホシノが身を乗り出して銃を構えれば、皆が続く様にオートマタへと銃口を向けた。

 

「よし……戦闘開始っ!」

 


 

 ま゛た゛一゛万゛二゛千゛字゛!!!

 でも個人的に一万字超えないと「あ~、読んだわぁ~」って気せぇへんし、ままええやろ。

 

 こんな健気で良い子達を泣かせようとしている先生が居るってマジ? こんな子達に悲しい思いをさせる人なんて許せない……倫理観とか道徳をかなぐり捨てた酷い奴に違いない。オラっ、あなたの事だぞ先生! こんな子達に心配されながらも無茶ばかりしやがって! 罰として生徒の目の前で手足捥いでやるからなっ! 反省しろッ! 吐血! 入院! 吐血! うぉっ、すげぇ無限ループ……不死身かな? 多分人間なら死ぬと思うんですけれどぉ(名推理)

 

 結局先生が出ない回は一話で終了しましたね、仕方ないですよ、だって先生を出したくて震えるくらいですから。生徒達の愛を感じる為には先生を動かさないといけないって、それ一番云われているから。だから臓器が欠けていようが、血が足りなかろうが、何があろうとも生徒の為に駆けつけ苦痛に歪んだ顔を見せてあげて先生、そうすれば生徒はもっと可愛くなるよ♡ おいおいおい、これ以上生徒が可愛くなってしまったら先生の心臓が止まっちまうぜ? うぅ、先生の心臓止まるとこみてて……。そんな死因で恥ずかしくないの先生? 生徒が可愛すぎて死ぬとか理解出来ないわ。理解して♡

 

 ミカーァッ! ミカ、ミカ、ミカ、ミカァァア! ミカミカゼミ。

 エデン条約まだ先だけれど書きたくて仕方ないぞミカァ! 先生に、「私の大切な御姫様に、何をしているのッ!」と啖呵吐かれて、「……わーお」って赤面していたミカァ! デロデロに甘やかされて、どんな時でも自分の味方をしてくれて、辛いときは寄り添ってくれて、決して折れず曲がらず、自分とは違って一本の強い芯の通った先生に惹かれて、好きで好きで仕方がないミカァ! 

 一応幽閉されていた身だというのに、実は内緒で抜け出して――セイアもナギサも気付いているけれど、まぁ偶にはストレス発散しないといけないし黙殺していた――シャーレで、「先生、きちゃった♡」していたミカァ! 

 偶に他の生徒とカチ合うと、「ふぅーん、なに、わ・た・し! の先生に何かご用事~?」と威嚇してメンチを切っていたミカァ! 

 成績はそんなに悪くないのに勉強が分からないふりをして、「先生、ここわかんなーい」と二人きりになる口実を作ろうとしていたミカァ! 

 先生のお嫁さん枠を取り合っている生徒の前に、「この中で~、『私の大切な御姫様♡』って呼ばれた事のある生徒っている~? ――居ないよねぇ!?」ってマウント取って戦争起こしかけたミカァ!

 子どもっぽくて、夢に溢れていて、素敵で、胸がときめく様な、そんな物語の主役に憧れていたミカァ!

 けれどそんなのは夢物語で、自分には縁のない話で、罪を犯した自分が救われる事はなく、ただ闇の中で、一人ぼっちで死んでいくのだと――そんな諦観の中に沈んでいた自分の前に立ち、全力で守ってくれた先生の背中を知っているミカァ!

 

 そんなミカの前で先生に血を撒き散らして死んで欲しい。

 

 倒れたサオリにとどめを刺そうとしたミカの前に飛び出して、心臓をぶち抜かれるのも良い。聖徒会の前で啖呵を切り、相討ちに近い形で斃れるのも良い。どんな形であれ、ミカは驚愕し、絶望し、泣き喚き、先生に縋ってくれると信じているから。

 でもやっぱり最高なのはキヴォトス動乱で最後まで先生の為に戦うミカが、これ以上はヘイローが壊れてしまうって程、限界まで体を酷使して、そんなミカに飛来した致命的な一発を先生が庇うっていうのが芸術点高くてスコのすこここ。

 夢を見せてくれた先生に、自分を救ってくれた王子様に、今度は私が救いを、祈りをと、そう一心不乱に戦うミカはきっと強いよ。強いからこそ、畏怖と敬意を持って撃たれるだろう。特に正実とかシスターフッドじゃないトリニティのモブの民度は凄いからね、弱者を多勢で以て嬲る事は得意だろうから。まぁそれが一部なのか、或いは大多数なのか、それは分からないけれど。

 

 ミカは絶対死ぬ寸前まで戦ってくれる、先生に教えられた事だもの、諦めないという事は。どんな絶望でも、どんな苦境でも、先生は希望を持って決して諦めない。だからこそ、先生が生徒の立ち続ける限り、決して斃れない様に。ミカもまた、先生が諦めない限り、迫り来る生徒の前に立ち続けるんだ。

 私は先生に救われた、だから今度は私が救う番。

 先生は私に夢を見せてくれた、だから今度は私が夢を見せる番。

 

「私みたいな問題児はさ、先生に何度も心配をかける生徒は……先生の傍にはいられない事も、良く分かっている……」

「もう、帰る場所がないの、トリニティにも……どこにも……」

「生徒じゃなくなったら、私みたいな問題児、先生だって、もう会ってくれないよ……」

「私に、これ以上幸せな未来なんか訪れないって事も、良く分かっている……」

「私は、悪党だから……人殺し、だから……」

「だから……私に残っているのは、『こんなもの』しか、ないの――」

 

 そんな言葉を宣って、涙を流した自分に寄り添い、欲しいものを『全部』くれた先生の為に――!

 

 そんな幸せと希望と居場所をくれた先生をミカの前で射殺してぇ~! 

 もう立ち上がれない程ぼろぼろになったミカの前で、愛しの生徒を抱きしめながら背中で弾丸を受ける格好良い先生の姿みてぇ~!

 

 ミカは何が起きたか分からないぞ、もう本当に駄目かもしれないという所で颯爽と現れる先生。いつぞや聖徒会と対峙した時の様に、自分のピンチに駆けつけてくれる王子様。そんな先生の姿に、「先生……?」ってミカは驚きと、そしてほんの少しの嬉しさを滲ませながら、名前を呼んでくれる。

 そして、今にも触れ合いそうな距離で見つめ合いながら、きっと先生は微笑んでくれる。そのままミカを抱きしめて、静かにミカへと寄り掛るんだ。

 

「――先生?」

 

 そこでミカは、漸く先生の背中に滲む血に気付く。先生の背中へと回した自身の手に、こびり付く生暖かい赤色。それに気付き、ゆっくりと手を開いたミカは、徐々に瞳を見開き、自身の肩に首を乗せ項垂れる先生を小さく揺する。

「先生? ねぇ、せんせい」って、何度も揺するのに、先生は全然起きてくれなくて。先生の背中越しに、驚愕と後悔と絶望を滲ませた、生徒達の姿が見えて。それでもミカは認めたくなくて。

 震える手足を必死に押さえつけながら、まだ暖かい先生だったものに呼びかけ、揺すり続けるんだ。いつもみたいに名前を呼んでって、こんな夢の終わり方は嫌だよ、って。先生の血に塗れた制服を、皺になる程つよく握り締めながら。

 

 ミカは可愛いなぁ、絶対先生ガチ勢にして幸せにしてあげるから待っていてね。今まで大変だった分、報われなくちゃ駄目だよ。先生の手足全部千切ってでも幸せにしてあげるから、全く先生も幸せ者だよね、こんなに想ってくれる生徒がいるんだからさ。だから絶対幸せにするんだよ? 何を喪っても、どんな代償を支払ってでも、彼女達の夢と希望と平穏を守ってあげなくちゃ! だって先生なんだから! 

 救えなかった結末から目を背けちゃ嫌だよ先生。生徒の為にあなたが死んだように、あなたの為に生徒は全部を投げ捨てたのだから。

 



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カイザーの城

誤字脱字報告ありがとうございます。


 

「うへ……結局、何なのこいつら」

 

 ホシノは硝煙を吹き上げる銃口を払い、呟く。

 突発的に行われた戦闘は終息し、襲撃者であるオートマタは全て撃破され、煙を吹いて崩れ落ちていた。アビドスは倒れ伏すそれらを見下ろしながら、訝し気な表情を浮かべる。

 

「そんなに強くないけれど邪魔って云うか、面倒くさいというか……なんか、今まで戦ってきた奴らの中でも一際厄介って感じ」

「ん、下手したら風紀委員会より面倒……」

「多分、連携のせいだと思います――」

 

 シロコやセリカの言葉に、アヤネはオートマタ達の持っていた銃器を手に取りながら答えた。アヤネ自身それほど銃器に詳しい訳ではないが、銃器が必須なこのキヴォトスに於いて必要な知識は有している。専門家には遠く及ばないが、彼らの持っていたライフルが、既製品のそれではない事は分かった。この銃一丁だけでも、それなりの値段がするだろう。つまり、既製品の銃器やパーツを使用する日雇い傭兵の類ではないという事だ。

 

「全員が全員、自身の役割に徹しているんです、それでいて決して無茶をしない、堅実で、命令系統がキッチリしていて、だから非常に粘り強く感じる……」

「一体何なのでしょう、この方たちは――それに、こんな所で何を?」

「それは、私にも……――?」

 

 ノノミの疑問にアヤネは首を振り――ふと、外壁に何かマークの様なものが描かれている事に気付いた。それは外壁の塗装と砂に塗れてやや見辛いものの、見間違いなどではない。

 

「皆さん、外壁に何か、ロゴかマークの様なものが……」

「マーク?」

 

 その言葉に、全員がアヤネの指差した方向へ視線を向ける。皆が外壁に近付き、シロコが徐に張り付いていた砂埃を払うと、僅かに掠れたマークが視界に飛び込んで来た。

 

「これって……」

「このマーク、この集団は――」

 

 描かれていたマークは、三角形にクロスする帯。

 そしてその下に記された、企業名――『KAISER PMC』。

 

「――カイザーPMC」

 

 ホシノがどこか、呆然とした様子で呟いた。

 

「……今、照合しました、ホシノ先輩の仰る通り、これはカイザーPMCのものです」

「カイザー……カイザーって、こいつらもカイザーコーポレーションって事!?」

「そういう事みたいだね」

 

 シロコが苦り切った表情で頷けば、セリカが外壁を思い切り蹴飛ばす。

 その表情を怒りに染め、セリカは刻まれたそれに向かって叫んだ。

 

「カイザー……カイザー、カイザー、カイザーッ! どこへ行ってもッ! 一体、何なの!?」

 

 アビドスから金をせしめて、ブラックマーケットと繋がっていたのはカイザーローン。頸の廻らなくなったアビドスに甘言を囁き、土地を奪ったのはカイザーコンストラクション。そしてそれを裏から支援するカイザーコーポレーション――それに加えて、今度はアビドスの砂漠にカイザーPMC?

 一体、幾つ系列企業を並べれば気が済むのか。セリカは怒り心頭と云った様子で地団太を踏み、表情を歪めた。

 

「『PMC』、という事は、まさか、さっきのオートマタは――」

「? ノノミ、どうしたの」

 

 ロゴを見つけた瞬間から、どこか険しい表情を浮かべていたノノミ。シロコが疑問符を浮べれば、真剣な表情で外壁を見つめる彼女が呟く。

 

「PMCとは、Private Military Company(民間軍事会社)の事です」

「ぐ、軍事って……!?」

 

 その物騒な言葉に、外壁を蹴飛ばしていたセリカの動きが止まる。

 

「ヘルメット団のようなチンピラとはレベルが違います、本当に組織化されたプロの戦闘集団……文字通り、軍隊です」

「……成程、だからあんなに粘り強かったのか」

「退学した生徒や不良の生徒達を集めて、企業が私兵として雇っているという噂がありましたが、まさか――」

 

 ノノミがそこまで口にした所で、突然けたたましい警報音が周囲に鳴り響いた。甲高い電子音が高い空に吸い込まれ、アビドス全員の鼓膜を強かに叩く。不意のソレに全員が身を震わせ、慌てて周囲を見渡した。

 

「っ、警報!?」

「な、何だか大事になりそうな予感なんだけれど……!?」

 

 セリカが表情を引きつらせながらそう口にすれば、どこからともなく空気が破裂するような音が響いて来る。音のする方向へと視線を向ければ、空の向こう側から飛来する影が複数。

 

「これは……ローター音?」

「ちょ、アレってヘリコプターじゃないの!?」

 

 セリカが空を舞うそれらを指差し、思わず叫ぶ。それだけではなく、少しすれば地面が揺れる様な振動を感じた。鋼鉄同士の擦り合う様な甲高い音に、振動。シロコは、はっとした表情で叫ぶ。

 

「足元の砂が跳ねる位の振動……――まさか、戦車!?」

「これは……! 大規模な兵力が接近中、数は……不明! ただ、包囲するように動いています! 敵兵力は装甲車、戦車武装ヘリ……っ、兎に角、物凄い数ですッ!」

 

 ドローンによる索敵機能、表示されたマップには次々と敵兵力を示す赤点が増え続けている。アヤネが蒼褪め、冷汗を掻く程の量だった。警報が鳴り響く中、あらゆる音が続々と増えていく。戦車の駆動音、ヘリのローター音、大勢の兵士がアスファルトを駆ける音――警報を皮切りに、基地の警戒態勢が一気に引き上げられたのが分かった。

 

「包囲が完成する前に離脱しましょう! 一刻でも早く、この場から離れないと……!」

「喋っている暇が惜しい、行こう!」

 

 告げ、シロコがいの一番に飛び出す。その後ろにホシノが続き、背後のセリカを見て叫んだ。

 

「セリカちゃん、おじさんとシロコちゃんが突破口を開くから、殿をお願い」

「わ、分かった!」

 

 シロコ、ホシノのツートップ。中央にアヤネとノノミ、殿にセリカ。情報支援と火力支援を中心としたアビドスの包囲網突破陣形。倒れ伏したオートマタを跨ぎ、対策委員会の皆は走り出す。

 背後からは、夥しい数の足音が迫っていた。

 

 ■

 

「委員長、その……これは、いつまで書けば宜しいのでしょうか……?」

 

 カツカツと、ペンが走る音だけが木霊するゲヘナ風紀委員会執務室。ヒナ委員長が無言で業務を行う傍ら、その隣の席で只管反省文を書く作業に勤しんでいたアコは、自身の黒塗りになった手の側面を眺めながらふと呟いた。

 ヒナは一瞬だけ業務の手を止めると、ちらりとアコを一瞥し、再び手を動かし告げる。

 

「今、二百枚目くらいでしょう、自分で千枚書くって云っていなかった?」

「それはその、それくらい反省していますという比喩でして……」

「口より手を動かしなさい」

「が、頑張ります……」

 

 言外に、「流石に多すぎませんか?」という含みを持たせたものであったが、ヒナ委員長はどうやら辞めさせる気はないらしく、云い出した手前本音を吐露する訳にもいかず、アコはがっくりと項垂れ再び手を動かした。

 自分がこの反省文を終わらせねば、自身の担当する業務までヒナ委員長に流れる事になる。必死に文字を書き綴るも、やはりその速度には限界があり、どう頑張っても今日中に終わる気配はない。

 

「……後、前にも伝えたけれど、次先生が来たらわんわんプレイって云うのをやるそうだから、頑張って」

「わ、わんわんプレイ……」

 

 その言葉に、ぴたりと再びアコの手が止まる。

 

「やっぱりアレ、本気だったんですね……」

 

 呟き、アコは件の先生の奇行を思い出した。

 同じ風紀委員のイオリを抱きかかえながら、その髪に顔を埋め深呼吸するシャーレ担当顧問の姿。平然と、『あぁいう事』を賠償に求める人だ、その『わんわんプレイ』というのも恐らく本気なのだろう。もし他の人物が口にした事ならば、冗談か単なる嫌がらせだと断じる事も出来た。しかし、実例を前に示されると本気度が違う。

 青くなったり赤くなったりを繰り返すアコは、少しの間呆然と天井を眺めていたが、ふと目についたヒナ委員長の首元に小さくガーゼが貼り付けられている事に気付き、口を開いた。

 

「……それよりも、委員長こそ病み上がりではありませんか、何も即日復帰せずとも少しはお体を労わって――」

「どこかの誰かが暴走したせいで、関係各所に提出する書類が溜まっているの、傷自体も半日で治る程度のものだし、休んでなんていられない」

「うっ………」

 

 ぴしゃりと最も痛いところを突かれ、口を噤んだアコ。ヒナは淡々と業務をこなしながら目を伏せ、ぽつりと呟く。

 

「それに、気になる事もあるしね――」

 

 どこか陰を背負いながら呟かされたそれに、アコは剣呑な目つきで以て云った。

 

「……委員長を襲った相手(クソ女郎)ですか?」

「それに関しては黙秘すると云った筈よ」

「しかし、ゲヘナ風紀委員長を襲撃するなど、決して許せる筈が……!」

「どこかの誰かは連邦捜査部のトップを襲撃したわね」

「…………」

「――宜しい、そうやって手を動かせば良いの」

 

 最早、何も云う事は無かった。何を云っても自分の行動に返って来るに違いない、それが理解出来る程の塩対応というか――鉄壁であった。

 意気消沈したアコはしょんぼりとした顔を隠さず目の前の反省文と向き合い、暫くの間執務室にはペンを動かす音だけが響き、二人は黙々と作業を進めていた。

 その中で、ふとアコは疑問を思い出し、双方ペンを動かしながら口を開く。

 

「――そう云えば」

「ん、まだ何か?」

「あの、アビドスのホシノという方は、お知り合いだったのですか?」

「……いや、実際に会ったのは初めて」

「そうでしたか、どことなく、良く知っている方の様に話されていたので……」

 

 アコがそう告げると、ヒナはペンを止めずにどこか懐かしい色を滲ませて言葉を紡いだ。

 

「小鳥遊ホシノ――『天才』と呼ばれた、本物のエリート、二年前の情報部分析では、ゲヘナにとっての潜在脅威の一つとしてリストアップされていた」

「何と……全くそういった雰囲気を感じさせない方でしたが」

「アコ、外見で相手を判断するものじゃない」

 

 一際強くペンで机を打つと、ぎしりと椅子を軋ませながらヒナは小さく肩を揺らした。

 

「でも確かに、二年前とは随分と変わった……元々は攻撃的戦術を得意とした好戦的な性格で、荒っぽく鋭い印象を受けたけれど――」

「今とはまるで真逆ですね」

「えぇ、そうね」

 

 頷き、ヒナは一度手を止めるとアコに視線を投げかける。アコもまた、同じように視線をヒナへと向けた。

 

「……あの時、あのまま戦っていたらきっと、風紀委員の大半が戦闘不能になった筈、アコ、あなたの早とちりでね――シャーレと小鳥遊ホシノの組み合わせ、正直に云って、敵には回したくない類」

「戦力の分析は確りと行っていた筈でしたが、シャーレは兎も角、アビドス側のそういった情報は……」

「……まぁ、ある日突然活動報告が途切れたからね、なにしろ小さい学校だし、情報部も途中から脅威とはみなさなかったのかもしれない、詳しい事が知りたければ、情報部の過去資料でも漁ってみると良い」

 

 云いながら、ヒナは疲れを滲ませ背凭れに身を預ける。そうすると、妙な感傷が胸に湧き上がって来た。最も強く滲みだすのは、ホシノという少女についての疑問。嘗て天才と呼ばれ、その名に見合うだけの実力を持っていた少女――彼女の実力は、今でも尚健在だと対峙したヒナは確信している。

 しかし、だからこそ分からない。

 

「それにしても、小鳥遊ホシノ――未だにアビドスを離れないで、残っていたなんて……あれだけの能力があれば、どこの学校でも歓迎されるでしょうに、一体なぜ……?」

 

 ■

 

「はぁ、はぁッ……!」

「ふぅ――」

「キリがないなぁ、これは……」

 

 ホシノの力ない呟きは、砂漠の中でも耳に届いた。

 地面に転がるオートマタ、ドローンの残骸、加えて大破炎上した装甲車が数両。流石に大破までは持ち込めなかったものの、履帯を破壊し行動不能にした戦車が一両、たった五人の戦果としては上々の類だろう。息を切らせ、岩陰に身を隠したアビドスの大半は険しい表情を浮かべている。

 向こう側からゆっくりとした足取りで接近してくる無数のオートマタを見つめながら、ホシノは小さく舌打ちを零した。自身のポーチに手を突っ込み、残りの残弾を指先でなぞりながら思う。どう考えても弾も、体力も足りない。

 

「ッ、更に敵兵力に増援、装甲車や戦車も……まだ増えるんですか!?」

 

 背後から、アヤネの悲鳴染みた声が上がった。見れば彼女のタブレットには後方から迫り来る複数の赤点が映し出されている。移動速度からして車両である事は確かだろう。兵員輸送車だろうが戦車だろうが、今のアビドスにとって手に余るのは確かだった。

 右も左も、何処を見ても敵だらけ、アビドスは――既に包囲されていた。

 

「駄目です、包囲網の突破、出来ませんっ!」

 

 アヤネの叫びにシロコは額の汗を拭いながら、どこか淡々とした様子で呟いた。

 

「……絶体絶命?」

「うへ、包囲されちゃったかー……」

「ど、どうしよう……!?」

 

 皆が周囲の様子を伺いながら冷汗を流す、五対百――いや、もっとか。時を経る毎に数は増えていき、一斉射撃でも貰えばアビドスは一瞬で戦闘不能に陥るに違いない。それが分かっているからこそ、下手に手は出せず、同時に時間が経てば――という悪循環であった。

 そんな彼女達の目に、ふと接近してくる車がある事に気付いた。砂漠で用いるには、少しばかり頑丈過ぎる様に思えるソレ。一見普通の装甲車にも見えるが、硝子は全てスモークになっており、中を窺い知る事は出来なかった。アビドスが銃口を向けながら警戒する様子を見せる中、手前で停車したソレから――大柄な影が降車する。

 同時に数体のオートマタがアビドスを囲み、銃口を向けた。

 自然、中央に固まって背中合わせとなるアビドス。

 そんな彼女達を見下ろし、大柄な影は告げる。

 

「ふむ、侵入者とは聞いていたが……アビドスだったとは」

 

 重々しい口調で呟いたのは、黒と赤のスーツを着込み、特徴的なラインヘッドを用いた機械人形――人物だった。その大柄な体躯は優に二メートルは超えるだろう。重厚感と威圧感を感じさせる風貌に、どこか気圧されたセリカが思わず呟く。

 

「な、何よこいつ……!」

「――あいつは」

 

 最初に気付いたのは、ホシノだった。

 羽織ったコートを靡かせながら此方を見下ろすその風貌に、憶えがあった。そうでなくとも、こんな見た目の人物――早々忘れる事など出来ない。

 

「まさか此処に来るとは思ってもいなかったが……まぁ良い、何が変わるという訳でもあるまい」

 

 呟き、一歩踏み出す何者か。オートマタが付き従っている以上、何かしら役職を持っている人物なのは確かなのだろうが、実際にどこの誰なのか、ホシノを除き見当もつかない。銃口を向けられながらも余裕の態度を崩さない彼の人物は、自身の前に立つピンク髪の少女――ホシノを見下ろし、吐き捨てた。

 

「勝手に人の私有地に入り、暴れた事による被害額、君達学校の借金に加えても構わないが……まぁ、大して額は変わらないな」

「あんたは、あの時の――」

「……確か、例のゲマトリアが狙っていた生徒会長、いや、副会長だったか?」

 

 頸を傾げ、しげしげとホシノを注視する人物。

 彼は一つ頷きを見せると、指先で顎のラインを撫でながら云った。

 

「――面白いアイディアが浮かんだ、便利屋やヘルメット団を雇うよりも良さそうだ」

「ヘルメット団? 便利屋……? な、何を云っているの……」

「あなた達は、誰ですか?」

 

 ノノミの言葉に、彼は少しだけ驚いたような雰囲気を見せ――それから呆れたように肩を竦める。

 

「……まさか、私の事を知らないとは、アビドス――君達なら良く知っている相手だと思うがね?」

 

 云うや否や、彼は傲慢な態度を隠しもせずに胸を張り、アビドス対策委員会の全員を見下して、云った。

 

「私は、カイザーコーポレーションの理事を務めている者だ――つまり、君達アビドス高等学校が借金をしている相手だよ」

「ッ!」

「嘘っ!?」

 

「では、古くから続く借金の話でもしようか――アビドスの諸君?」

 

 ■

 

「カイザーコーポレーションの理事……!」

 

 アヤネが、何処か戦慄するような色を含んだ呟きを漏らした。

 目の前のこの、大柄でどこか居丈高な機械人形が、自分達を散々に苦しめて来たカイザーコーポレーションの理事。それは、唐突な邂逅だった。ずっと探していた筈の誰かが、唐突に目の前に現れ、全ての感情を浚っていった。

 ざわりと、胸に秘めていた感情が蠢くのを自覚する。

 彼はそんなアビドスの様子を興味深そうに見つめながら、言葉を続けた。

 

「正確に云えば、カイザーコーポレーション、カイザーローン、そしてカイザーコンストラクションの理事だ、現在はカイザーPMCの代表取締役も務めている」

「――そんな事はどうでも良い、要はあなたがアビドス高校を騙して、搾取した張本人って事で良い?」

「……ほう?」

 

 シロコが憎悪を滲ませた口調で吐き捨て一歩詰め寄れば、カイザー理事は首を回しながら面白そうに声を漏らす。

 

「そうよ! ヘルメット団と便利屋を仕向けて、ここまで私達をずっと苦しませて来た犯人があんたって事なんでしょ!? あんたのせいで私達は……アビドスはッ!」

 

 続けてセリカがカイザー理事の所業を糾弾すれば、彼はアイラインを何度か点滅させ、呆れたとばかりに首を横に振る。

 

「――やれやれ、最初に出て来る言葉がソレか、呆れ果てたぞアビドス」

「何ですって……!?」

「勝手に私有地へと侵入し、善良なる我がPMC職員たちを攻撃し、施設を散々破壊しておいて……くくっ、面白い」

「……善良な職員にしては、何の警告もなしに発砲されましたけれどね」

「自己防衛さ、何せ見知らぬ人物が家に無断で入り込んで来た様なものだからな、強盗や盗人が相手なら、君達とてそうするだろう?」

「………」

「――口の利き方には気を付けた方が良い、ここはカイザーPMCが合法的に事業を営んでいる場所、まず君達は今、企業の私有地に対し不法侵入しているのだという事を理解するべきだ」

「っ……!」

 

 カイザー理事がそう告げると、周囲を囲んでいたオートマタが一斉に銃口を突き出した。その威嚇行為にアビドスは一歩退き、悔し気に表情を歪ませる。

 

「さて、話を戻そう――アビドス自治区の土地だったか、確かに買い取ったとも、しかし、だからどうした? 全ては合法なる取引、記録も全て確りと存在している……まるで私達が不法な行為をしているかのような云い方はやめて貰おう、それとも此処には私を挑発しに来たのかね?」

「っ、どの口で……!」

「正直、何故君達が此処に来たのかは知らないが……どうしてアビドスの土地を買ったのか、その理由が知りたいのか?」

 

 カイザー理事がそう問いかければ、背後で彼を睨みつけていたノノミが答える。

 

「……確かに、こんな砂漠に大規模な施設を建築してまで何をしているのか、その理由は気になります」

「ふむ――ならば教えてやろう、私達はアビドスのどこかに埋められているという宝物を探しているのだ」

「!?」

 

 彼がそう口にすると、驚きを露にするものと、怒りを露にする者で綺麗に二分された。怒りを見せたのはセリカとシロコの二名、今にも食ってな掛かりそうな程に表情を歪めた二人は、カイザー理事を睨みつけながら叫ぶ。

 

「……そんなでまかせ、信じる訳ないでしょ!?」

「それはそう、もしそうだとすると、このPMCの兵力について説明がつかない――この兵力は、アビドス自治区を制圧する為のものじゃないの?」

 

 そうシロコが口にすれば、カイザー理事は数秒沈黙を守った後、妙に重々しい雰囲気を纏ったまま呟いた。

 

「……数百両もの戦車、数百名もの選ばれし兵士達、数百トンもの火薬に弾薬――たった五人しか在籍していない学校の為に、これ程の用意をすると本気で考えているのか?」

 

 手を広げ、周囲に展開する部隊を見せつける様に振る舞うカイザー理事。

 この兵力――軍隊を維持するだけで幾ら必要になるのか。最新鋭の戦車を一台購入するだけでも、アビドスの抱えている借金に匹敵する金額が動くのだ。比較的安価な装甲車両でも、数を揃えるとなると馬鹿にならない。勿論、買って終わりなどではない、それらを修理・整備する為に必要になる費用、その環境整備費用、人件費はもちろんの事、パーツ費、弾薬費、兵士の教育訓練費、設備整備費、技術研究開発費、基地周辺対策費――兎に角、軍隊というのは金が必要となる。アビドスの抱える借金など雀の涙ほどにしかならない、莫大な金銭が。

 それを、たった五人の生徒の為に用意するだと? カイザー理事は極めて不愉快だと云わんばかりにアイラインを細めた。

 

「冗談ではない、そんな非効率的な行為を企業が許容するものか、あくまでこれは、どこかの集団・企業・学園に宝探しを妨害された時の為に用意した備えだ、ただそれだけの、君達の為に用意したものではない……君達程度、いつでも、どうとでも出来るのだよ――例えばそう、こういう風にな」

 

 告げ、彼は自身の耳元に指を添える。その様子をアビドスの皆は、訝し気な表情で見つめていた。会話は聞こえない、そもそも声を発していない。しかし、僅かな時間が経過した後、カイザー理事は努めて淡々とした様子で云った。

 

「ふむ――残念なお知らせだ、どうやら、君達の学校の信用が随分落ちてしまったそうだよ」

「は……?」

 

 セリカが思わず声を漏らすと同時、アヤネの端末に着信が入った。

 全員の視線が彼女のタブレットに向かい、アヤネは唐突なそれに目を白黒させる。

 

「ちゃ、着信……?」

 

 カイザー理事に顎先で行動を促され、アヤネは恐る恐る応答ボタンをタッチする。するとスピーカーモードで音声が周囲に響き、アビドス全員の鼓膜を震わせた。

 

『――いつもご利用ありがとうございます、こちらカイザーローンです、突然のご連絡で恐縮ですが、現時点を持ちましてアビドスの信用評価を最低ランクに下げさせて頂きます』

「えっ……はッ!? ま、待って下さい、毎月きちんと利子金額の返済は出来て――ッ!」

『変動金利を三千%上昇させる形で調整致しました、該当金利諸々を適用した上で、来月以降の利子金額は九千百三十万円で御座います――それでは引き続き、お支払いの方をお願いいたします』

「はい!? 三千って……! ちょ、ちょっとそんな急に!?」

 

 アヤネが思わず声を荒げるが、カイザーローンのアビドス担当職員は無慈悲にも一方的に通話を切断する。無情な電子音が響く中、アヤネは顔面蒼白となった表情をそのままに、呟く。

 

「き、切れた……」

「きゅ、九千万円って……嘘でしょ!?」

「くくッ――」

 

 セリカがタブレットを見下ろしながら呆然と呟けば、その様子を愉快そうに眺めていたカイザー理事が嘲笑を零す。毎月九千万円の返済――どう考えても出来る筈がない。それが分かっているからこそ、カイザー理事はアビドスを楽し気に見下ろす。

 

「これで分かったかな、君達の首に掛けられた紐が今、誰の手にあるのか?」

「っ……こんなやり方で、良くも合法だなんて……!」

「ちょ、嘘でしょ!? 本気で云ってんの!?」

「あぁ、本気だとも、しかしこれだけでは面白みに欠けるか……そうだ、九億の借金に対する保証金でも貰っておくとしよう、一週間以内に我がカイザーローンに三億円程、預託して貰おうか? この利率でも借金返済が出来るという事を、証明して貰わねばなぁ?」

「っ、この……!」

 

 シロコが思わず引き金に指を掛けるも、それよりも早くカイザー理事の前にオートマタが立ち塞がり、周囲から向けられた銃口が更に一歩詰める。シロコは悔し気に表情を歪め、強く歯を噛み締めた。

 どう考えてもアビドスに勝ち目など無かった――力関係でも、金銭関係でも。

 

「そんなお金、用意出来るはずが……今、利子だけでも精一杯なのに……!」

「――ならば学校を諦め、去ったらどうだ?」

「……っ!」

 

 アヤネの呟きに、カイザー理事はどこか優し気な色さえ伴って、そう告げた。

 

「自主退学をして転校でもすれば良い、それで全て解決するだろう? そもそもこれは君達個人の借金ではない、学校が責任を取るべきお金だ……何も、君達が進んで背負う必要はないだろう? こんな、砂に塗れた小さな学校一つに拘って何になる? 卒業すればいずれ消える居場所だ、学生時代の殆どを僅かな金銭を得るための労働に費やし、無駄にする必要などない、君達はまだ――子どもだろう」

 

 年長者が幼い者に道理を説く様に、或いは親切心からの助言だとばかりに、カイザー理事は穏やかに、言い含める様な形でそう告げる。先程までのものが威圧感による支配だとすれば、今のこれは飴と鞭の『飴』だ。情を含ませながら理で以て説く、それは普通の学生を相手にするならば十二分に納得できるような行動だった。

 しかし――アビドスはそれでも尚、カイザー理事を睨みつけ、叫ぶ。

 

「そんな事、出来る訳ないじゃないですか!」

「そうよ、私達の学校なんだから! 見捨てられる訳ないでしょ!?」

「アビドスは私達の学校で、私達の街」

 

 対峙し、強く拳を握り締める。

 そこには理を以て説くだけではどうにもならない、強い執着と意思があった。

 カイザー理事の云う事は的を射ている、そうだ、この金銭は何もアビドス対策委員会の個人個人が背負う代物ではない。そんな事は百も承知だ、云われずとも理解している。誰が好き好んでこんな額の借金を背負おうなどと思うものか――それでも、莫大な借金を背負って尚、棄て難い感情と思い出があるのだ、あの場所には――!

 

 その瞳の輝きを直視した時、カイザー理事は僅かに表情を陰らせた。

 それが、どういった感情によるものなのか、彼自身分からなかった。呆れから来るものなのか、或いはもっと別の感情が来るものなのか。少なくとも、良い感情ではない事だけは確かだった。

 指先で頬をなぞり、カイザー理事は淡々と問い掛ける。

 

「……その意気込みは買うがね、ならばどうする? 他に何か良い手段でも?」

『――あると云ったら、あなたはどうする?』

 

 声は、直ぐ横から聞こえた。

 思わず全員が周囲を見渡し、その声の発生源へと目を向ける。そこには、基地に放送を行う為の放送塔、その子機が支柱に設置されていた。生徒全員が驚きを露にし、カイザーPMCのオートマタ達が浮足立つ。

 

「ッ……!?」

「えっ、この声、先生……!?」

「嘘……!」

「どうなっている!?」

「き、基地の放送機能がジャックされましたッ!? それに……未確認飛行物体が、当基地に急速接近中との報告が……!」

「未確認飛行物体だと? なんだ、ソレは――!」

 

 カイザー理事が吐き捨てると同時、空気を吸い込む様な、航空機特有のエンジン音が鳴り響いた。見れば空の向こう側から、青と白のカラーリングの航空機が凄まじい勢いで接近しているのが見え、周囲の戦車やオートマタが一斉に銃口を向ける。

 しかし、カイザー理事それを手で制止し、呟いた。

 

「あれは、VTOLか……?」

『残念、これはミレニアムのマイスター達が創った試作機でね、正式な名称も、機種も決まっていないんだ――彼女達は確か、エリアル・ビークルって呼んでいたかな?』

 

 解答は同じ放送塔から。徐々に減速し、カイザー理事とアビドス対策委員会の前で綺麗な着地を行った航空機――先生曰く、エリアル・ビークルは、奇妙な形をした代物だった。機体本体は平べったく、しかし左右はどこかずんぐりとしていて、恐らく其処にエンジンか何かが搭載されているのか甲高い音を響かせている。機体先頭横合いの扉が開き、展開されたタラップを下りながら、先生はいつも通りの笑みを浮べていた。

 

「――先生ッ!」

「やぁ、遅れてごめんね、皆」

 

 周囲のオートマタに銃口を向けられて尚、先生は一切の動揺も緊張も見せずにアビドス対策委員会の前へと立つ。その背中を見つめる生徒達は、ただ口を開閉させ、言葉を失くした。

 

 ――風に靡く、カイザー理事の黒と、シャーレの白が対峙する。

 

「さて――大人の話し合いをしに来たよ、カイザー理事?」

 


 

 先生はいつだって、生徒の前じゃ格好良くなくちゃいけないんだ……! だからアコちゃんとはわんわんプレイします(鋼の意思)。

 次回、先生がトリガー式メンチを切りながら、カイザー理事と対峙。

 生徒を虐めるオトナ、絶対許さないマン……! ついにカイザー理事にあの台詞を云わせる事が出来ると思うと胸が高鳴りますわ! ここらで一つ、大人で男らしい背中を見せつけて生徒のハートを鷲掴み(物理)してさしあげましょうね! 先生の格好良い姿が見られるなんて涙出そう……アロナ鬼つえぇぇ! このまま逆らう奴ら全員ブッ殺していこうぜ! 先生が生徒の愛を背に戦うとこみてて……。

 

 話は変わらないんですけれど、ムツキと何やかんやあって、お付き合いする事になった先生に、「いつもありがとうね、ムツキ」って愛情の籠った抱擁を貰い、そろそろ付き合って半年は経つのに全然そういう事がなくて、凄く大事にされている感じはするし、先生が自身の立場と生徒の立場を考えてそうしているんだろうなっていう事は分かるのだけれど――それはそれとして、自分は背が低いし、いつも揶揄ってばかりだし、「もしかして、私に女性としての魅力を感じていない……?」と、不安なり。

 そう云えば面と向かって「好き」って云ってくれるのは先生ばかりで、自分からは素直に気持ちを伝えた事がなかった事に気付いて、シャーレの当番の日に一念発起して、自分からアクションを起こそうと意気込み、先生がお風呂に入ろうとして脱衣所に向かったのを確認して、少し後から、「じゃーん、先生が大好きなムツキちゃんだよ~!? せんせっ、一緒にお風呂はいろ――……」って飛び出して、剥がされた保護膜と、その下に刻まれた夥しい傷跡を見てムツキに絶句して欲しい。

 自分が性的なモーションを見せても全然靡かなくて、いつもどこか一線を引いていたのはこれを知られたくなかったからだと気付いて、はっと先生の表情を見るのだけれど、どこか辛そうな、悲しそうな表情を浮かべた先生を見たムツキは思わず息を呑んで、「ち、違う、違うの、先生、わ、わた、私、そんなつもりなくて……ッ!」って喜色満面の笑みから一転、蒼褪め、涙すら滲ませたムツキに、先生は仕方ない生徒を見る様な笑みを浮べて、「大丈夫だよ、ごめんね、こんな汚い体を見せちゃって」って口にして、そんな台詞を口にさせた事自体に強烈な後悔と自己嫌悪を抱いたムツキが、「ちがッ! わ、私が悪いのッ! ムツキがっ! せ、先生の事、勝手にッ……ご、ごめんなさい! 私、何も知らなくてっ、ごめんなさいッ!」って先生に縋りつくんだ。可愛すぎて辛い。先生毎秒負傷して♡

 

 幸せだからこそ、その感情が裏返った時の表情にこそ愛は宿る。だってそれは、先程までは幸せだったという確かな証明なのだから。

 普段元気で活発で、人を揶揄ったり食ったような性格をしている者に、「ごめんなさい」と「涙」は良いものだ。強い愛の気配を感じます。こうやって一歩一歩、絆を確かめてより良い関係を築いていくんだろうなぁ……素敵だね♡ でも先生は生徒を泣かせたので四肢を捥ぎます。汚い手足(傷だらけの生身)を晒すより、綺麗な手足(傷のない義肢)の方が嬉しいでしょう、先生? 是非その綺麗な腕でムツキを抱きしめてあげてね。 

 うぉ、私の優しさ……菩薩すぎ? 先生が生きている、なんて慈愛の心。自画自賛しちゃう。自分への御褒美として先生の両足貰うね? うぅ、先生……ヒマリを事故から庇って車椅子生活になった後に、どこか焦燥した表情のヒマリと再会して、「……お揃いだね?」ってどこか儚い笑顔で云ってあげて……。んぉっ、炊き立てご飯うまっ! やっぱり出来立ては違うなぁ、テンション上がっちゃう~↑。

 

 



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誰かの想い、誰かの殺意、誰かの夢

誤字脱字報告は、人類が夢見た明日です。


 

 対峙した白と黒、手を伸ばせば届く距離で互いに視線を交わす両者。

 二人の間に見えない圧力が加わり、先生の鋭い眼光と赤いアイラインが交錯する。

 先生の姿はいつもと異なる、シャーレの正式な制服ではなく、白いワイシャツにコートを羽織って、その垂らした腕にシャーレの腕章を括り付けた簡素な恰好だった。首元まできちんと締めた普段の恰好とは異なる、ノーネクタイでどこか挑発的な表情を浮かべる先生。

 それは単に病院から直行して来た為に身なりを整える時間が無かっただけではあるが、そのどこか粗野でワイルドな雰囲気が現在の状況に奇しくも合致していた。

 風が吹き、互いに羽織ったコートの袖が靡く。

 いつもと余りにも異なる彼の雰囲気に、生徒達は息を呑んだ。

 

「自己紹介は必要かな? カイザー理事」

「……凡その見当は付く、不要だ、しかしミレニアムの航空機でご登場とはな――シャーレの先生」

 

 一歩、先生が踏み込めば――負けじとカイザー理事も一歩、踏み込む。

 手を伸ばせば触れられる距離から、僅かに腕を動かすだけで触れる距離に。

 

「これは、ミレニアムサイエンススクールが我が社の敵に回った、という認識で宜しいのか?」

「いやいや、それは少し早合点が過ぎる、あなたは相手がカイザーコーポレーション製の車両に乗っていたら、カイザーが敵に回ったと考えるのかい? 便利だから使っている、それ以上の理由が必要かな?」

「……ふん、口は回るか」

 

 頭一つ分は違う身長差、しかし放つ威圧感だけは負けず劣らず。

 見上げ、挑発的な笑みを浮べながら歯を剥き出しにして睨みつける先生。

 見下ろし、アイラインを盛大に点滅させながら顔を逸らすカイザー理事。

 ふとした瞬間に、それこそ次の瞬きの間に殴り合いを始めそうな程、殺伐とした空気感。二人の間に見えない火花が散り、ポケットに手を入れていたカイザー理事がそっと指を抜き取る。そんな二人を見つめながら、ホシノが思わず言葉を漏らした。

 

「せ、先生、何で……!?」

 

 しかし、返答はなかった。

 ただホシノを一瞥した先生は、そっと唇の前に指を立てると、そのままカイザー理事に向き直った。

 

 これは――大人の話し合い(汚い騙し合い)だ。

 だからこそ、申し訳ないが此処は譲れない。

 先生は手を広げ、笑みを張り付けたまま宣う。

 

「――さて、さっきも云ったが大人の話し合いをしようじゃないか、カイザー理事」

「大人の話し合い、か……そもそもこの件にシャーレは関わっていないだろう?」

「分かっていて聞くのかい? カイザーコーポレーションにも情報部はあるだろう、私は既にアビドス対策委員会の担当顧問に就任しているよ」

「ほう? よもやこのような弱小校に、天下の連邦捜査部シャーレが」

「……何かおかしい事でも?」

「いやいや、立派な志だと思ってね、教職者たるものそうでなくては、心の底から敬意を表しよう、先生?」

 

 欠片も、尊敬を感じない云い方であった。或いは、馬鹿にしているのだろう。

 それが分かって尚、先生は激昂する訳でもなく淡々と聞き流す。この程度で感情が揺らぐと思っていないカイザー理事も同じ。

 

「だが――悪いが此処は我がカイザーコーポレーションの私有地でね、無断での侵入は少々困る」

「――あぁ、その点は問題ない、極めてクリーン(合法)だ」

「……何?」

 

 先生が澄まし顔でそう告げれば、目に見えてカイザー理事の雰囲気が変わった。表情など無いと云うのに、それが歪む様が対面する先生には良く分かった。機械だからこそ、纏う感情の機微には疎いのだ。先生は指先で腕章を数度叩き、口を開く。

 

「今の私は『アビドス対策委員会顧問』ではなく、『連邦捜査部シャーレ』として此処に立っている、故に彼女達も現在は『アビドス対策委員会所属』ではなく、『連邦捜査部シャーレ所属』の生徒として動いて貰っている事になる、この意味が分からないあなたではない筈だ」

「ほぅ――そう来るか」

「シャーレが超法規的機関と呼ばれる理由の説明が必要かな」

「……自治区内での、制約なしの戦闘行為、その認可」

「――その通り」

 

 先生の頷きに、カイザー理事は舌打ちを零す。その特異性、超法規的組織と呼ばれる理由、良く理解しているとも。そしてそれを此処で持ち出してくる理由に、カイザー理事は心当たりがあった。

 

「シャーレが持つ『戦争の自由』――裏を返せば私がシャーレ所属の生徒を連れて、何処の自治区にいつ訪れようと、それは全て合法という訳だ、無論本来ならば生徒会なり運営組織なり一報を入れ、それから足を踏み入れる、しかしそれをせずともマナー違反ではあっても違法ではない」

「……この場所が、未だ自治区であると? アビドス生徒会との交渉を経て、この土地を手に入れたのは事実だ、商談を証明出来る記録もある」

「記録を見せられても関係ないね――このアビドス砂漠、この場所に基地を建設する何て話は一度も耳にした事が無い、曲がりなりにも担当顧問の私がだ、加えてあなた達がアビドスから巻き上げた土地についてだが、これに関しても連邦生徒会に登記事項要約書を交付して貰おうと思ったが、登記申請書そのものが提出されていなかった――未登記とは随分杜撰じゃないか、カイザー理事」

「……ふん、貴様こそ、分かって聞いているのだろう」

「後ろ暗い事をやるなら、全て手遅れになってから権利を主張する――狡賢い悪党の考えそうな事じゃないか」

 

 深く、息を吸う。

 先生とカイザー理事の纏う雰囲気が一層重々しく、そして寒々しいものとなる。口を開く度、言葉を重ねる度、双方の表情が歪んでいく。

 

「連邦生徒会の手の伸びない場所、そしてアビドス高等学校が機能していないからこそ、今まで好き放題出来たのだろう? もう十分楽しんだ筈だ、しかし、流石にそろそろ目に余ると思うんだよ、私は」

「ほう、面白い事を云うじゃないか、目に余ると……それは連邦捜査部としての発言か、先生」

 

 更に一歩――踏み込む。

 カイザー理事と先生の、距離が消える。

 互いに僅かにでも身動ぎすれば、身体が触れてしまいそうな至近距離。先生の双眸とカイザー理事のアイラインが目前で交差する。先生が拳を握り締め、カイザー理事も胸元から駆動音を鳴らした。

 

「――認めよう、表記上『まだ』この場所が自治区に該当するとして先生、ならばその生徒達を連れどうする? 本当に戦争をしに来たのかね?」

「――あなた風に云うのなら、このまま去るのは『面白みに欠ける』かい? なら、『宝探し』を邪魔する組織になるのも、一興かもしれないね」

 

 その言葉と同時に――ガツン、と。金属音と肉の打つ音が鳴り響いた。

 瞬きの間、ほんの一秒足らずの交差。

 先生の額とカイザー理事の額が真正面から衝突し、そのまま互いに押し切らんと睨み合う。

 前傾姿勢になったカイザー理事と、額を鋼鉄に打ち付けながら犬歯を剥き出しにして睨みつける先生。憎悪と敵意に塗れた眼光が、互いのそれを射貫いていた。

 

「――脆弱な人間風情が、その肉の体で良く吼える、連邦捜査部だろうが何だろうが、貴様自身が無力な人間である事を忘れているようだな、強大な権力に等身大の己を忘れたかァ……ッ!?」

「――私の大切な生徒から金銭を巻き上げる下衆が良く云った、他者を虐げるしか能のない貴方に地に足の着いた生活を教えてあげよう、何、御代は必要ないよ、私は先生だからねェ……ッ!」

 

 身を震わせ、額を打ち付けたまま相手を睥睨する。

 足元の砂が沈み、額から血が滲んで尚、先生は一歩も引かず、首に青筋を浮べて対抗する。カイザー理事も矮小な人間ひとりが単なる額の押し付け合いとは云え、自身に対抗している事実に物云えぬ苛立ちを感じ、益々その威圧感を増す。

 先生の全身が軋み、悲鳴を上げる、しかし一歩たりとも退いてやるものかという気概のみで、先生は目前の甲鉄の塊に対抗していた。

 

「ちょ、ちょっと、これ拙いんじゃないの!? と、止めた方が――」

「せ、先生……っ!」

「……――ッ」

 

 アビドス生徒対策委員会は、額から頬を伝って落ちる血に、全身が凍る様な感覚を覚える。思い出すのは柴関での負傷、またあの二の舞になるのではという気持ちが先行し、シロコは銃口を向けられているのにも関わらず、先生の元へ駆け出そうと動いた。

 

「この状況で良くもまぁ――その胆力は褒めてやる、だが無謀だったな先生! そんなに欲しいのならば、鉛玉をくれてやろうッ!?」

 

 カイザー理事が片腕で先生を振り払い、数歩、先生がよろめく。その瞬間に周囲のオートマタが先生へと銃口を向け、一切に引き金へと指を掛けた。

 

「先生ッ!」

 

 皆が叫び、一際早く動いていたシロコがせめて盾になろうと、先生へと手を伸ばす。しかし、周囲を満遍なく囲うオートマタの銃口は多く、全ての弾丸から先生を庇う事は困難に思えた。更に言えば、伸ばした手が先生に届くまで――僅かに距離が足りない。

 それでも動かずには居られなくて、シロコは(きた)る衝撃と、先生が穿たれるその瞬間に血を凍らせ――。

 

 同時に、周囲のオートマタが一斉にスパーク、悲鳴を上げ、次々と転倒した。

 

「何っ……!?」

 

 唐突なそれに、カイザー理事が思わず声を上げる。

 周囲を見渡せば、先生に銃口を向けていたオートマタは残らず砂の上に崩れ落ち、外周で待機していた装甲車や戦車、ヘリコプターの類も機能停止、頭上を飛び交っていたドローンも次々と地上へと落下した。

 

『メーデー、メーデー! 操縦不能、繰り返す、操縦不能! 自動操縦機能が作動していますッ! ヴァイパーダウン! ヴァイパーダウン!』

『外部からの侵入を検知! サイクリックがっ……トルクが上がりませ――』

「あなた達の兵士の殆どがドローンとオートマタで助かったよ、これならまだ【反則】の範疇じゃないからね――」

 

 呟き、先生は額の血を拭いながら背筋を正す。空を支配する攻撃ヘリは、流石にそのまま墜落させてしまえば被害が大きいので、比較的損傷のない形で『不時着』して貰う。相手がオートマタとドローンだからこそ出来る荒業だった。

 無論、誰がやったのかなど分かり切った事である。タブレットの中で未だ膨れっ面を浮べているアロナだ。

 彼女の負担が大きく例の如くバッテリーも食うので、指揮との併用は出来ないが、恐らく先生が切れる手札の中では一際強力な類だろう。

 尤も、これを安易に使うつもりは毛頭ない――力は、正しく使われなければならない。乱用は教えに対する冒涜であり、カタカタヘルメット団での戦闘や、普段使用せずにいる事は、先生の信条と矜持から来るものだった。

 生徒の力で解決可能な事は、生徒の力で解決する。

 しかし、それを超えて尚、致命的な危機に陥った時――或いは、明確な『悪意』と『害意』に晒された時――それが今だった。

 

 ゆっくりとした足取りでカイザー理事の前に立った先生は、再び対峙しながら口を開く。

 

「確かに私は肉体的に弱者だろう、あなた達の様なオートマタと身体能力比べをすれば、逆立ちしたって敵わない、けれど私の役割はそうじゃない――確か、『君達程度、いつでも、どうとでも出来る』……だったかな?」

「貴様ァ……ッ!」

「『口の利き方には気を付けた方が良い』……あなたがまだこうして立っていられるのは、私がまだあなたのシステムに手を出していないからだ、あなたがどれだけ優秀なICE(攻勢防壁)を揃えているかは知らないが、それこそ――」

 

 カイザー理事は激昂し、未だ言葉を並べる先生に向けて人の頭程はある拳を振り上げる。しかし、その拳が先生に届く事はなく――その額に当たる直前で、不自然な程綺麗に停止した。

 カイザー理事の肩部から、不気味な駆動音が鳴り引き、火花が散る。

 

「ぐ、ぅッ――……!?」

「……あなたが先程、指先一つで私の生徒達を弄んだように、私も同じ事が出来るんだよ」

 

 告げ、先生は手に持ったタブレットを数度叩き、カイザー理事を睨みつけた。

 

「――今度は、あなたが見下ろされる番だ」

「がッ――!」

 

 カイザー理事の膝が弾け、その巨躯が崩れ落ちる。どれ程の怪力で押さえつけようとも、銃弾を喰らおうとも、ビクともしない様な甲鉄の塊が、いとも容易く。

 這いつくばった理事は砂に塗れた格好で、ゆっくりと先生を見上げた。

 カイザー理事を見下ろす先生は、色の見えない瞳で彼を射貫く。

 

「ば、馬鹿なッ……! 基幹システムに、こうも容易く侵入を許すなど……ッ!?」

「――……すまないね、正直に云えばこれは只の八つ当たりだ、私は己の倫理観と道徳に則り、あなたの行動が気に入らないから、こんな対応をしている」

 

 呟き、目を伏せた先生を見上げるカイザー理事は二度、三度拳を地面に叩きつけ、その顔を憤怒に染める。この自分が、誰かを見上げるなど、誰かの前で膝を突くなど――あり得ない屈辱だった。

 しかし、事実を認められない様な存在が――一時とはいえ、カイザーコーポレーションという大企業の理事にまで上り詰める事はない。

 あらゆる感情を飲み干し、蓋をし、身体を震わせた彼は唸るような声で云った。

 

「――……成程、連邦捜査部を名乗る以上、凡人ではない……という事か」

「いいや、私個人の力など微々たるものさ……私は只人だよ、理事」

「ほざけ、その様な凡人が連邦生徒会長に招致されるものか――面白い、良いだろう、認めてやる……私の敗北だ、この場に限った話だが、確かに私は負けた……ッ!」

 

「連邦捜査部シャーレの先生――貴様は、私の敵だ……!」

「最初から分かり切っている事だろう、カイザー理事」

 

 告げ、カイザー理事はアビドスを見た。

 唐突な展開の連続に呆然としていたアビドスは、視線を向けられた事により再起動を果たす。すわ、自分達に対し何か仕掛けて来るのかと身構えれば、一つ吐息を漏らしたカイザー理事は淡々とした口調で告げた。

 

「……これは大人の話し合いだ、先程の金利つり上げは兎も角、この事でアビドスをどうこうするつもりはない」

「……それは意外だ、あなたにも良心が残っているのか」

「ほざけ、これは矜持(プライド)というものだ――大人のソレに、子どもを巻き込むなど反吐が出る、これは貴様(シャーレ)と、(カイザー)の戦いだ……!」

 

 云うや否や、カイザー理事は先生に指を突きつけ、有りっ丈の憎悪と敵意を込め、宣言した。

 

「貴様は言い訳の余地もなく、正面から必ず――殺してやるぞ、シャーレの先生」

「――出来るものならね」

 

 その宣告を涼しい顔で以て受け入れた先生は、羽織ったコートを靡かせ踵を返す。生徒達の元へと数歩進み、それからふと思い出したように振り返った彼は、倒れ伏したカイザー理事に向かって呟きを漏らす。

 

「あなたは、もっと違う場所で……そうだな、営業職員でもやっている方が、きっと幸せになれると思うよ」

「――……それは挑発か、先生」

「いいや、本心だ」

 

 カイザー理事はそれ以上何も云う事はなく、ただ一つ、舌打ちを零す事だけを返答とした。

 先生は砂に塗れ、疲労感を滲ませるアビドスの皆の元に歩み寄ると、いつも通りの温和で優し気な笑みを零し、云った。

 

「さて……帰ろうか、皆」

 

 ■

 

 エリアルビークル機内。

 ミレニアムサイエンススクールのエンジニア部曰く、「定員はパイロットを除き七人まで」らしい機体は、順調に空を飛びアビドス高等学校へと向かっている。元々この機体は、砂漠だろうが雪山だろうが、あらゆる目的地に高速で移動して快適な空の旅を実現し、序に航空機の免許も持っていないのでAIが自動操縦してくれて、後は滑走路が無くて着陸出来ないのでは使い物にならないので、垂直離着陸(VTOL)機能も付けたという、それはもう文句の付けようがない一品だった。

 特段、燃費が悪いだとか、AIがポンコツだとか、そういう欠点らしい欠点もない。ならば何故、エンジニア部はこのビークルを利用しないのか?

 

 曰く――いや、そもそも私達、何処かに遠征する用事とかないし、何か欲しいならネットで注文するし、普通に速くて燃費も悪くなくてAI搭載の航空機とか、詰まらな過ぎでしょ。

 ――という身も蓋もないものだった。

 

 何かの映画の影響で、「AIで飛ぶ航空機カッコヨ!」となって実際に作ってみたのは良いものの、エンジニア部の誰が使う訳でもなく、そもそも普通に速くて便利な航空機とか何が楽しいの、となり。一度飛ばしただけで満足し、特に誰に見せる訳でもなく片隅に放置されていた悲しき機体――それがこの機体であった。尚、後継機に兎に角速さを追求した、『未来の更に先へ号』なる機体が存在するらしいが、速度があり過ぎて機体が耐えられず空中分解したらしい。

 その時のユウカの顔は、それはもう怖かったとの事。

 

 そんなエンジニア部の内情アレコレを考えていた先生は、アヤネが額の傷を消毒し、カーゼを張り付け終わった事に気付き、思考を一度断ち切った。

 

「ん、ありがとうアヤネ、助かったよ」

「い、いえ、それは此方の台詞です、先生……」

 

 救急バッグを背嚢に戻しながら、アヤネはそう云って目を伏せる。

 先生は機内に備え付けられていた椅子に座ったまま、自身を囲う様にして見下ろす対策委員会の皆を見た。その表情には一様に、同じ感情の色が宿っている。

 

「ごめんね、来るのが遅くなっちゃって、本当はもう少し早く来たかったのだけれど」

「いや、遅くなるも何も……」

「というか、怪我は大丈夫なの先生!?」

 

 セリカが身を乗り出し、そう問いかければ、先生はたった今貼り付けられたばかりのガーゼを指先で撫でながら苦笑を零した。

 

「これかい? 大丈夫だよ、表面をちょっと切っただけだし――」

「そっちじゃなくてッ!」

 

 先生の苦笑を誤魔化しと捉えたのか、セリカは声を荒げながら先生の太腿を強かに叩く。それを甘んじて受けながら、先生はからからと笑った。

 

「先生、入院していたのでは……?」

「――もしかして、抜け出して来たの?」

 

 シロコの鋭い指摘に、先生の体が硬直する。その様子を見た全員が凡その事態を察し、その表情を不安と心配から、徐々に怒りへと変化させていった。先生は両手を前で振りながら、苦しい言い訳を並べ立てる。

 

「いや、そんな事はないよ、ちゃんと正規の手段を踏んで退院してきたのさ、嘘じゃないよ、本当だよ」

「………」

「アヤネ、アヤネさん? 無言で何処かに電話しようとするのは勘弁して頂けませんか? いや本当、傷は全部塞がっているし、全然大丈夫っていうか、ほら、ちょっと怠い位で――」

「怠いなら駄目じゃない!?」

 

 アヤネが病院へと連絡を取ろうとタブレットを連打すれば、先生がそれを止めようと躍起になり、ぽろりと漏れた本音にセリカが食いつく。先生の肩を掴んで無理矢理安静にさせようとするセリカと、先生の取っ組み合い。それを横から眺めていたホシノは、深く――それはもう深く、息を吐き出した。

 

「……はぁ、先生は相変わらず――」

「いや、それは――っと」

「ホシノ先輩……?」

 

 セリカと取っ組み合っていた先生の横に、そっと身を寄せて顔を埋めるホシノ。先生のコートに額を押し付けながら、彼女は小さく、呟く様な声量で云った。

 

「――お願いだから、自分の体は大事にして」

「……ごめんね」

 

 それは、どれ程の想いが籠っていたのだろうか。

 先生には推測する事しか出来なかったが、彼女が対策委員会の前で見せた、紛れもない素顔だった。軽率だった、危険だった、危ない橋だった――全て理解している。それでも尚、止まれないのが先生と云う人間だった。

 ふと、先生は身を寄せるホシノを、どこか羨ましそうに眺めているセリカに気付く。内心で疑問符を浮べていた先生だったが、悪戯心が疼き、先生はそれとなくホシノを抱き寄せ、セリカに手を広げた。

 

「――もしかしてセリカも私とハグしたい?」

「っ、なッ!? 何云ってんの!? 全然そんな事、思ってもいないしッ!?」

「おいでッ! 先生の胸の中にッ! カモォンッ!」

「行かないって云っているでしょっ!?」

 

 先生の言葉に顔を真っ赤にしながら反論するセリカ、それを見ていたシロコは一歩踏み出し、威風堂々と云った様子で宣言した。

 

「――じゃあ、代わりに私が行く」

「し、シロコ先輩!?」

 

 止める間もなく――シロコは先生の隣を占領し、その頸筋に顔を突っ込む。その余りにもスムーズな行動に先生すらも何の反応も出来ず、硬直する。ノノミはシロコの行動を見て、ぺかーと効果音が付きそうな笑顔を浮かべると、隣のアヤネの肩を掴んで云った。

 

「なら私も参加しますね~☆ はい、アヤネちゃんも!」

「わ、私もですか!?」

「うへ~、動いてないのに暑いよぉ~……」

「そりゃあ、これだけ密着していればね」

 

 そして出来上がる、アビドス団子。先生を中心に半円を描きながらくっ付く様は実に暑苦しい。そして結局、皆が楽しそうに引っ付き合っている様を見せられたセリカは疎外感から、「み、皆がやっているから参加するだけで、別に深い意味とかないから! 勘違いしないでよねッ!」と発言し、ノノミとアヤネの間に突っ込んで来た。

 

 先生と、アビドスの仲間達、その体温を感じながらホシノは笑みを零す。

 心の底から想い、強く、強く、誓う。

 

 ――この暖かさを、絶対に喪わせはしない、と。

 

 ■

 

「ほう――件の先生が」

 

 アリウス自治区――その地下深く。

 暗闇に閉ざされた広い部屋の中で、横たわった異形の人型は今しがた齎された報告に、ゆっくりと頷きを返した。長く鋭い指先で虚空をなぞり、淡々と告げる。

 

「ご苦労様でした、下がって構いません」

「……はっ」

 

 ガスマスクで顔を覆い、専用の外套に身を包んだアリウス分校生徒が深く頭を下げ、退出する。横たわり、気怠そうに宙へと視線を泳がせる彼女の傍には、アリウス分校の生徒と同じように、マスクで顔を覆い、フードを被った一人の生徒が立っている。

 この部屋の主人はそんな彼女を一瞥し、独りでに呟いた。

 

「ふむ、暫く様子を見ていようと思いましたが、成程、そうですか、黒服がアビドス自治区に間接的なアクションを起こしていた事は知っていました、しかしその様な事になっていたとは……」

 

 数秒、彼女は言葉を吟味するように思考し、指先で自身の腕を叩いた。

 燃えるような赤い肌に、白い手袋が映える。

 

「あの者達が注視する程の存在、キヴォトスなど所詮神秘の転炉、障害などあってない様なモノ――しかし、あの者だけは別、アレが介入すると、私が持っている全ての意味が変わってしまう」

「………」

「やはり、早急に危険な芽は摘んでおかねば……今より厄介な存在になる前に」

 

 告げ、彼女は横合いに立つ生徒を見た。

 特徴的なマスクに、白いフード、そこから垂れる紫の髪。それを見つめながら、赤い肌の彼女は云う。

 

「――確かスクワッドに狙撃手がひとり……所属していましたね?」

「っ――!」

 

 その言葉に、分かり易く目の前の生徒が肩を揺らした。その反応を楽しむように、或いは鼻で笑う様に、淡々と彼女は続ける。

 

「今アリウスを大々的に動かす事は出来ませんが、まぁ、少数ならば誤魔化しも効くでしょう、以前もそうでしたから……所詮は保険ですが」

 

 決め、小さく頷く。

 所詮は些事、目的が達成されるまで生きていれば構わない消耗品。或いは、此処で失われても一人、二人ならば替えが利く。スクワッドの全滅は看過できないが、似たような部隊は他にもあった。ならば、切れる手札は切るに限る。

 それ程までに彼女は、先生を危険視していた。

 

「先生は――私自ら排除する事にしましょう」

 


 

『――あると云ったら、あなたはどうする?』

 尚、何とかするとは云っていない模様。

 ここでアビドスの借金チャラにしちゃったら、この後のホシノ・イベントが潰れちゃうから多少はね? うぅ、先生、ホシノがあなたとアビドスの為に身を捧げるとこ見てて……。これで本当に見ているだけだったら、そもそも世界何て渡って来なかったと思うよ。

 

 ベアトリーチェが先生の存在を早めに察知していたら、絶対、初狩りしてくると思うんです。生徒レベルが30とか40の先生に、平気で70とかのアリウスをぶつけて来るんです、酷い話だ。まぁ、あの人だけ先生大好きクラブの中で先生排除派ですから、仕方ないですね。

 

 ――という訳でアビドス編も最終章が迫って参りました、投稿開始から丁度二ヶ月くらいですね、早かった様な、遅かった様な……このペースで行くとアビドス編完結は大体あと一週間と少しか、二週間位かなぁ。文字数も丁度五十万字くらいになりそう。想定以上に長くなってしまいましたが、どうぞ最後までお付き合い頂きますよう、お願いいたします。

 

 さて、実を云いますと既にアビドス編のラスト周辺はプロットが書き上がっておりまして――この小説書き始めて一ヶ月くらいの時に、「うぉ~、こんな展開書きてぇ~!」と書き殴ったまま残っていた代物――大分原作ストーリーラインとは乖離しているのですが、それは「ままええやろ」の精神で流すとして、大事なのは先生の負傷具合です。

 現在、私の中には天使と悪魔が存在しています。

 

 悪魔が、「折角のラストバトルだし、柴関程度の負傷じゃ満足できねぇですわ! エデン条約なんて書こうと思ったら何百万字も必要なのですし、ここいらで一つ手足をちょっとだけ捥いだってバレはしません事よ! 最終章は先生の手足をもぎもぎフルーツして、それを見る生徒の素敵で深い愛を直接摂取しながら優勝ですわッ! ゲマトリア、やっておしまいなさい!」

 と仰っておりまして。

 

 天使が、「折角のラストバトル、派手に欠損して生徒の愛を感じたいと云う想い、確かに良く理解出来ますわ――しかし、分かっておりまして? アビドス編は本編の第一章、これから第二章(書くとは云っていない)、第三章・前編・後編(書きたい)、第四章(書くとは云っていない)が残っていますのよ? 先生の限りある手足をそのような序盤で捥いでしまうなど、勿体ないとは思いませんの? 此処は臓物の一つ程度で我慢するべきですわ! デザートは最後に食べるからこそ美味しい(愛が深まる)んですの!」

 と仰っておりまして。

 

 私としましてはこの天使の主張も、悪魔の主張も、大変同意出来る内容で御座いまして、ぶっちゃけ先生の手足を捥いでしまっても嬉しいですし、捥がなくとも今後の楽しみが出来ると思うと嬉しいです。私にとって最終的にはどちらも純愛(泣き顔)に通じている為、極論どちらであろうと私は困らないのです。素敵ですね。

 という訳で人生で初めてアンケートというものを使ってみようと思います。私は菩薩なので手足を捥ぐ、捥がない以外にも幾つか選択肢を用意して参りました。

 皆の性癖、みんな違って皆良い。自分の好きな欠損具合を選んでね! 尚、あくまで参考なので、「アロナバリア~!」が選ばれても私の性癖によって負傷する場合がございます、予めご承知おき下さい。

 

 あと、いつも感想ありがとうございます。返信も出来ていないのに感想をくれる方々、あと毎話感想をくれる皆さん、私が「一話投稿されるごとに感想を述べよッ!」とか云われても、「えっ、めんどくさ……」となるのに毎度毎度感想頂ける方には、心の中でいつも「聖人のゲマトリア」と呼んで感謝しております。ほんとマジありがとうございますわ! 時間できたら返信いたしますので! どうぞよしなに、よろしくってよッ!  

 



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ホシに手が届かなくとも

誤字脱字報告は、宙にある。


 

「ふぅ、さて、何とか帰って来れたけれど……」

 

 時刻は既に夕刻を回っており、茜色に照らされたアビドス校舎、対策委員会部室。エリアルビークルで帰還した面々は、ビークルを校庭に着陸させ、一先ず一息入れていた。

 全員が酷く疲れた様子で椅子に座り込み、砂に塗れた装備は部屋の角に纏めて積まれている。本当ならばシャワーを浴びて、食事を摂って、泥の様に眠りたい。しかし今は、それよりも優先して話し合うべき事が山ほどあった。

 アヤネは椅子に座り込む皆を見渡し、それから先生へと視線を向けると、おずおずと問いかける。

 

「先生、本当に病院は――」

「大丈夫だよ、体調は万全……とは云えないけれど、無理をしなければ問題ない程度には回復したさ」

「……無理をしなければって云う割には、あの理事とか名乗った奴と殴り合いしそうな雰囲気だったけれど?」

「…………」

「先生、目を逸らさないで」

 

 セリカとシロコのコンビネーションに、先生は無言で顔を逸らす。

 仕方ないのだ、ついカッとなってという奴なのだ、ヤバいと思ったが怒りを抑えきれなかったのだ、反省はしている。先生はそう、心の中で思った。流石にオートマタと殴り合いに発展したら勝てる訳もなく、撲殺されるのがオチだろう。今度からはもう少し慎重に動く所存である。

 そんな先生の様子を見ていたノノミとセリカが、溜息を吐きながら告げた。

 

「先生が生徒を大切にしているのは良く理解していますが、自分の体も大切にして下さいね?」

「そうよ、先生がまた倒れたら心ぱ――じゃなくて、また私達が病院に担いで行かないといけないんだからねッ!?」

「セリカちゃん、素直じゃないなぁ」

 

 ノノミとセリカの台詞にけらけらと笑いながら、背凭れに身を預けるホシノ。いつも以上に体の力を抜いている彼女は、先生を見つめながらふっと意味深な表情を浮かべた。

 

「ま、先生の『大丈夫』は信用ならない事が前回の一件で分かったからね、少しでも駄目そうな雰囲気があったら、強制的に連行って事で~」

「ん、分かった」

「賛成!」

「そうですね、こればかりは譲れません」

「一応、直ぐに連絡出来る様に手配しておきますね」

「あはは……」

 

 満場一致で決定される、先生の意思を無視した強制連行。心配されるのは悪くない心地なのだけれど、それはそれとしてキヴォトスの住人に力づくで連行されるとなると、本当に抵抗出来ないので手心を加えて欲しい。

 幸い、体調は本当に悪くないので、精々気を付ける事にしようと、先生は頬を軽く張り気を引き締める。

 

「……それじゃ、取り敢えず手元の情報を纏めようか」

 

 ホシノの一言に、対策委員会全員の背筋が伸びた。

 

「結局、カイザー・コーポレーションがあそこで何を企んでいるのかは分からなかった」

「確か、宝物を探している……と云っていましたが」

「あの砂漠には何も無い筈です、恐らくデタラメかと」

 

 アヤネはノノミの発言に対し、首を横に振って否定を口にする。

 アビドス自治区の交渉記録を探す序に、過去の生徒会の記録や財政状況の分かる目録、資料の類を探した事があった。その大部分は本校舎の引っ越しと共に失われていたが、残っていた少ない資料の中に、アビドス砂漠に関する調査記録があったのだ。

 

「石油や鉱石、ガスなど、お金になりそうな天然・地下資源は何一つ残っていません、アビドスが天災対策で金策に走った時、その辺りは徹底的に調べたと、そういう調査結果が出ているんです」

「だとすると、一体……?」

「いやいや、今はそれよりも借金の方でしょう? 確か、三千%とか云っていなかった?」

 

 皆がカイザーコーポレーションの思惑と対策に頭を悩ませる中、徐にセリカが机を指先で叩きながら発言する。確かにカイザー側の行動に疑問は多々あるが、今すぐにどうにかしなければならない問題は、別にあった。

 

「確かに連中の思惑とか、何をやっているのかとかも気になるけれど、現実問題この借金を何とかしないと、本当に学校が差し押さえられちゃうよ!」

「確か……利息分だけで九千万円、でしたか」

「そう云えば保証金も要求してきましたね……あと一週間で、三億円――」

「改めて聞かされると、これはヘヴィだねぇ……」

 

 突き付けられた莫大な金額を前に、対策委員会の皆の表情に陰が差す。七日間で三億、加えて利息分だけでも毎月九千万円――以前の利息分を支払うだけでも精一杯だったというのに、その何十倍もの金額だった。到底、払えるものではない。少なくとも、今までの様にバイトで何とかする、というのは不可能だった。

 どうすれば良いのか、皆が思考を巡らせる中、不意にシロコが席を立つ。そして、ガンラックに立てかけてあった愛銃を手に取ると、溝に付着していた砂を軽く払い、隅に積み上げられた装備品からマガジンを抜き取った。

 

「し、シロコ先輩、何を?」

 

 アヤネが思わず問いかければ、シロコは視線を向けることなく淡々とした口調で告げた。

 

「……借金はもう、真っ当なやり方じゃ返せない、なら、真っ当じゃない手段で用意する」

「だ、駄目ですよ! それではまた……っ!」

 

 暗に強盗かそれに類する手段に手を染めると口にした彼女に、アヤネは思わず声を荒げる。しかし、そんなシロコに同調する声もあった。

 

「――私はシロコ先輩に賛成」

「セリカちゃん!?」

 

 席に座ったまま、硬い表情でそう告げるのはセリカ。彼女は焦燥した様子で自身を見るアヤネに対し、焦りと怒りを含んだ口調で捲し立てる。

 

「三億とか、九千万とか……どう考えても真っ当な手段で用意出来る金額じゃないでしょう!? 学校が無くなったら全部終わりなんだから、もう形振り構っていられない! その時間は、もう過ぎたのッ! 相手が真っ当な手で来るならまだ良いよッ! でも、相手がこんな卑怯な手を使ってくるのに、何で私達が馬鹿正直に真っ当な方法で返さなきゃいけないの!?」

「そ、そんな……!」

「セリカちゃん待って! そんな事したら、あの時と同じだよ!?」

 

 ノノミがセリカの形相に言葉を失えば、アヤネが席を立ち、その方法は駄目だと呼び止める。セリカも席を立つと、二人は顔を付き合わせながらお互いに主義主張を声高に叫んだ。

 

「あの時、ホシノ先輩が止めてくれたのに、自分から進んで犯罪者になるの!?」

「じゃあ、どうしろって云うのよッ!? このまま学校が無くなるのを指咥えて見てろって云うの!?」

「そうじゃないよッ! 私はただ、そんな行為に手を染めて学校を守っても――」

「だからその綺麗事を守れる時間は過ぎたのッ!? 具体的に、三億なんて金額を手に入れる方法はッ――!」

 

 互いにヒートアップし、顔を赤らめながら声を張る。そんな二人の声が響く部屋に、誰かが手を打ち鳴らす音が木霊した。突然の音に二人が肩を跳ねさせ、音の方を見れば、ホシノが手を打ち鳴らした姿勢のまま微笑んでいるのが見えた。

 

「ほら、二人共熱くなりすぎ、一旦落ち着いて~」

「ッ……!」

「―――!」

 

 宥められ、顔を突き合わせていた二人は気まずげに視線を反らす。そのままゆっくりと自身の席へと腰を下ろすと、目元を拭いながら呟く。

 

「す、すみません、ホシノ先輩」

「ご、ごめんなさい……」

「……ごめん、先輩、こんな風にしたい訳じゃなかった」

「うん、分かっているよ、皆が学校の事を想っているって事は、良~くね」

 

 頷き、ホシノは深く息を吐き出す。学校の事を想っているが故の衝突――それを責めるつもりは毛頭ない。

 

「……先に云っておくと、犯罪行為に手を染める事はおすすめしないよ」

「それは――教職者として?」

 

 先生がそう口にすると、空かさずシロコが問いかけた。倫理観や道徳、そして教師という立場から止めているのか? シロコの表情にはそんな懸念が透けて見えた。先生は緩く首を振りながら、努めてフラットな声色で告げる。

 

「いいや、相手の立場になって考えれば分かる事だ、賢しい大人の考えそうな事と言い換えても良い」

「………?」

「借金の金額を吊り上げて到底返せない額を吹っ掛ける、そんな法外な値段を提示された側はどういう思考になると思う」

「……そんなお金、返せる訳がない」

「その通り――けれど払えなければ大切なモノが奪われる、となれば取れる手段は多くない……そしてアビドスは存外、武力に自信がある、何度もカタカタヘルメット団を撃退しているのだから、向こうはそう考えるよね?」

 

 そう先生が続ければ、ノノミがどこか訝し気な表情で呟いた。

 

「――私達が、犯罪に手を染める様、誘導している……って事ですか?」

「ッ……!」

 

 その発言に、対策委員会の表情が分かり易く歪んだ。

 

「あくまで可能性の話だけれどね……もし失敗して対策委員会が不在になれば、向こうは無理矢理にでもこの校舎を接収するだろう、未だ連邦生徒会に認知されていないとは云え、アビドスの自治区は大半を向こうが所有している、此処を占拠でもされて関係書類を全て焼かれてしまえば、本当に手が無くなる――少なくとも、『アビドス自治区』という場所は消滅するだろう」

「っ、じゃあ、強盗は駄目って事……?」

「さっきも云ったけれど、犯罪行為全般、おすすめはしない」

 

 上手く行けば、確かに大量の金銭は手に入るだろう。返済の目途も立つかもしれない。しかし、失敗すれば単なる矯正施設行きで終わる話でもないのだ、これは。失敗は、即アビドス失脚に繋がる。そう考えると安易に銀行強盗も計画出来ない。

 現状は八方塞がりの様に思えた。少なくともアビドス対策委員会の面々は、これを打開する策を見いだせずにいる。

 

 そんな中、不意にホシノが声を上げた。

 

「……まっ、取り敢えず今日はこの辺にしておこうか~」

「えっ、でも、ホシノ先輩……」

「解散、解散~、今日は砂漠に遠征して疲れたし、皆気持ちが先行し過ぎているんだと思うよ、幸いまだ期限までは一週間あるのだから、一回頭を冷やして、また明日集まる事にしようよ、ね? これは委員長命令って事で!」

 

 手を二度、打ち鳴らしそう宣言する。

 実際、疲労が募っているのは事実だった。疲労感が思考を鈍らせている可能性も否定は出来ない。或いは一度頭を冷やし、ゆっくりと休養すれば良い考えが浮かぶかもしれない。

 そんな希望的観測ではあったが、現状のまま議論を重ねても良い案が出ないという意見に関しては、皆一様に納得出来るものではあった。

 互いの顔を見合わせ、疲労の濃く残る表情を見つめた彼女達は、渋々とホシノの意見に頷く。

 

「……分かりました」

「……了解」

 

 そうして一先ず、今日の会議は解散する事と相成った。

 

 ■

 

「ん~? シロコちゃん、まだ何かやる事がある感じ?」

「……先輩、ちょっと良い?」

 

 対策委員会の部室。解散し、必要な装備の簡易清掃のみを済ませた皆は帰宅、残っているのは先生とホシノ、そしてシロコだった。ホシノは緩慢な動作で銃の分解清掃を行っており、シロコはそんな彼女を横合いから見つめながら、ふと声を上げる。

 ホシノはシロコに目線を向けず、清掃を続けながら口を開いた。

 

「うへ、おじさんと話したい事があるの? 照れるなぁ」

「――私も、良いかい?」

「うへ、先生も? おじさんモテモテだ~」

 

 同じく、パイプ椅子に座っていた先生もホシノに目を向ける。彼女は先生とシロコを互いに一瞥すると、手元のパーツを手早く組み立て愛銃を完成させ、何度か動作チェックを行いながら告げた。

 

「――でもさ、今日は疲れたし、色んな事があったじゃん? また明日話そう、大体どんな話かは分かっているから」

「……ん、分かった、先輩がそう云うなら」

 

 シロコはホシノの言葉に、一瞬目を伏せながら頷いて見せる。そして部室の出入り口に足を向け、途中、先生へと視線を向けた。

 

「――先生」

 

 その声に、先生は無言で頷く。

 先生の頷きを見たシロコは、どこか安堵した様な顔を見せ――ひとり、対策委員会部室を後にした。

 

「……それじゃあ、また明日」

「またね、シロコちゃん~」

「帰り道、気を付けて」

 

 二人の言葉を背に、シロコの姿が扉の向こう側に消える。

 部室に残ったのはホシノと先生の二人のみ。ホシノは席を立ち、武器をガンラックに掛けると揶揄う様な表情で先生を見た。

 

「……うへ、先生やるねぇ、私の可愛いシロコちゃんと、いつの間に目と目で意思疎通が出来る仲になったの?」

「その気になれば、ホシノとだって出来るだろう?」

「いやいや、どうだろうなぁ、やっぱり先生は侮れない大人だよ~、おじさんは流れについて行けなくて、何だか寂しい~」

 

 そう云って肩を竦ませると、黒ずみ、砂の付着した布を払う。その様子を見つめながら、先生は意図して真剣な様子で口を開いた。

 

「ホシノ、聞きたい事があるんだ」

「……ん~、何かな」

「――退部届の話」

 

 そう云って先生が立ち上がり、懐から取り出したのは、皺が入り、折り畳まれた申請書。その紙面には『退部届』の文字が躍っている。ホシノは先生の取り出したそれを、少しだけ驚いたような顔で見つめると、ふっと口元を緩ませ、恥ずかしそうに頬を掻いた。

 

「うへ~……これ、シロコちゃんから?」

「うん、皆が居ない時にね」

「……全く、幾ら何でも先輩の鞄を漁るのはダメでしょ~」

 

 そう云ったホシノは、先生の差し出したそれを緩慢な手つきで受け取る。そして刻まれた皺を指先でひとつひとつなぞると、どこか寂しそうな目つきで呟いた。

 

「先生、きちんとシロコちゃんを叱っておいてよ~? あのままじゃとんでもない大悪党になっちゃってもおかしくないから」

「追々ね、けれど今重要なのは、ホシノがアビドス対策委員会を抜けようとしている事だ」

「……そっかぁ」

 

 二度、三度、頷き、ホシノは先生を見上げる。その視界に捉えた、先生の酷く真剣な様子にホシノは喉を鳴らし、それからふっと顔を背け、俯く。

 

「うーん、逃がしてくれそうには……ないよね~?」

「当然」

「……はぁ、仕方ないなぁ」

 

 息を漏らし、苦笑とも、泣き笑いとも云える表情を見せるホシノ。

 彼女は踵を返すと、部室のドアノブに手を掛けながら振り向き、云った。

 

「面と向かってっていうのも何だし……先生、ちょっと場所を変えよっか?」

 

 ■

 

 陽が沈み、夜に支配された校内は酷く暗い。電気代が勿体ないという理由で電気を付けないホシノは、月明かりばかりが光源となる廊下を何の迷いもなく進む。勝手知ったる、というものなのだろう。先生は彼女の背中に続きながら、周囲を観察していた。

 

「そう云えばさ、先生」

「うん?」

 

 ふと、ホシノが背後の先生に問い掛ける。

 

「アロナって名前の人から来たメール……あれって、先生の仕業?」

「……そうだよ、万が一私が動けなくなった時に、対策委員会の誰かに送信されるよう、予めプログラムしていたんだ」

「……なるほどね、流石先生だ」

「もしかして、予想していた?」

「ん~、半々かなぁ……でも先生がやって来た時、確信したよ、あのメールは先生からのだって」

 

 呟き、背中越しに振り向いたホシノはへらっとした表情で笑っていた。

 そしてもう暫く歩き、辿り着いたのは校舎裏のアビドス別館、木造一階建てのそれを見上げ、ホシノは手慣れた様子で扉を開錠、中へと踏み込む。確かに、此処なら誰かに話を聞かれる心配もないだろう。或いは、対策委員会の皆に聞かれたくない類の話なのか。先生はホシノに続き、扉を潜る。

 

「けほっ、けほッ……うわぁ、此処も砂が入り込んでいる……ま、仕方ないけれどねぇ、掃除をしようにも、そもそも人数に対して建物が大き過ぎるし」

 

 出入口に薄らと積もった砂、木造と老朽化故に僅かな隙間から入り込んでしまうのだろう。それを足先で払いのけながら、ぎしぎしと鳴る床を踏みしめ、ホシノは進んだ。窓枠や、隅に積もるそれを見つめながらホシノは云う。

 

「砂嵐が減ってくれたら良いんだけれど、そう上手くはいかないよね」

「………」

 

 砂嵐を止める研究を昔のアビドスは行っていたのだろう、しかしその成果も、データも、全て今は手元にない。或いは、あのアビドス砂漠のどこかに埋もれているのかもしれないが、それを探し出すための手段も時間も、アビドス高校には存在しなかった。

 

「折角の高校生活が全部砂色だなんて、ちょっと遣る瀬無いと思わない?」

「……ホシノは、本当にこの学校が好きなんだね」

 

 肩を竦め、そんな言葉を口にするホシノに対し、先生は優し気な声色でそう云った。ホシノは振り向き、驚いた表情を見せると、それからどこか呆れたように笑う。

 

「……今の話の流れで、本当にそう思う? うへ、やっぱ先生は変な人だ」

「良く云われる」

 

 誰も居ない別館、廊下の軋む音と話声、音がまるで夜に溶ける様だと思った。ホシノは時折、窓枠の砂を指先で擦りながら、ぽつぽつと話し始める。

 

「砂漠化が進む前、アビドスはかなり大きくて力のある学校だったって云われているけれど、そんな記憶も実感も……おじさんには全くないんだよね――私にとっては、最初から全部めちゃくちゃで、ちゃんとしたものなんて何一つない学校だった」

 

 窓枠に凭れ掛かり空を見上げるホシノは、月明かりに照らされ酷く儚げに見えた。先生は彼女の傍に寄り添い、同じく夜空を見上げる。

 月は、少しだけ欠けていた。待つ宵月、だったかな、先生は心の中で呟く。きっと明日は満月になるだろう。僅かに欠けて尚、月は力強く、このアビドスと世界を照らしている。

 

「おじさんが入学した時のアビドス本館は、今はもう砂漠の中に埋もれちゃったし、当時の先輩達だって、もう誰ひとり残っちゃいない――今いる此処は、砂漠化を避けて何度も引っ越した結果辿り着いた、ただの別館……本校からしたら、殆ど倉庫みたいなものだよ」

「この校舎だって必要なものは全部揃っているし、本校は、トリニティやゲヘナ並みに広かったのかもね」

「うへ、それはそれで掃除が大変そうだ」

 

 そう云って、ホシノは笑った。

 肩を揺らして優しく微笑む彼女は綺麗で――酷く悲しそうだった。

 

「ま、でも此処に来てシロコちゃんやノノミちゃん、アヤネちゃんにセリカちゃんと出会えたから――やっぱり、好きなのかもしれないなぁ~……」

 

 告げ、窓枠に掛けた両手に、ホシノは額を押し付ける。何かを吟味するように、或いは覚悟を決めるように。先生はそんな彼女を横目に、ただじっと言葉を待った。

 

「――先生、正直に話すよ」

「……うん」

「私は二年前から、妙な連中から提案を受けていたんだ」

 

 声は、確りとしていた。腕の中に顔を埋め、淡々とした口調で話すホシノは、自身の受けていた提案の内容を語る。

 

「カイザーコーポレーション……提案というかスカウトというか、アビドスに入学した直後からずっと、何回もね、アビドス高校を退学し、指定の企業に所属する……その条件を呑めばアビドスの背負っている借金の殆どを負担するって契約」

「……入学した直後からか」

「うん、私達からすると破格の条件だったけれど、でも当時は私がいなくなったらアビドス高校が崩壊するって思っていたからこそ、ずっと断っていたんだ……」

 

 それは、何年も続いていた勧誘話。彼女が生徒会に在籍していた頃から続いていた――そう考えると二年、或いは三年近く続いているという事になる。ホシノは腕に埋めていた顔を上げると、再び夜空を見つめながら呟いた。

 

「……あいつら、PMCで使える人材を集めているみたい――私も連中の正体は知らない、ただ私は、黒服って呼んでいる」

「黒服――」

 

 先生の瞳が、剣呑な光を帯びる。それに空を見上げているホシノは気付かない。

 

「何となくぞっとする奴で、キヴォトス広しと云えども、あぁいうタイプの奴は見た事がなかったし、怪しい奴だけれど、別に問題を起こしている訳でもないし……何だろうね、あのカイザー理事ですら、黒服の事は恐れている様に見えた」

「……なら、あの退部届は?」

「……まぁ、ほら、一ミリも悩んでいなかったって云ったらウソだし、ちょっとした気の迷いっていうか」

 

 そう云ってポケットに入れていた退部届を取り出したホシノは、それを月に翳しながらぼうっと見つめる。暫くそうやって紙面を眺めていたホシノは、ふっと口元を緩めると、不意に退部届の両端を持ち、告げた。

 

「――棄てちゃおっか」

 

 云うや否や、勢い良く退部届を破り捨てるホシノ。細々に引き裂いたそれを掌に乗せ、窓を開け放ち外へと散らす。風に乗って闇夜に消えていく白を見つめながら、ホシノは先生に目を向けた。

 

「余計な誤解を招いてごめんね、ただ、こんな話を皆にしたところで、心配させるだけで良い事は何もないからさ、でもまぁ、可愛い後輩にいつまでも隠し事をしたままっていうのも良くないか……明日、皆にちゃんと話すよ――聞かされた所で困っちゃうだろうけど、隠し事なんてないに越したことはないしね?」

 

 そう云って片目を瞑るホシノ。その声に、嘘の気配はない。先生は彼女を見下ろしながら、小さく頷いて見せた。

 

「まー、実際の所、どうやって借金を返せば良いのか、具体的な方法については皆目見当もつかないんだけれどね~……ほんと、どうしようって――」

「――大丈夫だよ」

 

 彼女の声に被せ、先生は断言する。

 後頭部を掻き、苦笑を浮べていたホシノは先生を見上げる。

 

「必ず、何とかなるから」

「………」

 

 彼女の視界に、真っ直ぐ己を見る先生の顔が映った。

 真剣で、力強い瞳。それに映る自分を見た時、ホシノは酷く動揺した。

 

 ――何でこの人は、こうも力強く断言できるのだろう。

 

 ホシノは不思議に思う。

 未来を知っているから? 自分に自信があるから? 或いは生徒を信頼しているから? 

 けれどその未来が絶対ではない事を、ホシノは知っている。そうでなければ先生があんな負傷をする事はなかった。であるならば、既に先生の知っている未来と変化している可能性が高い。

 自分に自信があるから……いや、本当に自信がある人ならば、こんな風な言葉は使わない。先生は常日頃、自身は凡人だと云って憚らない。きっと先生は、自分を腹の底から信じてなどいない。

 生徒を信頼しているから? その、信頼している生徒がこの体たらくなのだ。これの、一体何を信頼するというのだ。ホシノは内心で自嘲する。

 

 先生は、良く分からない大人だった。

 ホシノの知る大人とは、違う大人だった。

 先生は大人だけれど――【先生】だった。

 

「……そうだね、奇跡でも起きてくれたら良いのだけれど」

 

 呟き、ホシノは思わず嘲笑う。

 奇跡、奇跡か――それを否定し、子どもじみた願望だと云い放ったのは、どこの誰だったか。それに縋るしか出来なくなった今、その重みを、強く感じる。人は切羽詰まった時、何にでも縋りたくなる。それこそ、奇跡なんて魔法の様な言葉にも。

 

「――奇跡、かぁ」

 

 月を見上げ、呟く。

 そんなものがあれば――きっと、ユメ先輩だって。

 

「……さ~てと、この話はこれでおしまい!」

 

 手を打ち鳴らし、同時にホシノは感情に蓋をした。

 今その事を考えれば、きっと自分は人目も憚らずに涙を流すに違いない。或いは彼女も、こんな気持ちだったのだろうか? そう考えると、益々胸が痛くなる。あれは呪いだ、呪いだったのだ。その呪いが今、自分に返って来た。

 ただ、それだけの事だった。

 

「じゃあ、私も帰るから――また明日、先生!」

 

 告げ、ホシノは踵を返す。

 軽い調子で廊下を駆けながら、振り向き、先生に笑顔を見せる。

 

「――さよなら!」

 

 自分(ホシノ)は今、ちゃんと笑えているだろうか。

 

「ホシノ!」

 

 去り行く彼女の背に、先生の声が届く。

 再び振り向けば、月明かりに照らされた先生の顔が見えた。

 その瞳の色は、分からなかった。

 

「な、なに……?」

「……私が大人として、先生として何とかする、絶対に――だから、信じて」

「………」

 

 力強い言葉、奮い立たせる言葉――優しい言葉。

 きっと先生は最後までアビドスの味方でいてくれる、それが分かっただけでも儲けものだ。ホシノは先生の言葉を、ゆっくりと噛み締める様に、胸の中に仕舞いこんで。

 最後に、心からの笑みを零した。

 

「うん――ありがとう、先生」

 

 ■

 

 

『アビドス対策委員会のみんなへ――』

 

『まずは、こうやって手紙でお別れの挨拶をする事になったこと、許して欲しい、おじさんにはこういう、古いやり方が性にあっていてさ』

『皆には、ずっと話していなかった事があって――実は私、昔からずっとスカウトを受けていたんだ~、カイザーPMCの傭兵として働く、その代わりにアビドスが背負っている借金の大半を肩代わりする……そういう話でね?』

『うへ~、中々良い条件だと思わない? おじさんこう見えて、実は結構能力を買われていてさ~、凄いでしょ?』

『借金の事は、私がどうにかする、直ぐに全部を解決は出来ないけれど、まずはこれでそれなりに負担が減ると思う――ブラックマーケットでは急に生意気なことを云っちゃったけれど、あの言葉を私が守れなくてごめんね』

『でも、これで対策委員会も少しは楽になる筈だから』

『アビドス高校からも、キヴォトスからも離れる事になったけれど、私の事は気にしないで――勝手な事をしてごめんね』

『でもこれは全部、私が責任を取るべき事……私は、アビドス最後の生徒会だから』

『だから、此処でお別れ――じゃあね』

 

『先生へ――』

『実は私、大人が大嫌いだった、あんまり信じてなかった』

『シロコちゃんが先生をおんぶして来たあの時だって、なんか駄目な大人が来たなって思ったくらいだし?』

『でも、先生みたいな大人と最後に出会えて、私は……いや、照れくさい言葉はもう良いよね』

『先生、最後に我儘を云って悪いんだけれど、お願い、シロコちゃんは良い子だけれど、横で誰かが支えていないと、どうなっちゃうか分からない子だから、悪い道に逸れちゃったりしないように、支えてあげて欲しい』

『先生なら、きっと大丈夫だと思うから』

 

『シロコちゃん、ノノミちゃん、アヤネちゃん、セリカちゃん』

『お願い、私達の学校を守って欲しい、砂だらけのこんな場所だけれど……私に残された、唯一意味のある場所だから』

『それから、もしこの先どこかで万が一、敵として相対する事になったら』

『その時は、私のヘイローを壊して』

 

『――よろしくね』

 

 早朝――まだ誰も来ていない、対策委員会の部室。朝の砂漠は寒く、冷たく、それはアビドス本校舎も変わらない。陽が漸く昇るか否かという時間帯に、先生は部室の中で佇んでいた。

 そこには綺麗に書き直された退部届と、皆に宛てた手紙が一通。彼女らしい、丸っこい字で書き綴られたそれを見下ろしながら、先生は自身に宛てられた手紙を強く握り締め、呟いた。

 

「――行かせるものかよ」

 

 声は、腹の底から絞り出したように、まるで獣の様だった。

 

「……アロナ」

『先生――』

 

 片手に下げたタブレットに声を掛ければ、空かさずアロナが画面に顔を出す。先生は自分宛ての手紙を懐に仕舞いながら、淡々とした様子で指示を出した。

 

「アビドスプロトコルを起動してくれ、今から連絡の付く場所に、片っ端から」

『……分かりました!』

「――行こう、もう二度と、手放したりしない」

 

 告げ、先生は踵を返す。

 どれだけの困難が待っていようと。

 どれだけの苦痛が降りかかろうと。

 

「私は、先生だからね」

 

 先生は決して――歩みを止めない。

 


 

 次回、アビドス編最終章。

 

 今まで紡いで来た全てを賭けて、先生はゲマトリア一派と対峙します。

 最終章は流石に後書きで純愛ぶちかますと雰囲気崩れそうなので、エピローグまでは頑張って我慢しますね。うぅ……その代わり感想返信で先生の四肢捥がないと……。んぎぃ! 後書きで捥げない分、本編で捥げろッ! 吐血! 悶絶! 入院! 

 

 前回のアンケート結果を見て、私は愕然とした。てっきり私は、こんな小説を好んで読む先生達の事だから、「手足もぎもぎ」か「臓器もぎもぎ」が殆どを占めるのだろうな、と思っていたのだ。寧ろ、午前に午後の紅茶花伝を飲むと云う原罪を犯しながら、「これでもし、『ヒャア! 我慢できねぇ!(尚、絶命)』が一位になったらどうしようかしら? 先生を達磨にして両目を潰せば大体死んだようなものですし、それでも許されるかしら……まぁそんな事になったら本編終わりますけれどねぇ、オホホ!」と高笑いまでしていたのだ。

 それがどうだ、蓋を開けてみれば――軽傷・無傷が二位・三位という結果。

 軽傷は分かる、臓器を捥ぐより指とか耳の外側だけとか、そういう喪っても、「見た目は影響あるけれど、まぁ、そこまでは……」みたいな部分を求めたのだろう。

 

 しかし、無傷……無傷だと!? この小説を読む先生の中に、本編先生の体に負傷を求めない、そんな本物の光属性先生が存在するのか!? てっきり私は絶命・欠損・負傷がトップに来るのだとばかり思っていたのに! この小説を読む先生は須らく先生の手足を『もぎたてにーちゅ♡』したい人ばかりではなかったのかッ……!?

 私は愕然とした、それは宛らキャベツ太郎のお菓子の中に、キャベツも太郎も入っていないと聞かされ、呆然としたような幼少期の心地に似ていた。

 先生の負傷を求めない光属性の出現、その存在をまざまざと見せつけられた時、私は想ってしまったのだ。

 

 ――馬鹿な、これじゃまるで、私が先生の手足を捥ぎたくて仕方ない、性癖のやべぇ奴みたいに思われてしまうではないか……ッ! と。

 

 それは断じて受け入れがたい風評被害であった、これに関しては日本人の伝家の宝刀、遺憾の意を強く示さねばと思った。

 或いは、こうも思った。これはこの小説を読む全国五千兆万人の先生が、敢えて組織的に無傷を求めたのではないかと。もしくは、「でも~、周りの人に、『あの人、先生の手足捥ぎたいんですって!』って噂されると恥ずかしいし~」という思春期の少年少女特有の照れ隠しなのかもしれないと。はたまた、無傷に投票する事によって私に精神的な揺さぶりを仕掛け、最終的にエデン条約編で爆発させろという遠回しな催促(純愛)なのかもしれないと。ここで無傷にする事によって、後から更に苦しめというメッセージ……。

 憶測だけならば幾らでも建てられた、可能性は先生の数だけ存在した。同じ無傷でも、『可哀そうだから無傷』の【無傷】と、『後から盛大に死んで欲しいので無傷』の【無傷】があった。私は純愛の奥深さを知った。結果は同じでも、過程は恐ろしい程に分岐していた。

 

 まぁ最終的にエデンで四肢は飛ぶし、ままえやろ。

 

 アビドス編は最初から一つ決めていた事があるんですけれど、ホシノは先生の生き方に対するアンチテーゼにしようと思ったんですよね。先生もホシノも、最終的に愛する存在の為に身を投げ出しますが、それに対する解答というか、結末というか。まぁ詳しくは次話かその次々話で出て来ると思うので多くは語りませんが。んぉ~、でもやっと此処までこれた感つよい。うぅホシノ、どうか幸せになって、アビドス復興して十年後位に砂祭りやる事になって、人で一杯の砂漠を見つめながら、人の輪から外れた隅っこで膝を抱えながら、「奇跡、起きちゃったね、先輩」って呟いて~! その間に先生の犠牲があるのならば尚よろしい。でも自分の身を擲って対策委員会を救っても、皆はきっと喜ばないと思うんだホシノ、残された人の気持ちをどうか考えて欲しい、例え借金が無くなっても、それでアビドスが救われても、残された生徒は心から喜ばないと思うんだ。先生には是非、その辺りを念頭にホシノを叱ってあげて欲しいね。だってアビドスの皆からすれば、ホシノだって救いたいアビドスの一員なんだから! 

 ホシノの笑顔の為だったら、先生は手足の一本や二本惜しくないよ、何なら命も惜しくないよ、喜んで捨ててくれるって信じているから。だから惜しまず先生を頼ってね。そして笑ってホシノ、笑顔のホシノは素敵だよ♡

 

 話は変わらないんですけれど、アビドス対策委員会と行った戦闘行為で、流れ弾か何かに当たって記憶喪った先生に、「ごめん、誰だったかな……?」って云われた後に、それでも甲斐甲斐しく先生の世話をするアビドスの前で、汗を拭くために脱いで保護膜のない傷だらけの体を晒して絶句させて、その後アビドスと行った戦闘で追加された一際大きな手術痕を見つめながら、「これが一番痛むかも……」って何の含みもない苦笑いと共にトドメ刺して欲しい。

 

 これは情緒ぐっちゃぐちゃになるでホンマ。先生を心配させない為に、病室では何でもない元気な様子で振る舞うんだけれど、一度外に出れば先生に対する罪悪感と、どうにも出来ない自分自身に対する憎悪、もう二度と自分の知っている先生が戻って来ない事に対する遣る瀬無さで暗澹たる気持ちを抱いて欲しい。多分セリカは暴走するだろうから、それをノノミとアヤネとホシノで必死に抑えて欲しい。でも心の中では彼女達もあらゆる感情を持て余しているんだろうな。それを呑み込んで先生の前で必死に笑顔を作ろうとしていると思うとな、涙が出ますよ……。

 最終的に感情が決壊して、先生に掴み掛りながら、「ほ、本当にッ、ほんとに……何も、思い出せないんですかッ……!? 私達と過ごして来た、全部……消えちゃったんですか……ッ!?」って叫んで欲しい。

 

 私思ったんですけどぉ、いつも四肢を捥いでばっかりで「物理的な喪失」に拘っていたのですが、記憶とか感情とか、そういう目に見えない『捥げる手足』があるって、そう思ってぇ~。先生が記憶を失って悲しい感情を覚えるという事は、その記憶を失う前の先生が大切だったって事じゃないですか? 体は無事なのに心は無事じゃないっていうのは陳腐ですけれど、確かに愛を感じる事は出来るんですよね。記憶は無くても先生は先生な訳で、性格が異なる訳でも心が捻じ曲がった訳でもない。生徒がピンチになれば我が身を顧みず飛び出すのはそのままですから、そういった部分を見て先生は変わらずに先生なのだと自覚して、徐々に今の先生と生きて行く覚悟を生徒達は決めていく訳ですね、素敵だなぁ。

 

 しかも何が良いって、記憶を失っても先生は生きている訳ですから! 殺せるんですよ! もう一回! 先生を!!! 私は再三云っているのですが、先生を殺したいだけであって死んで欲しい訳ではないんですよね。という事は先生は(感情的に)殺せるけれど、(物理的に)死んでいない状況に持っていけるこれって凄く美味しいんですよね。この記憶喪失になる前に四肢欠損の負傷をしていれば尚宜しい。

 血だらけの先生の状態に蒼褪めて、必死に処置を施して、何とか一命をとりとめたという報告に涙を流して喜んで。漸く目覚めて、「先生ッ……!」と感涙した所に、「誰?」な訳ですから、これはもう愛ですよ、愛。

 

 仮に先生が記憶取り戻しても、自分の体の秘密とか、先生にあるまじき対応とかを自覚する訳ですから、それはもう苦悩するでしょうね。お詫びは手足一本で良いよ。時間あったらエデン条約後にズタボロになった先生が病院に運び込まれて、アビドス、トリニティ、ゲヘナの主要部活全員勢揃いしているところで目が覚めて、皆が喜びながら先生の顔を覗き込んだ後に、実は記憶喪失になっているって事が分かって、自分の無くなった手足の事とか、薬の副作用に苦しんで何が何だか分からないまま、唯々苦しむ先生を見る事しか出来ない生徒達の純愛話とか書きたいなぁ。うぅ、先生可哀そう……でも生徒泣かせるのは許せないからもっと苦しんで……。



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たとえ薪となっても――それでもあなたを、想っています。

あなたの誤字脱字報告に救われる命があります。
独自設定のオンパレードに御注意下さい。


 

 払暁、ホシノは聳え立つビルの前に立っていた。いつも呼び出される時はこのビルで、指定された階まで誰の手を借りる訳でもなく足を進めるのだ。

 踏み込んだ吹き抜けのエントランスは人の影など全くなく、だと云うのに施錠も電子ロックも掛かっておらず、まるでホシノがこの時間に来る事が分かっているかの様に彼女を迎え入れた。

 エレベーターホールに進むと、無言でボタンを押し込み、開いた扉を潜る。押し込む階層は手慣れたもので、最上階付近のもの。エレベーターの硝子越しに見えるキヴォトスは、暁が過ぎた今、腹が立つ程に綺麗で――ホシノは硝子に手を張り付け、暫くの間その光景に見入った。

 朝霧が裂く陽光は鮮烈で、ホシノは徐々に小さくなっていくそれらを眺めながら唇を噛み締める。

 この景色を見られるのも、最後かもしれないと――そう思ったから。

 

 ■

 

「――お待ちしていましたよ、ホシノさん?」

「………」

 

 部屋に踏み入ったホシノを待っていたのは、黒いスーツを着込んだ異形の人型――黒服。

 彼はいつも通りデスクに肘をつきながら、笑っているのかそうでないのか、良く分からない罅割れた顔面を此方に向けている。ホシノの様子をじっと観察していた彼は、ふと首を僅かに傾げると、どこか愉快そうな口調で云った。

 

「ふむ、これは、これは……どうやら契約について考えて頂けた御様子で――」

「……分かっているのなら、さっさと契約書を出して」

「クックックッ……そう慌てずとも」

 

 肩を竦め、くつくつと笑いを漏らす黒服をホシノは不快そうに眺める。黒服は緩慢な動作でデスクの中からファイルを取り出すと、その中から一枚の用紙を抜き出し、ホシノの前に差し出した。

 

「此方です、どうぞ内容を良く吟味した上で、サインをお願いいたします……ククッ」

「………」

 

 ホシノは黒服の前まで足を進めると、差し出された用紙とペンを引き寄せる。勧誘の話を聞いた事はあっても、こうして契約書を目にするのは初めてだった。

 綴られた内容は凡そ、彼が口にしていたものと同じ事を、遠回しに理解し辛く固めた代物。それらを順に上からなぞったホシノはふと、とある一文で目を止めた。

 

「……この、生徒としての全権利の移譲、というのは」

「文字通り、ホシノさんの全てを頂く――という事ですよ」

 

 ホシノの問いかけに飄々とした様子で答える黒服は、組んだ手で口元を隠しながらホシノを見据えていた。

 

「ホシノさんの生徒としての基本的な代物は当然、肉体的なものから精神的なものでまで、全て――あなたが保有している全権が私に移譲されます」

「つまり……奴隷って事?」

「やや古風な言い回しですが、概ね間違いはないかと」

「は――」

 

 思わず、乾いた笑いが漏れた。

 それは失笑だった。

 

「こういう所で、妙に細工をしたりしないんだね、もっと遠回しに云ってくるものだと思っていたよ、お決まりでしょう? あんたの見る、映画とかでも」

「……【契約】は重要です、其処に嘘があってはいけません、知識不足や認識の違いによって生まれるものは兎も角、相手に説明を求められたのなら、私はきちんとお話しします」

「……そう」

 

 吐き捨て、ホシノは綴られた文を再び目で追い始める。

 特に気にかかる内容は――無い筈だ。文言こそ異なるが、ホシノの身柄を引き渡せば、アビドスの借金を肩代わりするという内容は同じ。

 負担する金銭は全体の九割、凡そ十億に近いアビドスの借金の内の、九割。

 つまり、この身に九億近い金額が付いたという事になる。たった一人の生徒、子どもに。思わず、笑い出したくなった。こんな小さな体の女に、一体それ程の価値が本当にあるのかと。だが、高く買ってくれるというのなら構わない、精々高く買い取って、伽藍堂の己を知って絶望してくれと。

 

 ホシノは強くペンを握り締めた、これからの未来、碌な結末など望めないだろう。文字通りの奴隷、自由は許されず、命令には絶対服従、ホシノという全てを明け渡す代わりに得られる金銭が――これだ。紙面に落としていた顔を上げ、目前の黒服を見る。

 深淵のような黒と、ホシノのオッドアイが交差した。

 

「これにサインすれば、アビドスの借金は――」

「えぇ、綴られた金額分、確りと私共が負担致しましょう、約束します」

 

 数秒、二人は視線を動かさず、互いを見つめ続ける。

 そして不意に目を伏せたホシノは、深く、深く息を吐き出し、頷いた。

 

「――分かった」

 

 告げ、ペンを持ち直す。署名欄にペン先を近付け、震えそうになる指先を強く戒める。

 これで、ホシノという少女はアビドスから消える。

 けれど少なくとも、アビドス高校は残り、対策委員会の皆も助かる。

 そして――先生も。

 

 最後に脳裏を過ったのは、砂漠塗れのアビドス高校、先輩が守ろうとしたちっぽけな校舎。そして一人ぼっちになった自分の元に集った、四人の仲間達。彼女達の笑顔、仕草、自分を呼ぶ声。最後に加わった、大嫌いな筈の大人。

 自分ひとりだったのなら、きっとこんな道は選ばなかっただろう。けれど、最後に皆を救えると思うと――存外、悪くない心地だった。

 ホシノは笑みを零す。それは、諦観や自嘲による笑みではない、ただ、安堵から来る笑みだった。それを見た黒服が少しだけ驚いたような顔をしたのが印象的だった。最後にこいつを驚かせることが出来たのなら、まぁ、悪くない気分だ。

 そしてホシノは、ゆっくりと署名欄にペンを走らせ――。

 

「悪いけれど――その契約、待ってくれるかな?」

 

 そのペンがインクを垂らすよりも早く、部屋の扉が勢い良く開け放たれた。

 振り向けば、僅かに息を弾ませた先生の姿。見慣れたシャーレの制服に、青い腕章。普段通りの先生が、其処に居た。

 思わず、目を見開き、呟く。

 

「――……先生?」

「やぁ、ホシノ、こんな早い時間に奇遇だね」

 

 まるで散歩をするように、そんな軽々しい言葉を吐き、先生は部屋の中へと足を踏み入れる。

 ホシノは何故、という疑問を抱くと同時、先生の特異性を思い出し、くしゃりと顔を歪めた。

 

「何で此処に、いや、そっか、先生なら――……」

 

 未来を知っている先生なら、此処に辿り着く事も出来るだろう。

 

「――前の私も、こうしたんだね?」

「………」

 

 その言葉に、先生は何も答えなかった。

 ただ、悲しそうに微笑むホシノを一瞥した後――額に青筋を浮べながら、黒服に目線を向けた。

 黒服は先生が現れて尚、デスクに腰を下ろしたまま沈黙を守っている。ホシノの横に立ち、その肩を掴んで後方へと押しやった先生は、見下ろす形で黒服と対峙した。

 

「さて、初めまして……で良いのかな、『黒服』さん」

「……えぇ、シャーレの先生」

 

 先生の声は淡々としていた、反し、黒服の声色は――どこか、高揚感を孕んでいた様に思う。妙な間があった。それが何であるのか、ホシノには分からなかった。

 

「……と云っても、私個人としてはあなたに注目していたので、初めましてという感覚はないのですが」

「盗み見か、趣味の悪い」

「御寛恕を、何せ私達は中々表に出られない存在なもので――」

 

 分かっているでしょう、とでも言いたげに頸を緩く振り、薄ら笑いを張り付ける黒服。先生は彼を感情の読めない瞳で見つめる。

 

「しかし、此処に来たという事は……彼女の契約を阻止しに来た、という認識で宜しいので?」

「あぁ、それで間違いないよ」

「成程、何とも、先生らしい事で」

「それが、大人の責任だから」

 

 その言葉を聞いた黒服は、静かに目を細めた。

 

「大人の責任、成程、成程――あなたのスタンスは理解しました、少々私のソレとはズレがあるようだ、しかしだからと云ってあなたをどうこうするつもりはありません、先生……私達は同胞に成り得る存在だ」

「同胞?」

「率直に云うと、先生、私はあなたに仲間になって欲しいと考えている」

「ほう――?」

 

 黒服がどこか、仰々しい仕草で手を広げて見せた。滲む感情は、期待と歓喜。先生はそれを、訝し気な声色と共に迎える。

 

「あなたの能力、素質、性格、信条、理念――あぁ確かに、これが件の存在かと納得しました、しかしどうにも……納得はすれど、【理解】ができない」

「………」

「あなたは『崇高の器』だ、何故そんな、先生などという面倒な真似をなさっているのですか? 以前、このキヴォトスの全てを手に入れた時だってそうだ、あなたはこのキヴォトスに君臨する事が出来た――否、今でもやろうと思えば出来る、その力も、仕込みもある筈だ……何故、そうしない?」

 

 黒服は、心底分からないと云った様子でそう口にした。それは純粋な疑問だった。黒服が先生の立場であったのならば、何の逡巡も、躊躇いもなくキヴォトスに君臨し、思うがままに崇高へと手を伸ばすだろう。しかし、先生はその立場にありながらその選択肢を手放し、ましてや先生等と云う飯事(ままごと)に精を出している。

 これは決して口に出さない事ではある、それを言葉にすれば先生との溝が決定的になると黒服は理解しているからだ。しかし、同時に理解出来ない事をそのままにしておくつもりは毛頭ない。

 故に問い掛ける、崇高の器足る貴方の望みは何だと。

 

「……それは、私の望みではない」

「先生の望み――それは何です?」

 

 僅かに身を乗り出し、黒服は重ねて問うた。その姿勢からは、確かな先生への敬意と興味が透けて見えた。

 金ではないだろう、名誉でもないだろう、そんな俗物的なものでこの先生が動く筈がないという――揺らがぬ信頼がある。

 故に知りたい、彼が欲しがるものとは一体何だ? それが自身に用意できるものであるのなら、黒服は惜しむことなく自身の持つ全てを使って先生に差し出すだろう。彼がゲマトリアの一員となってくれるのであれば、どれ程の対価も、どれ程の時間も、どれ程の労力も惜しくはない。そう思わせるだけの素質が先生にはあった。

 ホシノの件に関してもそうだ、最初は単なる研究の一環として欲していたが――海老で鯛を釣るのだ。ホシノという海老が、先生と云う鯛を引き寄せた。

 是が非でも欲しい、仲間に迎え入れたい。

 黒服が注視する中、先生はその瞳を真っ直ぐ目の前の彼に向け、告げた。

 

「生徒に寄り添い、教え、導く事」

「―――」

 

 それは、酷くシンプルな答えだった。

 彼は本質的に――何も欲していない。

 ただ、生徒と共に過ごし、教え導く事こそが喜びだと、腹の底からそう信じているのだった。

 それを聞いた瞬間、黒服は自身の頭部を思い切り殴られた様な衝撃を覚えた。

 無論、物理的なものではない、それは精神的な衝撃であった。

 自身の知らぬ、全く未知の価値観を示され、それに衝撃を受けた。そしてその清らかな精神性と、どこまでも広大な博愛を認識した時、黒服は唯々――感服した。

 

「――……成程、これが、救世の器という事ですか」

 

 黒服は呟き、吐息を漏らす。

 どこまでも素晴らしい人物であった、あぁ、これは【器】だと、そう納得するしかなかった。その精神性、博愛、強固な信念、どこまでも利他的で、自身を顧みぬ覚悟。人間として極まった存在。他者の思想を受け入れ、共感を示し、否定せず、同時に自身の中に確固たる信念を持ち合わせている。何処までも広く、深い懐。

 何物にも染まらぬ白、彼の色彩は――純白だ。

 

 黒服は心底恐怖し、尊敬の念を抱き――同時に渇望した。

 

「……どうあっても、彼女の契約を認めませんか?」

「勿論、悪いがホシノは連れて帰らせて貰う」

「………」

 

 深く背を折り曲げ、先生を見上げる黒服。二人の視線が交わり、暫しの間沈黙が下りる。

 ホシノが口を挟む隙も無く、二人の大人は唯々無言の圧力を交わし続けた。

 軈て黒服がふっと肩から力を抜き、それからホシノが書こうとしていた契約書を引き寄せ、告げる。

 

「――宜しい、では連れて帰ると良いでしょう」

「……何?」

 

 それは唐突な言葉だった。或いは、こんなあっさりと片が付く筈がないと確信している先生は、黒服を胡乱な瞳で見つめていた。

 

「随分とあっさりしているじゃないか、彼女の為に、長い間計画を練ったのだろう?」

「えぇ、まぁ否定は致しません、金銭も時間も随分費やしました、その損失はそれなりに大きいでしょう、何よりアビドス自治区が手に入らないというのが大きい――ですが、この広大な自治区より、そのホシノさんより、魅力的な『者』が私は欲しい」

「……魅力的なもの?」

「えぇ、そうです、自治区も、ホシノさんも諦めましょう、代わりに――」

 

 黒服の腕がゆっくりと持ち上げられ、その指先が――先生を指した。

 

「――先生、あなたを頂きたい」

 

 瞬間、銃声が鳴り響いた。

 それは唐突な銃声だった、ホシノも、アロナすら反応出来ない――完璧な隠形。

 先生が気付いた時、背後に庇っていたホシノは銃弾を受け、その小さな体が崩れ落ちる。

 

「痛ッ!?」

「ホシノ!?」

 

 先生がよろめいたホシノを受け止めた途端、彼女の体が大きく跳ね、その瞳が見開かれた。体が妙に強張り、同時に思い通りに動かない。

 

「なに、こ……れ、から、だッ、しびれ……!?」

 

 ホシノが震える指先を凝視しながら、呂律の廻らない舌で呟く。普通の銃弾ではなかった、一発喰らっただけで手足が痺れ、まともに話す事すら出来なくなっていた。倒れ伏したホシノを抱きしめながら、先生は被弾した箇所を指先で撫でつける。弾丸はホシノの肩に着弾していた。しかし、弾丸自体はどこにも見当たらない。

 

「その銃弾は特別性でして、私の友人の作品です、殺傷能力はありませんが、このキヴォトスの生徒であれば一時的に全身が麻痺する――相変わらず良い仕事ですね」

「ッ……!」

 

 黒服の言葉を他所に、先生は銃弾の飛来した方角を睨みつけた。

 丁度、部屋の影になる場所、ずっと其処に潜んでいたのか、或いは自分達が入室してから密かに侵入したのか。

 先生が敵愾心と共に影を睨みつければ、徐々にその姿が露になる。

 黒いドレス、伸びた銀色の髪、見慣れたヘアピン――そして、変わらぬ瞳の色。

 その姿を見た瞬間、先生は言葉を失くし、唇を震わせた。

 

 彼女は只、先生の姿を認め、微笑む。

 嬉しそうに――懐かしそうに。

 

「……先生、久しぶり」

「――シロコ?」

 

 言葉は、虚空に溶けて消えた。

 成長した背丈、伸びた髪、殺伐とした雰囲気、凡そシロコとは異なる大人びた外見。

 ホシノは自身を銃撃した犯人を目視し、思わず驚愕の声を漏らす。

 

「し、ロコ……ちゃん?」

「――いやホシノ、違う! 彼女は……!」

「ん、やっぱり先生なら、直ぐに気付いてくれると思った」

 

 そう云って彼女――シロコは満面の笑みを浮べ、先生に手を差し伸べた。

 

「約束通り――救いに来たよ、先生」

 

 ■

 

 彼女――シロコはどこか、無機的な雰囲気を感じさせる生徒だった。抑揚のない口調に、クールな印象。しかし胸に秘めた情熱、感情は苛烈で、一度それが外へと吹き出せば留まる事を知らない。クールだが、活発で、仲間意識の強い少女。

 

 それが、目の前の彼女はどうだ?

 

 先生はホシノを抱きかかえたまま、目の前のシロコを見上げた。

 銃口を下ろし、ただ先生を優し気に見下ろす視線は、先生の良く知るシロコと変わらない。しかし、彼女からは微かに甘い匂いがした。その匂いは、先生の嗅ぎ慣れたものだ。極限まで死に近づいた者が放つ――死臭。

 彼女にはそれが、酷くこびり付いていた。

 先生はシロコを見上げたまま、ゆっくりと口を開く。

 

「――君は、やはり」

「ん、そう、先生の考えている通り、まだアレフに収束する前の私だよ、先生は全部……引き継いでいるんでしょう?」

「……あぁ」

 

 頷き、先生はホシノを強く抱きしめながら目の前のシロコを睨みつける。

 瞳には、確かに敵意が宿っていた。何であれ、ホシノを銃撃した時点で仲間だと思う事は出来ない。しかし、それでも瞳には迷いがあった。

 

「【前】の世界で生徒会長のヘイローは喪われた、シッテムの箱も物理的に破壊した、少なくとも私の観測した世界では……でもこうして先生はまだ旅を続けている、どうせ、その新しい契約の箱に意地汚く根付いているのでしょう? ――ねぇ、連邦生徒会長」

「………」

「アロナ、とか云っていたかな、その箱の制御AI」

「っ!」

 

 彼女の口から出た名前に、先生は思わず肩を震わせた。

 それを見たシロコは薄らと浮かべていた笑みを僅かに濃くし、軽く首を振って見せる。

 

「――あぁ、驚かないで先生、大丈夫、勿論私達にはその『アロナ』とかいう存在は認識できないし、干渉も出来ない、その逆は出来てもね、酷い奴だよ、自分は私達に干渉出来るのに、私達には干渉できない領域に逃げ込むなんて……生身で降りて来ている先生を見習って欲しいくらい」

「……どうやって、此方側に渡ったんだい?」

「――やっと私を見てくれた」

 

 先生の強い眼光が、シロコのそれを射貫いた。

 先程とは異なる、確かな意思の込められたそれにシロコは嬉しそうに笑う。

 憎悪でも、怒りでも、悲しみでも、歓喜でも、先生に向けられた感情ならば、何だって良い。

 硝子玉の様に、伽藍堂な瞳でなければ何だって。

 

「どうやって渡ったのか? 良いよ、勿論話す、先生に隠し事はしない」

「………」

「正確に云えば私は渡った訳じゃない、前の世界の私はちゃんと、キヴォトスと一緒に沈んだ、だから私の肉体は喪われているし、厳密に云えば私は先生が思い描いている世界のシロコじゃない――分岐世界の時間遡行なんて奇跡、先生以外は使えないよ」

「ならば――」

 

 一体どうやって。

 その言葉を遮る様に、シロコは淡々とした口調で続けた。

 

「でも、手段がない訳じゃない、特にこの屑共……ゲマトリアの神秘技術は凄くて、ミレニアムも吃驚の超技術が沢山ある、効率は凄く悪いけれど限定的に【魂】だけを飛ばす方法があるんだ」

「――……まさか」

「そのまさか、だよ」

 

 目を伏せ、呟く様な声量で肯定を返すシロコ。

 ぞっと、先生の脳裏に恐ろしい予感が過った。

 神秘と魂、それは強い結びつきがある代物。契約に儀式、例外的だが僅かな可能性を持つ手段は存在する。けれどあくまでそれは可能性だ。他世界に対する魂の跳躍など、どれ程の対価が必要なのか想像もつかない。それは云ってしまえば、【崇高】に近しい領域なのだから。

 それこそ、キヴォトスを赤に染めた、あの女と同じ事でもしなければ。

 

 そして、それを肯定するかのようにシロコは頷き、告げた。

 

「――【契約】を結んだ、対象はキヴォトス全域、対価は『先生と同じ世界への同行』……神秘の転炉とは良く云ったものだと思う、良く燃えたよ、薪としてあの世界はとても優秀だった」

「―――」

 

 ――燃やしたのか、キヴォトスを。

 文字通り全てを、先生()を救うという願いの為だけに。

 

 それは、絶句する等と云う心地ではまだ足りない。

 文字通り、先生は全てに裏切られた様な想いだった。それを行ったというのが、目の前のシロコだというのだから、その衝撃は如何程か。先生は無様にも口を開閉させ、胸中に湧き上がるあらゆる衝動と感情を抑えるのに必死だった。

 痛い程に抱きしめられたホシノは、僅かに震える先生の体に気付き、吐息を漏らす。見上げた彼の表情は――本当に、酷いものだった。

 それを見て憐れんだのか、それとも少しでも先生の負担を和らげようとしたのか、シロコは淡々とした様子で云った。

 

「気にしないで先生、どうせ沈む運命にあったキヴォトス、崩壊するのが先か、燃えるのが先か、そんな状況だったから――アビドスの皆は、快く送り出してくれた」

「……彼女達も、燃やしたのか?」

 

 辛うじて、言葉を紡ぎ出す。

 大切だった仲間、共に守ったアビドス、その場所すらも、彼女は燃やしたと云うのか。

 口の中が嫌に乾いていた、喉が引き攣った。嘘だと云って欲しかった。

 けれど、その問いかけに対しシロコは悲しそうに――そして寂しそうに、肯定した。

 

「――これは、皆で決めた事だから」

 

 その声には、言葉以上の重みが含まれていた。

 

「皆の命を対価として、私は此処に立っている、皆が望んだのは先生の安寧、平穏、平和、ただそれだけ……それを叶える為に、私はキヴォトスを薪とした」

「ッ――!」

 

 その言葉を聞いた瞬間――思わず、握り締めた拳に鈍痛が走った。

 誰が。

 誰が、そんな事を望んだというのだ!?

 先生は一瞬、憎悪に己を忘れかけた。目の前にいるシロコに、あらゆる負の感情をぶつけてやりたい心に支配された。握り締めた拳が軋み、嚙み締めた歯が剥き出しになる。

 

 しかし、踏み留まる。

 違う、そうではないのだ。

 

 そういう風に、『望ませてしまった』のは――自分が原因だ。

 先生()の行いが、彼女を此処に立たせているに違いないのだ。

 それは、自身が生徒に押し付けた代物と同じ。

 すべては、自身の力が足りないから。(救えなかった貴方のせいだ)

 

 目の前に立つ、このシロコは、自身の背負う罪悪そのものだった。

 

「……そんな顔も出来るんだね、先生」

 

 シロコは目の前の先生を見下ろしたまま、そう呟く。

 彼女の視界には嘗て見た事のない、先生の本質――それが僅かも覆い隠されず、剥き出しになった表情として映っていた。

 

「……なら、今回ゲマトリアが例外的に動いていたのは」

「……気付いているんでしょう? この塵屑(黒服)周りに関しては私の影響、魂が剥き出しの私はこの世界のゲマトリアの一人、別の塵屑とも契約した、テクストがどうとか、解釈がどうのだとか、五月蠅かったけれど、お陰で良い体を手に入れられた――先生を救うのに、力は絶対に必要だから」

 

 そう云って窓に自身の手を翳すシロコ。彼女の体は確かに――現在、先生の知るそれとは解離してしまっている。意図してそうなった訳ではないだろう、魂とは人の本質、そして肉体の輪郭だ。

 先生の肉体が『そう』であるように、彼女もまた、魂に引き寄せられる形で変質したのだろう。

 

「あぁ、安心して、対価はそんなに大事なものじゃない、『未来知識の一部』を話しただけ、それを他の塵屑と共有しているかどうかは知らない」

「………」

「……バタフライエフェクトとか、未来がどうこうとか、考えているの先生? そんなの私にとっては関係ないよ、先生以外はどうでも良いの」

「……それは、この世界が、再び沈んでもか」

「当たり前だよ」

 

 何でもない事の様に、彼女はそう云った。

 先生を再び見つめた瞳に、(希望)は灯っていなかった。

 

「――私にとっては、世界よりも先生が大事なのだから」

 

 それが彼女にとっての全て。

 世界と先生を秤にかけ、それでも尚、ひとりを選ぶ精神性。

 

 ――世界の為に誰かが犠牲になるのは良くて、誰かの為に世界が犠牲になるのは駄目なのか?

 

 そんな事は、決してない。

 あって良い筈がない。

 人も世界も平等だ。

 少なくとも、(シロコ)の中では。

 

「……なら何故ホシノを狙った? シロコの肉体を構成出来る術があるのなら、態々神秘を内包する生徒を狙わずとも――」

「肉体は只の器に過ぎない、魂なき伽藍堂に神秘は宿らないよ――分かって聞いているんでしょう、先生?」

 

 先生は強くホシノを抱きしめる。

 ホシノは、先生を見下ろすシロコを、信じられない様な目で見ていた。

 

「なに、を……」

「ん?」

「何を、いって、いるの……シロコちゃん……!?」

 

 震える指先を動かし、必死に問いかける。

 シロコはそれを、何の(感情)も宿らない瞳で見下ろしていた。

 

「……その様子だと、先生の秘密は知っているんだね」

「おじ、さん、が……勝手に、推測した、だけ……だよ」

「ふぅん……まぁ良いよ、別に知った所でどうなる訳でもない、アナタは確かに小鳥遊ホシノだけれど、私の知っているホシノ先輩ではない――邪魔なら殺すだけ、動かなければそれ以上痛い思いはしないで済む、だからじっとしていて」

 

 そう云って、再び銃口を向けるシロコ。

 装填されている弾丸は、恐らく非殺傷のものだろう。ホシノと同じ特別製の代物か、そうでなくとも人間の自身ならば一発で行動不能になる。

 生徒に銃を向けられるという光景が、先生の胸と記憶を強烈に刺激する。フラッシュバックする炎と慟哭が、先生の中に燻る罪悪と後悔の火種を煽った。

 腕の中にいるホシノが先生の袖を強く引き、蒼褪めた表情で必死に訴える。

 

「せ、んせ……にげ、て……ッ!」

「……大事な生徒を見捨てて、逃げられる筈がないだろう――!」

 

 ホシノの声に、先生は歯噛みしながら首を横に振った。

 こんな状況でホシノを置いて逃走する? 論外だ、大人としても、先生としても。

 

「どうか先生、抗わないで頂きたい、あなたは戦う術を持っていないでしょう」

「………それは、どうかな」

 

 相変わらず、デスクに座ったまま抑揚なく宣う黒服に、先生は虚勢を張る。

 確かに、状況は最悪だった。あらゆる想定外の出来事が、完全に先生の意思と計画を挫きに来ている。

 しかし、これで諦めがつく程度の意思しか持たなかったのならば、そもそもこの世界に降り立つ事もなかったのだ。先生は覚悟を決め、胸ポケットへと手を伸ばす。

 流石に彼女の存在は――【反則】だった。

 

「――大人のカードを使おうと思っているの、先生?」

「っ!」

 

 その言葉に、思わず伸ばした手が止まった。

 自身を見下ろす無機質な瞳、それを見た先生は、思わず苦笑を漏らす。

 

「使わせると思う? 知っているよ、そのカードの代償――そんなもの、先生に使わせる訳ない」

「なら、見逃して欲しいのだけれど――」

「それは駄目、先生はきっと、この世界でも生徒の為に心と体を削るから……今此処で、絶対に先生を止める」

 

 そう云って、彼女は片手で構えた拳銃に両手を添える。

 その照準を、確りと先生に定めて。

 

「私のやっている事が先生の願いと想いを踏み躙る行為だって事は理解しているよ、けれど、それでも――これ以上、先生が傷だらけで歩く姿は見たくないから」

「っ……!」

 

 その言葉に、辛うじて堪えていた先生の顔がくしゃりと歪んだ。

 それが利己的なものであれば良かった、己の欲望を満たすだけの、傲慢な考え方であれば良かった。彼女は云う、これは先生の願いと想いを踏み躙る行為だと。結局は自分が苦しむ先生を見たくないからという、酷く自分勝手で自儘な行いだと。

 けれどその願いの根底にあるのは、好意であり、信頼であり、想いであり、尊いものの筈だった。誰かを想うその感情は、決して悪しきものなどではない。それは善性の発露だ、彼女が大事に温めていた、アビドスと共に育んだ優しさそのものなのだ。

 

 けれど彼女は自身の為に消えた命、存在、神秘、それを投げ捨てる事も、振り払う事もせず――背負ったまま、真っ直ぐに先生を見つめる。

 

 それは――嘗て彼女が見ていた背中の真似だった。(先生と同じ生き方だった。)

 

「私の我儘で、先生の願いを絶つ――恨まれても、憎まれても、嫌われても構わない、それが私の望む未来、過去の全てを薪にくべてでも、果たしたい約束……嫌われる事を恐れて、動けなかったあの女と私は違う、先生はもう頑張った、十分過ぎる位に頑張ったんだよ、だからもう、休んでも良いんだ」

「そんな事が、許される筈がない――」

 

 項垂れ、先生はそう、呟く。

 積み重ねた時、積み重ねた想い、それは長ければ長い程、強ければ強い程、より巨大な罪悪となって己に降りかかる。それを背負って尚歩き続ける人生は地獄だ。

 しかし、それを降ろしてしまえば、これまでの道も、犠牲も、想いも、信頼も、全て無駄になる。何の為に此処まで歯を食いしばって歩んで来たのか、何の為に此処に居るのか。

 

 何の為に、私の大切な生徒達は――。

 

 それを降ろす事だけは、しちゃいけない。

 彼女達の想いを、涙を、慟哭を、信頼を、あの笑みを――裏切る事だけは。

 

「……私は、私の持つ責務を果たす、大人として、先生として、これは――私が選んだ道だ」

「あぁ――先生なら、そう云うと思ったよ」

 

 目を伏せ、シロコはふっと、儚い笑みを浮べた。

 

「だから私は、私の全てを使って先生を救って見せる――例え今此処で、先生を撃ってでも」

「シロコ……ッ!」

 

 ゆっくりと引き絞られる引き金。

 先生の叫びと、銃声が重なり、マズルフラッシュ(閃光)が先生の視界を覆った。

 

 ――朝はまだ、訪れない。

 


 此処でクロコに撃たれて、クロコと一緒に動けない先生が「イチャ♡ラブ」しながら崩壊していくキヴォトスを眺める純愛書きたかったけれど我慢した私を褒めて。

 



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残照

誤字脱字報告は人類の生んだ文化だよ。


 

 鳴り響く銃声、先生の叫びとそれが重なり――。

 そのマズルフラッシュが先生の網膜を焼くと同時、影が弾丸を遮った。

 

「っ――……!」

「危なかったね、先生」

 

 声は、直ぐ傍から聞こえた。

 ホシノを覆う様に庇い、(きた)る衝撃に備えていた先生は、強く瞑った瞳を開く。

 

「――遅くなって、ごめん」

 

 そこには、ホシノの防弾盾を構えたシロコ(この世界の彼女)が立っていた。心配そうに先生とホシノを見つめ、柔らかく微笑む彼女。かなり急いで駆けつけたのだろう、その額には汗が滲んでいる。

 銃を構えたまま、先生との間に割り込んで来た自分(シロコ)を見た彼女は、その表情を分かり易く歪めた。

 

「アビドス、対策委員会――」

 

 吐き捨てられた声は、様々な感情を孕んでいた。

 

「委員長ッ、先生っ! 大丈夫!? 無事!?」

「し、シロコ先輩、走るの、早すぎます……ッ!」

「ん、ギリギリの所だったけれど、間に合った」

「先生、ホシノ先輩! 良かった……!」

 

 遅れて部屋の中へと突入してくるアビドス対策委員会の面々。

 彼女達は先生と、先生の腕の中にいるホシノを見て、一度安堵の息を漏らす。そして、対峙した人影――シロコに酷似した彼女に目を向け、思わず目を見開いた。

 

「あんたがっ、ホシノ先輩を唆して――……って、あれ、シロコ先輩?」

 

 セリカが思わず困惑した声を上げ、対策委員会の面々も思わず言葉を失くす。

 確かに顔立ちや目の色、髪色などは一致している。しかし、体格や纏う雰囲気が余りにも乖離しているのだ。砂狼シロコという少女は、果たしてあのような目をするのだろうか? 銀色に靡く長髪に、正面を穿つ鋭い視線、それは宛ら砂漠の銀狼。どこか寒々しい気配は、普段の彼女と似ても似つかなかった。

 

「ちょ、ちょっと、状況が分からないのだけれど……あの人誰よ? 何か、シロコ先輩にそっくりじゃない? 先輩、お姉さんとか居たの……?」

「そっくりというか、大人になったシロコちゃんみたいですね」

「……でも、雰囲気は全く違います」

「―――ッ」

 

 アビドスを見る彼女の顔が歪む。

 そのやり取りを見ているだけで――胸がざわついた。自身を見送った、仲間たちの顔がちらつくのだ。それは哀愁や、懐古の念ではない。まだ何も知らない、無垢で純粋で、ただ未来ある明日の希望を信じられた時代の自分達を見せつけられ、遣る瀬無い感情が燻るのだ。それはまだ、罅割れもしなければ汚れもない、真新しい鏡を見せられている様な心地だった。

 

「あなたは――誰?」

「………」

 

 無知で純真な、汚れのない鏡が問いかける。

 彼女(汚れた鏡)は何も語らない。ただ銀狼は、物言わぬ、酷く冷たい瞳で睥睨するのみ。

 

「……アヤネ、ホシノを後ろに」

「あ、は、はい!」

「う、ぐっ、せ、せんせ……!」

 

 先生はアヤネに抱きしめていたホシノを預け、治療を指示する。アヤネはホシノの脇の下に手を差し込むと、引き摺って部屋の外まで搬送を開始した。ホシノは痺れる体に鞭打って、必死に手を伸ばす。自身に何も出来はしないと理解していながら、みすみす先生と仲間をこのような状況に陥れた自身の責任に、身体が突き動かされていた。

 そんな彼女を見送りながら、先生は笑う。

 

「――後は任せて、ホシノ」

「あ………」

 

 その笑顔を最後に――ホシノの姿はアヤネと共に、扉の向こうへと消えた。

 アビドス対策委員会と並び、大人となったシロコ(銀狼)と対峙する先生。

 彼女の表情は、苦り切っている。

 

「……最初から、こうするつもりだったの、先生?」

「まさか、もし君が居る事を知っていたら、是が非でも対策委員会は動かさなかった――けれど此処まで進んでしまったからには仕方ない、本筋も、バタフライエフェクトも、何もかも……もう関係ない」

 

 告げ、先生はタブレットを構えた。

 別世界のシロコによる介入、そんな事を想定などしていなかった。ならば、最早辿るべきルートも、守るべき道筋も、存在しない。

 それならば。

 

「ここからは――私も好きにやらせて貰う……!」

「ッ……!」

 

 心に従い、ただ――救うだけだ。

 その宣言を聞いたシロコ(銀狼)は、くしゃりと顔を歪め、再び銃口を向けた。

 

「――お願いだから、大人しくしてッ!」

「やらせないッ!」

 

 銃を構えた銀狼に、盾を構えたシロコが突撃する。

 構えた防弾盾は鈍い音と共に先生を狙っていた銃口を逸らし、銀狼の手から拳銃が滑り落ちる。

 そのまま盾を捨て、近接格闘へと移行したシロコは、目前に見える己と瓜二つの女性へと殴りかかった。二人の白銀が縺れ合い、同じ色の瞳が交差する。

 

「先生を、絶対に撃たせたりしないッ!」

「このっ、ただ諾々と従うだけの木偶がッ!」

 

 叫び、伸びた手足を器用に絡め、目前の憎き過去の己、その腕を取る。そして一瞬の浮遊感の後、銀狼は全力で彼女を投げ飛ばした。

 投げ飛ばされたシロコは来客用のデスクに背中から突っ込み、甲高い音を立てて床に転がる。

 

「ぐぅッ!」

「シロコ先輩!? このっ! アンタは敵って事で良いのねッ!?」

 

 セリカが投げ飛ばされた仲間に驚愕し、怒りを込めた視線を目前の敵に向ける。そして徐に愛銃を構えると、標的に向かって引き金を絞った。

 放たれる弾丸、網膜を焼くマズルフラッシュ、セリカは銀狼に着弾する弾丸を幻視する。しかし、飛来した弾丸を彼女は目視し、まるでステップを踏むかのようにその悉くを回避して見せた。床に跳弾し、硝子を穿つ弾丸、しかし――目標にだけは当たらない。

 その事実に思わず愕然とする。

 

「嘘ッ!? どんな身体能力――あぐッ!?」

 

 弾丸を避けられた事実に気を取られ、射撃を中断したセリカ。そんな彼女に向かって、銀狼は背負っていたライフルを向ける。射撃音は三つ、バーストで放たれた弾丸は綺麗にセリカの腹部を撃ち抜いた。

 衝撃で後退り、思わずセリカは腹を抑えながら蹲る。

 

「セリカッ!? ノノミ、援護を!」

「はいっ!」

 

 先生はセリカの元へ駆け寄りながら、ノノミへと援護を指示。腰だめに愛銃(ミニガン)を構えたノノミは、酷く冷たい瞳で此方を睥睨する彼女に向けて弾丸の雨を放った。

 銀狼はノノミが銃を構えた瞬間、素早く黒服の傍に駆け寄ると、一息でデスクを乗り越え呟く。

 

「頭を下げていろ」

「――仰る通りに」

 

 そして徐にデスクを蹴り倒し、即席の盾とする。腐ってもゲマトリア、襲撃に備えられたそれは戦車の正面装甲までとは云わないものの、ライフル弾程度の弾丸ならば悉くを弾き、防いで見せる。飛び散る火花、甲高い着弾音、強烈な反動と轟音を撒き散らしながら放たれるノノミの射撃を、黒服のデスクは完璧に防ぎ切った。そして一向に止む様子のない射撃の雨を、何ともない様な表情でやり過ごす銀狼は、ポケットに常備している手榴弾の一つを取り出すと、テーブル越しにそれを投げつける。

 強烈なマズルフラッシュと銃声の中、彼女の動向を注視していたノノミはテーブルの向こう側から、何かが飛んで来る事にいち早く気付いた。

 そして、それが何であるか理解すると同時に叫び、愛銃のトリガーから指を離す。

 

「ッ、手榴――」

 

 落下地点は、先生とノノミの間。ノノミは素早く駆け出し、先生の盾になるべく手榴弾と先生の射線に割り込む。

 

「――間抜け」

 

 しかし、手榴弾が爆発するより早く、ノノミの脳天を銃弾が撃ち抜いた。

 ノノミの顔面が弾かれ、まるで糸の切れた人形の如く、その体が床へと倒れ込む。

 見れば、デスクに銃身を乗せた銀狼がノノミに銃口を向けていた。立ち上る硝煙を吐息で掻き消し、銀狼は立ち上がる。

 

 ――あっという間の出来事だった。正に電光石火、如何に先生のサポートが無かったとは云え条件は同じ、決して弱いなどとは口に出来ないアビドス対策委員会の三名が、こうも簡単に。

 

「……先生が居る場所で、私が手榴弾何て投げる筈ない」

 

 デスクを乗り越え、ピンが刺さったままの手榴弾を拾い上げながら、銀狼は呟いた。黒いドレスに付着した僅かな埃を払い、彼女は斃れたノノミを見下ろす。

 

「――キヴォトス動乱を経験していないアビドスなら、この程度か」

「っ、私はッ、まだ!」

 

 叫び、巻き込んだテーブルを押し退けながらシロコが叫び、飛び掛かる。

 

「……まだ、分からないのか」

「はァッ!」

 

 素早く踏み込んだ姿勢から放たれる掌打、顎先目掛けて放たれたそれを手の甲で捌き、至近距離でシロコの頭部目掛けて発砲。それを潜る様にして抜けたシロコは、そのまま銀狼目掛けて蹴撃を放つ。

 しかし、それすらも銀狼は予期し、真正面から容易く受け止めて見せた。

 肉を打つ乾いた音が、周囲に響く。

 

「っ……!?」

「身体能力で、お前が、私にッ――」

 

 銀狼は掴んだ足をそのままに、軸足を払う。それだけでシロコの体は支えを失い、その状態で足を思い切り引っ張ると、抵抗できないシロコの体は無防備に宙を漂った。その顔面目掛けて、銀狼は全力で拳を叩きつける。

 

「勝てるものかァッ!」

「いッ!?」

 

 顔面を全力で殴り飛ばされたシロコは、そのまま床に叩きつけられ、肺から空気が漏れる。痛みと衝撃で息を詰まらせたシロコは、喘ぐように呼吸を求めた。その胸を無情にも足で押さえつけ、苦しむ嘗ての自分自身(シロコ)を見下ろし、銀狼は吐き捨てる。

 

「脆弱、薄弱、惰弱――弱い、弱い、弱すぎる……! 良い加減理解しろ、お前たちはその程度だ、その程度で先生を守れる等と驕っていたんだ! 将来、その驕りが先生を殺すとも知らずにッ!」

「っ、わ、たし、達は――っ!」 

 

 自身を押さえつける足を掴み、苦悶の表情を浮かべながら口を開くシロコ。先生は銀狼を睨みつけながら、静かにタブレットを起動する。シロコの額に愛銃を突き付けていた銀狼はその動きに気付き、先生を横目で一瞥した。

 

「――今更サポートを行っても遅いですよ先生、此処から状況を打開するには動かせる駒が……」

「いいや」

 

 先生は首を横に振る。確かに今から三人に戦術サポートを行っても、勝ち目は薄いだろう。目の前のシロコは、現在のシロコの完成系だ。身体が完成し、精神が良くも悪くも成熟し、正しく容赦がない。取捨選択の判断に迷いがなく、戦闘技術も一級品。恐らくこのシロコは、単純な戦闘能力で云えばヒナやツルギすら凌ぎ得る。

 だからこそ反則なのだ――彼女の存在は。

 

「――云っただろう、好きにやらせて貰うと」

 

 そう口にした瞬間、先生のタブレットが青白い光を放ち、銀狼のヘイローが点滅する。そして、唐突に銀狼の視界にノイズが奔った。

 

「ッ、痛!?」

 

 まるで頭部に釘か何かを打ち込まれた様な痛み、唐突なそれに思わず後退り、シロコの上から足を退かす。頭を抱えてふらつく彼女は、愛銃を掴んだ腕を垂らしながら、もう片方の腕で顔を覆った。

 

「っ、ぐ、こ、れは――何、頭痛、いや、平衡、感覚が――い、しき……」

 

 思考が纏まらない、痛みと、気怠さと、気持ち悪さ。それらが混在し、思考をかき乱す。苦悶に満ちた表情で先生を見れば、僅かに青白い光を放つタブレットの存在。

 その奥に――憎き顔を見た。

 

「お、まえかッ……――連邦生徒会長ぉォッ!?」

 

 絶叫し、愛銃を向け発砲。しかし曇った視界と思考では狙いが定まらず、弾丸はあらぬ方向へと飛んだ。これ以上は、先生に当たりかねない。歯を食いしばり、憎悪と憤怒を剥き出しにした表情でタブレットを睨みつける。先生は銃撃に怯む事なく、ただ淡々とした様子で声を上げた。

 

「生徒のヘイローに干渉出来る私が、サポート以外でこの力を使う事はない、それは『大人げない行為』だ、世界にはルールがある、守るべき規範がある、それを逸脱する事を私は好まない――しかし、悪いが反則には反則で対応させて貰う」

「ぐ、ぅ……ッ! 先、生ッ……!」

 

 頭を抱え、手を伸ばす銀狼。

 その姿に、先生は嘗ての彼女を幻視した。

 ――砂漠と、炎と、銀の髪の彼女。

 

「ッ……意識は十分にかき乱した、ラインを切断――戦術指揮を執る、アロナ!」

『はい、先生! 個別パターン承認、回路形成、先生から生徒へ、相互パス構築――完了! 情報転送開始しますッ!』

 

 アロナの言葉と共に、アビドス対策委員会、ノノミ、シロコ、セリカの三人にラインが繋がる。ヘイローが光輝き、斃れていたアビドスの皆がゆっくりと立ち上がった。シロコは鼻から流れた血を拭い、セリカは唾を吐き捨て、ノノミは血の滲んだ頭部を擦り、銀狼と対峙する。

 

「皆、すまない、私に力を貸してくれ……!」

「当ぉ然ッ……! やられっぱなしは、性に合わないのよッ!」

「悪い事をした子には、お仕置き、ですよね……!」

「――私は、あなたを知らない、でも」

 

 シロコが一歩踏み出し、銀狼を睨みつける。

 輝く色の異なる瞳――そこには敵意や怒り以上の、何か、大事な色が秘められていた。

 

「あなたにだけは、負けちゃいけない気がする……ッ!」

「戯言を……ッ!」

 

 叫び、震える腕で先生の前に立ち塞がる嘗ての仲間――その残影に愛銃を突きつける。コンディションは最悪、かき乱された精神と思考が未だ纏まらない、当然だ、ヘイローに直接干渉されたのだ。寧ろ、未だ立っていられる彼女が異常だった。

 それ程までに、彼女は先生に拘泥している。

 顔を歪め、殺意すら滲ませた声色で彼女は云う。

 

「先生に守られてばかりで、何も知らない子どもが……ッ、私の前に、立つなッ!」

「……諦める事が、大人になるって事なら、私は大人になんてなれなくて良い」

 

 呟き、シロコは真っ直ぐ彼女を見つめた。

 

「諦めない背中を、私は先生から学んだ」

「……ッ!」

 

 その。

 穢れを知らぬ、無垢な心こそが。

 最初に捨てねばならぬものだったのだ。

 

 嘗ての残照、抱いた希望、思い描いた明日。

 綺麗で綺麗で堪らない、大切なものだった筈の我楽多(思い出)

 もう存在しない、無垢だった頃の自分自身。純白(先生)の傍にいられた、黒ではない自分。

 

 ――それが、妬ましくて羨ましくて堪らない。

 

「これ以上……ッ」

 

 眩く輝き、心から笑えた、幸せに満ちた自分を。

 

「私にッ、魅せるなァッ!」

 

 

「ほう、それがあなたの――先生の力か」

 

 

 声は、唐突に現れた。

 誰も、何も感じなかった。ただ何もない空間から、唐突に、気が付けばとしか云いようのないタイミングでそれは響いた。

 全員が振り向けば、丁度黒服の傍に佇む形で小首を傾げる人影。

 赤い肌、連なる瞳、床に届きそうなほど伸びた黒髪、そして花嫁を連想させる白いドレス。その異様な風貌と禍々しい気配に、アビドス対策委員会は息を呑む。

 そして、それ以上の反応を見せたのが――今しがた先生達と対峙していた銀狼だった。

 

「ベアトリーチェ……!」

 

 忌々しそうに、或いは憎悪を込めて、彼女の名を呼ぶ。

 その反応を横目に、ベアトリーチェと呼ばれた彼女は手に持った扇子を口元に添え、笑みを隠す。そんな彼女をどこか呆れたような雰囲気で眺めていた黒服は、肩を竦めながら問いかけた。

 

「……ふむ、ベアトリーチェ、何故此処に? この場所はあなたの管轄ではないでしょう、自治区の侵犯は感心しませんね」

「侵犯も何も、所詮仮初の自治区でしょう、アビドス自治区は『まだ』あなた自身の領域ではありません、それに――」

 

 言葉を一度切り、対峙する先生へと視線を向けるベアトリーチェ。

 その視線には何か、底知れぬ悍ましさが含まれている。

 

「件の先生と相まみえる等と、私は聞き及んでいませんでしたが?」

「………」

 

 その言葉に、黒服は沈黙を返す。

 仮に話したところで、彼女はそれを受け入れないだろうと云う確信があったのだ。だからこそ他のゲマトリアとは異なり、自身の行動を漏らすような事はしなかった。しかし、どうやら独自の情報網でこの事態を察知したらしい。内心で辟易としながら、黒服は説得の言葉を重ねる。

 

「先生は私達の仲間と成り得る存在です、その神秘性、精神性、存在そのものが――非常に興味深い」

「いいえ、先生は即刻排除すべき存在です」

 

 しかし、黒服の言葉を正面から切って捨てた彼女は、冷ややかな視線を先生に向けた。

 

「お前――ッ!」

「……躾のなっていない狼だ事」

 

 その発言に激昂したのは銀狼だ。アビドスに向けていた銃口をベアトリーチェに向け、今にも引き金を絞りそうな形相で唸る。その様子に幾つもある目を細めた彼女は、そっと扇子を銀狼へと向ける。しかし、それを遮るように手で制したのは黒服だった。

 

「――ベアトリーチェ、彼女は私の客人です、正式な契約を結んでいる以上、害せばあなたとてルールを逸脱する」

「………はぁ」

 

 その言葉に、差し向けた扇子を下ろす。同時に黒服はどこか諌める様な視線を銀狼に向けた。

 

「まぁ、良いでしょう、ともあれ助けてあげますよ、黒服」

「……その様な事、頼んでおりませんが?」

「気にせずとも、私達は同胞なのでしょう? なら肩を持つ程度、やってさしあげましょう、仲間同士で争うのは愚策――そうでしょう?」

「………」

 

 取ってつけたような理論だった。しかし、ゲマトリア同士は互いの行動に関知しない。助け合いや協力を要請、申し出る事はあれど、互いが互いの方法・技法・手段で以て崇高へと手を伸ばしている。そして彼女の行動もまた、黒服にとって縛る理由は存在しない。その『権利』がないのだ。

 黒服の沈黙を肯定と受け取ったのか、ベアトリーチェは一歩踏み出しアビドス対策委員会、そして先生と対峙する。しかし、彼女にとって対策委員会など眼中にない、視界に存在するのは只一人――己と同じ純白を纏う、先生のみ。

 

「――さて、先生、あなたは色々知っているとの事ですが、自己紹介は必要でしょうか?」

「要らないよ……あなたがどういう存在かは、良く知っている」

「それは結構、ならば私が此処に来る事は読めていましたか? それとも、よもや事を起こす前に現れるとは予想しておりませんでしたか?」

「………半々、かな」

 

 先生がそう答えれば、ベアトリーチェは興味深そうに扇子を開いた。

 

「ほう、半分は予測していたと?」

「と云っても、確信したのは彼女(銀狼)が出て来た時だ、遅きに失したよ、もし未来の情報があなたに伝わっているとすれば――」

「えぇ、私が敗北する未来を聞いたならば……その芽は早急に摘むに限る」

「……セリカ誘拐にアリウスを動かしたのは、あなたの指示か」

「小手調べ、という所でしょうか? あなたがどの程度の脅威なのか、彼女達ならば測定機としては十分でしょうし、ましてや伝え聞く先生ならば、生徒をみすみす殺したりはしないでしょう?」

「ッ――」

 

 その、生徒を道具としか見做していない言動に。

 ぎちりと、先生は歯を食いしばった。

 知ってはいた、理解はしていた。

 しかしこの女は、どこまでも生徒を弄ぶ。

 先生の怒りの視線を微風の様に受け流しながら、ベアトリーチェは朗々と唄うように告げる。

 

「シャーレの基盤はまだ盤石とは言い難い、これから時間を掛ければ掛けるほど、あなたは生徒達と絆を紡ぎ、強大な力を得て行く、であるならば早急に排除せねばなりません」

「っ――!」

 

 ベアトリーチェの言葉に、ノノミ、セリカ、シロコは顔を顰め、先生の前に立ち塞がった。同時に、横から睨みつけていた銀狼が声を荒げる。

 

「ッ、お前、私の先生に……!」

「銀狼さん、御下がりを」

「私に指図するなァッ!」

 

 黒服が彼女の肩に手を掛けるも、それを乱雑に振り払う。しかし、それだけで彼女の体は揺らいでいた。足元が覚束ない、そんな銀狼に黒服は語り掛ける。

 

「その体では無謀でしょう、ましてや――」

 

 呟き、窓ガラスの向こう側に視線を向ける。釣られるようにしてアビドス対策委員会が視線の方に顔を向ければ、ビルを包囲するように続々と募る見覚えのある影――オートマタとドローン。空を飛び周囲を旋回するドローン、その外装に描かれたマークを見て、思わずセリカが声を上げた。

 

「あれって……もしかして、カイザーコーポレーション!?」

「……ふむ、あの企業を動かしましたか、ベアトリーチェ」

「黒服の策に便乗しただけですよ、別段、潰れてしまっても困らない木っ端でしょう? エデン条約に向けて動いている今、アリウスを動かす訳にもいきませんから……代表の理事には随分と渋られましたが、契約は契約、そうでしょう?」

「えぇ、それは構いませんよ、しかし……動くならばせめて一言欲しいものですね」

「お互い様です――さて」

 

 黒服の苦言を一蹴し、ベアトリーチェは勢い良く扇子を閉じる。

 その音に意識を引っ張られたアビドスは、目の前のベアトリーチェを改めて見据えた。

 彼女はそんなアビドスと先生を一瞥し、笑みを浮べながら宣言する。

 

「では、神の子羊(小さな犠牲)を始めましょうか……先生?」

 


 

「――それじゃあ、後はお願い、シロコちゃん」

「ん、任せて、ホシノ先輩」

 

 世界は、酷く静かだった。(世界)の弾ける音と、静かな呼吸音。それらを耳にしながらアビドス対策委員会は空を見上げる。暗く、綺麗な夜空に映える炎。

 ふと、星に手を伸ばしてみるけれど、届く筈もなく。

 瓦礫に凭れ掛かった皆は傷だらけの体をそのままに、同じような格好の仲間を見つめ、苦笑を零した。ズタボロの制服に、残る弾痕、砂と血塗れの愛銃、転がる空薬莢。小さく痙攣する指先は、もう疾うの昔に限界だった。

 

「ごめんなさい、こんな重い役目を……」

「気にしないで、私が云いだした事だから」

 

 寄り掛った瓦礫に血痕を残しながら、シロコは笑う。

 愛銃を立て掛け、ぼうっと空を見上げるシロコは儚い。アヤネは罅割れた眼鏡を外し、そっと目を伏せた。もう、何の情報も映さなくなったディスプレイ、傍には無惨に破壊され、羽の捥げた彼女のドローンが転がっている。最後まで戦った相棒だった。今はもう、最後の役割を終え沈黙していた。

 

「先生を、お願いします、シロコ先輩」

「もし会えたら、あの間抜け面にガツンと云ってやってよ?」

「……ん」

 

 ノノミとセリカ、同じように傷だらけの彼女達の言葉に頷きながら、シロコはアビドス対策委員会を見渡した。瓦礫と炎、夜空に蓋をされたこの世界。最後に見納めとなる光景を脳裏に焼き付けながら。

 

「絶対に先生を救って見せる――そう、約束するから」

 

 そう云って、小指を立てる。

 その言葉を聞き、アビドス対策委員会の皆は吐息を零し、笑った。

 痛みで腹が引き攣って尚、穏やかに。

 

「うへ、こうやって皆で過ごせるのも最期かぁ~」

「わっ、その口調のホシノ先輩、久々に聞きました☆」

「染みついた癖というのは、意図せず出ちゃうものなんだよ~」

「何よ先輩、今までずっと一緒だったじゃない?」

「まぁほら、だからこそちょっと寂しい的な?」

「でも、一番寂しいのはこれから一人になってしまうシロコ先輩かと……」

 

 アヤネが申し訳なさそうにそう口にすれば、シロコは首を横に振って、欠片も悲しみや寂しさの色を見せずに、強い口調で告げた。

 

「大丈夫――私達は誰が欠けても駄目(皆でひとつ)……でしょ、先輩?」

「うへ……また懐かしい事を」

 

 シロコが片目を閉じながらそう口にすれば、ホシノは照れたように頬を掻き、そっぽを向いた。アビドス対策委員会は皆ひとつ、だから例え此処で別れる事になったとしても、全員の(想い)だけは――シロコが持っていく。

 シロコはひとりだけれど、ひとりぼっちじゃない。

 常にアビドスの仲間達と共に在る。

 

 ホシが皆を見下ろす。

 炎は、世界を包もうとしている。

 流れ出る赤が、そっとホシノの手を染めた。

 残された時間は、多くなかった。

 

「……さて、そろそろ体の方も限界だし、最後にあの台詞、いっちゃいますかぁ~」

「えっ、あの台詞って何?」

 

 ホシノがふと、そう声を上げれば、セリカが驚いた様に目を瞬かせて云った。

 その様子にホシノは短くなった髪を指先で弾き、にやついた笑みを浮べる。

 あの台詞と云ったら――一つしかないだろう。

 

「うへ、セリカちゃん、毎度戦う前に云っているじゃーん」

「あぁ、あの台詞ですね☆」

「あ、あはは、ずっと戦いっぱなしでしたから、云う暇もなくてちょっと忘れていました」

「え……あ、あぁ、アレね! も、勿論憶えているわよ! 所謂、フリって奴だから!」

「嘘、実は忘れていた」

「そ、そんな事ないから!」

 

 シロコの突っ込みに、思わず否定の声を上げるセリカ。その様子にカラカラと笑い声を上げ、皆が手を前に出す。

 想いは一つだった。

 ずっと前から、そうだった。

 

「よーし――それじゃあ、皆、準備は良い?」

「はい!」

「いつでも☆」

「おっけー!」

「ん」

 

 ホシノが皆を見渡し、ノノミが、シロコが、アヤネが、セリカが、強く頷いて見せる。

 その様子を確認したホシノは、最後に一番奥の空白の空間を見た。全員で輪になって座って尚、皆を見守れるような位置、円の一番上の場所――先生がいた場所。

 アビドス対策委員会の部室で、先生の定位置だった席。

 今はもう、空席になって久しい。

 皆がその、何もない瓦礫だけの空間に目を向け、ふっと――口元を緩める。

 

 そして最後に、ホシノは告げた。

 

「――アビドス、出撃!」

「おーっ!」

 

 突き上げた拳が、星に届かなくとも。

 

 

 この位の後書きなら許されるやろ(満面の笑み)

 次回、ゲマトリアとの決戦、そろそろ大人のカードを抜く準備は出来ましたか。

 想いを背負ってね先生? 背負って背負って背負って、背負い切れない程の量を背負って、潰れそうになりながらも、這い蹲ってでも進んでね。腕が捥げようとも、足が捥げようとも、「それでも」って云って進んでね。それが先生にとっての、生徒に対する愛の証明だから。生徒を愛して、甘やかして、教え導き、その最後にあなたは斃れる事を許されるべきなんだ。だからまだだよ、まだ斃れちゃ駄目だ先生。もっと大勢の生徒に愛されて、信頼されて、好意を抱かれてから盛大に血を撒き散らしてくれ。

 イヒーッ! もう六日も先生の手足を捥いでいないッ! 六日!? 六日も!? 自分で書いといて吃驚したわ! 

 先生の手足捥ぎたいよ~~! いじわるしないでよ~~! やだよ~~! 先生血を吐いてよ~~! 本編ひと段落したら覚悟しろよ先生。

 



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その手の中に、ホシを掴んで。

誤字脱字報告に感謝の正拳捥ぎをします。
16,500字です、ご注意ください。
これだけ文字数多いので日付跨いだのは許してくれるって信じている。


 

「此処は聊か、狭い」

 

 戦端は、そんな一言と共に開かれた。

 それが何だったのか、アビドスは何も分からなかった。ただ何か、巨大な腕に薙ぎ払われた様な衝撃が身を襲い、アビドス対策委員会と先生が壁に並んだ硝子に叩きつけられ、ビルの外へと放り出されたのだ。

 

「ぐぅッ――!?」

「先生ッ!」

 

 攻撃自体は、辛うじてアロナの防壁が発動した。しかし、衝撃と風圧が先生の体を強かに突き抜け、叩きつけられた硝子が砕け虚空へと放り出される。放り出された場所は足場のない空、飛ぶ術を持たない先生は只、堕ちるのみ。

 シロコは同じように虚空に投げ出された状態から先生に手を伸ばし、辛うじてその腕を掴むと、思い切り抱きしめた。そして――目についたドローンに手を伸ばし、その外装を掴む。無論、人ふたり分の重量をドローンが支え切れるはずもなく、僅かに落下の速度は緩められたとは云え、依然危険に変わりなく。

 二人はそのまま為す術なく、停車していた車両のボンネットに叩きつけられた。

 大きく凹むルーフ、衝撃で飛び散るフロントガラス。その中で、先生を強く抱きしめながら背中を強打したシロコが咽る。

 

「うッ、げほっ、ケホッ!」

「ッ、シロコ……!?」

「だ、いじょうぶ……この位、何てことない」

 

 呟き、シロコは笑みを浮べて見せる。飛び散った硝子で多少頬や手を切ったものの、ドローンによる減速と、自動車のルーフが程よい緩衝材となった。それに、キヴォトスの生徒は一等体が頑丈だ。神秘の籠った弾丸より、落下のダメージなど微々たるもの。

 先生は生徒の傷つく姿に苦り切った表情を浮かべるものの、一度シロコの手を強く握り深い感謝を述べ、顔を上げ他の皆の名を呼ぶ。

 

「ノノミ! セリカ!」

「いったぁー……あの、馬鹿力……! 大丈夫、無事よ!」

「こっちも、何とか大丈夫です!」

 

 下の並木に引っ掛かり、何とか無事に済んだセリカ、そしてドローンに引っ掛かり、辛うじて地面との衝突を免れたノノミが起き上がりながら手を挙げる。先生は無事な二人の姿に胸を撫で下ろし、タブレットを強く握り締めた。

 

 ■

 

 銀狼は、今しがた巨大な腕に薙ぎ払われ、ビルの外へと弾き飛ばされた先生を目撃し、思わず吹き抜けとなった硝子から身を乗り出す。そしてそれを追う様にして外へと飛び出したベアトリーチェを一瞥し、その表情を憎悪一色に染めた。

 

「ッ、おい塵屑、あの女を!」

「いえ、残念ながら私に彼女を止める権利はありません、契約でもあれば別ですが――元より、私達ゲマトリアとはそういうものですので」

「っ、なら私が……うぐッ」

 

 黒服の返答に舌打ちを零し、愛銃を手に自身も地上へ落下を敢行しようとするものの、震えた足と強烈な頭痛がぶり返し、思わず抱えた銃を取り零す。その様子を見ていた黒服は銀狼の肩を掴み、首をゆっくりと振って見せた。

 

「ヘイローに直接干渉されたのです、暫くは動けないでしょう、今はどうか安静に」

「くそ、先生――!」

 

 ■

 

「これは――囲まれたか」

「カイザーコーポレーション……!」

 

 再集合し、無事を確認し合ったアビドス対策委員会を囲むようにドローンとオートマタが集い始める。その数は嫌になる程多く、件の砂漠で戦闘した数にも負けず劣らず。戦力の大部分を此方に回しているのか、先生は厳しい表情で周囲を見渡した。

 そんな彼女達の前に、頭上より飛来したベアトリーチェが、アスファルトを砕きながら着地を敢行。ビル数十階から落下したというのに涼しい顔で扇子を払い、巻き上がる砂塵を散らす。

 

「――さて、金で動く私兵というのは聊か不満ですが、質は兎も角量は十分でしょう?あなた方四名程度を屠るには過剰戦力というものです」

「………」

 

 飄々とした態度で語るベアトリーチェに、先生は内心で臍を噛む。以前の戦闘で対クラック装備を増設したのか、オートマタには首元に妙な装置が取り付けられているのが見えた。恐らくは防壁、基幹システムへの侵入を一度だけ防ぐ、身代わり用のデバイスだ。つまり、アロナがこのオートマタを排除するには、一体につき二度の侵入を行わなければならない。

 アロナの性能は伊達ではない、この一帯のオートマタとドローンを一斉にクラックする事は十分に可能な範囲――しかし。

 先程のシロコ(銀狼)が持つヘイローへの干渉、皆への戦術サポート、防壁の発動――シッテムの箱が持つ残りバッテリーは、決して多くは無かった。此処でこれだけの数を無力化すれば、恐らく残量全てを吐き出すだろう。

 それをすれば、このベアトリーチェに対抗する為の札が無くなる。

 

 ――或いは、此処で使うか。

 

 その先生の逡巡を嘲笑うかのように、カイザーコーポレーションの私兵が銃を構える。

 

「――辞世の句くらいは聞いておきますよ、先生?」

 

 扇子で口元を隠しながら、ベアトリーチェは愉悦に歪んだ表情のまま問うた。

 

「先生、此処は私達が、せめてあなただけでも……ッ!」

「こ、この位、私達だけで何とかしてみせるわよッ!」

「行って、先生」

 

 告げ、一歩前へ踏み出すアビドス。シロコも、ノノミも、セリカも、この絶体絶命の状況にありながら欠片も退くつもりなどない。その瞳には確かな闘志と意気込みが感じられた。ノノミも、セリカも、シロコも分かっている。互いに視線を通わせ、頷く。

 例え此処で、自分達が斃れても。

 例え此処で、勝てなくても。

 先生が生き残れば――最期に笑うのは、アビドス(私達)だと。

 

「……ふふっ」

 

 その信頼に、応えたいと、強く思う。

 先生の思わず漏れた微笑みに、ベアトリーチェは目を絞る。

 

「何か、おかしい事でも?」

「いいや、おかしく何てないよ、ただ――」

 

 告げ、真っ直ぐとベアトリーチェを見据える。

 その瞳には――絶望や諦観なんて、欠片も宿っていなかった。

 先生がアビドスと並ぶように、一歩踏み出す。

 そしてもう一歩――生徒に背中を晒し、踏み込む。

 

「先生っ……?」

「任せて――」

 

 告げ、笑う。

 この絶望的な状況の中で、気丈にも。

 虚勢か――ベアトリーチェは先生の笑みを前にそう思考した。

 否、その思考に反しベアトリーチェの本能は警鐘を鳴らしている。絶望し、項垂れた人物を彼女は何人も見て来た。皆一様に色褪せ、俯き、その瞳に光はなく、その顔は地面を見つめるものだ。しかし、彼はどうだ? 背筋を正し、その瞳に光を湛え、欠片も意思を挫かれてなどいない。

 先生とベアトリーチェの瞳が、交差する。

 

「あなたは、私に戦う力がないと思っている」

「……実際、そうでしょう、あなたが銃を取っても神秘の籠らない只の銃弾に過ぎない、キヴォトスの住人程の身体能力もない、ただの人間――先生、あなたに戦う力はない」

「そうだ、実にその通り、私に銃を取る資格はなく、生徒と共に戦う力も、苦難に抗う術もない……けれど――」

 

 僅かに砂の付着した裾を払い、先生は告げる。

 

「――下げる頭はあるよ」

 

 瞬間、ベアトリーチェの背後で盛大な爆発が起きた。

 

「ッ! 何――!?」

 

 爆風と熱波が肌を撫で、破損したオートマタとドローンのパーツが飛び散る。それらを横目に振り返ったベアトリーチェは、アスファルトを砕き焦げ跡を残す着弾痕に目を見開いた。

 

「確か、L118、牽引式榴弾砲――だったかな」

『み、皆さん、ご無事ですか!?』

 

 先生が呟くと同時、先生のタブレットから聞き覚えのある声が響く。先生がホログラム機能をオンにすると、『5』と描かれた紙袋を被り、トリニティ制服を着込んだ生徒――ヒフミの姿が投影された。

 それを見たアビドスの皆が驚き、思わずセリカが声を上げる。

 

「この声、ヒフミ!?」

『ち、違います! 私はヒフミではなく、ファウストです! この件に関してトリニティ総合学園は一切関係ありません!』

「……もう名前、云っちゃっているけれど」

『あ、あぅ……』

 

 シロコの鋭い指摘に、思わずヒフミは勢いを失くす。

 しかし今はそんな事で意気を削いでいる場合ではないと、ヒフミは手に持った弾頭を振り回しながら叫んだ。

 

『と、兎に角、此処から援護射撃します! 砲台の数は多くありませんけれど、火力支援は任せて下さい!』

「助かる、ありがとうヒフミ!」

『先生っ!? で、ですからヒフミではなく、ファウストですッ!』

 

 先生の一言に、ヒフミ――改めファウストはぶんぶんと首を振り、それから一方的に通信を切断した。それと同時に、後方から次々と砲音が鳴り響き、周辺に展開していたドローンやオートマタが粉砕される。

 ベアトリーチェは宙を舞うドローンの残骸に舌打ちを零しながら、しかし余裕の態度を崩さない。火力支援は確かに脅威だ、だが空に尾を引く弾道を見る限り、精々が十門に満たない数、それだけでどうにかなる筈もなし。

 

「……成程、援軍を呼んでいましたか、しかし――その程度で」

「彼女達だけじゃないよ」

 

 ベアトリーチェの言葉に被せ、先生は周囲を指差す。

 途端、放たれる銃弾の嵐。集っていたオートマタが次々と倒れ、空を舞うドローンが撃ち落とされた。アビドスは銃声のした方向へと顔を向け、目を見開く。

 

「あれは――ゲヘナ風紀委員会!?」

 

 彼女達の視線の先には、コートを靡かせ愛銃を脇に挟み掃射を行う風紀委員長――ヒナの姿が。そしてその背後に続く形で、アコ、チナツ、イオリの面々が銃撃を敢行している。他の隊員の姿は見えないが、風紀委員最大戦力の人員が軒並み投入されていた。

 

「はぁ……まぁこの程度で賠償になるのなら別に構わないけれど、まだ仕事が残っているし、手早く片付けよう」

「クソ、何で私まで……」

「愚痴を吐かない、イオリ、チナツ、アコ、これは反省文の代わりだから」

「うぐ……りょ、了解」

「まぁ、先生の助けになれるのなら私は別に――」

「あの、次に逢ったらって云っていましたけれど、流石にこの場でわんわんプレイとかはないですよね……?」

 

「主殿~! このイズナ、招集に応じ参上致しましたッ!」

「忍術研究部ッ、華麗に参上~っ!」

「さ、参上、です!」

「あの風紀委員と共闘というのは心底気に入りませんが……あの方の役に立つと云うのなら、一時目を瞑りましょう……それにしても、まさか再び私の先生を害そう等という輩が出て来ようとは――万死に値しますッ!」

 

「あははッ、アスナ、突撃しま~すっ!」

「ちょ、待ちなさい! 何でC&Cの子はこう……ッ!」

「すみませんユウカさん、アスナ先輩は、その、非常にアクティブな方でして――」

「EMPドローン展開、あ、周辺の人は余波に気を付けて」

「機械の真善美は、合理的で、精密で、そして簡易である事だね」

「いやぁ~、まさか未来直行スカイハイが役立つ日がこようとは! 正に、人生に無駄なし、ですねッ!」

 

「先生に頼まれたら、参加しない訳にはいかないものねッ! 終わったらまた、柴関のラーメンでも食べに行くわよッ!」

「くふふッ、アルちゃんってば輝いてる~! それじゃあ、先生の為にもひと肌脱いじゃおっか!」

「あ、アル様と先生の為に……ぜ、全員殺しますッ!」

「はぁ、考えなしに突撃はやめてよね、一応味方の位置も意識して動こう」

 

 ゲヘナ風紀委員会だけではない、ヒフミのトリニティに加え、ミレニアム・サイエンススクールのC&C、ヴェリタス、エンジニア部からセミナーまで、百鬼夜行連合学院、便利屋68、ありとあらゆる所属を問わない生徒達が一斉に戦闘を開始した。カイザーコーポレーションのオートマタやドローンの数と比較すれば、確かに少数ではあるものの――侮るなかれ、招集された彼女達は一癖も二癖もある生徒達だ。自身の特異な分野で競い合い、高め合い、時に協力しながら、時に睨み合いながら周辺の敵勢力を蹴散らしていく。

 そんな彼女達の奮戦を、シロコ、ノノミ、セリカの三名は呆然とした様子で見つめていた。

 

「百鬼夜行に、ミレニアムまで……!?」

「わぁ……便利屋の皆さんも!」

「凄い、こんなに人が――」

「事前に招集を……――やはり、あなたは危険な存在だ、先生」

「光栄だよ、マダム」

 

 アビドスの声色に反し、彼女は酷く表情を歪める。

 周囲で銃を突き付けていたオートマタ達がトリニティによる火砲と、後方から行われる狙撃で次々と倒れて行く。最早、カイザーコーポレーションの私兵はアビドスだけを気に掛ける事が出来ない。倒れた仲間の穴埋めの為に駆けて行くオートマタを見つめながら、ベアトリーチェは手にした扇子を勢い良く閉じた。

 

「……確信しました、あなたは必ず私達の障害となる、故に――是が非でも排除する、今、この場で……ッ!」

 

 決断は早かった、本来ならばカイザーコーポレーションを動かし、その上でアビドス諸共この先生を殲滅する、その予定だった。

 しかし、その手札が潰された以上――この場で最も信の置ける手段を講じるのみ。

 生贄も不十分、事前準備すら足りない、しかし此処でこの者(先生)を生かして帰す事の方が、今のベアトリーチェにとっては何十倍にも恐ろしい事に感じられた。

 

 切り札を切る、その決断をする。

 

 ベアトリーチェの肉体が変質し、人型であった彼女の影が肥大化――最早その名残もなく、怪物としか表現できない姿へと変貌していく。巨大な全長、華の如く咲いた頭部、そこから垂れる黒髪に、背中から生えた樹木の如き枝。足だった代物は樹の根の如く広がり、その両手諸共真っ赤に染め上げている。

 そして背中に現れる――巨大で、血の如く赤い円環(ヘイロー)

 

 その姿は宛ら、(神秘と恐怖)を啜り成長する大樹の如く。

 

「ッ、こいつ……!」

「変身するの!?」

 

 呟き、戦慄するアビドスに――変貌を終えたベアトリーチェからの、全力の咆哮が叩きつけられた。

 音圧が周囲の残骸が弾き、びりびりと先生の肌を刺激する。はためく制服をそのままに、先生はベアトリーチェを睨みつけ、背後の生徒達に問うた。

 

「周囲のカイザーコーポレーションは他の学園の生徒に任せる、今は目の前のコイツを倒す――行けるか、アビドス!?」

「――当然ッ!」

 

 先生の問いかけに、踏み込み、皆が愛銃を構え意気込みを見せる。

 此処に――アビドス最後の戦いが勃発した。

 

 ■

 

「奥の手を早々に切ったその英断、やはりあなたは変わらない、ベアトリーチェ!」

「御託は良い、潰れて消えなさい!」

「っ、先生!」

 

 叫びと共に振るわれる腕。細く、枯れ枝の様な腕ではあるが、先生や生徒からすれば身の丈を超える巨大な丸太にも等しい。辛うじてそれを躱した生徒と先生は、散り散りになりながらも肌を撫でる豪風に冷汗を流す。

 直撃すれば、只では済まないだろう。

 続けて、振り上げられる拳。狙いは先生、ただ一人。

 生徒(子ども)など後からどうとでも処理出来る、故に狙いは正確だった。

 アスファルトの上を転がりながら、己の頭上に振り上げられた拳を見上げる先生。ちょっとした自動車程の大きさはあるソレが、己へと振り下ろされた。

 

『せ、先生! 流石に連続しての防御は――』

「くッ――」

 

 タブレットを抱き、先生が目を閉じる。

 あわや直撃かと思った瞬間、先生の体を別の衝撃が襲った。

 

「――あなた様、ご無事で?」

「……お陰様で、傷一つないよ」

 

 先生を抱き、叩きつけられたベアトリーチェの拳から救い出したのは――ワカモ。

 和服の袖を靡かせながら先生を腕の中に抱きしめた彼女は、ライフルを肩に担いだままアビドスの元へと跳躍する。唐突な出現に目を瞬かせたセリカは、その銃口を彷徨わせながら呟いた。

 

「アンタは……」

「――先生の事は私にお任せを、絶対に放しませんし、傷一つ付けさせません」

「っ、助かる!」

 

 一体何処の誰なのか、詳しい事は一切分からない。しかしシロコは一先ずワカモを信用し、そう叫ぶ。

 アスファルトを殴り砕いたベアトリーチェは、寸での所で助け出したワカモを睨みつけ、忌々し気に身を捩った。

 

「シロコ、ドローンを使え! あの弾頭ならベアトリーチェと云えど無視できない!」

「っ、了解!」

 

 散発的な銃撃、大抵の攻撃はベアトリーチェの外皮に弾かれるものの、シロコの弾頭やノノミのミニガンによる集中砲火は、さしものベアトリーチェでも無傷とは行かないらしい。また、花弁の如く開いた顔面の外皮は厚くない様で、セリカはこれ見よがしに其処へと火力を集中していた。先生はシッテムの箱を通じて個々に指示を出しながら、冷静に戦場を俯瞰する。回避や護身に関しては、完全にワカモを信頼していた。

 片腕で銃弾を防ぎながら、もう片腕でアビドスの生徒を薙ぎ払うベアトリーチェ。同時に指先から深紅の弾丸を放ち、瓦礫諸共アビドスを屠らんと動く。

 しかし、綺麗に分散したアビドスの三人は的を絞らせず、常に走り回る事で彼女の意識を分断した。確かに三名のみでこのベアトリーチェと渡り合う事は難しいだろう。しかしそれは、先生の指揮が無ければの話だ。

 

「あんたの事は良く知らないけれど、ポッと出の大人に負ける程、私達は弱くないの……よッ!」

「こいつ……!」

 

 セリカが叫び、同時にポーチに入れていた手榴弾を顔面目掛けて投げつける。それを手で払い退けようとした瞬間、図ったかのように爆破し、ベアトリーチェの視界が一瞬逸れた。空かさず先生は叫ぶ。

 

「ノノミ!」

「はいッ!」

 

 先生の声にノノミは答え、広く足を開くと射撃体勢を取り、弾丸の雨をベアトリーチェの胴体目掛けて撃ち放った。凄まじい反動と閃光、それに見合うだけの数の弾丸がベアトリーチェの外皮を削り、その肉体が僅かに抉れる。確かに堅い、生徒と比較すれば驚異的だ。しかし決して無敵でもなければ最強でもない、攻撃を続ければいつか確実に倒せる。埒が明かない様に思うかもしれない、しかし違う、必ず埒は明けられる。

 

生徒(子ども)がッ、忌々しい連携だ――!」

アビドス(私達)を甘く見たツケを払えッ!」

「……確かに、予想よりは強い、それは認めよう――だがっ!」

 

 叫び、深紅がベアトリーチェの顔面――花弁へと集う。それは明らかな前動作、集う光に強烈な悪寒を感じた先生は、直後に退避命令を出した。

 そしてベアトリーチェが僅かに身を逸らした直後、彼女の顔面から伸びるようにして放たれる深紅の極光。反動で顔が仰け反り、まるで地上と空に線を刻むべくソレはアビドスを襲った。

 

「ッ!?」

 

 セリカは、その不気味な光を認識した瞬間、全力で横合いへと体を投げた。瞬間、先程まで立っていた場所を通り過ぎる深紅の光。超高速、高熱、高威力の熱線(ビーム)。アスファルトが蒸発し、赤熱した痕跡がべったりと地面に張り付く。深紅の極光が通った後には何も残らない。セリカは高熱の余波に肌を焼かれながら、地面の上を跳ねる。掠りもしなかった筈なのに、肌は焼ける様な熱を持っていた。

 

「あっ、つゥッ!?」

「セリカ!?」

 

 命中していないのに、傍を通っただけでこの威力。蒸気を吹き上げ、赤熱した通過痕を見たシロコが顔を顰める。致命的な負傷ではないものの、火傷というのは痛みが酷いのだ。僅かに赤らんだセリカの肌、彼女は這い蹲ったままベアトリーチェの巨躯を睨みつける。

 

「所詮は幼年期! 成熟した経験(ステータス)には程遠いッ!」

「っ、よくもセリカちゃんを!」

「――ノノミ、待てッ!」

 

 ノノミが再び愛銃を腰だめに構え、射撃を敢行しようとするものの――それより早く、ベアトリーチェは全身に深紅を纏った。頭上より注がれる、太陽の光の如き赤色――それを浴び、一層その存在感を強くする。軈て彼女の円環が輝き、その両腕が握り締められた。

 

「呪いを、恐怖を――神秘をッ!」

 

 彼女の文言と共に――周囲一帯が赤に染まる。

 暁を終えようとしていた世界が、宛ら血の如き深紅へと。それは何と表現すれば良いのか、まるで影が伸びる様だった。彼女の足元に佇む影が、周囲を呑み込むように。或いは覆い隠すように。

 呑まれた範囲は先生達を含んだ僅かな距離に過ぎない。数字で云えば精々が百メートル前後。しかし、確かにそれは世界を塗り替える行為だった。

 

「下劣な真似を――ベアトリーチェ」

 

 それを目撃した黒服が、らしくもなく感情を込めて吐き捨てる。

 

「これ、は」

「私の一部を差し出し、此処を一時的に私の【領域】としました――この場所でならば、私も全力を出せます」

「……秘めた神秘と恐怖を吐き出してまで、そうまでして私を潰したいか」

「――当然です」

 

 先生の言葉に、より深紅を濃くした彼女が答えた。時間は敵だ、少なくともベアトリーチェにとっては。動かしたカイザーコーポレーションの私兵は、確実にその数を減らし続けている。そしてその全てが掃滅された時、残る生徒は全て此処へと殺到するだろう。それでも尚、負けるつもりは毛頭ない、しかし――この先生が介入するならば別だ。

 この先生があの生徒達全てを指揮した時、自身は敗北する。

 その予感――否、確信がある。

 故に、此処で全力を出してでも、エデン条約に多少の遅れを出して尚、先生の息の根を止める必要がある。

 確実に、絶対に。

 

 先程まで伸びていた背中の枝より、幾つもの光球が出現する。その矛先を先生に向けながら、彼女は云った。

 

「さて先生――覚悟は宜しいですか?」

「……良くない、と云っても撃つだろう、あなたは」

「――当然」

 

 嘲笑う言葉と共に、一斉に深紅の線が先生目掛けて放たれる。

 銃弾に匹敵する速度を誇るそれを、ワカモは先生を担いだまま回避した。地面やビルの外壁に弾痕を残すソレ。しかし、いつまでも回避できる筈がない。次々と放たれる光線は、宛ら連射砲の如く。僅かずつワカモの衣服を裂く深紅の弾丸に、彼女は内心で悪態を吐いた。

 

「っ、させない!」

 

 余波によりダメージを追っていたセリカが、その痛みを噛み殺し銃を向ける。幾つかの弾丸がベアトリーチェの顔面を捉え、光球の勢いが削がれた。ノノミやシロコがその隙を見て攻勢に転じ、ベアトリーチェが鬱陶しいとばかりに手を払う。セリカは覚束ない足取りで立ち上がると、ワカモに視線を向けながら叫んだ。

 

「はやく先生を連れて、離脱してッ……!」

「っ!」

 

 この深紅が一体何なのかは分からない、しかし、決して良いものではないという事だけは理解出来る。この場所で戦い続ける事は危険だと、そう彼女の本能は訴えていた。

 ワカモは高速移動により口を噤んでいる先生を一瞥し、此処は彼女の言葉に従い撤退するべきだと判断。せめてこの深紅の領域から脱出するべきだと、背を見せ一気に離脱を開始した。

 しかし、もう僅かで逃れられるという場所で――見えぬ何か、障壁としか表現できない代物に阻まれた。勢い良くソレに衝突したワカモは弾かれ、先生を抱きながら目を見開く。己の弾かれた空間が撓んでいた。まるで非現実的な光景だった。

 

「ぐっ、これは……!?」

「この私が、一度捕らえた獲物を逃がすとでも!?」

 

 地面に根を張ったベアトリーチェが嘲笑うかの様にそう告げる。この領域は自身の権能を強化する側面が大きいが、動けぬ自身から逃れようとする獲物を決して逃さない為の代物でもある。

 ワカモは小さく舌打ちを零し、先生を抱きかかえたまま再び回避に専念する。

 しかし領域内には限りがあり、先程までとは異なる苛烈な攻撃、それにより逃げ場が次々と潰される。如何に俊敏であろうとも、動きを予測されてしまえば何れ被弾するのは必然。アビドスも果敢に攻勢に転じるが、この深紅の領域により強化されているのか、ベアトリーチェの外皮は明らかに数段上の強度を獲得していた。アビドスの攻撃を片手間に往なしながら、彼女は叫ぶ。

 

「往生際の悪い狐もこれまで――焼けて果てるが良いッ!」

「っ……ワカモッ!」

 

 幾つかの攻撃を回避した後、ベアトリーチェは僅かな呼吸を置き、顔面から幾つもの極光を放った。宛ら散弾の如く降り注ぐ深紅、先程放った一撃必殺の代物より規模は小さく、線は細く、射程も決して長くない。しかし、先生が当たれば即死するのは変わらず、光はワカモの進行方向へと撒き散らす形で放たれていた。

 勘付いた先生が咄嗟に口を開くも、一瞬早く極光が着弾する。瓦礫が粉砕され、溶け落ち、爆炎と蒸気が吹き上がった。その様子を見ていたアビドスの顔色が蒼褪める。

 

「ッ、先生!?」

「ははっ、漸く死んだか!?」

 

 ノノミが叫び、ベアトリーチェは歓喜の声を上げる。

 爆炎は煌々と立ち上り、ちょっとした榴弾並みの威力を誇る様に地面へと刻みつけていた。

 先生は立ち上る蒸気の中、辛うじて意識を保つ。着弾を予測した先生は、ワカモを突き飛ばし、その反動でワカモと自身を直撃コースから強引に外したのだ。しかし、無傷かと云えばそうではない。爆風に体を流され、同時に熱波によって肌が焼け、火傷に近い症状が出ていた。また、着弾した拍子に飛び散った破片が先生の頬や首筋を裂き、僅かながら出血もしている。

 しかし、直撃した事を考えれば、負傷とも云えぬ傷だった。

 

「けほっ! ゲホッ!」

『先生!』

 

 画面に張り付きながら叫ぶアロナに、先生は強張った笑みを見せる。端末を胸に抱いたまま、立ち上がった先生は目元を軽く拭う。目も、耳も、手足も無事だ。ならばまだ、戦える。

 

「先生、生きている!?」

「――大丈夫、私は、無事だよ」

 

 告げ、辺りを見渡す。

 自身を抱いていた生徒の姿が見えなかった。

 

「ワカモは――」

「申し訳ありません、あなた様」

 

 呟きと同時、蒸気を裂く様にして現れた人影。ワカモは罅割れた仮面の奥から金色の瞳を覗かせ、額から流れる血を強引に拭い払った。そして先生の頬や頸元に刻まれた切傷に手を当て、その表情を悲痛なものに変える。

 

「御身に傷を――」

「気にしないで、掠り傷さ」

 

 先生はそう云って笑った。実際、直撃した場合を考えれば本当に掠り傷程度のものなのだから。

 

「ふん、運の良い、しかしそう何度も――」

 

 ベアトリーチェがそう口にし、再び深紅の光球を生み出した所で――空を覆う天蓋を突き破って、人影が落ちて来た。影は二つ、それぞれ地面の上を転がりながら着地した両名は、素早く周囲を見渡し、先生とアビドスの皆を見つけ、破顔する。

 ベアトリーチェはその影を警戒し、光球を消し防御の姿勢を見せた。

 

「ホシノ! アヤネッ!」

「――やっほ、先生」

「お、遅れましたッ!」

 

 陰の正体は、ホシノとアヤネ。恐らく治療を終え、あのビルから飛び降りて来たのだろう。この天蓋がどの程度の強度を持つかは分からないが、大した度胸だと先生は内心で舌を巻く。着地の瞬間に砂に塗れた二人、そんな彼女達の元に駆け寄りながら、先生はホシノの頬に手を添えて矢継ぎ早に問いかけた。

 

「ホシノ、大丈夫? 痛みはない?」

「……うへ、ただ痺れただけだよー、アヤネちゃんのお陰でバッチリ……それに――」

 

 ふっと、ホシノの表情が悲しみを帯びる。ホシノの指先は、血と砂の付着した先生の頬をなぞった。その表情には様々な感情が込められていた。それは感謝であったり、後悔であったり、歓喜であったり、悲しみであったり――それらを呑み込み、ホシノは僅かに震えた声で告げる。

 

「――先生の方が、ボロボロじゃん」

「はは、それはアビドスの皆も同じだ」

 

 先生がそう云えば、ホシノを見つめる対策委員会、全員が笑う。彼女はその事に肩を竦めると、先生の傍に侍る和服の少女――ワカモを見た。

 

「ワカモ、だよね」

「……えぇ」

「先生の事、お願い」

 

 割れた仮面の奥、ワカモとホシノの視線が交錯する。少し前に、同じような事があった。けれど受ける印象は全く異なっていた。ワカモは仮面の下でふっと口元を緩めると、目を伏せながら強く断言する。

 

「――当然、命に代えても」

「……うへ、やっぱり私と同じか、なら安心」

 

 へらっとした、いつも通りの笑みを浮べたホシノは、担いでいた愛銃を抱え直し、背を向ける。

 

「あの時の言葉さ――」

「………?」

 

「助かったよ、目が覚めた」

 

 声は、ワカモにだけ向けられていた。

 その意味が分かるのは、彼女だけで良い。

 憂いはない、迷いもない、アヤネと共にアビドスと合流したホシノは緩んだ口元をそのままに告げる。ベアトリーチェを警戒しながら、アビドスはホシノの到着を待っていた。

 

「さぁて……漸くアビドスフルメンバーだねぇ、皆?」

 

 そう軽口を叩くと、鼻を鳴らして瓦礫を蹴飛ばしたセリカを筆頭に、次々と声が掛かる。

 

「はん、ホシノ先輩があんな書置き残して消えるからでしょ?」

「せ、セリカちゃん……」

「ん、次行くときは声を掛けて欲しい、こっちにも準備がある」

「あはは、それって結局ホシノ先輩は渡さないって事ですよね」

 

 彼女達は言葉に反し、皆が笑っていた。負の感情など微塵も見えぬ、希望に満ちた顔だった。

 信頼を感じた。友愛を感じた。絆を感じた。

 彼女達の言葉には、嘘など一つもなかった。

 強く、愛銃を握り締める。

 

「……そうだね、皆には帰ったら云いたい事、謝りたい事が山ほどあるよ――でも、今は」

 

 ――先生? ホシノが呟く。先生は頷き、タブレットを操作した。ヘイローが先生とリンクする、強い繋がりを感じる。この瞬間が、先生と共にある瞬間が、ホシノは存外好きだった。

 ベアトリーチェは合流した二人を見下ろし、鼻を鳴らす。

 警戒する価値すらなかった、よもや先生がこの展開すら予測し更なる増援を寄越したのかと思ったら――現れたのは、件のアビドスと呼ばれる自治区の木っ端生徒が二人。

 

「はっ、高々二人増えた程度で何を粋がっているのです? あなた方は態々私の領域に飛び込んで来た、飛んで火にいる夏の虫――潰す手間が増えたに過ぎないのですから」

「――うへ、それはちょっと違うと思うよ」

「何……?」

 

 ベアトリーチェの言葉に、ホシノは否定を返す。生徒(子ども)に口答えされたという事実に、ベアトリーチェの纏う雰囲気が変わった。ホシノはそんなベアトリーチェの怒気に欠片も注意を払う事無く、目を伏せ呟く。

 

「……やっと分かったんだ、こんなおじさんにも――私にも、一緒に歩いて行ける仲間が居るって事に」

 

 身を擲って、助けてくれる仲間が居る事に。

 

 愛銃を手に、ホシノは踏み出す。左右には頼りになる仲間達、背中には守るべき大切な人。シチュエーションとしては――完璧だ。

 

「私は……アビドス対策委員会」

 

 呟いた言葉を、ゆっくりと噛み締める。そうだ、(ホシノ)はアビドス対策委員会。当たり前の事だった、ずっと前からそうだった事だ。何を今更当然の事をと、そう思うかもしれない――けれど、そうじゃない、そうじゃなかったのだ。

 少なくとも過去の(ホシノ)は、心の底では、本当の意味で一員じゃなかった。

 

 ホシノのヘイローが輝く。

 先生のタブレットが輝く。

 紡がれた絆が、より彼女を強くする。

 

「私達は……アビドス対策委員会!」

 

 そうだ、セリカを救出する時に思った事だった。私は馬鹿だ、ホシノは想う。大馬鹿者だと、そう想う。

 (ホシノ)がセリカを案じた様に、皆がセリカを案じた様に――皆もまた、(ホシノ)を大切に想ってくれているのだ。

 それを知っておきながら、理解しておきながら、想いに蓋をして、感情に顔を背けて、これが一番現実的だから、自分にはどうしようもない事だからって――背を向けて諦めようとした。

 だって――それが一番、楽だから(もう喪いたくないから)

 

 でも、そうじゃないんだ。独りよがりな想いに浸る必要なんて、最初からなかった。

 (ホシノ)ひとりで全てをどうにかする必要なんてなかった。

 (ホシノ)ひとりじゃ救えない、助けられない、手の届かない場所。

 両手一杯に握り締めても取りこぼしてしまいそうな未来、私の小さな手では掴み切れない、大きな大きな奇跡(明日)

 そんな夢物語(ユメ先輩の語った未来)に、そんな明日(共に迎えたかった過ぎ去りし日)に。

 

 ――対策委員会の仲間(アビドスと先生)と一緒なら、届く。

 

 アビドス対策委員会が五人、並び立つ。

 血塗れて、砂に塗れて、不格好だけれど――笑みを浮べて。

 傷だらけでも、どれだけ強大な敵が相手でも、仲間が居て、先生が一緒なら――きっと乗り越えられると(奇跡だって起こせると)信じている。

 

 ――私は、アビドス対策委員会。

 

 ――私達は、アビドス対策委員会。

 

 私は、私達は。

 

「私達は――誰が欠けても駄目(皆でひとつ)なんだッ!」

 

 拳を突き上げ、叫ぶ。

 信頼を込めて、叫ぶ。

 唯一無二の仲間へ。

 大切な先生へ。

 

「先生ッ――!」

「あぁッ……!」

 

 応えるとも、その声に。

 先生は同じようにタブレットを空へと掲げ、宣言した。

 彼女達と共に戦う、その意思表示を。

 だって。

 

「――アビドス対策委員会、出撃ッ!」

「おーッ!」

 

 今なら、星にだって手が届きそうなんだ。

 


 

 ホシノのこの展開は、生徒を信頼し、生徒を愛し、それでも尚、生徒を顧みない先生に対するアンチテーゼなんです。ひとり(先生だけ)じゃ駄目なんです、アビドス(先生と生徒)は皆で一つなんです。これ(アビドス編)は、愛に気付き、共に星へと手を伸ばす話なんですよ。

 でも最後まで一人で、ずっと手を伸ばし続ける姿も素敵だよ先生。そんなあなただから私は手足を捥いであげたいんだ。

 

 やっと此処まで来る事が出来たよ……。長かった、長かったよ先生、レベル二十の新任先生だった私は、もう七十にまで育ってしまった。二ヶ月と十日、長い様で短かった……。

 次回――先生が遂に大人のカードを切ります。そして負傷します。この瞬間とエデン条約を書きたくて、私は今まで突っ走って来たのだからね。

 

 記憶持ちと感情持ちの話は純愛文と感想欄で色々ブッパしたと思うんですけれど、記憶持ちの傍にいると感情持ちが出来るって話したじゃないですか。世界線を越えた影響で、記憶を引き継いだ人間の傍にいると、キヴォトス動乱が近づくにつれ「何となく嫌な予感がする」とか、「先生に対して妙な興味、好意を抱いてしまう」って。それを総じて私は感情持ちと呼称していますが……。

 じゃあ、記憶どころか魂ごと此方に持ち越したクロコと接触した場合、どうなるの? って話ですよね。

 記憶を持ち越しただけで親しい人物に感情が付与されるのなら、魂を持ち込んだ人物と親しい人物はどうなってしまうのか? ましてや同じ存在であるシロコに影響はないのか? 更にシロコと親しいアビドス対策委員会に影響はないのか? ない訳がないんですよ。生徒にも、彼女と契約し、仮初とは云え共に在るゲマトリアにも。

 

 そして残念ながら私の我慢が限界に達しそうなので此処で先生モギモギ値を発散します。

 昨日色々先生を動かして遊んでいたんですけれど、その内に何となく、「キヴォトス動乱で先生が死亡した後の世界に、本編の先生ぶち込みたいな~」って思ったんですよ。過去に跳躍した筈なのに、気付けば飛ばされた場所は未来で、しかも荒廃したキヴォトスに真っ白なシャーレの制服を着てぽつんと一人。「え、あれ……」って戸惑って、何が何だか分からない様子で周囲を見渡し、そこで丁度歩哨に出ていた生徒と出会うんですよ。

 

 ゲヘナでもトリニティでも、アビドスでもミレニアムでも誰でも良いです、絶対皆凄い顔してくれるから。そーだなー、誰にしようかな~。ヒナちゃんにしようかなぁ、ヒナちゃんならメンタルよわよわだから、絶対目の下にデカい隈をこさえて、今にも死んでしまいそうな足取りで銃を引き摺りながらふらふら歩いていると思う。

 

 それともC&Cのネル先輩とかでも良いな。多分、いつも溌剌として強気で、どこか威圧的な風貌をしていた彼女が、意気消沈してどこかやつれた様に俯いていて、けれど先生を見た途端、その伏せていた瞳が見開かれて、両手に垂らした銃をそのままに口を何度か開閉させ、多分徐に自分を全力で殴りつけると思う。

 その事に驚いた先生が、「ちょ、何してるのネル!?」って駆け寄って、真っ赤に腫れた頬に手を当てて。その当てられた手の温もりに、確かに生きた、血の通った先生で、自分の心の弱さが見せる幻でも何でもないと実感して、表情を動かせぬまま涙を一筋流すんだ。その事に戸惑った先生が、「ネル……?」って心配そうに呟くと、「は、はは……」ってネルが引き攣った笑みを零して、先生の袖を強く、強く掴んで、その肩に額を押し付けて、「なん、だよ……やっぱ、生きてんじゃ、ねぇか……ッ!」って腹の底から絞り出したような声で呟くんだ。そのまま強く、絶対に放してやらないって程の力で抱きしめられて、先生は戸惑ったまま何かを問い掛けようとして、けれど鬼気迫る彼女の雰囲気に何も言えず、ただじっと彼女の髪を撫で続けて欲しい。「私は、信じてなんか、いなかったぞ」とか、「おせぇよばか」とか、「何してたんだよ」とか、「寂しかったんだぞ」とか、本音と虚勢の混じった言葉に頷きながら、きっと崩れ落ちた街の一角で、素晴らしい再会を果たしてくれるだろう。

 

 まぁ多分このストーリーだとそれぞれ、どこの学園に拾われるかでガラっとその後の展開は変わるし、何処に拾われてもその学園は先生を死に物狂いで守ろうとするし、拾えなかった学園は文字通り捨て身で先生奪還作戦を敢行するだろうから平和な未来が微塵も見えないゾ。

 自分が死んで暫く、漸く『奇跡的に』表面的な小競り合いにまで落ち着いたキヴォトスに、また先生という火種が放り込まれ戦争が勃発する訳ですね。こいつ戦争しか起こさねぇな。何が何だか分からない内に生徒達に囲い込まれ、気付けば学園同士、生徒同士が自分を巡って殺し合いを始める訳です。先生からすると正に地獄以上の光景でしょう。尚、この世界線は新約を超えてしまっているので、シッテムの箱とアロナは存在しません。この世界線に投入されてしまった時点で先生の持つタブレットは、ただの高性能なタブレットに変質しています。ゲマトリアは恐らく全滅しているので、心置きなく生徒達で戦争が出来ます、うぅ、生徒達が可哀そう……やっぱり先生のせいでは???

 

 目の前で一度先生を喪っている生徒達の前で、もう一回生徒を庇って四肢捥いであげてぇ~ッ! 一度失ったからこそ、もう二度と、絶対に先生を放したくないと、死に物狂いで守ろうとする生徒と。もう二度と会えないと、絶対に手の届かない所まで行ってしまったと思っていた先生にもう一度逢えて、それをこれ見よがしに独占する学園に敵意と憎悪と嫉妬と羨望を抱く生徒の骨肉の争いを先生に見せてあげてぇ~ッ!

 その板挟みにあいながら戦争を止めようと奔走して、けれどアロナもシッテムの箱もない先生には何も出来なくて。言葉で争いを止める事の難しさと、力なき者の無力感に咽び泣きながら、必死に足掻く先生の姿を見てぇ~!

 

 血塗れになりながら撃ち合いをして、ヘイローを破壊する勢いで攻撃する生徒に叫びながら射線に飛び込んで、手足千切れ飛ぶ先生の姿とかもう百点満点中五千兆点。その光景を見た生徒はもれなく全員発狂するぞ。

 絶叫とか、蒼褪めるとか、そういうレベルじゃない、発狂。何せ先生を一度失って、その上で奇跡的に掴んだチャンスをまた失う訳ですからね。先生を喪う痛みを知らずに受けた喪失感と、その痛みを一度知ったからこそ恐怖し、涙し、不安に想いながらも食らう二度目の喪失は、文字通り精神をぐちゃぐちゃのどろどろにするゾ! あ~、愛を感じちゃう……。

 あかん、放っておくと未来へ飛んだ先生を見つけた時の闇落ち寸前生徒全員ver書いちゃいそう……。イズナとかユウカとかホシノとかアコとかサオリとかアルとかムツキとかカヨコとか、もう書きたいキャラ多すぎてヤバいの、下手するとこれだけで十万字とか行きそうなの。私のリビドーが先生で手足が捥げちゃうの……うぅ、先生、こころを落ち着かせるためにちょっと手足捥ぐね……。

 

 うぉぉぉおお、カヨコ、カヨコ~! 目の前で先生を喪った衝撃で、全部が全部嫌になって、けれど大切な便利屋の皆まで失うのは絶対に嫌だって、神経質な位に準備に準備を重ねて、便利屋以外の全てを仮想敵と考えて毎日悪夢に魘されながら、仲間に心配されながら隈をこさえて、「大丈夫だよ」って虚勢を張って生きているカヨコの前に、何も知らない呆然とした先生を出現させてあげてぇ~ッ!

 最初は自分の幻覚だ、夢だって思って、何度も頬を抓ったり、叩いて見たり、目を擦ったりするんだけれど、その内先生の方から近付いて来て、先生の懐かしい香りだとか、もう二度と見る事が無かった先生の表情だとか、その背格好だとか、色んな懐かしい記憶と情報に一杯一杯になって、何かを云おうとするのに、何を云いたいのか自分でも分からなくて、ただ堪え切れない感情が涙となって幾つも幾つも零れ落ちて、赤子みたいに両手を先生に伸ばして、力一杯抱きしめて欲しいよぉ~! それで抱きしめ返されて、自分の夢だ幻だと思い込んでいた先生が本物だって気付いて、「……せんせぇ~ッ!」って彼女らしくもなく、全力で顔を歪めて泣いて欲しい……! ずっと悲しくて泣いていたのに、嬉しくて泣く事があったんだって、思い出せて良かったねカヨコォ!

 それじゃ先生、この後カヨコ庇って死んで貰うから……。あーイイ、すごくイイ、カヨコからの愛を凄く感じちゃう……。一杯涙を流してくれカヨコ、その流した涙の分だけ先生は愛を感じられるから……。

 

 



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私達の物語

誤字脱字報告!? エ駄死!!
とても感謝しております。


 

「小賢しいッ――! 子どもの青春ごっこに付き合うつもりはないぞッ!」

 

 アビドスが拳を突き上げ、叫ぶと同時、耳障りだとばかりにベアトリーチェが激昂し、その腕を勢い良く振り下ろした。先生諸共、この何も知らぬ生徒共(子ども)を磨り潰してやろうと、そんな感情が透けて見える一撃だった。

 

「ホシノッ!」

「任せて、よッ!」

 

 先生が叫び、ホシノが笑みと共に駆け出す。振り下ろされた腕は、矮躯の彼女からすれば余りにも巨大。しかし、それを前にホシノは欠片も臆せず、何の躊躇いも、迷いもなく突っ込んだ。

 ――無茶だ、不可能だ、防げる筈がない。ホシノの冷静な部分、嘗て天才と呼ばれた理性が囁く。しかし、それを飲み干し、ホシノは尚前進した。ヘイローが輝く、ホシノの瞳が輝く、無茶、無謀、そう分かっていても何故か、足は前へと進む。

 アヤネから受け取っていたシールドを展開し、前方へと翳す。防弾盾とベアトリーチェの腕が接触し、凄まじい轟音と衝撃がホシノを襲った。足元のアスファルトが砕け、びりびりと手足が痺れる。骨が軋むのが分かった、全身の筋肉が悲鳴を上げるのが分かった。

 けれど――今の(ホシノ)なら、出来る。

 その確信がある。

 

 薙ぎ払い、防いだ盾諸共吹き飛ばす算段であったベアトリーチェは――しかし、両の足で確りと地面に立ち、不敵に笑いながらも腕を受け止めて見せたホシノに愕然とした声を漏らす。

 

「馬鹿な……ッ!?」

「うへ……っ! これは思った以上に――先生のお陰でおじさん、強くなっているみたいだねェッ!」

 

 受け止めた丸太の如き腕を強引に払い、その顔面目掛けて愛銃を乱射する。散弾では大した威力にはならない、その表面を削れるかも怪しい。しかし、鬱陶しい事に変わりない。背中の枝より放たれる深紅の弾丸を捌きながら、ホシノは叫んだ。

 

「私が耐えている間に攻撃してっ!」

「了解!」

「任せてッ!」

 

 ホシノをトップとし、綺麗に布陣したアビドスが攻撃を開始する。シロコのドローンが顔面目掛けて弾頭を発射し、次々と爆発を巻き起こす。セリカ、ノノミの両名は、兎に角ダメージを積み重ねる事に集中し、アヤネはドローンを操りながら片手で援護射撃を敢行する。先生のタブレットが青白い光を強くする度に、アビドスのヘイローもまた、その輝きを強める。彼女達の秘めたる神秘はその強度を飛躍的に向上させ、放たれる弾丸はベアトリーチェの肉体を確かに穿った。

 

「ぐっ、私の、外皮がッ!? 神秘の密度が跳ね上がって……!? 一体、これは――!」

 

 ベアトリーチェは先程とは比べ物にならぬ程、神秘を内包した弾丸に戸惑いの声を漏らす。先程まで辛うじて外皮を削っていたに過ぎない弾丸は、その外皮を貫通し、内包した本体を穿つ勢いであった。ベアトリーチェは深紅を纏い、辛うじて自身に叩きつけられる神秘の雨を防ぎながら、ふと先生に顔を向ける。

 生徒のヘイローの輝き、そして先生の持つ端末の輝き。青白い光を放つそれを、ベアトリーチェは憎悪の視線で射貫いた。

 方法など分からない、原理など到底理解出来ない――しかし、あの光が生徒(子ども)を強く、導いている事だけは理解出来た。

 

「そうまでッ、私を否定するのか先生……っ!?」

 

 先生から放たれる青白い光は、徐々にベアトリーチェの深紅を呑み込んでいった。

 紅から、蒼穹の如く透き通る世界に。宛ら永久に広がる水面、無色と蒼が広がる空間。

 ベアトリーチェの内包する世界が、塗り替えられる。

 彼女の視界に、何処までも広がる水面と蒼穹、そして朽ち果てた教室の一室が浮かんだ。それは幻覚にすぎない――しかし、確かに垣間見た、『先生の世界』だった。ベアトリーチェを睨みつける先生が鼻から流れる血を拭い、叫ぶ。

 

「これは、決して私だけの力じゃない! アビドスの、対策委員会の、私の生徒達が生み出した――想いの力だッ!」

 

 先生の叫びと共に、幾つもの弾丸がベアトリーチェへと着弾する。両腕で顔面を庇った彼女の腕に、その弾痕が刻まれる。思わず呻きが漏れた。最早、外皮のみで防げる威力ではなかった。弾丸に込められた神秘が、一分、一秒毎に強く、強靭になっていく。

 こんなものは知らない――こんな理解出来ない代物を、ベアトリーチェは感じた事がない。

 

「委員長を唆して、何をしようとしていたのか知らないけれどッ! 私達、対策委員会を、舐めんじゃないわよッ!」 

 

 セリカの弾丸がベアトリーチェの腕を穿ち、その弾痕から深紅の光が漏れ出る。

 

「誰が欠けても、それはもうアビドス対策委員会ではないんです! 私達、全員でアビドスなんですッ――そうでしょう!? ホシノ先輩ッ!」

 

 ノノミの掃射がベアトリーチェの根元を揺るがし、その巨躯が揺れる。

 

「私は、委員長を、先生を、皆を助けるために此処に居るッ! それだけは、ずっと変わらないッ!」

 

 ドローンとの連携を前提に立ち回るシロコの弾頭が、ベアトリーチェの顔面を弾いた。

 

「誰かを見捨てるなんて、そんなの――お断りですッ!」

 

 アヤネの銃撃が、ベアトリーチェの花弁を汚す。

 セリカが、ノノミが、シロコが、アヤネが、その想いを胸に立ち向かう。強大な敵に、決して怯むことなく、真正面から。放たれる弾丸、勇気と希望に満ちた視線、それらを前にベアトリーチェは酷く動揺していた。確かに先生は強大な存在だった、それは認めよう。だが故にこそ、その芽を摘む為に此処まで出向いた、先生がその地位を盤石にする前に、生徒と絆を育む前に。

 

 だというのに――自分は今、育ち切ってすらいない生徒(子ども)に敗北を喫そうとしている。

 それは、到底認められない『現実』だった。

 

「何故だ、何故――」

 

 擦り切れ、挫けそうになった彼女を最後に支えたのは――矜持(プライド)

 彼女の持つ絶対不変の特性が、その気圧されかけた精神に喝を入れる。

 僅かに溜めた深紅を衝撃波として飛ばし、周囲の生徒を瓦礫諸共吹き飛ばす。砂に塗れ、地面を転がって尚立ち上がる彼女達には、精々が時間稼ぎ程度の意味しかない。しかし、その一呼吸がベアトリーチェにとっては肝要だった。その両腕をアスファルトへと叩きつけ、彼女は全力で先生に叫ぶ。

 

「何故あなたは理解しない、先生ッ!?」

「ッ!?」

 

 放たれた衝撃波、その余波に顔を覆いながら、先生は咆哮するベアトリーチェを睨みつける。その瞳には変わらず、希望の光が籠っていた。

 

「あなたには崇高の価値が分かるはずだッ! 繰り返してきたのだろう!? 結末を知っているのだろう!? ならば、ならば全ての生徒を審判し、救済する事を是とした、こんなッ、絶対的な力を有すあなたならばッ……!」

「――私はッ!」

 

 ベアトリーチェの叫びに被せ、先生は吼える。

 

「私は、審判者ではない! 救済者でもない! 絶対者ですらない! 善悪も、苦痛も、罪悪も、私は消す事など出来ないッ!」

「ならっ……なら何故そこに立つ!? この箱舟を、キヴォトスを知って尚! セフィロトの樹を排し、クリフォトの樹をも排し、新約に至って何を望む!? 子供たちのラビよ! あなたの存在理由は何だ!? あなたは全てを終える暁に一体何を望むというのだッ!?」

 

 叩きつけた両腕が地を揺らし、虚空に生まれた深紅の球体が一斉に降り注いだ。その悉くをホシノは防弾盾で撃ち落とし、届かぬ代物は散弾で打ち消す。その合間を走り抜けるようにして潜ったセリカが、ベアトリーチェの顔面に弾丸を撃ち込み、その花弁に焦げ跡を残す。

 

「ぐゥッ……! 理解しているのならば、分かるだろう!? そうだとも、私達ゲマトリアを排し、あなたは世界を救う! あなたの云う生徒を救う! しかし、その果てに――あなた自身は救われないッ!」

 

 ベアトリーチェの咲いた花弁、その白い葉に揃った眼球が一斉に先生を見る。

 その瞳に映った自分自身を、先生は目を逸らす事無く――真っ直ぐ見つめ返した。

 理解していない筈がない、知らない筈がない、他ならぬ彼自身が。

 

「分かり切っている結末だ、予測出来る結末だ! ましてやあなたはそれを知って、理解し、体験したッ! ――あなたが世界を救っても、世界はあなたを救わないッ!」

 

 そうだとも、ベアトリーチェは語る。

 あの銀狼が語った内容を信じるのであれば、この先生は、意識的か無意識的かは別に、世界を繰り返して来たのだと云う。それが何度続いた事なのか、そして何故そんな事をしているのか、ベアトリーチェは知らぬ。知ろうともせぬ。

 しかし、銀狼の迎えた世界の結末だけは理解していた。

『この』先生ならば、成程、確かに世界を救うだろう。好悪の感情は別として、まさしくこの人間は救世の器だ。認めよう、納得したとも。

 

 しかし――世界は救えても、その果てに彼自身は救われない。

 

「――だと云うのにッ!?」

 

 深紅を爆発させ、未だ攻勢を続けるアビドスを振り払いながら、ベアトリーチェは叫んだ。彼は大人だ、大人なのだ、大人には世界を救う責務がある。しかしそれは、『自身が崇高に至る前提』で語られる事だ。自分自身を対価とした救世など――!

 その想いと共に先生を睨みつければ、彼は何処までも凪いだ水面の如く、静かで、穏やかで、しかし強い意志を秘めた瞳で以て口を開いた。

 

「私は救いを求めない――私は救われようとも思わない」

 

 口にし、その言葉の輪郭をなぞる。

 その口調は淡々としていた。しかし、ベアトリーチェの感じるもの以上の、苛烈な意思と覚悟が秘められていた。先生は彼女の口にしている『事実』など、疾うの昔に噛み締めている。理解しているとも、この身で嫌という程味わった。

 しかし、それでも尚。

 

「私はただ、忘れられ、苦しむ生徒達に寄り添いたいだけだ――!」

 

 このキヴォトスで生きる生徒達を、教え導き、その苦しみを分かち合い、共に泣き、共に笑い、共に過ごす。先生が望むのはただ、それだけ。

 生徒の善悪も、苦痛も、罪悪も、先生は消す事が出来ない、自身でそう口にしたように、それは紛れもない事実だ。何も持たぬ、人間である己の出来る事など高が知れている。

 だから――己自身の救済は要らない、救いは求めない。

 生徒に寄り添う事しか出来ぬ自身に、何故救いなど求められよう?

 その果てに待つものが自身の破滅であったとしても、孤独な世界であったとしても。

 生徒の手を取り、寄り添った時間が消える訳ではない。その事実を胸に、自分は、きっと待ち続ける事が出来る。

 どれだけ永い時間であろうとも、どれだけ寂しい世界だろうとも。

 この身は何処までも――彼女達の為に。

 先生の苛烈な意思の籠った眼光が、ベアトリーチェを正面から貫いた。

 

「ただそれだけ……ただそれだけだッ!」

「それがッ――救世主(メシア)の資格という事か……ッ!?」

 

 ベアトリーチェが両手を掲げ、叫ぶ。

 それは祈りに似ていた、告解に似ていた。しかし、彼女自身はそれを決して認めないだろう。ただ両手を天に捧げ、遥か遠くの星を掴むように手を伸ばす彼女は、その瞳に羨望と切望を宿し、吐息を漏らす。

 

「救済を経て尚、崇高に手を、これが聖人、何て、何て……――あぁ、あのベツレヘムの星を観測した時に、私が、私達が……!」

 

 或いは、あの星を掴む事が叶っていれば――。

 あなた(先生)は、偽りの者であっても愛したのか?

 

「いいえ――いいえッ!」

 

 想い、ベアトリーチェは(かぶり)を振る。

 そんなイフ(もしも)の話をして何になる? 意味など無い、ありはしない。現実はこうして対峙し、互いの主義主張を張り合っている。例えどれ程の未練があろうとも、後悔があろうとも――彼女は止まらない、止まれない。

 それは、ずっと前(子どもの頃)から決まっていた事だから。

 

「――完遂はあり得ない! 私は、私の計画を全うする、慈悲など要らぬ! 呪いを、恐怖を、神秘を! その果てに崇高に至り、我が最果ての願いを!」

 

 ベアトリーチェが気炎を上げ、深く、沈み込む様な深紅を纏う。巨大な光球となったそれは花弁へと集い、幾つもの極光を先生目掛けて放った。ホシノが射線上に割り込み、その極光を神秘の宿った防弾盾で受け止める。火花と蒸気が吹き上げ、飛び散った深紅が空間を彩る。

 熱波と風圧に目を細めながらも、先生は叫ぶ。

 

「絶対に、止めて見せるッ……何が何でもッ!」

「止めるなどとッ! 殺すと云いなさい、人間ッ!」

「あぁそうだ! 私は人間だッ! ちっぽけな人間なんだ!」

 

 溶け落ちた盾を、ホシノは投げ捨てた。そのままアビドスと共にベアトリーチェへと肉薄し、決死の近距離戦を挑む。

 己は人間だ、ちっぽけな人間だ――そんな事は自分が一番良く理解している。彼女達と共に戦う力はなく、資格はなく、神秘すら内包せぬこの肉体。どれだけ欲し、希っても、それだけは手にする事が叶わない。その苦しみを、苦悩を、この身はいつまでも忘れずにいる。

 

 これの何処が救世の器か、聖人か? こんな矮小な人間が、生徒の善悪も、生徒の苦痛も、生徒の罪悪も消す事が出来ぬ、寄り添う事しか叶わぬ存在が――そんな大層な者の筈がない。

 

 けれど――それが生徒に背を向ける理由にはならないのだ。 

 

 人間らしく、大人らしく、何より先生らしく在れ。出来ないのなら、出来ないなりに。生まれ持った全てを費やし、捧げ。私は、ひとつの人間として――彼女達と向き合うと決めた。

 

「人が誰かに縋らなければ生きて行けないというのなら、私は彼女達の灯となろう! 寄り樹となろう! けれどいつか、きっと、気が遠くなる程の時間を経て――彼女達は、自身の足で歩いて行くと信じている!」

 

 嘗ての己がそうしたように。

 そう願ったように。

 そう信じた様に。

 どれだけの時間を掛けても良い。彼女達ならば、いずれ立ち上がり、自分達のその足で歩いて行けると――心の底から信じている。

 

 それは光の発露だった。未だ名もない小さな光(生徒)を信じ、想いを託す大人の姿だった。世界を救うというのならば是非もなし、先生はそれを為そう、何も持たぬこの身で。彼女達に寄り添う事で。

 その身を凝視し、その在り方を、ベアトリーチェは歪んだ表情と共に認めた。

 

「それが……っ! それが、幼年期の終わりだと、あなたはそう云うか!?」

「そうだ、この世界は――キヴォトスは神秘の転炉などではないッ! 未だ小さき名もなき光(義なる者)が育まれる、エデンの園に至る道だッ! 私と彼女の想い描いた、天幕に至る道筋だッ――!」

 

 そうとも、先生は叫びと共に歯を食いしばる。

 このキヴォトスは契約だの儀式だの、そんな代物を行う為に用意された場所ではない。この場所は生徒達(子ども)が学び、成長し、大人になるまで見守られる為の箱舟だ。軈てエデンの園に至る為の道――其処に、神秘の転炉等と云う道は存在しない。

 踏み出し、先生はタブレットを掲げる。

 天に向けられたシッテムの箱に、強い光が灯る。それは宛ら星の如く、人が羨む眩きを誇る。先生の瞳が輝き、その光にベアトリーチェは一瞬でも魅入られた己を恥じた。

 

「――それを、お前達(ゲマトリア)などに邪魔されてっ、たまるかァッ!」

「こ、のォッ……!」

 

 先生の叫びと共に一層タブレットが輝きを増す。蒼穹が世界を塗り替える、ベアトリーチェという存在を上書きする。何処までも清々しく、清廉なる世界。それは生徒を慈しみ、見守り、寄り添う為の世界だ。

 ベアトリーチェの許容できぬ、『子どもの為の世界』だった。

 

「そんな綺麗ごとをッ、大人の、あなたがァッ!」

 

 認められぬ。

 認められぬ。

 認められぬ!

 認められる筈がないッ!

 

 子ども(生徒)は、搾取されるべきなのだ。世界を動かし、支配し、管理するのは大人でなければならぬのだ。来たる色彩を退ける為に、その為に費やされる犠牲は小義に過ぎない。大局を見ろ、全てを救うなど土台無理な話――ならば最小限の犠牲で、最大限の利益を生むのが大人の義務だ。

 だからこそ子どもは従わなければならない、大人に、ゲマトリアに――私達に!

 

 子ども(生徒)に世界は、救えないのだから!

 

「まだ倒れないのッ!?」

「ま、ずッ……――!?」

 

 もう既に、何発銃弾を撃ち込んだかも分からなかった。ベアトリーチェの外皮は剥がれ落ち、内包した恐怖と神秘が深紅として漏れ出している。だと云うのに彼女は未だ倒れず、その威圧感を微塵も揺らがせていない。

 その異様なタフネスに、さしものアビドスも驚愕を見せた。そして、その一瞬の隙をベアトリーチェは見逃さない。

 足の止まったホシノに狙いを定め、幾つもの光球を射出させた。両腕と背中の枝群から放たれるそれは、無数の雨となってホシノを襲う。両腕を交差させ、深紅の弾丸に身を撃たれたホシノは弾き飛ばされ、砂塵と共に後方へと転がった。

 

「ッ、ホシノ先ぱっ、きゃあァッ!?」

「アヤネ!?」

 

 ホシノ被弾に気を取られたアヤネもまた、薙ぎ払う様に放たれた腕に巻き込まれ、瓦礫の山へと吹き飛ばされた。轟音と共に着弾した彼女は、愛銃を握り締めながらも衝撃と痛みに顔を顰め、意識を一瞬混濁させる。

 

「シロコ先輩、アヤネをッ! 私はホシノ先輩を見るからッ!」

「っ、分かった! ノノミ、援護を!」

「分かりましたッ!」

 

 シロコ、セリカ両名が一度下がり、ノノミが単独でベアトリーチェに挑む。しかし、彼女の攻撃は確かに強力ではあるものの、単独で出来る攻勢など高が知れている。ベアトリーチェの目が先生を射貫き、数多の深紅が先生に牙を剥いた。

 

「あぁアァァアアッ!」

「ッ――!」

「あなた様っ、御下がりをッ!」

 

 放たれた弾丸、その悉くをワカモが撃ち落とす。銃撃と銃剣、それを駆使して飛来する紅の軌跡を捌く彼女は、まるで舞う如く。目前で火花と深紅が交差し、それは酷く幻想的な光景だった。その様子を背後から固唾を飲んで見守る先生は、シッテムの箱を強く抱きしめ――ただ、前だけを見据える。

 

「――楽園がっ、事実、存在するならばッ、何故……何故、私達は救われない!? 楽園が在り! 楽園を信じ続けるのならばッ! 崇高は何を望む!? 何を想う!?」

「救いを望まぬといったその口で、憐れみを求めるのか!?」

「私達は真理を求めているだけだ! 例え罪人であっても、偽りの者であっても、真理に立つ者を見上げ、手を伸ばし続けているだけの……ッ!」

 

 深紅の弾丸を放ち、手を伸ばしながらベアトリーチェは叫ぶ。

 その声には、確かな願いがあった。彼女の底に眠る本質、その発露。傲慢で高慢、大人という椅子に座った彼女は、自身なりの方法で崇高に手を伸ばした。その果てに世界に救済を齎す――その責務を果たす為に。果たして、その行いは罪なのか? その願いは、悪しきものなのか?

 大義の前の小義――神の子羊(救済のための生贄)は、費えるべき小義ではないのか。

 

「――その為に、生徒を犠牲にして良い道理などある筈がないッ!」

「――犠牲なき理想を語れるのはっ、あなたが聖人だからだろうがッ!?」

 

 激昂した彼女の深紅が、より一層その色を強くした。その影響下にあった数発の光球がワカモの防御を抜け、先生に迫る。彼女を信頼し、微動だにしなかった先生はその直撃を受けた。

 肩、腕、足――恐らく来ると分かっていても、避けられなかっただろう。先生には、深紅の弾丸が残した色の軌跡(ライン)のみが映った。衝撃で肉が削げ、鮮血が噴き出し、先生の体が大きく傾く。

 

「ぐ、がァ――ッ!」

 

 制服の一部が千切れ飛び、腕章が赤に染まった、口から苦悶の声が漏れる。

 前に立つワカモが、その目を大きく見開き、蒼褪めるのが良く分かった。その手に持つ愛銃の銃口が、揺らぐ。その表情に、後悔と悲壮の念が浮かぶ。その口が、先生の名を紡ぐ。先生へと――手を伸ばす。

 

「っ!? あなた様ッ――」

「先生――ッ!?」

 

「――振り返るなァッ!」

 

 先生の被弾を見て悲鳴を上げた対策委員会と、目の前のワカモに対し、先生はあらん限りの声で叫んだ。倒れそうになる体を無理矢理堪え、思い切り地面を踏みしめる。深紅の弾丸を受け、血を流し、それでも尚、己の両足で立つ。流れ出る赤を纏い、先生はそれでも前を見続ける。純白が穢れようとも、その意思に一切の翳りはない。シッテムの箱を抱いたまま、血を払い、先生は吼える。

 

「前を、見ろッ! 私は、決して斃れないッ! 生徒達が戦う限り、私はっ、絶対に斃れなどしないッ!」

「……――っ!」

 

 信じろ、と。

 強烈な意思と信頼が、生徒達の背中を押した。

 

 それは、先生の持つ絶対の矜持。

 生徒が戦い続ける限り、挑み続ける限り、大人が、先生が先に斃れるなどあってはならない。意識が途切れる、闇に堕ちるその瞬間まで、先生は決して諦めない。その酷烈な意思と覚悟を真正面からぶつけられたワカモは、歯を軋む程に食いしばり、涙を湛えながらも前を向いた。迫り来る弾丸を防ぎ、弾き、逸らし、先生の信頼に応え続ける。強烈に沸き上がる感情を飲み下し、必死の形相で。

 瓦礫に埋もれたアヤネが、罅割れた眼鏡を投げ捨て、叫んだ。ホシノが口から血を吐き出し、鬼の形相と共に愛銃を抱え直す。シロコも、セリカも、ノノミも――先生の言葉に、歯を食いしばって応えようとした。

 誰も、余裕などありはしない。

 けれど、それでも諦める事を考えていなかった。先生の想いに、信頼に、願いに応えるために。全員が一丸となって前を進む意思を見せる。先生が中心となったそれは、強大な一つの生物の如く――。

 

 人間は、弾丸一発で死に至る。

 人は痛みに弱い。肉体的な苦痛は、精神を、意思を容易に挫く。その時、その瞬間まで絶対だった意思は、痛みや苦痛によって翻る。擦り切れ、粉々に砕かれた意思は、(こころざし)は、二度と形を取り戻す事はない。

 その筈だ。

 その筈だった。

 だと云うのに――この、目の前の人間(先生)は。

 

「何故……何故、その様な脆弱な肉体で意思を持ち続けられる……!? あなたは何故、そうも輝く!? 何故そうも子ども達を想う!? その愛は――一体何なのだ……!?」

「私はっ……先生だッ!」

 

 答えなど、最初から一つしかない。

 

「この子達の、先生なんだよッ……!」

 

 文字通り、血を吐く想いで叫ぶ。

 赤が流れ、痛みと気怠さに支配されて尚、先生は斃れず。

 想いを、信頼を、願いを胸に、ただベアトリーチェの前へと立ちはだかる。

 その瞳に、絶対不変の意思を抱いて。

 

「先生が生徒を想うのは、当たり前だろうが……! 生徒を愛し、信じ、寄り添うのはッ、当たり前の事だろうがッ……!」

 

 生徒を愛さない先生は居ない。

 生徒を信じない先生は居ない。

 生徒に寄り添わない先生は居ない。

 

 私は、先生だ。

 この子達の、先生だ。

 ただそれだけで――十分なんだ。

 

「愛する理由も、想う理由も、信じる理由も……ッ! それで、十分だろうが!?」

「――ッ!」

 

 その叫びに、ベアトリーチェの瞳が、くしゃりと歪んだ。

 何処までも深い愛、無償の愛、捧げられる善性と想い、信頼。その清らかな感情をぶつけられた時、ベアトリーチェは自分でも理解出来ぬ、強烈な感情を抱いた。手を伸ばし、尚も届かぬ――ベツレヘムの星。

 

「――……その愛をッ、何故っ――何故あなたはッ!? ほんの、欠片でもッ!」

 

 絞り出すような声だった。或いは、懇願するような声だった。

 伸ばしたくなる手を必死に留め、彼女は叫ぶ。

 

「自分をッ……自分を愛してと叫ぶのなら、あなたは誰かを愛するべきだったのだッ!」

「っ、何を――ッ!」

 

 先生の声に、ベアトリーチェは気付く。

 自身の根底に張り付いていた、浅ましい羨望に。

 

「あなたはただ、愛し――愛されたいだけだッ!」

「―――ッ!」

 

 それは、ベアトリーチェがずっと隠し続けていた願望、その本質。或いは、彼女自身自覚していなかった、生徒に羨望の目を向ける理由。それが本当かどうかなど分からない、突きつけられた時、ベアトリーチェは何を的外れなと考えた。けれどその言葉を咀嚼し、飲み下した後――酷く、安堵している自分に気付いたのだ。

 その気付きに、ベアトリーチェは思わず震え――激昂した。

 それは、自分自身に対する怒りだった。

 

「そんな、その様な、ッ、事を……っ!」

 

 それは、大人としてあってはいけない筈だ。

 それは、彼女の矜持(プライド)が許さない筈だ。

 誰かに愛を乞うなど、誰かに愛を強請るなど。

 そしてその本質を見抜かれた時、ベアトリーチェの矜持(プライド)は、罅割れた。

 

「――認められるものかァアアッ!」

 

 絶叫。そして両腕を掲げ、強烈な風を生み出す。深紅を巻き取り、吸い取り――生み出されるのは巨大な深紅の光球。有りっ丈の神秘と恐怖、権能をつぎ込んだベアトリーチェ渾身の切り札。巨大なベアトリーチェと比較して尚、大きすぎるソレは最早――もう一つの太陽。

 先生やアビドスを巻き込んで尚、有り余る消滅の力を秘めたそれを前に。

 

 先生は――赤に塗れた腕を掲げ、叫んだ。

 

「アロナァッ!」

『っ――はいッ……先生……!』

 

 叫びは、彼女に届いた。

 突き上げたその手の中に、青白い光が生まれる。

 収斂する光は軈て僅かな形を取り、その実態を晒した。

 光輝き、掲げられたそれを――ベアトリーチェは驚愕の瞳で以て迎える。

 

「っ、それ、は――ッ!」

 

 先生の手の中に在る、ほんの十数センチほどの四角形。その中に内包された莫大な神秘に、ベアトリーチェは圧倒される。どれ程の神秘が込められているのか、それを形成するのにどれ程の時間を要したのか、彼女には想像もつかない。

 ただ、それを掲げた先生は、欠片の迷いも見せず、その神秘――カードを掲げていた。

 

「……これは、私の時間、肉体、精神――あらゆる人生を削り、対価とし、【奇跡】を起こす、永遠ならざる主の救済装置(大人のカード)……!」

 

 掲げられたカードが、更に光を帯びる。

 それは全てを覆う様に、数多の未来を照らすように。輝くベアトリーチェの広げた深紅を次々と剥がし、上書きして行く。神秘を内包し、奇跡を体現するそれは文字通り【先生の代償】と共に、『救い』を齎す。ひとりでは何も出来ぬ先生が、何も持たぬ先生が、唯一自身の意思のみで執行出来る――取り返しのつかない切り札。(不可逆の奇跡)

 血に塗れた先生の瞳と、ベアトリーチェの瞳が交わる。

 

「私が具現化させるのは、この世界ではない、もう一つの結末、生徒と共に紡いだ過ぎ去りし思い出――闇に塗れ、後悔に塗れ、怒りと憎しみに支配されて尚……歩み続けた、もう一つの涙の物語(ブルー・アーカイブ)ッ!」

「やめろッ! それを使えば、あなたとて――ッ!」

 

 ベアトリーチェは思わず叫んだ。それは、保身から来た言葉ではなかった。あれ程の神秘、契約と儀式で行使するとしても、一体どれだけの代償が支払われるのか――それこそ、人間ひとりで支払える代償とはとても思えなかった。

 人生全てを費やし、漸く行使できるか否かという程の規模。

 それを先生は、単独で行使しようとしている。

 その力を人間が一人が使えばどうなる? 存在の抹消? 記憶の消去? 世界からの追放? 分からない――分からない事が、酷く恐ろしい。

 

 けれど、先生が止まる事はない。ベアトリーチェを見据えたまま、先生は強くカードを握り締める。その瞳が強く語っていた、例えどれだけの代償を払おうとも構わない、と。例えどれだけの苦難に見舞われようとも構わない、と。

 このカードは先生の人生そのものだ、先生の歩んで来た道そのものなのだ。

 先生が寄り添った生徒との記憶、過ぎ去りし思い出、費やした時間。

 

 生徒と共に辿った――道。

 

「私の歩んだ道を、生徒達の往く道を……ッ!」

 

 掲げたカードが、その輝きを最高のものへと到達させる。

 光が先生を、ワカモを、シロコを、ノノミを、ホシノを、アヤネを、セリカを、ベアトリーチェを照らす。

 両の足で立ち、奇跡(カード)を掲げる先生の姿は――まるで一つの絵画の如く、鮮烈で、勇壮で、苛烈で、ベアトリーチェは一瞬、自身の立つ場所を忘れた。それ程までに、胸を打つ光景だった。

 

 先生は唇を、強く噛み締める。その道を思い出し、振り返る様に、その苦難を顧みる為に。

 楽な道などではなかった、楽しさや歓喜と同じ分だけ、苦難と困難に塗れた道だった。

 痛みに満ち、絶望と諦観に覆われ、暗闇の続く世界。今日(こんにち)に至るまで積み重ねられたそれは、先生と云う人間の弱さの証左に他ならない。

 それでも。

 そんな世界でも。

 

「――誰にも、否定などさせないッ!」

 

 歩んで来た道がどれだけ険しく辛いものだったとしても、その苦難によって切り開かれた、この先に続く道には、希望があると信じている。

 未来ある明日へと続いていると、信じている。

 

 だから、これから綴る――この物語は(この世界は)

 

「これは――私達の物語だッ!」

 

 私は、いつもあなたと共にいる。

 そう、世の終わりまであなたと共にいます。

 


 

 召喚される生徒、誰にしようかな~……取り敢えず数はひとりに絞ります。最初からオールスター出したらエデンで阿鼻叫喚の地獄作れないし、まだまだ大人のカードを使う場面はありますので~(満面の笑み)

 敢えてクロコの世界線のアビドスを呼び出して、「みんなと会わせてあげようと思って……」って云う展開も悪くないな~、でもそれはそれで悲しくなるからなぁ。クロコには方針転換して欲しくないし、スタンスは貫いて欲しいし……。

 じゃあヒナとか? それはそれで美味しい、元の世界に戻る瞬間に、「嫌だッ! 先生と離れたくないッ! 先生! せんせいッ!」って涙目で手を伸ばす展開とかめちゃ見たいから個人的にアリよりのアリ。でも、ヒナってエデン条約でも見せ場多いし、ここで枠を使ってしまうと何だかバランスが悪い気がする……。

 

 こう、本編に絡まない訳ではないのだけれど、そこまで重要な役割でもなく、場面、場面でちょこちょこ役目がある様なキャラを呼び出したい。そして呼び出した影響で、記憶持ちでも感情持ちでもなかった筈なのに、ふと先生と談笑している時に、悲しくもない筈なのに涙が流れて、「あれ、おかしいですね……何で、涙が……?」って困惑しながらポロポロ泣いて、先生にそっと抱きしめて欲しい。

 あー! 先生が生徒を泣かせた~! 良い傾向ですね先生、その調子で頑張ってください。

 

 この本編後にさ~、大人のカード使った上に銃撃受けて弱っている先生に、予めスタンバイさせていたアリウスのヒヨリに狙撃させればさ~、手足も捥げる上に大人のカードの代償も支払わせる事が出来てさ~、一石二鳥って感じ~?

 でもヒヨリの持っている狙撃銃ってさ、アレ対物ライフルなんだよね。掠っただけで先生手足バラバラになりそうなんだけれど、どう思う? やっぱヘッドショット狙って顔面破砕した方がインパクトとしては強くない? インパクトが強くても先生が死ぬので駄目です! 強大な敵を倒して、「先生……っ!」って笑顔を向けた瞬間、対物ライフルで頭が炸裂するなんてトラウマどころじゃねぇですわ。グロイのは駄目! 死刑! 手足もぎもぎ! 手足捥ぐのはグロくないんか? まぁそう、でも捥いだ方が生徒泣いてくれるし……ちょっと我慢したくらいで愛を感じられるのなら良いかなぁって。

 

 ヒヨリはシャーレにこっそり侵入して、先生が作ったご飯を盗み食いして、ある日残業が終わって食堂に向かったら、冷蔵庫の前で先生の夜食を口いっぱいに頬張ったヒヨリがいて、先生が電気を付けてその姿が白日の下に晒されたのにも関わらず、そのまま気まずそうにもぐもぐしていて欲しい。先生を撃つのはやめろォ! せめて手足に当ててねッ! 頭は駄目だよッ!

 いや、撃たせないと云う選択肢もアリか。一飯の恩義ッ! これが情けは人の為ならず、という奴ですね。サオリィ! どう思う!? ちょっと先生のどてっぱらに穴をあけた人の意見聞きたいんですけれどォ!? あっ、本編だとイオリも居たわ! ガハハ! まだ我慢! ステイ! まだ手足を捥ぐ時ではないッ!!!

 

 ベアトリーチェに対する本質は完全に私の独自設定ですので、解釈違ったらごめんあそばせ! 子どもを支配し、抑圧するベアトリーチェの根底が、ただ崇高に至り、色彩を退け、その果てに世界を救い、敬われ、愛される未来が欲しいという結末を望んでいたのなら、それはとてもいじらしい事だと思ってこんな風にしましたわ! 愛によって生徒を動かす先生と、支配によって生徒を動かすベアトリーチェ。その在り方は水と油ですが、敵対する意思を見せるのは興味の裏返しの可能性もありますわよねぇ!

 まぁ私は主義主張をぶつけ合って殺し合う展開が好きなので、ベアトリーチェがころっと先生側に転がる事はありません。やっぱ悪役ってのは最後までその志を貫いてこそでしょう! でも敵対していた存在が主人公がピンチの時にやって来て助けてくれる展開すこここ。

 何かキヴォトス動乱で死にかけた先生の元に黒服がやって来て、「先生、あなたは、こんな場所で死ぬべき存在ではありません……」って云いながらお持ち帰りする未来が垣間見えた気がするぅ、多分幻覚だと思うんですけれどぉ。

 

 原作だと大人のカードによる代償は未だ発生していませんが、やっぱり最後にドカンと来る感じなのですかね。私もそれを見習って、エデン条約終わってキヴォトス動乱編入った辺りでドカンと先生を突き落としてあげたいね。その時の生徒の姿は……美しい。

 まぁ大人のカードで誰が呼び出されるにせよ、先生への好感度マシマシ絆100の依存、執着、先生ガチ勢が顕現するので、どちらにせよドロドロのドッロにはなりますよね。ベアトリーチェころころした後に、消えていく自分の姿に絶望しながら必死に先生に手を伸ばしてくれ。多分先生は自分の罪悪の証をまざまざと見せつけられて、酷く歪んだ表情を見せてくれる筈だから。いぇーい、先生見てる~? あなたが救えなかった世界の生徒で~す! 人の心なさそう。人を思いやる心とか……お持ちでない? そんなもの持っていたら生徒が泣いてくれないだろう!? いい加減にしろッ! 先生は愛を以て生徒を導く! 私は先生の手足を捥いで生徒の愛を摂取する! 其処になんの違いもありゃしないでしょうよ!? 

 

 次回の投稿(明後日)なんですが、最近自由時間全部このブルアカに突っ込んでいたので別な事したい欲が出てきましてよ!! 一日位投稿サボって宜しいかしら? よろしくてよ!! ありがとうございますわ!! それじゃあ私、積もりに積もった執筆依頼を解消してきますので……感想でも書いてお待ちになっていて!!



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陽はまた昇り、あなたを照らす

誤字脱字報告、ありがとうございます。


 

 先生の翳した光は、軈て人型へと収束する。

 それが何なのか、先生以外の誰も知らない。ただ周囲の皆は固唾を飲んで、その膨大な神秘が齎す奇跡を眺めているしかなかった。手を、足を、腕を、髪を、光は象る。

 

「――漸く、お会い出来ましたね……先生?」

 

 声がした、それは光の中から発せられた声だった。

 肩に羽織ったコートを靡かせ、光は色を取り戻す。それは、銀の髪を持った女性だった。小ぶりな羽に、ゲヘナの改造制服を纏う彼女は、先生へと真っ直ぐ向き合いながら足を進める。眩い程の光を放っていたそれが掻き消えれば、残ったのは先生より十センチ程身長の低い――高貴を纏う女性。

 彼女はヒールの音を響かせながら先生の目の前に立つと、その手に握っていた銃を取り落とし、そっと両手で先生の頬に触れた。

 浅く、吐息が漏れる。彼女の手に伝わる暖かな感触、冷たい、死人の肌ではない――真っ直ぐ自分を射貫く、意思の籠った先生の瞳。

 その事実を認め、彼女の口元が己の意思を無視し緩む。

 何度も、何度も、彼女の手が先生の頬を夢中で撫でた。今までの分を取り戻すように、或いは夢でない事を確認するように。

 

「うふふっ……あぁ、ふふふッ、あは――!」

 

 滲み出た笑みは、軈て哄笑へと。

 口元を吊り上げ、目を見開き――泣きながら、彼女は大声で笑った。

 

「あははハハハッ!? 本物の、本物の先生ですわッ! 何度お目に掛かっても飽きないお顔……! えぇ、えぇ! 何度も、何度も何度も何度も! 夢に見て、輪郭をなぞり、思い返したお顔ですものッ! 私が違える事などあり得ませんッ! 先生ッ! 先生!」

 

 先生の頬に触れ、唇を指先でなぞり、何度もその輪郭をなぞる彼女に見える感情は――歓喜。放っておけばそのまま先生の全身を手で触れて回りそうな様子に、しかし当の本人は動じることなく、ただ少しだけ悲しそうに、そして嬉しそうに目を細めながら口を開いた。

 

「――ハルナ」

 

 その瞬間、ピタリと目の前の女性――ハルナの動きが止まった。

 そして先生を見上げ、その表情を惚けさせる。

 

「あぁ……またその様に、名前を呼んで頂けるのですね――」

「当然だよ、どれだけの時間が過ぎても、ハルナは私の生徒なのだから」

「……その言動、正しく――ふふっ」

 

 ハルナが先生の頬に手を添えたまま、その胸元に顔を埋める。そして肺一杯に懐かしくも愛おしい人の匂いを詰め込むと、その頸筋から流れる血を指先で払いながら、ゆっくりと問いかけた。

 

「ところで、私の先生……――このお顔を流れる血は、誰の仕業ですか?」

「………」

 

 先生は答えなかった、答える必要が無かった。

 彼女は足元に転がった愛銃を爪先に引っ掛け、跳ね上げると、そのまま掴み取る。そしてゆっくりと振り向き、未だ太陽の如き深紅を掲げるベアトリーチェを一瞥した。

 

「……あぁ――また貴女ですの」

「何だ……【これ】は――?」

 

 ベアトリーチェは、何か反応を返す事が出来なかった。それ程までに目の前の――理解できない存在に、意識を奪われていた。

 それは、神秘の塊としか表現できない。

 それは、奇跡としか云いようがない。

 ゲマトリアという特殊な環境に身を置いたからこそ分かる、目の前のこの、成長した姿を見せる生徒(子ども)が内包する神秘。それは正しく、『常識外れ』と表現する他なかった。このキヴォトスに存在する生徒百人分か、千人分か、或いは万か、億か――否、それ以上の神秘を束ねて尚、上を往く程の総量。

『先生が掲げたカードが、人型となった』――表現として正しいのは、これだ。

 

 怪物。

 正しく、目の前のこの生徒は、ベアトリーチェにとって怪物そのものだった。

 

「随分とまぁ、懐かしいお顔です事……相も変わらず醜く、無様で、汚らわしい――一度見れば十分なお顔、あぁ、先生の傷はあなたが? もしそうなら、少々許せそうにありませんわね……先生、宜しくて?」

 

 愛銃を抱えたハルナが、まるで塵を見る様な目でベアトリーチェを見つめる。その瞳には何も存在しない、殺意も、敵意も、戦意も、あるのは只――苛立ちのみ。

 それは道端にある小石に躓いた時に、腹を立て蹴飛ばすような、そんな何気ない動作のひとつ。自身に視線を向けたハルナに対し、先生は一つ頷いて見せる。

 

「――頼むよ」

「……えぇ、えぇ! どうぞ私に頼って下さい、あなたのハルナに――ふふっ」

 

 先生に頼られた、その事実にハルナは久方ぶりの充足を覚える。

 先生の声が、己の名を呼ぶ度に。

 先生の指先が、己の穿つべき敵を指す度に。

 自身は今まで得られなかった、あらゆる感情を取り戻す事が出来た。

 愛銃――アイディールに神秘が籠る。

 

「さて、お相手して差し上げますわ――突き抜ける、優雅さで」

 

 髪を手で掬い上げ、払う。

 収束された深紅の太陽にも怯えず、躊躇わず。彼女は一歩を踏み出す。

 

「――と云っても、既に満身創痍の御様子、その程度の神秘しか残っていないのなら……」

「――?」

 

 呟き、足元の瓦礫を蹴飛ばすと何段か重なったそれに足を乗せた彼女は。

 両手で愛銃を握り締め、スコープ越しにベアトリーチェを見た。

 そして、冷酷にも告げる。

 

「――一発ですわ」

 

 瞬間――銃声とは思えぬ、爆音が鳴り響いた。

 それは、正に桁違いの一撃だった。

 ハルナが引き金を絞った瞬間、強烈な衝撃と閃光が走り抜け、彼女を注視していたアビドス、ワカモの体が風圧によって押し出される。まるで臓物が持ち上がる様な感覚だった、視覚、聴覚、触覚、全てに訴えかける衝撃波。

 そして放たれた弾丸は、光の線としか呼べない様な圧倒的速度、そして威力を以て――ベアトリーチェの胸元を撃ち抜く。深紅を撃ち出す余裕はなかった、そんな反応をする暇などなかった。正しく、『瞬きの間』に、ベアトリーチェは自身の肉体を穿たれていた。ベアトリーチェの肉体を貫通した弾丸が、遥か宙の向こうへと消え、雲を裂き、消し飛ばす。青白い軌跡と残滓が、唯一目視出来た弾丸の道筋だった。

 ゆっくりと自身の体を見下ろすベアトリーチェ。

 掲げた腕の先、収束していた深紅の太陽が霧散し――震える声で呟く。

 

「……ばか――な」

「――御免あそばせ」

 

 胸元には、弾丸一つが空けたとは思えぬ程、巨大な風穴が覗いていた。

 思い出したかのように、ベアトリーチェを覆っていた深紅が色を喪い、その全身が色褪せる。まるで枯れる華の如く、花弁を閉じ、項垂れたベアトリーチェはゆっくりと嘆きの言葉を吐いた。

 

「何故、どうして……私は、私の……!?」

(わたくし)にとっては役不足でしてよ――ベアトリーチェ」

 

 漏れ出る深紅が尽き果て、ベアトリーチェの姿も人型へと回帰する。僅かに残っていた領域が残滓となって消え、周囲は見覚えのある世界を取り戻した。砕け、溶け落ちたアスファルト、それのみがこの激戦を証明する傷痕。人の形を取り戻したベアトリーチェが、ゆっくりと地面の上へと放り出された。

 

「く、ぐぅッ……!」

「……終幕、ですわね」

 

 這い蹲り、唸るベアトリーチェにゆっくりとした足取りで近付くハルナ。彼女は呟き、そっとベアトリーチェの額に銃口を向ける。その瞳には変わらず、何の色も見えない。ただ冷たい感情だけが物理的な圧力を伴って、彼女を威圧していた。

 

「先生に傷をつけた事、後悔してお逝きなさい――あなたに、エデン(楽園)は似合いませんもの」

 

 告げ、その引き金に力を籠めた。ベアトリーチェは歯を噛み締め、ハルナの銃口を睨みつける。しかし、弾丸が発射される寸前、ハルナの肩に手が置かれた。見れば先生がハルナの直ぐ傍に立ち、ゆっくりと首を横に振る。

 

「ハルナ――」

「………」

 

 声は小さかったが、確かに届く。

 ハルナは数秒、目を閉じ、それから息を吐き出す。吐息には、様々な感情が混じっていた。

 引き金に掛かった指が、ゆっくりと離れる。

 

「……――相変わらずですのね、先生」

「ごめんね、でも……これが私だよ」

「えぇ、良く存じております」

 

 あなたは、優しい人(甘い人)だから。

 

 ■

 

「素晴ら、しい……素晴らしいっ! 何という、何と――!」

 

 声が漏れた。それは堪え切れぬ称賛だった。目前に広がるこの光景、先生の語って見せた信念、在り方、そして彼が切った文字通りの切り札。その存在が、先生の覚悟の顕れであり、彼の歩んだ軌跡そのものだった。

 その昏くも眩く、到底常人では到達できぬ道と在り方に、黒服は感嘆の息を吐く。

 先生がどのようにしてあのような境地に至ったのか、考察する事に意味などないだろう。先生の立つあの場所に至るまでの道は、到底合理的な道筋ではないのだから。

 或いは――狂気に等しい信頼と想いの為せる業か。恐るべきは、その性質、一点の曇りもない善の側面。人は見返りを求める物、或いは生物的な性質として無償の愛を抱く事はあるだろう。しかし、先生のソレは違う。解脱、精神的超人、悟り、それらのどれもが先生には当てはまらない。先生のそれは、『後天的』に獲得したものではない。

 彼は、生まれた時より『そう』であったのだと理解するのに、そう時間は必要なかった。

 だからこそ、その奇跡を目の当たりにした時、黒服は感動し、感嘆し、先生に対し惜しみない称賛の念を抱いた。

 

「あれは一つの到達点……完成に限りなく近い、しかしただの生徒が、どの様にしてあれ程の――よもや、先生の教えとは、導きとは、『そういう事』だと仰るのか……? 生徒(子ども)すべてを、まさか――ククッ! あぁ、先生! やはりあなたは素晴らしいッ! あなたこそ、真なる崇高の――ッ!」

「黙れ」

 

 横合いで、じっと地上の様子を凝視していた銀狼が吐き捨てる。

 まるで熱した石に水を被せる所業、その程度で黒服の熱意と歓喜は収まらなかったが、彼女の声に含まれる強烈な苛立ちと殺気に黒服は口を噤んだ。彼女は一秒たりとも先生から目を離す事無く、血走った目のまま告げる。

 

「私の先生を、崇高だなんて塵の様な言葉で呼ぶな……私の前で、二度とだ」

「――ククッ、これは、大変失礼を……少々気が高ぶってしまいました」

 

 僅かに緩んだネクタイを引き締めながら、黒服は喉奥で嗤いを噛み殺す。

 

「……先生」

 

 銀狼は、目下血に塗れながらベアトリーチェを見下ろす先生を凝視し、呟く。

 分かっていた事だった、先生がその身を削る事は。あの切り札を切る事さえ、銀狼には予想出来ていた。それを阻止する為に、自分は此処に立っている筈なのだ。

 故に、憎むべきは――それを阻止できなかった自分自身。

 ぎちりと、銀狼の拳が軋む。しかし、後悔と反省は必ず次に生きる。今回は失敗した、それを彼女は認める。

 

 だが、二度目はない。

 

 幸い一度だけならば代償は重くない。決して軽くもないが――呼び出された生徒は単独、銀狼が観測した限り先生は最大で【六人】の生徒を同時に呼び出す事が出来ていた。それを考えれば、必要となる代償も軽減される筈だと、銀狼は自身の爪を噛み思案した。

 

 ――大丈夫だ、まだ、致命的な失敗は犯していない。

 取り返しのつく範囲、先生はまだ喪っていない――銀狼はそう、自分に言い聞かせる。

 

「先生のあれは正に神秘の畢竟、ですが少々代償が気掛かりですね、余り多用はして欲しくありませんが……兎も角、私は一度戻ります――銀狼さんは如何しますか?」

「……撤退する」

 

 黒服に言葉を返し、屈んでいた状態から立ち上がる。割れたガラス破片を踏みしめながら背を向ければ、どこか意外そうな表情で彼は云った。

 

「おや、てっきりベアトリーチェの始末をつけるのかとばかり」

「必要ない」

 

 背中越しに振り向き、地上で這い蹲るベアトリーチェを一瞥した銀狼は呟いた。

 

「――あの女はもう、終わりだ(舞台装置に興味はない)

 

 声には侮蔑の感情のみが籠っていた。その事に黒服は肩を竦める。

 

「それに今、先生に挑んでも勝てない、分かっている筈」

「えぇ、とても良く、理解しましたとも」

 

 二人の視線が先生の傍に侍る――神秘(奇跡)の体現者へと向けられた。

 圧倒的な神秘を身に纏い、消耗したとは云え変貌したベアトリーチェを一撃で沈めた生徒。戦闘技術だけならば、決して負けるつもりはない。しかし、内包する神秘、地力があまりにも違い過ぎる。重戦車に拳銃で立ち向かう様なものだった。

 それに関しては黒服も同意なのか、羨望と敬意を込めた視線を件の生徒に向けながら頷いて見せる。

 

「変身も出来ない私達が挑めば、文字通り存在ごと抹消されてしまう、そんな一撃でしたね……ククッ」

 

 嗤い、黒服は虚空に手を翳す。すると何もない空間に歪みが生じ、ぽっかりと穴が空く様に光景が捻じ曲がった。ベアトリーチェが行った深紅の領域、あれに近しい神秘技術の一つ。自身の領域への一方通行だが、使い勝手は悪くなかった。

 

「では、一度帰還しましょう、こちらへ」

「ん……」

 

 促されるまま、銀狼は足を進める。そして虚空の手前で一度振り向くと、先生を取り巻くアビドス――この世界の彼女達を見つめ、呟いた。

 

「――精々限りある今を噛み締めなよ、アビドス」

 

 先生は、絶対に迎えに行くから。

 告げ、彼女は虚空の中へと消えていく。

 黒服はそんな彼女の背中を見送りながら、小さくその頸を振った。

 

「ククッ、難儀な生き方ですね、銀狼さん」

 

 それを良いとも、悪いとも黒服は口にしない。

 ただ、楽な道ではない事は確かだ。想い人と敵対しようとも、嫌われようとも、憎しみを向けられようとも。ただ相手を想い、自身の我儘だと嘯く。

 それもまた――愛。

 

「ですが、個人的に応援させて頂きますよ――彼は、ゲマトリアとして立つべき人だ(救われるべき存在だ)

 

 呟き、笑みを零しながら黒服もまた――虚空の中へと消えて行った。

 

 ■

 

「終わりだよ、ベアトリーチェ」

「ぐ、ぅ、先生……ッ!」

 

 倒れ伏したベアトリーチェを前に、先生は告げる。ベアトリーチェは手で地面を叩きながら、ゆっくりと体を起こそうとした。しかし、既に全力を尽くし、欠片も余力のない彼女は震えるばかりで立ち上がる様子はない。

 それでも尚、ベアトリーチェは先生に敵意の籠った視線を向けていた。

 

「まだ、まだです、私はまだ、事を起こしてすらいないッ……! バルバラも、アリウスも、複製能力(ミメシス)だって保持していますっ……!」

「分かっているとも――けれど、理解した筈だ」

 

 そんな彼女と視線を合わせるために、先生は屈む。そして、彼女の瞳を真っ直ぐ見据えながら断固とした口調で告げた。

 

「あなたは早期に私を潰す為に、シャーレの基盤が盤石ではない今、その身を晒してまで襲撃を選んだ……その結果、あなたは失敗し、私の生徒達に敗北したんだ」

「ッ……!」

「あなたが何を企んでいるのかを私は知っている、その上で断言しよう――あなたは、私には勝てない」

「っ、よ、良くも……ッ!」

 

 その、何処までも確信に満ちた云い方に。

 砂塵を握り締めたベアトリーチェが、犬歯を剥き出しにして唸った。

 

「良くも私にッ、その様な言葉をぉ……ッ!」

 

 向けられる憎悪と敵意、そして殺意。その視線を真正面から受けながら、先生は目を逸らさずに続ける。

 

「だからこの話はこれで終わり――そうだろう、ゴルコンダ?」

「ッ……!?」

 

「――えぇ、全く以てその通り」

 

 先生の言葉に応えたのは、低い、妙な声色。或いは、どこか機械的な口調だった。

 気付けば、ベアトリーチェの傍に首のない人影が立っていた。

 紳士然とした立ち姿に、杖を持ったコート姿の男性。彼は片腕に額縁を抱え、そこには黒い肌にシルクハットを被った人影、その後ろ姿が映し出されている。本来人の頭部が在るべき場所からは黒い靄が噴き出しており、不気味な雰囲気を纏っていた。

 その、常識外れな存在の出現に、生徒達は息を呑む。

 動揺を見せなかったのは先生と、隣に立つハルナのみ。

 彼は小さく腰を曲げると、額縁を抱えたまま告げる。

 

「挨拶は省略するとしましょう、私達は以前、お会いしていたでしょうから」

「……こっちでは、初めまして、だけれどね」

 

 先生がそう云って肩を竦めると彼は笑う様な動作を見せ、先生と向き直った。

 

「戦うつもりはないんだろう?」

「勿論、勝てる自信が微塵もありません、ご存知の通り、皆がマダムの様に怪物へと変われる訳ではありませんから」

 

 そう云って、彼は手の中にある額縁をハルナに向ける。彼女は目を細めながらも、どこか不快感を滲ませている。しかし、銃口を向ける事はなかった。先生とハルナ、そして周囲で警戒心を露にするアビドスとワカモを一瞥し、彼はベアトリーチェに言葉を投げかける。

 

「……凡そ、予想はしておりましたが、マダム、これで明らかになりました――先生はあなたの敵対者ではありません、そしてやはり、これはあなたの物語ではない」

「っ、くぅ――……!」

「やはり元からある筋書きに介入するのは美しくありませんね、それにこのようなテクストは少々、私の好みではないのです、友情と努力で苦難に打ち勝つ物語? 私の望んでいたのはもっと文学的なものだったのですが――」

「今、何と仰いまして……?」

 

 その言葉に、ハルナがぴくりと反応した。

 握り締めた愛銃のグリップが軋む。

 

「あぁ、ご気分を害してしまったのなら申し訳ありません、どうか早まらずに――私とて、崩壊の引き金は引きたくありません」

「………」

「キヴォトス動乱――この世界でも起こすおつもりですか?」

 

 瞬間、ハルナの腕が瞬いた。

 片腕で愛銃を振り抜き、彼――ゴルコンダの持つ額縁、その角ギリギリを銃撃する。微かに掠めた弾丸が彼のコートを裂き、弾丸は後方にあった瓦礫を粉砕、砂塵を巻き起こした。

 ハルナは血走った目で目の前のゲマトリアを睨みつける。

 

「二度と――……」

「………」

 

 声は、これ以上ない程の憎悪と殺意を孕んでいた。

 

「――私の前で二度と、その名称を使わないで頂けますか」

 

 尋常ではない圧力に、倒れ伏していたベアトリーチェをはじめ、周囲の生徒達も固唾を飲む。ゴルコンダはそんなハルナの感情を一身に受けながら、ゆっくりと腰を折った。

 

「……重ねて、非礼を詫びましょう――」

 

 声は、淡々としていた。怯えも、恐怖も、そこには見えない。

 ただベアトリーチェの傍に屈みこむと、その肩に手を置いた。

 

「マダム、起きて下さい、今回の実験は失敗です」

「ゴル、コンダ……!」

 

 屈んだ姿勢から先生に体を向けると、彼は告げた。

 

「それでは、失礼致します」

 

 彼の体と、ベアトリーチェの周囲、その空間が歪み始める。

 徐々に解離していく現実と空想、その狭間の中でベアトリーチェは先生を見つめていた。

 

「――……先生、確かに私は、敗北しました、業腹ですが、それは認めましょう……!」

 

 俯き、歯を軋ませる彼女は息を大きく吸い込み。

 そして最後に、彼女は先生を指差し、云った。

 

「……しかし、最後に笑うのは――私です……!」

 

 ■

 

 先生達の戦っていた戦場から、凡そ後方千五百メートル(1.5km)

 ビルの貯水槽、その下に潜り込み狙撃銃――アイデンティティを構え、スコープを覗き込む水色の髪をした生徒。

 腰に巻いた弾薬ポーチには大柄な20mm口径弾が並び、彼女は身の丈もあるその銃を指先で撫でつけながら、その口元に引き攣った笑みを浮べた。

 

「えへへ……」

 

 スコープの中心に見えるのは生徒に囲まれた、頭ひとつ大きい大人の男性。

 彼女はレティクルのやや上に対象の体を重ねながら、ゆっくりと息を吐き出す。

 彼女――アリウススクワッド所属、槌永ヒヨリの扱う狙撃銃、アイデンティティの口径は20mm。元々対戦車ライフルとして運用していたそれは、直撃を許せばキヴォトスの生徒ですら一撃で昏倒させる威力を秘めている。戦車の分厚い正面装甲を抜くための代物なので、当然と云えば当然。

 そして、そんなものを只の人間に撃てばどうなるのか――火を見るよりも明らかだった。

 

「――その傷、痛いですよね、苦しいですよね……何で、そんなに頑張れるんですかね、痛い筈なのに、苦しい筈なのに……」

 

 戦闘の一部始終をスコープ越しに見ていたヒヨリは、そんな事を呟きながら引き金に指を掛ける。あの先生に、戦う力はない。弾丸一発で血を流すような人だ、それは当然だった。

 だというのに彼は矢面に立って、生徒と共にあの恐ろしい主へと立ち向かっていた。

 (ヒヨリ)には――逆立ちしたって出来ない事だった。

 

 彼の横顔が薄らと見える。

 その顔を脳裏に焼き付けながら、ヒヨリは卑しく、笑った。

 

「リーダーから頂いた、あの時のお弁当、とても美味しかったです、温かいご飯とか本当に久々でした……そんな人を狙撃しないといけないなんて、へへ――人生、苦しい事ばっかりですよね、えへへ」

 

 風が吹く、ヒヨリの髪が靡く。

 先生の血に塗れた横顔が、ゆっくりと陽に照らされる。

 

「でも、そんな苦しそうにするくらいなら、此処で全部終わらせた方が良いのかもしれません」

 

 陽が昇り――朝が来る。

 

「――せめて、痛くない様に、一発で……仕留めますから」

 

 告げ、ヒヨリの指先に力が入った。

 弾頭は、痛みを感じる間もなく先生を穿つだろう。ある意味それは、彼にとって救いなのかもしれない。否、これは救いであって欲しいと、これから殺す彼に対する罪悪感を僅かでも和らげるために、そう思いたい自分の罪悪の発露だった。

 それを噛み締め、ヒヨリは――彼を。

 

「その狙撃、ちょっと待って貰える?」

「えっ……」

 

 その引き金が絞り切られる寸前、声がヒヨリの鼓膜を叩いた。

 慌てて振り向けば、自身を見下ろす人影。表情は影になって見えなかった、しかし纏った制服と髪色で、それが誰なのかヒヨリは理解する。その瞳は、大きく丸を描いた。

 

「あ、あなたは確か――」

「初めまして、になるのかなぁ? サオリとは面識があるけれど、スクワッドとは別に全員と顔合わせした訳じゃないし……うーん、まぁ細かい事は良いかな」

 

 彼女はヒヨリの構えていた狙撃銃の傍に歩み寄ると、それを軽い力で蹴飛ばす。「あっ」、と声を上げた時にはもう遅かった。自身を見下ろし、覗き込む黄金色の瞳に、ヒヨリは言葉を失う。

 

「――その人を撃たれちゃうとね、私、凄く、すごーく、困っちゃうの、だからやめて欲しいな~ってお願いに来たんだ……ねぇ、分かるかな?」

「そ、そんな事を、えっと、云われても……わ、私も、その、命令、でして……」

「うんうん、分かるよ、あのクソ――マダムって主人から指示されたんでしょ? でもほら、私も一応さぁ、あなた達との契約者な訳じゃん? だからクライアントの意向にも、ちょ~っと沿って欲しいなぁって」

 

 ヒヨリの震えた声色に理解を示す素振りを見せながら、彼女は何度も頷いて見せる。白い、天使の様な制服が風に靡き、彼女の淡い桃色の髪が宙を舞う。

 

「大丈夫だよ、何か云われたら、『最初から先生は、狙撃を警戒していた』って云えば良いんだもん、あの人は用意周到な人だから、マダムも疑ったりしないって!」

「あ、あぅ……」

 

 ヒヨリが云い淀む。命令は、彼女にとって絶対だった。そもそも逆らうという発想自体が存在しなかった。けれど目の前の彼女は、それを認めないと云う。そして力づくで敢行しようにも、それを行うだけの力がヒヨリには無かった。彼女は狙撃手、前線での撃ち合いや格闘戦闘など、スクワッドの中でも最弱。

 それが分かっているからこそ目の前の少女は笑みを深め、そして問いかける。

 

「それに――本当は撃ちたくないんでしょう?」

「っ……!」

 

 ぴくりと、ヒヨリの指先が震えた。

 答えはなかった、けれど目の前の少女の笑みはより深くなった。

 結局、それが答えのようなものだった。

 ヒヨリは少女の顔を見上げ、恐る恐る問いかける。

 

「り、リーダーは、この事を……」

「勿論伝えたよ、そうしたら『現場の判断に任せる』って云っていたかな」

「げ、現場……私の……」

 

 その言葉に、ヒヨリは何度も舌の上でリーダーの回答を転がす。ややあって、ふっと肩を落としたヒヨリは、相変わらずの引き攣った笑みを浮べながら、呟いた。

 

「え、えへへ……私、こんなんばっかりですね」

 

 云うや否や、彼女は身の丈はあるガンケースを掴み、少女に蹴り倒された狙撃銃を回収した。そして遥か遠くに見える先生を眩しそうに見つめると、目を伏せ口を開く。どうせ、自分に嘘は吐けない。

 

「て、撤退します、これで多分、私達はもっと苦しくなると思いますけれど、へへ……元から、苦しい人生ですから……」

「――苦しい人生だからこそ、最後には希望があるべきなんだよ」

 

 ヒヨリの言葉に、少女は酷く透明な笑顔で以て答えた。

 そんな声が返って来るとは思っておらず、思わずヒヨリは俯いていた顔を上げる。視界に、笑みを浮べる少女の顔が映った。朝日に照らされ、影の消えた少女の微笑みは、とても綺麗だった。

 思わず、見惚れてしまうくらいに。

 

「……なんてね? さ、何時までも此処に居たら見つかっちゃうし、早い所、降りよ!」

「は、はい、そうですね……」

 

 肩を叩きながら少女に促され、ヒヨリは慌ててガンケースに狙撃銃を収納し、屋上を後にする。その背中に続きながら、少女は先生のいる方角へと顔を向け、呟いた。

 

「――先生、またね、次会う時は……きっと」

 

 呟きは、風に掻き消える。

 ややあって、彼女は瞼を閉じ、数秒その場に佇む。

 そして再び目を開いた時、彼女は驚いた様に周囲を見渡し、呟いた。

 

「……ぁ、あれ――ここ、どこ……?」

 

 ■

 

「……終わった――か」

 

 呟きは、先生のものだった。

 タブレットを抱きしめたまま、先生は空を仰ぐ。その体には、酷い倦怠感が漂っていた。流れ出る血をそのままに佇む先生に、ハルナは声を掛けようとする。しかし、それよりも早く別れは訪れた。

 

「――ぁ」

 

 ハルナが、自身の手足から立ち上る光の残滓に気付いた。青白い粒子、光が自身の手足から立ち上り、崩れていく。その肉体が、神秘が、徐々に掻き消えていく。奇跡は起こる、けれどそれは決して永遠ではない。

 その事実にハルナの顔から血の気が引き、抱えていた愛銃が音を立てて地面に転がった。

 

「あ、ぁ……あぁ! そんな、そんなッ! こんな、こんなに早いなんてっ、嘘、嘘ッ! 嘘ッ!?」

 

 叫び、必死に消え行く残滓を掴もうと足掻き、取り乱す。しかし宛ら煙の様に、掴もうと広げた手をすり抜け、空へと還っていく光に、ハルナは大粒の涙を流して先生に縋りついた。

 その表情には、絶望と悲壮と恐怖が張り付いていた。

 また、あの場所に帰るのか。先生のいない、冷たい世界に、何の色もない無機質な世界に。それは酷く恐ろしい事だった、一度その温もりを思い出してしまったからこそ、残酷なまでに自身の世界の寂しさを自覚したハルナは、尊厳も恥もかなぐり捨てて先生に縋り、訴えた。

 

「いや、嫌ですわッ! 私は、まだッ……! 還りたくッ……! 先生ッ、先生っ! 私はあなたと離れるなんてッ、もう、もう二度と……――ッ!」

 

 強く、衣服を握り締め、離れるものかと全身で叫ぶハルナを、先生は思い切り抱き締めた。

 

「あぅッ……――!?」

 

 力強い抱擁。

 嘗て、このような事をされた事などなかった。どこまでも真摯に、大人として、先生としての立場を守っていた先生らしからぬ行動。先生とて、正直に云えば同じ思いだった。心の中は、彼女に負けず劣らずあらゆる感情が渦巻き、酷いものだった。けれどそれを微塵も表に出す事無く、飲み下し、腹に仕舞いこみ。彼は消えゆくハルナを抱きしめたまま、目を瞑り、強く――懺悔と、希望と、信頼と、願いの籠った声で以て告げる。

 

「――楽園(エデン)で、待っている」

 

 その言葉に、ハルナは目を見開いた。

 そして何かを云おうとして口を開き、けれど漏れ出るのは己の吐息ばかり。

 やがて一度強く唇を噛むと、一粒の涙をそっと流し、目を閉じた。

 震える腕を無理矢理動かし、先生の背中へと回す。

 

「――……ずるい人」

 

 結局、最初に漏れ出た声は、それだけ。

 彼女は暫く先生の抱擁を感じた後、徐にミニバッグに括り付けられた、たい焼きのストラップを取り外すと、そっと先生に握らせた。

 立ち上る光は徐々にその規模を拡大し、ハルナの体は透け始める。

 

「なら、約束です……愛する御方と一緒に、一番好きな、食べ物を――……」

 

 ストラップを先生に押し付け、一歩、離れた彼女は下手な笑みを浮べる。泣き顔を誤魔化すような、我慢するような――そんな表情。ぽろぽろと涙が零れる、とめどなく溢れ、それでも尚笑顔を浮かべて去ろうとする彼女の姿に。

 先生の胸が、ぐっと苦しくなった。

 

「もう一度」

 

 そして、彼女(ハルナ)はこの世界から消えた。

 

「………」

 

 先生は、残滓となって霧散し、空へと還るハルナを見上げる。手の中に残ったストラップは、僅かばかり先生の手の中に残り――けれど、軈てストラップも光となって砕けた。

 その様子を見つめながら、先生は拳を強く――強く握り締め、深い息を吐き出す。

 彼の表情がどんなものであるか、ホシノは表現する術を持たなかった。

 

「先生……その、今の生徒は――」

 

 どこか恐ろしそうに、或いは気まずそうに、ホシノが問いかける。けれど先生がホシノに顔を向けることなく、空を見上げたまま彼は呟いた。

 

「――夜明けだ」

「……ぁ」

 

 皆の横顔に、眩い陽が差し込む。見れば夜が明け、陽が昇り始めていた。暗闇が掻き消え、キヴォトスに光が満ちる。皆が目を細め、差し込む朝日を眩しそうに見ていた。

 音は無かった。気が付けば、カイザーの私兵との戦闘も収束していた。穏やかな朝が、キヴォトスに訪れていた。

 

 先生の手に、そっと暖かな感触が触れる。

 見れば、ホシノが先生の手を握り締めており、その指先は僅かに震えていた。それが疲労から来るものではないと先生は理解していた。だからホシノの指先を握り締め、呟く。

 

「私は、何処にも行かないよ」

「…………」

 

 ホシノは朝日を見つめたまま、強く、強く、先生の手を握り締める。先生はそれに応えながら、ただ静かに昇る朝日を見つめ、云った。

 

「私は――先生だからね」

 

 こうして――アビドスとカイザーコーポレーションの戦いは、終わりを告げたのだ。

 


 

 尚、この後ぶっ倒れて緊急搬送された模様。

 やせ我慢は大人の特権。

 えっ、それで取り乱す生徒の顔が見たい? な、なんて酷い事を云うんだ……! あなたに人の心はないのか……ッ!?

 しかし、自分が救えなかった罪悪の形をまざまざと見せつけられるのってどんな気持ちなんだろう。自分が救えなかった生徒を呼び出して、成功し続ける世界を見せつけて、「生徒と一緒で幸せで~す、いぇーい、ピースピース」する先生は控えめに云って地獄に堕ちるべきでは? そこんとこどう思います先生、ねぇどんな気持ち? どんな気持ち? という訳で贖罪として先生の手足を捥ぎます。

 因みに何故呼び出した生徒がハルナだったのかと云うと、私が好きだったからです(威風堂々)。エデン編で感情の流入が起きて、「あ、あら……ごめんなさい、何故か先生のお顔を見ていたら、涙が……」って展開やりたかったの。ゆるして。

 

 次回、アビドス編エピローグ。

 

 ちなみに狙撃の阻止が失敗した場合、ハルナが狙撃寸前で気付いて先生を押し出すも、弾頭は先生の左腕に直撃して、そのまま肉片撒き散らしながら先生は地面に転がる。その状況に嘗てのキヴォトス動乱で先生が死んだ瞬間フラッシュバックしてハルナが絶叫し、カウンタースナイプで神秘EXスキルぶっぱ、ヒヨリの狙撃ポイントをビルの上層ごと消し飛ばす。直撃は免れたものの、余波だけでヒヨリは重症。

 ハルナは銃を投げ捨てて先生に縋りつき、先生は血塗れの状態で何かを云おうとするけれど、時間切れでハルナ強制送還。最後まで嫌だ嫌だと叫びながら先生に縋りついて、最悪の幕切れのまま退去。アビドスとワカモが血の気の引いた顔をそのままに、必死に措置を施して、やがてカイザー私兵を掃討し終わった皆が見るのは、片腕が無くなって血塗れの先生。そして差し込む朝日、幻想的~。

 この件でベアトリーチェは先生の腕を奪ってやったとニッコリ、サオリはヒヨリが重傷を負ったと聞いて憎悪をたっぷり、他学園は先生欠損報告を聞いて黒幕に激おこ。

 尚、このルートに入るとエデン条約編のラストで、クロコが背後からベアトリーチェ本体の頭をぶち抜く。舞台装置に興味はない、しかしそれはそれ、これはこれ、こいつは先生の腕を一本千切った奴だから殺す。

 スクワッドと和解した後も、ヒヨリは多分先生に対してめちゃ後ろめたい感情を抱き続けるので敢え無く没に。

 

 本当はハルナが消え行く前にアビドスとかワカモとか、先生の周りにいる生徒に対して怨念に等しい呪いと嫉妬の言葉を紡ぐ様子も描写していたのだけれど、想った以上にドロドロのドッロになってしまって、「やっべ、これだと透き通る様な世界観で送る学園×青春×RPGのブルーアーカイブではなくなってしまいますわッ! わたくしの透明感で隠さなければ!」と修正。ラストの後味が悪いと何かもやっとしてしまうし、もっとヤベー奴を召喚する話は後書きで書けば良いの精神。でいじょうぶだ! 後書きがあればいきけぇれる! 何なら何人か別の生徒を呼び出す話を自分で書いて、自分で読んで、心をぽかぽかさせていた。これぞ自給自足の醍醐味、こうして世界に平和は訪れた。おぉ先生、寝ておられるのですか。サオリとかベアトリーチェに対する憎悪マシマシだから、先生の負傷と合わせて怒り二万パーセントEXアタックで塵も残らん。多分先生が止める間にトドメ刺すと思うんですけれどぉ……(名推理)

 

 最終章めっちゃ後書き我慢したから捥ぎ欲がすんごい。多分エピローグの後書きで爆発するか、エデン条約編の後書きで爆発するわ。めんご。よし、先に謝ったから許されましたわね! 寛大なお心に感謝ですわ! 

 エピローグは多分そんなに長くないので(後書き除く)、いつも通り明後日に投稿致しますわ! それからエデン条約編か、閑話を挟むと思いますので、それに対する今後の方針とかも併せて文字に起こしますの! 

 

 所で第一章のアビドス編でこんなに文字数と時間が掛かっている訳ですが、マジで私がエデン条約編書くんですの? 正気です? もしかしておハーブとかキメていらっしゃらない? 二~三百万字想定とかマジで頭ぶっとんでましてよ? 誰か私の代わりに書いて下さらない???



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私達の青春(ブルーアーカイブ)

誤字脱字報告が天に立ちます。
一先ずアビドス編はこれで完結となります。


 

 白い廊下を小走りで駆ける人影が一つ。息を弾ませ、ずり落ちた眼鏡を指先で正しながら速足で駆ける彼女はタブレットを抱えながら呟く。

 

「遅れちゃった……! もう皆、着いているかな?」

 

 場所はアビドス総合病院、以前ゲヘナ風紀委員会と小競り合いが起きた際に先生が搬送された病院であり、そして現在その先生が入院している場所でもある。

 彼女、アヤネは並んだ表札を目でなぞりながら、目的の病室を探す。どうか小走り位なら咎められませんようにと、絶妙に注意し辛い歩きとも走りとも云える速度で廊下を進む。

 そして幾つかの表札を経て目当ての病室を見つけ出すと、息を整えた後、それとなく前髪を払い衣服をチェック。そしてそっと扉をノックした。

 

「んんッ、失礼します、先生、遅れてすみま――」

 

 呟き、アヤネが中を覗き込むと。

 

「うぅ……私はもう駄目だ、成分が、成分が足りない……っ」

「先生、しっかりして下さい! あ、そう云えばこういう時は確か――大丈夫ですか、おっぱい揉みますか?」

「ノ、ノノミ先輩ッ!? 何云ってんの!?」

「うぅ、おっぱいどこ……ここ……?」

「うへ~、先生それセクハラだよぉ、そして今触っているのはおじさんの背中~」

「ん、先生、胸なら此処にも……」

「本当に触ろうとするんじゃないわよ先生ぇッ!?」

「コォペェ!」

 

 丁度、セリカが先生の首をグーで殴りつけている所だった。

 個室の中、ベッドに腰掛けながら先生を囲うアビドス対策委員会の皆。セリカの拳を喰らい、ベッドの中に沈み込む先生。騒がしい彼女達の姿にアヤネは目を白黒させ、ややあって苦笑を零し、呟いた。

 

「あ、あはは……げ、元気そうですね、先生」

「い、今はそんなに元気じゃない……かな」

 

 ■

 

「――という訳で、対策委員会は先生の公的な認証によって、アビドス高等学校の正式な委員会として承認されました、非公認だったせいで酷い目にあったという部分も大きいので、これで一安心です」

 

 アヤネは手持ちのタブレットに表示した資料をスクロールしながら、そう口にする。

 ベッドから一度離れ、用意されていたパイプ椅子に腰掛ける対策委員会の皆に囲まれながら、先生はアヤネの話に聞き入っていた。

 

「お陰様で対策委員会は、正式にアビドス生徒会としての役割も担う事になりました」

「そっか……良かった」

 

 その言葉にそっと安堵の息を漏らす。一先ず、これでアビドスの存在は公的に認められた事になる。大きな一歩だった、少なくとも今までの様に何の援助も受けられない――という事はもうない筈だ。

 

「それとアビドスの代表、生徒会長についてなのですが実はまだ決まっていなくて――個人的にはホシノ先輩に生徒会長になって頂きたかったのですが……」

「断固として断~る!」

 

 アヤネがそう口にするも、ホシノは先生のひざ元に頭を預けたまま腕で大きなバツ印を作り掲げた。その姿に周りの皆は苦笑を浮かべる。

 

「うへ、私に生徒会長なんてムリムリ~、柄じゃないよ」

「……という感じで、拒否されてしまいまして、新しい生徒会長は当分不在になりそうです」

 

 肩を竦めそう口にするアヤネ。他のメンバーも似たようなものだった。けれど、無理強いする事は出来ない。責任とは背負わせるものではなく、背負うものだから。けれど対策委員会の委員長は変わらずホシノが務める様で、実質的な代表は変わらず彼女が続投するらしい。恐らく、『生徒会長という肩書』を背負いたくないのだろう。実質的な立場は変わらずとも、これは心情的な問題だった。

 そっか、と先生は言葉を漏らし、ホシノの頭を優しく撫でつける。

 ホシノはそれを、ただじっと嬉しそうに受け入れていた。

 

「そう云えば、あの後、柴関ラーメンは?」

「あ、はい、その後ゲヘナ風紀委員から賠償金が支払われたそうでして、屋台の形で再開しました」

 

 アヤネがそう云うと、セリカが嬉しそうに胸を張り告げた。

 

「お客さんも結構来てくれるし、私もまたバイトを再開したから!」

 

 ■

 

「おっ、便利屋の生徒さんか、らっしゃい! 好きな席にどうぞ」

「お邪魔するわ!」

「最近、柴関ばっかり食べてるね~」

「私は美味しいから別に良いけれど……」

「ま、毎回九割引きなんて云われたら、通っちゃいますよね……!」

 

 屋台となった柴関、そこへやって来た便利屋の面々。

 お馴染みとなった席順で座り、メニュー表を覗き込む。屋台となった事でメニューのバリュエーションは少なくなったものの、その味は健在。そして彼女達は既に、メニューを見ずとも注文が出来る程度には通い慣れていた。大将はカウンターの向こう側で湯切りを行いながら、破顔して見せる。

 

「便利屋の生徒さんには開店資金で世話になったからな、これ位はさせてくれ、都合上無料(タダ)って訳にはいかねぇが、全品いつでも九割引きだ、好きなモン頼んでくれよ」

「そうね、えぇっと、それじゃあ私は塩に餃子、炒飯セットで!」

「くふふっ、それならチャーシュートッピングの味噌♡」

「わ、私も塩にぎょ、餃子を付けて頂けると……」

「……このままだと、メニュー全部網羅しそうだね、あ、私は味噌で、炒飯も」

「あいよぉ!」

 

 ■

 

「それと、先生のお陰でホシノ先輩の件は解決したのですが、アビドスの借金は相変わらず九億円のままです、まぁ、これは最初と余り変わらないのですが……でもカイザーローンはブラックマーケットでの不法金融取引がリークされて、連邦生徒会の捜査が入るそうです」

「それはそれは、報告書の作成を頑張った甲斐はあったね」

 

 アヤネの言葉に、先生は笑みを浮べながら告げる。実際、連邦生徒会が動いたという事実が今は重要だった。今までは目が届かない事を良い事に、やりたい放題やってきたカイザーコーポレーションだが、捜査の手が伸びたという事は、『連邦生徒会はカイザーを認知し、見張っている』という印象を与える事になる。身動きは非常に取り辛くなる筈だった。少なくとも、これまで通り動く事は不可能になるだろう。

 報告書をこれでもかという位に送り付けた甲斐があったと、先生は胸を撫で下ろす。尚、連邦生徒会指名手配犯担当モモカからの怒りの通信については言及しない事とする。

 

「正直、連邦生徒会がどこまで捜査してくれるのかは分かりませんが、それでも状況は変わると思います……件のカイザー理事は、生徒誘拐未遂事件の容疑者として指名手配されているそうですよ」

「蜥蜴の尻尾切り、か」

 

 ホシノはそう呟き、目を細める。

 実際、それが面倒を嫌った企業による尻尾切りなのは誰の目から見ても明らかだった。或いは、理事個人の暴走とでも言い繕ったのか。アヤネも同意なのか、何度か頷いて見せる。

 

「――それと無理に引き上げられていた利子については問題視されまして、最終的には以前より遥かに少ない利子の支払いで済むようになりました、これなら少しは貯金も出来そうです」

「ま、それでも返済には余裕で人生丸々必要そうだけれどね」

「あはは、まぁ、それでも楽になったのには違いありませんから☆」

 

 金利についても、どうやら見直されたとの事。毎月の様に数百万の支払いをしなくて良くなったと、アビドスの皆は喜んでいた。元々、暴利を貪る様な利子だったのだ。元の借金の額が額なので、即座に返済――というのは難しいが、以前と比較すれば遥かにマシになったという。

 アヤネとセリカの提案により、毎月の利息と一定の金額を返済に充て、万が一何かあった時に備えて、アビドス対策委員会として貯金も作っていく事になったらしい。以前と比べると、随分と人並みの暮らしが許されるようになった。もう返済に追われてバイト漬けになる事もない。                                                                                                                                            

 

「アビドス自治区については、相変わらずカイザーコーポレーションが保有したままです、取引自体は違法ではなかったそうですから、仕方ないみたいですね……結局、カイザーコーポレーションがあの砂漠で何を企んでいたのかは、分からず仕舞いでした」

「ん……でも、今は連邦生徒会の調査もあるし、大々的には動けない筈」

「それに、何かあったら今度こそ私達がガツンと云ってやるわ! 漸く公認になった訳だし!」

 

 アヤネの言葉に、シロコとセリカは拳を突き上げてそう意気込む。今までは公的認可を受けていなかった為、半ば自警団に近しい組織と見做されていたが、今ならばカイザーもきちんとした対等な相手として対応せざるを得ない。自治区を持つ生徒会とは、そういう相手なのだ。

 

「そう云えばアヤネちゃん、あの不気味な連中については?」

「……私も、あれから色々と調べて回ったのですが――」

 

 ホシノは脳裏に黒服――そして唐突に現れたベアトリーチェと呼ばれる赤肌の女性、首のない紳士の姿を思い浮かべ、問いかける。アヤネはタブレットを指先で叩きながら、申し訳なさそうに首を振った。

 

「表側にも、裏側にも、これといった情報は何も出てきませんでした、あの件に関しては全ての罪がカイザー理事に被せられていた様でして、彼ら、彼女の本当の名前も、正体も不明のままです」

「うへ、そっか……」

 

 呟き、ホシノは内心で納得する。そもそも、此処までカイザーの尻尾を掴めなかったのも、あの連中の仕業だろうと彼女は疑っていた。もしそうならば、情報を遮断し、秘匿する事は朝飯前だろう。

 そしてもう一つ、気にかかる事柄。

 あの、シロコに良く似た女性。彼女の口ぶり、そして先生への態度からして、きっと――。

 

「――そこから先は、私の、シャーレの管轄だ、皆が思い悩む必要はないよ」

「……先生」

 

 ホシノがそこまで思考を伸ばしたところで、先生の声が彼女達の意識を引っ張った。

 先生から向けられる優し気な視線、そして髪を撫でる暖かな彼の手に、ホシノはふっと息を吐き出し目を閉じた。

 確かに考えるべき事、そして不安な事柄はまだ残っている。けれど、事件は一応の決着を見せアビドスは確かに勝利した。今は、今だけは、その余韻に浸るのも悪くないと――そう思ったのだ。

 

「分かりました、お任せします、先生」

「うん、任された」

 

 アヤネが小さく頭を下げ、先生は確りと頷いて見せる。先生が応援を要請した時ならばいざ知らず、必要のない領域まで踏み込んでこれ以上の負担を抱え込む事になれば笑えない。それは、先生なりの思い遣りであり、信頼であり、そして忠告だった。

 アビドスとしての物語は、一旦此処で幕を閉じる。

 それが――先生の選んだ道筋なのだ。

 

「――さて、それでは報告が長くなってしまいましたが……アビドス対策委員会の定例会議を始めましょうか!」

「ん」

「はーい」

 

 アヤネがタブレットの電源を落とし、軽く手を打ち鳴らす。すると皆が声を上げ、いそいそと再び先生のベッドへと集まり始めた。その様子を先生は困ったように眺めながら、思わず苦言を呈す。

 

「えっと、何も私の病室でやる事もないと思うのだけれど……何なら端末でホログラム投影できるし、部室で遠隔会議でも全然――」

「何を云っているんですか、先生!」

 

 先生の言葉にアヤネは腰に手を当てると、ふんと鼻を鳴らして告げた。

 

「私達は、皆で対策委員会(みんなでひとつ)なんです――ですよね、ホシノ先輩?」

「うへ~、そこで私に振る~?」

「ん、その通り、私達は六人でアビドス対策委員会」

「そうですね~☆ やっぱり、先生も揃っていないと!」

「まぁ、先生にはお世話になったし、対策委員会の仲間だっていう点はそうよね!」

 

 皆が一様に頷き、何の憂いもない笑顔を先生に向ける。それを直視した時、先生は何も云えなくなった。彼女達の自分を見る目が、余りにも輝いていて、親愛と信頼に満ちていて。その視線の向こう側に、先生は『嘗てのアビドス』を幻視した。

 ずっと先生が背負ってきた、世界の断片、その幻影。彼女達は一歩ずつ、少しずつ、嘗てのアビドスへと近付いて行く。それが嬉しいような、寂しいような、苦しいような――。

 胸を締め付けるその感情を、痛い位に噛み締めて。

 先生はまた一つ――背負った。

 

「……なら、仕方ないか」

 

 呟き、先生は笑う。

 屈託なく、朗らかに。

 今だけはどうか――笑わせて欲しい。

 

 先生の微笑みを確認し、アビドスの皆は顔を見合わせ笑みを深くする。

 アビドス定例会議――もう何度目かも分からないそれの議題は、既に決まっている。

 勿論、それは。

 

「それじゃあ、これからアビドス定例会議を始めます! 皆で存分に話し合いましょう! 議題は――」

 

 ――私達(アビドス対策委員会)の、希望に満ちた明日について!

 

 

 

 アビドス対策委員会編 完。

 


 

【後書きに添えて――今後の方針と私信】

 

 

 一先ず此処まで来られた事に感謝を。当初は十万字、二十万字で終わるだろうと高を括っていた結果、よもや此処まで膨れ上がるとは。しかし私は後悔をしていない、少なくとも私は、私の読みたいアビドス編を書けたと満足している。まぁ私からするとアビドス編は『希望』の物語なので、結末も大分未来を照らすような締め方を目指した結果、このようになった。

 

 私の目指す物語はあらすじ通り、先生が愛し、愛される生徒の前で血塗れになって這い蹲って、それを見て涙を流し絶叫する生徒の愛を感じ隊というものなので、ぶっちゃけアビドス編だけだと愛と勇気と友情物語過ぎて、「うぉっ、何だこの透き通る様な世界観で送る学園×青春×RPGは? ブルーアーカイブかな?」ってなっちゃったので、エデン条約編ではバチボコに先生を身体的にも精神的にボコボコにして、文字通り血塗れにしてやるから覚悟しろという所存である。

 

 私はね、原作で先生をヒナが庇った反対で、先生が寧ろヒナを庇ってバチクソに撃たれて、「先生ッ!? なにやって、やめてッ! 離してッ! 先生ェッ!?」って目を見開きながら、ボロボロ涙を流して叫ぶヒナに微笑む先生が見たいの。ついでにミサイル着弾した時に無傷の先生じゃなくて、瓦礫と砂塵に埋もれながら血を流し、歩けるかどうかも分からないって負傷具合の先生を見て、真っ青になるハスミとかツルギが見たいの、わかる? 

 

 この、先生を想っているが故に、大切な人の血まみれの姿を見て心を動かされ、動揺し、後悔と悲しみと不安と焦燥に駆られる生徒の顔が好きなのだ。自身の想い人が一分一秒ごとにその命を削られる様を目の前で見せつけられ、それを指を咥えて見ているしか出来ない自身に対する絶望とか失望とか、後悔とか憎悪と悲壮とか、そういったものがごちゃ混ぜになって悲しんでいるんか怒っているのか笑っているのか分からない、そんな生徒の顔を見て、「あ~、先生愛されているなぁ~」ってほっこりしたいの。

 愛は地球を救うの、ついでにキヴォトスも救うの、先生は救わないけれど。

 今までずっと隠していたから気付かなかったかもしれませんが、私は先生の手足を捥ぐのを心の底から楽しみにしているんです。

 

 さて、先生の捥がれた手足はさておき、一先ず今後の予定をお知らせ致します。

 まず本来の順番で行くのならば、このままvol.2の機械仕掛け編に突入する訳ですが、ぶっちゃけそれをやるとまだ五十万字増える事になりまして、あとこのパートだと先生が負傷してくれそうにないので(後書きを除く)、今回は見送ろうと思います。ゲーム開発部と先生のイチャ♡ラブ、そして先生もぎもぎからの双子の元気な方が涙ぽろぽろ展開を期待していた方は申し訳ありません。ですがこれには簡単な解決法が御座います。

 

 まずPCを用意します、無い方は紙とペンでも構いません。スマホでも良いです。そうしたらメモ帳、Wordを開き、其処に自分の読みたいvol.2のシナリオを書き出します。そこに先生を投入し、四肢を捥ぎます、すると生徒が泣きます、可愛いですね。

 はい、あなたの読みたい機械仕掛け編が完成しました、素敵ですね、素晴らしいですね。後はそれをネットの海に放流すれば完璧です。ただでさえ少ないブルーアーカイブの小説が増えて読者はwin、そしてあなたも自分の好きな話が読めてwin、誰も損をしない素敵な解決方法です。ノーベル平和賞はあなたのものです。

 

 性癖バトルしようぜ! 私に負けたら先生の性癖は「生徒の前で先生の四肢を捥いで泣き顔の生徒を見て胸をぽかぽかさせる性癖」以下ね!? 性癖に貴賎はなく上も下もないと云っているでしょうがッ! 「生徒の前で先生の四肢を捥いで泣き顔の生徒を見て胸をぽかぽかさせる性癖」と「少女漫画のくっ付きそうでくっ付かない、あのじれったい純愛を見守りたい性癖」は同じなんですわよッ!? お分かりになってぇ!? 分かれば良いのですわ、おっきな声だしてごめんなさいね? 大丈夫ですの? お怪我は御座いません事? ところであなた何処住みですの? てかラインやっていまして? 先生の手足を捥ぐと云う行為に倒錯的な興奮を覚えたりしていらっしゃらない? ……そう。

 五十万字書き続けるコツですか? 愛です。

 

 という訳で残念ながらvol.2を飛ばし、vol.3のエデン条約編を執筆する予定な訳ですが、このエデン条約編は御存知の通り前編・後編に分かれています。そしてその後編に続くイベントに、戦車で海にレッツゴー! というものがありますね。ヒフミとツルギが殴り合い宇宙を経て絆を深め合い、その余波で先生の四肢が捥がれ青い海が真っ赤になったというあの伝説のイベントです。

 そしてそれらのイベント・エデン条約編シナリオの長さは皆さんも御存知の筈。アビドス編の五十万字の数倍以上の分量がある訳です、下手するともっと。ヤバいですね☆ 

 正直、私自身、内心で「数百万字のシナリオを書くんですの……本気で? 冗談抜きで一年とか、下手すれば二年とか、そういう歳月の時間を捧げる事になりますわよ……? あなた正気でして? これが他人なら『んほ~、この人すげぇ~、どんだけブルアカ好きなんですのぉ~?』で済みますが、自分でやるとなるとマジでシャレにならねぇですわよ」となる訳です。

 

 因みに私は最初の一ヶ月程度を毎日投稿、以降を二日に一度投稿で一ヶ月半やって参りましたが、最終的な文字数が五十五万字程度となる事を考えると、大体一日七千三百字を書いている事になります。もはや仕事では? 私は訝しんだ。しかしこれを一週間に一度の投稿だとか、一月に一度の投稿だとかに切り替えると、私は絶対に途中でサボります、賭けても良い。私は書き続けないと、「投稿して『クッソつまんな♡』、『ごみ文章♡』って云われるのやだ~! こわいよ~!」と云って一人で文章をため込む人間なんです。そして自分の書いた小説をSSDに保管して、数ヶ月後とかに読んで、「ほーん、結構おもろいやん?」って自分で読んで満足するんです。私は詳しいんです。

 どのくらい確定しているかと云うと、けつあな位確定しています。エデン長くて書きたくない、だめ、きまり、長い、やだ、ハイしか云っちゃ駄目、長いもん、罰だから。何の罰だよ先生の手足捥いだ罪か? まだ未遂ですぅ~~~!?

 私はこの小説をブルアカへの愛を背に書き続けて参りましたが、アビドス編だけでもこんなに大変である事を知った今、それを遥かに上回る巨大な壁を前に尻込みしてしまっています。これが他人だったのなら私は、「がんばれ♡ がんばれ♡」と無邪気に応援し、その背中をそっと押してあげるでしょうが、いざ自分にその番が回って来ると、「え、これ書き切るとか正気か? 隣の幼女は何無邪気に応援しとんねん、人の心とかないんか?」となる訳です。哀しいですね。

 何よりもっと悲しいのは私のこの状況を見て胸をぽかぽかさせている読者(ごく少数)が感想欄にいるという事実です。何か前には先生を私に置き換えて手足捥ぐと心が温かくなるとか云っていた人もいますし、道徳心とか、倫理観とか、お持ちでない? 私が血反吐撒き散らす姿を見て笑顔になるとか人の心ないんか? 人間、人を思いやる心を失くしてしまったらだめなんですよ!? 良いですかッ! 自分のされて嫌な事を、人にしてはいけませんッ! こんなのは常識です! 当たり前の事です! 自分がそういう事をされたらどう思うかな? と一度考えてから発言なさって下さい! 全く、とんでもない人達ですよ! うぅ、傷ついたから先生の手足捥いで元気だすね……。ヒナちゃん先生の手足捥げて芋虫になるとこみてて……。

 

 元気が出たので続けます。取り敢えず五千兆円欲しいです。嘘です。嘘ではないですが五千兆も要らないです、二百億円くらいで結構です。謙虚ですね。そしたら一生、好きな小説書いてのんびり生きて行きます。いぇ~い。何でこんなクソどうでも良い事を書いているかと云うと、エデン条約編を書かないと先生の四肢を捥げないという現実から必死に目を逸らしているからです。逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だと云いますが、クソ辛いときにムツキが傍にやって来て、「……逃げちゃおっか」と云ってきたら速攻で逃げる自信があります。じゃあ先生の四肢を捥ぐのは諦めるのか? と云われたら。

 やだ~! 先生の四肢を捥げない何てやだ~ッ! 先生の手足もぎもぎさせてよ~! もぎたて・にーちゅ♡したいよぉお! どぼじでいじわるずるの!!!

 これが私の偽らざる本音でありまして、正しく私の心に天使と悪魔が囁いているのです。天使が云います、「これ無理ゾ、一年もこのペースで続けたら死ゾ、かと云ってペース落としたら絶対サボるゾ、だから今のペースでエデン条約編書き切って死のうね♡」

 悪魔が云います、「元々エデン条約編を書きたくて始めたのに此処で尻込みとかマジ? おうあくしろよ、全部書くんだよ、そして先生の手足千切ろうね♡ 先生の手足捥いで達磨にして、そこから心臓ぶち抜いて、生徒の前に投げ捨ててあげないと可哀そうだよ」、こいつら人の心ねぇですわマジで。

 

 と云う訳でエデン条約編は多分書きますが、取り敢えずストーリーを見返して、プロットを書き込んで、独自設定との整合性を取って、キャラのスタンスと行動を見直して――と色々やる事がたんまりです。ストーリー長い分、考える事とやる事が山の如し、この小説を書き始めた頃は、「プロット? うるせ~~~!! しらね~~~~!! ファイナルファンタジー(ネイティブ)」でゴリ押して参りましたが、エデン条約で先生の手足を綺麗に捥ぐためには労力が必要なのです。はー、もっと気軽に先生の手足捥ぎてぇ~。先生の手足って何で再生しないん? 生えろ! 手足生えろ! そして捥げろ!!

 

 取り敢えず準備期間として少々の御暇を頂きます。私も残念ながら現実に生きている人間で御座いまして、一生こうやって小説を書いていられるのなら幸せなのでしょうが、ご飯を食べなければ死んでしまう普通の人間なのです。おぉ、なんと脆弱な体か。

 取り敢えずいつ再開するか、プロットが仕上がるのかというのは私の現実での忙しさに比例致しますので、「早く続きを読みたいので毎秒投稿しろ♡」という方は私の現実の方を爆破して頂けると幸いです。一応Twitterもやっていますが、もう四、五年くらい触っていないのでぶっちゃけ其方にメッセージを頂いても気付かないと思います。でもフォローして頂けるのは嬉しいです。というか久々にツイートすると、「~さんがツイートしました!」みたいな通知が出て、「ほげぇ~! やだッ、私の捥ぎたて♡にーちゅが全フォロワーに晒されるッ!? やだッ!?」ってなって恥ずかしい想いをするので放置していた事を此処に告白します。我慢できない方はハーメルンの個人メッセかGメールを飛ばしてください、後者は絶対に気付きます。この小説書いてからそこそこ純愛文が飛んでくるようになりましたが、それを是非ハーメルンに投稿して下さい。性癖を晒すのが恥ずかしい? こんな恥も外聞も投げ捨てておっぴろげるわたくしに対して良くそんな事云えますわね!? 

 

 よし、これで私周りの事情は話終わりましたわね! というかコレ読む人いるんですの? まぁどうせこの小説自分用の自給自足モノですし、ままええわ。

 最終章最後らへんかなり清々しい終わり方でしたし、ちょっと生徒の泣き顔足りませんわね……話は変わらないのですが、普段澄ました顔をした生徒がギャン泣きする姿ってとても良いと思うのですよ。普段は飄々としていて、それでいて自信に満ち溢れ、確固たる地位を持つ人物――そう、ヒマリちゃんですね。

 

 天才清楚系病弱美少女ハッカーのヒマリちゃんは普段車椅子に乗って移動しておりますが、スーパーキヴォトス人としては例外的な病弱キャラです。それはもう、流石に先生に負けるという事はないと思いますが、一般的な生徒と比較すれば身体的に非常に大きなハンデを抱いているというのは確かだと思います。いや、別に先生に負ける位弱くても全く以て問題ないのですが。

 肝要なのは、彼女が一般的なキヴォトス生徒に劣る身体能力しか持たないという事です。彼女が実際に立つ事が可能なのか、そもそも立つ事すら出来ないのか、それは分かりませんが車椅子を使うという事は歩行そのものが体の負担になっている筈です。

 

 という訳で私はハッキングを行う為のあらゆる術を奪われたヒマリ(拘束なし)の前で先生を血塗れにして、塵の様に投げ捨てた後にヒマリがどうするのか凝視したいなと思いました。(小学生並みの感想)

 

 いや、これはもう完全にシチュエーションだけの、どうしてそうなったのかとか、何故こうなったのかとか全部ぶん投げた話なのですが。動かなくなった車椅子に、目元だけ布か何かで覆ったヒマリを密室に連れ込んで、「天才清楚系病弱美少女ハッカーであるこの私に目を付けるとは、ふふっ、中々良い才覚をお持ちですね、しかし残念ですがこの程度――」みたいに余裕綽々のヒマリに、先生の「ヒマリ……?」って掠れた声を聴かせてあげたい。

 

 勿論、目隠しをされているからヒマリはその声が本当に先生のものかは分からない、けれど先生のものとしか思えないそれに、「――先生?」って彼女は声を返すんだ。

 そこに「どうして――」と先生が口にするより早く、態と生々しい音を立てて先生に暴力を振るってあげたい。もしくは銃で体に穴をあけてあげたい。その音にヒマリの肩が震えて、先生の呻く様な悲鳴だけがヒマリの鼓膜を叩くんだ。最初は、「え、ぇ、えっ?」って状況を把握できなかったヒマリが、音からして先生が暴力を受けているか、銃撃されていると想定し、「お、おやめなさいッ! 先生に、一体何を……!?」と腰を浮かせるのだけれど、ハッキングする術も、銃も奪われた彼女にはどうする事も出来なくて、軈て先生の呻き声すら聞こえなくなると、彼女は目に見えて動揺して、必死に何もない虚空に手を伸ばすと思うんだ。

 

「先生? 先生……!? へ、返事を、返事をして下さいッ! ど、どちらに……!?」って取り乱すヒマリの目隠しを、そっと取ってあげたい。そして視界に入るのは、血塗れで倒れ伏す先生の姿。ヒマリは恐らく、驚きはしないと思う。優秀だもんね、そういう可能性が一番高いって分かっているもんね。だから驚きはしない、けれど受け入れられるかどうかは別。

 血に塗れ、ピクリとも動かない先生を見て、ヒマリは言葉を失くす。腰を浮かせたまま、手を伸ばして、当然届く筈もなく、車椅子を動かそうとしても全く動作しない。だから両腕で体を押し出して、半ば倒れ込むようにして地面に転がり、痛みに呻きながらも必死に先生の傍まで這いずって欲しい。最初は、「嘘です」と呟いて、それから冷たい床に頬を擦りつけながら、「嘘、うそ」って何度も口ずさむんだ。

 

「ぅ……――う、嘘ですよね、認めません、こんな、こんな結末は、あり得ない、う、嘘に決まっています……先生、起きて下さい、先生」なんて呟きながら、必死に先生に手を伸ばし這いずるヒマリの表情は、きっとあらゆる感情に染まっているだろう。ハッキングを奪われ、先生を救う事が出来ない自分に対する失望と絶望、これを行ったであろう人物に対する憎悪と憤怒、先生を喪うかもしれないという不安と恐怖、そして或いは、まだ助かるかもしれないという希望的観測。

「ふ、普段私がよく居眠りをしてしまうから、お、怒って狸寝入りしているんですね? レム睡眠とノンレム睡眠の考察など、う、嘘です、ごめんなさい、そんな事は考えていませんでした、謝ります、謝りますから、だから先生……」なんて云いながら、必死に泣き笑いしていたら素晴らしい。

 

 這いずって移動して、先生から流れ出る血が指先に触れて、その生暖かさと鉄の匂いに、「うぁ……!」と無意識に大粒の涙が流れる姿などあれば最高でしょう。体が震えて、指先が震えて、唇が震えて、少しずつ近付く毎に心臓が早鐘を打ち始めて、その姿に認めたくない現実を強烈に意識させられて、普段天才清楚系病弱美少女ハッカーと自称する彼女の欠片も見当たらない、等身大で何も救えず、何も成せず、ただ大切な人が目の前で死んでいく姿を眺めている事しか出来ないという事実に、辛うじて踏みとどまっていた体裁とか外聞とかそういう堤防が決壊して、全力で泣き叫びながら先生の服を掴んで欲しい。

 特に、感情の決壊した彼女の喋り方が、幼い少女のそれになっていたら素晴らしい。普段澄まし顔で、論理的で、高嶺の花を自称する彼女が、「やだ、やだ、先生ッ! 起きてよッ!? ねぇ起きてよッ!? 何でっ、何でッ……こんな!? 酷いよぉ、やだよぉッ!」って普段の彼女からは想像もできない口調で、涙を流しながら誰かに縋る姿など胸がとても暖かくなる。あ~、国民総幸福量あがっちゃう~。

 

 このままずっと見ているのも良いのですが、相手の気持ちに寄り添える私はちゃんと救いも用意しております。先生の衣服に顔を埋めながら嗚咽を漏らすヒマリの傍に、誰かが音を立てて立つんですよ。それが犯人だと思い込んだヒマリは、有りっ丈の憎悪と怒りを込めた視線を人影――調月リオに向ける訳ですね。

 怨念すら籠った口調で、「リオ――!」と唸る様な声で告げたヒマリに、リオは持っていたタブレットを操作し、合図を出します。そして一斉に点灯する室内照明、そこにユウカとかノアとか、ついでにエイミなんかも揃っており、その面子に思わず呆然とした彼女に、エイミが『ドッキリ』の看板を掲げたら、多分彼女らしからぬ最高に間の抜けた表情が見られると思う。

 涙とか鼻水とかそのままに、呆然と自分を見上げるヒマリに、「部長、ごめん」って少しだけ申し訳なさそうな顔をしたエイミが云って、ヒマリが恐る恐る明るくなった視界の中で、「……先生?」って問いかけると、今までピクリとも動かなかった先生が凄く申し訳なさそうな顔で、「……ごめんねヒマリ、今月十五万円のデラックス・スーパーロボットを買っちゃって、ユウカが――」って云って。漸く何が起こっているのか理解したヒマリが、その顔を段々と真っ赤に染めて、慌てて目元を拭いながら、「ま、まぁ!? ぜッ、全然分かっていましたけれどぉ!? この天才清楚系病弱美少女ハッカーの私に掛かればこの程度の予想なんて!? それはもう簡単にぃ!?」、って叫んで、先生に「ヒマリ、鼻水、鼻水」ってハンカチを差し出されてチーンするとことかちょっと見てみたい感ある。

 その後、なんやかんやあって解散する時に、そっと先生の裾を掴んで、「――無事でよかった」って少しだけ涙の滲んだ瞳で云ってくれたらグッド。なんやこの先生教え子泣かせるとかありえへんわヒマリと一緒にデカグラマトン調査している最中に地中から奇襲喰らって手足捥いだろか。

 

 はーッ、やっぱ先生に血を流させて見る生徒の涙は万病に効きますわねぇ! 今はまだ癌に効いていませんが、もう暫くすれば効くようになりますわ! 科学の進歩というのは凄いんですのよ!? リオ生徒会長もなぁ、あの澄まし顔で先生ガチ勢になって目の前で先生の四肢モギモギする事を考えると最高に幸せな気持ちになれる。

 糸目だったキャラの開眼、冷徹クールキャラの取り乱した泣き顔、そして千切れ飛ぶ先生の手足は皆を幸せにします。うぅ、先生毎秒手足生やして……。

 でもあの手のキャラは先生への想いとか好意を秘めたまま敵対して、何かピンチになった時に先生の手足を代償として庇って、「先生……どうして――?」って呆然としたところに、血塗れの姿のままで、「私は、先生だから……ッ!」ってやせ我慢した笑顔を見せて欲しい感ある。ひゅー! コブラみてぇだ! でも先生コブラじゃないからそのまま死んでね。うぅ、先生を想って頑張っていたのに結果的に先生殺しちゃうリオちゃん可哀そう……。

 

 あと、この後書き、八千字あるので読むときは注意して下さいね。

 それでは一応区切りもついたので、お気に入りとか評価とか感想とかお願い致しますわねッ!

 また、エデン条約編で!

 おさらばですわッ!



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幕間
幕間の吐息、嵐の前の。


前回までのおもてすじ。
・先生が血を噴くと生徒が助かる。


 

 アビドス騒動からそれなりに時間が経過し、少しずつキヴォトスが日常を取り戻した頃。

 シャーレのオフィス、その廊下を歩くひとつの影があった。

 彼女は特徴的なそのヘイローを揺らしながら、計算機を片手に黙々と歩みを進める。その表情は心なしか緩く、口元が笑みを象っている。目的の扉の前に立つと彼女は徐に計算機を掲げ、液晶に映る自身の前髪を払い、襟元を正した。

 

「んんっ! ――先生、いらっしゃいますか?」

 

 いつも通りの、『かんぺき~』な自分を確認したユウカは、そのままドアをノックする。

 しかし、声が返って来る事はない。その事を半ば予想していた彼女は、そのままドアノブを捻って中へと踏み込んだ。

 途端、鼻腔を擽る紅茶の香り、そしてどこか懐かしい先生の匂い。

 見ればオフィスの片隅に設置されたソファーにタオルケットを被った先生の姿があり、その前のローテーブルには積み重なった書類の山があった。

 

「……凄い書類の山」

 

 思わず呟き、そっと足音を殺して先生の傍に近付く。いつも着込んでいる制服を着崩し、だらしなく胸元を開けて寝息を立てる先生。良く見れば無精ひげが顔を出し、その衣服はヨレて皺が出来ていた。本人の寝顔は呑気なものだが、その目の下の隈は誤魔化せない。

 

「また徹夜したのね――」

 

 思わず目線を鋭くし、ユウカは先生の頭元に立つ。そして顔を近付けると、軽く先生の首元を嗅いだ。途端、汗の混じった濃い先生の匂いが肺を満たす。

 

「……やっぱり!」

 

 確定だ、ユウカは先生の肩を強く掴むと、そのまま声を張り上げた。

 

「先生ッ!」

「――ホワァ!」

 

 その声に反応し、先生は慌てて飛び起きる。そして目を白黒させながら蹴飛ばしたタオルケットを抱き寄せ、慌てて弁明を口にした。

 

「わ、ワカモ!? アスナッ!? シ、シロコか!? もしかしてノノミ!? 或いはイズナ!? 違う、誤解なんだ、ただちょっと色々業務が残っていて仕方なく残業を……ッ!?」

 

 捲し立て、周囲を忙しなく見渡す先生。そして漸く目の前に立つユウカと視線を合わせ、先生は露骨に安堵の息を吐いた。

 

「はぁー……何だ、良かったぁ、ユウカか」

「――何故、私だと良かった~になるのでしょうか? ご説明頂けますか?」

 

 ぴしりと、ユウカの額に青筋が走った。

 しかし先生は何ら悪びれる様子も見せず、寧ろへらりと笑って呟く。

 

「ユウカは右上の生徒だから」

「……どういう意味です?」

「土下座すれば大体何でもしてくれる生徒って事」

「どういう意味です?」

 

 まるで意味が分からなかった。

 そもそも右上とは一体何なのか。

 しかし、先生の奇天烈な発言は今に始まった事ではない。溜息を零しつつ、ユウカはローテーブルに積まれた書類の山を指差し云った。

 

「というか先生、まだ退院して日が経っていないのに、また徹夜しましたね?」

「あはは、ごめんごめん、でもやっぱり入院中の業務も溜まっているし、カイザーとの一件で各方面に助力を頼んじゃったから、寧ろこの程度で済んでラッキーって位なんだよ」

 

 先生はそんな事を宣いながらテーブルに散乱していた書類を纏め、ペンを片付ける。

 

「……何か見返りを求められたのですか?」

「いいや、全然、嬉しい事にどこも対価を支払え~! って云ってくる事は無かったな、でもだからこそ所属する学園に対する事件の説明責任と、事後処理、そして感謝の言葉は必要なのさ」

 

 書類を綺麗にクリップで止め、ユウカを見上げる先生。彼は目元を数度指で拭い、大きく背伸びをすると静かに問いかけた。

 

「それでユウカは、シャーレに何か用事?」

「いえ、特にこれと云った用事はないのですが……まぁ、何というか、先生がまた倒れていないか様子を見に、セミナーでも先生の事は良く話題になりますから」

「その話題が良いものである事を願うよ、あ、何か飲む? 珈琲とか紅茶とかあるけれど」

「いえ、お構いなく……」

 

 しかし、態々足を運んでくれた生徒に茶の一杯も出さないというのも据わりが悪い。先生は、「良いから、良いから」と口にしつつ立ち上がり、オフィスの壁沿いに設置された棚からカップを用意した。大抵、このシャーレに通う様な生徒には専用のマグカップが用意されている。勿論、ユウカのカップも存在していた。青と黒、そして白のラインが描かれたソレの下には小さく『ユウカ』の文字が躍っている。それを片手に、先生はポットに水がまだ残っている事を確認しながら、ティーバッグの封を開けた。

 綺麗に並んだそれを見たユウカは、先生の肩越しに問い掛ける。

 

「この紅茶は先生が購入を?」

「あー……いや、C&Cの子達が勝手に置いて行ったんだ」

「……先程、飛び起きた時に口から出た生徒達に関係が?」

「黙秘って出来る?」

「合理的とは云えない判断です」

「はい」

 

 先生は項垂れ、沸騰したポットからマグカップに湯を注ぎ、ティーバッグを垂らしながら口を開いた。

 

「まぁ、何というか、ほら、態々アビドス総合病院にもお見舞いに来てくれた生徒達が居たじゃないか」

「居ましたね、沢山、それこそ病室が埋まる位に……最終的には大部屋を先生一人で使っていましたよね、見舞いの生徒が入れないからって」

「誰かしら傍には常に居る状態だったからね」

「それって、夜もですか?」

「寝ずの番をやるって云って聞かない生徒が何人か……まぁ、大体日付が変わる頃には皆寝入っちゃうんだけれど」

「……それ、寝ずの番って云います?」

「気持ちだけは有難いんだよ、結果はどうあれ……ね」

 

 筆頭は忍術部だ、恐らくワカモも居たのだろうが必ず傍に他の生徒が居た為、結局入院中に顔を合わせる事は無かった。苦笑を浮べながら、先生は出来立ての紅茶をユウカに差し出す。どこか胡乱な表情でそれを受け取るユウカは、香る紅茶の匂いに目を瞬かせる。

 

「あ……これ、アールグレイですか?」

「ん、ごめん、他のが良かったかな、珈琲淹れ直そうか?」

「いえ、紅茶も好きなので、大丈夫です」

 

 匂いで分かる辺り、紅茶自体は飲み慣れているのだろう。彼女は湯気を立てる紅茶に小さく吐息を吹きかけ、そのままひと口。そして少しだけ驚いた様に目を開き、問いかけた。

 

「――美味しいですね、これ、ミルクも絶妙で……意外です、先生にこんな特技が」

「素材が良いのさ」

「いえ、前に自分で淹れた時はこんな風には……以前、どこかで練習を?」

 

 そう口にしながら不思議そうに先生を見るユウカ。少なくとも、先生にその手の趣味がある様には思えない。先生は一瞬目を瞑り、それからそっと視線を反らした。視線の先には硝子越しに見える、憎たらしい程の蒼穹。

 

「――ちょっとだけね」

 

 もう二度と訪れない時間の中で、賑やかなメイド服の彼女達と――一緒に。

 

「……兎角、話を戻すと、退院してからも何度かシャーレに足を運んでくれる生徒が居てね、私の体調が心配だからって」

「それが、起き抜けに名前が出た生徒ですか?」

「まぁ彼女達は普段からというか……まぁ、うん、大体そんな感じ」

「ふーん……」

 

 二度、三度、紅茶に口をつけながら彼女は唸る。その瞳は未だ先生を疑っていたが、一応の納得は見せていた。先生はこれ以上は何も出て来ないと、自分用に入れたカップを掲げながら笑みを零す。

 

「まぁ信じますけれど、先生は――」

 

 ピコン、と――ユウカの声を遮る様に、不意に電子音が鳴った。音の発生源は先生のタブレット。音に釣られるようにしてユウカが先生のタブレットに目を向ければ、そのディスプレイに『来客』の文字が表示されている。

 

「来客通知?」

 

 思わず声を上げると、先生がローテーブルに置かれていたタブレットを拾い上げ、通知を開く。

 

「もしかして、今日は誰かに日直を?」

「いや、今日は特に誰にも頼んでいない筈だけれど――」

 

 念の為スケジュールを確認するも、今日は特に日直が指定されていない。そうこうしている内に扉がノックされ、向こう側からくぐもった声が響いた。先生が何かを口にするより早く、勝手知ったるとばかりに扉が開き――。

 

「先生、居る? 少し話があるのだけれど――」

 

 現れたのは、その矮躯に見合わぬ貫禄と羽を携えた少女。身の丈はある重機関銃を担ぎながら、器用に扉を潜って見せる。そして顔を上げた所で、先生の対面に座るユウカと視線がかち合った。二人の特徴的な瞳が交わり、互いが驚きの表情を浮かべる。

 

「ん?」

「え?」

 

 数秒、時間が止まった。

 そしてお互いの存在を認識した彼女達は。

 

「確か、ミレニアム・セミナーの……」

「貴女は、ゲヘナ風紀委員会の……」

 

 ヒナの指がユウカを指す。

 そして彼女は、どこか淡々とした口調で云った。

 

「――冷酷な算術使い」

「は?」

 

 ■

 

「まさかゲヘナの風紀委員長までシャーレに所属しているなんて……」

「先生には随分迷惑を掛けたし、ゲヘナ側としても、私個人としてもメリットのある話だった、ただそれだけ」

 

 ソファに腰掛け、対面する二人。両名の手には先生の淹れた紅茶が握られており、ヒナはその香りを楽しみながらちびちびと口に運んでいた。普段はアコの淹れる珈琲を愛飲している為、紅茶は新鮮で――これはこれで悪くない、と内心で頷く。

 そんな彼女の様子を見つめながら、ユウカは興味深そうに問い掛ける。

 

「……という事は、他の風紀委員会もシャーレに所属を?」

「今のところは私と、チナツという救護担当の子だけね」

「本当は皆所属してくれたら嬉しかったんだけれどね」

 

 先生が苦笑を零しながらそう口にすれば、どこか胡乱な目をしたヒナがハッキリとした口調で告げた。

 

「――わんわんプレイを皆の前でするわ、生徒の足を舐めるわ、あれだけ好き放題すればそうなるのは当然だと思う」

「………」

 

 ――時が止まった。

 そう先生が感じてしまう程に、冷たい波動が直ぐ横から放たれていた。

 先生は握ったマグカップを震わせながら、必死に顔を逸らす。しかし、先生にとっての死神は低く、唸るような声で問いかけて来た。

 

「――先生?」

「違う、どうか話を聞いて欲しい」

「聞いた結果、私の結論は変わりますか?」

「……それでも、足掻く事を止めちゃいけないと先生は思うんだ」

 

 諦めない事を、先生は貫いてきたのだ。

 だからこそ、先生はどんな絶望的な場面でも決して膝を突かない。ユウカはローテーブルにそっとカップを置くと、一度その冷たい重圧を引っ込め、淡々とした口調で続けた。

 

「ならお聞きしましょう、事実のみを述べて下さい――わんわんプレイというのは?」

「生徒との交流の一環で、ごっこ遊びと云うか――」

「ウチのアコ行政官に首輪を付け、四足歩行させた状態でとても楽しそうに執務室をぐるぐると歩き回っていた、傍から見ると奴隷と飼い主って感じで、先生はその時素晴らしい笑顔だったわ」

「………」

 

 声はなかった。

 ただ隣から放たれる重圧と冷気が一気に増した気がした。先生の膝が震度四を突破しそうになっていた。しかし、真の大人は狼狽えない。なんたって先生は、先生なのだから……!

 

「……足を舐めた、というのは?」

「……頂いた紅茶が、その、傍に居た生徒に跳ねちゃって、咄嗟に――」

「先生に事故で傷を負わせてしまったウチの生徒に対して、『あの時の傷がッ、凄く痛むんだ……イオリの足を舐めたら治るかもしれない……ッ!』って叫んで、断られる度に大袈裟に傷が~、傷が~って叫んで、最終的に地面に這いつくばりながら『やだやだ! イオリの足舐めさせてくれなきゃやだ~!』って子どもみたいに駄々を捏ねて、結局生徒側が折れて先生は楽しそうに彼女の足を舐めていた」

「………」

 

 先生は観念し、そっとローテーブルにマグカップを置いた。何かの事故で中身を撒き散らす事だけは回避しなければならないと思ったのだ。両腕をフリーにし、先生は固唾を飲む。今から何を口にしても、助かる未来が見えなかった。アロナの演算も経験もなしに未来を予知するとは、自分も中々捨てたものではないなと内心で思う。それは確定された未来だった。

 

「……何か弁明はありますか?」

「違う、私はやっていない」

「なら、彼女の言葉は嘘なのですか?」

「――ヒナが嘘を吐く筈がないだろう!? 良い加減にしろッ!?」

「じゃあ、先生はゲヘナ風紀委員会でわんわんプレイをやったし、足も舐めたんですね?」

「………はい」

 

 先生はそこで、漸くユウカを真正面から見た。そこにはまごう事なき般若が居た。

 文字通りの鬼だった。冷酷な算術使いというより、憤怒の剛拳使いだった。先生はそっと席を立つと、静かにユウカの前に立つ。両肩を圧し潰さんと放たれる重圧に耐えながら、先生はユウカの前で綺麗に膝を折り、恐る恐る問いかけた。

 

「――ユウカ」

「何でしょう、先生」

「土下座したら許してくれる?」

「……ははっ」

 

 返答は、乾いた笑いと恐ろしいプレッシャーだった。

 

 ■

 

 ところ変わってシャーレ、エレベーター内。

 それなりに大きく、整備も清掃も行き届いた箱の中で、ヒナとユウカの二人は並び一階への到着を待っていた。体に圧し掛かる僅かな重力を感じながら、互いに頭上にて輝くランプの光にのみ注目している。

 

「………」

「………」

 

 二人の間に会話はなかった、同じタイミングで席を立ち、オフィスを後にした後、シャーレから退館するに辺りこのエレベーターを利用するのは自然な流れだった。

 不意に、沈黙を守っていたユウカが問いかける。

 

「……あんな駄目な大人の、何処が良いんですか?」

「……その言葉、そっくりそのまま返してあげる」

 

 再び、沈黙が下りた。

 そして、殆ど同時に溜息が漏れた。

 それと同時にエレベーターが一階へと到着し、扉が開かれる。

 

「あっ」

「ん?」

 

 その扉の向こう側に、予想していなかった人影があった。銀髪の少女とくすんだ金髪の少女――シロコとヒフミの両名。特に反応を見せたのは、シロコとヒナの二名だった。少なくない因縁のある二人は、互いの姿を認めた途端、その瞳を細める。

 

「……ゲヘナの」

「アビドス――」

 

 暫くの間、無言で二人は見つめ合う。

 そんなヒナとシロコを、疑問符を浮べながら見守っていたヒフミは、一向に動こうとしないヒナとユウカに向けておずおずと口を開いた。

 

「えっと、私達、その、先生に用事があるのですけれど……」

「――そうね、邪魔したわ」

 

 彼女の言葉に、ヒナは足を動かす。ユウカも何やら異様な雰囲気に目を瞬かせたものの、ヒナに続く形で足を動かした。エレベーターを降り、脇を抜けて出入口へと進む彼女の背に向けて、シロコは声を上げる。

 

「待って」

「……何?」

 

 シロコの呼びかけに足を止め、背中越しに振り返るヒナ。

 シロコはそんな彼女に向けて小さく頭を下げると、確りとした声色で告げた。

 

「あの時は、助けてくれてありがとう、病院では会えなかったから、ずっと云いたかった」

「………別に、アビドスには借りがあった、それを返しただけ」

「ん、そっか――そっちの人も見覚えがある、その制服、ミレニアムの生徒だよね?」

「え? えぇ、そうだけれど……私は早瀬ユウカ」

「砂狼シロコ――ユウカも、あの時はありがとう」

 

 シロコはユウカにも礼を告げ、静かに頭を下げる。

 そんな彼女の姿にユウカは目を瞬かせながら、どこか面映ゆいとばかりに手を振った。

 

「別に、ほら、私は先生に頼まれたから来ただけだし……」

「それでも、私達は助かった」

 

 あの状況、思惑はどうあれ、例えアビドスの為でなくとも、結果的に自分達を救ってくれた事には変わりない。シロコは深く感謝していた。それが伝ったからこそ、ユウカはどこか居心地が悪そうに肩を竦ませる。

 

「これからはシャーレ所属の仲間として、よろしく」

「……えぇ」

 

 聞き届け、シャーレを去っていく二人。

 その背中を見送りながら、シロコはただじっとその場に佇んでいた。同じようにユウカとヒナの後ろ姿を見つめながら、ヒフミは隣の友人に問い掛ける。

 

「えっと……お知り合いですか?」

「ん、ゲヘナ風紀委員会の委員長」

「ゲヘナ風紀委員会って――え、えぇ!? 今の方、ヒナ委員長ですかッ!?」

 

 キヴォトスの生徒ならば大抵名前を知っている、そのビッグネームの登場にヒフミは驚愕の声を上げる。

 それを背中に、シャーレを退館したヒナとユウカもまた言葉を交わしていた。

 

「……知り合いだったのね」

「えぇ、アビドス高等学校とは色々あったから」

「あの子が――」

 

 アビドスという単語に反応し、ユウカは背中越しに扉の向こう側に立つシロコを見つめる。透明な硝子扉越しに見える銀髪、あの事件の際に遠目で確認する事はあった。先生が負傷し搬送された時は何やかんやで言葉を交わす暇もなく、先生が入院中も同上。

 改めて認識したアビドスという存在に、ユウカはその名を舌の上で転がした。

 

「先生が身を挺してまで守った学校――アビドス」

 

 ■

 

「ん、先生、いる?」

「お、お邪魔しまーす……」

「――あぁ、いらっしゃい」

「あ、先生――ど、どうしたんですか、そのほっぺ!?」

「先生、頬が真っ赤だよ」

「あはは……その、なんだ、ちょっと、家庭内暴力にあってね?」

「家庭内……」

「暴力……?」

 

 ■

 

 時刻は夜、皆が帰った後のシャーレ。

 業務が粗方片付き、漸く一息吐いた先生はシャワーを浴び、汚れと疲労を抜き取りながら閉館したシャーレ廊下を一人歩いていた。夜の締め切ったシャーレは酷く静かで、生徒達の喧騒と光の消えた白い室内は、何とも妙な不安感を煽る。

 

「ふぅ――……」

 

 濡れたタオルを首に掛け、生乾きの髪を掻き乱し、エレベーターで向かう事の出来ないシャーレ最下層――クラフトチェンバーエリアへと立ち入る先生。クラフトチェンバーはシャーレの誇る最高機密の一つに分類される為、道中には幾つものセキュリティチェックが存在する。シャーレの電源が落ちている場合は無力だが、一度アロナの手が加われば無類の堅牢さを誇る。

 階段を降り、ひんやりとした空気の流れる地下空間へと踏み込めば、薄暗い照明と、クラフトチェンバーの放つ青白い光に満たされた部屋が先生を出迎える。

 その光を見渡しながら、小脇に抱えたタブレットに向かって先生は呟いた。

 

「――アロナ、クラフトチェンバーを」

『はい、先生』

 

 答えは明瞭だった。その声に呼応するかの如く、閃光と風圧が先生の頬を撫でる。クラフトチェンバーの前に現れたのは、箱詰めされた複数のシート――保護膜。

 シャワーを終えたばかりの先生の体は保護膜を既に剥がしており、シャーレを閉館扱いとしたのもこの為だった。保護膜を全て取り払った先生は肌をタオルで丁寧に拭いながら、保護膜を一枚摘み、フィルムを剥がす。摘まめるそれは薄く、触れても殆ど違和を与えない。人間の皮膚そのものだった。

 

『保護膜の生成は今回で二十枚、これで全部です』

「……毎度面倒なものだね」

 

 呟き、服を脱ぎ捨てる。薄手のシャツの下から顔を覗かせる大量の傷痕。それを見下ろしながら、先生は思わず吐き捨てた。

 

「我ながら、失った手足は元に戻るのに、傷は刻まれたままというのが何とも――私らしい」

『先生……』

「肉体は魂の器……どれだけ綺麗に見えても、魂そのものが変質していれば肉体にも影響を及ぼす――正しく、彼女と同じだ」

 

 先生が脳裏に描くのは、自身を追い、世界を薪とした銀の少女。

 指先で古傷をなぞる。それは、憶えているものもあれば、憶えていないものもある。それは先生が忘れているとか、そういう事ではない。文字通り――先生の記憶に存在しない傷跡だった。

 しかし、記憶はなくとも、魂は憶えている。

 正確に云えば今の先生が記憶せず、『体験した時間』――それを魂は記録し、再現していた。だからこそ、先生の体には夥しい傷が刻まれているのだ。これは一度、二度繰り返した程度で刻まれる量ではない。文字通り気が遠くなる程の、先生の『記憶にない記録』そのものだった。

 先生の知らない生徒達の記憶――それを憶えていない事が、本人にとってはどうしようもなくもどかしく思う。

 

「……私の立つ場所を忘れるなという戒めなのか、或いは意図せず生まれる物なのか、どちらにせよ、見られたものではないね」

 

 呟き、目を伏せる。

 傷は、失敗の証でもあった。この傷の数だけ、恐らく自分は生徒に涙を流させ、悲しませ、失敗して来た。失敗から目を逸らしたい訳じゃない、ただそれをまざまざと見せつけられた時、その時に浮かべたであろう生徒達の表情と感情を察し、胸を掻き毟りたくなる衝動に駆られるのだ。

 自分は未熟だ――どうしようもない程に。

 

「………」

 

 先生は保護膜を腕に貼り付けながら、新たに増えた傷跡に触れた。肩、腕、足――ベアトリーチェに穿たれた傷跡は、抉れるような形で銃創を残していた。弾頭が無かったのが幸いだった、神秘を凝縮したソレは、先生の体内で神秘が溶け落ち、弾丸摘出の手間を省いてくれていた。

 特に肩の傷は、もう数センチずれていたら肩が上がらなくなるかもしれなかったと聞き、驚いたものだ。しかし、ある意味その程度で済むのならば安い方だろう。手足は動く、目も耳も使える、臓器を喪った訳でも、四肢を捥がれた訳でもない。この程度、先生にとっては呆れるほどに軽傷だった。

 

「ん……」

 

 剥がしたフィルムをデスクに放り、ベアトリーチェに撃ち抜かれた銃創を保護膜で覆いながら気泡が生まれない様に指先で丁寧に表面を整える。続けて両足に保護膜を貼り付け、最近は何があるか分からないし、一応全身に保護膜を貼っておこうと次のフィルムを剥がしたところで、ふと背中側に貼る為の手順を思い出した。

 

「っと、背中は……」

「そこは(わたくし)が――」

 

 真後ろから声が響いた。

 予想だにしなかった声に思わず先生の肩が跳ね、慌てて振り向く。

 そこには見慣れた狐面を被った和服姿の少女が悪びれもせず立っていた。

 

「……ワカモ?」

「――えぇ、あなた様のワカモです」

「おじさんも居るよ~」

「ホシノまで……!」

 

 ワカモの直ぐ傍には、いつも通りぐでっとした様子のホシノも。ひらひらと手を振って見せる彼女の存在に驚きながら、先生は思わず目を瞬かせる。シャーレは既に閉館していた、一応生徒達に何かがあった時の緊急時用出入り口もあるにはあるが、まさかクラフトチェンバーが保管されているこの部屋までやって来るとは思わなかったのだ。

 

「うへ、オフィスに居なかったからさ、あちこち探したよ」

「あなた様の行動パターンは把握しておりますので、私は直行出来ましたが」

「おじさんはその後を付いて来たのさ~」

「いや、一応今は閉館している筈なのだけれど……」

「細かい事は気にしな~い」

 

 そう云ってホシノは先生の傍に駆け寄り、手に持っていた保護膜を取り上げる。あっ、と先生が声を上げるより早く、彼女はフィルムを剥がして先生の背中に回り込んだ。

 

「これ、背中に貼れば良いの?」

「あー……うん、まぁ……そう、なのだけれど」

「りょ~かい、じゃあ右半分はおじさん担当で」

「ふぅ……仕方ありませんね、左半分で妥協致しましょう」

「ワカモ、いつの間に……」

 

 先生の脇には、既に保護膜を両手に備えたワカモが堂々と立っていた。背中側はひとりで貼り付けるのが大変で、時間も掛かる為、先生はそれ以上何を云う訳でもなく二人に身を預ける。妙な感じだった、生徒に保護膜を貼って貰うというのは。ただでさえ、今まで隠し続けていた古傷を晒すという行為なのだから。

 

「……ところでホシノ、どうしてシャーレに?」

「んー? お昼頃、ヒフミちゃんとシロコちゃんがシャーレに来ていたでしょ?」

「あぁ、うん、来ていたね」

 

 背中の古傷に保護膜を貼り付け、四隅を指先でなぞりながら告げるホシノ。二人の指先が肌を摩る感覚がどうもこそばゆく、小さく身を捩る。するとホシノが肩を叩き、「こら、動かない先生」と軽く腕を掴んだ。

 

「うんと、それで今アビドス全員こっちに来ていてさ、トリニティとか、ゲヘナとか、対策委員会の皆で他所の自治区を色々見て回っていたんだよ、もう無理にバイトを組む必要もないし、社会勉強も兼ねてね、余裕のある内にって事で」

「成程、小旅行か、良いね」

「うへ、そんなとこ~、それで今日は自由行動の日って決めていたから、おじさんは単純に先生の顔を見に来ただけ、序に夜になっても仕事が終わっていなかったら、隣で応援してあげようかと思って」

「……手伝ってはくれないんだね」

「おじさんに書類仕事は向いてないよぉ~」

 

 そんな間延びした声を漏らすホシノに、先生は笑みを零す。確かに、彼女が机に齧りついて何かをするイメージは湧かない。寧ろソファ辺りに寝転がって、欠伸を噛み殺しながらダラダラとペンを動かしていそうだ。

 

「ワカモは何で――って、聞くまでもないか」

「えぇ、ご理解頂いている様で嬉しい限りです♡」

 

 先生の左側で、何処かぎこちなく保護膜を貼り付けるワカモ。彼女の事だから、いつどこで、自分を観察及び尾行していても驚かない。寝言で「わかも」と呟いただけで、天井裏から出現するような彼女だ。考えるだけ無駄――というか諦めの境地であった。

 

「まぁ、二人にはもう知られているし……不幸中の幸いかな」

 

 自身の保護膜に覆われた腕を眺め、先生は声を漏らす。

 これが他の生徒だったら、誤魔化すのにも随分苦労しただろう。

 不意に、先生の背中にちくりとした鈍い痛みが走った。先生が振り向くと、神妙な顔をしたホシノの顔が視界に映る。彼女の手元は見えないが、何やら古傷の一つに指を這わせているという事だけは分かった。

 

「ねぇ、先生、この胸元の傷――」

「ん? あー……」

 

 ホシノが指差した傷は、丁度左側の背中上部――貫通痕で、弾道が正しければ心臓を通っていた。先生は頭の中で言葉を選びつつ、横合いのワカモを見る。仮面で表情は見えなかったものの、どこか真剣な雰囲気を纏う彼女は、重々しく頷いて見せた。

 

「――あなた様の事なら、私は全て」

「……全く、駄目な先生だね、私は」

 

 結局、漏れ出た言葉はそんなもの。ワカモは凡そ自身の境遇を理解しているのだろう。なにせ彼女は、ベアトリーチェとの戦闘に参加していたのだから。頭の良い彼女の事だ、推測は容易な筈だった。

 先生は小さく髪を払い、額を撫でながら息を吐く。指先に感じる凹凸を擦り、静かに口を開いた。

 

「――記憶にある限り、私の、最後の死因となった傷だよ、これは」

「……………」

 

 弾頭は、左胸の心臓を穿ち、肋骨と弾頭に挟まれた心臓はそのまま圧壊。心臓を潰した弾丸はそのまま骨を砕き背中側へと貫通。正に即死、痛みを感じる暇すらなかった事だけは確かだ。そして、正確に云えば『最後の死因』というのは語弊がある。

 正しくは――『最後の死因の一つ』だ。

 先生の持つ、アレフへと到達する記憶は三つ。原初の記憶に連なる枝は、既に失われて久しい。

 

 先生の声に耳を傾けていた二人は、何か言葉を紡ぐ事なく沈黙を守った。こうしてまざまざと古傷を見せられると、それが嘘でも何でもないという事が分かる。少なくともこの、刻まれた呪いとも云える傷の数々は、先生の歩んで来た歴史そのものだった。

 その道のりがどれ程の悲しみに満ちていたか――二人には想像する事しか出来ない。そして先生はその、背負い込んだ罪悪や悲しみを、誰かに分け、預ける事を良しとしない大人だった。

 だからこそ、ワカモとホシノは決意する。

 

「――ねぇ、先生」

「ん……?」

「もし……もしもさ、この先、先生が死んじゃったら――」

 

 先生の肩口に顔を寄せたホシノは、その指先に僅かな力を込めながら、そっと呟く様な声量で云った。

 

「私も、自分のヘイローを壊すから」

「―――は」

 

 思わず、硬い声が漏れた。

 それは、完全に先生の意表を突いた奇襲だった。先生がホシノの方を振り返ろうとするも、回された腕が先生の首元を固定し、彼女の顔は伺えない。ただ、僅かな衣擦れの音と、彼女達の吐息の音だけが聞こえていた。ホシノの腕と、ワカモの腕が先生を捉える。まるで獣のように、その力は強く、ビクともしなかった。

 

「……そっちだって、その気でしょ?」

「……そうですね、概ねは」

 

 ホシノに水を向けられたワカモは、同じように先生の傍へと寄り添ったまま肯定の言葉を返す。その事実に、先生の心臓が早鐘を打った。それは照れや歓喜等という正の感情ではない――正しく、焦燥や動揺と云った負の感情だった。

 ヘイローを、壊す。

 それはこのキヴォトスに於いて『死』を意味する。正しく彼女の言葉は、自身が死亡した場合は後追いをするという宣言そのもので、そんな事を認められる筈もない。血が、凍る様だった。恐怖と困惑だけが、胸中に渦巻いていた。

 

「あなた様のいらっしゃらない世界に、価値など在りませんもの」

「っ……待ってくれ、それは――!」

「うへ、云いたい事は分かるよ先生、でも私達の云い分も聞いて欲しいなぁ」

 

 先生の声を遮り、ホシノとワカモは先生の肩へと伸ばした腕を外す。ゆっくりと、緩慢な動作で振り向けば、いつも通りの笑みを浮べたホシノと、狐面を半分ズラしたワカモの顔が見えた。二人の視線は真っ直ぐ先生を射貫き、その表情は穏やかですらある。酷く透明で、落ち着いた様子の二人に、焦燥感ばかり募る己が酷く間抜けに思えた。

 そんな先生に微笑みながら、ホシノは云う。

 

「――多分、私は、先生が死んだ後に生き残っても、あの黒いシロコちゃんと同じ道を辿るよ」

「ッ……!」

 

 その言葉の衝撃は、先生の胸を貫いて余りある。

 それは先生の飾らぬ、どこまでも深く歪んだ表情が物語っていた。そんな顔をさせてしまった、その事実を真正面から受け止めながら、ホシノは言葉を続ける。先生の脳裏に、自身へ銃口を向ける銀狼の姿が浮かんだ。

 

「先生を生き返らせるために、或いはもう一度会う為に、アビドス以外の全部犠牲にしても、その時の私は多分、許容できちゃうんじゃないかなぁ……」

「私は、世界全てを犠牲にしても構いません――それであなた様を取り戻せるのなら、喜んでこの身も、世界も捧げましょう」

 

 二人の言葉に、先生は言葉を失くす。

 正しく、何を云えば良いのか分からなかった。そんな未来は想像もしたくない。その感情を良く理解しているからだろう。ホシノはどこかお道化た様に、肩を竦めて云った。

 

「……ね? こんな考え、先生は受け入れられないでしょ?」

「――そう、だね」

 

 声を絞り出す。当然だ、受け入れられる筈がなかった。

 あんな、罪悪を背負う生徒を増やす結末など、先生は到底受け入れられる筈がない。俯き、目を閉じる先生に手が伸びる。ホシノと、ワカモの手だ。細く小さな両の手は先生の頬を優しく包み、その双眸が二人の顔を真正面から射貫いた。

 見上げた彼女の顔は、何処までも優しげだった。

 

「だから、『終わらせる』んだ――そんな世界が生まれない様に、そんな選択肢が取れない様に……そういう意味で、ワカモちゃんとおじさんは同じなんだよ」

「ふぅ……私、もう十八歳ですので、ワカモで結構ですよ」

「うへ、同じ三年生だったか、こりゃ失礼」

 

 破顔し、頬を掻くホシノ。泰然としたまま、ただ真っ直ぐ先生を見つめるワカモ。

 そんな二人を見上げながら、先生は深く息を吐き出した。

 何を云っても――変わるまい。

 その意思だけ、その覚悟だけは確かに云える事だった。

 本当ならば咎めるべきだ、何をしてでも改心させるべきだ。けれど彼女達の瞳を正面から、真っ直ぐ見つめた時。先生は本当に、何も云えなくなった。彼女達の瞳が、死に往く自分を抱えた、彼女達の瞳に余りにも似ていたから。その意思の強固さを、先生は良く――身を以て知っていた。

 

「――なら……精々死なない様に、足掻かないとね」

「うん、お願い」

 

 あらゆる感情を孕んだ呟きは、思いの外部屋に響いた。

 再び背を向け、丸まった背中に手を当てたホシノは云う。

 

「ねぇ、先生」

「うん」

「――これは呪いだよ」

 

 先生の中に、微かな痛みが走る。

 ほんの僅かに、痕が残る様な。数滴血が流れる様な傷。傷は、直ぐに保護膜に覆われ、見えなくなる。けれど一度保護膜を剥がせば、明確な傷跡として先生に刻まれるだろう。

 耳元に口を寄せ、呟くホシノの手は、悲しい程に暖かかった。

 

「おじさんから先生へと渡す、私が、生まれて初めて自分自身で決めた――消えない呪いだから」

「……あぁ」

 

 霞む様な、小さな頷き。

 先生は自身の両手をぐっと握り締め、告げる。

 

「忘れないよ、ずっと」

 


 

 次回、エデン条約編。

 その内、ゲヘナ風紀委員の執務室でアコと散歩したり、イオリの前で駄々こねる話を書くかも。

 

 先日はクリスマスでしたわ~~! 先生の生誕祭ですわ~~! おめでとうございますわ~~~! まぁだからと云って何がある訳でもないし、何が変わる訳でもないし、私はひとりで黙々とPCと向き合いこんな小説を書いている訳ですが空からサンタさんがやって来て私に五千兆円プレゼントしてくれる事を願ってやまないですわ。あ、ガチャ石でも結構ですことよヨースターさん!

 

 まるで、この人は私のものだと主張するかのように傷つける展開すこ。本当に大事な存在なら傷つける事なんて言語道断の筈なのに、信頼や好意、執着が振り切れると、「目に見える形」で大切なものに自分を刻みたくなる。それが相手の負担になったり、単なる自分の欲を満たす為だけの我儘な独占欲の発露だと理解していても、それを笑顔で受け入れる先生を見て性癖捻じ曲げて欲しい。先生は何でも受け入れるよ、生徒全肯定マシーンだからね。だから安心してずぶずぶに沈んでいってくれ生徒のみんなッ!

 エデン条約編の前に、爽やかで明るい日常アニメばりの一コマを見て頂いて、透き通るような読了感を得て貰いたくて……。

 大丈夫でしてよ、これは紛れもなく透き通るような世界観で送る学園×青春×RPGのブルーアーカイブですもの。ただちょっと私の趣味趣向で生徒が先生に向ける愛が重くてドロドロしていて、また先生も生徒に向ける愛と信頼が万里の長城位重くてデカイだけですので。

 んほ~、生徒の為に命を投げ捨てることなくクッソ無様に足掻いて血塗れになって生徒の前で這い蹲って下さいませ先生ぇ~~!

 

 本当はね、エデン条約前に夏イベのアビドスで海へレッツゴー! を書こうかとも思ったんだ。でも、アビドス編終わったばかりなのに、「そんなに早くヘリ買えるお金溜まる?」、「そもそも季節的にどうなん?」、「それやったらまた二十万字くらい必要になるんじゃありません?」と思い立ち、踏みとどまりました。わたくしはかしこいのです。因みにこの少し後に先生とアビドスはバカンスに赴いて、古傷を隠す為にパーカーで上半身をこそこそ隠す先生が見られたとかなかったとか。一応防水性だけれど何かの拍子に剥がれたら生徒が悲しんじゃうもんね、仕方ないね。

 

 先生の懐からぽろっと一枚の写真が落ちて、見知らぬ女性が映っていたそれに、「先生、この方はどなたですか?」って聞いたら、「あ、私の奥さんだよ」って云われた時の生徒の表情を見てみたい。

 もしくは記憶喪失になった先生に、「私と先生はお付き合いをしていたんです」って最初に云った生徒が居て、記憶が無くなっても生徒の事を信じる先生はその言葉を鵜呑みにして、いちゃ♡らぶする生徒と先生の姿に、他の生徒も、「わ、私も先生と付き合っていたんですよ!?」って続いて、私も私もとなった挙句、もしかして記憶をなくす前の自分はとんでもない屑だったのかと邪推して首吊って死んで欲しい。

 或いは本当に複数の生徒と関係を持っていた先生が記憶喪失になって、「私は先生の彼女でした」って生徒が何人も出てきて、先生は戸惑うし、他の生徒は、「先生が記憶を失くした事を良い事にデタラメを云っている、私こそが先生の本当の彼女」って確信していてドロドロの修羅場になっているところとか見てみたい。私の先生がそんな事するわけないだろう!? 良い加減にしろッ!? でも先生の為に争う生徒を見ていると、「あ~、先生愛されているねぇ~」ってちょっと心が温かくなる、しかし生徒が傷ついてしまうのでそのやり方は推奨出来ない。やはり先生の手足を捥ぐのが一番心痛くないし、実用的で効果が抜群なんだ。私は詳しいんだ。

 エデン条約編は補習授業部が稼働する辺りまではストーリープロット書きましたわ。皆さんもそうだと思いますが十二月はクッソ忙しいですわ、地球さんちょっと爆発してみません事? アツコに「冗談じゃないから、困っても良いよ?」って云われてぇ~!

 大丈夫です、安心して下さいまし、私は例えどれだけ困難であろうとも、一歩ずつだろうとも前進してみせますわ。その道がどれだけ険しくとも、エデン条約編にどれだけの文字数が必要なのか分からなくても――諦めなければ、夢は叶うのですから!

 この苦難の先に、手足を喪って血塗れの先生が無様に藻掻く最高に素晴らしく、幸せな未来が待っているというだけで、私はどれだけでも頑張れる気がするのです! 

 待っていて下さい先生! 今、書きにゆきます!

 

 ――………書けば出る! 書けば出る! 書けば出る! 書けば出る!

 出る筈なんだ、出なきゃおかしい、和服! 着物! 晴れ着ッ! ゲヘナッ! 美食研究会ッ! ブルアカを始めて初めての年越し……ッ! 回せ回せ回せッ! うわあああぁアアアアアア最低保証ぉおおッォオオッ! 何度、このッ、青を私に見せつければ気が済むんだァッ!? この後アニバも待機しとるんだぞ畜生ァ! ああアアァァァア! 石、石がとけりゅうう! 着物ハルナ、晴れ着ハルナ、和服ハルナぁアアアアッ! どヴぉじでごんないじわるずるのぉおおオオッ! ガチャ石さん生えて来てね! 直ぐで良いよッ! 石さんは生えてきませんでしたァ!(憤怒)

 

 アビドス編完結が十二月四日で、今日が十二月二十九日。まだ一ヶ月は経過していませんが、目に見えてガチャ結果が渋くなりました。私がアビドス編で積み重ねたブルアカへの功徳は、既に使い果たしたのですか?

 やっぱり神様なんていなかったね。

 うるせぇ! もう一回積み上げるんだよぉ! うぅ……頑張って先生血塗れにするとこみてて……。

 



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エデン条約編 前編
陽は沈み、星は堕ちる。


十二月二十九、三十と連続更新ですので、前話読み飛ばしにご注意下さい。


 

 この生き方を、後悔しない覚悟があった。

 これから先、どれだけの苦難と呪いを背負おうと、そう在り続ける意思があった。

 この歩みを、止めるつもりはない。

 生徒の悲鳴と慟哭、救えなかった無数の光で紡がれたこの歩みを、止める事は許されない。

 

 ――だから先生は、今も後悔していない。

 

 ただ、唯一絶対だと信じるこの決意が。

 今、この瞬間、絶対であった筈の意思が。

 いつか時と共に色褪せてしまう事だけが。

 

 少しだけ――怖い。

 

 ■

 

「――つまるところ、エデン条約というのは『憎み合うのはもうやめよう』という約束だ」

 

 夜空に、声が響く。

 星々が世界を彩る、夜を天蓋としてトリニティ総合学園を一望出来るテラス。ティーパーティーの集う、トリニティの秘奥。そのテーブルに、一人の生徒と先生が座っていた。互いの手元には紅茶が一杯、長いテーブルは二人の距離を物理的に離し、だというのに声はこれ以上ない程明瞭に聞こえている。

 対面に座る少女は紅茶の香りを楽しみながら、云う。

 

「トリニティとゲヘナの間で、長きにわたって存在してきた、確執にも近い敵対関係、そこに終止符を打たんとするもの、互いが互いに信じられないが故に、久遠に集積していくしかなかった憎悪を解消する為、それに代わって新たに信頼を築き始めようとするプロセス」

「つまりは……ゲヘナとトリニティの平和条約」

「けれど、連邦生徒会長の失踪をきっかけに、この条約は何の意味も持たなくなってしまった、何せ仲介し、立ち会う張本人が居なくなってしまったのだからね」

 

 一口、紅茶を口に含んだ少女はそっとカップをソーサーに戻す。ゆっくりと指先を組んだ彼女は、その亜麻色の髪を靡かせ静かに呟いた。

 

「――エデン、それは太古の経典に出て来る楽園の名、そこにどんな意味を込めていたのかは分からないけれど、まぁ連邦生徒会長のいつもの悪趣味だろうね」

「キヴォトスの七つの古則は御存知かな? その五つ目は、正に楽園に関する質問だった」

「楽園に辿り着きし者の真実を、証明する事は出来るのか――他の古則もまたそうであるように、少々理解に困る言葉の羅列だ、ただ、ひとつの解釈としてこれを『楽園の存在証明に対するパラドックス』であると見る事は出来る」

「もし楽園というものが存在するならば、そこに辿り着いたものは至上の満足と喜びを抱くが故に、永遠に楽園の外に出る事はない――もし楽園の外に出たのであれば、つまりそこは真の悦楽を得られるような『本当の楽園』ではなかったという事だ」

「であるならば、楽園に到達した者が、楽園の外で観測される事はない、存在を捕捉されうる筈がない――到達した者を観測できたのなら、楽園は存在するが、真の楽園とは云えない事が証明される、しかしそもそも観測すら出来ないのであれば、楽園はあるのかもしれないし、ないのかもしれない……」

「――存在しない者の真実を証明する事は出来るのか?」

 

 少女の双眸が、対面に座る先生のそれを射貫く。

 酷く真剣で、イノセントで、けれど僅かに揶揄う様な色が含まれたそれ。先生は何も答えず、沈黙を守る。少女はややあって、先生が何も答えずにいる事を確かめると、静かに肩を竦め続けた。

 

「……つまるところ、この五つ目の古則は、初めから証明する事ができない事に関する『不可解な問い』なのだよ……しかし、ここで同時に想う事がある、証明できない真実は無価値だろうか? この冷笑にも近い文章を通じて、何か真に問いたい事があるのではないだろうか?」

「エデン……経典に出て来る楽園、どこにも存在せず、探す事も能わぬ場所――夢想家たちが描く、甘い甘い虚像」

「どうだい? そう聞いて見ると、このエデン条約そのものが、まさしくそんなものの様に思えてこないかい?」

 

 微動だにしない先生に、少女は問い掛ける。

 そして両の指を静かに組んだまま、穏やかに、そして優し気に口を開いた。

 

「――先生」

 

 声は、夜空に良く響いた。

 静かで、囁く様な声量だったというのに、はっきりと、明確に声が先生の鼓膜を打つ。

 

「もしかしたらこれから始まる話は、君のような者には適さない、似つかわしくない話かもしれない」

「不快で、不愉快で、忌まわしく、眉を顰める様な――相手を疑い、前提を疑い、思い込みを疑い、真実を疑う様な」

「悲しくて、苦しくて、憂鬱になるような……それでいて、唯々後味だけが苦い……そんな話だ」

「しかし同時に、紛れもない真実の話でもある」

「だから――どうか背を向けず、目を背けず、最後の『その時』まで、しっかり見ていて欲しい」

 

 少女が、そっと目を伏せる。

 そして再び顔を上げた時、その表情には確かな意思が込められていた。

 

「それが先生……【この先】(この未来)を選んだ、君の義務(罪悪)だ」

 

 その声に、言葉に――先生はそっと頷いて見せる。

 それ以外に、選択肢はない。

 ただ、痛烈な覚悟のみを秘め。

 彼はこう答えるのだ。

 

 ――私は、先生だからね、と。

 

 ■

 

 補習授業部、教室。

 立ち並んだ机に、【補習授業】の文字が書かれた黒板。その左右には生徒達の描いたものであろう、落書きらしき猫とペロロ様が彩られ、教卓に座し静かに書類を進めている先生は、時折生徒達の方を一瞥しながらも仕事を淡々と処理していた。

 トリニティらしい煌びやかな内装と、同時にどこか時代を感じさせる木製の机、そこに座る四人の生徒。彼女達の手元には複数枚のプリントが鎮座しており、思い思いの様子でそのプリントと格闘している。

 しかし、その静かな時間は――不意に、生徒の一人が立ち上がる事で終わりを告げた。

 

「――もう嫌っ!」

 

 叫び、机を叩きながら立ち上がったのはピンク色の髪に、小柄な体格の少女、コハル。ペンを机に放り投げ、何度も首を横に振りながら彼女は訴える。

 

「こんな事やってらんない! わかんない! つまんない! めんどくさいッ! ――それもこれも、全部先生のせい!」

「えぇ……私ぃ?」

 

 急な癇癪に目を見開き、同時に責任転嫁された先生は今しがた操作していたタブレットを手放しながら、怪訝な声を上げる。また私、何かやっちゃいました? とばかりのとぼけ顔を晒す先生に、猫目の様な瞳を向けるコハル。

 しかし、そんな彼女を窘める生徒がひとり。

 

「もう、コハルちゃん、そんな無茶苦茶な事を云ったら先生が困ってしまうでしょう?」

 

 そう云って立ち上がったのは、彼女の後ろの席に座していたハナコ。コハルと同じ髪色を持ちながら、しかしその体格と性格は反対。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ体型。どこかはんなりとした口調に、温厚な笑みを浮べながらコハルの肩をそっと叩いた。

 

「あくまで先生は私達を助けるために来て下さっているんですし、そもそも勉強が分からないのも試験に落ちたのも、先生ではなくコハルちゃん自身のせいですし――……」

「うぅッ……!」

 

 叩き込まれる正論の力。それに反駁する術を持たないコハルは、瞳孔を縦長にしたまま苦しい言い訳を並べ立てる。

 

「わ、私は正義実現委員会の一員だから! それで、授業に出られない事が多くてっ……そう、そのせいなの!」

「それは他の正義実現委員会のメンバーも同じだ、でもここにいるのはコハルだけ」

「………」

 

 そして、続けて投げかけられた白い小さな翼を持ち、透き通る様な白髪を持つ少女――アズサの言葉に今度こそ黙り込んだ。実際、かなりの人数を誇る正義実現委員会の中で、この補習授業部に入る事になったのはコハルのみである。その事実を突きつけられ、彼女の肩は露骨に落ちた。

 

「なるほど、つまりアズサちゃんが云おうとしているのは、唯々コハルちゃんがおバカさんだからですよ、という事で合っていますか?」

「まぁ、それも強ち間違ってはいない、仕方ないものは仕方ない、人生は往々にして虚しいものだ」

「確かに人生は苦痛の連続ですからね……そういう事もあります」

「っ、あぁもう、うるさいなぁっ!? そんな事云ったらあんた達も皆一緒じゃん!? 私が馬鹿なら此処に居る全員バカでしょバーカッ!」

「あ、あはは……えっと、それはその……」

 

 どこか吹っ切れたような、あるいはヤケクソ気味に叫ぶコハルの声に、一人黙々と勉学に勤しんでいた自称平凡な生徒――ヒフミが困ったように苦笑を浮かべる。そんな対応を見せたヒフミに稚拙な言動を行う自身を客観視したのか、更に顔を赤らめたコハルは地団駄を踏み、教室の皆を指差した。

 

「な、何も間違ってないでしょ!? 馬鹿だから此処に居るんでしょ!? あんたも、あんたもっ、あんたもッ!」

 

 順々に生徒を指差し、最後に先生を見る。そして力強く指先を立て、目の前の大人へと突き出した。

 

「――あんたもッ!」

「えっと、私は一応、先生なんだけれど……?」

「こ、コハルちゃん、ちょっと落ち着いて……」

 

 先生が困惑した様子で頬を掻き、ヒフミがどうどうとコハルを宥めようとする。しかし彼女の感情爆発が収まる事はなく、半ば涙目になりながら悔しそうに口を開いた。

 

「落ち着いてなんていられないわよ! 皆仲良く退学になりそうな、こんな状況で……ッ! もし退学になったら、せ、正義実現委員会のメンバーじゃなくなっちゃう……うぅ!」

「ふむ、私も退学になるつもりは毛頭ない、何をしてでも、例え惨めな想いをしてでも、乗り越えて見せる」

「まぁまぁ、退学になったからといって何もかもが終わりと云う訳ではありませんから、気楽にいきましょう、寧ろ……――」

「あ、あの……ッ!」

 

 各々が各々の主張を口にし、収拾がつかなくなりかけた所で、ふとヒフミが声を上げる。皆の視線が彼女へと集まり、注目される事に慣れていない彼女は一瞬たじろぐも、ぐっと後退りそうになる気持ちを堪え、言葉を絞り出した。

 

「えっと、その……こうして集まっているのは、そもそも退学せずに済むようにする為ですし、取り敢えず、今は皆で知恵を寄せ合って、何か良い方法を探しましょうよ……! でないと、一週間後には本当に仲良く全員退学――なんて事にもなりかねませんし……!」

「ふむ、知恵を寄せ合う……成程、悪くないですが、あまりぐっと来る感じではありませんね、もう少しこう、何か――」

 

 ヒフミの言葉の何かが琴線に触れたのか、どこか思案顔で唸るハナコ。そしてふと、顔を上げた彼女はとても良い笑顔で口を開いた。

 

「ここは例えば、そうですね、弱くて敏感な部分を寄せ合う、という形で如何でしょう?」

「……?」

 

 彼女の言葉に、良く意味を理解出来なかったのか、アズサが疑問符を浮べながら首を傾げる。反し、その含むところを良く理解していたコハルが顔を真っ赤にさせ、肩を怒らせながらハナコに向かって怒鳴りつけた。

 

「い、いきなり何言ってんの!? 下ネタは駄目! 禁止! 死刑! び、敏感な部分って、何をどう寄せ合おうっていう訳!?」

「あぁ、ちょっと分かり辛かったですか? では、実際にやってみましょうか、もう少しこう、足を開いて頂いて……」

「え、えっ……や、やめて! 近付かないで! 知りたくないし分かりたくもないしまだ早いからっ!?」

「えい♡」

 

 コハルは大量の汗を流しながら逃げまどい、しかしハナコは素早い動きで彼女を捕獲してしまう。そして両腕でコハルの両足を押し広げ――必死に抵抗するコハルは首を力強く横に振りながら、唯一の男性であり大人である先生に助けを求めた。

 

「や、やめっ……やめてぇっ! たっ、助けて先生ッ……!」

「――このまま眺めているのも良いか」

「ちょッ!?」

 

 涙目で助けを求めるコハルは良い文明。

 先生は穏やかな笑みを浮べながら頷き、そっと静観の姿勢を見せた。その表情は正に菩薩、悟りの極み。

 唯一の助け舟である先生が動かないと見るや否や、コハルはハナコの予想外の力に対抗しながら必死に弁明を試みる。というか何でこんなに力が強いの!? コハルは内心で叫んだ。

 

「わ、私が悪かったです先輩相手にタメ口ですみませんでした! もう許してやめてっ、それはまだ嫌ぁ~ッ!」

 

 笑顔で徐々に圧し掛かって来るハナコに、遂に泣きを入れるコハル。そんな二人を眺めながら、アズサは酷く真剣な表情で呟いた。

 

「ふむ……成程、こういう制圧術もあるのか、白兵戦で使えそうだ……勉強になった――ただ、無駄な動作が多い気がする、私ならあとツーテンポ前の段階で関節を極めている」

「――いや、アズサ、それは違う、あれは高度なフェイントだよ、態と動作を複雑化して対峙する相手に出方を悟られない様にしているんだ」

 

 先生が机に肘を突きながら、穏やかな表情で二人を見守りながら告げた。

 瞬間、アズサの表情に驚愕の雷が落ちる。そんな事、考えも付かなかったという顔だった。

 

「フェイント……っ! 成程、対峙しなければ分からない所作、というものか、実直なものばかり学んでいたが、確かに――うん、ありがとう、流石先生だな」

「ふふっ、どういたしまして、四十八手に関してはハナコから借りた書物で学んだからね、任せて欲しい」

四十八手(しじゅうはって)……それは、一体どんな近接格闘術だ?」

「そうだね、主に組技、古来より伝わる古武術の一種――かな」

「せ、先生ぇ……」

 

 アズサのどこまでも脳筋思考に、先生も悪ノリで便乗する。それはそれとして、ハナコから借り受けた四十八手目録にはちゃんと目を通した。世の中にはこんな『型』もあるのかと大変関心した程だ。まぁ、ある意味寝技には違いないし、それで相手を制圧出来るのならば古武術と云っても間違いではないのではないのだろうか。そうかな、そうかも。先生は自身に言い聞かせ、納得した。

 そんな新しい部活――補習授業部の醜態を眺めながら、ヒフミはひとり、これ以上ない程深い溜息を吐き出した。前途は多難だった、寧ろそうでない部分の方が見えなかった。

 

「このままだと、本当に……私達はみんな、退学に……」

 

 呟きはコハルの悲鳴と、アズサの四十八手古武術に対する質問の声に掻き消される。

 何故、このメンバーがこの教室に集められたのか。

 何故、『補習授業部』などと呼ばれる部活がトリニティ総合学園に創設されたのか。

 

 話の発端は、数週間前にさかのぼる――。

 


 

 こんなクソ忙しい年越し前に連続更新されるとは思いもしませんでしたの?

 あらあら、こちとら連載初期と同じように毎日更新でもよろしくってよ――?

 

 嘘ですわよ。

 毎日更新とか私の体がマッハでハチの巣で血液がマーライオンですわ。

 取り敢えず更新速度は以前の二日に一回を、もう一つ落として、三日に一回、最低限一週間に二話更新を目指しますわ。週一だと何だか寂しいし、私が先生や生徒の情緒忘れそうで怖いですわ。でも二日に一回だとエデン条約の長さを考えて結構キツそうなのですわ、マラソンは走り続けてこそ意味があるのですから、途中でガス欠になったら意味がないのでしてよ。という訳で給水所の設置は宜しくお願い致しますわねッ!? 

 今日は連続更新ですので、前回は一万五千字でしたが今回は七千行かない位ですの、少なくてごめんあそばせ。

 

 という訳で、これより新しい学園、新しい生徒による物語が始まります。

 ここから先は『エデン条約編』です。

 

 先に宣言しておきますが、このエデン条約編は前編の『アビドス編』とは比較にならない程、先生や生徒達が厳しい環境に身を置かれます。文字通り絆を結び、笑い合い、切磋琢磨し合った生徒達と先生が、その精神を削り、心を削り、身体を削り、それでも尚必死になって苦難に抗おうとするお話です。恐らくこの小説を読む大半の先生は原作をプレイ、及びストーリーを把握していらっしゃるでしょうが、原作のもう一段か、二段くらい生徒は苦しみますし、先生に関しては約束された勝利の捥ぎ捥ぎ大フィーバーが待ち構えています。うっひょ~! たまんねぇですわ~!

 ですので、どうぞ覚悟を決めてご覧ください。

 

 まぁ、本当に辛いのはエデン条約編・後編からなので、エデン条約編・前編と、前編と後編の間に挟まるバカンス編はジャブみたいなものです。そこまでは先生にも生徒にも、のんびり過ごして貰いましょう。

 光が強ければ強い程、伸びる影と闇はより深く、強固になりますものね。

 あっ、エデン条約編に必要なので、前編終わったら夏イベの「ツルギ夏休み計画」in補習授業部はちゃんとやります。整合性取れそうだったらアビドスの夏休みイベも複合してやります。整合性取れそうだったらねッ! まぁ十万字もあれば足りるだろう! ガハハッ! 駄目そうだったら? 薄い本が厚くなるなッ!

 



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誰にも負けない唯一無二の、お姫様に。

明けました、おめでとうございます。


 

「こんにちは、先生……こうしてお会いするのは初めて、ですね」

「やぁ、こんにちは」

 

 トリニティ総合学園、ティーパーティー会場、テラス。

 中央に鎮座する巨大なティーテーブル、それを彩る様々な菓子にティーポット。控えめに設置された香りのない華。それらを前に、優雅に佇む二人の生徒。淡い桃色の髪を持つあどけない少女と、どこか凛とした佇まいに確かな知性を感じさせる少女。共通点は白い翼をもつ事であり、彼女達は学び舎を同じくする友人――そして、この茶会の主催者でもあった。

 今回の茶会のホスト――ナギサはそっと頭を下げ、先生に着席を促す。その手にはティーポットが握られ、予め用意されていた先生用のカップに紅茶を注いでいた。

 

「一先ず紅茶をどうぞ、客人をもてなすのはホストの務めですので」

「……それじゃあ、一杯だけ頂こうかな」

「えぇ、是非」

 

 そうして差し出された紅茶に、先生は内心で舌を巻く。相変わらず、鼻腔を擽る芳醇な香りだった。比べるような事ではないと理解はしているが、どうしても普段愛飲しているC&Cの紅茶と比較してしまう。恐らく、自分の淹れ方の問題なのだろう。彼女達に紅茶の淹れ方を教えて貰ってから、随分と時間が経過している。C&C以外の手で淹れられた、飲む前から美味いと分かっている紅茶を口に含むのは、本当に久々だった。

 一口、そっと含む。

 途端口の中に広がる香りと、絶妙な甘さ。単純にして高貴な味。

 あぁ、美味い。世辞なしに、心の底からそう思う。

 

「では――改めまして、ティーパーティーのホスト、桐藤ナギサと申します」

 

 先生の表情で紅茶の出来は確信したのだろう。彼女は薄らと笑みを浮べたまま、自己紹介を口にした。

 

「そしてこちらは、同じくティーパーティーのメンバー、聖園ミカさんです」

「――やっほ、先生」

 

 先生の座る椅子、その横合いから顔を出す生徒。その溌剌とした笑みには酷く見覚えがある――聖園ミカ。彼女は屈託のない笑顔を向けたまま、手を振っていた。

 

「現在は私達二名がトリニティ生徒会――ティーパーティーで……ミカさん?」

「へー、これが噂の先生かぁ、あんまり私達と変わらない感じなんだね? すんすん」

 

 薄い桃色の髪を靡かせながら先生の周囲を歩き回り、傍で鼻を鳴らしたりする生徒、ミカ。その表情はどこか楽し気で、興味深いとばかりに何度も頷く。先生は特に注意する事無く、彼女の好きな様に振る舞わせていた。それは、先生が生徒本来の性格を尊重し、重んじているからだった。余程の事か生徒からの要請がない限り、生徒の思うがままに振る舞わせる、それが先生の方針である。

 

「へー、なるほどー、ふーん……うん、私は結構良いと思う! ナギちゃん的にはどう?」

「……ミカさん、初対面でそういった行動はあまり礼儀がなっていませんよ、愛が溢れるのは結構ですが、時と場所は選びましょうね」

「あー、うん、それはまぁ……確かに?」

 

 流石に自分の行動に問題があると自覚はしているのか、少しだけ気まずそうに頬を掻き、ミカは謝罪を口にした。その顔は、僅かに赤らんでいる。

 

「先生、ごめんね? 何か先生を見ていると落ち着かなくてさ……まぁ取り敢えず、これからよろしくって事で!」

「――うん、こちらこそ、よろしく」

 

 差し出されたミカの手、その絹の様に繊細で、柔らかな手を取る。奔放にして自由、一線がなく親しみやすい。しかし、それは時折無遠慮とも、考えなしとも取られ、このトリニティに於いては少々異質な存在。

 そんな彼女に対し何の含みもなく、本心からの笑みで以て応えた先生に――ミカとナギサの両名は、微かな驚愕と感心を覚えた。

 

「………」

「へぇ、ふふっ……」

 

 ミカが笑みを零し、ナギサはそっと目を伏せる。

 成程、これが先生――元々先生にお願いする立場でありながらシャーレに赴かず、態々このティーパーティーに招いたのは、自身のホームで交渉事に臨みたかったからだ。しかし、先生という存在の片鱗に触れ、ナギサは自身のそれが杞憂であった事を悟った。

 

「……トリニティ外部の方が、このティーパーティーに招待されたのは、私の記憶では先生が初めてです、普段はトリニティに所属する一般生徒達も簡単には招待されない席でして」

「へぇ、それはまた、光栄だな」

「あー、何それナギちゃんちょっといやらしい、恩着せがましい感じ~!」

「……んんっ、失礼しました、先生、そういう意図はなかったのですが――ミカさん?」

「え? あー……うん、大人しくしているね? 出来る限り、たぶん」

「……では改めて」

 

 どこか浮足立ったミカを笑顔で見つめ、それに対して目を逸らす彼女。

 こほん、と咳払いを一つ挟んだナギサは、両手をそっと膝の上で組んだまま真っ直ぐ先生に視線を向けた。先生も背筋を正し、ナギサを見つめる。

 

「――こうして先生をご招待したのは、少々のお願い事がありまして」

「お願い事、かい?」

「はい、とても大切な事です」

「おぉ~……ナギちゃん、いきなりだね!? もうちょっとこう、アイスブレイクとか要らないの? 小粋な雑談とかは? 天気が良いですねとか、昨日は何を食べたのですか、とか、そういうのは挟まないの? ほら、ティーパーティーって基本的には社交界なんだし?」

「――ミカさん……?」

 

 二人が視線を交わらせ、真剣な表情で対峙する中、未だ椅子に座る事もなくそわそわと先生の周りを徘徊するミカはあれやこれやと早口で言葉を捲し立てる。その言葉を受け、ナギサは再び彼女の名を呼んだ。

 

「そんな綺麗な目で睨んでも、これはティーパーティーとしての在り方の問題なんだからダメー! こういうのは、きちんとしないとっ!」

「ミカさん、そういった事はあなたがホストになった際に追求して下さい、今は一応私がホストですので、私の方法に従って下さいな」

「ぶーぶー」

「そのヤジはおやめなさい」

 

 先生の背中から声を上げ、拳を突き出しながら口を尖らせるミカ。トリニティの生徒としては余りにも淑女とかけ離れた態度だが、ある意味これが彼女らしいとも云える。ナギサは溜息をひとつ零しながら肩を落とし、頭が痛いとばかりに呟く。

 

「まぁ、お客様の前でこのような論争を広げるのもまた、望ましい姿ではない事は確かですね……なら、ミカさんの云う通り、少し話の方向を変えましょうか」

「あー、それなら……えっと、このトリニティだとこのティーパーティーが生徒会の役割を担っているから、ナギサが生徒会長なのかな?」

「おぉ、先生の方から空気を読んでくれた! ほら、ナギちゃん見た!? これが大人の話術だよ! 自然な会話への誘導!」

「……はい、仰る通り、私達がトリニティ総合学園の生徒会長『達』です」

 

 ナギサは最早何も云うまいと目を閉じた。目の前で先生の背中に張り付き、ヤジを飛ばす幼馴染など最初から存在しなかったのだ。そういう事にした。

 

「生徒会長達、というのは耳慣れない言葉かもしれませんね、最初からご説明しますと、トリニティ生徒会長は代々複数人で担っているものなのです」

「あれ、ナギちゃん無視? 私の事無視しているの?」

「昔、トリニティ総合学園が生まれる前、各分派の代表たちが紛争を解決する為にティーパーティーを開いた頃から、この歴史は始まりました」

「……ぐすん、ちょっと傷ついた」

「パテル、フィリウス、サンクトゥス……それらの三つの学園の代表を筆頭にティーパーティーを開き、和解への流れが生み出されたのです」

「ナギちゃんが本当に無視した、嫌がらせだぁ、ひどくない? 私達一応十年来の幼馴染だよ? こんな事今までに……結構あったかもだけれど」

「……その後から、トリニティの生徒会はティーパーティーという通称で呼ばれるようになり、各派閥の代表から順番に『ホスト』を――」

「えーん、うわーん、ひえーん、しくしく、べそべそ、めそめそ」

「――あぁ、もう五月蠅いですわねェッ!?」

「ひぇっ」

 

 バン、と。

 茶会には似つかわしくない音が鳴り響き、ティーテーブルの上に置かれていた茶器が微かに跳ねる。ソーサーとぶつかったカップが甲高い音を鳴らし、皿の上に飾られていた甘味が数秒宙を舞った。額に青筋を浮べたナギサがミカを睨みつけ、当のミカは身を縮こまらせながら先生の背中に隠れる。その表情は蒼褪めていた。

 

「今、私が説明をしているんですよ!? それなのにさっきからずっとッ!? 横からぶつぶつぶつとォッ! どうしても黙れないと云うのでしたら、その小さな口にロールケーキをぶち込みますよッ!?」

 

 そう云って皿から零れ落ちそうになっているロールケーキを指差すナギサ。先生はそれを見て、テーブルクロスを汚してしまう位なら食べちゃお、とばかりにフォークを伸ばした。自身の前に用意されていた小皿にロールケーキを取り、小さく分けながら口に頬張る。

 

「………」

「………」

「………」

 

 ナギサは怒り狂っていた。

 ミカは突然の噴火に恐れ(おのの)いていた。

 先生はロールケーキを頬張っていた。

 

 数秒して我に返ったナギサは、自身の行動を顧み、そっと浮かせていた腰を落とす。そして一つ咳払いを零し、一口紅茶を喉に流すと、いつも通りの笑みを浮べながらそっと告げた。

 

「……あら、私ったら何という言葉遣いを、失礼しました先生、ミカさんも」

「怖い怖い」

「うぉ、このロールケーキうまっ」

 

 ■

 

「……さて、そろそろ本題に入りましょうか、私達が先生にお願いしたいのは、簡単な事です」

「簡単だけれど、重要な事だよ」

「えぇ、そうですね」

 

 三人が揃って席に着き、一度ブレイクタイムを設けて空気の入れ替えを行った後。甘味を摘まみながらナギサを見て呟くミカの言葉に、彼女は頷いた。

 

「――補習授業部の、顧問になって頂けませんか?」

「……補習授業部、ね」

「はい、名前から予想は出来ると思いますが、落第の危機に陥っている我が校の生徒達を救って頂きたいのです、部という形ではありますが、今回は顧問というよりも『担任の先生』と云った方が良いかもしれませんね」

 

 部活というより、放課後に行う補講の教師役。

 顧問というよりは担任に近いという事は、そういう事だ。先生は手元のロールケーキを消費しながら、何度か頷いて見せる。

 

「トリニティ総合学園は、昔からキヴォトスに於いて文武両道を掲げる歴史と伝統が息づく学園です、だというのにあろうことか、よりにもよってこの時期に、成績が振るわない方がなんと『四名』もいらっしゃいまして……」

「私達としてはちょっと困ったタイミングで、っていうかー……エデン条約で今はバタバタしていてね? あの子達の件も何とか解決しないといけないんだけれど、人手も時間も足りなくって」

 

 そう恥ずかしそうに口にしていたミカだが、不意に席を立つと虚空に向かって拳を突き上げ、力説する。

 

「――その時にちょうど見つけたの! 新聞に載っていたシャーレの活躍っぷりを! ネコ探し、街の掃除、宅配便の配達まで、八面六臂の大活躍! このシャーレになら、きっと面倒事を任せられそうだなって!」

「それは、また」

 

 何と云う火の玉ストレート。

 先生は輝く瞳で以てそう告げたミカに対し、何とも云えない表情を浮かべた。というか挙げられた功績の殆どが何でも屋の様な扱いなのだが、それで良いのだろうか。

 

「……面倒事なんて云ってはいけませんよ、ミカさん」

「うっ! ま、まぁでも、ある意味では本当だし……それにほら、先生なんでしょ? 困っている生徒は助けなきゃ! ね? ねっ?」

「……まぁ、それに関してはその通りだね」

 

 困っている生徒は見過ごせない、それは先生としての性だ。

 云われるまでもない、先生は云われずとも手を差し伸べるだろう。

 

「今はみんなBDで学習する時代だし、学校の職員とか、教授ならまだしも、『先生』って概念は珍しいんだよねぇ~、先の道を生きると書いて『先生』――つまり、導いてくれる役割って事だよね? 尊敬の対象、或いは生きる指針としてみんなに手を差し伸べ、導く……ほら、補習授業部の顧問としてぴったりじゃない!?」

「噂では、尊敬という言葉が合うかどうかについては、意見が割れている様ですが――」

「え? あー……そうだったね、報告書によって全然違うというか、まぁこれは先生の名誉の為に何も云わないでおくね?」

 

 どこか気まずそうに視線を逸らすミカ。その反応を見た先生は凡その事態を察知し、そっと疑問を呈する。

 

「ふむ……トリニティでは特に問題を起こした記憶がないのだけれど」

「そこは――まぁ、他校の方から流れている噂などもありますので」

「情報元はゲヘナかな?」

「………」

 

 先生はフォークをそっと皿に添え、両手を組んで口元を隠す。その瞳がすっと理知的な光を帯び、ナギサのそれを射貫いた。ぐっと、無意識に彼女の背筋が伸びる。先生から放たれる空気が変わったと、そう感じたのだ。

 

「大方、私が生徒の足を舐めただの、わんわんプレイに興じただの、ある事ない事、噂として聞いたんじゃないかな」

「っ!」

 

 図星だった。

 ゲヘナから流れて来た情報の中に、先生がそのような行為に及んだという記述があったのだ。ゲヘナとシャーレに関しての情報は重要だ、どの様な些細な事でも収集しろと指示していた。最初、情報部がそのような内容を持ってきた時は、何だこのゴミの様な情報はと疑ったものだが、ゲヘナ自治区に潜伏する情報工作員からの確かな内容だと聞かされ、思わず目と耳と頭を疑ったものだ。

 しかし、その様な醜態を知られていると理解して尚、先生の態度は泰然としていた。背筋を正し、ティーテーブルの上で指先を合わせ、微笑みすら浮かべて反駁して見せる。

 

「――敵対する組織とシャーレ、その友好を阻む為、敢えて悪評を流す、倫理的な是非は兎も角、有効な手じゃないか」

「……確かに、条約前とは云えあのゲヘナであれば或いは――そのような手段も講じてきてもおかしくはありません」

「情報工作員個人に充てた噂じゃないだろう、当たれば儲けもの、その程度の噂だよ」

「えっ……えっ? じゃあ何、あの報告書の内容って嘘なの……?」

「少なくとも鵜呑みにするべきではないだろうね――君達から見て、私は生徒の足を(ねぶ)る様な人間に見えるかい?」

 

 先生はそう云って、静かに紅茶を片手に微笑んだ。

 浮かぶ笑顔は優雅に、纏う雰囲気は穏やかで理知的。

 このような人物が白昼堂々、わんわんプレイに生徒の足を舐める? ――あり得ない、馬鹿馬鹿しい嘘話だろう。先生と実際に会い、言葉を交わした今、そう断言する事が出来る。

 ナギサの判断は、酷く常識的だった。

 

「……いいえ、全く」

「なら、自分の目を信じるんだ、人を見る目というのはそうやって養われる」

 

 告げ、紅茶を一口嗜む先生。そのどこまでも大人然とした姿勢に、ナギサはほぅと息を吐いた。ナギサの中で、先生の株が上がった瞬間だ。ミカもまた、似たような視線を先生に向けていた。

 

「――成程、流石先生というべきですか、教育の仕方も見事なもので」

「ふふっ、一応、先生ですから」

「おぉ、これが大人……!」

 

 称賛の声に耳を傾けながら、先生は寛容に頷き、そっと目を閉じる。

 ――別にやっていないと否定した訳でもないし、「そういう風に見える?」と聞いただけなので、嘘は云っていない。大人は嘘つきなどではないのです、ただ少し間違いを犯すだけなのです。先生はそう自分に言い聞かせ、そっと微笑んだ。

 今度は誰も居ない時にやろう、そうしよう。

 

「――まぁ兎に角! そういう事で、今はちょっと忙しい事もあってさ、是非先生にこの子達を引き受けて欲しいの!」

「もう少々説明しますと、この補習授業部は常設されているものではなく、事態に応じて創設し、救済が必要な生徒達を加入させるものです、少々特殊な形ではありますが、急ぎという事もあり、シャーレの超法規的な権限をお借りしつつ……といった形で、ですね――色々とややこしいですが、本質はあくまで『成績の振るわない生徒達を救済する事』にあります、だからこそ、こういった形での創設が許された訳ですが……如何でしょう、先生? 助けが必要な生徒達に、手を差し伸べて頂けませんか?」

 

 二人の瞳が先生を捉える。元から返事など決まっていた。微笑んだまま先生は何の気負いもなく、粛々と頷いて見せる。

 

「私に出来る事なら、喜んで」

「やった! ありがとー先生っ!」

「……ふふっ、きっと断らないでしょうとは思っていましたが」

 

 ナギサは笑みを浮べたままそう口にし、ティーテーブルの隅に置かれていたファイルを手に取る。そしてトリニティ総合学園の校章が描かれたそれを、先生の前へと差し出した。

 

「受けて頂き、ありがとうございます――では、こちらを」

「……これは?」

「補習授業部に入部する事となる、対象の生徒達、その名簿と生徒情報です」

「つまりトリニティの厄介――」

「その表現は愛が足りませんよ、ミカさん、こう云いましょうか、トリニティに於ける『愛が必要な生徒達』と」

「……まぁ、呼び方は何でも良いけれどね~」

 

 呑気にそう宣うミカ。先生は静かにファイルを受け取り、中を覗く。挟まれていた生徒の資料は四名分、一番前に差し込まれていた名簿を手に取り、その名前をそっと目でなぞった。記載されている生徒は――先生の記憶通り、見覚えのあるものばかり。

 二度、三度、その名前を確かめた先生は一つ頷き、そっと名簿をファイルに戻した。

 

「詳細に関しましては追ってご連絡致します、他に気になる点は御座いませんか?」

「そうだな……」

 

 その問いかけに、先生は二人に視線を配り、それから空席となった四つ目の席に目を向ける。数秒、何かを考えるように沈黙を守った先生は、ややあって口を開いた。

 

「ティーパーティーは確か、三人で一つなんだよね、なら――もう一人は何処に?」

「………」

「あー……」

 

 その問いかけが、どのような空気を生み出すか位は理解していた。

 ミカはどこか悲しそうに目を伏せ、ナギサは思い詰めた表情でその色を濁らせる。

 

「セイアちゃんは今、トリニティにいないの、入院中で……」

「本来であれば、今のホストはセイアさんだったのですが……そういった事情で不在の為、私がホストを務めているところです」

「元々ティーパーティーのホストは、順番でやるものだからね」

「ん、そっか……早く良くなると良いね」

 

 呟き、先生は小さく息を吐き出す。

 ――今の反応で、知りたい事は凡そ知れた。

 未来の差異は、重要だ。

 

 少なくともこの時の先生は――そう思ったのだ。

 

「ありがとう、聞きたい事はこれで全部だよ」

「……では、準備が整い次第、先生にはトリニティ総合学園に派遣と云う形で来て頂く事に出来ればと――先生のご協力に感謝します」

「またお茶会しようね、先生! また会えるかどうかは分からないけれどっ」

「そうですね……特に今は忙しい時期ですし、ティーパーティーの生徒会長がこうしてまた直ぐに集まれるとも限りませんから」

「ふふっ、やっぱり忙しいんだ? ま、でも先生のお陰でナギちゃんの顔も見られたし、良かった良かった!」

「えぇ、私もですよ、ミカさん」

 

 互いに言葉を交わし、笑顔を見せる両名。先生はそんな二人を眩しそうに見守りながら、静かに席を立った。

 

「……それじゃあ、私は一度補習授業部の生徒に話を聞いて来るよ」

「えぇ、これからよろしくお願いいたしますね、先生、私もティーパーティーのホストとして、先生をエスコートいたしますので」

「私も暇な時は手伝うから、いつでも呼んでね~!」

「うん――こちらこそ、宜しく」

 

 ■

 

 去り行く先生の背中。テラスに設けられた両開きの白扉の向こうへと消えていく、シャーレの外套。

 その影を眺めながら一息吐いていたナギサの耳に、声が届く。

 

 ――やっと会えたね、先生。

 

 それは、風の様に流れ、澄んだ声だった。

 けれど含まれた感情はどこか、身を切るような切実さを孕んでおり。

 思わず、口を開く。

 

「? ――ミカさん、今、何かおっしゃいましたか?」

「えっ……いや、何も云っていないけれど?」

「あら、そう……ですか?」

 

 ナギサは目を瞬かせ、疑問符を浮かべるミカの姿に困惑を見せる。

 

「今、確かにミカさんの声が……」

「――え~、なに、ナギちゃん、あんな雑に私を扱っておいて、実は幻聴聞こえちゃう位私の事好きなの~?」

「なっ、み、ミカさん!?」

 

 ナギサの言葉を構って欲しい合図だとでも捉えたのか、ミカはナギサの肩に腕を回しながら、その髪に頬を擦りつける。

 

「あはは! 私もナギちゃんの事好きだよ~! だからその内、またお茶会を開こうねっ!」

「えっ、あ――」

「じゃあ、今日は顔を見られて良かった! またねっ! ナギちゃん!」

 

 自身の伝えたい事を一方的に伝え、そのまま扉の向こう側へと消えていくミカ。その背中を見送ったナギサは、中途半端に伸びた手をそのまま、背凭れへと身を預けた。

 

「……全く、ミカさんは」

 

 そう呟き、しかし自身の表情が笑顔である事を自覚する。

 何だかんだと云って、そうそう憎める相手でもないのだ、彼女は。

 

 ■

 

「…………」

 

 扉を閉めた、その裏で。

 ミカは扉に寄り掛りながら、俯き、投げ出された自身の爪先を凝視する。

 

「――ふはっ」

 

 不意に、笑みが零れた。

 

「はは、はははッ……!」

 

 いや、笑みというよりは――哄笑だった。

 際限なく吊り上がる口元、らしくもなく大口を開けて、全力で笑い出したくなる気持ちを抑える。けれど抑えきれなかった分が溢れ出て、ミカは両手で顔を覆いながら声を押し殺す。扉の向こうに居るナギサに聞こえないように、廊下の先に消えた先生に聞こえないように。

 けれど、どうしようもなく早鐘を打つ心臓と、溢れ出る感情が彼女の喉を震わせる。

 

「やっと、やっとだ、やっと、やっと――!」

 

 溢れ出る感情をそのままに、叫ぶ。

 先生の秘密を知って。

 先生の死に際を看取って。

 先生の愛したキヴォトスが崩れる最後の瞬間まで戦って。

 先生の亡骸(からだ)を取り返して。

 泣いて、泣いて、泣いて――沢山涙を流して。

 その果てに結んだ、最後の契約(約束)

 この条約を経て、ミカという少女の積み重ねた時間と約定は、漸く成就するだろう。

 

「先生、漸く始まるんだよ」

 

 呟き、先生の消えた廊下を見つめる。

 窓硝子から差し込み光が白い廊下を彩り、宛ら天国への階段の如く映える。

 ミカはそっと一歩を踏み出し、その光の中へと身を投じた。

 

「――私達の、エデン条約が」

 


 

 明けましておめでとうございますわ~!

 今年もよろしくお願いしますのッ!

 よろしくってよっ!

 

 三日に一本と云いながら一日早いですが、続きを投稿しておきますね。

 年明けは色々と忙しいと思いますから、今の内に……という奴ですわ。

 次からは通常営業です、多分、メイビー、恐らく、ぱちぇむー。

 投稿間隔早かったら「ラッキー」程度に思っておいて下さいまし。

 

 今更ながら二章後編べーっと読んだんですけれどぉ。

 モモイの代わりに先生が負傷して、そのまま先生を欠いた状態でエリドゥに行って、フルアーマー・トキに全滅寸前まで追いつめられて欲しい。そこで先生が登場して、フルアーマーをアロナに剥いで貰って、そのままトキと先生の肉弾戦に発展して欲しい。勿論先生が勝てる筈がないし、そもそも先生が生徒に手を挙げる筈もないので、何度も何度も投げ飛ばされ、打擲され、ボロボロになる姿を生徒達に見せつけてあげたい。関節を外されようが、肌が切れるほどの打撃を受けようが、絶対に斃れない先生の姿を見て常に冷静なトキの表情が段々と焦燥と不安に駆られていたら最高にえもももも。

 うぅリオ……切り捨てようとした存在の為に先生がボロボロのドロドロになって、血に塗れる姿をちゃんと見てて……。機械仕掛け編、先生ボロボロに出来ないからって理由で飛ばしていたけれど、これならワンちゃん書いても良かったな……。どうしてこんな残酷な事をするんだ、どうして、どうして……。私はただ、先生を血塗れにして生徒達の愛を確かめたいだけなのに……。

 



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補習授業部、結成

誤字脱字報告ありがとうございますわ~!
割と本気でありえない部分誤字ってビビりましたわ~!
報告感謝ですわ~!


 

 補習授業部――割り当て部室。

 トリニティ総合学園の本校舎、その片隅に用意された教室の一室。普段使用されない予備教室のその場所で、先生と一人の生徒が向き合っていた。

 傍から見れば今にも青い春が始まってしまいそうな状況だが、残念ながらそんな甘酸っぱい空気感では決してない。先生と向き合った生徒はどこか気まずそうに笑みを浮べ、そっと口を開いた。

 

「あ、あはは……えっと、こんにちは先生」

「ヒフミ――」

 

 補習授業部の教室で待機していたのは、先生の良く知る生徒であるヒフミ、その人だった。

 その特徴的なペロロ様バッグを抱きしめたまま、静かに机に座っていた彼女は、先生の入室と共に立ち上がり、愛想笑いを浮べている。先生はヒフミの姿を頭の天辺からつま先まで眺めた後、どこか胡乱な目付きで彼女を見つめた。

 補習授業部のメンバー――つまり、成績不振の生徒である。

 

「ヒフミが補習授業部……ねぇ、へぇ~、ほぉ~ん、ふぅ~ん?」

「あぅ……あ、あの、そんな目で見ないで下さい、これにはその、やむを得ない事情がありまして」

「――聞こう」

 

 告げ、先生は教卓の前に立った。

 少なくとも阿慈谷ヒフミという生徒は赤点を取る様な生徒ではないと記憶している。

 ヒフミは指先同士を突き合わせながら、俯き気味に補習授業部へ入る事となった経緯を呟く。

 

「えぇと、こうなったやむを得ない事情というのは、ですね……」

「うん」

「その、ペロロ様のゲリラ公演に参加する為に、テストをサボってしまいまして……」

「………」

「………」

 

 え、それだけ? 恐らく、大体数の人物がそう口にするであろう理由。しかし、待てども待てどもそれ以上の理由が彼女の口から語られる事はなく。先生は小さく溜息を吐いた後、自身の額を指先で押さえつけ、云う。

 

「やむを得ない理由、だよね?」

「は、はい、やむを得ない理由、です」

「――……それはやむを得ないとは云えないと思うんだ、先生」

「うぅ……!」

 

 ヒフミがペロロ様に命を懸けているレベルのファンなのは良く知っているが、まさか試験をボイコットしてまで参加するとは思っていなかったとばかりに先生は頭を抱える。少なくとも、「やむを得ない理由」と言い張るのは無理があるだろう。本人にも多少なりともそんな自覚があるのか、ヒフミは慌てて弁明を口にした。

 

「ち、違うんです先生……! ちゃんと試験の日程は確認していた筈なんです、何かの間違いと云いますか、手違いと云いますか……!」

「手違い、手違いとは……? そもそも、ゲリラ公演の為に学校を休むのは駄目でしょう……?」

「あぅ……ご、ごめんなさい……」

「うん、いや、まぁ、私に謝る事ではないんだけれどね」

 

 結局、この手のものは本人の状況次第というか、心もち次第というか、不利益を被るのは生徒本人なので、自身に謝られたところでどうしようもない。勿論先生としては学校をサボるのはいけませんと注意するべきなのだろうが、生徒の自主性というべきか、好きなものを否定したくないというのも本音。

 ヒフミは恐る恐る口を開く。

 

「あの、それで、ナギサ様に先生のサポートを頼まれていまして……」

「サポート?」

「は、はい」

 

 頷き、ヒフミはこの場に立つまでの経緯を説明し始めた。

 

 ■

 

 先生がティーパーティーへの招待状を受け取る前夜。

 ヒフミはティーパーティーの会場となるテラス、その場所でナギサと二人きりで向き合っていた。手に持っていたカップをそっとソーサーに置き、ナギサはヒフミに向かって微笑む。

 この学園のトップ、生徒会長のひとりと向き合うヒフミは酷く緊張していた。そもそも、こんな場所に呼び出されている時点で嫌な予感しかしない。しかし、そんな感情を呑み込んで、ヒフミは辛うじてこの場に立っていた。

 そして、やはりと云うか何というか――告げられた内容は、決して喜べる代物ではなく。

 

「――という訳でヒフミさん、先生をお手伝いすると共に、補習授業部を導いて下さいませんか?」

「はい!? わ、私がですかっ!?」

 

 ナギサの口から出た予想外の提案に、思わず声を荒げる。それは彼女が予想していた一段、いや二段は上の話だった。

 

「はい、そもそもヒフミさんの様な優等生でないと出来ない事ですから」

「わ、私はそんな、優等生という程でもありませんし、そもそも成績も平均位で……今は落第の危機なのに――」

「ふふ、私はヒフミさんの『愛』を高く評価しておりますから、それに、今度はヒフミさんから私に『愛』をお返しして頂く番――ですよね?」

 

 ナギサはそう云って、穏やかに微笑んで見せる。ヒフミの脳裏にアビドスに加勢した時の事が過った。加勢に当たり、その許可をナギサに求めたのはヒフミ自身だ。そしてその時に貸与された火砲や弾薬、人員はいつか『愛』として返す事を期待していると――確かにナギサはあの時、そう口にしていた。

 言質も取られている、何より逆らう気力が湧かない。徐々に萎み、委縮するヒフミを前に、ナギサは愉快そうに告げた。

 

「あ、あぅ……」

「ふふっ、そういう事ですので、宜しくお願いしますね、補習授業部の部長さん」

 

 ■

 

「――それで、補習授業部の部長に?」

「は、はい、あくまでも臨時の――ですが、補習授業部は特殊な形で限定的に作られた部活ですし、全員が落第を免れたら自然に部はなくなると思うので……」

 

 そう云って上目遣いで先生を見るヒフミ。どこか張りつめた空気を漂わせる彼女は、バッグを抱えたまま深く腰を曲げた。

 

「なので、えっと、その時まで宜しくお願いします、先生!」

「うん、分かった――こちらこそ、宜しく」

 

 どちらにせよ引き受けた仕事とは云え、元はと云えばヒフミがアビドスに加勢してくれたのは自分達の騒動が原因だ。先生は申し訳なさそうに謝罪を口にする。

 

「ごめんね、私を助けた事でこんな事になってしまって」

「い、いえいえ! 今回の件は自業自得ですし、何より私がしたくてした事なので! それに、こんな状況ではありますが……担当の方が先生で良かったです」

 

 そう告げ、微笑むヒフミ。その言葉に嘘は無く、先生が居るというだけで心強い。何せ、アビドスでの一件をヒフミは知っているのだから。その件で培った信頼が、ヒフミの精神的な重圧を幾分か和らげていた。

 

「あ、そういえば、補習授業部のメンバーには、まだ会われていないんですよね?」

「うん、そうだね、ヒフミ以外のメンバーとはまだ会っていないかな」

「名簿を確認したところ、メンバーは私を含めて四人みたいですが……ひとまず会いに行きましょうか、みんなでどうすれば落第せずに済むか計画を立てないと――」

「そうしようか、なら近い順に行こう」

「えっと、そうなると――」

 

 ■

 

「――……此処、みたいですね」

 

 そうして辿り着いた場所は正義実現委員会、本部。

 トリニティ総合学園の中でも最大規模を誇る部活の一つである正義実現委員会。その本部ともなれば建物の外装からプレートまで色々と感じ入るものがあるというもの。どことなく建築物全体から威圧感が放たれている様で、入り口の前に立ったヒフミは気圧された様に二の足を踏んでいた。

 

「あ、あぅ、あんまり来たくはなかったのですが……」

「まぁ、一般生徒からするとね」

 

 正義実現委員会と云えばゲヘナで云う風紀委員会、キヴォトスに於けるヴァルキューレ警察学校のような場所。好き好んで近寄りたい生徒は少数だろう。何も悪い事をしていないのに、何となく委縮してしまうような、そんな心地。

 しかし、目的の生徒はこの場所に居るという情報。いつまでも尻込みしていられないと、ヒフミはこれから務める補習授業部の部長として、ぐっと怯懦を呑み込み、正義実現委員会の扉を押し開けた。

 

「えっと、失礼します……どなたかいらっしゃいますか?」

 

 恐る恐る声を上げ、受付を覗くと――そこには小柄な、ピンク髪の少女が座っていた。

 彼女は扉を押し開け、入室してきたヒフミを微動だにせず見つめている。

 

「あっ、こ、こんにちは」

「……何?」

 

 ヒフミの言葉に、少女――コハルは不愛想に答える。

 その酷く冷めた対応にヒフミは面食らい、思わず一歩退いた。

 

「うぅ、えっと、凄く警戒されているみたいなんですが……私、何かしてしまったのでしょうか……?」

「大丈夫、多分人見知りなだけだと思うよ」

「だ、誰が人見知りよ!?」

 

 先生の言葉にコハルは憤慨し、デスクを叩きながら椅子を蹴飛ばして立ち上がる。

 

「た、ただ単純に知らない相手だったから、警戒しているだけなんだけれど!?」

「多分、それを人見知りって云うんじゃないかなぁ」

「うぐっ」

 

 図星を突かれたコハルは、何とも云えぬ悔し気な表情で先生を睨みつける。恐らく余り考えて話していないのだろう、ややあって彼女は再び椅子に腰を下ろすと、ヒフミと先生の両名を睥睨しながら問いかけた。

 

「そ、それで? 正義実現委員会に何の用!?」

「えぇと、実は探している方が居まして――」

「はぁ、何それ!? 正義実現委員会に人探しの依頼をしに来たって事? 私達の事、ボランティア団体か何かだと勘違いしているの!? そんなに暇じゃないんだけれど!?」

「い、いえ、そうではなく、此処に閉じ込められているって聞いて……」

「閉じ込め……はぁ?」

「ですから、えっと、その、良くない事をした方が此処に――」

「え、それって――」

 

 そんなやり取りをしていると、不意にコハルの背後の扉が独りでに開いた。そこから現れたのは――学校指定のスクール水着を身に纏った生徒。

 コハルと同じ髪色のそれを靡かせながら、颯爽と現れ、たおやかに微笑む彼女は先生とヒフミを見つめ、穏やかに声を掛けた。

 その纏う雰囲気はトリニティの淑女に恥じぬもの――しかし、水着姿である。

 

「――こんにちは、もしかして、私の事をお探しでしたか?」

「はっ!?」

「えぇっ!?」

「おぉ」

 

 唐突に現れた彼女に対し、三名は三者三様の反応を見せる。ヒフミは、「何故こんな所に水着の生徒が?」という困惑。コハルは、「どうしてコイツが此処に!?」という驚愕。そして先生は単純に素晴らしいスタイルに対する感嘆の声だった。

 

「え、は、何で!? あ、あんたどうやって牢屋から出たの!? ちゃんと鍵は閉めたのに……!?」

「いえ、鍵は掛かっていませんでしたよ? 私の事を話されている様な声が聞こえたので、こちらに来てみました、何か御用でしたか?」

「うん、ちょっと部活の事でね」

 

 彼女――ハナコの豊満な胸元からくびれまで、一通り堪能し、深く頷いた先生は真面目腐った表情でそう告げる。ハナコは先生の顔を二度、三度注視すると、何かを思い出したように手を打った。

 

「あら、大人の方、という事は……先生ですね、改めましてこんにちは、部活という事は――もしかして補習授業部の?」

「うん、担当顧問――担任になったんだ、宜しくね」

「あらあら、それは――」

「ま、待って! その恰好で出歩かないでよ! ちょっとぉ!?」

 

 ――補習授業部二年、浦和ハナコ。

 水着姿で学校を徘徊し、その現場を正義実現委員会に捕らえられる。

 現在、正義実現委員会の元で監禁中――だった。

 

 コハルに腕を掴まれたハナコは、心底不思議そうな表情で首を傾げる。

 

「? 何か問題でもありますか、下江さん」

「問題しかないでしょ!? 何で学校の中を水着で徘徊するの!?」

「ですが、学校の敷地内であるプールでは皆さん普通に水着になられますよね? ここもあくまで学校の敷地内で、これも学校指定の水着です……あ、もしかして下江さんは、プールでは水着を着ないタイプですか?」

「えっ、はァ!?」

「そうでしたか、下江さんは全裸で泳ぐのがお好きなんですね、流石は正義実現委員会、そういった分野まで網羅されているなんて」

「ばっ――」

 

 とんでも理論で全裸族にされかけたコハルは、その瞳を猫の様に縦長にし、顔を真っ赤にして反駁する。その小さな体全てを使って怒りを表現し、ハナコの腕を力一杯引っ張った。

 

「馬鹿じゃないの!? 着るに決まっているでしょ!? そ、そんな事するわけ……!」

「それにしても裸こそが正義とは……かなり前衛的ですね、あまり考えた事はありませんでしたが、成程、試してみるのもまた一興ですか――」

「や、やめてッ! こんな所で脱ごうとしないで!? 兎に角早く戻って、はやく! もうすぐ先輩達が来ちゃうからぁ!」

「あら、しかし先生たちは私に用事が……」

「うるさいうるさいッ! この公共破廉恥罪! 早く戻れっ!」

「あらら、すみません先生、どうやら色々と混乱している状況のようですので、また後程お会いしましょう」

 

 そう云ってひらひらと手を振るハナコ、そのままコハルに背中を押され、やって来た扉の向こうへと押し戻されて行く。ヒフミと先生の二人は、消えゆくコハルとハナコの背中を見送り、呟いた。

 

「えっと、な、何だか、凄い方でしたね……」

「うん、中々個性的だね……しかし室内で水着か、改めて見ると大変に興味深い」

「せ、先生……?」

 

 先生の言葉に、ヒフミは困惑した様子を隠せない。

 そんな事を口にしている内に、ハナコを押し込み終えたコハルが肩で息をしながら戻って来る。彼女はぎろりと先生とヒフミを睨みつけると、大股で二人の元へと詰め寄った。

 

「はぁ、はぁ」

「え、えっと……ハナコさんは、この後一体どうなるんですか?」

「そんなの当然死刑よ! エッチなのはダメ! 死罪!」

「出た! コハルの名言ッ!」

「は、はぁ!? なにそれ!?」

「先生、何か今日はテンションが高いですね……?」

 

 それは仕方ない、何故ならコハルの名言を実際に聞く事が出来たのだから。先生ならばこう口にしてしまうのも当然である。それは雪に触れたら冷たいと分かる位に、シンプルで単純な法則なのだ。

 

「というより、死刑というのは流石にないと思いますけれど……」

「水着で学校を歩き回ったんだよ!? 真昼間から! 生徒が沢山いる、広場のど真ん中で!」

「で、ですが、校内では校則で決められた服を着るものですよね? ですからきちんと学校の水着を……」

「どうしてそこで水着なの!? 制服を着れば良いでしょう!? っていうか話に入って来るなッ!」

「えぇ……」

 

 顔を真っ赤にして叫ぶコハル、その勢いにヒフミは終始押され気味。恐らく何を云っても受け入れられないだろうと予感する程度には、目の前の生徒は気が立っていた。ヒフミは困ったように隣の先生を見上げる。

 

「せ、先生、どうしましょう、今ちょっとハナコさんとお会いするのは難しそうですが……別の生徒に会いに行きますか?」

「うーん、このコハルを眺めているのも悪くないと思うけれど……」

「眺めるなッ!」

「あぅ――と、兎に角、次のメンバーは……えっと」

 

 先生への怒声に肩を跳ねさせるヒフミ。若干涙目になりながら手にしたファイルから名簿を引っ張り出し、補習授業部の残りのメンバー、その名前欄を指先でなぞった。

 

「次は、えっと――『白洲アズサ』さん、ですね」

「――ただいま戻りました」

「任務完了です! 現行犯で『白洲アズサ』さんを確保しました!」

 

 ヒフミがそう告げると同時、正義実現委員会の出入り口、その両開きの扉が開け放たれる。そこから顔を覗かせたのはマシロとハスミの二名。そして彼女達が高らかに告げた名前は、今しがたヒフミが口にしたそれと全く同じであった。

 

「え……白洲アズサさん、って――」

「――あ、ハスミ先輩、マシロ」

「コハルさん、お疲れ様です……って、あれ?」

「先生?」

 

 コハル、ヒフミの視線が今しがた入室して来た二人に向き、また同時に先生もハスミとマシロに顔を向ける。二人はヒフミとコハルの存在を認めた後、先生を見つけると嬉しそうに破顔して見せた。

 ハスミは小走りで先生の元へと駆け寄ると、笑顔のまま問いかける。

 

「先生が此処に居らっしゃるなんて、珍しいですね……何かご用事ですか?」

「うん、ハスミ達の顔が見たくなってね」

「まぁ……!」

 

 先生が真面目腐った顔でそう口にすれば、ハスミの頬に桜が散る。リップサービスなどでは断じてない、それが分かるからだろう、ハスミもマシロも酷く嬉しそうに笑っていた。

 先生は可能ならば毎日生徒達の顔を見て回りたいと思っている。しかし悲しいかな、先生の体は一つしかないのだ。

 

「それと――」

 

 そして、それだけが目的ではないのも事実。先生がそっとハスミとマシロの背後に視線を向ければ――ガスマスクを装着した、如何にも不審者と云った出で立ちの生徒が一人、佇んでいた。

 

「シュコー、シュコー……」

「………」

 

 その想像の斜め上を往く格好に、ヒフミは思わず絶句する。校内で水着ならば、まぁ、まだ理解出来ない訳でもない、一応制服だし、TPOは兎も角自分も着用するモノだし――しかし、ガスマスクは分からない。何故、ガスマスク? 一体何の為に? 理解できないものは怖い、恐ろしい。ヒフミが件の生徒に抱いた感情は、純粋な困惑と恐怖だった。

 当の本人は確保された状態のまま、悔し気にくぐもった声で告げる。

 

「……惜しかった、弾丸さえ足りていれば、もう少し道連れに出来たのに」

「み、道連れって……」

「――もう良い、好きにして、ただ拷問に耐える訓練は受けているから、私の口を割るのはそう簡単じゃないよ」

 

 そう云って背筋を正し、超然とした態度を崩さない小柄な生徒。

 

 補習授業部二年、白洲アズサ。

 校内での暴力行為の疑いで正義実現委員会から追跡されていた所、教材用催涙弾の弾薬庫を占拠。凡そ一トンの催涙弾を爆破させ、三時間に渡る抵抗の末、逮捕。

 確保される寸前まで各種ブービートラップ、IED(急造爆発物)を用いて激しく抵抗、被害者多数。

 

「………」

 

 ヒフミは最早、何を云えば良いのか分からなかった。ただ、この生徒を補習授業部の部長として率いて行かなければならないという事実に、とてつもない衝撃と不安を抱いていた。真っ白に燃え尽きそうなヒフミを横目に見た先生は、そっとハスミに声を掛ける。

 

「ごめんハスミ、ちょっと話せるかな?」

「はい……?」

 

 ■

 

「……成程、お話は理解しました、先生が補習授業部の担任の先生になられると」

 

 それからややあって――。

 粗方の事情を話し終え、先生の現状の立場や新しく設立される補習授業部に関しての情報を呑み込んだハスミは、正義実現委員会の副委員長として酷く無念そうに呟いた。

 

「残念です、出来ればお手伝いをしたかったのですが」

「気持ちだけでも嬉しいよ……という訳で、あの二人を預かっても良いかな?」

「はぁ!? ダメに決まっているでしょ!? 絶対ダメ、凶悪犯なのよ!?」

 

 先生の言葉に食って掛かったのは、隣で話を聞いていたコハル。

 彼女は未だに横合いで「シュコー、シュコー」と音を立てるガスマスクウーマン、アズサを指差しながら叫んだ。因みに当の本人は自身の処遇に興味がないのか、微動だにしていない。或いは、先生も拷問を担当する人員の一人に見られているのか。どんな相手だろうと口を割るつもりはないと、彼女は内心で考えているに違いない。何となく、そんな雰囲気を感じる。

 

「コハル、先生はシャーレとして、ティーパーティーから依頼を受けて此方にいらっしゃったのです、規定上は何の問題もありません、補習授業部の顧問、担任の先生になるのですから」

「え、えぇ、でも――……ま、まぁ、先輩がそう云うなら……」

 

 最初は絶対拒否すると意気込んでいたコハルだが、先輩としても正義実現委員会のメンバーとしても尊敬しているハスミの言葉に、渋々と意見を呑み込む。しかし、彼女は何を想ったのか目の前に立つヒフミとアズサを見下すと、鼻を鳴らして明らかな嘲笑を零した。

 

「ふ、ふん! でも良い様よ! こっちはこんな凶悪犯たちと一緒にいなくて済むし、そもそも補習授業部だなんて、恥ずかしい! そう、そうよ! あははっ、良いんじゃない、悪党と変態の組み合わせ! そこに馬鹿の称号だなんて、私なら一緒にいるだけで羞恥心で死んじゃいそう!」

「ふぅ……コハル?」

 

 今にも腰に手を当てて高笑いを始めそうな言葉に、ハスミは額を指先で抑えながら彼女の名前を呼ぶ。しかし、そんな彼女に残念なお知らせがあった。ヒフミは手に持った名簿とコハルを交互に見つめながら、おずおずと口を開く。

 

「えっと、その……非常に口にし辛いのですが」

「うん?」

 

 ヒフミの声に、コハルが未だに嘲笑を貼り付けたまま答える。

 そして差し出された名簿――その最後の欄に、『下江コハル』の名前が綴られているのを見た。

 

「最後の一人は――下江コハルさん、です」

「………………えっ」

 

 補習授業部一年、下江コハル。

 既に三回連続で赤点を叩き出し、留年目前。

 補足事項、成績が向上するまで、正義実現委員会には復帰出来ないものとする。

 


 

 補習授業部、結成。

 これが今回のエデン条約編、前編に於ける主要メンバーとなります。いやぁ、日常回を書いていると「んほ~、ここで唐突に先生爆発四散しないかしら~?」って思ってしまいますわよねぇ~。作者あるあるだと思いますわ~! 我慢できなくて後編の先生もぎもぎの所だけ書き出したらもう、筆が進むこと進むこと……やっぱり先生はボロ雑巾の様に打ち捨てられた状態で、生徒に発見された瞬間が一番輝いていますわねっ! 

 いや、でも生徒の目の前でズタボロになるのも趣が深いんですのよ? 凄惨な現場を目にしたショックと、何も出来なかったという無力感、そして響く悲鳴は最高の愛のスパイスです。しかし、既に負傷し、血を流し、血だまりの中で力なく倒れ伏す先生を見つけた時の生徒の表情もまた、目の前で先生が弾けた瞬間を目撃したソレに負けない位の愛が詰まっていると思うのです。うぅ、先生毎秒手足千切れて欲しい……。

 

 本編の方ではクリスマスイベントが終了しましたが、セリナ(クリスマス)台詞が個人的に刺さったので記しておきます。

 

「知っていますか? サンタさんは泣いている子にはプレゼントは渡せないんです、だから――先生は泣かないで下さいね?」

 

 うちの先生はどんな苦境でも精悍な表情と笑顔で乗り切りますが、「大丈夫、私は先生だからね」、と口ずさみ、どんな負傷も苦難も乗り越え、その果てにもし、セリナに引導を渡される結末があったとしたら、その最後にそっと一粒の涙を流させて、もう「大丈夫」とは口ずさまなくなった先生に、鉛玉のプレゼントをあげたくなる様な台詞だと思いました(小学生並みの感想)。なんて美しい最後だ、感動的だ、でもバッドエンドだ。

 セリナは一回先生監禁ハッピーエンドを後書きで書きましたが、実際問題先生に銃を向けられるか? と考えると、多分無理だと思うんですよねぇ。絆ストーリー的にも、サブストーリー的にも回復、治療全振りだし、そもそも誰かを傷つけるという行為に忌避感を覚えていそう……。でも先生の敵には躊躇いなく銃を向けて欲しい(願望)。

 

 セリナエンドは大体全部終わった後に、ひっそりと先生を回収して、捥げた手足を綺麗に処置して先生と小さくても幸せな家庭を築いているんじゃないかなぁ……圧倒的ハッピーエンドですわぁ~! もしくは辛うじて生き残った欠損先生を必死に看病して、キヴォトス動乱に於ける重要参考人としての引き渡し要請を何度も跳ね返しながら、「怪我人なんですよ!? 私の先生を、こんな状態で……ッ! 何処に連れて行こうっていうんですかッ!?」ってやって来た連邦生徒会にブチギレして欲しい。普段の温厚で優し気な彼女の面影が欠片も残っていなかったら尚よろしい。それだけ愛を感じられる……先生、手足吹き飛ばした甲斐があったね、私も嬉しいよ……!

 

 あと「クリスマスのチャリティー募金はこちらです!」って呼びかけているセリナに、お財布から素材を取り出して、「こんなに貴重なものまで……寄付して頂いていいんですか?」って嬉しそうにするセリナを見たい余り、何度も周回して素材貢ぎたい。

 最初はポイポイ寄付される素材に喜んでいたセリナが、少しずつ底が見えなくなるにつれて表情が硬くなって、先生が窶れながら大量の素材をサンタクロースの袋に詰めて持ってくる姿に滅茶苦茶心配して欲しい。その後過労でぶっ倒れて死んでくれ先生。やっぱり生きろ、まだ手足が残っている。死ぬなら手足飛ばしてから死んでくれ。こんな死因くっそ無様で嫌ですわ~! やっぱり最後は派手に、生徒全員の目の前で死んであげないとねッ! うぅ、セリナ……先生の放つ生命最後の輝き、人間の魂をみてて……。

 



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これが今の私達

誤字脱字報告に感謝ですわ~!


 

 新たに創設された補習授業部――その初集合時の空気は、宛ら地獄のような雰囲気から始まった。

 場所は割り振られた補習授業部、教室。集ったメンバーはそれぞれ指定された机に座り、互いの顔を見合わせている。

 どこか引き攣った笑みを浮べ、ペロロ様バッグを抱きしめるヒフミ。

 何が楽しいのか周囲を見渡し、満面の笑みを浮べているハナコ。

 相変わらずガスマスクを被り、「シュコー」と呼吸音を漏らすアズサ。

 顔面蒼白で絶望に満ちた表情を浮かべるコハル。

 イカれたメンバーを紹介するぜ! とばかりに個性を押し出した面々だが、それでも尚教卓に立つ先生の表情は笑顔であった。

 

「……は、はい、これで何とかみんな集まりましたね、補習授業部……」

「うん、そうだね」

 

 ヒフミの震えた声に、先生は懐かしい顔ぶれを見渡しながら頷く。

 傍から見れば酷い雰囲気だろうが、先生にとってはそうではない。何せ、彼女達がどのような絆を育むのか、先生は知っているのだ。心配など、ひとつもなかった。

 ハナコは一人一人の顔をじっと見つめながら笑顔を振りまくと、不意に声を上げた。

 

「ふふ、それで何をすれば良いのでしょうか? 阿慈谷部長? 先生? 放課後に人気のない教室で、素行の悪い女子高生と大人が集まって……ふふっ、始まってしまいそうですね」

「始まる……? まぁ、何だって構わない、因みに私は本気を出せばこの教室で一ヶ月は立てこもれる」

「死にたい……本当に死にたい……」

「え、えっと……」

 

 相変わらず意味深な発言を行うハナコ、流石は校内を水着で徘徊する生徒だと内心で感心する。彼女の言葉の意図が分からず、脳筋思考に走るアズサ。意気消沈し、ただ只管に己の境遇を呪うコハル。どんどんと混沌としていく教室内に、ヒフミは縋る様な視線で先生を見る。

 

「先生、その……よろしくお願いします」

「うん、任せて」

「ありがとうございます、私も、その、出来るだけ頑張りますので……」

 

 呟き、一度深く息を吐いたヒフミは自身の精神に喝を入れ、そっと立ち上がる。一先ず、最初は自分が仕切らねば示しがつかない。これでも一応、不本意とは云えティーパーティーから補習授業部の部長を任された身だ。最低限の責務は果たさねばと、人並みの責任感を持つ彼女は意気込んだ。

 立ち上がった彼女に視線が集まり、やや怖気づきながらも、ヒフミは皆の顔を見渡しながら口を開く。

 

「ひ、一先ず初対面の方が殆どだと思いますし、一旦自己紹介をしませんか?」

「む、自分から素性を明かすのか?」

「いや、だって一応同じ補習授業部のメンバーですし……」

「――それもそうか」

 

 アズサが、「それは盲点だった」とばかりに頷き、ずっと被っていたそのガスマスクに手を掛ける。そして留め具を外し、前髪を軽く払った彼女は皆の前に、そのあどけなさを残しつつも、どこか鋭い色を孕む顔立ちを晒した。

 

「――私は白洲アズサ、二年だ、宜しく頼む」

 

 彼女の簡素な自己紹介に、ハナコは嬉々として、コハルは渋々と云った様子で応じた。

 

「私は浦和ハナコです、二年生です、よろしくお願いしますね」

「……下江コハル、一年」

「えっと、阿慈谷ヒフミです、一応この部活の部長……って事になっています」

「どうも、先生です、よろしくね」

 

 先生がトリとして最後に笑顔でそう告げると、アズサがどこか不思議そうな表情で問いかけて来る。

 

「先生……というのは、つまりこの部活の顧問という事だろうか?」

「うん、そうだね、顧問兼担任って立ち位置かな」

「……そもそも、この補習授業部って何なのよ」

 

 コハルは、忌々しそうに周囲の面子を睨みつけながら、絞り出すような声で云った。正義実現委員会という立場上、彼女はトリニティに於ける凡その部活動を把握している。流石に全てを全て――となると少々怪しいが、そんな彼女をして『補習授業部』なんて部活動は、一度も耳にした事がなかった。

 

「ティーパーティーからシャーレに依頼があったんだ、此処は成績の振るわない生徒の落第を回避する為に、例外的に設けられた部活だよ、凄く簡単に云うと、放課後に補習授業をするクラスって感じかな?」

「あら」

「うぅ……」

「ほう」

 

 先生の説明に対し、浮かべた表情は十人十色。

 ハナコは相変わらず楽しそうに、コハルは悔しそうに、アズサは表情の変化が余りになく、ただどこか納得した様な声を漏らした。一応、自分達の成績が良くない自覚はあるのだろう、反発の声は上がらない。

 

「え、えっと、一応私も事前に説明を受けていまして、何か分からない点とか気になる点がありましたら――」

「大丈夫、大方は理解した、これからは普通の授業に加えて、毎日放課後に特殊訓練があるってだけだ」

「え、えっと、訓練と云って良いのかは分かりませんが、凡そはその通りです、私達が目指すのはこれから行われる特別学力試験で、『全員が合格』する事ですので……! 先生も手伝ってくれますし、皆で頑張って落第を免れましょう!」

 

 ヒフミはそう云って拳を握り締める。特別学力試験、個別ではなく『全員合格』という点が少し引っ掛かるものの、そもそも補習授業部という部活自体が特殊な成り立ちなので、自分だけの尺度では測れない。頑張れば、きっと皆で乗り越えられる筈。そんな希望を胸に、ヒフミは言葉を続ける。

 

「特別学力試験は第三次まで、つまり三回あるようですが……その内一度でも全員同時に合格すれば、それで補習授業も終了、皆さんは晴れて落第回避、との事です!」

「うん、成程、理解した、三回のミッションの内、一度でも良いから全員で成功を収める、そのために、ここに毎日集って訓練を重ねる……それ程難しい任務じゃない」

 

 アズサは言葉を一つ一つ自分なりに解釈し、頷いて見せる。試験難度がどの程度かは分からないが、不可能な事ではないと判断していた。その為の準備期間も、環境も与えられているのだから。

 

「この集まりはつまり、各自のリタイアを防ぐための措置……私としては特にサボタージュする気も理由もない」

「そ、そうですよね、頑張りましょう! えっと、アズサちゃんは転校してからあまり時間が経っていないんですよね? きっと以前の試験は学園に慣れていなかったせいもあるでしょうし、皆で頑張ればすぐに何とかなると思います!」

「あら、白洲さんはこちらに転校されて来たのですか? トリニティに転校とは、また珍しいですね」

 

 ハナコが不思議そうに問いかければ、微かに眉を顰めたアズサは沈黙を返す。その表情に、まさか拙い事を口走ってしまったのかと、ヒフミは恐る恐る問うた。

 

「あ、その、書類上はそう書いてあって……もしかして私、余計な事を……?」

「いや……別に隠す事でもないから気にしないで良い、それに事実だ、こう云われるのは慣れるべきだし、そのための努力もする」

 

 その、真っ直ぐ過ぎるとも云える姿勢にハナコは目を瞬かせ、それから柔らかな笑みを零すと、ひとつ頷いた。

 

「成程……それでは私も、アズサちゃんって呼んでも良いですか?」

「? 別に良いけれど……呼び方に、拘りはないし」

「では、アズサちゃん、ヒフミちゃん、それからコハルちゃん、それに先生――うふふ、何だか良い響きですね、私達はこれから補習授業部の仲間という事で! アズサちゃんは一見冷たそうに見えますが、何だか可愛らしいですし……ふふっ」

「………?」

 

 ハナコの言葉に、アズサは意図が理解出来ないと首を傾げるばかり。そんな二人のやり取りを、どこか怨念すら籠った視線で見つめる生徒が一人いた。ハナコはそんな彼女に視線を向け、小首を傾げる。

 

「あら、そんな憎悪に満ちた目で、どうしたんですかコハルちゃん?」

「云っておくけど、私は認めないから……!」

 

 椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった彼女、コハルはそんな言葉を叫ぶ。

 その勢いと迫力に目を白黒させたヒフミ、そしてどこか微笑まし気なハナコ。そんな二人と、次いで何の反応も見せないアズサに、コハルは憎悪に満ちた視線を向けた。

 

「えっと……?」

「あら、何の事ですか?」

「わ、私は正義実現委員会のエリートだし! 私の方が年下だからって、あんた達を先輩だなんて呼ぶつもりはないから!」

 

 告げ、彼女は両手で机を軽く叩いて見せる。彼女からすれば、この、露出狂の変態と、良く分からないガスマスク校則違反者と、顔がイッている鳥だかペンギンだか分からないグッズを身に着けている生徒と同じ括りに居る事が我慢ならなかった。

 私は違う、此処の連中とは違う。

 そう自分に言い聞かせ、叫ぶ。

 

「それにそもそも、こんな部活さっさと抜けてやるんだからっ! あんまり慣れ慣れしくしないで貰える!?」

「なるほど……確かに補習授業部の中でまで、先輩後輩なんて扱いにする必要はないと思います、私としては何も問題ありません」

「私も別に、そもそもそういう文化は不慣れだし、仲良くする為に集まってる会じゃない、あくまでお互いの利益の為なんだから、親しいフリをする必要もない筈、違う?」

「あ、あうぅ……」

 

 ヒフミとしては、団結して物事に当たりたい――しかし、アズサとコハルは同調し、各々の裁量で行動すれば良いと口にする。コハルはアズサの賛同を得た為、我が意を得たりとばかりに頷き、ビッと皆を指差し叫んだ。

 

「じゃあ決まり! それに、そもそもの話なんだけれど、私が試験に落ちたのはあくまで……あくまで! 飛び級の為に、一つ上の二年生用のテストを受けたせいだからっ!」

「あら、飛び級? どうしてそんな事を……?」

「ど、どうしても何も……! 私はこれから、正義実現委員会を背負う立場になる訳だし……っ!」

「でも、それで落第してしまったんですよね? 一度試しにチャレンジするという事であれば理解出来ますが、何故それを三度も――……?」

「うぐっ……う、うるさいうるさい! 私が云いたいのはそういう事じゃなくてっ!」

 

 地団駄を踏み、顔を真っ赤にして声を張る彼女は、そのまま睨みつける様にしてハナコに向かって叫んだ。

 

「つまり私は、今まで本当の力を隠してたって事!」

「………?」

 

 本当の力を隠していた――?

 ハナコは首を傾げ、同じようにヒフミも頭上に疑問符を浮かべる。その様子を片目に、コハルはその小さな胸を精一杯張りながら、自信満々に告げる。

 

「今度のテストはちゃんと、一年生用のテストを受けるから! そうすればちゃんと優秀な成績を収めてはい終わりって訳! 分かる!?」

「は、はぁ……」

「それで、直ぐにこんな補習授業部何て辞めてやるんだから!」

 

 そう云って鼻を鳴らすコハルではあるが、残念ながらこの補習授業部は個人で勝手に抜けられるものではない。というか多分、事前の説明を全く聞いていない。

 ヒフミはその誤りを正すべく、鼻息荒く佇むコハルにそっと声を掛けた。

 

「いや、えっと、個人で優秀な成績を出したとしても、それでこの部を卒業出来る訳ではなくて、ですね……」

「成程、経歴を隠していた訳か、因みに私も今は、前の所と学習進行度の違いが大きかったから、一年生の試験を受けている」

「あ、じゃあ同じ……い、いや! どうせすぐに関係なくなるけれどっ!? それに、短い付き合いで残念だったけれど、あんた達はそういう感じじゃないみたいだし? あははっ! じゃあね、精々頑張って!」

「えっ、あ、ちょ……!」

 

 云うだけ云って、そのまま教室の出入り口まで駆けだすコハル。それを止めようと手を伸ばしたヒフミだが、それよりも早く振り返り、傲慢な笑みで以て皆を見下した。

 

「先生もこんな連中の面倒見せられて可哀そ――えっ」

 

 コハルが最後に、先生をもこき下ろそうと視線を向ければ――無言で涙を流す、先生の姿が視界に映った。

 さしもの彼女も、良い歳をした大人が能面の様な表情で涙を流している姿には驚愕を隠せないのか、ぎょっとした表情で言葉を失う。そしてそれは、コハルだけの話ではなかった。

 

「せ、先生!?」

「むっ、どうした先生、もしかして催涙ガスか?」

「いえ、流石にそれは――」

 

 コハル以外の補習授業部メンバーも、涙を流す先生に気付き動揺を露にする。ヒフミは何かあったのかと右往左往し、アズサは催涙ガスによるものかと警戒を露にする。それを窘めながら、困惑を隠せないハナコ。

 コハルは、恐る恐る先生の傍に歩み寄り、心配そうな表情で問いかけた。

 

「ど、どうしたの先生? な、何で泣いているの? もしかして、どこか痛いの? わ、私、痛み止めとかならポーチに入っているけれど――」

「いや――」

 

 コハルが慌てて肩に掛けていたポーチに手を掛ければ、先生はゆっくりと首を横に振る。別に、身体的な痛みによって涙を流している訳ではない。どちらかと云えば、心の痛みだ。先生はそっと俯き、とても悔しそうな表情を浮かべながら、告げた。

 

「だって――コハルが、今にも帰ってしまいそうだったから……!」

「えっ、私帰っちゃ駄目なの!?」

「寂しくて死にそう」

「先生!?」

 

 思わず、ヒフミが叫ぶ。

 寂しくて死ぬって何? というか本当にそんな理由で泣いているの? 問いかけたい事は沢山あったが、それよりも先生の泣きっぷりが余りにも迫真過ぎて、コハルは茶化せずにいた。その涙の量は宛ら滝、ナイアガラ滝――小鹿のように震わせる膝も相まって、正に号泣と呼ぶに相応しい。

 ポーチを片手に立ち竦む事しか出来ないコハルは、そのまま涙を流す先生に見つめられ、視線を彷徨わせる。

 

「え、あ、いや、で、でも……」

「コハルが帰っちゃったら、補習授業部のメンバーが一人欠けてしまう……悲しいなぁ、寂しいなぁ、この後レクリエーションとか、仲良くなる為のあれやこれやを考えて来たんだけれどなぁ……」

 

 そう云ってナイアガラ状態の先生が取り出したのは、無数のテーブルゲーム。教卓の裏から次々と出現するそれらに、補習授業部の面々は己の目を疑った。ボードゲームにカードゲーム、ゲームブックから見た事もないような代物まで。次々と引っ張り出されるそれに、ヒフミは思わず口を挟んだ。

 

「せ、先生、いつの間にこんなものを……」

「シャーレから持ち込みました、やはり仲良くなるには一緒に遊ぶのが一番だと思って」

「シャーレからとなると……これ、全部先生の私物でしょうか?」

「うん、まぁ生徒が置いて行ったものも混じっているけれど、大体はそうかな」

 

 そう云ってハナコの言葉に頷く先生。因みに涙は既に引っ込み、満面の笑みを浮べている。ゲームで遊べるのが楽しみで仕方がないとばかりに。その様子を見ていたコハルは唇を尖らせ、吐き捨てる様に云った。

 

「べ、別に仲良くなる必要なんて……」

「―――」

「わ、分かったからぁ! 無言で泣かないでよぉ!?」

 

 しかし、コハルが否定的な意見を口にすれば、途端に先生の両目から滝の如く涙が流れ出す。最早、そういう機能が搭載されているのかと疑る程の早業だった。

 生徒の為ならば不可能など存在しない、連邦生徒会長に招致された先生ともなればいつでも両目から高圧洗浄機の如く涙を噴出させる事も可能なのである。世の中には口の中でカップラーメンを作る事が特技の人だって居るのだ、この程度はごく普通の特技の範囲内である。

 

「や、やれば良いんでしょう、やればっ!?」

「ふふっ、面白そうですし、私も勿論参加しますよ」

 

 コハルが投げやりな言葉と共に机に座れば、ハナコも面白くなってきたとばかりに着席する。コハルは顔を真っ赤にして、如何にも私、怒っていますというスタンスを崩さないが、その視線は時折先生の顔を気にしていた。

 

「ふむ、これは……勉学や訓練に関係あるのだろうか?」

「勿論あるとも、アズサ、先生である私が信じられないかい?」

「むっ――」

 

 アズサは先生の持ち込んだゲーム類をじっと眺めながら疑問符を浮べていたが、先生がどこまでも自信たっぷりにそう告げれば、何度か頷いて見せた後、肯定の返事を口にする。

 

「いや、先生の評判は聞き及んでいる、先生がそう云うのであれば、従おう、きっと何か意味のある事の筈だから」

「え、えっとじゃあ、私も……」

 

 静かに席へと戻るアズサ、そして周りに合わせる様にして着席するヒフミ。その表情は未だに戸惑いを孕んでいるものの、内心では一先ず補習授業部が一丸となった事に安堵していた。流石に、初日からあの空気感では堪らない。

 

「良し、皆席についてくれたね? それじゃあ――ヒフミ部長」

「えっ?」

 

 唐突に名前を呼ばれた彼女は、肩を揺らしながら先生を見る。その表情は、まさか自分に振られるとは思ってもみなかったというもの。

 

「号令をお願い」

「わ、私ですかっ!?」

 

 思わず、そんな言葉を漏らす。

 自分が号令を掛ける事など、意識の片隅にすら存在していなかった。慌てて周囲を見れば、ハナコ、アズサ、コハルまで何かを待つような視線をヒフミに向けている。

 

「部長が号令というのは自然な事です、是非お願いします」

「うん、部隊長が音頭を取るのは別に変な事じゃない」

「……やるなら、早くしてよね」

 

 口々に寄せられるそんな言葉、ヒフミは右往左往しながらも先生に視線を向け、笑顔と共に頷かれた事で、腹を決める。

 

「あ、あぅ……わかりました、そ、それじゃあ、えっと、僭越ながら……」

 

 立ち上がり、皆を見渡す。ハナコ、アズサ、コハル、先生――そしてヒフミ(わたし)

 これから共に過ごす事になる仲間達、そんな彼女達の表情を目に焼き付けながら、ヒフミは息を吸い込み、高らかに宣言した。

 

「そ、それでは……! 補習授業部、第一回レクリエーションを開始します!」

 

 これが――補習授業部(わたしたち)のはじまりでした。

 


 

 本編が余りにも透明感あり過ぎて爆発しそう。先生が。

 感想いつもありがとうございますわ! 年明け直ぐでちょっと今クソ程忙しいですの! 落ち着いたら返信しますので、今後ともよろしくお願いいたしますわ!

 

 ちょっとずつなんだ。ほんの少しの力でな……何回も叩くんだ、先生の体に傷つけるみてーにな……。ちょこっとずつ絆を深めていくんだぜ、ちょこっとずつでも、何回も深めれば、補習授業部に「絆」はどんどん溜まっていくからな。

 思いっきり先生を殴っちゃあ駄目だ、狙いが正確じゃあなくなるし、生徒にもこれから何が起こるのかバレちまうからな……。だからバレないように、絆を溜める、溜めて、溜めて、溜めて、これ以上ねぇって所まで生徒との絆を強固にした所で――解放するッ!(四肢を捥ぐッ!)

 

 Rabbit小隊とアリウススクワッドの皆を会わせてあげたいなぁ。「あなたの様な大人が一番嫌いです」と言い放ったミヤコと、先生を穴だらけにしたサオリを引き合わせてぇなぁ~! 私もなぁ~! お互いに先生から相手の事は聞き及んでいるけれど、「この人が先生に傷を――」とか、「こいつが件の潜在脅威――」みたいな感じで互いにメンチ切って欲しいなぁ~! その横から、「あれ~、私の様な大人が、ん~? 何だっけ~?」ってミヤコを揶揄って顔を真っ赤にさせた~い! 何だかんだ云いつつ先生の事は信頼しているし、結構好いているのだという無自覚の好意を自覚させた~い! 多分その後ボコボコにされるだろうけれどコラテラルダメージって奴ですわよ。うぉ、すげぇ剛拳、ミカかな? ミカの事ゴリラって云うのやめなよ。あんなに可愛い子がゴリラな筈ないだろいい加減にしろッ!? 私の御姫様だぞッ!? うぅ、先生カッコ良い……格好良いから四肢捥ぐね? 

 

 カルバノグの兎も多分その内後編ストーリー公開されるだろうから、書きたいんだよなぁ。書きたいけれど私的にエデン条約編までしか風呂敷広げてないから、そこで完結しそうな予感がひしひしと……。でもFOX小隊にボロ雑巾にされる先生とかめちゃ見たいですわ~。Rabbit小隊のごたごたに巻き込まれて、それでも嫌な顔一つせず、彼女達と一緒に戦って圧倒的な経験値の差から追い詰められたrabbit小隊を先生に救って欲しいですわ~! でも相手も生徒なので勿論先生は実力行使なんてしませんわ~! なので無様に肉壁になってボコボコにされて欲しいですわ~! うぅ、先生がボロ雑巾になるとこ皆で見てて……。

 

 凄く私的な意見だけれど、目の前で先生がボロ雑巾にされたrabbit小隊の反応は、ミヤコが顔を真っ青にして色々脳内で作戦を考えるのだけれど何も出来ないという結論に至って、けれど先生から視線を逸らせずに過呼吸気味に涙をポロポロ流して、サキはあらん限りの力で暴れ散らしながら先生の名前を呼んで必死に助けようとして。モエはこういう、マジでヤバい時には何も出来ない生徒で居て欲しい(願望)、ただ目の前の現実に打ちひしがれて、「ぅ、ぁ……」って絶句するしか出来ない状態で只見ていて欲しい。ミユは這い蹲ったまま頭を抱えて、目を見開きながら、「す、すみません、 ごめんなさい、ごめんなさい……ごめ――ッ!」ってボコボコにされている先生に謝っているのか、FOX小隊に許しを請うているのか分からない状態になって欲しい。先生に愛が、愛が伝わる、素晴らしい、感動的な絵面だ、ノーベル平和賞受賞しそう……。

 

 あー、先生が生徒泣かせた~! いけないんだ~っ! 生徒を安心させる為に何度だって立ち上がらないと! 大丈夫だよ、先生は生徒の応援と愛と信頼がある限り、何度だって立ち上がる無敵の先生なのだっ! 例え手足が吹き飛ぼうと、骨が折れようと、眼球が潰れようと、その命ある限り生徒の前に立ち続けるぞ! かっこいいやった~! 生徒に自分が痛めつけられる所見せつけるとかちょっと人としてどうかと思うよ先生? 見せつけられる相手の気持ちになってみて欲しいな。先生の為に生徒がボコボコにされていたら嫌な気持ちになるよね? はいロジックハラスメント、先生は時間的で移ろいゆく見かけだけの善には屈しないぞッ! 生徒が傷つくのは駄目だけれど、先生が傷つくのはバッチコイなの、そーなの。その身で以て愛を教えてくれる先生は人間の鏡。でも生徒の前でボロ雑巾になるから先生の屑。先生は血だまりに沈んでいる時が一番輝いているからね、仕方ないね。

 

 うぉ~ハルナ(未来)~っ! 先生が死ぬ間際に大人のカードを使って、呼び出されたと思って歓喜したら目の前で四肢捥げた血塗れの先生がそっと微笑んでいて、最後の記憶と先生の消えた世界がフラッシュバックして絶叫してくれ~ッ! これはな、誰でもそうなるんや(菩薩)。はい、先生の四肢を捥いだ敵が蒸発するのに二秒掛かりました(小学校の先生並みの感想)

 

 自分達のせいで四肢捥げた先生を介護するハルナとか見たいな~、私もな~。自分の実家に先生を連れ帰って、腕が無くなった先生を甲斐甲斐しく介護して、もうそろそろシャーレに復帰しないとって口にする先生に、「ま、まだ安静にしていないといけません! 先生はずっと激務続きでしたし、此処なら治療も、食事だって十全に用意出来ますもの! もう少し――少し長めの休養だと思って、此処はわたくしの顔を立てて下さい、ね? ねっ?」って必死になって引き留めて欲しい。先生の気を惹こうと、これでもかという位高価な料理を用意して、先生の裾を掴みながら焦燥を滲ませた笑顔を浮かべて欲しい。それで先生が「なら、もう少しだけ……」って口にすると、露骨に安堵したように微笑むんだ。その言葉を聞くと安心して、強張った体が力が抜けていると尚よろしい。

 先生の捥げた腕の数だけ生徒との未来がある、そう考えると胸が暖かくなりますわね……。

 



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月は欠けても、美しい

誤字脱字報告は宙に在るのです。
今回本編だけで15,000字近いのでご注意下さい。


 

 補習授業部、放課後の自習時間。

 遂に活動を開始した補習授業部は、毎日放課後の時間帯に補習授業と自習を行う事になっている。前半に先生がテスト対策として用意した例題や教科毎の解説、後半が生徒各自の判断による自習時間。

 基本的に自習時間に於いては先生への質問などを除き、先生自身の仕事は置物と大して変わりない為、教卓で明日の授業資料を用意しながら皆の様子を横目に眺めていた。

 

「ハナコ、この問題はどう解けば良い?」

「どれですか? ――あぁ、成程、こういう時はですね、倍数判定法を用いて、このように……」

「――そっか、うん、理解した」

「………」

 

 アズサとハナコの二人は机をくっつけ、真剣な面持ちで問題集を捲りながら学習を進めている。ヒフミはそんな二人を見つめながら、ふと丁度教室の片隅で自習しているコハルに目を向ける。すると丁度、コハルが何とも表現し辛い瞳でハナコ達を見つめているところだった。

 

「えっと、コハルちゃん? 何か分からない問題でもありましたか?」

「い、いやっ、別に?」

「因みに今見ているそのページ、今回のテスト範囲ではありませんよ」

「えっ、うそっ!?」

 

 ハナコの指摘に、コハルは自身の開いていたページを凝視する。しかし、ややあって彼女は問題集を勢いよく閉じると、それに覆い被さりながらハナコを睨みつけ叫んだ。

 

「やっ、ちが……っ! し、知っているし!? 今回の範囲は余裕だから、先のところを予習していただけ!」

「あ、あはは……」

 

 ヒフミは相変わらずな彼女の態度に苦笑を零す。

 一人で黙々と勉強するコハル、二人組で効率的に学習するハナコとアズサ。ヒフミも一人でペンを進めているが、学習進行度的にはそもそも問題ない彼女だ。先生の授業や例題の内容は頭に入っており、特に苦慮する事もなかった。

 

「ハナコ、この文章は何?」

「――これは、古い叙事詩の冒頭部分ですね、『怒りを歌え、神性よ――』という……」

「あぁ、あれか、理解した……むっ、ハナコ、これは?」

「えっと、これは――古代語を重訳したものですね、原文を理解するには辞書がないと……ちょっと待っていて下さいね」

「古代語……あぁ、ならこれは恐らく、『Gaudium et Spes』――喜びと希望、だ」

「えっと……はい、そうみたいですね、これは第二回公会議に於ける――いえ、それよりも、アズサちゃんは古代語が読めるんですね?」

「あぁ、昔習った」

 

 呟き、サラサラと例題を進めるアズサ。そんな彼女達を見ていた先生は一つ頷き、言葉を漏らす。

 

「うん、良い感じだね」

「はい、ハナコちゃんが何だかとっても凄くって……! それにアズサちゃんも、学習意欲たっぷりです! コハルちゃんは実力を隠していたそうですし――これなら、余裕で合格出来てしまうかもしれません……!」

 

 先生の座る教卓と最前列のヒフミの席は近く、彼女は心の底から嬉しそうに先生へとその感情を吐露した。

 

「本当に良かった……! 実は、結構心配していたんです」

「――と、云うと」

「実は、もし一次試験で不合格者が出てしまったら、合宿をして下さいとティーパーティーから云われていまして……」

「合宿かい?」

「はい、そうなんです、それに、もし三次試験まですべて落ちてしまったら……あぅ」

「……何か、不味い事に?」

 

 ヒフミが一気に蒼褪め、力なく俯いてしまう。その様子を険しい表情で見ていた先生は、硬い声色で問いかけた。

 

「い、いえ! なんでもありません……! 心配は杞憂で終わりそうですし、暗い話はこの辺りにしましょう……! 兎に角、試験は問題なさそうです!」

 

 先生の声に、慌てて顔を上げたヒフミは取り繕った笑みを浮べる。云うなと念押しされているのか、或いは別の理由があるのか。必死に象った笑みは、自身を元気づける為のものにも見えた。

 

「……そう云えば、ハナコちゃんは凄く勉強が出来る感じなのですが、どうして落第してしまったのでしょうか? 私みたいに、テストを受けられなくてとか、何か事情が――?」

「うーん、ほら、テストの日に偶然風邪に罹ってしまったとか?」

「――水着を着用していましたし、強ちそれが正解な気も……あ、あはは」

 

 それが間違いとも思えないところが、ハナコの凄い所だろう。

 

 ■

 

 瞬く間に時は過ぎ、第一次特別学力試験――当日。

 会場はいつもの補習授業の教室。しかし、皆が纏う雰囲気だけはいつもと異なる。先生は教卓の前で時間を確認しながら、最後の瞬間まで必死に暗記しようとしているコハルと、いつも通り仏頂面で問題集を眺めるアズサ、満面の笑みのハナコ、どこか落ち着きのないヒフミを見渡した。

 日程の都合上、長い期間を確保する事は出来なかったが、出来る限りの範囲で彼女達に知識を授けた。シャーレとしての活動の傍ら、通常の教師としての業務を兼任するのは中々に骨だったが――何て事はない、彼女達の為ならば。

 先生はコンシーラーで隠した隈を指先で軽く叩きながら、そっと息を吐き出した。

 

「――はい、時間だね、それじゃあ皆、ノートとか教科書の類は鞄に仕舞ってね、机の中は空っぽに」

 

 先生がそう宣言すると、机の上に問題集やら参考書を出していた生徒は鞄にそれらを仕舞いこみ、筆記用具のみを机上に揃える。先生はプリントを配りながら、内心で彼女達にエールを送った。

 

「……っ!」

「うぅ……」

「ふふっ」

「………」

 

 配られたプリントを見つめる表情は十人十色。程度の差はあれ、ある程度緊張しているのがヒフミとコハル、反対に全くそれらしい色が見えないのがアズサとハナコだった。プリントを配り終えた先生は、テスト開始時刻に備えタブレットの電子時計を確認する。

 開始まで、凡そ一分。

 

「皆、落ち着いて、頑張ってね」

「え、エリートの力を見せてやるんだから!」

「あ、あはは……頑張ります」

「ふふっ、はい」

「準備は完璧」

 

 筆記用具を片手に、裏返しにされた問題用紙を睨みつける面々。徐々に張り詰める空気。このテスト前の何とも言えない静寂は、いつも此方まで身が強張る思いだった。

 

「皆、問題用紙と解答用紙に不備は――ないね、それじゃあ……」

 

 先生の言葉に続く形で、トリニティ中に響き渡る鐘が鳴った。

 

「試験開始」

「ッ――!」

 

 宣言と共に、一斉にプリントを捲る補習授業部。

 此処に、第一次特別学力試験が開始された。

 

 ■

 

 ――え、あれ、この問題……。

 

 ヒフミは、まず問題全体の把握に努めた。

 試験難易度が分からない以上、点数を稼ぐ事を目的とするならば難問は捨て、簡単な所から拾っていくのが常道。その為に始まりから終わりまで、全体的に問題を舐め回すように確認したのだが……。

 

 ――やっぱり、これ、補習授業でやったところです……!

 

 目にする問題の前半、その殆どは補習授業の内容をそのまま張り付けたような問題ばかりだった。流石に細かな数字等は異なるものの、どれもこれも記憶に新しい問題だ。解く事はそれほど難しいものじゃない。

 

 ――先生に解説して頂いた内容や、皆で勉強した問題が、殆どそのまま……! それに、難易度としては初級、いえ、基礎のレベル!

 

 後半まで問題を確認したヒフミは、思わず笑みを零した。流石に百点満点となると難しいが、十二分に今の自分達が解けるレベルの問題。ペンを握る手に力が籠り、ヒフミは憶えている限りの解答を次々と空欄に埋め込んでいった。

 

 ――これまで色々と怖い事を云われていましたが、もしかしてこれは、私達への救済措置という事でしょうか……!?

 

 凄まじい勢いで空欄を埋めながら、ヒフミはちらりと横を見る。

 

「こ、これは……え、えぇっと……」

「ふふっ」

「……ふむ」

 

 コハルはどこか苦慮しながらも、自分のペースで問題を解いている。アズサは時折頷きを漏らし、キビキビとした動作でペンを動かす。ハナコに至っては、頬杖を突きながら満面の笑みで皆を見ている。問題用紙と解答用紙は――裏返しのまま。

 まさか、もう解き終わったのだろうか? ヒフミは普段の彼女を思い出しながら、そんな事を考えた。あり得る話だ、アズサに何かと勉強を教えていたのは彼女だったのだから。

 

 ――問題は基礎レベル、先生の授業や問題集で解いた内容です、決して難しくはありません、ですが油断は禁物……! 皆さん、最後まで気を抜かずに、笑顔でこの補習授業部を卒業しましょうね!

 

 最後に皆を一瞥し、そう心の中で呟いたヒフミは、自身も油断なく試験を終える為に、全力で目の前のテストに挑んだ。

 

 ■

 

 第一次特別学力試験――終了後。

 

 解答はその場で回収され、先生がその場で解答をスキャン、トリニティの採点担当官へと送られる。先生本人が担当しても良かったのだが、一応先生の所属はシャーレとなる為、公平性を保つ為にトリニティ側で採点を行うとの事だった。

 テスト終了後、解答用紙を回収しスキャン、そして採点担当に解答を送信してから――凡そ十分程。

 先生の端末に、第一次特別学力試験の結果が送られて来た。

 

「――うん、採点結果が届いたよ」

「み、みなさんお疲れさまでした……!」

 

 どこか息を詰まらせていた皆を振り向き、ヒフミは「やり切った」とばかりの笑みを浮べる。皆の表情も似たようなもので、アズサでさえどこか達成感の様なものを漂わせていた。唯一変わらないのは、笑みを浮べるハナコ位なものだろう。

 

「えっと、百点満点で六十点以上でしたら合格だそうです! 高得点は取れなくても、取り敢えずそのラインだけ超えられたら大丈夫なので……! それに内容も結構簡単でしたし、ケアレスミス何かが無ければ大丈夫だと思います! ――では、結果発表と行きましょう! 先生、お願いします!」

「では、採点結果を発表するね」

 

 先生は端末を操作し、採点担当から送信された合否判定と得点を表示する。その内容に一瞬、表情が崩れかけるも、努めて冷静に結果を読み上げた。

 

「ヒフミ――七十九点、合格」

「あ、ありがとうございます! 何だか無難な点数ですが、一先ず合格出来て良かったです! では、次に……」

 

 ヒフミは自身の合格を一応喜びながら、皆の発表を心待ちにする。あのような内容で、試験時間だって十分にあった。これならば全員合格だって現実的な話――そう期待し、笑みを浮べていたヒフミの表情は、次の先生の一言で罅割れ、砕けた。

 

「アズサ――三十八点、不合格」

「え、は? ――はいぃ!?」

 

 思わず叫び、先生の端末に飛びつくヒフミ。

 見れば、確かに其処には先生の告げた通りの採点結果が表示されていた。

 アズサ本人はその結果を聞きながら、小さく舌打ちを零す。

 

「ちっ、紙一重だったか……!」

「ま、待って下さい! 何でそんな惜しいって感じの雰囲気出しているんですか!? 紙一重って点数じゃないですよ!? 結構足りてないですよ!? 合格ライン、大体この点数の倍ですよ!?」

 

 そう云ってアズサに詰め寄るヒフミ。しかし悲しいかな、不合格者は彼女だけではない。

 

「コハル――十七点、不合格」

「!?」

「コハルちゃんんんッ!? ち、力を隠していたんじゃないんですか!? 今回はちゃんと一年生用の試験を受けたんですよね!? ま、まさかまた二年生の……いえ、この点数、まさか三年生用の試験を受けたんですか!?」

「えっ、や、その……! か、かなり難しかったし……」

「すっごく簡単でしたよ!? 小テストみたいなレベルでしたよアレ!?」

「あらあら……」

 

 狂乱し、普段の彼女らしからぬ声を上げるヒフミ。そんな皆に目を向けながら、穏やかに微笑んでいるハナコ。ヒフミは続く余りの結果に崩れ落ち、不安と焦燥に駆られた顔を彼女に向けた。

 

「う、うぅ……そんな、これは合格したのは私とハナコちゃんだけ、という事でしょうか……? となると、また次の――二次試験を受けないと……!」

「ハナコ――二点、不合格」

 

 先生のその一言で、ヒフミは今度こそ思考を停止させた。

 震える唇が、ゆっくりと音を鳴らす。

 

「に――……」

「あらら」

「二点!?!?」

 

 飛び上がり、ハナコの両肩を掴むヒフミ。そこには最早、理解不能な存在を見る色しか残っていなかった。当の本人は変わらず温厚な笑みを浮べ、ニコニコと余裕の態度を崩さない。到底、二点を取った生徒の態度とは思えなかった。

 

「二点、二点ですか!? 二十点ではなく!? いえ、二十点でも駄目ですが……! 寧ろ何が正解だったんですか!? と云うか待って下さい、ハナコちゃん物凄く勉強が出来る感じでしたよね!?」

「確かに私、そういう雰囲気があるみたいですね、まぁ成績は別なのですが」

「雰囲気!? 雰囲気だけだったんですか!? 成績とは別ってどういう事ですかっ!?」

 

 三十八、十七、二――これが現在の補習授業部、第一次特別学力試験の結果。

 自分以外、軒並み不合格。そしてボーダーラインである六十に掠りもしない結果に、ヒフミは思わず絶句し、絶望する。しかも、通常の期末試験ならばまだしも、これは特別学力試験――あの、基礎レベルの問題でコレなのだ。

 本当に卒業出来るのか? そんな疑念が、ヒフミの精神を酷く揺さぶった。

 

「う、あ、ああぁ……!」

「ヒフミ、ヒフミ確り! 気を確かに持つんだっ!」

 

 青白い表情で倒れ込み、涙を流すヒフミ。

 そんな彼女に駆け寄った先生は、その細い体を抱き起しながら懐から秘密兵器を取り出した。

 

「せ、せんせぇ~……」

「ヒフミ、緊急用のペロロだ、私の手作りで申し訳ないが、これを吸って(キメて)落ち着くと良い……!」

「あ、ありがとう、ございますぅ……」

 

 そう云って先生がヒフミの顔にペロロ様の縫い包みを押し付けると、彼女は両手で縫い包みを抱きしめながら深呼吸を繰り返す。段々と震えていた指先が落ち着きを取り戻し、心なしかペロロ越しに見える彼女の表情が穏やかなモノへと変わっていった。

 

「すぅ~……ふぅ~……すぅ~……」

「よし、よし、そうだ、良い子だね、ヒフミ」

 

 彼女の髪を優しく撫でつけ、今しがた発表された採点結果を見つめる。何度画面を凝視しようと、勿論結果が変わる事はない。

 

「――駄目だったか」

 

 先生はどこか、悔しそうに言葉を漏らした。予想は出来ていた事だった、そもそもの話からして、学習進行度が圧倒的に足りていない。如何に基礎レベルと云っても、現在の学習進行度について行ける生徒にとっての基礎レベルだ。積み重ねのない生徒にとって、基礎であろうと知識がなければ発展問題と違いはない。それに、ハナコの問題もある。

 しかし、それでも惜しいと思ってしまった。

 この試験が――真っ当な、最後の機会(チャンス)だったのだから。

 

 ■

 

 第一次特別学力試験、結果。

 

 ハナコ――不合格

 アズサ――不合格

 コハル――不合格

 ヒフミ―――合格

 

 補習授業部、【合宿】決定。

 

 ■

 

「あら、先生、お疲れ様です」

 

 テスト終了後の夜、ティーパーティーのテラスにて。

 先生は自身にこの依頼をしてきた人物、ナギサの元へ訪れていた。彼女は相変わらず優雅に紅茶を嗜んでおり、夜空を背景に微笑む彼女は大変絵になる。テラスに踏み込んだ先生は、後ろ手に扉を閉めながら申し訳なさそうに口を開いた。

 

「急にごめんね、今大丈夫かな?」

「大丈夫でなければ通しませんよ、御用向は――補習授業部の事ですね」

「うん、一応報告に」

 

 そう云って手に抱えたファイルをティーテーブルに置く。中身は今回のテストの解答用紙と採点結果だった。ナギサはそれを一瞥しながら、新しいカップを手に取ると、目線で着席を促した。

 

「何はともあれ、一先ずは紅茶を一杯……砂糖は多め、でしたか?」

「あぁ、ありがとう」

 

 告げ、先生はナギサの対面にそっと座る。彼女はいつも通りの穏やかな笑みを浮べ、そっと先生のカップに紅茶を注いだ。

 

「……実は、既にお話は聞いております、どうやら最初の試験は上手くいかなかったようですね」

「私の力不足かな……ごめんね」

「いえ、試験はまだ二回残っていますから」

 

 そう云って差し出される紅茶。先生は嗅ぎ慣れたその匂いを楽しみながら、そっと口を付ける。流石にティーパーティーと名乗るだけあって、たった一度の邂逅で紅茶の好みを把握されていた。口の中に広がる絶妙な甘さと風味に、思わず笑みが零れる。

 ふと、そんな先生の瞳にチェス盤が映った。

 先生の視線に気付いたナギサは、手元のそれを弄りながら口を開く。

 

「……あぁ、これですか? チェスです、趣味でして」

「チェスにしては、駒が特殊だね」

「えぇ、黒はキングとクイーン、あとは全てポーンだけ」

 

 呟き、盤上の駒を一つ一つ指先で確かめる。駒は良く磨かれ光沢を発しており、チェス盤も手入れが行き届いていた。しかし所々傷もあり、それなりに使い古している事が察せられる。愛用品なのだろう、先生はナギサの指先を見つめながら思う。

 

「反対に白はキング、ルーク、ビショップ、ナイトがそれぞれ三から四個ずつ……きっと、余り見ない形でしょう」

「これ、一人で?」

「はい、今は私ひとりで、こういう時に五月蠅いミカさんもいらっしゃいませんし」

 

 そう云って苦笑を浮かべるナギサ。確かに、彼女にはこの手の知的遊戯というか、ボードゲームというか――少なくともマインドスポーツを好んでプレイするイメージはない。実際そうなのだろう、彼女の口ぶりから普段チェスを嗜むナギサに纏わりつくミカの姿が容易に想像できた。

 

「今日は私からも先生にお伝えしておきたい事があったのですが……それよりも先に、先生の方から何か云いたげな事があるように見受けられますね」

「うん、少し聞きたい事があってね」

 

 その一言に、先生はそっとカップをソーサーに戻す。

 そして視線を真っ直ぐナギサに向けると、真剣な口調で以て問いかけた。

 

「――補習授業部が三回とも不合格になった場合、その処遇を聞いておきたいんだ」

「………」

 

 その問いかけを耳にしたナギサは、小さく肩を揺らした後、一度紅茶に手を付け、それからゆっくりと間を取る。思考を巡らせているのか、或いは何かしら思う所があるのか。その間、先生はじっと沈黙を守った。

 

「……情報の出所は、ヒフミさん、でしょうか」

「そうでなくとも、万が一の事に備える為に私は聞いていたと思うよ」

「ふふっ、確かに、先生ならば――そうですね」

 

 頷き、彼女は微笑む。確かに、先生ならばあり得そうな行動だった。生徒の事を第一に考える彼ならば、生徒の今後を左右する可能性、その一つを野放しにする筈もない。

 

「ヒフミさんは、彼女はそういう所がありますから、まぁそれが、ヒフミさんの良い所でもあるのですが……――さて、三度、補習授業部が試験に合格出来なかった場合でしたね」

 

 そっと、ナギサの手からカップが離れた。指先を組み、鋭い視線で先生を見つめた彼女は、断固とした口調で告げる。

 

「簡単なお話です、試験で不合格を繰り返す、落第を逃れられそうにない、助け合う事も出来ない――だとすれば、皆さん一緒に退学して頂くしかありません」

「退学……」

 

 その言葉の響きが、冷たい夜空に木霊した。

 退学という処遇が適切なものなのか、先生には判断が付かない。その処罰のラインは、各学園ごとに異なっているからだ。無論、余りにも成績が振るわない場合、その様な結果となる事も理解は出来る。

 しかし、今回の場合は少々特殊が過ぎるだろう。何せ、誰か一人でも合格圏内に届かなければ、その合格出来なかった一人だけではなく、『全員』が退学処分となるのだから。それは、誰から見ても『真っ当』と云える処分ではない。

 

「無論、本来は此処、トリニティにも落第、停学、退学などに関する校則が存在します、ですが、まぁ……手続きが長くて面倒でして、沢山の確認と議論を経なければなりません、ゲヘナとは違って、我々は手続きを重要視しますので」

 

 ナギサは、どこか気怠そうな素振りすら見せ、呟く。生徒一人の今後を決める大事だ、上から一方的に、「あなた、今日で退学ね」と云って終わる筈もなし。ましてやトリニティはキヴォトスの中では比較的規律を重んじる校風を貫いている。生徒一人の退学であっても、順守すべきルールや校則が存在した。

 

「ですが今回急造された補習授業部は、このような校則を無視出来るように調整してあります、シャーレの権限を少し組み込ませて頂いたこともあり、このような特例措置が可能となっているのです、そもそもの話、補習授業部は――」

 

 一度、言葉を切った彼女は。

 そっと目線を逸らし、どこまでも吸い込まれそうな夜空を見上げ――それから腹を決めた様に、先生を真っ直ぐ見据えながら告げた。

 

「――生徒を退学させる為に作ったものですから」

「………」

 

 数秒、二人の間に沈黙が落ちる。

 ナギサは、自身の言葉を聞いても眉一つ動かさない先生を見て、少しだけ意外そうに眼を瞬かせた。

 

「……あら、思ったよりも驚いていませんね、先生」

「まぁ、そうだね」

 

 呟き、先生は目を伏せる。その、どこまでも平静を保つ姿に、ナギサは訝しむ様に眉を顰めた。

 

「まさか、最初から気付いていらしたのですか?」

「それこそまさか……私は純粋に、生徒の力になる為にこの仕事を引き受けたんだ、生徒を退学にさせる為に引き受けた訳じゃないよ」

「……えぇ、そうでしょう、先生はそういう方です、まだ知り合って短い間柄ではありますが、先生の性質は凡そ把握しております」

 

 先生の言葉に、ナギサは何度か頷いて見せる。そもそも、これが生徒を陥れる代物だと知られていれば、先生は依頼を受ける事さえなかっただろう。ナギサは、強くそう思う。先生は実直で、誠実で、生徒想いだ――分かり易い程に。

 

「率直に申し上げますと補習授業部、あの中に、トリニティの裏切者がいるのです」

「裏切者……」

「えぇ、その者の狙いは――エデン条約締結の阻止」

 

 ナギサは、重々しい口調でそう告げた。

 エデン条約――その言葉は彼女にとって、何よりも重い意味を持つ。指先でティーテーブルを小刻みに叩く彼女は、何も知らぬであろう先生に向かって言葉を続ける。

 

「この言葉が持つ重さを理解して頂くには……『エデン条約』とは何か、という説明が必要でしょう」

 

 そう云って彼女が足元に常備していたポーチ、そこから取り出したのは古風な茶封筒だった。それをそっとテーブルの上に置き、先生の前に差し出す。先生は目線で封筒とナギサをなぞった後、無言でその封筒を受け取った。

 中には如何にも機密情報と云った注意文言と、赤く染まった警告文字――TOP SECRET。電子情報ではなく紙媒体でのみこれらの情報を扱う旨が記載されており、先生はその紙面を感情の見えぬ瞳で眺めていた。

 トップに躍る文字は――EDEN TREATY.(エデン条約)

 ティーパーティーと万魔殿(パンデモニウムソサエティ)のエンブレムの書き記されたソレを、先生は静かに捲る。

 

エデン条約(EDEN TREATY)――これは、簡潔に云いますと、トリニティとゲヘナ間に結ばれる『不可侵条約』です、その核心はゲヘナとトリニティの中心メンバーが全員出席する、中立的な機構を設立する事にあります」

「中立的な機構……連邦生徒会に近い組織か」

「えぇ、と云ってもキヴォトス全域を管理する連邦生徒会程の権力や自治区は持ちません、トリニティとゲヘナ限定の連邦生徒会と考えて頂ければ……『エデン条約機構』、通称【Eden Treaty Organization】(ETO)と呼ばれるであろうこの団体が、トリニティとゲヘナの間で紛争が起きた際に介入し、あらゆる問題を解決する事になるのです」

 

 睨み合いの絶えないゲヘナとトリニティ、その両方を取り締まる中立的機構。それはいわば緩衝材であり、仲介役であり、万が一の為の防衛機構である。ゲヘナとトリニティの関係が冷え込む昨今、悪化する事はあっても修復される事のない両校の溝の拡大を防ぐ条約の締結は、必要不可欠な事柄だった。

 

「この条約、機構により、二つの学園での全面戦争は回避される、そういう筋書きです……学園の規模からして、もし戦争など起これば両陣営仲良く共倒れしてしまう事になりますので――忌々しい事に、ゲヘナの戦力だけは侮れません」

 

 ゲヘナ、トリニティ、共にこのキヴォトスに於いて最大規模の学生数、部活数を誇るマンモス校。生徒の数が戦力とイコール、という訳ではないが、基本的に数は力だった。所属生徒数に見合うだけの戦力を、両校は備えている。

 そんな規模の学園が戦争を始めれば? 恐らく、被害はトリニティとゲヘナの自治区に留まらないだろう。必ず周囲の学園に飛び火し、両校が仮に停戦したとしても飛び散った火が永遠と燻る筈だ。

 それは、絶対に回避せねばならない未来だった。

 

「先生」

 

 ナギサが、強く鋭い声色で先生の名を呼ぶ。

 紙面を視線でなぞっていた先生は、ゆっくりとその顔を上げた。

 

「……トリニティとゲヘナの長きにわたる敵対関係は、お互いの大きな重荷になっています、エデン条約はその無意味な消耗を防ぐための、恐らくは唯一の方法であり、キヴォトスにおける力のバランスを保つための方法でもあります、このエデン条約は連邦生徒会長が提示した解決策でもありました……彼女が行方不明になってしまい、一度は空中分解しかけたものを、私の元でどうにか此処まで立て直したのです」

「……成程、ね」

 

 一通り文字を追い終えた先生は、ゆっくりと資料をティーテーブルに戻す。重なり合ったそれらを指先で摩り、思案する様子を見せた。

 

「そしてこの念願の条約が締結される直前まで来た、このタイミングで、これを妨害しようとする者達が居ると云う情報を耳にしてしまいました……残念ながら、それが誰かを特定するには至りませんでしたが――そこで、次善の策として、その可能性がある容疑者を一ヶ所に集めたのです」

 

 それが、『補習授業部』。

 ティーパーティーのナギサが独自の情報網で素性を洗い出し、一定の『容疑』が認められた生徒のみを集めた部活。成績がある程度優秀であるヒフミが、今回落第しかけたのも全て、全て――彼女の仕込みだった。

 テストの日程を勘違いする? 普通に生活していればあり得ない話だろう。彼女が『ペロロ』なるキャラクターに執心である事を知っていた彼女は、ゲリラライブという突発イベントで彼女の意識を逸らし、直前になって彼女のクラスのみテスト期間をズラしたのだ。

 ゲリラライブの日程と、試験日を被せたのである。

 無論、欠席していたヒフミはその事に気付かないし、気付いたとしても後の祭り。彼女が翌日登校した頃には既に試験は終了しており、試験欠席は無得点と同義。

 公平性を期すため『ヒフミ以外』のクラス生徒には事前に電子メールによる試験日の変更を告知してある。更に翌日の『本当の試験』に影響が出ない様、その一日のみクラスを隔離。試験内容の漏洩対策は完了していた。

 そうして阿慈谷ヒフミは補習授業部入りは決定し――現在に至る。

 元から、そういう筋書きだったのだ。

 

「裏切者はそこ(補習授業部)にいます、ですが、誰かは分からない……であれば、ひとつの箱に纏めてしまいましょう、いざという時――纏めて捨ててしまえるように」

「………」

 

 あの部活は、ナギサにとって、トリニティ(彼女)にとって――塵箱(ごみばこ)

 学園に潜む不穏分子、トリニティを乱す可能性がある危険な芽、それは早急に摘み取らねばならない。そこに僅かばかりの生徒が巻き込まれたとしても、学園全体で見れば圧倒的少数。

 大義の前の小義である。

 それは、目の前の先生とて理解している筈だ。ナギサはそう信じ、毅然とした態度で背筋を正した。

 

「……もうお判りでしょうが、それが補習授業部の実態です、先生にはその、【箱】の制作にご協力頂きました」

「……シャーレを組み込むことにより与えられた特例措置、補習授業部は元々私ありきの部活だった」

「えぇ」

 

 ナギサは頷き、そっと紅茶を啜る。温い液体を胃に流し込めば、高ぶった感情が微かに落ち着くのが分かった。目を伏せたまま、彼女はそっと呟く。

 

「……ごめんなさい先生、こんな血生臭い事に巻き込んでしまって、私の事は、罵って頂いても構いません」

「私が、そんな事をする人間に見えるかい?」

「……いえ、失言でしたね」

 

 苦笑し、先生と改めて視線を交わすナギサ。先生のそれからは、何の色も読み取れない。

 いっそ、此処で激昂するような人間であれば良かった。そうすれば幾分か、この罪悪感も掻き消えただろうに。

 先生は両の指を組み、数秒程目を瞑った後、彼女に問い掛けた。

 

「事情は分かった、理由も理解した――それで、私に伝えたい事というのは?」

「……補習授業部に居る裏切者を、探して頂けませんか?」

「――へぇ」

 

 声は、平坦であった。それがどんな感情から発せられたものかは分からない、しかし、ナギサは先生の正義感と、シャーレという立場である大人という点に焦点を当て、言葉を紡いだ。少なくとも、理を以て説けば通じると信じて。

 

「先生を、トリニティを騙そうとしている者がいます、平和を破壊しようとするテロリストです、私達だけではなく、キヴォトス全体の平和を、自分達の利益と天秤に掛けようとしている者です」

 

 このエデン条約が結ばれなければ、そう遠くない未来キヴォトスに争いの未来が待っている。故にこれは、トリニティのみならずキヴォトス全体を救う事にも繋がる。ナギサは自身の正義を熱弁し、僅かでも先生の関心を買おうと舌を回した。僅かに身を乗り出し、先生を真っ直ぐ見つめる彼女の瞳は――真剣だ。

 

「裏切者を探し出す事が、キヴォトスの平和に直結します、無論、この件に関する手助けは惜しみません、先生に、連邦捜査部シャーレとして協力して頂ければ――」

「私に」

 

 ナギサの言葉を遮る様に、先生は声を上げた。

 その、伏せられた瞳が彼女を射貫き――酷く冷たく、鋼鉄の如き強固な意志を孕んだ感情が、ナギサの肌を撫でた。

 

「――私に、生徒を【疑え】と、そう云っているのかい?」

「っ……!」

 

 それは、単なる問いかけだった。

 怒りも、失望も、憐れみも、其処には含まれていない。

 しかし、その声に含まれた強烈な感情を理解した時、ナギサは全身の血が凍るような感覚を覚えた。自身を射貫く、先生の瞳。その中に存在する、とても理解出来ない強大な『何か』――それを認識した時、ナギサは自身の持つ『先生のイメージ』が罅割れた事を自覚したのだ。

 先生は生徒を思い遣る、良い大人だ。それに違いはない。

 しかし、その想いの深さを、程度を――ナギサは見誤った。

 どこまでも、どこまでも深い信頼、愛情、それこそ底なし沼の様に広がる感情の海。それを覗き込んだ時、彼女は先生の秘めるそれが、自身のどんな言葉でも動かすことの出来ない絶対の柱であると理解した。

 

「……ごめんね、私は私のやり方で、この問題に対処させて貰うよ」

 

 先生に見つめられた時間は、ほんの数秒足らず。しかし、たったそれだけの時間、目を向けられただけで、ナギサの背中には酷い汗が滲んでいた。

 目を伏せ、小さく謝罪を口にする先生。その視線が逸れた時、ナギサは漸く息を吹き返す。

 

「……そう、ですか、分かりました」

 

 辛うじて呼気を取り戻し、それだけの言葉を紡いだ。

 しかし、トリニティ代表、ティーパーティーとしてこのまま引き下がる訳にもいかない。此処には、此処の流儀がある。いや、流儀なんて格式張った云い方はよそう。

 これは――政治的な駆け引きを孕む。

 

「……ですが先生、(ゴミ)を細かく分別して捨てるのが難しい時は、箱ごと捨てると云うのも手段の一つ――そうは思いませんか?」

 

 ナギサは震えそうになる指先を握り締め、そう告げた。

 

 ――私の生徒を塵と、そう云うか。

 

 先生は辛うじて、声を呑み込む。

 代わりに、僅かばかり眉を顰めた。

 その表情の変化を観察しながら、ナギサは気丈にも言葉を続けた。

 

「それからもう一点、試験については基本的に、私達の掌の上にあります、例えばの話ではありますが――『急に試験の範囲が変わる』ですとか、『試験会場が変わる』ですとか、『試験の難易度が変わる』ですとか……無論、その様な事が起きない様祈ってはおりますが――いえ、失礼しました、良くないモノの云い方でしたね」

 

 これは、脅しだ。

 先生はそんな言葉を前に、ただ静かに自身の前に置かれたカップを呷り、中身を飲み干す。そして資料を纏め封筒の中に差し込むと、そっとナギサの方へとそれを差し出した。

 

「……これからも、引き続き補習授業部をよろしくお願いします、先生」

「あぁ、勿論――それじゃあ、失礼させて貰うよ」

 

 席を立つ先生。その表情は見えない。

 ただ、去り行く彼の背中に向かってナギサは言葉を投げかけた。

 

「――先生、私達の方から、先生に対して不利益や損害を与える事はありません……と、云いたい所なのですが」

「………」

「場合によっては、お約束する事が出来ません、無論、だからと云って先生が生徒を放置するような方ではないとも知っています……正直、これからの展開は私にも予測が出来ていないのです」

 

 先生を抱き込める事が最善、しかしそうではない可能性も勿論、ティーパーティー――ナギサは考えている。

 その場合、彼の持つ影響力、シャーレという組織の権力、その不安定要素を含んだ上で完璧な予測が立てられるかと云えばそうではない。既に賽は投げられた、であればこそ、後はその後すべてに尽力し――祈る事しか出来ない。

 

「ですからどうか、この結末が――出来るだけ、苦痛を伴わないものである事を願うばかりです」

「――いいや」

「……?」

 

 ナギサの言葉に、先生は振り返る事無く否定を口にした。

 伏せていた視線を先生の背中に向ければ、彼は真っ直ぐ前を向いたまま言葉を紡ぐ。

 

「苦痛があった分、人は前に進める、勿論安寧に越したことはない、けれどその苦痛と苦難の先に自身の望む未来があるのなら……その齎された苦痛は、決して無駄になどならない」

 

 先生の伸びた影が、白い回廊を黒く染める。今だけは夜の静寂が、彼を包み込んでいる様な気がした。

 先生の顔がそっと、テラスの外へと向けられる。その視線の先には、どこまでも深い夜と星々が瞬いていた。

 星に手は届かない――けれど、手を伸ばすその意思にこそ、先生は希望を見出す。

 

「私は苦痛の伴わない結末など望まない、唯一望むのは――苦痛の先にある、幸せな未来(奇跡みたいな明日)だけだ」

「………」

 

 安寧の終わりを望むのならば、先生はきっと疾うの昔に朽ち果てている。

 それを良しとせず、突き進んだからこそ此処に居る。

 それは、先生の根幹を成す信条そのものだ。先生を構成する全てだ。

 苦痛なき安寧ではなく、苦痛を乗り越えた先にある素晴らしき明日(未来)へ。

 先生は――何度だって手を伸ばす。

 

「……紅茶、美味しかったよ、ありがとう」

 

 呟き、再び足を進める先生。

 ナギサは、その、何処までも信念に溢れ、確固たる芯を持つ背中を前に、組んだ両手を強く握り締め、咄嗟に声を上げた。

 

「――先生、最後に一つだけ」

 

 先生の足が、止まる。

 ナギサは、数秒程言葉を選んだ後、ぐっと唇を噛み締め。

 二人は視線を合わせぬまま、言葉だけを交わした。

 

「……一次試験に於いて、私達の方では如何なる操作も行っておりません、この部分については、誓って嘘ではない事をお約束します」

「……信じるよ」

「――先生なりのやり方、それがトリニティに利するものである事を願っております」

 

 返事は、無かった。

 その言葉を最後に、ナギサは只、今度こそ扉の向こう側へと消えゆく先生の背中を見送る。

 誰も知らぬ夜の邂逅――この会話がどのような結末を生み出すのか、それを知る者は誰も居ない。

 

 ただ、一人を除いて。

 


 

 遂にミカが実装されましたねッ!

 日直にすると背景がトリニティに変わる徹底ぶりには恐れ戦きましたわ。ログインした時の、「あっ、先生! 待ってたよ、も~! 今日は来ないかも何て考えて、ちょっと不安になっちゃったじゃん……な、なーんて、あはは……」って台詞には「んほ~、やべぇですわ~」ってなりましたわよ。

 絆が上がった時の、「わーお……」も好きだし、固有解放した時の、「私にはもう、これくらいしか出来ないから、だから、ありがとうね先生――先生の傍に居る時だけは、私は、魔女なんかじゃないって、そう信じられるから」って微笑むスチルには「たまんねぇですわ~」となりましたわ。

 モモトークなんかも、普段トリニティに軟禁されている彼女が暇を持て余して頻繁に先生にメッセージを飛ばしている感じがあって良きですわ! 特に差し入れられるロールケーキをどのようにして消費するか、色々な食べ方を試して写真付きでそれを先生に送るミカの姿など生活感マシマシでヤバいですわよ。

 

 一日外出ならぬ、先生同伴デートのシナリオでは、ロールケーキ以外の食べ物に目移りして、あれもこれもと彼方此方店を回るミカの姿を見れて大変満足ですわ。その後、自分の行きたいところばかりに先生を連れ回してしまった事を自覚して、「ご、ごめんね先生、私、ちょっと燥いじゃって……!」ってしおらしくなるミカなんて良き良きの良きですわ。エデン条約を経て、どこか負い目を抱きながらも、先生の元で一応の平穏を享受している彼女を見ていると胸が穏やかになりますわね……。その後高台の公園で一休みして、自身がこうして先生と共に過ごす一分、一秒の時間が、どれだけ尊くて素晴らしく、奇跡的な事かと想って。

 不意に走り出して、飛び去る鳩と沈んだ茜色をバックに満面の笑みを浮べる彼女の一枚絵は最高ですわよ。特にこの、絶妙に陽が沈み切っていないところが重要で、「これから訪れる刻は、月と星を身に着けた彼女の時間」というニュアンスを醸し出していて大変にグッドですね。全身が白だからこそ、茜色と薄らと滲み出る暗夜が映える事、映える事。

 

 その後、先生の差し出した手とキザなセリフに満面の笑みで応えて。

「夢、叶っちゃったみたい……!」って泣き笑いするシーンなんて胸が張り裂けますわよ。子供っぽくて、夢に溢れて、素敵で、胸がときめく様な、そんな物語の主役になれて良かったね、ミカ……。うぅ、ミカ、幸せになって……。

 

 あれ、ミカどこ……? 私のミカ……ミカ貯金で漸くお迎えできたミカ……。

 ロールケーキを渋い顔でちまちま頬張っていたミカ……先生と一緒にご飯を食べて、頬に着いた汚れを指先で拭われて赤面していたミカ……腰に生えた羽が無意識の内に先生の腰を擽って、「な、何でもないよ先生!」って必死に羽を押さえつけながら叫んでいたミカ……店頭で「あのアクセ可愛いな~」と思いつつ、軟禁状態なので当然持ち合わせなどある筈もなく、渋々諦めた所目敏く先生に気付かれ、デートの終わりに欲しかったそれをプレゼントされて「わーお……」ってなっていたミカ……私にはミカの記憶が、思い出が沢山あるんだ。これが、これが嘘である筈がない。

 きっと、明日の朝になればミカは帰って来てくれる筈だ。多分、きっと、今はアプリの調子が悪いんだ。私は詳しいんだ。

 明日の朝起きてアプリを開けば、其処には実装されたばかりのミカが大々的に広告されていて、待機画面には満面の笑みを浮かべたミカが待っていてくれるんだ。

 



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合宿開始、初日

誤字脱字報告、感謝します。
今回は17,000字近いです、申し訳ねぇですわ!


 

「ようやく着きましたね、ここが私達の……」

「はい、合宿場です、随分遠かったですね――」

 

 補習授業部がトリニティ校舎より歩き通し、一時間と少し。漸くトリニティの辺境にある合宿場へと到着。ロビーを通り抜け、自分達が世話になる宿泊部屋へと足を進めた補習授業部の面々は、その室内を見渡しながら安堵の息を漏らした。

 部屋はそれなりに広く、ベッドが六つ、左右に分かれて並んでいる。奥にはクローゼットと談話用のソファが二つ、冷暖房は完備、部活などの合宿などで使われる一般的な合宿場の一室、といった印象。

 

「暫く使われていない別館の建物と聞いていたので、冷たい床に裸になって寝ないといけないのかと思っていましたが……」

「は、裸っ!?」

「ふふっ、結構広いですし、きちんとしていますし、可愛いベッドもあって何よりです! これなら皆で寝られそうですね、裸で♡」

「さっきから何でちょいちょい裸を強調するの!? それにベッドの数もちゃんとあるんだから、皆で寝る必要ないでしょ!?」

 

 ハナコが鼻歌を歌いながらベッドを一つ一つ確認し、そんな事を口にすれば空かさずコハルが突っ込みを入れる。この二人の関係性は相変わらずで、ハナコはどこか楽し気に言葉を綴った。

 

「折角の合宿ですし、そういうお勉強も必要ではないでしょうか?」

「駄目! エッチなのは禁止! 死刑!」

「まぁ、今はまだ明るいですし、そういう事にしておきましょう――夜は長いですからね……♡」

「えっ、は、ど、どういう意味!?」

「あの、これから一週間寝食と勉強を共にするので、皆さん仲良く……」

 

 顔を真っ赤にしながら警戒するコハルと、それを満面の笑みで眺めるハナコ。二人の仲を取り持つ様に声を掛けるヒフミは、残りのひとりがいつの間にか消えている事に気付いた。

 

「って、あれ? アズサちゃんは……」

「あら? 先程までは一緒に居たのですが……」

 

 ハナコが振り向くと、先程まで同道していたアズサの姿がない。部屋の中を見渡したり、窓を開けて外を覗いて見るも彼女の影すらなく――そんな事をしている内に、部屋の扉が開いて、向こう側からアズサが顔を覗かせた。

 

「あ、アズサちゃん、今まで何処に――」

「偵察完了だ」

 

 ヒフミの言葉に被せる形でそう宣言するアズサ。その手には彼女の愛銃が握られており、その表情は真剣そのもの。余りにも合宿に見合わぬ物騒な雰囲気に、思わずヒフミは問い掛ける。

 

「て、偵察……?」

「うん、トリニティ本校舎からはかなり離れているし、流石に狙撃の危険は無さそう、外からの入り口が二つだけというところも気に入った、いざという時は片方の入り口を塞いで、襲撃者たちを一階の体育館に誘導した上での殲滅戦が有効になるかな」

 

 そう云ってアズサは自分で都合したのだろう、合宿場の見取り図を取り出す。やや古びたそれの出入り口には赤い丸が記されており、彼女が警戒すべき箇所にはバツ印が並んでいた。

 

「うん――まぁ、他にも幾つかセキュリティ上の脆弱性も確認出来たけれど、改修すれば問題ない範囲だ」

「え、えっと……」

 

 一体何故、そんな事を……? ヒフミはそんな言葉を辛うじて飲み込む。そんな彼女の心の内など知らぬアズサは、自身の寝床となる部屋を見渡し、感嘆の息を吐いた。

 

「此処が兵舎……いや、居住区か、随分綺麗だな――こんな施設を使わずに放置していたなんて、無駄遣いも良いところだ」

「えっと、あの、アズサちゃん? 私達は此処へ戦いに来たのではなく、勉強しに来たので……」

「うん、分かっている、一週間の集中訓練だろう? 外出禁止、自由時間なし、二十四時間一挙手一投足まで油断する事は許されない、ハードなトレーニングだ」

「え、いや、流石にそこまでは……」

「きちんと準備もしてきたんだ」

 

 そう云って背負っていた背嚢を降ろすアズサ。使い込まれた痕跡の見えるそれに手を突っ込み、彼女は次々とベッドの上に持ち込んだ物品を広げる。

 

「体操着や細かい着替え、衛生面の歯ブラシや歯磨き粉、石鹸、非常食、毛布、水筒……」

「流石はアズサちゃん、用意周到ですね」

「当然だ、徹底した準備こそ成功への糸口だから」

 

 そう云って、「ふふん」と鼻を鳴らすアズサ。確かに準備は必要だが――それは、戦闘の準備では? そう思ったが、確かに合宿上必要な代物もきちんと揃えている様で、筆記用具や問題集もちゃんと持ち込まれていた。

 

「うふふっ、みんなで一緒に食欲を満たし、睡眠欲を満たし、そしてみんなが欲する目標へ向かって脇目も振らず手を動かす……良いですね、合宿」

「……うん、そうだね」

 

 ハナコのどこか意味深な言葉に、アズサはふっと柔らかな笑みを零す。その笑顔には彼女の、生来の本質が現れているような気がして、ヒフミは一瞬面食らった。アズサがそんな風に笑った顔を初めて見たからだった。

 しかし、その笑顔はものの一瞬で引っ込んでしまう。

 

「あ、でも任務は確実に遂行する、きちんと勉強をして、第二次特別学力試験にはどうにか合格するつもり、その目標の為に此処に来たんだから、その……迷惑は、掛けたくない」

「アズサちゃん……」

 

 そう云って肩を竦めるアズサは、顔を俯かせた。

 彼女自身、己の成績が良くない事は自覚している。ましてやこの特別学力試験は一人の不合格で、全員の卒業が取り消されてしまう。自分の失敗で皆の進退を決めてしまう、それだけは、嫌だった。

 故にこそ、彼女の思考は過激な方向へと舵を取る。

 

「大丈夫、試験を妨害してくるような敵襲に備えて対人地雷とクレイモアも用意してきた、後は即席爆発装置(IED)の材料になりそうなもの一式と、対戦車地雷も多少――」

「あ、アズサちゃん! ですから、そういうのは……!」

 

 一体どこに入っていたのだと云いたくなる様な爆薬やら材料やら、それを背嚢から取り出すアズサに、ヒフミは思わず声を荒げた。

 そんな彼女達の耳に――カラン、カランという音が届く。

 開けた窓の向こう側、施設の入り口付近からだった。その音に反応したアズサは、背嚢に突っ込んでいた手を止め、鋭い視線で音の方向を睨む。他の皆は、一体何の音だと疑問符を浮べていた。

 

「むっ……!?」

「えっ、な、何の音でしょう……?」

「これは、何というか、空き缶をぶつけたような――?」

「侵入者だ!」

 

 告げるや否や、アズサはベッドに立て掛けていた愛銃を掴み、部屋を飛び出した。その余りの素早さに、思わず目を丸くする面々。

 

「あっ、ちょ、アズサちゃん!?」

「先程仕掛けたブービートラップに何者かが引っ掛かった、先手必勝、遅れるなっ!」

「ちょ、ちょっと!? ぶ、ブービートラップって……!?」

「と、取り敢えず追い掛けましょう!」

「何なのよ、もう!?」

「あらあら……ふふっ」

 

 廊下を駆け抜け、ロビーを通過し、脇目も振らず外へと飛び出すアズサ。そして未だカラカラと軽い音を鳴らす缶の元へ駆け寄る。

 仕掛けたトラップは、古典的な対象無力化トラップで、きつく、大きく輪を作ったロープの中にホールドトラップの様な、圧力が加わると閉じるタイプの金属板を設置する。円形の板に、ロープを被せ、更に葉や枝などで偽装。それを踏んだ瞬間、金属板が閉じ、同時にロープが対象の足に巻き付き、樹上に張り巡らされたワイヤーが巻き取られ、連動してワイヤーに吊り下げた空き缶が鳴り、対象を宙吊りにするという代物だった。

 手間暇の割に対象にダメージを与える訳でもなく、ナイフ一本で脱出出来てしまう罠だが、この施設を襲撃しようとする相手ならば拷問の類で背後関係の確認は必須。対象を傷付けずに時間を稼ぎ、可能ならば無力化する罠としては上々の出来だった。

 アズサは素早くトラップを仕掛けた樹の影に寄ると、今しがた吊り上げられた人物に向かって銃口を突きつけた。

 

「動くなっ! ――うん?」

 

 そしてアズサの見上げた視線の先には、片足をロープに絡め捕られ、無様にも逆さ吊りとなった先生の姿があった。先生は何とも言えない表情のまま両腕を投げ出す恰好でぶら下がっており、アズサは先生だと見るや否やその銃口をそっと降ろす。

 

「……何だ、先生だったか」

「……やぁ、おはよう、アズサ」

「うん、おはよう、先生」

 

 呑気にそんな挨拶を交わしていると、遅れて補習授業部の皆がやって来る。ヒフミ、コハルの両名は釣り上げられた魚の如き様相を晒す先生を前に叫び、ハナコは「あらあら」と云わんばかりに小首を傾げた。

 

「アズサちゃん、一体何を――って、せ、先生ぇえっ!?」

「は!? ちょ、お、下ろさないと、早く!?」

「あら、後から合流するという話でしたから、まさかとは思いましたが……」

「いや、ハナコちゃん呑気にそんな事云っている場合ですか!? あ、アズサちゃん、これどうやって下ろせば……!?」

「うん? 別にこのロープを切れば……」

 

 ヒフミが早く先生を降ろそうとアズサに問いかければ、徐に懐からナイフを取り出し、先生を吊り下げたロープに近付くアズサ。ピンと張ったロープは地面の固定杭と繋がっており、そこを切断すれば先生も助かるという寸法だった。

 しかし、この状態でロープを切断するという事は、現在の高さから落下するという事でもあり――。

 

「ま、待って下さいッ、あんな逆さ吊りの状態で切ったら……!」

「ふんっ」

 

 ヒフミが制止の言葉を掛けるも、即断即決のアズサはナイフでロープを素早く切断。アズサにとって身体能力の基準はキヴォトスなので、この程度の高さから落ちた所でどうなる事もないと考えての事だった。しかし、残念ながら先生は人間である。

 カラカラと巻き取り器が音を立て、吊り下げられていた先生はそのまま急速落下。

 

「――んごはァッ!?」

 

 そして、見事にジャーマン・スープレックスを喰らった様な姿勢で地面と衝突した。

 

「せっ、せんせええぇええ!?」

「わ、わわっ、どど、どうしよう!? えっと、えっと……! ば、絆創膏、じゃなくて! 風邪薬……でもなくてっ……!」

「……凄い落ち方をしましたが、先生、御無事ですか? この指、何本に見えますか?」

「だ、大体……四本、かな」

 

 ヒフミとコハルが慌てて先生に駆け寄る傍ら、ハナコが指を二本ずつ――エヘ顔、ダブルピースで先生に問い掛ける。君、やけに楽しそうじゃないか。先生は後頭部の強烈な痛みに耐えながら、そんな事を想った。

 

「む、むぅ……これは、もしかして私のせいだろうか」

 

 ■

 

「……という訳で、改めて」

「やぁ、遅れてごめんね、皆」

 

 合宿施設、宿泊部屋。

 大きなたんこぶを作った先生が、朗らかに挨拶を口にする。先に出発した補習授業部に遅れて、先生も合宿の引率としてこの場に訪れていた。

 

「……先生、頭の傷は大丈夫なの?」

「うん、コハルの持っていた薬品のお陰でバッチリ、冷やせば腫れも引くだろうし、気にしないで」

 

 コハルが心配そうに先生を見れば、本人はカラカラと笑って手を振る。実際、腫れは酷いものだがダメージ自体はそれ程でもない。弾道ミサイルやライフル弾に比べれば、高所からの落下(プロレス技)など怪我とも呼べないものだった。それに、これでも先生である。落下の寸前に首を抱えて衝撃は逃がし、致命的な部分は回避しているとも。

 

「先生、ごめんなさい」

「良いよ、ただ、合宿の間は許可を得ずにトラップの類の設置は禁止ね、今回は逆さ吊り程度で済んだけれど、爆薬とか使われたら先生マジで洒落にならない事になりそうだから」

 

 アズサの謝罪に、先生はやや引き攣った表情でそう口にする。

 実際、逆さ吊りになっただけでも、ホント吃驚したのだ、マジで。これが爆薬とかだとちょっとシャレにならない、先生の中身が物理的にコンニチハする羽目になるだろう。

 

「先生は私達と違って、少しの爆発でも致命傷に成り得ますから、確かにトラップ一つでも大事ですね」

「む、むぅ……分かった、トラップを仕掛ける場合は事前に許可を取る」

「仕掛けないという発想はないんですか……?」

 

 ヒフミの疑問は尤もだが、恐らく無理な話だろう。何せ、アズサなのだから。

 

「ま、まぁ良いです、いえ、良くはありませんが――先生も大事なかったという事で、取り敢えず話を合宿に戻しましょう!」

 

 一つ咳払いをし、そう告げたヒフミは皆を見渡しながら今後の予定を思い返した。

 

「ナギサ様から云われた通り、第一次特別学力試験には残念ながら落ちてしまったので、この別館で合宿を行う事になりました、私達は第二次試験までの一週間、此処に滞在する事になります」

 

 勉強合宿という事で貸し出されたこの施設――元々はどのような部活でも使用出来る様に、一通り必要な設備は揃っているとの事。外から見た合宿場はそれなりに大きく、アビドス校舎と同程度――とは云わないが、ちょっとした小さな学校レベルの大きさを誇っていた。

 

「長い間放置されていたそうですが、少し掃除すれば全然使えそうですし、体育館やシャワー室なども充実しています、トリニティの本校舎からも頑張れば歩ける距離ですし、地下に食堂設備もありますので、特に生活の心配はありません」

「うん、そう云えば外にプールもあった、此処と同じく暫く使われていない様だったけれど」

「プールですか、良いですね、皆で入ったら楽しそうです、勿論――」

「ぜ、全裸は駄目! 変態ッ!」

「……いえ、普通に水着で、ですよ?」

「うぐぅ――!?」

「あ、あはは……それと、私達が此処に滞在する間、先生もずっと一緒に居てくれる予定ですので、何かあっても大丈夫だと思います!」

「うん、何かあったら遠慮なく頼ってね」

「ありがとうございます! えっと、通路を挟んで向かい側にもお部屋があるのですが、先生は――」

「あら、先生、どうせなら……――」

「駄目っ、絶対ダメ! 同衾とかエッチじゃん! 死刑ッ!」

 

 ハナコが先生に一歩詰め寄りながら何かを口にしようとすれば、空かさずコハルが体を差し込みガード体勢に入る。

 

「えっと、コハルちゃん、私、まだ何も云っていませんが……?」

「何を云い出すか位大体分かるわよ! 駄目ったら駄目! そういう事はさせないんだから!」

「コハルちゃんは厳しいですねぇ……」

「私は先生も一緒で構わないけれど? ベッドも余っているし、無駄に部屋を幾つも使う事もない」

「むむっ」

 

 アズサの言葉に、先生の顔が非常に険しくなる。四人中二人が同室賛成派、つまりこれは民意――。先生の表情を見たハナコが、にんまりとした笑顔を浮かべた。

 

「あら、先生も結構ノリ気ですか?」

「っ!?」

「――いや、確かに皆の寝顔とか眺められるのは良いなぁと思って」

「だ、駄目っ! エッチなのは駄目ッ!」

「寝顔ってエッチなの……?」

 

 先生、流石にそこまでは考えてなかったなぁ。

 そんな事を想いながら、小さく首を横に振る。まぁ、彼女達の言葉は嬉しいが流石に生徒と同室というのは問題がある。生徒の生足を舐めますならば兎も角、何か間違いがあってはいけない。先生はクリーンな存在でなければならないのだ。

 

「まぁ、確かに惜しいけれど、私は向かい側の部屋で寝泊まりするよ、何かあったらいつでも対応するから」

「で、では、一旦そういう事で……」

 

 ■

 

「それでは、荷物を片付けて早速勉強を――」

「あら、でもその前にやる事があると思いませんか? ヒフミちゃん」

「えっ、やる事、ですか……?」

 

 話も纏まり、早速合宿開始――という所で、ふとハナコから声が上がった。

 ハナコの言葉に、ヒフミが目を瞬かせる。反し、アズサは何処か理解を示すような表情で頷いた。

 

「成程、やはり敵襲を想定したトラップの設置を――」

「アズサ? マジでやめてね? 最悪先生の中身がコンニチハしちゃうからね?」

「む、むぅ……」

「いえ、そうではなく――」

 

 ハナコが、「こほん」と一つ咳払いをし、指を立て満面の笑みを浮べ云った。

 

「お掃除、ですよ♡」

「お、お掃除……ですか?」

 

 その一言に、ヒフミは目を瞬かせ、呟く。

 

「はい、管理されていた建物とはいえ、長い間使われていなかった事もあって、埃なども多いように見えませんか?」

「……ん、確かに、そうかな」

 

 答え、先生はベッドの縁などを指先でなぞる。すると、指先に薄らと積もった埃が付着した。C&Cのメンバーが見たら顔を顰めるだろう。生活出来ない訳ではないが、掃除の必要性はある――そんな具合の汚れだった。

 

「このまま此処で過ごすと云うのも健康に良くなさそうですし、今日はまずお掃除から始めて、気持ち良い環境で残り一週間を過ごす――と云うのは如何でしょう?」

「なるほど、確かにそうですね……身の回りの整理整頓から始めるのは定石ですし、そうでなくとも途中で気になってしまいそうですし……」

「もしかしてヒフミって、テスト前とか何となく部屋の汚さが目について掃除始めちゃうタイプ?」

「せ、先生、何故それを……?」

「――うん、衛生面は大切、実際の戦場でも凄く士気に関わりやすい部分だ」

「お、お掃除……? えっと、まぁ、普通のお掃除なら……」

 

 ハナコの言葉に、補習授業部の面々は凡そ賛成な様子。誰も、埃の積もった部屋で寝泊まりするのは嫌だろう。掃除が出来るのならば、それに越した事はない。

 

「た、確かにハナコちゃんの云う通りです、私達がするのは一夜漬けではなく、きちんと用意された期間の中での試験勉強……つまりは長距離走の様に順番やペース、作戦も考えないといけません」

「えぇ、どうせなら良い環境で、そうでしょう?」

「うん、賛成する」

「わ、私も……」

 

 皆の意見を聞き終えたヒフミは、強く頷き、そして宣言する。

 

「――分かりました、それではまず、大掃除から始めるとしましょう!」

「それなら私も参加しよう」

 

 告げ、先生は軽く腕捲りをする。手分けした方が早い、こういうのは人数がモノを云うのだ。そうでなくとも施設自体そこそこの広さを誇る上、自分達の生活空間を掃除するだけでも大変だろう。午前中一杯を使うのは確実だった。

 

「それでは、汚れても良い服に着替えてから十分後に建物の前に集合で良いですか?」

「分かった」

「はい♪」

 

 ヒフミの言葉にアズサとハナコは頷き、コハルは一瞬先生を横目にした後、恐る恐る問いかけた。

 

「よ、汚れても良い服……た、体操着で良い……?」

 

 大変よろしいと思います。

 

 ■

 

 そうして解散した――十分後。

 手早く着替えた先生が合宿場の出入り口、その日陰で待機していると、ヒフミがいの一番に駆けて来るのが見えた。

 

「先生、お待たせしました!」

 

 そう云って手を振るヒフミは見慣れぬジャージ(体操服)姿。いつも制服の恰好しか見ていなかったので、かなり新鮮に感じる格好だ。

 

「おぉ、体操着のヒフミだ」

「はい! 服装から入るのも大事ですからね、体操着の方が動きやすいですし、汚れた時に洗濯もしやすいですし!」

 

 そう云って快活に微笑むヒフミ。彼女の視線は、先生の恰好に向けられていた。

 

「先生も……いつもシャーレの制服姿なので、何だか新鮮ですね」

「ん、そうかな?」

「はい、いつも長袖ですし」

 

 掃除に先駆けて、先生も運動服に着替えている。残念ながらシャーレに運動用の制服はないので、普通に市販品で代用していた。一般的なスポーツ用の長ズボンに半袖、何の変哲もない恰好だろう。しかし、確かに生徒の前で半袖姿を晒す事は中々ない。二の腕をそっと摩りながら、先生は苦笑を零す。

 

「流石に夏だからね、いつもあの格好だと暑くて仕方ないのさ」

「あ、あはは……シャーレの制服には夏服とか、ないんですか?」

「ん~、あると云えば、あるけれど」

 

 そう云って先生は連邦生徒会の面々、その恰好を思い出す。リンやアユムは通常の制服を着用しているが、モモカなどは冬場でも暖房をガンガン稼働させ夏用の制服を着用している。あの、肩が大きく露出したタイプの制服だ。一応、連邦生徒会と同型の制服がシャーレにも支給はされているが――長袖の方が、傷を隠すのに都合が良い。

 

「というか先生、意外とアスリート体型というか――失礼ですけれど、デスクワークが中心なので、もっと、こう……」

「あはは、まぁデスクワークが中心だけれど、生徒には色々なタイプが居るからねぇ……」

 

 やや驚いたような表情で先生の腕を突くヒフミに、先生は苦笑を零す。アビドスの対策委員会と休日を過ごす場合、一緒にお昼寝か、耳かき(ASMR)か、バイト手伝いか、長距離マラソン(サイクリング)の四択だったので、現在の先生の肉体はかなりアスリート寄りである。特にシロコは、先生を頻繁にマラソンへと誘う為、足腰に関しては大分鍛えられた。大体数十キロのマラソンになるので、後半は彼女の背中で過ごす事になるのだが、そういう時のシロコは酷くご機嫌である。

 そうでなくとも、いつ何があるか分からないのがキヴォトス。日中の移動中に銃撃戦が繰り広げられていた場合、何より自身の足と体力が生死を分けると云っても過言ではない。

 まぁ尤も、幾ら鍛えた所で人間である先生とキヴォトスの生徒の間には、隔絶した差が存在するのだが。

 だからと云って、やらない理由にはならないのだ。

 

「……で、私は何をすれば良いの?」

「あっ、コハルちゃん、早かったですね」

「お待たせ」

「アズサちゃんも――って、どうして銃を……?」

 

 ヒフミと話している内に、補習授業部の面々が続々と集合してくる。二人共、トリニティ指定の体操服に身を包んでいた。

 しかし、アズサは両手に愛銃を抱えており、それをヒフミが指摘すれば彼女は酷く真面目な表情で口を開く。

 

「肌身離さず持っていないと銃の意味がない、襲撃はいつ来るか分からないものだ」

「いえ、それはその、何といいますか、その通りかもしれませんが……」

「お待たせしました、皆さん早かったですね?」

「あっ、ハナコちゃ――」

「アウトォーーーッ!」

 

 ハナコが最後に合流し、皆が振り向く。

 そして、浮かべた表情はそれぞれ、能面、困惑、歓喜、羞恥の四つ――ハナコは、水着姿であった。

 

「おぉ~」

「あら?」

「何で掃除するのに水着なの!? 馬鹿なの!? バカなんでしょ!? バーカ!」

「ですが動きやすいですし、何かで汚されても大丈夫ですし、洗い流すのも簡単で――」

「そういう問題じゃないでしょ!? 水着はプールで着る物なの! っていうか、だっ、誰かに見られたらどうするの!?」

「誰かも何も、此処は私達以外いませんよ……?」

「先生が居るでしょう!?」

「あ、お構いなく」

「構うに決まっているでしょうがぁ!?」

 

 先生が菩薩の様な表情でひらひらと手を振れば、真っ赤になったコハルは叫びながら地団太を踏む。

 おぉ、怒り狂っておる、コハルは可愛いなぁ。先生はそんな事を内心で思った。

 

「と、兎に角駄目! アウトったらアウト! あんたはもう水着の着用禁止!」

「あら、それはそれで、まぁ……仕方ありませんね、よいしょ――」

「わあああぁああああ!?」

 

 コハルにそう宣言された彼女は、そっと水着をその場で脱ぎ始めた。コハルは未だ嘗てない程のシャウトを響かせ、先生を睨みつけると必死にハナコの前に立って遮蔽物に徹した。

 見え……見え――ない。

 

「何で水着脱ごうとするの!? 馬鹿なの!? 変態っ、この変態ッ!」

「いえ、コハルちゃんに水着の着用を禁止されてしまったので――」

「だからって全裸になるって発想がもう既におかしいのッ! 普通に体操着を着れば良いでしょう!? エッチなのは駄目! 死刑ッ!」

「あらあら」

「ほら、部屋に体操着あるんでしょッ!? それに着替えてッ! 早くッ!」

 

 コハルがハナコの背中を押し、合宿場の中へと押し込んでいく。ハナコは背中を押されるがまま、笑顔で扉の向こう側へと消えて行った。

 

 ■

 

「そ、それではまず、周辺の雑草抜きから始めて行きましょう!」

 

 改めて集合した補習授業部。無論、ハナコは着替えを終え体操服姿だ。

 気を取り直し、掃除の開始を宣言したヒフミは、周囲の生い茂った雑草を見渡し、頷く。

 

「今日は日差しも強いですし、熱中症には気を付けて下さいね」

「は~い♪」

「草を、抜く……まぁ、別に……」

「うん、確かに本陣の周辺で敵が隠れる事が出来るポイントを取り除くのは理に適っている」

「えっと、取り敢えず建物の周りを整えたら、その後はそれぞれ一ヶ所ずつお掃除をしていく、という順番でお願いします!」

 

 告げ、皆に雑草を入れるビニール袋を手渡し、序に軍手と根を掘り返すためのスコップも用意する。出入り口に限ればそれ程広くもなく、全員で取り掛かれば一時間程度で済むだろう。

 

「それじゃあ、頑張りましょう!」

「おー!」

 

 そうして、補習授業部による大掃除が始まった。

 

 ■

 

 合宿施設、廊下。

 

「ここはまず箒で埃を掃いて、その後にモップが良さそうですね……隅などに結構溜まっているので、一度では終わらないかもしれませんが――」

「うん、大丈夫、問題ない」

「アズサちゃん、この廊下が終わったらシャワー室とお手洗い周りをお願いしても良いですか?」

「了解、任せて」

 

 ■

 

 合宿施設、ロビー。

 

「けほっ、けほっ……! ここ、隅とか、凄い埃……!」

「そうですね、家具が多いからでしょうか……えっと、ではここも埃を掃いて――」

「や、やり方くらいは知ってる! 正義実現委員会でずっとやってるし! マスクを着用して埃を払ってから、水拭きすれば良いんでしょ! 馬鹿にしないで!」

「ば、馬鹿にしたつもりはないですよ……? では、ここはコハルちゃんにお任せしますね!」

「と、当然よ!」

 

 ■

 

 合宿施設、宿泊部屋。

 

「えっと、此処は……」

「ヒフミちゃん、此処は私に任せて下さい、これから色々とお世話になる場所ですし、きちんとお掃除しておかないとですよね」

「えっ、あ――」

「寝具類は今洗っておけば、午後には乾くでしょうし、他の部屋にマットレスはあったので、古そうなものは交換して……後は換気を――」

「わわっ、流石に手際が良いですね……では、お願いしますね、ハナコちゃん」

「うふふ、はい♡」

 

 ■

 

 教室、体育館、簡易キッチン兼食堂――次々と掃除を終え、一度合宿場出入口へと集合する補習授業部。モップやらバケツやらを手にした彼女達は綺麗になった合宿場を見渡し、達成感に目を輝かせた。

 

「ふぅ~……!」

 

 額に流れた汗を拭い、先生は大きく息を吐き出す。何となく、久々に運動した気分だった。アビドスでの騒動が一段落した後、確かに積もった業務を捌くばかりで運動する機会が無かったと思い返す。いや、一応定期的に最低限の筋力負荷は掛けていたが、どうしても疎かになりがちだった。

 これからの事を考えると、体力の低下は致命的だろう。これは鍛え直しかと、先生は内心で呟く。

 

「どうかな、大体は終わったけれど」

「……良いんじゃない? 随分綺麗になった気がする、うん、気持ち良い」

「悪くない」

「そうですね、皆さん、お疲れ様でした!」

 

 皆も薄らと額に汗を滲ませながら、汚れた手を払う。時間を掛けて清掃した甲斐あって、施設の内部と周辺は清潔感に満ちていた。少なくとも、目につく場所に埃や汚れ、雑草の類は見当たらない。

 

「……あ、そういえばまだ、一ヶ所残っていましたね」

「あれ、そうでしたっけ?」

 

 ふと、ハナコがそんな事を口にする。一応、大方の場所は清掃を終えた筈だとヒフミが疑問符を浮べれば、指を立てたハナコが嬉しそうに告げた。

 

「えぇ、屋外プールが♡」

「ぷ、プール……? あ、そう云えばさっき、あるって――」

 

 ■

 

 何やかんやと、ハナコに連れられ合宿施設の裏手へと回った補習授業部の面々。そして、そこで見た光景に思わずヒフミは言葉を失った。

 

「こ、これは……」

 

 プールの浴槽、プールサイド、それに周辺の植物まで――かなり汚れ、伸び放題となっている。プール内部には落ち葉やら木の枝やらが散乱し、黴か泥かも分からない黒がこびり付いていた。周辺のプールサイドも同じく、これを清掃するとなるとかなりの労力と時間が必要だろう。

 

「だいぶ大きいな、それに汚れが酷い、どこから取り掛かれば良い物か……いやそもそも、補習授業に水泳の科目は無かった筈だけれど」

「試験に関係ないなら、別にこのままでも良いじゃん、掃除する必要ある?」

「――いえいえ、良く考えてみてください、コハルちゃん」

 

 清掃に難色を示す皆に、ハナコは何か強い意志を秘めた瞳を向ける。

 何か、特別な理由でもあるのかと訝し気な目を向けるコハルは、両手を組んで何かに思いを馳せるハナコを見た。

 

「キラキラと輝く水で満たされたプール、楽しい合宿、はしゃぎ回る生徒たち……ほら、楽しくなってきませんか?」

「……? え、何? 分かんない、何か私に分からない高度な話してる?」

 

 コハルは思わずそんな事を口走る。それと、補習授業部に水泳の科目が無いにも関わらず、プールを掃除する事に関連性があるのか? 疑問しか生まれない。コハルは思わず先生の方に視線を向ける。

 

「うん、分かるよハナコ、とても良く分かる」

「先生! やはり理解して下さいますか♡」

「えっ、えっ?」

 

 しかし、先生はハナコの言葉に深く頷いて見せた。その事に、ハナコは酷く嬉しそうに声を上げる。まさか、理解出来ないのは私だけ? ――思わずコハルは隣に居たアズサを見るが、彼女も不思議そうに首を傾げるばかりだった。

 良かった、私だけじゃなかった。コハルはそっと胸を撫で下ろす。

 

「で、ですが確かに、こうして放置されてしまったプールを見ていると、何だか……こう、もの悲しい気持ちになりますね」

「このサイズだし、昔はきっと使われていた時期もあったんだろう、元々は、賑やかな声が響き渡っていた場所なのかもしれない」

 

 呟き、アズサはそっと目を伏せる。

 プールサイドに放置されているパラソルやサマーベッドが、その名残であろう。けれど、人に忘れられるという事は――こういう事だった。

 

「それでも、こんな風に変わってしまう――『vanitas vanitatum』……それが世界の真実」

「……?」

「えっと……」

「古代の言葉ですね、『すべては虚しいものである』(vanitas vanitatum)……確かに、そうなのかもしれません」

 

 すべては虚しいものである――どれだけ人に溢れた場所であっても、時の流れは残酷で、今はこんな変わり果てた姿になってしまっている。見ているだけで、どこか寂しさを憶える様な景色。ハナコは意気消沈するアズサをじっと見つめた後、ふっと顔を上げ、声を張った。

 

「……アズサちゃん、ヒフミちゃん、コハルちゃん!」

 

 ハナコの声に反応し、皆が顔を上げる。

 その視線に笑みを返しながら、彼女は胸を張って云った。

 

「――今から、遊びましょう!」

「え、えぇっ!?」

 

 唐突な宣言。

 一応勉強合宿という体でこの場に居る面々に向かって、とても正気とは思えない提案。しかし、彼女は相変わらず満面の笑みを浮べたまま強弁を張る。

 

「今から掃除をして、プールに水を入れて、みんなで飛び込んだりしましょう!」

「で、でもハナコちゃん、私達は此処に勉強をしに――」

「逆に考えるんです、明日からは頑張ってお勉強をし続けなければなりません、となると今日が最後のチャンスかもしれないじゃないですか!」

 

 腕を組み、頷きながら自身の考えを述べるハナコはどこまでも自信に満ちている。自身の考えに間違いなどないと云う態度だった。これから始まる勉強合宿、その合間に遊べるような時間があるとは思えない。そうなると、ストレスや不満は最初に発散している事が望ましい。

 

「何事もメリハリが大事なんです、今の内に此処で楽しく遊んでおかないと、途中からまた別の事で色々と疲れてしまうかもしれませんよ……!?」

「う、うぅ……?」

 

 ヒフミは、ハナコの強い口調に思わずたじろぐ。そう云われると、そうかも……? と思ってしまいそうな勢いがあった。確かに、明日からは辛い勉強の日々が始まる、そう考えると初日くらい――何て思ってしまうのも真実。しかし、自分ひとりだけでは判断が付かず、思わず縋る様な目で先生を見た。

 

「で、でも……先生?」

「――元々初日は準備に時間が割かれると思っていたし、自習時間が多めだから、明日少し頑張れば問題ない程度の余裕はあるよ」

「ほら、先生もこう仰っています! さあさあ、早く濡れても良い格好に着替えて来て下さい! プール掃除を始めましょう!」

「……うん、例えすべてが虚しい事だとしても、それは今日、最善を尽くさない理由にはならない」

 

 先生がそう口にすれば、我が意を得たりとばかりにハナコが告げ、アズサも賛同の意思を見せる。肩に掛けていた愛銃を抱きしめると、強い意志の籠った瞳でプールを一瞥し、彼女は踵を返した。

 

「問題ない、ちゃんと水着も持って来ている、待っていて」

「あ、アズサちゃん!? って、早……っ!?」

「さぁ、ヒフミちゃんも! コハルちゃんも早く水着……いえ、何でも良いので濡れても良い格好に!」

「ハナコ、目がキマっているけれど大丈夫?」

「私は真剣なだけですよ先生!」

 

 ハナコの主張に圧され気味だったヒフミは、しかしもう一度廃れ、汚れ果てたプールを見つめた後、ぐっと唇を噛み締め頷いて見せる。

 

「で、でも確かに……此処だけ掃除しないのも何だか気持ち悪いですし――分かりました、私も着替えてきます!」

「え、えぇっ!? 補習授業とは全然関係ないじゃん……うぅ、何で……」

「――ふふっ、コハルちゃん♡」

 

 コハルが最後までプールの清掃参加を渋れば、妙な圧力を伴った笑顔と共に足を進めるハナコ。それを見たコハルは、「ひっ」と小さく肩を跳ねさせ、両手で自身を搔き抱きながら叫んだ。

 

「わっ、分かった! 分かったから! 無言で近寄らないでよッ!?」

 


 

 ミーカミカミーカミカ!!

 ミーカミカミーカミカ!!

 ミ゛ーーーーー………!

 ミカミカミカミカミカミカミカミ゜ッ!!

 

 はい、先生が一生を終えるのに十秒掛かりました。

 

 それは兎も角、本編が余りにも透明感があり過ぎて、透き通るような世界観で送る学園×青春×RPGっぽくなってしまったので、此処いらで先生の『もぎたて♡にーちゅ』を発散しておこうと思いますわ~!

 今回は、アビドス編の最後に於いて、『もしヒヨリが先生の狙撃を敢行していたら』、の展開について考えて行こうと思いますの。

 

 まぁ、まず助かる見込みは限りなく低いですわよね。彼女の愛銃が対物の時点で、四肢の何処かしらにでも命中すれば間違いなく千切れ飛ぶでしょうし、掠っただけでも伝わる衝撃はとんでもないですわよ。でも私、隣で先生が一瞬で肉塊になって呆然となる生徒より、まだ生きている先生に縋りつく生徒の泣き顔の方が胸ぽかぽかするので、今回はそちらを採用したいと思います。おぉ、何と人道的で倫理観に溢れた文章か、涙でそう……。

 

 ベアトリーチェが撤退し、ハルナを見送った先生が、「夜明けだ――」と呟いた瞬間に、銃声が一発。それで、狙撃されたと第六感で察知した先生は直ぐ傍にいたホシノを突き飛ばす訳ですね。神速の超反応、先生じゃなきゃ見逃しちゃうね。

 突き飛ばされたホシノは何が起こったのか分からなくて、「え――」と呟いて、目の前に突き出された先生の腕が、大口径の弾丸で千切れ飛ぶ様を目撃する訳です。

 勿論対物ライフルが腕に直撃なんてすれば先生自身も無事では済みません。人体に直撃すれば硝子細工の様に粉々になる様な代物です。腕は根元から千切れ飛び、衝撃が先生の肉体を突き抜け、そのまま地面に何度も叩きつけられます。

 そして血塗れの砂利だらけになった先生を見つめるホシノは、数秒硬直した後、唇を震わせながら先生に手を伸ばす訳です。最初は、「ぁ、……あ、ぁ――」と漏れ出るだけの声が、「ああァアアアアアッ!?」と絶叫に変わって、愛銃を投げ捨てながら先生の元に駆け出すんですね。何と素敵な事か。

 多分、セリカとシロコは蒼褪めながら同じように駆け出して、意識の無くなった先生の体を必死に揺すろうとするでしょう。アヤネは目の前の衝撃的な出来事に立ち竦みながらも、医療用のドローンを震える指先で呼び出すと、「揺すらないで下さいッ!」とシロコやセリカに叫ぶのではないでしょうか。ノノミは血塗れの先生を見て息を詰まらせて、けれど座り込みそうになる足に必死に力を込め、先生に縋りついて叫ぶホシノに駆け寄り、必死に声を掛けると思う。ここで自分まで取り乱したら、本当に収拾がつかなくなると予期して。狙撃位置からホシノと先生を庇う様に、涙を流しながら弾丸の飛来した方向を睨みつけるんだ。

 ワカモは一瞬両手がだらんと垂れて、愛銃を落としかけるんだけれど、次の瞬間には愛銃のストックを自身の額に思い切り打ち付けて、割れた仮面をそのままに凄まじい形相で狙撃手の元に急行します。ワカモは只ですらベアトリーチェ戦で先生に負傷させてしまったという負い目と後悔があるので、バチクソにキレています。全ギレです。多分、先生が止めなければ本気でヘイローを破壊する位の気概です。

 勿論、一発撃った後は位置を変えるのが狙撃手のセオリーなので、既にヒヨリはビルから退去済み。先生に呼ばれた生徒達が狙撃に気付き、犯人を特定しようと動いても蛻の殻――という事ですね。

 

 また、犯人がアリウススクワッドだと露呈した場合、エデン条約編で彼女達はマジで地獄を見ます。先生がこの件で死亡した場合は、そもそも救われる事もないですが、腕を喪った状態で生き残っても、周囲の生徒から向けられるヘイトがとんでもないです。

 罪状が先生の腕を狙撃で吹き飛ばす、ミサイルで爆殺しかける、その後腹に銃弾叩き込む、の三連先生殺害未遂を行っているので、まぁこれで「許してあげよう」という気持ちになる方が難しいですね。という訳で、先生本人が幾ら友好的に振る舞っても、周囲の生徒からの好感度はマイナスの底値となります。サオリなんかどんな扱いを受けても粛々と呑み込み、気丈に振る舞いそうですが、先生の腕を吹き飛ばしたヒヨリは恐らくかなりキツい立場に置かれます。

 

 本人も後ろ向きな気質ですし、逢う生徒、逢う生徒に、「こいつが先生の腕を吹き飛ばした生徒か」みたいな目で見られたら、かなり堪えるんじゃないですかね。直接的に言葉で罵って来る生徒も居そうですし。

 その内、そういう目で見られる事が怖くなり、先生の傍に居ないと常に震えてしまう様な精神状態になってくれても私は一向に構わん! というかこの状態のアリウススクワッドを放逐したら、マジで残党狩りみたいな形でヘイロー破壊されそうなので、シャーレで保護するしかないと思う。腕吹き飛ばした先生本人に救われている気持ちはどんな感じなんやろ? というかこの状態で万が一先生が死亡でもしたら、マジでアリウススクワッドに全部の罪被せられるんやない? うぅ、アリウススクワッドかわいそう……。生徒達が争う姿なんて見たくないッ! でもそれが先生に対する好意の結果だと思うと嫌いになれないジレンマがある。愛って色んな形があるのね……。

 これも全部、対物ライフルに撃たれた程度で死にかける先生って奴が悪いんだ。

 

 因みにこれは記憶を持っていないミカの場合の話なので。まぁ記憶持っていなくても多分終盤で彼女はアリウススクワッドを許すか? と云われると、先生腕ナイナイだしかなり微妙なラインな気がしますが。果たして、腕一本と彼女の良心は釣り合うのか。

 記憶持ちのミカの場合は、多分計画とか諸々全部無視してヒヨリだけはヘイロー破壊に及びますね。というか、ヒヨリが狙撃を終えて帰還中に、強襲して殺害するんじゃないかなぁ。それで、しれっと素知らぬ顔でアリウスの協力者のまま戻る。ヒヨリは先生を狙撃後、行方不明という扱い。アリウススクワッドの憎悪がまた増えるよ! 勿論、本来のエデン条約通りの筋書きを終えた後、アリウスは全て殴殺ENDです。聖徒会を素手でボコした後、ミカを救いに来た先生が見るのは誰も居ない聖堂で、アリウス自治区を後にしようとしていたアリウススクワッドを背後から強襲する訳ですね。

 

 勿論、先生も居ない、ヒヨリを欠いたアリウススクワッドに勝ち目はありません。良かったねサオリ、贖罪が出来るよ。良いわけねぇだろ何考えてんだアリウススクワッドは暖かいご飯と寝床と沢山のお給料と愛を貰って幸せに暮らさないといけないのこれはキヴォトスの法律で決まっているのお分かりになって!? これだから甲斐性のない先生は駄目なんですわよ! 

 

 というかコレ、先生にバレたらミカは結構ヤバヤバですわよ! でも本編でも先生がアリウススクワッドの味方になった後であっても、戦闘を継続するような覚悟ガンギマリちゃんですし、そこに自分だけではなく「先生」という重荷も加わった場合、ガチのマジで先生に嫌われようと一念貫くだけの意思がミカにはありそうで恐ろしい。 つまりクロコと同レベルの「先生の為に」な訳ですね。おぉ、(先生が)哀れ哀れ。でもそんな一途なミカは素敵だよ、全部先生の為だもんね、仕方ないよね。先生もちゃんと彼女の愛に応えてあげなきゃ可哀そうだよ! 先生には人情ってものがないのか!? うぅ、ミカ可哀そう……。

 自分の為に大切な生徒が、同じ大切な生徒を殺害したと知った時の先生どんな顔するんやろなぁ……。絶対生徒の事は責めないし、その罪悪も背負おうとするんでしょう。先生は誰に対しても手を挙げようとはしないし、ましてや【殺生】なんて事に関わる事柄に関しては、ゲマトリアも見逃すくらい絶対的な倫理観を持っていますから。

 けれど唯一、手を挙げる可能性があり、見かければ撃ち殺してやると云わんばかりに憎悪を抱いている相手が居るんですよ。

 

 そう、皆さんご存知、先生自身ですね!

 

 



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トリニティの裏切者

誤字脱字報告に感謝のペロロを捧げます。
今回も一万七千字です、めんご。


 

 プール掃除を決めてから凡そ十分後。

 補習授業部の皆は水着姿で再びプールサイドへと集合し、その手には倉庫から引っ張り出して来たブラシやホースが握られている。

 

「えーっと、集まりましたけれど……」

 

 ヒフミ、コハル、アズサの三名はトリニティ指定のスクール水着に身を包み、困惑した表情をハナコに向けていた。

 

「……あの、先生は一体どうしたのですか?」

「――うぉぉおおおおッ!」

 

 ヒフミが、ふとプールの中で疾走する先生を見つめながら云った。先生はズボンの裾を膝程まで捲り上げ、プールの底面をブラシで磨き上げながら叫んでいた。その表情はまさに真剣、ヒフミ達が思わず息を呑む程の気迫を纏っている。

 

「尤も効率的なコーナリングをッ……最高の演算機能で導き出したっ、究極の私が磨き上げるべき場所(クリーニング・エリア)……! C&Cの皆に鍛えられた私の掃除技術(腕前)――侮って貰っては困るッ! 退けェ汚れ共ッ! 私は先生だぞッ!?」

「ふむ……凄い気迫だ」

 

 ぽつりと、アズサが呟く。彼女からしても先生から迸るやる気というか、気力と云うか、目に見えないそれが肌にひしひしと伝わって来る程。

 ハナコは笑みを浮べながら、実に楽しそうに告げた。

 

「『一分一秒でも早く、皆がプールで遊べる様に』、と仰って、先程ブラシとホース片手に飛び込んで行きました♡」

「そ、そうですか、先生らしいと云うか、何というか……」

 

 生徒の為ならば常に全力の先生らしい行動だった。真剣の度合いは兎も角、納得は出来る。

 

「ともあれ、皆さん、これでびしょびしょになっても構わないという事ですね♡」

「うん、問題ない」

「ま、まぁ、一応……」

「――では、皆でお掃除を始めましょうか!」

 

「待て待て待てっ!?」

 

 しかし、ブラシを片手に満面の笑みで掃除を開始しようとするハナコを引き留める者が居た。コハルである。彼女は小首を傾げ、不思議そうにするハナコに向かって素早く詰め寄る。そう、彼女の恰好が問題だった。

 ――何故かハナコは皆が水着の中ひとりだけ、きっちりと制服を着込んでいたのである。

 

「コハルちゃん? どうかしましたか?」

「あんた掃除の時は水着で、どうして今度は制服なの!? 本当に馬鹿なの!? 濡れても良い服ってあんた云ってたじゃん!?」

「えぇ、ですからこれが濡れても良い恰好ですよ?」

 

 自身の衣服を引っ張り、何でもない事の様にそう口にするハナコ。普通、濡れても良い服というのは水着の事だろう。誰だってそう思う、コハルだってそう思う。ズレているのは、ハナコの方の筈だった。

 

「もうあんたが何を云っているのか分かんない! 制服が濡れても良いの!?」

「――コハルちゃん、これは各々の美学の問題かもしれませんが……」

「……えっ、美学?」

 

 唐突に真剣な表情を浮かべ、コハルを見つめるハナコ。

 その気迫に一歩退いたコハルは、引き攣った表情で彼女を見た。

 

「水着と制服、何方の方が濡れた時に『良い感じ』になると思いますか?」

「い、良い感じ……? な、何よそれ、何の話……!?」

「あっ、因みに先生はどう思われますか?」

「――私はっ、制服には制服のッ、水着には水着のッ、濡れた時の『良い感じ』があると思うよッ!」

「先生は先生で何云ってんの!?」

「あ、あはは……」

 

 プールの中で走り回りながら、全力で口走る先生。しかし、実際そうなのだから仕方ない。所謂、方向性の違いというものである。水着が濡れた時の艶やかな感じは、それはそれでとてもよろしい。制服が濡れた時の、あのぴったり張り付く感じ、それはそれで大変よろしい。つまり、どちらにも良い点があり、甲乙つけがたい。

 

「ふふっ、まぁ半分は冗談ですよ、ほら、実は中に着ているんです、お小遣いで買ったビキニの水着♡」

「え、え……?」

「先程、コハルちゃんに『水着の着用禁止』と云われてしまいましたし、確かに学校ではスクール水着の方が鉄板ですが……今日はこれで許して頂けませんか?」

 

 そう云ってちらりと制服を捲りあげるハナコ。中には確かに、彼女の私物と思われるビキニを着用していた。コハルは非常に困惑した様子を見せる。なら、何で上に制服を着るの……? と。それが彼女の云う、美学という奴なのかと。

 

「スクール水着は今洗濯中でして、これが駄目だとすると私、下には何も……」

「わぁああッ!? だから脱ごうとしないで!? 分かった、分かったからッ! それで良いからっ!?」

「ふふっ、ではそういう事で……♪」

 

 ビキニの紐に手を掛け、ゆっくりと力を入れて行けばコハルが慌てて制止を口にする。何はともあれ、許可を得られたのであれば問題ない。ハナコは改めてブラシを両手に握り締めると、とても楽しそうな笑みで以て宣言した。

 

「改めて、お掃除を始めましょうか!」

 

 ■

 

「見て下さい、虹ですよ、虹!」

 

 浴槽に入り、ホースを片手にしたハナコが頭上にそれを振り撒きながら声を張る。飛び散った水は近場のヒフミへと降りかかり、その冷たさにヒフミは身を竦めながら声を上げた。

 

「ひゃ!? ちょ、ハナコちゃん冷たいですよぉ!」

「ふふっ、トリニティの湖から引っ張ってきている水ですし、そのまま口を開けて飲んでも大丈夫ですよ?」

 

 そう云ってハナコは水をあちこちに振り撒きながら、時折ヒフミに向けてホースを振ったりする。その度に楽し気な声が上がり、そんな彼女達をどこか恨めしそうな目で見つめながら、コハルはプールの隅をブラシで擦っていた。

 

「うぅ、どうしてこんな事に……」

 

 呟き、意気消沈するコハル。だって、元々こんな大きなプールを掃除する必要などないのだ。面倒くさいし、疲れるし、自分達の使う場所を掃除するだけで良いじゃないかと、そんな事を胸の内で呟きながら――しかし皆が動いている手前、サボるという発想はなく、生来の生真面目さからちまちまとブラシを動かしていた。

 裏腹に、そのすぐ隣を駆け巡る影が一つ。

 

「こちらのブロックは完遂した、続けて速やかにそちらへ向かう」

「ほう、やるねアズサ、この私のスピードについて来るとは……!」

「先生こそ、中々の手際だ」

 

 髪を一つに束ね、真剣な表情で清掃を進めるアズサ。

 先生と二人並んだ彼女はその体力にモノを云わせ、隅から隅まで全力でブラシを掛けて回っていた。その勢いは宛ら人型の清掃器具。彼女の通った道は正に白雪の如き輝きを発している。

 

「アズサ、ならどっちが先にブロックを綺麗に出来るか競争しないか?」

「競争? ふむ、しかし判定は――」

「このタブレットが自動でどちらが綺麗に、かつ素早くこなしたか判定してくれるよ」

 

 そう云って先生はプールサイドに置いていたタブレットを手に取り、現在のプール、その内部映像を撮影する。後は全体を見える位置に立て掛け、先生とアズサの動きをトレースしながら、どちらがより綺麗に、かつ素早く汚れを落としたのかを判定してくれるだろう。

 

「さて、これで元の状態は記録した、後は単純な技量とスピードだ」

「……うん、訓練としては悪くない、分かった、受けよう」

 

 ふんす、と鼻を鳴らしたアズサはブラシを掲げ、宣言する。

 

「けれど勝負事なら、先生にだって負けるつもりはない」

「当然だ、常に全力で事に当たる、それがアズサの良いところさ」

「……そんな事、初めて云われた」

 

 先生の言葉に、彼女は何とも、不思議そうな表情でそう呟いた。

 

「コハル! 合図を頼む!」

「えっ、は!? な、何で私がそんな事――」

「――ごめん、誠意が足りなかったね、足舐めた方が良い?」

「わぁあああああッ!?」

 

 先生が残像を残しながら素早くコハルの前で屈めば、悲鳴を上げながら飛び上がるコハル。惜しい、あと一秒あれば舐められたものを――中々良い反応速度ではないか、先生は内心で呟いた。

 

「分かった、分かったからっ!? か、開始の合図を出せば良いんでしょう!?」

「うん、頼むよ」

 

 コハルがそう叫べば、先生は心なしか残念そうな表情で立ち上がる。そんな二人を見ていたアズサは、興味深そうな表情で先生に問い掛けた。

 

「先生、足を舐める事は誠意なのか?」

「うーん……人によるかな、十人十色、アズサの好物が他人にとってはそうじゃない、だから誠意になる事もあるし、ならない事もある」

「なら、コハルにとっては足を舐められる事が誠意になる、という事か……成程、そういう誠意の表し方もあるのだな」

「な、何云ってんの!? ならないからッ!?」

 

 真っ赤になって否定を叫ぶコハル、しかしその視線が先生の口元を凝視しているのに、本人は気付いていない。コハルはむっつりなのである、仕方ないのだ。

 

「うーん、先生達も楽しそうですねぇ、だったら――えいっ♡」

「むっ!?」

 

 ハナコが三人の喧騒に気付き、ホースを向ける。瞬間、アズサはその動作を目の端に捉え、素早く先生の背中に隠れた。先生は背中に隠れたアズサを視線で追いながら、「うん?」と首を傾げる。

 

「遮蔽防御!」

「えっ――ホワァアアア!? つ、冷たぁッ!?」

「あ、あぁ、先生が水浸しに……!?」

 

 結果、冷水は先生をずぶ濡れにし、アズサには僅かな飛沫のみが掛かる。上のTシャツからズボンまで、大量に水を吸った先生は僅かに腕を擦りながら震えた。予想以上に水が冷たかったのだ。

 

「ふふっ、水も滴る良い男、ですね先生♡」

「いや、割とマジで冷たくてびっくりしたんだけれど……アズサは私を盾にするし」

「常に警戒を怠らなかったから気付けた、先生も被弾管理は確りと行った方が良い」

「被弾……管理……?」

 

 何それ知らない、というか被弾した時点で私は結構致命的なのですが――先生はそう思った。

 

 ■

 

 その後もプール掃除は賑やかに進み、お昼はプールサイドでサンドイッチを頬張った。トリニティ購買から先生が買って来たモノだが、皆で食べるとこれがまた美味い。運動した後というのもあるだろうが、やはり皆で食べる飯は別格だった。

 まだ材料の搬入も済んでいないので、食堂の稼働は明日から。食材配達の業者は夕刻到着予定である。

 そんなこんなで時間は瞬く間に過ぎ去り――。

 

 夜、プールサイドに佇む補習授業部。

 空は既に陽が沈み、プール周辺には水の揺らぐ音だけが響いている。彼方此方濡れた姿で佇む皆の視線は、夜の蚊帳と水面に注がれていた。

 

「………」

「結局、実際にプールに入って遊ぶことは出来ませんでしたね……」

「そう云えば、水を入れるのは結構時間が掛かるものでしたね、ごめんなさい、失念していました」

「いや、謝る事はない、十分楽しかった」

 

 呟き、座り込んだアズサは笑みを浮べる。実際、皆で騒ぎながら行う清掃は楽しかった。少なくとも、彼女にとって「掃除」が楽しいと思えたのは、本当に初めてだったのだ。

 

「……綺麗」

「そうですね、真夜中のプールなんて、中々見られない景色ですし」

 

 周囲の光源を反射し、月を揺蕩わせる水面を見つめる。酷く静かで、美しい光景だった。これを見られただけでも、まぁ――悪くない。コハルは、そんな事を考える。

 

「………」

 

 しかし、ふっと気を抜いた瞬間、コハルの頭部がウトウトと船を漕ぎ始める。

 午前中から夕刻に掛け、殆ど掃除で動き回っていた彼女の体力は既に底を突いていた。その様子に気付いたハナコがそっと肩を包み、笑い掛ける。

 

「コハルちゃんおねむですか?」

「そ、そんな事ないもん……でも、ちょっと疲れた……」

「確かに、今日は朝から大掃除で動きっぱなしでしたもんね……先生も――」

 

 告げ、ヒフミは視線を横合いに向ける。

 そこには地面に横たわり、ピクリともしない先生の姿があった。

 アズサはじっと先生を見つめると、徐に屈み込み先生の口元に手を当て、それから指先を手首に当てた。脈を確認したのだ。余りにも動かないので、「もしかして死んでいるのか?」と思った故の行動であった。無論、死んでなどいない。

 

「せ、先生、大丈夫ですか……?」

「う、腕と、脚がね……痙攣して、う、動きが……」

「ふむ、筋力トレーニングが足りていないんじゃないか、先生?」

「あ、あはは……先生は私達とは違いますし、仕方ないかと……」

 

 これはアズサと全力で張り合った結果である。勝負はアズサが圧勝した。そもそも体力の土台からして格差があり過ぎた。妥当である。

 

「そろそろ、部屋に戻って休みましょうか……明日から本格的に勉強合宿が始まってしまいますし、そろそろ寝ないと明日に支障が出てしまうかもしれません」

「うん」

「そうですね、では、今日はこれくらいで」

 

 呟き、生徒達は帰る準備を始める。ハナコは倒れ伏した先生の傍に屈むと、楽しそうにその頬を突きながら告げた。

 

「先生、ご自分で歩けますか? それとも――私がお部屋まで……ふふっ」

「ふぁっ!? な、何のつもり!? 何考えてんの! え、エッチなのは駄目ッ!」

「あらあら、コハルちゃん、私はただ先生を部屋に送り届けようとしただけですよ? えぇ、本当です」

「ぐ、ぅ……!」

 

 先程まで意識朦朧といった様子だったコハルだが、ハナコの言葉に一気に覚醒し声を荒らげる。コハルはエッチな事には敏感なのだ、当然の事であった。先生はハナコの言葉に、「それも悪くない」と思いながらも、しかし残った僅かな力を総動員し、辛うじて立ち上がる。

 

「ぐ、ぬ……いい、や――生徒に、情けない姿はッ、見せられない……ッ!」

「おぉ、立った」

「……先生の足、凄い勢いで震えているけれど」

「これは、武者震いだよ……!」

「先生、何と戦っているの……?」

「自分自身さッ!」

 

 コハルの問いかけに、先生は満面の笑みで答えた。そうだ、人生は自分との戦いである。いつだってそうだった。

 そんな先生の背中から、ひらりと、何か薄い肌色が落ちる。

 

「――あら?」

 

 ハナコが気付き、そっと落ちたそれを拾い上げた。先生はそれが剥がれ落ちた事に気付いていない。

 

「先生、何か落ちて――……」

 

 ハナコは最初、先生にそれを告げようとしたが、手にしたそれの外観に思わず口を噤んだ。一見すると、何かのフィルムの様に見える。裏側はやや白く、表面は肌色。それに肌触りが柔く、人のそれに近い――この暖かさ、肌に直接貼り付けていた? ハナコは思わず、先生の濡れた背中をじっと注視した。微かに透けて見える先生の背中、しかし、それらしい影は見えない。

 ハナコは咄嗟に、手の中にそれを隠す。

 

「……ん、ハナコ、どうしたの?」

「いえ、何でも――それより先生、肩、お貸ししますよ?」

「だ、大丈夫さ、此処から部屋に行く位なら……!」

 

 ハナコに強がりの言葉を告げ、先生は意気揚々とロボットの様な動きで合宿所へと入って行った。その虚勢に、ヒフミたちは苦笑を浮べ、その背中に続く。 

 尚、結局道中で力尽き、アズサに担がれた模様。大人の威厳とは、薄く儚いものなのだ。

 

 ■

 

「それでは先生、お疲れ様でした!」

「お疲れ様」

「はい、ではまた明日」

「……お疲れ様」

 

 部屋前の廊下、先生の部屋と生徒の部屋に分かれる前に、皆が先生と挨拶を交わす。

 

「うん、お疲れ様、私は向かいの部屋にいるから、何かあったらいつでも呼んでね」

「せ、先生こそ、何かあったら呼んでください!」

「ふふっ、はい、ちゃんと覚えておきますね♡」

「そ、そういうハレンチなのは、正義実現委員会として……!」

 

 和気藹々と声を上げる皆に、先生は手を振る。そしてアズサは先生を真っ直ぐ見つめながら、いつも通りの表情で告げた。

 

「先生、おやすみなさい」

「……うん、おやすみ」

 

 ■

 

 生徒達と別れ、自室に戻った先生。

 乾き始めたシャツを軽く煽りながら、軽く部屋を一瞥する。弄られた痕跡や誰かの侵入した様子は――ない。

 

「――さて」

 

 その事に安堵の息を吐き、タブレットに充電コードを差し込むとそっとベッドに置く。そのまま生乾きのシャツを脱ぎ捨て、自身の肌に手を這わせた。

 

「……流石に、プールで燥ぎ過ぎたかな」

 

 呟き、指先で背中側を摩った。感触だけでも、保護膜が所々剥がれかけているのに気付く。腕周りは特に問題ないが、内側から汗が滲んでいた背中は、少し緩くなっていた。

 

「もう少し、持続力のある防汗、防水保護膜を開発出来れば良いのだけれど……流石に、今のミレニアムに頼む訳にもいかないか――」

 

 呟き、思考を巡らせる。元々この保護膜はミレニアムサイエンススクールにて開発された代物だ。勿論、現在のミレニアムではない。その設計図を元にクラフトチェンバーで製造している訳だが――やはり水辺で、それも一日中付けっぱなしとなると中々どうして難しい。

 ソファに座りながらテーブルに資料を広げた先生は、腹回りや胸元、背中の保護膜を剥がしながらこれから補習授業部について思案を広げた。兎にも角にも、今はこちらに専念しなければならない。何せ、此方側がどれだけ静かにしていようとも――向こう側(アリウス)がどう動くかは未知数なのだから。

 そんな事を考えながら保護膜を剥がし、明日以降の授業資料を整理、作成する事暫く――そろそろ自分もシャワーを浴びて寝床に入るか、そんな事を考え始めた時間に、ノックの音が響いた。

 

「―――」

 

 先生は咄嗟にシャツを羽織り、透けていない事を鏡で確認すると、確りとボタンを留めた後扉を開く。僅かに開いた扉の前には、どこか申し訳なさそうな表情のヒフミが立っていた。

 

「あ、えと、先生……」

「ヒフミ?」

 

 ジャージ姿のヒフミは、両手を忙しなく合わせながら顔を俯かせている。先生は扉を大きく開くと、廊下に他の生徒が居ない事を確認し問いかけた。

 

「どうしたの、もう皆と寝たんじゃ――」

「その、夜中にすみません……ちょっと寝付けなかったというか、あれこれ考えていたら、その……あうぅ」

 

 言葉の途中で見るからに落ち込むヒフミ。どうやら、悩み過ぎて眠れなかったらしい。先生は小さく息を吐き出すと、静かに部屋の中へと促した。

 

「……立ち話もなんだし、入って」

「お、お邪魔します」

 

 ■

 

 備え付けのマグカップにココアを入れる。ココアは先生の持参品で、カップは食堂から拝借したもの。トリニティの夏はやや肌寒い、昼は冷たい飲料が最高だが、夜は少し暖かい位の飲み物が丁度良かった。

 ヒフミはどこか挙動不審気味に部屋の中を見渡すと、先生が何かを注いでいる事に気付き、慌てて声を上げた。

 

「あ、先生、そんなお構いなく……!」

「良いから、良いから、インスタントだけれど結構美味しいよ、それにホットココアは寝つきを良くしてくれるんだ……個人的な意見だけれどね」

 

 そう云って先生はヒフミの前にそっとカップを置く。中には甘い匂いを放つココアがたっぷり注がれており、ヒフミは少しだけ目を輝かせながら、はにかんで受け取った。

 

「……ありがとう、ございます」

「どういたしまして」

 

 告げ、先生はヒフミの対面に座り、自分の分のカップを置く。二人だけの部屋は静かで、時折窓の向こう側から虫の鳴き声が聞こえて来る程度。これが百鬼夜行の方になると、蛙の合唱なども響いて来る。あの、ノスタルジックな気分に浸れる場所が、先生は存外好きだった。

 

「……何だか、夜にこうやって甘くて美味しいものを口にしていると、悪い事をしている気分になりますね」

「ふふっ、そうかな? なら、皆には内緒にしようか」

「内緒ですか?」

「うん、私とヒフミだけの秘密だ」

「……ふふっ、はい、分かりました」

 

 そう云って、両手で包んだカップを差し出すヒフミ。先生はそれに合わせ、そっとカップの縁を鳴らした。

 

「今日はお疲れ様でした、先生」

「うん、ヒフミもね、ちゃんと部長として立ち振る舞えていたよ」

「あ、あはは、そうですかね……?」

 

 どこか自信なさげに俯くヒフミ。彼女としてはきちんと振る舞えている気がしないらしい。他人から見る姿と、自分の思う姿と云うのは往々にして一致しないものだ。その不安が、先生は良く分かった。

 

「明日から本格的な合宿ですが……私達、このままで大丈夫なのでしょうか?」

「大丈夫、というのは?」

「……もし、一週間後の二次試験に落ちてしまったら次は三次試験になります、そして、万が一それにも落ちてしまったら――」

「……全員退学?」

 

 先生がそう告げると、彼女は目を丸くして、それから納得したように苦笑を零した。

 

「……やっぱり、先生も知っていたんですね」

「うん、まぁ――私の場合、後から聞かされたのだけれどね」

 

 そう告げると、小さく「そうでしたか」と口にして、ヒフミは手に持ったココア、その表面を見つめながら呟く。見える水面には自身の歪んだ、不安そうな表情が写っていた。

 

「今回の事は、私もまだ混乱していて……学力試験なのにどうして『全員一斉に』みたいな評価システムなのか、何故、私達の為だけにこんな合宿施設まで提供して貰えるのか、それに――」

 

 告げ、ヒフミは言葉を呑み込む。その様子に先生は、まだ何か話していない事があるのだと直感し、目を細めた。

 

「うぅ……」

「ヒフミ、他にも何かナギサから云われていたりする?」

「い、いえ、その……」

 

 云い淀み、軽く唇を噛む動作。その素振りだけで、答えを云っている様なものだった。先生は催促するような真似は控え、ただ彼女を見守りながらそっと佇むのみ。

 

「ナギサ様からは、えっと、その……」

 

 暫くの間、視線を彷徨わせながらヒフミは逡巡し――軈て、観念するように、ゆっくりと頷く。

 

「――……はい」

「……そっか」

「えっと、ナギサ様から、誰にも云わないようにと念を押されていたのですが……私の手に負える様な話では、なくって……その、何と云えば良いか……」

「――トリニティの裏切り者を探せ」

「ッ!」

 

 その言葉にヒフミは、今度こそ腰を浮かせ驚愕の表情を浮かべた。

 

「もしかして、先生も……?」

「うん、そう依頼された」

「そう、ですか……その、私も、ナギサ様とお話をした時に――」

 

 ■

 

 ティーパーティー、テラス。

 補習授業部の部長を頼まれた日とは別日――彼女は補習授業部、その本当の目的を伝えられていた。

 

「ヒフミさん、補習授業部にいる裏切り者を、探して頂けませんか?」

「えっ、えぇ!?」

 

 その、余りにも唐突な依頼、そして内容にヒフミは思わず声を上げる。テストの結果が結果だった為、恐らく叱咤されるのだろうと意気消沈して来てみれば――飛び出した内容は、彼女の予想だにしなかったもの。そんな様子を尻目に、ナギサは優雅に紅茶を嗜みながら、淡々とした様子で言葉を紡ぐ。

 

「正直なところを話しますと、今あの補習授業部について試験の結果など特に気にしてはいません、畢竟、百点だろうが零点だろうが関係がないのです、勿論学生として勉学を疎かにする事は頂けませんが――試験に合格しなければ退学というのは、私達にとっての最終手段」

「さ、最終……」

 

 呟き、ヒフミは両手を握り締める。

 蒼褪めた表情は、自身の進退が掛かっているからではなく――単純に、自分の仲間を疑えという指示に対しての拒否反応だった。

 

「ヒフミさんには、出来る限り彼女達の情報を集め、可能な限り早く『裏切り者』を見つけて欲しいのです、それが、残された生徒を救う手段となります――ヒフミさんは今、そのために補習授業部にいるのですから」

「その、どうして……私が?」

「……『どうして』、ですか」

 

 その言葉に、一瞬動きを止めたナギサは――どこか思案する様子を見せ、答えた。

 

「その答えはヒフミさんが、シャーレと一際強い繋がりを持っていたから、ですね」

「私が、ですか」

「えぇ、第三勢力である『シャーレの先生』が一緒にいる限り、裏切り者は無暗に動く事が出来ません、塵が、ゴミ箱から飛び出さない為の蓋のようなもの――でしょうか」

「ご、ゴミ箱……?」

「……失礼しました、忘れて下さい、今のは独り言です、まぁ、兎も角――」

「な、ナギサ様……!」

 

 言葉を続けようとしたナギサの声を遮り、ヒフミは声を上げる。それは彼女らしからぬ、勇気を出して踏み出した一歩だった。ティーパーティーの、それも現ホストに反抗的な態度を取る、それを考えるだけで身震いした。

 けれど……友人を、信頼を――裏切る事だけは、したくない。

 

「わ、私はその、そういう事は……!」

「――ヒフミさん」

 

 ナギサの強く、圧力のある言葉が、ヒフミの踏み出した一歩を掻き消す。はっとした表情で彼女を見れば、紅茶を片手に此方を射貫く強い視線。その、物理的なプレッシャーすら伴った視線に、ヒフミは絞り出そうとした声が、容易く腹の中に押し戻されたのを自覚した。

 

「――他に選択肢はないのです」

「っ、ぅ……!」

 

 思わず、呻いた。

 ナギサの持つ立場や、ティーパーティーのホストとしての権威、そして生来の気の弱さがヒフミの足をその場に縫い留め、反論を良しとしなかった。

 ただ彼女はナギサの前で縮こまり、両手を握り締める事しか出来ない。

 ナギサはどこか、そんな怯え切ったヒフミを一瞥し、深く息を吐き出す。

 それが失望の溜息なのか、或いは単なる呆れから来るものなのか。ヒフミには分からなかった。

 

「それにやむを得なかったとはいえ、失敗してしまった場合はヒフミさんも同じ末路を辿る事となるのですよ? これは、ヒフミさんの為でもあるのです、ですから――期待していますよ、補習授業部、部長?」

「………」

 

 その時のヒフミには、唇を噛み締め、項垂れる事しか出来なかった。

 

 ■

 

「………」

 

 ヒフミの話を一通り聞き、険しい表情を浮かべる先生。どこか遣る瀬無い感情を発散する為に、彼はそっとカップのココアを胃に流し込む。しかし、胸に燻る火種は――中々消えてはくれない。

 

「わ、私はその、裏切り者だなんて、そんな話……」

 

 俯き、忙しなく指先を合わせるヒフミの表情は――暗い。

 本来、彼女は誰かを疑ったり、裏切ったり、そういう『政治的背景』に耐性のある生徒ではない。彼女は実直で、素直で、他人を思いやる気持ちを強く持った子だった。カップを握り締めたまま、ヒフミは絞り出したような声で呟く。

 

「皆、同じ学校の生徒じゃないですか、今日だって、皆でお掃除をして、一緒にご飯を食べて、一緒に笑って……これで、誰が裏切り者なのか探れだなんて、そんな、そんな事……」

 

 脳裏に、皆の顔が思い浮かぶ。

 まだ出会って一ヶ月も経過していない、けれど皆が悪人ではない事は良く理解している。個性的で、どこか普通からズレていて――それでも一緒に笑う事の出来る、友人だ。少なくともヒフミは、そう思っている。

 そんな友人を、疑るなんて。

 

「――そんな事、私には……」

 

 ゆっくりと沈むヒフミの頭に、先生はそっと手を乗せた。

 

「あぅ……せ、先生?」

「――それで良いんだ、ヒフミ」

 

 先生の酷く優し気な声に、彼女は俯いていた顔を上げる。真正面に見える先生の瞳には、どこまでも優しい、包み込む様な暖かさで満ちていた。

 

「その優しさを、どうか大切に」

「え、えっ……?」

「この件は気にしなくても大丈夫、私がどうとでも解決するから、だから――ヒフミは、ヒフミが出来る事を精一杯頑張れば良い」

 

 共に過ごす仲間を疑りながら生活する日々が、健全である筈がない。そういった側面が世界にとって必要な事は理解している、そしてその場所に己が近い事も。しかし、自身の手の届く範囲に於いては、そういった事を極力なくしていきたいと先生は思っている。

 誰かを信じると云う行為を、先生は押し付ける気など毛頭ない。ただ先生は、純粋に誰かを信じたいと、そう願う生徒の想いを守りたいだけなのだ。

 

「勿論、ヒフミの心に従ってね」

 

 自分の心に、素直に在れるよう。

 少なくとも――先生が共に在る、今だけは。

 

「私に、出来る事……」

 

 ヒフミは握り締めたカップに視線を落とす。揺蕩う水面、そこに映る濁った自分自身。ヒフミはぐっと唇を噛むと、カップのココアを一息に飲み干す。そして勢い良く息を吐き出すと、先生に向けて告げた。

 

「っは! ――はい、分かりました! あ、その……私に何が出来るかは、まだ分かりませんが……ちょっと考えてみようと思います!」

「うん、それでこそヒフミだ」

「ぇ、あ……えへへ、その、先生、ありがとうございます! 何だか心が軽くなりました……!」

「――なら、良かった」

 

 呟き、先生は窓を見る。

 今日は、月のハッキリと見える夜だった。

 

 ■

 

 同時刻。

 合宿所ロビーにて。

 

「――ハナコ?」

「あら」

 

 月明かりの中、銃を片手に歩いていたアズサは、設置された椅子に腰掛けながらぼうっと空を見上げていたハナコを発見した。寝入った筈の彼女がこんな場所に居る事、それに疑問を抱きながらアズサはハナコの元へと駆け寄る。

 

「こんな所で、一体何を?」

「アズサちゃんこそ、まだ起きていたんですか? それに、その恰好――制服ですが、態々着替えて?」

「うん、ある程度睡眠はとった、だから見張りでもしておこうかと」

「見張り……? いえ、それよりも――」

 

 ハナコは月明かりに照らされたアズサをじっと注視する。まるで心の奥底まで見透かして来そうな眼差しに、アズサはどこかたじろぐ様にして視線を逸らした。

 

「やっぱり――アズサちゃん、もしかして全然寝られていないんじゃないですか? しっかり睡眠をとった様なお顔には見えませんよ……?」

「……慣れない場所だと、あんまり寝られなくて」

「………」

 

 その言葉に、ハナコは息を吐き出す。アズサの顔色は、お世辞にも良いとは云えない。或いは光の加減によるものだろうか。もっと明るい場所で見れば違うのかもしれないが、少なくとも本人の云う通り、寝不足なのは間違いない。

 そんなハナコの感情を表情から読み取ったのか、アズサは笑みを貼り付けながら何でもない事の様に云った。

 

「心配しないでも良い、夜通し動くための訓練もちゃんと受けているから、五日間位なら寝なくても問題ない」

「いえ、そういうお話ではなく……」

 

 これは訓練でもなければ、我慢大会でもない。動けなくなる云々の話ではなく、単純にアズサの体調を心配しての事だったが――残念ながら、本人にその気持ちは届いていない。その事にハナコは苦笑を零しながらも、それ以上の追及はしなかった。

 

「ハナコも散歩? どうやらヒフミも、どこかに行ったみたいだし、みんな慣れない所で不安かなって、それなら見張りでも立てれば、少しでも安心出来るかなって思ったんだ……そういう事だから、気にしないで大丈夫」

「……アズサちゃんこそ、余り無理はしないで下さいね」

「うん、ありがとう」

 

 告げ、アズサは小さく手を振って見回りへと戻る。その背中を見送りながら、ハナコはじっと何かを考え込むように目を瞑り、それから視線を、そっと夜空へと移した。

 

「………」

 

 夜はまだ、明けそうにない。

 


 

 フウカに胃袋を握って欲しい、朝から晩まで美味しいご飯を毎日三食、ちゃんと食べたい。

 偶々シャーレに早朝から用事があって、執務室に「お、お邪魔しまーす……先生、いらっしゃいますか?」って声を掛けたら、デスクにカップラーメンを乗せて今まさに三分待とうとしている先生を発見して、「……先生?」ってジト目になって欲しい。

 

 慌てて先生は弁解しようとするけれど、勿論先生の言い訳など彼女に通用する筈もなく、カップラーメンなんて体に悪いものを食べるなんて云々と説教をされ、序に昨日食べたものを全て云って下さいと詰められ、確かカロリーマイトと、お菓子のグミと、あとカップラーメンと、ミーダインゼリー……みたいな事を云ってブチ切れられたい。あんなに駄目だと云ったのに! みたいな感じで噴火して、先生の手の中にあったカップラーメンを引っ手繰って、「私が先生のご飯を作りますからッ!」って怒ったまま厨房に走り去るんだ。

 

 その後すこしして、「簡単なものですけれど」って如何にも朝食って感じのメニューを出されて、久々に食べるちゃんとしたご飯に喜ぶ先生を見て、「仕方ないなぁ、もう」みたいな顔で笑って欲しい。先生は確りした大人だと思っていたけれど、こういうズボラな一面を見て、ちょっとだけ心配になったり、庇護欲を擽られて欲しい。フウカはユウカと同じダメンズ好きなんだ、そうに違いない。

 

 その内、特に用もないのにシャーレに足を運ぶようになって、食事時に先生がカップラーメンやカロリーマイトで済ませていないか、ジト目でそっと観察するようになって欲しい。それで先生がコソコソとそういう食事で済ませようとしている現場に居合わせた時は、「先生ッ!」って声を張って、肩を跳ねさせた先生に詰め寄るんだ。先生はきっと生徒を保護した時は手厚く看護する為にお料理するけれど、自分ひとりの時はズボラ飯というか、最低限死ななければ良いや、みたいな食事をしていると思う。その内、勝手に先生の食糧庫(棚)を物色して、そこに積まれていたカロリーマイトやカップラーメンを、片っ端から処分(給食部の棚に移したそれを、後で勝手にゲヘナの生徒が美味しく頂く)していくんだ。

 

 結局先生の食生活が改善しそうになかった為、一日三食、フウカが先生のご飯を作ってくれるようになる。朝は確り、けれど重すぎない量で。お昼は忙しい先生がちゃんと済ませられる様、軽めのお弁当を。夜はクタクタの先生が元気になれるように、スタミナがつくご飯を。そんな風に気付けば毎日シャーレに足を運んで、その内先生の方から食材費とか光熱費を渡すようになる。最初は固辞していたフウカだけれど、せめてこれくらいはさせて欲しいと先生に押し切られて、渋々受け取る。その内、料理はシャーレの厨房を使って良いからとか、もし必要な器具とかあったら買うからねとか、夜もし遅くなりそうだったらシャーレの宿舎を使ってねとか、段々と家にいる時間よりもシャーレに入り浸る時間の方が多くなって、朝は先生と一緒にご飯を食べて登校して、昼は先生の事を考えながら給食を作って、夜は急いでシャーレに戻ってクタクタの先生を労いながら夕食を共にする。

 

 お腹が空いた時用に、厨房の冷蔵庫には作り置きも常備していて、毎日チェックして食べ物が減ったりしているとガッツポーズをしたり、手が付けられていなかったら調子が悪いのだろうか、もしかして不味かった……? と一喜一憂したり。

 

 そういう毎日を送っている内に、唐突に「これ、もしかして、同棲では……?」って気付いてめっちゃ意識して欲しい。意識してあたふたしている内に、「いやぁ、私はもうフウカなしでは生きて行けないかもしれないなぁ」って云われて、めっちゃあわあわして欲しい。でも私は学生で、とか。でもでも、先生とそういう関係になれるなら嫌じゃないし、とか。お目めぐるぐるさせながらめっちゃ頭コハルな事考えて欲しみある。

 勿論、先生は生徒に手は出さないし、実際安全である。でもそれはそれとして、フウカとしては将来的には――みたいな事を考えて、けれど当の本人はフウカのそんな悩みに反して、能天気に味噌汁を啜りながら疑問符を浮かべていて。

 

 そんな先生の姿にフウカはふっと苦笑を零して、でもそれが先生らしいな、とはにかんで欲しい。

 私はまだ子どもだから、まだそんな先の事まで考えられないけれど、先生とこうやって一緒に過ごす時間は、とても素敵だと思います。

 そんな事を考えながら、先生との同棲生活を楽しむんだ……。

 

 そんなフウカを置いて死にてぇ~ッ!

 先生の帰りをシャーレでずっと待っているフウカに詫びながら死にてぇ~ッ!

 

 フウカは戦闘苦手だから、戦力的な面で先生の力になるのは難しい。だから食事という面で先生を支えて、少しでも元気に毎日を過ごして欲しいと先生に尽くすんだ。

 それでエデン条約調印式の日に、今日は一大イベントだからと少しだけ緊張した様子の先生に、「頑張って下さい、先生……!」ってエールを送って。どことなくぎこちなく笑う先生が、いつも通りフウカの頭を撫でつけながら、「――行って来る」ってシャーレを出発するんだ。

 

「今日は御夕飯、うんと美味しいものを作って待っていますから!」

 

 そう云って手を振るフウカ、それに笑いながら応える先生。調印式という事でキヴォトス全体がどこか浮ついていて、けれどゲヘナ給食部の忙しさはその日も変わらない。膨大な数の生徒数を誇るゲヘナ、その給食を作る為にフウカは一心不乱に料理に没頭するんだ。勿論、スマホを見る様な余裕なんてない。額の汗を袖で拭いながら、今日の夕飯は何にしようかなって、先生と一緒に囲う食卓を想像しながら、ふっと微笑むんだ。

 

 そうだ、今日は肉料理にしよう、いつもヘルシーな食事が多めだったし、今日はちょっと奮発して。

 グラタンとかも良いかもしれない、少し手間暇が掛かってしまうけれど、先生この前のグラタン、美味しそうに食べてくれたし。

 かぼちゃスープとかもどうかな、甘いもの、先生好きだし、良いかもしれない。

 

 そんな事を考えながら学校を終え、食材を買いに街に出て。

 そこで調印式で起こった事を知って欲しい。

 

 御店で鼻歌なんか歌いながら食材を買い込んで、あれが良いかな、こっちの方が新鮮かも、何て考えて。けれど、どことなく町全体が浮足立っている様な気がして。まぁ、でも、調印式があったもんね、と納得して。普段は全く気に留めない街の液晶やパネルから放送される内容が同じ事に気付いて。

 あ、もしかして先生映ってるかも――なんて軽い気持ちで立ち止まって、画面に映された粉々になった調印式会場を目撃して欲しい。

 

 最初は多分、「えっ」って困惑する。襲撃? ミサイル? 何それ、どうして――そんな風に考えて、慌ててスマホを取り出すと思う。モモトークで先生のトーク画面を開いて、『先生?』、『今日は何時にお帰りですか?』、『ご無事ですか?』、『出来たら、返信ください』、『お願いします』と送信して。スマホを胸に押し付けるようにして、不安な面持ちでクロノスの番組を見つめるんだ。

 ただ、それ以上の情報は何も出て来なくて、そのまま食材を抱えてシャーレに帰還する。

 そして、先生の安否を案じながら料理を開始するんだ。

 

 最初に抱いていた筈の、弾んだ気持ちなんて吹き飛んでしまって、多分不安で一杯な、陰のある表情で料理をすると思う。それでも先生に美味しいものを食べさせたいという気持ちは本当で、ゆっくりながらも着実に、丁寧に工程を進めていく。そしていつもなら先生が帰って来る時刻に合わせて料理を完成させて、先生と一緒に食事を摂っていた食堂にお皿を並べるんだ。そして壁の時計に目を這わせ、それから自身のスマホを見つめる。

 モモトークのメッセージは未読のまま。

 

 最初の三十分位は、まぁこれ位なら偶にあるしとか、今日は大きなイベントだから、遅くなっているんだと自分に言い聞かせて。一時間が経過する頃は、もしかしたら生徒達と打ち上げとか行っているのかな? とか。もしくはあの爆発のせいで調印式がめちゃくちゃになったから、その収拾に追われているのかも……とか考えて。自分の思考がぐちゃぐちゃになっている事から必死に目を逸らしながら、スマホを強く握り締めながら辛抱強く待つんだ。

 

 一時間が経過して、二時間が経過して、三時間、四時間経って――出来立ての料理も、すっかり冷めきって。

 最初はただ陰を孕んだだけだった表情は、いつの間にか恐怖に歪んで、小さく肩を揺らしながら必死に涙を流すのを我慢しているフウカは、不意に鳴った、シャーレの来客を知らせる電子音にはっとして、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がる。

 

 良かった、やっぱり無事だったっ!

 

 そんな事を考えながら、食堂を飛び出して、シャーレのエントランスロビーまで駆けて。無事だったならメッセージの一つくらいくれても良かったのにとか、遅くなるなら遅くなるで、時間を会わせて料理を作ったのにとか。でも、先生が無事なら別に、それで――なんて思って。

 そこで、今にも死んでしまいそうな表情で佇む、ヒナ委員長と対面するんだ。

 

 想像していた人物とは異なる相手に、フウカが目を見開いて。どこか困惑した様子で、「ヒナ、風紀委員長……?」と声を上げる。ヒナはそんな彼女を見つめながら、真っ赤に染まった目と、大きな隈を作りながら、酷く震える手を自身のコートに手を入れ、そこからそっと、真っ赤に染まったシャーレの腕章を取り出すんだ。

 血のべっとり付着したそれは、所々煤けていて、無理矢理剝ぎ取ったかのように、留め具のピンは折れ曲がっている。差し出されたそれを見て、フウカは最初、何か分からず、けれど先生の着用していた腕章だと気付いて、思わず息を呑むんだ。

 

「何ですか、これ」と彼女は聞いて。けれどヒナは何も答えなくて、ただ歯を食い縛って、涙目になりながらも懸命に堪えて。

 ただ、小さく、酷く小さく、「ごめんなさい」と。

 そう、今にも泣きそうな声で呟くんだ。

 

 ヒナを庇って死んだ先生は素敵だよ。ミサイルで致命傷を負って、そんな状態でヒナを庇って何発も銃弾を受けて、最後はフウカに謝りながら息絶えたんだね。うぅ、大好きな先生が違う生徒の名前を呼びながら死んでいく様を傍で見せられていたヒナ可哀そう……。でもヒナちゃんは真面目だから、その相手に態々先生の腕章を届けに行ってくれたんだよね。どれだけ罵られようとも、殴られようとも、先生に守られた自分にはその責任があると思って。或いは、誰かに責めて欲しいという感情もあったのだろうか、うぅ、何でこんな事するの……? 先生が死ななければこんな事にはならなかったのに。

 でも真っ青な表情で今にも泣きそうになりながら、必死に先生の腕章を握り締めるヒナちゃんを想像すると、とても幸せな気持ちになれるなぁと思いました、まる。

 

 生徒の(あい)が深ければ深い程、得られる(あい)も深まるんです事よ~! でも勘違いしないで下さいまし、わたくし生徒を悲しませたい訳ではございませんの。ただ先生をボコボコにする事により、先生に対して強い情念を抱く生徒達が何かしらの感情的な変化を起こし、その情動の変化を涙や怒り、実際の行動という目に見える形で摂取する事で、「あぁ、先生はこんなにも愛されているんだなぁ」と胸をぽかぽかさせる、そんな事でしか愛を実感できない生き物なんですの。先生を想うが故に溢れる涙、或いは飛び出る怒声、縋り付く慟哭……そこには一切の混じり気のない、純粋な愛のみが詰まっているのです。これを純愛と呼ばず、何と呼びましょう。

 おぉ、素晴らしき哉! 今日も世界は愛で満ちていますわ~! 透き通るような世界観で送る本編で蓄積されていたモギ欲が発散されていくのが感じられます! はー、早く本編でも捥げないかな~、遠いな~、今すぐ合宿所にアリウス突撃してくれないかな~……。

 



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ティーチャー、これは何ですか?

投稿する度に誤字脱字報告を行ってくれる方々に感謝を。
何でこんなに誤字脱字するんだろうね、私も不思議。


 

 合宿、二日目――。

 朝の到来を知らせる朝日が閉じたカーテンの隙間から差し込み、補習授業部の皆を照らす。ヒフミがぐずる様に声を上げる中、そのカーテンを勢い良く開ける人影があった。

 

「おはよう!」

 

 白洲アズサ――彼女は笑みを浮べながら勢い良くカーテンを開く。一斉に照らされる補習授業部の生徒達、コハルとヒフミの両名は唐突に差し込む朝日に顔を顰め、背を背ける様に寝返りを打った。反し、早起きの習慣が身についているハナコは既に制服への着替えを済ませ、穏やかな様子でベッドに腰掛けている。

 

「おはようございます、アズサちゃん、朝から元気ですね♡」

「うん、一日の始まりだから――さあ、早く起きて歯磨き、シャワー、それから着替え、順番に遂行していこう」

 

 そう云って、ヒフミ、コハル両名に声を掛けるアズサ。しかし、ヒフミは布団を頭まで被ってぐずり出し、コハルは寝ぼけ眼のまま半分夢心地。

 

「あうぅ……アズサちゃん、十分……あと十分だけ……」

「ん……もう朝ぁ……?」

「ヒフミ、コハル、起きて、ほら」

「んぅ……」

 

 アズサは先にコハルのベッドに近付くと、布団越しに彼女の体を揺する。その手を鬱陶しそうに払いながら、コハルは渋々とベッドから体を起こす。彼女の髪は所々跳ね、寝間着の体操服は肩からズレていた。

 

「ん……起きてるってばぁ……」

「ヒフミちゃんの方はもう少し時間が掛かりそうですね、昨日はどうやら、遅くまで起きていたみたいですし」

「……補習授業部の部長だから、心理的プレッシャーもあるのかもしれない、もう少しだけ休ませておこう」

 

 布団に籠って未だ安眠を享受するヒフミ、その様子を見ていたハナコの言葉に、アズサはそっと頷く。コハルはアズサに手を引かれるがままベッドから抜け出し、漸く回り出した頭で周囲の状況を把握し始めた。

 

「ん、あれ……ここ、私……どうして……」

「おはよう、コハル、さぁ朝の支度をはじめよう」

「? ……ん、え?」

「シャワールームはこっち、来て」

「え、なに……なんで……?」

 

 乱れた衣服と髪のまま、コハルはアズサに手を引かれ部屋の外へと連れ出される。

 

「あらあら、二人で仲良く洗いっこですか?」

「うん、その方が多分早いし」

 

 ハナコの言葉にアズサは頷き、そのままシャワールームまで連行。コハルは目を瞬かせながら抵抗する事もなく――軈てハナコの耳に二人のやり取りが聞こえて来た。

 

「うわぁあっ!? な、なんで!? ちょ、脱がさないでっ!? ひゃ、うえぇっ!? つ、冷たっ……!? せ、せめてお湯、お湯で――!?」

「コハル、動かないで、上手く洗えない」

「ふふ、良いですねー、裸の付き合い♡」

 

 ■

 

 合宿所、教室。

 室内には既に先生が待機しており、今日行う予定の授業資料を確認していた。其処に続々と到着する生徒達。合宿所と云ってもトリニティ系列の建物なので、教室の内装は見慣れた本校舎のものと同一。割り振られた机に鞄を置きながら、先生は生徒達と挨拶を交わした。

 

「おはようございます、先生! お待たせしました!」

「うん、おはよう、皆」

「ふふっ、先生、昨日は良く眠れましたか?」

「結構体動かしていたからバッチリ、筋肉痛が凄いけれどね……」

 

 そう云って腕を動かし、少しだけ顔を顰める先生。流石に一日中動き回ったとなると、筋肉痛になるのも避けられない。最近は書類仕事ばかりだったので、この痛みも懐かしいものだった。

 

「良し、皆揃ったね? それじゃあ一旦席について」

「は、はい!」

「はーい♡」

「うん」

「うぅ……全部見られた、もう駄目……」

 

 皆が準備万端、気力十分といった様子の中、ひとりだけ顔を真っ赤にしながら俯くコハル。一体どうしたのだと先生が彼女を見れば、アズサが不思議そうな表情で問いかけた。

 

「コハルも私の裸を見たんだから、何も問題は無い筈」

「そういう問題じゃない! あんな強引に脱がす何て! 無理矢理とかそういうのは駄目なの!」

「あら、では次は私がコハルちゃんの体を洗ってあげましょうか?」

「はぁっ!? だ、駄目! あんただけは絶対に嫌っ! それに、そういう問題じゃ――」

「あ、あはは、えっと皆さん、一応これから授業が始まりますので……」

 

 朝から騒がしく云い合う仲間に、ヒフミは何とも云えない様子。先生はふと、そんな彼女の髪が所々跳ねている事に気付いた。いつもは綺麗にセットされているのに珍しいと、そっと先生はヒフミの髪を撫でつける。

 

「ヒフミ、髪の毛ちょっと跳ねているよ?」

「うぇっ!? あ、ありがとうございます……少し寝坊してしまいまして、あはは……」

「寝坊? あの後、何かあった?」

「い、いえ違います――大丈夫です!」

 

 そう云って素早く先生から身を離すヒフミ。先生は不思議そうな表情を浮かべるが、ヒフミとしては今、先生に近付いて欲しくない。

 何せ、朝シャワーを浴びる時間が無かったのだ。一応、昨日の夜シャワー自体は浴びているが、夏の夜は寝苦しく、汗もそれなりに掻いてしまっている。先生に臭い生徒――なんて思われたらもう生きて行けない。乙女としては死活問題である。

 尚、その事を知った場合、先生が嬉々としてヒフミ吸いを敢行する事を、幸か不幸か、彼女は知らない。

 

「あ、そ、それより先生! 昨日作ったアレ、皆に配ってしまいたいのですが……!」

「あぁ、そっか――なら先にそっちを済ませちゃおう」

「は、はい!」

 

 ヒフミは先生に許可を取ると、愛用のペロロバッグを開き、中からファイルを取り出す。青いそれに挟まれた紙の量はそれなりで、確りとした重さがあった。

 

「こほん――皆さん、此方を御注目下さい!」

「……?」

 

 何やら言い合いをしていた皆に向かってそう叫べば、各々の目がヒフミに向けられる。彼女は取り出したファイルを大事そうに抱えながら、とても精悍な面持ちで口を開いた。

 

「今日は補習授業部の合宿、お掃除した昨日を除けば、その大切な初日です! 私達は大変な状況で、ともすれば慌ててしまいがちな状況ではありますが……難しく考える必要はないんです、一週間後の第二次特別学力試験で合格する、ただそれだけです!」

「あら」

「な、なんでそんなに元気なの……?」

「凄いやる気だ、ヒフミ」

「……という訳で――今から、模擬試験を行います!」

 

 告げ、ヒフミはファイルから抜き出した問題用紙と解答用紙を掲げる。そこには、『補習授業部模擬試験』と書かれた表紙が見え、皆は彼女の掲げたそれに目を向けながら各々の反応を見せた。

 

「……模擬試験?」

「なるほど……?」

「きゅ、急に試験!? 何で!?」

 

 ハナコは半分納得、半分疑問と云った様子で。アズサはヒフミが用意したものなら、恐らく必要なのだろうと信頼を見せ。コハルは単純に、「試験」という響きだけで拒否反応を起こした。その様子を見渡しながら、ヒフミは二度、三度頷き、自信ありげに言葉を続ける。

 

「皆さんの疑問は尤もです、しかし闇雲に勉強しても、あまり効率が良いとは云えません、着実に目標を達成する為には、何が出来て何が出来ないのか、今、どのくらいの立ち位置なのか……まずはそれらを把握する必要があります――なので昨晩、此方を用意したんです!」

 

 そう云って机の上に広げる紙の束。その量はちょっとしたもので、少なくとも一晩で集めたと云うには多すぎる程。ハナコはその内の一枚を手に取り、驚きの表情を浮かべる。

 

「これは……」

「ここ数年トリニティで行われた試験問題と、その模範解答です! まだ中途半端と云いますか、集められたのは一部だけなのですが……先生も昨日遅くまで手伝ってくださって、第二次特別学力試験を想定した、ちょっとした模擬試験の様な形に出来ました!」

「おぉ……!」

 

 アズサは広げられた過去問を覗き込みながら、感心の声を上げる。昨日姿が見えなかったが、まさかこのような模擬試験を作成しているなんて考えもしなかった。アズサの反応に手ごたえを感じたヒフミは、自身の感情の赴くままに拳を突き上げ、模擬試験の開催を宣言した。

 

「試験時間は六十分、百点満点中六十点以上で合格――つまり、本番と一緒です! さぁ、皆で卒業する為に、頑張りましょう!」

「うん、分かった」

「ふふっ」

「うぅ……」

 

 ヒフミの熱意に当てられて、或いは単純にその厚意を無駄に出来ず。

 この日、朝一番から補習授業部は模擬試験を受ける事と相成った。

 

 ■

 

「さて――皆、準備は良いかな?」

 

 先生の言葉に、補習授業部の面々は頷いて見せる。第一次補習授業部模擬試験、模擬試験と分かっていてもその緊張感は本物だった。配られた試験問題と解答用紙を確認しながら、先生は皆の机を見て回る。

 

「机の上は筆記用具だけ、時間は今から一時間――良いね?」

 

 机の中は空っぽ、用紙以外は筆記用具のみ。それを確かめ終わった先生は教卓へと戻り、壁に掛かった時計に目を向け――その針が丁度十二を指した瞬間、声を張り上げた。

 

「それじゃあ……試験、開始!」

「っ……!」

 

 ■

 

「ふむ」

「あら、これは……♡」

「これ、どこかで見たような、見てない様な……う、ぅ……」

 

 開始の宣言と共に一斉に用紙を捲り、ペンを動かす補習授業部。

 その進捗具合はまちまちといった所で、アズサは時折頷きながらも淡々とペンを進め、ハナコは時折楽しそうに笑いながらのんびりと解答。コハルは頭を抱えながら必死に問題用紙と睨み合っており、各人の奮闘が垣間見えた。

 ヒフミも問題を一つ一つ確認しながら必死に解いており、余裕があるとは云えない。何せ難易度自体は通常の期末試験や実力テスト等と同じ為、きちんと勉強していなければ点数を取る事が難しい。

 この模擬試験自体は先生が過去問から抜粋、作成したものなのでヒフミも内容は知らない。必死に授業の内容を思い出しながら、空欄を埋めていく。

 

 ――皆さん、頑張りましょう……!

 

 心の中で悪戦苦闘する仲間達にエールを送り、ヒフミもまた、再び問題用紙と向き直った。

 

 ■

 

 模擬試験終了後――採点結果発表。

 一時間の試験を終え、各々疲労感なり緊張なりを見せる中、先生が束ねた解答用紙を教卓に揃え、声を上げる。

 

「えー……では、採点結果を発表します」

「は、はい! お願いします、先生!」

 

 先生が今しがた採点を終えた用紙を手に、各々の採点結果を口にする。その様子を補習授業部の皆は、固唾を飲んで見守った。

 

 第一次補習授業部模擬試験 結果

 

 ハナコ――四点 不合格

 アズサ――三十三点 不合格

 コハル――十五点 不合格

 ヒフミ――六十八点 合格

 

 試験結果は第一次特別学力試験と同じ、不合格者三名、合格者一名という結果。無論、一人だけ合格しても卒業は出来ない為、全体からすればゴールはまだまだ先――自然、皆の表情は暗いものとなる。

 

「……そうか」

「えっ……」

「あらまぁ」

 

 アズサはどこか悔しそうに、コハルは手応えに反し余りにも点数が低かった為の驚愕、ハナコは相変わらず笑みを浮べていた。

 ヒフミはその結果を前に――動じない。

 この程度は想定の範囲内だったとばかりに拳を握り締め、強い覚悟を秘めた口調で以て告げた。

 

「これが現実……今の私達の現実です! このままだと、私達の先に明るい未来はありません……! この状態からあと一週間、皆で六十点を超える為には、残りの時間を効率的に使っていかなければならないのです!」

「うん……確かに、納得出来る話だ」

 

 自身の採点された答案用紙を前に、険しい表情を浮かべるアズサはヒフミの言葉に強く頷いて見せる。この点数と合格ラインを考えるに、余裕があるなどと口が裂けても云えない。この一週間、死に物狂いで勉強してどうにか――というレベル。

 ヒフミは一度、強く手を叩くと、皆の視線を集め高らかに熱弁して見せた。

 

「そこで! まず、コハルちゃんとアズサちゃんがどちらも一年生用試験ですので、私とハナコちゃんが、おふたりの勉強内容をお手伝いします! ハナコちゃん、最近何があったのかは知らないですが、一年生の時の試験では高得点だったんですよね?」

「あら? えっと、まぁ……そうですね?」

「実はその、一年生の時のハナコちゃんの答案を見つけてしまいまして……! それでハナコちゃんの方については後ほど、今の状態になってしまった原因をしっかり把握した上で、私と先生と一緒に解決策を探していきましょう!」

「……それは、また」

 

 ヒフミのパッション、というか熱い感情を捲し立てられ、ハナコは珍しく面食らった様子で目を瞬かせる。

 一年生用の試験を受ける二人には、一先ずハナコと自分を付ける。ハナコも以前の様子から一年生用の試験であれば問題なく教えられる様なので、何か学力とは別の、心理的な要因や、何かしらの考えがあるのかもしれない。ハナコの場合はそれを取り除けば問題なし、ヒフミ自身は既に六十のボーダーラインをクリアしているので、そのまま卒業まで漕ぎ付ける。つまり今必要なのは、一年生組二人の底上げ……!

 それが現状、ヒフミの考える最善策だった。

 

「まだ途中ですが、他にも試験を作成中ですので、今日から定期的に模試を行って、進捗具合も確認して……! 状況に応じて適切に学習を積み重ねれば、必ず二次試験に合格出来る筈です!」

 

 テストなら、答えがある。百点満点を取れと云う無理難題ではないのだ、今からでも積み重ねて行けば、必ず合格点には届く。ましてや第一次特別学力試験の内容を考えるに、試験内容自体は然程難しくない。ならば、通常の試験内容に慣れてしまえば実際の第二次特別学力試験ではやや上目の点数を狙えるかもしれない。

 傾向と対策――ヒフミは、本気で補習授業部の皆と卒業する為に行動していた。

 

「頑張りましょう! きっと、頑張ればどうにか、皆で卒業出来る筈です……ッ!」

「ヒフミ……」

 

 告げ、力強く皆を見る彼女。

 その背中を見つめる先生は、思わず笑みを零した。

 

 ――私もただ、心配しているだけという訳にはいきません、私は、私に出来る事を……精一杯!

 

 ヒフミは、昨日先生に云われた事を、自分なりに解釈し実行している。

 自分に誰かを疑る様な事は出来ない、政治的背景とか、キヴォトスのパワーバランスとか、派閥間の云々だとか――恐らくティーパーティーが関わる程の事だ、自身の預かり知らぬ大きな何かが動いているのかもしれない。

 けれど、それをどうにかするだとか、その為に友人を裏切るだとか、そういうのは違うと思ったのだ。

 先生は、自分の心に従えと云った。

 

 だから私は、皆でこの困難を乗り越えるんだ。

 真正面から、堂々と――胸を張って!

 

「――うん、了解、指示に従う」

「わ、分かった……」

「ヒフミちゃん、凄いですね……昨晩だけでこんなに準備を」

 

 ヒフミの熱意が伝わったのか、皆は頷きを返し、ヒフミの意向に賛成を示す。

 

「あ、いえ、私だけの力ではありません、先生も手伝って下さったので……」

「成程、先生も――」

「大した事は何も、これはヒフミが頑張った証拠だよ」

「……ふふっ」

 

 互いに功績を譲り合う姿に、ハナコは思わず破顔する。こういう善性の発露とでも云うべき在り方が、ハナコにとっては眩しく、とても好ましく思えて仕方なかった。そう云った環境を見つけたくても見つけられなかった、そんな彼女であったからこそ、尚更。

 

「あっ、それと、流石に勉強漬けばかりだとモチベーションも上がらないと思いまして――何と、御褒美も用意しちゃいました!」

「ご、御褒美……?」

「はい! えっと――」

 

 そう云って、一度教室を後にするヒフミ。一体何だと皆が顔を見合わせていれば、大きな包みを背負ったヒフミが満面の笑みで教室へと戻って来る。傍から見るとサンタクロースの様な恰好で、包みの大きさはかなりのモノ。

 一体そんなに何を持ち込んだのだと皆が目を瞬かせれば、教卓の上に袋を置いたヒフミは、一息にそれを解いて見せた。

 

「こちらです!」

 

 そうして中から次々と顔を見せる、大量の縫い包み。髑髏仮面の黒い巨大縫い包み、クッキーのような顔をした犬、目が異様に大きい猫、水色のファンキーな梟、アイスクリームで窒息死している妙な鳥、眼鏡を掛けて白目を剥いている鳥……。

 その余りにも個性的なメンツに、皆は何とも言えない絶妙な表情を浮かべる。

 反し、それらを持ち込んだヒフミは非常に楽しそうな笑みを浮べていた。

 

「どうですか? 凄いでしょう! 良い成績を出せた方には、何と! この『モモフレンズ』のグッズをプレゼントしちゃいます!」

「モモフレンズ……?」

「……何それ?」

「……っ!」

「――あ、あれ……? 最近流行りの、あの『モモフレンズ』ですが……もしかして、御存知ないですか?」

 

 ヒフミは、てっきり歓声が上がるとばかり予想していた為、想像以上に淡泊な反応に思わずたじろぐ。ハナコは縫い包みをしげしげと見つめつつ、首を捻った。

 

「初めて見ましたね……いえ、どこかでちらっと見たような気も……」

「なにこれ、変なの……豚? それともカバ……?」

「ち、違います! ペロロ様は鳥です! 見て下さい、この立派な羽! そして凛々しいくちばし!」

 

 コハルのどこか吐き捨てる様な言葉に、ヒフミはペロロ様人形を両手で持ち、コハルに突きつける。その、何とも云えない――誤解を恐れずに云えば、『イッてしまっている』顔の人形を前に、コハルはそっと体を逸らした。

 

「え、えぇ……目が怖い、それに名前も何か、卑猥だし……」

「そ、そんな……!? た、確かにそう仰る方も一部にはいますけれど……よ、よく見て下さい、じっくり見ていると何だか可愛く――」

「み、見えないし……」

「――あぁ、思い出しました、そう云えばヒフミちゃんの鞄やスマホケース、そのキャラクターでしたね」

「あっ、はい、そうです!」

 

 そう云って机の鞄に視線を向けるハナコ。キャラクター自身は初めて見たが、確かにそのモチーフと云うか、酷似した造形を目にした覚えがあった。それは、ヒフミの身に着けている鞄や筆記用具、スマホケースなどだ。一度見たら中々に忘れられないインパクトのあるキャラクター、見覚えがあったのも当然だ。

 

「確か、舌を出して涎を垂らしながら、もう許して……っ! と泣き叫ぶキャラクターだったとか……?」

「えっ、いえ!? 後半部分は色々と違いますよ!?」

「わ、私は要らない……っ!」

「あ、あうぅ……」

 

 ハナコはペロロを好色で卑猥な生物に置き換え、コハルはその発言を聞き、頑なに拒む姿勢。折角用意したキャラクターグッズ、ヒフミにとっては正に宝の山――しかし悲しいかな、そうでない者にとってはゲテモノキャラのグッズの山に過ぎなかった。

 ヒフミは、唯一の希望だとばかりの残りの一名、アズサに向かって縫い包みを差し出す。

 

「あ、アズサちゃんはどうでしょう……? か、可愛いと思いませんか、モモフレンズ!」

「……か」

「……か?」

 

 ヒフミが問いかけると同時、アズサは両手を握り締め、俯きながら体を震わせ叫んだ。

 

「可愛い……!」

「ッ!」

「!?」

「あら……?」

 

 声は、教室全体に響く。

 そしてアズサは机の上に並んだ縫い包みに駆け寄ると、あわあわと手を出したり、引っ込めたりしながら告げた。その瞳は、物理的に輝いて見える。

 

「か、可愛すぎる! 何だこれは、この丸くてふわふわした生き物は……!? この目、表情が読めない……何を考えているのか全く分からない……!」

「あ、アズサちゃん……?」

 

 ハナコが、普段からは想像も付かないアズサのテンションに思わず目を瞬かせる。そうこうしている内にヒフミは自身の大好きなモモフレンズが受け入れられたと知り、先程まで拒まれ、焦燥していた瞳の輝きが、一斉にその光を取り戻した。

 

「でっ――ですよねぇ!? 流石はアズサちゃん! ペロロ様の可愛さに気付いてくれるなんて! そうです! そういうところが可愛いんです!」

「う、うそぉ……」

「こ、こっちは? この長いイモリ……いや、キリン? 何だか首に巻いたら暖かそうな……!」

「それはウェーブキャットさんです! いつもウェーブして踊っている猫なのですが、仰る通り最近、ネックピローのグッズが――」

「こっ、これは!? この小さいのは!?」

「それはMr.ニコライさんです! いつも哲学的な事を云って不思議な目で見られてしまう方ですね! 今回の御褒美の一つとして、そのニコライさんが書いた『善悪の彼方』という本もあるんですよ、それも初版!」

「す、すごい、すごい……! これを貰えるのか? ま、まさか、選んでも良いのか!?」

「はい! アズサちゃんが欲しいものを持って行って下さい!」

 

 そう云ってアレもコレもと勧めだすヒフミ。

 それを前にアズサは正にフィーバー状態。何を出しても歓声を上げ、目を輝かせていた。

 

「あらあら」

「な、何なの……」

 

 ハナコとコハルはそんな二人のやり取りを、片や微笑ましそうに、片や戦慄と共に眺める。一体何が彼女をそこまで駆り立てるのか。コハルも改めて積まれたペロロ人形を眺めるが、とても可愛いとは思えない造形をしている。

 

「……やむを得ない、全力を出すとしよう」

 

 そんなやり取りを経て、アズサは真剣な様子で手を握り締める。

 視線の先には山の様に積まれたペロロ人形、それらを前にアズサは凄まじい覚悟を秘め、宣言した。

 

「良いモチベーション管理だ、ヒフミ、約束する、必ずや任務を果たし、あの不思議でふわふわした動物を手に入れてみせるッ!」

「はいっ! ファイトです、アズサちゃん! えへ、えへへへへっ……!」

「あら、何だかヒフミちゃんが楽しそうに、と云いますか、あのお人形と同じような表情に……♡」

「モモフレ仲間が増えて喜んでいるのかな?」

「えぇ……」

 

 先生の言葉にコハルは思わず辟易とした声を漏らした。

 あんなゲテモノ人形好きが二人も――彼女にとっては、遠い世界の話だ。

 先生はそんな二人を眺めながら、頃合いだとばかりに口を開く。

 

「あと、一応なんだけれど――先生も、ご褒美を用意してきました」

「あら、先生もですか?」

「うん、モモフレンズは、まぁ、何と云うか、好みが分かれるグッズだからね、万が一という奴で」

 

 そう云って、教卓の裏に予め隠しておいた紙袋を取り出す。

 因みにヒフミには、補習授業部を卒業したら特大ペロロ様人形が届くように手配してある。少々痛い出費だったが、何てことはない、生徒の笑顔に比べれば安いものだった。

 

「という訳で、はい」

「これは――」

 

 紙袋の中身を取り出し、机の上に次々と並べる。ヒフミの人形程嵩張るものではないので、細々としたものが殆どだが、品揃えはちょっとしたもの。

 

「縫い包み、本、化粧品、お菓子の缶、玩具……それに、香水?」

 

 コハルが並べられたラインナップに、少なくともあの変な鳥ではない事に安堵し、視線を配る。実用的な物品から、趣味嗜好の分かれるものまで。少なくとも一般的なと呼べるプレゼントの内容に、その目は自然と吸い寄せられた。

 ふと、その中でやけに高そうな瓶が目につき、そのラベルを目でなぞる。

 

「って、これ、ザ・ビヨンド……っ!?」

「まぁ」

 

 ラベルに綴られた商品名に、彼女は思わず声を上げる。

 コハルが驚くのも無理はない。この香水、高級化粧品メーカー、『サミュエラ』が発売している最高級香水である。「一度試して、愛らしさをその身に」というキャッチフレーズで有名な超ヒット商品であり、稀代の天才調香師、『ザ・ビヨンド』が制作したサミュエラ十二傑作のひとつ。

 その値段は生徒のお小遣いで買おうとすると、普通に半年単位で吹っ飛ぶ代物であり、先生もこの合宿が終わった後に、「せんせい~? この領収書、どういう事ですか~!?」と、土下座すれば確定申告を手伝ってくれる生徒第一位の彼女に絞られる覚悟で購入したものだった。

 正直、値段を見た時はクラフトチェンバーで製造するか少し迷った。しかし先生としての線引きとして、これらのプレゼントは全てきちんとした手段で入手し揃えたのだ。暫く昼は貧相になるが、問題ない。

 コハルはザ・ビヨンドを驚愕の目で眺めながら、恐る恐る先生に問い掛ける。

 

「せ、先生、これ、すっごく高い奴じゃ……!?」

「まぁそこそこ値は張ったね、先生もびっくりした」

「いや、吃驚したとかそういう反応なの!? な、何でこんな高価なものまで……!」

「ん~、正直皆が何を欲しがるか分からなかったから、取り敢えず一通り揃えてみた……って感じかな」

 

 この云い分は、半分本当で半分は誤魔化しだ。

 先生は勿論、コハルやハナコがどういった類のプレゼントを喜ばしく思うかを知っている。しかし、人の好みというのは揺れ動くものだ。その日欲しいものが、次の日も欲しいかどうかは分からない。故に、先生は広く、浅く、最低限の要点を押さえた上でプレゼントを用意した。

 ハナコは先生の用意した品々に関心しながらも、そっと幾つかの書籍に視線を落とす。ハナコは本に目が無い、それこそ漫画だろうが小説だろうが、古典だろうがお構いなし。しかし、そんな彼女が目を惹かれたのは、如何にも価値のありそうな本の類ではなく――隅にぽん、と置かれた小さな人形だった。

 

「あら、この人形……モチーフ、もしかして私達ですか?」

「うん、そう、結構似ているでしょう? 頑張ったんだ」

「えっ、手作りなの、これ!?」

「………――」

 

 ハナコは人形を手に取り、思わず息を呑む。大きさはそれ程でもない、アズサ、ハナコ、ヒフミ、コハル、全員を制作した為だろう。手の中に納まってしまう程度の、キーホルダーとして吊り下げられる様なサイズ。しかし、作りは丁寧で、本人を知っている身からすれば直ぐに分かる程、特徴を捉えている。

 そんな皆が横一列に並び、手を結び、笑っていた。まるで作り手の愛情や想いが、ぎゅっと濃縮された様な作品だと思った。愛が無ければ作れないだろう、このようなものは。

 それをじっと見つめるハナコの口元は、自然、穏やかに笑みを描く。

 

「――これ、良いですね、凄く……えぇ、とても欲しいです」

 

 ハナコはそう云って、人形をそっと両手で包む。コハルは彼女の手の中にある人形を眺めつつ、ふと先生に視線を向けながら問いかけた。

 

「――こ、この人形、先生のは無いの?」

「うん? 私?」

「だ、だって、補習授業部全員の人形なら、その先生の人形もないと……」

 

 そう云ってどこか恥ずかしそうに視線を逸らすコハル。ハナコはそんな彼女に視線を向けると、ふっと、とても嬉しそうに破顔し、口を開いた。

 

「ふふっ、コハルちゃん、何だかんだ云って優しいですよね♡」

「な、なにっ、何でそんな目でこっち見るの!?」

「――分かった、ならその内、私の人形も作るよ、そしたらコハルは私の人形を御所望という事で良いのかな?」

 

 先生がそう口にすると、コハルは腕を組んでそっぽを向きながら叫んだ。

 

「なっ、べ、別にそういう訳じゃないけれど……! で、でも、余っちゃったら可哀そうだし、貰ってあげても、良い……かな」

「あぁ――でもどうせなら、補習授業部皆で一セットが良いですね♡」

「……分かった、分かったよ、文字通り全員分、セットの奴を渡そう」

「ふふっ、ごねちゃいました」

「良いさ、これ位」

 

 皆が揃った小さな人形セット。先生を入れて五体、もしヒフミやアズサも欲しがった場合を考えると、結構な数を作る必要がある。暫くはまた、睡眠不足の時間が増えるだろうが――何て事は無かった。

 生徒の笑顔に勝る薬など、この世の何処にも有りはしないのだから。

 

 ■

 

 二日目は本格的な合宿開始という事で、午前の部、午後の部と分けて補習授業を実施。そして通常の学校と同じ時間授業を実施した後は、就寝までは自習時間となっている。尤も、自習時間とは云ってもある程度の休憩、息抜きが許されている為、表記上そうなっているだけの実質的な自由時間と言い換えても良い。

 しかし、第二次特別学力試験に向けてリベンジに燃えている補習授業部の皆は、放課後の時間になっても黙々と勉学に励んでいた。

 

「コハル、質問」

「うん……――え? 私? 私にっ!?」

 

 不意に、アズサが隣で参考書を捲っていたコハルに声を掛けた。まさか自分に聞いて来るなど思ってもみなかったコハルは、上擦った声で叫びながら目を丸くする。

 

「そう、コハルに、今同じところを勉強している筈だから、それで、この問題なんだけれど……」

「う、うん……」

 

 アズサが差し出して来た問題集をおずおずと覗き込むコハル。一度解いた問題にはチェックマークが付いているので、そのマークが付いていない最新の問題に目を落とす。果たして自分に解ける問題なのか、頼られた高揚だったり、不安だったりを表情に滲ませながら問題文を目でなぞる。

 

「……あ、これ知ってる! これは確か、えぇっと、こうやって、下の所と九十度になるように、線を引いて――」

 

 解けない問題だったらどうしよう等と考えていたが、幸い彼女が思い悩んでいた問題は自身がつい数時間前に解いた問題に酷似しており、コハルは嬉々として自身のノートを差し出すと、図解を交えながらペンを動かした。

 

「そうすると、この三角形と、この三角形が一緒になるから……分かった?」

「……成程、そういう事か、理解した」

 

 アズサはじっとコハルの手元を見つめながら、二度、三度頷いて見せる。そして徐にコハルに視線を向けると、感心した様な様子で言葉を紡いだ。

 

「助かった、これは確かに正義実現委員会のエリートというのも頷ける」

「ッ!? そ、そうよ! エリートだもの!」

 

 ノートに張り付くようにしてペンを動かしていたコハルは、ピンと背筋を正しながら胸を張って見せる。その頬は上気し、久しくなかった自尊心を満たせる行為に、彼女は大変ご満悦だった。

 

「……も、もし何か分からないところがあったら、私に聞いても良いから、アズサは、その、特別にね!」

「ありがとう、助かる」

「あらあら……流石は裸の付き合いをしただけはあると云いますか、もう深い所まで入った仲なのですね……♡」

「ちょ、何云ってんの!? そういうアレじゃないから!?」

「うん? ハナコも体を洗って欲しいのか?」

「ふふっ、そうですね、今度は皆で洗いっこしましょうか♡」

「し、しないからっ! 絶対!」

「………」

「先生はこっち見んなっ!」

 

 皆の方をただ凝視していただけなのに、先生は要らぬ顰蹙を買った。

 酷い、ただ私は洗いっこという言葉に反応しただけなのに……世知辛い世の中だ。

 先生は世を儚んだ。

 

「あ、コハル、もう一つ聞きたい」

「ん? あ、うん、えっと――この問題は……う、うーん」

 

 アズサが先程の問題集を再び差し出し、次の問題を指差す。コハルはその問題に目を向け、思わず言葉に詰まった。ぱっと見だと少々難しい、けれど確か似たような問題が記憶の片隅に引っ掛かっている。

 

「むっ、コハルも知らない問題か?」

「うーんと、これ、確か参考書で見たような……ちょ、ちょっと待って!」

 

 告げ、コハルは自身の机脇に引っ掛けていた鞄を掴む。金具を外し、中に手を入れたコハルは手探りで目当ての参考書を引っ張り出した。

 

「確か持って来ていた筈だから……んしょ、確かこれの――」

 

 告げ、机の上に置いた参考書――否、十八禁本(アダルト本)

 

「?」

「!」

「!?」

 

 それを見た皆の反応はそれぞれであった。アズサは小首を傾げ、「うん? 見た事のない表紙の参考書だ」とばかりに疑問符を浮べ。

 ヒフミはそれが一体何なのか、凡その内容を察して赤面し。

 ハナコはまさかこんな所でそんなものを目に出来るなんてと、興奮に別の意味で顔を赤らめた。

 アズサは机の上に置かれた参考書(エロ本)を指差し、問いかける。

 

「コハル、この参考書に載っているのか?」

「え、うん、この参考書――………に」

 

 告げ、コハルはそっと視線を落とす。自身の掌が置かれた参考書――否、アダルト本に。

 そして自身が何を取り出したのかを理解すると同時、一瞬、思考が真っ白に染まった。

 

「――えっ?」

「エッチな本ですねぇ」

「うーん、これは艶本」

 

 ハナコと先生がコハルの手元を覗き込み、感慨深そうに呟く。

 コハルは一拍置いて、自分が何を取り出したのかを再度確認し、思わず叫んだ。

 

「うわああぁああっ!? な、なんでっ!?」

「コハルちゃん、それエッチな本ですよね? まぁ、ある意味参考書かもしれませんが、あ、今更隠しても無駄です、『R18』ってバッチリ書いてありましたよ?」

「ち、違う! 見間違い! 兎に角違うから! 絶対に違う!」

「………?」

 

 コハルは必死に本を背中に隠し、ハナコに対して弁明を試みる。アズサは相変わらず理解出来ていないのか、一体何をそんなに必死になっているのかと、それより早く参考書を開いて問題を解いてくれと云いたげ。

 

「禁断の愛、許されないからこそ熱く……流石に、これは――うーん」

「ちょ、だ、駄目ッ、読まないでッ!?」

 

 背中に回していた本の表紙を、先生はじっと凝視して唸る。校則違反という面でもそうだが、流石に公然と持ち込まれると困る代物だった。

 先生が表紙を見ている事に気付いたコハルは慌てて本を抱きしめ、その場に蹲る様にして叫んだ。

 

「こ、これは違う! 違うのっ!」

「何が違うというのですか? 私の目は誤魔化せませんよ、確実にアレな事をする本でした、それも結構ハードな――トリニティでも、いえ、キヴォトスでも中々見ることが出来ないレベルの内容とお見受けしました、きっと肌と肌がこすれ合い、敏感な部分を擦り合わせ、嬌声が飛び交い理性が飛び去る様な……!」

「あ、ぅ……!」

「どうしてそのような本を持っているのですか? 確か校則でも禁止されていたと思いますが――」

「い、いや、そのっ、こ、これは本当に私のじゃなくて、えっと……えっと……!」

「でもそれ、コハルちゃんの鞄から出てきましたよね? それに合宿所にまで持って来るなんて……お気に入りなのですか? あの真面目なコハルちゃんが、あんなエッチな本を……」

 

 腕を組み、嬉しそうに頷くハナコ。一体誰目線なのかは分からないが、どうやらコハルが艶本を持ち込んだ事を大変喜んでいる様子だった。コハルは顔を真っ赤にしながらしどろもどろに口を開閉させ、視線を忙しなく動かしている。

 

「……いえ、成程、そうですね、考えてみたらそんなに変な事でもありませんね?」

「え、は……!?」

「予行演習もバッチリ、つまり……合宿の為に必要なものなんですね、コハルちゃん♡」

「な、こ、これは違うんだってばあああぁっ!」

「――ハナコ、ストップ」

 

 ハナコが満面の笑みでコハルに詰めよれば、遂に本を抱いて蹲っていたコハルに泣きが入る。先生が慌ててハナコにストップを掛け、コハルの元へと駆け寄ると、その背中を摩りながらそっと自身の体でコハルを隠した。

 

「? つまり、どういう事だ……?」

「そ、その、ハナコちゃん、流石にその辺りで……」

「あら……本当にごめんなさい、やり過ぎてしまった様ですね、その、お話が合うかと思ったのですが……」

「うぅ、うぅぅっ………」

「おぉ、よしよし……ごめんねコハル、少し悪ふざけが過ぎてしまった、大丈夫、それがコハルのじゃないって事は、皆知っているよ」

 

 ぽろぽろと涙を流しながら唸るコハルに、先生はポケットから取り出したハンカチで頬を優しく拭う。自身と同じ趣味を持った友人が出来るかもしれないと勇んだハナコは、申し訳なさそうにコハルに頭を下げていた。

 暫くして、落ち着いたコハルは本を抱きしめながら鼻を啜る。

 

「すん、すん……」

「コハルは押収品の管理も担当していたからね……恐らく押収した時のまま持ち出してしまったんだろう、管理する数も数だから、ありがちなミスだよ」

「う……うん、私、管理目録の整理とか、していたから……これは、本当にその時のやつで……」

「そう云えばトリニティの古書館の地下には何やら禁書が沢山積まれているという噂を聞いた事があります――正義実現委員会がそういったものを含めて色々と差し押さえているとしたら、何も不思議はありませんね」

「えっ、でもそうなると、これ、持ち出したら拙いんじゃ……?」

「えぇ、そうですね」

 

 ヒフミのどこか焦燥を含んだ声に、ハナコは頷いて見せる。押収品を無断で持ち出すなど、勿論良い筈がない。故意でなかったとしても早急に戻すべきだろう。

 

「……であれば、出来るだけ早く返してしまった方が良い気がするのですが、どうしましょう? 押収品とは云え、所持しているだけでも万が一、という事はありますし」

「そうだね、これが本当にコハルのモノじゃないとしても、疑われる要素は無いに越した事はない」

「た、確かに、ずっと忘れて、鞄に入れっぱなしになっていたけれど……」

「今の内にこっそり行って、バレない様に正義実現委員会の所へ戻して来るというのはどうですか?」

 

 ハナコが何でもない事の様にそう云えば、コハルは目を瞬かせながら思わず問いかけた。

 

「えっ、今から?」

「はい、こういうのは早い方が良いですもの」

「そ、それはそうだけれど……」

 

 ハナコの言葉に、コハルは俯きながら本を抱きしめる。確かに、早く戻せるならば戻した方が良い、それは分かる。しかし、コハルは正義実現委員会への出入りを少なくとも合宿期間中は禁止されていた。

 誤って持ち込んでしまった禁書を戻す為とは云え、コハルにとっては絶対的なハスミからの指示を破るという行為に、強い不安を抱いてしまう。そんな彼女の表情から凡その心情を汲み取った先生は、コハルの傍に屈みこんだまま静かに同行の提案を口にした。

 

「それならコハル、私と一緒に行く?」

「せ、先生っ……良いの?」

「勿論」

 

 告げ、笑みを浮べる先生。一人では心細いかもしれないが、大人が一緒ならばその不安も幾らか和らぐだろう。

 

「私が一緒なら、万が一正義実現委員会のメンバーに見つかっても言い訳が利くし、何なら一緒に謝るからさ、多分ハスミなら全力で土下座すれば大抵の事は許してくれるし」

「ど、土下座って……先生、そんな常日頃から土下座しているみたいな云い方……」

「――ふふっ」

「……先生、何でそんな菩薩の様な表情をしているんですか……? 先生? じょ、冗談ですよね?」

 

 ヒフミの不安そうな声に、先生はとても透明感に満ちた笑顔で以て応えた。

 みたいな、も何も――常日頃から先生は土下座をしているのです。

 相手はセミナー、C&C、アビドス、ゲヘナ風紀委員会、給食部、美食研究会、等など。それはもう数えればキリがない位にはしている。大人の尊厳? そんなものは空の彼方に飛んで消えて久しい。

 ユウカに無駄遣いが露呈して、「せんせい~!?」と怒られては土下座し。イオリの足を舐める為に出会う度に土下座し。アスナとアカネを侍らせながら、「あーん」をしていた所をネルに目撃され土下座し。ノノミの膝枕を堪能している所にシロコが乱入し、あれやこれやしている内にセリカが部室へと帰還して拳で語られる前に土下座し。美食研究会については彼女達のやらかしの後処理の為に土下座する。

 

 それはもう、先生にとっては土下座など呼吸の様に行える特技の一つであった。その場で飛び上がり、空中で靴を脱ぎ、土下座の形を整え、そのまま音もなく着地と共に土下座を敢行する――シャーレの業務の中で磨きに磨かれた、スタイリッシュ土下座である。この土下座の前にはユウカも、「仕方ないですね、今回だけですよ!?」と領収書を切り、セリカの(物理)踏みつけ(ご褒美)へと変化し、イオリは赤面しながらも足を差し出す――これが本当の土下座外交ってね。

 一念岩をも通す(一念通巌)……か。先生はイオリの足を舐める勇気が無かった頃の自分を思い出し、どこかやり遂げたような気持で一杯になった。

 

 そんな黄昏ている先生を横目に、ハナコはそっとコハルの傍に近寄り、耳打ちをする。

 

「ところでコハルちゃん?」

「えっ、な、なに……?」

「――それはそれとして、もし他にオススメがあれば是非♡」

「し、知らないっ、バカッ!」

 


 

 正直エデン条約の序盤って、動かす所殆どなくて辛い。先生は傷ついてくれないし、戦闘とかないし、いや、この絆を育んだ時間があるからこそ、後半が輝くのだとは理解しているのだけれど、何とも云えぬもどかしさがありますわ。

 でも私が見たいエデン条約の為には必要なんですの、この、圧倒的透明感を誇る青春が……! 私が見てぇ血塗れ先生の為に、私が青春を書くんですわ……!

 仲良し補習授業部で、先生を……笑顔に……!

 その果てに、「楽しかったですよ、お友達ごっこ」をして脳を破壊するのです!!

 序に目の前で先生の事射殺したろ。

 待っていてナギちゃん!! 今っ、行くからッ!!!



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迫る不穏の影

誤字脱字報告、ありがとうございますわ~!


 

 トリニティ本校舎周辺。

 合宿宿舎から大分離れた場所にある本校舎までは、それなりに時間が掛かる道のりだった。一応モノレールや学内バスなどの移動手段はあるものの、それらを駆使しても相応には遠い。

 生徒のまばらな時間帯、すでに夕刻も過ぎ、殆どの生徒は部活を切り上げ帰路についているか、今頃家でのんびりしている頃だろう。先生とコハルはそんな生徒たちを横目に、正義実現委員会への道を歩く。一応、コハルは正義実現員会に入室するための鍵を持ってはいるが、正規の活動時間外に入出するのはなるべく避けたかった。

 

「そ、その、先生……」

「うん?」

 

 先生の横を歩いていたコハルが、不意に声を上げる。先生が返事をすると、二度、三度、コハルは先生を見上げながら何事かを口にしようとして、口をつぐみ。それから顔をそらした後、僅かに頬を赤くしながら呟いた。

 

「い、云っておくけれど、こればっかりは、その、本当に間違いだから!」

「ん? 本の事?」

「そ、そう! いつものはちゃんと隠……じゃなくて、あんまり持ち歩いたりしないし……」

 

 そう云ってバッグに手を添えるコハル。咄嗟に云い直したが、意味合いとして禁書を個人的に所持している事を白状してしまっている。先生はそんな彼女の顔を見下ろしながら、どこか悪戯めいた表情を浮かべ云った。

 

「――バレない様に、上手く隠すんだよ?」

「っ~!?」

 

 その、先生の台詞に妙な背徳感と見抜かれている事を感じ取ったコハルは、その場で飛び上がりながらバッグを抱え、大きく身を逸らした。その耳は、先程とは比較にならない程赤らんでいる。

 

「な、何言ってるの!? それ、バレなきゃ持っていても良いって云っているのと同じじゃん!? 先生なんでしょ!? エッチなのは駄目! 死刑!」

「お? じゃあコハルも先生と同罪になっちゃうね」

「え、や、ちがっ……! わ、私の、は、その……ッ!」

 

 どういう形であれ禁書を持ち込んでいるコハルも、その理論であるのならば有罪である。自身の言葉で首を絞める形となった彼女は、指先を先生に突き付けながら叫んだ。

 

「こ、これについては本当に間違いだから! つまり、ノーカン!」

「――うん、良いよ、ならそういう事にしておこう」

「っ!? な、何それ! 大人の余裕ってわけ!?」

「大人の余裕っていうか……うーん」

 

 コハルのどこか唸るような言葉に、先生は空を見上げる。日の落ち込んだ空は既に夕暮れから夜に切り替わりかけ、ぽつぽつと本校舎にも明かりが見えていた。

 コハルのそれは、身も蓋もない云い方をしてしまえば、思春期特有の性に興味を持つ事を他人に知られる事を恐れたり、恥ずかしがってしまうソレだ。良くも悪くも、大人になるという事はそういった物事に寛容になるという側面もある訳で――何せ、どうあっても避けては通れない代物。全く触れないというのもまた、それはそれで健全とは言い難い。勿論、個人の好き嫌い、趣味趣向は別として。

 

「まぁ私も立場上そういうものを見つけたら注意しないといけないからさ、大っぴらに所持されるのは困るよ? でも、別にそういったものに興味を持つ事自体は悪い事じゃないと思うんだ、私は」

「え……?」

 

 てっきり先生はその手のものに否定的だとばかり考えていたコハルは、寧ろ肯定するような口ぶりに戸惑いを見せた。勿論それは、大人になる為に――とか、そういう類の話では決してない。

 単純に先生は、生徒に好きなものは好きと、そう云える環境に在って欲しい、ただそれだけなのだ。

 

「無理に縛られる必要なんてないのさ、好きなものを好きだ! って云えない世界なんて、窮屈だと思わないかい? 勿論、ある程度のマナーとか、道徳とか、倫理観は必要だけれど……所謂TPOって奴だね、それを守っている限り、誰に何を言われる筋合いはない」

「で、でも……」

 

 先生の言葉に、コハルは何事かを返そうとする。

 コハルは、性格にやや癖のある生徒ではあるが、その根っこは生真面目で愚直だ。駄目なものは駄目、悪いものは悪い。そこに何故、どうして、という疑問を挟む事がなかった。良く言えば社会的であり、悪く言えば流されやすい。ましてやトリニティという校風にそう云った俗的な代物を避ける風潮があったのだろう。彼女の不安や疑念は、もっともなものだった。

 

「私はね、コハル――生徒には、自分らしく居て欲しいんだ」

「自分、らしく……?」

「そう、好きな事を好きと云えて、必要以上に我慢したりしない、そんな自然体の生徒の姿こそ、私の求める理想だよ、だからコハルは、コハルらしく在れば良いんだ」

 

 そう口にして、先生はコハルの前で屈みこむ。

 視線の合わさった二人、先生の酷く優し気な顔が、コハルの視界一杯に広がった。

 

「少なくとも、私の前で取り繕う必要はないよ」

「ど、どんな趣味でも……?」

「どんな趣味でも」

 

 コハルの腕が、自身のバッグを力一杯抱きしめた。コハルは詭弁だと、最初はそう思った。けれど自分を見つめる先生の瞳はどこまでも優しくて、普段の先生を見る限り、それが口先からの出まかせだとはとても思えなかった。

 

「……分かったような、分からない様な」

 

 呟き、視線を足元に落とす。

 

「で、でも……先生が私の事をちゃんと考えてくれているって事は、少しだけ……分かった――その……ありがと、せんせ」

「うん、どういたしまして」

 

 呟き、コハルは照れ隠しに顔を上げ、声高に叫ぶ。

 

「じゃ、じゃあ、お返しに、その……ひとつ、私の秘密を教えてあげる!」

「うん? コハルの秘密?」

「………」

 

 云うや否や、彼女は周囲を見渡して、何事かを警戒する素振りを見せる。それから念入りに周囲にこちらを気にしている生徒が居ない事を確かめ、先生の袖を強く引っ張った。

 

「……?」

「さ、さっきみたいに屈んでッ!」

「あぁ、ごめん、ごめん」

 

 先生がそっと再び膝を折ると、先生の耳元に顔を近付け耳打ちを行う。

 

「実は、私……」

「うん」

「――補習授業部が上手く回っているかを監視する為の、スパイなの……!」

「……うん?」

 

 それは予想の斜め上の秘密であり。先生の反応を驚愕と受け取ったのか、彼女はとても誇らしそうに、あるいは自慢げに笑みを浮かべ、言葉を続けた。

 

「――つまり秘密のミッションを遂行中の身って事、だから今は私が馬鹿みたいに見えているかもしれないけれど、これも全部フェイクって訳!」

「へぇ~……因みに、それはどこからの指示で動いているんだい?」

「え? あ、えっと……だ、誰って、その……んと、は、ハスミ先輩!」

 

 コハルは先生からの質問に思わず言葉を詰まらせたが、思いついた名前に望外の説得力を見出し、力説した。

 

「そう! ハスミ先輩はトリニティの中でもすっごい強くて、正義実現委員会の副委員長だし! あ、あと、そう! つ、ツルギ委員長だっているんだから!」

「――成程、ツルギが、ね」

「つ、ツルギ委員長はその、えっと、委員長だし……そう、何でも出来るの! ぶ、文武両道……? だから、多分! な、何回かしか会った事はないけれど……と、兎に角凄いの!」

「うんまぁ、ツルギは凄いよね、うん」

 

 先生はコハルのしどろもどろな説明に深く頷いて見せる。彼女と偶に一仕事を共にする事があるが、先生が身動ぎする度に何かしらの奇声を上げたり、挙動不審になったりする。嫌われているとは微塵も思っていないが、それはそれとして少々気になる事ではあった。

 会って間もない頃、髪に顔を突っ込んで深呼吸したのが駄目だったのだろうか? もしくはあの黒い翼を抱きしめながら頬擦りした事かな……? 先生は頭を悩ませる。思い当たる節はなかった。乙女心とは複雑である。

 

「だから、そういう事! 私は別に、本当に勉強が出来なくて補習授業部に入った訳じゃないの! その事、憶えていて! ――私はスパイとして大事な任務を任されている、エリートなんだから!」

「ほほう、それは凄い」

「ふふん!」

「――でもこれ、私に教えちゃって良かったの?」

「……えっ」

 

 先生の一言に、今度こそコハルは動きを止めた。スパイとは他者にバレない様に動いてこそ、自分から素性をバラすスパイなど存在しない。

 コハルはどこか懇願するような目で先生を見つめ、捲し立てた。

 

「せ、先生は生徒の秘密をやたらに云い触らしたりしないでしょ!? しないよね!?」

「……そうだね、うん」

「じゃ、じゃあ大丈夫! 先生の事は、一応、いちおう! 信じているからっ!」

 

 だから問題なしと、そう言いたげにコハルは駆け出す。そして先生の数歩先を行くとスカートを翻し、真っ赤な顔のまま叫ぶのだ。

 

「ほ、ほら、もうちょっとで部室だし、早く行こ、先生!」

 

 ■

 

 正義実現委員会、押収品管理室。

 部室の出入り口、そのすぐ横合いにある押収品管理室は、同時に落とし物などを管理する部屋としても機能している。並んだ金属製の棚に、それぞれプラスチック容器が収納されており、その前側には番号が振られていた。特に危険性の高いものや重要な品物は壁沿いの特別押収品管理保管庫と呼ばれる貸金庫のような頑強な保管庫に保管されており、それらの鍵は正義実現委員会でも一部のメンバーのみが所持している。

 幸い、彼女の持ち出した押収品はそちらのものではなく、通常の押収品として取り扱われているものだった為、押収品の返却自体はそれほど時間を掛けずに完了しそうだった。

 

「えっと、押収品管理棚の、書物分類だから、Dの二十四、Dの二十四――……」

 

 コハルは押収品目録を片手に、本来この押収品が収められていた棚を探す。室内はそれなりに広く、ずらりと並んだ棚には一目でどこに何があるかが分からない。棚にはそれぞれアルファベットの文字が振られており、その棚の番号から容器を割り出す必要があった。

 

「……コハル、終わった?」

「い、今目録で収納場所を探しているから、もうちょっと待って……!」

 

 先生が扉の間から顔を覗かせ、そう口にすれば、Dの棚の前で番号を探していたコハルが声を上げる。そうして指先で順に棚を上から下になぞってくと、目当ての番号が漸く見つかった。

 

「あった!」

 

 コハルは容器を手前に引き出すと、中身が空である事を確認し、そのまま押収品の禁書を中に収める。あとはそのまま棚を押し戻せば、任務は完了。早鐘を打つ胸をそっと撫でおろす。

 

「取り敢えず、これでひと安心――」

 

 そう漏らすと同時、正義実現委員会の部室、その出入り口の扉が開いた。

 向こう側から顔を覗かせたのは――正義実現委員会、副委員長のハスミ。

 彼女が視線を向けた先には、壁に凭れ掛かって所在なさげに佇む先生の姿。

 

「――あら?」

「おぉう……」

 

 ハスミが目を瞬かせ、先生は思わぬ邂逅に声を漏らす。ハスミは部室内に他の生徒の姿が見えない事を確認すると、再度先生に視線を向けながら嬉しそうに頬を緩ませた。

 

「先生? こんな時間に、こちら(正義実現委員会)に何か御用時ですか? 特に連絡などは受けていませんが……もしかして、また私の顔を見に来て下さったので?」

「あー、うん、まぁ、それも無きにしも非ずと云うか、何と云うか」

「先生、終わったよ――!」

 

 そして間が悪い事に、先生とハスミの間、押収品管理室からコハルが飛び出してくる。そして、そんな彼女の姿をハスミはばっちり目視していた。

 

「……コハル?」

「えっ……は、ハスミ先輩!?」

 

 完全に先生しか視界に入っていなかったコハルは、予想外の人物がいたことに目を見開き、思い切り浮足立つ。その様子にハスミは訝し気な視線を寄越し、首を傾げた。

 

「たしか合宿で別館に居ると……成績が良くなるまで、ここへは出入り禁止になっている筈ですが?」

「あ、えっと、そ、その、違うんです……!」

「……私がちょっと、落とし物をしちゃってね、此処へはそれの受け取りに来たんだ」

 

 流石に彼女だけでは分が悪いと思った先生は、空かさず最もらしい理由を並べ立てた。

 

「落とし物、ですか?」

「うん、正義実現委員会は落とし物の保管とかもやっていてくれたでしょう? それでまぁ、コハルには付き添いで、序に授業資料なんかも向こうの別館に運びたくてね、情けない話だけれど私一人だと手が足りなくて……」

「まぁ、そうでしたか」

 

 そう云って先生が鞄を掲げて見せれば、ハスミは納得の表情を浮かべた。授業資料、教材を取りに来たというのは嘘でも何でもないので、特に違和感が出る事もない。そういった手伝いに補習授業部の中でもコハルが選ばれたのは喜ばしい事なのか、ハスミは笑みを浮かべながらコハルを労った。

 

「そういう事なら、寧ろ喜ばしい事です、コハル、きちんと先生のお役に立てているのですね、大変結構です」

「は、はい……っ!」

 

 ハスミの言葉に、コハルは何度も頷いて見せる。彼女にとって正義実現委員会の先輩方というのは尊敬の対象であり、憧れの対象であり、そして同時に絶対的な正義の象徴であった。自然、背筋も伸びれば緊張もする。

 

「そうですね、コハルが此処に来てくれたのはある意味、丁度良かったです、コハルに改めて伝えておきたい事がありましたし……」

「え? わ、私に……ですか」

「えぇ」

 

 ハスミはどこか真剣な様子でそう口にすると、先生を一瞥し、それから小さく頭を下げ云った。

 

「先生、申し訳ないのですが少し席を外して頂けますか? 正義実現委員会としてお話したい事、と云いますか――」

「……分かった、終わったら呼んでくれるかな?」

「えぇ、勿論です、態々すみません、ありがとうございます」

 

 そう云って先生が壁から背を離し出入り口に向かえば、どこか不安そうな表情でコハルが先生を呼ぶ。

 

「せ、先生……」

「大丈夫、きっと悪い話じゃないさ」

 

 元気付けるように、そっと彼女の背中を軽く叩くと、先生は部屋の外へと踏み出した。

 

 ■

 

 正義実現委員会、部室前廊下。時間に厳格な彼女たちの部室前には大きな古時計が設置されており、廊下には時計の針が動く音が良く響く。本来であれば生徒たちの声や足音で賑やかな筈の場所は、夜に差し掛かった今、酷く静かで冷たく感じた。人の喧騒に、温度などない筈なのに。

 先生は自身の二の腕を小さく摩り、そっと息を吐き出す。

 

「――コハル――でください」

「―も―」

「本来の――を――ないで―――」

 

 扉の向こう側に見える二人のシルエット。どうやら、出入り口の扉からそう遠くない場所で話し込んでいるらしい。隙間から、微妙に声が漏れていた。先生は壁に寄り掛かったまま腕を組み、じっと時が過ぎるのを待つ。

 

「でも――には、無理――……! ――なんて、私―――あまりにも――事で―……!」

「――それでは駄目なんですッ!」

 

 不意に、ハスミらしからぬ怒鳴り声が響いた。

 それは、まさに雷鳴の如き一喝であり、思わず先生の肩も震える程。何事かと目を瞬かせながら扉を見れば、再び細々とした声が耳に届いた。項垂れたコハルのシルエットが、扉越しに見える。

 

「――なさい――ずっと―為に―――先生――を―です――」

「………はい――――ます」

 

 それから少しして、そっと扉を押し開けコハルが顔を覗かせる。彼女は中に居るハスミに向けて小さく頭を下げると、そのまま先生の元へと駆け寄って来た。

 

「お、お待たせ……先生」

「………」

「先生?」

 

 その表情に、怯えや焦燥といった感情は見えない。先生は暫くの間、神妙な顔でコハルの表情をじっと眺めていた。反対にコハルは、強い視線を向ける先生にたじろぐ。

 

「……帰らないの?」

「――いや、帰ろうか」

 

 コハルからの言葉に、先生はふっと視線から力を抜く。先生が歩き出すとコハルもまた、その背中に続いた。

 

「コハル、大丈夫?」

「え? う、うん、別に、大丈夫だけれど……? ど、どうしたの、先生」

「……いや、何でもないよ」

 

 先生の声は廊下に響き、やがて消えていった。

 

 ■

 

 合宿宿舎。

 先生とコハルが帰宅した暫く後、一先ず不安の種が無くなったという事で夜食を皆で共にし、自由時間となった。

 ヒフミは肩にタオルを掛けながら、とてもスッキリした顔で部屋の中へと戻って来る。その髪は僅かに濡れ、制服だった姿は体操着へと変わっていた。

 

「ふぅ、スッキリしました!」

「ん、もうお風呂に入ったんだ? 早いねヒフミ」

「うふふ、そうですよね、なにせヒフミちゃんは朝にシャワーを浴びれず、今日一日あるがままの香りで――」

「わわっ! そ、その云い方は恥ずかしいです……っ! うぅ、寝坊さえしなければ……」

 

 ハナコが何とも彼女らしい言葉を口にすれば、ヒフミは顔を真っ赤にしながら今朝の事を思い出す。未だに先生に変な風に思われていないか、ヒフミは気にしていた。明日からは絶対に寝坊しないようにと、心の中で誓う。

 

「でも、それは私達の為に試験を準備していたからだろう? ヒフミ、もし明日の朝も起きるのが辛かったら云って、今度はヒフミの体を洗ってあげる」

「い、いえ、それは遠慮させて頂こうかと……!?」

「じ、自分で洗えば良いでしょ! 子どもじゃないんだから!」

「効率の問題だコハル、皆で洗う事による利点は少なくない、勿論水の節約にもなる」

「大浴場は無いので、みんなで一心不乱に洗いっこというイベントは少々難しい様ですが……あ、良い事を思いつきました、今度お風呂の代わりに、みんなで裸でプールに飛び込むのはどうでしょう?」

「さらっと何云ってんの!? ダメ! そんな凄いの絶対禁止っ!」

 

 皆で効率よく水浴びをする、という点にかこつけて自身の趣味を全開にした提案をしたハナコは、コハルの全力拒否を受け、少し残念そうな表情を浮かべる。しかしアズサは存外悪くないと思ったようで、ハナコの提案、その掘り下げを要求した。

 

「悪くない案だと思うけれど、それをプールでやるメリットがあるのか?」

「そうですね、解放感があると思いませんか? 青空の下、全てを曝け出して掛け合う様子を想像するだけで……うふふふ♡」

「なるほど、そういうのは確かに考えてなかった、解放感……か」

「バカバカバカ! 考えちゃ駄目、想像しちゃだめ、そういうのはだめっ!」

 

 アズサが真剣に考え始めたと思ったコハルは、全力でその想像を阻止に掛かる。アズサとしては解放感という要素を加えることによって、補習授業部のストレスが軽減される事に繋がるのであれば悪くない提案だと思ったのだ。

 

「アズサを変な風に染めるな! トリニティの変態はあんただけで十分だから!」

「あぁ、そういえばコハルちゃんも全裸で泳ぎたい派ですよね?」

「脈絡全無視!? 無敵なの!? そっ、そもそもそんな事云ってないから! プールでは普通に水着っ、それが正義なの! あんただって昨日は水着だったでしょ!?」

「あら……?」

 

 ハナコはコハルの言葉に首を傾げると、徐にコハルへと近付いた。妙な威圧感と共に近づいてくるハナコに、コハルは及び腰で対応する。

 

「ふふっ、良く思い出して下さい、コハルちゃん、私が昨日プールで着ていたものを……」

「え、あ、あの水着が、何だって云うの……?」

 

 更に一歩踏み出したハナコは、その口元に満面の笑みを浮かべながら、そっとコハルの耳元で囁いた。

 

「あれは、本当に『水着』だったと思いますか……?」

「っ!? は、はぁ!? み、水着じゃなかったら何なのよ……!?」

「――最近の下着はデザインがかなり充実していますよね、中には防水性のものもありますし、一目で水着かどうかの判断は難しいと思いませんか? 或いは、ボディペイントという線も……――」

 

 ニヤニヤと、どこか楽し気にそんな事を口にするハナコ。生来妄想の激しいコハルにそのような事を口にすればどうなるかなど、火を見るより明らか。コハルは大いに呼吸を乱し、その顔を真っ赤にさせながら昨日のハナコが制服の中に着用していた水着(仮定)を思い出していた。

 あの時見た水着は、確かにちらりと見えただけだ、上に制服を着ていたし――。

 

「え、嘘?! って、いう事は……!? あ、あの水着……!?」

「あら、どうしたんですか? あれがもし水着じゃなかったとして、何かが変わってしまうのでしょうか? ねぇ、コハルちゃん」

「え、だ、だって……」

「例えば、水着と下着の違い……それはなんでしょう? 防水機能でしょうか、それともお肌の保護の有無? 或いはデザイン、露出の範囲? コハルちゃんは見た目で分からなかったんですよね? あの場所、あの時は――あれは水着だと、そう信じていましたよね?」

 

 ハナコの言葉に、コハルは思わず呻き、頷いて見せる。

 少なくともあのプールで水着を見せられた時、コハルはそれが水着だと認識していたし、そう信じていた。下着だなんて思っていなかったし、ボディペイントなど論外。何故かと云われたら――それが普通で、常識だから。

 

「……そ、そう、だけれど」

「実はあれが下着だったとして……その「真実」かもしれない何かは、どうすれば証明出来るのでしょう? 証明できない真実程、無力なものはない――そう思いませんか?」

「え……っと、な、何を云っているのか分からないけれど……結局、どういう事!?」

 

 コハルが憤慨し、そう叫べば、ハナコは笑みを浮かべたまま楽し気に云った。

 

「ふふっ――あの水着は可愛かったですよね、というお話です♡」

「……はぁ!? 全部冗談ってわけ!?」

 

 ニコニコと笑みを浮かべて佇むハナコ、そして揶揄われたのだと思い怒りを露にするコハル。戯れる二人を前に、「いつも通りだなぁ」と苦笑を浮かべるヒフミ。

 そんな皆に反し、一人だけ真剣な表情を浮かべるアズサ。ハナコの言葉を一通り聞き終えた彼女は、ぽつりと呟きを漏らした。

 

「――なるほど、五つ目のあれか」

「……!」

 

 それは小さな呟きだったが、皆の耳に確かに届いた。その一言を聞いたハナコは、目に見えて驚愕の表情を浮かべる。アズサの言葉の意味を理解出来なかったヒフミとコハルの二人は、顔を見合わせ問いかけた。

 

「な、なに、五つ目?」

「えっと、アズサちゃん、何のお話ですか……?」

「………」

 

 ヒフミが疑問符を浮かべたままそう問いかけると、アズサは何かを思い出すかのように視線を空に漂わせ、それからぽつぽつと答える。

 

「聞いた話だけれど、キヴォトスに昔から伝わる七つの古則、確か、今の話はその内の五つ目だった筈、『楽園に辿り着きし者の真実を、証明する事はできるのか』……多分そんな感じだった気がする、残りは知らないけれど」

「つまり哲学……みたいなものでしょうか?」

「多分、そんな感じ……誰も証明できない楽園は存在し得るのか、そういう禅問答みたいなものだったと記憶している」

「アズサちゃん、どうしてそれを……」

 

 アズサの言葉に、ハナコは僅かな震えと共に口を動かした。その表情は、「まさか」という感情が滲み出ている。

 

「その話を、知っているのは――」

 

 言葉を一度止め、ハナコは彼女に唇を軽く噛み締める。その瞳と表情は、どこまでも真剣だった。

 

「もしかしてアズサちゃん、セイアちゃんに会ったことがあるんですか……!?」

「………」

 

 その問いかけに、アズサはそっと視線を逸らした。その表情には、どこか悲しみと後悔が含まれているような気がした。

 

「……セイア?」

「それって、ティーパーティーのセイア様の事ですか?」

 

 二人はそのあまり聞き覚えのない言葉に、二人を見る。ティーパーティーのセイア、その名前を耳にするのも随分と久しい。彼女がティーパーティーのホストであった時期は相応に耳にする機会があったが……。今一年生のコハルなどは、余り聞きなれない名前だった。

 

「……この話はただ、何処かで聞いた記憶があるだけだ、それ以上でも、以下でもない」

「――そう、でしたか……そういえばアズサちゃんは転校生、でしたね」

 

 アズサはどこか、歯切れの悪い口調でそう告げる。それ以上は、何もない、そう云わんばかりに。セイアに会った事があるか否かという問いかけに対しては、「はい」とも「いいえ」とも取れる返答だった。

 

「『Vanitas Vanitatum』……その言葉の意味、一派――という事は」

「………?」

「――いえ、何でもありません、もう遅い時間ですし、そろそろ眠った方が良さそうですね」

 

 ハナコはそう云って、いつものように微笑んで見せた。けれどヒフミには、なんとなくその表情が陰っているように見えて仕方なかった。

 見かけはいつも通り、穏やかで楽し気な補習授業部。

 

 そうして今日も、補習授業部の夜は――更けていく。

 

 ■

 

 その日の夜、先生の部屋にて。

 昨日と同じように、ヒフミと先生はこれからの補習授業部の方針兼対策会議という形で顔を突き合わせていた。そして、大まかな今日の報告を終えたヒフミは、不意にバッグを机の上に置くと深刻な様子で切り出す。

 

「先生、その、ハナコちゃんの事なのですが……」

「うん?」

 

 湯気を立てるココアを片手に先生が眉を上げれば、ヒフミは無言でそっとバッグの中から一つのファイルを取り出し、先生へと差し出した。先生は差し出されたそれを一瞥し受け取ると、中身を検める。ファイルの中身は、それなりに分厚い紙の束がひとつ。

 

「……これは?」

「模範解答と、とある生徒の解答用紙です――その解答用紙は、模範解答を探している途中で見つけたのですが、昨年の試験、一年生から三年生までの全試験に於ける解答用紙がその生徒の分だけ纏まっていました、どういう訳か、その全てを回答した様でして……」

「へぇ」

 

 呟き、先生は件の答案用紙を覗き込む。一年生から三年生まで、通常クラスから秀才クラスのテスト、学内のありとあらゆるテストの解答用紙。その欄の全ては〇で囲まれ、右上の点数欄には滅多に見ない点数が連なっている。

 

「全て満点、か」

「……はい」

 

 呟き、本命の名前欄に目を移す。

 そして、そこに書かれていた名前に目を細めた。

 

「――浦和ハナコ」

「………」

 

 その名前を聞くと同時、ヒフミは目線を自身の膝元に落とした。その両手がぎゅっと、強い力で握りしめられている事が分かる。ヒフミは何かを堪える様な素振りを見せ、それからぽつぽつと呟いた。

 

「昨日見つけた一年生時の成績に引き続き、盗み見る形になってしまったのですが……ハナコちゃんは去年、一年生の段階で三年生の秀才クラスでも難しいとされる学修課程を含めて、【すべての試験】で満点を叩き出しています……完膚なきまでに秀才、と云えるレベルです」

「……飛び級、どころの話ではないね、一年時で三年特進のテストを満点でパス出来るのなら、学内のテストに限って言えば問題にすらならないだろう」

「はい……一年生時の試験結果を見て、ハナコちゃんはきっと今年になって急激に成績が落ちてしまったのだと思っていました、でも、この結果を見る限りは、そうではなく――」

「わざと点数を取らず、試験に落ちている――としか考えられない」

「……はい」

 

 先生の言葉にヒフミは俯き、項垂れた。

 彼女は補習授業部の設立された理由を知らない、だから落第する事によってどのような不都合が起こるのかを認識していない。彼女にとってはまだ、試験の落第さえも取り返しのつく範囲だと思っているのかもしれない。

 けれど、皆が全力で事に当たっている時、彼女だけは違かったのだと知って――ヒフミは自分でも驚いてしまう程に、酷く傷ついていた。

 

「――ハナコちゃん、どうして……」

 

 ■

 

 深夜――合宿所、ロビー。

 

「………」

 

 アズサは今日も一人、制服を着込み合宿所を音もなく抜け出す。その肩に銃を担ぎ、いつも通り、何て事のない表情で。

 そして、そんな彼女を陰から見守る人物が一人。

 

「……アズサちゃん、また見張りを――?」

 

 そっと、柱の陰に身を隠しながらそう口にするハナコは、深く思い悩む表情を浮かべていた。

 

「………」

 

 彼女が口ずさんだ古則、その五つ目。そして転校生と云う特性。セイアの名前を出した時の反応、最後に――彼女の口にする、『Vanitas』の意味。

 このトリニティに於いて、その教義を持つ一派はただの一つ。

 

 ――運命の分岐点は、すぐそこまで迫っていた。

 


 

 次回 ドキッ♡ミカ、先生と二人きりのプールサイド編

 ミカと存分に語り合うことが出来るぞ! 嬉しいね、先生。

 

 今ちょっと所用で他県に居りますの。Pc使えていないのでいつもと文章の雰囲気が変わっていたらごめんあそばせ。スマホで一万時超書くとかマジ地獄でしたわ、モニタの大画面が恋しくて恋しくて仕方なくってよ! 

 

 そして聞きましたか皆さん? ついにミカさんが実装されましてよ!? マジで来るとは思っていなくてビビり散らかしましたわ! ミカミカ鳴いていた甲斐がありましたわッ! アニバ! アニバ! はよ! はよ! 石の貯蔵は十分でしてよ~ッ!? 私の貯めに貯めた石の貯蔵、全放出ですわ~ッ! レベル30そこらだった私も今や79レベの中堅先生ッ! 四ヶ月毎日コツコツやっていた甲斐がありましたわッ! シャアッ! アロナァ! 虹演出頼みましたわよマジでッ!

 

 そしてブルアカのアニメ化決定めでたいですわ~ッ! ぬるぬる動くみんなが見れると思うと心臓が飛び出して爆発四散で先生が死にましたわ~! 先生の返り血浴びる生徒可哀そう……。反省してよね先生。でもこれでエデン条約で脇腹撃ち抜かれて生死の境を彷徨う先生と自責の念からよわよわになっちゃったヒナが実際の映像として見れる……ってコト!? うぉ~! 先生~! 私だ~ッ! そのままヒナちゃん庇ってぼろぼろになって死んでくれ~ッ! そんな事したらヒナちゃん泣いちゃうでしょう!? ここは大人の作法として腕一本で済ますのがマナーでしてよ。うぅ、お茶の間の子たち性癖歪まされて可哀そう……。

 

 更に更に、メインストーリ―最終章が発表されましたね。最終章、第一章、第二章が実装との事ですが……。

 真っ赤なキヴォトスの中で佇むホシノの一枚絵――それにあの、切り替わる生徒の泣き顔集、やっぱり先生これ、何回も失敗しておりますわよね? 多分、アビドス、機械仕掛け、エデン、rabbit小隊でそれぞれ失敗して、死んでますわよね? 先生と、多分生徒も。

 というか最終章とかマジですの? 早くありません? あと十年くらい引っ張ってくれても私としては一向に構いません事よ??? どういうか十年はなくとも五、六年くらいは平気でストーリー続くだろうなぁ~って感じでキヴォトス動乱まで組んだんですのに、これ下手すると私のプロット全滅したりしません? 大丈夫ですの? 

 うるせ~~~! しらね~~~! そん時はそん時じゃい! 高度な柔軟性を保ちつつ臨機応変に対応すればどんなストーリーが来ても先生の四肢は捥げるし生徒は泣くし私は胸がぽかぽかなのですわ~! 

 私は、私の責務を全うするのですわ~っ!



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誰も知らない、私だけの。

誤字脱字報告は良い文明。


 

 翌朝、補習授業部――教室。

 補習授業部、三日目の朝。皆は時間通りに起床し、顔を洗い、食事を摂る。

 ヒフミは昨日の寝坊を反省、何とか早起きする事に成功し、アズサとの朝シャワーを回避。コハルも一度目で懲りた為、今朝は四人揃って特に遅刻もなく教室へと辿り着いた。扉の前に立ったヒフミは、軽く前髪を払って整え、寝ぐせが無い事を確認し、背筋を正し中へと踏み入る。

 

「先生、おはようござ――あれ?」

 

 教室へと入ったヒフミは、扉を開けた先に先生の姿が無い事に気付いた。いつも生徒達が来るよりも早く、書類を片手に教卓で待機している先生。そんな彼の姿が、今朝は見えない。ヒフミの背後から続く他の皆も、先生の姿が見えない事に疑問符を浮べ、教室全体を見渡す。しかし、やはり彼の姿はない。

 

「あれ、先生居ないけれど……もしかして、遅刻?」

「いえ、朝食の時はきちんと起床していらっしゃいましたし……」

「授業の資料でも取りに行っているんじゃないか?」

「そうですね、アズサちゃんの云う通り、多分授業資料の準備か何かだと思いますが……」

「ん……あ、黒板」

「黒板?」

 

 ふと、コハルが黒板に文字が綴られている事に気付く。皆がそちらの方に視線を向ければ、黒板には白いチョークで中央に自習の文字。どうやら一度教室自体には来ていたのか、先生の私物が教卓の隅に纏まっていた。それを見つめながらヒフミが呟く。

 

「もしかして、何か急なご用事でしょうか?」

「先生はシャーレという立場もありますし、朝食の後、急ぎの仕事が入ってもおかしくはないですね」

「うん……先生も貴重な時間を割いて、私達の勉強見てくれている」

「うぐっ……そ、そう、だよね」

 

 コハルは、そんなアズサの言葉に顔を顰める。先生が多忙な事は理解していた、しかし、やはり補習授業部に掛かりきりになる事も出来ない現状を見ると、色々と感じ入るものがある。先生は忙しい時間の合間を縫って、この合宿に参加しているのだと。

 その期待を、裏切る事は出来ない。

 それは、補習授業部全員の共通した想いであった。

 

「一先ず、指示された通り自習時間にしましょうか」

「了解」

「う、うん」

「ふふっ」

 

 ■

 

「わぁ、水が入ってる~!」

 

 合宿所、プールサイドにて。

 靴を脱ぎ捨て、裸足となった少女――ミカが笑いながらプールサイドを歩き回る。彼女の目の前には、トリニティの湖から引いた冷たくも綺麗な水面が広がっており、汚れ、寂れたプールの面影を知っていた彼女は楽し気に周囲を見渡した。その水面に反射する日光に目を細め、そっと指先を水面に浸ける。その冷たさと美しさに、ミカは小さく歓声上げた。純白の制服を靡かせながら、彼女は背後の人影に笑い掛ける。

 

「あはっ、ここに水が入っているのなんて久し振りに見たなぁー、もしかしてこれから泳ぐの? 皆でプールパーティーとか?」

「合宿が終わったら、そういう事をしても良いかもね」

 

 彼女を見守っていた人影――先生も同じように、いつもの制服姿に素足で彼女の後を追う。微かな風と朝に照らされながら、先生は静かに口を開いた。

 

「それでミカ、態々此処まで出向いた用件は何かな?」

「……えへへっ」

 

 先生の問いかけに、彼女はどこか悪戯っ子の様な笑みを浮べる。その表情に含まれる感情は、照れ、だろうか。プールサイドに腰掛け、足元を水面に浸けたまま、彼女は楽し気な口調で応えた。

 

「先生は上手くやっているかな~、って、ちょっと気になって」

「まぁ、今のところは何とか、必要な設備は揃っているから」

「そっか、なら良かった! それにしてもナギちゃん、随分と入れ込んでいるみたいだねー、こんな施設まで貸し出しちゃって、多分中堅クラスの部活が使用申請だしても、使用許可下りないよ、ここの合宿所」

「でも、此処に着いたばかりの時は結構放置されていて、掃除が大変だったよ?」

「あはは、まぁ、そこは……ほら? トリニティは大きいし、手の廻らないところの方が多いから、管理自体は兎も角、景観云々とか二の次、三の次ってね」

「ちょっと、勿体ない気もするね」

「派閥とか、政治的配慮とか、色々あるらしいんだよね~」

 

 そう云って苦笑を浮かべるミカ。大規模な学園だからこそ、隅々まで意識が届かない事もあるのだろう。そして部活間にも派閥があり、おいそれと合宿所の使用許可も出せない。何とも、堅苦しい話であった。

 

「ところで、肝心の合宿の中身はどう? 本校舎から遠いのを良い事に、何か楽しそうな事したりしてない? 皆でパジャマパーティーとか、ここでプールパーティーとか!」

「一応、名目は勉強合宿だから、そういうのは難しいね……」

「えー、でもさ、折角の合宿何て楽しいイベントなんだし、そういう事の一つや二つくらいないと……」

「――ミカ」

 

 唇を尖らせ、足をばたつかせる彼女の声を遮る。

 プールサイドに腰掛け、先生を見上げるミカを見る先生の瞳は――真剣だった。

 

「――そんな事を聞きたくて呼んだ訳じゃないんだろう?」

「……あはっ」

 

 その真剣な声色に、ミカは破顔する。

 どこか、嬉しそうに。

 或いは、期待するように。

 

「そこまで警戒されちゃうのは心外だなー、私こう見えても繊細で、傷つきやすいんだよ?」

「――良く知っているよ」

 

 呟きは、ミカの耳には届かない。

 彼女は徐に立ち上がると、足元の水を軽く払い、下から先生の顔を覗き込むようにして口を開いた。

 

「……というか先生、顔色良くないよ? ちゃんとご飯とか食べられているの? 何か美味しいものでも送ろうか? ケーキとか、紅茶とか」

「気持ちだけ有難く――そういうミカも、目元の方」

 

 先生はそっと、ミカの目元を指先でなぞる。少し驚いた様に目を見開いたミカは、しかしされるがまま先生の指先を受け入れていた。彼女の目元には薄らと、隈が見えている。

 

「隈、出来ているよ?」

「……あーはは……あー、一応隠したつもりだったんだけれど」

 

 そう云ってミカは恥ずかしそうに頬を掻いて、目を逸らす。

 

「睡眠不足?」

「あー、いや、うん、まぁ、睡眠不足なの……かな?」

 

 何とも自信のない解答だった。彼女は先生の手を取ったまま、そっと自身の頬に添える。「んー」、と猫の様に唸るミカは、そのまま先生の手の暖かさを感じつつ口を開く。

 

「最近何か、眠っている気がしないというか、気が付いたら全然知らない場所に居る――って事が偶にあるんだよ、夢遊病? って奴かなぁ」

「夢遊病……」

 

 ミカの言葉に、先生の瞳がすっと絞られた。

 

「突然意識が無くなったりとかは?」

「あー、それはない、何ていうか、眠くなる感じって云うの? そういう眠気が先に来て、うたた寝とか、御昼寝したら、次起きた時に寝る前の状況と違う……的な?」

「………」

 

 先生はその言葉に、あらゆる可能性を想定する。心理的なもの、或いは本当に肉体的な病気の類か。先生は医者ではない、病状だけを聞いて的確にアドバイス出来るだけの知識がなかった。

 以前には見られなかった現象だが――全てが全て、同じである筈もなく。

 そうでなくとも先生は多くの点で未来線を変えた。何がどう作用するかなど、最早想像もつかなかった。

 先生が黙り込み、真剣な表情で自身を見下ろす。その様子を見ていたミカは、嬉しそうに口元を緩めて云った。

 

「……ふふっ、心配してくれるんだ、私の事、嬉しいなぁ」

「そりゃあ、勿論、心配するさ……」

「先生は優しいね」

 

 そう云ってミカは微笑み、そっと先生の手を放すと一歩、後ろへと下がった。

 

「まぁ、先生に私の事を知って貰うのも悪くないけれど、そろそろ本題に入ろうか! あっ、因みに私が此処に居る事について、ナギちゃんは知らないから、見ての通り、付き添いもなしの単独行動!」

「うん、信じるよ」

「あ……えへへ」

 

 欠片も疑いを抱かない先生に、ミカは頬を掻く。疑心暗鬼になられるのも嫌だが、こうして全面的に信頼されるのも――それはそれで、面映ゆい。

 

「それで、改めて本題だけれど――」

 

 こほんと、自分の感情をリセットする為にミカは咳払いを一つ零し。

 それから、改めて先生と対峙した。

 

「先生、ナギちゃんから取引とか提案されなかった?」

「取引、というと?」

「例えば、そうだなぁ……【トリニティの裏切者】を探して欲しい、とか」

「……されたね」

 

 そう答えると、ミカは明らかに不満げな顔で溜息を零した。 

 

「……ふぅ、やっぱり、もうナギちゃんったら、予想通りなんだから――それで、何か詳しい情報とかは? そういうのは何もなしで、ただ探してって云われた感じ? 理由とか目的は? どうして補習授業部がこういうメンバーで構成されているかとか、ナギちゃんは教えてくれなかった?」

「うーん、多少は説明されたけれど……詳しい所までは、余り」

「そっかー……もう、ちゃんと説明しないで先生にこんな重荷を背負わせる何て……」

「――でも、ナギサには悪いけれど、提案は断ったよ」

 

 先生は、何でもない事の様にそう云った。

 ミカはその答えが予想外だったのだろう。目を瞬かせ、驚きの表情を浮かべる。

 

「えっ、そうなの? どうして? 自分達の生徒を疑いたくないから? それとも――」

「疑いたくないというのは勿論あるよ、でも、疑いたくない以上に――」

 

 生徒を疑いたくない、それは確かにそうだろう。

 強くそう思う。けれど、それ以上に。

 

「――信じたいんだ、私の生徒を」

 

 それが、先生の根源なのだから。

 

「……へぇ」

 

 予想だにしない答えを前に、ミカの目が興味に輝く。両腕を組んだ彼女は、何かに納得するような素振りを見せ、何度も頷いた。

 

「そっか、そっかぁ……まぁ確かに先生は『シャーレ』の所属だもんね、トリニティとは本来無関係な第三者、私達にとってはずっと『トリニティ』そのものが世界の中心みたいな感じだからアレだけれど、先生にとってはそうじゃない」

 

 ティーパーティーという権威、その提案を突っぱねる事は、この学園の生徒にとって難しい。

 少なくともトリニティの生徒であれば、一も二もなく頷いてしまうだろう。それはトリニティという限られた世界の中で生きる為の処世術と云っても良い。膨大な生徒数を抱える学園の中で後ろ盾を持たず生きると云うのは――想像以上に大変なのだ。

 

「……面白い答えだね、成程、新鮮かも――先生の答えは、それはそれで正しいよね」

「ものの見方は立場によって変わるよ……でも、私は、私が正しいと思った道を選んだつもりだ」

「ふーん……それじゃあ、先生は誰の味方?」

 

 好奇心に光るミカの目は、先生を捉えて離さない。その問いが先生にとってどういう類のものなのか。ミカは良く理解しながらも、問いかけた。

 

「もしトリニティの味方じゃないんだとしたら、ゲヘナの味方? それとも所属的に連邦生徒会とか? 前に騒動に巻き込まれたって云う、アビドスかな? 或いは――誰の味方でもない、とか?」

「ミカ、もしかして分かっていて聞いている?」

 

 彼女の質問に、先生は狼狽えることなく――笑って、けれど瞳だけは確りとミカを見据えたまま告げた。

 

「私は、生徒全員の味方だよ」

 

 それは玉虫色の解答だった。

 正直、ミカにとってはその場凌ぎの狡い答えに思えた。だって、誰かの味方をするという事は、誰かの味方をしないという事で。全員の味方をするという事は、全員を選ぶというと同時に、全員を選ばないという事だ。

 それは酷く傲慢で、無謀な在り方に思えて仕方なかった。

 

 けれど――先生にとっては、違う。

 

 先生は文字通り、生徒全員の味方だった。

 生徒同士が争うのならば、先生はその身を張って止めるだろう。どれだけの傷を負おうと、苦難に見舞われようと、裏切られようと、信頼されていなくても、所属が違っても、人でなくとも、文字通り――己を撃ち殺した相手であっても。

 先生は自身の全てを使って、あまねく生徒の味方で在り続ける。

 その覚悟は、瞳を見れば分かった。その結末に自身がどのような末路を辿っても、後悔しない色がある。どれだけの苦難が待ち受けようと、その信念を貫き通す気概がある。

 それは、疑いようのない――生徒への『献身』であった。

 

「そっ、かぁ……生徒達の味方、かぁ……それは予想外だったなー……」

 

 ミカは呟き、視線を泳がせる。

 予想していた以上に、自身が期待していた以上に、先生の在り方は『生徒の為に』あった。それは、巻き込むことを躊躇う程に。ミカは、何故か自身の心臓が早鐘を打っている事に気付いた。

 

「うーん、なら、あ、あのさ、先生?」

「うん」

「生徒の味方って事は、その……」

 

 指先を擦り合わせ、ミカは顔を俯かせながら恐る恐る問いかける。

 

「先生は一応、私の味方でもあるって考えても良いのかな? 私もほら、ティーパーティーの一員だけれど、トリニティの生徒って立場だし……困っていたら、助けてくれるのかな……なーんて」

「勿論」

 

 その言葉に、先生は一も二もなく頷いた。

 それは先生にとって、ごく当たり前の事だったから。手を差し伸べ、先生は宣う。

 

「――ミカが困っているのなら助けよう、迷っているのなら手を取り導こう、辛い事があれば胸を貸そう、ミカがミカらしく在れるように、私は私の全てを擲って寄り添うとも」

「……わーお」

 

 先生の強烈な殺し文句に、ミカの頬にさっと朱が差す。

 それはミカが欲した言葉以上――考え得る限り、最高の返答だった。

 頬に差した桜を隠すように、ミカはそっぽを向きながら呟く。

 

「さ、さらっと凄い事を云ってのけるね、先生……」

「こういう事で、生徒に嘘は吐かないようにしているんだ」

「そ、そうなんだ……へー……ふーん……」

 

 唇を尖らせ、目を伏せる。

 何となく、顔を見られるのが恥ずかしかった。両の手を頬に添え、僅かでも熱を冷まそうとする。けれど、心の熱は熱したまま。暫く消えそうにない。

 

「大人だねぇ、そういう話術? って思う気持ちもあるけれど……多分、何となく、うん、先生が本気だって分かるし……ちょっと純粋に嬉しいかも、えへへ――」

 

 口先だけなら何だって云える。けれど、それを腹の底から実現しようと云う覚悟が見え隠れするからこそ、ミカにとっては信頼に足る。

 先生は本当に、自身が危険に陥ればその身を挺して守ってくれるだろう、その確信があった。

 けれど、だからこそ――惜しい。

 

「でも、先生はさ、私だけの味方には――なってくれないんだよね?」

「………」

 

 その言葉に、先生は少しだけ困ったように目を伏せた。

 そう、先生の言葉に嘘は無い。

 きっと彼は全力で生徒の味方になってくれるだろう。

 その身を賭して、全力で。

 

 ――生徒、【皆】の味方に。

 

 それは決して、【私だけの味方】じゃない。

 

「あはは、ごめん、ちょっと我儘云っちゃった……うん、さっきの言葉、先生以外の人が云ったのなら、ただの傍観者じゃんって云いたくなっちゃうけれど――先生は文字通り、本当に心の底からそう思っているんだね」

 

 告げ、ミカは屈託なく笑う。

 その在り方を眩しく思う。素晴らしい事だと思う。

 けれど、何故だろう。

 そんな先生を見ていると、少しだけ――胸が苦しくなる。

 

「どれだけ傷つけられても、どれだけ辛くても――先生は、生徒の傍に寄り添い続けるんだ?」

「……あぁ、そうだよ」

 

 頷き、先生は云う。

 

「それが私に出来る、唯一だから」

「……そっか」

 

 ミカは、その澄んだ笑顔を見て、真似をするように口元を緩めた。

 何故だか、本当に何故だか分からないけれど。先生のその笑顔を見ていると、無性に泣きたくなった。(ミカ)ではない(誰か)が、感情を押し付けて来るかのように、胸がぎゅっと切なくなった。

 これから私は、こんな優しい人を――巻き込むと云うのに。

 

「なら……私から先生に、取引を提案させて貰おうかな?」

「取引?」

「うん、そう」

 

 けれどミカは、感情を呑み込む。

 あらゆる色を腹に沈めて、目を伏せ、顔を覆い――見ない振りをする。

 これから行うのは、運命へと辿り着く為の第一歩。

 その為にミカは――あらゆるものを捨て去ると、そう決めたのだ。

 ミカは先生との距離を詰め、告げる。

 

「補習授業部の中に居る裏切者が誰なのか、教えてあげる」

 

 その一言は、二人だけのプールサイドに良く響いた。

 

「ナギちゃんの云うトリニティの裏切者、今必死に探して退学にさせようとしている、その相手――と云っても、先生は既に気付いているみたいかな?」

「……さぁ、どうだろうね」

「誤魔化さなくても良いよ、私としてはどっちでも良いんだし……元々先生がナギちゃんに振り回されているのを見ているのは申し訳なかったから、これは取引云々を抜いても先生に伝えようと思ったんだ……実際の所、少し複雑で大きい問題もあってね」

 

 そう口ずさみ、目を閉じる。何かを思案する素振りを見せた彼女は、ふっと目を開くと、先生を覗き込んだまま言葉を続けた。

 

「――そもそも、先生の事を補習授業部の担任として招待したのは私だから、この事は知っていた?」

「……いや、初耳だ」

「そう? ナギちゃんにはずっと反対されていたんだ、せっかくの借りをこんな風に使うのはどうこだのこうだの、って……先生とナギちゃんの間に、色々あったみたいだね? ――まぁ、私の方も色々あったけれど……あぁ、ごめん、それより裏切り者のお話だったね」

 

 佇まいを正し、先生の顔を真っ直ぐ見据えたミカは、真剣な表情で――けれど、どこか悲しそうな瞳で、裏切り者の名を告げた。

 

「補習授業部の裏切者、その正体は――」

 

 ――白洲アズサ。

 

 ■

 

 昨日。

 合宿二日目の夜――廃校舎。

 

 トリニティ郊外には、連合を組む前に使用されていた分派の校舎が存在している。

 トリニティ総合学園となってからは使用される事もなく、存在を忘れられ、取り壊される事も、再利用される事もなくなった、忘却の園。

 蔦が生え揃い、コードが剥き出しになった蛍光灯が天井から吊り下がったまま、月明かりだけが回廊に差し込んでいる。

 そんな中、壁に背を預け佇む影が一つ。彼女は目深く帽子を被り、ライフルを担いだまま沈黙を守っている。その口元は防弾性のマスクに覆われ、その姿は影に溶ける様に輪郭をあやふやにしていた。

 そして、ゆっくりと暗闇から姿を現す、トリニティ制服を着用した生徒が一人。彼女はその人物を視界に認めると、音もなく壁から背を離し、口を開いた。

 

「――遅かったな、アズサ」

「………」

 

 錠前サオリ、そして白洲アズサ。

 片やアリウススクワッドのリーダー、片や補習授業部の生徒。傍から見れば接点は何もない。しかし、彼女達は此処で顔を合わせる事をごく自然である事の様に受け入れ、サオリは淡々と口を開いた。

 

「首尾は」

「……今の所、計画通り」

「そうか」

 

 頷き、サオリはそっとアズサの背後に目を向ける。

 ――暗闇に、人の気配はない。上手く単独で抜け出してきているようだと確かめ、そっと視線を戻す。いつも通りの仏頂面を晒すアズサを前に、サオリは本題を切り出した。

 

「先生に関してはどうだ」

「………どう、とは」

「先生はアリウスに関しての情報を既に掴んでいる、私達スクワッドの面子も――恐らくアズサ、お前の事情も」

 

 そう告げ、サオリはいつか出会った先生の顔を思い出す。一飯の恩、そしてアビドスでの邂逅。決して浅くはない因縁がある。そして、それでも尚、先生が手を伸ばそうとしていた事も。

 サオリはコートのポケットに手を入れたまま、くしゃくしゃになったメモ用紙を、そっと握り締めた。

 

「……今の所、先生からそれらしいアクションはない」

「――備えている故か、或いは」

 

 言葉を切り、サオリは目を伏せる。

 

「なら良い、今は手を出すな」

「……分かった」

「ただし」

 

 声が、回廊に響く。

 見開かれたサオリの瞳が、アズサのそれを正面から射貫いた。

 

「アズサ、計画が露呈する様な事になる場合は口封じとして……」

「――云われなくても、分かっている」

 

 言葉を被せ、アズサは淡々と頷いた。その声には、感情が欠片も籠っていなかった。

 見開いたアズサの瞳が、サオリのそれを正面から見返す。

 

「私が先生を……殺害する」

「――あぁ、それで良い」

 

 サオリはその返答を聞き届け、深く、頷いた。

 そして徐にホルスターに手を掛けると、留め具を弾き、収められていた拳銃をアズサに差し出す。アズサは差し出されたそれを見て、目を瞬かせた。

 

「……これは?」

万魔殿(パンデモニウムソサエティ)の構成員に正式採用されている装備だ、もしもの時はこれを使え、取り扱いは訓練で学んだ筈だ」

「……この型のものなら、問題ない」

 

 頷き、アズサは拳銃を受け取る。安全装置(セイフティ)を目視し、遊底(スライド)を僅かに引いて、薬室に弾丸が装填されていない事を確認。そのまま弾倉(マガジン)を抜き出すと、マガジンクリップに弾丸が保持されている事を確かめる。

 グリップパネルには万魔殿のシンボルが彫り込まれており、何とも実用性に欠けた、アンティーク染みた銃だと内心で思考した。尤も、それはゲヘナに限った話でもないが。

 

「これで馬鹿正直にゲヘナの仕業だと考えるとも思わないが、疑心暗鬼を生むには十分だ、連中のゲヘナ嫌いは良く理解しているからな……火種の一つでも放り込んでやれば、勝手に爆発するだろう」

「弾倉は、これだけ?」

「ゲヘナ経由で入手する手段が限られている、それも万魔殿の正式採用装備となると調達班でも困難らしい、悪いが弾薬はそれきりだ、慎重に撃て……要らぬ心配だとは思うが」

「……了解」

 

 呟き、アズサは制服の内側に拳銃をそっと忍ばせる。普段から銃火器の類を忍ばせているアズサだ、今更銃の一つや二つ増えた所で、怪しまれる心配もない。このグリップを見られない限りは。

 

「……彼女からは先生との決着は『下』で付けたいとの要望を出されているが、殺せるのなら殺しても構わないと、そう伝えられている」

「なら――」

「あぁ、先生が動きを見せた場合は躊躇するな、彼女曰く――ティーパーティーよりも、先生の方が優先度は高い」

 

 それだけを告げ、サオリは踵を返す。コートの裾を翻し、そっと口元のマスクを外したサオリは僅かな笑みを浮べ――口を開いた。

 

「期待しているぞ、アズサ」

「…………」

 

 そうして、彼女の姿は闇夜に溶けていく。その背中を見送りながら、アズサは制服の中に仕舞いこんだ拳銃を撫でつけ、呟いた。

 

「――先生」

 

 その声に、応える者はいない。

 


 

 

 PVを見て想像した、本編先生一週目BADエンド集

 

 ・ホシノの身売りを阻止出来ず、黒服に頭を弄られた結果、『ホシノ』という自我が限りなく希薄になるルート。彼女を助けに来たものの一足遅く戦闘に、そのままアビドス全滅、皆の学生証を握りしめた先生を最後に射殺し、薄汚れたアビドス学生証の中で笑う自分を見下ろし、涙すら流せなくなったホシノが虚ろな目で銃を取り落とすエンド。

 

 ・アリス闇落ちルート。モモイの変わりに先生が致命傷レベルの負傷を抱え、結果アリスの「自分さえいなければ」の思いが強くなりすぎた為、説得に失敗してアリス魔王就任エンド。色彩との決戦にて致命的なミスなので、最終的にキヴォトスは沈む。

 

 ・補習授業部アリウス落ちルート。先生がサオリに撃たれ重傷、その後アズサがサオリを爆殺した場合のルート。結局アズサは自分が人殺しである事を認め、もう二度と補習授業部には戻ってこれない事を自覚する。しかし、そんな終わりを認められないヒフミはアズサと共にアリウススクワッドとの敵対を決意し、サオリを除いた残りのメンバーに向かって引き金を引く。図らずしも、ヒフミはナギサの妄想染みた本質に染まってしまう。補習授業部決別エンド。ハナコは自分の唯一の心の在りどころを喪い、コハルはただ何も出来ず、何者にもなれないまま立ち止まる。

 

 ・サオリ身代わりルート。先生を射殺し、その後、アズサがサオリに勝つことが出来なかった(正規ルート)場合、しかしヘイロー破壊爆弾は作動し、サオリを庇って代わりにアツコが死亡する。ロイヤルブラッドは消失し、ベアおばの儀式は不完全なものに。サオリはアツコの代わりに生贄として使用される。結局救いなどなく、すべては虚しいだけ――その本質をずっと口にしていたのに、自分は何も分かっていなかったと、最後に皆に詫びながらヘイローを消失させる。残されたスクワッド、ミサキは風呂場で手首を切って自殺、ヒヨリたった一人となり行方不明。スクワッド壊滅エンド。

 

 ・ヒナ死亡ルート。先生を庇った際、ヒナが致命傷を受けヘイローが破損した場合。エデン条約のみを見れば戦力的に厳しいものの、大きく変更はない。しかし先生及びゲヘナ風紀委員会のダメージが極大。アリウススクワッドとの関係も大きく悪化し、またこの件に関与したパンデモニウムとゲヘナ風紀委員会との亀裂が決定的となる。トリニティもトリニティで内部分裂が凄まじいが、おそらくエデン条約後のゲヘナも地獄を見る。先生はアリウスを許すかもしれない、けれど多分アコは絶対に許さない。色彩との決戦にてゲヘナが不参加となるので、結局キヴォトスは沈む。

 

 ・ミカ、魔女ルート。ミカを慰めて、元気付けて、一緒に居るからと約束した先生がアリウスに射殺された場合。多分、他のルートでも複合的にこうなる。唯一の支えも失い、誰からの許しも得る事が出来ず、結局自分が救われる事は幻想に過ぎないと思い込んでしまったミカが、せめて先生に報いるためにアリウスの全てをぶち壊して回るエンド。このエンドに限り、多分エデン条約でのキヴォトス崩壊は免れる。ベアおばもきっとミカが殴り殺す。でも残ったのは元凶の消えたキヴォトスに、先生の骸と、滅茶苦茶になったエデン条約そのもの。そしてミカの末路を悟ったセイアが涙する。実はこれ、限りなく本編のミカ(一週目)に近い状態。

 

 こんなスチルを公式が発表するとかマジ? 大切な人を生徒に射殺させたり、目の前で血塗れになる様をこれ見よがし見せつけたり、自殺させたり、仲たがいさせたり、絶望の淵に叩き込んで慟哭させるなんて、これが透き通るような世界観で送る学園×青春×RPGのブルーアーカイブなんですの? 運営には人の心とかありませんの? 生徒が可哀そうだとは思いませんの? 人としての優しさとか、倫理観とか、道徳とかご存じない? うぅ、生徒さん可哀そう……。口直しに先生の手足捥いであげるから、みんなで見て心を落ち着かせて、みんな、先生ダルマになるとこみてて……。

 

【プロットに関するお知らせ】

(この時点で私はまだ最終章、第二章を見ておりません)

 

 以前の投稿が4thPVが発表されてから一、二時間後の投稿でしたので、後書きに色々書き加える余裕がありませんでした。というわけでブルアカのアニメ化、更に最終章の発表に先駆けて、本小説のプロット破壊についてお話し致します。ンギィ!

 まず最初に、致命的であったのが最終章の絵面が完璧に「キヴォトス総力戦」である事です。イベント含め、全キャラ、全学園が参加し、文字通り全力で空に浮かぶナニカに突撃しております。これが意味するところは何か? 

 私の旧プロットでは。

 

 ・エデン条約編 前編(ミカ編終わりまで)

 ・夏イベ ツルギの夏休みinアビドスを添えて(トリニティ、アビドスの夏イベ複合)

 ・エデン条約編 後編(ミサイル着弾、アツコ救出まで)

 ・虹の契約編(過去の先生が、自身を対価にどうやって世界を救おうとしたのか、という話)

 ・キヴォトス動乱編(先生がボコボコのボコにされる)

 ・青の教室編(すべてを終えた先生の話)

 

 という感じでプロットを立てておりました。

 

 はいコレ全部どーんッ! 

 

 プロットは消し飛びました、おぉ、哀れ哀れ。

 Rabbit小隊の続編とか、ちょっとした新章ならばまだしも、最終章なんて銘うって出されたら書かねぇ訳にはいきませんわよねぇ!? そしてその最終章が、まさかの、全学園総出撃する代物……!

 これちゃんとやるなら全部書くしかないじゃありませんこと!? どう考えてもそうなりますわよ!? 機械仕掛けは先生の四肢捥げないからやだーとか云っている場合じゃなかったんですわ! 

 というわけでここ三日、あーでもないこーでもないと頭を悩ませて私が新しく建てたプロットがこれですわッ!

 

【書き終わったプロット】

 ・エピローグ 終った

 ・幕間(アリウススクワッド出したかった) 終った

 ・アビドス編 前編(銀行強盗前くらいまで) 終った

 ・アビドス編 後編(ベアおばと決戦) 終った

 ・エデン条約編 前編(ミカ編終わりまで) ←今ココ 

 

※ここまで現Word文字数760,000字、ページ数1,482頁。

 

 ・機械仕掛けのパヴァーヌ編 前編(ぶっちゃけコレ飛ばしたい、駄目?)

 ・夏イベ ツルギの夏休みinアビドスinゲーム部を添えて(うるせぇッ! いこうッ!)

 ・エデン条約編 後編(先生の腕を絶対に捥ぐ、何が何でも捥ぐ)

 ・機械仕掛けのパヴァーヌ編 後編(先生がトキにボコボコにされる)

 ・カルバノグのウサギ編 前編(先生が色々苦労するだけ)

 ・イベントストーリー、百鬼夜行(忍者)かレッドウィンター全編(でも私、どっちもプレイしていません事よ??? 多分過去回想的な感じになる)

 ・最終章 あまねく奇跡の始発点 前編(実質、カルバノグの兎 後編 二章まだ見てない)

 ・F.SCT攻略 総力戦(先生をボコボコにする機会を伺う)

 ・最終章 あまねく奇跡の始発点 後編(これ実装されるのいつになります??? オリジナルで良いなら先生の残った手足全部捥ぐ)

 ・青の教室編(全部終わった後のエピローグ)

 

 以上ですわ! 

 何このプロット数、ふざけてんの???

 キヴォトス動乱編は「最終章 後編」に全部吸い込まれましたわ! というか、私が仮に最終章後編に差し掛かるまでに公式の方が後編のストーリーを書き終えていなかったら、無理やりキヴォトス動乱編っぽい感じで私が改変して好き放題しますわよ! まぁ、そんな事はあり得ないと思いますけれど。

 そして悲しいことにこれを全部書こうとなると、マジのガチで数百万字後半、下手をするとそれ以上とかいう、それはもう途方もないどころか、ちょっと私も考えたくないレベルの文字数になりそうなんですわ! 頭おかしいですわ~~~!

 自給自足の為にこれだけ書くとか、もう愛とそういうレベルじゃねぇですわよホント。エデン条約編が可愛く見えてきましたわ。えぇ、今ならエデン条約程度(多分2,000,000字くらい)なら喜んで書いてやりますわよ。これと比べればクソみてぇなもんですわ~!

 

 取り敢えず結末とか、色彩に関する云々とか、最後に先生がどうなるとかは全部決まっておりますの。幸い、最終章で明かされた諸々の設定が私の当初のプロットに組み込めるレベルの差異でしたので、結末に関しましては大きく変更する必要はなさそうで安心しましたわ。

 後は取り敢えずで組み立てたプロット(理想)を何処まで書くかなのですけれど、正直あのプロット全部書くのはマジで私の命削りますわ。出来るか出来ないかで云えば、「出来る」のですが、ぶっちゃけやりたくねぇですわ。

 

 Wordってどのくらいの時間、そのファイルで編集していたのか時間を記録しているのですが、わたくし、この小説を執筆して既に102,417分程編集しておりますの。

 大体1,706時間ですわね。ウケる。

 それで、全体プロットの三分の一程度しか終わってない訳ですわね? 単純計算で、あと3,412時間程、私はこのWordを書き続けなければならない訳です。というか多分、それでも終わりません。プロット後半の密度がダンチなので、普通にこの二倍、三倍は掛かると思いますわ。

 地獄ですわよ。

 

 取り敢えずエデン条約は……エデン条約だけは書き切りますわ。

 後は私の、気力と、体力と、覚悟の勝負……愛、愛とは、これ程に、辛いものなのですか……? 何で私はこんなに必死こいて自分の性癖の為に小説を書いておりますの……? だってこの小説を書こうと思った当時、ハーメルンにはブルアカの二次小説が六十件くらいしかなくて、最初はマジで「数百件はあるやろ」って思っていたんですもの……。でも今は、百件を超えたんです。やっと、漸く! ブルーアーカイブ原作カテゴリで、投稿小説が! 百件も! ヨースターさんが頑張ったお陰ですわ! 原作の素晴らしいストーリーのお陰ですわ! 五千兆件目指してこのまま頑張りましょうね皆さん! 

 

 取り合えず先生の四肢を捥ぐため、わたくしは邁進致しますわ。途中で投げ出す事は、恐らく、メイビー、多分、無い筈ですわ。私の腕が物理的に千切れたとか、腹に穴が空いたとかなら別ですが。まぁその時は「腕が千切れましたわ~!」と報告するのでご安心下さいまし。

 それに今から先の事なんて考えても仕方ねぇんですわ! わたくしは過去を顧みない主義! ついでに未来の事も考えない主義! だってどっちを見たって碌な考えが浮かばねぇんですもの! なんとかな~れ☆主義サイコーですわ~ッ! プロットは取り敢えず先のものを原型に、進捗と私の精神力に合わせて削ったり、増やしたり(多分むり)しますわ~! んほ~、私の手足捥げちゃ~う。

 

 でも人にされて嫌な事をしちゃいけないんですわ。先生の手足を捥ぐのなら、私の手足が捥げるくらいの覚悟がなければ、やっちゃあいけないんですわよ……! 先生の手足が捥げるのが先か、私の魂の手足が捥げるのが先か、いざ尋常に勝負ですわ……ッ!

 皆さんも是非応援して、先生の手足を捥いであげて下さいましね……! 割とマジで愛だけで書くにはちょっと荷が大きくなりすぎましてよ……ッ! 

 それでも私はっ、先生が血塗れになって大泣きする生徒の顔を見たいんだッ……!

 



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死があなたの救いになるのなら

大量の誤字脱字報告ありがとうございます。
そして投稿時間が一時間過ぎてしまったので、ペロロ様が腹を切ってお詫び致します。


 

「………」

「その顔――やっぱり知っていたんだね」

 

 白洲アズサ――先生がその名前を聞いた時、彼の表情は微動だにしなかった。

 驚く事も、悲しむ事も、怒る事も、動揺する事もなく。ただ淡々と、あるがままを受け入れる。その姿勢をミカは、事前に情報を知っていたが故のものと解釈した。

 

「トリニティにも珍しい転校生、それだけでも結構怪しいとは思うけれど、彼女の出身校は随分前にトリニティから追放された分派――『アリウス分校』なんだよ」

 

 アリウス――その名前を知る者は、あまり多くはない。

 先生の表情を伺いながらも、ミカは言葉を続ける。

 

「あ、でもそう考えると、生徒って呼んで良いのか分からないかな?」

「……何故だい?」

「だって、『何かを学ぶ』という事が無い生徒の事を、生徒って呼べるのかなって」

「――それは、私達が決める事じゃないよ」

 

 ミカの言葉に、先生は珍しく、強い口調で断じた。

 

「学ぶ意思があれば、学ぶ機会に恵まれずとも私にとっては生徒だ、その意思がなくとも、学びが必要になれば私は躊躇わず手を伸ばす、私にとって、遍く学園の子ども達は、皆生徒なんだ」

「……ふふっ」

 

 先生の口ずさむ言葉に、ミカはどこか楽しそうに、嬉しそうに笑う。

 口元を指先で隠しながら彼女は先生を見上げ、その薄い黄金色を輝かせた。

 

「先生って、何て云うか……心の底から、『先生』って感じだよね、凄く良い眼をしているよ、本当に――期待しちゃうな」

「期待……?」

「うん、そう、期待――私は、先生に期待しているんだよ」

 

 裾を翻し、ミカはそう宣う。

 その期待の意味するところを、先生は掴みかねる。それは先生という立場を見た発言か、それとも――。

 

「あれこれ誤魔化しても仕方なさそうだし……うん、端的に云おっか」

 

 ミカは少しばかり思案顔を見せた後、一つ頷き、決める。

 先生を見る目には僅かなばかりの懇願と、期待が込められている様に思えた。

 

「えっとね、白洲アズサ――あの子を先生に、守って欲しいの」

「守るとは、また物騒だね」

「あー、そっか、ごめんね、ちょっと単刀直入過ぎたかな? ナギちゃんの悪い癖が移っちゃったのかも――まぁ、ちょっと長い話になるし、立ちっぱなしっていうのも何だよね」

 

 えへへっ、と笑って頬を掻くミカ。彼女はそのままプールサイドに腰掛け、水の中に素足を浸す。衣服が水気を含むのも気にせず、彼女は笑顔で「先生も、どう?」と自身の隣を叩いた。先生は自身を照らす太陽を見上げ、それから上着を脱ぎ、そっと彼女の隣に腰掛ける。彼女を真似て素足をプールに浸け入れると、何とも云えない涼しさが体を巡った。成程、これは悪くない。

 

「百鬼夜行の方にはさ、足湯……だっけ? 何か、お湯に足だけ浸かるって文化があるって聞いたんだよね」

「あぁ、あるね、小さな温泉みたいなところで、足だけ湯に浸かるんだ」

「そう、それ! 私も時間があったら行ってみたかったんだけれど、夏ならこういうのも悪くないね~!」

 

 そう快活に笑い、足先で水を跳ねさせるミカ。その無邪気さはどこか、ティーパーティーとしては異質に映る。こんな風に笑って、燥ぐ少女がキヴォトスに於ける二大マンモス校の一校、そのトップの一人だというのだから。

 しかし、ある意味それが彼女らしさであり、ティーパーティー間で表面上対立が起きていない要因なのかとも思う。良くも悪くも、同じ性質の者ばかり集まれば――対立は起きるものだ。

 水を跳ねさせながら笑う彼女の横顔は、とても美しく見えた。

 

「さっきの話さ、先生の事だから、私になんか云われなくても彼女を守ってくれそうだけれど、一応こっちの事情もさ、話したりしないとフェアじゃないじゃん?」

「余り私は気にしないけれど、ミカがそう云うのなら」

「うん、まぁ私はナギちゃんみたいに頭が良くないから、上手く説明出来るか分からないけれど……うん、ちゃんと伝わる様に頑張ってみる」

 

 そう云って拳を握り締めるミカ。その意気込みは、どこか微笑ましい。

 

「そうだなぁ……まず、このトリニティについて、先生はどんな認識を持ってる?」

「……複数の分派が集まって出来た、キヴォトスでも最大規模の学園って所」

「うん、大体そんな感じ、それでね、その集まった分派の中で『パテル』、『フィリウス』、『サンクトゥス』――この三つの分派がトリニティの中心になったって話はしたと思うんだけれど……」

 

 そう云って、宙に丸を三つ描くミカ。恐らく、主要分派の三つを描いたつもりなのだろう。更にそこから指を伸ばし、下に向かって複数の丸を描く。

 

「でも、これは正確じゃないんだ、今の救護騎士団の前身にあたる派閥とか、シスターフッドとかも含めた、大小様々な派閥が幾つも学内にはあるの」

「……そんなに派閥があると、派閥争いなんかが怖いね」

「そう! 正にソレ! 昔のトリニティは、ゲヘナとトリニティみたいにお互いを敵視して、対立したりしちゃって、毎日紛争していたんだって!」

 

 先生の言葉に、びしっと彼女は空を指差す。

 血を血で洗う抗争――そこまで行くかどうかは分からないが、有形無形の工作や妨害があったのは目に浮かぶ。とりわけ、ゲヘナが派手に、物理的に物事を解決するのであれば、トリニティは外交や裏工作、交渉などで物事を進める印象がある。その手の根回しや外堀の埋め方は、当時のそれを踏襲したものだろう。ティーパーティーに於いてミカの様なタイプが珍しいのも頷ける。

 

「けれど、いつまでもそんな事続けられる筈もないじゃん? いい加減争いはやめようって、協定が結ばれる事になったの――戦いを止め、一つの学園になる、そんな話をしたのが所謂、『第一回公会議』」

「このトリニティ総合学園が生まれる切っ掛けとなった、始まりの会議か」

「そう」

 

 第一回公会議――これまでバラバラだったあらゆる分派が一つの学園に纏まる。教義や信仰を一つに束ね、争いを失くす。それは、並大抵の事ではなかった筈。

 しかし、当時の彼女達はやり遂げた。そうして今のトリニティ総合学園が存在している。

 

「今でも分派だった頃の余波が無いと云えば嘘だけれど、大分前の話だからね、今ではもう、そんなの全然に気にしていないって声の方が多いんだ――たった一つの学校を除いてね」

「……それが」

 

 先生が呟き、ミカが深く頷く。

 視線を向けた水面に、波で歪んだ自身の顔が映った。

 

「そう、一つの学校に纏まる事を最後まで拒んでいた学園――アリウス分校」

 

 あらゆる分派を一つに統一する第一回公会議――トリニティ総合学園の創設。

 それを最後まで拒否していたのが、アリウス分校と呼ばれる分派の一つ。

 ミカはアリウスの名を呟きながら、どこまでも広がる蒼穹を見上げ、目を閉じた。さらりと流れる桃色の髪が、そっと風に靡き揺れる。

 

「……アリウスだってさ、元々は私達と変わらない一つの分派だったんだよ? 経典に関するちょっとした解釈の違いがあったくらいで、結構色んな所が似ていたんだって、ちゃんとチャペルの授業もあったし、見た目も殆ど一緒で……それでいて、ゲヘナの事を心底嫌っていた」

「……それでもアリウスは、連合を作る事に反対を?」

「うん、猛烈に反対したって聞いている、だから結局、最終的には戦争になった」

 

 アリウス以外の分派は賛成し、彼女達だけが反対だった。

 たった一校、たった一分派の反対で、トリニティの創設が覆る事はない。或いは、その反対する一校がトリニティの中枢を為す一派であれば、また話は違ったのかもしれない。しかし、当時のアリウスは無数に存在する分校の一つに過ぎなかった。

 ならば――結末は察して余りある。

 

「当時、連合になって強大な力を持ったトリニティ総合学園はアリウスを徹底的に弾圧したんだって、当たり前の話だけれどさ、たった一つの分派が、その他すべての集合体に勝てる筈もないし……余りにも大きな力を持ちすぎると、その力を確認したがる、なんて事は良くあるお話だけれど――つまるところ、当時のアリウスは団結する為の共通の敵としても、そして力を試す相手としても、都合の良い存在だったのかもしれない」

 

 そう語るミカの表情は、どこか険しく、気配が重い。当時を思い返しているのだろう、彼女が経験した、或いは見て来た紛争――その中でも一際凄惨で、救いのない光景があったに違いない。そして、自分達はその有形無形の骸の上に立っている。

 

「それで、結局アリウスは潰された――徹底的に」

「……今は、何処に?」

「分からない、トリニティ自治区から追放されたって話は確か、でも今何処に居るかは……ティーパーティーも掴んでいない、キヴォトスのどこかに潜伏しているんだと思う、相当激しい戦いだったんだろうね、その後全然見つからない様な場所に隠れたみたいで、多分、連邦生徒会ですらアリウス自治区がどこにあるのか分かっていないと思う」

「そうか……」

 

 先生が呟き、目を伏せる。そんな様子を見ていたミカは、どこか労わるような目を向けながら苦笑を零し、云った。

 

「こんな大きな事だったけれどさ、今在学している大半の生徒達にとっては、そんな学園あったんだ、って位の出来事なんだよ、彼女達はきっと、そんな争いがあった事すら知らない、そうやって今となっては影すらなく、皆に忘れられた存在――それがアリウス分校」

「………」

「ね、そんな学校出身の生徒が、白洲アズサなんだよ」

 

 それは――どういった感情を抱くだろうか。

 複雑な背景が彼女達を見えない鎖で巻き取っている様な、一見何でもない光景が、見方を変えれば酷く恐ろしく、辛いものに映るような。

 それを知っているのは今、ミカだけなのだという。

 

「ナギちゃんが推進しているエデン条約、あれはさっき話していた第一回公会議の再現なの、流石に同じ学園になる……っていうのは無理だけれど、大きな二つの学園が、和平を結ぶ条約――そう聞くと何だか、良いお話に聞こえるよね、先生?」

「そうだね、手を取り合う事は尊い事だ」

「うん、私もそう思う……でも、本当の所はどうだろう?」

 

 不意に、ミカが足先で水を蹴飛ばした。跳ねた水滴がプールの只中へと落ち、波紋を浮かべる。小さなそれは、重なり大きく、広く伝播していく。彼女は先生の方を見ることなく、遥か遠くの、何かをじっと見つめる様にして口を開いた。

 

「だってさ……和平だ何だって云っても、その核心はゲヘナとトリニティの武力を統合させたエデン条約機構、『ETO』って呼ばれる全く新しい武力集団を作る事にあるんだから」

 

 それが、本当に和平に繋がるのか? ミカは先生に、そう問いかける。

 ゲヘナとトリニティの将来的な衝突を避ける――両陣営の紛争を抑止、鎮圧する為の武力集団(ETO)

 しかし、それが両校の紛争以外に使われないと、どうして断言出来よう? 今の今まで憎しみあって来た両校が、本当にETOを我が物にせんと動かないと保証できるのか? 或いは、そのETO自体の主導権を巡ってゲヘナとトリニティが争いを始めるかもしれない。

 そんな事はないと――何故、断言できるのか。

 

「ねぇ、先生、これってさ……さっきのお話と似ていない?」

「……似ている、っていうのは」

「キヴォトスの中に、圧倒的な力を持つ集団が存在するんだよ、連邦生徒会長が行方不明っていう、こんな混迷の時期に」

 

 そう口にするミカは、先生の表情を伺う様にして視線を向ける。

 そして薄らとした笑みを浮べると、どこか声高く、不安を煽る様な口調で告げた。

 

「そんな大きな力を使って、ナギちゃんは一体何をしようとしているのかな? もしかしたら、もしかしたらだけれどさ? 会長が不在の連邦生徒会を襲撃して、自身が連邦生徒会長になろうとしているかもしれないよ? 或いは今、成長著しいミレニアムを襲撃するとか、そんな思惑を持っていないって、誰も証明出来ないじゃん、勿論これは私個人の考え……でも、これだけはハッキリ云えるよ」

 

 ミカの指先が、先生の裾を掴む。その瞳は昏く、けれど光を放っていて、先生のそれを真っ直ぐ見つめていた。

 

「常に他者を疑う人がそんな大きな力を手に入れてしまったら、きっと、自分の恐怖心や猜疑心に負けて――必ず武力で排除するようになる」

「………」

「ETOは大きな力だよ、紛れもなく、そして過去、トリニティはその力をアリウスに振るった――次は誰に振り下ろされるんだろうって、そんな風に思う事は、そんなに変かな?」

 

 それは、虚妄なのかもしれない。

 けれど、絶対とは言い切れない。

 それが彼女を苦しめ、悩ませる。

 ナギサと同じように。

 

「或いは、そうなる前に、ナギちゃんもセイアちゃんみたいに――」

 

 呟き、ミカはそっと俯く。しかし、自身の発言を自覚した後、彼女は緩く首を振った。

 

「……ううん、ごめん、今のは失言だったかな」

「……何か、良くない事でも?」

「あはは、えっと、前に話した通りだよ、セイアちゃんは今、入院中なの」

「………」

「あー……そうだよね、先生は勘が良いから、分かっちゃうかぁ」

 

 先生の強い視線に、ミカは観念したとばかりに両手を挙げる。そのままへらりと締まりのない表情を見せながらも、どこか迷う様な素振りを見せていた。自身の足元に視線を落とし、二度、三度、水を蹴飛ばす。鮮やかに陽を反射するそれらを眺めながら、ミカはぽつりぽつりと語り始めた。

 

「先生はさ」

「うん」

「……真実を知りたいって、思う?」

「……あぁ」

 

 先生は、ミカの言葉に頷きを返す。

 その頷きは、力強かった。

 

「――本当に?」

 

 ふっと、彼女の手が先生のそれを掴んだ。

 微かに引っ張られた先生はミカの傍まで体を寄せ、目と鼻の先に彼女の顔が広がる。真剣なミカの表情――或いは、不安の顕れ。

 ミカは先生を真っ直ぐ見据えたまま、硬い口調で続ける。

 

「この話をしたら、私はもう戻れなくなる」

「戻れなく……?」

「うん、もしこの先の真実を知った先生が、私の事を裏切ったら……私はきっと、もう終わり――ティーパーティーからは除籍になるだろうし、トリニティも追い出されちゃう、今まで積み重ねてきたことも、何もかも、全部水の泡、もう何処にも居場所なんてなくなって、どこかで野垂れ死ぬしかない」

 

 先生が触れる真実というのは、そういう類のものだ。

 扱いを間違えれば、待っているのはミカの破滅。

 そして、それを握るという事は――彼女の生命を握ると同義。

 決して軽い気持ちで踏み込んで良い領域では、ない。

 彼女は暗に、そう云っている。

 

「――それでも先生は、知りたいと思う?」

 

 その言葉が、先生の鼓膜を震わせた。

 彼女の手が、強く、先生のそれを握り締めた。

 温い風が、二人の間を通り抜ける。

 

「私は、先生と会って間もないけれど、先生が善人だって云う事くらいは分かるよ、多分良い人、私が見て来た誰よりも、優しくて、献身的で、聖人みたいな人――」

「………」

「でも私は、まだ心の底から先生を信じられていない、裏切られても、先生が原因で死ぬ事になっても良いって、そこまでの覚悟を抱けないでいる……私の秘密を知るって、そういう事なの」

 

 ミカの顔が近づく、傍から見れば逢瀬の様に。

 或いは、恋人の様に。

 けれど向けられる視線と感情はどこまでも真剣で、無垢で、虚偽を挟める余裕などない、告解の如き神聖さがあった。

 これはある種の契約であり、約定であり――裏切れぬ問いかけだ。

 彼女は真摯に問う、訴えかける。

 先生の心に――その覚悟に。

 

「――先生は、私の全部を受け入れる覚悟が本当にある? あなたは、私が本当に、心の底から信頼しても良い人ですか? 私の全部を預ける人に、なってくれますか?」

「………」

 

 問い掛けは、言葉以上の重みを持っていた。

 これは、軽々しく頷けば良い問題ではない。そしてそれは、断るとしても同義。相応の覚悟には、相応の想いを。感情を秤にかける事は出来なくとも、示す事は出来る。

 

 ――生徒(信頼)の為に、先生(あなた)はどこまで出来るのか?

 

 そう、問いかけられている様な気がした。

 

「――……なーんてね! ごめん先生! 今のはナギちゃんの真似だよ、誰も心の中なんて分からないから、誰もかれも疑っちゃう、私の幼馴染の真似を……」

「――分かった」

 

 ぱっと、手を放したミカが先程までの真剣な表情を一転させ、満面の笑みを浮べる。本人からすれば、揶揄うと同時に先生の反応を見る、そんな思惑を秘めた言葉だったのだろう。

 しかし、彼女は見誤った。

 先生という人間を、先生という存在を。

 先生は徐にプールから足を抜き、立ち上がると、上着の上に被せていたタブレットに向かって告げる。

 

「えっ、先生……?」

「アロナ、クラフトチェンバー、生成物質固定化――テイラー・メイド、二番」

 

 声は、小さく、囁く程度のもの。

 暫くの間先生はその場に佇み、無言を通していた。風が二人の頬を撫でつけ、ミカは立ち上がったまま微動だにしない先生を困惑の表情で見つめる。何かを話しかけようとして、けれど彼の放つ、酷く重々しい気配に言葉が縺れた。

 そして数分程して、先生の脇に見た事もないケースが唐突に出現する。

 

「え、わッ……!? え、な、なにこれ?」

「――ちょっとした手品みたいなものさ、気にしないで」

 

 先生は軽々しくそう云って、ケースの傍に屈みこむ。

 箱はアタッシュケース程の大きさで、正面には暗証番号付きの金具が備え付けられていた。先生は指先で素早く番号を打ち込み、蓋を開ける。内側にはシャーレのロゴと共に、注射器、アンプル、そして銀のリングがそれぞれ二つずつ収められていた。

 ミカは先生の背中越しにそれらを見つめ、目を瞬かせる。

 

「えっと、先生? それ、何かの薬品……?」

「薬品とは、ちょっと違うかな……この中にちょっとしたナノマシンが入っているんだ、一見ジェルみたいだろう? 危ないから、触らないようにね」

 

 告げ、先生は徐にアンプルを一本、取り出す。彼は指先でアンプルの先端を引き抜くと、その中身を注射器の中に差し込んだ。赤く、どろりとした液体――ジェルというには少々水に近く、液体というには纏まっている。その粘性は見た事もないような赤色も相まって、ミカの興味を大いに惹いた。

 そして先生はアンプルの一本を注射器に収め終えると、空のアンプルをケースに戻し、二本目のアンプルに手を掛ける。そして先程と同じように先端を折ると、内容物を徐にプールの中へと振りかけた。

 

「え、あれ? 先生、何を……」

「見ていれば分かるよ」

 

 ミカが戸惑った声を上げれば、先生は朗らかな笑みと共にそう告げる。赤いジェルがプールの中を漂い、その中程で揺蕩う。

 先生はその様子を確かめると、ケースに収められていた指輪を取り出し、その表面を素早く指先で擦る。すると外装が横にスライドし、中から小さなパネルとランプが出現した。先生はそのパネルに、指先を押し付ける。時間は――凡そ五秒。

 途端、指輪から音声が発せられた。

 

SDC(Self Determination Cell)、起爆承認――対象爆破まで五、四、三、二、一』

「ミカ、プールから少し離れて」

「えっ、えっ?」

 

 先生はミカの手を引き、プールから数歩離れる。そしてカウントがゼロを告げた瞬間――プールが内側から膨れ上がり、小さな爆発が巻き起こった。

 水面が泡立ち、小さく跳ねる。水柱とは云わないまでも、飛び散った水滴が先生やミカにまで僅かに届きそうになる程の爆発だった。

 

「わッ!?」

 

 ミカは飛んできた水滴に目を閉じ、それから白く泡立ち、揺れる水面を恐る恐る見つめる。音は、水中である為にそれ程でもなかった。けれど、確かにあの赤色が爆発したのだと分かる。

 

「……あのジェルは、自己増殖型のナノマシンでね、こうやって信号を送り込むと連鎖的に爆発するんだ――プールに投入したセルは全部消滅したから、もう安全だよ、信号受信後は自壊処理するようになっているから」

「へ、へぇー……先生、随分物騒なものを持っているんだね……?」

 

 ミカはそう呟きながら、恐る恐る先生を見上げる。もしかして、私に使うつもりだったりするのだろうかと、そんな不安が透けて見える表情だった。

 

「――大丈夫、これは生徒に使う様な代物じゃないよ」

 

 しかし、先生はそれを否定し、朗らかに笑って見せる。

 

「これは――こうやって使うんだ」

 

 云うや否や、先生は先程用意した注射器を取り出し、自分の首元に添えた。

 そこから、何をするのかを理解したミカの顔が蒼褪める。先程プールで起きた爆発、そして今先生の首に添えられている注射器の中身は――同じ代物だった。

 

「えっ、は……はぁッ!? ちょ、先生、何やって……!?」

『――SDC、人体への注入を検知』

 

 しかし、先生はミカの声よりも早く、ピストンを押し込む。プシュ、という音と共に肌へと張り付いたナノマシンは、先生の肌に浸透し消えて行った。同時に、摘まんだリングから音声通知が響く。指輪(リング)はそれぞれのナノマシンとリンクしており、基本的には使い捨てだった。

 ナノマシンを打ち込んだ先生の首元に、赤いリング状の線が浮かび上がる。内部へと潜り込んだナノマシンが、先生の首をぐるりと囲っている証拠だった。

 もし、今スイッチを押し込めば、この先生の首を覆っている赤色が爆発し――言葉にするのも悍ましい事が起こるだろう。生徒ならばまだしも、先生は弾丸一つで死にかねない人間。それが分かるからこそ、ミカは信じられない思いで先生を見る。

 

「はい、ミカ、これ」

「え、あっ!?」

 

 そして先生は、あろう事か今しがたアナウンスの鳴った銀の指輪をミカに握らせた。ミカは赤くなったり青くなったり、表情を忙しなく変化させながら先生とリングを交互に見据える。

 

「それが起爆リングだよ、指輪の外装を横にスライドさせると中にパネルがあるから、それに指先を押し当てて、初回は指紋認証があるけれど直ぐ済むと思う、五秒間押しつけ続けるとアナウンスが鳴る、更に五秒押し込むと起爆……って感じだから、取り扱いには気を付けてね? 一応シャーレの通信網で信号を送っているから余程地下深くとか、砂漠とかでなければどこでも起爆信号は届くと思うけれど――」

「――ちょ、ちょっと、待って! 先生! 待って!」

 

 小刻みに揺れる指先で指輪を握り締めながら、ミカは叫ぶ。蒼褪め、視線を彷徨わせながら、彼女は震えた舌で必死に言葉を紡いだ。

 

「な、何で、そんな事……それに、何で私にこんな大事なモノを渡すの!? わ、私がコレ押しちゃったら、先生、死んじゃうんだよ!?」

「何でって……」

 

 ミカの言葉に、先生は目を瞬かせる。

 何故、こんな事をしたのか。何故、リングをミカに預けるのか。

 先生からすれば、その理由は明確だった。

 

「ミカは、私に全部を預けるかどうか迷っているんだよね? なら、私も同じものを預けなければ、フェアじゃないだろう」

 

 彼女がそう云った様に、先生もその言葉を返す。

 先生は僅かに屈んでミカと視線を合わせると、戸惑いを孕むミカの視線に、確かな熱と覚悟を秘める瞳を向けた。

 

「ミカが私に全部(秘密)を預けると云うのなら、私もミカに全部(生命)を預けるよ」

「……ッ!?」

 

 そう云って、先生はミカの手を放す。

 震える彼女の手の中に残るのは――何の装飾もない、銀のリング。

 けれどそれが、先生の命を握っている事をミカは良く知っている。

 これを使えば先生が死ぬ、文字通り彼は――自身の命を、ミカに預けている。

 

「そのスイッチを押し込めば、ミカは私をいつでも『処理』出来る、秘密が漏れると思ったのなら躊躇いなく使うと良い、けれど――私は、ミカがそのボタンを押さないと信じている」

「そ、そんなの、私が、ボタンを押さない何て、分かる訳……――!」

「分かるよ」

 

 ミカの声に、先生は優し気に応えた。

 顔を上げたミカの視界一杯に映ったのは、どこまでも柔らかで、慈しむように笑う先生の表情だった。

 

「分かるんだよ、ミカ――相手の心が読めなくったって、相手から信頼されていなくたって、私は君を信じられる」

 

 先生が過ごして来た時間の中で、唯一誇れるものがあるのなら。

 これからどれ程の時間が流れたとしても、変わらないものが一つだけ――たった一つだけあるのなら。

 それは――生徒に対する絶対の信頼に他ならない。

 先生は信じ続ける、自身の愛する生徒を、自身の全てを賭けて。

 文字通り、命を賭して。

 

「私は何度だって云うよ、ミカ?」

「ぅあ……」

 

 自身を見つめる、穏やかな瞳。それにミカは強い、制御できない感情の波を自覚した。どこか懐かしい、泣きたいような、笑いたいような、嬉しいような、悲しいような。内側から突き上げる衝動、その行き場をミカは知らない。ただ、指輪を胸元の前で強く握り締め、ミカは唇を震わせる事しか出来なかった。

 

「私は、私の全てを擲ってでも、ミカに寄り添うから」

 

 先生は、生徒皆の味方だった。けれど先生は、ミカ(わたし)の味方でもあった。

 その握り締めた銀の指輪が、何よりも強い証明だった。

 ミカは、言葉だけでも満足だった。

 それだけでも、十分だったのだ。

 

「……へへっ」

 

 けれど、こんな望外な証明をされてしまったら――もう。

 

「あ、ごめん、ごめんね、先生……何か、すっごくさ、変な話だけれど……嬉しくて」

 

 ミカは、自分の目からぽろぽろと涙が零れている事に気付いて、慌てて拭った。笑いながら、必死で、何度も。

 それが、歓喜の念から来るもの(信頼出来る人を見つけたから)なのか。

 それとも、悲しみの念から来るもの(そんな人を裏切る事になるから)なのか。

 混ぜ返されて、複雑に絡まった胸中では分からない。ただ、その涙に嘘はなかった。唯々、この時だけは、素直に涙を流す事が出来た。

 ミカは指輪を抱きしめたまま、呟く。

 

「先生? もし、もしもね? これが単なるパフォーマンスで、本当は爆発なんかしなくて、先生の、大人の話術だとしても……何て云うのかな、これで裏切られても――うん、それはそれで、心の底から悪くないって思えたんだ」

 

 そう云って、彼女は花が咲いた様に笑った。

 これで裏切られたとしても――悔いはない。

 仮に先生がミカではない誰かの味方になって、その結果自分が破滅する事になっても。それでも、今この瞬間抱いた感情を(よすが)に、自分はきっと笑って消える事が出来る。

 

「えへへっ、ごめん、おかしいよね? こんなの」

「……そんな事はないよ」

 

 先生は、そっとミカの涙を拭った。その手付きは優しくて、柔らかで、どこまでも慈愛に満ちていた。ミカは小さく鼻を啜って、笑顔のまま告げる。

 

「先生、あのさ、その……ナノマシン? って奴、私にも打てないかな」

「それは……危ないからダメ、生徒の皆なら多分、爆発しても痛い位で済むかもしれないけれど、危険には変わりないから」

「えー、先生とお揃いにしたかったのに……お互いに全部(いのち)を預け合う、何だかロマンチックじゃない? 首元に赤いリングとか、ちょっとエキゾチックだし」

「不健全だね」

「先にそんなもの体に注入しておいて云う~?」

 

 ミカはそう云って先生を揶揄い、徐にリングを左手薬指に通した。恍惚とした表情でそれを眺め、陽に向かってそれを翳すミカ。光を反射し、きらりと輝くそれは無骨ながらも綺麗で、先生との信頼の証(命の証明)に見えて仕方なかった。

 否、他ならぬ彼女にとっては、そうなのだ。

 

「……えへへっ!」

「………」

 

 満面の笑みで、照れと歓喜の入り混じったそれを見せられた先生は、ただどこか居心地悪そうに視線を逸らす。彼女の指輪を嵌めた指に、少し作為的なモノを感じたからだった。

 ミカはそんな先生の様子に気付き、にんまりとした笑みを浮べたまま見せつける様にリングを嵌めた指先を先生の前に翳す。

 

「ほら先生、んー? ん~!? どう、似合っているかな? 似合っているよね?」

「うん、似合っているよ」

「あははっ、ありがと!」

 

 そう云って大事そうにまた、自身の指輪を嵌めた手を抱きしめるミカ。そして感無量と云った風に顔を上げた彼女は、先生を真っ直ぐ見て云った。

 

「うん……うんっ! 確かに先生の全部、受け取った! ちゃんと受け取れたよ、私! 先生の事は信じる、信じられる」

 

 だから、全部話すよ、先生――私の知っている事、全部。

 


 

 この満面の笑みを浮べているミカの前でスイッチ押して先生の首飛ばして真っ白な羽を綺麗な赤色に染めてあげてぇ~! 

 取り返しのつかない事(物理)、まぁ先生を生きたまま悪用されるよりは死んだ方がえぇやろ、やば、わたくしってば優しすぎ……!? お礼は結構です事よ! 人として当然の事をしたまでですもの!

 

 ミカってこういう激重な事してくる生徒だって私は信じている。だから先生も同じように激重な感情で応えてあげれば、二人はらぶらぶ相思相愛ハッピーという寸法ですわッ! んほ~、こんな状態で先生がもぎもぎフルーツになったら、わ、笑いが止まりませんわ~! 胸がぽかぽかですわぁ~ッ! これが、真実の愛……? 

 というかこの子、原作でも結構あざとくてミカミカのミカですわよ。因みにこのやり取りやったまま原作の流れやろうとしたら三〇〇〇〇字超えそうになって分割しました。本当は今日、二〇〇〇〇字投稿しようと思いましたの。でも流石に文字量多すぎてカット、カット! ですわ。なので次もミカとのお話ですわ、あんまりお話動かなくてごめんあそばせ! ミカだけで三話費やすとかマジ? うるせぇですわ! 今は空前絶後のミカフィーバーなんですわ~ッ! 邪魔する奴にはミカパンチ喰らわせますわよッ! 

 

 尚、先生の首元に仕掛けられた爆薬はマジなのでミカが爆発認証したら普通に首飛びますわ。クラフトチェンバーから爆薬取り出す時にタイムラグあったのは、アロナがイヤイヤ期になったからですわね! アロナァ! 今から先生首に爆弾つけるわ! あとスイッチは他の奴に渡すねッ! いいよね!? とか突然云われたアロナの気持ちを答えよ。

 

 まぁ最悪アロナが信号ジャックして爆発させなければ良いのだけれど。でも先生は生徒の意思で爆殺されるのなら、仕方ないと受け入れてくれるぞ。それで後追いでホシノが自分でヘイロー壊して、ワカモは散々キヴォトス荒らしまわった後に自決する。結果キヴォトス崩壊に繋がる。先生って生きていても死んでいても碌な事にならなくない??? だから早く手足と首捥いで楽にしてやりたいのですわ……ッ!

 

 元々は万が一の場合、聖骸をゲマトリアに渡さない為の緊急処理手段。最終章が来てから対色彩用の緊急自決装置としても活躍してくれる働き者。先生の事精神汚染する? でも先生神秘持ってないから恐怖に裏返ったりしないよ? あ、直接浸食する感じ? おっけー、じゃあ注入した爆弾で自決するわ! 万が一身体取られて大人のカード使われても嫌だし。バーイ。

 そして生徒の前で首が消し飛ぶ先生であった。美しい……芸術的だ……。



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救いは彼方に、誓いは(ここ)

誤字脱字報告ありがとうございますわ~!
今回は一万五千字ですの。


 

「セイアちゃんはね、入院中なんかじゃない、ヘイローをね、壊されたの」

「………」

「冗談なんかじゃないよ、これは、本当の事」

 

 二人揃ってプールサイドに腰掛け、足を水に浸す。同じ格好で空を見上げる二人の間にある距離は、随分と近くなっていた。

 けれど話す内容は重々しく、真剣だ。ミカは、セイアは殺害されたのだと、どこか固い口調の中に悲しみを孕ませそう口にする。

 

「去年、何者かの手によって唐突に襲撃されたの、対外的には入院中って事になっているけれど、そっちの方が真実……私達ティーパーティーを除けば、この事はまだトリニティの誰も知らないと思うよ? あー、でもシスターフッドとかには知られているかも、あそこの情報網は半端じゃないから……でも普通じゃ知り得ない事、それくらいの秘匿事項」

「……犯人は?」

「分かっていない、捜査中というか、そもそも何も分かっていないと云うか……元々、秘密の多い子だったから」

 

 そう云って、ミカは僅かばかり沈黙を守る。彼女の知るセイアは、自分の事を多く語らない子だった。どこかミステリアスで、秘密主義で、それでいて理知的。ナギサとは違う意味でティーパーティーらしい生徒だった。

 

「一応、犯人の目星が全くない訳じゃないんだけれど、今の段階で憶測を口にするのもね……」

 

 ティーパーティーとしても、聖園ミカとしても。

 

「それで、先生――これだけなら、別にあんな言葉を口にする必要なんてなかったし、先生の首に物騒な爆発物を入れる必要もなかった」

「本題は、これからって事かな」

「うん」

 

 先生の言葉にミカは強く頷き、そしてこの騒動の始まり――元凶について触れた。

 

「白洲アズサ――あの子をこの学園に転校させたのは、私なの」

「……成程ね」

 

 トリニティの裏切者、白洲アズサ。

 そもそも、彼女をこのトリニティ総合学園に編入させたのはミカなのだという。確かに、それは他者にとって致命的な情報だろう。ティーパーティーのホストではないとは云え、その一員の犯行。周知されたら派閥間での争いどころの話ではない。その重要性を理解しているのか、しかし飄々とした態度でミカは続ける。

 

「ナギちゃんには内緒でね、生徒名簿とかそういう書類を全部捏造して、あの子を入学させた、準備も根回しも大変だったけれど……だってナギちゃん神経質だし、いっつも気を張っているし」

「………」

「あれ? 何でって、聞かないの先生?」

「ミカは、ナギサとは違う方法で和平の道を探っている……そう思ったんだけれど、違ったかな?」

 

 先生の問いかけに、ミカはどこか驚いたように目を見開いて。

 それから、彼女は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。

 

「うん、まぁ、そんな感じ……かな」

 

 答える声には力がなかった。理由は察しがついていた、けれど先生はそれ以上口にはしなかった。それは、決して優しさからなどではない。

 

「……アリウス分校は今もまだ、私達の事を憎んでいると思うんだ、私達はこうして豊かな環境を謳歌しているのに、彼女達は劣悪な環境の中で、学ぶ事すら許されず、それが何かも分からないままでいる――私達から差し伸べた手も、連邦生徒会からの助けも拒絶し続けているの、過去の、憎しみのせいで」

 

 ミカは一度足元の水を跳ねさせ、大きく背を反らした。見上げた空は、彼女の胸の内と反対に、憎たらしい程に青く清らかで。トリニティとアリウスの現状、その落差。片方は繁栄を極め、片方は未だ地面を這いずっている。その歪な対比が、ミカには我慢ならない。

 

「――私は、アリウスと和解したい」

「………」

 

 声には、強い覚悟が秘められていたように思う。

 それは、ティーパーティーに属する人間が口にするには余りにも夢想に等しい願望で。少なくとも、先生自身、答えにつまる程度には高い壁があった。それを理解、或いは予感しているのだろう。先生を見る彼女の目はどこか申し訳なさそうで、愛想笑いの様な力ない笑みと共に、彼女は言葉を零した。

 

「でも、彼女達の抱く憎しみは簡単に拭えない程大きくて、これまでに積み上がった疑念と猜疑は高くて、重い……私ひとりの手では、負えない位に」

「……持つ者故の傲慢、そう取られてもおかしくはないかもしれない」

「うん、多分、アリウスからはそう見えるんだろうね、だからきっと私達の手を取らずに居るんだ……でも、それでも私は、諦めたくない」

 

 そう云って、ミカは口を強く結んで見せる。抱くのは悔しさか、無力な自分に対する失望か。

 或いは――。

 

「私の意見に、ナギちゃんも、セイアちゃんも反対していたんだ……政治的な理由でね? 勿論、それも分からない訳じゃない、私達はティーパーティーだから、個人の思想云々で、学校全体を危険に晒す事は出来ないもん」

 

 俯き、零す言葉には納得の色がある。自分が彼女達の立場であったら、容易に頷く事は出来ないと、それ位の事は彼女にだって分かる。権力には、相応の責務が伴う。理想論で政治は語れない。ティーパーティーであるのならば、他校よりも、自分よりも、まずは学校の――自身の派閥の利益を第一に考えなければならない。それは代表としての責務であり、義務であり、使命である。

 賛同しなかった二人は、トリニティ側の生徒として正しい行動をしている。

 間違っているのは多分、自分(わたし)だ。

 

「私はさ、不器用だし、頭も良くないから……そういう政治とかはちょっと得意じゃないんだけれど、でも、でもさ――また、今からでも手を取り合って仲良くするのって、そんなに難しい事なのかな?」

 

 ティーパーティーとしては、失格だろう。

 派閥の長としては、失格だろう。

 けれど、ミカは諦める事が出来ない。

 その願望が無垢で、理想的で、夢の様な話でも。

 

「前みたいにお茶会でもしながら、談笑して、一緒に御菓子を頬張って、机を並べて勉強する――そんな当たり前の学校生活を一緒に送るのは、無理なのかな?」

「……いいや、そんな事はないよ」

 

 酷く無垢で、透明で、純白な思想。例え仮初のものであったとしても、それを向けられた時、先生は「無理だ」と――そう口にする事は出来なかった。してはいけなかった。

 他ならぬ先生が、その甘い理想を未だ捨てきれずに居るのだから。

 どうしてその夢を否定出来よう? 他ならぬ己が、その未来に至る為に、今なお、必死に足掻いているというのに。

 

「――先生なら、そう云ってくれると思った」

 

 穏やかに微笑んだミカは、嬉しそうにそう呟いた。先生は、彼女の笑みを直視出来なかった。その奥に潜む、己の罪悪をまざまざと見せつけられている様な心地になったから。けれど、視線だけは逸らさなかった。

 

「だからね、先生、私はあの子……『白洲アズサ』という存在に、象徴になって欲しかったの」

「象徴?」

「うん……どんなに憎み合った仲でも、一緒にこうやって学び、遊び笑い合える――和解の象徴に」

 

 それは。

 

「あの子についてはそんなに詳しいって訳でもないんだけれど、アリウスでもかなり優秀な生徒みたいだったし、その可能性に賭けたかったんだ……本当ならね? ナギちゃんを説得してちゃんと正式に進めるって手段もあったんだよ? けれどナギちゃん、連邦生徒会長が失踪してから、ずっとピリピリして気を張っていたから――そういうの、聞いてくれないだろうなって思って」

「……だから、エデン条約が締結される前に?」

「うん、そう……もしエデン条約が締結されてしまったら、その時はもう、今度こそ本当に、アリウスとの和解は不可能なものになっちゃうから、トリニティが、トリニティである内に、何とかしたかったんだ」

 

 仮に、エデン条約が結ばれてしまえば。

 トリニティの決定はゲヘナ、及びETOにも作用する。アリウスがゲヘナを嫌っている以上、交渉は今以上に難航するだろう。それは分かり切った未来。そうなる前に、トリニティの舵に、僅かとは云え触れられている今だからこそ。

 

「アリウスの生徒がトリニティでもちゃんと暮らしていけて、幸せになれるんだって、みんなに証明したかった――でも、そんな中で突然、ナギちゃんがトリニティに裏切者がいるって云い始めて……」

「………」

「何でそんな事を考え始めたのは分からない、私がそうやって動いている時に、何かやらかしちゃったのかもしれないし……それで結局、ナギちゃんは条約の邪魔をさせまいとして、容疑者を一つに集める――『補習授業部』を作ったの」

 

 そうして、事は今に至る。

 

「最初は、裏切り者とか何の事かと思ったけれど……あぁ、そういえば先生、何であの子達が集められたのかって理由は聞いた事ある? 勿論成績って意味じゃないよ? ナギちゃんが彼女達を疑った理由って意味で」

「……いいや、聞いていないな」

「そっか、なら一人ひとり、なんで選出されちゃったのか全部教えちゃうね」

 

 ■

 

「ハナコちゃんは凄く変わったところがあるけれど、本当に、本当に優秀な生徒、勿論成績って意味でも、何なら生徒会長、つまりティーパーティーの候補として挙がっていた事もあったくらいなの、シスターフッドも、あの子を引き入れようと頑張っていたって聞いたなぁ……上手くはいかなかったみたいだけれど」

「礼拝堂の授業で、突然水着を着て現れた時なんか凄かったよ、たまたま私もそこにいたんだけれど、シスターに追い出されて、皆も表情が凄い事になっていてさ、あははっ」

「でも、あんなに優秀で将来を見込まれていたのに、あの子は急に変わっちゃった、落第直前の状態になるくらいに……どうしてだろうね?」

「確かに、それで疑りたくなる気持ちは良く分かるよ、あの子は既にトリニティ上層部とか、他にもいろんなところと交流があって、結構な数の秘密を知ってしまっているから……その気になれば、本人の能力の高さもあって大体の事は出来るだろうね」

 

「コハルちゃんは……あの子はどろどろした政治とか、そんな事とは何の関係もない、純粋で良い子なんだけれど――そういう意味だと、あの子個人の話じゃなくなるかな、選出された直接的な原因は本人じゃなくて、所属している場所――ハスミちゃん達、正義実現委員会だね」

「巨大な武力を持った存在、それも特にハスミちゃんみたいなゲヘナに対して強い憎悪を持っている存在が自分の統制下にない不安感……何かが起こるのではないかという疑念、ナギちゃんはそこに対して、何らかの備えが欲しかったんだと思う」

「正義実現委員会だったら多分、誰でも良かったんじゃないかな? ただ取り敢えず成績が悪かったからあの子が選ばれた……つまり、あの子は人質、『退学』の件については多分、ハスミちゃんも知っていた筈だよ」

「――あはは、先生、分かり易い顔してる! ハスミちゃんがそんな事するハズないって顔だよ? 先生がハスミちゃんと、どれくらい仲が良いのかは知らないけれど、前にこんな事があったって知っているかな?」

「ハスミちゃん、前に万魔殿と会合があった後、『絶対に、絶対に許しません! 万魔殿! ゲヘナッ! どうして、どうしてあそこまで……ッ!』って叫びながら、正義実現委員会のロビーで暴れたんだって、それはもう、恐ろしい表情で! 委員会のメンバーが軒並み恐怖で動けなくなる位、凄い形相だったらしいよ? あのツルギちゃんですら困惑したって話」

「ハスミちゃんはトリニティの武力集団、正義実現委員会の副委員長だし、ゲヘナの事を凄く憎んでいる、それはもう、骨の髄まで……エデン条約に全力で反対するなんて、火を見るより明らかじゃない? あのゲヘナと同盟なんてー、って」

 

「あとは、そう、ヒフミちゃんか」

「ヒフミちゃん、優しくて、可愛くて、良い子だよね、ナギちゃんもすっごく気に入っているんだ……でも、それでも尚、ナギちゃんの疑いの目が向いちゃったの」

「どうやらこっそり学園の外に出て、怪しい所に行っていたみたい、トリニティの生徒は出入り禁止になっているブラックマーケットとか、あちこちにね……それに、どこかの犯罪集団と関りがあるって情報も流れて来た、あんな善良そうで、純粋な子に見えるのに、変な話」

「ナギちゃんだってヒフミちゃんの事は大好きなのに、それでも疑いの目は向けられた……まぁそれも、ナギちゃんらしいと云えば、らしいんだけれど」

「それで結局、ナギちゃんの中にあった『トリニティに裏切者がいるかもしれない』という疑いは、色々と情報が集められていく内に、『あの中の誰かが、トリニティの裏切者』って疑念に変わったんじゃないかな」

 

 ■

 

「さっきも云ったかもしれないけれど、この中でナギちゃんの云う裏切り者に該当するのは、白洲アズサ……本当は敵対しているアリウスの生徒な訳だからね、でも、あの子は何も知らないまま、私のせいで複雑な政治的な争いの渦中に立つ事になってしまったから……こんな形で、退学なんてさせたくないの」

 

 一通り話し終わったミカは、小さく伸びをして。風に揺れる水面は、ゆらゆらと彼女の肌を濡らす。先生はそっと視線を落とし、反射する自身の顔を見つめた。波で歪み、影で昏く染まったそれは――良く、見えない。

 

「だから、守って欲しい、それは今、先生にしか出来ない事だから――これが今の状況、ちょっと長かったけれど、今私が……話せる事の全部だよ」

「なるほどね――ありがとうミカ、凡その事情は把握出来たよ」

「……えへへっ」

 

 先生が微笑みながらそう告げると、ミカは嬉しそうに頬を掻いた。

 

「ある意味ではさ、ナギちゃんにとっての裏切者は、私でもあるんだ、私はナギちゃんの進めているエデン条約に賛成の立場じゃないし、それに白洲アズサをトリニティに引き込んだのは、私だから」

「……確かに、ある側面で見れば、そうかもね」

「でしょう? でも――でもね、先生」

 

 両手を脚に挟み、小さく体を揺らすミカは、俯いたまま淡々と言葉を続けた。

 

「私は、こうも思うの、本当の意味でトリニティの裏切者を考えるのであれば……」

 

 彼女の瞳がそっと、遥か先にある白雲を追う。

 

「――それは、ナギちゃんだって云う事も出来るって」

「………」

 

 数秒、沈黙が下りた。

 それは、意図的なモノではなかった。ミカの足から生じた波紋が、先生のそれを掻き消す。波紋は、彼女の震えから生じたものだった。それは寒さから来るものではないと、先生は理解している。

 

「それは……どうして?」

「だって、これまで調和を保ってきたトリニティを、巨大な怪物(リヴァイアサン)に変えようとしているじゃない……さっきも云ったけれど第一回公会議の再現、和平と云えば聞こえは良いよ? けれどそれで出来上がるのはキヴォトス最大規模の武力集団(ETO)――皆、(成し遂げた平和)の側面ばかり見て、暗闇(弾圧されたアリウス)を見ようともしない……その暗闇は、今の光(トリニティ)の為した事を一生忘れずに生きていると云うのに」

 

 第一回公会議は、果たして喜劇だろうか? それとも悲劇だろうか?

 それは、見る立場によって異なる。

 トリニティ側からすれば――喜劇だろう。

 今まで争い、憎み合うだけであった幾つもの分派が手を取り、力を合わせ、一つの学園へと纏まった。それは偉業であり、素晴らしき事であり、称えるべき事である筈だから。

 反対に、アリウス側からすれば――悲劇だろう。

 合併に反対し、自身の信念を貫いた結果、待っていたのは徹底的な弾圧と排除。トリニティからアリウス分派という名前は消え、深く地下に潜り、地べたを這いながら生きる事を強要されたのだから。

 

 その第一回公会議の再現、それがエデン条約。

 それは、素晴らしい事なのだろうか?

 それとも、唾棄すべき事なのだろうか?

 正しきは――立場()の数だけ存在する。

 

「――まぁでも、これを含めて全部全部、私からの一方的なお話でしかないよ、立場が変われば見方も変わる、私も、先生も、ナギちゃんもね?」

 

 大きく背を反らし、彼女は声を張ってそう告げる。

 頬に掛かった髪を払い、空元気にも見えるそれを精一杯貼り付けながら、彼女は先生に視線を向けた。

 

「だから、最終的には先生が決めて? 生徒皆の味方である先生が――白洲アズサを守るのか、裏切り者を見つけるのか、ナギちゃんにこの事を話すか、それとも……私の味方をしてくれるのか」

 

 それだけ云って、ミカは立ち上がった。脚に付着した水を軽く払い、先生を見下ろす。「勿論、私の味方をしてくれるのが、一番良いけれどね」なんて。

 そんな事を囁き、彼女は微笑んだ。

 どこか、安心した様な笑みだった。

 

「……ミカは」

「うん?」

 

 先生は、思う。

 何を云うべきか。何を伝えるべきか。

 これからの事と、過去の事。そして彼女の未来を案じ、口を突いた言葉は実に単純。

 ゆっくりと、ミカを見上げる。

 

「それだけで、良いのかい?」

「あの子の事についてかな? それは、私に責任があるから……ホストでもない私には、ただお願いする事しか出来ないの」

「違う、そうじゃないよ」

「えっ?」

 

 ミカは、自身が見当違いな答えをしたことに気付いていないようだった。目を瞬かせ、疑問符を浮べている。先生はゆっくりと含むように、その認識を正した。

 

「私は、ミカの心配をしているんだ」

「え、あ、うん? あ、う、うーん……」

 

 そんな言葉を正面から受け止めた彼女は、視線を左右に散らし、ややあって観念したようにへらりと笑った。その表情は先程と違って、心から笑っているように見えた。

 

「わ、私の心配か、そっか……あ、あはは、先生って本当に優しいね? 何か、つい勘違いしちゃいそう……」

 

 でも。

 そう続けて彼女は、その細腕を折り畳み、見せかけの力こぶなんてものを作りながら、眩いばかりの笑顔で告げた。

 

「大丈夫だよ先生! 私、こう見えても結構強いんだから♪」

 

 言葉と共に、プールサイドを駆ける。

 先生もゆっくりとプールから足を抜き出し、立ち上がった。

 

「今、私が先生に頼みたいのはそれくらい! 私は、私の出来る範囲で頑張るから!」

「そっか、偉いね、ミカは」

「……そんな事ないよ!」

 

 少しだけ距離を置いた彼女は、いつもの様に微笑んでいる。

 先生は数秒、心の中で問いかけた。本当にこれで良いのかと、正しきは何かと。

 いや――正しくある必要などないのだ。正しくなくとも、それで彼女が救われるのなら構わない。先生の願いはただ一つ、生徒の笑い合える明日を、希望に満ちた未来を。

 

 その明日で、彼女は笑っているのか?

 

 そっと、息を吸い込む。覚悟を、腹を、据えるために。

 否、覚悟なんてものはずっと前から決まっている。

 いつだって先生に足りなかったもの、それは。

 

「ミカ、最後にひとつだけ良いかな?」

「えっ、あ、何々? 何でも聞いて!」

 

 不意に、先生がそう問いかけると、彼女は嬉しそうに声を返した。

 先生に何かを問われるという事すら嬉しいのか、彼女は満面の笑みを浮べる。

 先生は、暫くの間彼女のその笑顔を見つめ続けた。そして二度、三度、そっと拳を握り締めた彼は、告げる。

 

「話したい事は――本当に、これで全部で良いんだね?」

「―――」

 

 浮べるのは、先程とは異なる――鋭く、強い感情を秘めたる表情。

 温厚で優しく、太陽の様な気配を纏わせていた先生のそれが、一瞬で切り替わる。白洲アズサの保護、それが今の先生に課せられた、ミカからの依頼。

 この事を流布するも、内に秘めるも自由。この話は結局、そういう話で終わる。

 ミカはアリウスと繋がり、和解を目論んでいる。狙いはそれ以上でも、以下でもない。後はエデン条約が締結されるまで、ナギサの手からアズサを守り切れば先生の役割は果たせるだろう。

 それだけだ。

 それだけの話だ。

 

 ――本当に、それで良いんだね。

 

 その言葉を耳にした時、ミカは思わず口を噤んだ。

 いつもの様に微笑んで、何でもない事の様に「もちろん」と、そう口にしようとして――けれど、声が出なかった。

 先生のミカを見る目が、余りも力強く、真剣で、切実だったから。

 

 何で、あなた(先生)がそんな顔をするの?

 

 その瞳に射貫かれた時、ミカは自身の全てが見通されている様な気持ちを抱いた。

 その問いかけは、それ以上の何かに勘付いていなければ出ない筈の言葉だったから。

 けれど、不思議と不安は抱かなかった。ただ、戸惑いと疑問、そしてそれ以上の緊張と焦燥に思考は支配されていた。

 

 もう、全部バレているんじゃない?

 

 ミカの内側から滲み出す、誰かの声。それは不安の声ではない。そうミカは否定する――それは彼女にとって、期待だった。

 先生なら、先生だったら、信じられると、そう云ったのは自分自身だ。先程嵌めたばかりの指輪を握り締め、ミカは口を開こうとする。けれど、舌が上手く回らない。喉が、震わない。云っちゃいなよ、心の中の自分が呟いた。

 

「わ……――」

 

 一音、舌が漸く震えた。

 心臓が跳ねた、鼓動が早鐘を打つ、嫌な――汗が流れる。唇を震わせ、両手を握り締め、無様に口を開閉させる自分は酷く滑稽に見えるだろう。けれど、それを客観視するだけの余裕はない。先生の瞳が、(ミカ)を見ている。

 真っ直ぐ、私だけを。

 

 全部、話すって、そう云ったじゃない。

 

「わ、わたし、ね……先生」

「……うん」

 

 先生は真剣に、真っ直ぐ、ミカだけを見つめていた。僅かも視線を逸らす事をしなかった。

 私の、味方。私だけじゃないけれど。確かな、私の味方。

 胸に秘めたるそれを口にしてしまえば、全部ぶちまけてしまえば。

 先生を頼れば、私は救われるかもしれない。

 でも、私に幸せになる資格なんて本当にあるのだろうか? ミカの奥底で、誰かが囁く。もし、此処で全てを諦めるのなら、彼女は何の為に。私は、何の為に此処まで。その意味すら失われると云うのに。

 でも、先生の信頼を喪いたくなんてない。ミカは、そうも思う。これだけ信じてくれた人に、嘘を吐きたくない。全部話すって、そう云ったのだから。

 いいや、これは言い訳に過ぎない、そんなものは虚飾だ。私は、救われたがっている、止めたがっている――この罪悪を、下ろしたいと思ってしまっている。

 

 此処が、引き返す最後の分水嶺だった。

 此処を過ぎればもう、自分は戻れない。戻る事は出来ない。

 その確信があった。

 

「わ、私、本当は――!」

 

 大きく口を開き、叫ぶ。

 訴えかける、先生へ、信頼する大人へ。

 (ミカ)の、唯一無二に。

 

 私は、聖園ミカは。

 先生(あなた)に、救われても良いのだろうか――と。

 

 ■

 

【――それは駄目だよ、(ミカ)

 

 ■

 

「………」

「――ミカ?」

 

 何事かを口にしようとした彼女は、不意に、顔を俯かせた。握った手はそのままに、震えは急激に収まり、あれ程何かを訴えかけようとした唇は微動だにしない。

 そして、再び顔を上げた彼女は、ゆっくりと周囲を見渡した後、正面で困惑を見せる先生を視認すると。

 

「ん……ごめん、先生」

「ミカ?」

 

 とても、穏やかに微笑んだ。

 

「ごめんね、先生、私が今話せるのは……これで全部だよ」

 

 浮べる表情は儚く、脆い。

 けれど、確かな意思を秘めた瞳は先生を捉えて離さない。先程までと纏う雰囲気は異なっていて、然もすると別人のように思えた。けれど、浮かべる笑顔だけは、欠片も変わらない。その奥底に見え隠れする意思だけが、色を変えていた。

 

「……そう、か」

 

 先生は、それだけを絞り出す。

 それは落胆だろうか、それとも失望だろうか? ミカは思う。いや、きっと違う。先生はそんな感情を生徒に抱く人ではない。きっとアレは――。

 

 自分自身に対する、不甲斐なさを悔いる表情だ。

 

「うん……分かった、ありがとう、ミカ」

「ううん、こっちこそ」

 

 ミカはそう告げ、先生の傍を静かに駆け抜ける。

 ふわりと靡くミカの髪が先生の頬を擽り、彼女は裾を翻し、先生に笑いかけた。

 

「今日は時間を取ってくれてありがとう先生、先生と話せて、すっごく楽しかった!」

「……あぁ、私も楽しかったよ」

「ふふっ、なら良かった☆ あんまり二人でずっといると、変な噂が立っちゃいそうだから、そろそろ行くね? それと、あんまり私に優しくすると取り返しのつかない事になっちゃうかもよ、いいの? ……まぁ私は、それでも全然構わないんだけれど!」

 

 揶揄う様に、或いは本心だろうか。髪を弾ませ、二度、三度、ステップを踏むように裾を遊ばせながら。

 

「なんてね♪ それじゃあ、先生、またね!」

 

 彼女は、合宿所の向こう側へと姿を消した。

 その背中を最後まで見つめ続ける先生は、強く拳を握り締めながら、呟く。

 

「――ミカ」

 

 声が、彼女に届く事はない。

 

 ■

 

「――先生」

 

 ブールサイドを抜け、合宿所の寂れた廊下に佇むミカ。外と内を隔てる扉に背を預けながら、彼女は自身の指に嵌められた銀の指輪を凝視する。そこに含まれる感情は、暴れだしたくなる程の歓喜と、僅かな嫉妬。視線の先に存在するものはなんの変哲もない、シンプルで、武骨でなんて事のない指輪だった。けれど、彼女だけの、彼女だけに託された、唯一無二の指輪だった。表面を指先で擦り、思わず言葉を漏らす。

 

「……あははっ、私みたいな悪い子に、こんなもの贈っちゃってさ、本当に、勘違いしちゃうじゃん、こっちの私、結構一杯一杯なんだよ……?」

 

 そう口にする彼女は、今にも泣きそうな顔で。くしゃくしゃになった顔をそのままに、ミカは指輪へと頬を添える。金属特有の僅かな冷たさ、けれどそこに込められた感情が、じんわりと滲むようで。

 心は、これ以上ない位暖かくなった。

 

「でも……嬉しいなぁ」

 

 預けられたその信頼が、嬉しい。それは、正確に云えば自分という存在に向けられたものではないけれど。私だけが特別という訳ではないけれど。

 それ程、大事にされているんだって思えて。ミカは暫くリングを見つめ、それからそっと唇を落とした。

 

「――愛してるよ、先生」

 

 呟きは、涙に掠れ、小さかった。

 

「ずっと――ずっと祈るから、先生(あなた)の為に、だから」

 

 自分の胸に手を当て、告げる。

 これから数多の困難が先生を、生徒を、その周囲を襲うだろう。それはあまりにも辛く、泣きたくなるような結末を伴うかもしれない。いいや、きっとそうなる。

 けれど。

 

「逃げちゃ駄目だよ、(ミカ)、どんな形でも、最初にコレを引き起こしたのは私なんだから……嘲りも、軽蔑も、憎悪も、侮蔑も、甘んじて受け入れて、乗り越えるの」

 

 (ミカ)が関与している事がバレなければ良いとか、そういう話ではない。

 もし、セイアの件を起こす前であれば良かった。過ちを犯す前であれば、どのような道を選んでも構わなかった。過ちは、正す事が出来るのだから。

 けれど、罪を犯したのであれば――償わなければならない。

 罪には罰を、悪しき行いには正しき償いを。

 これは――覚悟と、意志の問題なのだ。

 

「そうして乗り越えた先に、堂々と先生の隣に立てる未来がある――それを手にするために、私は此処まで来たんだから」

 

 先生の隣に立つ時、誇れる自分で在りたい。

 それは、誰かから見てという話ではない。

 自分自身に、誇れるように。

 何の憂いもなく、胸を張って先生と共に歩めるように。

 

 そして、今度こそ――。

 

「どんなに怖くても、足が竦んでも、立ち向かう勇気を胸に……ふふっ、私の大事な、とても恰好良い友達からの受け売りだけれど」

 

 呟き、彼女はそっと目を閉じる。

 

「――エッチなのは駄目らしいけれど、ね?」

 

 脳裏に、泣き笑いをする小さな少女の姿が過った。

 

「頑張れ、(ミカ)

 

 ■

 

「ぅ……ぁ?」

 

 不意に、目が覚めた。

 それは、微睡から引き起こされる感覚に良く似ている。手足がふわふわと、どこか覚束なく。自分が何処に居るかも分からない。二度、三度、目を瞬かせた彼女は周囲をぼんやりと見渡し、薄暗い其処が合宿所の廊下である事を理解した。

 

「あ、れ……わたし……?」

 

 座り込んだ姿勢のまま、壁に頭を預け、自身を見下ろす。そして暫くの間、そうやって徐々に現実のピントを合わせたミカは――自分がほんの数分前まで誰と、何を話していたのかを思い出し、急激に蒼褪めた。

 

「ッ!? は、ぇ、あ!?」

 

 瞬時に飛び起き、自身の体を弄る。ポケットにちょっとした衣服の隙間、そして両手の指を凝視し――そこに探していた証が嵌められている事を確かめ、思い切り抱きしめた。

 

「あ、あった……! 良かった、夢じゃない……! 良かった、よかったぁ……!」

 

 指輪を額に押し付け、ずるずると壁に凭れ掛かる。もしかしたら、夢かと思ったのだ。先生とのあの一幕が、うたた寝の中で紡がれた記憶なのではないかと疑った。それ程に彼女にとっては甘く、優しい応酬だったから。指輪を強く握り締めながら、彼女は静かに涙を流す。廊下には、彼女が啜り泣く音だけが響く。

 

「あ、はは……また、意識飛んじゃっていたんだ……何でこんな、大事な時に……」

 

 私、おかしくなっちゃったのかな。

 声は力なく、自分への猜疑に満ちていた。

 その内、何が現実で、何が夢かも分からなくなりそうで――少し、怖い。

 

「私、先生に……」 

 

 俯いたまま、そっと自身の記憶をなぞる。自分は、先生に全てを話そうとしたのだ。

 自分のやろうとしている事を、全部、洗いざらい。

 それを思い返し、ミカは思わず鼻を鳴らし、嘲笑った。

 

「――なんて、自分勝手」

 

 同時に、一粒涙が零れる。

 もう、戻れる筈なんてないのに。

 

「あははっ、人殺しのさぁ、私が……何、思い上がってんの? 今更救われちゃ、駄目じゃん、そんな、都合よく縋ろうなんて……」

 

 それは、道理が合わない。

 償いも、贖罪もなく、救われるなんて、それは――駄目だろう。

 悪人に救いなんてない。私はもう、綺麗で素敵なお姫様にはなれない。そんな事、ずっと前から分かっていた筈なのに。こんな、今更未練がましく。

 

「それに――先生を、巻き込むなんて、嫌だ……」

 

 指輪を額に擦り付け、強い口調で呟く。私を庇ったら、先生まで大変な事になる。ティーパーティーの不祥事、更にはその内容も内容だ。それを先生が庇ったとしたら、トリニティとシャーレの不和だけで済む話ではなくなる。事はゲヘナや連邦生徒会、或いはそれ以上の場所へと波及するだろう。

 先生の顔色は、良くなかった。今でも激務に追われているのだろう。それに加えて自身の面倒をも見て貰おうなどと――。

 

「あはは……」

 

 笑みが、零れた。

 同時に幾つもの涙も。頬を伝うそれが、ぽつぽつと自身の衣服に染みを残す。

 あんなにやさしい人。

 こんなに良くしてくれた人。

 そうだ、そんな彼を裏切るんだ。

 セイアちゃんも、ナギちゃんも、先生も――皆。

 これから私は、全部を裏切る。

 それを自覚した途端、ミカの心の内を暗く、酷く昏く分厚い何かが覆った。それは、無意識の内に彼女が受け入れていた、悪しき本質(魔女)そのものだった。

 

 なら、泣いちゃ駄目でしょう?

 

 心に潜む、幻影(ミカ)が云う。人をひとり、殺すような事をしておいて、今更涙を流す何て、一体何様のつもりだと。

 涙を流して救われるのは――自分ひとりだけだというのに。

 悪役(魔女)に、涙は似合わない。

 

「そう、だよ……悪役(魔女)なら――」

 

 呟き、壁に肩を擦りつけながら立ち上がる。

 顔を覆い、銀の指輪を指先に感じながら。

 彼女は頬を吊り上げ――歪に笑う。

 

「こう、でしょう?」

 

 歪に笑って、大粒の涙を流しながら。

 そうして彼女は立ち上がる。

 たった一人で。

 これまでも。

 これからも。

 

「頑張れ……私」

 

 きっと、自分に明るい未来など待っていない。

 酷く昏い、奈落へと続く道を、それを知りながら歩いて行く。

 救いは求めてはいけない、罪悪を背負って生きて行くのだ。その道連れは、居てはいけない。

 そう、全ては。

 

 死に報いる為に。

 


 

 これで水泳の授業で、「指輪を汚したくないから」って理由でロッカーに大切に仕舞っていたところを、モブ生徒に指輪捨てられちゃったり、暴動で焼かれたりするんだよね。何て酷い連中だ……人の心とかないんか? ついでに誤動作して首飛ばしてくれ先生。

 

 これで怒涛のミカ三話は終了でございますわ。生徒一人にこれだけフォーカス当てたのって結構珍しい気がする、というかミカだけで三万字持っていくとかどうなってんねん、でもミカだし仕方ないか。ミカ(未来)は色々知っているから比較的精神に余裕があるけれど(大丈夫だとは云っていない)、ミカ(現在)はマジで精神一杯一杯で、先生がより親身な分反動ダメージで魔女化が進む君。

 でも以前後書きで本来のエデン条約より酷い事になるって予め云ってあるし、このくらいままえやろ!

 

 本編先生は上手い具合に躱してミカを依存させないように、或いは頼り切りにさせないようにしていましたわね。ウチの先生はそんな可哀そうな事しませんことよ! あらすじとタグの勇壮なる姿を見て下さいよォ! そりゃデロデロのドロドロで信頼度バグ上がりからの先生四肢もぎたて♡にーちゅになるでしょうよォ! 好感度は上げれば上げる程、依存すればするほど、先生の四肢が弾け飛んだ時に生徒の顔は可愛くなるんですのよぉ~ッ!? 目の前に傷心のミカが居るのにウチの先生が全力で甘やかして慰めないとでも思いましてェ~ッ!?

 まぁこの先生の場合は依存したら依存したで、何人でも何年でもどれだけでも面倒見るつもりの覚悟マシマシスーパー先生だし、現在先生の一個前にある三世界線の先生は、大体追い詰められて他に手が無くなってどうしようもなくなって、「死んでキヴォトスを救いますか?」、「生きてキヴォトス沈ませますか?」の二択で常に自爆(自演)で死んだ『死で世界が救われるのなら(尚、生徒が救われるとは云っていない)』の命のバーゲンセール先生だったけれど、現世界の先生はそれじゃ駄目だと気付いた賢い先生(第四話参照)なので、比較的自分の生に執着がありますわ。それでも生徒がピンチになると後先考えずに飛び出す先生ですけれど。そこが良いんじゃありませんの!? 手足が捥ぎやすくて非常にベネッ!

 でも依存した生徒同士がいがみ合い始めたらどうするの先生? だから先生の手足を捥ぐ必要があったんですね(先生が怪我した時だけは一致団結出来る為、犯人によっては殺し合いに発展する可能性アリ)

 

 ミカに指輪渡したら何かと生徒間でマウント取って来そう。「へぇ~、シャーレ所属になって長いんだ、ふーん、まぁでも私は先生に『私のお姫様』って呼ばれたし~? 他にこんな風に呼ばれた人居る~? 居ないよねぇ~☆」ってやってきそう。

 アツコに、「そっか、じゃあシャーレ二人目のお姫様だね」って悪気なく云われて、「あはは、面白~い、それアリウス派なりのジョークって奴かな?」って笑って欲しい。多分その背後で先生の服を千切る勢いで引っ張りながら、「ん、先生、私にも指輪を渡すべき」ってシロコが指輪強請っているから。尚、先生のシャツは霧散する。それを見てワカモが鼻血を噴いて倒れて、アルが斃れたワカモを見て白目剥いて絶叫して、ムツキが爆笑して、カヨコが溜息を吐いて、ハルカが爆弾でシャーレを吹き飛ばして先生は死ぬ。汚い花火ですわ……。

 

 これ辻褄とか矛盾点とか色々ぶっ飛ばして、単純に私が、「こうなったらミカめっちゃ可愛くなるのでは?」って思った事なんですけれどぉ、先生に「アズサを守って」って云った後に、先生がアズサに射殺されたらどんな顔するんやろって思ったんですよねぇ。

 自分が招き入れて、自分が守ってと頼んだ相手が、指輪までくれて心の底から信じてくれた初めての大人を撃ち殺す訳ですからぁ。それはもう、とんでもない情緒になりますわよねぇ~。というかトリニティ内部でシャーレの先生が射殺されるとかマジで洒落にならねぇですわよ。エデン条約云々どころの話じゃなくなりそうで手足生えますわ。いやでも、時期によってはあるいは、ナギサなら緘口令を敷いて無理矢理条約まで持っていこうとするかも……? まぁその前にミカがアリウス率いてカチコミに来る訳ですけれど。この場合ってどうなるん? ミカはナギサを見殺しにするん? それとも二度も不本意な形で大切な人と、友人を奪ったアズサをボコボコにするん? 私としては突入したアリウスにナギサを射殺された後に辿り着いちゃって、これで本当に自分の周りには誰も居なくなったんだと理解して笑いながら泣いて欲しい。多分4thpvスチルのミカと同じレベルで哄笑する。

 

 もう戻れないと思っていた場所はまだ地獄のほんの入り口で、僅かな罪悪を呑み込み、最低の恥知らずと自分を罵りながらも、誇れずとも背を向ければどうとでもなった未来があったのに。一歩前に踏み出せば、そこからはもう坂を転げ落ちるかのように地獄が続いていたのだと気付いた時には遅くて、積み上げた屍と報いる死が重なりあって、それを背負いながら生きるしかない自身の果てに絶望を見出し、指輪を抱えながら泣き笑いして絶叫して欲しい。

 

 多分この後アリウスに裏切られるだろうけれど、このミカなら単独で全部ぶち壊すと思う。そしてミカのアリウスとの関与を知る者は誰も居なくなった果てに、たったひとりぼっちのティーパーティーとして、そのホストの座に座る事になったらミカはどんな顔で座っているのだろうか。多分、死んだような目をしながら足を組んで、頬杖を突きながら、じっと誰もいない二つの空席を眺め続けるのだと思う。その時、銀の指輪は果たして彼女の指に嵌っているのだろうか。

 

 この闇落ちミカが先生のカードで呼び出されたら、えらいこっちゃになるぞ。ずっと寄り添うから&指輪プレゼントからの、自分のせいで射殺された罪悪感マシマシで、好意と愛と後悔と罪悪感と恐怖で謝罪マシーンになる未来が見える見える……。多分蹲って、もし指輪をしたままだったらそれを抱えて震えながら、「ごめ、ごめんなさい、先生、ごめんなさい! ごめんなさいッ!」ってぽろぽろ涙零すと思うから、先生はそっとミカの事抱きしめてあげてね。そんな資格ないとか、私は絶対に救われちゃいけないとか、自縛的になって先生を必死に拒絶しようとするミカに優しい言葉をかけてあげてくれ……。どんな過程を経ても、どんな結末を辿っても、私の生徒は生徒だからって笑ってやってくれ……。抱きしめられるうちに人の温もりを思い出して、ずっとひとりぼっちだった世界が溶けだして。ずっと自分には救いなんてなくて、それを求める事も烏滸がましくて、ただ何も成せず、愚かなまま死んでいくのがお似合いだと云い募って来たのに。

 そしてミカが顔を上げて、先生の顔を漸く直視した時に、先生の首の爆弾炸裂させてトマトジュース作ったら最高にエモくありません事?

 



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下着と水着

誤字脱字報告って、今のナウなヤングにバカウケだそうですわ。


 

「あっ、先生! おかえりなさい!」

 

 教室に戻った時、先生を迎えたのはヒフミの爽やかな笑みだった。先生は胸内に燻る感情を微塵も感じさせず、微笑みと共に片手を上げる。教室には既に生徒が皆揃っており、思い思いの方法で自習に励んでいた。

 

「やぁ、ごめんねヒフミ、皆も、遅くなって申し訳ない」

「いえいえ、先生がお忙しいのは知っていますし――あら?」

 

 ハナコはアズサに勉強を教えていたのか、机を寄せながらも笑顔で先生を見た。そしてふと、その視線が先生の首元に注がれる。襟で隠れてはいるが、確かに見える赤い線――それは、以前までは無かったものだった。

 

「先生、首元に何か、赤い線の様なものが……」

「あれ、ホントだ」

「むっ、先生、まさか背後から紐か何かで首を絞め――」

「そんな訳ないでしょ!?」

「あはは……これかい?」

 

 アズサの突拍子もない発想にコハルが突っ込み、先生はからからと笑いながら首元を緩める。赤い線は先生の首元をぐるりと回る様に刻まれており、傍から見るとタトゥーか何かの様にも見えた。

 

「コハルとお揃いにしようかなって思って、ちょっとしたイメチェンさ、そんなに目立つものでもないし、良いアクセントだろう?」

「わ、私っ!?」

 

 先生がどこか揶揄う様な色を見せながらそう口にすれば、釣られたコハルが椅子を蹴飛ばしながら立ち上がる。その顔は真っ赤に染まっており、衣服がずれて見えるコハルの体には確かに、先生と似たような黒いラインが奔っていた。その発言に邪推したハナコが、どこか歓喜に似た声を上げる。

 

「あら、コハルちゃん、先生といつの間にそんな仲に……♡」

「えっ、は、ちょ!? な、何その云い方、別に先生と何かあった訳じゃ……!」

「コハル、私とは遊びだったのかい……!?」

「遊びって何!? 先生まで何云ってんの!? というか生徒と先生がそ、そういうのは駄目! え、エッチなのは駄目! 死刑ッ!」

「うーん……やっぱり、一日一回はこれ聞かないと、何か始まらないよね」

「ふふっ、コハルちゃんは今日も元気ですね」

「……も、もしかして私、揶揄われてる……?」

「あ、あはは……」

 

 いつも通りと云えばいつも通り、そんな補習授業部の光景である。先生が後方訳知り顔で腕を組み頷いていると、ヒフミはふと、思い出したかのように口を開いた。

 

「あっと、そうでした! 先生、こちらをご覧ください!」

「うん?」

 

 そう云って先生の傍へと駆け寄り、彼女が差し出して来たのは数枚の紙束。

 

「先程受けた模試の結果です!」

「……あぁ! 今日の分を先に済ませていてくれたんだね、ありがとう」

 

 礼を告げ、先生は答案用紙を受け取ると内容をさっと確認する。そこには、先生が期待していた以上の結果が記されていた。

 

 第二次補習授業部模試、結果――

 

 ハナコ――八点 不合格

 アズサ――五十八点 不合格

 コハル――四十九点 不合格

 ヒフミ――六十四点 合格

 

「ほう、これは……!」

「……紙一重の差だった」

「はい! 今回は本当に紙一重でした! あとたったの二点で合格点ですよ!? アズサちゃん、すっごく惜しかったんです……っ!」

 

 そう口にするヒフミは、とても嬉しそうで。然もすればその場で飛び跳ねそうな勢いと口調であった。自分が勉強を教えた分、喜びもひとしおなのだろう。アズサもどこか得意げな表情で、胸を張っていた。

 確かに、後二点で合格ライン、準備期間を考えれば驚異的な伸び率だった。この調子で行けば、次の模試では合格点を超えられるだろう。

 

「ひ、ヒフミ! 私のも見て! 私だって、結構上がったよ!?」

「はい、確りと見ましたよ! コハルちゃん、前回は十五点だったのが一気に四十九点まで……伸び代では一番ですっ、凄いです!」

「ふっ、ふふーん! 云ったじゃない、本当は実力を隠していたんだってっ!」

 

 コハルも鼻高々にそう告げ、満面の笑みを浮べる。彼女の点数は、四十九点と褒められたものではないが、元を考えれば十二分な結果とも云える。前回との差は、「三十四点」――これは確かに、かなりの伸び率だった。この調子で進めれば、彼女も第二次特別学力試験に合格出来るに違いない。

 

「そして、えっと、は……ハナコちゃんは……」

「あら? ヒフミちゃん、どうしてそんなに声量が下がってしまうのですか?」

 

 そして最後に、ハナコ。

 彼女を見るヒフミの表情はとても気まずそうで、しかし当の本人は心底不思議そうに首を傾げていた。先生も紙面の点数を見つめながら、苦笑を零す。

 

「最初の試験が二点、次の模試が四点、そして今回が八点ですよ?」

「えっ、あ、確かに点数は、その、上がっているのですが……」

「ふふっ、数列として考えてみて下さい――二、四、八、なら次は十六、その次は三十二……つまり後三回受ければ、合格圏内に届く筈です♪」

「え、えぇ……? いえ、確かにそう考えたらそうかもしれませんけれど……」

 

 ハナコの能天気な発言に戸惑いを見せるヒフミ。彼女の場合、本気なのか、冗談なのか分からないのだ。先生は一通り皆の成績を確認した後、満足そうに頷き、口を開いた。兎にも角にも、幅はあっても皆成績は向上している。これは良い傾向だった。

 

「皆頑張ったね、目に見える形で成績が上がっているよ、これなら第二次特別学力試験は大丈夫そうだ」

「は、はい! この調子でしたら、思ったよりも早く目標に届くかもしれません!」

「うん、必ずや任務を成功させて、あの可愛い奴を受け取ってみせる、それが私が此処に居る理由で在り、戦う目的だ」

「え、あ、アズサちゃん!? 私達が此処に居る理由は試験と勉強であって、目的は落第を免れる事ですよ!? 目的がすり替わっていませんか……!?」

「ん? ……あぁ、そんな事もあったな、ついでにそれもやっておこう」

「ついで!? あうぅ……も、モモフレンズファンとしては嬉しくもあるのですが……」

 

 嬉しいような、戸惑う様なヒフミの表情。どうやらアズサにとっては、この試験はモモフレンズの縫い包みを手に入れる為のものであるらしく、進級は二の次らしい。どうやら彼女のモチベーション管理が効きすぎた様だった。その様子に、残りのメンバーは苦笑を零す。

 そんな折、ふと電子音が教室に鳴り響いた。

 

「……?」

「あら?」

 

 唐突に聞こえたそれに、皆が目を瞬かせる。それは正面玄関から誰かが入出した場合に鳴る音だった。元々利用者は補習授業部のみと考えていたので、業者やその他の生徒が出入りした際に分かる様、日中は入所通知をオンにしていた。しかし、この時間帯に来客というのは珍しい。

 

「来客でしょうか?」

「みたいですね、食材の配達は頼んでいませんし、一体……」

「あっ」

 

 その音に気を取られていた先生は、不意に声を漏らす。

 そして、直ぐ脇で勉学に勤しんでいたアズサに視線を向けた。脳裏を過るのは一点、彼女の徹底的とも云える戦場思考。

 

「アズサ……」

「うん?」

 

 彼女は先生に名を呼ばれ、一体なんだとばかりに疑問符を浮べていたが、少しして視線の意図を理解したのか、どこか満足気に笑って云った。

 

「あぁ、心配するな先生――侵入者対策に、ちゃんとトラップは仕掛けてあるぞ」

「――えっ?」

 

 アズサの言葉に、ヒフミは思わず声を上げた。

 トラップ? それって、もしかしてロビーに? 隣に立っていた先生は、ヒフミの表情が一気に悪化するのが良く分かった。当たり前ではあるが、来客があった場合、まずはロビーを通るのだから。

 

『し、失礼致します……あの、どなたかいらっしゃいますか?』

「あら、この声は――」

 

 ハナコが聞き覚えのある声に反応した直後。

 

『へっ? きゃあぁああッ!?』

 

 廊下に鳴り響く、甲高い悲鳴。それにコハルは飛び上がり、ハナコは僅かに肩を震わせた。悲鳴を聞いたアズサはトラップがきちんと動作した事を確信し、達成感を滲ませ頷いている。

 

「うん、ちゃんと起動したみたいだ、良かった」

「あ、アズサちゃん、一体何を!?」

「前に云われた通り、殺傷性のないトラップにしてあるぞ? 前に先生が掛かったタイプと同じ、ワイヤーを利用して足を絡め捕るタイプのものだ、さぁ、鎮圧に行こう」

 

 云うや否や、机の傍に立て掛けていた銃を手に取り、ふんすと鼻を鳴らす。そうこうしている間にも扉の向こうからは戸惑う声が響いており、ヒフミは顔を真っ青にしながら右往左往していた。

 

『こ、これは一体……!? と、取れなっ、う、動きが……』

「さぁ、標的が逃げる前に続け!」

「あ、アズサちゃんんんッ!?」

「せ、先生、止めなかったの!?」

「いやぁ、駄目って云うと露骨にしょんぼりするからさ……」

 

 コハルの叫びに、先生は申し訳なさそうに頬を掻く。一応、トラップを仕掛けて良いか? と事前に確認はされていたのだ。最初は駄目だと突っぱねていたのだが、その内、「どうしても駄目だろうか……」と悲しそうに云ってくるものだから。なら、殺傷性がない、余り危険じゃないものなら良いよと口にしてしまい――その時のアズサの喜ぶ顔と云ったらもう、お日様の様だった。

 

「――うん、先生、生徒の笑顔には弱いんだよね」

「いや、今そういう話してないから!?」

 

 コハルは今日も突っ込みが冴えているね。

 先生も鼻が高いよ。

 でも仕方ないのだ。先生とは、そういう生き物なのだから。

 

 ■

 

「う、うぅ……」

「だ、大丈夫ですか!? お、お怪我は……!?」

 

 教室を飛び出し、ロビーへと到着した皆が見たのは、いつぞやの先生の如く宙吊りにされる修道服の少女の姿だった。彼女は両足を吊り上げられ、残った両手で必死に捲り上がりそうになる衣服を抑えながら、笑みを浮べようとしていた。

 

「きょ、今日も平和と、安寧が……う、うぐ……あなたと共に、痛っ、あ、ありますように……」

「まずご自分の安寧を心配して下さいッ!?」

 

 両足に食い込むワイヤーに顔を引きつらせながら、そんな事を口走る彼女にヒフミは思わず叫ぶ。そして遅れてやって来たハナコは、その吊り下げられた生徒――マリーを見て、驚いた様な声を上げた。

 

「あら、マリーちゃんじゃないですか」

「あ、は、ハナコさん……それに――」

 

 マリーの目がハナコを捉える。そして、その背後に立つ見慣れた背丈の――先生を目視し、頬を真っ赤に染めた。

 

「せ、先生っ!?」

 

 叫び、思わず身体を宙で揺らす。ワイヤーがギシリと軋みを上げ、自分の恰好を自覚したマリーは必死に両腕を伸ばし、捲り上がるスカートを戻そうとした。しかし、当然の話ではあるが、逆さ吊りの状態で幾らスカートを戻そうと重力に従ってずり落ちて来る。それを抑えるのが精一杯であり、マリーは赤面しながら必死に先生に向かって訴えかけた。

 

「あっ、ちょ、あの、今はちょっと、こ、此方を見ないで頂けると……!」

「なんで?」

「な、何で、って……!」

 

 頬を紅潮させ、ずり落ちる裾を必死に手で押さえるマリーは、若干涙目になりながら僅かでも先生の目から逃れようと身を捩る。先生はそんな彼女を見上げながら、両手を組み、とても真剣な表情で告げた。

 

「素晴らしい覚悟だマリー、特にその剥き出しの足が素晴らしいねマリー、とっても素敵だよマリー、どうかそのままの君で居て」

「な、何を仰っているのですか……!?」

「あと十時間くらいは見ていられるかな」

「じゅ……っ!?」

「え、えっちなのは駄目ッ! 死刑っ!」

「ごっふァッ!?」

 

 しかし、マリー鑑賞会へと洒落込もうとしていた先生の横腹を、コハルの頭部が強かに抉る。キヴォトスの生徒の攻撃は凄まじい衝撃と共に先生の体を突き抜け、くの字に折れ曲がった先生の肉体はそのまま廊下の上へと打ち捨てられた。

 

「せ、先生!? あーっと、えぇっと、と、取り敢えず早く下ろしましょう! あっ、今度はゆっくり、ゆっくりですよアズサちゃん!?」

「う、うん……?」

 

 吹き飛ばされた先生と吊り上げられたマリーを交互に見て、先に彼女の方をどうにかするべきだと判断したヒフミは、絡まったワイヤーをどうにかするべく動き出す。アズサは銃を持ったまま、「撃っては駄目なのか……?」という表情で目を瞬かせていた。残念でも何でもないが、彼女は襲撃者ではない。れっきとしたトリニティの生徒であった。

 

 ■

 

「はい、お水」

「あ、ありがとうございます……」

 

 マリー逆さ吊り騒動から数分後。

 無事、救助された彼女はコハルから差し出されたカップを両手に、何とか人心地ついていた。補習授業部の教室へと招かれた被害者ことマリーは、その修道服を正しながら穏やかに微笑んでいる。しかし、その奥には僅かな疲労と羞恥心が透けて見えた。

 

「いや、何と云いましょうか、とてもビックリしました……ロビーの方に踏み入った途端、何かが足に絡み付いて、突然天井に引っ張られたと思ったら、あのような事に……」

「うん、センサー式のワイヤー射出機だ、遠隔操作も出来る優れものだぞ? 肝心のセンサーは少し値が張ったが、残りは廃材でも上手く組み合わせると――」

「アズサちゃん?」

「むぐっ」

 

 マリーに対し、仕掛けたトラップの有用性を説いていたアズサだが、ヒフミの何処となく圧力がある言葉に口を噤む。そして何を求められているのかを察し、マリーに向けてそっと頭を下げ謝罪を口にした。

 

「その……ごめん、てっきり襲撃かと」

「え、えぇと? 良く分かりませんが、特に怪我もありませんでしたし、お気になさらず……」

 

 そう云って手を振るマリー。相変わらず優しさが上限突破している。先生はそっとマリーに向けて手を合わせた。コハルが訝し気な表情で此方を見つめていた。思わず背後を見た、しかし誰も居なかった。

 

「ところで、シスターフッドの方が一体何故このような所に……?」

「えっと、それはですね、此方に補習授業部の方々がいらっしゃると聞きまして……ただ、ハナコさんが在籍しているとは存じておりませんでした」

「ふふっ、私も、成績が良くないので」

「そう……でしたか、はい」

 

 ハナコは微笑みと共にそのような言葉を口にするが、対するマリーの返答はどこかぎこちない。二人のやり取りを見ていたコハルは、意外そうな表情でハナコに問い掛けた。

 

「ハナコ、知り合いなの?」

「えぇ、少しだけご縁がありまして……それより、マリーちゃんは私を訪ねて来た、という訳ではないんですよね、補習授業部には、どういったご用事で?」

「えっと……」

 

 ハナコの問いかけに一瞬言葉を詰まらせたマリーは、持っていたカップを机に置くと、背筋を正してアズサへと視線を向けた。

 

「本日は補習授業部の白洲アズサさんを訪ねて此方に参りました、伺った所、此処にいらっしゃると聞きまして」

「うん、私?」

 

 まさか自身が目的だとは思わず、アズサは首を傾げる。当たり前の話ではあるが、アズサにはシスターフッドの知り合いなど居ないし、面識もない。そんな彼女が自分に用事など、思い当たる節が一つもなかった。

 

「はい、実は先日アズサさんが助けて下さった生徒の方から感謝をお伝えしたいとの事でして――諸事情あり本人が出向けない為、私がこうして代理を」

「感謝……? 悪いけれど、身に憶えがない」

「恐らくアズサさんにとっては、何て事の無い出来事だったのかもしれませんね、しかし、当人からすればとても有難い事だったのだと思います――その、クラスメイトの方々から、いじめを受けてしまっていた方がいらっしゃいまして……その日もどうやら突然、校舎裏手に呼び出されてしまったのだと聞きました」

「え、えぇっ……!?」

「いじめ!?」

 

 マリーの言葉に、補習授業部の面々が声を上げる。特にコハルなどは眉を吊り上げ、怒気を隠さない。ヒフミは、怒りよりも戸惑いの方が強い様子だった。

 

「……まぁ、聞かない話ではありませんね、皆さん狡猾に、それに陰湿な形で行うせいで、あまり表には出て来ませんが……」

 

 呟き、ハナコは目を伏せる。

 残念ながら、こういった行為が無くなる事はない。特にトリニティに於いては、表沙汰にならないだけでこういった悪質な嫌がらせは横行していると云っても良い。ちょっとした身の回りのモノを隠したり、棄てたり、或いは集団で無視したり、そこまで露骨でなくとも、それとなく距離を置いたり――派閥間のパワーバランス、そして所属によってそれらの関係も少々変わっては来るが、その派閥内でもまた、カーストや立場が存在する。これは、トリニティの成り立ちと校風が密接に関わっている為、そう簡単に切り離せる事柄でもない。

 ハナコはふと、先生が口を噤んでいる事に気付き、それとなく視線を向けた。

 そこには、能面の様な表情を浮かべて先生が佇んでいた。

 

「……ッ」

 

 思わず、息を呑む。

 その、普段の先生からは想像もつかない冷たい気配に、一瞬身が凍った。瞳は昏く、口元は固く結ばれ、その両手は力強く握り締められている。その瞳が何を見つめているのかは分からない、けれどハナコは、先生のその瞳を向けられる事を、酷く恐れた。

 

「――っと、ごめん、ハナコ……ちょっと、気が緩んでいた」

「いえ――」

 

 先生は、ハナコの視線に気付くや否や、先程までの雰囲気を一変させる。苦笑を浮べ、後頭部を乱雑に掻く先生はいつもの彼だ。その、急激な変化にはさしものハナコでさえ戸惑った。先生の内に秘めた激情、その欠片に触れた彼女が何を思うのか、それはハナコだけが知っている。

 

「――私達も、その方から相談を受けて漸く知ったのですが……呼び出されてしまった日に、そこを偶然通りかかったアズサさんが彼女を助けてくださったとの事です」

「そ、そうなんだ……アズサ、凄いね」

「ん――そういえば、そんな事もあったな、ただ数にモノをいわせて弱い対象を虐げる行為が目障りだっただけだ」

 

 アズサは、腕を組んだまま鼻を鳴らし、そう吐き捨てる。彼女にとって、それは正義感や倫理観から取った行動ではないのだろう。ただ、自身が気に入らないから、正しいと思えないから、そうした。それは彼女の中に、確固たる線引きがある証拠でもあった。

 マリーはそんなアズサの言動に感心しながら言葉を続ける。

 

「しかし、その後アズサさんに怒られた方が、正義実現委員会と連絡を取られて……どこで情報が捻じ曲がったのかは分かりませんが、何やら正義実現委員会とアズサさんの間で大規模な戦闘に発展してしまったとか……」

「そ、そう云えばアズサちゃん、初日に正義実現委員会で……」

「連行されていたね、確か」

 

 先生がそう云うと、皆が初日の光景を思い出す。確か拷問されても口は割らないとか何とか口にしていたな、と。

 

「そうしてアズサさんが催涙弾の倉庫を占拠し、正義実現委員会を相手にトラップを駆使して三時間以上交戦を続けたと――」

「そ、それって、やっぱりあの時の事じゃん!?」

「うん、何がどうあれ売られた喧嘩は買う、あの時も弾薬さえ不足しなければもっと長く戦えていたし、もっと道連れも増やせた」

「み、道連れですか……」

 

 ヒフミが口元を引き攣らせ、呟く。一応、相手は正義実現委員会――トリニティに於いて戦闘のプロと云っても差し支えない。そんな彼女達相手に道連れとは、穏やかではない。その戦闘能力を正しい方向へと使えれば……マリーや先生の件を考えると、そう思わずにはいられなかった。

 

「それで、その方が報告を兼ねて私達の元を訪れて下さり、アズサさんに感謝をしたいと……ただ、学園内では見つけられず、此処に辿り着いたという次第です」

「……そうか、だが別に特別感謝される事でもない、結局私も最終的には捕まった訳だし」

「つ、捕まったのは余り関係ないんじゃ……」

「む、しかし敵に捕まっては元も子もないだろう」

「いや、何でそうなるのよ……」

「――それに気の毒だけれど、いつまでも虐げられているだけじゃ駄目、たとえそれが虚しい事であっても、抵抗し続ける事をやめるべきではない」

「……そうかもしれませんね、その言葉、確りと伝えておきます」

 

 アズサがどこか真剣な、それでいて強い意志を秘めた口調でそう告げれば、マリーは彼女に向けて恭しく一礼する。そこには自分達の代わりに生徒を助けてくれた、アズサへの敬意と感謝が込められていた。

 顔を上げたマリーは、どこか安堵した様に微笑んで見せる。

 

「アズサさんは、暴力を信奉する氷の魔女……そんな噂がありましたが、やはり噂は噂ですね」

「うん……?」

「ふふっ、それはそうですが、アズサちゃんは意外と氷の魔女らしいところもありますよ? ほら、他の方からするとちょっとだけ表情も読みにくいですし♪」

「むっ、そんな事はないぞ、ハナコ」

「あー、でも、確かに、いつも仏頂面だし」

「む、む……? そう、だろうか」

「ペロロ様の真似でもしてみたらどうかな」

「せ、先生、流石にそれは……」

 

 先生の突拍子もない提案に、ヒフミは思わず口を挟んだ。しかしアズサは少し考え込んだ後、ヒフミのバッグを凝視し、軈て口を開く。

 

「……つまり、白目を剥いて舌を出せば良いのか?」

「――過酷だね」

「先生!?」

「あぁ、冗談だからやめてねアズサ、先生、コハルに処されちゃうから」

「しょ、処されるって何!? そんな事しないもん!」

 

 コハルは顔を真っ赤にして否定するが、恐らくアズサが実演すれば即座に死刑にされるだろう。先生は強くそう思った。いや、どうせ処されるのならついでにダブルピースも付けて――駄目だ、止めておこう、殺意が形を伴って飛んで来る、そんな予感、いや確信がある。

 それにそういう事は良くない、大人として、先生として恥ずべき行為だ。生徒にそのような事をさせるなど、教職者の風上にも置けぬ。先生は自制の出来る立派な大人であった。

 

「……マリーちゃん、元気そうで良かったです」

「はい、私は……ですが――」

「ふふっ、続きは後で……玄関まで送りますよ、さぁ、一緒に行きましょう」

「あ……はい」

 

 ハナコはそう云って立ち上がる。「お水、ありがとうございました」、そう口にして一礼したマリーは、椅子を引きハナコの後に続いた。

 

「では、私はマリーちゃんを見送って来ますね」

「みなさん、お邪魔いたしました、先生も、急に訪ねて来てしまってごめんなさい」

「ううん、またいつでも歓迎するから」

「ありがとうございます……――あぁ、それと」

 

 マリーはふと、然も今思いついたとばかりに手を合わせ、先生の傍へと駆け寄った。その手を先生の肩に掛け、耳元に口を近付ける。シスターフッド制服のウィンプル、そのベールが先生の頬を擽った。突然の事に、先生は目を瞬かせる。

 

「マリー?」

「……命の木の番人(ケルーベイム)より、ご連絡を」

 

 そっと、囁く声が先生の鼓膜を刺激する。

 マリーの細い指先が、先生の肩を強く掴んだ。

 

「煌めく炎の剣は――契約の箱の上に」

「………」

 

 その言葉を聞き届け――先生は、そっと目を伏せた。

 それが、今出来る精一杯の返事であった。

 

「……? マリーちゃん?」

「すみません、少し――先生の肩に埃が」

 

 マリーは素早く身を翻すと、そう云って何かを摘まむ動作を見せる。先生が小さく礼を口にすると、彼女はいつも通り微笑み、丁寧に一礼を見せた。

 

「それでは、また――先生」

 

 深く頭を下げた彼女の表情は、影になって良く、見えなかった。

 

 ■

 

「さぁ、では洗濯の時間ですよ~♪」

 

 夜、宿泊部屋にて。

 今日も今日とて入浴を済ませ、就寝の準備を整えている皆の前に、ハナコが籠を持って高らかに告げた。両手で抱える程の籠を持ちながら満面の笑みで皆を見るハナコは、それを地面に置きながら朗々と言葉を続ける。

 

「皆さん制服や下着、靴下など、洗うものは全部この籠に入れて下さいね♡」

「うん、ありがとう、宜しく」

「あ、はい……はいっ!? し、下着もですか……!?」

「な、なんで!? 下着は各自で良いでしょ!?」

 

 合宿期間もそろそろ長引き、洗濯の必要も出て来る頃合い。アズサは何でもない様子で下着やら何やらを籠に放り込んでいるが、ヒフミやコハルは抵抗があるのか、それらを入れる様子はない。アズサはバッグから次々と洗濯が必要な衣類を引っ張り出しながら、そんな二人を不思議そうな目で見ていた。

 

「ん……? 洗濯はまとめてした方が洗剤と水、それに時間の短縮になる、ハナコの云っている事は合理的だ、集団行動に於いて役割分担は重要だろう?」

「あ、うぅ……それは、そう、ですが……わ、わかりました、では、お願いします……」

「え、えぇ……いや、まぁ確かに正論かもしれないけれど……私がおかしいの……?」

 

 アズサのどこまでも真面目腐った表情に押され、二人は渋々洗濯籠に自身のそれを入れる。その様子をハナコはとても満足そうな表情で見ていた。余り衣類の入っていなかった籠も、四人分の洗濯物が投入されると見る見る埋まっていく。せめてもの抵抗なのか、ヒフミもコハルも、自身の下着類はシャツやスカートの中に隠す形で預けていた。

 

「はい、ありがとうございます♡ 洗濯が終わったら外で干して、皆さんにお返ししますからね♪」

「うん、お願い……あ、そう云えば先生のは?」

「へぁッ!? あ、アズサちゃん!?」

 

 アズサはふと、そんな事を口走る。ヒフミが驚愕のあまり素っ頓狂な声を上げれば、当のアズサは目を瞬かせながら、「一体どうしたんだ、ヒフミ」と何でもないかのように問いかけた。

 

「え、いや、だって今、先生の分も一緒にって……!? あ、いや、別に一緒に洗うのが嫌とか、そういう訳ではないのですけれど、流石に、その、色々と問題があるような……!」

「問題? 四人分洗うのも五人分洗うのも同じだと思うけれど……何か違うのか」

「そ、そういう話じゃなくて……!」

「あ、先生の下着は既に私が確保してありますので♡」

「そうなのか」

「えっ……はぁ!?」

「は、はいっ!?」

 

 トンデモ発言に続く非常識な言葉。ヒフミは余りの事態に硬直し、コハルは目を猫の様に絞りながら真っ赤になっていた。

 どこか楽し気に笑うハナコは、徐に籠の中から一枚の布切れを取り出す。それは、彼女達にとって未知の布だった。

 

「――はい、こちら先生の下着になりま~す♡」

 

 そう云って掲げられるソレは、紛れもない先生のパンツ。

 具体的に云うと先生が洗濯する用に保管していたクローゼット下段、洗濯籠に入っていた代物である。宛ら勇者が専用のアイテムを掲げるが如く、蛍光灯に照らされたソレは物理的にも輝いて見えた。

 

「わぁっ!? は、ハナコちゃん!? さ、流石に不味いのでは……!」

「な、何考えてんの!? へ、変態! 変態ッ!」

「ふむ……女性用のものとは随分違うんだな」

 

 二人が顔を真っ赤にして騒ぐ中、アズサはしげしげと先生のパンツを眺める。色は紺色で、女性用のそれと比較すると布面積が多い様な気がした。ハナコはそれを両手で摘みヒラヒラと揺らしながら、満面の笑みで口を開く。

 

「アズサちゃん、このパンツはボクサーパンツと云ってですね――」

「変な事をアズサに教えるな変態ッ! い、良いから早くそれ仕舞いなさいよぉ!?」

「こ、こんなのなんだ、先生、こんなパンツ履いているんだ……!?」

「二人共顔が真っ赤だ、風邪か? 無理は良くない」

「あらら、ちょっと刺激が強すぎましたか……それなら洗濯機回して来ちゃいますね♪ 何の問題もなければ、きっと明日の朝までには乾かすところまで終わる筈ですから」

 

 ハナコは二人の錯乱を見て取り、これ以上はやめておいた方が良いと判断。先生の下着を籠の中に放り込むと、鼻歌を歌いながら洗濯所へと歩いて行った。その背中を見送ったヒフミとコハルは、深い溜息を吐き出す。

 

「はーっ、ほんと、心臓に悪い……うぅ!」

「うぅ……ど、どうしましょう、明日から先生の顔を直視出来ない気が……」

「………? 良く分からないが、そろそろ寝る準備をした方が良いぞ、二人共?」

 

 ■

 

 それから、少し後の先生。

 

 生徒達と時間をズラしてシャワーを浴び終わり、部屋に戻るや大雑把に髪を拭う。明日に向けた模擬テストの準備、授業資料などは纏め終ったので、後は少しばかり休憩し就寝するばかりとなった頃。

 

「っと、そうだ、そろそろ洗濯分の衣類を纏めないと――」

 

 先生はふと、そろそろ洗濯する必要があったと思い出し、備え付けのクローゼットを開けた。合宿所には洗濯機も完備してあり、二台ほど並んで設置されている。今日の内に回してしまえば、明日の朝には洗濯が終了しているだろうし、少し早起きして干してしまおう――そう考えたのだが。

 

「……ん?」

 

 先生がクローゼットの中を覗くと、洗濯物を入れていた籠ごと全部無くなっている事に気付いた。

 

「あれ、おかしいな――」

 

 思わず首を傾げ、周囲を見渡す。一応、思い当たる場所を全部探そうとクローゼットを隅々まで見渡したが、見つかる事はなく。

 暫く思案に暮れ、天井を見上げた後、先生はぽつりと呟いた。

 

「……………うん、まぁいっか」

 

 心当たりがあり過ぎる為、先生は深く考える事をやめた。

 


 

 涙と嗚咽を零すサクラコ様に「ありがとう」って笑って撃ち殺される先生書いていたら一万字超えそうになって慌てて掻き消しましたわ。パンツの話から突然先生のド頭ぶち抜かれる話になって、自分で読んでいてコイツあたまおかしいんか? ってなりましたわ。感情のジェットコースターですわ~! でも癖になってんだ……先生の死に際書くの……。補習授業部の前で先生に地雷踏んで貰って足吹き飛ばしてぇな~、私もなぁ~。それ位ならメリーゴーランドで済むのでは???



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遍く人を照らす光に

自制しなくて良いって云われたのでブッパしますわ。
25,000字ですわ。
私わるくないですわよ。


 

 先生の洗濯物喪失から数分後。

 保護膜を貼り終え、ゆったりとしたスラックスにTシャツを着込んだ先生は明日の資料を纏めながら、静かにその時を待っていた。

 軈て、就寝時間が過ぎ、五分ほど時計の針が進んだ頃。 

 コンコン、と。部屋のドアが控えめにノックされた。

 先生は無言で立ち上がり、そっと扉を開く。

 

「失礼します」

「どうぞ、今日は少し遅――」

 

 そこまで口にして、先生は目の前の人物が自身の想像した生徒ではない事に気付いた。

 扉を開いた先、満面の笑みで立っていたのは――水着姿のハナコ。

 彼女は普段と異なる部屋着の先生を上から下まで眺めた後、何とも大人びた表情で微笑み、口を開いた。

 

「こんばんは、先生」

「………」

 

 思わず、先生は体を硬直させる。完全にヒフミが来るものだと思って油断していた、何の疑いも躊躇いもなく扉を開けていた。ここ数日、彼女との会合が当たり前の様に行われていた為、考える間もなく体が動いていた。

 ハナコは先生の胸元に手を置くと、軽い気持ちでそっと押し出す。しかし、彼女にとって軽い力でも、先生にとっては違う。数歩部屋の中へと押し込まれた先生は、そのまま後ろ手に扉を閉めるハナコを眺める事しか出来なかった。

 

「ふふっ……こんなに簡単に開けちゃうなんて、不用心ですねぇ♡ 先生は私達と比べて体が強くないんですから、襲われたらひとたまりもありませんよ?」

「あ、いや……」

 

 これは、生徒に対して使う言葉ではないと理解しているのだが――妖艶な、としか表現できない表情を浮かべるハナコを前に、先生は言葉を詰まらせた。唯一の出入り口を閉ざされた先生は視線を左右に散し、それから困ったように告げる。

 

「というか、ハナコ……どうして水着なんだ」

「あぁ、これについてはお気になさらず、パジャマなので」

「……水着が?」

「はい♡」

 

 そんな事、ある? 先生はそう思ったが、しかし口に出す事はしなかった。決めつける事は良くない。実際に、そういう人も居るかもしれないのだから。実際、ハナコがそうだ。

 

「うふふっ、それより先生、ちょっと相談したい事がありまして……」

「相談したい事?」

「えぇ――」

 

 ハナコはそう云って先生の傍に身を寄せると、耳元に顔を近付け囁いた。

 

「……アズサちゃんの事について、少し」

「………」

 

 その表情は、恰好や雰囲気に反し真剣だった。先生は数秒程、何かを考え込む様な素振りを見せた後、頷く。

 

「……分かった、取り敢えず座って」

「ふふっ、ありがとうございます」

 

 そう云って先生は、一先ずハナコの話を聞く事にした。ハナコには椅子を勧め、流石に水着だけでは冷えるだろうと備え付けのタオルケットと、ヒフミにも淹れていたココアを用意する。予め彼女が来た時用に温めていたケトルから湯を注いでいると、先生の使用していたベッドに腰掛けているハナコの姿が見えた。彼女は何故が満足げな表情で座り心地を楽しみ、これ見よがしに深呼吸などして見せる。

 

「んー……この辺り、先生の匂いがしますね♡」

「恥ずかしいから、あんまりそういう事は云わないでね……」

 

 どうかそんな風に人の匂いを嗅がないで欲しい、とても恥ずかしいから。

 

「それで、話っていうのは――」

 

 先生が席に着き、そう切り出した所で――ノックが鳴り響いた。

 続け様に、向こう側から聞き慣れた声が。

 

「し、失礼します、先生、いらっしゃいますか?」

 

 それは、紛れもなくヒフミの声で。先生が声を上げるよりも早く、彼女はドアノブを軽く捻った。いつもの時間帯ならば、起きて待ってくれていると考えていたのだろう。実際それは正解で、先生は先程までヒフミを待っていたのだから。

 鍵も掛けられていない扉はヒフミの行動に応え、簡単に中を晒す。

 

「あれ、開いて……?」

「あ、ヒフミ、今――」

「あっ、先生、昨日より遅い時間になってしまってごめんなさい、実は……――」

 

 そして扉を開けた先で、ヒフミは見てしまった。

 水着姿を惜しげもなく晒し、先生のベッドに腰掛けるハナコの姿を。

 

「………えっ」

「………あら」

 

 ヒフミは水着姿のハナコを凝視し、ハナコは夜分遅くにやって来たヒフミを凝視する。

 ハナコからすれば彼女の口ぶりから、昨日もこの時間帯に先生と会っていたのは確実で。

 ヒフミからすれば、先生がこんな夜遅くに水着姿の生徒と二人きり、しかもベッドに座っている様子から何やら只ならぬ空気を感じ取り――二人だけの空間で、片や生徒は水着姿、何も起こらない筈もなく……。

 

「ほ………」

「ほ?」

 

 ヒフミは、段々と想像を膨らませていくにつれて赤面し、思い切り明後日の方向へと発想を飛ばした。

 

「本当に失礼しましたぁ!? ご、ごめんなさい私っ、そ、そんな事をしているとは知らずに……! ぜ、全然知らなかったんです、本当ですっ! え、い、一体いつからお二人は!?」

「――ヒフミちゃん、今『昨日より遅い時間』って云いませんでしたか? 云いましたよね? つまり昨晩も来たという事ですよね!? そうなんですよね!? こんな時間に? 先生と二人きりで? この密室でいったい何を!?」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!? またあとで……は駄目ですよねっ!? ど、どうすれば良いですか、今晩はやめた方が良いですか!? 知らなくてごめんなさい、間に入ってごめんなさい、空気壊してごめんなさい……っ!」

「待って下さいヒフミちゃん、詳しく教えてください! 昨晩はお二人で何をしていたんですか、今晩は何をする予定だったのですか!? 是非説明を、いえ、いっそ今から私の目の前で実際に再現を……っ!」

「二人共ごめん、今、もう夜だから、皆寝始めている頃だから……!」

 

 ■

 

「す、すみません、取り乱してしまって……」

「いえ、私の方こそ、早とちりをしてしまいました」

 

 先生が割って入り、苦慮する事数分。あのまま放置しては自身の風評と状況証拠からとんでもない勘違いが起きそうだった為、簡単ではあるもののお互いに事のあらましを伝え、何とか誤解を解く事に成功した。

 

「それで、ヒフミちゃんは先生と……」

「あ、はい、これからの補習授業部について、色々と」

「そうでしたか……夜な夜な抜け出していたのは、そういった事だったんですね」

「はい……一応今は順調に事が進んでいますが、備えあれば憂いなしとも云いますし、油断は出来ませんから――それで、ハナコちゃんも先生に相談したい事が?」

「えぇ……アズサちゃんの件で」

「アズサちゃんの……?」

 

 ハナコがやや言葉を濁らせながらそう告げれば、ヒフミは思い当たる節が無いのか、疑問符を浮べていた。

 

「よろしければ、ヒフミちゃんも一緒に聞いて頂ければと思います」

「い、良いのでしょうか、その、元々は先生に相談したかった事では……?」

「構いません、ヒフミちゃんは私達補習授業部の部長ですし、それに遅かれ早かれ、耳に届く事かと」

「わ、分かりました、そういう事でしたら――」

 

 背筋を正し、どこか緊張気味な面持ちのヒフミ。ハナコはそんな彼女と先生に視線を向けると、心配げな表情で告げた。

 

「実はアズサちゃん、毎晩のように何処かへ出かけては、夜明けまで戻って来ない事が続いているんです」

「えっ、夜明けまで、ですか……?」

「はい」

 

 そうしてハナコが語って聞かせた内容は、凡そアズサが睡眠をとっているとは思えないという事。そして、自身が目の届く範囲で彼女が眠った姿を殆ど見た事が無いという事であった。先生はその言葉に、深刻な表情を浮かべ呟く。

 

「それは……確かに心配だね」

「そうなんです、最初は慣れない場所で眠れないのかと思ったのですが、そうではない様子で……私は、アズサちゃんが夜にちゃんと眠っているところを殆ど見た事がありません」

「そういえば私も……アズサちゃんはいつも先に起床していますし、私より早く寝ている事もなかった様な――」

 

 ヒフミはここ数日の生活を思い返し、アズサが寝入っている姿を見ていない事に気付く。彼女は何だかんだと云って就寝は遅く、起床は早い。云われてみれば、彼女が床に入っている姿を見た覚えがなかった。いつも精力的に動き、超然としていた為、気付かなかった。

 

「……アズサちゃんが一体何をしているのかは分かりません、ですがそろそろ多少無理矢理にでも寝かせて休息をとらせてあげないといけないのでは、と」

「……そっか」

「それに何だかアズサちゃん、どこか……凄く不安そうで」

 

 そう口にするハナコは、どこか思案顔で。彼女が心底アズサの身を案じているのが分かる。

 

「どんな事情なのかは分かりませんが、補習授業部の仲間として、友人として、どうにかその不安を少しでも軽減してあげたいんです、きっと、このままだと倒れてしまいます」

「それは、確かにその通りですね……」

「それと、先生とヒフミちゃんも、ちゃんと寝ないと駄目ですよ? 毎日こうやって夜に集会をして、明日に備えるのは立派だと思いますが、疲労は蓄積しますから」

「あ、あはは……その、仰る通りで」

 

 ヒフミは、申し訳なさそうに頬を掻く。しかし、これからの事を思うと動かずにはいられない――そういう不安や、焦燥と云った感情も先生は痛い程理解出来た。その理由を知らず、ハナコは言葉を続ける。

 

「確かに試験も大切ですが、ただ落第というだけです、身体の健康と比べられるようなものではないと思いませんか?」

「それは――」

 

 ヒフミはその言葉に思わず、先生に視線を向けた。そして、先生がそっと一つ頷きを返せば、唇を噛み締め、唸るような声で口を開く。

 

「普通であれば、そうだったのかもしれません、でも……今回は、違うんです、今回だけは……!」

「――ヒフミちゃん……?」

「ただ、ただ落第で済む話ではないんです……! あと二回、どちらの試験も不合格だったら……!」

 

 俯いていた顔を上げ、正面を強い視線で射貫くヒフミ。その、強烈な意思と悲壮を孕んだ瞳を向けられたハナコはたじろぎ、その体を僅かに仰け反らせた。

 

「――退学なんですっ! 私達は、トリニティを去らないといけないんです……ッ!」

「え……退学? ヒフミちゃん、それはどういう……いえ、まさか、その様な事、校則上成り立ちません、退学には様々な手続きと理由が必要で、そんな簡単に――」

「………」

「……先生?」

 

 ハナコは、まさかという表情と共にそう述べた。彼女からすれば突拍子もなく、あり得ない話に聞こえたのだ。しかし、残念ながら事実は異なる。実際に補習授業部は退学の危機にあり、それは先生も知るところ。沈黙を守る先生と、焦燥と不安を隠しきれなくなったヒフミを前に、ハナコは浮かべていた表情を、徐々に困惑と疑念のものへと変えた。

 

「まさか、本当に――?」

「……はい、これは、嘘でも何でもありません」

「――詳しく、聞かせて頂けますか?」

 

 ハナコの真剣な声が、部屋の中に響いた。

 

 ■

 

「……成程、そのような事が」

「はい、これは本当の事なんです……」

「ヒフミちゃんと先生の様子から、嘘である事は疑っていません、それにしても――残りの試験全て不合格であれば、全員退学だなんて……元々試験の仕組み自体おかしいと思っていましたが、シャーレの超法規的権限ですか」

 

 一通りの事情をヒフミと先生から聞き終えたハナコは、その顔を微かに歪めながら思案に暮れる。彼女自身、疑問自体は感じていたのだ。補習授業部という例外的な部活動の発足、それに伴うシャーレの先生招致。それに、この部活動から抜ける為の条件も酷く非合理的だ――トリニティという校風の中で、他者と手を繋いで仲良く協力しなければ退学などと、云ってしまえば、学校自体が出来ていない事を一生徒に押し付ける皮肉である。昨今の派閥間争いを見て来たハナコからすれば、明らかな方便に見えて仕方なかった。

 

「あ、そ、そういえばハナコちゃん、本当は成績が良いんですよね? 一年生の時に、三年生の難しい試験まで全部満点でしたし……!」

「………」

 

 ヒフミの、ふと思い立った様な言葉にハナコは思わず言葉を詰まらせる。その表情を見たヒフミは、はっとして申し訳なさそうに声を潜めた。しかし、今は藁にも縋りたい状況であり、もし彼女が本当に態と点数を取っていないのなら、少なくとも懸念の一つが無くなるのは確実で、更に言えば補習授業部全体の助けになる事も期待出来た。その可能性を、ヒフミは見過ごす事が出来ない。

 

「あの、ごめんなさい、模試の為に昔のテスト用紙を探していて、その途中で、えっと、見つけてしまって……」

「そう、ですか」

「どうして今は、あんな点数を? わざと、ですよね……?」

「……ごめんなさい、知らなかったんです、失敗したら、まさか全員が退学だなんて」

 

 俯き、酷く後悔した表情で呟くハナコ。彼女からすれば、まさに寝耳に水だろう。自身の成果如何によって、全員の進退――退学が決まるなどと、想像もしていなかったに違いない。

 

「――いいえ、知らなかったからと云って、許されるものではありませんね……私は、私自身のエゴで、皆さんを巻き込むところでした、沢山の準備をしてくれた先生にも、ヒフミちゃんにも……アズサちゃんとコハルちゃんにも、申し訳ない事をしました」

 

 そう云ってハナコは、普段の温厚な笑みを消し去り、真剣な表情で二人に深く頭を下げた。

 

「ごめんなさい、先生、ヒフミちゃん」

「い、いえ、その……」

 

 ヒフミは、ハナコのその様子に慌てて手を振る。彼女らしからぬその佇まいは、ヒフミを戸惑わせるには十分な雰囲気を放っていた。

 

「……ヒフミちゃんの云った通り、私の点数はわざとです」

「や、やっぱり……! ハナコちゃん、どうしてそんな……?」

「それは……ごめんなさい、云えません――私の、凄く個人的な理由なのです……ですが、それで皆さんが被害を受けてしまうのは、私の望むところではありません」

「ハナコちゃん……」

「安心して下さい、最低限みなさんが退学にならないよう、今後の試験は頑張りますので」

 

 そう云ってハナコは微笑み、今後の試験に於ける尽力を約束した。一先ず、これで一つ肩の荷が下りた事になる。先生はそっと息を吐き出し、ハナコに向かってそっと頭を下げた。どんな理由であれ、皆の為に矜持を曲げてくれた事には感謝を示したいと思ったのだ。

 

「ありがとう、ハナコ」

「っ、いえ、先生にそのような、感謝して頂く事では……元々、私の我儘ですし――むしろ、私が謝罪するべき事です、裸で手をつくだけで足りますか先生……?」

「いやそれは逆にやめて頂けますと……!? 今後頑張って貰えると聞けただけで、私は安心しましたので!」

「そうですか……」

「な、何でちょっと残念そうなんですか……?」

 

 僅かに肩を落とすハナコを前に、ヒフミは本気で疑問の目を向けていた。残念ながら彼女の趣味嗜好はヒフミの理解の外らしい。

 

「ところで、この事実を知っているのはヒフミちゃんと先生だけですか?」

「えっと、そうですね、今のところは、私達だけで……」

「そうでしたか、となると、アズサちゃんの不安は試験に起因するものではなさそうですね、何か私がまだ知らない事がある、と……いえ、それ以上に今は、この補習授業部の存在そのものが気になりますね」

 

 そう呟き、ハナコは頭の中で自身の持つ情報を並べ、整理した。補習授業部が一体どういう場所なのかは理解出来た。先生を巻き込むことにより、例外的な退学処置を可能にしたという点も。そうなれば必然、このような命令を下せる場所、人物は限られる。

 

「ミカさん、には無理でしょう、まぁこんな事を企むのは、恐らくナギサさんでしょうか? しかし、どうしてエデン条約を目の前にして、このような……今は内部、外部共に目を光らせ、目が回る程の忙しさでしょうに――」

 

 腕を組み、指先で自身のそれを叩きながらハナコは思案する。

 エデン条約を前にしたトリニティは、決して一枚岩などではない。そもそも三分派がそれぞれ独自の思想を持っているというのもそうだが、表の顔で賛成しつつも、裏の顔では――何て云うのは良くある話である。

 それに、このエデン条約が締結されたのなら、その功績はナギサの一派のものとなり、一歩先を行く形となるだろう。当然、残りの二派は面白くない。水面下ではどのようなやり取りがあるのか、ハナコは想像するだけで顔を顰めたくなった。

 内部だけでもそのような面倒がある上に、ゲヘナに対しての動きにも目を光らせる必要がある。防諜対策をはじめ、エデン条約に向けた会合、仔細の突き詰め、ETO創設後の段取りから細かい配分など、凡その形は既に出来上がっているとは云え、相手に出し抜かれない様常に気を張る必要がある。

 考えるだけでも、ティーパーティーのホストが行うべき事柄は多岐に渡った。その様な中で、何故こんな面倒事を……?

 

「寧ろエデン条約が目前であるからこそ……? ある種、これは内部の引き締め……いえ、そうではありませんね、態々シャーレを巻き込んで、退学というカードまで切ったのですから、それ以上に何か、トリニティにとって致命的なものが――」

「わわ……っ」

 

 呟き、ヒフミのどこか驚愕を含んだ視線を他所に、ハナコは没頭する。

 余計な事をするなという生徒に対する見せしめであるのなら、退学なんて強力なカードを切る必要はない。もっと穏便な処分で十分な筈だ、過度な見せしめは顰蹙を買う、それは彼女も理解している筈だった。となると、そもそもシャーレを組み込む必要すらない。ならば、それを押して尚、それ以上の意味を持つ、トリニティにとって致命的な『何か』を持つ生徒が集められたのだと考えるのが自然だった。

 そして、ナギサという生徒の思考から、退学というカードを切ってまで見過ごせない致命的な要因とは何か。

 ハナコは、一つの推論に辿り着く。

 

「……成程、この補習授業部は、大方エデン条約を邪魔しようとしている疑惑のある容疑者達の集い、というところでしょうか」

「……凄いな」

 

 思わず、先生が呟く。ハナコはその言葉にそっと微笑みながら、今頃優雅に紅茶を啜っているであろう主犯を思い肩を落とした。

 

「ナギサさんらしいと云いますか、相変わらず狡猾な猫ちゃんですねぇ」

「ね、猫……?」

「この補習授業部に関しても、どうせなら纏めて処理してしまった方が効率的、というロジックでしょうか? 何だか私達、洗濯物みたいな扱いですね」

 

 その言葉に先生は苦笑を漏らした。ナギサが口にした表現は、もっと直接的で酷いものだったが――態々口にする必要もないだろう。

 

「先生も、ナギサさんにしてやられた形でしょうか?」

「……そうなるかな、元々私は成績が振るわない生徒達を助けて欲しいと云われて、この補習授業部の担任に就いたから」

「成程、先生の善意を利用して役割を担わせ、その実シャーレの超法規的権限を利用している、先生も忙しい身でしょうに、全く……ですが、逆に云えば先生は純粋に私達の為に頑張って下さっていたのですね」

「それは、まぁ、私は先生だし」

 

 資料集めや整理、それに普段の授業に模擬試験の作成。後半についてはヒフミの手伝いがあったとは云え、それら全ては純粋に生徒の為に用意しているものだ。それは理解しているのだろう、ハナコはいつも通りの温厚な笑みを浮べ、感謝の言葉を口にした。

 

「……ありがとうございます、先生はやはり良い人ですね、ふふっ♡」

「よしてくれ、私は私の仕事をしているだけだから」

「――御謙遜を」

 

 ハナコの視線が、部屋の片隅に置かれた人形に向けられた。それは、合宿初日に先生が約束してくれた、御褒美代わりの補習授業部人形だった。軽く布を被せて隠しているつもりなのか、ハナコは心の中で感謝の念を抱く。業務でもない事を率先して行い、生徒の為に尽くす、これが善人でないのならば何であるのかと。

 

「ハナコちゃん、凄いですね……ちょっとした情報から、そこまで考えられるなんて」

「いいえ、元々上層の情報には詳しい方でしたから」

「だとしてもですよ……ナギサ様は、トリニティの裏切者、それを私に探して欲しいと仰っていました」

「ふふっ、トリニティの裏切者ですか……何ともナギサさんらしい表現です、ティーパーティーのホストである彼女の計画を邪魔したら該当する、とも考えられるロジックですし……アズサちゃんは書類の時点で怪しかったので、疑われるのも無理はありませんね、コハルちゃんも、正義実現委員会という所属を考えると人質という観点では多少納得が出来ます、しかし――」

 

 そこまで告げ、ハナコはヒフミに目を向けた。その瞳には、疑問の色が濃く浮かんでいる。

 

「ヒフミちゃんは何故ここに? ナギサさんとも親しかった筈ですし、私にはそれらしい理由も思い当たらないのですが……」

「あう、わ、私もやっぱり容疑者なんでしょうか……?」

 

 ヒフミは呟き、意気消沈する。成績の件は仕方ないとしても、自分も容疑者としてナギサに疑われていた事を自覚し、もの悲しい感情と、何とも云えない寂しさを覚えたのだ。少なくともヒフミは、ナギサという生徒に対し――本当なら恐れ多くて口には出来ないけれど、友達だと、勝手にそう思っていたから。

 

「た、確かに親しくして頂いていましたが……ど、どうして私なのでしょう? その、私にもちょっと、分からなくて」

「あー……っと、ね」

 

 ヒフミがそう告げれば、先生はどこか気まずそうに声を上げる。その様子に何か知っているのだと感じたハナコは、先生に疑問を投げかけた。

 

「先生、何かご存じで?」

「まぁ、うん、そうだね……」

「せ、先生、私、何かやっちゃいましたか……?」

 

 ヒフミは、どこか戦々恐々とした様子で先生に問う。その、酷く不安そうな様子に、これは黙っておくのも良くないかと考え、先生は慎重に言葉を選びつつ口を開いた。

 

「ここだけの話にして欲しいんだけれどさ、ほら、ヒフミ、その――」

「その……?」

「アビドスで、何て云うか、水着――」

「えっ……水着? 一体なん……の――あ、ああぁああッ!?」

 

 理解するまで、一瞬間があった。水着、という単語にヒフミは首を傾げ、更にアビドスという単語に目を瞬かせる。アビドスで水着、何の関連性が、そう思い、しかし思い当たる事柄が一つだけある事に気付いた。そう、口に出す事も憚られる、ブラックマーケットでの出来事である。

 彼女は以前、ブラックマーケットでも最大規模の銀行に対し強盗を敢行していた。しかも、その主犯格として祭り上げられた状態で。

 

「え、あ、あれ、アレですか!? アレが原因なんですかっ!? い、いえ、確かにやらかしてしまった自覚はありますけれどもっ!?」

「水着? ヒフミちゃん、アビドスで何か、水着になってはっちゃけたりしたんですか? 一体どのように? どこで? どんな水着で?」

「ち、違いますっ、制服ッ、制服でしたからぁッ!」

 

 正確に云えば、制服にたい焼きの紙袋を被って――だが。

 

「んんッ、兎に角、ヒフミ自身に原因がある訳ではないのだけれど、色々と誤解が重なってね……ん、いや、誤解かな、これ?」

「ご、誤解ですよ! あれは何と云うか、流れと云うか、やむにやまれぬ、というか……!」

 

 ヒフミは慌ててそう弁解する。彼女自身、決して自分から望んだ事ではない。不本意な事であったのは確かだった。

 

「……分かりました、何やら訳ありみたいですし、深くは聞かない事にしますね」

「うん……ありがとう、ごめんね、ハナコ」

「いえ、人は誰しも知られたくない事の一つや二つ、あると思いますから」

 

 そう云って微笑むハナコ。しかし、何故だろう、彼女がそう口にすると何か卑猥な事を隠している様な事に感じてしまうのは。ヒフミも何か言いたげであったが、これ以上何かを口にして墓穴を掘るのを嫌ってか、ぐっと言葉を呑み込む様な仕草を見せた。ハナコのどこか、「私は分かっていますよ」とばかりの菩薩の様な視線が辛かった。

 

「……兎も角、アズサちゃんとは後で少しお話をしてみた方が良いかもしれません、その他についても幾つか、私の方で確認してみます」

「うん、お願い」

「何かありましたら、私達の方でも情報を共有して頂けると嬉しいです」

「分かりました……という事は私も、この深夜の密会に参加させて頂けるという事でよろしいですか? うふふっ、嬉しいです♡」

「し、深夜の密会、ですか」

「えぇ、深夜の密室で、三人寄り添って秘密の遊びだなんて……ドキドキが止まりません♡」

「そ、その云い方はちょっと……」

 

 まるでこの部屋でイケナイ事をしている様な云い方ではないか、先生は思わず唸りを上げた。成程、けしからん。

 

「っと、そろそろ良い時間だ、明日に備えて寝た方が良いね」

 

 時計の針は既に、深夜に差し掛かろうとしていた。

 

 ■

 

「んぅ……といれ……トイレ……」

 

 薄暗い廊下を、月明かりのみを頼りにふらふらと歩く。不意に催し、ベッドを抜け出したコハルは未だ眠たげな瞼を擦りながら、覚束ない足取りで進んでいた。既に時刻は深夜を回り、周囲は静けさに包まれている。夏の夜は肌寒く、コハルはずり落ちそうになる体操服を何度も手で直しながら頭を揺らして周囲を見ていた。

 

「……あれ? ここ、先生の部屋」

 

 ふと、コハルは先生の部屋から明かりが漏れ出ている事に気付く。扉の隙間から差し込む光は、先生がまだ起きている証拠だ。こんな夜中に、一体何をしているのか。コハルは内心で疑問符を浮かべる。超健康優良児ことコハルは、時計が十時も回れば既に眠気がやってくるという体質だ。大抵は十一時には布団の中だし、そうでなくとも日付を跨ぐ前には必ず夢の中に居る。そんな彼女にとって、真夜中の時間帯というのは未知の領域――さらに先生が大人である事を加味すると、何かこう、イケナイ事をしているのではという好奇心が芽生えて来た。

 しかし、そんな妄想と共に猫目になりかけたコハルは、慌てて頭を振り思考を追い払う。恐らくだが、また夜遅くまで授業の準備や、模擬試験の問題を作っていたりするのだろう。先生の事だ、きっとそうに違いない。

 

 ――いつも迷惑ばっかり掛けているし、ちょっとくらい手伝ったり、してあげても……。

 

 コハルはそんな心配半分、好奇心半分、後はほんの少しの下心に従い、そろそろと先生の部屋、その扉の前まで足を進めた。

 

「先生、こんな時間まで起きて、一体何して――」

「それでは先生、ありがとうございま……あれ?」

「!?」

 

 そして、いざコハルがドアノブに手を伸ばそうとした瞬間、扉は独りでに開き――中からヒフミが顔を覗かせた。コハルは突然の邂逅に飛び上がり、そしてその友人が今しがた先生の部屋から出て来たという事実に驚愕し、思わず叫んだ。

 

「ひ、ヒフミ!? こ、こんな夜遅くに、先生の部屋で一体何を……っ!?」

「ふふっ、ではまた、夜の密会を楽しみに――あら?」

「……………!?」

 

 そして、更に続く第二波。

 ヒフミに続く形で現れたのはハナコ、それも――水着姿で。

 それは最早、中で何をやっていたのかという状況証拠としてはこれ以上ない程に完璧で、コハルの頭の中ではヒフミと先生とハナコが大乱闘で、スマッシュで、シスターズで、『シャーレの先生、参戦!』で真っピンクだった。

 

「さ、三人、三人でっ、夜の密会……!? 馬鹿、ヘンタイ! 淫乱族ッ!」

「ご、誤解です!?」

「あら、ふふっ♡」

 

 真夜中の廊下に、コハルの絶叫が鳴り響いた。

 


 

【サクラコ様の絆ストーリー】

 

「ふぅ……」

 

 重く、魂が抜け落ちてしまいそうな溜息が漏れた。それが無意識の内に漏れ出た事に気付き、また溜息を吐きたくなる。目の前には山積みの書類、座っていると向こう側が見えなくなりそうな程に重なり、その天辺に手は届きそうにない。今日は通常より早くこの席に着いたというのに、その量は減っている様には思えず――。

 肩を軽く回し、ペンを持つ手を開閉する。骨が鳴る音が聞こえて、彼女――サクラコは思わず苦笑を零した。

 

「サクラコ様、追加の書類を――」

「……其処に置いて下さい、後で処理します」

「あっ、はい、わかりました!」

 

 そんな彼女の元へ届けられる追加の書類。表に出すべきではないと分かっていながら、思わずげんなりとした顔を晒してしまう。

 件の条約以降、ティーパーティーの権威は失墜し、シスターフッド、救護騎士団、ティーパーティーがそれぞれ直接的にしろ、間接的にしろ政に関与する事と相成った。そのトップに位置するサクラコの業務も随分増え、特にトリニティ全体で動く事があるとコレだ。サクラコとしてはトリニティの政治になど全く関わりたくもないし、興味もないが――外からはそう見られないだろう。恐らく、ミネ団長も同じような境遇にある筈だが。

 

「あの人は、きっと弱音なんて吐かないでしょうね……」

 

 呟き、サクラコは自身の頬を軽く張ると、ペンを握り直した。

 どちらにせよ、やらねば終わる事もない。

 

「さて、では仕事の続きを――あら?」

 

 再び書類と向き直った所で、再びノックの音。サクラコは恐らく、また追加の書類だろうとあたりを付け、努めて声色を維持しつつ声を出した。

 

「……どうぞ、追加の書類でしたら、そこに」

「――やぁ、サクラコ」

 

 しかし、扉を開けて入室して来た人物、その思わぬ声に顔を上げる。扉の前には、シスターフッドの中ではあまり見ない、白い制服を着込んだ人物が立っていた。いつも通りの涼やかな笑みを浮べつつ、彼はサクラコを見る。

 

「っ、先生?」

「おはよう、突然ごめんね?」

 

 驚きの表情を浮かべるサクラコは、暫しの間思考を停止させる。こんな朝早くから一体、先生がシスターフッドに何の用事だと。まさか、また業務が増えるのだろうか? その事を考えると、先生と会えた喜びと、この先の会話を思い、苦しさが半々と云った所だった。先生はそんなサクラコの前まで足を進めると、くたびれた彼女の表情を伺い、苦笑を零す。

 

「……やっぱり、思った通りだ」

「えっと、何か此方(シスターフッド)にご用事でも?」

「うん、用事というか、何と云うか――」

 

 サクラコの顔色が明らかに悪い。これは、思った以上だなと先生は思考しつつ、彼女の顔をじっと注視していた。当のサクラコは、最近肌の手入れも出来ていない事に気付き、慌てて顔を背ける。

 

「な、何でしょう? 余り直視されると、その……」

「あぁ、ごめん、ヒナタやマリーから相談があってね、それにハナコからも……サクラコが業務で根を詰め過ぎているから、何とかして欲しいって」

「! 皆が、その様な――」

 

 並ぶ名前に、彼女は驚いた様な表情を浮かべる。その気遣いを嬉しく思いながら、サクラコはそっと微笑んだ。

 

「それは、有難い事ですね……しかし、これは私がやらねばならない事です、皆の気持ちは嬉しいですが――」

 

 自身の職務を放棄する訳にはいかない。自分が一日休めば、その分シスターフッドの歩みは数日遅れ、そこから他の派閥との擦り合わせが一週間遅れ、結果的にトリニティ全体の動きが一ヶ月遅れる。巡り巡って、というものだ。辛くないと云えば嘘になるが、責任感の強い彼女からすれば、決して許容できないものだった。

 

「……まぁ、簡単に頷いてくれるとは思っていないよ」

「では――」

「――という訳で、無理矢理休暇を取って貰います」

「……えっ」

 

 先生ならば分かってくれるだろうと、安堵し胸を撫で下ろした瞬間、先生が二度、響かせるようにして手を叩いた。瞬間、開く執務室の扉。そこから入室してくるのは見慣れた二人組。

 

「し、失礼します……」

「お、お邪魔いたします……」

「えっ、ヒナタ? それに、マリーまで……!」

 

 唐突な登場に目を白黒させるサクラコ。そんな彼女を横目に、素早くサクラコの背後に回り込んだ先生は、彼女の肩を確りと掴む。

 

「流石にシスターフッドの執務作業を外部の生徒に任せる訳にはいかなかったので、マリーとヒナタに業務を変わって貰う事にしました、二人の分担は心優しいボランティアの生徒達が担当してくれるから、安心してね!」

「えっ、えっ……?」

「さぁさぁ、今日はもう休憩の時間だよ~」

 

 云うや否や、有無を言わさず彼女の体を椅子から立たせる。そしてそのまま背中を押すと、執務室から押し出すようにしてぐいぐい前進させた。サクラコは突然の事に狼狽えながらも、マリーとヒナタに視線を投げかける。

 

「え、あ、ちょ、先生? ま、マリー? ヒナタ?」

「流石に、その、最近頑張り過ぎていると思いましたので……」

「サクラコ様にも休息が必要かと……」

「という訳で、ご案内~」

「あ、先生、ちょ、ま、待って下さい、私には、私の役割が――っ!」

 

 しかし、彼女が全てを云い切るより早く――執務室の扉が音を立てて閉まった。

 先生とサクラコの背中を見送った二人は、そっと溜息を吐き出す。

 

「……ふぅ、少し強引でしたけれど……良かったのでしょうか?」

「こうでもしないと、サクラコ様は休んで下さらないでしょうし……」

「――そうですね、責任感の強い方ですから」

 

 そう云って二人は互いに顔を見合わせ、苦笑を零した。それを肩代わりするのも、仲間の、友人の役目だろう。机の上に鎮座する書類の山を前にして、マリーとヒナタは腕捲りをし、強い意気込みを見せた。

 

「……さて、私達も、私達の役割を果たしましょう、サクラコ様が安心して休めますように」

「は、はい! 頑張りますっ!」

 

 ■

 

「はい、という訳で到着しました、トリニティの中庭です」

「………?」

 

 麗らかな日差し、心地良い風、そして爽やかな空気。整然と手入れされた芝生に、左右を彩る並木。中央には広場とは異なる小さな噴水も完備され、正に中庭といった風景。本校舎内部にあるそれは、見慣れた景色ではあるが利用した機会は数える程しかない。突然の事に目を白黒させているサクラコは、ただ茫然と目の前に広がる光景を眺めていた。おかしい、私は先程まで書類の山と格闘していた筈だというのに、私は、一体、何を……?

 

「――さぁ、サクラコ、今日は何をしたい? このまま宿舎に帰って一日寝て過ごすも良し、本を読んで優雅に過ごすも良し、どこかにお出掛けするならそれも良し……あっ、戻って仕事っていう選択肢はないからね、二人の気持ちが無駄になっちゃうから」

「……ふぅ」

 

 サクラコは隣でニコニコと微笑む先生を眺めながら、暫くして息を吐き出す。執務室で零したものとは異なる、重いものではなく、それは呆れと僅かな喜色の含まれた溜息だった。

 

「先生は、何と云うか……こういう時だけは強引ですね、いつもは生徒を立てて下さるのに」

「それ位、サクラコが頑張り過ぎていたって事だよ」

 

 先生がそう云うと、サクラコは頬を紅潮させながら視線を逸らした。彼女自身、自覚はあったらしい。そして周囲に生徒の姿が無い事を確かめると、渋々と云った体で休暇を呑み込んだ。

 

「……分かりました、此処までお膳立てされては休むしかありません、有難く休暇を頂きましょう」

「それは良かった――それで、ご予定は?」

「御一緒して下さるので?」

「当然、そう頼まれているからね」

 

 そんな先生の言葉に、サクラコは少し考える素振りを見せると。

 

「それなら……一つ、前々から気になっていた場所が」

 

 どこか、瞳を輝かせながらそう告げるのだった。

 

 ■

 

「このチーズ・デラックスケーキを一つと、特製濃厚プリンを一つ、あとスノウクリームパフェに、紅茶を一つ下さい、あとは……――あっ、先生は如何なさいますか?」

「……えっと、じゃあこの抹茶プリンと、彼女と同じ紅茶で」

「は~い、注文承りました~!」

 

 先生とサクラコの注文を聞き届け、店員は元気に走り去って行く。

 

「……行きたい場所って、此処の事だったんだ」

「えぇ、前々から目を付けていたのですが――」

 

 そう云って嬉しそうに周囲を見渡すサクラコ。二人がやって来たのは、トリニティ自治区郊外にある、小ぢんまりとした喫茶店であった。平日である事も相まって、ちらほら人の姿は見えるものの、休日程ではない。メニュー表を指先でなぞりながら、サクラコはとても楽しそうに笑っていた。

 

「平日に学業や仕事を放って来る訳にもいきませんし、立場上気軽に出歩ける訳でもありませんので……こういう時位しか、来る機会がありません」

「そっか、じゃあ今日はお腹一杯食べないとね」

「えぇ、云われずとも、普段食べられない分堪能させて頂きます」

 

 その言葉に、先生は思わず笑みが零れる。それをどういう風に捉えたのか、サクラコは不満そうに眼を細めた。

 

「先生、何かおかしなことでも?」

「あぁ、いや、ごめん、ただ皆スイーツが好きなんだなぁって思って」

「……もしかして、私以外の方とも此処に?」

「放課後スイーツ部の皆とね」

「あぁ――」

 

 先生がそう口にすると、彼女は納得の色を見せた。

 

「確かに彼女達なら、トリニティ自治区の甘味は軒並み味わい尽くしていそうですね」

「おかげで私も随分この辺りのスイーツに詳しくなったよ……今度からは、甘味の差し入れを持っていくね? 甘いもの、かなり好きみたいだし」

「いえ、その様な事は……」

「それとも――」

 

 頬を紅潮させ、視線を逸らしたサクラコを前に、先生はテーブルに肘を突いて微笑んだ。

 

「たまにこうして、二人で抜け出してデートでもしようか?」

「でー………――っ!?」

 

 その言葉に、サクラコは自分が今、どういう状況なのかを理解する。

 異性が二人、喫茶店で相席をしつつ歓談する。これは確かに、外から見ればデートなのでは? 遅まきながらその思考に至った彼女は、先程の数倍顔を紅潮させ、僅かに腰を浮かせると早口で捲し立てた。

 

「い、いえ先生!? これは私の休暇なのですから、で、でっ、デートなどでは決して……!?」

「あははっ、ごめんごめん、ちょっと揶揄っただけだよ」

「からかっ……!? ま、全く、先生は――!」

「そうじゃないなら、今度からはちゃんと休息も取ってね?」

 

 声のトーンを少し下げ、先生は心配げにサクラコの目元をそっと拭う。そこには、化粧では隠しきれない疲労の痕が残っていた。

 

「ちゃんと眠れている? 顔色、良くないから」

「……大丈夫です、体調管理はきちんと行っていますので」

 

 呟き、サクラコは先生の指先をそっと押し戻す。その表情はどこか陰があり、いつも凛とした彼女らしくないものだった。それを自覚しているのか、どこか重々しい口調で彼女は呟く。

 

「何だか最近、その……妙に落ち着かなくて」

「落ち着かない?」

「はい、何か、こう……嫌なものがやって来るような、酷く、不安になるような――」

 

 そう云って、サクラコは自分の胸元を撫でる。漠然とした不安、出所の分からない恐怖、まるで悪夢を見た後、その内容を覚えていないのに、ただ恐ろしかった事だけを記憶している様な――そんな不快感。

 最近、そういった感情の波が良く彼女を襲っていた。しかし、そんな原因不明の漠然とした代物を相談した所で、どうなるものでもない。

 きっと、気のせいだろう。或いは忙しさに精神が少し弱っているのかもしれない。彼女は自分にそう言い聞かせ、首を振った。

 

「……いえ、忘れて下さい、きっと先生の云う通り疲れているのでしょう――帰ったらゆっくりと眠って、疲れを取ります」

「……そっか」

「お待たせしました~、此方ご注文の品です~!」

 

 言葉が途切れた瞬間、まるで図ったかのように注文品が届く。

 次々とテーブルに並べられる品々、ケーキに、パフェに、プリンに、紅茶。それらを前にした時、サクラコの纏っていた先程までの陰鬱な気配は消え去り、その瞳は物理的に輝いてすら見えた。

 

「これは、この輝きは……まさに……!」

「……さて、それじゃあ暗い話はこれでおしまいにして、頂こうか?」

「は、はい! では、さっそく――」

 

 そう云って、待ちきれんとばかりにフォークを手に取り、逸る気持ちを抑えながらケーキに先端を差し込み、掬い上げる。そして目前まで持ち上げたそれを、どこか恍惚とした表情で見つめながら――一口。

 

「……ん~っ!」

 

 口に入れた瞬間、彼女は満面の笑みを浮べ、先生はサクラコの背中に満開の花を幻視した。

 

「はぁ~……このような立場になった事を後悔してはいませんが、やはりこういったものを普段から食べられない事だけは、少々残念に思いますね……あむっ」

「甘味、余程食べたかったんだねぇ」

「えぇ、それはもう!――簡単には食べられない状況に在るというのに、あのスイーツは美味しいですとか、どこどこの御店が新作を出しましたとか、そう云った話ばかり耳にするものですから……殆ど、生殺しです」

「確かに、トリニティではその手の話題に事欠かなさそうだ」

「はい、ティーパーティーのナギサさんなど、紅茶の添え菓子として甘味調達を頼んでいるという話ですし、甘いものが嫌いな女性は中々居ませんよ」

「なるほどね……ハスミなんかも、似たような事を云っていたなぁ」

「えぇ、そうでしょう、そうでしょう」

 

 彼女は、良く分かるとばかりに頷く。そして二度、三度、ケーキを口に運んだ後、ふと、何かを思い立ったとばかりに目を瞬かせ、咳払いをした。

 

「んんっ……それはそれとして、先生?」

「うん?」

 

 先生はプリンを掬い、口を開いたまま疑問符を浮かべる。

 彼女はそんな先生の間抜け面を見つめながら、酷く真剣な表情で言葉を紡いだ。

 

「一応……い・ち・お・う、ですがっ……デートと口にしたというのに、他の女性の名前をそう出すのは如何なものでしょう? その、一般的なデートの在り方として、あまり褒められた事ではないかと思いまして――」

「―――」

 

 その言葉に、先生は面食らった様に硬直し。

 そしてサクラコが再び、「先生?」と名を呼べば。

 先生は思わず破顔し、大口を開けて笑った。

 

「あははははっ!」

「せ、先生? 何故笑うのですか!?」

「あぁ、いや、ふふっ……ごめんね? 悪気はないんだよ、ただその、何て云うか――」 

 

 笑みを噛み殺しながら、先生はとても――とても嬉しそうに云うのだ。

 

「サクラコの新しい一面が見れて、嬉しくて、つい――」

「あっ……」

 

 そう口にされて、サクラコは自分でもらしくない事を口走ったと、漸く気付いた。シスターフッドのトップとして肩肘を張り、あらゆる物事に真剣に取り組み、教義を一とし真摯に日々を生きる。シスターとしての在り方に、他者に嫉妬を示すなんて規範は存在しない。それは、全く以て彼女らしからぬ言葉だった。

 それはどこにでもいる、普通の、ありふれた少女が口にするべき言葉だ。

 

「す、すみません、先生、その、私らしくもない、立場を忘れて――」

「いいや、シスターフッドとしてではなく、ただの一生徒として――私の前では、そう在ってくれた方が嬉しいんだよ」

「………」

 

 続けざまにそう告げられ、サクラコは思わず俯き気味にフォークを齧る。行儀が悪い事は分かっていたが、今だけは先生を正面から見る事が出来なかった。

 何と、無様な。

 内心でそう悪態を吐く、どのような場所であれ、時であれ、シスターフッドの誇りを忘れず、教えを守る。それがサクラコの在り方の筈であった。

 だと云うのに、この人は――。

 

「ずるい人ですね、先生(あなた)は――」

「大人は、そういう生き物らしいよ?」

「全く……」

 

 呟き、サクラコは少々乱暴にケーキを切り分ける。そしてその内の一ピースを突き刺し、先生の口元に差し出した。それは、吹っ切れた彼女なりの報復であり、挑発でもあった。顔を赤くしたまま、どこか挑む様な視線でサクラコは問い掛ける。

 

「――なら……責任を持って今日は付き合って貰いますからね、先生?」

「勿論」

 

 応え、先生はそれを口に含んだ。

 まさか、躊躇わず口に含むとは思っておらず、サクラコは思わず言葉に詰まる。先生は口元に付着したクリームを指先で拭うと、目の前で言葉を失う彼女に微笑んだ。

 

「――サクラコの、気の済むまで」

「っ……!」

 

 顔を背け、背筋を正すサクラコ。先生は笑みを噛み殺しながら抹茶プリンを掬い、サクラコに差し出す。

 

「こっちの食べるかい? 美味しいよ? ほら、あーん……」

「け、結構ですので! 私は、私の分だけでお腹がいっぱいです……!」

「えー、サクラコからやって来たのに……」

「せ、先生っ!」

「うぉっ!? ご、ごめんて……」

 

 羞恥心が天元突破したサクラコが、先生の腕を掴む。その力強さに先生は苦笑を浮べ、慌てて謝罪を口にした。

 その後、なんやかんやあり、「喫茶店ではお静かに」と注意を受けて二人で平謝りしたり、スイーツ巡りをして、マリーとヒナタの為にお土産を買ったり、公園に寄り道してクレープを半分こしたりしちゃって。

 休日としては、少し歩き疲れてしまったけれど。

 

 こんな一日も、そう、全く以て――悪くない。

 

 サクラコは強く、そう思うのだ。

 

 ■

 

【あまねく希望の終着点。】

 

 ■

 

 古き良き大聖堂。

 そのステンドグラスから差し込む光は、紅く、昏い。

 それは、世界(キヴォトス)終焉の兆しであり、外宇宙からの侵略、その証左でもあった。

 吹き抜けのステンドグラスは酷く幻想的で、だと云うのに今は恐ろしく感じる。立ち並ぶ木製の長椅子、その中心に敷かれるカーペット――そこに点々と続く、血痕。

 荒い息を必死に整えながら、先生は呼吸を繰り返す。厳粛で静謐な空間の中に、その音だけが響いていた。

 

「ぐ、ふぅ、はぁ……ッ……!」

 

 たった一呼吸、肺を使うだけで――骨が、軋む。

 まるで全身が締め付けられているかのような痛み、倦怠感。先生は床に落ちた己の手を見る、指先(末端)から黒く、罅割れていく、己の肉体。こんな状態になっても尚、未練がましく抱えているシッテムの箱を覗き込めば、其処には酷い顔をした己の顔が映っていた。血に塗れ、黒ずみ――極彩色の瞳をした、先生(わたし)

 

「――随分と、酷い、顔じゃないか……」

 

 思わず、呟く。

 笑おうとして、けれど痛みに引き攣った声しか出なかった。アロナが見たら、きっと頬を膨らませて怒るに違いない。いや、もっと酷いかな、一日位、口をきいてくれなくなるかもしれない。そんな他愛もない事を考えて、先生は前に進もうとした。けれど、身体はもう、いう事を聞いてくれそうにない。

 この、大聖堂にやって来るだけで精一杯だった。

 先生はカーペットに座り込み、長椅子に肩を預ける。動こうとしなければ、随分と楽になる気がした。憎たらしい程に美しい硝子が先生を見下ろす。

 何故、この場所を選んだのか――自分でも、良く分かっていない。

 惨めに人目を避けて、這い蹲りながら、こんな場所に、どうして、私は――。

 

「っ、はぁ、ハッ! いたっ、先生――!」

「っ……!」

 

 不意に、先生ではない声が聖堂に響いた。

 彼がゆっくりと振り向けば、其処には見覚えのある生徒が立っていた。彼女はいつもとは異なる、やや乱れた格好と髪のまま、息を弾ませ先生を見つめる。開け放たれたままの扉を駆け抜け、彼女は先生の名を呼んだ。

 思わず、呆然と彼女の名前を呟く。

 

「サク、ラ……コ?」

「やはり、此処にいらっしゃいましたか……!」

 

 先生の声は、掠れていた。最早、声と判別するのも難しい程に。

 彼女――サクラコは愛銃を抱え、足早に先生の元へと進む。そして近付けば近づく程分かる、先生の容態。彼女の表情が険しくなるのが見えたのだろう、先生は地面に腰を落とした格好のまま、そっと半身を隠すようにして身を捩った。

 彼女は先生の傍に屈むと、自身でも驚く程、緊張に強張った声を発した。

 

「……先生、手を」

「………」

「先生」

 

 俯いたまま、何も口にしない先生に痺れを切らし、サクラコは強引にその腕を掴む。そうして触れた感触に、思わず顔が歪んだ。指に伝わるそれは、最早柔く、脆く、脆弱だった。

 少し掴んだだけで――崩れてしまう程に。

 

「……これは、何ですか?」

「あはは……え、っと……なん、だろうね?」

 

 そう云って、必死に表情を取り繕うとする先生。笑おうとして、けれど口元が引き攣り、上手く笑えない。サクラコは、そんな先生の表情を直視し、思わず歯を食い縛った。然もすれば、叫び出したくなる様な衝動に駆られたからだった。掴んだ先生の腕の先は、真っ黒に歪み、罅割れていた。それを必死に隠そうとする先生は、余りにも痛々しい。この期に及んでも、最後の一線を踏ませようとしない先生に、彼女は叫んだ。

 

「あなたはっ……また、全部抱え込んでッ! 何故、そうも――!?」

「ごめん、ね……こればっかりは、私がやるべき……事だったから」

 

 呟き、痛みに呻く。声には、殆ど力が籠っていなかった。然もすると、次の瞬間には意識が飛びそうになるのか、先生の吐息が強弱を繰り返す。

 

「先生? 先生……!」

「……これは、代償――なんだ」

 

 ぽつりと、先生はそれだけを呟いた。代償? サクラコは口の中で繰り返す。

 この肉の体に潜むソレが原因でもあり、そして――今まで積み重ねた、奇跡の代償でもある。このキヴォトスという世界を守るために、幾度となく切った不可逆の奇跡。それが今、目に見える形で先生を蝕み始めた。

 先生にとっては、ただ、それだけの事。

 

「代償? 先生、それは何なんですか? それを、治す手段は……!?」

「………残念だけれど、ない、かな」

「っ、此処には救護騎士団だってあります、それにゲヘナの救急医学部でも、ミレニアムサイエンススクールにだって、協力を仰げば……!」

「――無理、なんだよ」

 

 サクラコらしからぬ、焦燥を滲ませた叫びに先生は淡々と答えた。表情は、穏やかであったとさえ思う。それは、全てを受け入れている様に思えて、彼女にとっては我慢ならぬ事であった。諦めを滲ませる何て、先生らしくない。彼は、こんな状況を幾度も乗り越えて来た。ならば、今度も――そう思ってしまう。

 けれど、事実手が無いのだから仕方がなかった。それを先生は懇々と説く。

 

「奇跡は、不可逆だ……なら、その代償もまた、不可逆だろう……?」

「そのような事は――!」

「それに、状況は良くないが……最悪じゃない」

 

 呟き、先生は手にしたタブレットを見た。既に電源が切れ、真っ黒なモニタ。そこに映る酷い顔の自分を直視する度に、苦笑が漏れる。今にも泣きそうな、情けない顔じゃないかと。

 二度、三度、電源ボタンを押し込むが――やはり、起動しない。先生は自身の指に備え付けられた銀色を見て、それをそっと握り込んだ。シャーレも、サンクトゥムタワーも、今は只の塔に過ぎない。

 切り札(奇跡)も、起きない。

 

 なら、先生に出来る――最期の役目は。

 

「サクラコ……」

「っ、はい、先生……!」

 

 サクラコは先生の傍に跪いたまま、俯き、声を絞り出す。

 先生は、最後の力でそっと、懐から何かを取り出した。

 それは、シャーレに支給されてからずっと――一度も使う事がなかった、先生にとって馴染ないもの。ある意味このキヴォトスで生きる人々にとっては必需品で、先生にとってはそうではないもの。

 連邦捜査部、シャーレのエンブレムが刻まれた――拳銃だった。

 サクラコは、取り出されたソレを、愕然とした表情で見つめる。

 最悪の想像が、頭を過った。

 

「――……先生?」

「ごめ、んね……もう、腕を、動かす……のも、億劫なんだ」

 

 途切れ途切れの言葉と共に、差し出される拳銃(ソレ)

 サクラコはそれを、この世で最も恐ろしいモノを見るかのような目で見ていた。

 これから先生が何を云い出すのか、彼女には分かった。

 分かっていて、どうか間違っていますようにと願った。云わないでくれと、口にしないでくれと、自分にそれを任せないでくれと。その役割だけは、私に担わせないでくれと。

 痛烈に、切実に、これ以上ない程、強く思った。

 けれど、現実と云うのはいつも彼女に牙を剥く。

 先生の黒ずんだ手が、サクラコの手に、拳銃を押し付けた。

 サクラコの表情が、遂に歪んだ。その唇が震え、目尻に涙が滲んだ。先生は、もう殆ど見えなくなった目で、彼女を見る。真っ直ぐ、その瞳を。

 

「――頼むよ」

 

 その一言だけが、聖堂に響いた。

 サクラコはただ、じっと俯いたまま、肩を震わせる事しか出来なかった。

 

「……他に、手段はないのですか」

「……うん」

「……先生が助かる方法は、ないのですか」

「内に、入られちゃった、から……難しい、ね」

「……時間を掛ければ、きっと」

「生徒、達を……汚染、させたく、ないんだ……」

 

 此処で私諸共死ぬのが、恐らく、最も被害が少なく済む。

 その言葉に、サクラコは思わず床を殴りつけた。彼女らしからぬ、やり場のない怒りや悲しみ、憎悪と云った感情に流された結果だった。聖堂の床が砕け、カーペットが窪む。彼女は荒い息を繰り返しながら、自身の頬を伝う涙を自覚した。涙が止まらなかった。感情の波が向けられるのは、自分だ。何も出来ぬ、自分自身。こうして、嘆き、悲しみ、怒り、狂い掛ける事でしか己を保てぬ弱さ――それこそ、自身が捨て去りたかった筈のものなのに!

 先生は、そんな彼女をただ、じっと見つめていた。

 

「……ごめん、サクラコ……ごめんね」

「――……謝らないで下さい、先生」

 

 それは、私達の台詞の筈だ。

 その言葉を、サクラコは辛うじて飲み込んだ。それを口にした所で、返って来る言葉が容易に想像出来たからだった。それは、これから散り行く先生にとって重荷でしかない、背負うのは私だ、私達だ――それだけは間違ってはいけなかった。

 サクラコは静かに立ち上がる。震える指先で、受け取った銃の安全装置を弾き、そっと構える。

 何て事の無い拳銃だった、普段扱い慣れた愛銃に比べれば羽の様な軽さだった。

 けれど今は、何よりも――重い。

 それも、仕方ない事かもしれない。その銃口を、絶対に向けないと誓った相手に向けているのだから。だから、視界が滲むのも正常で、銃口が定まらないのも正常で――。

 

 ――古い、経典の話ではありますが。

 

「先生、先生……」

「う、ん……何、だい……?」

 

 構えた銃口が震えた。いや手全体が震えていた。引き金に伸びる指先が、凍る様に冷たい。グリップを握る手に力が入らない。油断すると、歯が鳴り始めそうだった。それは恐怖だった、或いは、それを上回る何かだった。

 人は、それを以て絶望と呼ぶ。

 

 ――主が人と成る奇跡を『受肉』と云い、それは主の性質に人としての性質を付け加えるのだと云います、主である事をやめるのではなく、御子である主のまま人となられるのだとか。

 

「こ、こんな、こんな最期の為に、あなたは……先生は、此処までやって来たのですか……? こんな、こんな……報われない、最期の為にっ……?」

 

 ――主でもあり、人でもある、半分ずつなどではなく、どちらの性質も完全に備える存在……主が人となって下さり、私達と共に歩み、寄り添って下さる、本来罪を嫌う筈の主が。

 

 涙交じりの声に、先生は答えない。

 ただその首が揺れ、最早頭を保持するだけの力もなく、視線が左右へと散り始める。浸食が進んでいる――きっともう、話す事さえままならない。首元まで滲み出す黒色は、先生の頬を食い尽くさんと手を伸ばす。

 サクラコの言葉を聞いているのか、いないのか、それすら分からない程に先生の体は崩れかかっていた。或いは、このまま何もせずにいるだけでも、先生はその存在を喪うだろう。けれどその先に待つのは――先生ではない何かだ。(奇跡は起こらず、必然が残る)

 

 ――それは、とても幸せな事だと思いませんか?

 

「わ、た……し、は――」

 

 先生の朧げな瞳が、サクラコを捉えた。

 もう、何も映していないであろう、極彩色の瞳が。

 もう、見えていない事は確かだった。それでもサクラコは、必死に笑おうとした。

 笑おうとして――失敗した。

 先生の瞳に映る自分は、大粒の涙を流しながら引き攣った笑みを浮べる、道化の様な顔をしていた。

 嗚呼、これでは、先生が安心して往けないだろう。そう自分に言い聞かせるのに、出て来るのは嗚咽と、涙と、震えばかり。

 

 ――私達と、人となられた主の違いは、たった一つ。

 

 無意識に、サクラコの手が伸びた。崩れかかる、先生の頬に。

 もうじき冷たくなるであろう、その()だらけの頬を。

 優しく、慈しむように、そっと、彼女の指が撫でた。

 

 ――罪を持つか、持たぬか。

 

「やだ……」

 

 先生、あなたは良く、罪悪という言葉を使っていましたね。

 

「撃ち……たく、ない……ッ!」

 

 腹の奥から、声を、言葉を、絞り出す。

 俯き、全身を震わせ、歯を打ち鳴らす彼女は赤子の様に背を丸め――けれどその指は、確かに引き金に届いた。

 あれ程凍り付き、伸びなかった指先が、漸く。

 銃口の揺れが酷い、狙いなど付けられない。

 

 嫌だ、撃ちたくない、殺したくない。何でこんな事になった? 何でこんな結末になった? 

 酷い、誰が、どうして、誰を憎めば、誰の責任で、どこで間違った。どうすれば、何をすれば、許せない、この人は――こんな死に方をするべき人ではないのにッ!

 

「サク……ラ、コ」

「ッ……!?」

 

 先生の声が、サクラコの鼓膜を震わせた。

 その、崩れかかった手がそっと、銃口に添えられる。

 ぴたりと、銃口が先生の額に吸い付く。

 それを、サクラコは涙に塗れた表情で、見つめる。見つめるしかない。

 震えが――止まる、止められる。

 二人の視線が、重なって。

 サクラコは、呆然と声を返した。

 

「は……い、先生――……」

 

「……――ありがとう」

 

 ■

 

 (あか)が明ける。

 

 世界を覆っていた朱色が、蒼天へと塗り替わる。

 空は蒼く、雲は白く――聖堂に差し込む光は美しく、その紋様を照らし輝かせる。

 外から、誰かの歓声が聞こえた。暴走していたあらゆる存在が消滅し、消え去って行くのが分かった。先生の持っていたタブレットの電源が、再び入る。通信網が、回復する。

 一斉に鳴り響く、通知音――生徒達からの歓喜の声。

 先生が全てを解決したと信じて疑わない、無垢の声。

 

「あぁ……――」

 

 サクラコはそっと息を吐き出す。硝煙を立ち上らせる銃を手放し、その場に座り込む。自身の足を濡らす赤色を呆然と見つめながら、ただ、息を。

 胸が苦しかった、言葉はなかった。ただ、自分の為した結果だけが目の前に横たわっていた。その結末を、分かっていたと云うのに、結局最後まで自分は、自身の意思すら貫く事が出来なかった。

 ただ、先生に云われるがままに、先生に手を引かれるがままに――ありがとう、だなんて云わせて。

 微笑みを浮べたまま息絶えた、その表情が――。

 

「あ、ああ、ぁああ……――」

 

 頭を抱え、蹲る。先生の黒ずみ、崩れ落ちた腕に縋る。微かな体温を感じさせるソレに、嗚咽を零しながら。

 

 私は、正しきを為した。

 救いを、為した。

 これが、私が最後に出来る先生への恩返しであった。

 

 タブレットが鳴る。

 生徒達の歓声が響く。

 

 先生に送られるメッセージは(軈て怨嗟に変わる声は)、止まらない。

 

 

 この後、急激に空が元の蒼穹に戻った事に喜ぶ補習授業部と、唐突に脅威が去った事に疑問を抱くハナコが、「もしかしたら――」と仮説を立て、古聖堂に向かって欲しい。そこで呆然とした表情で座り込むサクラコと、長椅子に寄り掛って、静かに息絶えている先生を目撃するんだ。ヒフミは最初、それを眠っているだけか何かだと思って、「先生……!」と歓喜の表情で突撃するんだけれど、先生がどうなったのか察したハナコが、「待って、ヒフミちゃん……!」って叫んで、アズサも遠目から先生の状態を察知し、「ヒフミ!」って叫ぶんだけれど、その時にはもう直ぐ傍まで駆け寄ってしまって、額を撃ち抜かれた先生を見つけるんだ。うぅ、満面の笑みを浮べていたヒフミが徐々に血の気を喪い、「せ、んせ……い?」って力なく呟く姿を想像するだけで胸が暖かくなっちゃう……。

 

 生徒を傷つけたくないという想いからの先生独りよがりルートに入ると、多分こんな結末なんじゃないかなぁ。守護者相手に何度も切り札を切って、黒服から注意されていたのに、何度も何度も。それでも身を切り捨て続けた結果、侵略者と一緒に心中する事を選ぶんだから生徒達可哀そう……。

 

 因みに本編でもカードを使い過ぎるとこのルートに入りますわ~! 本編でも外伝(前世界)でもそうですけれど、先生には最後の最後に、たとえどれ程上手く事を運んで、生徒全員を救ったとしても、【必ず最期に絶大な代償と共に大人のカードを使う】必要がありますので、それまでに、ほんの少しずつでもカードを使っていたら、その積み重ねでアボンしますわよ~ッ! まぁこれは現時点での先生の結末なので、書いている途中に気が変わるかもしれませんが、その可能性は限りなく低いですわ~ッ! だって先生には最後まで苦しんで欲しいし。

 生徒に見られながら大人のカードを使って、その指先から徐々に罅割れ、黒ずみ、急速に死に向かっていく先生を眺めるのも一興でしてよ~? ほら、エンディングですわよ、泣きませんと。

 生まれた時は皆周りが笑って、あなたが泣いていましたわ。だから死ぬ時くらい、あなたが笑って、周りが泣いている最期を迎えたいですわね! 夢が叶いましたわ~ッ!

 よかったね先生。

 

 皆さんが何で前回我慢したのって云うから、ブッパしましたわよ。

 これが私の覚悟で過酷ですの。

 今回何万字になると思いまして? 今回25,000字ですわよ。一話にしては重すぎますわよマジで。1日10,000字投稿レベルじゃありませんの。私の中で「本編より文字数少ないからヨシ!」の理論が崩れますわ、理論は大事ですわよ、どれくらい大事かというとお弁当について来る緑のギザギザの奴くらい大事ですわよ。あれって何の役割で入っていますの? 見栄の問題ですの? 幼稚園とか保育園の壁に貼ってある草みたいな見た目ですわよね。

 因みにこういう「先生死亡シーン集、生徒の泣き顔を添えて」がBOOTHで百円で販売されておりますわ。興味のある方は探してみて下さいましね。大体実装されている生徒分は全部書きましたので。中には書き込み過ぎて五万字くらいいった生徒もいらっしゃってよ! 

 

 嘘ですわ。そんなもの存在しませんの、騙されてはいけませんわ。一回云ってみたかったんですの、「差分は〇ァンティアで!」とか、「〇OOTHで販売中です!」とか。何かクリエイターっぽいじゃありませんか。でも残念ですが今出せるものは全てハーメルンで無料公開されている分しかありませんの。ごめんあそばせ。

 それとサクラコ様、実装おめでとうございますわ、やはり覚悟を見せた方は違いますわね……私も、今回覚悟を示させて頂きましたわっ! 先生も手足を捥がれる覚悟をしておいてくださいねッ! エグイ角度のハイレグ着ろって意味ではございません事よっ!



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夜の大運動会、序曲

誤字脱字報告、かん↓しゃ~↑(ナツ)
今回は凡そ一万七千字、二万字じゃないからヨシ!


 

「あうぅ……結構降っていますね……」

「そうですねぇ……」

 

 補習授業部の休日。

 合宿期間とは云え、毎日が勉強尽くし――という訳でもなく。合宿中にもきちんと休日は設けられている。そして今日はその休日当日。丸々一日休みという訳ではなく、正確に云えば夕刻から自習という名の授業があるが、それでも自由度が段違いだ。折角の休日、皆が胸を弾ませ、大いに満喫しようと考えていた訳だが――天気は生憎の雨。

 窓から空を見上げ、心なしかしょんぼりとした表情を浮かべるヒフミ。本当ならば、少し外に出て日光浴を、などと考えていたのだ。

 

「んぅ……」

「あら、おはようございます、コハルちゃん」

「おはようございます、アズサちゃんは……まだちょっと起きられそうにないですね」

「ん……んんっ……」

「おはよ……あれ、アズサ、どうしたの? いつも早起きだったのに……」

 

 もぞもぞと布団から抜け出し、跳ねた髪を撫でつけ、ずり落ちた衣服を引っ張るコハル。そんな彼女の前には、布団に包まって唸るアズサの姿が。珍しい彼女の寝姿に、眠たげなコハルの目が僅かに見開かれる。

 

「今までは無理をしていたんじゃないでしょうか? 少し寝かせておいてあげたいですね、幸い今日は休日ですから」

「んん、だめ、可愛いものが……ふわふわ……それは、よくない……」

「それに……ふふっ、何だか良い夢を見ている様ですし♡」

 

 寝言を口ずさみつつ、枕を抱きしめるアズサ。その顔を覗き込むハナコはとても楽し気だ。

 ふと、窓の向こう側がパッと光り、轟音が鳴った。唐突なそれにヒフミとコハルが肩を跳ねさせ、声を上げる。

 

「わっ、か、雷ですか、今の?」

「か、雷!?」

 

 コハルが慌ててヒフミに並び外を見れば、雨も激しくなり、空は分厚い雲に覆われている。これは暫く止みそうにない、ヒフミはそんな事を思い、そっと溜息を吐いた。

 

「――あっ」

「……?」

 

 そんな風に過ごしていると、ふとハナコが声を上げた。その表情は、どこか蒼褪めている。

 

「どうしました、ハナコちゃん?」

「忘れていました……その、洗濯物が外に……!」

「えっ!?」

 

 その一言に、ヒフミは体を硬直させた。そういえば、昨日の夜に洗濯を――洗って、干して、今は……この土砂降りの中、外に!? 椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がったヒフミは、大いに慌てながら駆け出す。コハルも状況を理解したのか、ヒフミの後に続いて部屋を飛び出した。

 

「ま、まずいですっ……!」

「早く取り込まないと……!」

「ごめんなさい、私がうっかりして……!」

「い、今は後! はやくっ!」

「ん、んっ……ん?」

 

 どたばたと、外へと駆け出していく補習授業部。そんな中、最後まで夢の中に居たアズサは音に反応して目を覚まし、のそのそと布団から這い出た。そして周囲を見渡し、ぼやけた視界の中に皆が居ない事に気付く。

 

「あ、あれ、皆? ど、何処に……ま、待って、私もいく……!」

 

 寝巻のまま慌てて立て掛けていた銃を手に、廊下へと飛び出すアズサ。一先ず、音のする方へと駆け出し、皆の後を慌てて追い掛けた。

 

 ■

 

 そして――洗濯物騒動から凡そ、四十分後。

 補習授業部は全員揃って水着に着替え、体育館に集合していた。

 

「――さて、では記念すべき第一回、補習授業部の水着パーティーを開催します♡」

 

 そう、とても楽しそうな表情で宣言するのはハナコ。彼女の楽し気な声に反し、周囲の空気は暗く、淀んでいる。薄暗い体育館の中央、雨が天井を叩く音だけが周囲に響き、隣には水着姿の生徒四名と先生が一人。

 状況だけ見れば、正しくカオスだろう。

 

「あぅ……」

「………」

「なんで、どうしてこんな事に……」

「へぶしっ!」

 

 ハナコ以外の生徒は皆、何とも云えない表情で佇み、赤面し、意気消沈している。アズサは薄暗い体育館と水着の友人達を見渡し、それからぽつりと呟いた。

 

「色々と……凄い状況だ」

「うふふっ、まぁ仕方ないじゃないですか♡」

 

 ――事は、さかのぼる事四十分前。

 

 ■

 

「多分、これで全部だ」

「これは、見事に全滅ですね……」

 

 そう云って、目の前に積まれた洗濯物を見つめる補習授業部。土砂降りの雨の中、洗濯物を慌てて回収して回ったのは良いものの――干していた洗濯物は軒並み全て全滅しており、とても着用に耐えうる代物ではなかった。

 ハナコは手前の制服を一枚掴み、思わず呟く。

 

「泥も跳ねちゃっていますし、洗い直さないと……」

「体操着も凄い事に……うぅっ、中まで全部濡れちゃってるし……」

「それはコハルが途中で転んだからだ」

「だ、だって、あそこ地面がぬかるんでいたんだもん……!」

 

 一枚一枚、一応確認してみるが、どれもこれも濡れているか泥にやられてしまっている。こうなると全部洗い直し、もう一度干さなければならない。

 

「ごめんなさい、つい失念していて……私が一緒に洗うと云い出したせいで」

「いや、ハナコのせいじゃない、洗濯はもう一度すれば良いし、服は着替えれば良い、そんな気に病む事ではない」

「天気予報では晴れだったし、仕方ないんじゃない……?」

「はい、そうですよ! 濡れた服のままですし風邪をひいてしまいますし、まずは着替えてしまいましょう!」

「……ありがとうございます、そうですね、髪も乾かさないと」

 

 そう云って、一度立ち上がる補習授業部。洗濯物を取り込む過程で、皆も濡れ鼠になってしまっていたので、一度着替え、髪を乾かす必要があった。

 しかし――。

 

「……あ」

「? どうしました、コハルちゃん」

「……もう、着るものが無い」

「えっ」

 

 コハルがバッグを漁りながら、呆然とした表情で呟く。

 ヒフミはその言葉に目を瞬かせ、アズサも同じように背嚢を探りながら言葉を漏らした。

 

「む、そういえば私もそうだ、制服もこの体操着もびしょ濡れで、他に予備の服が無い」

「え、あれ……? あっ……」

 

 ヒフミはまさかと思い、愛用のペロロバッグを探ってみるが、ヒフミも手持ちの服を軒並み使い果たしていた。この、今着ている服が最後の一着だったのだ。今ではそれも、濡れてしまっているが。

 

「……あらあら♡ まぁ、下着姿で勉強というのも、とってもアリだと思いますよ?」

「何言ってるの!? 馬鹿! そんな破廉恥なのダメっ! どうしてそういう方向になるの!?」

「ふむ、しかし話は分かる、下着は多めに用意してあるし、靴下も履いておけば体温の維持は問題なさそうだ」

「し、下着に靴下……?」

「変に同調しないで!? 教室でそんな恰好、やばいでしょ!?」

「ですがコハルちゃん、想像してみて下さ――」

「しないッ! あんたはもう黙っててッ!」

 

 下着に靴下という、非常に犯罪的な絵面を想像したコハルが、普段よりやや圧強めの言葉を発する。湿った衣服を手で引っ張る彼女は、部屋の隅に纏められたドライヤーを指差しながら叫んだ。

 

「ささっと洗って、ドライヤーでも何でも使って乾かせば良いでしょ!? その間はバスタオルとか巻いておけば良いし! 何なら先生に服を買いに行って貰うとか……!」

「あー、えっと、それは難しいかもしれません、そのー……」

 

 そう云って、どこか申し訳なさそうな表情で、先生の下着と服を手に取るヒフミ。コハルがアテにしていた先生の衣服、それも軒並み全滅であった。

 

「先生の、服も……えっと、泥だらけに」

「そう云えば、コハルちゃんが取り込んでくれたんでしたよね」

「うぐっ……!」

 

 泥を被り、とても着れそうにない衣服を前にして、コハルは思わず唸る。確かにこれでは先生も外出どころではない。風邪をひいてしまうだろう。アズサは冷静に状況を判断しながら、一先ず体温の確保を優先させる為に云った。

 

「ふむ、兎に角濡れたままというのは拙い、取り敢えず脱ごう」

「あうぅ……仕方ないですよね、流石に風邪はひきたくないですし、私も脱ぐしか……」

「そうですね、取り敢えず裸になりましょうか♡」

「何でみんなそんなに脱ぎたがるの!? 露出は犯罪なんだよっ!?」

「いや、だって服が冷たいですし……」

 

 裸と濡れた衣服では、後者の方が体温を奪われる。ならば一時とはいえ、裸になる他ない。羞恥心に顔を染めながらも、いそいそと着替える補習授業部――そんな彼女達を、更なる苦難が襲った。

 唐突に、部屋の電気が落ちたのだ。

 一瞬にして暗闇に支配される部屋、その中で戸惑いの声だけが響く。

 

「えっ、な、なに!?」

「これは、て、停電ですか……?」

「落雷のせいでしょうか?」

「……元々掃除もされていない様でしたし、もしかしたら電気系統も――」

 

 土砂降りのせいで部屋は薄暗く、宛ら夜の如く。皆が右往左往する中、アズサはどこか気まずそうに声を上げた。

 

「……ヒフミ、問題が発生した」

「えっ? な、何ですか……?」

「このままだと洗濯機が動かせない、あと、ドライヤーも……とても困った」

「あっ……」

「……!?」

「あら」

 

 ■

 

 そして、濡れた服を着る訳にもいかず、唯一無事だった衣服である水着を着用し――現在に至る。

 

「こうなっては、パジャマパーティーならぬ、水着パーティーくらいしかする事はありませんからね♡」

「あぅ……な、何か他にありそうな気はしますが……」

「あら、私は下着パーティーなどでも構いませんが♡ 確かに良く考えると、他にも幾つかありそうですね、例えば、そう、全裸パ――」

「わぁぁああッ! やめてよッ!? ヘンタイ! 卑猥! 先生も居るんだよッ!?」

「しかし、うぅむ、こうなると合宿どころではないし……こんな落雷程度で全部の建物が機能不全だなんて、酷いセキュリティだ」

「あはは……まぁ、古い建物ですし」

「へぶしっ……!」

 

 皆がそれぞれ意見を述べる中、先生は小さくくしゃみを漏らす。それも然もありなん、補習授業部の面々がスクール水着を着用する中、先生だけはトランクスタイプの水着一枚。水着と云うか、先生の場合は完全に下着と同等である。上半身は裸で、心なしか肩が震えている。その様子を見ていたヒフミは先生の肩をそっと摩りながら、心配そうに問いかけた。

 

「せ、先生、大丈夫ですか……?」

「いや、大丈夫だよ、ただちょっと、布面積が少ないかなぁって」

「先生の場合、本当に下着一枚だけみたいな感じですからね……」

「むぅ、毛布か何かあれば良いのだけれど」

「この暗い中探すのもね……部屋のタオルケットでも持ってくれば良かったかな」

 

 空の具合は未だ悪く、曇天は太陽の光を殆どシャットアウトしてしまっている。周囲は宛ら夜の如き暗さで、電気も付けられない以上、迂闊に倉庫などを探索する事も出来なかった。

 

「ふむ、確かこういう時は人肌で温めるのが良いとか何とか……」

「えッ!?」

「あら♡」

「あ、アズサちゃん!?」

 

 小さく震える先生を心配したアズサは、暖を取る手段が無い場合の最終手段を思い浮かべ、その様な事を口走った。

 

「安心しろ、私は体温が高い方だ……ほら、こうすれば多少は暖かいだろう」

「む……おぉ、何だろう、(ぬく)い……」

「ふふっ、なら良かった」

 

 アズサは先生の傍に歩み寄ると、膝を抱えた先生の背中に、自身の背中をそっと預ける。背中が一番接触面積が広いという理由だったが、先生の背中はアズサの想像していたよりもずっと大きく、アズサは内心で少しだけ驚いた。

 

「あらあら、アズサちゃんったら……でもそうですね、人肌で温めるのが一番かもしれません♡ 元々、これは私が招いた結果の様なものですし、私も僭越ながら……」

 

 そう云って楽し気に先生の横に詰めたハナコは、そっと先生の肩に自身の肩をぴったりと張り付ける。その肌から直接伝わって来る暖かさに、先生の表情が液体の様に溶けだした。

 

「あー……すごい、これ、すごい……」

「え、えっちなのは駄目ッ! 二人共、何考えてんの!?」

「でもコハル、実際これが一番合理的だ」

「そうですよ、皆で先生を温めてあげましょう♡」

「なだっ!? こッ、ち……!?」

「コハル、口が回っていない」

 

 顔を真っ赤にして口を開閉させるコハル。余りの事に思考がスパークしてしまっているのだろう。しかしどうか許して欲しい、今に限っては下心は殆どないと云っても良い。本当だよ、嘘じゃないよ、先生は強く思った。

 

「う、うぅ……でも、確かに他に方法もなさそうですし」

「ひ、ヒフミ!? 駄目っ、こんな事に流されちゃ……!」

「で、でも、元々は私達が……いえ、先生の服に関してはハナコちゃんが持ってきたものですけれど……それでも勝手に洗濯したのは私達ですし……」

「あ、うぐぅ……」

 

 泥に足を取られて先生の服を駄目にしたのは自分である事を思い出したコハルは、思わず口を噤む。確かにこうなった責任は自分にも――十分の、いや、百分の一くらいはあるかもしれない。生来生真面目な彼女は、そんな風に考えてしまった。しかし、それはそれとして先生を人肌で温めるなんて、そんな卑猥でえっちな事、断じて看過出来る筈もなく。

 

「な、なら、別にこんな所に集まる必要なんてないじゃん! 部屋で大人しくしていれば良いでしょう!? タオルケットだってあるしっ!」

「あら、ですがこういう時間こそ合宿の花だと思いませんか? みんな寄り添って、お互いの深い部分を曝け出し合う……雨も降っている上に停電で何も見えませんし、雰囲気は最高です!」

「ふむ……?」

「うふふっ……♡ 折角の休み時間、そうやって有意義に過ごしませんか?」

「た、確かに合宿の定番という感じはしますけれど……」

「……成程、それがこの合宿パーティという訳か」

「いやいやいや納得できないし! 水着と掛け合わせる意味あるの!?」

「あはは、それは、確かに……?」

「まぁまぁ、それも含めて楽しんだもの勝ちですよ♡ あ、別に私は裸――」

「云うなぁッ!?」

 

 コハルが叫び、音量でハナコの言葉を掻き消す。こいつの場合、本当に全裸でパーティをやりかねないという謎の信頼がコハルの中であった。もし、そんな事になったら大乱闘でスマッシュで、シスターズで、自分も強制参戦だ。それだけは絶対に阻止すると、コハルは鼻息荒く猫目になっていた。

 そんな彼女を尻目に、ハナコは満面の笑みのまま告げる。

 

「――という事で皆で温まりつつ、お喋りをしましょう! 話題は何でもアリという事で♡」

「な、何でも?」

「ふふっ、私こういう事、すっごくしてみたかったんですよね、なのでちょっとテンションが上がっていると云いますか……」

「あ~……ハナコ、凄く楽しそうだよねぇ」

「先生は凄く気持ちよさそうですね♡」

「うん、人肌が温かくてね……なんだか、温泉にでも入っている気分だよ」

「あら、それは光栄です♡」

「体温が高くて良い事なんてないと思っていたけれど、こういう時は役に立つんだな、勉強になった」

「うぅ……わ、分かりました、なら、取り敢えず私はこちらに……」

 

 皆で先生を温める光景を、右往左往しながら眺めていたヒフミは、ひとり覚悟を決めハナコの反対側へと足を進める。そして顔を隠しながらも先生の傍に屈みこみ、その肩をそっと掴んだ。

 

「し、失礼します、先生……」

「ふふっ、その云い方、なんだかイケナイ御店みたいですね♪」

「えっ……!?」

「やめてハナコ、先生ヴァルキューレに通報されちゃう……!」

「あら? でも確か、キヴォトスに於いて先生と生徒の恋愛は――」

「わああぁあああッ!?」

 

 再度、コハルの叫びがハナコのそれを掻き消す。それを聞いたら最後、何故か分からないが大戦争が起きそうな予感がしたのだ。それは正義実現委員会としての勘か、それとも別の何かか。兎も角、これで自分以外の補習授業部は皆、先生の傍に固まってしまった――エッチなのは駄目だ、死刑だ、しかしそれはそれとして、先生の体温が心配というのも分かる。コハルは猫目のまま唸り、二度、三度先生と自分の手を交互に見つめた後、ずんずんと彼の元へと足を進めた。

 

「っ、ぐ、ぎ……し、仕方ないから、今回だけ、今回だけは大目に見てあげるッ!」

「おぉ、ありがとうコハル……これでこの温もりを奪われたら、先生本当に風邪ひくところだったよ……」

「っ、ふ、ふん!」

 

 云うや否や、コハルは自身の手を突き出す。差し出されたそれはぶっきらぼうで、意図が分からず、先生は首を傾げた。

 

「……?」

「せ、先生の手、出してって云っているのっ!」

「あぁ、うん、ごめん……はい」

 

 促され、先生は自身の手を伸ばし、コハルのそれを握る。彼女の手は大人の先生と比べれば小さく、けれど暖かかった。

 

「え、エッチなのは駄目だから! でも、手を繋ぐ位は許してあげるっ!」

「……コハルの手も暖かいねぇ」

「ふふっ、何だかんだで皆集まりましたね……私、こうやって皆で何かをしたり、燥いだりするの、夢だったんです♪ 今、とっても楽しいんですよ」

「あぁ、気持ちは分かる、何なら私も補習授業部に入って以来、ずっとそういう気持ちだ」

「あら、そうなんですか?」

「うん、何かを学ぶという事も、みんなでご飯を食べる事も、洗濯も掃除も、その一つ一つが新鮮で……とても楽しい」

「まぁ……♡」

 

 アズサはそんな言葉を、どこか嬉し気に、そして遠くを見て話すのだ。それは、目に見えぬ誰かに語り掛けている様にも見えた。

 

「水着は泳ぐ時にだけ着るものだと思っていたのに、こんな活用方法があるなんて事も初めて知った、知らなかったことを知れるというのは、楽しい事だ」

「み、水着の件はちょっと違う様な……?」

「でも、動きやすいし通気性も良い、とても機能的だ、ハナコがこれを着て学校を歩いていたというのも納得がいく」

「そうですよね? ほら、だから云ったじゃないですかコハルちゃん♡」

「いやそれで外を歩くのは犯罪だから! 納得しちゃダメ! 公然淫猥罪だよ!?」

「うん、コハルと一緒に勉強するのも楽しい」

「っ!? きゅ、急に何!? 何でそんな恥ずかしい事云うの!?」

「あらあら♡」

 

 急激なアズサ褒め殺しトークに、コハルはそういった事に慣れていないのか、頬を赤らめながら顔を背ける。対するアズサの目はどこまでも真剣で、愚直とも云える程であった。だからこそ、それが嘘偽りのない言葉だという事が分かって、尚更彼女の感情を煽る。

 

「ま、まぁ? 私みたいなエリートと一緒に勉強して、為になる事は多いと思うけれど……」

「うん、本当にそうだった」

「アズサちゃん……最初は余り表情の変化も読み取れなくて心配でしたが、今ではもうすっかり馴染んで……本当に良かったですっ」

「勿論ヒフミもだ、本当にいつも世話になっている――ありがとう」

 

 その言葉に、ヒフミはアズサがモモフレンズに共感を示してくれた初めての友人という事もあって――思わず涙ぐみ、彼女へと抱き着いた。無論、先生も一緒である。何とかの間に挟まる男……というフレーズが頭を過った先生であるが、努めて表情に出す事はなく、菩薩の様な微笑みで以てやり過ごした。

 

「あ、アズサちゃんっ! うわーんッ!」

「うぐ、ひ、ヒフミ……少し息苦しい」

「……うんうん、美しい友情だね、先生も胸が暖かくなる気持ちだよ」

「あら、温かくなるのは胸だけですか、先生? ふふっ」

「そ、それどういう意味……?」

 

 どうかコハルは知らないままで居て欲しい、強くそう思う。

 あとハナコは視線下に向けないで下さい、お願いだから。

 

 ■

 

 そこからは兎に角、色々な事を話した。

 これぞ合宿の華と云わんばかりに、本当に色んな事を。

 

「そう云えば今、トリニティのアクアリウムで、ゴールデンマグロという希少なお魚が展示されているらしいですね」

「あ、それ私もパンフレットで見ました! 幻の魚と呼ばれているんですよね?」

「あぁ、あれか……」

「あら、先生は既にご覧になっていたので?」

「うーん、見たというか、何と云うか……」

「?」

「まぁ、色々あってね……皆もそういうのに興味があるの?」

「私は、まぁ、普通……?」

「でも、やっぱり幻の魚なんて云われたら、ちょっと気になりますよね」

「そのゴールデンマグロ、どうやら近くの海で発見されたらしいのですが、見に行こうにも入場料も安くは無いので……」

「なら入場料は私が出すから、今度皆で見に行こうか?」

「えっ、良いんですか先生!?」

「勿論、展示はまだ少し先までやるみたいだし、合宿が終わったらね」

「む、それは助かる」

「ありがとうございます!」

「あら、先生太っ腹ですね♡」

「ま、まぁ、皆が行くなら……」

「ふむ、それにしても海か……思い返せば一度も行った事が無いな」

「そ、そうなんですか!? アズサちゃん、一回も……!?」

「うん――いつか見に行ってみたいものだ」

 

 ■

 

「水着で街や学園の中を歩くのは別に、そこまで変な事ではないですよ?」

「そんな訳ないでしょ!? 勝手に常識改変しないでっ!」

「ですが、これは私がシスターたちから聞いた話ですが……どうやらキヴォトスどこかの無法地帯では、水着で覆面を被り犯罪行為を行う集団が居るらしいんです」

「は、はぁ!? 水着に覆面……ド変態じゃん!? なにそれ!? っていうか犯罪集団じゃないっ!? そんなの何もしなくたって、見た目からして既に犯罪よ!」

「そういう集団があるくらい、他の地域では普通なんですよ? ですからコハルちゃん、今度一緒に――」

「いやっ! 何云い出すか分からないけれど、とりあえず嫌っ!」

「あら、振られてしまいました……では、アズサちゃんは――」

「うん? 私は別に構わな……」

「あ、アズサを変な道に引き摺り込もうとするな! 変態! 水着馬鹿ッ!」

「あ、あはは……」

 

 ■

 

「そういえば先生、料理の技術はどこで学んだのですか? いつも朝ご飯、とても美味しく頂いていますが……」

「うん? そりゃあ、まぁ、男の一人暮らしだからね、自然と上手くなるものだよ、最初は市販モノばかりだったけれど、出費も嵩むし、後は……師匠の指導の賜物かなぁ」

「えっ、あの朝ご飯って先生の手作りなの!?」

「コハル、知らなかった?」

「わ、私も知りませんでした……先生、いつの間に……!?」

「私とアズサちゃんは偶に早起きして、先生のお手伝いしていましたからね」

「まぁ自分を入れて五人分くらいならね? 私の師匠はもっと凄かったよ」

「師匠って、先生に料理を教えてくれた人?」

「そうそう、一日で数千人分の食事を毎日作っていた凄い師匠さ」

「数千!? な、なにそれ……!?」

「す、凄いですね……」

「料理自体は凄く丁寧で早いんだけれど、忙しさが極まると動作が高速化して、分身している様にも見えたんだよなぁ……」

「え、えぇ……」

「それ、本当に人なの……?」

「あと結構な頻度で拉致されていたな」

「拉致!?」

「な、なにそれ、犯罪じゃん!?」

「あら、物騒ですね……」

「むぅ、それ程の腕を持った料理人……という事か?」

「あはは……ある意味ではそうだったかも」

 

 ■

 

「――つまり、ペロロ様の魅力はそこに詰まっていると云っても過言ではないんですよ!」

「え、えぇ……よくわかんない……」

「ヒフミちゃん、モモフレンズが本当に好きなんですねぇ」

「うん、あれは実に良いものだ、ヒフミの気持ちは良く分かる」

「先生! 先生はモモフレンズの中で誰が一番好みですかっ!?」

「私かい? 私はね……うーん、やっぱり王道のペロロかなぁ」

「せ、先生っ!」

「……先生もあの変な鳥、好きな側なんだ」

「好きって云うか、何か憎めない顔っていうのかなぁ、愛嬌のある顔だと思うよ?」

「ふふっ、でもちょっと分かりますね」

「き、来ていますよアズサちゃん! モモフレンズブームがっ! 徐々に、受け入れられている気がします!」

「うん、この調子でどんどんモモフレンズの良さを広めていこう」

 

 ■

 

「アズサちゃんはもっと、夜はきちんと眠った方が良いと思いますよ?」

「……うん、今朝は寝坊して迷惑を掛けてしまった、すまない」

「い、いえ、そんな」

「慣れない場所で寝坊なんて、これまで殆どなかったのに……ふむ、もうここは、慣れない場所ではないからかもしれないな」

「確かに、私達もう此処に一週間近く居ますから……」

「兎に角、もっとしっかり眠らないと、深夜の見張りは減らして頂いて」

「見張り……? なにそれ」

「あぁ、毎晩夜中にちょっと見張りを――」

「何かあったら私の方に通知が来るし、アズサも少し休んで欲しいな……ハナコも、みんな、アズサの事を心配していたよ?」

「そう、なのか……?」

「それは、やっぱり同じ部活の仲間ですし……」

「そうか……ごめん――実は、見張りは言い訳で、ブービートラップとかを設置していたんだ」

「ブービートラップ?」

「それは……どうして、また?」

「ん、心配しないで、此処に悪意を持って侵入しようとするルートだけに設置しているから、普通に生活する上では安全面に問題はない」

「アズサ、そのトラップって――」

「大丈夫、殺傷性はない」

「……成程、ですがそれならそれで教えて頂けると嬉しいです、どうしても心配しちゃいますから」

「……そうか、うん、これからは気を付ける――私のせいで、先生とみんなが被害を受けるのは望むところじゃないから」

「やっぱり、アズサは優しい子だね」

「なっ、こ……子ども扱いしないで、先生、別に私は――」

 

 不意に、アズサの言葉が詰まった。先程まで流れる様に続いていた会話が、ふと止まる。

 薄暗い体育館の中で、アズサの表情が陰に覆われ見えなくなった。俯いた彼女はただ、小さく、絞り出すような声色で言葉を紡いだ。

 

「だって、この世界は全てが無意味で、虚しいものだ、だから、もしかしたら……」

 

 ――もしかしたら、(アズサ)は。

 

「私はいつか裏切ってしまうかもしれない……皆の事を、その信頼を、その心を」

 

 それは、彼女が本来持っていない筈の色。この補習授業部という場所に入り浸り、絆を紡ぎ、思い出を共有したからこそ出来てしまった――情。それを惜しむ感情の顕れ。

 裏切りたくなどない、けれど自身の全てを知った時、彼女達はどう思うのか。

 それを考えると、少しだけ――怖い。

 

「――………」

「アズサちゃん?」

「……?」

 

 彼女の境遇を知っているか否か、それが皆の反応を分ける。ハナコは真剣な瞳でアズサを見つめ、ヒフミはその態度に違和感を覚え、コハルは何の事だとばかりに疑問符を浮かべる。

 そんな彼女達を、ふっと、光が照らした。

 

「あ、電気が――」

「直ったみたい、ですね」

 

 再び光に照らされた時、アズサの表情には陰の欠片も残ってはいなかった。いつも通りの仏頂面で、どこか満足気に背を正し、告げる。

 

「うん、じゃあ第一回水着パーティーはここで閉幕か、二回目も楽しみにしている」

「に、二回目とか無いから! こんなの最初で最後だから!」

 

 そんな言葉と共に、その休日は洗濯をして、幕を閉じた。

 

 ■

 

 ――とはならないのが補習授業部である。

 

「――いいえ、まだです! このまま一日が終わりだなんて、そんな勿体ない事はさせません!」

「は、はい……?」

「?」

「な、なに?! 急に飛び上がって、ビックリした……」

 

 洗濯と乾燥を済ませ、漸く一息吐き、後はシャワーを浴び、寝るだけ。そんな状況になった時、ハナコは唐突に叫んだ。その瞳には、過去類を見ない程の熱意と欲望が宿っている。総出での洗濯作業にやや疲れを滲ませ、各々のベッドで思い思いに過ごしていた皆は、彼女の声に肩を震わせ驚いた表情を浮かべる。

 

「突然の事でしたが、折角のお休みじゃないですか、みんな裸で交わったのに、このまま、はい、おやすみなさいだなんて――」

「勝手に記憶を捏造しないで! 裸じゃないからッ!」

「それは兎も角、このまま寝てしまうのは勿体ないです、まだ火照っているといいますか、物足りないと云いますか……」

「具体的には?」

 

 アズサが首を傾げ、そう問いかければ――それを待っていたとばかりに瞳を輝かせていたハナコが指先を立て告げた。

 

「うふふ♡ 合宿といえば、やはり合宿所を抜け出す事……それも一つの醍醐味だと思いませんか?」

「え、えぇ……?」

「さあ! 今から皆でこっそり外に出て、お散歩しましょう♡」

 

 そう云って窓の外を指差すハナコ。幸い雨は上がり、天候も回復している。外出しようと思えば可能ではある。しかし外は暗く、既に時刻は夜――しかし、それが寧ろハナコの琴線に触れている様子だった。

 

「何ならトリニティの商店街は夜遅くまで営業している御店も沢山ありますし、食べ歩きとか、ショッピングも出来ますよ!」

「そ、そんなの校則違反じゃん! 駄目ッ!」

「細かい校則は把握していませんが、結構皆さんこっそりやっていると思いますよ? 意外とそういう方、周りに居ませんか、ヒフミちゃん?」

「あ、あはは……そ、そう、ですね……」

 

 まさか自分がブラックマーケットに行っています、とは云えないヒフミは、曖昧に笑って誤魔化す。しかし実際、周囲にちょっとした外出、寮を抜け出して遊びに行く――なんて話は良く耳にするのだ。堅苦しい校則、校風を持つトリニティだからこそ、そういった息抜きを好む生徒は少なくない。

 

「で、ですが普段であればまだしも、今は補習授業部の合宿中ですし……良いんでしょうか?」

「遠出する訳でもありませんし、直ぐそこですよ、コハルちゃんも如何ですか? きっと楽しいと思いますよ」

「ぅ……え、っと、正直、その、きょ、興味はある、けれど……」

「――という事ですが、どうでしょうか先生?」

「話は聞かせて貰ったッ!」

「わっ……せ、先生!?」

 

 ハナコの合図と共に、扉を開け放って入室する先生。心なしか腕が伸びている様な気がしたが、目の錯覚だった。洗い立てのシャツを着た先生は、いつも通りの笑みを浮べつつ、訳知り顔で強く頷いて見せる。

 

「息抜きは大事だからね、楽しそうだし、良いよ、許可するとも」

「ふふっ、ありがとうございます♡」

「えっ、良いの!?」

「――準備は出来ている、直ぐにでも出発出来るぞ」

「アズサちゃん!? もう着替えたんですか!?」

「先生も準備万端、財布も完備、カードもあるよ!」

「せ、先生……?」

 

 制服に着替え、何時でも出発出来ると目を輝かせるアズサ。財布を片手に完全外出モードの先生。一応監督という名目ではあるが、一緒になって楽しむ気満々の大人の姿がそこにあった。

 夜のお出掛けとか絶対楽しい奴である、これは参加せざるを得ない。先生が校則を破る側に回って大丈夫なのかとか、色々云いたい事はあったが、ヒフミはそれらの感情を呑み込み、そっとペロロバッグをそれとなく掴んだ。

 何だかんだ云いつつ――ヒフミもちょっと、楽しみなのだ。

 

「では、決定ですね♡ さぁ、準備していきましょう! 楽しくなってきましたね、深夜に裸で散歩だなんて……!」

「さりげなくすり替えないでッ! 服は着てッ!?」

 

 こうして、補習授業部の夜のお出掛けが始まった。

 


 

 果たして、先生がこんな幸せそうにしていて良いのだろうか……? 許せねぇですわマジで、透明感あり過ぎてフラストレーション爆発しそう。した結果が前回な訳ですが。

 ンギィ! 先生捥げろッ! 先生は生徒をデロデロに甘やかした後に目の前で爆発したり、四肢捥げて血塗れになって、それでも生徒を安心させるように笑って死ななきゃいけないってキヴォトスでは決まっているの! 幸せなのは死刑ッ! 射殺! 爆殺! 轢殺! それ見て泣いている生徒を見て私は幸せになりますのでッ! んほ~、国民総幸福量(GNH)上がっちゃ~~~う。

 でも幸せな日常があるからこそ、それがぶち壊される瞬間が映えるってソレ一番云われているから。積み上げた三十万、四十万文字の日常シーンが、たった十万字足らずの一転攻勢でどろっどろのぼっろぼろにされる事を思うと、まるで賽の河原で石を積む如き虚無感と、けれど積み上げた石(先生との思い出)を大切にする生徒達の表情で、あぁ、崩される為に積まれた石(ここまで頑張って来た先生)は本当に愛されていたんだなぁって再確認出来て、何だか胸がぽかぽかするんですよね。う~ん、これは純愛。

 

 先に謝っておきますわ、ごめんあそばせ、このエデン条約編、前編は比較的原作シナリオに沿ってストーリーラインを展開していこうと思ったのですが、ちょっと後半わたくしの性癖大爆発してエラい事になりましたわ。アビドス後半、最終決戦辺りでも大暴れしましたが、今回もそうなりそうですわ~。

 あぁ、安心して下さいまし、誰かが簡単に改心したり、先生が説教したりする事はありませんので。この世界の登場人物は皆、それぞれに強固な信念と軸を持ち、文字通り生死を賭けて己の目的の為に動いておりますわ。アリウスがコロッといったり、ミカが舵を取り直したりはしませんの。

 

 寧ろその逆、どこまでもどこまでも道を真っ直ぐと突き進み、生中な壁や障害では決して崩せぬ程に積み重ね、最早先生の手が届かぬ高みまで突き抜けて頂く所存ですの。勿論、比喩でしてよ? 地獄への道は覚悟と強固な意志で舗装されておりますわ~ッ! あぁ、何て素敵なシルクロード、それがエデンへと通じる道だと思って? 残念、それは先生の素敵なお顔を見る為の道でしてよぉ~ッ!?

 

 まぁそもそも私、このエデン編が始まる前に後書きで「本編よりエグイ事になりますわマジで」みたいな事云っていますし、この小説自体私の自給自足のものですし、皆さんは既に先生の手足の一本や二本、指の三本や四本、眼球の一つや肺の一つ、無くなる事は予想済みでしょう。ただちょっと、エデン条約編がジャブから右ストレート位に変化して、エデン条約編、後編がデンプシーロールになるだけですわ。

 それでもってミカは本編よりも精神状態が悪化して、中のミカも狂乱して、アリウスはミカやトリニティ、補習授業部からヘイトマシマシ憎悪特盛になるだけで、それをどうにかする為にまた先生がズタボロの雑巾になるだけですわ。まぁ比較的マシな方で済んだのではなくて? 

 

 自分のエゴで今のミカを止めた結果、自分の知っている未来より酷くなった場合って、未来ミカはどんな感情を抱くか想像した事はあります? 多分、きっと、すんごい顔を見せてくれるに違いないですわ。そして先生から指輪を受け取った現在ミカは? 自分が起こした事で先生がズタボロになったらどうなると思います? 多分ぐちゃぐちゃな顔をしながら、涙ぽろぽろ流して、それでも必死に笑おうとして失敗しますわ。後に残るのは引き攣った笑みを頑張って浮かべながら、指輪を握り締めて黙々と道を歩くミカの姿でしてよ。

 

 裏切るって決めていたもんね? 今更戻れないもんね? こうなるって分かっていたもんね? だから笑わなきゃね? 笑わないと駄目だよね? なんて健気……うぅ、ミカ可哀そう、でも可愛いよ♡ こんな状態の生徒可愛いとか正気か? 先生には人の心が無いのか? 今すぐ駆け寄って抱き締めてあげないと駄目だかんね。そのあとちゃんと起爆して先生の首飛ばしてあげるから安心して♡ あーっ、いけません! 先生の幸せ奪って私が幸せになっちゃいます! 今日の私は調子が良いので手足を二つも捥いじゃいます! えっ、手足二つに加えて首も!? できらぁッ!

 

 はい、先生がダルマになるまで六ヶ月掛かりました。本編のベアトリーチェって先生殺すのに成功したら、連邦生徒会に首だけになった先生とか送り付けてきそうだよね。発想が蛮族ぅ~。でも割と原作でも憎悪マシマシウーマンだからそうでなくとも先生を辱める事はしそう。シャーレをぶち壊すとか、先生の大切だったものは踏み躙って来そう。圧倒的な力の前では、想いや絆の力など無意味!(覇王) でも小物感あふれるのは何故なのか……セナに新鮮な死体贈りてぇな~! 私もなぁ~ッ! でもその話はエデン条約編、後編でやるから今は控えておこう。私は自制の出来る人間なのですわ。でも自制するなんてらしくないとか云われたしな~~~ッ!  皆さん自分で書きたいシーンとかってあります事? 私はねぇッ、やっぱり後編で先生の手足が吹き飛ぶシーンですわねぇッ!? まぁそれは分かり切っているので、今次に書きたいシーンはC&Cとゲーム部の前でトキにボコボコにされる先生の戦闘シーンかなぁ~!

 

 モモイの代わりに先生負傷するじゃん? 先生抜きでリオに決戦挑むじゃん? フルアーマー・トキが誕生するじゃん? 皆、結構善戦するけれどやっぱり届かなくて、其処に先生が颯爽登場! してトキと対峙して欲しい。

 トキのフルアーマー化はアロナが何とかしてくれるけれど、そこから先は先生一人の役目で、「あなたの生徒(戦力)は皆倒れました、お引き取りを」って冷たく言い放つトキに、「この先に、私の生徒が待っているんだ――絶対に退けないね」って宣言して、そのまま睨み合いになって欲しい。

 

 暫く睨み合った後、先生の鋼の覚悟を感じ取ったトキが、僅かに目を細めて、「――そうですか」って呟くんだ。その後、「―ご指示を」、『……致命傷は避けなさい』、「イエス・マム」って云って先生を殴りつけるんだ。

 勿論、キヴォトスの生徒の拳を真面に受けて、先生が耐えられる筈もない。そのまま背後に吹き飛んで、無様に地面に転がる事になる。それを見てゲーム部やC&C、通信越しに見ていたヴェリタスやらエンジニア部やらユウカやらが悲鳴を上げるんだ。

 拳を振り抜いた姿勢のまま、小さく手を開閉させたトキは、そのまま「人間なら立ち上がれない程度のダメージに抑えました、暫く眠っていて下さい、先生」って呟く。そしてそのまま踵を返そうとするんだけれど、先生は呻きながら腕を突いて、立ち上がろうとする。

 それを見たトキが、らしくもなく驚愕を露にして、「加減に誤りが……? いえ、あり得ません」と。先生は鼻と口から流れた血を拭いながら、無言で足を前に進ませるんだ。

 

 先程の一撃は少し加減をし過ぎた、なら次はもう一割、いや二割、強く打つ、そう考えて再び踏み込み、先生の顔面を撃ち抜く。先生は先程よりも大きく吹き飛んで、そのままシャーレの制服を汚しながら、地面の上を転がるんだ。そして今度こそ確実に仕留めたと確信するトキ。そのまま数秒、残心をしつつ様子を伺う。十秒程待って、立ち上がる気配が無い事を確認し――そっと、安堵の息を吐いて。

 そして、再び肩を揺らし、立ち上がろうと動き出した先生を見て、愕然とする。

 

 多分、小さく「あり得ない」とか呟いて、目を見開くと思う。

 先生は頬を赤黒く変色させ、口やら鼻やらから血を垂れ流しながらも、尚もトキを真っ直ぐ見据え、立ち上がろうとする。足が酷く揺れて、真っ直ぐ立つ事すら危ういというのに、先生は立ち上がり、またトキに向かって歩き出すんだ。

 トキはそんな先生を前にして、動揺する。

 

 先程の威力では弱かった? いえ、あれは人の耐え得る限界値、これ以上は先生の肉体に深刻なダメージが……これ以上威力を上げるのは危険。そう判断して、トキは狙いを先生の頭部から腹部に変更。意識を断ち切るのではなく、苦痛で先生を止める事を選ぶんだ。踏み込み、今度はリバーブロー、勿論後遺症が残ったり、致命傷になる威力は避ける。肉を打つ音と、生徒達の悲鳴が木霊し、先生の苦悶の声と振動が突き抜ける。

 両膝を突いてえずき、もだえ苦しむ先生。それを見下ろし、息を吐き出すトキ。その額に、薄らと汗が滲む。勿論、それは疲労などでは断じてない。精神的な圧迫感による、冷汗だ。

 

 そして勿論、先生がこの程度でくたばる筈もなく。先生はトキを見上げながら、また立ち上がろうとする。それを見てトキは、一歩退いて、咄嗟に先生を蹴り飛ばすんだ。胸元辺りを軽く、弾き飛ばすように。けれど人間の先生にそれで十分で、派手に吹き飛びながら転がり、咳き込む。

 トキは転がった先生を見つめながら、自身の息が乱れている事を自覚する。脈拍が乱れ、呼吸が乱れ、精神に不調をきたしている。何故? と自分に問い掛けるのだけれど、明確な答えは返って来ない。ただ、また先生が立ち上がる事を自分が恐れているのだと気付き、「――もう、立ち上がらないで下さい、先生」って云うんだ。

 先生は、その言葉を耳にしながらも、また立ち上がろうとして。

 それを見たトキの表情が段々と不安を滲ませて――。

 

 っていうのを延々と書いていくと機械仕掛け後編になってしまうので、先生がボコボコにされて血反吐撒き散らして生徒達が絶叫するのは本編で見ようね。書けるかは知らんけれど、書けたとしても何ヶ月後か分かりませんわ~ッ! はーッ! 一日中小説書いていてぇですわ~ッ! 何で人間って勉強したり仕事したりしないといけないんでしょ、労働はクソですわマジで! 五千兆円あったらマジで毎日投稿でも何でもしてやりますわよこんすっとこどっこい! とか云っても現実は変わらねぇんですわ~ッ! 先生の手足を捥ぐ、その幸せを噛み締めて生きて行く、それが私達に出来る唯一の善行ですの~! ヘイ、ブッダ! これだけ幸徳積んだら楽園(楽土)行きは確実ですわよねぇ! アロナァ! 無料百連で星三ひとりってどういう事だッ!? 確率論的には三人は来る筈だろうがよォ!? ゆるせねぇ~ですわマジでッ! あなた、『覚悟』は出来ていましてェ~~~ッ!?

 

 おらッ! 罰としてキサキ会長と一緒に「ぐんぐん体操」しろッ!

 テレビの前で両手を突き上げて、「ぐん、ぐーん」って云いながら背伸びするんだよォ!? キサキ会長を見習えッ! へへっ、会長、こちらに御菓子とか紅茶とか用意してありますわよ? あっ、緑茶の方がよろしくて? 玄竜門の方に迎えを寄越すよう連絡しておきますわね? オラッ! アロナァ! 「ぐん、ぐーん」の発音が聞こえねぇぞ!? 罰として先生の手足捥ぐね? あーッ! 先生がアロナ泣かせたぁ~~ッ!? いけないんだーッ! いーけないんだッ! 先生にいっちゃお~~~ッ(を捥いじゃお~~~ッ!)! でも私としては先生が逝ってくれた方が嬉しいですわ。

 

 



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天上の美食を求めて

誤字脱字報告に感謝しますわ~!


 

「うふふっ……♡」

「あはは……き、来ちゃいましたね」

「うぅ……」

「うん」

 

 トリニティ都市部、商店街。常は人で溢れかえり暖かな日光が降り注ぐその場所は、街灯に照らされ、人も疎らな風景へと姿を変えていた。ぽつぽつと明かりが見える場所と見えない場所が区切られ、常は見える店が閉まり切り、昼間とはまた異なる姿を見せる。そんな中を補習授業部の面々は、楽しさ半分、不安半分と云った様子で歩いて行く。

 尤も、先頭を歩くハナコだけは常に楽し気で、アズサに関しても不安よりも興味が勝っている様子だったが。

 

「どうですか? もう既に楽しくないですか? 禁じられた行為をしているというこの背徳感、そしてそれを同時に行っている仲間がいるという安心感、この二つが合わさって、もう……!」

「ふむ、なるほど、深夜の街はこんな感じなのか……想像していたよりも活気があるな」

「えぇ、そうなんです、二十四時間営業の店も多いですから!」

「二十四時間も営業しているのか……ん、あれはスイーツショップ? あ、喫茶店も開いている」

「あっ、そういえば、此処からもう少し行くと、モモフレンズのグッズショップもあるんですよ、その向かい側には限定グッズだけを取り扱う隠れた御店もありまして……」

「むっ、何だと!? それは重要な情報じゃないか……!」

「ふふっ、さすがはヒフミちゃん、詳しいですね」

「あ、あははは……」

 

 集団の中に混じり、愛想笑いを浮かべるヒフミ。何だかんだ云って寮を抜け出した事が何度もある彼女は、夜の街にも多少慣れている。何ならその情熱は、彼女をブラックマーケットへと駆り立てた程。彼女にとって、こういう夜の散歩というものは日常の範疇――という程でもないが、それなりに耐性の付いた行為でもあった。

 

「け、結局乗って来ちゃったけれど、こんなところ万が一ハスミ先輩に見られたりしたら、すっごい怒られそう……」

「コハル、こういうのはね、寧ろ堂々としていた方がバレないんだ、だからきょろきょろせずに、胸を張って」

「そ、そうなの……? というか、何で先生がそんな事……」

「――財布を握られるって、そういう事なんだ」

 

 皆と反対に、背を丸めてこそこそと歩くのがコハルだ。先生はそんな不安げな彼女を見かねて助言を送るが、到底先生が口にする様な台詞ではない。

 しかしながら、先生にも似たような経験があるのだ。具体的には出費が嵩んでいるのに玩具屋で数万円クラスの『スーパーロボット合体セット、フルアーマー化キット』を買おうとして、ユウカに通知が行って大変な事になったりとか。玩具屋の店主が密告したのか、アロナが報告したのか、或いはノアかコタマか、はたまた別の誰かか、それは定かではない――しかし、だからこそやましい事をする時は、「別に、全然やましい事なんてしていませんけれど? これが普通ですよ、何か? 今は財布に余裕があるんです――」とエレガントな姿勢と態度で振る舞う必要があるのだ。それを見た相手も、「ここまで堂々としているのなら、ユウカも認知しているのだろう」となる訳だ。かんぺき~な理論である、尚その後領収書を結局見せる事になるので一時凌ぎでしかない。あぁ無情。

 

「それにしても、ハスミさんは後輩たちに優しい方だと聞いていましたが……そんなに怒ったりするんですか?」

「も、勿論優しいわよ! それに文武両道で、さいしょ……けんび? で、品もあって、すっごい先輩なんだから! で、でも怒る時は本当に怖くて……」

「そう云えば、最近、何か荒れるような事があったんだっけ」

「う、うん……前に一回、私もその場にいたんだけれど……」

 

 先生の言葉にそっと頷いたコハルは、当時の事を思い出し、身震いしながら口を開いた。

 

 ■

 

 正義実現委員会――本部。

 その日、正義実現委員会は精神的にも物理的にも揺れていた。

 鳴り響く破砕音、荒々しい息遣い、そして恐れ戦く正義実現委員会の委員達。部屋の内部は荒れ果て、横転したテーブルや裏返ったソファなどが無惨にも床に転がっている。

 

「………」

「………」

 

 その空気は正に、マシロ、ツルギが両名が沈黙を守る程で、渦中の人物はただ一人、自身の感情を吐き出すようにして暴れ、高ぶっていた。それを見かねた一人の勇者がそっと彼女に声を掛ける。

 

「は、ハスミ先輩、お、落ち着いて下さ――」

「絶対に、絶対に許しません! 万魔殿! ゲヘナッ! どうして、どうしてあそこまで……ッ!」

「ひぃッ!?」

「はぁ、はぁッ……!」

 

 しかし、当の本人は睨みつける様な視線を一つ寄越し、後は呪詛の様に何かを唸っている。声を掛けた委員も委縮し、結局それ以上何かを口にする事は出来なかった。暫くして漸く僅かな理性を取り戻したのか、彼女、ハスミは愛銃を握り締めたまま、腹の底から響く声で告げた。

 

「……よく、良く聞いておいて下さい、私は今此処に、宣言します!」

「……?」

「これから、私はッ……!」

 

 そう云って、凄まじい熱意と覚悟を秘めた瞳を周囲に向けた彼女は。

 

「――今度こそ、ダイエットをしますッ!」

「……!?」

「……っ!」

 

 そう、宣言したのだ。

 

「だ、ダイエット、ですか?」

「はい、ダイエットです!」

 

 この惨状と、ダイエット――一体何がどうなってそういう結論に至ったのかは全く以て謎だったが、彼女の目は本気だった。本気でダイエットをしてやるという気概に満ち溢れていた。彼女は皆の方を振り向くと、血走った目で叫ぶ。

 

「これから私が一日に二回以上食事をしたり、おやつを口にするところを発見したら、その場で指摘してどうか叱って下さい! こういった事は自分だけの力では難しいので、宣言しておく方が良いと聞きました! 皆さんの助けが必要なんです!」

「は、ハスミ先輩……ゲヘナとの会談で一体何が……?」

「それは――」

 

 委員のその問いかけに、ハスミは一瞬言葉を詰まらせ。 

 そしてその所業を思い出し、徐々に先程まで滾らせていた怒気を取り戻すと、拳を振り上げ再び叫んだ。

 

「許せません……な、なんて、何て事を……ッ!」

「………?」

 

 顔を見合わせ、困惑を隠せない正義実現委員会の面々。

 ――事は、ほんの数時間前に遡る。

 

 ■

 

 ゲヘナ、万魔殿(パンデモニウムソサエティ)、来客室。

 その日、本来であれば敵の中央とも云える場所で、ハスミはとある人物と面会していた。

 

「私がこのゲヘナ、万魔殿の主……マコト様だ」

 

 告げ、どこまでも傲慢な態度を隠さず、脚を組み、テーブルの上に放る人物。ゲヘナらしい煌びやかな調度品の中に、明確な形で交わる赤と黒。羽織った外套に飾紐を遊ばせ、その長く広がった灰髪を纏う生徒。

 その人物からは、妙なプレッシャーを感じた。ハスミはそっと、目の前の人物を注視する。正義実現委員会、副委員長のハスミは生真面目な人物である。如何に蛇蝎の如く嫌うゲヘナとは云え、過小評価は決してしない。この混沌としたゲヘナを統治する存在である万魔殿の主――羽沼マコト。

 彼女の実力は未知数だった。

 そんなハスミの様子を日和と見たか、或いは馬鹿にしたのか。鼻を鳴らし、彼女は吐き捨てる様に告げる。

 

「――ふん、どうした? トリニティの正義実現委員会とも在ろう者が、挨拶の一つも碌に出来んのか?」

「……トリニティ総合学園、正義実現委員会の――」

 

 ハスミは彼女の言葉に応え、一応礼儀として口を開くが――しかし、それを云い切る前にマコトは手を突き出し、言葉を止めさせる。

 

「――あぁ、良い、結構だ、素性は既に理解している、いや……今、理解したというべきか」

「………」

 

 自分から挨拶を促しておいて、それを態々止める。その傲慢さが故か。いや、此方の出鼻を挫こうとしている? ハスミは冷静な表情を装いながら、そっと思考を回した。政治屋としての手腕は、或いは向こうが上か。ハスミとて正義実現委員会をツルギの代わりに回して来た自負があるが、向こうはゲヘナ全域を統治する長。だが、決めつけるのはまだ早い。ハスミは内心で湛える様な闘争心を秘め、機を待つ。

 そうこうしている間にもマコトはハスミをじっと見つめ、しかめっ面で口を開いた。

 

「――成程、お前が【トリニティの戦略兵器】と呼ばれる剣先ツルギか」

「………え? あ、いえ、私は――」

「そうか、想定以上に規格外だな、不愉快になる位に――」

 

 そう宣う彼女の視線は、これ以上ない程にハスミの胸元を注視していた。その衣服を押し上げる、巨大な二つの塊を。

 

「キキッ! だがそんな戦略、このマコト様には通用しない! 出会い頭のインパクトで我々に勝とうなど甘いわッ!」

「……はい? 一体、何の話で――」

「イロハ、サツキを連れてこい! トリニティの奴らに負けてなどいない事を示してやるぞッ!」

「はぁ……」

 

 マコトはそう高らかに叫び、隣で黙って手元の資料を整理していたイロハを見る。彼女は小さく吐息を零すと、余りにもいつも通りな自身の上司を見つめながら、とても面倒臭そうに告げた。当のハスミは一体何の話をしているのか理解できず、困惑を隠せない。

 

「マコト先輩、この方は委員長のツルギさんではなく、副委員長のハスミさんです、予め書類にもそうあったと記憶していますが――それと、今もし胸の大きさの話をされているのであれば、多分サツキ先輩が来ても勝てないと思いますよ」

「……は、胸?」

「な、なにぃっ!? ツルギじゃないだと!? ば、バカな、代役……? 舐められたものだ、この期に及んで小細工とは……! いや――待てッ!?」

 

 がたんと、音を立てて立ち上がったマコトは目の前のハスミを凝視しながら、自身の灰色の脳細胞を加速させる。彼女の頭の中では、既にトリニティとゲヘナの苛烈な情報戦が繰り広げられていた。

 

「そうか! つまりそもそも、この会議はフェイクという事だな!? 我々を集め、身長と胸の迫力で此方の出鼻を挫こうと画策していたのか……ッ!? トリニティッ、正義実現委員会……! 何と狡猾なッ!?」

「いえ、ですから元々ハスミさんが来る予定で――私の話聞いていますか? 聞いていませんね?」

「ぐ、ぬぅ……ッ! 不愉快な位大きな胸をこれ見よがしに見せつけおって……! 喧嘩を売っているのか! この万魔殿のマコト様に対してッ!?」

「落ち着いて下さい、あともう胸の話はやめて下さい、そろそろ万魔殿として恥ずかしいです」

「イロハッ! こうなったらあれを用意しろッ! このままこの【デカ女】に負けてたまるかっ!」

「――デカ女?」

 

 マコトの放ったその一言に、ピキリと、ハスミは自身の額に青筋が浮かんだのを自覚した。

 

「あれ、と云われても何のことかさっぱりですが……取り敢えずこの会議がおじゃんなのは良く分かりました、私は逃げますね、じゃ」

 

 それをはっきりと目撃したイロハは、あぁもうこの会議は駄目になったと早々に見切りをつけ、資料をテーブルの上に放置すると素早く退出する。その素早さはマコトが呼び止める隙が無い程で、彼女が手を伸ばし口を開く頃には既に、扉の向こう側へと消えていた。

 

「……ん? あ、こら、待てイロハ、どこに――」

「………」

「お、おい、何だ突然立ち上がって、その振り上げた拳をどうするつもりだ? おい、待て、止ま――ッ」

 

 ■

 

「………」

 

 コハルから凡そのあらましを聞いた補習授業部一同は、言葉を失くす。

 何とも云えない、夜の肌寒い風が皆の頬を撫でた。

 

「それで、その会議自体駄目になって、それ以来ハスミ先輩、あんまりご飯も食べてないから心配で……」

「そんな事が……ゲヘナの方々に怒るのも分かります、その様な事を面と向かって口にされては、無理もありません」

「そうだね、大きい事は決して悪い事ではないのに――」

「せ、先生が云うと何か、意味深に聞こえちゃいますね……」

「身長の話ね? だからコハル、その聖水爆弾を仕舞って欲しい」

 

 先生はさっと、コハルが鞄に手を突っ込んだのを目敏く確認し、告げた。味方には治癒効果があるとの事だが、直接顔面にでも投げつけられたら致命傷を負いかねない。コハルは強肩なのである。

 

「で、でも、ハスミ先輩は色んな意味で強いから大丈夫! あれからずっと、自分との約束を守って頑張ってるし……!」

「……うーん、先生としては余り無理はして欲しくはないのだけれど」

「本人の心持次第ですし、難しい話ですね」

 

 ハナコの言葉に、先生はそっと頷く。先生個人としてはハスミが気にしている様な箇所は短所どころか長所であり、目の前でそのような相談をされようものなら、ハスミのそれが如何に素晴らしいものであるかを数時間掛けても力説する腹積もりであるが――残念ながらこういうものは本人の感情次第である。生徒自身がどうしても改善したいと願うのであれば、本人の悪影響にならない範囲で手助けするのも先生の仕事だ。

 そんな事を考えている内に補習授業部の足はどんどん進み、ふとアズサの視線が一つの店に止まった。

 

「……むっ、こんな所にスイーツ屋が、それも凄く良い匂いだ」

「何だか食べ物の話をしていたら、お腹が減って来ましたね……」

「折角ですし、此処で何か食べて行きましょうか?」

「そうですね……あっ、此処の限定パフェ、確か凄く美味しいって話を聞いた事があります! 二十四時間やっているとは知りませんでしたが――」

「パフェか……うん、悪くない、行こう」

「のりこめ~」

「え、えっ……!?」

 

 とんとん拍子で話は決まり、善は急げとばかりに店の中へと入って行く補習授業部。コハルはゾロゾロと扉を潜っていく仲間達の背中を見つめながら、素早く周囲を見渡し、呟いた。

 

「うぅ……だ、誰も見ていないよね……?」

 

 周囲に誰の目もない事を確認した彼女は、小さく、「ま、待って……!」と口ずさみながら、その背中を追って駆け出した。

 

 ■

 

「いらっしゃいませ~」

 

 店内は時間帯もあり人の姿は疎ら、隅や奥の方にぽつぽつと見える程度。店の内装は一階と二階に分かれており、カウンター席も用意されていた。補習授業部は店内をぐるりと見渡しながら、何となく夜の店に胸を弾ませる。

 

「真夜中にスイーツ屋さんだなんて……緊張もありますが、何だか凄くワクワクしますね」

「うん、確かに」

 

 ヒフミの言葉に、アズサはどこか目を輝かせながら頷く。

 

「五名様でしょうか? 席はお好きな場所にどうぞ、既にお決まりでしたら御注文を伺いますが」

「えっと……あ、限定パフェってまだありますか?」

 

 ヒフミは頭上に表示されたメニューを眺めながら、ふとそう口走る。常ならば売り切れ必須だろうが、この時間帯ならばという考えからだった。

 

「あぁ、申し訳ございません、限定パフェは先程、別のお客様が三つほど購入されたのが最後でして」

「あ、そうでしたか……」

「ふむ、一歩遅かったか……こんな時間まで狙われているなんて、侮れないな」

 

 しかし、残念ながら限定パフェは既に売り切れた後。こんな時間帯であっても即座に売り切れるとは、やはり話に聞く通り素晴らしい味なのだろうか。ヒフミはその味を想像し、静かに肩を落とした。

 

「まぁ、ないものは仕方ない、ヒフミ、他におすすめのメニューはある?」

「えっと、そうですね、それなら――」

「……あら?」

 

 その問いかけに、ヒフミは友人から聞いた美味しいメニュー一覧を頭に浮かべながら指先を迷わせ――ふと、どこかで聞いたような声が鼓膜を揺らした。目を瞬かせながら声のした方へ視線を向ければ、何やらスプーンを持ったまま固まる黒い制服を着用した生徒が一人。その背格好と顔立ちは、見知った人のもので。

 

「――せ、先生?」

「あ、ハスミ」

 

 先生の声とハスミの声が重なり、互いの視線がかち合った。

 

「えっ!? は、ハスミ先輩!?」

「あら……もしかして、それが限定パフェですか? 何やら沢山……」

 

 コハルはまさかの邂逅に慌てふためき、ハナコは彼女の前に並んだ空のパフェ容器を驚愕の目で見つめている。当のハスミは困惑半分、羞恥半分といった様子で補習授業部を眺め、恐る恐る口を開いた。

 

「先生、それに補習授業部の皆さんも、こんな時間に一体――」

「あ、あぁああぁあ………」

 

 ハスミが問いかける間も、コハルは蒼褪め頭を抱える。まさか、まさかまさかの、偶然夜に出歩いて、偶然入った店で自身の先輩兼上司と鉢合わせするなど、一体どんな確率なのだと。一応、補習授業部としては違反行為を行っている訳だが、ハナコはそんな事を露も感じさせずハスミの傍へと足を進め、並んだパフェ容器を見比べながら莞爾とした笑みを浮べた。

 

「ハスミさん、奇遇ですね♡ 真夜中にパフェを三個も……確か、ダイエット中と伺いましたが?」

「えっ!? な、何故それを……こ、これはですね……――」

「ふふっ、はい、心中お察しいたします、真夜中に襲ってきた悪しき欲望に導かれて、ここまでやって来てしまったのですよね?」

「あ、悪しき欲望……い、いえ、その……」

「そうして欲望のままに振る舞った後、理性を取り戻した頃にはもう、取り返しが付かない方に乱れて――」

「な、何やら云い方に邪な意思を感じるのですが……?」

「まぁ、夜中ってお腹が空くよねぇ……あ、ハスミ、お隣良いかな?」

「え、あ、はい……ど、どうぞ」

 

 先生もハナコに続いてハスミの傍に寄り、そのまま隣のテーブル席へと腰を下ろす。補習授業部も流れで彼女の傍に腰を下ろす事になるが、当のコハルは小さく震え、蒼褪め、完全に怯え切っていた。少しでもハスミの視線を受けない為に、態々ハナコの影に潜んでいる。しかし残念ながら、ハスミの目はきちんとコハルの事も捉えていた。

 

「んんっ、せ、先生? その、自分の事を棚上げするようですが、補習授業部の皆さんはそもそも、合宿中の外出が禁じられていた筈では……?」

「うん、そうなんだけれどね、息抜きは大事かな~って思って」

「……はぁ」

 

 その、何とも先生らしいというか、生徒の為であれば多少の違反も見て見ぬふりをするその性質は、一生徒としては好ましく、正義実現委員会の副委員長としては看過できない。しかし、それを云う資格が今の自分にあるかと云えば、そんな筈もなく。

 ハスミは手に持ったスプーンをそっと容器に戻すと、静かに呟いた。

 

「……ここはお互いに、見なかった事にするとしましょうか」

「そういう事で、ひとつ」

 

 此処へはお互い訪れなかったし、出会う事もなかった。

 そういう事にしておくのである。これも外交という奴だ、恐らく。

 

「は、ハスミ先輩、その……」

「コハル、お勉強は頑張っていますか?」

「あ、えっと、それは……――」

「コハル、最近は成績が凄い伸びているよ」

 

 恐る恐る声を上げたコハルに、ハスミは予想に反して穏やかな口調で問いかける。思ったより怒っていない? という風な表情で言葉を詰まらせた彼女の代わりに、先生はとても嬉しそうにそんな言葉を送った。

 

「は、はい、そうです! コハルちゃんはこのままいけば合格圏内に届く位、頑張っていて……!」

「――そうでしたか」

 

 コハルの成績は彼女も把握しているのだろう。ヒフミの後押しで、どうやら成績も上昇しているらしいと確信を得たハスミは、確りと頷いて見せる。当のコハルは俯き気味に口元をまごつかせ、ちらちらとハスミの様子を伺っていた。

 

「うぅ、その、えっと」

「それは何よりです、云ったではありませんか、コハルはやれば出来ると」

「は、ハスミ先輩……」

「そうです、あの時も――」

 

 ■

 

「応援していますよコハル、お勉強、頑張ってください」

「うぅ、は、ハスミ先輩……」

 

 先生と一緒に禁書本を正義実現委員会本部へと返却しに行った日。

 二人だけで話があると云われ、先生が去った後に二人きりでハスミを向き合うコハルは、これ以上ない程に体を強張らせ、緊張していた。

 ただでさえ成績不振を理由に一時的とはいえ正義実現委員会を脱退させられ、補習授業部等という不名誉な部活に編入させられているのだ。どんな言葉を掛けられるか、それを考えるだけでも不安だった。

 

「補習授業部の方では、ちゃんと過ごせていますか?」

「は、はい、その、多分……ですが」

「本来の目標を忘れないで下さい、私は、ただ目の前の勉強の話をしている訳ではないのです、あなたにはこれから、この正義実現委員会の一員として頑張って貰いたいのですから」

「でも、そんな……わ、私には、到底無理な気がして……そんなすぐ成績を上げるなんて、先輩と一緒に居たい気持ちは本当ですが、私には、余りにも、その、難しい事で……!」

 

 そして、予想に反し耳に届いた激励の言葉に、コハルは俯き、思わず弱音を返してしまう。彼女の云いたい事は分かる。補習授業部を卒業しなければ正義実現委員会への復帰は叶わず、そして目下、補習授業部の足を引っ張る可能性があるのは――自分だ。

 コハルは、自分が虚勢を張り自分を大きく見せるばかりの凡人であると心の奥底では理解していた。エリート、エリートと、自分でそう宣ってはいるものの、実際の成績は低空飛行で、戦闘能力に優れている訳でも、指揮能力に長けている訳でも、確固たる外交手腕を持っている訳でもない。

 どこまで行っても、ないないづくし、凡人、平凡――そんな自分が憧れる人たちの集まる正義の場所、それがこの正義実現委員会。

 その末席に名を連ねるだけで、どれだけ嬉しい事か。

 きっと、これは自分にしか分かるまい。

 恐らく、こんな自分が在籍出来ただけでも大変名誉な事で、このまま正義実現委員会に復帰できなかったとしても、自分は、その一時の夢だけで生きていける――そう思って。

 

「――それでは駄目なんですッ!」

 

 けれど、そんな思考はハスミの一喝に吹き飛ばされた。

 肩を震わせ、飛び上がったコハルは目を見開く。目の前には、酷く真剣な眼差しで此方を見るハスミの姿があった。常に凛々しく、確固たる信念を感じさせる眼差しは、今、自分だけを見つめている。コハルの諦観の念を感じ取ったハスミは、それを吹き飛ばす為に敢えて大声を出した。まんまると見開かれ、己の見つめる瞳に、ハスミは強い口調で告げる。

 

「――ごめんなさい、急に大声を出してしまって……ですがコハル、良いですか? 私達がこれからもずっと一緒にいる為には、今頑張って貰わなければ駄目なのです」

「は、ハスミ先輩……」

 

 両手で肩を掴まれ、強い瞳で見つめられる。コハルは、触れられた手から強い信頼と、期待を感じ取っていた。ハスミは、本気でコハルという生徒に期待している、この困難を乗り越えられると信じている。胸の中に何か、熱く滾るような感情が宿った心地だった。小さく唇を震わせ、コハルは自身の両手を握り締める。

 

「それに先生も、必ず手助けしてくれます、えぇ、きっと、全力で……そんな先生の期待に応えるためにも、勉強を頑張るのが今、コハルのやるべき事です」

「……はい、わ、私、精一杯頑張ります!」

「えぇ――期待していますよ」

 

 ■

 

「……えへへっ、は、ハスミ先輩の期待を裏切りたくないですから……」

 

 コハルはその時の感情を思い起こし、思わず破顔する。ハスミはそんな彼女を慈しむように眺めながら、強く頷いて見せた。

 

「えぇ、引き続き応援していますよ、コハル、早く正義実現委員会に戻って来て、一緒に任務が遂行出来る時を心待ちにしていますから」

「は、はい! 頑張ります……っ!」

 

 紡がれる信頼の証、目に見えずとも感じられる友愛。先生は二人のやり取りを眺めながら、いつかの時と同じように心の中で滝の如く涙を流した。

 

「これが、若さ……か」

「あら、先生が何やら菩薩の様なお顔を……」

「た、多分、感動しているんじゃないでしょうか……?」

 

 その通りです。先生はそっと目元を拭い、頷く。

 そんな時間を過ごしていると、不意に電子音が鳴り響いた。一瞬、先生は自身のタブレットのものかと目をやるが、液晶は暗いまま。

 

「? 失礼、私の端末の様です――」

 

 音は、ハスミの端末から発せられていた。彼女はポケットに仕舞いこんでいた端末を取り出し、眉を顰める。表記は正義実現委員会、その後輩であるイチカから。

 

「こんな時間に連絡? 一体……」

 

 呟きつつ、彼女は応答ボタンをタップする。

 

「はい、イチカ? どうかしましたか」

『すみません先輩、こんな時間に……ちょっと問題が発生しちゃいまして、今どちらに?』

「少々用事があって外に出ていましたが……問題とは? 詳細を聞かせて頂けますか」

『えっと、どうやら学園の近郊にゲヘナと推測される生徒達が無断で侵入したらしく……更に無差別に銃撃を行いつつ、トリニティの施設を襲撃している、との情報が』

「襲撃……?」

 

 その言葉に、ハスミの雰囲気が目に見えて固く、鋭く変化した。自身の横に立て掛けていた愛銃を掴み、ポーチに入れていた残弾を脳内で数えながら出立の準備を行う。

 

「まさか夜襲を……? 相手はゲヘナの風紀委員会ですか、それとも万魔殿がついに本性を?」

『あー、いえ、それが……』

「――誰であれ、恐らく狙いはエデン条約の妨害でしょう、直ぐに向かいます……! 敵の規模と場所、施設の情報を」

『落ち着いて聞いて欲しいっす先輩、取り敢えず相手はゲヘナ風紀委員会ではなく、兵力も全然少なくて、確認されているのは四名だけっすね』

「は……四名? それも、風紀委員会ではなく?」

『はいっす』

 

 てっきり、ゲヘナがその本性を晒し本格的に仕掛けて来た――そう考えていたハスミは意気を挫かれる。敵もまさか四名でトリニティを崩せるとは考えていないだろう、ましてや風紀委員会でもないというのならば、一体誰が――。

 

『それで襲撃された場所なんですけれど……アクアリウムみたいっす』

「あ、アクアリウム……何故、その様な場所を……?」

『さぁ、あたしにも良く分からないっすけど、何だか展示中だった希少種の【ゴールドマグロ】を強奪して逃走しているとかで……』

「……ゴールド、マグロ」

『えぇ、すげー高い魚らしくって、多分どこかに売り飛ばそうとしているんじゃないっすかね? あ、追加で今、幾つか情報が――』

 

 端末の向こう側で、二度、三度、言葉が交わされる。何か紙を捲る様な音が響いた後、電話口のイチカはどこか疲れたような雰囲気を滲ませながら告げた。

 

『えーっと、どうやら相手は……ゲヘナのテロリスト集団、【美食研究会】らしいっすよ』

「美食――まさか、食べるつもりですか!?」

『それは分かりませんけれど、首謀者は会長の【黒舘ハルナ】、ゲヘナの中でも要注意人物とされている例の奴っす』

 

 その言葉に、ハスミの端末を握る手から、ミシリと軋む音が響いた

 

 ■

 

「――ねぇぇぇええッ!? 何でこんなところまで来ちゃったの!? トリニティのど真ん中じゃん!? 色んな人に追われるしっ、服はずぶ濡れだしっ、走り回って疲れるしッ!」

「仕方ありません、あのゴールドマグロと聞いては黙って見ている訳にもいきませんし☆」

「ふふっ、あの伝説のマグロを只の観賞用として扱うだなんて……そんな事、美食に対する礼儀がなっていないというものですわ」

 

 トリニティ自治区、交差点。背後を頻りに気にしながら叫ぶのは、紅い髪を二つに束ねながら両手に持ったARを振り回すジュンコ。彼女の叫びを聞き届けながら、意味深に微笑むのは金髪に豊満な肉体を持つアカリ。そして皆を率い、先頭を駆けるのは銀髪を靡かせ、改造制服の裾を揺らす美食研究会、会長のハルナ。

 これに巨大なゴールドマグロを抱えたイズミを含めた四名が、ゲヘナでも悪名高いテロリスト集団、美食研究会である。

 その悪行を列挙すれば数知れず。店舗の爆破や強盗、誘拐は朝飯前、必要とあれば他所の自治区だろうが何だろうがお構いなしに侵犯し、己の心情とお腹の空き具合に従って暴れ倒す。美食の為ならば文字通り、妥協をとことん許さない。それが彼女達のスタンスであった。

 そして今回、彼女達が目を付けたのが――ゴールドマグロ。

 幻の魚と謳われるそれは、一体どんな味なのか? 想像するだけで胸が弾むというものだ。保管されている場所がトリニティという、ゲヘナにとって敵の本拠地の奥深くだろうと関係ない。実際彼女達は知った事かとばかりに突撃をかまし、見事アクアリウムからゴールドマグロを奪取した帰り道であった。

 

「美食というものは、孤高でありながら普遍的でなくてはなりません……ただ見世物としてお金稼ぎの手段に終わるなど、このゴールドマグロさんも望んでいない筈……私達はただ、その声に共鳴しただけ――そうですよね、フウカさん?」

「んんっ!? んーっ!? んんんッ!?」

 

 先頭を駆けるハルナは、肩に担いだ人物――ゲヘナ給食部部長、フウカに語り掛ける。簀巻きにされ、口に布を噛ませられたフウカは全身を使い、必死に首を横に振った。ハルナはそんな彼女の様子を見て深く感銘を受けた様に頷く。

 

「御覧なさい、このゲヘナ給食部部長の感涙に咽び泣く程の同意をッ!」

「猿轡のせいで、何を云っているのかさっぱりですけれどね☆」

「わっ、このマグロまだびちびち跳ねてるっ、ヒレでびんたされ、ひぶっ!?」

「イズミ、ちゃんと捕まえていてっ! それ、すっごく高いんだからッ!」

「わ、分かってるよぉ!」

 

 最後尾を走るイズミは、ハルナと同じようにゴールドマグロを担いでいるが、その大きさは正に規格外。ビチビチと跳ねるマグロを確りと掴みながら駆ける彼女の姿は中々のインパクトを発している。イズミは肩に担いだマグロを見上げ、口元から涎を垂らし、不意に問いかけた。

 

「ところで、コレいつ食べられるの? マグロにはビンタされるし、黒いセーラー服の子達には追いかけられるし、そろそろお腹空いたんだけれど!」

「ん~、流石にこんな場所で実食、とはいきませんよねぇ」

「あの黒いセーラー服って、正義実現委員会だよね? こっちの風紀委員会と同じ位ヤバい連中だよ! どうするのハルナ、逃げ切れるの!?」

「ふふっ、逃げ切れるかどうかなんて、大した問題ではありませんわ」

 

 ジュンコの悲鳴交じりの問いかけに、彼女は優雅に返答する。フウカを担いだまま自身の銀髪を払うと、胸を張って告げた。

 

「――大事なのは食べられるか、否か……それだけですッ!」

 

 背後に効果音が付きそうな程、堂々とした宣言。

 そう、大事なのは逃げ切れるとか、逃げ切れないとか、そんな小さな事ではない。

 この幻の珍味、ゴールドマグロを食べられるか、否か。

 それ以外の事など、全て些事――!

 

「つまりは食べるか、死ぬか(eat or die)! その二択、それこそが私達美食研究会が歩むべき孤高の道なのですッ!」

「ふふっ、結局そういう事ですよね☆」

 

 ハルナの言葉にアカリは同意を示し、手に持っていた愛銃、ボトムレスの安全装置を弾く。背後から、続々と美食研究会を追う足音が迫っていた。ジュンコが慌てて振り向けば、其処には殺到する正義実現委員会の姿が。

 

「居たぞッ! 例の連中だっ!」

「逃すなッ!」

「わわっ、また来た!? 適当に戦って早く逃げないとっ!」

「えぇ――さぁ、包囲を破って退却します! 一刻も早く、フウカさんに新鮮なマグロのお造りを作って頂かなければっ!」

「んんんッ~~!?」

 

 そう叫び、ハルナが愛銃『アイディール』を構えれば、担がれたフウカは死んだ目で誰かに助けを請うた。最早、誰でも良い、この地獄から解放してくれ――と。

 

「では、素晴らしき美食の為に――いざ!」

 

 そして此処に、美食研究会と正義実現委員会の騒動が幕を開けたのだ。

 


 

 この後、先生がアクアリウムまで土下座しに行ったんだよね……。

 いやぁ、漸く待ちわびたエデン条約編での戦闘シーン一回目ですわねぇ~! 弾丸飛び交う戦場ですわぁ~! 先生が千切れる可能性が僅かでも上昇するシーンは興奮しますわよねぇ~ッ! まぁ流石にこんな小規模な戦闘で先生を捥ぎ捥ぎする訳にもいかないので、出来ても精々負傷程度ですけれど……。あっ、でもこの後セナと会いますもの、多少怪我をしていた方が都合がよろしくって? 悩みますわ~~~!

 しかし、此処まで来て漸くエデン条約編 前編も半分――という所でしょうか? 前半かなり平々凡々、日常幸福マシマシで来ましたし、此処からは一気に困難と不条理に見舞われて欲しいですわ~っ! 前編で紡いだ絆、友情、繋がり、それらを使って真正面から困難に立ち向かう補習授業部の皆の姿を想像すると――す、素晴らしいっ! 感動的だっ! はーっ、早く先生がズタボロになるシーン書きてぇですわ~! でももう少し、もう少しですのッ! まだ我慢、我慢ですわワタクシッ!

 

 目に見えない捥げる手足の話なんですけれど~、やっぱり美食研究会やフウカの可愛い顔見るなら味覚障害ですわよねぇ~。サヤの薬でも負傷でも、大人のカードの代償でも何でも良いのですけれど~、美食研究会のメンバーとか、フウカのご飯とか毎日和気藹々と食べて~、でもってある日、夕飯を先生とイズミが一緒に食べる事になって、冷蔵庫にあった食品を片っ端から取り出してテーブルに並べるイズミの手の中に、実はフウカの作ったものではなくて、ジュリが作った料理が混入していますの。

 でもそれに気付かず「先生、早く! 早く!」ってイズミが席に急かして、本当なら他の皆が集まってから食べる筈だったんだけれど、「もう待ちきれないから食べちゃお~っ!」ってイズミが一人で食べ始めるんだ。流石に先生は皆が来るまで待とうとするんだけれど、イズミは一人で食べるのも寂しいからって、「先生もほら、これだけでも食べてッ! 美味しいから!」って満面の笑みで勧めて来るもので、「なら、少しだけ貰おうかな」って小皿に取り分けたものを口に含む。

 そうこうしている内に他の面々がやって来て、「すみません、遅くなりました、先生――」と口にしたフウカが目にしたのは、ジュリの料理を黙々と食べる先生とイズミ。見た目だけなら普通の料理に見えるそれは、実はとんでもない劇薬で、思わず蒼褪めた表情でフウカが叫びそうになるんだけれど、先生は何でもない笑みを浮べて、「お帰りフウカ、先に少しだけ頂いているよ、今日も美味しい料理、ありがとうね」って宣うんだ。

 

 フウカは最初、「ぇ、あ、あれ……?」って困惑した様子で、そんな彼女に「どうしたの?」って先生は問い掛けて。フウカは色々思う所はあるんだけれど、「な、何でもないですよ、何でも……」って云って、その日の食事会は何もない内に終わる。けれど誰も居なくなった後、フウカは一人で先生の食べた残り物を口に含んで、思わず口を覆って、「な、なんで……?」って狼狽して欲しい。その内、皆に振る舞う料理の中で、一品だけ態と味を悪くして出して欲しい。食に矜持を持つ彼女が、その信条を曲げてでも先生の疑惑を晴らしたいと動くのだ。それに目敏く気付いたハルナが、食事の席で「フウカさん、これは――?」とやや困惑した表情で問い掛けるんだけれど、どこか固唾を飲み込んで、強い意志を見せるフウカに口を挟めない。

 それで、先生がそれに手を付けるまでじっと待って、先生がそれを口に含んで咀嚼した後、恐る恐る、「ど、どうですか?」って問いかけるんだ。先生は目を瞬かせた後、「うん? いつも通り、美味しいよ」って口にして、フウカは内心で呆然とする。そしてハルナも先生の様子がおかしい事に気付いて、訝し気に先生を見た後、彼が箸を付けたそれをそっと口に含んで、「――こ、れは」って愕然として欲しい。

 そして彼女は先生を信じられない目で見た後、フウカにそっと強い視線を向けるんだ。

 

 此処で先生に、「――いつから、ですか」って詰め寄っても良いし、フウカと二人きりの時に真剣な表情で話し合って貰っても構わない。「前は普通だった」とか、「いつからこうなっていたのか分からない」って不安そうに呟くフウカとかめちゃ見たい。これが大人のカードの代償なら、味覚の次に失われるのは何だろうか? 視力か、聴力か、嗅覚か、触覚か――そういったものに怯えながら、先生の傍を離れなくなるハルナ概念とかとてもすここここ。

 

 シャーレの執務中に寝入ってしまって、当番のハルナが「あら、漸くお目覚めですのね」って微笑んだあと、「あれ……私、寝ちゃってた?」って先生が寝ぼけた様子で瞼を擦って。「えぇ、それはもう、ぐっすりと」と笑みを零すハルナに、「参ったな……もうこんなに暗いなんて、電気、付けなかったのかい?」って昼間なのに口にして、ハルナの体を凍り付かせたい。目が見えなくなった先生とか最高にエモですわ~~~~ッ!

 でも泣いている生徒の表情を先生にお見せ出来ないという一点のみ、わたくしとしては不服ですの。先生の脳に直接生徒の泣き顔を念写する能力が欲しいですわね……。そしたら毎日、毎朝、毎晩、先生に生徒のお顔をお見せして差し上げますのに……。

 



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あの日見上げた、星の輝きを

誤字脱字報告を見る時はね、誰にも邪魔されず、自由で、何と云うか救われていなきゃ駄目なんだ。
今回は一万六千字ですってよ。


 

『――どうしますか、先輩?』

「どうしますも何も――」

 

 電話口から響くイチカの声に、ハスミは言葉を詰まらせた。行かない、という選択肢は存在しない。しかし、てっきり万魔殿かゲヘナ風紀委員会が攻め込んで来たとばかり考えていたハスミは、その対処に一瞬苦慮する。ゲヘナが明確に敵対してきたのならば問題ない、しかし、相手が公的組織ではない、テロリスト集団の暴走となると――。

 

『――というか、早くご命令を頂かないと、ツルギ先輩が発射……飛び出しちゃいそうっすけれど』

「つ、ツルギは取り敢えず止めて下さい」

『いやー、無理っすよ、ハスミ先輩以外じゃそうそう止められな……あっ、ツルギ先輩! 行かないで下さいッ!? そっちはドアじゃなくて壁――』

 

 そして端末の向こう側から鳴り響く爆音、破砕音。それに巻き込まれたのか、ハスミの持つ端末は電子音を鳴らし通信途絶状態に。ハスミは数秒、規則正しい音を鳴らすそれを凝視し、沈黙を守る。

 

「………」

「むっ、爆発音に……銃声だな、音からして此処から一キロ圏内という所か」

「え、えぇ……」

「はぁ……」

 

 アズサが店の外から聞こえてくる爆発音に、凡その距離を呟く。唐突な戦闘音にヒフミは困惑を隠せず、ハスミは酷く疲れた様に溜息を吐いた。美食研究会はどうやら、直ぐ傍まで迫っているらしい。

 

「皆さん、突然の事ですみませんが……お力添えをお願い致します」

「えっ、わ、私達ですか!?」

 

 ハスミが端末をポケットに仕舞いながらそう告げれば、ヒフミは目を丸くしたまま飛び上がる。アズサはいつも通りの仏頂面、ハナコはその表情に理解の色を浮かばせていた。

 

「今はエデン条約を目前に控えた、色々と過敏な時期です、この問題が傍から見てトリニティとゲヘナ間の衝突と捉えられてしまうと、エデン条約にどのような不具合がおきるか……想像に難くありません」

「そ、それは……」

「うん、確かに」

「そうですねぇ……と、なると」

 

 ハナコの視線がそっと先生に向けられ、当の本人は微笑みながら頷いて見せた。

 

「――私の出番かな?」

「はい、補習授業部とシャーレ、特に後者が主導で解決する構図が望ましいかと……厚かましいお願いである事は重々承知しておりますが、先生、お願い出来ますか?」

「勿論――皆も、力を貸して貰って良いかな?」

 

 先生がそう云って補習授業部を見れば、彼女達は愛銃を抱え、力強い返事をしてくれた。

 

「当然、先生の指示に従う」

「い、いきなりの戦闘ですか……自信はないですけれど、が、頑張ります!」

「ふふっ……まぁ、先生がそう仰るのであれば♡」

「あっ、わ、私も……? 先生と、ハスミ先輩と……一緒に?」

 

 コハルは思わず、困惑と期待に満ちた瞳を向ける。ハスミは小さくコハルの頭を撫でつけると、どこか嬉しそうな笑みを浮べながら呟いた。

 

「いつかこうして肩を並べる時期が来るとは思っていましたが……想像よりも早かったですね、コハル」

「は、はい! 頑張ります……!」

 

 気概は十分、小さく震えながらも口を固く結んで、煌々と燃える闘志を見せるコハル。憧れの先輩との共闘、それで昂らない何てあり得ない。そう云わんばかりの雰囲気に、補習授業部の皆も顔を見合わせ、頷く。

 

「そういえば、しっかり先生の指揮の下で戦うのは初めてか……遠慮は要らない、先生、私の事は存分に使って」

「と、取り合えず先生に従っておけば、間違いないかと……」

「む、ヒフミは先生と一緒に戦った事があるのか?」

「あ、あはは……えっと、ちょっとだけ」

「そうですね、先生の指揮、そしてサポートがあれば――」

 

 告げ、ハスミは先生を見る。先生は腕章に触れ位置を正すと、持っていたシッテムの箱を指先で叩いた。

 

「よし、それじゃあ始めよう――アロナ」

『はい! 久々の出番ですねっ! オペレーティングシステム、戦術指揮モードを起動します!』

 

 備えあれば憂いなし。電子音が鳴り響き、シッテムの箱、その液晶にトリニティ周辺の地形データが表示される。そして一拍置いて、逃走する美食研究会の現在位置、武装、それを追跡する正義実現委員会の詳細までが事細かに映し出された。

 表示されたコンソールに文字列を入力しながら、先生は全員に視線を向ける。

 

『データ解析完了、個別パターン承認、回路形成、先生から生徒へ、相互パス構築――完了! 情報転送開始します!』

 

 補習授業部とハスミのヘイローを、シッテムの箱と接続(リンク)させる。瞬間、先生を中心に青白い光が弾け、彼女達のヘイローが輝き、手足に小さな痺れが奔った。

 

「うぅ……!?」

「っ!?」

「これは――」

 

 先生のサポートを受けた事が無かったコハル、ハナコ、アズサが、自身の視界に走るノイズに目を瞬かせる。しかしそれも一瞬の事で、再び目を開けた時、そこに表示される情報の数に思わず驚愕した。

 

「視界に直接情報を……? それに、この情報量は一体――」

「今、皆のヘイローを介して私の端末からリアルタイムでサポートを行っている、敵の位置情報と詳細な指示を送るから、その都度従って欲しい、最初は慣れないと思うけれど、副作用とかはないから安心してね」

「これは……凄いな、銃の残弾や地形情報まで見えるのか」

「自分に銃口が向けられた時は警告と弾道予測線なんかも見えるから、上手く活用して」

「――正に、至れり尽くせり、ですね」

 

 アズサは単純にその情報量と利便性に目を輝かせ、ハナコはその技術にどこか畏怖の感情を覗かせる。コハルはただ目を白黒させ、表示される立体表示(矢印や数字)に手を伸ばし、触れようとしていた。しかしそれらに触れる事は出来ず、慌てて手を引っ込めたコハルは、いつも通り凛とした立ち姿のハスミに気付き声を掛ける。

 

「は、ハスミ先輩は驚かないんですね……?」

「えぇ、先生が着任してから何度か、指揮を執って頂いた事がありましたから――それと先生、可能であれば正義実現委員会の全体指揮もお願いしたいのですが」

「えっと、それは――良いのかな?」

「問題ありません、実働部隊の端末へのアクセス権を既に送っておりますので……これは方便でもありますが(シャーレが主導した証明)、実利でもあります」

「……分かった、流石に数が多いからリンクは出来ないけれど、正義実現委員会の臨時指揮権、受け取ったよ」

「えぇ、お願いします」

 

 先生は受け取ったアクセス権から正義実現委員会の端末にアクセスし、各班の詳細な動きを把握する。現在進行形で行われる美食研究会の逃走劇、これを収拾させる為の鍵は先生と補習授業部が握っている。

 しかし、其処に気負いは見られなかった。

 補習授業部は先生を信頼し、先生は生徒()を信頼している。

 

「さて、それじゃあ安全第一に行こう、無理をせず、力を抜いて、いつも通りに――ヒフミ?」

「は、はい?」

「――号令、お願い」

 

 一瞬、「私ですか!?」という表情をしたヒフミは、しかし。周囲から向けられる視線を感じ取り、辛うじて言葉を呑み込んだ。補習授業部の皆は、それが当たり前の事であるかのように受け入れ、待っていたのだ。

 まだ実感なんて殆どなくて、殆ど肩書だけのものだと思っていたけれど。

 それでも――阿慈谷ヒフミ(わたし)は。

 補習授業部の部長、その片鱗を覗かせた彼女は拳を握り込み、そしてヤケクソ気味に突き上げ叫んだ。

 

「ほ、補習授業部、出撃ですッ!」

「おーッ!」

「お、おー……?」

 

 そして、夜の大捕り物が始まった。

 

 ■

 

「……?」

 

 ふと、逃走を続けながら背後に射撃を繰り返していたハルナの足が止まった。片腕でフウカを抱え、もう片腕で狙撃を行う。優れた体幹と経験の為せる業である。尤も、その殆どは美食を追い求める間に磨かれたものだったが――その中にある、美食家としての勘が妙な警告を発していた。背後に続いていたジュンコが足を止めたハルナに気付き、愛銃を抱え直し、牽制程度に銃撃を行いながら問いかける。

 

「っと、急に止まって、どうしたのハルナ!?」

「いえ、何か……向こうの動きが変化したような気が――」

 

 美食研究会を追いかけ、走り回る正義実現委員会。その動きを観察していたハルナは、その両目を細めながら呟いた。先程までは愚直に此方を追い回し、発砲していた彼女達だが――先程より数が減っている。

 撃退したから? 否、確かに攻撃自体は加えているがそれは殆ど足止め目的、ハルナ自身、意識を刈り取った部員は二桁にも届くまい。そして先程は兎に角此方を捕まえようと躍起になっていたが、今は寧ろ不気味なほどに距離を詰めて来ない。要所要所で詰める気配は見せるものの、じっとこちらを伺う様に一定の距離を保っているのだ。その動きがどうにも、ハルナには不気味に思えて仕方なかった。

 すん、と鼻を一つ鳴らしたハルナは、じっと正義実現委員会を見つめながら告げる。

 

「先程までも班単位では動けていましたが、ほんの数分前から何か、正義実現委員会全体での動きに切り替わった様な気がして……」

「深読みし過ぎじゃない? っていうか、いつまで追いかけて来るの連中……!?」

「それは勿論、私達がこのゴールドマグロを返すまででしょうね~」

「うぅ、お腹空いたお腹空いたーッ! へぶっ!?」

 

 遅れていたイズミとアカリが追いつき、イズミは抱えていたマグロの尾に再び引っ叩かれる。先程から彼女の腹の虫は何度も鳴り響き、その限界が近い事は明らかであった。それは他の美食研究会の面々も同じで、このゴールドマグロを食すために態々昼食まで抜いて来ている。一刻も早く食事にありつきたいというのは皆、共通の想いだった。

 

「あっ……! 皆さん、此方の裏路地に丁度良い逃走経路がありましたよ☆」

「えっ、ラッキー! こっち通れば近道じゃん!」

 

 そんな事を考えていると、先の通路を見渡していたアカリがふと、店と店の間にある狭い路地裏に気付いた。地図に記載されていない其処を抜ければ、次の交差点まで一直線であり、想定していた逃走ルートよりも遥かにショートカット出来る。ジュンコはそれを察していの一番に駆け出し、ハルナとイズミもその背中に続いた。

 

「ふふっ、これは幸運ですね、追手が詰めてくる前に進むとしましょう」

「ま、待ってよ~!」

 

 先頭にジュンコ、次にアカリ、ハルナが続き、最後にマグロを抱えたイズミが裏路地に入り込む。そして僅かばかりの直線を終え、交差点へと飛び出そうとした瞬間。

 

「むっ――ジュンコさん!」

「えっ、何、アカ――……」

 

 アカリが何事かを叫ぼうとするより早く、ジュンコの頭上に何かが飛来し、炸裂した。通常のグレネードよりも数段上の威力と衝撃波。その煽りを真正面から受けたジュンコは吹き飛び、アカリと衝突。そのまま後続の面々を巻き込み、来た道を逆行する形で吹き飛んだ。

 

「どわぁあッ!?」

「ま、マグロがぁ~~~ッ!?」

「ぐぇっ」

 

 強烈な爆発は爆炎と衝撃を生み出し、イズミの抱えていたゴールドマグロをこんがり焼き上げ、そのまま地面にぐったりと横たえる。ハルナは衝撃で地面に転がったフウカを慌てて抱え直しながら、香ばしい匂いを放つゴールドマグロを見下ろし、酷く残念そうに呟いた。

 

「あら、ぜひお造りの形でと思ったのですが……天ぷらになってしまいましたね」

「うーん、ごめんなさい、どうやらこの道は罠だったみたいです☆」

「あぁぁあああ……せ、折角の御馳走がぁ……!」

「いった~ぁ……って、や、やばっ、これヤバくない!?」

 

 ジュンコが衝撃で目を廻しながらも必死に立ち上がり、周囲を見て叫ぶ。先程まで距離を詰めて来なかった正義実現委員会の部員が、吹き飛ばされた美食研究会を見るや否や、一気に詰めてきていたのだ。路地裏を見れば既に向こう側から幾つもの銃口が向けられており、先回りされていたのだと分かる。

 アカリは香ばしく焼き上がったゴールドマグロに未練がましく縋り付くイズミを宥めながら、油断なく愛銃のボトムレスを構え呟いた。

 

「……気付かない内に誘導されていた様子ですね」

「これは――どうしましょう?」

「あっ、そうだ! バラバラに逃げたら生存率上がるんじゃない!? 誰かに追手が集中しても、恨みっこなしでッ!」

 

 云うや否や、ジュンコは両手のARを振り回し、無理矢理突破口を開くと予定ルートとは異なる方向へと駆け出す。兎にも角にも逃走第一と云った風な余りにも堂に入った逃げっぷりに、他の面々は面食らいながらも納得の色を見せる。

 

「なるほど、良いアイディアですねジュンコさん☆ では、足の速さ次第ですが弱肉強食という事で♪」

「ふふっ、そうですわね、運任せとなりそうですが、それもまたスパイスのようなもの! それではっ!」

 

 アカリはボトムレスのアンダーバレル・グレネードランチャーを使用し、ハルナは正確に前方を塞ぐ数名をヘッドショットする事によって活路を開く。そして各々が別々の方向に逃げ出したのを見て、ひとり残されたイズミは慌てて後を追い出した。

 

「え、えぇっ!? ちょ、ちょっと待って! 私だけ置いて行かないでぇ~ッ!?」

 

 叫び、慌てて駆け出すも、飛来した一発の弾丸が彼女の足元を弾き、大きく転倒する。

 

「へぶっ、ま、待ってよぉ~ッ! うわーんッ! もう、憶えてなさいよッ、いつか絶対仕返ししてやるんだからぁ~ッ!」

 

 最早砂粒程度の大きさになった健脚の仲間達に恨み言を叫びながら、イズミは周囲の正義実現委員会にデイリーカトラリー(愛用の機関銃)を弾切れまで撃ちまくり、比較的包囲の薄い場所へと突撃して行った。その身に何発もの銃撃を受けながら走り続ける様は、正に重戦車の如く――美食研究会で最も頑丈なのは、恐らく彼女であろう。

 

「くっ、小癪な……! 各自散開し、追撃を! ――先生っ!」

「うん」

 

 その様子をやや遠目から確認していた先生は、自身のタブレットを操作し正義実現委員会の端末へと情報を送信する。

 

「全員の予測逃走ルートを割り出して各正義実現委員会の実働部隊端末に表示させたから、それに従って走れば確実に追いつくよ、相手は散開したけれど誰が誰を追うかは既に指定してある――落ち着いて、着実に行こう」

『りょ、了解しました!』

「ここはトリニティ自治区、私達から、ましてや先生から逃げるなんて事は不可能です――!」

 

 ■

 

「はぁ、はぁッ……こ、ここまで来れば流石に大丈夫だよね……?」

 

 ひとり、先頭を駆けていたジュンコは裏路地の中をやたら滅多らと走り回り、とあるオープンテラスカフェらしき店陰へと潜んだ。息を弾ませながら額に滲んだ汗を拭い、ジュンコは一息吐く。周囲に正義実現委員会の影は見えない、恐らく撒いたのだろう――そう判断し、そっと胸を撫で下ろした。

 

「ふぃー……あー、焦った、でもちょっと勿体なかったなぁ、あのゴールドマグ――」

「――あら、ジュンコさん……?」

 

 ふと、声が聞こえた。

 思わず肩を跳ねさせ、両の腕に持った愛銃を声のした方へと突きつける。しかし、月明かりに照らされたその顔立ちと恰好は酷く見覚えのあるもので。

 

「え……あ、アカリ!? どうしたの、そんなフラフラの状態でッ!?」

「まぁ、端的に云いますと……無理でした☆」

 

 そう、満面の笑みで云うや否や、彼女――アカリは前のめりに倒れ込んだ。

 

「えっ、ちょ、アカリ!?」

 

 叫び、駈け寄るジュンコ。良く見ればアカリの恰好は砂利と血に塗れ、まるで何十人もの暴徒に殴られたかのような様相を呈していた。この数分の間に一体何が――そう戦慄するも、答えは向こうからやって来る。

 アカリが潜んでいた陰から、誰かの笑い声が聞こえた。

 

「――くひひっ……きひひッ!」

「……えっ、な、何!? 何なのッ!?」

 

 思わず後退り、暗闇に目を凝らす。そして次の瞬間、紅い二つの眼光が見えたと思ったら、凄まじい形相と血の匂いを撒き散らす黒と赤が、ジュンコに襲い掛かって来たのだ。

 それは正しく――鬼の形相だった。

 

「きゃはははああァアアアッ!」

「いやああぁああッ! ご、ごめんなさいぃい~ッ!?」

 

 ■

 

「――あら、ジュンコさんにアカリさん」

「いでっ……――あ、ハルナ、あんたも捕まったの?」

 

 美食研究会、逃走劇から数十分後――。

 両手、両足を縛られ、宛ら荷物の様に地面へと転がされるジュンコ。その視線の先には、同じように拘束されたハルナの姿があった。彼女は器用に上半身だけを起こし、壁に背を預けている。場所は頑丈な護送車の中で、人間を十人程度は詰め込めるスペースがあった。ハルナはもぞもぞと動き、近寄るジュンコを見つめながら、ふっと笑みを浮べる。

 

「ふふっ、えぇ、一分くらいは頑張ったのですけれど――」

「短っ……」

 

 そう何でもない事の様に宣うハルナに、ジュンコは思わず呆れかえる。ハルナはフウカを抱えたまま逃走を開始し、その一分後には見事に頭上から強襲され、敢え無くお縄となった。ハルナは今しがた車内に放り込まれたアカリとジュンコを見つめ、呟く。

 

「では、無事脱出に成功したのはイズミさんだけという事でしょうか? 良かったですね、私達の犠牲は無駄ではなかったようです」

「いや、犠牲っていうか、最初はほぼ逆の構造だったけれど……」

「それにしても正義実現委員会、流石はトリニティきっての武力集団ですわ、凄まじい戦闘能力でした」

「あ、それに関しては同感、あのアカリが一瞬で、潰れた缶ジュースみたいになってさ……マジでびっくりして変な声出ちゃった、まぁ、出会った相手が相手だったから、仕方ないと思うけれど」

 

 告げ、ジュンコは苦労して上半身を起こし、そのままハルナを真似て壁に凭れ掛かる。ジュンコとアカリが遭遇した鬼の形相をした生徒は、正義実現委員会の委員長――ツルギであった。つまりトリニティ最強のひとりであり、単独でゲヘナ風紀委員長のヒナともやり合える、正真正銘の化物である。

 ジュンコはあの後、ものの数秒で意識を刈り取られ、アカリと同じように地面に転がる事と相成った。最初の数秒で意識が飛んだので、アカリ程痛めつけられなかったのは不幸中の幸いか。いや、それを幸運と云って良いのかはかなり悩む所であるが。

 分厚い装甲で守られた護送車の中は酷く静かで、外の音は何一つ拾う事が出来ず、ジュンコはどこか不機嫌そうに呟いた。

 

「はぁ~、もう、だからトリニティの本拠地まで来るなんて嫌だったのに……いくら幻の魚だからって、どうして、こう……!」

「それはですねジュンコさん、つまるところ、こういう事ですわ、誰もいない流し台で水が流しっぱなしになっていたら――」

「それ前にも聞いたからっ!」

 

 というか、こうなる度に聞いている様な気もする。「そうでしたか?」と首を傾げるハルナに溜息を零し、ジュンコはこれからの事を憂いた。

 

「……私達これからどうなるのかなぁ?」

「――まぁ、順当に考えて風紀委員会に引き渡しじゃないでしょうか?」

「うわぁ!?」

 

 むくりと、突然起き上がり口を開くアカリ。ボロボロの恰好のまま笑みを浮べる彼女に、ジュンコは目を丸くしながら思わず叫ぶ。

 

「びっくりしたぁ、突然起き上がらないでよ!? 無事で良かったわねアカリ!?」

「ふふっ、まぁそうそう簡単にやられませんよ☆」

 

 そう云って体を左右に揺らすアカリは、拘束を抜けられないか試しているようだった。しかし、残念ながら抜け出すのは困難である。ハルナも一通り試した後なのか、自身の両手を拘束したそれを見下ろしながら小さく首を振っていた。それを見たアカリは肩を竦め、大人しく壁に肩を預ける。

 ぱっと見、一番負傷しているのは彼女であるが、美食研究会の面子は皆見た目以上にタフであり、アカリもまたその例に漏れず頑丈であった。

 

「っていうか、そっか、風紀委員会かぁ……やだなぁ、もう考えるだけで……」

「参りましたわね、ヒナさんの手に私達の命運が託されるのは、出来れば避けたかったのですが……」

「まぁ、今回はちょっと無理をし過ぎましたね、仕方ないかもしれません」

 

 そう云って、何となく諦めモードの美食研究会。

 そんな彼女達の傍に、相変わらず簀巻きにされたまま放置されている一人の生徒。

 

 ――どうして、私まで……。

 

 ハルナが捕まった際、ついでとばかりに担ぎ込まれた給食部部長のフウカはそっと、心の中で涙を零した。

 

 ■

 

 一方その頃イズミは――。

 

「こ、此処はどこ……? 私はイズミ……うわーん! もう、何処に行けばいいのぉ!? だ、誰か―っ! 誰でも良いから、ご飯ちょうだーいッ!? お、お腹が空いたよ~~っ!」

 

 彼女は愛銃を肩に担いだまま腹を抱え、薄暗い郊外を彷徨っていた。

 商店街から少し外れた街道は、深夜の為どこも開いておらず、コンビニ一つ見えない。都市中心の商店街ならば二十四時間営業の店も多いが、一つ区画を隔てればベッドタウンに早変わり。兎に角正義実現委員会から逃走するの必死で、自身が何処に逃げ込んだのかも分からない。イズミは鳴り響く腹の虫にうんざりしながら、力なく歩き続けるしかなかった。しかし、それも限界に近い。

 

「もう歩けない~……やだぁ~、ここで餓死するんだぁ~ッ!」

 

 その場に蹲った彼女は自身の未来を悲観し、思わず叫ぶ。逃走に出遅れた彼女は銃撃の雨を浴びせられボロボロで、更に言えばお腹が空いて力が出ない。尚、後者が彼女の動けない理由の九割である。

 せめてあの、こんがりと焼けたゴールドマグロをひと齧りでもしていれば違ったのだろうか、そんな事を考えて。

 ――ふと、何か良い匂いが漂っている事に気付いた。

 鼻を鳴らしたイズミは思わず顔を上げ、視線を彷徨わせる。

 すると――。

 

「あっ、ご飯、ご飯だっ! こんな所にご飯がッ……!?」

 

 ――視線の先には何と、道端にポンと置かれたハンバーガーがあるではないか。

 這い蹲った姿勢から素早く駆け出し、地面に直置きされていたそれを掴んだイズミは、そのハンバーガーをあらゆる角度から眺め、匂いを嗅ぎ、目を輝かせる。

 それは、紛れもなく食べ物で、彼女の腹を満たす唯一の方法であった。

 

「だ、誰か親切な人が置いておいてくれたのかな……!? それとも私の普段の行いのお陰? まぁ何でも良いや、頂きま~すッ!」

 

 道端に落ちていようが何だろうが、食べれるものならば問題なし。大口を開けてハンバーガーに被り付いたイズミは、その舌を刺激する味に思わず目を見開いた。

 

「お――美味しいっ! 空腹な分凄く美味しく感じるッ!?」

 

 昼を抜き、こんな深夜まで何も食べていなかった為か、その何て事の無いハンバーガーが彼女にとっては大層美味しく感じた。二度、三度、齧りつき涙すら浮かべて頬張る彼女は、これを置いてくれた親切な誰かに心から感謝をし、手の中のソレを胃の中へと収める。

 

「おいしっ! おいしー! おい……お……――」

 

 しかし、その手は徐々に緩まり。やがて、最後の一欠けらを手に握ったまま、彼女はその場で這い蹲る様にして寝入ってしまう。その様子は正に異様の一言で。ハンバーガーの欠片を握り締め、道路上で寝入る一人の生徒、ハッキリ言って近づきたくはない。

 しかし、そんな彼女に接近する影が複数。

 銃口を彼女に向けながら、イズミの頬を軽くバレルで突く生徒達――正義実現委員会は、大口を開けて寝入るイズミに畏怖の視線を向けながら呟いた。

 

「……本当に食べちゃったよ」

「先生から、『食事に強力な睡眠薬でも混ぜ込んで道端に放置しておけば勝手に嵌る』なんて指示された時は、そんな馬鹿なって思ったけれど……」

「そんなにお腹が減っていたのかな……?」

「いや、だとしても道端に落ちている食べ物を口に入れるか、普通?」

「って云うか、こんな即効性のある薬品混ぜ込んだのか、お前……」

「いや、先生から来たメッセージの備考に鉄の胃袋ってあったから、大丈夫かなって」

「えぇ……」

 

 躊躇いもなくそんな事を行う仲間に、思わずそんな声を上げる。ややあって足元のイズミに視線を移した彼女達は、バッグから拘束具を取り出し静かに頷き合った。

 

「……取り敢えず、確保完了報告を」

「……了解」

 

 ■

 

「――ふぅ、どうやら最後の一人も確保出来た様です」

「そ、そうですか!」

 

 端末を凝視し、最後の一人の確保報告を待っていたハスミは、その連絡と同時に大きく息を吐き出した。背後で固唾を飲んでいた補習授業部もその言葉に胸を撫で下ろし、強張っていた体から力を抜く。

 これにて美食研究会――及び人質一名、確保完了である。

 

「お疲れ様でした、先生、それに補習授業部の皆さん、お陰様で事態を無事に収拾する事が出来ました」

「あ、あはは……でも、私達は殆ど何も」

「そうですね、肝心の戦闘はアズサちゃんとコハルちゃんが頑張った位で……」

 

 そう云って、ヒフミとハナコはふんす顔のアズサとコハルを見る。補習授業部も一応戦線に出てはいたが、その殆どは正義実現委員会の実働部隊が役割を担っており、主戦を張ったとは言い難い。因みに美食研究会を散開させたグレネードを投擲したのがコハルで、逃げようとしたイズミの足元を撃って転倒させたのがハスミ。頭上から強襲して見事ハルナを昏倒させたのがアズサである。

 ハナコは先生と共に美食研究会の予測逃走ルートの更新と負傷者の手当担当、部長のヒフミは前線で銃撃を行いつつ、負傷した生徒をハナコの元に運送する役割を担当していた。美食研究会との逃走劇はそれなりの時間行われていた様で、傷だらけのまま道路上で横たわっている正義実現委員会のメンバーも少なくなく、ヒフミはそんな彼女達を見過ごす事が出来ず、このような形となった。

 

「うん、私としては正義実現委員会の戦術を目の前で見ることが出来て良い勉強になった、やはり群として動ける組織は強い」

「や、役に立てたかどうかは、分かりませんが……!」

「皆ちゃんと自分の役割を果たせていたさ」

 

 そう云ってヒフミやコハルの頭を撫でつける先生。コハルは鼻息荒く、ヒフミはどこかくすぐったそうに首を竦めた。

 

「ところでハスミさん、あの方々の処遇はどうなるのでしょうか?」

「そうですね、本来であれば私達の方でこの後の処遇を決めるのですが……今回は時期が時期ですので、ゲヘナ風紀委員会に託そうかと」

「……と、なると」

 

 ハナコの言葉に、神妙な表情で答えたハスミの視線が先生へと向く。先生も彼女達の方へと顔を向け、小さく頷いた。

 

「はい、大変申し訳ありませんが、先生にもう一つお願いが――」

「引き渡しの仲介、かな」

 

 先生の言葉に、ハスミは肯定を返す。今回の件も、云っては何だが補習授業部が参加したのはあくまで『形だけ』だ。正義実現委員会が主体となって動いたのではなく、シャーレと補習授業部が自主的に動いて解決した――という方向に持っていく為の。

 そうなると当然、引き渡しも正義実現委員会が動く訳にもいかず。

 

「あくまでシャーレが生徒を引き渡す、という形であれば、トリニティ側にとってもゲヘナ側にとっても、政治的な憂慮が減りますものね」

「……えぇ、ハナコさんの云う通りです」

「分かった、引き渡しは直ぐに?」

「はい、既に輸送準備は整えてありますので……何から何までありがとうございます、先生」

「気にしないで」

 

 そう云って軽く手を振る先生。元より引き受けた事ならば、最後まで役割を果たす腹積もりだ。

 

「そうなると……私達は一度寮に戻った方が良いですかね?」

「そうだね、そろそろ時間も時間だろうし……」

 

 呟き、先生はタブレットの時刻を確認する。既に合宿所を出てからかなりの時間が経過しており、疲労の蓄積や睡眠時を考えると、これ以上の夜更かしは少々見過ごせない。ハスミは補習授業部を見渡した後、先生の耳元でそっと囁く。

 

「……外出理由については、今回の騒動に関して助力を請うた、という風に報告しておきます」

「――助かるよ」

 

 彼女の言葉に先生は感謝を告げ、先に補習授業部を合宿へと帰す判断を下した。

 ここからは後処理だ、護衛は正義実現委員会だけで十分だろう。ましてや合宿中の彼女達に余計な負担を掛けたくない。その旨を彼女達に伝え、少しだけ迷った様子を見せた補習授業部を説得し、先生は生徒達を帰路へ就かせた。

 

「で、では、私達はお先に……先生、お気を付けて!」

「先生、何かあったら連絡してくれ、直ぐに駆けつける」

「無理はしないで下さいね♡」

「えっと、それじゃあハスミ先輩、失礼します……!」

「えぇ、お疲れ様でした、皆さん」

 

 頭を下げ、街道を歩いて行く補習授業部を見送り、先生もまた護送車の方へと視線を向ける。美食研究会を乗せた護送車は既に準備が完了しており、運転席には通常のトリニティ制服を着用した正義実現委員会のメンバーが座り、ハンドルを握っていた。

 

「私達は一旦引いた位置に居ますので、これ以上何かあるとは思えませんが……よろしくお願いいたします、先生」

「――うん、任せて」

 


 

 次回、久々のヒナ登場。

 戦闘だけれど戦闘じゃなかった……そもそも相手が美食研究会だし此処で先生が負傷したらエデン条約云々どうのこうの前にゲヘナとトリニティがえらい事になりますわ。政治って嫌なものですわね、ミカ……。

 

 4thPVの闇落ちハナコが余りにも凛々しすぎるので、前々からどうにかこうにか出せないかなぁ~と画策していたのですが、あのハナコってそもそも「補習授業部が存在しなかった」世界線のハナコなのかなぁ。それとも補習授業部はあったけれど、結局崩壊を免れる事が出来ずに離散してしまった世界線のハナコなのかなぁ……。

 

 私は普段凛々しかったり、飄々としている人物が目の前で大切な人が死にかけて取り乱す展開大好き侍なのでハナコの事は是非デロデロに甘やかして補習授業部と先生がとても大切な存在だと刻み込んだ後に先生の手足捥いであげたいと常々思っていたんですけれどぉ。

 依存してくれるかは正直微妙なラインな気がする。ハナコは正しい意味で精神的に強くて、ひとりでも真っ直ぐ背筋を正して生きていけるだけの力があるから。元々ティーパーティー候補に挙がる位の優等生だったのに、そんな肩書を投げ捨てて、自身のやりたい事を臆面も見せずにやり遂げる姿勢がもう凄い。トリニティとか校風的に絶対同調圧力やばいだろうに。

 

「ただ……ちょっと歯がゆくて、息苦しいと云いますか」

「……ふふっ、本当におかしな話ですよね」

「私の事なんて、放っておいてくれれば良いのですが」

「成績も性格も悪くて、補習授業部に属していて、毎日トラブルばかり引き起こすようなこんな私に、どうして……」

 

 一人でいる事が好きな訳じゃないんだよね?

 

「……そうですよ、と云ったら、先生はどう思いますか?」

「決して、一人でいる事が好きという訳ではありません、寧ろ私の会話に付き合ってくれたり、楽しく反応して下さる方が居てくれる方が嬉しいです」

「ただ、息苦しいのは嫌だなというだけで……」

 

 絆ストーリーを見れば分かるのですが、四話目のハナコはいつもと雰囲気がガラッと変わるんですよね。優等生であった頃のハナコが垣間見えるというか、彼女の根源に触れられるというか。ハナコはお嬢様然としていて、ちゃんとしていれば如何にも淑女という出で立ちですが、精神的にはどちらかと云えばゲヘナ寄りだと思うんですよ。自分のやりたい事というか、我慢しないという方向でベクトルの向きが同じというか。彼女はただ、それを抑え込んで振る舞うのが上手いだけで、心の奥底では自由で在りたいと思っていると、そう考える訳です。まぁトリニティの校風が悪いよと云われたらそれはもうその通り、生徒の質の善し悪しが天と地の差というか、陰湿と云うかリアルというか。

 彼女にとっては息苦しいままでいるより、一人でいる事の方がまだマシなのでしょう。自分のやりたい事(変態淑女)の面を見せれば、人が離れていくのはきっと分かり切っていた事でしょうに、ある意味彼女は本当の自分を見せると同時に、その息苦しさから解放される為に、ひとりでいる事を選んだのかもしれません。

 

 という事を考えると、補習授業部や先生といった理解者がどれだけ彼女にとって嬉しい存在かは察して余りありますよね。コハルも何だかんだとハナコに当たりが強いですが、あぁやって馬鹿をしている自分に一々構ってくれる、突っ込みを入れてくれる、注意してくれるというのは、多分それだけでも十分彼女にとっても嬉しい事なのだと思います。それでいて自身の言動や行動に困惑しつつも、何だかんだ受け入れてくれるヒフミ(ペロロ狂いという面白側面アリ)と、無知ゆえに自身の行為を明後日の方向に解釈するアズサ(素直)、自分に近しい感性を持ちながらそれを前に出す事を躊躇い隠すコハル(むっつり)とか、そりゃあもう自分の居場所に感じるでしょうよ。

 これに加えて包容力と理解のある先生君とかもう無敵の布陣では? 普段から理解されず、敢えて孤立し、一人を選んだハナコにこんなメンバーを一度に与えたら、それはもう崩壊後にあんな顔もしますわ。

 

 個人的にハナコには先生と補習授業部を秤にかけて、蒼褪める様な展開があったら嬉しいなぁ。原作でもミサイル撃ち込まれた時、アズサを追い掛けようとしたヒフミを止めて、ひとり冷静に立ち回っていましたが、「あの場に先生が……助けに行かないとッ!」って請われたら絶対動揺すると思うんですよね。補習授業部の安全と先生の安否の間で揺れ動いて、先生のサポートもない状況、何も分からない現状で中心地に飛び込むなんて、きっとハナコは愚行だと分かり切っている事でしょう。

 けれど今にも泣きそうなヒフミに、「ハナコちゃんッ!」って懇願と共に叫ばれて、思わず顔を歪めて欲しい。危険だと分かっているけれど、それ以上に大切なものに背を押され、アズサに続いて調印式会場に向かって欲しい。

 

 それでもって道中に広がる破壊跡、倒れ伏す生徒達に愕然として欲しい。一体何があったのか、誰がどうやってこんな惨状を引き起こしたのか。そういったものをぐるぐると考えながら、先生の名前を叫びながら周囲を捜索して欲しい。

 それで、崩れ落ちた聖堂跡地で先生の制服と、突き出た腕を見つけ出すんだ。

 先生が瓦礫の下敷きになっていると気付いた補習授業部は、焦燥を隠さずに瓦礫の傍に駆け寄る。「先生! 聞こえますかっ、先生!?」って叫ぶんだけれど全然反応が無くて、ハナコが瓦礫を撤去する為に積み重なったそれに手を掛け、「アズサちゃん、コハルちゃんッ!」って叫んで、意図を理解した皆が瓦礫を持ち上げて、ヒフミが先生を引っ張り出そうとするんだ。

 そして、僅かな隙間から伸びた腕をヒフミが掴み、皆が瓦礫を押し上げる。そして力一杯ヒフミが腕を引いて。

 

 腕だけ瓦礫から引き抜けて欲しい。

 

 思い切り引っ張った反動でヒフミは尻餅を突いて、両手で握り締めた掌には、先生の右腕だったものがひとつ。千切れた断面と、滴る赤色にヒフミは目を瞬かせて、多分呆然とした表情で「――……え?」って云うと思う。

 それを見たハナコやアズサは蒼褪め、コハルは多分パニックになる。「あ、あぁ、あ……」って唇を震わせながらコハルは先生の千切れた腕を見て、先生の名前を叫びながら一心不乱に瓦礫を掻き分け始めるんだ。アズサはそんなコハルを見て、「落ち着け、コハルッ! 無暗に崩すと先生がっ……!」って叫んで、ハナコは先生の腕を掴んだまま涙目で震えるヒフミに駆け寄る。

 ガチガチと歯を鳴らしながら震えるヒフミの肩を掴んで、「ヒフミちゃん、ヒフミちゃんッ!」って叫んで、左右に散っていたヒフミの視線がハナコを捉えて、「は、ハナコちゃん……」って普段からは想像も出来ない程に恐怖と焦燥に塗れた声を彼女は漏らすんだ。

「大丈夫です、先生は、きっと、大丈夫です……っ!」って、そう云って、ヒフミの精神を立て直そうとするハナコ。それにヒフミは何度もコクコクと頷いて、先生の腕を震える手で抱きしめ、蹲る。勿論、その言葉は単なる気休めにしかならない、そもそもその言葉自体、ハナコが自分自身に言い聞かせているという側面が強い。

 訳も分からず叫びながら瓦礫に向かおうとするコハルを必死に宥め、落ち着かせ、慎重に瓦礫を撤去しようとするハナコ。多分、全員の表情は殆ど同じだと思う。先生が生きているという一抹の希望に縋りながら、心のどこかでもう駄目なんじゃないか、先生のそんな姿は見たくない、目を覆ってしまいたい。という感情がせめぎ合っている。

 そうこうしている内にも周囲では戦闘音が鳴り響き始めて、全員の手が強張る。けれど撤去した瓦礫の向こう側にシャーレの制服が見えて、「先生っ!」ってハナコは叫ぶんだ。そして漸く引き出せた先生の状態は目を追いたくなる程酷くて、右腕は千切れ、足は瓦礫の下敷きになって殆ど平ら。どこからどう見ても致命的な負傷で、全員が言葉を失くして絶句する。多分、数秒ほど沈黙が流れて、コハルが、「し、しけつ、止血、しないと……っ!」って声を絞り出し、震える指先でポーチから包帯やら何やらを取り出すと思う。アズサも酷い顔色のまま頷いて、全員で先生の処置に当たる。そしてそのままハナコが先生を背負って、命からがら調印式の場を後にするんだ。

 

 因みにこうなると多分、ヒナはアリウススクワッドに殺害されて、正義実現委員会もかなりの打撃を被る。先生は多分取り逃がす事になるだろうけれど、片腕両足の欠損・損傷で重症。エデン条約編、後編の間は意識不明の重体で参戦不可。アコはヒナの死亡を聞き届け慟哭し、万魔殿がアリウスと一枚嚙んでいたという情報を聞き離反。ゲヘナは多分分裂して、トリニティ単独でエデン条約機構、ユスティナ聖徒会を抑える事になる。

 アズサは先生への所業に激怒し、補習授業部に内緒で単独行動、サオリに戦闘を挑み、原作通りの展開に。そこで姫がヘイロー破壊爆弾で死亡し、サオリが全ギレ。アズサを殺害。補習授業部が追いついた頃にはもう事は全て終わっており、補習授業部は大切な仲間を一人喪う。そこでヒフミが漆黒の意思に目覚めるにしろ、目覚めないにしろ、サオリはアリウスの手で地下へと帰還し、ロイヤルブラッドの代わりとして贄にされる。リーダーが結局死亡するのでアリウス・スクワッドは解散、4thPV通り片方は自殺、片方は行方不明。アリウススクワッド全滅。

 辛うじてユスティナ聖徒会をトリニティが押し返したとしても、マエストロの人工天使か超強化完了したベアおばがキヴォトスに襲来する。

 そんで、それをミカ(狂乱)が拳で粉砕すると。

 

 このルートに入ると先生を守れなかったミカ(未来)とミカ(現在)がフュージョンして通常のミカの倍の戦闘力を持ったスーパーミカが誕生する。多分ベアおばも人工天使も粉砕出来る位には強い。あとクロコもブチギレ不可避なので、上手く行くとベアおばが儀式完成する前に抹殺される。

 そんで、重体だった先生はどこかに消える。ミカが攫ったのか、クロコが回収したのか、はたまた別の誰かかはルートによる。

 先生が消え、アズサは死亡し、結局何も出来ず、誰も救えず、補習授業部は失意のまま離散する事になる。ヒフミは初めて出来たモモフレンズ(かけがえのない友人)を喪い、ハナコは唯一自分らしく在れた居場所(ありのままの自分)を失い、コハルは折れず曲がらず朽ちずの正義(立ち向かう勇気)を喪う。

 

 これも全部先生が立ち上がれなかったせいです。手足が捥げようが血反吐撒き散らそうが、必死に足掻いて正義実現委員会に拾われて、そのままヒナと行動を共に出来ればチャンスがある。先生が見つからないとヒナはそのままアリウスと戦闘を続けてしまい、サオリ合流後はスクワッド全員で袋叩きにされる。ミサイル食らった直後なのに可哀そう……。なので先生にはヒナを庇って銃弾を喰らって、そのままセナの装甲救急車の中でご臨終して欲しい。

 嘘、まだ死なないで♡ 何本手足残っているか知らないけれど、死ぬならせめてアリウススクワッドとミカ救ってから死んで欲しい。どうせならエデン条約記念式典とか何とか適当な式典作って、そこでのスピーチ中にキヴォトス中継された状態で死んでくれ。阿鼻叫喚の地獄になると思うから。でも先生死んじゃうとホシノおじさんとワカモが後追いしちゃうよ? 先生には人の心とか良心とか倫理観とか無いんか? 逆に云えば死んでさえいなければ問題ない……? なるほど、そうかっ!(植物状態)

 



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あなたはまだ、憶えていますか。

誤字脱字報告に感謝の先生捥ぎ。


 

 トリニティ自治区、外郭大橋。

 その端へと車両を停車させ、先生はひとり夜空を見上げていた。大騒動の後だというのに、外郭地区は何事もなかったかの様に静寂で満ちている。シャーレの外套を羽織り、両手をポケットに入れたまま先生は小さく息を吐いた。

 

「ふーっ……」

 

 流石に、吐息が白く濁ったりはしないが、それでも頬を撫でる風は冷たく、先生はふと、アビドスでの夜を思い出す。向こうの夜も、確かこんな風に肌寒かった。

 

「やっぱり、夜は冷えるな――」

 

 そんな独り言を呟いていると、向こう側から光が差し込んだ。それは、ゲヘナの校章を掲げた装甲車のヘッドライト。黒い車体を夜の中に馴染ませながら、甲高いブレーキ音と共に車両は先生の傍へと急停止した。そして扉を乱雑に開け、飛び出す影が一つ。

 

「――お待たせしました、死体はどこですか?」

「……セナ、物騒な事云わないで」

 

 一見、装甲車とも見紛うそれ――緊急車両十一号から飛び出して来るや否や、その様な事を口走る彼女、セナに先生は苦笑を零す。

 先生の前へと立った彼女は白い髪をナースキャップで纏め、救急医学部の腕章を身に着けている。彼女は先生の周囲をざっと見渡した後、自身の言動に気付き、そっと頭を下げた。

 

「……失礼しました、先生、死体ではなく負傷者でしたね、偶に混同してしまって」

 

 いや、彼女の場合、偶にというか殆どの割合でそうだ。

 そんな言葉を呑み込んだ先生は、ポケットに入れていた両手を取り出し、そっと微笑む。

 

「久しぶり、セナ」

「えぇ、お久しぶりですね、先生」

 

 彼女は能面の様な表情を僅かに緩めながら、そう告げる。

 初対面だと分かり難いが、これでも彼女は確かに喜んでいる。口角の上り幅具合から見るに、大分、いや、かなり、だろうか。

 

「……個人的には先生との仲を進展させておきたいのですが、今は負傷者が先です」

 

 彼女は自身の頬を軽く手で叩き、そう云うや否や肩に掛けたポーチから端末を取り出す。液晶には今回受け渡しされる物品(犯人・人質)リストが表示されており、それを下までスクロールしながらセナは口を開いた。

 

「えー……納品リストには、新鮮な負傷者四名と人質一名、と書かれていましたが」

「新鮮……うん、えっと、一応彼女達は後ろの護送車に――」

「そちらでしたか」

 

 先生が云い終わるより早く、聞くや否や護送車の元へと駆け出すセナ。仕事熱心というか何と云うか、しかしそれもまた彼女らしいところだろう。その背中を見送る先生は、そっと肩を竦めながら運転席の正義実現委員会にハンドサインを送る。

 

「……全く、いつも通りね、あの子は」

「――ヒナ」

 

 不意に、聞覚えのある声が響いた。

 そちらの方に顔を向ければ、助手席から飛び降りる風紀委員長の姿があった。

 

「久しぶりね先生、いつぶりかしら……ところで、此処で何を?」

「トリニティとゲヘナの仲介役として、って云えば分かるかな」

「――そう、政治的配慮、って奴ね」

 

 先生の返答を聞いたヒナは、これ見よがしに溜息を吐き肩を竦めた。恐らく、彼女としても政治の絡む云々は避けたかったに違いない。心なしか、その表情はうんざりとしている。

 

「此処にヒナが居るって事は、そっちも?」

「えぇ、問題にしたくないのはこちらも同じだもの、だからこそ、公的にはこうして風紀委員会ではなく、こっちの『救急医学部』が来たって事になっているの……私は基本的に付き添い役」

「そっか、救急医学部はゲヘナでも政治的に関わり合いが薄い部活だもんね」

「そういう事」

 

 呟き、彼女は腕を組んだまま護送車の方へと目を向ける。そこには後部扉から美食研究会の面々を引き連れるセナの姿があった。一応、歩ける生徒の足枷は解き、緊急車両十一号へと乗車する様促す。美食研究会も事ここに於いて抵抗するつもりはないのか、粛々と指示に従って護送車から下車していた。

 

「――では、そちらの車両に」

「ん……」

「あら――」

 

 そして、先頭を歩くハルナとヒナの視線が交わる。

 

「ふふっ、ヒナさん、お久しぶりですわね」

「ハルナ、相変わらず……いや、詳しい話は帰ってからで」

 

 いつも通りの態度を貫くハルナに、ヒナは酷く面倒そうな表情を浮かべ、告げる。

 

「あの、セナさん☆ ちょっと私の腕の角度があり得ない方向に曲がっているのですが、診て頂けます?」

「うぇ、よ、酔った、吐きそう……」

「ぐーぅ……すぴぃ~……」

「た、助かった……」

 

 ハルナの後に続々と続く美食研究会。

 その最後尾で胸を撫で下ろすフウカを見て、ヒナは目を見開いた。

 

「あら、給食部の……今日一日見ていないと思ったら、こんな所に――今、学園でジュリが……いや、やっぱり説明は帰りながらで」

「えっ、な、何ですか、その不穏な台詞は……」

 

 私が不在の間、一体何が――そう呟き、戦慄するフウカは不憫に満ちていた。

 果たして彼女が報われる日は来るのだろうか。今度、何か高い調理器具とか、可愛い食器セットとか、総合ビタミンゼリーとか、持っていこう。先生は心の中でそう決めた。

 

「せ、先生も、ご迷惑をお掛けしました……今度、シャーレまで美味しいご飯を作りに行きますので!」

「あぁ、いや……寧ろ、大丈夫かい、フウカ?」

「――あはは、何と云うか、もう慣れっこ……ですかね」

「…………そっか」

 

 死んだ目で呟くフウカに、先生は言葉を失った。

 強く生きてくれ、フウカ、私に手伝える事があったら幾らでも手を貸すから……。

 先生には、心の中でそう呟く事しか出来なかった。

 

「先生、お世話様でした☆」

「うぅ……せ、せんせ、また今度~」

「すやぁ………」

「うん、まぁ、何と云うか、程々にね……?」

 

 アカリ、ジュンコ、そして爆睡するイズミが続々と緊急車両十一号へと乗り込んで――というか詰められていく。イズミを担いだセナは座席へとイズミを放る様に投げ込み、しかし当の本人はそんな乱雑な扱いを受けても一向に目を覚ます気配が無い。その睡眠の深さは羨ましくも感じてしまう。尤も、正義実現委員会の用意した強力な睡眠薬が原因の殆どだろうが。

 

「ふふっ、先生、色々と配慮して頂いた様でありがとうございます、今度、ゲヘナにいらした際は何か美味しいものでおもてなし致しますね」

 

 最後尾で振り向き、車両に足を掛けたハルナはそう云って先生に笑い掛ける。その表情は何の憂いもなく、いつも通り凛々しく、優雅で、このような騒動を巻き起こして尚、微塵も罪悪を感じさせない。それはある意味の長所であり、または短所であり。

 その微笑みが、いつかの幻影と重なった。

 

『なら、約束です……愛する御方と一緒に、一番好きな、食べ物を――……』

 

 先生は胸に湧き上がる感情を努めて押し込み、蓋をして、そっと微笑んで見せた。感情を抑え込むのは、得意だった。だから表情を取り繕って、いつも通り、何てことないように振る舞える。けれど、滲み出す感情は僅かな色を残し。

 どこか寂しそうに、悲しそうに、けれど同時に――嬉しそうに、先生は笑った。

 

「うん、楽しみにしている、私も……たい焼きを買って、会いに行くから」

「あら――」

 

 その一言と、滲み出る(感情)に、ハルナは面食らった様に目を見開いて。

 

「――えぇ、その日を心から待っております」

 

 ハルナは、華が咲いた様に笑った。

 彼女らしい、心からの笑みだった。

 心の底から、そう思っているのだと分かる輝きだった。

 そんな彼女の目尻から涙が、一粒零れ落ちる。

 綺麗に笑ったまま、たった一粒だけ。

 

「あ、あら……?」

「ハルナ?」

 

 ハルナは、自身の手を頬に当て、その感触で自身が涙を流しているのだと自覚した。一滴、たった一滴。その涙を指先で拭い、ハルナは目を瞬かせる。どうして自分が泣いているのか分からない、といった風に。

 

「ごめんなさい、変ですわね? 先生を見ていたら、何か、急に――」

「………」

 

 涙を流し、一番戸惑ったのは、流している本人だった。微かに濡れた指先を見つめながら、彼女は首を傾げる。悲しい訳ではない、寧ろ嬉しい位だ。先生と共に食べるたい焼きは、とても美味しい。自身の求める美食に最も近い位置にあるものだと、そう胸を張って云える。それをまた味わえるというだけで胸が躍る程に。

 だというのに、何故か――今だけは、酷く胸が苦しかった。

 

「……何処か、痛む場所でも?」

「いえ、身体はどこも問題ありません……恐らく、砂でも入ってしまったのでしょう」

 

 横でやり取りを見ていたセナが、そう問いかけ、ハルナは首を横に振る。二度、三度、胸に手を当てたまま深呼吸を繰り返したハルナは、いつも通りの姿勢を取り戻し、先生に向かって謝罪を口にした。

 

「――失礼致しました、先生、どうやら想像以上に、ふふっ、私は先生との会食を心待ちにしていた様です」

「……そっか、うん、それなら、なるべく早く会いに行くよ」

「えぇ、お待ちしておりますわ」

 

 告げ、ハルナは踵を返した。

 背中越しに先生の瞳を真っ直ぐ見つめ、彼女は綺麗に笑う。

 

「それでは先生――また」

「うん――またねハルナ、美食研究会の皆も」

「えぇ、また今度☆」

「た、たい焼き、私の分も……うぅ」

「すぴぃ~……」

「……うるさい、早く入って」

 

 個性を前面に押し出した美食研究会を緊急車両十一号へと押し込んだヒナは、そのまま乱暴に扉を閉める。セナは中の様子を一度確認し、ヒナの元へと歩み寄ると報告を口にした。

 

「――積載完了しました、出発の準備は整っています」

「そう……少し待っていて」

 

 そう云って、ヒナはセナに待機を命じると、確りとした足取りで先生の傍へと駆け寄る。ふわりと、彼女の髪が先生の頬を擽った。それ程に近い距離だった。

 

「……ヒナ?」

「――先生、トリニティで一体何をしているの?」

「……私かい? 今は、補習授業部って所で担任をしているけれど――」

「それはもう知っている、色々と情報部から報告は受けているから、私が云っているのは、中立的組織であるシャーレが何故、こんな時期にトリニティにいるのって話――これではまるで」

 

 そこまで口にして、不意にヒナは口を噤んだ。そこから先の言葉が、先生に当てはまるとは到底思えなかったからだ。先生が、一つの学校に肩入れする――場合によってはあり得るだろう、けれどそれは明確に善悪が別れた場合のみ。今回の件で、先生がそのような私情に走る訳がない。そんな信頼が彼女の中にはあった。

 

「……やっぱり今のはなし、気にしないで――先生がそんな事をする訳がない」

「……色々と複雑でね」

 

 呟き、先生は緊急車両十一号の傍で待機するセナを見る。タブレットで時間を確認すれば、時刻は既に深夜に差し掛かろうとしていた。こんな時間まで彼女達を拘束するのは心苦しいが、情報の共有は重要だった。

 

「――ヒナ、少し時間はあるかな?」

「……先生と話す時間なら」

「助かるよ」

 

 ■

 

「成程……先生も結構複雑な状況にいるのね」

 

 一通りの事情を聞き終わったヒナは、両手を組んだまま静かにそう呟いた。目を閉じたまま眉間に皺を寄せる彼女は、普段の風紀委員長モードに近い。銃を持っていない分、多少威圧感は和らいでいるが、それでも思う所があるのだろう。その感情が雰囲気として漏れ出ている。

 

「うん、本当なら全部の学園、全生徒、平等に手助けしてあげたいのだけれど――」

「……目の前で困っている生徒が居たら、先生は迷わず助けてしまうでしょう?」

「――仰る通り」

 

 どこか呆れたようなヒナの言葉に、先生は苦笑と共に頷く。どうにも、こればかりは性分だった。理想をいえば完全な中立、そして遍く生徒に平等な助力を約束したい。けれど先生の体は一つで、手は二つ。差し伸べられる数にも限界があり、一度に全ての生徒を助ける、という行為は物理的に不可能だった。

 

「それにしても、トリニティの裏切者ね……」

 

 ヒナは夜空を見上げ、そんな声を漏らす。

 

「見方一つで敵・味方は裏返るし、立場によっても正義は変わる、絶対的な真実何て、分かりっこない」

「それでも私は助けたいと思う、皆を、諦めずに」

「……先生らしいわね」

 

 そう云って、ヒナは肩を竦める。寧ろ、そう口にしない先生がいたら疑ってしまっていただろう。ヒナは聞いた情報を頭の中で整理しながらも、先生に向かって問いかけた。

 

「……と云うか、こんなトリニティの内情、ゲヘナの私に話して良いの? 一応、平和条約を結ぶ相手ではあるけれど、トリニティにとっては仮想敵でしょう」

「ヒナはこういう事、云い触らしたりしないだろう?」

「それは……そう、だけれど」

「なら問題ない、信頼しているからね」

 

 そう云って片目を瞑る先生。これがマコトやサツキなどであれば逡巡したであろうが、彼女であれば別だ。絶対に悪い様にはしないという信頼がある。それを感じ取ったのか、ヒナは目を瞬かせながら小さく息を吐いた。

 

「……そういうのが、先生の悪い所」

「……悪い所なら、直した方が良い?」

「別に、今のままで良いわ――私にだけなら」

 

 呟き、彼女は肩に掛かった髪をひと房、指先に巻き付けた。それが彼女の照れ隠しである事を、先生は当然理解している。どこか生暖かい視線を感じ取ったのだろう、ヒナは咳払いを一つ漏らすと、努めて淡々とした様子で云った。

 

「話を戻すけれど、エデン条約が軍事同盟って見方」

「うん」

「興味深い見方ではあると思う、ただ少なくとも私はそう思わない……アレはれっきとした平和条約、私はそう考えているわ」

 

 軍事同盟による超強力な武力集団の誕生、確かにそういう見方をする事は出来るだろう。或いは脅威に感じる学園も存在するかもしれない。しかし、仮にそれが目的だとすれば――介入出来る程の余裕があるかどうかはさておき――連邦生徒会が見過ごすとは思えない。

 それに――。

 

「条約によって結成されるエデン条約機構、あれを武力集団と捉えたところで、ナギサ単身で統制出来るものじゃない、万魔殿のマコトもナギサと同様の権限を持つ事になるのだから」

「……確か、他のティーパーティーや万魔殿のメンバーにも、権限が分割されるんだっけ?」

「そう、だからエデン条約機構――ETOが誰かひとりの意思で暴走するような事は考え難い、勿論その全員が協力して……なんて事態になれば、理論的にはあり得るかもしれないけれど」

 

 そこまで口にして、ヒナは呆れたように続けた。

 

「そもそも、そんな事が出来るのなら、初めから両学園の統合でも何でも出来た筈だもの、理論的に可能なだけであって、まず考えられない」

「……仰る通りで」

 

 ヒナの言葉に、先生は苦笑を漏らしながら同意を示す。

 確かに、制度上可能である事と実際に可能かどうかは別だろう。ましてや万魔殿とティーパーティー全員が現時点で手を組む事は考え難い。それが可能であったのならば、そもそもエデン条約などというものは存在しなかった。

 

「それに、マコトは誰かと協力するなんて事が出来ない性質だから」

「……マコトはエデン条約に賛同しているのかい?」

「賛同というか、多分、何も考えていないんじゃないかしら? そもそも、ゲヘナ側でエデン条約を推進したのは私だから」

「それは――」

 

 ヒナのその口調から、彼女の心情が透けて見えた。ましてや、彼女を良く知る先生からすれば――彼女の思う事など、察して余りある。

 

「ヒナ、もしかして……重みに感じているのかい?」

「………」

 

 声は、夜に溶けて消えた。ヒナは何も答えず、ただそっと目を伏せるのみ。何かを口にしようとして、けれど言葉を呑んだヒナは、ただそっと呟くように云った。

 

「そういう聡い所も、先生の悪い所ね……いえ、これは見方によるかしら」

「ごめん……直截的だったかな」

「別に良い、間違ってはいないもの」

 

 答え、彼女は伏せていた目を夜空に向けた。

 ヒナは既に三年生。情報部に在籍していた頃からゲヘナ風紀委員として活動し、随分と時間が経った。この活動を嫌った事はない、大変な仕事ではあるが必要な事だと理解している。そして自分が、その活動の中で重要な役割を担っている事も。

 けれど、ふと思ったのだ。

 

「ETOが結成されたら、今よりも遥かにゲヘナの秩序はマシになる筈、そうなったらもう、私が風紀委員長じゃなくても良いでしょう? ――良い加減、引退も悪くないと思って」

「……そっか」

 

 ヒナの言葉に、先生はそっと頷いた。それが彼女の望みであるのならば、先生から口を出す事はない。

 外部からも云われている様に、現在のゲヘナは風紀委員長のヒナという重石があって、初めて成り立っている状態だった。もしこの状態で風紀委員長が切り替われば、ゲヘナの生徒は嬉々として自儘に振る舞い、その統制を喪うだろう。

 ある意味、ゲヘナ風紀委員会、その最強と呼ばれる存在は抑止力なのだ。

 しかし、ETOが結成されれば風紀委員会の負担も随分と減るだろう。取り締まる存在が単純に二つに増え、その戦力も十二分となればヒナが抑止力を務める必要性は薄まる。

 良い加減、別の生き方を探しても良いのかもしれない。

 そんな風にヒナが考えたのは――先生と出会ってからだった。

 

【貴女は事実、人の上に立つ器の様です、ですがそれ自体を貴女は疎んでいる……場所さえ違えば、望むように生きられたものを】

 

 いつか、厄災の狐に掛けられた言葉が脳裏を過った。

 その通りだった、ヒナは今のこの環境を、或いは自身が存在しなければ崩れてしまうこの状況を疎んでいる。その強大な力を持つが故の苦悩、或いは立場的な疎外感。自身がこれ程の苦労を買っている最中、他のゲヘナの生徒は自由気ままに日々を謳歌している。自身が書類や警邏に精を出している間に、普通の生徒は勉学に励み、スポーツに励み、自身の好きなものを極めようとしている。その事実を理解しながらも、彼女は三年間、風紀委員会という場所に在籍し続けた。幸か不幸か、それを背負ってしまえるだけの責任感と実力が、彼女にはあったから。

 

 どれだけ頑張っても、褒められる事はない。

 どれだけ結果を出しても、疎まれる事しかない。

 ゲヘナという大きな箱庭に於いて――風紀委員会は異質なのだ。

 自身を肯定する全ては、風紀委員会の中にしかなかった。

 

 何の憂いも、気負いも、政治的な背景をも持たずに、先生の隣を歩く生徒を見る度に――ヒナは、そんな事を痛感させられる。

 最初から持っていたその小さな願望を肥大化させたのは、先生の隣で屈託なく笑う、彼女達の姿だった。

 

「――なら、その時はシャーレにいつでも遊びに来て、歓迎するよ」

「……ありがとう」

 

 先生は、そんなヒナの欲しい言葉を簡単に掛けてくれる。或いは、ゲヘナ風紀委員長というポストにない自分など、関わる価値もない――なんて思っていたのに、先生はあっさりと願っていた声をくれるのだ。

 風紀委員長の席を退けば、今よりも時間に都合は付けられるだろう。そうなればシャーレに足を運ぶ時間だって、好きな様に都合が付けられる。その免罪符を手にしたヒナは、先生の声に心からの微笑みを返した。

 

「風紀委員長、そろそろ時間が――」

「……ん、分かった」

 

 セナがポーチに入れていた懐中時計を開き、告げる。ヒナはその言葉に頷くと、羽織ったコートを靡かせ踵を返した。セナが運転席に乗り込み、緊急車両十一号のエンジンを始動させる。ヒナは助手席の扉へと足を進めながら、背中越しにふと問いかけた。

 

「――補習授業部の事は、先生が守るのよね?」

「うん、勿論」

「……そう」

 

 ――羨ましい。

 

 声は、風に掻き消されて届かなかった。それはただ、先生に構って貰える、褒めて貰える、共に在れる、その場所に居る彼女達に対する――嫉妬だ。

 だから、これは先生に伝わらなくて良い。伝わらないで欲しい。

 ゲヘナ風紀委員会の長が、その様な嫉妬心を抱いているなんて知られたくない。それはきっと、恥ずかしい事だから。

 

「――ヒナ」

「? 何、せん――」

 

 けれど、先生は声が聞こえずとも、目が見えずとも、生徒を理解する、してくれる。

 不意に名前を呼ばれ、振り向いた彼女が見たのは、大きく手を広げる先生の姿だった。思わず目を丸くし、声を上げるより早く――先生の両腕が自分を抱きしめる。

 ヒナの小さな体を、先生の大きな体が覆っていた。

 

「ふぐッ……!? せ、先生!? ちょ、な、何して……!?」

「――ごめんね、あんまり顔を見せられなくて」

 

 その一言に、ヒナは自身の感情を先生に見抜かれたのだと直感した。それは、嬉しいような、恥ずかしいような、そんな心地だった。暴れ出そうとしていた両腕は硬直し、先生の外套を強く掴む。

 

「メッセージでも、直接シャーレに来ても、何だって良い……寂しくなったら、何時でも私を呼んでくれて良いから」

「………」

「いつ何処に居たって、駆けつけるよ」

 

 ヒナの鼻腔を、先生の香りが擽る。いつもと少しだけ違う香り。恐らく、シャーレではなくトリニティで生活をしている為だろう。自分だって忙しいだろうに、こうやって心を砕いてくれる先生を感じる度に、ヒナは歓喜の念を覚えると同時、そんな自分を浅ましく思う。

 まるで、じゃなくて――まんま子どもだ、私は。

 

「ごめんね、そう云って私がただ寂しいだけなんだ……だから偶には、メッセージの一つでも頂戴――それじゃあ!」

「――あっ」

 

 先生はお道化た様にそう云って、ヒナの体から離れる。そしていつも通りの笑みを浮べながら、トリニティ側の護送車へと走り去っていった。ヒナは、どこか名残惜しそうに、その背中に向かって手を伸ばす。

 

「――風紀委員長、どうしました?」

「……ごめん、今行くわ」

 

 いつまで経っても乗り込んで来ないからだろう、セナが窓を開け顔を覗かせる。ヒナは先生の背中をじっと見つめながら、努めて何でもない様に答えた。踵を返し、今度こそ助手席の扉を開いて乗り込む。セナはそんなヒナの横顔を、どこか訝し気に見つめながら問いかけた。

 

「先生と、何か?」

「……下らない政治の話よ」

「そうですか」

 

 告げ、シフトレバーをドライブに入れ直し、ゆっくりとアクセルを踏み込む。隣をトリニティの護送車がすれ違い、その窓から手を振る先生の姿が見えた。ヒナは咄嗟に持ち上がりそうになった手を抑え、目を閉じる。

 

「セナ」

「はい」

「――大人って、凄いのね」

「………はい?」

 

 ■

 

「何だか怒涛の一日でしたね……」

「そうですね、夜のお散歩がこんなハードな事になるなんて……」

「うん、でも楽しかった」

 

 合宿所へと帰還した補習授業部。

 軽く食事を済ませた後、シャワーを浴びて宿泊部屋へと集まった面々は、どこか疲れた様子を見せながらベッドに腰を下ろす。まさかちょっと夜に出歩こうとしただけで、このような騒動に見舞われるとは思ってもいなかった。楽しくなかった訳では決してないが、やはり疲労が勝るというもの。

 しかし、そんな皆の中でも比較的元気な姿を見せる者が二名。初めての夜歩きを体験したアズサと、先程からどこか締まりのない笑みを零すコハルである。

 

「……えへへ」

「コハルちゃんはあれからずっと嬉しそうですね? やはり、ハスミさんと共闘出来たからですか?」

「そうよっ、悪い!? ハスミ先輩と一緒に戦えるなんて、初めてだったし……私が役に立てたなんて、嬉しい……! えへ、えへへへっ……!」

 

 そう云って両の頬を抑え、ハスミとの共闘を思い返しているのか体をくねらせるコハル。それを見守る皆の目は、どこまでも優し気なものだった。

 

「うふふ、それは何よりです♡ あとはハスミさんが願っている通り、落第を免れないといけませんね?」

「わ、分かってる! 大丈夫よ! わ、私はエリートなんだからっ!」

「うん、きっと大丈夫だ、私達なら乗り越えられる」

「……取り敢えず、もう遅いですし、そろそろ寝ましょうか? 明日の勉強に支障が出ると良くないと思いますので」

 

 ヒフミがそう云って、壁に掛けられた時計に目を向ける。時計の針は既に日付を跨ぎ、夜更かしというには少々深すぎる時間帯に突入していた。自然、眠気も滲むし欠伸も出る。

 

「そうですね……先生もそろそろ戻って来る頃だと思いますが――」

 

 ハナコがそう口にするのと、扉が控えめにノックされるのは殆ど同時だった。向こう側から、先生のくぐもった声が響いて来る。

 

『ごめん、皆起きていたかな?』

「あっ、はい、お帰りなさい、先生!」

『ただいま、皆疲れているだろうから、扉越しに失礼するね――今日はお疲れ様、ゆっくり休んで』

「あ、ありがとうございます! おやすみなさい!」

「うん、お休み先生」

「お休みなさい♡」

「お、おやすみ……」

『おやすみ』

 

 告げ、先生はそっと扉から離れる。遠ざかっていく足音を聞きながら、ヒフミは電灯のスイッチに手を添えた。

 

「……それでは、今日もお疲れ様でした、皆さん」

 

 ■

 

 ――真夜中。

 

 寝息を立てる補習授業部の中で、そっと起き上がる影が一つ。衣擦れの音をなるべく立てないようにベッドから足を抜いた彼女は、月明かりの差し込む部屋の中で、そっと他の皆の顔を覗き込む。

 

「すぅー……」

「んむ………」

「――………」

 

 自分以外の皆が寝入っている事を入念に確認し、彼女はそっと部屋を抜け出す。

 廊下に出ると、肌寒い空気がそっと彼女の頬を撫でた。小さく二の腕を摩りながらも、極力足音を立てないように、目当ての部屋へと足を運ぶ。

 時刻は既に暁に差し掛かろうとしていた。外はまだ暗闇に支配されているが、もう一、二時間もすれば少しずつ空は明るんでくるだろう。

 こんな時間に起床したのは、対象が必ず寝入っている時刻を狙いたかったからだ。実質的な睡眠時間はかなり短くなるが――一日、二日程度は何て事はない。

 

「………」

 

 少し歩くと、目当ての部屋が見えて来る。扉の隙間から光が見えない事を確かめ、対象が寝ている事を確認。ドアノブに手を掛けそっと捻ると、扉は容易く中を晒した。

 鍵を使わない何て不用心な――なんて思うけれど、補習授業部の宿泊部屋も鍵は使用していない。先生が悪意を持って部屋に入ってくるなど、誰も考えていないからだ。

 そしてそれは、先生本人もそうなのだろう。生徒が悪意を持って自分の元へとやってくるなど、考えてもいないに違いない。

 いや、或いは――そう思いたいだけなのか。

 

 扉をそっと開き、中を覗き込む。途端、ふっと香る、甘い匂い。それは先生が良く飲んでいる、ココアの香りだった。体を半分差し込んで中を覗けば、テーブルの上には飲みかけのココアと授業資料が置かれている。恐らく帰還後、遅くまで明日の準備に追われていたのだろう。ベッドにはタオルケットを首元まで被り、仰向けで寝息を立てる先生の姿。

 いつも温厚で、大人然とした表情はそこにはなく、どこかあどけない、無垢な寝顔があった。抜き足差し足で先生の枕元に立った生徒は、そんな先生の寝顔をじっと見つめる。

 何というか、とても新鮮だった。大人、先生という要素を全て抜き取って、ただの一人の異性として彼を見た時、初めて目にできる様な素顔だった。

 多分、彼のこんな姿を見れる生徒はそう多くない。そう考えると、少しだけ得をした気分になれた。けれど、残念ながら彼女の目的は先生の寝顔を眺める事ではない。

 彼女は、自身の本来の目的を果たすべく――そっと先生の体に手を伸ばし。

 

「――ふふっ♡」

 

 素早く、振動を感じさせない軽やかさで、先生の隣へと身を滑り込ませた。

 

 ――朝起きた時、隣に生徒が添い寝していたら、先生はどんな顔をするのでしょう?

 

 彼女、ハナコはそんな事を考え、思わず笑みを零す。それは、悪戯を好む彼女の本質が剥き出しになった揶揄いの笑みであり、歓喜の笑みであり、そして期待の笑みでもあった。

 被ったタオルケットを指先で摘まみながら、そっと先生の肩を撫でつける。しかし先生は余程疲れていたのか、欠片も気付く気配を見せず、昏々と眠ったまま。このまま、先生の寝顔を朝までじっと眺めるのも良いだろう。或いは、本当に寝入ってしまっても良い。先生が朝起きた時のリアクションを見られるのなら、何だって構わなかった。

 もしくは体操服を脱ぎ捨てて、裸で横たわるのも悪くはない。態と下着や体操服を脱ぎ散らかし、床に散乱させておけば何とも『それらしい』ではないか。

 

 そんな事を考え、忍び笑いを漏らすハナコ。

 ふと、閉じたカーテンの隙間から月明かりが差し込んだ。月光を遮っていた雲が途切れたのだろう。光は先生の首に刻まれた真新しい赤いラインを照らし、そっと、ハナコが目を細める。

 不意に、ハナコの視線が先生の首元へと吸い寄せられた。

 

「……?」

 

 それは、何か引っ掻き傷のような、小さな傷痕が見えたからだった。鎖骨の少し上に見える、肌の凹凸。もしかして、先生は猫でも飼っていたりするのだろうか? そんな事を考えて、先生の胸元を覗き込み。

 

 ――そこに刻まれた、夥しい数の傷痕に絶句した。

 

 薄らと月明かりに照らされる、先生の肌。その悉くは醜悪な傷に覆われ、埋め尽くされている。銃創、切創、挫創、刺創、擦創、裂創、爆創――ハナコの分かる限りで、傷の種類はそれほどに上った。悲鳴を上げなかったのは、奇跡に近かった。

 先程までの浮ついた感情が欠片も残らず吹き飛び、ハナコはひゅっと息を呑む。自身の血の気が引いて行くのが良く分かった。

 それは、明らかに自分(ハナコ)が踏み込んで良いラインを超えていた。

 

 先生は、これを隠していたのだ。

 

 ハナコは合宿初日、プールサイドで拾い上げたシート、膜の様なものを思い出す。肌色のアレはきっと、この傷を覆い隠すための代物だった。最初は一体何かと、色々と推察し、終ぞ結論が出なかった代物だが――ここにきて、その用途を理解した。

 そして、それを見られたと理解した時、先生がどんな表情をするのか、ハナコには予測が付かなかった。怒るだろうか? 悲しむだろうか? 少なくとも、良い感情を抱く事はないだろう。先生から明かしたのならば兎も角、こんな、盗み見る形何て――。

 それは、先生に嫌われてしまうかもしれないという確かな恐怖だった。ハナコは、先生に嫌われるという未来を恐れ、後悔していた。或いは、此処で知られぬ様に踵を返せば、今までの関係を続けられるかもしれない。そんな、狡い考えがハナコの脳裏を過る。

 しかし、それは出来ない。それだけは、駄目だ。

 ハナコの中にある、強い感情が叫ぶ。

 先生の秘密を見てしまった罪悪感。

 嫌われてしまうかもしれないという恐怖。

 踏み込んではいけない領域に、勝手に踏み入ってしまった後悔。

 どうして先生は何も話してくれなかったのだという悲しみ。

 何も気付かずにのうのうと過ごしていた自身への怒り。

 様々な負の感情が、ハナコの胸内に満ちる。

 

 けれど、それ以上に――今のハナコは。

 

「――……ん」

「っ……!」

「――あれ、ハナコ……?」

 

 先生の寝息が乱れ、そっと閉じられていた瞼が開く。その瞳に、確りとハナコの姿を映して。先生の瞳に映るハナコの表情は――酷い顔だ。

 けれど同時に、何か強い意志を秘めた目をしていた。

 ハナコは、咄嗟に手を伸ばし、先生の両手を掴んだ。そのまま体を動かし、馬乗りになる。何の抵抗も出来ぬまま、先生は組み敷かれ、ハナコと先生の視線が交わった。

 月明かりが、二人の顔を照らす。

 

 恐怖もある。

 後悔もある。

 けれど、それ以上に。

 

 ――今を逃したら、一生、先生が遠ざかってしまうような気がしたから。

 


 

 先生が生徒に襲われてハナコッ! な展開に、何てならないから安心してね。ただハナコが先生に大分重たい感情を抱いていた事を自覚するだけだから。ミカが記憶持ちって事は、周りにいる生徒にもその影響が及ぶ訳で。実は影響を一番受けているのはナギサだったりする。そんでもって、多少繋がりがあったハナコにもフラグが立つ。後半はセイアも大なり小なり受けるかなぁ。

 

 そんな事より、ナギサ様とトキ実装って本当ですか。この間ミカが来たばかりだっていうのに限定二人ですか。本気ですか。

 どうしよう、石、ないよ。ミカで二百連したし、メグとカンナもあったし、サクラコ様でもガチャひいちゃったし。でもひかないという選択肢はないの、ひかなきゃ、駄目なんだ。

 切るしかない、此処で、切り札を、私の人生、肉体、精神、時間、全てを削って生み出される奇跡を起こすしか……! もってくれ私の体ッ……アロナ真拳、四百連だぁあアアッ!

 



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身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ

誤字脱字報告ありがとうございますわ~!
今回一万八千字ですの。
これ、もう三日に一回じゃなくて二日に一回にして文字数減らした方がよろしくて??


 

 押さえつけた手が、微かに震える。先生は、未だに霞む視界をそのままに目を見開き、自身を見下ろすハナコを凝視していた。ハナコの髪がさらりと滑り落ち、先生の頬を擽る。

 

「っ、ハナコ、一体何を――」

 

 漸く再起動を果たした先生が、何かを口にしようとして。

 けれど、自身を見下ろすハナコの表情を見て、思わず言葉を呑み込んだ。

 まるでカーテンの様にハナコの髪が先生とそれ以外を区切り、淡い月明かりが先生の顔を鮮明に映し出す。傍から見れば情事の様、けれど二人の間に甘い空気など欠片も存在しなかった。

 

「先生、あなたは……――」

 

 ハナコが、そっと呟く。

 舌が異様に重かった。まるで自身が、これ以上ない程の罪を犯しているかのように感じてしまう。けれど、それを呑み込んで尚、ハナコは云った。

 

「あなたは、一体何を抱えているのですか?」

「………」

 

 ハナコは、先生だけを真っ直ぐ見ていた。

 一瞬、先生は一体何の事だと云い掛けて、視線がそっと自身の体へと落ちる。合宿期間中、不意の事態に備え腕や足といった部位には保護膜を貼り付けていたが、腹部や胸元、背中と云った部位には全く手を付けていなかった。首元から覗く傷跡、振動で捲れ、露出した腹部。それを目にした先生は納得の色を見せ、そして苦笑を零す。

 それ以外に、反応のしようがなかった。

 

「……こんな夜中に、他人の寝床に入り込むなんて、悪い子だ」

「お叱りは後ほど、甘んじて受け入れます、しかし今は――」

 

 無言の催促に、先生は酷く居心地が悪そうに視線を逸らした。先生の手を掴むハナコの手に、力が籠る。

 

「只の、古傷だよ……別に、珍しくもない」

「これ程の傷を負って珍しくないと、笑えない冗談です、先生」

 

 その自覚があるのか、先生は沈黙を返す。少なくとも、一つ二つの古傷ならば珍しくもない。しかし、これほどの傷を刻んだ肉体を持つのは――キヴォトス広しと云えど、先生位なものだろう。その確信があった。

 

「……それに、良く見れば分かります、この傷は真っ当なものではありません――明らかに、人間が許容できないレベルの致命傷が幾つもあります」

 

 そう云って、ハナコの先生を押さえつけていた指先が、先生の腹を擦る。ハナコが馬乗りになった反動で捲れたシャツの隙間から、凄惨な傷跡が見え隠れしていた。

 

「私も専門ではありませんので、救護騎士団の方達程詳しい訳ではありませんが」

 

 ハナコの手が、そっと先生のシャツを胸元まで捲り上げた。改めて直視するその余りにも鬱々しい傷跡に、思わず感情が暴れ出しそうになる。それを、微かに眉を顰めるだけで堪えた彼女は、淡々とした口調で続ける。

 

「――肺に、心臓、肝臓、腎臓、胃……バイタルゾーンに、幾つもの銃創や刺創が見られます、普通なら、これほどの負傷を受けて生きていられる筈がありません」

「………」

「しかし、先生は現にこうして暖かな体で此処に居る――これは、酷く矛盾していると思いませんか」

 

 先生の傷痕には不可解な点が多い。「死なない様に付けられた傷」などではない、ただどこまでも相手を殺害する為の――『殺すための傷』が殆どなのだ。ハナコは専門家ではないし救護騎士団の様に人体のエキスパートという訳でもない。無論、それなりの知識を蓄えている自負はあるが、素人目に見ても先生の肉体は歪だった。

 こんな数の負傷――普通なら、疾うの昔に死んでいる。

 

「運が、良かったんだ」

「否定はしません、そういう事もあるでしょう、今は医学の進歩も目覚ましいですから……ですが」

 

 脳の中央を弾丸が通過し、助かった。一見バイタルゾーンに直撃しているように見えるが、骨や肉で弾道が逸れて助かった。その場で十分な処置環境があり助かった。

 そういう、望外の幸運が重なって生き延びる事はあり得るだろう。限りなく低い確率であっても、決してゼロではないのだから。例え臓器が駄目になっても、人工心肺や臓器移植という手段もある。

 しかし。

 

「一度や二度ならば理解出来ます、しかし、この傷はそんな程度ではない、十や二十、或いはもっと、先生は『死に至る負傷』を受けている筈です……そして、そんな何度も幸運が続くと信じられる程、私は無垢ではありません」

 

 幸運や奇跡というものが、どれ程得難い代物なのか、ハナコは知っている。

 滅多に起きないから、確率の向こう側にあるからこそ、幸運と呼ばれ、奇跡と名付けられたのだ。それが十も二十も重なれば、それは最早幸運でも奇跡でもない。

 運命だ。

 

「……ハナコは、私がアンドロイドだと云ったら、どうする?」

「どうも――人であっても、なくても、先生は先生です、その感情は決して揺らぎません」

「それは……嬉しいな」

「でも、そうではないでしょう?」

 

 ハナコの、どこかはぐらかさないで欲しいという、追及の感情を孕んだ言葉に、先生は小さく頷いた。

 

「……あぁ、私はアンドロイドなんかじゃない、ごく普通の――普通の人間だよ」

「そう、でしょうね……アンドロイドならば、傷を傷のままにしておく必要性がありません、先生は人間です、紛れもなく――だからこそ、分からないんです」

 

 数秒、二人の間に沈黙が落ちる。

 先生と接する箇所から感じられる熱が、彼の生きている証明。先生は機械ではない、アンドロイドではない。肉の体を持ち、感情を持ち、意思を持ち、人としてキヴォトスに生きている。

 こんな、沢山の傷を抱えながら。

 先生の声が、静謐な部屋の中に響く。

 

「……ハナコは、私の何が知りたい?」

「私は――」

 

 先生の、真摯な瞳がハナコを見返した。

 問われ、彼女は気付く。

 ハナコという存在は、先生の――。

 

「……私は、先生の――」

 

 呟き、口を噤んだ。先生を見つめる視線が揺らぎ、その手を掴む指先に力が籠る。自分は、ハナコは、一体先生の何を知りたいというのだ? 改めて問われた時、ハナコは自身が抱くそれの不透明さに動揺した。

 その傷の生まれた経緯か? それとも傷つけた相手か? 或いは、そんな体を持つ先生に対する疑問そのものか? いざこうして自身の感情に名札を付けようとした途端、その輪郭が酷く曖昧である事を知り、掴みかけた実感がするりと手をすり抜ける。

 それは先生を思い遣る優しさと、自身の混沌とした感情が混ざった、酷く独善的で、けれど押さえつけておく事が出来ない、好意と信頼の発露だった。

 

「……ハナコ?」

 

 声は、彼女の鼓膜を震わせた。けれど、それに反応するだけの余裕がなかった。

 私は――何を知りたい? それを知って、どうする。

 問い掛け、考える。

 傷付けた人物を見つけ出し、復讐するのか。その経緯を聞き、可哀想にと慰めるのか。どちらにせよ、それは自身の自己満足に他ならない。それを先生が望んでいない事など、分かり切っている。それでも尚自儘を通すのか、自分は。自問自答に対する答えは、到底論理的なものではなかった。腹の奥から湧き上がる、鈍い感情によってハナコはそれを自覚した。

 

「……先生は、時折、遠くを見ます」

 

 ぽつりと、彼女は呟く。それは、先生に対する答えというよりも、彼女が自身の感情、その輪郭を捉えるために口にしている様にも見えた。先生は良く、遠くを見る。それは物理的な話ではない。

 

「その目は、私達じゃない……そう、私達を通じて、別の誰かを見ている様な気がして――」

 

 口にして、ハナコが思い返すのは、ふとした授業の際中。

 或いは、食事の最中(さなか)

 先生が補習授業部を見る目は暖かく、いつも慈愛に満ちている。生徒の成長を喜び、絆を育む姿を尊び、その困難に立ち向かう姿を見守る瞳だった。先生の目だ、大人の目だ、彼らしく実直で、誠実で、温かい。ハナコの大好きな瞳だった。

 

 けれどその瞳の中に、僅かな寂寥感が混じっている事を、ハナコは知っていた。

 先生は時に、酷く綺麗に、そして寂しそうに笑う。

 

「心は、確かに私達へと向けられているんです、その視線も、感情も、確かに目の前の私達を向いている筈なのに、何故か……どこか、虚しい」

「―――」

 

 ハナコの言葉を真正面から受け止めた先生の視線が、揺れる。

 ハナコと先生の視線が、再び交わった。

 ハナコはその瞳の中に、僅かな動揺を見て取った。

 

「――到底、論理的な話ではありません、証拠も何もない、ただの私の感情的な話に過ぎない、我儘な秤です、けれど……何故か、間違いだとは思えなくて」

 

 その感情が、見間違いなどではないのなら。

 その色が、ハナコの思う通りであるのならば。

 ハナコの鼻先が、先生のソレに迫り、至近距離で彼女は問うた。

 

「先生、あなたが私達を見る目は、最初から優しかった、私達に理解を示してくれた、どこまでも真摯に私達と向き合い、信じてくれた、それは何故ですか……?」

「……それは、私が先生だから」

「先生だから、そう在るのが当然だと、その在り方には敬意を表します、けれど、そうじゃない……そうではないんです、先生――私が知りたいのは、その仮面の奥(素顔)……先生の視線には、私達の育んで来た時間以上の【何か】があると、私はそう思うんです」

「………」

「――私は、あんな風に笑える人を、先生しか知りません」

 

 ハナコは、人を観察する事に長けている。

 それはずっと、このトリニティという箱庭の中で生きていく内に養われた代物。自身が天才だ、ティーパーティー候補だ何だと祭り上げられていた時から、その声に応え、斯く在れかしと己に課していた時から。

 彼女はずっと、周りを見ていた。見続けていた。

 だから先生が笑う時、仮面がある事に彼女は気付けた。先生は生徒と喜び合う時、心の底から嬉しそうに、華が咲いた様に笑う。

 そして感情を隠す時、それがどんな状況であれ、生徒にそれを察して欲しくない時――先生はとても、とても綺麗に笑うのだ。

 寂しさを覆い隠すように、感情を秘めるが如く、何て事はないと、そう言い聞かせるように。

 

「……ごめんなさい、これが先生にとって踏み込まれたくない領域なのだと、何となく理解しています、私なんかが土足で入り込んではいけない場所なのだと――けれど、私は」

 

 ハナコの指先が、先生の皮膚に食い込む。制御できない巨大なうねりが、ハナコの胸の内で暴れ回っていた。先生にとって、自身はただ一人の生徒に過ぎない。その善性と信頼を、彼女は信じている。けれど、自分は唯一無二にはなれない。それが理解出来るからこそ、彼女は踏み込むことを躊躇った。自身にその資格はあるのかと、自問自答した。

 ――けれど、もう無理だ。

 こんな傷跡を知ってしまって、先生の抱える何かの片鱗を手にした時。

 ハナコが抱いていた、最後の一線は、容易くその背中を押した。

 くしゃりと顔を歪めたハナコが、唇を震わせ、告げる。

 

「――あなた(先生)に、そんな顔をして欲しくない」

「ッ……!」

 

【――これ以上、先生が傷だらけで歩く姿は見たくないから】

 

 まただ。

 先生は、自身の仮面が罅割れた事を自覚した。

 

「先生、私では、あなたの助けにはなれませんか? その重荷を預けるに足る生徒には、なれませんか? 先生の心を、ほんの少しでも癒す事も出来ませんか?」

「――違う、違うんだよ……ハナコ」

 

 身を捩らせ、先生は云う。今にも泣きそうな、酷い顔を晒したまま。

 

これは(古傷は)、私が背負わなくちゃならない(もの)なんだ、もし、ハナコを不安にさせたのなら謝る、ごめん、本当にごめん……だから、そんな事はどうか云わないで欲しい」

「なら――」

 

 ハナコが問う。

 懇願する。

 どこまでも真剣に、無垢に。

 

「教えてください、先生の、あなたの抱える重荷を、そして分けて下さい、ほんの少しでも、私を信じてくれるのなら」

「………」

 

 先生の、噛み締めた歯が軋みを上げた。ハナコの目には、今まで見た事もない、先生の苦悩に塗れた、追い詰められた表情が映った。そうさせているのが自分だと、そんな表情をさせてしまっているのが己だと、ハナコは自分に云い聞かせる。ずきりと、ハナコの胸が痛んだ。

 

 ――信じている、信じているとも。

 先生はそれを、声を大にして云いたかった。伝えたかった。叫びたかった。

 先生が生徒を信頼するのは当然の事だ。それを目に見える形で示せるのならば、どれ程分かり易く、煌々とした輝きを放つ事か。証明出来る術があるのならば、喜んでその手を取りたい。

 けれど、ハナコの欲する証明の方法は、自身の抱える罪悪を(つまび)らかに晒す行為に外ならず、それは先生が到底許容できない選択肢の一つであり、また罪悪を一つ増やす行為であり、先生は思わず呻いた。

 

 ――酷い、酷い話ではないか。

 

 互いに泣きそうな顔で、瞳を突き合わせて。

 生徒は先生を思い遣り、その重荷を分けて欲しいと口にする。

 先生は生徒を思い遣り、これは私が背負うべきだと口にする。

 その根底にあるのは善意であり、優しさであり、配慮であり、信頼であり、好意であり――それは互いが、互いを大切に想っている証明だ。

 その優しさと善意が、互いを傷付けるなど。

 本当に、酷い話だった。

 

 ――何を今更。

 

 先生の心が云った。

 分かり切っていた事だろうと、理解していた事だろうと。

 そして、もう何度も体験した事だろう、と。

 自身が歩んで来た道は、『そういう道』なのだ。

 そしてこれから歩む道も、また――【こういう道】なのだ。

 

 泣き叫び、銃口を向ける生徒を退け。地面を這い、行かないでと懇願を口にする生徒を振り払い。怒り、拳を振り上げる生徒に背を向けて。

 真っ直ぐ、ただ一点を見て歩き続けた。

 それが先生に課せられた使命であり、果たすべき役目であり、その道が、苦痛の果てにある、未だ見えぬ理想(生徒皆が笑い合える世界)に通じていると信じているから。

 だから、この歩みを止める事は出来ない。

 この苦痛を知る者は――最低限で良い。

 (いわん)や、自身から打ち明けるなど――論外の極み。

 

 痛みに鈍感になる事が、大人の条件であるのならば。

 きっと、己は。

 

「……それ程までに、先生は――っ!」

 

 ハナコが、顔を歪ませたまま、悲鳴染みた声を上げた。その沈黙が、先生の答えだと思ったから。

 耐え切れず零れた涙が一滴、先生の頬に落ちる。その冷たさを心に刻みながら、先生は云う。酷く苦り切って、儚くて、何度も何度も傷ついて、その度に立ち上がって、次こそは、今度こそはと歩き続けた果てにある。

 不格好で、歪で、ありのままの、素顔で。

 

「……ごめんね、ハナコ――ごめん」

「――ッ!」

 

 この罪悪(想い)は、絶対の悲しみを約束するから。

 だから、この口から話す事は絶対にない。

 例えそれが――ただ、早いか遅いかの違いであっても。

 

「――分かり、ました」

 

 声は、感情を噛み殺し、震えていた。ハナコはあらゆる激情を飲み下し、堪える。自身の我儘で先生を傷付けてしまった事実も、結局自身が何も得られなかった虚しさも。そんな、自分に対する不甲斐なさも――全部。

 押さえつけていた先生の手を放し、彼女は上体を起こす。先生を覆っていた髪のカーテンが消え、そっと月明かりが差し込んだ。

 

「……突然すみませんでした、先生、お体の傷の事については、誰にも口外しないとお約束します」

「……ありがとう」

 

 虚しいやり取りであった。或いは、嵐の前の静けさと云うべきか。ベッドから降りたハナコは、僅かに乱れた衣服を正し、先生に向き直る。その表情は、陰になって良く見えなかった。

 

「この事について、私がハナコを怒る様な事はないから……気にしないでくれると嬉しい」

「それは……」

 

 先生の声に、ハナコは言葉を詰まらせる。

 口元をぎゅっと一文字に結び、彼女らしからぬ重々しい気配を纏ったまま、静かに頭を下げた。

 

「……出来得る限り、善処します」

 

 それが、精一杯だったのだろう。彼女は頭を上げると踵を返し、そのまま扉の元へと足を進める。冷たいドアノブを握って、ハナコは呟いた。

 

「……今日は、もう部屋に戻りますね」

「うん――また明日、ハナコ」

「はい――また明日、先生」

 

 ハナコの体が、扉の向こう側へと消えて行く。

 その背中を見送り、先生ひとり、そっとベッドに倒れ込んだ。スプリングが軋みを上げ、先生は腕を自身の額に打ち付ける。今は、痛みすら愛おしい位であった。

 

「……間抜けが」

 

 自身に向けた罵倒は、小さく、部屋の中で萎んで消えた。

 

 ■ 

 

「………」

 

 廊下へと身を晒したハナコは、後ろ手にドアノブを握ったまま、静かに息を吐き出す。その瞳は前髪に隠れ、俯いたまま微動だにしない。数秒、数十秒、何かを思案するように佇むハナコは、大きく息を吸い込み、歯を食い縛った。

 彼女なりに、感情を噛み締め、飲み込む為に。

 

「――先生のあの口ぶり……」

 

 ハナコは、先程までの先生とのやり取りを頭の中で反芻する。手にした情報は、決して多いとは云えない。けれど、何も知らなかった頃と比べれば、正に雲泥の差。先生に関する情報――少なくとも表向きの情報は、既に頭の中に入っている。

 

「確か、先生が前に関わっていた学校の名前は」

 

 呟き、ハナコは窓の外から差し込む月光を仰ぎ、拳を握り締める。

 先生の名前が一躍売れる切っ掛けとなった騒動。キヴォトスの中でも僻地にあり、広大な砂漠の中にある小規模な学校。嘗て先生は、そこの部活――実質生徒会の顧問を務めたという。

 その学校の名前は、確か――。

 

「――アビドス、でしたね」

 

 ■

 

「あっ、先生、おはようございます!」

「おはよ、先生……」

「うん、おはよう、ヒフミ、コハル」

 

 翌日、食事を済ませた先生が教室へと向かう廊下を歩いている最中、丁度同じように教室へと向かっていた補習授業部の面々と顔を合わせた。ヒフミはいつも通りの笑顔で、コハルはやや眠たげに挨拶を口にする。

 先生はそれに笑顔で応え、視線を少し後ろに向けた。

 

「ハナコも――おはよう」

「――ふふっ、おはようございます、先生♡」

 

 そう云って、いつも通り――本当に何ともないように笑うハナコ。

 昨日の事など微塵も感じさせない態度に、先生は彼女の天性の才を感じ取り、少しだけ胸が痛んだ。

 ――きっと彼女は嘗ても、『こういう風に』振る舞ったのだと、そう思って。

 

「そう云えば先生、アズサちゃんを見ていませんか? 朝起きた時、見当たらなくて……」

「――多分、先に教室に向かったんじゃないかな?」

 

 疑問符を浮かべるヒフミに、先生はそう云って教室の扉に手を掛ける。そして押し開け中に足を進めると、どこか気合の漲ったアズサの声が飛んで来た。

 

「遅い! おはようっ!」

「……おはようアズサ、随分早いね」

 

 見ればアズサはペンを握って問題集と向き合っており、やる気十分、気合十分といった様子。先生はそんな彼女の様子にやや驚きながら、穏やかに挨拶を口にした。

 

「あ、アズサちゃん、姿が見えないと思ったら……もう勉強を始めていたんですか?」

「うん、陽が昇る前には既に此処で予習、復習をしていた」

 

 ヒフミが驚いた表情でそう問いかければ、どこか誇らしげに問題集を広げて見せるアズサ。頁はかなり進んでおり、例題や設問には殆どチェックマークが刻まれていた。

 

「ふふっ、やる気満々ですね、アズサちゃん」

「当然だ、何せ今日も模擬試験がある……だよね、ヒフミ?」

「はい、勿論です、アズサちゃんはその様子ですと、もう模試への準備は万全という感じですね!」

「うん、第二次学力試験まで二日しか残っていないし、いつまでも皆に心配をかける訳にはいかない、そして今回こそ……ッ!」

 

 そう云って鼻息荒く拳を握り締めるアズサ。心なしか、その背後には煌々と燃え盛る炎が見える程だった。コハルはその様子に気圧され気味で、思わず呟く。

 

「す、凄い気合入ってるじゃん……」

「試験範囲の予想問題も、もう何周もしてある、準備は完璧だ」

「っ、わ、私も負けないんだから! 正義実現委員会のエリートの力、見せてあげる!」

「では、私も精一杯頑張るとしましょうか♡」

 

 アズサの気合、熱意が伝播し、眠たげだったコハルやハナコと云ったメンバーも気合を入れ直す。そんな彼女達を横目に、先生はアズサの机の元へと足を進めた。

 

「その前に、アズサ……朝ご飯、ちゃんと食べた?」

「うん? 一応、オートミールは口にしたが……」

「栄養素的には問題ないかもしれないけれど、どうせなら暖かいご飯を食べて欲しいからね……はい、これ」

 

 そう云って、机の上に置いたのは布の包み。アズサは差し出されたそれと、先生の顔を交互に見て、それからそっと包みを解く。すると中から、ラップに包まれた三つのおにぎりが顔を覗かせた。

 

「これは……」

「さっき厨房で作って来たばかりだから、まだ暖かいよ、中身はこんぶ、梅、ツナ、一個ずつね」

「………」

「あれ、ごめん、苦手なもの入っていたかな?」

 

 アズサの沈黙をそういう風に捉えた先生が、どこか申し訳なさそうにそう口にすれば、アズサは慌てておにぎりを手に取り、首を横に振る。

 

「あ、いや、違う……あ、ありがとう、先生、有難く頂こう」

 

 ラップを剥き、徐に一口。外側の海苔を口の端に付着させながら、アズサは暖かな白米を噛み締め、微笑んだ。

 

「――うん、美味い」

 

 丁度良い塩味が体に沁みて、その暖かさが活力となる。正直、栄養的にはオートミールだけでも十分であったが、そう云えば、と。アズサは朝、一人で口にしたオートミールの味気なさを思い出した。

 料理としては同じ簡素なものなのに、初日、プールサイドで食べたサンドイッチは、とても美味かった。そして今、こうして誰かに作って貰ったおにぎりもまた、とても美味い。

 

 ――次からは、皆と一緒に食べよう。多分……いやきっと、そちらの方が断然美味い。

 

 あっという間に一つ目のおにぎりを平らげ、二つ目を手に取ったアズサを尻目に、ヒフミ達は顔を見合わせる。

 

「……折角の勢いですし、アズサちゃんが食べ終わったら、早速模擬試験を始めましょうか」

「えぇ、そうですね♡」

 

 鉄は熱い内に打て。

 モチベーションと勢いというものは、実際大事なものだった。

 

 ■

 

 ――第三次補習授業部模擬試験

 

「よし、皆、解答用紙と問題用紙は行き渡ったね?」

 

 先生が机に座り、自信に満ち溢れている皆を見渡す。これで模擬試験も三度目、最初と比較すると随分慣れたものだった。先生の視線が時計をなぞり、それぞれの生徒に問題や解答用紙に欠落が無い事を確認する。

 そして、時計の短針が真上を指し。

 

「それじゃあ――試験開始!」

「っ!」

 

 先生の宣言と同時に、補習授業部の面々は一斉にペンを取り、問題用紙を裏返した。

 模擬試験は通常の試験と同じく、前半は基礎的な問題が殆どで、後半に発展問題を備えている。以前はその、基礎的な問題の部分で躓いていた訳だが――。

 

「……うん」

「ふふっ♡」

「こ、これ、知っている筈……えっと、んと、んんん……あっ!」

 

 所々ぎこちないものの、彼女達のペンはすらすらと解答用紙の上を滑って行く。ペンを動かす事も出来ず、頭を抱えて唸っていた以前と比較すれば、正に雲泥の差であった。ヒフミは空欄を片手間に埋めながら、他の面々の様子を伺い確かな手応えを実感する。

 

 ――皆さん、以前と比べて手の動きが早くなっています……! これなら、もしかすると!

 

 所々唸りながらも、確かにペンを動かしているコハル。頷き、スラスラと手を動かすアズサ。いつも通り、笑みを浮べ空欄を埋めるハナコ。ヒフミはそんな彼女達を尻目に、ペンを強く握り締め、問題用紙へと向き直った。

 

 ■

 

「よーし、お疲れ様、皆……それじゃあ、試験結果を発表するよ?」

「は、はい、お願いしますっ!」

 

 テスト終了後、用紙を回収し採点を行った先生は、その採点結果を見つめながら声を張る。コハルは心配半分、期待半分といった具合。アズサはいつも通り澄まし顔だが、どこか達成感が見て取れた。ハナコは変わらず、笑顔のまま。恐らく一番緊張しているのはヒフミだろう。固唾を飲んで先生の手元を注視している。

 先生は一つ咳払いを挟み、結果を口にした。

 

 第三次補習授業部模擬試験、結果――

 

 ハナコ―六十九点 合格

 アズサ―七十三点 合格

 コハル―六十一点 合格

 ヒフミ―七十五点 合格

 

 その言葉を聞いた時、皆の空気が一瞬固まる。

 全員の視線が先生の手元に注がれ、教室から音が消えた。

 

「や――」

 

 そして、ヒフミが震えながら拳を握り締め、爆発するように両手を突き上げ叫ぶ。

 

「やりましたぁッ!?」

「ほ、本当っ!? 嘘ついてない!?」

「………!」

「あらあら♡」

 

 ヒフミ、歓喜の爆発を皮切りに、先生の元へと群がる補習授業部。先生がひとりひとりに解答用紙を手渡せば、彼女達(アズサとコハル)はどこか信じられない様子で自身の解答を見つめていた。

 しかし、何度紙面を見つめようがその結果が変わる事はなく。赤いペンで示された数字は、自身の合格を如実に物語っている。

 

「凄いです! アズサちゃん、六十点どころか七十点を超えてしまいました! 本当に凄いです! 頑張りましたね……っ!」

「……うん!」

「コハルちゃんも、たったこれだけの期間で合格ラインを越えて来るなんて、凄いです! やりましたっ!」

「ゆ、夢とかじゃないよね……? ほ、本当に……!」

「夢なんかじゃないよ、これはきちんと皆が頑張った結果だ」

 

 先生が満面の笑みと共にそう告げれば、コハルの解答用紙を持つ指が震え、若干涙目になりながらも喜びを噛み締め、拳を突き上げた。

 

「……あはっ、あははっ! そ、そうよ! こ、これが私の実力なんだからッ! 見たかっ!?」

「はい! これぞ正義実現委員会のエリートです、さすがです! それに、ハナコちゃんも……!」

「……運が良かったですね、うふふっ、良い感じの数字です♡」

 

 ハナコは先生から手渡された解答用紙、そこに記載された『69』の文字を見て、嬉しそうに告げる。ヒフミはそんな彼女の手を掴むと、俯き、小さく震えながら声を絞り出した。

 

「よ、良かった……! 本当に、良かったです……っ!」

「ひ、ヒフミちゃん?」

 

 ハナコの手を掴んだヒフミは、笑いながら涙を流していた。それは、安堵と歓喜の涙だった。元来、情に厚いヒフミである。彼女にとって目下一番の問題は、アズサでも、コハルでもなかった。目に見えない、確かな傷を抱えたハナコであった。

 もし、点数を取れない理由があるのなら、それを強要する事が彼女にとってどれだけのストレスになるか、どれだけの苦痛を与える事になるか。元々、彼女の学力は微塵も疑ってはいない、ただ彼女が傷付く事、ヒフミはそれだけが唯々、心配だった。

 

「は、ハナコちゃんに以前何があったのか、どんなものを抱えているのか、私にはまだ分かりません、けれど……それでも、良かったです……! こうやって、皆で笑って合格点を取る事が出来て……ッ!」

「ヒフミちゃん、そこまで――」

 

 鼻を啜り、涙を流しながら笑いかけるヒフミを見て、ハナコは思わず言葉に詰まった。彼女のそれは、自身(ハナコ)の事を心から考えてくれているのだと分かる態度だった。

 他人の為に涙を流せる、それがどれだけ尊い事か――きっと彼女(ヒフミ)は、それを知らないのだ。

 

「……ごめんなさい、ヒフミちゃん、そしてありがとうございます――そんな風に、真剣になってくれて」

「ずびっ、い、いえっ! 前の実力を直ぐ取り戻せるよう、私もお手伝いしますから……! 何でも、相談して下さいね……っ!」

「えぇ、ご心配をお掛けしました」

 

 そう云って、そっとヒフミを抱き締めるハナコ。両腕から伝わる暖かさと震えに、ハナコは静かに瞼を閉じた。

 この居場所だけは、守りたいと、そう強く思う。

 だって、こんなにも暖かい場所を――ハナコは他に知らないから。

 

 ■

 

「という事で、約束通りモモフレンズグッズの授与式を始めます……っ!」

「――ッ!」

 

 宣言するや否や、準備していた大量の縫い包みを教室へと持ち込むヒフミ。アズサの目が分かり易く輝き、反対にコハルとハナコの表情が引き攣る。

 

「あはは……」

「………」

「さぁ、どうぞ! 皆さん好きな子を、欲しい子を自由に選んで良いんですよっ!」

 

 そう云って手を広げ、とても良い笑顔を浮かべるヒフミ。立ち並ぶモモフレンズグッズを前に、彼女は自信満々。実はあの後、アズサ以外には不評だった事もあり、密かにラインナップを増やし、ペロロサウルス(ミニ)やウェーブキャット(マフラー)など、変化球めいた代物も揃えているのだ。

 アズサは我先にと飛びつき、周囲をぐるぐると回って吟味している。その様子を眺めながら、ハナコとコハルはそっと身を引いた。

 

「なるほど、となると……むむっ!」

「えっと、私は謹んで遠慮しますね……」

「わ、私も……」

「あ、あうぅ、そう、ですか……」

 

 そんな二人の言葉に、残念そうに項垂れるヒフミ。折角ラインナップも増やしたのにと、内心で臍を嚙む。しかし、無理強いは出来ない。好きという感情は、誰かに押し付けるものではないとヒフミは良く理解していた。断られた時は素直に身を引くのも、布教活動に於いて大事なのである。

 

「ど、どうしよう、私は……私は……! だ、駄目だ、この中から選ぶなんてそんな難しい事……! あの黒くて角の生えたのも良いし、眼鏡のカバも……!」

「か、カバではなく、ペロロ様は鳥なのですが……」

「どうすれば……このどちらかを選ぶなんて、私には……!」

 

 頭を抱えて蹲るアズサ。その表情は真剣で、本気で悩み、迷っていた。視線はモモフレンズグッズを端から端まで行き来し、その度に選択肢が増える。いっその事、交渉して貰える品数を増やして――等という選択肢はアズサの中に存在しない。最初から、貰える品物は一つ、そう云われていたからだった。

 その言葉をアズサは真剣に捉え、故に苦悩している。

 

「私には、無理だ……頼むヒフミ! 私の代わりに選んで欲しい……!」

「わ、私ですか?」

 

 悩み、悩み抜き、それでも尚決められないという判断を下したアズサは、半ば逃げ出すような格好でヒフミに縋りついた。唐突なパスに驚愕を隠せないヒフミ。しかしアズサの懇願に近い視線を受け、僅かな逡巡の後、モモフレンズグッズと向き直る。

 

「わ、分かりました! えっと、スカルマン様と、ペロロ博士ですよね……強いて選ぶとすると――」

 

 ヒフミは真剣な眼差しでモモフレンズグッズを見つめ、まずアズサが直前まで悩んでいた二択に絞った。スカルマン様はやや大きめの縫い包みで、ペロロ博士は人が抱きしめられる程度の大きさ。骸骨らしい模様をしたスカルマンと、眼鏡をしたペロロの縫い包み。互いの背景を考え、今の彼女に相応しいグッズは――。

 

「……こちらの、インテリなペロロ博士でどうでしょうか!?」

「……! よし、じゃあこの子にするっ!」

 

 ヒフミがペロロ博士の方を取り上げると、アズサが大きく頷き、ヒフミから縫い包みを受け取った。初めて縫い包みを手にしたアズサは、その指先から伝わる妙な弾力と暖かさに感動する。

 

「実は、このペロロ博士は物知りで、勉強も出来るという設定なんです、まさに今、お勉強を頑張って、凄い成長をしている真っ最中のアズサちゃんにぴったりかなと!」

「なるほど、そうなのか!」

「ちょ、ちょっとだけ勉強をし過ぎて、おかしくなっているという裏設定もあるのですが……」

「そ、それ大丈夫なの……?」

 

 コハルが思わずそう口走るが、ペロロ博士の表情を見ると、とても大丈夫とは思えなかった。いや、それは博士に限らずペロロ全般に云える事ではあるが。

 

「――うん、気に入った! ふわふわで、本当に可愛い、好き、えへへ……」

 

 そう云って縫い包みを抱きしめるアズサ。一頻り頬ずりをして満足したアズサは、満面の笑みでヒフミに礼を云った。

 

「ありがとう、ヒフミ、これは一生大切にする!」

「あ、ありがたいですが、そこまで言っていただけるとちょっと吃驚してしまいますね……!? ですが、私も嬉しいです、それはアズサちゃんがやり遂げたからこそですよ」

「うん、それでも同時に――友達から貰った、初めてのプレゼントだから」

 

 呟き、抱えた人形を強く抱きしめる。アズサにとってこれは、ただのプレゼントではないのだ。

 大きな――とても意味のある、大事なプレゼントだった。

 

「これからはこのカバの事を、ヒフミだと思って大事にするから!」

「そ、それはちょっと恥ずかしいですね!? あ、あとカバではなくペロロ様は鳥でして……」

 

 アズサは相変わらずペロロの事をカバだと思っている様だが、そのニコニコ顔を見ているとヒフミも強く云えない。まぁ、アズサちゃんは幸せそうだし、誤解を解くのは追々でも――そんな風に考え、そっと笑みを零した。

 

「……良し、それじゃあ、私からも皆にプレゼントがあるんだ」

「えっ、先生からも、ですか?」

「うん、補習授業部の皆に、これを――」

 

 ヒフミの問いかけに頷き、先生は教卓の裏にあった紙袋を取り出す。そして中を開くと、丁度掌サイズ位の人形達が目に映った。

 

「……あら♡」

「わっ……!」

 

 教卓の上に取り出された、その小さな人形達に視線が集まる。コハルが覗き込むようにそれらを見つめ、先生に問い掛けた。

 

「先生これって、もしかして――」

「うん、頼まれていた補習授業部の人形だよ」

「これは、素晴らしい出来ですね♡」

 

 先生が制作した人形は、補習授業部の皆が揃って横に連なったもの。一人ひとりの大きさは指先より少し大きい程度で、特徴を捉えたデフォルメがされている。左から順にハナコ、コハル、アズサ、ヒフミ、そして先生。連なったそれらはワッペンの様にも見えて、五人並んでも大きさは掌に収まる程度だった。

 

「キーホルダーみたいに持ち歩けるようストラップ付だから、鞄とかに付けてくれると嬉しいかな」

「わぁ……! す、凄いです、先生、これを自作したんですか!?」

「まぁね、全部手作りだから既製品みたいに全く同じ……っていうのは難しかったけれど、出来得る限り均一に作ったから」

 

 アズサが皆と同じように人形を覗き込み、息を呑む。

 彼女はペロロ博士を抱えたまま、どこか戦々恐々とした様子で先生に問いかけた。

 

「これは……わ、私も貰って良いのか? それとも、コハルやヒフミ、ハナコの分だろうか……? 私はもう、ヒフミから素晴らしいご褒美を貰っているのだし……」

 

 そう云って、口元をペロロ博士の頭部に埋めるアズサ。その瞳は、卓上の人形を捉えて離さない。勿論、先生がひとりの生徒を仲間外れにする筈もなく、先生は紙袋の中から四人全員分の人形を取り出し、笑った。

 

「勿論、これは補習授業部皆の為に作ったものだから、遠慮なく持って行って」

「そ、そうかっ! ありがとう、先生!」

 

 その言葉にアズサは破顔し、皆がそれぞれ人形を手に取る。

 文字通り数量限定で、此処にある四つしか存在しない代物だ――いや、正確に云えば、先生の部屋にある試作品を含めれば五つ。皆はストラップを摘まみながら人形をあらゆる角度から眺め、その感想を語り合っていた。

 

「ふふっ、アズサちゃんのこの顔、そっくりですね♡」

「む、そ、そうだろうか……? 自分だと、その、良く分からない」

「確かに……意気込んだ時のアズサちゃん、こんな感じですよね、こう、フンス! って感じで――」

「ヒフミは相変わらずあの気持ち悪い鳥を抱えているんだ……」

「こ、コハルちゃん! 気持ち悪い鳥ではなくペロロ様です!」

「先生のデフォルメは、何と云うか……凄く簡素ですね?」

「うん、ぱっと見、子どもの落書きにも見えるが……これはこれで味がある」

「この笑顔の感じはそっくりですよね!」

「――あ、ハナコの人形も何か持っているけれど、先生、これは?」

「それはね、カーマスートラだよ」

「カー……え、なに?」

「あらあら♡」

 

 ハナコがどこか照れたように、或いは嬉しそうに笑う。どうかハナコの表情から察してくれると嬉しい。

 アズサは左手にペロロ様を抱きかかえ、右手で皆の人形を包み、どこか落ち着きなく足踏みしていた。彼女にとって、今日という日は忘れられない一大イベントになるだろう。

 何せ――。

 

「大変だ、一日に大切なものが二つも出来た……!」

「えぇ、これは大事にしないと、ですね♡」

「その……ありがと、先生」

「うん、どういたしまして」

 

 皆が皆、人形を大切に包み、笑顔を見せる。ヒフミはストラップの伸び具合を確かめながら、早速とばかりにペロロ様のバッグを持ちだすと、そのファスナーにストラップを括り付けた。その状態でバッグを背負い、軽く弾んで見せる。彼女の動きに合わせ、人形が上下に揺れていた。

 

「えへへ、ど、どうでしょう? 変じゃないですか?」

「えぇ、とってもお似合いですよ、それなら、私も――」

 

 ハナコは頷き、自身も人形をポーチに括り付ける。コハルもそれを見て、同じように見様見真似でストラップを括った。

 

「む、む……私は――」

 

 アズサは、皆がバッグやポーチに人形を括り付けるのを見て、少し悩む素振りを見せる。彼女も教材用のバッグや戦闘用の背嚢は持ち込んでいるが、彼女達の様に常用している訳でもなく、肌身離さず持ち歩いている訳でもない。何となく、大事ではないものに付けたくなくて、悩みに悩んだアズサは、人形を胸元の留め具に括り付けた。制服は毎日着用するし、着替える際に一々取り外しするのは手間だが、逆に云えば絶対に失くさない。

 

「あら、アズサちゃん、そこに付けるのですか?」

「うん、ここなら絶対に失くさないし、紐が切れたりしても気付けるから」

「流石に胸元だと、ちょっと邪魔じゃない……?」

「問題ない、バリスティックベストと比べれば全然軽いし」

「それは、比較対象がおかしい様な……」

 

 胸元に補習授業部の人形をぶら下げ、ふんすと鼻を鳴らすアズサ。どうだ、これは名案だろうとばかりに胸を張るアズサを前に、ハナコは苦笑を零した。本人がそれで良いというのであれば、それ以上何も云うまい。

 

「と、ともあれ、これでやる気は十分です! この調子で成績を上げて、皆で補習授業部を卒業しましょう!」

「おーっ!」

 


 

 

 ――これが夢なのだと、私は知っている。

 

 

 ■

 

「――せい、先生ッ!」

 

 声が、聞こえる。

 それが誰のものか、酷くノイズの混じった音からは判別が出来ない。ただ、誰かが必死に、自身の名前を呼んでいる事だけは確かだった。小さく揺れる体、揺すられているのか。けれどその感覚は曖昧で、夢心地だ。

 大丈夫、直ぐ起きるよ――そう口にしようとして、けれど舌のひとつも動く事はなかった。ただ、か細い呼吸音だけが口元から漏れていた。

 歪んだ視界の先に、自身の指先が映る。うつ伏せに転がったまま、赤いそれの中に沈む――先生(わたし)

 

「――大丈夫です、まだ息はありますっ! ヒフミちゃんのバッグが、ギリギリのところで先生を救ってくれましたっ……!」

 

 誰かが、自身の体を弄っている。その触れた場所が、酷く痛んで、思わず呻いた。赤が、視界を埋めていく。体が怠い、息が、続かない。喧騒が周囲に響いていた。誰かの駆ける音、叫び声、悲鳴、怒声、皆が、私の名前を呼ぶ。

 私――わたし、は?

 

「――せ、せんせい!? 先生っ!」

「っ、コハルちゃん、揺らしてはいけませんッ! 何方か、医療班を、早くッ!」

「お、おいッ! 至急救護騎士団を呼んで来い! 急げよッ!?」

「は、はいっ!」

 

 直ぐ傍で、幾人もの生徒が声を張っていた。うつ伏せになったまま、そっと視線を動かす。血が額を流れ、片目を覆っていた。

 ふと、歪んだ視界の先に、見覚えのある顔が映った。

 

「ぇ、ぁ………え……?」

 

 涙を流し、頬に赤を付着させた――聖園ミカ(私の友人)だった。

 所々制服が薄汚れ、破けているものの健在。しかし、その顔には真っ赤な血と煤が付着し、その視線は座り込んだ自身に縋りつく様な恰好で倒れ伏す、先生(わたし)を見ていた。どこか信じられない様に、受け入れられないとばかりに、彼女は唇を震わせる。

 

「な、に……これ………?」

 

 震える声で、彼女は云った。

 瞳孔を開き、震える指先を何度も先生に向けては引っ込め、首を横に振る。その事実を認めたくないと、こんなのはあり得ないと。だって、だって彼女の考えていた結末は、こんな筋書きではなかった。そうだとも、仮に失敗するとしても、こんな、こんな結果には――。

 

「ぇ、ぅ、そ……でしょ、はは……せ、先生、が……なんで、私なんか、庇って――……」

「――ミカさん! ミカさんッ! 確りして下さ……ッ、確りしなさいッ!」

 

 ハナコの、強烈な平手打ちがミカの頬を打った。甲高い音が鳴り響き、ミカが目を見開く。震えたままゆっくりとハナコへと視線を向けたミカは、その血に塗れた手で頬を抑えながら、呆然と呟いた。

 

「ぁ――あ、う、浦和、ハナコ……?」

「惚けている場合ではありませんッ! いち早く治療しなければ、先生はっ――あなたはティーパーティーの一員でしょう!? 今為すべき事をっ、為せる事を為しなさいッ!」

 

 ハナコの真剣な、それでいて涙の混じった絶叫に、ミカは小さく何度も頷いた。

 呆然としたまま、けれど云われた事は理解出来ると、喉を震わせる。カラカラに乾いた口内、唾を呑み込むと、酷い鉄の味がした。

 

「あ、そ、そう、だよね、そう……先生、っは、早く、治療……しない、と――」

 

 両手を先生に伸ばし、その背中に――押し付ける。

 血が、どんどん溢れて来る。赤黒いそれは、一向に止まる気配がない。その、妙な暖かさがミカの両手から零れ落ちる度、先生の死が一刻一刻と迫っている様で、背筋が凍った。

 慌てて、ミカは自身のケープを脱ぎ捨て、先生の傷口に押し当てる。血を吸い、変色したケープは重く、ものの数秒で溢れてしまう。これが果たして意味のある行為なのか、彼女には分からない。ただ、ミカは小さく、「先生、先生……」と呟きながら、傷口を抑える事しか出来なかった。

 ――それでも、血は止まらない。

 

「……あぁ、ぅあああッ! やだッ! 先生、せんせぇっ!? 起きて、起きてよぉ!?」

「――っ、コハルちゃん! コハルちゃん、落ち着いて下さいッ! 駄目です、今はっ!」

 

 最初に限界が来たのは、コハルだった。辛うじて自制出来ていた感情が決壊し、涙を流し、狂乱しながら先生に向けて必死に手を伸ばしていた。ヒフミは、蒼褪めた表情のまま立ち竦んでいたが、コハルの声に辛うじて意識を取り戻し、背後から彼女を抱きしめる様に押さえつける。

 今は、身体を揺する事さえ恐ろしく感じた。ほんの、些細な刺激でさえ――先生の死に直結してしまう様な気がして。

 

「あの――後ろ姿は……ッ!」

 

 声がした。

 アズサの、聞いた事のないような声だった。

 

「あいつ、は……ッ!」

「え、あっ、アズサちゃんッ!? 一体どこに!?」

「―――ッ!」

 

 銃の安全装置を弾く音。次いで、弾倉を切り替える音。ヒフミが気付いた時、既にアズサは駆け出し、人の群れの中に飛び込んでいた。その、純白の制服が黒に紛れ、見えなくなる。

 

 ヒフミが最後に見たアズサの瞳は――憎悪と憤怒に満ちていた。

 

「――ま、待って! 待って! アズサちゃんッ!?」

「ああぁあッ、先生ぇええ!?」

「っ、こ、コハルちゃん……! 暴れないでっ、ぁあ、ううぅ……ッ!」

 

 ヒフミは、アズサに手を伸ばし、けれど今にも駆け出そうとするコハルに体を引っ張られ、その場で堪えるのに一杯一杯だった。辛うじて我慢していた涙が溢れ、ぼろぼろと頬を伝う。周囲は、喧騒に満ちていた。血と、火薬と、硝煙の匂い。平和だった、つい数日前が、まるで嘘みたいに。

 黒ずみ、ボロボロに裂けたペロロのバッグをヒフミは見つめる。

 

「ど、どうして……なんで、こんな、事に……ッ!?」

 

 そのファスナーに取り付けられた補習授業部の人形は――先生だけが焼け焦げ、千切れていた。

 

 ■

 

「っ、はッ!?」

 

 飛び起き、大きく息を吸い込む。自身の胸を掴んだまま、荒い呼吸を繰り返す彼女は、自身の体に手を這わせ、何処にも傷が無い事を確かめる。肩、背中、腕、痛みはない、怪我もない――ただ、脳裏にこびり付いたリアルな体験だけが、感覚として肉体に残っている。大きなベッド、月の綺麗な夜、自室を模したその部屋で、彼女は再び目を覚ます。

 

「ぅ、は、はッ! はぁ……うぅ、ッ!」

 

 頭を抱えて、思わず唸った。

 それは、ここ最近何度も繰り返された行程だった。

 此処もまた――夢の中。

 彼女は夢の中で、夢を見る。

 何度も、何度も、何度も。

 

「また、またこの予知夢……っ!?」

 

 叫び、自身の顔を覆う。声なき絶叫を上げ、喉を震わせる。それが仮初の肉体で、実体は未だ病床の上であると理解して尚、その感情を吐露せずにはいられなかった。背を丸め、大きく息を吐き出し、彼女は呟く。

 

「は、はは……これでも、まだ、序盤なのだよ先生……? まだまだ、これから、苦しい事が、辛い事が、目を背けたくなる様な事が、沢山待っているんだ……何もかもが虚しく、全てが破局へと至るエンディング……なのに、何故」

 

「――どうしてあなた(先生)は、信じ続けられるんだ(諦めないんだ)……?」

 

 ■

 

 先生、もしかしてまだ、自分が死なないとでも思っているんじゃないのか?(純愛百二十パーセント)

 エデン条約のミサイル着弾までは、手足は無事だとか、そこまで大きな怪我はしないだとか、そんな風に思っていたりしたんじゃないか?

 そんな酷いことしないから安心してね♡ 苦しんでいる先生の姿は凄く素敵だから、沢山の生徒に見て貰おうね。私もその為に、精一杯頑張りますわ~~!!

 少しずつ、日常は浸食されるのですわ。ほんの少しずつ、足元から順々に。そして予知夢っていうのは大抵、どんどん悪くなるものなのですわ。特に、先生に関しては。素敵ですわね~~~~!!!

 



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そうして彼女は目を閉じる(夢を見る)

誤字脱字に感謝いたしますわ~~!


 

「……いよいよ、明日です」

「う、うん」

 

 補習授業部――合宿、七日目。

 いつも通り教室に集合し、プリントを前にしたヒフミとコハルは、どこか緊張した面持ちで呟く。教室に先生の姿はなく、今日は個別自習時間――各人が苦手な分野、教科、特に得点率が低い設問を先生がチョイスし、苦手克服の為に特別問題集を作成してくれた。皆はそれを、今日一日かけて消化する予定なのである。

 アズサはいつも通り淡々とした様子で、ハナコは笑みを浮べながら口を開く。

 

「第二次特別学力試験――か」

「ふふっ、何だかあっという間でしたね」

「はい……一週間という短い時間でしたが、私達はきちんと努力を積み上げました、これは必ずや無駄にならないと信じています――模試の結果も良かったですし、今の私達であれば十分に第二次特別学力試験に合格出来る筈です!」

 

 そう云って、拳を握り締めるヒフミ。

 一週間前の自分達とは比べ物にならない程、学習を積み重ね努力を為したという自負があった。模擬試験の結果も、直近は全員が合格。それでいて難易度は通常の期末試験等と同等なのだから、特別学力試験の基礎問題程度ならば楽勝の筈である。

 

「ですが慢心する事無く、最後まで頑張りましょう……! あと一日、最善を尽くすんです……!」

「当然だ、何なら百点を目指して頑張る」

「わ、私も!」

「あら、では私もそういう事で……ふふっ」

「わ、私はちょっと百点は難しそうですが……と、兎に角! 最終日も、張り切って勉強していきましょう!」

「おーっ!」

 

 ヒフミの声に、全員が同調し声を上げる。

 運命の第二次特別学力試験――それは、直ぐ傍まで迫っていた。

 

 ■

 

「――ご無沙汰しております、先生」

「やぁ、ナギサ」

 

 麗らかな日差しが差し込む正午。大抵、此処に来る時は夜だったなと、先生はふとそんな事を想った。

 ティーパーティーのテラス、目前にはいつも通り、優雅に紅茶を嗜み綺麗な笑顔を浮かべるナギサ。彼女はカップをソーサーに戻すと、柔らかな口調で問いかける。

 

「あれからお変わりはありませんか? 合宿の方は如何でしょう、何か困った事などあれば遠慮なく仰って下さい」

「お陰様で何とか、今のところ順調だよ」

 

 慣れたもので、何でもない様に頷きながら、先生はナギサの対面に腰掛ける。ナギサは無言で空のティーカップに紅茶を注ぐと、静かに先生へと差し出した。それを自然に受け取り、先生はそっと香りを確かめる。その鼻腔を擽る高貴な香りに、先生は驚いた様に目を見開いた。

 

「……これ、凄く良い香りだね」

「えぇ、此方はトリニティでも中々手に入らない、トワイライト社の高級茶葉を使用しておりますので」

「それは……私が飲んでも良いのかな?」

「勿論です、先生の為に用意したものですから、香りも味も、素晴らしい一品ですよ――さぁ、どうぞ」

「……ありがとう、頂くよ」

 

 促され、先生は恐る恐る口を付ける。

 途端、口の中に広がる紅茶の風味。爽やかなそれはしかし、確かな甘さも内包し、その中にアクセントの様な酸味がある。香り、コク、渋み、三拍子そろったそれには先生も思わず舌を巻いた。

 

「これは……うん、凄く美味しいね」

「ふふっ、気に入って頂けたのなら何よりです」

 

 ナギサが嬉しそうに微笑み、自身のカップに口を付ける。暫く、そうやって紅茶を嗜んだ先生は、カップの中身が半分ほどに減った辺りで本題を切り出した。

 

「……それで、今日はどんなご用事かな?」

「ふふっ――この合宿はいうなれば元々、生徒達を良く観察できるようにという配慮でしたので」

 

 告げ、ナギサは笑顔のまま問いかける。そこには何の気負いもなく、ただ世間話の延長線上であるかのような気軽さだけがあった。

 

「――如何でしたでしょうか? 合宿中、何か判明した事などはありましたか?」

「………」

「あぁ、もっと直接的に云いましょうか、先生――トリニティの裏切者は、どなただと思いました?」

 

 その声に、先生は暫しの間沈黙を守る。そして持っていたカップを静かにソーサーへと戻し、口を開いた。

 

「……ナギサ、私は云った筈だよ?」

「………」

「私は、私のやり方で対処する――と」

 

 告げる先生の態度は、以前と一貫して変わらない。生徒を疑う事はしない、犯人探しなど最初から考えてもいなかった。補習授業部は、そういう場所ではない。学び、互いに高め合い、飛躍する為の場所――生徒達の(よすが)だ。

 其処に、そんな無粋なモノを持ち込みたくはない。

 

「……そうでしたね」

 

 聞き届けたナギサは、そっと溜息を一つ。そこに落胆は見えない。いや、見せていないだけか。彼女は背筋を正し、淡々と言葉を紡ぐ。

 

「ただ、第二次特別学力試験を目の前にして、改めてそこを確認しておきたかったのです、先生に心変わりはないか、気になる点はなかったのか――」

 

 ナギサの伏せ気味だった瞳が、正面から先生を射貫く。

 その瞳が一瞬、ぎらりと光った気がした。

 

「……恐らく、ミカさんも接触して来ましたよね?」

「………」

 

 返答はなかった。しかしその沈黙は、この場合何よりも雄弁に肯定を表していた。ナギサはそっと椅子から腰を浮かせ、身を乗り出す様にして問いかける。その表情は微笑んでいた、しかし――目だけは笑っていない。

 猜疑と疑心、そして悪意の渦巻く瞳だった。

 

「ふふっ、ミカさんと何をお話しになったのか――よろしければ、教えて頂けませんか?」

「……それは、出来ない相談だね」

 

 先生はナギサの言葉に、はっきりと拒絶を返す。生徒個人の秘密を他者に漏らす事はしない、それは先生だから云々ではなく、人としてのルールである。そうでなければ生徒が、先生に相談の一つすら出来なくなってしまうだろう。

 だから、この件で先生が出来る事は一つ――たった一つだけ。

 

「ナギサ、私はね、誰かを疑う事に時間を費やすつもりはないよ……私に出来る事はただ一つ」

 

 先生もまた、視線を上げナギサを見返す。

 真っ直ぐに、正面から。

 

「あの子達の頑張りが報われるように、最善を尽くす事だけだ」

 

 暫くの間、視線が交差する。

 ナギサは乗り出した体を戻すと、そっと肩を竦め、云った。

 

「……一度改めて説明しましょうか、何故彼女達が選ばれたのか、私としても先生と対立する事態は避けたいのです、その為にも先生にご理解頂ければ……と」

「私がそれで、納得すると?」

「何事も話さねば始まりません、私達は理解し合える存在だと信じております」

 

 そう云って、綺麗に笑って見せるナギサ。

 どの口が――ナギサは自分自身で口にしたソレに、白々しさを感じずにはいられなかった。しかし、先生が対話を拒否する事はない。その確信があるからこそ、道化の様な台詞でさえも利用する。先生はナギサを見つめながら、そっと紅茶を再び口に運ぶ。

 それが、無言の了承であると受け取ったナギサは唇を湿らせ、言葉を綴った。

 

「先生の方にも情報網はあると思いますが……一先ず、順番にお話ししましょう」

 

 そう云ってナギサは、すっかり馴染み、愛用品となったチェス盤を徐に取り出し手前に設置する。綺麗に並べられた駒、それらを順に指先でなぞり、その一つを摘まんだ。

 最初に選ばれたのは、ポーン(兵士)

 彼女はそれを盤の中心に置くと――指で弾き、倒した。

 カコン、と硬質的な音が鳴り、駒は倒れる。

 

「……まずコハルさん、彼女はハスミさんを統制するための存在です、ハスミさんはゲヘナの事を酷く憎悪し、いつ何をしでかすか分からない時限爆弾の様な存在ですから、それをある程度コントロールする手段が必要でした、それが彼女です」

 

 告げ、次に選んだのはクイーン。

 キングの横に並ぶそれも同じように、盤の中央へと移動させ、弾く。

 盤上に、二つの駒が転がった。

 

「そしてハナコさん、彼女は本来誰よりも優秀な才能を持っていたにも関わらず、今はわざと試験で本気を出していません、その気になればどんな派閥でもトップに立ち、率いる事が出来るでしょう……今は何を企んで、何を考えているのか、全く理解出来ない状態です」

 

 彼女が三番目に選んだ駒はナイトであった。

 既に転がった二つの駒を他所に、彼女はナイトをも弾く。倒れたナイトの駒がポーンの駒にぶつかり、半円を描くように駒は回った。

 

「アズサさんは、そもそも存在自体が色々と怪しいところばかりです、他の生徒達と何度も暴力事件を起こしている統制不能な存在ですし、正直怪しくない箇所を探す方が難しい位で……まぁ、私でなくとも疑念を抱くでしょう」

 

 ポーン(兵士)クイーン(女王)ナイト(騎士)

 それぞれを補習授業部に見立て、弾いたナギサ。

 そして、最後に彼女が選んだ駒は――。

 

「ヒフミさん、は――」

「………」

 

 ナギサの指先が触れた駒――キング()

 それを、彼女は動かせずにいる。

 それは、彼女の心情を表している様に思えた。

 

「ナギサは、ヒフミと仲が良いんだってね」

「………」

 

 その言葉に数秒、沈黙を守った彼女は、そっとキングから手を放した。

 所々駒の欠けた黒の盤面、それらを所在なさげに眺めながら、ナギサは頷いて見せる。

 

「……はい、そうですね、ヒフミさんへの想いは、かなり特別です」

 

 それは、苦々しい口調だった。痛い所を突かれたと、まるで直視したくない現実を突きつけられたかのように、彼女は目を伏せる。ナギサとヒフミは懇意である、それこそ――多少のお願い(アビドスへの助勢)を聞き届けてしまう程度には。

 彼女は、ティーパーティーとしてのナギサではなく、一人の友人として会話を交わす事が出来る貴重な人物であった。向こうがどのように思っているのかは分からないが、少なくともナギサにとってはかけがえのない存在である。

 桐藤ナギサにとって、阿慈谷ヒフミという少女は――普通で、何て事の無い、大切な友人だった。

 

「私は一個人として、ヒフミさんの事をとても大切に想っています、私は、彼女の事を好いている――そのことは、間違いありません」

「なら、どうして?」

「――あの子の正体が、実は恐ろしい犯罪集団のリーダーである、という情報がありました」

 

 ナギサの体が、強張ったような気がした。先生は、淡々と語ろうと努めるナギサを見守りながら沈黙を通す。これは、自身にも責任の一端がある話であった。それを自覚しながら、静かに拳を握り締める。

 

「こういったお話が、かえって一番恐ろしいのです、信じていたからこそ何かが見えなくなっている――盲目な状態になっているのでは、と」

「………」

「どれだけ注意を払って築いた塔も、小さな亀裂から簡単に崩れてしまうもの……私はちゃんとヒフミさんの事を理解出来ているのか、それともやはり私が知らない真実があるのか――今の私には、分からないのです」

 

 視界を塞がれた時、その手を取った者が善人なのか――それを知る術はない。

 例えどれだけその手が暖かろうと、優し気であろうと、その手が悪意を持って自身の手を取った訳ではないと、何故分かる? 何故断言できる? 暗中で藻掻き、最善を模索する彼女にとって、全ては疑いの対象である。

 それがたとえ、彼女にとって大事な友人(ヒフミ)であっても――十年来の幼馴染(ミカ)であっても。

 

「……ヒフミは、そんな子じゃないよ、あの子は優しい子だ」

「――何故、そう云い切れるのですか?」

 

 声は、強く響いた。

 彼女の指先が、ぐっと握り込まれる。

 先生を見る瞳に、熱が入る。けれどそれは、決して前向きなものではない。

 

「ヒフミさんの感情を、思考を、気持ちを、証明出来るのですか? その本心を、本音を、心を――一体、どうやって証明するというのです? そんな子ではない、誤解だ、事情がある……そんな言葉に、どれだけの意味があるのですか、どれだけの真実性が含まれているのですか」

 

 目に見えないものは怖い。

 分からないものは恐ろしい。

 誤解がある、事情がある、そんな言葉に意味はない。必要なのは絶対なる証明、自身が邪な意思を持たず、安全であるという物理的な、目に見える形での保障。

 

 それが出来ないのならば――疑うしかない。

 

 傷つけられない様に、大切なモノを守る為に。

 大切な人を疑い、排斥する。

 それが、ナギサの選んだ『やり方』だ。

 

「先生、あなたは疑う事を悪しき行為だと、そう考えている節が見られます――しかし、私の考えは異なります、疑う事は決して悪しき行為などではありません」

 

 疑う事は果たして悪か?

 否――ナギサはそう、断言する。

 

「信頼というものは心地良きものでしょう、けれどそれは時に枷となります、人を信じ、盲目となれば、いつかその信じた人が疑って欲しくないものを持ちだした時――あなたはきっと、疑う事すらしないでしょう……信頼を盾に、見過ごすに違いありません、それが良きもの(誰かの為)であれ、悪きもの(自分の為)であれ」

「………」

「――心の中身など、証明出来るものではないのですから」

 

 結局の所――そこに尽きる。

 自身の感情の証明、安全性の証明、友愛の証明。

 目に見えるものを信じるならば、それは信頼によるものだ。「この人ならば、大丈夫」、「この人ならば、裏切らない」、或いは――「この人にならば、裏切られても良い」という。

 個人ならば、それでも良い。

 個人の友好は、己の主観のみで判断しても構わないし、そこから生まれるあらゆる好悪は己と相手のみで完結する。

 しかし――。

 

「ヒフミさんは優しい子、えぇ、良く理解していますとも――彼女の優しいところも、礼儀正しいところも、友人想いなところも、それらを痛い程知って尚、その本音を知る事は叶いません、当然です、どう足掻いたって私達は所詮……他人なのですから」

「だから――退学させると?」

「えぇ、エデン条約――その成功の為に」

 

 ナギサは、このトリニティ総合学園の――生徒会長だから。

 

「大義の前の小事……そう云うんだね、ナギサは」

「はい、それがティーパーティーとしての責務です」

「たとえそれが、何の罪もない生徒だとしても?」

「はい、それが何の罪もない生徒だったとしても、僅かな可能性があるのならば、私は――」

 

 口を結び、ナギサは俯く。数秒、間があった。それが彼女の罪悪感の発露なのか、或いは覚悟を決めるまでの逡巡だったのか、それは分からない。

 しかし、再び顔を上げた彼女の瞳には――鋼の如き決意と、絶対なる自負があった。

 

「私の大切な友人すら、切り捨てましょう」

 

 ――この綺麗な箱庭(トリニティ)の為に。

 

「………」

「………」

 

 二人の視線がぶつかる。

 互いに、鋼と鋼を孕んだ瞳が。

 

「――分かった、ナギサ」

「っ、先生――」

 

 先生が、ふっと視線から力を抜く。

 その動作に、ナギサは僅かな希望を見出した。

 ご理解頂けましたか――そう、口にしようとして。

 

「その考えには、やはり賛同出来ない」

「―――」

 

 先生の手が、静かに紅茶をソーサーに戻した。

 ナギサの緩みかけた表情が、凍る。

 左右に揺れた視線が、彼女の動揺を表していた。

 

「――ただ信じるだけではいけない、それに関しては概ね同意しよう、これは単なる私の我儘だからね、私も、他者を疑るという行為全てを否定する訳じゃない」

「では、何故……?」

「私はね、ナギサ――」

 

 先生が、拳を握る。その手を軋ませる。

 雰囲気が切り替わった。静寂を秘めた瞳から、憤怒と絶対不変の決意を秘めた瞳に。その瞳が、ナギサを射貫く。

 

「最初から全員が笑える可能性を切り捨てて(他者の犠牲を容認し)誰かを犠牲にしようとしている(理想をハナから諦めている)その姿勢が認められないんだ」

 

 誰かの犠牲の上に成り立つ世界。

 誰かを喪わなければ救われない世界。

 その残酷な真実を、先生は知っている――誰よりも良く、知っている。

 けれど、それを受け入れるのかどうかは別なのだ。

 何かを喪わなければ何も得られない真実。誰かを犠牲にしなければ救われない現実。それを知りながらも足を止めず、手を伸ばし、「それでも」と叫び続けた大人(先生)は――今、傷だらけになりながらも此処に立っている(未だ抗っている)

 

「私は、たとえ這い蹲って汚れ切っても、どれだけ血反吐を吐いて苦しんでも、生徒全員が笑って迎えられる――そんな奇跡みたいな明日(幸せな未来)が欲しいんだよ」

 

 だから、先生は告げる。

 その在り方は許容できない。

 その考え方には賛同できない、と。

 たとえその先に、苦しみが待ち受けているとしても。

 どれだけ馬鹿げた、綺麗事にしか聞こえなくても。

 先生は、己の全てを賭けて、生徒すべてが笑える明日を目指し続ける。(エデンへ続く道を探し続ける)

 

「……それは、理想論に過ぎません」

「その通りだ」

 

 ナギサは云う、拳を強く握り締め、震えた声で。

 所詮は理想だ、到底現実的ではない。

 現実を見ろ、リスクとリターンが釣り合わない。

 たった四名の犠牲で、トリニティ数千の生徒が救われるのに。

 

「大人が語る事ですか、それが」

「大人が理想を語らなければ、生徒が理想を語れなくなる」

 

 その背中を見て、生徒は育つ。

 現実を説き、個性を殺し、大人になれと諭す。世界にはどうしようもない事があって、それを噛み締め、飲み干し、ただ諾々と従って生きろと――それが教えだと?

 それでは、彼ら(ゲマトリア)と同じだ。

 先生が伝えるべきは、生徒が持つ無限大の可能性と、何者にもなれるその切符と、そして彼女達には世界だって変えられる力があるんだと、そう自覚させる事だ。

 だって先生は信じている、心の底から信じている。

 生徒を、彼女達の持つ光を――その可能性を。

 

「まるで、子どもの夢物語ではありませんか」

「理想も夢も、抱かなければ始まらない」

 

 そうだ、そうでなければ、スタートラインにすら立てない。

 どんな理想も、夢物語も、語らなければ輪郭すら持てない。人は、意思を持って初めて行動を起こす。理想を知らなければ、理想に向かって走れない。ならば、その手本となるべきは自分だ――大人だ。

 大人が理想を語らずして、どうして子どもが理想を語れよう?

 

 世界を作り、救うのは大人だと嘗て彼女は云った。

 ならば、その大人こそが――理想を語るべきだ。

 語り続けたその先に、望んだ幸福な世界があると信じて。

 

「そんな事――出来るとでも?」

「その為に(先生)は、此処(キヴォトス)に居る」

 

 先生と、ナギサは口を一文字に結ぶ。

 それ以上の問答は、不毛であった。

 先生はナギサの在り方を受け入れられず、ナギサは先生の在り方を認められない。これ以上話し合っても、その決着は永遠に付く事はないだろう。

 ナギサは疑う事を説き、先生は信じる事を説いた。

 それが、二人の決定的な分水嶺だった。

 

「……そう、ですか」

 

 ぽつりと、ナギサは呟いた。

 その声は低く、感情が抜け落ちた様に感じられた。両手を膝の上に落としたまま、拳を握り締めるナギサは、数度深呼吸を行い、言葉を続ける。

 

「……えぇ、理解しました、理解しましたとも――つまりは、お話がシンプルになったという事です」

「……そういう事かな」

 

 此処に――ナギサ(ティーパーティー)先生(シャーレ)の溝は決定的なものとなった。

 

 ナギサはティーパーティーとしてシャーレに協力を要請し、先生はそれを三度(みたび)拒否した。先生は生徒全員を救う道を選び、ナギサはごく少数を切り捨てる事によって大多数の安全を保障する道を選ぶ。

 そこに、善悪はない。

 ただ、思想の違いがあるだけだ。

 二人の視線が、再び交わる。

 

「――どうあっても、その在り方を曲げられないのですね、先生(あなた)は」

「――あぁ、これだけは譲れない」

 

 ――これは、私が此処に立つ理由(私の存在理由)そのものだから。

 

 長い、沈黙があった。二人の視線は微動だにせず、相手のみを捉える。穏やかな昼下がりとは思えぬ程に冷え切った空気。しかし、其処に険悪なものはない。ただ、互いを理解しながらも受け入れられないと、見定める未来への道筋の違いだけが存在していた。

 

「……承知しました、どうか頑張って下さい、先生」

 

 ナギサは、頭を下げて視線を切る。

 その瞳を、そっと陰に隠して。

 

「私は、私なりに頑張りますので」

「うん――ありがとう」

 

 告げ、先生は席を立つ。

 紅茶、御馳走様。その言葉がナギサの耳を打ち、先生はテラスを後にしようとした。ドアノブに手を掛け、捻る。

 

「――先生」

 

 その背中に、ナギサの声が届いた。振り向き、ナギサに視線を向ける先生。彼女はチェス盤をじっと見下ろしたまま、淡々と――けれど、どこか残念そうな声色で告げた。

 

「――どうか、お気を付けて(もう、容赦はしません)

「……あぁ」

 

 頷き、先生の姿は扉の向こう側へと消え――両開きの白が、先生とナギサを分け隔てる。その背中を見送り、ナギサは小さく呟いた。

 

「とても――とても、残念です、先生」

 

 その指先が、チェス盤の縁をなぞる。

 

「あなたとは、可能ならば敵対などしたくなかった……けれど、物事には優先順位があり、個人的な友好や信頼を優先してはティーパーティーとしての資格を失います、私は、あくまでトリニティの長、このティーパーティーのホスト、そこに、理想が入り込む余地はありません」

 

 理想は、尊いものだ。それを語り、聞かせるのが先生の役目――成程、そういう側面がある事は同意しよう。

 しかし、生徒が挫折し、諦める事は考えていないのか? 理想を追い求める余り、現実が見えていない事態を引き起こす可能性だってあるのに。理想の果てに、全てを喪う未来だって――。

 理想と現実、その狭間は酷く薄い、硝子一枚で隔てられている。生徒がその世界を知った時、現実の厳しさに膝を突いた時、立ち上がれるよう、打ちのめされない様――その在り方を教えるのも、先生の役目ではないのか。

 

 先生はきっと、才能に溢れた人物なのだろう。あの連邦生徒会長に招致された程の人物だ。現実のままならない様を知りながら、それでも己の才格と人望、熱意で此処までやって来たに違いない。

 

 ――先生はきっと、失敗を知らぬ人間なのだ(成功した人間なのだ)

 

「あなたの口にする言葉は、余りも綺麗過ぎる――」

 

 生徒を疑わず、信頼する。

 誰かの犠牲を厭う、全てを救おうとする。

 先生がそう在れば、生徒もそう在ってくれると信じている。

 何て――遠い夢物語。

 生徒皆が幸せで、笑い合える世界。

 認めよう、それが理想だ、そう在る事が出来ればどれ程よかった事か。

 けれど、そうはならない。

 ナギサという少女は――全知全能には、なれない。

 ナギサの視線が、盤上のキングを捉えた。

 

「……大切な友人ひとりと、学園ひとつ」

 

 その細い指先が、キングの駒を撫でつける。ナギサは暫くの間、沈黙を守った。そして、そっと指を折り畳み、云う。

 

「――もう、私は選んだ後なのですよ、先生」

 

 ――その指先が、静かにキング(ヒフミ)を弾いた。

 


 

 生徒が失敗したときの責任を全部被るつもりで理想を語る先生は人間の鑑。でも敵対する生徒でも平気で庇って死ぬから人間の屑。

 

 今日は投稿日ではありませんが、三日に一度で一万五千字より、二日に一度で一万字の方がバランス良いかなぁって思いまして。毎日投稿は私が死ぬのでやりません。(アビドス編前半)

 以降は二日に一回、駄目そうだったら三日に一回投稿します。

 

 三章でプロットに罅が入るかと思いましたが、そんな事ありませんでしたわ。

 ヒヤリとしたのはデカルコマニーが不死身という点ですわね。ゴルコンダが不死身だったら、私のプロット、具体的に云うとキヴォトス動乱関連が破滅しておりました。もうアビドス編で散々伏線張りまくった後なので、「実は違いました~ピースピース!」なんて出来ませんの。マジでお願いしますわよネクソンゲームズさん。

 それはそれとして、私が最終編でやろうとしていた事、先にやられそうな気配をビンビンに感じてヤッベーイですわ。先生vs闇落ち先生とか最高にエモモモモではありません事? 色彩の嚮導者の台詞「” ”」が付いていましたし。

 

 ”このマークが付くのは先生の選択肢だけなんですわよね”

 

 しかも「色彩の嚮導者」ですわよ。「色彩の」、嚮導者。

 仮に色彩がクロコを指しているのなら、全ての生徒の先生だった彼、もしくは彼女は文字通りクロコだけの導き人になったという訳です。まぁ、「色彩の」がどちらに掛かっているかによるのですが。

 弾痕つきのタブレットも持っていましたし、という事はプロローグで見えた、此方に銃を突き付けているクロコ、彼女が銃を向けていた相手は色彩の嚮導者だったという訳ですわよね~……。

 絶対バッドエンドの先生じゃん、キヴォトス救えなかった世界線の先生じゃん。

 クロコの「私が色彩を使っている」発言から、最悪先生死体の可能性もありますよね。指紋認証なら死体でも問題ないし。そもそも、あの場所はあらゆる事象が確定していない、あらゆる次元が交わる場所的な説明ありましたし、あぁいう存在自体が確定せず、あやふやな場所なら「先生は死んでいる」状態でもあり、「先生は生きている」状態でもあり……って感じで、活動出来るんですかね? アロナも出現していたし。次元を確定させないという場所でのみ、実体化可能なのか。というかシロコの銃弾って、あの傘で防いでいたのアロナ? もしそうなら凄い強度だねそれ……。ミサイルも防げるし。

 

 兎にも角にも、私のプロットがバイバイキーンするかどうかは、色彩はクロコでなければならないのか? という一点に尽きますわね~。存在理由とか、彼女のモチーフに関わる事象なので、かなり必然性は高そうですが……でも単純にキヴォトス沈めるだけなら彼女でなくとも良い訳ですし。間接的に沈められるのなら色彩も、「ままえやろ」的な感じで妥協してくれたりとか、なさらない? あんまりミラーマッチとかさせたくないんですけれど、わたくし……。

 

 クロコの前で色彩の嚮導者を撃ち殺して~! って思いましたけれど、良く考えたら既にクロコがそれやっているっぽいんですわよね。死体に鞭を打っても、銃を撃っても同じってか、ガハハ! うん? でもそう考えると態々アロナが防ぐ必要もないのか? じゃあ先生まだご存命? まぁ先生じゃない可能性もありますけれど……。

 四章~ッ! 早く来てくれぇ~ッ! (プロットが)どうなっても知らんぞ~ッ!?

 

 あと宇宙戦艦飛ばす時に寿命削っている感があって良かったです(小並感)

 最終戦でも大人のカード大盤振る舞いだったし、オーパーツの稼働分含めて先生の体はボドボドだ! ってなりそうですわねぇ。うぅ、あんな包帯だらけの細い腕になっちゃって……。

 最初クロコとシロコが別に存在しているって分かった時、じゃあシロコ誘拐した意味なくね? って思ったけれど複製の可能性もあるんですよね。ゲマトリアの技術奪ったし。黒服は「過去に戻ってシロコを殺害するべきだった」って云っていますけれど、もしそれを実行して、出来なかった結果がアレならば色彩の嚮導者、ボロボロの恰好のままシロコに手を伸ばしてそのまま絶命しそう。

 仮面外れた時に先生と同じ顔、同じ笑みを浮べたまま、嬉しそうに手を伸ばした先生を見たシロコは何を想うのだろうか。先生とは違う存在の筈なのに、確かにその残滓を感じ取った後なら、絶対に無感動ではいられない筈でしてよ。

 

 或いは先生の代償を肩代わりして消滅する? まぁ綺麗な退場の仕方ではありますわよねぇ……。ただ昔から色彩が認識されていたのなら、他次元のキヴォトスか、それに類する世界を幾つか滅ぼしている可能性だってある訳ですし、その状態で先生に自意識が残っているかと云うと……うーん。神秘と恐怖は表裏一体、神秘が裏返ると恐怖になるという話ですが、神秘を持たない先生が反転すると何になるのでしょうか? 或いは、キヴォトスに於ける大人の概念と同じように、神秘とは可能性(子ども)を暗喩している可能性が微レ存……? 黒服も神秘を持っていないみたいですし。だからシロコが裏返って恐怖(大人)になった? まぁでもこんなん考えても分からないですわよねぇ~…。設定資料集とか売ってないかしら~~~~!

 

 まぁ、どうしようもなくなったら「うるせ~~~!! 知らね~~~!!! FINAL FANTASY」で乗り切りますわ~~!

 私の宇宙(キヴォトス)では先生が苦しめば苦しむ程、生徒が可愛くなるんでしてよ~~っ!?



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立ち込める暗雲、切り裂く光はその手の中に

誤字脱字報告、ありがてぇですわ~~!!


 

「ふぅー……大分暗くなってきましたね」

「うん、そろそろ切り上げた方が良いだろうか?」

「そうですね、根を詰め過ぎて明日に響いても嫌ですし……今日は、此処までにしましょう!」

 

 七日目、最後の勉強を終えた補習授業部。教室の中に、安堵の声が漏れる。窓の外は既に暗く、本来の自習時間は既にオーバーしている。しかし、明日が試験本番という事で居ても立ってもいられず、こうして夕食を済ませた後も勉学に励んでいた次第だった。

 ペンを置き、大きく伸びをしたコハルは、書き進められたノートを見下ろしながら、どこか緊張した面持ちで呟く。

 

「これで後は第二次特別学力試験……本番だけ、だよね?」

「はいっ、ですが私達はここまでの合宿で、十分に合格できる程の学力を身に着けた筈です!」

「うん」

「えぇ♡」

「っ、そ……そうねっ!」

 

 一瞬弱気になったコハルは、しかし皆の自信に満ち溢れた表情に鼓舞され、気持ちを持ち直す。

 

「あとはしっかり試験に合格して、堂々と補習授業部を卒業するだけです、今までの勉強が無駄ではなかった事を、きっちりと証明しに行きましょう! そして最後は、皆で笑ってお別れ出来る様に……!」

 

 そう云って、鼻息荒く拳を突き上げるヒフミ。皆の気持ちを盛り上げる為の言葉だったが、一人だけ彼女の言葉に眉を下げたメンバーが居た。

 

「――そうか、合格したら……お別れ、なのか」

 

 彼女、アズサはヒフミから貰った人形を抱きしめ、思わず呟く。補習授業部はあくまで成績不振の生徒を救済する為の部活。特別学力試験をパスすれば、自然と部活は消滅し、解散する事になるだろう。その事実を認識した時、アズサは驚く程意気消沈し、力なく項垂れた。

 

「ちょ、ちょっとアズサ!? どうして急にしんみりする訳!?」

「ふふっ、合宿含め、何だかんだで凄く楽しかったですもんね?」

「……うん、でも、それでもやっぱり、出会いがあれば別れもある、全ては、虚しいものだ」

 

 もう二度と会えない、今生の別れだとも言いたげな彼女に、ハナコは諭すような口調で続けた。

 

「――そこまで思い詰める必要はありませんよ、アズサちゃん含めて皆、試験が終わったらどこかに行ってしまう訳ではありません、補習授業部が解散しても同じ学園に居るんですから、逢おうと思えばいつでも会えますよ」

「そ、そうよ! ほら! 私はいつも正義実現委員会の教室にいるし! ひ、暇な時があったら来れば……!?」

「き、気持ちとしては私も同じなんですけれどね……でも、ハナコちゃんの云う通り、私達は同じ学園に通う仲間です、今生の別れではありませんので……!」

「えぇ、教室でもどこでも、いつでも遊びに来て下さい」

「……うん、ありがとう、ヒフミ、コハル、ハナコ」

 

 そう云って微笑むアズサ。

 その表情に滲む、僅かな寂しさと罪悪感を、ヒフミとコハルは見逃した。彼女の奥底に潜む、どろりとした恐怖。それはアズサの心にへばり付き、決して離れる事がない。

 だって――裏切り者が、許される筈などない。

 それは、彼女が抱き続けた罪悪の形そのものだった。

 

「……そう云えば、明日の試験会場は前と同じところなのか?」

「あっ、そうですね、確認は大事ですし……えっと、告知は――」

 

 アズサの意識を逸らす為の問いかけに、ヒフミは端末を取り出すとトリニティ掲示板にアクセスする。特別学力試験の日程や会場も此処に掲載され、試験前には必ず目を通しておかないといけない。そして特別学力試験に関しての掲示をスクロールして探し出し。

 

「――えっ?」

 

 ヒフミは、思わず身体を硬直させた。

 

「……ヒフミちゃん、どうしましたか?」

「ヒフミ?」

「え、嘘っ!? 嘘ですよね……ッ!?」

 

 両手で端末を持って、尋常ではない様子で何度もそう口ずさむヒフミ。その様子に異変を察知した皆が、ヒフミの傍に駆け寄る。

 

「ど、どうしたのヒフミ、そんな大声出して……」

「こ、これ――……」

 

 そう云って、震える手で差し出された端末。補習授業部の面々は恐る恐るその画面を覗き込んだ。

 

「えっと、『補習授業部、第二次特別学力試験に関する変更事項のお知らせ』……?」

「何よ、別に、普通のお知らせじゃ……」

 

 コハルが訝し気にそう口にし。

 ハナコはその内容を強張った声色で読み上げた。

 

「――試験範囲を、事前に掲示した内容より約三倍に拡大」

「は、はぁっ!?」

 

 思わず、叫ぶ。

 しかし、それはまだ序の口に過ぎない。スクロールされた内容は更に続き、想定外の内容が記されていた。

 

「また、合格ラインを六十点から九十点に引き上げとする――……」

「きゅ、九十点なんて……わ、私も、超えた事なんてないのに……」

「ど、どういう事よ、これ……!?」

「日付を見るに、先程アップされたばかりみたいですね……試験直前になって、こんな――」

 

 呟き、考え込む素振りを見せたハナコ。掲載日は数日前と記されているが、その横に修正済みの記述と、今日の日付が記載されている。具体的な時間は分からないが、少なくとも試験前日に掲載する代物ではない。

 

「――成程、私達の模擬試験の結果を、ナギサさんが何かしらの手段で把握しましたか」

「も、模擬試験って、あの全員合格した奴!?」

「でも、あれは私達が作った授業資料で、別にちゃんとした試験じゃ……!」

「……この学園に居る以上、ティーパーティーの目となり耳となる存在からは逃れられません」

 

 呟き、ハナコは唇を噛む。ティーパーティーはあらゆる場所に網を張っている。その情報網は、このトリニティ内部に限れば届かぬ場所が無いと云える程。シスターフッドや正義実現委員会、救護騎士団内部となれば話は別だろうが――たった四人の補習授業部の活動内容を秘密裏に入手する事など、造作もない。

 思わず、眉間に皺が寄る。

 

「露骨なやり方ですねぇ……どうあっても、私達を退学にしたい――と」

「――退学?」

 

 その一言に、ピクリとアズサが眉を顰めた。

 

「えっ、た、退学……? ちょ、ちょっと待って、どういう事!?」

「……そのお話も、そろそろお伝えしようと思っていましたが――その前に、他にも変更された部分がありますね」

 

 コハルの動揺を尻目に、ハナコは掲載内容をつぶさに確認する。これで把握漏れが出た場合、どんな難癖をつけて不合格にされるか分からない。そんな警戒心があった。

 

「試験会場と時間……会場はゲヘナ自治区第十五エリア七十七番街、廃墟一階」

「ゲヘナ……?」

「げ、ゲヘナで試験を受けるんですか!?」

「な、何でよ!? どうしてトリニティの試験をゲヘナで受ける訳!? い、意味わかんないッ!?」

「しかし、行かなければ未受験扱いで不合格、ですね……」

「そ、それもそうだけれど……~ッ!」

 

 コハルはその言葉に頭を掻き乱し、涙目で叫ぶ。

 

「一体何が起きているの!? 退学って何!? 私達、どうなっちゃうの!?」

「………」

 

 ヒフミとハナコは互いに目を合わせ、これ以上隠し通す事は出来ない事を悟り――ヒフミはそっと口を開いた。

 

 ■

 

「試験に三回落ちたら……退学!?」

「……成程」

 

 大まかな事情を説明し終わった後、教室にはコハルの動揺した叫びと、アズサの淡々とした声が響いた。ヒフミは不安げな表情を隠す事も出来ず、呟く。

 

「か、隠していてごめんなさい……まさか、こんな事になるなんて……」

「ど、どうしよう、どうすれば良いの……!? 退学に何てなったら、正義実現委員会に復帰できない……!」

「それは――」

 

 ハナコが何かを口にしようとした時、アズサは机の上に背嚢を置いた。その音に皆の視線が集まり、彼女は机の中の筆記用具などを中に詰め込みながら口を開く。

 

「……状況は理解した、兎に角今は準備をして、直ぐにでも出発しよう」

「えっ、今からですか!? でも――」

「――試験時間が、深夜の三時と記載されている、今から出発しないと間に合わない」

「えっ? あ……ほ、本当だ……!」

 

 ヒフミがもう一度掲示を確認すれば、試験時間は翌日の午前三時とされている。

 時計を見れば、もう直ぐ十一時を回ろうとしていた。トリニティもゲヘナも、自治区の規模としては大きいので移動に時間が掛かる。確かに、今から出発しなければ間に合わないかもしれない。

 

「驚くにせよ、怒るにせよ、絶望するにせよ……それは、試験を受けてからでも遅くない、障害物の多さに文句を言っても現状は変わらない、大切なのは最後まで足掻く事――今は動こう」

「う、うぅ……」

「……そうですね、アズサちゃんの云う通り、今は兎に角動くしかありません」

 

 皆がアズサの言葉におずおずと頷き、各自バッグに筆記用具などを詰め始める。まさか、こんな深夜に出発する事になるなんて。ヒフミとコハルの表情には、はっきりと不安と焦燥が見て取れた。

 

「直ぐに出発する、各自装備点検も忘れずに」

「そ、装備って……もしかして、銃火器ですか?」

「うん」

 

 ヒフミの言葉に、アズサは淡々と頷いて見せた。一応、銃器は持ち込んでいるが、果たして試験に必要なのか? そんな意味合いで困惑の表情を浮べれば、ハナコが補足する形で言葉を続ける。

 

「ゲヘナ自治区はただでさえ無法地帯ですし、今は風紀委員会が条約締結前という事もあって多忙です、移動中何があるかも分かりません、自衛の手段は必須かと」

「あ、あうぅ……ど、どうしてこんな事に……」

 

 ヒフミは呟きながら愛銃を手に取る。以前の騒動で使う機会があった為、一応手入れは済ませてあるが、やはり心理的な抵抗感がある。バッグの中にある弾倉を確かめながら出立の準備を整えていると、ふと教室の扉が開くのが分かった。

 

「――ごめん、遅れた」

「あっ、せ、先生!」

 

 扉を開き、顔を覗かせたのは先生。彼女達は先生の姿を見て、その表情を僅かに明るくする。兎にも角にも、分かり易い頼れる存在の出現に、ヒフミは一も二もなく飛びついた。

 

「先生、その、えっと、明日の試験が――!」

「うん、こっちでも確認した、ごめん、私が気付けなかったばっかりに……」

「いえ、これは向こうが意図して行った行為でしょうし……先生は、今まで何処に?」

「掲示板の内容を見て、車を手配しようとしたのだけれど――」

 

 ハナコの言葉に答え、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる先生。

 

「……悉く却下された、それも難癖に近い理由だったり、使用中だとかでね」

「それは、何とも用意周到な――」

 

 ハナコは、先生の言葉に顔を顰める。

 トリニティの車両は軒並み貸出不可。それなら周辺でレンタカーなりタクシーを用意しようとすれば、既に『営業時間終了』であったり、車両が予約済みで貸出出来ないとの事。レンタカーの貸し出しリストが軒並み、『予約済み』であった時は、思わず乾いた笑いが漏れた程であった。

 その事を話せば、ハナコの表情がどんどん険しくなっていく。

 

「――根回しは完璧、という事でしょうか?」

「多分……他学園のビークルを使う訳にもいかないし、こうなると公共交通機関か、徒歩で向かうしかない」

「で、でもこんな時間に公共交通機関なんて、もう……」

「ちゅ、中央線は通っているかもしれませんが、ゲヘナ自治区に向かうものは、流石に――」

「まぁ、そうなるね……最終的には、マラソンかな」

 

 そう云って苦笑を零す先生。まさか、本当に自身の足を使う時が来るとは。軽く掌で足を撫でつけながら両足の調子を確かめる。数時間のマラソンとなると――流石に自信がない。アビドスでシロコと何十キロという距離を走ってきたが、果たして。

 

「兎に角時間が惜しい、今すぐにでも出よう――準備は?」

「私は直ぐにでも」

「だ、大丈夫です」

「え、えっと、た、多分!」

「問題ありません」

「良し……」

 

 生徒達の返事を聞き、先生は卓上に乗せられていたシャーレの外套を羽織る。腕章の位置を確かめ、シッテムの箱を抱えた先生は告げる。

 

「行こう、試験会場に」

 

 ■

 

 ――ゲヘナ・スラム街。

 

「はぁ、ふぅ……! ここからはもう、ゲヘナの自治区ですね……!」

 

 先頭を走るヒフミは足を止め、周囲を見渡す。

 場所はゲヘナ自治区、その郊外であるスラム街。雑多な街並みだ。トリニティとは異なる空気が漂っている。目に悪いネオンの光が其処ら中で点滅しており、路肩にはポイ捨てされた塵や罅割れたアスファルト、落書きなどが散見される。周囲を歩く生徒達も、心なしか柄が悪く――ヒフミは居心地の悪さを覚えていた。

 

「ぜーっ、はぁッ、ぜっ……!」

「先生、大丈夫ですか……?」

 

 最後尾を駆け、膝に手を突いて荒い息を繰り返す先生。ハナコは心配げに先生の背中を摩り、問いかける。先生は軽く手を振りながら、額の汗を拭って答えた。

 

「だい、じょうぶ、これ……くらい……っ!」

「だ、大丈夫じゃないよね、それ……? せ、先生、待っていて、そこの自販機でお水買って来るから――!」

「――コハル、待って」

 

 コハルが疲労困憊といった様子の先生を見かねて財布を握り、近場の自販機に駆け出そうとすれば――それを遮る様に近付いて来る影が二つ。アズサは咄嗟に愛銃を抱え、その安全装置を弾いた。

 

「おんやぁ? こんな時間に、トリニティのお嬢様方が、こんなスラムに何の御用でぇ?」

「そんなに急いで、何処に行くのさ?」

「……わぁ、無法地帯といえばコレ――みたいな古典的な感じですねぇ」

 

 暗がりから現れたのは、フルフェイスのヘルメットを被った生徒と、黒いマスクにバツマークを描いたスケバン。袖に縫い付けられた夜露死苦の文字を見せつけ、彼女達は補習授業部の前に立ちはだかる。

 ハナコは余りにもそれらしい外見をしている二人を前に、思わず感嘆の声を漏らした。

 

「くくくっ、こんな時間に出歩いていたらよ~、こわーいお姉さんに襲われても文句は云えねぇぜ? 深夜にお友達と冒険ごっこかい?」

「え、えぇっと、冒険ではなく、私達は試験を受けに行く途中でして……」

「――はぁ? 試験?」

 

 ヒフミは、どうにか穏便に済ませようと自分達の事情を説明する。しかし、彼女達はその言葉を聞くや否や顔を見合わせ、「何云っているんだコイツ」と云った目で補習授業部を見た。その瞳には心なしか、憐憫の感情すら込められている様な気がする。

 

「お前、頭大丈夫かよ、トリニティの生徒が何でゲヘナに試験を受けに来るんだ? しかも、こんな真夜中に……」

「ま、まぁそうなりますよね……」

 

 至極真っ当な言葉である。しかし残念な事にヒフミの言葉に嘘はないし、何ならその台詞を口にしたいのは補習授業部の方だったりする。

 

「まっ、理由はどうあれ、やる事は変わらねぇ!」

「ひゅーっ、お金持ちのお嬢様を拉致って、身代金がたっぷりって訳だなぁ!」

「ナイスアイディア、天才だっ!」

「恨むんなら、こんな時間にスラムを出歩くテメェを恨みなぁッ!」

「や、やっぱりまた、こういう展開に……」

 

 不良達は抱えていた銃を構え、補習授業部に向ける。残念ながら話の通じる相手ではなかったらしい。ヒフミが項垂れ、悲し気に呟けば、隣に立っていたアズサがヒフミを庇う様に前へと踏み出す。

 

「――時間の無駄だ」

「あ? 何だ、抵抗しようって――」

「ふんッ!」

「おごぁッ!?」

 

 徐に近付き、アズサは銃床(ストック)で下から抉る様に不良の顎をかち上げた。

 顔面を跳ね上げ、流れる様な動作で腕を取り、背中の上に畳み込む。不良の体勢がお辞儀をする様な形となり、アズサはその背中の上に愛銃を置き、もう一人へと照準を合わせた。

 

「て、てめ――へぼぁッ!?」

 

 銃口を向けられるより早く、射撃を敢行。弾丸は三発、全て吸い込むように頭部へと撃ち込まれ、不良は仰け反りながら意識を飛ばした。硬質な音を立てて転がる銃器、それを見守りながらアズサは盾兼土台とした不良の腕を離す。顎に強烈な一撃を受けた不良は静かにそのまま倒れ込み、アズサは鼻を鳴らし呟いた。

 

「強行突破あるのみ……!」

「あ、アズサちゃん……!?」

 

 素早い動きと華麗な一連の流れに止める暇さえなかった。彼女ひとりでも、不良ならば複数人相手でも問題ない。

 しかし――此処はスラムである。

 

「っ、周囲から足音が――」

「銃声に釣られて、多分、仲間が集まって来ているんだ……!」

 

 先生がタブレットを抱え込み、叫ぶ。画面を見れば、周囲のマップに凄まじい勢いで赤点が増えていた。向かっている地点は勿論――此処だ。

 

「――皆、走るよッ! アズサ、先導頼む!」

「うん、任せろ!」

「ハナコ、本当に申し訳ないのだけれど、万が一の時は背負って下さい!」

「あら……ふふっ♡ えぇ、任せて下さい、先生♡」

「ま、待って! 置いて行かないでっ!?」

「や、やっぱりこうなるんですねっ!?」

 

 先生の声に従い、補習授業部は一斉に走り出す。そして一拍後に、路地裏や大通りの影から次々と不良達が現れ、駆け出した補習授業部を指差した。

 

「いたっ、あいつらだッ!」

「待てぇッ!? てめっ、仲間を良くも!」

「あん? ありゃあトリニティの制服じゃねぇか! こりゃあ、良い獲物が見つかったぜ!」

「攫って身代金をたっぷり頂くぞ! ぜってぇ逃がすなッ!」

 

 不良というものは皆同じ思考回路を持っているのだろうか。背後から響く声に、ヒフミは背筋を凍らせる。駆けながら背後を振り返れば、今まで何処に居たのだと云いたくなる様な人数の不良生徒が自分達を追いかけていた。

 更にその奥には、ガレージを突き破り、エンジン音を鳴り響かせる一台の車両の姿が。所々装甲が剥げ、薄汚れてはいるものの――銃座付きの四輪駆動車。コストダウンの為かルーフを取っ払い、フレームだけの姿であったが、前を照らすヘッドライトの光は心理的圧迫感と恐怖を補習授業部に与えた。

 甲高いスリップ音を搔き鳴らし、此方へ急加速する車両。ヒフミは思わず叫ぶ。

 

「な、何でこんなに不良生徒がっ!? って、あれ、もしかしなくても、装甲車ではッ!?」

「むっ、違う、あれは恐らくハンヴィーが原型だ、装甲車というよりジープの類だな、場合によっては軽装甲機動車両にもなるが、あの様子ではとても――」

「いや、そんなのどうでも良いしッ!? 似たようなものでしょ!? というか、何でそんなモノ不良が持っているのよッ!?」

「そう云えばっ、ブラックマーケットでは、あの手の物が安く手に入るんだったっけ……っ!?」

 

 先生が叫び、思わず顔を引き攣らせれば、銃座に搭載されているM240汎用機関銃の銃口が補習授業部を捉える。最後尾を走っていたコハルが悲鳴を上げながら頭を抱え、ハナコが咄嗟に先生を庇おうとして。

 

『――先生、そのまま真っ直ぐ走りなさい!』

「ッ!」

 

 鋭い、空気を裂く弾丸が運転手を撃ち抜いた。

 狙撃だ、それも針の穴を通すような精密な狙撃であった。彼女の用いる7.62mm徹甲弾はフロントガラスの防弾を貫通し、運転手の額を強かに揺らす。

 音が、遅れて先生の耳に届いた。

 

「――うごッ!?」

「はっ!? え、おまッ、ちょ――」

 

 運転手が意識を失い、銃座に付いていた不良生徒が困惑の声を上げる。そして車両は制御を喪い大きく右へと進路を外し、そのまま建物の一つに正面から突っ込んでいった。大きな破砕音、そして悲鳴。補習授業部はそんな音を背に走り続ける。

 

「ひぇッ!? こ、今度は何っ!?」

「――兎に角前を向いて走るんだ! 振り返るなっ!」

「わ、分かりました……っ!」

「せ、先生がそう云うなら……っ!」

 

 突如鳴り響いた銃声、そして唐突な車両事故。その事に困惑しながらも、補習授業部は足を止めない。

 先生はシッテムの箱を見下ろし、その画面に映る緑色の点を確認しながら――小さく、笑みを零した。

 

 ■

 

『ふっふーん、ひー、ふー、みー、よー……アルちゃーん! こっち爆弾仕掛け終わったよ~!』

『あ、アル様、此方も設置、完了しました……!』

「ふふっ、完璧な布陣ね……! あと、私の事は社長と呼びなさい!」

 

 告げ、彼女――アルは耳元のインカムに向かって叫ぶ。構えた愛銃、ワインレッド・アドマイアーの銃口からは硝煙が立ち上っており、そのスコープ越しに駆ける先生たちの姿が見えた。

 場所は先生たちの居る大通りから少し離れた場所にある廃ビル屋上、彼女達は数時間前より先生から連絡を受け、この場に待機していた。

 依頼は単純、此処を通る先生たちの援護と敵の足止め。アビドス自治区に事務所を構えた彼女達の為に、ミレニアムのエリアルビーグルを手配してまで掛かった声に、アルは一も二もなく快諾し、今に至る。

 

「ふーっ……今のは追いかけられる先生を援護する、完璧な一発だったわね」

「……アレ、下手すると運転手が気絶したままアクセルベタ踏みして、先生撥ね飛ばす可能性もあったけれど」

「………」

 

 先程の一撃を脳内で反芻し、愉悦に浸っていたアルは、隣でスポッターを担っていたカヨコの一言に思わず硬直する。カヨコは双眼鏡で先生と背後の不良達の姿を確認しながら、今しがた事故を起こし走行不能となった車両の様子を見ていた。もし、まだ動き出すようならばもう一発か二発、タイヤ辺りに撃ち込んで走行不能にする必要があるだろう。そんな事を考えながら、双眼鏡から目を離す。

 

「――そ、想定の範囲内よ! 先生のサポートを受けた状態で、そんなミスはあり得ないわッ! えぇ!」

「………はぁ」

 

 アルのいつも通りの反応に、カヨコは溜息を漏らした。残念ながら我らの愛すべき社長の想定内が、本当に想定内だった事は――本当に、数える程しかないのだ。その溜息をどういう風に捉えたのか、アルは若干涙目になりながら叫ぶ。

 

「……だ、だって一回くらいやってみたかったんだもん! ほら、良く映画とかでもある、窮地に陥った仲間を華麗な狙撃で助けるみたいなっ――!」

「はいはい、分かったから……それで、どれ位此処で粘れば良いの?」

 

 隣で喚くアルを宥め、カヨコはホルスターに仕舞っていた愛銃、デモンズロアを取り出す。弾倉に弾薬が詰められている事を確かめ、安全装置を弾いた彼女は視界に映る敵位置、装備を確認しながら問いかけた。

 彼女達――便利屋68はこの大通りを確保するような形で展開しており、カヨコとアルの二人は大通りの中央を封鎖する形で立ち回る予定だった。しかし、敵方があんな車両を持ちだして来たので、少々計画が前倒しとなる。元々、先生のサポートがあればスポッターなんて役割は必要ない。そうでなくとも、カヨコはアルの狙撃の腕を欠片も疑っていなかった。

 となれば、自身の役割は前線で敵の足を止め、アルが火力を発揮できるよう壁になる事。本来はハルカの役割であったが、今回はハルカとムツキがペアなので、今はカヨコの役割だ。

 

「んんッ……取り敢えず先生がスラム街を抜け出すまで、かしら」

「……進行ルートにはムツキとハルカを配置したから、背後から追って来る大群には私と社長の二人で対処、二十分もあれば、まぁ、先生も抜け出せるかな」

 

 先生の走る姿を横目に、カヨコは呟きを漏らす。そうは云っても先生の体力はキヴォトスの生徒と比較して圧倒的に低い為、もう十分か二十分、多めに見た方が良いかもしれない。どちらにせよ、それなりの時間を耐える必要がある。更にここは敵のホーム、どれだけの人数が来るかも不明。正直、中々にハードな依頼だった。

 目を細め、彼女は呟く。

 

「……先生のサポートがあっても、これ全員相手にするのは骨だね」

「ふふっ、だとしても、先生に背中を任されたんだもの――」

 

 カヨコの言葉に、アルは不敵な笑みを漏らし、屋上の縁に足を乗せた。ワインレッド・アドマイアーを脇に挟み、有象無象の不良達を見下ろしながら彼女は叫ぶ。

 

「これに応えなきゃ、便利屋68の名が(すた)るわ!」

「……まぁ、前払いで料金も貰っているし、料金分は働かないと、ね」

 

 ――最初から、やらないなんて選択肢はない。

 いつか戦った風紀委員会の時と比較すれば、正に月と鼈。

 元より便利屋はたった四人で何十、何百という数の敵と戦ってきたのだ。

 それに指揮がないとは云え、先生のサポートが加われば鬼に金棒。

 カヨコは骨が折れると、そう口にしたが――出来ないとは一言も云っていなかった。

 自分達(この四人)ならば為せると、心の底から信じている。

 

「始めるわよ、ムツキ、ハルカ、カヨコ!」

『おっけー!』

『は、はいっ!』

「了解――」

 

 アルが銃口を向け、不敵に笑う。

 耳元から聞こえて来る仲間達の声に、彼女は開戦の号砲を撃ち鳴らした。

 

「我が道の如く魔境を往く――便利屋68、出撃よッ!」

「……その言葉、気に入ったんだ」

『くふふっ!』

 


 

 感想欄の先生、ナギサの事好き過ぎでは……? どんだけ先生をナギサの前でボコボコにして泣かせたいんですの? 何も知らない無垢なナギサに先生の血を一杯浴びせて怯え、戦慄き、呆然とするナギサに微笑み掛ける先生が見たいとか、かなり人としてどうかと思いますわよ? 全く、人間性を疑いますわね……。

 まぁ、わたくしはケツの穴がデカイので許しましょう。よろしくってよ!

 

 それに皆さん楽しみにしているでしょうが、お友達ごっこも控えている訳ですから。ナギサ様が脳を破壊されるのは約束された勝利のムーブな訳ですわ。ついでに心も壊してねぇな~、私もな~って思うんですけれど、先生が積極的に生徒のメンタルブレイクに加担するか~? という疑問もあって、正直どこまでやるか迷っているんですわよねぇ~。でも例えば先生がナギサの指示で死にかけたり、相応の負傷を抱えたら、流石に補習授業部の面々もヘイトが溜まって「これくらいなら」みたいな感じで承諾しそうだし、迷いますわぁ~!

 

 あぁ~、敵対したナギサの為に満身創痍になりながらも銃口の前に立ち塞がる先生の格好良い姿が見てぇですわ~! 自身が排除しようとした先生に抱きしめられながら、全ての憎悪と罪悪を一身に背負う先生の姿に何も云えず、動揺と焦燥と悲鳴を呑み込んだナギサ様の絶望顔が見てぇですわ~! でもそれは本編に取っておくんですの……丁寧に丁寧に積み上げたものを、雑に崩す何て事はしません事よ! 

 

 先生には原作ルートの何倍も、何十倍も苦しんで欲しいですし、それを見た生徒達の無力感や悲壮、慟哭、懇願なんかを見てもっと苦悩して欲しいんですの。先生は決して命に頓着していない訳ではないんですわ、今周の先生は前周よりも自身の命を大切に感じていますし、生きることが出来るのならば生きたい、そう思っておりますの。ただまぁ、命を大切にする理由の大半が「生徒を悲しませない為」な訳ですが。

 

 けれど勿論、必要なら命を差し出す事に躊躇いはありません。極論、先生の前に立ち塞がる困難というのは前提として『命を懸けなければ突破困難な事象』ばかりな訳ですから。その掛け金に「生徒」か「自分」か……という二択を迫られた時、先生は絶対に後者を選ぶというだけの事なんですの。素敵ですわね♡ その生き方、誉高い。けれどそれを見た生徒がどう思うか考えた事ありますの? その末路がクロコですわよ。

 

 先生が膝を突いた時に、「ここで諦めたら、あなたに殉じた生徒みんな、無駄死にですわねぇ~?」って云う仕事したいなぁ……。あ、お給料は先生のお顔を拝見するだけで結構ですの。絶対歯を食い縛りながら立ち上がるって信じていますので。

 止まるんじゃねぇですわ先生! 手足が捥がれようと首だけになろうと、その意識が途切れる最期の瞬間まで進み続けるんですの! その先に、先生の信じる遍く生徒が笑い合える世界が待っていますわ! 希望の華ですわ~! はい歩いて! 歩いて先生! いや走れ! もっと走れ先生! んほ~、血反吐撒き散らしながら進み続ける先生は素敵でしてよ~!? 大丈夫! また転んだときは耳元で囁いてあげますからねっ!

 



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いつも優雅に、気高く在れ

誤字脱字がこの世から消えれば、アリウスの皆は幸せになれたのに……。


 

「はぁっ、はっ! ま、撒いたんでしょうか……?」

「お、追って来る様子はないけれど……」

 

 息も絶え絶えに、ヒフミとコハルが背後を見る。スラムの雑多な街並みは遥か遠くに、その残光がちらちらと掠めるのみ。街の交差点へと差し掛かった補習授業部は足を止め、先頭を駆けていたアズサも愛銃を抱え直し、油断なく周囲を観察していた。

 

「あ、アズサちゃん、此処は――」

「うん、もうゲヘナ自治区の内部、スラムは抜けられた」

「そ、そうですか……!」

 

 その言葉に胸を撫で下ろすヒフミ。兎にも角にも、あの治安最悪の場所を抜けられたようだと、コハルも安堵の息を零す。

 

「何だか、爆発音とか、銃声が背後から沢山聞こえましたけれど……一体?」

「わ、分かんないけれど、流れ弾が偶然別の不良に当たって、仲間割れとか……?」

「可能性としては、あり得るけれど――」

「……どの勢力も、決して一枚岩ではありませんからね」

 

 そう云って、少し遅れて走っていたハナコが合流する。彼女はいつも通りの笑みを浮かべ、その表情に疲労の色はない。ヒフミは銃を抱えたままハナコに駆け寄り、その背中でぐったりする先生を覗き込んだ。

 

「せ、先生も御無事ですか?」

「すぅー……すぅうぅううううッ――」

 

 しかし、先生は他の事に夢中であった。ハナコの髪をベールの様に被り、その首元に顔を引っ付けている。その異様な姿にヒフミは戸惑い、思わずその肩を揺すった。

 

「せ、先生……?」

「ん――あぁ、ごめん、ハナコを吸うのに夢中になっていたよ」

「す、吸う……?」

「あらあら♡」

 

 先生はヒフミの声に顔を上げると、酷く真剣な表情でそう告げた。吸う、という動作の意味を計りかねたヒフミは困惑の声を上げ、先生に吸われていたハナコは上機嫌に頬を染めると恍惚とした表情で告げる。

 

「先生、髪なんかで良いのですか? 今ならもっと香りの強い場所とか……」

「――えっ、良いんですか?」

「先生!?」

「な、何やってんのこんな時にッ!? エッチなのは駄目! この淫行教師ッ!」

「――酷い風評被害だ、断固として遺憾の意を表明する」

 

 先生はとても悲しそうに呟いた。ただ生徒におんぶされたまま髪の毛に顔を埋めて深呼吸していただけなのに……一体どうして、何でそんな酷い事を云うんだ。

 先生は深く傷ついた。

 

「……皆、作戦行動中は静かに、それと道路のど真ん中で止まるのは感心しない、壁際に寄って、狙撃を警戒しよう」

「え、あ、は、はい……」

「――あ、ハナコ、もう降ろしてくれて良いよ、此処までありがとう」

「あら、もう良いんですか? 何ならずっと背負っていても構いませんが……♡」

「先生が先生じゃなくなっちゃうから、遠慮しておくね」

 

 酷く真面目なアズサの言葉に、補習授業部はおずおずと建物の壁に身を寄せる。先生もハナコに一言礼を告げ背中を降りると、皆に続く形でビルの影に身を寄せた。間、「エ駄死!」と叫んでいるコハルを宥め、先生はシッテムの箱を確認する。

 

 アズサは、背後から迫る車両を誰かが狙撃した事に気付いていた。一応、第一射で不良を狙ったという事は、味方の可能性もある訳だが――警戒するに越した事はない。周囲に目を光らせ、愛銃のグリップを強く握り締める。

 

「……どうも、街の様子が変だ」

「えっ、そう……ですか?」

 

 アズサがそう、周囲を観察したまま告げる。ヒフミも疑問の声を上げながら辺りを見回せば、殆ど光が落ち、街灯にのみ周囲を照らされた街並みが視界に映った。時折、自販機の光が明滅し、暗闇に光が差し込む。補習授業部の声だけが周囲に響いていた。

 

「……確かに、幾ら夜中とは云え、人の気配が全くありませんね?」

「い、云われてみれば……」

「むっ――」

 

 ふと、周囲に乾いた音が鳴り響く。銃声だ。アズサが顔を険しくさせ、その場で膝を突き射撃体勢を取る。

 

「今のは、銃声?」

「ど、どこかで戦闘が? 方向的には、スラムじゃないよね?」

「違う」

 

 耳を澄ませていたアズサは否定を口にする。先程の銃声は、スラムの方角から鳴り響いて来たものではなかった。それに、これだけ距離が離れていれば、スラムでの戦闘音は既に聞こえる筈もなし。大きな爆発でもあれば別だろうが、それこそ迫撃砲だとか、爆撃レベルでなければ無理だ。

 

「音の方向的には――恐らく、こっちですね」

 

 そう云ってハナコが指差した方向は、ゲヘナ外郭と中央区を結ぶ大橋。交差点を曲がった直ぐ先の場所であり、等間隔で並ぶ街灯が遥か向こうまでを照らしていた。

 

「……確か、目的地の第十五エリア、その最短ルートは此処を真っ直ぐの筈」

「と、いう事は――」

「うん、銃声のする方に行くことになる」

「えぇ……」

 

 アズサの言葉に、コハルは露骨に嫌そうな声を漏らした。ヒフミも不安げな表情を隠せず、暗闇の向こう側を見つめる。しかし、残念ながら今の補習授業部には遠回りをするだけの時間的余裕がない。直線距離で向かえる道があるのならば、使わない理由がなかった。アズサは愛銃のマガジンを一度抜き取り、新しい弾倉に換装しながら告げた。

 

「目的地には早めに到着した方が良い、遠回りするだけの時間もないし――先生?」

「うん、そうだね……アズサの云う通り、距離と移動ルートを考えると余り余裕はないかも」

「そ、そうですか……うぅ、気は進みませんが――!」

 

 先生とアズサの言もあり、補習授業部は大橋へと足を向ける。試験に遅刻したら目も当てられない、それはその通りだ。せめて、何事もなく通過出来ますように。そんな事を心の中で考え、ヒフミは大橋の方へと駆け出した。

 

 ■

 

「ふぅ、結構長いですね、この橋……」

「外郭地区と中央区を繋ぐ橋ですからね、それも仕方ありません」

「って……あれ、何か向こうに人が居ない?」

「えっと……検問、でしょうか?」

「あの恰好――ゲヘナ風紀委員会の制服だ」

 

 大橋の歩道を駆ける事数分、橋の中程まで進んだ補習授業部は、進行方向に検問が在る事に気付いた。

 ゲヘナ風紀委員会の文字が躍る車両に、ポールと通行禁止のテープ。その両脇と奥には複数人の風紀委員会の姿が見える。彼女達は検問に近付く補習授業部に気付くと、肩に下げた銃に手を掛け乍ら声を張り上げた。

 

「止まれ! 此処から先は現在立ち入り禁止だ!」

「え、えぇ……た、立ち入り禁止ですか?」

 

 近付き、互いの顔が見える距離まで進んだヒフミは困惑の声を上げる。街灯に照らされ、帽子を目深く被った風紀委員はヒフミ達を見て、少なくとも話の通じない輩ではない様だと銃口を下げた。ゲヘナ自治区では出会い頭に銃弾を叩き込んでくる不良も少なくない為、その対応は一般的なのだ。

 

「そうだ、温泉開発部の連中が暴れていてな、現在風紀委員会が対応中だ」

「お、温泉開発部……」

「うむ……というか、今日は街全体に外出禁止令が出されているだろう? 緊急の要件なら区間別対応窓口に――うん?」

 

 ゲヘナ風紀委員会の一人は、補習授業部の面々を眺めながら淡々と事情を話し――闇夜の中でも分かる、その白い制服に思わず動きを止めた。

 

「待て、お前、その制服……まさか、トリニティか?」

「あ、あぅ」

 

 ヒフミの制服に気付いた風紀委員は、まさかと云わんばかりに目を見開き、その態度を硬化させる。先程まで下げられていた銃口が再び向けられ、じりじりと後退しながら彼女は叫んだ。

 

「どうしてこんな場所にトリニティの生徒が――此処はゲヘナ自治区だぞ、ゲヘナに何の用だ? 目的は!?」

「い、いえ、その、私達は別に何かを企んでいるとか、そんな事はなくて、試験を受けに来ただけでして……」

「試験? 何でトリニティの生徒がゲヘナ自治区で試験を受ける必要があるんだ!? 意味が分からんぞ! 吐くならもっと真面な嘘を吐け!」

「な、なんて正論……」

 

 トリニティからゲヘナへ転校する場合ならば編入試験などもあるだろうが、そもそも形式的なモノである上に両校から転校などまずあり得ない。そんな時期でもなければ、こんな真夜中に行う試験とか何だソレという話である。

 風紀委員の正論にヒフミは言葉を失くし、思わず口を噤む。

 そして最悪な事に、後方で縮こまっていたコハルの姿が彼女の目に留まった。

 

「――ッ! その制服、お前、まさか正義実現委員会かッ!?」

「えっ……!?」

 

 急に指差され、大声で怒鳴られたコハルは肩を跳ねさせる。

 トリニティの校章が描かれた上で黒色の制服は、正義実現委員会の証。一般生徒が着用しないその色は、風紀委員を大層驚かせ、焦燥させた。

 

「条約締結前にゲヘナ自治区に正義実現委員を派遣だと!? 正気かトリニティ!?」

「えぇっ!? い、いや、そのッ、そ、そうなんだけれど、今は違うっていうか、う、うぅ……!」

「むぅ……」

 

 コハルは現在補習授業部預かりとなっており、正確に云えば正義実現委員会ではない。しかし、古巣は正義実現委員会な訳で、更に言えばこの補習授業部も一時的な所属に過ぎない為、卒業すれば正義実現委員会に復帰する。

 その事を考えると、正義実現委員会か? と問われればイエスでもあり、しかし現在に限って云えばノーでもあるという、何とも複雑怪奇な所属をしていた。

 アズサはそれを一から説明しても理解される事はないという結論に達し、下ろしていた愛銃を構えた。

 

「――仕方ない、倒して進もう」

「えぇッ!? ご、誤解が深まりませんか!?」

「ちょ、ストップ! 待って、これには事情が――」

 

 流石にこれ以上拗れるのは拙い、そう思った先生が飛び出し叫んだ所で――目の前で盛大な爆発が起きた。

 それは、本当に唐突な攻撃であった。

 何か筒が抜ける様な軽い音、次いで放物線を描いだ投擲物が先生たちの数十メートル先、丁度風紀委員会のど真ん中に着弾し、炸裂。車両やら何やらを巻き込み、数メートル先に立っていた風紀委員会達が軒並み宙へ打ち上げられた。

 

「のわぁぁあッ!?」

「ぐああぁあッ!?」

 

 悲鳴を上げ、爆炎と砂塵を撒き散らし、風紀委員会の面々はアスファルトへと叩きつけられる。一拍遅れて爆発した車両がひっくり返り、ヒフミは唐突に起きた惨状に顔を蒼褪めさせ、そして隣で目を瞬かせるアズサに掴み掛った。

 

「あ、アズサちゃんんんっ!?」

「……い、いや、ヒフミ、待って、私は手を出していない」

「……そうですね、今の攻撃、私達の後方から飛んできました、一体誰が――」

 

 ハナコが先生を爆発の余波から庇いながらそう呟けば、甲高いブレーキ音が背後から響いた。見れば凄まじいドリフトを見せる車両が一台、補習授業部の直ぐ傍で停車する。『給食』と描かれたその車両に乗るのは、見慣れた改造制服を身に纏う美食の求道者。

 

「あら☆ やっぱり先生でしたかっ!」

「大当たりでしたわね、ご機嫌よう先生――こんな時間に、一体なにをなさっているので?」

「――ハルナ、アカリ……!」

 

 ハンドルを握って星を飛ばすアカリと、シートに足を駆けながら愛銃を担ぐハルナ。彼女達、美食研究会の登場に補習授業部の面々は浮足立つ。

 

「あ、あれ!? 確かこの間戦った、ゲヘナの――!?」

「あら、アクアリウムを襲撃した……」

「え、えっと……? も、もう何が何やら……」

 

 突然の出現、そして風紀委員会の爆散。恐らく状況からして彼女達がグレネードか何かを撃ち込んだのだろうが――素性と経緯を考えると、完全な味方とも言い難い。アズサの指先が、そっと引き金に掛かった。

 

「――アズサ、大丈夫、今は敵じゃないよ」

「む……そうか、先生がそう云うのなら――」

 

 以前戦った相手という事もあり警戒を見せていたが、先生の言葉でアズサは引き金から指を離す。一先ず、皆を代表して先生が前へと踏み出せば、補習授業部の面々を眺めていたハルナが首を傾げた。

 

「他の方々は、確かトリニティでお見かけした気がしますが……」

「――ごめん、ハルナ、アカリ、突然だけど助けて欲しい」

「あら……?」

 

 ■

 

「……成程、状況は概ね理解しました、兎に角この場所に行かねばならないのですね?」

「うん、頼めるかな?」

 

 先生から凡その事情を聞いたハルナは、どこか考え込むように自身の顎先をひと撫ですると、一も二もなく頷き告げる。

 

「えぇ、喜んで――と云いたい所ですが、タイミングが悪かったですわね……この辺りは今、それなりに大きな騒動になっていまして」

「そ、騒動……?」

 

 コハルが戦々恐々とした様子で問いかければ、運転席のアカリが指を立て、朗らかな笑みと共に口を開く。

 

「はい、温泉開発部が市街地のど真ん中をドカン☆ と爆発させたとかで、兎に角滅茶苦茶な状態なんですよ~」

「そのせいで風紀委員会も慌ただしく動いている状態でして……まぁ、その機に乗じて風紀委員会の牢屋から抜け出せたのですけれど、ふふっ♪」

「そ、それは、何と云うか……」

 

 もしかしなくても、この人達、ヤバいのでは? そんな思考がヒフミの脳裏を過る。いや、そもそもゲヘナの生徒であるのにトリニティ自治区にカチコミを掛けて来る時点でヤバいのだが、それはそれとして平気で脱走するし、先程も風紀委員会にグレネードランチャーを撃ち込んでいたし――何故だろう、彼女達と同行するという未来に絶大な不安が感じられた。

 しかし、その温泉開発部? というのも其処らで暴れ倒して、市街地のど真ん中を爆発させる位だから、寧ろこれがゲヘナではデフォルトの可能性が……。ヒフミの中で、ゲヘナという名前の自治区が人外魔境の地と化していた。

 

「それに非常事態という事もあって、またしてもその場に偶然居合わせた給食部のフウカさんが、部の車を快く貸し出してくれまして☆」

「んんッ!? んーっ! んんーッ!?」

「新調したばかりの車を貸し出してくれるなんて……これぞ美しい友情という奴ですね☆」

「……その友情のお相手、縛られたままトランクに積まれていませんか?」

 

 アカリがウィンクと共に星を飛ばせば、その美しい友情を示す相手が必死に首を横に振るのが見えた。絶対に貸し出していない、強奪したのだ。そう分かる程の必死の否定であった。ハナコは思わず苦笑を零す。

 

「問題ありませんわ、フウカさんはこういった事に慣れていらっしゃいますので」

「もはや専門家といっても過言ではありませんね!」

「え、えぇ……」

 

 それはつまり、毎回誘拐されているという事なのだろうか。補習授業部のフウカを見る目が、酷く不憫な、可哀そうな生き物を見るものに変わった。フウカは全くの第三者にそんな目で見つめられ、思わず涙を浮かべる。

 ――私、何も悪い事していないのに……どうして。

 全く以てその通りであった。

 

『――ハルナ、アカリ! 今どこ居るの!? こっちも包囲網を破ったけれど、合流出来そう!?』

『いだ、あだだだッ!? な、何か私ばっかり撃たれていない!? まだ追いかけてきているんだけれどーッ!?』

 

 ふと、ハルナの握った端末から声が響く。ジュンコとイズミだ。彼女達二人は別行動だったらしく、端末からは彼女達の声と銃声が鳴り響いていた。ハルナは手元の端末に視線を落とすと、凛とした声色のまま告げる。

 

「ジュンコさん、イズミさん、脱出作戦は中止です」

『えっ、何で!?』

 

 唐突なそれに、ジュンコは驚愕の声を上げる。

 ハルナは先生を横目に微笑むと、どこまでも超然とした様子で端末に告げた。

 

「ふふっ、先生に頼まれてしまっては断れませんもの――先生とトリニティの皆さんは、私達が責任を持ってご案内いたしますわ」

「ですね☆ 何はともあれ、どうぞ乗って下さい!」

「……ごめん、ありがとう」

 

 先生は小さく頭を下げ、車両へと乗り込む。ついでに簀巻きにされたままのフウカに手を伸ばし、彼女を自身の膝元へと引っ張り上げた。簀巻きにされ、猿轡を嚙まされた彼女は潤んだ視線で先生を見上げる。

 

「っしょ、っと! フウカも、巻き込んでしまって、ごめんね」

「ん……んんっー……ん!」

「……ハルナ、せめて猿轡は外しちゃ駄目かな?」

「んー、そうですわね、走り出した後なら構いません」

 

 今は駄目なのか。

 先生は困惑した。

 

「え、えっと、それではよろしくお願いします……?」

「本当だ、給食って書いてある……じゃあ、失礼する」

「う、うぅ、大丈夫なの、これ……?」

「ふふっ、何事も経験ですね♡」

 

 続々と乗り込んでくる補習授業部。給食部の車両はそれなりに大型で、後部座席には本来向き合う形で長シートが二つ並んでいたものを、給食部仕様として改造し簡易キッチンとも云える飯場設備を搭載していた。勿体ないが、それらの一部を降ろせば補習授業部全員でも乗車する事は可能だろう。

 全員が乗車した事を確認し、アカリは笑みを零す。先生はそれを確認し、フウカを取り落とさないように強く抱きしめ、衝撃に備えた。

 

「では――確りと掴まっていて下さいねっ☆」

 

 瞬間、甲高い音を響かせ急発進する車両。唐突なそれにハナコは驚きの声を上げ、ヒフミとコハルは悲鳴を漏らし床を転がった。アズサは車体の外装を掴み、直立不動の構え。

 凄まじいエンジン音を靡かせ車両が大橋を爆走する。

 

 第二次特別学力試験開始の時刻は、刻一刻と迫っていた。

 


 

「リーダー……?」

 

 ■

 

「ふぅ……」

 

 溜息が漏れた。けれどそれは、悪い感情から出たものではなかった。

 夕刻、放課後から少し時間が過ぎた校舎。正義実現委員会の教室を後にした彼女――サオリは大きく肩を回す。最近、バイトばかりしていた少し体が鈍ったか? なんて思いつつ空を見上げると、夕暮れが朱く世界を照らしており、その差し込む光に目を細めた。

 サオリは、余り夕暮れが好きではなかった。幼い頃、赤一面に染まる世界と空が、何となく不気味に思えて、恐ろしかったのだ。

 けれど今は、何故そう思ったのかさえ定かではない。今はこの夕刻を、存外彼女は好いていた。

 

「お疲れ、サッちゃん」

「――アツコ」

 

 ふと、声が掛かる。振り向けば、薄紫色の髪を靡かせた幼馴染が正義実現委員会の出入り口に立っていた。壁に背を預け、所在なさげに佇む彼女はサオリに微笑み掛ける。

 

「また正義実現委員会に行っていたの?」

「……あぁ、まぁ、身体を動かすのは嫌いじゃないからな」

「困っている人、放っておけないもんね、サッちゃん」

「別に、そう云う訳じゃ――」

 

 アツコのどこか揶揄う様な言葉に、サオリは頬を掻く。強く否定しなかったのは、それが図星だったからだ。自分でも難儀な性であると理解しているが、どうにも困ったり、落ち込んでいる生徒を見ると――放っておけない。

 今日もそれが原因で騒動に巻き込まれ、正義実現委員会と協力する羽目になったのだ。もういっそ、正義実現委員会に入ったらどうだと三年のハスミ先輩には云われた。しかし、今の所そのつもりはない。

 サオリは別段、自分だけの正義を持っている訳ではないから。

 ただ――理不尽が許せないだけだ。

 

「サッちゃん、正義実現委員会に入ったりしないの?」

「あぁ、部活に入ると拘束時間があるからな、バイトの時間が減る」

「もう、偶には好きな事をしたら?」

今しているだろう?(こうしてアツコと話しているだろう)

 

 そう云うと、アツコは無言でサオリの腕を叩いた。くつくつと笑いながらアツコのそれを受け流していると、廊下の向こう側から何か、人影が走って来るのが見える。何事かと視線を向ければ、白い髪を靡かせた見覚えのある人物がサオリに手を振りながら叫んでいた。

 

「あっ! いたっ! サオリ! アツコ!」

「アズサ? ……おい、廊下を走るな、危ないだろう」

 

 彼女、アズサは片手に何やら雑誌を握り締め、サオリの元へと駆け寄る。そして目の前でブレーキを掛けるや否や、顔の前に突きつける形でその雑誌を開き、指差した。

 

「これ! 見てこれ! 限定ペロログッズ! 数量限定のレアものだ、初めて見た!」

「……例の、モモフレンズ? とかいう奴か」

 

 何やら興奮した様子でそう叫ぶアズサに、サオリは目を瞬かせる。雑誌の中には、「伝説のペロロジラ、その秘密に迫る!」という見出しと共に、何か恐竜か鳥かカバか、良く分からない生物が大きくプリントされていた。その絶秒にアホっぽい表情に、サオリは苦笑を零す。

 

「私には良く分からないが……ん? というか、この雑誌――」

「か、返してくださいよ~っ!?」

「……やはり、ヒヨリのか」

 

 サオリが何かに気付いた様に目を細めるのと、廊下の向こう側から誰かが駆けて来るのは同時だった。薄緑の髪をヘアピンで止めたヒヨリ、黒髪を肩口で切り揃えたミサキが、小走りでアズサを追って来ていた。

 普段運動をしない為かヒヨリは肩で息をしており、ミサキの方は僅かに頬を紅潮させる程度。サオリはひーひー云いながら体を揺らすヒヨリの背を摩りながら、ミサキに目を向ける。

 

「ん、ミサキも来たんだな」

「うん、アズサが突然ヒヨリの雑誌を取って走り出したから、何事かと思って」

「救護騎士団の方は大丈夫なのか?」

「今日はお休み、最近は平和だよ……ミネ団長周り以外は」

「あの人は、相変わらずか――」

 

 ミサキの飄々とした言葉に、サオリは思わず顔を引きつらせる。悪い人ではないと頭では理解しているのだが、どうにも短絡的というか、何と云うか――。

 ヒヨリも呼吸が落ち着き、大きく深呼吸をした後、いつも通りのへらりとした笑顔を浮かべつつ呟く。

 

「わ、私も今日は図書委員会がお休みで、どうせなら皆でスイーツでも食べに行こうと思って、中庭で待っていたんです……えへへ」

「スイーツか、悪くないな――それとアズサ、雑誌はヒヨリに返してやれ」

「あ、うん、ごめん、ヒヨリ、モモフレンズの特集だったから、つい……」

「せ、せめて一言断ってから持って行ってくださいね……?」

 

 そう云って差し出された雑誌を、丁寧にバッグへと収納するヒヨリ。雑誌収集の趣味が高じて図書委員会へと入った彼女だが、出動する機会はそれほど多くないと聞く。今日はどうやら全員の休みが被った日らしい。こういう日は、皆でスイーツを食べに行ったり、ウィンドウショッピングをするのが習慣だった。

 

「アズサはこのペロロちゃん? が本当に好きなんだね」

「うん、可愛いから好き、もふもふだし!」

「……そう云えば、私のクラスにその、ペロロ? のバッグを持っている生徒が居た気が――」

「何、それは本当かヒヨリ!? ぜひ紹介して欲しい!」

「あ、いや、そ、そのぅ、私そんな話した事もないクラスメイトでして……っ!?」

「落ち着けアズサ、それより廊下で立ち話も何だ、カフェに移動しよう」

 

 アズサは常日頃から肌身離さず持っているペロログッズ――その縫い包みを抱えつつ、興奮した様にフンスと鼻を鳴らしている。サオリがその熱意に笑みを零しつつ移動を促せば、いつもの五人組は街へ繰り出す為に歩き出した。

 

 ――窓から差し込む夕暮れ(朱色)が、五人を明るく照らす。

 

「今日は何食べましょうかね~……えへへ……」

「ヒヨリ、この前もスイーツ食べ放題で動けなくなる位食べてなかった?」

「だ、だって食べ放題なんですよ!? 一杯食べなきゃ損じゃないですかぁ!」

「だからって動けなくなる位食べないでよ、救護騎士団に運ぶの私なんだし」

「そ、その節は大変お世話になりました、ミサキさん……へへへ」

 

 前を歩く三人は、他愛もない話をしながら笑顔を浮かべている。その背中を見つめながらサオリは、ふと、自身の胸に何か、暖かい感情が沸き上がるのを自覚した。

 

「……サッちゃん、どうしたの?」

「うん?」

「――何だか、とっても嬉しそう」

 

 隣を歩いていたアツコがそう云って、サオリの口元を指差す。サオリは少しばかり面食らった様に自身の頬に手を当て、それから三人とアツコに目を向け。どこか恥ずかしそうに笑った。

 

「あぁ……皆でこうして、一緒に居られるのが、嬉しくてな」

 

 声は余り大きくなかった筈だ。しかし、前を歩く三人にも聞こえた様で、彼女達はサオリの方へと振り向きながら目を瞬かせる。その表情には、疑問の色が濃く浮かんでいた。

 

「嬉しいって……いつも放課後に会っているじゃないですか?」

「うん、先週もカフェに皆で行ったし」

「……サオリ、もしかして体調悪い? 私、診ようか」

「いや、別に体調は悪くないぞミサキ、だから診る必要はない」

 

 その反応に、サオリは肩を竦め、お道化る様に足を速める。四人を抜き、先頭に立った彼女は振り向き、頬を赤らめながら、何でもない事の様に告げた。

 

「まぁ、何だ、ただ何となくそう思っただけだ、本当に――ほら、早く行こう! 席が無くなるぞ!」

「あっ、ま、待って下さいよぅ!」

「サッちゃん、足速い」

「サオリ、さっき私に廊下を走るなって云ったのに!」

「これは早歩きだ、アズサ!」

「屁理屈……」

 

 そんな事を云い合いながら、五人は笑顔で廊下を駆ける。笑い声が、夕日に照らされる廊下に響いた。今日は皆でスイーツを食べて、あれが美味い、どれがお得だの、明日は何がある、あれが食べたい、何処に行きたい、何に成りたいと、必ず来る未来の事を語り合うのだ。

 もう直ぐ夏だ。

 夏と云えば、夏休み。

 そうだな――今度は、みんなで水着を買いに行こう。そして海に行くのだ。何なら旅行費用は自分が立て替えても構わない。その為に金を溜めていると云っても過言ではないから。

 皆で、見た事もないものを見に行こう。皆で、美味いものを食べよう。皆で、楽しい事をしよう。

 何、心配はいらない。

 ――私達ならば、どんな事だって乗り越えられる筈だ。

 

「あぁ、本当に――楽しみだな」

 

 呟き、サオリは夕陽に目を向ける。

 明日も、明後日も、明々後日も。

 こうやって五人で、何て事の無い。

 学校に行って、一緒に学んで、一緒に笑って、一緒に遊んで。そんな普通の、幸福な毎日を――。

 

 これからも、ずっと。(いつか、大人になる日まで)

 

 ■

 

「――リーダーッ!」

「ッ!?」

 

 目が、覚めた。

 愛銃を抱えたまま壁に背を預け、深く眠り込んでいた彼女――サオリは、目前で叫んだミサキの声で跳ね起きた。冷たいコンクリートの床、その上に転がる幾つかの保存食のパッケージと飲料水。そして弾込めの終わっていない弾倉。それらを目で追い、薄暗い部屋全体を確認する。廃墟の一室、その片隅で座り込んでいた自身を自覚したサオリは目を瞬かせ、目前のミサキを見つめる。

 

「……ミサキ?」

「……かなり魘されていたけれど、大丈夫?」

 

 どこか心配げに、そう問いかける彼女。

 サオリは自身の頬、口元を指先で擦り、先程までの光景が夢である事を知った。

 知って――思わず乾いた笑いが漏れた。

 先程まであった、暖かな朱色はもうどこにもない。清潔感に溢れ、何て事のない筈の廊下は冷たいコンクリートへと変貌し、外は既に闇夜に覆われている。

 肌を撫でる冷たい空気に、コートを羽織り直しながらサオリは云った。

 

「……何でもない、気にするな――『姫』とヒヨリは?」

「ヒヨリは補給を受けに行っている、姫は例の……」

「あぁ――」

 

 どこか言い難そうに口を開くミサキに、サオリは頷きを返す。恐らく、彼女の元だろう。何も珍しい事ではない。

 ならば、後は。

 

「――アズサは」

「……?」

 

 その問いかけに、ミサキは少しだけ面食らった様に目を見開いた。

 そして訝しげにサオリを見た後、強い口調で答える。

 

「今、トリニティに潜入中、何云っているのリーダー?」

「……あぁ」

 

 その答えに、サオリは思わず呻いた。指先で額を摩り、軽く叩く。どうやらまだ、夢が抜き切っていないらしい。その惰弱な精神に、心に、彼女は何とも形容し難い表情を浮かべる。

 何を――夢見ているのだ、己は。

 私達は、アリウススクワッド。

 兵士であり、戦士であり、駒である。それ以上でも以下でもない。ただ戦場で戦う為の、道具に過ぎないのに。サオリは強く、強く後悔する。作業中に寝入ってしまった、自分自身を憎む。あぁ、なんてものを見せてくれたのだと。

 

「……そうだったな、少し、寝惚けていた」

「……最近、任務続きだったし、疲れているんでしょ、まだ寝ていても良いよ、私が見張るし」

「いや、良い」

 

 告げ、サオリは立ち上がる。今、もう一度休むことは出来なかった。また、先程の夢を見てしまいそうで――その続きを見ることが、サオリにとっては酷く恐ろしい事に思えて仕方なかった。

 弾込めの途中であった弾倉と弾を手に取り、愛銃を肩に引っ提げながら部屋の出入り口へと向う。未だ此方に視線を向けるミサキに、軽く手を振りながら。

 

「また寝たら、同じ夢を見てしまいそうだからな、見張りは私がやる」

「何、悪夢でも見たの?」

「あぁ――」

 

 頷き、サオリは思わず微笑んだ。彼女らしくもない、優し気な笑みにミサキは面食らう。

 そうだとも、あれは。

 

「――酷い悪夢(甘い夢)だったよ」

 

 その声は、少しだけ寂しそうに聞こえた。

 

 ■

 

 公式PVでこの五人が仲間を殺し、爆殺され、生贄になり、自殺し、行方不明になるってマジ? 透き通る様な世界観が過ぎますわね……。わたくしにはそんな事、とても出来ませんわ……。

 だからサオリには幸せな夢を一杯見せてあげますの、幸福な、普通のトリニティ生徒に生まれていたら? なんて「IF」の可能性を。優しいでしょう? 一時でも幸せに浸れるのは、とても幸運な事ですわ。

 まぁ所詮、夢に過ぎませんけれど。

 

 



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信じた明日は、遥か遠く

誤字脱字報告は、決して負けないヒーローなんだ……っ!


 

 ――補習授業部、美食研究会との合流から、凡そ二時間後。

 

 ■

 

「うわあああぁぁッ!?」

 

 後方で炸裂した爆発に、ヒフミは思わず悲鳴を上げた。ヘルメットを被り、必死にハンドルを握る彼女はスクーターに乗っており、後ろには同じヘルメットを着用したコハルが愛銃を片手に叫んでいる。その声は、爆炎と炸裂音に遮られ、耳に届かない。

 

「何ですか、何なんですか!? 一体どうしてこんな事にッ!?」

「ひ、ヒフミ、揺らさないでっ! 照準が合わないからッ!」

「わ、私が揺らしているんじゃありません! 地面がさっきから、爆発の振動で……ッ! うわぁっ!?」

 

 云っている傍から、再び至近距離で爆発。続々と撃ち込まれるそれに巻き込まれない様、ヒフミは必死で加速する。前を走る給食部の車両、その後部座席から顔を覗かせる美食研究会の面々から歓声が上がった。

 

「トリニティのあなた、バイクの運転上手だね!」

「良いじゃん良いじゃん、頑張れーっ!」

「い、一杯一杯なんですけれどぉ!?」

 

 イズミとジュンコのそんな声に、ヒフミは泣き言を零す。彼女達の声は呑気なものだった。しかし、状況は決して優しくない。現在補習授業部兼美食研究会は爆撃の雨に晒されており、背後には追跡する車両が見え隠れしていた。どうしてこうなった? 何でこうなった? ヒフミは胸内で繰り返し自問自答するも、明確な回答は得られない。

 そんな中でもハルナは優雅に帽子を押さえ、淡々とした口調で告げる。

 

「アカリさん、八秒後にまた爆撃が来ますわ」

「はい、問題ありません☆」

 

 応え、アカリはハンドルを切る。二人の視界の中には、降り注ぐ爆撃の予測弾道が確りと見えていた。先生の支援によるものだ、爆撃予測地点を縫うように走り、場合によっては着弾前に突っ切る。そんな命綱なしの綱渡り行為を、補習授業部と美食研究会は成している。

 

「は、は、ハルナぁっ! もう車は良いから降ろしてぇーッ!?」

「ふ、フウカ、危ないから立たないでっ!?」

「あら――フウカさんもこうして応援してくれていますし、もう少し派手にやるとしましょうか、アカリさん?」

「えぇ! 声援を力に☆ そして速度に♪」

「いやぁぁああっ! 先生ぇ~~ッ!?」

「フウカ、気を、気を確り持つんだ! 落ち着いて、大丈夫、私は此処に居るよ……!」

 

 余りの事に気が動転し、引っ付いたまま泣き喚くフウカを先生は抱きしめる。因みに、現在ヒフミとコハルが乗車している車両も給食部のものである。

 道中風紀委員会と交戦する温泉開発部の横を突っ切り捕捉され、銃撃戦に発展。先生が弁明、言い逃れの為に声を上げようとするものの、その悉くを銃声やら爆発で遮られ現在に至る。

 この状態で爆発四散すれば、生徒は兎も角先生は無事に済まないだろう。風紀委員会の為にも、補習授業部の為にも、先生は何が何でも負傷する訳にはいかなかった。只でさえアビドスの一件で大変な事になっていると云うのに――恐らく温泉開発部が総出で出撃しているのだろう、エデン条約での諸々もある、ヒナやアコの多忙が目に見える様だった。

 

「――ッ! 爆撃が来る! ヒフミッ!」

「み、見えていますッ!」

 

 先生がタブレットを見下ろし叫べば、ヒフミは初めてバイクに乗ったとは思えない程の切り返しを見せ、爆撃を回避する。爆炎を裂き、甲高いスリップ音を響かせながら走行する彼女。後ろに乗っているコハルはヒフミの腰に抱き着きながら、片腕で愛銃を握り締める。

 

「けほッ! な、何か後ろにショベルカーとブルドーザーまで見えるんだけれど!? 何であんなのが!?」

「げ、ゲヘナ温泉開発部ですよ、それっ!?」

「何でこっち追って来るのよ!?」

「私が知りたいですぅううッ!?」

「って、やば、風紀委員会も来た!?」

 

 背後から続々と迫る車両。何故か高速で爆走するショベルカーとブルドーザー、更に風紀委員会のカラーリングを施した軽装甲車まで。コハルが咄嗟に愛銃を構え射撃を行うも、不安定な体勢に加え鳴り響く爆音、振動で狙いが定まらない。数発装甲に弾かれ、効力射が見込めないと判断したコハルはヒフミの背中を叩き、叫んだ。

 

「ひ、ヒフミ! あの変な鳥の奴使うわよ!?」

「え、あ、ぺ、ペロロ様人形ですか!?」

「良く分かんないけれど、それ!」

「あうぅ……せ、折角手に入れたグッズですが、し、仕方ありません、背に腹は代えられないですよね……ッ!」

 

 そう云ってコハルはヒフミのペロロバッグに手を突っ込む。筆記用具や弾倉、ペットボトル、そう云ったものを手で避けながら奥底から引っ張り出したのは――平べったい、フリスビーにも似た代物。ヒフミが常日頃、バッグの底に仕舞っていた奥の手であった。

 

「……あった! 行くわよ、ヒフミ!」

「は、はい! ――助けて、ペロロ様!」

 

 ヒフミの叫びと共に、コハルは側面のスイッチを押し込み、投擲する。フリスビーに似たそれはふわりと空中で一瞬停滞し、それから音もなく地面に着地した。そして、軽快な音と共に内部から光が差し込み――。

 

「おいッ! 待て、止まれ貴様らッ! とま――」

 

 走行していた風紀委員会の目の前に、突然等身大ペロロ様人形が出現した。

 

「はっ!? え、なッ、あぶなっ――!?」

 

 宛ら幽鬼の如く出現したソレに、運転を担当していた風紀委員はハンドルを大きく切る。瞬間、後続車両がその側面に激突し、盛大な破砕音が鳴り響いた。そこからショベルカーやブルドーザーが続々と突っ込み、玉突き事故の如き様相を呈してしまう。凄まじい衝突音と挟異音が響き、その中に生徒と思わしき悲鳴が次々と木霊した。

 

「や、やったわッ! 一網打尽よ!」

「あうぅ、ご、ごめんなさいペロロ様……! でも、ありがとうございます……!」

 

 その様子を見ていたコハルはガッツポーズを見せ、ヒフミは手放してしまったペロロ様人形(ホログラム投影装置)に涙を呑む。横転し、火まで噴き出した車両の前で軽快に踊るペロロの姿は、その表情も相まって宛らサイコパスであった。

 

「わっ! 凄いね、あの人形! 風紀委員会の車両をやっつけちゃったよ!?」

「何か気持ち悪い人形だけれど、デコイとしては凄い優秀じゃない……!」

「これがペロロ様のご加護か……ほらフウカ、ちーんして、ちーん」

「――ぢーんッ!」

 

 ペロロデコイはジュンコとイズミからの評価も上々。先生はペロロ様の加護に内心で感謝しながら、そっとポケットから取り出したティッシュでフウカの鼻水を拭った。

 辛いよね、大変だよね、良く分かるよ、もうちょっとだからね、頑張ろうね。先生が囁きながら頭を撫でつければ、フウカは先生に引っ付いたまま無言で嗚咽を零す。帰ったら、本当に、マジで何でも買ってあげよう、フウカの喜ぶものを沢山。もう、ユウカに怒られたって構わない、それだけの心労を彼女は抱えているのだ。ほろりと、先生はフウカの苦労を想い、一粒の涙を流した。

 

「ふふっ、順調順調……これなら予定時刻までに辿り着けそうですわね」

「楽勝です☆」

 

 そんな彼女の心労を欠片も気に留めず、ハルナとアカリは超高速ドライブを満喫している。心なしか爆撃の頻度も落ち、衝突事故の影響か追手の姿もない。

 ふと、ヒフミはポケットに入れていた端末が震えている事に気付いた。片手でハンドルを握ったまま端末を取り出した彼女は、通話ボタンをタップする。すると、そこからアズサの声が聞こえて来た。

 

『――こちらチームブラボー、チームアルファ、応答せよ』

「え、あ、アズサちゃんですか!?」

『名前を云われると隠語を使った意味が無いんだが……それはそれとして、こっちの陽動は完了した、今から予定ポイントに向かう』

「あ、わ、分かりました……! ふたりとも無事なんですね!?」

『うん、前方に火炎放射器を持った温泉開発部、後方にはやたらと強いツインテールの風紀委員が居るけれど、多分大丈夫』

「え!? そ、それ、本当に大丈夫なんですか!?」

『先生のサポートもあるし、逃げるだけなら何とかなる筈、ハナコと私は徒歩でポイントに向かうから、後で落ち合おう、幸運を祈る』

「え、あ、ちょ!?」

 

 ヒフミが何かを云うよりも早く、アズサからの電話は切れてしまう。アズサとハナコはヒフミたちがこのスクーターを確保する際、陽動係として別行動を行っていた。今でも追跡されている補習授業部兼美食研究会(それとフウカ)だが、主力と思わしき部隊は全てアズサやハナコの方へと集中しているのだ。

 ヒフミは真っ黒になった端末の画面を凝視しながら、思わず震える。

 

「わ、私達はあくまで、試験を受けに来ただけなのに……な、なんで、なんでこんな……」

「――っ、ひ、ヒフミ! 次、次が来た!」

 

 しかし、現実は泣き言を許してくれない。端末片手に涙を浮かべるヒフミの肩を、コハルが何度も叩いて叫ぶ。背後を見れば、彼方此方傷だらけの状態で走行する風紀委員会の装甲車と、温泉開発部のモノと見られる運搬車が高速で迫っていた。ヒフミはポケットに端末を戻し、弱音を呑み込んで思い切りアクセルを捻る。風がヒフミとコハルの肌を強く撫でつけた。

 

「あら」

「ふふっ、相変わらず執念深いですねぇ――こうなったら、徹底抗戦と参りましょう……アカリさん、進路そのままで」

「了解です☆」

 

 ハルナはそう云って助手席から立ち上がり、愛銃のアイディールを構える。それを見たイズミやジュンコも銃を取り出し、どこか好戦的な笑みを浮かべた。

 

「あれ、もしかして私の出番!?」

「いい加減追いかけ回れるのもムカムカして来た所だし、全部ぶっ壊すのも悪くない考えかもね!」

「えぇ、お相手致しましょう、突き抜ける優雅さで――!」

 

 告げ、聞き慣れた銃声が夜空に鳴り響く。

 美食研究会とのドライブは、未だ終わりが見えなかった。

 

 ■

 

「――あうぅ……つ、着きましたぁ……!」

「うぅ、ひ、酷い目に遭った……」

「……皆、びしょ濡れだね」

 

 高速道路での死闘から、さらに数十分後。

 先生、ヒフミ、コハルの三名は無事と云って良いかは定かではないものの、目的地へと到着する事に成功した。服はずぶ濡れで、所々が爆炎で煤けている。しかし怪我らしい怪我もないし、弾薬は使ったがバッグなどの所持品も無事。

 

「し、試験会場は、ここ……?」

「み、みたいです、ね……」

 

 呟き、顔を上げた先には錆び、罅割れ、ボロボロになった廃屋が一件。周囲も似たような建物が立ち並び、落書きと廃材、塵が散乱している。他の建物と見分けが付かず、試験会場かどうか怪しい所ではあるが――少なくとも、この近辺である事は確かだった。

 ヒフミは水に濡れた前髪を払いながら、先生の方へと視線を向ける。

 

「せ、先生、お怪我はありませんか……?」

「うん、大丈夫、寧ろフウカと美食研究会の皆が心配かな……」

「……給食部の車が川にダイブした時は、もう終わりかと思った」

 

 ――あの後、執拗な風紀委員会の追撃と、何故か分からない温泉開発部の特攻に追い詰められた補習授業部兼美食研究会は、最終的に風紀委員会の爆撃で視界を塞がれた後、横合いから突撃してきた温泉開発部のショベルカーに激突し、宙を舞った。落ちた先が偶然川であったのは本当に助かった。正直、先生は半分死を覚悟した程だ。

 

「ハルナさん、親指を立てながら沈んでいきましたが……」

「逃げる時、アカリって呼ばれていた人がハルナとフウカって人担いで逃げるの見えたから、多分大丈夫だと思う……」

「……流石アカリだ」

 

 正義実現委員会のツルギとタイマンを行って尚、ピンピンしているタフネスは見習いたい、切実に。

 イズミとジュンコは泣き叫びながらアカリの後を追って逃げており、美食研究会はフウカを含めて無事である。ただしフウカのメンタルは考慮しないものとする。

 

「って、そうだ、アズサとハナコは!?」

「まだ到着していない様ですけれど……」

 

 コハルがそう云って周囲を見渡せば、誰かの足音が背後から耳に届いた。咄嗟にコハルが銃を構え、ヒフミが身を強張らせながら先生の前に立てば――。

 

「――ふふっ、お待たせしました♡」

 

 暗がりから、水着姿のハナコが顔を覗かせた。その、予想だにしなかった衣装にヒフミとコハルは声を喪い、更にその奥からガスマスクを装着したアズサが駆けて来る。周囲を見渡し、敵の影が見えない事を確認したアズサは、「シュコー」と音を立てながら一つ頷いた。

 

「うん、二時四十五分……何とか試験開始前に着いたか、流石に疲れた」

「そうですねぇ、まさかこんな真夜中に大勢で鬼ごっこだなんて……体が火照ってしまいました♡」

「えっと……」

「そ、そっちは何があったのよ……」

 

 何でガスマスクしているのとか、何で水着姿なのとか、色々云いたいし聞きたい事が沢山あった。そんなヒフミとコハルの疑問を感じ取ったのか、ハナコは嬉々とした表情で口を開く。

 

「あら、聞きたいですか? それはですね――」

「や、やっぱり良い、聞かないっ!」

 

 何やらピンクのオーラを感じ取ったコハルは、咄嗟に身を引き叫ぶ。どうせ碌な理由ではない筈だ、そうに違いない。そんなハナコに対する絶対的な信頼をコハルは持ち合わせていた。

 

「それより、試験会場は此処で合っているのか?」

「ゲヘナ自治区第十五エリア七十七番街、廃墟一階――うん、座標は此処で合っているね……あとハナコは服を着てね、風邪ひいて欲しくないから」

「あら……」

 

 アズサの問いかけに先生は頷き、ついでにハナコに着衣を促す。時刻は既に深夜二時、夏とは云え夜は冷える。暖の取れないこんな廃墟街で水着一枚というのは流石に寒々しい。

 

「開放的な気分で試験を受ける機会だと思ったのですが、残念です」

「……一応、受験規定に制服の指定があるから」

「あら? ですが先生、全裸で受験すればカンニングシートなどは絶対に持ち込めない訳ですし、それはそれで合理的な――」

「ぜ、ぜ、全裸で試験!? え、エッチなのは駄目ッ! 何考えているの!?」

 

 全く以てその通りだと思います。先生は顔を真っ赤にして叫ぶコハルに深く同意した。試験が試験(意味深)になってしまう、それは大変よろしくない。それに目のやり場に困る。なのでちゃんと着替えて下さい。

 先生がそう云うとハナコは大変残念そうに水着の上に制服を着込んだ。もしかしていつも水着の上に制服を着ているのだろうか。ふと、そんな事を考える。

 

「中は……ほ、本当に廃墟って感じですね?」

「でも、一応机はある」

 

 そうこうしている間にもアズサやヒフミは廃墟の中に踏み込み、内装を検めていた。内部は老朽化で所々剥げており、埃も目立っている。元々塾か講習会として使う用の建物だったのか、机や教卓、ホワイトボードと云ったものは一通り揃っているが、試験を行う場所として適切とは言い難い状態であった。コハルと着替え終わったハナコも二人の後に続き、恐る恐る薄暗い部屋の中に足を踏み入れる。

 

「うぅ、暗くて良く見えないんだけれど……」

「これ、電気も通っていませんね? あら、でも机にライトスタンドが――」

「これで手元を照らせって事でしょうか……あ、試験用紙とかはどうなるんでしょうか? 誰か、先生以外の監督の方が……?」

「いや、人の気配はないが」

 

 ヒフミが周囲に目を配るも、それらしい人影も気配もない。そんな彼女達を尻目に、先生は教卓の裏に屈み込んだ。

 

「確か、此処に――」

 

 シッテムの箱をライト代わり教卓の中を照らせば、そこには几帳面に立てられた、人が抱えられる大きさの榴弾が設置されていた。教卓をずらし榴弾を皆の前に晒せば、全員の視線がそれに注がれる。

 

「むっ、先生それは――」

「えっと、不発弾……ですか?」

 

 どこか驚いたような表情で問いかけるヒフミ。アズサは駆け寄ると、先生のライトに照らされたそれを見つめ呟いた。

 

「……L118、牽引式榴弾砲の弾頭か?」

「うん、そうみたいだね」

「L118――という事は、ティーパーティー……つまりナギサさんからのメッセージの可能性が高いですね」

 

 ハナコの言葉に頷き、先生が榴弾へと手を伸ばそうとすれば、寸前でアズサが手を翳し制止を口にする。

 

「――先生、トラップがあったらいけない、私が開ける、念の為離れていて」

「……分かった、頼むよ」

 

 アズサの言葉に先生は従い、万が一に備え部屋の外へと退避する。爆発を警戒しヒフミとコハルも距離を取り、ハナコ含めた三名が先生の壁になる形で前に立った。アズサは全員が十分に距離を取った事を確かめ、そっと榴弾に手を掛ける。

 

「――……うん、大丈夫そう、炸薬も雷管も抜かれている、弾殻だけの張りぼてだ」

「そ、そうですか……良かった」

「となると、完全にメッセージボックスの役割、という事でしょうか」

 

 安全を確認した声に、扉越しに中を覗いていた補習授業部はアズサの周りに駆け寄りる。その中を覗き込むと、空洞となった榴弾の中には幾つかの紙がテープで括られ収まっていた。

 

「あ、中に紙が……これが試験用紙という事ですね!」

「その様だが……むっ、こっちは通信機か?」

 

 アズサは紙束をライトで照らしつつ、奥底に何か端末が入っている事に気付いた。榴弾を引っ繰り返し、中身を全て取り出す為に軽く振る。すると用紙と、四角い端末らしきものが床の上に転がった。アズサは転がった端末を隅々まで観察した後、危険はないと判断し電源を入れる。すると、端末は立体映像を補習授業部の前に投影した。

 薄暗い部屋の中で、そのホログラムは良く目立った。

 

『――これを見ているという事は、無事に到着されたようですね』

「な、ナギサ様!?」

「………」

「え、じゃあこの方が、ティーパーティーの……?」

 

 投影されたホログラムはナギサの姿を象り、虚空に向けて口を開く。時折ノイズが走るものの、ティーテーブルに腰掛け優雅に紅茶を嗜むナギサを鮮明に映し出したそれを、補習授業部の面々は様々な感情を孕んだ視線で見つめていた。

 

『ふふっ……恨み辛みの声が聞こえてきそうですね――まぁこれは録画映像なので、リアルタイムでの意思疎通は不可能です、今の私に何を訴えても無意味ですよ?』

 

 そう云って、朗らかに微笑むナギサ。風紀委員会や温泉開発部に追いかけ回され、彼方此方傷やら汚れやらを身に纏う補習授業部と、優雅にティータイムと洒落込んでいるナギサの姿は正に対照的だった。彼女は真っ直ぐ前を見据えたまま一つ息を吐き出し、目前に立っているであろう補習授業部に向け告げる。

 

『――一先ず試験会場に辿り着けた事は認めましょう、しかしあなた方にとってはこれからが本番です、第二次特別学力試験は……今より始まるのですから』

「っ……!」

『約束の時間までに試験を終えて戻って来て下さいね? 一応引き続きモニタリングはさせて頂いておりますので、その事をお忘れなく……幸運を祈ります、補習授業部の皆さん』

 

 ティーカップをソーサーに戻したナギサは、どこか薄ら笑いを浮かべ――告げる。

 

『――どうかお気を付けて』

 

 最後に、彼女は妙に力強い言葉を残し、ホログラムを消失させた。先程まで存在していたナギサのホログラム、その場所を見つめながら補習授業部は険しい表情を浮かべる。

 

「うぅ……」

「何だか、含みのある云い方でしたね――」

「気にならないと云えば嘘になるけれど……兎に角今は時間がない、早く席につこう」

「そ、そうですね……すぐ、第二次特別学力試験の筈ですから……!」

 

 ナギサの言動に疑問と不安を抱いた補習授業部だが、兎にも角にも今は時間がない。時計を見れば既に、第二次特別学力試験は五分後に迫っていた。各々席を決めライトを点灯させた事を確かめると、先生は教卓に立つ。テープで括られていた用紙を広げ、枚数や内容に問題が無い事をさっと確かめる。

 

「問題用紙は……こっちか――良し、皆、筆記用具だけを出して」

 

 告げ、先生は解答用紙と問題用紙を配って歩く。全員の体調、精神状態はお世辞にも万全とは言い難い――それでも、その瞳に諦めの感情は見えなかった。

 出題範囲が三倍、合格点は九十点、正直かなり厳しい条件である。それに加え、直前まで戦闘とマラソンをこなし、身体的にも精神的にも疲弊している。これで合格出来れば奇跡だ――本音を吐露すれば、ヒフミはそう考えている。

 でも、諦めたくない。脳裏に、合宿で過ごした一週間が過った。

 

 先生は教卓の上に置いたシッテムの箱を覗き込み、時計を確認する。

 試験開始――一分前。

 最前列のヒフミが緊張に体を強張らせ、息を呑む。コハルが小さく体を震わせ、歯を食いしばっていた。ハナコとアズサは平然としている様に見えるが、やはりどこか表情が硬い。

 先生はそんな彼女達を見渡し、強く、断言する。

 

「――大丈夫、皆なら乗り越えられると、私はそう信じているから」

「っ……は、はいっ!」

「――えぇ♡」

「――うん」

「とっ……当然っ!」

 

 先生の一言に、補習授業部全員が声を返す。僅かに、ほんの僅かだが――補習授業部全員の強張りが抜けたような気がした。

 

 目の前に聳え立つ壁は高く、困難で、理不尽だ。けれどアズサが云った様に、嘆く事は後でも出来る。兎に角今は、全力で、今まで学んだことを、努力して来た全てをぶつけるのだ。

 この一時間に、全部――!

 

 補習授業部、皆の手がペンを握り締める。

 時計の針が、十二を指した。

 先生が片手を挙げた。

 

「よし、それじゃあ第二次特別学力試験――開始!」

 

 全員の手が、一斉に問題用紙を裏返した。

 

 ■

 

「で、此処が例の場所?」

「うん、住所的には合っているかな、此処から向こうまで全部」

 

 廃墟街――外周。

 幾つものトラックが並び、廃墟街を見渡す生徒、温泉開発部の部員たち。彼女達は端末を片手にじっくりと周囲を観察し、徐にアスファルトを脚で踏み鳴らしたり、確かめる様な素振りを見せる。彼女達の端末には、つい数時間前に匿名で齎された『温泉開発情報』が表示されていた。

 

「へへっ、どこからの情報かは知らないけれど、親切に温泉がありそうな場所を教えてくれるなんて、有難いこった!」

 

 そう云って、早速とばかりに爆薬設置に取り掛かる部員達。何台ものトラックに積み込まれた爆薬を片手に走り回り、建物、地面問わず設置して回る。この情報が誰からのものなのかとか、どれくらい信憑性のある話なのかとか、そんな事はどうでも良い。一%、或いはそれ未満でも構わない。僅かな可能性が存在するのならば、温泉開発部は嬉々として地面を掘り、爆破し、温泉を探し求める。

 例えそこがゲヘナの市街地、そのど真ん中だろうが、或いは犬猿の仲のトリニティ自治区であろうが、はたまた全く関係ない第三者の自治区だろうが関係ない。

 何故なら、其処に温泉があるかもしれないから――!

 温泉! 温泉は全てに於いて優先されるのだ!

 

「――あ、そうだ! どうせなら持ってきた爆薬全部使って発破しないか? 廃墟だし、どうせ旅館を建てるなら風情が無いと駄目だろう? ド派手に火花が散る中で湧き上がる温泉とか……最高じゃん!?」

「何だそれ天才か!? 採用!」

「有りっ丈詰めろ! 持ってきた火薬全部! 火力マシマシだ~ッ!」

 

 布で口元を覆ったとある部員の提案により、持ち込んだ爆薬全てを使い切る方針へと舵を取る温泉開発部。彼女達にとって火力とは浪漫である。盛れば盛る程、炎が噴き出れば噴き出る程よろしい。火薬量は倍の倍、更に倍、ついでに追加でやって来たトラックの火薬まで使い切り、廃墟街は爆薬に埋め尽くされた。最早これは発破ではない――爆撃である。

 しかし、温泉開発部の面々は酷く満足げだ。この量の火薬が爆発し、建物は崩れ、撤去され、その只中に温泉が凄まじい勢いで吹き上がる――そんな景色を夢想し、やる気はうなぎ登り。

 

「よぉし、発破準備完了!」

「退避しろ~! 巻き込まれたら黒焦げになるぞ~っ!」

「しゃあ! 開発だ~~~ッ!」

 

 廃墟街から温泉開発部の部員たちは退避し、その世紀の瞬間を目撃するべく、外周の物陰から様子を伺う。

 瞳を輝かせ、発破器を持った部員は腕を着きあげると、元気良くスイッチに指差を添え、叫んだ。

 

「――発破ッ!」

 

 そして次の瞬間、補習授業部の居る建物は――廃墟街諸共、吹き飛んだのである。

 

 ■

 

 第二次特別学力試験、結果

 

 ハナコ―試験用紙紛失 不合格

 アズサ―試験用紙紛失 不合格

 コハル―試験用紙紛失 不合格

 ヒフミ―試験用紙紛失 不合格

 

 補習授業部、第二次特別学力試験――全員不合格

 


 

 しゃあッ! 先生爆破ですわッ! 百二十七日と一時間三十四分十六秒ぶりの先生の巻き込まれフィーバータイムッ……! これですっ、これを待っていたんですの私は……ッ! このまま瓦礫に圧し潰されてヒフミに腕だけ引っこ抜かれて無様に人生不合格になってくれ先生ッ! 駄目ですわ! こんな所で死ぬなんてッ! い゛の゛ち゛か゛も゛っ゛た゛い゛な゛い゛!!! こんな所であなたが死んだら生徒達はどうなるんですの!? 今まで積み重ねた絆は!? ミカは!? 補習授業部は!? アリウスは!? 対策委員会は!? まだ死んではいけませんわ先生! もっと生徒達を救って、笑顔にして、信頼を勝ち取って、皆が笑って幸せそうにしている目の前で死んであげないと可哀そうでしょうがッ!? 

 まぁでもそれはそれとして血を流して朦朧とする先生に縋りつく生徒はとても可愛いと思いますので、別腹で許可を出しますわ。よろしくってよ~~~! ちょっと位傷増やしても……バレへんか!

 

 最終章の四章が三月八日に実装だそうですね、つまり三話後にプロットが爆散するかどうか決まるという事です。一ヶ月前に爆発したばっかなんだけれどなぁ~! 楽しみと恐怖で頭おかしなるでほんま、でもそんなブルアカが好きなの、そーなの……。三話後の後書きで私が狂って先生の手足捥ぎたいとか云い出したらプロットが死んだんだと思って下さいですわ。

 



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命の証明

誤字脱字報告~☆(テッテテッテーテーテテー


 

 数秒、意識を失っていた。

 いや、それが本当に数秒だったのかも怪しい程だった。

 凄まじい衝撃と爆音、そして飛来する瓦礫の影――それが先生の最後に見た記憶の全てだった。

 朦々と立ち上る砂煙と、舐めるように地面を覆う炎。背後から、瓦礫が崩れ落ちる音が響いている。そんな中で先生は朦朧とする意識を辛うじて保つ。痛みは全身に伝搬していた、飛来した小さな破片が体を殴打したのだろう。しかし、その程度で済んでいる事が奇跡だった。

 

 ――或いは、最後の最後にアロナが力を振り絞ってくれたのか。

 

 ぽたぽたと、額から流れる赤が地面を汚す。しかし、それを拭う気力も体力も、先生には無い。今の先生に分かるのは、自身の四肢が辛うじて繋がっていて、まだ死んではいない事だけだ。

 すぐ手元に、砂を被ったシッテムの箱が転がっているのが見えた。先生は震える手を伸ばし、シッテムの箱を手繰り寄せ、庇う様に抱え込む。画面は真っ黒に染まり、点灯するランプは――赤。

 バッテリーを全て吐き出したのだ。

 

 カーチェイスや便利屋のバックアップ、それらで総量も随分減っていたのだろう。出発前に充電を行っていたが、一時間以上のリンクは残量バッテリーを大きく削った。それに加え先程の爆発、あれは昔自身が体験したものより、随分と規模も威力も上だったように思う。運命の悪戯か、或いはただの偶然か――どちらにせよ、先生は歯を食い縛る。

 あぁ全く――自分はつくづく詰めが甘い、と。

 でも、それでも先生は、信じたいと思ったのだ。彼女を――ナギサを。

 例え、向けられるものが悪意だとしても――。

 

 先生は無理矢理腕を動かし、立ち上がろうとする。生徒を――補習授業部を、助けなければ。皆が無事かどうか、安否を知りたい。瓦礫に埋まっているかもしれない、怪我をして動けなくなっているかもしれない。

 だから、早く、立ち上がって――助けないと。

 それが、彼女を信じた自身の責務だ。果たすべき責任だ。

 

 そう、何度も心の中で呟き、歯を食い縛って立ち上がろうと足掻く。

 しかし、地面に突いた腕は簡単に力を喪い、先生は再び崩れ落ちた。シャーレの白い外套が砂利に塗れ、血を吸って所々変色する。先生の指先は震え、平衡感覚もなかった。爆発が、盛大に脳を揺らしていた。或いは、頭部を掠めた瓦礫のせいか。どちらにせよ、この場に於いて先生は酷く無力で――。

 

「……み――ん、な……」

 

 辛うじて保っていた意識が、徐々に遠のいていく。

 誰かの、声が聞こえる。燃え盛る炎の音と、建物の崩れる音、そして叫び声。

 けれど、それが誰のものかも分からない。

 先生は最後に小さく、彼女達の名前を呟き。

 

 ――そして、再び意識を失った。

 

 ■

 

「ごほ、ゴホッ! けほっ……うぅ、一体、何が――?」

 

 爆発は、補習授業部を文字通り部屋ごと吹き飛ばしていた。吹き飛んできた机の下敷きになっていたヒフミが、自身に覆い被さっていたそれを押し退け、立ち上がる。埃と砂利に塗れ、咳き込みながら近場に転がっていた自身のペロロバッグを抱えた彼女は、そっと目を開ける。

 

「皆さん、御無事で――」

 

 一先ず、皆の安否を確認しようと声を上げて――そして、周囲に広がる惨状に思わず絶句した。

 先程まで周囲を覆っていた壁は軒並み吹き飛び、瓦礫の山と化している。更に地面を這う炎と、立ち上る噴煙、それらを前にして意識が一瞬飛びかけ――しかし、何よりも大事な事を思い出し、蒼褪める。

 

「――せ、先生!? そうだっ……先生! どこですかッ!? 先生ッ!?」

 

 叫び、瓦礫を蹴飛ばし駆ける。声は周囲に響いていた。しかし炎の燃え盛る音と、瓦礫の崩れる雑音に紛れ、中途半端に掻き消える。周囲に忙しなく視線を向けるヒフミの傍で、小さく瓦礫が蠢く。

 

「っ、せん――!?」

「けっほ、こほッ……!」

 

 すわ先生かと目を向けた先、一拍して下から顔を覗かせたのは――コハル。煤と砂利に塗れ、黒い制服を汚した彼女は咳き込みながら瓦礫を押し退け、頬に付着した汚れを乱雑に拭った。

 

「こ、コハルちゃん……!」

「えほっ、痛っ……な、何……? ヒフミ? 一体、何が起きたの……!?」

 

 這い蹲り、瓦礫から抜け出したコハルをヒフミは引っ張り上げる。腕を引かれ、立ち上がったコハルは目を白黒させながら、自身と同じように煤と砂利に塗れたヒフミを見ていた。

 

「コハルちゃん、先生をっ! 先生を一緒に探してくださいッ!」

「え? な、なに、先生って、どうし――」

 

 そして、答えながら周囲を見渡したコハルは、その余りの惨状に声を喪う。目前に立つヒフミも、トリニティの制服が所々破れ、煤けている。しかし周囲はそれ以上の惨状を晒していた。割れ、圧し折れた机の残骸、吹き飛んで吹き抜けになった壁、崩れ落ちた上階、先程まで曲がりなりにも『建物』と認識出来ていた場所は、もう、どこにもない。

 

「な、なにこれ……!? 何で、こんな――」

「わ、分かりません……! 突然爆発が起きて、皆バラバラに飛ばされて……! それで、まだ先生がどこにも見当たらなくて……っ!」

「せ、先生が――!?」

 

 ヒフミの言葉に、コハルの表情が強張り、不安が表情に浮き出る。その脳裏に、最悪の想像が過った。こんな爆発、キヴォトスの生徒でも怪我を負いかねないものだ――それを、人間の先生が受けたら。

 

「ぐッ……何だ一体――爆発……?」

「っ……皆さん、ご無事ですか……!?」

 

 そうこうしている内に、噴煙を裂きながら現れるアズサとハナコ。爆発で吹き飛ばされ瓦礫に埋もれていた彼女達だったが、自力で脱出し他二名との合流に成功する。二人共あちこちに擦り傷や打撲痕が散見され、如何に爆発が大きかったかを実感させた。ヒフミとコハルは、無事であった仲間の姿に僅かな希望を抱き、笑顔を浮かべる。

 

「あ、アズサちゃん……! ハナコちゃんも……!」

「ヒフミちゃんと、コハルちゃんも無事ですね? 良かった……なら――」

 

 ハナコが微笑み、その視線が二人の傍をなぞる。そこに居る筈の、誰かを探して。

 ヒフミとコハル、そしてハナコとアズサ――考えている事は同じであった。ヒフミとコハルも、アズサとハナコの傍に視線を走らせる。自分達の傍に、先生は居なかった。だから、他の生徒の傍にいるのだと思った。

 けれどその姿は――どこにもない。

 徐々に全員の表情が強張る。

 

「――先生は、何処だ?」

 

 アズサが、どこか硬い口調で問いかけた。しかし、その問いかけに答えられる者はいない。炎の熱気を孕んだ、生温い風が吹いていた。空気が鉛の様に、重く感じる。

 

「わ、分かんない……! 私も、今、気が付いたばっかりで……! そ、そっちには居なかったの!?」

「っ……!」

 

 ハナコとアズサは息を呑む。ヒフミも、その表情は焦燥に塗れていた。どちらも先生を発見出来ていない、となれば先生は、今もこの瓦礫の山の何処かで――。

 

「と、兎に角! 瓦礫の下とか……! 先生を早く、早く見つけないと……っ!」

「ッ、待て、コハルッ!」

 

 コハルが兎に角我武者羅にでも動かなければと、目についた瓦礫に手を掛けた瞬間、アズサが制止を叫ぶ。びくりと体を震わせたコハルは、中途半端に瓦礫を掴んだまま固まった。

 

「……不用意に瓦礫を崩しちゃ駄目だ、下手に崩して、先生が下に居たら――」

「ぁ……ぅ――」

 

 その言葉の続きを意識したのだろう。コハルは蒼褪めた表情のまま、身体を強張らせ瓦礫から手を放す。焦る気持ちは皆同じであった、しかし自分達の行動が先生の生死に直結すると意識した瞬間、抱えれきれない、巨大な恐怖と焦りが胸の内側を支配した。体が強張る、血が凍る様だ、心臓が早鐘を打ち始め嫌な汗が背中に滲む。

 それは彼女達が初めて感じる――絶望の予感。

 ハナコは不安に駆られる補習授業部を見渡した後、跳ねまわる感情を一時でも収めるために、深く息を吸い込んだ。炎に炙られ、熱気を孕んだ空気は酷く不味い。むせ返りそうになるそれをしかし、無理矢理に肺に留め――彼女は告げる。

 

「……得策ではありませんが、二人ずつに分かれて捜索しましょう」

「で、でも、全員で別れて探した方が……!」

「二次災害の恐れがあります、先生を見つける前に私達が斃れてしまえば意味がありません……!」

 

 ハナコはそう云ってアズサの肩を叩き、未だ辛うじて形を保っている屋内を指差す。今は問答をしている時間すら惜しい、その意図を汲んだアズサはヒフミとコハルに一つ頷きを見せ、ハナコと共に駆け出した。残された二人も、蒼褪めた表情をそのままに、しかし足を動かす。兎に角、先生を探す――今、考える事はそれだけで良い。

 

「けほっ……っ、流石に屋内となると――嫌な煙だ……! 急ごう、長居するのは拙い……!」

「そうですね……っ!」

 

 アズサは口元を腕で覆いながら叫ぶ。ハナコもなるべく姿勢を低くしたまま、ハンカチで口元を覆った。アズサは腰にぶら下げたマスクを被らない。今は、その僅かな視界の狭まりすら嫌った。

 

「先生!? 何処ですか、先生っ!?」

「せ、先生ぇ……っ!」

 

 ヒフミとコハルは声を張り上げ、周囲の噴煙を掻き分けながら進む。時折、瓦礫の崩れる音が響き、その度に先生が居るのではと音の方向へと足を進めた。それらしい影が見えれば慎重に瓦礫を引っ繰り返し、先生ではない事に落胆する。時間が経過すれば経過する程、彼女達の焦りは加速した。

 ハナコは周囲に視線を配りながら、半分崩れかけの建物を見上げる。そう長い間、此処で捜索をする事は出来ないだろう。建物は今にも崩れ落ち、潰れてしまいそうだった。そんな事を考え、ふと視線を落とす。

 

 ――足元に、青い(シャーレ)腕章が転がっていた。

 

「――ッ!」

 

 咄嗟に屈み、ハナコは腕章を握り締めると、周囲を血走った目で観察した。どのような、僅かな痕跡すら見逃すまいと瞳を動かすハナコは――出入口を塞ぐように積み上がった瓦礫、その向こう側に微かな白を見つける。

 

「――居たッ! アズサちゃんッ!」

「っ……! ヒフミ、コハルッ、こっちだ!」

 

 ハナコが叫ぶのと、アズサが後方に声を張るのは殆ど同時だった。その叫びを聞いたヒフミとコハルは、急ぎ踵を返す。先生は試験を行った部屋から更に奥まった小部屋、その隅っこに蹲っていた。出入り口は瓦礫で封鎖され、中途半端に崩れ落ちた壁は体を差し込めるほどの隙間が無い。積み上がった瓦礫の隙間から中を確認したヒフミとコハルは、倒れ伏した先生を見て叫ぶ。

 

「せ、先生っ!?」

「た、倒れてる……!? は、早く! 早く行かないと……ッ!」

 

 叫び、自身の前を塞ぐ瓦礫に手を掛けるコハル。しかし、コハルの体格の数倍もあるそれは単独で押し退ける事は難しく、アズサはコハルに続き瓦礫を掴みながら皆に助力を請うた。

 

「っ、瓦礫を退かす……っ! 皆、手伝ってくれッ!」

「えぇ!」

「は、はい……ッ!」

 

 全員が瓦礫に手を掛け、思い切り押し退ける。コンクリートの壁であったそれは全員の力によって持ちあがり、そのまま横合いへと転がされた。地面が揺れる様な振動と、大きな風圧が皆の頬を撫でつけ、砂塵が周囲に巻き上がる。それらを掻き分け、補習授業部は部屋の中へと踏み入った。

 

「っ、やった……!」

「――先生ッ!」

 

 瓦礫を撤去し、先生の元へと駆け出すヒフミとコハル。アズサも愛銃を抱えながら踏み込み、ハナコは先生の周辺に危険が無いか注意深く視線を配りながら駆け出した。

 

「ぐッ――……」

「せ、先生……!」

 

 ヒフミは、目の前で倒れ伏す先生を見る。月明かりと周囲の炎は、先生の状態をこれ以上ない程鮮明に映し出した。砂利と血で薄汚れたシャーレの外套。頭部をぶつけたのか、或いは切ったのか――流れ出る血は先生の頬を伝い、僅かな血だまりを作っている。

 先生の髪を払い傷口を確かめたヒフミは、表情を強張らせたまま呟いた。

 

「ど、どうしよう、どうしよう……!? 頭から血が……ッ!?」

「わ、私、包帯持っているから! しょ、消毒も……!」

「兎に角見える部分の止血を、血を止めなければ……アズサちゃん!」

「うん、周囲の警戒は任せて……!」

 

 ハナコは俯せに倒れ伏した先生の口元に手を当て、呼吸を行っている事、脈拍がある事を確かめ、体を横たわる様に動かす。時折崩れ落ちる建物の音に肩を震わせながら、コハルは涙目で先生の傷口に包帯を巻きつけた。震える指先は上手く動かず、巻き方も滅茶苦茶だった。それでも、血を止める事は出来る。包帯の表面に滲み出す赤色に不安を煽られながらも、ヒフミは努めて冷静に在ろうと自身に言い聞かせた。

 

「は、ハナコちゃん、先生は……?」

「……幸い、目や口、耳から出血は見られません、他にも大きな傷はありません……ですが――」

 

 体の中身がどうかは分からない。そもそも、この頭部からの出血が瓦礫が飛来してぶつかったものか、或いは掠めて表面だけを派手に切ったのか、それすらも分からないのだ。

 ――下手をしなくても、死ぬ可能性があった。

 アズサは周囲に目を配りながら、時折先生を緊張した面持ちで見つめ、呟く。

 

「出来れば、安静にしておきたいけれど……」

「此処に留まるのは危険です」

「……うん、私もそう思う」

 

 ハナコの返答に、アズサは頷く。この爆発は何なのか、誰が行ったのか、どこから攻撃されたのか、一切不明。その事を考えると、このままこの場に留まるという選択肢はまず取れない。他に大きく出血している部位がない事を確かめ、ハナコは先生の頬に流れた血を指先で拭う。

 

「――ここまでやるというのですね……ナギサさん」

 

 誰からの攻撃なのか、何処から行われたのか、それらは分からない、しかし――意図的なのは明らかである。悪意を持った攻撃だ、補習授業部を害そうという意思を持った攻撃だ。実行犯が誰かは不明でも、その背後に居る――黒幕は明白だった。

 

「――面白くなってきたではありませんか」

「………」

 

 先生を見下ろすハナコの表情は影になって見えない。しかし、声に煮えたぎる様な感情が含まれている事を、アズサは感じ取った。それは、彼女にとって酷く馴染のある感情であったから。アズサの古巣では、その感情こそが全てであった。

 しかし、その言葉を真っ直ぐ受け取ったヒフミは表情を一変させ、叫ぶ。

 

「お、面白くって……こんなっ、先生が死んでいてもおかしくなかったんですよッ!?」

「えぇ、その通りです、正直全く以て笑える状況ではありません、言葉が悪かったですね――憤って来た、と云うべきでしょうか」

「こんなの……試験どころじゃないじゃん……!」

 

 コハルは呟き、涙を零しながら先生の腕を掴む。試験用紙は紛失し、それどころか筆記用具も消失した。バッグと愛銃が無事だったのは奇跡だった。そうこうしている内に、先生の手を握っていたヒフミは、その指先が小さく震えた事に気付いた。はっとした表情で、ヒフミは先生の顔を覗き込む。

 

「ぅ……ヒフ、ミ……?」

「っ、先生! 意識が――!?」

 

 先生が薄らと瞼を開け、口を開く。皆が先生の顔を覗き込み、涙目のまま安堵の笑みを浮かべた。

 

「せ、先生! よ、良かった……っ!」

「先生、私達が分かりますか? 痛みや吐き気などは……?」

「だ、いじょ……ぶ――みん、なも……――け、が、は……?」

 

 どこかもどかしそうに口をまごつかせ、苦笑を浮かべる先生。アズサはその様子から凡その事態を把握し、顔を顰め呟く。

 

「――舌が回らないのか」

「……頭部に強い衝撃を受けた影響、ですね――大丈夫です、安心して下さい先生、皆、無事ですから……!」

「と、取り敢えずこんな所、もう離れようよ!? もう試験とか云っていられないでしょ!? こんな危険な場所に先生を置いておきたくないしっ……!」

 

 コハルはそう叫び、先生の腕を抱えたまま周囲を忙しなく見渡す。地面を舐める炎、崩れ落ちる建物、どう考えても安全な場所などではない。その言葉にアズサは頷き、廃墟街の外を指差した。

 

「賛成する、攻撃してきた相手がいつ突撃してくるかも分からない、移動するべきだ」

「そう、ですね……急ぎトリニティに戻りましょう――!」

 

 ヒフミは告げ、ペロロバッグを背負い直す。地面に転がっていた愛銃を掴むと、表面に付着していた砂塵を払い退け――常よりどこか真剣な、挑む様な視線で周囲を睥睨し、叫んだ。

 

「――ハナコちゃん、先生をお願いします! アズサちゃん、先導を! コハルちゃんは私と一緒に先生とハナコちゃんの護衛をお願いします!」

「了解!」

「ま、任せてっ!」

 

 ヒフミの指示に、皆は一瞬の迷いもなく頷く。ハナコは先生の傍に屈み込み、その上体をそっと起こしながら問いかける。

 

「先生、今から背負います……腕を回せますか?」

「……も、ちろん」

 

 その表情は不安に塗れていたが、ハナコは努めてそれを裏に隠した。伸ばされた腕を肩に掛け、ハナコは静かに、しかし素早く先生を背負う。ハナコに背負われた先生は、懐に仕舞われたタブレットに視線を落としながら、そっと口を開いた。

 

「ひ、フミ……」

「は、はい、先生……!」

 

 声は小さく、震えていた。しかしヒフミはその声を捉え、振り返る。炎に照らされた彼女の表情は、いつもよりずっと大人びて見えた。大きな不安と焦燥を抱えながらも、しかしそれ以上の『何か』で上塗りしているような、そんな表情。

 先生の瞳が、少しだけ悲し気に絞られる。

 

「可能な、限り……ゲヘナ、との……交戦、は……避けて――」

「――分かりました」

 

 先生の言葉に、ヒフミは一も二もなく頷く。その言葉の意図が理解出来なくとも、先生の指示が間違う筈がないという信頼があった。考える事は後でも出来る、今は兎に角、動いて此処を脱しなければならない。

 アズサが噴煙を裂き、先導する為に駆け出す。先生を背負ったハナコが頷いた。ヒフミは愛銃の安全装置を弾き、コハルと視線を交わらせた後、告げる。

 

「出発しましょう……!」

 

 前を見据える彼女の瞳は何処か寒々しく、鋭かった。

 

 ■

 

「うっひょ~ッ! 凄い炎だっ!」

「芸術は爆発だ~ッ!」

「でも温泉は出て来なかったぞ?」

「うーん……もう少し下だったとか?」

「まぁ周辺は綺麗になったし、後は掘削で何とかするぞ!」

「りょうか~い!」

 

 盛大な爆発と、空まで立ち上る噴煙、その残滓に燥ぐ温泉開発部。爆発によって廃墟街は見るも無残な姿を晒し、朦々と立ち上る砂塵と地を這う炎は彼女達のロマンを大いに満足させた。黒焦げ、崩れ落ちた瓦礫の山と、中途半端に残った建物のフレーム。明かり一つ見えなかった廃墟街は、立ち上る炎によって今や昼の明るさを取り戻している。

 そんな結末を見届けた温泉開発部のひとりは――そっと、その場を離れた。

 開発に乗り出し、嬉々として瓦礫の撤去、地面の採掘を開始した温泉開発部は、彼女に気付く事がない。

 

「………」

 

 闇夜に紛れ、崩れ落ちた建物の中に、口元を覆っていた布と温泉開発部のヘルメット、腕章を剥ぎ取るや否や放り捨てる。途端、彼女の頭上にあったヘイローが捻じ曲がり――全く別の色、形へと変化した。

 今回の作戦にあたり支給された、『ヘイロー偽装装置』。それがどうやって作られたのか、誰が作ったのか、そしてどんな副作用があるのか。彼女達はそれを知らない。知る必要がない。

 腰に巻き付けていた衣服の中に潜ませたガスマスクを手に取った彼女は、そっとそれを被る。

 すると暗がりから、同じマスクを着用した生徒が顔を覗かせた。

 彼女は温泉開発部の装いをした生徒を一瞥し、そっと手に持ったコートを差し出す。白い、丈の長いそれを無言で受け取り、着込む生徒。その腕に付けられた腕章のマークは――アリウス。

 

「――首尾は?」

「……一帯を消し飛ばした、馬鹿と鋏は使い様だな」

「……そうか、なら任務は完了だ」

 

 報告を聞き届けた生徒が手を挙げ、頭上で二度、三度、円を描くように動かす。すると周囲の暗がりから、全く同じ格好をしたアリウス分校の生徒達が現れた。彼女達の一人が燃え盛る廃墟街に視線を向け、それから罅割れた端末を操作する。

 

「――此方チームⅠ、大規模な爆破誘導に成功、回収を請う」

『……此方CP、了解、チームⅡを回収に向かわせる、陽動作戦中のチームⅢ、チームⅣとデルタ地点で合流後、スクワッド待機ポイントまで撤退しろ、以上』

「了解、合流後ポイントまで撤退する、通信終了」

 

 指示を聞き届けた生徒は周囲に目を配り、一つ頷く。他の面々も頷きを返し、彼女達は廃墟街の外へと無言で駆け出した。しかし、温泉開発部に潜入していた最後のひとりがふと、足を止めて振り向く。

 彼女の視線の先には、炎の中で無邪気に温泉を求め活動する部員達の姿があった。笑顔で、何の躊躇いも憂いもなく、思うがままに振る舞う様。それを見て、彼女がマスクの奥でどの様な表情を浮かべたのか――それは定かではない。

 

「……ゼロフォー(四番)、どうした?」

「……いや」

「――潜入している間に、愛着でも沸いたか」

 

 どこか、吐き捨てる様な云い方だった。

 ゼロフォーと呼ばれた生徒が顔を向ければ、月明かりと炎に照らされた生徒――部隊長が此方を見ていた。その視線には、心なしか憐れみの色が混じっている様にも思えた。

 ごう、と。

 風に煽られた炎が唸りを上げる。

 向こう側から、温泉開発部の笑い声と、掘削音が響いていた。自分達の周囲は、こんなにも静かであると云うのに。その無邪気さが今は、何よりも羨ましくて、そして憎たらしかった。

 一時――ただの一時、あの中に混じっていたから、尚更。

 彼女は拳を握り締めると、顔を俯かせ、呟く。

 

 ――vanitas vanitatum, et omnia vanitas

 

 幼い頃からずっと繰り返され、教えられてきたこの世の真理。すべてに意味はなく、すべては虚しいもの。どのような喜びも、どのような悲しみも、どのような怒りも、どのような楽しみも、全ては無に帰す、無意味な代物なのだと。

 だから、考える事は無駄で。

 だから、感じる事も無駄で。

 ただ諾々と従い、動き、無意味に戦い、無意味に死ぬ――それで良い。

 そうやって生きて来た。

 それ以外の生き方を――自分達(アリウス)は知らない。

 

「……何でもない、行こう」

「……あぁ――それで良い」

 

 部隊長は強く、強く握り締めていた銃のグリップを、そっと離す。その指先が、引き金に掛かっていた事をゼロフォーは知っていた。横を通り抜け、駆け出すゼロフォー。その背中を見送り、部隊長は最後に温泉開発部を一瞥する。

 

「……無様なものだ、ゲヘナも、トリニティも――」

 

 そしてきっと、私達も。

 

 それが言葉として発せられる事はなかった。ただ、部隊長は手に持った銃を握り締め、炎に照らされた明かりの中で駆けまわる温泉開発部を一瞥し。

 仲間の背中を追って――暗闇の中へと足を進めた。

 


 

 ここからどんどん、苦しくなっていきますわよ。

 先生も、補習授業部も、ナギサも、ミカも、アリウススクワッドも、アリウスそのものも。

 自分の大切なものと、大切な居場所と、自身の信念の為に戦って、騙して、傷ついて、泣き叫ぶんですの。誰が間違っているとか、誰が善で、誰が悪だとか、そういう領域は疾うの昔に通り過ぎてしまっているんですわ。だからこそ先生は、そんな生徒達に寄り添うべく、必死に足掻いて抗って、傷だらけになりながらも皆を守ろうと立ち上がり続けて欲しいですわね……。うぅ、先生恰好良いよ……だからもっと血を流して……血を流すと先生は格好良くなって生徒が可愛くなるから……。

 

 エデン条約にて、セイアは第五の古則について語っていましたわね。

『楽園に辿り着きし者の真実を、証明する事は出来るのか』――彼女はこの問いかけに対し、帰還する者が居なければその存在を証明出来ず、帰還する者が居たらそこは楽園ではなかったと解釈していますわ。

 

『楽園に辿り着きし者の真実を、証明する事は出来るのか』

『出来ない――そして証明出来ないものを、人は信じる事が出来ない』

 

 これがナギサのスタンスですわ。ヒフミの心を、感情を、その善悪を証明出来ないのなら、信頼する事は出来ない。分からない事を人は恐れる。だからこそ証明が欲しい、目に見える形で示して欲しい、それを差し出される事によって安心したい、納得したい、信じたい。そして出来ないのなら、信じる事は出来ない。

 

 そして実はこれ、ハナコに関しても含まれているんですの。

 自分を信じているのなら、先生の秘密を教えて欲しい。目に見える形で証明して欲しい。そして先生の力になりたい――根本的にナギサと異なる点は、ハナコは証明できないという解を差し出された時点でも、先生を信頼しており、その根底は揺らがなかった。ナギサはそもそも、その問いかけ自体を拒んだ――という点ですわね。ナギサは、ヒフミにその問いを投げかける事すらしなかったんですの。

 因みにバッドエンドルートだと、ハナコもナギサ側に堕ちますわ。楽園なんて存在しねぇんですの、証明もクソもありませんわ、全員地獄を見ろエンドですの。まぁ先生がトリニティの為に、補習授業部の為に、生徒の為に奔走している傍らでその善意を利用した挙句ぶち殺したら、そりゃあもうハナコの真っピンクな心が真っ黒クロスケでダークサイドで、「下らないお遊びでしたね、ナギサさん」になりますわ。はー可哀そう、可愛いね♡ また先生が死んでおられるぞ。

 

 まぁでもまだまだジャブ程度ですから、セイアちゃんの夢見た未来を実現すべく、頑張って先生を苦しめますわ~! 正義実現委員会と補習授業部の夏休み……書くかどうかマジで悩みますわね……。ぶっちゃけ直ぐにでもミサイルぶち込みたい気持ちがありますが、海できゃっきゃうふふ♡ 夏の思い出、沢山、青春! からのミサイル着弾、先生手足もぎたて♡にーちゅ! 透き通る様な世界観で送る学園×青春×RPGが王道かなって……。



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昔日の面影、あの頃のアナタへ

誤字脱字報告、あ゛り゛か゛と゛う゛!!!
今回一万三千字です、長くてごめんあそばせ。


 

「はぁっ……はぁッ……!」

 

 駆ける。駆ける。ただ無心になって――駆ける。

 闇夜に紛れ、風紀委員会や他の生徒の目を掻い潜り、補習授業部はゲヘナ自治区を駆け回っていた。先生の指示通り、ゲヘナとの交戦、接触を避けトリニティへの道を逆走する。美食研究会の車――いや、正確に云えば給食部の備品だが――を使用して走破した道は、自身の足で駆けるとなると酷く長く、遠い道のりに感じられた。

 一時間と少し、なるべく近道を通り、かつ風紀委員の目を掻い潜りながら駆け続けた補習授業部は、漸く見覚えのある場所に辿り着いた。等間隔に並ぶ街灯、中央区と外郭地区を結ぶ唯一の道。

 

「大橋……! やっと見えた……っ!」

 

 ヒフミが呟き、全員が視界に入った大橋に安堵の息を吐き出す。単純な疲労もそうだが、ゲヘナに発見されないようにするという精神的重圧が、彼女達の額に汗を浮かばせていた。ハナコの背中でぐったりとする先生を見たコハルは、その背中を摩りながら不安げに問いかける。

 

「先生、し、しっかり……!」

「ぅ……あ、ぁ――私は、大丈夫、だよ、コハル……」

 

 唇に血を滲ませながら、先生は微笑みを浮かべる。徐々に呂律が回る様になってきている。しかし、未だ平衡感覚は取り戻せておらず、自分で走る事は困難だった。ヒフミは先生の様子に唾を呑み込みながら、大橋に向き直る。

 

「急ぎましょう、このまま真っ直ぐ橋を……!」

「っ――待て、ヒフミ」

 

 告げ、飛び出そうとするヒフミを止めるアズサ。彼女は強張った表情のまま、大橋を見ていた。一体どうしたのだとヒフミがアズサの視線をなぞれば、その先に装甲車が数台並んでいるのが確認出来た。そして、大橋を封鎖するように並んだその前には――ゲヘナ風紀委員会の面々が列を成している。手には銃を抱え、中央区側に向けて装甲車は機銃を構えていた。

 

「――検問だ」

「っ、そんな、こんな時に――……!」

 

 思わず、そう悪態を吐くヒフミ。握り締めた愛銃が軋みを上げ、ヒフミの視線が焦燥を帯びた。ハナコやアズサはじっと大橋を観察し、凡その戦力と動向を把握する。

 

「……美食研究会の皆さんと渡った時に、風紀委員会を爆撃したのが拙かった様ですね、あれは、かなり厳重な警備です」

「うん、装甲車に汎用機関銃が付いている、それが三台――これを突破するのは、大分骨だ」

 

 この橋を渡った際、風紀委員が爆破された為だろう。行きよりも厳重な警備は、彼女達が本腰を入れた事を示していた。心なしか、警備の風紀委員達も張り詰めた空気を醸し出している。アズサは眉間に皺を寄せたまま、どうやってこの大橋を突破するべきか思考を回した。

 しかし、現状の補習授業部でこの検問を突破出来るか――正直、かなり厳しいと云わざるを得ない。

 

「も、もう訳を話して通して貰うか、救急車を呼んで貰っちゃ駄目なの!? 先生、こんなに傷だらけで、相手がゲヘナでも、ちゃんと事情を話せば……!」

「………」

 

 コハルはアズサやハナコの放つ重苦しい雰囲気に、目前の大橋が突破困難なのだと感じ取った。先生の様子と現状を照らし合わせ、妥協案とも呼べるそれを叫ぶ。実際、先生の状態を見れば一も二もなくゲヘナに事情を話し、保護して貰うという案は決して悪いものではない。寧ろ、先生の無事を第一に考えるのであれば、それが最善手と云っても良い。

 しかし、ハナコはその言葉に何とも言い難い、葛藤の表情を浮かべた。

 自分だけならば、それでも構わない――しかし。

 

「……正直、私はその案に賛成出来ません」

「な、何でっ!?」

 

 呟くように、絞り出すように口にされたハナコの答え。それに、コハルは思わず噛み付く。アズサは苦悩するハナコの顔を一瞥し、呟いた。

 

「――トリニティに戻った際の処遇、か」

「……はい」

 

 アズサの吐き捨てる様な言葉に、ハナコは頷いて見せた。

 そもそもの話――このゲヘナ自治区で行われた第二次特別学力試験。事前に話がゲヘナに通っているのであれば、もっとすんなりと辿り着けた筈なのだ。しかし、ゲヘナ側に話が通っている様子はなく、挙句の果てに爆破される始末。

 この、ゲヘナ自治区に於ける第二次特別学力試験そのものがティーパーティー、延いてはトリニティ側の独断である事は明らかだった。その状態でゲヘナ側に保護を願い出る? それはかなりリスキーな選択だった。

 

「そもそも、救急車何て手配出来るのならば、既にされていて当然なんですよ……思い出してください、受験会場で聞いたナギサさんの言葉を」

「え? ――ぁ……」

 

 ――『一応、引き続きモニタリングはさせて頂いておりますので、その事をお忘れなく』

 

「つまり、今この状況――私達と先生がどれだけ追い詰められているのか、ティーパーティー……ナギサさんは知っていて、その上で黙認しているんです」

「っ……!」

 

 これは全て、意図されて起きたもの。ハナコの言葉に、ヒフミやコハルは息を呑む。もしそうならば、ゲヘナに保護を願い出た結果、自分達はどうなるのか。その後の展開を予想するのは、そう難しくはない。

 

「……仮にゲヘナ風紀委員会へと投降するとしましょう、恐らく先生は手厚く看護される筈です、しかし」

「――私達はどうなるか、分からない……って事ですよね」

「……はい」

 

 ヒフミの言葉に、ハナコは頷く。

 それが、自分だけならば構わないと考えた理由だ。

 ティーパーティー――ナギサは用意周到である。それでいて酷く慎重で、他人を疑い通す猜疑心に満ちた人物でもある。そんな彼女が万が一、補習授業部がゲヘナに確保された場合を考えていない筈がない。

 

「そもそも、この『第二次特別学力試験』というものが実施された事実は無かった……そんな事になれば、私達は深夜に無断でゲヘナ自治区に踏み入り、風紀委員会と銃撃戦を繰り広げた立派なテロリストとして扱われるでしょう――退学させる要件としては、十二分な【実績】です」

「は、はぁ!? な、なんで、そんな事する必要があるの……!?」

「彼女は私達を退学にさせたいのですよ、コハルちゃん――その為に、この補習授業部は作られたのですから」

 

 故に、最終的に『退学』という結果に行きつくのであれば、そこに至るプロセスは大事ではないのだ。

 謂れの無い罪を被せて退学にするも良し、他所自治区侵犯という罪で退学にするも良し――特別学力試験に落第させ、退学させるも良し。

 その中で議会を納得させるだけの説得力のある内容であれば尚よろしい。その点、エデン条約前というデリケートな時期に、ゲヘナへの無断侵犯、風紀委員会との交戦、先生の負傷は正に言い逃れ出来ない程の実績であった。

 

「……ナギサさんのホログラム投影装置も、あの榴弾も、爆発で消失しましたから、最早あの場で『試験があった』という物的証拠はありません、ティーパーティーが口を噤めば、簡単に事は済むんです」

「で、でも、私達が声を上げれば……!」

「補習授業部なんて落ちこぼれの一般生徒と、ティーパーティーのホスト(トリニティ総合学園の生徒会長)――どちらの発言に、学園は耳を傾けると思いますか?」

「あ、あうぅ……」

「そん、な……」

 

 ハナコの言葉に、ヒフミとコハルは言葉を失くす。

『ここまでやるのか』、ハナコが何故そう口にしたのか、二人は漸くその言葉の重みを理解した。二重、三重に張り巡らせた蜘蛛の糸。どれか一つにでも絡め捕られてしまえば、その時点で補習授業部は退学へと追いやられる。その手口一つ一つがナギサの、ティーパーティーの意思であり、どれ程自分達を追い込もうとしているのか、その本気具合が伺えた。

 

「……先生を巻き込んだのも、あわよくば――という裏返しか」

「断言は出来ませんが……補習授業部にシャーレの権限を組み込む為に、先生の助力が必要だった、しかしその先生が自身の方針に賛同しなかった――敵に回った先生、その影響力は、ナギサさんにとってさぞ恐ろしく思えたでしょう」

 

 先生を背負ったまま、ハナコは沈黙する彼を見る。先生は目を伏せ、ただ辛そうに歯を食い縛っていた。ふとすると、口の端から血を流しそうな程に強く。それが、物理的な痛みによるものではない事をハナコは理解している。

 

 補習授業部は皆、一般生徒の領域を出ない有象無象。ティーパーティーというトリニティに於いて絶対的な権力を有するナギサから見れば、正に取るに足らない存在だろう。その潜在的な能力や才覚(不穏分子としての性質)を警戒していても、現状、すぐさま何かを、誰かを動かすような力は有していないのだ。

 ナギサ本人がそう思って居なくとも、他の生徒はそういう風に(肩書を)見る。

 しかし、先生は違う。彼が声を上げれば、多くの学園、生徒が耳を傾けるだろう。連邦生徒会という後ろ盾を持ち、数多の実績を持つシャーレの名はキヴォトス全域に知れ渡っている。

 恐ろしい筈だ、味方にすればこれ以上ない程頼れる程の大人、しかし敵に回ればその脅威度は未知数。ならば、自身の手を汚さずに他学園に罪を擦り付ける――そんな方法を考えてもおかしくはない。

 

 ――或いは、そこまでやるつもりはなかったのか。

 

 ハナコは嘗てのナギサを思い浮かべながら、そう思考する。彼女の本当の思惑は分からない、しかし現に自分達は先生ごと爆破され、窮地に陥っている。既に賽は投げられたのだ、結果的に『そういう風に考えられてしまう』のだ――それが正しかろうと、間違いであろうと。

 それを理解した上で、こういった選択を選んでいるのであれば。

 ナギサは、先生の、その善意すらも利用するだろう。

 

 ――先生はきっと、ナギサのその悪行を口外しない。

 

 ハナコはそう、確信していた。

 先生とナギサは、恐らく議論を重ねた筈だ。そして先生は自身の信条を、目指すところを明確に口にした。先生のスタンスは、遍く生徒に救いの手を差し伸べる事。誰も切り捨てず、皆の笑顔を望む在り方。

 そして――皆の中に、『ナギサ』も居る。

 仮にゲヘナに保護されようと、ナギサの不利になる様な事を口にしない。その確信があるのだ、彼女は。だからこそ、このような暴挙に踏み切った。

 そういう風にも、考える事も出来た。

 無意識の内に、ハナコは歯を食い縛る。

 

「――ハナコ、どうする、迂回するのか?」

「そんな悠長な事していて大丈夫なの……もう、時間が――!?」

「………」

 

 アズサの言葉に、思考の沼へと沈んでいた彼女は意識を浮上させる。

 ハナコは腕時計を見下ろす。時刻は既に払暁に迫っていた。もう少しすれば、薄明へと至るだろう。夜明けだ、そして完全に朝が来る前にトリニティへと帰還できなければ、どちらにせよ補習授業部は窮地に追いやられる。

 約束の時間までに、試験を終えて戻って来て下さい――そうナギサは口にしていた。

 その約束の時間とは、恐らく『合宿の授業開始時間』までに、という事だとハナコは考えた。その時間に間に合わなければ欠席と見做し、『サボタージュ』として処理する。それだけで退学という事はならないだろうが、『合宿中にサボタージュが見られた為、内申点で試験結果から十点差し引きます』――何て手を使って来ないという確信はなかった。責められるべき点は、限りなく失くさねばならない。

 先生の容態からしても、時間を掛ける事は悪手に思えた。ましてや相手はゲヘナ風紀委員会――他の騒動が収拾すれば、自然と警備も厚くなる筈だ。

 

 時間は敵だった、少なくとも今、この時に於いては。

 ハナコはあらゆる可能性を検討する。そして、その中で可能性が高く、かつ時間を掛けない策は――一つしかなかった。

 

「――アズサちゃん、お願いがあります」

「………」

 

 ハナコはアズサに向き直り、神妙な顔でそう告げる。どこか、腹の据わったそれを向けられたアズサは――事、戦闘に特化させたその思考を巡らせ、ハナコと同じ解を導き出した。数秒、視線を交わし合った二人。アズサは少しして視線を落とすと、静かに頷く。

 

「何となく分かった、うん、大丈夫――任せて」

「……ごめんなさい、アズサちゃん」

「気にしなくて良い、それが一番確実で、安全な筈だから」

 

 告げ、アズサは愛銃の弾倉を検める。出発してから一度も使用しなかったそれは、満杯のまま。背負っていた背嚢から手榴弾やら即席爆弾を取り出すアズサを、残りの二人は目を白黒させながら見つめる。

 

「な、何するつもり……?」

「アズサちゃん……?」

 

 何の具体的なやり取りもなく、行動を決定した二人。コハルとヒフミからすれば、訳が分からなかった。弾倉を嵌め直したアズサは、大橋を見つめながら言葉を紡ぐ。その体は、いつも通り、どこまでも自然体だ。

 

「――私が大橋に突貫して、囮をする、その間にヒフミ達は先生と向こうに渡って」

「そ、そんな!?」

「む、無茶でしょ、そんなの!?」

 

 アズサの言葉に、二人は思わず声を荒げる。少なくとも風紀委員会の規模からして、たった一人で相手取れる戦力ではないと確信している。これが不良程度ならばまだしも、装備も練度も熟達した風紀委員会が相手なのだ。

 

「囮って、向こうはあんな大勢で橋を封鎖しているのに……!」

「ゲリラ戦は得意だ、問題ない……それに、多分これが一番確実な方法だ」

 

 回り道をする時間は惜しい、しかし強行突破は難しい。

 なら、誰か一人を囮に、残りが橋を渡るという方法が最も安全かつ迅速である。

 万が一アズサが失敗して、時間内に学校へ戻れなくとも――補習授業部全員ではなく、あくまでアズサ個人の失態として切り抜ける事が出来る。

 補習授業部の落第云々は連帯責任の為、万が一彼女の試験に支障が出てしまえば落第の危機はそのままであるが――補習授業部全員が吊し上げられるよりは、余程良い。

 

「私の事は気にしないで、トリニティに帰還してくれ、こっちはひとりで何とかする」

「で、でも……ならせめて、私も――!」

「いや、単独の方が攪乱には向いている、それに万が一部隊を分けられたら、突破する為の戦力も残しておかないと」

 

 告げ、アズサはヒフミを見る。全員がアズサを追跡してくるかは、正直怪しい所だ。最初に煙幕を投げ込み、手持ちの手榴弾やら何やらを全て投げ込み、然も複数人で行動しているかのように見せかける必要がある。装備としては不足も良いところだった。しかし、いつもアズサはそうやって戦ってきた。手持ちの武装、使える条件、それで切り抜けるしかない。ならば適役は――ゲリラ戦を学んだ己をおいて他にない。

 

「――それじゃあ行って来る、先生をお願い」

「……ぁ」

 

 そう云って、アズサはヒフミの横を通り抜ける。いつも通りの仏頂面で、しかしどこか強い戦意を湛えた瞳で。ヒフミは咄嗟に何かを云おうとした。それが何であるのか、彼女にも分からなかった。でも、このまま行かせてはいけない様な気がして――。

 

「っ――?」

 

 けれど、ヒフミが何かを口にするより早く、アズサの腕を横合いから伸びた手が掴んだ。

 

「……先生?」

「だ……」

 

 ハナコに背負われていた先生が、その脇を通り過ぎようとしたアズサを掴んでいた。血と砂利に塗れ、力ないそれにアズサは目を見開く。先生は、顔を歪めたまま強く、息を吐き出すように云った。

 

「駄目、だ――アズサ……」

 

 アズサの腕に、先生の熱が伝わる。弱々しい力だった、簡単に振りほどけてしまう程の力だった。けれど、アズサは自身を掴む先生のソレに手を重ねながら、困ったように目を伏せ、告げる。

 

「……でも先生、他に選択肢は――」

「大丈、夫」

 

 アズサの声を遮って、先生は告げる。大丈夫、と。アズサは先生の瞳を見た。負傷しながらも、決してその輝きを失わない瞳を、真っ直ぐ。

 

「私には、頼りになる……生徒が、沢山、いるからね……!」

 

 それは、何かを確信している様な云い方だった。「何を――」アズサがそう云おうとして、大橋で唐突に爆発が巻き起こる。かなりの規模で、爆風が離れたヒフミ達に届く程の一撃。然もすれば、大橋が落ちてしまうのではと思ってしまう程の威力であった。

 真下の水面が大きく揺れ、波が生まれる。夜空を明るく照らし、煌々と燃え盛る炎に目を取られながら、補習授業部の面々は爆風に髪を煽られながら叫んだ。

 

「っ、な、何ですか!?」

「きゅ、急に爆発が……!?」

 

 ■

 

「――ふーッ……」

 

 彼女は特徴的な狐面を指先でなぞりながら、深い、深い息を吐いた。突貫させた軽装甲車――スラム街で鹵獲したそれに、ありったけの即席爆弾を搭載させた車両運搬式即席爆発装置(Vehicle Borne IED)は見事、大橋を封鎖していた風紀委員会のど真ん中に突貫し、炸裂した。

 盛大な爆発に並んでいた装甲車は軒並み大破、列を成して警戒していた風紀委員諸共吹き飛ばし、たったの一撃で半数以上の委員が行動不能となる。その光景を見て尚、彼女の気分は全く晴れない。

 何かを破壊する事は好きだった、その混沌こそを愛おしく思っていた。けれど、それはあの方の存在を知らなかったからこそ。

 吹き上がる炎に照らされながら、装甲車の残骸の上に立つ彼女は愛銃(真紅の災厄)を肩に担ぎ、呟く。

 

「あぁ、全く以て……憎たらしい」

 

 声は、風紀委員会に対して発せられたものではなかった。どちらかと云えば自分自身、内側に向けられたものだ。苛立ちを紛らわせるように二度、三度、装甲車を踏みつけ甲高い音を鳴らす彼女は、地面に這い蹲る風紀委員会を見下ろす。

 

「その身を傷付けるあらゆる全てから御身を御守りしたいというのに、指を咥えて見ている事しか出来ないなんて……これが、あなた様の歩む道の一端と知って尚、この、胸に蠢く憎悪が止まらず――嗚呼、何て罪な御方」

「な、何だ、お前は……!?」

 

 辛うじて爆発から逃れた風紀委員の一人が彼女――ワカモを見上げ、叫ぶ。炎の中で佇む、和装の少女。その存在感は異質であり、風紀委員会の面々は彼女の持つ独特な気配に気圧されていた。

 問い掛けに答える事無く、ワカモは視線一つ寄越さずに、声を発した生徒に銃口を向ける。

 

「――ひとつ」

「いぎッ!?」

 

 そして、余りにも無造作に引き金を引いた。

 弾丸はワカモから一番近場に居た風紀委員に着弾する。胸元に一発、射撃を受けた風紀委員はもんどりうって倒れ、ワカモは炎上する装甲車から飛び降りると、胸元を抑えたまま苦痛に呻く風紀委員を足蹴にした。

 

「ぐ――なん、何だッ……!? 一体、何の目的で――あぐぅッ!?」

 

 肩に足を掛け、地面に相手を押さえつけたワカモは、その額に銃口を突きつけながら、酷く――淡々とした口調で告げた。

 

「ひとつ……良いですか、良く、良く聞いて下さい? ひとつだけ、絶対に理解しなければならない事があるのです、どんな馬鹿にでも理解出来るように、簡潔に教えて差し上げますから、あの方は今、怪我をしているのです、怪我、怪我です、分かりますか? 血を流しているのですよ、その尊い御身体から、これは大変な事です、直ちに清潔な場所で治療を受けて頂かなければならないのです、あの方は絶対なのです、分かりますか? 分かりますよね? ――分かりましたと云いなさい」

「―――」

 

 声は淡々としていたが、その中に含まれる感情は激烈で、苛烈で、強烈だった。絶対的な意思と、武力行使すら厭わない鋼の様な覚悟。間近でそれをぶつけられ、何度も足蹴にされた風紀委員は軈て白目を剥き、そのまま意識を手放す。気絶したと理解したワカモは、銃口を額から離し、鼻を鳴らした。

 

「……あの方と私の道を塞ぐ者は、誰であろうと容赦しません」

「っ、たった一人で――風紀委員を舐めるなッ!」

 

 爆発から立ち直った風紀委員の一人が叫び、ワカモに向けて発砲した。乾いた銃声が周囲に響き、ワカモは自身の頭部目掛けて放たれたそれを、半身になる事で避ける。空間を穿ち、夜空へと消えて行った弾丸の軌跡を目で追いながら、ワカモは愛銃を構えた。

 

 ――或いは、あの狼も……こんな心地であったのでしょうか。

 

 先生が傷付く姿を、特等席で眺め続ける苦痛。それが先生の望まぬ事であると理解していても、手を伸ばさずにはいられない。どれ程希っても、叫んでも、懇願しても、彼は決してその足を止めないだろう。

 その在り方を美しく思う、善き在り方だと思う、正しく聖人の如き道筋だと。

 けれど――その苦痛を想う度、目にする度、心が壊れそうになる。

 

 あの銀狼と自身の在り方の違い、それは――手を汚す事が出来るか否か。

 

 彼女はきっと、最後まで躊躇った。彼女が手を汚すと決めた時には、全てが遅かったのだ。先生が居なくなってから巻き返そうとしても、それはもう意味が無い。彼女にとって、守るべきものが複数あるが故の弊害だった。あの銀狼は、アビドスという場所に執着を持っていた。

 

 しかし、自身は違う。

 先生以外は全て塵芥、どうなろうと知った事ではない。

 重要なのは、先生と自分が幸福な結末を迎える事。故にワカモは、その手を汚す事を躊躇しない、迷わない。先生に尻尾を振るだけの存在ではないのだ、必要があれば――先生すらも優しい嘘で騙し、その身を守る決意がある。

 醜悪な厄災は、闇の中で蠢く。闇は、優しいものだ。その醜さも、悍ましさも、平等に包み隠す寛容さがある。

 だから一時、ほんの一時、先生の目を手で覆うのだ。その尊い(まなこ)を優い闇で覆い、ワカモはその間に全ての外敵を取り払おう。たとえ相手が――先生にとって大切な生徒であっても。

 

 ――先生はワカモを愛してくれる(私を嫌わない)筈だから。

 

「たとえ、地の獄、その果てであろうとも」

 

 愛銃を構え、彼女は告げる。

 唯一無二にして、絶対不変の想い()を。

 此処に。

 

「この身、この心は――全て、あなた様の為に」

 

 ■

 

「よ、良く分かりませんが、何やら戦闘が……!」

「い、今がチャンスなんじゃないの!?」

 

 大橋の只中で始まった、唐突な銃撃戦。巨大な爆発が起こったと思えば、現れた人影は風紀委員会と交戦に入った。ヒフミとコハルは突然の事に困惑しながらも、橋を突破するにはチャンスだと考えた。ハナコは戦う狐面の人物を見つめながら、背負った先生に問い掛ける。

 

「先生は、これを読んで……?」

「読んでいた、訳じゃ、ないよ……本当、なら――巻き込みたくは、なかった……でも」

 

 彼女なら多分、来てくれるだろうなとは思った。

 そう、苦笑と共に呟かれるそれに、ハナコは口を噤む。しかし、それが実際好機である事に変わりはなく、アズサとハナコは視線を通わせ互いに頷いて見せた。

 

「……行きましょう! アズサちゃん、先導をお願いします!」

「分かった――!」

 

 叫び、アズサは大橋へと駆け出す。その後にハナコも続き、ヒフミとコハルも慌てて後を追った。銃撃戦は激しく、大破した装甲車は丁度橋を区切る様にして横転していた。立ち上る噴煙が、補習授業部の姿を隠す眼晦ましとなっている。

 

「コハルちゃん、私達は殿を!」

「う、うん……!」

 

 万が一気付かれた場合に備え、ヒフミとコハルはハナコの後ろに付く。狐面の少女は時折懐や袖口から、やけに時代掛かった煙球をばら撒いていた。それらは大破炎上した装甲車の噴煙に混じり、より一層周囲を覆い隠す。一瞬だが、その煙球には狐のイラストが描かれていたように見えた。

 

「―――」

「……っ!」

 

 銃撃戦の最中、煙の中を縫う様にして駆けるヒフミと、ワカモの視線が重なる。直ぐ横で、風紀委員会が叫んでいた。銃声が轟き、マズルフラッシュが周囲を照らす。

 それでも、彼女達は自分達に気付かない。まるで補習授業部の動きを読んでいるかのように、狐面の少女は風紀委員会の視線を誘導しているのだ。煙に紛れ、出現し、これ見よがしに発砲する。まるで、自分は此処だと叫ぶように。

 ヒフミは間近で見た彼女の姿に確信する。

 

「やっぱり……あの時の――!」

「し、知り合いなのヒフミ……!?」

「知り合い、と云えるのかどうかは分かりません……でも――」

 

 脳裏にアビドスでの出来事が過った。先生とアビドスが挑んだ、正体不明の巨悪。表ではカイザーコーポレーションの仕業という事になっているが、それだけではない事をヒフミは知っている。あの時も彼女は確か、アビドスに助力し先生の身を守っていた。

 だから恐らく――今回も。

 

「あの子は、シャーレの、生徒……だよ」

「シャーレ、という事は……」

「味方か」

 

 ヒフミの疑問に答える様に、先生が呟く。アズサの視線は、未だひとりで風紀委員会を相手取る狐面の少女――ワカモを捉えていた。

 

「……見捨てる様で心苦しいが、今の内に渡り切ろう、今は先生が最優先だ」

「う、うん……!」

「そう、ですね……」

 

 数々の自治区で暴れ倒し、単独で逃走を続けられたその手腕は伊達ではない。彼女に限っては、イオリやチナツと云った面子で組織した風紀委員会からも逃走出来るだろう。その信頼を込めて先生がワカモに視線を向ければ、彼女もまた夜空を舞う様に駆けながら、一瞬先生に目を向ける。

 

「――ワカ、モ……!」

「――あなた様、どうか御無事で」

 

 声は届かなかった。しかし、二人の想いは確かに通じ合っていた。

 仮面の奥で薄らと笑みを浮かべたワカモは、去り行く先生の背中を見送り――再び戦火の中へと身を投じた

 


 

 トリニティ自治区、ティーパーティー、テラスにて。

 ただひとり、目前でホログラムを見つめるナギサは、強かにティーテーブルを叩いた。ソーサーとカップが弾け、甲高い音を鳴らす。零れ落ちた紅茶がテーブルクロスを汚し、ナギサは強くそれらを握り締めながら呟いた。

 

「どういう……事ですか――」

 

 視線の先には、爆発から辛うじて逃れ、負傷した先生を担いで撤退する補習授業部の姿。彼女達を追跡する為に飛行させている無人航空機(UAV)、その下部に取り付けられている高性能カメラは、ゲヘナ自治区で行動する補習授業部を確りと捉えていた。

 

「確かに、温泉開発部に位置情報を伝える様に申し伝えました、しかし……あの様な大規模な爆発など――ッ!」

 

 思わず口汚く罵りそうになり、辛うじて言葉を呑み込む。ミレニアムサイエンススクールから秘密裏に入手したUAVは、相変わらず高精度に補習授業部を映し続ける。他にも低空飛行用の小型ドローンの映像を表示させ、先生の負傷具合と補習授業部の疲弊を測る。致命傷――ではない様に見える。しかし、それが何の安心にも繋がらない事をナギサは知っていた。

 

 ――今からでも救護騎士団を手配すべきか? 

 

 ふと、そんな考えが脳裏を過った。しかし、これで救護騎士団を率いてゲヘナ自治区に赴けば、エデン条約に支障が出るかもしれない。

 いや、十中八九大事になる事が目に見えていた。

 ゲヘナ側に承認を得ていない、自治区の侵犯、及び温泉開発部を利用した爆破行為。また彼女達の起こした戦闘行為全般――翻って、それらはティーパーティー、延いてはトリニティ側の過失となる。条約前に弱みを見せる――論外だ。どのような不平等を吹っ掛けられるか分かったものではない。

 

 一番の問題は、先生がこれらの騒動を外部に公表する可能性であった。補習授業部の生徒が幾ら騒いだところで、彼女達は所詮一学生の身に過ぎない。何の公的権力も、影響力も持っていない。それらを握り潰す事は、そう難しい事ではなかった。

 しかし、先生は違う。

 シャーレという肩書、連邦生徒会という後ろ盾、積み重ねた実績。その先生が今回の件を糾弾すれば、ナギサはその権威の全てを喪うだろう。ティーパーティーの権威は失墜し、トリニティは大きく揺れるに違いない。

 

 けれど――先生がその様な事を望むのか。

 

 ふと、ナギサの理性が囁いた。それは先生と直に向き合い、言葉を交わしたナギサの経験から来る直感であった。

 先生は、最後まで自身の誘いに首を縦に振らなかった。彼の理想は単純だ、『全ての生徒を救いたい』、『全ての生徒を笑顔にしたい』――そして、非常にお優しい事に、その【すべて】の中に自分が含まれている事を、ナギサは知っていた。

 

 先生は決して口外しない――彼と議論を交わし、互いの主義主張を張り合ったナギサはそう確信している。

 そしてナギサは、その事実に安堵している自分を自覚した。

 

「……ッ!」

 

 思わず、唇を強く噛んだ。血が滲む程に、強く。

 それは、誰がどう見ても下劣な行いであった。人の優しさを、善性を利用する――決して許されぬ、外道の行いだ。その自覚を持った時、ナギサは自身の心が軋む音を聞いた。事、此処に於いてナギサは、自身の目的の為に、人の優しさや善性、もっと云えば大切な想いすら踏み躙ったのだ。或いは、これまでもそういった事があったかもしれない。しかし、どこまでも真摯に、真っ直ぐ向けられたそれを自ら踏み躙ったと理解したときの衝撃は、これまでにない程の葛藤を彼女に抱かせた。

 

 ――しかし、それでも彼女は止まれない。

 

 自身の持てる全てを捧げ、何とか形を成したエデン条約。この締結は、絶対に為さなければならない大事。

 テーブルクロスを握り締めたまま、ナギサは目前のホログラムを見つめ、呟く。

 

「……私がセイアさんと同じ末路を辿れば――今度こそ、ティーパーティーは崩壊する」

 

 それは、誰にあてた言葉でもない。強いて云うのならば、自分に云い聞かせる言葉だった。

 今、ホストとして立っているのはナギサだ、しかし元のホストはセイアだった。彼女が暗殺されたからこそ、自分は今このポストに立っている。謂わばナギサは、仮初のホストなのだ。

 そして、順当に考えるのならば、次の暗殺対象になるのは――セイアのポスト、ティーパーティーのホストという椅子に座った、自分だろう。

 暗殺の実行犯、及びその黒幕は未だ見つかっていない。そして、万が一自分が死ねば――次の標的は、幼馴染のミカ。

 

「っ……!」

 

 その未来を思い描き、ナギサは歯を食い縛る。絶対に、そんな事はさせない、そう想い、願い、行動してきた。けれど万が一、億が一、どれ程の備えと慎重を期して尚、自分が斃れてしまった時は――。

 自分が死ぬ事になったとしても、最低限トリニティを運営していけるだけの形にはしておかなければならない。

 だってあの子(ミカ)は本来、政治的な駆け引きだとか、知略だとか策謀だとか、そういう一面とは無縁の子だったから。故に、セイアも自分も居なくなれば、トリニティの舵取りに苦労する事は目に見えていた。

 その負担を、少しでも軽くする為に――ゲヘナとの関係がリセットされれば、外に向けていた目を内に向けるだけで良くなる。これさえ、エデン条約さえ締結してしまえば、最悪、自分が暗殺されても……ミカが居れば、トリニティは崩れない。

 彼女と自分は幼馴染だった、けれど三派閥の長としての立場がある。おいそれと手を取り合う事は出来ない。だから、これは自分が果たさなければならない責務。

 

 幼馴染の負担を少しでも減らす為に。

 トリニティという学園を守る為に。

 そして、生き残る為に。

 

 大切な友人(阿慈谷ヒフミ)を切り捨て。

 善き大人(シャーレの先生)の信頼に背き。

 ホストとして在るべき姿を踏み躙った(差し出された手を無情にも払った)

 

 それでも、自分が切った手札は――間違いではない筈だ。

 そう、自分に云い聞かせる。

 紅茶のものではない染みが、テーブルクロスに滲んだ。

 頬を伝うそれをそのままに、ナギサは呟く。

 

「私の手は……全てを抱えられる程、大きくはないのです……!」

 

 声は震えていた、此処に誰も居なくて良かったと、ナギサは心底そう思った。

 こんな姿を部下や友人、ましてや幼馴染に見られなくて。

 自分の大切な居場所を。

 大切な幼馴染と、愛すべき我が母校を守るために。

 同じ量の、【大切なもの】を切り捨てる――こんな惨めな自分の姿を。

 

「ふ……ふふっ……――」

 

 思わず笑った。それは嘲笑だった。自分自身に対する、(あざけ)りだ。

 大切なものを守るために、大切なものを犠牲にする、その在り方に彼女は失望した。

 こんなものは、自分の望んだ未来ではない。自分が成りたかった存在ではない。けれどもう、どうしようもない程に――この足は進んでしまったのだ。

 両目から滴り落ちる涙が、純白に濁りを齎していた。ティーテーブルに伏したまま、彼女は呻いた。

 

「なんて……なん、て、無様な――!」

 

 声は、夜空に響く。

 けれど、誰に届く事もない。

 

 もう直ぐ――夜明けだった。

 

 ■

 

 何か自分で書いていて心がしんどくなったんですけれど……この子達、これからまだまだ苦しくなるんですの? これでエデン条約の序盤なんですの? もう十分苦しんでいる感あるんですけれど、ここから二段、三段と苦しみのボルテージが上昇していくんですの? 地獄では???

 いや先生は別に良いんですの、幾らでも苦しんで頂いて結構です。でも生徒が涙を流して苦しんでいる場面を描くと、こう、心がキュッってなるんですわ……。先生の手足千切れて泣き喚く生徒を見ていると胸がポカポカするのに、真剣に頑張って頑張って、涙を流しながらも歩こうとしている生徒を見ると、何かこう、形容出来ない寂しさや虚しさ、「頑張って」というエールと、「もう良いのでは」という慰めの言葉が同時に浮かぶのですわ……。

 

 はーつら……こういう頑張り疲れた子をデロデロに甘やかして、信頼を勝ち取って、愛を深めて、そして目の前で首を吊って死んであげてぇですわねぇー……。命のストックって何で一つしかねぇんですの……? バグでは?



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百折不撓

誤字脱字報告ありがとうございます。
ちょっとストーリー見て死んでおりました。


 

「はぁ、ふぅ……! な、何とか、戻って来る事が出来ましたね……!」

「えぇ……」

 

 合宿所、ロビー。室内へと踏み入った補習授業部は、全員が疲労感を滲ませる深い息を吐き出した。もう直ぐ日の出という時間帯、空が微かに白み始め時刻は早朝に近しい。背負っていた先生をロビーに設置された長椅子へと座らせたハナコは、その肌に付着した砂塵を指先で拭いながら、コハルに声を掛けた。

 

「一先ず先生は此処で安静に――コハルちゃん、部屋にあった救急箱を持って来て貰えますか?」

「あ、う、うん……待ってて!」

「アズサちゃんは念の為、引き続き周囲の警戒をお願いします」

「……分かった」

 

 合宿所へと戻って来たにも関わらずハナコは張り詰めた空気を放ったまま、そう告げる。アズサはハナコの言葉に頷き、愛銃を抱え合宿所入り口に立った。彼女も、道中の鋭い気配を保ったままだった。それを見たヒフミが困惑した様な目を向け問いかける。

 

「け、警戒って、ハナコちゃん、此処はトリニティの合宿所で――」

「――申し訳ありませんが」

 

 そんな彼女の声を掻き消すように、ハナコは強い口調で断じた。

 

「あの様な手段を用いて来た時点で、私はこの合宿所ですら安全ではないと考えています――元々此処は、ティーパーティーの用意した場所ですから」

「それは……そうですけれど」

「……ごめんなさい、ヒフミちゃん、私もトリニティ内で仕掛けて来る可能性は低いと思っています、けれど決してゼロではないんです」

「ヒフミ、ハナコの云う通りだ――此処はもう、無条件で安心できる場所じゃない」

「っ……」

 

 ハナコはどこか、申し訳なさそうな表情を浮かべる。それが彼女にとっても苦渋の決断である事は明らかであった。そして続くアズサの言葉に、ヒフミは思わず目を伏せる。自身のホームではある筈が、最早その場所でさえ安寧を確信出来ない。その事実に、強い悲しみを覚えたのだ。

 

「……ありがとうハナコ」

「いえ……」

 

 ハナコに付着していた汚れを拭われていた先生は、そっとその手を取って礼を告げた。不安の色を覗かせたまま、ハナコは首を緩く振る。

 

「ご気分は如何ですか? 吐き気や頭痛、めまい、手足のしびれ、他に痛みを感じる場所などは――」

「大丈夫だよ……あの症状も一時的なもので、今は随分良くなったんだ」

 

 そう云って、緩く笑う先生。今は受け答えもはっきりし、覚束ない足取りも随分とマシになった。歩く事も、走る事も出来るだろう。

 

「ほ、包帯、解きますね、先生……!」

「ごめん、頼むよ」

 

 先生の傍に駆け寄ったヒフミは、その頭部に巻かれていた包帯に手を掛ける。砂利と血に塗れたそれは、残念ながら清潔であるとは言い難い。幸い出血は止まっていた、今必要なのは消毒だろう。包帯を巻き取りながら、ヒフミの表情は徐々に暗く淀んでいく。取り外された包帯、そこに付着した血を見つめながらヒフミは恐る恐る問いかけた。

 

「あ、あの、何なら救護騎士団の方を呼んだ方が――」

「それは……」

「今は、駄目だ」

 

 ヒフミの言葉にハナコが云い淀み、先生が断言した。アズサが、何かを云いたげに口を開く。

 

「先生、だけど……」

「私の負傷が外部に漏れたら、最悪学園間での対立にも発展しかねない……今は、特にこんな時期には、外部の介入を許す理由を作りたくないんだ」

 

 声はハッキリしていた、故にそこに含まれた感情も明確に伝わっていた。ヒフミとアズサは顔を見合わせ、ハナコは真っ直ぐ先生を見つめる。先生の手を握り締める彼女は屈み、視線を合わせながら強い口調で問いかけた。

 

「――こんな仕打ちを受けて尚、ティーパーティーを庇うのですか、先生」

「……当然だよ」

 

 ハナコの声には、隠しきれない怒りが込められている。それが自身に向けられているものではないと先生は理解していた。しかし、それでも尚先生はハナコの目を真っ直ぐ見つめ返し、告げる。

 

「彼女だって、私の生徒だ」

「………」

 

 ハナコはそんな先生を、酷く複雑な表情で見つめていた。先生の手を取る彼女のそれが強く握り込まれる。

 そうだとも、きっとそう云うだろうとハナコは予測していた。そして残念ながら、その意思を曲げるだけの材料を彼女は持ち合わせていない。目の前の先生が、傷付きながら、傷付ける相手を庇うその姿を見ているしかない。

 ハナコの握り締めていた手が、軋む。

 

「救急箱、持ってきたよ……!」

「――ありがとうございます、コハルちゃん」

 

 コハルが息を切らせ、部屋に備え付けられていた救急箱を抱えて戻って来た。

 ハナコは先生から視線を切り、一度大きく深呼吸をする。その後コハルに礼を告げ、先生の手をそっと離すと、コハルから救急箱を受け取った。彼女は手際良く救急箱から必要なモノを取り出すと、ガーゼに消毒液を沁み込ませ先生の傷口に近付ける。

 

「……少し沁みますよ、先生」

「うん……っ――!」

 

 答え、目を閉じた先生の顔が苦痛に歪む。傷口に押し当てられたガーゼ、心なしか必要以上に強く押し込まれている様にも感じた。彼女なりの抗議なのかもしれないソレを、先生は甘んじて受け入れる。

 

「それで、先生は大丈夫なの……?」

「えぇ、見た限り出血は止まっていますし、細かな傷はありますが大きな怪我は見受けられません――頭部の傷も派手に切ってはいますが、それだけです」

「そ、そっか……! 良かったぁ……」

 

 その言葉に、コハルは大きく安堵の息を漏らした。何はともあれ、今直ぐ命に関わる様な怪我ではない。その言葉は彼女を安心させるには十分だった。

 

「問題は、見えない傷の方ですね……」

「脳や内臓の方だな」

「――はい、本当ならば、今すぐ精密検査を受けるべきです」

「大丈夫……体の中身も無事さ、多分ちょっとした脳震盪だよ」

「……何故、そう云い切れるのですか?」

「あー……実体験かな」

 

 先生の何気ない、呟く様なそれを聞いた瞬間、ハナコは思わず顔を歪ませた。彼女の脳裏に過るのは、あの夜に見た傷だらけの肉体。先生は意味を理解しているのがハナコだけだと知りながら、淡々とした口調で云った。

 

「……内側をやられるとね、もっと酷いんだよ、色々と」

「それは……しかし、自己判断で済ますのは聊か――」

「大丈夫、後でちゃんと診てくれそうな子を呼ぶから」

 

 先生がそう云って微笑むと、アズサが心配げな表情で尋ねた。

 

「誰か、伝手が?」

「一人だけ――絶対バレずに来てくれそうな子がね」

 

 先生の脳裏に、一人の生徒が思い浮かぶ。彼女は自分に助けが必要な時はいつだって、唐突に現れるのだ。誰にもバレずにという点で云えば、恐らく一番信用が持てる。治療する手段があると伝えられた生徒達は顔を見合わせ、問いかける。

 

「えっと、それじゃあ、私達に出来る事は……」

「後は本職の人に任せて問題ないよ、包帯も巻かなくて良い――色々、心配を掛けたね」

 

 ヒフミの問いかけに、先生は頷く。こうして此処まで運んで貰い、応急処置をして貰っただけで十分だ。

 これは感覚的な話ではあるが、実際大した傷ではないと先生は感じていた。本当に危険な時は、こんな風に座ってすらいられなくなる。その言葉を聞いたハナコは暫く沈黙を守っていたが、「分かりました」と小さく呟き、仕方ない人を見る様な目を先生に向けた。

 

「信じます、先生」

「あぁ――ありがとう、ハナコ」

 

 先生はハナコが抑えていたガーゼを、代わりに指で押さえつける。それを見た彼女はそっと手を引き、立ち上がった。

 

「先生が無事なら、良かった……なら後は――」

「えっと、これから、どうするか……ですよね」

「………」

 

 先生への応急措置を終え、大事に至らなかった事を確認した補習授業部の意識はこれからの事に向けられる。空気が引き締められ、彼女達の表情に陰が落ちるのが分かった。

 

「……次の試験について、対策を練らなければなりませんね」

「で、でも、もし本当にティーパーティーの偉い人たちが私達を退学させようとしているのなら、もうどうしようもないんじゃ……? 知恵を寄せ合ったところで、何をしたって、そんなの、もう……」

 

 ハナコの言葉にコハルは蒼褪めた表情で告げ、これからを憂う様に俯いた。ヒフミはそんなコハルを横目に、最後の試験である第三次特別学力試験について言及する。

 

「一応、一週間後の第三次特別学力試験が私達の最後のチャンスとなりますが……」

「あんな手を使ってくる事を考えると、とてもマトモに試験を受けさせてくれるとは思えない」

 

 アズサはそう云って、手に持った愛銃のグリップを握り締めた。思い出される試験会場の爆破、一体何故あの様な事になったのか皆目見当がつかないが、少なくとも向こうが『真っ当な形』で試験を受けさせてくれるとは到底考えられなかった。

 アズサの言葉で火が点いたのか、コハルは目に涙を浮かべ、その場で大きく地団駄を踏む。

 

「そっ、そもそも! どうしてこんな事になっているの!? 何で、退学にならなくちゃいけない訳……!? それに先生が攻撃されるなんて、おかしいじゃん……!?」

「コハル――」

「トリニティの裏切り者とか、意味わかんない……! 私達、疑われるような事なんて何もしていないのに! それに、それにさ、私達だけならまだ良いよ!? だって、痛いだけで済むもん……! でも、先生は下手をしたら死んじゃう所だったんだよ!?」

 

 そう云って、泣き叫ぶように声を荒げ、歯を食い縛る。

 それは理不尽に対する怒りの発露か。或いは、無力な自分に対する嘆きそのものであった。この事態に対し自分は何の打開策も、解決する為の力も持っていない。ただ、自身の大切な仲間達が傷付く姿を見る事しか出来ない。そんな、理不尽な現実に対する怒り。それを彼女は訳も分からぬまま叫び、嘆いていた。

 

「何なの、何で、こんな……っ! た、退学になったら、正義実現委員会にも戻れなくなっちゃう……わ、わたし達、なにも、こんな、こんな事される様な事なんて、何も……うぅ……っ!」

「ごめんコハル、せめて私が、表面上でもナギサに賛同していれば――」

「――いいえ、先生、それは違います」

 

 涙を零すコハルに、先生は思わずそんな言葉を漏らす。しかしハナコは、きっぱりとした口調で彼の言葉を否定した。

 

「表面上の賛同など、ナギサさんはきっと許容しません、あの人はそういう人です……それに、先生は腹芸が得意なタイプではないでしょうし」

「それは……そうだね、その通りだ」

 

 果たして、その場で賛同を口にした所でナギサは信用したのか? その結果を考え、先生は首を振る。結果は、見え透いていた。

 

「……もし私がその場に居たら、あの猫ちゃんにはもっとひどい事をしていたかもしれませんね」

「はは、猫ちゃん、か」

 

 そう云って綺麗に笑うハナコに、先生は乾いた笑み零した。恐らく、冗談ではないのだろう。彼女は、やられた分はキッチリ返す性分をしていた。それが善意であれ――悪意であれ。

 

「……立場を考えると、この事を抗議しても暖簾に腕押しだろう」

「えぇ、恐らくは――真面に取り合って貰えるとは思えません」

「なら、正攻法で試験を突破するしかない……か」

 

 アズサが呟き、思わず顔を顰める。正攻法、つまりは向こうの提示した要求で試験をパスする。

 以前までの内容であれば問題はなかった。

 しかし――。

 

「正攻法で、九十点以上を取れるようになんて可能なのでしょうか? しかも試験範囲は三倍で、一週間以内に――」

 

 ヒフミが不安げな表情で呟いた。向こうの提示してきた試験内容は、以前のそれとは比べ物にならない。第二次特別学力試験中は無我夢中で、もう受けるしかないという気概であったが――改めてその内容と向き合うと、到底乗り越えられるような壁には思えなかった。

 ましてや、第三次特別学力試験の場合、これよりも条件が厳しくなる可能性だってあるのに。第三次特別学力試験の直前になって試験範囲がまた拡大する、或いは得点が更に引き上げられる、もしくはそもそも試験科目自体が変更になる――決してあり得ないとは断言できない状況だった。

 

「正直、かなり厳しいですね……それに、これ以上ナギサさんが良からぬ事をしないように見張る必要がありますし、時間も、手も足りません」

「ぐずっ……! 無理、絶対無理よ……ここまで凄い頑張ったのに、これ以上なんて……!」

 

 ハナコが厳しい表情で答えれば、コハルは自身の制服を握り締めたまま遂にポロポロと涙を零した。強く握り締められた制服は皺になり、表面に零れ落ちた涙が滲む。俯いたまま涙を流し嗚咽を零すコハルは、言葉に詰まりながらも必死に訴えた。

 

「が、頑張ったもん、私、頑張ったもん! いっつもテストで赤点ギリギリとか、平均点を取るのも難しくて……! だから模擬試験で合格点が取れた時、ほ、本当に……本当に嬉しくてっ! でもこれ以上なんて、私にはもう無理だよっ、私、バカなのに……! い、今でも一杯一杯なのにっ、九十点なんて……うぅ、ぁあっ――!」

「こ、コハルちゃん……」

 

 彼女の嘆きに、沈黙が下りる。ヒフミはコハルに手を伸ばそうとして、けれどその手が彼女に届く事は無かった。何と声を掛ければ良いのか、分からなかったのだ。

 気持ちは一緒だった、落ちこぼれだった彼女が必死に虚勢を張りながらも、それでも負けて堪るかと歯を食い縛って今日まで努力してきた事を彼女達は知っている。その姿をずっと隣で見ていた。そしてそれは自分達も同じだった。この場に誰一人として例外は居ない。ヒフミも、コハルも、アズサも、ハナコも、自身の出来る限りの力で机に齧りつき、きっと全員で卒業して見せるのだと互いに学び、教え、全力を尽くした一週間だった。全員が一丸となって努力したからこそ、補習授業部は模擬試験で合格ラインに届くまでに至ったのだ。

 コハルにとって、この合宿中の二週間は、常に全力だった。

 本当に――全力だったのだ。

 

 でも、だからこそ――改めて試験の条件を目にした時、心が折れかけた。

 

 全力で、この合宿中の二週間全力で勉強に専念し、漸く掴んだ点数が六十一点という合格点ギリギリの点数なのに。試験範囲は三倍で、合格点は九十点で、更にはティーパーティーという雲の上の存在から妨害行為も予測されていて――もう、無理だと、そう思った。

 膝を折った彼女は歯を食い縛って感情を吐露する。補習授業部はそんな彼女の姿を、遣る瀬無い表情で見つめるしかない。明確なビジョンも、打開策も浮かばない、この状況で、一体どんな言葉を掛けられるだろう? 下手な慰めも、安易な希望も、彼女に届く事はない。

 だからこそ、先生はコハルの前で膝を着き、その手を掴む。

 

「――大丈夫、コハル、顔を上げて」

「ずびっ……! せんせ……?」

 

 涙に塗れ、くしゃくしゃになった顔を上げる。先生はコハルの涙を指で拭うと、柔らかな笑みを湛えて云った。いつも通り穏やかに、何でもないかの様に。生徒を、安心させる為に。

 

「補習授業部の皆は退学になんかならないよ、絶対に――だから安心して」

「そ、そんな、先生の事は信じたいけれど……っ、でも!」

「――約束する」

 

 先生の手が、ぎゅっと、コハルの手を強く握った。そこから伝わる熱に、コハルは再び俯きかけた顔を上げた。この困難の中で、欠片も希望を見失わない瞳が、どこまでも澄んだ信念を抱く眼がコハルを射貫いていた。

 

「もしこれから、補習授業部が最悪の事態に陥ったとしても、皆の退学だけは絶対に回避して見せる――シャーレの権限だろうと、連邦生徒会の人脈だろうと、何だろうと、私の使える全てを使ってでも」

「先生……」

 

 絶対に、見捨てなどしない。

 

 先生の声色は、本気だった。例えその事が原因でどれ程の損害を被ろうと、欠片も構わないと、そんな覚悟を感じさせる強い口調だった。先生は決して目を逸らさない、どこまでも真摯に、真剣に告げていた。

 ヒフミはそんな先生の姿を見て――自身の頬を強く張る。

 中途半端に伸びた手を、自身の頬に向け、喝を入れた。

 

 ――そうだ、何を弱気になっているのだ、自分は。

 

 ヒフミは思い返す。自分は先生に何と声を掛けられた? アズサから何を学んだ? 嘆く事はいつだって出来る。諦める事だってそうだ。例えそれが無意味な足掻きだとしても――頑張らない理由にはならない。

 私は、私の出来る事を。今、この瞬間にやれる事を。

 まだ、精一杯……全力で――やっていない。

 

「今日はもう休もう、身体が疲れると心も疲弊する、良くない事ばかり考えてしまう――もう直ぐ朝だけれど、少しでも休めば、何か良い方法が思い浮かぶかもしれない」

「……ずびっ、う、うん」

 

 先生の言葉に、コハルはぎこちなく頷く。先生に手を引かれ立ち上がった彼女は、目元を乱雑に拭い、鼻を啜った。コハルの頭を撫でつけながら、先生は慈しむように彼女を見下ろす。

 

「……先生、心当たりのあるお知り合いへの連絡は――」

「私が自分でするよ、流石にこんな時間に連絡するのは悪いから、明日の――いや、もう今日だね、朝一番にでも」

「……信じます」

 

 呟き、ハナコはヒフミに向き直る。どこか思いつめた表情をする彼女に、ハナコは小さく笑いながら告げた。

 

「ヒフミちゃんも、きちんと休んでくださいね? ここまでずっと、無理されてましたし……」

「ですが、私は……! 今、頑張らないと――っ」

「……焦る気持ちは分かります、しかし頑張り過ぎて倒れてしまっては意味がありません、私も一緒にこれからの事を考えますから、コハルちゃんの勉強も、ヒフミちゃんの事も手伝います――だから今はゆっくり休んで、明日に備えるんです」

 

 そう云ってハナコはヒフミを抱きしめた。ヒフミは、砂塵に塗れ、所々傷付いた自身の手を見て、くしゃりと顔を歪めた。確かに、気持ちばかり先走ったかもしれない。体は疲れ果て、精神は摩耗している。ここで倒れたら自分だけではない、皆にも迷惑が掛かる、そう感じた。

 ヒフミは焦燥する感情を呑み込み、ゆっくりと頷く。

 それを確かめたハナコは微笑み、もう一度ヒフミを強く抱きしめた後、先生に視線を向けた。

 

「先生、自室へは――」

「大丈夫だよ、もう歩けるから」

「……分かりました、何かありましたら、いつでも呼んで下さい」

「先生、その、ありがと……」

「あの、無理はしないで下さいね……!」

「部屋の扉は、いつでも開けてあるから、万が一襲撃があった場合は駆けつける」

「……ありがとう、皆」

 

 ハナコが補習授業部の皆を促し、先生を心配げに見つめながらもロビーを去って行く。先生はその背中を見送り、最後に歩いていたアズサが扉を閉めるまで、笑顔で手を振っていた。

 扉が閉まり、数秒、広いロビーを静寂が支配する。

 

「………ふーッ」

 

 大きく息を吐き出す。背凭れに体重を預け、天井を暫し見上げた。体は妙な疲労感に満ちていた。帰り道は殆どハナコの背中に居たと云うのに、軟弱な体だと心の中で自嘲する。目を閉じ、暫くの間静寂を堪能した先生は、そっと耳を澄ませながら口を開いた。

 

「――セリナ、居る?」

「はい、先生」

 

 声は、直ぐ横から聞こえた。

 ゆっくりと瞼を上げ、声のする方向へと視線を向ければ――そこには、無言で佇むセリナの姿があった。

 白いトリニティの制服に、救護騎士団のマークが刺繍されたソレ。桃色の髪を横で一つに括り、様々な医療道具の入ったポーチを携えている。名前を呼んだのは自分だが、まさか本当にものの一瞬で現れるとは思っておらず、思わず呟いた。

 

「凄いな……本当に来てくれたのか」

「いつでも、どこでも、先生が必要なら私は駆けつけます――そう云ったじゃないですか」

 

 どこか呆れた様な口調で告げ、ズンズンと先生の元へと歩み寄るセリナ。彼女は先生の姿を頭の天辺からつま先まで確認すると、徐に袖を捲ったり、裾を掴んで傷が無いかどうかを確かめ始めた。先生は彼女にされるがまま、抵抗する事無く受け入れる。

 

「……セリナ、もしかして怒っている?」

「――少しだけ」

 

 刺々しい空気を纏う彼女に、先生は問い掛けた。セリナはらしくもない、やや強張った声で答える。先生の腕や腹、そこらに散見される小さな傷に消毒と絆創膏を貼り付けながら、セリナは視線を上げた。

 

「何かあったら……なくても、ありそうな時は連絡してくださいって、あれ程云ったのに――それが疲れでも怪我でもそれ以外でも……全て私の対処するべき仕事なんです」

「それは」

「先生、言い訳は聞きたくありませんよ?」

「ぐっ――」

 

 ――これは、お手上げだ。

 先生は怒りを滲ませるセリナを前に、白旗を上げた。こうなった彼女を宥める事が至難の業である事を、先生は良く知っていた。ベアトリーチェを下し、入院した時もそうだった。あの時は確か、他の生徒が居ない時は殆ど付きっ切りで看病されたのだったか。

 

「頭部と、足と、他には……うん、大丈夫そうですね――はぁー……良かった」

「……ごめんね、心配かけて」

「全くです、先生はただでさえシャーレでも過労で倒れているのに……!」

「あはは……」

 

 頬を掻き、先生は笑って誤魔化す。それ以外に選択肢が無い。セリナは最後に先生が抑えていた頭部の傷を確認し、消毒が済んでいる事を入念に確かめ包帯と清潔なガーゼをポーチから取り出した。血の滲んだガーゼを先生から受け取り、ビニールに入れて処分しながら彼女は呟く。

 

「……また、あの時(アビドス)みたいに、怪我をするような事をするんですか?」

「――うん、多分、そうなるかな」

「やめて下さいって云っても、駄目なんですよね」

「……ごめんね、こればかりは譲れないんだ」

 

 先生の言葉にセリナはそっと目を伏せ、何も云う事は無かった。傷口にガーゼを貼り付け、包帯で固定する。その後セリナはポーチから幾つかの錠剤を取り出し、先生の手に握らせた。

 

「念の為の鎮痛剤と促進剤です、今日はお風呂は我慢して下さい、明日の朝位には良くなる筈ですから」

「あぁ……ありがとう、セリナ」

「救護が必要な場に救護を――それが私達の役目ですから」

 

 ポーチを閉じ、立ち上がったセリナはそう告げる。先生を見下ろす彼女は、いつも通りの笑みを浮かべていた。そこには、先程まで覗いていた怒りは見えない。何処までも透明な、人を思い遣る色だけがあった。

 

「私が必要な時はいつでも呼んでください、呼ばれなくても駆けつけます、先生だけの主治医にはなれないですけれど――いつも先生のことを考えていますから」

「……うん」

「――負けないで下さいね、先生」

 

 その声はどこか悲しそうな色を含んでいて。

 先生が俯いていた顔を上げ、何かを口にしようとし――もうセリナの姿は、視界の何処にもなかった。

 

「………」

 

 そっと周囲を見渡す。しかし、先程まであったセリナの姿はロビーの何処にもない。ふと、先生は自身の指先に何かが触れるのが分かった。視線を落とせば、座っていた長椅子、その横に小さなバッテリーが置かれていた。思わず、先生の口元が緩む。

 

「……流石というか、何と云うか」

 

 怖い位に気が利く子だ。

 呟き、タブレットにバッテリー端子を差し込む。少しするとシッテムの箱のランプが緑色に点灯し、再起動が行われた。指紋認証を行い、見慣れたローディング画面を経て――画面一杯に張り付き、先生を凝視するアロナが叫ぶ。

 

『……せ、先生っ!?』

「アロナ」

『ご無事ですか!? 怪我は、今は何処に――』

 

 アロナの声が響き、先生は彼女を宥めながら事のあらましを伝えた。最初は興奮し、涙目で喚いていた彼女だったが、大きな怪我は無かった事、無事トリニティ自治区に戻って来れた事を伝えると、胸を撫で下ろし落ち着きを取り戻す。

 

『よ、良かったぁ……! 無事トリニティに帰還出来たんですね……! 怪我の方も――はい! スキャン結果では後遺症レベルのものもありません……!』

「うん、ありがとう、お陰で助かった」

『い、いえ!? 寧ろ私、肝心な時に役立たずで……!』

「それは私の方さ」

 

 アロナの言葉に、先生は頭を振った。爆発の衝撃で前後不覚に陥り、サポートも何も出来ず完全な足手纏いであった。先生はその事を深く悔いている。他にもやりようは幾らでもあった。それらを捨て、今回のやり方を選んだのは完全に自身の落ち度である。

 

「ワカモは無事に離脱できた?」

『ワカモさんは――はい、既にゲヘナ自治区から退去しているみたいです』

「そっか、あとで御礼を云わないと……」

 

 彼女が救援に来なければ、学園間の対立無くトリニティに戻って来る事は不可能だったかもしれない。ゲヘナに捕捉されてしまえば、どの様な展開になるのか――細部まで予測するのは困難に思えた。故に、先生は心の中でワカモに深く感謝する。

 

「――私は、皆に助けられてばかりだな」

 

 告げ、思わず苦笑する。

 今回も、以前も――先生は自身の手の小ささを実感する。手を伸ばせる範囲には限りがある。一度に多くの生徒の味方をする事は出来ない。全く以てその通りで、先生が自身の理想を叶えるには何もかもが足りていない。

 しかし、そんな事はずっと前から分かっていた。故にそれは、今更嘆く事でも何でもない。最善、最高で足りぬのなら、それ以上に至れるよう工夫し、努力し、足掻くのだ。何度でも、何度でも。

 タブレットを握り締め、先生は顔を上げる。

 

「けれど今回の件ではっきりした、もう受け身な姿勢はやめにしよう……彼女に対抗するには、それしかない」

『先生、では――』

「あぁ、私も動く――そうしなければ、守れないものがあるから」

 

 先生は前を見据える。

 何処までも、真っ直ぐに。

 

「はじめよう、アロナ……私達の戦いを」

『はい、先生――!』

 

 ■

 

 特別学力試験まで――あと六日。

 


 

 先生守りたい(ストーカー)隊 概要

 

 ワカモ 

 先生護衛担当、いつでも、どこでも、呼ばれても呼ばれなくても現れる神出鬼没の厄災。先生が負傷するといの一番にやって来る、でもやって来ない時もある。そういう時は大抵、先生からのお願いで裏で色々暗躍している。因みに後から先生負傷の報告を聞いてギャン泣きする。可愛い。最近は忍術研究部と過ごす事が多い為、存外彼女達と仲が良い。大橋で使った煙球はイズナ印、後ミチルからも忍具(仮)を貰ったりしている。所属学園は一応百鬼夜行連合学院となっているが停学中の為、敢えて云うなら連邦矯正局所属に近い。また、部活も入部していない。その為シャーレ独自の戦力として非常にフットワークが軽い。エデン条約編であっても簡単に介入して来る。何もないときは大抵先生を遠目から見守っている。

 

 セリナ 

 先生救護担当、どれだけ遠くに居ても、どれだけセキュリティの厳しい場所でも、唐突に現れ、唐突に消える。ただし制約があり、『先生が単独である事』、『他の生徒、人の目が無い事』が条件。カメラにも映らないステルス性能と、その時に必要なモノを予め揃えていてくれる万能救護騎士団。何が恐ろしいってこれが原作ママという所。マジで何者なんだ? という気持ちになるが他の生徒が居る場では出現しない為、先生を捥ぐ場合のシーンでは邪魔される事が無い。何とか頸の皮一枚繋がった感。何もないときはない、大体いつも仕事に追われている。

 

 コタマ 

 先生盗聴担当、合宿所の先生部屋に盗聴器を仕掛けようとして失敗した。残当。因みにシャーレの私室には仕掛けてある。合宿所で「めっ!」されたのは他に利用者がいる為。先生単独なら、「まぁ別に実害はないし」と放置される。その為段々とヒートアップし、最近は「心音を録音させて下さい」とか、「先生の呼吸音を……」とか、色々とニッチな音を集める様になった。エデン条約編・前編では残念ながらミレニアム所属の為、出番はなし。何もないときは先生ASMR(自作)を聞いている。

 

 ノドカ 

 先生監視担当、合宿所の先生部屋を覗ける位置を探し出し、「あっ、カーテンは閉めないで下さいね! 見えなくなっちゃいますから!」と発言し、「めっ!」された。残当。現在は旧校舎227号特別クラスに戻っている。休日の度にシャーレで過ごす先生を監視していたが、トリニティで合宿中は先生観察が出来ない為、最近は悶々としている。代わりに先生の写真を眺めて何とか紛らわす毎日を継続中。レッドウィンター所属の為、同じく前編中では出番なし。何もないときは食料や薪集めに奔走する。

 

 クロコ

 ん、先生は幸せになるべき、可能なら私と。

 

 ミカ(未来)

 あははっ! そんなので先生を守り隊とか、無理無理~☆

 

 クロコ

 ――あ?

 

 ミカ(未来)

 ――は?

 

 ちょっと新ストーリーで脳が破壊されかけたのでわたくしは元気です。

 そっかー、大人のカードってそういう使い方も出来るんだぁ……。

 そっかぁー……へぇ~―……ふぅーん……。

 という事はマジで危なくなった生徒を代償と引き換えに助けるとか、出来るのかなぁ。

 先生の結末は四通り位考えていたけれど、今回ので内二通のプロットが爆散しました。でいじょぶでしてよ、まだプロットが半壊しただけですの。でもちょっと考える事多くて一日サボりました、ごめんあそばせ。

 



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捻じれて歪んだ、この先に。

誤字脱字報告ありがとうございます。
今回一万七千字です、ごめんあそばせ。
後、次話は明々後日くらいになると思います。


 

 第二次特別学力試験を終え、二日後の夜。

 その日、授業と自習を終え寝床に入った補習授業部。皆が寝息を立て夢の世界に旅立っている中、ふと起き上がる人影があった。

 彼女は音もなく自身のベッドから抜け出すと、予め用意していた制服と愛銃を掴み、部屋の扉へと足を進めた。時刻は既に一時を回っており、少し肌寒い。

 彼女――アズサはベッドで寝入る仲間達の顔を数秒程眺めた後、そっとドアノブを捻り廊下へと姿を消した。

 

「………」

 

 その行動を予測していたハナコは、寝たフリを止め目を開く。遅れて起き上がると、既にアズサのベッドは蛻の殻であり、彼女の姿はどこにもない。暫く周囲の音に耳を傾けていたハナコは、アズサと同じようにベッドを抜け出し、制服とポーチを掴む。未だ寝入るコハルとヒフミに、どこか憂う様な視線を向けた後――彼女もまた薄暗い廊下へと足を進めた。

 

 ■

 

 トリニティ中央区――商店街。

 石畳が綺麗に整えられ、街灯に照らされた夜の商店街。此処に来るのは補習授業部と夜の騒動に巻き込まれて以来だった。

 相変わらず人の姿はまばらだが、開いている店も少なくない。それらの灯に照らされながら、ハナコは足を進める。あの頃と比べれば、状況も随分と変わってしまった。ただ、成績不振から補習授業を受けるだけであった部活動は、今やトリニティ全体に影響する一大事に巻き込まれてしまった。空を見上げると、光の中でも輝きを失わない星々が見える。どれだけ自分達を取り巻く環境が変わっても、この空だけは変わらない。それが少しだけ羨ましく思える。永遠なんてものは存在しない、けれど――。

 端末を片手に暫くそうやって歩いていると、ポツンと立った街灯の下で待っている一人の少女の姿を視界に捉えた。

 桃色の髪に、頭頂部には大きく跳ねたひと房の髪、少しダボついたコートを着込んだ彼女はハナコと同じように端末を見下ろしている。ハナコが小走りになってその少女に駆け寄ると、音で気付いたのか顔を上げた少女――その空と黄金がハナコを見つめた。

 

「ごめんなさい、お待たせしました」

「――いんや、おじさんも今さっき来たばっかりだから」

 

 そう云って彼女――ホシノは端末をポケットに仕舞いこむ。ハナコはホシノの前に足を進めると、近場のカフェを指差し、云った。

 

「……取り敢えず、お茶でも飲みながら話しませんか?」

 

 ■

 

「うへ、何かすっごくお洒落なカフェ……おじさん、これ場違いじゃない~?」

「ふふっ、そんな事はありませんよ♡」

 

 商店街の外れにある、小さなカフェ。店内は古めかしいアンティーク調で纏められており、何ともトリニティらしいとも云える景観をしていた。何処となく格調高い雰囲気を嗅ぎ取ったホシノは肩を竦め、心細そうに頬を掻く。

 

「いらっしゃいませ、二名様ですね?」

「はい、あ、奥の席をお借りしてもよろしいですか?」

「勿論です、御注文がお決まりでしたらお伺いいたしますが……」

「そうですね――えっと、ホシノさんは」

「うへ、良く分からないからお任せで」

「では、紅茶と……このクッキーセットを二つずつお願いします」

「かしこまりました」

 

 ハナコはスーツ姿のロボット店員に注文し、店の奥側にある席へと足を進める。向き合う様にして着席した二人は、そのまま数秒程視線を交わらせ、ハナコは小さく頭を下げた。

 

「改めて……本日はご足労頂いてありがとうございます」

「全然、寧ろアビドス側の交通費全額負担して貰って、悪い位だよ~」

 

 ハナコの言葉に、ホシノはけらけらと笑みを零しながら手を振って見せる。何を隠そう、彼女をこのトリニティに招いたのはハナコ自身であった。

 独自の情報網でアビドス高等学校の住所や電話番号を抑え、現在の生徒会代わりとされるアビドス対策委員会に渡りを付けた彼女は、先生の情報を得るべく対策委員会の代表とされるホシノと言葉を交わす場を設けたのだ。

 最初は代表であるホシノ一人のみトリニティへ向かう手筈であったが――何故かアビドス全員がトリニティ自治区に遠征する事になり、その費用を負担する流れとなった。ホシノが費用は自分一人分で構わないと云っていたが、ハナコは全員の交通費を負担し今に至る。幸いハナコは金銭の類には困っていない、この程度の出費で必要な事への手掛かりを得られるのならば安い位であった。

 

「いやはや、ごめんね? 本当ならおじさんだけで来る予定だったんだけれど……」

「ふふっ、凄い声でしたものね」

「旅行とかじゃないって云ったんだけれどねぇ、アビドスってあんまり他所の自治区とか来る機会が無かったからさ~、まぁいつかトリニティには行ってみたいって思っていたし、丁度良かったかな?」

 

 そう云って恥ずかしそうに頬を掻くホシノ。彼女と電話で交渉中、向こう側から『えっ、ホシノ先輩トリニティに行くの!? 何それ、ズルじゃん!』、『ん、旅行なら私達も連れて行くべき』、『皆で小旅行、楽しそうですね☆』、『えっ、いや、ま、待って下さい! 別にホシノ先輩は遊びに行く訳じゃ――』という声が響いていたのを今でも覚えている。中々に、楽しそうな委員会だった。アビドスそのものが小さな学校だとは聞いているが、恐らくその分結束が固いのだろう。

 暖かで、気兼ねなく、そして互いを思い遣れる場所。

 ハナコの脳裏に、補習授業部の皆――その笑顔が過った。

 

「今はこういう事が出来る位には余裕が生まれたから、全然良いのだけれど」

「確か、以前は色々と大変だったとか」

「あー……そうだね、うん」

「――お待たせしました、こちら御注文の品です」

 

 ホシノが苦笑を零すと同時、オーダーした品物が運ばれて来る。薄らと湯気を立てる紅茶と、小皿に盛られたクッキー。それらを前にして、ホシノは「お~」と歓声を上げる。

 

「御注文は以上で宜しかったでしょうか?」

「はい、ありがとうございます」

「では、ごゆっくり」

 

 一礼し、去って行くウェイターを尻目にホシノはクッキーをしげしげと見つめる。綺麗に折り重なり、様々な種類のクッキーが盛り合わさったそれはとても綺麗で、まるで甘味の宝石箱の様にも見えた。アビドスの部室でもノノミが持ち込んだ高級菓子を口にする機会は何度もあったが、これはこれで、何と云うか、伝統を感じると云うか――。

 

「お店もお洒落だけれど、何だか甘味一つとってもお洒落に見えるなぁ……」

「ふふっ、お気に召して頂けましたか?」

「うん、何だか食べるのが勿体ない位」

「見た目も素敵ですが、此処のクッキーは味も素敵ですよ♡」

「……なら、早速一口頂いちゃお」

 

 告げ、ホシノは手前にあったクッキーを一枚摘み、齧る。途端口の中に広がる甘みと、サクッとした触感。成程、これは美味しい。ホシノが微笑みを漏らし、ハナコは満足げに紅茶を手に取った。

 

「それで、えーっと、浦和さん、だっけ?」

「ハナコで結構ですよ」

「じゃあ、ハナコちゃんで、私もホシノで良いよ」

「では、ホシノさんと」

「うへ、堅苦しいね」

「ふふっ、目上の方ですので……お気に召さなければ他の呼び方でも――」

「いんや、おじさんはそれで良いよ――ハナコちゃん、確かヒフミちゃんと同じ部活なんだよね?」

「えぇ、補習授業部に所属しています、担当は先生が」

「じゃあ、おじさん達と同じだ」

 

 そう云って笑みを浮かべるホシノ。彼女にとって、担当が先生という事は大きな事らしい。クッキーを口に放り込み、紅茶で流し込んだ彼女は、熱かったのか小さく舌を出しながら呟く。

 

「あちちっ……ヒフミちゃんと同じ部活で、先生が担当なら、多分大丈夫かなぁ」

「大丈夫、とは?」

「ん~……」

 

 数秒、ハナコの問いかけにホシノは悩む素振りを見せる。それは何かを考えるというより、ハナコという生徒を観察している様な気配だった。手にしていた紅茶をソーサーに戻したホシノは、先程と同じように笑みを浮かべながら口を開く。

 

「――取り敢えずさ、今日こうして呼び出した理由を聞いても良いかな? それもこんな深夜に、よっぽどの事でしょ?」

「……えぇ、勿論です」

 

 ホシノと同じように、カップを戻したハナコは深く頷く。

 

「時間帯については、申し訳ありません、補習授業部は現在合宿中でして、昼間は殆どが学習時間に割り振られているんです」

「合宿? って事は、ハナコちゃんもしかして……」

「えぇ、此処には抜け出してきています♡」

 

 そう云って悪びれもなく笑うハナコに、ホシノは驚きに目を見開いた。その視線には、若干の呆れと賞賛が混じっている様に感じた。

 

「ありゃりゃ、バレたら大目玉だよ~?」

「ふふっ、大目玉で済んだら良いのですが」

 

 尤も、これがティーパーティーに知られたら事だが、先生に知られる程度ならば問題ないとハナコは確信している。そもそも、事前調査で深夜帯にティーパーティーの監視が無い事は確認済みである。流石に向こうも、補習授業部を付きっ切りで見張る事は出来ないらしい。エデン条約締結日を考えれば、正に猫の手も借りたいという状況。監視の目が緩まるのも当然であった。

 

「お聞きしたいのは他でもありません――先生の事です」

「………」

 

 ハナコがそう口にすると、心なしか、ホシノの気配が変化した様な気がした。陽だまりの中、海を揺蕩う様な穏やかさから、鋭く鋭利な刃物に。ホシノは指先でクッキーを摘まみ、力を籠めると二つに割る。その片方を口の中に放り込み、視線をハナコに向けず問いかけた。

 

「そういう風に切り出すって事は単純な恋愛相談、とかじゃないよねぇ」

「……えぇ、そうであればこんな回りくどい方法は使いません」

「ま、そうだよね、単に話すだけなら態々会う必要なんてない訳だし、電話で事足りるもん」

 

 そう告げる彼女はどこか警戒心を覗かせる。何故、ハナコを警戒する必要があるのか。それは、守るべき情報があるからに他ならない。態度を硬化させたホシノにハナコは佇まいを正した。

 

「やはり、何か知っていらっしゃるんですね」

「……そういう風に云うって事は、ハナコちゃんも何か、先生の秘密を知っちゃったのかな?」

「えぇ、偶発的な事故の様なもので、ですが」

「ふぅん」

 

 偶発的な事故、その言葉にホシノは気のない返事を漏らす。

 

「それは、身体的な事?」

「……えぇ」

 

 答えは明瞭だった。そしてハナコはその言葉に確信する。少なくとも彼女は、自身と同じ秘密を知っている、と。ホシノは、そういう目をしていた。それは同種を見つけた瞳だった。

 

「本人のあずかり知らぬ所でこのような事を話すのは心苦しいのですが――先生をこれ以上問いただしても、きっと教えては頂けないと、そう強く感じましたので」

「それは……そうだろうね、先生はそういう人だから」

「えぇ、私達の負担になると、重荷を背負わせたくないと、そう仰っていました」

「おじさんが云う事ではないかもしれないけれどさ、そういう先生の想い、無視しちゃって良いの?」

 

 どこか、試すような口調でホシノは云った。細く絞られた彼女の視線がハナコを射貫き、それは一切の虚偽を許さないという厳格な色を醸し出す。ハナコは数秒、沈黙を守る。自身の行いが先生の想いに反している事は重々承知している、彼がそれを望まない事も。しかし、それでも尚ハナコは先生の意思に従い、盲目で在る事を善しとしなかった。

 

「例えそれが先生の意に添わぬ事であっても、私が、そう在る事を許せないから……いえ、これは建前ですね」

 

 口にし、ハナコは首を横に振る。感情の輪郭を捉え、言葉にする。それは簡単な事の様に見えて、酷く難しい。自身の根源、渇望を知る事。人のそれは酷く複雑で、面倒なものだった。時に、それは直視し難い苦痛を伴う。それでも尚、ハナコは自身のそれに向き直り、はっきりとした口調で告げた。

 

「これは、私の我儘です、先生の優しさを踏み躙って尚、先生の助けになりたいという――私のエゴ、そのものです」

 

 ホシノは、ハナコの言葉をただ聞いていた。何の表情の変化もなく、淡々と。真摯に、真剣に自身を見つめるハナコを、彼女は見返す。悪意は、感じられなかった。少なくともハナコという生徒にとって、先生という存在がどれだけ大きなものなのかという目安は伝わった。摘まんだクッキーの半分を、ホシノは口に放り込む。口内に広がる甘味を、感情と一緒に飲み下し――彼女はそっと目を逸らした。

 

「……ま、知らん振りも出来ないよねぇ、そんな真剣な顔されちゃったらさ」

「では……」

「うん、そうだね、認めるよ、おじさんは多分、そっちが考えている事……先生の秘密を知っている」

「っ!」

 

 その一言に、ハナコの雰囲気が切り替わる。それは悔しさと嫉妬を孕んだ感情だった。補習授業部とアビドス、過ごした時間の長さは変えられない。それが信頼の差であると云うのなら、ハナコにとってはどうしようもない事実。その明確な差を、彼女は羨んだのだ。

 それを感じ取ったホシノは慌てて手を振り、言葉を紡ぐ。

 

「あー、いや、誤解しないでね? 先生が自発的に明かした訳じゃないんだ、おじさんが~……えっと、暴いちゃったというか、勘付いちゃったというか」

「……勘付いた?」

「うん、まぁ、おじさん達の学校も色々あってさ、先生がアビドスを守る為に色々と手を尽くしてくれたというか、何と云うか――」

 

 どこか説明し辛そうに言葉を並べるホシノ。ハナコはそれに、ただ黙って耳を傾ける。

 

「云っておくけれど、この件に関しては私以外の対策委員会――アビドスのメンバーは誰一人知らない、先生のソレ(罪悪)を知っているのは、私ともう一人だけだよ……少なくともおじさんが把握している範囲ではね」

「……その、もう一人とは」

「それはごめん、云えない」

 

 ホシノは、きっぱりとした口調で断じた。

 

「そして、おじさんから先生の秘密を直接教える事も出来ない――それは、先生の信頼を裏切る行為だから」

「………」

「逆の立場だったら多分、ハナコちゃんもそうしているでしょう?」

「それは――」

 

 その問いかけに、ハナコは言葉を詰まらせた。逆の立場だったら――恐らく、自分も口を噤むだろう。それは間違いない。例え相手がどれだけ真剣であっても、先生の秘密を口にする事はしたくない。それは不義理だ。そして、自身がその不義理な行為を相手に求めている事を自覚し、ハナコは唇を噛んだ。

 

「興味本位じゃない、って云うのは分かるんだけれどさ……多分、ハナコちゃんが思っている何倍も、何十倍も、先生の背負っているものは重いんだ、おじさんは、その重さに耐えきれなかった生徒の末路を……いや、こんな云い方は悪いか――そういうさ、大切に想う気持ちを色々と拗らせちゃって、良くも悪くも突き進んじゃった子を知っているから、正直生半な覚悟で踏み込んで欲しくない、これは先生の為でもあるし、ハナコちゃんの為でもある」

「………」

 

 沈黙が二人の間に流れる。ホシノはどこか、憂う様な視線と共に問いかける。

 

「ハナコちゃんは、さ……何で、先生の秘密が知りたいの?」

 

 何故。

 そう問いかけられ、ハナコは口を開く。

 それは――。

 

「――あの人が、いつも寂しそうに笑うからです」

 

 声は、思ったよりもすんなりと口から出た。

 一度言葉にすると、感情はその輪郭を浮き彫りにし、はっきりと手に取る事が出来た。

 

「先生は私達にとても良くして下さいます、先生とは斯く在れかしと、それを体現している人だと、私はそう思っています――」

 

 先生の善性、先生の在り方。それは、人としての理想と云っても良い。他人を信じ、寄り添い、庇い、大人としての責務を全うする。それは正に、子どもの想う大人の在り方だ。先生の在り方だ。それを好ましく思う、素晴らしい事だと思う。

 けれど。

 

「そんな先生が、日常の中で、ふと……寂しそうに笑うんです」

 

 呟き、目を瞑る。

 ふとした瞬間、或いは皆の目が逸れた隙間。

 その間に差し込まれる、寂寥の色。

 それだけがずっと、ハナコの胸につっかえているのだ。

 

 何故、そんな目をするのか? 何故、そんな表情を浮かべるのか? その先生の瞳を知りながら、理由も知らない自身が、酷く薄情に思えて。補習授業部と同じ教室に居る筈なのに、先生だけがどこか、寂寞とした空間に居る様な感覚。

 その寂しさを憶えている。

 

「私達を見ているのに、私達じゃない、私達を通して別の誰かを見ている――そんな錯覚に陥るんです、直ぐ傍にいる筈なのに何処か遠い、先生が笑顔を向けているのは、此処に居る私達ではない、もっと、別の……」

 

 そこまで口にして、ハナコは唐突に言葉を止めた。

 

「別の――?」

 

 ふと、ハナコは自身の言葉に疑問を覚えた。

 それは本当に、小骨が引っ掛かった程度の、小さな違和感だった。

 先生は私たちを見ている、けれど視界に自分達を捉えていても、その心は別のものを見ている。この言葉に嘘は無い。ハナコは真実、その様に感じた。

 可能性としては、今の補習部に先生が【過去の誰か】を投影し、懐かしんでいるのかもと思った。或いは、今の補習部は先生の代替行為に過ぎないのかもしれない、なんて事も、少しだけ疑った。

 

 ――しかし、先生がそんな風に生徒を見るだろうか? 

 

 その問いかけに直面した時、ハナコは思わず首を振る。自身で先生の行為を寂しいと口にしながら、しかし、『先生がそんな事をする筈がない』という確信に近い何かをハナコは抱えていたのだ。

 過去のソレが先生にそれらの感情を想起させる程の強い想いであったという可能性は否定できない。しかし先生が、他の生徒と今の生徒を比較したり、あまつさえそれを感情として露呈させるなんて事は、ハナコにとって考えられない事であった。

 いや、信じたくないというべきか。

 そしてそれは、ハナコという人物の中で確かな事実として起立している。あの傷を見てしまった夜、先生の本質に僅かでも触れたハナコは、先生にとって生徒と云う存在がどれだけ大切で、重い存在なのかという事を認識した。その抱える罪悪を、重荷を、決して生徒に渡すものかと抱え込み、静かに泣きながら茨の道を行く人だ。

 だからこそそんな彼が、補習授業部の皆に誰とも知れぬ幻影を重ねているという行為が受け入れられなかった。

 

 ――矛盾しているのだ、先生の在り方と、その感情が。

 

 しかし、ハナコはそれを最初、矛盾と捉えていなかった。それは何故か? 

 そこに、鍵がある様な気がした。

 

 自分達に重ね合わせる、『誰か』の幻影。先生は私達を通して、誰を見ているのか? 『誰を見ていれば、先生の感情と行動に矛盾が生じない』のか?

 それは――。

 

「――私達、自身……?」

 

 ハナコの口から、無意識の内に漏れ出た言葉。

 それを自覚した時、彼女は思わず驚き、口を噤んだ。

 あり得ない。そんな言葉が口をつきそうになった。

 

 しかし、先生が今の補習授業部を見て、寂しそうにしたり、懐かしそうな色を見せる理由が他に思いつかなかった。

 これなら確かに、【矛盾】はしないのだ。先生の在り方と、その感情の説明に。

 先生が重ねる幻影はその生徒自身であり、そもそも比較すらしていないのかもしれない。先生は自分(ハナコ)の知らないハナコを見て、寂しそうに笑っている。あの感情は、あの色は、先生の根源を晒すような、そんな、酷く強く、儚げな表情だった。

 仮に。

 先生が感情を、その視線を向けている生徒が『私達ではない、私達』だとして――その対象は何処にある? 何処に居る? 何処で出会った? 何故先生はあんな、寂しげに、悲し気に、慈しむように私達に笑いかけるのだ? まるで十年来の家族の様に、全てを包み込むように、優しく、けれど儚く。

 

 ――ハナコの脳裏に、先生の傷だらけの体が過った。

 

 到底、生き残れるとは思えない致命傷の数々。多種多様な死因――そう、死因だ。

 あれを先生は、『自身の背負うべき(もの)』と口にした。つまりそれは、その傷ひとつひとつに、先生にとっては【意味がある】という事だった。

 

【……内側をやられるとね、もっと酷いんだよ、色々と】

 

 ハナコの心臓が早鐘を打ち始める。額に、冷汗が滲む。それは、自身の思考が何かに迫っているという確信からか。

 発想を変えよう。ただの飛躍した理論に意味はない、そこには確かな道筋が無ければならない。頭を、思考を回す。

 仮に――仮にだが、先生が【そう】だとして。それらしい行動はあったのか? そう断じるだけの理由があるのか?

 例えば、そう。

 

 先生が――未来を知っているかの様な行動を取った、とか。

 

「……ホシノさん」

「ん~?」

「――先生は時折、未来を知っているかの様に動きますよね」

 

 ハナコは、俯いたまま静かに、淡々とした口調で問いかけた。それは、殆ど直感によって放たれた一言だった。

 普通に話せば、「確かに」だとか、「凄いよね」とか、そんな他愛もない雑談の範疇に収まる一言だ。幾らでも流せるし、大層な台詞でもない。

 けれど、ホシノの反応は劇的だった。

 その一言を聞いた瞬間、ホシノの表情と雰囲気が明確に変化した。

 どこか鋭さを孕みながらも飄々としたものから、荒々しく、問い詰める様な眼光に。

 

 ――それが答えだった。

 

「………まさか」

 

 呟きは小さく、弱々しい。

 しかし、その疑念は確かなモノへと変貌した。蒼褪め、小さく唇を震わせるハナコを見たホシノは、その反応に一杯食わされたのかと気付き、思わず息を漏らす。それは、自分自身に対する呆れと怒りであった。

 

「……うへ、もしかして引っ掛けられた?」

「……申し訳ありません、半分賭けでした、此方では完全に断言出来る様な行動は無かったので……全て、予測と云ってしまえば逃れられる範疇です」

「はぁー、そっか……いやぁ、ハナコちゃんは凄いね、自分でそこまで考えちゃうんだもん、いやはや、参っちゃうねぇ、おじさん吃驚だ」

「っ――では!」

 

 身を乗り出すように、ハナコは問いかける。しかしそれをホシノは手で制し、紅茶を啜りながら言葉を紡いだ。

 

「おじさんはさ、最初先生がアビドスにやって来た時から、ずっと疑っていたから気付けたんだ――この大人が何かやらかすんじゃないか、また裏切られるんじゃないか、何か良からぬ事を企んでいるんじゃないか……ってね」

 

 綴り、思い出すのは先生がアビドスへ来たばかりの頃。まだシャーレという組織が設立されて、然程時間が経過していない時期だった。故にアヤネがシャーレに手紙を送ったのも半ば賭けで、藁にも縋りたい気持ちだったのだ。そんな中、どんな大きな学校の要請よりも早く駆けつけてくれたのが先生だった。

 あの頃のホシノは、先生を疑っていた。当然だ、大人に騙されて、騙されて、騙され続けて――ホシノはあそこまで転がり落ちたのだから。

 だからこそ気付けた、だからこそ勘付いた。

 

「でも、ハナコちゃんは違う、先生を最初から信じていたのに気付けた……まぁ、前評判もあるんだろうけれど、やっぱり凄いよ、うん――答えは云えないけれど、多分、考えている事は強ち間違っていないよ」

 

 ホシノの遠回しな言葉に、ハナコは息を飲む。震えた指先が、小さくカップを鳴らした。あり得るのか? ハナコの理性が問いかける。しかし、矛盾しないという点は見過ごせない。現状、そう考える事が自然であった。ホシノは言葉もなく沈黙を守るハナコに、肩を竦めながら問う。

 

「荒唐無稽だと思う?」

「……正直に、云ってしまえば」

「だよね、まぁいきなりそんな事云われても、信じられない生徒の方が多いと思うし」

「……どちらかと云えば、信じたくない、というのが本音でしょうか」

 

 先生が今尚、苦しみ続けている事を――認めたくない。

 ハナコは、思わずそんな言葉を吐いた。

 もしそれが正しいとするのであれば、だって、先生が歩む、その道は――。

 

「……先生は、何故――」

「――何故、そんなに頑張れるのかって?」

 

 ハナコの言葉に被せる様にして、ホシノは云った。俯いていたハナコの顔が上がる。

 

「おじさんも詳しく聞いた訳じゃないんだけれどさ、先生の傷を見たなら、分かるでしょう? あの傷痕、一回二回じゃないよ、文字通り何十、何百って、先生は諦めず、文字通り命懸けで頑張って来たんだ」

「………」

「先生には、そんな地獄の苦しみを味わって尚、諦められないものがある」

 

 それは、どれだけの苦痛を味わおうと、どれだけの苦難に打ちのめされようと、どうしても諦めきれない最後の一線。ハナコはテーブルの上で握り締めた手を軋ませる。彼はそれを、ずっと一人で背負ってきたのか――? これからも、その道を行くのか。たった一人で、最後まで。

 それが叶う確率は、どれだけのものだ?

 その苦しみに釣り合うだけの価値が、果たしてあるのか?

 先生は後――どれだけの時間苦しめば、『ソレ』から解放されるのだ?

 考えれば考える程、ハナコの表情は昏く、淀んだ。

 

 先生は、それを誰かに押し付けようとはしない。

 私達は、その重荷を背負う事が出来ない。

 なら――いっそ。

 

「――楽にしてあげたいって、思った?」

「……ッ!?」

 

 唐突なそれに、肩が跳ねた。思わず、自身の心を覗かれたのかと思ってしまう程に。ハナコがホシノを見れば、真剣な表情で此方を見るホシノの瞳が視界に映った。彼女は優し気に口元を緩ませると、穏やかな口調で以て告げる。

 

「表情、崩れかけているよ、何を考えているのか分かっちゃうくらいに」

「……ホシノさんは」

「――あるよ、考えた事……何度も、沢山」

「………」

「でも、それは先生の望みじゃないから」

 

 答え、そっと目を伏せる。二度や三度ではない、もっともっと、何度も何度も考えた事だ。何で先生なんだろう、何で先生がこんな辛い役目を負わなくちゃならないんだろう。そんな風に考えて、そんな風に想って、幾度も先生の寂しげな表情を眺め続けて来た。

 代われるのなら代わりたい、その重荷を欠片でも分けてくれるのなら、地獄の底まで付き添う心積もりだ。けれど先生は、ホシノがそんな風に考える度、その頭を優しく撫でつけ云うのだ。

 

 これは、大人が背負うべき責任だから、と。

 私は先生だからね、と。

 

「うへ……おじさん、先生の事、大好きだからさ? 意に沿わない事はしたくないんだよね~」

「それは」

 

 自身の感情を飲み下すという事で。

 傷付く先生を横目にしながら、その在り方を見守ると云う事で。

 ハナコは思わず自嘲を零し、呟いた。

 

「――強いのですね、ホシノさんは」

「――信じているだけだよ、先生を」

 

 例えどれだけの苦難があろうとも。

 先生ならば乗り越えてくれるって、信じているんだ。

 

「ま、駄目だった時は大人しく最後まで戦って、その終わりに自分でヘイローを壊すつもりだから、うへ……こういうと何か、おじさん重い女みたいだぁ」

「……ふふっ、みたいではなく、恐らくその通りかと」

 

 お道化た様に笑うホシノに、ハナコはそんな軽口を返す。不思議な事に、こんな話を聞いた後でも、笑ってみれば少しだけ心が軽くなったような気がした。

 

「先生は、これほどの重荷を背負って尚……何を目指しているのですか」

「ん? それはもう知っているんじゃないの?」

 

 そう云って、ホシノは笑みと共に告げる。先生の求める理想、その集大成を。

 

「――生徒全員が、笑い合える世界(夢みたいな未来)だよ」

「……成程」

 

 それは、確かに先生らしい。

 素敵で、儚く、夢みたいな話だ。

 このキヴォトスで思い描くには、余りにも綺麗な絵空事。

 ――けれどきっと、彼は諦めないのだろう。

 その確信がある。

 

「本気なんですね、あの人は」

「うん、先生はその夢を絶対に諦めないと思う、これまでも、これからも」

「……とても、辛いでしょうに――歩いている本人も、それを見る事しか出来ない生徒(私達)も」

「うん、だから……先生と違う道を選ぶ生徒も出て来る」

「まさか、先生の他にも?」

 

 ホシノの言葉に、彼女はふと声を上げた。その言葉の意味するところに気付いたホシノは、思わず目を見開く。これだけの言葉で意図を汲んでくるのかと、思わず苦笑を零し、呟いた。

 

「……ほんと、鋭いねハナコちゃん、もしかしてトリニティの凄い人?」

「いえ、私は落ちこぼれですよ、素行不良で、成績不振の……何せ、補習授業部ですから」

 

 呟き、微笑む。自分で口にしておきながら白々しい事この上ないが、実際問題そうなのだから仕方ない。ホシノは軽く頭を搔きながら、どこか憂う様な表情で続けた。

 

「あー、もしさ、もしもの話だよ? 目の前に未来の、大人になったヒフミちゃんが現れて、『先生を撃ってでも止める』って云ってきたら、ハナコちゃんはどうする?」

「―――!」

 

 その唐突な仮定に、ハナコは息をのんだ。

 それは、可能性の話。けれど決してあり得ないと断言する事は出来ない未来。

 先生が『そう』であるのならば、何故生徒が『そう』出来ないと断じる事が出来よう? 先生がその道を選んだように、生徒自身にも選ぶ権利はある。その未来を予想し、ハナコは険しい表情を浮かべ、沈黙した。

 

「傷だらけで歩く先生を見ているのは辛いから、自分の我儘で足を止めて欲しいって、あなただけは幸せになって欲しいって、もう楽になって欲しいからって、悲しそうに、辛そうに銃口を向けて来たら……ハナコちゃんは、撃てる?」

「………」

 

 もし――補習授業部が自分の前に立ち塞がったら。

 ヒフミが、アズサが、コハルが、或いは『自分自身』が。

 先生を想い、その未来を憂いて、銃口を向けて来た時。

 果たして、自分はどうするのか?

 

 答えは――出ない。

 

 それは理論の話ではない、感情の話であった。大切なものを二つ、目の前に差し出され、どちらを取るのかという問い掛け。そして、その片方だけを選ぶ事が、ハナコには出来ない。その苦悩を感じ取ったホシノは眉を下げ、共感するように呟く。

 

「うへ、難しい問題だよね、分かるよ……でも、先生と一緒の道を歩くって、そういう事なんだよ」

「………」

「そういう、生徒の懇願だとか、願望だとか、善意だとか、思い遣りだとか――そういう尊くて、大切で、温かいものを振り払って……自分から地獄の道を歩くんだ」

 

 生徒の為に。

 夢みたいな未来の為に。

 皆が笑い合える、世界の為に。

 その身を焦がしながら。

 

 先生を助ける事は出来る。その重荷を、『分けて貰った気持ち』になる事だって出来る。けれど本質的に、先生を救う事は出来ない。その道は、先生にしか歩けない道だから。だからもし、本当に先生と道が交わるとすれば――苦難の前に斃れ、共に堕ちる時か。

 或いは、その大願を成した後だけだ。

 ハナコは数秒、その沸き立つ感情を飲み下す為に紅茶を呷った。そしてらしくもなく音を立ててカップを戻したハナコは、そっと席を立つ。

 今は、感情と思考を処理する時間が必要だった。余りにも多くの事を知り過ぎた、そして何食わぬ顔で先生と過ごすには――少し、頭を冷やしたい。

 

「……ありがとうございますホシノさん、とても有意義な時間でした」

「うへ、何もだよ、おじさんとしてはお仲間が増えるのは――色々複雑だけれど、歓迎だからさ」

「えぇ――私としても心強い限りです」

 

 告げ、ハナコはテーブルの上に二人分の金銭(クレジット)を置くと、小さく頭を下げた。

 

「……それでは、ホシノさん、今日はありがとうございました」

「これくらいは全然、帰り道は気を付けてね~」

 

 ひらひらと手を振り、そう告げるホシノ。ハナコは彼女を暫し見つめた後、踵を返し店を後にする。

 その姿が扉の向こう側に消えて行くのを見送り、ホシノは数秒沈黙を守った後、云った。

 

「……で、そっちは先生から何か連絡はあったの?」

「――えぇ」

 

 傍から見れば独り言に聞こえるソレ、しかし返答があった。声は衝立の向こうから、一つ離れた席に座る生徒が発したものだった。この辺りでは珍しい和装をした彼女は、常に被っていた仮面を着用せずに茶を啜る。

 互いの顔は、衝立によって視認出来ない。

 

「どうやら、水面下で動く事をお決めになった御様子です、決行は五日後の夜……私の役目は古聖堂の地下防衛です」 

「うへ……そこまでおじさんに云っちゃって良いの?」

「えぇ、万が一の事を考えれば情報の共有は大事ですし、何だかんだ云って其方も決行日までトリニティに居座る腹積もりでしょう?」

「まぁね、だから今回の話は本当に、渡りに船だったよ」

 

 そう云ってクッキーを齧るホシノ。元々、トリニティには出向くつもりだったのだ。先生がトリニティで教鞭を執っているという話は元々聞き及んでいた。そして、その周辺がきな臭くなっていた事も。

 故に、万が一に備える為にも連絡を待っていたのだが――。

 

「……先生は、何でアビドスに連絡をくれなかったのかな」

「分かっていて、問いかけるのですか」

 

 ホシノの呟きに、彼女――ワカモは淡々とした口調で以て応えた。

 

「巻き込みたくなかったのでしょう、今回の件はかなりデリケートな問題です、トリニティとゲヘナ、下手をすればそこにアビドスが加わってしまう――云っては何ですが、学園の規模としては両校とも最大規模、アビドスでは比較になりません」

「……悲しい位に正論だね」

「事実ですので」

 

 そうきっぱり口にするワカモに、ホシノは苦笑を漏らす。この、先生の事となれば容赦も思い遣りもないワカモが、ホシノは存外嫌いではなかった。少々直截的なきらいがあるが、彼女自身が先生を想う気持ちは本物だと思っている。向こうが自身をどう思っているかは知らないが――今は同じ道を歩む、仲間だった。

 

「反面、私は停学中の身ですし、元より寄る辺のない身――強いていうのならシャーレ、あの方の傍こそ私の居るべき場所ではありますが……」

「そっちは色んな意味で名前が売れているからね、仮に介入しても百鬼夜行に抗議は行かないかぁ」

「えぇ、今まで散々騒動を起こしていて正解でした」

「良く云うよ~」

 

 笑い、ホシノは最後のクッキーを口に放る。素行不良が目隠しとなり、先生の手足となって動く事が出来る。これは正に、守るものを複数持たないが故の行動力だろう。ホシノも、アビドスという大切な居場所が無ければ一も二もなく先生の元へ駆け出したい心地だった。けれど、それは出来ない。先生と同じ位、あの場所が大切だから。

 ――逸る気持ちを抑え、ホシノは紅茶を胃に流し込む。

 あらゆる感情と一緒に。

 

「……先生を、お願いね」

「――えぇ、当然です」

 

 ■

 

 第四次補習授業部模試、結果

 

 ハナコ―百点 合格

 アズサ―八十二点 不合格

 コハル―七十四点 不合格

 ヒフミ―七十九点 不合格

 

 特別学力試験まで――あと五日。

 


 

 本当は長々とシロコについて後書き書いたんだけれど、最終章全部見終わって、何かこう、何も云えねぇ状態になって消しましたわ……。やっぱり先生は先生なんやなって。まぁ先生は闇落ちしても生徒傷つけたりはしないよね、そうだよね。

 というかそもそも何で先生がそんな負傷する事になったんだとか、アビドスの皆は何でバラバラになったんだとか、知りたい事があり過ぎる。つまり、あのバットエンドスチルの数だけ、シロコ・テラーみたいになる生徒が出て来るって……コト?

 ちょっと感情とか思考が飽和し過ぎて、もう上手く云えないんですけれど「ンギヴォァ~!」って感じですわ。強いて云うならアビドス見て号泣するシロコ・テラーの前で先生(色彩)をボコボコにしたらめっちゃ取り乱してくれそうだなぁと思った位です。先生(色彩)の手足捥いだらシロコ・テラー泣いてくれねぇかなぁ……。他の生徒を殺害しても、先生は出来なかったみたいだし。絶対激重感情持ってくれるって信じている。

 そんな死体擬きになってまで最後の生徒であるシロコを別次元の自分に託しに来る先生の覚悟っぷりにはマジで頭が下がります。最後のセリフ、本当に好き。自分自身ならやり遂げられるって信じている、どこまでも光属性な先生に私は思わず目を覆いましたわ。

 そして失敗世界線の先生から現在世界線の先生に対する感情が明らかになった為、私のエンディングプロットが全て破壊されました。南無阿弥陀仏。半壊で済んだぜ、とか思っていたら全壊した私の感情はフルスロットルで大爆発ですわ。ンギィィイイイイ↑

 因みに色彩の嚮導者=先生が確定した四章で消滅したエンディング、その内の一つがこれで御座います。

 

 ・ゲマトリアの合作、先生の複製(ミメシス)による最終決戦エンディング。

 救えなかった世界線の先生、その妄念や執念が輪郭を得たもの。云ってしまえば闇落ち先生が出現するラスト。クロコの話を元にゲマトリアが試験的に先生のレプリカを作り上げ、限りなく崇高に近いそれを解析しようとした所、色彩が到来してレプリカの肉体(ゴルゴンダ作)を乗っ取り覚醒、ビナーとかペロロジラとかホドとか、総力戦のメンバーを軒並み指揮下に置いて暴走、それを現世界線の先生が生徒と一緒に鎮圧する流れ。

 因みにこの結末を考えていた時点(大体一月頃)では最終章で色彩が出て来るとか思ってもいなかったのだ。アーメン。

 闇落ちしても先生は先生で、キヴォトスを滅ぼそうとか、生徒に害を為そうなんて事は欠片も考えていない。この闇落ち先生の目的は単純明快――誰も救えず、何も成せず、生徒ひとり満足に導く事の出来ない『先生モドキ』の排除。つまり、現世界線の先生を殺害する事。

 そしてこの要素も今回(最終章)によって破壊された。先生はこんな事しないッ! 南無阿弥陀仏。

 総力戦のボスを軒並みシバいた後、先生は遥か地下深く、ゲマトリアの総本山の只中で、自分自身の罪悪と対峙する。生徒達が困惑する中、先生は手出し無用を告げ自身のレプリカへと歩み寄る――という感じ。

 このエンディングの最終戦は、生徒達による総力戦ではなく、文字通り先生が単独で戦う形となる。私は基本的に本編の先生に対して『生徒を物理的に傷付けない(緊急時を除く)』、『殺傷武器を持たない(自決除く)』、『命を奪わない』という制約を課している。

 しかし、これらの制約はあくまで『他者』に対する制約なので、先生自身はその限りではない。何なら先生がこの世で最も憎み、忌み嫌い、殺したいと思う程の相手は自分自身なので、どちらも全力で相手を殺しに掛かる。先生VS先生の殺し合いショーで御座います。見ている事しか出来ない生徒にとっては正に地獄です。

 でも別世界線の先生も先生でした。別に先生の事憎く思っていた訳ではないようです、何なら大切な生徒を託しに来ました。素敵ですねこんちくしょう。

 因みにここまで来るのに『エデン条約』、『機械仕掛け』を経ているので先生の手足は義手義足に置き換わっています。シッテムの箱も、大人のカードも使わず、最後は先生が最も忌み嫌い、避けていた暴力で解決するエンドは何とも滑稽ですわねぇ~! でもラストバトルで殴り合う展開結構すきなの、そーなの……。

 

 色彩の嚮導者が先生だと判明してしまったので、この闇落ち先生エンディングは没、没、没シュートですわ~っ! ついでに後三つくらい考えていたエンディングルートも放棄ですわ~~ッ! 先生マジで聖人でヤベェですわ~! 成功した自分に嫉妬とか、なさらないの……? 全ての生徒を救った自分に憎しみとか抱かない? そういう先生の負の側面みたいなのを煮詰めたのが私のキヴォトス動乱に至るルートだったのですけれど……??? そのルートは全て浄化され申した。あんな託され方したらこんなルート書けないじゃん。光属性先生マシマシじゃん。「生徒達を……よろしく、お願いします」なんて、あんな姿になり果てて尚そんな事云われちゃったら、もう万感の想いが籠り過ぎて闇落ちとかさせられないじゃん。無理じゃん、余りにも透き通り過ぎて自分が濁ったどす黒い世界を描いている様な気分になりましたわ……おかしいですわ、不条理ですわ、わたくしのブルーアーカイブはこんなにも透き通っておりますのに……。

 いやでも実際どーすんのこれ、いや最終的な結末はもう決まっているんですの。それだけは第一話の頃から変わらずに、どんなストーリーが実装されてもコレだけは絶対に通すって決めているんですわ。でもそこまでに至るルートが余りにもぼっこぼこのボコで、死に際にすら連邦生徒会長の折り鶴持って逝く先生を、一体どうすれば……。

 

 いや、関係ねぇですわッ! 原作の流れはそのままに、設定も出来得る限り織り込んで、プレ先生の光属性を損なわないルートを構築すれば良いだけの事ですのッ!

 わたくしは高度な柔軟性を保ちつつ、臨機応変にプロットを捏ね繰り回し、捻じれて歪んだ終着点に辿り着いて見せますのッ! プロットなんて粘土細工みてぇなものですし、一回崩れても、もう一回形作れば良いんですわよッ! 何ならプレ先の罪悪を代わりに背負って更に苦しくなる先生を書き綴ってやりますわ! アビドス失敗ルートもわたくしが捏造しますわ! 後からそのシナリオが実装されたら? ………うるせ~~~~~!!! 知らね~~~~~!!! あぁ~~~~賽の河原~~~~!! 何でわたくしこんなに苦しんでまで書き続けているんですの??? 先生の手足を捥ぎたいからですわよッ!!!!! もう半年近くそれだけ考えて書き続けているんですのよッ!? 先生の手足捥ぎ取って這い蹲って血塗れで生徒に手を伸ばす姿を書くまでは死んでも死にきれねぇんですわよッ!!! 待っていらしてね先生ッ、その綺麗なおててを直ぐに引き千切って生徒の前に転がしてあげますからねッ!!!

 覚悟(大人のカード)の準備をしておいて下さい! 近い内に腕を捥ぎます。脚も捥ぎます。ナラム・シンの玉座にも問答無用で来て貰います。シッテムの箱(青い教室)の準備もしておいて下さい! 貴方は先生です! 色彩の嚮導者にぶち込まれる楽しみにしておいて下さい! いいですねッ!?

 

 色彩の嚮導者ルート(捻じれて歪んだ終着点)と、託された先生ルート(あまねく希望の始発点)、両方書けて二度おいしいね。プレ先生は本編先生よりも酷い事になるから覚悟してね、原作の描写からアビドスルートで全部ミスした場合の先生かな。ホシノは救えないし、セリカはカタカタヘルメット団に拉致されて砂漠に埋められるし、アヤネはカイザーの手でボコられるし、ノノミはアビドスを離れて自殺か何かしそう。先生自体もかなり重症らしいし、手足も臓器も何もかも削ぎ落そうね、生命の最小単位とまでは云わないけれど、生徒の為に限界まで自分を追い込んでから死のうね。その上、助けようとした生徒も助からないよ。自分の為に生徒がどんどん消えて行く様を見続けようね。そして最後に残ったシロコだけは何とかしようって、自分の全部捧げて消えようか。これ下手すると私が書いていた一週目先生よりエグイ結末では??? でも何故かワクワクが止まりませんわ……! 捥げる手足が二倍になったからかしら……?

 先生、プレ先生! お二人共待っていらして! 今、会いにゆきます!!!

 



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補習授業部、最後の夜

誤字脱字報告に感謝いたしますわ~!


 

 深夜――合宿所、先生の部屋にて。

 その夜、先生はひとり明日の授業教材をチェックしながら、無言で作業に勤しんでいた。その日の夜は常よりもどこか静かで、昏く感じる。並べられた教材と何度も確認した痕跡が見受けられる過去問題集の山。それらを横目に、淡々とプリントを捲る先生。

 

 補習授業部の学習進捗度は、決して良好とは云い難い。それは生徒が頑張っていないだとか、そういう事ではなく、単純に試験範囲が三倍になった事による影響だった。カバーしなければならない範囲が広い為、圧倒的に学習時間が足りない。彼女達は努力している、それこそ食事の時間や、ちょっとした隙間時間にさえ暗記を詰め込もうと必死になり、文字通り一日中勉学に励んでいる程に。

 

 その努力に報いたいと思う、この困難を乗り越えさせたいと思う。けれど一週間という時間は余りにも短い。先生は最近薄らと浮かんだまま消えなくなった隈を摩り、少しばかり椅子に身を預ける。天井を見上げながら息を吐き出すと、少しだけ楽になった気がした。

 

 昨日は、二時間ほど眠る事が出来た。

 夜に一時間、昼に三十分と、夕刻に食堂で三十分。時計を見れば、既に時刻は四時を回っている。先生はテーブルの上に散乱した資料を眺め、苦笑した。もう少し、模擬試験の内容を詰める必要がある。こういう時にアロナは非常に頼りになった、トリニティ側が出題してくる可能性が高い問題を過去問から優先的に割り出してくれている。自分はそれを選別し、数字や内容を少しばかり弄ったり、表現を変えて模試に落とし込むだけだ。一人でやるよりずっと楽だった。もし自分一人だけだったら――多分、過労死していただろうな。

 そんなあり得た未来を思い浮かべ、忍び笑いを零す。

 

「――ん?」

 

 ふと、ノックの音が聞こえた。先生が顔を上げると、同時に扉の向こう側からくぐもった声が聞こえて来る。

 

「――先生、私です」

「……どうぞ」

 

 先生はその短い言葉に、透かさず入室の許可を出す。ゆっくりと開いた扉、そして空いた隙間から素早く部屋の中に体を滑り込ませる人影。内は白く、外は黒いウィンプルを目深く被った彼女は、後ろ手に扉を閉める。先生は静かに席を立つと、彼女と向かい合う様にして佇んだ。

 

「目は?」

「問題なく――救護騎士団の方々が助力して下さいました、私自身は今、聖堂に居る事になっておりますので」

「……ミネは不在なのに、動いてくれたのか」

「この所、ティーパーティーに不自然な動きが多すぎましたから」

 

 そう云って、深く被っていたウィンプルをズラす生徒。その中にある銀髪が揺れ、強い理性と信念を感じさせる瞳が先生を捉えた。

 

「……お久しぶりですね、先生」

「うん、久しぶり――サクラコ」

 

 微笑み、先生は言葉を返す。

 先生の前に立つ彼女――サクラコは、久々の再会に歓喜の笑みを浮かべるのだった。

 

 ■

 

「ごめんね、本当は私が足を運べたら良かったのだけれど……」

「構いません、先生は常にマークされていますから――まぁ、私も似たような立場ですが、先生と比べればまだ監視の目も緩い方でしょう、私達シスターフッドは元より、その様に在った組織ですので」

 

 そう云って背筋を正し、椅子に腰掛ける彼女は頷く。先生は電気ケトルで沸かした湯をマグカップに注ぎ、いつも補習授業部に振る舞っていたココアをサクラコへと差し出した。自身の目の前に置かれたソレに、サクラコは目を瞬かせる。

 

「あら……先生、これは?」

「ココアだよ、甘いもの、好きでしょう?」

「それは、た、確かに甘味は好みますが――」

「いつも肩肘張っているし、偶にはね? あ、御菓子もあるけれど食べる?」

「こ、こんな夜更けにですか? いえ、施しに遠慮をする訳ではありませんが、その、こんな時間に食べては、た、体重が……」

「そう? 勿体ないなぁ、商店街の限定マカロン、『シラユキ777』……折角手に入ったからサクラコに御裾分けしようと思ったんだけれど、要らないなら仕方な――」

「――有難く頂きます」

 

 云うや否や、サクラコは凄まじい重圧を放ち、先生の取り出した箱を力強く掴んだ。普段甘味を口に出来ないサクラコは、限定という言葉に酷く弱い。彼女の体重云々の話は遥か彼方に吹き飛び、先生から強奪――もとい施しを早速とばかりに開け、綺麗に並んだマカロンを恍惚とした表情で眺めると、早い者勝ちと云わんばかりの素早さで一つ摘まみ口に運んだ。

 

「……ん~っ!」

 

 瞬間、舌に広がる甘味。体全身が喜びを上げていると感じる程に染み渡るソレ。サクラコの表情がトロトロに溶け、普段の彼女からは想像もできない幸福に満ちた笑顔を浮かべていた。

 シスターフッドの代表として、常に人に見られているという意識を持ち、厳格に、清廉に振る舞う事を常に意識している彼女は、人前で菓子を口にする事も、ましてや他者に強請る様な事もしない。かと云ってコソコソ甘味を買いに行くことも出来ず、歯痒い思いをしてきたが――やはり、甘味は良い、心が穏やかになる。

 サクラコは強くそう思った。

 

「どう、美味しい?」

「っ、は、はい、大変美味で……」

「それ全部食べて良いからね、元々サクラコの為に用意したものだから」

「えっ……ぜ、全部ですか!?」

「うん、遠慮しないで」

「――………」

 

 サクラコは驚愕の表情で自身の前に置かれたマカロンを見つめる。限定マカロン、シラユキ777(スリーセブン)、それは商店街に店を構える洋菓子、和菓子問わずに究極の甘味を追い求める、『スイート・ドリーム』が発売した、洋菓子と和菓子の融合を目指した新しいマカロン。毎日発売されるそれはしかし数量限定で、一日に五十セットしか販売されない。一セット九個入りで、お値段は五千九百クレジット。今しがたサクラコが一つ食べてしまったので、残りは八個。

 この八個が、全部自分のもの……? 全部、食べてしまっても構わない……?

 ごくりと、唾を呑み込むサクラコ。ならば、早速もう一つ――。

 そう思い、マカロンに指を伸ばす彼女。

 しかしふと、彼女の脳裏に――マリーとヒナタの姿が過った。

 

「……サクラコ?」

「申し訳ありません、先生、その……」

 

 中途半端に伸ばしていた指を引っ込め、サクラコはおずおずと問いかける。

 

「このマカロンですが、持ち帰っても構わないでしょうか? 私ばかり甘味を頂くのは、やはり……マリーやヒナタも普段は甘いものを控えていますし、二人にも食べて頂きたくて――」

 

 どこか申し訳なさそうにそんな言葉を口にするサクラコに、先生は少しだけ目を見開いて、それから優しく微笑み頷いた。

 

「……あぁ、勿論構わないよ」

「っ、そ、そうですか、その慈悲に感謝を!」

 

 ぱっと、表情を輝かせてマカロンの入った箱を閉じるサクラコ。こんな事なら、もう二セット買っておくべきだった。先生は心の中で少しだけ悔いる。しかし限定セットはひとり一つまでで、三セット購入するとなると三日連続時間を確保する必要があり――ままならないものだと、軽く頬を掻いた。

 

「んんッ、で、では、一先ず本題に入りましょう、先生」

「そうだね……今は一分一秒が惜しい」

「えぇ――それで、煌めく炎の剣はご確認頂けましたか?」

「うん、ちゃんと読んだよ……まぁ、そうじゃないと此処で顔を突き合わせることも無かったと思うし」

「ならば、向こうの動きは?」

「詳細は掴めていないけれど、大まかな動きなら予測出来る」

 

 そう云って頷く先生。過去問の中に紛れ込ませていた、一枚の紙を引き抜き、サクラコの前に差し出す。彼女はそれを受け取ると素早く目を通した。

 

「……決行は、第三次特別学力試験ですか」

「恐らくね、或いは前後にズレ込む可能性はある――どちらにせよ、この数日の間に決着がつくと見ているよ」

「妥当な判断かと」

 

 紙には、最近の各派閥の動きが時系列順にまとめられている。先生直筆である為か、やや角ばった書体が何とも新鮮だった。それらの文字を指先でそっとなぞり、思案の様子を見せるサクラコ。

 

「仮に事が起こるとして、独自に動ける勢力はシスターフッドと、救護騎士団の一部のみ……あとは私達、補習授業部位か」

「正義実現委員会は完全に手綱を握られてはいないとは云え、一応ティーパーティー管轄ですから、上から指示を出されてしまえば動けなくなる可能性が高いでしょう――外部からの増援という手段も一応、ありますが」

「……この時期にそれは、悪手だろうね」

「えぇ、同意見です、この件に関してはトリニティ自治区内で処理する必要があります、学園に所属しない生徒でもいれば別ですが」

「………」

 

 先生の脳裏にrabbit小隊とアリウススクワッドの姿が過った。しかし、嘗ての彼女達はもう、何処にも居ない。自身はまだ、彼女達の手を取れていない。その事実に少しだけ、胸が軋む。

 

「そうでなくとも、自身の学園の事ですから――それを治めずして他者に恃む等、以ての外でしょう」

「……ごめんね、シスターフッドにこんな、政治干渉めいた真似を」

「――構いません」

 

 先生の言葉に、サクラコは強い意思を秘めた瞳と共に、そう断じた。

 

「いつか、こうなる時が来るのだと思っておりました――それが只、私の代であった、それだけの事」

 

 言葉は揺ぎ無く、彼女の態度は泰然としていた。シスターフッドは常に、トリニティの中でも直接的な政治干渉を避けて来た組織である。それは救護騎士団も同じであり――彼女達の場合はその理念上そう在る事が自然なのだが――露骨な政戦や派閥争いなどは彼女の望むところではない。それでもやはり、トリニティに於いて一大派閥である事は変わらず、水面下での小競り合いはずっと昔から続いていた。

 故に、いつかこうなる事は必然だったのだ。トリニティという巨大な船が、ティーパーティー一つで支えられなくなくなったのなら、同乗している自分達も動かねばならない。

 サクラコはそんな意思を込めて、先生の声に応える。

 

「それに、他ならぬシャーレからの要請です、このキヴォトスに生きる生徒の一人として、トリニティの一員として、助力致します」

「……ありがとう、助かるよ」

 

 数秒、間があった。先生はあらゆる言葉を呑み込み、頷く。そして先程とは異なる、折り畳まれた一枚の紙を懐から取り出すと、それをサクラコへと差し出した。摘まめるほどに小さく折り畳まれたそれを、彼女は疑問の目で捉える。

 

「……これは?」

「私が予測する、【彼女】のシナリオだ、口頭で説明するとしても中々に時間が掛かりそうでね……悪いけれど、読み終わったら燃やして処理して欲しい――くれぐれも露呈しないように頼む」

「――分かりました」

 

 余程重要な情報なのだろうと、真剣な表情で折り畳まれたそれを受け取るサクラコ。手の中に収まったそれを見つめる彼女は、ふと揶揄う様な色を浮かべながら口を開いた。

 

「こうして話していると時折、先生は未来を知っているのかと疑ってしまう事がありますね」

「……まさか」

「ふふっ、えぇ、ほんの冗談です」

「……サクラコが冗談を口にするなんて、珍しいね」

「日々精進ですから」

 

 そう云って誇らしげに胸を張る彼女に、先生は苦笑を漏らす。冗談ですら精進と口にする彼女の、その生真面目さが浮き彫りになった瞬間だった。

 

「しかし、良く動きが掴めましたね、一応此方でも水面下で探ってはいますが――」

「この騒動の根本に居る人物と……以前、ひと騒動あったんだ、蛇の道は蛇ってね」

「……余り深く聞く事はしないでおきましょう」

「賢明だ」

 

 彼女の言葉に、先生は肩を竦める。こういった事は、大人のやり方なのだから。

 尽くせるだけの手は尽くした、元より少ない手数を増やせる為に足掻きもした。自身が出せる表の札は、全て切ったと考えて良い。

 

「さて――出来得る限りの手は尽くした、後は彼女達がどう出るかどうか」

「……信じましょう、事の成功を」

 

 サクラコはそう云って両手を握り締める。それは祈りにも、自負にも見えた。

 ――そうだ、己が弱気でどうするというのか。先生は両手を握り締めると、そっと目を閉じ、頷いて見せた。

 

「……あぁ、そうだね」

 

 ■

 

 そうして、時は過ぎていく――。

 

 ■

 

 第五次補習授業部模試、結果

 

 ハナコ―百点 合格

 アズサ―九十四点 合格

 コハル―九十点 合格

 ヒフミ―九十三点 合格

 

 特別学力試験まで――あと三日。

 

 ■

 

 第六次補習授業部模試、結果

 

 ハナコ―百点 合格

 アズサ―九十一点 合格

 コハル―八十三点 不合格

 ヒフミ―八十九点 不合格

 

 特別学力試験まで――あと一日。

 

 ■

 

「……ついに明日、ですね」

「はい……」

「………」

 

 第二次特別学力試験から六日後の夜。

 

 遂に第三次特別学力試験を明日に控えた補習授業部の面々は、どこか浮足立った雰囲気で過ごしていた。時刻は既に夜、寝るには少しばかり早い時間帯であるが、自習時間は疾うの昔に過ぎている。それでも尚、皆が手を伸ばせる範囲に参考書の類を置いているのは不安の表れか。この三週間の内に何度も捲り、確認したページは半ば捲り上がって、擦り切れ始めている。色褪せた表紙を見つめながら、ヒフミは両手を握り締める。

 

 第二次特別学力試験からの一週間、出来得る限りの事はして来た。お風呂とトイレ、そして睡眠時間以外、殆ど学習に費やして来たと云って良い。食事をしながら暗記帳を捲って、僅かな時間さえも惜しむ程だった。多分、自分ひとりだけでは心折れていただろう。耐えられたのは、補習授業部の皆が同じように努力していからだ。隣で同じように苦心しながらも、それでも諦めない皆の姿勢に救われた。

 だから、きっと上手くいく。ヒフミは自分にそう云い聞かせる。

 

「ま、まさか、また急に色々変わったりしないよね?」

「はい、今のところは――」

 

 コハルがどこか不安げにそう声を上げれば、ヒフミは頷いて見せる。あの試験以降、彼女はこまめに端末で掲示板をチェックしていた。少なくとも今日の昼頃に確認した時は、不審な点はなかった筈だ。

 

「そうですね、試験範囲は以前の通り、合格ラインも変わらず九十点以上、場所はトリニティ第十九分館、第三十二教室、本館からは離れていますが、そこまで遠くはありません――時間は、午前九時から」

 

 そう云って、ハナコは自身の端末を操作する。記載されている内容に誤りはない、時間も場所も常識の範囲内。少なくとも文面から何か策謀の色は見えなかった。

 

「……むしろ気になる点と云えば、昨日から本館が不自然な位静かな事です、人気(ひとけ)がピタッと無くなってしまったようで」

「不気味、ですね」

 

 呟き、ヒフミは目を伏せる。本校舎から離れたこの合宿所では、トリニティ全体の動きを掴むことが出来ない。普段教室に通っている状態ならばまだしも、隔離された環境では噂話の一つすら拾う事が出来なかった。

 

「……念の為、今晩も私の方で掲示板をずっと見ておきます」

「は、ハナコちゃんも寝た方が……」

「ふふっ、私は大丈夫です、それに、私にはこれくらいしか出来ませんし……」

「そ、そんな事ありません! ハナコちゃんが凄く丁寧に勉強を教えてくれたおかげで、私もアズサちゃんもコハルちゃんも、すっごく成績が上がって……!」

「それは、皆さんが頑張ったからですよ」

 

 告げ、ハナコは微笑む。

 この一週間、ハナコは自身の勉学を他所に三人の学習の手助けを率先して行っていた。元々一年から三年の学修課程を修了しているハナコである。彼女ひとりだけならば、試験範囲が十倍になろうが百倍になろうが関係ない。故に彼女は今回の試験範囲の内容、その要点を押さえ分かりやすく彼女達に教え続けていた。

 

 三人の顔を見渡しながら、ハナコは内心で様々な感情を巡らせる。

 アズサ、ヒフミ、コハル、全員の顔に疲労が滲んでいた。アズサはまだ平気そうにも見えるが、コハルとヒフミの両名は既に目の下に隈が薄らと浮かび、その顔色は決して良好とは云い難い。この一週間、彼女達は殆どの時間を勉強に費やし続けた、そしてそれでも尚時間が足りない事を悟った時、皆が睡眠時間を削る事を決めたのだ。

 

 以前の自習時間は夕刻を僅かに過ぎた時間までとしていたが、この一週間に限り就寝時間ギリギリまで伸ばしたのである。更に、これは暗黙の了解となっているが、就寝後も皆が端末の僅かな光で勉強し続けている事をハナコは知っていた。他の皆に迷惑を掛けないように、布団を頭まで被って、小さな暗記帳を捲るのだ。全員が皆の足を引っ張りたくないと、自分の失敗で退学などにさせまいと、必死になっていた。

 

 だからこそ、ハナコは何とも遣る瀬無い感情を抱く。これ程の頑張りが、報われない事などあってはならない。その努力を、献身を、頑張りを直ぐ横で見ていたからこそ、彼女は万感の想いを込めて呟く。

 

「……何日も碌に睡眠を取れていなかったのに、必死に机に向かって……本当に、よく頑張ったと思います」

「――うん、その通りだ」

 

 その声に、同調する者がいた。

 扉を開け顔を覗かせる人物。皆は彼を視界に捉えた瞬間、ぱっと疲労の滲む表情を喜びに輝かせた。

 

「先生!」

「やぁ、ごめん、遅くなって」

 

 手を振り、笑顔で部屋に踏み込む先生。就寝前に先生が生徒達の部屋へと顔を出すのは日課となっており、この一週間彼がこれを一日にも欠いた事はない。元々は体調不良の生徒などが出ないか心配していた先生による回診モドキであったが、今では単純な習慣となっていた。

 

「ハナコも、ちゃんと睡眠はとって、掲示板は私が確認しておくから」

「先生、しかし――」

「万が一でも不合格になる不安要素は取り除いておきたい、これは私の我儘……駄目かい?」

「……いえ、先生がそう仰るなら」

 

 先生の言葉に逡巡を見せたハナコだったが、肩を落とすと静かに頷いて見せた。ハナコは補習授業部の中でも唯一疲労が出ていない生徒ではあるが、ほんの僅かでもパフォーマンスを落としたくないと、先生はそう考えているらしい。或いは別の意図があるのか。何にせよ、先生の厚意を無駄にする事は避けたかった。

 

「後は明日の試験……ボーダーは九十点、正直、かなり厳しいと言わざるを得ませんが、問題が簡単だったら、きっと……!」

「っ、そ、そんな都合の良い事が起きる訳ない! 私はまだまだ深夜まで勉強するから!」

 

 ヒフミの言葉に、コハルは自身のベッドの上に重ねられていた問題集を手に取って広げる。どれだけ勉強しても、ほんの一握りの不安がこびり付いて離れない。その不安を解消する方法はたった一つ、自身が納得出来るまで勉強する事だ。コハルは目元を拭いながら、ペンを取って叫んだ。

 

「百点……っ! 百点取れたら、誰も文句なんて云えないでしょ!? そうだよね!?」

「こ、コハルちゃん、気持ちは分かりますが、今日はもう明日に備えてゆっくり休んだ方が……」

「そうですよ、コハルちゃんが頑張ったのは皆知っています、大丈夫です、きっと合格出来ます」

「う、うぅ……っ!」

 

 ヒフミとハナコがそっとコハルに語り掛け、その背中を撫でつける。ベッドの上で蹲り、ペンを握り締めながら参考書を睨むコハルは、軈て嗚咽を零しながら涙を流した。不安で不安で仕方なかった。それは自身の進退もそうではあるが、自分の失敗で他の皆が巻き込まれてしまう事を、コハルは何よりも恐れていた。

 

「休むのも戦略の内だ、コハル」

「えぇ――そしてそれは、アズサちゃんも同じですよ?」

「……うん、今日くらいはゆっくり休もうと思う」

 

 ハナコの言葉に、アズサは小さく頷いた。深夜の見回りを未だに続けていた彼女は、最後の夜は素直に休む事を約束する。ヒフミはコハルの背中を撫でつけながら、強張った表情で呟いた。

 

「――いよいよ明日、私達の運命が決まるんですね……」

「もし――いや、縁起の悪い事は云わないでおこう、必ず合格してみせる」

「すびっ……! わ、私も……! 絶対に負けない、負けてなんて、やらないんだからっ!」

「そうですね、その意気です、コハルちゃん――泣いても笑ってもあと一回……全力を尽くしましょう」

 

 第一次特別学力試験、第二次特別学力試験、そして次が最後のチャンスとなる、第三次特別学力試験。これで失敗すれば、補習授業部の全員が退学処分となる。その最悪の未来を回避する為に、皆は此処まで頑張って来たのだ。

 先生は全員の顔を見渡し、力強く断言して見せる。

 

「今まで頑張って来たんだ、皆ならきっと大丈夫――自分と仲間を信じて試験に挑もう」

 

 そうすれば、きっと――。

 その言葉の続きはない。

 補習授業部の皆が、先生の言葉に頷く。やれる事は全てやった、後は自分と仲間を信じて試験を受けるだけだ。不安を噛み殺し、今まで積み重ねて来た努力を振り返る。

 

 最後の試験は、もう直ぐそこまで迫っていた。

 

 ■

 

 特別学力試験まで――あと………。

 


 

 次回 遂にエデン条約編 前編が終幕へと向かいます。皆さんお待ちかね、「あはは……」シーンも、あと二、三話でしょう。アビドス編と合わせて大体百万字ですか、まぁ一章五十万字と考えれば妥当ですわね。クソなげぇですわ~!

 

 そんな事より最終章から三日経つのにプレ先生の「生徒たちを……よろしく、お願いします」シーンリピートが止まらないですわ。3rd PVが最終編の後の話であると知って、もう一回見直したら黒板にプラナちゃんの絵があって「オボボボ」ってなったんですの。Pixi〇とGoogl〇で延々と『ブルーアーカイブ プレナパテス』で検索して情緒爆発している他の先生を探してしまう。プレナパテス先生の行動に感情爆発して屍になった先生を眺めながらずっと後方腕組み黒服面して一緒に死んでる。

 先生を血塗れにして生徒の泣き顔を見たい筈なのに、プレナパテス先生と今世界先生の幸せな日常を見たいと思っている自分が居る。そしてそれをすんなりと、それこそ自然に受け入れてしまっている自分に、私が一番驚いている。

 

 一緒に格ゲーやったら同じキャラ選ぶし、FPSやったら同じ銃選ぶし、ロボゲーやったら同じパーツ使うし、恋愛シミュレーションやったら同じキャラ攻略するし、死にゲーやったら同じステ振りになる。それを見て、「お前ッ! ここまで同じ状況、同じ選択しなくても良いじゃんッ!?」ってお互いに取っ組み合って喧嘩して欲しい。

 そんでもって対戦ゲームやりながら、「今のズルじゃん! ズルじゃん!」って叫んで、「ズルじゃありません~! 戦略ですぅ~!?」って、自分が相手だから大人なのに大人げない行為して欲しい。

 

 その後シャーレにやってきたユウカに、「せんせい~!? またお仕事しないで二人でゲームしているんですかッ!?」って怒られて二人で正座して欲しい。怒られた後はお互いのアロナに慰められていて欲しい。でも最終的に、「ちゃんと仕事はして下さい」って云われて、「はい……」ってなる。この後結局徹夜になって二人共セリナに看病される。

 

 昼に柴関行ったら同じメニュー選ぶし、食べ方もそっくりで大将に笑われて欲しい。トッピングまで一緒で、何かそれはそれで癪だと思っていつもと違うの選んだら、相手も同じ考えで、結局全く同じメニューをメンチ切りながら啜るんだ。

 後、ユウカの機嫌を取る為にスイーツを帰りに買って帰る事になって、「私こっち買うね……」、「うん……」ってケーキとかパフェ買って恐る恐るシャーレに帰って欲しい。そのへっぴり腰な姿勢もそっくりで、シャーレのロビーを恐る恐る団子になって覗くプレ先と先生が目撃されたとか何とか。

 

 勿論キヴォトスや生徒の危機には颯爽出撃、先生が二人体制なので指揮能力も二倍、アロナパワーも二倍! 私達は二人で二倍じゃない! 十倍だぞ十倍! を地で行って欲しい。普段は何だかんだぶつかるけれど、根本的には「自分なら死んでも生徒は守る」って信頼しているから、生徒を預ける事に何の不安も抱いていない。

 

 その後生徒達とは出来ない大人の打ち上げみたいなので、二人で柴関の屋台でちょっとした酒盛りとかしていたらエモモのエモ。「君ちょっと肩幅デカすぎない?」、「これが今のキヴォトスに於ける最先端のファッションなんです」とかプレ先生と先生が屋台で肩寄せ合って話している光景を見たい。プレ先生は腕章の代わりに胸元にシャーレのシンボルが付いていると思う。

 勿論お酒はほんのり嗜む程度、生徒達が頼って来た時に酔っていて何も出来ませんでは面目が立たないから。エロ本もある世界だし、お酒もあるよね?

 

 寝床は同じ部屋で、プレ先生にベッド占領された先生が「お前お前お前~!?」ってなって、プレ先生はそれを凪の様に受け流し熟睡するのだ。生徒から集中砲火を受けても大丈夫なプレ先生の肉体を、先生が押し出したり傷つける事は出来ない……。仕方ないので先生はソファとか、無理矢理プレ先生のマントを広げて中に体を突っ込んで寝る。二日に一回はプレ先生も先生にベッドを譲ってくれるので、実質交代制。多分その内プレ先生用のベッドを買う事になる。

 

 カイテンジャー、合体デラックスキットの発売日に、二人共店頭で予約してばったり遭遇して欲しい。そのまま無言でお互いを見つめた後、レジで支払いを終え同じ紙袋を抱えながらシャーレに戻って欲しい。その後ユウカが領収書を見て、「何で同じものを二つも買うんですかッ!?」って激おこして、お互いを指差しながら、「だって先生が……」って言い訳して欲しい。勿論デスクには全く同じカイテンジャーのキットが雄々しく起立している。間違えないように足裏とかに付箋で「先生」、「プレナパテス」とか書いてあったら素敵。

 

 サヤとかに、「先生のその体はどうなっているのだ!? ぼく様に研究させるのだ!」ってプレ先生が追いかけ回されて、二人で必死に逃げ回って欲しい。「私より頑丈なんだから良いじゃん!」、「イヤだッ、もう全身が七色に光るのは嫌だッ!」って叫びながら山海經を走り回る先生二人組が目撃されたとか。

 

 結局泣きが入ったサヤに折れる形でプレ先生が薬を飲み、ゲーミングプレ先生が爆誕。それを見て爆笑する先生、キレたプレ先生が先生にも同じ薬を飲ませ、ゲーミング先生爆誕。お互いに虹色に光りながらシャーレにとぼとぼ帰って欲しい。

 担当のノアに、「〇月〇日、〇時〇分、先生二人が虹色に発光した状態でシャーレに帰還する」って記録されて、デスクで粛々と作業する中、「先生方、事務作業を行う最中に発光されると目に悪いので、やめて頂けますか?」って云われて泣く泣く廊下で作業して欲しい。シャーレに来た生徒が廊下に這いつくばりながら泣いて書類を作成する先生二人を目撃し、「七色に光る先生が泣きながら廊下で書類書いていた」っていう噂が発生する。

 

 そんな面白可笑しく、二人には過ごして貰いたいんだ……そんな小さな奇跡が、日常の中であって欲しいんだ。

 でもそうはならなかったんだ、ならなかったんだよ先生……。

 プレナパテス先生は、今の先生に自身の文字通り全てを託して、消えたんだ。

 もう二度と戻る事はないし、そんな奇跡は起きない。

 続きはもう、どこにもない。

 だから、この話はこれで終わりなんだ……。

 

 ふ゛れ゛な゛は゛て゛す゛せ゛ん゛せ゛い゛~~~~~~ッ!!!!

 あ゛あ゛あ゛あ゛あぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛~~~~~~~!!!

 や゛た゛ぁ゛~~~~~~ッ!!!

 と゛ほ゛し゛て゛こ゛ん゛な゛こ゛と゛す゛る゛の゛ぉ゛お゛お゛!!!

 

 ヨースターさん、ネクソンさん、なんで、なんで……こ、こんな……こんな酷い事を……。わたくし今まで「このキャラ好き!」ってなる事はあっても、「あ゛あ゛あ゛あ゛~~~」なんて声出しながら転げまわる事なんてありませんでしたわよ? でもこの、どこまでも高潔な精神と、自身の責務と使命を全うし、一本線の入った在り方。それは自身の為ではなく、どこまでも他者の為に。大人として、先生として、完ッ璧でしてよ、わたくしの性癖にこれ以上ない位ドストライクでしてよォッ! 

 そんな生まれて初めて誕生した推しキャラが同時に一分くらいで絶命しましたわ~! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~~~~!!! や゛た゛ぁ゛~~~~!!! 読み返す度に心がし゛ぬ゛ぅ゛~~~~!!! でも読んじゃう゛う゛~~~!!! ふ゛れ゛な゛は゛て゛す゛せ゛ん゛せ゛い゛~~~~~~ッ!!!!

 

 つらい。

 とてもつらい。

 

 もう皆で手を繋いで仲良くしようよ……なんでこんな事するんですの。そもそもアビドスあんなにして先生にそんな道を歩ませた元凶は誰なんですの? 絶対ぇ許さねぇですわ覚悟しろ。うぅ、プレ先生生き返って……私の本編先生の寿命あげるから……。

 

 でも、光の側面だけ見るのも、闇の側面だけ見るのも、駄目なんですわ……。

 光が無ければ闇は生まれず、闇が無ければ光は輝けないんですの。

 だから大事なのはその結末……苦しんだのなら苦しんだ分だけ、その人物は報われなければならないと思うのです。

 だからわたくしは、頑張って本編先生を苦しめますわ。プレナパテス先生の分も、精一杯先生を苦しめて、苦しめて、苦しめて、生徒の前で血塗れにしますから。そうして生まれた愛の果てに、希望が芽吹くと信じているのです。

 

 何でゲマトリアがこんなに先生を大好きなのか、最終章を読んで言葉ではなく、心で理解致しました。そりゃあ先生大好きクラブも作りますよ、両手に『SENSEI♡』、『こっち見て♡』のうちわ持って歓声飛ばしますよ。自分の全部を投げ捨てて、生徒を助ける様なんて最高ですよね。思わず泣き叫んじゃいますわよね。もう録画で永久保存で恍惚としてしまいますわよね……。はぁー、プレ先すこ、ずっと生きて欲しい、副作用怖いから大人のカードはもう使わないでね? まぁもう死んでいるんですけれど……しんど。

 

 もしかしてコレが普段の先生を見つめる生徒達の感情……? 何であなたはそんなに他者に尽くせるのだという困惑と、しかし眩いばかりの輝きを放つ、どこまでも先生然とした在り方に魅かれつつ、その自己犠牲に胸打たれるような――つまりゲマトリアは実質生徒だった……? そうかな……そうかも……。なに云ってんだコイツ。

 

 ゲマトリア~~~~ッ! お前達先生大好きクラブだろうがよ~~~~ッ! プレ先生救ってよォ~~~~! 助けてよォ~~~~! あの人も先生でしょうが~~~ッ!? あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~~~!!! 黒服ぅ~~~ッ! マエストロォ~~~ッ! ゴルコンダァとデカルコマニ~~~~ッ! ベアトリーチェは座っていて良いよ。キヴォトスに色彩なんぞ呼びやがってヨ~この痴れ者が~。でもそのお陰でプレ先生と出会えたからいっぱい好き♡ ベアおばありがとね! 先生捥いだ後はアナタの番です準備しておいて下さい。

 プレナパテス先生の世界線は念入りに、それはもう丹念に描写して生徒一杯泣かせてあげるからね……だから待っていてね、先生……。

 



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その友愛の終わりに

誤字脱字報告ありがとうございますの~!


 

 補習授業部、第三次特別学力試験前、最終日。

 明日の試験に向けて、今日だけはきちんとした睡眠を取ろうと決め、日付変更前にベッドへと横になった補習授業部の面々。久方ぶりのちゃんとした就寝に、ヒフミ、コハルの両名はすぐさま夢の中へと誘われ、そっと寝息を立てている。

 そんな中、動き出す影が一つ。

 

「………」

 

 彼女、アズサはいつもそうしていた様に音もなく起き上がると、同じ場所に用意していた制服と愛銃を掴み、足音を殺して部屋を後にする。今日はきちんと休むと口にしておきながら、彼女はその約束を反故にした。

 

「………」

 

 その背中を、横たわりながら薄目で確認していたハナコ。

 彼女もまた、同じように起床する。用意していた制服を掴み、端末をポケットに押し込む。

 そして立て掛けられていた彼女の愛銃――オネストウィッシュ(純真なる願い)を見つめると、その表情を僅かに歪める。そして数秒程沈黙を守った後、その手を伸ばし、銃を手に取った。

 

 ■

 

「――アズサ、日程が変わった」

「………?」

「明日の午前中だ、約束の場所で命令を待て」

 

 トリニティ郊外、廃墟。

 いつもと同じように報告を済ませたアズサは、しかし常と異なる言葉に身を強張らせる。彼女――アリウススクワッドのサオリは淡々とした口調で計画の実行を告げた。それはアズサの予想していた数段早い動きで、思わず焦燥を顔に出してしまう。壁に背を預け、月に照らされたサオリを見据えながら、アズサは思考を巡らせる。

 

「ま、待ってサオリ、明日は……」

「何か問題が?」

「……まだ準備が出来ていない、計画よりも日程を早めるのは、リスクが大きすぎる」

 

 アズサはそう云って、計画が時期尚早である事を告げた。計画は、慎重に実行されるべきだ。そうでなければ今まで集めた情報、用意した物資、そして根回しが無駄になってしまう。それは避けなければならない、リスクは僅かであっても回避するべきだ。突発的な好機に逸っては、結果的に悪い結果になりかねない。そう力説し、自身の正当性を主張する。それは、別段おかしな事ではない。メリットよりも堅実性を取る事は、それはそれで合理的な思考である。

 サオリはアズサの主張を全て聞き届け、その言葉に目を閉じる。

 数秒、間があった。アズサはその沈黙を前に冷汗を掻き、息をのむ。

 

「お前の言葉にも、一理ある、計画を前倒しにするリスクは確かに少なくない」

「な、なら……!」

「――だが、明日の決行は既に確定事項だ、計画を前倒しにするリスクよりも、この機を逃すデメリットの方が大きいと判断した、準備が出来ていないのならば出来ている範囲で構わない……最低限、動ける準備はしておけ」

「………っ」

 

 アズサの言葉は、サオリの決定を覆すには至らない。思わず歯噛みし、俯く。そんなアズサの傍に歩み寄ったサオリは、その肩に手を置くと淡々とした口調で告げた。

 

「明日になれば全てが変わる、私達アリウスにも、このトリニティにも、不可逆の大きな変化が起きる事になる」

 

 これは、歴史の転換点だ。そう云ってサオリはアズサの瞳を覗き込む。

 このキヴォトスに於いて最大規模の学園として君臨してきた一角、そのトリニティを崩す。これが実現すれば、キヴォトス内に於けるパワーバランスは崩壊し、その椅子に新たな学園が座る事になるだろう。

 そして、その座を勝ち取るのは――彼女達アリウスだ。

 

「トリニティのティーパーティー、そのホスト――桐藤ナギサのヘイローを破壊(殺害)する……その為にお前は此処に居るんだ」

 

 言葉は、どこまでも冷たい響きを伴っていた。

 その為に、アズサはトリニティに潜入した。その為に彼女はこんな『場違い』な場所に立っている。この制服も、紡いだ絆も、過ごした時間も――全て偽物。

 この場所にやって来て、手に入れた本物なんて、ひとつもない。

 アズサは俯いたまま、静かに口を開く。

 

「……分かっている」

「あぁ、お前の実力は信頼しているよ、上手くやれ――百合園セイアと同じ(あの女を殺した時の)様に」

「――了解」

 

 頷き、アズサは無言で踵を返す。割れた硝子片を踏みしめながら、薄暗い廊下を歩いて行くアズサ。その背中を見送るサオリは、ふと声を上げた。

 

「アズサ」

「……?」

 

 顔を上げ、振り向くアズサ。月明かりが彼女の髪に反射し、その白が躍った。サオリは口元を覆っていたマスクを外し、素顔を晒しながら問いかける。その瞳は真っ直ぐ、彼女の胸元にぶら下がった、補習授業部の人形を見つめていた。

 

「――忘れていないだろうな、『Vanitas Vanitatum』」

 

 それは、アリウスの根幹を成す言葉。

 幼い頃より言い聞かされて来た、唯一無二の真理。

 

「……全ては、虚しいもの」

 

 呟き、アズサはその一句を口ずさむ。

 

「どんな努力も、成功も、失敗も……全ては、無意味なだけ」

 

 そう、彼女はそう教えられてきた。

 幼い頃から、どんな理不尽も、暴力も、運命も、全ては虚しく、無意味で、だからこそ何も考える事はなく、何も想う事はなく。ただ粛々と、ただ淡々と、大人の言葉に従えば良いのだと。失敗すれば殴られ、蹴られ、反抗すれば食事は与えられず、牢の中で日々死を待つのみ。

 ――大人の言葉に従い、反抗せず、将来に希望を抱かぬ様に務め、祈らず、幸福を求めず、無意味に生きて、無意味に死ぬ。

 それがアリウスだ。

 それが私達(子ども)だ。

 それが――自分達に許された全てだ。

 それを想い、アズサは告げる。

 

「――一度だって、忘れた事はない」

「……あぁ、それで良い」

 

 その答えを聞き届け、サオリは小さく頷いて見せる。

 希望を持ってはいけない、幸福を求めてはいけない、それは自分達にとって毒にしかならないから。

 

「先生には、まだ手を出していないんだな」

「……うん、先生に怪しい動きはない、下手に手を出したら私の立場が危うくなる」

「そうか――ならば良い、決行と同時に先生への始末もつける」

「………」

 

 呟き、サオリは再びマスクを着用し口元を隠す。先生を抹殺する事は既に決まっている、そしてその手段も――。アズサは何も云わない、何も云えない。

 

「生徒として近付けば始末するのは簡単だろう、先生は――お人好し、だからな」

 

 その声には、何の感情も込められてはいなかった。

 

「では明日……準備を怠るな」

 

 そう云ってサオリは踵を返す。アズサは去り行く彼女の背中を暫く見つめ、自身もまた身を翻した。最後に残るのは、音の消え去った廃れた回廊のみ。割れた窓硝子から差し込む月明かりが、雲に遮られる。

 

「………」

 

 そして、去り行く二人の後姿を――ハナコは物陰からずっと見つめ続けていた。

 

 ■

 

 第三次特別学力試験、前夜――自室でひとり最後の確認を行っていた先生は、就寝前にも関わらず制服姿でタブレットを操作していた。勿論それは、これから起こる事を事前に知っているからであり、そして万が一の襲撃に対応する為のものである。タブレットに表示されるのは、現在の各派閥の動きとその凡そのタイムスケジュール。先生はそれらをじっと見つめながら、ただ時を待つ。

 すると、不意に自室の扉がノックされた。先生が声を上げるより早く、そのドアノブが捻られ影から顔を覗かせる生徒がひとり。

 

「こ、こんばんは先生……まだ、起きていらっしゃいましたか?」

「ヒフミ……」

 

 どこか申し訳なさそうに、そう口にしながら顔を見せたのはヒフミ。彼女は不安そうな面持ちで扉を開けると、小さく頭を下げた。先生は椅子から立ち上がり、彼女の前に立つ。

 

「どうしたの、もしかして、眠れない?」

「は、はい、その……緊張と不安で、へへ……」

 

 頬を掻き、俯くヒフミ。その目元には未だ薄らと隈が見え、疲労も抜けきっている様には見えない。時計を見ると、時刻は既に午前三時、十一時に就寝した事を考えると睡眠時間は四時間ほどか。この一週間の中では比較的長い睡眠と云えるが、十分とは云い難い。そんな感情を覗かせながら先生は何かを口にしようとして、しかし唐突に廊下から顔を覗かせた新たな生徒に、思わず言葉を呑み込んだ。

 

「ふふっ、私も来ちゃいました♡」

「あ、ハナコちゃん……」

「――ん、皆、何しているの……?」

「こ、コハルちゃんまで?」

 

 顔を覗かせたのは、ハナコとコハル。ハナコはトイレのあった方向から、コハルは彼女達の寝室の方から目を擦り、歩いていた。結局、アズサを除いた全員が起床している事になる。コハルは何度も目を擦りながら眠気を振り払うと、どこか申し訳なさそうな表情をするヒフミと、相変わらず笑みを浮かべているハナコに指を突きつけ、云った。

 

「明日は試験なのに、何しているのよ、休む事も大事だって云ったのはそっちでしょ……? っていうか、起きたら部屋に誰も居ないし……まあ、緊張する気持ちは凄く分かるけれど」

「……す、すみませんコハルちゃん、どうしても寝付けなくて」

 

 どこか怒気を見せるコハルに、ヒフミは謝罪を口にする。ハナコはそんなコハルに小さく謝りながらも、先生とコハル、ヒフミの三人を見渡しながら、真剣な表情を見せた。

 

「実は先程、シスターフッドの方々と少し会って来たんです、色々と調べたい事がありまして……」

「調べたい事?」

「はい、明日、私達が試験を受ける予定の第十九分館についてなのですが……」

 

 そう口にした途端、ヒフミとコハルの表情が分かりやすく蒼褪める。思い返されるのは第二次特別学力試験。あの時も、掲示板の内容が変更されたのは唐突だった。

 

「ま、まさかまた場所が変わって……!?」

「いえ、そうではありません、ただ――」

 

 俯き、ハナコはどこか云い辛そうに言葉を続けた。

 

「この後、第十九分館には大規模な正義実現委員会の派遣が決定されていて、建物全体を隔離するとの事でした」

「えっ、は!?」

「建物を、隔離……?」

「はい、エデン条約に必要な重要書類を保護する――という名目でティーパーティーから要請があり、建物全体を正義実現委員会として守る厳戒態勢に入ったとか」

「な、なにそれ……」

 

 そんな話、聞いていない。コハルは思わずそう漏らす。正義実現委員会を一時的に離れている以上、情報の伝達が無い事は別段驚くべき事ではないが、だとしても本校舎の生徒が知っている様な事さえ告知されていないのは明らかに意図的なものだった。そんな彼女の驚愕を他所に、ハナコは続ける。

 

「それから、どうやら本館の方にも戒厳令が出ている様です、昨日から妙に静かだったのは、このせいみたいですね」

「か、戒厳令……? そんなの、初めて聞きました……」

「恐らく、誰一人あの建物への出入りは許されません――エデン条約が締結されるまで、ずっと」

 

 ハナコはどこか、重々しい気配を纏いながらそう告げた。エデン条約締結までの、建物封鎖。それはつまり、立ち入りが許されないという事だ。一般生徒も、行政官すらも、そして勿論――この補習授業部も。

 思わず、コハルは声を荒げる。

 

「ちょ、ちょっと待って! それなら私達の試験はどうなるの!?」

「つまり、こういう事だろう――試験を受けたいのであれば、正義実現委員会を敵に回せ、と」

「え……――」

 

 先生の淡々とした声に、ヒフミは思わず息を詰まらせた。正義実現委員会を、敵に回す? その言葉に一番動揺したのは当然、コハルだ。彼女は分かりやすい程に取り乱し、服を握り締めながら叫んだ。

 

「そ、そんな……! わ、私がハスミ先輩に事情を説明して……!」

「……いや、それはやめた方が良い、ナギサはハスミに裏側の理由を知らせていないだろうし、それにハスミが私達を助ければ、それはティーパーティーに対する明確な離反行為と取られかねない、その場合、ハスミも正義実現委員会を追放されてしまう可能性がある」

「なっ、う、ぁ――うぅ……そ、そんな……!」

 

 先生の冷静な指摘にコハルは思わず絶句し、俯く。建物に入らなければ試験は受けられない、しかし建物全体は封鎖されており、そこの防衛として正義実現委員会が出動している。つまり、正義実現委員会を突破しなければ試験会場には入れない訳で――。

 その身内同士ですら衝突を厭わない悪辣な策に、ハナコは呆れた息を吐く。

 

「全く――第二次特別学力試験の時も思いましたが、どうやらナギサさんは、本気で私達を退学させようとしているようですね」

「ど、どうして、そこまで……」

 

 ヒフミは思わず、そんな言葉を吐く。例え退学させるという目的の為とはいえ、ここまでやる必要があるのか? そんな疑念が胸に渦巻いた。先生を危険に晒し、試験内容に手を加え、あまつさえ仲間同士で銃を向け合う様に仕向ける。

 こんな仕打ちは、最早――。

 

「――私のせいだ」

 

 不意に、声が響いた。

 廊下で立ち竦んでいた補習授業部の面々は、声の響いた方向へと顔を向ける。

 そこには薄暗い廊下の中、窓から差し込む月明かりに照らされたアズサが立っていた。彼女は制服姿で、愛銃を抱えたまま佇んでいる。その顔は、影に覆われ視認できない。

 

「あ、アズサちゃん! どこに行っていたんですか……!?」

「………」

 

 ヒフミは思わず声を上げ、駆け寄ろうとする。

 しかし、それを止める人物がいた。動き出そうとしたヒフミの肩を掴み、どこか刺々しい気配を放つ生徒。

 

「えっ、あ――は、ハナコちゃん……?」

「――アズサちゃん、私達に云うべき事があるのではありませんか?」

 

 そう、いつもとは異なる調子で云い放つハナコ。アズサは、そんな彼女の姿を見て、ぎゅっと唇を噛んだ。仲間から向けられる視線、困惑、不安、信頼――そして、僅かな敵意。

 俯いた顔をそのままに、妙に緊迫した空気が流れる。ヒフミは唐突なそれに困惑顔で、コハルに至っては目を白黒させている。

 アズサは数度深呼吸をし、愛銃の銃口を地面に垂らして、努めてフラットな口調で言葉を紡いだ。

 

「……ハナコの云う通りだ、皆、先生も、聞いて欲しい――話したい事が、あるんだ」

「アズサちゃん……?」

「アズサ、ど、どうしたの……? 具合でも、悪いの?」

 

 ヒフミとコハルが、どこか様子のおかしいアズサを見て問いかける。アズサの持つ愛銃が、カタカタと震えていた。

 

「そんなに、震えて……よ、良く分かんないけれど、寒いなら――」

「――ずっと、隠していた事があった」

 

 コハルが堪らず駆け出そうとして、けれどそれを遮る様にアズサは声を張った。夜の廊下に、彼女の悲鳴染みた声が響く。びくりと震えたコハルが足を止め、目を見開きながらアズサを見つめる。

 

「でも、ここまで来たらもう、これ以上隠しておけない……いや、隠しておきたくない」

 

 床を見つめながら、アズサは言葉を絞り出す。腹の底から紡がれたそれは、酷く震えていて、弱々しかった。けれど、黙っておくことは出来ないと、聞いて欲しいと。アズサは胸元にぶら下げた人形を握り締める。

 補習授業部の人形、その友愛の証を握り締めながら、アズサは声を出そうとする。

 

「わ……――わたし、は……」

 

 云わなければならない。

 伝えなければならない。

 だから――声を出せ。

 そう自身の体に命じるのに、喉が震えない、舌が、回らない。脳裏を過るのは、補習授業部として過ごして来た一ヶ月に満たない日々。

 皆で合宿所の掃除をして、プールサイドでご飯を食べて、先生の持ち込んだテーブルゲームでちょっと遊んだり、普段はしない雑談なんかに興じてみたりして、朝の弱い友人と一緒にシャワーを浴びて。

 皆で洗濯をして、それを泥だらけにして、水着で体育館に集まって話したりして。夜に学校を抜け出して悪さをして、けれどそのスリルが楽しいのだと笑い合って、勉強の成果が出て人生で初めてのプレゼントを二つも貰って、本当に嬉しくて。

 辛かったけれど、皆が同じ場所を目指して頑張って、苦手で、不得手な勉強だけれど、漸くそれが楽しい事なのだと分かって来て、もっともっと、皆とこうして過ごしたいと、そう思って――思えて。

 

 けれど、此処までだった。

 アズサという少女が結んできた絆の全ては――偽物だ。

 どれだけ楽しくても、どれだけ捨て難い絆でも。

 それは持っていてはいけないものだから、全ては虚しいものだから。

 だから――。

 

「――アズサ」

「……ッ!?」

 

 ポロリとたった一粒だけ涙が零れ落ちた時、先生の低い声がアズサの耳を揺らした。肩を跳ねさせ、顔を上げる。その暗闇の向こうに、先生は佇んでいた。

 真剣な、けれど優しい顔で。

 

「先生……」

「大丈夫」

 

 彼は、告げる。唯一アズサの正体を知っていながら、けれど最後まで生徒として慈しんでくれた先生は。真剣に、真摯に、どこまでも強く。

 

「皆を、信じて」

「―――」

 

 その声に、アズサはあらゆる感情を呑み込んだ。胸元の補習授業部人形を握り締め、歯を食い縛る。そうだ、ずっと云い続けて来た事じゃないか。

 例え、虚しくとも。

 例え、無意味であっても。

 それまでに抗った事実は、時間は、紡いだ絆は。

 きっと、無意味なんかじゃないと、そう思うから――。

 

 息を、吸い込む。

 恐怖がある、不安がある、これを口にした後に、仲間達から、友人から、どんな目で見られるのかという恐ろしい想いがある。

 けれど、それでも、もう偽りたくない。

 それで全てが壊れる事になっても、この胸に、皆と紡いだ思い出がある限り。

 ――自分は、戦い続けるから。

 

「……ティーパーティーの、ナギサが探している、トリニティの裏切者は」

 

 補習授業部の皆が、アズサを見る。その視線に晒されながら、アズサは一歩前に踏み出す。窓から差し込む月明かりがアズサを照らし、そのどこまでも真剣な、そして強い意思を秘めた瞳を晒した。

 

「――私だ」

 


 

「こっちだよ、ヒヨリ、ミサキ、此処に隠れよう」

「さ、サオリ姉さん……」

「しーっ! 静かに、もっと頭を下げて」

「は、はいぃ……」

「………」

 

 アリウス自治区。倒壊した市街地、その中央道。彼女達が滅多に踏み込むことが無い表道にて、サオリ、ヒヨリ、ミサキの三人は息を潜め顔を覗かせる。

 裏路地でひっそりと、誰にも見つからないように生きている彼女達は、襤褸布に近いシャツとパンツのみを着用し、近場にあった建物の間に身を差し込む。散乱した木板やベニヤ板、瓦礫を隠れ蓑に表通りに目を向ければ、幾人もの人だかりが見えた。

 その更に向こう側に、サオリ達も見た事もないような、清潔で装飾品に彩られた女性の姿が見えた。何枚も重ねられたそれに遮られ、顔や体格は視認できないが艶やかな紫の髪が風に靡く様は印象的であった。

 サオリに頭を抑え込まれ、挙動不審に周囲を見渡していたヒヨリは、その絢爛華麗な姿を見て思わず問いかける。

 

「さ、サオリ姉さん、あの中央に居るのは誰ですか? す、す、すごくきれいな服を、き、着ているけれど……」

「私も良く知らない……偉い人なんじゃないかな」

 

 ヒヨリの視線をなぞり、同じ人物を視界に捉えたサオリはそう呟く。豪華な衣服を着込み、沢山の護衛に囲まれた人物。物々しさを感じるが、同時にどこか高貴な気配と尊さを感じる。学のない自分達ではその人物がどれだけ偉くて、凄い人物なのかは分からないが、きっとあんな凄い服を着れる位の人だ。自分達が思っているよりもずっと凄くて、偉い人なのかもしれない。そんな事を考える。

 すると、その行列を見ていたミサキが言葉を漏らした。

 

「……周りの声からすると、お姫様なんだって、高貴な血を引いているとか、何とか」

「お、お姫様!? お姫様なんですか!? す、凄いですねぇ、世の中には、本当にお姫様もいるんですね? わ、私達のような底辺とは違って……」

 

 告げ、ヒヨリはその目を輝かせる。お姫様だとか、王子様だとか、そういうのはもっと、絵本の中の登場人物に過ぎなくて、現実になんて居ないとずっと思っていた。けれど実際に見たお姫様は本当に綺麗で、襤褸布何か身にまとう自分達とは全然違う世界に生きていて――ヒヨリはどこか眩しそうに、嬉しそうにしながらゆっくりと歩く彼女を見つめていた。

 

「飢えたりもしないだろうし、怪我だって、しないでしょうし……み、道端の隅っこで寝たりもしないですよね? 多分、おっきなベッドを独り占めして眠るんです、そうですよね……?」

「う、うん……良く知らないけれど、そうなんじゃない?」

 

 お姫様という存在に全く詳しくないサオリは、その表情を困惑に染めながらも頷く。自分達には想像も出来ない生活だが、お姫様という位なのだ、多分そういう生活をしていても可笑しくはない。

 その返答を聞いたヒヨリはへらりと口元を緩め、自分の傷だらけで、がさつき、所々血の滲んだ両手を見下ろしながら云った。

 

「えへへ……この世の中には苦しみしかないと思っていましたけれど、あんなに綺麗で、幸せに過ごせているお姫様も居るんですね……! 何だか感動です……! うわぁぁん!」

「きゅ、急に泣かないでヒヨリ! バレるでしょう!?」

「す、すみませんサオリ姉さん、で、でも、うわぁああん!」

 

 お姫様を見て泣き出したヒヨリ、その口元を慌てて掴むサオリは思わず冷汗を流す。彼女達にとって、世界は苦しいもので、残酷で、不公平だ。何も持たず、野垂れ死ぬ様な孤児が殆どのこの場所で、あんな綺麗で、満ち足りた人がいる事。こんな世界にもそんな人が居るのだと云うだけで、何となくヒヨリは救われた様な気がした。それが涙という形で頬を伝い、サオリはこんな時、どんな表情をすれば良いのだと困惑する。

 しかし、そんな二人を他所にミサキは酷く冷めた目で行列を見ていた。ゆっくりと歩き続けるお姫様、その両脇に侍る、銃を持った兵士達。

 

「……お姫様って云っても私達と変わらない境遇か、もしかしたらそれ以下の扱いだと思うよ」

「……?」

 

 どこか、吐き捨てる様な云い方だった。

 先程まで大泣きしていたヒヨリは、その零れ出た涙を拭うとミサキを疑問の目で見上げる。壁に寄り掛り、目を細めたミサキは漠然と行列を眺めながら続けた。

 

「パレードに見えるけれど、あれは人質を敵に送る行列だよ、内戦中だからなのかな……こんな事も、あるんだね」

「ひ、人質……ですか?」

「うん、あのお姫様もきっと、監獄で飢える事になる、食べ残しを貰えたらラッキー程度の生活になるよ」

 

 だから、あんなにも足は重く、気配は昏く、息苦しい。

 騒いでいるのは周りだけだ、あの渦中にいる女性の感情はどんなものか。嵐の様にごちゃ混ぜになっているのか、或いは最早凪の如くなのか。しかし、結局のところ行きつく先は同じ。

 即ち、諦観と屈服。

 この場所に立った時点で、彼女に選択肢はなく、意味など無い。

 全部――無意味だ。

 

「ぅ、あ……」

「――やめて、ミサキ、ヒヨリが怖がっているでしょ」

「………」

 

 その事実を知った瞬間、ヒヨリは思わず呻き声を上げる。綺麗なものを見れたと思った、尊いものが在ると知れた。けれどそれはやはり、上っ面だけのもので――。その現実に打ちのめされるヒヨリの背中を摩りながら、サオリはミサキに告げる。

 ミサキは何も云わず視線を逸らすと、行列に向けていた視線を周囲に散らした。

 

「……それで、どうするのサオリ姉さん、此処まで来たのに見物だけして帰るつもり?」

「――まさか、あの人だかりに紛れ込んで、役立ちそうなものを拝借する」

 

 告げ、サオリは周囲を取り囲む群衆を見る。その大半は表通りの住人で、中にはスラムの者もちらほら散見された。けれど大抵、そのスラムの住人は物陰からこっそりと周りを伺っていたり、或いはどこか忙しなく動き回っている。

 彼女達も自分達と同じ――狙いは明白であった。

 サオリはそっと唇を濡らし、二度、三度、手を握り締める。

 

「所々、制服を着ている連中も見えるし、身綺麗なのも多い、この人だかりだから逃げるのは簡単、皆行列の方に意識が向いている今がチャンスだと思う」

「だ、大丈夫でしょうか……?」

「万が一見つかっても、私達の身長なら人影に埋もれて直ぐ見えなくなるよ」

「……捕まったら、酷い事になるね」

 

 銃を持ち、周囲を伺う警備の姿を見て、ミサキは呟く。

 酷い事――サオリの脳裏に、路地裏に打ち捨てられた少女たちの姿が浮かんだ。

 表通りで何か失態を犯せば、即座に報復されて、そのまま襤褸雑巾の様な状態で路地裏に投げ捨てられてしまう。そうなれば、もう終わりだ。傷を治す為の薬も、栄養を摂る為の食料も、水もない。勿論、そんな弱者をスラムの住人が放っておく筈もなく、服も剥がれ、文字通り身一つで路肩に横たわる事となるだろう。それでも、生き長らえれば良い方だ。けれど大抵、徐々に衰弱して、ヘイローが浮かぶ時間も減り――軈て、ずっと、何時までもヘイローが出なくなる。

 サオリはそんな少女たちの姿を思い返し、思わず頭を振った。

 そんな未来には決してさせない、と。万が一の時は、自分が囮でもなんでもして、二人は絶対に路地裏へと逃がす。その為の覚悟を決める。

 

「……今年は少し寒いから、お金が入ったら毛布を買おう、一枚あれば、皆で包まってきっと寒くない」

「私達みたいなのに売ってくれるところなんてある?」

「お金さえあれば、表のお店だって売ってくれるよ」

「そ、そうしたら、ご飯も一杯食べられるでしょうか……?」

 

 ヒヨリはどこか、期待するような声で問いかけた。サオリは頷き、笑う。

 温かい毛布、美味しいご飯、それは目の前で横たわる恐怖や不安から目を逸らすには、丁度良い代物だった。所詮、夢の話。本当に毛布が手に入るだとか、美味しいモノが食べられるだとか、正直な所半信半疑だ。きっとこんな身なりで、金を掴んで商店に行ったって足元を見られるのが結末だろう。けれど、希望を語り、夢を見る事だけは、大人達だって奪えない。

 だからサオリは力強い声で答える。

 

「……食べられるよ、久々にちゃんとしたものを食べよう」

「や、やったぁ……! た、楽しみですね……えへへっ!」

「………」

 

 サオリは二人の肩を叩き、そっと表通りへと一歩踏み出す。決して優しくない世界へ、残酷な世界へ、今日を、明日を生きる為に。ヒヨリとミサキが、遅れて一歩踏み出す。ふたりの伸ばした手を掴む。

 そして、強がり、笑みを浮かべながらサオリは告げるのだ。

 

「さぁ、行こう」

 

 ――ちゃんと私が、守るから。

 

 ■

 

 アリウス・スクワッドは、守れましたか?

 

 尚この後、文字通り夢を見る事も、希望を語る事も許されなくなる模様。

 まだ死ぬという概念が理解出来ないサオリちゃん(幼女)、ヘイローが浮かばなくなると、動かなくなるという漠然とした事しか知らない。路肩に横たわる、ボロボロの少女たちの体を揺すっても、彼女達のヘイローは浮かばず、目も開かない。

 だからサオリは毎朝一番早く起きると、意識が無くヘイローが消えているミサキやヒヨリを、少しだけ不安な面持ちで揺する。そして眠たげに目を開き、ヘイローが浮かんだ事を確認して、安堵した様に微笑むのだ。可愛いね♡

 



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その親愛の始まりへ

この誤字脱字報告は、人類の英知の結晶なんだよ……。


 

「……えっ、と」

「きゅ、急に何の話……?」

「………」

 

 アズサの告白、それを聞き届けた補習授業部の反応は困惑が殆どを占めた。ヒフミとコハルは目を瞬かせ、互いの顔を見合わせる。ハナコはどこか張りつめた空気を纏ったまま、先生はじっと、何かを待つ様に佇んでいた。

 アズサは呼吸を刻みながら、淡々とした様子で続ける。

 

「……私は、元々アリウス分校の出身だ、今は書類上身分を偽って、トリニティに潜入している」

「あ、アリウス分校……?」

「な、何それ、そんな校名聞いた事も……」

「アリウス分校――」

 

 戸惑う二人をフォローする形で、ハナコが口を開いた。

 

「嘗てトリニティの連合に反対した、分派の学園です……その反発のせいで現在のトリニティ総合学園とトラブルとなり、その後はキヴォトスのどこかに潜伏していると聞いていましたが――」

「そうだ、私は此処に来るまで、ずっとアリウス自治区に居た」

 

 アリウス――その名前に、馴染のある生徒は少ない。

 第一回公会議も、もう随分昔の話だ。以降潜伏したアリウスは表舞台からその痕跡の一切を消した、一般生徒にとっては古典の領域だろう。知らない事は何も不思議ではない。

 

「今はアリウスとしての任務を受けて、こうして学園に潜入している」

「潜入……」

 

 その、余りにも馴染のない単語にコハルが呟きを漏らす。ヒフミは思考を回し、アズサの事情を何とか呑み込もうとする。元々経歴に不明な点が多かった彼女だ、驚きはすれど、それに対して含むものは何もない。故に彼女は気丈にも顔を上げ、云った。

 

「あ、アズサちゃんが元々トリニティの生徒ではないという事は分かりました……でも、それが裏切り者と、何の――」

「その、任務と云うのは」

 

 ヒフミの声を遮り、アズサは声を張る。

 その表情は、酷く強張っていた。

 

「――ティーパーティー、桐藤ナギサ、そのヘイローを破壊する事」

「ッ……!?」

 

 その一言に、補習授業部の面々は息を呑んだ。

 ティーパーティー、桐藤ナギサ、そのヘイローを破壊する。

 つまり、殺害するという事。

 余りにも日常離れした言葉に、ヒフミとコハルは浮足立つ。さっと、コハルの表情が蒼褪めた。

 

「う、嘘でしょ!? そ、それって――」

「うん……彼女を、殺す為に私は此処に居る、そして第二目標が――」

 

 アズサの、小さく細い指先が――先生を指した。

 

「――シャーレの先生、その殺害」

 

 声は無かった。

 痛い程の沈黙が、全員の前に横たわっていた。

 ただ、コハルとヒフミの二人は言葉を失い、血の気の失せた顔で肩を震わせる。

 先生の殺害――余りにも無慈悲なそれが、二人の思考能力を根こそぎ奪っていた。

 

「……アリウスは、ティーパーティーと先生を消すためならば、何でもしようという覚悟でいる」

「そ、そんな……」

 

 ヒフミの唇が震える。

 視線が、定まらない。

 ナギサのヘイローを破壊する? 先生を殺害する? それが――彼女の任務?

 ならば、彼女はその為に、その為だけに補習授業部へとやって来たのか。

 そんな疑念が沸き上がる。

 不信が、首を擡げる。

 

「アリウスはまずティーパーティーのメンバーであるミカを騙して、私をこの学園に転入させた、詳細は知らないけれど、きっとトリニティと和解したいとか、そういう嘘を吐いたんだと思う」

「……成程、ミカさんを――確かに彼女は政治には向いていないと云われていましたが」

 

 ハナコは衝撃の真実を述べられて尚、どこか考え込むような素振りを見せ、呟く。体を凍り付かせ、言葉を失っている二人とは異なる姿勢。それは、アズサの状況を理解していたからに他ならない。

 

「本命は、事が終わった後に罪をミカさんに被せる為でしょう……それで内紛など勃発すれば、トリニティは自然と割れます」

「うん、多分そうなる事を計算して動いていたんだと思う」

 

 ハナコの言葉に、アズサはごく自然に頷いて見せる。

 くしゃりと、それを見たハナコの顔が歪んだ。

 

「そして――それを口にするという事は、アズサちゃん、あなたは……」

「ま、待って、待ってよ!」

 

 ハナコとアズサの会話に割り込む形でコハルが声を上げた。震える手を伸ばし、ハナコとアズサの間に飛び込む。妙な威圧感を飛ばすハナコに、強張った表情で佇むアズサ。二人の間に自身を差し込んだコハルは、互いの顔を見合わせながら叫ぶ。

 

「きゅ、急に何の話をしているの……!? ティーパーティーのヘイローを破壊するとか、先生の殺害だとか……! あ、アズサが、その、アリウス? っていう所に所属していたっていうのは分かったよ! でも――」

 

 どこか焦燥したように、引き攣った口元をそのままに感情を露出させる。その瞳は潤んで、肩は小刻みに震えていた。

 

「アリウスの事は良く知らないけれど、それが私達補習授業部と、どういう関係があるのよ……!? アズサは何で、急にこんな話をし出したの……!? だって、現に先生は生きているし、ティーパーティーだって……!」

「………」

 

 アズサは、そんなコハルの叫びを聞き届けながら目を瞑る。それは、彼女の潔白を信じる声であった。もし、その話が本当であるならば、先生が死んでいたり、ティーパーティーのナギサが負傷している筈だと。けれど、そんな事は現実に起こっていない。だからこれは、彼女がアリウスの生徒であるという事以外、全部嘘っぱちか何かなんだと。

 コハルは、そう思い込むことで心の均衡を保とうとした。

 そんな彼女を前に、アズサは小さく息を吸い込む。心を落ち着かせた彼女は、確かな信念を感じさせる瞳で以て告げた。

 

「――明日の朝、アリウス分校の生徒がナギサを狙ってトリニティに侵入する」

「っ!」

「……私は、ナギサを守らなければならない、アリウスの企みを阻止する為に」

「あ、明日の、朝……!?」

 

 ヒフミが思わず驚愕の声を上げた。

 明日――実質今日ではあるが、それはつまり、試験日と同日。時間帯によっては異なるだろうが、しかし彼女の口ぶりからして試験を素直に受ける、という様子ではなかった。これは事実上の離反宣言なのだと、ヒフミはそう受け取った。

 

「本館には戒厳令が出ている状態……最後の試験でのナギサさんの無茶もあって、正義実現委員会は本館にいないタイミング――えぇ、要人襲撃には最適な日ですね、アリウスにも優秀な参謀が居る様です」

「な、何でアズサがそんな事する必要があるのさ……? それに、明日って、試験は――」

「それは――」

 

 コハルの疑問に、アズサは口を開く。

 けれど彼女が言葉を発するより早く、先生はコハルとヒフミの肩を叩き、一歩踏み出した。

 

「アズサは、最初からその目的でトリニティに来た――そうでしょう?」

 

 先生の穏やかな口調。アズサが、どこか悲し気な視線を先生に向ける。

 

「……先生」

「最初から、ナギサのヘイローを壊すつもりも、私を殺すつもりもなかった――そうじゃなかったら私なんて、寝ている間に死んでいるからね」

 

 そう口にして、先生は優しく笑みを浮かべた。自身を殺す機会など、幾らでもあっただろう。バレない様に始末する方法だって。

 けれど彼女はそうしなかった。

 

「……アズサちゃんはナギサさんを守るために、この任務に参加した――謂わば、二重スパイ、という事ですね」

「……ハナコ」

「アリウス側には連絡係として常に問題ないと嘘の報告を流しながら、本当はずっと土壇場で裏切る準備をしていた、違いますか?」

「……いや、違わない」

 

 その問いかけに、アズサは首を振る。

 彼女の言葉は一から十まで、全て正しい。

 アズサという生徒はずっと、こうする為に準備をしてきたのだから。

 

「――どうして、ナギサさんを守ろうとするんですか? それは、誰の命令ですか」

「これは……誰かに命令された訳じゃないんだ」

 

 ハナコの真剣な問いかけに、アズサはそう答えた。

 そうだ、これは誰かに命令されて始めた事ではない。

 仲間を裏切ってまで始めた、この行動。

 その根底にあるのは。

 

「私自身が、そうすべきだと思ったから」

 

 それは――自身の意思ひとつだけ。

 

「桐藤ナギサがいなければ、エデン条約は取り消しとなるだろう、あの平和条約が無くなればこの先、キヴォトスの混乱は更に深まる――その時、アリウスの様な学園が再び生まれないとも限らない」

 

 ハナコを真っ直ぐ正面から見返したアズサは、そう言葉を紡ぐ。

 エデン条約、それはトリニティとゲヘナの和平への道。これまで大小問わず衝突を繰り返して来た両校が、漸く手を取り合う選択を取ったのに。それが破壊されてしまえば、今まで以上に水面下での衝突は激化するだろう。その時、両校以外の学園が被害を被らないと断言する事は出来ない。

 或いは、トリニティの中で主権争いが起き、嘗ての様に一つの分派が切り離されるという未来もあるかもしれない。そしてそれはゲヘナにも同じ事が云える。

 所詮可能性の話だ、全てが全て仮定で、「もしも」に過ぎない。

 けれど、それだけでもアズサが動くには十分な理由なのだ。

 もう、あんな思いをする生徒が生まれない様に――悲しむ生徒が、ひとりでも少なくなる様に。

 彼女(アズサ)は、この道を選んだ。

 

 そんなアズサの言葉を、ハナコは能面の様な表情で聞き届けた。体から滲み出る張り詰めた空気はそのままに、どこか怒りすら伴って、彼女はアズサを見据える。

 

「――キヴォトスの平和の為に、という事ですか」

「……結局の所、私の様な生徒を増やしたくないだけ、これは私のエゴ――けれど、そういう想いが無い訳じゃない」

「成程、良く、分かりました」

 

 ハナコの瞳がすっと、細く引き絞られた。

 穿つような視線が、アズサのそれを直視していた。

 アズサとハナコの間に、冷たい色が流れる。

 

「……えぇ、とっても甘くて、夢の様な話ですね、エデン条約と同じ位、虚しい響きではありませんか」

「は、ハナコちゃん……?」

 

 どこか、不安げな声を上げるヒフミ。ハナコはそれを振り払い、数歩足を進める。

 月明かりが差し込む廊下にて、二人は対峙する。

 アズサを見下ろす瞳は冷たく、威圧的で、恐ろしく思えた。アズサはハナコをそっと見上げた。十二センチの差が、今は数字以上の隔たりとなって存在しているように感じて仕方なかった。アズサは静かに喉を鳴らす。

 

「アズサちゃん、あなたは嘘つきで、裏切り者だった」

「うん」

「トリニティでも本当の姿を隠し、アリウスでも本音を隠し続けて、アズサちゃんの周辺には、あなたに騙された人達しかいなかった」

「……うん」

「私達も含めずっと周りを騙し続けて、結局私達に見せていた姿も、全部偽物だった――そういう事で、合っていますか」

「…………」

 

 その容赦のない言葉の羅列に、アズサはぎこちなくも頷いて見せる。肩が下がり、今にも泣き出しそうなアズサだったが、顔を晒した上で涙を零す事はしなかった。それは駄目だと、そう強く思ったのだ。

 だから、唇を噛み、両手を握り締めながら耐える。

 他者を騙して、欺いて、その上で流す涙の醜悪さを、アズサは自覚していたから。

 

「いつか、云った通りだ……私は皆の事も、皆の信頼も、皆の心も、裏切ってしまうことになると――補習授業部がこんな危機に陥ったのは、私のせいだ、裏切り者の私を探して、桐藤ナギサはあんな無茶をした」

 

 告げ、アズサは深く頭を下げる。

 

「本当に、ごめん……謝って許される事だとは思っていない、どうか私の事を恨んで欲しい、この状況は全て、私の齎した事だから――全ての責任は、私にある」

「あ、アズサちゃん……」

「そ、そんな……」

 

 ヒフミとコハルの二人は、思わず声を漏らす。アズサはトリニティ学園の生徒ではなく、本来は敵対しているアリウス分校の生徒で、彼女が補習授業部に潜入したからナギサはこの様な措置を取った。だから、責任は全て自分にある。そう信じて疑わないアズサに、先生は声を上げた。

 

「アズサのせいじゃないよ」

 

 声は、暗闇の廊下に良く通った。

 ヒフミとコハルの間を抜け、ハナコの横に立つ。未だ強張った表情で、今にも泣きそうなアズサ、その頭に手を乗せる。びくりと、彼女の肩が跳ねた。

 

「決して、アズサのせいなんかじゃない」

「先生、でも――」

「責任は」

 

 さらりと、アズサの髪が揺れた。おずおずと顔を上げたアズサが見たのは、どこまでも優し気で、温かくて、陽だまりの様に笑う先生の顔だった。

 

「世界の、大人(責任を負う者)が抱えるものだ」

 

 それは、先生の持つ絶対的な信条。

 たとえ、どれだけの大罪を犯したとしても、過ちを犯しても――生徒(子ども)が責任を負う世界何て、あってはならない。

 それを背負うのは、自分(大人)の役目だから。

 

「ナギサも、ミカも、ほんの少しだけ、相手を信じることが出来たら……こんな事にはならなかったかもしれない、誰かがほんの少しだけ優しかったら――これは、そういう話なんだよ」

 

 だから決して、彼女が自分を責める必要などない。

 ほんの些細なボタンのかけ間違い。ほんの少しの可能性の違い。

 これは、誰か一人を責めれば良いという話ではないのだから。

 

「……そうですね、そうかもしれません」

 

 先生の言葉を直ぐ横で聞き届けたハナコは、大きく息を吐き出し、呟く。

 

「今のナギサさんの様に、誰も信じられなくなってしまった人を変える事は大変難しい事です、そもそも他者を信じるという行為自体が困難な事でしょう――ですが」

 

 ハナコは、アズサに改めて視線を向けた。

 そのアズサの目が、揺らぐ。

 彼女から放たれる雰囲気は、最早先程のそれとは異なっていた。

 

「アズサちゃんは、私達にこうして本心を語ってくれました、黙り続ける事も、このまま姿を晦ませる事も出来た筈なのに……こうして、直接私達と顔を合わせて謝ってくれた」

「それは……」

「……先程はごめんなさい、アズサちゃん、どうしても意地悪がしたくなってしまったんです、アズサちゃんの真っ直ぐな顔を見ていると、何だか心が落ち着かなくなってしまって」

 

 アズサはその言葉に、首を横に振る。

 少なくとも彼女は糾弾され、拒絶されるつもりで此処に来たのだ。だから、どのような言葉であれ、行動であれ、受け入れるつもりであった。

 けれど、先程まで怒りを滲ませていたハナコからそれを感じなくなり、戸惑ってしまう。自分は、それだけの事を犯したのだから。

 

「誰にも気づかれないように消える、そういう手段やタイミングは今まで幾らでもあったでしょう、けれどアズサちゃんは、最後までそうしなかった――その理由を、私は知っています」

 

 告げ、ハナコは笑みを浮かべながら言葉を続けた。

 

「……補習授業部での時間が、余りにも楽しかったから――ですよね」

「っ――」

 

 ハナコの言葉に、アズサは息を詰まらせる。

 それは、彼女の言葉がアズサの本音そのものだったからだ。

 理性的に考えれば、自身の正体を明かす必要などなく、勝手にひとりで抜け出して、勝手にひとりで戦えば良かったのだ。それをこんな、態々自分から正体を晒すような真似をして――或いは、もっと早い段階で行方を晦ます選択肢だってあった。

 けれどアズサはそれを選ばなかった。

 選べなかった。

 

「皆で一緒に勉強をしたり、ご飯を食べたり、お洗濯をしたり、お掃除をしたり……何をしても楽しい事ばかりだったから、だから――この楽しい時間を壊したくなかった」

 

 そうだ、ハナコの言葉をアズサは内心で肯定する。アリウスでは経験しなかった沢山の事。経験できなかった、皆と楽しく過ごすという事。

 一挙手一投足に意味のある行為を求められず、効率のみを重視せず、ただ何となく、或いは自身が楽しむために、日々を過ごす。例えそれが義務的な行為であっても、アズサにとっては全てが新鮮だった。学生らしく勉強する事も、皆で食事を摂る事も、掃除をする事さえ。

 

「目標に向かって皆で努力すること、そしてヒフミちゃんとコハルちゃんと先生と、皆で知らなかった事を学んでいくことが、楽しかったから……だから、最後まで抜け出せなかった――違いますか?」

 

 違う――そう声を上げる事は出来なかった。

 

 ただ自身を見下ろすハナコの視線から顔を逸らし、黙り込む。それを認めてしまったら、自身の何か、致命的な部分が変質してしまう様な気がしてならなかった。

 それは、決して悪い事ではない筈なのに、どうしてか躊躇ってしまう。ひとりで戦う覚悟はあった筈なのに、この選択を後悔しないと決めた筈なのに。

 事、此処に於いてアズサは、自身が彼女達との別れをどれ程惜しんでいるのか、それを漸く自覚した。

 自分が望んでも手に入れる事はないと思っていた陽の当たる場所、場違いで、自分の本当の居場所なんかではなくて、いつか自分から離れなければならないと分かっていても、手放し難く、終ぞ最後まで居座ってしまった――アズサの拠り所(補習授業部)

 ここで過ごした日々は、楽しかった。

 本当に、楽しかったのだ。

 

「――……うん、そうだ、その通りだ」

 

 全身から、力が抜けた。

 認めてしまえば、本当にあっさりと、すとんと、感情が胸に落ちて来た。

 アズサは俯き、薄らと笑みを浮かべながら告げた。

 

「何かを学ぶという事、皆で何かをするという事……その楽しい時間を、私は手放せなかった」

 

 本当に、普通の生徒からすれば、「そんな事?」と疑問に思ってしまうような事。それがアズサにとっては、どれだけ眩しくて、楽しくて、羨ましい事か。

 友達と一緒に朝起きられる事、温かいご飯を皆と一緒に食べられる事、机を並べて一緒に勉強出来る事、自分の為に時間を費やしてくれる誰かが居る事、自分の為だけに何かを成す余裕がある事。誰かから見える形で好意を受け取る事。

 日々を――誰かの憎しみに費やす必要がない事。

 

 どんな些細な事、時間でさえも、アズサにとっては黄金の様な日々だった。楽しかった、嬉しかった、この記憶を死ぬ寸前まで抱いて、自分は戦い続けることが出来ると――そう思う程に、大事な大事な思い出だった。

 アズサは銃を握り締め、腹の底から、叫ぶ。

 自身の感情を、吐き出す。

 

「そうだ、私は、まだまだ知りたい事が沢山ある、学びたい事がいっぱいある……! 海とか、お祭りとか、遊園地とか、水族館とか……っ! 知らないところ、行きたいところも、まだまだ沢山あって……だからッ、だから私は、まだ、皆と一緒に――ッ!」

「アズサちゃん――」

 

 声は、廊下に木霊した。ハナコは、そんな彼女を見下ろし、そっと自身の手を握り締めた。彼女の心からの叫び、それが痛い程に理解出来たから。

 

「その気持ちは、良く分かりますよ――同じように想っていた人が居ましたから」

 

 ■

 

「浦和さんは、本当に凄いですね! こんな難しい問題も簡単に解けてしまうなんて……!」

「あの、浦和さん、学級委員の推薦の話なのですが、クラス全員一致で浦和さんに頼もうって事になって……」

「浦和さん、流石です、今期の試験は全て主席ですわ、必要ならば上級学年への飛び級を手配する事も出来ますが――」

「浦和様、この計画にはあなたの協力が必要なのです、ですから是非、私達の派閥に――ふふっ」

「凄いですね、まさか秀才クラスの試験まで満点なんて……浦和さん、やはりあなたは……」

「浦和さん、私達と共に歩みませんか? あのティーパーティーを牽制する為にも、私達シスターフッドが――」

「準備をしておいて下さい、浦和ハナコさん、来年のティーパーティーの席は、あなたでほぼ確定ですから――第一学年の時点でこの様な選抜が行われる事は、大変名誉な事ですよ?」

「浦和さん」

「浦和様」

「浦和ハナコさん」

 

 ――私は、そんな人ではないのに。

 

 ■

 

「……それは、寂しくはないかい?」

 

 ■

 

「その人にとって、全ての事は無意味で、無駄で――学校を、辞めようとしていたんです、何せ、そのまま生活を続ける事は監獄にいるのと同じでしたから」

 

 呟き、ハナコは振り返る。自身の学園生活、その灰色であった頃を。

 (ハナコ)にとって、このトリニティ総合学園(世界)は、嘘と偽りで飾り立てられた、欺瞞に満ちた空間だった。誰にも本心を話す事が出来ず、誰にも本当の姿を見せる事が出来ないまま……。

 だから、あの時、彼女にそんな言葉を掛けられた時――ハナコは救われた気持ちになったのだ。

 寂しい、そう、寂しいのだ。

 誰にも理解されない事は、誰にも歩み寄って貰えない事は。

 自分に――居場所がない事は。

 

 とても、寂しい。

 

「けれど、その人とアズサちゃんは違ったんです――アズサちゃんは、アリウスからナギサさんを守った後、どうするつもりでしたか?」

「っ――」

 

 その言葉に、アズサの顔が分かり易く歪む。言葉はなく、悲痛な面持ちだけがある。それが答えだった。

 

「アリウスを裏切り、トリニティをも欺き……最後に、帰る場所が無くなってしまう筈なのに……けれどアズサちゃんは、補習授業部でいつも一生懸命でしたよね」

 

 彼女はトリニティの生徒ではない。そしてアリウスを裏切れば、彼女の居場所は何処にもなくなる。本当に、只のひとりで、このキヴォトスを生き抜かなければならなくなる。永遠に、自身を追う影に怯えながら。

 その未来が分かっていたのに、アズサ(彼女)は、いつも全力だった。一生懸命だった。諦めなかった。

 常に、毎日を精一杯生きていた。

 

「その人は試験を(わざ)と台無しにして学園から逃げようとしていたのに……アズサちゃんは、ほんの僅かな時間、刹那の様な学園生活でも、常に全力でした」

 

 それは――何故だ?

 いつもアズサ(彼女)は云っていたのに。

 

「どうしてそこまでするのでしょう? そこに、何の意味があるのでしょう……? アズサちゃんがいつも口癖のように云っていた通り――全ては虚しい筈なのに」

 

 ――Vanitas vanitatum et omnia vanitas.

 全ては、虚しいもの。

 いつか消えてしまうもの。

 何の意味もない行為。

 例え此処で頑張ったって、時が来れば失われてしまうと理解していた筈だ。

 それでも何故、彼女は。

 どうして。

 

「……それでも」

 

 アズサは呟く。

 呟き、銃を握り締めたまま、答える。

 顔を上げた彼女の瞳は力強く、信念に満ち溢れていて――。

 

「例えすべては虚しいものであっても、抗う事を止めるべきじゃないから……っ!」

「――えぇ」

 

 アズサの力強いそれに、ハナコは笑みを零し、頷いた。

 

「その通りです、漸く、その人も気付いたんです、友人と過ごす、学園生活の楽しさに」

 

 自分を受け入れてくれる居場所があるという事が、こんなにも嬉しくて、楽しくて、色鮮やかであるという事に。

 目を閉じ、ハナコは大きく息を吸う。

 脳裏に過るのは、補習授業部で過ごした黄金色(こがねいろ)の時間。

 そのどれもが楽しく。眩く、何よりも大事なものだった。

 その中には勿論――アズサだって含まれている。

 

「下着姿でプール掃除をしたり、皆で水着で散歩をしたり、裸で色々な事を打ち明けたり……自分をさらけ出せる人達と、そういったよくある事を全力でする事が、こんなにも楽しくて、心躍る事なんだと」

「うん――あ、いや、裸ではなかったけれど……」

「み、水着で散歩をした覚えはありませんよ……!?」

「え、やっぱりあれって下着だったの!?」

「ふふっ♡」

 

 ハナコは悪戯っ子の様に笑い、頬に手を当てる。

 いつもの柔らかで、どこか掴みどころのない彼女。その面持ちを取り戻したハナコは、言葉を噛み締める様にして云った。

 

「アズサちゃんの云っていた通りです、虚しい事だとしても、最後まで抵抗をやめてはいけません」

「ハナコ……」

「アズサちゃん、もっと学びたいんでしょう? もっと知りたいんでしょう? 皆で色んな事をやってみたいって、あの時話したじゃないですか、海に遊びに行くとか、ドリンクバーで粘って夜更かしとか……それを、諦めてしまうんですか?」

「……でも」

 

 ハナコの言葉に、アズサは希望を見る。

 けれど、それは所詮夢に過ぎない。

 自分がこのまま補習授業部に居座る事は、出来ない。

 アリウスはそれを許さないから。

 巻き込みたくないから。

 そんな思いを感じ取ったハナコは、笑みを浮かべたまま振り返る。

 直ぐ傍に、同じ表情を浮かべた先生が居た。

 

「先生――」

「あぁ」

 

 頷き、先生はアズサの肩を優しく掴んだ。

 大人の、大きな手がアズサを支える。

 そっと手を重ねたアズサは、先生を見上げた。

 

「諦める必要なんて、微塵もないよ、アズサ」

「先生……」

「生徒の夢を、希望を、未来を守るために、私は此処に居る――アズサが皆と共に居たいと、学び続けたいとそう望むのなら、それを叶えるのが私の役目だ」

 

 生徒が望む明日を。

 生徒が望む未来を。

 生徒が笑える今を。

 全力で守り、叶え、寄り添う事。

 それが先生の使命であり、大人の責務であり、成し遂げなければならない事だ。

 先生の、夢だ。

 振り向いた先生は、補習授業部の皆を見る。ハナコは笑みを浮かべたまま、ヒフミはどこか決意を秘めた瞳で、コハルは震えながらも手を握り締め、彼を見ていた。

 

「皆、どうか、力を貸して欲しい――私達が明日も、明後日も、その先も、笑顔で学園生活を送れるように」

 

 口にして、頭を下げる。

 先生ひとりで出来る事は、少ない。策謀、策略、根回しを行う事は出来ても、肝心の戦う力を先生は有していない。だから、生徒の為に戦うと決めておきながら、生徒に頼る道しか先生には無い。だから、懇願する、願う、どうか自分に力を貸して欲しいと。

 自身の願いを、叶えさせて欲しいと。

 

「よ、良く分かんないけれど……!」

 

 コハルが、呟く。

 両手で衣服を握り締めながら、どこか不安そうに、恐ろしそうにしながら、けれど真っ直ぐ、強い光を帯びた瞳を向け、叫ぶ。

 

「しょ、正直、どういう事なのかわかんないし! 何だか大変な事になっている気がするけれど……で、でも! アズサがトリニティに居られなくなるのは嫌だし、退学になるのも嫌だから! 何とか出来る手段が、方法があるなら、私も、手を貸す!」

「わ、私もですよ!」

 

 コハルに続く形で、ヒフミも声を上げた。手を挙げ、飛び跳ねながら叫ぶ彼女は、コハルと同じように不安を覗かせながらも、けれど友人の為に、補習授業部の為に、戦う事を決意した。

 

「その、私なんかに出来る事があるか分かりませんが、此処まで来たんです、皆で力を合わせればきっと、どんな事でも乗り越えられるって、信じていますからッ……!」

 

 だから――。

 言葉を続け、ヒフミは力強い、全身全霊を込めて云い放った。

 

「私は、私に出来る事を、全力で……成し遂げます!」

「ふふっ、流石部長ですね♡」

「あぁ……本当に――」

「み、皆……」

 

 ヒフミの啖呵に、先生は少しだけ驚いた様に、ハナコは嬉しそうに口元を緩めた。これで、補習授業部全員が己の意思を表明した。アズサは戸惑った表情で補習授業部を見渡した後、ぎゅっと唇を噛み締め、「ありがとう」と、か細い、途切れそうな声で呟いた。それは、皆に届いたかも怪しい声だった。けれど、全員が示し合わせた様に笑った。

 それが答えだった。

 

「アズサが云った様に、ナギサへの襲撃は阻止する、けれど勿論、試験も受ける、試験会場に辿り着き、皆で九十点以上を取って堂々と合格するんだ――後からどんな文句も受け付けられない様に、完膚なきまでにね」

「せ、先生、でも実際そんな事が可能なのか……? 試験は九時からで、アリウスの作戦開始時刻を考えると――」

 

 アズサは先生の言葉に、思わずそんな疑問を投げかける。暗殺を阻止し、試験も受ける。確かにそれが理想ではあるが、それが可能かどうかと問われれば疑念が残った。時間もそうだが、アリウスの規模を考えれば手が足りない。

 ヒフミは必死に唸りながら、何とか策を捻り出そうとする。

 

「や、やっぱり、他の方に助けを求めるとか……?」

「でも、それだとトリニティの外に漏れちゃうんじゃ……」

「あうぅ、そ、そうですよね、となると、トリニティ内の方で、だ、誰か助けてくれそうなところに……」

「――ふふっ、大丈夫です、私に作戦があります」

 

 先程の心意気から一転、頭を悩ませ始めた二人にハナコは胸を張ってそう告げる。不安な表情を浮かべていた二人は、どこか得意げな表情を浮かべるハナコに視線を向けた。

 

「これまで様々な嘘や策略の中で弄ばれてきましたが……今度は、私達が仕掛ける番です」

「し、仕掛ける……ですか?」

「えぇ、何せここには正義実現委員会のメンバーと、ゲリラ戦の達人と、ティーパーティーの偏愛を受ける自称平凡な生徒と、トリニティのほぼすべてに精通した私が居ます」

「へ、偏愛……」

 

 順に指差され、そんな風に表現される補習授業部。ヒフミは思わず苦笑を浮かべ、肩を落とす。最後にハナコは隣に立つ先生の腕を取り、満面の笑みを浮かべた。

 

「その上、ちょっとしたマスターキーの先生までいらっしゃるのですから、この全員で力を合わせればきっと――」

 

 ぴん、と立てた指をひとつ。

 ハナコは片目を瞑ってウィンクをすると、とても清々しい口調で以て告げた。

 

「――トリニティ程度、半日で転覆させられますよ♡」

「は、はい!?」

「えっ、ちょ、な、何する気!?」

「……転覆?」

 

 余りにも物騒な文言に、思わずヒフミとコハルは取り乱し、アズサは疑問符を浮かべる。一体何をしようとしているのか、その不安を隠せない面々に、ハナコはいつも通りの笑顔を向けた。

 

「ふふっ、何をするも何も、試験を受けて合格するだけです♡ 重要なのは、そう――演技力!」

「え、演技……」

「りょく……?」

「えぇ、作戦内容は私に任せて下さい、我に秘策アリです」

「……ハナコ、その、少し不安なのだけれど、それは――」

「先生、大丈夫です」

 

 思わずそう口を出した先生に、ハナコは腕を掴んだまま身を寄せ、囁く。

 

「私を信じて下さい♡」

「――………」

 

 それは、先生にとってはある意味殺し文句な訳で。

 何とも云い難い、非常に複雑な表情を浮かべた先生は、しかし小さく項垂れる様にして頷くと、どこか懇願するような口調で告げた。それは、頼むからやり過ぎないでねという願いだった。

 

「分かった、信じるよ――ハナコ」

「……ありがとうございます♡」

 

 先生の許可を取り付けたハナコは、先生の腕をするりと離すと、ヒフミの傍に駆け寄った。

 

「さぁ、始めましょう、ヒフミ部長!」

「え、あぅ、えぇ!?」

「いつもの号令です! 此処はびしっと決めて頂かないと!」

「あ、わ、は、はい!」

 

 ハナコに肩を叩かれたヒフミは、戸惑いながらも頷いて見せる。補習授業部で何かを成し遂げるのならば、その音頭を取るのはヒフミだ。補習授業部の部長として、皆を率いる義務がある。勿論、そんなものは建前で、義務だなんてものは嘘っぱちだ。そんなものを、彼女は欠片も負っていない。

 けれど、補習授業部の日々の中で育まれた絆は本物だから。その意思を、心意気を示す時、彼女の号令はほんの僅かな勇気を皆に与えてくれる。

 震える拳を握り締め、ヒフミは補習授業部の全員を見渡す。

 

「さ、作戦は良く分かりませんが、でも、きっと私達なら大丈夫な筈ですッ!」

「う、うん……ッ!」

「うん、その通りだ」

「えぇ♡」

 

 皆が皆、力強い頷きを返す。

 どんな困難も乗り越えて来た。何度だって壁にぶつかった。

 ヒフミは自分に自信が無い、自分が大したことのない存在だと、そう強く思っている。けれど、そんな自分でも、こんな何も出来ない自分でも、皆の為に、補習授業部の為に、精一杯頑張りたいと思うから……! それは、皆同じ気持ちの筈だから!

 だから今回だって、補習授業部(私たち)なら乗り越えられると信じている――!

 そんな思いを込め、ヒフミは拳を突き上げ、叫んだ。

 

「補習授業部――出撃です!」

「おーッ!」

 

 提げた補習授業部の人形が、そっと、アズサの胸元で弾んだ。

 




次回 「あはは……えっと、それなりに楽しかったですよ? ナギサ様との――」


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審判の刻

誤字脱字報告に感謝ですわ~!
書いていたら17,000字になってしまったので、一日間を置きましたわ~!


 

「……チームⅣ、現場に到着」

 

 告げ、アリウス生徒は耳元のインカムを軽く指先で叩く。時刻は未明、陽はまだ登らず、周囲は薄暗い闇に覆われている。一見、レインコートにも見えるアリウス制服を身に纏った彼女達は、トリニティ外壁に張り付き作戦開始時刻を待っていた。

 背後を見れば、連なる様にして息を潜めるアリウス分校の生徒達。今回の作戦に先駆けトリニティ自治区内に潜伏していた者達である。皆一様に銃器を片手に、薄汚れたガスマスクを着用している。

 

HQ(Headquarters)、周辺環境に変化なし、向こうの警戒態勢も予測通り」

『こちらHQ、チームⅤ、チームⅥ、チームⅧ、配置完了――突入用意』

「突入用意、最終確認」

「確認」

 

 その言葉に、全員が銃の弾倉を検め、着用したプレートキャリアの具合、マガジンポーチに入った予備弾倉を確かめる。背後に居る生徒が前に居る生徒の背嚢に手を伸ばし、脱落や破損がない事を認め、合図を送った。最後に先頭の生徒、その肩を叩き準備は整う。

 

「最終確認、突入用意完了」

『了解、ターゲットの位置を念入りに確認しておけ、作戦遂行時刻は予定通り、己の役目を果たせ――アウト』

 

 その言葉を最後に、通信は終了する。

 先頭の生徒は自身の腕に巻き付けた腕時計を見下ろし、時を待った。

 ゆっくりと進む時計の針、そして短針が真上を指した瞬間――作戦遂行時刻となる。

 

「――チームⅣ、総員前進」

 

 その言葉を受け、アリウスの生徒達は一斉に行動を開始した。

 

 ■

 

「ふぅ……」

 

 ナギサは薄暗い部屋で、備え付けのティーテーブルへと腰掛け紅茶を嗜んでいた。場所は本校舎より僅かに離れた位置にある特別棟。ティーパーティーのみが知る緊急避難用のセーフハウス、その中でも特に秘匿性の高い屋根裏部屋。その位置関係上、万が一露呈した場合の避難行動が難しい場所ではあるが、このセーフハウスを知っている者は本当にごく少数である為、その心配は要らない。それこそ今、警護にあたっている正義実現委員会が裏切りでもしない限りは――。

 ナギサは神妙な顔つきのまま紅茶を啜り、窓一つない空間の中で佇む。音はなく、ちょっとした金庫室並みの防弾、防爆、耐火性能を誇る部屋の壁は、無機質な色を放っていた。

 

「もう、こんな時間ですか……」

 

 テーブルの上に置かれた小さな懐中時計を見つめ、呟く。

 今宵、全てが決まる。

 エデン条約を前にした最終調整日程、今日の試験を以て補習授業部の面々は退学となり、自身は調印式まで雲隠れ。エデン条約さえ締結してしまえば、それ以降万が一自身に何かあったとしても、ミカがホストを引き継いで運営する事が出来る。自身が相手の立場であったとしたら、狙いは此処から一週間程――その期間さえ凌いでしまえば、ゲヘナとトリニティの小競り合いはティーパーティーの手を離れるだろう。

 故の雲隠れ、故の特例措置、異例尽くしの今回ではあるが、概ねナギサの計画通りに事が進んでいると云って良かった。

 

 ――果たして、これで正しかったのだろうか。

 

 たったひとり、こうして部屋の中でじっとしていると、不意にそんな事を考える。

 もっと穏便な手段があったのではないか、もっと失う事のない選択肢があったのではないか。そんな事を何度も何度も考え、自己嫌悪に陥る。しかし、それは選ばなかったIFに過ぎない。自身の取り得た選択肢の中では、この道が最善に近しいものであったとナギサは信じている。補習授業部含め、先生との対立も――全ては、今後の未来の為に。

 そう信じなければ、心が折れてしまいそうだった。

 

「………」

 

 ナギサの顔には陰があった。

 自身の選択が、本当に正しかったのだろうかという疑念。恐らくこれは、一生ついて回る代物だろう。ふと、気を抜けば指先が震えそうになっていた。それは犠牲とした生徒達に対する罪悪感からか、それともこれより到来するかもしれない死の恐怖からだろうか。揺れる紅茶の水面(みなも)を見つめ、ナギサはそっと息を吐き出した。

 

「………?」

 

 ふと、部屋にドン――という物音が響く。音の方向はセーフハウスの扉から。ノックというには少々荒っぽいが、頑強な扉には傷一つない。恐らくセーフハウスを警護している正義実現委員会の者だろう。何かあったのかとナギサは椅子を引き、立ち上がる。

 

「一体何ですか、紅茶ならばまだ――」

『……ナギサ?』

 

 淡々とした口調でそう告げていたナギサは、耳に届いた声に思わず目を見開く。その声は全く予想だにしていなかったもので、自身の耳を疑った。

 

「その声は……先生? 何故此処に――い、いえ、それよりも」

 

 どうして先生がトリニティに於いて一部の者しか知らないこの場所に? 正義実現委員会の警備は先生を通したのか? あらゆる疑問が瞬時に持ち上がったが、内部カメラで外の様子を伺えば確かに、そこに映っていたのは先生であった。薄暗いが故に鮮明ではないものの、十分にその顔を確認する事は出来る。

 ナギサは思わず扉に駆け寄り、セイフティロックを解除すると扉を押し開けた。重々しい音を立てながら開閉される扉。するとナギサの視界に、息を切らせ所々汚れたシャーレ制服を身に纏う先生の姿が映った。その頬には擦過傷も見え、髪は乱れて顔色も酷い。思わず駆け寄った彼女は驚きと共に叫ぶ。

 

「そ、その恰好は一体、どうしたというのですか? 何があったのです……!?」

「何で、ナギサが此処に……まさか――」

 

 しかし、先生はナギサの言葉に答えを返さない。蒼褪めた表情で、何かを悟ったような口ぶり。そして徐に背後を振り向くと、その顔をくしゃりと歪めた。

 

「誘い込まれたのか……ッ!?」

「えっ? い、一体何を――」

 

 ナギサがそう戸惑いを口にするより早く、先生は彼女を抱き寄せ、部屋の中へと飛び込んだ。

 

「ッ、伏せろナギサッ!」

「ぇ――きゃあ!?」

 

 銃声、そして甲高い破壊音。凡そ安全であった筈のセーフハウスに轟くそれ。先生はナギサを抱きかかえたままセーフハウスの床を転がり、身体を走り抜けた衝撃に呻き声を漏らす。ナギサは先生に抱えられたまま、一体何が起こったのだと目を白黒させた。そして床に横たわった状態で扉を見れば、そのすぐ脇に幾つもの弾痕が刻まれているのが確認できた。

 そして、開き切った扉に手を掛け、セーフハウスへと踏み入る人影がひとつ。

 

「――ふふっ、誰も知らないセーフハウス、どれだけ騒いでも外に知られないというのは、大変よろしいですね♡」

 

 ゆったりとした動作で踏み込み、倒れ伏した先生とナギサを見下ろす好戦的な瞳。トリニティ総合学園の制服、それを少しばかり改造した専用の衣服はそれが誰であるかを容易く理解させた。ナギサは倒れ伏したまま、彼女の名を呟く。

 

「浦和、ハナコ……さん?」

「あら、随分と不安そうなお顔ですが……あぁ、それもそうですよね、正義実現委員会が殆ど傍に居ない現状、不安に思う事は正常です、ナギサさん」

 

 告げ、ハナコはこれ見よがしに愛銃の弾倉を外し、地面に放る。そして新しい弾倉を取り出すと、銃に嵌め込んだ。その動作一つ一つが、彼女の立ち位置を言外に表していた。ナギサは息を呑み、震える指先を握り締める。

 

「ど、どうして、あなたが此処に……」

「それはこのセーフハウスをどうやって知ったのか、という意味ですか? それとも、私が何故此処に居るのか、という問いかけでしょうか? ふふっ♡」

 

 ハナコは笑みを浮かべ、数歩前進する。ナギサは青ざめた表情で先生の腕を掴むと、座り込んだ姿勢のまま必死に後退り、部屋の奥へと動こうとした。

 

「前者であれば、簡単な話です、私は全てのセーフハウスを把握しているからですよ、合計八十七個、そのローテーションテーブルさえも、ね?」

「……ッ!」

「変則的な運用も凡そ把握しています、例えば……今の様に警備が少なく、単独及び少数の護衛のみで身を隠す際は、この秘密の屋根裏部屋に隠れるという事も♡」

 

 それは、ティーパーティーとその供回りしか知らない情報である筈だった。

 誰かが漏らしたのか、或いは最初から知っていたのか。それを確かめる術が、今のナギサにはない。

 

「ぐ……っ」

「――ッ、せ、先生!」

 

 ナギサは唐突な展開に思考が鈍り、周囲の状況確認すらままならない状態であった。故に、気付くのが遅れる。先生の腹部、その脇腹が朱く滲んでいる事に。シャーレの純白の制服が、内側から徐々に変色する。

 

「ま、まさか、撃たれて――!?」

 

 その様子にナギサは思わず取り乱し、先生の体を抱き起そうと手を伸ばした。

 

「――動くな」

「っ!」

 

 しかし、その手が先生を抱き起すより早く、声が響く。脂汗を浮かべ、腹部を抑える先生。そして血の気の失せたナギサに銃口を向ける小柄な影。トリニティの制服に、ガスマスクを着用した姿。ナギサはその銃口を見つめ叫ぶ。

 

「白洲、アズサ……っ!」

「………」

 

 返答はなかった。しかし、やはりという感情があった。先生を強く抱きしめ、ナギサは二人を睥睨する。体は恐怖で震えていた、しかし、それ以上の感情がナギサの肉体を突き動かす。アズサに銃口を突き付けられたナギサを見つめ、ハナコは軽い足取りで歩み寄る。

 

「あぁ、勿論ここまでの間に警備の方々は全て片付けさせて頂きました、だからこうやって正面から堂々と来た訳ですが――」

「何故……何故、先生にまでこのような!?」

 

 どこか飄々とした態度を崩さないハナコに、ナギサは叫ぶ。腹部を抑え酷い顔色を浮かべる先生を見下ろし、必死に。

 

「私を恨むのならば理解出来ます! 私を憎悪するのは、当然の事でしょう……ッ! しかし、先生はっ、あなた達の味方だった筈ですッ! 私に反発してまでっ……! なのに、どうしてこの様な仕打ちを――!?」

「――……うーん」

 

 返答は、小さく唸る様な声。

 どこか思案するように、或いはナギサの感情を観察するように。暫くそうやって小首を傾げていたハナコはふっと口元を緩めると、ナギサを見下ろしながら云った。

 

「えっと、何故、と云われましても」

 

 その表情に宿るのは呆れか、或いは嘲りか。

 数秒程先生を眺めた彼女は、とても良い笑顔で、まるで何でもない事の様に告げる。

 

「――ナギサさんを排除すると云ったら、『それは駄目だ』と反対されたので、仕方なく♡」

「………は」

 

 思わず、言葉を失う。

 もっと何か、決定的な何かがある筈だと――彼女はそう思っていた。

 けれど事実は想像以上に簡素で、余りにも淡々としていて。先生を掴む手に、ぎゅっと力が籠る。先生がそれを反対する事は、余りにも見え透いた事実だった。

 ナギサは唇を震わせたまま、呟く。

 

「し、仕方なく、で……撃ったのですか、先生を……?」

「えぇ、だって――」

 

 頷き、両手を広げたハナコは。

 いつも通りの温厚で、優し気で、理知的な瞳を以て――笑みさえも浮かべて、宣うのだ。

 

「これは革命を為すに必要な犠牲、大義の前の小義というものではありませんか♡」

 

 ――あなただって、大切なものを守るために、仕方ないと云って切り捨てたではありませんか。

 

「……そ――」

 

 そんなものは、違う。

 

 そう云い掛けて、ナギサは言葉を呑んだ。

 何処までも無垢に、何処までも朗らかに、ハナコはそう宣ったからだ。

 その行為に何の痛痒も、罪悪も感じていないという態度であった。余りにも超然としていて、糾弾する意思すらも削がれた。そう感じてしまう程に、今のハナコは恐ろしく、邪悪そのものに見えた。ナギサの顔が蒼褪め、思わず指先が震える。

 

「それと、ふふっ、私達がトリニティの裏切り者だと思っていらっしゃるナギサさんに、良い事を教えて差し上げます♡ 私もアズサちゃんも、ただの駒に過ぎません、指揮官は別にいるんですよ」

「指揮、官――」

 

 その一言に、止まりかけたナギサの思考が巡り始めた。

 最早状況だけ見れば、絶望的。正義実現委員会の警備は倒され、屋根裏部屋の此処からでは逃げ出す事もままならない。ましてや、先生を担いだ状態でなど――。しかし、その人物の正体を突き止め、何らかの形で知らせる事が出来れば、最悪は逃れられる。例え自身が此処で果てる結果となっても、僅かな証拠、メッセージを彼女(ミカ)に託せれば。

 そんな思いを噛み締め、ハナコを睨みつける。

 

「それは、誰ですか……ッ!?」

「……そうですねぇ」

 

 頬に指を添え、考える素振りを見せるハナコは、小首を傾げ呟く。

 

「別段、教えてしまっても構いませんが……その前に、ナギサさんに聞きたい事があります」

「っ、この期に及んで、何を知りたいと云うのです……!?」

「補習授業部の件ですよ、果たして此処までやる必要はあったかと思いまして」

 

 そのハナコの言葉に、ナギサは分かり易く顔を顰めた。その言葉の意図するところを理解したからだ。

 

「ナギサさんの立場からすれば色々と思い含む事もあるでしょう、その事自体は否定しません――しかし、シャーレまで動員して、その上ゲヘナ自治区にまで手を伸ばし、少々度が過ぎてはいませんか? まぁ、先生にこのような仕打ちをしておいて、どの口がと思わない事もありませんが、そもそもの話、発端はあなたなのですよ、ナギサさん?」

「………」

「私とアズサちゃんに関しては分かります、普段の行動や言動から訝しむのは当然です……ですが、ヒフミちゃんやコハルちゃんに対しては、あんまりではありませんか」

「それは――」

 

 口を開き、云い淀む。

 ナギサの脳裏に、ヒフミとの記憶が過った。ティーパーティーという肩書、問題行動の多いトリニティ内部、異なる派閥に属する以上、利害関係を全く考えずに交流する事は難しい。誰もが、ナギサという一人の生徒ではなく、ティーパーティーのナギサとして接する以上、それは仕方ない事なのかもしれない。友人という名の下心、大権の庇護を求める者達。それを目にした時、ナギサは酷く虚しい心地に襲われる。

 だから、ティーパーティーとしてではなく、ひとりの生徒として、何の肩書も、打算もなく、ただ普通の友人として語り合える彼女は貴重だった。相手に敬意を持ち、けれど過度に畏まる事はなく、気安過ぎず、軽すぎず。

 そう云った、普通の関係がどれだけ心休まる間柄であったか、本人はきっと理解していないだろう。ナギサ自身、幼い頃より関係のあったミカの様な人物を、この歳になって得られるとは微塵も思っていなかった程。

 だから、後悔していないと云えば――嘘になる。

 

「っ、確かに、お二人には……特に、ヒフミさんには申し訳ない事をしました、そして――先生にも」

 

 俯き、言葉を漏らす。

 それは彼女にとっての本音だ。

 恨まれて当然の事をした、如何なる罵倒も、嫌悪も、糾弾の声も受け入れよう。それは当然の権利であり、感情だ。

 

「彼女との間柄だけは守れたらと、そう思っていました……しかし、後悔はしておりません」

 

 けれど、それを表に出す事は出来ない。

 後悔していると――そう素直に吐露する事は、許されない。

 逆の言葉を口にする事により、少しだけ感情が、心が強固になる。言葉は時折、口にする事で自分を奮い立たせてくれる。それが自分に云い聞かせるものであっても。だから、この感情は飲み下し、腹に込め、閉ざさなければならない。それが、ティーパーティーのホストである己に課せられた責務であり、使命であるから。

 その信条を――その信念だけを胸に、ナギサは顔を上げ、断じた。

 

(すべ)ては、トリニティの平穏を守る(無辜なる大多数の)為に――!」

「……そうですか」

 

 その言葉を聞き届けたハナコは、ふっと肩から力を抜いた。それは理解とも、憐憫とも取れる感情だった。

 そうして彼女は徐に背後を振り向き――声を上げる。

 何処までも広がる、暗闇に向けて。

 

「――だそうですよ、ヒフミ(指揮官)さん♡」

「……えっ?」

 

 その言葉に、ナギサは思わず声を漏らした。

 それは反射的なものだった。驚きや疑問といった感情から生じたものではない、ただ、ハナコが何を口にしたのか、分からなかったから。

 応じる様に扉を潜る、三人目の人影。

 軽い足音を立てセーフハウスに踏み入るその人影は、ナギサの見知った姿をした人物で。

 彼女はナギサの前に立ち、いつも通り、困ったように笑っていた。

 震える唇で、ナギサは彼女の名を紡ぐ。その、余りにも見慣れた顔を見上げながら。

 

「ひ、ふ……み、さん……?」

「あはは……」

 

 頬を掻き、首を傾げるヒフミ。彼女の纏う雰囲気はいつも通りで、だからこそ余りにも場違いであった。

 日常の中の、あの穏やかな空気、それをこの場でも纏っている事が、余りにも不自然で。ナギサの口内が、乾いて行く。鼓動が早鐘を打つ。その音が、余りにも五月蠅い。

 まさか、という想いがある。

 ありえないと、理性が叫んだ。

 疑ったのは自分だ、切り捨てたのも自分だ、それでも――違うかもしれないと、最後まで叫んでいたのもまた自分だった。

 けれど、そんなものは所詮幻想に過ぎなくて。

 現実は余りにも残酷で、衝撃的で。

 ヒフミは苦笑を浮かべながら言葉を紡ぐ。

 

「まぁ、そうですよね……トリニティという大きな学園と、私ひとりだったら全然釣り合いませんし、えっと、ナギサ様の判断は至極当然だと思いますよ!」

 

 まるでいつもの様に、落ち込んだナギサを、業務で疲れを漏らすナギサを労わり慰める様に。明るくそう口にするヒフミは、徐に担いでいた愛銃を構え、云った。

 

「それに、ほら、これでお互い様ですし!」

「……え? ――ぇ?」

 

 ヒフミの持った愛銃、その銃口が、そっとナギサに向けられる。

 マイ・ネセシティ、彼女がいつも持ち歩く、あのペロロなるバッグと同じ位、彼女が大切にしているもの。それを学園の敵ではなく、自分に向けている。

 それを信じられない心地で見つめ、ナギサは座り込んだままヒフミの瞳を見返した。その瞳には、何の色も感じられなかった。

 友愛も、親愛も、敬愛も――何もかも。

 

「あはは……えっと、それなりに楽しかったですよ? ナギサ様との――」

 

 その瞳が引き絞られ、口元が三日月を描き。

 

「――お友達ごっこ」

「ぁ……――」

 

 そして、自身は判断を誤ったのだと――ナギサは、そう理解した。

 

「ナギサぁッ!?」

 

 銃声、そして駆け抜ける衝撃。

 思わず目を瞑ったナギサは、身を強張らせて両手を握り締める。しかし弾丸がナギサを穿つ事は無かった。その直前に、何か暖かく、大きなものがナギサを覆い、弾丸から身を守る盾となった。ナギサの視界が暗転し、次いで――身を揺らす衝撃。

 音と衝撃がナギサの体を揺らし、くぐもった呻き声が至近距離で鼓膜を叩いた。

 

「ぇ、ぁ…………え?」

 

 銃声は凡そ六発分、トリガーにして二回。ほんの数秒足らずの時間だった。再び目を開けた時、目の前には薄らと汚れた純白があった。それが、先生の制服である事を、ナギサは遅れて認識する。先生に覆われたナギサは、一体何が起こったのか理解出来ずにいた。自身を抱きしめ、背中を晒す先生。首を上げ、肩越しにヒフミを見たナギサ、すぐ傍には硝煙を吹き上げる銃口。その光景から何が起きたのかは一目瞭然で。

 ナギサは喘ぐ様に呼吸を繰り返し、抱きしめられたまま、恐る恐る先生の背中に手を回した。その白いシャーレの制服に、軽く、撫でる様に、指先で。

 すると、妙なぬめりと、水っぽさを感じた。抱き締めた先生の背中にはどろりと、生暖かい何かが付着していた。掌を、見つめる。自身の手に付着したそれを。

 その赤色を、ナギサは揺れる視線で凝視し続ける。

 

「っ、ぁ……せん、せい……?」

「な、ギサ……っ――」

 

 酷く荒い、息遣い。ナギサを抱えていた腕がするりと解け、床に落ちる。ナギサひとりが先生を抱きしめながら、彼は痛みに呻き、それでも必死に何かを伝えようとした。先生の顔は見えない、その表情は伺えない、けれど彼の指先が、ナギサの背中を最後に、そっと抱き締める。

 

「な、な……ん――? せんせ、な……――」

「ぅ……」

 

 言葉が、紡げない。上手く舌が回らない。どうして、何故? そんな疑問がぐるぐると脳内を巡り、抱えきれない感情があらゆる形で噴出する。きっと今、自分は酷い顔をしているに違いない。先生を陥れたのは自分で、先生はただの人間で、銃弾一発でも致命傷になり得ると知っているのに。力なくナギサの肩に顔を乗せ、徐々に呼吸が浅くなる先生。

 ナギサの脳裏に、いつか先生の云った言葉が過った。

 生徒全員が笑って迎えられる――そんな奇跡みたいな明日(幸せな未来)が欲しい、と。

 そう願った先生は、血に塗れ、苦しみに喘ぎながら、ナギサの腕を掴み、懇願するように云った。

 

「に、げてっ……!」

「――ぁ」

 

 それが、先生の最後の言葉だった。

 ゆっくりと傾き、横向きに崩れる肉体。力の抜けたナギサの腕がするりと抜け落ち、先生は水音を立てて床に沈む。その姿をナギサはただ、呆然と見つめる事しか出来なかった。中途半端に伸びた手が、その赤に塗れた手が、鮮明に現実を強調する。

 ――何が起きた? ナギサの理性が問いかける。

 簡単な話だ、先生が(ナギサ)を庇って、斃れた。

 ただ、それだけの話だった。

 たったそれだけの、とても残酷な話だった。

 

「あ、あぁ……」

 

 思わず、口から息が漏れる。

 震えながら伸ばした手が、先生の肩に触れた。

 

「……あぁ、ぁ、そ――ん、な……そん、な……ッ!」

 

 悲壮とも、後悔とも取れる声が響く。手を伸ばし、先生の肩を揺らす。小さく、何度も、けれど彼は反応を返さず、ぴくりともしない。閉じられた瞼は開かない。青を通り越し、白くさえ見える先生の表情だけが、ナギサを見ていた。

 

「あら、庇われてしまいましたね」

「あぅ……失敗しちゃいました」

「射撃訓練をきちんと積んでいないからそうなる」

 

 ナギサの前に立つ三人は、呑気にもその様な言葉を交わしている。先生を揺すっていたナギサは、そんな彼女達を前に、どうしようもない感情が沸き上がっている事を自覚した。それが自身の云うべき事でも、その資格もない事を理解しておきながら、それを腹に押し込むことが――彼女はどうしても出来なかった。

 

「な、なんで……どうして……?」

「ん?」 

 

 呟き、顔を俯かせる。ナギサは先生を凝視したまま、肩を震わせた。けれどそれは怯えや恐怖から来るものではなかった。先生に伸ばしていた手を、握り締める。

 

「せ、先生は……――先生はッ……!」

 

 だって、この人は――。

 

「わ、私と口論してまで、こ、心の底から、あなた達を、ずっと信じていたのに……っ!」

 

 俯いていた顔を上げ、ナギサは目の前の三人を睨みつけた。どこまでも淡々としていて、何の罪悪を感じる素振りを見せない生徒達に。彼女は大粒の涙を流し、トリニティの品位を投げ捨て、訴えた。

 

「私なんかとは違うッ、心からッ! あなた方、補習授業部の為に、どれだけっ、どれだけこの人が尽力したと……心を砕いたと思っているのですかッ!? どれだけ、あなた方を想っていた事か――ッ!? それを知っておきながら、あなたはァッ!?」

 

 叫び、半ば狂乱しながら、ナギサは自身のショルダーホルスターに収納された愛銃(ロイヤルブレンド)を抜き放つ。本来滅多に使う事はなく、護身用として持ち込んでいるだけの代物。しかし手入れは欠かさず、動作にも迷いは無かった。例え撃ち返されようとも、必ず数発は撃ち込んでやるという気概があった。

 赤く充血し、血走った瞳と共に、ナギサは銃口を直ぐ傍にいたハナコに向ける。ハナコの目が、驚いた様に見開かれた。

 

「――随分と回る舌だ」

「あぐッ……!?」

 

 しかし、その引き金を絞るより早く、横合いから繰り出されたストックによる打撃がナギサを襲った。硬質的なストックがナギサの腕を払い、強い衝撃と痺れと共に愛銃が床に転がる。次いでナギサの胸元目掛けて蹴りが入れられた。それに対処するだけの余裕も、技術も、ナギサには無かった。強かに胸元を蹴り飛ばされ、ナギサは床に押し倒される。そのまま咳き込むナギサの腹を、アズサは踏み躙り、銃口を向けた。

 苦悶の表情でアズサを見上げれば、マスク越しに冷たい視線が此方を見下ろしているのが見えた。ナギサはアズサの足を掴み、叫ぼうとする。

 

「ぅ、ぐッ……こ、の――ッ!」

「威勢が良いのは結構だが、力も技術も足りていない……それに」

 

 銃口を向けながら、アズサは徐に顔を近付け、告げた。

 

「先生がこうなったのは、あなたの責任だろう?」

「――なに、を……ッ!」

「あなたが先生を説得出来れば、或いはあなたが『あんな手段』を取らなければ、私達だって穏便に済ませるつもりだったのに――」

 

 声は淡々としていた、抑揚も、感情も込められてはいなかった。

 だからそれが嘘であると、ブラフであると、そう断じる事は容易であった。

 自身を動揺させる為の、或いは精神的に屈服させるための文言。

 けれど、ほんの少しだけ、僅かな隙間から、まるで毒の様にその言葉はナギサの心に沁み込む。自分が先生を説得出来ていれば、もっと早く動けていれば、彼女達を捕縛する事だって叶った筈だ。それは、自分の力が足りなかったから。先生を納得させるだけの材料を、心持を、自分が示す事が出来なかったから。

 

「そもそも、あなたが先生を巻き込まなければ、こんな事にはならなかったのに」

「……――ぅ」

 

 そうすれば、先生はこんな目に遭わなかった(死ぬ事もなかった)

 それは、単なる責任転嫁だと思った。撃ち殺した相手が、「お前のせいで死んだのだ」と、そう口にする事の何と傲慢か。他者を害した責任は、その引き金を引いた者にこそある。或いは、その意思に賛同した者に。ナギサの理性は、そう考える。

 けれど、それでもほんの一握り、或いは責任感の強い者程、その心は悲鳴を上げる。

 あらゆる「IF」が思考を過り、その感情を刺激するのだ。

 

 私が――。

 私が、間違ったのではないか、と。

 

 私が、先生を呼ばなければ。

 トリニティに招致しようなんて、考えなければ。

 先生は、私が殺した様なものではないかと――そんな風に。

 一度考えてしまえば、その思考がこびり付いて離れない。

 先生をトリニティに招いたのは自分だ、ミカに提言されたとはいえ最終判断を下したのはホストである自分なのだ。だから、その責任は自分にある筈で。更に言えば、彼女の云った様に、あんな手段を用いなければ、もっと穏便で先生に寄り添った方法で彼女達と接触を持てたのなら、こんな結末になる事は避けられたのではないのか? 或いは、先生はそれを見越して動いていたのではないか。

 ならば、自分のやった事は――それを全てぶち壊す様な事ではないのか。

 全ては裏目で、無意味な行為ではなかったのかと。

 

 ナギサの唇が震える、アズサの足を掴む指先から力が抜けた。

 視線が左右に散って、その漏れ出る息が荒くなる。

 考えれば考える程、心は罅割れ、精神が揺らぐ。

 違う、違うと自身を奮い立たせる為に否定する声すら、彼女は徐々に発せられなくなっていた。

 

 その様子に気付いたアズサは、一瞬その呼吸を止め、そっと足をナギサの上から退けた。

 抑えを失ったナギサは、勢い良く立ち上がる――事はなく。

 その場で蹲り、自身の頭を抱えながら震えだした。

 宛ら赤子の如く、全身を震わせ、目を見開き、涙を流しながら。

 

「ご――」

 

 桐藤ナギサは――失敗したのだ。

 

「ごめん、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい先生! ごめんなさいミカさん! ごめんなさいセイアさんッ! わ、わた、私は、なん、なんて……なんて、過ちを……! わた、私のせいで、あぁ――あ、あぁあぁッ!」

「………っ」

 

 感情が溢れた。心の堤防が決壊した。

 心が、折れた。

 最後まで彼女自身を守っていた自尊心や狂気、立場や矜持といったものが全て溶け落ち、残ったのは自身の齎した結果を受け入れられず、ただ謝罪と後悔を口にするだけの小さな少女だけだった。

 大切なものは守れず、自身を思い遣ってくれた人物を失い、最後にこれだけはと思った学園すらもう、ナギサの手を離れた。

 彼女には何も残っていなかった。

 その心を支えるものは、本当に、何も。

 

 歯を打ち鳴らし、頭を抱えて震えるティーパーティーのホスト。倒れ伏した先生を凝視し、悲嘆に暮れる彼女を見下ろすアズサは、その表情をマスクの内側で顰め、思わず呟いた。

 

「――見るに堪えない」

 

 そこからは素早かった。

 銃口を彼女の脇腹に向け、引き金を絞る。

 フルオートで放たれた弾丸は嵐の如くナギサの脇腹を叩き、マズルフラッシュがアズサの網膜を焼いた。射撃時間は数秒に満たなかったが、彼女の意識を断ち切るには十分な威力を誇っており――。

 

「ぁ、ぐ――……」

「その、なんだ……ごめん」

 

 弾倉丸々一つ分、それを至近距離で撃ち込まれたナギサの意識は混濁し、撃ち込まれた腹部を手で押さえ、痛みと嘔吐感を堪えながら、喘ぐ様に呼吸を繰り返し必死に先生へと手を伸ばす。

 

「せ、ん――せ……」

 

 目前に見える、先生の顔。

 その頬に指先が触れるより早く――彼女の意識は、闇の中へと沈んだ。

 

 

 ■

 

「……目標の沈黙を確認」

 

 倒れ伏したナギサを確認し、アズサはそう告げた。被っていたガスマスクを脱ぎ、僅かに滲んだ汗を拭う。弾倉を検めれば、中身は空。凡そマガジン一つ分を至近距離で直撃させた。足元には空薬莢が幾つも転がっている。

 ヒフミはアズサとナギサを見比べ、どこか不安そうに声を漏らした。

 

「あ、あぅ……これで良かったんですかね? ちょっと、というか、かなり、やり過ぎじゃあ――」

「ふふっ、良いんですよヒフミちゃん、私達のされた事を考えれば、この位の過激な仕返しは許される筈です、少しくらい、ショックを受けて貰わないと♡」

「……これ、少しのショックで済むのか?」

「大丈夫ですよ、ナギサさんの心臓は毛が生えているというレベルではなく、最早鋼ですから♡」

 

 そう云って朗らかに笑うハナコは、やや不穏な雰囲気を放っている。アズサはナギサと個人的な繋がりを持っていない為、その生徒のメンタルがどの程度頑強なのかを知らないが、先程の取り乱し方はかなり酷かった様に思う。果たして本当に大丈夫なのかという不安が過ったが、笑みを浮かべながら満足げにするハナコを前にすると何も云えなかった。

 

「あっ、せ、先生、もう起き上がっても大丈夫ですよ……?」

 

 ヒフミは先生の傍に駆け寄ると、そっとその肩を揺らす。すると先程まで倒れ伏していた先生は、閉じていた瞼を開き、緩慢な動作で上体を起こした。自身の無事を確かめる様に体を動かし、所々赤く滲んだ制服を見て顔を顰める。

 

「ふぅ……いや、中々にヘヴィだったね」

「先生、身体の方は大丈夫ですか?」

「うん、ちょっと衝撃が走った程度だったし、ペイント弾だからそんなに」

 

 告げ、先生は服の中に手を入れると胴体に巻き付いたハーネスを緩める。すると先生の背中から、するりと薄手の防弾布が抜け落ちた。軽い音を立てて転がったソレは、通常のボディーアーマー等と比べれば非常に軽く、薄く、嵩張らない。しかしその分防御面に限っては9mmを防ぐのが精々であり、それ以上の口径が溢れかえったキヴォトスでは文字通り気休め程度にしかならない代物だった。

 それでもペイント弾程度ならば全く問題にならない防御力なので、今回の作戦に採用された訳である。先生がそっと背中に手を回せば、血に良く似た赤黒い液体が付着する。そして隣で意識を失っているナギサを見ると、不安げな表情を浮かべながら呟いた。

 

「……今更だけれど、これはちょっと、やり過ぎた感じが――」

「ナギサさんは強かですので、問題ありません」

「そう、かな? いや、まぁ、うん……強かというのは同意するけれど、今回のは――」

「先生も一度本気で死にかけたんですから、此方も心臓が飛び出る位のドッキリをしないと、イーブンではありませんよ、先生?」

「うーん……」

 

 目には目を歯には歯を、というのか。

 ハナコは存外根に持つタイプだという事が良く分かる、特に自身の中で定める一線を越えた相手に対しては容赦がない。先生は倒れ伏したナギサの髪を払い、その頬を撫でつけると、大変申し訳なさそうな表情で告げた。

 

「……本当にごめんナギサ、全部終わったら土下座するし、何でもするから、それで許して欲しい」

 

 この騒動が終わった後ならば、幾らでも時間は取れる筈だから。だからどうか今は勘弁して欲しい、そんな感情を込めて頭を下げ、立ち上がる。

 

「アズサちゃん、ナギサさんはどの位気を失っていますか?」

「えっと、近距離で弾倉一つ分当てたから、一時間位は起きないと思う」

「そうですか、分かりました、それでは――先生?」

「……あぁ、始めよう」

 

 色々思う所はあるが、先生は頷き、タブレットを取り出す。

 これは作戦の第一段階に過ぎない、本当の戦いは此処から始まるのだ。

 

「ふふっ♡ ではアズサちゃん、ここからは敵の誘導をお願い出来ますか?」

「了解、これでまだどこかに居る、本当のトリニティの裏切者に嘘の情報が流れる筈――それに、ハナコの仮説が正しければ、アリウスも動き出す」

「えぇ、私の推測通りならば……はっきりした証拠はありません、しかし、個人的にほぼ確信があります――本当の、裏切り者について」

「………」

 

 ハナコの言葉に、先生はそっと瞼を閉じる。

 本当の裏切者――その言葉の、何と虚しい事か。

 自然とタブレットを持つ指先に力が籠り、先生は大きく息を吸い、心を落ち着けた。どちらにせよ対決を避ける事は出来ない。此処まで来たら、やれる事をやるだけだ。

 

「まぁ、ナギサさんの件については全てが終われば誤解は解けますし、今は目の前に集中しましょう」

「……ん、分かった」

「あ、あぅ……ほ、本当に良いのでしょうか……?」

「あ――お、終わったの……?」

 

 そんな事を話していると、扉の向こう側から小柄な影が顔を覗かせた。彼女は愛銃を抱えたまま、恐る恐るセーフハウスの中へと足を踏み入れる。

 

「あ、コハルちゃん……」

「えぇ、完璧な演技でした♡」

「うぅ……本当に大丈夫かな……?」

「……駄目だった時は、精一杯謝るよ、それはもう、全力で」

 

 倒れ伏すナギサを見下ろしたコハルは、先生と同じようにどこか不安気に呟く。本当にここまでやって良かったのだろうかという葛藤が見られるが、しかしやってしまったものは仕方ない。先生としては怒られて当然の事をしたという認識なので、開口一番土下座も辞さない構えである。心の傷が癒えるまでは、トリニティに出張する事も視野に入れている。ついでに今度、うんと高い紅茶を買って行こう。あとは、菓子折りも。

 

「――そうだアズサ、アリウスの兵力については分かるかい?」

「兵力?」

「あぁ、具体的に云うと……そうだな、アズサが単独でどれだけ粘れるかが知りたい」

「あぁ、そういう事か」

 

 先生の問いかけに、アズサはフンスと鼻を鳴らして胸を張る。

 

「見くびってくれるな先生、備えは随分前からしてきた、毎晩周辺にトラップ、塹壕、襲撃スポットを作った、それに先生のサポートもある――ゲリラ戦に持ち込めば、どれ程の相手、兵力だったとしても、絶対に負けはしない」

「ふふっ、頼もしいですね♡」

 

 アズサの返答に、ハナコは満足そうに笑って云った。彼女は自身の愛銃に新しい弾倉を嵌め込み、背嚢を背負い直す。此処からは時間と、そしてタイミングの勝負だった。扉の前まで足を進めたアズサは振り向き、口を開く。

 

「じゃあ、私は行く――また、合流地点で」

「き、気を付けて下さいね、アズサちゃん!」

「無茶はしないようにね!?」

「アズサちゃん、何かあった時は端末に連絡を、直ぐに駆けつけますので」

「うん、ありがとう」

 

 アズサは皆の声に手を挙げ、真剣な表情でセーフハウスを飛び出して行く。皆はその背中を見送り、先生はナギサの傍に屈み込むと、その体を抱き起しながら云った。

 

「……よし、私達も動こう」

「えぇ!」

「う、うん!」

「はいっ!」

 


 

 あ゛ぁ゛~生徒の泣き顔が胸に沁みるぅ゛~。

 選ばれたのは「INSANE」(先生死亡ドッキリ)でした。

 普段澄ました顔をしている生徒が追い詰められて精神が崩れかかった所に「お前のせいだ」と責任を押し付けられ、幾らでも反駁の余地はあるのにその糸口すら掴めず頭を抱えて「ごめんなさい」と口にする様子は心温まるワンシーンですわね……。

 ふぅ~、良い事をした後の後書きはサイコォに気持ち良いですわぁ~! これでナギちゃんも一皮むけて、より成長出来た事でしょう!(良い方向にとは云っていない) あぁ、御礼は結構ですことよ、人として当然の事をしたまでの事ですもの!

 

 それにしても補習授業部がナギサ確保に間に合わず、アリウスに射殺されたナギサ世界線を望む先生が一番多いってマジですの? 生徒を助ける事が出来ず、唯々呆然と立ち尽くし自己嫌悪と罪悪感と喪失感に打ちのめされる先生と、セイアに続いてナギサ射殺の報告を聞き、何度も何度もその報告を聞き返して、全てが遅かったのだと理解して、引き攣った笑みを浮かべながら座り込んで、「――……そっかぁ」って今にも擦り切れそうな声を零し、それでも為してしまった現実を前にして立ち止まる事は尚許されず、また一つ大きな罪悪を背負いながらも破滅への道を歩む覚悟をより強固にして先生と対峙するミカ、そして苦悶の表情を浮かべながら必死に手を伸ばすも届かない先生のバッドエンドが見たいとかちょっと正気を疑いますわね。何でそんな事しますの? 良心とか思い遣る心とか、お持ちではない? 何て方々なのかしら? わたくしにはそんな真似、可哀そうでとてもとても……。人としての道を踏み外してはいけません事よ? 

 

 ぶっちゃけ「先生が間に合わなかったルート」を考えると、ベアおばがクロコの漏らした未来知識をどこまで知っているかによりますわね~。ミカの事を認識しているのなら、彼女をこのまま地獄に突き落とす事を考えるとナギサ殺害がターニングポイントになっているので、是が非でも殺そうとするでしょうし。

 因みにナギサが死ぬと、先生は生徒を失った事により心が大きく罅割れ、ミカに至っては浄化されかけていた心情が一気に汚染されてしまいます。原作ではハナコにセイアの件について触れられ、その振り上げた拳を降ろしましたが、ナギサが死亡している場合は、「なら、ナギちゃんは何の為に死んだの?」となり、その死に殉じる為に止まる事はありません。文字通り、自分のヘイローが破壊されるまで暴れ倒します。まぁ殆どの場合は気絶で済むでしょうが、何ならこの場合、先生がヘイローに直接介入する事も厭いません。下手をするとナギサに続いてミカまで死んでしまう可能性がある訳ですから、個人的な信条は投げ捨ててくれます。

 

 最悪のルートは先生の目の前で暴れ倒すミカのヘイローが破壊されてしまう場合です。先生が危険だからとか、何らかの理由でミカのヘイローが破壊されてしまったら、先生は凄まじい顔を浮かべるでしょう。それはたった一夜にして生徒を二人失ってしまったという事実、そして自身の手の届く範囲でソレが起こってしまった事、自身が選択を誤ったのだという強烈な自己嫌悪が限りなく先生の精神を蝕みます。それでも勿論、先生が折れたり、立ち止まったり、ましてや自決するような事はありません。しかし、これからの物語の中で昏く、深い影を先生の中に落とす事は確実です。

 因みにこのルートに突入したら、ゲマおばはエラい目に遭います。そりゃあ、生徒を二人も殺害している訳ですから、「黙れ」程度では済みませんよ。マジで漆黒の意思を抱えた先生がエラい形相でアリウスに乗り込んできます。

 

 というかこのルートで一番良い顔をするのは先生なんですわよね……。私は生徒の泣き顔を見て胸をポカポカさせたいのに、涙を零してくれそうな子がミカしかいないのですわ。ナギサとミカの死という壁を前に必死に足掻き、涙を流し、慟哭し、それでも尚前に進もうとする先生の姿はとても素晴らしいのですが、それはそれとして私は先生の手足を捥いで泣き喚く生徒を見てニッコリしたいのですわ。生徒を失う話は、プレナパテス先生の為に取っておきますの……うぅ、プレナパテス先生かわいそう……元気出して?

 

 でもナギサが死んでしまった事を知ったミカは、割と本気で自分が死ぬまで戦いそうで怖いですわ~。ある意味、ここで自身が死ぬことによって漸く止まれる、そして止めてくれる人物は先生を置いて他に居ないと、そう信頼しているが故の行動だと考えると、皮肉ですわねぇ~。

 ある種、キヴォトス動乱で生徒に介錯を頼んだ時の先生と同じ状況ですもの。信頼し、想いを寄せている相手を殺さなくてはいけない、その時の感情を味わう事になる先生はきっと、とても素敵なお顔をしていらっしゃいますわ~! 先生に肉薄して、然も今から先生を害すような素振りを見せて、けれど引き金を引くつもりなんて欠片も無くて、先生を守る為に放たれた無数の弾丸の中で微笑み、ごめんね、先生、なんて云って目の前で死なれたら先生の心がズタボロになるでホンマ。一生忘れられない思い出……ってコト!? でもまぁ本編のミカにはミカ(未来)も付いているので、本当の本当にやばくなったら切り替わって逃走するから安心してね。

 生徒に酷い事をするなんて、そんな、非人道的なこと……私にはッ、て゛き゛な゛い゛ッ!

 多分その内IFでナギサがズタボロルートを書きますわ~! うぅ、でも可哀そうだから先生代わりにズタボロにするね……?

 

 しっかしナギちゃんこの件で人間(生徒)不信が加速するのでは? そしたら先生が精一杯甘やかして、ドロドロに依存させて、それからまた目の前で死んであげましょうね~。生徒の泣き顔を、次の泣き顔に繋げるのですわ~! 一回嘘でも目の前で死んでしまったから、ナギサは嫌でも意識してしまうのですわ~! あぁ~、先生の傷に過剰に反応してしまうナギサ様概念~~~~。あっ、因みにヒフナギ派の方はご安心下さって! 今回の件でナギサ様のヒフミに対する好感度が大きく下がる事はございませんの! 絆ランク「97」が「95」になった程度ですわ~! でも真実を知った後にナギサはハナコに強烈な苦手意識を抱きますわ~~! まぁこんな事やらかしたらね、主犯に対して色々思っちゃうよね。まぁ元々そんなに仲が良い訳でもないし……ヨシ! ヨシじゃないが? 先生からすると皆仲良くして欲しいのだが? でもナギサの泣き顔を見る為には犠牲が必要なんですわよぉ!! ハナコは先生の秘密を知ってしまった為に過激になってしまったんだ……でもその為に先生射殺するドッキリする必要ある? これはね、ナギサの試験会場爆破は場合によってこんな結末になったんだぞというハナコなりの遠回しな抗議なんですわよ。嘘ですわよ。私が単に見たかっただけですわよ。

 



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落葉

誤字脱字報告にかんしゃ~↑


 

「クリア――周辺一帯の制圧完了」

「……嫌に静かだ」

 

 廊下を進むアリウスの部隊、彼女達は最低限の警備で固められている筈のセーフハウスへと足を踏み入れていた。最低限の光源、そして人気のない室内。廊下を巡回している筈の正義実現委員会の姿すらなく、彼女達は困惑を隠せずにいる。そして二階、三階へと上がり、最上階の屋根裏部屋、そこへと続く扉を前にして、彼女達は互いにサインを送り頷き合う。

 予め入手していたセーフハウスの解除キー、ティーパーティーのメンバーのみ支給されるそれをカードリーダーに翳せば、重々しい扉から硬質的な音が響き、ロックが解除された。空かさず、傍に立った生徒が扉を開け放ち、アリウスの生徒達は雪崩れ込む様にして室内に踏み込む。銃を構えたまま、室内をなぞる様にして移動する彼女達は――しかし、目標の姿を捉える事が出来なかった。

 大きさはちょっとした民家のリビング程度、室内にはティーテーブルとアンティーク家具が複数。棚には食糧やら紅茶の茶葉やらが瓶詰で保管されている。それらを視界に収めながら、彼女達は口を開いた。

 

「セーフハウス、クリア……しかし、これは」

「……蛻の空です」

「先客があったか」

「恐らく」

 

 部屋を隅から隅まで観察するアリウスの生徒達は、自分達が出し抜かれたのだと勘付いた。生徒の一人が這い蹲り、棚の下に手を伸ばす。すると、その僅かな隙間から空薬莢を拾い上げた。摘まんだそれを観察した生徒の一人は、拳の中にそれを握り込み、呟く。

 

「まさか……あの情報が本当だったとはな」

 

 声には、僅かな落胆が混じっていた。

 立ち上がり、空薬莢を傍の生徒に手渡した彼女は、指先で扉を指し示しながら告げる。

 

「――プランを切り替える、周辺の探索に移れ」

「了解」

「合流予定のスパイは?」

「それが、未だ連絡が――」

 

 そう、副官ポジションの生徒が呟けば、不意に耳元のインカムから声が響いた。

 

『こちらチームⅣ、襲撃を受けた……っ!』

「……ほう」

 

 襲撃、その言葉に生徒達の空気がひりつく。中央に立った生徒はインカムに指を添え、応答する。

 

「こちらチームⅠ、襲撃とはどういう事だ、正義実現委員会ならば――」

『違う、スパイだッ! スパイが裏切ったッ! クソ、ぐあァッ!?』

 

 悲鳴と共に、インカムの向こう側から爆発音が響いた。そして凄まじいノイズと、硬質的な音。爆発でインカムが吹き飛ばされたか、破損したのか。セーフハウスの此処からでは確認できないが、少なくともチームⅣが大きな損害を被ったのは確かだった。

 

「た、隊長……」

「――裏切り、か」

 

 呟き、拳を握り締める。

 隊長と呼ばれた生徒、その眼光が鋭く絞られた。

 

『うん、そう』

 

 インカムから、先程とは異なる声が響いた。それが襲撃犯であると、彼女はとっさに理解する。スパイと呼ばれた彼女――白洲アズサは、チームⅣのリーダーを戦闘不能にし、その通信手段を奪取したのだ。

 

「……何故、裏切った」

『早く終わらせて、試験を受けなきゃいけないから』

「………」

『正義実現委員会には既に報告が向かっている、逃げるなら今の内だ』

 

 その言葉を聞き届け、隊長と呼ばれた生徒はチームⅣからの通信を遮断する。そして全体通信に切り替えると、残りのチームに向けて通達した。

 

「……全体通達、無線周波数(チャンネル)を予め通知していた二番に変更しろ、以前のものは敵に傍受される、以後一番の無線周波数を封鎖する、以上」

 

 返答は無かった、しかしそれで良い。予め決めていた番号を打ち込み、インカムを予備の二番チャンネルへと接続する。ワンタッチやボタン一つで切り替えられるような杜撰な状態にはしていない。

 先の会話を聞いていた副官は、どこか不安げな気配を漂わせ呟く。

 

「正義実現委員会が動くと、確かに今――」

「いや、ブラフだ、正義実現委員会は動かない……彼奴がしくじっていない限りはな」

 

 銃を抱え直し、彼女は答える。もし正義実現委員会が動くのならば、事前に通達がある筈だった。そしてそれがない以上、彼女の言葉は時間稼ぎか、単なるブラフに過ぎない。

 

「……行くぞ、任務を果たす」

「了解」

 

 隊長に続き、アリウスの生徒達はセーフハウスを後にする。先頭を行く彼女は二番チャンネルで幾つかの部隊に指示を出した後、ポケットの中に仕舞い込んでいた端末を取り出し、通話ボタンを押し込んだ。数コールの後、電話口の向こう側から気だるげな声が響く。

 

『――なに?』

「状況が変わった」

『……どうすれば良いの』

「私が単独で動く、任務達成後全員の待機を解いてバックアップに回れ、ただし目標物の複製が最優先、万が一の場合は姫だけでも逃がせ」

『わかった』

 

 告げ、一方的に通話を切る。通話相手はこの作戦にて単独行動を行い、支援も約束されていない特殊作戦班。それ故に他部隊との連絡手段は限られ、インカムも装備していない。その為、個人的な端末を持ち出した訳だが――通話の内容を聞いていた副官は、恐る恐る口を開く。

 

「……隊長」

「――『スクワッド』と合流する、以降、チームⅠの指揮は貴様が執れ」

「りょ、了解」

 

 告げ、隊長と呼ばれた生徒からインカムを受け取る。彼女は二度、三度、鼓舞するように副官の肩を叩くと、真剣な眼差しで以て告げた。

 

「アリウスから増援が来る、最悪、トリニティとの全面抗争も想定しろ――その前に、ターゲットは何としても確保するんだ」

「はっ!」

 

 達成するべき事は変わらない。それを再確認し、チームⅠはセーフハウスを飛び出し闇夜に紛れる。その背中を見送り、彼女――サオリは頭上に浮かぶ星々を仰いだ。

 月は、薄らと雲に身を隠し続ける。

 

「何故足掻く――白洲アズサ」

 

 ■

 

「ターゲットはこの合宿所の中に逃げ込んだとの報告が――」

「良し」

 

 暗闇の中、アリウス部隊は補習授業部が詰めている筈の合宿所へと足を進めていた。

 ターゲットである桐藤ナギサのロスト、これに補習授業部が関わっているという事は確かな情報であった。同時に、先程までアリウスの部隊を単独で攻撃していた白洲アズサ――彼女がこの合宿所に逃げ込んだとの報告がある。何を狙っているのかは分からない、しかし放置する事も出来ない。ナギサ捜索班とは別に、白洲アズサを無力化、拘束する為の部隊を動員させる。

 

「侵入経路は正面玄関と、食堂の勝手口のみ……内、勝手口の方は溶接され、バリケードも積まれている様です」

「窓は?」

「既にシャッターが降りています、合宿所の防衛システムが作動したのかと」

「絞られたか――バリケードの突破に時間はどれ程掛かる?」

「爆破許可があれば一分、爆薬を用いない突破であれば三分」

「……手で抉じ開けろ、爆薬の使用許可は出さない」

「了解」

 

 部隊が別れ、駆けていく。間違いなく何らかの策は講じられている事だろう。しかし、数も装備も此方が上。スパイの装備は酷く限定的で、弾薬すら限られた状況にある。

 たった一人で、何が出来るというのか。

 

『こちらチームⅢ、チームⅤと合流完了、食堂の勝手口にてバリケード撤去作業に入る、作業完了予定時刻は三分後』

「了解――先に此方から攻勢を仕掛け、注意を引く、可能な限り急げ、アウト」

 

 告げ、隊長はハンドサインを出し、玄関前に待機していた生徒がそっと扉に手を掛ける。予め用意していたマスターキーを翳すと、電子音と共に玄関の鍵が開錠された。現状、トリニティに於いてアリウスに開錠できない扉は存在しない。

 そして先頭の生徒が扉を僅かに押し開け、中を覗き込み――。

 

「――だと思った」

 

 ピン、と何かを引っ張る感覚があった。

 扉を押し開けた生徒が見たのは、薄らと闇の中で光る一本のワイヤー。そしてそれが何を意味するかを理解するより早く、爆発が巻き起こり、爆炎と衝撃に呑まれながら扉ごと吹き飛ぶ。扉を開けた生徒、そして階段下で突入を待機していたもう一名が宙を舞い、地面に叩きつけられる。爆風と爆炎に肌を舐められながら、隊長は叫ぶ。

 

「ッ……な、何だ!?」

「爆破トラップ――!」

 

 重々しい音を立てて転がる扉、立ち上る噴煙。それを見据えながらロビーの柱に身を隠すアズサは、愛銃の安全装置を弾く。

 

「入り口が限られている上、元は隠密行動……壁を爆破する量の爆薬何て携行していない、なら入り口から馬鹿正直に攻めるしかない筈、違う?」

「ちっ……!」

 

 呟き、アズサは柱から身を乗り出し射撃を敢行する。爆発に気を取られ、遮蔽に身を隠すことも無く混乱するアリウス生徒の顔面を弾く。一名、二名が崩れ落ち、意識を飛ばす。しかし其処は幼少期より訓練されたアリウス生徒、銃声が聞こえた瞬間素早く姿勢を立て直し、各々が射線から身を隠す。そしてアズサの弾切れのタイミングを狙って応射を開始、しかしその頃には既に影もなく、アズサは廊下へと身を翻し合宿所の奥へと撤退を開始していた。

 隊長はその姿を険しい表情で見送り、叫ぶ。

 

「……被害報告!」

「チームⅠ、負傷者四名……! 爆発で二名、射撃で二名、やられました!」

「負傷者を下がらせろ、動ける者は続け、彼奴を追う」

 

 負傷者四名、小隊は一チーム十名で行動する為、チームの約半数が行動不能になった事になる。後続の部隊がまだいるとは云え、人員も無限ではない。そんな事を考えていると、遠くで爆発音が鳴り響いた。音は合宿所の裏手からで、思わずインカムに向かって叫ぶ。

 

「チームⅢ、チームⅤ、どうした!?」

『チームⅢ、バリケード撤去中にクレイモアが起爆、負傷者三名……っ!』

『チームⅤ、同じく三名負傷……何だこれは、ビニール袋――いや、IED(即席爆発装置)――……』

 

 更に、重ねて爆発音。今度は、先程よりも二段も、三段も大きな爆発だった。思わず顔を顰め、立ち昇る噴煙を見上げる。インカムからはノイズが走り、それ以降何も耳にする事はなかった。隣に立っていた生徒がおずおずと告げる。

 

「チームⅤ、連絡途絶……チームⅢも、恐らく全滅です」

「たった一人に、このザマか……!」

 

 インカムから指を離し、吐き捨てる。恐らくバリケードに見せかけた雑多な配置の中に、地雷の如く爆発物を紛れ込ませていたのだろう。敵がバリケードを破壊、乃至爆発物に気付いた時点で連鎖的に起爆させる。

 明らかな自身の判断ミスだ、爆薬でバリケード諸共吹き飛ばしていれば被害は少なく済んだかもしれない。爆薬の使用を躊躇い、温存しようとした事が裏目に出た。

 しかし、もしもの話をしても仕方がない。今ある戦力、そして策で戦うしかないのだ。

 

「これは、帰還したら大目玉だな」

「いえ、しかし相手は元スク――」

「関係ない、今は裏切り者だ」

 

 断じ、立ち上がる。

 自身の失態は、自身で拭わなければならない。

 たとえそれが無意味な事であったとしても。

 

「前進する、後衛チームを呼び戻せ、所詮はひとり、数はこちらが上だ、このまま圧し潰す」

「……了解」

 

 ■

 

 アズサは合宿所の奥、廊下の角で身を屈めてじっと待っていた。

 廊下の奥から足音が響く、そしてその反響音に耳を澄ませ、廊下に寝そべる様にして身を乗り出すと、じっとその姿が現れるのを待ち続ける。アリウス生徒は廊下の曲がり角に来ると、壁に背を預け、頭だけを覗かせた。

 瞬間、その頭部をアズサの銃撃が捉える。廊下に銃声が鳴り響いた。

 すぐ横で廊下を覗き込んだ生徒が頭を弾かれ、地面に転がる。それを見た後続の生徒達は一斉に廊下へと飛び出し、射撃を敢行。それを読んでいたアズサは、即座に顔を引っ込め壁に身を預ける。壁に幾つもの弾痕が刻まれ、くぐもった銃声が間近で木霊した。そんな中でもアズサは冷静に、愛銃の弾倉を目視し残弾を確認する。背嚢に手を這わせ、残りの弾倉を逐一確認しながら銃声が止むのをじっと待つ。視界に弾数や弾倉の残りが表示されていても、腕が勝手に動く。殆ど、習慣の様なものだった。

 

 暫くすると銃声が止み、アリウスの生徒達が前進を再開した。それをアズサは、先生のサポートにより壁越しに確認。二度、三度、息を吐き出すと、懐からスタングレネードを取り出す。レバーを握り締め、安全ピンを引き抜き、レバーを固定したまま時を待つ。視界に表示されるレバーロックの文字、起爆時間まで表示される事の、何と便利な事か。そしてアリウスの生徒達が廊下の半ばに達した瞬間、腕だけを露出させ、床を滑らせるようにしてスタングレネードを投擲した。

 

「ッ、グレネ――」

 

 暗闇の中、何かが投擲された事に気付いた生徒が叫ぶ。しかし、それが届くよりも早く、スタングレネードは炸裂した。強烈な閃光、そして臓物を揺さぶる様な爆音。室内で反響したそれはアリウスの生徒達の足をその場に縫い付け、ぐらりと意識が一瞬遠のいた。甲高い音が耳で鳴り響き、視界が揺れる。

 アズサは顔を背けて耳を塞ぎ、爆発に備えていた為、即座に動く事が出来た。顔を覗かせ、銃を構えたアズサは、足を止め耳を塞ぎながらよろめくアリウスの生徒達を目視する。銃を構える事も、逃げる事も出来ない彼女達に、アズサは淡々とした様子で引き金を絞った。

 マズルフラッシュ、そして銃声。

 数人の生徒が頭部を弾かれ、前側の生徒は足を狙われた。何発もの弾丸が薙ぎ払う様にアリウス生徒の足を捉え、銃声と悲鳴が廊下に木霊する。

 

「……これで、残りは二十人」

 

 弾倉を丸々一つ撃ち切ったアズサは素早く起き上がり、逃走を再開する。何とかスタングレネードの衝撃から持ち直したアリウスは、逃走するアズサに銃口を向け、射撃。しかし放たれる弾丸は曲がり角の壁に着弾し、表面を削り取るのみ。

 部隊の中程に居た隊長は倒れ伏し、呻き声を上げる隊員を見下ろしながら叫んだ。

 

「っ、ちょこまかと……被害報告!」

「ろ、六名負傷!」

「後続の部隊に回収させる、動ける者は追撃を続行!」

 

 告げ、前方を指差し廊下を駆ける隊長。逃走しながらトラップや待ち伏せを駆使し、此方を的確に削って来る白洲アズサ。成程、確かにあの部隊出身なだけはある。彼女は、そんな事を考えた。

 単独でありながら小規模な戦闘を繰り返し、僅かな物資、劣勢であっても一定の戦果を挙げる。ゲリラ戦の名手、正に、あの女の教えを受け継いでいるではないか。

 

 しかし、それでも尚、抗う事の出来ない戦力差がある。如何に彼奴が優秀な兵士であっても、限界は存在する。既に後続部隊は合流し、増援も確約されている。そして合宿所の地図は既に入手しており、この先には大広間と、体育館しかない事を彼女は知っていた。

 自ら袋小路に駆け込んでいるのか、或いはまだ策があるのか。

 どちらにせよ、諸共食い破る道しかアリウスにはない。そう考え、廊下を走破した彼女達の前に――堂々と姿を晒すアズサが現れた。

 

「っ、何……?」

 

 思わず立ち止まり、困惑を見せる隊長。彼女に続き踏み込んだ他の生徒も、唐突なそれに困惑し足を止める。銃を構えながらも、隊長は視線を左右に散し、警戒を見せる。そんな彼女に応じるが如く、大広間の影から姿を現す人物がひとり。

 

「――成程、大分減りましたね、流石はアズサちゃん、お疲れさまでした」

「うん、それなりに頑張った」

 

 柱の影から姿を現したのは――補習授業部、浦和ハナコ。

 不敵な笑みを浮かべながら現れた彼女は、銃を構える事もなくアリウスの姿を視線でなぞり、吐息を零す。

 

「残りは二十人、と云った所でしょうか?」

「あぁ、他の小隊は全滅させた、後はこの部隊だけだ」

「想定よりもずっと少ない、これ位ならば対処は可能でしょう」

「……おい」

 

 隊長は軽口を叩き合う二人を前に踏み出し、声を上げる。

 

「スパイ、ターゲットは何処に匿った?」

「ターゲット……桐藤ナギサの事か、云うと思う?」

「早いか遅いかの違いに過ぎない、既にこの建物は包囲されている――全ては無意味だ、増員の到着も、間もなくだろう」

「増員……?」

「あぁ」

 

 その言葉に、アズサの視線が険しさを帯びた。

 

「――『スクワッド』か」

「……言葉を返すが、云うと思うか?」

 

 告げ、隊長は引き金に指を掛ける。

 

「口を割らないのならば、割れる様にするまでだ――射撃開始!」

「っ……!」

 

 その合図と共に、二人目掛けて一斉にマズルフラッシュが瞬く。銃声と跳弾音、二人は弾かれた様に身を翻し、物陰に身を隠す。そして牽制程度の応射を交えながら、奥へ奥へと撤退して行った。柱に身を隠し乍らその背中を見た隊長は、腕を二度、三度前方へ傾けながら口を開く。

 

「最後の悪あがきだ、この先は体育館しかない――そこで仕留めるぞ」

「了解」

 

 敵がひとりからふたりに増えた――ただ、それだけの事。

 浦和ハナコ、大まかなデータは既に掴んでいる。大層な経歴を持ってはいるが、ティーパーティーでもなければどこの所属という訳でもない。所詮はお勉強だけのトリニティ生、相手に白洲アズサが組していようと問題など無い。

 そう信じ、体育館へと踏み込むアリウス。一歩、二歩進み、暗闇に照らされたその足元が、青で覆われている事に気付く。

 

「――? ブルーシート……?」

 

 がさりと、音が鳴った。見下ろせば床一面に広がるブルーシート。しかし、それに疑問を抱くよりも早く、視線を奪うものがあった。

 正面、体育館中央――そこで待ち受ける、補習授業部。

 

「……っ!?」

「やぁ――夜分遅くに、随分と物騒だね?」

 

 体育館は、千人以上の生徒を収納出来るだけのスペースがある。その真ん中で、月明かりに照らされながら佇む異様な雰囲気の大人。真新しい白い制服を身に纏い、アリウスを直視する存在。そんな彼を挟むようにして待ち受ける、四人の生徒。

 白洲アズサ、浦和ハナコ、阿慈谷ヒフミ、下江コハル――そして、シャーレの先生。

 アリウスと補習授業部、その視線が交差する。知らず知らずのうちに、隊長は銃のグリップを強く握り締めていた。

 

「シャーレの、先生」

「あぁ、初めまして、かな」

「――成程、逃走ではなく、待ち伏せか」

 

 呟き、隊長は耳元のインカムを叩く。視線を体育館に散らせば、ボールボックスに跳び箱、ゴールネットなど、体育用品に鉄板が貼り付けられ、即席の弾避け障害物として配置されていた。

 最初から、彼女達は此処でアリウスを迎撃するつもりであったのだ。

 その用意周到さに顔を顰めながらも、彼女はそっとインカムに向かって告げる。

 

「……シャーレの先生(ターゲット)を発見、座標を送る」

『――了解』

 

 素早く端末をポケットの中で操作し、必要な情報を送信。後はハンドサインで部隊を散し、補習授業部の前に広く展開する。第一陣として此処に突入できた人員は二十人、対し相手は戦力外の先生を除き四人。これが単なる不良集団であれば対処も出来たであろう、しかしアリウスは幼少より訓練を積まされた兵士である。アズサの様な才ある者と比較すれば、一歩も二歩も劣るが、そこらの生徒には負けないだけの地力と経験がある。

 

「たった四人で挑むつもりか、先生、我々アリウスに」

「……君がどこまで知っているかは分からないけれど――逆に云わせて貰おう」

 

 隊長の言葉に、先生は顔色一つ変えず徐にタブレットを叩く。

 瞬間、青白い光と共にアズサ以外の補習授業部、そのヘイローが輝きを放った。暗闇の中で放たれたそれは眩く、アリウスは思わず目を細める。

 その青い光の中で、先生は胸を張り、真っ直ぐアリウスを見据えたまま――告げる。

 

「――その程度で私に勝てるつもりか、アリウス(マダム)

「……ッ!?」

 

 それは、絶対なる自負。

 自分達が負ける筈がないという自信、確信。それが自身の指揮や能力に対するものではなく、左右に並んだ生徒達に対する信頼であると、彼女は悟った。そして、補習授業部の生徒達もまた、同じ分だけ、同じ量の信頼と自信を先生に向けている。

 

 先生と一緒なら、勝てる。

 生徒と一緒なら、勝てる。

 

 互いの信頼が目に見える形で繋がり、放たれる重圧が、十倍にも、二十倍にも増して感じられた。

 先生のそれは、アリウスの生徒に対して放たれたものではない。その奥に居る黒幕――アビドスにて対峙した、あの紅き婦人に対してのものだ。しかし、その余波でもアリウスの士気を挫くには十分な代物だった。

 向けられる眼光に、強い圧力。けれどアリウスの生徒達はそれに怯みはすれど、退く事はない。寧ろ腹を決め、強く睨み返す。

 何故ならば――彼女達にとって、命令は絶対だから。そこに自身の意思は存在しない、上から「やれ」と云われてしまえば、やるしかない。勝てるかどうかなど二の次だ。

 アリウスに、「やれなかった」は存在しても、「やらなかった」は存在しないのだから。

 

「せ、先生、いつでもいけます!」

「うん、お前たちはもう、逃げられない」

「ふふっ、仕上げといきましょうか♡」

「え、エリートの力、見せてやるんだからっ!」

 

 意気込み、愛銃を構えながら告げる補習授業部の面々。

 先生は頷き、タブレットを抱えたまま口を開いた。

 

「ヒフミッ!」

「……はいっ!」

 

 名を呼ばれたヒフミは拳を突き上げ、左右に並ぶ仲間達を一瞥する。

 アズサはいつも通り、飄々とした態度で頷き。

 ハナコは笑みを浮かべながら、信頼を込めて頷き。

 コハルは不安に顔を顰めながらも、勇気を持って頷いた。

 そんな彼女達の態度に、ヒフミもまた、強い意思を込めて頷く。

 突き上げた拳を見上げ、ヒフミは腹の底から、全力を振り絞って叫んだ。

 

「――補習授業部、出撃ですッ!」

「おーッ!」

 

 夜空に響く、補習授業部の声。

 此処に、トリニティと、仲間を守る為の戦いが始まった。

 


 

 トリニティ防衛戦、開幕。

 ず~っと平和な補習授業部の話を書いていたから、何だか懐かしいこの感覚、アビドスの頃は良く二、三話で戦闘が挟まっていましたわ~、懐かしいですわ~。そして刻一刻と先生の見せ場が迫っておりますの、まじで楽しみ過ぎてキーを叩く指が止まりませんわ。早く、早く書きたい、魅せてくれ、先生のその、一瞬の輝きを……!

 んほ~、先生の格好良いところ見たいですわ~ッ! 血塗れで信念を貫く大人は素敵ですわ~ッ! 最高ですわ~ッ! 皆ッ、先生がサイッコーに輝く瞬間を見ていてくれッ……! 人間の、命の輝きを……ッ!

 

 しかし皆さんナギサさんの事好きですわね~、因みに彼女にはまだまだ困難が待ち受けていますし、ぶっちゃけ此処からがスタートラインみたいな所があるので……まぁ、なんですの、がんば! 

 うぅ、ナギサ……先生にデロデロに甘やかされて好意を示されて信頼を寄せ始めて最終的に依存してから先生がミサイルでぶちころがされる所中継でみてて……。普段中々泣きそうにない子が泣くからこそ、希少価値が高まるんでしてよぉ~!? 

 

 それにしてもブルアカのメンテが長いですわ~。

 ブルアカのデイリーやってから小説投稿しようと思っていたのに、こんな時間に投稿出来てしまいましたわ~。はやくガチャひきたーい。カヨコぉ~、カヨコォッ、カヨコォォオオッ! 待っていてね、エデン条約編後編ではちゃんと便利屋も出してあげるからね。だから傍で先生が血だまりに沈むとこちゃんとみてて……。

 



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君は無邪気な夜の――。

誤字脱字報告!? エッチなので死刑だそうです。
今回14,000字ですわ。


 

 戦闘時間は、ほんの五分に満たない程であった。立ち上る硝煙、地面に散らばる空薬莢、刻まれた弾痕。ほんの数分前にあった筈の体育館は様変わりし、今は火薬の匂いが鼻を突く。

 最後に立っていたアリウス――その生徒が倒れ伏す。

 鉄板を貼り付けたボール入れに身を隠していたヒフミは、愛銃を抱えながらそっと顔を覗かせ、呟いた。

 

「か、勝った……?」

「――うん、全員戦闘不能」

 

 最後の一発を撃ち込んだアズサは、油断なく倒れ伏した生徒に銃口を向けながら頷いて見せた。体育館入り口付近に倒れ伏す、二十名のアリウス生徒。反し、補習授業部の損害はゼロ。その結果に、皆は喜色を滲ませる。

 

「わ、私達、生き残ったの……?」

「えぇ、私達の勝利です♡」

「あうぅ……先生の指揮があって、本当に助かりました」

 

 銃口を降ろし、安堵の息を吐き出すヒフミは、そう呟く。コハルもずり落ちそうになっていた帽子を慌てて被り直し、挙動不審気味に倒れ伏したアリウスの生徒を眺めていた。安堵よりも、未だ不安が勝っている様子。

 ハナコは荒れた体育館の様子をつぶさに観察しながら、真剣な面持ちで告げた。

 

「では次のフェイズです、正義実現委員会が到着するまで、それまで時間を稼げば――」

「あ、ハスミ先輩には連絡しておいた! 直ぐ返事が来る筈!」

「はい、ありがとうございます――ティーパーティーの命令下にある正義実現委員会が動けるとしたら、それはティーパーティーの身辺に問題が生じた時だけ……今頃ハスミさん達は、ナギサさんに何かがあったと気付いた筈です」

 

 そう云って、ハナコは体育館の天窓から空を見上げる。コハルからの緊急救助要請、そしてこれだけの騒ぎだ、正義実現委員会が気付かない筈がない。予めナギサを襲撃し、アリウスから身を隠すと同時、正義実現委員会に異常事態を悟らせる。

 これが、今回ハナコの思い描いた計画である。

 

「ナギサさんの失踪、及びコハルちゃんからの連絡――少なくとも、状況確認には動き出す筈ですから、そう時間は掛からずに……」

 

 故に、後は此処で籠城し持久戦に持ち込めば良い。正義実現委員会が動き出すまで、或いはトリニティ全体が異常を察するまで。

 ハナコがそう告げ、皆を見渡した瞬間――体育館横合いの壁が、唐突に吹き飛んだ。

 

「っ!?」

「先生ッ――!」

 

 爆炎と粉塵が皆の頬を擦り抜け、傍に立っていたヒフミが咄嗟に先生を庇い蹲る。コハルやアズサも爆発によって体育館の床に転がり、唐突なソレに浮足立っていた。

 爆発によって体育館の壁に大穴が空き、砂塵と噴煙が漂う。そして、それらを切り裂くようにして、アリウス生徒達が体育館内部へと雪崩れ込んで来た。

 

「っ、これは、増援部隊……!?」

「え、えっ!? あ、アズサ、壁、壁を抜かれたよッ!?」

「馬鹿な、工作部隊まで出ているのか……? 元々の作戦は――」

 

 アズサがそう呟きを漏らすより早く、アリウス生徒は補習授業の前に立ちはだかる。先程の二十人など目ではない、何人も、何人も、何人も……それこそ、数え切れない程の生徒が体育館に侵入していた。それを前にして、補習授業部の表情は強張る。

 

「っ、これは、数が多い、大隊規模だ、多分、アリウスの半数近くが……!」

「こ、こんなに沢山の方が、平然とトリニティの敷地内に……!?」

「ありえません、これだけの爆発、銃声が響いているのに、正義実現委員会は一体何をして――」

「――いや」

 

 タブレットを抱えたまま、先生は呟く。

 視線はアリウスの生徒達を捉えている様に見えた。

 けれど、その意識はその奥――夜に潜む彼女を観ている。

 

「最初から、正義実現委員会は動かない……いや、動けない」

「……先生?」

 

 先生のその言葉に、ハナコは目を見開く。その問いかけに応える事なく、彼は背筋を正し――奥に向かって声を響かせた。

 

「――そういう筋書きだよね、ミカ?」

 

 朦々と立ち上る砂塵。

 それを掻き分け、現れる人影が一つ。

 彼女は白い制服を靡かせ、いつも通り、どこか浮ついた空気を纏いながら口を開いた。

 

「――あ~あ、やっぱり……気付いていたんだね、先生?」

 

 告げ、補習授業部の前に姿を現した生徒。

 彼女の名前は――聖園ミカ。

 ティーパーティー、パテル分派首長。

 破壊された壁から差し込む月明かりに照らされた彼女は、神秘的で、優雅で、正に絵画の如く。けれど、その纏う雰囲気だけは場にそぐわぬ代物だった。

 

「やっ、久しぶり先生! また逢えて嬉しいなぁ……って云っても、二週間位? あはは、久し振りって程でもないかな? でも、ずっと逢いたいな~って思っていたからさ!」

「……ミカ」

 

 朗らかに笑いながら、そう宣う彼女。先生の視線が、ゆらゆらと揺れる彼女の指に向けられる。

 ――その左手に、銀の指輪はなかった。

 

「えっとね~、先生の云う通り、正義実現委員会は動かないよ、私が改めて待機命令を出しておいたから、今日は学園が静かだったでしょう? 正義実現委員会以外にも、邪魔になりそうなものは事前に全部片づけておいたんだぁ」

「ミカさん……!」

 

 ハナコの表情が、ぐっと歪む。

 彼女の考えていた黒幕の可能性が高い人物、それが彼女だった。

 ナギサのセーフハウスをアリウスが把握していた事、そしてティーパーティーとその選別護衛のみが開錠可能な扉を開けられるマスターキーの入手先。白洲アズサを受け入れた、彼女の動機。疑うべき点は多々あった。

 そしてその予想が現実となった今、そこに、的中した喜びはない。

 

「ティーパーティーの届く限り全てのところに、色んな理由をつけて……ね? だから幾ら待っても無駄だよ? 正義実現委員会が此処に辿り着く事はないし、他の生徒が気付く事はない、此処には正真正銘――私達(アリウス)あなた達(補習授業部)だけ」

「そ、そんな……!」

「て、ティーパーティーの……!?」

「ふふっ、そう、黒幕登場☆ってところかな?」

 

 両手を広げ、月光を浴びながらミカは嘲笑う。

 

「私が本当の、トリニティの裏切者だよ」

 

 ■

 

「――という訳で、ナギちゃんを何処に隠したか教えてくれるかな? 私も、時間が無くってさ~」

 

 周囲をアリウスに囲まれた状態で、補習授業部は固唾を呑んだ。

 何処までも飄々と、いつも通りに振る舞うミカ。その表情は余裕に満ち溢れている。それもその筈だろう、彼女の背中に立ち並ぶアリウスの生徒は正に百人か、二百人か、それ以上の数で、補習授業部はたったの四人。更に補習授業部側は正義実現委員会による増援が望めず、圧倒的戦力差が目の前には横たわっているのだから。

 補習授業部の前まで足を進めた彼女は、退屈そうに踵を鳴らして言葉を紡ぐ。

 

「まぁ、此処に居る全員消し飛ばしてからゆっくり探しても良いんだけれど、それは面倒でしょ? 無駄は省くに限るよねぇ、だからさっさと吐いてくれると嬉しいなぁって――」

「……ミカ」

 

 ミカの言葉を遮り、補習授業部を背中に、先生が一歩前に出る。背後のアリウスがぴくりと反応し、その銃を構えかけたが、ミカが一瞥すると素早く銃口を逸らした。そのままミカは先生に視線を向け、笑顔を貼り付ける。

 

「なぁに、先生?」

「どうして、こんな事を?」

「ん~? 聞きたい? まぁ、先生に聞かれちゃったら仕方ないなぁ」

 

 絶えず笑顔を振りまき、ミカは頷いた。どこか楽しそうに――或いは、そうする事しか出来ないと云いたげに。

 

「理由はね、そんな難しい事じゃないんだよ? とっても簡単でシンプルなんだ、私はね、ゲヘナが――大っ嫌いだからよ!」

「げ、ゲヘナ……?」

 

 体育館中に響き渡る声で、ミカはそう叫ぶ。ヒフミが目を瞬き、思わず呟いた。

 

「うん、そう、私は本当に、心から、心の底からゲヘナが嫌いなの」

「……だから、エデン条約を阻止しようと? そのために、ナギサさんを――」

「ん? あー……えっと、誰だっけ? ごめんね、私あんまり顔を覚えるのは得意じゃなくってさぁ」

 

 ハナコがそう口を挟めば、ミカは頭上に疑問符を浮かべながら首を傾げる。その瞳には、どこか見下した、嘲りの感情が透けて見えた。

 

「ん……あぁ、思い出した、浦和ハナコじゃん! 礼拝堂の授業に水着で参加して追い出された、あの……あははっ、懐かしいねぇ?」

「………」

「先生以外の質問に答えるのは癪だけれど、まぁその通りだよ、だってナギちゃんがエデン条約だなんて変な事しようとするからさぁ……ゲヘナと同盟? 和平? あんな角が生えた奴らと平和条約だなんて、冗談にもほどがあると思わない? ――考えるだけでゾッとしちゃうよ」

 

 そう云って肩を竦めるミカは、口元を吊り上げたまま自身の思想を語り聞かせる。

 

「――絶対裏切られるに決まっているじゃんね? 背中を見せたら、直ぐに刺されるよ、きっと……まぁ、そんな事、私がさせないけれど」

 

 ゲヘナの生徒は、狡猾で、悪者で、信頼など出来ないから。

 薄らと口元を歪め、目を細めるミカはそう宣う。

 相手を見下した目だ。

 嘲る瞳だ。

 心底そうである筈と――確信している瞳だった。

 けれど何故だろう、ハナコはその瞳に僅かな欺瞞を感じ取った。

 まるで、そう在るべきだと、そうであって欲しいと、自分に云い聞かせている様な。

 

「ナギちゃんもほんと、優しいって云うか、甘すぎるっていうか、創作の中の明るい学園物語じゃないんだしさぁ~、そんな都合の良い話、現実には存在しないって……私たちはこういう、もっとドロドロした世界の住人だって事、そろそろ分かってくれても良い頃なのにね? そう思わない?」

 

 絵本の中にある、夢の国の様に。

 或いは最後にハッピーエンドが約束されている、優しい物語の様に。

 そう在れたら良かった、そんな世界ならば良かった。

 けれどそれは所詮、夢で、理想で、想像に過ぎない。

 自分達が生きている世界は、違う。

 裏切り、裏切られ、騙し、騙され、そういうもっと悪意に満ちた、どうしようもない、理不尽で、不条理で、闇深い場所で生きている。

 だから、裏切られる前に裏切る。

 だから、騙される前に騙す。

 自分達が傷付けられる前に。

 大切なものを、喪う前に。

 

 ――喪った者に、殉じる為に。

 

「――で、そういう訳だから! ナギちゃんの事、返してくれる? 大丈夫、痛い事はしないよ、まぁ、残りの学園生活は全部檻の中かもしれないけれど!」

「……ミカ、君は」

 

 先生は彼女の名を呼ぶ。変わらず笑い続けるミカの視線が、先生を射貫く。

 

「私を、騙したのかい?」

「……うん、あの時はごめんね先生、あそこで語った内容は殆どが嘘、エデン条約は本当に平和条約だよ、そもそも素直で優しくておバカなナギちゃんに、エデン条約を武力同盟として活用するなんて事、出来っこないからね――でも、あの時話した事、全部が全部、嘘って訳じゃないんだよ?」

 

 そう云って手を広げた彼女は、背後のアリウスを見せつける様にして回る。一歩一歩、足音を体育館に響かせながら彼女は続けた。

 

「――私がアリウスと和解したかったっていうのは、本当の事」

「……和解?」

「うん、だってさ、彼女達は同じゲヘナを憎む仲間だもん、アリウスだって元々トリニティの一員だったんだから、先生には前も云ったと思うけれど、この子達のゲヘナに対する憎しみは凄いよ? 私達に勝るとも劣らない……寧ろ、この子達こそ純度の高い憎しみを持っていると云えるかもしれない」

「だから、手を差し伸べた」

「そう! 志を共にして、ゲヘナと平和条約を結ぼうとする悪党たちをやっつけない? って具合にね!」

「………」

「ティーパーティーのホスト、桐藤ナギサに正義実現委員会がいるなら、次期ティーパーティーのホスト、聖園ミカにはアリウスが付く――これは、そういう取引なんだよ、先生」

 

 彼女が言葉を紡げば紡ぐほど、己の思想を語れば語る程、先生の雰囲気が、気配が、どんどん昏く、淀んでいく。

 握り締めた拳が軋む。

 掴んだシッテムの箱、その液晶が薄く、何度も点灯した。

 見かねたアズサが一歩踏み出し、ミカに問い掛けた。

 

「待ってくれ、ならアリウスは、最初からクーデターの道具だったのか……!?」

「うん? んー……確かにそうかな? これはクーデターなのかも、最終的にナギちゃんを失脚させて、私がティーパーティーのホストになるんだから」

 

 アズサの問い掛けに、ミカは少し考えて、頷く。元の予定とは随分違ってしまったが、結果だけを見ればそうなるのかもしれない。ナギサは失脚し、自身がティーパーティーのホストに就任する。そしてアリウスを併合し、エデン条約を破棄するのだから――これはクーデターと云っても差し支えない。

 

「あぁ、あなたの事は分かるよ……ありがとう、白洲アズサ、私はあなたの事を良く知らないけれど、私にとって大事な存在であることは変わらない、今までも、これからも」

「……何?」

「――だってあなたには、ナギちゃんを襲った犯人になって貰わないといけないからね!」

 

 そう云って、口の前に指先を立てるミカ。

 その口元が、三日月を描く。

 

「スケープゴートって云った方が良いかなぁ? 罪を被る生贄としての存在がいてこそ、皆がぐっすり安心して眠れるの、世の中ってそう云うものじゃない? だからあなたには、とっても感謝しているよ」

「ッ――!」

 

 最初から、そのつもりで――!

 アズサの視線が怒りに塗れ、銃を握る手に力が籠る。今にも飛び出しそうなアズサ、その肩を掴んだのは先生だった。怒りに我を忘れそうになったアズサは、しかし先生の瞳を見上げ、そっと口を噤み、退く。

 

「ミカはティーパーティーのホストになる為に、この計画を立てた――それで、合っている?」

「……うん、そうだよ先生、あぁでも、先生には誤解して欲しくないかな? 別に私は権力が欲しい訳じゃないの、私はゲヘナをキヴォトスから消し去りたい――本当に、ただそれだけだから」

 

 そう云って目を伏せたミカは、これからの事に想いを馳せる。別に、ホストにならずともゲヘナを殲滅出来るのであれば、その地位に固執するつもりなどない。ただ、単純にそのポストで在る事が便利であるだけで、事が終われば投げ捨ててしまっても何の未練もなかった。

 彼女の至上命題は、ゲヘナの殲滅。ゲヘナという存在をこのキヴォトスから消し去る事。考える事は苦手だが、今だけはその思考を未来に向けて回した。

 

「トリニティの穏健派を追いやって、その空席をアリウスで埋める、多分ナギちゃんの所のフィリウス分派が一番反対しそうかなぁ? なら、今度からはパテル、サンクトゥス、アリウスの三大分派にしてー……そうしたら新しい連合が出来て、必要なら新しい公議会も……うん、結構良いかもね? そして新しい武力集団を得て再編された、私率いる新トリニティが、ゲヘナに全面戦争を仕掛ける――うん、そう、これが私の計画!」

 

 アリウスとパテルを率いてトリニティを手中に収め、ゲヘナに宣戦布告する。電撃的に行われるそれは、大いにゲヘナを揺らす事になるだろう。何せ、今から平和条約を結ぼうとしていた相手が一方的に攻撃を仕掛けてくるのだから。

 どちらが勝つにせよ、キヴォトスは未曾有の混乱に陥るに違いない。

 そして、それが分からない程、ミカは愚かではない。

 分かっていて尚、彼女はその道を選ぼうとしていた。

 多くの生徒を不幸にする――その道を。

 

「どうかな、この計画? とっても素敵でしょう、先生!?」

「―――」

 

 満面の笑みでそう告げるミカ。何の痛痒も、罪悪も感じていない様に振る舞う彼女。

 それを見て、先生は思い切り歯を食い縛った。顔が歪み、その雰囲気が深く、昏く、重々しいものに切り替わる。

 

 ――けれどそれは、決して彼女に向けられたものではない。

 

 彼女が捉われている鎖が見えた、それに手を掛けていたのは自分だった。手を掛けていたのに、終ぞ、引き千切る事は叶わなかった。

 ただ一言、その手を伸ばしてくれたのなら。

 

 ――いや、それは怠慢なのかもしれない。

 

 例え生徒が望まずとも、ひとり悲しみ、嘆き、項垂れる生徒の手を、無理矢理にでも取って寄り添う。それが、自身の為すべき事ではなかったのか。それが選ぶべき選択肢ではなかったのか? そんな思いが、胸に渦巻く。そう思わなかった事はない。思い続けた。最後まで先生は迷い続けた。正しきに従う事は出来ずとも、己の心に従う事は容易だった。

 けれど結局、彼女が助けを求める事はなく、己がその手を取る事はなく。

 それが全てだ、それが結果だ。

 それを今――先生は目の前に突きつけられていた。

 

 憎悪と怒りに塗れた瞳を見て、ミカは思わず驚愕の表情を浮かべる。

 それは余りにも先生に似合わない感情と瞳だったから。

 だから、どこか気まずそうに、或いは申し訳なさそうに頬を掻いて告げる。

 

「わっ、そんな顔も出来るんだ、先生……あはは、うん、先生が凄く怒っている事は良く分かるよ、ごめんね、説明も急いじゃったし、雑だったよね? 私に怒った? 失望、されちゃったかな? でもね先生、これは――」

「違う――」

「えっ?」

 

 歯を食い縛ったまま、先生は俯いていた顔を上げる。

 込み上げるものがある、溢れ出る感情がある。それらを必死に、飲み下そうと、腹に落とそうと足掻き――それでも尚滲み出る余熱が、先生の肌を焼く。

 その表情を、(感情)を見た時、ミカは思わず息を呑んだ。

 

「私が怒っているのは……自分自身に対してだ」

 

 ミカを助ける事が出来なかった自分。

 寄り添う事が出来なかった自分。

 届いた筈の道を取りこぼした、己自身に激怒している。

 先生の握り締めた拳が軋み、その爪が肌に食い込んだ。

 

「ミカが此処まで追いつめられるまで何も出来なかった、何の助けにもなれなかった、苦しんでいるミカに寄り添う事が出来なかった、そんな私自身が――どうしようもなく、憎くて憎くて、仕方ないんだ」

「な、なにそれ……あ、あはは! もしかして先生、私がこんな事しているの、自分のせいだって思っているの?」

「――そうだ」

 

 ミカの、どこか困惑交じりの声に先生はハッキリと頷いた。

 だって、ミカがその重荷を背負っている事を知っていたのだ。

 知った上で、自身が選んだ。

 或いは、踏み込む事を躊躇った。

 もしかしたら、彼女は思い直すかもしれない。

 もしかしたら、思い留まるかもしれない。

 もしかしたら、違う結果になるかもしれない。

 淡い期待、信頼、願望と云い換えても良い。生徒が手を伸ばさない事を選択しても、それでも異なる選択を掴む可能性を捨てたくはなかった。

 あの時、ミカが先生に助けを求めれば、その手を伸ばせば――先生はそれこそ、死に物狂いで彼女を守るために動いただろう。自身の全てを使って、あらゆる権利、人脈、肩書、立場を使って奔走しただろう。

 或いは、ミカが自身を信頼してくれたのなら、そのまま「アリウスに組した振りを続ける」という選択肢も存在した。あの時、この世界に存在する常と異なるマダム、彼女を騙しおおせるかどうかは賭けとなるが、それでもそういう選択肢も存在したのだ。

 けれどそこには、『信頼』が無ければ成り立たない。

 ミカが先生という存在を信じてくれなければ、始まらない話だ。

 だからこれは――自身の過ちなのだ。

 生徒に信じて貰えなかった、己にこそ罪はある。

 その責任は、己が背負うべきなのだ。

 彼は、そう信じて疑わない。

 

「ち……」

 

 ミカは、思わず口を開いた。必死に胸に生じた感情を秘め、声を上げる。

 引き攣った口元は笑みを浮かべようとして、けれど失敗した。

 浮かぶ感情は何だろうか? 戸惑い? 歓喜? 罪悪感? それら全てが胸の中で混ざり合って、ミカの瞳が濁り往く。星の様に輝く瞳が、昏く、渦を巻いた。

 自身の責任であると、そう口にして憚らない先生を前に、ミカは言葉を詰まらせながら、必死に訴えようとした。先生に、その震える指先を伸ばす。

 

「ち、違うよ、先生……それは、だ、だって、先生は、私に――」

 

 告げ、想う。

 だって、助けようと、してくれたじゃない。

 手を差し伸べてくれたじゃない。

 あんなに真剣な顔で、必死に、懸命に。

 あの日――プールサイドで先生と言葉を交わした日の事を、今でも鮮明に憶えている。

 胸元を押さえつけるミカは、無意識の内に頸元で光るチェーンを握った。

 あの日、先生は手を伸ばしてくれた。自身の態度に違和感があったのか、或いはもっと別の確固たる情報を掴んでいたのか。どちらにせよ、先生はミカという生徒に向けて救いの手を差し伸べていたのだ。最後まで、懸命に、その言葉通りに。それは確かだ、それだけは事実だ。

 力になってくれると、寄り添ってくれると、そう態度で、その暖かさで、眼差しで――先生は証明していた。

 

 その手を振り払ったのは――(ミカ)なんだから。

 

 記憶がなくとも、自覚がなくとも、ミカの足はあの場所を去り、最後まで自身の罪悪を貫き通し、その費やされた命に殉じる事を選んだ。

 だからこれは、先生の責任などではない。

 徹頭徹尾――ミカという、一人の愚かな生徒の責任だ。

 

 だから、先生は悪くないよ。

 悪いのは、私。

 

 それを口にしようとして、ミカは寸で言葉を呑み込んだ。そういう人だと分かっていた、優しい人だと理解していた。最後まで自分を想ってくれた、そんな人――だからこそ、自分がこんな言葉を掛ける事さえ躊躇ってしまった。

 

 もう戻る事なんて、出来ないのに。そんな事を口走って何になるの? その言葉は、先生を苦しめるだけじゃないか。

 だから、そんな言葉を口にする意味なんてない。

 

 ――戻るにはもう、遅すぎるの。

 

 ミカは俯き、唇を噛み締める。想い、ミカは自嘲した。それは自身に向けられたものだった。

 だから彼女は笑う――嗤うのだ。

 それが、自分に許された唯一の感情だから。必死に、歪に、張り付けて。ミカは、その嗤みを晒す。

 その心の内で、大粒の涙を流しながら。

 

「ううん、あはは、なんでも……そう、何でもないよ、これ以上はちょっと、喋るのはやめよっか――だって、何だか、これ以上先生と言葉を交わしたら、私が辛くなるだけだもん」

「ミカ……!」

「……先生への説明は、後で私がゆっくり、ちゃんとしてあげるから――だから今は、他の邪魔な連中を片付けちゃおう?」

 

 そう云って補習授業部に愛銃――Quis ut Deus.(神の如きもの)を向ける彼女。応じる様に、周囲のアリウス生徒が銃を構えた。無数の銃口が、補習授業部を捉える。

 

「っ、先生、下がって……!」

「ミカさん……!」

「う、ぅ……っ!」

 

 補習授業部の皆が先生を庇う様に立ち塞がり、対峙するアズサの表情が強張る。ミカから滲み出る闘志、放たれる圧力から彼女の力量を看破したのだ。

 

「見ただけで分かる――彼女はかなり、強い」

「……ふふっ、そうだよ? 先生には云ってあるけれど、私、結構強いんだから」

 

 そう云って歪に笑うミカ、銃の安全装置を弾き、片腕で愛銃を構える彼女は命令する。

 

「じゃあ補習授業部をやっつけちゃって、あ、先生は傷付けちゃ駄目だからね? もし傷付けたら――例え故意じゃなかったとしても、痛い思いをして貰うから」

「……了解」

 

 周囲のアリウス生徒が返答し、その引き金に指を掛けた。

 事、此処に至って戦闘は避けられない。

 補習授業部は僅かに退き、叫ぶ。

 

「せ、先生……!」

「大丈夫――ハナコッ!」

「はいっ!」

 

 先生の声に応じ、ハナコがポケットに入れていた携帯端末を素早く指先で操作した。途端、体育館全体に低く唸る様な駆動音が響く。

 

「起動確認!」

「やってくれ!」

「はいッ……!」

「? 一体、何を――」

 

 ミカが疑問の声を上げるよりも早く、補習授業部とアリウス、その頭上から大量の噴射音が鳴り響いた。皆が頭上を見上げれば、白い煙が大量に迫りくる姿が。

 唐突なそれに大半の生徒は身を強張らせ、反射的に姿勢を低くする。噴射元は体育館の天井、その鉄骨に設置された専用噴射装置。等間隔で設置されたそれは、夜の闇に紛れながら満遍なく体育館を白煙で覆い尽くす。

 

「くっ、これは――」

「ガスか!? 警戒をッ!」

「馬鹿が、こっちはマスクを着用しているんだぞ!?」

「――いや、違うよ、これは……」

 

 体育館内が白に覆われ、ミカは目を細める。ほんの一メートル先も視認困難となる濃度、ミカは軽く鼻を鳴らし、その実態を把握する。刺激臭はなく、かと云って無臭の毒ガスという感じでもない。遅効性のものであれば可能性としてはあり得るが、ガスマスクを着用したアリウス相手に用いる装備としては不適切に思えた。

 

「……単なる目晦ましのつもり、先生?」

 

 ミカは呟き、周囲を見渡す。

 すると、白い煙の中で、薄らと人影が浮かび上がった。背は低めで、腰を曲げている様子もない。ミカはそれが補習授業部のメンバーであると確信し、指差した。それに気付いたアリウス生徒は、その人影に向かって素早く銃口を向ける。

 

「単なる目晦まし程度でッ……!」

 

 告げ、射撃を敢行。飛来した弾丸は人影に着弾し――火花を散らした。

 人体に当たった音とは異なる、硬質的なそれが響く。

 

「なっ、これは――射撃訓練用の的か……!?」

 

 その音に、アリウスの生徒達はそれが補習授業部の生徒ではない事に気付いた。

 煙の中で起立したのは、劣化したブルーシートを突き破って出現した射撃訓練用の的。見れば彼方此方で駆動音が鳴り響き、無数の訓練用的が次々と出現する。

 白煙の中で、ぼんやりと輪郭が見えるソレは、実際の人間と区別が難しい。

 

「……へぇ、床にブルーシートを敷いていたのは、これが狙いだったんだぁ」

 

 呟き、ミカは自身の頬を撫でる。大勢のアリウスを相手にして、それでも尚取り乱さなかったのはこれが理由か。数的不利を背負っている以上、対策は済ませていると。確かに、これでは数の利を生かす事は難しくなる。

 

「慌てるなッ! 一先ず集合し連携を――うぐッ!?」

 

 散開し、同士討ちになる事は避けなければならない。そう考え、叫んだアリウス生徒が唐突に斃れた。銃声は一発、しかし何処から飛来したのかは分からない。咄嗟に身を屈め周囲を警戒するも、白煙の中では敵の姿が視認出来なかった。

 

「あ、当たった……!?」

「ナイスショット、コハル」

 

 白煙に紛れ、呆然と呟くコハル。隣に立つアズサは、その背中を叩き称賛を口にした。

 

「此方は先生のサポートがあります、スモークが焚かれようと相手の位置は全て把握出来ますからね……!」

 

 告げ、ハナコも果敢に射撃を加える。先生の護衛に当たるヒフミを除き、補習授業部は散開し訓練用的に紛れながら射撃を敢行していた。アリウスの生徒達は煙に視界を阻害されているが、補習授業部はそうではない。先生のサポートがある限り、どれ程視界が悪かろうとハッキリと敵の位置を把握出来ている。そして、味方の位置も強調表示される為、同士討ちの危険性はない。

 アリウスの生徒達は、煙の中から無差別に放たれる弾丸に浮足立ち、反撃の目途が立たない。右から、左から、先程放たれた弾丸の位置に射撃を加えようとも、既にその場所に補習授業部の姿はなく。

 代わりに、それらしく見える訓練用的が起立するのみ。

 

「視界を奪い、遮蔽を増やし、数に勝る相手を翻弄する――同士討ちは、どこだって怖いからね……!」

 

 告げ、先生はタブレットを叩く。瞬間、アリウスの傍で訓練的が飛び出した。咄嗟に射撃を敢行するアリウス、しかし甲高い着弾音にそれが囮だと気付く。そしてそうこうしている内に近場の味方が補習授業部の弾丸に斃れ、小さく、細かに、少しずつ――部隊は寸断されていく。

 

「……皆、此処からが踏ん張りどころだ!」

「うん!」

「えぇ!」

「はい!」

「も、勿論!」

 

 先生の声に頷き、補習授業部の皆は目前の大敵に挑む。

 その勝利を、未来を信じて。

 

「此処から先は、私達の独壇場だ……!」

 


 

 アリウス自治区――屋内訓練場。

 屋内と云われてはいるが、その実態は崩れかけた教会を利用した半屋外と云っても過言ではない。蔦が生え、苔に覆われ、とても整備されているとは云い難い銃を片手に、今日も今日とて訓練に興じる。

 それが唯一の生きる術だと、お前たちの持てる手段だと、ずっとそう教えられてきた。

 

 そんな中で響く銃声。

 訓練場に於いて、それは珍しくもなんともない音であった。

 その銃口が――生徒に向けられていないのであれば。

 

「っ、やめろッ!」

「……退け、第八分隊長」

 

 サオリは、咄嗟に飛び込み、叫んだ。

 目の前に立つのはアリウス自治区幹部、サオリ達を管理する大人の代わりに立っている上級生。彼女はガスマスクを被り、白いコートに身を包みながら小さなサオリを見下ろす。未だ中学の年齢にも届いていないサオリにとって、百七十に迫るその身長は大層巨大に見えた。けれど懸命に両手を広げ、叫ぶ。

 背後には倒れ伏し、砂利に塗れた白髪の生徒。

 齢は――自分より、少しだけ年下に見える。

 

「それ以上やれば、ヘイローが壊れるぞ!?」

「ふん……」

 

 サオリの言葉に、幹部は鼻を鳴らして銃口を下げる。しかし、其処に納得の色も、許しも存在していないのは確かであった。倒れ伏した白髪の生徒に、姫が駆け寄る。不気味な白面で顔を覆ったまま、荒い息を繰り返す生徒を抱き起し、その背中を摩る。

 

「………」

「ど、どうか……どうか、もうやめて下さい……うっ、うぅっ……!」

 

 壁際で蹲り、頭を抱えて泣き言を零すヒヨリ。壁に背を預け、地面を能面の様な表情で見つめるミサキ。蔓延する空気は昏く、淀んでいた。

 全員、ボロボロだった。

 衣服は泥と砂利に塗れ、髪は土に塗れている。体のあちこちに包帯が巻き付けられ、痛々しい痣や傷が所々に見られた。剥き出しの足に貼り付けられガーゼ、そして足首に付けられた枷が、陽に照らされ鈍く光る。

 けれど、この場所に於いては――これが普通なのだ。

 

「こいつは我々に反抗した、当然のことだろう? もう一度云う、退け、第八分隊長、退かなければ、お前たちも同じ目に遭う事になる」

「っ……!」

 

 そう云って突きつけた拳銃を、もう一度サオリの奥――倒れ伏した白髪の生徒に向ける。サオリは、その冷酷な瞳をガスマスク越しに直視した。

 此方を生徒とは思っていない、機械的で、能面の様で、正に無機質な視線。

 彼女の良く知る――大人の目だ。

 

「ゴホッ、こほっ……笑わせ、ないで……誰が――」

 

 白髪の生徒、短く、ざっくばらんに切られたそれを払い、そう口にする。鼻から流れる血をそのままに、彼女は憎々し気に幹部を睨みつけていた。その態度を見た彼女は、どこか感心した様に頷き、引き金に指を掛ける。

 

「ほぅ、まだそんな軽口を叩けるか、身体は頑丈な様だ……それなら」

「待てッ! 待ってくれ!」

「何だ? お前も反抗するつもりか、第八――」

「――私がッ!」

 

 幹部の声を遮り、サオリは叫んだ。

 腹の底から、全力で。

 

「私が……指導する!」

「何?」

 

 その言葉に幹部は目を細める。サオリは俯いていた顔を上げ、歯を食い縛った。

 

「……また無駄な事を」

 

 ミサキがぽつりと、そう呟いた。声は彼女に届かない。それがどれ程意味のある事なのか、そう疑問に思ってしまう。自分達とて、此処で生き残る事で精一杯なのに。また彼女は――サオリは、苦労を背負い込もうとする。

 

「ヒヨリも、ミサキも私が指導した生徒だ、姫も同じくな……! 皆、優秀な成績を残しているだろう!? あいつも私に預けてくれたら、一人前の兵士に育て上げてみせる!」

「……ふむ」

「だから任せてくれ、私が……私が責任を持って、コイツを指導するから」

 

 サオリの言葉に、幹部はマスク越しに顎先を撫でる。どこか思案する素振り、或いは単に勘定をしているのか。どちらにせよ、どちらにメリットがあるか計りかねている様子だった。数秒、沈黙が流れる。サオリは背中に嫌な汗を滲ませながら、ぐっと怯懦を噛み殺し、彼女を見上げる。

 しばし思考を巡らせた幹部は、不安に揺れるサオリの瞳を見下ろし、頷いた。

 

「――良いだろう」

「っ!」

「此方としても優秀な駒が増えるのならば云う事はない、良く云い聞かせておけ……我々に逆らわず、従順になるようにな」

「……あぁ」

 

 それだけ告げ、幹部の生徒は拳銃をホルスターに戻し、去って行った。今日の訓練は此処まで――という事なのだろう。サオリはそんな彼女の背中を見送ると、踵を返して白髪の生徒の傍へ駆け寄る。

 

「姫、私が代わる……すまないが、私の部屋から薬を取って来てくれ」

「………」

 

 姫は無言で頷き、そっと宿舎へと駆けて行く。宿舎と云っても、崩れ落ちた過去の学校、その教室に簡素な布を敷いただけの部屋だ。半ば崩れ落ちたそこは、宿舎と呼べる程に上等なものではない。サオリはその部屋、自身の寝床の下に、万が一の際に備え薬品を隠していた。生傷の絶えないこの生活の中で、治療を受けられる事は稀だ。最低限、死ななければ良いという方針の下で運営されている故に、当然だった。

 此処の生徒達は全員、使い捨ての消耗品なのだから。

 

「ヒヨリ、もう大丈夫だ……あいつは行ったよ」

「うぅ――……さ、サオリ、ねぇざん……」

「……いい加減、泣き止みなよ、もう連中は居ないんだし」

「ずびっ……ほ、本当ですか……?」

 

 サオリとミサキの言葉に、ヒヨリは鼻水と涙を垂らしながら恐る恐る顔を上げる。ミサキはどこか面倒そうにしながら、ポケットから薄汚れた布を取り出し、ヒヨリの涙を拭ってやった。

 

「ぐ……」

「まだ動くな、何発も撃たれたんだ、安静にしていろ」

 

 自力で起き上がろうとする生徒を抑え、サオリは彼女の頬に付着した砂塵を払う。腹部と、顔面、恐らく頬に弾丸が着弾したのだろう。青痣になり、痛々しく晴れ上がった頬を、サオリは悲し気な表情で見つめた。

 

「何で、逆らったりなどしたんだ、こうなる事は分かり切っていただろう?」

「………」

「抗う事は、無意味だ、この場所に於いて連中は絶対的な力を有している、逆らえば酷い目に遭う……だから、逆らわない方が良い」

「……私は」

 

 サオリの言葉に、彼女は歯を食い縛り、痛みに涙を流しながらも口を開いた。

 その、サオリよりも小さな手が、薄汚れた地面を強かに叩く。

 

「私はっ……! 例え、無意味、でも……抗う事を、やめたくない……っ!」

「それは……何故だ?」

「だって、抗う事をやめたら……ッ!」

 

 生徒が、俯いていた顔を上げる。

 白い髪に、強い意思を秘めた、澄んだ瞳。

 それが、真っ直ぐ正面から、サオリを射貫いた。

 

「――心まで、連中に屈してしまいそうな気がするから……!」

「―――」

 

 それを聞いた時、サオリはどんな感情を抱いたのだろうか。自分自身、良く分からなかった。驚きだったのだろうか、或いは尊敬か、羨望か、それとも――憐れみか。

 サオリは開きかけた口を閉じ、数秒、言葉に迷う。

 けれど結局、掛けるべき言葉は見つからず。

 

「……そうか」

 

 お前は、こんな場所でもまだ、希望を失っていないんだな。

 そんな声を噛み殺し、サオリは彼女の瞳から目を逸らした。

 

「だが、一々上に噛み付いていたら顰蹙を買う、その在り方は改めた方が良い」

「っ、でも……」

「心まで屈しろとは云わない、表面上だけで良い、それが此処での生き残り方だ――代わりに、戦い方を教えてやる」

「……戦い方?」

「あぁ」

 

 どこかキョトンとした表情の彼女に笑いかけ、サオリは足元の銃を拾い上げる。薄汚れ、整備も万全とは云い難いそれ。しかし、この場所に於いては唯一無二の力の象徴である。

 

「どんな道を歩むにせよ、力があるに越したことはない、力を付ければ此処での立場も良くなる、そうすれば自然と意見も通る……先程の私の様にな」

「………」

「私が、お前を鍛えてやる」

 

 そう云って、サオリは手を差し伸べる。

 まだ何も知らない、無垢なる白へと。

 

「私は第八分隊長、錠前サオリだ……お前は?」

「……アズサ」

 

 呟き、彼女――アズサはサオリの手を取った。

 泥と砂利に塗れ、傷だらけで、それでも確かに――力強い手を。

 

「――白洲、アズサ」

 

 ■

 

 アリウス幼少期あとがき第二段。

 あと一話か、二話位あるんですわよ。

 原作だと三百~四百字くらいでサラッと終わっていましたが、やっぱり丁寧に彼女達がどれだけ追い詰められていたのかを書いた方が、アリウスの皆が可愛く見えるかなって……。

 これも全部、ベアおばって奴が悪いんだ……。かわいそう……。ご飯一杯食べてほしい……。

 



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ずっと待っていたよ、先生

誤字脱字報告ありがとうございますわ~!
ノリノリで書いていたら15,000字になっちゃった……文字数の関係で次の更新は3日後になるかもしれませんわ~。


 

「ぐぁッ……!?」

 

 白煙を裂き、飛来する弾丸。次々と倒れるアリウスの同胞達。ミカは銃を担いだまま棒立ちし、周囲の惨状を見つめ続ける。戦闘開始から凡そ五分から十分程度か、未だ戦線は補習授業部の支配下にあり、アリウス側は有効な手立てを見つけられずにいる。

 幸いなのは補習授業部側の弾薬には限りがある事か、滅多矢鱈に撃たれていれば、被害はもっと拡大していただろう。無論、たった四人が持ち込む弾薬量としては随分と多いが――或いは、これを見越して体育館に弾薬を予め隠していたか。これ程の用意を備えていた先生の事だ、それ位はやってくれそうなものだが、果たして。

 ミカは一つ鼻を鳴らし、白煙の向こう側に飛び出した人影、それに狙いを付け発砲。弾丸は吸い込まれるように影へと着弾――しかし、弾丸は硬質的な音を立て、それが訓練用の的だと理解する。先程から何度も繰り返されたソレに、思わず苦笑を浮かべた。

 

「……成程ねー、そっか、そっかぁ、そりゃ皆シャーレ、シャーレって云う訳だよ、厄介だね、大人って――それで、何人やられたの?」

 

 ミカがそう問いかけると、彼女の傍で待機していた一人のアリウス生徒が淡々と答えた。

 

「……既に、百名近く」

「うわ、すっご、先生抜いてたった四人なのに?」

 

 その報告に、ミカは思わず驚愕の声を上げる。銃声や怒号、悲鳴が飛び交う中、次々と引き摺られ、体育館の外に運び出されていくアリウスの生徒達。大分やられたとは思っていたが、既に百名を超える負傷者が出ているのか。

 この体育館に突入させた人員は確か、三百名程だった筈だと考える。ナギサの確保に向かわせた部隊、対象をロストした後に捜索に向かわせた部隊、そして此処を包囲させた部隊を含め、この作戦に参加したアリウスの生徒は六百名にも上る。アズサが云った様に、小さなアリウス分校に於いては、その全校生徒の半数に迫る数だ。

 

「生徒の力……じゃないよねぇ、あのアズサって子以外は普通の生徒だし、あ、いや、浦和ハナコは違うか、でも戦闘が得意って話は聞いた事ないし、うーん?」

 

 そう云って、ミカは補習授業部の面々を思い返す。アズサが強い事は理解出来る、曲がりなりにもアリウス所属、その中でも一等戦術的価値を持つスクワッド出身、その実力は折り紙付きだ。

 そして残りの三名、ハナコ、ヒフミ、コハル――ハナコは確かに実力が未知数ではあるが、戦闘力的な面で話題に上った事は一度もない。ヒフミはナギサのお気に入りで、実はブラックマーケットで悪事を働く強盗団の一味だとか何だとか云われていたが、正直そんな気配は微塵もなかった。そしてコハル、彼女は正義実現委員会のメンバーではあるが、正直肩書だけだ。彼女の所属する正義実現委員会、そのトップと比較すれば正に月と鼈、一般生徒と何ら変わりない。

 どう考えても負ける要素が無かった。この補習授業部という戦力を考える上で、脅威となるのはアズサ一択。他の生徒はアリウスの生徒を雑に突撃させても処理できてしまう程度の力しか持っていない。

 なのに――戦況は押され気味。

 はっきり云って、理解出来ない。

 

「――ま、やっぱり先生が凄いって事だよね? 流石先生だなぁ、うん!」

 

 そう云ってミカは、小難しい事を考えるのをやめた。

 一般生徒相手に押され気味なのは何とも情けない話だが、きっと先生が考えた戦略が余程優秀だったのだろう。或いは、彼女達の云うサポート、という奴の力かもしれない。どちらにせよ、この戦いでキーマンとなっているのは彼だ。

 けれど、彼女の余裕は崩れない。何処までも飄々とした態度でミカは戦況を見据える。

 

「まぁでも、ちょっと時間は掛かりそうだけれど、問題はないよね……数の差は、圧倒的なんだからさ」

 

 ■ 

 

「先生、そろそろスモークの残量が……!」

「っ、分かった――!」

 

 端末を覗いていたヒフミがふと声を上げ、先生は即座にタブレットを叩き散開していた皆に指示を出す。経過時間は凡そ十分と少し、本来であればこの倍の時間はスモークで稼ぐつもりであったが、壁に空いた大穴から白煙が外へと漏れ、消費が想定よりも随分早い。

 散らばり、前線で戦っていたアズサ、コハル、ハナコの視界に、『スモーク払底』の警告が表示される。

 

「っ! 撤退信号……スモークの残量か、ちッ!」

 

 舌打ちを零し、アズサは素早く後退する。天井から鳴り響いていた噴射音が鳴りを潜め、スモークが徐々に晴れていった。視界が開け、アリウス側も補習授業部を視認、銃弾が皆目掛けて飛来する。それを物陰に身を隠してやり過ごしつつ、先生の元へと退避する補習授業部。アリウスは倒れ伏した生徒達の回収を開始する。

 白煙で遮られていた為気付けなかったが、かなりの数のアリウス生徒が体育館の彼方此方で倒れ伏していた。

 

「わーお、こんなにやられちゃったんだ、凄いなぁ……あ、ほらほら、回収急いで~」

「負傷者回収、急げ、支援射撃を絶やすな!」

 

 アリウスの生徒達が倒れ伏した面々の元に急ぎ、体育館外へと引き摺って行く。その最中、後衛による援護射撃を加えられる。射撃訓練用的の裏に隠れながら、アズサは応射するも、火力――純粋に向けられる銃口の数が違い過ぎる。

 それでも尚、辛うじて敵を牽制できているのは、先生のアシストがある為だ。踏み込もうとしたり、回り込もうとしたアリウス生徒がいた場合、即座に視界でマークされる。後方に陣取ったコハルが頭を出した生徒を狙撃し、中衛のヒフミとハナコが制圧射撃を担当、アズサは前衛で敵の攻撃を集めつつ、攻撃と牽制、防御を忙しなくこなしている。

 

「うーん、セイアちゃんもナギちゃんも居なくなるんだし、これで漸く始められるって云うのになぁ、変に邪魔しないで欲しいよ、ホント」

「ッ……!」

 

 ミカは白煙が晴れて尚、しぶとく抵抗する補習授業部を前に、そんな言葉を漏らす。中衛で銃撃戦を繰り広げていたハナコは、激しい銃声の中からその言葉を拾い、思わず遮蔽の裏から叫んだ。

 

「ミカさん、一つ聞かせて下さい! セイアちゃんを襲撃したのも、あなたの指示だったのですか!?」

「うん? セイアちゃん? あぁ……あはは、そうだよ? あれも私の指示、だってセイアちゃんってば、いっつもへんな事ばっかり云って、楽園だの何だの、難しい事ばっかり並べ立てて、私の事を馬鹿にしていたからさぁ」

 

 ハナコの言葉に、ミカは薄ら笑いを浮かべながら答える。しかし、ふっと、その表情に陰が落ちた。

 

「――でも、ヘイローを破壊しろとは云っていないよ、私は、人殺しなんか指示していない」

「っ……!?」

「ただ卒業するまで檻の中に閉じ込めて、ちょっとだけ窮屈な思いをさせてやろうって、そう思っただけなんだよ? でも……何でか、あぁなっちゃった」

 

 殺すつもり何てなかった、その言葉を聞いたハナコは驚愕の色を見せる。顔を上げ、引き攣った笑みを浮かべたミカは、その視線をアズサに向けた。

 

「それ以上は当事者に聞いた方が早いんじゃないかなぁ? ねぇ――白洲アズサ」

「ッ……!」

 

 その声に、アズサは肩を揺らした。誰から見ても分かる程の、動揺。遮蔽に身を隠しながらも、その気配は隠せない。

 

「何だか一部誤解があるみたいだし、私の代わりに説明してくれない?」

「………」

「セイアちゃんがさぁ、あんな事になっちゃったのが、ここまで事が大きくなった原因なんだよ? あの時からもう、色々な事がどうしようもなくなって、戻れなくなって……私はただ、ほんの少しだけセイアちゃんに困って貰おうって、その程度の気持ちだったのに――ねぇ、なんであんな事になっちゃったの? なんで、セイアちゃんはいなくなっちゃったの?」

「そ、れは……」

「答えてよ、白洲アズサ」

 

 アズサは言葉に詰まる。銃を握り締める、その指先が震える。後方の遮蔽に身を隠したヒフミが、思わず問いかける。

 

「あ、アズサちゃん、一体、何のお話ですか……?」

「違う、私は――」

 

 アズサは何かを口にしようとした。それが弁明なのか、或いは別なものなのかは分からない。ただ、彼女の舌が言葉を紡ぐよりも早く、どこからか大きな爆音が鳴り響いた。それは体育館の中ではない、外側から鳴り響いたもの。

 思わずアリウス全員の意識が、爆発のあった方角へと引っ張られる。

 

「何、爆発……?」

『こ、此方チームⅧ! 包囲部隊が攻撃を受け――ッ!?』

「なっ――!?」

 

 アリウスの隊長が持っていたインカムに悲鳴交じりの報告が入り、その言葉に隊長は絶句、ミカは訝し気に顔を歪める。

 

「……包囲部隊に攻撃? 何で? ティーパーティーの戒厳令に背く人たちなんて、もう――」

 

 呟き、思考を回す。正義実現委員会は頭を抑えて動けない。救護騎士団はそもそもトップが不在で指揮系統が存在しない。有象無象の部活が暴走した? けれど、その程度の攻撃でやられるアリウスではない。なら、可能性があるのは――。

 

「それは少々、甘い考えですよ、ミカさん」

 

 体育館の入り口から、唐突に、無数の弾丸が飛来した。一斉に瞬くマズルフラッシュ、響く銃声、展開していたアリウスの生徒達が横合いに薙ぎ払われ、悲鳴を上げながら次々と倒れる。自身の傍を掠めた弾丸に目を見開きながら、ミカは銃声が聞こえた方角へと振り向いた。

 

「……歌住、サクラコ」

「えぇ、夜分遅くに、随分と騒がしいではありませんか、ミカさん?」

 

 告げ、彼女は担いだ愛銃をミカに向ける。

 凛とした姿勢、泰然とした態度、黒と白の制服に身を包んだ幾人もの生徒達。その十字架に酷似したヘイローを輝かせながら、彼女達はアリウスの前に立ちはだかる。

 トリニティ総合学園、大聖堂に本部を置く一大派閥――シスターフッド。

 彼女達の登場に、ミカの視線が鋭く絞られる。

 

「や、やった……!」

「増援……! 間に合ったんですねっ!」

 

 コハルとヒフミが歓声を上げ、その表情を喜色に染めた。

 

「シスターフッド……なら、まさか」

 

 告げ、ミカは補習授業部に目を向ける。視線の先に居るのは、この状況を作り上げたであろう人物。

 

「浦和、ハナコ……ッ!」

「ふふっ、残念ですが、私だけではありません」

 

 ミカに睨みつけられたハナコは、薄らと笑みを浮かべながら首を横に振り、視線を横に投げた。

 

「私よりも先に接触していたのは、先生です」

「っ……!」

 

 ミカの目が驚愕に見開かれる。ならば、先生はこの状況すらも読んでいたという事なのか。そんな思いを込めて、ミカは先生を見た。ちくりと、胸が痛んだ。それがどうしようもない、必要な事であると分かっていも。

 

「今日も平和と安寧が、皆さんと共にありますように」

「すみません、お邪魔します……!」

「シスターフッド、これまでの慣習に反する事ではありますが……ティーパーティーの内紛に、介入させて頂きます」

 

 歌住サクラコ、若葉ヒナタ、伊落マリー、シスターフッドを率いる三名が自身の愛銃を構え、告げる。その宣言と同時に、百名余りの銃口がミカとアリウスを捉えた。シスターフッド、トリニティ総合学園の中でも一大派閥とされる彼女達は、独自の指揮系統と情報網を持ち、トリニティ内部でも決して小さくない影響力を持つ。その戦力は、正義実現委員会にだって劣りはしない。

 しかし、彼女達は基本的に政治不干渉を貫いて来た。先代も、その先々代も、故に『そう在るもの』だと皆には周知されている。その彼女達が、動いた。それは正に、ミカにとっては想像だにしなかった事で。

 

「ティーパーティー、聖園ミカさん、他のティーパーティーへの傷害教唆及び傷害未遂で、あなたの身柄を拘束します」

「……あはっ、流石にシスターフッドと戦うのは初めてだなぁ、今までずっと知らん振りを決め込んでいたのに、今更動く何て、ホント、想定外だよ」

 

 ミカは苦笑を浮かべ、呟く。本当に、こんな展開は考えてもいなかった。シスターフッドの影響力、その戦力を知らなかった訳ではない。ただ事を起こす上で、優先順位は決して高くなかった。仮にティーパーティーが被害を被る事になっても、彼女達は動かないという確信があったのだ。

 だって、彼女達は――セイアが死亡した時さえ不干渉を貫いたのだから。

 だから今回も動かないものだと高を括っていた。

 それが、覆された。

 

「なるほどね、流石先生……これが切り札って事かな?」

「いや――まだだよ」

 

 ミカの言葉に、先生は首を横に振る。

 これ以上に増援が――? そんなミカの訝し気な表情に応えるように、アリウスの足元に何かが投げ込まれた。それは暗闇の中ではハッキリせず、辛うじて手の中に収まるサイズの、円柱に似た何かだという事しか分からなかった。

 足元に転がったそれを見て、ミカは目を瞬かせる。

 

「……? なに、こ――」

 

 瞬間――強烈な閃光と爆音が周囲を照らす。暗闇の中で、夜目に慣れていたアリウス全員が、思わず目を閉じ、顔を顰めた。強烈な光と音はアリウスとミカから平衡感覚を奪い、思わず膝を突く。

 そして透かさず銃声が鳴り響く。くぐもった、乾いた音が何度も響き、直ぐ近くから何人もの悲鳴が聞こえた気がした。数十秒程堪え、ミカが恐る恐る目を開ければ、彼女の傍に居た数人のアリウス生徒が昏倒していた。それは、先程の閃光弾によるものではない、見ればマスク越しに一発ずつ、弾丸を喰らっている。

 ミカが視線を上げれば、補習授業部の傍に駆け寄る数十人の生徒。

 

「――守月スズミ、先生の要請により参上致しました」

「っ、トリニティ自警団……」

 

 特徴的な略式校章と盾、そして一般生徒とは異なる灰色の制服。彼女達は先生を守る様に展開し、アリウスにその銃口を向ける。数は決して多くない、しかし常日頃荒事に対処している彼女達は練度が高く、また時折正義実現委員会とすら衝突するその信念は固く、曲がらない。権力にも屈せず、ただ自身の信じる正義を貫く、それが彼女達、トリニティ自警団。

 正義実現委員会が統率された確固たる正義(広義の正義)を掲げるのであれば、彼女達は生徒に寄り添い、不条理を跳ね退ける柔らかき正義(形なき正義)を目指す。

 正義実現委員会()ではなく、ティーパーティー()でもなく――ただ個の為に在る、自警団(灰色)

 

「お久しぶりですね、先生、お怪我が無い様で何よりです」

「うん、久しぶり……ごめんね、突然」

「いえ、他ならぬ先生の頼みですから、それに――」

 

 告げ、スズミはミカを真っ直ぐ見据える。その手に愛銃、セーフティーを握り締めて。その白い髪と、横に伸びた小さな翼が風に靡いた。

 

「これも自警団任務の延長線上です、数は多くありませんが、自警団の方々が招集に応じて下さいました――このような形で集まる事になるのは、大変残念ですが」

「あはっ、何、まさかあなた達まで出て来るなんて、本当にビックリだよ……パトロールだけしていれば良いのに、こんな事にまで首を突っ込むんだね、自警団っていうのは」

「……トリニティの安寧を脅かす、それを見過ごす訳にはいきません」

 

 スズミとミカは言葉を交わし、互いに睨み合う。そこに絡む感情は、本人同士にしか伝わらない。

 

「私達も、トリニティの一員ですから」

「……へぇ」

 

 その言葉に、ミカは口元から笑みを消した。

 

「これで戦力差はイーブンだ、ミカ」

「……うん、本当に、流石だよ先生、片付けないといけない相手が、一気に増えちゃったなぁ」

 

 呟き、彼女は体育館全体を見渡す。アリウスの生徒は削りに削られ、残りは二百に届かない程。百五十名よりは多いだろうが、それでも戦力は半減していると云って良い。策に嵌ったとは云え、補習授業部のみで此処まで削ったのだから驚異的だ。

 そしてシスターフッドから百名、トリニティ自警団から三十名余り、これに補習授業部を加えれば殆ど戦力に差は無い。此処から仮にアリウスに増援が来たとしても、十分に持久戦を行えるだけの人員が揃っていた。

 作戦時間はごく限られている。夜明けまで持ち堪えれば――アリウスは撤退せざるを得ない。

 それを理解しているのだろう、ミカの顔に張り付いていた笑顔、それはもう何処にも見えない。ハナコはそんな彼女を見据え、告げる。

 

「漸く、顔色が変わりましたね、ミカさん」

「そうかな? ……まぁ、どうせホストになったら大聖堂も、その周りの五月蠅い連中も掃除しようと思っていた所だし、うん、一気にやれるチャンスだと思う事にしようかな」

 

 告げ、ミカは自身の愛銃を構える。その顔に、笑みの代わりに虚勢を貼り付けて。互いの銃口が向き合い、体育館内部の空気が張り詰めた。

 

「――よし! それじゃあ、やれる所までやってみよっか!」

「……あくまで、戦うつもりですか? この状況、どれ程の勝算があるのか、分からないあなたではない筈です」

「うん、そうかもね……でもさ」

 

 ミカが一歩、前に足を踏み出す。

 その瞳に、確かな狂気を湛えて。

 

「だからと云って諦められる筈なんてないんだよ、『もう嫌だ』って云いながら投げ出す段階は、疾うの昔に過ぎちゃっているの――私は、行く所まで行くしかないんだから」

 

 深淵を思わせる瞳、纏わりつく気配。彼女のそれは、追い詰められていく程に濃く、周囲を包んでいく。まるで皆を引き摺り落とすように、それは深く、悍ましく、ほの昏い――絶望の色。

 

「シスターフッドも、トリニティ自警団も、補習授業部も、全部薙ぎ倒して、私がティーパーティーのホストになる、そしてゲヘナを殲滅して、綺麗になったキヴォトスで新しいトリニティを作るんだ」

「そんな事を、一体誰が望むと云うのですか……!?」

「私と、アリウスだよ、首長の私が発言すればパテル分派は味方になってくれるかもね? けれど、そんな事は重要じゃない、誰が望むかなんて大切じゃないんだよ、浦和ハナコ――大丈夫、ゲヘナが居なくなれば、きっと全部上手くいくから……きっと、そうなる筈だから」

 

 そう云って、彼女は嗤う。

 最早、その道しか残されていないと云わんばかりに。

 彼女はただ、真っ直ぐ道を往く。

 深く、一歩ずつ――けれど、着実に。

 

 その行く手を、遮る影があった。

 

「――そんな事は、させないよ」

「……先生」

 

 ミカの前に、先生が立ち塞がった。

 自警団、補習授業部、シスターフッド、彼女達の間を縫って、前に立つ。銃口を突きつけられながら、けれど微塵も怯まずに、欠片も躊躇わずに。確りと、その二本の足で。

 背後からヒフミが声を上げようとした、けれどその肩をハナコが掴む。咄嗟に声を呑んだヒフミは、隣に立つハナコを見た。その瞳は不安と焦燥に塗れていた、けれど唇を噛んで、彼女はその不安を呑み込んでいた。

 信頼しているのだ――先生を。

 

「ミカ、こんな事はもう、やめよう……本当はそんな未来、望んでいない筈だ」

「あはは、先生がそんな事を云うんだ……? 私を信じているって云った癖に、こんな大層な増援まで用意して……いや、先生なら、うん、云ってくれるかな? それに最初に裏切ったのは私だもん、私が云えた事じゃないよね」

「ミカ」

「――でも、先生とはもう、あんまり話したくないんだけれどなぁ……だって、先生の声を聞けば聞く程、胸が苦しくなるんだもん」

 

 にへら、と彼女は泣きそうな顔で笑った。その顔を見る度に、先生は胸を締め付けられる。息が詰まる。先生もまた、同じように顔を歪めながら、ミカと対峙する。

 

「……先生はさ、まだ私が戻れるって、本当にそう思うの?」

「……あぁ、思っている」

「優しいなぁ、ホントに……でも、先生がそうでも、周りはどうかな?」

「――私が何とかする」

 

 ミカの言葉に、先生は断言する。

 拳を握り締め、どこまでも真っ直ぐ、不動の想いでミカを見つめる。その意思は確かな熱意と芯を感じさせ、ミカの突きつけた銃口が僅かに揺れた。

 

「……ナギちゃんは、きっと、私を許してくれないよ」

「そんな事は絶対にない、彼女は聡明で、強い子だ」

「なら、騙された正義実現委員会は? そこに居るシスターフッドは? トリニティ自警団は? 公会議は? パテル以外の派閥は?」

「説得して、交渉する、必要なら土下座行脚でも何でもする、ミカが今まで通りに学園生活を送れるように、全力を尽くす」

「……何で、そこまで私を気に掛けてくれるの?」

「――忘れたのかい、ミカ?」

「ぁ――……」

 

 先生の瞳に宿る、強い意志。いつかプールサイドで掛けられた言葉が、脳裏に過る。

 この期に及んで、先生は、まだ――。

 ミカの唇が歪む。油断すれば嗚咽が漏れそうになる。それを、浅く息を吸い込んで堪えた。代わりに、嘲笑とも云えない、乾いた笑いを零す。ミカの視界が、滲んで歪んだ。

 

「あ、あはは、やめときなよ、先生……そんな事をする価値なんて、私には――」

「私の生徒は」

 

 先生が、一歩踏み出す。

 アリウスの生徒達がグリップを握り締め、引き金に指を掛ける。応じるようにシスターフッドが、補習授業部が、トリニティ自警団が、引き金に触れる。

 それでも尚、先生は微塵も揺らがない。

 

「全員、無限の未来と、無限の可能性と、無限の価値を持った、大切な存在なんだ、何者にも成れるし、何だって叶えられる……皆が皆、確かな光を持った唯一無二の存在――そこに例外は、ひとりとして存在しない」

 

 このキヴォトスに根付く生徒達、未だ小さき名もなき光。

 その光はまだ小さく、心許ないものだろう。けれどいつか、その光は世界を覆い、遍く全てを照らす大きなものに至ると、先生はそう信じている。

 だから、「自分なんて」と卑下する必要などない。

 例え過ちを犯したとしても、抱えきれない罪悪を被ったとしても、その事に屈してしまっても、自分の立つ場所の昏さに絶望してしまっても――先生は絶対に、見捨てなどしない。

 その手を取って、大丈夫だと微笑んで見せるのだ。それがどれだけ難しい事でも、困難な事でも、夢物語であっても――。

 

「補習授業部だって、ティーパーティーだって、自警団だって、シスターフッドだって、トリニティもゲヘナも、アリウスも――ミカだって」

 

 告げ、先生は強く拳を握り締める。

 

「皆、私にとって唯一無二の、大切な生徒なんだよ」

「………」

 

 ミカの目が、見開かれる。

 その視線が、先生の首元に在る赤色を捉えた。

 銃口が揺れる、大きく、何度も。

 小さく音を立てて揺れていたそれは、軈て力なく地面に向けられ――ミカは自身の頬を伝うそれを自覚する。

 

「あは……ははっ、あはははッ!」

 

 笑った、彼女は大口を開けて笑った。それは歓喜の声だった、同時に悲壮の声だった。彼女にとって、如何ともしがたい現実を前にして、最早どうしようもないと、諦観と後悔を込めた最後の哄笑だった。

 項垂れ、愛銃を垂らし、彼女は呟く。

 

「はぁー、もう~――……」

 

 ぽつり、ぽつりと。

 足元に、涙が零れ落ちた。

 

「――ほんと、やだなぁ」

 

 声は小さく、誰にも届きはしない。ただ、渦を巻き、暗闇に沈んだ()を床に向け、彼女は独白する。

 

「何で、こうなっちゃったんだろう、何で私が、『こっち側』なんだろう……? 私だって、本当は皆と一緒に……こんな、こんな事を、私は望んでなんて――」

 

 ただの、些細な悪戯が発端だった。そんな悪戯から、彼女達と和解出来る未来を見た。今は分かり合えなくても、もっと未来に、もっと先で、いつか、気が遠くなる程先でも良いから――一緒に、笑い合える日が来るかもしれない、そんな風に、思って。

 

「――でも、駄目だよ、駄目なんだよ先生、今更、戻るなんてさぁ……」

 

 けれど、そうはならなかった。

 その未来は遥か遠く、理想の彼方に溶けて消えた。

 彼女(セイア)は消え、ナギサと自分だけが残った。私の悪戯で、ほんの些細な出来心で。ほんの少し牢に閉じ込めて、アリウスと和解するという案を呑ませて、それで「ごめんね~☆」って、いつも通り謝って。

 勿論彼女は怒り狂って、それでまた小難しい説教をされて、トリニティに新しい仲間(アリウス)が増えて、多分、最初は色々大変だろうけれども、共通の敵(ゲヘナ)の悪口でも云って仲良くなって……。

 そんな、夢物語。

 (ミカ)が望んだのは、そんな、ほんの小さな奇跡。

 

 そんな、小さな奇跡の代償がコレならば。

 

「積み重ねたら、積み重ねた分だけ、その拳を降ろすには勇気が要るの……私には、そんなものはないんだから、さっきも云ったよね? 私は――行くところまで、行くしかないの」

「なら――私が必ず、止めて見せる」

 

 俯いたまま、ミカは告げる。

 対峙する先生は、一歩も引かずに応えた。

 緩慢な動作で持ちあがる銃口、その矛先は先生に。

 涙の滲んだ瞳が、先生を見る。

 どこまでも希望に満ち溢れ、強い決意を抱いた、先生の目を。

 

「ふふっ、良いなぁ、先生のその目――」

 

 どこか眩しそうに、嬉しそうに。

 ミカはそう口にする。

 

「本当に真っ直ぐで、綺麗で、私なんかを見るには勿体ない位……でもね先生、私は止められないよ、先生と会うのが、私は――遅すぎたんだよ」

 

 そうだ、その通りだ。

 もう少し、あと一年。

 いや、半年で良い。

 早く、出会えていれば。

 今とは違う未来も存在したのかもしれない。

 自身がアリウスと交渉する前に、あんな甘い夢を見る前に出会えていれば。きっと誰も不幸になる事は無く、完全無欠のハッピーエンドを迎えられた筈だから。

 そんな、『もしも』を噛み締めミカは告げる。

 その声に、先生とは別種の決意を宿して。

 

「――アリウス、役割を果たして」

「……了解」

 

 静かに頷き、アリウスがミカに並ぶ。

 共に戦う、尖兵として。

 

 ■

 

 【私は、私の役割を果たすから……だから、先生――】

 

 ■

 

「ッ……!」

 

 先生の鼓動が一つ、大きく高鳴った。

 それは彼女の向ける瞳が、嘗てのそれと重なったから。アリウスと並ぶミカ、その光景に強烈なフラッシュバックが起こる。それを噛み殺し、先生はタブレットを抱きしめ、叫ぶ。

 

「これが最後だ……皆ッ!」

 

 先生の声に、補習授業部が、シスターフッドが、トリニティ自警団が応えた。室内にずらりと並んだ生徒達、その大勢が互いに銃口を向け合う光景。それを見る度、先生の心の奥――いつか見た光景が過り、心臓が軋む。

 これの何十倍、何百倍、何千、何万という生徒達が互いに銃口を向け合い、ヘイローを壊さんと殺し合う未来。そんな世界を回避する為に、そんな道を選ばない為に。

 先生()は、この(苦難)を望んだ。

 

「皆の力を、私に貸してくれ――ッ!」

 

 先生の叫びと共に、主要な生徒にリンクを繋ぐ。タブレットが光り輝き、先生の傍に展開していた生徒達、そのヘイローが光り輝いた。自身の行える、限界の瀬戸際まで、先生は力を振り絞る。それを見たミカが口元を歪ませ、叫ぶ。

 下手糞な笑い方だった。

 歪な笑い方だった。

 必死に貼り付け、今にも崩れそうな哄笑だった。

 ミカは泣きながら、先生に向けて駆け出す。

 

「あは、あははッ! 手加減はしないからっ! 行くよ、先生っ!?」

「此処で止めるッ、何が何でもっ――!」

 

 リンクの反動で、先生の鼻から僅かに血が噴き出した。視界が充血し、脳に鈍痛が響く。大多数の生徒に向けた干渉は、当然の様に先生へと莫大な負荷を掛ける。しかし、それでも尚先生は止まらない。噴き出した血を乱雑に拭い、ミカを、ミカだけを見据える。

 彼女が道を誤ったのならば、何度だってその手を取り、止めて見せよう。

 何故なら、(先生)は――。

 

「私はッ、ミカ()の先生だからね……ッ!」

 


 

「っ、痛い……」

 

 古びた、半ば廃墟染みた教室の中で、肌を叩く音が木霊した。それは、サオリがミサキの頬を張り飛ばした音だった。肩で息をし、怒りで表情を一色に染めたサオリ。ミサキは僅かに赤らんだ頬を手で押さえながら、淡々とした様子で呟く。

 

「ミサキ……二度と、二度とそんな事はするなッ! 絶対にだ……ッ!」

「………」

 

 サオリの怒声に、ミサキは微塵も動じない。

 彼女のその左手首には、真新しい包帯が巻き付けられていた。そして包帯には、僅かに血が滲んでいる。彼女が、自分自身で切った証明であった。

 

「……どうして?」

「何?」

「どうして、駄目なの」

 

 ミサキは問いかける。その表情に、確かな諦観を滲ませながら。

 

「何で、こんな意味のない苦痛の中で生き続けなくちゃいけないの? 何で、こんな苦しまなくちゃいけないの?」

「ミサキ……?」

「寒くて、空腹で、辛くて……毎日殴られて、怒鳴られて、傷だらけになって、ただ苦痛が繰り返される日々なのに――何で、頑張らなくちゃいけないの」

 

 そう云って、自身の腕を掴みながら彼女は問いかける。

 

「どうして姉さんは、この無意味な苦痛を私達に強要するの? それに、一体何の意味があるの?」

「それ、は……」

 

 どうして――?

 その問いかけを前に、サオリは思わず言葉に詰まる。

 どうして、こんな辛い思いをしなくちゃいけないのか。どうして、諦めては(死んでは)いけないのか? この苦痛に意味はあるのか? この耐え難い苦難の先に、夢の様な希望が満ち溢れているのか?

 ――そんな保証、どこにもないのに。

 

「それは……――」

 

 きっと、自分達に希望ある未来なんて待っていない。

 明日も、明後日も、明々後日も、その次も、そのまた次も、一ヶ月後も、一年後も――自分達はこうやって虐げられる、搾取し続けられる。自由は無く、意思は無く、歯車の様に、使い捨ての駒の様に。

 無意味に、何の、意味もなく。

 なのに、どうして生きるのか?

 

 ――私達(スクワッド)の生まれた理由は、何だ?

 

「……ほら、答えられないじゃん」

「ミサキ、私は――」

「何でも知っている様に振る舞って、姉さんだって、私達と同じ癖に」

「っ……!」

 

 ミサキの声には、失望の色が宿っていた。皆を引っ張り、何でもない様に振る舞って、いつも気丈に見えたサオリ。そんな彼女も、所詮は子どもで、自分達と同じで――この籠に捕らわれたまま、逃れる術を持っていない。ただ流されるままに、必死に生きようとしているだけで、そこに意味を見出す事は無く、逃れる意思を持つ訳でもなく。

 ただ、死んでいないだけだ。

 

「全部無意味なら、いつ死んだって、きっと同じ……私達に生きる意味なんて、抗う意味なんてないんだよ」

「み、ミサキ! 待て……!」

 

 ふらりと覚束ない足取りで、ミサキはサオリの横を通り過ぎる。咄嗟に声を上げ、彼女に手を伸ばし――けれど、その指がミサキの手を掴むことは無く。するりと、煙の様にすり抜けてしまう。

 何の為に苦痛に耐える? 何の為に抗う? 分からない、サオリには分からない――けれど。

 それでも。

 

「待て! わ、私は――……」

 

 ――スクワッド(大切な仲間)に、生きていて欲しいから。

 

 ■

 

「……ぅ――……」

 

 ふと、目が覚めた。

 サオリが目を覚ましたのは、酷い鈍痛と空腹の為だった。口の中がカラカラに乾き、罅割れた唇が痛む。布一枚存在しない床の上に転がって、肩を震わせるサオリ。冷たい床は容赦なくサオリの体から体温を奪い、手足の感覚は疾うにない。サオリは体を丸めて、まるで胎児のように自身の腕を抱き、蹲っている。そのまま薄らと視線で部屋をなぞれば、鉄格子に蓋をされた無機質な牢の隅が見えた。

 

 ――あぁ、そうだ、私は……。

 

 もう、こんな事を考えるのも何度目か。確か自分は、現状に折れかかったミサキや、泣き喚くヒヨリを励ます為に、ある事無い事を口走ったのだ。

 自分達の明るい将来を語り、遠い昔、スラムで拾って読んだ雑誌の記事を語り、このアリウスの外には遊園地だとか、水族館だとか、お洒落なカフェだとか、映画館なんかもあって、そこには楽しい事、楽しいものが沢山あるからと。

 いつか、皆でそこに行こうと。美味しいものだって、楽しいものだって、沢山ある。私達は知らない事ばかりだ、だから私達には想像もつかないような、素晴らしいものが世界にはある筈だと。

 それを探しに行こうと。

 だから――この苦痛は、その為の対価なのだと。

 そう熱弁した、らしくなく舌を回した。今のこの苦しみを忘れさせる為に、必死だった。そうしなければ、二人が、ミサキが、どこかに消えてしまいそうだったから。

 

 ――それを、幹部に聞かれた。

 

 アリウスで希望を語る事は許されない。すべては無意味で、無駄だ。そう何度も聞かされて育った、だから、自身のその行動は大人の言葉に反する行為だった。

 

 即日、懲罰房行きだった。

 散々罵倒され、殴られ、蹴られ、撃たれ、ボロボロになった所を牢に放り込まれた。最初の二日間は、痛みで碌に動けなかった。

 

 地下に作られたこの場所は、とても寒い。制服の上着を剥ぎ取られ、インナーのみで牢に投げ入れられて、もう何日目か。一週間は経っただろうか? 日にちの感覚は曖昧だ、何せこうして横たわり、何をする事も出来ないのだから、段々と時間の感覚は狂ってくる。

 食事は一日に一度、パンが半分と、一杯の水。生き残る為に、水にパンを浸して、ゆっくりと咀嚼して食べた。水を吸ったパンは、少しだけ膨らんだように感じて、満腹感がある。勿論、それが錯覚である事は知っている。けれど、そんな事でもしなければ本当に空腹で気が狂いそうだった。無意識の内に唇の皮を食い破り、血が流れる。それを舌で舐めとり、サオリは深く、息を吐いた。

 

 暫くして、ぽろりと、涙が零れた。

 蹲ったまま、サオリは音もなく涙を流す。

 

 ――限界だった。

 

「許して、下さい……」

 

 小さく、呟く。

 声に力はない。数日もの間、碌な食事を与えられず、怪我の治療をされず、この誰も居ない、小さな牢に隔離されたサオリは、誰に対してでもない、ただ漠然と自分を支配する存在に声を上げる。

 

「申し訳、ございません……二度と、このような事は……」

 

 続け、何度もか細い息を繰り返す。吐き出した息が白く濁る。震える唇を必死に動かして、彼女は懇願する。

 

「二度と、大人の言葉を、破りません……反抗、しません……将来に、希望を抱かない様、努めます――……」

 

 ただ粛々と、大人の言葉に従い、歯車の様に、駒の様に、意思なく動けばそれで良い。考える事は必要ない、未来を語る必要もない――その権利が、自分達には与えられていない。だから、サオリは涙を流しながら、蹲り、呟き続ける。この場所に捕らわれた自身を、自覚する。

 

「二度と、幸福を望みません……祈りません、だから……」

 

 もう、外の世界に行きたいなんて思いません。

 もう、未来に希望があるなんて語りません。

 もう、自分達に幸福があるなどと驕りません。

 もう、大人に逆らおうなんて考えません。

 だから――。

 

「だから、どうか……」

 

 サオリは、蹲ったまま手を伸ばす。

 牢の外に、薄らと見える光に向けて。

 それが自身の心を売り渡す行為だと知りながら、けれど、どうしようもない苦しみから逃れる為に。震える指先を、必死に。

 その、朱に向けて。

 

「慈悲を――」

 

 ■

 

 漸くここまで来たね、先生。

 次回、スクワッド襲来。

 

 此処までは凡そストリーラインに沿って来ましたが、この先は独自路線で突っ走らせて頂きましてよ? スクワッドの後書きも終わったので、こういった運命を辿って来たスクワッドと、それでも全員を救いたい先生の血塗れ姿を見せつけましょうね。後編まではなぁなぁで済ませると思いました事? んな事させねぇですわ、先生は苦しめてナンボなのです。後云っておきますが、アビドス編のラストみたいな清々しい、愛と友情と勇気に満ち溢れた締め括りを求めている方が居たら、ごめんあそばせ。申し訳ないですけれど、これはエデン条約編・前編ですの。つまりは序章、全ての救いは、後編にしか存在しないのですわ。まぁ次話を読めば嫌でも実感すると思いますけれど……でもこのエデン条約編を始める第一話で宣言しているし、その辺りは皆さんご存知の筈なのでままえやろの精神で突っ走りますわ~!

 

 そして遂に文字数百万字突破ですわ~! 大台突破ですわ~! めでてぇですわ~ッ! 何がめでてぇんですの少しもめでたくないですが? この小説書き始めた頃は十万字程度で終わる予定だったんですが? 十倍なんですが? 定期更新初めて半年経ちますけれど自分がこんな几帳面に更新出来るなんて初めて知りましたわ~。まぁでもアビドス終わってから一ヶ月休んだし、実質五ヶ月か……エデン条約やるって決めた時から予想していた事ではありますが、此処まで来ると感慨深いものがありますわねぇ~。

 因みにWordの文字数は現在百十万七千字ですわ~。Word編集時間は147,154分ですわ~! 大体2,453時間ですわ~! 狂人かよ。自分でやっておきながらドン引きですわ。他人がやっていたら「ヴぉ~、すげぇ~……」で済みますが、自分がやったとなると、「何があなたをそこまで突き動かすんですの?」って真顔で聞いてみたくなりますわ~。わたくしはただ、先生の手足を捥ぎたいだけなんですのよ~。

 先生の手足を捥ぐために、この半年休日のほぼ全部小説に注いでいるんですの。ゲームは一日一時間とか守れたの人生で初めてでしたわよ。しかも半年も! 偉くない? 偉いですねぇ! それ程でもあるかなぁ~ッ! 照れちゃうなぁ~!

 

 感想、お気に入り登録、評価、いつも励みになっておりますわ~! 感想はあんまり返信出来なくて申し訳ございません事よ! でも二日に一回更新だとマジで返す暇がねぇんですの! ごめんあそばせッ! 返せそうな時は「〇話の感想だけでも……!」って感じで返しておりますので、どうぞよしなに!

 という訳で最後まで気張って行きますわよッ! 先生の手足を捥いで血塗れにした後、生徒の泣き顔を見て胸をポカポカさせたい号、発進ッ!

 



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いのちのつかいかた

誤字脱字報告ありがとうございますわ~!
エデン条約編・前編 クライマックスに近付いて参りました。


 

「いったぁ~……」

 

 思わず、声が漏れた。

 床に仰向けに倒れたミカは、愛銃を掴んだまま天井を見上げる。

 体には彼方此方弾痕が残り、肌にも内出血の痕が幾つも見られた。何発も集中砲火を受けた彼女は、青痣だらけになった腕を掲げながら深い溜息を吐き出す。

 横に視線を向ければ、傍には無数のアリウス生徒が倒れ伏していた。

 

 文字通り――全滅だ。

 

 体育館の向こう側には、まだ半数以上の生徒を残した補習授業部、シスターフッド、トリニティ自警団が此方を見ている。ミカを含めたアリウスが打倒出来た人数は、五十を少し上回る程度か。結果としてはまさに、大敗だった。

 

「あー、もう、なにこれ、洒落にならないなぁ……」

 

 呟き、彼女は起き上がろうとして、けれど痛みに呻き、もう一度床に転がった。音を立てて、体育館の床が軋む。

 体は悲鳴を上げていた――けれど、起き上がろうと思えば、起き上がれる程度の負傷だった。まだ足も腕も動く、弾だってある、仮になくなっても、素手で殴り飛ばす位は出来る。

 けれど、それを実行しようとは思わなかった。

 

「……何なの、セイアちゃんが襲撃された時だって動かなかったのに、今このタイミングで動くなんてさ、それにトリニティ自警団まで、冗談にも程があるよ――やっぱり、先生に頼まれたから?」

 

 呟き、ミカは周囲を見渡す。最後まで暴れ倒した自身に銃口を向ける、トリニティの生徒達。正に打倒された悪という構図。それはアリウス全員が倒れた後、たった一人で十分以上に渡り単独で戦闘を続行した為だった。彼女達の瞳に油断は存在しない。自身に撃ち込まれた弾丸の数は、ちょっと覚えていないレベル。少なくとも、自分専用に調整していた防弾制服がズタボロになる位だから、百や二百は被弾したのだろう。防弾繊維に覆われていない腕が青痣だらけになるのも、当然だった。

 

「浦和ハナコは無害な存在になり果てて、アズサちゃんはただの操り人形……ヒフミちゃんは普通の子で、コハルちゃんはただのおバカさん、変数になり得る存在じゃない――それなのに、どうして負けるかなぁ……」

「……ミカ」

 

 ひとり、そんな事を呟く彼女の元に先生が歩み寄る。先生は倒れ伏したまま天井を見上げるミカを、心配げな表情で覗き込んだ。

 

「……あぁ、まぁ、そうだよね、多分最初から――先生を連れて来た時点で私の負けだったんだ、きっと」

 

 そう、先生を見上げ、ミカは笑う。

 補習授業部という部活動が発足しても、そこに先生が居なければきっと、彼女達は此処まで辿り着く事も出来なかった。試験の途中で空中分解するか、或いは上手くやれば自分達と対峙する事は出来たかもしれない。けれど、決して打倒する事は叶わない。シスターフッドが動くかどうかは不明瞭で、トリニティ自警団はきっと集まりもしなかった、ナギサの安否も不明で――いや、そもそも先生がこのキヴォトスに居なければ、きっと。

 補習授業部という存在も、生まれなかったかもしれない。

 

「いやー、駄目だなぁ、私……あはは……」

「………」

 

 全ての中心に居たのは彼だ、先生が全ての命運を握っていた。

 そこに気付かなかった時点で――きっと、こうなる事は決まっていたのだ。

 そんな諦観と、悲しみの感情を見せるミカに、先生は目を伏せる。そんな彼の背後から近づく人影があった。体中から硝煙の匂いを漂わせ、所々血を滲ませたハナコだった。

 

「ミカさん、セイアちゃんは……」

「……本当に、殺すつもりなんてなかったの」

 

 彼女、ハナコの問い掛けにミカは呟く。

 自身の罪を認め、告解するように。

 彼女は体を投げ出したまま、淡々と言葉を紡いだ。

 

「今の私が何を云っても言い訳になるけれどさ、ほんの少し、脅かすつもりだったんだよ、だから多分、事故だった……セイアちゃん、元々体が弱かったし」

 

 ハナコに視線を向けず、そう口にするミカの瞳が揺れる。

 ティーパーティーの本来のホスト、百合園セイアは体が弱い。それが生来の性質である事を、ミカは良く知っていた。自身の様に活動的に何かを行うタイプではなく、物静かに本を読み、誰かと穏やかに語り合う事を好む生徒だった。体は華奢で、彼女が誰かと争う姿を見た事は殆どない。

 だからきっと、抵抗する事も難しかっただろう。キヴォトスの生徒ならば、弾丸の数発を受けた所で何という事は無い。勿論、当たり所が悪かったり、頭部に銃弾を受ければ昏倒する事もある。けれど、一等頑丈な自身と比較すれば月と鼈と思えてしまう程、彼女の肉体強度は低かった。

 だから恐らく、事故だったのだ。

 白洲アズサも、本当は殺すつもり何てなかった。

 ただ、ごく普通に、通常の生徒であれば昏倒するか、動けなくなる程度に留めようとして――失敗した。

 ミカはずっと、そんな風に考えていた。

 

 勿論それで許されるなんて思ってはいない。「そんなつもりはなかった」、「殺す気なんて微塵もなかった」、「ただ少し、困らせようと思っただけで」――そんな言葉に、何の意味がある?

 故意であろうと、なかろうと、結果として彼女は死んだ。ならば、その責任は自分にある。この騒動を起こした切っ掛けは、自分にあるのだ。

 だからミカは、一生その罪悪を背負って生きていく。

 永遠に、死ぬまで。

 

 そんな彼女を見下ろすハナコは、どこか痛ましい表情を浮かべていた。彼女の思考を予測したのだろう。そして、それが見当違いな事も知っていた。ナギサも、ミカも知らない真実を――彼女は知っている。

 

「セイアちゃんは、生きています」

「――……え?」

 

 それは、本当に予想外の一言であった。

 少なくとも、ミカにとっては。

 天と地がひっくり返る様な言葉で、自身の根底を揺るがすような、そんな発言だった。

 

「ミカさんの行動の源、そこにセイアさんの死がある事は理解していました、しかし……彼女は生きています、ずっと偽装していたんです、襲撃犯が見つからなかった為、今は安全を確保する為にトリニティ外部で身を隠しています」

「……セイアちゃんが、無事?」

「えぇ、傷はまだ治り切っておらず、目も覚ましてはいませんが……それでも命に別状はなく、救護騎士団のミネ団長が今も直ぐ傍で警護しています、ずっと、付きっ切りで」

「………」

 

 ハナコの言葉に、ミカは目を見開いたまま彼女を凝視する。真剣なそれは、真偽を確かめている様に見えた。そして何処までも真摯なそれに、ミカはふっと首から力を抜く。音を立てて再び転がった彼女は天井を見上げたまま、どこか呆然とした様子で呟いた。

 ハナコが、慰めや嘘を吐いている様には見えなかった。

 

「……そっ、かぁ――」

 

 それは――安堵の声。

 

「生きて、いたんだ……セイアちゃん――なぁんだ……あはは……は……」

 

 セイアは、生きていた。

 ずっと死んだと思っていた。

 ずっと自分が殺したのだと思っていた。

 取り返しのつかない事をしてしまったと、それなら彼女の死を無駄にしてはいけないと。その死に報いなければ、その犠牲に殉じなければ、そう思って走り続け、彼女の死を意味あるものにしなければと自身に云い聞かせて来た。

 けれど、そんなものはなくて。

 そもそも、彼女は死んでなどいなくて。

 前提条件からして間違っていて。

 ならば、自分が今までやって来た事は、全てが全て無駄で、ただトリニティを騒がせ、大切な人を傷つけ――独りよがりに暴走しただけの、間抜けで。

 

 そこまで考えて、ミカは笑った。

 けれどそれは、嘲笑でも、嗤みでもなく――唯々、馬鹿な事をしたと、自分で自分に呆れかえった、そんな感情の滲んだ笑みだった。

 

「あはは、はぁ、はーッ、そっかぁ~……――分かった、降参、私の負けだよ」

「!」

 

 そう云って彼女は愛銃を放り投げ、両手を大きく投げ出した。大の字になった彼女は、どこか清々しそうに笑ったまま目を瞑る。そして自分を覗き込むハナコと先生、そしてその背後に佇む補習授業部に向けて告げた。

 

「おめでとう、補習授業部、そして先生……あなた達の勝ちって事にしておいてあげる」

「ミカ……」

「私の事も、好きにして、もう今更抵抗するつもりなんて無いよ」

「ミカさん、あなたは――」

「………」

 

 ハナコは何かを云いたげにミカを見る。けれど彼女はそれ以上ハナコに視線を投げる事は無く、口を閉ざした。ハナコも自身と対話する意思がないと感じ取ったのだろう、彼女はそっと身を引き、代わりにアズサが前に出る。

 ミカは自身を見下ろすアズサを視界に捉えると、その表情を変えぬまま、そっと口を開いた。

 

「……アズサちゃん、自分が何をしているのか、この結果を齎した以上、どうなるか分かっているんだよね?」

「……勿論だ」

「トリニティが、あなたを守ってくれると思う?」

「………」

「きっと守ってなんてくれないよ、此処はそういう場所だから、ましてやアリウスなんて場所に所属していた以上、あなたはあらゆる派閥から目の敵にされる」

「……そうだろうな」

 

 ミカの言葉に、アズサは頷く。アズサは補習授業部の為に、トリニティの為に動いた。けれどそれはアズサの意思によるもので、トリニティから要請した訳でも何でもない、彼女を庇う理由をトリニティは持ち合わせていない。何せ彼女は敵性勢力の一員で、元スクワッドのメンバー。

 そして万が一、トリニティが彼女を庇護したとしても――その経歴は必ず話題に上る。トリニティの中に於いて、噂という物は怖いものだ。目に見えない刃と云い換えても間違いではない。賭けても良い、彼女は必ず、有形無形の悪意に晒されるだろう。経歴を隠しても、口を閉ざしても、秘密は必ず漏れ出てしまう。そう、他者の秘密と不幸というのは、甘いものだから。排他的なトリニティに於いて、それは致命的な弱点となり得る。

 

「――これからあなたは、アリウスの影にずっと追われ続けるよ、そしてトリニティに居座っても、必ず悪意に晒される、どこに行っても、朝も昼も夜も、永遠に」

「あぁ」

「あなたが安心して眠れる日は、きっと来ない」

「……あぁ」

「それに、サオリから逃げられると思う? アリウスの出身なら勿論知っているよね、et omnia vanitas……」

「うん、分かっている、それでも私は最後まで足掻いて見せる――最期の、その時まで」

 

 アズサは思う。自分は、アリウスを裏切った。その報いは必ず自身を蝕むだろう。

 ある日唐突に終わりが訪れるかも知れない、日常の最中で心が折れるかもしれない、いつかこの選択を後悔する日が来るのかもしれない。

 それが明日なのか、一週間後なのか、一ヶ月後か、半年後か、一年後か――或いはもっと先の未来なのか。アズサには分からない。

 けれど、それでも――。

 

「抗う事は、無駄なんかじゃない」

「うん……そっか」

 

 ミカの目を真っ直ぐ見つめ、アズサは告げる。そのどこまでも力強い光に、ミカは薄らと微笑んだ。

 ――あなたは、強いね。

 その言葉を、口にする事は無かった。

 

「ミカ」

「ん、先生……」

「どうして、指輪を使わなかったんだい?」

 

 屈み込み、ミカを直ぐ傍で見つめる先生。彼の視線は、ミカの首元に注がれていた。そこにあるのは銀色のチェーン、胸元に埋まったそれは、何かをぶら下げる為のものだった。

 ミカは苦笑を零し、そっとチェーンに指を掛ける。そして外へと引っ張れば、見覚えのある指輪が顔を覗かせた。それを指先で摘み、月光に照らす。銀の指輪は、二人の関係が変質して尚、変わらぬ光を放っていた。

 

「あはは……先生ってば、分かっていて聞いているでしょ?」

「……半分は、ね」

「酷いなぁ、私がさぁ、こんなの使える訳ないじゃん」

「………」

「先生、私は人殺しじゃないんだよ、ましてや先生を殺す何て……そんな未来、真っ平ごめん、絶対に嫌」

 

 そう云って、彼女は指輪を握り締める。

 先生の云う通り、この指輪を使えば先生を殺害する事は簡単だった。自身がキーマンと信じる先生が居なくなれば、このクーデター紛いの行為もきっと、成功に導く事が出来ただろう。

 けれど、そんな選択肢を選ぶ筈がない。

 ミカは、そんな未来を望んでいない。

 誰かを殺す未来何て、真っ平ごめんだ。

 

「本当は、この指輪もどうにかして溶かしたり、棄てちゃおうって思ったんだ……でも、何かの拍子で誤作動すると怖いし、何だか手放すのも嫌で、結局こうして未練がましく持って来ちゃった」

 

 掌の中にある指輪を感じながら、ミカはそう呟く。

 未練、そう未練だ。自分はこの指輪に未練を抱いている。本当ならば手放すべきだった、今すぐにでも処分すべきだったのだ。けれど、それが出来なかった。結局最後まで、ミカは先生の残した一抹の信頼、その残滓に縋っていたのだ。

 

「おかしいよね? 私は、先生の信頼を裏切ったのに――その証に、まだ縋っているの」

「……ミカ」

「これ……返すね、先生」

 

 ミカは首元のチェーンを力任せに引き千切ると、するりと指輪を抜き取り先生に差し出した。その指先は、小刻みに震えていた。それは、寒さだとか負傷によるものではない。それを手放すという事実に対する、心細さからくるものだった。

 

「これは、私が持っていて良いものじゃないから……これは、先生が信じてくれた証だもん、それを裏切った私が持っている訳にはいかないよ」

 

 そう云って、ミカは気丈にも笑って見せた。けれどその口元は引き攣っていて、指輪を握る手は力強い。先生は暫くそんなミカを見つめ、静かに手を差し出した。

 差し出されたそれに、ミカは自身の手を乗せる。手を放せば、指輪は先生の元へと戻る。そうするべきなのに、ミカは暫くの間手を開く事が出来なかった。それでも時は待ってくれない。ゆっくりと開かれたミカの手から、銀の指輪が零れ落ちる。先生はそれを確りと受け止めた。

 

「……アロナ、頼む」

 

 呟きは小さく、響く事は無い。指輪を見つめる先生の表情は、どこか柔らかく。

 数秒の後、銀の指輪から音声アナウンスが響いた。

 

『SDC、自壊処理要請――承認』

 

 音と共に、先生の首元に刻まれた赤い線は消失した。皮膚下にあったナノマシンが自壊し、処理されたのだ。それを確認し、二度、三度、指先で首元を摩った先生は、引っ込めようとしたミカの手に再び指輪を握らせる。

 

「これは――ミカが持っていて」

「えっ……」

「もう爆破機能はないよ、本当に、只のアクセサリーとしてしか機能しない――でも」

 

 ミカの手は冷たく、先生の手は暖かかった。先生を見上げる彼女の目はどこか驚愕に塗れていて、先生はいつも通り、何て事の無い日常で見せる笑顔を、ミカに送った。

 

「ミカはまだ、私の生徒だし、私はミカを信じているから」

「あ……」

 

 ■

 

「――それがお前の選択か」

 

 ■

 

「え……?」

 

 不意に、誰かが声を上げた。

 それが誰のものだったかは分からなかった。先生が声の漏れた方向へと屈んだまま視線を向ければ、倒れ伏していたアリウス生徒が、立ち上がっていた。

 たった一人で、何か強烈な意思と共に。

 衣服は破損し、所々血が滲んでいても尚、彼女はマスク越しに荒い呼吸を繰り返し、懐に手を入れた。そして、取り出したのは少しばかり輪郭の膨らんだ手榴弾。

 彼女はレバーを押し込み、安全ピンを引き抜こうとする。

 

「何を――」

 

 近場に居たシスターフッドが叫び、取り押さえようと飛び掛かった。しかし、アリウス生徒が一手早く、その指が完全にピンを引き抜く。

 

「まさかっ、自爆する気ですかッ……!?」

「なっ!?」

 

 ハナコが叫び、先生を庇う様に前へと立つ。先生は立ち上がると咄嗟にタブレットを構えた。このまま飛び掛かり、彼女を取り押さえた所で手榴弾の爆発は止められない。爆発までの猶予は凡そ三秒から五秒、レバーが押し込まれたままであれば再度安全ピンを刺して止める事は出来る。しかし、手を離れてしまえば不可能。上に覆い被さるか、遠くに投げるか――。

 

 そこまで考え、先生の思考にノイズが走った。それは強烈な違和感から。

 

 ――違う、そもそもの話だ。こんな場所で自爆をして、何になる? 

 確かに、手榴弾やC4などの爆発物で周囲の生徒を巻き添えに出来るかもしれない。だがこんな劣勢で足掻く理由が分からない。トリニティ周辺は既に抑えた、作戦時間も超過しているだろう。アリウスにとってこれ以上の作戦継続に意味は無い。それでも尚、私を殺そうとしているのか? マダムにどうしようもなくなったら自爆しろとでも命じられた? それらの可能性はあり得た、だが――。

 何か云いようのない悪寒、背筋に氷柱を突き入れられたかのような感覚。酷く恐ろしい予感が先生を突き動かした。

 本来であれば候補にも登らない、一般生徒に対するヘイロー干渉、それを先生は決断する。

 

「アロナッ!」

『は、はいッ――!』

 

 先生の声に応じたアロナが、その意思に従い今しがた手榴弾を構えたアリウス生徒、そのヘイローに直接干渉する。瞬間、雷鳴に似た閃光が彼女のヘイローに走り、その輪郭が乱れた。

 

「あぐぅッ!?」

 

 全身が感電したかのような衝撃、そして痺れ。耐え切れず崩れ落ちる生徒、その手元から歪な手榴弾が零れ落ちる。

 

「その爆弾を外に、早くッ!」

「っ、は、はいッ!」

 

 アリウスに飛び掛かったシスターフッドが唐突なそれに面食らうも、彼女は先生の声に従い手榴弾を拾い上げると、壁の大穴に向けて全力で投擲を敢行した。手榴弾は夜の闇に溶ける様にしてその姿を消し――炸裂する。

 

「きゃぁッ!?」

「ぐぅッ……!?」

『こ、これは――』

 

 熱波と風圧が先生と生徒達の肌を焼き、思わずその場に屈み込んだ。とても、手榴弾ひとつの威力とは思えない爆発だった。C4の爆発に負けず劣らずな衝撃、臓物が持ち上がる感覚、マトモな代物ではない事は確かだった。その爆発から、その手榴弾の実態を把握したアロナが焦燥を滲ませ叫ぶ。

 

『先生、この爆弾は……っ! へ、ヘイロー破壊爆弾ですッ!?』

「ッ!?」

 

 ――ヘイロー破壊爆弾。

 その名前を聞いた瞬間、先生は己の直感が正しかった事を悟る。

 それは通常、銃弾を何十発と浴びても死亡する事がないキヴォトス生徒を【殺害】する為に作られた代物。頑強な生徒達であっても尚、その爆発を浴びれば死に至る。文字通り、忌避すべき兵器。

 それは、この場に存在してはいけないものだ。

 まだ、造られてはいない筈の代物だ。

 

『ま、まだ試作品の様ですが、こ、これを受けたら――』

 

 アロナの悲鳴染みた声を耳にしながら、先生は血の気の失せた表情と共に振り向く。

 爆弾は、今の生徒だけが持ち込んだのか? 否――そんな筈はない。

 もし、自身の考えが正しいのならば。

 この、爆弾は。

 

 先生が振り向いた先――意識のあるアリウス生徒、その全員が、一斉に手榴弾(ヘイロー破壊爆弾)のピンを抜いていた。

 

 ■

 

「さぁ、どうする……先生?(聖人?)

 

 ■

 

「―――」

 

 マダムの、どこか悦楽を感じさせる声が脳裏に過った。それは幻聴だろうか? それとも何処からか状況を傍観している彼女の肉声だろうか。

 暗闇に潜む、朱の残滓。

 先生は全力でそれ睥睨し、絶叫した。

 

「ベアトッ、リーチェェエエッ!」

 

 ――決断を迫られていた。

 

 ピンを抜いたアリウスの生徒は二十名前後、爆発の規模は通常の手榴弾とは比較にならず、それが連鎖的に爆発するとなればこの体育館が吹き飛ぶことは無くとも、中に居る生徒達は無事では済まないだろう。負傷で済めばまだ良い方だ、最悪――何十、何百という死者が出てもおかしくはない。

 自身の目の前で、手の届く範囲で――生徒が死ぬ。

 それは到底受け入れられない結末だった。看過できない現実であった。

 思考が巡る、時間の流れが遅く感じる。極限まで集中した意識が、先生にあらゆる未来を垣間見せる。無数に分岐した未来への枝葉、その一つを先生は選び取る。

 誰も、死なせなどしない――先生はタブレットを握り締め、叫ぶ。

 それが彼女の狙いであったとしても、そうしなければならなかった。

 

「アロナァッ! 防壁発動ッ! 生徒()を守れェッ!」

『は、はいッ! 防壁、発動しますっ!』

 

 先生の声に応え、アロナは防壁を展開する。それは生徒を守る様に展開するのではなく、彼女達の持つ爆弾を包み込むように、宛ら隔離するように展開された。

 青白い光が手榴弾を囲い――同時に、炸裂。

 衝撃と熱波が周囲を覆い、爆音と悲鳴が体育館に木霊する。先生もまた、その只中で目を瞑り、爆発の衝撃に歯を食い縛る。複数の爆破を同時に封じ込める、それは本来意図した使用用途ではない。故に完璧に爆発を防ぎ切る事は出来なかった。

 けれど、それで良い、それで十全。爆発の規模は格段に縮小され、近場に居た生徒に対する被害もごく軽微。通常の手榴弾か、それ以下の威力しか発揮出来ていない。

 先生は大量虐殺、その阻止に成功する。

 しかし――。

 

『っ、ごほッ……! せ、先生、シッテムの――バッテ――サポ……――』

「っ、くッ……!」

 

 十全に備えていたシッテムの箱、その電力が底を突く。アリウス、及びミカとの戦闘、多人数へのサポート接続、ヘイローへの直接干渉、そして今しがたの広範囲の障壁展開。その負荷はシッテムの箱を蝕み、液晶に映し出されていたアロナの姿が掻き消える。そしてランプは緑から赤へ――その電源が切れた。

 

「けほッ、げほっ、な、何、なんなの……!?」

「せ、先生! 御無事ですか……!?」

「くっ、何が――」

「ごほッ、自警団は安全の確保を最優先に……!」

「静粛に! 取り乱してはなりませんっ、迅速に被害報告を!」

「皆さん、落ち着いて下さい! 一先ずアリウスの生徒を拘束して――!」

 

 補習授業部の面々が、シスターフッドが、トリニティ自警団が混乱に呑まれる。唐突な爆発、アリウスの自爆紛いの行為、それらは全員の精神を乱し、ハナコやサクラコと云った面々がそれを収めようと声を掛けるが、喧騒は鳴り止まない。

 先生はシッテムの箱を抱えたまま、ポケットに手を入れる。中には万が一の為に用意していた予備バッテリー。本当ならばシッテムの箱そのものを改造し、最大容量を増やしたいところだが――残念ながらオーパーツであるこれに手を加える事は不可能であり、外部給電装置に頼る他ないのが現状だった。先生は端子をシッテムの箱に繋ぎ、次いで皆の混乱を鎮める為に声を上げようとする。

 大丈夫だ、被害は出ていない。

 このまま混乱を鎮め、アリウスの生徒全員を捕縛すれば――。

 

「――先生」

「ッ!?」

 

 唐突に――背後から聞こえたそれ()に、先生は身を凍らせた。

 振り向けば、立っているのはアリウスの生徒。一般的な白のコートに、簡素なバリスティックベスト、手に見えるのは粗悪な市販銃。その顔はマスクで覆われ見る事が出来ず、ヘイローも見覚えが無い。

 

 けれど、何故だろう。

 先生はその生徒から、目を離す事が出来なかった。

 

 彼女のヘイローにノイズが走る。それは不自然な現象であった。感情の有無によって、通常ヘイローが変化する事は無い。先生にとってその現象を起こせるのは、青の教室に居るアロナのみ。故にそれは、生徒自身がヘイローを欺瞞している証左に他ならない。

 欺瞞装置の乱れにより、一瞬本来の姿を取り戻す円環。

 その形は。

 その色は――。

 

「……彼女(マダム)から伝言だ」

 

 ピン、と何かを弾く音がした。

 それが爆弾の安全ピンを抜いた音だと、正面に立っていた先生は分かった。

 彼女が手にした歪な手榴弾(ヘイロー破壊爆弾)、それを余りにも無造作に放る。放物線を描き、宙をなぞるソレを視認しながら、先生は凍ったように動けない。

 それが運命であるかのように。

 爆弾が放られた――その行き先には。

 

「けほっ、ちょ、ちょっと……!? 皆!? 一体、何して――」

「―――」

 

 噴煙に咽ながらも、必死に声を上げる――聖園ミカ。

 唐突なそれに、未だ彼女は理解が追いついてない。何が起きたのか、これから何が起ころうとしているのかも。

 そんな彼女目掛けて、ヘイロー破壊爆弾はゆっくりと肉薄する。

 時間が、酷く遅く感じられた。十倍も、二十倍も。同時に、凍り付いた先生の肉体が震える。視界の隅に捉えた彼女――サオリの口元が、マスクに覆われているにも関わらず、見えた気がした。

 その唇がはっきりと言葉を紡ぐ。

 

「――あなた(貴様)は、守って死ぬか? 見捨てて生きるか?(どちらを選ぶ?)

 

 動けと、先生は自身の肉体に命じた。

 筋肉が軋み、精神が極限まで研ぎ澄まされるのが分かった。

 シッテムの箱が再起動するまでの猶予はない、そして仮に再起動を果たしたとしても、爆発を防ぎ切るには圧倒的に電力が足りない。幸い、放り投げられた爆弾の先に居るのはミカひとり――周囲に他の生徒の姿はない、まるで彼女を中心にぽっかりと穴が空いてるかのように。

 ミカはかなり負傷している。頑丈な彼女ではあるが、きっとこの爆発は耐えられない。そんな直感があった。

 大人のカードを切る時間も、アロナに頼る事も出来ず、今唯一自由に動かせるのは、この肉体ひとつのみ。

 

 ――迷いは、無かった。

 

 先生は全力でミカに駆け寄り、その頭部を抱える様に抱き着く。唐突に噴煙を裂き、自身を抱き締めた先生に彼女は驚愕し、叫んだ。

 

「え、わぁッ!? せ、先生ぇっ!? な、なにを――!?」

「……ッ!」

 

 座り込んだミカを抱えたまま、先生は背中を晒す。首は極限まで丸め、被弾面積を狭める。腹部を晒せば裂けて死ぬ、しかし背中ならば、或いは――。

 それが単なる気休めである事を先生は良く知っていた。人間の肉体強度など、銃器や爆弾の前では誤差に過ぎない。本来ならば押し倒し、足を向けるべきだった。しかし、今はこれが精一杯だった。

 爆発物には、安全離隔距離というものが存在する。それぞれ、『最低安全離隔距離』、『隔壁離隔距離』、『推奨離隔距離』とあるが、全ては読んで字の如く。最低限これだけは離れなければならないという距離、遮蔽を挟んだ場合の安全距離、そしてこれだけ離れていれば安全という距離。

 そして残念な事に、手製のパイプ爆弾であって尚、最低安全離隔距離は二十一メートル。推奨離隔距離に至っては、三百六十メートルに至る。

 

 投擲されたヘイロー破壊爆弾と先生の距離は――凡そ二メートル。

 

 生き残れる確率は、どれ程か。

 それが呆れるほどに低い確率であると、先生の理性は告げていた。

 

 先生の脳裏に、あらゆる出来事が過る。走馬灯ではない、それは自身がこれから残してしまうあらゆる罪悪に対する懺悔だ。

 強く、強くミカを抱き締めた先生は、虚空で閃光を放つ爆弾を前に、悪態を吐く。

 

「くそ……ッ!」

 

 ごめん、と。

 先生は心の中で呟いた。

 それが今しがた抱きしめたミカに向けたものなのか。或いはワカモやホシノに向けたものなのか。ナギサか、アロナに向けたものなのか。それとも、これから自身を殺す事になる、サオリに向けたものなのか。

 先生自身にも、分からなかった。

 ただ迫りくる終わりを、先生は見届ける事しか出来なかった。

 

「先生ッ――!?」

 

 誰かが叫んだ。

 それは、先生の行動にいち早く気付いたヒフミだった。

 彼女は叫び、何かを投げつける。それが何であるかを確認する事も出来ず。

 

 次の瞬間――先生の背中を、爆炎が吞み込んだ。

 


 

 誰でも出来る! 簡単、先生の倒し方講座! 

 

 ・生徒(材料)をたくさん用意します(どこの学園でも構いません)

 ・ヘイロー破壊爆弾を持たせます(試作品でも構いません、人に作用するものであれば何でもよろしいです)

 ・先生の目の前で自爆するよう命令します(洗脳が効果的です)

 ・先生はそれを阻止しようとします(普通に戦うと無敵バリアがあるので大変ですからね)

 ・バリアには回数制限があるので、それが尽きるまでこの行程を繰り返します。

 ・先生の使えるバリアが切れたら、大人のカードを使われる前に倒しましょう! 先生は人間なので、射殺でも爆殺でも何でもオーケーです!

 

 ね? 簡単でしょ?

 尚これに失敗すると、生徒に自爆を強要した大人として先生がバチクソにキレるので、用法容量を守ってご使用下さい。

 キヴォトス中の生徒達に最後は希望と未来をね! 与えてあげる前提で、まず絶望させられるだけ絶望させてあげようね! 一生残る恐怖と衝撃を代償に、一生残る希望と未来をね!

 

 これですよこれ、この透明感がブルアカには必要なんですよ。五臓六腑に染み渡るような、生徒の愕然とした表情と悲鳴が足りんのです。うぉ~先生~! 私だ~! 爆発で臓物零れさせながら無惨な死体を晒して補習授業部の皆を絶句させてくれぇ~ッ! でも先生殺しちゃったら後編で先生の事ボコボコに出来ない……。まぁ今回は(死亡は)許したる! しょーがないなぁ先生は~! ミカの前でズタボロになるだけで許してあげるよぉ~! 先生にとって背中の傷は生徒を庇った証だもんね! 私、頑張って先生の背中に傷いっぱいつけるよ! 先生が自分の背中を誇れるようにッ! 背中で語る(物理) う~ん、これは戦士。

 ところで先生、右と左どっち好き? いや、他意はないよ。右か左か選べないなら、一番から五番で好きな数字でも良いよ。右上、左上、右下、左下、それぞれあるから好きなの選んでね。全部でも良いよ。やっぱり良くないよ。最低一個は残しておいてね先生。じゃないと真上選ぶ事になっちゃうからさ。まぁ真ん中でも良いんだけれど……。

 やっぱりさ、一度限りの晴れ舞台だしさ? 多くの人に見て貰いたいじゃん、こういうのは、お分かりになって? なりますわよね? 分かって下さったのね、良かったですわ。最悪指紋認証用の人差し指さえ残っていれば大丈夫でしょ(適当) 

 大丈夫ですわ、まだ殺しはしませんの、わたくしは正気ですの、先生が取り返しのつかない死に様を晒す時は、誰にも邪魔されず、自由で、静かで、豊かで、何というか救われてなきゃあ、駄目なんですわ。

 

 因みに先生が縫い包み作ったり、裁縫が得意なのは過去に良く自分の体を縫い縫いしていたからです。周りに誰も居なかったら自分で傷口縫うしかないですものね。惨めですわねぇ先生~!? 物陰に隠れながら苦痛に顔を歪めて自分の腹を縫合している先生を考えると凄く幸せになれちゃう……。

 では先生、次回も透き通るような世界観を大切に守って参りましょうね!

 ああ、ああぁあ~↑ 幸福が訪れる音ぉ~~~↑ 見ていて欲しいセイア、これが先生の掴んだ輝かしい未来だよ……!

 



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幸福な未来(皆が笑い合える明日)を、君に。

誤字脱字報告に感謝を。


 

 この身を、終わりが襲う度に――私は思う。

 

 こんな、誰も救えず、罪悪を消す事すら出来ず、ただ無為に命を浪費する事しか出来ぬ私に、涙を見せる生徒達を見る度に。

 

 私は、その人生を捧ぐに値する先生なのか。

 私は、世界を燃やして尚救うに値する人間なのか。

 涙を流し、その死を嘆くに値する人間なのか。

 そんな事を、考える。

 ――考えてしまう。

 

 私は。

 

 誰かを裁き公正な善を為す、審判者であれば良かった。

 この世の苦痛を消し去り救う、救済者であれば良かった。

 世の罪悪を掻き消す、絶対者であれば良かった。

 

 けれど見下ろした手はどこまでも小さく、薄く、脆く、弱い。

 掴んだ未来はすり抜け、また振り出しに戻る。何度掴んだって、今度こそと意気込んだって、最善の未来(望んだ明日)はいつだって遠く、儚く――遥か向こうに。

 

 私は、誰かの命を奪い裁く事が出来ない――私は審判者ではないから。

 私は、誰かを苦しみから救う事が出来ない――私は救済者ではないから。

 私は、誰かが背負う罪悪を掻き消す事が出来ない――私は絶対者ではないから。

 

 誰を裁き、誰を裁かぬのか。

 誰を救い、誰を救わないのか。

 誰を正し、誰を正さぬのか。

 

 それを選ぶ権利など、私にはない。

 私が自由に出来るのは、徹頭徹尾――私のこの、命ひとつ。

 たったそれだけ。

 それだけだ。

 

 それだけを携え、私は、寄り添い続けなければならない。

 それが使命だから。

 それがこの身の為すべき事だから。

 文字通り、命を使って為さねばならぬ事だから。

 

 ――いや、違う。

 

 為さねばならぬ事、などではない。

 使命感に駆られて行う事などでは、断じて。

 私は。

 私の意思で。

 私自身の意思で。

 

 共に笑い。

 共に泣き。

 共に遊び。

 共に学び。

 

 そうやって、寄り添い、共に在りたいのだ。

 私の愛しい――生徒達と。

 だから。

 

 ――まだ、斃れる訳にはいかないんだ。(私の背中を、生徒達が見ているんだ)

 

 ■

 

【………先生?】

 

 ■

 

「――せい、先生ッ!」

 

 声が、聞こえる。

 それが誰のものか、酷くノイズの混じった音からは判別が出来ない。ただ、誰かが必死に、自身の名前を呼んでいる事だけは確かだった。揺すられる体、それが誰かの手によるものなのか、それとも自身の感覚がイカれてしまったからなのか、判断がつかない。その感覚は曖昧で、夢心地だ。

 先生は何かを口にしようとして――けれど舌のひとつも動く事はなく。ただ、か細い呼吸音だけが口元から漏れていた。口元から滴り落ちる赤色、視界の先に自身の指先が見える。赤に塗れ、擦り切れたソレ。うつ伏せに転がったまま、小さく、先生は呻く。

 

「大丈夫です、まだ息はありますっ! ヒフミちゃんのバッグが、ギリギリのところで先生を救ってくれましたっ……!」

 

 誰かが、自身の体を弄っている。辛うじて見える左目を動かせば、蒼褪め、歯を食い縛り、必死になって手を動かすハナコの姿が見えた。彼女の触れた場所が、酷く痛んで、思わず顔を顰めた。流れ出る赤が視界を埋めていく。体が怠い、息が続かない。喧騒が周囲に響いていた。誰かの駆ける音、叫び声、悲鳴、怒声、皆が、私の名前を呼ぶ。

 直ぐ傍に、小柄な人影が駆け寄って来た。

 

「――せ、せんせい!? 先生っ! 先生ぇッ!?」

「っ、コハルちゃん、揺らしてはいけませんッ! 何方か、医療班を、早くッ!」

「お、おいッ! 至急救護騎士団を呼んで来い! 急げよッ!?」

「は、はいっ!」

 

 直ぐ傍で、幾人もの生徒が声を張っていた。自警団の制服を着込んだ生徒が叫べば、シスターフッドのメンバーが転びそうになりながらも、慌てて体育館を駆けて行く。うつ伏せになったまま、先生は静かに視線を動かす。血が額を流れ、片目を覆っていた。右目が良く見えない。これは血液のせいか、それとも――。

 ふと、歪んだ視界の先に、見覚えのある顔が映った。

 

「ぇ、ぁ………え……?」

 

 呆然とした表情で先生を見下ろし、頬に大量の赤を付着させた――聖園ミカ。

 所々制服が薄汚れ、破けているものの命に別状はなく。しかし、その体には真っ赤な血と煤が付着し、その視線は座り込んだ自身に縋りつく様な恰好で倒れ伏す、先生を凝視していた。どこか信じられない様に、受け入れられない現実を見つめる様に――。

 

「な、に……これ………?」

 

 震える声で、彼女は云った。

 瞳孔を開き、震える指先を何度も先生に向けては引っ込め、視線を散らす。目前には倒れ伏した先生、赤に塗れ、呼吸はか細く、今にも死んでしまいそうな――瀕死の先生が居る。大きく裂けた背中は焼け爛れ、何かの破片らしきものがそこら中に突き刺さり、表面はべっこりと凹んでいる。

 何故、こんな事になった? どうして先生が死にかけている? その答えは簡単だ。先生は、自身を庇ったのだ。

 その事実を認めたくないと、こんなのはあり得ないと。ミカは緩く首を振る。

 だって、だって彼女の考えていた結末は、こんな筋書きではなかった。そうだとも、仮に失敗するとしても、こんな、こんな結果には――。

 

「ぅ、そ……でしょ、はは……せ、先生、が……なんで、こ、こんな――こんな……!」

 

 引き攣った声で呟き、ミカは自身の頭を抱える。くしゃりと、髪を握り締めながらミカは強烈な激情に駆られた。目元から大粒の涙が次々と零れ落ち、口が音もなく開閉する。その表情は泣き顔とも、笑みとも取れる、酷いものだった。背を丸め、ミカは短い呼吸を繰りし、喉を引き攣らせる。

 

「は、ぁぅ、ぁ、ぅああ……あああぁッ……!」

「ッ、ミカさん! ミカさんッ! 確りして下さ……――確りしなさいッ!」

 

 ハナコは、ミカの心が壊れかける音を聞いた。それは本当に、瀬戸際だった。

 頭を抱え、髪を掴み、背を丸めて幼子の様に震えるミカを見て、ハナコはこのまま放っておけば、聖園ミカという生徒の心が死んでしまうと、直感的にそう悟った。

 故に彼女はミカの肩を掴み、無理矢理上体を起こさせると、彼女の頬を目掛けて思い切り腕を振った。肉を打つ乾いた音が鳴り響き、ミカの頬が赤く染まる。頬を張られたミカは、一瞬何が起こったのか分からないとばかりに目を見開き、それから恐る恐る、ゆっくりとハナコを視界に捉えた。その血に塗れた手で頬を抑え、彼女は呟く。

 

「あぁ、ぁ――あ、う、浦和、ハナコ……?」

「惚けている場合ではありませんッ! いち早く治療しなければ、先生はっ――あなたはティーパーティーの一員でしょう!? 今為すべき事をっ、為せる事を為しなさいッ!」

 

 ハナコの真剣な、それでいて涙の混じった絶叫に、ミカは暫く呆然とした反応を返し、それから小さく、何度も頷いた。それは殆ど反射的な行動だった。思考は働かぬまま、けれど云われた事は理解出来ると、喉を震わせる。カラカラに乾いた口内、唾を呑み込むと、酷い鉄の味がした。

 

「ぁ……そ、そう、だよね、そう……先生、っは、早く、治療……しない、と――」

 

 呟き、ミカは両手を彷徨わせる。先生の状態は酷くて、あちこちから血が流れ出ていた。けれど一番酷いのはやはり背中で、ミカはその背中に――両手を押し付ける。

 ぐしゅり、と。嫌な音がした。思わず、口元から引き攣った悲鳴が漏れた。押さえつけた手の平から血が、どんどん溢れて来る。赤黒いそれは、一向に止まる気配がない。その、妙な暖かさがミカの両手から零れ落ちる度、先生の死が一刻一刻と迫っている様で、思わず指先が震えた。涙は止まらず、歯が恐怖で噛み合わない。

 慌てて、ミカは自身のケープを脱ぎ捨て、先生の傷口に止血布代わりに押し当てた。それが正しい判断かは分からなかったが、兎に角血を止めなければという気持ちだけが先行していた。

 押し当てたケープはものの数秒で血を吸い、変色し、溢れてしまう。これが果たして意味のある行為なのか、彼女には分からなかった。ただミカは小さく、先生の名を呟きながら、傷口を抑える事しか出来なかった。彼女自身、自身を襲う莫大な恐怖と不安と戦うので必死だった。

 ――それでも、血は止まらない。

 

「……あぁ、ぅあああッ!」

 

 最初に限界が来たのは、コハルだった。

 彼女は先生に縋りついたまま、大口を開けてぽろぽろと涙を零した。先生の袖を強く、強く握り締め、何度も喘ぐ様に呼吸を繰り返し、その体を揺り動かしながら絶叫した。

 

「やだッ! やだよぉ! 先生、せんせぇっ!? 起きて、起きてよぉ!? 起きてったらぁッ!?」

「――っ、コハルちゃん! コハルちゃん、落ち着いて下さいッ! 駄目です、今はっ!」

 

 辛うじて自制出来ていた感情が決壊し、彼女は半狂乱になりながら先生の体を揺すり始める。ヒフミは、蒼褪めた表情のまま立ち竦んでいたが、コハルの声に辛うじて意識を取り戻し、背後から彼女を抱きしめる様に押さえつける。今は、身体を揺する事さえ恐ろしく感じた。ほんの、些細な刺激でさえ――先生の死に直結してしまう様な気がして仕方なかった。

 

「先生ッ! やだぁッ! せんぜぇぇえッ!?」

「こは、コハルちゃんッ! 落ち着いて……! 大丈夫、大丈夫ですから……ッ!」

 

 ヒフミに羽交い締めにされて尚、コハルは必死の形相で先生に向かって手を伸ばす。ヒフミはコハルを力一杯抱きしめながら、必死にそう口ずさんだ。今にも泣き出しそうになりながら、蒼褪めた表情で、何度も、何度も。

 けれどそれが何の気休めにもならない事は、ヒフミ自身が一番良く分かっている。それは寧ろ、自分に向けて放った言葉であった。

 大丈夫、大丈夫と。

 彼女はそう云い聞かせる。

 背後にぴたりと張り付く、不安と恐怖から目を逸らして。

 

「あの――後ろ姿は……ッ!」

 

 ふと、声がした。

 アズサの、聞いた事のないような声だった。

 ヒフミが振り向くと、ボロボロの恰好のままアズサが体育館の壁、その大穴を凄まじい形相で睨んでいた。その視線が先生と大穴を一瞬行き来し、歯を食い縛った彼女は唸る様に呟く。

 

「あいつ、は……ッ!」

「え、あっ、アズサちゃんッ!? 一体どこに!?」

「―――ッ!」

 

 銃の安全装置を弾く音。次いで、弾倉を切り替える音。ヒフミが声を上げた時、既にアズサは駆け出し、人の群れの中に飛び込んでいた。その、純白の制服が黒に紛れ、見えなくなる。

 

 ヒフミが最後に見たアズサの瞳は――憎悪と憤怒に満ちていた。

 

「――ま、待って! 待ってくださいっ! アズサちゃんッ!?」

「ああぁあッ、先生ぇええ!?」

「っ、こ、コハルちゃん……! 暴れないでっ、あばれ……あ、ぁあ、ううぅ……ッ!」

 

 ヒフミは、必死に声を上げ、アズサに手を伸ばそうとした。何故か、酷く嫌な予感がして仕方なかった。彼女がどこか、遠くに行ってしまいそうで――。

 けれど今にも暴れ出そうとするコハルに体を引っ張られ、その場で堪えるのに一杯一杯だった。一瞬、視線を切った瞬間にアズサの影は何処にも見当たらず、完全にその背中を見失う。

 瞬間、辛うじて我慢していた涙が溢れ、ぼろぼろと頬を伝った。周囲は、喧騒に満ちていた。血と、火薬と、硝煙の匂い。平和だった、つい数日前が、まるで嘘みたいに。

 視界に必死で先生を生かそうとするハナコと、蒼褪めた表情で止血するミカ、そして涙を流しながら絶叫するコハルが見える。視界がどんどん、涙で滲んでいった。気を緩めると、自分も泣き喚いてしまいそうだった。

 黒ずみ、ボロボロに裂けたペロロ様のバッグ。爆弾で見る影もなくなったそれを、ヒフミは見下ろす。

 

「ど、どうして……なんで、こんな、事に……ッ!?」

 

 呟きは、喧騒の中に掻き消される。

 そのファスナーに取り付けられた補習授業部の人形(大切な思い出)は――先生だけが焼け焦げ、千切れていた。

 

 ■

 

『――リーダー、首尾は』

「悪くはない、だが良くもない」

 

 ひとり、体育館を後にしたアリウス生徒――サオリは罅割れた端末を片手にそう告げた。通話口の向こう側に居るのはアリウス・スクワッドのミサキ。彼女の問い掛けに頷きながら、サオリは顔を覆っていたマスクを外す。

 途端、頭上に輝いていたヘイローが歪み、普遍的なソレから自身の円環へと変質した。バリスティックベストを脱ぎ捨て、白いコートの前を開いたサオリは、自身のトレードマークとも云える帽子を深く被り息を吐き出す。

 一般アリウス生徒に偽装していた彼女は、徐々に陽が昇り始めた空を見上げながら目を細めた。太陽が、トリニティを照らし始める。

 ――夜明けが近い。

 

『……作戦は上手くいったの?』

「あぁ、先生に例の爆弾を喰らわせてやった……真面に浴びれば、聖園ミカ諸共排除出来た筈だが、ギリギリで邪魔が入った」

『じゃあ、ターゲットは生きている?』

「恐らくは、な」

 

 本来の作戦であれば、此処で先生諸共始末する予定ではあったが――聖園ミカ自体は生きていようが死んでいようがどうでも良い。桐藤ナギサが死亡していた場合は生きていて貰う必要があるが、その確保に失敗した時点で彼女は用済みだ。

 そして、先生の排除こそサオリが出張った目的であった訳だが――あの様子だと、恐らく息はあるだろう。即死させる事は叶わなかった。状態が悪化すれば或いは、という所か。

 ともあれ、あそこまで騒ぎを大きくした以上この場に留まる事は危険だった。そう考え、彼女は撤退要請を口にする。

 

「回収車両を頼む、メインターゲットの排除には失敗、サブターゲットは行方知れず……だが、『本命』の回収は済ませたのだろう?」

『うん、予想外の妨害があって何人かやられたけれど、スクワッドは無事』

「妨害だと、何があった?」

『詳しくは戻ってから話す、狐面を被った変な奴に襲われた』

「そうか……任務を果たせたのならそれで良い、最低限の目標は達成した」

『了解、先生への追撃は?』

「必要ない、恐らく失敗する」

『……想定外の戦力でも居た?』

「あぁ、シスターフッドとトリニティ自警団だ、その身を盾にしても守るという顔だった……盾になる生徒諸共となると、弾薬が何発必要かも分からない、ヘイロー破壊爆弾も手持ちがない」

『そう、分かった……車両は一分で到着する、ポイントは四番』

「あぁ」

 

 頷き、端末の電源を切った。明るく差し込み始めた陽に照らされながら、サオリは足を進める。目指すはトリニティ郊外、そこで回収車両を待ち、そのまま行方を晦ませる。次に彼女達と邂逅するのは――エデン条約の調印式となるだろう。

 

「………」

 

 ふと、サオリはポケットの中に手を入れ、一枚の紙切れを取り出した。

 それはいつか貰った、先生の連絡先が書かれたメモ用紙。お人好しの大人が、戦闘糧食尽くしの自分の為に暖かい飯を恵んだ――そんな折に手にした、善意の証。

 サオリは暫くの間、その紙面をじっと見つめ続け。

 徐に――それを破り捨てた。

 

「結局はこうなる……こうなるんだ、先生」

 

 真っ二つに破られた紙を、更に細かく千切り、虚空に散らす。風に煽られたそれはふわりと宙に舞い、遥か彼方へと飛んで消えた。それを見送りながら、サオリは帽子のつばを摘まみ、深く被り直す。

 その陽光(善意)と、決別する様に。

 

「――全ては、虚しいのだから」

 

 サオリの足が歩みを再開する。一先ずこの学園から抜け出す必要があった。尤も、それは大して難しい事ではない。体育館の騒動が周囲に波及し、今は何処も人手が足らず、情報は錯綜している。生徒一人が網を潜り抜ける程度、容易い。

 

 そんな彼女の耳に、誰かの足音が届いた。思わず足を止め、腕にぶら下げた銃のグリップを握り直す。音は、徐々に近づいている。狙いは明らかに自分だった。

 まさか、あの騒動の最中で自身に勘付く者が居るとは――気付いたとしても、先生の負傷に取り乱しそうなものだが。

 内心で辟易としながら、サオリは緩慢な動作で振り向いた。

 

「……追撃か、随分目敏い生徒が居たものだ」

「ふぅ、ふッ、ふぅうッ――!」

 

 サオリの目前で足を止め、荒い息を繰り返す誰か。顔を逸らし、目深く被った帽子越しに見えたその顔は――血走った目で此方(サオリ)を見る、嘗ての同胞。

 その表情を視界に捉えた時、サオリは少しだけ驚いた様に目を見開き、それから納得と悲哀の感情を見せ、頷いた。

 

「――あぁ、そうか、そうだったな……こういうやり方を教えたのは、私だったな」

「錠前、サオリぃぃいイッ!」

 

 絶叫し、愛銃を構える――白洲アズサ。

 血走り、薄汚れた頬をそのままに踏み込む。

 その指先が引き金を絞り、銃声と共にマズルフラッシュが瞬いた。サオリが素早く首を傾ければ、舞った髪のひと房を弾丸が千切り飛ばす。二発、三発、飛来するそれを地面を這う様にして回避し、サオリはアズサに肉薄する。背後で、銃弾が跳ねる音が響いた。

 

「良くもッ、良くも先生(あの人)をッ!?」

「随分、アリウスらしい(憎悪に塗れた)顔になったじゃないか、アズサ? ……何だ、絆されたのか? お友達ごっこがそんなに気に入ったのか、それともまさか、あの日向(表側)を、自分の居場所だとでも錯覚していたのか?」

「お前はッ! お前だけはぁアアッ!」

「――笑わせる」

 

 至近距離での銃撃戦。ステップを踏み、肉薄するサオリに反しアズサは銃口を引きながら、腰撃ちで対応する。数発の弾丸がサオリの肌を掠めるも直撃はせず、下から掬い上げる様な蹴撃がアズサを襲った。人間であれば顎を打ち砕く一撃、それをアズサは転がって回避する。爪先がアズサの頬を掠め、僅かに血が噴き出した。そのまま二度、三度地面を転がったアズサは、這い蹲った状態で射撃を敢行。足元を狙ったそれを、サオリは壁を蹴って飛び上がり、空中で体を捻る。アズサの放った弾丸は、校舎の外壁に弾痕を刻むのみ。

 

「っ、くッ!」

 

 呻き、アズサは素早く立ち上がる。しかしサオリが距離を詰める方が一手早かった。

 サオリはアズサ目掛け、素早く銃を突き出す。一体何を、そうアズサが思考するより早く、その視界に鋭い切っ先が目に入った。バレルに沿う形でいつの間にか着剣されていたそれが、アズサの喉元目掛けて突き出されていた。

 アズサは繰り出されたそれを、辛うじて愛銃を壁にして防ぐ事に成功する。横にして突き出したアズサの銃が、サオリの銃の弾倉に引っ掛かり、切っ先はアズサの目前で停止した。

 小刻みに音を立て、拮抗状態に陥る両者。傍から見れば突撃銃で鍔迫り合いを行っている様な形。

 重なり合った両者の視線が、至近距離でぶつかる。サオリは顔を近付け、淡々とした様子で告げた。

 

「私達の様な人殺しを受け入れてくれる場所などない、お前の見ているそれは幻想、錯覚に過ぎない……目を覚ませ、アズサ――その甘い夢から……夢は所詮、夢だ」

「違うッ――!」

「――違わない」

 

 鍔迫り合いの状態から、サオリは引き金を絞った。銃声が鳴り響き、閃光がアズサの網膜を焼く。放たれた弾丸はアズサの頬を削り、地面を穿った。

 アズサは歯を食い縛りながら体を捻ると、全力でサオリの腹部に蹴りを叩き込む。勢いに押され、そのまま背後へと蹈鞴を踏むサオリ。アズサは後転を一つ挟み、素早くボルトキャッチを押し込み弾倉をリリース、新しい弾倉をポケットから取り出し填め込む。

 サオリはその様子を眺めながら、素早く照準を合わせ射撃。銃口を向けられた時点で、アズサは駆け出し的を絞らせない。数発の弾丸が地面を叩き、アズサの翼を掠めた。

 

「陽の元で生きる者と、そうではない者……その境界線はハッキリしている、そして、一度手を汚した者は、二度と『そちら側』へは行けない――この世界は、そういうルールで成り立っている」

 

 サオリは攻撃の手を緩めない。正確無比な射撃でアズサの皮膚を削り、青痣を作り出す。一発、脇腹に弾丸が直撃し、アズサは呻きながら体勢を崩した。今にも転びそうな姿勢、しかし、彼女が足を止める事は無い。痛みを噛み殺し、憎悪を以て体を突き動かす。

 アズサは応射を繰り返しながら稲妻の如く駆け、サオリの元へ弾丸を送り込む。しかしサオリは飛来するそれを紙一重で避け続けた。

 経験と、体力の差――ミカとアリウスに狙われ続け、長時間の戦闘を行ったアズサの体調は万全とは云い難い。反し、サオリは気力も体力も十二分、そして何より精神的な優位性があった。

 誰かの為に激情し、激昂する者ほど――周りが見えなくなるものだ。

 

「くっ、ぅ――……!」

「どれだけ足掻こうと、どれだけひた隠そうと、過去は必ずお前に付きまとう、影の如く、ぴたりと、常に――そしてお前はいずれ知る、自身が根底からして奴らとは違う人種なのだと……自身は、『こちら側』の存在なのだと」

 

 冷静に、冷酷に、淡々と。

 サオリの攻勢に晒されるアズサは、腹を決める。

 このまま逃げ惑い、削り合いに持ち込まれた場合、不利なのは己だ。先に多くの弾丸を消費し、体力の少ない己が負ける。

 故に、望むのは短期決戦。

 肉を斬らせて――骨を断つ。

 その覚悟を決める。

 

「その夢は甘いだろう、ずっと見ていたくなる夢幻だ、そうだ、夢とはそういうものだ……しかし覚めた時、傷つくのはお前自身だぞ、アズサ」

「――お前がッ、私達を語るなァッ!」

 

 地面を蹴り、回避行動から直線へ。

 アズサは真っ直ぐ、サオリ目掛けて突貫を開始した。サオリはそれを見て、セイフティをセミからオートへと弾く。引き金を絞った瞬間、凄まじい銃声とマズルフラッシュが瞬き、アズサの体を無数の弾丸が襲った。

 

「ぐ、ぅ、ううッ!」

 

 しかし、彼女は耐える。腕と翼を盾代わりに、頭部とバイタルラインへの直撃だけは避け。肩に、腕に、翼に、足に、幾つもの銃弾が着弾した。その衝撃と痛みに、アズサの肉体は悲鳴を上げる。しかし、彼女は止まらない――止まれない。

 そして幾つもの弾幕を潜り抜け、サオリをクロスレンジへと捉えたアズサは、大きく腕を払い、サオリの銃を弾き飛ばす。後方へと逸れた銃口が、明後日の方向へと弾丸を吐き出す。

 ――道が開けた。

 悍ましい形相を浮かべながら、アズサはサオリに銃口を突きつける。

 

「――サオリィイッ!」

「……だから云っただろう、すべては――虚しいのだと」

 

 アズサがその引き金を絞る――その瞬間、腹部に鈍痛が走った。

 

「ぅ、ぐっ……!?」

 

 乾いた音、銃声。視線を落とせば、サオリが腰だめに拳銃を構えているのが見えた。アズサが弾いた腕とは逆の手、ホルスターから素早くサブアームである拳銃を抜き放ち、撃ったのだ。

 弾丸が鳩尾を強かに叩き、衝撃と痛みで体が硬直する。その瞬間、行動に一拍の猶予が生まれた。サオリにとっては、その一秒足らずの時間で十分だった。弾かれた腕をそのままに体を回転させ、アズサの胸元目掛けて蹴撃を撃ち込む。

 地面に振動が生まれ、回転を孕んだその一撃はアズサの中心を穿つ。凄まじい衝撃と痛み、骨が軋み、息が詰まった。大きく吹き飛ばされたアズサはそのまま石畳の床を転がり、滑り、砂利に塗れて止まる。

 それでも、銃だけは手放さなかった。

 

「げほッ、ごほっ、おぐ、ぅ……ぐぅうッ!」

「………」

 

 口内の血を、唾液と共に吐き出し、アズサは嘔吐(えず)く。しかし、彼女は乱雑に口元を拭いながら、それでも尚立ち上がる。その視線は満身創痍であっても、サオリから片時も離れはしない。

 サオリは這い蹲り、苦悶に喘ぎながらも立ち上がるアズサを見下ろしていた。

 その瞳には――何の感情も宿りはしない。

 

「はぁ、はッ……! だと――……してもッ!」

「………」

「全てが、虚しくて、無意味な事だと、しても……ッ!」

 

 地面に手を突き、血と、泥と、砂利に塗れながら。

 アズサは立ち上がる。

 震える足で、汚れ切った手で(罪悪に塗れた手で)、必死にその体を支えながら。

 

「例え、今まで積み重ねた罪が、罪悪がッ、この身に纏わりついているとしても、私はッ……!」

「………」

 

 叫び、アズサは三度(みたび)銃を構えた。その引き金に指を掛け、絞る。

 銃声が鳴り響き、マズルフラッシュが周囲を照らした。

 弾丸はサオリの直ぐ脇を通り抜け、その頬に一筋の赤い線を生む。

 掠めた弾道を目で追いながら、サオリは呟いた。

 

「……何故足掻く」

 

 呟きが、アズサに届く事は無い。

 

 全ては無意味だ、抵抗する事は無駄だ。

 アズサの状態を見れば分かる、既に立つのもやっとで、真っ直ぐ銃を構える事すら出来ていない。皮膚は血と青痣に塗れ、鼻血と涙に塗れた顔は酷いものだ。膝を突けば楽になるだろう、諦めれば安寧の内に全てが終わるというのに。

 何故――抗う?

 

 サオリの足が緩慢な動作で動き、反応してアズサが銃撃を行う。しかし、弾丸が飛来するよりも早く、サオリの足はアズサに肉薄していた。宛ら影の如く、音もなく、目にも止まらぬ速度で駆けるサオリ。素早く銃口を振り回し、その軌跡に弾丸を撃ち込むも、銃口が彼女を捉える事は無く。

 気付けば、サオリの突き出した銃剣が自身の喉元に迫っていた。

 

「ッくぅ!?」

 

 咄嗟に、顔を逸らして回避。突き抜けた切っ先が、アズサの髪をひと房掠めた。そして肩に当てていたストックを跳ね上げ、アズサの銃口を真上に弾く。そして再びサオリへと銃口を向けようとして――目の前に、誰も居ない事に気付いた。

 刺突だと思っていた銃剣と突撃銃は――ごく至近距離で投擲された囮だった。

 

「鈍ったなアズサ」

「――………」

 

 声は、真横から聞こえた。

 時間が、酷くゆったりと感じられた。瞳だけを、横合いに飛ばす。そこにはアズサの頭部に拳銃を突きつけ、何の色も宿らない瞳を向けるサオリが立っていた。その引き金には、既に指が掛かっている。

 

「至近距離でそんな長物を振り回すなど……こんなぬるま湯で、友情ごっこに興じていたから、こうなる」

「………」

「そんな鈍った腕で私を倒せると、本当にそう思ったのか?」

 

 弾いたサオリの突撃銃が、地面に転がる音がした。見当違いな方向に銃口を向けたまま、アズサは動く事が出来ない。僅かでも動けば頭部を弾かれると、彼女の直感が告げていた。そしてそれが事実であると、アズサ自身知っている。

 サオリは銃口を微動だにせず、告げる。

 

「――何度でも教えてやろう、アズサ……私がお前に、現実(アリウス)というものを」

「っ……サオリィッ!」

 

 咄嗟に頭部を逸らしながら、愛銃をサオリに向けた。それが半ば賭けに近い行為だと分かっていた、それでも体は動いた。体を沈ませながら腰を使って銃口をサオリに合わせ――引き金を絞る。

 その動作は、余りにもスムーズで、滑らかで、彼女の人生に於いて最も効率的な姿勢移行だと断言出来た。

 

 けれど、それでも現実は非情で。

 

 アズサの銃口が火を噴くよりも早く、サオリの拳銃、その銃口が閃光を吐き出した。弾丸はアズサの額に吸い込まれるように直進し、着弾する。

 衝撃は十全にアズサの頭部を揺らした。首が弾かれるように後退し、意識が一瞬、混濁する。視界が暗転し、全身から力が抜けるのが分かった。宛ら出来の悪いマリオネットの如く、後方へと流れた体はそのまま力なく背を地に付け、倒れる。

 軽々しい音と共にアズサの愛銃は地面の上を滑り、サオリの足元で止まる。彼女はそれを踏みつけ、小さく息を吐いた。

 倒れ伏したアズサを、サオリは見下ろす。

 その銃口が――再び、頭部に向けられる。

 

「これで終わりだ……アズサ」

「わ、たしは――」

 

 途切れかけの意識に喝を入れ、アズサは言葉を紡ぐ。

 衝撃は確かに、彼女の意識を沈めかけた。視界はあやふやで、思考はぼやける。けれどそれでも尚、途切れぬ感情が胸にあった。着弾の瞬間、彼女は歯を食い縛り、意識を繋ぎとめる事に全力を注いでいたのだ。

 撃ち込まれたのが9mmで良かった。アズサはそう、思考の片隅で思う。ライフル弾を撃ち込まれていれば、恐らく自分は一瞬で意識を失っていただろう。

 冷酷に自身を見下ろすサオリを前に、アズサは震える指先を、そっと懐に忍ばせる。

 

 アズサの脳裏に、補習授業との記憶が過った。

 皆と過ごした一ヶ月、アリウスでは体験出来なかった輝かしい思い出。全てが全て、新鮮で、温かくて、輝いていて、楽しくて、嬉しくて――その記憶の中では、いつも自分は笑顔だった。仏頂面だと良く云われる、氷のようだと揶揄われる、けれど存外、自分は心の中で笑っている。

 あの暖かい場所が――アズサは大好きだった。

 

「私、は……っ」

 

 至近距離で長物を振り回す愚行――そんな事は、理解しているとも。

 全ては布石だった、体力、弾数共に劣る自身が彼女に勝つ為の。

 差し込んだ指先に触れる、硬い感触。それは一丁の拳銃。いつかサオリに手渡された、先生を暗殺する為の手渡された代物。

 ――その中身に、アズサは手を加えた。

 細工をしたのは銃本体ではなく、弾倉の方。通常の9mmではなく、フレーム・バレルが破損する前提で使用する強装弾を詰め込んでいた。

 装填された弾数は、たったの三発。

 そもそも、三発も撃てるとはアズサは考えていない。恐らく一発撃つだけで、銃身とフレームはガタガタになり、使い物にならなくなるだろう。それ程の火薬量を、彼女はその三発に詰め込んでいた。

 

 威力は違法改造なだけあってお墨付き、ライフル弾には劣るものの、元が9mmとは思えないストッピングパワーを誇る。これなら幾らサオリであっても、頭部に撃ち込めば意識を断ち切る事が出来るだろう。

 気絶さえさせてしまえば、後はどうとでもなる。

 意識のない生徒のヘイローを破壊するなど――造作もない事だ。

 

「私は――ッ!」

 

 ヒフミ、コハル、ハナコ、先生。

 皆の笑顔が瞼に焼き付いて離れない。一緒に掃除をして、勉強して、ご飯を食べて、水着で雑談をして、夜の散歩をして、色々な楽しい事をした、これからも楽しい事をしようと約束をした。最後まで自分を信じてくれた、自分の味方になってくれた。

 こんな嘘に塗れ、日向に憧れ、ずっと寂れた片隅から陽に溢れた世界を覗く事しか出来ない自分を救ってくれた――それが彼女達なのだ!

 そんな、彼女達を。

 大切な友人を。

 何よりも大事な、補習授業部(みんな)を守る為なら。

 

 アズサの瞳が煌めく。その腕が素早く拳銃を引き抜き、サオリに銃口を向けた。

 唐突なそれに、彼女の目が見開かれる。先生を暗殺する為に手渡した、万魔殿仕様の拳銃。その銃口は、自身に向けられている。

 互いの指先は、引き金に掛かっていた。その切っ先に力が籠る。

 サオリの瞳が引き絞られ、アズサの瞳が彼女を射貫く。

 憎悪と――殺意を込めて。

 

 アズサの胸元に括られた補習授業部人形が、弾む。

 全員が揃って、手を繋いだそれが。

 

 そう、補習授業部(みんな)を守る為なら。

 

「サオリ、お前を――ッ!」

 

 ――たとえ、殺す事になったと(ヘイローを壊)してもッ!

 

 視線が、交わる。

 殺意と憎悪、そして何の色も宿さない瞳が。

 けれど僅かに、サオリの瞳が色を変え。

 其処に寂しさと、悲しさが生まれて。

 

 互いの引き金が、そっと絞られた。

 

 

「――アズサァぁーッ!」

 

 

 怒声が響いた。

 それはこの場所で、聞こえる筈のない声だった。

 

「っ!?」

「ッ!?」

 

 互いが引き金に指を掛けたまま、肩を跳ねさせる。素早く視線を動かせば、彼女達の背後、体育館へと至る道、その石畳の上に――先生()が立っていた。

 

 純白であったシャーレの制服は焼け爛れ、赤黒く変色し、その姿勢は前傾。顔も、腕も、肩も、どこもかしこも血塗れで、彼の足元には現在進行形で血が滴っている。だらりと垂れた左腕は、動かせないのか殆ど振り子の様に揺らめくばかりで、爆発の衝撃で脱げたのか、靴は片方が消失していた。

 

 それでも――瞳だけは死んでいない。

 

 塞がった右目の代わりに、二人を射貫く左目。その瞳は力強く、真っ直ぐ、彼女達を捉えている。荒い息を繰り返し、血を滴らせ、先生は一歩を踏み出す。

 血を吸った靴が、水音を立てて沈む。

 一歩ずつ、前へ――。

 

「せ、先生……っ!?」

「――……馬鹿な」

 

 アズサが、サオリが、息を呑む。

 そんな瀕死の体で、死に体で。

 

 それでも――先生はその場に立っていた。

 


 

 次回「幸福の代償」

 

 どのようにして先生はこの場に辿り着いたのか? そしてエデン条約・前編の結末は? 恐らく、エピローグ含めあと二~三話でエデン条約編・前編は完結でしょう。

 

 幸せな未来を掴むにはね、代償が必要なんです。そしてその価値は、人によって異なるんです。その代償を肩代わりするのであれば、相応の覚悟がなければなりません。

 時間でしてよ、先生。覚悟はよろしくて? 私はよろしくてよ!

 



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幸福の代償

誤字脱字報告、ありがとうございますわ~!
文字数の関係で一日空けましたの、次回も三日後かもしれませんわ~!


 

「――せ、先生ッ!」

 

 微睡と、覚醒。先生の意識は水面を揺蕩うが如く、浮き沈みを繰り返していた。痛みは酷かった、しかしその限界値を超えた為に、肉体が正常にそれを自覚していない。或いは脳のアドレナリンが作用している為か。どちらにせよ、先生に出来る事は多くない。細く呼吸を繰り返しながら、ただ視線を動かすだけで精一杯だった。

 身動ぎは愚か、指先一つ動かす気力すら湧いてこない。顔を上げる事も、その手を伸ばす事も。

 

「どうして、なんで、こんな事に――」

 

 ヒフミが、そう呟くのが聞こえた。喧騒の中でも、はっきりと、その耳に届いた。濁った視界に皆の顔が映る。皆が皆、涙を流していた。悲しみに、苦しみに、包まれていた。その表情を、先生は見つめる。見つめ続ける。

 

 ――それが、いつかの彼女達の面影(いずれ訪れる結末)と重なった。

 

「っ、ぐ――」

 

 歯を、食い縛る。噛み砕いてしまうと思う程に強く、強く。

 彼女達の心を想えば、その苦痛を想えば、どれ程の痛みでも、どれ程の苦しみでも、耐えられる。もう指一本動かせなかった肉体の底から、ふつふつと湧き上がる激情がある。指先で地を捉え、身体を押し上げる。倒れ伏した状態から、身を起こす。肉が千切れ、骨が軋む音が中から聞こえた。痛みが先生の脳を揺する、動くなと理性が叫ぶ――けれど、本能は云う。

 

 今、目の前で生徒が苦しんでいるのだと。

 

「あっ、せ、先生ぇ……ッ!」

「よ、良かった、意識が……っ! は、ハナコちゃん!」

「先生、私達が分かりますか!?」

「ぅ、ッ――………」

 

 コハルが、ヒフミが、ハナコが、身を起こそうとする先生に気付き声を上げる。先生の体は彼方此方が包帯やら布やらが巻き付けられ、止血を施されていた。包帯はコハルが持ち込んでいた分だろう。尤も布も包帯も、血を多分に吸って赤黒く変色してしまっている。先生は彼女達に下手糞な笑みを浮かべながら、自身の傍にずっと寄り添っていた彼女を見上げた。

 

「ぁ……せ、先生……」

「み、カ――……」

 

 ミカは、先生を見下ろしたまま目を見開く。その瞳には昏い輝きが渦巻き、酷く淀んでいる。顔色は悪く、その唇は小さく震えていた。先生はそんな彼女を安心させるように、にっと。彼らしからぬ莞爾とした笑みを浮かべた。

 

「か、らだ、は……――無事、かい?」

「っ! な、無いよ、何も、どこも、痛く何てないし……っ!」

「そっ、か……」

 

 ミカは、目元から零れ落ちる涙を何度も拭い、鼻を啜りながら頷いて見せた。彼女も決して浅くはない負傷を抱えている。痛くない何ていうのが嘘だと、先生は知っていた。けれど彼女も先生の笑みが自身を気遣ってのものだと分かっていた。だからこれは、それで良いのだ。

 

「――良かった」

「………ぁ」

「せ、せんせっ、先生!」

「ぅ……コハルも、心配、かけたね……」

 

 先生の衣服を掴んで涙を流すコハルの頬を撫でようとして、先生は思わず手を引っ込めた。伸ばしたそれが余りにも血に塗れていたから。彼女を汚してしまいそうで、思わず躊躇った。そんな中途半端な手をコハルは手に取って、自身の頬に擦り付ける。涙と血が混じりながらも彼女は微塵も気にする素振りを見せなかった。先生は苦笑を浮かべ、ゆっくりと周囲を見渡す。

 忙しなく走り回る生徒達、遠巻きに自身が意識を取り戻した事に沸き立ちながらも、自身の責務を全うしようと、必死になって動いていた。シスターフッドも、トリニティ自警団も、補習授業部も。

 救護騎士団の到着には、まだ時間が掛かる。先生は周囲を見渡しながら、ひとり、生徒が欠けている事に気付いた。

 

「……アズ、サは……?」

「そ、それが、さっき血相を変えてどこかに行ってしまって……っ!」

 

 アズサが、どこかへ消えた。

 先生の脳裏に、ひとりの生徒の姿が思い浮かぶ。

 彼女が誰を追って、何をしに行ったのか――凡その見当がついた。

 故に、先生は腹を括る。

 

「ぐ……ぅ――ッ!」

「ちょ、せ、先生!? 何して――」

 

 先生の服を掴んでいたコハルが思わず叫ぶ。それは、先生が瀕死の重傷にも関わらず立ち上がろうとしたからだ。

 自身の足に力を籠め、中腰になりながら立ち上がろうと足掻く。こんな体になってまで守り通したミカと――そして懐に入ったシッテムの箱を確認した先生は、犬歯を剥き出しにして、脂汗を流し、その二本足で地を掴んでいた。

 巻き付けた包帯に赤が滲み出し、口元から苦悶の声が漏れ出る。

 

「行か、なきゃ……」

「い、行かなきゃって、何処にですか!? そ、そんな体で――」

「先生っ、無茶をしないで下さいッ!?」

「ほ、ほんとに何してんの先生!? や、やめてよっ!?」

 

 四方から、生徒達が手を伸ばし、先生の体を掴んだ。その体を労わる様に、けれど必死に、懇願する様に叫ぶ。背中にそっと手を添え、先生の顔を覗き込んだハナコが蒼褪めた表情と共に叫ぶ。

 

「先生っ、無理です! そんな体で一体何をしようと云うのですか!? 辛うじて致命傷を免れただけで、出血も完全には止まっていないんですよッ!? 今は、大人しく救護騎士団の到着を――」

「……だめ、だ」

「――っ!?」

「今じゃ、なきゃ……駄目なんだッ……!」

 

 だらりとぶら下がった左腕、感覚のないそれに顔を歪め乍ら、先生は残った右腕でハナコの腕を掴む。血か、脂汗か、涙か、自身の頬を流れるそれが何であるか、先生自身分からない。しかし、この死に体に鞭を打ってでも、立たなければならない理由は明白であった。

 何故ならば――。

 

「今、立てなきゃ――ッ!」

 

 顔を上げ、叫ぶ。

 その瞳に、絶対不変の意思を込めて。

 今此処で立たなければ、自身は未来永劫後悔する。その選択を、その惰弱を、その苦痛に耐えきれなかった己を。その確信がある、きっと、自分はそう思う。

 目前で救える生徒の手を取り損ねた光景は、もう十分だ。

 後悔して、自身を責めて、憎たらしい程に日々を繰り返し、それでもと進み続けた先に掴んだ、この世界。

 

 ――もう、あんな想いはしたくないから。

 

 幾度もの失敗を繰り返し、数多の屍を晒し、救えなかった、寄り添えなかった罪悪を背負い、それでもいつかきっと、必ず辿り着けると信じて歩んだ、この道。

 先生が傲慢にも、救いたいと――そう願うのは。

 

 昨日の生徒ではない。(過去をなかった事には出来ない)

 明日の生徒でもない。(『もしも』の世界でもない)

 この瞬間、今日、今を生きる彼女達だから。

 このキヴォトスに生きる、ありのままの彼女達だから。

 だから――!

 

「私はっ、この――為にッ……!」

 

 血を吐く想いで、叫ぶ、吼える。

 何の為に此処に居る? 何の為に繰り返す? この身が潰れそうになる程の罪悪と、胸が張り裂けそうな程の苦痛に塗れ尚、何故進む?

 だって、私は――。

 

 ――その、伸ばされた手を取る為に、此処に居るのだ。

 

「――アロナ……ッ!」

 

 辛うじて動く腕を動かし、先生は己の懐に触れる。シッテムの箱、爆発に晒されながら抱え込み、損傷を免れた唯一無二の相棒に(こいねが)う。

 ほんの僅かで良い。この、壊れかけの体を補助して欲しいと。

 五分、いや――一分でも構わない。

 彼女(アズサ)の元へ駆けつける為に。

 今度こそ、間に合わせる為に……!

 

 その想いに応えるように、電源の切れたそのモニタが――一瞬だけ、点滅した様に見えた。それは確かに、錯覚などではなかった。腕が、足が、僅かに軽くなる。痛みが鈍り、思考が明瞭になる。

 先生の肉体が、仮初の息を吹き返す。

 

 ――消える前の蠟燭が、その勢いを取り戻すが如く。

 

「っ――や、やだっ、やだやだッ! ダメっ、これ以上は……先生が死んじゃうよッ!?」

 

 直感的にソレを悟ったのは、コハルだった。

 彼女は何か、第六感めいた感覚で先生の肉体の変化を悟った。肌に触れていたという条件は皆同じだったが、コハルは先生から伝わる感触が、無機質めいたソレに変化したのが分かったのだ。

 それがアロナによる最後のサポートであると(何か理解出来ない第三者による介入だと)、彼女の本能は叫んでいた。

 

「コハル――」

 

 先生の腕が、そっとコハルの頭を撫でつける。先程まで垂れるだけであった左腕が、自然に、なんて事のないように。

 血を絡めた声だったそれは酷く透明で、口調はハッキリとしていた。先生は全員の目を真っ直ぐ見て、笑う。全員が呆然と、その先生の表情を見返した。

 

「――ありがとう」

 

 瞬間――全員の視界が白く染まった。

 それは、物理的なものだった。何かが炸裂する音と、気管を刺激する白色。思わず目を閉じ、身を捩ったのは反射的なものだった。顔を覆い、全員が叫ぶ。

 

「えっ――きゃぁッ!?」

「こ、これは、ゲホッ!?」

 

 白煙――此処に居る生徒は知らぬ事であったが、周囲に撒き散らされたそれはイズナ印の煙幕であった。「主殿の窮地にお使い下さい!」と、イズナが丹精込めて作ったシノビの逸品。白く濁ったそれは視界を阻害し、対象の喉や鼻に絡んで呼吸をし辛くする。あくまで逃走や錯乱用である為、殺傷力は無い。勿論、後遺症も。

 

「せ、先生……? 先生っ!?」

 

 白煙に視界を閉ざされたまま、ヒフミは必死になって手を伸ばす。

 先程まで掴んでいた、先生の衣服、その感触が――無い。

 

「先生、どこに――ッ!?」

 

 腕を振り回し、先生を探して足を進め、そして不意に何かと手がぶつかった。咄嗟にヒフミはそれを強く掴んで――そして同じように、相手もヒフミの腕を掴んだ。白く濁った視界の中で、驚愕を貼り付けた顔が映る。

 

「えっ、あ……ひ、ヒフミ!?」

「こ、コハルちゃん……な、なんで――」

 

 掴んだのは、互いの腕。

 先生だと思ったそれは、対面に立っていた相手のもので――白煙が晴れた時、残されていたのは顔面蒼白になって震えるミカと、足元に広がった血溜まりだけだった。

 周囲の生徒が言葉を失い、一瞬、時が止まる。慌てて周囲を見渡すも、先生の姿は何処にもない。体育館の、何処にも。

 

「さ、探して下さい――」

 

 先生の傍に立っていた、ハナコが呟いた。それは囁く様な声だったというのに、周囲の生徒の耳に、確かに届いていた。彼女は顔を上げ、半狂乱になりながら――絶叫した。

 

「探して下さいっ! 絶対にッ! 先生を行かせてはいけませんッ!」

 

 ■

 

 雨が、降り出した。

 

 冷たい雨だ、朝立と呼ぶには少しだけ強く、雨粒のカーテンが先生達の視界を覆った。

 陽光が雨に反射し、先生達の体を濡らす。透明に混じった赤が頬を伝い、足元に色を滲ませる。先生はそんな中歯を食い縛り、一歩、前へと踏み出した。

 生々しい水音が、雨音に混じって周囲に響く。

 

 アロナのサポートは、もう既に切れていた。電源の付かない状態で、彼女は文字通り死力を振り絞って先生を助けた。本当に、底の底まで、力を使って。

 だからもう、正真正銘――先生に残っているのは、その身一つのみ。

 アズサが、困惑と悲壮を浮かべながら声を上げた。

 

「せ、先生、何で、どうして……!?」

「私を、必要とする生徒が、居る限り……ッ!」

 

 呟き、もう一歩を踏み出す。その傷だらけの肉体で、血を流しながら。

 雨は先生の体を強かに打っていた、体温が下がる、無意識の内に体が震え、歯の根が合わない。それでも先生は真っ直ぐ前を見据え、アズサを、サオリを見つめていた。もう片側しか見えない視界の中で、先生は足掻き続ける。

 

「私は――何度だって、立ち上がって見せる……ッ!」

「っ――!」

 

 その言葉に、アズサの表情が歪むのが分かった。サオリの指先が、ぴくりと跳ねる。アズサに向けていたそれ(銃口)を地面に逸らし、彼女は先生へと向き直った。深く被った帽子のつばから、雨水が滴っていた。

 

「……シャーレの、先生」

「サオリ――……ッ!」

 

 前に、前に進む。更に一歩、もう一歩。

 その度に血が噴き出し、包帯と制服に赤が滲む。先生の足が、不意に折れかけた。がくりと姿勢が崩れ、転びかける。けれど先生は思い切り地面を踏みしめ、堪える。

 代わりに、太腿から嫌な音がした。何かが、切れるような音だった。ぶら下がった左腕が揺れる、地面に擦りそうになる程力なく垂れたそれは、ぴくりとも動かない。

 サオリはそんな先生の体を、醜態を目にしながら、淡々とした口調で告げた。

 

「――そんな傷で、私の前に立つのか」

「当たり、前だよ……ッ!」

 

 無様に震える足を何度も、何度も叩き、犬歯を剥き出しにして前に踏み出す。何度でも、何度でも――先生は進む。

 

「……今の貴様に、何ができる」

「出来る、出来ない、じゃ、ない……!」

「貴様のその行動は、無意味だ」

「無意味、なんかじゃ、ない……っ!」

「そんな、歩くだけでも精一杯の体で――銃の一つも、持たずに」

「っ、ぐぅ――……!」

 

 一歩が――果てしなく、遠い。

 何て事のない動作が、今の先生にとっては文字通り血の滲む様な痛みと苦痛を伴った。先生が軽く(むせ)、血を吐き出す。目から、鼻から、口から、血を垂れ流す先生は死に体だった。無事な箇所が何処にもない――サオリの目が細く絞られ、呟く。

 

「……それ以上動けば、本当に死ぬぞ――先生」

 

 声には、確かな感情が含まれていた。本来ならば、そんな事を口にする必要はない。けれど、そう声に出してしまう程に、サオリは動揺していた。

 何故、その傷で動ける。

 何故、そんなになってまで足掻く。

 その恐怖にも似た感情はサオリの胸を揺り動かし、常ならぬ言動を取らせる。先生は唸る様な呼吸を繰り返しながら、それでも尚、前へと進んだ。代わりに、サオリの足が一歩、背後へと退く。水溜まりが跳ね、サオリの裾を汚した。

 

「せ、先生! それ以上は駄目だッ……!」

 

 咄嗟にアズサは叫んだ。立ち上がり、石畳に足を滑らせながら、必死になって先生の元へと駆け出す。その無防備な背中を、撃とうと思えば簡単に撃ち抜けた。けれどサオリは、その銃口を向ける事無く、見送ってしまう。

 アズサが先生に手を伸ばし、その肩を掴んだ。

 

「先生っ――うぐっ!?」

 

 瞬間、先生の腕がアズサを抱き締めた。

 その小さな体を、血塗れの腕で、精一杯。衝撃でアズサの手から拳銃が滑り落ち、軽い音を立てて転がる。雨水の中に晒されたそれは陽光に照らされ鈍い光を放つ。

 先生はアズサを抱き締めたまま、叫ぶ。

 

「私は……っ、先生だ――ッ!」

「………」

「生徒達がッ、殺し合おうとするのを――見過ごせる筈がないだろうがッ!?」

 

 そこには、苛烈な意思のみが存在した。

 その叫びに、サオリはそっと目を閉じる。その在り方を眩しく思う、敬意を抱く程に。

 そして納得した――あぁ、成程、確かに彼はアズサの先生だと。

 その善性、諦めの悪さ、精神性、性根、これは確かに日向の人間だと。真に表で生きる人なのだと。隣に立っていると自分が如何に矮小で穢れた存在か、自覚してしまう程に。大きくて、広くて、力強い背中。大人の姿だ、先生の在り方だ、太陽の如き輝きを放つ――生徒を救ってくれる人だ。

 それが分かった、そう感じた。

 

 そんな彼に、サオリは静かに銃口を向けた。

 今にも死んでしまいそうな、生徒の救世主(先生)に。

 銃口から、雨粒が滴り落ちた。

 

「っ、サオ――」

 

 アズサは咄嗟に叫ぼうとして、けれど先生の腕が遮った。

 強く抱きしめ、壁になる様に半身になってアズサを庇う。どう見ても立場は逆なのに、先生が庇われる立場であるというのに。彼の目は本気で、アズサの身だけを案じていた。

 その双眸が、サオリを正面から射貫く。

 

「ふーッ、ふぅッ――!」

「……っ」

 

 荒い呼吸を繰り返す先生を見据える、その銃口が一瞬震えた。血に塗れた赤い瞳が、じっと彼女を見つめる。

 引き金を絞る事は簡単だった。何の抵抗も、策もないだろう。ただ丸腰の人間を一人弾くだけで、アリウスの勝利は決定的なものになる。不穏分子は排除する、その思考は合理的で、間違いではない筈だ。

 

 けれど――何故だろう。

 

 サオリの深い、とても深い所に存在する『何か』が叫んでいる気がした。それが何かは、サオリにも分からない。或いは善意だとか、人情だとか、そう云った形ない、あやふやな感情によるものだったのかもしれない。けれどそれを踏み躙れば、サオリは決定的な何かを喪ってしまうような気がして仕方なかった。

 それは、絶対に失くしてはならないモノで――。

 どちらにせよ、サオリは先生と視線を交わしたまま、引き金を絞る事はなく、動く事が出来なかった。

 

「――先生ッ!? どこですか!? せんせいッ!?」

「あんな傷で、一体どこまで……!?」

「シスターフッドは散開し、捜索を開始します! 草の根を掻き分けてでも探し出しなさいッ!」

「自警団は此方をっ……! 先生―ッ!」

 

 ――声が聞こえる。

 先生を探す声だ。雨音の向こう側から、徐々に近づいている事が分かった。そう遠くない内に、この場所は露呈するだろう。雨は先生の血を洗い流しているが、全てではない。また、銃声を耳にしている者が居るかもしれない。

 撃つにせよ、撃たぬにせよ――早急に立ち去る必要があった。

 サオリは数秒、沈黙を貫く。指先をトリガーに掛けたまま、じっと先生を見つめ続けた。その姿を、在り方を、目に焼き付ける様に。

 そして、ふっと肩から力を抜いた彼女は、その銃口を静かに地面へと下げる。

 

「………撤退する」

「っ!?」

 

 呟き、サオリは踵を返した。拳銃をホルスターに戻し、雨に塗れた突撃銃を拾い上げる。窪みに溜まった雨水を払いながら、彼女は先生を振り返った。雨越しに見える彼の顔色は、青白いを通り越し――最早死人の如く。

 

「先生……」

「っふ、ふぅ……ぐッ――!」 

「立っているのもやっとだろうに……それでも貴様は、生徒の――アズサの為に、此処まで来たのだな」

 

 先生に応える余裕はない。ただ、アズサを抱き締めて、サオリと対峙するのみ。しかし、其処に憎悪や敵意は存在しない。どこまでも澄んだ――怒りだけがある。

 アズサを殺しかけたという事実に、彼は激怒しているのだ。

 逆に云えば、それ以外の感情は存在しない。自身を爆弾で吹き飛ばした事すらも、彼は怒ってなどいない。何処までもその心は、生徒の為に。

 

「――貴様の様な大人も……居るのか」

 

 呟きは雨音に掻き消され、サオリは外套を翻す。深く被り直した帽子が、空模様を覆い隠した。帽子は良い、世界を直視しなくて済む。

 特に――晴れて澄んだ空は、苦手だった。

 優しい闇に覆われ、直視せずに済む醜い自分が晒されてしまう様で。

 

「……あの時食わせて貰った飯は、美味かった――だから」

 

 一歩、学園の外へと踏み出す。その視線が、背中越しに先生を見た。先生はアズサを抱えたまま、彼女の背中を眺めるのみ。

 

「……今回は、見逃す、生きていればまた逢おう」

 

 雨に紛れ、彼女(サオリ)の姿が消えて行く。宛ら亡霊の様に、最初から存在しなかったように。雨音と、水の跳ねる音。白と黒が混じり――サオリは最後に、告げた。

 

「――次は、エデン条約(調印式)と共に」

 

 ■

 

「――ぐ、ぅ、か、はーッ、はぁ……っ……!」

「せ、先生ッ!」

 

 不意に、先生の膝が折れた。サオリと対峙し、最後まで堪えていた力が抜け落ちる。

 アズサを抱き締めたまま、その場に崩れ落ちた先生は引き攣った呼吸音を鳴らした。その身を流れる雨水は、赤混じりのそれ。アズサが慌てて先生の頬に手を当てれば、酷く冷たく、まるで氷の様に感じた。

 先生の肉体は限界だった、文字通り先生は己の精神力のみでその場に立っていた。アズサの掴んだ先生の肩、その掌にべったりと赤が付着する。改めて目にしたそれに、アズサの唇が戦慄いた。

 とても、立っていられるような傷ではない。

 

「ど、どうして、どうしてこんな体でッ!?」

「わた、しが……来なかったら……っ!」

 

 アズサの悲壮を込めた声に、先生は覚束なくなった舌を回して応える。

 ゆっくりと振り向いた先生の、その片目がアズサを捉えた。

 

「アズサは、どうしていた……!?」

「っ――!」

 

 その問い掛けに、アズサは思わず言葉を失くす。視線を逸らせば、その先に転がったゲヘナの拳銃が視界に映った。

 この銃を使って自分は何をしようとしていた?

 

 錠前サオリを撃ち――その果てに、ヘイローを破壊しようとした。

 

 キヴォトスの生徒とて無敵ではない。昏倒させ、拷問紛いの攻撃を繰り返せば、いずれヘイローは破壊出来る。彼女はそう、アリウスで教わった。それを実行しようとした。だって、彼女を、アリウス・スクワッドを止めなければ、補習授業部は――。

 そんな彼女の思考を遮る様に、先生の手がアズサの腕を強く掴んだ。雨に打たれながら、先生とアズサの視線が至近距離で交わる。懇願と、強い意志を秘めた瞳。怯えと、悲哀を含んだ瞳。

 

「駄目、だよ……ッ、そっちは、駄目だ……! 折角、此処に来たんじゃないか……ッ! アズサが、ずっと望んでいた……この世界にッ!(陽の当たる場所に!)

「で、でも……でも、それじゃあ、皆が――ッ!」

 

 息を吐き、拳を握り締めるアズサは叫ぶ。

 アリウスは云って聞く様な相手ではない、暴力には暴力を以てしか抗えない。そうやって生きてきた、それ以外の生き方を知らない、同じ境遇、同じ場所、同じ時間を生きて来たアズサはその事を良く理解している。

 

 幸福(平穏)には――代償()が必要なのだ。

 

 無償の愛なんてものは存在しなくて、常に打算と悪意が渦巻いていて、希望はなく、未来は無く、考える事に意味などなく、擦り切れて果てるまで戦うだけの人生。その螺旋から抜け出し、光の満ちる場所で生きるのならば――その代償は、嘗ての影に(過去のアリウスに)他ならない。

 アズサが日陰で生きて来た証拠、その証明、アリウスこそが彼女の代償そのもの。それはアズサという個人が対処し、責任を持って対峙しなければならない過去だ。

 アズサという個人が陽の下(ひなた)で生きる為に、その影が補習授業部を襲うのならば――アズサは、喜んで陽の当らぬ場所に戻ろう(その手を汚そう)

 その決意を以て此処に立った。

 そう思って此処に来た(彼女を追った)

 

 先生を傷付けた、補習授業部を傷付けた――その咎を受ける為に。

 

「――でもなんかじゃないッ!」

「っ!?」

 

 先生の絶叫が、アズサの鼓膜を叩く。

 雨音に混じった、先生の怒声。血反吐を撒き散らしながら、先生はアズサの腕を強く――強く掴む。思わずアズサの顔が歪む程に。体は冷たいのに、その触れた部分だけは、酷く熱くて。

 先生の赤に塗れた瞳が、アズサを真正面から穿った。

 

「生徒達が望む明日をッ! そう在りたいと願う未来をッ! 共に願い、叶えるのがっ、私の使命だッ! 唯一、絶対なる命題だッ! この身を捧げても惜しくはないと、欠片も後悔しないとッ! そう思えた夢なんだッ!」

「ぅ……ぁ――」

「だから――ッ!」

 

 アズサの腕を掴んだまま、先生は項垂れる。その指先から、力が抜ける。アズサは思わず喘ぐ様に息を吸った。先生の震える指先が、アズサの頬に触れる。冷たくて、熱いそれが、そっと優しく。アズサは先生のそれに自身の手を重ね、握り締めた。

 赤が、アズサの頬を汚す。先生とアズサの視線が雨の中で交わった。

 先生の目から流れるそれが雨なのか、それとも涙なのか――アズサには分からなかった。

 

「諦めるんじゃない……ッ! 他ならぬ、アズサ自身がっ……! そう在りたいと、心から叫ばなきゃ……アズサが願わなきゃ、意味が、無いじゃないか……――ッ!」

「――せん、せい」

 

 声は、確かに届いた。アズサの深く、とても深い根の部分に。雨が頬を濡らす、唇が震える。言葉を紡ごうと、必死に。

 自分は、彼女達(補習授業部)と共に過ごす明日を望んでいないのか? ――そんな事は無い、アズサは誰よりもその未来を願っている。

 けれど、きっとそうはならないから。

 それを望んではいけないから。

 だからアズサは、自分を切り捨てて、大切なものを守ろうとした。

 

「わた、し、は――」

 

 私は、白洲アズサは。

 

「私、は……ッ!」

 

 元アリウスで。

 裏切り者で。

 嘘つきで。

 戦う事しか知らなくて。

 迷惑だって掛け続けて。

 皆を困らせてばかりで。

 ずっと日陰で、日向で生きる生徒達を羨む事しか出来なかったけれど――。

 そんな、私だけれど――。

 

「私は――ッ!」

 

 ――陽に照らされた世界で生きても(皆と一緒に生きても)、良いのだろうか?

 

 アズサは何かを、何かを口にしようとした――叫ぼうとした。

 その想いに応えなければと、そう感じたから。

 けれど、ふと見つめた視線の先で、先生の意識が朦朧とし始めた事に気付いた。その視線が左右に散って、焦点が合わなくなる。アズサの掴んだ手から、力が抜ける。慌てて掴み直した指先は、力なく滑り落ち、石畳を打った。まるで譫言(うわごと)の様に、その唇が言葉を紡ぐ。

 

「ありの、ままの姿で……生徒が、皆が、幸せになれる……世界――を……わた、し……は――……」

「……せ、先生? 先生ッ!」

 

 その顔が俯き、まるで糸の切れた人形の如く、先生の肉体は傾いた。アズサは咄嗟に先生を受け止め、揺する。けれど目を閉じ、脱力した先生は何も答えない――答えられない。中途半端に開いた口から、本当にか細い、漏れる様な吐息を感じた。アズサは先生の唇に耳を寄せ、呼吸がある事を確かめる。そして徐に先生の頭を掻き抱くと、雨から先生の身を守るようにして抱え、左右を見渡した。

 

 ――まだ、この場には誰も到着していない。

 それが、とても恐ろしい事の様に感じられた。

 

「……だ、誰か! 誰か来てくれッ!?」

 

 アズサは叫んだ、あらん限りの声を振り絞り、叫んだ。

 空に向けて、彼方に向けて、その声を誰かに拾って貰えるように。身を震わせながら、歯を鳴らしながら懸命に叫んだ。先生の肩を搔き抱き、少しでも体温を分け与えようと、彼女は強く、強く、その体を抱き締め続ける。

 

「頼む、誰かッ! 誰でも良い! この人を――先生を助けてくれッ!」

 

 血を吐く様な絶叫、それは雨の中で空に響き渡り――少しして、大勢の足音が石畳を叩いた。丁寧に手入れされた生垣(いけがき)を突っ切り、いの一番に現れたのはヒフミ。体中に葉や枝を引っ掛け、荒い息を繰り返しながら、倒れ伏す先生と座り込んだアズサを凝視していた。

 

「せ、先生ッ!? 居ました、先生とアズサちゃんですッ! こっちです、早くッ!」

「ッ――見つけました! 救護、急いでッ!」

「は、はいッ!」

「自警団、周囲を固めますッ!」

「シスターフッドは経路確保を!」

 

 ヒフミに続く形で、続々と生徒達が殺到する。最短ルートを確保する為に生垣を銃撃で薙ぎ倒し、シスターフッドが慌てて担架を運んでくる。向こう側には、蒼褪めた表情で駆けて来る救護騎士団の面々も見えた。サクラコ、マリー、ヒナタ、スズミと云った面々が先生の傍に駆け寄る。アズサはその勢いに呑まれながら、先生を彼女達へと明け渡した。

 

「ぁ――」

 

 掴んでいた、先生の指先が離れる。先生は生徒の制服や毛布にこれでもかという程に包まれ、担架に固定されると校舎の方へと搬送されて行った。殆どの生徒がそれに付き添い、自警団やシスターフッドの生徒達は殺気を漏らしながら周囲を見渡している。その様子を呆然と見送り、アズサは雨の中で佇む。

 

「アズサちゃんッ!?」

「あぐっ……! ひ、ヒフミ――」

 

 そんな彼女に駆け寄り、勢い良く抱き締める影があった。

 ヒフミだ。彼女は大粒の涙を流しながらアズサを搔き抱き、人目も憚らず大声を上げて泣いた。アズサはそんな彼女に戸惑いながら、両手を空けて、抱き締め返そうとして――中途半端に、その手を止めた。

 自分がこの抱擁を受け取る権利があるのかと、そう思ってしまったから。

 

「良かった、良かった……ッ! 怪我は!? どこか痛い所はありませんかっ!? 先生に続いてアズサちゃんまで、あ、あんな目をして走り出すから、わ、私、私……っ!」

「――………」

 

 そんな事は与り知らぬと、構いはしないと。

 ヒフミは涙を流し、鼻を啜り、渾身の力でアズサを抱き締め続ける。

 アズサはそんな彼女の真剣で、真摯で、どこまでも直向(ひたむき)な感情を、真正面から受け取り。

 そっと噛み締める様に頷いた。

 自分が彼女達(補習授業部)を大切に想っている様に――彼女達(補習授業部)もまた、自分を大切に想ってくれているのだと。

 広げた手を、そっとヒフミの背中に回す。

 彼女(ヒフミ)から伝わる体温は、泣きたくなる程に暖かくて――。

 アズサの目尻から、一粒の()が頬を伝った。

 

「ごめん、ごめんヒフミ、ごめん……ごめんなさい」

 

 呟き、アズサはヒフミの首元に顔を埋める。

 ヒフミからは、陽だまりの様な心地の良い香りと、僅かな硝煙の匂い――そして、強い血の匂いが漂っていた。

 

 この日、補習授業部は大切な何かを手に入れて。

 ――そして、大切な何かを喪った気がした。

 


 

 アロナちゃんが先生の手足となり得る世界線を垣間見た今、先生がどれ程無様な肉体を晒そうと無理矢理お人形さんにする事が出来るのですわ~! 素敵ですね。

 つまり幾ら四肢が捥げようが目が潰れようが耳が聞こえなくなろうが、シッテムの箱と脳と心臓が無事である限り、臓物ぶちまけても先生は動けるのですわ。

 生徒の為に不死身になる先生、か、恰好良いタル~!(FF) 

 先生死んだ後も、その死体を無理矢理動かして先生のフリをするアロナ概念とか考えたけれど、どう転んでも地獄絵図ですわよ。今度やってあげよ。(善意の発露)

 先生は襤褸雑巾になったけれど、(アズサが)幸せならオッケーです!

 

 ごめんなさいね、この程度(ジャブ)じゃ絶望なんか出来ないですわよね。先生も、生徒も。わたくしが間違っておりましたわ。あなた達(生徒達)を慮ってしまったばかりに、その心の強さを測り間違ったばっかりに、きっと補習授業部(先生達)にとっては物足りないもの(困難)だったでしょう。

 けれど地獄(エデン条約・後編)は此処から始まるんですのよ。仲間達が居ても膝を折ってしまうかもしれません、その凄惨な光景に目を覆いたくなるかもしれません。今度こそ、心が折れてしまうかもしれません。

 でも大丈夫です! だって、わたくしは、先生と生徒の絆を、その心の強さを、心の底から信じておりますから……ッ!

 

 やめて!神秘の籠った銃弾で先生が撃たれたら、先生の肉体と精神がいっぺんに壊れちゃう!

 お願い、死なないで先生!あんたが今ここで倒れたら、補習授業部やアビドスとの約束はどうなっちゃうの? ライフ(大人のカード)はまだ残っている。ここを耐えれば、ゲマおばに勝てるんだから!

 次回、「先生死す(大嘘)」 大人のカード、スタンバイ!



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私達は、此処にいます。

最近の流行は誤字脱字報告ですわよ。
次回がエピローグですわ~!


 

「……先生の容態は?」

「……先程、担当医の方から峠は越えたと、しかし、まだ傷は深く、意識も――」

「そう、ですか」

 

 救護騎士団――本棟。

 白く統一された廊下、明かりの消えたその場所で顔を突き合わせる生徒が三名。シスターフッドのサクラコ、正義実現委員会のハスミ、そしてトリニティ自警団のスズミ。

 彼女達は戦闘を終えた格好のまま、薄暗い廊下にて佇む。視線の先には、分厚い透明な硝子、その先に白いベッドと、幾つもの装置に繋がれた先生の姿があった。

 

 ICUと一般棟を隔てる廊下、ハスミに医療の知識は無かったが、その物々しさだけは痛い程に感じられた。立ち並ぶ心拍、血圧、呼吸、心電図モニター、パルスオキシメーター、非観血的血圧計、血液濾過装置、輸血・経腸栄養用ポンプ、ネブライザー――サイドモニタに映る血圧や脈拍、バイタルは一定だ。時折、救護騎士団の生徒が先生の体に触れると、そのラインが跳ねる事がある。痛みを感じると、それらが変動するらしい。モニタを監視する救護騎士団の一人がそう口にしていた。

 ハスミは壁に手を着きながら、自身の額を手を覆う。その表情は酷く歪んでいた。

 

「……失態ですね、正義実現委員会がこのような」

「それは、シスターフッドも同じです――先生に協力を請われた上で、この様な結果とは」

 

 大きな組織を束ねる立場にある両名は呟き、後悔を滲ませる。特にハスミは、先生が負傷した後に出動する事となった為、その後悔の念も一際強い。正義実現委員会が必要な時に動く事が出来なかった。一体なんの為の正義実現委員会か、その名が泣くというものだ。そんな感情を吐露する彼女に、スズミはふと声を上げる。

 

「そう云えば、ツルギ委員長はどちらに?」

「……今は、ミカさんの元に、一応今回の首謀者と云う形で拘束しております」

「ミカさんですか……しかし、あの様子では――」

「えぇ」

 

 スズミの問い掛けに、ハスミは気難しい表情を浮かべて答える。サクラコは自身の腕を小さく摩り、俯いたまま口を開いた。

 

「自身のクーデターで先生を巻き込み、その先生が自身を庇って重体ですから」

「……考えたくもありませんね」

 

 ティーパーティー――聖園ミカ。

 今回の騒動を巻き起こした主犯と目される生徒。

 現在彼女は正義実現委員会によって身柄を拘束され、別棟にて監視下に置かれている。トリニティ内部でもかなりの影響力、実力を持つ彼女を警戒する為に、正義実現委員会のトップであるツルギはその監視及び警護の任務に就いていた。

 しかし、警護は兎も角監視が必要かと云われると――正直な所、分からない。

 

 先生が爆発に巻き込まれ、その後一時的に行方を晦ませて以降、彼女は一言も口を開く事はなく、俯き、粛々と拘束を受け入れていた。自身の力で脱走を企てる、そんな余裕は全く以て見受けられない。その表情には、焦燥と後悔だけが張り付いていたと記憶している。

 何せ正義実現委員会が到着するまでその場に蹲り、じっと地面に飛び散った血溜まりを凝視しながら何か譫言を囁いていた程だ。拘束の為に生徒が声を掛け、漸くその視線を動かしたというのだから――精神的なショックは察して余りある。

 

「兎も角、先生を頼みます……あの人は、キヴォトスになくてはならない人です」

「勿論です、万全を期してシスターフッドが警護に当たります」

「またいつ連中が仕掛けて来るか分かりませんからね……先生を爆破した犯人は、まだ?」

 

 この救護騎士団本棟の警備は、救護騎士団とシスターフッドが担当する事になっている。建物外周にはぐるりと生徒達が配備され、警邏も巡回させる徹底ぶり。内部にもシスターフッドの面々が滞在し、万が一の際は先生を絶対に守る様に厳命してある。唯一の懸念は、先生を爆破したというアリウスの生徒だ。

 スズミも自警団の連絡網を利用しトリニティ自治区にて件の犯人捜索を行っているが未だに発見には至っていない。別働隊が存在するのならば、その捕捉と撃退は急務だった。正義実現委員会ならば或いは、そんな想いと共に問いかけるも、ハスミは緩く首を横に振った。

 

「行方を晦まし、その後の足取りは掴めておりません……包囲網を易々と抜けられました、とんだ失態です」

「しかし、アリウス分校が関わって来るとなると、これは学園間の抗争そのものでしょう――我々のみで対処するにも限界があります」

「委員会や部活動のみではなく、トリニティ総合学園として対処すべき事柄と?」

「えぇ」

 

 ハスミの言葉に、サクラコは深く頷いて見せる。アリウス分校――規模としては決して大きくはない、しかし腐っても学園の一つ。自治区を持ち、また生徒を抱えている以上、委員会や部活単独で立ち向かうべき相手ではない。

 ましてや、この様な手段に訴えて来るのであれば――尚更。

 

 ――問題は、その音頭を取る者が不在である事。

 

 百合園セイアは行方不明、桐藤ナギサは未だに昏倒中、聖園ミカは拘束され一時的にその権限を停止されている。

 トリニティ総合学園に於ける生徒会、ティーパーティーは機能不全に陥っていた。

 

「しかし、現状トリニティとして動くには余りにも――ティーパーティーが不在である以上、主要三派の意思統一は困難かと」

「それは承知しております……恐らく当面はトリニティ内部で防衛に努める事になるでしょう」

「であれば、自警団からも警備を担当したいという声が幾つか、よろしければ協議の方を」

「それは、大変助かります」

 

 トリニティ全体として動けないのであれば、主要な部分に戦力を割き防衛に当たる他ない。そんな思考をサクラコが漏らせば、スズミは自警団の防衛任務参加を提言する。今はどこも人手が足らず、猫の手も借りたい状況である。その言葉にサクラコは表情を明るくさせ、頷く。

 

「そういう事ならば、正義実現委員会からも何人か人手を出します」

「感謝します――しかし、騒動の収拾に人手は足りないではありませんか?」

「否定はしません、ですが重要度の問題です、本部に詰めていた事務員が何名か居ります、業務は滞るでしょうが今は先生の身の安全が第一です――是を非としても、先生を喪う訳にはいきませんから」

 

 そう云ってハスミは目を伏せる。自身の腕を掴んだ彼女は唇を強く噛み締め、その赤い瞳の瞳孔を開き、吐き捨てた。

 

「――ゲヘナを凌駕する憎悪を抱く対象が現れるとは……人生は、分からないものですね」

「………」

 

 その言葉には、殺意が籠っている様にも思えた。彼女らしからぬ激情――普段ゲヘナに対し過激な発言や行動を取る彼女ではあるが、そこには嫌悪や敵意と云った純粋な感情のみが存在していた。しかし、今彼女を支配しているのは、濁りに濁った、昏く息苦しい何かだった。

 

「……いえ、忘れて下さい、言葉が過ぎました」

「お気になさらず――言葉は兎も角、理解は出来る事ですから」

 

 ハスミのそれに、スズミはそう云って顔を背ける。そんな彼女達の耳にふと、誰かの足音が聞こえた。廊下を駆けるそれは周囲に響き、三人の視線が背後へと向けられる。

 

「はっ、はぁ……は、ハスミ先輩……!」

「コハル――」

 

 そこには汗だくになりながら、荒い息を吐くコハルの姿があった。

 現在の救護騎士団本棟は、先生の警護を行う観点から出入りを厳しく制限している。一般生徒は当然の事、現時点に於いては行政官の出入りすらも禁じられていた。ティーパーティーの一員が事を起こした以上、トリニティ内部にも協力者や内通者が居る可能性は捨てきれない。寧ろハスミは、その可能性が高いと考えていた。

 百合園セイアがその身の安全の為にトリニティを離れた様に――先生もまた、本来ならばトリニティ自治区を離れる事が最善である。しかし、残念ながら先生の状態、及び犯人不明の為に下手に移動させるのは却って危険であるとの結論に至った。

 

 故に現在敷かれている出入り口の検問を抜けられるのは、ハスミやサクラコと云ったシスターフッド、正義実現委員会の一部の生徒、そしてトリニティ自警団のスズミ等、現場に居合わせ確実に味方だと認識されているメンバーのみ。

 その点、補習授業部は後者の部分から入館を認められると考えていたが――コハルがひとりでやって来た所を見ると、どうやら現場の判断で止められているらしい。あの場に居合わせなかった生徒からすれば、確かに、補習授業部など耳にしたことも無い筈だ。

 ハスミがコハルの元へと足を進めれば、彼女は必死に息を整え、煤けた帽子を掴みながら口を開いた。

 

「あ、あのっ、せ、先生は……!」

「大丈夫です、峠は越えました、意識はまだ戻っていませんが容態は安定しています」

「そっ――そうですか! よ、良かったぁ……!」

 

 ハスミのその言葉を聞いたコハルは、表情を一変させ深く安堵の息を吐く。そんな彼女を見下ろしたハスミは、その肩を軽く叩きながら告げた。

 

「それよりも――補習授業部にはまだ、やらなくてはならない事が残っている筈です」

「えっ……?」

 

 ――やらなくてはならない事?

 その言葉に、コハルはハスミの顔を見上げる。自身を真っ直ぐ射貫く視線を受け、コハルの疲労で鈍った思考が回り出す。

 やるべき事――今思い当たる事は、一つだけ。

 

「だ、第三次特別学力試験……?」

「えぇ」

 

 コハルの呟きに、ハスミは深々と頷いて見せた。

 確かに、本来であればナギサを襲撃したのも、アリウスと対峙したのも、全ては第三次特別学力試験を受ける為に行ったものだ。全員で合格する為に、今までの努力を無駄にしない為に――けれど。

 コハルの視線が、分厚い硝子越しに先生を見た。

 幾多の機器に繋がれる先生の姿を。

 

「で、でも、こんな状況で、試験なんて、と、とても――」

「こんな状況だから、ですよ」

 

 ハスミの手が、コハルの手を掴む。コハルを見下ろすハスミの目には強い力が籠っていた。息を呑み、コハルは彼女を見上げる。

 

「先生が目覚めた時、胸を張って合格報告をなさい……きっとそれを、先生も望まれています」

「ぅ……」

「どの様な理由や経緯があっても、公議会で可決された以上その決定が覆る事はありません、試験時間に変更はなし、現場には正義実現委員会のメンバーとシスターフッド、そして試験監督官が既に待機しています」

「えっ……!? し、シスターフッド……?」

 

 コハルはその言葉に驚愕を露にする。

 シスターフッドが、どうして? そんな思考を感じ取ったのだろう、ハスミの背後に佇んでいたサクラコはそっと頷き、告げた。

 

「えぇ――その様に頼まれていたものですから」

「た、頼まれるって、一体誰にですか……?」

「先生に、ですよ」

 

 今度こそ、コハルは言葉を失くした。

 サクラコは先生と己を分け隔てる硝子にそっと手を添え、どこか憂う様な表情を見せながら言葉を紡ぐ。

 

「……先生は、万が一自身が試験監督を務められない場合、或いは何らかの理由で補習授業部が妨害にあった事態に備え、私達に言伝(ことづて)を残しておりました、信頼の置ける行政官を一名、監督官として派遣し、試験場の警備を行って欲しいと」

「せ、先生が……私達の、為に?」

「えぇ、先生は補習授業部がどんな状況に陥っても、必ず最後の試験を受けられるように取り計らっていたのです――全て、あなた方の為に」

 

 サクラコの言葉を聞き届け、コハルの視線が足元に落ちる。視線が床を彷徨い、胸の中であらゆる感情がぐるぐると廻った。

 正直に云って、試験を受けられるようなコンディションではない。戦闘行為を繰り返した為に肉体の疲労は限界で、精神的にも追い詰められている。それはそうだろう、目の前で先生が死にかけて、まだ目も覚ましていなくて、自分達も危険な目に遭ったばかり。

 暗記した内容なんて既に頭から吹き飛んで、昨夜詰めた知識は遥か彼方――疲労と、不安と、緊張と、焦燥。

 こんな状態で、試験なんて受けても――受かりっこない。

 

 ふと、上げた顔の先。透明な硝子越しに、昏々と眠る先生の姿が見えた。先生はまだ目覚めない、峠は越えたらしいが、コハルが見る限り明らかに重傷で、数日そこらで回復する傷ではない様に見えた。或いは、目が覚めても後遺症が残るかもしれない、何日後に目覚めるかも分からない。

 そんな傷を負った先生が望んでいたのは、補習授業部全員が試験に合格して、笑顔で卒業する事。

 皆が笑って、この先へと進める様に、先生は文字通り死力を尽くした。

 

 今の私は――先生が目を覚ました時に胸を張って迎えられるの?

 

 心の中に潜む、コハルが囁いた。

 脳裏に過るのは先生が負傷した際に晒した醜態。自身はただ泣き喚き、縋り付き、懇願する事しか出来なかった。あの場所で自分は、文字通りお荷物以外の何物でもなかった。

 

 ただ、涙を流すだけでは駄目なのだ。

 ただ、その場に蹲るだけでは駄目なのだ。

 

 コハルは小さな手を精一杯握り締め、唇を結ぶ。

 重要なのは、進む勇気。

 自身の信じる(正義)往く(貫く)心の強さ。

 

 コハル(自分は)はそれを――補習授業部で(先生と皆から)学んだ筈だ。

 

「ッ、わ、分かりました……!」

 

 歯を食い縛り、コハルは俯いていた顔を上げる。

 その視線がハスミを見返す。視界に映るコハルの瞳、その中に秘めた力強さに、ハスミは思わず目を見開いた。

 奥底にきらりと光る、一抹の勇気。どんな困難であっても、どんな状況であっても自身の信じる希望(正義)を貫く――正しきを為す者の資格。

 その華が、コハルの瞳を彩っていた。

 彼女がずっと持っていた、その影に隠れていた――本質。

 

 どれだけの困難であろうとも、どれだけの苦難であろうとも――立ち向かう勇気を、此処()に。

 

「私、試験を受けに行きます、それで、絶対に合格してみせますから……ッ!」

「――えぇ、コハルならきっと大丈夫です」

「はいッ! い、行ってきます、ハスミ先輩!」

 

 ハスミは微笑み、そっとコハルの頭を撫でつける。彼女は大きく頭を下げ、ハスミやサクラコ、スズミに一礼をした後、踵を返し出入口へと駆け出した。その背中を、三人はじっと見送る。

 ふと、スズミが思わずと云った風に言葉を零した。

 

「……強いですね、コハルさんは」

「……えぇ」

 

 彼女の言葉に、ハスミは頷く。

 その表情に――憂いは無かった。

 

「いずれ委員会を背負う、正義実現委員会(私達)の――自慢の後輩ですから」

 

 ■

 

「うぅ……」

「………」

 

 救護騎士団本棟、正面玄関前。

 補習授業部は血と煤、そしてボロボロになった制服姿のまま不安げな表情で屯していた。彼女達の視線の先にはシスターフッドの生徒が立ち塞がっており、厳重に出入口を封鎖している。最初は先生の容態を知る為に事情を話し、身元を明かした上で交渉したのだが、残念ながら入館許可を取り付ける事は叶わなかった。

 唯一、コハルだけは元正義実現委員会の所属、かつ現場に居合わせたという事で入館許可が下りた為、現在彼女の帰還待ちであった。

 ヒフミは爆発によって破けたペロロバッグを抱えながら、先程から忙しなく周囲を歩き回り、ハナコは近場の縁に腰掛けながらも指先は自身の膝を叩いている。アズサは壁に寄り掛ったまま銃器を抱き、じっと目を瞑って時を待っていた。

 そして不意に本館の扉が開き、中から小柄な影が飛び出してくる。

 

「お、お待たせ……!」

「コハルちゃん……!」

 

 ヒフミが視線を向け、そう声を上げれば、ハナコやアズサが顔を上げ、皆がコハルの元へと駆け出す。皆の表情から何を聞きたいかは一目瞭然だった。ヒフミはコハルの肩を掴み、必死の形相を浮かべ問いかける。

 

「せ、先生の容態は!?」

「えっと、峠は越えたって、ま、まだ目は覚めていないけれど、安定しているって云っていたから、多分大丈夫……だと思う」

「そ、そうですか……!」

 

 コハルの言葉に、補習授業部の全員が胸を撫でおろす。此処で死亡報告など飛び出てしまえば、一体どうなる事か。兎にも角にも一命を取り留め峠も超えた。その報告だけでも不安を慰めるには十分なものだった。ハナコもふっと息を吐き出し、その表情を僅かに緩める。

 

「救護騎士団がそう判断したのならば、一先ずは安心でしょう」

「……うん」

「色々と話したい事、相談したい事は山程あります――ですが」

 

 ハナコはそう続けて、再びコハルに視線を向けた。

 

「コハルちゃん、まだ何か云いたい事があるのでは?」

「えっと、その、第三次特別学力試験……」

「えっ?」

「まだ、試験が残っているから、受けに行かないと……!」

「そ、そういえば……」

 

 コハルの言葉に、ヒフミはすっかり忘れていたとばかりに声を上げる。しかし、その表情は直ぐに色を喪い、俯いた。

 

「で、ですが、こんな状況で試験なんて……!」

「こんな状況だからですよ、ヒフミちゃん」

 

 そんなヒフミの肩を叩くハナコ。彼女はどこまでも理知的な瞳で以て語り掛ける。

 

「先生は今まで、私達にこの試験を乗り越えて貰う為に手を尽くしてくれたのです、それに先生が目を覚ました時、胸を張って合格報告をしたくありませんか? ――なんて、きっとハスミさんも似たような事を仰ったでしょう、それに……」

 

 ハナコは救護騎士団本棟に詰めている面々を脳裏に描きながら、そう口にする。

 

「コハルちゃんがその様に云うという事は、恐らく先生は、自身が倒れて尚、試験を受けられる状態を整えてくれていた……という事ではないでしょうか」

「うん、ハナコの云う通り……先生、シスターフッドに頼んで、試験会場の警備と試験監督を予め用意していたみたい」

「先生が……?」

 

 コハルが細々とした声でそう告げれば、ヒフミは目を見開いて呟く。

 コハルは両手を強く握り締めると、彼女らしからぬ、強い意志と口調で以て続けた。

 

「だから試験を受けて、私はちゃんと……先生に笑顔で報告したいって、そう思って……!」

「こ、コハルちゃん……」

「――行こう、会場はそんなに遠くない」

 

 アズサはそんなコハルの様子に、声を上げる。擦り切れ、(ほつ)れた背嚢を背負い直したアズサは、血と砂利に塗れながら、それでも確かな意思を以って頷いて見せた。

 

「先生を想って足を止めちゃ、きっと駄目だ、先生はそんな事を望んでいないと思うから……私がこんな事を云う資格は無いと思うけれど、でも――私も、先生の想いを無駄にはしたくない」

 

 アズサの言葉に、ヒフミは口を噤む。抱きしめたペロロバッグの中には、辛うじて破損を免れた筆記用具入れが入っていた。穴が空き、煤け、解れ、ボロボロになったペロロバッグではあるが、辛うじてその形は保っている。

 そうだ、自分達は――何の為に此処まで頑張って来たのだ? 

 ヒフミはそれを見下ろしながら思う。アズサも、コハルも、ハナコさえも、その表情に疲労を滲ませ、目元に隈を作ってまで頑張って来たのは何故だ? その努力は、積み重ねた時間は何の為に――。

 ペロロバッグの中に入れていた、補習授業部の人形。それをヒフミは取り出す。先生の部分だけが焼け焦げ、千切れてしまったそれ。無理矢理くっ付けようにも、裁縫道具も何もない状態では無理だった。まるで今の自分達の様に、壊れ、草臥(くたび)れ――擦り切れそうな人形(思い出)

 けれど、形あるものが壊れても。

 

 決して――壊れないものだってある。

 

「そう、ですね……私達が此処まで頑張って来たのは――」

 

 呟き、ヒフミはペロロバッグを強く抱き締める。焼け焦げ、千切れた補習授業部の人形。その残骸を握り締め、彼女は顔を上げる。その象徴が壊れても、積み重ねた時間は崩れない、抱いた想いは変わらない。

 共に歩んだ道は、まだ続いている。

 

「先生なら、きっと大丈夫です、シスターフッドの皆さんも、正義実現委員会の方々も、トリニティ自警団だって周りに居てくれますから――だから私達は今、自分の出来る事を……!」

 

 そうだ、自分達が今すべき事は此処で悲観に暮れる事ではない。

 アズサがいつか云った様に――悲しむ事も、嘆く事も、後から出来るから。

 だから今は自分達の出来る事を、やるべき事を――自分達なりに、精一杯。

 

 ――全力で。

 

「行きましょう、試験会場に――そして合格するんです、全員で! 文句が付けられない位、完璧に……っ!」

「えぇ……!」

「うん……!」

「当然……!」

 

 ヒフミが顔を上げ、叫ぶ。彼女が駆け出すと、補習授業部がヒフミの後に続いた。

 陽光が皆を照らす、朝が訪れる。

 脚は重く、身体は怠い。思考は鈍く眠気が酷い。コンディションは最悪で、感情的にも試験どころではない。

 けれど、ヒフミは拳を突き上げ、叫ぶのだ。

 精一杯、高らかに。

 トリニティ中に響き渡る様に。

 先生に、届くように。

 

「補習授業部ッ――出撃です!」

「おーッ!」

 

 私達ならきっと、出来る筈――そうですよね、先生?

 

 ■

 

 第三次特別学力試験――結果

 

 ハナコ――百点(合格)

 アズサ――九十八点(合格)

 コハル――九十三点(合格)

 ヒフミ――九十六点(合格)

 

 補習授業部――全員合格

 


 

「そうか……補習授業部の皆は、確りと自分達の力で未来を勝ち取ったのだね」

 

 夜空に、声が響く。

 ティーパーティーの秘奥、星空が瞬くテラスで彼女は語らう。未だ意識を取り戻さない彼女と、意識不明のまま病床にある先生は繋がっている。夢の中で、遥かにあやふやで輪郭のない世界の中で。

 彼女――百合園セイアは夜空を仰ぎながら、言葉を紡ぐ。

 

「コハルは晴れて正義実現委員会に復帰し、ハナコは良き友人を見つけ退学の意思を失くした、アズサはきっとこれからも学びを続けることができる、そして真摯に努力を積み重ねて来たヒフミは、今まで通りの日常に戻る事が出来るだろう」

 

 ―――。

 

「……ミカは学園の監獄に幽閉された、もしかしたらもう二度と逢う事はないかもしれない、そしてナギサは――予定通り、エデン条約に調印しに向かう」

 

 手にしたカップをソーサーに戻す。かちゃりと、微かな音が先生の耳に届いた。長い長いテーブルの、その向こう側に座る彼女は先生を見つめる。どこまでも澄んだ瞳で以て。

 

「そして先生、君の傷も、決して浅くはないが命までは奪われない……その傷は癒え、いずれ日常の中に帰る事が叶うだろう」

 

 それは予知能力を持った彼女の確信。補習授業部の結束は高まり、先生はいずれ復帰し、この騒動は一旦の終息を見せる。

 事後処理や復旧作業には時間が掛かるだろうが、それもいずれは終わる。誰もが日常の中に戻り、確かなものを得て物語は幕を閉じる。

 

「あぁ、認めよう先生――ここまでは、良くできたお話だ」

 

 彼女はそう云って、微笑んだ。

 どこまでも透明で、色の見えない笑みだった。

 

 善いお話だろう。

 全員でなくとも、相応の幸福と相応の償いが混じり、その結末に破綻は無い。

 最後は皆が幸福になれる物語――今はそうでなくとも、時間をかけてゆっくりと、その心の傷を、関係を癒し、善い未来へと繋がる物語だ。

 

 ――でもまだ、エンドロールには早すぎる。

 

「……あぁ、そうだとも、何せ君が見守るべき本当の結末は、まだその全貌を現していない、このお話がどんな風に、どの様に転がって行こうとも、全ては破局(アレフ)へと収束していく」

 

 水が高い場所から低い所へ流れる様に――ごく自然に、当たり前の様に、その未来は強固な運命によって定められている。

 どれだけ足掻いても、どれだけ希っても、その道を捻じ曲げる事は出来ない。

 

 彼女(セイア)はそう、信じている。

 

「まだ残っているものがある、これで決して終幕などではない……これから君達を襲う絶望は、深く深く、どこまでも深く、底の見えない闇に覆われ、二度と陽光の差し込まない様な、そんな奈落に君達を引き摺り込むだろう――その手から逃れる術は、ない」

 

 彼女の、亜麻色の髪が風に靡く。酷く冷たく、寒々しいそれに煽られながら、彼女はただじっと静かに――口を閉ざす先生を見つめていた。

 

「その事は君がきっと、誰よりも良く分かっている筈だ」

 

 ――そうだろう、先生。

 

 ■

 

 次回 エピローグ 「紅茶を一杯、如何ですか?」

 

 私がエデン条約編を書こうと思った時に、補習授業部の面々にはそれぞれ軸となる概念を当て嵌めました。彼女達の理念、本質と云い換えても良い。何かに立ち向かう時、困難に見舞われた時、どのように動くか、どのような言動を取るか――私は先生の手足を捥いで生徒をギャンクライさせたい心を持っておりますが、それと同じ位、彼女達の成長や精神的な前進、或いは変質をとても楽しみにしているのです。

 

 ヒフミには友愛。

 コハルには勇気。

 アズサには信念。

 ハナコには()性。

 

 それぞれの生徒に、必ずひとつは見せ場を作ろうと思っておりました。

 ハナコにはその()性を以って先生の秘密(意味深)を暴いて貰い、アズサには諦めないという信念により圧倒的な不利からサオリに食らいついて貰い、コハルには一度崩れて尚、立ち直る勇気を示して貰いました。

 

 そしてヒフミの持つ友愛、これが試されるのは補習授業部が真にバラバラになった時でしょう――大切な人が傷付けられ、その心がバラバラになり、信じていた居場所を喪ったと感じた時、それを再起させられるかどうかは彼女に掛かっています。

 

 大事なのは経験ではなく、選択。それは先生のみならず、生徒にも適応されます。彼女が失敗すればアズサは再び陽の当たらない場所へと帰る事となり、コハルはその勇気を擦り減らし挫け、ハナコは全てを知りながら何も出来ぬ自身の無力さに絶望する事でしょう。

 補習授業部の部長として、その切っ掛けを作ったひとりとして、彼女はエデン条約編に於けるメインテーマのひとりなのです。

 

 そんな頑張るヒフミに「ペロロ様のフライドチキンだよ~」って云って、ホッカホカのPFC(ペロロ・フライド・チキン)を食べさせてあげたいですわねぇ……。パッケージににはちゃんと、ペロロ様が踊っているイラストを描きます。絶対凄まじい顔をして差し出されたそれを見るに違いない。震える指先でそれを掴み、蒼褪めながら口を開く姿を満面の笑顔で見つめていたい。泣きながら頬張ってくれたら料理人冥利に尽きるってものですわよ。そんな事するわけねぇでしょうが! 私のッ、先生が!!! 

 でも切腹したペロロ様の再利用って大事では? ペロロミニオンって一杯居るし、一匹くらい持ち帰っても……バレへんか! 

 おまち下さいまし、総力戦でペロロミニオンを一匹こっそり持ち帰って、それを細々と裏庭で飼うヒフミ概念……。そしてナギサが偶然そのペロロミニオンと遭遇し、何だこの気持ち悪い生き物は、どこから侵入したのだと倒した後に処理しようとして、そう云えば何処となくヒフミさんの好きな動物に似ていた様な……? みたいな思考になって善意でPFC(ペロロ・フライド・チキン)を料理する展開……満面の笑みで差し出される愛ペロロの残骸、ナギサの笑顔を前にヒフミは――消えろ! 光のわだす!



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紅茶を一杯、如何ですか?(ティーパーティーを、もう一度)

誤字脱字報告、ありがとうございますわ~!
エピローグだからって調子乗って書いていたら、21,000字になっちゃった……。
これにてエデン条約編・前編 完結ですわ~~~!


 

「………ぅ」

 

 痛みで、目が覚めた。

 最初に見えたのは滲んだ白い天井、そして耳から聞こえて来る電子音。等間隔で鳴り響くそれは、先生の微睡んだ意識を小さく刺激していた。

 そこが病室だと分かったのは、こんな風な光景を幾度も見て来たからだ。先生の意識は急速に覚醒し、思考が明瞭となる。しかし精神がそうであっても、肉体は異なる。右腕、左腕、右足、左足、それぞれを軽く動かし、繋がっている事を確かめ、先生は口を開く。

 

「ぁ、ろな……」

 

 マスク越しに響く声は、余りにも弱々しく聞こえた。

 腰回りと、背中が酷く痛む。それが傷の影響なのか、それとも長い間寝たきりだったからなのか分からない。先生は視線を左右に散らし、直ぐ脇の床頭台にシッテムの箱を見つけた。

 先生は左腕でそれを取ろうとして――指先が、シッテムの箱を掴み損ねた。見れば指先が酷く震え、力が入らなかった。先生は二度、三度、シッテムの箱を掴み損ねながらも、四度目で漸く引き寄せる事に成功する。

 そのまま電源を入れ、認証画面に進む。ランプは緑、しかし電源は半分も残っていなかった。電子音が先生の耳を叩く。この部屋には、バイタルを知らせる音しか響いていない。

 

『せ、先生……っ!』

 

 胸の上に立てたシッテムの箱から、アロナが顔を覗かせる。画面に顔を貼り付け、涙目で叫ぶ彼女。先生はマスクを付けたまま苦笑を浮かべ、息を漏らした。

 

「アロナ、此処は――」

『救護騎士団の病室です! 先生はえっと、トリニティの体育館でヘイロー破壊爆弾を受けて、それで……!』

「ヘイロー……」

 

 呟き、目を瞬かせる。少しばかり記憶に穴があった。しかし思考を回す内に、段々と自身が倒れる前の事を思い出す。そうだ、アリウスと対峙し、自分はヘイロー破壊爆弾からミカを庇って、それで――アズサと、サオリに。

 

『ご、ごめんなさい先生、私、また役立たずで……ッ!』

「ははっ……アロナが役立たずだった事なんて、一度もないよ……」

 

 ガサガサな声で、先生はそう口にする。今は兎にも角にも水が欲しかった、しかし先生の眠っていた病室にそれらしいものはない。完全個室で、壁際にまで機器類がずらりと並んでいる。それに薬品棚とモニターの山、自身に繋がれたケーブルの多さが、そのまま生徒達の執着を表現している。

 

『す、直ぐに救護騎士団の生徒さんを呼んで――!』

「いや、良いよ、それより……っ、ぐ……ッ!」

 

 シッテムの箱を通じてコールを行おうとするアロナを留め、先生はベッドより起き上がる。マスクを取り外すと、途端に呼吸が辛くなる。しかし、先生は苦痛に顔を歪めながらも足をベッドの外に落とす。

 保護膜が剥がれ落ち――傷だらけになったそれを見て、先生は顔を顰めた。

 静かにズボンの裾を降ろし、傷痕を隠す。

 

『せ、先生! まだ体は万全じゃないんですよ!?』

「行かなきゃ、いけない……ところがあるんだ……」

『そんな体で、一体どこに……!?』

 

 アロナの悲鳴に、先生は首を振る。その額に脂汗を滲ませながら、ゆっくりと立ち上がった先生は、身体に張り付けられたケーブルを剥がし告げるのだ。

 

「一番に……謝らなきゃいけない子が、居るからね――!」

 

 ■

 

 トリニティ総合学園――ティーパーティー、テラス。

 いつも通りの麗らかな陽射し、学内を一望出来るテラスにて彼女は普段通り紅茶を嗜んでいた。

 ティーテーブルに並ぶ洋菓子に、丁寧に用意された紅茶。その水面を見つめながら彼女――ナギサは小さく息を吐き出す。

 

「ふぅ……」

 

 吐息は風の中に掻き消され、水面に映った自身の表情が歪んだ。

 ふと、視線を上げれば空席となった二つの椅子が見える。無機質なそれは、その持ち主が腰を下ろさなくなって久しい。

 結成当初、何とも賑やかに思えたこのテーブルも――最早、座る者も自分だけ。

 トリニティ総合学園に於けるティーパーティーは、実質崩壊した。以前の様な安定性は望むべくもなく、その権威は失墜し、再建には膨大な時間を要するだろう。いや、或いはこのまま新たな政治体制に移行する可能性すら考えられる。

 しかし、それを否と突っ撥ねる事は出来ない。

 全ては――自身の力と思慮が足りなかった故に。

 

「……ミカさん」

 

 呟き、ナギサは目を瞑る。

 思い出すのは、彼女が目を覚ました時の事だった――。

 

 ■

 

「ん――」

 

 ナギサが目を覚ましたのは、アズサの想定した『一時間』を大幅に越し、騒動が粗方形を潜めた頃。それが精神的なショックによるものなのか、或いは普段から荒事を遠ざけていたからなのかは分からない。ナギサ自身、己が武闘派などは口が裂けても云えないが、別段体が弱いという訳でもなかった。

 ナギサが小さく呻きながら目を開けば、そこには自分を覗き込むフィリウス分派の傍付きの姿があった。彼女はナギサが目を開いた事を確認し、その表情を喜色に染める。

 

「あっ、ナギサ様! 漸くお気付きに……!」

「……此処、は」

 

 呟き、視線だけで周囲をなぞる。そこはナギサにとって見慣れた場所で、自身の普段寝起きしている場所でこそないものの、その間取りには覚えがあった。

 確か、此処は――。

 

「此処は……私の、邸宅?」

「はい、ナギサ様の個人邸宅に先程……! それよりも、直ぐに医官を御呼びしますので――」

「いえ、結構です……体に痛みはありません」

 

 そう云ってナギサは上体を起こす。慌てて傍付きの生徒が介助の手を伸ばし、ナギサの背中と腕を取った。ナギサは自身の体を見下ろし、シャツとインナーだけになった体を確かめる。

 

「私は、一体……」

 

 痛みは無い――そう口にしたが腹部にはじわりと、鈍い痛みがまだ残っていた。彼女は顔を顰めながら、そっと腹部を撫でつける。

 

「私は……そう、確かセーフハウスで――」

 

 呟き、ナギサは眉間に皺を寄せたまま記憶を掘り起こす。

 

「セーフ、ハウス……で……――」

 

 自身が意識を失う前に見たもの――何故か輪郭はあやふやで、記憶が拒んでいるかのように思い出せない。

 けれど徐々に、少しずつ朧気だったそれらが形を取り戻す。そしてナギサの心臓が早鐘を打ち始め、背中にじっとりとした嫌な汗が流れ始めた。

 目を見開き、ナギサは思わず傍付きの腕を握り締める。その力強さに思わず生徒は悲鳴を上げ、息を呑んだ。

 

「いたっ……!?」

「今の……今の状況は!?」

「えっ、な、ナギサ様……!?」

「良いから答えなさい、今のトリニティはどうなっているのですッ!?」

 

 その、彼女らしからぬ声色と勢いに、詰め寄られた生徒は怯えの表情を浮かべる。しかし必死の形相に気圧された彼女はまごつきながらもその口を必死に開いた。

 

「げ、現在のトリニティはアリウス分校の襲撃を受け、厳戒態勢を維持していますが……」

「襲撃……私は何故生きているのですか? いえ、拘束された後に救助部隊が――」

 

 そう独りでに呟き、ナギサは思考を回す。自分が襲撃された事は――憶えている。

 そうなると己はそのまま虜囚となった筈だが、こうして邸宅に運ばれたという事は救出された後なのだろうか。どれ程の時間眠っていたのか、それは分からない。

 襲撃して来たのはアリウス――いや違う、確か……そう、補習授業部! 自身の作った補習授業部が反旗を翻して……! 徐々に意識が明瞭となり、記憶が次々と湧き上がる。それらを一つ一つ確かめながら、ナギサは平行して現状の確認に努めた。

 

「現在のフィリウス分派の……いえ、トリニティの指揮は誰が!? まさかミカさんが……」

「い、いえ、その――」

 

 ナギサがそう声を上げると、傍付きの生徒の顔色が分かり易く変化した。どこか云い辛そうに、或いは口にする事も恐ろしいとばかりに。しかしナギサが焦燥した瞳と共に見つめれば、どこか観念した様子で彼女は告げた。

 

「ティーパーティー、聖園ミカ様は現在、その――傷害教唆、及び傷害未遂、更にはクーデター未遂の容疑により拘束されております……」

「――は?」

 

 それは、ナギサにとっては予想だにしていない事で。

 夢にも思わなかった事柄で。

 暫くの間、彼女は言葉を忘れたかのように沈黙を守った。

 握り締めたシーツが皺となり、ベッドが軋む。

 見つめられる生徒は居心地が悪そうに身を捩り、その視線を泳がせた。

 唾を呑み込んだナギサが、もう一度問いかける。今度はじっと、含むように。

 

「クー……デター?」

「は、はい、アリウス分校と手を組み、ナギサ様襲撃の計画、及びトリニティ制圧を目論んだと……」

「そんな、筈――」

 

 呟き、背を曲げる。揺れる視線、鳴り響く動悸。額から汗が流れ、歯を食い縛ったナギサは血を吐く想いで叫ぶ。

 

「政治の苦手なあの子が、そんな周到な真似、出来る筈がッ……!」

 

 俯き、吐き出したその言葉に、ナギサの頭蓋が軋む音がした。忘れていた記憶の断片、その最後。

 セーフハウス、明かりの限られたあの場所で何が起きたのか。襲撃して来たのはアリウスではなく補習授業部、自身の前に立ったのは浦和ハナコ、白洲アズサ、そして阿慈谷ヒフミの三名。それを憶えている。

 それで、彼女達に自分は撃たれて――けれど、その前に。

 そう。

 自分を庇った、ひとりの大人が居た筈だ。

 確か。

 この、記憶は。

 夢なんかじゃ――。

 

「先生は――」

 

 ナギサは酷く乾き、掠れた声で問いかけた。鼻先を伝い、シーツに落ちる雫。それが自身の流した汗である事を、ナギサは知らない。耳鳴りがする、心臓の鼓動が五月蠅い、それでも尚――目を背ける事は許されない。

 

「そ、そうです、先生は……先生はどうなったのですか……?」

「っ……」

 

 か細く、揺らぐ声。

 その一言に、直ぐ傍で彼女が息を呑むのが分かった。

 ナギサは顔を上げ、傍付きの生徒を見上げる。彼女は一目でわかる程に蒼褪めた表情で唇を噛み、そっと視線を横に逸らしていた。二度、三度、口を開いては閉じる。その様子だけで、彼が無事ではない事をナギサは察した。

 

「しゃ、シャーレの、先生は……」

「………っ」

「せ、先生、は――」

 

 ナギサの震える指先が、生徒の肌に食い込む。彼女は逸らしていた視線をナギサに向け、どこか戦々恐々とした様子で告げた。

 

「げ、現在、意識不明の重体――救護騎士団本棟にて集中治療を受けている……と」

「……――」

 

 ナギサの指先から、力が抜ける。自身のそれが、現実であると知ったが故の動揺、その顕れ。

 あれは、夢幻(ゆめまぼろし)などではなかった。最後のピース、ナギサが見た光景、尤も目を逸らしたかったそれが、思い起こされた。

 先生の言葉、喪われる温もり、赤に沈む体――そして無邪気に嗤う、三日月の口元。

 

「あ、ぁ……」

 

 そうだ、何を寝惚けているのだ自分は。

 先生は自分を庇って、血の中に沈んで――最後まで生徒の為に足掻き、撃たれた。

 ナギサは両手を震わせ、自身の頭を抱えた。震える背中は余りにも小さく、弱々しく、掴んだ髪がくしゃりと歪む。慌てた傍付きの生徒が、その背中を摩り、彼女の名前を呼ぶ。

 けれど、今のナギサには何も聞こえない。

 

 ――全て、思い出した。

 

 自身がセーフハウスに避難した事、そこを襲撃した者が補習授業部である事。そして、彼女達が先生を裏切った事。

 そして、先生が自身を庇って――重傷を負った事。

 

「ぅ、ぅうううッ………!」

「な、ナギサ様! お気を、お気を確かに……ッ!」

 

 ナギサが呻き声を開け、その歯が音を立てて鳴り始めた。その事に気付いた生徒は必死に背中を摩り、ナギサの名前を呼び続ける。

 

 細かく、息を吸う。呼吸の仕方を間違えれば、直ぐにでも過呼吸を起こしてしまいそうだった。散り散りに裂けそうになる心を、必死で落ち着ける。一度砕けたソレは継ぎ接ぎだらけで急造品の器に過ぎない。少し力を加えれば、壊れてしまう程に脆く、弱い。

 彼女は目を瞑り、鳴り響く歯を必死に食い縛ろうとした。

 必死に自分に云い聞かせた。

 責務を、使命を、思い出せ、と。

 自分が為すべき事を――為さねばらない事を。

 

「……あ、アリウス、そう、アリウスを撃退したのは、誰……ですか?」

「え、ぁ、た、確か、シスターフッド、及びトリニティ自警団、補習授業部との報告が――事態の収拾には正義実現委員会及び救護騎士団も協力しております」

「……シスター、フッド」

 

 理性と使命感は、現実から視線を逸らすのに幾分かの効果を齎した。

 先生の事を考えると、胸が軋む、感情が散り散りになる。だから一時、それが逃避に過ぎないと分かっていながら、彼女は目を瞑り、耳を塞ぎ、感情を遮断する。滲み出る狂気の足音に怯えながら、彼女は努めて冷静で在ろうとした。

 

 ナギサは酷い顔色のまま、シスターフッドの名前を繰り返し呟く。

 シスターフッド、そして救護騎士団、どちらもティーパーティーからは独立した指揮系統や情報網を持っており、ナギサの制御下には存在しない。正義実現委員会も完全な制御下にある訳ではないが、命令権がティーパーティーに存在するだけ他二派よりは幾分か御しやすい。

 そして、襲来したアリウスはそのシスターフッドと補習授業部、トリニティ自警団が撃退し、救護騎士団、正義実現委員会が事態の収拾に尽力したと。

 此処から推察出来る事は、何だ? そもそも何故、秘密主義のシスターフッドが動いた? 

 救護騎士団も本来であればティーパーティーに参入するだけの発言力と組織力を持ち合わせているが、政治不干渉のスタイルを貫いて来た分派である。それらが一斉に動いた? それはナギサにとって、酷く不可解な出来事であった。

 

 しかし――最初から、『そういう筋書き』であればどうか?

 

 補習授業部はアリウスと繋がっていた。自身の考えは正しく、正義実現委員会の下江コハルを除き彼女達はアリウス分校のスパイか、それに準ずる存在であり、先生は彼女達を指導する間にその事を悟った。何とか思い留まらせようと尽力したが、力及ばず彼女達は凶行に走り、アリウス襲撃が勃発した。

 これが、あのセーフハウスでナギサが考えた真相だ。大筋からは、それ程外れているとは思わない。

 しかし、真に重要なのはアリウスではなかった。

 

 これは――アリウスを利用した、クーデターの可能性がある。

 

「……ま、さか、私達ティーパーティーを排斥する為の――」

 

 呟き、ナギサは唇を強く噛む。血が滲む事も構わず、彼女は顔を歪ませた。

 或いは、その補習授業部はアリウス分校と繋がっていた訳ではなく、シスターフッドや救護騎士団と繋がっていたのではないか? ミカやアリウス撃退の報を聞いたナギサは、そう考えた。

 そもそも補習授業部がアリウス分校の一派ならば、彼女達が撃退に協力する理由がない。彼女達が土壇場で裏切られて、という可能性もあるが、そうであるのならば事後処理があって然るべきだ。しかし、補習授業部が拘束されたという報告はなかった。

 となれば、そもそも彼女達は、『アリウス一派ではなかった』と考えるのが自然である。アリウス側の味方ではないのなら、一体何処の味方なのか? 何の為にナギサを襲い、アリウス襲撃を阻止し、トリニティ防衛に貢献したのか?

 

 ――全ては、シスターフッドや救護騎士団が糸を引いていた。

 

 今回の件で一番被害を被ったのは何処か。それを考えれば自然と答えは出る。

 最も被害が大きく、機能不全に陥ったのは――ティーパーティー。

 ナギサ、ミカ、セイアの三名。

 セイアは件の暗殺によって退場し、ミカはクーデター未遂という罪状で拘束。そして自身は一番重要な時期に意識を失い、昏倒。実質ティーパーティーの三名が不在となり、トリニティ総合学園は身動きが取れなくなる。そんな状態でアリウスから襲撃を受ければどうなる? 当然、学園としては致命的な損害を被るだろう。

 

 しかし、シスターフッドや救護騎士団が動き、それを阻止した。恐るべきはトリニティ自警団すら抱え込んだその手腕か。正義実現委員会と衝突する彼女達すら協力したというのだから、余程の事だろう。

 そして正義実現委員会――彼女達は自身の役割を果たす為に動いたのか、或いは。

 自身を拘束せず、こうして邸宅に運んだ点から疑問点は残る。しかし、そもそもこの邸宅で軟禁されない保証などない。

 或いは――自身は卒業まで、ずっとこの場所で過ごす羽目になるかもしれない。

 

「……ッ」

 

 ナギサは、己の不明を悔いた。

 どちらにせよ、この件によりティーパーティーの権威は失墜する。今後の学園運営に支障を来すのは目に見えていた。そしてもし、それが真の狙いであったのならば――自身の目は、とんだ節穴だったという事。

 本当の裏切者は、学園外部から齎されたものではない。

 

 ――箱庭(トリニティ)の、内側に存在したのだ。

 

 ふと、扉がノックされる音が響いた。ナギサが肩を震わせ、咄嗟に扉に視線を向ける。傍付きの生徒が扉に駆け寄り、問いかけた。

 

「……どなたでしょう?」

「その、ナギサ様がお目覚めになったという事で、担当の医官が――」

 

 扉の向こう側から、少しばかり強張った声が聞こえて来る。傍付きの生徒がナギサに目配せをする。ナギサは少しばかり思案する素振りを見せ、ややあって首を横に振った。用心した所でどうなるというのか――今の自分は、殆ど虜囚の身と変わらない。煮るも焼くも、相手の想うがまま。

 ナギサは自身の体を搔き抱きながら目を伏せると、そっと吐き捨てる様に云った。

 

「……扉を」

「は、はい」

 

 意を汲み、傍付きの生徒がそっと扉を開く。すると向こう側に立つ生徒の顔が陽に照らされ、ナギサの視界に映った。彼女はいつも通り、何てことのない笑顔を浮かべ佇み、口を開く。

 

「――目が覚めた様ですね、ナギサさん」

「ッ……!」

 

 その人物を見た瞬間、ナギサの産毛が逆立ち、その視線が引き絞られるのが分かった。

 握り締めたシーツが皺くちゃになって、感情が制御出来なくなる。遮断した筈のそれが、自身の直ぐ背中に手を伸ばすのを感じる。けれどもう、ナギサはそれを抑えようとは思わなかった。

 恐らく、その場に銃器があったのならば、何の躊躇いもなく相手に銃口を向け、引き金を絞っていただろう。

 彼女は歯を剥き出しにし、狂気に犯された形相を浮かべ、その名を叫んだ。

 

「浦和、ハナコッ……!」

 

 彼女らしからぬ、憎悪と憤怒を孕んだ声。それを正面から受け止めながら、ハナコは柔らかく微笑んで見せる。或いは、ナギサには不敵な笑みにも見えた。彼女が部屋に踏み込むと、その背後から続々と生徒が顔を覗かせる。

 

「お邪魔します、ナギサ様」

「………失礼します」

「えっと、此処に患者さんが居ると聞いて来たのですが……?」

 

 ハナコを除き、ナギサの部屋へと足を踏み入れたのは三名。

 シスターフッド代表のサクラコ、正義実現委員会副委員長のハスミ、そして救護騎士団の制服を身に纏った見知らぬ生徒。ナギサはそれらの生徒を油断なく睨みつけながら、最後の救護騎士団の生徒に問い掛ける。

 

「……あなたは確か、救護騎士団の――」

「あ、はい、鷲見セリナと云います、ナギサ様!」

 

 そう云って人を安心させるような笑みを浮かべる少女――セリナ。

 補習授業部、シスターフッド、正義実現委員会、救護騎士団――トリニティ自警団こそ居合わせていないものの、アリウス襲撃の際に防衛と事後処理に携わった一派の生徒が出揃っている。ナギサが強張った表情のまま沈黙を守れば、ハナコは並んだ全員と、セリナを見つめながら口を開いた。

 

「彼女には救護騎士団の代表として来て貰いました、現状を説明するのには各分派の面々が居た方が早いでしょうから」

「……良くも私の前に顔を出せたものですね」

「えぇ、まぁ……本当ならば私は顔を出すつもりはなかったんです、でもナギサさんの事ですから、起き抜けに色々と考え込んで事態を悪化させかねないと判断しまして、兎に角今は話を聞いて下さい」

「ッ、今更何を話すと……!? これはこれはティーパーティーを排斥する為にあなた達が仕組ん――」

「ヒフミちゃんが、そんな事をすると思いますか?」

「ッ……!」

 

 怒鳴る様に、何かを叫ぼうとしたナギサを遮ってハナコはそう告げた。

 彼女の中に残っていた、なけなしの理性、或いは疑心。それを突き、ハナコはナギサの口を噤ませる。こんな状況に陥っても尚、ナギサは一抹の希望を抱いていた。

 何かの間違いではないのか、全ては悪い夢なのではないか――と。阿慈谷ヒフミという、自身にとって掛け替えのない友人すらも裏切ったという記憶に、彼女は心底怯えていたのだ。

 そのナギサの弱い――或いは、脆い部分を突き、ハナコはそっと語り出す。

 

「……一先ず、現在の状況と一連の流れをご説明します、疑問はその後に」

 

 ■

 

「――以上が、ナギサさんが昏倒した後に起こった全てです」

「………」

 

 部屋の中に、沈黙が流れる。

 ハナコの説明は、ほんの十分程度で終わりを迎えた。優秀な彼女らしく、簡素で、しかし不足なく。主観と客観を分けながら説明されたそれに、ナギサは口を噤まざるを得ない。

 ハナコを含め、サクラコやハスミと云った面々は説明の最中に口を挟むことなく、ただ淡々とその場に佇むだけであった。しかし、それがこの場に限り、ハナコの説明に対する無言の肯定である事をナギサは理解していた。

 ベッドから上体を起こしたまま、彼女はじっと何かを堪える様に口を閉ざし続ける。

 強張った表情のまま視線を落とす彼女は、ややあって囁く様な声量で問うた。

 

「ミカさんが、本当の裏切者……と?」

「えぇ、彼女は以前よりアリウス分校と取引を行い、アズサちゃん――白洲アズサをトリニティに転校させ、暗躍させていました、尤も彼女は元よりアリウスを裏切るつもりで、最終的には私達補習授業部と共にアリウス侵攻部隊を撃退、アリウス分校とは既に敵対しています」

「――それについてはシスターフッドの代表である私も証言致しましょう、彼女は最後まで先生と……補習授業部と共に戦い、トリニティを守ろうとしておりました」

「………」

 

 彼女達は云う、そもそも話は根底から間違っていたのだと。

 アリウスを引き連れたのも、襲撃を手引きしたのも、全て――ナギサの幼馴染である現ティーパーティーのメンバー、聖園ミカ。

 補習授業部はただ、自身の進退を賭けた試験を受験する為にナギサを襲撃し、騙し、その後アリウスと対峙した。

 シスターフッドも、トリニティ自警団も、動かしたのは先生。彼からの要請によって彼女達は動き、救護騎士団も戦闘にこそ参加しなかったものの、事前に協力だけは約束し事態収拾に一躍買ったと。

 

「正義、実現委員会は」

「ミカ様の指示により動く事が出来ず……具体的な命令内容に関しては指示書が残っております、彼女は明らかに自身の意思で正義実現委員会の足止めを行っていました」

 

 ハスミはそう云って首を横に振る。正義実現委員会はミカ自身の命令によって足止めを喰らい不在、戦闘後に漸く活動を再開した。それが真実であると、命令書を確認すれば分かると云う。

 

「……ならば、先生の負傷は――」

「アリウスの侵攻部隊鎮圧後に、複数人の生徒が自爆を……先生はその内の一人によって、重傷を負ったと聞いています」

「………」

 

 サクラコの言葉に、ナギサはただ茫然とした表情を晒していた。ただ一人、ハナコのみが僅かに表情を変えたが、その事に気付く者は誰も居なかった。

 再び、部屋に沈黙が降りる。ハナコはただじっと、自身のシーツを掴んだ両手を見つめるナギサに問い掛けた。

 

「……これでも尚、私達がティーパーティーを排斥する為に仕組んだ事だと、主張なさいますか?」

「………」

 

 問い掛けに応える声は、ない。

 それらが全てでっち上げだと、用意周到に彼女達が仕組んだ事だと声を上げる事は出来た。指示書だって、拘束したミカに無理矢理書かせたものではないと、どうして証明出来よう? ミカの罪状が全て濡れ衣で、全てはティーパーティーの権威を失墜させ、他一派がトリニティを乗っ取る為に行われた策略であると――そう断じる余地は残っている。

 残っていた。

 

 けれど――仮にそうだとして、自分に何が出来る?

 

「――全て」

 

 声が漏れた。

 両目から零れたそれが、両手の甲に落ちる。ぽつぽつと、雨漏りの様に滴るそれを自覚しながら、ナギサは震える声で云った。

 

「全て、裏目……という事、ですか」

 

 彼女達の云う事が本当であっても――或いは、嘘であっても。

 どちらにせよ、自身の為した事に意味など一つも存在しなかった。

 文字通り――一つも。

 その事実を突きつけられた時、ナギサは自身の無力感と徒労感、そして不甲斐なさに思わず涙を流した。

 

「ふ、ふふっ、ふふふッ……」

「な、ナギサ様……?」

 

 涙を流し、口元を引き攣らせて笑うナギサに、傍付きの生徒が不安げに問いかける。その背中を摩り、労わる様に手を取った彼女は非難するような目をハナコに向けた。しかし、彼女が動じる事は無い。

 これは、行動の結果だ――彼女の行った物事に対する反動、それがナギサに戻って来ただけの事。そこにハナコは同情も、感慨も抱かない。行動には責任が伴う、これはごく普通の、当たり前の法則であるから。

 

「私は、一体……何の為にッ――!」

 

 吐き捨て、ナギサは嗚咽を漏らす。

 もし、彼女達の話が本当であるのならば。

 長年の友は裏切り者で、ずっと自分を騙し、欺き、笑顔を偽り過ごしていた事になる。その真意も、想いも理解せず。ならば、彼女と過ごした時間は、積み上げた思い出は、己の足掻きは、一体なんだったのか? そう思わずにはいられない。

 

 もし彼女達の話が嘘であるのならば。

 彼女が目を向けるべきは外部などではなく、内部だった。シスターフッドを、救護騎士団を、潜在的な政敵でありながら、しかし動く事は無いと断じた己が愚かだった。いたずらに補習授業部などという要素を作り出し、そこだけに注力した。その選択が、そもそもの誤りであった。

 その結果、ミカは拘束され、ティーパーティーは事実上の崩壊。

 

 どちらにせよ己は――間違った(誤った)のだ。

 

「……最悪、それでも私達の仕組んだ事だと、そう仰るかと思っていました」

「は、ふふっ……もしそうだとしても、今の私に出来る事はありません、仮にミカさんの所業が濡れ衣だとして、ティーパーティー全員が不在となるのですから――トリニティは既に、私達の手を離れます」

 

 ハナコのその言葉に、ナギサは頬に涙を貼り付けたまま、そっと顔を上げた。その赤く充血した瞳が、ハナコを正面から捉える。

 

「こうなった時点で心の内は兎も角、信じざるを得ない状況でしょう……」

「……失言でしたね」

 

 今の彼女は――虜囚に等しい。

 この状態でハナコ達を糾弾しようと、何をしようと、彼女自身に出来る事は何もない。説明をしに来た、そう云えば聞こえは良い。しかし別の側面から見れば、これは、「信じなければどうなるか分かっているな?」という脅しにも見える。どちらにせよ、本当に彼女が話を信じる事が出来るのは、彼女自身がティーパーティーに復帰し、実際にトリニティの実情を見てからになるだろう。

 ハナコはそっと視線を伏せ、口を噤んだ。

 

「それに、此処まで情報が出揃って尚、それが作り話であると断じる程、私は暗愚ではないつもりです……尤も、説得力など既に無いでしょうが、どちらにせよ――トリニティの在り方は変わるのでしょう」

「………」

「セイアさんは行方不明、ミカさんは拘束され、私も盲目となって強権を振るい過ぎました――最早、ティーパーティーのみで学園を統治する事は不可能に近い」

「その事についても後ほど、救護騎士団及びシスターフッドから協議したい旨が――」

「えぇ、受け入れましょう」

 

 ハナコの言葉に、ナギサは一も二もなく頷いて見せた。その余りにもあっさりとした対応に、彼女は少しだけ驚いた様子を見せる。ナギサはどこか吹っ切れたような、けれど寂しそうな笑みを浮かべ、呟いた。

 

「……補習授業部の皆さんには、謝罪しなければなりませんね」

 

 ――そして、先生にも。

 

 ■

 

 桐藤ナギサはティーパーティーのホストとして続投、僅かな休養を挟んだのちに復帰し、事態収拾に尽力する事となる。彼女が憂慮した軟禁紛いな事は行われず、そしてトリニティ復興に取り組む間に、彼女はハナコの言が正しかった事を知った。

 

 ――しかし、それはそれとして。

 

「……浦和ハナコさん」

「あら、ごきげんようナギサさん、何か御用でしょうか?」

「補習授業部の方々には、各々に謝罪をして回ったのですが、最後はあなたになりまして」

「あらあら、それはそれは♡」

「………」

「………」

「――正直な所を口にしますと、あなたには絶対に謝罪したくありません」

「ふふっ、私に謝罪は不要ですよ、ナギサさん――あのドッキリで私の不満は全てスッキリ出来ましたので♡」

「………」

 

 この日、桐藤ナギサは、絶対に彼女と友好を結べないと、そう強く思ったのだった。

 

 ■

 

「はぁ、いけませんね、悪い事ばかり……」

 

 回想を終えたナギサは自身の額を指先で押し込み、溜息を零す。既に襲撃から一週間、拘束したアリウス生徒の収容及び治療、隔離施設の用意。そして破損した体育館や校舎、合宿所の修繕、一般生徒への説明と派閥間の調整、及びパテル派の暴走抑止と監視――今回の襲撃で使用した弾薬量や被害総額の補填など手を回さなければならない事は多岐に渡った。これに加え、またいつ襲撃してくるかも分からないアリウス分校に対し、警戒態勢を維持しなければならないとなると、ナギサ一人では到底手が回らない。シスターフッドや救護騎士団と歩調を合わせながら、辛うじて今日(こんにち)までやって来れたのが実情である。

 傾き掛けたトリニティを再建するのは、非常に骨であった。

 そうならない為に此処まで尽くして来たつもりではあったが――こうして全てが終わった後に振り返ると、どうしようもない虚脱感を覚えてしまう。

 

「私は、結局――」

 

 紅茶の水面を見つめながら、そっと呟く。口から出掛かった言葉は何か、暫くそうやって水面を見つめるナギサは、不意に目を閉じた。

 結局、自分は――周りの事も、彼女の事も、見えてなかったのだ。

 全ては、盲目が故に。

 

「先生……早く、起きて下さい」

 

 声は小さく、囁く様な音だった。吐息が紅茶に波紋を起こし、風がナギサの頬を撫でる。

 

 ――先生が目覚めたという報告は、未だない。

 

 不意に、扉を叩く音がナギサの耳に届いた。

 どこか遠慮がちな、間隔のあるノックだった。

 ナギサは視線を扉の方に投げると、カップをソーサに戻し背筋を正す。恐らく行政官による報告か何かだろう。被害総額の概算が出たのか、修繕報告書の提出か、或いはまた何か問題でも起きたのか。そう思い、やや草臥れた声色で応えた。

 

「……どうぞ」

 

 そう云って、彼女は行政官の入室を待つ。しかし、待てども待てども入室する気配はなかった。訝しんだナギサは眉を顰め、もう一度声を上げる。

 

「――……どうしたのですか? 鍵は掛けておりませんよ」

 

 そう、再度声を掛けるも、返答は無い。

 ナギサは溜息を吐くと、椅子を引いて立ち上がる。シチュエーションだけ見れば以前のセーフハウスでの出来事が思い起こされるが、しかし扉に鍵を掛けていないのは本当であるし、今更アリウスが暗殺をしにやって来るとも考え難い。シスターフッドと正義実現委員会、更にはトリニティ自警団が殺気立つ現在の防衛網を抜けて来たというのなら、余程の凄腕だろう。もしそうならば、ナギサは潔く諦める所存であった。そんな人物相手に、自身が敵うとも考えられない。

 そんな事に思考を割きながら、ナギサは扉に手を掛ける。

 

「全く、一体何の――」

「うごッ」

 

 捻り、扉を押し開ける。すると、何かが扉にぶつかったのが分かった。

 声は掠れていて、開いた扉の向こう側から聞こえた。

 

「え?」

 

 ナギサが驚きの声を上げるのと、その人物が床に転がる音が響くのは同時だった。

 開いた扉の向こう側、ナギサが恐る恐る覗き込めば、冷たい光沢を放つ床に転がる包帯と保護膜に塗れた人影がひとつ。彼は片腕でタブレットを抱き込み、尻餅を突いたままナギサを見上げる。

 

「な、ナギ、サ……」

「――……せん、せい?」

 

 どこか、間の抜けた声が出た。

 彼――先生は尻餅を突いた姿勢からもぞもぞと動き、両手を床について、膝を畳む。そして時折呻き声を漏らしながら、静かに額を床に伏した。床ずれによって、皺くちゃになった背中の衣服が、ナギサの視界に映る。

 

「こ――この、度は、た、大変、もうし、わけ……」

「な、なッ……なぁッ!?」

 

「――何をしていらっしゃるのですかッ!?」

 

 明らかに重傷と分かる出で立ちで土下座をかます先生に、ナギサは思わず絶叫した。声は廊下中に響き渡り、びくりと先生の肩が跳ねる。

 ナギサは先生の傍に駆け寄り、埃で汚れる事も構わず膝を突くと、先生の肩を抱く。そっと先生の体を抱き起したナギサは、焦燥と驚愕と困惑と歓喜の混じった表情を浮かべ、続けて叫んだ。

 

「何故先生がこんな場所にいらっしゃるのです!? 今は救護騎士団で治療中の筈ではないのですかッ!?」

「え、えっと、ぬ、抜け出して……」

「――抜け出したァッ!?」

「ひぇ」

 

 ナギサの怒気の混じった声に、思わず悲鳴染みた声が漏れた。先生の大人然とした態度は消え去り、今は生徒の豹変にただ戸惑うばかり。ナギサは先生を凄まじい視線で射貫いた後、顔を上げ声を廊下に響かせる。

 

「誰かッ! 誰か!? いらっしゃいませんかッ!?」

「――ど、どうなさいましたか、ナギサ様!?」

 

 ナギサが常ならぬ声を上げれば、廊下の向こう側からスカートを摘まみ上げ駆けて来る生徒の姿が。ティーパーティー直属の行政官でもあった彼女は、ナギサの尋常ならざる声に焦燥を滲ませていた。そして彼女の腕の中に居る先生を見て――思わず動きを止める。

 

「せ、先生ッ!? ど、どうして、此処に!?」

「早く搬送の準備をッ! 今すぐ救護騎士団に――」

 

 ナギサがそう矢継ぎ早に指示を出すのと、『キンコーン』という電子音が鳴るのは殆ど同時だった。それが聞き慣れた校内放送の前兆であると、彼女は知っている。そして何故か、猛烈に嫌な予感がした。

 そしてそれを裏付ける様に、スピーカーから焦燥を多分に含んだ声が響く。

 

『校内放送! 校内放送! 緊急の為、ちょっと失礼するっす! 此方正義実現委員会のイチカ! えーっと、救護騎士団の病室で治療中だった先生が行方不明になりまして! 一般生徒の方々の手も借りたいと……! あっ、先生って云うのはシャーレの先生の事で……アッ、ツルギ先輩、ちょ、ちょっと待って下さい! もうちょっと、もうちょっとですからッ! あのっ、兎に角、手透きの生徒は先生を見つけ次第確保、じゃない保護をお願いするっす! もし先生を誘拐した犯人がいたらぶっ殺――半殺しで! それじゃッ!』

「………」

「………」

 

 捲し立てるだけ捲し立て、一方的に切れる校内放送。思わず口を噤む先生とナギサ、すると少しして、テラスの向こう側が騒がしくなり始めた。

 

「ぐずッ、せ、先生~~~ッ! せんぜぇ~~ッ!?」

「先生! この声が聞こえたら返事をして下さいッ! 先生―ッ!?」

「アズサちゃん、私達は此方を!」

「っ、うん、分かった!」

 

 中庭から、補習授業部の声が聞こえる。彼女達も放送に従って先生を探し始めたのだろう、コハルとヒフミ、ハナコとアズサの声が周囲に響く。

 

「うがあああァアアアアアアアッ!? 先生ぇええエエエエッ!」

「ツルギ、落ち着いて下さいッ! ツルギ!? っく、先生、一体どちらに……!?」

「つ、ツルギ先輩、壁を壊して進むのは拙いっすよ!? あっ――」

 

 続いて、何かの破砕音、序に銃声。聞き慣れた絶叫と窘める声。

 

「これは~……」

「せ、先生がピンチなら見過ごせないよ!」

「まぁ、先生にはお世話になっているし、ひとっ走りしても、私は別に……」

「いや、めっちゃ足踏みしているじゃんカズサ……探しに行きたいなら素直にそう云いなさいよ」

「……そういうヨシミだって、貧乏揺すり酷いけれど」

「――まあ、そうだね、取り敢えず迷子を捜しに行くとしようかぁ~」

 

 比較的落ち着いた声と、賑やかな声。恐らく放課後スイーツ部だろう。歩きながら洋菓子を摘まんでいた彼女達は、手にあったそれを口に詰め込むと、徐に駆け出した。

 

「……レイサさん、先に捜索を、私は他の自警団の方々に呼びかけを行います」

「わ、分かりましたスズミさん! 先、行っていますねッ!」

 

 トリニティ自警団のレイサとスズミは、それぞれ別方向へと駆け出し、スズミは端末を使って他の自警団メンバーに状況を拡散。彼方此方でパトロールを行っていた灰色の制服を着込んだ生徒達が、振動する端末に気付き、その内容を確認する。

 

「先生、何処ですか~ッ!? 先生~っ!」

「先生~ッ!」

 

 救護騎士団のセリナとハナエは、その両手一杯に救急医療バッグと治療器具、そして何故か大きな注射器を持ちながら不安げな表情で叫んでいた。何故だろう、先生の心臓がきゅっと締まる音が聞こえた。

 

「シスターフッドも動きます! マリー、ヒナタ、それぞれ班を率いて捜索を!」

「わ、分かりました……! 私達は外郭地区を!」

「それなら私は中央街の方に……!」

 

 サクラコ、マリー、ヒナタを中心としたシスターフッドはメンバーを引き連れ、トリニティ自治区の各地へと散らばっていく。大聖堂から散開していくシスター達の姿は、中々に圧巻である。

 

「う、うぇ、そ、外……日差し、明るい、広い……うぅうう、で、でも、せ、先生が大変なら、わ、私も……!」

「委員長! ほら、私達も先生を探さないとッ! 帰ったらきっと一緒に本を読んでくれる筈ですから!」

「うぇぁッ!? ま、待って、こころ、心の準備がぁ――ッ!」

 

 図書委員会、ウイとシミコ。彼女達は――特にウイは滅多に外出する事が無いので、その陽光の眩しさに顔を歪めている。しかし、扉の影に隠れて外を伺っているウイをじれったく思ったシミコに手を引かれ、彼女は外へと引っ張り出された。途端ウイは吸血鬼の如く悲鳴を上げ、何処かへ駆け出す。その後を追うシミコ――先生を想う気持ちだけは本当である。

 

「な、ナギサ様ッ! み、ミカ様が素手で独房の鉄柱を圧し折って脱走を……ッ!」

「………」

 

 廊下の向こう側から、慌てて駆けて来るフィリウス分派の生徒が叫ぶ。どうやら彼女の収容されている場所にも放送は聞こえた様だった。四方八方から迫る先生を呼ぶ声、先生が抜け出した事が露呈し大事になっているらしい。ナギサの瞳が段々と色褪せ、遠くを見る。これからの事を考えると、その苦労が透けて見える様だった。

 

「た――」

 

 先生の口が、ゆっくりと開く。ナギサが視線を落とせば、非常に、とても苦々しい、過酷な表情をした先生が絞り出すような声で云った。

 

「大変、申し訳、ございませんでした……ッ!」

「……はぁーッ――」

 

 深く――深く息を吐き出す。

 只ですら忙しい時に、こんな誤解で騒動に発展するなんて思ってもいなかった。

 外からは生徒達の喧騒、悲鳴、銃声、先生を呼ぶ声が聞こえて来る。ナギサはそれらの声に耳を傾け、これから巻き起こるであろう報告書と仕事の山、そして先生に殺到する生徒達を想いながら――そっと肩を落とし、口を開いた。

 

「……先生?」

「……はい」

 

 恐縮し、縮こまる先生。恐らく怒られると思ったのだろう。当然、その感情をナギサは持ち合わせている。そんな彼を見下ろしながら、しかしナギサは思わず笑みを零した。

 大人らしくない、先生の姿に。

 

 これからきっと大変な事が続くだろう、それを想うだけでも頭が痛い。しかし、まぁ、今更こんな事を云うのも何だが――ティーパーティーたるもの、優雅に、(たお)やかに、落ち着いて行動しなければならない。

 だから、こんな時でも取り乱してはならないのだ。今までの醜態から目を逸らし、ナギサはそう考える。

 彼女は小さく咳払いを行うと、先生にいつも通り、美しく象った笑みを向けながら云う。

 これから到来する、騒動の前に。

 

 ミカさん風に云うのであれば、そう――アイスブレイク(ティータイム)を。

 

「取り敢えず――紅茶を一杯、如何ですか?」

 

 

 

 エデン条約編・前編 完。

 


 

「全員、撤収準備は良いな?」

「は、はい、必要なものは纏めましたので……!」

「………」

 

 トリニティ自治区、外郭。

 既に放棄されて久しい廃墟の一角、アリウス・スクワッドはその一棟にて撤収作業を行っていた。既に彼女達の本来の任務目標は達成され、後はアリウス分校より直接任務が通達されるまでは潜伏期間となる。その為一度地下のカタコンベを通り、アリウス自治区へと帰還する流れとなったのだ。

 彼女達は暫くの間、ホームとして使用していた部屋を片付け、必要な物資のみを背嚢に詰める。もし任務が発令された場合、またこの隠れ家を使う事もあるかもしれない。そう思い、持ち切れない分の物資や装備などは、廃材や瓦礫に紛れ隠しておく。そんな作業を行う傍ら、サオリは小さな背嚢一つとセイントプレデター(携帯式地対空ミサイル)のみを背負ったミサキに気付き、声を上げた。

 

「ミサキ、荷物はそれだけか?」

「別に、私物何て元々ないし、あとコレ(愛銃)が重いし……リーダーだって同じでしょ」

「……あぁ、それはそうだが」

 

 そう云ってサオリは自身の荷物を見る。ミサキと同じ、愛銃が一つと背嚢が一つ。撤収するというのに、私物は殆ど存在しない。反対に、ヒヨリなどは大きな登山用のバッグを改造し、身の丈もある狙撃銃の入ったガンケースを上部に固定して、あれもコレもと詰め込んでいる。この場所に残すものは一つもないという勢いだった。

 隣で作業に勤しむアツコ――姫は丁度中間で、少し大きめの背嚢に銃器や私物を詰め込んでいる。見ると、花に関する特集が組まれた雑誌を丁度詰め込んでいた。恐らく、ヒヨリから譲り受けたものだろう。

 

「……兎角、自治区に帰還後は計画の始動を待つだけになる、一応覚悟だけはしておけ」

 

 サオリはそう云って、少ない私物の入った背嚢を背負う。撤収を終えた部屋の中はこざっぱりとし、微かに人の居た痕跡を感じられる程度になっていた。

 

「あ、あぁっ、つ、遂に始まるんですね……!? よ、漸くこの時が……でも苦しいんですよね? 辛いんですよね?」

「……うん、でも大丈夫、苦しいのは生きている証拠」

「………」

 

 ヒヨリとミサキが呟き、アツコが何やら手を動かす。黒く、特徴的なマスクで顔を覆った彼女は、言葉を発する事が禁じられていた。手話で何かを伝えようとしているアツコに気付き、ヒヨリは彼女の手元を覗き込む。

 

「ひ、姫ちゃんが手話で何かを云っていますけれど……えっと?」

「あの子はどうなった、って……気になるの、姫?」

「………」

 

 ミサキの問い掛けに頷くアツコ。しかしミサキは、そんな彼女に向けて能面の様な表情で告げた。

 

「……どうでも良くない? 結局は、早いか遅いかだけの問題だし」

「………」

「その辺にしておけ、そろそろ移動するぞ」

 

 アツコは、アズサを心配している。

 その事を理解しながら、サオリは移動を促す事によって会話を打ち切った。現在の彼女がどのような状況にあるのか、それを知るのはサオリのみ。そしてサオリは、それをスクワッドのメンバーに打ち明けるつもりがない。

 それ()は、毒にしかならない(闇に生きる者には眩しすぎる)からだ。

 

 ふと、割れた窓から見上げた空は、分厚い雲に覆われていた。

 黒く淀み、流れるそれ。

 マスクを手に取ったサオリは、小さく呟く。

 

「……黒い雲か、明日は雨になるな」

「あ、雨ですか? 嫌ですね、雨はジメジメして、苦しいですし、気持ち悪いですし……」

「だが――私達にはお似合いなのかもしれない」

 

 ヒヨリの言葉に、サオリはそう囁く。

 陽光を遮る影――蒼天など望むべくもなし、自分達に青空(青春)は似合わない。この身は何処までも汚れ切り、闇に浸った存在。

 陽の当たる場所でなど、生きる事は出来ない。

 

 サオリはそれを、良く知っている。

 

「……リーダー、今何か云った?」

「……いや」

 

 ミサキの声に、サオリは首を振った。思い返すのは、アズサの事。善き大人と出会い、陽の元へと旅立った嘗ての同胞。

 今更――そう、今更なのだ。

 戻る事が出来るのならば、陽の当たる場所に行けるのならば、もっと早く、何も知らぬ無垢な頃に、自分達は喜んで飛び出したであろう。けれどそうはならなかった、アリウスに生まれ、アリウスとして生き、アリウスとして死ぬ――ただ、そう在るだけが許された道。

 

 だから、サオリは振り向かない。

 踏み出した一歩が、割れた硝子片を踏み砕く。

 

「行くぞ……人目がない内に移動する」

「は、はい……!」

「………」

 

 ――アズサ、どれだけ足掻こうと、お前は抜け出す事は出来ない。

 

 心の中で、そう呟く。あの先生がどれだけ尽力しようと、どれだけ生徒の為に尽くそうと。お前の体は憶えている、直ぐに思い出す筈だ、真実を。

 そう幼い頃から何度も教えられ、躾けられ、世の真理として刻まれた――絶対不変の法則。

 曰く。

 

 《vanitas vanitatum. et omnia vanitas》

 ――すべては虚しい、どこまで行こうとも、すべてはただ虚しいものだ。

 

 ■

 

 お疲れ様でしたわ~~~~ッ!

 これにてエデン条約編・前編 完結ですのっ! 最後はちょっと頑張って明るい感じに纏めましたわ~! まだ前半とは云え、後味の悪いまま締めるのも、何だかな~と思ったので、こんなドタバタした終わり方も偶には宜しいでしょう。

 それにしても、また五十五万字掛かりましたわね、多分エデン条約編・後編はこれの二倍必要ですの。つまり百万字ですわね、はー、つら、絶対に許さんぞ陸八魔アル……!

 

 さて、忘れない内に書く事を書いておかねば。先生が復帰した後、どのルートに進むか参考にする為にアンケートを取ります。因みに一章につき五十万字、三ヶ月掛かると覚悟して下さい。

 

【花のパヴァーヌ編 前編】

 アリスと邂逅し、ゲーム開発部との日常を描く。原作との大きな変更点は(恐らく)無い筈、時空的にはエデン条約前に据え置かれる。多分アビドス編とエデン条約・前編の間に差し込まれる形。正直日常パートになるので後書きで代わりに先生が死ぬ、賭けても良い。一応ミレニアムの生徒と適度に絡ませたり、独自のパートを入れる事はあるかもしれない。

 

【花のパヴァーヌ編 後編】

 アリスとの邂逅、ゲーム開発部云々はダイジェストというか、軽く会話で触れるだけ。先にこれをやるならば、エデン条約・前編と後編の間に差し込まれる形になる。まぁ時系列的にはそれぞれの章が独立しているので、あり得ない訳ではない……筈? 少なくともアビドス編は終わっているし、大丈夫でしょう(慢心) エデン条約・後編の後にやるなら先生の四肢は義肢になる。約束されたトキによる先生のボコボコパーティタイムが存在する。リオはきっと、先生が助けてくれるよ。

 

【夏イベ 補習授業部の夏空編】

 原作でエデン条約編の間に挟まれたイベント、「アズサに海を見せよう!」という趣旨の物語。後はストレスが溜まっているツルギに夏の思い出を作ったりする。場合によっては補習授業部だけではなく、他の生徒や他校も絡ませるかもしれない。アビドスとか便利屋とか、後はミレニアムとか……? 便利屋は入れても、他のゲヘナは参入させない。それはエデン条約・後編のメインテーマに掠ってしまうので。日常が光り輝くからこそ、エデン条約でそれが破壊された時、とても胸が暖かくなるのだ。カイザー元CEOも出場予定。多分五十五万字はいかない――恐らく。

 

【エデン条約・後編】

 前編終わったなら直ぐ後編じゃろがい! という選択肢。前編の後始末やその後の処理、そして皆さんお待ちかねのエデン条約・調印式が始まる。先生にとって文字通り、最大にして最後の試練が立ちはだかる。半年前は此処をゴールに定めていた、だというのに公式がその先の物語を供給してしまったので目標が遠ざかった。嬉しい悲鳴である(強がり)。それでも私は、先生の手足を捥ぐために此処まで走って来た。或いは、このエデン条約後編は、遍く希望の始発点との複合になる可能性がある。未来を知った彼女が色彩を呼び寄せないと断言する事は出来ない。それでも結末だけは決まっている。多分五十五万字じゃ足りない、百万字行くと思う。因みに先生はエデン条約・前編よりも重傷を負う、マジで死ぬギリギリまで痛めつける。或いは死ぬかもしれない。すべては本編のストーリー更新次第。既にプロット破壊を三回程喰らっているので、いっそ果ての無い目標地点を定める位なら、此処で燃え尽きてやるという所存。

 

【プレナパテス編】

 正直此処に入れるかは相当迷った。けれど遍く希望の始発点を考えるのであれば、いつか描写しなければならないパートでもある。救えなかった運命に抗う、破滅の未来を知って尚歩む、自身が失敗した世界の物語を、先生は病床で夢見る。二巡目の【アビドス】、【エデン条約】、【秘密】、それぞれの世界には該当しない、第四の世界、その先生が主人公。先生が生徒に寄り添い、導き、共に笑い、共に泣き、共に苦しみ、共に苦難を乗り越え、その果てに何の救いも得られなかった結末を描く。先生が失敗している為、エデン条約が目じゃないレベルで鬱々しい話になる。先生は歯を食い縛りながら死ぬし、生徒達は互いに殺し合い、疑心暗鬼となり、善意が踏み躙られ、正義は潰え、たった一人の生徒だけが残る。その残った、たった一人の生徒の為に、先生は何もかもを投げ捨て、自身の死後すらも擲って希う。この世界では、奇跡は起こらなかったんだ……。

 

 選択肢は以上ですの。

 まぁ私の中では無難に夏イベかエデン条約・後編かなぁ、原作の描写を見る限りエデン条約・前編から後編へと繋がるところで、それなりに時間が経過している描写があるので、何か一つパートを挟んでも良いかなぁとは思っておりますが。

 勿論このままエデン条約・後編まで突っ走って、完結させるのも全然アリなんですけれどね。というかプレ先の奴は別に本編でやる必要もない? 外伝みたいな形でやればそれで良くない? とも思います。ぶっちゃけ、エデン条約・後編を書ききった後に、私のブルアカモチベーションは残っているのか? という疑問もありますわ。愛だけで百万字書き切った後に云うのも何ですが、先の見えないマラソン続けるのって結構しんどいですわよ。

 

 取り敢えず一章書き切ったので、何はともあれ休息ですわ~! アビドス編も終わった後に一ヶ月位休養とったので、今回も同じ位ぐーたらしますの。睡眠時間と趣味の時間があるって最高ですわ。まぁその合間にプロット書いたりするのですが、これも愛の為……。恐らく一ヶ月後には戻って来ますが、その合間に公式が新シナリオを出してプロット破壊が起きたり、わたくしの肉体が物理的に破損したり、或いは想定外ののっぴきならない状態になったりしたら、幕間的なものを投稿しつつその旨も報告致しますわ~。それも駄目なら活動報告ですわ~! 活動報告も駄目だったらTwitterですわ~! 

 

 Twitterは久々に投稿して、「トクサンが久々にツイートしました!」みたいな通知出ると嫌だからツイートしたくねぇですわ……。そんな事を云っていたらログインしたの四年前とか五年前になってますわよ。何かこんな事、アビドス編の後書きでも書いたな……ままええわ。

 

 でもよく考えたら一々、「今日は投稿遅れますわ~」とか、「今日は文字数の関係でお休みですわ~!」みたいな活動報告出すのも嫌なので、Twitter再開する事も視野に入れますわ……。

 しかし、「久々にツイートしました!」って強調されるツイートって何呟けば良いんですの? 「わっぴ~☆」って云えば良い? 「何か通知来たな~?」って思ってスマホ見たら、「わっぴ~☆」って文字出て来たら殺意湧きません事? わたくし五体満足でいられます?

 此処は潔く、「ひじき」って投稿しますわ。

 そうすりゃ皆さんのスマホに、「ひじき」ってツイートが通知で出るって寸法ですのよ。意味は特にありませんわ、「ごぼう」でも良いですわよ。「わっぴ~☆」とどっちがマシかな……悩ましいですわ。有識者の間で議論して頂いても宜しいです事?

 

 ブルーアーカイブをもう一度の進捗だとか、いつ再開するかだとかは、私がビビって無ければTwitterで呟きますわ! ツイートするだけでビビるって何ですの? 仕方ねぇですわよ、私SNSとか全然使ってねぇんですもの……。

 この文章をいつ投稿するのかはわかりませんが、今日は2023.04.09ですから……そうですわね、今日の夜十時辺りにツイートしますわ! 暇だったら、「わっぴ~☆」とでも書きに来て下さいましね! 怖いので返信出来るかどうかは知りませんが!

 

 という訳でアビドス編から半年、エデン条約編・前編から三ヶ月、お付き合い頂きありがとうございましたわ~! どうせ此処まで見たならお気に入りとか、感想とか諸々宜しくお願い致しますわよ~! 

 

 それではまた、恐らく一ヶ月か二ヶ月後くらいに、次章で!

 わっぴ~☆

 



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幕間
最後の晩餐


待たせたな!(半ば由紀恵)


 

「――百合園、セイア」

「あぁ、君を待っていたよ……白洲アズサ」

 

 トリニティ自治区――セーフハウス。

 限られた者しか知らないその部屋に、彼女は銃器を手に踏み込んでいた。

 窓一つない、薄暗い空間にアリウスの制服である白いコートが靡く。顔を覆う武骨なガスマスク、両手に握られた銃は既に彼女、セイアを射程圏内に捉えている。引き金を絞れば、弾丸は真っ直ぐ彼女を穿つだろう。

 外からは、何の音も聞こえていなかった。この部屋が防音仕様と云う事もあるだろうが、だとしてもセーフハウス周辺の防護は厚い。何十名からなる警備を破ってこの場に立っているのであれば、目の前の彼女は凄まじい練度の兵士であると云えた。

 セイアはいつも通り、殺風景な部屋の中で椅子に凭れ掛かり、淡々とした口調で彼女の名を告げる。

 部屋に踏み込んだ生徒――アズサは銃口を向けたまま、ぴくりとその指先を震えさせた。

 

「待っていた……私を?」

「そうだ、夢で何度もこのシーンを見ていたからね……まぁ、何と説明すれば良いのかな、予知夢の様なものだと思ってくれると良い」

「予知夢……?」

「そう、時々そういう夢を見るんだ、後で現実になってしまう夢、それ以外にも様々な夢を」

 

 告げ、セイアはそっと手を天井に翳す。彼女の纏う空気は――独特だ。どこか朧気で、神秘的で、掴みどころがない。アリウスには存在しないタイプの生徒であった。どこまでも実直で、直接的なものを好むアズサからすれば、やや苦手な部類と云える。

 アズサは両手で銃を握り締めながら、静かに指をトリガーに掛けたまま続けた。

 

「なら――私が何の為に此処に来たのかも、分かっている筈だ」

「勿論だ」

 

 アズサの声は強張っていた。それが緊張によるものである事を、セイアは理解している。緊張――その根源は、恐怖だ。圧倒的な優位に立ちながら、何を恐れる? それは、彼女がこれから行う行為に対しての恐怖だった。

 セイアの動作は余りにも軽々しかった、銃口を向けられ、脅しに近い文言を受けて尚、彼女の気配は揺るがない。ゆっくりと顔を動かし、その双眸でアズサを捉える。

 小柄で、硝子玉の様なセイアの瞳に、アズサの姿が映る。

 

壊し(殺し)に来たのだろう? 私の、ヘイローを」

「………」

「他の仲間は辿り着けなかったというのに、君は此処に到達出来た、素晴らしい力だ、白洲アズサ」

「分かっているのなら、何故逃げなかった」

「――無意味だからさ」

 

 声には、嘲る様な色が含まれていた。

 肩を竦め、視線を手元に落としたセイアは朗々と言葉を紡ぐ。

 

「全ては虚しいものである、君達アリウスが大好きな言葉の様に、同じ事だ、未来が見える私にとって足掻く事は無駄なんだ、確定された運命を捻じ曲げる事は出来ない、それこそ――奇跡でも起きない限りは」

「………」

「ましてや私は元来体が丈夫ではない、君と戦って勝てるとも思わない、数多の警備を潜り抜け此処までやって来た優秀な生徒ならば尚更……君からしても、私と戦って負ける未来は想像出来るかい?」

「……いや、百回戦っても、百回私が勝つ」

「そうだろうね」

 

 だからこそ、セイアは銃の一つも持ち込んでいない。撃ち合いでも、格闘戦でも、目の前の白洲アズサに勝つ未来が見えなかったから。どこまでも諦観し、足掻く事を諦めている――そんな抜け殻の様な生徒が、彼女だった。

 暫しの間、二人の間に沈黙が降りる。ふと、向けられた銃口に視線を向けたセイアは、指先でそれを指しながら問いかけた。

 

「ところで、君は以前にもヘイローを破壊した事があるのかい?」

「……いや、ない、でもやり方は習った」

「ふむ、そうか――習った、ね」

「普通の銃器でも、執拗に撃ち続ければヘイローを破壊する事は出来る、でも、今回はこれを使う」

 

 アズサはそう云って、銃口を向けたまま左腕を背中に回した。腰に装着したポーチから、そっと抜き出した一つの爆弾。プラスチック爆弾に酷似したそれは、しかしセイアから見ても異様な雰囲気を放っており、思わず目を細めた。外装は、彼女が一度も見た事がない。手製と云われても信じるだろう。市販品や、量産品でない事は確かだ。

 

「それは――」

「ヘイローを破壊する為の爆弾、私はそう教えられた」

「……聞いた事もない技術だね、成程、アリウス独自の研究成果という事か」

 

 さしずめ、ヘイロー破壊爆弾とでも呼ぶべきか。

 その様な技術は、セイアも初めて目にしたものだった。トリニティはおろか、恐らくミレニアムでも開発されていない技術。そもそも、人を殺すための技術を熱心に研究する学園は少ない――アリウスは、その数少ない学園の一つであった。

 

「君達は、ヘイローを破壊する方法――人を殺す方法を、ずっと探っていたのだね」

「……あぁ、必要な事は一通り習った、『学校』とはそういう事を習う場所なのだろう?」

「――……」

 

 どこまでも無垢に、アズサはそう問いかけた。

 学びとは――自身の知らない事を、知る事。であればこそ、その分野は問われない。

 言語であれ、数字であれ――人の殺し方であれ。

 セイアは思わず息を呑み、眉間に皺を寄せた。

 

「あぁ、そうか、アリウスは――そこまで……」

 

 それは、憐憫だったのだろうか。それとも、義憤か。何も知らぬ無垢な子どもを、人殺しの尖兵に仕立て上げる。憎悪の為に、復讐の為に――虐げられた、先代の無念を晴らす為に。

 それが正しい事だとも、間違っている事だともセイアは口にしなかった。彼女達と異なる境遇であれど、同じように諦観を選んだ己に何が云えるのだとセイアは口を結んだのだ。所詮自身は第三者、アリウスでない己にその憎悪の深さは理解出来ない。いや、きっと彼女達自身も理解していないのだろう。ただ、そう在れかしと育てられただけ。形骸化したそれは、彼女達の原動力ではなく、ルーツ(起源)として定着してしまった。

 それ(憎悪)を忘れるなと。

 それ(憎悪)だけを憶えて生きよと。

 彼女達の世界は――それだけしか存在しないのだ。

 

「――白洲アズサ、一つだけ聞かせて欲しい」

「何だ」

 

 それは、どれ程の悲劇だろう。

 どれ程の苦痛だろう。

 

 ――だから彼女はその時、らしくない事を口にした。

 

 そのまま黙っていれば――彼女(アズサ)は、少なくとも【あんな未来】を歩む事はなかったのに。

 諦観の内に、沈む事さえ出来たというのに。

 セイア(自分)はその時、選択肢を与えてしまった。

 地獄か――一時の安寧の後に訪れる、『更なる地獄』か。

 その、選択肢を。

 

「君は、人殺しになってしまっても、大丈夫なのかい?」

「………」

 

 そのセイアの言葉に、アズサは沈黙を返した。

 ただ、戸惑う様な肩の震えを、セイアは見逃さなかった。僅かに逸れた銃口が、それを証明している。

 

「私は見たんだ、人殺しになる事を恐れる君の姿を」

「……それも予知か」

「そうだ、君が望んだかどうか、他に選択肢があったかどうか……その辺りは実のところ、さしたる問題じゃない――実際に、人を殺したかどうか」

 

 セイアの目が、アズサを射貫く。ガスマスク越しに見える瞳が揺れ動くのが分かった。セイアの見た未来、その中にアズサの苦悩も混じっていた。古いスクリーン越しに眺める様に、アズサの辿るであろう未来をセイアは幾つも垣間見ている。

 彼女は人殺しを恐れていた。

 手段を、道具を与えられた上で――彼女は自身の意思で、その在り方を拒絶していたのだ。

 その、苦境(アリウス)に身を置きながら。

 

「重要なのはそこだ、人を殺したという、その明確で絶対的で、何よりも絶望的なまでに分かり易い線引きに於いて、君はその線の向こう側へと踏み出そうとしている――そうなってしまった後に君が感じる絶望、苦しみ、怒り、後悔と挫折、そして無力感……君達アリウスは云う、全ては虚しいと」

「………」

「ならばその感情すらも、君達は消化し切ってしまうのかもしれない……だが私は知っている、君がその言葉(vanitas)に同意しながらも、どこかで否定しているという事も――そうだろう?」

 

 セイアの訴えが、アズサの感情を揺り動かす。

 そうだ、彼女は――アズサは、ずっと想っていた。

 アリウス自治区、何もかもが壊れかけで、何の希望も夢も抱けず、抱く事も許されず、ただ人を殺す技術を磨くその場所で。

 片隅に咲いた、小さな野花を見つめながら。

 

「あの日見た、小さな花を見つめながら――君はそう考えていた筈だ」

「………」

 

 ――全ては虚しいものだ……全ては無意味で、無駄で、無価値なもの。

 

 弾痕が刻まれ、古びたコンクリートに囲まれた射撃訓練場。

 教官の罵倒と暴力に晒され、何度血を吐いたかも分からない場所。薬莢の落ちる音、銃声、硝煙の匂い、鉄の味。そんな記憶しか残らない場所。

 

 ――そんな見慣れた場所(地獄)の片隅に咲いた、小さな小さな花。

 

 小さく、微かに青く、それでも生命の息吹を感じさせる一輪の花。

 こんな場所で咲いて、何になるというのか? 直ぐに踏み潰され、銃弾に裂かれ、終わってしまう一生だろう。硝煙と血の匂いのこびり付いた花、そんなものに果たして価値があるのか。アズサはその、片隅に咲いた花を見つめながら、そんな事を毎日思っていた。

 

 この花は、何の為に咲いたのだ?

 何の為に、此処に在るのだ?

 この花に、意味は、価値は、あるのだろうか?

 

 何の意味も在りはしない。すべては無駄で、無意味で、虚しくて――無価値だ。

 

「……けれど」

 

 ガスマスクの中で、彼女は歯を食い縛る。握り締めた銃のグリップが、軋みを上げた。

 そう、あの花が咲いた事に意味など無い。あんな場所で育った所で、結末は見えている。いつか枯れ、踏み躙られ、裂かれ、粉々になる運命だ。

 それを知っている、理解している。

 でも――それでもと、アズサはその時、思ってしまったのだ。

 

 どんな場所でも、咲かなければ(足掻かなければ)――花は、何の為に生まれたのかも分からぬまま。

 

 意味はないのかもしれない。

 全ては無駄なのかもしれない。

 その行為は無価値なのかもしれない。

 

 それを知って尚、彼女(アズサ)は告げる。

 セイアの瞳を、真っ直ぐ見返しながら。

 

『それでも――足掻かなければならない』

 

 セイアとアズサの声が、重なった。

 アズサのずっと考えていた言葉。それをセイアは知っていた。

 全ては意味が無いのかもしれない、無駄で、無意味で、虚しい行為なのかもしれない。

 それでも、足掻き続ける事にこそ――己の生まれた意味があると。

 絶対的な、存在理由がある筈だと。

 

 彼女(アズサ)はそう、信じていた。

 

「……百合園、セイア」

「君は、私を殺しに来たのではない――私に、いや、アリウスではない誰かに、助言を貰いたかったのではないか?」

「もし、そうだと云ったら……どうする?」

「――その先に、今よりも辛い未来が横たわっているとしても、君は……」

「無論、進む」

 

 力強いその言葉を最後に、アズサの構えた銃口が、ゆっくりと床に向けられた。

 グリップを握っていた指先が、そっと顔を覆っていたガスマスクに伸びる。その物々しい被り物を脱ぎ去った時、幼い顔立ちの少女が静かに――しかし強い意志を瞳に湛え、セイアを見ていた。

 

 セイアは椅子に凭れ掛かったまま口を開く。

 彼女は知っている、この先の未来を。

 その末路を。

 けれど――彼女が足掻く事を求めると云うのであれば、「それでも」と口にするのであれば。

 

「ならば、語ろう」

 

 セイアはアズサを真っ直ぐ見つめたまま、言葉を紡ぐ。

 彼女を――更なる苦境へと貶める言葉を。

 

「君がこの先――どう足掻くべきなのかについて」

 

 ――その先に、彼女の望む未来(希望)が無かったとしても。

 

 ■

 

 

「ん……」

 

 目が覚めた。

 歪む視界に広がる天井、広く、清潔で掃除の行き届いたそれは、少なくともシャーレの自室ではないと直ぐに分かる。少し視線を横に向ければ、豪華なシャンデリアがぶら下がり、僅かに開いたカーテンからは日光が伸びていた。

 先生は小さく呻くと、上体を起こして伸びをする。骨が鳴り、筋肉が解れる。自身の頬を照らす日光を眩し気に見つめながら、先生は静かに呟いた。

 

「……うん、今日も良い天気だね」

 

 ――トリニティ自治区、客室棟。

 トリニティ本校舎に近しい場所に建設されたそれは、来客用に設計されたものであり、内部には宿泊可能な部屋が幾つも連なっている。食堂に浴場、談話室にランドリールームと生活する上で必要な場所は一通り用意されており、更には頼めば面倒を見てくれるルームサービスまで付いているという。

 

 件の騒動の後、浅くはない傷を負った先生は救護騎士団で暫くの間過ごし、傷が塞がってある程度自由に動けるようになってから、この客室棟に移送、保護――もとい軟禁されていた。

 本来であればある程度動けるようになったら、一度シャーレに戻ろうと考えていたのだが――万が一の事を考えると、救護騎士団が駆け付けられる場所に留まった方が良いと様々な生徒に説得され、何だかんだと救護騎士団に入院していた時期を合わせれば一ヶ月近くトリニティに滞在している。補習授業部の合宿期間を考えれば合計二ヶ月。最早窓の外に見える格調高い建物にも慣れ始めた頃だった。

 キヴォトスの生徒と違って、傷の治りも遅い先生の治療は難航したが、それでも一月足らずで殆ど回復したというのだから凄まじい技術だろう。正直一ヶ月ずっと寝たきりコースを覚悟していただけに、先生にとっては嬉しい誤算である。

 ただ、その後この場所に軟禁される事になったのは悲しい誤算だが――それでも自身を想っての行動。それを突っぱねるだけの心意気が、当時の先生にはなかった。

 

「っと、着替えは――」

「はい先生、此方に準備しておきましたよ」

「………」

 

 カーテンを開き、寝間着から着替えようとベッドを抜け出した先生は――いつからそこに立っていたのだろう、シャーレの制服一式を綺麗に畳んだ状態で差し出すセリナの姿に、一瞬沈黙した。

 壁際に立ち、満面の笑みで此方を見つめるセリナ、先生は二度、三度、目を擦って視界を確かめる。まだ寝惚けているのかなとか、もしかして幻覚と幻聴かなと自身の意識を疑った後、目の前の彼女が夢でも幻でもない事を理解し、どこか諦めたような遠い眼をして、粛々と衣服を受け取った。

 

「……うん、ありがとうねセリナ」

「ふふっ、この位お安い御用です」

「そっか、うん、そっか……」

 

 いつからそこに居たのだろうか。それともつい数秒前に来たばかりなのだろうか。彼女には謎が多い。そして先生は藪をつついて蛇を出す趣味を持ち合わせていない。謎を謎のままにしておいた方が良い――そういう事も、世の中にはあるのだ。

 そんな事を考えながら上着のボタンを一つ一つ外していると、扉がノックされ、ゆっくりとドアノブが回された。そして隙間からひょっこりと、特徴的な耳が顔を覗かせる。

 

「――あなた様、朝餉の用意が出来ました、今日も精のつくものを用意致しましたので……」

「……ありがとう、ワカモ」

「あぁ、その様なお言葉! このワカモには過分な――」

 

 扉の隙間から半分顔を覗かせ、いやんいやんと体を捻る彼女――ワカモ。ちらりと見える肩口にはエプロンの装飾が見え隠れし、片手にはおたまを握っている。顔は相変わらず見慣れた狐面に覆われているが、纏う雰囲気は普段より幾分か優し気に思えた。

 

「……よし、それじゃあ広間の方に移動しようか」

「はい、そうしましょう! っと――先生、寝癖が此処に……」

「あぁ、ごめんね」

「いえ」

 

 先生は着替えを終え、部屋を後にしようとする。しかし、直前でじっと此方を見つめたまま微動だにしなかったセリナが、ふと先生の頭髪に手を伸ばした。どうやら寝癖が残っていたらしい、セリナは丁寧な手つきでそれを撫でつけ、笑顔のまま何度も頷いて見せる。

 着替え中、後ろを向いていてね、とか。ちょっと席を外して貰える、とか。先生はそんな事を一言も口にしなかった。

 何故なら、そのやり取りはこの一ヶ月の間に何度も行われたものだからだ。そして残念ながら、彼女直々に衣服を剥ぎ取られ、「はい先生、ばんざ~い、して下さい?」と宛ら幼児をあやすが如く支度を手伝われるよりは何倍もマシなのである。目前で寝癖を満面の笑みで整えるセリナを見つめながら、先生はそんな事を想った。

 数ヶ月も此処に居たら、自分は生活が出来なくなるのではないだろうか。

 

 広間は客室を出て突き当りに在り、各階に用意されたオープンスペースの事を指している。その役割は談話室に似ているが、あちらが防音性や秘匿性に重きを置いている分、此方はもっとカジュアルに、軽食などを口にしながら気軽に寛げる空間という思想の元に作られた場所だった。

 先生が客室の扉を開くと、途端に飛び出す生徒がひとり。

 

「ニンニン、主殿! 夜襲はありませんでした! イズナがきちんと目を光らせていましたのでッ!」

「うん、ありがとうイズナ、お疲れ様、ご飯は一緒に食べようね」

「わぁ~い!」

 

 宛ら犬の如く、先生の腹部に顔を擦り付け歓声を上げる生徒――イズナ。どうやら彼女は客室の前に立ち、番人の役割を果たしていたらしい。いつから立っていたのかは分からないが、先生はその行為を労いつつ頭を撫でつける。自身の腹でイズナが深呼吸をしているのが分かった。イズナの吐息が少し熱い。

 

「先生どにょ~……んがっ……」

「すー……すー……」

「うー……」

 

 広間に並んだソファ、その一つに生徒が三人固まって寝入っているのが見える。左右に忍術研究部の二人、そして中央にはクジラのクッションを抱えたホシノ。左右の二人、ミチルとツクヨはホシノに凭れ掛かる様にして寝息を立てており、ホシノは二人に挟まれながらどこか苦悶の表情を浮かべている。それを対面に座ったアビドスの皆が、どこか呆れたような、慈しむ様な表情で眺めていた。

 

「ん……ホシノ先輩、二人に挟まれて寝苦しそう」

「ソファで固まって寝るからでしょ……」

「でも良いですね、仲良しみたいで~♪」

「あ、あはは……」

 

 百鬼夜行にアビドス、両校の生徒がトリニティの自治区内で過ごしている。それは非常に珍しい光景であった。

 最初は客室棟に通っていた生徒達だが、段々と浸食され、今では殆ど此処(客室棟)で寝泊まりしている。幸い、現在この客室棟に宿泊している来賓は居らず、殆ど先生専用の様な形になっているので、正式に他の客室を借り受け生徒達に割り振っているが――遠目にはエプロン姿で配膳を行うワカモ、目下には自身に抱き着き鼻を鳴らすイズナ、背後には笑みを浮かべたまま佇むセリナ、熟睡するミチルとツクヨ、挟まれるホシノ、談笑するシロコとセリカ、皆を見守るノノミに、タブレットを忙しなく操作するアヤネ。

 此処はトリニティ自治区――の筈。

 

「うーん、中々のカオスっぷり」

「トリニティの中だとは思えませんね♡」

「――っと、ハナコか、おはよう」

「ふふっ……はい、おはようございます、先生♡」

 

 ふと、先生の横合いから声が響いた。先生が慌てて視線を動かせば、いつも通りの恰好で此方を覗き込むハナコの姿があった。片手に幾つかのファイルを抱えた彼女は、広間で各々活動する生徒達を見つめながら笑みを零す。

 

「現在この客室棟はトリニティに在って、トリニティに非ず、治外法権区域の様なものですから……ふふっ、何だか色んな学校の生徒が集まる合宿みたいで楽しいですね♡」

「そう云われてみれば、確かに……そうだ、補習授業部の皆は?」

「コハルちゃんは正義実現委員会の方に用事があるようでして、ヒフミちゃんはナギサさんの所に、アズサちゃんは監査官預かりですので――」

「ん、そっか……」

 

 現在、トリニティは復興作業の真っ最中。

 破壊された建築物の再建に、被害の補填に生徒達に対する説明、更には派閥間の調整等やるべき事は多岐に渡る。アリウスが今後、また襲撃してくるかも分からない現状、防衛力の強化は急務であり、ミカの処罰やアズサの処遇に関する事柄は後回しにされているのが実情であった。特に、ミカの今後については派閥間の対立や軋轢を生みかねない為、慎重にならざるを得ないというのがナギサの弁。聴聞会を開くにも時間が掛かり、正式な処遇が決定するまでは拘束し監視下に置かれる事となる。

 そしてそれは、アズサにも同じ事が云えた。

 

「でも、アズサちゃんもそう遠くない内に解放されると思います、救護騎士団とシスターフッド、両派閥の後押しがありますし、当のフィリウス分派からも反対意見は聞こえてきません――それに連邦捜査部シャーレからの支持もありましたから、殆ど表向きの拘束です」

「……ごめんね、私の代わりに、こんなゴタゴタに巻き込んじゃって」

「まさか」

 

 先生の言葉に、ハナコは緩く首を振った。現在彼女には、負傷し行動出来なかった自身に代わってトリニティ内で申請やら意見提出を行って貰っていた。トリニティという学園は何かと『手続き』を重視する。そしてそれは、大部分が電子的な手続きではなく、古めかしい紙とペンで行われるものだった。

 病床で必死に頁を捲りながら署名を繰り返し、その用紙をハナコに提出して貰う。近頃の先生は、そんな事ばかり繰り返している。

 

「先生が居なかったら出来なかった事、変えられなかった事、それが沢山ありますから――確かに派閥間での政戦にうんざりしていたのは事実ですが、それが本当に大切なものであるのなら、私だって頑張れますよ」

 

 そう云って微笑むハナコは、どこか活気に溢れていた。補習授業部は未だ解散しておらず、現在監視下に置かれているアズサを除く三名はこの客室棟へと頻繁に足を運んでいる。

 ――彼女達にとって、まだ合宿は終わっていないのだ。

 

「さ、重苦しいお話は此処までにして、まずは朝食を頂きましょう、朝の活力は大事ですから」

「――そうだね」

 

 ハナコの言葉に頷き、先生はハナコに手を引かれ歩き出す。朝食は大事、それは間違いない。先生が歩き出すと、腹に引っ付いていたイズナが顔を上げ、口を開いた。

 

「あっ、主殿、イズナは隣の席が良いです!」

「ふふっ、じゃあ私は対面座位で――♡」

「ハナコ? 何か違くない?」

「それなら、私は先生の後ろで介助しますね!」

「……セリナもご飯、食べようね」

 


 

 次回 クロコと遭遇。

 

 戻って参りましたわ~!

 一ヶ月の休養で大分休まりましたの。心と体をリフレッシュ。Twitterでわっぴーってリプ下さった方々、ギフトカードを贈ってくれた方々、ありがとうございましたわ~!

 という訳で最初は恒例の幕間パートからですの。

 今後の予定ですが、取り敢えず票数の多かった【エデン条約編・後編】をメインに据えますわよ。ただ、そのまま突っ込むと流石に間髪入れず先生がコロコロされるとこを見せられる生徒が可哀そうなので、幕間でちょっと一息入れます。幕間という名の夏イベですわよ、ただイベント丸々やると大分長くなるのでダイジェスト形式というか、間をちょこちょこ摘まむ感じですわ。これなら十万字程度(二週間)で済むでしょう(慢心)。

 

 それでもって肝心のエデン条約編・後編ですが、二つに分割致しますわ~! 本編でもエデン条約編は三つに分かれていて、本当なら後編の間にrabbit小隊の話が入るんですが、今回は通しでやります。分割は『アリウス・スクワッドと対峙する前半』と、『アリウス自治区に侵攻し、ベアトリーチェと対峙する後半』に分かれます。それぞれ『エデン条約後編 〇〇〇〇』みたいなサブタイトルで区分けするので、一応どちらも後編という括りです。

 

 先に云っておくのですが、今回は先生側だけではなく、生徒側もかなり苦しみます。正直この展開は私も迷ったのですが、そもそも本編時点で生徒達が負傷し、苦悩し、対立し、疑心暗鬼になる章なのでプロット書いている内にエラい事になりました。特にアリウス・スクワッドに対するヘイトがヤバい。まぁでも先生が寄り添ってくれるからオッケーか! 尚先生は考え得る限り捥いで剥いでボコボコにします。しました。腕一本は最低保証なので安心して下さい。今アビドス編読み返すと光と闇の対比がとんでもねぇですわ~ってなります。まぁ先生は苦しむどころの話ではありませんが、血塗れで足掻く先生の姿、美しい……。

 

 そして新しく実装されるウサギさんのストーリーによってはプロットがまた捻じ曲がりますわ!! ンギィ! 正直実装されてから投稿しようかなと思いましたが、間が空きすぎると書けなくなりそうだし早め、早めを心掛けますの。過去おじのスチルが不穏過ぎる……お願い! これ以上わたくしのプロット破壊しないでッ!! どうせプロットを殺すなら優しく!! 優しく殺してェ!!!



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ほんの小さな、些細な奇跡をあなたに

誤字脱字報告に感謝感激ですわ~!
あと日付跨いでごめんあそばせ!!


 

 アリウス襲撃事件から一週間後――トリニティ自治区、とある裏路地にて。

 

「……ホシノさん」

「やっ、ハナコちゃん」

 

 薄暗いその場所に、恐る恐る足を進める生徒の影。彼女達は同じ髪の色を揺らめかせながら、互いに手を軽く挙げ挨拶を交わす。奥まった場所にある、小さな作業場、或いは荷物置き場とでも云い換えようか。

 表通りに並ぶ店を抜け、少し歩いた細道にあるその場所は、圧迫感があり視界が悪い。更に四方を建築物に囲まれ声もどこかくぐもって聞こえた。光源は頭上に瞬く星々と月光のみ、かなり近づかなければ互いの顔も分からない程。

 そんな中、伸びる影は三つ。

 ハナコはホシノから視線を逸らし、もう一人の生徒に目を向ける。

 

「それで――そちらの方は?」

「ワカモ、と申します」

「ワカモさん……? ――まさか」

 

 独特な和装に身を包んだ少女。肩に掛ける様にして担いだライフルは妙に威圧感がある。その姿と名前に、ハナコは憶えがあった。トリニティ内に限れば知らない事の方が少なく、その外界に於いても彼女の知性は遺憾なく発揮される。

 元百鬼夜行連合学院所属、現在停学中の七囚人のひとり――その異名。ハナコでなくとも、多少情報に詳しい者であれば勘付くだろう。

 その名が脳裏を過った時、ワカモは指を一本立て、静かに告げた。

 

「その呼び名は、どうか口に出さないで頂きますよう――正直、余り好みではないので」

「……えぇ、そうですね」

 

 ワカモの言葉にハナコは頷くと、彼女の名前についてこれ以上考える事はやめた。何故そんな人物がこの場にいるのか――疑問はあるが、ホシノと同行している以上、恐らく『こちら側』の存在なのだろう。凡その見当はつく。ハナコは一度息を吐き出すと、努めて淡々とした様子で云った。

 

「それにしても、急な呼び出しで吃驚してしまいました」

「いやぁ、ごめんね? 色々忙しいとは思ったんだけれどさ、ちょっとおじさんも思うところがあってね、聞きたい事も沢山あったし」

「聞きたい事、ですか」

「んー、まぁね、トリニティであった騒動とか、今回の元凶の件とか、先生の容態とか……ね? 流石にこんなゴタゴタが起きた直後に押し掛ける訳にもいかないし」

「………」

 

 そう云って肩に掛けた大きなケース――硬質的な光沢を放つそれは、恐らく防弾盾だろう――の縁を指先で叩くホシノ。その気配は心なしか寒々しい。

 

「しかし、今回はその為だけに来て頂いた訳ではありません」

「……と、云いますと」

「――皆を呼び出したのは、私」

 

 唐突に、見覚えのない生徒が現れた。まるで空間を切り取ったかの様に、闇の中から、ぬるりと。

 どこか大人びた姿、銀の髪に鋭い目つき――そして、所々欠けた薄暗いヘイロー。

 黒いドレスを身に纏った女性はどうやってこの場に現れたのか、ふわりと裾を靡かせながらハナコの前に立っている。他の生徒とは明確に異なる気配、微かに香る甘い匂い。それが死に近づいた者特有のものであると、ハナコは知っていた。ホシノとワカモはそんな女性を横目に一瞥し、微かに顔を顰める。それがどういった反応であるのか分からず、ハナコは困惑を滲ませた。

 

「え……っと、何方でしょうか?」

「――うーん、そうだねぇ、説明すると色々と難しいんだけれど、何て云うか」

「……率直に申し上げれば、私共の敵ですね」

「敵?」

 

 その、物騒な響きを孕む言葉にハナコは顔を顰める。

 しかしホシノも、ワカモも、敵と口にしながら目前に立つ彼女に銃口を突きつける素振りを欠片も見せない。在るのは警戒と疑念、そして敵意だろうか。両名とも銃器を手にしているが、その引き金に指を掛ける様子も、安全装置を弾く様子もない。

 フレンドリーではないが、最低限の一線は守っている。そのギャップがハナコの困惑を加速させた。

 

「敵、と呼ぶには、少々――」

「私は、先生を守る事が出来なかったキヴォトスから来た生徒……貴女なら、そう云えば分かる筈」

 

 その言葉に、ぴくりとハナコの肩が跳ねた。

 先生を守る事が出来なかったキヴォトスから来た生徒――それは、つまり。 

 

「――成程、そういう事ですか、以前ホシノさんが仰っていた方ですね」

「うへ……そーいう事になるかな」

 

 辟易とした様子で頷くホシノ。この大人びた風貌、他の生徒とは一線を画す雰囲気――退廃的で、暴力と死の匂いを香らせる理由はそれか。いつかカフェで聞いた、この世界ではない場所からやって来た生徒。

 ハナコは納得と共に警戒心を幾つか引き上げ、肩に掛けた愛銃のグリップにそっと手を掛けた。

 それを彼女――シロコ(銀狼)はじっと見つめるのみ。

 

「正直に云えば、先生を害するアナタは今すぐにでも消し去ってしまいたいのですが……」

「ん、それは方向性の違いというもの、私に先生を害する意思はない――最終的に求めているのは、先生の幸福」

 

 ワカモが首を傾げながらそんな言葉を投げかければ、銀狼は目を伏せながら淡々と返答を行う。それは、いつぞや対峙した時と比べれば酷く常識的で、『彼女らしい』(砂狼シロコ)振る舞いに見えた。ワカモは敵意と害意を持って彼女を見つめているが、当の本人はそうではない。どこまでも自然体で、飄々としている。

 

「……何て云うか、前にあった時は凄い乱暴だったから、少し驚いたね」

 

 呟き、ホシノは目を細めた。

 顔を上げた銀狼は、しばし真正面からホシノの顔を眺める。

 月明かりが差し込み、二人の表情を淡く照らした。

 

 ――銀狼の顔立ちは、見れば見る程面影があった。

 

 細く絞られた瞳、ピンと立った耳、艶やかに光る銀の髪、体つきは変わってしまったけれど、その表情と瞳に宿る光はホシノの知る彼女のものだ。まるでシロコの数年後、大人に近付いた姿。香る匂いと、気配さえ断ってしまえば、本当に彼女と瓜二つだった。

 

 対峙する銀狼は、じっと自身を見つめるホシノに、一瞬、くしゃりと表情を歪める。それは闇の中で起きた、ほんの一瞬の変化だった。そしてそれを、銀狼は悔いる。

 

「……アレ(あの口調)はゲマトリアに向けたものだから、普通に話すだけだったら、別に」

「……うへぇ、そういう所でシロコちゃんっぽい所出さないで欲しいなぁ、ちょっと、おじさん複雑だよぉ」

「………」

「あー……ごめん、無神経だったかな」

「別に大丈夫――アビドスの皆(私の仲間達)は、ずっと一緒に居るから」

 

 告げ、銀狼は胸元に手を当てた。

 アビドス(私達)は、皆で一つ――その約束を、違えた事は一度もない。

 それは、本当だ。

 

 ――銀狼(わたし)は、この世界のシロコ(わたし)ではない。

 

 記憶も、思い出も、そこにはない。世界を薪とし、己の命より大事な存在を捧げてまで手にしようとした唯一無二。彼女達と交わした約束も、誓いも、願いも、全部、全部、此処()にある。

 だからこの世界に居るアビドス(大事なもの)も、外側だけ酷似した他人なのだ。銀狼は、ずっと自身にそう云い聞かせて来た。

 

 けれどいざ、こうして銃を突きつけ合う事なく対峙すると、その鼓動が早鐘を打ち、酷く動揺するのが分かった。

 

 彼女達と同じ顔を見る度に、自身と共に過ごしたアビドスの仲間達の事を思い出してしまうのだ。同じ声、同じ仕草、同じ顔立ち、同じ心――異なるのは、自分を見つめるその瞳の色(感情)だけ。

 胸に過る確かな寂寥感。もう二度と手に入らない、綺麗で儚い希望の時間、真新しく汚れを知らない鏡を見せられている気分だった。その輪の中に自分が居ない事が、どれだけ辛く、寂しく、悲しい事か。心にぽっかりと穴が空き、強い虚無感に襲われる。

 そして、それを埋める方法は――世界の何処にも存在しない。

 だって銀狼は、その全てを世界(炎の中)に置いて来たのだ。

 だから彼女が携えるのは、約束と願い。

 その二つだけ。

 それだけだった。

 

 目敏く銀狼の変化、そのうねりに気付いたハナコは、どこかおずおずと問いかける。

 

「……その、ホシノさんと其方の方は、以前――」

「……うん、私達アビドスとドンパチして、銃口を向け合ったんだよね」

「本当に敵同士ですね――何故、その様な方と」

「そりゃあ勿論――」

 

 ホシノが小さく息を吐き出し、目を瞑る。それは自身の中にある感情を一新する儀式の様に思えた。

 思う所は当然ある、飲み下しきれない感情も。

 けれど、今はそれよりも――。

 

「先生の事で話したい事がある、何て連絡されちゃったらね」

「………」

 

 ゆっくりと顔を上げたホシノの瞳が、正面の銀狼を貫いた。

 

「おじさんの知る中で、唯一先生の根幹に近い部分を知っているのは彼女だけだからさ、色々と複雑だし、思う所もあるけれど、だからと云って跳ね退けるには情報の重要度が高すぎる」

「……なので私達、先生の事情を知る者に招集を掛け、この様な場を持つ事と相成った――という訳です」

 

 ホシノに続き、言葉を紡いだワカモ、それに対し銀狼は異論を挟まない。ハナコは皆の顔を見渡しながら、静かに頷いて見せた。つまりこれは、先生の秘密を知る者による情報共有の場――という事になる。

 話を持ちかけて来たのは彼女(銀狼)の方から、果たして一度敵対した生徒に対し、このような場を設けてまで話したい事とは何なのか? 少なくとも、明るい話題ではないだろう。それが分かっているからか、ワカモも、ホシノも纏う雰囲気は何処か強張っている。

 銀狼は全員に視線を向けられたまま、そっとその口を開いた。

 

「……率直に云う、このままだと先生が志半ばで死亡する確率が、非常に高い」

「ッ!」

 

 それは、余りにもストレートな物言いだった。

 オブラートも何もない、ど真ん中の剛速球。全員が息を呑み、肩を震わせる。銀狼はそんな皆の反応を気にも留めず、淡々とした口調で断じた。

 

「今回の件で確信した、世界(運命)は良くない方向へと先生を向かわせている」

「………」

「此処に居る全員は知っていると思うけれど、先生は幾つかの世界を経由してこの世界に辿り着いた、先生にその全部の記憶があるかどうかは不明だけれど、少なくとも先生は私の事を憶えていたから、これから先起こる事……未来の記憶があるのは確実――少なくとも、アレが到来する記憶までは」

「……アレ、というのは」

「……私達のキヴォトスが沈む事になった元凶、少なくとも、あの時から全部が狂い始めた」

 

 そう呟き、顔を背けた銀狼。その両手は強く握り締められ、心なしか怒気を纏っている様に見えた。具体的な情報は無い、だがソレがキヴォトスにとって致命的なものである事は理解出来た。

 

「――けれど、今重要なのは、エデン条約について」

「エデン条約――確か、トリニティとゲヘナの和平条約……だよね?」

「そう」

 

 ホシノの言葉に、銀狼は頷いて見せる。

 

「先生は繰り返した記憶を元に、生徒全員が笑える世界――つまり、キヴォトス全てを救おうとしている」

「それは……存じております」

「けれど、そのプランは頓挫した」

 

 銀狼が告げ、ハナコが透かさず口を挟んだ。

 

「――アナタの存在、ですね」

「……そう」

 

 彼女は肯定する。先生は記憶を元に世界をより良い方向へと進めようとしていた。すべては一度経験した事――結末を知っているのならば、その方向をコントロールする事は可能に思える。しかしそうではない、この世界にはイレギュラーが存在した。

 それが目の前の銀狼の存在。

 本来であれば、記憶を保持するのは先生のみだったのだろう。しかし、彼女という変数が世界に投げ込まれた事によって、結末は捻じ曲がり、道程が歪み始めた。 

 

「私の肉体を構成する際の交換条件、その中に未来の出来事と知識を話すという物があった、本来ならば一部だけに制限するつもりだったのが――どういう訳か、あの女の耳に届いてしまったから」

「……あの女?」

「アリウス自治区の主――ベアトリーチェ」

 

 その名前を聞いた瞬間、ホシノとワカモの表情と気配が一変した。

 

「……アイツか」

「………」

 

 ホシノは小さく敵意に満ちた呟きを漏らし、ワカモは肩に掛けた愛銃を軋ませる。ハナコはその名前を脳裏に刻み、何度か含む様にして頷いて見せた。

 

「……確か、先生がその名前を叫んでいた記憶があります」

「そう、先生を殺そうとしている黒幕が彼女、確か、アリウス・スクワッドを動かしたのも」

「ッ――」

 

 銀狼の言葉に、ハナコは目を見開く。思い起こされるのは体育館で爆発を受け、吹き飛ばされた先生の姿。あの、アリウスの生徒達の行動にも疑念があったが――裏で糸を引いていたのは、そのベアトリーチェという存在。

 ハナコの手に、知らず知らずの内に力が籠る。

 

「私としてもあの女は排除したいと考えている――だから三人をこの場に呼び出した」

「……敵の敵は味方、という事ですか」

「……あの女は私を警戒している、枷さえなければ私が殺しているけれど、あの女は狡猾にも二重、三重に私が手出し出来ない様に場を整えていた――気付くのが少し遅れた、今回私は大きく動く事が出来ない」

「枷、というのは?」

「契約に近い、その領域に立ち入る事が出来ないとか、気配を感知する事が出来ないとか、その特定個人にのみ作用するもの」

「……トリニティのものに、少し似ていますね」

「根源は同じなのかもしれない、私もその分野に精通している訳ではないから、詳細は省く」

 

 告げ、銀狼は続ける。

 

「あの女は既に舞台装置に堕ちた身、けれどその執念だけは本物だった……自らは動かず、周囲の登場人物(役者)を動かす事によって物語をコントロールしようとしている」

「それは……少々、変わった表現の仕方ですが――」

「……塵屑の一人が、こういう云い回しをしていたから」

 

 あの云い回しが移った。彼奴が、何かと自身に絡んでくるからだ。そう、どこか嫌悪感を滲ませ吐き捨てた銀狼は、小さく指先で自身の額を叩いた。

 

「……兎に角、私がもっと丁寧に立ち回っていれば、今回の件だって――」

 

 呟き、後悔を表情に滲ませる彼女。本来であれば、ベアトリーチェの役割は既にその力の大部分を喪っている筈だった。しかし、過去の道筋から外れたせいか、或いはもっと別の理由があるからなのか――あの女は執念のみで自身の立場を固持し、未来を捻じ曲げようとしている。それは、先生の命にすら届きかねない。それが今回の件で証明されてしまった。

 その事に自身がもっと早く気付けば、先生が負傷する事も防げたかもしれないのに。

 

「でも、まだ致命的じゃない――取り返しはつく」

 

 確かに未来は少しずつ悪化している、けれどまだ一線は越えていない。

 だから巻き返すためにも、危険を冒して彼女達にコンタクトを取った。本来であれば今後も敵対する可能性が非常に高い、今の生徒達に。

 

「先生を助ける為に――協力して欲しい」

「………」

 

 告げ、強い眼差しで皆を見渡す銀狼。

 互いに顔を見合わせる三人は、逡巡している様に見える。

 

「……それに、これは勧誘も兼ねている」

「勧誘?」

「うん――必要なら、先生が私の居た世界でどんな末路を辿ったのか、それを話しても良い、それであなた達の考え方が変わるのなら、幾らでも」

「……末路、ね」

 

 その響きにホシノは顔を顰める。

 良い話ではないだろう、それは確かだ。好んで聞きたいとは思わない。しかし、そこに先生のルーツがあるのも確かだった。

 

「それと、先生の傍に居る生徒を取り込むなら、早い方が良いと思った――私以外にも、【跳んで来た生徒】が居るかもしれないから」

 

 その言葉に、ハナコの視線が鋭く光った。

 

「それはあなたの様に、別の世界から――という事でしょうか」

「うん、そう」

「……確かに、先生単独ならばまだしも、同じ生徒の身分であった貴女がこうしてこの場に居る時点で、同じような選択をした生徒が他に居ないと、そう断言する事は出来ません」

 

 何かを代償として、世界を跨いでいる生徒が他に居るかもしれない。手段は皆目見当もつかない、しかしハナコは自身がキヴォトスの全てに精通している等、そんな事は微塵も思っていない。だから自分には想像も出来ない何か、あるいは技術を用いてこの世界に介入している存在――そのイレギュラーを、常に念頭に置く必要があった。

 

「私は、先生が生き延びられるのならキヴォトス何てどうなっても良いと思っている、けれど、だからと云って積極的に先生を悲しませたい訳じゃない……ただ私は、先生がこれ以上苦しむ所を見たくないだけ」

 

 銀狼は呟き、不意に夜空を仰いだ。月は、少しだけ欠けている。瞬く星々は綺麗で、その美しさだけはあの頃と何ら変わりない。自分はこんなにも変わってしまったのに、この夜空だけは――ずっと、あの時のまま。

 そうだ、こんな夜に自分達は誓った。

 

「――あの人(先生)に、あんな結末は似合わない」

「………」

 

 声には、どこか真摯な響きがあった。

 ホシノが思わず口を噤み、声を失くした。

 空を見上げる彼女が、余りにも悲しそうだったから。

 

「あなたは――」

 

 ハナコは、その表情と気配に正しく彼女の感情を汲み取る。数秒、どこか痛ましそうな表情を浮かべた彼女は、そっと囁く様な声色で告げた。

 

「……心が、折れてしまったのですね」

「………」

 

 それは、余りに直接的な物云いだった。或いは、彼女の機嫌を損ねてしまうかもしれない程の。けれどその言葉を受けた銀狼は、怒る訳でも、顔を歪める訳でもなく。ふっと、笑みを零した。

 それはどこか朧気で、儚い笑みだった。

 

「……この世界の皆から見れば、そうかもね」

 

 けれど折れた――と表現するのは、少し違うのかもしれない。

 呟き、銀狼は目を伏せる。

 

「皆が皆、先生みたいに強くはなれない」

 

 それを『強さ』、と呼んで良いのか彼女には未だに分からなかった。

 或いは覚悟や、信念と云った表現が正しいような気もする。

 自分には持つことが出来なかった、絶対的な聖者の性質。

 

「大好きな人が傷付いて、足掻いて、苦しんで、それでもと口にしながら進んだ果てに、何の救いも、希望もなかった……その慟哭と、悲しみを知っていたら、誰だって――」

 

 そう、誰だって絶望する筈なのに。

 その頑張りを一番近くで見つめていたから。ずっと背中を眺め、先生の作ったその道を辿って来たから。

 だから、先生がその膝を折り、斃れた時。

 アビドスの皆は、その(しるべ)を喪った。

 

 別に――楽園(エデン)になんて、辿り着けなくても良かった。

 ただ、先生とアビドスが一緒になって、ずっと笑い合える事が出来たのなら、それで良かった。

 そんな平凡で、些細な事で、何て事の無い日常こそが、自分達の願いだった。

 

「私はやり直したい訳じゃない、だって過去はなかった事には出来ないから、皆と一緒に必死になって戦って、それでも先生を守れなかった事実は……私の中でずっと残り続ける――だから、私が望むのは一つ、たった一つだけ」

 

 伏せられた銀狼の視線が、三人を射貫く。

 その瞳に秘められた意志と決意は――決して揺らぐ事は無い。

 そう確信する程の、強固な想いが燻っていた。

 

先生に、幸せな未来を(大好きな人に、ほんの少しの奇跡を)

 

 あの人は、生徒の為に奇跡を起こす。

 その未来の為に、心身を削る。

 けれど。

 自分の為に奇跡を起こした事など――一度もなかった。

 

 ――だから、今度は自分(生徒)の番。

 

 そのほんの少しの奇跡を、命を賭して手に入れる、何を犠牲にしても、どんな代価を支払っても――それが、皆と(シロコ)の結んだ約束。

 先生の起こす様な、大きな奇跡は望まない。

 生徒全員を救う様な、眩い光は求めない。

 ほんの少し、僅かな奇跡(幸福)で構わない。

 人ひとりが幸せに、何の憂いもなく、心穏やかに過ごせる世界(場所)

 銀狼が求めるのは、そんな些細な世界。

 

 そんな些細な奇跡の為に、彼女はアビドスという一等大切な宝物すら捧げ、突き進んだ。

 到底釣り合うものではない、望まれたものでもない。けれど、彼女は『それでも』と、自身のエゴを押し通す。その我儘に、重ねられた手の温もりを(アビドスの約束を)思い出しながら。

 

 ――その姿に、ホシノは思わずくしゃりと顔を歪めた。

 

「……ほんと、どこの先生も変わらないんだね」

 

 思わず呟いた。呟きが彼女の耳に届く事は無い。けれどそこには、万感の想いが籠っていた。

 話を聞き終えたハナコは、深く、どこか熱の籠った溜息を零す。二度、三度、自身の額を指先で叩くと、その鋭い眼光をそのままに問いかける。

 

「……そちらの事情は理解しました、それで、私達に何を望むと云うのでしょう?」

「――これから起こる、未来の事を少しだけ話す」

 

 未来の出来事。

 先生の今後を左右する、重大な分岐点。

 銀狼の指先が、微かに震えるのが分かった。

 

「だから、先生の事を守って欲しい」

「あなたに云われずとも、守るつもりではありますが――」

 

 ワカモは告げ、頭上を見上げる。どこか思案している様にも、感情を整理している様にも見えた。少しして、銀狼に再び視線を投げかけた彼女は一つ頷いて続ける。

 

「……実際問題、あの御方が傷付いているのは事実、情報を知らねば守る事もままなりませんか」

「そうだねぇ……おじさんも守るって豪語しておきながら今回は何も出来なかったし、それに次は、先生が死んじゃう可能性がある何て云われたら――流石に聞き捨てならないでしょ」

 

 感情的にも、客観的にも放ってはおけない。そして銀狼という存在も、決して腹から【信頼】出来る存在ではないが、事先生の事情に限っては――『信用』しても良い。彼女は銀狼の話を聞き、そう判断した。

 この取引は、互いの利益に沿っている。

 目指すべき到達点は異なるが、事この場合に於いて先生の生存が前提という部分は一致しているのだ。恒久的な協力ではなく、一時的な共闘。

 それであれば、呑む事も吝かではない。

 三人が顔を見合わせ、頷く。

 考えは同じであった。

 

「……それで、今回のトリニティ騒動、その後には何が起こるというのですか?」

「――エデン条約、調印式」

 

 ハナコの問いに、銀狼は答える。

 その瞳が剣呑な光を帯びるのを、皆は感じ取った。

 

「そこで、ベアトリーチェ(あの女)は仕掛けて来るつもり」

 

 ■

 

「っと――」

 

 客室棟――先生の私室にて。

 書類を書き綴りながら、隣にあったカップを掴む。そんな簡単な動作を、先生は不意に失敗した。取り損ねたカップがソーサーとぶつかり、甲高い音を立てる。中程まで注がれていた紅茶が跳ね、水滴が縁に弾かれた。

 物思いに耽っていたホシノは、その音で意識を取り戻す。部屋に備え付けられていたソファに身を沈めていた彼女は、そっと身を起こし先生の居る方へと視線を向ける。すると傍で介助していたハナコが駆け寄るのが見えた。談話用のテーブルで書類と向き合っていた先生は二度、三度、自身の指を動かし、目を細める。

 

「先生、大丈夫ですか?」

「……うん、平気だよ」

 

 そう云って、朗らかに笑う先生。しかし、ハナコはその指先が僅かに震えている事に気付いた。小さく、小刻みに揺れるそれにハナコは顔を顰める。

 

「でも、指先が震えて――」

「あ……」

 

 その震えは、本人ですら自覚していなかったもので。先生は咄嗟に指を握り込み、何でもないかの様にへらりと表情を変え、頬を掻いた。何とも空虚で、綺麗な笑みだった。

 

「あはは、ごめん、まだ本調子じゃなくてね」

「………」

 

 それは、生徒を気遣ってのものだろう。それが分かるからこそ、対峙するハナコの表情は益々険しくなる。そんな二人を見ていたホシノも、自身の鼓動が一際跳ね上がるのを感じた。

 

 あの爆発を受け――先生の左手の握力は、以前の半分以下になった。

 右目も、視力が大きく下がったと聞く。

 それがどの程度のものなのか、ホシノはまだ聞き及んでいない。聞くのが、怖かった。

 

 背中には酷い火傷と爆創の痕、シャツを着込んでいても首元にちらりとそれが覗く。ハナコや補習授業部の面々がその傷跡を見て、時折顔を歪ませるのをホシノは知っていた。その感情がホシノには良く理解出来る、その場に居ながら何も出来なかった無力感と遣る瀬無さ――その燻りは、どれだけ時間が経過しても鎮まる事は無い。寧ろ、時を経るごとに重くなっている様な気さえした。

 

 不意に顔を逸らし、ホシノはテーブルの上に残ったロールケーキに目を向ける。少し考えて、ホシノは皿ごと持って立ち上がり、先生の傍に足を進めた。

 

「あなた様、もしよろしければこのワカモが――」

「――はい、先生、あ~ん」

「なっ!?」

 

 ワカモが何事かを口にしようとして――恐らく自分が紅茶を飲ませてあげようとか、そんな事を云い出そうとしたのだろう――その間に割り込む様にして、ホシノは先生の口元にロールケーキを一片、差し出した。

 差し出されたソレ――フォークの先のロールケーキを見つめ、先生は苦笑を浮かべる。

 

「……大丈夫だよ皆、別に腕が無くなった訳じゃないんだから、気持ちだけ有難く受け取っておくね?」

「うへ、そんな建前は良いから、ほらほら先生、口開けて、あーん」

「いやだから……」

「あーん」

「……あ、あー……」

 

 再三のゴリ押しと、何となく滲み出る圧迫感に負け、先生は口を開く。その口の中に、ホシノはロールケーキをそっと差し入れた。

 

「んぐ……」

「ふふっ、偶には良いね、こういうのも」

 

 唇を閉じ、ケーキを咀嚼する先生。そんな彼の姿を間近で見つめるホシノは、ふとその表情を喜悦に染める。良く恋人や家族なんかが、こんな風なやり取りをしているのを本やテレビ越しに見ていたが――成程、中々どうして悪くない。自分には全く、縁遠い事柄だと思っていたが、分からないものだ。

 皿の上に残ったロールケーキを更に分割しながら、ホシノは努めて平静を装いながら言葉を紡ぐ。

 

「大丈夫だよ先生、どれだけ先生が傷付いても――(おじさん)が先生の腕だろうと足だろうと、なってあげるから」

「………」

「ま、そんな事になる前に、助けてあげられるのが一番なんだけれどね……その位の気構えで居るって事は、知って欲しくてさ」

「……うん、ありがとうね、ホシノ」

 

 何となく気恥ずかしくなって、「うへ」と呟いたホシノは顔を背ける。

 その先に――直立不動で佇むワカモと、その背後に並ぶハナコを見た。

 

「……えっと、二人は何でおじさんの後ろに並んでいるのさ」

「順番待ちです」

「はい♡」

 

 真剣な気配でそう告げるワカモと、満面の笑みでハートを飛ばしながら頷くハナコ。そんな二人の姿に思わず辟易とし、そして先生に再び視線を向けた時、その傍にはいつの間に部屋に入っていたのか、シロコの姿があった。

 

「先生、先生」

「……何だいシロコ、っていうかいつから居たの……?」

「ん、私ともあ~んをするべき」

「……後でね」

 

 先生がそう云うと、シロコは露骨に不満げな溜息を零した。何だかあっち向いてホイとかしそうな溜息だな、と先生は思った。というか最近、生徒のストーキング――否、ステルス能力が向上している気がする。これは良くない傾向では? 先生は訝しんだ。

 

「そう云えば、その書類、申請書みたいだけれど――」

「ん、あぁ、これかい?」

 

 ホシノがそう問いかけると、先生は書きかけのそれを指先で撫でつけながら、どこか憂う様な表情で答えた。

 

「……ミカの、面会申請書だよ」

 


 

 何気ない日常の中で、ほんの少しの奇跡(大好きな人が平和に暮らせる世界)を見つける学園(もう滅んだ)×青春(過ぎ去りし思い出)×物語(ひとりぼっちの)RPG(アビドス)――ブルーアーカイブ。

 

 これがクロコのブルーアーカイブ(青春)をもう一度かぁ……。

 

 



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朧げな夏

誤字脱字報告、ありがとうございますわ~!


 

「ぅ……ぐ、ぁ――」

 

 燃える世界、崩れ落ちる景色。傷だらけの体に、吹き抜ける血生臭い風。

 黒ずんだ銃は灰を被り、頬を流れる血か涙も分からないそれが、足元のアスファルトに落ちて滲んだ。痺れた指先で掴むグリップは軋み、肺は焼ける様に熱い。灼熱に炙られた空気は凄まじい熱を孕み、額には汗が珠のように浮かび上がる。

 尤も、それが熱気によるものだけではないと、私は知っている。

 

 これは夢だ――鮮烈で、残酷な夢。

 自分なのに、自分ではない、誰かの夢。 

 

「はッ、はぁ……あ、あはは、だい、丈夫だよ、先生――」

 

 呟き、私は顔を上げる。燃え盛る世界の中で、何度斃れそうになっても、震える膝を叩いて、叫んで、歯を食い縛って。

 骨が軋んだ、内臓が裏返る心地だった。

 それでも、私は声を張る。焼け付いた喉で、必死に。

 

「私、まだまだ戦えるからッ……!」

 

 擦り切れ、裂けた制服。密かに自慢だった白い羽は見る影もなく、血に染まったそれは元の純白を喪っている。何人倒したかも分からない、もしかしたら殺してしまった(ヘイローを壊してしまった)子も居るかもしれない。けれど、それを確かめる術も、後悔する余裕もなかった。

 

 足音がする――私から、大切な人を奪うとする足音が。

 

 目を凝らせば、炎の向こう側から姿を現す白と青。純白を象り、青の流星(ブルーライン)をなぞった制服を着込んだ生徒達が、銃を手に列をなしてやって来る。青の飾緒とタイが揺れ、炎の揺らぎの中でも嫌に目立った。

 

 連邦生徒会――先生を(処分)しに来た、死神の狗。

 

 無感動に、無感情に、或いはそれを押し殺して。

 私は大きく息を吸って、拳を握る。傷だらけの体に鞭打って、銃を握りながら地面を踏みしめる。

 何十、何百、何千という弾丸を撃ち込まれようと。

 何百、何千、何万という生徒と敵対しようと。

 私は前を向く、立ち塞がる、彼女達に銃口を向け続ける。

 

 連邦生徒会の狗が、私の前に立つ。

 その銃口を此方に向けながら――淀んだ瞳を向けて来る。炎に照らされた彼女達の表情は見えない。強い光は、その分だけ濃い影を生む。けれど、光る眼光だけは隠しようがない。私は足元に転がった白を踏み躙り、口を開く。

 

「ははっ、何、そんな目で見ちゃって……? まるで、魔女を見る目みたいにさ――」

 

 私の周りには――無数の生徒が転がっていた。

 

 云って、思わず嗤う。

 みたいに、などではない。事実、彼女達の敵として立ち、何人もの同胞を地面に打倒した己は魔女なのだろう。彼女達の瞳からは、戦慄と恐怖、そして憎悪が迸っている。それは、嘗て己が忌避した感情そのものだった。

 

 ――構うもんか。

 

 吐き捨て、口元の血を拭った。手の甲にへばりついたそれを、乱雑に拭う。頭の中で残弾を数えながら、どうしようもなくなったら相手から奪うなり、素手で戦うなりすれば良い――なんて考えて。

 そう、この場所から退くつもりはない。

 この命が擦り切れる、その最後の瞬間まで。

 

「先生の隣に立てるなら、私は――お姫様になんて、なれなくて良い」

 

 ――私は、魔女で良い。

 

 踏みしめ、目を細める。例えどれだけの生徒に忌み嫌われようと、例えどれだけの罵詈雑言と弾丸を吐き出されようと。私は、先生の味方で在り続けると決めた。

 そう誓った。

 約束した。

 

 だから。

 

「――此処は、絶対に通さないよ」

 

 告げ、手を伸ばす。彼女達を遮る様に。

 自身の背後で斃れた――先生を守る為に。

 

 燃え盛る炎が、その勢いを増す。連邦生徒会と私達を囲う様に火の粉を払い、地面を舐めていた。

 世界は緋色と白、そして青に染まっている。空を見上げれば天蓋を覆う夜空が、矮小な自分達を見下ろしていた。

 勝てる確率は如何程か。この戦いが終わった後に、自分に先生を連れて逃げるだけの力が残っているのか。そんな事は、分からない。ただ、何とかなる筈だと立ち向かう事は、余りにも無邪気だろうか? でも、それで構わないと思った。

 

 この星々が瞬く夜は、私の希望だ。

 太陽に寄り添う事の出来ない月にとっての。

 

 愛銃を手に、私は一歩を踏み出す。

 確かな想いと、決意を込めて。

 対峙する彼女達を、その()で以て射貫き――告げるのだ。

 

「恋する乙女は――最強なんだから」

 

 ■

 

「………ぁ」

 

 目が覚めた時、視界に映ったのは薄暗い天井だった。寝惚けていたのか、被っていたシーツは蹴飛ばされ、天井へと延びる自身の白い腕。それをゆっくりと引き戻し、彼女はか細い息を吐き出す。

 以前使用していた邸宅とは別の、冷たくて暗い独房。トリニティ自治区、隔離塔地下にあるこの場所は、ティーパーティー管理下の行政室、及び部活動統括本部の置かれた本校舎裏手に存在し、厳重な警戒と監視下に在る。内装は至ってシンプルで、出入り口の扉には鉄柵が嵌め込まれ生活する上で最低限必要なものしか存在しない。

 尤も、ヴァルキューレや矯正局にある様な剥き出しのコンクリートなどではないが、調度品と煌びやかな装飾で彩られた嘗ての家と比較すれば、余りにも窮屈な場所だった。冷たく、少し硬いベッドに横たわった彼女は、ぼうっと天井を見上げたまま呟く。

 

「……――また、この夢」

 

 (ミカ)ではない、(ミカ)の夢。

 この場所に収容されてからというもの、そんな夢を良く見るようになった。場所は同じキヴォトスで、立場も大して変わらない。けれど自分の体験した事のない状況、言葉を発し、結末もまた異なる。夢を見る場面は大抵、辛かったり、苦しかったり、そんなシチュエーションばかりだった。ミカはシーツを握り締めながら蹲り、思わず乾いた笑みを零す。

 

「……ふふっ、私の、罪悪感でも煽りたいのかな……?」

 

 トリニティを滅茶苦茶にして。

 友人を裏切って。

 先生に、取り返しのつかない怪我をさせて――。

 

「こういう時こそ……いつもみたいに、意識が無くなってしまえば良いのに――」

 

 呟き、ミカはシーツに包まった。あの不規則な意識の消失は、大事な時に起こる癖に、自分のなって欲しいタイミングでは一向に起こる気配がない。何とも都合の悪い事だった。彼女はカサカサになった唇を指先で擦りながら、そんな事を思う。

 リップクリームなんて気の利いたものは此処にはない。頬や手の肌も、随分と荒れてしまった。ヘアオイルだってないから髪も少しくすんで見える。でもそんな事はどうでも良く思える位に、今のミカの心は荒んでいた。

 

 先生に関する事は、出来る限り情報を集めようと動いていた。食事は日に三度、それに三日に一度程、監査という名目で差し入れがある。それは同じパテル分派の生徒からのものであったり、ナギサからのものであったり――先生からのものも含まれていた。

 その時にやって来る監視官や行政官に、先生の様子や容態を聞くのだ。ミカ自身がパテル分派の首長の為、大抵やって来る生徒は別の分派の生徒だが、時折先生の様子を教えてくれる生徒がちらほら居る。それが憐れみなのか、或いは誰かの指示なのかは分からない。でも大抵、そういう情報をくれるのはフィリウス分派(ナギちゃん)の生徒だった。

 

 目が覚めなかった時期は大変に焦った。更にそこから一時行方不明になったと聞き、慌てて扉をぶち破って脱走紛いの事もした。そのせいで警備が厳重になって、更に鉄柵も追加されてしまったが後悔はしていない。

 最近は体調も回復傾向にあると聞いた。少し前に退院する事と聞き及んだときは飛び上がって喜んだ。今はトリニティ自治区の客室棟で生活しているらしい。万が一の事を考慮して、救護騎士団の直ぐ出動できる場所に置いているんだとか。それは、ミカとしても幾分か安心出来る要素であった。先生を巻き込んでおいてどの口がとも思うが、先生には安心出来る場所に居て欲しいと思うから。

 

 横たわりながら部屋を眺めていると、テーブルの上に置かれた小さな小箱が目に入った。外装はシンプルだが頑丈で、そこそこ値の張る逸品である。これはミカがパテル分派の生徒に無理を云って用意して貰ったものだった。

 そっと手を伸ばし、その小箱を手に取る。

 

 パテル分派の生徒からは、手紙などで現在のトリニティの情勢が送られてくる。偶に先生の事に関して書いてある事もあるが、大抵は派閥間の云々だ。自分が良い首長であったなどと微塵も思っていないけれど、存外に自身を悪く云う生徒が居ない事に驚いた。

 ナギサからは、大抵ロールケーキが届く。偶には別のものを贈って欲しいと思うと、次回には味違いが届く。何でロールケーキ何だろうと思ったが、碌に甘味も食べられない環境だと存外にそれも悪くなかった。

 先生からは、手紙と様々な物品。御菓子だったり、日用品だったり、色々。最初の差し入れは、手紙と銀色の綺麗なチェーンだった。

 

「……せんせ」

 

 優しい手つきで以て小箱を開ける。すると、中にはチェーンに通された指輪が顔を覗かせた。先生から貰った、信頼の証。あの時託されたそれを、ミカは今も手放せずに居た。

 先生は手紙で自身(ミカ)を励ましてくれる、けれど自分の事は少しも話さない。大丈夫だとか、元気だとか、そんな事ばかりを並べていた。それが自分を慮っての事だと、ミカは理解している。

 

「――逢いたい、なぁ……」

 

 声はか細く、震えていた。

 摘まんだ指輪を握りしめ、ミカは再びベッドに横たわる。その両目はじっと手の中のそれを見つめ、ややあって、その瞼はゆっくりと落ちた。

 そうして彼女は夢を見る。

 

 自分ではない、ミカの夢を。

 

 ■

 

「ふぅ~……」

 

 ミカの面会申請書を出した帰り道。段々と見慣れて来たトリニティ校舎の廊下を歩きながら、先生は静かに首を回した。時刻は昼を少し過ぎた頃、時期は既に夏休みとなった為生徒達の姿は疎らだ。本校舎に詰めているのは行政官や本部の生徒、それに警備の正義実現委員会。すれ違う生徒もおらず、閑散とした廊下を歩く先生はひとり呟く。

 

「……流石に、提出して直ぐにって訳にはいかないよね」

 

 ミカとの面会申請書を提出し、受理して貰ったのがつい先程。差し入れは勿論、面会するにも準備や審議が入る。ある程度の特権が約束されているシャーレではあるが、それでも郷に入っては郷に従え。不必要な火種を撒き散らす事は避け、正規の手段を踏めるのであれば踏むに越した事はない。

 スムーズに認可が下りれば、面会は一週間以内に実現するらしい。それまでは今まで通り、手紙を送るしかないだろう。

 

 そんな事を考えながら歩いていると、ふと端末が振動した事に気付いた。懐から取り出し画面を覗き込めばモモトークの着信、発信者はハナコ。内容は、『ちゃんと受け取って貰えましたか?』というもの。先生は素早く画面をタップし、『大丈夫だったよ、一週間後には結果が出るって』と返信した。

 本当ならばハナコが代理として提出する予定だったが、無理を云って先生自身が提出に出向いたという背景があった。流石にいつまでも動かないのは、それはそれで不健康だと云い包めて一緒に同行するという生徒達を押し留め部屋を出たのだ。

 ここ最近、先生の周りには誰かしら生徒が常に控えている状態だった。その為、気分転換という側面もある。

 あの爆発以降、何かと近しい生徒達が不安げな視線を向けて来る事が多くなったが――力の入らなくなった左手を握り締めながら、先生は苦笑を零す。

 

「流石に過保護すぎる気がするけれど……私の失態だな、これは」

 

 自分がもっと上手く立ち回れていれば、彼女達を不安がらせる事もなかっただろう。故に先生は、彼女達の行動の大半を受け入れるつもりであった。流石に、業務や私生活に差し支えるのならば少し考えなくてはならないが。

 

「……ん?」

 

 ふと、廊下の向こう側から声が響いた。云い争う、というよりはどこか威圧的で、警戒するような声だ。見れば正義実現委員会の黒い制服がちらりと顔を覗かせ、それに囲まれた一般生徒らしき影が二つ。

 

「此方に入って下さい、抵抗は無駄ですよ」

「きゃっ!」

「くっ……!」

 

 背中を押され、正義実現委員会の本部へと入って行く姿。背後に立つのは正義実現委員会のマシロ、そして今しがた連行されて行ったのは――。

 

「アズサに……ヒフミ?」

 

 ■

 

「マシロ」

「――お疲れ様です、ハスミ先輩」

 

 正義実現委員会、本部。

 デスクの前で待機していたハスミに目を向け、マシロはその場で姿勢を正す。横合いには今しがた拘束された二名の生徒――ヒフミとアズサが控えている。ヒフミはどこか不安げな表情で、アズサは如何にも不満と云った表情を隠さない。

 

「一先ず、報告を」

「はい、現在把握している限りですと、被害は正義実現委員会のメンバー三十名余りが重軽傷、東側の学園広場が半壊、第十二校舎が全壊、それから――」

「……ありがとうございます、詳細な被害については長くなりそうなので、後ほど紙面で」

 

 言葉に耳を傾けていたハスミは、指先で自身の額を押し込む。余りの被害の大きさに苦悩しているのだ。メンバーの負傷は兎も角――いや、それでも想定外の負傷者数だが――学園広場半壊? 更に校舎が全壊? ハスミは部屋の片隅に押し込まれた二人を一瞥し問いかける。

 

「因みに、それらはこの二人による被害の規模で間違いないのですよね? 武装集団や大型の何かと戦った訳ではなく?」

「はい、まるで電撃戦(ブリッツ・フリーク)の様な機動戦を仕掛けられてしまい、対戦車兵器、『PIAT』を手配するまでの間、後手に回る形になってしまいまして……素早い機動に、ピンポイントに擲弾兵を狙撃する腕、動きを止めるまでに随分と時間が掛かってしまいました、正直に申しますと、驚くべき腕と戦術です」

「そうでしたか……はぁ――」

 

 溜息を零し、ハスミは目を伏せる。びくりと、ヒフミの肩が震えるのが分かった。ハスミは数秒程痛む頭を指先で解し、改めて今回の主犯である二人と向き直る。

 

「まさか堂々と学園の戦車を盗み出すとは……復興も大方片付いて来たとは云え、未だ警戒態勢を解いていないトリニティでこの様な――お二人共思っていた以上に大胆な所があるのですね」

「い、いえっ、その、ぬ、盗んだ訳ではありません! ちょっとだけ借りて、また元に戻しておこうかなって……」

「世間ではそれを、窃盗と呼ぶのですよ……阿慈谷ヒフミさん、白洲アズサさん」

「……ふん」

「……あぅ」

 

 その言葉にヒフミは意気消沈し、アズサは鼻を鳴らす。

 

「何故こんな時期にこの様な事を仕出かしたのかは理解しかねますが、予め決められたものは、きちんと守らねばなりません、規則であれ何であれ、それを破れば罰則が科されます」

「そ、その、こんな時期だからこそ、えっと、何か明るい出来事を……と、思いまして――」

「……それで、戦車を盗んで電撃戦ですか?」

「ごっ、誤解なんですぅ……!」

 

 もしトリニティに明るい話題を提供したくてこんな大事を仕出かしたというのであれば、彼女の精神を疑ってしまう。ただでさえ復興作業で様々な部署が忙しく動いているというのに、校舎全壊に広場半壊など、また業務が増える事になるだろう。その事を思い、ハスミはどこか遠い眼をした。

 

「はぁ……兎角、お二人の処遇について話し合う必要がありますので、そこで大人しく待っていて下さい」

 

 告げ、ハスミはマシロを連れてその場を離れる。二人は他の正義実現委員会のメンバーに連れられ、本部にある一時拘束房へと押し込まれた。蹈鞴を踏み、部屋の床に転がった二人、背後で音を立てて扉が締め切られる。

 房の中は薄暗く、頭上に薄らと電灯が幾つか在るだけ。両手を拘束されている為、もぞもぞと蠢きながら上体を起こしたヒフミは、鉄柵と暗闇に覆われた周囲を見渡しながら震えた声を漏らした。

 

「あ、あう……なんだか物凄く誤解されちゃった気が……」

「でも惜しかったよ、ヒフミ、最後の狙撃手の待ち伏せにさえ気付いていれば、まだまだ立ち回れた筈」

「あ、アズサちゃん……いえ、そうではなくて、そっ、そもそも、どうして正義実現委員会を攻撃したのですか? 大人しく投降した方が――」

「追いかけて来たから反撃しただけ、それにヒフミが戦車を上手く操縦してくれたお陰で、かなりの数を倒す事が出来た――特にあの、急加速後のコーナードリフト、あれは凄かった、誰にでも出来る動きじゃない、履帯ドリフトなんて初めて見た」

「あ、あれは操縦したっていうより、適当にあちこち触っていたら動いちゃったってだけで……あ、あうぅ……」

 

 アズサのどこまでも超然とした姿勢に、ヒフミは戸惑いを隠せない。そもそも、ヒフミとしては戦うつもりなど毛頭なかったのだ。戦車を少しの間拝借する為に倉庫に侵入して、戦車に乗り込み脱出するまでは良かった。

 しかし、最後に運悪く正義実現委員会の警邏に見つかり、銃声と共にデッドヒート。気付けば正義実現委員会の大群に追われ、迫る弾丸にアズサがキューポラ部分に腰掛け、応射を開始。ヒフミも訳も分からず戦車を滅多矢鱈に動かし、迫る爆弾と弾頭をドリフト、跳躍、片輪走行で回避し、最後の最後に対物ライフルによる狙撃によって履帯を切断され、敢え無く拘束されるまで暴れに暴れた。

 しかし、残念ながらヒフミは夢中になって逃げ惑っていた意識しかないので、自身がどれ程の被害を生んだのかを理解していない。その為ヒフミは、拘束された両手で頭を抱え、蒼褪めた表情で呟く。

 

「ど、どうしましょう……!? このままだと戦車を勝手に盗んで、校内を爆走した挙句に正義実現委員会のメンバーを何人も戦闘不能にした、ただのトンデモない悪党になっちゃいますよ……!?」

「? それで何も間違っていない」

「間違っているんですよぉ! うぅ、こ、こんな筈じゃなかったのにぃ……ま、また先生に御迷惑を……! まだ体調だって万全じゃないのに……」

「ふむ」

 

 何やら切迫した表情で震えるヒフミに、アズサは首を傾げる。しかし、捕まってしまったのなら仕方がない。アズサは地面に座り込んだまま注意深く周囲を観察する。脱出出来るのならばそれに越したことはないが――残念ながらこの独房に逃げ出せるような箇所、要素は存在しない。流石正義実現委員会と云うべきか、アズサは肩を竦めてこれからの事に想いを馳せる。

 

「さて、これからどうなるのか……爪でも剥がされるのかな? ヒフミ、拷問に耐える訓練はしてある?」

「そんな訓練はしていませんし、したくもありません……それに正義実現委員会の方々は拷問とかはしないと思います、多分……」

「あの委員長も? あ、いや、あれは拷問というより処刑か――」

「つ、ツルギさんの事は良く分かりませんが、流石に同じ学園の生徒に対して、そんな事は……」

「聞いた噂だと、もう何人も駄目になったらしい」

「あ、あうぅ……確かにその噂は、私も耳にした事が――」

 

 アズサの言葉に、ヒフミの震えが加速する。正義実現委員会の委員長――ツルギ。彼女に関しての噂は、本当に恐ろしいものばかりだった。不良を百人、素手で叩き伏せたとか、トリニティに仇為す生徒を問い詰めて精神崩壊させたとか、海に沈めたとか手足を全部逆に圧し折ってオブジェクトにしたとか――。

 まさか自分もその仲間入りを果たすのだろうか……? そう考えた途端、ヒフミは自身の未来が真っ暗な闇に覆われたような気がした。

 

「こ、こうなったら、全部正直に話して許して貰うしか……!」

 

 なりふり構わっている場合ではない。そもそも隠すような事ではないのだ、こうなったら全てを正直に吐露し、許しを請う他ないだろう。そう決断し、顔を上げたヒフミ。

 

 そんな彼女の耳に、鋼鉄製の扉が重々しく開かれる音が届いた。びくりと肩を震わせ恐る恐る振り返る。半ば開いた扉、差し込む光――そして、それに覆われながら中を覗き込む一つの影。

 彼は床に座り込むアズサとヒフミを見下ろし、どこか戸惑った様な表情で口を開いた。

 

「……何しているの、二人共?」

「っ、せ、先生~ッ!」

 


 

 メグに暖めて貰いたいですわ~……。

 あの腕白で考えなしで、けれど自身の好きな事に愚直で快活な笑顔に包まれると何も云えなくなって、仕方ないなって寄り添う先生の姿が見たいですわ~。

 

 一緒に山で温泉を掘りに行って欲しいですわ~……。「こっちから温泉の気配がするよ! こっちこっち! 先生急いでっ!」って先生の腕を引っ張りながらズンズン進む輝く笑顔の彼女が目に浮かびますわ~……。枝とか葉とかガン無視して突き進んで、腕を引っ張られる先生の服とか髪に葉っぱや小枝が絡まって、「着いた~!」って喜ぶメグが万歳して、「先生どうっ!? 絶好の温泉スポット!」って振り向いて、何か凄いボロボロになっている先生に気付いて、「先生どうしたの!?」って悪気なく驚くんですわ~……。メグが引っ張ったからですわ~、でも先生は何も云わずに笑顔で何でもないよって立ち直るんですわ~。大人ですわ~。

 

 メグと一緒の温泉に入って全身傷だらけの体を晒して欲しいけれど、先生はきっと一緒に入ってくれないんですわ。男女の仲がね、生徒と先生がね、とか色々云って回避しようとするんですわ~。それで「そう、なの?」って引き下がっても良いし、「私、難しい事分かんない!」って云って笑顔で先生の衣服を剥ぐ展開でも、どちらでも良いのですわ~! 服を剥ぐ方の展開だったら、衣服の下に刻まれた無数の傷痕に気付いて硬直して、先生がどこか申し訳なさそうに顔を(かげ)らせている事に気付き、先程までの笑顔が急激に戸惑いから後悔に変わって、「ご、ごめんっ、先生! ごめんなさい……」って急にしおらしくなるんですわ~……。その後ギクシャクして引き摺っても良いし、一日意気消沈して、でも翌日に「こんなの私らしくないっ!」って復活して、もう一回温泉に誘うルートでも良いですわ。どっちでも彼女らしいと思うし、私的にはおいしいのですわ~。

 

 後、あの頭の全てが温泉で出来ている彼女の炎に包まれて、先生の皮膚がドロドロに溶けていく様を見せてあげたいですわ~……。何かの間違いで火炎放射器の炎が先生に燃え移って欲しいですわ~。先生が炎に塗れて地面を転がる中、何をすれば良いのか、どうすれば良いのか分からなくて、両手を先生に伸ばしながら右往左往するメグの姿が見たいのですわ~……。

 

 ゴリゴリ君のアイスが硬くて食べられないから、火炎放射器で炙る彼女ですが、何かの間違いで水、水かけなきゃ……そ、そうだっ、燃料タンクのこれも水だよね!? とか云ってぶっかけて更に重症にならねぇかなぁ~……。

 その事がトラウマになって炎を見る事も、使う事も怯えるようになった彼女に、火傷痕の残る顔を晒しながら先生には莞爾として笑って欲しいですわ~……。炎を見る度にひゅっと喉を引き攣らせて、怯えながら縮こまるメグちゃん可愛いね……生徒にこんなトラウマ残すとか先生って奴最低だな。もう二度と、先生と温泉入れないねぇ。は? 一緒に温泉? エッチなのは駄目だが? 死刑だが? 先生が死刑!? エッチなのは駄目! 死刑ッ! 

 



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最高の夏休みは、戦車と共に

誤字脱字報告、大変助かりますわ~!
今回本編だけで一万三千字なので、次の投稿は明々後日になるかもしれません。


 

「……つまり、纏めると」

 

 ハスミの何処か、戸惑った声が周囲に響く。

 場所は正義実現委員会本部、ハスミ、マシロ、そして何名かの正義実現委員会の生徒に囲まれたまま、アズサとヒフミ、そして先生はその場に立っていた。

 

「――アズサさんに、海を見せたくて戦車を盗んだ……という事で合っていますか?」

「は、はい、そうなんです!」

 

 ハスミの言葉に、ヒフミは何度も小刻みに頷いて見せた。その様子は正に必死で、握り締めた手は白く血の気が失せている。

 つい先程、連行されていく二人の姿を目撃した先生は、本部に詰めていた委員の一人から事情を聞き出し、二人に釈明の場を設けた。流石にやらかした事がやらかした事なので無罪放免という訳にはいかないが、何の意味もなくこんな事を行う生徒ではないという事は理解している。

 何か事情がある筈だと、マシロと協議を行っていたハスミに嘆願。そうして改めて事情聴取が行われる事となり、出て来た言葉が――アズサに海を見せる為。

 そんな言葉を真正面から受けたハスミは、戸惑いを隠す事無く滲ませる。

 

「ちょっと学園の備品をお借りして、行ってこようかなと……け、決して盗みたかった訳ではないんです!」

「……ヒフミさんの事ですし、嘘を吐いている訳ではないと思いますが」

 

 呟き、視線を先生に向ける。ハスミとて、アズサとヒフミとは知人である。アズサが理不尽な出来事に立ち向かう正義の心を持っている事は知っているし、ヒフミも凶悪な犯罪を犯す様な不良ではないと知っている。

 しかし、どうにも――海と戦車が結びつかない。

 戸惑いはそこから生まれるものであった。嘘を吐いているとは思わない、しかしこれは、余りにも。

 そんな感情を込めて向けられた視線に先生は頷きを返した。

 

「……先生?」

「うん、本当の事だと思うよ」

「そう、ですか」

 

 先生のお墨付きに、戸惑いは更に深まってしまう。

 

「その、普通に海に行けば良かったものを、どうしてわざわざ戦車で……?」

「普通では、駄目なんですッ!」

 

『普通』――その言葉を耳にした瞬間、ヒフミが声を張り上げた。握り締めた拳をデスクに叩きつけ、前のめりになる。唐突な変貌にハスミは思わず仰け反って、目を白黒させた。ずい、と顔を突き出したヒフミは、ハスミの瞳を真正面から見つめ叫ぶ。

 

「アズサちゃんは、海を見た事が無いんです!」

「海を……?」

「はいっ! つまり、これが初めての海になるんですよッ! 初めてのっ、海ッ! 分かりますか!?」

「え、えぇ」

 

 余りの迫力と勢いに、思わず頷くハスミ。初めての海、確かにそれは重要なイベントである。大切な一回きりの記憶、より良い思い出を残せるように尽力するのも理解出来る。

 しかし――。

 

「ですが、それで何故、戦車に繋がるのか――」

「折角の夏休み、シチュエーションとしてはこうです……照りつける陽射し、足を擽る砂浜、押しては引く波際、陽光に輝く水面――と、くればッ!」

 

 ダンッ、とヒフミの拳が再びデスクを叩いた。

 目を輝かせ、頬を紅潮させたヒフミが高らかに叫ぶ。

 

「――戦車に乗っていくしかないじゃないですかッ!?」

「………」

 

 叫びは、正義実現委員会の本部に響き渡った。

 周囲を静寂が包み込み、ヒフミは満足げに鼻を鳴らしている。

 ハスミはそんな彼女に目を瞬かせながら、おずおずと口を開いた。

 

「申し訳ありません、私には、少し――」

「成程、理解しました」

「マシロ……?」

 

 まさか、理解出来るのか?

 そんな戦慄と驚愕を以て目を向ければ、どこか感じ入る様に腕を組んで頷くマシロの姿が。

 

「夏休み、輝く海、照りつける陽光に煌めく砂浜、友達と行く初めての海――」

 

 その情景を思い浮かべているのか、どこか涼やかな笑みを浮かべる彼女は指先で頬を擦る。

 

「そして、戦車から見渡すそれらの光景――確かにこれは外せませんね、海に戦車は付き物、浪漫とすら云えます」

「そうっ、そうッ! そうなんですよッ!?」

 

 マシロの賛同を得たヒフミは正に水を得た魚の如く、何度も首を縦に振ってヒートアップ、拳を突き上げて高らかに叫ぶ。

 

「そ、そうなんですか……?」

「そうなの?」

「そうなのかー……」

 

 ハスミ、アズサ、先生の順で声を上げる。

 ハスミは純粋に理解出来ない為の困惑。アズサはそういうものなのかと納得気味。先生は生徒の趣味趣向はそれぞれなので、端から全て受け入れる姿勢である。

 

「友情、海、浪漫、夏休み――即ちこれは」

 

 マシロがどこか感じ入る様に口を開き、その指先を天に向けた――その瞬間。

 

「青ぇええ春んんん~~~ッ!」

 

 凄まじい轟音と共に近くの壁が爆散する。瓦礫が飛来し、傍に立っていたアズサが咄嗟に先生の盾となった。しかし幸いにして足元に僅かな破片が転がる程度で、後は粉塵が頬を撫でた程度。立ち上るそれを切り裂き、絶叫と共に現れたのは――正義実現委員会の委員長、ツルギ。

 銃器は持っておらず、素手で壁を粉砕したのだと分かった。

 

「ツルギ?」

「ひえっ、か、壁を突き破って……!?」

「あぁ、ツルギ先輩、今まで何処に?」

 

 ハスミとマシロが首を傾げ、ヒフミは余りにもインパクトの強い登場方法に悲鳴を上げる。ツルギはマシロの問い掛けに答える事無く、首を傾げたまま怪鳥染みた声を響かせた。震え叫ぶその姿は中々どうして恐怖心を煽り、目は極限まで見開かれ両の拳が戦慄いている。

 

「きへええァアアアッ! 海ィ! なつぅ! 友情ぉおおおおっ!」

「……?」

「すみませんごめんなさい許してください! 爪は痛いのでやめて下さいっ! 多分楽しくないと思いますのでッ!」

 

 ヒフミは自分を裁きに来たのだと思い込み、頭を抱えながらその場に蹲る。反し、マシロは普段よりも何処か高揚している様子のツルギに疑問符を浮かべた。

 

「うーん、ツルギ先輩、何だか今日は特にテンションが高いですね?」

「……これは、もしや――」

 

 ハスミがツルギの様子に違和を感じ取り、席を立つ。先生は自身の前に立ったアズサに小さく礼を云うと、その肩を叩いてツルギの傍へと足を進めた。粉塵の只中で絶叫し、震えている彼女は先生の存在に気付かない。

 

「ツルギ」

「キヘェエアアア、あ……――あぁッ!?」

「やぁ、今日も元気そうだね」

「…………………」

 

 数秒、間があった。

 天井を見上げ絶叫していたツルギは、唐突に現れた先生の姿を凝視する。頭の天辺からつま先まで眺めた彼女は、ややあってその顔面を真っ赤に染めると、今度は凄まじい勢いで後退りながら叫んだ。

 

「ジャベレバアアアアアアッ! キェエエエアアアアアアッ!」

「ツルギ、落ち着いて下さい」

 

 壁に張り付き、両手を上げたツルギにハスミは駆け寄る。そしてまじまじと彼女の顔を見つめたハスミは、一つ頷いて結論を出した。

 

「ぅ、ぉ、おぉおおお……ぉあぁ、ああ――」

「……やはり、そういう事なのでしょうか? ツルギ、少々此方に」

 

 ツルギの手を引いて別室へと足を進めるハスミ。当の本人もされるがままで、扉の向こうへと二人の姿は消えて行く。

 唐突な襲撃とも呼べる登場に肝を冷やしたヒフミは、蹲ったまま二人の背中を見送り、悲鳴とも吐息とも云えない声を漏らす。

 

「ふ、ふえぇ……」

「まだ終わっていない、気を緩めないでヒフミ、ここからまた強襲される可能性がある」

「うぇっ!? そ、そうなんですかマシロさん!?」

「いえ、私に聞かれましても……ただ、確かにここ最近のツルギ先輩は、少し元気が無さそうな日が多かった様な?」

 

 ヒフミの問い掛けに、マシロは戸惑った表情と共に答える。

 

「まぁでも、最近色々ありましたし、単純に疲労が重なっているという可能性も――そう考えると、少し危ないかも……?」

「や、やっぱり!? あ、あうぅ……」

「大丈夫です、先生が近くに居れば高確率で落ち着きますから」

「落ち着くって云うより、さっきは興奮していたような……?」

 

 何とも安心できない文言である。しかし正義実現委員会の業務が激務なのは正しく、ここ最近は輪に掛けて忙しい。復興作業に割かれる人員に、アリウス襲撃に備えた防衛体制の構築。加えて有事の際はティーパーティー護衛も兼ねている為、今は猫の手も借りたい程。現在は内勤の生徒ですら外に駆り出し、何とか遣り繰りしている状態なのである。その為、正義実現委員会最高戦力のツルギもまた、右へ左へ駆り出される日々――疲労も蓄積して当然である、少なくともマシロから見ればそういう風に見えるのだが。

 

「でも、それにしてはこう、少し変だったような気もします……疲れているというより、慟哭? 悲しみが含まれていたような――うーん」

 

 マシロもツルギと共同で任務に赴く事は度々あり、多少なりとも意思疎通は出来ていると自負している。そんな彼女の尊敬する先輩、その絶叫は普段と比べて聊か孕んでいる感情が異なっている様に思えた。しかし残念ながら、その意思を十全に汲み取ることが彼女には出来ない。

 それこそ、本当に親しい友人でもなければ。

 

 そんなやり取りを経て、一分もしない内にハスミとツルギは帰還した。顔を真っ赤にしたまま固まるツルギと、どこか納得顔のハスミ。扉を押し開けた彼女は、皆を見渡し笑顔を浮かべる。

 

「お待たせしました、皆さん」

「ひいっ! せ、せめて遺言だけでも……ッ!」

「……? 何のお話でしょう」

 

 未だ怯えるヒフミと仏頂面のアズサ。マシロはツルギとハスミを見つめながら沈黙を守っている。

 

「先生、ツルギをお願い出来ますか?」

「良し来た、任せて――ほらツルギ、こっちにおいで~、よぉしよしよし!」

「あ、ぅ、うぅ……」

「おぉ……ツルギ先輩が小動物の様に」

 

 ハスミからツルギを任されたので、先生は嬉々としてツルギを構い倒す。その頬やら髪をやたらめったと撫で回し、序にそれとなく肩に手を回して体を密着させる。こうすると彼女が暴れなくなる事を先生は良く知っていた。彼女の膂力で以て動き出せば、先生の体など容易く吹き飛ぶ。ツルギの性根は優しい生徒だ、それを避け意図して縮こまるツルギを、先生は出来得る限りの愛情と好意を以て撫で続けた。

 

「ありがとうございます、先生――さて」

 

 ツルギが大人しくなった事を確認したハスミは、ほっと胸を撫でおろしアズサとヒフミに向き直る。視線を向けられたヒフミは肩を弾ませ、アズサは胡乱な目を向けた。

 

「少し、お二人にお願いがあります」

「え、わ、私達に……ですか!?」

「――成程、司法取引か」

 

 ハスミの言葉に、アズサは鋭い目線で以て口を開く。

 

「不問にする代わりに、何か危険な任務をさせようという魂胆だろう」

「いえ、恐らくそれほど危険はないかと思いますが……」

 

 どこまでも警戒を解かないアズサに、ハスミはやや辟易とする。しかし、実際問題彼女達に頼もうとしている事は然程危険を伴わない筈だった。そう、ツルギが暴れ出さない限りは。

 

「ボランティア活動と云い換えても良いでしょう、処罰の代わりにやって頂きたい事があります、諸経費は勿論、戦車も正式に貸与致しますので」

「ぼ、ボランティア……ですか?」

「えぇ、決められたことを守れなかった代わりに、今度は決められた通りの事をして頂ければと」

 

 ボランティア、その言葉の響きにヒフミは疑問符を浮かべる。横合いでツルギを撫でつけながら話を聞いていた先生は、徐に口を挟んだ。

 

「――ハスミ、それは私が監督役として同行しても良いかな?」

「先生がですか? それは……有難い事ではありますが、先生はまだ療養が――」

「正直、ずっと部屋の中だから体が鈍っちゃってさ、傷も大分回復したし、激しく動いたりしなければ問題ないと思うんだ、偶には外に出ないとね……それに監督は半分方便で、私が休暇に行きたいだけだから」

 

 そう云って先生が破顔すると、ハスミは僅かな逡巡を経て、静かに頷いて見せた。

 

「……そういう事であれば、しかし幾つか条件が」

「条件?」

「正義実現委員会以外の、そうですね、護衛を募って下さい」

「護衛って――」

「正義実現委員会のメンバーが大勢ではツルギの息抜きにならないと思いますし、どこの学園でも――ゲヘナ以外であれば、どこの学園でも構いません」

「あ、あはは……わ、分かったよ」

 

 護衛、その言葉は少々物々しいが、見方を変えれば単なる休暇にもなる。働き詰めだった生徒何人かにあたりを付け、先生はスケジュールを思い浮かべる。

 

「うーん、声を掛けて来てくれそうな子は……そうだね、護衛というより一緒に遊べる生徒って意味になると思うけれど、聞いてみるよ」

「えぇ、ありがとうございます」

 

 ハスミは微笑み、先生とヒフミ、アズサに行って欲しいボランティアの内容を明かす。

 果たして、その内容は――。

 

 ■

 

 ――そうして、三日後の朝。

 

「おぉ……! これが――」

「海だ~ッ!」

 

 先生一行は海へとやって来ていた。

 場所はトリニティ自治区の中央区から少し離れた海岸、サマーシーズンの中でも比較的人の少ない所謂穴場スポットという場所である。その為周囲には自然が多く、格調高く纏められたトリニティ中央区と比較すると開放的な場所だった。

 広い海、青い空、火照った砂浜に――そして戦車。

 履帯の音とエンジン音を響かせ、前進するトリニティ戦車――ヒフミ曰く、『クルセイダーちゃん』は砂浜の中にゆっくりと停車する。キューポラ脇に設置したパラソルの中から一歩踏み出し、灼熱の装甲板を蹴って砂浜の上に着地する。瞬間、何とも云えぬ熱さが足裏を焼き、先生は笑いながらその場で足踏みを行った。

 しかし、それがまた気持ち良いのだ。

 

「ん~、良い陽射しです! ほら、コハルちゃんも♡」

「うぅ……」

「おぉーッ! 海だ~ッ!」

「せ、先生、テンションが高いですね……?」

「そりゃあもう、高くもなるでしょう!」

 

 一緒に搭乗していたマシロが、戦車の上から戸惑ったような声色で告げる。こんな先生は見た事が無かった。マシロの知る先生はいつも真面目で、温厚で、きっかりとした大人然とした人だ。それがこんな、子どもみたいに燥ぐ姿を見せられ、少しだけ困惑する。

 その言葉に先生は振り返って満面の笑みと共に告げた。

 

「青い空、熱々の砂浜、澄んだ海原――そしてッ!」

 

 わっと、手を広げた先生はパラソルの下で佇む生徒達を見渡し――叫んだ。

 

「水着ッ!」

「あ、あはは……」

「うぅ……」

「あらあら♡」

「む、へ、変じゃないだろうか?」

「変な訳がないッ! 似合っているよ! パーフェクトだアズサッ! おへそ舐めて良い?」

「せ、先生っ!?」

「えッ、えっちなのは駄目っ!」

 

 アズサ、ヒフミ、マシロ、ツルギ、ハナコ、コハル――可愛い系から綺麗系まで、水着を着込んだ少女たちの姿。これを見て喜ばない男など居るのだろうか? いや、居ない。先生はそう確信する。「へそなんか舐めて、楽しいのか……?」とばかりに首を傾げるアズサ。ハナコはどんと来いと云わんばかりの雰囲気で、ヒフミとコハルは自分のへそを必死に隠している、可愛いね。でも後ろで対物ライフル(正義の顕現)を持ち出したマシロの姿が見えたので、本当に舐めたりはしないので安心して欲しい。ちゃんと時と場所は選ぶのです、先生は大人なので。

 

「うへ~、流石にこの辺りは暑いねぇ~……」

「ほら、先輩、しゃきっとして! こんな所でヘバらないでよ!」

「ん……良い景色」

「わぁ~! 素敵な場所ですね~!」

「み、皆さん、ちゃんと日焼け止めを塗らないと!」

 

 少しすると、戦車の頭上を飛んでいた中型のヘリが傍の開けた場所に着陸し、アビドスの面々が降りて来るのが見えた。武骨なフォルムとやや年季の入ったそれは、UH-60――通称ブラックホークと呼ばれる多目的ヘリコプターである。対策委員会である皆が借金を返済しつつコツコツと貯金し、遂に購入した大型備品。因みにパイロットはアヤネで、購入する際にはきちんと先生も同席した。何時間も悩み、吟味し、購入するに至った中古のそれは、今や鏡の様に磨かれ太陽を反射している。

 整備も行き届いている様子で、足元の砂塵を吹き飛ばしながら徐々にローターを停止させるそれを見て先生は感慨深くなった。

 

「あっ、アビドスの皆さん! 遠くから態々すみません……!」

「やっほ~、ヒフミちゃん、別に大丈夫だよ~、ヘリでひとっ飛びだったし、やっぱり乗り物があると便利だねぇ」

「ふぅ……ちゃんと到着出来て良かったです」

「お疲れ様です、アヤネちゃん♡」

「あ、はい、ありがとうございます、ノノミ先輩」

「ん、ヘリまで操縦出来るなんて、アヤネは器用だね」

「というか、いつの間にヘリの免許なんて取っていたのよ?」

「えっと、先生にも協力して貰って合間合間にちょっとずつ……かな」

 

 セリカの言葉に苦笑を零しつつ、アヤネは頬を掻く。何だかんだと生真面目な彼女はアビドス事件の後、ちょくちょく時間を割いてヘリコプターの操縦免許を取得したのだ。大抵の事はBDで学べる時代であるが、それでもこれだけの短期間で取得できたのは彼女の優秀さと努力によるものだろう。

 因みにだが――ヒフミは大型特殊車両(戦車操縦)の免許を持っていない。しかし、特段正義実現委員会からも問題視される事はなかった。寧ろきちんと免許を持って操縦している生徒の方が圧倒的に少ないのが現実である。ブラックマーケットにすら戦車やら何やらが売却され、不良が嬉々として乗り回している昨今。免許の有無など気にする方が少数派なのだ。悲しい現実である。

 

「やっと着いた~! 結構長旅だったわね……」

 

 そんなアビドスの傍に、今度はやけに未来染みた流線型のVTOLが着陸した。両翼の大型エンジンを鳴らし、甲高い音と共に地面に接地。横合いから伸びたタラップに足を掛け、降りて来る生徒の影が複数。機体横には学園の校章が描かれており、その下には――ミレニアムサイエンススクールの文字が踊っている。

 

「おっ、そっちもお疲れ様~、いやぁ、いつ見ても近未来な乗り物だねぇ」

「ん、パイロットも居ないって聞いた」

「前も思ったのだけれど、それ、ちょっと怖くない……?」

「そこはミレニアム製のエリアル・ビークルだもの、操縦も、目的地へのナビゲーションも完璧よ!」

 

 いの一番に降りて来たのは、水着の上にミレニアムのパーカーを着込んだユウカ。いつも左右二つに結んでいた髪を後ろで一つに括り、普段よりどこか活動的な姿に見える。

 

「ユウカ、ごめんね、突然来て貰っちゃって」

「い、いえ、構いません! 他ならぬ先生の頼みですから!」

 

 先生が歩み寄りながら声を掛けると、彼女はそっぽを向いて捲し立てた。

 

「でも、せめてもう少し連絡は早めにして頂けると助かります、此方にも、えっと――そう、スケジュールがありますので……!」

「ふふっ、新しい水着を買ったり……ね?」

「のっ、ノアッ!」

 

 ひょいと、ユウカの肩口から顔を覗かせる白髪の少女。ユウカと酷似した色違いのヘイローを持つ彼女は、どこか揶揄う様な色を表情に宿しながら微笑んでいた。

 

「――やあノア、久しぶり」

「えぇ、御無沙汰しております、先生」

 

 生塩ノア――ミレニアムサイエンススクール在籍の二年生、ユウカと同じセミナーに所属し主に書記業務を担当している生徒である。ユウカと交流があった先生は、自然彼女と接触を持つ機会も多くなり、会話も交わすし頻繁にではないが一緒に出掛けたりもする。ゲーム開発部やヴェリタス、エンジニアリング部やC&C関連でもお世話になっているので、先生としてはユウカと同じく、何かと頭の上がらない相手だった。

 そんな彼女はユウカの肩を掴みながら、どこか妖し気に微笑みながら口を開いた。

 

「先生がミレニアムに中々足を運んでくれないので、ユウカちゃんが大変寂しがっていましたよ? 最近はシャーレの方も不在にしてトリニティに掛かりきりみたいですし……忙しい事は理解していますが、程々に構って頂きませんと」

「ごめんね、私も皆に会いに行きたいとは思っていたのだけれど、中々時間が取れなくて……」

「ちょ、ま、待って! 待って下さい! ノア、ちょっと、ちょっとこっち来て……!」

 

 満面の笑みを浮かべるノアに反し、ユウカは顔を真っ赤に紅潮させ慌ててノアの腕を掴む。「ユウカちゃん、どうかしましたか?」と楽し気な彼女を連れ、ユウカは先生から数歩離れて何事かをノアに耳打ちしていた。内容に聞き耳を立てる事はしない、先生は紳士(真摯)なのである。二人のすらりと伸びた太腿(ふともも)を凝視しながら先生は思った。

 

「わぁ~海だ~! 海に戦車にご主人様! あははっ、たのしそ~!」

「おい、あんま燥ぐんじゃ……っち」

 

 ユウカとノアの次に機体を降りてきたのは、C&Cの二人。タラップを軽快な足取りで降りるアスナ、そしてC&Cリーダーのネルである。アスナは水着を身に纏って上着は無し。ネルは水着の上にいつものスカジャンを羽織っている。バニーだろうとナース服だろうと、必ず肌身離さず着込んでいる愛用品は健在だ。

 

「やっほ、ご主人様! ひっさしぶり~ッ!」

「アスナ、ネルも、元気そうでッ――!」

 

 先生が軽く手を挙げると、凄まじい勢いでアスナが飛びついて来る。辛うじて倒れる事は回避したものの、咄嗟の事に驚きと焦燥が生じた。ふわりと、鼻腔をアスナの香りが擽る。

 

「はぁー……わりぃ、先生、適度に構ってやってくれ」

「も、勿論だよ、アスナ、ちょ、待ってね、此処外だからね? 一旦離れようね? 良い子だから――うぉ、力つよッ……!」

「ん~!」

 

 先生の言葉を聞いているのか、いないのか。アスナは両腕で先生を抱き締めながら、胸元に顔を擦り付ける。まるでマーキングをされている気分だったが、自分自身の力だけでは振りほどけそうになかった。彼女と会うのは本当に一ヶ月ぶり位なので、仕方ない事なのかもしれない。先生はアスナを説得する事を諦め、彼女が満足するまで好きにさせる事にする。何となく、背後からの視線が怖かった。

 

「ミレニアムの方々は四名だけなのですね」

「あ? 確か浦和……ハナコとか云ったか、トリニティの」

「えぇ、宜しくお願いします、ネル先輩――お噂は兼ね兼ね」

 

 背を曲げて歩くネルの背後から、ふと声が聞こえた。見れば大胆な水着――何というか、色々と大丈夫なのかと問いたくなる水着を着込んだ生徒、ハナコが微笑みを浮かべながら立っていた。ネルは脳裏で彼女の情報を引っ張り出しながら、乱雑に頭を掻いて答える。

 

C&C(ウチ)にはいつも唐突に依頼が来やがるからな、他の連中が気を回して三年の私らだけ参加する事になったんだよ……セミナー側の事情は知らねぇから、そっちはあいつらに直接聞いてくれ」

「成程、その様な事情で」

 

 ネルの返答に、ハナコは何度か頷いて見せる。視線を先程のセミナー二人の方へと向ければ、未だに何かを口にしているユウカと、それをニコニコと聞き流すノアが姿が見えた。白と黒、そして青の混じった水着――恐らく購入したばかりなのだろう。ハナコは二度、三度顎先を指で擦ると、何かを思いついた様に頷いて満面の笑みを浮かべた。

 

「むむっ……この陽射し、主殿の肌が心配です!」

「イズナ、日焼け止めクリームはここにあるよ! 先生殿の所に持っていってあげて!」

「流石部長! 直ぐに行って参ります! ニンニン!」

「わっ、す、すごい場所ですね……綺麗――」

「ふふっ、あなた様との夏の思い出……夜のビーチ、二人きりの世界、何も起こらない筈もなく――あぁっ!」

 

 そして最後に降りてきたのは――忍術研究部の三名とワカモ、シャーレ組である。

 搭乗人数の関係でアビドスとミレニアム、どちらかの航空機に同乗する事になったのだが、どうせなら面識のあるアビドスに――と思っていた所、ミレニアムのエリアル・ビークルを見たミチルが、「漫画見たいな飛行機だ~っ!」と燥ぎ出しミレニアム側に同乗する事になった。

 正直ネルとワカモの組み合わせという、どうなるか分からない不安があったので、大分気を揉んだのだが――どうやら杞憂だったらしい。前方にアスナが引っ付き、後方からイズナが、「主殿! 主殿! イズナが日焼け止めを塗って差し上げますっ!」と元気良く叫んでいた。

 

「ありがとうね、イズナ、後で有難く……待って、待ってね、イズナ、今先生手が離せないっていうかホールドされているって云うか、うっ、まっへ、まっへ、そんな顔に丹念に――」

 

 日焼け止めクリームを大量に手に出したイズナが、その手で先生の頬を丹念に揉み解す。何か違くない? イズナ、それ何か違くない? そんな事を思いながら先生は生徒の為すがまま、暫くの間その場を動けずに居た。

 

「――だからね、もうちょっとこう、感情を汲んで欲しいって云うか、先生には特に……」

「ふふっ、ユウカちゃん、嬉しそうですね?」

「えっ……そ、それは、まぁ、その、久々の休暇だし……?」

「それに先生とも一緒に居られますもんね?」

「ノアッ!?」

「す、凄い大所帯になってしまいましたね……」

「確か、声を掛けたら存外に参加希望の生徒が多かったって、先生が云っていた」

 

 ヒフミが周囲を見渡しながら呟けば、アズサが頷きながら答える。

 本来なら、此処に居る生徒の数倍の人数が挙手をしてくれたそうなのだが、都合が悪かったり普段の業務があったりと、参加出来ない生徒も多かったと聞く。それでもこれだけの人数が揃ったのだから凄まじい。これなら先生の防備が薄くなる事もないだろう、そう判断したアズサは自身の頬を軽く叩き、ヒフミに問い掛けた。

 

「それでヒフミ、ハスミから伝えられた任務というのは?」

「あ、はい、アズサちゃん……えっと、これでして――」

 

 その言葉に、ヒフミは持っていた防水性ペロロバッグの中から一枚のメモ用紙を取り出す。綺麗に折り畳まれていたそれを広げ、アズサに見せる。中には幾つかの項目が箇条書きで書き出されており、それを指先でなぞりながらヒフミは口を開いた。

 

「このリストをこなしながら、証拠として写真を提出しなければならないみたいです、数はそれほど多くありませんが……」

「うん、理解した――それで」

「………?」

 

 メモ用紙から顔を上げたアズサ、彼女が視線を向けたのはライフルとビーチパラソル、ついでにクーラーボックスを担いだマシロ。どこか探る様な意図を孕んだ視線を向けられたマシロは、頭上に疑問符を浮かべた。

 

「こっちは監視役だな、私達が逃げ出さないように見張るつもりか、流石に徹底しているな正義実現委員会」

「えっ? いえ、別にそういう訳ではないのですが……」

「油断はしない、いつ背後から撃たれるかも分からないからな」

「な、何か、凄く誤解されているような……?」

 

 アズサの剣呑な言葉に、マシロは思わず戸惑いの言葉を漏らす。

 別段、彼女は監視員として派遣された訳ではない。

 マシロが今回、この旅行に参加したのは――。

 

 ■

 

「――要するに、夏季休暇という事でしょうか?」

「えぇ、御存知の通り、最近色々と事件がありましたからね、正義実現委員会全体にも云える事ではありますが、ガス抜きが必要なんです」

 

 正義実現委員会、本部。

 アズサとヒフミ、そして先生が退出した後、ひとり残されたマシロはハスミからの指示を受けていた。内容は件の旅行に自分も同行して欲しいというもの。最初はその提案に戸惑ったものの、話を聞く内にマシロにも納得の色が浮かんだ。

 

「正義実現委員会としての任務に支障が出てしまうのは好ましくありません、なので折角の機会ですし、マシロも同行して羽を伸ばして貰えればと」

「……確かに、休息も大事ですか」

 

 どこか憂う様なハスミの言葉に、マシロは言葉を漏らす。正直、疲労があるかどうかと云われると若干疲れを感じる事はある。しかし、彼女自身の判断では休息が必要な段階ではなく、まだまだ自分は活動出来るという自負があった。

 しかし、先輩からの折角の厚意。それに疲労が蓄積してパフォーマンスが低下するのは避けたいところ。特に狙撃手というポジションはミスが許されない場面が殆どだ。些細な疲労であっても蓄積すれば後々に響くかもしれない――そう考え、マシロは彼女の提案に頷いて見せた。

 

「分かりました、これも正義の為に必要な行為――ベストを尽くして来ます、先輩」

 

 ■

 

 マシロがこの旅行に同行するまでの経緯を思い出していると、メモ用紙を握り締めて震えるヒフミが視界に入った。彼女は小刻みに体を揺らしながら、蒼褪めた表情でメモを見下ろしている。その瞳は真剣だった。

 

「こ、このミッションを上手く達成出来なかったら、やっぱり爪を……あぅ」

「或いは、作戦行動中に行方不明(MIA)を狙っているのか……」

「いや、そんな事はしませんからね?」

 

 一体、自分達は彼女達にどんな風に見られているのか。少し――いや、かなり心配なマシロであった。

 

「た、ただいま~……ヒフミ、ハスミから貰ったリストの方をちょっと見せて貰って良い?」

「あ、お帰りなさい、先生――えっと、はい、メモはこちらです!」

 

 少しすると、顔が妙にテカテカした先生が帰って来た。日焼け止めクリームをこれでもかという位に塗りたくられた先生は、どこか疲労感を滲ませながらヒフミからメモ用紙を受け取る。先生の背後から、早速海で遊び始めたのか歓声が聞こえて来た。

 

「えっと……砂のお城と砂風呂作り、泳ぎの習得、ビーチバレー、花火、スイカ割り、海の家――」

「全部で六つですね、これをツルギさんと一緒に(おこな)って、写真を撮らなければなりません」

「分かった、写真は任せて、今日の先生はカメラマンだからね」

 

 内容はシンプルかつ、難しい事はない。先生は担いでいたバッグからデジタルカメラを取り出すと、笑みを浮かべながら頷いて見せる。

 

「内容も平和的だし、これなら一日で――」

「先生は素直過ぎる」

 

 しかし、そんな先生の言葉を真正面から断じたのはアズサだった。ふんす、と鼻を鳴らした彼女は両腕を組みながら足元の砂を踏みしめ、硬い口調で以て告げる。

 

「もしリストが誰かに奪われたらどうなる? 暗号でのやり取りは基本だ、こういう書き方がされていても、裏には別の意図が隠されている筈、他ならないトリニティ正義実現委員会だ、きっと失敗すれば明日の陽射しは拝めない様なペナルティが――」

「さ、流石にそこまでは……し、しませんよね?」

「……いや、しませんって」

 

 どこか脅すようなアズサの言葉に、ヒフミはびくりと怯えを見せ、流石にそんな事はしないと信じつつ――しかし、一抹の不安からマシロを見た。当のマシロは辟易とした空気を隠さぬまま、緩く首を横に振る。

 

「で、でも私達ならきっと大丈夫です! こうしてクルセイダーちゃんまで正式に貸し出して貰いましたし! えへへ……っ」

「む、ヒフミ、嬉しそうだ」

「それはもう!」

 

 先程の不安を振り払うように、ヒフミは背後に駐車されたクルセイダー戦車――クルセイダーちゃんを見る。その雄々しい姿は陽光に照らされ輝き、足元の砂浜とマッチしたその色合いは、ヒフミの精神を大いに慰めた。

 

「海、水着、陽射し、そして戦車! これこそ私が求めていた、イメージ通りの完璧な夏休みです!」

 

 叫び、彼女は笑みを浮かべる。

 そう、これこそ自分の求めていた最高の夏休み。普段と同じ自分ではない、今のヒフミは夏休みと完璧な環境によるブーストが掛かっている。海に、水着に、陽射しに、戦車――これが揃った自分達ならば、きっと何とかなると信じている。

 

「一先ず、このミッションも簡単なモノから消化して、そして――!」

「きひゃひゃひゃアアアアアッ!」

 

 その勢いそのままに、ミッションを全て熟してみせようと宣言しようとしたヒフミは――しかし、数十メートル先から響いて来た哄笑に思わず身を竦ませた。

 

「海、海だぁ! 海海海ッ! クハハハハハアァッ!」

「わっ、めっちゃテンション高いね? 私もあそぶ~ッ! あはははっ!」

「あっ、オイ、テメェ! あぶねぇ、水が掛かっちまうだろうが!」

「うへ、水着だから大丈夫じゃないの~?」

「このスカジャンは濡らしたくねぇんだよ! だぁあアッ! やめろって云ってんだろうがァッ!」

「………」

 

 水辺から響いて来る、歓声、悲鳴、怒声。そして一際巨大な水柱が発生し、凄まじい爆音と轟音が周囲に鳴り響く。巻き上がった水柱が水滴となってヒフミ達に降りかかり、その肌と髪を微かに濡らした。

 数秒、間があった。まるで怪獣大戦争の様相を呈す海辺を頑なに直視せぬまま、ヒフミは拳を握り締め、震えた口調で告げた。

 

「そっ……そして、楽しいひと夏を過ごすんです……!」

「……善処する」

「頑張ろうね」

 

 ヒフミの囁く様な声に、アズサは過酷な表情で。先生は菩薩の様な笑みで以て頷いた。

 


 

「えっ、今回は海でキャッキャうふふの夏の思い出を作って良いのか!?」

「あぁ……しっかり思い出を作れ」

 

 ――きゃっきゃ、ウフフ。

 

「花火も、スイカ割りも、砂のお城作りも、学園関係なく皆仲良く遊んで良いぞ……此処でシリアス要素は微塵も入って来ないからな」

「……(信じられないといった表情で、恐る恐る覚悟の水着(ブーメランパンツ)を履く)」

「遠慮するな、今までの分楽しめ……」

「うめ うめ うめ」

 

「これより、エデン条約後編を開始するッ!」

「この感覚を体で覚えろ! 今散布しているのは三十一%の欠損だ! 心配するな、計算上死ぬことはない」

「ただし――卑しく腹いっぱい思い出を作った奴ほど苦痛は続く!」

 

「まさか死ぬとはな……」

「計算以下の体力の落ちこぼれだ、いずれ消えて行く運命だ……」

 



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一瞬、けれど力強く

キングクリムゾンッ! 夏休みを過ごしたという、結果だけが残る!
誤字脱字報告、助かりますわ!


 

「ふぅ、漸く纏まりましたか……」

 

 正義実現委員会、本部にて。山積みとなった報告書を纏めるハスミは、呟きながら安堵の息を漏らす。此処一ヶ月、トリニティ復興に先駆け委員の全員にはかなり過酷なスケジュールで動いて貰っていた。そして、それは当然副委員長の自身も同じであり、事務作業や外部交渉、公議への出席などはツルギが苦手としている為、その殆どをハスミが出席、執務している。

 本来ならば二名で行う決裁処理を一人で行う――無論、その分ツルギには現場に多く出て貰い、戦力として方々に駆け回って貰っているが、それでも一日中書類と睨み合うというのは中々骨が折れる。

 

「これで一段落すると良いのですが――?」

 

 当面の仕事は片付いた、これ以上ティーパーティーや部活動統括本部から仕事が回って来なければ、多少は皆に休息も振り分けられるだろう。

 そんな事を考えていると、執務室の扉からノック音が響いた。書類の追加だろうかと、溜息を吐きたくなる気持ちをぐっと抑え込み、背筋を正して声を上げる。

 

「どうぞ」

「――お邪魔するよ、ハスミ」

 

 しかし、扉の間から中を覗き込んだのは、ハスミの予想していた人物ではなかった。ツルギ達を連れて海へと向かっていた先生。彼がひょっこりと顔を出し、ハスミを見つめている。

 

「あら先生、もうお帰りになったのですか?」

「うん、さっき帰って来たばかりだけれどね」

 

 そう云って笑みを浮かべる先生は、いつも通りの見慣れた制服を着込み、両手には何やら荷物を複数ぶら下げていた。恰好はいつも通りだが、顔の肌が焼けている様に見える。ハスミは指先で口元を隠しながら笑みを漏らし、云った。

 

「ふふっ、少し焼けましたね、海は如何でしたか?」

「凄く楽しかったよ、日焼け止めは一杯塗ったんだけれど……まぁ、それはさておき、はいコレ、お土産――っていうより、差し入れかな?」

「あら、態々(わざわざ)ありがとうございます」

 

 執務室の机にそっと置かれる紙袋。量から見て、正義実現委員会の全員に買って来てくれたのだろう。中を覗き込めば、高級菓子の箱がぎっしりと詰まっているのが見える。

 

「こんなに……宜しいので?」

「勿論、あ、次はハスミも一緒に行こうね」

「―――」

 

 そんな言葉を屈託なく告げるので、ハスミは思わず面食らった。

 

「そう、ですね、私は余り此処を離れる事は出来ませんが――えぇ、機会があれば、次は是非」

「うん、楽しみにしているよ……それと、これは約束のものです」

 

 告げ、先生がバッグから封筒を取り出す。はて、約束? と首を傾げれば、先生は中から一枚の紙――写真を抜き取り、ハスミへと差し出した。

 

「これは――」

「マシロとツルギの写真、報告も兼ねて提出しに来たんだ、ヒフミとアズサ……それにマシロとツルギも、部屋で寝入っちゃっているから」

 

 苦笑を浮かべ、頬を掻く先生。ハスミは差し出された封筒を手に取る、持ってみると、存外に厚みがあった。

 

「思ったより量が多いですね……?」

「うん、一杯撮ったから、束になっちゃって」

 

 中にあった写真を撮り出し、机に複数の束にして分けたハスミは、一枚一枚を念入りに確認する。先程先生が云った通り、マシロかツルギ、どちらかが写っている写真を選んで来てくれたのだろう。一枚一枚捲る度に、ハスミの目が様々な色を帯びた。

 

「……本当に仲良くなって貰うのは高望みだとしても、せめてそう見える、楽しそうな写真でも見られたら――そう思ったのですが」

 

 手元の写真から顔を上げたハスミは、とても嬉しそうな笑みを浮かべ、頷いた。

 

「とても――素敵な写真です」

 

 写真の中には、今まで見た事が無い様な笑みを浮かべる、ツルギとマシロの姿がある。海で燥ぐ写真、水を掛け合う写真、スイカを頬張る写真、浮き輪で揺蕩う写真――どれもこれも、普段の活動の中で見せる事はなかった、少女らしい一面だった。

 

「ふふっ、やはり、先生に同行して貰って正解でした、この笑顔を見れば分かります」

「今日の朝も燥いでいたからね、私も良い休息になった」

「えぇ、目に浮かぶ様です」

 

 忍び笑いを漏らし、穏やかな表情で写真を捲るハスミは――ふと、とある一枚の写真に目を引かれた。

 

「これは、砂のお城でしょうか? 随分大きいですね?」

 

 写真には身の丈を超える、大きな砂の城が築かれていた。やけに立派な壁と支柱が聳え立ち、その上からマシロとアズサが顔を覗かせている。根本ではユウカがクリップボード片手に何かを叫んでおり、アスナが両手に大量のバケツを持って駆け回っていた。その背後をネルが何やら怒り顔で追い回し、手前でシロコが何かを振り被っている。

 

「あ、それはアズサとマシロが意気投合しちゃって、迎撃出来る砦を作るとか何とかで、セメントと砂を混ぜてモルタルを作って建てたんだよね、中には鉄筋が入っていて、耐久度実験だとかで、シロコが手榴弾を――」

「は? せ、セメント……?」

 

 予想だにしなかった言葉に、思わず面食らうハスミ。浜辺でセメント? それに鉄筋? いや、確かに想像していた砂の城より遥かに大きいが。それにしたって本格的過ぎないだろうか。写真を凝視するハスミは、余りの情報量の多さに一度思考が停止したが、いや、まぁ、夏は人を開放的にさせると云うし、そういう事もあるだろうと思考を明後日の方向へと投げた。

 写真をそっと下に回すと、新しい一枚が顔を覗かせる。

 

 今度は、砂浜に寝そべって銃を構える生徒達の姿。シートを敷いて、ライフルらしい銃はバイポットに支えられ、銃口は遥か向こうを向いている。そして何故か、彼女達は目をタオルで覆っていた。

 

「……これは何でしょう? 何故、皆で目隠しをして、銃を――?」

「あっ、これはね、スイカ割り」

「えっ」

「スイカ割りは途中から目隠しをした状態でスイカを狙撃する、スイカ狙撃になりました」

「………?」

 

 意味が分からなかった。しかし、先生は弁解する。最初は普通のスイカ割りをしようとしたのだ。しかし丁度良い棒が見当たらず、何を誤解したのかアズサがスイカを銃撃し粉々にしてしまい、「割れたぞ」と宣うものだから、「いやいや、スイカ割りというのは目隠しをして――」とヒフミが説明した所、何故か目隠しをしてスイカに銃撃を行うものだと更に誤解。

 最終的に五百メートルの距離から目隠しをして、スイカに弾丸を命中させるという競技に成り果てたのだと。

 

 因みにアズサは目隠しの状態にも関わらず訓練の賜物か高い命中率を誇り、マシロも狙撃手の端くれとして負けじと応戦。アスナは持ち前の幸運でミラクルショットを連発。セリカは中々命中せず、「だぁああっ! 目隠したまま当たる訳ないじゃないッ!」とキレ散らかし。ユウカは風力や湿度、弾丸の速度と空気抵抗、コリオリが云々と呟きながら確りと命中させていた。無論、命中後には「計算通り、かんぺき~!」である。

 尚、粉砕されたスイカは皆で美味しく頂きました。若干、鉄の風味が沁みついていたが、美味しかった。

 

「よ、良く分かりませんが、本人たちは楽しそうに見えますし、野暮なコメントは控えて――あら?」

 

 想像以上のはっちゃけ振りに、流石のハスミも引き攣った笑み隠せなかったが――咄嗟に捲ったもう一枚の写真が彼女の目を再び引いた。

 

「この写真は、先生ですか?」

「うん? あぁ、ごめん、私の写真が混じっちゃってたか」

 

 告げ、差し出された一枚の写真。

 その写真は、浜辺でピースサインを見せる先生が写っている。普段の制服よりも少しだけラフで、上着を脱いだ格好。写っているのは先生だけで、他には足元に何か、盛り上がった砂にビーチフラッグが突き立てられている。心なしか周囲の砂は黒ずんでおり、爆発の痕跡らしきものが散見された。

 

「えっと、これは……何か、下に埋まって?」

「うん、カイザー営業職員、以前戦った相手だね」

「カイザー――戦った? まさか、海の方で戦闘があったのですか?」

「戦闘って云えば戦闘だけれど……うーん」

 

 ハスミの鋭い声に、先生は腕を組んで唸る。数秒、何かを考え込む素振りを見せた彼は、指先で自身の腕を叩きながら口を開いた。

 

「話すと長くなるから、掻い摘んで事情を話すとね……――」

 

 ■

 

「ふん、図らずもこうなったか、先生……!」

「あなたも、懲りない人だね……!」

 

 夏空の下、海辺で正面から対峙する先生とカイザー。

 如何にも夏の装いと云った風のカイザーと、普段と変わらぬ姿の先生。周囲に他の人影はなく、波の満ち引きの音と風だけが周囲に響いていた。

 宛ら決闘前の闘士、或いは真剣勝負を行う武士(もののふ)。睨み合う両者は油断なく構え、対峙していた。

 

 ――このような事態に陥ったのには、理由があった。

 

 まず、件のカイザー。彼は以前のアビドス事件の際、その責任を負いトカゲの尻尾切りとしてカイザーPMC、及びカイザーローンのCEOを解任され、そのままカイザーローン傘下のオクトパスバンクへと身を移していた。

 オクトパスバンクの営業職として再就職を果たしたカイザー――しかし彼は、その野望を欠片も諦めてなどいなかったのである。

 

 嘗ての地位も名誉も奪われた為、彼の自尊心と手駒は大いに削られたが、そのノウハウと資産は健在。

 まず手始めに、ブラックマーケット等ではなく地方に散った不良を私財で買い叩き、周囲の治安を悪化させ地元由来の店を経営不振に追い込む。そして困り果てた所にオクトパスバンク経由で融資の提案や買収を行い、そのまま抱き込む。とどのつまり、アビドスに行った手法そのまま用いて、リゾート地である地区を少しずつカイザーの縄張りへと塗り替えていたのである。

 今は中小企業や個人経営の店ばかり買収しているが、軈ては巨大な組織――お祭り運営委員会の百夜堂や、山海経の玄武商会など、ブランドとして名を確立している彼女達さえ呑み込もうと画策していた。

 今回彼がこの海辺にやって来ていたのは、本当に偶然である。

 偶然であったが、企みを知ってしまったのであれば阻止しなければならない。

 そうして総勢二十名近い生徒を引き連れてカイザーと対峙した先生は、数時間の激闘の果てに彼と一対一で対峙する事と相成ったのだが――。

 

「ククッ、あれほどの大人数の護衛を連れていようとも、所詮は人の身、攫ってしまえばどうとでもなる」

「……さて、それはどうかな」

 

 カイザーのどこか見下すような発言に、挑発的な笑顔を浮かべる先生。生徒には見せない側面、深く息を吸い込み、首元のタイを緩める。確かに、自分単体での戦闘能力など下も下。生徒が居なければ何も出来ない、正に赤子同然。

 しかし、それでも尚先生の余裕が崩れる事はなく、油断なくカイザーを見据えながら軽口を叩いた。

 

「それにしても随分楽しそうな恰好じゃないか、カイザー? 前に云った通りだっただろう、営業職をやっている方が気が楽だとね」

「クハッ、確かに貴様には色々と学ばせて貰ったとも、あの時の()の味は良く覚えている! 故に、それを倍にして返してやろう!」

 

 先生の軽口に、カイザーは目前で両の拳同士を叩きつける事で返答とした。鋼のかち合う硬質的な音が響き、間接部位が軋みを上げる。カイザーのアイラインが光量を増し、赤い軌跡が尾を引いていた。

 

「元々、横槍を入れて来たあの赤い女は気に入らなかった、先生――貴様との決着は、私自身で付けねば気が済まん……!」

 

 気炎を吐くとはこの事。全身を震わせ先生を睨みつけるその姿は、正に恨み骨髄と云った様子。アビドスでの一件では結局、彼と直接雌雄を決す事はなかった。あの、アビドス砂漠での一件以来、顔を合わせる事すらなかったのだから。

 故に、こうして機会を伺っていたのだろう。向けられた言葉と感情に先生は真っ直ぐ向き合い、静かに告げた。

 

「――それなら、あの時の続きと行こうか、カイザー理事?」

「――今は営業職だ、シャーレの先生!」

 

 羽織っていた上着を脱ぎ捨て、放る。

 互いに一歩踏み込み、砂を踏み締める音が耳に届く。あの砂漠での一幕、互いの額を打ち付け合った光景が脳裏に過る。

 ふと、カイザーは先生の手にタブレットがない事に気付いた。あの時の敗因、基幹システムをクラックした電子機器が無い――その事にカイザーは訝し気に声を上げる。

 

「……いつぞやのタブレットは使わんのか」

「こういう云い方は何だが――カイザー営業職、あなたとて男だろう? なら、分かる筈だ」

「……正気か?」

「勿論」

 

 先生の言葉に、カイザーは言葉を呑んだ。何か秘策があるのか、或いは。

 しかし、先生は徐に懐へと手を差し込むと件のタブレットを取り出し、放った上着の上に置いて見せた。彼の唯一の勝ち筋、或いは最も得手と呼べる分野。それを自ら手放す――そんな不可解な行動を取りながらも、先生の瞳は爛々と輝いている。勝機を知る目だ。信念と矜持を秘めた瞳だ。カイザーの握り締めた両拳が知らずに震えた。

 

「――あの時の続きと、私は、そう云った」

「―――」

 

 声は、低く響くようだった。

 妙にひりつく感覚、甲鉄の上に電流が走るが如く。カイザーは先生を真正面から見つめたまま、沈黙を守る。その一言に何か、カイザーは云い表す事の出来ぬ熱を抱いたのだ。

 先生の首元から覗く火傷痕、あの後、幾つの修羅場をくぐったのか。見れば腕や頬にも、小さな傷痕が幾つも。自身と対峙しながら握り締められた拳は、皮膚が変色し、骨ばっていた。

 

「ぼ、ボス! やっと見つけた!」

 

 背後から声が響く。どうやら買収していた不良団の一部が応援に駆け付けたらしい。先生が引率する生徒の数も多いが、周辺に屯している水着不良団の数も中々侮れない。カイザーの前に立った彼女達は、たった一人で佇む先生を見て嘲笑を零した。

 

「へへっ、シャーレの先生一人だけなら私達だけでどうとでも出来る……! お前たち、此処でビシッと決めて――」

「――手を出すな」

 

 リーダー格らしい生徒の高らかな声に、カイザーは断じた。伸ばした手が不良の肩を掴み、後方へと押しやる。蹈鞴を踏んだ水着姿の不良生徒は、目を白黒させながら慌てて口を開いた。

 

「えっ、あ、いや、でもボス? こんな千載一遇のチャンス、全員で掛かれば万が一にも負ける事は――」

「ただの人間が」

 

 不良生徒の進言を遮り、カイザーは唸る。

 

「ただの人間が、この私に素手で挑むと云ったのだ、お得意の電子戦も捨てて、その身一つで、脆弱な肉の体の人間が、この甲鉄の肉体を持つ、私に――ッ!」

 

 ぎちりと、全身が軋む。

 甲鉄を震わせ、先生を見据えるカイザーが滲ませるのは怒気か、或いは敬意か。否、そんな純粋で分かり易いものではない。あらゆる感情が綯交ぜになった、複雑で奇怪な内情の発露。拳を握り締め、自身のアイラインに翳した彼は腹の底から絞り出したような声で叫んだ。

 

「此処で卑劣な手を使えば、私は、私の中にある決定的な何かに敗北する予感が、いや、確信がある……! 勝てば正義、それもまた真理、だが……だがッ!」

 

 ただですら、人と機械というハンデがある。その大きな隔たりが、先生とカイザーという存在を上下に区別している。存在としての格、肉体的な強度の差。それは圧倒的にカイザー(自身)が優位なのである。その上で自身が策を弄すれば、数に恃む真似などすれば――。

 それでは、この男に真の意味で勝つ事は出来ないのではないか、そんな疑念がカイザーの根元にあった。

 

「看過できぬッ、その様な勝ち方だけは……ッ!」

 

 拳を握り、カイザーは叫んだ。

 正々堂々――等と云うつもりはない。その様な感情を持ち合わせる事はない。しかし、彼奴は己の牙を一つ棄てた。敵手の前で自身の得手である電子戦を棄てたのだ。であればこそ、自身ばかりが十全な状態で挑むなど、どうして認められよう?

 これは、大人としての、嘗てカイザーCEOとしてあった己への矜持(プライド)である。

 勝つだけならば容易い、だが――この男を屈服させるには、勝ち方を考えねばならない。そしてそこには、云い訳できる余地など残すべきではないのだ。

 相手が自らの武器を棄てるのであれば、此方も棄てなければ平等ではない。

 先生と対峙したカイザーは胸を張り、頭一つ分は小さい先生を見下ろし告げる。

 

「受けよう先生、そして宣言する――私は事、この場に於いて、如何なる卑怯な手段も用いぬ、文字通り、この肉体、この甲鉄()のみで貴様を下す……!」

「良いね、なら私も宣言しよう――私はこの場、この戦いに於いて、素手であなたを叩きのめすと……!」

 

 更に一歩、互いに前へと足を進めた。

 距離は十メートル未満、五メートル以上。

 数歩駆ければ互いに手が届く距離。見つめ合う両者は腰を落とし、その視線を鋭く変化させる。

 

「良くぞ吼えた……先生ッ!」

 

 告げ、互いに構えた。

 カイザーは両の拳を握り締め、先生は柔らかく手を開き、包む様な仕草。見たことも無い構えだった、しかし先生が行う行為に何の意味もない筈がない。何かの格闘技か、それとも秘策があるか、カイザーは油断なく思考を回し――そして叫んだ。

 

「行くぞォッ!」

「来い、カイザーッ!」

 

 カイザーの絶叫、呼応するような先生の咆哮。

 全身のパーツが一斉に駆動音を鳴らし、その巨体が砂を蹴って加速する。先生はそれを迎え撃つ様に腰を落とし――そしてカイザーの踏み出した二歩目が、綺麗に足元の『落とし穴』を踏み抜いた。

 

「は――!?」

 

 アラート、原始的なトラップ――。

 カイザーのバランサーが足元に踏み締める地面が無い事を警告し、一拍遅れてその巨躯が吸い込まれるように落下を開始する。咄嗟に伸ばした腕は諸共砂に呑まれ、カイザー営業職員の姿は瞬く間に穴の中へと落ちて行った。

 

「な、何ィぃい――ッ!?」

 

 それは、本当に考えもしなかった罠だった。地面を踏み締めた感触はなく、カイザーの巨躯がすっぽりと嵌ってしまうような落とし穴。肩口まで呑み込まれたカイザーは凄まじい落下音と砂塵を巻き起こし、砂に塗れながら叫ぶ。

 

「ば、バカな!? こんな所に落とし穴など……ッ、一体誰が……! ぐ、な、何だ、う、動けんッ!? た、ただの砂如きに何故ッ……!?」

 

 必死に藻掻き、脱出を試みるカイザー。しかし、纏わりつく砂は妙に堅く、全身が巻き取られるような感覚があった。

 

「あ、それ砂にセメント混ぜ込んであるから」

 

 目前で屈んだ先生が、何でもない事の様に云った。

 まるで意味が分からなかった。

 

「は、ハァ!? セメントだと!? き、貴様ッ、コレを仕込んだのは貴様か!? というか砂にセメントを混ぜ込むとか、馬鹿じゃないのか!? 何でそんな事をするんだッ!?」

「いやだって、簡単に抜け出されたら嫌じゃん……」

「子どもか貴様ァ!?」

 

 思わずそんな風に絶叫すれば、顔面に砂が被せられる。見れば先生が両手で足元の砂を掬い、カイザーの顔へと埋め立てる様に振り撒いていた。

 

「ほーら、追加の砂だよ、どんどん埋めちゃおうね~」

「や、やめっ、ぐぉッ、やめろ先生! き、貴様ッ! 正々堂々と拳で戦うのではなかったのか……!?」

「いや、でもちゃんと私は素手しか使っていないし……」

 

 そう云って砂に塗れた両手を見せる先生。その表情からは微塵も悪気など感じさせない。

 

「それにしても、こんな所に偶然落とし穴があるなんて吃驚(びっくり)だよねホント、今日は運が良いなぁ」

「嘘を吐け嘘をッ! 貴様が用意したのだろうがァ!? こんな所に偶然落とし穴があって堪るかぁッ!」

 

 いや、正確に云えば先生は用意していない、これは本当だ。この落とし穴はマシロが掘って、アズサが偽装したものなのだ。砦が在っても守る為の工夫は必要だという事で、各所に巧妙に設置されたブービートラップがある。これはその一つだった。ただ、先生はその位置を記憶していただけだ。

 

「というか、やめっ、いい加減砂を掛けるのを、やめ、きさ、おいッ、おま、ちょ、待っ――」

 

 延々と砂を被せて来る先生に対し、カイザーは顔を必死に逸らしながら脱出しようと腕を振り回す。そして先程まで自身の背後に控えていた不良の存在を思い出し、振り向きながら声を張り上げた。

 事、此処に至って公平性など望むべくもなく。其方がそういう手で来るのであれば、此方も手段は選ばぬと。

 

「お、おい! 貴様ら、見てないで助け――」

 

 しかし、カイザーの視界に映ったのは――先程までの威勢が嘘のように消えた、砂浜の上で倒れ伏す不良達の姿だった。

 

「――あなた様、遅くなり申し訳ございません」

「あぁ、ワカモ、お疲れ様」

 

 代わりに立っていたのは、水着姿に狐面という非常に独特の出で立ちの生徒。和洋折衷、薄いベールの様な絹を肩に纏った彼女は、その豊満な肉体を惜しげもなく晒している。カイザーは彼女を見上げ、思わず震えた声を漏らした。その、余りにも特徴的なトレードマークは忘れもしない。

 

「や、厄災のけ――」

「あら、足が滑りました」

 

 そしてその名を呼ぶより早く、ワカモは足元の砂を盛大に蹴飛ばした。キヴォトスの生徒、その脚力で以て引っ繰り返された砂は宛ら波の如くカイザーを襲い、その顔面を完全に覆い隠す。装甲表面の一片さえ見えなくなったカイザーは沈黙し、先生はどこか憐れむ様な視線を足元に向け、立ち上がった。

 

「……うん、まぁこれで埋め立て完了だね」

「ふふっ、あなた様――処理は私が?」

「うーん、そうだね……それじゃあ、任せても良いかな?」

「えぇ、えぇ! 勿論です♡ では――」

 

 先生のお墨付きを貰ったワカモは嬉しそうに耳を揺らすと、徐に両手を砂の中に突き入れる。そして次の瞬間、果たして今までどうやって隠していたのか、両手で抱える程の細長い弾頭を砂の中から無造作に引っ張り出した。えっ、そんなの今まで埋まっていたの? と云わんばかりに硬直する先生を他所に、彼女は砂に塗れた小型弾頭を両手で振り上げ、告げる。

 

「――本来の運用方法とは異なりますが……地中貫通爆弾(バンカーバスター)の御味、たんとご賞味下さいな」

 

 そう口にし、弾頭を肩に担いだまま跳躍――そして全力の投擲。

 弾頭は轟音を打ち鳴らしながら地中の中程まで突き刺さり、ワカモは素早く身を翻すと先生を抱え跳躍。そして間を置かず、二人の背後で盛大な爆発が巻き起こった。

 まるで砂浜全てを掘り返すような土柱に、くぐもった爆音。それを背にしながらワカモは優雅に日傘を開き、降り注ぐ砂塵と水滴を防ぐ。ワカモの腕の中に抱えられた先生は、ぱらぱらと日傘を叩く砂を見上げながら呟いた。

 

「……これ、大丈夫かな」

 

 ちょっと心配になる規模の爆発、いや、本来のそれと比較すれば十二分に威力は抑えられているのだろうが、それにしても此処までやるか? と思ってしまう所業。どうやらワカモの辞書に、容赦の二文字は存在しないらしい。

 そして恐る恐るワカモの肩越しに背後を見れば、黒焦げた砂浜の中で倒れ伏すカイザー営業職員の姿があった。

 

「おぉ……凄い外装強度だね、流石だよ、カイザー営業職員!」

「――チッ」

 

 感嘆と安堵の息を吐く先生。反し、露骨に苛立ちを孕んだ舌打ちを零すワカモ。カイザーは黒焦げ、破損し、ボロ雑巾の様になった衣服をそのままに、二人に向かってアイラインを点灯させた。先程まで力強く光っていたそれは、弱々しく点滅を繰り返すばかり。

 

「し、シャーレの……先生……」

 

 火花が散り、軋んだ音を立てながら伸ばされる指先。這い蹲ったまま二人を見上げるカイザーは、ノイズ混じりの声で恨み辛みを告げた。

 

「き、きさま……次、会ったら……お、憶え……」

「えいっ」

「ぶふッ!?」

 

 しかし、またもや台詞を云い終わる前にワカモの砂掛けを喰らい、半ば埋もれてしまう。先生は少し考えて、微妙に露出していた肩や足に砂を掛けてやり、完全にカイザーを埋め立てた。

 

「……ふぅ、強敵だったよ、カイザー営業職員」

 

 一仕事を終えた先生は、最後に傍にあったビーチフラッグを盛り上がった砂の天辺に突き刺す。額から流れる汗を指先で拭うと、神妙な顔つきで踵を返し――宣言した。

 

「でも――勝負は私の勝ちだ」

「あなた様、素敵です♡」

 

 こうして、カイザーとの二度目の邂逅は終わりを告げたのだった。

 

 ■

 

「という事があってね? 戦闘と云えば戦闘なんだけれど、あんまり危ない事は無かったというか……」

「……――」

 

 話を一通り聞き終えたハスミは、先生が見たことも無い様な表情で硬直し、沈黙を守っていた。自身の手元にある写真を暫く凝視し続けた彼女は、震える声で言葉を漏らす。

 

「なん、と云いますか……とても、そう、混乱する内容ですね……?」

「ナギサにも帰還がてら報告しに行ったけれど、似たような反応をされたなぁ」

「……えぇ、そうなると思います」

 

 焼けた肌で能天気に宣う先生に、ハスミは額を軽く揉み解す。ティーパーティーとしての権限を未だ保有しているナギサならば、先生の行動もある程度把握しているのだろう。恐らく、現地の生徒から報告を受けた時は紅茶を噴き出したのではないだろうか? そんな事を思った。

 

「はぁ……ですが、まぁ」

 

 溜息を吐き、ハスミは写真を捲る。

 

「――皆さんが楽しんで過ごせたのなら、構いません」

 

 写真の最後の一枚は、夜空に咲いた、綺麗な花――今回参加した生徒達を背後から撮影した一枚。彼女達は星々の輝く空を仰ぎ、その向こう側には満開の花火が打ち上がっている。

 とても美しい光景だった。周囲に飛び散る火の粉が夜を彩り、まるで流れ星の様に尾を引く。暗闇の中に、一瞬だけ夜の陽が浮かんだような情景。空を見上げる彼女達の表情は――火に照らされ、輝いて見えた。

 

「ふふっ、綺麗な花火ですね」

「あっ、因みにそれ、花火じゃなくてナパーム弾なんだ」

「………」

 

 ハスミは、静かに写真を机に伏せた。

 最早、何も云う事は無かった。

 

 ■

 

 ――キェエエエエエエアアアアア!

 

 暗闇の中で叫ぶ。それは自身の不甲斐なさと失望から。矢鱈滅多らと腕を振り回し、何もない空間で声を響かせる。幻影の如く立ち塞がる不良の影を蹴散らし、彼女は突き進んでいた。

 

 ――夏なのに! 最後の夏なのにィぃいいい! 夏! 友情! 青春! 海ぃ! 水着ィイイイ!

 

 ふとした瞬間に耳にする、クラスメイト同士の雑談。学校の後輩達が会話する内容。雑誌やドラマ、漫画、小説で何度も見た内容。照りつける太陽、輝く海、親しい友人、そして海辺で水を掛け合い、笑い合う。そんなありふれた光景、しかし自身には縁もゆかりもない光景。それが羨ましくて、妬ましくて仕方なかった。

 

 ――どこにッ!? 一体何処にぃいいッ!?

 

 その苛立ちをぶつける様に影を殴りつけ、掻き消す。煙の様に消失するそれらは、消しても消しても一向に減らない。

 一昨年は仕事に追われて夏季休暇など無かった。弾丸と爆発と暴力に塗れた夏だった。友情は戦友で、青春は硝煙で、海はコンクリートで、水着は血化粧だった。去年も似たような過ごし方だった。そして今年も、同じ一年を繰り返そうとしている。

 

 ――私の青春がッ、何処にもないぃいい!?

 

 叫び、思わず涙した。今年が最後のチャンスだというのに、自分にはその機会すら与えられないのかと絶望した。ただ喚き、不甲斐ない自分に失望するだけの毎日。

 我武者羅になって探した。探せば探すほど、自分には余りにも遠い出来事だと実感して嫌になった。

 でも、それでも諦めきれなくて――。

 

 ■

 

「んぐッ!?」

 

 思わず飛び起きた。額に滲んでいた汗が頬を伝い、蹴飛ばしたタオルケットが足に絡まっている事に気付く。

 場所はトリニティの自室、消灯された部屋の中は薄暗く、カーテンを閉め忘れた窓から月明かりが差し込んでいる。

 先程までの悪夢を思い返した彼女、ツルギは早鐘を打つ心臓を抑えながら周囲を探る。そしてテーブルの上に置かれた封筒を見つけると、慌ててそれを手に取った。

 先生から手渡されたそれは、相応に厚く、中を覗き込めば何枚もの写真が束になって詰め込んである。

 

「……ぁ」

 

 優しい手つきでその中の一枚を取り出し、月明かりに翳すツルギ。写真には、満面の笑みを浮かべる自分が写っていた。

 そして、その周りを取り囲む――友人達。

 学園の枠を超え、友情を育んだそれは決して夢などではない。あの夏の思い出は、ツルギの胸に確りと刻まれ鮮明に記憶されている。

 

 暫くそうやって写真を眺めていたツルギは、指先で自身の頬を何度も擦り、それからベッドを抜け出し、デスクの前に立った。引き出しに手を掛け、取り出すのはピン。写真の縁を何度も確かめ、念入りに狙いを定めた後――。

 

「……へへ」

 

 壁のコルクボードにそっと、彼女は思い出の写真を貼り付けた。

 


 

 ・傷跡を必死に隠そうと厚着する先生、訝しむユウカとの攻防。

 ・生徒達の撮影、素晴らしき水着。そしてハナコは拙い、エ駄死の雨。

 ・スイカ割り(狙撃)

 ・海の家でのアレコレ、生徒達とかき氷、アーンと集中する視線。

 ・先生と水泳教室、ずぶ濡れ先生による逃亡劇。

 ・大きすぎる砂の城建築。

 ・溺れたフリで先生を独占作戦、本気で心配して助けに来た先生に罪悪感の巻。

 ・不良達との遭遇、ヒフミの作った砂の城が破壊されガチギレする友人達。

 ・「そう云えばこのペロロ? の浮き輪が懸賞で当たってさ~」

 ・「御幾らですかッ!?」

 ・不良達による襲撃(二度目)、先生誘拐。

 ・カイザー爆散、生き埋め、消えた先生を血眼になって探す生徒による一帯制圧。

 ・不良リーダー「前が見えねぇ……」

 ・不良壊滅、先生のとりなしにより皆で花火とバーベキュー。

 ・何かデカイ花火打ち上げた奴が優勝みたいな流れになる。

 ・ナパーム弾撃ちあがる。

 ・ホテルで一泊、爆睡、先生に夜這い掛けようとした生徒間で戦闘。

 ・尚、ちゃっかりアスナが先生のベッドに潜り込む事に成功。

 ・翌朝、起床と共に先生は菩薩顔。あと何か一部ボロボロの生徒が居るけれど、どうしたの……?

 ・帰り支度、軽く海岸を散歩して、朝ご飯食べて解散。

 

 本当は細かく描写しようと思ったのですが、プロット書き出した時点で十万超える事が確定したので、勇気のキングクリムゾンを敢行しました。夏イベの詳細な描写は後編のあと、余力があったらやりましょう。

 この時点で幕間五話目、大体六万字程度ですね。

 少し早いですが、次か、その次位にはエデン条約後編に入ります。ただ、入ると云ってもエデン条約、調印式に先駆け準備パートです。ベアトリーチェの先制攻撃に対抗する為、先生があらゆる手を尽くします。

 序にクロコ組も動き、先生はミカと面会したりハナコが暗躍したり、色々します。先生の手足を捥ぐための仕上げですね。はー、早く捥ぎてぇですわ……。

 



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エデン条約編 後編 【大人の責任、先生の義務】
一杯の希望(紅茶)を、此処に


誤字脱字報告ありがてぇですわ~ッ!


 

「ん? あっ、ナギちゃん」

「……お久しぶりですね、ミカさん」

 

 トリニティ自治区、隔離塔地下――普段滅多に人が立ち入らない場所に、ミカの幼馴染、ナギサは顔を出していた。引き上げられた重厚な鉄柵を潜り、ミカの前へと立った彼女は、普段通りの凛とした佇まいを見せている。ミカは用意されていた古臭いソファから上体を起こし、へらりと表情を変えた。

 

「あはは、もう会えないんじゃないかなって、そう思っていたよ」

「まさか、私とミカさんの仲ですよ」

「ふふっ、それもそうだね、幼馴染なんだし?」

 

 久々の軽口、昼のティータイムで交わすような会話にナギサは口元を緩める。

 彼女の様子は他の生徒より逐次報告を受けていた。拘束されているとは云え、彼女は現在もティーパーティーの一員である事は変わりなく、何の審議もなしに不当な扱いを受ける事はない。しかし、それでもある程度の制限や警戒を持たれるのは当然の事で。

 

 久方振りに目にした幼馴染の顔は、何処か焦燥した様に暗く、乾いている様に見えた。報告では良く眠る様に横たわっているとの事だが、その目元には薄らと隈が見え、明るい表情に反して生気を感じられない。

 ナギサは初めて見る幼馴染の姿に唇を結び、手前で組んだ掌をそっと握り締めた。

 

「差し入れ、ありがとうね、こんな所だから他に楽しい事もないしさ、毎日ちょっとずつ食べているんだ」

「そうですか、気に入って頂けたのなら何よりです」

「でもさ~、何でロールケーキばっかりなの? もっとこう、色々あると思うんだけれど……同じケーキでもショートケーキとかさぁ、モンブランとか、何ならプリンとかでも良いし?」

「それでは罰になりませんから」

「え~、なにそれ」

 

 ナギサの言葉にカラカラと笑みを零すミカ。

 彼女は両足を所在なさげに揺らしながら、何でもない事の様に問いかけた。

 

「それで、どうして此処に来たの? 尋問ならもう、飽きる程された後だけれど? ナギちゃんが直接足を運んだって事は、それ以外に何か大事な用事でもある感じ?」

「………」

 

 ミカの言葉に、ナギサは一瞬の沈黙を守る。

 此処で、ただ顔を見に来たと口にする事が出来ればどれ程良かった事か。

 けれど、ただの私情で会いに来たと口にする事がナギサには出来なかった。暫くの間視線を伏せていた彼女は、徐に口を開き告げる。

 

「アリウス・スクワッドについて、少し」

「――アリウスの生徒会長が秘密裏に組織した特殊部隊、聞きたいのはそんな事? それについては私、尋問の時にも云ったよ? 接触の切っ掛けから、メンバーの構成まで、知っている事は全部ね」

「えぇ、それは私も確認しました」

 

 そう頷けば、ナギサは何処か呆れたように肩を竦めて吐き捨てた。

 

「じゃあ、あれかな、まだ隠し事していると疑っているのかな? なら試しに爪でも剝いで見なよ、シスターフッドだっけ? どこかの誰かさん達のやり方でさ」

「……それはシスターフッドではなく、嘗ての聖徒会のやり方でしょう、今はもう、そのような野蛮な方法は許しません」

「あははっ、云ってみただけ、だって知ってるもん」

 

 笑みを浮かべたミカは、何処か昏く淀んだ瞳でナギサを見る。

 

「優しい優しいナギちゃんには、そういう事は出来ないって」

「……本当に」

 

 その、ミカの言葉に。

 ナギサは顔を歪め、呟いた。

 

「本当に優しいのであれば、元より誰かを疑る様な事などしないでしょう」

 

 それは自己嫌悪の発露。その優しさがあれば、トリニティという場所を守るために、友人を切り捨てる選択などしない。元より誰かを信頼し、助力を請うていただろう。それが出来なかった時点で、優しいという言葉は自身に似合わぬものだと、ナギサは言う

 

「私の優しさ(コレ)は、博愛(万人に齎されるもの)ではありません」

「……それも、知っているよ」

 

 それを理解した上で、ミカは優しいと彼女を称したのだから。

 

「……私がこんな事を云うのも何だけれどさ、もうアリウスの事とかどうでも良くない?」

 

 ミカは自身の胸に渦巻く感情を悟られぬよう、声の調子を引き上げ、そう宣う。ソファに凭れながら首を振った彼女は、横目でナギサを眺めながら淡々とした口調で告げた。

 

「私っていう後ろ盾もなくなったから、横流しされていた装備も補給も、全部途切れたんだし、放っておけば勝手に潰れるよ、アリウスは」

「……攻勢に出る必要はない、と?」

「だってそうじゃん? アリウス分校の残党を足し合わせた所で、現状の正義実現委員会、シスターフッド、自警団が動けば数でも圧倒出来る……不穏分子ではあるけれど、トリニティが動こうと思えば潰せる程度の勢力だもん」

「えぇ、それについては検討済みです――少なくとも現時点の段階で、今のアリウス分校は大した兵力を保有しておらず、計画が失敗した今、その危険度は大幅に下がっています」

「だよね? 私もそう思うし、後はトリニティの防備を固めれば手なんか出せないよ、どうしても潰したいなら条約を結んだ後、何の憂いもなくなった時に片手間で掃討でも何でもすれば良いし」

 

 指先を擦りながら、ミカはどうでも良さそうにそんな言葉を零す。そこにどのような意図があるのかナギサには計りかねたが、少なくとも虚言を口にしている様子はなかった。

 今回アリウスが計画に投入した人員は少なくない。元々アリウス自治区の兵力は決して多いとは云えなかった、そんな中で千人近い人員が件の騒動で投入され、その殆どが逮捕、拘束、矯正局送りになっている。そんな状態でアリウス自治区が仕掛けて来るとは、到底思えなかった。

 

「……あぁ、でも、トリニティが攻勢に出るなら自治区の場所を知らないと駄目か、私も自治区の入り方は知らないからなぁ――尋問でも聞かれたけれどアリウス自治区への入り方を知っているのは、スクワッドのリーダー、サオリ位だと思うよ」

 

 アリウス自治区――スクワッドの所属する、アリウスの本拠地。

 しかしその場所は謎に包まれており、位置情報は愚か手掛かりすら掴めていない。矯正局に送られたアリウス生徒の中には部隊長クラスの者も居たが、そのクラスでも自治区の正確な位置、そして入り方は知らなかった。徹底的な情報統制、ミカの云う通りその手の情報を持っているのは特殊部隊のリーダーであるサオリ、或いは幹部クラスの生徒のみなのだろう。

 そして大抵、その手の生徒には――執拗なまでの洗脳教育が施されている。

 

「どうしても知りたいなら、アズサちゃんをちょっと脅して聞いて見たら? 裏切者とはいえ当事者なんだし、何か知っているかもよ?」

「……それは」

 

 ミカの思いついたような言葉に、ナギサは言葉を詰まらせる。

 裏切ったとは云え、元スクワッドのメンバーであるアズサ。彼女ならば正確な位置や入り方は兎も角、情報の断片程度ならば持ち合わせているかもしれない。

 そして、それはナギサも考えた事柄だった。指示を出せばすぐに尋問可能な状況にもある。

 しかし、彼女がその命令を口にする事はない。

 

「? あー、分かった、ナギちゃんがそんなに歯切れ悪いのって、もしかしてアレ?」

 

 どこか云い淀むナギサを前に、ミカは首を傾げる。

 そして思い当たる節があったのか、軽く手を合わせた彼女は理解を滲ませた表情で続けた。

 

「先生に意地悪したから、これ以上シャーレの下に居るアズサちゃんに色々問いただすのは気まずいとか?」

「………」

「まぁ、確かにそんな事しようとしたら先生はアズサちゃんを庇うだろうね、別にナギちゃんを邪険に扱う訳じゃないとは思うけれど」

「えぇ、それは……理解しています」

 

 実際――それは図星だった。

 暴走した自身を止め、ミカの企みを阻止し、母校を裏切ったアズサ。彼女の立場は非常に危うく、不安定なものではあるが、その行動は決して責められるべきものではない。或いは、彼女はナギサにとって命の恩人とも呼べる。何せ彼女が裏切っていなければ、自身のヘイローは破壊されていたのかもしれないのだから。

 故に、二つの意味でナギサは彼女に手を出す事が出来ない。先生への負い目、そして彼女自身に対しての恩義から。

 

「……もしかしてナギちゃん、あれから先生に会ってないの?」

「……いいえ」

 

 ミカのどこか不安げな言葉に、ナギサは首を緩く振る。

 

「合わせる顔がない、そう思っていた時期もありましたが……逆に、動けるようになってから最初に、謝罪されてしまいましたから」

 

 答え、ナギサは当時の事を思い出したのか表情を柔らかく変化させた。全身ボロボロで、包帯塗れの恰好で目の前に現れた時は、らしくもなく大変慌てたものだ。しかし、起きて最初に考え実行に移した事が自身への謝罪なのだから――逆にナギサは吹っ切れて、素直に感情を口にする事が出来た。

 トリニティのトップに立つ者として、一人の生徒として、先生には真摯に謝罪を口にし、必要なら賠償の用意もあると告げた。けれど先生はそんな事を求めず、ただ笑顔で生徒の無事を喜ぶのみ。時折、復興作業に忙しい自身の様子を見に来る程、彼は生徒全員を慮っている。先生はナギサと対峙した時に口にした事を、何処までも真っ直ぐに体現していた。だから、既に先生とナギサの間に確執は無い。補習授業部の面々とはまだ少し硬さはあるものの、謝罪を経て既に和解している。

 

 故に、先生との確執を残しているのは――このトリニティに於いて、ただひとり。

 

「寧ろ、先生を拒んでいるのはミカさん、あなたでしょう」

「……っ」

 

 ナギサの、どこか鋭く斬り付けるような一言に、ミカはぐっと言葉を呑んだ。視線が脇に逸れ、放られた指先が握り締められたのがナギサには分かった。

 

「先生の面会申請、届いている筈です」

「……うん、まぁ、ね」

「なら、何故拒むのですか?」

 

 その言葉に、彼女は答えない。ただどこか欝々しく、痛ましい表情で唇を噛むばかり。先生がミカとの面会申請書を提出している事を、ナギサは知っていた。そしてそれが承認され、ミカに通達されている事も。しかし当の本人であるミカは、先生との面会を拒んでいた。

 俯いたミカはその髪で表情を隠しながら、呟く様な声量で以て云う。

 

「……先生さ、何度も何度も私に会おうとしてくるの」

「……えぇ、知っています」

「申請書もそうだし、最近はこの地下まで態々直接来てさ、看守に頭下げてまで――その度に断るのも、結構大変なんだよ?」

 

 ふっと、ミカは顔を上げる。視界に映った彼女の顔は、自嘲するような、自身への失望が透けて見える笑みだった。両手の指先を合わせ、ミカは深く背を曲げる。

 

「先生の立場なら、私を無理矢理引きずり出す事も、自分がこの房に踏み込む事だって出来るのに、変だよね?」

「……あの人は、そういう人です」

「うん、知ってる」

 

 声は、力なく萎んでいた。

 シャーレの権限があれば。トリニティで繋いだ人脈を使えば。先生はどのような手段であれ、ミカと顔を合わせる事が出来るのに。本来、面会の申請だってミカが断った所で、先生が実際に部屋に入る意思を見せれば止める事など出来ないのだ。

 だというのに、先生はミカが面会を拒否すれば律儀に踵を返す。そして少し経つと、また申請を出して、何なら声だけでも構わないと看守に頭を下げ、交渉までして。

 

 ――だから尚更、会う事が出来ない(合わせる顔がない)

 

 それが、どうしようもなく自身を想っての行動だと理解出来てしまうから。

 ミカ(自身)の心を守るために、手間暇を惜しまずに足を運ぶ先生を前にして、ミカはどうしようもなく動揺し、泣きたくなった。そして、それを突っぱねる事しか出来ない自分に失望し、絶望するのだ。

 だって、その優しさを受け入れる資格が、自分にはないから。

 

 あぁ、先生がもっと、悪い大人だったら――こんな風に悩むことも無く、先生と会えていたのに。

 

 そう思い、思わず苦笑を零す。あり得ない仮定だと、自分でもそう思ったから。

 先生がもっと、自分の為に生きている人だったのなら。

 ミカの言動を全てナギサに話してくれる、或いはその逆でも構わない。公平な顔をして、生徒に順位(優劣)を付ける様な先生であったのなら。

 あの時、我が身可愛さに逃げ出すような人だったら。

 何食わぬ顔で、素知らぬ顔で、「負けちゃったなぁ」って笑って会う事が出来たのに。

 先生(あの人)が、余りにも真剣で、真っ直ぐだから。

 ミカ(自分)は、その眩しさに顔を覆う事しか出来なかった。

 

「会いたくない訳ではないでしょう」

「………」

 

 ナギサの呟きが、ミカの鼓膜を叩いた。

 それは余りにも分かり易い問い掛けだった。ミカは小さく吐息を漏らし、思わず失笑する。

 

「……ふふっ、分かっている癖に」

 

 先生の近況を分かり易く提供してくれた彼女は、ミカの心情を理解している。会いたくない? そんな筈ないだろうと。

 分かり易い建前だ、本音を云えば会いたくて仕方ない位だった。一杯、一杯謝って、同時に一杯、一杯感謝して、色んな聞きたい事、話したい事がある。傷の具合だとか、自分が牢に入ってからの事とか、補習授業部の事とか……。

 でも、やっぱり一番は怪我の事を沢山謝りたかった、責任を取りたかった。そしてこんな自分の為に尽くしてくれて、ありがとうって、泣きながらお礼を云いたかった。

 

 けれど同じ位――怖かった。

 先生に、嫌われる事が。

 先生に、責められる事が。

 

 そんな事はあり得ないって思うのに。

 そんな事、先生が云うはずないって知っている筈なのに。

 その心の弱さが、怯懦が、ミカの先生を拒む根源だった。

 

「……ねぇナギちゃん、考えようによってはさ、何だかんだで全部上手く行ったんじゃないかな?」

「上手く……?」

 

 その言葉に、ナギサの肩が震えた。

 ミカは彼女に視線を向ける事無く、俯いたまま言葉を続ける。

 

「うん、だってトリニティの裏切者はこうして捕まって、アリウスはもう脅威にはならない、これでエデン条約が締結されたら、ナギちゃんの望んだ平和が現実になる――ほら、ハッピーエンドじゃんね……?」

 

 告げ、笑みを浮かべるミカ。その視線が再びナギサを捉えた時、ミカは少しだけ驚いた表情を浮かべた。見慣れた幼馴染が、見た事もないような顔をしていたから。

 

「何が」

 

 制服に皺が出来る事も構わず、ナギサは自身の裾を掴む。強く、強く。鋭く絞られた視線はミカを射貫き、その口元が怒りを滲ませ、歪んだ。

 

「何が、ハッピーエンドですか……こんな状態で、ミカさんが裏切り者で、何が――っ!」

 

 何も、何も良くない。

 ハッピーエンドなどではない。

 あの時、どこか窮屈でありながらも三人が座っていたティーテーブルは、最早自分ひとりしか座る者は無く。トリニティの屋台骨はボロボロで、ティーパーティー単独での学園統治は困難と判断された。今後はシスターフッドや救護騎士団など、複数の組織がトリニティの中枢に食い込む事になるだろう。

 それ自体は別段、どうという事ではない、学園の変革が必要だと云うのであれば自身はそれに従うまで――問題は、ナギサ個人の感情から来るものだ。

 

 唯一無二の幼馴染は裏切り者として幽閉、口で争いながらも何だかんだ友人と思っていたセイアは行方知れず。エデン条約は確かに重要だ、しかしそれを成し遂げた所で――ナギサという生徒の手に残るものは少ない。学園の為に身を捧げたと云えば聞こえは良いだろう、けれど唯一無二の幼馴染を喪ってまでハッピーエンドと宣うなど、出来る筈がなかった。

 

「ミカさん、あなたは――」

「……うん」

「本当に、私を殺そうとしたのですか」

 

 衣服を握り締めたまま、彼女は声を絞り出す。

 ミカはそんなナギサを見つめながら、沈黙を守った。

 

「もしそうであるのなら、それは何故ですか? エデン条約でゲヘナと和平を結ぶからですか? セイアさんの件も、何故、その様な手段を選んだのですか?」

「………」

「……セイアさんが死んだと聞いた時、私は衝撃と恐怖を覚えると同時、きっと次は私だと、そう思いました」

 

 そう、あの時の事は今でも覚えている。本当に唐突に、その報告は齎された。

 いつも通りの一日だった、内に何の憂いも焦燥もなく、ただゲヘナとの今後に思考を巡らせれば良かった日々。全てが変わってしまったのは、変わり始めたのは――あの日からだ。

 

「私達の中で最も賢く、予知夢と云う稀有な才まで持ち合わせていたセイアさん、トリニティの中でも一等危険な彼女を最初に狙うのは、理解出来ます……そしてティーパーティーを引き継ぐとすれば、政治のノウハウを持つ私、となればきっと次狙われるのは、この身だろうと」

 

 ホストの変更は恙なく行われた。そしてその変更が何を意味するのか、ナギサは予感していたのだ。

 

「そして、私の身に何か起きた時、後を引き継ぐのはミカさん――あなたです」

 

 告げ、ミカを見据える。

 セイアが斃れ、ナギサが斃れ、最後に残るのは――ミカ一人。

 そして彼女に単独でトリニティを統治する政治力なんてものは存在しない。幼馴染故に、ナギサはそれを良く理解していた。

 各派閥のパワーバランスの調整、万が一の調停行為、そして代表が再選抜された場合の交渉と事務処理。更に学外に目を向ければゲヘナや連邦生徒会との外交が待っている。相手学園との連絡、交渉、当然情報収集と分析も必要不可欠で、場合によっては紛争問題の処理や協力も重要になってくる。セイアが消えた後、ナギサはそれらの問題をエデン条約締結のパーツを必死に揃えながら、同時に処理していた。シャーレの情報を入手したのもその時期だ。単純な知性と云う点ではセイアに劣るかもしれないが、政治や執務と云う点では自身が勝るとナギサは自負している。

 自負しているからこそ、ミカでは困難であるという事が実感できたのだ。

 

「だから、その前に犯人を見つけ出したかった、あなたに魔の手が及ぶ前に……少しでもミカさんの負担が減る様に」

「………」

「……いえ、それは建前ですね、私は……私は、ただ」

 

 唇を噛み、俯くナギサ。

 そう、負担を減らしたい、少しでも学園の統治が楽になる様に――そういう想いも確かにあった。けれど、ナギサ(自身)があんなにも必死になって裏切り者を探したのは。学内の不穏分子を追放したいと願ったのは。

 

あなた(大事な幼馴染)に、死んで(傷付いて)欲しくなかったから」

 

 そう、世界というものはもっと、段階があるものだと思っていたのだ。

 何か大きな出来事があったり、予兆があったり、「そうなるかもしれない」と、予測出来る何かがあってから物事は起きるのだと。

 けれど、そうではなかった。

 大切な友人が明日、或いは今日、もしかしたら次の瞬間――死んでしまうかもしれない。

 セイアが死んだと聞いた時、ナギサはそう思ったのだ。

 

「私自身に迫る、死の恐怖、幼馴染に迫るかもしれない魔の手、それを退ける為に、私は――」

「ナギちゃん」

 

 ふと、ミカが声を上げた。

 それは余りにも穏やかな口調だった。

 俯いていた顔を上げたナギサが見たのは、柔らかく、けれど悲しそうに微笑む幼馴染の表情。見慣れたそれは本当にいつも通りで、一瞬、ナギサは彼女とティーテーブルを囲んでいる昼下がりの情景を思い出した。

 ティーパーティーのテラス。セイアが居なくなってから、二人きりで囲む事が多くなった場所。ティーカップを片手に、御菓子を摘まみながら、何でもない雑談に花を咲かせる。会える頻度は少なかったけれど、長くとも一ヶ月に一度は顔を突き合わせて、何があっても無くてもミカは笑っていて。

 そんな毎日を自分達は、ただ、望んで――。

 

「これは、複雑なお話なんかじゃないんだよ」

 

 けれど、この場所(現実)は冷たい牢獄。

 ミカは罪人として囚われ、ナギサはティーパーティーとしてこの場に立っていた。

 それが、全て(結果)だった。

 

「ゲヘナの事が大っ嫌いな私が、その為に大事な幼馴染をも殺そうとした――これは、それだけのお話なんだから」

「……何か」

 

 声を、絞り出す。

 握り締めた両手をそのままに。

 たとえそれが、藁に縋る程の想いであっても。

 ナギサは歯を食い縛り、ミカに問い掛ける。

 

「何か、あったのではないのですか? 手違いが、誤解が、私には見えなかった、事実から隠れた、真実が――」

 

 呟き、思う。

 何か、事情がある筈だと。

 自分には見えていなかった、ミカの。

 そうしなければならなかった、そうする必要があった。

 そういう、強い理由が。

 何か、ワケが――。

 

「あはっ」

 

 けれど、その声を聞き届けたミカは破顔し。

 腹を抱えて――嗤って見せた。

 

「あはははッ! 手違い? 誤解? し、真実? ふはッ、何それ、ナギちゃん、本気?」

「……ミカさん!」

 

 涙すら滲ませ笑う彼女に、ナギサは声を荒げる。けれどそれでも尚、ミカは笑みを浮かべたまま目尻に浮かんだ涙を拭い、云った。

 

「あー、もう、だから私はナギちゃんの事が好きなんだよね、こういう、純粋な所が、凄く――」

 

 そう、純粋で、優しくて――本当は誰よりも正しきを為そうとする、幼馴染が。

 現実と理想の狭間で揺れ、歯を食い縛りながら何かを棄てる選択を前に苦悩し、例え相手を疑っても、心の底で相手の善性を信じている、そんなナギサが、ミカは大好きだった。

 大好きだからこそ。

 

 ――嗤えと、ミカは自分に云い聞かせた。

 

「――そんなものはないよ、私はセイアちゃんを殺そうとした、その上でナギちゃんのヘイローも同じように、壊そうとした……ただ、それだけ」

 

 それ以上でも以下でもない。行動の結果が全てだと、どんな理由があっても、どんな事情があっても、幼馴染であるナギサを、友人であったセイアを害した事実は消えないのだと。その現実に、同情の余地などあってはならない。

 罪は――明確でなければならない。

 

「ナギちゃんは良く知っているでしょ? 私、好き嫌いが激しいの、この事件にそれ以上の意味なんてない、どうしてもゲヘナと仲良く出来なかった、これはそういう、どうしようもなく感情的な話なんだから」

「……その為に、アリウスと?」

「うん、だって私は――」

 

 身を乗り出し、ミカは目を見開く。口を開こうとして、一瞬言葉に詰まり――けれど彼女は偽悪的な嘲笑と共に、その言葉を吐き出した。

 

「人殺しだもん――セイアちゃんが生きていたとしても、私があの子を殺そうとしたって事実が消える事はない……気に食わなかったら、それ位の事は、当然」

 

 そう、人を殺すという罪悪。

 それを為しても、為さなくても、『殺そうとした』という事実はどうしようもなく彼女の背中に傷をつける。どれだけ善く振る舞っても、どれだけ更生し反省しても、その罪悪は一生ミカを苦しめ続ける。

 

「ナギちゃんは、私のそういう側面を知らなかった、ただの好悪のみで人を害せる、私のそういう部分を――だからナギちゃんが探るべき真実何てものは、最初から無いんだよ」

「っ……」

 

 その考えは見当違いなものだと、ミカはそう嘯く。

 それが本心なのか、そうではないのか、ナギサには分からない。けれどもし、その言葉が嘘で、そうせざるを得ない理由(ナギサの求める真実)彼女(ミカ)にあったのならば――。

 

「どうして、私は――」

「――あれだけの長い間一緒に居たのに、気付かなかったのか?」

 

 その真実に、彼女の側面に。

 ナギサの呟きに被せる形で、ミカは云う。

 その瞳がナギサを正面から射貫き、口元が歪んだ。

 

「……その答えは私よりも、ナギちゃんの方が良く分かっているでしょ?」

 

 脳裏に過るのは彼女が嘗て、口にした言葉。

 楽園の証明――楽園に辿り着きし者の真実を、証明する事は出来るのか。

 その問い掛けに、嘗てナギサ(彼女)はこう答えた。

 

「『私達は他人だから』、ね……本当の心なんて、分かる訳ないじゃん」

 

 出来ない――そして、証明出来ないものを人は信じることが出来ない。

 人の心は分からず、物質として目にする事は出来ず、そして目に見えない以上、証明する事は出来ず――信じる事は出来ない。

 所詮、自分以外の存在は、他人なのだから。

 それがどれだけ親しい相手でも。

 

 十年来の――幼馴染でも。

 

 ミカの言葉に、ナギサはその表情から色を失くした。その一言がどれだけ彼女の心を傷つけたのか、ミカには分かった。ナギサは唇を硬く結び、肩を震わせながら衣服を掴む。俯いた両の目から涙が零れ落ちなかったのは、彼女の最後の意地だった。

 

「……今日は、帰ります」

 

 たったそれだけの言葉を漏らすのに、数秒の間が必要だった。裏返りそうになる声を何とか押し込め、ナギサは踵を返す。張りつめた空気の中、ミカは努めて何でもない様に声を上げる。

 

「……うん、気を付けてね、お見送りはしてあげられないけれど」

 

 その背中を見つめながら、ミカは緩く手を振った。震えそうになる指先を、必死に誤魔化しながら。

 

「――先生に、よろしくね」

 

 答えは、無かった。

 ただナギサは扉を潜り、無言で部屋を後にする。扉の閉まる重厚な音が響き、彼女の背中が見えなくなった。

 数秒して、ミカは詰まった息を吐き出すとソファに凭れ掛かりながら天井を仰ぐ。久方ぶりに見た幼馴染は以前より疲労している様に見えた。

 それも当然だろう、自分が起こした騒動を考えればその後処理は膨大な量になる筈なのだ。

 だから――これで良い。

 そう、心の中で呟く。

 罪人の幼馴染なんて肩書を押し付ける訳にはいかない。ナギサには、まだ正しい道が続いている。自分とは違う、幾らだってやり直せる。

 だから――お荷物はなくなった方が良い。

 

「ナギちゃん……」

 

 呟き、ミカはそっと胸元(指輪)を指先で擦った。散り散りになりそうになる心、遣る瀬無さの燻る感情。鉛の様なそれらをミカは歯を食い縛って、飲み下す道を選んだのだから。

 

 ■

 

 ナギサの去った後、扉に鉄柵が降りる事は無かった。普段であれば、監査官なり他の生徒なり、扉を潜った後は直ぐに鉄柵が降りて来る。逃走防止用の措置だ。けれど今回は数分経ってもそれが行われず、少しして再び扉が開く音が部屋に響いた。

 ソファに掛けたまま、ミカは入室する人物に目を向ける。

 そしてその特徴的な出で立ちを目にした時、僅かにその表情が変化した。

 

「――どうして、あんな嘘を吐いたのですか」

「何……盗み聞き?」

 

 開口一番、その様な言葉を発した彼女に、ミカは思わず悪態を吐く。長い髪が翻り、ゆったりとした動作でミカの前に立った彼女は、いつも通りの微笑みを浮かべていた。

 

「……良い趣味しているね、浦和ハナコちゃん」

「えぇ、お互いに――聖園ミカさん」

 


 

 次回、名探偵ハナコちゃん登場。

 長くなったので二分割。ナギサ様との会話でこんなに文字数喰うとは思っていなかったんですわよ。

 はー、やっとエデン条約後編ですわ! 先生には死ぬ気で抗って貰って、その果てにもぎたて♡にーちゅさせて頂きます。収穫の時でしてよッ! 書いている内にとんでもなく酷い目に遭ったけれど許してね。流石の私も、「これは酷過ぎでは……?」って思ったけれど、先生だもんね。大人だもんね。きっと我慢できるよね。最期まで生徒の為に全力で足掻いてね先生。止まっちゃ嫌だよ、その背中を生徒が見ているんだから、全力で進んでね。

 

 因みに先生がミカと面会すると云ったな。

 アレは嘘だ。

 会いたいけれど会えない、どんな顔をして会えば良いのか分からない。良く考えなくても、あんな騒動を起こして、黒幕の癖に先生に庇われてあんな大怪我させて、それでも指輪を棄てずに未練がましく持ち続けている自分が、どんな顔で、どんな言葉で先生を迎えれば良いのか分からず卑屈になるミカちゃん概念。先生が絶対に許してくれる事は頭でも理解しているのに、その優しさに触れて安堵する自分が居る事を嫌悪し、自罰的になって涙を流す。う~ん、美しい……。

 なので合わせる顔が無くても良い様に先生を死体にする必要があったんですね。

 



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目に見えずとも、そこにある想い

誤字脱字報告はナウなヤングにバカウケだそうですわ!


 

 二人きりの牢獄、静かで、冷たい場所で向き合うミカとハナコ。互いに薄らと笑みを浮かべながらも、その空気は欠片も暖かさを含まず、鋭い刃を突きつけあったような緊張感が漂っていた。気だるげにソファへと凭れ掛かるミカは、小さく溜息を吐きながら呟く。

 

「今日はお客さんが多いねぇ? ナギちゃんの次はハナコちゃんか」

「……私の場合はどちらかと云いますと、役割上の都合ですが」

「役割?」

 

 ハナコの答えに、ミカは訝し気な声を上げる。

 

「ん、あぁ、そっか、まぁナギちゃんと一緒に入って来た訳じゃないしね、ならシスターフッドの差し金とか? あ、いや、もしかしてシャーレ代理として、かな?」

 

 ミカから見たハナコの立場は、複雑だ。どこの代理として立っていてもおかしくはないし、その実力も人脈もある。一般生徒のハナコに対する評価は高くないが、各派閥のトップは彼女が意図的に評判を落としていると理解していた。故に、その彼女がどこの派閥に属す事になったとしても、ミカは驚かない。

 そして、今一番彼女が役割として、『似合っている』と思ったのはシャーレの代理だった。

 ハナコは、いつも先生の隣に立っていたから。

 自分と対峙した――あの時も。

 思い返し、思わず口元が歪む。それを止める事が、彼女は出来なかった。

 

「私の云えた事ではないけれど……羨ましいね、堂々と隣に立つ事が出来てさ」

「………」

 

 ほの昏い感情の滲んだ声だった。嫉妬とも、憎しみとも取れるそれに、ハナコは目を伏せる。

 

「まぁ良いや、私にはもう、関係のない事だもん、それより嘘って何? 私がいつ、何の嘘を吐いたって?」

「……個人的に、これまでのミカさんの動き、シスターフッドや救護騎士団から提供された情報を照らし合わせ、推測したんです、あなたの目標や目的、その動機を」

「ふぅん?」

 

 その答えに、興味なさげに鼻を鳴らすミカ。指先を擦りながら、頬杖を突く。

 

「――聖園ミカさんは、何故このような事件を起こしたのか?」

「……それ、当事者の前で語るの? 良い趣味しているね、ハナコちゃん」

「こういう時でもなければ、きっと聞く耳を持って頂けないと思ったので」

 

 棘の含んだ言葉に、ハナコは堂々とした様子で声を返した。実際、ハナコがミカと一対一で話せる機会など、そうはない。個人的な交流もなく、こういう時でもなければ彼女はハナコの言葉に耳を傾ける事はないだろう。これは一種の意趣返しの意味もあった。

 

「……ミカさんはゲヘナの事を憎んだ結果、エデン条約の妨害を為そうとしました、そういう側面は確かにあるでしょう」

 

 ハナコは情報を思い返しながら、自身の推理を述べる。

 ゲヘナに戦争を仕掛ける為――彼女はあの体育館で、確かそう口にした。ゲヘナを打倒する為に、エデン条約を妨害する為に、彼女はこの様な事件を起こした。そう仮定し、話を進める。

 

「エデン条約を撤廃させるのに最も手っ取り早いのは、自身がホストになる事です、どのような形で接触を持ったのかは不明ですが、あなたはアリウスと手を組みセイアちゃん襲撃を企てた」

「……それで?」

「しかし、私が考えるに、当初の計画はセイアちゃんを拉致し、幽閉する程度だったのではないでしょうか? ホストとしての立場を手に入れるのならば、それだけで十分な筈ですから」

 

 果たして、聖園ミカという生徒は其処まで過激な手段を取る生徒だろうか?

 確かに、暴力に訴える可能性が皆無とは云い切れない。しかし、人死にを出すレベルの事柄を、そう簡単に指示する生徒とも思えなかった。ましてやセイアとミカの関係は、同じティーパーティーとして見ても友人と思える間柄。

 関係性としても、単純なメリット・デメリット比較の面でも、殺害命令には疑問が残る。

 

「けれど、アリウスの考えは違った、彼女達は初めからセイアちゃんのヘイローを破壊するつもりだった」

 

 ミカとしての立場からすれば、ヘイローを破壊するメリットなどない。しかし、アリウスの立場からすれば違う。憎きトリニティのティーパーティー、その一角の身柄を確保出来る機会。それも相手は現ホストで、予知夢等と云う才能を持ち合わせている。どう考えても今後の計画の邪魔になると考える筈だった。

 そして、幽閉・監禁よりも確実で、安心な方法がある。

 それこそ――ヘイローを破壊してしまう事。

 

「………」

「その後の流れは様々な見方がありますが、兎に角ミカさんは『セイアちゃんが死んだ』という報告を受けた」

 

 ハナコは考える。

 その瞬間、その時が――聖園ミカという生徒の分水嶺だったのだと。

 

「その時から、ミカさんの在り方は歪んだのではないでしょうか?」

「……へぇ」

 

 ミカはどこか、腹の底から唸るような相槌を打つ。

 それは不機嫌の表れだろうか。ハナコはじっと自身を見つめるミカと対峙しながら、静かにその唇を濡らした。

 

「恐らくパニックに陥った事でしょう、元よりヘイローを破壊する事など考えていなかったのですから、セイアちゃんが死んでしまうなんて、取り返しのつかない事をしてしまったと――自身は、人殺しになってしまったのだと、そう強く思い込んだ」

 

 此処からは、彼女の心情と実際の行動からその思考、感情を割り出していく。もし彼女が本当にセイアのヘイローを破壊する気が無かったのなら、相当衝撃を受けた筈だ。少しばかり幽閉する予定だった筈が、死亡してしまった。それは、ミカにとっては正に寝耳に水で、どう考えても取り返しのつかない事柄だと実感した瞬間。

 

「ならば、もう戻る事は出来ない、徹底的に最後までやり抜くしかない……何を犠牲にしても、どんな結末になっても、最初に思い描いた場所まで進む事でしか、その犠牲を肯定する事が出来ないから」

「――ねぇねぇ、ちょっと待ってよ」

 

 ハナコの言葉に、ミカは思わず声を挟む。

 上体を起こした彼女は、歪んだ口元を隠す事無く声を荒げた。

 

「そんな勝手にさぁ、人の心を推理しないでくれる? セイアちゃんを殺せって指示したのも私、幼馴染であるナギちゃんをどうにかしようとしたのも私、そんな身勝手な推察で――」

「いいえ、私はあなたの云った言葉を憶えています」

 

 そんな彼女の抗議を一蹴し、ハナコは告げる。

 そう、ミカは自分自身で口にしていた筈だ。

 体育館で補習授業部と対峙した時に。

 

 ――『でも、ヘイローを破壊しろとは云っていないよ、私は人殺しじゃない』

 

 その言葉を、ハナコは良く憶えている。彼女は決して、自身の意思でセイアのヘイローを破壊しろなんて命令は出していない。その事を指摘すれば、ミカは露骨に表情を歪めた。

 

「……他にも、幾つか不自然な点があります、私はあの時、トリニティの本当の裏切り者が存在するとは思っていましたが、あの場で姿を現すとは考えていなかったのです――だってそれは、自身の一番の利点を投げ捨てる事になってしまうから」

 

 それは、そもそもの話――ミカが体育館にて姿を現した事に対して。

 彼女はあの時、補習授業部を追い詰めていたとは云え、自らその正体を明かした。

 ハナコにとっては、それがずっと頭の片隅に引っ掛かっていたのだ。

 

「何故なら――戦略的に考えれば、明らかに悪手なのです」

 

 そう、トリニティの裏切り者であったミカが、あの場所で姿を現すメリット。それがハナコの考えた限り到底思いつかなかった。

 仮に姿を現すとしても、それは補習授業部やシャーレ、及びシスターフッドや救護騎士団が既に封殺出来る段階で行うべきだ――或いはそもそも、姿を現さないという選択肢だってあった。

 彼女があの瞬間、姿を現していなければ、疑惑は疑惑のまま、確信に至る事はなかったのだから。彼女はまだ、立ち回れるだけの手札を持っていた筈なのだ。

 そう告げれば、ミカは視線を横に逸らしたまま乾いた笑い声を上げる。

 

「……はは、それはね、うん、私も反省しているよ、もっと上手く立ち回れたら、もうちょっと戦えたのにって――」

「――ミカさんは、ナギサさんを殺される事を危惧していた」

 

 ミカの、吐息が詰まった。

 白々しい彼女の言葉を遮り、ハナコは自身の考えを述べ続ける。

 

「セイアさんの時と同じように、ナギサさんのヘイローをアリウスに破壊されてしまうかもしれない……そう思ったのではありませんか?」

「………」

「だから、あなたはあの場に現れた――自分自身の手で、ナギサさんを確保する為に」

 

 彼女にとって、セイアの死は心に深い傷を残した筈だ。故に、その二の舞を踏む事は避けたいと考える。そして、最も確実なのがアリウスの手によって確保するのではなく、自分自身で現ホストであるナギサを確保する事。

 その後は自身の監視下に置けば、アリウスに手を出される事もない。

 この推論は、決して大きく外れていないだろうとハナコは確信している。

 

「ミカさん、あなたは強い、恐らく純粋な戦闘能力であれば正義実現委員会のツルギさんとも十分に渡り合えるでしょう、勿論、あなたにはそれ以外の強さがありますが……あの時、私達は見た目ほど余裕はなかったのです」

 

 指先で頬を擦り、ハナコは当時の戦力を脳裏に思い浮かべた。

 当然の事ではあるが、トリニティに於いて最も高い戦力を誇るのは正義実現委員会である。人数としても、その練度としても、元々荒事を生業としている組織である為、装備品も充実している。シスターフッド、トリニティ自警団も決して小さな組織ではないが、そもそも前者は慈善活動を主な活動内容とする組織であり、後者に至っては公認された部活ではない。

 シスターフッドの前身であるユスティナ聖徒会の活動(懲罰)を考えれば、未だある程度の武力、発言力を有しているものの、それは過去の話である。戦闘行為に特化した部活ではないのだ。

 そして、あの場にはミカが居た――正義実現委員会トップ(キヴォトス最高峰の個人戦闘力)のツルギとも張り合える、彼女が。

 

「あなたが投降などせず、戦い続けていれば、天秤がどちらに傾くかはまだ分からなかった……シスターフッドと自警団の助力があったとは云え、あの場で最も力があったのはミカさん、あなたです、あなたが全力で抵抗すれば、私はシスターフッドかトリニティ自警団、その全滅すら覚悟していました」

「………」

「けれど、あなたはそうしなかった――セイアちゃんが生きていると知った瞬間、あなたは投降した」

「――もう、良いよ」

 

 返す刃は、あった筈だ。

 そう指摘されたミカは、ソファに身を沈めたまま呟く。

 俯いていた顔を上げた時、その視線は鋭く、冷たい色を孕んでいた。

 

「それで、結局何が云いたいの? ハナコちゃんは、さ」

「………」

「もしかして、私が可哀そうだって? 本当はそんな事をしたくなかったんじゃないかって、同情しているの? それとも、間違った選択をしたおバカさんだって哂いたいのかな?」

 

 まるで悪態を吐くように、自身の顔を覆ったミカはくぐもった笑い声を上げた。声は引き攣っていた、泥の様に纏わりつく悪意が彼女の周囲に漂う。ハナコは唇を一文字に結び、目を細めた。

 

「あはッ、とんだ見当違いだよ……!」

「………」

「私はただの裏切者、友達も仲間も売り飛ばした、邪悪で腹黒な人殺し――」

 

 どんな理由があっても、なくても。

 ミカは自身の指先を握り締め、告げる。

 

「ついでに、最後まで手を伸ばしてくれた先生を傷付けた、冷酷な不良生徒」

 

 あれだけ声を張り上げ、手を伸ばし、最後まで味方で在ろうとしてくれた先生すら傷つけて――そんな自分に、一体何の弁解があろう? ある筈がない、あってはならない。ミカはそう、信じている。真っ黒に淀んだ瞳をハナコに向けたまま、ミカは続ける。

 

「その事実から目を背けるつもりはないよ……どんな理由があっても、現実は変わらない――それに、仮に理由があったとして、それが何になるの? それをどう証明するの? 私の言葉を否定してまで、ハナコちゃんは一体何を探そうとしているワケ?」

 

 聖園ミカは問いかける。真摯に、けれど悪意を以て。

 浦和ハナコは、一体何を求めている? この事件の真相? 本当の感情? そんなものはないと口にするミカ(疑って)まで探すそれを見つけて何になる? 彼女のそれはただの、自己満足だ。

 だって。

 

「――どうしてそこまで、証明しようもない事に固執するの?」

 

 人の(感情)を証明する(すべ)など、ないのだから。

 

「私は、ただ……」

 

 ミカの言葉に、ハナコは思わず声を詰まらせる。

 それ()が証明出来ないものであると、ハナコは理解していた。それでも尚、こんな探偵の真似事までして彼女に突きつけた、証明出来ないものに固執する理由。

 それは。

 浦和ハナコ(わたし)は、ただ――。

 

「……ねぇ、セイアちゃんは今どうしているの? ハナコちゃん、仲良かったんでしょ?」

 

 ふと、ミカは声を上げた。それは先程とは異なる、妙に粘ついた(攻撃的な)感情を孕んだ声だった。

 

「セイアちゃんって本当に無事なの? まさかとは思うけれど、本当は死んだのに嘘を吐いていた、なんて事ないよね? でも、それならどうしてトリニティに帰って来ないの?」

「それは――」

「……それとも、今もまだ私を嘘で虐めているところかな? ハナコちゃんも、結構腹黒だもんね、もしかしてセイアちゃんはもういなくて、安堵した私を嘲笑って遊んでいるの?」

「っ……」

 

 敵意を隠しもしない云い方だった。

 或いは、彼女なりの自己防衛なのかもしれない。それと分かっていても、ハナコは自身の拳に力が入るのを自覚した。

 数度、深く息を吸う。それでも胸に蟠る、粘ついた感情が完全に消える事はなかった。

 

「今日は、これで失礼しますね……ミカさん」

 

 これ以上言葉を交わしたら、必要のない事まで口にしそうだった。そう判断し、ハナコは踵を返す。扉の前まで足を進めた彼女は、肩越しにミカを見つめ呟いた。

 

「今、口にした推測については、誰にも云いません、勿論ナギサさんにも」

「……そ、好きにすれば?」

「そして――先生にも」

 

 先生の名前を出した瞬間、ミカの肩が微かに揺れたのが分かった。

 

「あくまで、推測ですから」

「………」

「それでは、ミカさん――ごきげんよう」

 

 扉を開き、部屋を後にするハナコ。重々しく軋んだそれは微かな光を部屋の中に齎し、そして数秒後、今度こそ頭上の鉄柵が部屋と扉を隔てた。ミカはそんな彼女の去り行く背中を見届け、ソファに深く身を沈める。

 

「私も、大概だけれどさ」

 

 呟き、思わず苦笑が漏れる。丸めた指先で唇を擦り、ミカは目を瞑って天井を仰いだ。

 

「ハナコちゃんも……結構残酷だね」

 

 ■

 

「……と、いう感じでした、万全という訳ではありませんでしたが、体そのものは健康の範疇にあったと思います」

「そっか、ありがとうね、ハナコ」

 

 客室棟、私室。

 先生に割り振られた部屋の中で、ハナコは先生に面会の内容を(つまび)らかに話していた。デスクに座りながら書類仕事に追われていた先生は、そのペンを一度止めハナコに笑顔で礼を云う。何度もミカに面会を拒否された先生は、ハナコに代理としてミカとの面会を頼んでいた。彼女の観察眼は信頼している、一言、二言でも構わない、ミカが体調を崩したりしていないか、中で何か困っている事はないか、ただそれだけを知れたら良いと頼み込みんでいた。

 

「あんな言葉を口にしつつ、こうして先生に全部伝えてしまうなんて……あの時の私は、頭に血が昇ってしまっていた様です、今度謝らないと」

「大丈夫、ミカは分かってくれるよ」

 

 ハナコが後悔を滲ませた様子でそう呟けば、先生は穏やかな口調で答える。ハナコとて、ミカの真意には気付いているだろう。ただ少し、今のミカは他者を突き放しているだけなのだ。

 

「私が怪我をした事によって、多少なりとも風向きが変わったのは……不幸中の幸いかな」

 

 そんな事を口にして、先生は自身の書き留めていた書類に目を落とす。左手を軽く揺らすと、その指先は以前よりも確りとした感触を先生に返した。

 

 ミカが降伏した後の自爆攻撃――あの時、その行為を目撃した者は多数存在した。その行動が彼女の命令ではなかったのは明らかで、アリウスが完全にミカの指揮下にあった訳ではない事は既に皆の知る所である。

 ミカはアリウスに担がれた――そういう風潮を作る土台があったのだ。

 先生は事前にシスターフッドや自警団、救護騎士団にも頭を下げ、事の真相をそれとなく広めて貰う約束をし、それが実を結んだ。

 先生がミカを庇ったのも周知の事実であり、その事からミカに厳しい眼を向ける者は多くとも、元凶としてアリウスを敵視する生徒が圧倒的に多いのが現状だ。無論、ミカに対する責任追及の声が消えた訳ではないが――想定していたものよりも、ずっと少なく済んだのは確かだった。

 

「……不幸中の幸いなどと、仰らないで下さい、先生」

「っと、ごめん、不適切だったね」

 

 ハナコの重く、硬い声に先生は苦笑を零す。直さなくてはと思っているのだが、こればかりは性分だろう。自身が多少の怪我をする事で生徒が助かるのであれば、安いものだと考えてしまう。それは何度繰り返しても感覚が抜けない。そして一番悪いのは、それを先生自身が受け入れてしまっている事だった。

 

「どちらにせよ、ミカさんの処罰内容は、私の考えていたものよりずっと軽くなりそうですね」

「頑張って根回しをした甲斐があったよ……ナギサにも、後で会いに行かないと」

 

 呟き、軽く額を揉む。ミカと面会したナギサは、意気消沈していたと聞く。

 恐らく、彼女の冷たい態度に突き離されてしまったのだろう。十年来の幼馴染にその様な態度を取られてしまえば、堪える筈だ。

 

「……先生は、真実を知っているのですか?」

「ん?」

 

 ふと、ハナコはそんな問いかけを口にした。その目は、どこか迷っている様にも見えた。

 

「ミカさんはアリウスと和解しようとした、その為にホストであったセイアさんを襲撃し、自身がホストの椅子に座ろうとした、しかしアリウス側の暴走によりセイアさんは死亡――実際には生きていた訳ですが、そう報告を聞いたミカさんは後に戻る事は出来なくなり……今回の件へと繋がっていく」

 

 それは、今回ミカが起こした事件に対して説明された一連の流れ。ハナコがミカに語った内容とは始発点の異なるものである。しかし、凡その流れは一致している。

 ミカに語って聞かせたあの考えは、全てハナコ自身の情報と憶測で組み立てられたものだ。そしてコレは先生が組み上げ、広めた事の真実(推測)であった。

 

「恣意的なカバーストーリーですが、大筋は私の推測と一致します」

「うん、そうだね」

「けれど、証拠はありません、彼女がそう思って行動した、それを証明するものは――何も」

 

 そう、ハナコの云う通り――それを証明するものなどない。

 彼女と交渉したアリウスの生徒が出張って来てくれたならばまだしも、トリニティ内で審議を済ませるのならば、彼女の行動を証明する術がない事は純然たる事実。

 しかし――その話を嘘と証明する事が出来ないのも、また事実であった。

 

「論理としては破綻していないでしょう、となれば後は単純な数の力、シスターフッドや救護騎士団、外野ですが自警団からの後押しもあります、ナギサさんもミカさんの減刑には賛成してくれるでしょうし、パテル分派はミカさんの味方、トリニティの首長、及びトップに協力を取り付けた今、議会を納得させる事は出来る筈です、しかし――」

 

 真実が分からないのであれば、後は純粋な多数決で物事は決まる。故の根回し、故の土台作り。聴聞会が開かれる前に、既に趨勢は決まっていると云って良い。だからこそ先生は目覚めてから即日、方々に連絡を取り、手紙を送り、負傷した体を引き摺ってでも協力を懇願したのだ。

 その、先生の懸命な努力を知っているからこそ、ハナコの瞳に困惑が滲む。

 

「先生は、何故そこまでミカさんに……?」

「……何故って」

 

 その言葉に、先生は驚いた様に目を開いた。

 てっきり、彼女の事だから理解しているのだと思っていたのだ。

 その答えはどんな時だって変わらない。

 ナギサに謀られ、危機に陥った時も。

 ミカを庇って、大怪我を負った時も。

 

「先生が生徒の味方をするのは、当たり前の事だよ」

 

 そう、先生の行動する理由はそれだけで十分なのだ。

 生徒が少しでも楽になるのならば、それが生徒の為になるのならば、先生は喜んで身を擲ち、苦労を背負い込む。その生徒が自身にした事だとか、自分がどんな不利益を被っただとか、そんな事は関係ない。生徒の行動によって大怪我をしようが、財布の中が空になろうが、先生の評判が地に堕ち様が、最後まで先生は生徒の味方をする。

 その在り方は、ずっと昔から変わらない。

 

「……今回の件で傷付いた生徒が沢山いる、身体的にも、精神的にも、ナギサだってそうだし、ハナコもそう、ミカを助ける事で悔しい思いをする子が居るかもしれない、何でだと声を上げる子も居ると思う、そういう子には、心の底から謝るしかない、何度でも、頭を下げて、許しを請う事しか出来ない」

 

 どうか、その感情を飲み下して欲しいと。

 どうか、彼女を許して欲しいと。

 先生は何度だって頭を下げるし、個人の範疇で自分に差し出せるものだったら何でも差し出す。生徒がそれで気が済むのであれば代わりに殴られても構わないし、罵詈雑言だって受け止める。

 何故なら。

 

「だって、ミカも同じ位傷付いている筈だから」

「………」

 

 その、ミカに憤る生徒と同じ位に。

 今回、傷付いた生徒達と同じように。

 

 元は、善意だった筈なのだ。

 ただ、過去に因縁があったとしても――手を取り合えるんじゃないかって。

 そんな純粋で、無垢な想いが起点だった筈。

 それがこんな結果になるなんて、彼女も思っていなかった。

 

 だから、機会が与えられるべきなのだ。

 どれ程の罪を犯しても、許されない程の罪悪を背負ってしまっても。

 生徒(こども)が責任を負う世界など――あってはならないから。

 

「とは云っても、押し付ける事は出来ないし、私に出来るのは誠心誠意謝って、お願いする事だけ……情けない話だけれどね?」

 

 そう云って、先生は苦笑と共に頬を掻く。大人としては実に情けない話だろう。けれどそれは先生の根幹を成すスタンスだ、他者に威圧的に、高圧的に、権利や立場を利用して強いる事は極力避けたい。特に生徒という立場の者にそんな対応など、先生は絶対に御免だった。

 

「確かに人の心を証明する事は出来ない、証明出来ないものを信じる事は出来ないと、彼女はそう云った……でも」

 

 いつか、セイアと交わした言葉を思い出す。夢の中で、微睡の中で。

 ハナコも知っている筈だ。五つ目の古則――楽園に辿り着きし者の真実。彼女の聡明な頭脳は即座に古則の情報を導き出し、その目が僅かに見開かれた。

 楽園(他者の心)を証明する事は出来ず、証明出来ないものを人は信じる事が出来ない。

 けれど、先生の答えは違う。

 

「証明出来なくとも、私は信じる」

 

 楽園が在る事を。

 そして、その他者の心(生徒の可能性)を。

 ハナコは先生の言葉を聞き届け、静かに息を呑んだ。

 

「たとえ、その結果……誰かに裏切られても、ですか?」

「裏切られても、だよ」

 

 ハナコの、強張った声に先生は答える。

 その表情は満面の笑みで、清々しい程に淀みなかった。

 

「――私は、先生だからね」

 

 ■

 

 いつか彼女は先生(わたし)に問い掛けた。

 理解出来ないものを通じて、私達は理解を得る事が出来るのか? と。

 その時の私は、確か、こう答えた筈だ。

 

 その心を証明出来なくとも、理解しようとする事を止めてはいけない。

 それが私達に出来る、唯一の事だから。

 だから。

 いつか、例え遠い未来の話であったとしても。

 その長い長い成長(可能性)の果てに、理解し合えると。

 

 ――先生(わたし)は、そう信じている。

 


 

 ミカの処遇ですが、本編よりも幾分か軽くする事にしましたわ。元々ミカって、混乱に乗じて一派の生徒が救出しに来る程度にはパテル分派の面々に好かれているんですよね。正直ミカがティーパーティーの権限をはく奪されたのは、パテル分派の生徒が彼女を首長から排斥しようとした為だと考えているんですの。つまり、ミサイル撃ち込まれて、「クーデター起こしますわ~!」ってパテル分派が活動を始めた時に、ミカが「おっけ~☆」って快諾したらワンちゃん失敗しても首長のままの可能性があったと思うんです(トリニティの存亡は除く)まぁ、ミカがそんな事するワケないのですが。

 

 他学園の事を持ちだすのはアレですが、レッドウィンター何か毎日の様にクーデター起きていますし、何ならナギサ様も間接的にシャーレに喧嘩売って先生殺しかけるわ、無罪の生徒を退学処分にしようとするわ、かなりやらかしていますし。キヴォトスに於いて学籍=国籍みたいな所があるので、学園を退学処分って国外追放レベルの処罰なんですよ、それでティーパーティーに在籍したまま、そんなに大きな処罰があったように思えませんし、後ろ盾(この場合はパテル分派)が存在する状態なら、ある程度議会の意見もコントロールできるのでは? という感じですわ。ついでに先生も頑張って根回しして、ミカは担がれただけで、その善意を利用されたという方向に持っていこうとしておりますの。

 

その分ヘイトはアリウス側に向きますが、全部ベアおばって奴が悪いんだゾ。生徒の責任は全部先生が受け持ちますが、それはそれとしてベアおばは大人なので自分で責任取って下さい。

 また三人で茶をしばきながら談笑する未来が見えますわ……。

 

 は~、早く先生を「前が見えねぇ」状態にしてぇですわ~。

 ミサイル撃ち込まれる瞬間は、皆に居合わせて貰おうね? アビドスも勿論呼んでおくからね。生徒皆の目の前でミサイルに吹き飛ばされて瓦礫に埋もれて血塗れになりながら這い蹲って苦痛に呻く姿を見て貰おうね。その後はヒナちゃん庇ってサオリに穴を空けて貰おうね……大丈夫だよ、痛みなんか感じない位にボロボロにしてあげるからね。先生の体に要らない部分なんてないから、全部有効活用してあげようね。命は大事にしないといけないから……。

 

 あ~、第一発見者ぁ~、誰にしよう……本編ママにしようかしら。

 先生のぉ、腕の取れた美しい姿を最初に見る栄誉を授かった生徒は、本編ならヒナタだし、でもおじさんという線も捨て難い。補習授業部はレストランで駄弁っていて欲しいしなぁ……正義実現委員会、或いはゲヘナ側という案も。

 

 でもヒナちゃんは後で庇われて絶叫するから泣き顔は取っておきたい。ズタボロにされて先生にすら負けちゃう力しか出ない状態で必死に抱きしめられて目の前で先生に鉛玉撃ち込まれていく姿を特等席で見せてあげる訳だから、やっぱり第一発見の栄誉は別の子に上げたいのですわ。うーむ、サクラコ様とか? あ、マリーも良いな……。って考えていくと全員良いですわ~! ってなるんですの。

 

 はーッ、先生の残機が一杯あったら無限に生徒の前で腕捥ぎしてあげられるのにな~ッ! 腕捥げて血塗れになりながら生徒を守る先生の姿美しすぎるだろッ! 反省しろッ! 

 



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試練へのカウントダウン

誤字脱字報告に感謝ですわ~!


 

「キキキッ! ようこそ、シャーレの先生!」

「やぁ、元気そうだね、マコト」

「あぁ! このマコト様はいつだって万全だとも!」

 

 ゲヘナ自治区――万魔殿(パンデモニウムソサエティ)、議事堂。

 作りの確りとしたソファにローテーブル、周囲を高価な絵画とゲヘナ校章の描かれた垂れ幕で覆われた部屋は、やけに広く煌々としている。その中央に彼女、万魔殿の議長であり、現ゲヘナ生徒会長のマコトは佇んでいた。いつも通りコートを羽織り、飾緒で繋いだ姿は変わりなく、室内にも関わらず帽子を目深く被った彼女はクツクツと笑い声を上げる。

 

「イロハも、こんばんは」

「はぁ……どうも、先生」

 

 その隣に立つ、いつも通り気だるげな態度を隠さない戦車長、イロハ。彼女に軽く声を掛ければ、手の中にあった手帳を閉じ溜息と共に小さく頷いて見せる。

 ソファに座りながら上機嫌に肩を揺らしていたマコトは、先生をじっと見つめながらふと口を開いた。

 

「しかし先生、漸くこの万魔殿の議長であるマコト様に協力の申し出をする気になったのだな!」

「うん、そう――……うん?」

「キキキキッ……シャーレと万魔殿、この二つが力を合わせれば、ゲヘナの風紀委員会如き簡単に壊せる筈だ、至って論理的な判断だと云える――いや、ゲヘナどころかキヴォトスすらも手中に出来るだろう……!」

 

 椅子に腰かけ、満面の笑み――かなり邪悪ではあるが――を浮かべたマコト。不意に飛び上がる様にして立ち上がると、朗々と歌い上げる様な声でそう告げる。その表情からは高揚と期待がありありと感じられ、先生を見つめる視線には熱がこもっている様に思えた。

 果たして、彼女の頭の中でどの様な理論が展開されたのかは分からないが、どうやら先生と自分がゲヘナ風紀委員会を壊滅させ、キヴォトスまでも手中におさめる計画が頭の中では展開されているらしい。手で顔を覆った彼女は、釣り上がった口元をそのままに叫んだ。

 

「計算は完了した、さぁ、直ぐにでも計画を実行しようではないかッ! 先生!」

「……あの、そういう会話は、せめて私達が居ない所でやって頂けませんか?」

 

 ――横合いから、呆れたような声が響いた。

 議事堂に先生と一緒に入室していた、ゲヘナ風紀委員会所属のアコである。ヒナが不在の場合、風紀委員会の指揮権を預かる席次二番。彼女は笑みを浮かべたまま、やや怒気を漏らし言葉を吐き捨てる。

 対象の前で堂々と敵対宣言をカマした上司の姿に、イロハは天井を仰ぎながら息を吐いた。尤も、この程度の事は日常茶飯事過ぎて、もはやどうとも思わなくなってしまったが――。

 

「マコト先輩、話を変な方向に捻じ曲げないで下さい」

「あん?」

「先生が今回私達に会いに来たのは形式的な問題です、先生はエデン条約にも参列されますので、顔合わせとしての訪問ですよ」

「……なら、我々との協力話は?」

「そんな話は元々ありません」

「………」

 

 イロハの淡々とした説明に、マコトは顔を顰めて数秒程沈黙を守る。広げていた手を組み直し、指先で顎を撫でつけた彼女は先生とアコ、そしてイロハを順に眺めた後、何かを悟ったような表情でほくそ笑んだ。

 

「……ふっ、成程、そうか――まぁ、楽しみは後に取っておくとしよう」

「うわ、これまた絶対面倒くさい事考えていますよ」

 

 気取ったようにコートを靡かせ、告げるマコト。彼女の思考回路が分からずとも、その暴走具合は良く知っているイロハはこれからの見え透いた苦労を想い、静かに肩を落とした。そんな自身の部下の心中など知らず、マコトは踵を鳴らして扉へと足を進める。

 

「よし、帰るぞイロハ」

「えっ、はい? もう良いんですか?」

「あぁ――キキッ、今日は先生の顔を見れただけで十分だ」

 

 告げ、マコトは颯爽と部屋を後にする。一瞥すらせずに退出して行ったマコトの姿にアコは額に青筋を浮かべ、口元を引き攣らせた。自由奔放、傍若無人、それでいていつも通り意味不明な彼女の行動にイロハは困惑と疲労を滲ませ、先生に小さく頭を下げる。

 

「全くあの人は……すみません、先生」

「全然、寧ろいつも通りで安心したくらい」

「あぁ、そうですか、そうですよね、先生はそういう人でした」

 

 先生の温厚な態度に、イロハは諦めたような感情を滲ませる。彼女の振る舞いに苦言を呈すか、注意する事を期待していたのだろうか。しかし、先生としては彼女の態度に思う所はない、流石に風紀委員会をどうこうするとか、キヴォトスを支配云々はやめて欲しいが――それはそれとして、それもまたマコトらしさというものである。

 

「……所で、お体の方は?」

「ん、大丈夫、もう何処も悪くないよ」

「――なら、良かった」

 

 一瞬、先生の全身を素早く視線でなぞったイロハ。彼女の問い掛けに、先生は軽く手を振って答える。言葉の前には間があった。しかし深く帽子を被り直したイロハは、瞳を先生に見せる事無く、その脇を抜け扉を潜る。

 

「では、また調印式の会場で……先生」

 

 扉を後ろ手で閉じる寸前、イロハはどこか普段と異なる雰囲気で以て、そう告げた。

 

 ■

 

「はぁ~……」

「お疲れ様、アコ」

 

 イロハとマコトが去った後、議事堂にて二人きりになった途端、アコは心底疲れ果てたと云った様子で息を吐き出した。肩を落とし、手にしたタブレットを胸に押し付けたまま彼女は項垂れる。その周囲には、疲労感と云う名の昏い空気が漂っている気さえした。

 

「最近、顔を見せられなくてごめんね、体調とか崩してなかった?」

「それは……まぁ」

 

 先生の問い掛けに、アコは歯切れ悪く頷いて見せる。

 彼女と顔を合わせるのは、トリニティに出張する前だったか。補習授業部の合宿で一ヶ月、負傷して一ヶ月、トリニティに籠りきりだった先生は二ヶ月以上アコと顔を合わせていなかった事になる。道理で久方ぶりに感じる訳だと、先生は心の中で納得した。

 

「それにしても意外でした、先生がエデン条約に参列されるとは」

「ゲヘナとトリニティの橋渡し役というか、調停役と云うか、両方に顔が利く役の人となると、連邦生徒会とかになっちゃうからね……まぁ、私が自分から出しゃばったという面もあるんだけれど」

「……相変わらず、ご自分で仕事を増やすのがお好きな様ですね」

「こればかりは性分かな」

 

 アコの何処か棘のある言葉に、先生は苦笑を零す。頼られたら断れない。いや、断りたくないというべきか。そうでなくとも今回は、例え招致されていなくとも参加する気であったのだ。渡りに船、という奴である。

 その、相も変わらずな先生の態度に彼女は仕方なさそうに肩を竦め、それから数秒程言葉を選んだ後――彼女は徐に問いかけた。

 

「――ところで、先程から何処を見ていらっしゃるのですか?」

「えっ? アコの横乳だけれど……?」

「………」

 

 先生の視線はアコと会話を交わした時から、ずっと彼女の横乳にへばりついていた。まるで彼女の横乳に相手の目や口があるのだと云わんばかりに、ずっとその一点を凝視している。

 アコの服装は、控えめに云ってかなりぶっ飛んでいた。いや、キヴォトス全体で見れば、「あぁ、いや、まぁ、そういう服装の子も居るよね、うん」というレベルなのだが、生足の映えるベルトにストッキング、首元にはカウベルと極めつけは胸元両脇を大胆に切り抜いた衣服。

 

 たわわに揺れる横乳――横乳である。

 

 これを見ずして何が大人か、何が男か、何が浪漫か? 寧ろこのような目の法楽を提供して貰っておきながら視線を向けないなど、アコに対して失礼極まりないとすら云えた。先生はそう云った気遣いの出来る大人だった。故にこれは、胸元を開けているアコに対してのマナーなのだと思った。

 

 じっと自身の胸元――具体的に云うと露出された横乳に視線を向けて来る先生。アコは暫くそんな大人の姿を眺め、不意にその視線を遮る様に、自身の胸元を腕で覆う。掌と腕の繊維が横乳を覆い隠し、その横乳(エデン)は遥か遠くへと姿を隠した。

 瞬間、先生の目が見開かれ、焦燥した様子で捲し立てる。

 

「っ、何をしているんだアコ!? それでは呼吸が出来なくなってしまう!」

「……別に、此処(横乳)で呼吸している訳ではないのですけれど、私」

「ッく、仕方ない、此処は人工横乳呼吸を……!」

「先生?」

 

 呆れた視線、具体的に云うとジト目で先生を見つめて来るアコ。そんな淡泊な反応に反し、先生は至極真剣な様子でアコに詰め寄る。生徒の命が掛かっているのだ、真剣になるのも当然だった。

 事は重度に政治的かつ性癖的な問題を含んでいる。先生はどうやってアコの自傷行為、具体的に云えば横乳封鎖を解かせるか思考を回し、歯を食い縛りながら窮地を切り抜ける秘策を想った。

 そんな事をしていると、議事堂の扉がノックされる。二人が声を上げるより早く、そっと扉は押し開かれ、その隙間から見慣れた顔が中を覗いた。

 

「……先生、居る?」

「――おや、ヒナかい? 久しぶりだね」

「……―――」

 

 顔を覗かせたのはヒナだった。ノックの音が聞こえた瞬間、先生は臨戦態勢だった姿勢を普段の直立不動へと変え、シャーレの青いタイを正しながら穏やかに微笑んで見せる。対峙していたアコは信じられないものを見る様な目で先生を見つめていたが、扉から顔を覗かせたヒナに気付き、慌てて声を掛けた。

 

「ひ、ヒナ委員長、確か明日まで出張だった筈では……?」

「思ったより早く片付いたから、さっき戻って来たの」

 

 そう素っ気なく答えるヒナは、頬が僅かに赤らんでいる。恐らく急いでゲヘナに戻って来たのだろう。微かに跳ねた髪が彼女の影の努力を物語っていた。

 ヒナは扉を大きく開くと、ドアノブを握ったまま目線で先生を促す。

 

「アコもお疲れ様、先生は私が送って来るから休んでいて」

「し、しかし、出張から戻って来たばかりで、委員長こそお疲れでは――」

「良いから、これは命令」

「っく……!」

 

 命令、その一言にアコはそれ以上口を挟む事が出来なくなる。しかし、このまま何も云わず引き下がる事も出来ず、先生の傍に静かに身を寄せると、ヒナには聞こえない声量で必死に囁いた。

 

「ヒナ委員長に妙な事をしたら容赦しませんからね……!?」

「という事は、アコになら妙な事もして良いのかい?」

「……っわ、分かりましたから、人工横乳呼吸でも、わんわんプレイでも、何でもさせてあげますからヒナ委員長には手を出さないで下さい!」

「――そっかぁ」

「……アコ?」

「な、何でもないですよ、ヒナ委員長ッ!」

 

 先生が満面の笑みで頷いた事を確認し、アコは素早く先生から身を離す。訝し気な表情を浮かべたヒナであったが、時計を見れば良い時間である。余り無駄話をしている暇もない。ヒナに促されるまま先生は議事堂を退出し、アコは若干引き攣った笑みで、二人の背中を見送るのだった。

 

 ■

 

「先生、さっきの……アコと何を話していたの?」

「さっき? アコとは最近の出来事とか、調子はどうかなっていう、他愛もない話をしただけだよ?」

「………」

 

 ゲヘナ本校舎、廊下を歩く先生とヒナ。夜の校舎は人の姿もまばらで、特に議事堂方面には人気(ひとけ)が全くない。そんな中、二人の交わす声は良く響いていた。ヒナの問い掛けに飄々とした様子で答えた先生、そんな彼を見たヒナは足元に視線を落とし、やや不満を滲ませた声色で呟く。

 

「仲が良いのね、アコと」

 

 それは、明らかな嫉妬心から来るものだった。ヒナの目からは、先生とアコが酷く親し気で、気の置けない関係の様に見えて仕方なかったのだ。

 先生と会っている回数は、私の方が多いのに。今日も先生が来ると知ってスケジュールを一週間前から調整し、無理をして業務を終わらせた後、急ぎゲヘナに戻って来た。先生と会える時間は貴重だ、先生も多忙の身だし、自身もゲヘナ風紀委員長としての業務がある。立場的にも、時間的にも、一分一秒、ほんの五分足らずの時間でさえヒナにとっては貴重で、尊いものだった。

 故に、先生が他の生徒に対し心を砕いている様子を見ると――少しだけ、昏い感情が顔を覗かせてしまう。普段押し込んでいたそれが表に出てしまったのは、疲労と少しの油断からだった。

 

「ん? まぁ悪くはないと思うけれど……もしかしてヒナ、寂しかった?」

「ッ、なっ……! ち、ちが――」

 

 その呟きを拾った先生の言葉に、ヒナは思わず声を詰まらせる。頬を紅潮させ過剰な反応を見せるヒナに、それが図星であると悟った先生は、何かを決めた様に頷き足を止めた。

 

「よし、それなら、おいでヒナッ!」

「………」

 

 そして徐に両手を広げ、構える先生。両手はハの字、顔は真剣そのもの。ヒナは唐突なそれに目を見開き、困惑を滲ませたまま口を開く。

 

「な、何しているの、先生……?」

「何って、抱擁(ハグ)の準備だけれど」

 

 寧ろ、それ以外の何に見えるのだろうか。レッサーパンダの威嚇とかだろうか? 確かにキヴォトスの生徒からすれば何の脅威にも思えない恰好だろうが――。先生は手を広げた格好のまま眉を下げる。少しだけ不安になった先生は、思わず問いかけた。

 

「えっと、もしかして要らなかった……?」

「っ、く……ぅ――」

 

 途端、苦悩――過酷な表情。

 先生の悲しそうな顔はヒナの心をダイレクトアタックし、彼女は歯を食い縛りながら唸りを上げた。抱擁、先生との抱擁――以前受けたのはトリニティの騒動が起こる前、大橋での事。あれから一ヶ月以上経過した今、その温もりに飢えていると云っても過言ではない。

 しかし、此処はゲヘナ――それも誰の目があるかも分からない本校舎である。ヒナには立場があった、それに守るべきイメージ、印象もある。ゲヘナ風紀委員会の長が校内で先生と抱擁など、ヒナとしても先生としても大変宜しくない。

 

 しかし、それを拒むという選択肢も大変な苦痛を伴うものであった。暫くそう逡巡していた彼女は、素早く周囲を見渡し耳を澄ませる。他の生徒が存在しない事を念入りに、それこそ何度も確認し、ヒナは先生の腕を抱えて廊下の片隅に押し込むと、そのまま先生の懐に身を寄せた。

 

 結局、リスクよりも役得を選んだヒナ。

 途端、服越しに感じられる人の温もり、先生の鼓動。自分より背丈の大きい先生を体全体で感じ取り、思わず安堵の息が漏れる。

 

「はぁ、全く……こういう事、他の生徒にはやっていないでしょうね?」

「え? どうかな、疲労困憊になって倒れそうになった生徒を介抱した事はあるけれど……」

「……それはカウントしないであげる」

 

 そう口にして、一体何様のつもりなのだとヒナは思わず自己嫌悪に陥った。先生を縛る権利など自分にはないし、そもそも自分は先生にとって一生徒に過ぎないというのに。まるで彼女か、それに準じる存在かの様な口ぶり――考えて、ヒナは自身の顔が赤くなる事を自覚した。

 それを隠す為に、ヒナは先生の胸元に顔を埋める。ふわりと、鼻先に先生の香りが漂った。

 

「あ、ずるい、私もヒナ吸いして良い?」

「……急いで戻って来て、汗も掻いているから駄目」

「そっかぁ、残念」

 

 先生の胸元からくぐもった声を上げるヒナ。彼女の頭頂部を見下ろす先生は、大変悲しそうに肩を落とした。

 

 ――ヒナ委員長に妙な事をしたら容赦しませんからね……!?

 

 アコの言葉を思い出し、先生は緩く首を振る。ヒナを吸っていたら、アコとの約束を破る所であった。

 いや、でもヒナ吸いって妙な事かな? 妙な事って、具体的にどんな事なんだろう? 先生は考える。妙な事、それはもっとこう、駄目な奴の事なんじゃないか? と。

 教師として絶妙なライン、それこそアコとのわんわんプレイとか、横乳人工呼吸とか……ヒナに横乳人工――? やめよう、殺意が形を伴って飛んでくる。

 けれど、ヒナ吸い位ならオッケーなんじゃないだろうか? どうなんだろう、今度聞いてみよう――先生は心の中でそう思った。

 

 先生がそんな事を考えているとは露知らず、ヒナは先生の胸元に身を預けながらゆっくりと体から力を抜いていた。

 

「……はぁ、疲れが溶ける気がする」

「それは何より、ヒナはちょっと頑張り過ぎだから、偶にはゆっくり休んでよ」

「先生も、人の事は云えないでしょう?」

「私は大人だからね、身体も頑丈なのさ」

「――嘘吐(うそつ)き」

 

 先生の言葉に、ヒナは微かな笑みと共に吐き捨てる。キヴォトスの生徒の前で身体が頑丈などと、良く云えたものだ。ヒナの腕が先生の腰を抱き締め、その指先がシャーレの制服を強く掴んだ。それは、彼女の執着の顕れだった。

 

「……体、大丈夫なの?」

「大丈夫だよ、ちゃんと完治したから」

「……なら、良いけれど、トリニティの方は落ち着いた?」

「一応、でもまだまだやる事は山積みかな? エデン条約の後も色々と仕事が残っているし」

「そう、という事は私にも云っていない問題をまた抱えているって訳ね」

「うん……?」

 

 先生の胸元に顔を埋めていたヒナは、目線だけで先生を見上げ、細々とした声で告げた。

 

「あの時、私に話した事が全部本当なら、もう終わっている筈でしょう? なら、先生はまた別の面倒事――問題を抱えたって事になる」

「それは、まぁ、そう……かも?」

「……別にどうして全部云わなかったのって責めている訳じゃないから、アビドスの件ならまだしも、トリニティの事だし……やたらと複雑で、先生側にも事情があって当然」

 

 先生をぎゅっと、一際強く抱きしめヒナは続ける。

 その声には、先生の今後を憂う感情が込められていた。

 

「色んな観点があって、見方によって真実は変わるかもしれない……あの時、先生はそう云っていたけれど、トリニティの裏切者が見つかっても、それはある特定の観点からの真実に過ぎない――それだけで全てを判断するのは難しいから」

「……そうだね、その通りだ、だから別の可能性も同時に模索する、そうすれば今まで見えていなかった、別の真実が見えて来るかもしれない」

「……ゲヘナの私が口に出す事ではないけれど」

 

 ヒナのそれ()が、先生の瞳を覗き込む。

 

「補習授業部、と云ったかしら? 信頼されているのね、先生に」

「ヒナの事も、同じ位信頼しているよ?」

「――知っているわ、前にも聞いたから」

 

 ふっと、ヒナの口元が緩むのが分かった。先生の胸元に押し付けられたそれは、微かな擽ったさと熱を感じさせる。ヒナの吐息が、先生の肌を熱していた。嬉しそうに細められた瞳、その片側を隠す前髪を優しく払いながら先生は微笑む。

 

「この世界は、口に出さないと伝わらない事が多いからね」

「全く……――」

 

 目を瞑り、暫し沈黙を通すヒナ。

 それから先生の胸元で数度深呼吸を嗜んだ後、ヒナは静かに先生から腕を離し、身を引いた。

 途端、肌を撫でる冷たい風。先生の温もりが消えた事を残念に思いながらも、ヒナは羽織ったコートを払う。

 

「ん、もう良いの?」

「えぇ……こんな所、他の生徒に見られたら事だし」

 

 呟き、周囲を数度確認する。自身の醜態――もといこの様な会話を聞かれては、風紀委員長としての沽券に関わる。軽く乱れた衣服を整え、髪を指先で整えると、いつも通りの完璧な雰囲気を周囲に振り撒き、ヒナは踵を返した。

 

「行こっか、先生」

 

 ■

 

「――帰り道、気を付けてね」

「うん、ありがとう」

 

 本校舎外、校門前に立つ先生はヒナに感謝の意を示す。空は暗く、頭上には星々が瞬いていた。校舎周辺を歩く生徒の姿は疎らで、その殆どは何らかの役職を持つ生徒である。皆エデン条約に先駆け、どこか忙しそうに見えた。先生は所在なさげに髪を指先で弄るヒナを見つめ、ふと声を掛ける。

 

「ヒナ、もしかしてなんだけれど」

「ん? 何」

「まだ、アコに引退の事は話していないの?」

「……引退の件は、先生以外まだ誰にも話していないから、アコは何となく気付いているかもしれないけれど」

「ん、そっか……ヒナのタイミングがあるもんね」

「引退って云っても、そんな大袈裟な事じゃない、少し疲れたから休みたいってだけで――」

 

 言葉を続け、ヒナは徐に首を振る。そこからは、僅かな倦怠感が滲んでいた。

 

「……この話はやめよう、そんな大事な事でもないし」

 

 大事な事ではない――それは少なくともヒナの視点からは、という事なのだろう。先生は彼女の意思を汲み、それ以上問いかける事をしなかった。

 

「それじゃあね、先生――また、調印式で」

「うん、ありがとう、ヒナ……またね」

 

 次に会えるのは調印式――そして互いの立場から、余りに話し込む暇はないだろう。その事を想い、少しだけ寂寥感を醸し出すヒナの背中を見送り、彼女の姿が見えなくなるまで手を振って――先生は懐に仕舞っていたタブレット(シッテムの箱)を取り出し、その名を呼んだ。

 

「――アロナ」

『はい、先生』

 

 呟くと、待機モードにしていたアロナは素早く画面を点灯させた。青い教室でひとり待っていた彼女は、画面前に開いていたモニタをそのままに先生へと視線を向ける。

 

「ゲヘナで調達していた物資の方はどう?」

『えっと、一応秘密裏に購入する事は出来ました、その分搬入ルートが少々複雑になりそうですが……』

「構わない、調印式にさえ間に合えば良い」

 

 アロナの声に、先生は淡々とした様子で呟く。

 先生が今回ゲヘナに足を運んだ理由。それは調印式に先駆けた挨拶、顔合わせという側面が強い。しかし、本当の狙いは別にあった。

 調印式で起こるであろう惨劇、それを回避する為には様々な準備が必要だ。そして、どこの自治区にも大抵は、『表に出せない取引』を行う場所がある。それはゲヘナ正規品の横流しであったり、単純に違法品として製造された物品で在ったり、他所の自治区から強奪してきたものであったり、様々。

 

 本来であれば先生はそれらを取り締まる立場にある。しかし、こういうものは何でもかんでも止めさせれば良いというものではない。故にこそ、あらゆる自治区でこういった小規模のブラックマーケットとも呼べる場所が存在するのは、半ば暗黙の了解として認められていた。

 

 そして今回、先生がアロナに依頼したのは、シャーレ名義ではない形での裏取引。云ってしまえば、兵器や弾薬の購入である。

 残念ながらシャーレとして購入出来るのは所属している生徒の兵装、兵器、及び必要と認可された装備の弾薬、整備用部品、設備のみである。移動用のヘリコプターなどは別だが、自走式の対空砲等の極めて限定的な兵器の購入申請など、まず通る事はない。使用用途として事細かに理由を説明しなければならないし、そもそも申請して通ったとしても、それがシャーレに配備されるまで大変時間も手間も掛かる。

 

 更にそれを他所の自治区に動かすとなれば、それもまた申請を出し、どのような理由で、どのような使用用途で――という形で連邦生徒会からの承認が必要だった。兎にも角にも、十全なバックアップを受けた上でシャーレとして動くには手続きが必要なのだ。シャーレには特権があるが、それはそれとして何処でも自由に兵器を持ち歩きして良い訳ではない。

 

 その点、裏取引ならば金さえ払えばその場で引き渡しも可能、時間という面だけで見れば非常に手続きの数が少ない。当然、それを動かすのも使うのも先生の自由、書類などは無いし、単純な移動手段だけ在れば良かった。

 

 当然の話ではあるが、ゲヘナとトリニティがエデン条約を結ぶ調印式、その会場に堂々と大部隊や兵器を持ち込むことは出来ない。仮にも和平条約、現地に並ぶ部隊の殆どは儀仗兵(見せかけ)の意味合いが強く、ゲヘナもトリニティも、風紀委員会や正義実現委員会などを除けば戦力は程々。警備関連については両者合意の部隊、装備しか用いず、今からそれらの配備や数を変更する事は難しい。

 

 故に、先生が秘密裏に行うのは人員を用いず防衛可能な自動迎撃ラインの構築。調印式の行われる大聖堂周辺を完全防衛権内にするべく、トリニティ、ゲヘナ、ミレニアムと自治区問わず走り回り、物資を調達して回っていたのだ。

 

『トリニティ、ゲヘナ、ミレニアム、一応必須の弾薬や機材の類は揃ってきました、ただそれぞれの場所で購入した合計金額を考えると、その……――』

「まぁ、流石に相応の金額にはなるよね」

 

 アロナのどこか濁したような云い方に、先生は思わず苦笑を零す。分かっていた事だが、現在先生の懐はとても寂しい。今後、以前の様に趣味の玩具を購入できるのは当分先の事になるだろう。

 

「暫くは節制かぁ……でも、お金で安全が買えるなら、安いものだよね」

 

 この時に備えて、先生はこのキヴォトスに来てから細々と貯金に勤しんでいたのだから。途中、どうしても我慢できなくなってフィギュアやら課金やらしてしまったが――それ位なら誤差である。

 少し卑怯な気もするが、スーパーアロナちゃんの力も借りて、先生ひとりならば老後まで食っていける程度の金額をこの半年間の間に稼いでいたのだ。尤も、それでも兵器や弾薬を買い込むと、到底十分な資金とは云えないとなるのだから困ったものだが。

 

『違法取引という点でもそうですが、金額を見られたらユウカさんに怒られてしまいそうですね……』

「……それは云わない約束で」

 

 アロナの言葉に、先生は肩を落として苦笑する。

 この事は、墓まで持って行くと誓ったのだ。

 


 

 次回 先生ガチ勢による準備回――先生に内密で、彼女達も着々と備えていきます。おじさん、ワカモ、ハナコは何を想って調印式を迎えるのか? そしてそれが終われば、皆さんが待ち望んでいた調印式、当日ですわ。

 

 Twitterで前回投稿した「コハルちゃんの前で首を吊ったドッキリをする先生」の漫画に、ドッキリの後、「エッチなのは駄目、しけッ……!」ってなって、不安になるコハルちゃんかわヨみたいなリプが付いていて、「は~、何それ、めちゃエモ」って思いました。

 目の前で先生が一回死刑(首吊った)になったからこそ、言葉の重みと云うか、現実性が加味されて本当に先生を死刑にしたい訳でもないし、ただの言葉だって分かっているのに怖くなって口に出せなくなっちゃうコハルちゃん概念はとても私の趣味趣向に合っていますね。素晴らしいです。誰か描いてくれる事を期待していますわ。

 



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夜に溶けた、希望の星(調印式、前夜)

誤字脱字報告、助かりますわ!
今回、一万二千字ですの。


 

「う~ん……う~ん」

 

 シャーレ本棟。

 普段先生が執務を行っている部屋にて、忙しなく歩き回る人影が一つ。備え付けられたソファに座り、お茶を嗜む生徒がひとり。そして歩き回る生徒をじっと見つめる生徒がひとり。

 彼女達は忍術研究部、以前まではトリニティ自治区客室棟にて宿泊していたメンバーであったが、つい先日エデン条約調印式が行われるという事で、一時的にシャーレへと帰還し、待機していた。

 

「イズナ、ちょっとは落ち着きなよ~」

「し、しかしですね、部長! やはりイズナとしては、主殿の事が気掛かりと云いますか……!」

 

 ミチルの苦言に、イズナは尻尾を振り回しながら反論する。てっきり彼女としては、調印式の間も先生の警護を継続できると考えていたのだ。

 しかし、予想に反して先生からは帰還指示が出され、調印式が終わるまでは待機を強いられている現状。イズナの表情からは不満と不安がありありと感じられる。

 

「で、でも、調印式が終わるまでは百鬼夜行かシャーレの方で待機してくれと、先生から云われていますし……」

(あたし)としても先生殿の事は心配だけれど、なんだっけ? エデン、条約……だっけ? それが終わるまではトリニティも忙しいみたいだし、幾らシャーレと云ってもトリニティでもゲヘナでもない、別の学園の生徒が会場内部に居るのは拙いと思うし~……」

「うぅ、それは理解しているのですが……!」

 

 二人の言葉に、思わず項垂れるイズナ。せめて野次馬の一部としても良いから傍に居たい、そんな感情が心の中にある。しかし会場に出入りを許されているのは、一部の来賓と正式な手続きを踏んだ報道関係者(クロノス・スクール)のみ。シャーレの権限を使えば他所の学園の生徒であろうと会場入りさせる事は出来た筈だが、先生はその選択を取らずに待機を命じた。

 今からでもどうにかこうにか、会場に潜入できないか頭を捻るイズナは諦め悪く言葉を紡ぐ。

 

「それこそ忍の如く、こう、影から主殿を御守りしたりとか……っ!」

「いや、見つかったら普通に学園間の問題になっちゃうよイズナ……」

「イズナちゃんの気持ちもわかりますが……うぅ、私では隠れても、この身体だと直ぐに――」

 

 忍者の様に陰に潜んで――確かに忍術研究部としてはそそられる話である。しかし、それをやってしまえばどれだけ大事になるか、ミチルであっても理解しているし、そもそもトリニティはアリウス襲撃の件から少し経つと云っても未だに空気がヒリついている。そんな中、無断で侵入した挙句に見つかってしまったら――その未来を考えるだけで寒気がした。

 

「ん、あれ、ワカモ?」

 

 ふと、ミチルは執務室を後にしようとするワカモの姿に気付いた。彼女はひとり、隣の部屋で待機していた筈だが――その手にはいつもの愛銃と、顔には狐面が被さっている。ミチルに釣られて廊下に踏み出そうとしているワカモに気付いたイズナは、首を傾げながら問いかけた。

 

「ワカモ殿、お出掛けですか?」

「――えぇ、少し所用がありまして」

 

 淡々とした口調でそう答えるワカモ。その姿勢は自然体で、いつもと変わらない雰囲気を纏っていた。

 ツクヨは壁に掛けてある時計に目を向ける。

 

「もう外も暗いですけれど、こんな時間に外出を……?」

「ご安心を、いつもの散歩の様なものですから」

「そう、ですか……?」

 

 時折、彼女はこうして夜に出かける事がある、それは決して珍しい事ではない。何となく引っ掛かるもの覚えた面々だが、引き留める確固たる理由がある訳でもなく、彼女達はワカモを笑顔で送り出した。

 

「良く分かんないけれど、あんまり先生殿の困る事はしないでよ~?」

「ワカモ殿、お気を付けて~!」

「く、暗いですから、足元気を付けて下さいね!」

「……えぇ、ありがとうございます」

 

 彼女達の声に軽く手を挙げ、ワカモはシャーレの廊下へと進む。扉が閉まり、薄暗い廊下にライトが点灯すると、彼女は静かに歩き始めた。コツコツと、靴が床を打つ音のみが周囲に木霊する。肩に掛けた愛銃をそっと指先で撫でつけ、ワカモは呟く。

 

「――存外、居心地が良いと感じているのでしょうかね、(わたくし)は」

 

 思い返すのは忍術研究部の面々。先生自らがスカウトし、正式にシャーレの権限を用いて結成した部隊。ワカモの場合は押しかけたと云っても良いのでカウントされないかもしれないが、何だかんだと付き合いが長くなってきたのも事実。今まで替えの利く手足として部下を用いた事はあったが、対等な関係、協力者として共に立つ者など皆無だった。

 

 面映ゆい限りだが――友人、と呼んでも良い関係かもしれない。

 

「えぇ、しかし、私の居るべき場所はただ一つ……あなた様の隣のみ」

 

 友人、何と聞こえの良い言葉か。しかし、例え友人であったとしてもワカモの信念は変わらない。

 世の中には二つの存在がある――先生と、それ以外。

 重要なのは、優先順位。そしてその絶対的な一番目は、あの日のまま。

 何も変わってなどいない。

 愛銃を握り締めた彼女は暗がりの広がる廊下、その奥へと足を進める。

 

「今、逢いに()きます――先生」

 

 どの様な地獄であれ、苦難であれ。

 先生(あの方)が隣に居るのならば――彼女にとって、その場所こそが楽園(エデン)なのだ。

 

 ■

 

「すー……すー……」

「ん、む……うぅ……」

「………」

 

 トリニティ――客室棟、大部屋。

 補習授業部が合宿を行った部屋に酷似した一室、そこは客室棟の一角であり、給仕や宿直担当が宿泊する為の部屋である。そんな一室、備え付けられたベッドの一つに、アズサ、ヒフミ、コハルが固まって眠っていた。

 彼女達の寝顔は穏やかで、何の憂いもない。寧ろ喜色が漂っており、確かな幸福を感じさせる寝顔だった。

 

 数日前にアズサが解放され、先生やシスターフッドからの後押しもあり、彼女は正式にトリニティの生徒として学籍を得るに至った。そのお祝いとして皆で先生の宿泊している客室棟に部屋を借り、ささやかなパーティーを開いていたのだ。

 部屋には手作りの垂れ幕と紙飾り、クラッカーの紙片が散見され、壁際には海に行った際に撮影した写真がコルクボードに張り付けられている。

 幸せに満ちた空間だった。

 そんな彼女達を見守りながら、ひとり窓辺に佇んだハナコは呟く。

 

「遂に、明日ですか――」

 

 カーテンに手を掛け、そっと外を仰ぐ。いつもは美しく見える夜空が、今は酷く不気味に見えた。

 

「エデン条約、調印式」

 

 声は、暗闇に溶けて消えた。幸せな今に反し、暗雲の立ち込める未来は刻一刻と迫っている。ハナコは未だ迷っていた。それは、この補習授業部としての立ち位置。

 即ち――単身として動くべきか、補習授業部として動くべきか。

 

 あの、大人びたシロコの話を聞いて――ハナコは今日に至るまで、出来得る限りの手を尽くして来たつもりだった。とは云っても、現在のハナコに出来る事など高が知れている。精々調印式に先駆け、シスターフッドに警備や装備に関して助言し、周辺の地形や不審物の点検、巡廻を行う程度。

 ハナコ個人として動かせる戦力が在る訳でもなく、当たり前だが対空砲火を都合してくれる人物に心当たりもない。というよりも、彼女(シロコ)の話が現実になるのであれば、この行動すら無意味なものであるとハナコは理解していた。発射する前を抑えられたのなら一番良いが、一度空に放たれてしまえば為す術はなく。それこそトリニティ内部から発射される保証もなく、最悪ゲヘナ側から飛来する可能性すらあった。

 

 それでも、彼女は自分なりに会場である古聖堂から、『自分ならばどこから発射するか』と思考し、それらしいポイントを絞って回った。人気の少ない地区、アリウスの活動していた箇所から逆算し、配備が可能な場所。或いはトリニティの対空砲火、その比較的薄い箇所。

 それらを順に巡り、現地を観察し、僅かな痕跡も逃すまいと嗅ぎ回ったが――全て空振り。それらしい兵器も、痕跡も、見つける事は出来なかった。

 

 そうなれば、もうお手上げだ。射出された後に対応出来るのはそれこそティーパーティーか、正義実現委員会位なものだろう。そして残念ながら、彼女達を納得させられるだけの材料をハナコは用意出来ずにいる。

 

 無論、正直に打ち明ける事も考えた。しかしその場合、どの様な手段で攻撃を仕掛けて来るか不透明になるというデメリットも生じてしまう。彼女の云っていた未来の知識――それは諸刃の剣。先の事が分かるからと、その出鼻を挫けば後に倍々になって返って来る可能性すらある。扱いを間違えれば――待っているのは破滅だ。先生が以前から警戒していたのは、それだった。

 

 ――先生は、裏で色々と動いている様ですが……。

 

 思考し、最近の先生の行動を思い返す。

 普段通りに振る舞っている様だが、ハナコには分かる。先生の顔には微かな焦燥と不安が滲んでいた。それを表に出すまいと綺麗な笑顔で覆い隠すからこそ、彼女には分かった。

 

「………」

 

 穏やかに寝入る、三人を見る。

 補習授業部――ハナコが漸く見つける事が出来た、自分の居場所。

 出来れば、補習授業部(彼女達)を巻き込みたくはない。実際、補習授業部は調印式に招集されてはいなかった。それは未だ正義実現委員会に復帰していないコハルも含めて。

 ならば、単身で先生の元に向かうべきか、それとも――彼女達に寄り添い、舵を取るべきか。

 

「………むぅ」

「ぁう――!」

「ぅ……」

 

 アズサが寝返りを打ち、ヒフミの額へと無造作に手を打ち付ける。ぺちん、と音が鳴り、悲鳴に反応したコハルが小さく体を震わせた。

 アズサの寝がえりと共に、皆の体を覆っていたタオルケットが蹴飛ばされる。

 

「……ふふっ」

 

 地面に垂れたそれを被せ直し、ハナコは笑みを漏らす。並んだ三人の顔を眺め、ぐっと心の中にある怯懦を押し込んだ。

 

「私が、守らなくちゃ――ですね」

 

 守りたい。

 先生も。

 この補習授業部も。

 傲慢かもしれないが、心の底からそう思えた人達だから。

 だから、幸福でいて貰いたい。

 恐怖とは、無縁であって欲しい。

 彼女達の前髪をそっと払い、ハナコは想う。

 

「……きっと、大丈夫です」

 

 呟き、ハナコは窓から夜空を見つめた。

 僅かに欠けた月を仰ぎ――彼女は静かに選ぶ。

 補習授業部(彼女達)に、寄り添う道を。

 

「私は、信じていますから」

 

 先生を。

 そして、その選択(未来)を。

 

 ■

 

「………」

 

 アビドス本校舎――深夜。

 対策委員会部室、その隣にある倉庫代わりの部屋。肌寒い空気が頬を撫でる中、ホシノはひとり椅子に腰かけ愛銃に一発一発、シェル(弾薬)を込めていた。

 弾薬と銃の擦れる音、それが部屋の中に響く。彼女以外にメンバーの影はなく、物資の積まれた部屋で一人佇む彼女の表情は暗い。

 

「ふぅー……」

 

 この緊張感、いつぶりだろうか。

 ホシノは弾込めの終わった愛銃をつぶさに観察しながら、そんな事を想う。

 大人びたシロコから伝えられた未来の知識、トリニティにて露見したヘイロー破壊爆弾の存在。それらが齎す、自分達に対する特攻、致命的な損傷。

 

 ――今度は、本当に死ぬかもしれない。

 

 そんな漠然とした不安がホシノの背中を覆っていた。

 銃撃戦ならば、今まで何度も経験して来た。そこに恐怖が全くない訳ではないが、それでも何とかなる、してみせるという自負と想いがある。

 けれど、ヘイローを破壊する爆弾という異質な兵器は、たった一度の判断ミス、油断を刈り取り、確実に命を奪い取るものだ。今まで頭の片隅程度にしかなかった、死という概念がホシノの精神を大きく動揺させた。

 

 ――アビドスは、皆で一つ。

 

「話すべき、なんだろうね、本当は……」

 

 銃を抱え、ホシノは呟く。声は、か細く力なかった。

 嘗ての戦いでホシノが掴んだ真理、共に乗り越えた高い困難の壁。たとえ一人では無理でも、皆と一緒ならば乗り越えられる。その実感を、ホシノはあの事件を経て得た。

 だから、今回の事も彼女達に明かし、協力を仰ぐべきだと分かっていた。

 小鳥遊ホシノひとりでは乗り越えられずとも、アビドス(対策委員会)の皆と一緒なら――きっと。

 

「でも……」

 

 背を丸め、ホシノは膝を抱える。

 脳裏に過る先生の顔、そして対策委員会の皆。

 暖かな日々、順風満帆とは行かなくとも、共に笑い合えるささやかな日常。それを想い、ホシノは肩を震わせる。

 

「――怖い」

 

 そう、怖いのだ。

 そんな彼女達を喪う事が。

 アビドスの皆が――傷付く事が。

 大事だから、怖い。大切だから、恐ろしい。

 喪ってしまう事、死と云う絶対的な別れ。

 アビドスの皆を巻き込めば、それが現実的な未来として横たわってしまう。

 それを、ホシノは選べずに居た。

 

「こんな夜中に――何をしているんですか、ホシノ先輩?」

「っ……!」

 

 だから、(ホシノ)だけでも――。

 そう考えていた彼女の耳に、聞き慣れた声が届いた。

 思わず目を見開き、椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がれば、そこには扉の前に立つアヤネの姿があった。いつの間に、そう思いながらホシノは思わず愛銃を背に隠す。それが無駄な行為だと分かっていながらも、そうせざるを得なかった。

 

「あ、アヤネちゃん」

「ん、夜の散歩にしては少し遅すぎるね」

「シロコちゃんまで……」

 

 扉を開き、顔を見せるアヤネとシロコ。そしてその背後には、いつもの面子が揃っていた。寝間着ではなく、制服姿で。それも皆、きちんとした装備まで持ち込んでいる。その事に戸惑いを隠せないホシノは、思わず視線を左右に散らす。

 

「全く、こんな事だろうと思った!」

「ふふっ、やっぱり居ましたね、ホシノ先輩」

 

 二人並んだセリカとノノミが、どこか呆れたように声を上げる。ホシノは咄嗟に顔を逸らして、努めて何でもない様に頬を掻き、へらりと笑った。

 

「……うへ、どうしたの皆、全員で夜更かしかい? おじさん、感心しないなぁ」

「そっちこそ、そんな装備をぶら下げて何しに行くつもり? 弾薬まで沢山持って、随分物騒じゃない」

「――いつも通りのパトロールだよ、アビドスも前と比べれば平和になったけれど、それでも不良は居るからねぇ」

 

 セリカの言葉に、ホシノははぐらかすようにして手を振る。実際、夜のパトロールをホシノは時折行っていた。だから別段、おかしい事ではない、そう説明する。けれど、彼女達からの疑惑の目が消える事はない。

 

「そんな完全装備で、ですか?」

「パトロールにしては、重装備過ぎる」

 

 アヤネとシロコの指摘に、ホシノは思わず言葉を詰まらせた。

 彼女達の視線の先には、折り畳まれた防弾盾に腰には弾薬と医療品の入ったポーチ。更に普段身に着けているハーネスはボディアーマーに変わっており、普段彼女が見せるだらしのない雰囲気は一変、彼女の戦意と真剣さが感じられる装備となっていた。

 大抵彼女がパトロールを行う時の装備は、愛銃と防弾盾程度。こんな弾薬やら医療品やらを用意して臨む事は一度もなかった。

 

「――エデン条約」

「っ……!」

 

 アヤネが、不意に言葉を漏らす。

 その単語を聞いた瞬間、ホシノの肩が分かり易く跳ねた。

 

「やっぱり、トリニティ絡みの事なんだね」

「前に出張した時、何かあったんですか?」

「水臭いわね、何で私達に云ってくれなかったのよ?」

「……別に、そういう訳じゃ――」

 

 その反応に確信を得たアビドスの皆は、口々にホシノを問い詰める。思わず俯き、口をまごつかせるホシノ。

 そんな彼女の肩を優しく掴む影があった。俯いていた顔を上げれば、すぐ傍に見えるノノミの顔。その表情はいつも通りの笑顔で、包み込む様な優しさが漂っていた。

 

「忘れたんですか、ホシノ先輩?」

 

 どこまでも希望に満ち溢れ、慈しむ様な心地良さ。ずっと、一年前から変わっていない彼女の優しさ。その背後に、ホシノの大好きな皆が立っている。自分を見る瞳には確かな信頼と、どこか呆れの色。けれどそれは、友愛の裏返しである事を知っている。

 ノノミが息を吸い込み、満面の笑みと共に云った。

 

私達(アビドス)は、皆で一つなんですよ!」

 

 その言葉に。

 心に刻まれた文言に、ホシノは思わず苦笑を零した。

 

「――忘れる訳、ないよ」

 

 呟く。

 そう、忘れる訳がないのだ。

 その言葉だけは。

 あの時、この身に刻んた感情だけは。

 

 ――私達は、アビドス対策委員会。

 

 傷だらけでも、どれだけ強大な敵が相手でも、仲間(アビドスの皆)が居て、先生が一緒なら。

 きっと乗り越えられると(奇跡だって起こせると)信じている。

 

「――ごめん、皆、ちょっとおじさん、怖気づいちゃっていたみたい……前と(黒服の時と)同じ過ちを繰り返す所だったよ」

 

 ホシノは、力なく笑った。

 けれどそれは諦観から来る笑みではない、自分自身に対する――怒りから来る遣る瀬無い笑みだった。

 そうだ、自分は信じている、先生を、皆を。どんな困難であろうと、どんな壁であろうと、皆と一緒なら乗り越えられると。

 信じていた、筈だった。

 それが曇っていた、死を前に怖気づき、また同じ選択を繰り返そうとしていた。自分が皆を大切に想う気持ちと同じ位、彼女達もまた、自分を大切に想ってくれているのに。

 

「まぁ、ホシノ先輩ってそういう所あるから……でも、ちゃんと事前に相談してよね! こっちにも色々準備とかあるんだし!」

「ん、戦闘用意は万全、ちゃんと色々用意した」

「ホシノ先輩、話してください――先輩は、何と戦おうとしているんですか?」

 

 予めこうなる事を予見していたかのように装備を持ち込んでいた皆。アヤネはタブレットを小脇に挟みながら、ホシノに問い掛ける。彼女がこんな重装備で赴こうとしていた、その理由を。

 

「詳しくは、云えない――でも」

 

 一瞬、言葉に詰まったホシノは視線を足元に落とす。しかし二度、三度息を吸った彼女は顔を上げ、力強い瞳で以て皆を射貫いた。

 

「先生の参加する明日の調印式、その会場が襲撃される」

「……!」

「だから(おじさん)は、先生を助けたい」

 

 皆の体が強張るのが分かった。

 大雑把な説明だ。到底、現状が理解出来るものではない。しかし、実際何が起きるのか分からないという点では、ホシノも同じだった。

 大まかな予想は銀狼から聞き及んでいる。しかし、その通りになるかどうかは分からない、寧ろそうならない可能性の方が高いと彼女は云っていた。既に彼女の知る世界とは、アビドスで(マダム)と対峙した時点で解離してしまっているから。

 それでも――先生が志半ばで斃れる可能性があると、そう述べる程度には危機感を抱いている。彼女(マダム)は、必ず何かを仕掛けて来る。その確信がある。

 

「多分、これまでとは比較にならない程、酷い戦闘になると思う、正直――帰って来れるかも分からない、最悪、ヘイローが壊されるかも」

「えっ、へ、ヘイローが……!?」

「うん、相手の学園(アリウス)は、ヘイローを破壊する為の爆弾を持っているんだって、だから最悪、本当に最悪の場合……私達の誰かが死んじゃうかもしれない」

 

 セリカが息を呑み、手を握り締める。ヘイローを破壊される、即ち死――その未来が決してあり得ないものではないと提示され、思わず尻込みする。それは、ごく普通の反応だった。

 銃弾程度ではビクともしないキヴォトスの生徒は、普段余り死というものを意識する事がない。だからこそ、その概念に対する反応は敏感だ。

 

「私は皆が大事だから、だから、一人の方が良いかもしれないって……そう、思って――」

「大丈夫」

 

 ホシノの声を遮ったシロコが、セリカの肩を掴む。びくりと跳ねた髪が踊り、けれどシロコは力強く断じて見せた。

 

「私達なら、絶対に大丈夫」

「……シロコちゃん」

 

 不安を掻き消すように、皆を勇気づける様に、彼女は繰り返す。

 全員を見渡すその瞳には、絶対的な光が宿っていた。

 尻込みしていたセリカは、ぐっと唇を結び、歯を噛み締める。そして軽く自身の頬を張ると、心の中に生まれた怯えを掻き消すように叫んだ。

 

「そっ、そうよ、今までだって何とかして来たんだし! その程度! 今更何よ!」

「……それに先生が危険だと聞いて、何もせずにいるなんて出来ません!」

「そうですね……! 確かに、恐怖が無いと云えば嘘になりますが――」

 

 アヤネが、眼鏡を指先で押し上げ告げる。

 

「それでも、それを乗り越えて今の私達が在ります……! 大丈夫です、きっと! 私達なら乗り越えられるって信じています!」

「皆……」

 

 命の危険を感じる戦闘なんて、何度もあった。

 先生が来てくれる前も、先生と共に戦った時も。あの、赤い怪物と対峙した時だってそうだ。けれど、その悉くを乗り越え、今のアビドス(自分達)がある。

 アビドスは、進む事を選ぶ。

 それがどれだけ辛い道でも、険しい道でも――その道を歩んで来た大人の背中を知っているから。

 

 恐怖があった。

 不安があった。

 けれど、それに勝る――希望(掴みたい未来)があった。

 

「うん、分かった……行こう、トリニティに」

 

 ホシノが告げた。

 愛銃を握り締め、立ち上がった彼女は皆を見る。

 そこに、先程まで存在していた迷いはなく。

 未来を見据える、一人の生徒だけが居た。

 

「先生を助ける為に――行ける、皆?」

「とぉぜんッ!」

「勿論ですよ!」

「ん、準備完了」

「ドローンも万全です!」

 

 皆が愛銃を掲げ、頷く。

 その表情に陰はない、どこまでも真っ直ぐな純白の感情のみがあった。

 いつか、先生が自分達を助けてくれた日の様に。

 今度は、自分達が先生を助ける番だから。

 ホシノは強く、強く愛銃を握り締め――叫んだ。

 

「――アビドス、出撃っ!」

「おーッ!」

 


 

「アルちゃ~ん」

「んぇ?」

 

 同時刻――便利屋68にて。

 事務所で過ごしていた面々の元に、どこか楽し気な雰囲気を纏ったムツキが飛び込んでくる。カップラーメンを啜っていたアルは唐突なそれに目を見開き、慌てて麺を呑み込んで澄まし顔を浮かべた。

 

「ん、んんッ、どうしたのかしら、ムツキ」

「アルちゃん、こんな時間にカップ麺? 太るよ~?」

「う、五月蠅いわね! ちょっと小腹が空いちゃっただけで……その分動いているから大丈夫よッ!」

 

 アルの手元にあるカップラーメンを見つめ、愉快気に笑うムツキ。その指摘に憤慨し反駁するアルだが、彼女の役割はスナイパーがメインなのでそれ程頻繁に動いたりはしない。尤も、その不運から何故か敵に追い回される事も多いため、決して運動量が少ない訳でないのだが。

 

「小腹が空いたからカップ麺かぁ、私達も人並みの贅沢が許されるようになったよねぇ」

「……まぁ、最近は先生のお陰である程度依頼が回って来るようになったから、殆ど雑用とか、簡単な護衛ばっかりだけれど」

「で、でも、そのお陰でご飯も毎日食べられていますし……えへへっ」

「確かに、ひと昔前はカップ麺ひとつを皆で分けて食べていたっけ」

「んんッ! そ、それでムツキ? 一体何事なの?」

 

 ソファに座った面々(カヨコ・ハルカ)が極貧時代の思い出を語り始めた為、アルは慌てて軌道修正を行う。公園にテントを張って過ごしたり、一つのカップ麺を皆で分け合ったりした日々、確かに楽しくなかった訳ではないが、それはそれとして便利屋の名が全く売れていなかった頃の話なので、アルとしては直視したくない過去なのだ。

 今や便利屋68はきちんとした一企業――の筈。

 アビドスの僻地ではあるが、ちゃんとした事務所だって構えられているし、毎日食うのに困っている訳でもない。依頼だって疎らにではあるが来るし、先生と云う太客も居るので当面は安泰だ。

 

「あっ、そうそう! これだよアルちゃん!」

「これって何よ……?」

 

 手を叩き、ポケットに入っていた端末を取り出すムツキ。いつもより二割増し程輝いてみえるムツキの顔にたじろぎながら端末を覗き込むと、そこにはクロノス・スクールの記事が一面に表示されていた。

 

「――エデン条約、調印式?」

 

 その見出しを口にして、アルは疑問符を浮かべる。

 エデン条約の単語を聞いたカヨコは、納得した様に頷いた。

 

「あぁ、そう云えば明日、うちの学校とトリニティが和平条約か何か結ぶって話だっけ?」

「えっ、そうなの!?」

「アルちゃん知らないの? 遅れてる~」

「うぐッ」

 

 ムツキの煽る様な言葉に、思わず歯噛みする。しかし彼女はへこたれる事無く、胸を張って堂々と叫んだ。

 

「こ、こういうのは情報担当の仕事だもの、私はそれを聞いて方針を決める――それがリーダーの役割よっ!」

「……強ち間違いではないけれど、それで、この調印式がどうしたの?」

「ゲヘナとトリニティが和平を結ぶって一大イベントだよ? 何だか楽しそうじゃん! トリニティ何て私達が滅多に行けない場所だし! ね、ね、行ってみよっ!?」

「……要するに、野次馬をしに行きたい訳?」

「そういう事!」

 

 カヨコの問い掛けに満面の笑みを浮かべるムツキ。カヨコは突き出された端末の画面をじっと眺めながら、頭の中で開催場所と便利屋の事務所、その距離と交通手段、運賃を計算した。

 

「会場はトリニティの古聖堂――アビドスからだと、電車を乗り継いで結構掛かるね」

「でも、前に先生の依頼でゲヘナに戻った時と同じ位じゃない?」

「そうだね、運賃はそこまで変わらないと思うけれど……どうする、リーダー?」

「わ、私はアル様の決定に従いますので!」

「う、う~ん」

 

 笑顔のムツキは当然乗り気、カヨコは其処まで金も掛からないので問題ないというスタンス、ハルカは完全にアルの方針に委ねる形。アルは端末を見つめたまま唸りを上げ、思案する。

 お金は別段問題ない、最近は大きな出費もないし、依頼のお陰で貯金もある。少し遠出して、一泊する位なら余裕だ。問題はこの、開催場所がトリニティの古聖堂という事で、正直ゲヘナの生徒としては余りに踏み入りたくない領域であり――。

 

「ま、まぁ、和平条約が結ばれるのなら、トリニティにゲヘナの生徒が居ても怒られないわよ……ね?」

 

 しかし、今回はエデン条約という和平を結ぶための会場。

 普段ならば絶対に近寄りたくはないが、今回に限っては正面から堂々と入れるだけの名目がある。アルとしてもトリニティなんて場所は自分と縁もゆかりもなく、実際に自治区に踏み入った事など中央区から離れた僻地に数える程。旅行先としては確かに、悪くない選択肢に思えた。

 そんな風に思考した彼女は、デスクを軽く叩き立ち上がる。

 

「――良いわ、最近は旅行なんて全然行けていなかったし、偶には遠出して遊びましょう!」

「やった~! アルちゃん、太っ腹~!」

「た、楽しみですね、へへ……っ!」

 

 皆で出かける事が楽しみなのか、笑みを浮かべるハルカ。アルに抱き着き、そのお腹を突くムツキ。「なっ、ちょ、やめっ、やめなさいムツキ! 私、太ってないからっ!」と太っ腹を別の意味に捉えるアル。そんな彼女達を尻目に、カヨコはひとり自身の端末を操作する。

 エデン条約――そう検索すれば、大まかな概要や記事がずらりと並んでいた。

 発表されたのはつい先日、唐突なそれにキヴォトス全体が沸き立っている。それもそうだろう、今まで険悪な関係を続けていた二大巨頭が手を取り合うというのだ。良くも悪くも、周辺の学園も変化を強いられる。

 

「――和平条約、ね」

 

 画面に映る文字を追いながら、カヨコは小さく呟いた。

 

「あの万魔殿が和平を選ぶなんて……ちょっと考え辛いけれど」

 

 声が他の面々に届く事はなかった。彼女の脳裏に過るのは、万魔殿のリーダーである生徒。何を想ってこの条約を受けたのか、或いは何か別の思惑があるのか。

 そんな事を考え、カヨコはしかし自分達には大して関係のない事だとページを落とす。騒ぎ出した三人を尻目に、カヨコはひとり旅行の計画を立て始めた。出発は明日の朝になるだろう、突発的なものだが、まぁ慣れたものだ。

 端末で列車の時刻と運賃、トリニティ中央区で予約できそうな宿泊施設を探しながら、カヨコはソファに身を預ける。

 

 ――その日、便利屋68の事務所には、夜遅くまで楽し気な声が響いていた。

 

 ■

 

 これが悲鳴に変わると思うと心が震えますわね……!

 

 次回――エデン条約、調印式。

 会場に集うゲヘナ、トリニティのメンバー。そして先生を守る為に戦いに赴くワカモ、アビドス対策委員会。平穏の中で無垢に明日を想う補習授業部、そして彼女達を守る為に立ち上がるハナコ。またしても何も知らない陸八魔アル。先生の全てを懸けた総力戦が始まりますわ。

 

 此処に来るまで百万と十万字、七ヶ月の月日をかけましたね、感慨深いものです。先生の手足を捥いで生徒に絶叫して貰いたくて始めたこの小説、此処のシーン、この場面を書きたくて始めた物語ですから、その本懐を遂げられると思うと嬉しいのやら悲しいのやら。

 何かこう、云い表す事の出来ない高揚感、或いは寂寥感の様なものを覚えます。もう、此処で終わっても良って云う位に、濃密に、事細かに、その情動と足掻きと慟哭を綴れたらと思いますわ。

 先生の最期、その生命の輝きをどうか見届けて下さいまし。

 

 



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エデン条約 調印式(地獄の門)

汝等こゝに入るもの一切の望み(希望)を棄てよ


 

 午前十一時半――古聖堂前。

 クロノス・ライブ、観覧者数六万人。

 ――チャットの際は、コミュニティガイドラインを遵守して下さい。

 

 ■

 

『今この動画をご覧の皆さん、こんにちは! クロノス・スクール報道部のアイドルレポーター、川流シノンです! 本日はついに締結される、ゲヘナ学園とトリニティ総合学園の、【エデン条約】の調印式、その現場に来ております!』

 

『私は今、通功の古聖堂、その前に居るのですが――既に現場には熱がこもっており、お互いに譲らないと張り詰めた空気になっております! 誰かが一歩間違えれば、この場が大惨事になりそうなほどの雰囲気……! 感じられますでしょうか、この空気感!』

 

『犬猿の仲とでも云いましょうか、呉越同舟と云いましょうか! 私達の良く知るトリニティとゲヘナの様相です! ……はい? 余計な事を云うな、早く進めろ? 仕方ないですね、今日も画面外から飛んでくる言葉が拳に変わる前に、ちゃっちゃとお話を進めていきましょう!』

 

『もの凄い威圧感ですねぇ! ここが調印式の会場である古聖堂の様子です! 何故この場が選ばれたのかという疑問につきましては、どうやらある筋の情報によりますと、ゲヘナ首脳部からの提案との事です、これは意外! 此処が嘗てトリニティ第一回公会議が開催された歴史的な場所だからでしょうか?』

 

『いえいえ、そうではないようです、どうやらその理由は――「これ程大きなイベントなのだから、大きくて権威のある場所が良い」、との事……要するにデカイ場所の方が恰好良いだろうが! との事です! 成程、分かり易いですね!』

 

『少々話は変わりますが、先程申し上げた第一回公会議、そしてその場で定められた戒律は、当時のユスティナ聖徒会という強力な集団が守り続けたと云われています、果たしてそれが関連しているのでしょうか? 本日はトリニティのシスターフッドも、この調印式に参加している事が確認されています! これまで長い間、対外的な活動を自ら禁じていたシスターフッド――彼女達が此処に来て、何故表舞台に登場したのでしょうか?』

 

『先程のユスティナ聖徒会、今では歴史の中に消えたその組織の後身を自任する、そう云った意味合いが含まれているのか、果たして――はい? 難しい話は良い? 視聴率とアクセス数が落ちる? 政治もやっていられませんが、デスクからの圧力もやっていられませんね! しかし、私達には言論の自由が――』

 

【現在、回線の影響などにより、映像が乱れております――少々お待ちください】

 

 ■

 

『ごほん――エデン条約が締結されるとその後、両学園の首脳部は古聖堂にて、【エデン条約機構】(ETO)の創設に同意する事になります! このETOを創設すれば、長年敵同士であったこの二つの学園は、お互いの間で行われる紛争について共に解決するという義務を背負う事になるのです! この古聖堂で締結されるという事もあり、神聖な戒律の守護に従い、その義務を誠実に果たす事が期待されるのではないでしょうか!』

 

『ややこしいですね、簡単に云いましょう! これまでいがみ合ってきた事でも有名なこのキヴォトスの二つの巨大な学園が、ついに平和の為に手を取り合おうとしているのです!』

 

『さぁ、そんな重要なタイミングで我らが連邦生徒会は、どのような声明を発表したのでしょうか? 昨日(さくじつ)行われた、連邦生徒会による緊急記者会見の様子をご覧ください!』

 

 ■

 

「――……以上で会見を終えます」

「ちょ、ちょっと待って下さい行政官! それはつまり、連邦生徒会長の行方はまだ分かっていないという事ですか!?」

「要するにそうです」

「要約しなくてもそうでは!?」

「連邦生徒会の能力について、世間の評価は厳しくなっています、その点については如何でしょうか?」

「まぁ、仕方ないんじゃない?」

「モモカちゃん……!」

「不確定な情報につきましては、現段階でのコメントは差し控えさせて頂きます」

 

「それぞれの自治区で起きているジェントリフィケーションへの対応策はどうなっていますか?」

「SRT特殊学園の閉鎖が決定した事、それと以前のサンクトゥムタワーでの騒動は何か関係あるのですか? タワーの一部が焼失したとの情報もありますが?」

「トリニティとゲヘナのエデン条約につきましては、どのようにお考えですか?」

「各学園の自治区内で発生した事件につきましては、基本的にそれぞれの学園に対応を委ねております、連邦生徒会の無暗な介入は却って無責任かと考えます」

「ま、介入する時間も人手もないし」

「モモカちゃん……!」

 

 ■

 

『はいっ! つまりは、【あんまり興味ない】という事ですね! 流石は連邦生徒会、そのおおらかさは天をも突き抜ける様です! では次に、このエデン条約に参加する各学園の主要人物につきまして――』

 

 ■

 

「……むぅ、随分と騒がしいな」

 

 アズサが不意に言葉を漏らし、店内のモニタに映し出されるニュースを見上げる。画面にはクロノス・スクール報道部のレポーターが何事かを捲し立てており、その背景には何とも荘厳な古聖堂が聳え立っている。

 トリニティ中央区、カフェ二階。その場所でケーキやパフェをつつきながら談笑に興じていた補習授業部は、店外から聞こえて来る人の喧騒に身を揺らした。

 

「あはは、今日はついに、あのエデン条約が締結される日ですからね、仕方ありません、特別に学校も休日扱いですし、街も人で一杯ですから」

「……何だか、お祭りみたい」

 

 ヒフミが頬を掻きながら頷けば、コハルは窓の外に見える大通りを見下ろし呟く。道行く人は余りにも多く、道幅の広い石畳の地面が殆ど見えない。

 その多くはトリニティの生徒達だが、ちらほらと他学園の生徒も歩いていた。トリニティの白の中で、そうではない色は良く目立つ。モニタの中継を見れば古聖堂周辺にはトリニティ以外の生徒が多く見られた。向こうに行く程、他所の生徒は増えるのだろう。クロノス等の報道関係以外にも、ゲヘナ、トリニティ問わず様々な種類の制服が垣間見える。

 

「……? ハナコちゃん、どうしましたか?」

「――いえ、折角のお祭り騒ぎなので、先生も一緒だったら良かったのにと思いまして」

 

 外を見つめながら沈黙を守るハナコに、ふとそう問いかければ、彼女は残念そうな声を漏らす。本来ならばこの場に先生を招待するつもりであったが、先生は調印式会場で仕事があるらしく不参加。

 

「そ、そうですね……でも仕方ありません、先生は条約の方で忙しいみたいですし」

「……突然連れて来られてホント、吃驚したんだから」

 

 目の前のパフェをスプーンで掬いながら、コハルは苦言を呈す。昨日のアズサ復帰パーティーもそうだが、補習授業部所属とは云え正義実現委員会としてもスムーズに復帰出来る様、その業務の見直しを行っていた所をハナコに拉致同然に連れ出されたのが彼女だった。自室にハナコが突撃してきた時は一体何事かと思った。よもや性的に襲いに来たのかと戦々恐々とした程。

 

「ふふっ、昨日のパーティーも楽しかったですが、やはりこういうものはちゃんとしておきたいですからね♡ 今日は実質的に補習授業部の卒業パーティーも兼ねていますから、もう少し付き合って下さい、コハルちゃん」

「べ、別に嫌とは云っていないじゃん! み、皆で頑張って乗り越えた訳だし……それに、補習授業部じゃなくなっても、それで全部終わりって訳じゃないし! 私はずっと正義実現委員会にいるから、押収品の管理室にでも来てくれたら大抵は――」

「うん、直ぐにでも遊びに行くよ、コハル」

「でしたら私も今度お伺いしますね、いつか押収されてしまった、カーマ・スートラを返して頂かないと」

 

 コハルの声に、アズサとハナコは微笑みと共にそう返す。補習授業部として活動する事はなくなってしまうかもしれないが、だからと云って縁が切れる訳ではない。トリニティの生徒として正式に認められたアズサも、今後は大手を振って校内を歩けるようになるだろう。また一緒にこうして集まる機会は幾らでもある筈だった。

 

「カーマ……? 何それ」

「古典文学の作品ですよ、噴水のところで気持ちよく読んでいたのですが、どういう訳か急に押収されてしまって……」

「古典文学? ふーん」

 

 古典文学という、如何にも堅苦しいジャンルにコハルは興味なさげに鼻を鳴らす。しかし、数秒程思考を巡らせた彼女は、軽くテーブルを叩きながら顔を真っ赤にして叫んだ。

 

「……って、そんな訳ないじゃん! あんたが読んでいる時点で絶対エッチな奴でしょ!? エッチなのは駄目! 焼却!」

「うーん、押収は兎も角、古図書館で借りたものなので燃やされるのは困るのですが……」

 

 コハルの剣幕に苦笑を浮かべるハナコ。カーマスートラ、古典文学と云うのは何も間違っていない。ただその内容が聖書ならぬ性書というだけであって――。

 

「む、危ない、ジュースが跳ねる所だった」

「あはは、アズサちゃん、その縫い包み、ずっと持ち歩いていますね」

 

 不意に跳ねたジュースの中身が縁に弾かれる。アズサは横に抱えていた縫い包みを抱き寄せ、その表面に付着しない様長椅子の端に移動させた。ヒフミがプレゼントしてくれたペロロ博士、監禁状態を脱して以降、ヒフミに預けていたそれを彼女はいつでも持ち歩いている。勿論、先生から貰った人形も一緒だ。

 ヒフミもまた、件の騒動で焼け焦げた人形を自分なりに必死に修繕し、ペロロバッグから垂らしていた。同じものをコハル、ハナコも所持している。購入したばかりの真新しいペロロバッグから顔を覗かせる人形は、陽に照らされ笑っていた。

 

「うん、大事なものだから……やっぱり持ち歩かないと」

「そ、そこまででしたか……いえ、ありがたいのですが! モモフレンズの世界は広いですし、折角なら他にも色々集めてみませんか? 今度、ぜひモモフレンズを専門に取り扱っている御店とかにも――」

「うん、楽しみにしている」

 

 アズサが微笑みと共に頷けば、ヒフミの瞳が物理的に輝いた。普段、この手の話題に喜んで付き合ってくれる友人は少ない。そこから専門の店に嬉々として同伴してくれる人物など皆無だった為、その喜びもひとしおだ。

 

「はい、是非! 今度、ペロロ様の冒険アニメも公開される事ですし!」

「……アニメ?」

「そう、そうなんです! 仲間達と力を合わせて悪を打ち砕き、共に苦難を乗り越え、最後にはみんな笑顔で終わると云う、そのエンディングが凄い感動的だそうで……!」

「……それ、大分ネタバレじゃない?」

「えっ、あ!? い、今のは忘れて下さい!」

 

 勢いをそのままに、アニメの最後を口にするヒフミ。口が滑ったのだろう、コハルが冷静にそう突っ込みを入れれば、彼女は慌てて口を覆った。

 

「ふふっ、ヒフミちゃんはそういうハッピーエンドが好きなんですか?」

「え? えっと、は、はい、そうですね――やっぱり、普通過ぎます……よね?」

「んー、悪いとは云わないけれど……ちょっとありきたりじゃない? 最終的に皆で仲良く大団円とか」

 

 テーブルに肘を突き、ストローを咥えたコハルはそう呟く。誰も傷つかず、皆で仲良く、最後は完全無欠のハッピーエンドで物語が完結する。良く云えば後味の良い物語、悪く云えば毒にも薬にもならない物語。決して悪いとは云わないが、それはそれとして面白みには欠けると思ってしまう。

 

「私も、ハッピーエンドは良く分からないな、頑張った所で世界はそうそう変わらない、傷はなかった事にならない、それがこの世界の真実だから」

「あ、あうぅ……皆、ダーク寄りなんですね……」

 

 思ったより賛同者が居ない事にヒフミは項垂れ、思わず落ち込んでしまう。コハルは兎も角、恐らくアズサは自身の人生観が反映されているのだろう。救いのないエンディング、誰かが傷付いて終わる物語。ヒフミは、そういった形のストーリーが苦手であった。テーブルの上で指先を合わせながら、彼女はおずおずと口を開く。

 

「私、そういうのはちょっと辛くて――やっぱり皆で幸せになれる大団円、ハッピーエンドが好きなんですよね……」

「まぁ好みは人それぞれですからね、因みに私はヒロインが目を蕩けさせて、涎を垂らしながら許しを請うタイプのエンディングが好きです♡」

「ばっ!? 馬鹿じゃないの!? そんなエンディングがある訳ないじゃん!?」

「そうですか? 結構あると思いますが……」

 

 ハナコは斜め上にハートを飛ばしながらそう宣う。彼女ひとりだけジャンルがアニメであっても、その前後に『R』が付く作品を語っていた。コハルは猫目になりながらテーブルをバンバン叩き、抗議を行う。それをのらりくらりと躱しながら、「今度、皆で上映会でもしましょうか?」とハナコは笑っていた。

 

「……むぅ、アニメというのは奥が深いんだな」

「い、いえ、流石にその、ハナコちゃんの云っているアニメは少し毛色が違うというか……」

「ふむ――とはいえ、ヒフミが好きならハッピーエンドも悪いものだとは思わない、それもそれで良いものなのだと思う、今度、そのアニメも見に行きたい」

「わっ、分かってくれるんですか、アズサちゃん!?」

「うん、私は知らないものが多いから、実際に見てもいない状態で語る事は――むぐッ」

「あ、アズサちゃんんん~ッ!」

「ひっ、ヒフミ、力、つよ……」

 

 理解者を得たヒフミは満面の笑みでアズサに抱き着き、彼女の頬に自身のそれを引っ付ける。片手でコハルをあしらいながらそれを見ていたハナコは、どこか微笑ましい様子で呟いた。

 

「ふふっ、このまま、全てが終わったら――」

「何よ、何か云った!?」

 

 ハナコに食いついていたコハルは、両手で彼女の肩をポカスカ殴りつけながら叫ぶ。ハナコは苦笑を零し、彼女の手を優しく受け止めながら答えた。

 

「……いえ、今日の調印式が終わったら、先生とゆっくりお話がしたいと思いまして」

「それはっ、た、確かに……先生、此処に居れば良かったのに」

 

 ハナコの言葉に手を止めたコハルは、同意を口にしながら力なく項垂れる。アズサやヒフミも同意見なのか、神妙な表情を浮かべはっきりと頷いて見せた。

 

「うん、私もだ、解放されてからちゃんとお礼も云えていない、一応手紙とかは貰っていたけれど……」

「そうですね……今、先生は古聖堂にいらっしゃるのでしょうか? 多分、忙しくされていると思いますが――」

 

 ■

 

「? すみません、業者の方ですか? 此方からは入れませんので、ご遠慮を」

「そこ、こっちは関係者専用だ、見物人は向こうに」

「……えっと」

 

 古聖堂、内部。

 極彩色に輝くステンドグラスを仰ぎながら、荘厳な雰囲気を醸し出す室内。ずらりと並んだ生徒達は、誰も彼もゲヘナ、トリニティにて何らかの役職を持っている幹部、行政官、委員メンバー。彼女達の周囲には各々の警備担当がぴたりと張り付いている。

 

 そんな中、連邦捜査部シャーレの責任者である先生は――出入り口で足止めを喰らっていた。

 

 シャーレの上着を脱ぎ捨て、腕章も着用していない彼は無個性なシャツ一枚の状態であり、心なしか注がれる視線は険しい。目前にはトリニティの正義実現委員会、そしてゲヘナの風紀委員会。分担の為だろう、東側をゲヘナ、西側をトリニティという形でそれぞれ境界線が設けられていた。

 先生は調印式開始前に周辺を走り回る必要があり、少なくない汗を流す羽目になると予想した為、待機室に上着やら腕章やら手荷物やら諸々を置いて来ていたのだが、まさかそれが仇となるとは思わなかった。

 

 さて、どうしたものかと頬を掻けば――不意にトリニティ側の生徒、正義実現委員会の生徒が隣り合った風紀委員を睨みつけ、吐き捨てる。

 

「……そこの風紀委員の方、今、この線を越えませんでしたか?」

「――はぁ? そっちが線を踏んでいたから、どかそうとしたんですけれど?」

 

 正義実現委員会の生徒が足元の線を指先で示せば、これ見よがしに爪先でその線を踏み締める風紀委員がガンを飛ばす。隣り合った彼女達ではあるが、協調性や平和という言葉は微塵も感じられない。互いに睨みを利かせながら顔を突き合わせ、挑発的な言動を繰り返す。

 

「あらそうでしたか、ゲヘナの方はいつも(地面)ばかり見つめていますものね、気付かなくて申し訳ありません」

「そっちは()ばかり見上げているからなぁ、足元が疎かになってるんじゃないか? 転んでも助けてはやれんぞ、ん?」

「ご安心を、転んでも折れる角はありませんので」

「ははっ、鳥目が何か云っているなぁ!」

 

 ズン、と。

 両生徒が同時に境界線を跨ぎ、力強い一歩を踏み出した。

 

「――喧嘩を売っていらっしゃるのでしょうか?」

「――先に売ったのはそっちだろうが」

 

 ごく至近距離で睨み合う両生徒。同じ黒と赤を身に纏う彼女達であるが、その内面は余りにも異なる。今にも額を打ち付け合わんとする彼女達は、肩に掛けていた銃に指先を伸ばし叫んだ。

 

「はっ! こうなったら話は早い、お前を取り締まってやる! オイッ!」

「――何だ、どうした?」

「なっ、二人掛かりですか!? そっちがその気なら――支援を要請します、増援をっ!」

 

 ゲヘナの風紀委員が呼びかければ、別のメンバーが駆け寄り、それを見た正義実現委員会の生徒が支援を要請する。このままだと雪だるま式に膨れ上がって、争いが起こる気配しかない。先生はその未来を案じ、慌てて止めに入ろうとして。

 

「――きひッ!」

 

 しかし、その必要はなくなった。

 正義実現委員会の増援、その声に反応して到来したのは一般委員などではなく。

 血の香りを漂わせる制服を身に纏った、正義実現委員会の委員長、ツルギであった。

 凄まじい跳躍と共に轟音を打ち鳴らし、大理石の床に着地を敢行するツルギ。風圧に制服を靡かせながら目を見開いた風紀委員の前に立つ――キヴォトス最強のひとり。

 

「なっ、せ、正義実現委員会の委員長!?」

「ぞ、増援どころかツルギ先輩……!?」

「きひはぁああアアアアアアッ!」

「うわぁああああッ!?」

 

 両手に持ったブラッド&ガンパウダー(二丁ショットガン)を振り回し、叫ぶ彼女の顔はホラー宛ら。慌ててその場に屈み込み、震えだした風紀委員を責める事は出来ない。仲間である筈の正義実現委員会の生徒ですら怯み、腰を抜かしているのだから。

 すわ、委員長の暴走かと周囲の生徒が悲鳴を上げ身を竦ませる中――騒ぎを聞きつけ人ごみから駆け寄り声を上げるシスターが居た。

 

「あ、あの、みなさん! 此処で喧嘩は駄目ですよ……! 折角平和の為にこうして集まったのですから、そうでしょう? ツルギさん!?」

「………」

 

 人ごみの中から駆け出し、声を上げたのはシスターフッド所属のヒナタ。シスター服と呼ぶにはやや扇情的な装いではあるが、やけに大きなトランクを手にしたまま必死に叫ぶ彼女を見て、ツルギはその動きを止める。

 急に動きを止め、虚空を見つめる彼女。両手に銃を垂らしたまま不自然に硬直する彼女は余りに不気味だった。

 ややあって、ぎょろりと視線を動かした彼女は、地面に這い蹲ったままの正義実現委員会、風紀委員の両名を見下ろし、告げる。

 

「……此処にいらっしゃるのは、シャーレの先生だ、憶えておけ」

「は、はいッ! 肝に銘じます!」

 

 互いに体を寄せ合い、声高にそう叫んだ二人は立ち上がるや否や慌てて駆け出す。それが逃走なのか、それとも持ち場に戻っているだけなのか、先生には分からなかった。 

 兎も角、自分の介入する間もなく騒動を収めたツルギに礼を云うべく、先生は彼女へと向き直る。

 

「ふぅ、ごめんねツルギ、腕章と制服が無いと、どうにもパッとしないみたいで……」

「ぅ……い、いえ、とんでもありません、先生」

 

 先生に声を掛けられたツルギは、先程までのホラー染みた顔を一変、頬を赤くしながら視線を左右に散らす。その何とも落差の激しい変化に、隣に立っていたヒナタが困惑するのが分かった。

 

「ではその、私は他の任務がありますので……!」

「うん、頑張ってね」

 

 ツルギはそう云うや否や踵を返し、再び跳躍で以てその場を離脱する。まるで影の様に人の合間を縫って移動する彼女――或いは、人が避けていくとも云う――を笑顔で見送って、先生は呟いた。

 

「やっぱりツルギは優しいなぁ」

「はい、そうで……えっ?」

「?」

 

 隣に立っていたヒナタは無意識に頷き、そして同時に驚く。

 やさ――しい……? 

 偏見を持たず生徒と接しようとする彼女ではあるが、それはそれとして正義実現委員会の委員長であるツルギの噂は聞き及んでいる。

 曰く、不良を潰れた空き缶の様に蹴散らし嘲笑った。曰く、違反者を高笑いしながら笑顔で痛めつけていた。曰く、不良百人を素手で叩きのめし、その山の上で高笑いをしていた――曰く、曰く、曰く。

 

 残念ながら彼女の周りから聞こえて来る噂や情報は、全てが全て血生臭く物騒で、とても優しさという言葉からはかけ離れたものばかりだ。勿論、そう云った面ばかりではないと理解している。しかし、先生が余りにもしみじみと呟くものだから、思わずヒナタは疑問の声を上げてしまったのだ。

 

「そうだ、ヒナタもありがとうね、騒動になる前に止めてくれて」

「あっ、はい……それで、その、先生?」

「うん?」

「制服の方は、どうなされたのですか?」

「あー……」

 

 ヒナタは普段よりラフな格好をしている先生を見つめながら、そんな事を口にする。緩められたネクタイに、ワイシャツが一枚。普段着込んでいる上着や腕章の類は見られなかった。調印式に参列する格好としてはやや不適切に思える。先生は保護膜で覆われた首元を指先で擦りながら、気まずそうに答えた。

 

「えっと、ちょっと彼方此方走り回ってさ、余りにも暑かったから脱いで待機室の方に置いて来ちゃったんだよね、今取りに戻る所だったんだ」

「そ、そうでしたか」

 

 よく見れば、先生の髪は所々跳ねていた。恐らく、両学園に呼ばれて色々と駆け回っていたのだろう。そう勝手に考えを纏めたヒナタは、理解したとばかりに何度も頷いて見せる。

 

「そう云えば、今日はヒナタ以外にもシスターフッドは参加しているのかい?」

「あ、はい、サクラコ様の指示で、基本的に主要なメンバーは参加しているかと――前回の事件をきっかけに、方針が少し変わった事もありまして」

「方針が変わったというと、対外的な活動を増やす……って事かな」

「はい、これまでの無干渉主義が以前の事態を招いた、そうお考えになられたのかもしれません……サクラコ様自身も直ぐご到着されると思います」

「ん、そっか」

 

 彼女の言葉に先生は一つ頷いて見せる。シスターフッドも参加するこのエデン条約、調印式。各学園の派閥、その普段顔を見せないトップすら一斉に出揃う。それだけで重要度、或いは規模の大きさが分かるというものだ。

 

「私達も基本的には色々と、調印式のお手伝いと云いますか、案内や警備の方を担当させて頂いているのですが……あ、よろしければ先生にも古聖堂の方をご案内いたしましょうか?」

「……そうだね、じゃあ制服を回収がてら、お願いしようかな」

「は、はい! では此方へ――」

 

 ぱっと、表情に笑顔を咲かせたヒナタ。彼女に連れられ、先生は古聖堂の奥へと足を進める。二人の頭上には、ステンドグラスを通した柔らかな光が降り注いでいた。

 


 

 あと二話。

 



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■■は見つけた、漸く――その世界を

誤字脱字報告、ありがとうございますわ~!


 

 古聖堂、回廊。

 古くから存在する建築物と云うのは、やはり独特の雰囲気を持つ。改修されたこの場所を廃墟と比較するのもおかしな話ではあるが、あの退廃的な雰囲気に神秘的な空気が交じり合ったような心地が確かにあった。ふとした瞬間に見える剥がれた塗装、回廊の隅にこっそりと生えた苔や小さな植物、全体的に手入れが行き届いているとは云えないものの、それでも人が活用出来る範囲では整えられている――そんな印象を抱く場所。

 清掃もまばらだというのに、汚れているという印象は受けなかった。どちらかと云えば自然的と云うべきか。あるがまま、朽ちた時を感じさせる風景。中庭を囲う回廊を歩きながら、先生は呟く。

 

「凄い所だね」

「はい、この通功の古聖堂は長い間、廃墟として放置されていましたが、今回ここで調印式を締結する事が決定し、大々的な修理が行われたそうです、その決定につきましてはトリニティのナギサさんと、ゲヘナのマコトさんとが合意したものと聞きましたが……」

 

 告げ、ヒナタは視線を横合いの地下通路に目線を通す。朽ちた石階段は所々欠け、苔が生え揃っている。回廊は比較的人の手が入っている様子だったが、地下はそうではないらしい。

 

「それでも全体が修理された訳ではなく、調印が行われる場所だけのようですね、下の方はまだ廃墟の状態でして」

「……結構深そうだね、迷ったら出て来れなくなりそうだ」

「あくまで噂ですが、この古聖堂の地下には大規模なカタコンベ(地下墓所)が存在するそうです」

「カタコンベ、か」

「はい、数十キロにも及ぶ地下墓地、第一回公会議の記述でも、終わりが見えない程だったと云われていまして――あ、此方の通路は封鎖されていますね、まだ修理中なのでしょうか?」

 

 回廊を進むと地下へと進む通路が見え、そこから先はテープで通路が封鎖されており、表面には通行禁止の表示が見えた。どうやら此方側は廃墟のままらしい。ヒナタに促されるまま迂回し、古聖堂の内部を更に進む。

 玄関部二階楽廊、身廊と側廊の会堂、内陣については既に目にしていたので迂回し、普段は目にする事の出来ない香部屋などもちらりと見せて貰った。どれもこれも先生にとっては新鮮で、余り触れる機会のないものばかり。その厳粛な空気に背筋を正しながら、先生は感嘆の息を吐く。

 

「何だか、彼方此方に歴史を感じるよ」

「えぇ、何せ第一回公会議の開かれた場所ですから……公会議に於いて締結される戒律は神聖なものです、その神聖さと云いますか、戒律の守護者たちの名残の様な何かが、まだ此処に残っているのかもしれません」

 

 ヒナタはどこか嬉しそうに、そんな事を口にする。彼女にとってはどのような形であれ、自身の所属するシスターフッドのルーツに触れられるのは喜ばしい事で、その根源を先生に知って貰えるのは更に喜ばしい事であった。

 

「そう云えば、その守護者というのは……」

「あ、えっと、何と云えば良いのでしょう――規則だとか、ルールというのは、罰則(ペナルティ)があって初めて機能しますよね? そうでなければ、誰もルールを守らなくなってしまいますし」

「そうだね……そういう側面は確かにあると思うよ」

「はい、なのでそのルール、制約の役割を持つ人々の事を、戒律の守護者と呼んでいたのです、約束やルール、戒律を破る者達に対処するトリニティの武力集団――それが、【ユスティナ聖徒会】です」

「ユスティナ聖徒会と云うと、シスターフッドの前身か」

「えぇ、歴史的にはそうなります――っと」

 

 この古聖堂は、そのユスティナ聖徒会が使用していた建物。つまりは、現シスターフッドの前身である彼女達のホーム。そう伝えられると、聊か見る目も変わるというもの。そんな事を考えていると、ヒナタの懐に仕舞っていた端末が振動し、着信を伝えた。

 彼女は端末を手に取ると、恐る恐る画面をタップする。また力を入れ過ぎて壊してしまう事を恐れているのだろう。それこそ赤子の頬をつつく様な優しさで以て表面に触れたヒナタは、その内容を確認しながら笑みを浮かべた。

 

「どうやらサクラコ様が到着された様です、ナギサさんの到着もそろそろだとか」

「分かった、それじゃあ一度戻ろう、二人を出迎えないと」

「はい、そうですね」

 

 先生の言葉に頷き、ヒナタは来た道を戻る為に踵を返す。先生もまた彼女の背を追って歩き出し――ふと、振り向き歩みを止めた。

 視線の先には、カタコンベへと通じると云う地下通路。その暗闇をじっと凝視する先生の表情は、険しい。

 

「……? 先生、どうかしましたか」

「――いや、何でもないよ」

 

 先生が足を止めた事に気付き、ヒナタは振り向きながら問いかける。先生は緩く首を振ると、へらりといつも通りの笑顔を浮かべヒナタの元へと駆け出した。

 

「行こう、皆が待っているから」

 

 ■

 

 ゲヘナ自治区――風紀委員会、執務室。

 

「――準備は出来た?」

「……はい、大丈夫です、あぁ、そう云えば万魔殿から古聖堂まで行く為の車両を貸し出して貰いました」

「車? どうして――」

「何でも今回、最新の飛行船を購入した様でして、『空を飛ぶ私達と綺麗に比較できるように、貴様らは地べたを這って来い』、とマコトさんが」

「……またそういう所に予算を」

 

 正装を着込み、普段よりも少しだけ硬い雰囲気を纏うヒナは、アコから伝えられた内容に溜息を吐き出す。貸し出された万魔殿の車両、どうせ外装や内装に金を掛けた代物だろう、実用性重視の風紀委員会のものとは異なる。

 そして当の本人たちは新型の飛行船を購入して意気揚々と出立済み、他に予算を使うべきところは幾らでもあるだろうに。考えれば考える程、頭が痛くなる事実だった。

 

「まぁ、今更か、これまでずっと調印式への出席をさせまいと邪魔しておいて、最後はこうして用意っていうのも変な話だけれど――兎に角、イオリとチナツも待機している、急ごう」

「………」

 

 考えていても仕方ない、足を貸してくれると云うのならばそれも良し。既にイオリとチナツは玄関口で待機しているのだろう。待たせるのも悪いと、ヒナは扉へと足を向ける。そんな彼女の背後で沈黙を守るアコ。彼女の足が動かない事に気付き、ヒナは溜息を零した。

 アコの浮かべる表情から――彼女の心の内が簡単に分かったから。

 

「はぁ、気に食わないのは分かるけれど……云ったでしょう、アコ」

 

 告げ、振り向く。

 俯き、暗い雰囲気を纏う彼女と対峙し、ヒナは淡々とした口調で云った。

 

「別に風紀委員会が解散する訳じゃない、これはただエデン条約機構(ETO)という足枷を万魔殿に嵌める為のもの、二度と逢えなくなる訳じゃないし、何かが大きく変化する訳でもない」

「はい、分かってはいるんです、風紀委員会は殆ど変わらないでしょう、そしてマコトには制約が付く、ですが、その時委員長は――」

「……とりあえず、今は式に向かうのが先」

 

 アコが憂いているのは風紀委員会の在り方、その未来ではない。

 その委員長という椅子に、彼女(ヒナ)が座っていないという未来。聡いからこそ、彼女が行ってきた様々な交渉、外交がどのような結果に繋がっているのかに気付いてしまう。

 その心内を理解しているからこそ、ヒナはそれ以上言葉を交わす事を選ばなかった。

 

「その話は、調印式が終わった後に、ゆっくりとね」

「……はい」

 

 ■

 

 トリニティ自治区――便利屋68、中央大通り。

 

「あははっ、凄い人だかりだね!」

「……流石に、これは進めそうにないね」

 

 目前に広がる人の群れ、その密度と熱気に思わずそんな言葉を漏らす。いつものバッグを担ぎながら楽しそうに周囲を見渡すムツキに反し、どこか辟易とした様子で呟くカヨコは気怠さを隠さない。元々、人の多い場所が得意ではない彼女はその熱気に顔を顰めていた。

 

「あ、アル様、わぷッ……!」

「ハルカ、ちょっと、大丈夫!?」

 

 その背後、人の波に揉まれながら流れる様に右往左往するアルとハルカ。ハルカは人の波に逆らう事も出来ず、皆とは違う方向へと蹈鞴を踏む。咄嗟にその腕をアルが掴むと、ハルカは体全体で縋り付くようにしてアルの腕を抱え込んだ。

 

「う、うぅ……す、すみません、ひ、人が余りにも多くて、流されそうになって……!」

「危ないわね……私の手を掴んでいて、これじゃはぐれちゃうわ」

「あ、ありがとうございます……!」

 

 アルの言葉に何度も頷きながら、ハルカはアルに密着する。蒼褪めた彼女の表情を見つめ、アルは今回の旅行が少々軽率である事を実感していた。エデン条約調印式というイベントの注目度を見誤っていたのだ。各学園の情報部や報道関係者が押し寄せ、そうでなくとも野次馬としてひと目でもその歴史的瞬間を捉えたいと思う生徒が大多数訪れている。古聖堂周辺の主要道路は交通規制が入り、大通りは人に埋め尽くされていた。

 

「どうしよう社長、この様子だと古聖堂の方は見れそうにない」

「う~ん、ムツキちゃんとしてもこの人混みを掻き分けていくのは嫌かなぁ」

「せ、折角ここまで来たのに……」

 

 大通りを埋め尽くす人の山を前に、便利屋の面々は足を止める。向こう側に見える大聖堂までは、まだまだ距離があった。普段ならば徒歩で数分程度の距離だろうが、このまま人の流れに沿って歩いたとして辿り着くのは何時間後か。

 

「はぁ……仕方ないわね、近くのレストランか、カフェにでも寄って行きましょう、折角トリニティまで来たんですもの、名物の紅茶でも飲んで行かないと勿体ないわ」

「ん、そうだね、それが一番かな」

「あっ、それならこのレビュー☆五の所行こうよ! ケーキが凄く美味しいんだってさ!」

「わ、私はアル様がよろしいのなら……」

 

 エデン条約調印式を見学するのは諦め、アルは即座にトリニティ観光へと舵を切る。旅行に来てストレスを溜め込んでは本末転倒、実際に目に出来ない事は惜しいが、それでもこの人垣を掻き分けて進むのは骨だ。便利屋の面々はアルの提案に賛同し、古聖堂から離れたカフェへと進路を変えた。

 

 ■

 

 トリニティ自治区――アビドス対策委員会、中央大通り外れ。

 

「人だかりが、向こうまで続いている……どうしよう」

「ここから先は、進めそうにありませんね」

 

 裏路地に身を潜めたシロコとノノミが、顔だけ表通りに向けながらそう呟く。戦闘用に装備を固めたアビドスの面々は、その悪目立ちする格好を避けるため裏通りから古聖堂へと進行するルートを選び、昨日から着々と距離を詰めていた。

 しかし、近付けば近づく程、人の数は多くなり、今では一人ひとり間を通り抜ける事すら困難に思える程の波が目前には広がっている。裏通りも厳しく封鎖されており、正義実現委員会と思わしき生徒が通路の前に立ち塞がっていた。

 

「今、上空からドローンで経路を割り出そうとしているのですが――」

「上手くいかないの?」

 

 タブレットと眼鏡のディスプレイに目を向けながら、アヤネは唸る。シロコがタブレットを覗き込めば、ノイズの走る画面が時折ちらりと映るだけの状態であった。それでも一応、飛行自体は出来ている様子だが、これでは情報を集めるどころではないだろう。

 

「どうやら妨害電波と警備用の自動タレットが配備されているみたいで、画面の識別も難しく、かと云って大きく動かす事も出来なくて……」

「ま、そりゃそうでしょ、トリニティとゲヘナの首脳部が一斉に揃うんだし」

 

 アヤネの言葉に、セリカはどこか納得の色を滲ませる。頭上を仰げば、平たい小型ドローンがゆったりと周囲を監視しているのが見えた。トリニティの用意した巡廻ドローンだ、危険人物の発見や物理的な攻撃を感知すると、甲高いアラートを撒き散らしながら上空に信号弾を発射する。掌に乗せられる程度にコンパクトで軽いというのに、デジタルとアナログなやり方双方を備えた優れもの。エデン条約調印式に備え、トリニティが開発した新型だと聞いていた。

 

「うへ……防備はバッチリって事か、下手に見つかって騒ぎは起こしたくないしなぁ」

「一番確実なのは、人が掃けてから行動する事ですが……」

 

 ホシノがそんな事を口走れば、アヤネは悩ましい表情で呟く。

 

「人が掃けるって、何時よ?」

「調印式が終わった時か、実際に襲撃が起こった時じゃないかなぁ……」

「それじゃ意味ないじゃん!」

「ん、そうなるとやっぱり潜入するしかない――」

 

 セリカの突っ込みに、シロコは淡々とした口調で云った。正面から堂々と行くのは難しい、武装した状態で古聖堂に近付くには正義実現委員会のフリをしたり、警備の身分があれば可能だろうが――。

 

「とは云っても、正義実現委員会とか風紀委員会の制服なんて持っていませんし」

「一般生徒が近付けない時点で、内部への侵入は無理な気がしますね」

「ギリギリまで近づいて、何かあったら一目散に突入するのが現実的かな……」

 

 裏路地や建物内を通って近付くルートは、時間を掛ければ見つかるかもしれない。しかし肝心の古聖堂敷地内に侵入する方法は不透明なまま。人の数は益々増し、アビドスの面々は身動きが取れなくなる。ホシノは自身の親指を軽く噛み、険しい表情のまま呟いた。

 

「歯痒いけれど、それしかないか……」

「分かった、なら――」

 

 シロコは近場の建物、その屋上を指差す。出入り口は皆の直ぐ傍にあり、運のよい事に屋上までの非常階段の扉は開錠されていた。屋内に身を潜めていれば、ドローンに見つかる事もないだろう。

 

「あそこで待機しよう、何かあったら多分、良く見える筈」

「……そうだね、そうしようか」

 

 頷き、行動を開始する対策委員会の面々。

 駆けながら、ホシノはちらりと端末を確認する。表示されるデジタル時計。

 調印式開始の時刻は――刻一刻と迫っていた。

 

 ■

 

『おっと、噂をすれば影! ゲヘナの万魔殿が、新型飛行船に乗ってやって来たようです!』

 

『ゲヘナ学園の議長、即ち生徒会長の羽沼マコトです! 流石と云いますか、物凄いカリスマです! 多分! あれがゲヘナ生徒会長としての威厳!』

 

『そしてトリニティ総合学園に於けるティーパーティーのホスト、桐藤ナギサも古聖堂に到着したようです! 両学園の主要人物が、次々と集まってきています!』

 

『そろそろゲヘナ風紀委員長も到着との事で、周囲の雰囲気は益々ヒートアップ! 皆さん、引き続きこの様子をご覧くださ――』

 

 ■

 

 端末の電源ボタンを押し込み、液晶の光を切る。

 あれ程騒がしく言葉を紡いでいたレポーターの声が無くなった途端、彼女の周囲は沈黙が支配した。

 端末から視線を上げると、自分を見つめる複数の瞳。

 アリウス・スクワッドのメンバー――ミサキ、ヒヨリ、姫。

 薄暗いカタコンベの廊下、地下特有の肌寒さと静謐に身を包まれながら彼女(サオリ)は問いかける。

 

「――準備は」

「問題なし」

「は、はい、終わりました! チェックも出来ていますし、色々と確認も……!」

「あの人形との接触はどうだ」

 

 その問い掛けに、姫は両手を素早く動かし答える。最初は戸惑った手話も、今は慣れたものだった。

 

「……なら問題はない、全ては整った」

 

 告げ、立ち上がる。

 壁に立て掛けていた愛銃を手に取ると、チャンバーと安全装置のロックを確かめ、弾倉の中身も検めた。これから始まるのは彼女達の悲願、全てが変わる歴史的な一戦。この為にアリウスはあらゆる犠牲を容認し、長い年月をかけて来た。

 小さく身震いしたヒヨリが自身を搔き抱き、呟きを漏らす。

 

「こ、これから辛い事になっていくんですね、みんな苦しむんですね……ですが、仕方ありません」

「そう、結局……それがこの世界の真実」

「――始めるぞ」

 

 二人の呟きを横に、サオリはカタコンベの廊下を歩き出す。靴底が硬い床を叩く音が木霊し、彼女の後を三人の仲間が追った。

 サオリは手に持った罅割れた端末、その画面を二度タップする。

 瞬間、カタコンベ内のライトが一斉に暗転し、真っ赤な非常灯へと切り替わった。

 周辺から一斉に機械音が鳴り響き、装着したインカムから微かなノイズが発せられる。端末には各アリウス分隊からの配置完了連絡――皆が自身の端末に目を落とし、最終確認を行う。

 

「――ミサイルは」

「既に射出済み、五分後にターゲット地点に着弾する予定」

「各チームの状態」

「つ、通路前で待機中、手筈通り私達の攻撃に合わせて作戦地域に突入するとの事です」

「……作戦に変更はない、古聖堂の崩壊と同時に突入、生き残りを殲滅する、ミサキとチームⅡはトリニティ、ヒヨリとチームⅢはゲヘナの主要戦力を叩け」

「了解」

「チームⅡの最優先目標はツルギ、チームⅢはヒナだ」

「は、はい、わかりました! ヒナさんですね……!」

「チームⅠ、チームⅣは――」

 

 サオリがそう云って視線を横に向ければ、隣り合った姫が手話で応答する。

 

「……そうだ、通路に沿って地下へ、知っての通り一番重要な任務となる」

「………」

「分かっている、気分は悪いだろうが、もう少し我慢してくれ」

 

 サオリの言葉に、姫は静かに頷いて見せた。

 カタコンベにアラートが鳴り響く、頭上を回転する赤い非常灯。廊下の突き当りには、巨大な隔壁が徐々にその内側を晒し始めていた。向こう側に見えるのは、突入ポイントE-08――古聖堂直下、カタコンベへの道。

 

「えっと、サオリさんは……」

「私は他にやるべき事がある、それが終わり次第チームⅤに合流する――残りのチームは野次馬共と、万が一抵抗する他学園の者が居たら対処しろ、戒律を更新次第、チームⅡ、Ⅲは其処に合流、一帯を制圧する」

 

 告げ、サオリは外套のポケットに入れていたマスクを取り出し、それを被る。この半面(マスク)に覆われていると、酷く落ち着いた心地になれた。隔壁が開き、アリウス自治区とトリニティ自治区の境界線が現れる。この隔壁の向こう側へと踏み出せば――もう戻る事は出来ない。

 

 いや、今更だ。

 戻る事などもう、疾うの昔に出来はしない。

 そう――アリウスに生まれたその時から、こうなる事は決まっていたのだ。

 

 ふと、視線を横に逸らせば、薄暗い廊下の端で膝を抱える幼い頃の自分が見えた気がした。細く、小さな体は弱さの証明で、非常灯の赤に照らされた顔は酷く無機質に見えた。その小さく朧げな自分はじっと、地面に座り込んだまま今の(サオリ)を見つめている。硝子玉の様な瞳が、ただ一点、自分だけを。

 その瞳に映るのは非難だろうか? それとも――。

 

 その答えを知る前に、サオリは帽子のつばを摘まみ視界を遮った。

 幼い頃夢見た未来は遥か遠く、けれど世界はそんなものだと彼女は知った。

 夢を見る事も、将来を望む事も、未来を語る事も――意味などない。

 だって。

 

 ――全ては虚しいのだから。

 

「……アリウス・スクワッド、出撃するぞ」

 

 宣言し、前へと踏み出す。

 分厚い靴底か鉄を擦り合わせる音を搔き鳴らし――サオリ達、アリウス・スクワッドはトリニティ自治区へと侵攻を開始した。風が彼女達の外套を揺らし、その瞳が敵意に染まる。

 そう在れと教えられたから。

 それ(憎悪)以外を、教えられなかったから。

 だから彼女達は、この道を進む。

 

 全ては喪った過去に、報いる為に。(憎悪の連鎖を、絶やさぬ為に)

 

 ■

 

 ――【vanitas vanitatum, et omnia vanitas】

《コヘレトは云う、なんという虚しさ、なんという虚しさ、すべては虚しい》

 

 ■

 

「――警備の配置は」

「――宣誓時の音響を」

「――の準備を、正義実現委員会に」

 

 トリニティ自治区、古聖堂広場。

 見物人が詰め寄り、ゲヘナとトリニティの生徒達が互いに整列したその場所で、先生はひとり空を見上げていた。周囲に響く生徒達の喧騒、忙しなく駆け回るスタッフを他所に、旗を掲げる旗手の表情は涼し気だ。

 ナギサ、ヒナが古聖堂に到着し、ゲヘナ万魔殿議長、マコトも近く到着すると報告されている。それぞれの組織を束ねる彼女達は挨拶もそこそこに、早速方々への指示出しと調印式の最終確認を行っていた。時刻を確認すれば、既に三時を回っている。

 調印式が開始される時刻は、直ぐそこまで迫っていた。

 それに合わせ、見物人も続々とその数を増やし、熱気が周囲を包み込んでいる様。先生はそんな周囲の状況を見つめながら、そっと拳を握り締める。

 

「………」

 

 ――嫌な、気配だ。

 そう云い表す事しか出来ない、肌を刺すような悪寒。そしてそれが、気のせいでも何でもない事を先生は知っている。人が増えれば増える程、空が青ければ青い程、その不安は徐々に心を蝕んでいく。走り回って随分経つというのに、背中にはじっとりとした汗が流れていた。

 

「……アロナ」

『――今の所、探知網に反応はありません』

「そうか」

 

 胸に搔き抱いたシッテムの箱、彼女の名前を呼べば、やや強張った声が返って来る。風が吹き、並んだ旗が一斉に靡いた。夏の日差しが先生の肌を焼く。頭上を見上げると、強い陽光が一瞬、雲の向こう側へと消えた。先生の顔が陰に覆われる。

 

『古聖堂を中心とした半径五十キロメートルは、完全防衛圏としてアロナが迎撃設備の制御を担当しています――大丈夫です、ミサイルの一発程度、アロナが絶対に止めて見せますから……!』

「あぁ、頼むよ」

 

 画面に張り付いたアロナは、その表情を険しくさせながらも拳を握り締め、鼻息荒くそう断言して見せる。

 ――巡航ミサイルの射程距離は、最大で二千五百㎞にも及ぶと云う。キヴォトスの領土は広大であり、どの地点から射出されるかを探るのは大変に骨である。故に、先生は事前に弾頭を発見する事は不可能と判断し、発射自体を阻止する事は諦め、発射された巡航ミサイルを着弾前に迎撃する方法を選んだ。

 

 正義実現委員会やゲヘナ風紀委員、更にはトリニティとゲヘナにも内密で会場周辺へと設置した各迎撃設備。古聖堂周辺を取り囲むようにして用意されたそれは、アロナが制御し操作する無人機。正攻法で持ち込む方法も考えたが、彼女達にも面子というものが存在する。飛翔体の迎撃設備自体は、彼女達も持ち合わせているのだ。ましてや此処はトリニティの空――トリニティ中央区に自前の迎撃兵器を持ち込む等、「彼女達を信頼していない」と公言しているも同義。故に、配備出来た数はそれほど多くはない、それでもミサイル一発程度ならば十分阻止出来る防衛網であると云えたが。

 それでも尚、こびり付いた不安は拭えなかった。

 

「各ユニットの状態はどうだい?」

『配備された各SAM(地対空ミサイル)ユニットは正常に稼働中、虎の子の超電磁砲もスタンバイモードで各部異常なし……指示があれば、いつでも発射出来ます!』

 

 この質問は何度目か。この会場に到着した時から、先生は何度もこの質問を繰り返していた。クラフトチェンバーとミレニアムのマイスター達、更にはヴェリタスの力を借りて、秘密裏に導入した虎の子の超電磁砲(レールガン)。彼女達には説明をぼかし、万が一の保険と口にしていたが、その表情は不安と疑念に塗れていた。それはそうだろう、今の今まで護身程度の装備開発を依頼していた自身が、超電磁砲等と云うものを要望すればそうなるに決まっている。

 それでも、それを押して尚、先生は万が一の切り札を欲していたのだ。

 

「………」

 

 無意識の内に、先生は自身の脇腹を摩っていた。嘗てそこに受けた傷が、嫌に痛むのだ。保護膜で覆い隠して尚、薄らと浮かぶその傷はまるでその時を待ち侘びている様にも思える。

 無論、感傷に過ぎない。ただ、この暑さと陽射しに記憶が刺激されているだけだ。額に滲んだ汗を指先で拭い、先生は歯を食い縛る。

 生徒達の喧騒、吹きすさぶ生温い風、それに煽られ靡く旗、じりじりと肌を焼く陽光、空を覆う青色。

 

 そうだ、嘗ての私もこんな、今にも落ちて来そうな青空の下で――。

 

『ッ――先生!』

「っ!」

 

 胸に抱いていたシッテムの箱から、アロナの声が響いた。

 ぐん、と血の気が引く感覚。先程まで広がっていた空が急激に狭まり、身体が圧し潰されそうになる錯覚。緊張であり動揺だった、心臓が早鐘を打ち血が凍る様。

 タブレットを掴み、先生は声を荒げる。

 

「――来たか!? 発射位置はッ!?」

『え、えっと、場所は……!』

 

 青の教室で忙しなく指を動かすアロナは、画面にトリニティ自治区の全体マップを表示させる。上から見下ろすような2Dマップ、先生の居る地点を中心として、どんどん範囲を広めていく。

 

 古聖堂周辺――違う。

 カタコンベ外郭――違う。

 トリニティ中央区――違う。

 トリニティ外郭地区――違う。

 ならば、ゲヘナ自治区――違う!

 

『こ、これは――』

 

 範囲が広がれば広がる程、アロナの表情には困惑と焦燥が滲み出す。飛翔体は、現在進行形でこの古聖堂目掛けて飛行している。しかし、その射出地点を割り出した時、その出現ポイントは――海洋であった。

 しかし、ミサイルを射出可能な船舶や設備など見当たらない。もしやと思い、アロナが2Dマップを3Dへと切り替え、その射出ポイントを三次元的に割り出した時。

 彼女は漸くソレが何処から発射されたのかを理解した。

 

『これは……宇宙(そら)?』

 

 ■

 

「アズサちゃん、このケーキ美味しいですよ! 一口どうですか?」

「むっ、そうなのか……? なら、少しだけ」

「わ、私にも少し分けてよ! こっちのあげるから!」

「ふふっ、ならコハルちゃんには私の――」

 

 卒業パーティー真っ最中の補習授業部。彼女達がカフェで他愛もない雑談に花を咲かせ、甘味に舌鼓を打っている最中。

 ふと、ヒフミの視界に、きらりと光る何かが映ったような気がした。

 窓際の席に掛けていた彼女は、視界の端に映ったソレに気付き、窓越しに空を仰ぐ。

 

「え?」

「ん? どうしたの、ヒフミ?」

「いえ、その……――今、何か」

 

 コハルの問い掛けに答えながら、ヒフミは窓に顔を近付ける。

 見上げる蒼穹、その遥か向こうに見える白い尾を引く光。それに気付いた彼女は、目を瞬かせながら指先でそれを指し示す。ヒフミの指し示す光を補習授業部全員が目視し、青の中を流れるそれを見つめながら彼女(ヒフミ)は呟いた。

 

「――流れ星?」

 


 

 プレナパテスがシロコの前に現れた時も、こんな風に流れ星の様に見えたのでしょうか。それともゲマトリア襲撃の時と同じように、一瞬で現れたのか。

 どれ程恐ろしいものであっても、地上から見上げればきっと美しいものに見えるののでしょうね。ミサイルでも、絶望でも、全裸でも。

 あと一話。



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おやすみ、先生

誤字脱字報告、感謝ですわ~!


 

 アリウス自治区、バシリカ。

 限られた者しか存在を知らぬ至聖所、その最奥にて彼女はステンドグラスを見上げていた。崩れ落ち、朽ち果て、残骸と破片に塗れた聖堂。砕けた硝子の向こう側には、決して明けない夜が広がっている。

 

 此処は彼女の領域――彼女の運命が結実する場所。

 ありとあらゆる犠牲を容認し、崇高へと至る祭壇である。

 夜を見上げれば星があり、手を伸ばしても届かぬそれに夢を見て、それでもと手を伸ばし続けた一人の存在。根底は変わらぬ、しかしそこに至る道が余りにも異なる。

 彼女――ベアトリーチェは大きく息を吸い、呟いた。

 

「――先生、あなたの弱点、それは先の騒動で既に露呈しています」

 

 彼女の瞬く複眼の前には、空を睨みつける先生の姿があった。ゲマトリアの持つ神秘技術、その応用。アリウス生徒を古聖堂周辺に潜伏させ、範囲内に対象を収めれば常に監視が行える代物。カメラ等と異なるのは、対象をレンズに収めずとも観察出来る事。稼働可能時間は決して長くはないが、相手に気取られずに済むという点では重宝する。

 

 ベアトリーチェの脳裏に過るのは、トリニティでの一件。

 聖園ミカという用済みとなった生徒を抹殺する為に切った一手、その時に先生が起こした行動。

 

「本来撃ち込む予定であった巡航ミサイル――BGR-108、タクティカル・ブロックⅤ、喪われた古代兵器(オーパーツ)の残滓、あなたの知る未来通りであるのならば、私はこれをエデン条約調印会場へと撃ち込み、着弾していたでしょう……ですが」

 

 ベアトリーチェの手にした扇子が、音を立てて開かれる。

 口元を覆い隠した彼女は、醜悪に歪む口元をそのままに、試練()に挑む先生へと告げる。

 

「未来は改変された、運命は捻じ曲がった――先生……これはあなたが掴み、選び取った道の一つです」

 

 既にこの世界は、本来の道筋を大きく外れている。

 それを為したのはベアトリーチェであり、銀狼であり、先生であり――世界そのものである。

 

「私の、生涯最大にして最後の宿敵」

 

 故に彼女は、彼に送る。

 確かな殺意と敵意、そして純真たる憐憫と敬意を以て。

 

「――あなたに、私の最大にして最高の恐怖と、最悪の試練を送りましょう」

 

 ■

 

「アロナッ!」

『っ、げ、迎撃開始しますッ! SAM(地対空ミサイル)、発射ッ!』

 

 発射された位置に一瞬、思考を停止していたアロナは、先生からの叱咤に意識を切り替え指先を動かす。

 どの地点から放たれたにしろ迎撃する事には変わりなく、飛翔体の速度によっては一分足らずで着弾を許す事にもなりかねない。宣言と同時にスタンバイさせていたユニットを稼働、同時に周辺一帯に展開していた警備ドローンを遠隔操作し、アラートを搔き鳴らす。生徒達の喧騒に満ちていた広間はたちまちの内に警告音が支配し、同時に周辺各所から一斉に迎撃ミサイルが射出された。

 爆音と白煙、射出音を撒き散らしながら尾を引いて空へと昇る迎撃ミサイル。

 

「な、何ッ!?」

「砲撃……いや、ミサイル!?」

 

 集っていた生徒達は唐突なそれに困惑と不安を覚え、周囲の正義実現委員会や風紀委員が一斉に動き出す。空間を支配するのは混乱と恐怖、赤いランプを点灯させながら周囲を飛び回る警備ドローンが、側面に設置されたホログラム投影装置を起動させる。

 虚空に、『emergency』の文字が一斉に躍った。

 

「せ、先生っ、これは一体――」

「生徒達に避難指示を! 上空から未確認飛行物体が来る……! 迎撃はこっちが受け持つから、急いでッ!」

「えっ、あ、は、はいっ……!」

 

 近場に居た行政官に叫び、先生は空を仰ぐ。遥か向こう、青を泳ぐ一筋の光。それを捉える事は出来ない。いや、もし肉眼で確認出来る距離まで接近を許したのならば、恐らく何をする事も出来ずにこの身は吹き飛ぶ事になるだろう。

 

『着弾まで五、四、三――……』

 

 アロナが表示されたモニタを凝視し、カウントダウンを始めた。射出された迎撃ミサイルの速度は凡そマッハ3以上、射出されたものが巡航ミサイルであると仮定すれば、十二分に迎撃可能な誘導性と速度を持っている。

 しかし――。

 

『二――ッ!? た、対象空中にて急加速ッ! っ、は、速い――事前予測数値よりも断然……ッ!』

 

 モニタを凝視するアロナは、不意に声を荒げ狼狽した。

 迎撃ミサイルが接触するその寸前、マップ上の飛翔体は突如急加速を開始、今にも接触するという距離にあったキルビークルの合間を抜け、その中央をすり抜ける。横合いを抜けられると判断した瞬間自壊し、爆炎と破片を撒き散らした迎撃ミサイルは――しかし、対象を捉える事が出来なかった。

 飛翔体は健在、加速した状態のまま古聖堂へと接近する。

 

『げ、迎撃失敗ッ! 対象の速度が早過ぎます! 推定速度、凡そマッハ10(秒速3402M)です!』

「ッ……馬鹿な――!?」

 

 巡航ミサイルにしては破格の速さ――いや、射出地点を鑑みれば考えられない事ではない。現在進行形で飛翔体の解析を進めながら、アロナは次善の行動を思考する。SAMユニットの再装填、次弾発射まで後――。

 

『っ、迎撃ミサイルの第二射……このままでは間に合いません!』

「――近接防空システム(CIWS)に切り替えろッ! ミレニアムの超電磁砲(レールガン)を使え、最悪頭上で爆発しようとも、直撃に比べればマシだッ!」

『はっ、はい! 近接防空システム、起動しますッ!』

 

 再装填の暇はない、そう判断した先生は即座に近接防空へと切り替えを指示する。ミサイルでの迎撃を諦め、タレットや連装機関砲での迎撃に踏み切ったのだ。

 途端、周辺から一斉に砲音や銃声が鳴り響き、蒼穹に向けて緋色の軌跡が伸びる。生徒達の喧騒は悲鳴へと変わり、遥か彼方に見える流れ星が――遂に先生の肉眼に映った。

 

「来たか――!」

 

 人の目で捉えられる距離、ほんの豆粒程度に見える流れ星。それが自身に破滅を齎すものでなければ、幻想的にも見える。猶予はあとどれ程だ? 十秒か、二十秒か、或いはもっと少ないのか。多いのか。両手を握り締めながら見守る事しか出来ない先生は、固唾を呑んで流れる星を睨みつける。

 

『――超電磁砲(レールガン)、発射ッ!』

「くッ……!」

 

 古聖堂裏手、秘密裏に持ち込まれ、最後の希望として用意された超電磁砲。発射音は、先生が予想していたよりもずっと小さく、静かだった。代わりに射出された弾頭は周囲の旗を吹き飛ばし、凄まじい風を生む。一筋の青い光――それが空の向こう側へと吸い込まれる様に軌跡を描いた。

 雲海を突き抜け、星へと伸びる科学の手。

 その弾頭は遥か向こう、青の中に――一つの爆炎を生み出す。

 

『……あ、当たったッ! 命中しましたよ先生!』

「破壊した――?」

 

 青の中に在った流れ星、その光が強まり、消える。アロナは両手を握り締めながら歓声を上げ、その目を輝かせマップを指差す。その中に、表示されていた飛翔体の存在は確かに消失していた。

 

『はい! 対象は空中で破壊されて――』

 

 声が、止まる。

 マップを凝視していた彼女は、消失した飛翔体の位置を見つめながら硬直した。その指先が、微かに震えるのを先生は見た。

 

『い、いえ、こ、これは……そ、そんなッ!?』

「アロナ……?」

 

 思わず、先生は声を上げる。

 そして彼女がマップから顔を上げた時、その表情は酷く蒼褪めていた。

 

『た、対象が――分裂、しました』

「なっ――」

 

 撃墜した――訳ではない。

 アロナが呆然と見つめるマップには消失した大きな飛翔体の代わりに、新たに出現した飛翔体が表示される。先程撃墜した筈の場所から、未だ飛翔を続ける小さな反応。

 

 その数――凡そ三百以上。

 

 新たに出現したそれらの解析を急ぎ、アロナは涙目になりながら必死に指先を動かす。撃墜したら増えるミサイル? 或いはもっと別の? あらゆる疑念が付きまとい、その息が徐々に荒くなる。

 

『そ、速度は大きく低下していますが、余りにも数が……いえ、この形――まさか!』

 

 新たに出現した飛翔体、その構造は酷くシンプルだった。そしてサイズは先程と比較すれば、何百分の一という程度。そこから導き出される結論。先程、電磁砲で撃墜したと叫んだ時。そもそもあれは撃墜ではなかった――自壊だったのだ。

 正確に云えば、電磁砲が撃墜したのは、【空になった弾体】。中身を放出し切ったロケットブースターであり、弾を打ち切った銃そのもの。

 そして、放たれた弾丸(本命)は――この無数の小反応。

 即ち、これは。

 

『これは――クラスター爆弾(大規模ヘイロー破壊爆弾)ですッ!』

 

 ――ミサイル(弾体)内部に大量のヘイロー破壊爆弾を搭載した、最悪の無差別破壊兵器である。

 

 ■

 

「GRG-666/H、タクティカル・ブロックⅥ、搭載弾頭【ヘイロー破壊弾頭】、計三百六十六個……ゴルコンダお手製の、大規模破壊クラスター爆弾――超長距離巡航可能なクラスターミサイルなど聞いた事もありませんでしたが、古代兵器(オーパーツ)というものは全く、摩訶不思議なものですね」

 

 ――それを齎す、無名の司祭というものも。

 

 その言葉を呑み込み、ベアトリーチェは扇子を閉じる。乾いた音が周囲に木霊し、彼女の幾多の瞳が再び先生を捉えた。

 虚空に映る先生の健闘、自身がミサイルを撃ち込む――そこまでは読んでいたのだろう。しかし用意した迎撃設備に反し、彼女の用いた手段は余りにも悪辣で、効果的だった。

 そう、正しく以前の騒動は【実験】だったのだ。

 先生と云う存在が、自身の安全と生徒の命、どちらを取るかという意味合いでの。

 そして彼が生徒を優先したという事実を得た以上、この結末は決まっていた。

 先生はその場を動けず、硬直する。この爆弾が周辺に降り注いだ場合の被害を想像し、血の気が失せたのだろう。その姿を彼女は、確かな悦楽と共に見つめていた。

 

「――さて先生、この地獄、どう潜り抜けますか? 今度は一人の犠牲では済みませんよ」

 

 迎撃ミサイルを三段階のブースターロケットで躱し、第二陣が射出されるよりも早くレンジに捉える。そして十二分に速度が発生した時点、或いは本体が破損した時点で炸裂し、目標地点へと内蔵された子弾が一斉に散布、射出される。

 内包される子爆弾は、それ一つで戦車程度ならば破壊する威力を秘め、更にはキヴォトスの生徒にとっては致命的となるヘイロー破壊爆弾の特性を有する。つまり、一発でも通せば生徒が死ぬ可能性がある――猛毒の針。

 古聖堂周辺には野次馬を含め、何万人という生徒が集っている事を確認していた。一発抜けただけで、何人死ぬことになるだろうか? これを全て防ぐのならば、相応の代償を払うしかあるまい。

 

 故に必殺――確かな知見を以て練られたこの策は、ベアトリーチェの執念と妄念の結実と云える。

 虚空を見上げながら目を細める彼女は、確かな高揚を感じさせる口調で云った。

 

「生徒を守り屍を晒しますか? 生徒を見捨て生を拾いますか? もう一度、あなたに問いかけましょう……ですが」

 

 無論――彼がどのような選択をするかなど、火を見るよりも明らかだ。

 

「今度こそ、生徒の手を取れば、あなたは確実に命を落とす」

 

 ただ、先生を殺す為に。

 聖人を殺める為に。

 ベアトリーチェはあらゆる手を尽くした。

 あの日、彼に敗北した時から。

 その生徒に土を付けられた時から。

 先生(聖人)を殺す事だけを考え、準備し、計画し、実行した。

 それが漸く――叶う。

 

「尤も、先生がどちらを選ぶかなど分かり切っていますが――えぇ、あの【実験】(自爆)は実に有意義な結果を齎してくれました、ですから……こう云い換えましょう」

 

 扇子で虚空をなぞり、彼女は目を閉じる。

 これから起こる、その惨状(結末)は――最早、見る必要すらないと云いたげに。

 

 あなたは、その高潔さが(聖人であったが)故に命を落とすのだ。

 

「さようなら先生――高潔で哀れな、子ども達の聖人(ラビ)よ」

 

 ■

 

 近接防空システムが火を噴く、銃身が焼け付くのではないかと思う程の連射。空の向こう側では次々と爆発が起き、生徒の悲鳴と炸裂音、そして銃声が鼓膜を叩く。シッテムの箱を握り締めながら頭上を見上げる先生の額には、無数の冷汗が流れていた。

 

『飛来する子爆弾(ヘイロー破壊弾頭)、お、凡そ三百個、二百九十、二百七十……ニ百五十ッ! だ、駄目ですッ! 数が多すぎて近接防空システムで防ぎ切れませんッ! このペースだと百個近い子弾が飛来して――で、でも、そんな事を許せば、古聖堂周辺は更地に……ッ!』

 

 アロナの悲鳴染みた報告を聞きながら、先生は拳を握り締める。

 視界には逃げ惑い、不安そうに周囲を見渡す生徒達。それは調印式に参列している行政官や正義実現委員会、風紀委員であっても変わらない。何が起こっているのか、これから何が起こるのか、彼女達は何も知らないのだ。

 知らぬまま、彼女達は傷付けられる。

 死という恐怖を、刻まれる。

 

 彼女達は――贄だ。

 

 内蔵されていた子弾がヘイロー破壊爆弾という時点で、彼女の意図を先生は十二分に理解した。自身を一点に狙う形ではなく、広く、多くの生徒を巻き添えにする為に、彼女はこの様な手段を取ったのだと分かった。

 どの様な手段で兵器を都合したのか、これほどのヘイロー破壊爆弾をどうやって量産したのか。そんな事は今、どうでも良い。

 ただ、一つ分かっている事は。

 

 自分が今――嘗てない程に怒りを覚えている事だけ。

 

「――ここまで」

 

 蒼穹の中に火花が散り、子弾がまた一つ撃墜される。それでも尚、飛来するその数は圧倒的で、どう足搔いてもヘイロー破壊爆弾はこの古聖堂周辺に着弾する。その時、生徒は何人犠牲になる? 何人傷付けられる? その光景を想い、先生の奥歯が軋みを上げた。ミシリと、額から何かが弾ける音が響いた。

 

「――ここまでやるかッ、ベアトリーチェ……ッ!」

 

 深く、激しく、滲み出る様な憎悪。凡そ先生が発した事のない、人生で初めて抱く渾身の怒り。最早、その行為を許容など出来ないと、心が悲鳴を上げていた。

 無垢なる生徒を利用し、何も知らぬ生徒を巻き込み、それを手段として用いた。

 

 彼女は――敵だ。

 

 決して分かり合えぬ、『先生』という人間が、明確に意識した敵であった。

 それでも、明確な一線を越えようとしなかったのは、先生としての矜持か。或いは状況によるものか。表情を怒りに染め、痛い位に拳を握り締めながらも、先生は理性を保っていた。

 

『ちゃ、着弾まで後、十秒ッ!』

「―――」

 

 アロナの言葉に、先生は大きく息を吸う。

 今、必要なのはこの状況を切り抜けるための策、決して怒りなどではない。

 飛来する子弾は凡そ百近く、これら全てが古聖堂周辺に降り注げば、この区画は完全に破壊されるだろう。トリニティ中央区まで被害が及ぶ事はないだろうが、見物人の生徒はこの周辺に集中している。

 

 最悪――何万人という生徒が死にかねない。

 だが同時に、完全に防ぎ切る手立ては――無い。

 

 アロナの力は決して万能でもなければ、無敵でもない。伸ばせる手には限りがあり、そしてそれは区画を丸々一つ覆い、防御出来るものでは到底なかった。

 しかし、やらねばならない。

 やらねば――生徒が死ぬ。

 

 迷いは、なかった。

 

「――防壁展開、最大出力、範囲は会場全域、無傷は無理だ! 生徒達の致命傷を回避させるレベルで構わないッ!」

 

 その言葉に、アロナの目が見開かれるのが分かった。

 

『なッ!? 会場全域!? そ、それでは先生を守る防壁が殆ど――』

「私は後回しで良い! 消費電力も度外視だっ、良いからやってくれッ!」

『嫌ですッ!? 最低限の防壁では、先生が生還出来る確率はっ……! そんな選択を、わ、私が取れる訳ッ――』

 

 先生の決断に、アロナは思わず声を荒げた。それは、明らかに先生の生存を度外視した指示だったからだ。

 たった一人を守るだけならば、この爆弾の雨から無傷で抜ける事も出来るだろう。しかしその防壁を会場全体、区域の中程まで覆う形で展開すれば、当然その分消費される電力も膨大、防備も薄くなる。爆弾の爆発と衝撃は、必ず内部まで浸透する事になる筈だ。

 

 キヴォトスの生徒であれば問題ない。如何にヘイロー破壊爆弾と云えど、その威力を十全に発揮できなければヘイローを破壊するには至らない。空中での炸裂、障壁による干渉、これらが合わされば十二分に致命傷を回避出来る演算結果が出ている。

 

 しかし――先生は違う。

 

 破片ひとつ、衝撃ひとつ、それだけで命を落としかねない。

 防壁強度を落とす事は、即ち先生の死亡に直結する。そして会場を覆う程の巨大な防壁を構築した場合、先生個人に割り振れる余力は――皆無(全くない)

 これでは、殆ど先生を犠牲に生徒を助ける様なものだ。

 そんな選択を、彼女は拒んだ。

 

『な、何か……! もっと別な、何か、良い方法が……ッ!』

「――アロナッ!」

『っ!?』

 

 狼狽し、涙を零しながら必死に手を探すアロナを、先生は怒声で以て叱咤した。

 びくりと、アロナの肩が震える。画面越しに顔を上げれば、シッテムの箱を見下ろす先生の顔があった。

 表情に浮かぶのは、焦燥と痛烈な意思。事ここに於いて、先生は自身の明瞭すぎる絶望の未来を前にして尚、その意思を微塵も曲げていなかった。

 飛来する終わりを感じながらも、意志は固く、瞳に諦観はない。

 額に汗を滲ませながら、強くシッテムの箱を掴んだ先生は、叫ぶ。

 

「生徒を守れない私に何の価値がある……!? あの日誓った、固く結んだ約定を忘れた訳ではないだろう!? 思い出せ、最後の審判(動乱の結末)を! あの日感じた――己の無力をッ!」

『ッ――……!』

 

 先生が浮かべる悲壮。脳裏に過る絶望の未来、暗闇に覆われ、希望を失くしたキヴォトス。楽園を信じ、それでもと口にした自分達が見た成れの果て。最善を尽くした筈だった、力を振り絞った筈だった、希望を信じて進んだ果てに――けれど、望んだ未来は一つもなくて。

 

 でも。

 それでも。

 私達(■■■)は、先に進むって――そう誓って。

 

「あの日、私達は――未だ小さき名もなき光(義なる者)を救うと、そう誓った筈だ……!」

『あ、ぁ――』

 

 先生の声に、血を吐き出すような苦痛が混じる。それでも、声色は穏やかだった。それは生徒を導く大人の声だった。

 アロナの指先が、ディスプレイに向けられた。それは救いを求める為に伸ばされたものだったのだろうか。それともただ、先生を想う余り無意識に伸ばされたものだったのだろうか。画面越しに、先生の手と、彼女の手が合わさる。

 冷たく、無機質で、何の感触もありはしない。

 けれど、想いだけは伝わった。

 確かに、強い――生徒(希望)を想う心が。

 

 ――生徒皆が、笑い合える世界を作ろうと。

 あの日の貴方は、そう云って笑った。

 

「その責務を果たせッ! ――連邦生徒会長(アロナ)ッ!」

 

 その叫びが、アロナの背中を強く押した。

 指先が、障壁の展開を指示する。

 古聖堂一帯に、瞬時に発生する青白い防壁。それらは一帯の生徒を守る様に大きく、広く空を覆い。飛来した子弾を拒み、炸裂させた。

 各所で爆発が起き、爆風と爆炎が世界を彩る。

 

 そして――先生が顔を上げた時、自身に飛来する子弾の存在に気付き。

 けれど、それをどうする事も出来ず。

 

 ――凄まじい爆発と衝撃に、先生(聖者)身体(肉体)は弾け飛んだ。

 

 ■

 

『き、緊急事態です! 古聖堂が、正体不明の爆発によって炎に包まれ……! これは、一体!? せ、尖塔が崩れていますッ!』

 

 手元にある小さな携帯端末。調印式の様子を見る事を許された、ミカに支給された唯一の情報手段。彼女はそれを掴みながら、目を見開く。

 画面には燃え盛る古聖堂周辺が映し出され、多くの生徒が逃げ惑い、悲鳴を上げている様子が見えた。チャット欄が、凄まじい勢いで流れていく。困惑と焦燥、友人の安否を尋ねる声、怒り、悲しみ。

 ミカは呆然とそれらを見つめながら、声を漏らす。

 

「……先生?」

 

 冷たく昏い独房の中に、その声は良く響いた。

 

 ■

 

 ――世界は、一瞬にしてその色を変えた。

 

「な、何ですか、これは……」

 

 呟きは小さく、戦慄を孕んでいる。

 大きな爆発音、割れたカフェの硝子窓。異変に気付いたのは直ぐだった。外から悲鳴と喧騒が響き渡り、補習授業部はカフェを飛び出し道路を見る。そこには逃げ惑う生徒達と、運搬されていく負傷者の群れ。頭上にはアラートを響かせるドローンが狂った様に飛び回り、遥か向こう側には燃え盛る炎が空を照らしていた。

 ほんの数分前、熱気と歓声に溢れていたその場所は――地獄と化していた。

 

「っ……!」

「あ、アズサちゃん、どこにッ……!?」

「なっ、危険です、アズサちゃん! 戻って下さいッ!」

 

 その光景を見ていたアズサは、その表情を歪め、愛銃を手に駆け出す。彼女の胸には予感があった――酷く、嫌な予感が。そしてそれが決して外れていないと、確信染みた感覚がある。背負っていた背嚢が揺れ、彼女の姿は人混みの中へと消えて行った。追いかけようにも小柄な彼女の姿は即座に埋もれ、伸ばした手が届く事はない。

 最後に見た彼女の表情は、絶望と焦燥を感じさせるものだった。

 

「こ、古聖堂が……!」

 

 コハルは、去って行くアズサの背中を認めながら、その場を動く事が出来なかった。群衆の中には、負傷し血を流す正義実現委員会の姿もある。この周辺を任されているのは比較的下級生の生徒ばかりだが、今火の手が上がっている古聖堂にはコハルの敬愛する先輩達が集っている。

 ヒフミも、コハルも、自然と古聖堂に向けて一歩を踏み出した。

 それを見たハナコは二人の腕を掴み、叫ぶ。

 

「っ、コハルちゃん、ヒフミちゃん、待って下さいっ! 状況が把握できるまで、動くのは得策ではありませんッ!」

「ですが、アズサちゃんが……!」

「アズサちゃんも正義実現委員会も、少なくとも自分の身は守れます! 今はそれよりバラバラに散らばる事の方が危険なんです! 相手が誰なのか、どれ程の数なのかも分からない、今はッ……!」

「で、でも……! でもッ!」

 

 ハナコは冷静に周囲を観察し、現状把握に努める。何か大きな爆発があった、あの銀狼の云う事が現実となったのか。或いはこれは、彼女の予想とは異なる未来なのか。少なくとも、古聖堂に大きな攻撃があったのは確かだった。攻撃の規模はかなり大きい、古聖堂どころか周辺の建物も崩落している様に見える。

 もし、あの場に大勢の戦力が投入されているのならば――現状、この場所も安全とは云い難い。正義実現委員会は戦闘のスペシャリスト、そしてアズサも補習授業部の中では単独で最も戦闘能力、生存能力が高い。

 故に、最低限纏まって動くべきは、この三人。

 相手の戦力、目的、兵装、全て不明。こんな状態で古聖堂に突入しても、最悪自分達諸共やられてしまう。

 それを理解していた。

 分かっていた。

 それでも尚、二人の瞳は古聖堂に向けられていた。

 

「せ、せんせ……先生だって、あそこにッ!」

「――っ!」

 

 コハルの、今にも涙を流しそうな声。

 その必死の訴えに、ハナコは唇を強く噛む。血が滲む程に、強く。

 

 分かっている、理解している。

 理解しているからこそ、心が張り裂けそうになりながらも彼女は踏みとどまっているのだ。

 ここで自分まで冷静さを喪えば、補習授業部も危険な目に遭いかねない。

 

 あの場には少なくとも、正義実現委員会の幹部、そしてゲヘナ風紀委員会が存在している。彼女達が先生に危害を加える事は、まずない。そして万が一彼女達が倒されてしまったのなら――この三人で乗り込んで、どうなる?

 犬死にだ、決して事態は好転しない。

 

 故にこの場で最善の策は、一度トリニティ本校に帰還し、状況を確認し改めて戦力を整え古聖堂に向かう事。それを懇切丁寧に説明する時間も、余裕もない。二人の汗と涙に塗れた表情を見て、そう判断する。

 故にハナコは二人の腕を掴みながら、トリニティへ帰還すべく全力で駆け出す。

 強引に腕を引かれながら、二人は古聖堂に向け必死に叫んでいた。

 

「は、ハナコちゃ……――ッ!」

「や、やだッ、先生! 先生ッ!」

「っ、今はッ、耐えるんです……!」

 

 二人の腕を痛い位に掴みながら、ハナコは古聖堂へと背を向ける。

 

「先生っ――!」

 

 胸に燻る、絶望の予感から――顔を背けたまま。

 

 

 ■

 

 ――何が、起きた。

 

 彼女――ヒナは自身に圧し掛かっていた瓦礫を押し退け、立ち上がる。頬を撫でる熱気、立ち昇る砂塵。ほんの一瞬、瞬きの間に彼女の周囲は地獄と化した。

 唐突に古聖堂周辺からミサイルが発射され、アラートが鳴り響いた。厳戒態勢を命じると共に、周辺状況の確認と避難誘導を指示し――そう、頭上で何かが炸裂する音が響いて、視界が暗転した。ヒナが憶えているのはそこまでだ。

 

 一瞬、気を喪っていたらしい。周囲を見渡し、被害状況を確認する。古聖堂は一部が完全に崩れ落ち、周辺は火が地面を舐めている。折り重なった瓦礫は古聖堂だったもの。西側は全損だ、見れば瓦礫に埋もれたまま呻く風紀委員の姿があった。

 彼女は自身の額を流れる血を指先で拭い、愛銃を担ぎながら瓦礫を蹴飛ばしてやる。体を圧迫していた瓦礫が無くなると、地面に這い蹲っていた委員は大きく息を吸った。屈んで様子を見てやれば、意識を失っているだけらしい。彼方此方打撲や出血はあるものの致命傷ではない。ヒナは鈍痛の響く体に鞭打って立ち上がる。そこかしこから、呻き声と悲鳴が響いていた。

 

 風紀委員会は――ほぼ全滅に近い。

 

 飛来していたのは――恐らく誘導弾頭、ミサイルか何か、それも対空防御システムが迎撃出来ない程の速度で。いや、迎撃自体は行われていた、しかし完全に防御する事は叶わなかった。あの防御設備はヒナも知らないものだった、用意したのはトリニティか、それとも――。

 瓦礫と化した古聖堂を見渡しながらヒナは息を呑む。普通じゃない、速度も、そして威力も。

 

 ――一体、どこからが罠だった? 

 

 思考する、攻撃者は一体誰が。トリニティ? シスターフッド? いや、もしそうならこれは自爆攻撃だ。自身の首脳部が揃った時点であのような攻撃を行うなど、正気の沙汰ではない。或いは派閥間の調整を失敗し、内部分裂が起きたか。ゲヘナはそれに巻き込まれて――。

 

「違う……ッ!」

 

 ヒナは巡る思考を止め、吐き捨てた。

 今は、そんな事はどうでも良い。

 現在、一番気にしなければならないのは――。

 

「――先生ッ……!」

 

 惚けていた意識に喝を入れ、ヒナは瓦礫を駆け上がった。この規模の爆発、キヴォトスの生徒ですら重傷を負いかねない攻撃。それに巻き込まれた先生はどうなる? そんな事は火を見るよりも明らかだった。

 彼の状態を想像し、血の気の失せた顔色で疾走する彼女は――しかし、唐突に鳴り響いた銃声に足を止める。

 目と鼻の先を、弾丸が穿ち抜いた。

 髪がひと房千切り飛ばされ、ヒナは愛銃を構えながら素早く弾丸の飛来した方向へと向き直る。

 

「――ま、まだ立っているんですねぇ、ヒナさん」

「ッ……!」

 

 彼女の目に映ったのは――見たことも無い装備を身に纏った生徒達だった。

 巨大なガンケースに、黒い帽子、白い外套――彼女を中心に立ち並ぶガスマスクを被った集団。数は十、二十、いや――もっとか。

 先頭に立った生徒、ヒヨリは卑屈な笑みを浮かべながら言葉を続ける。

 

「どうしましょう、あれを受けてまだ立っているなんて、凄いですねぇ、強いですねぇ……どうして、痛い筈なのに、苦しい筈なのに――」

『――感傷は後にしろ、ヒナだけは決して逃がすな』

「は、はい……っ」

 

 ヒヨリの手にした端末から、低く、唸るような指示が飛んだ。それに彼女は背筋を正しながら、周囲の生徒に目配せをする。途端、左右に展開した彼女達は手にしていた銃をヒナに突きつけた。発せられる敵意と憎悪に、ヒナは視線を鋭くする。

 彼女達の身に着けた腕章――その刻まれた校章には憶えがあった。

 

「そ、そういう事みたいでして、すみませんね……えへへっ」

「アリウス……分校」

「あ、あなたを先に行かせないように云われているので、すみませんが、これも命令でして……」

 

 巨大なガンケースを地面に下ろし、彼女は中から愛銃(アイデンティティ)を取り出す。総重量二十六キロにも及ぶそれを、彼女は片手で持ち上げ、構えた。ヒナは静かにアリウスの集団を見据え、歯を食い縛る。

 彼女達の登場により、ヒナはこの攻撃を行った勢力の確信を得た。トリニティと確執を持つアリウス分校、そしてその同盟相手となるゲヘナ。銃を向ける理由としては、十分だ。

 しかし、今はそんな事を考える余裕も、時間もない。

 その瞳に、確かな苛立ちと敵意を滲ませながら、彼女は一歩を踏み出す。途端、彼女の身体から重い――余りにも重い圧力が放たれた。アリウスの生徒達が一歩、無意識の内に退いてしまう程の。

 対峙しているだけで呼吸が辛くなる様な、空気が重く感じる様な、圧倒的なプレッシャー。手負いの生徒だ、万全とは云い難い。数も装備もアリウスが優位――だと云うのに、何故だろう。

 瓦礫の上に立ち、此方を見下ろす彼女を打倒(うちたお)せる未来が見えなかった。

 

「――先生が、危険なの」

「え、えへへっ、や、やっぱり、不幸な事ばっかりですよねぇ……」

 

 ヒナの足元にあった瓦礫が、踏み砕かれる。

 薙ぎ払う様にして構えられた彼女の愛銃、デストロイヤーがアリウスを捉え、その血の滲んだ長髪が熱波に彩られた。滲んだ敵意をそのままに、彼女は犬歯を剥き出しにして――全力で叫ぶ。

 

「そこを、退けと云っている――ッ!」

 

 崩壊した古聖堂。

 その一角で、咆哮に似た銃声が木霊した。

 


 

 祝★着弾。

 その四肢を余すところなく飛び散らせて、是非愛おしい生徒の前で盛大に死んでくれ。

 

 次回、皆さんお待ちかねの先生が藻掻き苦しむシーンですわ。血塗れの先生を見て、生徒の愛を感じられるとっても感動的なシーンとなっております。是非、ご家族皆さんでご覧ください。大丈夫です、安心して下さいませ、先生には出来得る限り苦しんで貰いますから。腕一本は最低保証、そこからは私の性癖に沿って削いでいきますわ。

 足どうしようかなぁ、でも足はヒマリとかと仲良くなった後に、車椅子になった先生に、「お揃いだね」って云って欲しいからなぁ……。でもでも、足の無くなった先生に、「先生、一緒にサイクリング……」って云って、途中で気付いて言葉を呑み込むシロコとか見たいですわぁ。あっても無くても美味しいんですの、まじで棄てる所ないですわよ。おんぶする口実が出来たね、やったよシロコ! あぁ、御礼は結構ですのよ、私は生徒の幸せを願っておりますので。良い事をした後は、気持ちが良いですわぁ~……!

 

 因みにこの後も生徒を庇って鉛玉を撃ち込まれるので、まだ底値じゃないですわよ。傷に傷を重ねますわ。先生の身体は今回、限界まで、或いは限界を超えて酷使させて頂きます。憎悪と傷と許し、エデン条約後編は、そういう話ですの。

 

 キヴォトス動乱、憶えていらっしゃいますか?

 憎悪(先祖の恨み)を忘れていけないのならば、生徒達はどこまで歴史を遡れば良いのでしょうか? どこまでも、ですわよ。その復讐の連鎖を絶やさぬ為に、延々と彼女達は互いを憎み、敵視し、殺し合いますの。それを止められるのは先生だけですわよ。此処で先生が斃れてしまえば、アリウスと他校の間には決定的な軋轢が生まれます。それは全ての崩壊、その引き金となるでしょう。

 なので是非、先生には頑張って頂きたいですね! 脚が捥げようが、腕が千切れようが、「それでも」って叫びながら立ち上がるんですわよ! 気持ち! 気持ちで負けちゃ駄目ですわッ! ファイトッ! 先生! あなたの背中を生徒達が見守っていますわよッ! ほら、頑張れ♡ 頑張れ♡



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生きろ、足掻け、あなたは先生(大人)だ。

誤字脱字報告、ありがとうございますわ~!


 

「アリウスめ、諸共撃ったか――」

「……マコト先輩、一体何を?」

 

 トリニティ中央区、時計塔。

 その屋上にて、古聖堂一帯を見渡しながら鼻を鳴らす生徒がひとり。ゲヘナ万魔殿、議長を務めるマコトその人である。彼女の背後にはいつも通り、いや、普段より強張った面持ちのイロハが佇んでいた。目下には燃え盛る古聖堂、そして混乱し逃げ惑う生徒達の姿。それを眺めて尚、マコトに戸惑いの気配はなかった。

 

「結果的に、これで邪魔者は全て消える、ティーパーティーも、あの目障りだったヒナも――だが」

 

 縁に足を乗せ、地上を眺めるマコト。

 その表情がふと、顰められた。

 

「どういう事だ、この様な大規模攻撃を行うとは聞いていない……連中め、元からこのマコト様を嵌めるつもりだったのか?」

 

 顎先を撫でつけ、そう呟く彼女は酷く淡々としていた。イロハはその呟きから、凡その状況を理解し、声を漏らす。

 

「――まさか、先輩」

「キキッ……あぁ、そのまさかだよ」

 

 戦慄と共に漏れ出た彼女の声に、マコトは歪な笑みを浮かべ、頷いて見せた。

 

「何を隠そうこのマコト様は、トリニティを恨んでいるアリウスと前々から結託していたのさ」

 

 そう、ゲヘナの生徒会長(議長)――羽沼マコト。

 彼女は事前にアリウス分校と内通し、今回の調印式襲撃について事前に把握していた。彼女はトリニティで起きた騒動について理解していたし、好機であると思っていたのだ。

 

「ティーパーティーの内紛も、クーデターも、私は最初から知っていた、全ては今日(こんにち)の計画の為に」

「クーデター……?」

「あぁ、そうとも、ティーパーティーの間抜けがひとり、ホストへと成り上がる為にクーデターを起こしたのさ、キキッ!」

「いつの間にそんな事を――つまり先輩は、最初からエデン条約を結ぶ気が無かったと?」

「当然だろう、その様な事にこれっぽっちも興味などない、私の関心はずっと、邪魔者どもを片付ける事だけにあった! いつまで経っても姿を現さないティーパーティーの連中を誘き出す為に、あくまで条約へ同意するフリをしていただけだ」

 

 トリニティ総合学園、その性質は保守派である。ゲヘナが革新、或いは自由を校風とするのならば、トリニティは規律と戒律を重視する学園。外部への露出は少なく、仮にあったとしてもそれは綺麗に形を整えられた一側面でしかない。それはティーパーティーも同様であり、彼女達が外部に顔を出す事は滅多になかった。

 しかし、エデン条約という大きな舞台であれば別だ。故に、彼女はこの様な大掛かりで、格式張った条約を結ぼうとした。

 そしてそこに、自身の目の上のたん瘤である風紀委員会――ヒナも組み込み、一網打尽を狙ったのだ。

 

「これで漸くヒナまで片付いた、これほどラッキーな事はない……キキキッ!」

「………」

「その為にアリウスは多大なサポートをしてくれたよ、先程乗って来た飛行船だって、友好の証としての贈り物だそうだ」

「飛行船――」

 

 その言葉を聞いて、イロハの視線が空に向かう。

 そこには、今まさにゲヘナ自治区へと帰還している飛行船の姿があった。

 燃え盛る地上に反し、優雅に空を舞う姿は呑気なものだ。腕を組み、飛行船を視線で追ったマコトは笑いを喉奥で噛み殺し、告げる。

 

「まぁ尤も――直ぐ塵屑になるだろうがな」

 

 瞬間――爆発が起きた。

 

 それは地上ではなく、空から。

 爆発の元は、飛行船。

 エンジンとプロペラ部分が吹き飛び、後部障壁が露出する。ゴンドラ部分は一瞬で火に包まれ、テールフィンが一枚、爆発で後方へと流れた。ハンドリングラインを通じてエンベロープ(ガス袋)へと炎が引火する。それはほんの一瞬の出来事、ものの数秒で飛行船は火達磨となり、トリニティ郊外へと落下を開始した。

 燃え盛る飛行船を眺めながら、マコトはくぐもった笑いを漏らす。空と地上を繋ぐ火柱、火の粉を撒き散らしながら落下していくその光景は、何とも云えぬ幻想を孕んでいる。

 

「あれは回収が必要だな、死にはしないだろうが、念の為救急医学部を呼んでおいてやるか」

「……こうなると知っていたのですか?」

「キキキッ、いいや、気付いたのは今だ、念の為という奴だよ、しかし予想は当たったようだなぁ」

 

 飛行船を爆破されて尚上機嫌に肩を震わせ、前傾姿勢になったマコトは焼け落ちる飛行船を眺め答える。滲み出るそれは自身の予想が当たった事に対する歓喜だ。内面は、己に対する自尊心で溢れている。彼女程自身に対する信頼が厚い生徒は、そうは居ないだろう。

 

「しかし、クーデターの一件で先生(シャーレ)に対する直接攻撃は禁止だと伝えた筈だが――よもや、それ諸共反故にされるとは」

 

 飛行船から視線を移し、燃え盛る古聖堂を見渡しながらマコトは呟く。

 事前の取り決めでは、マコトが古聖堂へと到着する前にアリウスの部隊が電撃戦を敢行し、トリニティ首脳部、正義実現委員会、及び風紀委員会を無力化、先生を確保するという話であったが。

 実際は大型の爆弾を投下し、一面諸共火の海にしていた。あれでは先に派遣していた万魔殿の行政官も巻き込まれている事だろう。或いは、自身も少し早く到着していれば諸共、そうでなくとも飛行船を爆破して始末する予定だったのか。

 

 トリニティを恨むアリウス分校。しかし、その根は元トリニティ側の一員。

 例えその枝を分けたとしても、ゲヘナ嫌いは骨髄まで、という事か。

 

「キキッ、このマコト様を嵌めるとは――やってくれる、アリウス」

 

 この様な暴挙に及んだ時点で、マコトはアリウスが自身を最初から切り捨てて動いていたと考えた。飛行船も、本来であれば軽くクロノスの連中に顔を見せ、後はそれらしく振る舞いゲヘナへと蜻蛉帰りするつもりであったが。

 存外、勘というのも馬鹿に出来ない。

 この話はアリウス側から持ち掛けてきたというのに、何ともまぁ、面白くない話だとマコトは踵を床に打ち付けた。

 

「――イロハ、親衛隊を招集しろ」

「……どうするつもりですか?」

「どうする? 決まっているだろう」

 

 訝し気な表情を浮かべるイロハに、マコトは肩を竦めながら告げた。

 

「裏切りには罰を――連中にはこのマコト様の完璧な計画を潰した責任を取って貰わなければな……キキッ!」

 

 目下で戦闘を開始した、アリウス分校の部隊。その姿を確認し、彼女は外套を靡かせ踵を返す。

 マコトとアリウスが結んだ水面下の同盟、それは既に破棄された。ならば敵がトリニティからアリウスに移っただけの事。

 この同盟を知る者は現状、ごく少数。であればこそ、アリウス・スクワッドとその上層部を掃討してしまえば、この(はかりごと)が白日の下に晒される事はない。

 ゲヘナは、被害者として堂々と振る舞えば良い。

 テロリストの虚言に付き合う者など(アリウスの味方をする者は)居ないのだから(彼女達自身が傷付けた)

 

「そら、何をしているイロハ、さっさと動け!」

「……はぁ、分かりましたよ」

 

 いつまでもその場から動かないイロハに檄を飛ばし、指示を出された彼女は渋々端末で連絡を入れる。

 その様子を確認したマコトは、ひとり地上へと降りる階段に足を掛ける。

 

「……もう傷を付けるなと、あれ程忠告したというのに」

 

 呟きは、風に流れて消えた。

 トリニティ内部、クーデターで起こった先生の負傷。アリウス側はトリニティの生徒に向かって放った手榴弾に、運悪く巻き込まれたと、そう説明していた。

 しかし――或いは、最初から先生を殺す事が目的だったのかもしれない。

 どちらにせよ、連中は約束を反故にし、この様な地獄を生んだ。

 ならばもう、後は推して知るべし。

 

 マコトの瞳が、暗闇の中で妖しく蠢いた。

 

「もう――どうなっても知らんぞ、アリウス」

 

 ■

 

「チームⅡ、報告を」

 

 焼け落ちる飛行船、その様子を見つめながら端末に向かって声を上げる生徒――サオリ。

 外郭地区、建築中の住居ビル、その放置されたクレーン先端に立つ彼女は、白い外套を靡かせながら空を仰ぐ。腕に巻き付けた腕章、そこに刻まれた髑髏(校章)が炎に照らされ鈍く光った。

 

『チームⅡ、古聖堂下部に到達した、現在カタコンベ、ブロックE-09を侵攻中、そろそろ地上に出て正義実現委員会と交戦に突入すると思う……そっちは?』

「あぁ、こっちも用事は終わった」

 

 告げ、手元にあった爆破装置を虚空に投げ捨てる。プラスチック製のそれは地面に吸い込まれるように落下し、遥か階下、燃え盛る炎の中に溶けて消えた。

 彼女はそれを見届け、クレーンから飛び降りる。鉄骨の上に着地し、甲高い音を立てながら風を切る彼女の表情は影になって見えない。

 焼け千切れた飛行船のハンドリングラインが宙を舞い、周辺を照らす。

 空は、曇天に覆われ始めていた。

 

『こ、此方チームⅢ、現在ヒナさんと交戦中です! チームⅤは予定通り、地下を侵攻中……!』

「了解、戦況は?」

『流石に、キヴォトス最強の一角は伊達じゃないですね……えへへっ、ちょ、ちょっと押され気味です……! 分隊が既に幾つか戦闘不能になりました……!』

「――分かった、チームを率いて直ぐに合流する、それまで体力と弾薬を削れるだけ削っておけ」

『りょ、了解です!』

 

 ヒヨリの報告を聞き、サオリは愛銃の安全装置を弾く。

 遠目に見える古聖堂、既に周辺の生徒は反対方向へと逃げ出しており、近場のカタコンベ出入口から突入すれば五分と掛からずに辿り着けるだろう。到着すれば、即座に戦闘になる筈だ。

 これは千載一遇の機会(チャンス)である。ゲヘナ最強戦力であるヒナは孤立し、負傷している。彼女を潰せばゲヘナの戦力は大きく欠ける。此処を逃せば次はない――故に、この場で必ず仕留める。

 

「……首尾は」

『異常なし、周辺の正義実現委員会は掃討完了、チームはカタコンベ内部で待機中』

「直ぐに出るぞ、ターゲットはゲヘナ風紀委員長の空崎ヒナ、カタコンベを抜ければ即座に戦闘になるだろう」

『――了解』

 

 自身の率いるチームへと連絡を取り、彼女は端末を外套の中に差し込む。最後に振り返った彼女は、各所から上がる火の手を眺めながら呟いた。

 

「トリニティ、そしてゲヘナ……これまでの長きに渡る我らの憎悪、その負債を払ってもらう時が来た」

 

 アリウスがトリニティから弾圧、排斥されどれだけの月日が流れたか。その年月を想い、サオリは愛銃のグリップを強く握り締める。

 脈々と受け継がれた先代の願い(呪い)、見捨てられ、打ち捨てられ、惨めに地下に籠って過ごして来た日々。夢を抱く事も、将来を切望する事も、幸福を望む事も許されなかった幼少期。諦めを知り、無力感を覚え、ただ自身の生の虚しさに気付いた時、彼女は自身の手の届く範囲――その狭さを知った。

 だからせめて、(サオリ)の手の届く範囲では、彼女達(スクワッド)に生きて欲しくて。

 

 月に手が届く様な――そんな大きな夢を見たかった訳じゃない。

 彼女達(スクワッド)が望んだのは、本当に欲しかったものは。

 誰でも手に入る様な、ほんの些細な、小さな幸せ(月並みな幸せ)

 

 ――それを奪ったのは、遥か昔の顔も知らぬ誰か(我ら祖先を排斥した者共)

 

 飛行船から地上に降り注ぐ火の粉。

 それを浴びながら彼女は浮かべる。

 彼女の主(ベアトリーチェ)と良く似た――憎悪と悦楽に塗れた嗤みを。

 

「我々アリウスが、楽園の名の下に」

 

 その歪な嗤いを、マスク(仮面)の下に隠して。

 彼女は、その道(地獄)を往く。

 

「――貴様らを審判してやろう」

 

 ■

 

「――……ぅ」

 

 意識を取り戻した時、最初に感じたのは熱だった。

 身体全体を突き抜ける、強烈な熱。或いはそれは痛みだったのかもしれない。しかし、脳はそれを痛みだと判断する事が出来なかった。視界は悪く、石床に横たわるようにして倒れた肉体は、僅かな反応も返さない。視線一つ、指先一つ動かす事すら億劫だった。

 

 地面に撒き散らされた砂塵、瓦礫、その只中に彼――先生は倒れ伏す。

 

 地面を舐める炎が、先生の頬を僅かに焼いた。しかしそれをどうこうするだけの体力も、気力も、既に存在しない。血と炎、捲れ上がった皮膚が内側を晒し、思考はどこか上の空。

 

「……ぁ……」

 

 小さく、口を開いた。カラカラに乾いた口内は、酷い血の味がする。喉を引き攣らせ、辛うじて発せられた言葉は、たったの三文字。

 

「――……せ、ぃ……と」

 

 声というよりは最早、吐息の領域。吐き出した声は余りにも弱々しく、誰の耳に届く事はない。

 

 ――生徒達(子ども達)は、無事なのか。

 

 起き抜けに思考した事は、それ一つ。

 横向きになった視界。その視線を一つ動かすのも酷く大変で、しかし残った気力を振り絞って周囲をゆっくりと見渡す。しかし、瓦礫に視界を塞がれ、少なくとも近辺に倒れた生徒の姿は見えない。

 

 ふと、伸びた自分の右腕、その先にシッテムの箱が転がっている事に気付いた。砂塵に塗れ、表面の罅割れた――先生の唯一無二(希望)

 点灯するレッドランプは、規則正しく点滅を繰り返し、軈て消える。電力を全て吐き出した証拠だ。先生は必死に手を伸ばし、タブレットを引き寄せようとした。

 

 けれど、グンッ――と。

 身体を引っ張る何かがあった。

 先生が緩慢な動作で、自身を阻む何かに視線を飛ばせば。

 

 ――左腕が、折り重なった瓦礫に潰されていた。

 

「…………ぅ」

 

 瓦礫に呑まれた左腕は、肘のやや上の部分のみが露出しており、そこから下は完全に瓦礫の下。どれ程の重さが在るのか分からない、巨大なそれを見上げ、先生は浅く息を吐く。下敷きになった腕はどうなっているのか――そんな事、考えなくても分かった。

 先生は弱々しい力で腕を引っ張り、シッテムの箱に再度手を伸ばす。しかし挟まれた腕がミシリと軋みを上げ、確かな痛みを先生に齎した。

 

 ――これは、抜けられそうにない。

 

 そうなると、自分は此処から動けない。

 どろりと、額を流れた血が視界を塞ぐ。それを拭う事も、払う事もせず、視界は血に呑まれていく。右側の視界が、暗い。何も見えない。立ち上がる事も出来ず、先生はただ浅い呼吸を繰り返すのみ。

 熱気が肺を焼く。息が、詰まる。

 いや、熱だけの問題ではない。衝撃で肺がやられたのかもしれない。息苦しさは過去類を見ない程。なら、他の内臓は? 目は、耳は、鼻は――。

 

 耳は――辛うじて聞こえる、けれど水の中に居るかの様に不鮮明。自身の荒い呼吸音だけが酷くくぐもって聞こえた。後は近くで燃え盛る、炎の音か。

 視界は霞む、辛うじて視認出来ている左目は血に塗れ、至近距離でなければ人の判別も難しいだろう。流れ出る赤色が、先生の頬を濡らしていた。

 

 総じて、満身創痍。

 

 或いは、このまま此処で寝そべっていれば、不可避の死が約束されている。今なお流れ出る血は止まらず、酷い睡魔が先生を襲っていた。

 このまま目を瞑って眠ってしまえれば、どれ程幸福だろうか。どれ程心地良いだろうか。抗い難い誘惑は先生の瞼を痙攣させる。足掻き、歯を食い縛ろうとする程、酷い汗が流れた。

 

 そうだ、自分は――手を尽くしたのではないか?

 

 睡魔に痛み、襲い来る虚脱感は先生の意識を断ち切ろうと囁く。

 炎の燃え盛る音だけが、聞こえる。

 精神は未だ屈せずとも、肉体は既に折れていた。もう既に立ち上がれる力はなく、傷は深く、生物としての限界が近付いている。

 心の中の弱い部分、先生の覆い隠し続けていた暗闇が告げる。

 

 自分は、十分に頑張ったと。

 手を尽くし、努力したと。

 これ以上足掻く必要はないと。

 

 懸命に立ち向かう先生の精神を、優しい暗闇が包み込む。

 本能が、理性に勝ろうとしていた。

 どれだけ硬い信念であっても、どれだけ痛烈な意思を秘めていても、死と云う運命には抗えない。

 人である限り――人であるからこそ。

 

 瞼が、徐々に落ちる。

 呼吸が、ゆっくりと止まる。

 視界が暗転し、音だけが響く。

 徐々に、徐々に、少しずつ――諦観が先生の肉体を支配していく。

 意志があっても、覚悟があっても、肉体が死に屈する。

 

「ぁ――……」

 

 伸ばした手の先にあるシッテムの箱。

 その輪郭すらもあやふやになって。

 先生の意識は、沈んで往く。

 優しさの中に――終わりの中に。

 

 私は、努力した。

 懸命に、出来得る限り。

 ならばもう、此処で、休んでしまっても(終わってしまっても)

 

 きっと。

 私の。

 

 生徒達は――。

 

 ■

 

『あなた様――』

 

 炎越しに見えた、彼女の笑み。

 燃え盛る嘗ての想い、先生の努力の結実――連邦捜査部シャーレ。

 くしゃくしゃになった書類、地面に散らばり、踏み躙られた思い出の写真。罅割れたホワイトボード、割れた液晶ディスプレイ、焦げ付いた折り鶴。

 平穏と平和、優しさと友好の象徴であったその場所は、戦火に呑まれ今は見る影もない。割れ、砕け、散り散りになった硝子ブロックから風が吹きつける。炎が頬を、髪を、皮膚を焼き、血に塗れた肉体は指先一つ動かす事も出来ず。

 そのまま無残に、無様に、何の抵抗も出来ず死に往く筈の己は、ただ地面に這いつくばりながら見上げる事しか出来なかった。

 

 罅割れた仮面、擦り切れた着物、ざっくばらんに千切れた彼女の美しい黒髪。

 傷だらけの身体を引き摺って、手を伸ばしても届く事はなく――そんな自身を見下ろす彼女の表情は、余りにも透き通っていて。 

 仰ぐ夜空は星が瞬き、それを背に佇む彼女は……そんな事を想う(いとま)も、余裕すらないというのに。

 とても、美しく思えて。

 

『……どうか』

 

 そんな彼女が、微笑み告げる。

 万感の想いと願い、希望を込めて。

 その想いが、その願いが、その祈り(呪い)が――。

 

『生きて』

 

 いつまでもこの背中に、張り付いて消えない。

 

 ■

 

「っ、はァ――……!」

 

 息を、吹き返した。

 止まりかけた呼吸がぶり返し、視界が一気に広がる。口の中に混じる砂利と血を吐き捨てながら、先生は唸りを上げる。

 呪い(祈り)が、先生を生かした。

 『生きて』という名の呪い(願い)が、死の淵で、先生を。

 

 ――今、何を想った、己は。

 

 周囲を舐める炎が、いつかの終わりと重なる。こんな風に自分は終わったのだと、こんな風に惨めに屍を晒したのだと。忘れられない記憶が、情念が、祈りが、願いが、呪いが、先生の肉体をこの世界に縫い付ける。

 血に塗れた赤い犬歯を晒しながら、先生は耐える、耐え忍ぶ。今にも途切れそうな意識を必死に、どれ程の苦痛であっても堪えながら。

 

 まだ、死ぬ訳にはいかない。

 まだ、最善を尽くしていない。

 まだ、足掻く余地は残っている。

 

 この死に体の身体であっても、この心臓が止まるまで、或いはこの頭蓋の中身が零れ落ちるまで。一秒、一瞬を全力で抗い続ける。

 それが、先生(わたし)の義務。

 この世界に足を踏み出した、あらゆる生徒の願いを背負った、(わたし)宿命(うんめい)

 

「ま――……」

 

 声を、上げる。

 喉を鳴らし、歯を食い縛り。石の床に爪を立てて尚、足掻く。

 

「ま、だ――だ……ッ!」

 

 意識が落ちそうになれば、額を石の床に打ち付けても。皮膚を炎で焼いてでも、あらゆる手を尽くして意識を繋ぐ。石床に立てていた爪が剥がれ落ち、先生は唇を強く噛んだ。必死の形相で、唸りを上げながら生きようと足掻く。

 その姿は無様だろう、見るに堪えないだろう。

 だが、それで良い。そうでなくてはならない。

 痛みはある、痛みがあるなら、まだ自分は生きている。生きているなら、足掻ける――足掻き続けるのだ。先生はそう、自身に云い聞かせた。

 まだ、死んではいけない。まだ、休んでは(楽になっては)いけない。

 

 諦める事など(背負った祈りが)――私には許されない(先生の背を押す)

 

「い、き……ろッ……――」

 

 声を絞り出し、自身に叫ぶ。焼き付いた声で、乾いた声で、必死に。

 伸びた右手が、転がったシッテムの箱に伸ばされる。指先が震え、剥がれた爪先が酷く痛んだ。指先から滴る血が跳ね、シッテムの箱、その液晶を汚す。

 

「あ、がけ――ッ……!」

 

 吐き出した息が、微かに弾んだ。呼吸が苦しい、今にも息が詰まりそうだ。酷い頭痛に吐き気、ふとした瞬間に落ちてしまいそうになる意識。

 それでも先生は手を伸ばす事をやめない。

 

「わ――………ッ」

 

 圧し潰された左腕から、肉の裂ける音がした。体の内側から、徐々に徐々に壊れていく、そんな音だった。ミチミチと肉が千切れ、皮膚が断裂する。想像を絶する痛み、骨が露出し、外気が露呈したそれを撫でつけ、叫び出しそうになる。

 気が狂いそうだった。失神してしまえば、どれ程楽になれるか。

 それでも先生は、手を伸ばす。

 

「わ……た、し……はァ……ッ!」

 

 酷い痛み、まるで拷問の様。少しずつ削れていく肉体と精神。一秒毎に心地良く、優し気な闇が先生に囁く。

 もうやめろと、もう諦めろと、運命を受け入れろと――そうすれば楽になれるのに。そうすれば痛い思いをせずに済むのに、と。

 その声を振り払い、先生は尚も手を伸ばす。

 

 歯を食い縛って。

 それでもと、声なき声を上げながら。

 

「わたし、はッ……先生(おとな)っ……だろう、が――ッ……!?」

 

 ――あの日誓った、願いの為に(生徒皆が、笑い合える世界の為に)

 

「――せ、先生っ!」

 

 その声が届いたのか、或いは運命の悪戯か。

 先生がその意識を落とすよりも早く、聞き覚えのある声が周囲に響いた。

 燃え盛る炎を突っ切り、瓦礫を押し退けながら現れたのは――シスター服を靡かせる誰か。

 霞んだ視界では、その生徒を判別する事が出来ない。けれど、声には聞き覚えがあった。辛うじて機能する聴覚が、彼女の正体を確信させる。

 

 ――ヒナタだ。

 

 直前まで先生と一緒に行動していた彼女は、先生の居た場所にあたりを付け捜索を続けていた。

 故に見つけられた、発見出来た、その命の灯が消え去る前に。

 

 瓦礫の隙間に見えた、確かな白(シャーレ制服)、それに気付いた彼女は大量の汗を流しながら前進する。爆発の影響でボロボロになったシスター服、露出した肌は傷だらけで、少なくない量の血を流している。けれど彼女にとっては重傷という程ではない。

 額から流れる血も拭う事無く、彼女は瓦礫の隙間に顔を突き入れ、先生に向かって叫んだ。

 

「せ、先生っ、ゴホッ、けほっ、コホッ! ご、ご無事で――!?」

 

 周囲に充満する煙と砂塵、それにむせ返りながら彼女が見たのは。

 血だまりに沈み――今尚、死に抗う先生の姿。

 

「ぅ、ぇ――………」

 

 うつ伏せに倒れ、苦悶の表情を浮かべる先生。纏っている衣服は焼け跡が残り、どこもかしこも血が滲んでいる。特に肩、背中の辺りが酷い。衣服が完全に裂け、皮膚は最早形を成していない。

 フラッシュバックしたのは、体育館で見た先生の惨状。ほんの一ヶ月と少し前、ティーパーティーの聖園ミカを庇って負傷した時の光景。生徒達が先生に群がり、涙ながらに処置した記憶。血と炎の匂い、鼻腔を擽る人が死に往く香り。

 

 けれど目前のそれは、嘗てのそれとは比較にならない。

 

 ヒナタの視界に入った先生の顔面、右側半分。

 血に塗れ、焼け焦げた顔は皮膚が捲り上がっていて――。

 

 ――在るべき眼球(右目)が、そこにはなかった。

 

「ひ、な――……た……?」

「せん……せ――?」

 

 擦れた声だった、弱々しく、囁く様な声色。

 残った左目が、光の消えた瞳で彼女を射貫く。

 血を垂らし、赤と白に塗れた彼が――静かに、ヒナタ(陽に照らされる者)の名を呼んでいた。

 


 

 取り敢えず片目貰うね? 潰された左腕は、生徒の手で捥いで(切断して)貰おうね。

 丁寧に、丁寧に。

 少しずつ、少しずつ、削って行きましょう。

 折角、此処まで手間暇掛けて来たのですから、一遍に全部を使い果たす事はしません事よ。一人ずつ、一人ずつですの、沢山の生徒に、先生のその恰好良い姿を見て貰いましょうね。

 

 ノリノリで先生ボコボコにしていたら、思った以上に文字数膨らんじゃった……。一度に投稿したら二万字超えそうだったので、二話に分けましたわ。ごめんあそばせ、生徒の慟哭は次回になりそうですの。

 必死に生きようと足掻く先生書くのめっちゃ楽しい、どうしようもない結末が待っていると分かっているからこそ、その一瞬一瞬の輝きを大事にしたいと思う今日この頃ですわ。

 

 先生が血反吐を撒き散らしながら進んで、這い蹲って、必死に努力して足掻いて、それでも報われなかった瞬間を生徒に見せつけられると思うと、もう心がポカポカして楽しみで仕方がない。生徒の愛を一身に受ける、その瞬間を書き綴る為に進んで参りましたから……!

 



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決死の(結末の決まった)運命

誤字脱字報告に感謝ですわ~!


 

「あ、あぁ……そんな、嘘――!」

 

 先生を見つけた時、絞り出した声は情けない程に震えていた。

 体中を凄まじい悪寒が突き抜け、背中に氷柱を突き入れられた様な悍ましさを覚える。ほんの十数メートル先に倒れる先生、その青白く、炎に照らされた表情を見れば分かる。

 重傷だ――致命的なまでに。

 

「このっ、瓦礫が――邪魔ぁッ!」

 

 らしくもない怒声を発し、ヒナタは両腕で先生と自身を隔てる瓦礫を押し退ける。掴んだ瞬間、怒りに我を忘れ、全力で押し出されたそれは地面に叩きつけられて、轟音を立てた。押し出した瓦礫に目もくれず、ヒナタは四つん這いになって先生の傍へと身を寄せる。先生の血に塗れた頬を拭い、その呼吸を確かめる為に顔を近付けた。

 

「――先生ッ! 先生っ、しっかりして下さい! こ、こんなに血がっ、それに、め、目が……あぁ!」

 

 血の気の失せた顔色のまま、ヒナタは倒れ伏した先生を見て泣き言を漏らした。出血が酷い、頭部、肩、背中、俯せでは見えないが、もしかしたら腹部や胸からも――見える箇所の傷は深く、何から手を付ければ良いのか分からなかった。

 

 シスターフッドとして、負傷時の応急処置の類は学んでいた。学んでいた筈なのに、何をすれば良いのか分からなかった。傷が深く、多過ぎた、加えて彼女の心構えが出来ていなかった事が大きい。何でもない事の様に学んでいたそれが、いざ自身の一挙手一投足に先生の命が掛かっていると理解した途端、指先が固まり、身体全体が鉛の如く重く感じられたのだ。

 

 荒い呼吸を繰り返すヒナタは、大粒の涙を流しながら先生の肩に手を伸ばし、引っ込めるという事を繰り返す。

 傷口を抑え、止血しなければならない――それを理解しているのに。頭では分かっているのに。力の強い自分が傷に触れた瞬間、先生が死んでしまいそうで、恐ろしかった。

 

「ぅ、ぅう、ぁ……」

「ぅ……――」

 

 先生は、ヒナタに視線を向けながらも声を発する事が出来ない。慰める事も、強がることも、それだけの余裕が無かった。ただ額と頬に大量の汗を掻き、苦し気に呻くのみ。笑いかけようにも、引き攣った口元は苦悶のみを漏らしてしまう。

 

「先生!? 先生っ、どこですか!?」

「先生―ッ!」

「っ、正義実現委員会の皆さん……!」

 

 遠くから聞こえて来る先生を呼ぶ声。ヒナタはその声に気付き、顔を上げ目を見開く。

 彼女にとって、自分以外の生徒の到来は希望に感じられた。這い蹲り、先生の手を戦々恐々とした様子で握り締めた彼女は、あらん限りの声で叫んだ。

 

「こ、こっちですっ! は、早く、早く来てくださいッ! お願いしますッ! 先生がっ、先生が……ッ!」

「! 此方から声が――」

 

 ヒナタの声に反応し、足音が段々と近付いて来る。

 軈て立ち昇る煙を切り裂き、現れたのは正義実現委員会のトップ二人――ツルギとハスミだった。

 彼女達は所々血の滲む箇所を他所に、焦燥を滲ませながら瓦礫を乗り越え、やって来た。

 

「先生ッ! 御無事で――」

「ッ……!?」

 

 ヒナタの姿と先生を確認した二人は、言葉を呑み込んで絶句する。涙を流すヒナタの前に倒れ伏した、先生の姿。素人目にも分かる程、その傷は深く多い。地面を濡らす赤色が炎に照らされ、鈍く光っていた。

 

「そ、そんな――……!」

「……………―――」

 

 悲鳴を呑み込み、二人は慌てて先生の元へと駆け寄る。ハスミは震えそうになる指先で先生の脈拍と呼吸を確認し、ツルギは周囲の瓦礫や影に目を向けた。

 容態を確認したハスミは視線を左右に揺らしながら、力なく呟く。

 

「す、直ぐに手当てを――い、いえ、この出血……応急処置でどうにかなるレベルでは……っ」

「――ハスミ」

 

 蒼褪め、息を詰まらせるハスミを前に、その不安を押し殺すような声色で、ツルギは口を開いた。その表情は真剣で、イノセントで、どこか能面の様な恐ろしさがあった。

 

「落ちつけ、取り乱せば本当に先生が死ぬ、今すぐ止血しろ、服に泥でも何でも沁み込ませて巻きつけろ、先生を守りながら撤退するぞ」

「っ、その場合、正義実現委員会の指揮は――」

「委員会は既に壊滅状態だ、人員もバラバラになった以上、指揮もクソもない、何より今優先すべきは先生だろう、先生を死なせる訳にはいかない、何が何でも――絶対にだ」

 

 ツルギは先生の周辺に目を配りながら、そう続ける。積み上がった瓦礫に燃え盛る炎、加えて正体不明の攻撃を行った勢力。一刻も早く、この場を離れる必要があった。これ以上古聖堂が崩れてしまえば、この場で生き埋めになる可能性だってある。

 

「えぇ……えぇ、そうですね……!」

 

 ツルギの何処までも冷静な言葉に、ハスミは幾らか理性を取り戻す。兎にも角にも、血を止めなければ危険である。正義実現委員会の制服、そのロングスカートに手を掛け、彼女は一気に引き裂く。

 

「シスターヒナタ、そちらの傷を抑えていて下さい!」

「はっ、はい……!」

 

 ハスミの言葉に慌てて頷き、ヒナタは咄嗟に先生の傷口に手を添え抑える。力を入れ過ぎないように、十分に注意しながら。先程まであった恐怖が、僅かに揺らぐ。それは誰かの指示によって動いた為か、或いは理性を僅かながら取り戻した為か。

 救急キット何て便利なものはこの場に存在しない。ヒナタの持ち込んでいた愛用の鞄も、爆発の衝撃で何処かに埋もれてしまった。

 

「っ、分かっていた事ですが、あまりにも状態が悪い……! 一刻も早く治療を受けさせなければ……!」

 

 乱雑に、けれど確りと、ハスミは傷口を止血していく。しかし傷が多い事に加え、爆発物の破片が体に残留している可能性が高い。巻き付けた制服の布、その表面に滲み出す血液。ハスミの表情に焦燥が滲む、直ぐ急速注入器でも何でも使って輸血をしなければ危険だった。

 その為にも、先生を動かさなければならない。

 しかし――それには問題がある。

 

「あ、あのッ、先生の腕が、瓦礫に……!」

「っ――」

 

 ヒナタが涙の混じった声で叫び、ハスミの視線が先生の左腕に落ちる。

 ――瓦礫に呑まれた腕が、先生をその場に釘付けにしている。

 これをどうにかしなければ、先生をこの場から動かす事は出来ない。

 

「こ、これを全て取り除くのは――」

 

 呟き、ハスミは積み上がるそれを見上げた。

 古聖堂の天井と内壁が崩れ落ちたのだろう、高く聳え立つそれは上から順に瓦礫を撤去していくとして、どれだけの時間が必要なのか分からない。

 

 ヒナタは先生の傷口を抑える自身の手を見つめ、考えた。恐らく、撤去する事自体は時間を掛ければ可能だ。それだけの力と体力を、彼女は持っている。

 問題は――それだけの時間が、先生には残っていない事。

 

 人体の総血液量は凡そ四から五リットルと云われている、これは体重の八パーセント前後に該当し、この半分が失われてしまえば確実な死が待っており、一リットル以上であっても生命に危険が及ぶとされている。

 今、先生の周囲に滴るそれは、一体どれだけの量だ? ヒナタには分からない。まだそれに達していないのか、もう直ぐ達してしまうのか、或いは――もう超えているのか。

 悠長に瓦礫を撤去している時間など、到底ある様には思えなかった。

 

 なら、どうする――?

 

 嫌な沈黙があった。息が詰まる様な、一瞬の逡巡。

 打開策に思考は行き届いていた。けれど、それを切り出す事を皆が恐れていた。

 だって、それを口にしてしまえば――。

 

「ぅ……――」

「先生……!」

 

 先生の口が、吐息以外の音を出す。

 皆の視線が集まり、それを感じながら、先生は譫言の様に何かを呟いた。声に気付いたヒナタは、それを聞き取る為に耳を寄せる。

 そして、彼は告げた。

 

「せ、つ――断……し、て――」

「――えっ」

 

 それは、余りにも無慈悲な言葉で。

 同じように顔を寄せていたハスミが、唇を戦慄かせながら問い返した。

 

「今、なんと――?」

 

 先生は、今、何と云った。

 言葉としては理解した。

 しかし、それを脳が拒んでいた。

 或いは、それこそが皆の思考に過りつつも、皆が直視する事を避けていた唯一の方法だった。

 

 さしものツルギでさえ言葉を失い、ただ茫然とその場に佇むばかり。その衝撃は如何程か、少なくともヒナタの人生の中で、最も動揺を引き起こした言葉である事は確かだった。

 

「切断――……?」

 

 呟き、ヒナタの視線が、先生の左手に向けられる。

 数多の瓦礫に挟まれ、圧し潰された左腕。

 此処から先生を動かす為に――この腕を、切断する。

 

「う、腕を、切れと……? 先生の、腕を――?」

「う、で……は、もう――つ、ぶ……れた」

「ッ――!」

 

 故に、躊躇する必要はないと。

 先生は今にも閉じそうになる瞼を懸命に開け、懇願する。

 ツルギが、ヒナタが、ハスミが、唇を戦慄かせながら目を見開く。

 

「た……の、む――」

「………」

 

 先生のか細い声が、懇願が、皆の鼓膜を叩いた。

 全員が先生の左腕と、自身の掌を見下ろす。

 

 ――私が、この手で、先生の腕を切断する?

 

「うっ……ぷ――」

 

 その事を考えただけで、酷い吐き気がした。思わず口元を抑え、ヒナタは顔を背ける。

 その、具体的な動作を己が行う想像が、妙な質感と現実性を以て去来したのだ。

 周囲を照らす炎が、自身の恐怖を煽るかのようにゆらゆらと揺らめていた。

 

「はッ、はぁ……――!」

「っ……」

 

 ハスミの目が見開かれ、その細い指先が震える。ツルギでさえ、言葉を失い冷汗を流していたのだから、余程の事だった。全員の心臓、その音が聞こえてきそうな程の緊張、強張り、恐怖(Terror)

 自分の手で先生の腕を奪う――切断する。

 その余りの重さに、罪の巨大さに、彼女達は怯み、恐れ、言葉を発する事も出来ずに居る。誰も、何も云えず。動けない。

 

 この場に、ナイフなんて都合の良いものは存在しなかった。

 なら、どうやるのか。

 どうやって先生の腕を切断するのか?

 

 ――千切るしかない、この手で。

 

 幸い、先生の肉体は脆弱である。弾丸一発で死に至り、打撃の一発でノックアウトされてしまう身体。キヴォトスの生徒であれば切れかけた腕を千切る事など、造作もない。

 赤子の手を捻る様に、誰でも簡単に、容易く為せてしまう事だ。

 ……だが。

 

 ――嫌だ。

 

 心が、精神が、全力で拒否している。

 敬愛する先生の腕を奪うような行動を、救命行為と理解していながら、感情的な理由で忌避しているのだ。誰が大切な人を傷つけたい等と思うものか。ましてやその傷が、以後彼の人生に於いて消える事のない負債として残ると理解しているのに。

 視線が揺れる。心臓が早鐘を打つ。血の気の失せた表情で、彼女達は佇む。

 時間が無いと理解しているのに――誰も、口を開けない。

 

「はッ、は……わっ、わたし――私が……ッ!」

「――!」

 

 不意に。

 ヒナタが両手を強く握り締め、震えながらも声を上げた。

 先生の左腕を凝視し、自身の胸元を強く握り締める彼女は、恐怖と不安、そして罪悪感に顔を歪め、叫ぶ。

 

「わた、しが、やります……――!」

「シスターヒナタ……!?」

 

 声は上擦っていた。額に流れる汗は大量で、その呼吸も荒く、明らかに緊張状態にあると分かる。

 けれど、その瞳には確かな意思があった。

 先生を救うという、強い意志だ。

 その意思ひとつで、彼女は声を上げた。

 

 力だけなら、自分が一番この中で強い。

 そして、引き千切る時間が短ければ、短い程。

 その分だけ痛みも少ないのではないかと、彼女はそんな風に考えたのだ。

 だから、この役目は自分が行うべきだ。

 

 この罪悪(先生の腕を奪った罪)は――自分が背負う。

 

「っ……ふーッ、ふぅ、ふッ、ふぅーッ!」

 

 ヒナタは目を大きく見開き、歯を食い縛りながら先生を見た。

 震える両手を先生の左腕に近付け、潰れた部分と先生の肩、その両方を掴む。ぐしゅりと、血に塗れた制服から嫌な感触が伝わって来た。その事に悲鳴を上げそうになるも、それを噛み殺し、唾を呑み込む。

 

 このまま互いに引っ張れば、先生の腕は中程で千切れる、筈だ。

 簡単に――いとも容易く。

 

「う、うぅ、ぅうううッ……!」

 

 徐々に、徐々に、力を入れる。

 嫌だ嫌だと叫ぶ理性を押さえつけ、万全の状態で、一瞬で、痛みなく終わらせる為に。

 

 ガチガチと、歯が鳴った。涙で視界が滲んだ。

 それは恐怖だった、嘗て感じた事のない類の恐怖。

 大切な人の腕を奪うと云う、決して消えない罪悪を背負う事に対する恐ろしさ。

 どれだけの正当性があっても、どれだけ重要な理由があったとしても、恐らくヒナタ(自分)は一生この傷を背負って生きる事になるだろうという、予感が――確信がある。

 きっと後から、あの時自分にもっと力があればと、他の方法があったかもしれないと、彼の失われた腕を見る度に、そう後悔する筈だ。

 

 でも――誰かがやらなくてはならない。

 

 先生を喪ってしまうより、何十倍も、何百倍も良い筈だから。例えどれ程の罪悪に苛まれるとしても、どれだけの恐怖に怯える事になるとしても。

 他に、道はないから。

 

「ッ――い、いきます、先生……ッ!」

「―――」

 

 視界の隅で、先生が静かに頷いた様に見えた。

 ヒナタは鳴り響いていた歯を一層強く噛み締める、奥歯が砕けそうになる程に、強く。

 両手に力を籠め、先生の腕と肩を確りと掴んだ。

 一瞬だけ――震えが止まる。

 恐怖を覚悟で踏み越え、目前の光景にのみ集中する。

 世界から、音が消えたような気がした。

 

「――ッぅ!」

 

 全力を籠め、腕を千切る。

 先生の二の腕半ばから、一瞬で。

 抵抗は、殆ど感じられなかった。

 出来得る限り全力を出したからなのか、或いは骨が最初から砕けていた為か。

 ほんの軽い綿を千切る様な、そんな感覚だった。

 予想していた抵抗らしい抵抗も、感情の爆発もない。血が噴水の様に噴き出す事も無く、ヒナタは余りの呆気なさに一瞬、惚ける様に目を見開いた。

 

「――ァアアッ!」

「ッ!?」

 

 けれど、その反応は劇的で。

 先生の喉から、罅割れた悲鳴が漏れた。その事に肩を跳ねさせ、涙を流しながら息を吸い込んだヒナタは、思い出したかのように呼吸を再開する。慌てて手を離せば、千切れた先生の腕が力なく床に垂れ落ちた。

 

「っ、はぁ、はァッ! はッ、ハァッ! せ、せんせいッ、先生……!」

「ぅ……ぁ――……」

 

 涙と汗で滲んだ顔をそのままに、ヒナタは先生の顔を覗き込む。痛みで意識が一瞬飛んだのか、その目は虚ろで、反応は無かった。

 覗き込んだ両手には、先生の血がべったりと付着していて、ヒナタは漸く自身の行動が齎した結果を実感する。

 瓦礫の下に残された、先生の左腕だったもの――先の存在しない、先生の左腕、その断面。

 そこから滴る、血が――。

 

「ッ、処置を、早く!」

「分かっています……!」

 

 それを見て呆然とするヒナタの代わりに、ハスミが素早く先生の腕を布で覆い隠す。何重にもきつく縛り上げ、止血を試みる彼女は手を動かしながら必死に叫ぶ。視界の横に、酷い顔をしたヒナタが幽鬼のように佇んでいた。

 

「シスターヒナタ、確り……! 先生を、生きて此処から連れ出さなくてはなりません! あなたの力が必要なんです!」

「はっ、ぅ、ぁあああ……あ、ぁああっ――」

 

 ヒナタの心が軋みボロボロと崩れていくのが、ハスミには分かった。

 

 喉が、引き攣る。

 肺が、熱い。

 心臓が、痛い。

 

 先生の血が付着した手で、自身の頬を挟むヒナタ。濃い、血の匂い。脳裏に千切った瞬間の感触が、先生の悲鳴が、確かな実感として刻みつけられる。無我夢中であったからこそ、それを終えた後の感情、その濁流が彼女を襲っていた。

 恐怖、嫌悪感、不安、絶望、悲しみ、怒り――それは自分自身に向けたものであったり、この状況に向けられたものであったり、先生に向けられたものであったり、様々だった。ただ自身の手を見つめ、涙を流しながら悲鳴を上げる彼女は、今にも壊れてしまいそうな顔をしていた。

 

 その重責を背負わせた自覚があるからこそ、ハスミは彼女に向かって懸命に声を掛けた。その精神が揺らぐ理由も、心が粉々になりそうになる事も、十二分に理解出来る。だから必死に、何度でも呼びかける。

 

「シスターヒナタ……ヒナタッ!」

「っ、ぅ、うぅ――ぅ……わ、分かって、います」

 

 血塗れの両手を握り締め、震えた声で答えるヒナタは。

 俯き、懸命に恐怖と戦いながら立ち上がる。

 

「大丈夫、わたっ、私は、大丈夫、です……ッ!」

 

 血の気の失せた顔で、今にも消えてしまいそうな小さな声で。

 大丈夫、大丈夫と、そう何度も自分に向けて呟いた。

 震えを押し殺す、悲鳴を呑み込む。砕けそうになる心を、先生を助けるためだと云い聞かせ、必死に補強する。

 けれど、涙が止まらない――涙だけが、止まらない。

 

「っ、止血が終わりました!」

「ッ、良し、先生を連れて此処から――」

 

 ハスミが腕の処置を終え、先生の身体を抱き起す。意識があるのか、無いのか、小さく吐息を漏らしながら薄く目を開ける先生。その指先が、ヒナタに伸びていた事に、彼女達は気付かない。

 ツルギは大粒の涙を流しながら荒い呼吸を繰り返すヒナタを見て、自身が前に出る事を決める。今、戦力として数えられるのは自分ひとりだと。それが何も出来なかった自身、声を上げた彼女(ヒナタ)への、せめてもの罪滅ぼしなのか。

 彼女自身にも分からなかった。

 

 不意に、瓦礫が落ちる音がした。最初に反応したのはツルギだ、彼女は素早く先生を抱くハスミ、ヒナタの壁になる様に動き、両手を低く構える。

 四人を見下ろす誰かの影――炎に揺られ、姿を現した彼女(ミサキ)は淡々とした口調で呟く。

 

「作戦地域に到着、正義実現委員会の残党――いや訂正、残党じゃなくて真髄だ……ツルギにハスミを発見、兵力をこっちに回して、これより交戦する」

「っ……アリウス分校!?」

 

 瞬間、炎を突き破って突入してくる白いコートの集団――アリウス。

 その校章に見覚えがあったハスミは、一瞬で彼女達の所属を見破った。

 生徒達はガスマスクで顔を覆い隠し、その銃口はハスミ達に向けられている。その数は十や二十ではない。先生を自身の影に匿いながら、思わずハスミは叫ぶ。

 

「何処からこれ程の兵力が……周辺地域は全て警戒態勢だったのに――!」

「まさか、地下か……? 古聖堂の地下にある、カタコンベから――」

 

 ツルギはアリウスを油断なく見つめながら、訝し気に呟いた。カタコンベ――確か、調印式に先んじて補修作業が行われた古聖堂、その地下に関しては全くの手付かずだった筈だ。何があるのか、何処に繋がっているのかも不明。或いは、何処からか古聖堂地下に侵入出来る経路があったのかもしれない。

 しかし、もしそうだとすれば。

 彼女達は事前に、この襲撃を計画していた事になる。

 

「………なるほど、つまり」

 

 ツルギの言葉を聞き、凡その予測を立てたハスミは。

 ミシリと、愛銃を握る手に力を込めた。

 

 正義実現委員会が壊滅状態に陥ったのも。

 先生がこの様な傷を負ったのも。

 

「――この状況は、あなた達アリウスの仕業という事ですかッ!?」

「へぇ……運が良い、もう一人の対象――先生は虫の息」

 

 ハスミの激昂、その怒声を無視し、スクワッドのメンバー――ミサキは血塗れの先生を見下ろし、嘲笑う。その嘲笑、明らかな挑発にハスミの目が見開かれ、ぶわりと髪が怒気と共に広がった。自分の中にある、明確な一線。その境界線が千切れる音が聞こえた。

 

「このッ――! 良くも、良くもッ……! そのようなッ!?」

 

 先生を地面に横たわらせ、立ち上がったハスミは目前に立つアリウスをあらん限りの憎悪と共に睨みつける。握り締めた愛銃が軋みを上げ、ハスミは気炎を上げて叫んだ。

 

「絶対に許しませんよ、アリウスッ! その代償、今、此処でッ――!」

「――ハスミ」

「っ!」

 

 今にも駆け出そうとしたハスミを、隣に立っていたツルギの静かな声が止めた。

 激昂するハスミに反し、ツルギは何処までも自然体。

 スカートの中に仕込んでいた愛銃――ブラッド&ガンパウダーを抜き放ち、指先で回転させながら構えたツルギは、その鈍く光る銃口でアリウスを捉えながら告げる。

 

「役割を果たせ――暴れるのは、私の役目だ」

「ツルギ……!」

 

 ハスミが何か、声を上げようとした瞬間――彼女(ツルギ)の姿が掻き消える。

 一拍遅れて彼女の足元、石床が砕け、一陣の風が吹き抜けた。

 

「――殺す」

「はッ……」

 

 一呼吸、たった一呼吸の内にツルギは最前列に立っていたアリウスの生徒へと肉薄していた。気付き、視線を向けた時には既に遅い。赤い眼光が軌跡を描き、その顔面に強烈な回転蹴りが叩き込まれる。

 インパクトの瞬間、何かが砕ける様な音がした。頭部が石床に叩きつけられ、表面を破砕し食い込む。半ば折れ曲がる様にして倒れ伏した生徒を前に、ツルギは髪を扇状に靡かせ云った。

 

「お前らは皆殺しだ、残らず、生きて帰れると思うな、私の、わ、わたしの、先生、せん、せせせせッ、あ、あああん、あんな傷を、う、ううで、腕、うででええに、め、めぇ、目までぇ……――きひッ!」

「ぅ――」

 

 滲み出る狂気――強烈な敵意。

 鼻を突くのは血の香りだ、普段より暴力と闘争に明け暮れた彼女が放つそれは、目に見える恐怖としてアリウスに精神的圧迫感を与える。

 口元が裂けているのではないかと思う程の狂笑。限界まで開いた瞳孔がアリウスを直視し、その銃口が素早く左右に開いた。

 銃撃――左右、ツルギを挟むようにして立っていたアリウス生徒が直撃を受け吹き飛び、後方の瓦礫へと突っ込んだ。硝煙を吐き出す愛銃を振り回し、彼女は叫ぶ。

 

「キヒハハハハハアッ! ころすゥッ! 殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すぅッ!」

「……全体、ツルギに火力を集中」

「――了解!」

 

 絶叫し、駆け出すツルギ。周囲の銃口が一斉に彼女を狙い、マズルフラッシュと銃声が燃え盛る古聖堂に木霊する。

 素早い身のこなしで飛来する弾丸の雨を掻い潜るツルギ、しかし余りも数が多い。何発もの弾丸が彼女の顔面を、胸元を、腹部を、手足を強かに打つ。

 しかし――。

 

「コイツ、止まらな……ゴッ!?」

「死ねぇッ!」

 

 何発その身に受けようと、どれだけの集中砲火に晒されようと、彼女の笑みが消える事も、止まることも無い。宛ら重戦車の如く、弾丸を受けて尚も前進する。

 至近距離で銃撃、直撃を受けた生徒が吹き飛び、石床の上を転がる。そこから銃器を逆手に持ち直すと、ストックで頭部を全力で殴打した。巨大なハンマーで頭部を叩きつけられた様な衝撃、攻撃を受けた生徒の額が床に打ち付けられ、半ばまで埋まる。

 ぬらりと血の滲んだ(それ)を掴みながら、彼女はアリウスの只中に突貫する。滅多矢鱈に銃を振り回し、バレルで、ストックで打撃を行い、僅かに距離が足りない場合は引き金を絞る。

 そして銃弾が無くなった――或いはバレルが歪んで使い物にならなくなったと判断した瞬間、彼女は愛銃を何の躊躇いもなく投げ捨てた。

 そして長いスカートを翻し、その中から新たな愛銃(ブラッド&ガンパウダー)を取り出す。抜き出したそれを手の中で回転させながら、彼女は哄笑と共に宣言する。

 

「お前たちは此処で死ぬッ! 当然! 当然だろうがッ! 先生が血を、血を流したァッ!? なら、同じ分だけ、いやァ、もっと血を流せッ! 死ねぇッ! 死ね死ね死ね死ねェエッ! 血を撒き散らしながら死んで行けぇェエエエッ!」

「ッ……!」

 

 狂乱――血を浴びれば浴びる程、その激情が加速するかの様に。

 彼女の動きや言動は激しくなっていく。その驚異的な戦闘能力、注意をせずには居られない根源的な恐ろしさ。それは確かに、アリウス全員をその場に釘付けにした。

 今、彼女達の目にはツルギしか映っていない。

 

 その様子を見つめながら、ハスミは強く歯噛みする。憎悪が、怒りが、彼女の胸に燻る。しかし、今の最優先事項は断じてアリウスを攻撃する事ではない。床に横たわらせた先生を担ぎ直し、ハスミはヒナタに目を向ける。未だ不安げな様子を見せながらも、幾分か呼吸を落ち着かせた彼女。

 ハスミはヒナタに一つ頷きを見せ、立ち上がった。

 

「行きましょう……!」

「は、はい……――っ」

 

 ハスミが先生を抱えたまま駆け出し、ヒナタがその背中を追う。瓦礫と炎に紛れながら離脱を開始する二人に気付く者は居ない。目前の脅威(ツルギ)が、彼女達の意識を全て攫っていた。

 二人の背後から悲鳴と絶叫、銃声が絶え間なく鳴り響く。

 徐々に離れていくそれを尻目に、ハスミは険しい表情を浮かべたまま呟いた。

 

「頼みましたよ、ツルギ……!」

 


 

 最近めちゃ忙しくて、そんなに時間掛けられませんでしたわ。ちょっと地の文簡素過ぎるかなって思うので、その内加筆の可能性がありますの。

 

 Q 何でヒナタに千切らせたのですの?

 

 A 怪力で困っているから。力を籠める度に先生の腕千切った事を思い出すようになったら、力のコントロールも上手く行くようになるんじゃないかなぁっていう親切心ですのよ。これで両手に縄を付けて生活する事も、それで誤解されるサクラコ様も居なくなる、一石二鳥のパーフェクトな作戦ですわ。

 

 ぶっちゃけ一番最初に先生を発見した生徒が腕を切断する流れでプロット書いていたので、おじさんルート、感情的になったハナコルート、ワカモルートもありますわ。誰が腕を千切っても美味しいので、正直かなり迷った事を此処に記しておきます。

 まぁでも、もう一本ありますし、何なら下含めて後三本ありますから、「まだ私の推しが捥いでくれるチャンスは残っているな……!」って安心して下さいまし。

 因みに此処で先生が諦めると、心停止状態で発見されて色彩ルート入りますわよ。おぉ、哀れ哀れ。

 



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命のリレー

先生だけを苦しめたい、けれどエデン条約は皆が苦しんでしまいますの。
新しく来たストーリー読みたいので、次は三日後になると思いますわ。


 

「はぁッ、はぁッ……!」

 

 古聖堂を抜け、広間を駆ける。爆発の跡が色濃く残るその場所は、破砕された地面と崩れ落ちた建物の瓦礫が周囲に散らばっていた。先程まで存在した街並みが、ほんの一瞬で廃墟と化す。その恐ろしさに肝を冷やしながらも、ハスミとヒナタは足を動かす。

 

「ぅ……ごほッ――」

「っ、先生……!」

 

 不意に、先生が咳き込んだ。僅かに開いた口元から、泡の混じった血が垂れる。喀血だ、肺に何か、良くない傷を負ったのかもしれない。先生の身体に負担を掛けないように駆ける――それが出来ればどれ程良い事か。

 瓦礫の散乱する足場に、今なお止まらない流血。今は何よりも早さが求められていた。

 

 そんな彼女達の直ぐ脇を、一発の弾丸が掠めた。

 銃声が鳴り響き、ハスミは弾丸の飛来した方角を即座に確認し、先生を自身の身体で庇う。

 

「―――」

「ッ、攻撃……!」

 

 ヒナタがホルスターから素早く愛銃を抜き放ち振り向けば、瓦礫の上に立つ青白い人影が見えた。炎に照らされ影になった姿の輪郭、しかし強い光に照らされた人影は確りと視認する事が出来ない。

 

「っ、ハスミさん、先生を! 私が攻撃しますッ!」

 

 両手でグリップを握り締め、咄嗟に引き金を絞る。ダブルタップ、銃撃は二回、放たれた弾丸が人影の頭部に着弾し、人影が後方へと流れるようにして倒れるのが分かった。そのまま瓦礫の上に転がる筈だった影は――しかし、一瞬で霧のように、忽然と姿を消す。

 

「っ、消えた――!?」

 

 予想だにしないその結末に、ヒナタは思わず驚愕する。

 瞬間、別方向から銃声、弾丸が飛来しヒナタの肩を掠め、後方の瓦礫へと着弾した。

 

「また……!」

 

 ヒナタはハスミと先生の盾となる位置に立ちながら、弾丸の飛来した方向へ銃を構え、引き金を絞る。兎に角、弾幕を張る必要があった。無意識の内に放たれた弾丸は四発、内一発は対象の横合いを掠め、残りは足、胸、腹と着弾した。

 そして撃ち抜かれた人影は――やはり、霧のように消えてしまう。

 

「何なのですか、あれは……!?」

「わ、分かりませんっ!」

 

 先生を抱き締めながら、ハスミは困惑を露にし、ヒナタも戸惑った様に自身の銃を見つめる。弾は発射されている、弾丸も命中している筈だ――だと云うのに。

 

「命中している筈なのに、まるで手応えがなくて……!」

 

 まるで、実体のない虚像を撃っている様な感覚だった。

 唐突に現れ、唐突に消える、宛ら影の如く。

 

「そもそも、あれは人なのですか? まるで――」

 

 ――幽鬼の様。

 その言葉を口にするより早く、新たな人影が出現する。瓦礫の上に、唐突に、何の予兆もなく。

 顕れた数は三人、それぞれが異なる衣装、銃器を手にし、ハスミとヒナタ、先生を見下ろす。

 炎に照らされたその姿が、二人の視界に映った。

 

「ッ……! あの、衣装は――」

 

 その、特徴的な姿を目にしたヒナタは息を呑んだ。

 幽鬼の如く現れた人物――その姿に覚えがあったから。

 脳裏に過るのは古書の内容、いつか戯れに手にしたシスターフッドの歴史。古典とすら呼べる、遥か昔の出来事。

 

「シスターヒナタ?」

「あの装い、本で見た事があります……!」

 

 黒に統一された、特殊礼装。引き裂かれた長いウィンプル、肉体の半ばまで同化した黒い衣装。ある者はレオタードの様な衣服を、ある者は全身を覆う修道服を、ある者はスリットの入ったドレスの様な衣服を――。

 共通しているのはウィンプルと、罅割れ、点滅するヘイロー、そして顔を覆うガスマスク。青白く光る肉体が、その瞳が、ヒナタを射貫いていた。

 

「……あれは、『聖徒会』の服装です」

「聖徒会――?」

 

 ハスミは一瞬、頭の中で生徒会の文字を思い浮かべる。しかし、違う、彼女が指しているのは既存の組織の事ではない。シスターフッド、そして生徒会の響き――であれば、それは彼女達の前身である、『聖徒会』を指しているのだろう。

 そして、その名を冠する組織はこの広いキヴォトスの中でも、たった一つ。

 

「まさか、ユスティナ聖徒会の事ですか!?」

「はい……!」

 

 ユスティナ聖徒会――戒律を破る者に懲罰を、その目的でのみ組織された戦闘集団。嘗てのトリニティ、その暗部と云っても良い。暴力を躊躇わず、戒律とその守護を絶対とした者共。

 しかし彼女達は、最早遥か昔の存在である。ハスミの表情に困惑と驚愕が滲む。

 

「ユスティナ聖徒会、数百年前に消えた戒律の守護者……それが、どうして此処に!?」

「っ、下がってッ!」

 

 ヒナタが叫び、ハスミの肩を押し出した。先生を抱きかかえたままハスミは数歩横へ蹈鞴を踏み、ヒナタが入れ替わる様にしてその場に立つ。瞬間、幾つもの弾丸がヒナタの身体に撃ち込まれる。銃声が轟き、鈍い痛みがヒナタの身体を貫いた。

 見れば、ユスティナ聖徒会の面々が銃口を向けており、銃口から硝煙が立ち上っている。

 

「ぐぅッ……!」

「っ、シスターヒナタ!」

「大丈夫、ですッ!」

 

 両手で頭部を守り、身を縮こまらせていたヒナタは叫ぶ。見れば、撃ち込まれた箇所から蒸気が噴き出していた。凄まじい神秘濃度――何発も受ければ、急所に当たらなくても戦闘不能になりかねない。皮膚を焼く様な鈍痛に顔を顰めながら、ヒナタは拳銃を構える。

 そして、瓦礫の向こう側から続々と出現する人影に気付き、息を呑んだ。

 

「っ……尋常ではない数……! 奥に数十、いえ、数百規模――!?」

 

 ■

 

「死ねェエエッ!」

 

 ツルギの拳が顔面に突き立てられ、地面を何度もバウンドしながら瓦礫に衝突するアリウス生徒。その散り際を見つめながら、小さく息を吐き出すミサキ。肩に担いだセイントプレデターを横目に、彼女は呟く。

 

「……このままだと、こっちが全滅かな」

 

 周囲に居るチームの残りは十人前後、あれだけ居た筈の仲間はそこら中に倒れ伏し、失神している。甘く見積もっていたつもりはないが、やはり一筋縄ではいかないらしい。あの爆発を受けて尚、ツルギの肉体は大したダメージを見せず。何十発という弾丸を受けても怯まないタフネスと精神性――いや、そこには純粋な怒りも含まれているのだろう。

 

 最悪、セイントプレデター(これ)を撃ち込んで、諸共生き埋めになるか――そんな風に考えていた彼女の耳に、朧げな風音が届いた。

 

「……!」

 

 ミサキの背後に出現する人影、まるで地面から生え出るように、彼女達はゆっくりと姿を現す。黒いウィンプル、罅割れたヘイロー、顔を覆うガスマスク。それを認め、ミサキは頷く。

 

「あぁ――聖徒会の複製(ミメシス)、間に合ったんだ」

「………」

 

 彼女の声に何も答えず、聖徒会はツルギに銃口を向ける。

 ミサキは燃え盛る古聖堂、その火の粉に照らされた曇天を見上げ、呟いた。

 

「――条約に調印出来たんだね、アツコ」

 

 ■

 

「これで、調印は完了した」

「………」

 

 古聖堂、地下。

 がらんと開いた空洞の中に佇む、アリウスと不気味な二つ頭の木人形。罅割れた頭部に口と目を描いた、タキシード姿の人物。彼は凛とした佇まいのまま、冷たい光沢を放つ指先で襟を正す。

 

「木の人形が、喋れるのか」

「――無作法だな」

 

 アリウスの一人が、思わずと云った風にそんな声を漏らした。

 瞬間、淡々とした様子を見せていた彼の声に苛立ちと怒りが滲み出す。その不気味な容貌も相まって、彼の放つ雰囲気は薄暗く恐ろしい。

 

「私を呼ぶのであれば、芸術への敬意を込めて、『マエストロ』と呼んで欲しいものだ」

「……っ」

 

 ゲマトリア所属――マエストロ。

 黒服、ベアトリーチェ、ゴルコンダ&デカルコマニー、各々が自身の道を探し続ける求道者であり、その中の一人である彼もまた、自身を芸術家と称する者のひとり。木の擦り合う軋んだ音を立てながら、彼は朗々と唄う様に告げる。

 

「ふむ、しかし、そなたらにはまだ芸術の何たるかは尚早だろうか……? ならば済まないが、そなたらとは愉しい対話は成り立ちそうにない、知性、品格、経験、そして信念――それらを携えて来るが良い、キヴォトスの生徒達よ、どうかわたしを落胆させてくれるな」

 

 彼にとって、彼女達は良き言葉を交わす相手になり得ない。彼の目からすれば、何もかもが不足している様に映っていた。しかし、それで切り捨てる様な真似はしない、今は原石であっても、いずれ長い時を経て美しい宝石へと変貌するかもしれない。

 その可能性が僅かでも存在するのであれば、彼はそれ相応の振る舞いを見せよう。

 他ならぬ――かの者(聖者)が、そう信じているのだから。

 

「本来であれば、この様な事に手を貸すのは不本意なのだ、されど、あの守護者たちの、『威厳』を複製(ミメシス)出来るという一点には興味が惹かれた、故にそれに免じて、今回限りはそなたらを助けよう、戒律を守護せし者の血統――そのロイヤルブラッドの、『戒命』が動作する様を見届けられたのは、幸甚であった」

「………」

「おかげで私の実験は、更に『崇高』へと近付く事が出来るだろう」

 

 彼の前に立つアリウス生徒――アツコ()は静かに頷く。

 スクワッドのメンバーである彼女の役目は、この場所でロイヤルブラッドの名の下に、条約に調印し戒命を動作させる事。そして守護者の威厳を複製するその工程は、目前の人物(マエストロ)にしか出来ない。故に、彼女(マダム)は多少の対価を支払ってでも彼の助力を仰いだ。

 そして今、数百年前に存在した戒律の守護者は再びその力を取り戻し、戒律に背く者を懲罰する為、銃を手に取り行進を開始する。

 

 これこそがアリウスの狙い――決して斃れる事のない、不死身の軍団との契約。

 

「……ふむ、説明は退屈にして由無し事だろうか、では約束通り、この地下にある教義の下まで案内して貰う事にしよう」

「………」

 

 両手を広げ、仰々しくその様な言葉を発するマエストロに、姫は静かに踵を返す。目指す先は薄暗い通路、空洞から繋がる秘密通路。彼女の背中を頭部を揺らして眺めていた彼は、静かにその一歩を踏み出す。

 

「さぁ、いざ往かん――」

 

 ――我が芸術の最果てへ。

 

 ■

 

 幾つもの銃弾が瓦礫を叩く。破砕された破片が周囲に飛び散り、粉塵が周囲を覆う。

 先生を庇いながら近場の瓦礫に身を寄せるハスミは、遠目に見えるユスティナ聖徒会の一人を狙撃し、その体が弾け飛んだ事を確認して叫んだ。

 

「リロードを行います、援護をッ!」

「はい……っ!」

 

 直ぐ傍の瓦礫に身を潜めるヒナタは、その声に応え即座に応射を開始する。

 気付けば、完全に押し込まれていた。

 蜃気楼の如く朧気に、音もなく出現する彼女達はヒナタとハスミの退路を断ち、静かに、しかし粛々と包囲するように動いている。感傷に浸る暇もない。波のように押し寄せるユスティナ聖徒会を相手取るだけで精一杯だった。

 ハスミはポケットに手を入れ、予備の弾薬を取り出しながら顔を顰める。

 

「っ、残弾が少ない……これでは――」

 

 掌に転がった弾薬を見つめ、彼女は表情を険しくさせる。到底十分な弾薬量ではない。真正面から戦い続ければ、三分と掛からず全て撃ち尽くしてしまうだろう。

 補給も望めない現状、弾薬が尽きてしまえば敵勢力を押しとどめる事すら難しくなる。ヒナタも同じなのか、腰に手を回し予備のマガジンを掴みながら息を呑む。

 弾倉は残り三つ――これで此処を突破するのは、とても現実的ではない。

 そして突破できなければ、希望はない。

 口を固く結び、弾倉を嵌め込んだ彼女は呟く。

 

「せめて、先生だけでも――……!」

 

 震える声を漏らし、ヒナタは先生とハスミを見る。

 ユスティナ聖徒会は倒しても倒しても、その数を減らさない。ならば此処で足を止める事自体が下策。連中の包囲網を突破し、一人が囮兼殿として残れば、或いは一抹の望みがあるかもしれない。

 分の悪い賭けだった、弾薬も無く、増援も望めず、単独であの不死身染みたユスティナ聖徒会を相手取る。十中八九、囮役となった生徒は此処で力尽きるだろう。

 

 けれど、そうしなければ全員――此処で死ぬ。

 そうなる位ならば、一人の犠牲で済むのならば。

 

「ハスミさんっ! 私が――」

 

 私が突破口を開き、殿を務めます。

 そう叫ぼうとして――けれど、その声量を上回る轟音が突如打ち鳴らされた。

 

 唐突に、何の前触れもなく飛来したのは弾丸の雨。

 特徴的な射撃音に、凄まじい神秘の込められたそれらが周囲一帯を薙ぎ払い、瓦礫諸共ユスティナ聖徒会を一掃した。砂塵と破砕音、それらを目前にヒナタは思わず悲鳴を漏らす。

 

「ッ、これは……!?」

 

 先生を庇う様に抱き締めながら、巻き上がる砂塵を見つめていたハスミ。

 数秒程して、砂塵が晴れ、確かな弾痕の身が刻まれた中、その銃撃を行った主――人影が瓦礫を踏み砕き、現れる。

 

「――先生ッ、無事!?」

「――ゲヘナの風紀委員長!?」

 

 現れたのは、血に塗れた髪を靡かせるゲヘナ風紀委員会、委員長のヒナ。彼女は愛銃のデストロイヤーを脇に挟みながら、鬼気迫る表情で叫ぶ。よもやゲヘナの風紀委員会、そのトップが現れると思っていなかったハスミは驚愕を表情に張り付ける。

 そして、その感情を抱いたのはヒナも同じであった。

 ハスミの抱える人影、その血に塗れたシャーレの制服を見つめ、思わず息を呑む。

 

「っ……!?」

「――ぅ………」

 

 小さな呻きを漏らし、苦し気に表情を歪める先生。その血に塗れた姿、布が幾重にも巻き付けられた左腕。その消失した先を認め、彼女は一瞬呆然とした表情を見せた。まるで恐ろしいものを見てしまったかのように、立ち竦み、表情を恐怖に染める。

 

「―――」

 

 数秒、間があった。

 ハスミはヒナを見つめながら、顔を歪める。

 怨敵とも呼べるゲヘナ、個人的な好悪で語れば手を結ぶなど論外。

 しかし――。

 

「先生……――」

 

 腕の中に居る先生を強く――強く抱き締め、彼女は声を絞り出す。

 ユスティナ聖徒会と先生の状態、今此処でゲヘナと争う事がどれだけ愚かな事か、ハスミは良く理解している。故に頼るべきは、目前の風紀委員長。

 正直に云えば、腸が煮えくり返る想いだった。

 自身の無力を認める様で、耐え難い屈辱と苛立ちを感じた。

 だが――。

 

「シスターヒナタ、警戒をッ!」

「あっ、は、はい……ッ!」

 

 先生を抱え、駆け出すハスミ。行き先は瓦礫の上に立つヒナ、彼女の元に素早く駆け寄ったハスミは、血塗れの先生を一度だけ強く抱きしめ、彼女へと差し出す。抱えられた先生は力なく項垂れ、何処もかしこも傷だらけだった。

 

「先生を、頼みます――風紀委員長」

「……!」

「トリニティの首脳陣はほぼ壊滅状態です、シスターフッドも、ティーパーティーも居ない今、先生に万が一があっては、本当に収拾がつかなくなってしまいます……!」

 

 ハスミが取った選択は、ゲヘナの風紀委員長――ヒナに先生を託し、自身達が殿を務めるというもの。

 ツルギと並び立つと称される彼女の実力は、業腹だが信頼している。仮に先生を抱えながらの戦闘であっても、彼女ならば早々にやられる事はないだろうという確信があった。ならば単独での戦闘能力に優れた彼女に先生を託し、自分達が此処で囮兼殿として残るべきだ。

 先生の命を第一に考えるのならば――それが最善。

 先生の制服を、ぎゅっと握り締めたまま、ハスミは鬼気迫る表情で叫んだ。

 

「その身に代えても、守って下さいッ!」

「―――」

 

 その、強烈な感情に――先生の容態に。

 ヒナは言葉を失くす、或いは恐怖する。震える手を伸ばし、先生の腕を掴む。彼女の中の怯懦(弱い自分)が顔を出し、勇気と使命感を上回ろうとしていた。

 けれど、微かに動く先生の瞼が、その温もりが、彼女の背を強く押した。

 息を呑み、歯を食い縛り、腹の底に恐怖を沈める。

 

「ッ……任せて」

 

 恐怖を、苦痛を、後悔を押し殺し、彼女は力強く頷いた。自身よりも背の高い先生を軽々と片腕で抱え上げ、古聖堂とは逆方向へと駆け出す。目指すのはトリニティ中央区、本校舎。自身にとっては天敵とも呼べる場所だが、構いはしない、今は先生を救う事こそが先決。

 抱えた先生は、いつもより幾分か(腕一本分)軽く感じられた。その事を努めて意識から外し、ヒナは涙を呑んで足を進める。

 少しでも早く、少しでも強く。

 でないと、涙が溢れそうで――。

 

「シスターヒナタッ! 退路は私達で守りますッ!」

「は、はいっ……!」

 

 ハスミは駆けて行くヒナ、その背中から顔を逸らす。

 代わりに、ヒナタの声が響いた。

 

「せ、先生をっ……先生をよろしくお願いしますッ!」

 

 響いたその声に、ヒナは声を返す事をしなかった。

 しかし、その背中が雄弁に語っている。

 ――絶対に守ると。

 

 彼女から視線を逸らした二人は、近場の瓦礫に身を潜め弾薬を検める。先生を託した以上、少しでもこの場で敵を足止めしなければならない。

 

「……弾倉は、後幾つですか?」

「の、残りは三つ――あ、いえ、今装填されているものを除けば、二つだけです……私の鞄が見つかれば、まだ幾らか戦い様はあったのですが」

「無いもの強請りをしても仕方ありません、最悪は――素手で喰らい付く事になりそうですね」

 

 そんな言葉を交わす中――再び二人の前に立ち塞がる、ユスティナ聖徒会。

 ヒナの射撃で消滅した彼女達が続々と復活を開始したのだ。

 再び出現するには、僅かだがタイムラグが存在するらしい。しかし、まるで不死身の軍隊の如く蘇る彼女には、感情も、敵意も見えない。無機質な怪物が黙々と行進するような不気味さだけがあった。

 

「全く、本当に幽霊でも相手取っている気分で――!」

 

 そんな愚痴を漏らすと、不意に横合いから瓦礫の崩れる音が響いた。

 よもや別動隊かと二人が身を固くすれば、黒い制服に身を包んだ生徒達――正義実現委員会の面々が顔を覗かせる。前髪で目の隠れた彼女達は分かり易く肩を驚かせ、叫んだ。

 

「は、ハスミ先輩……っ!?」

「! あなた達、無事だったのですね……!」

 

 生き残りが居た事に驚き、喜色を滲ませるハスミ。見れば僅かではあるが、シスターフッドのメンバーも数人混じっている。爆発で脱げたのか、ウィンプルを被っていない者もいたが、大きな怪我は見受けられなかった。

 

「シスターヒナタ……!」

「皆さん、御無事で――!」

 

 シスターの元に駆け寄ったヒナタは、彼女達の無事を喜ぶ。どうやら爆発が起きた後、近場の生徒達で固まって目に見えた負傷者を救助しながら古聖堂を抜けようとしていたらしい。そして、広場を抜けた先で此処に辿り着いたと。

 ハスミは彼女達の無事を喜びながらも、しかしその表情を意図して険しいものに切り替え、問いかけた。

 

「詳しく説明している暇はありません、皆さん、まだ戦えますか?」

「は、半分程は……もう半分は、銃を紛失してしまったり、負傷しておりまして――」

 

 問い掛けに、おずおずと答える正義実現委員会のメンバー。視線を後方へと向ければ、その理由が分かった。

 爆発の影響で大なり小なり全員が負傷しており、傷の無い者は皆無。後方には同じメンバーの仲間に肩を借りて、漸く歩けていたり、背負われている者が見受けられる。

 集った人数は三十人前後、内十五人程は銃を持っており、戦闘可能。五人程銃を紛失し、残りは全員が負傷し行動不能という内訳だった。

 戦力としては心許ない、しかし二人だけであった事を考えれば奇跡の様な増援。ハスミは彼女達を見渡し、「分かりました」と頷く。

 

「ハスミ先輩、これを――」

 

 正義実現委員会の一人が、腰のポーチを外しハスミに差し出した。

 

「弾薬です、私は爆発で銃を喪ってしまったので……」

「助かります」

 

 礼を口にして受け取り、それを腰に巻き付けるハスミ。

 そうこうしている内にも、次々と数を増やすユスティナ聖徒会。彼女達は瓦礫の上に立ち、此方を見下ろしている。気付いた生徒達の間に動揺が走り、前衛を担当していた正義実現委員会の生徒が銃を構えた。そんな彼女達の間を抜け、ハスミは前へと躍り出る。

 

「――私は今から、皆さんに酷な命令をします」

 

 愛銃のコッキングを行い、指先で残弾を確認する彼女は皆を鼓舞するように――痛烈な覚悟を秘めた瞳で、告げた。

 

「先程の爆発に巻き込まれ、先生が負傷しました――右目の失明、左腕は……この私の目前で、切断する羽目になりました」

「――ッ!?」

「先生は今、ゲヘナ風紀委員長が保護し、撤退しています」

 

 そう云って彼女は、古聖堂の外へと指先を向ける。その方角を見れば、遠目に見える、誰かの背中。小さく、徐々に離れ行くそれではあるが、担がれた白が視界に掠めた。

 先生だ――先生が誰かに背負われ、古聖堂を離れていく。

 

「敵の追撃を許せば、先生が命を落としかねません――何としても、先生の退路を守る必要があります、今、此処で……!」

 

 だから、この場で戦って欲しいと――彼女は言外に告げる。

 傷が痛むだろう、今直ぐ逃げ出したいだろう、恐ろしく、希望が見えず、俯いてしまいたくなる。その気持ちは理解出来る、同意もしよう。

 しかし、今だけは許されない。

 どれだけの傷を負っていても、どれだけの恐怖を感じていても。

 この場で、戦ってくれと。

 

 彼女の声に反応したユスティナ聖徒会が、一斉に攻撃を開始した。

 銃声を聞いた委員が銃を手に遮蔽に身を隠し、負傷者は皆大きめの瓦礫の裏へと退避させられる。銃撃の最中、雄々しくも身を隠さず、前線へと立ったハスミは応射を行い、全力で吼えた。

 

「――先生の退路を死守しますッ! 各員、死力を尽くしなさいッ!」

 

 銃声が、轟く。

 返答は、攻撃でのみ行われた。

 

 正義実現委員会、シスターフッドの混成即席部隊。射程の短い(シスターフッドの)面々が前に立ち、後衛に正義実現委員会の生徒が付く。先程まで圧倒的な数の差に押し込まれていた生徒側は、しかし数の力で一時的な拮抗を成し遂げる。

 高台(積み上がった瓦礫)の上から此方を撃ち下ろす聖徒会の面々は、次々と飛来する弾丸を前に掻き消えた。

 

「痛ッ……!?」

 

 しかし、此方も無傷とはいかない。前衛を担当していたシスターフッドの一人が被弾し、もんどりうって倒れる。頭部に一撃、額から血が流れ、一瞬で意識を持って行かれた。後方に待機していた銃を持っていない生徒が、慌てて引き摺って回収を試みる。

 しかし、数秒して意識を取り戻した彼女は、引き摺られている事を自覚すると、流れる血を拭う事もせず鬼気迫る表情で射撃を続行した。

 

「わ、私が……私が、先生を守るんだ……ッ!」

 

 銃を持たず、影で震えていた正義実現委員会の生徒が徐に立ち上がる。銃を持たない生徒に、戦う術はない。けれど、何も出来ず片隅で怯えている事だけしか出来ない何て――嫌だった。

 弾丸の全てを同僚に託していた彼女は、何も持たず、丸腰で瓦礫を飛び出し叫んだ。

 

「う……うわぁあァアアアアッ!」

「っ――?」

 

 声で敵の注意を惹きつけ、瓦礫を駆け上り――突貫。

 幽鬼の如く佇む聖徒会の腕を掴み、そのまま全力で拘束した。僅かに、ほんの僅かにだが、拘束したユスティナ聖徒会が困惑した様な感情を漏らす。

 

「早く撃ってッ! 早くッ!」

 

 銃がないなら、無いなりに、自身の為せる事を為す。

 敵を拘束し、一瞬で良い、隙を作る。

 そうすれば仲間が敵を撃つ一呼吸を生み出せるから。

 それを見た他の面々も、息を呑む。互いに顔を見合わせ頷いた彼女達は、内心の恐怖を押し殺し飛び出した。

 

「ぅ、ぅう、わあああッ!」

「ま、負けるもんかァーッ!」

 

 次々と背後から駆け出す正義実現委員会のメンバー、先陣を切った生徒に倣い、素手でユスティナ聖徒会へと飛び掛かる。銃を持っていない生徒、負傷していた生徒、それらが一斉に、足を引き摺ってまでユスティナ聖徒会に立ち向かう。

 

「死んでも、守るんだッ――!」

「ぅぁ……ぅうッ!」

 

 目に見えるユスティナ聖徒会に立ち向かう彼女達は、しかし膂力も、神秘も、比較にならない。簡単に振りほどかれ、地面に叩きつけられ、辿り着く前に銃撃で倒れる。悲鳴を上げ、アスファルトの上を転がる生徒達。

 けれど血を吐きながら、涙を流しながら、苦悶を漏らしながら――彼女達は立ち上がり、再び駆け出す。

 

「撃てッ、撃ち続けろっ!」

「げほッ、ごほッ……ぐ、ぅううッ!」

 

 銃を構える生徒達は、どれだけ傷付いていても発砲を止めず。

 銃を喪った生徒達は、その身を擲って道を切り開く。

 

 彼女達は――決して諦めない。

 

「その身を盾にしてもッ……! 先生だけは、絶対に逃がすんだッ!」

「絶対に、い、かせない……!」

「―――!」

 

 戦場は、乱戦の模様を呈していた。

 銃を掴まれ、取っ組み合いへと転じる(聖徒会)。抱き着かれ、拘束を解こうと足掻く(聖徒会)。次々と迫る正義実現委員会にたじろぎ、後退する(聖徒会)

 銃を持たぬ生徒が銃撃を引き受け、壁となり、後方の仲間を支援する。

 

 最初に撃たれたシスターフッドのメンバー、シスターの一人がポーチに手を入れる。しかし、探せど探せど弾倉が見つからない。つい先程、撃ち放ったもので最後だった。

 ホールドオープンした愛銃を見下ろし、彼女はそっと地面に銃を落とす。

 

「ふぅッ、ふーッ……わ、私だって……!」

 

 頭部に銃弾を受けた影響で、震えの止まらない足。しかし、瓦礫に寄り掛りながら立ち上がった彼女は、渾身の力で両足を叩き、地面を踏み締め、震えを止める。

 それは一時的なものだろう、けれどそれで構わなかった。

 ポーチに手を入れ、弾倉の代わりに取り出したのは――二つの手榴弾。

 シスターフッドの一部にのみ支給される、擲弾兵装である。

 安全ピンを抜き、レバーを握り込んだ彼女は、深く息を吸って前を見据える。

 

 脳裏に過るのは――いつか、目の前で起きた惨状。(アリウスの生徒が行った、自爆攻撃)

 

「――どうか、主の導きがあらん事を……ッ!」

「――!?」

 

 彼女は自身を鼓舞するように叫び、ユスティナ聖徒会の元へと飛び込んだ。

 手榴弾を両手に握り締め瓦礫を駆け上がり、安全レバーを離す。なるべく連中の密集した場所へと突貫した彼女は、爆発する寸前に手榴弾を手前へと放った。

 虚空にて回転する手榴弾、咄嗟に聖徒会の放った弾丸がシスターの胸部を強かに打ち、痛みに顔を歪めた彼女は最後に、去り往く先生の背中に向かって叫んだ。

 

「先生ッ、ご無事で――!」

 

 瞬間――爆発。

 周囲に佇んでいたユスティナ聖徒会が数名程巻き込まれて消滅し、爆発の煽りを受けたシスターが地面に叩きつけられる。そのまま瓦礫の坂を転がり落ち、体中をぶつけながら地面に力なく横たわった彼女は、ぴくりとも動く事なく――そのヘイローを消失させた。(完全に意識を失った)

 

「自爆……!?」

「そ、そんな――ッ!」

 

 近くに居た正義実現委員会が愕然とした声を漏らし、ヒナタが悲鳴を噛み殺す。倒れた件のシスターを、周辺に居た生徒が慌てて回収する。引き摺られ、後方へと下がっていく彼女の衣服はボロボロで、肌には破片が突き刺さり、少なくない血が流れていた。

 

「ッ!? 馬鹿な真似を……っ!」

 

 思わず歯を噛み締め声を漏らすハスミ。素早く愛銃に弾を詰め込み、コッキングを行うと、目に見えた聖徒会の一人を撃ち抜く。多種多様な銃を手にする彼女達は、未だその勢いを弱めない。

 続々と迫りくるそららを前に憎悪を滲ませた視線を向ける彼女は、感情のままに息を吸い込み叫んだ。

 

「動ける者は敵の動きを止めなさいッ! 私が仕留めます! 銃のあるものは援護を!」

 

 瓦礫から身を乗り出し、足を掛ける。最早、守りに徹してどうなるものではない。

 全力で――ただ、全力で抗う。

 自身の命すら勘定に入れず、ただの一秒を稼ぐ為に。

 力強く愛銃を構えた彼女は、その深紅の瞳を滾らせ、云った。

 

「此処から先は一歩も通しません――残らず全員、撃ち抜きますッ!」

 


 

 生徒は意識を失うとヘイローが消失という公式設定があるので、死傷者は出ておりません。安心して下さいまし。

 

 先生は生徒の為に命を()し。

 生徒は先生の為に命を()す。

 

 これぞ純愛、なんて素敵で、素晴らしい関係性でしょうか。

 先生は生徒にその様な選択を取らせた事を未来永劫後悔し。

 生徒は先生を守る事が出来なかった事を未来永劫後悔する。

 互いが互いを思いやるが故に起きる、美しき循環……。

 素晴らしい、感動的だ、だが無意味だ(でも先生は助からない)

 



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夢見た明日の(それでもと叫んだ)終着点。(その終わり)

思ったより書けたので投稿致しますわ。
次こそ三日後かもしれませんわ。


 

「はぁッ、はぁ……! 先生……!」

「ひゅー――は……ぁ――……」

 

 先生を担ぎ、走り続けるヒナ。その腕の中で、ゆっくりと呼吸を繰り返す先生。ヒナの身体が大きく揺れる度、その口元が痛みで引き攣る。

 ヒナの体中が軋み、弾丸を受けた彼方此方が鈍痛を発する。本来であれば、撤退が必要な程の負傷――しかし彼女は、自身の精神力のみで痛みを呑み込み、肉体を動かす。その支柱は、先生を助けると云う強い想い。自分が此処で倒れてしまえば、先生が道連れになるという恐怖。

 それが彼女の足を前へ前へと押し出させる。

 

「大丈夫、私に、任せて……!」

 

 声は、力強く聞こえた。

 けれどその実、不安が胸に渦巻き、焦燥に塗れている事を彼女自身が自覚している。

 腕の中で、どんどん先生の息が弱々しくなっていくのが分かった。

 滲み出た血は巻き付けた布を沁みだし、ヒナの肩を濡らす。その赤が広がる度に、ヒナの中にある弱い自分が顔を出す。

 恐怖で足が止まりそうだった、歯を食い縛るのは、そうしなければ無様に音を鳴らしてしまいそうだからだ。

 

「絶対に、生きて帰すから……ッ!」

 

 強く足を踏み出し、告げる。

 それは最早、自分に云い聞かせる為の言葉だった。

 

「―――」

「ッ、邪魔を、するなァッ!」

 

 進路上に現れる、ユスティナ聖徒会。ヒナタやハスミが離れて尚、彼女に影の如く纏わりつく存在。

 彼女達に向かってヒナは愛銃を突きつけ――一斉に薙ぎ払う。

 規格外の神秘と破壊力を以て放たれたそれらは、ユスティナ聖徒会を一掃し、轟音と共に瓦礫諸共粉砕する。その結果を見届けながら、彼女は額から汗を流す。

 これで四度目――彼女が先生を託され、駆け出してからユスティナ聖徒会と交戦した回数である。一体追撃はいつまで続くのか、どの領域まで追って来るのか、ヒナには皆目見当が付かなかった。

 

「ッ!」

 

 不意に――彼女は素早く身を反らす。

 それは長年の勘から。

 瞬間、一拍遅れて彼女の頭部があった場所を一発の銃弾が通過した。銃声が鳴り響く前に弾丸を回避した彼女は、先生を抱き寄せながら素早く身を翻す。虚空を穿った弾丸は傍の街灯に着弾し、その支柱が中程から吹き飛ばされた。軋んだ音を立てて崩れ落ち、硝子片を撒き散らす街灯。

 ヒナの視界に映ったのは――巨大なガンケースを担いだ、見覚えのある生徒(アリウス・スクワッド)

 

「え、えへへっ……また逢いましたね、ヒナさん……」

「さっきのッ!? 性懲りもなく……!」

 

 締まらない笑みを浮かべながら現れたのは、アリウス・スクワッドのヒヨリ。片腕に担いだ愛銃から硝煙を漂わせ、傷だらけの顔で笑う。ミサイルの着弾直後、ヒナを強襲し返り討ちにあった彼女であったが――ヒヨリの背後には無数のユスティナ聖徒会が列を為し、佇んでいた。

 

「さ、さっきは負けちゃいましたけれど、今度は守護者も一緒ですから……」

 

 呟き、彼女は手を振り下ろす。

 それを確認したユスティナ聖徒会は指示に従い、黙々と前へと足を進めた。

 数は――少なくとも百以上。先生を庇いながら前進するには、余りにも多すぎる。多少は間引かなければ、この先には進めない。

 忌々しいとばかりに表情を歪め、血の滲んだ手で愛銃を握り締めたヒナは、銃口を聖徒会へと向ける。

 

「これで、終わりですね」

 

 ヒナをじっと見つめるヒヨリは、そんな言葉を呟いた。

 如何にキヴォトス最強の一角と云えど、連戦に次ぐ連戦、補給も休息もないまま戦い続けて平気な訳が無い。彼女(ヒナ)にも限界が迫っている――そしてそれは、決してそう遠くない未来の話だ。それを彼女の顔色から感じ取ったヒヨリは、この守護者たちが最後の一押しになると思っていた。

 

 聖徒会が銃口を向け、その引き金に指を掛ける。

 そして、その銃口がヒナに火を噴く――直前。

 

「――いいや、違うね」

 

 声がした。

 鋭く、確かな敵意を孕んだ声だった。

 銃声が轟き、マズルフラッシュが周囲を照らす。先生を抱えながら衝撃に備えたヒナであったが、その目前に立ち塞がる人影があった。

 

 彼女はその身の丈を超える盾を構え、飛来した弾丸を悉く逸らし、弾き、防ぐ。分厚い防弾盾、そこに弾丸が着弾する度に衝撃と甲高い跳弾音が鳴り響いた。ヒナの目前で、昼と夜が切り替わる。そう思ってしまう程の激しい集中砲火。

 それでも、射撃時間はほんの三秒ほど。攻撃を受け切った盾は蒸気を吹き上げ、表面に幾つもの弾痕を刻まれる。

 しかし、それでも尚――彼女の盾(託された遺志)は健在。

 全ての弾丸を防ぎ切った彼女は小さく息を吐き出し、立ち塞がるヒヨリとユスティナ聖徒会を睨みつけ、告げる。

 

「――終わりに何てさせないよ」

 

 彼女、ホシノは愛用の盾を構えたまま、超然とその場に立っていた。

 

「っ、小鳥遊ホシノ――?」

「………」

 

 よもや、アビドスの生徒が来ているとは思わなかったヒナが驚愕と共に彼女の名を呼ぶ。予想もしていなかった救援だった。ホシノは盾を油断なく構えたまま、愛銃を脇に挟んで後方に居るヒナと先生を見る。

 銃弾によって解れ、裂け、ボロボロになった外套。血の滲んだ制服に、赤の混じった髪。激戦であったのだろう、常の威厳ある風紀委員長の姿が影も形もない。しかし、それよりも目を引かれたのは彼女の腕の中で項垂れる――先生の姿。

 血に塗れた制服、青白い顔色、か細く絞られた吐息、捲り上がった右半分の顔に、幾重にも布が巻き付けられた左腕。

 その先にあるべき腕は――喪われていた。

 

 何があったのかなど分からない。分かりたくもない。

 けれど一つ分かる事があるとすれば、それは。

 自分達が間に合わなかったという、その純然たる事実のみ。

 

「……よくも」

 

 腹から、唸るような声が出た。

 彼女自身も驚く様な、憎悪と嚇怒の混じった声だ。

 彼女自身喪っていたと思っていた、思い込んでいた過去の自分。冷徹に、容赦なく、他者を傷付け排除する。投げ捨てた筈の、喪われた筈の感情――ホシノの根源(オリジン)

 それが、ゆっくりと首を擡げ肉体を駆け巡る。

 ぎちりと噛み締めた歯が軋み、色の異なる眼光が、危うい光を孕んだ視線を向けた。

 

「――やってくれたね、お前等……ッ」

「ッ……!」

 

 吹き上がった蒸気を振り払い、彼女は一歩を踏み出す。普段の温厚な彼女を知っている者程、思わず委縮してしまうような威圧感。

 或いは――殺意。

 それを滾らせ、彼女はアリウスの前に立ち塞がる。

 

「ホシノ先輩!」

「先輩、急に走り出して――って……ッ!」

 

 後方から、騒がしく声を上げる者が四名。瓦礫を乗り越え、現れたのはアビドス対策委員会のメンバー。彼女達はひとり駆け出したホシノを追って来たらしく、全員が息を弾ませ汗を流していた。

 瓦礫を滑り落ちる皆はホシノの背後に立つ人影に視線を向け、驚きの表情を浮かべる。

 

「ゲヘナの風紀委員長?」

「それより――」

 

 セリカがいち早くヒナの抱えている影に気付き、焦燥に塗れた声を上げた。

 

「せ、先生ッ!?」

 

 その声に反応したのはシロコ、ノノミ、アヤネの三名。顔を見合わせるや否や素早く駆け出し、ヒナの元に集う。アビドスの面々に囲われたヒナは、唐突な事に目を白黒させながらも、警戒心を抱く事はない。彼女達は味方であると、心の深い部分が叫んでいた。

 そんなヒナを横目に、彼女の腕の中で力なく俯く先生を認めたアビドスは、その顔を歪め声を荒げる。

 

「せ、先生ッ、う、腕が……!」

「アヤネちゃん!」

「す、直ぐにッ――!」

 

 セリカが愛銃を取りこぼし顔を蒼褪めさせ、ノノミが険しい表情で叫ぶ。アヤネは頷くと、背負っていた背嚢をその場に降ろした。

 先生が危険な目に遭う事は想定していた、故に準備自体はしていたのだ。

 背嚢の中から救急キットを取り出し、開く。キットから一本の注射器を抜き出すと、プラスチックの容器、そのキャップを引き抜き先端を先生の肩に突き立てた。親指を押し込めば空気の抜ける様な音と共に鎮痛剤が投与され、僅かだが猶予が出来る。

 

「処置しますッ! 警戒をっ!」

「任せて!」

「はいっ!」

「一発も通さない」

「………――」

 

 アヤネの言葉に、先生とヒナを守る様に立ち塞がるアビドスの面々。毛を逆立て、怒り心頭と云った様子のセリカ。普段の温厚な雰囲気を消し飛ばし、鋭い視線でアリウスを睨みつけるノノミ。無言で口元を一文字に結び、敵意を滲ませるシロコ。

 その先頭に立つ、キヴォトス最高の神秘――小鳥遊ホシノ。

 

 ユスティナ聖徒会は動かない――不気味な沈黙を守っている。

 

「ヒナさん、先生の身体を支えていて下さい……!」

「え、えぇ……!」

 

 空になった注射器を放り捨てたアヤネは、続いてメディカルシザーで慎重に巻き付けた布を切断する。黒く血に染まったそれは、とても清潔な布とは云い難い。恐らく色合いから正義実現委員会の誰かが、応急処置として施したのだろう。

 兎に角目に付いた所から、消毒布で汚れを拭い、スキンステープラー(医療用ホチキス)で傷口を縫い留める。只の応急処置に過ぎないが、幾分か出血を抑制する効果はあった。処置を終えれば素早く傷口をガーゼで覆い、清潔な包帯を巻きつける。しかし手を進めれば進める程、彼女の表情は蒼褪めていく。

 

「こ、こんな量の傷……――」

 

 この場では、どうしようもない。

 傷が、余りにも深く、多い。少なくともきちんとした環境で医学を学んだ訳でもないアヤネにとっては、手に余る外傷の数々。何より、即座に先生を発見出来た訳ではないのが痛かった。先生が爆発を受けた直後に処置を行えたのなら、まだ希望はあった。しかし、粗雑な布を巻いただけの状態で此処まで退避して来た先生の肉体からは、既に大量の血が流れ出てしまっている。加えて出血を抑えられても、内臓や脳などの傷は今のアヤネにはどうする事も出来ない。臓器に大きなダメージが生じていれば、腹腔内出血が発生し腹の中に血が溜まる。これは、外から確認する事が出来ない。そして現状、先生の肉体の中がどうなっているのか、アヤネには想像も出来なかった。捲り上がった皮膚、腫れ上がった体の節々、刻まれた爆発の痕、打撲傷に擦過傷。

 先生の顔色が酷い、その体が小刻みに震え、呼吸は弱々しい。鎮痛剤が幾分かその苦痛を和らげてくれている様だが――直ぐにでも適切な治療を行わなければ、先生は長くは持たない。

 それが実感出来たからこそ、アヤネは焦燥と共に叫んだ。

 

「駄目ですッ、此処では碌な手当ても――早く近場の病院か何処か、お医者様の居る場所に運ばないとッ!」

 

 この場にはあらゆるものが足りていない。

 知識を持った医者も、必要な施設も。

 その悲鳴染みた声に、ホシノは即座に判断を下した。

 

「風紀委員長ちゃんッ!」

「っ!?」

私達(アビドス)が退路を切り開くッ!」

 

 この連中を押し退け、先生が脱出する為の道と時間を稼ぐ。そう決めた彼女は、盾を構えながら突貫を開始する。その背中を見たアビドスの皆は互いに頷き合い、銃を手に続いた。

 

「あ、あの制服――」

 

 ユスティナ聖徒会の中へと突貫を開始したアビドスを見つめるヒヨリは、その見覚えのある彼女達の姿に声を漏らす。数ヶ月前の記憶、給水塔からスコープ越しに眺めた生徒、その顔と目前の生徒の顔が重なった。

 払暁、差し込む柔らかな朝日、輝く陽光を浴びながら佇む生徒達。砂に、傷に、血に塗れながら、それでも浮かべる表情は明るく希望あるもので。まるで彼女達の未来を、その後を照らしている様な、美しい光景だった。

 眩い光に照らされ、立ち塞がる壁を乗り越えたその景色を――彼女は確かに憶えている。

 

「そっか……えへへ、そうですよね? あなた達は――救われたんですから」

 

 愛銃を抱き締め、ヒヨリは俯き呟く。

 アビドスで行った先生の奮闘、死力を尽くした戦い。彼女達(アリウス)の主を跳ね退け、輝ける未来を勝ち取った五人の生徒達。無理だと思った、不可能だと思った、それでも彼女達は成し遂げて見せた。

 

 他ならぬ、先生(聖者)と共に。

 

 強く、激しく、怒りを抱きながら戦うアビドス。誰かの為に、皆の為に、一つとなって戦える。その事実をヒヨリは、どこか悲しみの混じった笑みと共に眺める。

 

「真っ直ぐで、眩しくて――羨ましいなぁ」

 

 それは、自分達には与えられなかったものだから。

 それは、自分達には訪れなかった幸福だから。

 青白い亡霊(ユスティナ聖徒会)に囲われた彼女は、ただ茫然とアビドスの面々を見つめる。

 その愛銃を掴む手に、少しだけ力が籠った。

 

「ノノミちゃんッ!」

「――一斉掃射しますッ!」

 

 叫び、リトルマシンガンⅤを腰だめに構え薙ぎ払う様に掃射するノノミ。凄まじい発射レートと火力は閃光と共に次々と聖徒会を消し飛ばし、掻き消す。散発的な反撃は、前面に立ったホシノが防弾盾で受け止め、ノノミに対する攻撃を許さない。

 ヒヨリは飛来する破壊の雨を前に、ガンケースを手前に押し出し、即席の盾とする事で凌いだ。普段通りの表情で、何でもないようにガンケースを構える彼女。その表面にノノミの掃射が着弾し、火花と閃光を生じさせる。頑強なケースはその表面を凹ませながらも健在、腕を伝わる確かな衝撃にヒヨリは目を細める。

 

「このッ、良くも先生に……っ!」

 

 ノノミの火力支援を背に、セリカが先陣を切って飛び出す。スライディングで銃弾を潜り抜け、滑ったままの姿勢から射撃。一体目の聖徒会、その頭部を撃ち抜き、弾けるように跳躍。

 

「ふざけんじゃっ――ないわよッ!」

「っ……!」

 

 瓦礫の角を利用した跳躍からの、飛び蹴り。

 ユスティナ聖徒会の顔面に炸裂したそれは、凄まじい衝撃と共に瓦礫諸共聖徒会を吹き飛ばす。受け身と共に着地したセリカは、姿勢を低く這う様にして銃口を振り回す。ユスティナ聖徒会は凄まじい数だ、だからこそ懐に潜り込まれてしまえば同士討ちの危険性があり、銃器が扱えない。

 

 そうでなくとも――何故かアビドスを前にすると、ユスティナ聖徒会の動きが鈍く感じられた。

 

「殲滅する……っ!」

 

 シロコは突貫したホシノとセリカを支援する為に、ドローンと連携して目についた聖徒会を片っ端から爆撃、銃撃する。この為に弾薬だけは豊富に用意した。アビドス事件の際に先生が持ち込んでくれた補給物資の余り、何なら事前に買い込んでいた分も全て吐き出す勢いで、彼女は火力支援を行う。

 

「北側の通りを抜けて下さいッ、そちらからは敵の反応が出ていませんッ!」

 

 アヤネが背嚢を背負い直し、ドローンを飛ばしながら愛銃のコモンセンスを抜き放つ。表示された周辺マップには、アリウスらしき赤い点滅は局所的に集中している。目前の亡霊染みた敵の詳細は不明だが、少なくとも北側にアリウス、及び聖徒会の反応はない。

 アヤネはヒナの手を一度握り締めると、真っ直ぐヒナの目を見て云った。そして腕の中で目を閉じる先生を見下ろし、くしゃりとその表情を悲しみに歪める。

 それを振り切るように――視線をアリウスに向けると、安全装置を弾き交戦へと参加する為に駆け出した。

 

「早く行って……っ!」

「先生を、お願いしますッ!」

「絶対に死なせるんじゃないわよッ!?」

 

 シロコが、ノノミが、セリカが叫ぶ。硝煙に彩られ、正体不明の数に勝る相手を前にしても、アビドスは微塵も怯懦を、恐れを見せない。ヒナはアビドス対策委員会の背中を呆然と見つめながら、ゆっくりと立ち上がる。

 先生を抱え、覚束ない足取りで。

 

「早く行けェッ! 風紀委員長ッ!」

「――ッ!」

 

 ホシノが、血を吐き出すような怒声を発した。

 ヒナの足に、力が籠る。

 先生を抱え直した彼女は、アビドスに背を向け駆け出した。

 目指すは、トリニティ本校舎。

 

 そこに救いがあると――そう信じて。

 

 ■

 

「ハァッ、はッ、ぐぅ――……!」

 

 トリニティ中央区、郊外――大通り。

 爆心地から離れ、古聖堂地区から中央区へと繋がる郊外の大通り。その道へと踏み込んだヒナは、大量の汗を流しながら頭上を仰ぐ。どれだけ走り続けただろう? 傷の刻まれた肉体で行うマラソンは、予想以上の負荷と苦痛を彼女に齎した。

 けれど、それも遠くない内に終わる。

 見上げた視界の先に表示される交通掲示板、その表記を見てヒナは微かに安堵の笑みを浮かべた。

 

「古聖堂の地区を、抜けた――……ッ!」

 

 未だ銃声や爆音の鳴り止まぬ古聖堂、そこへと続く道からは既に人気が消えており、街は静寂に支配されていた。有事の際はトリニティ本校舎、及び指定された避難区域へと移動が指示される。トリニティが緊急事態宣言を発令しているのであれば、市民もその様に動く筈だ。それはヒナにとっては朗報であり、悲報である。

 朗報である点は、戦闘で無辜の生徒を巻き込むことがない事。

 悲報である点は、他者に助けを求める事が出来ない事。

 先生を担ぎ、歩む足を緩めないヒナは息を弾ませながら呟く。

 

「先生、もう少しでトリニティ本校舎だから……! もう少し、もう少しだけ我慢してね――」

 

 先生へと掛けられる声に、希望が滲む。あらゆる生徒に想いを託され、逃げ延びた先。少なくともその献身は、行動は無意味ではなかったと、ヒナは先生を抱える腕に力を入れ再び一歩を踏み出す。

 

「いや――その(我慢の)必要はない」

 

 誰も居ない筈の街に、その声は響く。

 それは冷たく、鋭く、無機質な声だった。

 

「ッ!?」

 

 咄嗟に反応出来たのは、奇跡だった。

 鈍った体を全力で動かし、先生の身体を自身の腕で覆う。瞬間、肩、腕、背中と衝撃が走る。

 銃撃だ、銃声と共に飛来した鈍痛にヒナは歯を食い縛り、苦悶の声を漏らした。

 

「ぐッ、ぅ――」

「……先生を庇ったか、呆れた頑丈さだな、良くその傷で動けるものだ」

 

 人気のない大通り、その裏路地から姿を現す――一人の生徒。

 口元を黒いマスクで覆い隠し、深く帽子を被った彼女は、純白のアリウスコートを靡かせ姿を見せる。片手には硝煙を吐き出す突撃銃、もう片手には罅割れた端末を掴んで。

 端末を見下ろし、何事かを確認した彼女はポケットの中にそれを押し込み、吐き捨てる。

 

「ミサキはトリニティ、ヒヨリは――例のアビドスとか云う連中と交戦中か、想定外、だが修正の範囲内だ」

 

 その言葉と共に出現するユスティナ聖徒会。ヒナを囲う様に生まれるそれは、変わらず不気味な気配を放っており、ヒナは先生を強く抱きしめながら愛銃の引き金に指を添える。その痛みに歪められた表情に、確かな憎悪が滲んでいた。

 

「……アリウス・スクワッド」

「あぁ、私達を知っているのか――自己紹介でもしてやりたい所だが」

 

 そう云って、お道化た様に肩を竦めた彼女――サオリは嘲笑う。

 

「今から死ぬ貴様には不要だろう」

 

 その指先が、静かにヒナを指した。

 ヒナの肌が、粟立つ。

 

「攻撃開始」

「―――」

 

 鳴り響く銃声、周囲を照らすマズルフラッシュ。

 ヒナは銃声が耳に届くよりも早く、先生を抱えたまま駆け出した。一拍遅れて着弾した弾丸が地面を抉り、破片が飛び散る。

 

「ッ、もう少しなのに……!」

 

 吐き捨て、素早く周囲の敵、その位置を確認する。先生を抱えたまま正面切っての戦闘は不可能。流れ弾が先生に当たる可能性があるし、自分もそう何度も被弾を許せる程体力が残っている訳じゃない。

 

 近場に停車していた車両の裏へと身を滑り込ませたヒナは、ドアや硝子が破砕される音を耳にしながら、ボンネット脇、前輪タイヤに身を隠す。この場所ならば仮に貫通するとしても、エンジン部分、或いはホイールが障害物となって弾が貫通し難い。

 

 先生を最も安全な場所に降ろした彼女は、素早く身を横たわらせ、車両下部、サイドシルから覗き込むように向こう側を視認し――射撃。

 凄まじい轟音と閃光に目を焼かれながら、迫っていたユスティナ聖徒会の足を刈り取る。足を撃ち抜かれ、転倒した彼女達の頭部を即座に破壊し、残弾を確認してから先生の腕を取って抱え上げる。

 そのまま車両を蹴り飛ばし横転させると、車両の拉げる破砕音を耳にしながらバックステップを踏む。狙いは後部座席下――燃料タンク。

 その場所に纏めて弾丸を送り込み、放たれた弾丸は簡単に車両下部を貫通、車体を爆散させた。破片や熱波を障害物で防ぎながら、巻き起こった噴煙と炎に紛れて逃走を開始するヒナ。聖徒会の放った弾丸は、噴煙に巻かれて見当違いの方向へと着弾する。

 

「ぅ、ごほッ、コホッ……!」

「先生ごめん! 少し耐えて……!」

 

 炎と煙に噎せ返り、血と唾液を零す先生にヒナは呟く。

 今、自分が為すべき事は彼女達を討ち果たす事ではない。

 先生を安全な場所に送り届ける事、延いてはトリニティが敷いたであろう防衛区間に到達する事だ。

 そうすれば、仮に自分が倒れたとしても先生の回収が望める。

 

「―――」

「っ、次から、次へとッ!」

 

 大通りを逃走するヒナの前に、ユスティナ聖徒会が唐突に出現する。出現位置を自在に変えられるのか、或いは逃走ルートを読まれているのか。右腕に持った愛銃で出現した聖徒会を片っ端から狙い撃ち、惜しむことなく弾丸を送り込む。立ち塞がっていたユスティナ聖徒会の面々は、その銃口をヒナに向ける事も出来ず、音もなく消滅していく。

 

 鎧袖一触――ヒナのデストロイヤーは、その巨体に見合う破壊力、装弾数、神秘を秘める。しかし、だからと云って決して余裕がある訳ではない。ヒナは現れるユスティナ聖徒会を消し飛ばしながら、目線で自身のマガジンをなぞる。繋がれたベルトリンク、そこから靡く残弾は決して多くなかった。

 

「……ッ」

 

 この分を撃ち切ってしまえば、銃火器はデッドウェイトになる。愛銃をこの場に投げ捨てる事に躊躇いはない、問題は護身手段がなくなる事。風紀委員長として近接格闘の心得はある、しかし先生を担いだまま徒手格闘など――。

 相手の装備を鹵獲し使用しようにも、このユスティナ聖徒会の持つ火器は使用者の消滅と共に霧散する。先の戦闘で打倒したアリウス生徒ならば、まだやり様はあったが――。

 

 そんな風に思考にリソースを割いていたからか。

 その違和に気付くのが、僅かに遅れた。

 

 射線の通り易い大通り、敵方が数に勝るのであれば狭い路地に入り、射線を切りつつ少数同士の戦闘に持ち込む事が定石。トリニティの土地勘はないが、それでも最低限の大通りと地形は頭に入っている。そこから凡その見当を付け、大通りから余り離れない路地に駆け込んだのは決して間違いではなかった筈だった。

 

 ――それが、サオリの狙いでなければ。

 

 ピッ、と甲高い電子音が耳に届いた時にはもう遅かった。

 踏み込んだ路地裏。駆けた姿勢のまま、ヒナの視線が自身の足元に向けられる。粉塵の中、微かに目視出来る赤外線センサー――そこに繋がれた、IED(即席爆発装置)。そのランプが赤に点灯した時、ヒナは自身がこの場に誘導されたのだと理解した。

 

「しまッ――」

 

 爆発、衝撃、閃光。

 視界を覆う真っ白な光、爆発のタイムラグは一秒あるかどうか。

 角に差し掛かる瞬間であった事が、生死を分けた。

 抱えていた先生を角の向こう側へと押し出し、爆発は自身のみが受ける。外套が吹き飛ばされ、熱波に髪が焼かれる。衝撃がヒナの矮躯を吹き飛ばし、彼女の身体は大通りの中程まで吹き飛ばされた。

 

「ぐぅぅうッ……!?」

「がッ――!」

 

 地面を転がり、アスファルトが皮膚を削り取る。血を流しながら呻きを漏らした彼女は、腕の中からすり抜け音を立てて転がった愛銃を横目に、その場から動く事が出来なかった。

 揺れる視界、地面が唸るような錯覚、耳を叩く甲高い音、酷い痛みに吐き気、息が詰まり肺が鈍痛を発する――積もりに積もった負傷が、肉体的な負荷が、限界に達しようとしているのが分かった。

 それでも彼女は足掻こうと地面に腕を突き立て、上体を起こす。しかし、その自重すら支えきれず、彼女の腕は折れてしまう。再び地面に突っ伏し、苦し気な吐息を漏らすヒナ。

 

「はぁ、はッ……ぅ、ぁ……!」

「ヒ……な……っ」

 

 地面に放られた先生は、受け身を取る事も出来ず――地面に叩きつけられた瞬間、衝撃で息を詰まらせる。

 しかし、それが功を奏した。朧気だった意識が一時、一瞬だけ明瞭となり、僅かながら意識を取り戻したのだ。鎮痛剤が、効力を発揮していた。痛みが遠のき、思考の余裕が、言葉を発する猶予が生まれる。

 

 或いは、消える前の蝋燭、その一瞬の輝きなのか――彼には分からない。

 

 先生は這い蹲った姿勢のまま倒れたヒナに目を向け、必死に手を伸ばす。苦悶に満ちた表情で倒れる、自身の生徒に。

 罅割れ、剥がれ落ちた爪先、血塗れの指でアスファルトを掴み、残った右腕だけで必死にヒナの元へと進もうとする。擦り切れた肌に再び血が滲み、僅かに体を進ませるだけで酷く息が上がった。それでも先生は、足掻く、進む。

 

 ――それを、遮る影があった。

 

 自身を覆う影、それに気付いた先生は、ゆっくりと視線を上げる。

 

「……先生」

 

 先生の目前に立ち塞がり、冷酷な瞳で以て此方を見下ろす生徒。影に覆われた目元、空を思わせる透き通った瞳。

 先生は絞り出すような呼吸音と共に、彼女の名を呟く。

 

「――サ……オリ……」

「あぁ、そうだ――トリニティで会ったきりだったな」

 

 告げ、彼女の手が懐に差し込まれる。

 そうして取り出されたのは、武骨な拳銃。キヴォトスの生徒には致命傷にならずとも、先生を殺害するのならば十分すぎる威力を持つ――人を殺すための道具。

 

 その銃口は地面を向いたまま、安全装置(セイフティ)が弾かれる。

 サオリの細い指が引き金に掛けられるのを眺めながら、先生は悲し気に顔を歪めた。

 

 ぽつぽつと。

 雨が降り始めた。

 

 それはいつか、アズサと彼女が対峙した時のように。

 先生とサオリが、睨み合った時のように。

 その再現を――為すかのように。

 

 その銃口が先生に向けられる。

 

「此処が、貴様の終着点だよ――先生」

 


 

 次回 「最後の審判」

 



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最後の審判

誤字脱字報告にカンシャァ~!
今回、本編だけで一万七千字ですわ。
此処を書きたくて、私はこの小説を続けて来たと云っても過言じゃないですの。


 

 雨が頬を濡らす。

 空を覆う雨雲は分厚く、陽光は遮られ薄暗い世界が視界一杯に広がっていた。揺らぐ視界は不安定で、気を抜けば瞼が落ちてしまいそうな程。そんな中で先生は必死に目を見開き、息を吸い込む。冷たく、痛みを伴う呼吸は先生の意思を、心を僅かずつ削いでいく。

 自身を見下ろすサオリの瞳、その透明さとは裏腹に昏く、うすら寒い感情を湛えている様に思える。

 先生とサオリの視線が交わり、僅かな沈黙が二人の間に降りた。

 

「次は調印式で――そう云ったが、本当にこうなるとはな」

 

 声には、僅かではあるが感嘆が込められていた気がした。

 或いは、先生は出席しないのではないか――サオリは少しだけ、そんな風に想っていたのだ。何せ前回のトリニティ襲撃で、決して浅くはない傷を負った身である、自身の安全を第一に考えるのであれば、周囲を護衛で固めてシャーレにでも籠っているべきだったのだ。調印式の様な場にノコノコと身を晒す事の危険性を、先生は理解している筈だった。

 受けた傷が深ければ深い程、恐怖故に人は足を止める。

 サオリはそれを良く知っている。

 

「トリニティとゲヘナの主要部は全て片付いた、残りはもう貴様だけだ、シャーレの先生……尤も、その様子では放っておけば死んでしまいそうなものだが」

「………」

「アズサが随分と世話になった、あいつには今から会いに行く予定だ」

「っ……――」

 

 その言葉に、先生の瞼が震えた。

 突き出された右腕が、ゆっくりと懐に伸びる。指先に触れるのは液晶の罅割れたタブレット。最早電源も付かないそれに、先生は手を伸ばす。

 

「……動くな、そのタブレットからも手を放せ」

「………」

 

 それを咎めるように、サオリは銃口を一度揺らした。

 その言葉に、先生の手が止まる。

 先生がどの様な手札を持っているのか、サオリは把握していない。故にその一挙手一投足に注目し、僅かでも怪しい動きが見えたのであれば即座に引き金を絞る用意があった。

 サオリは先生と云う大人を評価している、良い意味でも、悪い意味でも。

 どの様な盤面であれ、彼女は決して油断しない。

 

「貴様が何かするよりも、私達が頭蓋を撃ち抜く方が早い、足掻くな、もう呼吸一つでも苦しいだろう――抵抗しなければ、楽に送ってやる」

「……な」

 

 地面に這いつくばる先生が、喉を震わせ言葉を絞り出す。

 

「何、故――……」

 

 それは、何を問い掛けようとしたのか。

 苦痛に歪み、尚問いかける先生。

 サオリは暫し考える素振りを見せ、その問い掛けが何故この様な事を起こしたのかという問いなのだと解釈した。

 説明する義理などない――しかし彼女の思考、その片隅に先生の今までの言動が引っ掛かる。命懸けで生徒を守ろうとする大人、自身に銃口を突きつける者に言葉で和解を求める姿。サオリは暫くの間沈黙を守り、軈てぽつぽつと言葉を零す。

 それは決して同情などではない。

 ただ目の前の大人に――悪い大人(善人)に、この世の真理(虚しさ)を突きつけたかっただけだ。

 

「……我々は、トリニティに代わりこの通功の古聖堂にて条約に調印した、楽園の名の下に条約を守護する新たな武力集団、その結成に関する調印をな」

「――……E、TO」

「あぁ、そうだ」

 

 ――『エデン条約機構』(ETO)

 

 ゲヘナとトリニティ、その紛争を解決する新たな武力集団。この調印式によって生み出される筈であった、新たな秩序を担う存在。

 

 それがアリウスの手に渡った。

 

 本来であればETOはゲヘナ首脳部、及びトリニティ首脳部の同意が無ければ活動しない。しかし、現に彼女達は十全にETOを扱って見せている。それは、恐らく調印の書き換えによるものだと分かる。

 

「以前から知っていたのだろう、先生? これは元々私達の義務だった、本来ならば第一回公会議の時点で、私達が行使するべき当然の権利――だがそれを、トリニティは踏み躙った、私達を紛争の原因とし、鎮圧対象として定義、徹底的な弾圧を行った」

 

 帽子のつばから滴る雨水、その向こう側に見える瞳は余りにも冷ややかだ。

 嘗てトリニティ総合学園が創設された時、唯一合併に反対したアリウスを彼女達(連合)が弾圧した過去。排斥され、迫害され、薄暗い地下へと追いやったトリニティ。陽の差す場所でのうのうと生きる生徒と、陽の当たらぬ場所で飢えて苦しみ、血を血で洗う内乱に明け暮れた生徒。

 

 凍えた掌、擦り切れた指先で地面を這いながら時折見上げる地上の青色(ブルー)――透き通るような空の下で、笑顔と共に生きる少女達(生徒達)を見つめながら、幼き頃のサオリは思った。

 

 何故、アリウスは排斥されなければならなかったのだろう? 

 何故、私達はこれだけの苦しみを数百年味わう事になったのだろう? 

 何故、向こうは(トリニティは)陽を浴び(表側で)私達は(アリウスは)日陰(裏側)なのだろう?

 

 サオリは、ミサキは、ヒヨリは、アツコは――アズサは、ただ。

 人並みの、何て事の無い些細な幸せがあれば良かった。裕福でなくとも、皆と一緒に居れて、命が脅かされずに済んで、血を流す事も、流させる事も無い様な。そんな普通の、ありふれた日常の中で生きていたかった。

 望んだのは、そんなキヴォトスでは珍しくもない一幕。

 ほんの小さな――些細な奇跡。

 けれど、それが決してサオリ達(アリウス)に齎される事はないと知っている。

 

 私達が何をしたのだと云うのか?

 何の悪事を働いたのだ? 

 思想の違いは、信条の異なりは、これ程の罰(数百年に及ぶ迫害)を受ける事なのか? 

 仮にそうだとして、数百年前のアリウスが罪悪を為したとして――先人の罪は、我らの罪なのか?

 私達は犯した覚えもない、数百年前の罪悪を背負って生きて行かねばならないのか?

 

 もし――。

 もし、そうならば――。

 

 この憎悪(先人の恨み)も――我らの憎悪(私達の恨み)なのか?

 

 サオリが抱いた、原初の絶望。

 世界の真理(全ての虚しさ)に至る、最初の道。

 常に心の片隅にあった疑問、疑念、不条理、不平等、不公平に対する根源的な憎しみ、怒り、悲しみ、嫉妬――ただ生まれ落ちた場所が違っただけで、育った場所が異なるだけで、こんなにも違うのかと、こんなにも幸せそうに笑えるのかと。

 あの青空の下で笑う少女達を見て、サオリは思った。

 

 だからこれは、正当な復讐(私達の憎悪)なのだ。

 アリウスにはその義務が、権利がある。

 サオリは、(スクワッド)を幸せにしてやる事が出来ない。

 自身の無力さを、手の小ささを、愚かさを、彼女は幼少期に嫌という程に思い知らされた。

 だから、このETO(エデン条約機構)を使って――トリニティを、ゲヘナを、私達(アリウス)よりも少しだけ、ほんの少しだけ不幸にする。

 

 そうしないと不公平だから。

 そうしないと不平等だから。

 それで私達(スクワッド)の過去が変わる訳じゃない。

 辛かった幼少期が報われる訳でもない。

 夢も、希望も、奪われた将来も、返って来る事はない。

 

 けれど――。

 トリニティも、ゲヘナも、公平に奪われたのなら。

 

 ――私達(スクワッド)は、不幸なんかじゃなくなる。(トリニティとゲヘナよりも、幸福だ)

 

「これからはアリウス・スクワッドがエデン条約機構(ETO)として権限を行使し鎮圧対象を定義し直す、ゲヘナ、そしてトリニティ――この両校こそエデン条約に反する紛争要素であり、排除するべき鎮圧対象……トリニティがそうしたように、今度は私達が連中を消し去る、文字通りにな」

 

 力強く放たれるその言葉と共に、サオリの周囲にユスティナ聖徒会の亡霊が立つ。青白い光に包まれた肉体、顔をガスマスクで覆い、ウィンプルを被ったシスターの姿。

 嘗て彼女達、アリウスを迫害したユスティナ聖徒会――その残滓。

 彼女は嘗ての怨敵と共に立ち、打ち付ける雨の中で告げる。

 

「この条約の戒律――その守護者たちと共に」

 

 声は淡々としていた。

 けれど、確かな熱が籠っている様にも聞こえた。それは計画の結実によって齎される熱か、それとも別種の感情によるものか。

 先生は拳を握り締め、震える声で問う。

 

「……本、気――な……んだ、ね」

「――あぁ」

 

 そうでなければ、この様な事を起こす筈がない。

 憎悪、復讐、それこそがアリウスの本懐であり根源。この為にアリウスの生徒達は自身の身を捧げ、希望を捧げ、未来を捧げ、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、薄暗い地下の中でただ苦しいだけの日々を生き抜いて来た。

 その憎悪が、復讐が、結実する日が――今日なのだ。

 

「貴様らは第一回公会議以来、数百年に渡って積み上げられてきた恨み……私達の憎悪を知る事になるだろう」

 

 トリニティが、ゲヘナが、今日まで忘れていた存在。薄暗い地下に閉じ込め、その記憶の片隅にすら存在しなかった道端の小石。

 彼女達は、そんな存在に今日、打倒(うちたお)される。

 数百年続いた、その憎悪の果てに。

 

「……だが」

 

 サオリの瞳が、先生を射貫く。

 その構えられた拳銃のグリップが、軋む音を立てた。

 

「――先生、貴様にその席はない」

「………」

 

 雨音が、鼓膜を叩く。

 肌を冷気がそっと撫でた。

 

 身体がどんどん冷えていく、血が雨水に混じり、薄く濁った血液がアスファルトに滲んでいく。歪む視界の中で、それでもサオリの表情だけはハッキリと分かっていた。

 

「事、此処に至って、貴様の排除はどんな犠牲を払ってでも行えと彼女に厳命されている、悪いが――この場で死んで貰う」

 

 彼女――ベアトリーチェにとっての最重要事項。

 それはエデン条約機構の確保か? 否。

 ならばトリニティとゲヘナ、その最大戦力の打倒か? 否。

 それらも確かに重要ではある、しかしアリウスの一般生徒に決して打ち明けず、彼女が最も重要視していたのは。

 誘導弾頭を宇宙(そら)から撃ち込み、更にはスクワッドをけしかける程の徹底ぶりを見せた――シャーレの先生、その殺害のみ。

 

 アツコ(ロイヤルブラッド)には条約の調印と複製(ETOの確保)を。

 ヒヨリにはゲヘナのヒナを。

 ミサキにはトリニティのツルギを。

 そしてリーダーであるサオリ(最大戦力)には――シャーレの先生(本命の殺害)を。

 それぞれ役割が与えられていた。

 

 マダム(ベアトリーチェ)の指示は、絶対である。

 故に、彼女(サオリ)は先生を殺すのだ。

 

 サオリの構えた銃口、その先端が鈍く光る。

 引き金を絞れば、たった一発の銃弾を放てば、先生の命は簡単に吹き飛ぶ。片腕を喪い、片目を喪い、満身創痍の人間――素手であっても殺せてしまうだろう。

 先生が引き攣ったような呼吸を漏らす。変色を始めた唇が、その体温の低下を知らせていた。

 

「っ――ぅ……」

「……苦しくて仕方ないだろう、直ぐ、楽にしてやるからな」

 

 それは、サオリが抱いた最後の慈悲。或いは、自身の中に存在した未練との決別。あの日、差し伸べられた手を取らなかった己の選択が正しかったのだと、そう云い聞かせる為の儀式。

 静かに、その引き金に掛けられた指に力が籠められる。ゆっくりと、けれど確実に。

 最後までサオリは先生の瞳から視線を逸らす事をしなかった。

 ただ真っ直ぐ――正面から顔を見据え。

 彼女は、先生を殺すと決めていた。

 

 

「あ、ぁ――あぁあァアアアッ!」

 

 

 咆哮が、街中に響き渡る。

 それは、サオリの背後から響いたもの。

 倒れ伏していた筈のヒナが転がっていた愛銃を引き摺る様にして掴み、恐ろしい形相で立ち上がろうとしていた。

 肩で息をして、流れ出る血をそのままに、満身創痍となって尚も戦う意思を見せるヒナ。口から滴る血を吐き出し、彼女は叫ぶ、全力で、腹の底から。

 

「やら、せないッ! 絶対、に……ッ! 先生は、私が……ッ――!」

「――まだ立つのか、空崎ヒナ」

 

 ゆっくりと銃口を逸らし、踵を返すサオリ。

 その表情に浮かぶのは――感心と呆れ。

 周囲のユスティナ聖徒会が銃口を向け、ヒナは愛銃を引き攣った腕で構えながら荒い息を繰り返す。

 銃口が定まらない、指先が痙攣している。最早真っ直ぐ立つ事すらままならず、その体は小刻みに揺れていた。

 

「無駄な足掻きだ、既にその肉体は限界を迎えている……その様子では銃弾一発でも、ヘイローが壊れかねない」

「ぐ……ッ――!」

 

 その通りだ。 

 彼女は既に限界だ。

 それは他ならぬ、ヒナ自身が理解していた。

 今にも崩れ落ちそうな足の震え、愛銃すら真っ直ぐ構える事も出来ず、その視界は揺らいで仕方ない。そんな状態で立ち上がって何が出来る? 何を為せる? 何も――何も為せはしない。

 サオリはそう断じ、ヒナを見下すように首を傾げ告げた。

 

「会場に打ち込んだ弾頭も、通常のものより破壊力を大幅に増した特製品だ、寧ろアレに巻き込まれた状態でここまで戦えることが脅威……足掻くな、運命を受け入れろ、そうすれば苦しまずに葬ってやる」

「だ、れがッ……!」

 

 そんなサオリの言葉に、ヒナは吐き捨てるようにして叫んだ。

 

「諦める、事なんて……する訳ない!」

 

 愛銃を脇で挟み、無理矢理固定する。

 覚束ない足取りは、思い切りその場で足を振り下ろし、アスファルトを砕いて爪先を埋め込む事によって補う。仮に被弾しても、身体が後方へと転がってしまわない様に。最後まで立っていられるように。

 所詮悪足掻きだ、戦法もクソも無い、破れかぶれの戦い方。

 それでも、彼女はアリウスの前に立ち塞がる。

 

「ましてや……先生の、前でッ!」

 

 諦める事をしなかった、その人の前で。

 どうして、諦める道を選べよう?

 

 どこまでも強固な意志。

 どこまでも深い信念。

 それを感じ取ったサオリは数秒、ヒナを見つめ。

 小さく息を吐き出し、告げた。

 

「そうか、なら……先生諸共、葬ってやる」

 

 緩慢な動作で、サオリの拳銃がヒナへと向けられる。

 普段であれば大した脅威にもならない攻撃だろう、しかし今のヒナにとっては致命的な一撃になる一発。

 ヒナが愛銃を構え、引き金に指を掛ける。けれど、構えられた銃身は右へ左へ揺れ動く。銃を支える事すら出来ていない。キヴォトス最強と称された風紀委員長の姿は、もう何処にもない。

 先生はそれを、地面に這い蹲ったまま見上げる事しか出来なかった。口の中でヒナの名前を呼び、指先を伸ばす、腕を伸ばす、必死に、歯を食い縛って。

 それでも、それが届く事は決してない。

 

 サオリが、その目を引き絞る。

 ヒナが、歪んだ表情で歯を食い縛る。

 

 私は――。

 

 先生はアスファルトに爪を立て、必死に体を引き摺ろうと足掻く。

 何度も、何度でも。

 けれど、現実は余りにも非情で。

 サオリの指先に、力が籠り。

 ヒナの瞳が、自身への失望と共に閉じられた。

 最後に小さく囁いた言葉は、大切な人(先生)への謝罪で。

 先生は大きく息を吸い込み、腕を地面に叩きつけた。

 

 私は――また、失敗するのか。

 

 時間が、酷く遅く感じられる。

 ヒナの、サオリの、ユスティナ聖徒会の僅かな動きが視認出来る程の、驚異的な集中力。人生で何度か経験する事になった、本能的な危険信号。世界の分岐点、或いは先生という人間の今後を左右する、致命的な分かれ道。

 地面に押し付けた腕を必死に支え、先生は立ち上がろうと力を籠める。声なき叫びを上げ、今にも犠牲になろうとする生徒を守る為に。

 

 ここで私は、斃れて――。

 ヒナも……。

 あぁ、それは駄目だ、アコが、風紀委員の皆が悲しむ。

 

 他人事の様に、心の片隅で先生は呟く。

 生徒の悲しむ顔は、見たくない。

 生徒が犠牲になる世界など、あってはならない。

 悲しみに塗れた世界など、(先生)は――。

 

 心の内に零れた言葉。それに先生は、一瞬声を詰まらせる。

 悲しみ――。

 その言葉と共に想起される、様々な生徒達の慟哭、叫び、訴え。

 脳裏に過る、あらゆる世界の可能性。

 

 這い蹲ったまま、曇天に覆われた空を見つめる。空の青は見えず、星は見えず、月も見えず、厚い雲(絶望)広大な空(無限の可能性)を覆い隠している。己の無力を噛み締めながら、己の弱さを嘆きながら、先生は想う。

 

 もし、私が……。

 ―――。

 私が、此処で斃れたら。

 誰が――。

 

 

 誰が、生徒達(子ども達)を――。

 

 

 ――多分、私は、先生が死んだ後に生き残っても、あの黒いシロコちゃんと同じ道を辿るよ。

 ――あなた様のいらっしゃらない世界に、価値など在りませんもの。

 ――確かに先生の全部、受け取った! ちゃんと受け取れたよ、私!

 ――諦めない背中を、私は先生から学んだ。

 ――皆で力を合わせれば、きっと、どんなことでも乗り越えられるって、信じていますからッ……!

 ――だから私は、私の全てを使って先生を救って見せる。

 ――私達、全員でアビドスなんですッ、そうでしょう!?

 ――教えてください、先生の、あなたの抱える重荷を、そして分けて下さい、ほんの少しでも、私を信じてくれるのなら。

 

 

 ――だから先生、どうか……。

 

 

 □

 

 

「……私のミスでした」

 

 ――白い車内。

 

 流れゆく雲に、照らされる朝日。窓から差し込む昇ったばかりの日差しは、車内に腰かけた二人に影を伸ばす。

 正面に腰かけた彼女の頬には、赤い血が滲んでいた。

 ヘイローを喪った彼女は既に弾丸のひとつでも致命傷と成り得る。銃弾の掠めた頬は、今尚血が止まっていない。人と変わらぬ、脆弱な肉体。

 最後まで足掻き、それでも辿り着けなかった(楽園)の果て。

 

「私の選択、そしてそれによって招かれた全ての状況」

 

 彼女の枯れた、力ない声が車内に響く。

 私はそれを、ただ見つめる事しか出来ない。

 

「結局、この結果に辿り着いて初めて、あなたの方が正しかったことを悟るだなんて」

 

 ゆっくりと、語り掛ける彼女。

 俯いたままの表情は影に隠れ伺えない、そも見え隠れする感情は察して余りある。彼女の選択――それを、自分は否定できない。

 する権利など、存在しない。

 この選択肢に至って尚、それでも確かに彼女はキヴォトスを想っていたのだから。

 

 腕を、伸ばそうとする。

 彼女の頬に、触れようとして。

 けれど自分に残った片方の腕(左腕)は――包帯が幾重にも巻き付けられ、酷く不格好だった。

 彼女の元に歩み寄ろうにも、見下ろす体は不自由で。

 膝から下の存在しないこの両足では、彼女の元に歩いて行く事すら出来ない。

 満身創痍だ。

 人の形を辛うじて保っている屍、それが今の(最期の)私だった。

 

 車両が、緩やかに揺れる。

 宛ら揺り篭の様に。

 私達を、遠い場所(世界)へと運んでいく。

 

「……いまさら図々しいですが、お願いします、先生」

 

 強く、言葉が耳を叩いた。

 彼女の瞳が、垂れた髪の合間から覗く。

 その瞳に映る、余りにも情けない大人の姿。

 最後まで足掻いて、それでもと叫んで、戦って、抗って、立ち向かって、その果てに誰も救えず、誰も守れず、無様に死んでいった大人(先生)のなれの果て。

 そんな情けない大人に、先生としての責務を果たせなかった者に、それは彼女が最後まで通した意地を投げ捨てて行う――懇願。

 

「きっと私の話は忘れてしまうでしょうが、それでも構いません」

「何も思い出せなくても、恐らくあなたは同じ状況で、同じ選択をされるでしょうから」

「ですから……大事なのは経験ではなく、選択」

「あなたにしか出来ない選択の数々」

 

 繰り返す世界で大事なのは経験ではない、選択。

 積み重ねた『経験値』(レベル)などではない、あの時、あの場所で、【私】(先生)が果たせなかった選択を――今度こそ。

 震えた指先を伸ばし、私は虚空に手を広げる。

 血の滲んだ包帯()の中に見える世界。

 瞼裏に浮かぶ情景。

 

 砂漠に沈んだアビドス。(対策委員会の皆は、志半ばで生を終えた)

 壊滅したゲヘナ、トリニティ。(補習授業部は解散し、風紀委員会は壊滅した)

 影の中に消えたアリウス。(アズサは姫を殺し、サオリは生贄となった)

 赤に沈む――キヴォトス。(到来した■■を前に、彼女は犠牲を容認した)

 

 例え記憶の中であったとしても、それを見届けたのは他ならぬ自分自身。対峙した連邦生徒会と連邦捜査部――何かを犠牲にし続けてでも、キヴォトスを生かす為に彼女は進んだ。それを自分は否定し、そして残ったのは――彼女と自分の、二人だけ。

 

「だから先生、どうか――」

 

 そうだ、だからこそ。

 果たさなければならない。

 今度こそ――私の生徒を救う(に寄り添う)為に。

 彼女の存在しない、箱庭(キヴォトス)で。

 

「この絆を……私達との思い出、過ごして来たその全ての日々を、どうか」

 

 彼女の俯いていた顔が、ゆっくりと持ち上がる。

 陽光が徐々に、徐々に強まる。

 彼女の背を照らす光が、先生の顔をそっと覆った。

 

「憶えていて下さい――大切なものは、決して消える事はありません」

 

 彼女が笑う――微笑む。

 その(ブルー)の瞳で、どこまでも透き通った笑みで。

 血に塗れながらも、とても綺麗に。

 

「大丈夫です、先生」

 

 大丈夫だと、彼女は告げる。

 力強く、断じて見せる。

 

「この世界は――私達の、全ての奇跡(希望)が在る場所ですから」

 

 この世界。

 私達の世界。

 私の、世界。

 

 そうだ。

 あの時。

 あの時、私は。

 

 “勿論、任せて”

 

 包帯塗れの、不格好な姿で先生()は頷く。

 どこまでも信頼を寄せる彼女に、応えたくて。

 白い車内の中、優しい陽光の照らす世界の中で。

 誓ったのだ――生徒に寄り添い続けるのだと。

 今度こそ、奇跡みたいな明日(生徒皆が笑い合える世界)を作るのだと。

 そうだ、あの時、私は。

 

 “―――”

 

 何と、答えて――。

 

 □

 

 

 楽園(エデン)で待っている。

 

 

 ■

 

 

「―――」

 

 一瞬、心臓が音を止めた。

 雨音が、一斉に鼓膜を叩く。途切れていた時間が再生され、先生の意識が一瞬にして鮮明となった。

 それは、強烈な自己嫌悪と、責任感から来るものだった。

 

 記憶に残る、白い車内で血を流しながらも懇願した彼女の姿。何処までも続く水平線、世界を照らす暖かな光に包まれた世界。

 儚い笑みと共に託された、最後の奇跡。あの日、共に誓った己と彼女の夢、その未来。

 彼女は、最後に何と云って自分に託した?

 

 自分は――何と云って、生徒に涙を流させた?

 

 肉体と精神を駆け巡る、記憶の濁流。

 魂に刻まれた生徒達との絆、その断片。

 自身の背中に存在する、彼女達の未来、希望、可能性、想い、祈り……。

 

 最早、声すら上げられぬ――強烈な感情の爆発。

 

 希望が失われる世界。

 未来が奪われる世界。

 可能性が消える世界。

 生徒達(子ども達)が――虐げられる世界。

 

 それを想い、垣間見、実感した先生は声なき咆哮を上げる。

 認められる筈がない。

 許せる筈がない。

 それに抗う為に、先生は気が遠くなる様な苦痛を繰り返して来た。

 

 最早指先を数センチ動かす事も、立ち上がる事さえ拒んでいた肉体に、何処からか力が湧いて来る。肉体の底の底、もう出し尽くしたと思っていた限界、それを超えて先生の身体は動き出す。

 血を吐き出し、身体の穴という穴から赤を滲ませ、起き上がる。

 両足の筋肉が痙攣し、重心も安定せず、平衡感覚すら怪しい。食い縛った歯が軋み、呼吸一つ挟むだけで呻きたくなる様な鈍痛が走った。

 それを押し殺して、先生は立つ、立ち上がる。

 強烈な感情が、その意思が、生徒達の想いが、先生の背中を強く押した。

 

 ――私は。

 

 目前に見える、拳銃を突き出すサオリ――その銃口を前に、目を瞑るヒナ。

 ヒナ(彼女)は既に限界だ、これ以上負傷を重ねればヘイローが破壊されてしまう。

 目の前で、生徒が死ぬ。

 それは、駄目だ。

 そんな未来を、認める訳にはいかない。

 

 ――生徒が、子どもが犠牲になる世界など、あってはならない。(世界の責任は、大人が負うものだから)

 

 いつ、如何なる時も。

 どんな理由が、あったとしても。

 

 一歩を踏み出す、守るために、生徒に手を伸ばす為に。

 踏み出す一歩が――余りにも重い。

 けれど先生は、その一歩を全力で踏み出す。

 足が千切れようとも。

 二度と使い物にならなくなっても。

 それでも構いはしないと。

 

 ――私は、先生だ。

 

 脹脛に巻き付けられた包帯に、血が滲む。急激な運動に、全身から再び出血が始まった。けれど目はまだ見える、辛うじて声は出せる、身体は動く。肝心の心はまだ、死んじゃいない。

 腕が片方千切れた。目を喪った。血を流し過ぎた――だからどうした。

 その程度で諦める意思しか持っていないのならば、疾うの昔に自分は折れている。寧ろその程度で済んだのかと、先生は感謝の念すら抱いている。動ける体と、考える頭を残してくれたのだから十分だった。

 痛みに勝る意思があった。死を覚悟して尚変えたい未来があった。是を非としても守りたい生徒が居た。

 

 大人の意地だ。

 先生の意地だ。

 人間の意地だ。

 その為に(先生)は――此処に居るのだ。

 

 ――だから。

 

 手を強く、握り締める。

 今にも消えそうな命の火を必死に守って、道へと踏み出し。

 叫ぶ、自身に向かって云い聞かせる。

 意識を失うな、決して諦めるな、目を見開け、恐れるなと。

 足掻くのだ、一分一秒でも長く。

 僅かでも、全力で。

 そう今度こそ。

 

 ――先生(大人)としての、責務を果たせ。

 

 ■

 

 一発の銃声が轟いた。

 

 滴る雨音の中で、その銃声は周囲に良く響き渡る。

 ヒナはその瞬間、自身の死を覚悟していた。

 最早引き金を絞る力もなく、目前に横たわる死という運命に抗うだけの気力もなく。ただ、先生を守らなければという一心だけで立ち上がった彼女は。けれど最後の最後に目を瞑り、先生への謝罪の言葉を口にしていた。

 ほんの数秒、十秒程度の延命――結局先生を守れぬまま果てるのかと、自身の失望に塗れながら唇を噛む。

 

 目を、瞑っていた。

 視界は暗く、俯き気味に垂れた首は力なく。

 軈て飛来するであろう絶望に、その痛みを直視しないように、彼女は顔を背ける。

 震える手を握り締め、到来するそれを待つ。

 ――待つ、待ち続ける。

 

 けれど。

 けれど、何時まで経っても終わりが訪れる事はなく。

 代わりに、力強く自身を抱き締める誰かの腕があった。

 冷たくて、大きくて。

 けれど確かな――あの人の香り。

 

 幻覚だろうか? もしかして自分はもう撃たれていて、最後に体が無意識の内に幻を作ったのかと、ヒナはそう考えた。足元から音が響く、ヒナの掴んでいた愛銃が地面に落ちた音だ。指先をすり抜けた銃は、力なくアスファルトの上を転がる。

 もう、死んでしまったのなら。

 これが幻覚でも構わない。

 ただ、自身を抱き締める腕に応えるように、そっと背中に手を回す。

 

 ぽたぽたと、ヒナの頬に何かが落ちていた。

 僅かな温もりを感じさせるそれは、彼女の頬を伝い、顎先を流れる。

 雨ではない、雨はもっと冷たいから。

 ならこれは、私の涙なのだろうか?

 それを確かめる為に、ヒナの瞼が――ゆっくりと開く。

 自身を覆う影、それを見上げる様にヒナが視線を移せば。

 

「――ぇ」

 

 自身を抱き締める、血塗れの先生が傍に居た。

 額から、目元から、口端から流れる血が、ヒナの頬に滴る。

 

「………」

 

 ヒナが目を見開き、恐る恐る口を開いた。

 

「せん――せい……?」

「………」

 

 先生は、何も語らない。

 口を閉じたまま、ヒナを安心させるように微笑む。

 困ったように、申し訳なさそうに――日常の中で零すような、穏やかな笑みを。

 

「馬鹿な――……」

 

 硝煙を漂わせる拳銃を構えたまま、サオリは驚愕と共に声を漏らす。

 到底、動ける傷ではなかった筈だ。地を這い蹲り、死を待つだけの人間が――何故、生徒を庇っている? ほんの数秒、感傷と共に引き金を絞る間、その瞬きの間に立ち上がり、駆け、割り込んだのか?

 それは、サオリには理解出来ない行動。

 否、不可能な筈だった。

 そんな力も、体力も、先生には残ってなど――。

 

「――サオ、リ」

 

 ヒナを片腕で抱きしめたまま。

 先生はゆっくりと、口を開く。

 

「まだ、分から――ない……の、かい……?」

「――!」

 

 自身に背中を向ける先生が、首だけで振り向く。

 その血に塗れ、喪われた目を隠し、残った半分の瞳をサオリに向ける。

 赤に塗れた瞳が、もう何も為せない筈の意思だけの存在が――彼女を真っ直ぐ、強く見返す。

 脆弱な人間の筈だ。

 弾丸一つで死に至る弱き者だ。

 ましてや彼は満身創痍で、サオリにとって最早脅威にもならない。

 そんな、この世で最も弱い相手を前に。

 

 サオリは、呑まれかける。

 

「わた、しの、背に……私が、守るべき、生徒が……いる、限り……――」

 

 先生は、血の絡まった声で以て告げる。

 そうだ、以前先生の殺害に失敗した時も、そうだった。

 ヘイロー破壊爆弾で背中を抉られ、地面に這いつくばり、その身を血で彩られて尚、彼はアズサの為にサオリと対峙した。

 

 先生は――斃れない。

 

 どれ程の傷を負ったとしても。

 その背中に、守るべき生徒が居るのなら。

 

「私は、絶対に、斃れたり……しない、と――云った……ッ!」

「ッ――!」

 

 強い――強すぎる、意志。

 肉体を凌駕する信念、先生をその場に立たせる鋼に勝る強固な覚悟。

 肉体は限界だろう、その身体は脆弱だろう、しかしそれを押して尚も勝る精神。

 その気迫に気圧され、サオリは一歩――無意識の内に退く。

 それを自覚し、サオリは自身の足を信じられない心地で見下ろした。

 

 退(しりぞ)いたのか、私が。

 こんな、何も出来ない大人相手に。

 吹けば飛ぶような、弱者を相手に。

 

「ッ、そん、な……」

 

 ぎちりと、握り締めたグリップが軋む。それは認めたくない現実に対する怒りからか、或いは自身に対する遣る瀬無さからか。

 落ちかけた銃口を突き出し、サオリは激情と共に引き金に指を掛けた。

 

「そんな――見え透いた、虚勢などッ!」

 

 叫び、引き金を絞る。

 乾いた銃声が鳴り響き、閃光が網膜を焼く。飛び出した弾丸は寸分違わず先生の背中に着弾し、その砂利と血に塗れた白であった制服に、再び赤を滲ませる。

 体が振動で揺れ、口から苦悶の声を上げる。僅かに折れかけた足を、しかし彼は渾身の力で踏みとどまる。

 

 先生は、斃れない。

 

「っ!? やめッ! 先生やめてッ!? 離してッ!?」

「ッ――……!」

 

 ヒナは今、何が起こっているのかを漸く理解した。

 壁になる筈であった己を逆に、先生が庇っている。それは到底受け入れられない現実で、身の毛もよだつ様な真実だった。目を見開き、蒼褪めた表情で叫ぶヒナは、先生の肩を、背中を必死に掴みながら抜け出そうと足掻く。先生を守ろうと、助けようと、必死に。

 けれど普段からは想像も出来ない程の力で、先生はヒナを抱きしめる。

 抱き締め続ける。

 ふわりと、ヒナの鼻先を甘い(死の)匂いが擽った。

 

「ッ……!」

 

 二発、三発、四発。

 サオリの視界に閃光が瞬き、銃声が轟く。それが鳴り響く度に、振動がサオリの手の中で跳ねる度に、先生の体に穴が空く。

 背中に、脇腹に、腰に、肩に、着弾し、赤く滲んだ印は確実に先生の命を蝕んでいる。

 だというのに、先生は斃れない。

 その二本の足で立ち、守るべき生徒の壁となり続けている。

 赤い、生命の残滓だけが足元に広がる。雨の中に溶け、消えて行くそれはサオリの直ぐ傍まで伸びていた。

 

「先生ぇッ! ねぇ、先生ッ!?」

「……――……」

「―――っ!」

 

 涙と共に絶叫するヒナ、それを前に先生は動かない。ヒナの握り締めた制服が皺くちゃになって、震えるそれを自覚しながらも――心は、身体は揺らがず。

 そんな先生の背中に銃口を向けたまま、サオリは息を呑む。

 構えた銃が、震える。

 何故、頭を狙わない? 何故、心臓を狙わない? 

 サオリの中の、冷静な部分が告げた。殺そうと思えば、いつだって殺せる。先生はただの的だ、動きもしなければ反撃もしない、バイタルラインを狙って撃てば、簡単に射殺出来る――だと云うのに。

 

 銃を持つ手、その震えが酷い。

 カチャカチャと、らしくもなく音を立てる愛銃。

 真っ直ぐ目を見て殺すと、そう誓った。

 なのに、此方(自分)を見る先生の瞳が――酷く恐ろしい。

 

「サオ、リ……ッ!」

「はっ、はぁ……ッ!」

 

 息が、乱れる。

 呼吸が荒い。

 先生を直視するだけで、心拍が跳ねあがる。

 胸元を握り締めながら拳銃を突きつけるサオリは、その頬を流れる汗とも雨粒とも分からないそれを感じながら、一歩、また後ろへと下がった。

 

「どん、なに……苦し、く、とも……!」

 

 ヒナを強く、強く抱きしめ、先生の瞳はサオリを射貫く。

 その瞳が、怖い。

 その瞳が、恐ろしい。

 こんなにも世界は残酷なのに、どうしようもない現実が横たわっているのに。

 絶望を前に、迫る死を前に、どうしようもない運命を前に――それでも先生は、希望を抱いている。

 信じている。

 

 それが、理解出来ない。

 理解できない事が、恐ろしい。

 これならば、銃を突きつけられる方がまだマシだった。

 呪詛を吐き、呪いよ在れと、罵詈雑言を浴びせながら死んでいく人間の方が良かった。

 どこまでも、どこまでも真っ直ぐ、真摯に、彼はサオリの前に立ち塞がる

 

 何故、足掻く? 

 何故、希望を抱く?

 何故、諦めない?

 何故、信じる?

 

 この世界は――虚しいのに。

 

 先生は息を吐き、声を発した。

 血と痛みに塗れた、酷い声だった。

 

「どん、なにッ……辛く、ても――!」

「ぅ――」

「諦め、ちゃ――駄目、なんだよ……ッ!」

 

 透き通る様な、空に似た瞳がサオリを見る。

 見つめ続ける。

 自身を撃った、その憎むべき敵を。

 僅かな憎悪すら抱かずに。

 

「その先に……ッ――!」

 

 一歩、また退く。

 銃も持っていない、満身創痍の人間を相手に。

 (サオリ)は。

 

(希望)はっ、必ず……ある、んだ……ッ!」

 

 だって――。

 

 

 ――君達の可能性(未来)は、無限に広がっているのだから。

 

 

 不意に、誰かの足音が周囲に響いた。

 雨水を跳ねさせ、アスファルトを駆ける小柄な影。ずぶ濡れの恰好で公道を駆け、現れたのはトリニティの制服に身を包んだ――白洲アズサ。

 彼女は雨水で張り付いた前髪をそのままに、肩で息を繰り返す。

 視界に映るユスティナ聖徒会、そして銃を構えるサオリ。それを認識した彼女は足を止め、抱えた愛銃の安全装置を弾く。

 

「はぁ、はぁ、はァッ……!」

「アズサ――」

 

 嘗ての同胞――その姿を見たサオリは呟く。

 名を呼ばれたアズサは彼女を視界に捉えつつ、素早く周囲を見渡した。

 彼女の探す人物はただ一人、今日、あの会場に居た筈の人物。

 そしてアズサは、その人を漸く見つけた。

 

「先生――ッ!?」

 

 叫びが、周囲に響く。

 サオリに背中を見せ、佇む先生。その腕の中には風紀委員長が愕然とした表情で収まっており、その充血し、見開かれた瞳からは絶え間なく涙が零れている。

 先生が、酷くぎこちない動作でアズサを見た。

 その口元が、小さく開く。

 何事かを呟いたのか、或いはただ息を吸い込んだだけなのか。

 それは分からない。

 

 サオリは、先生を見つめるアズサを眺めていた。

 彼女の表情で、態度で分かる。先生こそが彼女(アズサ)(陽光)、トリニティで紡いだ一等の絆。アリウスで学んだ筈の世界の真理を歪めた――元凶(悪い大人)

 陽の当らない場所で生きる私達に、甘い夢を見せる存在、そのひとり。

 

 そっと、拳銃を握り締める。

 銃口の揺れが、止まる。

 強く歯を噛み締めたサオリは、その引き金に再び力を込めた。

 

 そうだ。

 

「――私達に、(希望)なんて無い」

 

 可能性(未来)など、存在しない。

 だって、それは。

 

 声に反応し、アズサがサオリを見る。

 突き出された拳銃、その引き金に掛かった指先。そこにゆっくりと加えられる力、それを自覚し、焦燥に塗れた声で彼女は叫んだ。

 

「陽の当たる場所に立つ者にだけ、許されたものだろう……!?」

「ッ!? やめ――っ!」

 

 銃撃。

 先生の体が仰け反り、蹈鞴を踏む。

 穿たれた銃創から僅かに血が噴き出し、先生の身体が大きく揺れた。

 壊れてはいけないところが、壊れた。

 撃たれてはいけない所を、撃たれた。

 そう理解して、先生は息を吸う。最早、痛みは感じない。

 それでも、果たさなければならない責任がある。

 

「先生ッ!?」

「―――」

 

 ヒナを抱き締める先生は――半ば、彼女に凭れ掛かる様にして項垂れていた。最早、自分の足で立つ事も困難であると云いたげに。

 けれど、それでも斃れない。

 不格好ながらも立ち続け、生徒を守る。

 弾丸から。

 悪意から。

 殺人という、罪悪から。

 

 意識が混濁する。

 精神より先に、肉体が限界を迎えようとしている。否、限界など疾うの昔に超えている。これはただ、生命最後の刻が近付いているだけだ。燃え盛る蝋燭の火が、その最後の輝きを終えようとしている。

 先生の身体から、力が抜ける。

 

「せん、せい――……?」

「………」

 

 最早、口を開く余裕すら無くなった。

 その体は、意識を失いつつある今尚、ヒナの盾となっている。

 呆然と、それを見つめるヒナ。崩れ落ちそうになる先生の身体を抱き締め返しながら、声を漏らす。

 震えた、囁く様な声だった。

 

 返答は――なかった。

 

 アズサが強く、強く唇を噛み締める。血が流れる程に、煮え滾る感情を湛えて。踏み出した一歩、その爪先が雨水を跳ねさせる。

 

「どう、して……」

「……どうだ、アズサ」

 

 銃口を降ろし、呟く。

 硝煙が雨の中に溶ける、サオリは音もなく曇天を仰いだ。

 

「なんで……っ!」

「私の云った通りだっただろう? トリニティにも、シャーレにも、お前の居場所はない」

 

 雲に覆われた世界を見つめながら、彼女は想う。

 そうだ、一度。

 一度でも、手を汚してしまえば。

 

 ――陽の当らぬ場所に、生まれてしまえば。

 

「どうして、何でッ!?」

「私達みたいな【人殺し】を受け入れてくれる場所なんて、この世界には無いんだよ」

 

 魚が、水のない場所で生きられない様に。

 人が、水の中では生きられない様に。

 人を殺した者と、そうでない者には明確な境界線が生まれる。その絶対的で、絶望的な線引きはどのような場所で生きようと、決してその者を離さない。

 

 アズサが、一歩を踏み出す。

 雨音が激しさを増し、アズサの身体が震える。

 それは決して、寒さによるものではないと知っている。

 雨幕が二人を隔て、その視線を遮っていた。

 

「どうして、先生をッ、こんなッ……!?」

「そんな場所がある様に見えても、全ては儚く消える――この、『先生』のように」

 

 目前の先生を見据え、サオリは吐き捨てる様に告げる。そう、夢と云うのはいつか覚めるものだ。そして夢の内容が暖かければ暖かい程、現実という名の絶望、その落差は大きくなる。

 だから、そうなる前に――真実を示さなければならない。

 

 その震える指先を隠すように、彼女は拳を握り締めた。

 アズサが、俯いていた顔を上げる。

 サオリが、アズサへと振り返る。

 二人の視線が――重なる。

 

 サオリは、諦観を湛えて。

 アズサは、憎悪を湛えて。

 

「……全ては無駄だ、それなのにどうして足掻くんだ――白洲アズサ」

「――サオリいぃィイイッ!」

 

 今度こそ、アズサの理性は千切れ飛んだ。

 

「――あなた様ッ!」

 

 二人の銃口が交差する直前、一台の車両がサオリ達の元へと突貫する。

 周囲の標識を撥ね飛ばし、急制動を掛ける車両。甲高いブレーキ音が周囲に木霊し、近くに居たユスティナ聖徒会が撥ね飛ばされ地面に転がる。

 ルーフの上に立った狐面の生徒――ワカモが叫び、サオリに銃撃を敢行。音に気付いたサオリは放たれたそれを素早く身を翻す事で回避。一瞬で手練れと判断したワカモは、先生の周辺に佇むユスティナ聖徒会を次々と射撃する。

 徐に車両の後部扉が開き、そこから救急医学部のセナが顔を出した。

 

「先生っ! 委員長ッ! 手をッ!」

「装甲車……――いや、これは!」

「――セナッ!」

 

 唐突に現れたソレにサオリは困惑の声を漏らし、ヒナが叫ぶ。

 必死に伸ばされたヒナの手を掴み、セナは先生ごと車内に全力で引き込んだ。

 襲撃に反応したユスティナ聖徒会が迎撃を開始し、車両外装に弾丸が突き刺さる。硬質的な音が連続し、セナは腰の救急用突入キット(グレネードランチャー)を抜き放つと、適当に狙いを付けてトリガーを絞った。

 ポン、と栓を抜く様な音と共に榴弾が発射され、近場のユスティナ聖徒会の足元に着弾――そして爆発が巻き起こる。

 幾人もの聖徒会が宙を舞い、その結果を見届けながらセナは残ったアズサに向かって焦燥に塗れた声を上げた。

 

「あなたは――!?」

「良いから行けェッ!」

「っ……! 発進しますッ、御注意を!」

 

 アズサに顔を向けたセナ、しかしアズサは鬼気迫る表情で叫び、セナは即時離脱の判断を下す。内部から運転席に駆け込み、急発進。今しがたグレネードランチャーを撃ち込んだ箇所から聖徒会の包囲網を突破する緊急車両十一号。その去り行く背を見つめながら、サオリは舌打ちを零す。

 

「……逃したか」

 

 最後まで銃撃を続けるユスティナ聖徒会、しかし決定打にはならない。防弾仕様なのだろう、タイヤも同じく。相手が車両を用いている以上追撃は困難――恐らくそう遠くない内に、トリニティ本校舎へと撤退を許してしまう筈。出来る事は精々、進路上にユスティナ聖徒会を出現させ時間を稼ぐ程度。

 

 しかし、問題はない。

 あれだけ銃弾を撃ち込めばヘイローは――……いや、人間なら死に至るだろう。

 元から半分死んでいた様な状態、助かる筈がない。

 サオリはそう判断する。

 

 そうだ、私が先生を殺した。

 他ならぬ、この手で。

 

「サオリ……っ!」

「――アズサ」

 

 アズサが銃を構えたまま立ち塞がり、サオリが緩慢な動作で振り向く。

 対峙する二人――それは、あの日の再現。

 先生を傷つけられ、激昂するアズサ。

 先生を傷付け、能面を貼り付けるサオリ。

 

 異なるのは――もう、誰も止める者は居ないという点だけ。

 

「お前だけはッ、絶対に……!」

「まだ、甘い夢に酔っているのか……」

 

 アズサが荒い息を繰り返し、憤怒と憎悪を湛えて叫ぶ。サオリは辟易とした素振りを見せ、肩に担いでいたライフルを握り直す。

 互いの愛銃、その引き金に指を掛ける。

 同じ場所(アリウス)で育ち、同じ辛酸を舐め、寝食を共にし、苦楽を共有した仲間。

 それでも、道は分かたれた。

 サオリはアリウスとして。

 アズサはトリニティとして。

 嘗ての仲間に銃を突きつける。

 

「仕方ない、手伝ってやろう――何度でも、その夢から目を覚まさせてやる」

 

 アズサが浸かった、甘い夢から。

 夢を語り、将来を希望し、未来ある明日を歩んでいけると信じている――その幻想から。

 それは、陽の当たる場所で生きる生徒のみ許された(あの日見た少女達にのみ許された世界)ものだから。

 私達(アリウス)には、決して存在しないものだから。

 

 サオリはその手を伸ばし、彼女に告げる。

 

「アズサ、お前の居場所は、此処(暗闇)にしかない」

「ここで、此処でッ……サオリ、お前を!」 

 

 曇天は、二人を覆う。

 影で、暗闇で、世界全体を。

 

 噛み締めた奥歯、軋む程に握り締めたグリップ、身も毛もよだつ様な感情の濁流。

 銃口を突きつけ、激情に身を任せ。

 血を吐く思いで以て叫んだ声。

 

 殺意を込めて、彼女はあの日――口に出来なかった言葉を発した。

 

「――殺してやるッ!」

 




 本当は昨日と明日で二つに分けようかと思ったのですが、折角ですので全部ぶち込みましたわ。やりたい事、全部やりますの。ちょっと最近クソ程忙しいのですが、此処を書いている時だけは最高に楽しかったですわ。ありがとう……先生。
 
 カルバノグの続編が来るので、場合によってはプロット破壊により投稿が遅れるかもしれませんの。「今日、投稿ねぇですわねぇ~」ってなったら私はプロット捏ね繰り回して死んでいる最中だと思って下さいまし。
 いやぁ、しかしやっとやりたい事やってやりましたわぁ~~!!!


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明日を待って

誤字脱字報告に感謝いたしますわ~!
今回は13,500字ですの、文字数的に次は三日後ですわ。


 

「――先生ッ、先生!」

 

 誰かが、私の名前を呼んでいる。暗闇に閉ざされた視界の中で、その声だけが鮮明に聞こえていた。

 揺れ動く車内、重く響き渡るエンジン音、ストレッチャーに寝かされた先生は重く、微かに震える瞼を押し上げる。たったそれだけの事だと云うのに、酷く時間を要した。捻じれ、歪み、不鮮明な視界――そこに映る、ヒナの姿。

 直ぐ脇に、縋り付くようにして叫ぶヒナは、目尻から大粒の涙を流し、その目元は腫れ上がってしまっていた。

 

 ――酷い恰好だ、(先生)も、彼女も。

 

 傷だらけで、砂利に塗れて、普段の凛とした姿とは雲泥の差。自身の肩を掴み、顔を寄せて必死に呼びかけるヒナに、先生は口を開こうとする。けれど、口から漏れ出るのは吐息だけで、声は僅かも発せられない。小さく、震える息が唇を湿らせる。

 もう指先一つ――動かす事が出来ない。

 

「セナっ、セナッ! 早く先生を――!」

「今は兎に角止血を! 現在トリニティの救護騎士団の元へ急行しています!」

 

 ヒナが運転席に向かって叫ぶ。自身と彼女を引き込んだセナは、現在運転席に座り車両を走らせていた。悪路が続いているのか、時折強い振動が車両を襲う。その度にヒナが先生ごとストレッチャーを押さえつけ、不安げに顔を覗き込む。

 

「声を掛け続けて下さい、それと衣服や毛布で暖を……ッ!」

 

 声が途中で途切れる、代わりに装甲車の外から銃声と何かが当たる硬質的な音が響いていた。銃撃を受けたのだ。車両が揺れ動き、ハンドルを握るセナが額に汗を滲ませながら呟く。

 

「ッ、どこもかしこも敵が……何と面倒な! 今は一分一秒が惜しいというのにッ……!」

「――私が敵を引き付けます」

 

 運転席上部、ルーフに張り付いていたワカモが窓から運転席を覗き込み、告げる。片腕で射撃を敢行しながら周囲を見渡す彼女の視界には、今現在も無数に出現するユスティナ聖徒会の姿を捉えていた。

 

「如何にあの亡霊共と云えど、郊外区画を抜ければ追っては来れない筈です、中央区には既に防衛隊が詰めている筈ですから」

 

 最初と比較して、その数をどんどん増やしているユスティナ聖徒会。彼奴等には謎が多い、その出現できる数に限りはあるのか? 消滅したとしても何度でも復活できるのか? また出現できる位置に制限はあるのか? 少なくとも、古聖堂近辺では何処でも出現出来る様子だった。そして隣接する郊外地区も然り――しかし、トリニティ中央区ではどうか。

 現在高速で移動する緊急車両十一号を先回りする様にして現れるユスティナ聖徒会だが、彼女達がどうやって目標を識別、移動ルートを割り出しているのかも不明。であればこそ、対象が別れた場合はどちらに比重が置かれるのか――賭けに近いが、やってみる価値はあった。

 ワカモは静かに立ち上がり、弾薬(クリップ)を愛銃に押し込みながら覚悟を決める。

 

「トリニティ本校舎にて、合流致しましょう」

「……お気を付けて」

 

 セナは静かに頷き、ワカモは一瞬、後部ストレッチャーに寝かされているであろう先生の方に視線を向け――緊急車両十一号、そのルーフから飛び出した。

 僅かな衝撃と共にワカモの影は宙を舞い、着地の間に銃声が鳴り響く。降車したワカモに向けて、群がる様に出現するユスティナ聖徒会。その背中はどんどんと遠ざかり、セナはサイドミラーでその様子を確かめながら、静かにアクセルを踏み込んだ。

 

「ぅ……」

「っ、先生!」

 

 先生の口から、呻き声が漏れる。

 ヒナがその事に気付き、声を上げれば、僅かに震えた唇が息を吸い込む。大きく、口に含むように繰り返される呼吸。

 

 急速に――視界が黒に染まる。

 

 目を見開いている筈なのに、瞼は開いている筈なのに、視界が、光が、奪われる。

 それは慣れ親しんだ感覚、幾度となく経験した結末の訪れ。それを予感しながら、先生は必死に言葉を紡ごうとする。息を吸い込み、肺を動かし、けれど喉が上手く働かない。

 

「ぁ……ひ――……」

「先生、私の事分かる? 今、治療できる所に向かっているからッ……! だからっ……!」

 

 喘ぐ様に口を動かし、先生は吐息を漏らす。駄目だ、まだ駄目だ、そう心の中で叫んでいるのに、徐々に、徐々に全てが奪われていく。

 真っ暗になった視界の中で、唯一残ったのは音だけだ。自分がもう、何処に居るかも分からない。駄目だ、心配させるな、元気づけろ、気丈に振る舞え、何でもないかのように装え――そう思っても、上手く体が動かない。

 肉体が、云う事を聞かない。

 

 急激に力が抜けていく。

 瞼を持ち上げる事も、呼吸をする事も、視線を動かす事も――出来なくなる。

 遂に、聴覚すら碌に働かなくなって。

 少しずつ音の間隔を広げていく自身の鼓動を聞きながら、先生はくしゃりと、顔を歪めた。

 それは先生の胸の内に残った、最後の感情だった。

 

「ご――………」

 

 声が、絞り出される。

 それは肺に残った空気全てを使って紡がれた、最後の声。

 悲しそうに、悔しそうに、皺くちゃになった先生の顔を見下ろしながら、ヒナは目を見開いた。掴んだ先生の右手が、小さく握り返される。

 ほんの僅かな、赤子の様な力で。

 

「ご、め――……んね……」

 

 そうして、先生は。

 その瞼を――ゆっくりと落とした。

 

「せ、先生――……?」

「――………」

 

 反応は、無い。

 ヒナが先生の手を握り締めたまま、そっと問いかける。手を強く握っても、肩を揺らしても、先生は目を開けない。何の反応も示さない。この手を、握り返してくれない。

 徐々に、ヒナの胸の内を黒色が支配し始める。立ち上がり、先生の肩を抱いたヒナは至近距離で先生の顔を覗き込む。閉じられた瞼、冷たい頬、変色した唇――先生は何も答えない。

 

「ねぇ、先生……先生ったら」

 

 涙を零しながら、静かに呼びかける。手を握って、肩を揺らして、耳元で声を張る。大丈夫、大丈夫だと自分に云い聞かせて。鳴り響きそうになる歯を噛み締め、泣いているのか、笑っているのかも分からない表情で、ヒナは呼びかける。呼びかけ続ける。

 声は、無様な程に裏返って、涙に塗れていた。先生の手を握る、何度も、頬に手を添える、冷たさを誤魔化すように。

 それでも、先生は何も答えてくれなくて。

 

「先生……先生、ねぇ、先生ッ……先生ぇッ!」

「――ッ!?」

 

 その叫びに、セナは最悪の事態を予感した。

 車両を急停止させ、運転席を飛び出す。最早、周囲の状況を云々している場合ではないと判断したのだ。

 後部座席に移った彼女は、先生に縋りつき、必死に叫ぶヒナの肩を掴む。

 

「委員長、下がってッ!」

「せ、先生、先生ったら! ねぇ、先生ッ!」

 

 狂乱し、理性を失っている風紀委員長。先生に縋りつくその腕には、凄まじい力が込められていた。その姿に心を痛めながら、セナは渾身の力でヒナを先生から引き剥がす。半ば押し出されるようにして剥がされたヒナは、車内の壁に体をぶつけ、呆然とした表情を浮かべた。

 セナは先生を見下ろすと、その状態を見ただけで察する。慌ててその胸元に手を当て、同時に呼吸の確認を行い、戦慄と共に呟いた。

 

「ッ――心肺、停止……ッ!」

 

 心臓が、止まった。

 その事実に、セナはこれ以上ない程の悪寒を覚える。棚に備え付けられていた人工蘇生システムのボックスを掴み、セナは叫ぶ。

 

「心肺蘇生を行いますッ! 委員長、ハンドルを取って、早くッ!」

「っ、ぅ、ぁ……!」

 

 この場で処置を行わなければ、先生は確実に死亡する。しかし、仮に息を吹き返したとしても輸血を行わなければやはり助かる確率は低い。誰かが車両をトリニティ中央区まで運ばなければならない。迅速に、少しでも早く。

 オートパルスによる人工蘇生、ライフバンドで胸部を覆い、胸骨圧迫を行うシステム。それをセッティングしながらヒナを見れば、しかし彼女は震えた指先を先生に伸ばしたまま硬直していた。心理的な衝撃、圧迫感、迫りくる不安と絶望。それを前に、ヒナは思考が、身体が、正常に稼働しない。

 それを見たセナは歯噛み、表情を歪める。

 

「ッ――このままだと本当に先生が死にますよッ!?」

 

 思わず、怒鳴り付けるような声で叫んだ。取り出したライフバンドを横に、ヒナの肩を掴んで思い切り車内の壁に叩きつける。視線を彷徨わせるヒナに向かって、セナは鬼気迫る表情で言葉を連ねた。

 

「直ぐにでもちゃんとした医療設備の在る場所に運ばなければならないんですッ! 委員長ッ! 確りして下さいッ!?」

「ぅ、あ、ぁ……ッ!」

 

 ――心肺停止に陥った後、蘇生処置が一分遅れるごとに、救命率は十%低下する。

 時間との勝負だ、それは先程までも同じであったが、これからは更にそれが加速してしまう。セナに怒鳴りつけられたヒナは、蒼褪めた表情のまま唇を何度か動かし、「わ、分かっている……分かって、る」と頷いた。覚束ない足取りで運転席へと駆け出すヒナを見送り、セナは素早く先生の身体にライフバンドを巻き付ける。

 システムの電源を入れモニタを覗き込むと、セルフチェックテストが行われ正常に稼働する事が確認された。動作の振動で装置が外れない様、固定ベルトの装着を確かめ、セナは操作パネルをタッチする。するとライフバンドが先生の胸部に合わせて調節され、適切な圧迫深度検索が開始。この準備まで、凡そ三十秒前後という所。

 

「先生、戻って来て下さい……!」

 

 冷たく、物云わぬ状態となった先生に、セナは懇願する。

 その瞳に、隠しきれぬ不安と焦燥を抱えて。

 

「絶対に、死なせませんから――ッ!」

 

 ■

 

「ああああァアアッ!」

「………」

 

 叫ぶ、咆哮する、自身の中にある熱を、渦巻く感情を発散する様に。

 愛銃を構え、射撃を敢行しながら距離を詰める。閃光が瞬き、銃声が轟く。次々と飛来する弾丸を、サオリは軽く身を捩る様にして避ける。強い視線と感情はアズサの狙いを容易に悟らせ、射線の予測を簡単にしてしまっていた。だからサオリはアズサを見つめ、ただその殺気が通る場所を避ければ良い。そうすれば、弾丸は掠りもしない。

 

 周囲のユスティナ聖徒会は何もしない、ただ棒立ちのままアズサとサオリを見つめるのみ。

 アズサには何か策がある訳ではなかった。何か狙いがある訳でもなかった。ただ目の前の人物に、サオリに、自身の怒りをぶつけなければどうにかなってしまいそうだったから。

 だから彼女は我武者羅に、遮二無二、馬鹿正直に突貫を繰り返す。

 必死の形相で、その愛銃を振り回す。

 

「――相変わらず、未熟だ」

 

 そんなアズサの様子を、サオリは冷徹に見つめていた。

 

「正面からの突撃など正気の沙汰ではない、お前の長所は周囲の環境と兵装を生かしたゲリラ戦、その中で敵の意表を突く事だろう、私と正面から戦って勝てると思ったのか?」

 

 呟き、一向に引き金を絞らなかった銃口をアズサに向ける。怒り狂いながらも繰り返した訓練の記憶が、アズサに咄嗟の回避を選択させた。

 素早く射線上から身を反らすアズサ。しかし、それはブラフだ。突き出した銃口が火を噴く事はなく、代わりにサオリの足元から何か硬質的な音が響いた。

 

「あぐッ……!?」

 

 次の瞬間、瞼の上に衝撃が走る。思わず目を瞑りよろめくアズサ。見ればサオリはブーツの先で足元の石礫を蹴り上げ、アズサの顔面に見事命中させていた。ただ逃げている様に、回避に専念している様に見せて、つぶさに地形を観察し利用出来るものを探している。そうだ、本来であればコレこそがアズサの持ち味であり、唯一サオリに勝る点である筈だった。

 しかし、それは怒りに目の曇ったアズサでは困難で。

 

「以前の様な絡め手も」

 

 一瞬、たった一瞬の怯み。

 顔に石礫が当たってよろめいた、その程度の時間でサオリはアズサの懐に潜り込む。彼女が再び目を開いた時、直ぐ目前に、サオリの色を喪った瞳が迫っていた。

 

「奥の手も無い」

「っ、このォッ!」

 

 目前に迫ったサオリに、アズサは咄嗟に愛銃のストックを繰り出す。銃口が下がった状態から手首を返し、横合いからコンパクトに突き出される一撃。サオリの首から顎先目掛けて放たれたそれを、彼女は予測していたと云わんばかりに肘で叩き落とした。強い衝撃にアズサの肩が落ち、姿勢が崩れる。見開かれたアズサの瞳に、能面の様なサオリの表情が映った。

 

「ぐ、ぎッ!?」

 

 顎を襲う、強烈な打撃。

 サオリの掌打が下から掬い上げる様にアズサの顎をかち上げ、脳を揺らした。思わず足元から力が抜け、意識が混濁する。それでも倒れなかったのは彼女の意思が為せる技か。

 しかし、一発を堪えた所でどうなる訳でもない。

 続けて放たれる胸への肘打ち、腹部への膝蹴り、鈍い音を立てて突き刺さったそれがアズサの身体をくの字に折り曲げ、骨が軋み息が詰まる。堪らず膝を突いたアズサの後頭部目掛けて、サオリは踵を振り下ろす。

 頭部を襲う、強烈な衝撃。頬が地面に叩きつけられ、身体全体が硬直する。冷たく、硬いアスファルトに押し付けられながら、アズサは立ち消えそうになる意識を必死に繋いだ。

 

「……今のお前は、只の弱者だ」

 

 アズサの後頭部を踏みつけながら、サオリは告げる。

 そこには何の感情も込められてはいなかった。

 いや、僅かに含まれているとすれば、それは。

 

 ――憐憫(憐れみ)か。

 

「リーダー」

「さ、サオリさん」

「………」

 

 アズサのものではない声が響く。サオリが視線を向ければ、大通りを歩いて来る複数の人影。同じ校章を刻んだ制服、コートに身を包んだ生徒達――アリウス・スクワッド。

 ヒヨリ、ミサキ、アツコ()。三人の姿を認めたサオリは、アズサの頭部を踏みつけたまま静かにマスクを外す。

 サオリの足元に蹲るアズサを見た三人は、それぞれが異なる反応を示した。

 

「……本当に来たんだ、アズサ」

「お、お久しぶりですねぇ」

「………」

 

 ミサキは僅かな驚愕と呆れを。

 ヒヨリはどこか懐かしむように。

 アツコはマスクで顔を隠したまま、無言を貫く。

 

「全員揃ったか――ヒヨリ、ミサキ、報告を」

「あ、アビドスの皆さんは一度撤退しました、ゲヘナとトリニティではない学園なので、ユスティナ聖徒会も能動的に追撃は行わない様でして……」

「トリニティの正義実現委員会は粗方片付けた、肝心のツルギとハスミには逃げられたけれど、取り巻きは戦闘不能――あぁ、あと、シスターフッドの連中もか」

「構わない、主目的であったETOの確保は出来た」

 

 三人の背後に佇むユスティナ聖徒会を横目に、サオリは頷く。確かにトリニティの主力であるツルギ、ハスミの排除は優先事項。しかし、何もこの場で確実に葬れるとは考えていない。第一にETOの確保、そして連中が負傷した状態の内に速攻を仕掛けて学園諸共圧し潰す。僅かでも戦力を削れたのならば、それで良い。何せこちらには、決して斃れぬ不死身の兵士が居るのだから。

 

「サオ、リ……」

「………」

「一体、お前は――……ッ!」

 

 サオリに頭部を踏みつけられたまま、苦し気に声を上げるアズサ。その表情を見下ろしながら、彼女はミサキに問う。

 

「ミサキ、残りの時間は」

「そろそろ両学園の予備兵力第一波が到着するから、それまでの時間なら五分、予測地点のETOを(けしか)けて撃退を考えない交戦なら三十分前後、撃退込みで動かすなら一時間は稼げるかな、流石に再編後は無理だけれど……」

「十分だ――コイツを起こせ」

「あぐっ……!」

 

 アズサの頭部を軽く蹴飛ばし、サオリは告げる。

 ヒヨリとミサキがアズサの武器や背嚢を引き剥がし、両腕を掴み取るや否や無理矢理上体を引き起こすと、ひざまずかせる様に足を差し込んだ。項垂れたアズサは顔に張り付いた雨水をそのままに、サオリを睨みつける。

 

「お前が態々来てくれて手間が省けた、裏切りによって多少計画にズレは生じたが、所詮は誤差の範囲内、危険分子のナギサも、潜在的な脅威だったシスターフッドも、一度に纏めて排除できるとは予想外の成果だったよ――おかげで後の掃討作戦が随分と楽になる」

 

 跪き、自身を見上げるアズサを見つめながら、サオリは淡々とした口調で言葉を紡ぐ。愛銃を担ぎ、マスクを片手に持つサオリは張り付いた前髪を軽く拭い、一歩を踏み出した。足元の水溜りが跳ね、アズサの制服を汚す。

 

「何が起きているのか全く分からないという顔だな、アズサ? あぁ、ならば教えてやろう――私達は、『エデン条約』を奪い去ったのだ」

「っ……!」

「条約が締結される古聖堂に爆撃を行い、一帯を制圧した後、条約の内容を捻じ曲げた、我々に都合の良い様にな」

「どう、云う……ッ!」

 

 思わず、声が漏れる。

 エデン条約を奪った? 条約を奪うとは、一体何だ。アズサは顔を顰め、困惑を露にする。そもそも、そんなものを奪った所で一体何の役に立つと――。

 

「……アズサ、忘れた? 私達にはトリニティとしての資格がある」

「もう随分、古い話ですけれどね……」

 

 そんな彼女の困惑を感じ取ったのか、ミサキは横目でアズサを観察しながら告げる。ヒヨリもまた、苦笑を浮かべながら相槌を打った。

 

「この条約は第一回公会議の再現なのだ、あの時までは各派閥がそれぞれの権限を持っていた、そして公会議当日、全ての派閥が集まって新たなトリニティ――今のトリニティ総合学園と成った歴史がある……排斥された私達、『アリウス』を除いてな」

 

 アズサを見つめたまま、どこか高揚の滲んだ声で語るサオリ。

 トリニティ総合学園の前身、それは幾つもの分派、分校の集合体である。あらゆる分派が連合を組み、出来上がったのが現在のトリニティ――つまり、アリウス自身はトリニティに所属する権利自体は有しているのだ。

 

「我々アリウスは数百年前から何も変わってなどいない、形式として、トリニティの一員としての権限を保有している――ならば、アリウスはエデン条約に介入する余地がある」

 

 全くの第三者が条約を捻じ曲げる事は難しい、儀式・契約・調印、それらは厳格で綿密な理解と規則、戒律の元に存在する。一ヶ所を変えれば全体が変化するような、そんな面倒で、複雑で、だからこそ絶対的な効力を持つ代物なのだ。

 しかし、元々トリニティの一員であり、その権限を持つアリウスならば、その条約を湾曲、或いは僅かに変化させる事はそう難しい事ではなかった。このエデン条約に於いてアリウスは云わばトリニティの身内――条約の内側に存在する組織なのだ。

 

 ――トリニティとゲヘナ間に於いて紛争が発生した場合、『エデン条約機構』(ETO)がそこに介入し、紛争を解決する。

 

「それが本来のエデン条約、我々は其処に、【エデン条約機構は、アリウス・スクワッドが担う】と書き添えた――ただ、それだけ」

「そ、それだけでは大して意味が無い様にも思えますが、戒律は本物なので複製(ミメシス)さえ出来れば……」

 

 ETO(エデン条約機構)を動かすにはゲヘナ首脳部、及びトリニティ首脳部、両学園の同意が必要となる。しかし最後の一文、【エデン条約機構は、アリウス・スクワッドが担う】という部分が、その権限の有無を全て無意味なものに変貌させた。

 本来であればETOは意志を持たぬ武力組織、ゲヘナやトリニティが協議して初めて動く部隊だが、その部隊そのものに、『アリウス』という意識が宿ってしまった。自身で判断し、自身で行動する完全な独立した武力集団に権限など何の意味も持たない。

 そして、アリウス・スクワッドがETO(エデン条約機構)を担うのであれば、それに対する攻撃行為は全て――戒律違反となる。

 

「ユスティナ聖徒会、戒律の守護者にしてトリニティの伝説的な武力集団――正確にはその複製(ミメシス)だが、戒律を守護する存在に違いはない、彼女達は我々『ETO』を助ける不死身の軍団だ」

「トリニティとゲヘナの私達アリウスに対する敵対行為は、神聖なる戒律への違反行為――つまり紛争の対象であり、鎮圧対象となるって訳」

「ゆ、ユスティナ聖徒会にとっては、戒律は絶対ですから、それを破る者には容赦しません、例え複製であっても……こ、心強いですね、へへっ」

「――最初から」

 

 アズサはその話を聞き、思わず歯噛みする。

 エデン条約、それはゲヘナとトリニティの和平条約――事の本質は、そうであると思っていた。しかし違った、それはゲヘナとトリニティを闊歩出来る、新たな武力集団の誕生を意味していたのだ。

 そしてそれを、それこそをアリウスは欲していた。

 その権限を――条約の名の下に、両学園を排除出来るその云い分を。

 

「首脳部を狙った、攻撃じゃ……なかった、のか……!」

「そうだ、この兵力を確保する事が私達の目的だった」

 

 エデン条約調印式に介入し、その条文を書き換える事。

 そして、それを利用しユスティナ聖徒会――その複製を手に入れる事。

 それこそが、アリウスの本当の目的。

 

「そして次なる目標が――シャーレの先生、その排除」

「ッ……!」

 

 その言葉に、びくりとアズサの肩が跳ねた。

 彼女の瞳に、再び憎悪と敵意が宿る。

 ぐっ、と。アズサの腕を掴むヒヨリとミサキの手に、強い力が込められた。

 

「マダムからの直々の指示でな……あの大人は危険だった、お前の意思を、想いを、直ぐ傍で煽っていたのだろう? この世界の真実を隠し、事実を歪めて嘘を教える――悪い大人だ」

 

 アズサの目線に合わせる様にサオリは屈み、その瞳を覗き込む。自身を睨みつける紫掛かった瞳、その向こう側に覗く怒り、憎しみ、悲しみ。その負の感情を確かめながら、サオリは口元を歪め云った。

 

「だが、その悪い大人も、もう消えた……だから後はゆっくりと教え直せば良い」

 

 雨に濡れた互いの瞳が交差する。

 アズサの血の滲んだ口元、その赤色を指先で拭ってやったサオリは言葉を続けた。

 

「トリニティでは楽しそうだったな、アズサ」

「………」

「あの学園での生活は楽しかったか? 好きな人たちと一緒に居られる事、お前を理解してくれる人達と一緒に居られる事、何の憂いもなく、暖かな陽射しの差す場所で日々を謳歌する毎日――……」

 

 段々と声に混じる、昏い色。

 彼女が裏切るまで、何度も重ねていた報告。ひと月の間に変化していた、アズサの表情、感情、心情――その胸元にぶら下がる、濡れた小さな(補習授業の)人形を見つめ、サオリは吐き捨てた。

 

「――虚しいな」

 

 そんな世界(もの)は、まやかしだ。

 

「思い出せ、お前を理解して受け入れてくれるのは、私達だけだ、此処(陽の当らぬ場所)がお前の居場所だ……お前はその真実から目を逸らし、甘い嘘に目が眩んだ、そしてその弱さがお前をこうして敗北させている」

 

 サオリの指先が、アズサの瞳を指す。

 その場所の居心地の良さを知らなければ。

 その暖かさを知らなければ。

 アズサはこれ程までに目を曇らせる事はなかった筈だ。

 感情に振り回され、地面に這いつくばる事もなかった筈だ。

 その優しさが、暖かさが、甘い夢が――彼女を弱くした。

 

「私達が憎いか、アズサ?」

「ッ、当然、だろう……!?」

 

 その問い掛けに、アズサは吼える。

 今にも噛み付いてやらんとばかりに身を捩るアズサは、至近距離でサオリに殺意の籠った視線を投げながら叫んだ。

 

「お前は、先生を……ッ!」

「ならば、私のヘイローを破壊してみせろ」

 

 感情を露にするアズサに反し、サオリは酷く落ち着いた声でそう告げた。

 ヘイローを、壊す。

 人を、殺すという事。

 自身の頭上に浮かぶ円環(ヘイロー)を指差し、彼女は云う。

 

「条約の主体である私達が存在する限り、この戒律は永続していく、ヘイローを破壊(私達を殺し)でもしない限り、エデン条約機構(スクワッドと聖徒会)はアリウスの手足となって戦い続ける」

 

 だから、止めるにはヘイローを壊す(殺す)しかない。

 条約を担うスクワッドが全滅すれば、エデン条約機構は文字通り消滅するだろう。

 或いは、もう一度条約を書き替えるか。

 しかし――。

 

「だが、お前には無理だよアズサ――お前に私は殺せない」

 

 弱くなった(陽の暖かさを知った)、お前では。

 

 サオリはそう、どこか嘲る様な表情と共に言葉を放った。

 手に持っていたマスクで再び口元を覆い、立ち上がる。コートを靡かせ踵を返した彼女は、地面に転がったアズサの背嚢を拾い上げた。

 

「セイアもこの後直ぐに見つけ出す、お前の後始末はこっちでしてやろう、だからお前は――」

 

 アリウス自治区へと連れ帰る。

 そう口にしようとして、ふとアズサの背嚢に何か、妙なものが入っている事に気付いた。外側からでも分かる膨らみ、柔らかさ、設営用のテント幕――ではない筈だ。ならば防寒着か何かかと中を覗き込めば、そこには白い妙な物体が詰め込まれていた。

 

「……何だ、これは」

 

 取り出し、サオリは目を細める。白くずんぐりとした輪郭に、羽の様な手と黄色いヒレ足。開いた口元からは舌が飛び出し、左右に散らした瞳の上には眼鏡が被せられていた。

 サオリには全く馴染のないものだ。妙に柔らかくて、何とも云えない不気味さもあって、戦場には不釣り合いの――。

 

「……縫い包み?」

 

 瞬間、銃声が轟いた。

 飛来した弾丸はアズサを掴んでいたミサキの左肩に命中し、衝撃で彼女の身体が後方へと流れる。痛みに顔を顰めたミサキは、数歩蹈鞴を踏みながら苦悶の声を上げた。

 

「ッ――!」

「ミサキ!? 狙撃……どこからっ!」

 

 即座に背嚢と縫い包みを地面に投げ捨て、愛銃を手に取るサオリ。素早く近場の障害物に身を潜めた彼女は、直ぐ傍の建物、その屋上に立つ小柄な人影に気付いた。

 四階建ての古風な建築物、その屋上に立つ彼女は愛銃のトリックオアトリックを担ぎながら、その大きな鞄を振り被る。

 その眼光が、降り注ぐ雨の中で赤い軌跡を描いた。

 

「――あんなの見ちゃったらさぁ、もう……」

 

 白く靡く髪。普段の様に、「くふふっ!」と笑う事は無かった。

 ただ、その額に青筋を浮かべ、開いた瞳孔をそのままに――彼女は叫ぶ。

 

「ぶっ殺すしかないよねぇッ!?」

 

 投擲――地面に向かって放り投げられた黒く、大きな鞄。

 サオリは咄嗟に反応し、頭上のそれに狙いを付け、銃撃を敢行する。弾丸は寸分違わず飛来した鞄に着弾し、爆発を巻き起こした。

 

「ぐッ……!?」

 

 爆風、爆炎、肌を焼く熱波と噴煙が周囲を包み込み、雨の寒さを一瞬だけ文字通り吹き飛ばす。爆発の衝撃で周囲の硝子が割れ落ち、サオリの後方に立っていたアズサ、ヒヨリ、アツコもまた吹き飛ばされる。

 アスファルトの上を転がりながらも、アズサは必死に手を伸ばし背嚢とペロロ人形を掴んだ。そのまま抱き込むようにして爆炎から人形を守る。

 

「クソっ……一体どこの部隊――」

「うわァアアアアアッ!」

 

 悪態を吐き、体勢を立て直すサオリ。そんな彼女目掛けて爆炎を裂き、突貫する影が一つ。直ぐ横から響いた叫び声に、サオリは素早く拳銃を抜き放ち、射撃。閃光が瞬き、弾丸は寸分違わず人影へと着弾した。

 着弾した筈だった。

 だというのにその影は微塵も怯む事をせず、速度を落とさずにサオリへと肩から突っ込んだ。凄まじい衝撃と勢いにサオリは地面から足を浮かせ、そのまま地面に叩きつけられる。

 一瞬、視界が歪む。そして倒れたサオリに突きつけられた銃口から、閃光が瞬いた。咄嗟に顔を逸らせば、発射された散弾がアスファルト舗装された地面を抉る。飛び散った破片が、サオリの頬を傷付けた。

 

「ぐぅッ!?」

「死んでッ、死んで死んで死んで死んで死んでェえッ!」

「何だ、コイツは……!?」

 

 サオリに圧し掛かり、銃口を突きつけながら狂乱する生徒――ハルカ。

 大粒の涙を流し、赤く充血した瞳をそのままに凄まじい力でサオリを地面に押し付ける。とてもマトモな状態とは思えない、精神的に不安定だとひと目で分かる相手を前に、サオリは思わず顔を顰めた。

 

「――動ける?」

「っ……!?」

 

 背嚢とペロロ人形を抱き締めたまま蹲っていたアズサは、噴煙が漂う中で自身の愛銃を視線で探していた。そんな彼女の肩を叩く人影。大きく肩を震わせながら振り向けば、そこにアズサの銃を片手に差し出しながら佇む生徒が居た。

 

「お前は……」

「自己紹介の暇はないから、動けるなら手伝って」

 

 そう云って彼女――カヨコはアズサの愛銃を押し付ける。普段よりも数割増し、恐怖を感じさせるような眼光で周囲を見渡し、彼女は自身の愛銃デモンズロアを抜き放った。

 その銃口の先には、一体のユスティナ聖徒会。同じように銃を構えた相手は、アズサとカヨコを狙っている。少し距離があった、それを確認したカヨコは小さく呟く様な声で云った。

 

「社長」

 

 呟きと同時に、銃声が木霊する。立ち上る噴煙を切り裂き、飛来したそれは今しがた二人に銃口を向けていた聖徒会の頭部に着弾し、上半身を消し飛ばした。

 そして炎と煙を肩で切り、甲高いヒール音を響かせながら現れる――彼女達のリーダー。

 

「……ホント、最悪の旅行だね」

「――えぇ、本当に」

 

 羽織った外套を靡かせ、瓦礫に足を乗せ周囲を見渡す――陸八魔アル。

 便利屋68を率いる彼女は、その不機嫌な表情を隠す事無くアリウス・スクワッドの前に立ち塞がった。

 

「ふーッ! ふぅううッ!」

「こ、のッ……! いい加減離れろッ!」

 

 ハルカに押し倒されていたサオリは、その腹部を強かに蹴り上げ拘束を抜け出す。かなり強烈な蹴撃だったというのに、ハルカは数歩蹈鞴を踏むだけで悲鳴の一つもあげない。ただ口元を一文字に結んだまま、即座に銃口を向け、発砲。散弾がサオリのコートを掠め、ステップを踏みながら距離を取ったサオリは愛銃を構えながら叫んだ。

 

「全員無事か!?」

「なんとかね……」

「うぅ、び、ビックリしました……」

「………」

 

 ミサキ、ヒヨリ、アツコ、爆発に巻き込まれた彼女達は健在。その無事を確かめたサオリは、小さく胸を撫でおろしながら改めて目前の敵を見据える。

 中央に赤髪の女、妙なカリスマと重圧を感じさせるその生徒は、左右に爆弾を投擲した小柄な生徒と、先程自身に突貫して来た情緒不安定な生徒を引き連れている。そしていつの間にか救助されたのか、アズサを連れた凄まじい形相の生徒――殺意を滲ませるその眼光に、サオリは僅かに顔を険しくさせた。

 

「貴様は――」

「便利屋68、陸八魔アル……アナタ達に名乗りたくなんて無かったけれど、冥土の土産に教えてあげるわ」

「便利屋――そうか、ゲヘナの」

 

 その名前に、憶えがあった。

 ゲヘナ自治区に存在する、幾つもの違法サークル。学園に認められていない部活、その中でも特記戦力として記されているのが、「美食研究会」と「便利屋68」の二つ。正確に云えば部活とも呼べない集まりではあるが、その実力は本物である。風紀委員会とも正面切って戦争を仕掛け、それでいて逃走をも成功させるという武力集団。

 サオリの銃を握る手に、力が籠る。

 

「私達の経営顧問に、随分と手荒い真似をしてくれた様ね」

「……経営顧問?」

「――シャーレの先生だよ」

 

 サオリの疑問に対し、殺意の籠った視線を寄越す生徒、カヨコが云った。声には確かな苛立ちが込められていた。

 

「せ、先生が、あ、あなたにッ、う、撃たれ……撃たれてッ!」

「全部見た訳じゃないし、遠目だったからハッキリとは分からなかったけれどさぁ……あんな血塗れになって、やってませんは通用しないよねぇ?」

「………」

 

 アル以外の面子が、涙を湛えて、憎悪と怒りを込めて叫ぶ。その弾劾にサオリは無言で以て応え、静かに銃口を向けた。便利屋68と対峙するように、アツコが、ミサキが、ヒヨリが、サオリの傍へと足を進める。

 背後に続々と出現するユスティナ聖徒会(ETO)、その影を酷く冷めた瞳で見下ろしながら、アルは言葉を紡ぐ。

 

「先生には色々とお世話になっているし、私達の経営顧問として、そして信頼出来るクライアントとして、大切に想っているの、だから――」

 

 そこまで口にして、アルは小さく首を横に振った。

 

「いえ、建前は必要ない……よくも私達の先生に傷を付けたわね?」

 

 その指先で肩に掛かった髪を払い、彼女は足元の瓦礫を強く踏みつける。

 僅かに血の滲んだ唇を震わせた彼女は、有りっ丈の敵意と怒りを滲ませ、担いでいた愛銃――ワインレッド・アドマイアーをアリウスに突きつけた。

 その瞳が、真っ直ぐサオリ(標的)を射貫く。

 

「お礼に――鉛玉をくれてやるわ」

 

 その宣言と共に、再び銃声が鳴り響いた。

 


 

 この負傷で記憶障害が起こって、奇跡的に生還した後に涙を流しながら喜ぶ生徒に、「えっと、君達は……誰だい?」ってなって血の気の失せた顔で見つめられる先生とか見たい。

 その後、先生抜きでアリウスと戦って、キヴォトス全域巻き込んで全学園vsアリウスみたいな形で辛うじて勝利を収めるんだけれど、ボロボロになったスクワッドの前に先生が立ち塞がって、「私には何が起こっているのか分からないし、これは正しくない事なのかもしれないけれど……でも、彼女達、ボロボロなんだ」って呟く。先生を戦いに巻き込む訳にはいかないと、あれやこれやと説得を重ねる生徒達に向けて、けれど先生はスクワッドを庇ったまま動かなくて、生徒の説得を前に、「()()として、見て見ぬ振りなんて出来ないよ」って云って申し訳なさそうに笑って、愕然とする生徒達とスクワッドの皆が見たい。

 

 記憶を喪っても先生としての、大人としての責務を忘れない先生は素晴らしい。ただし生徒達の心情は無視するものとする。腕捥いで眼球抉って、身体に何発も鉛玉ぶち込まれた挙句に命懸けて救われるスクワッドとか涙が出ますわ……。更にそんな先生の為に戦っているのに全く報われない生徒達も可哀そうですわ……。先生ってそういう所あるよね。生徒みんなが笑い合える世界とは程遠いッ! でも先生の死に際に少しでも安心して欲しくて、泣き笑いをする生徒達を見れば、「生徒皆笑っているな……ヨシ!」ってなりますわ。これが強制笑顔って奴ですの? 世界は広いですわねぇ~。

 まぁ本編ではやりませんが。

 こんなになっちゃった……。

 こんなになっちゃったからには、もう……ネ。(ちいかわ)

 

 カルバノグ新章来たので早速明日にでも読みますわよ!

 プロット破壊が起きませんよーにッ! お願い致しますわ~ッ!

 



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三度、夜明けを迎えた先に

誤字脱字報告、感謝ですわ~!
今回、一万八千字ですってよ、やば。
なので日付跨いだ事も許されるって信じていますわ。


 

 古聖堂――西側。

 爆撃により散乱した瓦礫、それを退かしながら周囲を見渡す人影が複数。行政官としてヒナとは別の部隊指揮を執っていたアコと、その指揮下に在った風紀委員の面々である。制服の所々が裂け、焼け焦げ、出血しながらも彼女達は懸命に自身の長を探していた。

 ゲヘナ風紀委員会は件の爆撃で甚大な被害を被り、会場の警備隊は殆ど全滅、辛うじて近場の委員に庇われたアコは意識消失を免れ、会場周辺を巡回していた僅かな手勢を引き連れヒナ委員長の捜索を続けていた。しかし、成果は出ていない。彼女の足取りどころか、現状の状況把握すら不確かであった。

 

「ッ、委員長、ヒナ委員長は……っ!? トリニティを蹴散らしてでも、一刻も早く委員長を見つけないと……!」

「アコ行政官! 待機していた後方部隊、合流しました!」

 

 背後から委員の声が響く。アコが振り返り目を凝らすと、遠目に列を為して駆けて来る風紀委員会の姿があった。万が一に備え配備していた、ゲヘナ風紀委員会の後方部隊。漂う熱気を吸い込みながら声を張り上げたアコは、彼女達に指示を出す。

 

「後方部隊は他の負傷者の探索と救助を! 私は直ぐに――」

「あ、アコ行政官、傷口が……ッ!」

 

 声を張った瞬間、頭部から流れ出た血が顎先を伝い、制服を汚した。しかし瞳孔を広げながら叫ぶ彼女は、その様な事を口にする部下に対し睨め付ける様な視線と共に云い放った。

 

「私の傷なんて今はどうだって良いんですッ! 早くヒナ委員長の捜索を――」

 

 口にして、思わず顔を顰める。

 傷に響いたからではない、脳裏に過る人影があったのだ。

 思い返すのは――ひとりの大人、その姿。

 キヴォトスの生徒よりも脆く、脆弱な肉体を持つ彼は、果たしてこの攻撃を受けてどうなった? 碌な未来は見えない、少なくとも無事ではない筈だ。それこそ奇跡でも起きない限りは。

 数秒、逡巡があった。しかし迷っている暇はないと、アコは顔を上げ改めて指示を口にする。

 

「っ、ヒナ委員長と、先生……シャーレの先生の捜索を行いなさいッ! 早く!」

「は、はッ!」

 

 指示を受けた委員が駆け出し、周囲の面々へと命令を伝達する。その背中を見送りながら、アコは内心で呟いた。これは決して感傷などではない、ただシャーレに恩を売るだけ、ただそれだけなのだと。

 瓦礫を足蹴にし、周囲を見渡しながら大きく息を吸い込む。目を覆いたくなるような惨状だった、どこもかしこも。果たしてこの仕立人はティーパーティーか、シスターフッドか、はたまた正義実現委員会か、それとも――。

 そんな思考を他所に、彼女は呟く。

 

「……ヒナ委員長っ」

 

 ただ、その無事を祈って。

 

 ■

 

「会場が爆破されたというのは本当なの!?」

「本校舎の敷地外に出るな、ゲヘナに攻撃されるぞ!?」

「攻撃してきたのは本当にゲヘナなのか? 会場にはゲヘナの首脳陣だって……!」

「なら何処が攻撃してきたっていうの!?」

「委員会による暴走の可能性だって――」

「正義実現委員会は何故動かない!? 委員長か副委員長に連絡は――」

「シスターフッドのサクラコ様が……――」

「ティーパーティーから緊急事態宣言――」

「発令したのは議会からでしょう!? 行政官は総括本部に――」

 

 トリニティ――本校舎周辺地区。

 校門から中央噴水広場まで、見渡す限りの人、人、人。

 様々な部署の生徒達が、所属、学年問わず走り回り、様々な憶測や疑問、怒声、叫びが響き渡る。

 

「な、なにこれ……」

「一体何が――」

 

 それを前に、コハルとヒフミは思わず声を失う。ハナコに引き摺られるような形で学園に帰還した彼女達だが、想像を絶する母校の混乱ぶりに思わず思考が一瞬止まった。本当ならば直ぐにでもティーパーティーなり正義実現委員会に泣きついて、先生の救出部隊を募ろうと考えていたのだ。

 けれど、そんな甘い考えを一蹴する程度には、学園は混沌としていて。

 自分達が思っているよりもずっと、事態は深刻で大事なのかもしれない。そんな不安と焦燥が胸の内に滲み出る。ハナコは混乱に陥る生徒達の姿を見つめながら、その顔をはっきりと歪めた。

 

「会場の爆破で、どこの委員会も機能を停止しているんです……このままだと――」

 

 トリニティ全体の機能が停止する――いや、それで済めばまだ良い方だ。

 元々トリニティはあらゆる分派が集って作られた連合、それはつまり異なる信条、目標、思想を持っており、各々が立てたトップが存在して初めて意思統一が為される存在という事。しかし現在、ティーパーティー、正義実現、シスターフッド、救護騎士団、全てのトップが不在となっている。つまり各派閥の方向性を定め、意思統一し、指示を出す存在がおらず、各委員会は不安に駆られたまま独自の行動を取ろうとしている。

 ゲヘナ、アリウス云々ではない――このままでは、トリニティが内部分裂する可能性すらあった。

 

「三頭政治の弱点が、こんな形で露呈するなんて……」

 

 呟き、思わず歯噛みする。最悪の場合、自身が陣頭に立ち指揮する事も考える。しかし、ハナコにはそれを為す為の立場――肩書がない。先生が健在であれば、シャーレの名の借りて動く事も出来たが。

 今はそれを云々する場合ではなかった、兎にも角にも情報だ、誰が無事で誰と連絡が取れないのか、どの派閥がどんな動きをしようとしているのか、古聖堂はどうなっているのか、既に派遣された部隊はあるのか――どんな些細な事でも構わない、動く土台を作る為の情報が必要だった。

 ハナコは直近の方針を固め、二人に向けて声を上げる。

 

「兎に角情報を集めましょう、アズサちゃんの捜索を行うにしろ、救援部隊を送るにしろ、情報が無ければ始まりません、私は一度行政室と部活動総括本部に顔を出して来ます、お二人は……」

「あっ、そこ!」

 

 そこまで言葉を紡いだ所で、不意に声が上がる。

 人混みを掻き分け、やって来たのは黒い制服を身に纏う正義実現委員会。彼女の視線の先には、同じ制服を身に纏ったコハルの姿。最初は自身に向けられた声だとは微塵も思っていなかったが、彼女が目前まで駆け寄って来た事でコハルは自身が対象なのだと目を白黒させる。

 

「確か正義実現委員会のメンバー――だよね? これから即応態勢に入る話が出ているから、急いで部室に集合してッ!」

「え、あっ、わ、私……? で、でも――」

「委員長と副委員長が不在なの、急いでッ!」

「あ、ぅ……」

 

 一方的に捲し立て、その生徒は再び人混みの中へと飛び込んで行く。どうやら各配置の正義実現委員会の面々に命令を伝達している様子。コハルは思わず剣幕に呑まれ、自身が補習授業部所属である事を終ぞ口に出す事が出来なかった。難しい表情で考え込むハナコを横眼に、ヒフミはぐっと唇を噛んで頷く。

 

「――コハルちゃん、一度正義実現委員会の方に戻って情報を集めて来て下さい、私も知り合いの方を当たって来ます……!」

「ひ、ヒフミ……」

 

 どこか、強い意志を感じさせる声色だった。

 ハナコちゃんの云っている事は、正しい筈。ヒフミはそう考える。少なくとも、無策で突撃して良い様な状況ではない事は確かだ。

 この混乱を見て尻込みしたヒフミであったが、アズサの嘗ての言葉が彼女の背中を押していた。嘆く事も、立ち止まる事も後から出来る。だからまずは動く、どんな些細な事でも良い。出来る事から、一つずつ。

 

「三十分後に広場で合流しましょう、東側の木陰なら人が少ない筈です、何かあれば端末にメッセージを――どうでしょうか、ハナコちゃん?」

「……えぇ、それで行きましょう」

 

 ヒフミの言葉に、ハナコは一瞬驚いた様な表情を見せるも、即座に感情を呑み込み頷いて見せる。コハルも最初は戸惑った様子を見せていたが、自身のやるべき事が定まったから先程よりも怖気づいた気配は薄まり、ぐっと手を握って声を張る。

 

「わ、分かった……またあとで、絶対に!」

「えぇ、お二人共、お気を付けて!」

「はい……!」

 

 ■

 

『エデン条約の会場は火に包まれており、現在古聖堂周辺は凄惨な状況が――』

「………」

 

 手元にある端末をじっと見つめるミカ。薄暗い独房の中で、彼女は震えそうになる指先を握り締める。画面に映し出される、燃え盛る古聖堂。その中に参加している筈の親友(ナギサ)、そして先生を想い、彼女はそっと息を呑んだ。

 ナギサは、先生は、無事なのか――それを考えると、今にも飛び出したくなってしまう。

 けれど、これ以上迷惑は掛けられない。掛けてはいけない。

 元より自制心の緩いミカにとって、その衝動を抑え込む事は大変に酷であった。しかし、それでも尚彼女は感情を押さえつけ、恐怖を噛み殺し、座り込む。

 

「……ナギちゃん、私いつか云ったよね――私達は、こういう世界に生きているって」

 

 この世界は――甘くて、優しい世界などではない。

 騙し、騙され。

 裏切り、裏切られ。

 傷つけ、傷付けられ。

 私達は、そういう世界(キヴォトス)に生きている。

 

「だから、きっと……」

 

 ミカの表情が、ふっと力ない笑みを浮かべた。

 それは決して正の感情から生まれた笑みではなかった。

 諦観の笑みだ。

 彼女の知る、アリウスと良く似た笑い方だった。

 

「やっぱりセイアちゃんの云う通り、これは――そういう物語なんだろうね」

 

 辛くて、苦しい――これは、そんな物語。

 

 ■

 

『あっ、そ、速報です! トリニティで緊急会合が行われるとの事! どうやらゲヘナの万魔殿も同様のようで――これは非常事態宣言に続き、何か大きな動きが……』

 

 ■

 

 シスターフッド 行政室

 

「結局爆発の原因は何なのですか!?」

「それよりもサクラコ様の行方を確認するのが先でしょう!? 負傷者の数は? ティーパーティーのナギサさんとの連絡は、まだ取れないのですか!?」

「つ、ツルギ委員長、そしてハスミ副委員長は未だ行方が掴めておらず……そのせいか、正義実現委員会からは殆ど応答が――」

「シスター達の招集命令は!? 今すぐ私達、シスターフッドだけでも戒厳令を……!」

「パテル分派が緊急招集を行ったとの報告が! 残りの二派も、主要人が緊急会合を行ったと……!」

「古聖堂後方に待機していたシスター達が正体不明の敵と交戦中! 指示を待っています!」

「だ、第十四校舎にて騒動が! パテル分派の生徒が今すぐ戒厳令の宣布を要求しティーパーティー本部に向かっていると……!」

「っ、正義実現委員会は何をしているのですかッ!?」

 

 ■

 

 正義実現委員会 

 

「ティーパーティーの行政官から、第十四校舎への支援要請アリ!」

「はっ、え? さ、先程までは古聖堂への増援命令だった筈では……!?」

「し、シスターフッドの行政官より連絡がありました! な、何と返答すれば――」

「今、他の組織の命令を聞いている余裕などないでしょう!? 何よりもまず、ハスミ先輩とツルギ先輩を救出しなければ……!」

「派遣されていた部員から交戦報告! 正体不明の……え、えっと、幽霊? と交戦しているとの報告が――」

「錯乱しているんでしょう!? 良いから、今は古聖堂方面に――」

「しかし、この場合指揮系統としてはティーパーティーの命令に従うべきでは……!?」

「命令権を持っているのはティーパーティーの御三方であって、ティーパーティーそのものでは無い筈です!」

「救護騎士団から現状に関する問い合わせが……」

「あぁもう……ッ! 各位持ち場へ! 兎に角本部を空ける訳にはいきません、部隊を再編して配置すれば――!」

「だからそんな暇なんてッ……!」

 

 ■

 

 本校舎 オープンスペース

 

「何か、随分騒がしいけれど、一体何があったのさ?」

「アンタ知らないの? 調印式の会場が爆破されたってニュースで――」

「爆発って、一体誰が?」

「ゲヘナの万魔殿が仕掛けて来たと耳にしましたが」

「えっ、私は風紀委員会がやったって……」

「ネットに幽霊みたいな人影が映っていたという話もありますね」

「何それ、心霊現象って事?」

「何か、パテル分派の生徒に招集が掛かったらしいね」

「調印式に参加したナギサ様は無事なの?」

「フィリウス分派からは何も声明は出てないけれど……」

「あっ、今サンクトゥスの方で――」

 

 ■

 

「ッ、何処もかしこも統制が乱れて――このままではトリニティが瓦解してしまう……!」

 

 錯綜する情報、各々の分派が足並みを乱し、互いが互いの信じるものを、見たいものだけを見て、暴走を始めている。そして彼女もまた、自身の信じるものだけを見て、凝り固まった思考に捕らわれた生徒の一人であった。

 先の会場爆破、誰がやったのかなど分かり切った事だ。会場に参加していたのはトリニティとゲヘナのみ、そしてトリニティがこの様な事を行う筈が無いと考えれば、犯人はゲヘナ以外考えられない。あの角付き共が、憎悪に駆られ目境無しの攻撃行動を開始したのだ。

 ならば今直ぐ、報復を行うべきだ――ゲヘナに対する、宣戦布告を。

 パテル分派の彼女は銃を片手に同分派の生徒を集め、その様に総括本部へ――ティーパーティーへ直談判を行おうと考えていた。

 

「仕掛けて来たのはゲヘナでしょう! 一体他に誰がこんな真似をすると云うのですか!?」

「そうです! そもそも正義実現委員会も、総括本部も一体何をしていらっしゃるのですか!? 敵の攻撃は既に始まっているというのに……!」

「銃を向けるべき敵はゲヘナ! あの角の生えた者共に天誅を!」

 

 叫び、困惑する生徒達に呼びかけを行いながら広場を進む一団。その声の大きさに、ゲヘナに悪意を、或いは嫌悪を持つ者達が反応する。元より関係の悪い両学園、その数は決して少なくない。

 

「ん……? おい、止まれ! 此処からは許可の下りた車両以外は――うわッ!?」

 

 不意に、一台の車両が守衛の声を無視し、滑り込む様な形で校門を潜り抜け、停車するのが見えた。砂煙を立ち昇らせながら停車したそれは、外装には幾つもの弾痕が残り、防弾仕様窓硝子にも罅が入っている。甲高いブレーキ音と共に現れたその車両に目を向けた彼女達は、その校章を目にした途端――その表情を一変させる。

 

「っ、ゲヘナの校章……!?」

「これは、救急車ですか? 冗談じゃない、今の状況分かっているの!?」

 

 使われているのはゲヘナ、救急医学部のエンブレム。しかし、例え救急車だろうが何だろうが、敵は敵である。

 あの様な先制攻撃を加えておいて、どの面下げてトリニティ本校舎に乗り込んだというのか。そんな思いを込めて睨みつけた彼女達は、手に持った銃を握り締め叫ぶ。

 

「あの様な破壊行為を行いながら、良くもまぁノコノコと……ッ! 運転手を引っ張り出しなさいッ! 怪我人だか何だか知りませんが、此処はトリニティ自治区である事を想い知らせて――」

「やめて下さいッ!」

 

 しかし、そんな彼女達を止める人影があった。銃口を向けようとした彼女達の前に立ったのは、特徴的な制服を身に纏う二人組。その姿を認めた時、彼女は驚愕と共にその名を呟いた。

 

「救護騎士団……!?」

「何故負傷者が乗っていると分かって、救急車を攻撃しようとするのですか!? そんな事、この救護騎士団が許しませんよ!?」

「負傷者を攻撃するのなら、その前に私達がお相手します、本当に何て事を――ミネ団長がいらっしゃったら、きっとこの状況を悲しんだ筈です!」

 

 トリニティ救護騎士団、ハナエとセリナ。救護騎士団に所属する両名は、ゲヘナの緊急車両十一号を守る様に立ち塞がる。彼女達が手にした銃口は床に向けられているが、場合によっては同じトリニティの生徒に向ける事も厭わないと、その表情が告げていた。

 しかし、その口からミネ団長の名前が出た途端――彼女達の間に確かな怒りが伝搬する。

 

「ミネ団長――?」

「それってあの、『ミネが壊して騎士団が治す』のミネ団長でしょう!? 筋金入りの問題児じゃない!? あの人が悲しむですって? 冗談も大概にしてよッ!」

「えっ!? あ、い、いえ、団長は問題児ではなく、ちょっとだけ時代錯誤と云いますか……」

「どっちでも良いけれど、あの人は狂っているでしょう!? 何で治療を目的としている集団の長が、嬉々として相手を殴り倒して怪我人を量産しまくるのよ!? 云っている事も意味不明だし……!」

「あ、あぅ……」

 

 怒り心頭と云った様子でミネ団長の所業を糾弾する生徒達。それを前にハナエとセリナの両名は、先程までの勢いも何処かに思わず尻込みする。銃を担いだまま静かにセリナの傍ににじり寄ったハナエは、小さな声で問いかけた。

 

「せ、先輩、どうして逆効果になっているんでしょう……?」

「し、知ってはいましたが、団長って此処まで評判悪かったんですね……」

「傷を治すよりも、傷の原因を取り除くべきって良く云っていますもんね、あれのせいでしょうか?」

「ま、まぁ、銃を撃つ加害者が居なくなれば怪我人は増えなくなると云うのは分かりますけれど、その範囲と云うか、程度というものが……」

 

 救護騎士団の長、蒼森ミネ。

 現在行方不明とされている彼女はヨハネ分派の首長であり、救護騎士団を纏める団長でもある。正義感の塊と云っても良い強固な信念を持ち、「戦闘で怪我人が増えてるのであれば、その元凶を取り除くために、戦闘を出来なくしてしまいましょう」という考えの元に、その場に居る全員を戦闘不能にするという暴挙を真面目に行う人物であった。

 そして、残念ながらその思考はトリニティに於いて、あの正義実現委員会のツルギを以てして、「話の通じない相手」と云わしめる程。一般生徒に対する心証はハッキリ云って最悪である。彼女の名前を出した事が、セリナの失策であった。

 

「兎に角! 今は貴女方に構っている暇はありません、怨敵のゲヘナが直ぐ其処に居るのですから!」

「あっ、ちょ、ま、待って下さい! いい加減にしないと、注射を打って――」

「わわっ、と、止まって下さい! 止まらないと本当に……!」

 

 ミネ団長の名前を聞き、ヒートアップする生徒達。その人数は二人で相手取るには余りにも多く、ハナエとセリナの両名が、そのまま人波に呑まれてしまうという寸前――。

 

「――閃光弾、投擲しますッ!」

 

 そんな声と共に、背後から何かが投擲された。

 その影は救護騎士団の二人に詰め寄っていた人波のただ中に放り込まれ、炸裂。強烈な衝撃と爆音、閃光を周囲に撒き散らし、周辺に立っていた生徒は一斉に膝を折り、悲鳴と共に足を止めた。

 

「きゃあッ!?」

「ぐっ、急に何……!?」

「――申し訳ありません、手荒な真似を」

 

 膝を突いた人垣の前に立ち塞がるのは、灰色の制服を身に纏う白髪の少女。その特徴的な色合いを持つ制服を目にしたセリナとハナエは、喜色を滲ませながら彼女の名前を呼んだ。

 

「じ、自警団の……!」

「スズミさん!」

「御無沙汰しております、救護騎士団の皆さん」

 

 振り返り、笑みを浮かべるスズミ。

 自警団として周辺の警戒、及び巡廻を行っていた彼女は、遠目にこの人だかりと救急車の前に立ち塞がる救護騎士団の二人を見て、凡その事態を把握していた。背後の救急車に描かれたエンブレムはゲヘナのもの、しかしだからと云って攻撃して良い理由にはならない。それは、彼女にとっての正義ではない。

 

「学園の所属に関わらず、負傷者は負傷者――手荒な真似をさせる訳にはいきません」

 

 告げ、スズミは手にした愛銃の安全装置を弾く。この場合は、その行為が何よりも如実に彼女の心情を現していた。

 

「自警団――場合によっては正義実現委員会とも真っ向から対立する、あの……」

「またヤバい奴じゃん……」

「っく、どうしてこうも邪魔が……ッ!」

 

 トリニティ自警団――正式に認可されている部活動ではないが、トリニティに於いてその存在は広く認知されている。正式な部活ではないからこそ、その部員の数は不明であり、何処の誰が所属しているという明確な情報はない。目の前の彼女、スズミはその自警団の団員、喧嘩を売る相手としてはかなり勇気の要る相手であった。

 その躊躇を感じたからこそ、スズミは超然とした態度で告げる。

 

「頭は冷えましたか? であれば、今直ぐ解散を――必要とあらば、実力行使で以て」

「っ……!」

 

 スズミの言葉に、先頭の生徒は歯噛みする。

 しかし、此処で彼女達と一戦交えることがどれだけ愚かな事か、彼女は理解している。本当の敵はゲヘナなのである、トリニティ内部で無用な争いを生む事は本意ではない。そんな思いと共に踵を返した彼女は、周囲の生徒に手で指示を出し、静かに後退していった。

 

「……今はトリニティ同士で争っている場合ではありません、やるべき事は他にもあります」

 

 その言葉に従い、徐々にその場を離れていくトリニティ生徒達。その後ろ姿を油断なく見据えながら、スズミはグリップを握り締める。

 そして、周囲に生徒が誰も居なくなってから――漸く彼女はその張り詰めていた空気を霧散させた。握り締めていた手の力を緩め、そっと肩を落とす。

 

「……ふぅ、何とか落ち着きましたね」

「ありがとうございます、スズミさん」

「いえ、私に出来る事は少ないですが……自警団として、やれる事はやらないといけませんから」

 

 告げ、スズミは苦笑を漏らす。その表情には、少しだけ疲労が見て取れた気がした。そんな彼女の胸元から、ノイズの走った電子音が響く。

 

『こちら東門前、生徒達が暴動を……! 応援をお願いします!』

「……兎も角、今は何処も気が立っています、どうかお気を付けて、何かあったら呼んで下さい、直ぐに駆けつけますから――それでは!」

 

 最低限の言葉に留め、スズミは素早く別の場所へと向かって駆け出す。恐らく、騒動が起きてからずっとトリニティを駆け回っていたのだろう。その背中からは強い使命感が漂っていた。

 去り行くスズミを見送りながら、ハナエはしみじみと呟く。

 

「行ってしまいました……相変わらず、風の様な方ですね」

「そう、ですね――」

 

 ハナエの言葉に頷き、セリナは視線を救急車に向ける。

 その表情は心なしか、苦しそうに見えた。

 

「……先輩、どうしました?」

「いえ、その……」

 

 顔色の悪いセリナに気付き、ハナエは心配げに問いかける。数秒、どこか戸惑う様に視線を散らした彼女は、自分でも理解出来ない、妙な感覚に首を振った。

 

「――凄く、嫌な予感がするんです」

 

 言葉に出来ない、妙な胸騒ぎ。

 悪寒、緊張、単純に周囲の空気に呑まれただけなのか、或いは。

 しかし、今はその様な事を口にしている場合ではない。セリナは自身の頬を軽く叩くと、意識を切り替える為に深く息を吸い込んだ。

 

「兎に角、急患かもしれません、急いで対応しましょう」

「あっ、はい、そうですね……!」

 

 告げ、二人は救急車と思わしき車両に近付く。先の騒動の最中もそうだったが、中から人が出て来る気配はない。その事を不審に思いつつ、セリナは後部座席の扉を叩いた。窓硝子はスモークと弾丸による罅で中が確認出来ない。

 

「あの、エンブレムを見るにゲヘナの救急医学部の方ですよね……!? 中にいらっしゃるのですか?」

「居るなら返事をしてください!」

 

 セリナが声を掛け、ハナエが運転席の方から呼びかける。

 しかし、返事は無い。

 中からは何の音も、動きも見られなかった。

 徐々に、二人の表情に不安と疑念が滲み出す。

 無いとは思いたい、見た限りこの車両は激戦を潜り抜けこの場所までやって来たようだった。しかし、万が一を警戒する事も重要。セリナは数歩車両から離れ、後部扉の前に立つ。

 

「……せ、先輩」

「……無いとは思いますが、一応罠も警戒して下さい、爆弾だったら大変ですから」

 

 ハナエに指示を出し、銃を持ったまま後方に待機させる。もしこれがVBIED(車両運搬式即席爆発装置)だった場合、校門周辺は吹き飛ぶことになるだろう。しかし、中の人員が全員負傷などしていて声も出せない状態である可能性も捨てきれない。救護騎士団として、見捨てる選択肢は取れなかった。

 

 静かに、両開きの後部扉に手を掛ける。そっと握り込むと、鍵は掛かっていなかった。

 後方に待機するハナエに視線を投げかけ、強張った表情をそのままに頷いて見せる。ハナエが息を呑み、銃を抱えたまま応じる様を見て、セリナは覚悟を決めた。

 

「良いですか? 開けますよ!?」

 

 声を張り上げ、扉を掴んた指に力を籠める。そして、内心で祈りながら扉を開け放ち、セリナは中の様子を素早く伺った。

 

「……っ!」

 

 まず目に飛び込んで来たのは、ストレッチャーの隣で項垂れる一人の生徒。そして向こう側に見える、運転席にてハンドルに凭れ掛かる生徒がひとり。額をハンドルに押し付け、小刻みに震える彼女からは嗚咽が聞こえて来る。室内に銃器の類は見当たらず、少なくとも罠という感じではなかった。セリナはその事に安堵しつつも、車内に足を掛けながら目前の彼女に問い掛ける。

 

「えっと、あなたは確か――救急医学部の」

 

 薄暗い車内の中で、そのナースキャップは良く目立った。

 ゲヘナ救急医学部の氷室セナ部長。気付けたのは何度か目にした事があったからだ。救護騎士団として、共に現場で協力した事もある。彼女はストレッチャー脇の壁に背中を貼り付けたまま、呆然とした表情で横たわる影を見つめていた。

 

 それに、運転席で蹲っているのは、確かではないが風紀委員会の委員長であるヒナであるように見えた。そんな大物二名が、一体何故――そんな疑問を抱くも、この様な形でトリニティに飛び込んだからには誰か緊急性の高い患者を運んできたからだと判断し、セリナはセナの傍へと足を進めストレッチャーを覗き込む。

 

「あ、あのッ、患者さんは――」

 

 告げ、視線を落とした。

 足先から毛布で包まれ、体中を包帯やら布で包まれた人影。血の滲んだそれは酷く不格好で、けれど有り合わせのもので何とか手を尽くしたのだと云う事が分かった。横合いに退けられた罅割れたタブレットは青白いランプを点灯させ、はだけた胸元に装着されているのは、人工蘇生用の装置か。今はもう稼働していないそれの向こう側に見える顔に――セリナは、見覚えがあった。

 

「――ぇ?」

 

 顔半分を、ガーゼと包帯で覆われたその人。

 半分だけでも、見間違える筈がない。その顔を良く憶えている、何度も何度も目にして、言葉を交わし、共に過ごした仲だ。

 だからこそ、その横たわる人物が誰であるかを理解した瞬間、彼女は頭部を巨大な金槌か何かで殴られたかのような衝撃を覚えた。

 

「……せん、せい?」

 

 声は、細く、震えていた。

 何も云わずに佇むセナと、ハンドルに額を付けて震えるヒナ。彼女たちは何の反応も見せない。ただ、沈黙を守るのみ。

 少なくとも、先生の状態は良い様には思えなかった。出血も多く見られ、衛生状態も良好とは云い難い。直ぐに救護騎士団本棟に搬送しなければならない状態に思える。故にセリナは焦れた様に口を開き、セナに向かって声を上げた。

 

「あ、あの……これは――」

「………」

 

 返答は、ない。

 ただ彼女は血の気の失せた顔で、虚ろな瞳で、先生を見つめるのみ。

 その事にセリナは思わず一歩踏み込み、セナの肩を強く掴んで叫んだ。

 

「あ、あのっ! 先生は怪我をしたんですか!? なら、直ぐにでも救護騎士団の本棟に運んで――」

「駄目、でした」

 

 ぽつりと、セナが呟いた。

 力なく、その見開き、腫れ上がった目元から一滴の涙を零して。

 セリナはその、退廃的で力ない様子に、思わず言葉を呑む。

 漸く口を開いた彼女は、その瞳を彷徨わせ、震えながら言葉を紡ぐ。

 

「私の、力不足でした」

「えっ……?」

「先生、は……」

 

 声が、裏返る。

 息を呑んで必死に言葉を口にしようとするその姿は、自身の目の前に横たわる耐え難い現実に抗っている様にも見えて。

 しゃくり上げる喉を必死に押さえつけ、自身の両手をきつく、強く握り締めたセナは。

 

「呼吸が、止まって、瞳孔も――対光反射消失の、確認……を――……」

「た、対光反射消失って、それじゃあ、まるで――」

 

 徐々に――徐々に、心臓が早鐘を打ち始める。

 嫌な気配だ、まるで血が凍り付く様な感覚、手足の先が痺れて口の中が渇いて来る。

 嘘だと、セリナの心の中で声が響いた。それは彼女の願望そのものだった。けれど再び見下ろす先生の瞼が開く事は無くて、その胸元も上下せず、血と砂利に塗れ、目を瞑った彼が口を開く事もない。

 セリナはそんな現実を否定する為に、そっと指先を伸ばす。

 先生の頬に。

 その、青白く染まった体に。

 

「先生はつい、先程……」

 

 運転席の方から、悲鳴のような呻き声が響いた。しゃくり上げたヒナ委員長が、軋む程にハンドルを握り締め、叫ぶ。首を横に振って、必死に現実を否定しようと声を上げる。

 けれど、それでも目の前にあるコレは決して幻覚などではなく。

 

 そうして彼女(セナ)は、絶望的な一言をセリナに告げた。

 

「――死亡……しました」

 

 触れた指先に伝わる温度は。

 余りにも、冷たかった。

 

 ■

 

 トリニティの最奥――ティーパーティ・テラス。

 ひとり、陽の落ちたテラスにて椅子に腰掛ける彼女は、その手にカップの一つも持つことなく、真っ新なティーテーブルを前に佇む。見上げる夜空は暗く、ぽつぽつと星が瞬いていた。けれどそれは見せかけだけの輝きで、実際には何も存在しない虚構である事を彼女は知っている。

 ただ虚空を見上げ、虚ろに視線を彷徨わせる。

 彼女――セイアはずっとそんな風に過ごしていた。

 

「これが――……」

 

 その乾いた唇が、静かに言葉を紡ぐ。

 

「これが全ての、無意味な足掻きの終着点……」

 

 トリニティという学園の終わり。

 ティーパーティーの壊滅。

 困難に抗い、苦難を乗り越え、戦い抜いた補習授業部、その崩壊の序章。

 そして数多の絶望を跳ね退け、歩み続けた先生の終着点。

 

 その余波は軈てトリニティに留まらず、ゲヘナを、アリウスを、キヴォトスを巻き込み無に帰すだろう。これは一つの結末だ。けれど始まりでもある。本当の意味での、絶望という名の物語の。

 

「私はアズサに、先生、君に……警告をしていた筈だ、何度も何度も、この様な結末になるだろうという事を」

 

 彼女は呟き、視線を落とす。

 長い長いティーテーブル、その対面に座る大人の姿。

 いつも通りの白いシャーレの制服、整えられたネクタイに腕章――今の現実とは似て非なる恰好で、彼は佇む。

 それもその筈、この世界は所詮夢、どのような恰好をするも、どのような景観にするも思うがまま。

 幻想(甘い夢)とは、そういうものだ。

 

「それでも彼女(アズサ)は抱いてしまった――淡い、小さな希望を」

 

 もしかしたら、運命は変えられるかもしれない。

 もしかしたら、乗り越えられるかもしれない。

 そんな夢に、甘い夢に――彼女は賭けた。

 

「だから、云っただろう」

 

 けれど、奇跡は起こらず。

 観測した現実は、彼女の予知と一致する。

 

「――これが物語の結末、何もかもが虚しく、全てが破局へと至るエンディング、ここから先を見た所で、無意味な苦痛が連なっていくだけだ」

 

 吐き捨て、セイアは俯く。

 テーブルに乗せた両腕が、小さく震える事を彼女は自覚していた。分かっていた筈だ、こうなる事は。分かっていても、いざ直面してしまえば酷く動揺もするというもの。理性と感情は、必ずしも一致しない。そして心の中で、自分は期待していたのかもしれないと思った。アズサと同じように、一抹の希望を抱いていたのかもしれないと。

 けれど今、たった今――その希望は潰えた。

 

「これは誰もが追い詰められ、結局誰かがその手を汚す(人殺しになる)物語、そうならざるを得ない物語……誰もが相手を害せば、傷付ければ、殺してしまえば全てが解決すると、その憎悪を晴らせると思い込んでいる――そんな不快で、不愉快で、忌まわしく、眉を顰めたくなるお話だ」

 

 悲しくて、苦くて、憂鬱になる様な……それでいて、ただただ後味だけが苦い――そんな。

 

「けれど、紛れもなく真実の物語でもある――これが、この世界(物語)の正体だから」

 

 悲しくて、苦しい事が。

 不快で、不愉快で、忌まわしく、眉を潜めたくなる様な話が。

 この世界の正体だと、彼女はそう口にする。

 口にして、先生を見た。

 

「君は以前、五つ目の古則に対してこう云っていたね、『ただ楽園があると信じるしかない』、と」

 

 そう云って、セイアは先生の瞳を覗き込む。瞳に映るそこには、確かな諦観の念がこびり付いている様に想う。長年彼女が感じていた、深い深い絶望の正体がそれだった。

 

「けれど、信じた結果がこれなのだ……不可能だったのだよ、エデン条約など、お互いに、『憎み合うのはやめようと』そのような約束を結ぶ事自体が」

 

 もしそれが出来たのならば、何故先人達が果たさなかったのか。何故私達は、私達の代ならば出来ると驕ってしまったのか。理解し合えるはずだと、勘違いしてしまったのか。

 他者の感情など、証明出来る筈がないのに。

 

「そんな事、出来る筈がない、その上条約の名前にエデンと来た、ここで楽園の名前など相変わらず連邦生徒会長の不愉快な冗談は皮肉にも程がある、下手をすれば悪意すら感じてしまいそうな程に」

 

 ゲヘナとトリニティの持つ互いへの不信から降り積もった恨み、アリウス達の何百年と受け継がれて来た憎悪、それらを通じてこの条約は歪な形で完成されてしまった。

 何よりも皮肉なことに、何処にも存在しない、証明すら出来ない――その楽園の名前を携えて。

 

「だがこれはある意味、楽園から追放された私達に相応しい結末なのかもしれないな……」

 ――セイア。

 

 どこか引き攣った笑みと共に、その様に宣うセイアに向けて。

 先生はその口を、静かに開いた。

 

「……?」

 ――君は、この後の物語がどうなったのかを見ていないんだね?

「……見る必要が、あるのかい?」

 

 その言葉に、彼女は憮然とした態度で返答した。

 

「悲しいエンディング、そこに続くエピローグを見たところで悲哀が増すだけだろう?苦しみを募らせるような事をして、一体何になる……?」

 

 そうだ、彼女は自身の言葉、その輪郭をなぞりながら俯いた。

 結末は決まっている、その先にどのような展望が待ち受けているかなんて、見る必要なんてない。ただ苦く、不愉快で、絶望的な世界が広がっているだけだ。そんなものを見ても、何の意味もありはしない。

 けれど、先生は言葉を続ける。

 

 ――怖かったんだよね、この先を見る事が。

「ッ……!」

 

 びくりと、セイアの肩が跳ねた。

 それは図星を突かれたが故の、驚愕と羞恥だった。

 

 ――この先の物語を目にする事が恐ろしくて、だからずっと君は、夢の中に隠れて目を覚ます事無く彷徨っていたんだ。

「一体、何を――」

 

 呟き、視線を散らす。

 それは決して的外れな言葉などではなかった。

 寧ろ、彼女の真理を的確に突いている。

 目を覚ませば、否が応でもその後の物語を見なくてはいけなくなる。その体で、その瞳で、体験しなければならなくなる。

 その暗闇を、絶望を、慟哭を――彼女は恐れていた。

 

「わ、私は……」

 ――大丈夫、少しだけ待っていて。

 

 だから、こうやって夢の中で漂っていた。

 辛い現実から目を背けて、目を閉じ、耳を塞ぎ、いずれ来る破滅を予感しながら縮こまっていたのだ。

 だというのに、先生は。

 

 いつも通り、何て事のない様に笑って告げる。

 

 ――直ぐ、君を起こして見せるから……でも、今は戻らないと。

「ま、待ちたまえ!」

 

 席を立つ先生に、セイアは慌てて声を張り上げる。

 伸ばした手の先で、先生は静かに立っていた。

 

「戻る? 私と違って、君の身体はもう――」

 

 声には疑念と焦燥が滲んでいた。

 セイアの肉体は、既に傷が癒えて完治している。いつ起き上がっても問題ない、ただ彼女にその意思がないだけだ。

 けれど、先生は違う。その肉体は既に壊れ、意識が戻ろうとしても意味などない。

 いや、そもそもの話――。

 

「何より、君が仮に息を吹き返したからと云って何が変わる訳でもない! これは私の未来予知で判明している純然たる――いや、七つの古則から既に導かれていた、この世界の真実(運命)だ!」

 

 先生は足掻いた、限界まで抗った。

 けれどその先には何もなかった、彼女はその未来を知っている、視ている。何より七つの古則は、遥か古代からこの様な世界の真実を指示していたのだ。

 運命には逆らえない。

 世界とは、そういうものだ。

 だから、先生がこの先、再び立ち上がったとしても……。

 

 ――運命を。

 

 彼の声が、響く。

 立ち上がり、目を伏せたまま先生は、静かに。

 けれど強い口調で以て断じた。

 

 ――運命を変えるために、私は此処(キヴォトス)に来たんだ。

 

 先生がこのキヴォトスに足を踏み入れた理由。

 その存在全てを懸けて、抗おうとした理由。

 それこそが、先生の存在理由。

 定められた運命に抗い、夢みたいな未来を掴むために。

 先生は此処まで歩いて来た。

 

 ――それにね、実のところ……私は、楽園の証明にはそこまで興味は無いんだ。

「……七つの古則を、否定するつもりかい? 他ならぬ君が――」

 

 へらりと、何処か締まりのない顔で笑い、そう口にする先生にセイアは目を細める。滲み出る気配には、微かな棘があった。

 

「楽園の存否は、全ての人々にとっての宿題だろう? それの存在を証明出来なければ、私達は一体何の為に、何処に向かって――」

 

 そこまで口にして、不意に彼女は言葉を切った。

 その瞳に、確かな驚愕を貼り付けて。

 

「先生、まさか君はまだ楽園の存在を信じているのかい? この様な結果に至って尚、証明すら出来ないまま、ただ盲目的に信じていると……?」

 ――その話は、また今度ね、今は……やらなくちゃいけない事があるから。

「……待ちたまえ、先生! 最早止めはしない、けれど最後に一つ――聞きたい事がある!」

 

 踵を返し、テラスを後にしようと(現実に戻ろうと)する先生の背中に、セイアは叫ぶ。そこには疑念よりも強い、懇願の色が滲み出ていた。

 伸ばした指先が震える。

 答えが欲しかった。

 何よりも明確で分かり易い、答え(言葉)が。

 振り向かず、立ち止まった彼の背中に、セイアは自身の真理を問いかける。

 

「ただ信じた所で、何も変わりはしない……信じた所で、そこには何の意味もない筈だ、そうだろう!? だというのに何故、君はそうも――!?」

 

 信じ続ける事が出来るのか?

 

 セイアの声に、先生は一瞬目を閉じる。

 脳裏に過るのはいつか、補習授業部で行った合宿中の出来事。

 水着を身に纏ったハナコが、コハルの言葉をのらりくらりと躱していた時の事。皆でプール掃除を行うとなった時、彼女が身に纏っていたものは……。

 

 ――水着じゃなくて下着だと思えば、それは下着だから。

「……は?」

 

 その言葉に、セイアは思わず目を白黒させた。

 予想していたどんな答えにも、まるで掠りもしなかったからだ。

 目を瞬かせ、僅かに頬を紅潮させた彼女は目に見えて狼狽する。

 

「え、あ、いや、下着? 一体何を……それはどこの古則、いや、そんなものは聞いた事も――」

 ――セイア。

 

 右往左往する彼女に、先生は静かに声を掛ける。

 

 ――信じる事に、意味はないと君は云った。

「……そ、そうだ、その行為に意味はない、何も、その行為は現実を変えはしないのだから――!」

 ――私の考えは、その逆だよ。

 

 信じる事に意味はない。

 それは何故だ?

 最後は裏切られるからか?

 その行為は目に見えないからか?

 或いは――世界が、そういう風に出来ていないからか。

 けれど、先生の考えは違う。

 

 ――信じる事にこそ、意味があるんだ。

 

 信じて、向き合う事。それこそが肝要なのだと、先生は想う。

 それは自身の楽園でも良いし、或いは誰か人物でも良い。世界なんてスケールの大きいものでも構わないし、自分と云う最小単位ですら構わない。何かを信じる、腹の底から信じ抜く事。そして考える、向き合う、真剣に、真正面から。

 その行為に、意味は確かにある筈なのだ。

 

 信じて、信じて、信じて。

 考えて、考えて、考えて。

 必死に、全力で、精一杯導き出した答えに、堂々と向き合う事。

 その道をただ真っ直ぐに進んだ先。勿論、遠回りしても、曲がった道であっても構わない。それが生徒の、子ども達の必死に考えた道ならば、自分が本当に進みたいと思った道ならば、先生は決して否定しない。

 

 どれだけ遠くに思えても、どれだけ困難に思えても、どれだけ苦痛に塗れていても、それでも進んだ分だけ人は成長出来ると、そう先生は信じている。

 だから何かを信じる事に、その道を歩く事に、価値はあるのだ。

 

 疲れたのならば足を止めても構わない、座り込む事だってあるだろう。その時はそっと、先生も足を止めて寄り添う。そしてどれだけ時間が掛かっても構わない、再び子供たちがその足で立ち上がった時、先生もまた、静かに共に歩き出すだろう。

 

 共に道を行くために、そして(希望)を示す為に。

 先生は歩き続ける。

 信じ続ける。

 生徒達()

 だから。

 

 ――『それでも』と進んだ先に、新たな苦しみが待っていたとしても。

 

 その道が、どれだけ果てしなくても。

 

 ――足掻いた先に、虚しく、憂鬱で、終わりなき後悔が待っているとしても。

 

 抗い難い運命が、待ち構えていたとしても。

 

 ――その先に、足を止めて、まだ苦しんでいる生徒が居るのならば。

 

 その向こう側(絶望の先)に、希望があると信じ続けられる限り。

 

「私は、何度でも立ち上がるよ」

 

 声は、はっきりとセイアの耳に届いた。

 今までとは異なる、濁った色から、明瞭な色へ。

 告げ、先生はセイアを見る。

 自身を見る先生の瞳は、何処までも暖かい色で、信念と意思に染まっていて。

 一瞬その瞳に見つめられた彼女は、息を詰まらせた。

 

 大人として、子どもを守るために。

 先生として、生徒を守るために。 

 その責任と義務を、果たす為に。

 先生は何度だって立ち上がる――立ち上がり続ける。

 

 その意思を、信念を感じ取ったセイアは唇を震わせ、思わず呟く。

 

「先生、君は――」

 ――それじゃあ、此処での事は記憶に残らないかもしれないけれど。

 

 その背中が、遠ざかる。再び朧気となった先生の気配が、テラスの外へと通じる扉に手を掛けた。その瞳が、滲んだ視界の中でセイアを射貫く。

 暖かく、柔らかに。

 

 ――またね、セイア。

「………」

 

 そう云って先生は扉を開け放ち――その向こう側(現実)へと消えて行った。

 セイアがずっと、延々と決断出来なかった事を、目の前で、こうもあっさりと。

 彼女は数秒、固まる様にして椅子の上で沈黙を守り、自身の両手を見下ろす。

 

「――そう、かもしれないな」

 

 ずっと夢の中で揺蕩い続けた。

 それは、怖かったからだ。

 先生の云う通り、この先の未来を見る事が――知ることが。

 自身の予知が現実になる事が。

 どうしようもない不可避の破滅から目を背け、夢の中で目を瞑っていれば、その真実について考える事も、向き合う事もしなくて済むから。

 けれど。

 

「この先の話を、例え憂鬱で、悲しくて、苦しくて……最後まで後味の苦い話であったとしても、私にはそれを見届ける義務がある」

 

 アズサをこの未来に連れ出したのは、他ならぬ自分自身だ。

 先生に再三忠告したのも、アズサにあのような言葉を投げかけたのも――或いは、自身と同じ場所に立って欲しかったからなのだろうか。同じ傷を持つ者同士、傷を舐め合えば多少はマシになるかもしれないと、そんな風に深層心理で想った結果なのかもしれない。

 けれど、それでは前には進めない。

 

 未来は、訪れない。

 

「この目で、最後まで」

 

 呟き、手を握り締める。

 彼女(セイア)は信じる事が出来なかった。

 自分の可能性を――他者の可能性を。

 この世界に存在する、遍く小さな光を。

 

「見届けるとも――先生」

 

 (虚空)を見上げる。

 天を覆う暗がり、その夜空の向こう側から、ゆっくりと。 

 微かに、(陽光)が差し込み始めた。

 

 ――夜は、必ず明けるのだ。

 

 


 

 まだ使える。

 うぅ、セナ、初めて死体見た感想きかせて……。

 

 主人公の敗北は覚醒フラグってそれ一。まぁ先生の場合は覚醒もクソも無いのですがね、わたくしの先生はどう足掻いても戦う者ではないのです。でも代わりに精神が更にキマってくれる事でしょう。

 初期プロット(始発点が出ていなかった頃、2022年の九月)では此処でキヴォトス動乱(聖人の亡骸を奪い合う物語)に繋げていたのですが、その後の物語が出現したので、先生には大人しく、「もう一回、遊べるドン!」して貰います。一回死んだ位で寝かせてなんてやりません事よ、大人しく最後まで足掻いて貰うんですの。

 

 しかし直ぐに起床させるのも可哀そうなので、先生には原作通りヒフミのブルアカ宣言辺りまでは眠って貰います。先生パートが暫くなくなりますが、原作もそういう流れなので我慢してもろて。それまでは生徒達が先生しんじゃった……って自暴自棄になっちゃいますし、情が深い生徒程エラい事になりますが、再三地獄ですと云って来ましたし、何より私が書いていて大変心暖まって幸せだったのでオッケーですわ。

 

 これですよこれ、私は生徒達と先生の絆が感じられるような、見ていて心温まるハートフル・ストーリーを読みたかったんです。

 先生が苦しめば苦しむ程、そこには生徒に対する絶対的な愛が感じられ。生徒が先生を想い慟哭し涙を流す程、そこには先生への純真なる愛が込められている筈なんです。

 こんなに愛されて良かったね先生、こんなに想って貰えて良かったね生徒達、そんな風に笑みを浮かべながら読んでいて胸が一杯になる物語。そんなものを私は自給自足したかったんですわ……。この透き通る様な世界観、たまんねぇですわ~!

 



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宣戦布告(死に報いる為に)

誤字脱字報告に感謝ですわ~!
今回、一万三千字ですの。


 

 その情報は、瞬く間にトリニティを――そのごく一部の生徒達の中を駆け巡った。

 シャーレの先生、その負傷。そして一部の生徒にのみ明かされた、その死亡報告。

 先生の遺体は秘密裏に救護騎士団、その地下にある安置所へと運び込まれ、補習授業部の生徒達もまた救護騎士団より報告を受けた(のち)、その場所へと急行した。

 

「っ、先生が負傷したとの報せがッ――!」

「先生!?」

「っは、はぁ……!」

 

 荒い息を繰り返し、血の気の失せた顔で部屋に飛び込むハナコ、ヒフミ、コハルの三名。彼女達の視界には、薄暗い安置所の中で固まる複数の生徒の姿が映った。

 壁際で膝を抱え、微動だにしないヒナ。

 先生の傍に立ち、沈痛な面持ちを浮かべるセリナ。

 ヒナと隣り合い、俯いたまま沈黙するセナ。

 その場に立っていたのは三名、その誰もが酷い表情と空気を纏っており、ハナコは高鳴る鼓動を自覚しながら部屋の中へと足を進めた。

 

 ひんやりとした空気、限られた電灯が周囲を照らし、四隅は薄暗い。白い壁が一面に広がり、中央に無造作に置かれた台に横たわる先生。血塗れ、破れた制服に巻き付けられた包帯。頭部と顔半分を覆ったそれは、丁寧に巻き直されていた。左腕から先は消失し、断面を見せぬよう此方もガーゼと包帯で覆われている。

 酷い恰好だった――少なくとも、普段の先生を知るハナコからすれば、そう見えた。

 

「せ、せんせい……?」

 

 コハルが、呆然とした様子で呟く。覚束ない足取りで一歩、また一歩と近付いて行く。そんな彼女の背後でヒフミは息を呑む。先生のその姿が、余りにも生々しく、この混乱の坩堝と化したキヴォトスを現している様に思えて仕方なかったから。

 近付けば近づく程分かる、その傷の深さが、その致命的で残酷な現実が。

 

「せ、せんせ……」

 

 力ない呟きが響き、コハルは先生の直ぐ傍に立つ。

 どんなに血にまみれても、どんなに苦しくても、歯を食い縛って立ち上がる先生の姿。コハルの中で先生はそういう、精神的に強いひとであった。そんな彼が目を瞑り、まるで死体の様に横たわっているなんて――彼女の中での現実と理想が、解離する。そんな事はあり得ないと、彼女の本能が叫んでいた。

 

「ねぇ、な、何しているの、せんせ……お、起きてよ、何、寝た振りなんて……や、やめてよね! こんな所で……っ!」

 

 声を掛ける、今にも泣き出しそうな声で、引き攣った笑みを貼り付けて。何かの冗談だと、悪い夢だと自身に云い聞かせながら。けれど先生が応える事はなく、瞼が上がる事はなく、呼吸音の一つしない。背後から見守るヒフミは引き攣った喉元を抑えながら声を漏らした。

 

「う、嘘、ですよね? こ、こんな……こんな――」

「………」

 

 ハナコは、言葉も無かった。

 この状況が、先生の状態が、その生命の終わりを如実に告げていたから。詳しい状況は分からない、どのような形で此処に運ばれる事になったのかも。しかし、剥がれ落ち、ボロボロになった先生の指先を見た時、彼が文字通り必死になって足掻いていたという事を理解した。

 生きるためか、生徒の為か――恐らく後者だろう。この人は、そういう人だったから。

 あの爆発に巻き込まれ、この傷を負ったのか。或いは撤退する最中にこうなったのか。震える手を握り締め、ハナコはただ静かに、暴れ出しそうになる感情を抑え込むのに必死だった。顔から血が引き、制御できない衝動が沸き上がる。

 セリナはそんな三人に目を向けながら、赤く晴れ上がった目元を隠すように俯き告げる。

 

「……右眼球破裂、左腕の欠損、至近距離での爆発に加え、恐らく飛来した瓦礫片が体を殴打したのだと思います、背中には何発もの銃創が――正直どの傷も酷く、死因は……」

「ッ――」

 

 その不吉な言葉に眉を吊り上げたコハルは、セリナを睨みつけながら叫んだ。

 

「し、死因だなんて云わないでよッ! 先生は死んでなんかッ! し、死んで、なんか……!」

 

 ぐわん、と。発した声は部屋中に響く。

 けれど誰も、それを咎める事はなかった。

 先生は死んで等いない、死んでなど――そう否定して、けれど見下ろす先生は微動だにせず。コハルは震えた指先を、そっと伸ばす。先生の手に、その指先に。

 そうして触れた肌は余りにも冷たくて――ジワリと、コハルの目尻に涙が浮かび上がった。

 それは彼女の理性が、残酷な現実を理解したからだ。理解し、コハルは堪え切れず先生に縋りついた。

 

「う、うぅう、う……うわあぁあああッ!」

「こ、コハルちゃ……――」

 

 ヒフミが駆け寄り、その肩を抱く。そして至近距離で先生を見下ろし、思わず強く唇を噛んだ。声を発すれば、コハルと同じように泣き出してしまいそうだったから。だから噛み締めて、必死に悲鳴を呑み込んだ。ヒフミは音もなく涙を流す。くしゃりと歪めた顔から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。引き攣った喉が嗚咽を零し、彼女は目を強く閉じた。コハルを抱くその腕を、小刻みに震わせながら。

 

 誰も、言葉がなかった。

 補習授業部(友人)の慟哭を前に、ハナコはただ茫然とする。

 ぐるぐると胸を、腹の奥で巡る感情、激情。

 歪み、色彩を喪った世界の中で彼女は想う。

 

 ――私の。

 

 深く吐き出した息が震えている事を、彼女は自覚していた。

 

 ――私の、誤断が。

 

 あの時。

 あの、爆発が起きた時。

 私達が、先生の元に向かっていれば。

 状況の把握など後回しにして、我武者羅に救出に向かっていれば。

 或いは、先生を助けられる道があったのではないか? 

 そんな未来が存在したのではないか。

 

 そんな「もしも」が、「あり得たかもしれない未来」が、ハナコの胸に巨大な穴を空ける。希望的観測に過ぎない、自分達が向かった所で全滅するのが結末だったかもしれない。

 けれど、一%でも、万が一でも、億が一でも、可能性があったのなら。そうは思わずに居られない。奇しくもハナコが『そうやって』ナギサを追い詰めた様に。可能性が、ハナコの心を殺しに掛かる。あらゆる「もしも」が、「もしかしたら」が、先生の生きていたかもしれない未来が。

 

 ――私の誤断が、先生を殺したのではないか。

 

 その言葉がハナコの背中に、途轍もなく重い罪悪を背負わせた。

 

「……失礼します」

 

 不意に、扉が開く音と共に声がした。

 扉を押し開き、顔を覗かせたのはシスター服を身に纏った少女――マリー。彼女はコハルの絶叫と、皆の沈痛な面持ちを見て、思わず目を伏せる。それから台の上に横たわる先生の方を一瞬見つめ、その小さな手を胸の前で握り締めた。その目は赤く充血していて、声は酷く乾いている。彼女が一度、この場に足を運んでいた事は容易に察する事が出来た。

 ならば何故、もう一度この場に足を運んだのか。

 ハナコは、どこか他人の様な心地で思考する。

 

「っ――ハナコ、さん」

「……マリーちゃん」

 

 マリーの視線がハナコを射貫く。

 自身の口から発せられた声は、とても無機質であった様に思う。数秒、両手を握り締めたまま何かを想う様に顔を伏せるマリー。ハナコは彼女と向き合う事無く、視線だけを向けていた。

 

「こ、こんな時に……云う事では、ないのかもしれません、でも……わ、私には、託された――果たすべき、義務があります」

 

 涙声で、罅割れた声で、彼女は肩を震わせながら告げる。

 

「ぅ……先程、パテル分派の生徒達が蜂起したとの報告がありました」

「………」

「先生がいらっしゃれば、説得をお願いしようと……思って、いたんです」

 

 現在のトリニティの状況――ハナコはそれを良く理解している。総括本部からティーパーティー本部、行政室の状況を横目に情報を集めていた彼女は、これを再び立て直すには相応の人物でなければ難しいと考えている。先生ならば、確かにそれも可能であっただろう。その人望、指揮能力、そして連邦捜査部シャーレと云う肩書。

 彼女の判断は至極真っ当だ。

 

「げ、現在、シスターフッドに於ける指揮権を持つサクラコ様は不在、ティーパーティーは拘束中のミカ様を除く両名が行方不明、そして正義実現委員会のトップ二名も同じく、救護騎士団もミネ団長が不在の為――トリニティ全体が、混乱状態に陥っています」

「……それで」

 

 彼女の声に応え、ハナコはゆっくりとマリーに向き直る。

 その影が、彼女に覆い被さる様に暗闇を落とした。

 

「それが、どうしたと云うのですか」

 

 想像していたよりも数段、低く投げやりな声だった。

 色を喪った瞳はその話題に何の興味を示さず、ただ一点、先生だけを見つめている。ハナコの瞳はマリーを見ていた、けれど本質的に彼女を捉えていない。その心はずっと、先生の所にあった。

 何度か口を開閉させ息を吸い込んだマリーは、喉を鳴らし言葉を続ける。

 

「万が一の場合、シスターフッドの指揮権は【先生】か『ハナコ』さんにと……サクラコ様は」

「――そう、ですか」

 

 サクラコさんが――。

 呟き、ハナコはマリーから視線を逸らす。

 或いは、先生がそのように手を回していたのかもしれない、そう思った。

 どちらにせよ、一つだけ確かな事は――。

 

「……このままでは、トリニティそのものが崩壊する」

 

 天井を仰ぎ、淡々とした口調で呟いた声。それは彼女が思っていたよりも鮮明に部屋の中で木霊した。

 各派閥の暴走は止められない。仮に自身が陣頭指揮を執ったとしても、素直に受け入れてくれるのはシスターフッド、及び救護騎士団位なものだろう。それでも騒動の収拾を付けるには十分と云えば十分ではあるが、時間は必要だ。

 そして現在、その時間が敵に回っており、それだけの能力を持つ生徒もまた限られている。

 

 ――誰かが、やらねばならなかった。

 

 トリニティを建て直す為に、その意思を再び一つに纏める為に。

 そして、その誰かに該当する数少ない内の一人が――自分(ハナコ)

 

 小さく、息を吐き出した。

 思い出すのはいつか、トリニティ総合学園を去ろうとしていた時の事。背負いたくもない立場と期待、身勝手な理由で押し付けらえる権利と云う名の義務。掛けられる空虚で、打算と下心に満ちた言葉。

 何もかもが色褪せ、無機質で、無味乾燥で――。

 或いは、これは罰なのだろうか? (ハナコ)があの時、素直に学園を去っていれば、こんな事にはならなかったのか? そんな意味もない仮定を考えた。無意味な思考だ、ただの感傷に過ぎない。けれど、あの時この場所を去っていてしまっては、この補習授業部と、何より先生と出会う事も無く自分は一生を終えていたのだろう。

 それを想うと、どうしても否定する事が出来なかった。

 

 宝物なのだ――浦和ハナコという生徒にとっての。

 彼女達(補習授業部)が、その思い出が。

 

「先生――……」

 

 呟き、先生の顔を見つめる。

 もう二度と、開く事のない瞳。

 血の気の失せた顔。

 暖かな笑みを湛えていた、その口元。

 それらを視線でなぞり、ハナコは目を閉じる。

 

「ゲヘナの風紀委員長――ヒナさん、でしたよね」

「っ!」

 

 不意に壁際で蹲る、ゲヘナ風紀委員長の名を呼ぶ。するとその矮躯が微かに震え、小さく息を呑む音がした。しかし顔を上げる事はなく、何処か怯えた様に肩に力が籠る。ハナコはそんな彼女を色褪せた瞳で捉えながら、淡々とした様子で告げた。

 

「……敵の正体は理解しています、今はトリニティとゲヘナが争っている場合ではありません、一刻も早く情報の共有を」

「――何をする、おつもりですか」

 

 ヒナの代わりに、隣に立つセナが問いかけた。その表情は未だ優れず、傍から見ても悲惨な顔色であったが、彼女は壁に手を突きながらハナコの前に立った。

 ハナコ数秒、何かを決意する様に沈黙を守った。

 

「――汝の敵を愛せよ」

 

 ふと、口にした言葉。

 それは、トリニティに於ける古い書物の一文。

 先生が体現した様な博愛と慈愛に満ちた、素晴らしい言葉だ。

 けれど。

 

「申し訳ありません、先生……私は、あなたの望む世界を叶える事が出来そうにありません」

 

 ハナコは、その言葉を、先生の想いを、その願いを――踏み躙ると決めた。

 生徒皆が笑い合える世界、そんな世界はもう何処にもない。だから彼女は、せめて残った大切なものの為に戦うと、傷付けると決めた。守るために、もう喪わない為に。

 

 いや――そんなものは(建前)だ。

 彼女(ハナコ)は、ただ……。

 

「――ミカさんの収容されている独房の鍵を確保して下さい」

「っ、は……?」

「パテル分派首長、聖園ミカさんを解放します」

 

 ハナコはそう、ゲヘナの両名を見つめ宣言した。

 唐突なそれに、背後に立っていたマリーが言葉を失う。彼女が考えていた事とは、全く別の方向だ。ハナコならばもっと、穏便な方向で話を進めるとばかり考えていたから。

 

()は【アリウス】――トリニティ全分派、ゲヘナ、シャーレの戦力を以って、この自治区を制圧します、いえ、一先ずは撃退でしょうか……お二人もご協力を、万魔殿にもコンタクトを取って頂きたいので」

「は、ハナコちゃん!?」

 

 ヒフミが思わず声を荒げ、彼女の名を叫ぶ。けれどハナコがそれを顧みる事はなく、静かに一瞥するだけに留めた。

 ハナコが短時間でトリニティの暴走を止める事は難しい、しかしその方向を捻じ曲げる事は出来る。行為自体を止めるのではなく、その流れを変えるのだ。つまり調印式爆破の主犯を公表し、その矛先をアリウスへと向ける。

 しかし、ハナコが幾らそう口にしようとも従わない分派も現れる事だろう。

 

 故に、聖園ミカ――彼女に助力を仰ぐ。

 

 現在ティーパーティーのナギサ、セイアは行方不明、トリニティ内部に存在するトップは彼女だけだ。独房入りしている彼女ではあるが、ティーパーティーの権限は失っていない。聴聞会はまだ開かれておらず、その処分は下っていなかった。

 つまり、彼女の公的な立場は未だトリニティのトップ、その一員のままである。

 緊急時に於ける代理命令権、以前のクーデターに於いてミカが行おうとした、ホストの失踪、及び病気、怪我などによる公務が困難な場合の交代制度。

 今、彼女は図らずもティーパーティーのホストとしての権利を有している。

 

 パテル、フィリウス、サンクトゥスの三分派は、彼女(ティーパーティー)に従う義務がある。少なくとも校則上はそうだ。そしてティーパーティー傘下にある正義実現委員会もまた同じ。

 そこにシスターフッド、及び救護騎士団の協力を取り付けた自身が加われば、理論上トリニティの統制は可能である。

 あくまで理論上は――であるが。

 

「ヒフミちゃん、コハルちゃんをお願いします――私はミカさんの元へ」

「ま、待って、待って下さいハナコちゃん……ッ!」

 

 ハナコの、何処か一変した雰囲気にヒフミは思わず手を伸ばした。けれどその指先がハナコを捉える事はなく、空を切る。

 何か、嫌な予感がした。このまま彼女を止めなければ、何処か遠くに、遠い場所に行ってしまうような予感。それは物理的なものではない、心理的な、彼女との繋がりが立ち消えてしまいそうな、そんな漠然とした不安だった。

 しかし彼女はその声に応える事無く踵を返した。

 靡く長髪が彼女の表情を覆い隠し、影が落ちる。

 

「……シロコさんを、非難する事は出来ませんね」

 

 思い返すのは、いつかの裏路地での出来事。

 彼女が語って聞かせた、この世界とは異なる結末。

 

 ――大好きな人が傷付いて、足掻いて、苦しんで、それでもと口にしながら進んだ果てに、何の救いも、希望もなかった……その慟哭と、悲しみを知っていたら、誰だって。

 

 ハナコは想う。

 そうだ、その通りだ。

 それ(絶望)を知ってしまったら――誰だって。

 

 髪を結んでいた、白いリボン。

 純白のそれに手を掛け、彼女は髪を解く。解けたそれが宙を泳ぎ、世界は更に()を喪う。

 いつか――この学園を去ろうと考えていた時。彼女に出会う前の自分、願いを込めた純白の色。

 オネストウィッシュ(純真なる願い)は、既に色褪せたのだ。

 

「これが先生の望みでないと、そう理解していても」

 

 ハナコが俯いていた、その顔を再び上げた時。

 そこから覗く瞳に光など何処にもなく。

 昏く、淀んだ色だけが渦を巻いていて。

 彼女の中で何か、大切な何かが――欠ける音がした。

 

あなた(先生)を殺した相手を――許せる筈がないじゃないですか」

 

 今の彼女(ハナコ)にとっては、それが全てだった。

 

 ■

 

「――失礼しますよ、ミカさん」

「……!」

 

 トリニティ自治区、隔離塔地下――一人ベッドに腰掛け端末を片手に佇んでいたミカは、急な来訪に驚きの表情を浮かべた。扉を覆っていた鉄柵が引き上げられ、両開きの扉から見覚えのある顔が覗く。彼女は室内を素早く確認すると、背後に付き添っていた生徒に声を掛けた。

 

「あなた方は、此処で待機を」

「――分かりました」

 

 後ろ手に扉を閉める。その間、ミカは端末を枕の横に放り、自身の感情を内側に押し込んで不敵な笑みを浮かべようと苦心していた。何となく、彼女の前では弱い面を見せたくなかったのだ。

 薄暗い独房の中、彼女――ハナコの靴音だけが木霊する。薄暗い電灯の光が、彼女の表情を照らしていた。

 

「……わーお、浦和ハナコじゃん、どうしたの? 外の方は何だか大変な事になっちゃっているみたいだけれど」

「………」

「っていうか、さっき見えた子ってパテル分派の子達だよね? あれ、もしかして仲良かったの?」

「……いいえ、特に交流はありません、しかし色々と事情がありまして」

「ふぅん?」

 

 ハナコの言葉に、ミカは訝し気な声を上げる。ハナコがパテル分派の生徒と共に行動する理由が見えてこない。元より政治色の薄いミカは、その手の知識や思慮に欠けている面があった。少し考えて、しかし彼女は頭を切り替える。考えても分からない事に唸っていても仕方ないと、軽薄な笑みを顔に張り付けたまま言葉を続けた。

 

「ま、良く分からないけれど、こんな所で油を売っていて良いの? こんな囚われの身である私が云うのも何だけれど、トリニティも何だか大変そうだし、他にやる事が――」

 

 そこまで口にしたミカに、ハナコは唐突に何かを投げつけた。

 それは下から緩く放られた、金属音を鳴らすもの。ミカは思わず目を丸くし、咄嗟に受け取る。手の中に収まったそれは小さく、冷たく――何かの鍵である事が分かった。

 ミカは受け取ったそれとハナコを見比べ、思わず目を瞬かせる。

 

「……何これ?」

「この独房の鍵です、釈放ですよ、聖園ミカさん」

「釈放? 何それ、そんな事……」

 

 唐突な言葉に、声が詰まる。

 釈放? あれだけの事をやらかした自分を? それは到底信じがたい事であったし、そもそも彼女(ハナコ)にそんな権限があるとは思えない。現ティーパーティーのホストであるナギサですら、この様な暴挙を行う権利はない筈だ。

 一体誰の指示で、何の権限があって――そんな疑問に覆い尽くされるミカを前に、ハナコは抑揚のない声色で告げる。

 

「現在、ティーパーティーは全員が負傷及び行方不明、救護騎士団、正義実現委員会、シスターフッド、全ての責任者が不在になっています、ティーパーティーとしての権限を持ち、尚且つトリニティ全体を動かす事が出来るのは、このトリニティに於いて、ミカさん……今はあなただけです」

 

 つまり――緊急事態による代理命令権の行使。

 ナギサが未だ行方不明である事は、ミカも薄々勘付いていた。彼女が無事ならばトリニティの情勢はもう少しマシなものになっていただろう。となれば、恐らく先生も――胸の中に生まれた不安を呑み込み、ミカは薄らと笑みを浮かべる、浮かべ続ける。

 その唇は、僅かに引き攣っていた。

 

「……驚いた、こんな事しちゃって良いの?」

「構いません」

「あはは、後で先生に怒られても知らないよ?」

 

 その、何て事の無い一言に。

 ハナコの雰囲気が――一変した。

 昏く、淀んだ雰囲気。いつも余裕そうな表情で佇んでいた彼女の顔が、歪む。

 それはミカが見た事も無い様な激情の発露。思わず肩を跳ねさせ、目を見開いたミカを睨みつけながら彼女は告げた。

 

「――先生は先程、死亡が確認されました」

「………は?」

 

 声は、余りにも冷え冷えとしていた。

 何の感情も、抑揚もない、無機質で、乾いた声。

 そこで初めて、ミカはハナコの様子が余りにもおかしい事に気付いた。

 彼女の髪を彩っていた白いリボンはなく、彼女の姿はいつか、トリニティの才媛と持て囃されていた時期と重なる。

 しかし――目だけが違う。

 あの頃も大概、詰まらなさそうに周囲を見ていた彼女であったが、今は嘗てのそれを上回る勢いで黒く染まっていた。まるで世界全てを否定するかの様に、気怠げで、重々しく、粘つく様な雰囲気。それを身に纏ったまま、彼女は言葉をミカへと叩きつける。

 

「見ていたのならば、分かるでしょう? 伝聞ですが、あの爆発に巻き込まれ重傷を負い、その後アリウス一派の銃撃を受け、ゲヘナ側の救急車両にてトリニティに搬送されましたが――間に合わなかったそうです」

「あ、ぇ……」

 

 咄嗟に言葉が出て来ない。彼女の畳みかける様な言葉の洪水に、ミカは目を白黒させる。

 重傷? ゲヘナの救急車両で搬送? 間に合わなかった? それはどれも寝耳に水の話で――或いは、薄々予感していながらも目を覆い隠し、耳を塞いでいた彼女の心を突き崩す、強烈な一刺しとなっていた。

 

「あ、あはは……ま、またまた、そんな、分かり易い噓なんて……」

 

 鍵を握る手が無意識の内に震える。声を裏返し、喉を引き攣らせながら、ミカは強がる。

 そう、強がりだ。余りにも白々しい虚勢だった、誰かも分かる程の脆く、薄い。自身の顔色がどんどん悪化するのが分かった。視線が泳ぎ、表情が定まらない。

 そんな彼女の姿を、ハナコは何の色もなく見つめる。

 見つめ続ける。

 段々と、身体が端から冷たくなっていくような感覚があった。

 嘘だと云って欲しかった。此処で冗談だと笑い飛ばしてくれたら、どれ程救われるか。

 けれど、彼女が自分を見る目は余りにも真剣で、おどろおどろしい――昏い色に塗れている。

 否が応でも、実感してしまう。

 それが、嘘でも何でもないという事を。

 

「あ……? う、う……そ――……じゃ……」

「――嘘であれば、どれだけ良かった事か」

 

 吐き捨てるように、彼女はそう云った。

 

「この件を仕組んだ黒幕――それは決してゲヘナではありません、手を組んでいたミカさん、あなたならば理解していますよね?」

「………」

「ティーパーティーが、シスターフッドが、正義実現委員会が……そんな内部事情や秘密云々など、今はどうだって良いんです」

 

 その手が、指先が。

 そっと握り締められ、薄暗い部屋に憎悪に満ちた声が響いた。

 

「私は――アリウスを排斥(撃滅)します」

 

 ――いつかの公会議と、同じように。

 

 沈黙が降りる。

 その言葉を前に、ミカは俯いたまま声を出せずに居た。ハナコもまた、それ以上言葉を重ねる事無く視線を注ぎ続ける。ミカは無意識の内に胸元に手を当てた。不安で不安で仕方なかった、だから身に着けて祈っていたのだ――信頼の証(先生の指輪)に縋る様に。

 

 けれど、その祈りが届く事は無くて。

 

「……戦争を、するの?」

「そうです、その為にミカさん、あなたを釈放するんです」

「……トリニティと、アリウスで?」

「そこにゲヘナとシャーレを加えて、必要なら他所の学園も巻き込んで……既にゲヘナに渡りは付けてあります、救急医学部の部長、及びゲヘナ風紀委員長を通じて――向こうが余程の楽観主義者でなければ承諾するでしょう」

 

 ハナコの想定する最低戦力は三つ――トリニティ、ゲヘナ、シャーレ。

 トリニティは自身とミカがまとめ上げる、ゲヘナは既に風紀委員長のヒナに協力を取り付けてある為、問題はない。最悪ゲヘナ自体が動かずとも、風紀委員会が参戦してくれたのなら戦力としては申し分なかった。そしてシャーレは――。

 これについては、恐らく声を掛ける必要もないだろう。彼女達の事をハナコは良く理解している。黙っている筈がない、彼女達が、先生を喪って。その確信があるからこそ、ハナコはシャーレを戦力の一つとして数えていた。

 

「先生は全ての生徒の味方だと云いました、もし先生が生きていれば、アリウスの事も庇ったのかもしれません――ですが、私は先生(聖人)にはなれない」

 

 自分の大切なものを傷付けられて、それでも相手を愛する事を、許す事を選べなかった。「それでも」と、その彼の信念を受け継ぐ事が出来なかった。隣に立っていた筈なのに、彼の教えを受けていた筈なのに。

 その理念を、信念を、想いを――知っている筈なのに。

 

 自分は、俗物だ――ただ自分の大切なものを守るために、他者を傷付ける事が出来る凡人。ハナコはそう自分を評価した。けれど、仕方がない事ではないか。ハナコという存在にとって、補習授業部の存在は、先生という存在は。

 

 決して、軽くはないのだ(その信念に勝るとも劣らないのだ)

 

 ハナコがそっと、その掌をミカへと差し伸べる。

 そして、感情を滲ませる口調で云った。

 どこまでも力強く。

 人を殺める覚悟を込めて(陽の当たらぬ場所に踏み込む意志と共に)

 

「これは復讐ですミカさん――先生(あの人)を奪った、アリウスへの」

「………」

「vanitas vanitatum et omnia vanitas――全てが虚しいというのであれば、是非もありません」

 

 ――全てを虚無に還します、アリウスの全てを。

 

 強く、鼓膜を震わせる声。

 ミカは俯いたまま、濁った瞳でハナコの掌を見つめる――見つめ続ける。

 震えた肩をそのままに、胸元の指輪に手を当てて。

 

「は――はは……あは、はははっ……」

 

 声が漏れた。

 酷く悲し気な、涙に塗れた笑い声だった。

 息を大きく吸い込み、ミカは歪に笑う、嗤う、哂う。そうでなければ、壊れてしまいそうだったから。狂ってしまいそうだったから。何か、声を上げなければ、胸に穴が空いてしまいそうだった。

 滲んだ視界から、涙が滴る。零れ落ちたそれはミカの膝元を濡らし、幾つもの染みを作った。濁り、歪み、綯交ぜになった感情を噛み締めながら、ミカは想う。

 

 あぁ、そうだ――だから。

 

「だから、嫌なの――こんな、こんな世界だから、私は……」

 

 この世界が、大っ嫌いなのだ。

 

「先生……ッ」

 

 指輪を、強く握り締める。その温もりを、声を思い出すように。それは彼女がずっと抱きしめて来た、縋り付いて来た、彼女にとって一等大切な――優しさの記憶。

 

 それを両手一杯に握り締めて、ミカは涙を零す。

 何かが、壊れる音がした。

 自分の内側から、心の中にあった何か、大切なものが。

 それが何かは、ミカにも分からなかった。

 けれど再び目を開いた時、視界は普段よりも鮮明で、音は遥かに明瞭であった。まるで思考の靄が晴れた様に、その意思に一点の曇りもない。今まで漠然と動かしていた肉体が、軽く感じる。

 ミカは指輪を握り締めたまま項垂れ、静かに告げた。

 

「良いよ、浦和ハナコ、協力してあげる……――全部、壊しちゃおっか」

「……ミカさん」

「私のせいで、先生は一杯一杯傷付いた、こんな私が云う台詞じゃないし、そんな資格はないかもしれない――でも、でもさ」

 

 独房の鍵を取り落とし、ミカは両手で顔を覆い隠す。

 瞳からは大粒の涙が落ち、指の隙間からぽつぽつと、涙が袖を濡らした。

 その昏い瞳が、暗闇を湛えた瞳が、足元を凝視する。

 

「不公平だもんね……? 私達ばっかり奪われて、向こうが何も失わない何て、不公平だよ、不条理だよ……私達が、こんな、こんな辛い思いをして、大切な大切な先生を奪われて――向こうが何も失わない何て、そんなの許せない」

「………」

「だから、奪ってあげないと」

 

 声は、どこか高揚していた。けれどそれは決して正の方向に向けられた感情ではない。ただ、自身の大切なものを奪った者への正当なる報復を前に、その憎悪を滾らせる復讐心の発露だった。

 

 奪われたのなら、奪わなければならない。

 傷つけられたのなら、傷付けなければならない。

 片方だけが傷を負うなんて。

 片方だけが奪われたままなんて。

 そんなの、道理に合わない。

 

 奪われた分だけ、奪ってやる。

 傷つけられた分だけ、傷付けてやる。

 だって。

 

「――それで漸く、平等(同じ)なんだから」

 

 覆っていた顔を上げたミカは、そう強く断言する。

 その口元は、歪な三日月を描いていた。

 

「あ、でも先生の代わりなんて居ないし、やっぱりあれかな、アリウス自治区全部平らにして、漸くイーヴンって感じ? でも、先生はキヴォトス全域の生徒を笑顔にしたいって云っていたしなぁ……重要度とか、大事さで云えば比較にもならないし、う~ん」

 

 ベッドから立ち上がり、軽い足取りで歩を進めるミカ。彼女はどこかお道化た様に笑って、ハナコの前に立つ。差し出されたその手を、彼女は何でもない事の様に握り締めた。

 その瞳からは絶え間なく涙が流れ、それでも尚笑みを貼り付ける彼女の姿は酷く不気味だ。けれどハナコは表情一つ変えず、そんな彼女を受け入れる。

 

 戦えるのならば(アリウスを排斥できるのならば)――何でも良かった。

 

「まぁ良いっか! 奪ってから(殺してから)考えよ! 後の事はっ!」

「……えぇ、そうですね」

 

 告げ、ハナコはミカと力強い握手を交わし、徐に声を上げる。

 すると扉の前で待機していたパテル分派――主戦派の生徒達が、ミカの愛銃を片手に入室する。どこか喜色を滲ませミカの前へと立った彼女達は、そっと手にした銃を彼女に差し出した。

 

「ミカ様――!」

「あぁ、私の銃……持って来てくれたんだ、ありがとっ☆」

 

 それを受け取り、ミカは制服の裾を靡かせ踵を返す。

 いつも通り、その純白の翼を靡かせ、笑みを振り撒く。

 パテル分派の生徒達の間を潜り、彼女は独房から解放される。

 部屋の前、その廊下には彼女の指示を待つパテル分派の生徒達が大勢待機していた。中にはちらほらとシスターフッドや正義実現委員会のメンバー、更には他派閥の生徒も見える。彼女達は解放されたミカを見て、その背筋を正す。彼女達の瞳には、確かな戦意が――敵に対する憎悪がある。

 先生の死でなくとも、その負傷を聞いた生徒達だ。その情報を統制しようにも、必ずどこかから漏れ出る。先生に恩義のある、慕っていた生徒達が、まだ情報の開示すら行っていないというのに集い始めていた。

 

 そんな生徒達を見渡し、ミカは小さく息を吐き出した。まずやるべき事はトリニティの掌握、けれどそれは難しい事ではない。何せ、自身の大嫌いな政治に関しては、心強い味方(ハナコ)がいる。

 だから、何の心配もない。

 

「さてっ! それじゃあ、始めよっか!」

 

 生徒達に向かってミカは高らかに叫ぶ。両手を広げ、涙を流したまま、歪な笑みと共に。その翼から抜け落ちる羽が宙を舞い、彼女の周囲を彩った。こんな薄暗い、独房の前で行われる宣戦布告。

 その表情は笑み――けれどそれは、狂笑だった。

 片手には銃を、片手には指輪(思い出)を。

 彼女は握り締め、満面の笑みで以て告げるのだ。

 

「私達の――エデン条約(血に塗れた和平)を!」

 

 此処にトリニティによる、アリウスへの宣戦布告が為された。

 


 

 因みにハナエはこの間、普段の溌剌さが嘘の様な死んだ表情で救護に当たっています。流石に救護騎士団の主力が二人も抜けると負傷者一杯で大変だからね、仕方ないね。

 

 このハナコは4thPVの学園を去ったハナコ(救えなかった結末)と同じ目をしています。あの横顔めちゃ好きだったのでいつか絶対出そうって思っていましたわ。

 

 エデン条約前編のラストで綴ったように、このエデン条約後編は先生にとって最大の試練で在り、また同じように補習授業部にとっても最大の試練となります。

 アズサの信念は、その強固さ故に決して折れる事無く罪悪を背負い続け、全てを懸けてアリウスに牙を剝くでしょう。

 ハナコの知性は良くも悪くもアリウスと他学園の戦火を拡大させ、終わりなき憎悪の連鎖を生み出すでしょう。

 故に、補習授業部が空中分解するか、踏みとどまるかはコハルとヒフミの両名に掛かっています。ついでにトリニティの存亡とミカのメンタルも。

 コハルの勇気。

 ヒフミの友愛。

 そのどちらかが欠けても、生徒の誰かが取り零される未来に繋がります。コハルの勇気は、憎悪に包まれたこの場所で尚輝きを放つ事が出来るのか。ヒフミは最後まで、その友情を貫く事が出来るのか。

 陽の当たらない場所へと踏み出した友人達に対し、共に堕ちる事ではなく、光差す場所から手を差し伸べる事によって引き上げてこそ、彼女達は明日に繋がる希望を手にする事が出来るのですわ。

 

 ミカは半分くらい魔女堕ちしているので、先生が起き上がって「ミカは魔女じゃないよ」しないと解除されません。それまではアリウスがボコボコにされます。屋内でゲリラ戦仕掛けても壁突き破って直進してくるし、隕石の代わりにその辺の車両とか信号機とか引っこ抜いてぶん投げてきます。因みにユスティナ聖徒会はミカパンチで一発です。わーお。



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復讐(エデン)の名の下に

誤字脱字報告に感謝ですわ!
今回一万五千字ですの、というかエデン条約後編はどう頑張っても文字数が増えるので、投稿間隔は三日がデフォルトになりそうです。二日に一回あったら「ラッキー」程度に思って下さいませ。


 

「ッ、次から次へと……!」

 

 思わず悪態を吐く、彼女――カヨコの視界には次々と現れる亡霊(ユスティナ聖徒会)の群れ。その頭部を、手足を丁寧に、冷静に撃ち抜き、素早く近場の裏路地に転がり込む。

 瞬間、幾つもの弾丸が壁に突き刺さりカヨコは立ち上る噴煙に顔を顰めた。

 此方が三発撃ち込めば、向こうは十発撃ち込んでくる。更にその威力も馬鹿に出来ないもので、削れた建物のコンクリート破片が直撃した場合のダメージを明確に表している。

 大抵、前線の生徒を数名、何なら奥に居座る司令塔の生徒を狙撃すれば、どんな組織・団体であっても動揺、若しくは指揮系統が乱れるものだ。

 しかしこの連中は幾ら仲間が打倒されようとお構いなしに戦闘を続行する。肝心な司令塔代わりの生徒も、一番最初の狙撃で警戒しているのか簡単に顔を出さない。徹底した戦い方だった。腹が立つほどに。

 

 戦闘を開始してどれ程の時間が経過したのか。カヨコは背負ったバッグの中から予備の弾倉を取り出しながら思考する。少なくとも便利屋だけで倒したユスティナ聖徒会の数は百以上に上るだろう。もしくは、もう二百を超えたか。あれ程詰めていた弾倉が残り少ない、一時間は戦い続けたか、或いはそこまで経ってはいないか。

 

「ぐぅ、ああアアアアッ!」

 

 前線で壁を張り続けるハルカが、血の滲んだ咆哮を上げる。はっとした表情でカヨコが視線を上げれば、幾つもの弾丸が彼女に突き刺さっていた。しかし、それでも彼女が止まる事は無く、ユスティナ聖徒会の群れへと単独で突貫し、至近距離で腰だめに銃を構え連射。二発、三発、銃声が轟く度にユスティナ聖徒会の上半身が消し飛ぶ。散り散りになり、霧散していくその影を睨みつけながら、ハルカは鬼気迫る表情で前を向く。しかし、その足が微かに震えている事に皆は気付いていた。

 

「ハルカッ! 下がりなさい!」

「この、いい加減さっさと消えてよねッ!?」

 

 アルが叫び、ムツキが壁にしていた自動車から身を乗り出してハルカ周辺のユスティナ聖徒会を愛銃(LMG)で薙ぎ払う。弾丸はユスティナ聖徒会を確かに捉え、その前衛を悉く粉砕した。しかし倒せど倒せど、その奥から新たな影が出現する。

 

「っ、私が側面から叩く! どうにか耐えて!」

「簡単に云ってくれるわね……!」

 

 彼女達の脇を、弾倉を切り替えたアズサが低い姿勢で駆けて行く。突っ込み、ヘイトを買ったハルカと入れ替わる形で前に出た彼女は、歩道を低姿勢のまま駆け抜け手摺越しに銃撃を開始した。疑似的なクロスアタック、側面からの攻撃にユスティナ聖徒会も反撃を開始するが、小柄な体躯と地面を這う様に駆ける彼女に中々弾丸は当たらない。その間にもアルの狙撃が、ムツキの援護射撃が銃声を轟かせ、ユスティナ聖徒会の戦力を削る。

 

 ――いや、違う。

 

 アズサは駆けながら違和感に気付いた。ユスティナ聖徒会の攻撃は、まるで警告するような威嚇射撃ばかり。アズサ自身を狙い、撃っている様には思えない。宛ら自身の機動力と矮躯により直撃を免れている様に見えるが、違う。連中は明らかに自身(アズサ)を見ていても、狙っていない。

 

「ハルカ、こっち!」

「ぅ、っ……!」

 

 敵の視線がアズサに移った事を確かめ、カヨコはハルカの腕を掴んで後方へと下がる。荒い息を繰り返し、血の滲んだ額をそのままにする彼女は特に反抗する事もなく、カヨコに腕を引かれるままアルの傍へと身を押し込まれた。銃を抱えたまま座り込み、呻くハルカの負傷は決して浅くない。カヨコは舌打ちを零し、バッグの中からメディカルキットを取り出す。

 

「便利屋68――予想以上の戦力だ」

 

 そんな様子をユスティナ聖徒会の後方から眺める、アリウス・スクワッド。

 サオリは轟く銃声と閃光に目を細めながら、感心した様な声を漏らした。高い射撃の技量、驚異的な連携、各々の役割を自覚し、怒りの感情に燃えながらも確りと理性を残している。一人ひとりが確かな戦力を持ち、彼女達は仮にチームでなくとも確かな戦果を挙げるだろう。しかし、全員が揃う事で更にもう一段、高い位に手が届く。

 銃を抱えながら想う。成程、これは手強いと。

 

「だが相手が悪かったな、持久戦で此方が負ける事は無い……その戦闘能力は認めてやる、しかし所詮はアズサを含め五人、私達の敵ではない」

 

 確かに強い、しかしそれは空崎ヒナや剣先ツルギの様な、異次元染みた強さではない。キヴォトスの中では上位に食い込む程に優秀、しかし云ってしまえばそれだけだった。ETOとスクワッドを止められるだけの戦闘能力は有さない。

 

 アズサ相手にユスティナ聖徒会を巻き込む事になるかと肝を冷やしたが――便利屋の連中が混じってくれた事で、戒律には抵触していない。そしてやはり、アズサ相手ではETOの動作に不具合が出る様だった。良く観察しなければ分からないが、動きが何処かぎこちない様に思う。

 しかし、問題はなかった。アズサをフリーにした所で所詮はひとり分の火力、じきに弾倉も底を突く。

 何せETOは不死身の軍団、無尽蔵の残機を持つ存在。幾ら影に弾丸を撃ち込んでも意味はない。その元を断たなければ、何度でも産み落とす事が出来る。故にサオリは余裕を崩さず、自身の背後から続々と再顕現するユスティナ聖徒会を見つめ、静かに前方へと手を振った。

 

「一息に圧し潰す、行くぞ」

「―――」

 

 音も無く、ぬるりと前進を開始するユスティナ聖徒会。

 前方から鳴り響く銃声、瞬く閃光。それらに制服を靡かせながら、戒律の守護者は十人十色の銃を構える。サオリ達スクワッドもそれに続くように、各々の愛銃を手に一歩を踏み出した。

 

「……社長、これ以上は拙い」

「っ……!」

 

 ハルカの止血と消毒を行っていたカヨコは、不意にそんな言葉を呟いた。滲んだ血を消毒液の沁み込んだガーゼで拭い取れば、ハルカは滲んだ痛みに顔を顰める。

 前方に見える第何波かも分からないユスティナ聖徒会の群れ。そしてアリウス・スクワッドの進軍。

 それを確認したアズサは強張った表情と共に後退し、アルもスコープ越しに歯を食い縛る。ムツキは空になった弾倉を投げ捨て、予備のバッグを覗き込み舌打ちを零した。

 残りの弾倉が、余りにも少なかった。

 

「ハルカの傷も浅くない、今は興奮で分からないかもしれないけれど、ふとした瞬間に絶対ぶり返しが来る、皆の弾薬も心許ないし、向こうも本腰を上げて来た……これ以上戦闘を続けるのは危険――」

「でも、カヨコ――っ!」

「アル!」

 

 どこか喰らい付く様な声で叫んだアルに対し、カヨコはそれ以上の怒声で以て答えた。今まで聞いた事も無い彼女の怒声に、アルは思わず息を呑む。目を見開いて体を震わせた彼女を真っ直ぐ見つめながら、カヨコは努めて冷静な声色で続けた。

 

「気持ちは同じ、悔しい思いも、腹立たしい思いもある、本当なら何発でも鉛玉をぶち込んでやりたい……でも、便利屋の皆だって大事、これ以上は私達の身も危ない、違う?」

「ッ……」

 

 それは、正論だ。

 悲しい位に正論で、残酷な現実だった。怒りに身を任せて、全員を道連れにする様な道は選べない。

 それは彼女の在り方ではない。

 先生に弾丸を撃ち込んだ、その恨みを晴らしたい。しかし、その過程で誰かが失われる様な事は決して許せない。

 仲間として、友人として――便利屋のリーダーとして。

 

 数秒、アルは自身の愛銃を握り締め顔を歪めた。苦悩する様に、或いは自身の力不足を嘆くように視線を落とす。胸の内、腹の奥から湧いて出る激情を自覚しながら、彼女はそれを必死で呑み込んだ。

 そして大きく息を吸って、吐き出す。再度目を見開き、ユスティナ聖徒会を睨みつけたアルは、感情を押し殺した声で告げた。

 

「――撤退するわ、皆、準備しなさい」

 

 その言葉に、カヨコは静かに頷いて見せる。

 ムツキは何も云わず、新しい弾倉を銃に嵌め込みながら不機嫌そうに唇を噛んだ。

 

「あ、アル様……!」

「ハルカ、悪いけれど今は我慢して頂戴……次は、必ず仕留めるから」

 

 どこか悲しそうに、或いは後悔を滲ませながら声を震わせるハルカ。恐らく、自身が力及ばなかったからだとても考えているのだろう。しかし、それは違う、相手の戦力が余りにも想定外の代物だった。あの亡霊染みた連中は普通じゃない。

 或いは、何か絡繰りがあるのだろうが――それを解き明かすための情報も、戦力も、時間も足りない。今は一度退き態勢を立て直すのが最善だった。

 

「はぁ、ハッ、次が来るぞ……!」

「分かっているわ、けれどそろそろ限界よ、弾も体力も足りない」

 

 アズサが息を弾ませ帰還し、アル達に声を掛ける。彼女はそれに淡々とした様子で答えながら、言葉を続けた。アズサが素早く便利屋の面々を視線でなぞる。一番負傷が酷いのはハルカだが、全員がどこかしらに被弾し血を流していた。アズサも同じ、ユスティナ聖徒会に受けた傷はないが、代わりにサオリから受けた傷がある。その状態で駆け回り射撃するのは中々に辛いものがある。

 この辺りが限界――アズサは正しく現状を理解していた。

 

「私達は撤退するわ、あなたも――……」

「――いや、私は残る」

 

 アルの言葉に、アズサは銃に新しい弾倉を嵌め込む事で答えとした。その予想だにしない言葉に彼女は思わず目を見開く。カヨコはそんなアズサを見つめながら、どこか棘のある声で問いかけた。

 

「……正気?」

「うん、手伝ってくれてありがとう……でも、此処からはひとりでやる」

 

 表情を押し殺し、鋭い視線で以てユスティナ聖徒会を――その背後にいるスクワッドを睨みつけるアズサは本気だった。

 彼女の云いたい事は、分かる。

 これは傍から見れば自殺行為以外の何でもない。実際、アズサも勝算は低いと理解していた。しかし、それでも、その低い勝算を押して尚――アズサはアリウスに挑まなければならない。

 時間が経てば経つ程、被害は増える。

 これは、自身が成し遂げなければならない事だ。

 自分(アズサ)の、背負うべき責任なのだ。

 

「例え、刺し違えても、私は――……」

 

 彼女達(スクワッド)を、殺すと決めた。

 

「――さて、お友達ごっこは終わりか、アズサ?」

「……サオリッ」

 

 ほんの十数メートルの距離、そこまで距離を詰めたアリウス。便利屋と自身の目前に立ち塞がり、此方を見下ろすサオリを睨みつける。その背後に佇むETOが、一斉に銃口を向けた。ムツキが手元の鞄を握り締め、投擲体勢に入った。最初の奇襲と同じように爆発で攪乱し逃走する。身に染みた行動だった、最早アイコンタクトすら用いず、便利屋の皆はそれが合図だと理解している。

 アルは自身の前に立つアズサを一瞥し、その額に冷汗を流した。

 彼女は単独でこのアリウスに挑もうとしている。それは明らかな自殺行為、どう考えても勝てる筈がない。しかし、その意思は固く、揺るがない様に思える。であればこそ、此処は便利屋だけでも撤退するのが正しい判断だ。何なら残った彼女が殿として機能してくれる、逃走成功確率は格段に上昇するだろう。

 しかし――。

 

 ――それは、アルの信念に反する。

 

 誰かを見捨てて逃げるなど、誰かを犠牲に生き延びるなど、それは違うだろうと、本能が叫ぶ。

 少なくともアルの目指した在り方、生き方ではない。それを許してしまったら、それを為してしまったら、アルは自分がどうしようもない存在に成り果ててしまう予感があった。

 あの日、憧れと共に踏み出した一歩、心に誓ったアウトローへの道は、その夢見た未来の自分は――こんな姿ではなかった。

 アルは汗と血を流しながら、沈黙を守った。それは自身の中に一つの結論を導き出したからだった。

 小さく、アルは皆の名を呼ぶ。

 

「カヨコ」

「………」

「ムツキ」

「……なぁに、アルちゃん」

「ハルカ」

「……はい!」

 

 唇を湿らせ、アルは足元の瓦礫を蹴飛ばして胸を張る。

 肩に担いだワインレッド・アドマイアーは陽光を反射し、鈍い光を放っていた。

 そうだ、何を弱気になっている? 何故そんな事(見捨てる事)を考えている? そんな思考はそもそも――(アウトロー)らしくない。

 だから彼女は努めて気丈に、何でもない事の様に問いかけた。

 

「弾薬は後どれくらい? 仮に戦い続けるとして、体力は何分持つ? いえ、違うわね――何分、持たせられる?」

「……くふふっ!」

 

 アルの何処か吹っ切れたような横顔。風に髪とコートを靡かせ、胸を張って立ち上がる彼女の姿は確かな風格を放っている。そんな幼馴染の姿に、ムツキは忍び笑いを漏らす。

 そうだ、これこそアルちゃんだと。

 どうしようもなく小心者で、抜けているところが在って、純朴で、見栄っ張りで――けれど一番大事な所だけは、絶対に間違えない。

 そんな彼女だからこそ、一緒に居て楽しくて、大好きで、誇らしいのだ。

 

「弾倉は二つだけ、でも爆弾は沢山あるからまだまだイケるよ! あいつら全員ぶっ飛ばす位は簡単っ!」

「わっ、私も……私もまだ戦えますッ! 弾だって、あるんです……! あ、アル様の足を引っ張ったり、しません……!」

「……はぁ」

 

 ムツキとハルカは嬉々として声を返し、カヨコは小さく息を吐き出す。けれどそれは、呆れや怒りから来るものではなかった。バッグを閉じたカヨコは、銃に装填された弾倉を一度取り出し残弾を検める。

 持ち込んでいた弾は多くない、戦術からしてそもそも異色の相手だ、勝算は限りなく低い。更にこの、目の前の頑固な生徒を連れて撤退となると、殆ど消耗戦の様なものだろう。

 となれば――イチかバチか、賭けるならば敵の司令塔を叩く。

 視界に映るのは、アリウス・スクワッドと名乗った連中、あの四人組。どうやらこの白髪の生徒と関係があるらしいが、彼女はずっとスクワッドに敵意・ヘイトを向けている。

 勝ち筋があるとすれば、あの四人組、特にリーダーを戦闘不能にさせる、その一点のみ。

 そう思考し立ち上がる。

 

「カヨコ――」

「分かっている、分かっているよ……こうと決めたら曲げないもんね、知っているから」

 

 不安げに問いかけるアルの声に、カヨコは小さく頭を振って答えた。

 その口元に、小さな笑みを湛えて。

 

「そんな私達のリーダー(社長)を支えるのが、私の役目だからね」

 

 彼女はそう云って、静かに銃を構えた。

 

「……撤退、しないのか?」

「……えぇ、一緒に戦った仲間を見捨てる様な事、この便利屋68は断じてしないわ、それに先生への借りをまだ返せていないもの」

 

 訝し気に問い掛けるアズサに、アルは胸を張って応える。対峙するサオリが、どこか冷ややかな瞳で皆を見ていた。しかし、どう思われようと関係ない。本当の本当に危なくなったら、どんな手段を使ってでも全員で逃げ出してやる。でも、そうなるまでは一切矜持を曲げる気は無い。

 

 だって、それが(アル)の道なのだ。

 アズサの隣に並び、重なった瓦礫に足を乗せる。風を感じ、視線を感じ、疲労と不安に圧し潰されそうになる体を、意志で以て突き動かす。

 腕を真上に掲げ、天に指先を突きつけ、彼女は叫んだ。

 

「――我が道の如く魔境を往く! それこそが便利屋68(私達)のモットーよ!」

 

 あの、何時の日か出会った強盗団の様に。

 見ず知らずの困った生徒(貧困していた私達)に、全ての成果を黙って譲り渡してしまう様な。

 自由で、粋で、何者(何物)にも縛られない真のアウトロー。

 ただ自身の信じる道を往く、それがどれ程困難な選択であろうと、魔境の如く険しい道であろうと――それこそ。

 

 それこそが、本当の自由(アウトロー)なのだ。

 

「……ま、それも受け売りだけれどね」

「くふふっ、アルちゃん恰好良い~!」

「あ、アル様……! 一生付いて行きます!」

 

 声は、街中に響き渡った。その宣言は便利屋の皆を鼓舞し、各々が奮起する切っ掛けとなる。便利屋の皆が、銃を構える。戦況は絶望的だろう、勝算は限りなく低いと理解している筈だ。それでも尚、希望を胸に立ち向かおうとする彼女達を前に、サオリは顔を顰める。

 何故、こうも彼奴(アズサ)の周りにいる生徒共は――。

 

「サオリ、お前は――」

「………」

 

 便利屋の中から一歩、前へと踏み出したアズサがサオリへと銃口を向ける。

 その瞳に、決して折れぬ意志を秘めて。

 

「私が……ッ!」

 

 ■

 

「いいえ――ひとりにはさせませんよ(ひとりで人殺しにはさせませんよ)、アズサちゃん」

 

 ■

 

「ッ……!」

 

 声がした、聞き覚えのある声が。

 それは、本当に予想もしていなかった声で、思わず肩を大きく跳ねさせる。その場に居た全員が声のした方向へと視線を向ければ、いつも通り穏やかな笑みを浮かべたハナコが便利屋の直ぐ後ろに立っていた。髪を飾っていた白いリボンが無くなって、少し素朴な印象になってはいるが見間違う筈もない。

 アズサは思わず目を瞬かせ、声を上げる。

 

「は、ハナコ……!?」

「えぇ、アズサちゃん、無事で良かった……いきなり飛び出すから吃驚したんですよ? コハルちゃんも、ヒフミちゃんも、皆心配していました」

 

 そう、朗らかな口調で告げるハナコ。その態度は柔らかく、普段と変わらない様に思う。

 けれど、違う――何かが、決定的に。

 アズサはハナコを見つめながら、その云い表す事の出来ない不気味さ、歪さを感じ取った。彼女の外見上のの何かではない、もっと内面的な、彼女らしさとも云うべき要素が欠けていた。

 そしてそんな彼女の背から、人影が躍り出る。

 

「やっほ~☆ 何だ、皆元気そうじゃん! よかったぁ!」

「……聖園ミカ」

 

 溌剌とした声と共に姿を現したのは――トリニティで拘束されていた筈の聖園ミカ。彼女は純白の制服を靡かせ、満面の笑みで周囲を見渡す。唐突な大物の登場にアズサも、そしてサオリも微かに驚きを露にする。サオリの背後に立つスクワッドの面々も僅かな困惑の気配を漂わせていた。ミサキが口元を覆っていた黒いマスクを指先で摘みながら、静かに声を漏らす。

 

「ティーパーティーの……トリニティで拘束されていた筈じゃないの?」

「あぁ、トリニティの独房で疾うに腐り果てたと思っていたが」

「あはは~、まぁ半分はそうかもね? でも何だか私にも追い風が吹いて来たみたいでさぁ……親切にも私を釈放してくれた仲間達が居たんだよ! やっぱり持つべきものは友達だよね、うん!」

 

 そう云って隣り合うハナコの肩を叩くミカ。ハナコは何も反応を見せず、ただ微笑んで佇むばかり。その、何とも云えない奇妙なやりとりがサオリの危機感を煽る。二人の自身を見る瞳が、酷く粘ついて見えた。

 

 何かが――おかしい。

 

 彼女(ミカ)がこの場に現れた事も、そして浦和ハナコが彼女を解放したという話も。

 鋭い視線でミカを見つめ返すサオリを前に、彼女はボロボロのアズサと便利屋の面々に目を向ける。そして相変わらず軽薄な笑みを浮かべながら嬉々として言葉を紡いだ。

 

「……アズサちゃんと、そこのゲヘナ生徒を虐めていたの? うんうん、そう、あなた達はそうでなくっちゃ! でないとさぁ!」

 

 謳う様に。

 踊る様に。

 その場で裾を翻し、緩く回って見せた彼女は。

 両手を広げたまま、黒く、渦巻く瞳で以てアリウスを射貫いた。

 

「――奪い甲斐がないもんね?」

「っ……!」

 

 ぞわりと、その視線を受けたサオリの背筋が疼く。暗い、昏い、奈落の様な色、込められた感情は煮え滾り、凝縮され、最早想像も出来ない程。無意識の内に手にしていた銃を握り締め、彼女は掌に流れる汗を自覚する。

 以前の彼奴とは違う、今の聖園ミカは本質的に――私達側だ。(陽の当らない場所の存在)

 

「は、ハナコ、どうして此処に……!?」

 

 アズサはハナコの顔を見つめながら、震えた声を上げる。その声には、僅かな非難が籠っている様な気がした。彼女は補習授業部の皆に傷付いて欲しくない、危険な目に遭って欲しくない。だから、こんな場所には来て欲しくなかった。

 見て欲しくなかった。

 自分が――誰かを殺す瞬間なんて。

 

 けれどハナコは、そんなアズサを見つめながら淡々と、けれど何か強い意志を込めた視線で以て応える。その唇が、ゆっくりと言葉を発した。

 

「――先生が、息を引き取りました」

「ッ……!」

 

 その衝撃的な言葉を前に。

 アズサは言葉を失った。

 そしてそれは、アズサだけではない。その背後に佇んでいた便利屋の面々にも、強烈な衝撃を残す。まさか、という想いが皆の胸を駆け巡る。その唇が震え、震えた喉が音を漏らした。

 

「先生――?」

「う、そ……」

「っ……」

 

 各々が表情を歪め、その色を喪う様。予測できていた事だ、あれだけの負傷、銃弾を受けたら――死亡する事だってあり得る。否、寧ろ助かる事の方が稀だろう。それをアズサは分かっていた、理解していた。

 けれど心の何処かで、先生なら、彼ならきっと大丈夫だと――そうも思っていたのだ。

 だって。

 だって、あの人は。

 こんな風に、こんな場所で斃れるべき人なんかじゃ、なくて……。

 

「――そうか、死んだか」

 

 ぽつりと。

 サオリは、無感動に呟いた。

 ただ確認する様に。

 それを噛み締める様に。

 

「……そ、んな――」

「……最早、後戻りできる状況ではありません、アズサちゃん、私達の気持ちは同じです」

 

 項垂れ、呆然とするアズサの肩を叩き一歩を踏み出すハナコ。 

 彼女の足が、アズサ(陽の当らない場所)の隣に並ぶ。

 

「人を殺してでも果たしたい願いがある、それを先生が望んでいないと理解していても、この感情を飲み下す事は出来ません」

 

 そうだ、それが先生を悲しませる事になるとしても。正しくない事であると理解していても。

 渦巻く感情が、共に過ごした思い出が、その優しさの記憶が。

 

 ――許せないと叫んでいるから。

 

「だから、私も一緒に手を汚します(私も人殺しになります)

 

 それは、ハナコにとっての意思表示。小さく視線を横に動かした彼女は、隣に立つミカへと問いかける。

 

「ミカさん」

「ん? あぁ、良いよ、好きにして~」

「……では」

 

 意図を汲んだミカは、気だるげに肩を竦め手を払う。了承を得たハナコは佇まいを正し、担いでいた愛銃を抱え直して告げた。

 

「此処に、アリウス分校に対して、トリニティ総合学園は正式に宣戦布告致します」

「………」

 

 声が、響く。

 ゆっくりと構えられる彼女の愛銃――オネストウィッシュ、その銃口がサオリに突きつけられる。色褪せた願い、既に叶う事のないそれは決してブレず、曲がらず、折れない。皮肉な事だとハナコは思った。願いは砕け決意となり、白は黒と転じて尚その純真さを喪わない。

 ただ、その向きが逆さまになっただけだ。

 

「――あなたは、私が殺します」

 

 ハナコの声が、サオリの鼓膜を震わせた。

 その引き金に、力が籠る。

 正面からそれを見据えるサオリは微動だにしない。

 

 けれど突き出されたその腕を、掴む手があった。

 抱き込むように、自分の腕で抱きしめ、震える人影。ハナコの視線がゆっくりと、その人影を見下ろす。

 

「ま、って――」

「………」

「待って、ハナコ……!」

 

 強張った表情で、今にも泣き出しそうな顔で。

 アズサはハナコの腕に縋りつき、懇願する。

 震えた体が、その強く掴む指先が、彼女の真摯な想いを代弁している。苦しみと悲壮、その感情に彩られた表情を向けながら、アズサは叫んだ。

 

「殺す、のは、私だけで……良い!」

「………」

「私が、サオリを殺す……! ヘイローを壊すッ! だから、ハナコは――ッ!」

「……アズサちゃん」

 

 どこか、視線を揺らがせながら答えるハナコ。アズサはそんな彼女の瞳を真っ直ぐ見上げ、歯を食い縛る。

 人殺しになるのは、自分だけで良い。

 自分だけが、その地獄(陽の当らない世界)に耐えられる筈だから。自分は元々、あの世界の住人だった。だから平気だ、気にする事は何もない。

 

 でもハナコは、彼女は違う。陽の当たる世界に生きる生徒だ、そう在るべき人だ、彼女にそんな世界は、そんな苦しみは似合わない。

 ――似合って、欲しくない。

 

「殺す、殺すと……容易く云ってくれる」

 

 そんな二人を前に、サオリはそう吐き捨てる。

 軽く鼻を鳴らした彼女は、指先でETOを動かしながら告げた。

 

「ETOの戦力を保有した私達に勝てると思っているのか、同じトリニティ、その厄介さは理解しているだろう」

「ふぅん? これがあのユスティナ聖徒会……だっけ?」

 

 徐に足を進めるミカ。ユスティナ聖徒会がその歩みに反応し、銃口を向ける。しかしその引き金が絞られるより早く彼女の爪先が跳ねあがり、突き出されていた銃口を真上に跳ね上げた。拉げたバレルが軋みを上げ、ミカの視線が不気味なガスマスクを正面から射貫く。

 

「何だか変なデザインの服だ――ねっ!」

 

 身体を捻り、下から抉る様な打撃――拳を振り抜く。

 無造作に放たれたそれはユスティナ聖徒会、その腹部を正面から撃ち抜き、大気を揺るがす轟音を響かせた。足元のアスファルトが軋み、ユスティナ聖徒会の肉体が弾かれた様に後方へと吹き飛ぶ。宛ら人形の如く、地面をバウンドし、駐車してあった乗用車のフロント部分に激突。衝撃で硝子が粉々に砕け、外装が拉げた。ボンネットに半ば埋まる様にして停止したユスティナ聖徒会は――腹部がごっそり抉れている。

 肉体の耐久限界によって徐々に塵となって消えて行く影を見つめたミカは、余りにも軽い手応えに眉を顰めながら呟いた。

 

「――何、銃を撃たなくて消えちゃったけれど? 本当に強いの、これ? ただ数が多いだけの雑兵じゃんね」

「………」

「あれだけ自信満々に云っていたからちょっと拍子抜けだなぁ……ねぇ、皆?」

 

 嘲る様に、或いは見下すように。

 そのような言葉を吐き捨てた彼女は、手を広げながら後方に目を向ける。

 すると公道の向こう側から、裏路地から、建物の内部から、続々とトリニティの制服を纏った生徒達が現れた。皆が一様に銃を手に、ミカとハナコの元へと集い始める。

 その様子を見ていたスクワッドのミサキは、どこか険しい視線と共に口を開いた。

 

「リーダー、トリニティの歩兵、かなり多い」

「……あぁ、これだけ動きが早いのは想定外だな」

「ふふっ、あなた達が暴れたせいで、今動けるティーパーティーは私だけだからね☆ 権限をフルに使って、連れて来れるだけ連れて来たよ!」

 

 そう笑顔で宣うミカの背後に、ずらりと並ぶトリニティの戦力。所属、役職問わず、ミカとハナコの思想に賛同し、アリウスに鉄槌を下す為に集った者達。古聖堂に派遣された救助部隊、そして本校舎を防衛する為に残した生徒を除き、ミカが動かせる凡そ全ての生徒を動員していた。

 その数は、決してETOにも負けず劣らず。

 何より――その意気込みが違う。

 誰もが嘗ての亡霊(ユスティナ聖徒会)を、アリウスを、スクワッドを憎悪の籠った視線で睨みつけていた。そこに至らなくとも、明確な敵意を孕んだ視線だ。悪意とは異なる、どこまでも純粋な排斥の意志。

 

「これだけ動かすと、また大変な事になっちゃうかもしれないけれどさ、関係ないよねぇ――あなた達を仕留められたら、それで良いもん」

「………」

「何、その顔?」

 

 サオリの口元はマスクで覆われている。

 故に、表情は目元の変化でしか察する事は出来ない。

 しかし、ミカはサオリの感情を正しく汲み取っていた。

 

「――これは、あなた達が始めた戦争(殺し合い)でしょう?」

 

 そう云ってミカは口元を大きく、歪に吊り上げた。

 黒く渦巻く瞳はサオリを見つめ、憎悪と歓喜と悲壮と憤怒を混ぜ込んだ感情のまま彼女は指差す。アリウスを、アリウス・スクワッドを、その背後に佇む先人の亡霊を、その憎悪を。

 

「云っておくけれど、私達はもう止まらないよ? 誰が死んでも、誰を殺しても――先生を殺した時点で、あなた達にも、私達にも、【落としどころ】(和解の可能性)なんて存在しない」

 

 そう――彼女達は、決定的な溝を作った。

 失われた命は、決して戻ってはこない。取り返しのつかない結末。それを齎した以上、その補填も、代償も、意味をなさない。アリウスを潰した所で先生は戻ってはこない、そんな事は百も承知だ。そして先生は、その復讐すら望まないだろう。

 

 けれど――けれど、それなら、残された私達(生徒)はどうなる?

 ただ憎悪を振り撒き、理不尽に、不条理に、私達の大切なものを奪った者を眺めるのか? 許すのか? その悪行を、蛮行を、見過ごすしかないのか?

 

 そんな事は許されない、許せない――他ならぬ私達が。

 命を奪ったと云うのならば是非もない。命は、命によって禊されるべきだ。

 

 私達が、そうさせる。

 私達が、奪うのだ。

 アリウスから、先生を奪った者共から。

 

 ――遍く希望(全ての光)を。

 

「だからやらないと、徹底的に、どっちかが壊れる(死ぬ)まで――アリウスか、私達が、このキヴォトスから消えるまで! アリウス(あなた達)は、それ(殺し合い)を望んでいるんでしょう? ほら、喜びなよ? 笑顔で銃を構えなよ? 漸く夢が叶ったんだからさぁ!」

 

 叫び、ミカは哄笑する。不気味なソレがスクワッドに精神的な重圧を加えた。とても真面な精神状態ではない。それは誰の目から見ても明らかだった。その執念が、妄念が、物理的な重さを伴ってアリウスを取り巻く。

 ミカの指先が、サオリを、ミサキを、ヒヨリを、アツコを――順に指差した。

 

「――もう地下に籠って逃げられるなんて、思わないで」

 

 キヴォトスの何処に逃げようと、地下深くに潜伏しようと、空の果てに逃げようと逃がしはしない。何処までも追って、探し出して、引き摺り出して――殺してやる。

 そんな意思を込めて放たれた言葉。

 その宣言に対して無言を貫くサオリに向かい、ミサキが小声で囁く。

 

「リーダー……」

「――撤退する」

 

 判断は、早かった。

 

「ユスティナ聖徒会は確保できた、此処はプラン通りに動く」

「……了解」

 

 数歩後退し、サオリは命令を下す。

 元々この場に来たのは先生と空崎ヒナの排除が目的であった。そして、最重要目標の一つであった先生の殺害は為した。であれば、最低限の目標は達成している。アズサの件は少し懸念点ではあるが、問題はない――サオリは生徒達の中で呆然と佇むアズサを見て、そう判断する。

 撤退の意思を感じ取ったミカは、挑発する様に破顔し嘲る。

 

「あは、何? 此処までやっておいて、尻尾を巻いて逃げるの?」

「あぁ、此処は退かせて貰う」

「――させる訳ないじゃん」

 

 愛銃を構えたミカが、即座にその銃口を向ける。サオリはそれを視認するより早く、ETOへと指示を下した。

 

「行け」

 

 短く、単純な言葉。しかしユスティナ聖徒会は正しくその意図を理解し、スクワッドが撤退する為の壁となる。その数は公道を埋め尽くす程であり、ミカの放った弾丸は悉くユスティナ聖徒会の肉体に被弾し、後方へと下がったサオリへ届く事は無い。

 目前に聳え立つETOの壁を前に、ミカは舌打ちを零す。

 

「っ、邪魔だなぁ……!」

「総員、射撃準備――ミカさん」

「私ごと撃って良いよ~、大して効かないし」

「――射撃開始」

 

 前に飛び出したミカは銃撃での突破は不可能と判断、強引に体ごと突貫し、ユスティナ聖徒会の壁に穴を穿つ。幾人ものETOが宙を舞い、地面に叩きつけられた。

 その背後から、ハナコの号令と共に一斉射撃が行われる。

 並んだトリニティ生徒が前列、後列に分かれ発砲。けたたましい銃声と閃光が周囲に轟き、弾痕がそこら中に刻まれる。弾倉が空になったら後方の生徒と後退し、宛ら弾丸の雨が降り注ぐ。それに対しユスティナ聖徒会も応射を開始するも、中に入り込んだミカが暴れ回り、視線が二分される。ミカを見ればトリニティによる射撃が、トリニティに注視すればミカが、それぞれ的確にユスティナ聖徒会の壁を削り取り、霧散させる。

 戦闘時間は、ほんの数分程度であった。スクワッドが新たなユスティナ聖徒会を顕現させなかったという点もあるが、それでも十分な戦果。静まり返った周囲を見渡したハナコは、淡々とした口調で問いかける。

 

「……前列の生徒は警戒態勢のまま待機、負傷者は?」

「軽傷が十一名、前列の生徒が被弾しました、しかし全員救護騎士団の治療で戦線復帰可能です」

「分かりました、重傷を負った生徒が発生した場合は予備隊に連絡し救護騎士団本棟へ搬送して下さい、護衛部隊の随伴を忘れずに」

「はっ」

 

 短く言葉を交わし、ハナコは弾痕が散らばった公道に視線を散らす。そこに、スクワッドの姿は何処にもない。目を細め、拳を軋ませたハナコは低く唸る様に呟いた。

 

「……逃げられましたか」

「みたいだね……はーっ、ホント、逃げ足だけは速いなぁ」

 

 戦闘を終えたミカが、まるで散歩でもする様な足取りでハナコの元へと戻る。その制服には所々被弾した箇所が見られるものの、肌には傷一つ付いていない。寧ろ本人は髪に砂利が付く事の方が嫌なのか、「うわっ、髪に匂い沁みついちゃうよ」と自身の髪を手で払っていた。

 

「アズサちゃん、大丈夫ですか?」

「………」

 

 ハナコは、自身の傍で呆然と立ち竦むアズサに声を掛ける。しかし、彼女は何の反応も返さない。ただ、蒼褪めた表情で俯くばかりだった。

 そんな彼女の耳に、靴音が響く。

 大勢の生徒が行進するような、そんな音だ。

 よもやETOの増援かと視線を向ければ、公道を進む黒い集団が目に入った。

 

「……トリニティの皆さん」

「……ゲヘナの」

 

 戦闘を終えたトリニティに近付く影の正体。確かな靴音を鳴らし、現れたのはゲヘナ風紀委員会の制服を身に纏った一団。その先頭に立つのは、額にガーゼを貼り付けた一人の生徒。タブレットを手に神妙な表情を浮かべるのは、風紀委員会の次席であるアコ。彼女はタブレットを抱えたまま、静かに口を開く。

 

「確か、ゲヘナ風紀委員会の――」

「えぇ、行政官のアコです」

 

 ハナコの言葉に頷き、彼女はミカと、彼女の隣に立つハナコを見つめる。

 

「事情は既に、ヒナ委員長からの連絡で聞き及んでいます――シャーレの先生が、その……」

「………」

「誤報――では、ないのですね」

 

 全員の顔を見渡したアコは、何処か砂を噛む様な表情で呟いた。まさかという想いが在る、しかし古聖堂での一幕を知っている身としては決してあり得ない可能性ではないと理解していた。

 

「先生、ヒナ委員長……――」

 

 一瞬、彼女は俯き声を漏らす。思い返すのは、端末で自身の生存報告を行いながら、先生の件について話すヒナの声。それは涙と嗚咽に塗れ、途切れ途切れの告解だった。先生を守り切れなかった事への、寧ろ守られてしまった事への。その、確かな質感を伴った罪の告白を、アコは何も云わず聞き届けた。

 聞き届けたからこそ、彼女はこの場に立っている。

 タブレットを強く握り締め、目を見開いた彼女は強い口調で告げた。

 

「……既にパンデモニウムソサエティへの認可は取り付けてあります、万魔殿、ゲヘナ風紀委員会、救急医学部はトリニティとの共同戦線に参加する事を此処に表明します」

「ふぅん、あっそ……精々足を引っ張らないでね?」

「ミカさん」

 

 共に戦う者を相手に、どこか煽る様な言葉を送るミカ。そんな彼女を窘めながら、ハナコは小さく頭を下げた。

 

「トリニティ代表として、その参戦に敬意を」

 

 アコは特にミカの言動をどうとも思っていないのか、反応らしい反応はない。彼女からすれば、この程度の嫌味など万魔殿からの嫌がらせに比べれば優しいものだった。そっと差し出されたアコの手を、ハナコは握り返す。

 

 並び立つ(トリニティ)(ゲヘナ)――古聖堂、エデン条約の調印式で睨み合っていた両者の間に、最早敵意は存在しない。

 あるとすればそれは、共通の敵を前にした戦意の高まりのみ。

 それらを横目に、ミカは吐き捨てる様に言葉を漏らす。

 

「皮肉なものだね……先生が居なくなって、本当の意味でゲヘナとトリニティが手を結ぶなんて」

「えぇ……本当に」

 

 ミカの言葉に、ハナコは目を瞑って応える。

 これがもっと早く実現していれば、先生は――。

 

「その話」

「……!」

 

 横合いから声が掛かる。声の主はトリニティの生徒、その合間を縫ってアコの前に立った。黒いパーカーに見覚えのある顔立ち。彼女――カヨコはいつも通りの不機嫌そうな表情を更に鋭くさせながら声を上げる。

 

「私達にも一枚噛ませて貰える?」

「……カヨコさん」

 

 アコが少しだけ驚いた様に目を見開く。トリニティの中に埋もれて分からなかった。しかし良く見れば、便利屋68の面々が直ぐ其処に立っていた。彼女達が風紀委員会を見る目は複雑だ。けれど、確かな意思が見え隠れしていた。

 

「便利屋68が、何故此処に?」

「それ、今聞くの?」

「……いえ」

 

 彼女達の衣服を見れば分かる、戦闘があったのだろう。恐らくアリウスと。トリニティと共同戦線を既に張っていたのか、それは分からない。しかし瞳に映る色を見る限り、目的は同じである様だった。

 委員長であれば、此処は――そう考え頭を振る。

 ヒナ委員長から直々に風紀委員会の指揮を任された以上、最終判断は己が行わなければならない。便利屋の戦闘能力の高さは十二分に承知している。そしてアリウスの総戦力は未だ不明、少なくともあの厄介なETOがある以上、楽観視は出来ない。

 思考を回したアコは、小さく息を吐き出しながら頷いて見せる。

 

「今は少しでも戦力が必要な状況です、今だけ……今だけはあなた達の過去に目を瞑りましょう」

「……それで十分」

 

 呟き、カヨコは踵を返した。アルの傍に立った彼女は問いかける。

 

「これで良い、社長?」

「えぇ、十分よ」

 

 風紀委員会との一時的な休戦を取り付けた便利屋は、その裾をはためかせながら身を翻す。肩越しにアコに視線を投げたアルは、淡々と、酷く乾いた声で告げた。

 

「――一度補給に戻るわ、戦闘になったら連絡を頂戴、直ぐ向かうから」

「えぇ、了解しました」

 

 そうして、戦火は徐々に――徐々に広がっていく。

 それをアズサは只、呆然と見つめる事しか出来なかった。

 


 

 次回「摩耗の果て」

 

 少しずつ団結し、アリウス討伐に動き出すキヴォトス。

 その渦中、広がる戦火を眺めるアズサはただひとり決意する。

 これは自分の始めた物語だから、その責任は、自身が背負わなければならないと。

 まだ手の中に残っている、大切なモノの為に、彼女は単独でのアリウス襲撃を計画する。

 けれどそれは、補習授業部との決別を意味していた。

 



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『それでも』(摩耗の果て)

誤字脱字報告、マジでありがとうございますわ!
何でこんなに誤字るんでしょう? きっと妖怪のせいですわ。
今回一万五千字です、二日に一回で一日七千五百字執筆ですわ。
鼻血でそう。


 

「――イロハ、親衛隊の動きは?」

「指示通り、古聖堂を中心に展開させています、ただ予想以上に抵抗が激しいそうです、かなり苦戦していますよ」

「ほう……ならば風紀委員会の方はどうだ」

「アコ行政官が指揮を執っています、現在はトリニティの部隊と行動を共にしていると」

「ふん、となるとやはり、古聖堂の地下に何かあると見るべきだな」

 

 トリニティ自治区、郊外区画――万魔殿、セーフハウス。

 古い洋館の様な外装をしたその一軒家は、ぱっと見は裕福な民家にしか見えない。しかし実際はトリニティ自治区に於けるゲヘナの秘密支部となっており、平時は諜報員の活動拠点の一つとしても稼働している。その地下の一室にて、イロハとマコトの両名は顔を突き合わせていた。

 調度品が揃い、疑似的に万魔殿の客室を再現した部屋。その執務机に腰掛けたマコトは、背凭れに身を預けながら肩を揺らす。その表情はイロハをして見た事のない類のものだった。どこか飄々としていて、呑気な雰囲気を常に纏っている彼女が、今は棘のある空気を漂わせている。

 

「……良かったのですか、マコト先輩」

「良かったのか、とは――どういう意味だ、イロハ」

「トリニティとの共同戦線の件ですよ、万魔殿の内部戦力まで貸し出して――」

「ふん、良いも悪いもあるか」

 

 その問い掛けに対し、マコトは不機嫌そうに執務机の上に足を乗せると吐き捨てる様に言葉を続けた。

 

「シャーレの先生……その影響力は莫大だ、事は既にトリニティとゲヘナの範疇を超えている、連邦捜査部が連邦生徒会の下部組織である以上、アリウスは連邦生徒会と敵対したも同然――そしてシャーレには数多の学園と紡いだパイプがある」

「百鬼夜行やレッドウィンター、それにミレニアム、山海経、ヴァルキューレ……挙げればキリがありませんね」

「あぁ、連中は既に多くの学園を敵に回しているのだ」

 

 気怠そうに息を吐き出すと、マコトは帽子のつばを摘まみながら目を瞑る。キヴォトスに於いて学園の数は正に星の数ほど――とまでは行かないが、全てを把握するのは難しい程の数が揃っている。

 

「ETOだか何だか知らんが、果たしてそれはキヴォトス全てを敵に回して尚、凌駕出来る程の戦力なのか?」

「……報告によれば、敵の使役するETOの正体は現シスターフッドの前身、ユスティナ聖徒会であるとか」

「ユスティナ聖徒会? 何とまぁ黴の生えた組織を復活させたものだ……まぁ何だろうと構わないが、確か今回の調印式に於ける誓約はトリニティとゲヘナに限った話だろう」

 

 そう云ってマコトはトリニティと結ぶ予定であった調印式の誓約内容を思い出す。気が乗らなかったので斜め読みした程度であったが、多少は頭の中に入っている。元々ETOの役目はゲヘナとトリニティの紛争解決、つまり誓約対象となるのはトリニティとゲヘナの二校のみ。それ以外の学園との紛争は対象外だ。

 

「広大とは云え所詮は一、二自治区の紛争を云々する程度の規模、更には調印の誓約対象外の学園まで飛び込んで来た場合、ETOが正常に機能するかどうかも分からん――壱で百には勝てん、どんな幼子にも分かる道理だ」

 

 ETOは確かに強力な軍隊だ。それこそ、部隊が丸々手に入ればゲヘナ風紀委員会を取り潰しても困らない程度には。

 しかし、決して無敵でもなければ最強でもない。

 個体、個体の戦力は確かに高いが、それでも多少腕に覚えがある生徒が複数集まれば打倒するのは難しくないとの報告が上がっている。文書でしか読んだことも無い、過去のユスティナ聖徒会と比較すれば所詮は亡霊――と云った所か。

 このETOで以て、ゲヘナとトリニティを潰す。

 そもそも、マコトからすればこの段階で懐疑的にならざるを得ない。

 

 あの古聖堂を襲った爆発――あれを初手とし速攻を仕掛け周辺を制圧、混乱を来した所に電撃的な侵攻を行う。仮にこれを為したとして、しかしこのような暴挙を仕出かした時点で連邦生徒会に目を付けられるだろう。そうでなくとも、周辺の学園は暴虐で以て君臨したアリウスの存在を認めない。暴力で以て君臨する者は、暴力で以て弑逆される――それは歴史が証明しているのだ。

 そして何より、先生を巻き込んだ。

 これが致命的だ、トリニティとの喧嘩という形だけで終わらせておけば良かったものを、彼奴等は他所の学園にまで波及させた。その時点で結末は凡そ見えている。

 

 或いは、そもそもアリウスの目的が別にあるのか。

 ETOの確保すら建前に過ぎず、その奥に本当の狙いが――。

 

「……いや、それは考えすぎか」

「?」

 

 呟きを漏らし、マコトは頭を振る。連中はそれほどまでにETOに、ユスティナ聖徒会に信を置いているという事なのだろう。実際、親衛隊も近付けずに居ると云う。その戦力だけは認めざるを得ない。

 

「兎も角、彼奴等はその対価を自身の命で払う事になるだろう、契約を担うアリウス・スクワッドの征伐――それによってこの騒動は終息する」

「……マコト先輩」

 

 大きく息を吐き出し告げられたそれに、イロハは何処か驚いたような視線を向けた。

 

「もしかして、怒っています?」

「……キキッ!」

 

 イロハの問い掛けに、マコトは張り付けたような笑みで以て答えた。

 

「このマコト様の、完璧な計画を崩された――それが腹立たしいだけだ」

 

 そう云って彼女は帽子のつばを下げる。視界を覆い、顔の半分を隠した彼女は淡々とした様子で告げる。

 

「連邦捜査部シャーレと手を組み、ゲヘナのみならず、このキヴォトスに君臨する……その計画が水の泡になったからな、連中にはその責任を取って貰わねばならん」

「……はぁ、そうですか」

「――出撃したいのならば、行っても良いぞ」

「……何の事です?」

 

 飄々としたマコトの言葉に、イロハは視線を横に逸らす。それを何処か愉快そうな気配で以て眺めた彼女は、手元にあった端末を揺らしながら云った。その画面には、大分前に下したイロハの命令が綴られている。

 

「虎丸の出庫命令を出しておいて、その惚けは通らんだろう? 既に輸送部隊が近くまで来ているのではないか? 整備班ごと引っ張って来て、随分とやる気ではないか、なぁイロハ?」

「……はぁ~」

 

 面倒くさい人に見つかったと、イロハは溜息を吐き出す。しかし何を云っても揶揄われるだけだと感じ取った彼女は、ひらひらと手を振りながら踵を返した。

 

「ま、そうですね、仰る通り……少し出て来ます」

「キキッ、私の方は気にするな、まだ近衛が残っているからな」

「云われずとも気にしませんよ、あぁ、でもイブキの事はお願いします」

 

 扉を開き、半分室外へと踏み出した彼女は振り向く事なく呟く。

 

「あの子には秘密にしておかないと……きっと、落ち込んでしまうでしょうから」

「……あぁ」

 

 淡々とした、乾いた声。その返答を聞き届け、イロハは扉を閉める。

 その音を聞き届け、一人きりになったマコトは深く背凭れに身を預けながら天井を仰いだ。湿った吐息が、口元から漏れる。何となく、身体全体が泥に浸かったような心地だった。

 

「――全く、嫌になる」

 

 半分、帽子のつばで隠れた視界を眺めながら想う。

 先生の死によって実現する、エデン条約(和平)

 トリニティと手を組む等、夢にも思わなかった事ではあるが。まさか、こんな形で実現する事になるとは。恐らくこの事は以降トリニティとゲヘナの歴史書に綴られる一幕となるだろう。それが良い形であるにしろ、悪い形であるにしろ、後世まで語り継がれる筈だ。

 マコトの望んだ、確かな偉業だ。

 しかし――。

 

「主など到底信じてはいないが、もしこの世にそんなものが存在するのならば――」

 

 天井を見上げたまま、彼女は静かに目を瞑る。

 その口元が、不機嫌そうに言葉を発した。

 

「さぞかし、底意地の悪い――悪魔の様な奴なのだろうな」

 

 ■

 

「う……うぅ――」

「コハルちゃん……」

 

 トリニティ救護騎士団本棟地下――安置所。

 ハナコが去り、セリナが去り、ゲヘナのヒナとセナが去り、時折訪れる生徒も先生の亡骸を一瞥し、目の色を変えて去って行く。

 そんな中、ヒフミとコハルの両名は先生の元を動けずに居た。冷たくなった先生の身体に縋りつき、啜り泣くコハル。彼女の肩を抱きながら、ヒフミは先生の顔を見つめる。

 

「先生、私は……私は、どうしたら――」

 

 声は震えていた。それは、恐怖から来るものだった。

 トリニティが、変貌しようとしている。

 その空気が伝わってくるのだ。生徒達の怒りが、憎しみが、巨大な渦となって学外へと向かっている。あの時のハナコもそうだ、何か得体のしれない、恐ろしい何かに変わってしまった様な錯覚すら覚えた。それをどうにかしなければならない、何かしなくちゃいけないと思うのに――体が、動かない。

 

 こんな状況になって尚、怒りを抱くよりも悲しみに足が止まってしまっている。先生が何かの拍子で、ひょっこりと起き上がってくれるのではないか何て、夢みたいな事を想っている。ただ現実から目を逸らし、無為に心を慰めている。

 そしてヒフミは、そこから踏み出す為の一歩をいつまでも躊躇っていた。

 

「ヒフミ」

「ッ!」

 

 不意に、部屋の中に声が響いた。

 はっとした表情で扉の方に顔を向ければ、微かに開いた扉の向こうから見覚えのある顔が覗いていた。その人物にヒフミは表情を輝かせ、思わず背筋を正す。

 

「あ、アズサちゃん! 良かった、無事で――」

 

 叫び、彼女の元に駆け寄ろうとした。

 数歩足を踏み出して――けれど、ふと足が止まる。

 

「アズサ、ちゃん……?」

「………」

 

 彼女の纏う雰囲気が――いつもと違う。

 昏く、淀んだ気配、いつもの凛々しく、どこか超然とした姿の彼女ではない。どちらかと云えば最初にあった頃の彼女の空気感に近いだろう。

 アズサは、ヒフミの声に何も答えない。

 扉の影となって見えないその表情、良く観察すればアズサの制服はボロボロで、所々擦り切れ、穴が空き、微かに血と硝煙の匂いが漂っていた。戦闘があったのは確かだ、ヒフミはそんな彼女の変質した気配に戸惑いを隠せない。

 

「ヒフミとコハルも……無事で、本当に良かった」

「アズサ……?」

 

 コハルが、鼻を啜りながら振り向く。声で彼女に気付いたらしい。流れ落ちる涙をそのままにアズサを注視するコハルもまた、彼女の異様な雰囲気に目を瞬かせる。

 アズサはヒフミとコハルをじっと見つめ、数秒何かを堪える様に俯くと、ぽつぽつと言葉を漏らした。

 

「……今、学園は大変な事になっている」

「し、知っています、その、ハナコちゃんが指揮を執っていて、ミカ様が……!」

「これを、誰かが止めなくちゃいけない」

 

 強い口調だった。

 どこか、責任を感じさせるような物言い。

 後悔と悲哀、そして強い決意を滲ませた声。

 ぎゅっと――握り締められたアズサの手が、軋む音を立てるのが分かった。

 強く、強く、血が滲み出しそうな程に握られた拳。

 

「あ、アズサちゃん……?」

 

 ヒフミはその瞬間、何か表現できない悪寒を覚えた。心臓が一際強く鼓動を刻み、足元が崩れていく様な感覚。血が、凍って行くような緊張。

 また、これだ。

 ハナコの時と同じ――アズサが、何処か遠くに行ってしまう様な。

 酷い悪寒と恐怖、それに突き動かされヒフミは一歩、二歩、アズサへと足を進める。そして彼女に触れようと、引き攣った口元をそのままに手を取ろうと腕を伸ばした。

 

「アズサちゃん、何で、そんな顔で――」

「来ないでッ!」

「ッ!?」

 

 悲鳴染みた叫びが、部屋の中で木霊する。

 鼓膜を叩くそれに思わず背筋を震わせ、ヒフミの足がその場に縫い付けられた様に止まった。俯いたアズサの顔は、まだ見えない。

 

「あ、アズサ、どうしたの、何でそんな、怖い顔をしているの……?」

「………」

 

 唐突な叫びに、コハルは恐る恐る問いかける。アズサは小さく肩を震わせ、唇を強く噛み締めた後、ゆっくりと口を開く。

 

「……ありがとう、ヒフミ、コハル――でも、ここから先には来ちゃいけない」

 

 そう云って彼女は、緩く首を振る。頭上の電灯が瞬いた、彼女の立つ扉の前には光が届いていない。明るく照らされたヒフミ達の立つ場所と、影になった彼女の立つ場所。それはまるで何かを暗示しているかのように区切られ、光と闇を隔てている。

 

「此処から先は……私の居る場所(陽の当らない場所)だから」

 

 昏くて、辛い、裏側だから。

 

「ヒフミも、コハルも、ハナコも、聖園ミカも……日向で過ごせる筈の、そんな生徒だから、だからこれ以上、こっちに来ちゃいけない」

「あ、アズサ……? なに、云って――」

「わ、分かりません、アズサちゃんが何を云っているのか……私じゃ、何が駄目なんですか……?」

「………」

 

 ヒフミとコハルは戸惑ったような声を上げる。彼女の云おうとしている事が分からない、理解出来ない。自分は、自分達はただ、彼女の手を取って――。

 一歩、アズサが退いた。彼女の身体が深い闇に覆われる。表情どころか、その体すらも影になって朧気になる。そんな中で、彼女の白い髪だけが鈍く輝いていた。

 

「――人殺し」

 

 ぽつりと、アズサは呟く。

 それは、酷く冷めきった声だった。

 

「人を殺してしまったら、もう……友達ではいられないだろう?」

 

 そう云って、彼女は顔を上げた。ゆっくりと、静かに。

 僅かに差し込む電灯の光が彼女の顔を照らし、その半分が目に映る。

 アズサは、今にも泣き出しそうな顔で笑っていた。

 

「なに、を……」

「私のせいだ」

 

 この、誰もが憎悪に駆られる結末となったのは。

 

「私のせいで――皆が傷付いて、先生は……」

 

 そう云って彼女は、拳を握り締めたまま一筋の涙を零す。その小さな体に、背負いきれない程の罪悪を背負って。その背が微かに丸まり、アズサは懺悔するかのように言葉を吐き出す。

 

「セイアが昏睡状態になったのも、学園が破壊されたのも、ハナコがあんな顔をするようになってしまったのも、全て、私のせい」

 

 以前の騒動も、今回の騒動も。

 私が、アズサが、このトリニティに踏み入らなければ。

 彼女達と関わり合う未来を選んでいなければ。

 そもそも、起きる事が無かったかもしれない。

 

 そんな「もしも」を今考える事に意味はない。

 けれど、確かにこの未来を選んだのは――自分自身だから。

 その双眸がヒフミを、コハルを射貫く。強い悲壮と、覚悟を秘めた瞳だ。彼女はそんな、確固たる意志の下に告げた。

 

「だから――責任は、私が負う」

「ち、違います! アズサちゃんのせいなんかじゃありませんッ、それは――っ!」

 

 胸元を掴み、ヒフミは咄嗟に叫んだ。

 これは、誰が悪いとか、誰のせいだとか、そんな誰かの責任の下に出来る話ではない。少なくともアズサがひとりで背負い込む様な話ではないと、そう断言できる。私達に何の咎がある、何の罪がある、そんな思いを込めて言葉を発する。

 

「先生だって、そんな事……ッ、望むはずが……!」

「……ヒフミ」

 

 必死にその想いを、自身の感情を吐露するヒフミに対し、アズサはどこか悲し気な笑みを浮かべて云った。それは余りにも儚く、吹けば飛んでしまいそうな色を孕んでいた。

 

「この世界に、ハッピーエンドなんて存在しないんだ」

「―――」

 

 今日は、平穏な日だった――そうなる筈だった。

 今日、皆で笑いながらカフェで話した内容。どんな結末が好きなのか、どんなエンディングが好きなのか。それを語り合い、ヒフミはハッピーエンドが好きだと語って聞かせた。

 賛同は得られなかったけれど、アズサは確かに、ヒフミが好きならきっと、悪くない結末なのだろうと云ってくれた。誰も不幸にならない、誰も悲しまない、最後は皆が笑って大団円。笑顔に溢れ、幸せに溢れ、光に満ちたまま終わるエンディング。

 けれど――それは、どこまで行っても物語の中の話で。

 

 現実(キヴォトス)は、昏くて、辛くて――どこまでも苦しい。

 

 それを証明するかのように、アズサは自身の背嚢から見慣れたガスマスクを取り出した。そして、それをじっと見下ろしながら淡々とした口調で呟く。その手には、力が籠っていた。

 

「私は、今からサオリのヘイローを破壊()しに行く」

「ッ!?」

「ハナコや聖園ミカが、此方側(陽の当らない場所)に来てしまう前に、やらなくちゃいけない」

「ま、待ってよアズサ!」

 

 コハルが、思わず叫びながら足を進める。涙と鼻水に塗れた顔で、焦燥を滲ませながら叫ぶ。

 

「そ、そんなのって、何か……何か、別な方法が、きっと……!」

「コハル」

 

 低く、平坦な声が彼女の叫びを遮った。乾いた、昏く淀んだ瞳がコハルを射貫く。今まで一度も、そんな目で見られた事はなかった。無味乾燥で、無感動で、何処までも無機質な視線。それに貫かれたコハルは、思わず喉を引き攣らせる。

 

「私は、そういう風に育てられた存在なんだ」

「っ……!」

「それが当たり前の場所で、どうやって人を殺すかを教わり、実践し、訓練して来た――だから元々、私達は住む場所が違ったんだ」

 

 そう――自分(アズサ)は、どこまで行っても日陰の生徒。

 アリウスで生まれ、アリウスで育てられ、そこでこの世の真実を知った。

 すべては無意味で、虚しくて、意味など無いと。

 それが、世界の真実だと。

 

 射撃訓練場の片隅に咲いていた、一輪の野花。

 小さくて、無意味で、無価値で、硝煙の匂いに塗れたソレ。それをじっと見つめ続ける自分を思い返す。風に揺れ、散らばった空薬莢の中に佇むそれは力強く、罅割れたコンクリートブロックの下から、微かな青を世界に見せつけていた。

 

 その花に、意味はあったのだろうか?

 その花に、価値はあったのだろうか?

 

 どうせ直ぐに枯れてしまうのに。

 何かの拍子で直ぐに散ってしまうのに。

 周りはコンクリートに固められて、仲間だって居ないのに。

 気まぐれに踏み潰されてしまうかもしれないのに。

 ひとりぼっちで、砂利に塗れて花を咲かせて。

 一体、その花は――何の為に咲いたのだろうか?

 こんな、全てが無意味で、虚しくて、苦しいばかりの世界に。

 

 小さく、息を吸い込む。

 これまでの時間を思い返すように。

 彼女達(補習授業部)との思い出を噛み締める様に。

 そうして再び顔を上げたアズサの表情は――はにかんだ様な笑顔だった。

 

「私が皆と一緒に居られた時間は、甘い夢の様な時間だった――そう、所詮は夢……こんな私が、補習授業(みんな)と同じ世界になんて、いられない」

 

 彼女達とはもう、一緒には居られない。

 輝きは一瞬だ、閃光の様に、その光は瞬き消える。

 それが彼女にとっての青春(ブルーアーカイブ)、その一瞬こそがアズサの全てだった。

 こんな虚しく、無意味な世界で咲いたアズサの。

 けれど。

 野花(アズサ)は想う。

 

 この世界で精一杯咲いた事に――意味はあった。

 

「補習授業部と一緒に居れて、楽しかった、本当に……こんな私を、友達だって云ってくれてありがとう、凄く、嬉しかった」

「アズサちゃん……」

「アズサちゃんって、呼んでくれてありがとう、少しむず痒かったけれど、今はそう呼ばれると暖かい気持ちになれるんだ」

「アズサちゃん……っ!」

「可愛い縫い包みも、ありがとう、生まれて初めて貰ったプレゼントは凄く嬉しかった、合宿で一緒に過ごした事、海に連れて行ってくれた事、楽しい思い出が一杯で……可愛いものが、綺麗なものが、世界にはこんなにも沢山あるんだって――知らない沢山の事を、教えてくれてありがとう」

「アズサちゃんッ!」

「補習授業部で過ごした毎日は――私にとって、一生の宝物だ……っ!」

 

 アズサの顔が、ゆっくりとマスクに覆われる。その向こう側から、ぽろぽろと大粒の涙が流れていくのが見えた。それは頬を伝い、顎先を伝い、冷たい床に幾つもの染みを作り出す。引き攣った喉を、震えた肩を隠す事も無く、アズサはその顔を完全に覆い隠す。

 それは決別だった。

 彼女なりの――暖かな陽だまりとの。

 

「――学ぶことは、本当に楽しい事だった……皆と一緒に作った思い出を、私は死んでも忘れない、ほんの……瞬きの様な時間だったけれど、私には十分すぎる程に恵まれた時間だったんだ」

 

 その身を翻し、アズサは背中を向ける。扉の向こう側へ、暗闇の方へと足を進めていく。その白い輪郭が、彼女の姿が――消えて行く。

 

「ありがとう、ヒフミ、コハル……ハナコにも、そう伝えて欲しい」

「アズサ……っ!」

「アズサちゃんッ!」

 

 ヒフミは、コハルは、叫んだ。

 精一杯、あらん限りの声で彼女の名前を呼んだ。

 一歩、踏み出す。ヒフミは彼女の背中を追おうとして、けれど情けなく震える足に気付いた。膝が震える、嘗てない程に力なく。そんな自分の膝を思い切り叩いて、涙を流しながら殴りつけて、彼女は前に進もうとする。

 けれど、恐怖が、不安が、暗闇が――ヒフミの足を地面に縫い付ける。

 

「だ、駄目です、待って、待って下さいッ! まだ、まだやりたい事が沢山あるって、そう云ったじゃないですかっ!?」

 

 震えた膝で一歩を踏み出し、その場で躓いた。床に倒れ込み、バッグを放り出しながらヒフミは呻いた。ペロロバッグが床の上を滑り、肩を強く打ち付ける。それでも、彼女は必死に手を伸ばす。暗闇の向こう側に進み続けるアズサに――彼女の小さくなっていく、その背中に。

 

「つ、次は他の皆も一緒に海に行こうってッ! そう約束したじゃないですか……! まだ一緒に、ペロロ様の冒険アニメだって見れていない、劇場版だってッ……!」

 

 約束した、約束したのだ。

 ハッピーエンドは悪くないって、そう云ってくれた。

 だから一緒に劇場版を見ようって、そのアニメ版だって。

 本気だった、本当に、心の底から楽しみにしていた。

 

「一緒に深夜のファミレスに行ってドリンクバーだけでお喋りしたり、お祭りにも行ってみたいって! 遊園地や、水族館っ……見たいもの、行きたい場所が、沢山あるってッ!」

 

 補習授業部みんなで行きたい所、やってみたい事、見たいもの、知りたい事。

 まだまだ沢山ある。見せたいものだって、知って欲しい事だって。

 だから――!

 そう云って、ヒフミは叫ぶ。必死に手を伸ばす。涙を零し、大口を開けて、彼女に声を届ける。

 

「行かないで……っ! アズサちゃん、駄目です、待って下さい! だって、私達はッ!」

 

 友達じゃないですか――!

 

「アズサちゃんッ!」

「――さようなら、みんな」

 

 けれど、彼女が最後まで振り返る事は無く。

 その背中は――昏い、暗闇の中へと沈んで消えた。

 

「ぅ……あ、あぁ――」

 

 力なく、垂れる指先。

 腕を地面に打ち付け、ヒフミはその場に蹲る。口から、酷く情けない声が漏れ出た。額を床に押し付け、呻く、歯を食い縛る。酷く感情が揺さぶれた、心が壊れてしまいそうだった。

 両手を握り締めて震える彼女の元に、コハルは駆け寄り、その肩を抱き締める。二人の顔は涙に塗れていた。赤く腫れ上がり、もうこれ以上ない程に刻まれた悲しみが、深い影を落としている。

 

「ひ、ヒフミ……」

「どう、して――」

 

 呟き、ヒフミは目を瞑る。深い皺を作りながら、嗚咽を零し呟く。

 

「わ、たし……は――どうしたら……ッ!」

 

 誰もが、バラバラになっていく。

 あれ程強固な絆で結ばれていたと思っていた補習授業部が、バラバラに。

 あの暖かく、陽だまりに満ちていた場所は、半分以上の者が去り、残ったのはヒフミとコハルだけ。あれ程賑やかだった場所も、もう二人ぼっちだ。

 去って行ったハナコを、アズサを想いヒフミは涙を零す。

 もう、立ち上がる事も、叫ぶ事も出来ない。

 その力が、その心の強さが――ヒフミには残っていなかった。

 

「ヒフミ、ヒフミ……な、泣かないで……!」

「こ、コハルちゃん……」

 

 その肩を、身体を、抱き締めながらコハルはヒフミの背を擦る。コハルに抱かれながら、ヒフミは目を強く瞑り、呟いた。

 

「……先生――私は……」

 

 その声が、誰かに届く事は無い。

 

 ■

 

 どれだけの時間、そうしていただろうか? 何時間もそうしていた様な気がするし、まだ数分しか経っていない様な気もする。心が摩耗する程、擦り切れる程、時間の感覚は曖昧になっていく。

 先生の死、ハナコの離反、アズサの出奔、度重なったそれらにヒフミの心は罅割れ、砕ける寸前となっていた。

 もう、どうにもならない。

 どうする事も出来ない。

 そんな諦めとも、諦観とも云える感情が彼女の中を支配する。徐々に手足から力が抜け、瞳が色褪せていく。彼女の精神を支えていたものが、崩れていく。その実感が、感覚があった。

 

「っ、ひ、ヒフミ……!」

「――……コハルちゃん?」

 

 蹲り、力なく目を伏せ涙を流していたヒフミの耳に、コハルの声が届く。

 震えた声で、涙に塗れた声で――けれど確かな意思を込めて彼女は云った。

 

「ずびッ……わ、私は、アズサを追う……!」

「っ!?」

 

 その、決断に。

 自身の踏み切れなかった線の向こう側に踏み出そうとするコハルに、ヒフミは息を呑む。思わず俯いていた顔を上げれば、そこには瞳を濡らしながらも前を見据える、コハルの姿があった。

 

「ハナコも……み、ミカ様も、アズサだって、止めなきゃ、駄目……!」

 

 告げ、コハルはゆっくりと立ち上がる。震えた足で、恐怖と不安に塗れた表情で。大粒の涙を零しながら。

 それでも、己の足で――立ち上がる。

 

「私、馬鹿だから、アズサが今、どんな状況で、どういう気持ちで私達を置いて行ったのかなんて、ぐずッ、ぜ、全然分かんない! ハナコが何を考えているのかも、何をしようとしているのかも……ッ!」

 

 コハルは、今を以て尚何が起こっているのかを全て把握していない。ただ、エデン条約の調印式があって、気付いたら爆弾が投下されていて、先生が亡くなって、皆が怒り狂って――アリウスを攻撃しようとしている。分かっているのは、それだけだ。

 ハナコが何を考えているのか、ミカが何をしようとしているのか、アズサがどうして私達を置いて行ったのか。何も、何も分からない。

 何か事情があるのかもしれない、自分には分からない特別な理由があるのかもしれない。

 だから、これから自分がやろうとしている事が、想っている事が見当違いの可能性だってある。間違っているのは自分かもしれない。正しいのは、皆の方かもしれない。

 そんな思いがある、懸念が、不安があった。

 それでも。

 

「でも……でもぉっ!」

 

 手を握り締め、叫び、背を丸める。

 肺一杯の空気を使って、彼女は叫ぶ。

 訴える。

 

「先生は、絶対にそんな事は望まないってッ! して欲しいなんて、絶対に思わないってッ! それだけは確かだから! あ、アズサが人を殺したり、ハナコが、誰かを傷付ける事を、喜んだりしないからッ!」

「こ、コハルちゃん……」

「だからっ、わ、私はアズサとハナコを止めなきゃって……! お、思って……ッ!」

 

 俯き、必死に、精一杯吐き出す想い。

 誰かに傷つけられて、苦しい事は分かる。

 その恨み辛みを、苦しさを、憎悪に変えてしまう事も分かる。

 自分だけやられて、どうしてやりかえしちゃいけないのだって、そう思う事も――理解出来る。

 

 けれど、先生は絶対に、そんな事を望まないから。

 生徒達が憎しみ合う未来を、選ばないと知っているから。

 何も分からない、勉強も出来ない、馬鹿な自分にも分かる――それだけは、確かな事だから。

 

「う、うぅ……ぐ、ぅ……!」

「………」

 

 項垂れ、呻くコハルを見つめるヒフミは小さく息を吐き出す。何かを云うべきだと思った。その考えに賛同する声だとか、頷きだとか、そういう事をするべきだと思った。

 けれど、胸の中に渦巻く感情は別だ。理性が、彼女の培ってきた人生観が伸ばそうとする手を縛り付ける。

 

「で、でも……」

 

 声は小さく、震えていた。自身の両手を見下ろすヒフミ。小さくて、何も掴むことが出来なかった――弱々しいの掌。

 あのアズサの背中を、その手を掴むことが出来なかった。

 その弱い自分が囁く。

 

「私達に、何が――何が出来るのですか……? 先生も居ない、ただの、普通の生徒です……私達は、普通の生徒なんですよ……?」

 

 (ヒフミ)は。

 何の特徴も無い、何の強みも無い、ごく普通の、何て事の無い日常の中で生きる一生徒だ。

 私よりも強い人も、立場のある人も、凄い特技を持っている人も、才能を持っている人も、頭の良い人も――沢山居る。

 そんな人達が立つ場所に、アズサちゃんが踏み込もうとしている世界に向かって。

 自分みたいな一般人が飛び込んで、一体何が出来るというのだろうか?

 

 考えれば考える程、場違いで、思い上がりで、馬鹿げた事だと理性が告げる。

 あの一ヶ月。補習授業部として活動していた一ヶ月、まるで自分が主役の様に、主人公の様に進むことが出来たのは先生が居たからだ。

 手を引く大人が居たからだ。

 けれど今はもう、補習授業部はバラバラで、先生も居ない。

 

 阿慈谷ヒフミ(平凡な私)に出来る事なんて――なにもない。

 

「そんな私達に、一体、何が――」

「そんなのッ!」

 

 ドン、と。

 コハルが足を踏み鳴らす。両手を突っ張り、思い切り叫んだ彼女の声がヒフミの鼓膜を強く揺さぶった。

 はっと顔を上げた彼女の瞳に、涙を零しながら訴えるコハルの顔が映る。その、睨みつける様な視線がヒフミの底、深い部分を揺さぶった。

 

「私にだって分かんないよ……ッ! こ、怖いし、まだ訳分かんないし! 胸の中はぐちゃぐちゃでッ! ず、ずっと泣いていたい……ッ! 立ち止まっていたいッ! でも……!」

 

 コハルの脳裏に過る、補習授業部として生活した日々。

 楽しい事も、苦しい事もあった。勉強合宿の筈だったのに、勉強以外の事も沢山あって、知らない内に大変な事に巻き込まれて。何度も諦めそうになった、何度も愚痴を吐いた、もうだめだと思って膝を突いて、そこから更にもう一歩……もう一歩だけと歩く日々だった。

 思い出だった、コハルにとって、とっても大切な。

 その思い出の最後に――彼女は知った(学んだ)

 

 ただ、涙を流すだけでは駄目なのだ。

 ただ、その場に蹲るだけでは駄目なのだ。

 

「でもぉッ!」

 

 小さな手を精一杯握り締め、コハルは想う。

 

 ――あの人(先生)は、少しずつでも進む私達を信じていたんだ。

 

「きっと、それ(人殺し)はッ……絶対にっ、正しくない事だからっ!」

 

 精一杯、全力で、コハルは叫ぶ。涙と嗚咽を零し、断言する。

 

 たとえ、自分の大切なものを奪われても。

 たとえ、それがどれだけ苦しく、耐え難い事であったとしても。

 たとえ、どれだけの絶望を味わったとしても。

 

 ――きっと。

 

「『それでも』って……先生なら、云うからぁ――ッ!」

「―――」

 

 ヒフミは、口を開こうとした。

 けれど言葉が、震えて出なかった。

 口元から漏れ出るのは揺れる吐息のみで、その目尻から涙が零れ落ちる。

 涙が頬を伝い、顎先から制服に染みを作った。

 

 コハルは知っているのだ。

 一人でいる事も、おいて行かれる事も、それがとても悲しく、辛い事だと。

 傷付けられる事、誰かを傷付ける事。誰かを恨む事、誰かに恨まれる事。それを延々と続けて行くことが、その復讐の連鎖を断ち切らずに紡いでいく事が――正しい事の筈がないのだと。

 彼女(コハル)の心が叫ぶ、それは決して正義なんかじゃない。

 ちっぽけで、何も出来ない弱々しい自分、そんな自分に貫けるものなんて高が知れている。

 だから心は――信念だけは。

 自分の中に残っている、きらりと光る小さな小さな正義(正しさ)だけは。

 

 ――絶対に捨てたくない。

 

 自分が、どれだけ辛い目に遭ったとしても。

 自分が、どれだけ苦しい思いをしたとしても。

 自分が、どれだけ涙を流す事になったとしても。

 (コハル)は、自分の信じる道を往きたい(自分の信じる正義を実現したい)

 

 それを示してくれた(先生)が居たから。

 

「そう、ですよね……」

 

 ヒフミの舌が、言葉を紡ぐ。

 震え、力の入らなかった拳を握り締め、ヒフミはゆっくりと立ち上がった。覚束ない足取りだ、未だ体調は十全ではなく、腫れ上がった目元は痛々しい。けれどそれは、コハルだって同じだ。同じなのに彼女は、自分の力で立ち上がった。

 

 そうだ、先生ならきっと――そう云う筈だ。

 

 胸の内に湧き上がる感情、それは決して怒りや憎しみなどではない。

 正しい事を、自分の信じる道を往く為に必要な感情。

 前を向いて歩く為の、暗闇の中で光る一筋の希望。

 

 人はそれを――勇気と呼ぶ。

 

「放っておく事なんて、できませんよね……!」

 

 言葉を噛み締め、ヒフミは奮起する。息を大きく吸って足踏みする。自分の存在を確かめる為に、震える足を叱咤する為に。自分は此処に居る、こうして立っている――まだ、生きている。

 

 忘れていた、自分の肩書。

 補習授業部として生活する中で知った事、学んだ事が沢山あった。紡いで来た絆はまだ、切れてなどいない。

 叫んだのは自分だ、補習授業部(私達)ならどんな困難だって乗り越えられる筈だって、そう信じているって。

 他ならぬ自分が、最初にそう叫んだ筈なのだ。

 

 そんな自分が最初に諦めて一体どうする?

 

「――私は、補習授業部の部長なんです」

 

 そう、阿慈谷ヒフミは平凡な生徒である。

 彼女よりも強い人も、立場のある人も、凄い特技を持っている人も、才能を持っている人も、頭の良い人も――沢山居る。

 けれど。

 

 補習授業部の部長は――(ヒフミ)だけなのだ。

 

「だから、私は……私の、出来る事を」

 

 握り締めた拳を、胸元に押し付ける。零れた涙を拭う事無く、彼女は歯を食い縛る。コハルがあの合宿で学びを得た様に、ヒフミもまた学びを得た。

 補習授業部の絆は、こんな事で切れたりしない。一度バラバラになったって、置いて行かれたって、何度だってもう一度紡いで見せる。

 地面に横たわったペロロバッグ、その持ち手を掴んだ彼女は勢い良くそれを背負い直す。修繕され、ジッパーに結ばれた補習授業部人形が反動で揺れ動いた。

 後悔する事も、立ち止まる事もいつだって出来る。

 

 だから、私は――今、私の出来る事を!

 

「――全力で……ッ!」

 

 顔を上げ、アズサの立ち去った扉を見据える。その進む足取りに、もう迷いはない。

 胸に渦巻く不安も、恐怖も、彼女は全て飲み込んで。

 ヒフミはコハルに笑顔を向ける。

 

「友達を……助けないと、ですよね!」

「ぐずッ、う、うん……!」

 

 頷き、コハルもまたバッグを抱え直す。

 これから考えなければならない事、やらなければならない事が沢山ある。その道は困難に塗れているだろう、憎悪に呑まれ、皆と同じ道を往く事よりもずっと大変な筈だ。

 けれど――絶対に後悔はしない。

 それが正しいって、間違いなんかじゃないって、信じているから。

 

「――先生」

 

 振り返り、ヒフミは横たわる先生の骸に告げる。

 彼は何も云わない、何も答えない。それを知っていながら、彼女はその手を静かに握り締める。嘗ての温もりが失われた大きな手――先生の手だ。

 それに額を擦り付け、呟く。

 

「見ていて下さい、私を……私達を」

 

 補習授業部を。

 

「精一杯……っ」

 

 その目から零れ落ちる涙を、ヒフミは拭い。

 

「頑張り、ますから……ッ!」

 

 そして、その万感の想いを断ち切る様に――その手を放した。

 温もりが消える。けれど決して消えない希望がヒフミの胸に灯った。前を向くヒフミの瞳に、もう昏い色はない。

 

「行きましょう、コハルちゃん……! アズサちゃんと、ハナコちゃんの所に――!」

 

 告げ、歩き出す。

 その一歩は力強く、信念に満ちている。

 この争いを止める、二人を助け出す。

 そう、だって――。

 

「補習授業部の――友達の所に……!」

 

 私達(補習授業部)に、乗り越えられない困難などないのだから。

 

 ■

 

 ヒフミとコハルが立ち去った安置所。

 その中央に横たわる先生の骸。 

 冷たく、微動だにしないその身体の脇に退かされたタブレット(シッテムの箱)

 その罅割れた画面が――静かに、点灯を始めた。

 


 

 動き出す補習授業部。

 殺意に呑まれるキヴォトス。

 憎悪が憎悪を呼び、皆が敵を殺す事でのみ全ては解決されると信じている。

 

 本当はアズサが去った所で区切る予定だったんです。

 でもそれだと何か後味悪いし、可哀そうだなぁと思いましたので繋いで一度に投稿致しましたわ。

 

 個人的に、生徒の中でメンタル最強を決めるのならコハルだと思っているのですわ。それは決して感情が揺らがないという意味ではなく、折れるし、足を止めるし、癇癪を起こすし、愚痴だって吐くし、窮地に陥ると直ぐにネガティブ思考に走るけれど、『ここぞ』という所では絶対に折れない心を持っていると思うからですの。

 敵がどれだけ強大でも、自分の考えと反対の生徒が大多数であっても、彼女の心の奥にある正義、その在り方だけは絶対に曲げないと信じているんです。

 このシーンだけは、アビドス編を書いている最中に書き出して、「絶対本編に組み込んでやる(半年後)」と思っておりました。ちゃんと組み込めて一安心ですの。

 

 だからある意味、先生の思想というか、その在り方に一番影響を受けたのは彼女かもしれません。仮に先生がこのままくたばっても、彼女だけは最後まで「それでも……っ!」って云いながら皆を止めようとするでしょうね。う、美しい……。

 まぁ、最後はそれもベアトリーチェに踏み躙られますが。

 大人げねぇですわね~! そんなんだから舞台装置とか云われるんですのよぉ~?

 

 先生が居なくなってからまだ二話しか経っていないのに、先生出したくて仕方ない。けれど我慢、我慢ですのよ……! 此処からちらっと先生の精神世界に入って、裏側(ゲマトリア)の描写して、アズサとスクワッドをぶつけて、そこから漸く再起動ですの! 取り敢えず無くなった腕をぶらぶら見せつけながら生徒達のお見舞い行こうね! 先生!

 



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敵対者の証明

誤字脱字報告にかんしゃ~!


 

「―――」

 

 ゆっくりと、揺れる体。

 まるで眠気を誘う様に、上下に伝わる振動。宛らそれは揺り篭の如く、人を夢の世界へと誘わせる。二度、三度、跳ねるそれを感じながら彼は――先生は薄らと眼を開く。

 差し込む光、視界一杯に広がるソレに思わず目を細め、滲む視界の中で焦点を合わせる。

 

 ――白い車内。

 

 流れゆく雲に、照らされる朝日。窓から差し込む昇ったばかりの曙色が、車内に腰かけた先生に影を伸ばす。限りなく透明に近い白が先生の頬を撫でつけ、郷愁の念が擽られる。何か遠く、懐かしい、もう喪われてしまったそれに心惹かれてしまう様な、懐かしさ、切なさ、燻る寂寥感、それらを噛み締めながら呟く。

 

「此処は――」

 

 言葉を紡ぎ、先生は呆然と窓の向こう側に広がる朝日を、水平線を眺めた。

 どこまでも、何処までも広がる空、朝焼けと蒼のコントラストが反射した水面と二つの世界を織り為す。美しく、幻想的で、どこか儚く、脆い――頭上に瞬く星々は、まだ夜は終わらぬとばかりに存在を主張する。

 

 暫くの間、先生は車内を見渡した。窓の向こう側から差し込む光に目を細めながら、ゆっくりと。

 目前に広がった長椅子、微かな名残を感じさせる其処に彼女の姿はない。ただ、乾いた血痕が残るのみ。それらをぼうっと見つめながら、先生は頭を働かせる。

 先生の持つ、最後の記憶は。

 

 ヒナに抱きしめられながら――私は。

 

「……あぁ」

 

 不意に、吐息が漏れた。

 それは自身が最期に、どのようにして此処に至ったかを理解したからだ。朧げな思考が徐々にその靄を払い、視界が明瞭となる。ゆっくりと自身の身体を見下ろせば、酷くみすぼらしい衣服が視界に映る。血と砂利に汚れ、滲んだ包帯が巻き付けられ、失われた左腕はそのまま。ゆっくりと手で自身の顔を摩れば、頭部と右目を覆う様に巻き付けられた布、包帯の感触があった。恰好は、最後の瞬間と同じ。

 

 そうだ――私は。

 

「――失敗、したのか」

 

 呟きは、揺れる列車の音と混じり、掻き消された。

 大きく息を吐き出して、席に凭れ掛かる。柔らかな感触、両足を投げ出して窓の外を眺める先生。誰も居ない車内、緩やかに揺れる振動を感じながら、先生は暫くの間沈黙を貫いた。

 この場所では、痛みも、苦しみも感じはしない。背中に受けた銃撃の痛みも、失われた眼球の痛みも、千切れた腕の痛みも、何もかも――きっとこの場所でなければ碌に動く事も、こうやって思考を巡らす事さえ出来ないだろう。

 先生の身体は死に体ではない――最早、死体そのものだった。

 

 胸に渦巻く、複雑な感情。

 それはこの結末に至ってしまった自身に対する失望であり、悔しさであり、無力感であり。そして生徒に対する申し訳なさ、罪悪感、悲しさである。

 そう云ったものが綯交ぜになって、先生の表情を歪める。事、この場所に辿り着いてしまったのは自身の失態以外の何物でもない。彼女に託され、足掻きに足掻き、この様な手段を用いて尚――自分は夢見た明日を掴む事が出来なかった。その虚しさたるや、慙愧の念に堪えない。

 呆然とする先生は暖かな陽光に包まれながらも、その胸内で荒れ狂う感情を押さえつける。既に事は済んでしまった、自身の望んでいた理想の結末とは程遠く、今尚その世界は破滅の道を進もうとしている。

 今、この瞬間にも。

 

 ――諦めるという選択肢は存在しなかった。

 

 ゆっくりと、先生の瞳に光が宿る。もう手遅れなのかもしれない。此処から足掻いたとしても、何も変わらないかもしれない。或いは、更に悪化した未来を呼び寄せる結果となるかもしれない。

 

「でも……」

 

 呟き、先生は残った右手を掲げる。皮膚が擦り剝け、傷だらけで、爪の剥がれた汚れた手だ。けれど、必死に生きようと足掻き、伸ばし続けた手でもある。

 本来そこにある筈の彼女の手の温もりを幻視しながら、先生は指先を握り込む。

 向かい側から差し込む陽光が、先生を照らす。その世界を、暖かな世界を目に焼き付けながら先生は告げる。

 

「それでも――」

 

 声が、響いた。

 世界を、車内を、先生を照らしていた陽光。

 水平線の向こう側にて煌々と輝くそれが、先生の声に応えるかのように徐々に、徐々に翳り出す。

 

 陽射しが――傾く。

 

 朝を迎えようとしていた外界は、その色を変える。陽が水平線の向こう側へと沈み出し、夜の蚊帳が空を、世界を、先生を包み出した。白く、淡い光に覆われていたその場所は、冷たく、昏く――光の存在しない世界へと切り替わっていく。

 

 緩やかに駆けていた列車が少しずつその速度を落とす。振動が徐々に収まり、広がる夜空から星々が続々と流れ出した。

 水平線へと、地上へと堕ちていく流れ星。それを見つめながら先生は静かに立ち上がる。

 

 陽は沈み、星が堕ちようとも。

 そう――それでも、先生は諦める事をしない。

 もう、最善の未来が掴めないと知っていながら。

 まだ、守るべき子ども(生徒)達が残っているのなら。

 先生はどれだけ傷付き斃れても、立ち上がり、告げるのだ。

 

「――やらなくては」

 

 大人としての。

 先生としての。

 

 ――その、命を賭けるに値する責務を果たす。

 

 ■

 

【君が成りたい存在は、君自身が決めて良いんだよ】

【それが、大人のやるべき事だから】

【生徒達自身が、心から願う夢を、一緒に】

【大丈夫、いざという時の責任は、私が取るからね】

【私は生徒皆の味方だよ】

【ありがとう】

【諦める必要なんて、ないんだよ】

【遍く全ての生徒には、無限の可能性があるのだから――】

 

 ――だって。

 

 ■

 

 耳に届いていた走行音が掻き消える。確かな振動と共に駆けていた列車が、緩やかに停車した。微かに届く摩擦音、それを聞き届けながら先生は歩みを進める。

 壁に並ぶ乗降口、その前に立った先生は緩慢な動作で開く扉を見届けながら想う。

 

 この先行く道の果てで、己が最後まで彼女達と寄り添う事は叶わない。自身の夢見た理想の世界、生徒皆が笑い合える世界――その言葉には、実は続きがある。

 少し、欲張りかもしれないけれど。

 本当の、理想を語るのならば。

 

 生徒皆が健やかに育まれ、笑顔に溢れる世界である事。

 そして、その場所に先生()が在り、共にその道を歩き、彼女達が己の足で歩き出すその瞬間まで導く事が出来る未来。

 それこそが、先生にとっての大団円(ハッピーエンド)

 彼女達だけではない、先生自身もまた世界の一つ(ひとり)として、その道を共に歩む事が出来ればどれだけ幸福であっただろうか。

 その未来を想い、少しだけ笑みを零す。

 

 扉が開き、外気が車内に吹き込む。老朽化した線路、その足元には水面が広がっている。停車した列車の先に、道の続きはない。それは夜の中に溶け、消えてしまった。

 それは他ならぬ先生自身の未来を暗示している。

 

 地面に広がる水面を見下ろす、そこに映る自身の姿。傷だらけで、包帯塗れで、血が滲み、無様な格好だ。そんな自身を見据えながら小さく息を呑む。

 

 ――この場所で降りれば(途中下車すれば)、その夢見た理想は叶わない。

 

 けれど、それは半分だけだ。

 まだ、『生徒皆が笑い合える世界』という、先生の理想、その半分は叶えられる可能性が残っている。その未来に自分は残っていないのかもしれない。けれど、この身を対価に、その得られたかもしれない幸福を対価に――生徒達が健やかに育まれる世界が作れるのならば。

 先生は、躊躇わずその道を選ぶ(自身を差し出す)

 

 ――だって。

 

「私は、先生だからね」

 

 そう云って、先生()は一歩を踏み出す。

 水面に差し込まれる足先、そこから波紋が広がり、夜空を流れる星々が加速する。波紋は広く、大きく波及し、世界全体に揺らぎを起こす。一歩、二歩、先生は水面を歩き出す。その列車から離れる様に、夜に覆われた世界を歩き出す。

 背後から、列車の扉が閉まる音がした。

 もう二度と、戻る事は出来ないと、そう云いたげに。

 奇跡とは――そういう(不可逆な)ものだ。

 

 けれど、それで構わない。

 先生は絶対に、躊躇いはしない。

 それが自身にとって、どれ程の苦痛と後悔を齎そうと。

 この道の先に、生徒達の未来があるのならば。

 

 先生()は、何度でも同じ選択をするだろう。

 

 それが例え――どんな方法だったとしても。

 如何なる代償を支払う事になったとしても。

 

 ■

 

「ッ……!」

 

 アリウス自治区――バシリカ。

 崩れ落ちた聖堂、罅割れ砕けたステンドグラス。何処までも広がる夜空に瞬く星々、そんな領域の中でひとり祭壇に腰掛けていた彼女、ベアトリーチェは身を貫く様な悪寒に思わず立ち上がる。

 それは唐突に齎された感覚だった。肌を焼く様な光の到来、或いは気分を害すほどの胸騒ぎ。予感――否、最早それは彼女にとって確信に近い。

 顔を覆う翼を模した朱い眼球が、一斉に虚空を睨みつける。

 

「これは、まさか――あり得ません」

 

 思わず、そんな言葉が零れ落ちる。

 アリウス・スクワッドから先生の殺害完了報告は届いている。他の生徒も派遣し、その情報の裏も取った。流石に骸を確認する事は叶わなかったが、それでも周囲の生徒、及び先生関連の生徒の動きから推察するに確かな情報である。

 先生は死亡した――このベアトリーチェの策略によって。

 

 だというのに、ベアトリーチェはたった今、ほんの数秒前。

 先生の放つ特有の気配を、その生命の息吹を微かに感じ取った。

 あのアビドスでの敗北以降、ベアトリーチェは先生の放つ、その独特な光の波長を感じ取り易くなっていた。生命には独特のリズムと色がある、それは先生の様な人間でもそうだし、彼女にとって駒でもある生徒達にも存在する。ベアトリーチェは第六感で薄らとだがそれを感じ取り、希望の有無を見分ける事が出来た。

 特に、先生の強大なソレは分かり易い。

 傍に居るだけで肌を焼く様な、直視できない程の眩い光がある。

 

 自身の勘違いか、単なる錯覚か?

 そう自身に問い掛けるも、彼女の本能は否定を返す。

 

「いえ、しかし、この感覚は……ッ」

 

 そう、これ程心胆寒からしめる気配を、彼女は他に知らない。

 

「――ベアトリーチェ」

「ッ!」

 

 バシリカに声が響いた。それはベアトリーチェのものではない。機敏な動作で振り向けば、そこには暗闇の中に同化するような形で黒服が立っていた。微かに頬へと流れた冷汗をベアトリーチェは拭い取り、努めて冷静を装って口を開く。

 

「……黒服ですか、何用です? 此処は私の領域ですよ」

「今回の件について、聊か抗議を」

 

 そう云って黒服は、暗闇に紛れたままま言葉を紡ぐ。彼の罅割れた肉体から覗く、白い陽炎が闇の中で蠢くのが良く見えた。今回の件についての抗議――十中八九、先生に行った襲撃についてであろう。彼の言葉に、ベアトリーチェは鼻を鳴らしながら尊大に告げる。

 

「何を今更――私達は他者の方針に口を出せる程、親密ではありません、同じ方向を向きながら異なる道を行く、それがゲマトリアである筈、手段は兎も角、最終的な目的については一致する見解を得ていたでしょう?」

「えぇ、その事に異論を挟むつもりはありません、ですが……」

 

 黒服の指先が自身のスーツに掛かり、襟を正す様にして持ち上げられる。その視線は微動だにせず、怒りも無ければ戸惑いもない。蟲の様な無機質さが、そこにはあった。

 

「件の古代兵器(オーパーツ)、その出所が気になりましてね――巡航ミサイル、確か似たような技術は既に発掘、分析されておりましたが、あのような古代兵器を発見したとの報告は受けておりません」

 

 黒服が把握する範囲の中で、彼女がそのようなオーパーツを入手、或いは発掘したとの報告は受けていない。それはベアトリーチェからもそうだし、他のゲマトリア――マエストロやゴルコンダ、デカルコマニーからも同様。ましてやその発射位置が、『宇宙(そら)』ともなればどうしても感じ取ってしまう。

 

 ――あの、名もなき神に仕えた者共の存在を。

 

「よもや、無名の司祭と接触したのではと、そう勘ぐってしまったのですよ」

「………」

 

 どこか、彼らしからぬ色を孕んだ口調。ベアトリーチェは彼の言葉から、決して薄くはない警戒心を感じ取った。それにベアトリーチェは口を閉ざし、二人の視線が交差する。

 

「儀式の概要は大まかにではありますが理解しております、それが外なる力を利用するものである事も――ですが、もしあなたがアレを呼び寄せようなどと考えているのならば」

「愚問ですよ、黒服」

 

 忠告の様な黒服の言葉、それに重ねる様にベアトリーチェは扇子を突き出した。先端が黒服の視線を遮り、ベアトリーチェは小さくドレスの裾を払いながら答える。

 

「私は何度も同じ事を口にする程、お人好しではありません――故に告げるのは、もう一度だけ」

「………」

「私の往く道に、口を挟むな」

「ククッ……分かりました、これ以上の問答はやめておきましょう」

 

 苛立ちを含んだ声に、黒服は肩を竦め自身の質問を撤回する。

 ゲマトリアは各々が異なる手段、方法を用いて己が目標を達成しようとする集団。最終的な到達点は、異なる表現であっても大きな違いはない。しかし、そこに至るまでの道筋は千差万別。己の美学に従う者、己の定めたルールに沿って進む者、己の解釈に基づいて道を探す者、そして――如何なる手段であっても躊躇しない者。

 その在り方に優劣はない、ゲマトリアが定めた資格、そして同胞に対して明確な不利益を被らない限りあらゆる道は肯定される。

 

 黒服はベアトリーチェの解答に、どこか満足気に頷いていた。そのまま踵を返し、バシリカを後にする素振りを見せる。しかし、ふと思い出したように足を止めた彼は、背中越しにベアトリーチェを見つめ口を開いた。

 

「――あぁ、それと最後に一つだけ……銀狼さんが、あなたを探しておりましたよ、それこそ血眼になって」

「………」

「貴女が領域を彼女に探知されないようにしている事は重々承知ですが……万が一戦闘になった場合、最早、私にも止める事は難しい、彼女もまた歪とは云え器の一つ、私では手に余る力を有しておりますから」

「止める気もない癖に、良く云います」

「クククッ――では、失礼しますよ……ベアトリーチェ」

 

 揶揄いであろうか、或いは本当にただの忠告なのか。戸惑いを見せながら黒服を見つめるベアトリーチェは、不意に扇子を開く。

 

「……てっきり」

 

 再び足を止めた黒服、その背中に向けてベアトリーチェは言葉を投げかけた。 

 

「先生に対する攻撃行為、それに対する抗議かと思っていましたが……」

「ふむ――」

 

 ベアトリーチェは、黒服が態々このバシリカまで足を運んだのは先生に関する抗議だと思っていたのだ。しかし、予想に反して黒服の口から出たのはオーパーツの出所と無名の司祭との接触、その有無に関してのみ。

 先生に対して攻撃的行動を起こした事も、その命を奪った事にさえ彼は言及しなかった。黒服は傍から見ても、先生と云う存在にかなり傾倒していた様に思う。

 それを意外そうな表情と共に吐露すれば、黒服はどこか考え込む様な素振りを見せ、云った。

 

「ベアトリーチェ、あなたは一つ、勘違いをしています」

「……?」

「先生は真に、ゲマトリアの資格を持つ者――ゲマトリアは探求者であり求道者、狂気こそが我々の打破すべき宿敵……そして彼の者は既に、その果てに辿り着いている」

 

 黒服はそう告げ、その表情を喜悦に歪める。

 ベアトリーチェの思考は正しい、全く以て間違ってなどいない。黒服は先生を、その在り方を、精神性を高く評価している。それこそゲマトリアの中で彼の者を一番評価しているのは自分であるという自負がある程に。

 

「狂気を乗り越え、ただ一つの望みを求め歩み続ける、その足取りに迷いはなく、既にその精神は一つの【真理】に辿り着いています、あの精神性、あの在り方こそ、ゲマトリアが真に欲した求道者足るもの――確かに、相容れぬ部分もあるでしょう、その道を理解出来ぬのも仕方なき事、しかし……それで()いのです」

 

 そう、理解出来なくとも良い。

 今、理解せずとも構わない。

 何故なら――。

 

「我々はその往く道に、口を出せる仲ではないのですから」

「………」

「クククッ」

 

 理解出来るのならば、それは理想的だ。しかし狂気とは、美学とは、信念とは、矜持とは、時として理解を得られないものだ。その道が険しければ険しい程、高みに届く程に長い程、それは明確に理解出来ぬものとして扱われる。

 

 肝要なのは、認める事。

 

 理解出来ずとも、そう在るものとして受け入れ、糧とする。あらゆる要素を、道を、思考を、認め、受け入れ、考察する事。

 軈て分析し、解析し、知る事が出来れば、何れ自身の知らぬ(未知)を理解出来る日も来よう。

 そうでなければ、神秘の解明など夢のまた夢――。

 

 故にこそ、ゲマトリアはあらゆる存在を認めて来た。どの様な異形であれ、どのような信条であれ。それこそ、ベアトリーチェの様な者でさえ。

 どこか、含むものを感じさせる声だった。意趣返しのつもりか、くぐもったそれを響かせ黒服は静かに背を向ける。

 

「先生は必ずあなたの前に辿り着くでしょう、それこそ――どの様な姿となっても」

「……知った風な口を」

「えぇ、知っておりますとも、何せこのキヴォトスに於いて先生は最も私の興味をそそる存在ですから、ゲマトリアへの加入を認めて下さるのならば、どのような対価であろうとも惜しくはありません……そう、文字通りどのような代価も――ククッ!」

 

 肩を震わせ、喜色を漏らす黒服。その言葉に、ベアトリーチェは思わず息を呑んだ。脳裏に最悪の予測が浮かんだのだ、先生の命を奪う様な行為――それを知って尚、彼の態度が一貫して変わらない理由。

 それに、心当たりがある。

 

「黒服……まさか、あなたは――」

「……少々喋り過ぎた様です、ですがまぁ、他ならぬ貴女です(結末の決まった者)、大きな変化が生まれる事はないでしょう」

「………」

「それでは私はこれで」

 

 その足が靴音を鳴らし、暗闇へと彼の姿は溶けていく。最後に振り返った黒服、その白い陽炎だけが浮かび上がった状態で、彼は穏やかに告げた。

 

「――良き最期を、ベアトリーチェ」

 

 掻き消える姿、その輪郭。自身の領域へと帰還したのだろう、その気配は既に微塵も感じられない。それを見届け、ベアトリーチェはひとり歯噛みする。

 凡そだが――彼の狙いが見えた、その魂胆も。彼はこうなると知っていた、或いは予測していたのだ。しかしそれを止める事も、介入する事も無く見届けている。

 何故か?

 その方が彼にとって都合が良いからだ。

 生徒達の憎悪、そして先生の注意、その目を一身に受ける者が居る事自体が黒服にとっての利益となる。

 そして恐らく、彼奴の本当の狙いは、先生を――。

 

「……意地があるのですよ、大人(わたし)にも」

 

 呟き、ベアトリーチェは扇子を勢い良く閉じる。再び祭壇に腰掛けた彼女は、砕け、罅割れたステンドグラスを見上げる。其処に描かれた不気味な光、外なる存在、ゲマトリアにとっての天敵であり、乗り越えるべき脅威。

 或いは、黒服はベアトリーチェやゲマトリアにすら悟られぬ程、巧妙に隠した策があるのかもしれない。しかし、それはベアトリーチェとて同じ。

 

 アリウスの半数を動かし(聖園ミカを利用し)、密かに計画した先生の暗殺。

 調印式にて、必殺の意志と共に宙から死の雨を降らせた。

 アリウス・スクワッドに命令を下し、直接的な手段も取った。

 

 そして、それでも尚――乗り越えてくるかもしれないと云う不安があった。

 彼の聖人は奇跡を起こす、それこそどれ程絶望的な状況でも、どれ程暗闇に包まれた世界であっても、その鮮烈なる光と共に希望を齎す存在。子ども達はその姿に道を見出し、彼の者と歩む者は決して折れず、曲がらず、希望を胸に突き進む。

 それの何と厄介な事か。

 その実態を、先生の在り方を嫌という程に刻みつけられたベアトリーチェは、先生の脅威を良く知っている。黒服は自身が一番先生を評価していると思っている様だが――それは違う。

 

 あの者の根源、最早狂人に等しい在り方を一番評価しているのは――(ベアトリーチェ)だ。

 

 それを垣間見、体験したからこそ恐ろしいのだ、不安なのだ、身の毛がよだつ様な悍ましさを覚えているのだ。

 だからこそ用意した、故にこそ切り札を切った。

 ゲマトリアにも、配下の生徒達にも、誰にも語らず極秘裏に進めた『もう一つの計画』、それはベアトリーチェにとって屈辱の選択であり、同時に絶対的な破滅を約束する手段。

 

 ――或いは、それが世界の破滅と引き換えだとしても。

 

「悲劇を喜劇に……しかし、そうであるのならば」

 

 彼女は胸にふつふつと湧き上がる怒りを、屈辱を飲み干し、呟く。

 例え、他者に舞台装置と嘲笑されようとも。

 貫き通さなければならぬ、敵対者としての矜持があった。

 愛、等と云う。

 不確かで、あやふやな幻想を――打倒(うちたお)す為に。

 

 ――主役(先生)に、舞台装置では勝てぬと云うのであれば。

 

「もう一人、主役(■■)をぶつければ良いのです――そうでしょう、先生?」

 

 ■

 

「う、ぐ……ッ」

「シロコ先輩……!」

 

 トリニティ自治区郊外――裏路地。

 大通りから脇に逸れ、入り組んだ道を走った先。そこでアビドス対策委員会の面々は暫し身を潜めていた。背の高い建物群が空を塞ぎ、影が彼女達を覆う。裏路地には室外機や積み上げられたコンテナ、段ボールの類が散乱し、丁度良く彼女達の姿を隠してくれていた。

 そんな中、壁に寄り掛ったシロコは小さく呻き声を上げながら肩を抑える。表面の裂けた制服からは血が滲み、表情は苦悶を象る。逃走中、放たれた弾丸が運悪く彼女の左肩に直撃した。普段ならば弾丸の一発や二発程度、どうという事はないが、背を向けていたのが悪かった。無防備な背中から一撃、ライフルによる狙撃はシロコの肩に決して浅くはないダメージを刻んだ。

 アヤネは背負っていたバッグを降ろし、中からプラスチックケースを取り出す。中には四本の注射器が収まっており、内一本の中身は既に空になっている。先生に打ち込んだものと同じ鎮痛剤である。その中の一本を取り出し、キャップを外しながらアヤネは眼鏡を指先で押し上げた。

 

「アヤネちゃん、シロコちゃんの傷は?」

「それ程深手ではありません、ですが被弾した場所が肩ですから……余り長時間の戦闘は難しいかと」

 

 路地の前方を警戒しながら問いかけるホシノの声に、アヤネは努めて冷静に返答する。シャーレから支給されていたナノマシン型の鎮痛剤を肩にそっと打ち込めば、シロコの表情が数秒程で和らいだ。空になったそれをケースに戻し、念の為と傷口を消毒しガーゼを貼り付ける。後は持ち込んだネットでガーゼを保護し、テープで固定する。雑な処置ではあるが、動きを阻害しない程度に収めるならばこの程度で問題ない。激しく動かせば分からないが、そうでない限りは剥がれ落ちる事もないだろう。医療品が心許なかった時期は、消毒を行った後にガムテープを貼り付けていた程だ。その頃に比べれば、全く以て雲泥の差。

 

「あいつら、倒しても倒しても湧いてくるじゃん! 一体何なの!?」

 

 壁に背を預け、予備の弾倉をバッグから取り出していたセリカが怒りを込めながら叫ぶ。あいつら、とは恐らくあの青白い幽霊染みた生徒達の事だろう。ガスマスクを被り、シスター服の様なものを身に纏っていたが――その正体は不明。辛うじて分かった事は、アリウス側がソレをETOと呼称している事だけ。

 

「真っ当な生徒……には見えませんね」

「うん、そうだね、幽霊とか、亡霊とか、そんな感じに見えるよ」

 

 ノノミの呟きに対し、ホシノは頷いて見せる。少なくともキヴォトスに在籍している生徒と云う訳ではないだろう。出現の仕方も、その外見も、纏う空気も、全てが異常の一言。更には放つ弾丸に込められた神秘濃度も、通常のそれとは比較にならない。それなり以上に頑強なシロコが数発身に受けただけで負傷する程。ホシノがちらりと畳まれ、収納された盾に目線を落とせば、その表面部分に幾つかの凹みが見えた。つい先ほどの戦闘で刻まれた傷だ、貫通こそされていないものの連中の弾丸に込められた威力の高さをこれ以上ない程に物語っている。

 

「もう、大丈夫……ありがとう、アヤネ」

「いえ――シロコ先輩、あまり無茶は」

「ん、分かっている」

 

 頷きながら、シロコは愛銃を掴み立ち上がる。肩を軽く回せば、先程とは異なり痛みは極僅か。違和感は残るものの動けない程ではない。

 そんな彼女に向けてアヤネは別途ポーチに保管していた複数の弾倉を取り出し、シロコに差し出した。

 

「これ、預かっていた予備の弾薬です」

「……ありがとう」

 

 差し出された弾倉を受け取り、シロコはポケットにそれらを突っ込む。愛銃に装填していた弾倉を取り外して中身を検めれば、殆ど中身は空だった。無意識の内に反撃していたのか、小さく目を細めながら弾倉を取り外し、空になったそれをバッグに詰め込む。

 

「皆さん、弾薬の残りはどの程度ですか?」

 

 ふと、アヤネがそう皆に問い掛ければ、彼女達は各々のポーチやリグを覗き込み残弾を確認する。特にノノミは装填されていた大型の弾倉を覗き込み、その表情を陰らせた。

 

「えっと、余り多くありませんね……予備弾倉も、あと一つしかありません」

「ノノミ先輩のソレはそもそも弾薬の消費が激しいし……私も、あの連中となら後二回か、三回位かも」

「おじさんも同じかな」

「そうなると、どこかで一度補給するべきかもしれません」

 

 皆の報告を聞き届けたアヤネは、指先で唇を摩りながらそう提言する。

 アビドスの弾薬事情は芳しくない、そもそも連中の無限とも思える出現頻度がおかしいのだ。倒しても倒してもキリがない、幸い弾丸の威力は高くともそれ程好戦的な類ではないらしく、少し離れてしまえば追撃して来るような事はなかったが――その事を鑑みるとアヤネの云う通り一度補給に戻るという方針は正しい、ホシノはそう判断する。あれ程の数を相手に近接戦闘を仕掛けるのはリスクが高すぎる、弾薬が無くなれば磨り潰されるだけだ。

 

「――先生は、大丈夫でしょうか」

「………」

 

 ふと、ノノミの小さな囁きが皆の耳に届いた。リトルマシンガンⅤを抱えながらどこか悲し気な表情で空を見上げるノノミに、皆は視線を向ける。思い返すのはゲヘナの風紀委員長に連れられ、退避していく先生の後ろ姿。あの時はとにかく必死で先生を逃がさなければと思って戦っていたが――その後の事は何も分からない。

 あれから、既に何時間も経過している。戦闘を続け、撤退したアビドスにとって時間の感覚は曖昧だった。

 

「傷は、かなり深そうに見えた」

「そう、ですね……無事なら良いのですが」

「い、今からでも先生の所に向かった方が良いんじゃないの……? 私も良く分かってないけれど、連中の狙いって先生でもあるんでしょ?」

「あの感じからして、多分向かったのはトリニティ中央区の方だと思いますけれど……」

 

 セリカが先生の元に向かうべきでは? と提案すれば、ノノミは凡その方角から治療可能な施設のある場所はトリニティ中央区の救護騎士団くらいなものだとあたりを付ける。アヤネがタブレットを操作し、現在位置からトリニティ本校舎までの距離を割り出す。現在位置は古聖堂地区に隣接する郊外、そこから中央区までは凡そ徒歩で一時間掛かるかどうか――車両ならばもっと早いだろう。大通りに放置されている車両を拝借すれば、或いは。

 

「トリニティ本校舎であれば、一応顔見知りですし、弾薬の融通なども利くとは思いますが――」

「……そうだね」

 

 以前の騒動以降、アビドスも先生の護衛という名目で客室棟に入り浸っていた。その関係でトリニティ側とは面識もあり、ヒフミを通さずともコンタクトを取れるだけのパイプはある。何ならアビドスとしてではなく、シャーレ所属の生徒として動く事も出来る。その為の許可も、権利も、アビドスは先生から信認されていた。

 先生を護衛する為に、その後を追うべきか。弾薬も心許ない今、その選択肢はそう悪くないもののように思えた。

 

「……分かった、先生と合流しよう、今からトリニティ中央区に向かって――」

 

 そこまで口にして、ふとホシノは誰かの気配を感じ取った。それは知っている様な、知らない様な、非常に曖昧なもの。咄嗟に盾を展開しながら振り向く。甲高い金属音が鳴り響き、視界の半分が盾で埋まる。同時に構えた銃口の先、そこには裏路地の影に潜む様にして立つ――和装の生徒がひとり。

 

「………」

「……っ、ワカモ?」

 

 そうして視界に飛び込んで来たのは、所々血を滲ませながら古めかしい銃を抱えて佇む友人――ワカモ。

 彼女は何をする訳でもなく、罅割れた狐面越しにアビドスを見つめていた。

 


 

「世界滅んだけど先生も死んだし、私の勝ちね! ざまーみろバーカ!」

 これをやろうとしている大人がゲマトリアに居るらしいんですけれど、マジですの? 



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私達の物語(希望に満ちた明日)を、もう一度。

誤字脱字報告助かりますわ!
今回は一万四千字ですの!


 

「あなたは――」

「……百鬼夜行の」

 

 突如現れたワカモを前に、アビドス対策員会の面々は驚いた表情で彼女を見つめた。アビドスでの騒動、及びトリニティでの一件で彼女達の間に面識は存在する。故に彼女が此方側の存在である事は理解していた。

 ホシノは小さく息を吐き出し彼女に向けていた銃口を下げ、盾を静かに地面へと降ろす。皆も無意識の内にトリガーへと伸びていた指先を離し、安堵の息を吐いた。

 

「ワカモさん、でしたか……」

「何、居たなら声を掛けてよ、びっくりするじゃない……!」

「ん、でも無事で良かった……あなたも、トリニティに来ていたんだね」

 

 ノノミは露骨に安堵の表情を見せ、セリカは胸元を摩りながらそう口にし、シロコは小さく肩を竦めるに留める。しかし、それらの声にワカモが反応を返す事はなく、銃を抱えたまま沈黙し続ける。その姿は不気味で、一言も喋らないワカモに対し対策委員会の面々は徐々に戸惑いの感情を滲ませた。

 

「………」

「……えっと、どうかしたのですか?」

 

 流石に何かがおかしいと感じたアヤネが、恐る恐る問いかける。しかしその問い掛けにも答えず、ワカモはアビドス対策委員会を――正確に云えばホシノを注視し続ける。困惑し、皆が視線の先に居るホシノを見つめた。その瞳が、「何か心当たりは?」と問いかけている。ホシノは小さく首を横に振り、それから少し思案した後に口を開いた。

 

「ねぇ、そっちで何かあったの?」

「………」

「黙っているだけじゃ、分からないよ」

「………」

 

 それでも、彼女は黙して語らず。ワカモは自分達と異なり、単独で動いていた筈だった。戦闘中彼女の姿を目する事はなかったが、古聖堂の方で動いていたのか、或いはまた裏方として暗躍していたのか――彼女の具体的な動きは分からなかったものの、その擦り切れ、血の滲んだ格好から戦闘があったのは想像に難くない。

 今接触して来たからには、何か理由がある筈だった。

 しかし、今のアビドスに余力があるとは云い難い。弾薬の残量でも、体力的にも、連戦は厳しいだろう。ホシノは軽く頭部を掻き、一度トリニティに撤退する旨を彼女に伝えようと口を開いた。

 

「そっちで何があったのかは知らないけれど、おじさん達はこれから先生と合流しに行くから、云いたい事があるならそっちで――」

先生(あの御方)が」

 

 ワカモの声が、ホシノのそれを遮った。

 彼女の声は妙に強張っていて、路地裏に良く響く。目を向けたホシノの視界の中にワカモの顎先を伝う透明な何かが見えた。それは涙だった。暗闇の中できらりと光るそれを見た時、ホシノは自分でも驚くほどに動揺した。

 それはワカモという存在が見せた涙に、自分が思っていたよりも重い事態を予感させるだけの価値を見出していたからだ。彼女の本能が警鐘を鳴らす。ホシノが何かを口にしようとして――けれどそれより早く、彼女の発した言葉が耳に届いた。

 

「先程、息を引き取られたそうです」

「……――」

 

 全員の時が一瞬、止まった。

 ずしりと、目に見えない何かが体を圧し潰す。それは絶望だとか、恐怖だとか、そういう目に見えない何かだ。空気が張り詰めるのが分かった、全員の視線がワカモに注がれ、思わず息を呑む。

 

「息を引き取るって……」

「そ、それって――」

 

 目を見開き、震える声で問いかけるアヤネとセリカ。戦々恐々とした様子でワカモを見るシロコが、続けて小さく呟いた。

 

「死んだ、って……事?」

「………」

 

 ワカモは言葉を紡ぐ事も、首を振る事もしなかった。しかし、この場合は沈黙が何よりも雄弁な回答でもある。彼女の纏う雰囲気が、その気配が、何よりも重い事実を語っていた。

 

「な、何それ、嘘でしょ……そ、そんな、そんなの」

「せ、セリカちゃん……!」

 

 思わずと云った風にその場に座り込んだのはセリカだ。持っていた愛銃を取り落とし、力なく足を震わせ、ゆっくりと座り込む。両手を地面に突き、呆然とワカモを見上げた彼女は縋るような視線で以て問いかけた。

 

「じょ、冗談だよね? せ、先生が、し、死んじゃったとか……」

「………」

「ね、ねぇ、嘘だって、云ってよ……ねぇ!」

 

 ワカモに手を伸ばし叫ぶも、彼女は応えない。最後は最早、懇願に等しい声色であった。

 蒼白となった表情をそのままに、声は徐々に小さくなりを顰める。項垂れ、涙を零すセリカは途切れそうな程か細い声で呟いた。

 

「そ、んな――……」

「………」

 

 アヤネは両手を胸の前で組み、視線を左右に泳がせる。心臓が、恐ろしい勢いで早鐘を打っていた。涙は出なかった、それは決して薄情だからなどではない、ただ現実感がなかったのだ。先生が死んでしまったのだという、質感を伴う現実性(リアリティ)が。

 震える指先で眼鏡に触れ、ゆっくりと外す。フレームが揺れる、微かな音が鼓膜に届く。

 

 思い返すのは先生の負傷、その状態。確かに危険だという事は理解していた、直ぐにでも然るべき場所に搬送しなければ助からないと――そう判断したのは自分だ。

 けれど、心の何処かで先生が死ぬ筈がないと思っていたのも事実だった。

 それは楽観的なモノの見方というよりも、アヤネの善性に因るところが大きい。即ち、この人は、こんな死に方をして良い人ではないと、そう感じていたのだ。

 アヤネは、別段何かを信仰している訳ではない。けれど、物事には順序がある筈だと考える。誰かが亡くなったり、悪い事が起こるには、それ相応の原因と因果がある筈だと。

 先生は多くの生徒を救って、助けた。

 私達(アビドス)の事だってそうだ。

 毎日忙しそうに、誰かの為に奔走している事を良く知っている。

 

 だからこそ彼は、報われるべきで、もっと大勢の人に看取られて、暖かな光の中で生を終えるのだと。

 そう信じていた。

 善人には善人の、正しい報いがあるのだと信じていたのだ。

 

 だから、現実感が無い。

 こんなあっさり、何の別れの言葉も無しに。

 先生が――いなくなってしまうなんて事が。

 

「……先生」

 

 ノノミが、俯いて唇を噛む。痛い程に握り締められた拳が、掴んでいる愛銃の持ち手を軋ませる。シロコに至っては呆然とし、何の反応を返す事も出来ずに居た。

 各々が、その溢れ出る感情に支配され、激情を湛えていた。ひとつ、たった一つの切っ掛けで崩壊してしまいそうなそれを、彼女達は自覚している。故にワカモは、努めて淡々とした様子で告げた。

 或いは、彼女もその激情を必死に留めているのかもしれない。

 

「……トリニティより、浦和ハナコさんを中心とした戦力がアリウス排斥に動くそうです、私もシャーレ側の戦力として参戦致します」

「………」

「あなたは、どうしますか――ホシノさん」

 

 顎先から、涙が滴っているのが分かる。

 仮面の向こう側で、彼女(ワカモ)は涙を流し続けている。幾度も、幾度も、決して消える事のない悲しみを。

 ホシノは俯いたまま微動だにしない。その表情は影に遮られ、確認する事が出来なかった。

 

「は――は、はっ……」

 

 不意に、声が漏れた。

 それは酷く乾いた笑い声だった。

 ふらふらと、覚束ない足取りで二歩、三歩蹈鞴を踏んだ彼女(ホシノ)は肩を震わせて嗤う。持っていた防弾盾が音を立てて倒れ込み、ホシノは片手で顔を覆い隠した。その指の隙間から、見開かれた瞳が覗いている。ぽろぽろと、涙が零れ落ちた。

 

「は、はははっ、ははッ……!」

「ッ、ホシノ先輩……!」

 

 ホシノを見たノノミが、思わず声を詰まらせる。その笑みに、途轍もなく嫌な予感を抱いた。

 悲哀が、慟哭が、その激情が伝わって来るような声。背を折り曲げ、震えるホシノに手を伸ばす。けれどその指先は届かない。彼女の手を取らないといけないのに――そう強く思うのに。

 ノノミの身体もまた、縫い付けられたかの様にその場を動けない。先生の死と云う重すぎる事実が、その余裕を持たせてくれない。

 このまま何もしなければ、ホシノは――。

 

「は、はは……結局、結局こうなるんだ――私は、また、こんな風に喪って……」

 

 顔を覆い、胸元を握り締めた彼女は呟く。手から零れ落ちた愛銃(守ると決めた証明)が、ゆっくりと地面に転がった。それを滲んだ視界で見届けながら、ホシノは口元を引き攣らせる。

 胸が、苦しい。

 心臓が痛い。 

 呼吸が荒くなって、視界の四隅が暗がりに支配され、どんどん狭まっていく。

 

 そうだ、久しく忘れていた。

 世界は、現実は、こんな事ばかりだ。

 こんなに辛くて、苦しくて、痛くて――。

 

 ユメ先輩も。

 先生も。

 守りたいと思ったものが、守ると心に決めた人が、この小さな手からどんどん零れ落ちて行く。

 (ホシノ)はそれを、ただ見ている事しか出来ない。

 あの時だって、そうだった。

 

「私は――」

 

 声を、絞り出す。

 それは独白だった。彼女にとって、この世界に対する独白と云う名の怨嗟。それを涙に塗れ、唸る様な形で吐露する。

 

「一体……何の、為に――」

 

 ――此処まで歩いて来たのだろう?

 

 膝から力が抜け、ホシノはその場に崩れ落ちる。這い蹲り、ぽつぽつと頬を流れる涙を感じながら、ホシノは嗚咽と共に息を吐き出した。指先が震える、視界が滲む、暗がりに包まれた世界は酷く醜く、寒い。

 その寒さには――酷く憶えがある。

 

「もう……」

 

 ――もう、良いんじゃないか。

 

 そう、弱い自分が囁き掛けるのが分かった。心の中に住む、嘗ての自分。立ち上がる為に否定していた己が、顔を出す。色のない世界の中で一人きりとなった彼女。その内なる存在が語り掛けて来る。

 

 ――もう、苦しまなくて良いんじゃないか?

 

 二年前の己が、淡々とした様子で呟いた。

 そこには何の(感情)も、力もなかった。ただあるがままを、現状を受け入れろと。どこまでも無機質で理知的な響きだけがあった。

 

 その言葉が降りかかる度に。

 その甘言が意識を揺さぶる度に。

 ゆっくりと、心が死んでいく。

 

 こんなに努力したって、こんなに頑張ったって、世界はちっとも優しく何てなくて。 何をしたって、どう足掻いたってきっと結末は覆らない。この世界の運命は、ホシノという存在の味わう苦しみはきっと――決まっていたのだ。

 あの聖人の様な先生が、心優しく強い先生が。

 必死に足掻いても、あんなに沢山の代償を支払って、血を流したとしても。

 変えられない程、強固に結びついている苦しみの運命。

 

 もし、そうなら。

 それが、変えられない運命(世界の真実)と云うのなら。

 

「……私達は」

 

 私達は一体――何の為に、生まれて来たのだろう?

 

 そう思ってしまう。

 考えてしまう。

 

 私も、皆も。

 こんな運命に翻弄される為に生まれて来たのか。必死に足掻いて、大切なものを守ろうと頑張って、努力して、血を流して、その果てに待っている結末が、ただ苦しむだけのものならば。

 足掻く分だけ、苦しんだ分だけ、生きた分だけ苦しみが増すだけの世界ならば。

 

 私達は――苦しむ為に、生まれて来たのか?

 

「―――」

 

 そう思った途端、もう駄目だと思った。

 頑張れないと、そう感じてしまった。

 この世界の結末が、苦しいだけならば。

 ならば、もう。

 

 ホシノの目が、そっと閉じられる。現実から目を逸らすように、内に秘めた希望の光をそっと手で包むように。

 もう、苦しみたくない。

 辛い思いを、したくない。

 大切な誰かが失われる事に耐えられない、それを守る為に立ち上がるだけの勇気がない。

 だから――これ以上喪う苦しみを(アビドスの皆が)味わう位なら(消えてしまう位なら)

 

 彼女の頭上に輝く、そのヘイローが――僅かに欠ける音がした。

 

「――先輩ッ!」

 

 けれど、ホシノの心が完全に砕ける前に。その肩を掴み、引き起こす存在が居た。

 蹲っていたホシノを強引に引き寄せ、傍の壁に叩きつける。衝撃と痛みがホシノの身体を突き抜け、思わず目を開く。積み上がった小さなコンテナが崩れ落ちる音が周囲に響き渡った。

 視界一杯に、大粒の涙を流し、自身を睨みつけるノノミが映る。

 

「何を……ッ、何を考えているんですかッ!?」

「―――」

 

 怒鳴りつけられ、呆然とホシノは目を瞬かせる。彼女の視線はホシノを、そしてその右手を見つめていた。

 気付けば――。

 本当に、ふと気付いた時。

 ホシノの右手には、自身の愛銃が握り締められていた。

 

 地面に落ちていたそれを、無意識の内に拾い上げていたらしい。

 けれど、持ち方が変だ。

 まるで自分に銃口を向けていたかのように、親指をトリガーに掛け垂直に握り締めている。銃口は、自身の考えが間違いでなければ。

 己の頭部に向けられていた。

 

「ッ……!」

 

 ノノミが叩き落とすようにホシノの愛銃を振り払い、手の中から零れ落ちたそれが地面に転がって軽い音を立てる。普段からは想像も出来ない程に必死の形相を浮かべたノノミは、そのままホシノの胸元を掴んで叫ぶ。

 他のアビドスの仲間達が、信じられない様な表情でホシノ()を見つめていた。

 

「何で、そんな顔を……っ!? そんな目をしてッ、あの時と同じように、何で、あなたはッ――!?」

「……ははっ」

 

 震える拳で胸元を掴み、言葉を吐き出すノノミを前に、ホシノは力ない笑みを浮かべる。それは普段と同じような温厚な、それでもいてどこか諦観を滲ませた笑みだった。けれど、決定的に違う点がある。

 光だ。

 その瞳には、(希望)が決定的に欠けている。

 

「ノノミちゃん、ごめん、私はもう……立ち上がれないや」

「……っ!」

 

 囁くように、震えた声で告げられたそれ。

 ノノミはホシノの声に驚く様な、悲しむ様な表情を浮かべる。

 くしゃりと歪んだ大切な後輩の顔に、ホシノの胸がずきりと痛んだ。

 

「私ね、もう、だめだぁ……先生が居なくなったって思ったら、何だか、力が抜けちゃってさ……」

 

 足に、手に、力が入らない。

 立ち上がるだけの気力も、体力もない。

 まるで内側にあった体を動かす為のエネルギーが全部、根こそぎ奪われてしまったかのような虚脱感。

 視線で盾と銃を見つめるホシノは空虚な、硝子玉の様な瞳で言葉を続ける。

 

これ(ユメ先輩の盾)でね、もう一回、もう一度だけ……頑張ってみようって思ったんだ」

 

 先輩から受け継いだ(守るもの)。その表面は擦り切れ、幾つもの傷が刻まれている。本物の盾(彼女が残したもの)は、遺品としてアビドスに保管されている。だからコレは、ホシノの守る意志、その表明に他ならない。

 あの頃手にしていた突撃銃(恐れを知らないもの)は、もう埃を被って久しい。大切だという事に気付かなかったから、自分の居場所だという自覚がなかったから、傷付けられ、喪い、初めてその尊さに気付いた。

 

 気付いた時には、遅かった。

 だから、今度こそ。

 今度こそはって、そう思ったのだ。

 

 一度手放しそうになった絆を必死に手繰り寄せて、これからのアビドスには、私達には、明るい未来が待っているんだって、そう信じて此処まで歩いて来た。

 ――けれど。

 

「駄目だった、やっぱり私なんかじゃ何も守れない……大切なものが全部、手のひらから零れ落ちてしまって」

「そんな事は――ッ!」

「――きっと、最初からそういう風に決まっていたんだよ」

 

 きっと此処は、そういう世界なのだ。

 自身を掴むノノミの手を、ホシノはそっと握り締めた。その手は暖かかった、けれど余りにも弱々しく、力なかった。

 へらりと、ホシノは微笑む。

 その目尻から一筋の涙が零れ落ち、ノノミの指先を濡らした。

 

「ごめんねぇ……弱い先輩で」

「ッ!」

 

 思わず、歯噛みする。

 目の前に居るのは、ノノミの知っているホシノではなかった。いや、正確に云えば知っている。けれどそれは、久しく見なかった遠い昔の彼女の姿。

 今のホシノは傷付き、呻き、這い蹲り、ボロボロの身体で立ち上がって、「もう一度だけ頑張ろう」と歩いて――その先でまた、大切なものを喪ってしまった子ども(生徒)だった。

 

 ――何を、云えば良い?

 

 ノノミの口元が開閉し、吐息が漏れ出す。言葉がまるで思いつかない。何と声を掛ければ良いか、分からない。

 

「ぁ――……っ、くぅ」

 

 口を開け、閉じる。言葉が上手く出て来なかった。舌が、音を紡がなかった。ただ何度も口を開いては吐息のみを漏らし、ノノミは苦悶の表情を浮かべる。震える手でホシノの首元を掴み、項垂れる。その喉元から、慟哭に似た唸りが漏れた。

 

「駄目だよ――ホシノ先輩」

 

 その手を掴む者が居た。

 力強く、けれど優しく、ノノミとホシノの腕を。

 その掌は、暖かかった。

 緩慢な動作で視線を向ければ、ノノミの横に立つ――シロコの姿があった。

 

「それは、絶対に駄目」

「……シロコちゃん?」

 

 ノノミが呆然と呟き、シロコは真っ直ぐ二人を見る。

 その瞳にはまだ――希望()が灯っている。

 

「大丈夫、先生はまだ、斃れてなんていない」

 

 声はハッキリとしていた。

 そんな確証はないというのに、彼女はそう断言する。困惑する二人を前に、シロコは強い視線を返した。その纏う雰囲気に、迷いはない。

 

「まだ、終わりじゃないから」

「それは、一体どういう――」

「……あの人は、絶対にまた立ち上がる」

 

 それを信じていると、シロコはそう口にした。

 ホシノを、ノノミを、セリカを、アヤネを、ワカモを見渡すシロコは、手を握り締め言葉を紡ぐ。不安や恐怖を呑み込んだ者が出来る、精悍な表情と共に。

 

「先生が死んだなんて、信じられない――先生ならきっと、何とかするから」

 

 アビドスの時だってそうだった。

 どんなに辛い時でも、どれだけ絶望的な時でも、先生は絶対に諦める事をしなかった。血を流しても、傷を負っても、先生は何度でも立ち上がる。その背中を、シロコは見続けて来た。

 

「ワカモは、実際に先生が死んだ事を確認したの?」

「……いいえ、遺体を目にした訳ではありません、ですが――」

 

 シロコの態度に、どこか動揺と共に答えるワカモ。

 遺体自体を確認した訳ではない。秘密裏にトリニティに潜入する事は出来ても、流石に救護騎士団本棟ともなれば難しい。更に云えば先生の負傷後、本棟周辺には大規模な警備体制が敷かれていた。

 先生の警護の際も、ワカモはトリニティ側の了承を得る事無く客室棟に身を寄せていたのだ。シャーレ所属の身分を使えば事は問題なく済むのだろうが、七囚人という肩書が先生に面倒を掛ける事を嫌ったワカモはそれらの手続きを一蹴し、ティーパーティー、及び総括本部側に露見する事無く事を済ませていた。

 しかしトリニティ全体の動きと、生徒達の言動からかなり正確な情報である事は確かだった。そうでなければハナコの、ミカの、そしてゲヘナの行動に説明がつかない。

 

「なら、やっぱり信じられない――この目で見るまでは、絶対に」

「………」

 

 しかし、シロコはそんなワカモの言葉を一蹴する。

 それは現実から目を逸らす為の逃避などでは断じてない。先生に対する、強い、途切れぬ信頼から来るものだ。

 

 ――生徒達が戦い続ける限り、先生()は絶対に斃れない。

 

 先生は嘗て、そう叫んだ。その意思を見せた。どれだけ血に塗れても、どれだけ痛みに顔を顰めても、その両の足で立ち続けた。

 ならば今、多くの生徒達が戦いに明け暮れている今、先生が斃れる筈など無い。

 そんな強い感情がシロコの精神を強固に支えていた。

 

「そっ――そうよ」

 

 シロコの声に応えたのは、セリカだ。

 彼女は這い蹲った状態から身を起こし、震える手を握り締めながら声を絞り出す。

 

「先生が、先生がそんな、簡単にやられる訳ないじゃない……!」

「セリカちゃん――」

「仮にっ、仮に……そうだとしても! 私はッ、シロコ先輩の云う通り、この目で確かめるまで絶対に信じないからッ!」

「………」

 

 睨みつけるように前を見据え、そう叫ぶセリカ。その肩は震え、声は涙に塗れている。けれど怒りの混じったそれは、自身を奮起させつつ立ち上がるだけの気力を彼女に齎していた。立ち上がり、気丈にも前を見据えるセリカを見たノノミが口を開く。

 

「――行きましょう、トリニティに」

 

 直ぐ前に立つノノミの声に、ホシノは思わず身を震わせた。

 掴まれた肩に、じんわりとした熱が伝わって来る。呆然と視線を返せば、真っ直ぐ、力強く、綺麗な瞳が自身(ホシノ)を射貫いた。

 

「真実を、確かめる為に」

「………」

 

 その、どこまでも澄んだ声に。

 怯えた様にホシノは身を竦ませた。

 

 ――知ることが、怖かった。

 

 ■

 

 寒い――雪が降りそうな日だった。

 

 砂漠に雪が降ると、幻想的なまだら模様となる。そんな季節でもないと云うのに、その日だけはやけに肌寒くて。早朝、確か丁度、夜が明けて少し歩いた位だっただろうか。

 彼女を見つけたのは。

 

 アビドス本校舎から夜通し歩き回って、広大な砂漠をあてもなく彷徨い続け。

 漸く見つけた――彼女の愛用品(防弾盾)

 それを見つけた時、(ホシノ)は、「やっぱり」って思ったのだ。

 砂に埋もれ、顔の半分以上が見えなくなっていて。それでも何かを求めるように伸ばされた指先。

 

「此処に、居たんですね」

 

 (ホシノ)は砂塵に塗れた髪、頬に付着した砂埃もそのままに、小さく呟く。

 その瞳に光は無く、その表情に力はなく、照りつける陽光の下に晒される大切な人だったモノ。膝を突き、彼女を見下ろしながらそっと肩を落とす。其処にはただ、虚しさと無力感、そして何より徒労感だけがあった。

 どれだけ足掻いても、どれだけ努力しても、結局は――。

 

「全く、探しましたよ――」

 

 手を伸ばし、触れる彼女の頬は冷たい。

 伸ばされた指先を握り締め、微動だにしない表情のまま、彼女の名を呟いた。

 

「……ユメ先輩」

 

 ■

 

「っ、ぅ――……」

 

 脳裏に過る記憶、辛く苦い、最初の喪失。

 それを思い返し、ホシノは思わず嘔吐(えず)く。肌が粟立ち、胃が裏返る心地だった。ノノミが思わず手を離せば、ホシノは壁に寄り掛ったまま力なくズルズルとその場に座り込む。両手で胸元を押さえつけ、喘ぐ様に荒い呼吸を繰り返すホシノ。

 青白い顔色が、差し込んだ陽光に照らされた。

 

「はっ、はぁッ、ハッ……!」

「ホシノ先輩……!」

「だい、丈夫――……」

 

 手を伸ばすノノミに、ホシノは告げる。

 

「私は、大丈夫……」

 

 それは、自身に向けた言葉だった。震える腕を壁につき、立ち上がろうとする。けれど怯懦が、恐ろしさが、これから降りかかるであろう困苦が――ホシノの膝を震わせる。

 そんな彼女の肩を、腕を掴み、支える手があった。

 暖かなそれに顔を上げ、ホシノはくしゃりと顔を歪める。

 

「私達が、一緒に居る」

「……えぇ、傍に居ます」

 

 ホシノの肩を、腕を掴み支える人影。

 気が付けばシロコが、ノノミが、セリカが、アヤネが――アビドスの全員が、ホシノの身体を支えていた。

 

「こ、こんな所で、ヘバってんじゃないわよッ……!」

「どんなに辛くても、私達は、一緒です……!」

 

 涙を流しながらも気丈に、歯を食い縛って。それでもって、心の中で叫びながら。

 彼女達は暖かな手を以て、ホシノを掴んで離さない。

 

 あの時はひとりで立ち上がるしかなかった、誰も支えてくれる人などいなかった。肌寒くて、辛くて、惨めで、寂しくて――けれど今は、そうじゃない。

 ノノミが、ホシノを見つめる。強い眼差しで以て、暖かな希望を込めて。

 

 大切なものが、喪われたのかもしれない。

 この世界は、苦しいだけなのかもしれない。

 でも――。

 

「――もうホシノ先輩は、ひとりぼっちじゃないんですから」

「………」

 

 ――まだアビドス(大切なもの)が残っている。

 

「……ぅん」

 

 小さく、頷いた。

 震える足にほんの少し、ほんの僅かな力が籠る。アビドスの皆が触れた箇所から、希望が、暖かな熱が、ホシノの砕けそうになった心を修繕する。少しずつ、丁寧に、けれど力強く。

 手を伸ばす。

 地面に落ちた大切なそれを、守る意思(防弾盾)を手に取って、彼女は立ち上がる。盾を地面に打ち付け、ホシノはそれを支えに立ち上がる。彼女達の手を借りて、自分の意志で。

 

 赤く腫れ上がった目尻を擦り、大きく息を吸い込んだ。そして背を正し、アビドスを、ワカモを見つめたホシノは目を見開く。その瞳に、その心に、希望が宿る。

 恐怖はある、不安もある、けれどまだ守りたいものがあるから。

 だからホシノは、微かな希望を込めて告げるのだ。

 

「行こう――トリニティに」

 

 その運命を、確かめる為に。

 

 ■

 

 トリニティ郊外――廃墟。

 剥がれ落ちた天井、砕け、飛び散り、フレームの曲がった窓枠。頭上から脱落した配線ケーブルを避けながら、彼女達はとある一室に向かう。周囲に人気はなく、スクワッドの皆が歩く音だけが木霊していた。

 隊の最後尾を歩きながら端末を確認していたヒヨリが、ふと先頭を歩くサオリに向けて声を上げる。

 

「あ、あの、たった今別働班から件の兵器、その起動を確認したとの報告が……」

「……アレか、映像は?」

「えっと、届いています」

「確認する」

 

 脚を止め、そう答えるサオリ。彼女の傍に駆け寄ったヒヨリは、端末に届いた映像を再生する。隣あったミサキやアツコも、どこか興味深そうに画面を覗き込む。

 

「こ、これが……例の――」

「戦術兵器、か」 

 

 画面に映る、巨大な影。

 それは、何と表現すれば良いのだろうか。

 真っ赤な布に包まれたやせ細った巨人――赤いフードに覆われた顔は確認する事が出来ず、そもそも空洞の様にぽっかりと暗闇が覗くばかり。そもそも肉体など存在するのだろうか? 不気味なほどに細く、長い四つの腕が二つの錫杖染みた杖を持ち、もう二本の腕は祈る様に目前で組まれている。

 その背後には格式張った垂れ幕と黄金色の円環装飾が施されており、傍目には敬虔な信徒の様にも見えた。しかし、そうではない事を彼女達は知っている。この存在が齎すのは破壊のみ。それを証明するかのように、かの怪物は両手を広げ、映像越しにでも分かる様な雄叫びを上げていた。

 ビリビリと振動する映像。それを見つめ、サオリは吐き捨てる。

 

「……ただの化物だな」

「………」

 

 サオリの言葉に、姫――アツコは手を素早く動かす。それを見ていたミサキは、彼女の手話の内容に思わず顔を顰めた。

 

「太古の教義を元に作られた……失敗作? あの二つ頭の人形、失敗したって事?」

「………」

「違うの?」

「失敗作だが、それでも戦術兵器足り得るという事だろう――使えるのであれば、何であれ構わない」

 

 姫の否定するような素振りに、サオリはそれとなくフォローを入れる。彼女自身、武器や兵器に拘り等存在しない。その在り方は自分達と同じだ、必要な時に必要な動作を行える。それが出来れば十二分、この際スペックが落ちようが期待通りの動きが出来るのならば何でも良かった。それこそミサイルだろうが、聖徒の交わりだろうが、何だろうが。

 

「そう、なら良いけれど……それと、そろそろ次に進む段階じゃない?」

「………」

 

 件の戦術兵器、その起動を確認したスクワッドは次の段階に入る。映像の再生を停止し、端末をポケットに捻じ込むヒヨリ。スクワッドは再び足を進め、ミサキはサオリに進言する。

 

「ゲヘナも、トリニティも、あの大人(先生)が死んだ事で結束し始めた、そろそろ次の目標に向かわないと対策が取られる」

「……どの道、もう手遅れだ」

 

 目を細め、淡々とした口調で答えるサオリ。トリニティとゲヘナが今更何をしようと、連中に勝ち目など無い。ETOを手中に収め、既にアリウス・スクワッド以外の部隊も各地に展開している。そして、連中の知らないアリウスの真の切り札(戦術兵器)――トリニティ地下深くに封印されていた、太古の教義、その神秘を用いて作られた怪物。これら三戦力を一息にぶつけ、圧し潰す。

 質でも、量でも、此方が勝る。

 

「――姫、待機中の部隊に合図を」

「………」

 

 サオリがそう口にすると、姫は静かに端末を手に取った。画面上にはトリニティ各地に待機している部隊の位置情報が表示されている。幾つかの操作を経て、発令待機状態へと移行する画面。後は指先一つで計画は始動する――それを確認したサオリは、スクワッド全員を見渡し、宣言した。

 

「これより、トリニティへの進撃を開始する」

 

 これまでの戦闘は前哨戦に過ぎない。

 トリニティ、及びゲヘナの特記戦力を消耗させ、最重要ターゲットであったシャーレの先生を抹殺する。そして別動隊として動いていた姫がETOの調印を済ませ、無尽蔵の戦力を確保する。

 ここまでは計画通り――致命的な失敗はない。

 

 そしてこれからは、彼女達にとって本命となるトリニティ総合学園への進撃。文字通り、トリニティそのものを地図上から消滅させる為の戦いだ。アリウスの、数百年に渡る憎悪の結実。

 それは今、この瞬間から現実となる。

 

「では、始めよう――これが最初の……」

 

 拳を握り締め、確固たる意志の下に言葉を紡ぐ。

 振り上げた拳、それを振り下ろし、開戦の狼煙を上げようとした瞬間――ぴたりと、サオリはその動きの一切を止めた。

 まるで時間が停止したように、彼女は吐息すら止めて微動だにしない。

 

「………?」

「リーダー?」

 

 スクワッドのメンバーが訝し気にサオリを見つめ、問いかける。声が周囲に反響した。

 しかし彼女は答える事無く、周囲を視線でなぞる様にゆっくりと顔を動かした。そして、小さな声で問いかける。

 

「……私達(アリウス)が此処を空けていたのは、どれくらいだ?」

「え? え、えっと……」

 

 此処、というのがこの拠点を指している事は直ぐに分かった。ヒヨリは古聖堂襲撃直前の事を思い返し、凡その時間を告げる。

 

「さ、三時間くらい――でしょうか」

「………」

 

 スクワッドはカタコンベから直接古聖堂近辺に足を運んだが、地上に展開していた部隊の一部はこの拠点を使用していた筈だ。その部隊が駐屯していた時間と、現在時刻を照らし合わせ――この拠点が無人であった時間は、凡そ三時間。

 そんな事を問いかけて、一体何を。ヒヨリが抱いた疑問に対し、サオリはひりつく様な空気を発しながら告げた。

 

「――アイツが居る」

「あいつ……?」

 

 ミサキがそう言葉を発した瞬間、直ぐ後ろの一室が爆発によって吹き飛んだ。

 内臓を揺さぶる衝撃、建物全体が揺れたような錯覚。拉げた扉が爆発によって宙を舞い壁に叩きつけられ、硝子片が飛び散る。甲高い金属音と爆音にスクワッド全員の意識が一瞬にして戦闘時のものに切り替わり、サオリは素早くアツコの肩を掴み床へと伏せさせる。ヒヨリとミサキもまた、同じように身を低くして周囲に警戒の視線を飛ばした。

 

「ひっ、ひぃいいッ!?」

「これ、即席爆発装置(IED)!?」

 

 爆発の規模は決して大きくはない、しかし小さいとも云い切れない。焦燥した表情で叫ぶミサキ、頭を抱えて蹲るヒヨリ。そんな彼女達を落ち着かせるために声を上げようとして、しかしコツンと硬質的な音。

 視線を下げれば、スクワッドの直ぐ傍に転がる――手榴弾(グレネード)が一つ。

 

「ッ……!」

「ぐ、グレネードッ!」

「は、早く逃げないと……!」

「――動くなッ!」

 

 明確な脅威に浮足立つメンバー、それを尻目にサオリは一喝する。彼女は素早く立ち上がると、転がったグレネードの元へと駆け込み勢い良く蹴り飛ばした。

 放物線を描き廊下の向こう側へと蹴り飛ばされたグレネード。それは地面に接地する直前に爆発し、それを切っ掛けとし連鎖的に爆発が巻き起こる。それは丁度、各部屋の内部から。順に吹き飛ぶ硝子、脆くなった内壁が粉塵と共に崩れ落ち、衝撃がスクワッドを襲う。まるでグレネードが投げ込まれ、慌てて逃げだした先を予測するような爆発だった。それを見たミサキは戦慄と共に呟く。

 

「っ……! 逃走経路に、ブービートラップ!」

「奇襲に浮足立ち、体勢を立て直す為にその場を離れる、そして通り道に予めトラップを仕掛けておけば一息に葬れる――あぁ、見知った手だ」

 

 事、室内戦闘に於いてトラップ程有効な手はない。特に数的不利や装備不足を補う手段として、それらは非常に効果的だ。サオリは口元のマスクを撫でつけ、呟く。

 

「相変わらず、この手の仕掛けは上手い、だが――……」

 

 周囲を覆う粉塵、それらを手で払い除けサオリは目前を睥睨する。未だ輪郭があやふやな視界の中で、ゆっくりと現れる人影がひとつ。

 

「忘れたかアズサ、それも全て、私が教えた事だろう」

「………」

 

 サオリの――スクワッドの前に立ち塞がったのは、いつぞやと同じ、ガスマスクを被りトリニティ制服を着用した生徒、アズサ。

 彼女は愛銃を抱えた状態で、静かにサオリと対峙する。そしてスクワッドのメンバーが全員健在である事を確かめると、音も無く踵を返し廊下を駆け出した。

 

「っ、逃がすか!」

 

 何の躊躇いも無く逃走を選んだアズサを前に、サオリは自身の愛銃を構え追撃を敢行。素早く安全装置を弾き、引き金を絞る。銃声が鳴り響き、幾つかの銃弾がアズサの背中目掛けて飛来する。しかし、被弾する直前で彼女は曲がり角へと差し掛かり、そのまま次の廊下へと飛び込む。弾丸は壁を叩き、僅かに削るのみ。小さく舌打ちを零したサオリはアズサの後を追って駆け出し、その背中は噴煙に隠れ直ぐに見えなくなった。

 

「リーダー、追いかけたら相手の思う壺――……って、行っちゃった」

「わ、私達も追いましょう!」

「はぁ……仕方ないか」

 

 爆発で床に倒れ込んでいたメンバーは、各々の装備、その無事を確認しながらサオリの後を追い始める。この周辺に展開している部隊は無く、直近の部隊に増援要請を飛ばしても三十分は掛かる。ミサキは念の為端末を操作し、一番近い部隊に救援要請を発信した。アズサ単独による襲撃という確証も無く、何ならトリニティの部隊が既に此処を嗅ぎつけた可能性もある。

 もしそうならば、この場所での戦闘がトリニティ侵攻に於ける第一戦という事になるだろう。

 

「これは――長期戦になりそうだね」

「………」

 

 その呟きは、直ぐ先から聞こえて来る銃声に掻き消される。

 アツコの握り締めた手が微かに震えている事に気付く者は、誰も居なかった。

 


 

 この展開は、最終編のシロコ・テラーと対にしたいなって思っていたんです。おじさんがシロコを救ったように、シロコがおじさんに手を差し伸べる展開を作ろうって。最初におじさんの危機に気付くのはノノミだけれど、そこに最後の一押しをくれるのは彼女(シロコ)なんです。

 

 ひとりぼっちになってしまったシロコは、その苦しみの中に埋もれてしまったけれど、アビドスが残っていれば必ず止めてくれる仲間が居る。それがどんな絶望でも、どんな困難でも、最後のひとりになってまで足掻こうとしたように、アビドスは仲間が居る限り決して折れたりしないと私は信じているのです。

 

 おじさんに関しては、多分大切な人を二度喪う事には耐えられないんじゃないかなって。バッドエンドではいの一番にアビドスから消えているし、アビドス編でも身売りしようとしていたし。多分、本質的に「喪う苦しみを味わうより、自分自身を先に喪ってしまいたい」という恐怖、或いは心に柔らかい部分を持っていると思うんです。一度喪っただけで、人格が変質してしまう位ですし。変質、という言葉が正しいのかは分かりませんけれど。

 

 因みにこれは、独りになって尚歩き続けるクロコに対するアンチテーゼでもあります。クロコに対する解答というか、向き合う話はこの章のラスト、そしてエデン条約後編第二章で行う予定ではありますが、アビドスの結束、その結末に差こそあっても、互いを思い遣る心に優劣は決してないと感じておりますわ!

 

 次回はアズサ対アリウス・スクワッドの場面ですの。

 それを乗り越えて、漸く先生復帰ですわ~!

 

 



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同じ境遇、異なる選択

誤字脱字報告に感謝致しますわ~ッ!


 

「……はっ、ハッ!」

 

 駆ける――駆ける。

 愛銃を抱え、只管に素早く廊下を走り続ける。背後から飛来する弾丸を間一髪で避けながら、アズサは老朽化した廃墟の埃に塗れた廊下を蹴り飛ばす。ガスマスクで狭まった視界の中で、幾つものポイントを脳裏に浮かべながら、時折思い出したかのように後方へと応射を刻みつつ。

 

 前方より瞬くマズルフラッシュ、轟く銃声。しかし飛来する弾丸は後方より迫るサオリとは見当違いの方向へと飛んでいき、窓硝子や壁に穴を空ける。それが狙いをつけたものではなく、牽制程度の射撃である事をサオリは見抜いていた。故に、足を緩める事は無い。

 

「……室内に予めトラップの類を仕掛け、誘い込んだつもりか?」

 

 アズサの後方へと張り付きながら、サオリは呟く。空になった弾倉を取り外し、放り捨てる。新しい弾倉をポーチから取り出し填め込むと、丁度アズサの身体が曲がり角に差し掛かる所だった。素早くターンするアズサの背中に続き、サオリも角へと一息に踏み込む。

 

 瞬間、彼女の足元から、『ピッ』という電子音が鳴り響いた。

 

 見下ろせば、死角にトラップ(IED)。大きく足を上げないと感知される赤外線センサーが壁に貼り付けられていた。

 サオリが目を細め、動いた瞬間に爆発が巻き起こる。

 爆炎が周囲を包み込み、周囲の窓硝子が一斉に吹き飛ぶ。アズサは爆発を予期し、電子音が鳴った瞬間に床へと飛び込み頭を抱え防御姿勢に入っていた。爆風はアズサの背中を温く撫でつけ、その髪が揺らめく。

 

 自身を囮に追撃して来た敵をトラップに掛ける、爆薬は通常のそれと比較してもやや増量気味。キヴォトスの生徒と云えど、直撃すれば暫く動く事は出来ない。

 そんな目論見と共に振り向けば、朦々と立ち上る噴煙が見える。

 

 その奥から、人影が浮かび上がった。

 

「――云っただろう? お前の仕掛け程度、容易く見破れると」

 

 噴煙を裂き、飛び出すサオリ。

 その姿に傷は一つも存在しない。

 

 深く追撃すると見せかけ、曲がり角に差し掛かった瞬間、彼女は既に後退の姿勢に入っていた。爆破と同時に横へと身を投げ、廊下の壁を盾とする。曲がり角は待ち伏せ、トラップの仕掛け処として定石。警戒しない筈がない。

 

 掛かったと確信していたアズサは、飛び出して来たサオリの影に思わず目を見開く。抱えていた愛銃を咄嗟に構えて――しかし、引き金を絞るより早く、サオリの手がその銃口を横合いに殴り逸らした。

 一発の銃声が轟き、弾丸は天井に突き刺さる。設置されていた電灯が弾け、硝子片が二人の頭上に煌めいた。

 

「ッ!」

「敵のテリトリーで待ち伏せを仕掛けるならば、地形は把握しておかねば……なぁッ!」

 

 叫び、繰り出される蹴撃。それはアズサの胸部を強かに打ち抜き、凄まじい衝撃が体全体を突き抜けた。

 

「あぐッ!?」

 

 骨が軋む音、同時に息が詰まり呼吸が止まる。アズサの背中が窓硝子を突き破り、内部にあった部屋の一つに転がり込む。握り締めた愛銃の存在を感じながら、二度、三度、床を転がったアズサはガスマスク越しに大きく息を吸い込む。

 

「は、ぁ、ぐッ……!」 

 

 しかし、呼吸を整える暇はない。這い蹲った状態から横合いに身を転がせば、先程までアズサの居た場所に突き刺さる弾丸。見れば部屋の外から銃を構えたサオリが既に狙いを付けている。轟く銃声、網膜を焼くマズルフラッシュ。一発、二発、飛来するそれらを転がりながら避け、アズサは扉を突き破って反対側の廊下へと脱出する。その背中に追撃の銃声を撃ち鳴らしながらサオリは叫んだ。

 

「ハッ! 意志だけは固い、お前は昔からそうだッ!」

「はぁ、ハァッ!」

 

 肺が熱い、呼吸がし辛い。アズサは胸元を押さえつけながら思う。

 郊外地区での戦闘で負った傷は、未だ完全に癒えてはいない。弾薬や爆薬、装備の類を補給しただけで傷の処置は兎も角、休息は殆ど取れていない状態が続いていた。

 しかし、それでもやらねばならなかった。

 自分が彼女を殺すのだ。

 その想いだけを胸に、アズサは足を動かす――駆ける。

 傷だらけの身体に、鞭を打って。

 

「次の、角を……ッ! 右、それから……――!」

 

 この建物全体に仕掛けたトラップ、その位置を脳内に描く。この場所にトラップを仕掛ける猶予は一時間と少し程度だった。その間に出来得る限りの迎撃態勢を整えたが、建物の構造や室内の状況は全て把握し切れているとは云えない。それでも最低限のルート構築を為せたのは彼女の優秀さが為せる業。

 息を弾ませ、次のトラップの在る場所へと足を進ませるアズサ。そして次の角を曲がった時、目前に立つ影に思わず驚愕し足を止めた。

 

「ッ!?」

「………」

 

 咄嗟に、銃口を突きつける。

 そしてそれは、相手も同じ。

 重なる銃口、そして視線――仮面を被った者同士、しかし表情は分からずとも相手の感情は手に取る様に分かった。

 

「アツコ――!」

「………」

 

 アズサが、苦り切った声を上げる。

 アズサの前に立ち塞がったのは白いコートにフードを被り、独特なマスクで顔を覆った生徒。それはアズサにとって、余りにも見覚えのある生徒だった。彼女は片手で愛用のSMG(スコルピウス)を構えながら、残った一方の手を素早く動かす。

 それは、彼女なりの意思表示だった。

 

「………」

「……それは出来ない」

 

 数秒、二人の間に沈黙が流れる。アツコが行ったのは手話、そして内容は、アズサにどうかスクワッドに戻って来て欲しいと懇願するもの。その手の動きを注視していたアズサは、僅かな躊躇いすら見せる事無く首を横に振った。

 嘗て教えられた手話、ある意味アズサがアリウスで生活する中で知った最も、『教えらしい』ものの一つだったのかもしれない。そしてそれは、アズサが嘗てスクワッドに所属していた事を示す名残の一つであった。

 

「アツコ、お前たちは――」

 

 握り締めた愛銃のグリップ、それを軋ませながらアズサは引き金に指を掛ける。その、ガスマスク越しに見えるアズサの瞳。

 それを目視した時、アツコは覆われた仮面の中で、悲しそうに目を伏せた。

 

「私の大事な人を、殺したんだッ――!」

「………」

 

 銃声、アズサが引き金を絞り銃口が弾丸を引き出す。それを目視したアツコは、素早く銃口から身を反らす事で弾丸を避けた。そしてアズサは素早くポケットに手を入れると、端末を操作し爆発を引き起こす。二人の直ぐ脇、教室内部から爆炎と衝撃が巻き起こり、硝子片と折れ曲がったフレームが二人の身を襲う。

 アツコは衝撃と飛来した障害物に押し出され壁に叩きつけられる。アズサはそれを身を伏せてやり過ごすと、身に降り積もった硝子片と粉塵をそのままに再び廊下を駆け出した。

 壁に叩きつけられ、動かないアツコを横目に――彼女は足を進める。

 

「アズサ!」

「くッ……!」

 

 その背中目掛けて、追いついたサオリが銃撃を敢行。弾丸は一発、アズサの肩を掠り、その足が一瞬不安定なものとなる。しかし素早く体勢を立て直した彼女は、そのまま曲がり角の向こう側へと身を投げ姿を眩ませた。

 

「アツコ、無事か!?」

「………」

 

 壁に寄り掛ったアツコに向けて叫ぶサオリ。アツコは自身の肩やら頭部に降りかかった硝子片を払い、頷きながら一人で立ち上がる。ダメージ自体は殆どない、ただ近場で起きた爆発に一瞬意識を持って行かれただけ。その事を手話で伝えれば、サオリは露骨に安堵の息を吐く。

 そうこうしている内に後方から別ルートに張っていたヒヨリとミサキが合流した。爆発し、無惨な姿となった横合いの部屋を目で捉えたミサキは、その表情を顰めながら淡々とした様子で提案する。

 

「リーダー、このままだと埒が明かない、ユスティナ聖徒会を呼んだら?」

「そ、そうですよ、アレが在ればすぐに――」

「……それは無理だ」

 

 ミサキの提案を、サオリは一も二も無く切り捨てた。

 何故、という表情を浮かべる彼女に向けてサオリは口を開く。

 

「ユスティナ聖徒会はトリニティとゲヘナの紛争にしか介入しない、他者から攻撃を受けた場合ならば別だが――最悪、アズサがトリニティ所属ではなく、アリウスの生徒だと解釈されてしまえば、その矛先が私達に向きかねん」

「……面倒な構造だね」

 

 サオリの言葉に、ミサキは辟易とした表情で呟く。制約や調印関係はサオリとアツコに一任されている。細かな制約や制限について、ミサキとヒヨリは把握し切れていなかった。尤も、ETOを直接動かす事になるのはサオリになるので、それでも問題は無かったのだが。

 

「まぁ、戒律も結局は解釈次第って事か……元々そうやって手に入れた力だし、制約やらペナルティがあるのも当然かも」

「あぁ、だからアズサは……私が倒す」

 

 そう云ってサオリは、手にしていた愛銃を抱え直す。アリウス製アサルトライフル(名もない一つの武器)、カスタムされてはいるものの執着は無く、唯一ロアフレームに刻印されたアリウス分校の校章だけが彼女の愛銃である事を主張している。

 武器は、その性能を発揮出来れば何でも良い。彼女のスタンスが現れた一品だった。

 

「これだけ騒ぎが起きても他に人影はない、それに彼奴の動き、アレは単独で多数の敵を相手取る動きだ――相手はアズサ単独だろう、もう一度散開して追い詰める、ただしヒヨリは姫とバディを組め、三方向から追い詰めるぞ」

「りょ、了解しました……!」

「ま、それが一番か――じゃあ、私は東側から、姫達は西からよろしく」

「………」

 

 サオリが指示を出せば、スクワッドは再び散開しアズサを追い詰めるように動き出そうとする。しかし、彼女達がその足を踏み出すより早く、建物全体に震えるような衝撃が走った。ビリビリと周辺の窓硝子が震え、扉が揺れる。それは爆発の余波、振動である。微かな揺れを感じ取った皆は、迷わず警戒の色を見せる。

 

「っ、爆発……?」

「でも、遠かった様な……?」

「いや……」

 

 ミサキが訝し気に目を細め、ヒヨリが不安そうに身を屈める。サオリは彼女達を横目に周囲を見渡した。パラパラと、頭上から剥がれた塗装片が落ちて来る。それを眺めながら数秒、サオリは脳内でシミュレーションを行った。

 

 もし、仮に自身がアズサの立場であれば――。

 

 敵は四人、かつ後方からの増援見込みあり。ただしETOの阻止だけを考えるのであれば最優先目標はスクワッドのみで良い。この廃墟に爆薬(トラップ)の類を仕掛けていると仮定して、自身を囮としたトラップを使用、その階層で仕留めきれないと判断したのであれば……――。

 

「これは――まさかッ!?」

 

 思考時間は僅かな間、そして結論が弾き出される。

 同時にぞわりと、サオリの背筋に悪寒が走り抜けた。咄嗟にアツコの腕を引き、サオリは廊下を駆け出す。瞬間、頭上の天井が裂け落ち、瓦礫破片が一斉に降り注いだ。

 アズサはこの階層にある支柱を爆破し、崩落を引き起こしたのだ。

 

「上階が崩れるぞッ! 走れ!」

「えぁっ、ちょ、うわぁッ!?」

「っ、これは――」

 

 サオリとアツコは紙一重で崩落する天井から難を逃れ、ミサキとヒヨリは噴煙と瓦礫に塗れ見えなくなった。凄まじい轟音と衝撃が周囲に響き渡り、落下した上階が雪崩の如く床を叩きつける。重量を支えられなくなった床が抜け落ち、地上一階まで瓦礫群が殺到した。その中に巻き込まれたミサキとヒヨリは、濁流の中を漂う様に身を丸め、自身の身体を容赦なく殴打する瓦礫片に呻く。落下の瞬間は一瞬の様にも感じたし、とても長くも感じた。地面に叩きつけられ、息を詰まらせた二人は顔を顰め、地面に這い蹲ったまま動けない。

 

「げほっ、ごほッ、ぅ……」

「う、うぅ……」

 

 噎せ返る程の噴煙、朦々と立ち上るそれで視界は悪い。ミサキは自身の身体に圧し掛かる瓦礫を見上げながら顔を歪める。微かに差し込む光、頭上には綺麗にぽっかりと穴の開いた空間が見えた。

 

「まさか、上階で私達を押し潰す……なんて、ね」

 

 呟き、何とか瓦礫から抜け出そうと体を動かす。しかし、体勢が悪い。如何に力の強いキヴォトスの生徒と云えど、幾重にも折り重なったそれを押し退けるのは困難であった。元より見切りの早いミサキである。脱出は不可能と即座に判断し、諦めた様に伸ばしていた手を落とす。

 

「ヒヨリ、ミサキ、無事かッ!?」

「一応、生きている、よ……ただ、これは、ちょっと動けない、かな」

 

 上階から階下を見下ろし叫ぶサオリに対し、ミサキは淡々とした口調で応える。粉塵が肺に入り、思わず咽た。直ぐ横を見れば、ヒヨリが自身と同じように瓦礫に挟まれ呻いている。しかし背中の大きなバッグが緩衝材になった様だった。床とヒヨリの間に背負っていたバッグが挟まって隙間を作っている。ミサキは額から流れる血を感じながら、運が良いと吐息を零した。しかし、崩落の瞬間に瓦礫に殴打されたのか、ヒヨリの頬や手に幾つもの切傷や痣が見えた。その顔色は悪く、苦し気だ。

 どちらにせよ、二人共自力での脱出は不可能。そう考えミサキは口を開く。

 

「ごめん、リーダー、私とヒヨリは置いて行って……」

「っ……!」

 

 アズサが次、どのような行動に出るかが分からない。

 仮にこのままサオリやアツコが救助活動を行おうとすれば、それこそ好機とアズサはこの場所に爆発物の類をこれでもかと投げ入れる事だろう。

 そうすれば、今度こそ全員生き埋めだ。ならば、選択肢は一つ――ミサキとヒヨリの両名を見捨て、サオリとアツコの二名でアズサを追撃する。

 そうすれば少なくとも、事前に何かしらの仕込みを済ませていない限り二人は此処に埋まっているだけで済む。

 それを理解していたからだろう、サオリは数秒沈黙を通し、静かに立ち上がった。

 階下、未だ晴れぬ粉塵越しに見える微かな輪郭。ミサキとヒヨリのものであろうそれに向けて、サオリは力強く告げる。

 

「――待っていろ、直ぐに救援を呼ぶ」

「……気長に、待っているよ」

 

 云って、ミサキは緩く手を振った。自身を下敷きにする瓦礫のせいで、言葉を発するのも苦しい。足音がして、サオリとアツコの二人が駆け出すのが分かった。その影が見えなくなることを確かめて、ミサキは静かに頭上を見上げる。

 

「い、痛い……苦し、い――……」

「………はー」

 

 ヒヨリが呟き、その鼻から一筋の血が流れた。小さく震える肩、ミサキはそんな彼女に手を伸ばそうとして――けれど、指先はヒヨリに届く事がない。

 伸ばしたそれを中途半端な位置で下ろし、脱力する。

 

「……ホント」

 

 宙を舞う粉塵が、差し込む月光に照らされる。それは幻想的に見えて、しかし暴力的な残滓に過ぎない。そんな残酷で美しい世界を呆然と見つめながら、ミサキは呟いた。

 

「――酷い、世界」

 

 ■

 

「はぁ、はぁッ、ハッ……!」

 

 息が弾む、足が徐々に重くなり始める。疲労と痛みが徐々に、徐々にアズサの身体を蝕み始めた。

 廊下を駆け抜けるアズサは、背後から鳴り響いた爆発と建物の崩落音に確かな手応えを感じていた。自身を追撃していたサオリ、そしてあの場に居たアツコは確実に巻き込まれた事だろう。そうでなくとも、あの爆発には建物を分断する意図があった。上階を崩落させ、廊下を崩した為に此方側へと渡るには一度地上に降りるか、屋上経由で向かってくるしかない。そして、それを見越したトラップをアズサは仕掛けている。スクワッドが分散し自身を追撃するか、或いは纏まって動くかでアズサの対応は異なる。

 そんな事を考えながら駆けていたからか、アズサは直ぐ横合いから伸びて来た腕に気付くのに、一瞬遅れた。

 

「ッ――うぐッ!?」

「捉えたぞッ!」

 

 曲がり角、まるで待ち伏せしていた様なタイミングでの、横合いからタックル。否、実際サオリはアズサのルートを読んでいたのだ。彼女よりも建築物の状況、ルートに精通していた彼女はポイントを二つに絞り、アツコと自分の二人で二ヶ所のルートに潜んでいた。そしてサオリの予想はまんまと的中し、アズサはサオリの奇襲に浮足立っている。

 

「地形は私の方が熟知しているッ……! 無論、あらゆる最短経路もなッ!」

「こ、のォッ!」

 

 横合いからタックルを受けたアズサは、床の上を転がりながらサオリを巴投げの要領で投げ飛ばす。それに対し、サオリは何の抵抗も無く投げ飛ばされた。その余りにも簡単な感触に、アズサは思わず身を硬直させる。

 そして気付いた、サオリの手には弾倉が一つ握られていた。

 咄嗟に自身の愛銃を見下ろせば、いつの間にか装填されていた弾倉が抜き取られていた。あの一瞬の接触で、サオリはアズサの銃器に触れ取り外したのだ。

 床に打ち付けられる前に受け身を取り、転がったサオリは素早く体勢を立て直し射撃を行う。廊下に銃声が鳴り響き、アズサの髪をひと房、銃弾が掠めた。

 

「っ、く……!」

 

 アズサは飛来するそれらを身を捩って避け、近場の教室に飛び込む。硝子が破られる音、飛び散った破片が甲高い音を鳴らし、アズサは予備の弾倉を素早くポーチから取り出そうとする。

 しかし、それよりも早く――彼女の視界、反対側の廊下から銃口を構える人影が見えた。

 暗闇に浮かび上がる、青白い光。

 それはアツコの被ったマスク、その残光。

 突き出した銃口が月光に照らされ、鈍い光を放っていた。

 

「っ、アツ――」

 

 アズサがその名を口にするよりも早く、銃声が轟く。閃光が網膜を焼き、飛来した弾丸はアズサの顔面に着弾した。衝撃で体が仰け反り、被っていたガスマスクが破損、固定ベルトが弾け後方へと流れる。

 視界が一瞬、白く弾けた。意識が途切れそうになるのをアズサは歯を食い縛って阻止する。脳を揺すられた、けれど決して致命的な一撃ではない。

 足を踏ん張り堪える。意識を失いそうになると、まず足の感覚がなくなる。だからアズサは敢えて大きく足を踏み込む事で自身が倒れていない事を確かめた。両足の感覚はある、自分は今、立っている。

 着弾したのは一発、残りはアズサの背後にある壁に穴を穿ち、粉塵が漂う。

 そんな彼女の視界に、扉を突き破って突入してくるサオリの姿が映る。アズサは無意識の内に手にしていた弾倉を銃に装填し、引き金を引き絞る。訓練で何度も繰り返した動作は、思考を挟む余地なく彼女の肉体を突き動かした。

 

「く、ぁッ――!」

 

 狙いを付けるだけの余裕はなかった。崩れた姿勢のまま、腰だめに銃を構えて乱射する。連続したマズルフラッシュが薄暗い部屋の中で点滅し、反響した銃声がアズサの鼓膜を叩く。しかし、適当に撒き散らす弾に当たってくれる程、スクワッドは優しい手合いではない。

 サオリは地を這う様にして薙ぎ払われた弾丸を潜り抜け、アズサの元へと容易く肉薄した。

 未だ完全に立ち直れていないアズサの状況を理解した彼女は、銃を短く持ち直すと下から掬い上げるようにストックでアズサの顎を強打。鈍い音と共にアズサの顔面が跳ね上がり、痛みと同時に強烈な衝撃が頭部を突き抜ける。

 二歩、後退したアズサは顎先に強い熱を感じながら、手にしていた愛銃、その銃口がだらんと垂れるのを自覚した。

 腕に、力が入らなかった。

 頭部に受けた二度目の衝撃がトドメとなった。口の端から血を滲ませながら、その身体がゆっくりと倒れ込む。

 

「此処までだ、アズサ」

 

 崩れ落ちる視界、遠のく意識、ゆっくりと力の抜ける膝。

 徐々に狭まっていく視界の中で見えた、サオリの顔。此方に銃口を向け、勝利を確信した瞳。

 彼女の告げた声が、何時までも耳にこびり付く。

 

 ――【アズサ】

 

 薄暗く暗転していく視界の中に、補習授業部で学んだ一幕が映し出された。

 机に座って、黒板に丁寧に文字を書く先生の姿。BDだけではない、前時代的だけれど温かみのある学び方。どれだけ間違っても、先生は根気強く自分達と向き合ってくれた。だから苦難の末に理解し、正解を引き当てると、先生はとても嬉しそうに笑ってくれる。

 その先生の笑顔がアズサは大好きだった。

 

 そんな先生は、もう居ない。

 

 ――【アズサ!】

 

 コハル。

 正義実現委員会のエリートで、次期委員長、副委員長を期待されるホープ。彼女とは互いに切磋琢磨し学び合い、様々な事を教わり、教えた。誰かと一緒に学ぶ事も、誰かに教えを授ける事も初めての経験だった。彼女の勇気にはいつも助けられた、どんな窮地でも彼女は決して希望を喪わない。その姿勢を、在り方自体を見る度に、アズサは勇気を分けて貰えた。

 きっと自分が此処に立っていられるのは、彼女の小さな、けれど力強い歩みを知っているからだ。

 

 ――【アズサちゃん♡】

 

 ハナコ。

 トリニティの才媛と呼ばれた、素晴らしい才能を持つ友人。彼女には勉学に於いても、人生に於いても大切な事を教わった。誰かと一緒に意味も無く、他愛もない話に花を咲かせるという事も初めてだった。水着で集まって色々な事を話した事も、プールを一緒に掃除をした事も、食事を一緒に作って、食べて、夜にベッドの中でこっそりお喋りしたり、一緒に本を読んで、御菓子を食べた事も――全部全部、大切な思い出だ。

 その一秒、一分、嘗て意味のない事と切り捨てた時間がどれ程大切で、どれ程輝かしい時間であったのかを噛み締めたのは、つい最近だった。

 

 ――【アズサちゃん】

 

 (アズサ)の前の席だったヒフミ、彼女は良く授業で分からない所、問題集で間違えた所を改めて解説してくれた。先生の居ない時、自分に勉学を教えてくれたのは彼女だった。彼女も先生と同じように何度間違えても、何度失敗しても、馬鹿にせず、諦めず、自分に付き合ってくれた。多分、アズサという存在に出来た、戦いに関係ない、生まれて初めての友達だった。勉強だけではない、沢山の楽しい事を彼女は教えてくれた。

 

 そんな友達(ヒフミ)を、(アズサ)は突き放した。

 

 

 出来るのならば、戻りたい。

 皆と笑って過ごせていた時間に。

 あの頃に。

 輝かしい青春の刻に。

 

 大切な補習授業部の仲間達、(アズサ)の大切な友人。

 暖かな陽だまりの中で生きる人たちで、そう在るべき生徒。私とは生きる世界の違う、けれどそんな自分に優しくしてくれた掛け替えのない思い出。

 

 そんな、そんな素晴らしい人達を。

 どうして、私は――。

 

 ――【待って下さい! アズサちゃんッ!】

 

 最後の記憶。

 涙を流しながら自分に手を伸ばす、ヒフミの表情。

 アズサの瞼に、その光景がこびり付いて離れない。

 

「ッ、ぐ、が、ァあぁアアアアアッ!」

「――!?」

 

 咆哮した。

 それはアズサにとって、腹の底から絞り出した憎悪の叫びだった。

 どうして(アズサ)は此処に居るのか。どうして(アズサ)は彼女達を顧みず、突き放したのか。尊くて、大切で、何よりも代えがたい希望()を自ら手放して尚、守りたかった唯一のもの。

 その理由は単純だ、単純で、だからこそ絶対に譲れない一線だった。

 

 絶叫し、倒れかけていた体を持ち直した彼女は力強く踏み込み、体勢も何も考えない様な全力の突貫を敢行。踏み出した一歩が床に罅を刻み、二歩目でサオリの腹部を捉える。サオリは死に体だったアズサが一瞬にして息を吹き返した事実に驚愕し、一瞬体を硬直させた。

 しかし、タックルを受けたと見るや否や即座に膝をアズサの腹部に打ち込み、同時に肘撃を首筋に一発。肉と骨の軋む音が響き、確かな手応えを感じさせる。

 

 しかし、アズサの動きは止まらず。

 

 想像以上のタフネスと怪力にサオリはそのまま後方へと押し込まれ、二人は勢い良く壁に突っ込む。老朽化していた内壁はアズサの渾身の突撃に耐え切れず、二人はそのまま壁を突き破り廊下へと転がり出た。

 

 爆音と衝撃、壁、そして床と続けて叩きつけられたサオリは強烈な衝撃に目を細めながら、組み付いたまま離れないアズサを睨みつける。衝撃で手から銃が零れ落ち、床の上を滑って行くのが見えた。そしてそれはアズサも同じだ。素手のままサオリの肩を掴み、馬乗りとなった彼女は血走った目で彼女を睥睨する。

 

「こ、のっ……!?」

「サオリッ、お前、だけはァッ!」

 

 朦々と立ち上る粉塵を顧みず、アズサは白に塗れた腕を振り上げる。

 差し込む月光に照らされたアズサの表情。

 ガスマスクを消失し、憎悪と悲壮に塗れた彼女の表情(その顔)は、鮮烈な印象と共にサオリの脳裏に刻まれた。

 

「――お前だけはッ、絶対に殺すッ!」

 

 叫び、全力で振り下ろされる拳。それはサオリの頬を芯から捉え、その顔面が弾かれた様に跳ねる。床に後頭部が叩きつけられ、鈍い音が鳴り響いた。サオリの口元を覆っていたマスクが衝撃で外れ、床の上を弾みながら転がっていく。

 二発、三発、抵抗を許さぬまま必死の形相で馬乗りになったままサオリを殴りつけるアズサ。衝撃で脳を揺さぶられるサオリは、痛みに顔を顰めながらも思考は止めず。

 

「っ、この、程度でッ――!」

 

 吐き捨て、サオリは繰り出された四発目に合わせ拳を突き出す。互いに顔面を狙った一撃、それはカウンターの要領でアズサの頬を捉え、彼女の顔が跳ね上がる。瞬間、サオリは腰を突き上げアズサの重心を僅かに押し上げた。そして渾身の力でアズサの腹部に拳を打ち込み、嘔吐(えず)き、身体が硬直した瞬間を見て足を一本引き抜く。

 

 逃げられると直感し、痛みに顔を顰めながらも咄嗟に手を伸ばしたアズサ。その指先をサオリは肘で払い、畳んだ状態から胸元目掛けて蹴撃を浴びせる。アズサは間に合わないと判断し、腕を畳んで防御の姿勢。サオリの蹴りはアズサの固めた防御()の上を強烈に叩き、その身体が一瞬浮き上がった。

 キヴォトスの生徒の脚力で以て放たれたそれは、アズサの矮躯を容易に宙へと押し出す。辛うじて直撃を防いだアズサは、ビリビリとひりつく様な衝撃の残る腕に顔を歪めながら、しかしサオリから目を片時も逸らさない。

 

 素早く立ち上がり後退、身構えたサオリは月光に照らされ鈍い光を放つ愛銃を視界の端に捉える。アズサと愛銃を交互に見つめた彼女は、即座に判断し愛銃の元へと駆け出した。

 そしてアズサもまた、それを見て直ぐ傍に落ちていた自身の銃へと飛びつき、安全装置、チャンバーのチェック、そして引き金に指を掛ける。

 銃を構えたのは殆ど同時だった。窓から差し込む光に照らされた二人は濃い影を地面に残しながら、その酷似した瞳を交差させ叫ぶ。

 

「サオリ――ッ!」

「アズサ――ッ!」

 

 絶叫が反響し、互いが引き金を絞る時間が酷く遅く感じられた。

 

 ――銃声が二つ、廊下に轟く。

 

 閃光は互いの視界に瞬き、衝撃が互いの身体を突き抜けた。

 

「う、ぐ――がッ……!」

「………っ」

 

 アズサの身体がくの字に折れ曲がり、サオリは胸元を抑えながら蹈鞴を踏む。

 弾丸は互いに一発ずつ、サオリは胸元に着弾し、アズサは腹部に着弾した。

 アズサは腹部を抑えながら膝を突き、その場に蹲る。口から垂れた血液交じりの唾液、それが床に零れ落ちる。手から力なく滑り落ちた銃が、サオリの足元へと滑り込むようにして転がった。

 サオリはそんな彼女を見下ろしながら、大きく息を吸い込み足でアズサの愛銃を受け止める。そしてゆっくりと、銃口を再びアズサに向けた。

 

 勝敗を分けたのは単純な理由。

 

 ――耐久力の差(連戦による、疲労)だった。

 

「……これで終わりだ、アズサ」

「ぅ……ぐ――」

 

 地面に蹲ったまま、サオリを見上げるアズサ。痛みに呻きながらも睨みつけるその視線は未だ衰えず。しかし、意志だけではどうにもならい現実が目前に横たわる。

 彼女を見下ろすサオリは、青痣となった頬、そして口の端から滲む血を拭い、告げた。

 

「お前は良くやったよ、だが――全ては無意味だ」

 


 

 次回 「アズサちゃん」(暖かい思い出)

 



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「アズサちゃん」(暖かな思い出)

誤字脱字報告に感謝いたしますわ!


 

「ふぅ、ふッ……!」

 

 荒い息が漏れていた。這い蹲り、此方に銃口を向けるサオリを睨みつけるアズサは、自身の腹部を抑えながら肩を上下させる。砂塵に塗れ、血に塗れ、汗に塗れ、あらゆる手を尽くし足掻いた彼女は満身創痍だった。戦闘に次ぐ戦闘、不眠不休での戦闘訓練はアリウスでも頻繁に実施されていたものだが、実際の戦闘ストレスと比較すれば余りにも質が違う。

 張り詰めた糸は必ずどこかで切れる。

 しかし、アズサのそれ()は一等頑丈であった。

 良い意味でも、悪い意味でも。

 

 サオリ(同胞)はそれを、良く知っている。

 

「……あぁ、今のお前は確かに、アリウスに相応しい」

 

 這い蹲って尚、戦意を失わぬ瞳。憎悪を孕んだ表情を前にサオリは薄らとした微笑みを浮かべる。それは漸く『此方側』に踏み込んだのかと、喜ぶような口調ですらあった。銃口を向けながらゆっくりと屈み込むサオリ。アズサの歪んだ表情を覗き込むように伺う瞳、暗闇の中で光るそれは不気味な色を放つ。

 

「その目だ、その目こそアリウスだ、アズサ、意志さえあれば道具は関係ない、重要なのはそこに込められた意志――人を殺すという、殺意」

 

 混じり気の無い殺意、相手を殺すという意志、それをどこまでも貫徹し、実行する行動力。それこそがアリウスがアリウスたる所以、それ以外を持たず、それ以外を棄て、その感情のみで満たされた時――アリウスの生徒(兵士)は完成する。

 立ち上がり、満足げに息を吐き出すサオリ。アズサは引き攣った吐息を零しながら、歯を食い縛る。

 

 唐突に、サオリはトリガーを引いた。

 

 銃声が鳴り響き、至近距離で瞬いたマズルフラッシュがアズサの姿を浮かび上がらせる。弾丸は彼女の胸元に着弾し、アズサは目を見開き、胸を貫いた衝撃に思わずもんどりうって転がった。

 

「あぐッ……!?」

「――だが、お前は何も成せない」

 

 胸元を抑え、喘ぐような呼吸を繰り返すアズサの肩を蹴り飛ばし、仰向けに転がす。そして腹部を脚で押さえつけると、苦し気に呻く彼女に再び銃口を突きつけ告げた。

 

「それはお前が弱いからだ、弱いから、何も成せずに斃れる」

 

 再度、銃撃。

 閃光が二人の影を濃く壁に映し出し、弾丸はアズサの胸元に再び着弾する。肋骨が軋み、心臓が大きく脈動するのが分かった。肺に詰まっていた空気が、一気に抜け落ちる。何度も続けて受けたダメージの蓄積がアズサの肺を締め付ける。

 このままでは、拙い。

 集中的な攻撃を受ければ、呼吸すら出来なくなる。

 そう直感したアズサは、苦し紛れにサオリの足を両手で掴む。しかし、その行動を予期していたサオリはアズサの左肩を銃撃し、痛みに硬直した瞬間アズサの顔面を正面から蹴り飛ばした。

 

「ごッ、が……!」 

 

 アズサの鼻から血が噴き出し、サオリのブーツを汚す。揺らいだ身体が後方へと転がり、倒れ込む。

 瞬間、彼女が背負っていた背嚢、その口が緩み中から幾つかの物品が転がり出た。軽い音を立てて床に広がるそれら。

 空の弾倉、配線の繋がれていない爆薬、小さなペンケースに中の筆記用具、そして――。

 

「……ほう?」

 

 サオリは、その奇妙な物体を目にした瞬間、興味深そうに声を上げた。

 ゆっくりとした足取りで進み、床に転がった妙なシルエットの白い物体を掴み取る。柔らかで、汚れも無く、肌触りも良い。アリウスの様な生徒には不釣り合いな一品だ。鼻を抑え、血を垂れ流すアズサは、サオリの行動に気付かない。這い蹲ったまま震えるアズサに歩み寄ったサオリは、これ見よがしにソレをぶら下げ、云った。

 

「前にも見たが――この奇妙な人形は、お友達からのプレゼントか?」

「っ……!」

 

 咄嗟に顔を上げたアズサ、鼻血に塗れた頬をそのままに視線を向ければ、サオリの手の中に――彼女にとって初めてのプレゼントであり、宝物であるペロロ人形が握られていた。

 頭部を握られ、変形し、血の付着した大切な宝物。

 アズサはそれを見た瞬間、カッと自身の中で血が沸騰するような感覚を覚えた。手を地面に突き、上体を起こす。そして息も絶え絶えになりながら、彼女は言葉を紡ぐ。

 

「触れ、るな……!」

「………」

 

 強い口調で、アズサはそう告げた。

 手を伸ばす。震えた指先で、必死にサオリの持つ人形へと。

 その様子を見下ろすサオリは、酷く無機質な瞳で彼女を捉える。

 

「それに、触れるな……ッ!」

「――虚しいな」

 

 しかし、アズサの手がペロロ人形(宝物)に届く事は無い。

 目前でマズルフラッシュが瞬き、弾丸がアズサの身体を打ち付けた。銃声が部屋の中に木霊する、立ち昇る硝煙越しに酷く冷めた、無感動で、乾燥し切ったサオリの瞳が見えた。

 

「虚しい」

「ぐ、ぁ――!」

 

 再度、銃声、衝撃。

 アズサの身体が仰け反り、肉体が痛みに反応して硬直する。弾丸により無理矢理体を引き起こされたアズサの目前に、月光に照らされた銃口が直ぐ傍まで突き出された。

 

「虚しい」

「ぃぎッ――!」

 

 閃光、銃撃、衝撃。

 

「虚しい」

「ぃ、ッ――!」

「虚しい、虚しい、虚しい、虚しい、虚しい、虚しい、虚しい」

 

 銃撃、銃撃、銃撃、銃撃――セミオートで繰り返される、ただ嬲る様な攻撃。肩、胸、腹、鳩尾と、痛む場所ばかりを狙い意識を失わせない。その精神を徹底的に破壊してやるとばかりに、視界で閃光が瞬く度に鈍痛と衝撃が体を貫く。

 空薬莢が床に落ちる音、銃声、サオリの声、アズサの呻き、周囲に響く音がソレが全てだった。

 

 一体、何発撃ち込まれたのだろう。

 少なくとも、ニ十発以上は確実に撃ち込まれた筈だった。終わりは、カチンという弾切れの音と共に訪れる。何度も何度も引き金を絞ったサオリは、弾倉の中身が空になった事に気付き、漸く足元に転がる空薬莢へと目を向けた。

 数秒、軽く息を吸い込んだサオリはそれを蹴飛ばし、空になった弾倉を取り外すと無造作に床へと放り捨てる。軽い音と共に転がるそれを見下ろし、サオリは呟いた。

 

「ぁ、が……ぅ――」

「………虚しいな、アズサ」

 

 アズサは精魂尽き果てたかの様に床へと崩れ落ち、そのままか細い呼吸だけを繰り返す。何度も何度も銃撃を叩き込まれた箇所は、青痣と血に塗れ、所々が細かく痙攣しているのが見えた。うつ伏せになったアズサの肩に足を乗せ、サオリは新しい弾倉を愛銃に嵌め込む。薬室に弾丸を送り込みながら、自身の足下で呻くアズサを睨みつけた。

 

「友情か……偽りの関係、偽りの場所、そこで得た偽りの友――ならばその、無駄で虚しくも懸命に守ろうとするモノから破壊するとしよう、あぁ確か……『ヒフミ』、だったか?」

 

 サオリは以前、アズサからトリニティ潜入中に受けていた報告、その中に出て来た人名を思い出す。トリニティ襲撃の際に目にした、あの淡い髪色の生徒。確か、この奇妙な縫い包みと同じ様なデザインをしたバッグを背負っていた。恐らくこの品を贈ったのも彼女だろう。

 ならば――最初に壊す(殺す)のはソイツにしよう。

 そうすればアズサも目を覚ます筈だと、そう考えて。

 

「お前の目の前で、ヘイローを破壊()してやる――先生(あの大人)と、同じように」

 

 その言葉に。

 呻く事しか出来なかったアズサの、その指先が。

 ぴくりと震えた。

 

「一つずつ、お前の大切なものを目の前で壊す、さて……」

 

 サオリがアズサの頭部に銃口を向け、淡々とした口調で告げる。

 

「お前は何個目(何人目)で、その夢から覚めるのだ?」

 

 ゆっくりと握り込まれ、象られる拳。肩を踏みつけられ、これ程までに嬲られ、それでも尚尽きぬ意志。燃料は、怒り。爆発的なそれはアズサの身体を巡り、痛みを、疲労を掻き消す役割を持つ。激しい怒りと云うのは、()の味がする。

 暗闇の中、鈍い光を放つアズサの瞳。それを見つめながら、サオリの指が再び引き金を絞り――。

 

 しかし、弾丸が発射されるよりも早く、サオリの肩を掴む人影があった。

 それはアツコだ。

 彼女はサオリの肩を掴んだまま、静かに首を横に振った。

 

「……姫」

「………」

 

 小さく、けれど素早く動く彼女の指先。手話で以て訴えられるのは、サオリの行き過ぎた暴力を窘めるもの。それに対しサオリは小さく肩を竦めると、何でもない事のように答えた。

 

「心配しなくとも、加減はしている、訓練自体でもこの程度の事は何度もあった、こいつの意志を挫くのならば、これ位の事は――」

「……ッ!」

 

 瞬間、アズサは辛うじて残っていた力を総動員し、サオリの傍に転がっていた自身の愛銃に手を伸ばす。そして素早く狙いを付け、引き金を絞った。狙いはアツコでも、サオリでもない。

 筆記用具と共に転がっていた爆薬の一つ、それの表面を擦る様な形で弾丸を撃ち込み――起爆。

 爆炎と衝撃波が周囲を包み込み、サオリは咄嗟にアツコを庇いながら床の上を転がった。爆発は決して大きなものではなかった、そもそも本来の意図した使用方法ではない上に、あれは予備のものだった。

 衝撃と爆炎、爆風は確かにあったがダメージは期待出来ない。サオリは二度、三度、床を転がり、腕の中のアツコが無事である事を確認すると、微かに付着した煤を払い叫ぶ。

 

「まだ動けるのか、アズサ……!?」

「っ……!」

 

 二人が視線を向けた時、既にアズサの姿は何処にもなかった。同時に廊下側から硝子を突き破る音が鳴り響く。咄嗟に振り向けば、爆発から僅かに離れ、影となった窓から身を投げるアズサの背中が見える。幸い彼女が活動していたのは三階部分、少し高いが飛べない高さでもない。

 

「ぁぐッ……!」

 

 着地の瞬間、痛みで不格好な体勢となったアズサは衝撃を吸収し切る事が出来ず、アスファルトの上に倒れ込む。肩を強く打ち付け、思わず悲鳴が漏れた。しかし数秒掛かることなく起き上がり、震える膝を叩きながら必死に廃墟裏へと駆け出す。擦り切れた頬から、血が滲んだ。

 

「はぁ、はッ、う、ぐ、ぁ――く、ふッ、はァ!」

 

 鼻からの出血、充血した瞳、腕や肩、胸元、腹部は青痣だらけで、辛うじて愛銃を掴んでいる腕も小刻みに震えている。ボロボロの制服は既に防弾性能が皆無。軽くなった背嚢、装備の殆どは喪失していた。

 それでも、彼女は痛みに顔を顰めながら足を動かす。

 一歩でも前へ、少しでも遠くに――次の機会(チャンス)を掴む為に。

 

「……相変わらず、頑丈な事だ」

 

 階下、必死に駆け暗闇の中へと行方を晦ませるアズサ。その去り行く背中を見つめていたサオリは吐き捨てるようにして呟く。あれ程の弾丸、そして打撃を受けて尚、まだ走れるだけの余力が残っているとは思わなかった。彼奴の頑丈さを見誤った、いや、以前のアズサならば立ち上がれない程に痛め付けた筈だ。

 ならば、立ち上がれるだけの【何か】があったという事か。

 しかし、弾倉丸々一つ分、とはいかないまでも――それに近しいダメージは既に受けている筈。痛みに耐える訓練も、負傷した状態でも動ける訓練も、当然アリウス分校時代に積んでいるが、負傷や疲労は確実に肉体のスペックを低下させる。

 

 それ程までに、大切だと云う事なのだろう。

 彼女にとっての、『お友達』(希望)が。

 

「だが――何度来ても同じ事」

 

 呟き、部屋の中央へと足を進めるサオリ。そして月光に照らされた白い縫い包み――アズサの宝物を拾い上げる。

 先の爆発で多少砂埃が付着しているものの、人形に大きな破損は見られない。表面の汚れを叩き落とし、その珍妙な表情を見つめながら目を細める。

 

「彼奴は直ぐに戻って来る、何せ、この大事な『友情の証』とやらを取り戻さなくてはならないからな」

「………」

「――闇の中で(希望)を見つけた(私達)は、もうそれ無しでは生きられない」

 

 サオリは何処か、噛み締める様な口調で囁いた。

 思い返すのは嘗ての記憶、自分に手を差し伸べようとした大人の姿。

 生徒の為に手を伸ばし、屈託なく笑い、満身創痍となって尚立ち上がり、生徒を庇う。

 そんな、自分が殺した――一人の人間。

 

「それが身を焦がす代物であると理解していても、手放す事は出来ないんだ」

 

 そうだ――人には拠り所が必要なのだ、或いは信じる何かと云い換えても良い。物品でも、目に見えぬものでも、何でも良い。そして周囲が場違いである程、自分と異なる世界である程、その拠り所は一層手放し難く、執着する要因となる。

 暗闇の中で灯る(希望)の様に、近付きすぎれば自身が燃え尽きると理解していても。

 その衝動(願い)は――強烈で、鮮烈で、輝いて見えるのだ。

 

 だから、最初から手にしてはいけない。

 希望を、光を、望みを、未来を。

 手にしてしまえば最後、今よりも辛く苦しい想いをするだけだから。

 

 彼女はいずれ到来する苦しみから逃れる為に、先生の伸ばした手を退けた。

 今よりずっと、辛くて、苦しくて、虚しい日々を送りたくないから。だからその手を取れば得られるだろう一瞬の幸福を、希望を、光を――サオリは否定した。

 

「こんなつまらないものが、アズサの心を支える光なのだ……アズサは、コレ(希望)を諦められない、絶対に戻って来る」

 

 強く、それを握り締めながらサオリは断言する。

 サオリにとってそれは、ただの奇妙な人形に過ぎない。その辺りの店で購入出来るような代替可能な品だ。けれど、彼女(アズサ)にとっては違う。

 これは象徴だ、アズサにとっての青春、そして希望に満ち溢れた日々、その思い出(友情)を象ったものなのだ。

 だから、絶対に彼奴は戻って来る――この場所に、サオリの元に。

 

「ならばその度に、幾度でも打倒(うちたお)そう、理解させよう、無理矢理にでも――この世の真理を」

 

 そう。

 

「――全ては、虚しいのだから」

 

 人形を見つめ、吐き捨てる。その声に含まれた感情は何だろうか、アツコには妙に彼女が寂しそうに見えた。或いは、それこそが彼女にとっての呪縛だった。幼い頃より云い聞かせられ、そして自分に云い聞かせて来た言葉。

 努力は無駄で、将来は閉ざされ、希望を持つ事は許されず、世界は全てが虚しいもの。アリウスの全ては憎悪の為に、数百年前に刻まれた恨み辛みを果たす為だけに費やされるべきなのだと。其処に私情を挟む余地はなく、疑問を抱く権利もない。

 

 ただ、云われるがままに戦い、憎み、殺し、軈て無意味に死ぬ。

 それで良い――それ以外の道は、存在しない。

 私達(アリウス)は、日陰の存在だから。

 

「………」

 

 サオリの背後で、アツコは俯き何も口にしない。する事が出来なかった。ただ銃を抱えたまま、悲しそうに沈黙を守る。運命に逆らわず、流されるままに生きて来た。だからきっと、これからもそうやって、こんな風に、運命に従い生きていくのだろう。

 けれど、ふとした瞬間。サオリやスクワッドの仲間達が苦しそうな表情をする度に、彼女は胸の中に小さな小さな痛みが生じる事を自覚していた。

 このままで、良いのだろうかと。

 本当に、それしか道はないのかと。

 何度も思った事だった。

 何度も考えた事だった。

 それはきっと、アツコの中に残った最後の願いだった。

 

 けれど、それを口にするには余りにも自分は無力で。力も、勇気もない自分には何も変えられないからと、俯いて生きて来た。だって、抗い方も、足掻き方も、救われ方でさえ、誰も教えてはくれなかった。

 知らない事を貫き通すのは――酷く難しい事だから。

 

 部屋の中に沈黙が降りる。

 アツコは手を握り締める。

 彼女(アズサ)と対峙した時と同じように。

 強く、強く、指先を震わせて。

 

 ――ふと、電子音が聞こえた。

 

 それは何かのスイッチを押し込んだような、無機質で甲高い電子音だ。そこから音はリズムを刻み出し、一定間隔で周囲に響く。くぐもったそれは声を発すれば掻き消されてしまいそうな小さいものだ。

 けれど静寂が彼女達の味方をした。

 

「……?」

 

 その音を拾ったサオリは、顔を顰め周囲に視線を飛ばす。音の出所は至近距離、そして聞き間違いでなければ――自身の手の中から。

 音は等間隔で鳴り響いており、止む気配はない。

 

「何だ、この音は――中に、何か詰まって……?」

 

 この様な玩具、縫い包みの類には詳しくない。うろ覚えの知識ではあるが、この手のものには音を発する代物もあった……気がする。ヒヨリの集めていた雑誌に、その手のファンシーな記事が載っていた事があったのだ。

 或いは、先程の爆発で何かのスイッチでも押し込んだか。そう思って縫い包みの彼方此方を眺めるも、それらしいものは見つからず。サオリは一つ舌打ちを零し、レッグホルスターからナイフを抜き放つ。

 鳴り続けられても面倒だ、内部の配線の一つでも切ってやれば黙るだろう。そう思い、表面を浅く斬り付ける。裂けた表面から綿が溢れ出し、サオリはそれを指先で掻き分け内部を覗き見た。

 

 ――奥から、レッドランプの点灯する爆弾(IED)が顔を見せていた。

 

「ッ――!?」

 

 サオリは一瞬、息を止める。

 産毛が逆立ち、背筋が凍るのが分かった。

 表面の綿の奥、恐らく内部の綿を抜いて代わりに仕込んでおいたのだろう、爆薬に接続された簡易端末。赤と緑の線が接続され、黒いテープで固定されたIED(即席爆弾)。しかし、使用されている爆弾には酷く見覚えがあった。大型化され、簡易梱包されたものだが忘れる筈もない。

 

「これは、セイア襲撃時の……!」

 

 トリニティに於いて実行された最初の作戦、セイア襲撃決行時にアズサへと支給されたヘイロー破壊爆弾。現在支給されているヘイロー破壊爆弾と比較すれば試作品の側面が強く、手榴弾タイプと比べ大型で、携行数が限られるが威力は折り紙付き。

 至近距離で爆発すれば――まず助からない。

 

 サオリは咄嗟に縫い包みを放り投げ、振り返ろうとした。

 電子音が鳴る。

 その間隔が短く、徐々に長音へと変わる。

 爆発が近い、もう直ぐだ。

 焦燥に塗れたサオリは手を伸ばし、叫ぶ。

 

「姫ッ、逃げ……――!?」

「ッ――!」 

 

 けれど、サオリが言葉を全て吐き出すより早く、白い影が自分の身体を覆い隠す。

 ふわりと、鼻腔を花の香りが擽った。それは、彼女(アツコ)の匂いだった。

 サオリの目が見開かれる。サオリを抱き締めるように蹲るアツコ、そのマスクに覆われた表情は確認する事が出来ず。

 その背後で――甲高い電子音が一際強く鳴り響き。

 

 周辺一帯の窓硝子が吹き飛び、外壁諸共爆炎と閃光に呑み込まれた。

 

 ■

 

 雨が降り出した。

 ここ最近は雨ばかりだと、アズサは痛む体を引き摺りながら思う。体温が奪われ、歯が鳴り始める。表面の塵や血が流され、アズサは青痣だらけの胸を抑えて必死に足を進める。

 夜は深まり、朝はまだ来ない。真っ暗な闇の中を進む彼女の耳に届くのは、自身の荒い息遣いと跳ねる水音のみ。朝から駆け続けた足裏が酷く痛んだ。靴下にまで沁み込んだ雨水が音を鳴らし、不快だった。

 

「ぅぐ……ッ!?」

 

 不意に、アズサは何て事の無い段差に躓いてしまう。

 石畳の床、そのブロックが一部せり出し、そこに足を取られたのだ。

 倒れ込み、盛大に水飛沫を起こしながら転ぶアズサ。手にしていた愛銃が音を立てて転がり、数歩先にて停止する。雨で指先が滑り、保持するだけの握力が無かった。

 直ぐに立ち上がり、歩かなければならない――だと云うのに、身体が云う事を聞かない。思考に反し身体は進む事を拒んでいた。

 

「ぐ、ぁ、は……ハッ、あ、ぅ……――」

 

 途切れ途切れの吐息を零して、アズサは腹を抱えて蹲る。

 倒れた衝撃で腹を打った。今の彼女には、咄嗟に受け身を取る体力さえ残っていなかった。ズクズクとした、鈍い痛みが彼方此方から発せられる。服を捲り上げなくても分かった、きっと腹部は青痣だらけに違いない。ほんの少し触れるだけで、顔を顰めてしまう鈍痛が走るのだから。

 

「い……た――ぅ……」

 

 弱音を吐きそうになって――咄嗟に歯を食い縛る。

 それはアズサの癖だった。どんな時もそうだ、幼少期も、訓練時代も、何度もそうやって耐えてきた。弱音を吐かずに、自分を奮い立たせる。今までもそうして来た様に、今度も歯を食い縛り耐えようと試みる。

 いつだってそうだ。自分は耐え難い事を耐え、堪え難きを堪え、そうやって進んで来た。

 だから、きっと、今回も――。

 

「う――」

 

 身を打つ雨が、冷たい。

 視界が歪み、鼻が詰まる。噛み締めた筈の歯、その奥から情けない呻きが漏れた。これは雨のせいだ。雨が体温を低下させ、視界を滲ませ弱気にさせているに違いない。彼女はそう、自身に云い聞かせる。

 

「う、うぅ……ッ……!」

 

 目尻から、生温い雨が零れ落ちる。

 自身を抱き締め、冷たい石畳の上で蹲るアズサは身を縮こまらせて嗚咽を零した。生温い雨は、拭えど拭えど零れ落ちる。頬を伝うそれは小さく、最初はまだらだったのに。

 数秒もしない内に大粒のものとなり止めどなく溢れ出してしまった。

 幾ら歯を食い縛っても、声を押し殺そうとしても――感情は止まらない。

 歯を鳴らし、肩を震わせ、自身を搔き抱くアズサはひとりぼっちのまま(つい)ぞ呟く。

 

「ご、ごめ……ヒフミ――ごめん……っ!」

 

 最初に口をついたのは、大切な友人への謝罪だった。

 

 ――空っぽの背嚢、そこに詰めていた大事な大事な宝物。

 

 いつも肌身離さず持ち歩いて、寝る時も、外出する時も一緒で。

 大切な宝物だと、人目を憚らず自慢していた。

 そんな友情の証を、自分は。

 

 震え、石床に額を擦りつける彼女は絞り出すような声で叫んだ。

 

「大事にッ、一生、大事に……するって……云ったのにッ……! 約束、したのにっ……!」

 

 襤褸布となった制服を握り締め、アズサは()に塗れながら蹲る。その身体は酷く弱々しく、普段よりも一回りも二回りも小さく見えた。

 ずっと歯を食い縛って耐えて来た、どんな困苦も堪えて来た、だと云うのに――今回だけは違った。

 堪え切れない何かがある、胸を締め付ける想いが在る、どれだけ耐えても、耐え続けても、心はずっと痛いまま。

 とても大事な何かを、喪ってはいけない何かを喪ってしまったかのように、ぽっかりと胸に穴が空く。それは酷く空虚で、辛くて、苦しくて、痛い。この痛みに、苦しみに、喪失感に比べれば、撃ち込まれた弾丸など比較にもならなかった。

 

 搔き抱いた体が震える、強く瞑った瞳から止め止めなく()が零れ落ちる。自身の顔を腕で覆い、打ち付ける雨の中で彼女は謝罪を口にし続ける。胸に去来するそれは恐怖であり、後悔であり、絶望であった。もう二度と手に入らない未来と友情への、強い未練そのものだ。自身の手の中から、あれ程切望し、眩しく思っていたものが零れ落ちる事をアズサは自覚した。

 

「わ、たしは……もう、これ、で――に、二度と……ヒフミと、う、ぐぁ、あぁ……!」

 

 一生大事にすると、そう誓った。

 そんな宝物を――自分は誰かを殺す為に利用した。

 彼女との思い出を、その友情の証を、想いを、汚した。

 

 そんな自分に――補習授業部(陽の当たる場所)と共に歩む資格など、もう何処にもない。

 その資格を、アズサは自ら手放したのだから。

 

 その覚悟があった筈だった。

 そのつもりで此処に赴いた筈だった。

 その為に、彼女達を突き放したというのに。

 けれどいざ、その大切な居場所を手放した瞬間――アズサはどうしようもなく苦しく、辛い、嘗て味わった事のない悲しみに包まれた。

 

「ごめん、ごめん、なさい……みんな……っ、う、うぅうあああぁああッ……!」

 

 アズサは叫び、慟哭する。何度も何度も謝罪を口にした、補習授業部の皆に、友人に、ヒフミに。雨に打たれながら、ひとりぼっちで、ずっと。

 

 胸元に隠していたボロボロに解れ、血の滲んだ補習授業部の人形を握り締めながら。

 

 ■

 

「う――ぐッ……!」

 

 瓦礫の落ちる音、割れる音。硬質的なそれを耳にしながら、サオリはゆっくりと目を開く。甲高い耳鳴りが止まない、それでも尚彼女は立ち上がろうと腕を動かし、頭を揺らしながら声を張る。

 

「姫……? 姫、どこだ……っ!?」

 

 周囲は、酷い状態だった。

 元々火力の高いヘイロー破壊爆弾、それに加え旧式であった事が災いした。横合いにあった部屋は勿論の事、廊下も広範囲が諸共焼き払われ、三階部分から爆風で吹き飛ばされたサオリはそのまま窓フレームを突き破り、中庭の回廊へと落下していた。

 降り注いだのであろう瓦礫、その残骸が地面を削り、見上げる三階部分は彼方此方にフレームや何らかのケーブル、鉄筋が剝き出しになっている。サオリは自身と同じように吹き飛ばされた筈のアツコを必死に探す。荒い息を繰り返しながら周囲を見渡していた彼女の視界に、月明かりに照らされた白が見えた。

 

「っ、姫……!」

 

 彼女の着用していたコートだと、直ぐに分かった。足元の瓦礫を蹴飛ばし、自身の愛銃にすら意識を向けず、サオリは駆け出す。アツコはサオリより少し離れた場所、手入れされる事無く放置されていた生垣の上へと落下していた。伸び放題となっていたそれは葉が生い茂っており、幾分か落下の衝撃は和らいだ筈だが、彼女の腕はだらんと垂れたままピクリとも動かない。

 サオリは彼女の傍に駆け寄ると、その身体を掴み生垣から引き摺り下ろす。枝を手で払い除け、地面へと横たわらせたサオリはその顔を覗き込む。

 

「お、おい……姫?」

「………」

 

 返事は、ない。

 罅割れた仮面(マスク)、その向こう側に久しく目にする事がなかった彼女の顔が半分覗いている。その瞳は閉じられ、口の端からは赤い血が滴っていた。白いコートは爆炎によって裂け焦げ、内部に着用していたアリウス製のボディーアーマーは見るも無残な姿と成り果てている。

 それだけ爆発の威力は高かったのだ。

 分かり切っていた事だった、ヘイロー破壊爆弾が直撃するという事は――こういう事だ。

 

 心臓が早鐘を打つ。額に冷汗が滲む。サオリはアツコの頬を軽く叩きながら、必死になって叫ぶ。

 

「姫? おい、だ、駄目だ……! 駄目だ、姫っ! 起きろッ!」

 

 顔を近付け、頬を叩き、何度も声を張り上げ――それでも彼女は目を開かない。

 肌が粟立ち、視界が歪み出す。凄まじい喪失感が胸に去来し、それを認める事が出来ずに、サオリはアツコの肩を掴み何度も呼びかける、何度でも、何度でも。

 その瞳が、再び開かれる事を望んで。

 

「確りしろッ! 姫っ――アツコォ!」

 

 暗闇の中に、その悲鳴に似た呼び声が木霊した。

 


 

 雨の中、胸を抑えて歩いていたのは補習授業部の人形に縋っていた為。サオリを屠る為に大事な宝物を利用した己に失望し、同時にヒフミへと強い罪悪感を抱き、それでも尚、その絆の残滓(補習授業部人形)に縋る自分に対し、どうしようもない遣る瀬無さを抱いている。

 

 アズサは精神的超人ですが、決して無敵でも何でもないのですわ。多分、アズサが折れるIFが在るとすれば此処でしょう。この瞬間こそがアズサの底ですの。

 友人に対して罪悪を抱き、あまつさえ殺人の道具とし、それでも尚、その(よすが)に縋ろうとする自分自身を嫌悪する。精神を削りに削られ、満身創痍となって尚彼女は意志を貫徹しようと足掻く……彼女が再び日陰に落ちるか、或いは日向へと引っ張り出されるかはヒフミに掛かっていますわ。

 そして、それを阻むアリウスの存在――そろそろ中盤も終わり、終盤が近付いて参りましたわね。

 



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曇天を穿つ(晴天を掴む)

誤字脱字報告は今日も元気ですわ~!


 

「……?」

 

 ふと、木人形――マエストロは頭上を見上げた。

 古聖堂地下、カタコンベにて彼の云う所の『芸術』、その最終調整を行っている最中の事である。大きな空洞、カタコンベ内に発生した天然の洞窟の中で懸命に、しかし緻密に動かしていた両の手を止めマエストロは呟く。それは、些細な違和を感じ取ったからだった。

 

「ロイヤルブラッドの力が弱まった、これは……生命に異変が?」

 

 調印を行った本人である秤アツコ、そのロイヤルブラッドの気配は極めて独特である。故にある程度離れた位置であっても、その生命の異常を感知する事が出来た。特に彼女の血筋はこの実験、マエストロの芸術の完成に欠かせない重要なピースの一つであるが故に。その繋がりがあるからこそ、彼は自身の額を撫でつけ思案する。

 先程まで明確に感じられた生命のライン(力の波動)、それがどういう訳か弱々しく、明確な弱体化を見せている。

 

「ふむ、これでは実験に支障が出るか……いや、しかしまだ――」

 

 万が一、ロイヤルブラッドが死亡するような事態となれば、計画自体が頓挫しかねない。それを懸念したマエストロであるが、彼女の気配は完全に断たれてはいなかった。重傷、しかし死亡には至らず――という所か。随分と都合の良い事だと考え、マエストロは一つの答えに辿り着く。傾けた頭部が軋み、ぎこちない音を立てた。

 

「嗚呼、そうか、成程……彼女が既に備えを用意していたのか――貴重なロイヤルブラッド故の、何ともまぁ、らしい事だ」

 

 恐らく、ベアトリーチェが保険を掛けていたのだろう。命の危機に於いて、一度だけその死を回避させる何か、ヘイローの保護。契約か、誓約か、儀式か、或いは――いや、何であれやるべき事は変わらない。マエストロは軽く肩を竦め、両の手を揺り動かす。

 

 生存しているとは云え、ロイヤルブラッドの力は確実に低下している。恐らく戒律の維持にも問題が発生する事だろう。そして、それはアンブロジウスも同様。恐らく此方は完全に失敗する事になると容易に予想出来た。仮に生み出したとて、顕現するのは残滓か張りぼてが精々。

 となれば、聖徒の交わりに於いて稼働可能な教義はこの一体のみ。不完全な形での顕現になるだろうが――。

 マエストロとしては、不完全な形で自身の芸術を披露するのは大変に心苦しい。しかし、そうも云っていられない状況にある。不本意ではあるが、自身の作り出すこれらが計画の主軸の一つとなっているのだから。

 

「気は乗らないが仮にも同志、この位の事はな――さて、始めよう」

 

 告げ、視線を前へと戻す。

 沈黙する赤の巨人――ヒエロニムス。

 古聖堂地下、巨大なカタコンベに於いても尚、その巨躯は空間を圧迫する。

 聖徒の交わりを率いる受肉せし教義、崇高の解明、その完全な顕現を目指し作られた人工の天使。構成する要素は太古の教義、その神秘、そしてマエストロが秘密裏に回収した、『とある聖遺物』(聖者の肉片)――目指した神秘と恐怖の二面性、しかし顕現したのは恐怖の一面、それも複製という体たらく。

 

 ――だが、組み込んだ聖遺物は予想以上の働きを齎した。

 

 確かに顕現したものは恐怖、その一面であり複製に過ぎない。しかし、その恐怖は限りなく崇高に近しい性質を有していたのである。崇高とは異なる、古の教義である筈の聖徒の交わりが。

 マエストロからすれば、これは大変に興味深い結果であった。

 それを踏まえた上で、マエストロは考える。或いは、彼の者の遺体を手に入れる事が出来れば、崇高と同質――それこそ嘗てゲマトリアが悲願とした、【人工の()】を創り出す事すら可能ではないのかと、そう思ったのだ。

 

「ベアトリーチェの言葉が正しければ、件の者は既に斃れている……しかし」

 

 だが、マエストロは首を横に振る。

 先生は既に斃れた、その報告を受けている。ベアトリーチェ率いるアリウス、その特殊部隊が殺害に成功したと云うではないか。だが同時に、異なる意見をマエストロは同胞より授かっていた。

 

「黒服の言葉が正しいのならば……先生」

 

 先生は、必ずまた立ち上がる。

 それこそが、真なる聖者の条件であるが故に。

 

「――あなたは私に、魅せてくれる筈だ」

 

 マエストロは、自身の胸が高鳴るのを感じた。それは予感であった、嘗てない程の高揚と期待。黒服が語って聞かせ、為して来たその者の軌跡。その在り方、その精神性、何より信念は己に通ずるものがある。であるならば、成程、確かに彼の者ならば立ち上がるだろう。

 そして見せてくれる筈だ、(マエストロ)に――世界に。

 このヒエロニムス(人工の天使)に。

 

「その生命の輝きを(最高傑作を)

 

 喝采の準備を――。

 マエストロはひとり、天より差し込む光の中で腕を広げる。

 せめて彼の者と対峙する舞台、それに相応しい表現者である為に。

 

 ■

 

「っ……」

「ひ、姫……!」

 

 何度も呼びかけ、手を握っていた。どれ位の時間、そうしていたかは分からない。けれど決して長い時間ではなかった筈だ。そうである筈なのに、サオリにとってはその時間が何時間にも、何十時間にも感じられた。

 その甲斐あってか、姫――アツコの瞼が微かに揺れる。頭上から消えていたヘイローが、ゆっくりと灯るのが分かった。サオリは逸る気持ちを抑えながら彼女の顔を覗き込み、肩を抱き締め問いかける。

 

「無事か!? 痛い所はあるか? 意識の方は――」

「………」

 

 目を開き、ぼんやりとサオリを見上げるアツコ。彼女は必死に問いかけるサオリを見つめると、自身の身体を呆然と見下ろしていた。まるで自身の予想とは異なる結末だったとも云いたげに、微かな驚きと共に。

 そっと首を横に振るアツコ。その動作は命に係わる程の爆発を受けた後とは思えない程、普段通りで気の抜けた動作だった。念の為処置は必要だろうが、それでも最悪の事態には陥っていない。あのヘイロー破壊爆弾を受けて尚、この程度で済んだ事は正に奇跡的としか云いようがなかった。

 

「そ、そうか、良かった……! 良かった……!」

 

 サオリはアツコの様子に破顔し、抱き締め、腹の底から安堵の声を漏らす。強く、強く抱きしめられるアツコ。それを目を見開きながら受け入れる彼女は、何も云わず背に腕を回す。サオリの目尻にきらりと光る何かが流れた事に、アツコは気付いていた。

 数秒、抱擁を交わした二人は静かに離れ、サオリは努めて柔らかな表情で告げた。

 

「……姫は、此処で待っていてくれ」

「………」

「大丈夫だ、直ぐ、戻るから」

 

 そう云ってサオリは立ち上がり、傍に転がっていた瓦礫の下、そこに挟まっていた愛銃を回収し、建物の中へと再び足を進める。その間、端末でアツコの負傷を通達し救援の要請を行う。ミサキとヒヨリの回収、及び救援要請を出してから少し経つ、その流れでアツコの治療も頼めるだろう。

 階段に足を掛けながら、サオリはそう考える。

 

「アズサ――」

 

 声が、漏れた。

 それは自分が考えていたよりも、ずっと低く、唸る様な響きを伴っていた。

 

「こうまでしてお前は、私達を否定するのだな」

 

 アリウスを。

 スクワッドを。

 サオリ(自身)を。

 この世界の――真理を。

 

 自身の大切な代物すら囮にして行う、ヘイロー破壊爆弾による不意を突いた一撃。見事だ、見事と云う他ない。自身(サオリ)はアズサの友情を信じ、彼女はその友情を利用し目を欺いて見せた。希望の象徴を、友情の証を、よもや自身で破壊するなどサオリは考えもしなかった。

 

 サオリはアズサの友情を信じていた。

 そしてアズサは、サオリがその日向で紡いだ友情を信じると、確信していた。

 

 それは歪な信頼関係。同じ境遇、同じ教育、思想の元育てられたからこそ理解出来る心理。それをアズサは利用した、認めよう、サオリは先の一撃で確実に葬られる筈であった。

 

 或いは、サオリ(自身)は信じたくなかっただけなのかもしれない。

 アズサには出来ない――出来る筈がないと。

 セイア襲撃時、そのセーフハウスに唯一辿り着きながらも殺人という罪悪を拒否した彼女が、再びその選択をする筈がないと。あれだけの憎悪を向けられながら、あれだけの感情をぶつけられながら。「殺す」、「殺す」と宣いながら、けれど決定的な一撃を彼女は放つ事が出来ないと。

 アズサという一人の存在は、殺人と云う罪悪を背負う事が出来ないのだと――そう心の奥底で、思い込んでいたのかもしれない。

 

 ――自分(サオリ)はまだ、アズサを見誤っていた(幼少期と重ねていた)

 

 しかし彼女は為した、為して見せた。

 本気の殺意を以て、スクワッドの殺害に踏み切った。それを仲間の負傷と云う形で突きつけられたサオリは、認めざるを得ない。

 彼女の憎悪を――その選択と覚悟を。

 

 辿り着いた三階部分、ヘイロー破壊爆弾によって破壊された周囲。床が抜け、二階部分まで崩落した瓦礫群。破砕された壁、その剥き出しの鉄筋コンクリートに引っ掛かる形で、サオリの仮面(マスク)は垂れ下がっていた。

 それに、サオリは手を伸ばす。

 

「ならば――」

 

 もう、戻らぬというのならば(影に浸かり、影を否定するのならば)

 唯一彼女を受け入れる場所(アリウス・スクワッド)を、自ら棄てると云うのであれば(残らず殺害すると云うのであれば)

 

 掴んだマスクを軽く払い、その表面に付着した粉塵を指先で拭う。そして暗闇で口元を覆った時、サオリの瞳には――確かな殺意と敵意が宿っていた。

 

「私は、お前を殺すぞ――アズサ」

 

 ■

 

 雨の中、蹲るアズサ。

 全身が濡れそぼり、張り付いた髪が鬱陶しい。鈍痛を発する体は重く、体温を奪われた結果末端の感覚が徐々に失われていた。補習授業部の人形を握り締めたまま小さく震え続ける彼女は――軈て、その嗚咽を噛み殺し、顔を上げる。

 涙に塗れ、雨に塗れ、それでも見開く瞳から光が消える事は無い。

 

「う、ぐ……っ……!」

 

 ぱしゃりと、水の跳ねる音がした。自身の手を水溜りに突き入れ、身体を支える。ゆっくりと上体を持ち上げるアズサは、震える腕を見つめながら懸命に起き上がろうとする。腫れ上がった目元をそのままに、歯を食い縛って。

 

 ――まだだ。

 

「はっ、ぁ……――」

 

 心の中で、もう一人の自分が告げる。這い蹲り、雨に打ちのめされる自分を見下ろす影があった。それはきっと幻影だ、心の影に過ぎない、実体を持たず、自分を見下ろす彼女(アズサ)は云う。どこまでも理性的に、淡々とした口調で。

 

 ――まだ、立ち止まっている場合じゃない、アズサ。

 

「……ぐ、ぅ」

 

 分かっていると、心の中で呟いた。

 そんな事は百も承知だ、まだ終わってはいない。

 関節が軋む。体を起こすという、たった一つの動作が余りにも重く苦しい。膝立ちになり、緩慢な動作で立ち上がるアズサ。その膝が震え、血と雨の混じったそれが流れ落ちる。

 

 ――動いて、考えて、蹲って悲しんでいる暇があるのなら、今からでも次の方法を考えなくちゃいけない。

 

「次……」

 

 呟き、視線が地面を彷徨う。数歩前に転がった愛銃、それを目視しアズサは引き摺る様にして足を進める。一歩、一歩、覚束ない足取りで、けれど確かに。跳ねた泥が足元を汚し、雨水に塗れた愛銃に手を伸ばす。震える指先が冷たいグリップを掴み上げた。

 

 ――止まって何ていられない、動かないと、ユスティナ聖徒会は消えていない。

 

「サオリも、アツコも……まだ、生きている……」

 

 スクワッドのヘイローが失われない限り、ユスティナ聖徒会は消失しない。逆説的に云えば、ユスティナ聖徒会が存在する限りスクワッドは存命であるという事だ。同じアリウスだからだろうか、あの不気味で禍々しい、冷たい繋がりをアズサは感じていた。

 ヘイロー破壊爆弾による爆発でも、アズサにとって切り札に等しい一撃であっても、彼女達の命を奪うには至らなかった。

 その事実にアズサは歯噛みする。けれど立ち止まる時間はない、その余裕は存在しない。後悔するのも、嘆くのも、後で良い。

 今はただ、進まなければならない。

 

 ――そう、だから次の手を考えて。

 

 次の手。

 アズサは殆ど空っぽの背嚢を感じながら思考する。アズサにとって切り札であったヘイロー破壊爆弾はもうない。弾倉も、残りは二つか、三つか。正確な数を記憶していない程に、彼女は消耗していた。爆弾の類(IEDや手榴弾)も、先の戦闘で殆ど吐き出してしまっている筈だ。残っているのは愛銃と体ひとつのみ。

 たったそれだけでスクワッドを、サオリを、相手取らなくてはならない。

 

 ――それでも。

 

「行か、ないと……」

 

 愛銃を抱え上げ、アズサは足を踏み出す。水溜りを踵で踏み締め、雨音が周囲に響く。暗闇の中、ふらふらと体を揺すりながら歩く――歩く。

 

 どれだけ悲しみに塗れようと。

 どれだけ心が悲鳴を上げていようと。

 どれだけ絶望的な局面であろうと。

 どれだけ勝率の低い戦いであろうと。

 それは、足を止める(諦める)理由にはならない。

 

 ――動かないと。

 

「何として、でも……サオリを――」

 

 幻影(わたし)が告げる。

 アズサ()が呟く。

 そうだ、自分がやらなければならないと強く意識した。抱えた愛銃の弾倉を外し、残りの弾数を確かめる。弾倉に残っていた弾薬は残り半分程度。そしてポーチに手を這わせ、指先で弾倉を数える。無意識の内に行われたそれは、訓練の成果か。疲れ果て、摩耗した思考の隅でもアズサは冷静な自身を保っていた。

 鳴り響く歯を噛み締め、アズサは呟く。

 

 何としても、どんな手段を使ってでも。

 アリウスを、スクワッドを、サオリを――。

 

「……殺さ、なきゃ――」

 

 そうしないと――補習授業部の皆(大切な友達)が守れない。

 

「ぅ……ッ、ぐ」

 

 壁に肩を擦り付け、半ば倒れ込みながら進む。暗がりの中へ、スクワッドを襲撃する為に、次の戦いに臨むために。

 涙を零しながら、アズサは歩き続ける。

 

 ■

 

「………!」

「――スクワッドのリーダー」

 

 アツコと合流する為に廊下を往くサオリの前へと、不意に白いコートとガスマスクを着用した集団が立ち塞がった。彼女達は影の中から音も無く、ぬるりと現れる。

 月明かりに照らされる腕章にはアリウス分校の校章、それを確認したサオリは目を細める。見当は付いた、恐らくアズサとの戦闘中にミサキが呼んだ救援部隊だろう。見れば幾人かの生徒は救急救命用の背嚢を背負っている。携えたチェストリグには弾倉が一つも欠けずに詰まっており、補給を終えたばかりなのだと分かった。

 

「救援部隊か」

「り、リーダー」

「………」

 

 そんな彼女達の背中から現れるスクワッドのメンバー、ヒヨリとミサキ。ヒヨリはどこか申し訳なさそうに、ミサキはいつも通り不機嫌そうに。二人の姿を確認したサオリは、どこかその目元を緩め安堵の声を漏らす。制服は爆発と崩落によって汚れていたり解れているものの、大きな怪我らしいものは見当たらない。貼り付けられた絆創膏やガーゼが治療の名残として所々見られる程度であった。

 

「ヒヨリ、ミサキ、無事だったか」

「は、はい、何とか――そ、その、それで、姫ちゃんは……」

「………」

 

 その問い掛けに、サオリは沈黙を通した。どこか張りつめた空気を感じ取ったヒヨリは、身を竦ませ視線を逸らす。爆発音は聞こえていた筈だ、そしてこの部隊がアツコの元へと向かっていた最中だという事も察せられる。

 負傷したのだ、その事実にヒヨリは俯き、気まずそうに口をまごつかせた。

 正面に立つ部隊長が徐に端末を取り出し、画面を叩きながら告げる。

 

「ロイヤルブラッドが負傷した為、ユスティナ聖徒会の顕現に問題が生じているらしい、今直ぐ古聖堂に戻って戒律を更新せよとの通達があったが、そちらは確認しているか?」

「いや……今、確認する」

 

 答え、サオリはポケットに仕舞っていた端末を再び取り出す。パスワードを入力し通知画面を開けば、そこには新たな命令として古聖堂地下にて戒律を更新せよという、アリウス自治区からの指示が通達されていた。着信は、ほんの一分前。それを確認し、サオリは舌打ちを零したくなる感情をぐっと堪える。

 サオリが静かに端末のモニタを落とし、「確認した」と頷くと、部隊長は淡々とした口調で言葉を続ける。

 

「裏切者――白洲アズサの処分は私達と後続部隊が引き継ぐ、ロイヤルブラッドの救護もな、スクワッドは至急古聖堂に向かってくれ、処置が済み次第ロイヤルブラッドの方も合流させる」

「……了解」

 

 それだけ云い残すと、彼女達はアイコンタクトで再び行進を再開する。自身の両脇を駆け抜けて行くアリウスの部隊員。その背を見送りながら、サオリは静かに帽子のつばを深く被り直す。

 数秒もすれば、遠くから靴音が響くばかりとなり、静寂と暗闇の中に三名のスクワッドが取り残された。サオリは愛銃を担ぎ直すと静かに口を開く。

 

「古聖堂方面へ出発する、準備は良いな?」

「……あ、あの」

「………」

 

 淡々と、無機質染みた声で指示を出し、歩き出すサオリ。その異様な雰囲気に思わずヒヨリは声を上げる。しかし、数歩進んで尚二人が追従していないと気付いたサオリは、振り向き様に両名を睨みつけ叫んだ。

 

「――行くぞッ!」

 

 それは廊下に響き渡り、二人の肌をビリビリと刺激した。

 サオリの表情は正に――鬼の形相と云うに相応しい憎悪を秘めている。

 

「あ、あぅ……」

「……了解」

 

 最早、何を云っても止まる事は無い。

 ヒヨリは純粋なる恐怖から。

 ミサキは諦観と共に呟いた。

 

 速足で暗闇の中へと消えて行くサオリ(リーダー)の背を追って、二人は駆け出す。月明かりの照らす場所から、光の無い場所へ。

 足音は三人分、最初は五人で、アズサが消え、次はアツコが――次は自分かもしれない、なんてミサキは考え目を伏せる。

 きっと、自分達はバラバラになる(全員が消える)運命なのだろう。ならば順番なんて、早いか遅いかの違いでしかない。だというのに彼女達は足掻いている。今も尚、必死に。

 

 サオリは――陽の当らぬ中で。

 アズサは――陽の当たる中で。

 

「全ては……虚しいのにね」

 

 ミサキの呟きは、暗闇の中に溶けて消えた。

 

 ■

 

 ――生徒達の声が聞こえる。

 

 ■

 

「連邦生徒会――の――報告は……――」

「でも遺体は――……で、管轄……――」

 

 声がする。

 それが誰のものかは分からない。ただ酷く遠く、濁った音だと思った。それは自身の聴覚が戻り掛けているからだ。時が経てば経つほど、時間が過ぎれば過ぎる程、その音は鮮明に、明確な輪郭を伴って鼓膜を叩く。

 少しずつ、少しずつ感覚が復活する。痛みも、苦しみも、同時に血の通う感覚も。痛みは生きている証拠だ、痛みが続く限りそれは苦痛と共に確かな安堵を齎してくれる。自分はまだ此処に居るのだと、立ち上がる事が出来るのだと教えてくれる。

 小さく、息を吸う。肺が膨らむ感覚が分かる、たった一日足らずの停止だったというのに、その躍動が随分久しぶりに感じた。空気が取り込まれ、体全身が動き始めるのが分かる。

 息を、吹き返す。

 

「―――」

 

 その指先が、意志に応じて微かに震えた。

 

「えっ?」

「……どうしたの」

 

 直ぐ横合いから、驚く様な声。

 視界は未だ昏く、何も見えない。血が行き渡っていない、完全な覚醒には至らず。しかし再稼働を始めた心臓は猛烈な勢いで全身に血液を送り出している。ぴくりと、もう一度指先が震えた。瞼が微かに痙攣し、先生の口元から吐息が漏れる。

 

「い、今、先生が動いたような――」

「まさか、そんな事……」

 

 声と共に足音が響く。

 妙に音が響く部屋だと思った。或いは、自分の収められている場所がそうなのか。先生はそんな事を考えながら、少しずつ戻って来る体の感覚に口の中で歯を食い縛った。

 最初に感じたのは寒さだ。

 強烈な寒さが全身を覆い、思わず顔を顰める。そして生徒が恐る恐る先生の顔を覗き込んだのは同時だった。

 

「せ、先生……?」

「ぅ――」

 

 呻き声、先生の瞼が震えながら開かれ、その朧げな視線が交わる。強烈な逆光に先生は何も見えてはいなかった。ただぼんやりとした影が自分を覗き込んでいる事だけは分かった。

 

 影は先生が目を開けたタイミングで身を仰け反らせ、次いで何かにぶつかる音、軽い何かが床にぶちまける様な音が部屋に響いた。

 それは先生の覚醒に驚いた生徒が後退し、背後にあったキャスター付きの運搬台を倒した音だった。彼女は床に尻餅を突いた状態のまま、運搬台を掴み震える声で必死に叫ぶ。

 

「きッ――救護騎士団っ! 救護騎士団を呼んでッ! 誰でも良いからっ、は、早くッ!」

「す、直ぐに!」

 

 絶叫が部屋全体に木霊した。何かを蹴り飛ばすような音、忙しない足音、徐々に遠くなっていく生徒の声。それを耳にしながら、先生は上体を起こそうとする。すると、自身の上に被さっていたタブレットに気付いた。それは自身の胸元に、まるで添えられるように置かれていた。

 

「っ――」

 

 ――アロナ。

 

 心の中で彼女の名を呟く、しかし答えはない。

 罅割れた液晶、その向こう側に彼女の姿はない。しかし電源は入っていた、右上に表示される残量は赤色、点灯するランプが先生の焦燥感を煽る――残された時間は、少ない。

 

「ぅ、ぐ……」

 

 寒さに体を震わせ、歯を軋ませながら動く。しかし先生の予想に反し、その動作は余りにもぎこちなく、節々が固まっていた。横合いに突いた手を滑らせ、先生の身体は台から転げ落ちる。その際、横合いにあったステンレス製のカートを巻き込み、けたたましい音と共に床に倒れ込んでしまう。

 痛みに呻き、シッテムの箱を胸に抱えた先生は深く息を吐き出す。まだ、身体が思考に追いついていなかった。冷たい床を掴む感覚すら朧気だ。

 

「せ、先生……!? 何をしていらっしゃるのですかッ!?」

「い……――」

 

 尻餅をついていた生徒が慌てて先生の傍へと這い寄って、その身体を支える。腕に添えられた手は、驚く程に暖かかった。否、自分の身体が冷たいだけか。

 至近距離で見れば、それがトリニティの行政官である事が分かる。どの分派であるかまでは把握できないものの、その髪に隠れた目元がちらりと覗き、酷く不安げな色が見え隠れしていた。

 彼女の触れた指先は小刻みに震えていた。それが恐怖と不安から来るものだと先生は知っている。

 

「安静になさって下さいっ、先生は……さ、先程まで死亡判定を受けて――」

「行か、なきゃ……」

 

 シッテムの箱を懐に差し込んだ先生は彼女の腕を掴み、呻き声を漏らしながら体を起こす。無様に笑う足元、寒さに止まらぬ震え、しかしその瞳だけは輝きを喪わない。片方だけとなった瞳で、先生は生徒を真正面から見つめる。その視線を受けた生徒の身体がびくりと震えた。先生の腕を掴む手に力が籠る。

 

「手も、足も……まだ、動く――」

 

 未だ動きはぎこちない、しかし駆け巡る血液が少しずつ、本当に少しずつ先生の肉体を稼働させつつあった。焦点の合わぬ視界も、震える膝も、思考に掛かる靄でさえ時間と共に晴れるだろう。

 ならば、動かぬ理由がない。

 

 ――■■ッ!

 

 誰かの声が、何処からか頭に響いて来る。

 ノイズ混じりの酷い声だ。傍に居る生徒のものではない、かと云って遠くから叫んでいる訳でもない。隔てられた世界の向こう側から、必死に、何かを伝えようとする声だった。

 それが彼女の声である事を、先生は知っている。

 きっと止めようとするだろう。

 きっと彼女は悲しんでしまうだろう。

 後悔し、自分を責め、苦痛に俯く筈だ。

 それを知っていた、そうなると分かっていた――けれど。

 

 ――ごめん、アロナ。

 

 先生は胸内で謝罪を口にする。彼女の想い、願い、優しさを嬉しく思う。それこそ胸が締め付けられる程に。けれど背中に降りかかるその声を、その懇願を、悲鳴を、切望を、今まで振り切って歩いて来た。数多の生徒達が伸ばす手を知りながら、此処まで辿り着いてしまったのが己だ。

 進めば進む程足取りは重くなり、背に負う罪悪は嵩を増し――けれど同時に、止まる事が難しくなる。積み上げれば突き上げる程、崩す事が難しくなるように。此処まで止まってしまえば、彼女達の願いが、苦しみが、訪れた結末が無駄になってしまう様な気がして。

 けれど、あの時誓った――約束だけは。

 

 例え、この身が擦り切れようとも。

 例え、この心が擦り切れようとも。

 この命、朽ち果てるまで。

 否――朽ち果てようとも。

 

「約束、したんだ……」

 

 血を吐く思いで、先生は声を絞り出す。

 あの日、この道を歩むと決めた刻。

 そして初めて、その罪悪を背負った時。

 喉を震わせ、彼は叫ぶ。

 

 私達の、すべての『希望』(奇跡)がある場所を――その小さな光を。

 

「今度、こそ……ッ!」

 

 先生()は、守ると誓った(叫んだ)のだ。

 


 

「そうか、先生――」

 

 白い――白い部屋。

 飾り気のない椅子、ティーパーティーにて彼女が愛用していた一席に腰を下ろしながら彼女は呟く。夢の中、揺蕩う意識は未だ戻らず、現実の彼女は未だ目を覚ましていない。しかし、少しずつ――ほんの少しずつだが、意識が微睡む事を彼女は自覚していた。

 それは自身の意志が、現実へと寄っている証拠だ。既にあの、ティーパーティーのテラスを再現する事が難しくなっている。故に、何もない白、夜明けを待つ無機質な白だけが夢の世界を彩っていた。

 

 目を瞑り、空を仰ぐセイアは暫く無言を貫いた。瞼の裏に描かれるのは、今尚変化を続けている現実の光景。夢の中で夢を見るように、予知の続きを彼女は知覚し続けている。

 アツコを傷付けられたサオリ、雨の中歩みを止めないアズサ、友を救う為に動き出す補習授業部、復讐心に駆られるハナコ、奪う為に動き出すミカ――そして、心折れた健気な光。

 

「私は、君の事をまだ何も知らない」

 

 それは先生に向けられた言葉だった。

 混乱の坩堝となったキヴォトス、そしてトリニティの中で目覚めた先生。それがどの様な手段で以て為されたのか、どのような代償によって行われた事なのか、セイアは何も知らない。しかし、生半な方法ではなかった筈だ。

 彼はぎこちない動作で台から転げ落ち、必死に立ち上がろうと足掻いている。その姿を見つめながら、彼女は口を開く。

 

「間違った物語の真ん中に立たされた私達は、ただ足掻く事も出来ず夢を見る事しか出来なかった、けれど……先生、君はあくまで立ち向かうつもりなのだね」

 

 先生の瞳には、欠片も諦観など浮かんでない。

 何処までも真っ直ぐな希望を信じる光が、強い意志だけが灯っている。余りにも違う、己と、その思い描く軌跡そのものが。

 

「生徒達が他ならぬ――生徒のままで、在る為に」

 

 きっと彼は、そう在るべきだと信じているのだ。

 

「――これより君の前に立ち塞がるのは憎悪と不信、長きに渡り久遠に近しい集積を経た絶望の具現、ひとりで立ち向かうには余りにも無謀で、困難で、馬鹿馬鹿しい程に強大な悪意だ」

 

 アリウスが抱く、長年の教育によって育まれて来た憎悪と敵意。それによって齎された殺人、死、裏切り、争い――憎悪が憎悪を呼び、それは殺意と転じ、終わらぬ連鎖を続ける。

 嘗ての公会議と同じように、人は歴史を繰り返そうとしている。

 その壁は余りにも厚く、高く、越え難い。

 

「でも、それを断ち切る最後の鍵は――」

 

 けれど、もしその憎悪を断ち切ると云うのであれば。

 その負の連鎖を、終わらせると云うのであれば。

 必要なのは――。

 

「生徒と君の、強い意志(想い)

 

 厳しい道の筈だ。

 誰も傷つかない結末など望めない。

 しかし、その中でも最善を尽くす道を彼は選んだ。

 その為に、先生は舞い戻ったのだ――生徒達(希望)の元に。

 

「見届けるよ、最後まで」

 

 静かに、彼女は背を正す。膝の上で重ねた手をそのままに、目を瞑ったまま告げる。例えどの様な結末に至ったとしても、それが辛く苦しい、絶望に至る悲劇であっても。

 或いは、誰かの笑みと共に幕を下ろす喜劇であっても。

 

「……それが私の、彼女(アズサ)を導いた義務だからね」

 

 ――夜明けは、近い。

 

 ■

 

 先生死亡から八話、たった二十日程度だというのに、とても長く感じた。

 しかし、乗り越えた!

 主役(希望)は遅れてやって来るんですわよ!

 悲しんだなら悲しんだ分だけ、苦しんだのなら苦しんだ分だけ、報われないといけませんわよね!

 次回からは報われる時間(希望のターン)でしてよ!

 先生、血反吐撒き散らしながら生徒達に愛と勇気を与えてあげようね!



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運命を覆す為に

誤字脱字報告、ありがとうございますわ~!
今回一万六千字ですの、長くてごめんあそばせ。


 

「先生は何処ですかッ!?」

「こ、此方です……!」

 

 彼女――セリナは必死の形相で廊下を駆ける。前を往く行政官も似たような表情で足を進め、薄暗い地下室、安置所へと向かう。

 最初、救護騎士団本部に彼女が駆け込んで来た時は何かの間違いだと思った。何せ、開口一番に先生が目を覚ました等と宣うのだから、当たり前の話である。

 強いストレスや、一時的な錯乱状態、そう判断され病床へと連れて行かれそうになった彼女であるが、肩や腕を掴まれながらも必死に、「お願いですから一度だけ地下に来て下さいッ!」と何度も繰り返し主張した。

 死人が蘇る――全くあり得ない訳ではない。死亡判定を受けた後、本当に稀な話ではあるが息を吹き返す事例は存在する。しかし、先生に限ってはその確率は余りにも低い。何せあらゆる生徒が代わる代わる容態を確認し、その真実を認めたくないとばかりに何度も脈を取り、心肺の状態を確かめ、瞳孔を照らしたのだから。

 

 そんな懐疑的、かつ憐憫の視線を向ける生徒が殆どの中、セリナだけは彼女の瞳の中に強い何かを感じ取り、同行を申し出た。先生が死亡した事実を認められない哀れな生徒だと殆どの者は感じたのだろう。それを証明するかのように、他に同行を口にする者は居なかった。

 

 ――けれどもし、彼女の言葉が本当だったのなら。

 

 そんな淡い希望を抱え、セリナは安置所へと飛び込む。扉は中途半端に開け放たれており、そこから微かな光が漏れ出ていた。肩で扉を押し開け、一瞬の間すら惜しいと部屋に踏み込む。

 そして、そんな淡い希望に縋った彼女の視界に映ったのは――。

 

「――……セリナ?」

 

 行政官に支えられ、佇む先生の姿。

 安置所は中央の電灯以外消灯され、四隅は薄暗く陰鬱としていた。けれどその中央に立つ先生だけは、これ以上ない程にはっきりと照らされ見間違いようがない。

 彼は台に横たわった格好のまま、ゆっくりとセリナに視線を向ける。そして数秒程、確かめるように視線でその輪郭をなぞると、いつも通り――柔らかな微笑みで以てセリナを迎え入れた。

 

「……おはよう」

「ッ――……!」

 

 その声を聴いた瞬間、セリナは自分にも制御出来ない衝動に突き動かされ、先生の胸元へと飛び込んだ。先生と彼を支えていた行政官が声を上げ、数歩蹈鞴を踏む。けれど非難の声は聞こえて来なかった。

 ふわりと鼻腔を擽る甘い(死の)匂い、けれど背に回した腕に伝わるのは確かな暖かさ。確かにまだ体温は低い、けれど台に横たわっていた頃の氷の様な冷たさと比較すれば雲泥の差だった。

 きつく抱きしめたまま、セリナは逸る気持ちをそのままに胸元へと耳を当てる。すると、確かに鼓膜を叩く鼓動が聞こえて来た。その事にじわりと、セリナは目尻が濡れる事を自覚する。

 

「う、動いている、心臓も、ちゃんと……!」

 

 上下する胸元。緩やかに膨らむ肺は、その生命の息吹を確かに感じさせる。顔を上げたセリナは涙目のまま先生に向けて叫んだ。視界にはどこか驚いた様な、それでいて戸惑ったような先生の顔が映っていた。

 

「こ、呼吸! していますよね!? 意識、ありますよねッ!?」

「う、うん、あるよ」

「―――」

 

 どこまでも優し気に、柔らかに頷く先生。セリナは思わずその場に座り込みそうになって、先生の衣服に掴み辛うじてそれを免れる。力の込められた指先が小刻みに揺れ、先生の胸元、そのシャツがくしゃりと歪んだ。

 

「御自分の事は……」

「連邦捜査部、シャーレ所属の先生」

「最後に憶えている事は……!」

「セナの緊急車両十一号で搬送されていたのが、最後の記憶かな」

「よ――」

 

 強く、先生の衣服を握り締め、セリナは肩を震わせ云った。ぶわりと、今まで堪えていた感情が決壊する。頬を伝う涙を感じながら、セリナは項垂れて顔を覆う。喉元から、自分のものとは思えない程酷い声が漏れ出た。

 

「良かった……っ!」

 

 万感の想いを込めて、彼女は呟く。頬から顎先へ、零れ落ちたソレが先生のシャツに幾つもの染みを作った。その痛々しいまでの感情の発露に、先生は苦悶の表情を浮かべ云った。

 

「……ごめん、心配掛けたね」

「いいえ、いいえ……ッ!」

 

 そんな言葉に、勢い良く首を横に振るセリナ。彼女は鼻を啜りながら、何度も言葉に詰まりつつ後悔の滲んだ声を上げる。

 

「わ、私の判断が、ま、まさか、先生がこんな風に、戻って来てくれるなんて、お、思わなくて……ッ!」

「……セリナの判断は、何も間違ってなんかいないよ」

 

 穏やかに、けれど力強く先生は断言する。(先生)は確かに、あの瞬間――命を喪っていたのだから。彼女の判断は、行動は、何一つ間違ってなど居ない。先生はそう思う。

 叶うのならば、彼女を慰め元気付ける時間が欲しかった。しかし残念ながら、今の先生にはその余裕も、時間もない。胸元に差し込まれたシッテムの箱を見下ろし、彼は僅かに焦燥を滲ませ問いかける。

 

「っと、ごめんセリナ、こんな時に何だけれど、バッテリーとか持っていない?」

「え? あっ……ば、バッテリーですか? えっと……」

「そ、それでしたら、本部の方に確か常備されているものがあったかと――」

 

 先生の唐突な問いかけに面食らうセリナ、しかし最大限要望に応えようと慌てて自身のバッグを漁る。しかし彼女が常備しているのは救急救命バッグである。包帯や絆創膏、消毒液の類はあってもバッテリーは入っていない。

 代わりに、セリナを此処まで案内した行政官の一人が横合いから口を挟んだ。

 

「そっか、悪いけれど、一つか二つ、手配して貰っても良いかな?」

「わ、分かりました、直ぐにご用意しますので……!」

 

 先生の言葉に頷き、ポケットに仕舞っていた端末を取り出して操作する生徒。それを横目にセリナは目元を袖で拭い、恐る恐る問いかける。

 

「あ、あの、先生……?」

「うん?」

「何をなさるおつもりですか……? 起き上がれたとは云っても先生の御身体はまだ、今は先に検査をしないと――!」

「……ごめんね、セリナ」

 

 どこか訴えかける様な口調だった。懇願を滲ませながら縋る彼女を前に、先生は申し訳なさそうに眉を下げる。至極真っ当な意見だ、救護騎士団の者なら、そうでなくとも彼女と同じように進言するだろう。

 しかし、今に限って云うのであれば、万が一肉体に不備が出ても――最悪、補完してしまえば何とでもなる。それこそ、脳と心臓さえ無事ならば、他はどうとでもなった。

 

「何よりも今は、この争いを止めなくちゃいけないから」

 

 生徒達の為にも、今は一分一秒が惜しい。そんな意図を込めて呟けば、セリナは無言で先生の胸元に額を押し付けた。それが彼女なりの、無言の抗議である事を理解する。しかし、今だけはどうか許して欲しいと、先生はセリナの頭をそっと撫でつけた。

 中身のない左袖が、そっと所在なさげに揺れ動く。

 

 ――全ては、この争い(殺し合い)を止める為に。

 

 ■

 

 トリニティ自治区――大聖堂。

 シスターフッドの本拠点となる場所、その荘厳な雰囲気が漂う最奥の祭壇にて跪く生徒がひとり。ステンドグラスから差し込む月明かりに照らされ、両手を組み祈りを捧げる彼女は微動だにせず、一心不乱に祈り続けていた。

 ふと、大聖堂の中に軋んだ音が鳴り響く。大聖堂の大扉、それを開く音だった。少し遅れて靴音が響く。シスターフッドの誰かか、それにしては妙に落ち着いた足音だと思った。

 恐らく、トリニティ内部でまた騒動の類が起きたのだろう。そんな中で祈る事しか出来ない自身の不甲斐なさに、マリーは涙すら出そうになった。

 

「マリー」

「ッ……!」

 

 聖堂の中に響く、低い声。

 幻聴だと思った。

 或いは、自身の精神的な弱さが生み出した夢か。びくりと震えた肩は、彼女の弱さの証明だった。強く握り締めた両手をそのままに、マリーは目を強く瞑り続ける。決してその誘惑に屈さない様に、自身の心の弱さを嘆くように。

 

「マリー……?」

 

 足音は、どんどん大きくなる。自身の名を呼ぶ声もまた、距離に応じて妙な質感を伴い始めた。幻聴にしては嫌にリアルだった。それが何て事の無い、ありふれた日常の中で呼ばれた一声であれば笑顔と共に振り向く事も出来ただろう。

 しかし、今はただ虚しいだけだ。

 

 そして遂に音はマリーの直ぐ後ろまで近づき、確かな人の気配を感じさせる程に接近していた。薄らと目を開けば、自身に覆い被さる様にして伸びる影。あぁ、耳だけでなく目も夢幻に包まれたのか。そんな事を想いながらマリーは細く息を吐き出す、震える両手を強く握り締め、心の中で叫んだ。

 悪魔よ、去れ――と。

 

「ぇ……」

 

 しかし、自身の肩に置かれた手が、彼女の意識を一瞬で持って行った。確かな暖かさと、質量を感じさせる大きな手。それはマリーの記憶の中に鮮明に残る、先生の手だ。暖かくて、ごつごつしていて、所々傷があって。

 まさかこれも幻なのかと、何と優しく、残酷で、現実的な夢なのだと思いながら――マリーは恐怖を抱きながら振り向いた。

 

「……先生?」

「……うん」

 

 視界に飛び込んで来たのは――マリーが知る、先生その人。

 安置所で目にした格好のまま、片側の塞がれた瞳と、靡く左袖をその前に佇む彼。自身を見下ろし、優し気に微笑む様は見間違う筈もない。マリーは二度、三度、口を開閉させ息を呑む。揺れ動くウィンプルが彼女の動揺を露にし、その指先がそっと自身の肩に置かれた手に伸びる。

 

「あ、あぁ、これは……これは、夢では――」

 

 そう呟き、目を見開く彼女。これが夢であれば、幻であれば、彼女はどれ程の絶望を味わう事になるか。それを理解して尚、マリーは目に見える先生に手を伸ばしてしまった。そして、その指先が先生の手に触れる。

 確かな暖かさと、感触を以て。

 夢ではない、幻ではない。

 何度も何度もその表面を摩り、マリーは先生の輪郭を確かめる。

 そして漸くこれが現実の事であると、目の前の先生は実在する存在なのだと理解した彼女は、大きく口を開けながら涙を零し、その胸へと飛び込んだ。

 

「先生! 本当に、先生……っ!? まさか、このような事が……! あぁ、主よ、感謝いたします……! 感謝いたします……っ!」

「ごめんね、遅くなって」

 

 冷たい月光がステンドグラスを通して降り注ぐ中、先生はマリーと柔らかな抱擁を交わす。がらんとした大聖堂の中、マリーの嗚咽だけが響くその場所は酷く幻想的でもあった。一体どれ程の心配を掛けてしまったのか、赤く腫れ上がった目元を見るにちょっとやそっと等という事はないだろう。

 謝罪も、礼も、尽きる事はない。本来であれば十や二十の言葉を重ね、額を床に打ち付けて尚足りぬ誠意を見せたい所ではあるが――今はそれよりも、やるべき事がある。

 先生は自身の胸元で啜り泣くマリーを抱き締めながら、努めて優しい口調で問いかけた。

 

「マリーこそ、怪我はしなかった?」

「は、はい、ぐすっ、わ、私はどこも……! トリニティの方々も、負傷した者も多いですが、死者は幸い誰もいなくて――!」

「そっか、本当に良かった」

 

 マリーの言葉に、先生はそっと胸を撫でおろす。凡その状況をセリナから聞き及んでいたが、こうして複数人から同じ言葉を聞けると安心の度合いが違う。傷付いた生徒は多い、そして今も尚戦火は拡大を続けている。

 けれどまだ、取り返しはつく。

 

「先生、しかし一体どの様な御業で……」

「ん、まぁ、何だ、その……」

 

 胸元から顔を上げ、ぬれ濡った瞳で至極真っ当な疑問を投げかけて来るマリー。先生は数秒、迷った様に視線を彷徨わせながら――それからへらりと笑って、お道化た様に口を開いた。

 

「所謂、奇跡って奴かな?」

 

 何の具体性もない、あやふやな云い草だった。しかし、他にどう表現したものか、良い言葉が思い浮かばなかった。そんな先生の言葉にマリーは呆気にとられた様に目を見開いて、けれど次いで、ふわりと花が咲いた様に笑って云った。

 

「……それならきっと、主は先生の行いを見ていて下さったのですね」

「そう云う事になる、のかな? そうだと良いのだけれど」

 

 頬を掻き、はぐらかす様に呟く先生。何処か居心地が悪そうに肩を揺らした彼は、マリーを抱き締めたまま大聖堂を見渡した。

 

「所で、サクラコやヒナタの姿が見えないけれど――」

「サクラコ様は、その、調印式の爆発で今も重体で……シスターヒナタも、古聖堂周辺で保護されましたが、同じく」

「……となると、正義実現委員会の皆も?」

「はい、両名とも未だ意識が戻らずに居ると」

 

 その言葉に、先生は微かに眉を顰める。思い返すのは途切れ途切れの記憶、調印式の会場である古聖堂から、トリニティまで続いた逃走の記憶だ。自分を逃がす為に死力を尽くしてくれた正義実現委員会の二人、どうしようも無かったとは云え重い罪悪を背負わせてしまったヒナタ。朧気だが、確かに駆けつけてくれたアビドス対策委員会の皆。

 そして――。

 

「ヒナ――」

 

 呟きは、ほんの小さな音だった。

 責任感の強い彼女の事だ、あの様な事があった後では酷く思い詰めてしまうだろう。彼女にも会いに行く必要がある。それは戦力云々の話ではなく、人として、先生として、大人として為さねばならぬ事であった。

 

「マリー、シスターフッドで動かせる生徒はどれ位残っている?」

「あ、その……」

 

 先生が強張った口調で問いかけると、マリーは途端に言葉を濁し、俯いた。

 

「今は、ハナコさんが――」

「ハナコ?」

 

 予想だにしていなかった名前に、先生の目が見開かれる。マリーは俯きがちになりながら、先生の衣服を握り締め告げた。

 

「聞き及んでいるかは分かりませんが、ハナコさんはミカ様を解放し、トリニティの戦力を率いてアリウスを征伐すると仰って……シスターフッドにも、彼女に賛同して戦線に加わった者が多く、サクラコ様は万が一自身に何かあった場合、先生とハナコさんに指揮権を預けると言伝(ことづて)を――」

「……そっか、ハナコが」

 

 先生の脳裏に、微笑みを浮かべるハナコの表情が浮かぶ。きっと今の彼女は、その笑みを浮かべてはいないだろう。

 ハナコがミカを解放し、トリニティを率いている――それは先生にとって驚愕の内容であったが、同時に一定の納得も齎すものでもあった。

 

「そうだね、彼女なら……それも出来るか」

 

 ハナコのトリニティに於ける立場は複雑だ。明確な後ろ盾を持たず、普段の言動から生徒間の評判も芳しくない。しかし、その能力は本物であり、トリニティ内部に限った秘密であればちょっとした歩く図書館並みの知識を有している。その伝手も多岐に渡り、極少数ではあるが行政室やシスターフッド、正義実現委員会や救護騎士団など顔の効く相手も存在した。

 其処にティーパーティー、公権力(表立った力)を行使出来るミカが加わればトリニティそのものを牽引する事は十分可能だろう。その能力も、知識も、手腕も、彼女には存在する。

 

「一応、トリニティに残ったシスターフッドに声を掛けて見ます、流石に本部を空にする訳にはいきませんが……先生の要請であれば、断る生徒は居ない筈です」

「ありがとう、助かるよ」

 

 告げ、先生はマリーを一際強く抱きしめる。彼女も応えるように、先生の胸元に顔を埋めながら深く息を吸った。先生の存在を確かめるように、その温もりを喪わない様に。

 

 シスターフッドには渡りを付けた。

 救護騎士団は、負傷者の搬送と治療で手一杯な為動かす訳にはいかない。

 総括本部には既に要請を送り、学内に残っていた各派閥(パテル・フィリウス・サンクトゥス)の保守派にもコンタクトを既に取ってある。

 残るは正義実現委員会、そして――。

 

 ■

 

「ぅ――……」

 

 痛みに、目を覚ました。

 最初に見えたのは白い天井、歪んだそれは薄暗く、周囲からは喧騒が聞こえて来る。忙しなく歩き回る靴音、そして呻き声に悲鳴、まるで戦場に居る様な騒々しさにハスミの意識は急速に再起動を果たす。

 

「っ、こ、此処は――」

 

 完全に目を見開いた時、ハスミは乾いた唇を歪ませ呟いた。周囲を見渡せば、立ち並ぶベッドに横たわる生徒達、その間を移動する救護騎士団の生徒が確認出来る。自身の手を抜き出し、天井へと伸ばせば包帯とガーゼが貼り付けられ、所々血が滲んでいた。その負傷の跡を眺めながらハスミは呆然と思い返す。

 

 ――そうだ、自分は確か、殿に残って……。

 

「し、シスター、ヒナタは……ツルギ、は」

 

 記憶が一気に弾ける。彼女の最後の記憶は、残った正義実現委員会、及びシスターフッドの面々とユスティナ聖徒会を相手に粘り続け、殆ど全滅に等しい被害を被った事である。一時間か、二時間か、或いはもっと少ないのか、ひとり、またひとりと倒れる中で戦い抜いた絶望的な感情、それがまだ喉元に張り付いた様に離れない。

 こうして救護騎士団の病床に在るという事は、救援部隊か何かが自身をトリニティ中央区まで搬送してくれたのだろう。ならば共に戦った正義実現委員会の皆は、シスターフッドの面々は。

 

 ――そして、先生はどうなった?

 

「ぅ、ぐッ……」

 

 想い、ハスミは上体を起こそうとする。しかし、折り曲げた腹部から鈍痛が走り思わず呻く。戦闘の最中に受けたユスティナ聖徒会の一撃、それが未だに色濃く残っていたのだ。思わず脇腹を押さえつけるハスミ、しかしそれでも尚皆の安否が気掛かりだった。何とか病床から抜け出そうと、無理矢理身を引き起こした所で――。

 

「ハスミ、まだ無理はしないで」

 

 暖かな掌が、ハスミの肩を優しく抑え込んだ。

 

「せ、先生……?」

「――おはよう、ハスミ」

 

 自身を覗き込む影、それはベッドの直ぐ脇に立っていた。見れば用意されたパイプ椅子、そこで自身が起きるまで待って居たのだろうか。それとも偶然か、それは分からない。ただ茫然と先生の顔を見つめながら、ハスミはベッドへと逆戻りする。柔からな枕に頭を預けた彼女は、小さく息を吐き出す。

 

「安心して、ツルギもヒナタも、他の生徒も無事だよ」

「そう……ですか」

 

 その言葉に、ハスミはぎこちなく頷く。先生の恰好は、自身が見た時よりも随分小綺麗になっていた。頭部と右目を覆う包帯には血が滲んでおらず、乱雑に巻き付けられたものではなくガーゼとテープで綺麗に固定された状態を保っている。左腕も、衣服を着込んだ状態では確認出来ないが、喉元からちらりと覗く包帯を見るに処置はなされているのだろう。

 言動もはっきりとしていて、その穏やかな表情は緊急性がある様には思えない。ハスミはそこまで観察し、大きく胸を撫でおろした。

 先生は――助かったのだ。

 

「良かった、御無事で……!」

「うん、ハスミ達のお陰でトリニティまで戻って来れた」

 

 そう云って先生は破顔する。羽織ったシャーレの制服、その左袖が力なく垂れている事に思う所はある。しかし、今はまず、先生の命が助かった事を喜びたかった。シーツを握り締め、深い安堵に身を浸らせるハスミ。彼女を横目に、先生は直ぐ隣の病床にも目を向ける。

 

「ツルギも――」

「………ん」

 

 そう云って先生がツルギの顔を覗き込むのと、その喉が唸る様に震えたのは同時だった。先程まで眠り姫の如く横たわっていたツルギ、しかし先生が覗き込むと瞼が震え、その目がカッと見開かれる。

 

「……んぎ」

「あ」

「――ぎぃえああああッ!?」

 

 数秒間があった。しかし、朧げな視界であっても自身を覗き込んでいるのが先生だという事は理解出来た様で、彼女はベッドから飛び上がって絶叫する。何事かと周囲の生徒が目を向ける中、彼女は綺麗に床へと着地し焦燥を滲ませながら言葉を紡いだ。

 その額には、大量の汗が滲んでいる。しかしそれは、決して苦しみや痛みから来るものではない。自身の寝顔を、先生に見られたという強烈な羞恥心から来るものだった。

 

「せ、せせせ先生!? ど、どうして此方に!?」

「あー、えっと、皆のお見舞いと、御礼を云いに来たのだけれど……」

 

 そう云って、何とも云い難い表情で頬を掻く先生。その視線の先には、所々はだけたツルギの姿。ガーゼや包帯が巻き付けてあった彼女の肌だが、緩んだその向こう側には傷一つない肌が輝いている。隣で未だ横たわっているハスミとは酷く対照的だった。

 

「……傷、もう見えなくなったね?」

「は、はははい! 数時間寝れば大体何でも完治しますのでっ……!」

「それは……うん、凄いね」

 

 自身の腕やら喉元やらに巻き付いた包帯を力任せに引き千切り、何度も頷いて見せるツルギを前に先生は言葉を失う。彼女のタフネスに関しては理解していたつもりだったが、やはり目にする度に驚愕してしまう。通常の生徒ならば、数日は寝たきりになる様な負傷だと聞いていたのだけれど。

 流石正義実現委員会の委員長と云うべきか、何と云うべきか。周囲で固唾を呑んでいた救護騎士団の生徒も、彼女の回復力の高さに驚愕の表情を隠せずに居た。

 そんな完全復活した友人の姿を見て、ハスミは溜息と共に上体を起こす。その動きは先程よりも幾分か滑らかだった。

 

「っ……流石ですね、ツルギ、私の方はまだ、万全とは云い難いです」

「! ハスミ」

 

 声の方に目を向けたツルギは、そこで漸く自身の隣にハスミが寝入っていた事に気付いた。

 軽く肩を擦るハスミは、頬や首元に張り付けられたガーゼを指先で確かめながら顔を顰める。ツルギと比較して如何にも重傷と云ったいで立ちの彼女だが、この場合それが普通なのだ。

 そして傷だらけのハスミを見たツルギは、自身が何故このような場所に居るのかを思い出した。確か自身はアリウスの一角と対峙し、単独で戦闘を挑んだ。スクワッドの一員だった彼奴にかなり食い下がったが――どこで意識が途切れたのか、そもそも自分の足でトリニティまで帰還したのか、或いは誰かに運ばれて来たのか、それすら定かではない。しかし先生の負傷、その包帯に遮られた瞳と靡く左袖を見れば分かる。あれはまだ、現実として続いているのだ。思い返すと共に、ツルギの気配がやや強張ったものへと切り替わる。トリニティの戦いはまだ、終わってはいない。

 

「ハスミ、まだ寝ていても――」

「いいえ」

 

 先生が気遣った様にそう口にするも、彼女は首を横に振る。

 

「先生がそんな状態で立っておられる中、どうして私が寝ていられましょう」

 

 ハスミはそう云って、自身に喝を入れる為に軽く両の頬を張ってみせた。大人と子ども、しかしキヴォトスの生徒とただの人間の間には、隔絶した身体能力の差が存在する。負傷した状態でも気丈に振る舞う先生を前にして、自身だけが病床に横たわるなど、ハスミの矜持が許さなかった。そして先生が態々此処に出向いた理由にも――凡その見当がつく。

 

「私達の力が必要なのですね、先生?」

「………」

 

 彼女の口調は、それを確信しているような云い方であった。先生はハスミを一瞥し、静かに息を吐き出す。そこには何か、云い表す事の出来ない感情が含まれている様に感じられた。

 

「そうだね、まだ傷も塞がっていない状態で、酷な事だとは分かっているのだけれど――二人の力を貸して欲しい」

 

 そう云って静かにパイプ椅子へと腰を落とす先生。明らかに腰を据えて話す姿勢を見せる彼を前に、ツルギも数秒迷った後、自身のベッドに腰掛ける。

 

「と云っても、まずはトリニティの現状から話した方が良いだろうね、そうじゃないと返事も出来ないだろう」

「いえ、断るつもりは毛頭ありませんが……」

「それでもさ」

 

 その言葉に先生は笑みを浮かべながらも肩を竦める。ハスミもツルギも、先生に請われるまでもなく協力する腹積もりだ。しかし、彼の口ぶりから何か他に含む所があるのかと、ハスミはそれ以上言葉を続ける事無く口を噤む。

 

「現在、トリニティはミカとハナコの二名が指揮している、旗振りはティーパーティーのミカが、実質的な行動の方針はハナコが、恐らくそういう役割で動いているのだと思う」

「! ハナコさんが――」

 

 現在トリニティを動かしている人物。その名前に、ハスミとツルギは目を見開く。しかし、驚きはすれど意外ではなかった。普段は昼行燈というか、奇天烈な行動が悪目立ちする彼女であるがハナコならばトリニティ自体を動かす事は可能だという確信があったのである。常日頃の言動は兎も角、正義実現委員会は彼女の才覚を高く評価していた。能力だけで見るのであれば、彼女のそれはトリニティでも一、二を争う。

 

「し、しかし先生、確か現在のティーパーティーは……」

「ナギサの事かい?」

「は、はい」

 

 横合いからツルギが思わず口を挟む。現在のティーパーティー、そのホストは現在もナギサのまま変更はない。彼女を押し退け、何故拘束中のミカが出て来たのか? その疑問は尤もだった。

 

「ナギサに関しては、私達と同じように調印式で爆発に巻き込まれてしまったからね、今も意識は戻っていないらしい」

「……そうなると、シスターフッドのサクラコさんも」

「あぁ、彼女もまだ目を覚ましていない」

 

 拘束中のミカ、及び後ろ盾を持たないハナコがトリニティを動かすに至った理由。各派閥のトップ、その誰かが残っていたのならば、このような事態は起こらなかっただろう。彼女の蜂起はトリニティの各派閥、そのトップが不在となった状態だからこそ起こった事だった。

 

「トリニティを取りまとめる為に、一時的に拘束されていた彼女を解放しましたか」

「表向きは、そういう事になっている」

「表向き――ですか」

 

 その、何処か含む様な云い方にハスミは眉を顰めた。

 

「……彼女達は、アリウスと全面戦争を起こすつもりだ」

 

 全面戦争――それは酷く冷たい響きを伴って、彼女達の鼓膜を叩く。

 調印式にあの様な攻撃を加えた時点で、戦争が始まっているという見方は確かにある。しかし、先生の云う所は異なる。

 彼の云う全面戦争とはつまり――血を血で洗う、殺し合いだ。

 膝に肘をつき、前傾姿勢となった先生は暗い面持ちをそのままに呟く。

 

「いや、つもり何て状態は疾うに過ぎたか――正確に云えば、殺し合いをするつもりなんだ、相手のヘイローを壊すまで終わらない、血に塗れた戦争……公会議の弾圧よりも惨たらしい結末になる未来を、彼女達は進もうとしている」

「……!」

 

 その言葉に、ハスミは思わず息を呑んだ。

 キヴォトスに於いて学園間に於ける紛争、争いというのは決して珍しくない。時には些細な事から大規模な抗争に発展し、「戦争」と呼ばれる程に大きな諍いに転じる事だってある。けれど、身体が一等丈夫な彼女達の中に於いて、【死】というのは何処か遠く、大きく厚い壁を隔てた向こう側にあるモノであった。

 彼女達にとって戦いというのは、取っ組み合いの喧嘩、その延長線上に近い。だから戦争や銃撃戦が起こったとしても、そこに敵意や憎しみ、怒りが介在しても【殺意】はない。銃弾を撃ち込まれようと、「相手は死なない」という前提の元に成り立っている行為だからだ。

 

 しかし、殺人は違う。

 それは、明確に一線を越える行為だ。

 

「勿論――そんな事は私がさせない」

 

 告げ、先生は拳を握り締める。その視線が真っ直ぐ、ハスミとツルギを見つめていた。

 

生徒(子ども)達が殺し合い、苦しむ世界なんて認められる筈がない、私は私の持てる全てを使って、その未来を回避して見せるつもりだ」

 

 トリニティにも、ゲヘナにも――そしてアリウスにも。

 どの様な事情があっても、どの様な理由があっても、そんな事が許される世界は認められない。だからこそ、先生は自身の伝手、権力、能力、全てを使って抗おうとしている。それが分かったからこそ、ハスミは強い力で自身の胸元を握り締めた。

 皺になった制服に、汗が滲む。

 

「その為に、どうか力を貸して欲しい」

「……それは」

 

 そっと、頭を下げる先生。

 それを前に、力ない声が漏れた。

 先生に協力する、その事自体に否やはない。

 しかし、それはつまり。

 

「――先生はアリウスを許すと、そう云う事でしょうか?」

 

 声は、ハスミが思っていた以上に低く、唸る様な響きを伴った。先生の下げられた視線が、ハスミに向けられる。それを直視する事無く、胸元に目線を落としたまま彼女は口を横一文字に結んでいた。それが逡巡か、或いは遠回しな拒絶なのかは分からない。しかし、彼女の胸内に暗澹たる感情が渦巻いている事は確かだった。

 

「……トリニティにアリウスと和解して欲しいと、そう云っている訳ではないんだ」

「えぇ、それは理解しています――現状のトリニティで、それは非常に難しい」

 

 先生の言葉に、ハスミは目を伏せたまま頷く。調印式の襲撃、各派閥のトップの負傷、及び先生に対する暴挙。それら全てを飲み下し、相手の手を取れる程トリニティは寛容でもなければ寛大でもない。和解など夢のまた夢、ましてや現在進行形で戦火が拡大している中で、その様な理想論を語る事は論外の極みであった。

 

 先生の空虚な袖が、ひらりと揺れる。

 トリニティの全面戦争、その殺し合いを止める――その事自体にハスミが思う所はなかった。殺し合いを止めるという名目で動くのならば、喜んで力を貸そう。

 しかし、殺し合いを止める事とアリウスそのものを許せるかどうかという話はまた、別の問題であった。

 つまり問題点は、その後の話。

 殺し合いを止めた後――その結末がどの様な道を辿るにしろ、アリウスを糾弾、迫害する声は決して止まないだろう。その事に関して、ハスミは積極的に介入しようとは思えなかった。その感情を理解したのだろう、先生は真剣な面持ちのまま静かに言葉を綴る。

 

「私個人の話をするのであれば、私はアリウスそのものに対して怒りや憎しみと云った感情は持ち合わせていない、仕返しをしたいとも、糾弾したいとも思っていないから……そういう意味では、許すと云う事になるのかもしれないけれど」

「その腕も、瞳も、アリウスによって奪われたものでしょう、その様な暴挙を為した相手に、何故先生は……」

 

 そこまで口にして、ハスミはぐっと唇を嚙み締めた。俯いていた顔を上げた時、その視線の先に困った様に笑う先生が見えて――彼がどの様な言葉を返すのか、容易に想像出来てしまったのだ。

 

「――彼女達もまた、先生の生徒だと、そう仰るのですか?」

「……そういう側面も、勿論ある」

 

 ハスミの言葉に、先生はゆっくりと、しかし確かな動作で頷いて見せた。

 アリウスの皆も、また自身の生徒。故に手を差し伸べるべき存在であり、決して潜在的な敵対者などではない。生徒皆の味方――大人として、先生として、その様なスタンスを取っている事を彼女は知っている。

 そして、それを単なるポーズとしてではなく、その心身を賭して実践する人物だという事も。

 

 だからこそ、ハスミは堪らなくなるのだ。

 

 他者の為に心を砕き、身を危険に晒してまで動く先生を見る度に、ハスミはどうしようもない悪感情に揺り動かされる。

 恩に恩で報いるのは分かる、それはとても人道的な行いだ。

 恩に仇で報いるのも、納得はせずとも感情の問題として理解は出来る。

 しかし、仇に恩で報いるのは、ハスミにとって到底理解し難い行いであった。

 

 それが善い行いである事は疑いようがない。人として尊敬出来る在り方だとも思う。

 だが、それを横で見ているしか出来ない者達はどうする? その生じた悪感情を、どう処理すれば良い? どう飲み下せば良い? 大切な人が身を削り、心を砕き、伸ばした手を捥がれる姿をただ、呆然と見ている事しか出来ないのか? そんな光景を目にすれば、捥いだ相手に拳の一つや二つ、お見舞いしなければ気が済まないというもの。

 いや、それだけで済めば良い方だ。一歩踏み込めばそれは、命を奪う道を往こうとするハナコやミカが正しいと思える程の激情を生み出してしまう。そして少なくない共感を覚えてしまう自分(ハスミ)は、確実に【そちら側】(奪う道を往く者)だった。

 

「……分かりません、私は――!」

「――けれど、それだけじゃないんだよ、ハスミ」

 

 俯き、言葉を連ねようとするハスミ。その声に被せる形で、先生は声を上げた。その口調は優し気で、どこまでも包む様な暖かさを孕んでいた。思わず顔を上げ、視線を向ける。空の様に透き通った瞳が、自身を真っ直ぐ見つめていた。

 

 先生は想う。

 罪を犯した者は、決して許されないのだろうか? と。

 

 喪われたものは決して戻らない、そういう意味では確かに、許されぬ罪というものは存在するのだろう。それは目に見えるものでも、見えないものでも良い。喪われた命が完全な形で戻る事は無い様に、或いは人との関係が崩れてしまえば二度と元には戻らない様に。

 唯一無二であるモノの消失は、償いと云う形で補填する事は叶わない。

 

 生徒が己の肉体的な喪失に対し強い怒りを抱くように。先生もまた、第三者によって生徒が喪われるような結果となれば――同じように激昂するだろう事は想像に難くない。

 

 しかし、許されざる罪があるのならば。

 そうであるのならば。

 過ちを犯した生徒は、一生その罪悪を背負って、苦しみと共に生きて行くしかないのだろうか?

 

 ――それは違う。

 

 それだけは違うと、先生は断言する。

 たとえ罪を犯したとしても。

 たとえ許されざる行いを為したとしても。

 子ども達が苦しむのは、決してその子の責任などではない。

 罪悪を背負った者が、苦しんで当然と指差される世界など在ってはならない。

 その罪悪は、世界の責任を負う者の抱えるものであって――決して子どもが抱えるものじゃない。

 

 それ(責任)は。

 

「責任は、大人()が背負うものだよ」

 

 声は、二人の耳にハッキリとした形で届いた。その中に秘める覚悟も、意志も、鋼に勝る信念も。

 

 代償は、己が支払う。

 その結果が腕一本と瞳ひとつならば――先生()は喜んで差し出そう。

 思う事はあるだろう、含むものもあるだろう、けれどそれが己の持つ信念だから。決して揺らがす事の出来ない、在り方の根幹を成す部分だから。こればかりは曲げる事が出来ない。先生は背筋を正すと、ハスミとツルギ、二人に向けて深々と頭を下げた。

 強要する事は出来ない、するつもりもない。精々出来るのは頭を深く下げて、誠心誠意をお願いする事だけだ。それが途轍もなく卑怯な行いである事を、先生は知っていた。生徒の感情と心を擦り減らし実現する理想だと理解していた。

 けれど、先生はそれを、その未来を捨てる事が出来ない。それは、数多の生徒の懇願を、願いを、伸ばされた手を、確かに自覚しながら歩み続けた道を否定する行為だからだ。

 此処で諦めるのならば、多くの犠牲と悲しみに包まれた結末は、あの生徒達の声は、想いは、一体何の為に在ったのだ。自分は何の為に幾多もの罪悪を背負い、此処まで歩いてきたのだ。

 

 遠い遠い、理想の未来。

 生徒皆が笑い合える、なんて。

 そんな稚拙で、絵空事の様で、余りにも綺麗なそれが。

 

 幾多もの選択を経て此処に至る先生の見た――最初の(希望)だった。

 

「どうかこの憎しみの連鎖を、断ち切らせて欲しい」

「………」

 

 長い沈黙があった。

 それは反駁の余地を探すと云うより、自身の感情と向き合う為の時間だった。先生の想いを真正面から受けたまま、ハスミは小さく項垂れる。そして大きく息を吸い込むと、あらゆる感情を吐き出すように深く吐息を絞り出した。

 

「はぁ……まぁ、そうですね、先生ならばそう仰ると薄々感じておりました」

「――ハスミ」

「……えぇ、分かっていますよ、ツルギ」

 

 どこか咎める様な口調のツルギを前に、ハスミは仕方なさそうに眉を下げて云った。先生の言葉を最後まで黙って聞き届けたツルギ、その表情を見ずとも理解出来る。伊達に長い間、友人関係を結んでいる訳ではない。

 

 ――こうなった先生は、非常に頑固ですから。

 

 言葉にする事無く、胸内でそう囁いた彼女は肩を竦めた。

 

「確かに思う所もあります、正直(はらわた)が煮えくり返る想いですし、色々と云いたい事もありますが……」

 

 そこで言葉を切ったハスミは、未だ頭を下げ続ける先生の膝にそっと手を添えた。

 

「それが、先生の夢なのでしょう?」

「―――」

 

 ハスミの、酷く優し気な声が先生の鼓膜を叩いた。僅かに見開かれる瞳、たった一つだけとなって尚、輝きを喪わないソレは驚愕の色を以てハスミを見つめた。断るとでも思ったのだろうか? そんな僅かな茶目っ気を出しながら、ハスミは微笑みと共に告げる。

 

先生(あなた)が生徒達の夢を叶える為、寄り添い共に歩みたいと云う様に、私達もまた、先生の夢の実現に手を貸したいと思っているのです」

「ハスミ……!」

「キヒッ!」

 

 それは、紛れもない彼女の本心だった。賛同する様に独特な喜声を上げたツルギは、事は決まったとばかりにベッドから立ち上がる。跳ねたベッドが軋んだ音を鳴らし、ツルギの長い黒髪がふわりと広がった。

 

「憂う必要はありません先生、私達は正義実現委員会――正義とは即ち愛と平和、そして我々の原則は至ってシンプルです、不義を許さぬ事……ですよね、ツルギ?」

「あぁ」

 

 いつも通り、凛とした声色で告げるハスミに、上機嫌に相槌を打つツルギ。

 不義を許さぬ――とは。

 人として守るべき道を外れぬ事。

 道に背いた行為を行わない事。

 そして今、トリニティが為そうとしている戦争行為(殺人)は――その原則に反する。

 

「元より何と云われようと返事は決まっています、我々正義実現委員会は先生の味方です、いつ如何なる時も、先生がその道を外れぬ限り」

 

 そう云って、ハスミは綺麗に破顔して見せた。その表情に憂いはない。

 尤も、先生が道を踏み外すなどと云う心配など皆無だろうが。これは一種の方便の様なものだった。

 

「――ありがとう」

 

 再度深く、頭を下げる先生。拳を握り締めながら目を瞑る先生からは、深い感謝と敬意が伝わって来た。恥ずかし気に頬を上気させるハスミは、そっと視線を逸らす。今は何となく、先生を直視する事が出来なかった。

 

「お礼代わりと云っては何だけれど……これが終わったら、皆にパフェを奢ろう、シラユキの新作でも、何でもね」

「っ! それは――大変魅力的なご提案です」

「ぱ、パフェ? それは、つ、つまり、デデッ、デー……ぎぃえああアアッ!?」

「あっ、ちょ、暴れないで下さい! 他の患者さんが吃驚してしまいますッ! あと廊下は走らないでっ!?」

 

 先生と一つのスプーンで、「あーん」をする光景を脳裏に思い浮かべたツルギは、凄まじい形相を浮かべ廊下へと駆け出す。絶叫がドップラー効果の如く反響し、廊下側から救護騎士団の生徒が怒る声が響いた。そんな友人の背を見届けたハスミは、内心でパフェのカロリーについて考えていたが、『自分への御褒美』という非常に便利な理論を持ち出しカロリーを無効化した。甘味は別腹とは、良く云うものだ。

 

「……さて、それじゃあ私はそろそろ行くよ」

「えぇ、どうかお気を付けて――指示を頂ければ直ぐにでも出立出来る準備を整えておきますね」

「うん、お願い」

 

 ごめんね、無理をさせてしまって。

 そんな言葉にハスミは緩く首を振る事で答えとした。パイプ椅子から立ち上がった先生は、ハスミの手を一度だけ握り締め、それから踵を返す。包帯で覆われた右目を指先で摩りながら、先生は病室を後にした。

 

 道中、すれ違う生徒達に気遣われながら、先生は努めて気丈に振る舞う。時折泣き出したり、茫然自失してしまう生徒も度々現れた。その度に先生は生徒を慰め、元気付け、笑顔を見せる。既に先生が回復し、意識を取り戻した事はトリニティ中に知れ渡っていた。少なくとも派閥間に繋がりを持つ者ならば、その情報を耳にしている程度には。

 一体どうやってと、疑問に思う生徒も居た。しかしその点については、先生が想定していたよりも遥かに軽い反応で済んだ。

 先生の生存という事実は、多少の不都合や奇跡には目を瞑ってしまう程に、彼女達にとっては大きく喜ばしい事だったのだ。

 

「次は――」

 

 廊下を歩きながら先生はシッテムの箱を操作する。行政官の生徒に都合して貰ったバッテリーに繋がれた画面は罅割れ、所々ノイズが走ってしまっているものの使用感に問題はない。タップし開くのは学園内部の地図、途端表示されるマーカーは画面を埋め尽くす程。先生は二度、三度、画面をタップし候補を絞る。

 すると、マーカーはたった二ヶ所に表示され、そのエリアが強調表示されると共に空白へと文字が浮かび上がった。

 

 ――補習授業部、教室と。

 


 

 正義実現委員会の二人、そしてヒナタ、サクラコ、ナギサ、トリニティのトップ層は軒並み先生が一回心停止して骸になった事を知りません。先生を守り切れたと思っている姿は大変可愛らしいですわね。

 

 後は補習授業部と、アビドス組、そしてヒナかなぁ。その後はブルアカ宣言に向けて古聖堂へ突貫かもしれませんわ。

 セナとか便利屋、万魔殿はどうしよう……全員描写すると文字数(カロリー)高いんですわよねぇ。

 

 先生の肉体状況に関してはその内描写します、或いはエピローグとかになるかも。

 流石に四十日という短期間ではありませんが、完全復活という訳ではありませんの。相応の代償は支払って貰いますわ。まぁ、ナラム・シンの玉座に突入するまで生きて貰えればそれで良いので、先生にとっては大したデメリットにはならないかもしれませんが。 

 因みに現在の先生はシッテムの箱のバッテリーが切れると問答無用で死亡します。



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弱く――けれど、気高く

誤字脱字報告ありがとうございますの!
今回一万八千字ですってよ! ほぼ二万字ですわねッ!
そりゃ投稿時間ギリギリにもなりますわよ。


 

 補習授業部――合宿所、教室。

 すっかり馴染んだその場所に、ヒフミとコハルの両名は足を運んでいた。普段皆が勉学に励んでいた机の上には幾つもの弾薬や武器パーツ、爆薬、救急キットの類が並べられており、黒板に描かれたヒフミお手製のペロロ似顔絵だけが嘗ての名残として消される事無く張り付いていた。ヒフミは先程まで壁に立て掛けていた自身の愛銃、マイ・ネセシティの分解・清掃を終え、組み立てたそれを軽く眺める。

 一応、定期的な清掃は欠かさずに行っていた、アズサと出会ってからは特に。武器の手入れの重要性を説く彼女に従い、より丁寧に、慎重に行っていた自覚がある。だからこそ愛銃に不備はなく、普段よりも心なしか動作がスムーズに感じた。

 

「ひ、ヒフミ、弾薬持って来たよ……!」

「ありがとうございます、コハルちゃん」

 

 教室の扉を肩で押し開け、弾薬箱を抱えながら踏み込むコハル。机の上にそれを乗せると、コハルは額に滲んでいた汗を拭う。持ち込んだミリタリーコンテナの中には、箱詰めされた弾薬が幾つも顔を覗かせていた。

 

「今は弾薬庫の出入りが厳しくなっていて、特殊弾の類は持ち出せなかったけれど……」

「いいえ十分です、私の保管していた分と合わせればきっと――」

 

 コハルの言葉に首を振って、ヒフミはコンテナの中から弾薬を取り出す。武骨なイラストに記載された文字を眺め、箱を横合いに押し出すと綺麗に並べられた薬莢の表面が視界に並んだ。

 

「5.56mmに.303弾……要望通りですね、これだけ準備すれば道中は大丈夫だと思います」

 

 ヒフミの扱う5.56mm、そしてコハルの扱う.303、コンテナに詰められたそれらの弾薬は弾倉に詰めて何発分か。少なくとも二人で使用する分だと考えれば十二分だと思えた。

 ヒフミはペロロバッグの中から空の弾倉を取り出し、箱から摘まんだ弾薬を一発ずつ丁寧に装填していく。コハルも彼女を真似て、ポーチの中に常備していたクリップに一発、一発弾薬を差し込んでいった。弾薬を差し込む作業はそれなりに面倒であったが、戦場ではこの弾倉をものの数秒で消費してしまう事になる。兎にも角にも数は重要だ、ポーチの半分以上を弾薬で占める程度には。

 二人で黙々と弾薬を詰める作業に没頭しながら、ふとコハルは不安げに声を上げる。涙と共に前へと進む覚悟を見せたコハルであるが、それでも恐怖や不安が欠片もない訳ではない。これから自分達は、たった二人で幾つもの学園が争う恐ろしい戦場に身を投じるのだと思えば、自然と手が震えそうになる程だった。

 

「二人で大丈夫かな……? 協力してくれそうな人達に、声を掛けたりとかは――」

「……一応、アビドスの皆さんには連絡を取ったのですが」

 

 コハルの声に、ヒフミはやや強張った声で答える。しかしその手は淀みなく、弾倉に弾薬を詰め続けていた。

 

「アビドスって、確か、あの――」

「はい、対策委員会の皆さんです」

 

 アビドス――その名前を聞いたコハルは脳裏に幾人かの生徒、その顔を思い浮かべる。確かあの、妙に個性的な五人組であった筈だ。客室棟で面識はあった、先生の警護という名目で行われた合宿の続き、大抵は先生の傍で屯して具体的に何かをしていた訳ではない。コハルは、「あの五人組が……」と心の中で呟きつつ、朧げな記憶から自治区の地図を引っ張り出す。

 

「でもアビドスの自治区って、かなり遠いんでしょ? 今から呼んだって、到着するのは明日とかになるんじゃない?」

「いえ、それが調印式を見学する為にトリニティに足を運んでいたみたいでして……連絡した時も、此方(補習授業部)の方に来てくれると仰っていたのですが――」

 

 そこまで口にして、ヒフミは壁に掛かったアナログ時計を見上げた。

 時刻は未明――陽は未だ登らず、もう少しすれば空が明るくなり始める頃だろうか。窓はカーテンに覆われており、夜空は目に映らない。既に連絡を入れてから一時間近く経過している。彼女達がどの地区に居るかは不明だが、もし古聖堂地区近辺であれば、徒歩で一時間程度で到着するだろう。

 或いは道中で戦闘に巻き込まれてしまったのか。

 

「私の方でも、正義実現委員会のメンバーにあたってみたけれど、えっと……」

「……いえ、きっと大丈夫です」

 

 コハルがそう、たどたどしく口を開けばヒフミは首を振る。

 現在、正義実現委員会は統制を喪ったトリニティを奔走している。一部――と云っても決して少なくない数の生徒がハナコとミカに追従していたが、校内に留まった生徒も皆無ではない。彼女達は学内の混乱を収める事を最優先しており、人手は足りない状況だろう。そんな中で此方に手を貸して貰う様な真似は心苦しい。

 この混沌とした状況を収める事が出来る人物が居れば別だが――。

 

「無いもの強請りは出来ません」

 

 告げ、ヒフミは弾倉に最後の一発を押し込んだ。カチン、と硬質的な音が鳴り響き、満杯になったそれをバッグに差し込む。ペロロバッグの内部には、内側に張り付くようにして並ぶ弾倉。それらを目視で確認し、机の上に広げていた救急キットや手榴弾の類も詰め込み荷物を纏める。

 余り長い時間待機する事は出来ない、あと三十分――この教室で待機していても、アビドスの皆が到着しなかった場合は連絡を入れて二人で出立しよう。

 動く秒針を見つめながら、ヒフミはそう決める。

 手遅れになる前に、動かなければならない。

 

「コハルちゃん、準備はどうですか?」

「う、うん……大丈夫」

 

 積み上がったクリップを手に取り、ポーチへと詰め込むコハル。内部にあるトリニティ製手榴弾を確かめ、最後に黒布に包まれていた愛銃――ジャスティス・ブラックを手に取り、軽くボルトに指先で触れる。整備は怠っていない、ガタつきもなく、電灯に照らされるソレはコハルの敬愛するハスミの愛銃と比較しても決して劣らぬ輝きを放っている。手慣れた動作でボルトを操作し、弾倉を検めたコハルはヒフミに向かって頷いて見せる。準備は万全、その意思を受け取ったヒフミはペロロバッグに手を添え云った。

 

「三十分程、この教室で待機しましょう、それでも対策委員会の皆さんが合流出来なかった場合は、私達だけで出発します、行先は――」

 

 ――古聖堂。

 

 調印式の会場であり、この騒動の始まりの場所。ヒフミやコハルには、アリウス・スクワッドが何処に居るのか、アズサはどこに向かったのか、それを知る由はない。しかし、妙な予感があった。

 あの古聖堂に、エデン条約の結ばれる筈であったその場所に――何かがあると。

 事実、コハルが正義実現委員会に向かった際に耳にした情報では古聖堂を中心としてアリウスは展開しているらしい。救援部隊も古聖堂内部に突入する際は、かなりの苦戦を強いられたと。

 それ程防備を固める理由は、重要な何かがある証拠でもある。アリウスにとって、触れられたくない何か、或いは知られたくない何かがあるのだと思った。そしてアリウスの根幹に近付くと云う事は、スクワッドに近付く事と同義であり――アズサと同じ道を往くという事だ。

 

 絶対に止める、人殺しなんて罪を背負わせる訳にはいかない。

 アズサにも、ハナコにも――。

 

 そう心の中で強く思い、ヒフミは手を強く握り締める。そんな彼女の耳に、扉がノックされる音が届いた。びくりとコハルが肩を震わせ不安げに扉を見る。ヒフミは目を細め、やや強張った表情で銃に手を伸ばした。

 トリニティとて一枚岩ではない、特に各派閥のトップが不在の今、潜在的に脅威となる種はそこら中に転がっていた。警戒するのは当然であり、特に現状は何処で何が起こっても不思議はない。

 

「……はい」

「ヒフミちゃん?」

 

 扉の向こう側から声が響く、それはヒフミの聞き覚えのある声で、はっと表情を一変させた彼女は銃を手放し、扉を勢い良く開いた。その向こう側には唐突に開いた扉に対し、驚きを露にするホシノと――アビドス対策委員会の面々。

 

「対策委員会の皆さん! それに……ワカモさんも!」

「……久方振りですね」

 

 ヒフミの歓喜の滲んだ微笑みに、ワカモは軽く狐面を撫でつけながら呟く。ホシノはヒフミの肩越しに素早く部屋の中を見渡し、机の前に立っているコハルを視認すると、その表情を僅かに険しく変化させた。

 ヒフミはワカモの罅割れた狐面、そして解れ、裂け、血や砂利に塗れた皆の姿を見て問いかける。

 

「えっと、その様子だと戦闘が……?」

「……うん、まぁちょっとね、変な幽霊みたいな連中と戦っただけだよ」

 

 そう、何でもない事の様に告げるホシノ。

 彼女たちからは強い火薬と、血の匂いがした。

 

「えっと、兎に角、こんな状況で呼び出しに応じて頂きありがとうございます! 皆さんの協力があれば、きっと……!」

「ヒフミちゃんには以前お世話になったからね、それに――」

 

 ホシノの視線が、僅かに揺らぐ。唇を震わせ何事かを口にしようとした彼女は、しかしそれ以上何か言葉を紡ぐ事は無く黙り込んでしまう。代わりに背後に立っていたセリカとアヤネが、どこか強張った表情と共に問いかけた。

 

「その、先生の姿が見えないけれど、もしかしてまだ救護騎士団の所に居るの?」

「出来れば、容態の方をお聞きしたいのですが……」

「っ――」

 

 その質問に、ヒフミは自身の口元が引き攣るのが分かった。息を呑むヒフミ、その変化に一番早く気付いたのはワカモだ。彼女はそっと狐面を片手で覆い隠すと、俯き沈黙を守った。担いでいた愛銃がカタリと、小さく震える。

 

「せ……」

 

 声を発した。ヒフミは、引き攣りそうになる喉を震わせ、必死に。

 

「先生、は――……」

「ひ、ヒフミ……」

 

 アビドスの皆が、強張った面持ちでヒフミを見つめる。背後からコハルが駆け寄ってくるのが分かった。小さな手がヒフミの背中、その制服の布地を掴み、微かな支えとなる。

 云わねばならないと思った。

 現実を、真実を、伝えなければならないと。けれど意志に反して口は余りにも重く、舌は言葉を紡がない。たった一言、そのたった一言を絞り出すのに、ヒフミは凄まじい苦痛と重圧を味わった。

 空気が徐々に張り詰める。ヒフミの様子から、その表情から、どの様な言葉が発せられるのかを彼女達は察したのだ。この場合、沈黙は何よりも雄弁であった。

 ホシノの顔色は酷く、その表情は今にも泣き出しそうに見えた。シロコが唇を噛み締め、険しい表情で拳を握り締めるのが分かった。セリカが視線を左右に泳がせ、ノノミは不安げに俯く。アヤネが何かを云い掛け、口を閉じたのが分かった。

 肌を刺すような沈黙が、ヒフミの心を締め付ける。震える唇を開き、喉を鳴らした彼女は精一杯息を吐き出し――告げた。

 

「せ、先生は――!」

「到着ッ……! と、遠かった……ッ!」

 

 廊下の向こう側から、声が響いた。それは廊下中に反響し皆の鼓膜を叩く。

 待ち望んでいた――けれど聞こえる筈のない声。

 それに一番早く反応したのはワカモだ。耳を震わせ、ピンと立てた彼女は凄まじい勢いで声の主、その方向へと顔を向けた。

 反し、ぎこちない動作で振り向くアビドス。目を見開き、言葉を失うヒフミとコハル。

 

 彼女達の視線の先には――白いシャーレの制服を靡かせる、先生()が立っていた。

 いつも通りの表情で。

 張り付く様な絶望を塗り替える、暖かな気配と共に。

 

「ごめん、遅くなった……! 此処(合宿所)って本校舎から大分離れているから、時間が掛かっちゃって……!」

 

 先生は首回りに大量の汗を滲ませていた。額に巻き付けられた包帯も、僅かに湿り気を帯びている様に思える。全力疾走でもして来たのか、その息は弾み傍目から見ても疲労状態であった。

 けれど、そんな事はどうでも良い。

 大切な事ではなかった。

 重要なのは――。

 

「せっ――先せッ……」

「うわぁぁぁあああああッ!」

 

 ヒフミが口を開くと同時、コハルが絶叫した。両目から涙を零しながら、両手を突き出して先生の元へと駆け出す。弾丸の如く飛び出した彼女に先生は面食らい、咄嗟に腰を落とす。その胸元目掛けてコハルは飛び込み、先生は転びそうになりながらも何とか受け止める事に成功した。数歩蹈鞴を踏んだ先生は、コハルを抱き留めながら苦笑を零す。コハルは先生の首にぶら下がり、先生の首に額を擦りつけながら大口を開けて泣き叫んだ。

 

「せんぜええぇえええッ!」

「ぐッ、こ、コハル、力、力がつよ……っ!」

 

 強く、強く抱きしめるその両腕に、先生は思わず顔を青くする。キヴォトスの生徒、その全力の抱擁など喰らった日には骨が砕けてもおかしくはない。特に彼女が抱き締めているのは先生の首元だ、首は洒落にならない、いや、本当に。そう思うものの、今のコハルには言葉が通じるとは到底思えず、先生は必死にコハルの背中を叩く事しか出来なかった。

 

「ほ――……」

 

 目を見開いたまま硬直するセリカ。

 彼女は先生を指差し、涙を滲ませながらも笑顔で叫ぶ。

 

「ほらっ、やっぱり! やっぱり生きていたじゃない……ッ! 先生が死んだなんて嘘っぱちだったのよッ!」

「先生……!」

「先生っ!」

「あなた様――!」

 

 叫び、次々と駆け出す生徒達。先生は駆け寄る生徒達の影に目を見開き、しかし何かを告げるよりも早く、その生徒達の身体に埋もれ見えなくなった。

 四方八方から手が伸び、先生の身体を掴む、摩る、揉む。人の身体で溺れる感覚と云うのは、こういうものか。先生は熱気と圧迫感に顔を顰めながら、必死に声を上げた。

 

「う、ぐぉッ!? ちょ、ま、待って! ぜ、全員一度には、ま、拙いッ……! お、押し潰されちゃう……っ!」

「い、生きてますか!? 先生、本当に生きているんですか!?」

「い、生きているよ、あ、足も付いているもん……!」

「ん、ちゃんと二本ある……!」

 

 そう云って先生の足を掴むシロコとセリカ。上から下まで、満遍なくチェックされ、確認される先生は青くなったり、白くなったり。瞳と腕は一本足りないが、それでもきちんと生きている。先生の腰に抱き着いたヒフミは、涙目になりながらも必死に問いかけた。

 

「で、でも、でもっ、一体どうやって……? 救護騎士団の方々も、先生は……!」

「な、何でも良いよ! ぐすっ、せ、先生が帰って来てくれたなら、何だって……っ!」

「そ、そうよッ! 生きているなら何だって良いわよ!」

「そっ……そう、ですね――!」

「ん……!」

 

 あの安置所で見た先生は、幻だったのか? いや、そんな筈はない、確かに先生は物言わぬ屍になっていた。その体温を、冷たさを、ヒフミは知っているのだ。

 しかし、コハルの叫びにセリカが即座に同調し、疑問は即座に彼方へと投げ捨てられた。そんな事はどうでも良い、この瞬間に限っては過程や方法は重要ではなかった。

 先生は生きて、この場に立っている――彼女達にとってはそれが全てだった。

 

「あ、あはは……は――はぁーッ……!」

 

 ひとり、先生の元に駆け出す事無く佇むホシノ。

 彼女は硬直した体をそのままに、先生を凝視したまま乾いた笑みを漏らした。

 そして徐に肩に掛けていた防弾盾、畳まれたそれを地面に滑り落とし、その場に屈み込む。膝に自身の顔を埋めると、零れそうになる涙を皆に見せない様、静かに、囁く様な声量で云った。

 

「――良かったぁ……!」

 

 声には、万感の想いが込められていた。

 自分はまだ、喪っていなかった。

 この手から、取りこぼしてはいなかった。

 その事に安堵する――深く深く、これ以上ない程に。

 

「み、皆、本当にごめん、その、沢山心配も、迷惑を掛けてしまって……」

「その様な事は――!」

「迷惑だなんて、欠片も思っていません!」

 

 生徒達に埋もれながら、必死にそう口にする先生に向けてワカモが、ノノミが叫ぶ。先生の腕を、肩を、背中を掴む手に、ぎゅっと力が籠るのが分かった。暫くの間、先生の生存を目一杯喜んでいたヒフミだが、ふと思い出したように目を見開き、慌てて叫ぶ。

 

「せ、先生、そのっ……!」

 

 その声に、先生は微笑みで以て応えた。一本だけになった腕が、ヒフミの頭を優しく撫でつける。

 

「事情は凡そ把握しているよ、ハナコとミカが――」

「は、はいっ、トリニティの生徒を動員して、アリウスを……!」

「うん、何とかしよう、この争いの事も、ミカの事も、ハナコの事も……そしてアズサの事も」

 

 告げ、先生は窓の外を見つめる。薄暗い世界、この夜空の下で戦っているであろう生徒達。彼女達の為に、今動かなければならなかった。

 

「また皆で、授業をしないといけないからね」

「――はい!」

 

 先生は首にぶら下げていたコハルを降ろし、その背中を優しく摩った。コハルは垂れ下がった袖で自身の目元を乱雑に拭い、一歩先生から離れる。

 皆が名残惜しそうに手を放し、乱れた衣服を軽く整えた先生は、小さく息を吸い込み告げる。

 

「云わなくちゃいけない事、伝えたい事が沢山ある――けれど今は何よりも先に、この争いを止めたい」

 

 真剣な瞳と共に告げられる言葉。それは廊下に響き渡り、皆の鼓膜を叩いた。

 

「……私に、力を貸してくれるかい?」

「は、はいッ! 私なんかでよければ……!」

「あ、当たり前でしょ……!」

 

 先生の言葉に、ヒフミとコハルが勢い良く頷く。ハナコの為に、アズサの為に、躊躇いなど無い。自分の持てる全てを使って彼女達を連れ戻すと、彼女達の表情からは、そんな強い意志が見え隠れしていた。

 ふと、そんな彼女達に――先生に歩み寄る影があった。

 その人影に先生が目を向ければ、視線が正面から交わる。

 

「先生……」

「ホシノ――」

 

 ひとり離れていたホシノが、先生の正面に立っていた。その表情は安堵と不安が綯交ぜになった、酷く不安定なものに見えた。彼女の視線が、先生の喪われた腕と瞳に向けられる。

 

「また、戦いに行くの?」

「……うん、この争いを、誰かが止めなくちゃいけない」

「それは、先生じゃなきゃ駄目な事?」

「……私の至らなさが、今回の件を招いたから」

 

 先生はそう云って、不甲斐ない自身を恥じるように目を伏せた。

 彼女(ベアトリーチェ)の執念に等しい敵愾心に、もっと早く気付いていれば。

 或いは、スクワッドと別な形で接触出来ていれば。

 はたまた、古聖堂に対する攻撃に適切な対処が出来ていれば。

 そんなあらゆる、「もしも」があった。

 それを今、此処で語る事に意味はない。しかし、この騒動が此処まで大きく変化してしまったのは、自身の死がきっかけである。それだけは確かであると、先生は想っていた。

 

「大筋は変わらなかったかもしれない、けれど此処まで状況が悪化したのは、他ならぬ私の責任だ」

「そっ――……!」

 

 そんな事はない。

 ヒフミがそう口にしようとして、けれど他ならぬ先生の手によって声は遮られた。

 

「ごめんね、危険な事にばかり首を突っ込んで、きっと皆には辛いを想いを、苦しい想いをさせていると思う……でも」

「分かっているよ……それでも、先生は行くんでしょ?」

「――私は、生徒を誰一人として見捨てたくないんだ」

「……知ってる」

 

 その言葉に、ホシノは酷く悲しそうに笑った。それは仕方なさそうな、けれど同時に憑き物がとれたような、溌剌とした笑みだった。先生ならばきっと、そう云うのであろうなと分かっていたのだ。理解して尚問いかけたのは、彼女なりの意趣返しに他ならない。

 それは些細な、本当に些細なホシノからの復讐だった。

 

「ホシノ先輩」

「……シロコちゃん」

 

 シロコが、ホシノの名を呼ぶ。

 彼女が振り返ると、アビドスの皆がそれぞれ彼女達らしい表情で以て二人を見ていた。セリカはどこか怒ったように、シロコは憮然とした顔で、ノノミはふんわりと柔らかな笑みを、アヤネは困ったような苦笑を浮かべながら。

 

「いつか、ゲヘナ風紀委員会と戦った時の事を思い出しちゃいますね」

「……そうですね、あの時もそうでした、先生は無茶をして――」

「酷い怪我していたのに隠して、病院に運ばれたし……ッ! あぁもう、今思い出してもモヤっとする!」

 

 脚を踏みならし、ズンズンと距離を詰めるセリカ。彼女はホシノとシロコの間を通り抜けると、先生の胸元に指を突きつけながら叫んだ。

 

「私達が此処に来たのは、ヒフミさんに呼ばれたからで……! 正直、先生がまた危ない所に行くのは賛成出来ないし、したくないけれど……ッ! どうせ何を云ったって聞きはしないんでしょ!? なら先生、今の体調はどうなの!? 大丈夫なんでしょうねっ!? 前みたいに隠していたら承知しないからッ!」

「……当然バッチリだよ、救護騎士団のお墨付きさ」

 

 セリカの剣幕に、先生は気圧されながらもはっきりとそう告げた。

 それは半分本当で、半分嘘だった。

 救護騎士団のお墨付きなど貰っていない、しかしセリナに泣き付かれ簡易的な診断は受けていた。結果は一応表面上の問題はなし。各部位の出血も収まっており、生徒の居ない所でクラフトチェンバーによる生成物の固定化を行い、VC(versatile cell)の投与も行っていた。傷口も既にセルによる修復が行われている。右目と左腕を除き、先生の肉体は正常に稼働していると云って良い。セリナ曰く、正に奇跡みたいな状態だった。

 それに彼女達には云えぬ事だったが、万が一致命的な傷が残っていたとしても――今の自身に限って云えば、問題にすらならない。

 最悪、補完してしまえば事足りた。

 勿論、それは最終手段に等しい為率先して行おうとは思わない。生命維持の為の電力は、補填部位に応じて上下する。万が一を考えれば、本当に保険程度に考えておくべきだった。

 

「ん、大丈夫――何が来たとしても、私達が先生を守れば良い話」

 

 シロコは肩に掛けていた愛銃を揺らし、そう告げる。彼女の特徴的なオッドアイが先生を射貫いた。その瞳にはどこまでも真剣な色があった。やると云ったら、やる。それだけの覚悟を感じ取れる程に力強い視線だった。

 

「もう、先生から目を離さないから」

「それは……一体、どういう意味で?」

「ん、言葉通りの意味」

 

 淡々と、しかしどこか力強い口調で告げる。何故だろう、先生は彼女の言葉から物理的な危機を感じた。別段、何が在ると云う訳でもないのに背に冷汗が流れる。

 

「心情としてはセリカちゃんと同じです、今の先生の状態で前線に赴くのは賛成出来ません――でも、きっと生徒の事を放ってはおけませんよね、先生は」

「そうですね、ひとりでも突っ走ってしまう様な人ですから――だったら、選択肢は一つですよね、ホシノ先輩?」

 

 アヤネとノノミは、そう口にしてホシノに視線を向ける。二人の視線を受けたホシノは、これ見よがしに肩を竦めて見せた。

 

「……ま、此処で拒否する事なんて出来ないよねぇ」

 

 そう云って彼女は、どこかお道化た様に首を振った。片目で先生を見たホシノは、にやりと口元を歪めて問いかける。

 

「良いよ先生、でも私の云った事、ちゃんと憶えている?」

「……忘れる筈ないよ」

 

 その、どこか意味ありげな問いかけに先生は苦笑を零す。彼女が云わんとしている事を先生は朧気だが察する事が出来た。自身の拳で胸元を叩き、先生は断言する。

 

「例え心臓が止まったとしても、意地で蘇って見せるさ」

「――ま、そんな事、おじさんがさせないけれど」

 

 告げ、ホシノは床に転がしていた盾を担ぐ。愛銃を脇に挟み、振り返った彼女はアビドスの皆を見た。

 

「ふんッ! 相手の事とか良く分からないけれど、何が相手でも、ぶっ潰してやれば良い話よねッ!」

「体力はまだ十分に残っている、先生にはもう、指一本触れさせない」

「勿論、気力も満々ですっ! 沢山撃ってお手伝いしちゃいますよー!」

「支援の準備は万全です、今度こそ先生を精一杯サポートします……!」

 

 各々が愛銃を抱え、そう宣言する。それを見ていたヒフミの表情が、喜色に染まるのが分かった。「ありがとうございます、皆さん!」と、勢い良く頭を下げるヒフミの声が廊下に響いた。皆の力があれば、きっとこの争いを止める事だって出来る筈だ。

 先生はそう、信じている。

 

「……ワカモ」

「あなた様の、御心のままに」

 

 そっと、先生の背後に控えていたワカモは小さく呟く。その罅割れた狐面の向こう側、煌めく瞳が濡れている事に先生は気付いていた。

 

「しかし、もし私の心を慮って頂けるのならば、どうか、もう二度とは……」

「……うん、ありがとう――ごめんね」

 

 もう二度と、この様な無様は晒さない。先生はそう心に決め、ワカモに感謝の言葉を告げる。本当に、どれだけ感謝し、頭を下げても足りない程だった。ワカモの指先が音も無く先生の袖を摘まむ。そのいじらしい主張に応えながら、先生は皆を見渡した。

 

「この困難を乗り越えて、皆でまた平穏な日々に戻ろう――暖かくて、何て事の無い(大切で掛け替えのない)毎日に」

 

 ――生徒達の、青春の只中に。

 

 皆が頷き、声を上げた。それを確かめた先生はシッテムの箱を取り出し、画面を表示させる。トリニティ自治区、その本校舎周辺で点灯する光が一つ。

 

「校門に車両を手配してあるから、皆は先にそちらで待機していて欲しい、私も後で合流するから」

「えっと、先生は……?」

 

 ヒフミのその問い掛けに、先生は僅かな間沈黙を守る。

 シッテムの箱には、とある生徒の現在位置が示されていた。

 

「――逢わなくちゃいけない子が、まだ居るんだ」

 

 ■

 

「ぅ、ぅ……――」

 

 トリニティ本校舎、裏手――木陰の片隅。

 人通りの少ない本校舎の裏側、暗く、木々が生い茂り、細い石畳の道が幾つかあるだけの場所で、ヒナはたった一人影に隠れ蹲っていた。

 救護騎士団に手当をされた記憶があった、しかし其処からどう動いたのか、どんなやり取りをしたのかは曖昧だ。気付けばこの場所で膝を抱え、ずっと啜り泣いていた。

 

 夜空が頭上を覆い、薄暗い周辺は明かり一つない。校舎の窓から差し込む電灯が微かに周囲を照らす程度で、ヒナの身体は暗闇にすっぽりと覆われている。

 本来であれば、直ぐにでもゲヘナ自治区へと戻らなくてはならない。しかし、それすらも億劫に感じてしまう程に、彼女の心は傷ついていた。

 

 安置所で共に暫く呆然としていたセナは、「……先に、戻ります」とだけ告げ救急医学部へと戻って行った。恐らく、今尚発生している負傷者の手当てに戻ったのだろう。

 強い子だと、ヒナは心の底からそう思った。先生の亡骸を見つめ続ける事に耐えられなくなって、覚束ない足取りで逃げ出した自分とは大違いだ。

 

 私は――私は、もう。

 

「ッ!?」

 

 ふと、足音が響いた。石床を叩く靴音、それにヒナは身を竦ませる。十中八九トリニティの生徒だろう、巡廻か、或いは別の何か用事でもあるのか。人通りの全くない場所ではあるが、物理的に遮断されている訳でもない以上、誰かが通る可能性は十分にある。

 

「………」

 

 ヒナは身を竦ませ、じっと息を潜めた。足音はどんどん近付いて来る。木陰に隠れ、夜の薄暗い視界ではヒナを捉える事は難しい筈だ。

 しかし、そんな予想に反し足音は、自身(ヒナ)の前で止まった。

 視線を感じる、誰かが自分を見下ろしている。

 

「う、ぅう……」

 

 ヒナは頭を抱えて震えた。それは恐怖から来るものだった。元よりトリニティとゲヘナの溝は深く、広い。ましてや先生を守れなかった自身(ゲヘナ最強)に対し、思う所がある生徒など掃いて捨てる程いるだろう。

 どの様な罵倒も、中傷も、普段のヒナならば耐えられた。しかし、今の彼女は心が罅割れ、砕ける寸前なのだ。どのような言葉でさえ、劇薬の様に浸透し、彼女の肉体を、精神を苦しめる結果になるだろう。

 どの様な言葉を掛けられるか恐ろしかった、聞きたくなかった。だから彼女は頭を抱え、蹲り、外界を遮ろうとした。

 

「――ヒナ」

 

 けれど、その声は余りにも聞き覚えのあるもので。

 思わず、ヒナは目を見開く。

 幻聴だと、心の中の自分が告げる。けれど彼女の心が、感情が、一抹の望みを捨てられずに叫んでいた。

 今の声、先生のものじゃ――あり得ない、先生は居なくなったのに。

 じゃあ一体、誰の声――きっと自分の弱い心が生んだ幻だ。

 でも見て見ないと分からない――期待して、裏切られたらもっと酷い事になる。

 でも、でも、でも――。

 

 頭を抱えたまま、ヒナはゆっくりと、緩慢な動作で顔を上げる。

 闇夜に慣れた瞳が校舎から差し込む光に照らされ、ヒナは僅かに目を細めた。

 

「……ぁ」

 

 そして、暗闇の中に在りながら、決して見間違う事のない顔立ちが――ヒナの視界に飛び込む。

 心配げに、儚げに、けれど優しさを含んだ微笑み。

 それは、喪ったと、居なくなったと思っていた先生その人だった。

 薄らと、僅かに明るくなり始めた空に映る、先生の瞳。ヒナは息を呑み、その肩を震わせる。

 

「せ、せんせッ……!?」

 

 立ち上がろうとして、彼女は失敗した。

 腰が抜けて、足に力が入らなかった。這い蹲り、先生を見上げる彼女の顔は――酷いものだ。腫れ上がった目元、涙に濡れた頬、張り付けられたガーゼは既に剥がれかけ、ストレスから無意識に噛んでいたのか、彼女の細い手首には無数の歯型が残っていた。

 目尻に涙を溜め、ぼさぼさに跳ねた髪をそのままに彼女は問いかける。

 

「い、生きて――……!?」

「うん、お陰様で、何とか戻って来れたよ」

 

 片腕は無く、包帯が巻き付けられた右目は覆われたまま、包帯から微かにはみ出た髪をそのままに先生は笑う。その傷を見るだけで、ヒナは自身の心が軋むのが分かった。

 

 けれど――生きている。

 先生は生きて、その場に立っている。

 冷たく、物云わぬ先生を知っているヒナからすれば、それだけで全てが許せると思ってしまう程に、その光景は待ち望んでいたものだった。

 どうやって? 一体、あんな状態から――そんな疑問が湧いて来るも、それは一瞬で何処かへと消えてしまう。今、目の前にあるこの現実、先生の生存という一点、それこそがヒナにとっての全てだった。

 

 ゆっくりと、手を伸ばす。

 先生に向けて、直ぐ目の前に立つ待ち望んでいた人に向けて。

 その温もりを確かめる為に。これが夢でないと証明する為に。

 けれど、その指先が先生へと触れる直前に、大きく揺れた。

 私にその資格があるのかと、そう思ってしまったのだ。

 

 ――先生に守られた、この(弱い)私に。

 

「ぁ、ぅ……」

「ヒナ……」

 

 そう思ってしまった途端、もう駄目だった。

 伸ばした手は震えるばかりで、それ以上先には進まない。ほんの十センチ、何てことのない距離だと云うのに――ヒナはそれ以上手を伸ばす事が出来なかった。

 蒼褪め、中途半端に伸ばした指先。

 震えるそれを見つめる先生は、彼女が何を想ったのかを悟った。

 

「ご――」

 

 咄嗟に差し出された先生の手。けれどそれがヒナの手を掴むより早く、彼女の指先は握り込まれ胸元へと引き戻される。ヒナは俯き、先程と同じように頭を抱え、全身を震えさせながら叫んだ。

 

「ごめん、なさい……っ、ごめんなさい、ごめんなさい先生ッ! ごめんなさいッ……! わたっ、私が……私が、守り切れなかったせいで……ッ!」

 

 裏返った声で、そう必死に叫ぶ彼女は恐れていた。

 先生に責められる事を、詰られる事を。そんな事は無いと分かっているのに、そんな事を口にする人ではないと知っているのに。それは彼女の抱く罪悪感が見せる不安だ、恐怖だ。目を瞑ると瞼の裏に映し出される、何度も何度も銃弾を浴びせられる先生の姿。自分はただ、それを眺めている事しか出来なくて――それを思い返す度に、ヒナは身を切るような苦しさと、自身に対する失望に支配された。

 

「先生をっ、まも、守らなきゃ……守らなきゃいけなかったのに、わたっ、私の方が守られて……! こ、こんなッ……こんな、つもりじゃ……わ、私……うぅう、うぅぁ……ッ!」

「……ヒナのせいなんかじゃないよ」

 

 そう云って、先生はその場に膝を着くと――そっとヒナを抱き締めた。

 ヒナの冷えた肉体が、先生の体温を奪う。抱きしめられた瞬間、ふわりと香る先生の匂い。そして隠しきれない――血の香り。

 その匂いは彼女の記憶を刺激する。無意識の内に回された腕が先生の背中、その衣服を強く掴み、ヒナは喘ぐ様に呼吸を続けた。

 ぽろぽろと、大粒の涙が零れ落ちる。

 

「ごめんね、怖かったよね」

「うぅ、ぅうううッ……!」

「大丈夫、私は此処に居るよ」

 

 ――もう、何処にも行ったりしないから。

 

 そんな言葉を、先生は呑み込んだ。

 がちがちと、耳元で音が鳴っていた。それはヒナの歯音だった。恐怖と不安、そして寒さから来る反射。先生を抱き締める力が強くなる、下手をすれば骨が軋んでしまう程に。けれど先生はじっと、何の抵抗も苦痛も見せずに全てを受け入れる。片側だけになった腕でヒナを抱き締め、呟く。

 

「ありがとうヒナ、ヒナのお陰で私は、まだ足掻く事が出来る」

「ち、ちがっ、そんな……ッ!」

 

 その言葉に、聡いヒナは悟った。

 先生はまた――戦いに行くのか。

 そんな体で、生徒の為に、また危険な戦場に。

 

「あ、ぅ、ぁ……!」

 

 そうだ、当たり前の話だ。ヒナの理性は告げる、現在トリニティは混乱の坩堝にある。パテル分派のミカが解放され、ハナコが疑似的な参謀として音頭を取ってはいるが、彼女達の目的はアリウスの殲滅。主戦派の凡そは意思統一されているものの彼女達の行動に反対する生徒も少なくない。そして万が一彼女達がこのまま暴走を続ければ、その戦火は何処まで広がるかも不明。

 保守派、主戦派、それらを取り纏め事態を収拾する必要がある――誰かが、トリニティを率いる事の出来る、【誰か】(先生)が。

 

 震えながら、ヒナはついて行かなければと思った。

 こんな状態の先生を行かせるなんて、そんな事は出来ないと。

 だから今度こそ守らなければと、そう思ったのだ。

 思ったのに。

 

 恐怖が、不安が、自身への失望が――ヒナの言葉を腹に押し込める。

 

「わ、私は……」

 

 結局、ヒナが感じたのは自分への深い失望、そして絶望だった。

 こんな、奇跡みたいな出来事が起こったと云うのに、自分はあの時と同じように動けなくて。ただ震えて蹲る事しか出来ない。自分はいつもそうだった、普段は澄まし顔で何でもない様に振る舞っている癖に、肝心な所でいつも。

 

 ヒナの脳裏に――とある生徒の姿が浮かんだ。

 

「私は……っ! 小鳥遊ホシノみたいには、なれないッ……!」

 

 あの、アビドスの副会長みたいな、強い人にはなれない。

 それは胸の奥に秘めていた憧れだった。自身の弱い心を自覚していたからこそ、そう在りたいと願いながらも無理だと悟っていた光景。項垂れ、涙を零す彼女は叫ぶ。

 

「も、物凄く大切な人を喪ったのに、まだ、立ち上がって、戦って……! あれだけの苦しみを味わって、なんで……? わ、私には……私には――そんな、こと……!」

 

 アビドスの生徒会副会長、小鳥遊ホシノ。

 彼女はアビドスの生徒会長(ユメ先輩)、行方不明となった彼女の第一発見者だった。

 アビドスの生徒会長であった人物と、ホシノはとても親しい仲であったという。彼女はそんな人物を喪って尚、まだ前に進んでいる、自身の足で立って、今もアビドスを率いている。

 どうしてそんな事が出来るのだろう? どうしてそんなにも強いのだろう?

 同じ苦しみを味わった、先生を喪ってしまったと思った瞬間、この胸に去来した恐ろしさ、不安、後悔、絶望を知っているからこそ――強くそう思ってしまう。

 

 あんな恐怖を味わってしまえば。

 あの苦しみを知ってしまえば。

 立ち上がる事なんて、ましてや前に進む事なんて。

 

 先生が居なくなったと、そう思った瞬間――(ヒナ)は、もう。

 ぽっきりと、心が折れてしまったのだ。

 

「う、ぅあ、ぁああッ……!」

「ヒナ……」

 

 大口を開けて、ヒナはくしゃりと顔を歪める。喉の奥から、呻く様な悲鳴が漏れた。

 知っているからこそ、立ち上がれない。前に進む事なんて、論外だ。

 

 ――もう、嫌だ。

 

 苦しみたくない。

 怖いのは嫌だ。

 恐ろしいのは、嫌だ。

 痛いのは嫌だ。

 大切な人を喪う瞬間を見たくない。

 感じたくない。

 それは酷く、寂しく、虚しく、辛い事だから。

 もう二度と――もう二度と。

 

 あんな想いは。

 

「私だって頑張ったッ!」

 

 微かに明るんで来た夜空に、ヒナの声が響いた。涙が弾かれ、その首が左右に振られる。先生の身体を痛い程に抱きしめながら、彼女は感情を絞り出した。

 

「いつも精一杯、頑張って、どうにかしようとしてッ……! 分かって貰えなくて、それでもって……ッ! でも、でもッ……!」

 

 激務に次ぐ激務、少しでも治安を良くしようと奔走し、気付けば率いられる側から、人を率いる側になっていた。ゲヘナの校風、その体質から忌避される事は分かっていた。受け入れられない事も理解していた。

 けれど、必要な事だと割り切って努力して来たつもりだ。

 

 でも、それでも――。

 

 ゲヘナ最強と謳われる程の力を付けた。

 風紀委員会の戦力、その半分を占めると称される程になった。

 キヴォトス最強格と呼ばれる程の地位に至った。

 だと云うのに。

 

「私は、いつも大事な所で――……ッ!」

 

 先生に庇われて、守るべき人に守られて、それをただ、見ている事しか出来ない何て。一体何のための風紀委員会か? 何がゲヘナ最強だ、何がキヴォトス最強格だ。

 肝心な所で役に立たない、只の木偶の坊ではないか。

 そんな自身に対する批判が、脳内で鳴り止まない。

 嗚咽を零し、涙を流し、引き攣った声で彼女は叫ぶ。

 謝罪し続ける。

 

「ごめんなさいッ、ごめんなさい、先生……っ! ごめッ――」

 

 先生は、ヒナの頭を強く引き寄せ、自身の胸元に押し付けた。

 謝罪を口にしていた口が閉じ、荒い呼吸が先生の胸を焼く。涙が衣服を濡らし、先生は囁くように云った。

 

「良いんだヒナ、もう良いんだ……」

 

 その声には、何処までも深い優しさが滲んでいる。ヒナの震えた指先が、先生の肌を衣服越しに掻き毟った。ぴくりと、先生の眉が震えた。しかし痛みを欠片も声に出す事無く、先生は穏やかに告げる。

 

「大丈夫、後の事は任せて、全部――私達が何とかするから」

 

 ヒナの後頭部を撫でつけ、努めて何でもない様に、優しく、柔らかく。

 希望に満ちた明日を。

 その青春の続きを。

 先生は語って聞かせる。

 

「これが終わったら、きっと何もかも元通りになる、いつも通りなんて事のない日常に戻れるから――ヒナが風紀委員長を引退して時間が出来たら、一緒にシャーレでゆっくり過ごそう……アコには、少し叱られてしまいそうだけれど」

 

 そんな風に、今とはかけ離れた未来を先生は口にした。血と銃声に塗れた今ではなく、少し先の、皆が力を合わせた先にある未来の話を。まるで見えているかのように、確定した物事の様に。

 

「心配しないでヒナ、遠慮せずに甘えて良い、寄り掛って良い、風紀委員会の皆もきっと、そんな風に想っているから」

「――ぁ」

「……ヒナが、憂いなく青春を送れるように、その為にも」

 

 先生の手が、ヒナから離れる。咄嗟に、ヒナは声を上げて先生の衣服を掴んだ。皺くちゃになったそれを見て、ヒナは顔を顰める。先生の温もりが遠ざかる、涙と鼻水に塗れて見上げた先生の顔は、少しだけ困ったような、いつも通りの優し気な表情だった。

 

「――この争いを、止めて来るよ」

 

 先生の指先が、そっとヒナの手を握った。

 此処に来たのは、自身(ヒナ)の戦力をアテにした為ではないのか。

 そんな疑問が浮かび上がる。けれど、先生がそれを口にする事は終ぞ無く。

 

「せ、せんせ――……」

「此処には、御礼を云いに来たんだ」

 

 静かに立ち上がる先生。ふわりと、先生の裾がヒナの頬を撫でる。ヒナの握った指先から、先生の衣服が抜け落ちた。

 

「ヒナは、此処で待っていて、大丈夫だよ、きっと上手くいく」

「………」

「――それじゃあ、行って来るね」

 

 告げ、先生()は踵を返し――歩き出す。

 暗闇の中を、迷いなく。

 真っ直ぐ、何処までも確りとした足取りで。

 

「ぁ……あぁ……」

 

 その背中に向かって、ヒナは手を伸ばした。這い蹲ったまま、座り込んだまま、必死に。校舎から差し込む光が、ヒナの指先を照らす。けれど伸ばせど伸ばせど、その背中は遠ざかって。

 

「ま、待って……!」

 

 声を上げた。

 それは余りにも弱々しく、小さな声だった。

 

「待って、先生――わ、私も……私も……っ!」

 

 ――一緒に行くから。

 

 そう、叫びたいのに。

 叫ばなくちゃいけないのに。

 声が出なかった、小さく、喉が引き攣る音だけが響いた。情けない位に震える唇は、ヒナの意志に反して言葉を紡がない。再び滲み出す視界の向こう側に、遠ざかる先生の背中が映る。一歩、一歩、けれど確実に。

 

 どうして、と。

 何故、と。

 ヒナは表情を歪めたまま自身に問い掛けた。

 

 何で、私はこんなにも――弱いの?

 

「……ぅ、ぁ」

 

 崩れ落ちる上半身、両手を地面に突いて嗚咽を零す。目尻から滴る涙が、自身の手に零れ落ちた。此処で、声を出せぬ事こそが、自身の弱さの証明であった。大切なものの為に、恐怖を、苦痛を、乗り越える勇気――それこそが自身に欠けているもの。

 彼女の視界に映る見慣れた愛銃。大きく、武骨で、小柄な自分には大きすぎる銃身。長きに渡って彼女を支えて来た愛銃は、砂利に塗れ、血が付着し、酷い状態だった。それを見つめながらヒナは思い返す。

 

 ――終幕、デストロイヤー(破滅を齎す者)

 

 この名を付けた時、自身は何を想っていたのだろうか。初めて銃を手に取った時、自分は何を目指していたのだろうか。

 

 終幕。

 どんな物語でも、終わりはある。

 私は――その最後を見届ける為に。

 

 いや、違う。

 そんな結末を。

 破滅の終幕(不幸な終わり)こそを――破壊する為に。

 

 (ヒナ)は、この銃を取った筈なのだ。

 

「ッ……!」

 

 咄嗟に、ヒナは愛銃に手を伸ばした。グリップを握り締め、引き摺る様にしてそれを抱える。冷たい銃身は、ヒナの身体から更に体温を奪った。けれど、その冷たさこそがヒナの心を堅くした。初心を思い返す、ほんの少しで良い、僅かで構わない、幼き頃の自分が持っていた意志を、強さを、その想いを(勇気)に変える。

 脳裏に、風紀委員会の皆の顔が浮かんだ。

 息を吸い込む――周囲を覆っていた暗闇が徐々に、徐々に明るみ始める。

 夜明けが近かった。

 

「――待ってッ! 先生っ!」

「……!」

 

 その声に、先生の足が止まった。

 声は届いた、漸く――その背中に。

 ヒナは震えそうになる歯を食い縛って、愛銃のストックを地面に打ち付けた。それを杖代わりに、身体を起こし立ち上がる。膝は震え、銃を掴む手は力ない。それは彼女の怯懦の証、未だ胸内には不安が渦巻き、恐怖が体全体を覆っていた。

 

 ――戦うのは、怖い。

 

 苦しいのは、嫌だった。

 怖いのは、嫌だった。

 辛いのは、嫌だった。

 恐ろしいのは、嫌だった。

 

 でも。

 

 ――先生を喪うのは、もっと嫌だった。

 

「……私は」

 

 顔を上げて、声を張る。振り返った先生が、少しだけ驚いたような目をしていたのが印象的だった。

 地平線に、太陽が昇る。

 薄らと明るんだ空に陽光が差し込み、校舎裏に光が溢れた。先程までの暗闇が一斉になりを潜め、先生の姿がハッキリと視認出来る。その表情も、輪郭も、姿形すべてが。包帯とガーゼに塗れ、傷だらけの先生は痛々しく見えた。けれどそれは、自分も同じだ。

 泥だらけの制服に、先生と同じ傷だらけの恰好。中途半端な治療痕がそれを際立たせ、風紀委員長としての威厳など何処にもない。

 けれど、それでも。

 

「私はっ、ゲヘナ風紀委員長……! 空崎、ヒナ……!」

 

 どんなに泥に塗れても。

 どれだけ傷に塗れても。

 その意志だけは――名前(私が私である証明)だけは変わらない。

 

 ――私は小鳥遊ホシノにはなれない。

 

 ヒナは想う。

 自分は、彼女の様に強くはなれない、折れず曲がらず、進み続ける事は出来ない。弱音だって吐きたいし、落ち込む事だってある。怖がりだし、面倒くさがりだし、甘えたい時だってある。

 

 だから、空崎ヒナとして。

 弱虫の空崎ヒナのままで。

 今度こそ。

 地面を踏み締め、彼女は吼える。

 

「私は、私のままでッ……っ! 今度こそ、先生を助けたいから――ッ!」

「……ヒナ」

 

 一歩を踏み出す。

 陽光に照らされた中で踏み出されたソレは、彼女の震えを打ち消すだけの力強い一歩であった。最初の一歩――その一歩が、彼女にとって一番困難な一歩だった。

 愛銃を担ぎ、歩き出す。

 二歩、三歩、踏み出した彼女の足取りに淀みは無く、迷いはない。羽織った外套を靡かせ、普段の彼女らしい凛々しい表情を浮かべたヒナは、先生の前に立った。

 自分の足で――自分だけの力で。

 

 そっと差し出される手、小さな小さな、彼女(ヒナ)の手。

 けれどそれは、今までのどんな手よりも大きく、力強く見えた。

 陽光が彼女の顔を照す。傷だらけの彼女は、それでも気高く、強い意志を秘めた瞳と共に告げた。

 

「一緒に行こう、先生……!」

 

 ――この争いを、終わらせる為に。

 


 

 次回、決戦――お待ちかねのブルーアーカイブ宣言ですわ。

 動き出すトリニティ、決戦の地は古聖堂、人を殺す覚悟を固めたアズサとハナコの前で、ヒフミは青春宣言をぶちかまします。

 絶望を覆す瞬間というのは、生徒の涙と愛を感じるのと同じ位、最高に気持ち良いのですわ~!

 



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何気ない日常で(この当たり前の毎日が)ほんの少しの奇跡を見つける物語(奇跡と呼ばれる日々だと知っていれば)

二日間で物凄い量の誤字脱字報告が来ていて、ログインしておったまげましたわ。
ほんとマジありがとうございますのっ!
今回も一万八千五百字ですわ!


 

「リーダー」

「……あぁ」

 

 古聖堂――外周。

 夜が明け、朝が来る。しかし天気が回復する事は無く、晴れていたのはほんの十数分程度の事だった。灰色の分厚い雲が空を覆い隠し、ぽつぽつと小雨が頬を濡らす。

 

 拠点より徒歩で移動し、辿り着いた古聖堂地区。配置されたユスティナ聖徒会の合間を抜け、広場へと足を踏み入れたスクワッドの面々。爆発の影響で崩れ落ち、瓦礫塗れとなった周辺を見渡しながらふと、サオリの背後を歩いていたミサキは声を上げた。彼女の云わんとしている事を察したサオリは、抱えていた愛銃の安全装置(セイフティ)を弾き、足を止める。同じように背後を歩いていたミサキとヒヨリも続き、ゆっくりと振り返った。

 がらりと、瓦礫片の落ちる音がした。

 積み重なった残骸の向こう側、その影を超えて立つ、ひとりの生徒。

 彼女は崩れ落ちた瓦礫を踏み締め、その頂きからスクワッドを見下ろす。

 

「――アズサ」

「ふぅ、ふっ……」

 

 傷だらけの皮膚、泥と砂利に塗れて尚、輝きを喪わない瞳。銃を抱えながら荒い息を繰り返す彼女を前に、サオリは何処か呆れたような表情と共に告げた。

 

「……居残っていた部隊を蹴散らして、追って来たか」

「サオリ……ッ!」

 

 アズサの視線がスクワッドを正面から射貫く。彼女の対処は拠点に残った部隊が担当している筈だが――全滅したのか、或いは振り切って此処までやって来たのか、それは分からなかった。ただ、尋常な道中ではなかったのは確かだろう。さしものアズサであっても疲労は隠しきれておらず、その引き金に掛けられた指先は細かく痙攣していた。

 サオリはガンケースを降ろし、留め具を弾くヒヨリと担いでいたセイントプレデターを構えようとするミサキを手で制する。二人の合間を抜け前に立った彼女は、瓦礫の上に立つアズサを見上げながら口を開いた。

 

「他者の光を奪い、自身の光だけは奪われない……そんな都合の良い事はあり得ない、そう理解はしている、だが――何故だアズサ」

 

 サオリは銃を構える事も無く、ただ真っ直ぐアズサを見つめ問いかけた。心底理解出来ないとばかりに。

 

「お前は、何故そうも足掻く? そこに何の意味がある? 何を証明しようとしている?」

 

 サオリはアズサを何度も、何度も撃退した。

 その度に彼女の弱さを証明した。

 世界の真理を突きつけた。

 しかし何度打倒しようとも、彼女は立ち上がり、歯を食い縛り、決して諦める事無く――再びスクワッドの前に立ち塞がる。

 何故そうまで足掻き続ける。

 何故そうも立ち上がり続ける。

 

「全ては虚しいというのに――」

「――何度でも、云ってやる」

 

 サオリのソレに、アズサは血の滲む声で告げた。

 

「たとえ、虚しくても……私は……」

 

 そうだ、何度でも叫ぼう。

 何度でも主張しよう。

 サオリの云う通り、この世界は虚しいだけなのかもしれない。

 全てに意味はなく、報われる事はなく、どれだけ足掻いても辛く、昏く、苦しいだけなのかもしれない。

 けれど――それでも。

 

「私は、この世界(暗闇)で、足掻くと決めた……!」

「………」

 

 それは、何処までも交わらぬ意志。

 交差する事のない()()、出発地点は同じであっても、結末が同じであっても、其処に至る道は余りにも異なっていて。サオリは此処に来て漸く胸の内に、理解の色を示した。

 アズサの腕が銃を持ちあげ、その銃口がサオリを捉える。最早真っ直ぐ構える事も困難な状態で、らしくも無くその切っ先を揺らしながら。

 アズサは叫んだ。

 

「サオリ、今度こそ……お前を殺すッ!」

「……お前には無理だよ、アズサ」

 

 帽子のつばを掴み、それを深く沈ませるサオリは告げる。

 

「例えその意思が本物だとしても、お前には力が足りない、絶対的にな……」

 

 ましてや、満身創痍の状態で何を云うか――彼女の万策尽きた現状を一番理解しているのはサオリだ。薄っぺらな背嚢、あの中には最早弾薬すら残っていないだろう。爆薬も、トラップの材料も然り、それで一体どうやって自分達を打倒するというのか?

 不可能だ――その確信があった。

 

「それに私達を殺して、それでお前はどうする? 人殺しとして、誰に受け入れられる事も無く、学園を追われながら逃げ回る人生を送るのか? 一生、その命が尽きるまで――?」

「あぁ、それでも構いはしない……!」

 

 サオリの目が、興味深そうに絞られる。この戦いの結末を、仮にこの場で彼女がスクワッド全員を排除出来たとしても、その未来は決して明るいものではない。スクワッドが倒れてしまえば、アリウスは苦境に立たされるだろう。しかし、残ったアリウスの生徒達は必ずアズサに復讐を果たさんと追跡を始める。

 そして、アズサが籍を置くトリニティもまた――人殺しの在籍を果たして認めるかどうか。何よりアズサ自身が耐えられるかどうか。

 聖園ミカがセイアを間接的にとは云え殺害してしまったと思い悩み、暴走してしまった様に。制度どうこうではない、何の罪悪もない無垢なる者の中で、人を殺したという絶対の罪悪を抱えたまま生きていく事が出来るのか? これは、そういう話なのだ。

 周囲が潔白であればある程(周囲の光が強ければ強い程)、自身の罪悪(暗闇)はより醜く、穢れて見える。

 

 殺人とは、後に修正の利かぬ絶対的な罪悪だ。その重さに、罪の昏さに、彼女は耐えられるのか? 彼女が耐えられたとしても、周りはどうか?

 

 答えは単純だ――耐えられる筈がない。

 

 だからアズサは云った――例え、居場所を喪っても構わない、と。

 今後一生、補習授業部の皆と会う事は出来なくなるだろう。学籍情報は抹消され、アリウスの尖兵から逃げ惑う日々になる筈だ。庇護者はなく、安息の場所はなく、逃亡者として、一生苦しみながら生きていく事になる。

 けれど。

 

「私が、人殺しになったとしても……ッ! もう二度と、陽の当たる場所に立てないとしてもッ!」

 

 補習授業部の皆、その笑顔が脳裏に過った。

 自分が犯した罪は、自分で雪ぐ。

 この手を汚し、それで守れるものがあるのならば。

 

「それでも、まだ――大切なものがあるからッ!」

 

 銃口を着きつけ、アズサは腹の底から叫ぶ。

 薄汚れたままで、傷だらけの恰好で。

 責任は――(アズサ)が果たさなければならない、と。

 

「……リーダー」

「さ、サオリさん……」

「――あぁ」

 

 事、此処に至って全ての問答は無意味だと悟った。

 サオリに――アズサを、その意思を挫く事は出来ない。彼奴は何度でも立ち上がる、何度でも立ち塞がる。諦める事は無く、心が折れる事は無く、その四肢が繋がっている限り、命ある限り足掻き続けるのだろう。

 

 ――ヘイローを、破壊でもしない限りは。

 

「……残念だ」

「ッ――!」

 

 サオリが、徐に銃口を向ける。ミサキとヒヨリも、彼女のそれに続いた。

 アズサが――アリウスに、スクワッドに戻らぬと云うのであれば。

 結末は一つだ。

 サオリの鋭く絞られた眼光が、帽子の奥で鈍く光った。

 

「アズサ、今から――お前を殺す」

 

 二人の視線がぶつかり合う。息が詰まる様な緊迫感、敵意を孕んだ空気が肌を焼く。その引き金に掛けた指に、力が籠る。ほんの些細な出来事、小さな音一つで爆発してしまうような状況。アズサの頬に、一筋の汗が流れた。

 

「っ!」

 

 しかし、そんな彼女達の耳に銃声が轟いた。それはアリウスが放ったものでも、ましてやアズサが放ったものでもない。その弾丸はサオリの脇を掠め、一筋の赤い線を肌に残す。素早く身を翻したサオリは、アズサに注意を払いつつも弾丸の飛来した方向へと意識を向けた。

 

「攻撃……?」

「っ、リーダー、九時の方向ッ!」

 

 ミサキが叫び、全員の視線がそちらに集まる。其処にはトリニティの制服を身に纏った生徒達が瓦礫を乗り越え、続々と集結している光景があった。自然とミサキ、ヒヨリ、サオリの三名は互いに身を寄せ合い、周囲に警戒の視線を飛ばす。

 

「増援、ですね……数は十、二十、いえ、それ以上――」

「これは――……」

ユスティナ聖徒会(ETO)の防衛網を破って来たか」

 

 古聖堂周辺にはユスティナ聖徒会による防衛網が存在する。それを破って内部まで侵攻して来た。少数ならば穴を突く事も出来るだろう、しかしこの数は――彼女達も遂に、本腰を入れて古聖堂攻略に乗り出したという事か。

 サオリは小さく舌打ちを零し、トリニティの生徒――その先頭に立つ人影を睨みつける。

 

「――浦和、ハナコ」

「……此方側の網に掛かりましたか、本命はミカさんの方だったのですが――まぁ、次善で済んだのですから良しとしましょう」

 

 現れたのは、純白の制服を身に纏いながらも、昏く、陰鬱な空気を纏う一人の生徒、ハナコ。

 呟き、彼女は自身の頬を擦る。その無機質な瞳は、アリウスを塵を見る様な色で眺めていた。

 ハナコの予想では、次のアリウスの一手は、『トリニティ中央区への侵攻』であった。ユスティナ聖徒会(ETO)という強大かつ、補給の必要ない戦力。それを保有するアリウスがゲヘナ、トリニティの首脳部にダメージを与えたとすれば、次に警戒すべきは本拠点への電撃的な攻撃。敵の迎撃態勢が整う前に奇襲を仕掛けるのは戦争の定石、そしてだからこそ中央区にミカを含めた本命の部隊を配置し、彼女達が交戦している間に古聖堂区画の制圧を済ませようと考えていたのだが――。

 どうやら読み違えていたらしいと。或いは、この古聖堂に戻らなければならない、『何か』があったのか、それともスクワッドが常駐する程に古聖堂が重要なのか。

 

 どちらにせよ、やる事に変わりはない。元よりハナコは自身の部隊でスクワッドと戦闘を行う可能性も考慮していた。古聖堂の防衛部隊に、少数精鋭で且つ機動力に優れるスクワッドを配置する可能性は低いと踏んでいたが――正に備えあれば憂いなしか。

 思考し、ハナコは小さく息を吐き出す。

 

「ハナコ……!」

「………」

 

 ちらりと、今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、自身の名を口ずさむアズサを一瞥した彼女は、その眉を微かに顰め、しかし何を云う訳でもなくスクワッドへと視線を移す。その右手がゆっくりと挙がり、凛とした声が周囲に響いた。

 

「――総員、攻撃準備」

「っ、待って、ハナコ……!」

 

 ハナコの左右に立つトリニティ生徒達が一斉に銃を構える、スクワッドが身構え、それを見たアズサは思わず叫んだ。

 

「サオリは、私がッ……! だから――」

「………」

 

 その懇願に近い声に、ハナコは僅かに目を細めるばかり。横目に見たアズサの状態は、酷いものだ。体調も、装備も、何もかもが不足している様に見える。彼女単独でアリウス・スクワッドの打倒は叶わない。ましてや、彼女ひとりで戦わせる選択肢など――ハナコの中には存在しない。

 どの様な手段を講じても、どの様な策を弄しても、アリウスを壊滅させる。

 ハナコにある一念は、ただそれのみ。

 

 ――その一念のみを以て、彼女は手を振り下ろそうとした。

 

「待って下さいッ!」

「ッ――!」

 

 しかし、その手が振り下ろされるより早く、周囲に声が響く。

 ハナコ達とは反対側、埋もれかけた石畳の床を駆け、現れる人影。それにアズサとスクワッド、そしてハナコは驚愕を露にする。

 

「……お前は」

「ヒフミ――!」

「ヒフミちゃん……?」

 

 特徴的なバッグを背負い、愛銃を抱えながら現れた一人の生徒。彼女は肩を弾ませながらスクワッドの、アズサの、ハナコの前に立った。

 

「そうか、お前が例の……」

 

 呟き、サオリの視線が鋭く光ると、そのグリップを持つ手に力が籠る。阿慈谷ヒフミ、アズサの報告に名前が挙がっていた人物。彼女の――自身の全てを擲って尚守りたいと願う、『お友達』だった。

 

「アズサ、ハナコッ!」

「……こ、コハルまで!」

 

 ヒフミに続く形で、コハルもまた息を弾ませながら広場に飛び込んでくる。小さな体で瓦礫を乗り越え、皆を見下ろす姿。二人の顔を見たアズサの表情が、くしゃりと歪むのが分かった。それは、決して戦場(こんな場所)で二人の姿を見たくなかったという想いの発露だった。

 

「二人共、駄目だ……どうして、こんな所に――っ!?」

 

 銃口を下げたアズサが酷く悲し気な声で告げる。覚束ない足取りで二人の元へと進むアズサは、擦り切れ、血の滲んだ手をヒフミに伸ばし、弱々しい口調で云った。

 

「此処は、ヒフミみたいな、普通の人が来る場所じゃ……」

「……確かに、私は普通で平凡です!」

 

 アズサの言葉に、ヒフミは俯きつつ声を上げる。その声にはどこか、怒りの感情が含まれている様に思えた。

 

「アズサちゃんの、ガスマスクを被った姿が本当の自分なのだと、そう云いたい事は理解しました、本当なら私何か踏み込んではいけない世界に生きているのだと、そう云いたい事も――……」

「ヒフミ……」

「でもっ!」

 

 叫び、顔を上げ、ヒフミは胸を張る。ほんの十数歩、駆ければ直ぐにでも手が届く場所に立つアズサに向けて、ヒフミは指を突きつけた。

 その顔には、場違いな程の自信と明るさが灯っていた。

 

「アズサちゃんは一つ、大きな間違いをしていますッ!」

「ま、間違い……?」

「はいっ! 普通の、平凡な、何て事の無い一般生徒――それは私の、一つの側面に過ぎません、私だってアズサちゃんに見せていない、もう一つの自分を持っているんですッ!」

 

 そう云うや否や、ペロロバッグを抱え直すヒフミ。弾んだ補習授業部の人形を横目に、彼女は中から何かを取り出す。それをアズサは、困惑と共に見守る事しか出来ない。

 

「も、もう一つの自分……?」

「はいッ! 普段は補習授業部の部長、そして一般生徒の私ではありますが……その本当の姿はッ――!」

 

 まるで勿体付ける様に声を潜めたヒフミ。徐に手にしたものを被り、大きく息を吸う。そして顔を上げると、彼女は高らかに叫んだ。

 

「覆面水着団のリーダー、ファウストですッ!」

 

 銃を抱え、ヒーローさながらのポーズを取るヒフミ――改めファウスト。

 傍目には両目部分をくりぬいた紙袋を被った、即席の覆面を身に着けるトリニティ生徒にしか見えない。額部分に描かれた手書きの、『5』が何とも云えない寂しさを醸し出していた。

 

「……えっ」

「見て下さいよ、この恐ろしさッ! アズサちゃんと並んだって、全然見劣りしない不気味さを醸し出しているでしょう!? 寧ろこっちの方が恐ろしくて震えちゃうって云う人だっている筈です!」

「ひ、ヒフミ……?」

 

 自身の紙袋を指差しながら、そんな事を叫び詰め寄るヒフミ。ほんの数歩先まで駆けて来た彼女から心なしか、仄かにたい焼きの香りが漂っていた。

 それは――もしかしてギャグで云っているのだろうか。そんな感情を滲ませながら顔を引き攣らせるアズサ。後方に立つスクワッドも、何とも表現し難い表情を浮かべており、ミサキに至っては馬鹿にするように鼻を鳴らした。

 

「えっと、ヒフミ……」

「だからッ!」

 

 何かを口にしようとするアズサを遮り、ヒフミは叫ぶ。

 

「だから、私達は違う世界に居るなんて事はありませんっ! 同じですっ! 隣にだって居られます! 手だって繋げるし、一緒に机を並べて勉強も出来るし、ご飯だって一緒に食べられるんですッ! ですから――」

 

 一歩、一歩、近付くヒフミはアズサの隣に、手を伸ばせば届く距離に、直ぐ傍に立つ。そしてボロボロのアズサの手を、泥と血に彩られたその手を、強く、確りと握り締めた。

 

「一緒に居られないなんて悲しい事、云わないで下さいッ!」

「………」

 

 両の掌から伝わる、じんわりとした暖かさ。それを感じた時、アズサは不意に泣きそうになった。それは彼女が捨てたと、そう思っていた温もりだったから。冷たい雨に、冷たい泥、それを浴び、身を埋めた彼女からすれば、伝わる暖かさは唯一無二のものに感じられた。

 それをもう一度、こうして感じられるだけで――アズサにとっては望外の喜びなのだ。

 

「何度拒絶されたって、何度突き放されたって、私は絶対に諦めませんッ! すぐ近くに行って見せます! 私は、アズサちゃんの隣に居ますッ! だって……!」

 

 直ぐ目の前に在るヒフミの瞳が、何処までも真っ直ぐで穢れの無い光が――アズサを見つめる。

 

「私は補習授業部の部長で、アズサちゃんの友達なんですからッ!」

「――……」

 

 声は、遥か遠くまで響いた。曇天を裂くように、力強く、延々と。

 その言葉にアズサは唇を噛み締め、俯く。

 嬉しかった、どうしようもなく嬉しかった。

 けれど――それを受け取る資格が自分には無いと、アズサはそう強く思った。

 

「ありがとう、ヒフミ……私の為に、そんな嘘まで吐いてくれて」

「――誰が嘘だって?」

 

 アズサの歓喜の滲んだ、けれど困ったような声。

 それに応じたのは、目の前のヒフミではなかった。

 ヒフミの背後から、アズサの背後から、音も無く現れる五人の影。

 それに気付いた時、アズサは思わず目を見開いた。彼女達はアズサの前に立つと、ヒフミを挟むように素早く並ぶ。影に覆われた姿は軈て陽光に照らされ、その全貌を白日の下に晒した。

 

「やぁやぁ、リーダーのファウストから突然招集が掛かったから、吃驚しちゃったよぉ~」

「まぁ、でも丁度暴れる口実が欲しかった所、渡りに船」

「ふふっ、補給も出来ましたし思う存分やれそうですね☆」

「ふん、恰好なんてどうでも良いわ、全部蹴散らしてやるだけよ!」

「ドローン・スタンバイ……ヒフッ――いえ、リーダー・ファウスト、いつでも行けます!」

 

 零番から五番まで並んだ数字、彼女達の姿に思わず息を呑む。皆が色違いの目出し帽を被り、ヒフミを囲う様にして並んでいた。いつの間にと呟きながら、アズサはそれ以上言葉を紡ぐ事が出来なかった。

 

 灰色の目出し帽に、赤い眼鏡を掛けた零番。

 桃色の目出し帽に、小柄な体躯に見合わぬ圧力を放つ一番。

 青色の目出し帽に、水色のマフラーを巻き付けた二番。

 緑色の目出し帽に、巨大なガトリング砲を抱えた三番。

 赤色の目出し帽に、二本のツインテールを垂らした四番。

 その独特な出で立ちと、しかし確かなプレッシャーを放つ存在に、皆は一様に言葉を失くしていた。

 

「あの覆面、まさか……!?」

「ッ……!」

 

 ハナコが驚きの表情と共に呟き、サオリは警戒を露にする。

 そんな彼女達を見下ろしながら、五人組――覆面水着団は白いトリニティ制服(変装仕様)を靡かせ、宛らヒーローショーの如くポーズを決める。

 

「目には目を、歯には歯を、無慈悲に、孤高に、我が道の如く魔境を往く――」

「ん、それが私達のモットー」

「あっ、因みに私達は普段アイドルとして活動していますが、夜になると悪人を倒す副業をしているグループなんです♧」

「いや別にそれ私達のモットーじゃないから!? 変な設定付けないで!?」

「と、兎も角、ファウストさんのご命令で、全員集合しました!」

 

 清々しい声で宣言する覆面水着団こと――トリニティに扮したアビドス。

 彼女達は余りにもノリノリな様子で口上を語り、その存在を周囲にアピールした。

 

「え、えっ……?」

「実在したんですね――覆面水着団」

 

 アズサは困惑の余り右往左往し、ハナコは何処か感心した様な声で呟いた。アズサに関してはヒフミが自身の為に吐いた優しい嘘だと思っていたら、想った以上に『本気』(ガチ)な面子が揃った事に対する困惑であり。

 ハナコにとっては都市伝説めいたそれが、まさか事実であった事、そしてその一員にヒフミが入っていた事に対する驚きと感心であった。尚、背後のトリニティ生達は、唐突な展開について行けず、隣り合う生徒達で顔を見合わせ、ぼそぼそと言葉を交わしている。

 そんな反応を返す皆に反し、スクワッドの面々は新たな戦力を品定めるように、視線で彼女達をなぞりながら呟く。

 

「ミサキ、あいつらは――」

「……詳細なデータはなし、トリニティの制服を着用しているけれど、中身はどうだろうね、データが一切ないって云うのはちょっと変」

「心なしか、声に聞き覚えがある様な……? そ、それにしても覆面水着団なんて、噂に過ぎないと思っていましたが――本当に居たんですねぇ」

 

 ヒヨリがそうしみじみと呟けば、ミサキは厳しい視線で覆面水着団を睨みつけサオリに向け言葉を紡いだ。

 

「……リーダー、あいつらヘラヘラしているけれど注意した方が良い、少なくとも舐めてかかると痛い目に遭う」

「……分かっている」

 

 その声に、サオリは静かに頷く事で応えた。覆面水着団――表面上はふざけた名前だが、その実力は決して侮って良いものではない。その噂の真偽は兎も角、こうして対峙してみると良く分かる。連中は、確かな修羅場を潜っている猛者だ、死線を潜った者特有の気配を彼女は感じ取っていた。

 スクワッドを見下ろすアビドスこと覆面水着団は一歩を踏み出し、オラつくように顔を突き出して告げる。

 

「うちの人が色々とお世話になったねぇ~、いや、本当にさぁ――」

「ファウストさんは怒ると怖いんですよ? 何せカイザー・コーポレーションの幹部を倒しちゃう位凄いんですから☆」

「ん、ブラックマーケットの銀行だって襲える、朝飯前、五分で一億」

「この間なんて、砲撃でカイザーPMCを纏めて吹っ飛ばしてやったんだから!」

「そうですね、生きて動く災いと云っても過言ではないかもしれません……! 或いは、暗黒街を支配するボスの様な方と云い換えても――」

「うんうん、立ち塞がる全てを薙ぎ払い、粉砕し、支配する、それこそファウスト」

 

 皆が一様にヒフミ――ファウストを褒め称える言葉を発し、拳を突き上げ彼女の名を叫ぶ。

 

『ファウスト! ファウスト! ファウスト!』

「………」

 

 その中心に立つファウストは両腕を組み、直立不動でその歓声を浴びていた。

 そうして声が古聖堂周辺に響き渡る中――彼女は静かに紙袋に手を掛け、無言で脱ぎ去る。

 現れたヒフミの頬は、羞恥で真っ赤に染まっていた。

 

「――あぅ」

「あっ、ちょっとリーダー、何やってんのよ!? 折角ノッてあげたのに!」

「ありゃ、恥ずかしかったかな?」

「わ、私は別にもう正体をバラしてしまったので良いんです! 皆さんはそのままで居て下さい!」

 

 ヒフミは叫び、アビドス――もとい覆面水着団に向かって叫ぶ。ヒフミは既に自分から正体をバラしてしまったが、彼女達は幸か不幸か悟られていない。ならば自分が覆面を被っている必要はないとの主張だった。

 そんなゴタゴタを眺めているハナコに駆け寄る生徒の影が一つ。彼女はハナコの耳元に口を寄せると、何事かを囁いた。

 

「―――」

「!……そうですか」

 

 齎された報告に、ハナコは静かに目を細めた。

 同時にミサキのポケットが震え、彼女は端末を取り出す。その画面に表示された文字列に、ミサキは表情を顰めた。

 

「……リーダー、悪い報告が一つ、ユスティナ聖徒会の防衛網が崩れて、逆に包囲されつつある」

「……何?」

「多分、浦和ハナコが動いた、正義実現委員会や風紀委員会のトップが復帰したって報告が、たった今――」

 

 ■

 

 古聖堂地区――境界線。

 

「負傷者多数、第四班は一時撤退します……!」

「商店街方面より敵が多数押し寄せていますッ! このままでは――」

 

 正義実現委員会、救援部隊。古聖堂周辺の負傷者、及び行方不明者の捜索と救助を担当していた彼女達は、ユスティナ聖徒会による強襲を受け壊滅の危機に瀕していた。ティーパーティーのミカ、及びハナコの主張に賛同する事無く、負傷者の救助と保護を第一に動いていた彼女達は、決して多くはない人員を遣り繰りしつつ何とか此処まで辿り着いたが――やはり古聖堂周辺の防備は厚く、敵に捕捉されてからは防戦一方。

 回収した行方不明者、負傷者を後方に下げつつ少しずつ戦線を下げてはいるものの、倒しても倒しても復活するユスティナ聖徒会を前にはジリ貧であった。

 

「くッ、こいつら、どれだけ数が――……!」

 

 臨時の指揮権を持つ正義実現委員会の部隊長、その一人が思わずそんな言葉を漏らす。元よりそれなりの抵抗と攻撃は予想していた。しかし、余りにも数が多すぎる。この幽霊の様な連中は不死身なのか? そんな事を考えてしまう。

 すわ、このまま全滅するしかないのか――そんな悲観的な未来を実感し始めた彼女達の傍に、凄まじい勢いで何かが『着弾』した。

 

「うわッ!? な、何だ!?」

「ほ、砲撃!?」

 

 唐突なそれに正義実現委員会の面々は浮足立ち、朦々と立ち上る砂塵に銃口を向ける。しかし、それを引き裂いて現れた影に――彼女達の表情は一変した。

 

「ギャハハハハハアアッ! 鏖殺(おうさつ)だァッ! 殺す、殺す、殺すぅうッ!」

 

 特徴的な二丁散弾銃を掲げ、哄笑する黒い影。鼻に突く強い血の匂いは彼女達にとってはなじみ深いもので、それは絶望を打ち砕く力の象徴であった。傍に居た生徒の一人が、驚愕と共に歓喜を滲ませ叫ぶ。

 

「い、委員長!? ま、まだ救護騎士団の病棟で治療中の筈では……!?」

「既に完治したァ」

「さっ――流石ですッ!」

 

 ケタケタと笑う彼女――ツルギの肌には既に傷痕一つ残っていない。そのブレず、曲がらず、折れぬ最強の在り方に、彼女達は最高の信頼と安心を抱く。そんな彼女の背後から、コツコツと甲高いヒール音が響いた。

 

「ふぅ、私の方はまだ万全ではありませんが……約束しましたからね」

「副委員長も……!」

 

 大きな黒い翼を広げ、現れた人影。その人物を目にした正義実現委員会の皆は更に希望を表情に宿した。正義実現委員会――トップの二人、その出現は彼女達の士気を大いに盛り返し、勝てるという確信を抱かせる。

 ハスミは愛銃を脇に挟みながら、指先で敵の位置を徐になぞった。目測からの距離と風速、そして現在のコンディションから弾き出す射程距離。

 視界内の敵は全て――射程範囲内だった。

 

「総員再集結、指揮権を預かります――作戦は既に、先生から預かっていますので」

「えっ、せ、先生から……ですかッ!?」

「えぇ――先生は奇跡的に、息を吹き返しました」

 

 その声が皆に届いた瞬間、「わっ」と生徒達の声が響いた。皆の表情に現れるのは歓喜と安堵――そして希望。座り込みそうになって、慌てて持ち直した生徒も居た程だ。その様子を微笑みと共に眺めながら、ハスミは愛銃を担ぎ直す。

 

「この戦い、勝って終わらせましょう」

「は、はいッ!」

 

 今まで堪えて来た隊長の肩を叩き、ツルギに目を向ける。首を大きく回しながら気怠げに佇む彼女からは――迸る戦意を感じられた。先生に頼りにされている、そして良くも悪くも存分に暴れられる敵が居る(先生に対する暴挙、その復讐相手が居る)。最早問う必要はないだろう、しかしハスミは敢えて言葉を投げかけた。

 

「ツルギ、行けますか?」

「……キヒッ!」

「えぇ――では、存分に暴れて下さい」

 

 コッキングレバーを引き、弾丸を装填する硬質的な音が響く。ハスミは片膝をその場に突きながら、いつも通り、何て事の無い口調で告げた。

 

「その背中を守るのが、私の役目です」

 

 ■

 

 古聖堂地区――古聖堂周辺、外郭。

 

「アコ行政官! 負傷者多数、戦線の維持が――ッ!」

「くっ……」

 

 目前に広がる戦闘に、アコは思わず歯噛みする。ゲヘナ風紀委員会、トリニティ本隊が古聖堂制圧に動く為の橋頭堡、その役割を担った彼女達は迫りくるユスティナ聖徒会を次々と撃破しながら古聖堂へと戦力が集中する事を防いでいた。

 作戦を練り、人員を手配し、ゲヘナ自治区からも増援を受けた上で臨んだ作戦。しかし、戦況は芳しくない。

 ここぞと云う所の、肝心な粘り強さ――或いは士気と云うべきか。それが下火となり、そのまま燻っている様な状況だった。それは士気が低いという訳ではない、ただその方向が常とは違っていた。

 

「この戦力では厳しかったとでも……? いえ、しかし――」

 

 呟き、アコは手にしたタブレットを叩く。各戦線に配置されたゲヘナ風紀委員会を指揮する彼女は、自身が決して間違いを犯していない事を理解している。現状取れる手段で最も効率的、かつ合理的な判断を下していると云って良い。元より厳しい戦いになる事は分かっていた、相手の戦力は強大で、その総数は不明。故に彼女達に求められるのはトリニティ本隊がスクワッドを撃破するまでの足止め。

 しかし、部隊の損耗が予想よりもずっと早い。

 その理由は、きっと。

 

「先生……ヒナ委員長――」

 

 声は掠かに震え、虚空に消えた。

 彼女の抜けた穴が、余りにも大きすぎる。ゲヘナ風紀委員会の戦力、その半数を単独で占めているというのは誇張でも何でもない。大規模な戦闘であれば、前線の生徒は彼女が来るまで耐えれば良いと根気強く粘って戦う。しかし、今は逆だ――先生の仇を討たなければと、怒りと憎しみに支配された肉体が、自身の負傷を度外視した攻撃的な姿勢を引き寄せている。

 この戦闘は防衛主体である、決して玉砕覚悟の突貫など望まれてはいない。しかし、理性と感情は別であった。仲間の負傷、自身の負傷、戦闘のストレス、それらが折り重なった時、酷い怒りと憎しみによって彼女達は奮い立ち、敵に喰らい付いて行く。

 敵を倒す事は出来るだろう、しかし後には続かない――撃破報告に比例し、負傷者が増えているのはそれが理由だ。

 また一人、また一人とアコの横を負傷者が引き摺られていく。各戦線の負傷者数は加速度的に増えていってしまう。

 

「っ、敵増援、再び……!」

「このままでは、と、突破されますッ――!」

「………!」

 

 遠目に見える、新たな敵影。虚空から生まれ出るユスティナ聖徒会を前に、アコは強く歯を噛み締める。まだ、予定作戦時間の半分程度しか経過していない。こんな状況で突破を許せば、トリニティ本隊の後方から奇襲を許す羽目になる。

 それは看過出来ない、そんな醜態はゲヘナ風紀委員会として、ヒナ委員長の顔に泥を塗る行為だった。

 普段滅多に扱う事のないホットショット(愛銃)を抜き放ち、引き金に指を添える。後方指揮と書類仕事が主な業務であるアコにとって、その拳銃は殆ど飾りに等しい。それでも手入れだけは欠かしておらず、鈍い光を放つフレームはアコに僅かな勇気を与えてくれた。

 

 アコは迫りくるユスティナ聖徒会を睨みつけながら想う。こうなれば、僅かずつ後退を行いながら態勢を立て直すしかない。云う程簡単な事では決してないが、撤退する事は許されないのだから、他に方法は無かった。

 ――自身が戦線に加わってでも、戦線は絶対に死守する。

 

「命令ですッ! 退却は許可出来ません、例え最後の一人になろうとも、絶対に――ッ!」

「――アコ、少し頭を下げて」

 

 アコが声を張り上げると同時、直ぐ背後から声が聞こえた。それは彼女にとって、無条件に従ってしまう声で――咄嗟に頭を下げた瞬間、その頭上を薙ぎ払う様に弾丸の雨が撃ち出された。

 鼓膜を叩く轟音、肌を揺らす振動、それはアコにとって酷く聞き慣れた音と振動で、思わず屈んだまま目を見開く。

 

「こ、この銃声は――ッ!」

 

 銃声は、数秒程鳴り響き続けた。そしてその音が止んだ時、風紀委員会の前に存在していたユスティナ聖徒会はひとり残らず粉砕され、微かな残滓が漂うのみ。破砕された公道、折れ曲がった街灯、穴だらけの自動車、それらを呆然と見つめながら、アコはゆっくりと振り返る。

 

「……お待たせ、アコ、皆」

「ひ、ヒナ委員長ッ!」

 

 彼女の視界には、いつも通りの仏頂面を浮かべるヒナの姿があった。

 彼女は身の丈もある愛銃を軽々と担ぎながら、朦々と立ち上る砂塵を裂き歩みを進める。はためく外套が音を立て、白く靡く髪が戦場を彩った。

 

「皆、無事でよかった、遅くなってごめん」

「い、いえ、その様な……!」

「既に先生が古聖堂に向かっている、私達はその露払い――作戦はあるから、私に従って」

「は、はいッ! 勿論ですっ! 指揮権をお返しします! ……って」

 

 アコは、緩みそうになる頬を引き締めるので必死だった。故に、反応が一瞬遅れる。今、ヒナ委員長は何と云った? その脳内処理に更に時間を取られ、ぎこちない動作で顔を上げたアコは問いかける。

 

「せ、先生がっ!? ひ、ヒナ委員長、それは――」

「……詳しい話はあと、兎に角、先生は生きている、奇跡か何かは知らないけれど、息を吹き返してくれた――だから」

 

 そう云って、ヒナは大きく息を吸った。目前に広がる戦場、その奥から再びユスティナ聖徒会が出現する。アコを一瞥すると、その表情は何かを噛み殺す様に歪な形をしていた。

 嬉しいのならば、素直に喜べば良いのに、そう思った彼女だが決して口に出す事はしない。愛銃のストックを地面に叩きつけ、両手に嵌めた黒い手袋を引き締める。

 仕事の前のルーティン――気負う必要はない、通常通りに戦えば勝てる。

 ヒナはそう信じて、周囲に向けて声を張る。

 

「――手早く済ませて帰ろう、まだ未決裁の書類が執務室に残っているから」

「……はいっ!」

 

 ヒナの言葉に、アコと風紀委員会の面々は破顔し声を上げた。周囲に集っていた生徒達が、目に見えて息を吹き返す。その様子を確かめながら、ヒナは愛銃を構え直し戦場へと踏み出す。

 

「さぁ、始めようか」

 

 ■

 

 端末に表示される、各地に散った分隊からの戦闘報告。前線の大部分はETOが支えているが、アリウスの生徒が全く存在しない訳ではない。アリウス分校の生徒達は後方支援と情報提供を主な活動とし、古聖堂周辺で各学園の戦力が再集結、攻勢を強めた事を告げていた。それを眺めていたサオリは、僅かに表情を歪ませ呟く。

 

「――想定より早いな、もう暫くは掛かると踏んでいたが」

「これはちょっと、厳しいんじゃない? リーダー」

 

 両学園の首脳部襲撃、それによる指揮系統の混乱、そしてシャーレの先生死亡による動揺。それらを加味し、もう数時間――上手く行けば半日近い時間は稼げると踏んでいたが、連中は戦力を再編成しぶつけて来た。その事に確かな驚きがある、ミサキも端末を確認しながらそんな言葉を吐いた。

 だが――。

 

「……知った事か、無限に復活するユスティナ聖徒会の前では等しく無意味――いや、寧ろ好都合か、アズサだけではなく、この場の全員に思い知らせてやる」

 

 どれだけの戦力を搔き集めようと、全ては等しく無意味。ユスティナ聖徒会という最強の盾、そして矛、その指揮権そのものであるETOが在る限り、アリウスに敗北は存在しない。少なくとも、サオリはそう信じている。幾ら数が増えようと、その悉くを跳ね退け、潰し、証明するだけだと。

 

「この世界の真実を――殺意と憎悪に満ちたこの世界で、あらゆる努力は無意味なのだと」

 

 ――足掻こうと何の意味もない、全ては無駄、虚しいだけだ。

 

「………」

 

 サオリは静かに手を挙げる。瞬間、スクワッドの面々を囲う様にユスティナ聖徒会が出現した。影の如く、虚空からぬるりと、その光景に対峙するアズサ、そしてヒフミとアビドスは強張った表情で身構えた。ハナコ達、トリニティ側の戦力も即座に銃口を向け臨戦態勢に入る。しかし、今にも飛び出そうとするアズサを制する影があった。

 ヒフミだ。

 彼女は一歩踏み出そうとするアズサをその場に押し留め、鋭い視線を向けた。

 

「ヒフミ……!」

「アズサちゃん、私は今凄く怒っています……すっごくッ、です!」

「………」

 

 その、普段彼女が見せる事がない明確な怒り。瞳の奥に覗くそれを前に、アズサは悲し気に目を伏せる。それが自分に向けられたものだと思ったのだろう。しかしヒフミは彼女の肩を掴み、力強く断じて見せた。

 

「けれどそれは、アズサちゃんのせいではありません、私が本当に、心の底から怒っているのは――あの方々に対してです……っ!」

 

 そう云って指差される先に居るのは――アリウス・スクワッドの面々。

 唐突に指差され、糾弾された彼女達はしかし、何のアクションも起こす事はしない。唯一、サオリだけがこれ見よがしに鼻を鳴らし、嘲る様に言葉を吐き捨てた。

 

「はっ……ならば、ぶつけて来ると良い、お前のその怒りや憎しみを……殺意をな」

「ッ……!」

 

 その言葉に、ヒフミは自身の何かが吹っ切れるのを感じた。アズサを押し留めたまま二度、三度、足を踏み鳴らしたヒフミは徐に駆け出す。咄嗟に伸ばされたアズサの手は空を切り、ヒフミは瓦礫の山――その頂上に飛び乗った。

 そしてアズサを、覆面水着団(アビドス)を背にしたまま、サオリを、ミサキを、ヒヨリを睨みつけ――叫ぶ。

 

「さっきから、何ですか……! 殺意ですとか、憎しみですとか、それが世界の真実ですとか――! 一体何なんですか、それを強要して、全ては虚しいとあなたは云い続けていますが……ッ!」

 

 ぐっと、息を呑む。両手を強く握り締め、肩に掛けた愛銃をそのままに彼女は大きく足を踏み鳴らすと、肩を怒らせ曇天に向かって吼えた。

 

「私はそもそも、そんな憂鬱なお話なんてっ、大っ嫌いなんですよッ!」

「――!」

 

 彼女らしからぬ絶叫が、空に響く。

 ふと、頭上を覆う雲が微かに割れる。隙間から差し込んだ陽光がヒフミの姿を照らした。

 差し込んだ微かな陽光に照らされながら、鼻息を荒くしたヒフミは主張する、叫ぶ。

 それを、ハナコは、アズサは、何処か呆気にとられた様な表情で眺めていた。こんなヒフミを、彼女達は今まで見た事が無かったから。それはヒフミが今までずっと内に秘めていた感情、本音、その発露だった。

 サオリが眉を顰め、呟く。

 

「……大嫌い?」

「えぇ、そうです! 私は、誰かが人殺しになるのは嫌です! アズサちゃんも、ハナコちゃんもっ! やられたからやり返して、ずっと争い続けて……! そんな誰も幸せになれない、暗くて憂鬱なお話、私は大嫌いなんですッ!」

「ひ、ヒフミ……?」

 

 猛烈に首を横に振って、そう否定を口にするヒフミ。その様子にアズサは目を見開き、驚きと困惑を隠せない。しかし、そんな彼女の声に応える事無く、ヒフミはアリウスを睨みつけたまま言葉を叩きつける。

 

「それが真実だって――この世界の本質だって云われても、私は好きじゃないんですよッ! 好きじゃない事を延々押し付けられたって、私はっ、ちっとも楽しく何てありませんし、幸せな気持ちになんてなれませんッ!」

「……何を、今更」

 

 呟き、ミサキは嘲るように嗤う。

 世界の真実は、その苦しみは、痛みは、好悪で語られるものではない。

 好きじゃない、嫌い――だからどうした? 嫌いだから、好きじゃないから、そんな理由で跳ね退けられるものでは決してない。

 世界はそれほど、優しくない。

 

 しかし、そんな倦怠感すら滲ませるアリウスを前にして、ヒフミは欠片も退く姿勢を見せなかった。胸を張り、両の足で立ち、あらゆる全てを真っ直ぐ見据えて――彼女は右手を、空へと掲げる。

 恥じる事など、臆する事など何もないと、そう云いたげに。

 何処までも、力強く。

 

「――私にはッ! 好きなものがありますッ!」

 

 突き出された掌、その一本の指が天を指した。

 薄暗い曇天に支配されていた空が、徐々に――徐々に明るさを取り戻し始める。

 彼女の指が曇天を穿つ様に、ピンと張り詰めた証が道を切り開くように。罅割れた雲の向こう側から、ぽつり、ぽつりと陽光が差し込む。

 薄暗い世界に光が灯る。

 

 ――陽が、昇り始めた。

 

「平凡で、大した個性もない私ですが、自分の好きなものについては絶対に譲れません!」

 

 強い光を灯す瞳と共に告げられるもの。

 ヒフミにとって、好きなモノ。

 大好きなモノ。

 平凡だと、何の個性もないと、自分に対して優れたものなど一つもない思っている彼女ではあるが――それでも、どうしても譲れないものがある。

 それはモモフレンズに関してだろうか? 勿論、それもある。

 ヒフミ(彼女)はモモフレンズが大好きだ、ペロロ様が心の底から大好きだ。

 その造形が好きだ、キャラクターの設定が好きだ、何とも云えない雰囲気が好きだ。

 

 けれど、何よりも――最後(物語の終わり)には必ず、幸せ(笑顔)が待っているから大好きなのだ。

 

「友情で苦難を乗り越えて、努力がきちんと報われて、辛い事は慰めて、友達と励ましあって――どんな困難も、苦痛だって乗り越えて! 最後は、誰もが笑顔になれる様な……っ!」

 

 そんな。

 

「――そんなハッピーエンドが、私は大好きなんですッ!」

 

 顔を上げ、天を仰ぎ、彼女は吼える。心の底から。

 その叫びが、心からの訴えが、空に響き渡り肌を刺す。ヒフミの瞳が、アリウスの三人の視界に映った。

 どこまでも澄んだ瞳だった。何かを心底信じている瞳だった。サオリには理解出来ない、陽の当たる場所に居る生徒の持つ瞳だった。

 ぎちりと、サオリの持つ愛銃、そのグリップが軋む。

 それこそが、その光こそが――サオリが求め、けれど決して手に入る事のない、幸福の象徴であったのだ。

 

「……そんなもの(ハッピーエンドなど)は、まやかしだ」

「まやかしだろうと、何だろうと! 誰に何と云われても、何度否定されたって、私は叫び続けて見せます!」

「お前たちには、それを実現する力すらないだろう――! 現実を知れば、真実を理解すれば、そんな理想は、夢は、露と消える……ッ!」

「いいえッ! どんな凄い人だろうと、どんな困難だろうとッ! 私達の夢を、希望を、摘み取る事は出来ません!」

 

 サオリの唸る様な声に、ヒフミは高らかに答えて見せる。

 重要なのは――想う事。

 信じ、希望を抱き、決して諦めない事。

 アズサが云う様に、彼女達(アリウス)が云う様に、この世界は虚しいのかもしれない。辛い事が沢山あって、苦しい事が沢山あって、努力は報われず、悲しみに沈む事が運命なのかもしれない。

 けれど――そんな結末は、好きじゃないから。

 

 この物語は、私達の物語だから。

 

「――だからッ! 私達の描くお話は、私達自身で決めるんですッ!」

 

 天を見上げ、謳う。突き出した拳の先に、確かな希望への道を見出して。

 ヒフミは想う。

 心から想う。

 世界の真実なんてものは知らない。

 誰かに強要される不幸な結末なんて要らない。

 そんな事は求めていないし、描こうとも思わない。

 

 私が、私達が求めているのは――ただ一つ。

 

「自分の見たい夢を、掴みたい理想を、描きたい明日をッ! 私はそのお話が好きなんだって、これが私の夢だって、胸を張って叫ぶんですッ! 何度無理だと云われても、それ(幸福な結末)が世界の真実なんてものじゃなくても……ッ!」

「ッ、待っているのは苦痛と絶望だけだ、理想を語り、夢を語り、一体何の意味がある!? 現実を見ろッ! 血と硝煙に塗れ、誰もが傷付き、苦しみ、虚しさだけが残るのがこの世界(現実)だ! この世界の真理だ! それが全てなんだよッ!」

「――そんなの関係ありませんッ!」

「っ……!」

 

 サオリの憎悪が込められた叫びに、歯を食い縛って、ヒフミは反駁した。

 そう、自身の求める結末が、描きたい物語が世界の真実なんてものでなくとも関係ない。

 そんな事は、関係ないのだ。

 

 理想に、夢に、自分の描く未来に――世界の真実なんてものが介入する余地はない。

 

 ヒフミが、力強く足を踏み鳴らした。足元の瓦礫が崩れ、破片が地面を跳ねる。

 頂きの先、厚い雲の向こう側、その先に広がる遥かなる蒼穹を見据えて――彼女は手を伸ばす。

 何度でも、何度でも。

 たとえそれが、どれ程遠く、艱難辛苦を経る道のりであっても。

 ヒフミは挫けない――諦めない。

 その未来()を掴むまで。

 

 どんな時でも諦めない心を、彼女はアズサから教わった。

 一歩を踏み出す勇気を、彼女はコハルから分けて貰った。

 困難に打ち勝つ知識を、彼女はハナコから学んだ。

 決して途切れぬ希望の光を、彼女は先生から授かった。

 

 だから彼女は、前を向ける。

 今、この瞬間だけは――どんなに辛い事が起きても、どんな高く厚い壁にぶつかっても、痛くて苦しい道が待っていると知っても。

 ヒフミは笑って、(希望)を胸に前へと進めるだろう。

 

 ――だから彼女は、天を指差し叫ぶのだ。

 

「今がどれだけ辛くても、どれだけ苦しくとも、この先には……っ! 私達の進む先には特大のハッピーエンド(笑顔になれる未来)が待っているんですッ!」

「何を――……ッ!」

「私の、私達の物語(補習授業部の物語)を、こんな所で終わりになんてさせません……! その絆を、途切れさせ何てしませんっ!」

「何を、そんな――夢物語をッ!」

 

 サオリの剥き出しの敵意が、憎悪が、殺意がヒフミを貫く。突きつけられた銃口が震え、憎々し気にヒフミを捉えていた。

 しかし、ヒフミは逃げもしなければ隠れもしない。彼女の感情を一身に受け尚、その場に立ち続ける。

 想う事はただ一つ、漸く出来た大切な友達。

 自分の『大好き』を理解してくれる、大事な友達の事。

 

 彼女は私達(補習授業部)に云った、行ってみたい場所があると。

 やってみたい事があると。

 学びたい事があると。

 見て見たいものがあると。

 

 ヒフミは知っている。

 彼女のやってみたい事も、学びたい事も、見て見たいものも。

 

 ――だから。

 

 サオリが一歩を踏み出す。下からヒフミを見上げ、前に立つユスティナ聖徒会を押し退け叫ぶ。憎悪と怒りを込めて、確かな敵意を込めて。

 

「お前たちは此処で終わるッ! その光は潰えるッ! 今日、この場所でッ!」

「いいえッ! まだまだ続けて行くんですッ! もっともっと、紡いでいくんですッ! 何度でも、何回でも、幾らでもッ! 笑顔と幸福に満ちた日々を! 何て事の無い日常をっ! ――私達(ハッピーエンド)の物語……!」

 

 ――ヒフミの背から、太陽が顔を出す。

 

 地平線の向こう、遥か彼方から差し込む陽光が彼女を照らした。

 曇天が掻き消え、蒼穹が頭上一杯に広がる。サオリはその逆光に目を細め、眩しそうに顔を背けた。ヒフミの影がアリウスに伸びる。陽光がヒフミを、アズサを、ハナコを、アビドスを、トリニティを照らし、包み込む。

 重なり合った瓦礫の上、退廃的な壇上の上で彼女は宣言する。

 天に指を突きつけ、透き通る様な蒼い空の下で。

 輝く瞳で、胸に確かな希望を秘めて。

 

 そう、だって――。

 

「――私達の、青春の物語(ブルーアーカイブ)をッ!」

 

 これは私達の紡ぐ、大団円に至る物語(ハッピーエンドの物語)だ。

 


 

 次回 「生徒みんなが(あの人が夢見た)笑い合える世界(エデンは遥か)



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生徒皆が、笑い合える世界

誤字脱字報告に感謝~!
日付変わっちゃった……お詫びとしてペロロ様が腹を切ります。


 

 吹き抜ける様な青空。

 彼女の――ヒフミの叫びと共に、先程まで世界を覆っていた雨雲が掻き消え、陽光が差し込む。影が、暗闇が、跡形もなく。

 

 それは目を疑う様な光景だった、あり得ないと口にしたくなる様な景色だった。ほんの、ほんの数秒前まで世界を覆っていた絶望が、憎悪が、怒りが、掻き消え、流れていく。世界の真実が陽光に、希望に、突き抜けるような(ブルー)に塗り替えられていく。

 頬を濡らしていた雨が止む。

 

「あ、雨が――」

「天候の操作? いや、これは……」

 

 ミサキとヒヨリが空を見上げ、呟く。

 影は光に呑まれ、最早その僅かな輪郭すら残っていない。夜が明け朝が来た、曇天は掻き消え晴天が空を支配する。世界そのものが彼女の声に応じたかのような光景に――ヒヨリは戦々恐々とした様子で呟いた。

 

「奇跡、ですか……?」

「っ、そんなもの、ある訳……ッ!」

 

 ミサキは空を睨みつけ、思わず吐き捨てる。そんな、都合の良い奇跡など存在しない。そんなものが、この世に存在する筈がない。

 ――存在して欲しくない。

 全ては偶然だ、偶然に決まっている。そんな意思を込めてヒフミを、目前に立ち塞がる光の象徴を睨みつければ、彼女は天に指を突きつけたまま声を張る。

 晴天の下で、その光を一身に浴びながら。

 

「今の私達なら、何だって起こせるんですッ! どんな暗闇の中だって絶望したりしませんっ! 皆が一緒なら――そうですよね……!」

 

 ヒフミは遥か向こう、太陽に照らされた一本の道を見つめ、叫んだ。

 

「――先生ッ!」

 

 その声が響いた瞬間、全員の表情が一変した。彼女の呼びかけた、その名が齎す意味を理解して。

 

「ッ……!?」

「なっ……!?」

「馬鹿な――ッ!?」

「せん、せいッ――!?」

 

 ヒフミの視線の先。積み上がった瓦礫の上に立つ、ひとつの影。それを追って振り向く彼女達は、言葉を失う。スクワッドも、ハナコも、アズサも、トリニティでさえも。

 青の中で靡く、白い見慣れた制服、陽光を浴び起立する――唯一無二の大人。

 それを視界に捉えた時、サオリは目を見開き震える声で呟いた。

 

「あり得ない……生きている筈が――ッ!」

 

 震える指先が、握り締める愛銃を揺らした。

 そうだ、彼奴は殺した筈だ、この手で――自分自身が。その感触を憶えている、その光景を憶えている。忘れる筈がない、何度も彼奴に弾丸を撃ち込んだ。人間が、ただの人間が、あの傷を受けて生きている筈がない。

 捥がれた片腕、喪われた片目、頭部に巻き付けられた包帯と力なく揺れる左袖が彼の損失を物語っている。ちらりと覗く肉体には微かに滲む血の跡。

 だと云うのに彼は――先生は生きて、この場に立っていた。

 

「まさか、本当に、先生――……?」

 

 ハナコは呟き、その人影を凝視する。自身の視覚を疑い、何度も何度もその輪郭をなぞった。けれど自身の感覚の全てが、あの目の前に立つ人が先生である事を認めている。傷だらけで、満身創痍で、けれど確かに生きていると。

 

「せ、先生が生きて……?」

「で、でもっ、救護騎士団の方では――」

「噂じゃ、もう……駄目だったって……!」

「嘘だったって事ですか――?」

「いえ、しかし……!」

 

 ハナコの背後に立つトリニティ生徒が浮足立ち、喧騒が耳に届く。先生の負傷、そして死亡報告を耳にしていた生徒は多い。そして、その仇を討たんとハナコに続いたのが彼女達であった。その対象が生きて、自分達の目の前に現れた――その衝撃は如何程か。

 けれど、その表情に戸惑いや困惑はあっても、同時に滲んでいたのは歓喜だった。

 先生が生きていた、それは彼女達にとってこれ以上ない程の福音だったのだ。

 

「馬鹿な、一体どうやって……!?」

「――云っただろう?」

 

 サオリの呟きに、先生は応える。

 一歩を踏み出し、広場へと降りた先生はスクワッドの前に立ち塞がり、いつも通り何て事の無い様子でサオリに云った。

 

「奇跡だと、ね」

「――!」

 

 ぎちりと、サオリの表情が歪むのがマスク越しに分かった。先生は彼女を見つめながら残った一本の腕を掲げ、告げる。

 

「――此処に、私は宣言(宣誓)しよう」

「っ、何を……!?」

 

 先生の掲げられた指先、其処に微かな青白い光が宿るのをサオリは見た。光は輝きを放ち、青空の中に溶けて消える。先生の残った左目が、サオリを、ヒヨリを、ミサキを射貫く。

 小さく揺れた指先が、天に小さな輪を描いた。

 

「紡がれたエデン条約、その約定に則り私は調印した、その定義に反しない限り、私は君達の根源……彼女達(ユスティナ聖徒会)を停止させる」

「――まさか」

 

 その言葉に、サオリがハッとした表情で先生を、その背後を見た。

 先生が現れた方向には――古聖堂が存在する。瓦礫に塗れたその場所、地下にある祭壇を思い返し、思わず蒼褪めた。もし、彼がその存在に気付いていたというのなら。

 それを証明するかのように、先生は蒼穹に向かって叫んだ。

 

「告げる、この場に集う私達こそが――新たなエデン条約機構(ETO)であると!」

「なッ……!」

 

 瞬間、光が弾け、蒼穹の中を突き抜ける。

 青白い光は尾を引き、何処までも何処までも高く、雲を突き抜け伸びていく。その光景を唖然とした表情で見つめながら、サオリは思う。

 本来、この条約は連邦生徒会長が宣誓を行う筈であった。そして、連邦捜査部シャーレは連邦生徒会、その生徒会長の直属。その代役として、連邦捜査部のシャーレ、その最高責任者である先生が調印を行った。

 つまり――。

 

「戒律を、捻じ曲げたのか……ッ!?」

 

 咄嗟に周囲を見渡すサオリ。

 彼女達を、スクワッドを囲っていたユスティナ聖徒会の輪郭が、その姿が――徐々に、徐々に喪われる。光の中に溶けて行くように、その僅かな残滓を漂わせながら消えて行く。スクワッドが感じていたETOとの繋がりが明確に薄まるの自覚した。本来の半分、否、それ以上。厳格な制約が喪われたからこそ、発揮されていた力が目に見えて低下している。それに気付いたミサキとヒヨリは、続々と消失するユスティナ聖徒会を見渡しながら声を荒らげた。

 

「リーダー、ユスティナの統制が狂い始めた……!」

「し、指揮系統に混乱が……エデン条約機構を助けると云う戒律、しかし今はETOが二つあって、どちらを優先すべきかの記述がないから――」

「ッ……知った事かッ!」

 

 アリウスの誇る最強の盾であり矛、それが喪われた動揺は大きい。ミサキは苦渋の表情を浮かべ、ヒヨリに至っては動揺の余り涙目になっていた。この場に存在するETO以外の戦力はごく少数、それもこれだけの数を相手に戦えるだけの部隊はアリウスに残っていない。

 しかし、サオリはその怯懦を怒声で以て掻き消した。

 消滅するユスティナ聖徒会、その残滓を手で払い除け、踏み出す。

 光に包まれる先生を睨みつける彼女は、どこまでも眩いそれに目を細めながら声を荒らげた。

 

「こんな、ハッピーエンドだと……!? ふざけるな、そんな言葉でッ……世界が変わると、本気で思っているのかッ!? それだけでこの憎しみが、不信の世界が――何を、夢の様な話を……ッ!」

「夢を見なきゃ、始まらない」

 

 サオリの前に立ち塞がる先生は、静かな口調で断じる。掲げた腕、その手を握り締め先生は、遥かな蒼穹を見上げながら云った。

 

「そしてその生徒達の夢を叶える為に、全力で手助けするのが――(先生)の責務だ」

 

 それはずっと前から、このキヴォトスに降り立った瞬間から変わっていない。

 そしてこれから先、どれ程の時間が流れようとも変わる事は無い。

 先生にとっての絶対。生徒の為に、その生徒達が紡ぐ未来の為に、先生は幾らでも手を差し伸べる。

 

「生徒達が心から願う夢を信じ、共に寄り添い、共に学び、共に歩む……それがどんなに難しく、遠い道のりだろうとも――私は彼女たちを信じている」

「ッ……!」

 

 サオリは歯を食い縛り、唸り、顔を歪ませる。

 その、何処までも理想を貫く姿が。この虚しく絶望的で、苦しみと痛みに満ちた世界と乖離した綺麗過ぎる言葉が、その在り方が――スクワッドの、サオリの心を掻き乱す。

 理想で腹は膨れない。夢で苦痛は拭えない。

 それを知って尚、その在り方を貫くと云うのだから。

 

「大人の、貴様がッ――そのようなっ……!」

 

 食い縛った歯が軋む。胸に渦巻く感情は何だ、怒りか、憎しみか? それも確かにある。けれど、それだけではない。これ(この感情)はもっと大きな、綺麗で、醜い――。

 

「その様な、甘言を口にするから……ッ!」

「あぁ、甘言だとも……!」

「っ……!」

 

 サオリの言葉に、先生が唸る様な声で叫んだ。それは彼らしくもない、荒々しさを孕んだ口調だった。

 真っ直ぐサオリを射貫く視線に、微かな怒りが含まれている事に彼女は気付いた。けれどそれは、決してサオリに向けられたものではない。彼女の背後、その奥に控える大人と、自分自身に向けられた怒りだった。

 

「誰も傷つかない世界、誰もが笑い合える世界、生徒達が何の憂いも無く幸福を享受できる世界――! それの何と遠い事か、その実現の何と難しい事か……ッ!」

 

 くしゃりと歪んだ、先生の表情。それは先生の見せる、葛藤。幾度となく繰り返して来た自問自答、夢を実現する事の難しさを、先生は知っている。

 何よりも、誰よりも、その身を以て理解している。

 そうだ、本当ならばこんな筈じゃなかった、もっと上手くやれる筈だった、世界は、現実は、そんな事ばかりだ。

 この手から零れ落ちた(生徒)は数知れず、それを求める事は無謀だと、せめてアナタだけは幸福になって欲しいと、その伸ばされた手を払い、それでもと叫び続けた愚か者が自分だ。足を止める瞬間(チャンス)は幾らでもあった、もう頑張らなくても良いと、自分は良くやったと、自身を慰め安寧の泥に沈む事だって出来た。

 けれど先生は今も尚――この世界(全てが虚しい世界)で足掻き続けている。

 その姿は無様だろう、滑稽だろう、何と夢見がちで、稚拙で、机上の空論染みた夢か。

 

「けれど――!」

 

 その果てに――その苦難の先に、追い求めた明日(未来)があるのならば。

 

 安寧の終わりなど求めない。

 誰かを切り捨てた束の間の安息など求めない。

 犠牲(生徒)の上に成り立つ幸福など求めない。

 

 (先生)はただ――生徒達の希望(笑顔)に満ちた、明日(未来)が欲しい。

 それをこの手にする、その日まで。

 

「私は、諦める事だけは絶対にしない! その()を、生徒達の優しさ(強さ)をッ――私は、君達の無限の可能性(希望溢れる未来)を、心の底から信じているッ!」

 

 拳を握り締め、叫ぶ。声を張り上げる。

 

 (子ども)とは――この世界全てを照らす可能性。

 軈てエデンに至る小さな光(生徒達)、未だその力は弱く、小さく、だからこそこの箱舟で彼女達は育まれ、学び、進み――その果てにエデンの園へと至る。此処は(先生)と彼女の思い描いた、天幕に至る道筋。

 その光に、優劣は無く。

 貴賎は無く。

 上下は無く。

 

 このキヴォトス(世界)に存在する、遍く(希望)は先生にとっての唯一無二だ。

 

 だからこそ、今度こそ実現してみせるのだと、先生は叫ぶ。取りこぼしなんてしない。誰一人、見捨て等しない。犠牲になどさせて堪るものか。どれ程険しい道のりだろうが、どれ程の苦難に見舞われようが、構いはしない。先生は絶対に足を止めず、諦める事はしない。

 どれ程の試練であっても、この足を止めるには足り得ない。

 

「此処に集った、皆に願うッ!」

「――!」

 

 蒼穹に、先生の声が響いた。

 トリニティの生徒達に、ハナコに、アズサに向けて息を吸い込む。

 

「頼む、どうか、私に力を貸して欲しい……ッ!」

「先生……?」

 

 ハナコが目を見開き、呟いた。

 

「私に戦う力はない、君達とは違い、僅かな危険で命を落とし掛けるような、このボロボロの情けない姿が私だ……! これが人間だ! 私に誰かを救う力はない、誰かを裁く力も、罪悪を消し去る力もない! ひとりでは争い一つ収められず、君達と共に銃を持って戦う事すら出来ない! 大人とは名ばかりの、どうしようもない存在――!」

 

 弱々しい肉体、弾丸一つで生命活動が終わるその脆弱さは、彼女達にとって理外のものだろう。先生がこのキヴォトスに於いて、単純な力のみで勝てる相手などそうは居ない。ある意味、人間である彼こそがこの世界で最も弱く、最も脆弱な生き物と呼べるかもしれない。

 けれど。

 

「そんな、情けなく、弱く、無様な私だけれど――ッ! それでもッ、どうしても捨てられない未来(明日)がある!」

 

 肉体の弱さだけで諦められる事ではない。自身の抱く夢は、そんな不利一つで諦められるような軽いものではなかった。配られた手札で、自分の手元にあるものを全て使って、何もかもを使って進む。

 それでも尚、足りないと思えてしまう程の困難な道。先生ひとりでは、到底届かない理想の場所。

 

 だから先生は生徒達に願う、懇願する。

 先生には、それしか出来ない。

 自分の全てを差し出して、希う事しか。

 

「憎悪でなく、悪意でなく、殺意でなく! 誰もが幸福で在れる、誰もが笑顔で在れる世界の為にッ! この、憎しみの連鎖を断ち切る為にッ!」

 

 生徒達の視線が先生に集う、その大人の元に――傷付き、草臥れ、それでも尚、前に進もうとする彼の元に。

 

「頼むッ! どうか、その力を貸してくれッ――!」

 

 声は遠く、何処までも響いていた。喉が張り裂けんばかりの叫びに、心からの懇願に。

 否やは無かった。

 余りにも静かで、けれど雄弁な答え。その静寂が、無言こそが彼女達の返答だった。ハナコに付き従っていたトリニティの生徒達が、シスターフッドのシスターが、正義実現委員会の委員が、派閥の垣根を越えた生徒が、各々の銃を抱えて構える。その胸にある感情を必死に押さえつけ、歯を食い縛りながら。

 

 アリウスに対する憎しみはある、敵意もある、どうしても許せないと叫ぶ心が、感情が燻る。どうして奪われたのに奪ってはいけないのだと、やられたのにやり返していけないのだと――不平等を、不条理を糾弾したい心がある。

 

 けれど、果たしてその未来に笑顔はあるのか?

 

 やられたから、やり返して。傷付いたから、傷付けて。その果てに待っているのは殺し合いだ、血で血を洗う戦争だ。今尚――自分達が足を踏み入れようとしている領域だ。其処に入ってしまったらもう、戻っては来れない。他者の命を奪うと云う途轍もなく重い罪悪を背負う事になる。

 

 先程までは、その覚悟があった――先生を奪ったアリウスに対する復讐。先に奪ったのは向こうだ、ならば奪い返さなければ平等ではないと、荒れ狂う感情のままに走っていた。

 

 けれど、腕を喪い、瞳を喪い、それでも尚復讐を望まぬ先生の姿を見た時。生徒の引き金に掛かった指から、ほんの少し――ほんの少しだけ、力が抜けた。

 その僅かな、けれど何よりも重要で大切な脱力が、先生の求めていたものだったのだ。

 

 憎しみは消えないのかもしれない。

 許す事は出来ないのかもしれない。

 けれど、やり直す事は出来る筈だから。

 命を奪うという行為は、その機会すらも奪ってしまう罪悪だから。

 

 だから先生は――その未来だけは、絶対に阻止する。

 

 突きつけられた無数の銃口、その先に佇むスクワッドのメンバー。けれど、その突きつけられた銃口に殺意はない。彼女達を突き動かしていた憎悪自体は微かに感じる事が出来た、けれど相手を殺してでも尚、何かを成し遂げると云う意思は何処にも感じられなくなっていた。

 

 殺し合いは転じる――憎悪の連鎖は断ち切られる。

 事実は決して消えない、過去を無かった事には出来ない、けれど未来を、別の結末を選び取ることは出来る。少しでも、僅かでも、より良い、一人でも多くの生徒が笑う事の出来る可能性、幸福になれる可能性のある結末へ。

 

「リーダー……」

「サオリさん……」

「………」

 

 自身を取り囲む無数の銃口。それを見つめながらスクワッドのメンバーは沈黙する。壁となるユスティナ聖徒会は存在せず、正に絶体絶命と呼べる中で二人はそっと口を開いた。

 

「もう、ユスティナ聖徒会はまともに動作していない、私達の結んだ戒律は意味を急速に失くしつつある」

「残った聖徒会も、アンブロジウスも、この様子では、もう……」

「手札がない――私達の、負けだ」

 

 此処から巻き返すだけの策が、手札が、彼女達には存在しない。唯一無二の戦力であり、切札であったユスティナ聖徒会を抑えられた時点で、アリウスはその戦力の大半を喪失した。

 その、諦観に塗れた言葉に。

 諦めを示唆する声に。

 サオリは、痛い程に拳を握り締め、叫んだ。

 

「……――ふッ、ざけるなぁアアッ!」

 

 全力で一歩を踏み出し、俯いたまま叫ぶ。踏み抜いた石畳の床が罅割れ、破砕された。それ程に力の籠った絶叫であった。彼女らしからぬ獣染みた咆哮に、その怒声に、ミサキとヒヨリの両名は思わず目を見開き後退る。

 

 諦める事など。

 諦めなかったアズサを前にして、どうしてそんな事が出来よう? 

 

 それだけは出来ない。

 そんな事は認められない。

 軋む程に銃を抱え、歯を食い縛り、サオリは叫ぶ、血を吐く思いで。

 青い空の下で、憎悪に生きた少女の声が響き渡る。

 

「何が夢だ、何が理想だっ! 何が未来だッ!? そんな腹すら膨れないッ、甘いっ、甘い言葉に……ッ!?」

「サオリ……!」

「笑顔だと? 幸福だと? ならば何故、私達はあれ程までの苦痛を味わった!? 何の為に私はっ、アリウスであれ程の責め苦を味わった!? お前たちが何の憂いも、苦痛も無く過ごす中で、何でッ、何故私達だけが……ッ!? 数百年前の、何処の誰かも知らない他人の罪悪を背負ってッ! その罪を擦り付けられてッ! 冷たく薄暗い地下に押し込まれ、空の青さも知らずに、寒さに震え、飢えに苦しみッ、将来に何の希望も、夢を抱く事さえ許されず……ッ! それが、いずれ(きた)る笑顔の代価だというのか!? 幸福の代価だとでも云うのか!?」

 

 顔を覆い、俯き、肩を震わせサオリは叫ぶ。己の受けて来た過去のあらゆる痛みを、苦しみを、その全てを思い返しながら。

 

 世界がもし、『平等』なら。

 苦痛の分だけ幸福が、痛みの分だけ笑顔が齎されるのならば。

 奪われた分だけ、何かを得られるのならば。

 

 自分達アリウスにも、幸福で笑顔に溢れる未来が訪れたのか? 

 日向(陽の当たる場所)で笑う生徒達の様に、あんな透き通った笑顔で、いつか心の底から幸せを感じられる明日が来たのか?

 

 ――そんな未来は、きっと来ない。

 

 彼女(主人)が許す筈がない。

 

「いいや、いいやッ! そんな事はあり得ない! この先に、この未来に、私達の歩む先に幸福など無いッ! 笑顔など無いッ! 希望など無いッ!」

 

 (かぶり)を振って、サオリは否定する。その未来を、その明日を。

 あの、諦観と絶望に支配された場所で、世界は全て虚しいのだと心に、身体に叩き込まれたあの場所で、そんな希望を抱く事は許されなかった。その権利は存在しなかった。

 私達(アリウス)は何処までも日陰の存在。この世に生を受けた時から、文字通り生きる世界が決まっていたのだ。

 

 世界は決して、【平等なんかじゃない】。

 

 俯いていた顔を上げたサオリは、今にも泣きそうな表情でヒフミを、コハルを、ハナコを、トリニティを見つめ、叫んだ。

 

「――それ()は、お前達(陽の当たる場所)にのみ許された特権だろうッ!?」

 

 私達には決して与えられないモノ。

 けれど彼女達には与えられるモノ。

 不平等で、不条理で、だからこそ光り輝く価値あるもの。

 今にも崩れ落ちそうになりながら、サオリは最後に――アズサを睨みつける。

 

「なのに、何故だッ、どうして!? アズサ、どうしてお前だけッ……!?」

「!」

 

 アズサの表情が驚きに変わる。数歩、覚束ない足取りで進むサオリはアズサを見上げた。憎悪と怒り、そして羨望に塗れた瞳で。どうしようもなく、遣る瀬無い感情に表情を歪めながら。

 だって、そうだろう? サオリはアズサに手を伸ばす。未だ光に照らされる、向こう側の世界に立つ彼女に。

 

「私達は一緒に苦しんだ……絶望した! この灰色の世界に! この希望なき世界に! それが世界の真実だと、それがどうしようもない現実だと、身を以て知った筈だッ!」

「……あぁ」

 

「だと云うのにッ――!?」

 

 サオリの絶叫がアズサの肌を叩く。それは紛れもなく、サオリの本心であった。今の今まで抑制していた、彼女の奥底にあった感情の発露であった。

 

「全てが虚しいこの世界で、お前だけが意味を持つのか!? お前だけがそんなッ、青空の下(陽の当たる場所)に残る事が許されるのか!?」

 

 晴れ上がった蒼穹が、差し込む陽光が彼女達を照らす。

 佇むアズサの背に光が当たり、その影が長く伸びる。光はアズサを照らし、彼女の影にサオリは覆われた。

 まるで、彼女達の世界を分ける様に。

 日向と日陰を、区切る様に。

 

「そんな事――許せる筈がないだろうがァッ!?」

 

 叫び、サオリはアズサへと銃口を突きつける。怒りに軋むグリップ、その銃口は震え照準が定まらない。それ程までに、彼女は激昂している。動揺している。それはサオリの中で生まれた、この世に生を受けて初めて抱く感情(モノ)。あらゆるものが綯交ぜになって、ドロドロに溶け落ちたそれは、胸にへばりついて離れない。

 

 ――スクワッド(私達)お前(アズサ)の、何が違う?

 

 私達は共に苦しんだ。

 私達は共に世界の虚しさを知った。

 私達は共に陽の当らぬ場所で、人を殺す術を学んだ。

 同じものを食べ、同じものを学び、同じ場所で生き、同じように生きて――同じように死んでいくのだと思った。

 けれど、今立っている場所は正反対で。

 私達(スクワッド)は未だ日陰に蹲り、彼女は陽の当たる場所へと踏み出した。

 その距離は――余りにも遠い。

 

「全てだッ! 全てを否定してやるッ! お前がトリニティで学んだ事も、経験した事も、気付いた事も! 全て、全てッ、その全てをッ!」

 

 顔を歪ませ、裏返った声で、腹の底から叫ぶ。

 そうでなければ、おかしくなりそうだった。

 そうでな(否定しな)ければ、私達(スクワッド)は一体。

 一体、何の為に。

 (サオリ)は、一体何の為に――。

 

「だって……全ては虚しい筈なのだからッ!」

 

 影に覆われた目元、その奥に煌めく眼光。その目尻に、一筋の涙が流れたのをアズサは見た。あの気丈なサオリが、いつ如何なる時も弱音を吐かず、スクワッドを牽引し、常に前に立ち続けたサオリが流す――弱さの証。

 それはアズサの中に、確かな動揺と、強い悲しさを生み出した。

 

【Vanitas vanitatum omnia vanitas.】

 

 全ては虚しい、何処まで行こうとも――全てはただ、虚しいものだ。

 それは、この世界を憂う言葉だ。生きる事は苦しく、辛く、虚しく、世界は不条理で、不平等で、救いなど存在しない、と。

 ずっと、それだけを教えられて生きて来た。

 その事だけが真実だと、押し付けられて生きて来た。

 けれど、アズサは知っている。

 アズサだけは、理解している。

 足掻いて、足掻いて、足掻いて――その果てに漸く希望を手にした彼女は。

 サオリが、その言葉の裏にもう一つの意味を見出していた事に。

 

 ――サオリ(彼女)は、きっと。

 

「いいえ――そんな事はさせません!」

 

 アズサの思考を遮る様に、ヒフミは声を上げた。一歩踏み出した彼女はアズサの隣に立ち、力強い瞳をサオリに向ける。

 

「そうよ! 私達が合格した事も、ここまで頑張って来た事も、何もなかった事になんてさせない!」

 

 ヒフミに続く形で、コハルもまた一歩を踏み出し、叫んだ。

 

「私達はッ、どんな時だって力を合わせて、乗り越えて来たんです……! そうでしょう、ハナコちゃん!?」

「ッ……!」

 

 ヒフミはそう云って、ハナコを見る。視線を向けられた彼女は一瞬肩を震わせ、それから俯き視線を逸らした。其処には、隠しきれない罪悪感と苦悶が混じっていた。垂れた手がスカートを皺になる程握り締め、震える。

 

「でも……私は――」

 

 呟き、ハナコは想う。

 先生が生きていた事は、喜ばしい。それこそ許されるのであれば、今直ぐその胸に飛び込んで涙を流し、その生を喜びたい程に。きっと一日中泣きじゃくって、困らせてしまうだろう。その自信があった。

 

 けれど自分は――彼女達の隣に立つ、その資格がない。

 彼女達の様な高潔な精神を持ち合わせていない。

 アズサは補習授業部の為に、その皆を危険から遠ざける為に自らを削ってでも戦いに身を投じた。

 反し、自身は憎悪に呑まれ、唯々復讐に走ろうとしただけだ。其処に皆を想う気持ちが皆無だった訳ではない。此処で自身が先頭に立てば、彼女達を戦場に駆り出さずに済むという考えもあった。けれどその比重は、先生を葬った者に報いを与えなければという、酷く私怨の混じったものだったから。ゲヘナを巻き込み、トリニティを巻き込み、このような戦場にまで出張って。

 だから、自分には――。

 

「ハナコ」

「っ……先生」

 

 そんな事を想い、顔を歪めるハナコの元に先生は足を進めた。

 冷たく、無表情で、台座の上に横たわる先生の事を思い返す。あの時の激情を、その憎悪を、ハナコは一生忘れる事はないだろう。

 今にも泣き出しそうな顔を向ける彼女に、先生は目を細め、柔らかな口調で以て告げる。

 

「ごめんね……私の代わりに、頑張ってくれて」

「その様な、事は――!」

 

 胸元で手を握り締め、彼女は首を横に振る。違う、そんな言葉を掛けられる資格は自分にはない。仇を討つと、復讐するのだと、同胞を焚きつけ戦場に連れ出した自分にそんな言葉は不釣り合いだ。ハナコは己の罪悪を吐露する様に、嗚咽を零し懺悔する。

 

「わ、私は……先生を奪われたと、そう思い込んで、ただ、彼女達(アリウス)を――……!」

「良いんだ」

 

 彼女の声を遮り、先生はハナコの手を取る。一本だけになったその手で彼女を引き寄せ、優しく抱き留めた。零れ落ちた涙が跳ね、先生の首筋を濡らす。自身を包む先生の身体からは、確かに生ある者の温もりが感じられた。

 

「ぅ、ぁ……――」

「誰だって過ちを犯す事はある、耐え切れない時だってある……結果論かもしれないけれど、ハナコは最後の一線を越えずに踏み留まってくれた」

 

 そう云って、至近距離で交差する視線。先生の腕が静かに、ハナコの頭を優しく撫でつけた。

 

「――責任は、私が負うからね」

「あ……」

 

 そっと離れる体、然もすると此処が戦場である事さえ忘れてしまいそうになる柔らかな気配。先生が破顔し、視線を自身の背後に向ける。

 

「それにハナコを含めて、全員で補習授業部……だろう?」

「ハナコちゃん!」

「ハナコ!」

「っ……!」

 

 途端、先生の背中から、補習授業部の皆が駆け寄って来るのが見えた。それを見た瞬間、ハナコは堪え切れず目尻から大粒の涙を流す。ヒフミがいの一番にハナコの元へと飛び込み、抱擁を交わした。数歩蹈鞴を踏みながら、ハナコは引き攣った声で囁く。

 

「ごめんなさい、ヒフミちゃん……! 皆さん、私は……ッ!」

「良いんです……っ! こうやって皆、揃う事が出来たんですから……!」

 

 強く、強く抱きしめられる体。其処に居る存在を確かめながら、確かに紡がれる友情の証明。それを慈しむ瞳で以て見守る先生は、静かに自身の袖を引かれる感覚に視線を落とす。其処には、自身を見上げるアズサが佇んでいた。

 

「……アズサ」

「先生……」

 

 先生とアズサが視線を交わす。自身を見上げる彼女の瞳には、何か怯えるような色があった。アズサの指が、恐る恐る先生の手を掴む。ボロボロで、擦り切れて、似たような傷が幾つもある指先だった。それは爪が剥がれ、皮膚の破れた先生の指と酷似している。

 アズサは最初、先生の指を一本握り締めた。小柄なアズサの指先が先生の大きな指を掴む。それから位置を変えて、今度は掌全体で何度も、何度も先生の存在を確かめる様に手を握り締めた。その視線は分かり易い程に揺れていて、唇は震えていた。それは安堵と、確かな喜びからなる感情の揺らぎだった。

 そうやって先生の生存を確かめた彼女は静かに手を放し、どこか申し訳なさそうに、罪悪感を滲ませながらたどたどしく口を開く。

 

「せ、先生、その、私は……」

「――前に云った事、憶えている? 最初に、サオリがトリニティにやって来た時の事」

 

 そんなアズサの唇に指をそっと当て、問いかける先生。少し驚いた様に目を見開いたアズサは、以前、サオリと対峙した時の事を思い出した。雨の中、血を流す先生を抱きかかえ交わした言葉。先生の指がそっとアズサの頬に伸びて、その付着した泥と砂塵を拭う。その温もりと優しさを感じながら、アズサはぎこちなく頷いた。

 

「……うん、忘れたりしない」

「それでも、許せなかった?」

「………うん」

 

 その言葉に反し、余りにも穏やかな問い掛けに。

 アズサは小さな声で頷いた。

 

「先生が居なくなって、皆も……同じようになってしまうんじゃないかって、傷付けられる事が、怖かったんだ」

「そっか――」

 

 先生は、彼女を責めるような事はしなかった。ましてや怒る様な事さえも。ただ、仕方なさそうに笑って、アズサを見つめる。それがどうにも堪らなくて、せめて一言叱って欲しくて、アズサは唇を噛み締めながら言葉を続けた。

 

「憎しみに、恐怖に、私は打ち勝てなかった、私なら暗闇(陽の当らない場所)の中でも耐えられる、だから――」

「アズサッ!」

 

 けれど、彼女を責める声が上がったのは先生からではない。直ぐ傍の、彼女の独白を聞いていたコハルからだった。ズンズンと足を進める彼女はアズサの直ぐ傍に立つと、驚いたように目を見開くアズサ目掛けて、手を振り上げた。

 

「コハ――あぅ」

 

 軽くスナップを聞かせて、叩かれるアズサの頭部。音は鳴らなかった。それどころか痛みすらない、かなり慎重に叩いたらしく、コハルの指先は緊張で震えていた様にすら見えた。ぎゅっと指先を握り締めたコハルは、睨みつけるような瞳でアズサを――そしてハナコを見る。

 

「い、今はボロボロだから、それ位で許してあげるッ! でも、今度また同じ様な事したらこの位じゃ済まないからッ!」

「……こ、コハル」

「ハナコもッ! 突然あんな事云って、いなくなって! 二人共私達の為に動いたつもりだったのかもしれないけれどッ、そんな事されても、全然嬉しく何てないしっ……! わ、私は馬鹿だし、強くもないし、頼りにならないかもしれないけれどッ! でもっ……!」

 

 コハルそう云って息を吸い込むと、小さな体で、精一杯肩を怒らせながら二人を指差し、叫んだ。

 

「友達が辛そうに、苦しそうにしていたら、その道を外れそうになって(正しくない事をしようとして)いたら、放ってなんておけないじゃない! 逆の立場だったら、二人だってそうしたでしょ!? 違う!?」

「コハル……」

「コハルちゃん……」

 

 コハルの言葉に、二人は二の句が継げなくなった。友達が辛そうにしていたら、苦しそうにしていたら――道を外れそうになっていたら、放って何ておけない。

 

「――うん、確かに……そうだ」

 

 もし、自分が異なる立場であれば、それはとても辛い事だと思うから。きっと自分も放ってはおけない。例えそれが現実的ではないと理解していても、感情は別だ。アズサはそう納得し、笑みを漏らす。コハルに叩かれた場所を、何処か嬉しそうに撫でつけながら。

 

「ごめんなさい、コハルちゃん……色々勝手な事をしてしまって」

「べ、別に分かってくれたら、それで良いから……!」

 

 泣きながら笑うハナコに、コハルはそっぽを向く。ヒフミをもう一度強く抱きしめ、自身の足で立ち上がった彼女は大きく息を吸い込む。蒼穹を見上げながら、深く、何度も。

 良い友人を持ったと、ハナコは心からそう思った。

 自分には勿体ない程の――素晴らしい友人達だ。

 

「憎悪でなく、悪意でなく、殺意でなく――」

 

 先程、先生の叫んだ言葉を思い返す。その意味を理解出来ない程、ハナコは鈍くはない。ただ理解出来るからこそ、少しだけ困った様に先生へと微笑みを返すのだ。

 

「難しい事を仰いますね、先生は……」

「――ごめん、ハナコ」

「いいえ」

 

 緩く首を振って、ハナコは告げる。

 自分一人ならばきっと、憎悪に呑まれ暴走してしまっただろう。

 実際に、その中程まで自分は足を進めたのだから。

 けれど、彼女達と一緒なら、補習授業部と共に歩む(ハナコ)ならば――この憎悪さえも乗り越えられる。

 

「きっと、私もその線を踏み越えてしまえば……後悔したと思いますから」

 

 ましてや、他人を巻き込んでまで突き進んでしまっては。その抱える罪悪は、どれ程膨らんでしまった事か。そんな事を考え、背後に集うトリニティの生徒達に目を向ける。自分達を見るその瞳には、先程までにはなかった色が灯っていた。それを見てハナコは、ふっと口元を緩める。それは安堵の笑みであった。

 

「大丈夫です、今からでも遅く何てありません……!」

 

 ヒフミがアズサとハナコの手を取り、力強く云った。

 

「色々な事が沢山あって、苦しくて、辛くて、大変な事ばかりでしたが……! それでも、それはこれまでのお話であって、これからのお話ではないんです! それに、先生も一緒なら百人力ですッ!」

「――勿論、任せて」

 

 ヒフミの言葉に頷き、懐からタブレットを取り出す先生。予備バッテリーに繋がれたそれの準備は万端だ。少なくとも一戦、二戦程度で電源が底を突く事は決してない。その自信に彩られた表情に後押しされ、ヒフミは皆に問い掛ける。

 

「きっと乗り越えられます、私達なら! そうですよね、皆さん!?」

「……うん!」

「と、当然よっ!」

「――えぇ!」

 

 アズサ、コハル、ハナコ、皆の声を受け、ヒフミは振り返り再びスクワッドと対峙する。憎々し気に此方を睨みつけるサオリを前に、ヒフミは強い意志で以て口を開いた。

 

「平凡で、何のとりえも無くて、無個性な私ですがッ! こんな私にでも、好きなものと同じ位、誇れるものがものがあるんですっ! 例えブラックマーケットの警備だろうと、カイザーコーポレーションの軍隊だろうと、どこかの凄く強い特殊部隊だろうと! どんな強大な相手でも、どんな高く分厚い壁でも、絶対に乗り越えられます! きっと勝てますッ! だって――」

 

 そう云って矢面に立った彼女は、背後の補習授業部の皆を誇る様に手を広げた。その背に視線を受けながら、確かな信頼と友愛を感じながら、彼女は何処までも眩い瞳で以て叫ぶのだ。

 

「私達は補習授業部っ! 私の自慢の――大切な友達なんですからッ!」

 

 宣言と共に、補習授業部の皆が愛銃を構える。確かな戦意を感じ取ったスクワッドは同じように銃器を構え、その気配を一層鋭く、険しいものへと変化させた。先頭に立つサオリの足が地面を擦り、音を立てる。

 

「アズサ……ッ!」

「サオリ、私は――いや」

 

 サオリとアズサが視線を交差させる。その中でアズサは強く愛銃を握り締め、叫んだ。

 

「『私達』は、もう負けない……ッ!」

 

 蒼穹に、彼女の声が響いた。

 ヒフミが息を吸い、告げる。

 

「先生ッ!」

「――あぁ!」

 

 その声に応え、先生はタブレットを叩いた。途端に広がる青白い光、生徒達のヘイローが輝き、そこから細い光のラインが迸る。微かな手足の痺れ、同時に視界に映る無数の情報。補習授業部、アビドス、トリニティ、その全員と繋がった事を確認した先生は、その顔を僅かに歪ませる。流石に、この数は中々どうして多かったかと。

 心臓の鼓動が、一瞬弱まった。肉体を蝕む鈍痛、強張る筋肉、しかし、それを噛み殺し先生は不敵に笑う。

 生徒の前で――弱音など吐くものか。

 その一心で足を踏み鳴らし、先生は立ち続ける。

 

 ヒフミがスクワッドを見据え、拳を握り込む。

 

「補習授業部、改め、即席ですが……っ!」

 

 補習授業部を、アビドスを、トリニティの皆を、ヒフミはその背中に感じつつ。

 その腕を突き上げ、叫んだ。

 

エデン条約機構(ETO)――出撃です!」

「おーッ!」

 

 青空の下、アズサの首元に下げられた補習授業部の人形が、嬉し気に弾み揺れた。

 


 

 ベアトリーチェはVanitas vanitatum omnia vanitas.という言葉を都合よく捻じ曲げ、自身の操り易い形で生徒達に教え込んでいましたが、私が考えるに、サオリはその言葉の裏、或いは自身の中でその別の真理というか、解答に行きついていると思うのです。

 

 このアリウスに於いて絶対の教義は、世界は虚しいし、辛くて苦しい事ばかりで、救いなんて無いから、足掻くだけ無駄だし、無意味に生きて無意味に死ね――という解釈をしているアリウス生徒が殆どです。ベアおばは意図的に教えの一部を削ったり歪曲して、そういう風に受け取れる様に細工をしました。

 実際ミサキやヒヨリなんかはそういう風に捉えていますから、苦しい事も辛い事も諦観と共に受け入れています。ミサキなどは自身の弱々しい肉体を捨てられるのならば構いはしないと死すら受け入れる態度を取っています。ロイヤルブラッドのアツコもこの教義に対しては、それに近しい持論を持っており、疑問を抱きつつもそこから脱する勇気を抱けずに此処まで来ました。

 

 唯一、違う解釈を持ったのは「アズサ」と「サオリ」です。

 

 アズサはこの世界は虚しいという真理を受け入れつつも、しかし足掻く事は無駄ではないと考えました。すべては無意味なのかもしれない、その果てに救いはないかもしれない、けれど万が一、億が一、那由他の果ての可能性に――ほんの僅かでも希望を手にする道があるのならば。

 何度だって立ち上がり、何度だって足掻くべきだと考えているのです。

 アズサはアリウスの教義を受け入れつつも、希望を諦めませんでした。

 

 反し、サオリはアリウスの教義を全面的に受け入れています。現状を大きく変える事は出来ないと他の面々と同じように諦観を抱いていおり、アズサの様に希望を求める事はありません。

 けれど彼女は、決して自死を願ったり、苦しみを肯定する事もありませんでした。彼女の現実主義的な在り方の根底にあるのは、『希望が無くても、今直ぐ其処にある幸せだけは、何としてでも守ろう』とする想いなのです。

 サオリにとって奇跡とは、幸福とは、スクワッドの皆と一緒に居られる事、ただそれだけなのです。

 

 アズサにとっての希望とは、奇跡とは、もっと大きくて、凄くて、光り輝く何かです。現状を全て変えてくれるような、アズサが信じるこの世界の真理すら覆してくれるような、偉大で、輝いていて、とても珍しい――それこそが奇跡だと考えています。

 けれどサオリにとっては誰も喪われず、ただ苦痛と虚しさに苛まれる日々であっても、自分の大切なもの、スクワッドの皆が居ればそれで十分であり、その事自体が小さな奇跡だと思い続けました。

 この、奇跡に対する見方の違いの様なものこそが、二人を分かつ大きな分岐点だと私は考えるのです。

 

 サオリはただ、スクワッドを、その居場所を守る為に、その他のあらゆる全てを犠牲にしただけなのです。たとえその天秤が、どれ程偏って、不平等で、不条理で、釣り合わないものであったとしても、彼女はその小さくて細やかな幸福を守る為に、自身の差し出せるものを全て差し出し、罪悪を積み重ね続け今に至るのです。

 

 だからこそ、自身と同じ場所に立っていた筈のアズサが、特大の希望を、その身を焦がすほどの大きな大きな奇跡を引き当てた姿を見た時、彼女は堪え切れなくなってしまう。自分達にも彼女の様に、あの場所に立つ可能性があったのかもしれないと考えてしまえば、その自分の守ろうとした小さな奇跡が、ちっぽけだけれど幸福で、あらゆるものを犠牲に守って来たその場所が、取るに足らない、陽光に照らされてしまえば掻き消えてしまいそうなものに思えて。

 

 それは彼女にとって、自身の全てを拒絶され、否定された事の様に思えてしまう事でしょう。だからこそ彼女はアズサを否定するしかないのです、否定しなければ自身の犠牲にしてきた全てが、費やして来たあらゆる事が、全て無意味であると証明されてしまうから。

 全ては虚しいと嘯きながら、その実誰よりも何よりも、その小さな奇跡に固執していた自分を、彼女はこの瞬間、初めて自覚し、取り乱すのです。

 おぉ、何と素晴らしい事か、何と素敵な事か、この瞬間彼女は一つの学びを得て、成長したのです。

 

 しかし、その罪悪が消える事は決してありません。責任は先生が背負い、例えあらゆる罰から逃れたとしても、その罪悪だけは先生にも掻き消す事は出来ないのです。

 彼女にとっての審判は、トリニティの魔女が執り行うでしょう。

 デンプシーロールのお時間ですわ~ッ! でも生徒が酷い目に遭うのは辛いのですわ……ミカさん、代わりに先生の事を殴って下さいません? でも先生がミカパンチ受けたらマジで洒落にならない事になっちゃいますわよねぇ~……。どってぱらに風穴が空きます事よ! そうしたらまた、アロナちゃんに代わりを用意して貰わないといけませんわ。うぅ、アロナ、先生お腹の内臓全滅しちゃったから代わりになって……。そんな事したらフウカが悲しんじゃいますわ~!

 



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憎悪の螺旋

誤字脱字報告ありがとうございますわ!
やっぱり一万字前後で二日ペースが何だかんだ落ち着くんですわよね~……。


 

「ぐ、ぅうッ――!?」

 

 銃声、閃光、爆発音、飛び散る瓦礫片が皮膚を裂き、目の前で一人、また一人とユスティナ聖徒会が掻き消えていく。残された戒律の余力、それによって召喚されたユスティナ聖徒会はしかし、その数を大きく削られていた。ポケットの中に仕舞ったままの端末は常に振動し、各部隊から戦況悪化の報告が絶え間なく着信する。

 

 此処(古聖堂)だけの話ではない、周辺一帯のユスティナ聖徒会が押され始めている。投げ入れられた手榴弾、その爆発に巻き込まれ地面を転がりながらも、サオリは何とか活路を見出そうと足掻く。しかし、余りにも多勢に無勢、瓦礫に覆われた場所と云えど障害物は少なく、比較的開けた戦場と云うのも悪かった。スクワッド――サオリの本領は室内でこそ輝く。奇襲、破壊工作、あらゆるトラップ、地形を利用し少数で多数を相手取る。しかしそれも、事前にある程度の準備と作戦があってこそだ。

 

 そうこうしている間にも最後のユスティナ聖徒会が飛来した弾丸に倒れ、掻き消える。残滓となって空に消える輪郭、残されたのはスクワッドのメンバーのみ。構えていたアイデンティティ(愛銃)を降ろしながら、ヒヨリは苦笑と共に呟いた。

 

「さ、最後のユスティナ聖徒会の消滅を、確認しました……」

「……今度こそ、終わりかな」

「そう――ですね、これ以上は、もう……」

「ッ――……!」

 

 ミサキもまた、同じように抱えていたセイントプレデターを降ろす。二人の制服は所々が煤け、裂け、その表情には疲労が滲んでいた。抗っても尚、覆す事の出来ない戦況を二人は悟ったのだ。

 ジリジリと狭まる包囲網、彼女達――新しきETOの狙いは明白だ。先の先生の言葉から、スクワッドの捕縛を狙っているのだろう。そしてそれを許せば自分達の未来は閉ざされる。故に、諦める訳にはいかなかった。

 

「まだだ――」

「リーダー……?」

 

 矢面に立ち、ユスティナ聖徒会と共に壁を担っていたサオリは呟き、震える足で地面を踏み締める。擦り切れ、穴の開いた帽子を深く被り直し、その敵意に塗れた瞳で目前の脅威を睨みつけた。

 

「まだ古聖堂の地下には、アレがある……!」

 

 サオリの脳裏に過るのは、この戦いが勃発する前に目にしていた映像。あの木人形が作りあげたという、【戦術兵器】――確かにユスティナ聖徒会の複製は失われただろう、アリウスが勝利を手にする事は非常に困難になったと云える。しかしまだ抗う手段全てが喪われた訳ではない。

 例え敗北は免れなくとも、せめて一矢報いる程度の事は――。

 

「最後の召喚を通せ……ッ! 古聖堂地下に撤退する!」

「……了解」

 

 ミサキはサオリの言葉に、何処か諦観を滲ませながらも頷いた。その指先が虚空に文字を描く。途端、アリウスを囲う様に再び出現するユスティナ聖徒会――しかし、その輪郭はノイズが走り、あやふやで、気配は余りにも薄い。

 力の低下は歴然、だがその数は膨大であった。最後の召喚、残ったETOとしての力を使い潰すつもりで行使されたソレに、ヒフミは叫ぶ。

 

「ま、まだこんな余力が――!?」

「だが、これ以上の力は残っていない筈だ! これを凌げば……!」

 

 アズサがそう口にして、勇んで弾倉を切り替える。このユスティナ聖徒会を撃破すれば、アリウスの戦力は壊滅出来ると信じていた。しかし、飛び出そうとしたアズサを引き留める声があった。

 ハナコだ――彼女は険しい表情のまま消えかけのユスティナ聖徒会を睨みつけ云った。

 

「いえ、まだ何か手段が残っている様な云い方でした……っ! 古聖堂地下に、奥の手が――」

 

 ユスティナ聖徒会の影に隠れ、古聖堂方面へと撤退を開始するスクワッド。その背中を見つめながら考える。まだ、何か策が残っている。きっと碌なものではあるまい、その確信があった。

 地下に大型の爆弾でも隠しているのか、はたまた別の戒律か何かを持ちだすつもりか。しかし、ユスティナ聖徒会と同時に運用しなかった観点からして、アリウス側にも何らかのデメリットが生じる代物の可能性が高いとハナコは推測する。

 そうなると本当に、諸共自爆という線が濃厚だった。

 

 散発的に開始されるユスティナ聖徒会の銃撃、その弾丸を瓦礫に隠れやり過ごしながら、ハナコは周囲を見渡し、思案する。時間は敵だ、もし自爆紛いの策が本当ならば直ぐにでも追撃しスクワッドを阻止しなければならない。

 戦力を分散させる事は避けたかった、しかしそうも云っていられない状況にある。ハナコは息を大きく吸い込み、何かを決断した様な素振りを見せ叫んだ。

 

「先生、此処は私達に任せて下さいッ!」

 

 直ぐ傍で屈んでいた先生は、ハナコの言葉に少しだけ驚いた様に目を見開いた。現状の戦力で二手に分かれるのならば、大多数の生徒でユスティナ聖徒会を抑え込み、少数の生徒でスクワッドの追撃に動くのが最も効率的だ。そして、百人を超える生徒の部隊指揮が可能な人材はこの中ではハナコと先生のみ。ハナコは集ったトリニティ生徒を指揮し、目前のユスティナ聖徒会を抑え込むつもりだった。

 

「大丈夫です! 私はもう、道を踏み外したりしません……ッ!」

 

 そう云ってハナコは、ずっと鞄に仕舞っていたリボンを、その純白の証を取り出し、そっと髪に取り付けた。風に揺れる桃色の髪、そこに輝く白のリボン。鞄に揺れる補習授業部人形、それを見下ろしながら彼女は先生に云った。

 

「此処で待っていますから……! 皆さんの帰りをッ!」

「――分かった、ありがとうハナコ!」

「いいえ、御礼を云いたいのは此方の方です!」

 

 飛び出す先生の背中を見送りながら、ハナコは叫んだ。

 

「戻って来てくれて、ありがとうございます……先生っ!」

 

 先生は彼女の声に手を挙げながら、古聖堂方向へと駆け出す。その姿を見たアビドスの面々は、直ぐ傍で共に銃撃していたヒフミ達に向かって声を張り上げた。

 

「ヒフミちゃん、此処はおじさん達に任せて!」

「この程度、私達だけでも余裕よ! 余裕っ!」

 

 器用に防弾盾で銃撃を逸らし、弾き、ユスティナ聖徒会を相手取るホシノ。その背中にぴったりとくっついたセリカは、ホシノの脇から顔を出し射撃を続ける。息の合ったコンビネーションで次々と立ち塞がる敵を薙ぎ倒す二人は、疲労を微塵も見せずに前進を続ける。この程度は手慣れたもので、アビドスのメンバーならばホシノは誰とでもツーマンセルを組むことが出来た。

 突出した生徒に火力が集中すれば、後方の生徒は安全に射撃を敢行出来る。ドローンを組み合わせながら火力支援に徹していたアヤネは、直ぐ隣で嬉々として愛銃(ミニガン)を撃ちまくるノノミの銃声に負けない位声を張り上げ、云った。

 

「大丈夫です、トリニティの方々と協力すれば、この規模の攻勢であっても防ぎ切れますッ!」

「これが、最後の足掻きみたいですからね……!」

「問題ない、行って、ヒフミ!」

 

 アヤネに、ノノミに、シロコにそう告げられたヒフミは、ぐっと深く頷いて見せる。そして直ぐ傍で同じように戦っていたコハルとアズサの肩を叩き、立ち上がった。

 

「っ、ありがとうございます、皆さん!」

「――先生をお願いねッ!」

「はいッ! 行きましょう、アズサちゃん、コハルちゃん……!」

「う、うんっ……!」

「あぁ……ッ!」

 

 声を張り上げ、駆け出すヒフミ。その背中に、コハルとアズサも続き、アビドスに向けて礼を口にした。

 

「ハナコちゃん!」

「此処は、任せて下さい! 先生をお願いします!」

 

 ヒフミ達の進む道、そのルート上に立つユスティナ聖徒会へと、ハナコの合図と共に弾丸が降り注ぐ。その中を掻い潜り、ヒフミたちは先生と合流を果たした。

 

「先生……!」

「あぁ、行こう――!」

 

 ■

 

「はぁ、ハァ……う、ぐッ――」

「リーダー」

「さ、サオリさん……」

 

 古聖堂地下――カタコンベの入り口となるその場所は、天然の鍾乳洞の様な形をしていた。大きく吹き抜けとなった天井に、地面に滴る水。所々人の手が入った痕跡はあるものの、その殆どは手付かずのままだ。

 中央に大きな区画があり、その隣り合った場所には木材で補強された小さな小部屋らしき区画が幾つか見られた。恐らく資材置き場か何かだろう、蜘蛛の巣が張ったそれらを横目に、肌寒く、薄暗い地下を歩くスクワッドの面々。サオリは青痣と血が滲む剥き出しの腹部を抑えながら、苦し気に息を吐き出した。

 

「リーダー、少し手当した方が良い、そのままだと……」

「大丈夫、だ……この程度――」

 

 心配げに此方を覗き込む二人に向け、軽く首を横に振って見せる。今は一分一秒が惜しい、足を止めること自体をサオリは嫌っていた。負傷の度合いで云えば、決して重傷などではない。ただ少し、弾丸を受け過ぎた。力の喪失したユスティナ聖徒会で、あの戦力と真正面からぶつかったのは誤断であったと云える。寧ろ、あの場面ではユスティナ聖徒会を囮にしてスクワッドだけでも離脱するべきであった。

 それを、激昂し判断を間違えるなど――。

 

「ッ……!」

 

 自身に対する失望、苛立ちが胸内に湧き上がる。しかし、それを消化する暇もなく、背後から何者かの足音が響いて来た。

 

「――サオリッ!」

「……!」

 

 その声の主は、振り返らなくとも分かる。サオリは痛みで曲がっていた背中を正し、虚勢を張りながらゆっくりと振り向く。そこには想像通り、砂利と泥に塗れながらも、決して光を喪わない瞳をしたアズサが立っていた。サオリは目を細め、眉間に皺を寄せながら声を荒げる。

 

「追って来たか、アズサ……!」

「私だけじゃない……!」

 

 そう云って立ち止まった彼女の背中から、アズサの友人――補習授業部の面々が顔を出す。彼方此方に汚れが見えるものの、その体力と精神状態は十全。現状のスクワッドとしては、正面からぶつかるのも厳しい相手だった。

 

「もう、諦めて下さい!」

「こ、これ以上の騒ぎは、私が許さないんだからっ!」

「……サオリ」

 

 阿慈谷ヒフミ、下江コハル――浦和ハナコは地上の指揮を執る為に残ったか。冷静にそう分析しながら、アズサは愛銃のグリップを握り締める。生徒達を引き連れ、スクワッドの前に立った先生は静かに、けれど力強い意志を秘めた声で以て告げた。

 

「もう、終わりにしよう」

「ッ……!」

 

 その声に、サオリは目を見開く。

 終わり――だと?

 それは、諦めろと云う事だろうか。敗北の二文字がサオリの脳裏にちらつく、こんな、憎悪に対し希望で以て応えるような人間に。

 私達(アリウス)は――負けるのか?

 

 それは、断固として認められない事であった。サオリはマスクの奥で歯を剥き出しにして、叫ぶ。

 

「まだだ、まだ、私は……戦えるッ!」

「リーダー……!」

 

 声は地下の中に響き渡り、青痣と擦り傷だらけの腕を震わせ、再び先生に銃口を突きつけるサオリ。それを遮る様にコハルが、ヒフミが、アズサが射線へと立ち塞がった。そうして三度突き合わされる銃口。天井から差し込む微かな光が、皆の顔を照らす。

 

 ――そんな一触即発の状態に在る彼女達の耳に、第三者の足音が届いた。

 

 硬い石床を叩く、靴音。それは地下の中では良く響き、全員の耳にハッキリと聞こえていた。アリウスの増援か、或いは先生側の増援か、どちらも警戒を滲ませながら音のの方角へと視線を向ける。咄嗟に振り向くサオリ、足音は古聖堂地上方面ではない――スクワッドが撤退しようとしていた奥側から響いていた。

 そうして暗がりから踏み出す、白い人影。

 ぼんやりとした青白い光が、彼女達の視界に映った。

 

「………」

「っ、姫……!?」

 

 その露になった姿に、サオリは思わず声を上げる。

 目の前に現れた人物、それはスクワッドのメンバー――秤アツコであった。

 アズサの爆発に巻き込まれ、所々負傷の跡が見え隠れしているものの健在。彼女は罅割れたマスクをそのままに、確りとした足取りでサオリの、スクワッドの元へと足を進めた。

 

「ひ、姫、どうして、私は既に撤退指示を出して――……!」

 

 アツコに手を伸ばし、そう告げるサオリ。既に彼女にはスクワッドが撤退を始めた事、ユスティナ聖徒会の戒律が捻じ曲げられた事、そしてその訂正は困難である事を伝え、一時拠点へと撤退する様指示を出していた。元より前線拠点で処置を受けていたアツコである、最寄りの拠点、或いはアリウスに撤退する事だって出来ただろう。その時間も、余裕もあった筈だ。

 だと云うのに彼女は、戦場に近いこの古聖堂地下へとやって来た。

 その事実にサオリは困惑と焦燥を露にする。

 

 彼女――アツコは震え、伸ばされたサオリの手を取り、静かに息を吸い込んだ。

 

「――もう、やめよう、サオリ」

「ッ!?」

 

 凛とした声が地下に響く。

 それは、サオリにとって――スクワッドにとって、衝撃的な行為であった。スクワッドの全員が息を呑み、アツコを凝視する。それは彼女の口にした内容ではない、アツコが――ロイヤルブラッドである彼女が言葉を口にしてしまったという、どうしようもない事実から来るものだった。

 

「ッ、姫!?」

「ひ、姫ちゃん……!?」

「だ、駄目だ、姫! 喋ると、彼女が――ッ!」

「大丈夫」

 

 狼狽するメンバーを見渡しながら、彼女は酷く落ち着いた声でそう云った。ボロボロになったサオリの手を優しく握り締め、彼女は緩く首を振る。

 

「もう、全部終わりだから」

「……終わり? 姫、それは、どういう――」

「どちらにせよ、彼女は私を生かしておくつもりは無いと思う、だから……もう良いの」

 

 その声には何処か、諦観とは別の感情が混じっている様な気がした。実際、それがどんな感情なのか、サオリには分からない。しかし、何処か柔らかく、優し気な色を孕むその声に、サオリはそれ以上言葉を重ねる事が出来なかった。

 

「もう、やめようサオリ」

「……やめる、って」

「もう戦うのは――苦しむのはやめよう」

 

 戦う事を――やめる。

 それは、マダム(主人)からの命令に背く行為だ。他ならぬ彼女からそんな言葉が出て来るとは思っていなかったサオリは、アツコの言葉に表情を歪めながら問いかける。

 

「やめて、どうする? アリウスに帰還するとでも云うのか……?」

「こ、こんな状況で帰還しても、きっと……」

「殺されるだろうね、私達は……まぁ、別にそれでも良いけれど」

 

 サオリの言葉に同調するミサキ、そしてヒヨリ。彼女達は知っている、任務を果たせなかった者の末路を。おめおめとこのまま逃げ帰って、待っているのは独房入りか、或いはリンチか、それとも処刑か。

 どちらにせよ結末は変わらない――大勢の生徒の前でヘイローを壊されるか、路地裏で徐々に壊れていくか、その程度の違いだった。アリウスにとって、マダムにとって、生徒とは『替えの効く部品』に過ぎない。どれだけ損耗しようが、どれだけ苦痛に喘ごうか、関係ない。

 

「ううん、だから……」

 

 そんな結末を、そんな未来をアツコは否定する。

 サオリの手を両手で握り直し、スクワッドの皆を見て、彼女は強い口調で云った。

 

「だから、皆で逃げよう……一緒に」

「………」

「え……?」

「に、げる――?」

 

 それは――サオリにとって、スクワッドにとって、選択肢としてすら思い浮かばなかった行動の一つであった。思わず呆然としたサオリの代わりに、ミサキは何処か呆れた様子で問いかけた。

 

「逃げるって――一体、何処に?」

「何処でも、アリウスじゃない、何処かに」

「……私達だけで?」

「うん、私達四人で」

「物資も、伝手も無いのに?」

「うん、でもきっと何とかなるよ、そういう生活には子どもの頃から慣れているでしょう?」

「それは……」

 

 小首を傾げるアツコに、ミサキは云い淀む。彼女の云う通り、食糧も寝床も無い生活には慣れている。幼い頃から似たような境遇で生き残って来た、その事を考えれば成長した体がある分、まだマシだとすら云える。しかし、だとしても困難な道である事は違いなかった。ヒヨリはアツコとミサキを交互に見つめ、それから苦り切った表情を浮かべるサオリを見て、俯く。

 

「た、確かに逃げたい気持ちはありますが、で、でも、そんなの……」

 

 呟くヒヨリの声は震えていた。それは恐怖と不安からだった。アリウスから逃げ出す――それは自分の居場所を捨て、どんな結末になるかも分からない逃避行。見知らぬ土地で野垂れ死ぬかもしれない、アリウスの追手に追い詰められ無残に殺されてしまうかもしれない。寧ろ、その可能性の方が高いと云える。その未来を思えば、易々と頷く事は決して出来なかった。

 

「アズサが、教えてくれた」

 

 ヒヨリのそんな言葉に対し、アツコはアズサを見て云った。

 

「いつからか持っていたコレは、私達の憎悪なんかじゃない」

「………」

「この憎しみを、私達は習った、それしか習わなかった、だからそういう風にしか生きられなかった――でも」

 

 そっと、アツコの視線が足元に落ちる。罅割れた仮面、そこから覗く片側の瞳だけが今自分の立つ場所を、暗闇と光の境界線を捉えていた。自分の背中に広がる暗闇、一歩前に進めば光が降り注ぐ場所へ。

 何より自分(アツコ)に足りなかったのは勇気(意志)だったのだと、彼女はそう強く感じた。

 

「そうじゃない生き方もあるんだって、アズサを見て思ったの」

「……アツコ」

 

 アズサは小さく、彼女の名を呟く。アリウスでは習わない事、習えない事。知れない事を、彼女は外の世界で学んだ。だからきっと、【正しい】のはそちらなのだ。学校とは、多分――そういう、色々な事を学ぶ場所の筈だから。

 

「アズサは外の世界で色々な事を学び、様々な経験を得た、良い大人に出会えたんだね、アズサ」

「――うん」

「サオリ、アズサは私達の所じゃない、自分の居るべき場所を見つけたんだよ」

「っ……」

「だからサオリ、皆で逃げよう――この場所から」

 

 ――アリウスから。

 

「………」

 

 沈黙が降りる。サオリはアツコに手を握られたまま、何も口に出せずに居た。それは彼女なりの葛藤であった。マダムに指示された禁を破ってまで彼女から口に出された提案――アリウスからの逃走。

 一度も考えた事など無かった。アリウスが、そこだけが、自分達の生きる世界だと思っていた。けれど、そうじゃない生き方があるのなら。まだ、別の結末が残っているのなら、それを選ぶ事も出来ると彼女は云う。

 こんな汚れ切った手でも、まだ――。

 

「わ、私は――」

 

 サオリは喉を震わせ、言葉を紡ぐ。其処には強い懸念と不安、そして罪悪の感情があった。確かにアツコの云う選択肢もまた、一つの道なのかもしれない。

 けれど、その道は。

 アリウスから逃げ出すと云う、その道は。

 それは――この罪悪(大勢を傷付けた責任)からも逃げる事になるのではないかと、そう思ったのだ。

 

「アツコ、私は――……!」

 

 サオリが顔を上げ、声を発した。

 彼女の選んだ決断がどんなものか、それが皆の耳に届く前に。

 

 ――凄まじい爆音が、直ぐ隣から鳴り響いた。 

 

「ッ、なに……!?」

「ひぇッ!?」

「ば、爆発!?」

「っ、先生、下がって!」

 

 それは、サオリ達の隣にあった内壁が吹き飛ぶ音であった。石壁に木材で補強された壁が、支柱諸共吹き飛ばされる音。破片や木片が飛来し、スクワッドの肌を強かに叩く。埃に塗れた粉塵が周囲に立ち込め、スクワッドの面々が、ヒフミが、アズサが、コハルが驚愕の声を上げる中、朧げな人影が突き破った壁を乗り越え――ゆっくりと姿を現した。

 

「あは――ッ!」

「ッ……!?」

 

 粉塵の中から響く、甲高い声。人影は周囲を見渡し、そしてアズサ達に守られる先生を見て――その口元を大きく歪ませ、哄笑した。

 

「あはははハハハアッ! 先生、先生だ……っ! 本当に先生だッ!」

「っ、聖園ミカ……!?」

 

 地下の内壁を粉砕し、皆の前に現れたのは――白く清廉な制服を身に纏う、聖園ミカ。

 彼女は愛銃を片手にぶら下げたまま、先生だけを凝視し、酷く嬉しそうに嗤っていた。

 

「報告が来た時は本当にビックリして、嘘か何かだと思ったんだけれど……! 万が一って事もあるし、私だけ持ち場を離れて此処まで来ちゃった……! でも、あぁ、まさか、本当にこんな事ってあるんだね……!」

 

 自身の手を頬に添え、一歩、二歩、先生へと歩み寄る彼女。その瞳は大きく見開かれ、目尻からポロポロと大粒の涙が零れ落ちていた。その様子からは、先生の生存を心から喜んでいる事が分かる。

 

 だというのに、何故だろう。

 

 一歩、一歩、彼女が近付く度に何処か、身の毛もよだつ様な危機感を煽られる。アズサが、ヒフミが、コハルが、強張った表情で愛銃を握り締める。その何処までも何処までも昏い瞳が――狂気染みた彼女の内面を露呈させていた。

 大きく歪んだ口元が笑みを象ったまま、安堵の息を吐く。

 

「あぁ、良かったぁ、生きていたんだ……! 本当に、本当によかったぁ――……!」

「ミカ――」

 

 先生が彼女の名を呼ぶ。それだけでミカは酷く嬉しそうに微笑む。へにゃりと力なく緩んだその笑みは、いつも通りの天真爛漫としたもので。

 

「――じゃあ、ソイツ殺すね?」

 

 ぐるりと、ミカの首が捻じ曲がり、サオリを捉えた。

 それは余りにも唐突で、脈絡なく、そして予測できない行動だった。

 

「ッ……!」

 

 その自身に向けられた瞳を直視した瞬間、ぞっと、サオリの背筋に悪寒が走る。

 否、悪寒程度では済まない、脊椎に氷柱を突き入れたかのような感覚が一瞬でサオリの身体を支配した。それは他ならぬ、彼女の第六感が告げる危険信号だった。幼少期より戦いのイロハを叩き込まれ、死が身近にあった彼女が磨いて来た生存本能。

 

 それに従い、咄嗟に腕を畳み、防御態勢を取れたのは奇跡だった。

 

 ドン、と大きな音が鳴ったと思った瞬間、聖園ミカ――彼女の顔が直ぐ其処まで迫っていた。周囲に居た生徒達に見えたのは、地面に残る踏み砕かれた破片のみ。

 同時に振り上げられた拳、それが空気を裂く音と共にサオリの脇腹へと着弾する。大気を揺るがす轟音、差し込んだ腕に凄まじい衝撃が走り、サオリの身体はくの字に折れ曲がった。

 

「ぐ、がァッ!?」

 

 拳一つとは思えぬ威力、まるで至近距離でロケット砲を喰らったような衝撃だった。両足が地面から浮き上がり、サオリの身体が玩具の様に水平に吹き飛び、直ぐ横合いの壁に叩きつけられる。丁度、倉庫か何かの小部屋に繋がる内壁であったらしい、石と木で補強されたそれに叩きつけられ、それを突き破ってサオリの肉体は隣の区画まで吹き飛んだ。響く破砕音、鈍い苦悶の声、朦々と立ち上がる埃を払い、ミカは嘲笑う。

 

「ッ、サッちゃん!」

「リーダーッ!?」

「さ、サオリさんッ!」

 

 直ぐ脇を凄まじい勢いで吹き飛び、壁の向こう側へと消えたサオリ。彼女の名を呼び、顔を蒼褪めさせるスクワッドのメンバー。補強していた木材、そしてコンテナに埋もれたサオリは、口と鼻から血を垂れ流しながら地面に蹲る。先程まで握っていた筈の愛銃が、直ぐ傍に転がっていた。手が痙攣し、真面(まとも)に動かない。

 

「ごほッ、お、ぐっ――……」

「あははははッ! 良い気味だねサオリ? どう、冷たい地面の味は? 美味しい? 今の感触だと、骨も折れちゃったかなぁ?」

 

 そう云って今しがたサオリに叩き込んだ右拳を開き、握り、その動作を繰り返し、殴りつけた時の感触を反芻するミカ。見ればサオリの腕、ミカの打撃を防御した左腕は、青紫色に腫れ上がり、あらぬ方向を向いていた。弾丸程度ではビクともしないキヴォトスの生徒、その肉体を拳一つで粉砕する――それは一体、どれ程の力があれば為せる事なのか。それを見たヒヨリは、ぞっと肩を震わせた。

 

「ミカ……ッ!?」

 

 唐突な蛮行に呆気に取られていた――しかし、これ以上は拙い。

 先生は思わず叫び、急ぎ彼女の元へと駆け寄ろうとした。しかし、その前に立ち塞がり、背中で先生を抑える影があった。アズサだ、彼女は本能的にミカの脅威を感じ取り、先生を彼女の元へと行かせない様に動いた。

 

「っ、アズサ……!?」

「駄目だ……駄目だ、先生っ!」

 

 その頬に冷汗が流れる、聖園ミカは潜在的に此方の味方だと頭で理解していながらも、彼女のその表情が、行動が、余りにも攻撃的過ぎて、その拳が先生に振るわれる事をアズサは恐れたのだ。

 

 勝てない――アズサの本能が叫ぶ。

 

 それはアズサの、兵士としての本能だった。戦術や技能どうこうではない、肉体的なスペックが余りにも違い過ぎる。幼い頃よりアリウスで育ち、幾度も痛めつけられ、地面を這った仲だからこそ分かった。サオリの身体は頑強である、それこそライフル弾の弾倉を丸々一つ撃ち込まれても行動が可能な程度には鍛え抜かれている。

 そのサオリが、拳で一発だと――?

 

 まるで悪い夢でも見ている気分だった。ゲヘナ風紀委員長、正義実現委員会の委員長、アビドスの副生徒会長、ミレニアムのC&Cリーダー、アズサが本能的に勝てないと感じる生徒は僅かだが存在する。彼女もそれに類する存在、或いはその精神性、攻撃性を考えれば凌駕さえし得る。

 

 いいや、いいや違う――重要なのはそこではない。

 アズサはミカを凝視し、想った。

 

 ――聖園ミカは、あの瞬間、相手を殺すつもりで(最後の一線を越えるつもりで)拳を振るっていた。

 

 アズサはサオリと対峙した時、何度も、何度も何度も、「お前を殺す」と口にしていた。それは相手に対する憎悪の発露でもある、けれど何より、「自分はこれから、殺人という大罪を犯すのだと」云い聞かせる為の儀式でもあった。人を殺すという覚悟を持つ事は、その意思を持つ事は生半な事ではない。だから自分に云い聞かせ、その覚悟の輪郭を何度も再確認するのだ。そうしなければ、殺人という罪悪の前に心が、精神が摩耗し、折れる。

 

 だと云うのに、目の前の彼女は何て事のないように、まるで日常の一幕の様に、ごく自然に相手を殺そうとしていた。その、余りにも異質な精神性が、その在り方が、アズサには何よりも恐ろしく映ったのだ。

 

 ミカは残ったスクワッドの面々をぐるりと眺め、それからゆっくりと先生に視線を向けた。そこには何処か恥ずかしがるような、気まずそうな色があって。

 まるで乙女の様に頬を掻いた彼女は、はにかみ、告げた。

 

「あはは、うん……ごめんね、先生」

 

 ミカは静かにスカートを翻し――その姿が掻き消える。

 否、ただ先生の動体視力で捉え切れぬ程の速度で動いただけだ。まるで影の様に、けれど的確に動く彼女の残影、先生にはそれを捉えるのが精一杯だった。

 

「ぐぅッ!?」

「あぅ……っ!?」

「ッ……!?」

 

 ミサキ、ヒヨリ、アツコを順に掴み、力にものを云わせて崩れた壁の向こう側へと投げ込む。コンテナ同士がぶつかる金属音、そして木製の何かが粉砕される音が鳴り響き、最後にミカは自身も壁の内側に立ち、愛銃を構え――粉砕した内壁を支える、直ぐ傍の支柱に狙いを定めた。

 先程の一撃で亀裂が入り、半ば折れ曲がったそれは銃弾一発でも粉砕されてしまうだろう。それが分かっているからこそ彼女は其処に銃口を向け、小さく微笑んだ。

 

「――ちょっとだけ、目を瞑っていてね?」

 

 銃声、マズルフラッシュ――そして支柱が折れ曲がる破砕音。途端、内壁と天井の一部が崩れ落ち通路を封鎖する。鳴り響く轟音と肌を撫でる風、鼻腔を擽る埃の混じった粉塵に噎せ返りながら、ヒフミは叫んだ。

 

「げほっ、コホッ、か、壁が……!?」

 

 目前に横たわる、無数の瓦礫。ミカの突破した内壁を埋める様にして崩れた天井と壁が行く先を封鎖している。これでは通る事は出来ない。コハルが慌てて壁に駆け出すも、僅かにある隙間すら通る様な余裕は存在せず、巻き上がった粉塵から向こう側を覗く事も出来なかった。

 

「ど、どうしよう……!?」

「っ……」

 

 コハルが動揺の余り声を震わせ、アズサはくしゃりと表情を歪ませる。放っておく事は出来ない、しかし――。

 

「ッ、アロナ――?」

 

 逡巡する先生の視界に、ふと青い光が過った。それは青白い軌跡を描きながら、地下の奥――暗闇の向こう側へと進んでいく。先生はハッとした表情でそれを見つめ、彼女の名を呟いた。他の生徒がその光に気付く事は無い、であればこれは彼女が自分に向けたメッセージに他ならない。懐に仕舞い込んだタブレットを強く抱きしめ、先生は駆け出す。

 

「えっ、あ、先生ッ!?」

「せ、先生!」

「ちょ、ちょっと!?」

 

 駆け出した先生、その背中を捉えた三人が叫ぶ。その進行方向にはスクワッドの進もうとしていた道がある。しかし、先生がミカを放っておくとも考えられない。であれば、先生は迂回路を見つけたのだ――そう考えたアズサは、思わず焦燥を滲ませ声を荒げた。

 

「先生、隣の区画は危険だッ! 今の衝撃で、いつ崩れ落ちても……――!」

「ミカを止めなくちゃ駄目だッ! 彼女を――ミカを人殺しにさせる訳にはいかないッ!」

 

 叫び、暗がりへと消える先生の姿。シャーレの白は黒の中に飛び込み、軈て見えなくなる。それを見つめていたアズサは歯を食い縛り、愛銃を抱えて駆け出した。靴音が地下に響き渡り、鼓膜を叩く。

 

「あ、アズサちゃん!?」

「先生を一人で何て行かせられないっ! 行こうッ!」

「っ、わ、分かったわよ! ひ、ヒフミッ!」

「あ、は、はいっ!」

 

 先生の背中を追って暗がりに飛び込むアズサ。ヒフミの手を引いて、その後に続くコハル。三人の足音が周囲に響き、軈て反響だけが木霊する。

 

 騒動の決着は、直ぐ其処まで近付いていた。

 


 

 ・よわよわミカ

 セイアちゃんを殺しちゃったと思って道を転がり落ちている最中のミカ。人を殺すつもりなんてないし、何処かで罪を裁かれたがっていた側面がある。拳で壁を粉砕なんかしないし、ちゃんと銃を使って戦う。ティーパーティーの淑女が拳で戦うなんて、そんな事する訳ないじゃんね?

 

 ・涙目ミカ

 先生を傷付けてしまった為、メンタルに消えない傷を負ったミカ。基本的に戦う事は無い、自分を責めながら独房の中でずっと泣いている。親友や友人の前では虚勢を張り、何でもないかのように振る舞うも、その心はズタボロで、その罪悪を噛み締めて生きている。先生に対して並々ならぬ感情を抱いているも、どんな顔をして会えば良いのか分からなくてずっと避けていた。一般生徒にも負ける程に落ち込んでいて、戦闘力は皆無。

 

 ・激昂ミカ

 先生が殺されたと知って、全部が全部どうでも良くなったミカ。結局先生に礼も、謝罪も口にできず、自分の大切なものが全部無くなってしまったと思い込んだ末路。自分が云う権利は無いと理解しつつも、大切なものを全部奪っていったアリウス、サオリ、スクワッドに対して尽きぬ憎悪を燃やしている。仮にそれが元に戻ったとしても、また奪われるかもしれないという強い猜疑心が彼女の肉体を突き動かし、その息の根を止めるまで止まれない。だって自分ばかり奪われて、相手が何も奪われないなんて、そんなの平等じゃないもんね? 立ち塞がる全てを拳で粉砕する。銃とかは偶に使う位、でも多分殴った方が早い。

 

 ・覚醒ミカ

 自身の罪悪と向き合い、その憎悪と不安を呑み込んだ果てに到達するミカ。つまり光のミカ。は? ミカは全部光だが? それはそれとして、本編で「(いの)るね――」に至ったミカの事。因みに憎悪の方は、「()るね――」になる。

 分岐したり進化したりする。これに至れるかどうかは先生達次第。失敗すると4thPVの殺人の果てに涙を流すアズサが、ミカに変わる。エデン条約後編、ベアトリーチェ決戦までは激昂と覚醒の間を往ったり来たりするんじゃないかなぁ。

 

 ・究極のミカ(アンブロジウスをワンパン)

「私の王子様に、何しているの――?」

 



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崇高(レプリカ)調(しらべ)

誤字脱字報告助かりますわ~!
日付超えて申し訳ありませんの!


 

 立ち昇る粉塵、それらを軽く払い退け、崩れ落ちた天井、内壁、積み上がった瓦礫を見つめながらミカは静かに銃口を下げる。

 これでこの部屋は完全に中央区画から遮断された。差し込んでいた光が消え、室内は頭上にぶら下がる電球のみが頼りだった。剥き出しのケーブルが揺れ、ミカとスクワッドの表情を不規則に照らす。

 

「――まぁ取り敢えずこれで、こっちには来れないかな」

 

 呟き、ミカは指先を頬に当てながら思案する。古聖堂地下に関しての地形情報は曖昧だ。地上ならばまだしも、地下とカタコンベ周辺は調印式で使用される予定も無いと修繕される事もなく放置されていた経緯がある。複雑なカタコンベへと繋がっているこの場所はシスターフッドやティーパーティーですら詳細な地図は保有していない。

 表層部分ならばマッピングもされているかもしれないが、先生がその情報をピンポイントで持っているかどうかは怪しい所だった。少なくとも、一瞬で最適なルートでも割り出さない限りは相応の時間が稼げるだろう。周囲に漂う粉塵を手で払いながらミカは満足げに頷き、静かに踵を返す。

 

「ぅ、ぐッ……!」

 

 地面に横たわり鼻と口から血を流すサオリは、振り返ったミカを見上げながら顔を顰める。口を覆っていたマスクは、先の一撃を受けた際に何処かへと吹き飛んでしまった。だからこそ、自身を見上げるサオリの顔に僅かな恐怖が滲み出るのをミカは見逃さなかった。

 

「ふふっ、なぁに、そんな――魔女でも見たような顔をしてさ?」

 

 足元にあった木片を踏み砕き、一歩を踏み出す。ミカは自身の口元が歪な三日月を描くのを自覚していた。

 サオリは小刻みに呼吸を繰り返しながら、素早く視線を左右に散らす。自身の愛銃を探したのだ。しかし、愛銃はサオリから少し離れた場所に転がっていた。木片と瓦礫に覆われたそれは、万全の状態ならばすぐ傍、ほんの数歩先程度に過ぎない。

 しかし、殆ど身動きが取れない今の状態から手に取るには余りにも険しい道のりに見えた。それでも諦める事は出来ず、サオリは折れ曲がった左腕をそのままに、辛うじて動く右腕を伸ばし前へ、前へと体を引き摺る。

 

「それにしても、随分弱っているね? たった一発でこのザマなんて……もう少し気張ってくれないとさ、甚振り甲斐がないじゃんね?」

「い、ぎッ……ッ!」

 

 しかし、伸ばした指先が愛銃に触れる事は無かった。

 軽い足取りでサオリの元へと足を進めたミカが、サオリの折れた左腕を徐に踏みつけたのだ。その痛みと衝撃に、思わずサオリは声を漏らし、身体を硬直させる。痛みには慣れていた筈だった、しかし完全に折れたそれを踏みつけられる痛みはまた、通常のそれとは別種の痛みがあった。

 

「ねぇ、さっきさ、ちょっとだけ聞こえたんだけれど……逃げる、とか云ってなかった?」

「っ、サオリ姉さん(リーダー)から、離れろ――ッ!」

 

 ミカに投げ込まれ、コンテナに衝突し一瞬意識を飛ばしていたミサキは、圧し掛かっていたそれらを強引に押し退け、立ち上がる。愛銃(セイントプレデター)は使えない、こんな場所で爆発を巻き起こせば諸共生き埋めになる可能性がある。故に仕掛けるのは白兵戦。ミサキは拳を握り締めると、ミカ目掛けて駆け出し、勢い良く拳を振り抜いた。

 

「ッ、よせっ、ミサキ……!」

 

 ミサキの白兵戦の能力は決して低くはない、腐ってもアリウス・スクワッド。困難な選抜試験を潜り抜け、幼少より積まされた過酷な訓練は通常の生徒とは異なる体捌きを実現させる。ミサキの包帯が巻き付けられた拳、それが風を切る音を鳴らし、ミカの後頭部へと迫る。

 しかし、余りにも無謀だった。

 サオリの声が届くより早く、ミカの姿が掻き消え、ミサキの振り抜いた拳が虚空を切る。驚愕を貼り付け、息を呑んだ瞬間――下から抉る様な拳がミサキの腹部を打ち抜いた。臓物が持ちあがる感覚、肋骨が軋み、ミサキの口から濁った悲鳴が漏れた。

 

「あ、ぐッ!?」

「あははッ、無理、無理☆」

 

 まるで背中に目がついているのかと思う程、完璧に見切られた。ミサキの打撃を身を屈めて避け、そのまま膝のバネを利用したボディフックを一発。横合いから到来した衝撃は、ミサキの身体を突き抜け凄まじいダメージを齎す。想像を絶する痛みと衝撃に脳が危険信号を発し、ミサキの身体が石の様に硬直した。

 折れ曲がった体、そこに追撃する形でミカの裏拳が突き刺さる。まるで撫でる様に、しかし側頭部目掛けて放たれたそれは、余りにも軽い動作に反し轟音を打ち鳴らし、ミサキの身体を後方へと吹き飛ばす。

 再び崩れたコンテナに叩きつけられたミサキは、悲鳴ひとつ上げる事も無く金属と木片の山に埋もれて消えた。その様子を薄らと笑みを浮かべながら見届けたミカは、サオリを見下ろしながら口元を歪める。

 

「はーぁ、全く、こんな事をしでかしておいてさ、先生に消えない傷まで刻んどいて、逃げるとか、何云っちゃっているの、って感じじゃない? 笑っちゃうよねぇ」

「っ、み……ミサキ……!」

「――逃がす訳ないじゃん」

 

 ミカの足が、再びサオリの腕を踏みつける。

 メキリと、嫌な音が響いた。

 

「ぐ、がぁあアッ!?」

「サオリ、云ったよね? 私、もう止まらないって――落としどころなんて存在しないって、徹底的に、どっちかが壊れるまで殺し合うんだって……それはね、先生が生き返ったから無かった事になんてならないの、分かる?」

 

 脂汗を流し、血に塗れたサオリの頬を覗き込み、ミカは告げる。

 

 ――その罪悪(先生を害した罪)は、決して消えないのだと。

 

 聖園ミカの罪悪も。

 錠前サオリの罪悪も。

 例えそれが償える罪であろうと、償えない罪であろうと、他者を傷付けた罪悪が消える事はない。その罪悪を、自分達は一生背負って生きていくのだ。生きていかなければならないのだ。

 

 だと云うのに――。

 

「ましてや、そんな罪を犯しておいてさぁ……これだけ周りを滅茶苦茶にしておいて、私の人生を全部変えておいて、その償いも、罪を雪ぐ事さえしないで、自分達だけ逃げる……? あははッ、なにそれぇ! 面白いねぇ!」

「い、がッ……!?」

 

 二度、三度、ミカは繰り返しサオリの左腕を踏みつけた。その度にサオリは悲鳴を上げ、十分に痛めつけた感触を得たミカは、そのまま彼女の頬を軽く蹴飛ばす。跳ねあがったサオリの頭部を踏みつけ、地面に叩きつけると同時、冷酷な眼差しと共に吐き捨てた。

 

冗談(ジョーク)じゃないのなら、尚更笑えないよ、サオリ」

「ぅ、ッ、ぐ――……」 

 

 意識が、朦朧としていた。

 冷たい地面に押し付けられながら、サオリは暗転しそうになる視界を必死に保つ。今だけは痛みが、その冷たさが、サオリの意識を途切れさせまいとプラスの方向に機能していた。必死に歯を食い縛り、荒い息を繰り返すサオリ。そんな様子の見つめるミカは、笑みを浮かべながら口を開く。

 

「大丈夫だよ、安心してねサオリ? 直ぐにヘイローを壊すような真似はしないから! 目の前でひとりずつ、あなたの仲間を壊してあげる! 同胞が目の前で一人ずつ喪われていく様を眺めていてよ……!」

「っ……!?」

 

 狂った様に笑うミカの瞳が、サオリ以外のスクワッドメンバーに向けられる。倒れたミサキを介抱していたアツコ、隅っこで縮こまり震えていたヒヨリ、アツコの腕の中で未だ抜け切らない衝撃に苦しむミサキ。

 それぞれが顔を顰め、悲鳴を呑み込むのが分かった。

 

「ひ、ひぃッ……!」

「ぐッ……!」

「っ……!」

 

 勝ち目は――無い。

 ただですら消耗していたスクワッド、それに加え聖園ミカの戦闘能力は群を抜いている。ティーパーティーに於いて、異常とも云えるその武力の高さは、アリウスの情報部をして『スクワッドが万全かつ、トラップが機能する状態で漸く勝ちの目があるかどうか』と云わしめる程。しかし、こうして全力の彼女と対峙して、スクワッドは認識を改めた。

 勝ち目云々の話ではない――この女に挑むのは、無謀だ。

 

 ミカの足がサオリの頭部から離れ、地面を踏み締める。そして彼女は、実にゆったりとした動作でスクワッドの皆の方へと足を進めた。その恐怖を煽る様に、或いは甚振る様に。

 

「っ、ひ、ひぃいッ……!」

「下がって、ヒヨリ!」

 

 ガンケースを抱えたまま涙を流して震えるヒヨリに向かって叫び、ミサキを引き摺りながら銃口を向けるアツコ。彼女の愛銃、スコルピウスは近距離戦闘に重きを置いたSMG。この距離で全弾撃ち込めば、大抵の生徒は無力化出来る筈だった。

 しかし――。

 

「へぇ、そんな豆鉄砲でどうするつもりかな? 別に撃っても良いけれど、多分無駄だと思うよ? そっちのヒヨリの愛銃(対物ライフル)だったら、少しは痛いかもしれないけれど……」

「ッ……!」

 

 銃口を前に、何処までも自然体を貫くミカ。その表情からは、向けられた銃を欠片も脅威と思っていない事が分かった。

 その挑発的な言動に、アツコは即座に決断する。どちらにせよ、このまま無抵抗で接近を許せばどうなるか火を見るよりも明らか。ならば僅かでも抗うしかない。そんな思考と共に、アツコは引き金に掛けた指を絞り切った。

 途端、部屋の中に閃光が瞬き、銃声が轟く。確かな反動と共に硬い地面へと空薬莢が次々と流れ落ち、甲高い音を鳴らした。

 そして、閃光の向こう側で薄らと笑みを浮かべたまま、着弾の衝撃に身を揺らすミカ。

 射撃時間は、ほんの三秒足らずの間だった。その間に撃ち込まれた弾数は三十発、微かに立ち昇る硝煙の向こう側、其処に立つ彼女は自身の胸元から零れ落ちる弾丸を見下ろしながら――嗤う。

 

「――だから無駄だって云ったじゃん」

 

 防御もしなければ、避けもしない。

 無防備に突っ立ったまま、その身体には傷らしい傷が一つとして刻まれていない――弾丸は、その衣服に僅かな汚れと裂け目を作るのみで、当の本人は何事も無かったの様に超然と佇んでいた。

 

「そ、んな――……」

 

 思わず、アツコの口からそんな声が漏れる。例え9mmとは云え、これほどの至近距離で弾倉丸々一つ、腹部から胸部に撃ち込まれて平然とするなど。それこそ正義実現委員会の委員長や、それに比肩する頑強さを誇る生徒でなければ不可解な現象である。ミカは胸元に着弾し、潰れたまま張り付いた弾丸を数発、払う様に手で地面に落としながら再びその歩みを再開した。

 罅割れたマスクの向こう側に見える、その絶望に塗れた瞳を覗き込みながら、ミカは薄らと唇を舐める。

 

「あははっ、良いね、その顔? とっても似合っていると思うよ! それで、抵抗はこれでおしまい? 出来る事は全部やった? もう後悔はない? それじゃあ……」

 

 一歩、ミカが踏み出す。散らばっていた木片を踏み潰し、圧し折れる音が周囲に響いた。アツコがミサキを抱き締めたまま後退り、思わず身を竦ませる。

 

「――今から、ヘイローを壊す(殺す)ね?」

 

 その、スクワッドにとって絶望的な宣告と共に迫る影。

 軋み、揺られる電球が頬を照らし、その背後に濃い暗闇を映し出していた。無造作に掴んでいた愛銃を肩に担ぎ直しながら、ミカは緩慢な動作で足を進める。

 殺す時は、銃なんて大層なものは使わない――この手で縊り殺すと、そう決めていた。

 

「……?」

 

 しかし、踏み出した一歩、その足を引っ張る何かがあった。

 ほんの小さな引っ掛かり、力を込めれば簡単に振り切れてしまいそうなソレ。

 ミカが足元を見下ろせば、自身の足首に絡む指先。

 見ればサオリが息も絶え絶えになりながら必死に腕を伸ばし、ミカの足首を血に濡れた手で掴んでいた。

 白いタイツがサオリの血を吸って赤黒く染まる。か細く震える指先が、サオリの呼吸に合わせて足を握り締める。

 

「や――」

「ん~?」

 

 ミカの口元が、大きく歪んだ。肩で息を繰り返しながらミカを見上げたサオリは、睨みつけるような視線と共に、血を吐き出しながら叫ぶ。

 

「や、めろ……ッ!」

「あは――アハハッ!? なに~? 聞こえな~いッ!」

 

 その、脅迫とも懇願とも取れる言葉に。

 弾む様な声を上げ、ミカは軽く足を振り上げる。

 たったそれだけの動作で、サオリの手は簡単に振りほどけてしまった。そのまま這い蹲り、再度手を伸ばしてくるサオリの前に屈み込み、ミカはその傷だらけの顔を覗き込む。星が浮かぶ煌びやかなミカの瞳に、血と埃に塗れたサオリの顔が反射していた。

 

「っ……!」

「ふふっ、あなた達も仲間は大切なんだね? 取り敢えず身近な連中からって考えていたけれど……うん、そうだよね、どんな人にも大事な存在っているよね! 私にも居たから分かるよ! ――あなた達が殺そうとした、セイアちゃんと先生の事なんだけれどさ!」

 

 その、状況に似合わぬ弾んだ声に。

 サオリは今日何度目かも分からぬ悍ましさを感じずにはいられない。当の本人はそんなサオリの感情など気にも留めず、饒舌に言葉を紡いでいた。

 

「知っている? セイアちゃんってさ、人を怒らせる天才なんだよ! 何回グーパンが出そうになったか分からない位! でも、普段は嫌な奴って思っているのに、いざ怪我をしたら心配になって、大丈夫かなって不安になるの――先生の時なんかは、特にそうだった」

 

 呟きながら、ミカは溌剌とした笑みを浮かべる。ミカとセイアは、基本的にウマが合わない。元より価値観も、趣味も、その生き方そのものがズレているのだ。セイアは理屈で生きる生徒で、ミカは感情で生きる生徒だった。それは水と油の様に反発し合い、互いに理解し合えないのも当然の事だとミカは考えていた。当時のセイアも、そしてミカも、互いに歩み寄る姿勢すら見せなかったのだから当たり前だ。

 その丁度中間がナギサだった。

 理屈っぽいのに、どこか感情的。だから彼女はミカとも、セイアとも適度な距離を保っていられる。どちらかに振り切っている生徒同士、この絶妙な三角形の関係図が当時のティーパーティーだった。

 

 けれど、それでもミカは彼女を――セイアを友人だと思っていたのだ。

 たった三人だけのティーパーティー、それぞれが各々の派閥代表としての責任と権威ある立場で。そんな中で何の打算も、ましてや対等な立場から物を云い合える相手は貴重だった。

 だから、少しだけ困らせるつもりだったのだ。

 ほんの、悪戯をする程度の気持ちだったのだ。

 一緒に少しだけ悪い事をして、その秘密を共有して、それで仲良くなる様な――そんな些細で、子ども染みた悪戯だと思っていたのだ。

 

「死んだって聞いた時は、凄く……凄く辛かったんだよ? 変だよね、セイアちゃんと話すだけでイライラしていたのに、いざそうなったって聞くと、ちっとも嬉しくなくてさぁ……そりゃあ、セイアちゃんの性格は嫌いだったよ、それは嘘じゃない、訳分からない事ばっかり云うし、私の事を馬鹿にしてくるし、でも私にとっては大切な人だった――死んで欲しい訳じゃなかった、人殺しになるつもりもなかった……」

 

 声は、どんどん沈んでく。瞳に輝く星が形を顰め、代わりに何処までも深い色が滲み出す。伸ばされた指先が、サオリの髪を無造作に掴む。這い蹲ったまま顔を無理矢理引き上げられたサオリは、痛みに顔を顰めながら息を呑んだ。

 

「ぅ、ぐ……」

「私はさぁ、あの時、ちょっと痛い目に遭わせてって云ったよね? 誰が、いつ、どこで、ヘイローを壊せなんて云ったのかなぁ? ねぇ、サオリ!?」

 

 髪を掴んだまま、ミカは無造作に拳を振り上げ、サオリの頬を横合いから殴りつける。肉を打つ生々しい音が響き、骨が軋む音がサオリの耳に届いた。そのまま横合いへと転がったサオリは、崩れたコンテナに衝突し甲高い音を周囲に響かせる。最早、悲鳴を上げる体力さえも残っていなかった。

 諸共転がったコンテナにぐったりと寄り掛りながら、サオリは俯き血を垂れ流す。黒と青の混じった髪が光に照らされ、鈍い輝きを放っていた。

 

「ぅ……ぁ――……」

「挙句の果てに、先生に、あんな、あんな傷まで付けてさぁ……! あなた達は、私の大切なモノっ、全部、全部……ッ!」

 

 コンテナに寄り掛り、か細い息を繰り返すサオリを睨みつけながら、ミカは自身の髪を掻き毟る。何度も何度も、自身の足元を蹴り飛ばし、息を弾ませながら、彼女は叫ぶ。サオリは酷い青痣の残る顔を緩慢な動作で持ち上げ、ミカを見た。

 最早、呼吸一つでさえ苦しい程。そんな彼女の閉じかけた視界の中に、暗闇の中でぼんやりと光る、ミカの血走った瞳が映った。

 

「あなたも私から奪ったよね、沢山、沢山……! なら、サオリ、あなたも私から奪われるべきだよ……ッ!」

「っ……」

「だって――それで漸く平等なんだから……!」

 

 そう云って再びサオリへと向かってくるミカ。これ以上は拙いと、アツコが、ミサキが、ヒヨリが、声を上げようとした。アツコはミサキを抱き締めながら再び銃を取り、ミサキは未だ揺れる視界の中で愛銃に手を伸ばす。自爆覚悟の生き埋めであれば、まだ可能性はあるかもしれないと。ヒヨリはガンケースを強く抱えながら、震える指先でその留め具を弾いた。可能性は限りなく低い、けれど見殺しには出来ないと――各々がサオリの為に、仲間の為に抗う意思を見せる。

 

 けれど、それを止める者が居た。

 それは、他ならぬサオリ自身であった。

 

 ――目に映るのは、朧げな意識であっても尚体が動く程に繰り返した、(アツコ)の為のハンドサイン(手話)

 

 コンテナに寄り掛ったまま、サオリはゆっくりと、けれど確実に。

 震える指先を動かし、スクワッドの面々へと意思を伝えた。

 

『囮』

『攻撃不許可』

『撤退命令』

 

「ッ……!?」

 

 アツコが、ミサキが、ヒヨリが、息を呑む。それは、自身を囮にしての撤退指示。自身を切り捨てて、スクワッドは逃げろと彼女は告げていた。

 薄らと、サオリの口元が笑みを象る。それは影になって良く見えない、狙撃手であるヒヨリだけが、その目の良さから気付く事が出来た。

 

 続けて送られるハンドサイン、意味は『東』、『通路』、『封鎖』――皆の脳内に、カタコンベへの地図が浮かぶ。この地下を利用しトリニティ自治区へと攻め入った彼女達は、周辺のカタコンベへと通じる通路を全て把握している。確か、この周辺の通路の一つにカタコンベへと通じる道が一つあった、薄暗く、細く、だからこそ見つかり難い秘密通路の類だ。内部から隔壁を降ろすか、通路を爆破して埋めてしまえば、さしものミカであっても追ってはこれないだろう。

 サオリは暗に、その行為を示していた。

 

「っ、そんなの――……」

「ミサキ……!」

 

 ハンドサインの意味を汲み取ったミサキが、思わず声を上げる。しかしアツコは、そんな彼女の身体を抱き締め、息を潜めた。この機会を逃せば、本当に全滅するしかない。その具体的な未来が、アツコの身体をその場所に縫い付けていた。その目元から涙が零れ落ちる、それは自分自身に対する失望と、悔しさから来るものだった。

 大切な仲間を見捨てる事は出来ない、けれど同時に手を差し伸べて全滅する道も選べない。そんな優柔不断な、中途半端な道の只中で迷う事しか出来ない自分に、涙が溢れたのだ。

 決断しなければならなかった、今すぐにでも。

 見捨てるか、戦うか(全滅するか)

 

「ぅ、ぁ……あ……」

 

 ヒヨリは、留め具の外れたガンケースの蓋に手を掛けながら、その視線を泳がせる。瞳はアツコとをミサキ、そしてサオリの間を何度も往復していた。戦う事は怖かった、抗う事は恐ろしかった、けれどリーダー(サオリ)を見捨てる事は、もっと恐ろしく感じた。

 そうこうしている間にもミカはサオリの直ぐ傍に立ち、コンテナに凭れ掛かる彼女を見下ろす。そして力なく自身を見るサオリに無邪気な表情を晒しながら、何でもない事の様に告げた。

 

「でも、取り敢えず、逃げられても癪だから……」

 

 その足が、静かにサオリの左足を踏みつける。丁度膝の部分を、優しく、しかし確かな力を以て押さえつけ、嗤った。

 

「――手始めに、この足一本(左足)、折るね?」

 

 嬉々として、けれど確かな憎悪を込めて。

 ミカの足が、無造作に持ち上げられ――。

 

「っ、姉さん……!」

「サッちゃん!」

「さ、サオリさんッ!」

 

 思わず、スクワッドの面々がなりふり構わずミカに挑もうと、その身体を傾かせた瞬間。

 

「ミカァッ!」

「っ……!」

 

 彼女達の声を掻き消すような、飛び切りの怒声が部屋の中に響き渡った。びくりと、ミカの肩が大きく震える。目を大きく見開いた彼女は、足を持ち上げたまま恐る恐る振り返る。

 

 その視線の先には――荒い息を繰り返す、先生の姿があった。

 

 額に大量の汗を流し、無くなった左袖を揺らしながら。酸素不足から僅かに青の混じった顔色を晒し、先生は荒い息を繰り返す。そんな状態で彼は気丈にも、その二本の足で立っており、片側だけとなった瞳は真っ直ぐミカを射貫いていた。

 

「……先生?」

 

 思わず声が漏れる。それは驚愕と、困惑の滲んだ声だった。薄暗い通路、複雑な地形、まさか、この短時間で此処までのルートを割り出して辿り着いたのか。それはミカにとって大きな誤算であり、未だ彼と対峙する心構えも、何もかもが出来ていなかった彼女は大きく動揺し慄いた。

 

「何で、先生……どうやって」

「はぁッ、はぁっ、駄目だよ、ミカ……!」

 

 疲労を隠しきれず、覚束ない足取りで先生は一歩ずつミカへと近付く。恐らく中央区画から止まらず、全力で駆けて来たのだろう。蒼褪め、途切れ途切れの言葉を紡ぎながら先生は足を進める。

 腫れ上がり、痣だらけになった顔でサオリは、そんな先生を見上げ呟いた。

 

「っ、せ……ん、せい――」

 

 口の中が切れて、上手く言葉が出ない。ミカは持ち上げていた足を降ろし、少しずつ近付いて来る先生を見つめながら問いかける。その面持ちは、影になって良く見えない。

 

「……何で、止めるの? だってスクワッドは、先生の腕と眼を奪ったんだよ? その前にも、先生に爆弾を投げつけたのだってサオリなんでしょ? 私、知っているよ、ハナコちゃんに教えて貰ったんだから……サオリは、スクワッドは、先生にも、セイアちゃんにも、酷い事を一杯した……なのに、どうして――」

「それでも、私はそんな事は望んじゃいない……!」

 

 ミカの何処か、怨念すら籠っている様に感じた声に、先生は応える。力強く、はっきりと。じんわりと、先生に巻き付けてあった包帯に赤が滲み始めた。激しい運動に傷口が開き痛みがぶり返して来るのが分かった。

 しかし、それを顧みる事無く、先生は声を張り上げる。

 スクワッドの為に、何よりも――ミカ自身の為に。

 

「それは駄目だよ、ミカ……! ソレ(殺人)だけは、絶対に駄目だ……!」

「先生――」

 

 息も絶え絶えになりながら、必死にそう訴える先生を前に、ミカは言葉が紡げなくなる。それが、アリウスだけを想っての言葉だったのなら、ミカは悲し気に微笑みながらも足を振り下ろす事に躊躇いは無かっただろう。

 けれど、先生の瞳は真っ直ぐミカを捉えていて。それが、自身(ミカ)を想っての言葉なのだと、腹の底からそうである事を痛烈に感じたからこそ、ミカは動けなくなった。

 先生の顔が悲壮に歪み、切実な、訴えるような声が鼓膜を揺らす。

 

それ(殺人)は、ミカが辛くなるだけだ……!」

「っ……!」

 

 人を殺すという事。

 その罪悪を背負うという事。

 余りにも暗く、重いそれに潰されてしまわない様に。そんな重荷を、背負わない様に。先生は必死に叫ぶ、声を上げる。その優しさが、思い遣りが、ミカには痛い程伝わっていた。

 

 嗚呼、それでも――。

 

 先生は、彼女達の事()庇うのだ。

 

 嘗て、自分にそうしてくれたように。

 その身を削ってまで。

 そんなに、必死になりながら。

 

 自分に向けられた言葉なのは分かった、理解していた。だからこそ、その想いの中にサオリが、スクワッドが含まれている事に気付いた。それはミカの醜い独占欲の為せる業か、或いは同族嫌悪(共に庇われた者による共感)によるものか。

 先生は確かに(ミカ)を想ってくれている。

 けれど、同時にスクワッド(他の生徒)も想っている。

 

 ――その愛が、私だけに向けられたものであったら良かったのに。

 

 そう思った瞬間、自分でも分からぬ、乾いた笑いが胸の奥より込み上がって来た。

 

「は、ははっ……あははっ、あぁ、本当に、もう――」

 

 呟き、ミカは顔を覆った。

 それは自嘲に等しい、その醜く歪む自身の顔を見られたくなかったからだった。揺れる電球に照らされた周囲は薄暗く、ほんの数メートル先であっても顔を確り確かめる事は出来ないと分かっているのに。

 ミカは顔を覆いながら、小さく囁く様な声で云った。

 

「――救えないなぁ」

 

 それは、醜い自分に向けられたものだったのか。

 それとも今尚、全てを擲って生徒の為に抗い続ける先生に向けられたものだったのか。

 ミカ自身にも、分からなかった。

 

「……うん、でもまぁ、先生ならそうするよね、先生は生徒皆の味方だから」

 

 納得は出来なくとも、理解は出来る。

 先生は(ミカ)を想っている、そして同じようにスクワッドをも想っている。其処に優劣は無く、先生はどれだけの悪意を、憎悪を、敵意をぶつけられても、決してその軸は曲がらず、揺らがず、折れない。

 それをミカは良く知っていた――自分自身の身で、体験していた。

 先生はそういう人だ、そういう大人だ。だからこそ好きになったし、信頼を寄せていたのだ。

 

 でも――それでも。

 

「……ごめんね、先生」

 

 ぽろりと、無意識の内に頬を伝う涙。

 それを感じながら、ミカは口元を必死に吊り上げる。

 悪役(魔女)に涙は似合わない。

 

 そう、悪役(魔女)なら――。

 

 ミカは、涙を零しながら――歪に嗤って見せた。

 

 先生の顔が、くしゃりと歪むのが分かった。

 それ(歪な嗤み)はいつか、彼女が自分自身に云い聞かせて来た事だった。

 先生の歪んだ表情を見ると、胸が苦しくなる。先生に何度でも謝りたくなる。その衝動を呑み込みながら、ミカは言葉を続けた。

 

「……私は、彼女達(アリウス)を許さないよ」

「っ、ミカ……!」

「軽蔑されちゃうかな? それとも、がっかりされちゃうかな……あはは、先生にだけは、嫌われたくなかったなぁ」

 

 ぽろぽろと、目尻から流れる大粒の涙。その見開かれた目の奥に宿る――危険な光。サオリを殴りつけた右手に付着した血を、その頬に付着させながら、彼女は嗤う、嗤い続ける。

 その、血と涙に塗れたミカの姿に。

 瞳に宿る、極彩色の光に。

 先生は、嘗てない程に強く歯を噛み締めた。それは、痛みから来るものだった。肉体的な痛み、精神的な痛み。彼の脳裏に過る過去の記憶、赤に塗れたキヴォトスで哄笑する白の少女。手を伸ばし、必死に握り締めながらも取りこぼした――嘗ての残光。

 その時の光景が重なって、先生は軋む程に拳を握り締める。赤が滲む、先生の肉体が呼応する、古傷がジクジクと鈍く痛んだ。

 

「でも、それでもね、私は自分を止められないの……私はスクワッドを、絶対に許せない――地の果てまで追いかけて、復讐しないと気が済まないの」

 

 そう云ってミカは、先生に笑いかける。とても綺麗に、まるでお姫様の様に。その髪がふわりと靡き、微かな甘い匂いと、血の香りが先生の鼻腔を擽った。

 

「だから先生? 私を、止めないで」

「ッ……!」 

 

 ――その胸元に銀の指輪が跳ねるのを、先生は見た。

 

「いいや――」

 

 声を、張る。

 それは重々しく部屋の中に響き、先生の足が大きく一歩を踏み出した。

 胸を蝕む痛みに息を詰まらせながら。「まだだ」と、先生は心の中で呟いた。まだ、手遅れなどではない。彼女の物語は、定められてなどいない。彼女はまだ決定的な罪悪を犯した訳でもなければ、取り返しのつかない道を選んでしまった訳でもない。

 

 ――彼女(ミカ)は、魔女なんかじゃない。

 

「絶対に、止める」

「……先生」

「ミカを、人殺しに何てさせない」

 

 俯き気味であった先生の顔が、ゆっくりと持ち上がる。苦痛に歪み、疲労に色褪せ、血が滲んでも尚折れぬ意志。その片方だけとなった瞳の奥に光る綺麗な綺麗な光に、ミカは目を細める。

 先生は、生徒皆の味方である。そこに優劣は存在しないし、遍く全ての生徒の為に己は存在するのだと心の底から信じている。スクワッドを助けたいという想いは、確かに存在する。彼女達もまた自身の生徒だから、寄り添うべき子どもだから。

 けれど、今だけは。

 今、この瞬間だけは。

 

 何よりも、ただ――ミカ(彼女)を、これ以上苦しませない為に。

 

「ミカ、忘れたのなら何度だって云うよ……!」

「え……?」

 

 唐突なそれに、ミカは間の抜けた声を上げた。今度こそ、その手を掴むのだと、先生は呟く。血と汗を滲ませ、全身を駆け巡る痛みを噛み殺し。一本だけになった手を握り締めたまま、先生は何処までも真摯に告げる。 

 透き通るような光が、希望の込められた瞳が、ミカを正面から貫いた。

 

「私は、私の全てを擲ってでも、ミカに寄り添うと約束した……ッ!」

「―――!」

 

 ■

 

『ミカが私に全部を預けると云うのなら、私もミカに全部を預けるよ』

『相手の心が読めなくったって、相手から信頼されていなくったって、私は君を信じられる』

『私は何度だって云うよ、ミカ?』

 

『――私は、私の全てを擲ってでも、ミカに寄り添うから』

 

 ■

 

 青空の下、辺鄙な合宿場で交わした言葉。

 共に過ごした一時間足らずの刻、まだ先生が何も知らず、ミカもまた道を転がっている最中で――ただ見極めようとした、シャーレの先生を利用しようとした、その最中に交わされた声の応酬だった。

 共にプールサイドに腰掛け、青空の下で紡いだ約束――その一幕。

 その光景が一瞬にしてミカの胸の内を駆け巡り、息が詰まった。記憶とは美化されるものである、けれどミカは、あの時ほど美しいものを見た事は無かった。感じた事はなかった。その記憶は、その思い出だけは、どれ程時が経っても色褪せる事無くミカの胸に刻まれていた。

 無意識の内に彼女は胸元の指輪を握り締め、声を失う。その時の感情が、余りにも綺麗で、眩しくて、手のひらから溢れてしまう様な感情が、彼女の身体を硬直させていた。

 

「せ、先生――……」

 

 声が、震える。

 彼女(ミカ)はこの瞬間、漸く――漸く先生の本質に触れた。

 それは恐怖さえ伴う衝撃であった。

 先生は、彼は、ずっとミカを想ってくれていたのだ。あの日からずっと変わらず、自身がどれだけの罪悪を積み重ねても、裏切りを働いても、憎悪を振り撒いても、変わらぬ想いを、(アガペー)を、ずっと持ち続けてくれていた。ミカはその事を理解していたつもりだった。先生のその言葉を、想いを、疑っていたつもりなど微塵もない。

 

 けれど、心の何処かで、奥底で――もう見捨てられるんじゃないかって、呆れられているのではないかって、そんな疑念が、不安が、恐怖が、ほんの少しだけ生まれていたのも事実だった。

 それはミカが必死に目を逸らし、見ない様にしていた昏い心の底だった。それを直視してしまえば、目にしてしまえば、今度こそ心が壊れてしまいそうで。

 だから縋る様にこの指輪を傍に置いていた、嘗ての思い出を、その先生の想いの証を、目に見える物をなぞる事で自分の心を慰めていたのだ。

 

 けれど、先生のそれは自身(ミカ)が想っているよりもずっと深くて、強くて――そんな心配など必要ないのだと。そんな不安は抱くだけ無駄なのだと。何処までも広く、深く、強く、絶対的な安堵を齎すその決意と想いに。

 その真実を目の前に突きつけられた時、ミカは酷く動揺し、堪らなくなった。

 

 こんな自分にと卑下する心。

 その想いに腹の底から歓喜する心。

 どうしてそんなにと困惑する心。

 あらゆる感情が胸の中に渦巻き、ミカは俯く。流れ落ちた涙が足元に跳ね、小さな染みを幾つも作った。気を抜けば、しゃくり上げてしまいそうな程、ミカの心は震えていた。

 

「はっ、ハッ、せ、先生!」

「見つけた――!」

「先生! 御無事ですか!?」

 

 先生の背後から、飛び出す影が三つ。

 先生と同じように汗を滲ませながら、部屋の中へと飛び込んでくる生徒達、コハル、アズサ、ヒフミ。コハルとヒフミは息を弾ませ、アズサは愛銃を構えたまま部屋の中を素早く視線でなぞる。まず先生の無事を確認した彼女達は安堵の表情を浮かべ、それからその両脇と前を固める様に飛び出し、周囲に銃口を向けた。

 そして、ミカの足元に倒れ伏すサオリ、壁際で固まるスクワッドに気付き、彼女達は息を呑む。

 その姿は余りにも悲惨で、直視に堪えないものだったから。誰がこんな事を為したのか、それは誰の目から見ても明らかだった。

 

「っ、もうサオリ達に戦う力はない……! これ以上は――」

「み、ミカ様、もうやめましょう……!?」

「ミカ様……!」

「ぁ……」

 

 勝敗はもう決まっている。これ以上は無意味な戦いであると、彼女達は口々にそう告げる。ミカは唐突に現れた彼女達に面食らいながらも、引き攣った口元をそのままに呟く。自身の拳を見下ろせば、赤黒い血がべっとりと付着していた。

 先生の想いは、嬉しい。

 本当に、心から。

 今すぐにでも――泣き喚きたい位に。

 

「ぁ、ぁは、は……ご、ごめんね、私、いっつもこんなんだよね……先生に迷惑ばっかり掛けて、挙句の果てに――」

 

 声は、軈てか細く絞られ掻き消える。一歩、二歩、補習授業部の三名から、先生から離れる様に後退るミカは、自身の身体を掻き抱きながら俯き、震えていた。

 それは彼女の背に圧し掛かる、目に見えない罪の意識によるものであり。

 尚も掻き消す事の出来ぬ、憎悪から来るものでもあった。

 涙を流し、嗚咽を零し、先生を見る彼女は声を漏らす。

 

「でも、でもね、先生……? 私は――私には、もう……」

 

 ――こんな事でしか、この罪悪と向き合う事が出来ないのだ。

 

 ■

 

「素晴らしい――」

 

 古聖堂地下、カタコンベ出入口。暗闇の中に潜む彼――マエストロは虚空を見上げながら呟く。その声は本人が思っている以上に周囲に響き渡り、そこには隠しきれぬ感嘆と歓喜の念が込められていた。

 罅割れた双頭、描かれた目の模様が暗闇の中で小刻みに震える。軋む音を立てながら自身の身体を掻き抱いた彼は、その感情を抑える事無く言葉に表した。

 

「大人としての知性と品格、先生としての礼儀と信念、人間として培ってきた経験と知恵――そして、何より」

 

 皺になったスーツの袖口を摩りながら、彼は大きく虚空を見上げ声を張る。彼の目には継ぎ接ぎだらけの肉体と成り果てて尚、生徒と向き合うひとりの大人の姿が映っていた。

 

「自身の全てを賭して尚、決して揺らがぬその在り方……!」

 

 それは、マエストロをして尊敬の念を抱いてしまう一本線の入った生き方。その思想や信念は確かに異なるだろう、しかし困難な道を、不可能とすら称される道を、その強靭な意思と自身に許されたあらゆる手段で以て進まんとするその姿は、マエストロの芸術家としての心を、信念を、矜持を大いに昂らせた。

 ましてやその生徒(作品)が、彼をして目を見張る程の変貌を遂げているとすれば尚更だ。

 

 ゴルコンダは云った、彼が関わった物語は変質(変貌)するのだと。悲劇は喜劇に、絶望は希望に、彼の者は定められた運命を覆す。

 

 まだ未完成の生徒(作品)で――アレなのだ。

 であれば、彼の者が最期まで寄り添ったと口にする完成した芸術(生徒)とはどれ程のものなのか?

 見たい――是が非でも、この目で。

 

 それは、マエストロからすれば極自然な衝動であった。

 

「万物は衰退する、死と消滅こそ、生あるものが受け入れるべき宿命、いずれ消え去るものに意味など無い――だが、だが……! 芸術はその場に残り続ける、作り手の肉体が朽ち果てようとも、その価値を、境地を証明し続ける……!」

 

 肉体と云う檻は、何れ朽ちて消える。そして朽ちて消えるものに意味などない、マエストロはそう信じる。だからこそ朽ちぬものを、消えぬものを――彼は探し続けた。

 

生あるモノ(有限)不滅(無限)に近付くための軌跡、その畢竟こそが、そなたの育んだ生徒(芸術)そのもの、連綿と受け継がれる作り手(先生)意志(ミーム)……嗚呼、やはり、そなたならば――」

 

 マエストロの両手が、ゆっくりと持ち上がる。まるで指揮者の様に、或いはその体全てを使って歓喜を表現する様に。広げられたそれから、黒の混じった青が滲み出す。その双頭がカタカタと音を鳴らし、マエストロは嘗てない程の興奮と共に叫んだ。

 

「私の【崇高】を、理解してくれるに違いない……ッ!」

 

 振り下ろされる両手、瞬間――鳴り響く轟音。

 それは古聖堂地下、その最奥に眠っていた巨人の目覚めを知らせる喇叭。壁が、天井が、地面が次々と崩れ落ち、古聖堂地下全体が振動する。マエストロの視界に、中央区画へと出現した赤の巨人――ヒエロニムスの姿が映し出された。

 赤い聖布、頭上に輝く黄金の円環(ヘイロー)、両の手を合わせ、儀仗を打ち鳴らす彼の者は黒い闇の中で咆哮する。音は、凄まじい衝撃波となって周囲に響き渡った。

 

 唐突に出現した怪物(未完の作品)、それを前に呆然とする生徒達。当然だろう、彼女達にとっては未知の存在の筈だ。ましてや未だ名もなき小さな光(子ども)にとって、彼の巨人は不可避の死、その宣告に等しい。手の中に丸々と納まってしまいそうな体格差が、より一層彼女達の絶望を煽る。

 立ち向かおうとする者は、誰もいない。

 

 ひとり――彼女達を守る様に立ち塞がる先生(大人)を除いて。

 

「嗚呼、見せてくれ先生……! そなたの創り上げた作品(芸術)を!」

 

 マエストロの心が高鳴る。肉の体など疾うの昔に喪っているというのに、まるで心臓がこの胸に在るかのように。あの頃の情熱が蘇るかのように。血沸き肉躍る感覚が、この冷たく軋む体を揺する。 

 

 聖徒の交わりを率いる受肉せし教義――ヒエロニムス(人工の天使)

 

 アリウスに用意された戦術兵器、マダムが用意した奥の手の一つ。崇高とは異なる古の教義を利用した、崇高に限りなく近づいた意欲作。ただの生徒では相手にならない、故に求めるのは先生にとっての奥の手(切り札)

 奇跡の体現と呼ばれる、彼のベアトリーチェをも屠り掛けたという望外の神秘。

 マエストロはそれを想い、歓声を上げるのだ。

 

「――その生命(不滅)の輝きをッ!」

 


 

 此処でミカを完全に説得したり、救済したりはしませんわよ。ミカはめんどくさい生徒ですの、その面倒くさい所が良いんですのよ。エデン条約後編、ベアトリーチェ決戦に向けて、彼女が介入する余地を残しておかないと、あの名シーンが再現出来ませんものね。

 

 もう私の事嫌いになったよね? 呆れちゃったよね? と云いながらちらちらと先生を見て来るのがミカですわ。そんな事はないよと微笑み掛け、抱き締め、甘々全肯定して漸く彼女は落ち着くんですの。その癖、安堵しながらも心の底では常に自分に対する不安や、嫌われてしまう、見捨てられてしまう事に対する恐怖が燻っていて、突発的にとんでもない事をやらかす、そんでそのやらかした事に落ち込んで、自己嫌悪に陥って、今度こそ嫌われた、見捨てられたと呟きながら先生を見つめて来る、だから先生はそんな事は無いよと微笑んで、また抱き締めて……――そんな素晴らしい生徒が彼女なんですわ~! 

 

 うーん、これは明らかな地雷。

 

 しかし、死中に活と云われるように、おっかなびっくり地雷を処理するなんてナンセンス。此処は自ら飛び込み、爆発するかしないかの瀬戸際で駆け抜けるのですわ……! こういうメンヘラ、嫌いじゃないですわ!

 おら先生! ズブズブに甘やかして依存させろっ! 将来に責任取れっ! そんでもってイチャコラしている所をヒナとかワカモとかおじさんとかハナコに見せつけろッ! なんでそんな事するん?



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たとえ星となっても――それでも君を、想っている。

誤字脱字報告ありがとうございますわ!
前回深夜投稿だったのでめっちゃ誤字脱字していましたわ……。
申し訳ねぇですの~!


 

 それは、余りにも唐突に現れた。

 

 最初に感じたのは強烈な振動。足の裏から伝わる地響き、重なり合っていた瓦礫がカタカタと音を立て地面に転がっていた破片が弾む。次いで、立っていられない程の揺れが周囲一帯を襲い、アリウスも、補習授業部も、ミカでさえも地面に膝を突き、困惑の声を上げた。

 

「ッ!?」

「な、何、なんなの!?」

「先生!?」

 

 唐突な地震、何か良くない事が起こっているのは確実であった。

 次の瞬間――衝撃が走る。

 それは、物理的な破壊を齎す音。凄まじい轟音と共に周囲の壁が、中央区画を塞いでいた瓦礫の山が吹き飛ぶ。まるで爆発したかのように、何の前触れもなく。飛来する瓦礫片から先生を庇い、ヒフミは先生を抱え蹲る。アズサは揺れで動けなくなっていたコハルを引っ張り、共に地面に伏せた。肩を、背中を、無数の瓦礫片が殴打する。しかし、キヴォトスの生徒にとってその程度は致命傷にならない。ヒフミの場合は、その殆どが背負っていたペロロバッグに命中し、肩や足元を打ち付ける破片は僅かだった。

 

「っ、サオリさん!」

 

 また、揺れと同時にヒヨリも行動していた。彼女は揺れによって皆が動揺した瞬間、これ幸いとサオリの元へと駆け出したのだ。そして降り注ぐ瓦礫をガンケースで防ぎながら、必死に彼女の身体を壁際へと引き摺る。アツコもまた、未だ足元の覚束ないミサキを庇い、何とか吹き抜ける衝撃をやり過ごそうとした。捲れ上がるフードをそのままに、壁に背を預けたアツコは叫んだ。

 

「ヒヨリ……!」

「だ、大丈夫です!」

 

 表面に幾つもの傷と凹みを携えたガンケースを構えたまま、ヒヨリはサオリをスクワッドの元へと引き摺る事に成功した。そのままガンケースを遮蔽代わりに手放すと、サオリを丁寧に地面の上へと横たわらせる。揺れは、ほんの数秒程度で収まった。

 近場で見たサオリの負傷は、酷いものだった。

 

「サッちゃん……!」

 

 アツコは悲鳴染みた声で彼女の名を呼び、悲壮に塗れた表情を浮かべる。折れ曲がった左腕に青痣だらけの顔。先生の登場で気が抜けてしまったのか既に意識は無くなっており、小さく上下する胸元だけが彼女の生きている証拠だ。ヒヨリは自身の背負っていた巨大な背嚢を降ろすと、側面に取り付けてあった救急キットを取り出す。こんな場所では碌な手当ては出来ないが、それでも何もせずにはいられなかったのだ。

 

「ひ、姫ちゃん」

「私がやる、ヒヨリは、添え木代わりになる何かを――」

「あっ、は、はい……!」

 

 救急キットをアツコに手渡し、ヒヨリはバッグの中身を検める。添え木代わりとなる何かを見つけようとしたのだ。途中、ミサキの方にも視線を向けたが彼女は軽く首を振ってサオリを見つめる。その表情は何処までも苦り切っており、自身の鼻から垂れる血を拭いながら吐き捨てる様に云った。

 

「私の事は良い、今は、リーダーを……」

 

 その声に、ヒヨリは唇を噛み締めながら頷いた。雑誌やら弾薬やらを掻き分け、外側に差し込んであった銃のバレル、予備パーツであったそれを引き抜きアツコに差し出す。棒状で、ある程度頑丈で、真っ直ぐなもの。他にそれらしいものは見つけられなかった。

 

「こ、コレ、使えませんかね……!?」

「無いよりは、全然良い……と思う」

 

 アツコはそう云ってバレルを受け取ると折れ曲がり青紫に腫れ上がったサオリの腕に予備パーツのバレルを添える。本当は患部を氷水などで冷やすべきだった、しかしそんな便利なものは何処にもない。腕に添えたバレルごと、サオリの腕を丁寧に、けれど素早く包帯で巻き付ける。そのまま首元と胴体で固定出来る様、包帯をぐるりと首に回し、その上から脇腹と上腕部分をテープで固定する。

 必死に手を動かすアツコは、直ぐ傍で唖然とした表情を浮かべるヒヨリに気付いた。

 

「姫ちゃん、あ、あれは――……」

「っ……!」

 

 そう云って、彼女が見上げる視線の先。其処には中央区を封鎖していた瓦礫の山、それを吹き飛ばし、中を覗き込むように佇む巨人の姿があった。

 長く、弛む赤い布地、本来顔のある場所には真っ暗な空洞があるだけで、まるで透明な何かがフードを押し上げている様にも見える。その大きさは巨大な空洞となっている中央区画、その半ばにありながら地上にすら頭が届いてしまいそうな程。

 その容貌には、見覚えがあった。

 

「まさか、あの『教義』が完成した……?」

 

 アリウスの持つ戦術兵器。ユスティナ聖徒会に次いで用意されていた切り札の一つ。聞き及んでいたものよりも――ずっと強大で、おどろおどろしい気配を放つソレに、アツコは無言で冷汗を流す。

 

「何、これ……!」

 

 先程までスクワッドに向けていた注意が全て上書きされてしまう程の衝撃。ミカがそう思わず声を漏らしてしまう程の――圧倒的な力と波動。それは彼女が今まで生きて来た中で見た、最も恐ろしいものの一つに感じられた。

 

「ヒフミ、先生、無事か!?」

「だ、大丈夫です……! コハルちゃんと、アズサちゃんも……ッ!?」

「っ、すまない、ヒフミ……ありがとう」

「いえッ、それよりも――」

 

 先生を瓦礫から守っていたヒフミは、自身の肩や背中に被さった瓦礫片を押し退け、立ち上がる。そしてアズサとコハルの無事を確認し、ほっと胸を撫でおろしたのも束の間。

 

 ――自分達を覗き込む顔のない(暗闇の)巨人の姿に、声を失った。

 

「ぅ、ぁ……」

 

 それは、嘗て味わった事のない類の恐怖心だった。ユスティナ聖徒会を見た時も、その不気味さに恐怖を抱きはしたが、目の前のそれはそういう次元にはなかった。力の強大さ、放つ不気味さ、外見の威圧感、そして何よりその大きさ――どれもこれも、ヒフミの知る常識とはかけ離れた存在。

 

「ひっ……!?」

「っ、こ、これは……!」

 

 ヒフミは目を見開きながら声を上げる事も出来ず、思わずその場に尻餅をつく。コハルはそれを見た瞬間、思わず悲鳴を上げかけた。アズサは驚愕と恐怖を滲ませながらも、即座に愛銃を手に構える事が出来たが、果たしたこの化物に弾丸が通用するかも謎だった。そして、数秒もしない内にそれ(戦う事)が悪手である事を悟る。

 自分達を見下ろす怪物、その存在が放つ余りにも巨大な圧力(プレッシャー)――存在としての格の違い。アズサの中にある生存本能が、挑むなと全力の警鐘を鳴らしていた。

 

 聖園ミカであれば、まだ理解の範疇だった。

 しかし、目の前のコレは、最早その範疇にない――理外の存在。何故其処に在るのかも、どんな存在なのかも、どの様な意思を持つかも不明。ただ、その暴力的なまでの重圧だけがアズサを圧し潰さんと放たれている。

 アズサは震えそうになる足を叱咤し、構えていた愛銃のセイフティを弾きスリングに垂らす。そして直ぐ傍で震えるコハルの腕を引っ張り、それから先生の外套を掴むとあらん限りの声で叫んだ。

 

「先生、アレは駄目だ! 直ぐに、逃げないと……ッ!」

 

 そう云って焦燥を滲ませ、アズサは脳内で古聖堂地下の地図を必死に思い出そうとする。アリウスに所属していた時、まだ裏切る前の事ではあるが、彼女はこの周辺一帯の地図を何度か目にする機会があった。中央区画を通っての脱出は無理だ、あの巨人に叩き潰されて終わる、だから別のルートを探し出す必要があった。

 

「先生ッ――!」

 

 動かぬ先生を前に、アズサは声を荒らげる。

 ミカでさえも、その圧倒的な威容を前に呑まれかけている。それでも補習授業部の中で一人立ち上がり、抗う(逃走の)意思を見せようとしているアズサは流石と云うべきか。そんな彼女を以てしても、その指先の震えは隠す事が出来なかった。

 

 先生はアズサに見上げられたまま、自身の前に立ち塞がる巨人を見つめていた。その巨躯は人の何倍もの全長があり、この巨大な地下空間であっても圧迫感を覚えさせる程。先生や生徒など、まさに小人の様にしか感じられないだろう。

 それ程の相手を前に、先生は焦燥を微塵も見せない。

 動かないのは、恐怖や不安に駆られたからなどでは決してない。

 

 銃を握り締め気丈にも巨人を睨みつけるミカ、サオリを抱き締め、恐怖に身を竦めるスクワッド、何とかこの場から離脱する為に動き出そうとするアズサ、目前の怪物が放つ重圧に呑まれてしまっているヒフミとコハル――守るべき子ども(生徒)達が、この背中に居る。

 

「……いいや」 

 

 アズサの言葉に先生はゆっくりと首を横に振る。そして徐に一歩を踏み出すと、自身の胸元に手を当てながら云った。

 

 その決断を下す事は、余りに容易(たやす)かった。

 

「下がっていて、皆」

 

 声は、部屋の中に居た全員の耳に届く。

 自身の袖を引くアズサを、そっと後ろへと押し出す。その言葉に、行動に、アズサは思わず目を見開き驚愕の声で以て先生の名を呼んだ。そんな彼女に目を向ける事無く、先生は生徒達を庇う様に前へと進む。

 

 聖徒の交わりを率いる受肉せし太古の教義。

 その神秘から作り出された人工の天使――ヒエロニムス。

 

 その姿は先生の知る、過去のソレと重なっている。

 だと云うのに何故か、その放つ気配だけが余りにも異なっていた。

 一体何を混ぜ込んだというのか? この感覚、太古の教義だけではない――もっと、悍ましくも清廉な何か、光であり、闇であり、同時に肌を刺すような痛みがあった。過去の遺物を取り込んだのか、或いは別な何かか。

 それを知る術は先生にない。

 

「っ、先生!? な、何をするつもりなんだ!? あんな怪物、とても敵う筈が……!」

「けれど此処で逃げたとしても、【アレ】は地上に這い出て来る筈だよ」

 

 地上にはまだ、ハナコとアビドス、そしてトリニティの生徒達が居る。

 そしてその周辺には、ヒナやツルギ、ハスミと云った面々も。

 彼女達は強い、その強さを先生は良く理解している――理解しているからこそ、それでも尚敵わないと知っていた。

 ならば、選択肢は一つ。

 

「何人の生徒が巻き込まれるかも分からない、それなら――此処で戦う」

「た、戦うって、一体どうやって……!?」

 

 先生に戦う術はないだろう? アズサは言外にそう口にしていた。先生が戦うとすれば、それは生徒を指揮してという事になる。だが、自分達がアレに敵うとはとても思えない。あれは、足掻いてどうにかなる領域に存在しない。仮に挑んだとしても蟻の様に踏み潰されるだけだ。戦いと云うものは近しいレベルのものでしか発生しない、余りにも隔絶した力の差で行われるのは――蹂躙だけだ。

 しかし、先生は足を止めない。皆に背中を向けたまま、ゆっくりと崩れ落ちた壁を跨ぎ中央区画へと踏み出す。大きくぽっかりと空いた空洞、遥か地下まで続くその奈落から聳え立つ巨躯。

 それを見上げ、しかし僅かな怯えも見せず前を往く。

 

「先生、まさか――」

 

 座り込んだまま、ヒフミはぽつりと呟いた。先生は戦う力を、術を持っていない、その言葉に嘘はなかった。けれど一つ、たった一つだけ例外がある事を彼女は知っている。

 唯一、ヒフミだけはその瞳に焼き付けていたのだ。

 

 思い返すのはアビドスでの一件、遠目ではあったが彼女は先生の起こした【奇跡】を目視していた。光り輝く何か、先生の取り出したソレが周囲を太陽の様に照らし、あの巨大で恐ろしい怪物を打倒した。砲兵隊を率いて遠目に確認出来たのはそれだけだった。

 だから漠然と、先生には何かしらの手段があるのだと思った。

 それがどの様なものなのか、どのような形で使われるものなのか、それは全く知らない。けれど積み重ねていた信頼が、その時間が、先生ならばという底のない希望を与えてくれる。ヒフミは力が抜け座り込んでいた姿勢から、何とか立ち上がろうと足掻く。せめて先生の足枷にならない様に、未だ震えるコハルの腕を掴み自身を叱咤する。

 

「ひ、ヒフミ……」

「大丈夫、です」

 

 不安げに涙を浮かべ、自身を見るコハル。

 震えそうになる歯を噛み締め、ヒフミは気丈に云ってみせた。

 

「きっと、大丈夫です!」

 

 声は、確かにコハルの心を慰めた。力なく垂れていた彼女の指先がヒフミの腕を掴む。互いに身を寄せ合い、先生の背中を見つめる二人。その視線を感じながら、先生は小さく呟いた。

 

「切らずに済めば、そう思っていたけれど……中々どうして、そうもいかないらしいね」

 

 それは先生の独白。或いは、『そうならない未来』もあるかもしれないと考えていたが、どれだけ世界を跨いでも彼らの行動原理は変わらないらしい。

 懐に差し込んだままのシッテムの箱に触れ、小さく息を吐き出す。左袖を靡かせ、巨人と対峙する先生は険しい表情で相手を睨みつけていた。天から差し込む陽光がその顔を照らし、滲んだ赤が白に映える。

 

 ――この状態で切り札(大人のカード)を切って、果たして肉体が持つか。

 

「ふーッ……」

 

 懸念点は幾つもある。補完状態でのカード使用など現実的ではない、しかし切らねばならない理由がある。サポートなしでも自身は十全に扱え切れるのか、そもそも切る事自体が出来るのか。いや、きっと発動自体は出来るだろう。問題はその後、自分がどうなるか。

 

 ――考えるな。

 

 先生は、胸の内に生じたその不安を一蹴した。

 他に解決する手段はない。どういう訳か目前のコレ(巨人)は己の知る過去の影とは一線を画し、この場に居る生徒だけで対処するのは殆ど不可能であると云える。ならば為すべき事は一つ。

 

「やれるかどうかじゃない」

 

 先生は静かに、しかし確固たる意志を込めて告げる。

 

「――やるんだ、何が何でも」

 

 その瞳に、決して折れぬ希望を抱いて。

 そう、何度でも繰り返そう。

 己の背中に、生徒達が居る限り。

 

 ――私は、斃れなどしない。

 

「見ているのだろう、ゲマトリア」

「あぁ……」

 

 不意に、先生は虚空に向かって声を上げた。それは確信があったからだ。確実に見ていると――観察していると。そしてその予想は当たっていた。先生の目の前、ほんの数十歩先の空間が捻じ曲がる。まるで底なしの暗闇が出現したかのように、ぽっかりと穴が空き、穿たれた黒色の中から唐突に出現する人影があった。

 硬い音を立てて着地する影、空間が正常な色を取り戻すや否や、その者は全身から軋む音を立てて一礼して見せる。

 

「お初にお目に掛かる、シャーレの先生――私はマエストロ、どうかその様に呼んで欲しい」

「………」

 

 それは、奇妙な恰好をした木人形であった。タキシードらしき衣服を身に纏い、罅割れた双頭が音を立てて震えている。指先や爪先を見る限り人形である事は確かであり、ほんの僅かに身動ぎするだけで木が軋む音が周囲に響いていた。彼は生徒達の驚愕の混じった視線に気づき、自身を見下ろしながらそっと首を振る。

 

「あぁ、このような恰好ですまない、見るに堪えぬ姿だとは思うがどうか許して欲しい――しかし、そなたとこうして言葉を交わす事が出来、大変光栄だ」

 

 声はどこか、子どもの様に弾んでいた様に思う。ぎこちなく指先を、腕を動かし、先生を歓迎するかのように広げるその様は言動に反して酷く不気味だ。その姿を視界に収めたミサキは、思わずと云った風に声を荒げ叫んだ。

 

「ッ、木人形、お前……!」

「あぁ、どうか今は声を慎んでくれ――この場所に於いて、雑音程煩わしいものはない」

 

 まだ攻撃指示は出していない、自分達諸共屠る気か――そんな感情を込めて放たれた声はしかし、彼に届く事は無い。小さく指を立て、ミサキにゆっくりと突きつけた彼は彼女の声を冷たくあしらい、ただ先生のみを見つめている。ただの目の刻印、マークに過ぎないそれは、しかし確かに本人の意思を感じさせるものだった。

 木人形――マエストロと対峙する先生は超然とした態度で問いかける。

 

「これはゲマトリアとしてではなく、あなた自身の暴走、そう取って構わないか?」

「その通りだ、今この瞬間に限って云えば、ベアトリーチェにも無断で動いている、特にあの、銀の狼に見つかればどれだけの顰蹙を買うか……しかし、残念ながら己の芸術、その畢竟たる輝きを目にする機会があると聞けば黙っていられる筈もない――彼女には暫くの間、足止めを喰らって貰っている、尤もベアトリーチェを血眼になって探している彼女にそんな余裕はないかもしれないが」

 

 答え、マエストロは自身のタキシード、そのラベルに指を掛ける。上から下まで静かに指先をスライドさせながら姿勢を整えた彼は、どこまでも歓喜を滲ませる声で以て続けた。

 

「それ故に横槍はない、これは正真正銘――私と先生、そなただけの舞台となろう」

「……舞台、か」

 

 その言葉に先生は顔を顰めて見せる。そこにはマエストロとは異なる、はっきりとした不快感が現れていた。生徒の前では決して見せない表情だった。

 

「私の【生徒達】は、決して見世物などではないのだけれど」

「観測できぬ芸術品に果たして価値はあるのか? 否、そんな問いは要らぬ世話か……しかし、私はどうしても見たいのだよ、そなたの作品を、芸術を、文字通り魂の逸品を」

 

 先生の立場、マエストロの立場、それは余りにも異なる。マエストロ曰く、その作品(生徒)に対する認識も。その行為が先生にとって歓迎できる類のものではない事は重々承知の上であった。しかし、その上でマエストロは彼と戦う事を選んだ。それ程までに魅力的に思えたのだ。

 その芸術の畢竟を目にする機会を得られるというものは。

 

「故に――」

 

 マエストロの手が持ち上がり、それに応じてヒエロニムスが組んだ二本の手をそのままに、もう二本の腕で儀仗を打ち鳴らす。周囲に金属同士がかち合う音が響き渡り、強い衝撃が空間を突き抜けた。生徒達が目を瞑り、先頭に立つ先生の制服が強く靡く。

 それでも瞬き一つせず先生はマエストロを、ヒエロニムスを見つめていた。

 

「今の私に作り出せる最高の作品を贈ろう、嗚呼、どうか先生――応えて欲しい」

「……あなたが生徒達では対処できぬ危機を、このキヴォトスに振り撒くと云うのなら」

 

 声は小さく、呟く様。

 けれど不思議と全員の耳に届き、先生は静かに右手を虚空に伸ばす。見えない何かを掴む様に、或いは空の彼方にある星を掴む様に。

 伸ばしたその先で、先生は決意を込めて告げる。

 

「――それを排除するのも大人(先生)の役目だ」

 

 途端、風が吹いた。

 先生を中心に渦巻く様な、しかし心地良い風が。

 

 同時に掲げた右手に向かって青白い光が集う。先生の掌に収斂するそれは軈て一枚のカードの形を象り、その輝きを皆の前に晒した。

 眩い光、蒼と白のコントラスト――煌々と輝くそれを目にしたマエストロは体全体を震わせ、両手を広げながら感嘆の声を響かせる。

 

「おお、おおおおッ……! そうか、それが例の『カード』……!」

 

 その双頭が光り輝くソレに釘付けとなり、まるで恋焦がれる様に手を伸ばす。先生の手の中にある、ほんの十数センチほどの四角形。そこから放たれる莫大な神秘の波動に、マエストロは感動すら覚えていた。

 自身がこれまで目にして来たあらゆる神秘、そのどれをも凌駕し、量、質共に恐ろしさすら感じてしまう。背後に佇む皆が、先生の手の中に現れたそのカードに目を奪われていた。その輝きに、その美しさに、その存在感に――けれどそれ以上に、何か胸を揺り動かす強い感情に。

 しかし、その中で唯一、ミカだけがその表情を蒼褪めさせ震えた。

 皆と同じように先生の手の中へと現れたカードを凝視しながら、彼女は呟く。

 

「っ、あ、れは――」

 

 息を呑む。腹の中にずしりと、沈み込む様な何かがある。

 それが何かをミカは知らない、知らない筈だ。あの光が何なのか、どうやって生み出されているのか、何の知識も持ち合わせてはいない。

 だというのに何故か――酷く嫌な予感がした。取り返しのつかない事をしようとしている予感、この行動は駄目だと心が、本能が叫んでいる。

 

「ぅぐ……ッ!?」

 

 唐突に、ミカは呻き声を上げた。それは痛みによるものだった。

 胸が軋む。まるで内側から刃を突き立てられたかのような鋭い痛み、そして頭部を襲うノイズ音。視界に何か、黒い影がちらつく。

 何だ、一体何なのだ? 

 ミカは困惑を隠せず、しかしそんな状態でも先生から目を離す事が出来ない。

 

 私達(生徒達)の前に立ち塞がる先生、その背中――その周囲に白黒の炎を幻視する。それはミカの見た事も無い様な光景だった。崩れ落ちた建物、散乱する瓦礫片、周囲を覆う炎、喪われた腕、血塗れの制服、彼方此方に刻まれた火傷痕、そんな状態でも尚、ミカの前に立つ先生の後姿。

 彼の掲げる手の中には、光り輝く【ナニカ】があって……。

 その光の中で、先生はゆっくりと振り向き――微笑む。

 

 それは幻覚の筈だった、妙に現実的で、質感があって、酷い胸騒ぎがあったとしても、幻覚なのだ。触れられもしなければ記憶にもない、ただの妄想、妄念の類――しかし、その背中が、その炎の中で佇む先生の背中が。

 今のこの、先生の背中に重なって見えてしまって。

 

「駄目、だよ……! 先生、それはっ……」

 

 胸の中の誰かが、騒ぎ立てる。

 思わず叫んだ。

 その感情に従ってミカは先生へと手を伸ばす。必死に、痛みに顔を顰めながら。けれど何故だろう、身体に力が入らない、足が前に進まない。行かなければ、進まなければ、止めなければと心は叫んでいるのに体が全く反応しない。

 地面を掴んだ指先が、爪を立てて握り締められる。

 

「それ、だけはッ――!」

 

 ミカの声は、巡る風の中に掻き消えた。

 

「人生を、時間を代価として得られる力……その根源も限界も、私達ですら把握できない不可解な代物……! 嗚呼、ゴルコンダであればコレ(この感情)をどう呼称しただろう……何か高次的な表現を教えてくれたのであろうか……っ!」

「――御託は良い、その出来損ないの擬き(ヒエロニムス)も、直ぐ残滓となって消えるだろう」

「ッ……!」

 

 掴んだ光、その切り札(カード)を静かに胸元へと引き寄せる先生。瞬間、その光が更に力を増し地下全体を覆い隠すような輝きを放つ。

 アビドスの時とは比較にならない、あの時の二倍、三倍――いや、もっとだろうか? ヒフミは余りの眩しさに目を細め、手で陰を作る。隣り合うコハルもまた、同じように手で目元を覆っていた。光は周囲を照らしながら罅割れた天を突き抜け、地上の遥か先、蒼穹にまで伸びていた。生徒達が光を視線で追い、その開けた天の先にある青を目視する。

 遍く全てを照らす光の――輝きの中心で先生は告げる。

 

「私のこの力は、誰かに見せびらかす為のものでも、誇る為のものでもない、こんな事の為に切る事は大変不本意だよ……けれど」

 

 その空色の瞳が――光の中でマエストロを捉えた。

 

「あなたが私の生徒を傷付けるというのであれば是非もない、その困難を何度でも、真正面から打ち砕いて見せよう」

「嗚呼、それで良い先生! 見せてくれたまえ、そなたが払ってきた【代価】を……! そうして手に入れたものの輝きをッ!」

 

 その宣言に――先生にとっての宣戦布告に、マエストロの興奮が絶頂に達し、上擦った声が周囲に響き渡った。その興奮を表現するかのようにヒエロニムスは咆哮し、古聖堂地下全体が揺れ動く。衝撃が先生の衣服を揺らし、微かに緩んだ包帯がその先端を靡かせる。

 

「ッ――駄目っ、先生、やめてッ!」

 

 その衝撃の中で、ミカは懸命に叫ぶ。悪寒が、絶望の予感が、すぐ傍までにじり寄っていた。胸騒ぎは収まらない、寧ろその光が強くなる程に大きくなり、心臓が早鐘を打ち始める。額に滲む汗は決して疲労や痛みから来るものではない、極度の緊張と恐怖心から齎されるものだった。

 しかしその声はヒエロニムスの前に、振動する古聖堂の中に掻き消える。彼女の網膜にカードを掲げる先生の背中が刻まれる。何処までも勇壮で、輝かしく、まるで一枚の絵画の様に――美麗で儚い、その色が。

 

「先生ぇッ!」

 

 彼女のその声が届く事は、終ぞ無かった。

 

「――私の作品に、全力で応えてくれたまえッ、先生!」

「――私は、私自身の信じる道をッ、此処に証明する!」

 

 光が、臨界に達する。

 輝きは最早直視できない程、先生は莫大な神秘を秘めた光を天に掲げ、叫ぶ。

 負傷した右目から静かに血が流れ出る。零れ落ちる赤が、光の中で踊り消えた。

 

「私の持つ、全てを賭してッ!」

 

 光の柱が天を穿った。吹き抜けた天井、その遥か向こう側に聳え立つ輝きの白、凄まじい風が巻き起こり古聖堂地区が振動する。嘗てない程の神秘が、風が、光が、アズサを、ヒフミを、コハルを、ミカを、サオリを、ミサキを、アツコを、ヒヨリを包み込む。

 周囲を包む青白い光は先生の理想、その夢を具現化した世界――絶望と暗闇に覆われた世界を、青く透明なる世界へと塗り替える。

 正面に立つマエストロやヒエロニムスには痛い程に重圧(プレッシャー)が感じられると云うのに。その背中に居る生徒達にとっては寧ろ暖かく、心地良いとさえ感じてしまう世界で。

 

 その手の中で、光は遂に弾けた。

 

「行こう、力を貸してくれ――皆ッ!」

 

 弾けた光は先生の周囲を渦巻き、その莫大な神秘は軈て人の形を生み出す。輝きの輪郭、その光が生み出した人の形は四つ。彼女達は先生の直ぐ前に、少しずつ、しかし確実に象られる。それらを見つめ、先生は手を突き出し叫ぶのだ。

 

 嘗ての情景(世界)、其処に込められた想い(願い)を証明する為に。

 

「――アビドス対策委員会、出撃ッ!」

 


 

 原作のヒエロ君が『NORMAL』(通常より少し弱め)なら、このヒエロ君は大体『INSANE』に相当しますわ。

 ストーリーのヒエロニムスの体力が大体『280,000』(ニ十八万)で、このヒエロニムスの体力は大体『24,000,000』(二千四百万)――大体、原作のヒエロ君の八十五倍強いと思って下されば問題ないですわね。

 尚、先生が腕だけじゃなくて足までポロっていたら、難易度は『TORMENT』かそれ以上になっていましたわ。TORMENTの体力は『42,000,000』(四千二百万)なので、原作ヒエロ君の百五十倍強い事になりますわね。ドラゴンボールかな?

 

 因みにストーリー沿いなので、勿論聖遺物(弱体化要素)の壺君はありません。純粋な殴り合いでのみ決着がつけられます。

 現状の補習授業部(星3、 Lv65)全員で挑んでも多分勝ち目はないです。

 激昂ミカ(星5、固有3、Lv85)を入れたら一%位は可能性があるかもしれません。でも誰も撤退しない(死亡者なし)という条件は達成できないでしょう。

 

 という訳で大人のカードの(先生が苦しむ)時間ですわ~ッ!

 カードで出すのは一週目の世界の生徒だけだと云ったな。

 アレは嘘だ(あのプロットは崩壊した)

 最終編に向けて、風呂敷を畳む準備をしておかないといけませんからね。例えどのような結末に至ろうとも、放って置く事は出来ませんわ。

 

 いぇーい、クロコ見てる~?



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私達の■■(ものがたり)

誤字脱字報告、感謝しますわッ!


 

 古聖堂、地上――崩壊した広場。

 

「こっち、やったわッ!」

「此方も何とか……!」

 

 銃声が轟き、閃光が瞬く。目前に立ち塞がる輪郭のあやふやなユスティナ聖徒会が次々と倒れ、霧散し、消えて行く。セリカは手にしていた愛銃の弾倉を素早く取り外し、新しいものをバッグの中から引っ張り出して装填した。

 

 立ち塞がるユスティナ聖徒会の数は多く、未だ周辺を覆い尽くす程。しかし、その脅威度は大きく下がっていると云って良い。放たれる攻撃も散発的、殆どのユスティナ聖徒会は呆然と立ち尽くすばかりで、時折思い出したかのように発砲するのみ。数は多いが戦力としては機械人形(オートマタ)以下、正に壁としての機能だけが存在しているようなものだった。

 だが、その攻撃力だけは侮れない。ホシノは自身の盾に刻まれた弾痕を見つめながらそう思考する。込められた神秘は当たり所が悪ければ数発で意識を断ち切られるだけの威力がある。攻撃が散発的になったとは云え、慎重な立ち回りが求められているのは変わっていない。

 

「ん、トリニティ側も何とか押し込んでいるみたい……!」

「今の所、酷い負傷をした生徒もいません!」

 

 シロコとアヤネが周辺を見渡しながら叫び、アビドスの面々は五人で固まりながら前進を続ける。物陰から物陰へ、積み上がった瓦礫を利用し遮蔽を取る彼女達は少数精鋭である事を利用し、ユスティナ聖徒会をあらゆる角度から強襲する役割を担っていた。

 

 遠目に見えるトリニティ生徒達も整然と隊列を維持しながら、恙なく戦線を構築している。敵の数は多いが、それでも尚重傷者を出さずに戦闘を行えているのはその指揮故か――見た所、現在戦っているトリニティの中に突出した武力を持つ生徒は見られない。多少のバラつきはあるものの、極ごく一般的な生徒による集団であった。

 しかし、それでも尚弱体化したとは云えユスティナ聖徒会と渡り合えているのだから凄まじい。徹底した分析と卓越した戦術眼の為せる業――生徒達の中程に立ち、声を張り続けるハナコを見て思う。或いは眼ではなく知識によるものかもしれないが。

 

 トリニティと自身の位置を確認したホシノは防弾盾のグリップを握り締めながら思考を巡らせる。戦況は極めて順調だ、もう十分、或いはニ十分もあれば古聖堂広場のユスティナ聖徒会を殲滅する事が出来るだろう。そうすれば、アリウスを追って地下に向かった先生の援護に行ける。

 

「よし、この調子なら多分、掃討までそう時間は――」

 

 ――掛からない筈だよ。

 

 そう口にしようとして、しかし彼女は唐突にその場で膝を突いた。それは、本当に突然の事で、直ぐ後ろに身を隠していたセリカが目を見開き、困惑する。自身の前を覆っていた盾が音を立てて地面に転がり、ホシノがその場に蹲ったからだ。

 

「えっ……せ、先輩? 一体どうし――」

 

 声を上げ、ホシノに手を伸ばそうとして――けれどその指先がホシノの肩に触れるよりも早く、セリカもまた悲鳴を上げ蹲った。

 

「うぁッ……!?」

「ッ……!?」

「いっ……!?」

 

 まるで胸元を狙撃されたかのような衝撃。しかし攻撃はなかった、それは物理的なものではない。ホシノに続き、ノノミ、セリカ、アヤネと云った面々も同じように背を丸め脂汗を流し、その場に蹲って顔を顰める。トリニティの生徒達に異常は見られない、その見えない何かはアビドスのみを襲っていた。

 

「う、くッ……!」

「な、なに、これっ……!?」

 

 何の前触れもなく訪れた痛み、苦しみ、制御できない何かが胸の内を駆け巡り、まるで小さな悪意が胸元で暴れ回っている様な感覚だった。その体験した事の無い様な苦しみに彼女達は困惑し、焦燥し、声を荒げる。セリカは自身の胸元を強く握り締めながら、地面を見つめ大きく喘ぐ様に息を吸った。

 

「み、皆――!?」

 

 唯一、シロコだけがその難を逃れていた。

 突然苦しみ出した仲間達の様子に驚愕し、彼女は銃口を彷徨わせながら急ぎ周囲を見渡す。今尚攻撃を仕掛けている敵がいるのか、自分達の知らない何かが使われているのか、それを見つけようとしたのだ。

 しかし、周囲にはユスティナ聖徒会以外の影は確認出来ず、大掛かりな装置や特別目につく様なものは何もなかった。攻撃らしい攻撃の影すら見えない。

 汗を滲ませ、表情を歪める彼女達は呟く。

 

「わ、っかん、ない……ッ! けれど、な、何か……!」

「っ、い、痛くて、苦しい……? 悲し、い……? は、肌が、燃える様に……っ」

「む、胸が、妙に、締め付けられるみたいで、こ、これは、一体――」

「ッ、兎に角、こんな開けた場所は拙い……!」

 

 原因不明の苦痛、それに犯された彼女達は動く事もままならない。その状態を理解したシロコは、周囲に居るユスティナ聖徒会に素早く射撃を加えると、愛銃を肩に掛け近場に居たホシノとセリカの襟を掴み遮蔽の影へと引き摺った。続けてアヤネとノノミも同じように引き摺って、一先ず射線の通らない場所へと身を隠す。苦し気に息を絞り出す彼女達の表情を覗き込み、シロコは不安を覗かせ呟いた。

 

「トリニティの医療班を呼んで来る……! 直ぐ、戻るから……っ」

「ッ、し、シロコちゃ――」

 

 冷汗を流し、トリニティの元へと駆け出そうとするシロコ。そんな彼女に手を伸ばすホシノ。

 

 不意に彼女達を照らす様に、罅割れた石畳の下――古聖堂地下から強烈な光が立ち上った。それは積み上がっていた瓦礫の隙間を突き抜け、遥か彼方の空へと伸びていく。周辺に居る全員の視線がそちらに吸い込まれ、ホシノは唐突に聳え立ったソレに目を見開く。

 青と白の混じったそれ(光の柱)には、見覚えがあった。

 トリニティの生徒達も唐突に現れた光に驚き、一瞬、戦場に静寂が訪れる。ホシノは未だ痛み、早鐘を打つ胸元を抑えながら立ち昇る光を見上げ、呆然とした様子で呟いた。

 

「――先生?」

 

 ■

 

 光が収束する。

 眩い光はその光量を徐々に落とし、周囲に飛び散る煌めく粒子が彼女達の色を鮮やかに映し出す。ゆっくりと踏み出す足、靡く髪、ふわりと翻る制服。次いで安全装置を弾く音、そして弾丸を薬室に送り込む音が鳴り響く。

 先頭に立つ少女――ホシノは先生の前に立ち、告げた。

 

「――速攻で沈める」

『……了解っ!』

 

 肩口で短く切り揃えられた髪を手で払い、肩に掛けていた防弾盾を勢い良く展開する。ガチン、という硬質的な音を共にロックボルトが撃ち出され、内部に収納された弾倉を目視で確認。背後に続く残りのメンバー――アヤネ、ノノミ、セリカが声を張り上げる。

 

 胸元にぶら下げた、焼け焦げたアビドス高等学校の学生証。

 自分の知っているアビドスの皆よりも少しだけ大人びていて、僅かに異なる恰好をした彼女達。けれど、その面影は確かに残っていて、先生の背中越しに彼女達を目視したヒフミは驚愕の表情を浮かべていた。

 

「前衛二枚、セリカちゃん、いつもの奴!」

「りょーかいっ! シロコ先輩居ないから、アヤネちゃんとノノミ先輩は気を付けて!」

「任せて下さい!」

 

 ホシノが叫び、盾を構えたまま駆け出す。その背後にセリカはぴったりと、影の様に張り付いた。ホシノの指示を聞き届けノノミとアヤネは自身の愛銃、そしてドローンに手を伸ばす。

 

「ふふっ……それじゃあ、お仕置き開始です♠」

「ステータスチェック――アクティブ・ドローン!」

 

 風を巻き起こし虚空へと舞い上がる中型ドローン、そしてバレルを回転させるノノミ。ヒエロニムスは自身の元へと急行する二つの影を見つめ、直感した――目前の脅威は、早急に排除せねばならないと。

 

 特に盾を構えた生徒、その身から迸る神秘の密度は崇高を目指して造られた彼をして悍ましさを覚える程。

 彼の本能は正しく、目の前の危機を認識していた。

 

 ヒエロニムスはその感覚に従い二本の手に掴んだ儀仗を輝かせ、全力で足元を打突する。瞬間、黄金色の光が弾け突貫するホシノとセリカの足元が何の前触れもなく爆ぜた。

 それはちょっとした爆撃並みの威力と衝撃を誇り、円形に抉れ、陥没した地面がその威力の高さを物語っている。通常の生徒であれば、掠めただけでも大きなダメージを負うだろう。

 しかし、その爆発を見越していたのかセリカは大きく跳躍する事で回避し、ホシノもまた地面に盾を叩きつける様にして爆発を押さえつける。くぐもった爆音、飛び散る瓦礫片を盾で弾きながら、砂塵越しにホシノの鋭い眼光がヒエロニムスを捉えていた。青と黄金の軌跡が虚空に線を残す。

 

「―――」

 

 ぞくりと、背筋が凍った。

 此方を見据えるホシノの瞳に、何処までも寒々とした殺意を感じ取ったのだ。彼奴等に足止めなど意味がない、この生徒()は生半な攻撃では止まらない。

 

 ヒエロニムスの判断は早かった、小技による様子見を一瞬にして止め、自身の持つ力の中でも一等威力のある代物――大技を切る判断を下す。

 

 儀仗を打ち鳴らし、ヒエロニムスの後方に在る円環が眩い光を放つ、祈る様に握り締められた二つの手が軋みを上げた。紅布が風に靡き儀仗が光を織る、それは宛ら宗教画の如き神聖さを持ち、遠目に戦闘を見守るしかない生徒達はその余りに荘厳な光景に息を呑んだ。

 

 ヒエロニムスの足元に黄金の紋章が浮かび上がる。地面が罅割れ、そこから光が幾条もの光が漏れ出ていた。直後に生まれるのは地面を引っ繰り返すような凄まじい爆発、しかしそれは力の余波に過ぎない。

 

 本命は掲げた二本の儀仗、その合間から放たれる――流星の一撃(獅子の救済)

 

「ホシノ先輩ッ! 攻撃、頭上より来ます!」

「ッ……!」

 

 アヤネの声がホシノの鼓膜を叩く。頭上を仰げば飛来する星が一つ、狙いは――ホシノ。

 

 更に重ねて、ヒエロニムスはその一撃に呪い(ウルガータ)を込めた。着弾した者に尽きぬ苦痛を齎す猛毒の神秘――他と変わらぬ生徒が喰らえば、十秒で肉が爆ぜ溶けて消える、そういう類の呪いだ。

 

 迫る巨大な力の波動、流星。

 

 二撃目にして全力の一撃、二重に練り込まれた策謀、後方の先生諸共消し飛ばす意気込みで放たれたそれを前に、ホシノは怯むどころか寧ろ勇んで飛び込んだ。頭上から飛来する黄金色の流星を前に盾を掲げ、突貫する。

 ホシノは目前に迫るそれの脅威を正しく理解していた。

 しかし、それでも尚彼女は断言する。

 

 ――絶対に防ぎ切れると。

 

 接触、衝撃――炸裂。

 凄まじい光が周囲に走り、空間が歪み盾と流星が擦り合う甲高い音が鳴り響く。ホシノの両足が衝撃で沈み、地面が罅割れた。しかしその表情は僅かも歪む事無く、犬歯を剥き出しにしてホシノは叫んだ。

 

「この程度でぇッ――私達(アビドス)の盾を抜けると思うなよッ!」

 

 咆哮し、盾を全力で押し出す。瞬間、光は弾け、直線状に凄まじい風が吹き抜ける。流星を割る、真正面から。左右に裂けた極光(流星)はそれぞれ別方向の壁へと着弾し、爆発を引き起こした。剥がれ落ちた石壁が地面に叩きつけられ、爆風がアビドスの頬を撫でつける。そんな力技を成し遂げたホシノは、それを誇る訳でもなく抉れた地面の先で盾を構え佇む。

 弾けた周囲に眩い光の残滓が舞い散った。

 

「……ふん」

 

 表面が赤熱し蒸気を吹き上げた盾を構え直して、ホシノは小さく鼻を鳴らし飛び出す。そして追従する様にセリカも立ち昇る蒸気を掻き分け、現れた。その瞳に確固たる信頼を秘めて。

 

 ――ホシノ先輩ならば絶対に防げると、彼女は信じていた。

 

「バッシュッ!」

「合わせるっ!」

 

 ホシノが叫び、セリカが応えた。盾を構えたままぐっと沈み込んだホシノは、そのまま地面を踏み砕き跳躍。ヒエロニムスの顔面目掛けて飛び込み、驚愕に身を強張らせたその巨体を――正面から盾で殴りつけた。

 ガツン、という凄まじい轟音、そして空気の弾ける音。ヒエロムニスの巨体が仰け反り、その場から数歩蹈鞴を踏む。ほんの小さな生徒が、膂力で以て巨人を退かせる。それは酷く不格好で、目を疑う様な光景だった。

 

「セリカちゃんッ!」

「まかせぇ――てッ!」

 

 空中にて盾を頭上に掲げるホシノ、そこにセリカが走り込み、掲げられた盾を踏み台に更に跳躍。足場となったホシノは両腕に確かな衝撃を感じた直後急速に落下、そのまま足を地面にめり込ませ着地、罅割れ弾けた破片が虚空に打ち上がる。

 ホシノが素早く頭上を仰げば、空高く舞うセリカの姿が視界に映った。

 仰け反ったヒエロニムス、その不可視の顔面、頭部に銃口を向けるセリカ。風に靡く一つ結びのポニーテールが光を帯びて黒く輝いた。

 

「照準、よしッ!」

 

 空中に在りながら愛銃を確りと構えるセリカ、その銃口は全くぶれない。

 手入れの行き届いた彼女の愛銃、シンシアリティ。そのサイトを覗き込みながら引き金を絞れば、銃声と共に弾丸が吐き出される。頭上より降り注ぐそれは全てヒエロニムスの頭部を覆う赤布を撃ち抜き、その不可視の顔面を強かに叩いた。青白い光が瞬き、セリカの愛銃はあっという間に全ての弾薬を吐き出し終える。ガチン、と弾切れを知らせる引き金。それを確認したセリカは落下の浮遊感に身を任せながら、膝を小さく折り畳む。

 落下先はヒエロニムス、その頭部。

 

「吹っッ、飛びなさいよォッ!」

 

 空となった弾倉をそのままに、セリカは落下の勢いを乗せてヒエロニムスの頭頂部を踏みつけ、全力で蹴り飛ばした。

 穴だらけとなった赤布が歪み、一瞬だけ巨体が撓む。ヒエロニムスの巨体が壁に叩きつけられ、地下全体が揺れ動いた。凄まじい轟音が周囲に木霊し、砕け落ちる石壁、砂塵が舞い上がり暴風がセリカの身体を覆い隠す。バイトで鍛えた健脚は伊達ではない、何ならシロコ先輩であれば更に敵を押し込む事さえ出来るだろう、そんな事を考えて。

 

 セリカの視線が浮遊しながら、後方へと向けられる。

 彼奴にもう逃げ場はない――キルレンジに捉えた。

 それは彼女からの合図だった。それを受け取ったノノミは、即座にトリガーへと指を掛ける。回転し、唸りを上げ続けた愛銃。それに応えるように彼女は笑みを貼り付けた。

 

「じゃあ、行きますよ~ッ! 全弾発射~っ!」

 

 この瞬間を待っていたとばかりに、ノノミのリトルマシンガンⅤが盛大に火を噴く。毎分二千発以上を発射可能な彼女の愛銃は、凄まじい銃声と閃光を轟かせながら弾丸の雨をヒエロニムスへと送り込んだ。

 飛来するそれらはホシノとセリカの間を抜け、標的へと着弾。

 絶え間なく放たれる弾丸は嵐となってヒエロニムスの全身を打ち付け、その巨躯を壁へと徐々に押し込んでいく。組んだ両手をそのままに、ヒエロニムスは堪らず儀仗を交差させ防御の姿勢を見せた。儀仗に着弾した弾丸が甲高い音を鳴らし、彼方此方に跳弾する。薄暗い地下の中で、ノノミの周辺だけが昼間の明るさと喧騒を取り戻している様だった。その頭上を飛ぶドローンからアヤネの声が響く。

 

「敵の行動阻害を確認! PBF(Plan Barn Front)、爆薬投下しますッ、タイミング合わせ!」

「ホシノ先輩ッ!」

EX(必殺)!」

「――分かった!」

 

 力強いホシノの声に、セリカは最高の笑みを浮べた。

 

「綺麗に、お掃除しますね~ッ!」

 

 ヒエロニムスが何か行動を起こさぬ様に、ノノミの銃撃がその全身を抑え込み続ける。ただの銃撃と侮るなかれ、単純な火力だけであれば彼女単独でアビドスのホシノ、セリカ、アヤネの集中砲火にすら匹敵する。その分精度に難があったが、これほど大きな的であれば外す方が難しかった。彼女にとって巨大な敵と云うのは得意分野なのだ――いつ、如何なる時も。

 

 飛来する弾丸を前に身を竦め、防御に徹する事しか出来ないヒエロニムスは困惑の極みにあった。

 己の肉体に叩き込まれる弾丸、そこに込められた神秘濃度が段違いなのだ。気を緩めれば赤布諸共肉体を穿たれかねない。今なお、攻撃に回していた分の意識を防御に回している(苦行を経た悟り)からこそ貫通を許していないが、それが無ければ即座にこの肉体を穿たれる結果となるだろう。

 しかし、ただ防御に徹すれば良いという訳ではない。攻撃は徐々に、しかし確実にヒエロニムスの五体を削り取ろうとしている。

 

 そうこうしている間にも盾にしていた儀仗が中程から折れ曲がり、吹き飛ぶ。金属の圧し折れる甲高い音が鳴り響き、破砕された儀仗の残骸がヒエロニムスの足元に突き刺さる。足元に転がった自身の儀仗、その残骸を目視し、ヒエロニムスは己の劣勢を悟った。

 

 ヒエロニムスは自身の役割、それを十全に果たしていない。何の為に生まれ、何の為に戦い、何の為に存在するのか――彼はまだそれを知らぬ。

 

 瞬間、ヒエロニムスの中に存在した何か、表現できぬ何かが爆ぜた。それは本能の爆発か、或いは理性的な攻撃行為だったのか、彼自身にも分からなかった。

 見えぬ肉体から放たれる全力の咆哮、それは周囲の瓦礫を吹き飛ばし、飛来していた弾丸を一時的に弾き飛ばす。断層、音による衝撃波、その波はアビドスを一瞬のみ硬直させ足を止める。

 そして、それこそが彼の狙い。

 

 儀仗を投げ捨て、四本の腕を勢い良く組み、突き上げる。

 打ち鳴らされた手が凄まじい轟音を打ち鳴らし、彼の巨人の後方に浮かぶ円環が眩い光を放ち始めた。

 再度足元に刻まれる紋章、地面の底から吹き出す白き灯、古聖堂地下のみならず古聖堂地区全体が振動を始める。それは彼の者が持つ力の中で最も概念として崇高に近しいものの一つ。

 

砂漠(アビドス)の苦痛】――是を以て周辺諸共、この古聖堂を更地にする。

 

 明らかな大技の準備を前に、アビドスの全員がその目を鋭く変化させる。ヒエロニムスを中心に莫大な神秘の収斂を、収束を感じ取った。恐らくこれから放たれる一撃は過去類を見ない類の一撃、それこそ地区の一つを吹き飛ばして尚余りある爆発。真面に受ければ召喚された彼女達は兎も角、この場に居るアリウス、補習授業部、そして地上の生徒達は皆消し飛ぶ結果になるだろう。

 

 ――そんな事は、絶対にさせない。

 

 後方にて観に徹していた先生が、タブレットを取り出し一歩を踏み出す。

 吹き抜ける熱波が、その頬を焼いた。

 直ぐ後ろに立っていたミカが咄嗟に手を伸ばす。けれど、その指先が届く事は無くて。

 

 その姿を横目に捉えたホシノが静かに、けれど深い笑みを口元に湛え愛銃――Eye of Wadjetを構える。嘗て用いていたショットガン(Eye of Horus)とは異なる、もう一つの固有武器(彼女の過去)。片手に持っていた防弾盾を勢い良く地面に深く突き刺し、ホシノは全幅の信頼を込めて叫んだ。

 

「――先生ッ!」

「あぁッ!」

 

 ――応えるとも、その声に。

 

 掲げたタブレット(シッテムの箱)を通じ、先生の体から青白い光が滲み出す。同時に、ホシノのヘイローが煌々と輝き、折り重なった青と白が彼女の身体を、愛銃を包み込む。懐かしい、泣きたくなる程に懐かしく、愛おしい感覚。

 まるで先生が直ぐ隣に居るかのような温もり。

 その暖かさを噛み締め、両手で愛銃を握り締めたホシノは両足を思い切り踏ん張る。

 目前にて輝くヒエロニムス、その光を真っ直ぐ、蒼と黄金の瞳で以て捉えた彼女は。

 

 けれど、その輝きに負けぬ光を以て叫ぶのだ。

 

キヴォトス最高の神秘(先生と一緒の私)は――伊達じゃないよッ!」

 

 そうして放たれる――キヴォトス最高濃度の神秘砲。

 青白い光はその銃口に集い、輝く銃身から放たれる極光は宛ら一条の光の如く駆け抜けた。

 眩く地下を照らし、突き抜ける軌跡(ライン)。足元の地面が捲り上がり凄まじい衝撃と熱波が先生の、生徒達の肌を打ち据える。弾丸は螺旋を描きながら壁に押し付けられたヒエロニムスの胸元へと着弾し、そのまま壁ごと空間を抉り、炸裂する。

 直後凄まじい閃光と爆炎が網膜を焼き、熱風が儀仗の破片を舞い上げた。

 ヒエロニムスの一撃が拡散する力ならば、ホシノのそれは一点集中した力の波動。しかし、収束して尚その密度は余りにも高く。傍目には砲撃か何かにしか見えない。正しく必殺(EX)の一撃。

 

「ッ、なんて――……」

 

 呆然とその戦いを見ているしかなかったアズサ、そしてコハルは思わず息を呑む。地面に這いつくばり、自分達を襲う熱波をやり過ごしながらしかし、その目だけは離せずにいた、その光から――その圧倒的な力から。

 

 そうして砂塵が晴れた頃に現れるのは、祈っていた四本腕を諸共抉り穿たれたヒエロニムス。その胸元は円形に抉れ、奥に見える石壁もまた大きく陥没し、貫かれていた。ぎこちなく震え、焼き切れた赤布を被ったその頭部が、消し飛んだ自身の胴体に向けられる。嘗てのベアトリーチェと戦った時よりも深く、大きく、最早存在しない空洞を暗闇が見つめる。後方に浮かぶ円環から光が失われ、音を立てて地面に崩れ落ちた。集っていた力、神秘の波動が失われ、霧散する。

 

「このタイミング――逃しません!」

 

 上半身を吹き飛ばされたヒエロニムス、しかしアビドスは決して油断などしない。アヤネのドローンが素早く上空に位置取り、それを確認するまでもなく退避するホシノとセリカ。

 ドローンが警告音を発し、その下部ストレージがパージされる。それは人の頭程の大きさで、黒い外装にて補強された――特製爆弾。

 ゆっくりと落下していくそれを見つめながら、ホシノは空になった弾倉を愛銃から取り外し、告げる。

 

「まさかとは思うけれど、それ(ヒエロニムス)、先生の真似? ……ははっ」

 

 口元を歪め、嘲笑い、ホシノは空になった弾倉(マガジン)を項垂れるヒエロニムスに向かって軽く投げつける。そして空の弾倉が地面に当たって跳ねるのと、アヤネの投下した爆弾が炸裂するのは、殆ど同時であった。

 

「――泥人形以下だね(消えろ 贋作)

 

 瞬間――爆発。

 凄まじい爆炎が周囲を照らし、ホシノ達の背中を熱波が照らす。瓦礫片が周囲の石壁を殴打し、臓物が浮き上がる様な衝撃が先生達を襲った。

 地面に這いつくばりながら爆風をやり過ごした生徒達が目を見開けば、ヒエロニムスの立っていた場所は大きく抉れ、黒ずんだ煤の様な残滓が、あの恐怖を体現したような怪物の存在した唯一の証明だった。

 

 燃え盛る炎を背に歩く四人の影――アビドス対策委員会(嘗て業火に焼かれた少女達)

 大敵をいとも容易く屠った彼女達の視線は、ただ真っ直ぐ。

 

 先生だけを見つめていた。

 


 

 次回「三分だけの逢瀬(奇跡)

 

 この小説の最終編を書き終えて、まだ私が力尽きていなかったら。

 いつか後書きに書いた、何かの間違いでキヴォトス着任した約束の日ではなく、先生が死んで動乱が起こった世界線に飛ばされた話とか書きたいですわね。まぁ、その前に各グループ内でのバッドエンド世界線の話が先かもしれませんが。

 

 確かに死んだ先生が、喪った手足どころか命すら取り戻して自分達の前に現れたら、きっと彼女達は死に物狂いで先生を手に入れようと足掻くのでしょう。素晴らしき愛ですわね……。最近は本編で先生がクソ程ボコボコにされていましたから、久方振りに純愛心を満たす事が出来ましたわ。

 以下、完結後に生きていたら書きたいものリストですの。

 

 ・先生が死んだ後の世界に、生きてる先生をぶち込む世界線。

 ・各グループ(セミナーとか、風紀委員会とか、そういう括り)に寄り添った先生のバッドエンド世界線。

 ・「ブルーアーカイブ」ならぬ「ぶるあかっ!」的な平和な世界線。

 ・更に過去に遡って、幼い頃のアリウス・スクワッドと共に歩む世界線。

 ⇒これで正史通りのストーリーライン辿って、先生の腹をぶち抜いた後で、自分に向かって微笑む大人が嘗て自分達に寄り添ってくれた先生だと気付いて「――先生?」ってなる展開とか考えたけれどこれまたウン十万字になりそうでサクラコ様の過酷な表情になりましたわ。

 

 大事な人を手に掛けてしまった瞬間の、どうしようもない過ちを犯してしまったという衝撃と、現在のこの光景を否定しようとして揺れる瞳と、どうしてこんな事をしてしまったのだという罪悪の入り混じった表情は確かな愛の証明ですのよ。その人が大切だからそういう顔をするんですの、だからこそ其処には紛れもない愛があるのですわ。時間的で移ろいゆく見かけだけの、表面をなぞる様な好意ではない、真に想っているが故の感情の発露というのは残酷で、そして取り返しのつかない瞬間にこそ一際強く輝くのです。

 その時、あなたは美しいのですわ~ッ! 愛とは、斯くも素晴らしいものなのですわ~! ラブ&ピースなのですわ~ッ!

 

 信仰、希望、愛――これらの内で最も偉大なものは、愛です。



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三分間(私達)だけの逢瀬(奇跡)

誤字脱字報告、感謝ですわ~!


 

 ヒエロニムスが消え去り、戦場には何も残らなかった。静寂が周囲を支配する。

 余りにも圧倒的な結果とその残骸を見つめ、声も無く佇むマエストロだけが取り残され、彼女達はそんな彼を一瞥し、即座に興味を失くす。彼女達にとってマエストロは既に警戒の対象ですらなかったのだ。

 ホシノは自身の衣服に付着した煤を手で払い、鋭い視線と共に叫ぶ。

 

「――時間ッ!」

 

 その声は地下の中で良く響いた。アヤネが手にしていたディスプレイへと目を落とし、出現と同時に起動させていたデジタル時計の数字を視線でなぞる。

 

「経過一分! 残り二分ジャストです!」

「突撃ッ!」

 

 その声と共に、アビドス全員が持っていた銃器や機材を投げ捨て、先生に向かって駆け出した。その鬼気迫る表情と勢いにアズサは思わず背を正し、慌てて先生の前に出ようと足を動かす。しかし、それを遮る手があった。

 

「っ、せ、先生――!」

「いや、良いんだ」

 

 己を庇おうと動く彼女を、先生は柔らかな声と共に制止する。その肩を掴み、そっと後ろへと押し出した先生は代わりに一歩、アビドスの皆を迎える様に足を踏み出す。

 

「あの子達も、私の生徒だから」

 

 そう、例えどれ程の時間が経とうと、どれだけ世界を繰り返そうと、彼女達は先生の生徒であり、己が背負う罪悪の証明そのものである。

 故に先生は彼女達の全てを受け入れなければならない。どのような感情も、発言も、それは先生が背負うべき責任の一つなのだ。

 

 キヴォトスの生徒達の脚力を以てすれば、数十メートル程度の距離などほんの数秒程度で詰められる。瞬く間に手の届く距離へと迫った彼女達を前に、先生は静かに口を開く。

 最初に先生の元へと辿り着いたのは、ホシノだった。

 彼女は先生へと両手を伸ばす。その指先が、先生の胸元へと触れ。

 

「ホシ――うぐッ!?」

 

 瞬間、凄まじい衝撃が腹部に走った。余りの勢いに倒れかけるも、辛うじて堪え蹈鞴を踏む。見れば、ホシノの頭部が先生の胸元に埋まっていた。

 

「ずっと――」

 

 くぐもった声。

 押し付けられた口元から発せられた、熱い吐息が肌を焼く。背中まで届くその両手が震えている事に先生は気付いた。額を先生の胸元に擦り付けたまま、彼女は絞り出したような声で云った。

 

「ずっと、逢いたかった……ッ!」

「―――」

 

 その言葉に、どれ程の想いが込められていたのか。

 どれ程の感情が込められていたのか。

 先生には分からない――ただ何かを口にしようとして、先生は言葉に詰まった。自身を抱き締める両手が余りにもか細く、けれど力強くて。どんな言葉を掛ければ、何を云えば良いのか、一瞬頭が真っ白になったのだ。ただ震える息を吐き出し、中途半端に伸ばした腕を握り締める事しか出来なかった。

 

「先生ぇッ!」

「うぅぅううッ!」

「ほ、本当に、本当に先生……!」

 

 ホシノに続ぎ、次々と集まるアビドスの生徒達。セリカが、アヤネが、ノノミが、先生を四方から囲み、ホシノごと抱きしめて涙を流す。くしゃくしゃになった顔が、先生の視界一杯に広がった。皆の手が先生の衣服を掴み、その肌に触れる。確かな暖かさを感じさせる指先が、先生の心と体を揺さぶった。

 

「あ、暖かい……先生、生きているんですよね……!?」

「と、当然ッ! し、死体がこんなに暖かい訳ないじゃん! そ、そうだよね!? これ、夢じゃないよね!?」

「……あぁ、夢なんかじゃないよ」

 

 興奮した様に声を上げ、自身の身体を掴む彼女達に向けて漸く絞り出せた言葉は、そんなありきたりなもので。先生は片方しかない腕で力一杯、彼女達を強く――強く抱きしめた。

 ふわりと香る懐かしい匂い。脳裏に過るあらゆる記憶、彼女達と歩んだ、暗がりの記憶。喪われた命を想いながら震える吐息を零し、先生は云う。

 

「ごめん、そしてありがとう――皆」

 

 助けてくれて、応えてくれて――こうして、また出会ってくれて。

 声は、情けない程に震えていた。それは先生が彼女達に見せた初めての弱さだったのかもしれない。あの頃の面影が残るアビドスを、自分の手から零れ落ちてしまった嘗ての小さな光を。

 

 先生の弱さを垣間見た彼女達は、少しだけ驚いた様に目を見開く。それから仕方なさそうに笑って、先生の身体をより一層強く掴んだ。その一時の温もりを決して忘れまいと、心を込めて。

 

「うへ、やっぱり先生は変わらないね……」

「ふふっ、そうですね、この暖かさも、言葉も」

「あの頃の先生、そのまんま!」

「ですねっ……!」

 

 あんな結末を迎えても、こんなに嬉しい事があるんだ。

 そんな、深い暗がりの中で漸く見つけた小さな光を慈しむように。彼女達はこの幸福を、奇跡を噛み締める。

 けれど、三分という時間は余りにも短い。彼女達にすれば刹那の様な、正に奇跡の様な時間。ホシノは先生の背中を強く抱きしめながらも、細々とした声で問いかけた。

 

「アヤネちゃん、残り時間は――?」

「あ、え、えっと……い、一分です」

 

 表示される画面に刻まれる時間、それは刻一刻と数字を減らしている。その声を聴き、皆が顔を見合わせ頷いていた。

 云いたい事、伝えたい事は沢山ある。それこそ山の様に、幾らあっても時間が足りない。

 だから何より伝えなくちゃいけない事を。

 託したい想いを。

 

 ――一つだけ。

 

 ホシノがそっと先生から体を離し、続くように皆も先生から一歩退く。先生を正面から捉える瞳には、あらゆる感情が綯交ぜになった複雑な色が浮かんでいた。けれど、その中に一つだけ――強く、輝く色を放つ感情。

 

「先生、云いたい事、伝えたい事、沢山あるんだ……けれど、私達に残された時間は少ないから――だから一つだけ」

「……うん」

 

「――シロコ(銀狼)ちゃんの事を、お願い」

 

 それは、彼女達が残して来た未練。燃え盛る炎の中で、最後までその身を案じ、未来を憂い、全てを託す事しか出来なかった彼女達が持ち続けた――消せない罪悪の証。

 

 自分達は最善を尽くした、許される範囲の中で努力した、けれど最後の最後にどうしようもない結末に至り、苦悩し話し合った末に選んだ道の果て。皆の犠牲と云う名の願いを、祈りを、罪悪を背負わせ、今なお苦しみ足掻いている一人の少女(生徒)

 彼女(シロコ)だけが、アビドス対策委員会(薪になった少女達)の心残りだった。

 

「先生の理想も、信念も、矜持も、全部知っています――何が好きで、何が嫌いで、どんな明日を求めているのかも、全部、全部……」

 

 くすんだ金髪を揺らすノノミはそう云って、手を握り締めながら俯く。共に過ごした日々を、その思い出を忘れなどしない。だから先生の想いも、祈りも、夢も、何もかも知っている。

 

「その上で『私達』は――先生に、生きて……幸せになって欲しいんです」

 

 アヤネがそう云って苦笑を零し、その震える指先をそっと手の中に隠した。僅かに歪んだ眼鏡のフレームが、少しだけズレて見えた。

 知っていも尚、皆は先生の幸福を――何て事のない日常を願う。その夢の実現がどれ程難しく、困難で、苦痛を伴うものかを知っているから。その夢の果てに膝を折った彼女達は、懇願するしかない。

 

「それが押し付けた、先生にとっての幸せじゃないと分かっていても、傷だらけになって、這い蹲って、血を吐いて進む先生を……これ以上、見たくないから――っ!」

 

 セリカが自身の擦り切れた衣服を強く掴み、叫ぶ。その表情は歪んで、必死だった。

 これから先、自分達が消えたこの世界で、先生はまた歩み続けるのだろう。それがどれだけ困難であっても、どれだけ苦痛に塗れた道であっても、その夢を、理想を、生徒皆が笑い合えると云う素晴らしい世界を目指して、先生は進み続けるに違いない。

 それを知っている、理解している。

 その理想を否定したくなどない。

 けれど、その対価が先生の幸福であるのならば――彼女達は、自分達の選択を後悔などしない。

 

 最後に、ホシノが先生を見上げた。

 その真摯な眼差しが先生を正面から射貫き、声が響いた。

 

「だから、先生、シロコちゃんは……」

「――分かっている」

 

 その声を、先生は敢えて遮った。

 それ以外に、言葉など無い。

 

「全部、全部……分かっている」

 

 呟き、先生はその感情を噛み締めた。深く、深く、何度も。

 全てを犠牲に、この世界へと踏み込んだ彼女(シロコ)の想いも。

 燃え盛る炎に身を投じ、死して尚友を想うアビドスの願いも。

 そこに込められた、彼女達全員の祈りも。

 全部――全部。

 分かっているとも。

 

 シロコ(彼女)を頼む。

 そんな事、云われるまでもない。

 

「当然の事だよ、だって」

 

 伸ばした手は、ホシノの前髪に触れる。少しだけ伸びたそれを指先で払い、先生は優しく彼女の頭を撫でつけた。

 

アビドス対策委員会(わたしたち)は、皆で一つ……だろう?」

「――うん!」

 

 そう云って破顔した彼女(ホシノ)の笑みは。

 いつか見た、朝焼けの向こう側に照らされた時の様に、美しく、儚く。

 何よりも輝いていて――。

 

 ――時間(とき)が、来る。

 

 彼女達の身体から徐々に、徐々に光が漏れ出る。その輪郭が朧気になり、手足が透けて見えた。この世界に留まれる制限、その終わりが迫っていた。

 それに気付いた彼女達の顔が強張る。分かっていた事だった、でもいざ終わりが訪れた時、彼女達の心に恐怖が滲み出した。

 虚無に還る事に――先生()の無い場所に連れ戻される事に。

 でも、それを呑み込み、噛み締め、彼女達は前を向く。

 彼女達にはまだ、やらなくちゃいけない事があったから。

 

「決めていたんだ、アビドスの皆で、前に別れた時(先生が事切れた時)は泣き顔だったから……次、もし、先生と会えたら、もし、そんな奇跡があったら……っ!」

 

 全員が、先生の前に足を揃えて佇む。

 互いに身を寄せ合って、手を取り合って、震える指先を必死に隠して。

 気を抜けば叫びだし、泣き喚きたくなる様な恐ろしさを、彼女達は決して見せまいと気丈に振る舞う。天より差し込む陽光が彼女達の顔を照らし、光の粒子となって消えて行く。その輪郭が、身体が、空に溶ける様に虚ろとなっていく。

 そんな中で彼女達は、互いに顔を見合わせ、涙で頬を濡らしながら――けれど、どこまでも透き通った満面の笑みを先生に贈った。

 

「――今度こそ、笑顔で!」

 

 涙に塗れた――満面の笑み。

 先生が求めていた、その理想とは少し違うけれど。

 それでも彼女達が今、贈る事の出来る。

 唯一無二(後悔のない)答え(結末)が、それだった。

 

 そうして、何時の日か先生が取り零してしまった。

 その手の届かない場所に消えてしまった世界の彼女達は、蒼穹の彼方へと消えた。

 青白い粒子が虚空に溶けて、消える。風に吹かれたそれは、先生の周囲を舞い、徐々に徐々に見えなくなる。

 

 たった、三分間だけの奇跡は。

 余りにも短く、儚く。

 

「――……あぁ」

 

 声が、漏れた。

 それがどの様な感情から漏れ出たものなのか、余りにも複雑で、多くて、大きくて、先生にも分からない。ただ胸を締め付ける、痛い程の圧迫感があった。悲しい、辛い、虚しい、苦しい、けれど――膝を折る事は許されない。

 その善意を、好意を、想いを、答えを受け取ったから。その背中に積まれた罪悪はより一層重さを増して、先生の足を地面に縫い付ける。

 

 残滓となり、零れ落ちたソレが床に小さな染みを残す。その消え行く彼女に、彼女達に、先生は無意識の内に手を伸ばしていた。その指先に残滓が掠め、光が皮膚を撫でた。

 光にはまだ少しだけ、彼女達の温もりが残っている様な気がした。

 

「心から感謝しよう、先生」

「………」

「不完全な姿でお見せしてしまった事は汗顔の至りだが、直ぐに完成させて見せる――私の矜持に掛けて」

 

 マエストロが静かに、先生の前へと足を進める。最早跡形もなく消え去った自身の作品を、その芸術の至らなさを恥じる様に拳を握りしめ、告げた。

 

「黒服の云う通りであった……普段は共感できないものの、この件に関しては感謝をせざるを得ない、黒服のお陰でそなたという最高の理解者に出会う事が出来た」

「――頼む」

 

 マエストロの声を遮り、先生は口を開いた。その声は低く唸る様で、小さく呟く様な声量だったと云うのに、マエストロの元へと確かに届いた。天を仰ぎ、手を握り締める彼は小さく肩を震わせ言葉を紡ぐ。

 その顔は、影に遮られ見えない。

 

「頼む、黙っていてくれ、今だけは……どうか」

 

 差し込む陽光を見上げながら、先生は云う。その目尻から一筋の水が零れるのをマエストロは見た。顎を伝い、地面へと流れ落ちたそれは小さな染みを作る。マエストロは陽光の差し込む天を見上げ、小さく手を差し出す。

 雨は、降っていなかった。

 

「私に――……」

「………」

 

 それ以上は、言葉にならない。

 萎み、消える様に告げられたそれ。マエストロは暫し沈黙を守り、ただ胸元に手を当て、深く礼をする事で応えた。其処にはマエストロなりの最大の敬意の謝辞、そして賞賛の意が込められていた。

 

「手短に――先生、そなたに再び会える事、心待ちにしている」

「………」

「また、夢の中で」

 

 そう告げたマエストロの姿が、暗闇の中に溶けて消える。現れた時と同じように、空間が捻じれ歪み、その中に彼の輪郭は掻き消えた。後には何も残らない、ただ薄暗く、破壊跡の残る地下だけが在った。

 

「………せ、先生」

「―――」

 

 背後から聞こえる、アズサの声。先生は宙を見上げたまま微動だにしない。ただ僅かに震える肩を隠し、問いかける。

 

「……スクワッドの皆は?」

「その、撤退した、地下通路の方に……追撃は、しなかった」

「……うん、それで良い」

 

 追撃をする必要はない。それだけ呟き、先生はそっと目元を拭う。揺れる左袖が所在なさげに靡き、音を鳴らしていた。

 

「あ、あの……先生、今の方々は、その、アビドスの皆さんと、何か――」

 

 思わずと云った風に、アズサの背後に居たヒフミが問いかけた。おずおずと、しかし確かな疑念と共に。あの現れたアビドスの生徒達は、確かにヒフミの知るアビドスのメンバーそのものだった。けれど少しだけ背丈や恰好が異なっていて、その力も地上で戦っている彼女達とは隔絶したものを感じた。本来の彼女達を知っているのならば、疑問に思うのは当然だ。

 けれど微かに見えた先生の横顔を視界に捉えた時、彼女は悔やむ様に唇を噛んで、そっと言葉を呑み込んだ。

 

「……ごめんなさい、聞かなかった事に、して下さい」

「――ありがとう」

 

 ヒフミの声にそう答え、吐息を絞り出す。少しだけ、心が乱れていた。仮面を被り直す(心を持ち直す)為に、少しだけ猶予が欲しかった。

 そんな先生の袖を引く影が一つ。

 見れば、コハルが不安げな表情で自身の袖を引いていた。

 

「せ、先生、その、えっと……」

「……大丈夫だよ」

 

 コハルは、先生が何を行ったのかを理解していない。そもそも何が起こったのかも、どうなったのかも。ただ、先生が何か、酷く辛そうにしている事だけはハッキリしていて。

 慰めようと思ったのか、励まそうと思ったのか、それは分からない。ただ、おずおずと何かを口にしようとして、視線を彷徨わせる彼女を見た時、先生は少しだけ笑った。胸の内に湧き上がる、確かな暖かさを自覚した。

 コハルの頭をそっと撫でつけ、先生は云う。

 

「――私は、大丈夫だ」

 

 そう、私はまだ――大丈夫。

 

「さぁ、地上に戻ろう、争いはこれで終わる……皆が上で待っているからね」

「は、はい」

 

 そう云って彼女達の背を叩き、間を通り抜け歩き出す。行き先は未だ座り込むミカ、彼女の元へと辿り着いた先生は、そっと膝を折って正面から視線を向ける。

 

「ミカ」

「っ……!」

「立てるかい?」

 

 そう云って差し出される、先生の大きな手。ミカは差し出されたそれをに目を向けて、一瞬戸惑う様に俯いた。そして僅かな逡巡の後に恐る恐る手を伸ばす。先生の手を取る為に、その指先に触れる為に。

 けれど、その手が先生の手を取るより早く――気付いてしまった。

 

「っ、せ、先生……その、指」

「………」

 

 ミカが見つめた視線の先には、黒ずみ、変色した先生の指先があった。

 それは単なる怪我と呼ぶには歪で、奇妙な現象だった。

 黒く、吸い込む様な漆黒に、罅割れる様に走る白。ほんの爪先程度の変色だ、或いは何かが付着しただけにも見える。事実先生は軽く指先を拭って、「少し、煤が付着しただけさ」と笑った。

 指先を軽く丸めた先生は、強引にミカの手を取って引き寄せる。立ち上がったミカの鼻腔に、ふわりと甘い匂いが漂った。

 

「それじゃあ帰ろう、私達の居るべき場所へ」

 

 そう告げる先生の声は何処までも澄んでいて。

 その目は優しく、慈しむように生徒達(わたし)を見ていた。

 

「――何て事のない、日常(奇跡)の中に」

 

 ■

 

「ゲホッ、ゴホッ……!」

「り、リーダー、大丈夫ですか?」

 

 トリニティ自治区郊外――カタコンベ通路、トンネル付近。

 一度地上に上がり、人気のないカタコンベへと通じるトンネル通路にて足を止めるスクワッド。咳き込んだサオリの背中を、肩を貸していたヒヨリがそっと撫でつける。荷物の大半をアツコとミサキに預けサオリを担ぐ彼女は、その砂利に塗れた髪をそのままに問いかけた。暗闇に支配されたトンネルは、声が良く響く。

 

「……問題、ない」

「で、でも余り無理は、少しくらい休んでも――」

「いや、一刻も早く……此処を離れなければならない、包囲網が敷かれる前に」

 

 そう云って、サオリは垂れ下がった己の腕を見つめる。腫れ上がり、変色したそれは一日、二日程度では治らない。そうでなくとも真面な治療環境などなく物資にも乏しい。今のスクワッドは正に満身創痍の状態で、真正面からの戦闘などに耐えうるだけの余力がなかった。

 であれば捜索が始まる前に、この近辺から出来るだけ早く離れなければならない。戦闘が発生すれば負けるのは自分達なのだから。

 

「皆、端末は……」

「全部撃って、水に沈めた、追跡は出来ない筈」

 

 そう云って肩を竦めるミサキ。カタコンベを進む中、彼女達はアリウスから支給された携帯端末の類を全て破壊し、水没させていた。すべては追跡を攪乱する為――アリウスを離反する以上、自身の現在位置を特定される危険性のある通信機器の類を持ち続ける訳にはいかない。

 

「それで、何処に行く? まぁ、行く宛なんて何処にもないけれど」

「……どちらにせよ、自治区には戻れない――彼女に、殺される」

 

 セイントプレデターを担ぎながらそう吐き捨てるミサキ。それにサオリは呟く様な声で応える。その言葉は真実だ、今のスクワッドに向かうべき目的地など存在しない。しかし、馬鹿正直に帰ると云う選択肢も取れなかった。それをすれば、待っているのは確実な死だ。その結末を、サオリは許容する事が出来ない。

 例え、己の罪悪から逃げる事になったとしても。

 自分ひとりならばどうなっても良い。

 しかし、スクワッドを巻き込み、彼女達が喪われる事だけは――それだけは。

 

「まぁ、そういう終わり方も悪くないけれど」

「そ、それは苦しそうですね……でも、そうでなくとも、この先もずっと――」

「……それが人生だから、仕方ない」

 

 ヒヨリが苦笑を零し、ミサキは淡々とそう呟く。

 アリウスに戻って殺されるか、逃亡生活の果てに真綿で首を絞められるかのように死ぬか。

 自分達の未来には、その程度の違いしかない――ただ苦しんで死ぬか、足掻いた果てに苦しんで死ぬか。けれど、生きる事を諦める選択を彼女達は取らなかった。どれだけ醜くとも、無様であっても、生きる道をスクワッドは選んだ。

 ヒヨリの大きなバッグを抱えるアツコは、腰にぶら下げた罅割れた仮面を見つめ、口を開く。

 

「ゲヘナ郊外のスラム、あそこなら、多分身を潜められると思う」

 

 思い描くのはゲヘナ自治区郊外に広がるスラム街。廃墟と不良のたまり場となったあの場所は、脛に傷のある生徒が根城にしている生粋の掃き溜めだ。トリニティから離れる事も出来るし、環境としても幼少期に過ごしたアリウスの外郭区に酷似している。ちょっとした廃墟を間借り出来れば拠点にする事も出来るだろう。自分達から注目が逸れるまで身を隠す場所としては悪くない様に思えた。

 そんなアツコの提案に、ミサキは僅かに顔を顰める。

 

「ゲヘナ、ね……ま、今更か、トリニティだろうとゲヘナだろうと、大して変わらないだろうし」

「えっと、郊外だと、カタコンベの地下通路から行けるのでしょうか……?」

「流石にトリニティ自治区外だから無理だと思う、大橋から通れるルートが近くにあった筈だから、そこからゲヘナに入ろう、今なら多分トリニティの騒動に掛かりきりで、向こうの警備や戦力も手薄だと思うし」

「……そうだな」

 

 部隊で潜り込むならば兎も角、たった四人程度であれば潜入する事は難しくない。最悪、装備品を幾つか捨てて渡河しても良い。方針は決まった、足を止めていたサオリは落ちかけていた膝を叩き、足を踏み出す。目指すはトンネル(暗闇)の向こう側、ゲヘナ自治区へと続く大橋。

 

「ぐっ――動こう、長居は無用だ……!」

「……了解」

「わ、分かりました」

 

 ミサキが先導する為に歩き出し、その背後にサオリと彼女に肩を貸すヒヨリが続く。そして最後尾を歩くアツコは、トンネルの出入り口に目を向けた。薄暗いトンネルに差し込む柔らかな陽光、それを眩しそうに見つめながらひとり、彼女は呟いた。

 

「――アズサ」

 

 口に出したのは、嘗ての同胞の名前。ひとりスクワッドを離れ、新しい居場所を手に入れた少女。彼女の顔を思い浮かべながら、アツコは独白する。

 

「あなたはこれから沢山の事を学んでいくのでしょうね、陽の当たる場所でずっと、友人達と一緒に――勉強をして、努力をして、色々な可能性を」

 

 ――あなたは、強いから。

 

 呟き、アツコは目を瞑る。幼い頃に共に過ごした記憶、辛く、苦しいものばかりだったけれど。それでも決して、それだけじゃない、ほんの僅かでも楽しくて、嬉しい記憶もあった。

 それはメンバーが誕生日を迎えた日に行われた、配給食糧を使った(ささ)やかなパーティーであったり。

 教官に内緒で宿舎を抜け出して見上げた、広くて眩い夜空だったり。

 就寝後に行われた、何の意味もない僅かなお喋りだったり。

 生きる事に精一杯で、そんな小さく、ほんの僅かな日々が奇跡なのだと思っていたけれど。彼女はそれ以上の大きな、とても大きな(奇跡)を掴んで。

 

 例えすべてが虚しくとも、この世界が昏く寂しいものであっても。

 例え――コンクリートの隅であっても。

 

 彼女は咲く事を、決して諦めなかった。(希望を掴み取る事を、終ぞ諦めなかった)

 

「あの時に見せてくれた花の事……今は少し、理解出来たかもしれない」

 

 訓練場の片隅に咲く、小さな青い野花。

 彼女が指差し問いかけた言葉、果たしていつか枯れる花に、吹けば飛んでしまう様な花に、誰にも理解されず仲間も居ない花に――咲く意味はあるのか。

 気まぐれで踏み潰されてしまう。何かの拍子で散ってしまうかもしれない。こんなひとりぼっちで、虚しくて、苦しい世界なのに。けれどきっと、彼女の問い掛けは答えがあってのものだったのだ。あの言葉は諦めを探す為に問い掛けられたものではない。膝を抱え、じっとあの青い野花を見つめていたアズサは。

 きっと――。

 

「アズサ」

 

 彼女の名を呼び、踵を返す。彼女は陽の当たる場所に足を進めた。そしてアツコは――スクワッドは、その陽光が差し込む場所(入口)とは別の、暗闇(トンネルの奥)へと足を向ける。

 彼女は陽の下で生き、私達は影に生きる。

 

 もう、二度と逢う事は出来ないかもしれないけれど。

 

「――どうか、幸せに生きてね」

 

 そう囁いて、アツコは皆の後を追って歩き出した。

 靴音が周囲に響き、微かに陽光に照らされていたその姿は暗闇の中に溶けて行く。そうして少しずつ、少しずつ遠くなっていく足音。

 軈てそこには暗闇だけが残り。

 

 アリウス・スクワッドは再び――影の中へと消えて行った。

 

 ■

 

「――そう、敗北しましたか」

 

 アリウス自治区――バシリカ。

 祭壇上階、アリウス自治区の主として使用している一室に彼女は横たわっていた。椅子代わりに用いられるのは徴収し、積み上げられた幾つもの書籍(聖書)。色褪せ、擦り切れたそれらは遥か昔から保管されていた教えの一つ。彼女がアリウス自治区を管理する際に、これらの書物は全て取り上げられ彼女の元へと届けられた。それらを足蹴にし、小さく息を吐き出しながらその山に身を預ける。

 薄暗い光がステンドグラスから漏れ出し、彼女は手にした通信端末に向かって吐息を漏らす。それは失望と、微かな苛立ちの発露であった。

 

「あれ程の手駒を揃え、マエストロの助力を得て尚……いえ、あの者の切り札を考えれば決しておかしな話ではありませんが」

 

 彼女の脳裏に過るのは、先生の持つ切り札。あの圧倒的な神秘の塊を前にすれば、マエストロの扱う人形(芸術)など塵芥に等しい。ましてやユスティナ聖徒会など、彼は歯牙にも掛けないだろう。であれば、この結果は決して理不尽なものではない、予測できた未来のひとつだ。

 

「やはり、立ち塞がるのですね、あなたは――」

 

 何度でも、己の敵対者として。

 確実に殺したと思った、始末できたと思い込んでいた。しかし、どういう手段を使ったのかは知らないが、彼の者はあの爆撃も、スクワッドの襲撃さえも生き延びた。そのしぶとさはベアトリーチェを以てしても感嘆してしまう程。よもやこれ程の策謀を全て真正面から潜り抜けて来るとは――。

 

 ――しかし、先生は決して無敵でもなければ不死身でもない。事実あの爆発と襲撃によって、先生の目と腕を奪う事には成功している。そしてその肉体にも、何発か弾丸が撃ち込まれたというではないか。

 確かに手強い相手である、ベアトリーチェにとっての宿敵。だが、それでも彼の者を屠るだけの可能性は十分にある。自身が勝者として君臨する世界は、確かにある筈なのだ。

 

「えぇ、問題はありません、現状は理解しました、それで、残った部隊は? 特に、ロイヤルブラッドが在籍するスクワッドは――」

 

 ベアトリーチェは今後の算段を頭の中に並べ、そう端末に向かって問いかける。すると通信手はどこか云い淀む様な、まごついた様子を見せ、それからやや強張った声色で告げた。

 

「……ほう、逃げ出しましたか」

 

 ――アリウス・スクワッドの離反。

 

 スクワッドは古聖堂地区、広場にてトリニティの本隊と戦闘に入り、ユスティナ聖徒会の召還を行使。しかし途中現れた先生によってETOの権限が剥奪され、アリウスの戦力、その根幹を成していたユスティナ聖徒会の複製は不安定なものに転じる。そこから何とか交戦を続けるも、押し込まれ地下に撤退。そしてその場所でマエストロの作品(戦術兵器)を用いて――しかし、それすらも撃破され以後通信途絶。

 最終位置はカタコンベ通路、その道中であると云う。

 

 撤退している最中にトリニティかゲヘナの生徒に遭遇したか、しかし後詰の部隊がスクワッドの通った最終位置に向かった所、戦闘跡らしきものは何一つ発見出来なかった。代わりに発見されたのは、空薬莢とプラスチックの細かい破片。それはスクワッドに支給されていた端末、その破片である。

 そうであるのならば、任務失敗の責任を問われるのを恐れ、故意に端末を破壊して行方を晦ませ(逃亡し)たというのが現場指揮官(幹部)の見方だった。

 そして、その判断は凡そ間違ってない。ベアトリーチェも同意見だ。彼女は顎先を指先で撫でつけながら思考する。

 

「であれば連れ戻しなさい、丁寧に、しかし迅速に、その為の部隊であればどれ程用いても構いません……えぇ、交戦許可も出しましょう」

 

 スクワッド自体はどうなろうと知った事ではない、所詮は使い捨ての駒に過ぎない。しかしロイヤルブラッドは別だ、あの者にはまだ利用価値がある。

 

「他の部隊員? あぁ、それでしたら……」

 

 その問い掛けに、ベアトリーチェは酷く冷めた声で答えた。

 

「――彼女(秤アツコ)以外は、全員処理(殺害)で構いません」

 

 錠前サオリ。

 戒野ミサキ。

 槌永ヒヨリ。

 この三名の生死は問わない。

 利用価値のない生徒(子ども)に用などなかった。

 

「逃亡者に情けは必要ないでしょう、見つけ次第彼女以外、その場で射殺(ヘイローを破壊)しなさい――あぁ、確かスクワッドのリーダーにはヘイロー破壊爆弾を持たせていましたか、それを奪って使っても構いません、好きな様に処理して下さい」

 

 彼女達の行為はただの悪足掻きだ。

 アリウス・スクワッドは失敗した。

 エデン条約を強奪し、ユスティナ聖徒会の力をアリウスのものとする、その果てにトリニティとゲヘナを手中に収め、危険な大人であるシャーレの先生を排除する――それこそが彼女達の任務だった。

 

 そうすればロイヤルブラッド――秤アツコを【生贄】にしなくて済むと。

 

 しかし、その未来は瓦解した。

 吐き捨て、ベアトリーチェは嘲笑う。彼女達にとってロイヤルブラッドがどれ程大事なのか、全てを捨ててまで逃げる程に大切なのか、それは知らぬ。しかし、逃げ切れる筈がない。アリウスという唯一の居場所を失い、トリニティとゲヘナとも敵対し、今や彼女達に味方は居ない。

 

 いや――一人だけ存在するか。

 

 ベアトリーチェは目を細め、想う。しかし、それでも絶望的な状況には変わらない筈だ。少なくともアリウスが彼女達を捕捉し、捕らえる方が早いだろう。彼の者は未だ動けず、事後処理に奔走している。半ばまで崩れ、混乱に陥った学園を建て直すには相応の時間が掛かる事が予想された。

 

「……さて、私がこの儀式を完遂させるのが先か、それともあなた(先生)が私の元に辿り着くのが先か」

 

 手元の端末の電源を切り、ベアトリーチェは呟く。握り締めたそれは虚空の中へと消え、赤く細長い指先が宙をなぞった。

 

「これが、私とあなたの最後の戦いになるでしょう、このアリウスに果たして辿り着く事が出来るのか、いえ、きっと辿り着くのでしょうね……ですが、今度こそ私はあなたを屠って見せる、それこそが私の存在証明、私が崇高へと至る道」

 

 ベアトリーチェの作り出した、支配した箱庭。

 憎悪に染め上げ、生徒を傀儡と為し、自身の目的遂行の為に最も効率的に稼働する様に仕上げたアリウス自治区。トリニティ地下に存在する広大なカタコンベ、その複雑なルートを一定の手順で通らなければ辿り着けないこの場所は、現トリニティ生徒の中で存在を知る者は居ても辿り着ける者はいない。

 しかし、或いは彼の者(先生)ならば――。

 いや、絶対に辿り着くと云う確信が彼女にはあった。故に彼女は入念に準備する、聖人との戦いに向けて、その決着を付ける為に。

 

「私は、あなたという聖人(至高)を踏み越え――更なる高みに至る」

 

 そして、私は世界を救う。

 それこそが、唯一無二の大人が背負う責務である。

 あらゆる犠牲を容認し、あらゆる子羊の贄を以て君臨する。

 その絶対的な在り方こそが、彼女の目指す崇高。

 

「――崇高(絶対者)の座す椅子は、一つしかないのですから」

 

 告げ、ベアトリーチェは目を瞑る。彼の者との邂逅を予期し、その口元を歪に曲げながら。自分と先生、双方がこのアリウスにて対峙した時、全てが変わる。

 己が勝つか、聖人が勝つか、どのような結末を迎えるにしろ。

 

 最後に立っているのは――どちらか片方だけだ。

 


 

 次回、エピローグ。

 

 スクワッドと先生の確執、そしてミカとの因縁、ベアトリーチェとの決戦、彼女の仕組んだ策謀、そしてクロコとの再会、それはエデン条約後編・第二章に続きますの。

 一先ずエデン条約後編・第一章は次話か、その次で完結ですわ~ッ!

 喪ったものは大きく、決して取り返しのつかないものです。けれど、その代わりに生徒や先生もまた、大きなものを得ているのですわ。目に見えないそれはきっと実感などなく、朧げな輪郭しか見えていないでしょうが、最終編に続くその希望の種は絶対に失くしてはいけないものになるでしょう。

 

 エピローグではその後のトリニティ、ゲヘナ、そして先生達が描かれます。無くなったおめめとおててを見せつけながら生徒達のお見舞い行こうね! 特にヒナタとか激ヤバクソピンチだと思うからちゃんとフォローしてあげないとね! 因みにヒナタは正義実現委員会のトップ二人と違って、まだベッドで寝込んでいます。半日程度で復活する二人が異常なんですわよ。

 

 帰って来るミネ団長の事とか、パンデモニウムソサエティの事とか、今回蚊帳の外にされたシャーレ組の事とか、先生負傷によるキヴォトスの余波とか、連邦生徒会側の見解とか、ミカとティーパーティー周りの事とか、補習授業部の今後についてとか、先生の肉体についてとか、描写したい事は沢山あるので、一話で詰め込めなかったら二話に分けますわ。それでも駄目だったら削りますわ。出来れば後味はスッキリさせたいなぁ~とも思いつつ、でもエデン条約後編は、暗くて陰鬱とした終わりであっても、また「らしい」のでその辺りは拘りませんわ。

 

 最初は、「エデン条約で先生の腕をもぎもぎしたいですわ~ッ!」から始まったこの小説。今は、「最終編で先生の輝かしい命を燃やしたいですわ~ッ!」の一心で書いています。人は成長するのですね……この調子で新しいエピソードが追加されて、また私の燃料が追加されたら延々と続きそうで怖いですわ。まぁ、しかし物語と云うのは必ずどこかで終わるもの、それがいつになるかは分からずとも、愛を以て書き続けていられる今はとても幸せな事なのでしょう。

 それでは、最後までお付き合い頂ければ幸いですわ~!



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エピローグ 前編

誤字脱字報告ありがとうございますわ!
めちゃ長くなったのでエピローグを二つに分けますの!
今回は生徒が日常に戻っていくパートですわ!


 

「よくも、よくもッ、このマコト様を騙したなぁああああッ!?」

「……うるさっ」

 

 ゲヘナ自治区――万魔殿、執務室。

 一人、執務机に積み上がった書類を前にして叫ぶ議長、マコト。そんな彼女をソファに座りながらペンを片手に眺めるイロハ。片方は顔を真っ赤にして怒り狂い、もう片方はそんな上司の姿に辟易とした態度を隠さなかった。

 

「イロハ! おい、イロハッ!? 今すぐアレを用意しろ! このままやられっぱなしでたまるものか……ッ!」

「アレと云われても何の事だかサッパリですし、というか何なんですか一体」

「何もクソもあるかッ! トリニティの連中、このマコト様に先生が死んだ等と誤情報を流しおってッ……!」

 

 そう、彼女が憤慨しているのはシャーレの先生が死亡したという情報が誤りだった為だ。妙に真面目ぶった顔つきで今後の身の振り方、そしてゲヘナの在り方を真剣に考えていた彼女はしかし、つい先程トリニティから齎された、「えっ、先生ですか? 無事ですけれど?」みたいな布告を前に憤慨していた。

 更に、その情報を前にしてパンデモニウムソサエティが目の仇にしている風紀委員会が微塵も驚かなかった事も、マコトの怒りに拍車を掛けている。ついでにマコトの目の前に居るイロハも驚いていなかったが、その事には全く気付いていない。

 机をバンバンと叩き憤怒を露にする彼女を前に、イロハはこれ見よがしに溜息を吐き出しながら告げた。

 

「いや、別にそれはトリニティ云々ではなく、うちの情報官が――あぁ、聞いていないですね、はい」

「くそっ! 何が共同戦線だッ、トリニティの気に入らない連中の事だ、十中八九先生の負傷を餌にゲヘナの戦力を引き出していたに違いない! 内部戦力まで出して、このマコト様が秘密裏に運用する予定だった費用が、予算が……うぎぎぎッ!」

 

 勝手に脳内で完結し、勝手にトリニティを悪者に仕立て上げるマコトを最早誰に止められる筈もなく。被っていた帽子を両手で握り締め、歯を食い縛るゲヘナ代表(議長)。何とも滑稽な姿であったが、イロハにそれを指摘する気力もつもりもなかった。彼女はローテーブルの上に纏めていた書類をクリップで止め、立ち上がるとマコトの前に足を進める。そして気だるげに肩を竦めると、その紙束を差し出した。

 

「そう云えばコレ、今朝提出するのを忘れていました」

「ん……? 何だ、これは」

「何だって云われましても」

 

 報告書の類にしては妙に厚い紙束。それを差し出されたマコトは無意識の内に受け取り、中身をぱらぱらと捲って確認する。視界に並ぶ数字の羅列、そして後半には妙に格式張った堅い物言いの文書。この書式には見覚えがある、憎きトリニティが用いているものだった。

 

「先日の戦闘で掛かった弾薬、燃料、食糧、被服……まぁ諸々掛かった費用、そのまとめです」

「………」

「あぁ、後私達の部隊(機甲連隊)と一部の部隊が破壊したトリニティ自治区内の建物、道路、公共物に対する再建・補修費用の請求も来ていましたので、確認をお願いします」

「お、おい、イロハ……?」

「では、私はお昼寝――こほん、格納した虎丸の整備がありますので、これで」

「ま、待てイロハッ! おい、イロハッ!?」

 

 ■

 

「ナギサ様、御身体の具合は――」

「最初はヘイローが砕けるかと思いましたが、今は多少落ち着きました」

 

 救護騎士団、病棟――個室。

 一般生徒の立ち入りが禁止されているその場所にて、一人ベッドの上で上体を起こすナギサ。そんな彼女の傍に立つのは同分派の行政官であり補佐官でもある生徒、その手には幾つかの書類を抱えていた。

 

「本当にご無事で何よりでした、今はどうかご無理をなさらず」

「いえ――私ばかりが寝ている訳にはいきません……件の最中、殆ど役立たずでしたから、せめて事態の収拾にはホストとして動かなければ示しがつかないでしょう」

「ナギサ様……」

 

 そう云って用意されていたベッドテーブルの上でペンを走らせるナギサ。未だ体の傷は癒えていないが、かと云って寝たきりという訳でもない。腕と頭が動くのならば書類仕事位は出来る。目が覚めてからというもの、彼女はひとりこの病室で黙々と執務を行っていた。

 

「ところで、何か御用があっていらっしゃったのですか? 今朝に必要分の書類は頂きましたが――」

「あっ、そうでした、その、代行業務を行っているミカ様から手紙を預かっておりまして」

「ミカさんから……?」

 

 その言葉に、ナギサはぴくりと眉を動かした。

 現在、トリニティのホストはナギサのまま変更は為されていないが、彼女が動けない以上実質的にホストとして活動しているのはミカであった。と云っても、彼女は本来であれば拘束されている身の上な為、その行動は常に監視され権限の殆どは一時的に剥奪されている。ティーパーティーとしての権限を用いる場合は、一度ナギサの元に持ち込まれ認可を得るという形で行使されていた。

 

 救護騎士団、シスターフッド、正義実現委員会、その何処も現在は多忙を極め組織再建に従事している。その為、一時的な措置として代行の肩書を持って貰っているのだが――。

 まさか、現状の体制を批判する声が上がっているのか? 一時的な措置とは云え、彼女を復帰させたのが拙かったか。そんな思案と共に手紙を受け取り、そっと封を切る。中には何枚かに分けられた上質な便箋が入っていた。

 

『やっほ~ナギちゃん! これを読んでいるって事は、もう目が覚めたんだよね? ミサイルが撃ち込まれてからずっとぐっすりだったもんね! あんなに色々あったのに気楽にスヤスヤ寝ていたなんて、ホストとして中々皆には見せられない姿じゃんね? まぁ、ずっと頑張っていたんだし休んで欲しいとは思っていたけれどさ、そこまでぐっすりだなんて思わなかったよ!』

 

『取り敢えず起きたならちょっとお願い聞いてくれない? 早めにホストに復帰して、どうにかしてくれると嬉しいんだけれど! 今、ティーパーティーって私しか居ないから、代理として色々執務というか、会議とか決裁? とかやっているんだけれど、面倒くさすぎて半日で飽きちゃった! 独房から特例措置で一時的に出して貰えるのは有難いけれどさ、こういうデスクワークっていうの? ホントきら~い! だから早く帰って来てナギちゃんが代わりにやってくれると嬉しいな☆』

 

『あ、あと前の戦闘で手が荒れちゃったから、ハンドクリームとか買って来てくれる? 私がいつも使ってる奴、売ってる場所は後で教えるね? 流石に私も外出までは許されていなくてさ~、ちょっと位良いと思わない? あ、どうせならヘアドライヤーも買い換えようかな、ナギちゃんがいつも使ってる奴! あれ、凄く高い会社の最上級モデルでしょ? ナギちゃんの髪質が良くなったタイミングで変えた奴、私知っているんだから! あとさ、部屋のバスタオルが――』

 

 ぐしゃりと、ナギサの手の中で手紙が握り潰された。

 小刻みに震える指先が、彼女の内面をこれ以上ない程に確りと表現している。彼女の無言の怒りを感じ取った行政官は、恐る恐ると云った風に問いかけた。

 

「な、ナギサ様……その、どうしましょう? やはり、監獄ではなく――」

「ミカさんのお食事は今後、全てロールケーキだけで構いません」

「はい――はいッ!?」

 

 ■

 

「うぅ……」

「……あ、アル様」

「戻って来てからずっとあんな調子だね」

 

 便利屋68――アビドス自治区事務所。

 そこにはひとり執務机にへばりつき、グズグズと鼻を啜るアルの姿があった。向かい合ったソファに座るハルカ、カヨコ、ムツキの三名はそんな自分達のリーダーの姿を見つめ、不安げだったり、心配そうだったり、或いは不思議そうだったり。

 いつも通り、とはいかないものの、それに近しい雰囲気の仲間達を見たアルは、その赤く腫れ上がった目元を拭いながら恨めしそうに声を上げた。

 

「寧ろ、何であなた達はそんなに平気な顔をしているのよ……? だって、先生が、先生が――……」

「いや、確かに大怪我はしちゃったけれど……」

 

 カヨコがそう口にすると、アルはその目つきを鋭く変化させ机を叩き立ち上がった。

 

「大怪我どころじゃないわよッ!? 先生は、せんせいは、しっ、死――ッ!」

「えっ、先生は生きてるよアルちゃん?」

 

 何処か鬼気迫る表情で叫ぶアルを前に、ムツキは目を瞬かせながらそう宣う。

 数秒、部屋の中に沈黙が降りた。

 

「……えっ」

「社長、聞いていなかったの? 先生、死亡判定受けた後に奇跡的に息を吹き返したって」

「は、はい、確かにそう、トリニティのハナコさんという生徒から教えて頂いて――」

「あ~……そう云えばアルちゃん、ずっと戦闘終わってから上の空だったもんね? 私達が喜んでいる時もずっとそんな調子だったし、もしかして聞き逃しちゃってた?」

「な、な……なっ」

 

 然も当然の事の様に皆がそう云って、それが質の悪い冗談でも何でもない事を理解したアルは。

 その身体を小刻みに震わせながら天を仰いだ。

 

「なんですってぇ~~ッ!?」

「くふふっ、アルちゃんてばずっと勘違いしてたんだ?」

 

 白目を剥き、絶叫するアルを前に腹を抱えてケラケラと笑うムツキ。本人からすれば笑い事ではないのだろうが、てっきり皆知っているものだとばかり思っていた為、どうしても間の抜けた格好に映ってしまう。びりびりと窓硝子を震わせる絶叫に、不穏気だった部屋の空気が一変した。

 

「はぁ、本当に聞いていなかったんだね、道理で様子がおかしいと思った」

「あわわっ、あ、アル様……!」

 

 カヨコは気だるげに溜息を吐き出し、ハルカはおろおろと右往左往している。何となくアルの様子がおかしいとは思っていたのだが、まさか聞いていなかったとは思わなかった。アルは頭を抱えたまま机に突っ伏し、続けて叫んだ。

 

「し、知らないわよ、そんな事ッ! えっ、え、先生本当に無事なの!? 生きているのッ!?」

「今は治療と諸々の事情でトリニティに居るらしいよ? 風紀委員会も無事だって云っていたし……」

「シャーレのアカウントもちゃんと動いているよ」

 

 そう云ってカヨコが手に持っていた端末をアルに見せれば、そこにはシャーレの公式アカウントからお知らせという形で、先生の所在が現在トリニティにある事を告知していた。急ぎの御用は此処まで――という文言と共に綴られるそれに、アルはわなわなと唇を震わせる。

 

「な、何でっ、あぁもう! じゃあ今からでもトリニティに――」

「騒動の影響で今は復興作業中だし、あの戦闘以降ゲヘナとトリニティの関係はいつも通り険悪だから、今はやめておいた方が良いと思うけれど」

「確かゲヘナの機甲部隊がトリニティの建物とか吹き飛ばしたんだっけ? あははっ、面白~い」

「あ、アル様のご指示があれば、トリニティの道中を邪魔する全員を吹き飛ばしますが……!」

「それはやめてッ!?」

 

 恐ろしい言葉と共に銃火器を取りに行こうとするハルカを止め、アルはその場に突っ伏す。自分の不注意とは云えまさか、そんな重要な言葉を聞き逃すとは痛恨のミス。歯ぎしりし机に頬を引っ付かせながら頭を抱えるアルは思う、逢いたい、先生に逢いに行きたい――だが相手はトリニティ、敵地の中の敵地とも云える場所である。そう易々と許可が出るとは思えない。こんな事ならトリニティに留まって先生に会いに行けば良かったと後悔する。

 

「それに今からトリニティに戻るって云っても、交通費は足りるの?」

「あははっ、向こうで色々散財しちゃったもんね~、生活費くらいはあるけれど、往復分のチケットを四人分買ったら厳しいんじゃない?」

「え、えっと、ギリギリ……ですね」

「ぐ、ぐぅう~ッ……」

 

 皆の言葉に、アルは涙を呑んで歯ぎしりする。どちらにせよ、今はただ待つ事しか出来ないのが現実だった。

 

 ■

 

 トリニティ中央区――救護騎士団本棟。

 患者に埋め尽くされ、多くの団員が忙しなく動き回る病棟と渡り廊下で繋がったその場所。そんな喧騒の中に、ふと差し込む人影があった。彼女は本棟へと繋がる通路へと運ぶと、不器用に扉を開け放つ。彼女の持つ盾が床に擦り、音が鳴った。それに釣られて視線を向けた団員たちが――ぎょっと目を見開く。

 

「皆さん」

「えっ……だ、団長!?」

「団長!?」

 

 声を上げたのはセリナとハナエ。医療品を両手に駆け回っていた彼女達は、その額に汗を滲ませながら驚愕の表情を以て彼女――救護騎士団の団長、蒼森ミネを見つめていた。彼女は愛用の盾と愛銃を片手に、深く頭を下げる。その淡い蒼の髪が揺れ、彼女の羽が小さく折り畳まれた。

 

「何も云わず行方を晦ませて、ごめんなさい」

「だ、団長ぉ~ッ!」

「い、今まで一体何処に……!? そ、その、団長が不在の間に、本当に色々な事があって……!」

「えぇ、存じています」

 

 ハナエが一も二も無く彼女に飛び込み、ミネはその豊満な胸を以て軽々と彼女を受け止める。体の芯は微塵も揺らがず、色々な伝えたい事に口をまごつかせるセリナを前に、彼女はいつも通り力強く、しかし慈しむ様な笑みで以て応えた。

 

「随分とお待たせしましたね……遅ればせながら、ただいま戻りました」

 

 ■

 

「アコ、次の書類を」

「は、はいッ……!」

 

 ゲヘナ自治区――風紀委員会本部、執務室。

 そこで凄まじい勢いでペンを動かすヒナと、アコの姿があった。山の様に積まれた未決裁書類を片っ端から目を通し、分類していくヒナ。そんな彼女の姿にアコは何処か困惑の表情を浮かべ、問いかける。

 

「ひ、ヒナ委員長、今日は一段と手が早いようですが――」

「ミスはしていない筈」

「はい、それはそうなのですが……」

 

 呟き、決裁済の書類を手に取るアコ。全てきちんと目を通した上で判断しているのは理解しているし、その辺りは信頼もしている。しかし、普段よりもペースが二倍近く早い。これは何かあると疑るのは当然の帰結とも云えた。

 

「その、何かご予定でも――?」

「午後から先生のお見舞いに行く、だから今の内に午後の分も終わらせたいの」

「え、あ、し……しかし、現在のトリニティは」

「ティーパーティー、まぁ正確に云えばシャーレ側からになるけれど、認可は取り付けてあるから問題ない」

「そ、そうですか……」

 

 相変わらず隙の無い解答。現在トリニティ本校舎は正式なトリニティの学籍を持つ生徒以外出入り禁止になっている筈だが、いつの間に段取りを整えたのか。アコは臍を嚙む思いで言葉を呑み込んだ。思うのはただひとり、先の騒動で負傷した先生の事。

 心配する気持ちは勿論ある、息を吹き返したと云っても欠損はそのままで、眼球と腕を喪ったと聞いた。今後の生活にも大きく影響が出るだろう、普段は多少なりとも世話になっているので助力できる事があれば、まぁ――手を貸す事も吝かではない。

 しかし、それはそれとして、彼女(ヒナ委員長)の心が先生に寄って行くのを感じるのは非常に複雑な心地だった。それが表情に出ていたのだろう、ふと此方を見上げたヒナが疑問符を浮かべ問いかける。

 

「どうしたの、アコ? 何か、凄くこう、過酷な顔をしているけれど……?」

「いえ――ただ心が、二つあるだけですので」

「……?」

 

 ■

 

「此方も、酷い状態ですね――」

 

 古聖堂地区、中央地区へと通じる大通りにて。

 スズミは灰色の制服を靡かせ石畳の床を歩く。周囲には爆発によって崩れたり、弾丸が残ったままの建物が多く見られた。公道も罅割れ、抉れた石畳も散見され、圧し折れた外灯や標識が横たわる様にして道を塞いでいる。それらを見つめながら、スズミは思わず呟いた。

 

「あれ程綺麗だった街並みが、こうも簡単に……」

 

 砲撃や爆発によって崩れ落ちた建物群、特に遠目に見える古聖堂の辺りは酷い。調印式会場で大きな爆発があった事は知っていたが、これほどまでの破壊跡を刻みつける爆発とはどの程度のものだったのか。考えるだけでも血の気が引く。

 トリニティによる復興作業は既に始まっていた。しかし、まずは人口と機能の集中している中央地区からの着手となっており、半分以上が崩落した古聖堂本棟や、その周辺に関しては後回しにされているのが現状である。戦闘の影響によって崩落の危険性がある建築物などもあり、一時的に古聖堂周辺は避難区域に指定されていた。

 

「………」

 

 足元に転がっていた瓦礫を跨ぎ、スズミは唇を噛み締める。

 やはり争いは何も生み出さず、不幸な結果しか残さない。

 争いなど起こるから――先生だって、あんな。

 

「っ……!」

 

 咄嗟にスズミは自身の頬を軽く叩いた。要らぬ思考を交えそうになった、今はパトロール中、気分を沈ませ判断を誤る様な事はしたくない。スズミは自身の感情を噛み締め、飲み下す。そっと愛銃のグリップを握り締め、二度、三度深呼吸を行った。

 

「あっ、居た、スズミさん!」

「……レイサさん?」

 

 人通りのない道に、聞き覚えのある声が響く。振り向くとカラフルな髪色を靡かせ駆ける生徒、レイサの姿があった。ずり落ちそうになる銃と鞄を手で押さえながら、彼女は焦燥した表情で叫ぶ。

 

「あのっ、あっちの方で何か揉め事があったみたいでしてッ!」

「揉め事? この一帯は避難区域に指定されている筈ですが、一体誰が――」

「何でも、不良生徒が勝手に無人の公共施設を占拠し、アジト宣言したとか何とか……」

「――直ぐに向かいましょう」

 

 告げ、即座に判断を下す。避難後の建築物を無断で占拠し、あまつさえアジト宣言等、一体どういう神経をしているのか。スズミは銃を抱え直しレイサの指差した方向へと足を向ける。

 

「復興作業が進む中で、そのような事は論外です、直ぐに鎮圧します」

「は、はいッ!」

 

 スズミがそう告げ駆け出せば、レイサも嬉々として後に続く。何事かあるかもしれないと出向いて見ればコレだ、本当に正義の道は程遠い。

 しかし。

 

「正義とは、小さな一つを正す事から始まるのですから……!」

 

 例え自身のこの行動が、ほんの些細な影響しか持たないとしても。

 小さな一つを正す行為に、意味は確かにある筈なのだ。

 

 ■

 

「セナ部長」

「……チナツですか」

 

 ゲヘナ自治区――救急医学部本部、病棟。

 ゲヘナ側の負傷者が運び込まれていたその場所は、大勢の生徒達の影によって埋め尽くされており、忙しなく部員たちが駆け回っている。その病棟の端に簡素なスチール机を置き、執務と指示出し、時折治療を行う救急医学部の部長、セナ。彼女の元に何枚かの書類を携え現れたのは、風紀委員会のチナツであった。

 彼女は多忙を極める病棟内を軽く見渡した後、手にしていた書類をセナに差し出す。

 

「此方、風紀委員会の方で使用した医療備蓄のリストです、先の戦闘の規模が規模なだけに、かなり消費が激しく……」

「確かに、後で確認して消費分を倉庫から運ばせておきます」

「ありがとうございます」

 

 差し出されたそれを受け取りながら、セナはチナツを一瞥していた視線を机の上に戻す。机上には幾つものファイルが収納、積み重なっており、救急医学部の部長として決裁を必要とする書類もまた纏めて置かれていた。

 彼女の補佐官らしき生徒の姿は見えない、どうやら自分ひとりで処理するつもりの様だ。それも仕方ない事かとチナツは内心で零す、風紀委員会も此処最近は似たような状態で、周囲の駆け回る救急医学部の部員達を見ればその現状は察して余りある。エデン条約での騒動に触発され、暴れ回るゲヘナの生徒も一定数存在し、その取り締まりと負傷者の発生で何処も手が足りていなかった。

 ずらりと並んだ病床、そして其処に伏せる負傷者の数々を見つめながら思わず呟く。

 

「……まだ、ベッドの空きは出来そうにありませんね」

「仕方ありません、あの事件から然程日も経っていませんから」

 

 告げ、セナは軽く自身の目元を揉み解す。チナツの知る彼女は鉄人も斯くやという人物であるが、流石にこうも連日多忙が続くと疲労が滲むらしい。然もありなんとチナツは肩を竦める。彼女の目元には薄らと隈が見えた。

 

「この様な時に云うのも何ですが、戻って来ても良いのですよチナツ? あなたは即戦力ですから、手伝って頂けるなら大変心強い」

「いえ、その、私は風紀委員会の所属ですから」

「そうですか、残念です」

 

 最初からその返事を想定していたのだろう、セナはいつも通り淡々とした様子で答えた。

 そうこうしている内に本部の入り口から、「急患です!」という声が響く。セナは手にしていたペンを机上に置き、立ち上がった。

 

「仕事です、私は死た――」

 

 そこまで口にして、セナの身体が強張り、不自然に硬直したのが分かった。

 彼女が患者や負傷者の事を、『死体』と口にしているのは周知の事実だ。チナツも何度も耳にした言葉だった。しかし、彼女はその言葉を途中で止め、何やら顔を顰めている。薄らと、その額に汗が滲んでいるのが分かった。それは誰の目から見ても分かる程の、彼女らしからぬ態度だった。

 

「……部長?」

「――いいえ、何でもありません」

 

 チナツが問いかければ、セナは軽く首を横に振って息を吐く。二度、三度、まるで自身を落ち着ける様に。そうして数秒程目を瞑った彼女は、いつも通りの調子を取り戻しチナツに向かって淡々と言葉を紡いだ。

 

「急患の対応を行いますので、また今度」

「……はい」

 

 告げ、颯爽と去って行くセナ。その背中を見送るチナツは、軽く首を傾げる。

 思い違いだろうか? 何となくだが、今のセナからは妙な違和があった。しかし前を見据え確固たる歩調で部屋を後にする彼女の姿は、いつも通りだ。

 結局、その違和感を掘り下げる事をせず、チナツは風紀委員会への帰路就く。背後からは変わらず、患者と部員達による喧騒が響いていた。

 

 ■

 

 アビドス自治区――アビドス高等学校、対策委員会本部。

 

「ふは~ッ、やっと帰って来れたぁ~……」

「何だか、懐かしさすら感じちゃいますね☆」

「こ、校舎ってこんなに暑かったっけ?」

「ん、空調……」

「あ、あはは、確かに今回は色々ありましたから」

 

 トリニティ自治区より、アビドス(我が家)へと戻って来た対策委員会の面々。久方振り、という訳ではないのだが照りつける太陽と砂の混じった道路を目にすると何となく懐かしい気分になる。昇降口で靴に付着した砂を落とし、対策委員会の部室へと戻って来た面々は疲労感を滲ませながら各々の定位置へと足を進めた。

 ホシノは担いでいた防弾盾を部屋の隅に置き、ノノミは壁に設置されたガンラックに愛銃のリトルマシンガンⅤを立て掛ける。シロコとセリカもそれに倣い、アヤネは背嚢に仕舞っていたドローンを取り出し、デスクの上にそっと置いた。次いで空調のリモコンを手に取りボタンを押し込めば、暫くして冷風が皆の肌を撫でつける。疲労から動く気になれなくて、各々パイプ椅子に腰掛け暫しの休息を享受していた。

 

「はぁー、それにしてもトリニティの連中、何だってあんな突然、別に締め出すような真似しなくても良いじゃん……」

「まぁまぁ、セリカちゃん、向こうにも色々理由があるんだよ、特にトリニティみたいな大きな学園じゃどうしてもねぇ」

「先輩は寛容過ぎ! 私達だって先生の傍で護衛とかしたかったのに……! それに、私達って一応シャーレにも在籍している生徒って扱いでしょ!?」

「まぁ、確かにそうですが、向こうも一応は命令ではなく『お願い』という形でしたし」

「あそこで要らない波風を立てる必要はないよ~」

 

 椅子に凭れ掛かりながら、自身の膝を拳で叩くセリカ。それに対してホシノは飄々とした態度で答える。

 戦闘後、以前の様にトリニティ本校の敷地内に留まろうとしていたアビドスに対し、トリニティ側は組織再編及び復興作業とそれに伴う警備強化という文言で退去を要請して来たのだ。それはアビドスに留まらず、正式にトリニティに学籍を持たない生徒は残らず本校舎敷地内から放り出すという徹底ぶり、しかもアビドスの様なシャーレ所属の生徒ならまだしも、そうではない生徒に対しては正式な指示、或いは命令として校外へと追いやっていた。当初は抗議を行うつもりであったアビドスであったが、ホシノが代表として暫し行政官と交渉し、幾つかの問答を経た後、何やかんやの末にアビドスの面々は先生やヒフミとだけ挨拶を交わし、アビドス自治区へと帰還する羽目になった。

 彼女達からしても色々と思う所はあるが、トリニティ側の事情も理解出来る。故にアヤネは苦笑を零しつつ窘める様に言葉を紡いだ。

 

「気持ちは同じですが、あのような事があったばかりですから……」

「ティーパーティーの方も色々な事情がありそうでした、元々トリニティは幾つもの分派が集まって出来た総合学園という話ですし、一枚岩という訳ではないのかもしれませんね」

「ん……それに、先生にはいつでも連絡して良いって言質も取った、ヒフミも先生に付いてくれているし、小まめに近況報告もしてくれるって」

「ま、今はそれで我慢するしかないよねぇ」

 

 トリニティを後にする事にはなったが、何の収穫も無かった訳ではない。本来なら本校舎の近い場所に宿でも取って張り込みたい気持ちもあったが――アビドスは元々金銭事情が切迫している。何は無くとも金が無ければ生きていけない世の中、バイトの事もあるし、自治区をずっと空けておく訳にも行かず、暫くはアビドスに留まる事になるだろう。パイプ椅子を軋ませながら伸びをしたホシノは、どこか消化不良気味な皆を見渡しながら告げた。

 

「……落ち着いたら、また皆で先生に会いに行こっか」

「えぇ、そうですね」

「あったりまえよ!」

「ん」

「はい!」

 

 ホシノの言葉に、対策委員会の皆が賛同する。ホシノはゆっくりと椅子に身を預けながら、窓硝子越しに広がる青い空を眩しそうに見上げた。照りつける太陽は、今日も彼女達を見守っている。

 

 ■

 

「ッく、何故このような仕打ちを、私とあの御方の仲を引き裂く事など、何人たりとも許される筈が――ッ! あの方の御心を、真に理解出来るのは、このワカモのみだと何故……ッ!」

「な、何か、ワカモが凄く怖いんだけれど……?」

 

 シャーレ居住区、休憩室にて。

 ソファに座りながらも俯き、ぶつぶつと恨み言を垂れ流すワカモを前に、ミチルは何処か戦々恐々とした様子で呟いた。

 シャーレの即応部隊として活動している彼女達は、常日頃百鬼夜行にある古い部室と、このシャーレの間を往ったり来たりしている。当初は大変だと思っていたが、いざこうした生活に慣れてみると中々どうして悪くない。そもそもシャーレ内にはコンビニや図書室、体育館にゲームセンターまで用意されているのだから居心地が良いのは当たり前だった。

 特に教室や視聴覚室等、授業を受ける環境も全て整っているので、何ならBD関連の教育は全てシャーレ内で済ませてしまえる程。流石にそれは拙いと定期的に百鬼夜行の自治区にも戻っているが、最近は殆ど入り浸り状態だった。今は、先生が不在の為留守を預かっているという表向きの理由もあるのだが――。

 

「えっと、その、部長、イズナちゃんの方も……」

「あるじどのぉぉお~~ッ!」

 

 ミチルがふと背後を見れば、テーブルに突っ伏して蹲っているイズナの姿。耳がしんなりと垂れ、尻尾が凄まじい勢いで床を叩いてた。傍で必死に窘め、背中を撫でつけるツクヨは背を曲げながらティッシュ箱を引き寄せる。イズナの頬は涙で覆われ、鼻水まで垂れていた。

 

「い、イズナちゃん、鼻水、ほら、ち~んしよ……?」

「イズナはッ、いずなは、肝心な時に、何も、何もぉお……――ぢ~んッ!」

 

 先生の負傷を聞いて取り乱し、何故気付けなかったのだと泣き喚き続けるイズナ。甲斐甲斐しく世話を焼き、必死に元気付けるツクヨ。トリニティから追い出され恨み骨髄と云った様子のワカモ。そんなメンバーを見つめながらミチルは腕を組み唸る。

 

 元々、エデン条約の会場が爆破され、大事になったという情報は広く報道されていた。当初その映像を見ていた時は、思わず大口を開けて呆然としていたものだ。シャーレ休憩室でその映像を見ていたイズナが我先にと飛び出し、ミチルとツクヨも慌ててその背に続き、現場に向かおうとしていたのだが――同じような考えの生徒が多かったのか、或いは爆発による影響か、トリニティ古聖堂地区、及びトリニティ中央区画に通じる交通網は軒並み麻痺し、鉄道や電車は勿論、高速道路の類も軒並み封鎖されていた。

 それでも何とか生き残っている交通手段と自分の足を駆使して現地に辿り着いた頃には、殆ど事態は収束しており。

 そうして呆然としている内にトリニティ側から、「人多過ぎだし、今他の学園に構っている暇ないから帰れ(意訳)」と他大勢の生徒達と纏めて告げられ蜻蛉帰りする羽目になり、今に至る。

 そう、正しく今回シャーレ組である自分達はワカモを除き、何の役にも立たなかったのだ。

 その事に思う所はある、最初は凄まじい罪悪感と自己嫌悪で項垂れていた程だ。しかし過ぎ去ってしまった事は煩悶してもどうしようもない。反省し、己を戒め、改める。それもまた真の忍者を目指す上で必要な道――しかし、それはそれとして、今はこの爆発しそうな二名を何とかするのが先決だった。

 

「う、う~ん、やっぱり先生殿に会いに行くしか二人を宥める方法が思いつかない……」

「で、でも、今トリニティ中央区は、身分証明と正式な手続きを行って認可されないと入れないと――」

「そうなんだよねぇ、私達は兎も角、ワカモは、えっと、ほら……」

 

 告げ、ミチルは言葉を濁す。シャーレとして動いている自分達は、必要に応じて実働部隊としての権限を用いても構わないと伝えられている。その立場を使えば強引にトリニティへと押し入る事も可能だろう。しかし、残念ながらその権限を用いてもワカモだけはどうにもならない可能性がある。何せ彼女は七囚人、災厄の狐と呼ばれる大犯罪者、こうして実際に触れあって、少なくない時間を共に過ごしたからこそ彼女が存外に理性的で、ごく一部の事象――主に先生関連――が絡まなければ真面である事を知っているが、世間はそうじゃない。

 ましてや保守的な学園代表格とも云えるトリニティに於いて、彼女の様な存在が押し入ってしまえばどのような騒動となるか考えたくもない。只ですら多忙な先生の時間を、更に削り取る結果となるのは火を見るよりも明らかだった。

 

「先生殿の事は心配だけれど、それで騒動を起こしたりしたら本末転倒だし……う、うぅん」

「くッ……!」

「お、大人しく待っているしか、ないですよね……」

「あるじどのぉおお~ッ!」

 

 ミチルが肩を落とし、ツクヨが賛同の声を上げる。その言葉にワカモは忌々し気に歯を軋ませ、イズナはより一層泣き喚くのだった。今しばらく、シャーレには泣き声と恨み言が響き渡りそうだと、そんな事をミチルは思った。取り敢えずワカモを窘め、イズナを元気づける為に、ミチルは奔走する事を決めるのだった。

 

 ■

 

 トリニティ自治区――ティーパーティー、テラスにて。

 

「ふぅ、全くミカさんは――」

「あはは、ナギちゃんまだ全治って訳じゃないのに、めっちゃ元気じゃん!」

「ミカさんに執務を任せておけないだけです」

 

 そう云ってナギサは、ティーテーブルに並んだ書類を手に取って、素早く目を通した。その対面では同じように書類に囲まれていたミカが、何が楽しいのか屈託のない笑顔を浮かべている。

 ミカから手紙を受け取ったナギサは、その足でミカの元へと向かい執務の助力を申し出たのだ。てっきり割り当てられた執務室で仕事をしているのかと思えば、其処に居たのは大量の書類に囲まれた行政官が数名。ミカさんは何方にと問いかければ、戦々恐々とした表情でテラスを指差したものだから、てっきり仕事をさぼってティータイムにでも興じているのかと思えばコレだ。ミカは書類をこのテラスに持ち込み、紅茶片手にぶーぶー文句を垂れながら仕事をしていた。

 

 何故テラスで仕事をしているのかと問えば、「だって今までずっと地下だったし、開放的な場所だったら気分も上がるかなぁ~って思って」と何の悪びれも無い返事が戻って来る始末。

 ティーテーブルに重要な書類を持ち込むのは何事かと、隣り合うカップを見つめながら思考する。もし内容物が零れて書類に掛かったらどうすると云うのか、そうでなくとも風で飛ばされる可能性だとか、誰かに書類の内容を盗み見られる可能性があるだとか、そんな事を考えたが何の懸念も無いとばかりに笑うミカを見ている内に、そんな事に悩む自分が馬鹿らしくなった。

 

 そうして対面に座り、無言でペンを要求したナギサは黙々と書類を捌いて行く。数分に一枚、嫌々目を通すミカとは雲泥の差だった。心なしか給仕の生徒の顔色が良くなり、雰囲気が明るいものに変わったような気さえする。

 

 吹き抜けのテラスには、広場や学内の生徒達、その喧騒が良く聞こえて来る。特に復興作業と組織再編の只中にあるトリニティには、様々な音が溢れていた。本来であればその音は優雅なティータイムには相応しいものではないが、今の自分達にはこれくらいが丁度良いのかもしれないと、ナギサはそんな事を想う。

 

 ふと、ミカは対面に座るナギサの表情、その変化に気付いた。積み上がった書類を読み進める内に不安や懸念が大きくなったのだろう。だからこそ彼女はふっと破顔し、肩を竦める。

 

「ナギちゃん、また眉間に皺が寄っているよ? 上手く行った――事はまぁ、少ないかもしれないけれどさ、でも何も得られなかった訳じゃないし」

「えぇ、そうですね……少なくとも、私が想定していたよりも騒動の収拾は早くつきそうです――ですが」

 

 喪ったモノも、決して少なくはない。先のアリウス襲撃に加え、今回のエデン条約の騒動。結局ETO(エデン条約機構)という存在は夢幻と消え、その権限は未だ先生が所持しているものの、肝心の実働部隊は何処にも存在しない。ゲヘナとの関係も相変わらずで、先の騒動では一時的に共闘を行っていたものの目に見える敵が居なくなれば、自然と関係も元に戻る。休戦協定としては失敗も失敗、その形骸だけが残る形となった。

 

 何より、今回の件で喪われた――先生の右目、そして左腕。

 シャーレの先生、その負傷と欠損と云う分かり易い失態は、ナギサをして思わず目を覆いたくなる程のもの。エデン条約の調印式会場はゲヘナとの共同警備という形ではあったが、この条約を主導したのは自分自身。当然、強い責任と罪悪感を覚えてしまう。

 果たして、自分はどのようにして償っていくべきなのか。

 病床で横たわっていた時からずっと考えていたナギサは、その答えを未だ見つけられずに居た。

 

「――それでも、私達は前を向いて進むしかない……だろう?」

 

 ふと、声が響いた。

 それは二人にとって聞き覚えのあるものであり、しかし絶対にあり得ない筈の声だった。二人がはっとした表情で声の聞こえて来た方向へと顔を向ける。其処には酷く長い亜麻色の髪を靡かせ歩く、小柄な人影が一つ。肩に乗せたシマエナガが小さく鳴き、彼女の顔が陽光に照らされた。

 

「……やぁ、ナギサ、ミカ、久方振りの集合だね」

「せ、セイアさん!?」

「セイアちゃん……!」

 

 余った袖を軽く振るい、微笑んで見せる少女――百合園セイア。

 行方を晦まし、死亡したという偽りの情報で身を固めていた彼女は、久方振りにティーパーティー、その二人の前に姿を現した。記憶通り、寸分も違わぬ彼女の姿。怪我らしい怪我も見当たらず、その頭部にある大きな耳が小刻みに動いている。

 

「長い時間が経ち、色々な事があったが――私達はそろそろ、お互いに話し合うべきだと思ってね、云わなかった事、云えなかった事、そして本当は云いたかった事、誤解もある筈だ、信じられない事もある筈だ、たとえどこにも到達できないとしても……それでも、他者の心という証明不可能な問題に向かうしかない」

 

 円形のティーテーブル、久しく空席であった彼女の席へとセイアは足を進める。随分と使っていなかった筈だが、彼女の席は綺麗に磨かれ、埃一つ被っていない。その事に彼女は笑みを零しながら、二人に向けて言葉を続けた。

 

「私達は皆、進まなければならないんだ、与えられた宿題をずっと背負いながら、それでもこの闇の中を、ただ、その先を目指して」

「……相変わらず難しい事ばっかり、セイアちゃん、だから友達いないんでしょ? ちょっとは自覚してる?」

 

 予想だにしていなかった人物の登場、その事に呆気に取られていた二人。しかし、あまりにも普段通り過ぎる彼女の姿、そしてその小難しい言動にミカは再起動を果たした。

 久方ぶりの再会、だと云うのに口をついて出たのは何とも酷い悪態。最初、しまったと顔を顰めたミカであったが、しかしそれはそれとして本音でもある。

 云えなかった事、云いたかった事を口にしろと云うのであれば是非もない、それがミカの本音だった。

 ぴくりと、セイアの眉が跳ねる。良く見なくとも分かった、「あ、怒っている」と。セイアは自身の椅子に手を掛けながら、やや棘のある口調で言葉を返した。

 

「……まずミカは、その良く鳴りそうな頭に、教養と品格を入れて貰った方が良さそうだね?」

「えっ、あの、お二人共?」

「でもセイアちゃんより私の方が強いし~? 何、今からでもやろっか?」

「何事も力で解決しようとする、君の様な生徒にはお似合いの思考だ、羨ましいよ」

「そんな貧弱な体だから銃弾程度で寝込んじゃうんだよ! ちょっと運動したら良いんじゃない?」

「適度な運動と過度な運動をはき違えているね、そもそもミカ、君の想定する運動というのは常人の――」

「んんッ!」

 

 今にも勃発しそうな喧嘩、剣吞とした気配。二人の云い合いがヒートアップする前に、ナギサはこれ見よがしに咳払いを挟んだ。給仕の生徒が後退り、戦々恐々としている中で大きく溜息を吐く。

 全く、何故こうも、この二人は――。

 

「はぁ、確かに話し合う事は大切ですが……喧嘩をしたい訳ではないでしょう、お二人共? 取り敢えず座って下さい、ミカさんも、トリニティの生徒たる者常に優雅に、お淑やかに」

「……は~い☆」

「……ふぅ」

 

 ナギサの言葉に、ミカは張り付けたような笑みで返事をする。セイアも頭に血が上っていた事は自覚があるのか、自身の心を落ち着ける様に手に乗せたシマエナガを撫でつけながら席に着いた。

 久方振りに揃ったティーパーティ、最早揃う事は無いのではないかと思っていたテーブルに揃う三人。パテル、フィリウス、サンクトゥス、それぞれの分派代表。二人の顔を見つめながらナギサは背筋を正す。セイアが復帰した以上、ホストとしての権限は彼女に返すべきなのだろうが――兎角、今は自分がホストなのだ。

 その意識を持ち、彼女は告げる。

 

「これから、私達ティーパーティー――いえ、トリニティは変革を強いられるでしょう、それが良いものであれ、悪いものであれ、今までのまま在り続けるには様々な事が起こり、多くのものを喪い過ぎました」

 

 それはティーパーティーへの信頼であったり、各派閥への関係だったり、ゲヘナとの諸々だったり、トリニティ自治区の治安だったり、建築物だったり、目に見えないもの、目に見えるもの、双方共にだ。

 故に変化が必要だった。その変化を受け入れなければ、トリニティはそう遠くない未来このキヴォトスから消え去る事になるだろう。先人の残したもの、前例、慣習というものは確かに大事。しかし、それに拘り滅び往く事を彼女は受け入れられない。

 先のアリウス襲撃、そして今回のエデン条約でも、トリニティとティーパーティーは様々な間違いを犯した。

 それは正す事が出来る。

 正さず、放置する事こそが――(あやま)ちなのだ。

 

「私達は学んだ筈です、様々な事を、ですから――此処から始めましょう」

 

 そう云ってナギサは静かにカップを手に取る。鼻腔を擽る紅茶の香りは、彼女の心を大いに慰めた。変化には痛みが必要だ、そしてそれを受け入れるだけの意志が彼女にはある。より良い学園の為に、この学園に集う数多の生徒の為に。

 何より――自分達の思い描く、未来の為に。

 

「もう一度、私達の青春(ティーパーティー)を」

 

 その言葉を今度こそ信じると(目に見えず、証明できないそれを信じると)、彼女は誓ったのだ。

 


 

 余りにも長くなったのでエピローグを二つに分けますの。前半は主に生徒達が日常へと帰っていく描写がメインですわ、これだけで一万六千字になりました、ひょえ~って云いながら書いていましたわ。

 先生パートは後半からです、シスターフッド周りとか、ヒナタとか、補習授業部とか、トリニティ云々はそちらに詰め込みますわ! どうぞよしなに!



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エピローグ 後編

誤字脱字報告にかんしゃ~!
余りにも長すぎたので泣く泣く削りましたわ。
削った分は未来の幕間に投稿致しますの。


 

「サクラコ様……!」

「マリー」

 

 シスターフッド、大聖堂。

 ステンドグラスに覆われ、荘厳な空気に包まれた神聖な場所。その場に集うシスター服を身に纏う生徒達、彼女達の前から現れるのはシスターフッドのトップである、サクラコ。大扉を開け、大聖堂の中へと踏み込む彼女はいつも通りの服装と気配を纏っていた。つい先日まで救護騎士団にて治療を受けていた彼女であったが、この度退院の許可が下りシスターフッドへと帰還を果たしたのだ。

 代表として皆の一歩前に立ち、彼女を出迎えたマリーは安堵を滲ませた笑顔を浮かべる。

 

「不在の間、随分とご迷惑をお掛けしました」

「い、いえ、その様な事は――! サクラコ様がご無事で何よりです、お怪我の方は、もう?」

「えぇ、動ける程度には回復しました、調子だけは未だ万全とは云い難いですが……」

 

 そう云って軽く指先を握り締め、苦笑を零すサクラコ。

 

「やるべき事が、山積みですからね」

 

 シスターフッドも先の騒動で様々な変化があった、そうでなくともサクラコ個人として行わなければならない仕事、執務が溜まっている。いつまでも寝入っている訳にはいかない。

 それに調印式会場に辿り着き、爆発で意識を飛ばして気付いたら全てが終わっていたなど――シスターフッドのトップとして情けない限りだと、彼女は内心で深く恥じていた。

 故に復興作業とそれに伴う組織再編に関しては、人一倍精力的に動く心積もりであった。

 

「そう云えば、ヒナタは――」

「あ、その……」

 

 サクラコは周囲の生徒達を見渡し、ふと問いかけた。立ち並ぶシスターの中に見慣れた彼女の姿がなかったのだ。その事にマリーは一瞬顔を顰め、力ない声で答える。

 

ヒナタさん(シスターヒナタ)は、まだ救護騎士団の方に……正義実現委員会の方々と共に最後まで戦闘を行っていたので、傷が深く、復帰には時間が掛かると担当の方が」

「そうですか……」

 

 ヒナタはあの爆発の現場に居合わせただけでなく、その後も戦闘に参加し最後までユスティナ聖徒会と交戦を続けたと云う。戦線から回収され、搬送されて来た彼女は全身に幾つもの痣や打撲痕、銃創を残し、酷い状態だったと。傷は粗方塞がったとの事だが、今現在も目を覚ましてはいない。

 ユスティナ聖徒会であった頃ならば兎も角、シスターフッドの名を掲げた頃から、この組織は抗争から一歩身を引いた場所に立ち続けていた。それが良いか悪いかは兎も角、事戦闘面に於いて現在の生徒達は過去の精鋭と比較し一歩劣るのは事実。しかし、その平穏こそを愛していたのもまた事実であった。

 しかし、それだけでは守れないものもある。

 不干渉による偽りの平穏は、決して無視できない傷をシスターフッドに齎した。

 

「なら、ヒナタが復帰する前に、シスターフッドを建て直すとしましょう」

 

 告げ、サクラコは裾を翻し宣言する。立ち並ぶ生徒達を見渡した彼女は確固たる意志の下、断固とした口調で言葉を発した。

 

「これからは、私達(シスターフッド)も変わらなければなりません、このトリニティの変化に合わせ、より良い方へと――協力して頂けますね?」

「……はいっ!」

 

 ■

 

「……ん」

 

 薄らと開く視界、滲むその向こう側に覚えのない白が見えた。数秒、思考を覆う靄に呆然とそれを見上げ、暫くして自身がベッドに横たわっている事に気付く。体の妙な硬さ、背中が痛くて思わず身を捩り、それから一度大きく息を吸った。鼻腔を擽る薬品の匂い、誰かの声、足音。視線だけを動かし周囲を見渡す。

 部屋は小さな一人部屋で、扉は開けっ放しになっている。音は其処から響いており廊下を速足で歩く救護騎士団の姿が微かに見えた。ゆっくりと手を動かすと、所々に張り付けられたガーゼとネット。テープで固定されたそれを見つめ、彼女――ヒナタは呟く。

 

「私は、一体……?」

 

 声は、酷く乾いていた。その事に気付いて思わず咳き込む。見れば直ぐ傍の備え付けられた床頭台に水差しとコップが置いてあるのが見えた。思わずそちらの方に手を伸ばし、しかし指先が僅かに届かない。そうこうしている内に、廊下を歩いていた救護騎士団の一人がヒナタに気付き声を上げる。

 

「! 目が覚めたのですね、若葉ヒナタさん……!」

「ぇ、ぁ、は、はい……?」

 

 唐突に名を呼ばれ、目を見開くヒナタ。思わず身を震わせ、シーツを掴んでしまう。彼女は目を白黒させるヒナタを数秒程見つめ、それから踵を返し廊下の向こう側へと消えてしまった。そして少しして、誰かを引き連れて戻って来る。その生徒はヒナタの病室前で足を止めると、そっと掌で中を指示(さししめ)した。

 

「先生、こちらです」

「ありがとう」

 

 彼女が連れて来たのは、見覚えのある影――先生だ。

 彼はヒナタの傍まで小走りで寄って来ると、彼女の顔を覗き込みながら優しく問いかける。先生の姿はいつも通りの制服姿で、その片目を包帯で覆っていた。赤黒い血は、滲んでいない。

 

「ヒナタ、私が分かるかい?」

「せ、先生……は、はい、わかります、えっと……?」

「此処はトリニティ本校舎傍の救護騎士団病棟だよ、安心して良い」

「病棟……」

 

 信頼出来る大人からの言葉に、ヒナタは未だ夢心地と云った様子で応える。自分の腕を見つめながら、彼女はどうして自分がこんな場所に居るのかと考えた。先生はヒナタを暫し見つめると、横合いに用意されていたコップに水を注ぎ差し出す。

 

「飲めるかい?」

「あ、ありがとう、ございます……」

 

 差し出されたそれを受け取って、ヒナタはそっとコップに口を付けた。喉を滑り落ちる水は大変美味しく感じられ、自身がそれなりに長い時間を寝入っていた事が分かった。乾いた喉が潤うと、幾分か思考が明瞭になる。小さく息を吐き出し、再び差し出された先生の手にコップを手渡す。人心地ついた彼女はぼうっと先生を見つめながら自身の記憶を辿った。

 

 ――私、何で、こんな所に……?

 

 自慢ではないが、ヒナタは自分の身体がそれなりに頑丈であると思っている。救護騎士団に世話になった記憶など、殆どなかった。しかし、目前に佇む先生の姿を見ていると何か、頭部に鈍い痛みが走る。特に目を引くのは先生の頭部――包帯に覆われた右目だ、目を覆い隠すなど余程大きな怪我でもしたのか。その傷は大丈夫なのか。そんな事を他人事の様にぼんやりと考えて。

 

 唐突に、炎の中で倒れ伏す先生の姿を思い出した。

 

「ッ……!?」

 

 それは本当に、閃光の様に駆け巡った記憶。先生の顔は半分が血に塗れ、皮膚が捲り上がり、酷い状態だった。それを自分は知っている、そう知っている筈なのだ――なら自分はどうして此処に? そこまで考えて、彼女の傷が微かに疼く。そうだ、自分は先生を逃がす為に、正義実現委員会と難を逃れたシスターフッドの面々で殿を――。

 

「そ、そうだっ、わ、私っ、戦っていて、それで……!」

「ヒナタ」

 

 アリウスは? ユスティナ聖徒会は? トリニティは? 一緒に戦っていた仲間はどうなった?

 シーツを蹴飛ばし、慌ててベッドから起き上がろうとしたヒナタを先生は穏やかな口調で制止する。先生の手が肩を掴み、その瞳が直ぐ傍でヒナタを見つめていた。蒼褪め、早鐘を打つ心臓を自覚しながらヒナタは先生を見上げる。

 

「大丈夫、落ち着いて、戦いは全部終わった、もう危険な事は無いし、他の皆も無事だ」

「お、わった……?」

 

 終わった――戦いは、終わった。

 先生はそう告げ、ヒナタの身体を再びベッドへと押し戻す。言葉を脳内で反芻する。それは殆ど実感の湧かない言葉だった。死に物狂いで戦って、周りは殆ど敵だらけで、痛くて、苦しくて。そして意識が途切れたと思ったら、次に起きた時には全てが終わっていて。

 ヒナタは呆然とした様子のまま口を開く。

 

「せ、先生も、皆さんも……ご無事で――?」

「勿論、ヒナタのお陰で命を拾ったんだ、他のシスターフッドの生徒も、正義実現委員会の皆も」

「そう……なん、ですか」

 

 先生の身体には負傷の跡が見える。けれど確かに、先生は生きて此処に居る。そして自分と一緒に戦った面々も。なら自分は役割を果たせたのだろうか、そう思うと強張った体から力が抜けた。

 深く、深く息を吐き出す。胸の中で綯交ぜになった不安や恐怖といったものが、吐息と共に抜け落ちていく。痛い程に握り締めていた拳が、緩く解かれるのが分かった。

 

「それなら、良かった――」

 

 俯き、そう言葉を紡いだヒナタ。

 そんな彼女の視界の中に。

 揺らめき、中身のない先生の左袖が映った。

 

「ぁ――」

 

 小さく、漏れる声。

 そしてその目が見開かれ、彼女は決して忘れてはいけなかった――罪悪を思い出す。自分が何をやったのかを、どれ程の罪を犯したのかを。自身の手が為した結果を、彼女はこの日常の中で改めて突きつけられた。

 

「ヒナタ――?」

 

 体を強張らせ、唇を震わせる彼女の姿に先生は訝し気に名を呼ぶ。そして彼女の揺れる視線が自身の身体に注がれている事に気付いた。その先は揺らめく左袖を注視し、離さない。先生は揺らめく左袖を手で押さえつけると、酷く申し訳なさそうな表情と共に告げた。

 

「……必要な事だった、ヒナタが気に病む事じゃない、寧ろあんな事をさせてしまった私に非がある――君に重い荷を背負わせてしまった、本当にごめん」

「そ、そんな、あ、あれは、私が……っ」

 

 先生の言葉に、思わず声を荒らげた。どうして先生が謝る必要があるというのか、あの場所で、先生の腕を奪ったのは自分だ。自分のこの手が、先生の左腕を引き千切ったのだ。その事を思い返すと痛い程に心臓が鼓動を早め、胸が軋む。全身の血の気が引いて凍るような寒さを覚えた。

 

「あそこでヒナタが決断してくれなければ、私は腕の代わりに命を喪っていたかもしれない、指示したのも私自身だ、難しい事かもしれない、けれどヒナタ、どうか自分を責めないでくれ」

「っ……」

 

 先生の言葉に、ヒナタは言葉を呑み込む。先生の云う通り、それは酷く難しい事だ。先生の腕を奪った、その罪悪は一生彼女の人生について回るだろう。先生のその腕を目にする度に必ず思い出す筈だ。心優しい少女だからこそ、確かな責任感を覚える彼女だからこそ、その罪悪は一層強くその身を苛む。それが必要な事であったと、誰かがやらねばならなかった事だと、そう理性で理解していも感情が彼女自身を許さなかった。

 

「ヒナタ」

「………」

 

 先生は彼女の名を呼び、そっと手を差し出す。まだ僅かに傷跡の残る指先、絆創膏とテープで補強されたそれをヒナタは凝視する。その傷だらけの手をヒナタは取る事が出来なかった。

 怖かったのだ。

 

 だって――あんなにも簡単に、呆気なく、先生の身体()は千切れて。

 

「うッ――……」

 

 思わず、目を見開き口元を覆う。胃に何も入っていない筈なのに、全てが逆流しそうになった。

 辛うじて飲み込んだ嫌悪感と不快感、何より腹の底から湧き上がる不安と恐怖。それを必死に抑え込もうと彼女は震える肩をそのままに、歯を食い縛る。気を抜けば無様に泣き叫んでしまいそうだった。不安で気が狂いそうだった。辛うじて押し留められたのは、目の前に先生が居たからだ。先生が居るから耐えられるのに、その先生自身が彼女の罪悪を証明するという、酷い矛盾が彼女を苛んでいた。

 

「ヒナタ」

 

 もう一度、先生は自身の名を呼んだ。

 けれど彼女はそれに応えない――応えられない。

 だから先生は、自分からヒナタの手を取った。

 先生よりも僅かに小さく、艶やかで、細くて、けれど簡単に先生を殺めてしまえる彼女の手を。

 

 その指先が触れた瞬間、びくりとヒナタの身体が大きく震えた。じわりと額に汗が滲み出し、その顔が青を通り越して白となる。誰から見ても分かる程に震え、強張った体のまま彼女は叫んだ。

 

「っ、だ、駄目です! 先生、て、手を放してッ! 私は、また――っ!」

「――大丈夫」

 

 告げ、先生は体ごと離れようとするヒナタの手を優しく握り締めた。汗が滲み、決して力が籠らない様にと大きく開かれた彼女の掌。それを包み込むように、柔らかく、先生は握る。そして微笑みを浮かべながら、真っ直ぐヒナタの目を見つめ云う。

 

「ほら、大丈夫だから、真似して、ゆっくりで良い、握り返してごらん」

「っ、ぅ……――うぅうう」

「怖くなんかないよ、私はそんな簡単に傷ついたりしない」

 

 ヒナタの掌を包み込む、柔らかな感触。それは先生の温もりであり、自分が握り締めてしまえば簡単に壊れてしまう(血に塗れてしまう)ものだった。倉庫作業中に何度も繰り返してしまった失敗、ほんの少し力を込めただけで、力加減を誤っただけで、備品が破損し折れ曲がる。何度も見た光景だった、その度に反省し、始末書を書き、次こそはと意気込んでいた。

 

 今まで、先生相手にはそんな事にならないと、そんな事は絶対にしないと、根拠のない自信があった。けれどそれは先の一件で完全に崩れてしまっている。

 もし、万が一、億が一――自分が間違ってしまえば、力加減を誤ってしまえば。

『あぁいう事になるのだ』と、その実体験を伴う結果が彼女の脳裏に焼き付けられ、先生に触れる事が彼女にとって酷く恐ろしい事に感じられて仕方なかった。

 

 だと云うのに先生は、そんな彼女の恐怖を、懸念を、何て事は無いのだと踏み越えて来る。掌に伝わる暖かさが先生の優しさと信頼を、これでもかと云う程に伝えて来た。

 

「いつもやっているみたいに、何てことは無い筈だ、難しい事でもない、ただの握手、ゆっくりと指先に力を込めて相手を想うだけで良い……ヒナタにとっては、簡単な事だよ」

「ふっ、ぐ、ぅ――……」

 

 先生が微笑み、手を二人の前へと押し上げる。指を絡ませ、大きな指先がヒナタの手の甲を撫でつける。ヒナタは数秒、喘ぐ様に息を吸った。破裂しそうになる心臓の鼓動を聞きながら、必死に空気を求めて口を開ける。

 目の前にある、自身と先生の手。

 絡み合うそれを見つめながら、ヒナタは喉を鳴らした。

 大丈夫だと、先生は再度口にする。

 

「っ、ふ、ぅ――……!」

 

 大きく、息を吐く。開かれた指先、それがゆっくりと折り畳まれる。指先が無様に震える、恐怖から目を閉じたくなる。けれど先生が云うのであれば、他ならぬ彼の言葉ならばと、ヒナタは恐怖心を押し殺し少しずつ――本当に少しずつ、指先を折り曲げ、力を籠める。

 数秒、数十秒、数分かけて折り畳まれる指先。その爪先が先生の皮膚に触れた瞬間、びくりと彼女の肩が震える。咄嗟に手を開こうとして、けれど自身を見つめる先生の瞳に、その手が石の様に固まった。

 その瞳に宿る光が、ヒナタの背中を強く押していた。

 

 歯を食い縛り、開きそうになった指先を更に落とす。指の腹で先生の掌を包み込み、少しだけ、ほんの少しだけ力を込めて――先生の手を握り締める。掌全体に伝わる温もり、先生の暖かさ。それを実感しながら、ヒナタは詰まっていた息を全て吐き出す。掌と額、そして背中にびっしょりと汗が流れていた。

 

「――ほら、大丈夫だったろう?」

 

 そう云って先生は破顔した。

 汗に塗れた彼女の手を何て事のないように、先生にとってはそこそこ強く、ヒナタにとっては柔らかな強さで握り締める。繋がれたそれが、ヒナタにとって恐怖を克服した証に他ならなかった。

 

「触れ合う事を怖がらないで、私はヒナタが優しい子であると知っている、恐れる必要なんてない、私達はまた、いつも通りの日常に戻れる」

「せ、先生……」

「私はヒナタを信じている、だからどうか、ヒナタも私を信じて」

 

 いつもの様に、私達は触れ合う事が出来る。遠慮なんて必要ない、そんなに簡単に自分は傷ついたりしない。先生はそう告げて笑う。それをどうか信じて欲しいと――ヒナタはその言葉に、深く、深く頷いた。

 

「はい……」

 

 先生の手を、両手で握り締める。そして彼の指先に額を擦り付け、まるで懺悔する様に、祈る様に――彼女は頬を濡らし、万感の想いを込めて頷き続けた。

 

「はいっ……!」

 

 ■

 

「――それじゃあ、ヒナタの事を宜しくお願い、近い内にシスターフッドの皆がお見舞いに来るかもしれないから」

「は、はい、任せて下さい! 先生も、その、お気を付けて……!」

「うん、ありがとう」

 

 病室を後にした先生は、救護騎士団にヒナタの事を任せ廊下を歩く。すれ違う生徒達と挨拶を交わしながら、頭の中で今後の予定について組み立てていた。

 今回の件でシャーレとして動くべき点は多い、そして何より公式、非公式問わず自身の元へと殺到する連絡。懐に入れたタブレットには四六時中メールや着信が届き、モモトークなどに至っては未読件数が『999+』となる始末。

 本当ならば個別に対応したい所ではあるが、何事にも優先順位がある。心配を掛けている生徒達には申し訳ないが、まずは身近な所から一つずつ片付けていくしかなかった。ある程度トリニティ内部の事柄が片付いたら、布告と云う形で無事を知らせていた生徒達と個々に会う必要が出て来るだろう。全てが片付くのに一週間か、二週間か、少なくとも暫くは多忙な生活になるであろう事は火を見るよりも明らかであった。

 

「――先生」

「っと、ハナコ?」

 

 タブレットに溜まったメールとチャットに返信しながら歩いていた先生は、背後から声を掛けられ振り向く。其処にはファイルを両手で抱えたハナコの姿があった。いつも通り穏やかな表情を浮かべて微笑む彼女、その髪には純白のリボンが添えられている。

 先生は一瞬驚いた様に目を見開き、それから彼女の掛けるファイルを見て凡その事情を悟った。

 

「その書類、もしかしてティーパーティーの?」

「えぇ、ミカさんのお手伝いで救護騎士団に少々……尤も、ナギサさんが復帰したそうなので、近々お役御免になるとは思いますが、そうしたらシスターフッドのお手伝いにでも行ってきます」

「………」

 

 その言葉に、先生は僅かに眉を顰める。それはハナコの内面や性質を良く理解しているが故の反応であった。しかし、そんな先生の態度にハナコは苦笑を零し、穏やかに云う。

 

「そんな顔をなさらないで下さい、確かに私は派閥間のあれこれを疎んでいましたが、今のトリニティは確かに、少しずつではありますが……変わろうとしているのが分かるんです、それにこれは私自身への禊でもあります」

 

 例え大多数の生徒が賛同していたとしても、私情で以てアリウスと敵対した事には変わりはない。

 あの瞬間、ハナコは確かに理性や打算などを投げ捨て、感情ひとつでアリウスという存在をキヴォトスから消し去ろうとした。例えそれが『民意』であったとしても、彼女自身が許せるかどうかは全く別な話なのだ。

 

「ミカさんにも、私にも、これと云った処分はなかった……だからこれは、私自身が納得する為に必要な儀式な様なもの――そう思っては頂けませんか?」

「……そういう風に云われてしまうと、私からは何も云えなくなってしまうね」

 

 厭う物事でなければ罰にはならない――彼女の生真面目さが、その罰を望んでいるのだ。先生は頬を掻き、そう言葉を漏らす他なかった。

 

 ミカとハナコの暴走――否、先の事件に於いて二人の行動はそもそも暴走と捉えられてすらいない。正当な暴力に対し、持てる戦力を搔き集め防衛を行ったと云うのが現トリニティの見解だ。

 事実、生徒間に於ける認識としてはハナコ、及びミカの戦闘行為に疑問や反感を持つ生徒は極少数であった。結果論ではあるが古聖堂に派遣されていた救助隊の援護、及び戦闘の結果助かった生徒が多く、最終的にアリウスを押し返した功績は彼女達にあると考える生徒も多い。寧ろ、逃走し行方を晦ませたアリウスに対する追撃、徹底的な弾圧を叫ぶ生徒が大多数を占め、ティーパーティーはそれらの生徒の声を抑えつつ、トリニティを建て直す事が先決であると発表しコントロールする事に力を注がねばならなかった。

 戦争の火種は、未だこの学園の中で燻っている。

 

「けれどもし、何かあったら私に云って欲しい、どんな時でも、必ず力になるから」

「……えぇ」

 

 その言葉にはにかみ、頷くハナコ。彼女の肩に掛けたバッグ、その横合いで補習授業部の人形が弾んでいた。ハナコはその人形を見下ろし、やや陰の掛かった表情で呟く。

 

「もう少しで――私自らが、この心地良さを手放してしまう所でした」

「……ハナコ?」

 

 呟きが先生に届く事は無い。ハナコは自身に罰を求めた、それはあの暴走の果てに、補習授業部と云う自身にとって最も理想的であった居場所を破壊してしまう所だったから。

 それが過ちであるとハナコは知っていた。その知性を以ってすれば、自身の行動がどの様な結果を生むのかなど予測するのは容易い。しかし、それでも彼女は感情のままに振る舞う事を選んだ。

 選んでしまう程に――目の前の大人は、自分達の中で大きくなり過ぎたのだ。

 

 それが正しい事である筈もないのに。

 目の前の人が、そんな事(復讐)を求める筈がないのに。

 その存在の大きさが故に、ハナコは自身を抑える事が出来なかった。

 

 何より、彼女が一番恐ろしいと思っているのは。

 また同じような事が起きた時、自身が同じ道を選んでしまうかもしれないと、その予感がある事だ。

 だから彼女は今以上に自身を戒め、己を見つめ直す為に罰を求めた。

 ありのままの自分、着飾らない自分――その危うさに気付いたのもまた、彼女が聡明であったが故だった。

 

「――先生」

「うん?」

「先生こそ、何か困った事があったら云って下さいね」

 

 そう云って、ハナコは感情を胸の内に隠す。笑顔の裏に全てを隠し、体裁を取り繕う事は得意だった。ただ、それが常と異なるのは相手がそれを求めていないという事。相手の望む自分を演じ、求められた役割を全うする――息苦しくあっても、そう在る事は彼女にとって造作もない、それを為せるだけの才覚と知性を彼女は天より与えられていた。

 けれど、先生はそんな自分を求めてなどいない。それを良く理解している。理解して尚、こんな風に虚勢を張って感情を覆い隠すのは何故だろうか?

 その答えを彼女は知っていた。けれど彼女は考える、それを詳らかに晒す必要はないのだと。

 

 だって――想いは極力、秘めるものだから。

 

「どんな事でも、お手伝いしますから」

「……ありがとう」

 

 ふわりと柔らかく、嫋やかに笑って見せるハナコ。

 先生はそんな彼女に向かって、噛み締めるような笑みを向けた。

 そうこうしている内に先生のタブレットが振動する。また、何処からか連絡が来たのだろう。その事に気付いたハナコは一歩退き、小さく礼をする。

 

「それでは先生、補習授業部は卒業になりましたが、また、あの教室でお会いしましょう」

「……?」

「ふふっ、意味はきっと、次お会いした時に分かります」

 

 では、また。

 そう云って去って行くハナコの後姿を、先生は暫し見守る。そうして不意に出た言葉は。

 

「……やはり強いね、ハナコは」 

 

 彼女のその、芯の強さを讃えるものだった。

 強さには種類がある、そして彼女の強さとは学び、自身を戒める強さ――生徒皆が、その胸の中に異なる強さを持っている。ヒフミも、アズサも、コハルも、ハナコも。

 だからこそ先生は、そんな彼女達の強さ()を目にする度に安堵するのだ。

 これなら大丈夫だと、彼女達ならばきっと大丈夫だと。

 

 ――その強さがあれば、どんな困難であっても乗り越えられると信じていた。

 

 ハナコの小さくなっていく背中から視線を外し、先生は踵を返す。タブレットを取り出しタップすれば、連絡はトリニティの総括本部から。何か問題が起きたのか、或いはティーパーティー関連か。兎にも角にも一度本校舎に戻る必要があった。恐らくヒフミやコハル、アズサも待ってくれているだろうし、早めに戻らなければならない。

 そんな気持ちと共に、救護騎士団本棟、その外へと通じる扉を押し開けた。

 

「っ――」

 

 外に踏み出すと、強い日差しが顔を覆う。生温い風が頬を撫でつけ、熱気が肌を焼いた。最近は雨が強く、雲ばかりが空を覆っていたと云うのに今はもう影すらない。ほんのりと鼻腔を擽る草木の匂い。空は高く、高く、何処までも広がっている。

 眩しさに細めた視界、その青の下で生徒達が忙しなく駆け回っているのが見えた。

 

 少しずつ、少しずつ、彼女達の日常が戻って来る。

 

 どれ程の争いがあっても、辛く苦しい事件があっても、その経験が、記憶が、彼女達の血肉となってより大きな光へと転じていく。

 先生はそれを、少しだけ嬉しそうに見つめていた。

 

 ふと、強い風が吹いた。

 思わず目を瞑って顔を背ける程の風。羽織った制服が靡き、伽藍洞の袖が大きく揺れた。

 

 そして再び目を開けた時、そこに生徒達の姿は無く。

 ただ広い水面だけが広がっていた。

 

「―――」

 

 青い教室――先生が知る限り、この場所に踏み入る事が出来るのはただの一人。そしてゆっくりと振り向けば、乱雑に重ねられた机の上に腰掛ける、一人の少女の姿。

 彼女は所在なさげに足を揺らしながら、どこか悲し気に空を眺めていた。

 青い空、壊れかけの教室、広がる水面、足元を浸す水を鳴らし先生は口を開く。

 

「アロナ」

「………」

 

 その声に、彼女はゆっくりと視線を先生へと向ける。

 

「こうして此処に呼ばれたって事は、処理が終わったんだね」

「……はい」

 

 声は、沈んでいた様に思う。

 それがどの様な感情を孕んだ声だったのか、余りにも多くの色を交えたそれは、酷く複雑だった。光は二人の影を伸ばす、伸びた影は水面に写り、波紋と共に揺らいでいた。

 

「……先生の補完状態の固定化と、生命反応の欺瞞措置が完了したので、こうやって表に出る事が出来るようになりました、これからは通常通り先生とコンタクトを取る事が出来ると思います」

「そっか、ありがとう、色々と面倒を掛けたね」

「……いえ」

 

 沈黙が降りる。それは先生も、アロナでさえ現状を良く理解している故の沈黙だった。先の騒動にて先生が取った行動、選んだ道のひとつ、その代償の重さを、アロナは知っている。だからこそ感情はうねり、口は重く、その視線は深い悲しみを帯びていた。

 

「……先生は、あれで、良かったのですか」

「良かった、とは?」

「私が、先生の生命維持を最低限行いつつ……治療を待てば、或いは別の道だって」

「あの状態の私は、確かに生命活動を停止していた、外部からの処置では、どちらにせよ復活は難しかった筈だ」

「で、でも、私が一度補完してしまったら、もう――……」

「それに」

 

 アロナの声を遮り、先生は言葉を続ける。

 その声色は、どこか優しい響きを伴っていた。

 

「あれ以上事態が悪化していれば、間に合わなかったかもしれない」

「………」

「だからきっと、これで良かったんだ」

 

 アロナは言葉を返す事無く、ただ俯き沈黙を守った。先生はそんな彼女を見つめ、申し訳なさそうに頬を掻く。数度、呼吸を挟んだ彼は幾分か言葉を選ぶように逡巡を見せ――けれど幾ら言葉を選んだとしても本質は変わらず、そして傷付く事も回避出来ないと、その弱さを呑み込み声を上げた。

 

「……余り、回りくどい云い方はしない方が良いね」

 

 一歩、アロナへと踏み出す。振動が水面に波紋を起こし、それは大きな円となって青い教室を覆った。

 

「アロナ、私の命は――あと、どれくらいで尽きる?」

「ッ……!」

 

 ――補完による、肉体の生命維持限界点。

 

 アロナの力、シッテムの箱の力は絶大である。物理学や既存の常識に囚われず、その根幹が喪われない限り所有者への絶対的な献身を約束するオーパーツ。

 しかし、決して万能ではない。

 喪われた手足や臓器の補完、脳さえ無事であれば疑似的な復活でさえ成し遂げるその力は永続的なモノでは決してなかった。スーパーアロナを謳う凄まじいOSである彼女、そしてシッテムの箱の演算処理、その大半を回して尚数日を要した程の補完固定処理。眼球と左腕を除いた、肉体内部の臓器代替、それを行使し続けた場合の余命。

 

 一度死した肉体を呼び起こし、たった数時間足らずで再び十全に動かせるようにするなど、生半な行為ではない。当然肉体への負荷は凄まじい事になる、そしてそんな不自然な状態が続く筈もなく、それは文字通り寿命を削って行う一度きりの奇跡だった。

 

 当然、奇跡には代償が伴う。

 

 穴だらけの肉体(既に死した肉体)を、代替品(オーパーツ)によって補い繋ぐ生――真面(まとも)に動き続ける筈がない。

 必ずどこかで、ガタ(終わり)が来る。

 そしてその終わりが、決して遠くない未来であると先生は知っていた。

 

「せ、先生の肉体は……」

 

 アロナの声が、先生の耳に届く。カタリと、彼女の座す机が震えていた。それは隠しきれない恐怖からだった。言葉にすれば現実が、確かな輪郭と共に顔を出してしまう。その確定された未来こそを彼女は恐れていた。

 

「このまま、私の演算を用いて疑似的な生命活動を続けた、場合は――……」

 

 

 ――あと一年以内に、その生命活動を停止します。

 

 

「………」

 

 言葉は無い、ただ覚悟をしていた故に、その感情を飲み下す事に成功した。

 長くて一年、或いはもっと短い。

 それが、アロナの神がかり的な演算を用いて導き出された先生の余命(タイムリミット)。それを過ぎれば先生の肉体は物理的に崩壊し、その命は終わりを迎える。

 

 奇跡の代償。先生にとって、支払うべき代価というのが、残り一年を除いた(寿命)の全て。それを捨てて得られた機会(時間)が、一年未満。

 短いと見るか、長いと見るか、それは人によって変わるだろう。

 そして、先生にとっては――。

 

「恐らく、半年と少しは、確実に大丈夫だと思います、でも……それ以上は、不確定要素が多くて」

「最低半年、か」

 

 その言葉を、時間を噛み締める様に呟き――彼は天を仰ぐ。

 これからの一年、それは先生にとって何よりも重要で、何よりも貴重な一年となるだろう。或いは半年となるか、どちらにせよこれからを想い、先生は小さく呟く。

 

「……なら、春までは生きられる」

 

 春、出会いと別れの季節。三年生であれば卒業であり、新たな生徒(小さな光)が到来する季節。それは先生にとって大きな意味を持つ時期であった。

 

 ――キヴォトスの夏も、もう直ぐ終わる。

 

 蝉の声は徐々になりを潜め、緑は朱色へと変わっていくだろう。

 秋が来て、冬が来て――丁度春が来て、それで漸く半年と少し。

 先生が考える最期の一戦(デッドライン)には、何とか届く。

 

「どちらにせよ、一年が過ぎる頃には件の存在とぶつかる事になるだろうから、私の肉体が一年以内に朽ちようと、大きな違いはない筈だ……だから、これは僥倖なのだろうね」

「せ、先生……」

「――大丈夫、私はやり遂げて見せるよ」

 

 アロナの声に、先生は確固たる口調で以て応えた。先生は(そら)を仰いだまま、その目を細める。蒼穹は広く、清々しい。けれど先生の中にある青は既に喪われてしまった。あの列車を降りた瞬間から、この身の末路は決まっていたのだ。

 

 けれど、先生の瞳から意志が喪われる事は無い。

 

 たとえ残りの時間が一年だろうと、半年だろうと、或いは一ヶ月だろうと一週間だろうと――一日だろうと。

 残された(時間)を全て費やし、その最後の瞬間まで彼女達に寄り添い続ける。その決意は、決意だけは、決して色褪せない。

 例え肉体が朽ち果てようと、この精神(こころ)が摩耗しようと。

 私達の夢見た、未来の為に。

 遥か遠く、思い描いた明日の為に。

 生徒達(子ども達)の――笑い合える世界の為に。

 

「……春になったら」

 

 ぽつりと、呟く。

 声は、青い空に吸い込まれるように響いた。

 

 ――そう、春になったら。

 

 その言葉に続きは無い。

 先生自身、何を云おうとしたのか理解していなかった――それは彼の心の中から絞り出された、最後の叫びだったのかもしれない。

 アロナはただ、空を見上げ続ける先生を悲し気に、悔し気に見つめる事しか出来なくて。

 

 二人の足元に広がる水面が、緩やかにその青を映し出す。

 その青に垂れる指先、テープで覆われた先生の指先に。

 じわりと――夜を想わせる黒が滲み出していた。

 

 

 エデン条約編・後編 第一章 完。

 


 

 Q 先生の体ってどうなってんですの~?

 

 A 不思議なパワーで完全復活! という訳ではない。先生が心停止した時、アロナちゃんがなけなしの力を振り絞ってギリギリ脳死を回避してくれた。一応先生が死亡した時も、ランプが点灯している描写があったりする。感覚としては本編のプレナパテス先生ルート、その直前と同じ。「私が先生の手となり足となり、耳となります」状態。つまりアロナちゃんパワーで無理矢理先生の体を補助し、欠陥部分を補って動かしている感じ。破損した臓器なんかも、生存可能なレベルまで一時的に修復されている。だから今後、一度でもアロナちゃんの電源が切れたら、その瞬間先生の心臓含めた諸々の臓器も破損、停止して死ぬ。以前と同じ様にバリア~! を連発すると余裕で先生死亡ルートになる。

 

 Q じゃあ、先生は生きているんですのね?

 

 A 正直、先生を生きていると表現して良いものか迷う、単純に死んでいないだけ。マジで死ぬ間際の人間に、超技術やら何やらで延命しまくって、見た目は健康そうに見せかけているだけ。何なら心臓が止まっても生命反応を欺瞞出来る、というか半分その状態。そしてこうなると、大人のカードの代償が直に先生に反映され始める。使ったら使った分だけ、先生の肉体と精神、命そのものが削られていく。大きな奇跡なんぞ起こそうものなら、一発、二発で体が消し飛ぶレベル。生徒召喚程度なら、まだ何とかなる。(勿論、それでも繰り返せば致命的になる、これは本編と一緒)けれど、それ以上の事は多分、先生の命、或いは存在と引き換えになる。

 そして、それこそが最終編での肝なのだ。

 

 Q つまり、どういう事なんですの~?

 

 A 生徒の前で徐々に死んでいく先生の姿をまざまざと見せつける事が可能になるんだよ! カードを使えば使う程、視覚的に先生の肉体が壊れていくのが分かるから、生徒の情動の変化が事細かに観察できるようになるね。やったね先生! 純愛が増えるよッ! 

 

 まだまだ書かなくてはいけない事は沢山ありますが、一先ずこれでエデン条約後編、第一章は完結ですの。ミカとアリウスの確執、セイアの見た未来、アリウス・スクワッドの顛末、ベアトリーチェとの決戦、クロコの慟哭、ミカ(未来)の狙い、不吉な光の観測――未だ消化し切っていないアレコレ、伏線、積み上げられた全ては第二章へと引き継がれますわ! その二章を経て、前編、後編一章、後編二章と実に三部に分かれた『エデン条約』は完結を迎えますの。

 つまり、次がエデン条約最終編という事になりますわ。

 辛く苦しく、昏いお話の最後を飾るに相応しい散り際が期待されますわねぇ~ッ!

 

 さて、エピローグでは恒例の今後の予定についてお話しましょう。

 私は気付きましたの、これ一部進めるだけで五十万字必要なんだって。アビドス編五十万字、エデン条約前編五十万字、エデン条約後編第一章五十万字、それで計百五十万字――つまりエデン条約後編、第二章も五十万字という訳ですわ。

 

 それで合計二百万字、此処に? パヴァーヌもいれて? 前編と後編入れたら更に百万字がプラスされて? SRTもやったら更に五十万字で? 更に更に最終編をぶち込んだら最短で五十万字で……? このままイベントやら諸々全無視して突っ走っても四百万字。つまり私は未だ、物語の半分にすら到達していないという計算結果になりますわね。わたくしを殺すつもりですの?

 

 この小説書き始めて今月で十ヶ月か十一ヶ月位になりますが、部を挟む為に休んでいた二ヶ月を差し引いても約八ヶ月。今現在のWordの文字数が百六十万字なので大体月に二十万字書いているという事ですわね。三部進めるのに一年近く掛かったのだから、当然同じペースで書き続ければ完結までにもう一年掛かるという事になりますわ。

 

 もう一年……もう一年かぁ。

 

 個人的にゴールがエデン条約編だったので、もう完全に此処で倒れるつもりで執筆していたんですわよねぇ。本当ならベアトリーチェ決戦の後にキヴォトス動乱編を繋げて最後にするつもりでしたし。書いている途中にSRTやパヴァーヌ後編、最終編まで実装されちゃって……もう初期のプロット何て残滓(かす)ですわよ残滓(かす)

 それでも最終編の先生とプレナパテスが見たいという気持ちはどうしてもありますので、多分また血反吐撒き散らしながら書く事になるんですわきっと。

 仕方ありませんわよ、だって私が見たいんですもの。

 

 この作品のコンセプトは二百万字書こうと三百万字書こうと変わりませんわよ。わたくしは先生が生徒達に愛される中で血塗れになって倒れ、それでも尚足掻き希望を求め叫ぶその姿を見たいんですの。そこに生徒達の悲鳴と絶叫が重なりこの世界で最も(たっと)く美しく、何よりも愛に溢れた光景が生まれる筈なのです。愛こそが、先生を除いた全てを救うのです。少なくとも私はそう信じているのです。

 最初から決めていたエンディング、そこまで辿り着ければ何か、今まで見えていなかった何かが見えて来るような気がしますわ……。

 

 一先ず次の投稿は幕間からですわね。補習授業部再結成の話だとか、ミカの処遇云々だとか、先生の義手問題とか各学園の反応だとか、本当はエピローグで書こうと思ったのですが実際に台詞で骨組み組んだら三万字超えそうで断念しましたわ。

 最初の内に書きたい事は沢山あるのでまぁ最低でも三~四話位には膨らむのかしら? そこからエデン条約後編二章に繋いで~、って感じですわ。

 

 取り敢えずいつも通り、一部を終わらせたのでお休みを頂きますの! 今回も一ヶ月か、遅くとも二ヶ月位で戻ってきますわ~! 連載再開したらTwitterで告知致しますので、よろしければご確認の程宜しくお願い致しますの! 何かあればメールアドレスの方に頂ければ、確実に気付きますわ! 

 

 この休みの間に、バッドエンド世界線の生徒達の話を書きまくりますわッ! 前回の休みではゲーム開発合宿して一皮むけたゲーム開発部の前で先生が惨たらしく死にましたのッ! 死と云うものを理解していないアリスの前で「大丈夫」と口にし続け、少しずつ擦れ、力なく、軈て「大丈夫」と云えなくなった先生が項垂れ力尽きるまでの沈黙は最高の旋律ですわ~っ! 勿論その後、アリスには先生を復活させる「アイテム」を探しに亡骸を背負ってキヴォトス中を闊歩して頂きますわよっ! おお、せんせいよ、しんでしまうとはなさけない。

 いつかこの作品達も、発表される事はあるのでしょうか。まぁ陽の目を見るとしても、この小説が完結してからになるのでしょう。見なくとも私が見て楽しめるので無問題ですわ。自分で書き、自分で消費し、満足する、これぞ最高の趣味という奴なのですわ~ッ!

 

 今章完結記念に感想とかお気に入りとか評価とか、お願い致しますわね~!

 では、皆さま方、また次章でお会いしましょう!

 また逢う日まで、おさらばですわ~ッ!



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幕間
いつか見た青を探して


 

 ■■■■の断片。

 

 ――シャーレ本棟、執務室前廊下。

 

「………」

 

 その日、ヒナはいつも通りシャーレを訪れていた。

 相変わらず重く、取り回しの悪い愛銃を担ぎながら外套に付着した僅かな雪を払い廊下を往く。時刻はそろそろ夜に差し掛かる頃、自分の廊下を叩く靴音以外に音は聞こえず、人気(ひとけ)も感じられない。

 

 ふと、ヒナの視界に硝子に写る自身の顔が見えた。硝子張りの廊下で足を止めた彼女は、自身の恰好を確認し前髪を軽く指先で整える。別段風に煽られた訳でも走って来た訳でもないが、ちょっとした乙女心というものだ。

 

 窓の外にはちらちらと雪が降っていた。街道を歩く生徒達の姿を見下ろしながら小さく息を吐き出す。吐息が硝子を曇らせ、向こう側に反射した自分自身をヒナはじっと見つめる。髪は変じゃない、格好も無難だ、目に隈はない――筈だ。

 ヒナは徐にもみあげを軽く手に取って、鼻先に近付ける。微かに香る香水の甘さ、匂いも多分大丈夫。いつか川辺で髪の匂いを嗅がれて以降、先生に会う時はサミュエラの香水を少量、首筋に振りかけるのが習慣だった。

 

 そうしていつも通りの自分を念入りに整え、執務室の前に立つ。一度、二度、ノックを繰り返し――反応がない事を確認。

 いつもの事だ、こういう時は大抵修羅場になっている。

 そっと扉を押し開け、なるべく音を立てない様に中へと踏み込むヒナ。

 

「……先生」

 

 やはりというか何と云うか、視界の中央には見慣れた先生の背中。並ぶ書類に埋もれ、ペンを片手にデスクへと突っ伏す先生が居た。緩く握られたペンは指先から零れ落ちそうになっており、傍には何度も淹れ直したのか珈琲の香りが強く残るカップがあった。髪はボサボサでシャツも皺が彼方此方に散見される、一体いつから仕事に打ち込んでいたのか。

 

 ヒナは小さく肩を竦めて先生の傍に屈む。そうして暫く先生の寝顔をじっと見つめ、だらしなく口を開きながら寝息を立てる先生を観察。普段は大人然とした姿を見せる彼ではあるが、このシャーレで仕事に忙殺されている時と寝顔は、普段よりも感情を表に出し易く幼く見えた。「仕事やだ~っ!」と叫び駄々を捏ねる先生を窘めたのは一度や二度ではない。その事を思い出し、ふっと口元を緩めたヒナは先生の首筋に顔を近付ける。そして二度、三度、深く息を吸い込んで彼の香りを楽しんだ。

 普段先生が自分を吸ってばかりなので、偶には仕返しの意も込めて、これ位ならば許されるだろう。

 そして存分に先生から元気を補給したヒナは、ふんと背筋を正し彼の肩へと手を掛け、優しく揺する。

 

「先生……先生、起きて」

「んぉ……?」

 

 身体を揺する振動と見知った声。

 それに反応した先生はびくりと体を一度震わせ、のそりと上体を起こす。その瞳はいまだ眠たげで、微かに見開かれた瞳がヒナを捉えた。

 

「……あれ、ヒナ?」

「こんな所で寝ていたら風邪を引くわ、まだ雪も降っているのだし……」

 

 目を瞬かせ、ヒナを見つめる先生は跳ねた髪をそのままに呆然と呟く。見れば周囲はいつの間にか暗くなっており、窓の外にはちらちらと雪も降っていた。どうやら自分は眠ってしまっていたらしい、それを確認した先生はその表情は苦渋に染める。言葉にするならば、「しまった」と云わんばかりに。

 

「明日の一周年記念パーティーの準備をしていたの?」

「あー、うん、明日は一日皆と過ごすつもりだから、その分も仕事を終わらせちゃおうと思って」

 

 途中で寝ちゃったけれどね、そう云って頬を掻く先生は手元の書類に皺が出来ている事に気付き、「ぉうわ!?」と情けない声を上げながら必死に伸ばす。皺の刻まれたそれは連邦生徒会に提出するものだ。ヒナは左右に積まれた書類を覗き見ながら云った。

 

「……私も、少しなら手伝えるけれど」

 

 シャーレに来たのは先生に会いに来ただけで、特に用事があった訳でもない。

 エデン条約が結実し、実働時間が大幅に短縮された風紀委員会には以前と比べてかなりの余裕がある。それでもゲヘナ側の暴動や騒動がゼロになった訳ではないが、ETOという非常にフットワークの軽い治安維持部隊が手に入ったのは大きい。ヒナの仕事は専ら書類仕事に集約され、現場に出たのはいつ以来か。

 そう考える位には時間と余裕がヒナにはあった。

 

「いや、大丈夫だよ、実はこの後連邦生徒会に出向く用事があってね、そろそろ出ないといけないんだ」

「――また、連邦生徒会長?」

 

 タブレットで時間を確認し、申し訳なさそうにする先生に対してヒナは呟く。表情は、少しだけ不満げだったと思う。それを表に出せるようになったのは良い事なのか、それとも悪い事なのか。

 

「最近、良く呼び出しを受けている様に見えるけれど」

「あはは、色々と立て込んでいて、二人で会議する事が多くてね……」

「そう、羨ましいわね」

 

 声は僅かに棘を孕んでいた。その言葉の意味をどのように受け取ったのか、先生は困った様に後頭部を掻き口を開いた。

 

「彼女も立場上、色々と忙しい子だから、なるべく力になってあげたいんだ」

「知っている、先生はそういう人だから」

 

 困っている生徒が居れば駆け付け、相談されずとも手を差し伸べる。要らないと突っ撥ねられたらそっと身を引き、万が一の場合に備えて準備をする。そうして生徒だけではどうしようもなくなった時、問答無用で介入し我武者羅に道を切り開く。この人は、そういう人だ。

 そういう人だからこそ、此処まで来れたのだろう。

 今やこのキヴォトスに於いて、シャーレを知らぬ生徒は居ないと断言出来る程に。

 

「アビドスの問題を解決して、ミレニアムでも騒動に巻き込まれて、エデン条約を締結した後も奔走して……先生、ちゃんと休めているの?」

「大丈夫だよ、病気も怪我もない、五体満足さ、身体が頑丈な事が取り柄だしね!」

 

 そう云って笑顔を浮かべ、自身の二の腕を叩く先生。二本の腕には所々小さな傷が見えるものの健在で、大きな怪我らしい怪我もない。不健康な生活を送っているが色々な生徒に引き摺られてサイクリングやら筋トレやらマラソンやらに付き合っているという話は耳にしている。しかし、その目元に薄らと浮かぶ隈だけは隠しきれない。私が云っているのは体力的な事ではなく、精神的な部分なのだけれど――そう口にしようとして、ヒナは言葉を呑んだ。

 そんな事はもう何十、何百と口にしてきたのだから。

 

 ――シャーレ発足から一年。

 

 ヒナがちらりとデスクに置かれたタブレットを横目に盗み見れば、先生の利用しているSNSが見えた。其処に並ぶ生徒達のメッセージ。

 

『ついに一周年を迎えたシャーレ! この一年間の出来事や事件を振り返る、更にクロノス・スクール独占インタビューはこちらから!』

『健康第一ですよ、くれぐれも無理だけはしないで下さいね!』

『いつもお疲れ様です、今年こそ支出は計画的にしましょうね』

『いつもサンキュな、先生』

『今年の協業も期待しているわよ、先生♪』

『今年こそミレニアムプライス一位を獲ろう! 今年もよろしくね、先生!』

『昨年にも増して、今年もまた数々の素敵な美食が先生と私達の前にあらん事を』

『先生のお陰で、最近は色々と楽しいです♡』

 

 表示される文言はどれもこれも前向きなもの。ヒナの視線に気付いた先生はデスク上にあったタブレットを手に取り、メッセージをスクロールしながら微笑む。登録された生徒数は百人を優に超える。全てが全て、先生が紡いで来た絆そのものだった。

 

「早いものだね、本当に……あっという間だった」

「そうね、この一年色々な事があったから」

 

 そう、言葉にするのも大変な程、色々な事があった。その一つ一つを思い返せば大変で、とても笑えない様な事もあったけれど――今はもう、全て思い出だ。

 

「冬が過ぎ、春が来る……か」

 

 呟き、薄暗い外を見つめる。ひらひらと舞い落ちる雪は、このキヴォトスに来て初めて目にする雪だった。一年、長くも短く、瞬きの様な時間だった。大人としてこの地に足を踏み入れ、不慣れながらも必死に業務に励み、様々な生徒に支えられて此処まで来た。

 ふと、デスクの脇に飾られた一枚の付箋に指先が触れる。その上に乗せられた綺麗な水色の折り鶴。

 

 ――いつもありがとう、先生。

 

 付箋に綴られた簡素な一文を、先生は優し気に微笑みながら撫でつけた。

 

「先生、それは――」

「うん?」

 

 ヒナが付箋と折り鶴に気付き、問いかける。先生は手に取ったそれを大事に掌で包みながら。

 嬉しそうに、心からの笑みを浮かべて云うのだ。

 

「私の――とても大切なものなんだ」

 

 声には確かな暖かさと、相手を想う色に包まれていた。

 

 □

 

 私は足掻き続けなければならない。

 

 この道(夢見た明日)の途中で喪われた、数多の命に報いる為に。

 

 いや。

 

 この道に至るまで、喪われたあらゆる光。

 

 ――その命(生徒達)が、報われる為に。

 


 

 水の流れる音が響いていた。

 

 蛇口から流れるそれが、排水溝に流れていくのをただじっと見つめる。濡れた手をそのままに、先生は洗面台の前で佇む。暫くそうやって俯いていた先生は自身の顎先から垂れる雫を感じ指先で拭った。

 

「………」

 

 温度はまだ感じる事が出来る。夏も終わりだと云うのに残る暑さは、この水に包まれた瞬間だけ僅かに和らぐ。それを感じる事が出来るのならば――自分がまだ生きている証拠だ。

 

 ふと、顔を上げて鏡を見た。

 

 濡れ湿った前髪に酷い顔色の男、右目周りの皮膚がやや突っ張り、近くで見れば色が違う事に気付くだろう。遠目ならばまぁ、影の様に見えなくもない。閉じられた右目を指先で摩る、其処に在るべき感触(眼球)は存在しない。ただ、柔らかな瞼の感触だけが伝わって来た。

 

「……随分と、酷い(つら)になったな」

 

 呟き、嘲る様な笑いが漏れた。

 それでもまだ自身の経験からすれば『マシ』と判断出来る負傷というのが何とも救えない話だった。

 喪われたのは眼球ひとつと腕一本、二の腕から先のない左腕を見つめる。足であったのなら多少なりとも影響があっただろうが――少なくとも、先生にとっては致命的な負傷ではない。

 傷痕に関しても今更な話だ、ある意味肉体の古傷を誤魔化す事が出来ると考えれば、寧ろプラスなのかもしれない。問題は、目元の傷痕に関してだった。

 こればかりは腕の欠損と同じように隠しようがない。保護膜で覆う事も考えたが、負傷は周知の事実。目元を保護膜で覆う事は大変難しく、下手に弄ると違和感が出かねない。それどころか常に片目を瞑っているのも可笑しな話だ、本当ならば眼帯の一つでも付けるべきなのだろうが……。

 先生は少し考える素振りを見せ、自身の髪を乱雑にかき乱し前髪を下ろした。丁度右目全体を覆う様に整え、鏡を見る。忙しく切る暇が無かった髪は少し野暮ったく見える気もしたが、傷は薄らと見えるか否かと云った具合になる。

 

「……まぁ、やらないよりはマシか」

 

 単純だが悪くはない。悪足掻きに化粧で肌色を多少なりとも良く見せ、後は軽く身なりを整える。ラックに掛けていた上着を羽織り腕章を付ければ、いつものシャーレの先生が出来上がった。

 鏡の前に立つ大人――自身の姿を見つめ、呟く。

 

「私は、大丈夫だ」

 

 声は響き、鼓膜を震わせる。

 大丈夫、何度も口にした言葉。言葉は鎧となって己の身体を、精神を包み込む。それは自己暗示に近い、しかし紛れもなく先生自身の本心でもある。

 こうした言葉は己の心を覆い隠し――少しだけ補強してくれる。

 

「先生、おはようござ――あれ?」

 

 声が聞こえた、それは扉の向こう側から。足音と聞き覚えのある声は部屋の中程まで進み、先程より少しだけ大きな声が再び響く。

 

「先生……いらっしゃいませんか?」

「――今洗面所に居るから、少し待って」

「あっ、はい」

 

 先生がそう口にすると、音はやや遠ざかる。先生は最後に小さく息を吐き出すと、首元のネクタイを引き締め背筋を正した。変な所はない筈だ、それを確認し洗面所を後にする。

 いつも通り、何て事の無い様な微笑みを浮かべて。

 

「やぁ、ユウカ、おはよう」

「おはようございます、先生」

 

 出迎えたのはユウカ、普段通りの恰好に二つに結んだ髪を弾ませた彼女は、先生を見て少しだけ驚いた顔を浮かべた。

 

「先生、イメチェンですか? 前髪が……」

「ふふっ、まぁね、どうだろう、変かな?」

「い、いえっ、そんな事は、その、に、似合っていますよ」

「ありがとう」

 

 ユウカは何処か戸惑ったような、或いは照れたような様子で視線を逸らしそう口にする。つい先日まで包帯で覆われていた訳だが、いつまでもそんな恰好で居る訳にもいかない。元々右側の視界は何も見えないので、髪で覆われようが何をしようが、表面に髪が擦る感覚が残るだけだった。

 

「今日は態々すまないね、AVはもう屋上に?」

「はい、ヘリポートで待機していますので、直ぐに出れます」

「助かるよ、早速出ようか」

 

 そう云って先生はデスクの上に置いていたシッテムの箱を手に取り、部屋を後にする。目指すはヘリポート、ユウカも先生の後に小走りで続いた。廊下を往くと、ふと階段の手前でユウカが停止する。そして一段目に足を掛けながら先生に手を差し出した。それを見た先生を目を瞬かせ、思わず戸惑いを見せる。

 

「先生、手を」

「……えっと」

「転んだら危ないじゃないですか! これは先導する生徒としての責務ですっ!」

「わ、分かった、ありがとう」

 

 顔を真っ赤にしてそう叫ぶユウカを前に、先生は反対の言葉ひとつ漏らす事も出来ず頷く。シッテムの箱を懐に差し込むと、ユウカの小さくも柔からな手を取った。しなやかな指先は、しかしその見た目に反し確りと先生の手を握り締める。力強いそれを感じながら先生は階段の先――ヘリポートへの道のりを見つめ呟いた。

 

「……ミレニアムに向かうのは、久々だな」

 

 ■

 

「おう、先生、久しぶりだな」

「ネル」

 

 ヘリポートに到着すると、スカジャンに着崩したメイド服という何とも奇妙な組み合わせをした生徒が立っていた。チェーンで繋がれた二つのSMGを担ぎ、AVの起こす風に裾を靡かせる彼女――ネルは先生に視線を向け破顔する。

 ヘリポートには既にミレニアム製のAVが待機しており、アイドリング状態で横合いの搭乗口を開いていた。運転席に人影は見えない、恐らくこれも自動操縦タイプなのだろう。先生はゆっくりとした足取りでネルの元へと歩いて行く。

 

「確かに久しぶりだね、前に依頼で会った時が最後だから――三週間は経ってないか」

「あん? そんなもんか、てっきり一ヶ月そこらは経ってるモンだと」

「感覚的には私も同じだよ」

 

 告げ、口元を緩める。実際彼女とこうして顔を合わせるのも久方振りだ。他のC&Cのメンバーは何があっても無くてもシャーレに入り浸ったりしているが、ネルはC&Cのリーダーという立場がある。自然依頼関係で多忙を極め、彼女が単独でシャーレに赴く事は稀だった。学園関係で忙しいと云うと、そのスケジュールはヒナに近いのかもしれない。まぁ、少々比較対象が悪い気がするが。

 

「それにしても、まさかネルが迎えに来てくれるなんてね」

「今日のあたしは先生の護衛だ、セミナーからの依頼って事にはなってるが……そうじゃなくてもこれ位は手伝ってやるよ」

「本当はC&C全員に依頼を出そうとしたのですけれど、時期が悪くて――」

 

 ユウカが申し訳なさそうに手元の端末を操作し、そう呟く。件の事件から彼女も、或いは学園全体に云える事ではあるが先生周りの警護に少々敏感になっている節がある。エデン条約調印式の件が尾を引いているのは明らかだ。C&C全員での警護となるとかなり仰々しい見た目となるが――。

 

「生憎と他の依頼とブッキングしちまってな、今回はあたしだけだ」

「ネルだけでも心強いよ」

「はっ、当たり前だろ? なんたって私は最強のエージェントだからな」

 

 その言葉に口元を吊り上げ、鼻を鳴らすネル。コールサイン・ダブルオー、その実力に裏打ちされた自信というものだろう、実に頼もしい限りだった。

 先生はふと近くで見たAVの外装が以前使用した時と異なっている事に気付いた。以前よりも少しだけゴテゴテとしたフォルムになっていると云うか――気のせいだろうか? 頸を傾げ問いかける。

 

「このAV、ちょっと外装変わった?」

「あっ、そうですね、エンジニア部のメンバーが時折改良……というより、改造していますから、流石にやり過ぎない様に見張らないと駄目ですけれど」

「あはは、まぁ私も空中分解は御免だからね」

 

 ユウカの言葉に先生は苦笑を漏らす。彼女達が嬉々として弄り回す姿が目に浮かぶ様だ。しかしいつぞやの様に加速性能が高すぎて空中分解――等という結末は御免被る。尤も彼女が使用している事からその辺りの安全性は問題ないのだろう。

 

「先生、手を」

「ありがとう」

 

 先にタラップを登ったユウカが手を差し出す。その指先を取りながら、先生も機内に足を踏み入れた。内装は以前使用させて貰った時と変わりなく、最後にネルが飛び乗ると勢い良く扉を閉め切る。

 

「私は飛行ルートの確定操作を行ってきますね」

「うん、お願い」

 

 ユウカが操縦席の方へと移動し、先生は内部に備え付けられた展開式の椅子に腰かけベルトを手に取った。ふと、ネルが扉に手を掛けたまま自身を見つめている事に気付く。彼女の視線は、先生の揺れる左袖を凝視している。その目線は、少しだけ寂し気に見えた。

 

「……腕、本当になくなっちまったんだな」

「あぁ――」

 

 呟き、先生は自身の左肩を撫でた。ゆらゆらと揺れる袖は少し煩わしく、しかし今後は慣れなくてはいけない。少なくとも、腕の代替品が仕上がるまでは。

 

「命が助かったんだ、安いものだよ、これくらい」

「……はっ」

 

 吐息を零し顔を顰めるネル。その反応がどういった感情を含んでいるのか、それを考え、先生はそっと目を伏せた。

 僅かに足元が揺らぎ、臓物が持ちあがる様な浮遊感。AVが上昇を開始したらしい、横合いの窓から見える景色がぐんぐん遠ざかっていく。彼女は椅子に座る事もせず、先生の横合いに立つと顔を覗き込むようにして屈みながら云った。

 

「つぅか、どうしたんだよ、その髪、前はそんな風じゃなかっただろう?」

「ちょっとイメージを変えたくてね、似合わない?」

「いや、似合わない訳じゃねぇけど……」

 

 何処か不満げに唇を尖らせるネル。そんな彼女を前に先生は苦笑を零し、操縦席に立っていたユウカが何やら焦った表情で首を振っているのが見えた。

 

「ね、ネル先輩……!」

「あ?」

 

 一体何だとばかりに声を上げ、ふと振動で先生の前髪が揺れる。さらりと流れた隙間から見える傷痕、塞がれた瞼。それを見たネルは目を見開き、それから気まずそうに顔を逸らした。

 

「わ、わりぃ……」

「いいや」

 

 先生は自身の瞼を指先で撫でつけ、息を零す。

 

「本当は眼帯か何かを付けるべきなんだろうけれどね、何となく、初対面の子に怖がられてしまいそうで――」

「……そうか」

 

 今日は手元にその手のものがなかったから、苦肉の策としてこうしているが――結局知られてしまうのならば、眼帯で目を覆ってしまった方が良いかもしれない。この傷痕も、見て気持ちの良いものでもないだろう。考え、先生は背を曲げる。

 暫し、二人の間に沈黙が降りた。それから乱雑に後頭部を掻き、「柄じゃねぇけど」と呟いたネルは、先生の肩を指先でそっと押しながら云った。

 

「先生は、どんなになろうと先生だよ、それだけは変わらねぇ……忘れんなよ」

「あぁ」

 

 ――勿論だとも。

 

 頷き、先生は微笑んだ。その笑みはとても透明な笑みだった。感情の上澄みだけを掬った様な薄色ではない。奥底まで澄み切った笑顔だった。

 きっとネルは『そういう意味』で口にしたのではないのだろう。けれど、先生にとってその言葉は別の意味を持つ。

 

 私は、先生だ。

 

 心の中で反芻した言葉は、先生の精神をより一層強固にする。

 そう、自分はどんな姿になろうとも先生なのだ。腕を失おうが、瞳を失おうが、足を失おうが、臓物を失おうが。 

 文字通り――どんな姿になったとしても。

 

 ――私は、先生なのだ。

 

 ■

 

「ようこそ先生、ミレニアムへ」

「お邪魔するよ、ノア」

 

 久し振りに足を踏み入れたミレニアムは、相変わらずビル群が乱立しドローンが彼方此方を飛び回っていた。飛行型から自走型まで、あらゆる場面で生徒達や職員をサポートする様に用いられる機械群はミレニアム特有の光景である。階下に見えるモノレールを見つめながら、先生はタラップに足を掛ける。

 ミレニアム第一校舎、そのヘリポートへと降り立ったAVはエンジン音を徐々に失くし、沈黙する。空域制限の設けられたこの高さまではドローンも昇っては来れない。

 僅かに蒸した空気を逃がす為に襟元を撫でつけた先生は、出迎えの為に待っていたノアに目を向けた。ユウカとは異なる白い制服を身に纏った彼女は、いつも通り一見温和な笑顔を浮かべながら手帳を閉じる。

 

「ふふっ、先生がこうしてミレニアムに足を運んでくれるのは本当に久方振りですね、具体的に云うのならば一ヶ月と三日振りでしょうか?」

「もうそんなに経っていたのか、本当にごめん」

「いいえ、先生が多忙の身である事は知っていますから、それに――」

 

 言葉を呑み込み、ノアの視線が一瞬先生の左腕に向けられる。それはほんの僅かな動作だった、しかし常日頃から生徒の様子を伺っている先生には分かり易い視線だった。

 しかし、視線を向けながらも彼女は先生の負傷について言及しようとしない、それを先生が望んでいないと知っているからだ。ノアはあらゆる面で聡い生徒であった。行き過ぎる程に。

 

「……いえ、何でもありません、でも偶には顔を見せて下さいね? ユウカちゃんが寂しがってしまいますから」

「ちょ、の、ノアッ!?」

「ふふっ」

 

 指先を唇に当て、彼女は微笑む。ユウカが頬を染め食って掛かろうとするのをするりと避け、先生の胸元へと踏み込んだ彼女は先生の耳に言葉を囁いた。

 

「――勿論、私もですが」

 

 声は小さく風に紛れる。しかし、その声に秘められた色を先生は正しく受け取る事が出来た。悪戯っ子の様に口元を緩める彼女を見つめながら、先生は頷き応える。

 

「……次からは、もう少し小まめに足を運ぶよ」

「あら、おねだりしてしまった様ですね?」

「ほ、ほら、もう良いでしょ!? 先生、行きますよ! 時間も押しているんですからっ!」

「おっと」

 

 ぐん、と引っ張られる感覚。先生の右腕を強く掴んだユウカがずんずんとヘリポート昇降口へと歩いて行く。力強い歩みに逆らえる筈もなく、先生はユウカに引っ張られるまま屋内へと足を進ませる。遅れてAVから飛び降りたネルは歩いて行く先生の背中を視界に収め、それから脳内に今日のスケジュールを思い描いた。

 

「あーっと、確か今日の行先は……」

「ふふっ、エンジニア部ですね」

 

 ネルの声にノアが淡々と答える。

 先生がミレニアムに訪れた理由――それは彼の新しい腕を創る為だった。

 


 

 ただいま戻りましたわ~!

 約束通り、大体一ヶ月で戻りましたわよ!

 お休み中にも応援して下さった方々、ギフトを送ってくれた方々、メールをくれた方々、評価・感想・フォローして下さった方々、大変ありがとうございますわ!

 

 宣言通り暫くは幕間でリハビリをしつつ、それが終わり次第エデン条約後編の第二章に突入いたしますの。

 これがエデン条約の最終章ですわ……! 長さは恐らく後編一章と同じ程度なので期間は凡そ三ヶ月、そして文字数目安はいつも通り五十万字ですわね。ついに総文字数二百万字の領域ですわよ、鼻血出そう。

 投稿頻度は一万字未満で二日に一話、一万字以上で三日に一話投稿致します。 

 まぁ目安なので文字数多くなっても許してくださいまし、少なくなる事は多分ないですわ。

 

 想定外の遅延等がありましたらいつも通りTwitterで報告致しますので、「あれ、三日過ぎたのに投稿ないじゃありませんの~?」と思ったらTwitterを覗いて下さいまし。日付過ぎても小説と格闘していなければ何かしら投稿されている筈ですわ!

 

 という訳でこれからまた三ヶ月、よろしくお願いいたしますの~!



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優しく、冷たく、穏やかな鈍色

誤字脱字報告、ありがとうございますわ!


 

「依頼の内容は聞き及んでいるよ、さぁ、入ってくれ」

 

 広大なミレニアム敷地内、その中央にあるミレニアムタワー最寄り駅からモノレールに乗って一駅。そうして辿り着いたのはミレニアムに数ある部活の中でも、トップクラスの実績を誇る部活――エンジニア部。

 その部長である白石ウタハは既に部室前で待機しており、先生達一行の姿を目にするや否や、その表情を崩し部室内へと通じる大型扉を開いた。

 

 エンジニア部の部室は傍から見ると大型の倉庫、或いは工場の様な印象を受ける。天井に吊るされた剥き出しの照明や天窓、壁際に積まれた何らかのエンジン、外装、車輪、用途不明の近未来な代物などがそれに拍車を掛けている。南側に抜けると広大な実験場があり、車両の試運転や航空機の飛行実験なども行える環境が整っている。他の部活動と比較すれば部員数は決して多いとは云えないものの、誰の目から見ても分かる程度には好待遇な立地であった。

 

 壁際にずらりと並ぶ機械類、書き殴られたホワイトボード、散乱するレポートの類を見渡しながら先に部室へと踏み入ったネルは口を尖らせる。

 

「相変わらずゴチャゴチャしてんなぁ」

「悪いね、昨日は夜まで議論が白熱してしまったんだ、その辺りの資料や試作品はその時没になったもので――」

「議論、と云うと?」

「勿論、先生の新しい義手についてだよ」

 

 先生の疑問に対し、ウタハは手にしていたスパナを指先で回転させながら告げた。良く見れば確かに、試作品と云われていたものは人の手を象ったものだ。材質は分からないが簡素な造りである事は分かる。正にフレームか、骨格という表現が似合うだろう。それらしきものが横合いの作業机にずらりと並んでいる。どうやら彼女達は依頼の電話を受けてからかなり熱心に打ち合わせを行っていたようだ。

 

「態々足を運んで貰ってすまないね先生、本当なら私達がシャーレに行けば良かったのだけれど」

「いいや、こっちがお願いする立場なんだ、気にしないで、それにミレニアムの皆にも会いたかったから丁度良かった」

「ふむ、そう云って貰えると助かるけれど……」

 

 先生の言葉にウタハは何か考え込むように頷き、数秒沈黙を守る。そして先生を頭の天辺からつま先まで観察すると、納得した様子で一つ手を打った。そして羽織った制服を靡かせながら振り向いた彼女は部室の中で待機していた部員達に声を掛ける。

 

「皆、準備の方はどうだい?」

「はい! こちらは万端ですっ!」

「うん……材料も、設計図も、全部持って来たよ」

 

 声に応えるように部室の奥から何やらブループリントらしき束を持ってくるコトリ。そして台車に大量の段ボール箱と工具を乗せて駆けて来るヒビキ。彼女達は先生一行を視界に入れるや否や破顔する。どうやら自分達が到着する時間に合わせて諸々を準備していたらしい。二人が壁際に備え付けられていた作業机にそれらを手際よく移すと、設計図を手に取ったコトリは目を輝かせて云った。

 

「これはまた、随分と沢山書き出しましたね?」

「これ、全部設計図……?」

「あっ、これらの設計図の説明が必要ですか? それならっ!」

「あー……いや、いらねぇ、聞いても良く分からねぇと思うし」

「……あぅ」

 

 素っ気なく放たれたネルの言葉に出鼻を挫かれるコトリ。僅かにズレた眼鏡を指先で押さえながら、しかし彼女はめげる事無く先生へと視線を移した。心なしかその瞳は爛々と輝いている様に見える。

 

「あっ、で、でも先生には説明が必要ですよねッ!? 私が全部、隅から隅まで――」

「ありがとう、それじゃ後でお願いするね?」

 

 少しだけ歯切れ悪く、先生が頷けば途端にぱぁ~っとした笑顔を見せるコトリ。他者に説明、解説を行う事を生きがいとしている彼女は少々、いや、誤解を恐れずに云うのであればかなり特殊な生徒である。まぁ、特殊な生徒しかいないと云えばそうなのだが、彼女の場合はその説明の内容が非常に専門的な部分から基礎的な部分まで網羅し、余りにも懇切丁寧であるが故に膨大な時間を要するという短所(長所)がある。そして残念ながら、彼女のその説明を好んで聞きに来る生徒というのは……その長い説明に耐え切れず途中で逃げ出すのだ。

 決して悪い子ではないのだ――先生は目元を抑えながら頭上を仰ぎ、思った。

 

「……こほん、取り敢えず今回の依頼は電話で聞いた通り、『先生の義手』を製作する事だね?」

「あぁ、うん、頼めるかな」

「私達エンジニア部に依頼したのは合理的な判断だよ、色々と複雑な想いはあるが――」

 

 そう云って一瞬言葉を切った彼女は、しかし力強い頷きと共に笑みを浮かべる。

 

「――マイスターの名に恥じぬ作品に仕上げて見せると約束しよう」

 

 どの様なものであれ、依頼されたからには最高の品を。ましてやそれが先生の手足となるものならば妥協など出来る筈もない。この山の様に積まれた草案は彼女達の熱情そのものと云い換えても良い。

 ヒビキが端末を指先で操作し、ホログラムモニタを投影しながら呟いた。

 

「先生の身体データに関しては既に揃っているから、えっと、直ぐにでも製作に取り掛かれると思う、機構の複雑さにもよるとは思うけれど二日か三日あれば完成する……かな」

「私のデータ? 送った覚えがないのだけれど――」

「その、私が衣装作りの時に貰ったデータが残っていて……」

「あぁ、そっか」

 

 ヒビキのしどろもどろな答えに先生は納得する。彼女の趣味はコスプレ。偶に彼女から、「こんな服、似合うと思う」と提案される事がある。先生は常日頃シャーレ制服で出歩いている為、私服を殆ど持っていない。というよりいつ如何なる時もシャーレの先生として動く事が殆どなので、私服を持つ必要がないと云うべきか。

 

 そんな自身の状態を案じてか、或いは彼女自身の想いか。先生に衣服をプレゼントしたいという声に応え身体のサイズデータをミレニアムで計測した記憶があった。どうやらそれを流用するつもりらしい。

 因みに彼女から贈られた衣服の類はシャーレ本棟、先生の私室にて大切に保管されている。生徒から貰ったものは、何だって大切な宝物なのだ。

 

「元々先生のロボッ――んんッ! 私達が製作していたオートマタの研究成果もあるからね、そう時間は取らせないさ、問題は予算だが……」

「それなら今回の依頼に際してトリニティ側と、それから珍しい事だけれどゲヘナ側からも支払いを負担するとの声が上がっているわ」

「あん?」

 

 ユウカが端末を片手にそう答えれば、ネルが訝し気な声を上げた。

 

「それはまた随分と異色な組み合わせじゃねぇか、一体どういう風の吹き回しだ?」

「エデン条約での関係校という事でしょう、一応調印式の会場で先生は負傷したという話ですから」

「責任、感じているのかも……」

 

 ノアとヒビキの言葉に、「あぁ」とネルは小さく頷いた。今回の義手製作依頼に関しては、本来ならば先生のポケットマネー、或いは連邦生徒会から支給される特別予算から費用を捻出する予定であったのだが――どこからか義手製作の話を聞きつけた万魔殿、ティーパーティーが資金は自身が負担すると云い出したのだ。

 

 その提案をしに来た万魔殿の一員は、「あー、えーっと、何でしたっけ? 確か、『此処でシャーレに恩を売る事は、後々支払った額以上に意味がある、これもまた計画の第一歩という事だ! キキキッ!』とか何とか云っていました」とソファに寝転がって来客用のクッキーを齧りながら告げ。

 一方ティーパーティーの方と云えば、「元は私共の不手際、先生の治療費を含めその後必要となった器具や費用を支払うのは当然の事です、ご安心を、ティーパーティーの財源は潤沢ですので、これもまた私が先生にお返し出来る愛の一つです」としたり顔で告げていた。

 

 思い返すと色々と思う所もあるが、結局押し切られ最終的に義手の費用は各学園が折半する形となったのだ。その合間にも色々と両校のやり取り――もとい主導権争いがあったが割愛する。キヴォトスに於ける最大規模の学園同士、そのバックアップを受け開発される義手だ、予算を心配する必要はないだろう。

 

「まぁ、マンモス校が背後に二つも付いている事だし、予算に関しては殆ど青天井で構わないと思うけれど……」

「青天井――」

 

 その言葉を聞いた瞬間、エンジニア部の全員の瞳に光が宿った様な気がした。ヒビキが分かり易くその耳を震わせ、コトリの笑顔が普段の五割増し輝いてみえる。ウタハに至っては握り締めたスパナをそのままに天井を仰ぎ、目を瞑りながら全身を巡る多幸感を噛み締めていた。

 

 技術者にとって予算と性能、そして納期の兼ね合いは重要である。どれだけ性能が良く素早く作れたとしても、予算が足りなければどうしようもない。素早く製作する事は無茶をすれば何とでもなる、性能を引き上げる事も創意工夫と知恵で何とかなる。しかし予算、こればかりはどうしようもない。何もない所から金が生み出される筈もなし、限られた金銭をやりくりして作品を仕上げる事も醍醐味ではあるが、それはそれとして湯水のように金を使って一つの作品を創ってみたいと思うのは誰しも一度は考える事だろう。

 その実現の機会が訪れた――先生の身に起きた事を考えれば決して素直に喜べる事ではないが、マイスターとしての血が沸き立つのも事実。ぶるりと肩を震わせた彼女達は、その両手を力一杯握り締めながら呟いた。

 

「何と素晴らしい響きだろうか、とても胸が高鳴るね」

「うん、凄く魅力的」

「という事はっ、アレも出来るし、コレも搭載出来ちゃったり……!?」

「あー……えっと、でも余り無茶な事はやめてね?」

 

 どこか鼻息荒くやる気を滾らせる彼女達に、先生は思わずそう告げる。そうでも云わなければ本当に学園が傾く程の予算を使いかねないと思ったのだ。

 いや、流石に義手一本にそこまで莫大な金銭を使える筈もないが――使わないよね? 如何に学園運営に莫大な予算が存在しているとは云え、金銭も無尽蔵ではない。多少の出費で揺らぐ二校ではないと理解しているが、それでも彼女達ならば或いはと思わせる『実績』(ヤバさ)が彼女達にはあった。

 

 先生の言葉に対し、「当然だ、私達は常に必要な予算しか求めない――基本的には」と告げるウタハ。その言葉を信じたい、信じたいが時に明後日の方向に全力を出すエンジニア部である。先生の胸には一抹の不安が燻っていた。

 ともあれ、気を取り直して先生と向き直るウタハ。彼女は作業机の上に並べられた設計図を指差しながら、高揚する声色を隠す事無く問いかけた。

 

「それで、先生に何か義手に対する要望はあるかい? ギミックでも、外装的な部分でも良い、そこが一番重要な所なんだ、義手としての最低限の機能を備えた代物を作るだけなら正直簡単すぎる、何か仕込むというのは大前提だからね」

「ロケットパンチでも、小型の榴弾砲でも、あ、レールガンとか、パイルバンカーとかでも良いよ、それらしい設計は一通り考えたから……」

「一時的な電磁バリアを展開するというのはどうでしょうか!? 小型ながら、かなり強度の高い電磁防壁を展開するガジェットがですね――!」

 

 そう云って各々が考案し、手がけた設計図をテーブルに広げる。積み上げられたそれは全てが全て異なる義手の設計図――十や二十ではない、文字通り山の如く積み上がった選択肢が先生の前に鎮座していた。広げられた彼女達の設計図を覗き込んだユウカ、ノア、ネルの三名は思案する様子を見せる。

 

「そうね、私は――電磁バリアに関しては賛成、先生の身を守る為にもある程度の工夫は必要だと思うし、戦闘の心得が無くても私達が到着するまで時間稼ぎが出来るだろうから」

「うーん、そうですね、確かに攻撃手段を持たせるよりは逃走や防御に特化させた方が……或いは、諜報や偵察系のガジェットを仕込むというのはどうでしょう? もしくはEMPの様な妨害でも――」

「護身って事なら、スタンガンみてぇな奴でも良いんじゃねぇか? アレなら素人でも使えんだろ? まぁ、先生の負担にならねぇなら何でも良いと思うけどよ」

 

 生徒全員で設計図を覗き込み、あぁでもない、こうでもないと頭を捻らせる。先生も彼女達の用意した設計図に目を通しながら暫し考えを纏め、自分なりの要望を口に出した。

 

「そうだね……前提として相手を傷つけるような兵器の類は仕込んで欲しくないかな」

「ふむ、私の使っている雷の玉座と似たタイプで自動照準してくれる銃火器の類も考えていたのだけれど……その手の火器ならば先生は構えるだけで良い、負担は少ない筈だ」

「――万が一にも、私の生徒に銃口を向けたくないんだ」

「……成程、分かったよ」

 

 先生が苦笑と共にそう告げれば、ウタハは納得の色を見せながら背後に積まれていた設計図、その半数を手で区切った。恐らく銃火器やそれの類する類の設計図だったのだろう。彼女達の努力を無為にするようで心苦しいが、こればかりは納得して貰う他ない。

 

「それなら生徒が駆け付ける為の時間稼ぎ、防御の類だとか、偵察だとか、そういうギミックを仕込む事になるかな」

「うん、それでも考える事は沢山ある、内蔵型、展開型、ドローン型……出来る事も、その動作の仕方も全部違うから」

「ですね!」

 

 残った設計図を改めて広げ、次々と候補を上げるエンジニア部。一口に防御と云っても種類は多岐に渡る。義手という限られたスペースを最大限生かし搭載出来るギミックを並べる彼女達を前に、先生はもう一つ要望を口にした。

 

「それと出来れば外部給電装置としても使える機能があると嬉しいのだけれど、出来るかな?」

「うん? 外部給電装置……バッテリーかい?」

「うん、このタブレットの充電とか出来たら嬉しいなって」

 

 先生はそう云って懐に差し込んでいたタブレットを差し出す。彼女達はそれを覗き込み、納得の色を見せた。先生としては寧ろコレが本命に近い。常に予備バッテリーの類は持ち運んでいるが、今後に限っては電力切れがそのまま自身の生死に繋がる。セーフティーネットの一つや二つは常に確保しておきたい。

 端子の差込口などを確認したウタハは頷きながら口を開く。

 

「あぁ、先生が使っているタブレットの充電か、確かに先生は出張も多いし、その手の機能があると便利だね」

「それくらいなら多分簡単に出来ると思う……義手で掴んでいる時だけ充電するような接触充電にする?」

「先輩! 一応有線でも出来るようにポートを設けましょう! 選択肢がある事は良い事です! あっ、でもそうなるとなるべくバッテリーの容量は多くした方が良いですよね?」

「うーん、そうだね、難しいかもしれないが、いっその事小型の発電機構を組み込んでしまうのも悪くない」

「義手の中に? かなり厳しい設計になると思うけれど……スペースを圧迫して容量が足りなくなったら本末転倒、それにそうすると他のガジェットは搭載出来ないし、義手そのものの強度にも不安が残る」

「なら必要に応じて展開出来るような形にするのはどうでしょうか? そうですね、例えばですがこの辺りにこうして――」

「それなら外部装置として接続させた方が効率的だと思う、このサイズだと発電効率も悪いし内蔵させておくメリットが余り感じられない、展開型にする都合上展開部分の構造が複雑化して防弾性能も落ちるから、もし内蔵するならこの部分だけ材質を――」

「待ってくれ、重量が嵩むと運動機能にも支障が出る、長時間の保持は先生の体力的な面から見ても悪手だ、使用する材質にもよるがこのサイズならば――」

「強度や重量の問題なら、いっそシンプルにしてしまうのもアリかと! 発電機構の代わりにバッテリーを大型化して、重量軽減の為に――」

 

 作業机を囲いながら議論を重ねるエンジニア部。彼女達の意識はすっかり仕上げるべき作品に注がれており、エンジニア部だけの世界に入り込んでいる。それを見つめる先生は徐に安堵の息を吐き出し、そっと胸を撫でおろす。ユウカも同じ思いなのか、端末の電源を切って苦笑を零した。

 

「……後は任せて大丈夫そうね」

「えぇ、そうですね」

「……まぁ、発想と考えはアレだが、腕は良いからな」

 

 ノアが笑顔で頷き、担いでいたSMGを見つめながら言葉を零すネル。絞り出されるように零れた言葉は、実感の籠ったものだった。何せ彼女は一度メンテナンスに預けた銃をタバスコの射出機に改造されている。何でも、「どこでもピザを美味しく食べられる様に」という設計思想だったようだが、だからと云って何故銃にそんな機能を仕込んだのかは全くの謎である。

 

「余り邪魔はしたくないし、一度お暇しようか」

「分かりました、では――」

 

 先生の言葉に頷き、部室を後にしようとする一行。扉に手を掛けたノアはふと、思い出したかのように問いかけた。

 

「……そう云えば、先生」

「ん、何だいノア?」

「その、瞳の方は依頼せずとも良かったのでしょうか」

「あっ……」

「……そういや、そうか」

 

 ノアの言葉に思わず声を上げるユウカとネル。今回は義手の製作依頼との事だったが、義眼の製作に関しては何も聞き及んでいない。確かに義手を依頼するのであれば、義眼も同じ様に依頼するのではないか? ――そのように考えるのも当然の流れである。

 何処か気遣った様子に自身を見上げるユウカに対し、先生は思わず苦笑を零す。自身の目元を指先で撫でつけると、彼は努めて穏やかな口調で告げた。

 

「……義眼はね、駄目なんだよ」

「駄目、ですか?」

「それは一体、どういう――」

「義手ならまだ切り離せば何とかなるけれど、義眼は――」

 

 呟き、先生はそれ以上の言葉を呑み込む。三人の視線が自身に注がれるのを感じながら、先生は静かに首を振った。

 義手は最悪その場で取り外してしまえば何とでもなる。しかし義眼となるとそうもいかない。特に高性能な義眼(クローム)ともなると着脱には一定レベルの施設や技術者が必要だった。戦場で義眼を無理矢理くり抜く選択は非常にリスキーなものとなる。

 

 彼女に目を盗まれる事だけは、避けなければならない。

 何せ、シッテムの箱は電子機器に対して無類の強さを誇るのだから。

 

「まぁ、私の我儘だと思って欲しい……ごめんね」

「……いえ、先生がそう仰るのでしたら」

 

 先生の言葉にノアはそっと目を伏せ頷く。ネルやユウカもそれ以上追及する事はなく、何か云いたげにしながらも口を結んだ。彼女達自身、何らかの理由がある事は予想していたのだ。それが先生のポリシーであれ、或いは何かしら戦術的な意図があるにしろ、先生自身がそう判断したのであれば口を挟む事は無い。手を掛けていた扉を開き、ノアは振り向き告げる。

 

「義手の方、完成したらすぐにお知らせしますね」

「頼むよ」

 

 ■

 

「あーっ、先生だ!」

「?」

 

 義手制作依頼を終えた後、先生一行は食堂へと向かう流れとなった。時刻は昼前、少し早いが昼食を摂ろうという先生の言葉に賛成し、皆でミレニアムの廊下を歩く。すると後方から、何とも元気な声が響いた。

 その溌剌とした声に先生は振り向き、廊下を凄まじい勢いで駆けて来る人影を視界に捉える。瞬間、するりとネルが極自然な動作で先生の前に立った。銃口こそ向けられないものの、担がれた愛銃、その引き金に指が掛かるのが見えた。

 視線を細め肌を刺すような雰囲気を纏ったネルであったが、それも数秒と立たず霧散する。ユウカとノアも声の主が誰であるかに気付いた様で、その表情をふっと緩めた。

 

「あん? ありゃ、ゲーム開発部の……」

「モモイね、全く、廊下は走るなって云っているのに……!」

「ふふっ、いつも元気ですね」

 

 そんな声が彼女に届く事は無く、駆ける人影――モモイは先生の直ぐ傍まで駆けて来ると、そのまま腹部目掛けて勢い良く飛び込んだ。先生は飛び込んで来る事を予期し、腰を落として飛び込んで来たモモイを受け止める。そのまま右腕で彼女を抱き留め、ぐるりと一周、遠心力を用いて勢いを緩和した。

 既に慣れたものだ、笑顔で自身を見上げるモモイに自然と此方も笑みが零れる。直ぐ横で支えられるように手を伸ばしていたユウカとノアに視線で礼を告げ、モモイを床に降ろす。

 

「先生! うち(ミレニアム)に来るなら何で連絡くれなかったのさ!?」

「ははっ、ごめんねモモイ、急な事だったから皆のスケジュールを把握していなかったんだ、今はゲーム開発で忙しいかと思って」

「先生との時間は別! ゲームを開発するにも、ほら、えっと何だっけ……インスピレーション? って奴が必要だし! アリスとかミドリとか、あとユズも! 皆待ってたんだからね!」

 

 そう云って先生の胸元――正確に云えばネクタイをぐいぐいと引っ張るモモイ。中腰になりながらも苦笑を浮かべる先生は、「ごめん、ごめん」と言葉を零す。

 見かねたユウカが胸を張り、モモイに向かって口を挟んだ。

 

「ちょっと、モモイ! 今先生は仕事中で――」

「げっ、魔王ユウカ!?」

「――は?」

「あら」

「おぉう」

 

 どうやら彼女は先生にばかり目が行っていて、他に誰と一緒に歩いているのかを認識していなかったらしい。咄嗟に出た言葉は正に地雷原を突っ走る様な行いであり、ユウカの表情がスンと切り替わるのが分かった。

 口に手を当てるも、もう遅い。一度紡いでしまった言葉を引っ込める手段はない。熊と遭遇したかのようにゆっくりと後退するモモイは、その蒼褪めた表情をそのままにぽつりと最後の声を漏らした。

 

「あっ、やば……」

「――モ~モ~イ~ッ!?」

「うひゃぁっ! ちがっ、今のは私達が制作中のミレニアム・クエストのラスボスの事で、決してユウカの事じゃ――わわっ!」

 

 ぶん、とユウカの伸ばした腕が空を切る。捉えようと振るわれたそれを紙一重で避けたモモイは、そのまま全力で廊下の向こう側へと駆け出した。同じようにユウカも彼女の背を追って、床を蹴り飛ばす。

 

「待ちなさいッ! 今日と云う今日は絶対に許さないからっ!」

「だからユウカの事じゃなくて、魔王ユウカの事なんだってばぁ~っ!」

「モモイ~っ!」

「うわぁ~んっ!」

 

 ユウカの怨念の籠った声が周囲に響き渡り、同時にモモイの悲鳴も轟く。二人は凄まじい勢いで廊下を駆け抜け、軈てその背中は廊下の曲がり角へと消えて行った。それを見送ったネルは呆れたような吐息を零し、ノアは手帳で口元を隠しながら笑みを漏らす。

 

「凄い勢いで行っちまったな」

「ふふっ、怒っているユウカちゃんも可愛い……でも廊下を走るのは危険ですし、気を付けて貰わないといけませんね」

「そういう問題か……?」

 

 ノアの言葉にネルは他にも色々と問題がある様に思ったが――彼女はそれ以上深入りする事無く首を振った。先生も中腰だった姿勢を正すと、軽く引き締まったネクタイを緩めながら口を開く。

 

「ごめん、ちょっと寄り道して良いかな?」

「あ? そりゃあ、構わねぇけれど……」

「――ゲーム開発部ですか?」

 

 先生の言葉にノアはアタリを付け、そう問いかけた。どうやらお見通しらしいと先生は頬を軽く掻きながら頷く。折角ミレニアムまで足を運んだのだから、どうせならば顔を見て行きたいと思ったのだ。

 

「うん、少し顔を出して行こうと思って」

 


 

 一度生まれたものはそう簡単に死なないって、じっちゃが云っていた。

 だから先生もそう簡単にはくたばりません事よ。

 ラップ巻きにされてもしぶとく生き残るんですの。

 



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発条(ゼンマイ)仕掛けの希望

誤字脱字報告に感謝ですの!


 

「うーん、お姉ちゃん、遅いね?」

「そ、そうかな……?」

「途中でモンスターとエンカウントしたのかもしれません!」

「そんな、RPGじゃあるまいし……」

 

 ゲーム開発部――部室。

 ミレニアムの中でも比較的郊外に位置するその部室は、倉庫や準備室などに囲まれ人気はない。部の規模が小さいという理由もあるが、元より部長であるユズがその様な環境を望んでいたという事もある。部室内はあらゆる本、ビデオゲーム、ボードゲームの類が保管され、綺麗に整頓されているところもあれば遊んだまま散らかっている場所もちらほら散見される。

 

 今日も今日とてゲームに囲まれた彼女達は開発に精を出して――いる訳ではなく、先日発売されたばかりの新作に熱を上げていた。ユズはひとりノートパソコンを操作し、アリスとミドリの二名はディスプレイに視線を注いでいる。現在ゲーム制作を行っているのはキーボードを叩くユズひとり、と云ってもこれには理由があり決して他の面々がサボタージュをしている訳ではない。ただ単純に、現在製作中の『ミレニアム・クエスト』の次章構想をユズが練っている最中なのだ。そして構想が固まるまでは手持ち無沙汰な為、モモイ、ミドリ、アリスの三名は新作ゲームで対戦を行っていたというのが現状であった。

 

 壁際に設置された旧型ディスプレイの中では、巨大なロボットが縦横無尽に飛び回り銃器を乱射している。忙しなく手元を動かすアリスとミドリは時折連動する様に体を傾けながら鎬を削っていた。

 

「あっ、アリスちゃん! それズル! ジャマーでロックオン阻害しながらノーロック極太(ユウカ)ビームはズルだよっ!」

「ズルではありません! ビーム照射中の隙を消す立派な戦術です! チャージ最大、最高出力の一撃は直撃すればワンパンです――光よーッ!」

「あーっ!」

 

 アリスの操作する機体が紅色の極光を放ち、ミドリの機体を捉える。凄まじい威力を秘めた一撃に彼女の機体は憐れ、爆発四散。画面に表示された【Break Down】の文字にミドリはコントローラーを握ったまま倒れ伏し、アリスは両手を挙げて笑顔を浮かべた。

 

「やった! アリスの勝ちですッ!」

「うぅ、こんなのってアリ……? こ、こうなったらもう、こっちだってヒマリ先輩(車椅子)重ショ(ショットガン)を積んで――」

「ならアリスはランスにパイルの格闘構成で行きます! 右腕は素手です! 真の強者は銃を使わないってトリニティの人が云っていました!」

「あ、あはは……」

 

 ディスプレイの中で行われる機体の再構成。やいのやいのと言葉を交わしながらゲームをする二人を見つめながらユズは思わず苦笑を零す。この部の生徒全員に云える事ではあるが、対人ゲームとなると皆が皆熱くなりやすい。

 そうこうしていると不意に、部屋の外から足音が響いて来た。部室の扉はモモイが出て行ったきり僅かに開いており此処の廊下は足音が良く響く。ぴくりと身を震わせたミドリは振り向き、扉に目を向けながら呟いた。

 

「ん? 足音……誰か来たのかな?」

「こ、此処の棟に来る人は殆どいない筈だけれど」

「きっとモモイです! モモイとはまだ数戦しかしていませんし、早く闘争(ゲーム)の続きをしないと、アリスの最強を証明出来ません!」

 

 そう云ってコントローラーを手放したアリスは扉まで駆け寄る。そして中途半端に開いたそれに手を掛け、満面の笑みで押し開けた。

 

「モモ――ッ!」

「おっと」

 

 押し開けた扉を避けるように、一歩退く人影。ふわりと鼻先を擽った匂いはモモイのものとは異なり、アリスは数秒目を瞬かせ視線を上へと向けた。

 

「アリス、扉を開ける時はもう少しゆっくりね」

「……先生?」

 

 扉の前に立っていたのはアリスの予想とは全く異なる人物で。モモイよりも高い背が影を作り、アリスは暫くの間自分の前に立つ人物――先生を見上げながら、その瞳を徐々に輝かせ諸手を挙げた。

 同時に背後から扉を見ていたミドリ、ユズが驚愕の声を上げる。

 

「先生!?」

「せ、先生っ」

「わぁ、先生とエンカウントしました! レアキャラです!」

 

 普段ミレニアムから離れる事のないゲーム開発部からすれば、先生の存在は正にレアキャラ。時折シャーレに足を運ぶ事はあったものの、此処最近は条約関連に忙殺され顔を見る事もなかった。故にその分喜びもひとしおで、アリスは先生に飛びつき室内に招き入れようとその腕を掴む。

 

「先生! 先生も一緒にゲームを――っ」

「アリスちゃんッ!」

 

 アリスが先生の左腕に手を伸ばした時、背後から鋭い声が響いた。

 しかしそれよりも早く、アリスは先生の腕を掴んでしまう。否、掴んだと思った。

 だが予想に反し、アリスの手にあった感触は中身のない、布切れを掴んだような感覚で――思わず目を瞬かせる。

 

「……あれ」

 

 アリスは自身の掴んだ手を見る。握り締められた先生の袖、すっかり皺くちゃになったそれは肝心の中身がない。二度、三度、握り直しても同じだ。ゆっくりとアリスが先生を見上げれば、どこか申し訳なさそうな表情で微笑む先生が居た。不意に先生の前髪が揺れる、その隙間から覗く傷跡を目視し、そこで漸くアリスは自分が何をしたのか、先生がどうなったのかを理解した。

 

「ぁ、そ……その」

「ご、ごめんなさい先生! その、アリスちゃんニュースとか余り見てなくて……!」

「大丈夫、気にしていないよ」

 

 俯き、言葉を詰まらせたアリスに代わりミドリが焦燥に塗れた声で告げる。それに先生は軽く目を細め、寧ろ此方が悪かったとばかりに首を振った。

 

「さっき廊下でモモイと会ってね、久々に皆の顔を見ておきたくて――此処には義手の製作依頼で来たんだ、だから……ごめんねアリス、もう少しで私の新しい腕が出来上がるから、そうしたら一緒にゲームをやろう」

「は、はい……」

 

 先生のいつも通りの、何て事のない穏やかな声にアリスはぎこちなく頷く。

 先生は優し気な笑みを浮かべながら中腰になってアリスの頭に手を乗せた。丁寧に撫でつけるその動作は紛れもなく先生のものだ。目の前の先生は偽物なんかじゃないし、先生はアリスの知る先生のままだった。

 

 ただ、その片腕と瞳だけが、アリスの知る彼と異なっていた。

 

 彼女は掴んだままの袖を凝視しながら、その瞳を揺らす。その胸中には今まで存在しなかった強い動揺が生まれていた。それがどういった感情から齎されるものなのか、彼女は理解していない。カテゴライズできない強い衝動、或いは恐ろしさ。それを秘めたまま彼女は想う。

 

 先生の肉体が脆い事は情報として理解していた、このキヴォトスに於いてヘイローを持たない先生の肉体強度は最弱の領域に足を踏み入れている。弾丸一つで死に至ると云うのは比喩でも何でもない、アビドスの時も、調印式前だってそうだ、その危機に先生は何度も陥っている事をアリスは知っていた。

 けれど、アリスは大丈夫だと思ってたのだ。

 

 だって先生は、先生だ。

 

 他者にとっては理解出来ないかもしれないが、アリスにとって先生とは『そういうもの』なのだ。希望の象徴、自分達を導く光、大きくて暖かくて、肉体的に弱くとも最も強い者。

 

 アリスは、魔法の存在を信じている。

 このキヴォトスに、その尊くも眩しいもの(奇跡)が存在すると信じている。

 そして先生は、その魔法を行使できる唯一無二の存在だ。

 だから――。

 

 アリスは先生が消える事(いなくなる事)など、一度も考えた事がなかった。

 

「先生、その腕は、やっぱり報道されていた事件で……?」

「まぁ、そうなるね」

 

 ユズが手元のノートパソコンを畳み、恐る恐ると云った風に問いかける。アリスが力強く握り締めている左袖は、どこか空虚で寒々しい。本来あった筈のものが存在しない、その現実はユズ達の心に拭いきれない深い不安を抱かせた。

 

「も、もうその事件は解決したんですか……?」

「んー、半分終わった所……かな? まだ事後処理とか後始末が残っているから、解決とは云い難いかもしれない」

 

 ――そして、その黒幕との決着も。

 

「けれど、そう遠くない内に片付くと思うよ、今は大きな後片付けに備えて少し休憩中なんだ」

「そ、そうですか」

 

 先生の言葉に胸を撫でおろすユズ。少なくとも山場は越えたと捉えたらしい。実際の所は次が最後の大仕事となる訳だが――先生はそれを表に出すつもりはなかった。生徒を不安がらせる必要はない、物騒な事柄など知らぬ内に終わるのが一番良いのだ。

 

「あの、大して力にはなれないかもしれないですけれど、助けが必要な時はいつでも呼んで下さい、直ぐ駆けつけますから……!」

「ありがとう、その言葉だけで嬉しいよ」

 

 ミドリの言葉に、心から嬉しそうに笑う先生。その言葉に嘘はない、それは知っている。ただその言葉を口にしたミドリの胸中には、云い表す事の出来ない焦燥と恐怖が渦巻いていた。

 そんな何とも云えぬ空気の中、不意に先生の腹が鳴る。

 先生は自身の腹を見下ろし、恥ずかしそうに頬を掻いた。

 

「……っと、しまったな、朝食を抜いて来たから――」

「先生、お腹が減ったのですか?」

 

 先生の空腹の合図を聞いたアリスは顔を上げる。そして暫し何かを考え込む様な素振りを見せたあと、彼女は先生の右手を掴み告げた。

 

「食堂に行きましょう! アリス、先生に食べさせてあげますっ!」

「あっ、ちょ、アリスちゃん……!」

 

 声を上げるも、止める間もなく先生を連れて部室を飛び出すアリス。長い髪を翻し駆け出した彼女と先生の姿は直ぐに扉に遮られ見えなくなる。ややあって廊下の向こう側から誰かの声が響き、ユズとミドリは顔を見合わせた。

 

「ユズちゃん、アリスちゃんと先生を追いかけないと……!」

「う、うん! あ、じゅ、銃――わ、私の、ど、何処に仕舞ったっけ……!?」

 

 ■

 

「あら?」

「ん……あっ、おい!」

 

 ゲーム開発部、部室より少し離れた廊下で待機していたノアとネルの両名。

 ゲーム開発部が先生と会う時間に水を差さない様にと配慮し、所在なさげにヤンキー座りをするネル、そして何事かをメモ帳に記入していたノアであったが――そんな彼女達の視界に、先生の腕を掴んで部室を飛び出すアリスの姿が映った。思わず面食らった二人であったが、ネルは即座に立ち上がり叫ぶ。

 

「チビてめぇ! 先生連れて何処に――」

「アリスは先生と食堂に向かいます!」

 

 そう云うや否や凄まじい勢いで駆けていくアリス。先生は腕を引っ張られたまま、抵抗らしい抵抗も見せずに引き摺られていく。一応加減はしている様子だが、それはそれとしてかなりの速度で駆けていた。瞬く間に離れていく背中を見つめながら、ネルは頭部を掻きぼやく。

 

「……ったく、仕方ねぇ、追いかけるか」

「ユウカちゃんにも連絡を入れておかないとですね」

 

 そう云ってノアはポケットに入れた端末を取り出し、移動先をメッセージアプリで予め伝えておく。どうやらモモイとの追いかけっこは未だ継続しているらしく、モモトークに既読は付かなかったが――後から確認出来る状況ならば問題はないだろう。

 序に今しがた起きた事をメモ帳に書き込み、ふっとノアが一息吐いた瞬間。

 

 不意に爆発音が周囲に響き渡った。

 

「あら、今のは――」

「何だ、爆発……?」

 

 ガタリと、近場の窓硝子が振動する。ネルが訝し気な表情で近場の回廊から硝子越しに外を見れば、遠くで煙が吹き上がっているのが確認出来た。ノアもネルの傍に駆け寄り同じように外を覗き込み、思わず目を細める。

 

「何だありゃあ、また実験か何かやってんのか?」

「いえ……あの区画に部室は割り当てられていなかった筈ですし、実験を行うという届け出も受けていません」

 

 ノアは手帳を捲り、ネルの言葉に首を振る。記憶の中でも申請を受けた覚えはないし、やはり手帳に記入もなかった。

 ミレニアムに於いて爆発事故というのは珍しくない。ケミカル系の部活が調合や実験に失敗して部室が吹き飛んだという例もあるし、技術開発・研究部門の部活がパワー・スピードを追求し過ぎてマシンが暴走、大破、或いは攻撃によって部室が吹き飛んだという例もある。何ならあのエンジニア部すら定期的に爆発事故を起こしているので(と云っても彼女達の場合、故意に限界値を超えて運用しようとする場合や自爆機能のテストによるものが殆ど)、寧ろどこの部活であっても爆発を起こして漸く一人前――みたいな風潮があったりなかったりする。

 その被害の補填や修繕費も馬鹿にならず、セミナーとしてはこの手の風潮は早めに消し去りたいと常々思っているが、それはそれとして部活動責任者に説教を行うユウカが可愛いので暫くはこれでも良いとノア個人は思っていた。

 

「というより、あの建物は確か……」

「あっ、い、居た! C&Cのネル先輩っ!」

「あん?」

 

 ノアが何事かを呟こうとした時、何やら焦燥を滲ませた生徒が廊下を駆けて来た。よれよれになった白衣にズレた眼鏡、彼女は荒い息をそのままに額の汗を拭うと、煙の立ち昇る方角を指差しながら叫んだ。

 

「あ、あのっ、第四食堂にゲヘナの生徒がやって来て、全自動調理機を爆破しはじめて……っ!」

「――はぁ?」

 

 ■

 

「けほっ、ケホッ! ちょ、ちょっとハルナ、あんた一体何して……!?」

「あらぁ、見事に粉々ですね」

「あぁっ!? 私のデラックス・ハンバーガーが~ッ!?」

 

 ミレニアム――第四食堂。

 数百人の生徒が一斉に食事を摂っても問題ないスペースを誇るその場所は、今や煙と煤、そして粉々になったテーブルや椅子、機械部品が散乱していた。自身に圧し掛かっていたテーブルを押し退けながら声を上げる――美食研究会の面々。

 この爆発の犯人であるハルナは頬に付着した煤をハンカチで拭いながら、いつも通りの澄ました笑みを浮かべ告げた。

 

「ふふふっ、全く、ミレニアムの誇る全自動調理人形、どれ程のものかと期待してみれば……やはり人の手に勝るものはありませんね」

 

 その声には確かな落胆と失望が混じっている。そう、何を隠そう彼女が食堂を爆破した理由は、この食堂で提供されたミレニアムの学食が彼女の基準を満たさなかった為である。風の噂でミレニアムが全自動調理人形なる設備を導入したと聞き、キヴォトス最先端を謳うミレニアムの料理、その腕前はどれ程のものかと期待してきたものの、結果はこの有様。

 周囲に漂う粉塵を手で払い、立ち上がった彼女は埋もれた愛銃を引っ張り出しながら尻尾を揺らす。

 

「モニタをタップすれば即座に料理が提供される利便性、成程、確かに素晴らしい調理速度でした、そこは認めましょう、何も私は機械すべてを否定する訳ではないのです、例え血の通わぬ器具を用いようとも、其処に確かな食材への知識と食べる者への想い、それらが存在すれば美食と成り得ます、しかし……」

 

 カッ、と目を見開いたハルナは足元に転がる自動調理人形だったもの――妙にデフォルメされた笑顔の頭部を足蹴にし、言葉を叩きつけた。

 

「料理、相手、そして時期、そのどれが欠けても真なる美食には程遠い――そしてこの食事に、圧倒的に欠けているものは食べ物に対する敬意!」

「ん~、まぁ確かに、多少味気なくは感じましたけれど」

「安くて早くて、まぁまぁ美味しかったじゃん……!?」

 

 髪に付着した煤を叩き落としながら叫ぶジュンコに向け、ハルナは溜息と共に首を横に振る。

 

「まぁまぁの食事で満足してはいけませんジュンコさん、美食家たるもの常に探求心を忘れてはいけませんわ」

「わ、私は普通に美味しいと思ったんだけれどなぁ……」

「イズミさんが食事をマズイと口にした事ってありましたっけ?」

「ん~……ないかも!」

 

 アカリの言葉に笑顔で答えるイズミ。彼女は口に放り込むもの全てを、「美味しい!」と称する生徒である。恐らくパンに歯磨き粉を塗りたくった食事であっても笑顔で完食する。残念ながら彼女の味覚及び意見に関しては一切信用できない。

 

「お、お前達、一体なにをしているんだ!?」

 

 そうこうしている内に騒動を聞きつけたのか、食堂の入り口から複数の生徒が駆け込んで来るのが見えた。ついでに巡回中であった警護ロボット(ガードマン)が列を為して食堂を包囲し始める。頭部に備え付けられたランプが煌々と点灯し、その備え付けられた両腕の連射砲が美食研究会に向けられていた。徐々にスピンアップする銃身を前にジュンコは思わず蒼褪め、ハルナは肩を竦めて見せた。

 

「あら、騒ぎになってしまいましたね」

「そりゃ、あんな爆発を起こせばそうなるでしょ!? じゅ、銃、私の銃どこ……!」

「わわっ、何かロボットが一杯来たよ!?」

「ふふっ、どうしますかハルナさん?」

 

 ジュンコが焦燥と共に叫び床に転がっていた愛銃を抱え、イズミは並ぶロボットに目を白黒させる。こんな状況にも関わらず薄らと笑みを浮かべるアカリ、そして凛とした態度を崩さないハルナ。アカリの言葉にハルナは制服のスカートを軽く払い、泰然とした態度で告げた。

 

「決まっています、こういう時は――」

 

 息を吸い込み、足元の破損したテーブルを踏み越え――彼女は一息に叫んだ。

 

「優雅に撤退致しましょう!」

「ですよねっ☆」

「お先にっ!」

「あっ、ちょ、待ってよぉ!? へぶっ!?」

 

 自分達のリーダーが何を云い出すのか、それを予測していたのは二名。ハルナ、アカリ、ジュンコの三名は散乱した残骸を飛び越え出口目掛けて一目散に逃走を開始。いつもの如くイズミは出遅れ、駆け出した皆に続こうと踏み出し破片に足を捕られ転倒する。

 しかし、彼女達の足は即座に止まった。正確に云えば先頭に立って駆けていたハルナが足を止めた故に後続の彼女達も足を緩めた。

 

「っ、あら?」

「……やっぱりか」

 

 彼女達の視界に入ったのは――食堂入り口から顔を覗かせた一人の男性。額に汗を滲ませ、息を弾ませている彼は呼吸を整えながら肩を落とす。その見覚えのある背格好に彼女達は目を見開き、呟いた。

 

「あれ、先生?」

「何故この様な場所に――」

 

 ジュンコとアカリがそう言葉を漏らし、一瞬空白が生まれる。

 そして、それを待っていたとばかりに一つの影が彼女達の中に飛び込み、叫んだ。

 

「オラァッ!」

「ふぐッ!?」

 

 小柄な人影が凄まじい勢いで三人の中に突貫し、勢いそのままにドロップキックを敢行。運悪く標的になったアカリは脇腹に全体重、加速を乗せたドロップキックを受け凄まじい速度で壁に叩きつけられた。コンクリートすら砕く様な爆音と衝撃に軽く建物が揺れ、その一部始終を見ていたジュンコが血の気の失せた顔で叫ぶ。

 

「わぁーッ! アカリが大変な事にっ!?」

「テメェら動くんじゃねぇぞッ! 全員纏めて床を舐めたいってぇなら別だがなぁッ!?」

 

 両手に構えた愛銃をジュンコとハルナに付きつけ、そう叫ぶのはネル。呼び出されてから全速力で駆け付けた彼女は僅かに跳ねた髪をそのままに、苛立ちを隠す事無く食堂中に声を響かせた。

 特徴的なスカジャンにメイド服、それがミレニアム最強と呼ばれるC&Cである事は明らかで。ジュンコは壁に叩きつけられたアカリの腕が明後日の方向に折れ曲がっている事を確認し、ハルナの傍に後退しながら問いかけた。

 

「は、ハルナ、どうしよう!?」

「……流石に、先生を巻き込むのは気が引けます」

 

 ちらりと、苦笑を浮かべながら佇む先生を見つめ声を零す。このような場所で銃撃戦を行って彼に万が一があっては後悔してもし切れない。ハルナは抱えていた愛銃を静かに降ろすと、片手を挙げて微笑み云った。

 

「――大人しく投降致しますわ」

 


 

 本編が始まると一気にこういう生徒同士の掛け合いというか、日常の一幕――みたいなものを書けなくなるので、今の内に幸せな彼女達を書き綴るのですわ。些細な幸福を噛み締め、これからの未来に想いを馳せ、「明日もきっと、こんな日が続くよね? 先生」と問いかける生徒からの、先生の無言の微笑みが最高に儚く素敵なんですの。

 

 因みに幕間初期をミレニアム主軸にしたのは彼女達の出番が少ないからというのもありますし、義手製作にマイスターの助力が必須というのもありますわ。美食研究会? 私の趣味ですわ!!!(威風堂々)

 

 エデン条約編は基本的に「トリニティ」と「ゲヘナ」が主軸ですが、後編二章は殆ど「アリウス」と「トリニティ」の物語になりますの。もっと云えば本編は「サオリ」と「ミカ」の物語だと勝手に思っておりますわ。

 そして当小説はそれに加えて先生とベアトリーチェの決着、そしてミカの内に潜む未来ミカと銀狼の行方、最後に「先生」が己の罪悪と直面する章となっております。

 私は各章を書き綴る前に凡そのテーマというか、題材な様なものを定めていますが、今章のテーマは『贖罪』ですの。

 

 それはミカの事であり、サオリの事であり、セイアの事であり、そして先生の事でもあります。

 今章で漸く、先生は自身の歩んで来た道の代償を知るのです。

 

 そして、今回一番苦しむのは生徒ではありません。

 このエデン条約後編二章、長きに渡る三部の物語最後に一番苦しむのは先生自身ですわ。

 腕と瞳を捥いで終わりなんじゃありませんの。

 捥いでからが始まりなんですわよ。

 一度壊れた肉体は取り返しがつきませんが、一度壊れた心だって取り返しはつかないのですわ~!



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貪食

誤字脱字報告、ありがとうございますわ~!


 

「……で、さっきの爆発の仕掛け人が彼女?」

「えぇ、どうやら食堂で稼働していた全自動調理(人形)の提供した食事が気に入らなかったとの事でして……」

「ふふっ」

 

 広い食堂内、散乱したテーブルや椅子が転がる中、拘束された美食研究会が輪になって座り込んでいる。爆破の犯人であるハルナは自ら投降した後も澄まし顔で、他の部員達も基本的にいつも通り。

 先程騒ぎを聞きつけ合流したばかりユウカが爆破された周囲を見渡しながら顔を顰め、これ見よがしに溜息を零す。現場にはノア、ユウカ、ネルの三名、そしてモモイを除いたゲーム開発部が集合している。尚、モモイは未だユウカを恐れて身を隠しているとの事。ミドリ曰く、多分ゲームセンター辺りでほとぼりが冷めるのを待っているのでは? という話だった。

 

「仮に食事が気に入らなかったとして、それで何で爆破するのよ……?」

「美食を探求するが故です、例えば誰も使っていない流し台で水が流れっぱなしになっていたらどうしますか? 当然蛇口を締めるでしょう? つまり、そういう事ですわ」

「ちっとも意味が分からないのだけれど!?」

 

 そう云って憤慨するが、当の本人は「何故分からないのか?」とばかりに首を傾げて見せる。それが尚更ユウカの怒りを煽っていた。彼女にとっては蛇口を捻る行為と店や食堂を爆破するのが同じ感覚なのだろうか。先生はその事を考え、遠い目をするしかなかった。

 

「あっ、ありました!」

 

 そんなやり取りが行われている中、アリスは爆発し煤と粉塵に塗れた残骸から何かを引っ張り出す。まるで伝説のアイテムの如く掲げられ、アリスの手に握られたそれはパッケージされた保存食らしきもの。どうやら爆発で食材の殆どが吹き飛んだらしいが、奥側に保管されていたソレは無事だった様子。表面にやや焦げ跡は見えるのの袋自体は破けていないし、中身も粉々になっていたりはしない。アリスは折り重なった残骸を飛び越し、先生の元へと駆け寄って来る。

 

「先生、無事な保存食がまだあったので、これでお腹を満たしましょう!」

「……ありがとうねアリス、でも今は他にやる事があるから――もご」

「アリスが食べさせてあげます!」

 

 先生がやんわりと断りを口にするが、それよりも早くアリスはパッケージを剥き、中身の食品――乾パンを先生の口へと突っ込んだ。残念ながらキヴォトスの生徒に力関係で敵う事はまずない。口の中に凄まじい力で入れられたそれを、先生は死んだような瞳で咀嚼する事しか出来なかった。

 

「ど、どうしよう、止めた方が良いかな……?」

「う、うーん、でも一応善意からの行動っぽいし……」

「先生、美味しいですか?」

「むぐ……うん、まぁ、そうだね、うん」

 

 ミドリとユズが戦々恐々と見守る中、口を動かす先生。当たり前の話ではあるが乾パンそれ自体に味はない。殆ど無味乾燥なビスケットである、せめて塩か何かでもまぶしてあったのなら別だったろうが、これは元々別の料理のベースとなるものだったのだろう、味付けはなく美味いも不味いもない均一な味だけが広がっていた。

 

「まだ残っているので、全部食べて下さい!」

「うん、ありがとう、気持ちだけ――むご」

「あ、アリスちゃん……」

 

 言葉を全て紡ぐ前に次の乾パンが突っ込まれる。最早どの様な言葉も彼女には届くまい。流石に止めようと踏み出したユズであったが、輝く瞳と何やら真剣な表情を浮かべる彼女を前に掛ける言葉が見つからない。先生も此処に来て悟りの境地に至り、兎に角彼女の手持ちの乾パンを如何に消化し切るかに思考をシフトした。

 

「他校の食事が気に入らないというのは分かるわ、味の好みは人それぞれだし、ただ何故そこから爆破という結論に至るのかが全く分からない、どういう理論よ……! というか此処(第四食堂)の設備は最近導入したばっかりなのに、修繕費用に幾ら掛かると思って……!?」

「あー、ほら、つってもよ、別に厨房周辺が吹き飛んだ程度だろう? ビル一棟に比べりゃ別段――」

「それはC&Cがいつも、いつも、いつも周囲の被害を考えずに戦うからッ……!」

「うぉ、やべっ」

 

 軽率に言葉にしたそれがユウカの地雷を踏み抜き、彼女の怒りゲージが更に上昇する。それを感じ取ったネルは素早く距離を取り身構えた。幸い爆発する前に大きく息を吸って再び鎮火したものの、その火種はぐつぐつと腹の中で煮え滾ったままだ。ノアはそんなユウカの様子を横目に厨房全体の被害を一つ一つ確認していく。

 

「シンクと調理台、コールドテーブル、冷凍保存庫、加熱テーブルやレンジ周りも全滅ですね、自動調理機器もそうですが厨房全体の修繕工事が必要だと思います、電気系統周りも不安ですし、骨子にダメージがあったら大事ですから、点検と万が一の場合は――」

「さ、流石に建て替えって事はないでしょうね……!?」

「うーん、どうでしょう、詳しい検査結果が出ないと何とも云えませんが、万が一建て替えになった場合は以前第四食堂を建築した際の費用がこれ位なので……」

「――うわっ」

 

 ノアはぱらぱらと手帳を捲り、第四食堂を建築する際に話し合った議事録、そのメモをユウカに見せる。それを覗き込んだユウカは目を見開き、思わず口を覆った。

 

「嘘でしょう、こ、こんなに掛かるの……?」

「ベース自体は第一から第三食堂と変わりませんが、厨房周りには試験的に導入していたシステムや機器が幾つかあったので、結構高価なパーツなんかも使っているんですよね」

「ちょっと待って頂戴、この前予算審議会が終わったばかりなのよ? 厨房の修繕ならまだ何とかなるかもしれないけれど、食堂丸ごと建て直す費用なんて……」

 

 考え、頭を抱えるユウカ。厨房という限られた一区画を復旧させる程度の予算ならばまぁ、何とか用意出来なくはない。先進的な技術が導入されていた分、通常の厨房より遥かに高い金額となったが修正の範囲内だ。しかし食堂という建物丸々一つとなると話は別だった、何処か別な場所から予算を引っ張って来なくてはならない。

 研究というものは兎に角金食い虫なのである、そして得てして研究者というものは現実的な予算に無頓着な場合が多い、採算が取れない事などしょっちゅうだ。残念ながらミレニアム内部に於いて比較的自由に動かせる金銭というものは多くない。せめて、せめて予算審議会の前であればどれ程良かった事か――そう考えずにはいられない。

 

「あっ、パンがなくなってしまいました……アリス、また探しに行ってきます!」

「あっ、ちょ、アリスちゃん!?」

「むぐ、むぐ……」

 

 口の中がぱさぱさする。空になったパッケージを握り締め、再び厨房へと突貫するアリスを見送りながら先生は思った。また残骸を引っ繰り返し、食べられるものを見つけ出すつもりなのだろう。正直まだ崩落やら引火やらの可能性があるのでやめて貰いたい。

 というより何故アリスは自分に食事を押し付けてくるのだろうか、そんなに腹ペコだと思われているのだろうか――いいや、それが彼女の不安から来る行動である事は薄々理解していた。彼女が妙に真剣な理由も、その見つめて来る瞳から察する事が出来る。

 私はそう簡単に居なくなったりしないよ――そんな風に言葉に出来たら、どれ程良い事か。

 

 先生は口に付着したパン屑を拭い、ハルナ達の前へと静かに足を進めた。縛られたまま床に座り込む彼女は、薄らと笑みを浮かべながら先生を見上げる。

 

「ふふっ、奇遇ですわね先生、このような場所でお会いするなんて」

「うん、そうだね……出来れば、こんな形では会いたくなかったけれど」

 

 これは本心だ、出来ればもう少し違った形で会いたかった。というか彼女達と予想外の場所で出会う時は大抵何かしら騒動が起きている最中な気がしてならない。そして大体は彼女達が巻き込まれた側ではなく、騒動を起こした側なのだ。

 先生が溜息を堪え視線をずらせば、同じように拘束された面々が体を揺らしたり足をバタつかせながら呻いていた。

 

「うぅ、何でこんな目にぃ……」

「お、お腹減った……安くて一杯食べられるからってついて来たのに、全然食べられなかったし」

「あ、先生、救護を呼んで頂いても良いですか? 腕が明後日の方向に曲がっちゃって☆」

「……直ぐ、呼んでくるね」

 

 腹を鳴らし涙目で項垂れるイズミ、本格的に食べ始める前に食堂を爆破されたジュンコ、右腕があらぬ方向に向いたまま笑顔を浮かべるアカリ。余りにも普段通り過ぎる、それが彼女達らしいと云えばらしいのだが――もう少しこう手心と云うか、何と云うか。

 

「せ、先生、宜しければ私が呼んできましょうか?」

 

 先生は額を指先で揉み解し、取り敢えずミレニアムの救護センターに連絡を入れようかと端末を取り出せば、控えめに引っ張られる袖。振り返るとユズが身を縮こまらせながら自身を見上げていた。

 

「うん? それは――助かるけれど、良いのかい?」

「は、はい、こういう時位しかお役に立てませんし……」

 

 そう云ってへらりと笑う彼女は食堂の外を指差す。ミレニアムには警備ロボットに負傷者の報告を行えば自動的に救護センターにも通知が届き、一番付近の救護ロボットが駆け付けるシステムが備わっている。既に食堂は警備ロボットに囲まれているので、走って彼らに伝えるのが一番早いだろう。

 

「ありがとう、それなら頼めるかな」

「は、はいっ!」

 

 先生がそう口にすると、嬉しそうに頷いたユズは小走りで食堂の外に配備されたロボットの元へと向かった。その背中を見送り、先生は開いていた番号入力画面を閉じる。

 

「――あの噂は本当だったのですね」

 

 そんな二人の会話を交わす姿を見つめながら、ハルナは呟く。その視線は先生の動きに合わせ揺れる衣服を捉えていた。しかし先生が振り向くより早く、ハルナはその視線を覆い隠す。アカリも見開いていた瞳を閉じ、いつも通りの不敵な笑顔の中に感情を押し込んだ。

 

「うぅ、取り敢えず悩んでいても仕方ないし、彼女達についてはゲヘナに連絡を入れて引き取ってもらわないと……あと今回の修繕費用については万魔殿に請求をしましょう」

「そうなると、費用が支払われるまでは第四食堂を封鎖ですかね?」

「片付けと点検だけは済ませておいて、そっちの費用は一時的にセミナー負担、点検の結果が分かり次第万魔殿から費用を回収、復旧作業に入るって形にすれば……これが一番負担が少ない、筈よ」

「分かりました」

 

 ユウカが一先ずの方針を定め、ノアが頷きながら手帳に記入を済ませる。そうして端末を取り出したユウカはこれらの惨状をどうにかすべく頭を回す。やるべき事は多岐に渡る、まずはこの騒動の収拾、第四食堂が爆破された旨を告知し周辺で食堂を利用していた生徒を他食堂に誘導する必要がある、文章や告知自体はノアが処理してくれる筈だが、その後の手配は自分の仕事だろう。

 

「取り敢えず安全確認の後瓦礫を撤去しないと、業者に連絡、あぁいやこれ位ならうちの生徒でも何とか――C&Cで此処の瓦礫の撤去(掃除)とか依頼出来たり……?」

「ざけんな、そういうのは他所に回しやがれ」

「はぁー……ですよね」

「お仕事が増えちゃいましたね、ユウカちゃん」

「全くよ、今日は終わり次第先生と一緒に街に繰り出そうと思っていたのに……!」

「ふふっ」

 

 地団駄を踏みながら呟くユウカを前に、取り繕う余裕もなくなったのかと笑みを零すノア。そうこうしている間に、先生がふと声を掛けた。

 

「ゲヘナには、私の方から連絡を入れておくね」

「えっ、良いんですか先生?」

「流石に放って置く事も出来ないし、今回はハルナ達も抵抗しなかったから、ちょっとだけ口添えも兼ねて――風紀委員会の生徒達が自治区に入る事になるけれど、大丈夫かな?」

「そちらに関してはセミナー名義で許可を出しておきます、彼女達を此方で勾留しておく理由もありませんから」

「ありがとうノア、ゲヘナとの間には私が入るから、ごめんね色々と」

「い、いえっ! 先生が謝る事では……っ!」

 

 告げ、頭を下げる先生にユウカはぶんぶんと首を振る。今回の件に関しては完全に先生は巻き込まれた側だ。こんな事で頭を下げられても困ってしまう。そんな感情を滲ませるユウカに、先生は尚更申し訳ない感情を抱いた。

 その後、幾つか今後のやり取りを経て先生はゲヘナ――正確に云えば犯人の受け渡しという事で風紀委員会に連絡を入れる事にした。連絡用の小型端末を取り出し、一覧の中から風紀委員会の項目を探し出す。そうして並んだ名前を見つめながら暫し逡巡した先生は、そのトップに表示されていたヒナの名前をタップした。

 

 以前、「何かあったら風紀委員会の中でもまず、私に連絡して」という言葉をヒナから受け取った事を思い出したのだ。他の生徒であっても彼女に情報は伝達するだろうが、どうせならば彼女の言に従っておいた方が良い。

 

 因みに使用している端末は、シッテムの箱の消費バッテリーを僅かでも抑える為に用意した通話用端末である。以前はシッテムの箱が充電切れになった場合を考え、別の端末を用いる事も一考していたが結局後回しにしたままだった。一元管理の利便性に抗えなかったのである。

 しかし、シッテムの箱がシステムダウン(充電切れ)になった場合、これからは冗談でも何でもなく自身の破滅が約束される。ほんの僅か、一分、二分の残量が生死を分けるかもしれない。それを思うと、こういった手間も苦にはならない。無論、シッテムの箱自体にも通話アプリの類は残してあるので、小型端末が破損しても通信手段が無くなる事は無い。

 

 端末を耳に添え、数歩生徒達から離れた場所に立った先生は耳を澄ませる。電子音のコールが始まり、恐らく今日も仕事に忙殺されているであろうヒナを想い溜息が零れ――そして二回目のコール音がなる寸前、聞き慣れた彼女の声が食い気味に発せられた。

 

『――どうしたの先生、何かあった?』

 

 まさかこんなに早く出るとは思わなくて、少しばかり面食らう。しかしそれを表に出す事無く、先生は口を開いた。

 

「あー、うん、まぁ、何かあったと云えばあったのだけれど、ごめんね急に、今大丈夫だった?」

『執務作業中だったけれど別に構わないわ、先生が連絡してきたって事は何か大事でしょう?』

「そうだね、大事かな? 実は……」

『今居る場所は?』

「えっ、場所? ミレニアムの第四食堂だけれど――」

『すぐ行く、待っていて』

 

 それだけ告げ、ブツリと音が途切れる。そして規則正しく鳴り響く電子音。先生はそれを耳にしながら呆然とした様子で端末を見つめ、思わず呟いた。

 

「……切れちゃった」

 

 ■

 

「先生、無事っ!?」

「は、早い……」

 

 そして連絡してから十分程後。救護ロボットに手当をされたアカリが包帯で釣られた腕を所在なさげに揺らし、イズミが空腹の限界で喚き、厨房から食料を漁って来ては先生の口に突っ込もうとするアリスを説得、渋る彼女に何度も頭を下げ乾パンをイズミに詰め込み一段落ついた頃――第四食堂の扉を蹴り開け、突入して来る人影がひとつ。

 響き渡る彼女の声に生徒達は振り向き、人影は外套の裾を靡かせながら食堂内部へと一気に踏み込む。その到着の速さに驚きを隠せず、ネル、ノア、ユウカと云った面々は思わず呟いた。

 

「すげぇな、もう到着したのか」

「まだ連絡から十分程度しか経過していませんが――」

「ミレニアムとゲヘナ自治区って、結構離れているわよね……?」

「マップ移動魔法を使ったのですか? 是非教えて欲しいです!」

「むぐむぐ――」

「あ、アリスちゃん、そんなに一杯詰め込んじゃ……み、ミドリからも云ってあげて……!」

「というか、これでパッケージ十個目なんだけれど……?」

 

 息を弾ませ、やや乱れた前髪を払うヒナ。彼女は肩に担いだままの愛銃を脇に挟み込み、周囲を鋭い視線で見渡す。見た限り、何かしらの爆発があった痕跡が散見される。特にあの、煤に塗れた厨房――此処で戦闘があったのか? 兎に角油断する事は出来ない、いつでも先生を庇えるような位置に移動しつつ強張った口調で問いかける。

 

「それで先生、一体何が――」

 

 そんな彼女の視界にふと、一つの塊として拘束されている一団が目に入った。

 

「ふふっ、お疲れ様です、ヒナ委員長」

「もごっ、んぐ、美味しいけれど量が少ないよ~!」

「ちょ、ちょっとイズミ、暴れないでよッ! 締め付け強くなるんだからッ!」

「うーん、やはりあそこで注文するべきはお寿司だったのかもしれませんね~」

 

 全く悪びれる事もなく、普段通りに振る舞う諸悪の根源――美食研究会。

 彼女達の姿を見た瞬間、ヒナの頭の中に稲妻が走った。此処はミレニアムの『第四食堂』、美食研究会と食堂、そして爆発の痕跡に粉々厨房、この組み合わせでピンと来ない筈がない。数秒程硬直した彼女は美食研究会の面々を見て、厨房を見て、周りの生徒の様子を伺い、そこから総合的な判断を下し――その表情をこれ以上ない程に歪めた。

 

「――……はぁーッ」

 

 ヒナは構えていた愛銃の銃口を床に下げ、それはもう重々しい溜息を絞り出す。まるで腹の底から失望し、肺に詰まった空気を全て吐き出すかのような長い長い溜息だった。先生はそんなヒナの様子に、大変申し訳なさそうな表情で声を掛ける。

 

「えっと、その、実はね……?」

「良い、大丈夫、大体理解したから……どうせ提供された食事が納得いかないとか何とか云って此処を爆破したのでしょう」

「まぁ、大体そうだな」

 

 壁際で腕を組み、寄り掛っていたネルが辟易とした様子で頷く。暫くすると食堂の出入り口から次々とゲヘナ風紀委員会の生徒達が雪崩れ込み、周囲の被害と拘束された美食研究会の面々を見て、何処か察した様な表情を浮かべていた。恐らく彼女達にとっては日常茶飯事なのだろう――それこそ自治区問わず駆り出されるその苦労を想い、先生は少しだけ涙が出そうになった。

 

「……先生、怪我はなかった?」

「うん、爆発に巻き込まれたりはしていないよ」

「そう、良かった」

 

 ヒナは先生の姿をじっと見つめながら問いかけ、その言葉に嘘がない事を確かめると今しがた到着した風紀委員会の面々に指示を出す。彼女達も手慣れたもので、既に指示を出される前から搬送の準備を整えていた。

 

「拘束したまま搬送する、手順通りに」

「はいっ!」

 

 そうして風紀委員会の生徒達に確保された美食研究会の面々は、何ら恥じるものはないとばかりに胸を張って連行されていくのであった。

 

「それでは先生、お手間をお掛けしました、またお時間がある時にでも一緒に御食事を――」

「えっ、あっ!? ちょ、ちょっとまって、せめてもう一品、折角ミレニアムまで来たのにぃ!」

「治療ありがとうございました、今度シャーレにお伺いしますね☆」

「あっ! その鞄の中には私の特製バーガーがっ……! お願いだから丁寧に扱ってぇ!」

 

 段々と遠くなっていく声、風紀委員会のメンバーは厳戒態勢を維持したまま食堂の外へと去って行く。その背中を見送った先生、そしてヒナは同じタイミングで吐息を漏らした。恐らく思う事は同じだろう――そしてヒナの懐から不意に電子音が鳴り響き、その小さな指先が携帯端末を取り出す。

 応答ボタンをタップすると、途端に向こう側から聞き慣れた声が響いて来た。

 

『ヒナ委員長っ! 今どちらに!?』

「……アコ」

『今直ぐ私も現地に飛びますのでっ、ちょ、ちょっとイオリ! 今私はヒナ委員長と話しているんですッ! そこの書類は後回しに――』

「対象は既に鎮圧済みだったから、今から戻る」

『えっ、あ、ちょ――』

「それじゃあ……」

「ヒナ」

 

 通話を切ろうと指先を伸ばしたヒナに、先生はそっと声を掛ける。ぴくりと眉を動かしたヒナは端末のマイク部分に手を翳し、それから問いかける様に先生へと視線を寄越した。

 

「少しだけ、時間良いかな?」

「……少し寄り道してから戻るから」

『今、先生の声がしましたよっ!? ヒナ委員長、まさか先生と逢瀬――』

 

 悩む素振りは無かった。

 即断即決、アコが何か噛み付いて来るような気配があった為、ヒナは即座に通話を閉じた。通話を切ってしまえば声は聞こえないし、アコはあれで仕事を放りだすような生徒ではないと彼女は知っている。自身が絡むと少しばかり暴走しがちだが――そこまで考え、ヒナは緩く首を振った。

 

「えっと、私から云っておいてなんだけれど、良いのヒナ?」

「ちょっと位は大丈夫、今日の分の書類、半分は終わらせてあるから」

 

 そう云って端末を懐に差し込んだヒナは、疲れの滲んだ表情の中に薄らと微笑みを浮かべ頷いた。

 

「取り敢えずミレニアム側の要求を万魔殿の連中に放り投げて来る……少しだけ、待っていて」

 


 

 ゲヘナ輸送機――内部にて。

 

「それで、収穫はありましたかハルナさん?」

「えぇ、いずれこの目で確かめる為、シャーレに伺うつもりでしたが……どうやらあの噂は正しかった様ですね」

 

「え、えっ? なに、何の話?」

「うぅ~……お腹空いた、お腹空いた、お腹空いた~!」

「あっ、ちょ、もう! 暴れないでよ! あれだけ乾パン食べさせて貰ってまだ足りないの!?」

「だってぇ~……」

「あぁもう、分かったわよ! ほらイズミ、鞄は取られちゃったけれど、私のポケットに飴が入っているから、これでも舐めてちょっと静かにしててっ!」

「えっ、良いの!? やったぁ、いただきま~……」

「ちょ、ちょっと待って! ポケットごと食べようとしないでよッ!? あぁもう、今出してあげるから……っ!」

 

「……調印式の際、トリニティで食べ歩きでもしていれば良かったですねぇ」

「過ぎた事を云っても仕方ありませんわ、過去を変える事は出来ない、私達美食家が見るべきは常に未来――そして私の、いえ、私達の美食探求の道に先生の存在は必要不可欠です」

「そうですね~、美味しいものが更に美味しく食べられるのなら、それに越したことはありませんから」

「えぇ、美食の為ならば手段を選ばない、『EAT or DIE』(食べるか、死ぬか)……このモットーが変わる事は決してありません」

「それなら――」

 

「はぁ、やっと大人しくなった――えっとそれで、二人して一体何の相談?」

「もごもご……」

「――ふふっ、これからの美食研究会(私達)、その在り方についてですわ」

「在り方ぁ? そんなの今更変える必要あるの? 美味しいもの食べる為に頑張る! 頑張って働いて手に入るならそうやって手に入れて、お金じゃ手に入らないなら邪魔なもの全部蹴散らして食べる! ……違うの?」

 

「……フフッ」

「いいえ、違いませんわ、ジュンコさん」

 

「んむ、バリボリ……んぐ、良く分かんないけれど、美味しいもの一杯食べられるのなら何でも良いよ! あ、美味しくない悪い店をやっつけるのでもオッケー! あと飴お代わり!」

「何でちゃんと舐めないのよ!? もっと味わって食べてよねっ!」

「えぇ、だってぇー……」

 

「……そうですね、何者かが真なる美食に至る道を邪魔するというのであれば、その障害を取り除くのも必要な事でしょう、ねぇアカリさん?」

「フフッ、分かりました、では……」

 

「次は、ほんの少しだけ――グロテスクにやりましょうか」

 



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強くなりたい。

誤字脱字報告に感謝を捧げますわ!
まぁ一日空いたので察している方もいらっしゃると思いますが、今回約18,000字ですわよ! 
クソなげぇですわ~!


 

「ごめんね、態々シャーレまで来て貰っちゃって」

「別に、近い内に顔は出そうと思っていたから、丁度良かった」

 

 シャーレ本棟――執務室。

 ヒナを連れて帰還した先生は、そんな事を口にしながら彼女を執務室の中へと招き入れる。ユウカやネルと云った面々が同行していないのは、ユウカ達は騒動の事後処理の為、ネルに関してはヒナが同行する為護衛を断り、そのままミレニアム自治区内で別れた。ネルには多少渋られはしたが、ユウカ達の方を手伝ってあげて欲しいと云うと不承不承ながら受け入れてくれた。

 まさか仕事を済ませる為に外出し、仕事を増やして帰って来るとは――我ながら難儀なものだと内心で思う。

 

「ちょっと座っていて、仕事のチェックだけ済ませるから」

「……うん」

 

 そう云って朝出掛けた時のまま、綺麗に整頓されたデスクの上に鎮座するディスプレイの電源を入れる。スリープ状態であったPCはマウスを軽く動かすと画面を点灯させ、パスワードの入力を終えればデスクトップが開いた。そして表示されるアイコン、メールの右上に並ぶ数字に思わず顔を顰める。

 シッテムの箱を通じてメッセージの管理は行っているので分かってはいたが、また他学園からの通知が増えている。これは、今日も徹夜かもしれない――そんな疲労で透けて見える先生の背中を見つめながら、ヒナは部屋全体をそれとなく見渡した。

 シャーレには良く足を運んでいる、しかしふと見慣れない色が視界を過った。

 

「先生」

「ん?」

「その、これって――」

「あぁ」

 

 ヒナが指差したのは、机の角などに施された衝突防止用のコーナークッションだった。先生はそれらを見つめながら、恥ずかしそうに口を開く。

 

「情けない話だけれど、視界が悪くなってから何て事のない動作でぶつかったり、転んだりする事が多くなってね、レッドウィンターの工務部がやってくれたんだ」

 

 おかげで怪我をせずに済むよと、先生はそう朗らかに笑う。シャーレ内部には先生が良く出入りする部屋が数多く存在する、それらの部屋を安全に利用できるようにと、彼女達は背嚢を担いである日突然やって来たのだ。果たしてどこから情報を掴んだのか、全くの謎ではあったが厚意を無下には出来ない。先生はふたつ返事で頷くと、彼女達は即日の内に主だった部屋の階段、角と云う角にカバーを施した。万が一にも怪我をしない様にと、何ならぶつかり防止用のクッションも張り巡らせようかという話になり、流石にそれは断ったが大分過ごし易くなったのは事実だ。

 

 目の喪失というのは、想像以上に影響が大きい。単純に視界が半分になると意識出来ない領域が増える。それに加えて片腕分の重量が常に傾き、先生の重心は今常にズレているような状態だった。少なくともこの感覚に慣れるまでは必要な措置だった。

 

「まぁ、最初の内は見慣れないとは思うけれど――ごめんね、この目に慣れたら外しても問題ない筈だから」

「………」

 

 日常生活で生徒に不安を抱かせる現状に先生は情けない気持ちを抱く。滲む出るそれを嚙み殺しながらそう告げれば、ヒナは目線を下げたままじっと黙っていた。

 新しい仕事が溜まっている事を確認し、これからの予定を大まかに立てた先生は執務室に備え付けられた給湯器の元へと歩き、背後のヒナに問い掛ける。

 

「ヒナ、珈琲と紅茶ならどっちが――」

「良い、私が淹れるから、先生は座っていて」

 

 ふと、ヒナの手が先生の右腕を掴んだ。ぐっと、抗えない力で引っ張られた先生は蹈鞴を踏む。振り向くと、表情の伺えないヒナが小さくもはっきりと聞こえる声で云った。

 

「え、いや、でも――」

「良いから、私にやらせて」

 

 やや強い口調で断じられ、先生はそのまま椅子に押し込まれる。何かを口にする暇すらなかった。ヒナは給湯器を手に取り、中身を確かめる。先生は何かを口にしようとしたが、ヒナの背中をじっと見つめる内に言葉を呑み込み、そのまま大人しく椅子に背を預けた。

 ヒナは湯を沸かす傍ら、並べられたティーパックの類を吟味する。そして以前より品揃えが増えている事に気付いた。良く見れば種類別に整理整頓もされているし、戸棚に仕舞われているカップの類も豊富だ。それらを眺めながらヒナはつい言葉を零す。

 

「……随分手が入っているのね」

「あー……多分C&Cの子達かな、有難い事に時々シャーレに来て色々と面倒を見てくれるんだ、後はトリニティの子なんかは紅茶が身近にあるからね、結構色々と差し入れで貰っちゃって……」

 

 そこに並ぶ紅茶の中にはトリニティで入院中、見舞いに来る生徒達から受け取ったものも混じっている。当たり前と云えば当たり前だが、トリニティで療養中に見舞いに来る生徒は大多数がトリニティ生であった。他学園からもちらほらと見舞いに来てくれた生徒は居たが、それでもゲヘナなどから態々足を運ぶ生徒は少ない。必然的に紅茶はその品数を増やし、結局病室で飲み切れない分はシャーレで保管する流れとなった。

 そんな事情を話せばヒナは肩を竦めながら、「そう」とだけ呟き、沸いた湯を静かにカップへと注ぐ。どうせこれだけ数があるのなら、紅茶を先に消費するべきだろう――そんな思考と共にパックを一つ手に取ったヒナは、その外装を剥がしながら安堵の息を吐いた。

 

「――少しだけ安心した」

「えっと……?」

「先生が、色んな生徒に守られているんだって分かったから」

 

 その言葉はヒナの本心だった。それは今回の騒動でもそうだし、こう云った身の回りの部分でもそうだ。先生は様々な生徒に想われ、守られている。少なくともその数は決して少なくない。

 

「そうだね、私は色んな生徒に助けられているよ、私ひとりで出来る事なんてほんの一握りなんだ」

「そういう事じゃなくて、私は……」

 

 かちゃりと、ソーサーがカップとぶつかり音を立てた。

 

 ――私は、ちゃんと先生を守ってあげられなかったから。

 

 ヒナは、口に出そうになったそれを呑み込む。

 それは彼女なりの懺悔、後悔の顕れ。けれどそれを口にする事に意味など無い、だって口に出してしまえば、まるで慰められるのを待っているみたいではないかと。だからヒナはその感情を、後悔を、一生引き摺って、この胸に秘めて生きていくのだ。秘めたまま先生の傍を歩いて行くのだ。それが彼女の選んだ道だった。それが彼女の選んだ償い方だった。

 それが彼女の信念だった。

 

「ヒナ?」

「……ううん、ごめんなさい、何でもない」

 

 動きを止めたヒナを訝しみ、声を掛ける先生。それに首を軽く振りながら、ヒナは今しがた出来上がった二つの紅茶を手に振り向く。

 

「――それで、先生からの話って?」

 

 カップを丁寧にテーブルへと置く。先生は差し出されたカップに指を掛け、ありがとうと告げひとくち。ヒナも先生の対面に座り、自身のカップに口を付けた。味は――悪くない、流石紅茶に拘るトリニティと云った所か。ヒナは不出来なものを先生に出さずに済んだと胸を撫でおろす。

 

「最近どうかなって、風紀委員会の仕事とか、学校生活とか」

「……別に、いつも通りよ」

「何かまた、ストレスを溜めたりしていない?」

 

 その言葉に、ヒナは自身の肩が跳ねるのを自覚した。それがいつかの醜態を晒した時の事を指しているのだと気付いたのだ。ヒナは僅かに頬を染めると、カップで口元を隠しながら声を漏らす。

 

「その……あの事なら忘れて、引退も、ただ少し弱音を吐きたくなっただけだから」

「分かった、ヒナがそう云うなら、でもまた何かあったら云って欲しい、私だってヒナの力になりたいからね」

「……ありがとう」

 

 ほぅ、と息を吐き出す。流石に、あの時自分がどれだけ酷い醜態を晒したのかは自覚している。だからこそ先生には忘れて欲しい――忘れて欲しいが、きっとこの人が忘れる事はないだろう。そんな予感がヒナにはあった。

 

「それで、私に聞きたい事ってそれだけ?」

「まぁ、ヒナの様子が聞きたかったというのが一番だから、それだけと云えばそれだけなのだけれど……その、セナの事も少し、相談したくてね」

「あぁ」

 

 先生が気まずそうに視線を逸らしながらそう云えば、ヒナは納得の声を上げる。

 

「そうね、あの子はまだ――」

「うん、どうにも避けられているみたいで」

 

 首を振って溜息を零す先生。ヒナは脳裏に最近のセナを描きながら紅茶を啜る。

 あの事件以降、どうやらセナは先生との接触を断っているらしい。最近は救急医学部の方で仕事に没頭していると聞いていたが――きっとそれが、あの子なりの逃避の仕方なのだろう。或いはただ、罪悪感に突き動かされているだけか。

 

「避けている……というより合わせる顔がないと思っているのでしょう、私もきっと同じ状況なら似たような事を思うだろうから気持ちは分かる」

「……ゲヘナの方は大分落ち着いて来たと聞いたけれど、ヒナの目から見てどうかな?」

「えぇ、負傷者も続々と退院しているし救急医学部の方も前と比べれば随分楽になったと思う、前は死んだような顔で働いていた部員も多かったし、先生と会う時間位は確保できると思うわ」

「そっか」

 

 それなら、少し強引にでも逢いに行くべきか――少なくともこのまま何もせずに、という事だけはない。

 腕を組み、難し気な表情を浮かべながら先生は唸る。

 

「それなら、私から動くべきだろうね」

「先生、ゲヘナに来るの?」

「うん、近い内にセナに会いに行ってくるよ、それに心配を掛けた子も多いから顔を見せに行かないと」

「……そうね」

 

 先生の言葉に頷くヒナ。

 あの事件以降、先生と会いたいと口にする生徒は多い。流石に全員が全員シャーレに雪崩れ込んだ場合その機能がパンクしかねない。その辺りは学生一人一人の自重が重要となって来るが、残念ながらキヴォトスに於いてそのハードルは非常に高い。実際は先生側から告知を出し、出入りを制限しているのが現実だった。

 

「ゲヘナに来たら是非風紀委員会に寄って行って、アコやチナツ、イオリも何だかんだ心配していたから」

「うん、約束するよ」

 

 言質を取り、ヒナは小さく拳を握り締める。空になったカップをソーサーに戻すと、彼女は軽く髪を払いながら立ち上がった。

 

「――御馳走様、そろそろ行くわ」

「もうかい?」

「えぇ、ゲヘナが落ち着いて来たのは事実だけれど、普段からあの学園は騒動が絶えないから」

 

 そう云ってヒナは壁に立て掛けていた愛銃に手を掛ける。行きは無理を通して来たが、本来であれば自治区間の移動にはそれなりに時間が掛かる。余り遅くなると徹夜になりかねない。

 名残惜しいがこの辺りで退散するのがベスト――ヒナの理性はそう判断していた。

 

「ヒナ」

 

 不意に名前を呼ばれる。振り向くと、小さく手を広げた先生が佇んでいた。ヒナは自身の鼓動が高鳴るのを自覚し、素早く周囲を見渡す。誰の目がない事、窓から誰も覗いていない事を入念に確認し、愛銃に掛けていた手を放すと彼女は迷いなく先生の胸元へと飛び込んだ。

 ふわりと自身を抱き締める暖かな温もり。こればかりは最高のストレス軽減方法だと云わざるを得ない。この体が、どれだけ冷たくなったかを知っているからこそ――ヒナはその暖かさに心底安堵するのだ。

 ヒナは先生の胸元に顔を埋めたまま、絞り出した様な声で告げる。

 

「……先生、私、頑張るから」

「ヒナはもう十分頑張っているさ」

「ううん、もっと――もっと、頑張らないと」

 

 強さが足りないと思った事は無かった。

 けれど、今回の一件でヒナは自身の弱さを痛感した。

 強く、もっと強くならなければならない。

 もっと、強くなければ。

 そうでなければ――先生を守れない。

 

 唇を噛み、目を瞑るヒナは心の中で呟く。そして最後に大きく息を吸い込むと、先生の香りを肺一杯に詰め込み、先生の背中に回した腕をそっと離した。意図を察した先生が抱きしめていたヒナの身体を優しく開放し、ヒナは肩をゆっくりと落とす。

 

「――うん、ありがとう先生、少し元気が出た」

「なら良かった」

 

 微笑み、ヒナの頬を優しく撫でる先生。ヒナはその一本だけになった大きく暖かな手に頬を擦り、息を吐き出す。暫く余韻に浸っていた彼女は徐に壁際の愛銃を担ぎ上げると――いつも通りの凛とした表情を浮かべ云った。

 

「また来るね、先生」

 

 そう云って去って行く彼女の背中に向けて、先生は手を振る。ヒナはシャーレの長い廊下を歩き、時折名残惜し気に振り返りながら――軈てその背中は廊下の角に遮られ見えなくなった。

 ヒナを見送った先生は小さく息を零し、口を結ぶ。少しだけ、腹に活力が戻った様な気がした。

 

「……良しっ!」

 

 片手だけで頬を張り、気合を入れる。仕事は山の様に残っている、恐らく今日も徹夜作業になるだろう。

 しかし、負けてはいられない。

 

「私も――頑張らないとね」

 

 だって、他ならぬ生徒達が頑張っているのだから。

 

 ■

 

「――進捗はどうですかチーちゃん」

 

 ミレニアム自治区、ヴェリタス・メインルーム。

 幾つもの機器とモニタ、筐体に囲まれたその部屋は常に冷房が稼働しており肌寒い。モニタの前に座ってキーボードを叩いていたチヒロは、ふと掛けられた声に振り向き驚いた様に目を見開いた。

 

「ヒマリ」

「此処は相変わらず肌寒いですね……ふふっ、少し気になったので来てしまいました」

 

 視界に入ったのは、車椅子に膝掛けをした儚げな少女。しかしその印象をそのまま伝えれば本人が非常に面倒な態度を取る事を知っているので、死んでもそれを言葉にする事はしない。彼女――ヒマリは駆動音を鳴らしながらチヒロの直ぐ傍まで寄って来る。チヒロは脇に避けていた缶珈琲を手に取り軽く呷った後、モニタを睨みつける様にしながら云った。

 

「……駄目だね、それらしい情報は彼方此方に散乱しているけれど確かなものは一つもなかった、各学園もそうだし、連邦生徒会もカタコンベについての情報は殆ど持っていないみたい――少なくとも私が調べられた範囲では」

「そうですか、ある程度出所の限られる情報だとは思っていましたが……」

 

 チヒロの言葉に落胆の色ひとつ見せる事無く、彼女は頬を指先で撫でつけながら呟く。

 

「謎の多いトリニティのカタコンベ、いつか解析し解き明かしたいとは思っておりました……しかし、此処まで頑なに秘匿されているとは」

「水は罅割れを見つける――って訳じゃないけれど、情報を制限しようとしても必ずどこかで漏れ出る筈、それが此処まで完璧に秘匿されているのなら、それは……」

「情報源であるアリウスの生徒が頑なに口を閉ざしているのでしょう、或いはキヴォトス全域に手を伸ばせる程の勢力なのか、だとしても此処まで来ると最早統制というより洗脳という方が正しい気がしますね――アリウス自治区、非常に興味深い存在です」

 

 薄らと笑みを浮かべながら告げるヒマリに、チヒロは吐息を零す。決して笑える状況ではないが彼女のこの不敵な態度はこういう場面だからこそ心強くもあった。

 それが鼻に付くという生徒も多いが――例え真正面からその様な言葉を叩きつけられても、彼女は決して変わるまい。その確信がある。

 

「この時代に何をと思うかもしれないけれど、私達が入手できる情報は電子媒体のものに限る、それこそ先祖代々紙媒体や口頭で伝えられてきた情報に関してまでは手が伸びない」

「えぇ、勿論です、そちらの分野についてはトリニティの方が寧ろ詳しいでしょう、あちらには古書を専門に扱う部活動も存在していた筈ですから、データベースにも存在しない情報が眠っているかもしれません」

「……必要なら、そっちに協力を要請した方が良いんじゃないの?」

「難しいですね、古書となると扱いもそれなりですから、他学園の生徒においそれと閲覧許可を出して頂けるかどうか」

 

 顎先を指で撫でつけ、そう零すヒマリ。古書というのは中身の記載に関してもそうだが、その書籍自体を希少な存在として扱っている。それもカタコンベに関して言及している書籍となれば百年、それ以上前の代物であったとしてもおかしくはない。トリニティ側もおいそれとそんな代物を貸出、乃至閲覧許可を出すとは考え辛かった。

 ましてやミレニアムの非公認部活として悪名高いヴェリタスならば尚更。

 

 或いは――此方の事情を明かし、協力を求める事をすれば道が開ける可能性もあるが。しかし、その協力体制が整うまでどれ程の時間が必要か。それを思い僅かに目を細めた時、チヒロが伸びをしながら声を零した。

 

「……こういう時、シャーレの肩書がどれだけ有難かったのか実感するよ、契約を取る時もそうだし、他校の協力を引き出す時もそう、名前で勝てる様になったら楽――何て言葉もあるけれど、先生は正にそんな感じ」

「……ふふっ、考える事は同じですか、独立連邦捜査部シャーレの評判は既に広く知れ渡っていますからね」

 

 そう、ヒマリも今チヒロが口にした内容と同じ事を考えていた。

 この問題は、両者の間に先生が介在していれば簡単に解決する問題だと。

 トリニティとミレニアムの間に先生が立ち、互いに事情を話せば古書だろうが何だろうがトリニティ側は最大限の協力を約束してくれるだろう。その確信がヒマリにはあった。

 

 しかし、残念ながら先生に協力を仰ぐ事は出来ない。この問題に自分達が関与しようとしている事を彼に知られてはならない。

 先生は生徒がこれらの騒動に巻き込まれる事を、決して良しとしないだろう。

 故にもし実行するとしても、協力は秘密裏に行わなければならなかった。

 ふと、振り返ったチヒロは疲労を滲ませながら言葉を紡ぐ。

 

「というより、この手の情報収集ならヒマリがやっても良かったんじゃない?」

「私には私で為すべき事があったので、此方も多忙なのです」

「多忙って、具体的には」

「――主に調印式に撃ち込まれた弾頭の解析など」

 

 その一言に、チヒロの表情が強張るのが分かった。音を立てて背筋を正した彼女は椅子を回転させヒマリと向き直る。纏う雰囲気は寒々しく、その瞳には真剣な色が灯っていた。

 

「……残骸を入手出来たの?」

「えぇ、件の飛翔体、と云っても飛び散った破片を少々ですが」

「現場は既に封鎖されているのに、良く入手出来たね」

「当時現場に居合わせた不良生徒達が散乱した破片を複数回収し、ブラックマーケットに流したものを全て購入しました、少々高く付きましたが想定の範囲内です、幸い予算はあの女のポケットマネーから出ていますし、私個人に支給はされずとも部活動としての研究ですからね、使わねば損というものでしょう……ふふっ」

「……随分危ない橋を渡った様に聞こえるけれど」

「この程度のリスクは必要経費です」

 

 髪を指先で払い、ふふんと鼻を鳴らしたヒマリは自信を持ってそう告げる。ブラックマーケットだろうが何だろうが、この超天才清楚系病弱美少女ハッカーに掛かれば手に入らないものなどない。電子上でやり取りを行い、実際に取引現場へと出向いたのはエイミではあるが、資金の準備から交渉の段取りまで全て整えたのは自分なのでこれは自身の功績と云って良いだろう。

 鼻高々なヒマリを前に何とも云えない表情を浮かべるチヒロは、その頬を掻きながら淡々と問いかける。

 

「はぁ……それで、肝心の結果はどうだったの?」

「そうですね、これを認めるのは大変業腹なのですが――『分からない』という事が分かりました」

 

 視線を流し、チヒロを見つめるヒマリはやや不満げな声で以て告げる。ぴくりと、チヒロはその瞼を震わせた。全知の学位を持つと公言して憚らないヒマリが分からないとは――無論、彼女とて完璧超人と云う訳ではない、疲労すれば計算ミスだってするし、この世全ての知識を修めている訳でもない。しかし、その知識量が膨大である事は変わりなく、そして彼女の情報精査能力に関しても信頼している。

 その彼女がそう口にするとすれば、それは。

 

「全体から見れば所詮は破片に過ぎませんから、断言する事は出来ません、しかし解析された材質の内凡そ九割は未知の物質で構成されていました、いえ、正確に云うのであれば酷似した素材は存在しているのです、鉛合金、ステンレス鋼、アルミ、硝子繊維……しかし」

「――既存の数値と合わない?」

「えぇ」

 

 チヒロの言葉に頷いた彼女は、腕を軽く組んだま指を立て言葉を紡ぐ。

 

「新素材開発部の設備をお借りして出た結論は限りなくそれらの物質に近い性質、数値を持っている筈なのに、明確に異なる結果を持つという事です、さらに云えば破片から推測される全体構造、動作原理、推進体、設計に至るまで全てが解析不能……正に、『オーパーツ』と表現すべき代物でしょう」

「そこまでのもの、か」

「勿論、分からないままにしておくつもり等ありません、しかしこれ以上の分析には相応の時間が必要であると結論が出ています」

「今は後回し、って事ね」

「えぇ、そういう事です」

 

 オーパーツ――その言葉はチヒロに暗い影を落とす。ましてやそれを用いたのが嘗て歴史の闇の中に沈んで行った学園の一つともなれば、穏やかではいられない。

 ミレニアムサイエンススクールはキヴォトスに於いて『最先端』、『最新鋭』と呼ばれる多くの開発を行ってきた。事科学技術という分野に於いてこの学園に勝る場所は何処にもないと自負する程に。千年難題と呼ばれる現技術では解答不能な七つの難題に立ち向かう研究者たちが興したこの学園は、今尚進化を続けている――しかし、そんな自分達が科学や技術で証明出来ない代物があると云う。

 そしてそれは大抵、【神秘】や【恐怖】と呼ばれるものだ。ヒマリやチヒロは、オーパーツやロストテクノロジーと呼ばれるものには『科学』や『技術』を超えた、自分達の見出す事が出来ていない【何か】が含まれている事に薄々気付いていた。しかし、認識できないものを研究する事は出来ない。その領域に、ミレニアムは未だ至っていない。

 

「これはまだ推測に過ぎませんが、この件には【特異現象】が絡んでいると私は睨んでいます、そうでなくともそれに比肩し得る――何か大きなものが潜んでいると」

「特異現象……それって例の、デカグラマトンだっけ」

「そうです、聖なる十文字――神性を探し出す人工知能、自らを絶対的存在と嘯く誇大妄想に囚われた知性」

 

 ヒマリは嘗て対峙した存在を脳裏に描き、唇を湿らせる。特異現象捜査部として調査を行い、漸く見つけ出した人工人格、正確に云えば呼び出されたと表現出来るが――彼との接触により感化され、預言者へと変貌した幾多もの人格モジュール(人工知能)。ミレニアムの超高性能演算機関である「ハブ」を僅か0.00000031秒で突破したホドを始めとする、十の預言者達。その内、特異現象捜査部として接触したものは四つ。

 

 第一セフィラ・ケテル ――【最も煌びやかに輝く至高の王冠】

 第三セフィラ・ビナー ――【違いを痛感する静寂の理解者】(理解を通じた結合)

 第四セフィラ・ケセド ――【慈悲深き苦痛を持って断罪する裁定者】(権力を通じて動作する慈悲)

 第八セフィラ・ホド  ――【輝きに証明されし栄光】(名誉を通じた完成)

 

 未だ見ぬ五つの預言者、そして――。

 

「全ての預言者を導く最後のひとつ、『マルクト』――彼の者の予言した存在が、或いはこの出来事の裏に潜んでいてもおかしくはない」

 

 呟き、ヒマリは思考を巡らせる。彼らの存在もまた、ミレニアムの解析できない代物の一つである。デカグラマトンの語った天路歴程、彼の者の神性を証明する過程――セフィラ。

 

 ――もしくは、あの報告書に記載されていた【ゲマトリア】と呼称される存在か。

 

 ヒマリは口内で呟き、目を閉じる。どちらにせよ双方共に実在すら確認出来ない代物である。推察する事は出来ても、断言する事は出来ない。

 

「無論、それだけで彼の存在が絡んでいると考えるのは早計でしょう、ですがこの件には私達のまだ知らない、『特異な存在』が潜んでいる事は確かです、組織か、個人か、人か機械か、それはまだ不明ですが……彼らは明確に、【先生】に対して強い感情を抱いています」

「その根拠を聞いても良い? ヒマリがそう云うのなら、弾頭に関してだけが理由じゃないんでしょう」

「えぇ、勿論です」

 

 理解出来ないモノ(オーパーツのミサイル)を使うのなら、理解出来ない存在(超技術を扱える誰か)が潜んでいる。その結論は実に短絡的であると云える。しかし、ヒマリにはそう考えるに足る根拠が存在していた。

 

「アビドス事件、トリニティ襲撃事件、そして今回の調印式襲撃事件――」

「……全部、先生が巻き込まれた事件だね」

「そうです、現場には必ず先生が居合わせています、そして後者になるにつれ先生は身体的な負傷度合いが増加する傾向にありました」

 

 ヒマリの言葉に、チヒロはゆっくりとした動作で頷いて見せる。件のアビドス事件では弾丸による負傷、一ヶ月以上前に起きたトリニティ内部でのクーデター事件では爆発に巻き込まれ重傷。そして今回、調印式襲撃事件に至っては致命傷を受け、身体の欠損にまで至った。

 

「今回の一件で、先生は心肺停止に陥ったと聞いたけれど――」

「あら、それは公開された情報ではなかった筈ですが」

「……悪いとは思ったけれど、トリニティの救護騎士団のデータベースに潜らせて貰った」

 

 そう、苦々しい表情でこぼすチヒロにヒマリは薄らと微笑を浮かべる。

 

「そうですか、常日頃正しいハッカー倫理を説くチーちゃんらしからぬ行いですね」

「茶化さないで、ヒマリ」

「ふふっ、ですが気持ちは分かります――公開された情報ではありませんが、私も同じような情報(もの)を入手していますので」

「……なら、やっぱり」

「えぇ、寧ろ息を吹き返したのが奇跡という状態だったと」

 

 先生の負傷、及び欠損に関しては既に広く知られている事実である。欠損に関しては公的な報道こそされていないものの、人の口に戸は立てられない。人から人へ、現実での噂、ネットワーク問わず彼は常に話題にされている。彼の負傷について悲しみ、憤る生徒は多い。しかし実際にどれ程の奇跡が重なって彼が命を繋いだのかを知る生徒はごく一部だった。

 先生が襲撃でどれ程危険な状態であったかを知る者は少ない。

 

「――何者かが、確かな害意を持って先生を殺害しようとしている、組織か群体ならばその一部、若しくは全体が先生に対し何らかの異常な執着を持っているのです、これまでの行動からそう考えるのは自然な事でしょう」

「……でも、偶然という可能性だってある、行動だけを根拠にするには弱い」

「えぇ、ですから――此方をご覧下さい」

 

 ヒマリが虚空に手を翳し、車椅子に搭載されていたホログラム機能を起動する。虚空に投影された複数の写真――そこに写る幾つかの人影を認め、チヒロは疑問の声を上げる。

 

「これは?」

「一枚目はアビドス事件の最中、辛うじて動作していた防犯カメラの映像を切り抜いたものです、どういう事か当時先生を中心とした一キロ圏内のカメラは全て動作を停止し、記録も残っていませんでしたが――遠方のカメラは一部、生きていましたので其処からデータを抽出しました、アビドスは人も少なく生きているカメラの類も僅かでしたので、これの入手には大変苦労したんですよ?」

「……これって、狙撃手?」

「えぇ、かなり不明瞭ではありますが、彼女は『アリウス』に所属する生徒のひとりです」

 

 アリウス――その名前に、チヒロの纏う空気が揺らぐのが分かった。

 写真の中に写っているのは寂れた屋上で大型の狙撃銃らしきものを構える生徒の姿。隣接する屋上の防犯カメラによるものなのか、映像は荒く輪郭もぼやけている。給水塔の下に潜り込んでいる為か、色合いも定かではない。しかし、顔は分からなくとも服装と背丈程度は認識出来た。

 

「そして二、三枚目はトリニティで起きたクーデター、その際撮影されたもの、四枚目以降は調印式襲撃時、一般生徒が撮影してSNSに掲載していたものを収集しました」

「………」

 

 続けて表示される写真。噴煙の中を駆ける、長髪の生徒。マズルフラッシュの中で辛うじて視認出来る複数の影。その中にはアビドスでの写真に写っていた生徒らしき姿も見える。睨みつける様な視線でそれらを眺めるチヒロは無意識の内に唇を指先で擦る。

 特に四枚目以降は一般生徒が撮影したものという事で、かなりの数が揃っていた。手ブレが酷く、辛うじて認識出来るという物も多かったが――それでも有力な情報に違いはない。

 

「そして、これらの情報を纏め割り出した、『アリウスに於いて作戦の中枢を担うメンバー』――それが彼女達です」

 

 最後に、ヒマリが指先で虚空をなぞればズラリと顔写真がチヒロの目前に並んだ。数は四、そのどれもが撮影された写真の中で見覚えのある格好と顔立ちをしている。

 眼鏡を指先で押し上げ、鋭い視線と共に――チヒロはアリウスの生徒を記憶に焼き付ける。

 

「彼女達はアリウス・スクワッド――アリウス分校の生徒会長が組織した、アリウスに於ける特殊部隊」

「アリウス・スクワッド……」

「えぇ、右から順にリーダーの錠前サオリ、秤アツコ、戒野ミサキ、槌永ヒヨリ、現スクワッドはこの四名で構成されています」

 

 ヒマリはそう説明し、写真を横合いにスライドさせる。本来であればアリウス・スクワッドは『五名』からなる部隊ではあるが――その一名は既に、トリニティ側の生徒として受け入れられている。その事に関し、ヒマリは敢えて触れずに捨て置く事にした。何しろ彼女の所属する『補習授業部』の担当顧問は先生、であれば口にするのは野暮というものだろう。

 チヒロは背凭れに身を預け軋ませると、詰まっていた息を吐き出し告げる。

 

「アリウスは、アビドスの時から裏に潜んでいた……って事で良いの?」

「これらの情報を見るに、少なくともアリウス自体が黒幕か、その黒幕と協力関係にあったという事は確かでしょう、アビドスでの一件にアリウスは噛んでいた、そしてトリニティ内部のクーデターに於いても彼女達が重要な役割を担った、そして今回の調印式に至っては主犯と目されています」

「………」

「アリウス分校が何故このような行動を取ったのか? この学園の歴史や成り立ちについて探ってはみましたが、到底先生と結びつく情報はありませんでした、トリニティやゲヘナに対して攻撃的な姿勢を見せるのは理解できます、クーデターの件や調印式の一件ならば、先生も『ただ巻き込まれた』と云い切る事も出来たでしょう――しかし、アビドスでの一件は違います、この件のみがおかしい、辻褄が合わないのです」

「……当時はまだ、シャーレの名前もそこまで知られていなかった、そしてアビドスで起きた事件に於いてトリニティやゲヘナと云った学園は表立って動いていない」

「そうです、ならばアビドス事件で彼女達が動く理由は何か? それを考えた時、私はアリウスの裏に隠れた何者かの『意志』に気付いたのです」

 

 成程と、チヒロは口の中で言葉を転がす。背を曲げ膝に凭れ掛かると、彼女は思考を巡らせる。確かにこれは、『何者かの意志』を感じざるを得ない。この場合はアリウスという学園そのものではなく、そのアリウスを使って先生を害そうとする『誰か』の意志だが――それは現在に近付けば近づく程、顕著であると云えた。

 

「なら、アリウスは……」

「はい、恐らくは黒幕にとっては駒――或いは尖兵でしょう、だからこそアリウスを探らなければならないのです、その裏で糸を引く黒幕を陽の下に引き摺り出す為に」

 

 ヒマリの言葉に、チヒロは思わず天を仰ぐ。考える事は多く、思考は茹るようだ。しかしはっきりした事もある、あやふやだった境界線が目に見える形になったような、そんな実感が腹に落ちて来た。

 

「理解した、アリウスを探る事が後ろに潜む連中を引き摺り出すのに一番早いって事も……前例を見るに物事の経過は確かに『そういう流れ』を感じさせる、そして今回先生が生きているのなら、三度事が起きたなら四度目も――って考えているんでしょう?」

「えぇ、この際私の考えが全くの的外れなものだったとしても、そうなる可能性は非常に高い、そしてこのまま順当に考えるのならば次は――」

「……先生の命に届き得る、か」

 

 声は低く、唸る様だった。最初は負傷、次に重傷、今回は致命傷を負った――回数を重ねるごとに目に見えぬ相手は、その牙を鋭く研ぎ澄ませている。ならば次は……そう考えるのも不自然な事ではない。

 

「そうならない為に備えるのも、この天才清楚系病弱美少女ハッカーの役目です」

「……相変わらずだね」

 

 胸元に手を当て、自身ありげに背筋を正す彼女を前にチヒロは苦笑を零す。しかし目標が明確になったのは確かだ。大きく首を回し、息を吐き出したチヒロは気持ちを改め問いかける。

 

「それで、一番重要なカタコンベに関する情報も、アリウス自治区の場所も、黒幕についても推察は出来ても断定は出来ない……この状況で次はどう動くの、部長?」

「そうですね――」

 

 チヒロの言葉にヒマリは頭上を仰ぎ、指先で頬を撫でる。その優秀な頭脳がどの様な結論を導く出すのか、チヒロは腕を組みながら次の言葉を待った。

 

「一番手っ取り早いのは、チーちゃんのバックドアを使う事ですが」

「………」

「ふふっ、冗談ですよ」

 

 茶目っ気を見せるヒマリに、思わず苦り切った表情を浮かべてしまう。

 バックドア――この場合はチヒロの持つ愛銃の事であった。そしてコレを使うという事はつまり、実力行使(アリウス生徒を捕まえて吐かせる)という事に他ならない。緊急時に躊躇う気はないが、その行動には聊か気乗りしない。

 

「手っ取り早いのは認めるけれど、余りそういうのは気が乗らないね」

「先生を傷付けた相手であってもですか?」

「……誰かを傷付けられたから、相手を傷付けても良い、そんな風に考えたらきっと、いつまでも恨み辛みが募るだけ」

「――あら」

 

 チヒロの言葉に、ヒマリは少しだけ驚いたような目をした。

 

「勿論赦す赦さないは別、その罪が知られていないのなら周知させる為に行動は起こすかもしれない、誰も知らない罪をそのままにしておくなんて事はしたくないから――でも罪があるから私刑に走っても良いなんて理由はない筈、それが取り返しのつかない事なら尚更、然るべき場所で報いを受けるべき、そうじゃなきゃ、涙を呑んだ人が報われない」

「……チーちゃんらしいですね」

 

 ――善人過ぎる程に善人。

 他者の痛みに共感し、思い遣る心を持つ少女。曲者揃いのヴェリタスの中で、唯一の常識人とされるのは嘘でも何でもない。善悪の区別を持ち、正しく知識を生かそうと意思を持つ事の何と難しい事か。なまじ能力が高いからこそ、出来る事が多いからこそ、そう云った境界線は曖昧になり易いと云うのに。ヒマリは感心した様に頷き、微笑みを零す。

 

「……でも、目の前にその存在が現れたら自制出来るかはちょっと、自信がないかな」

「その時はその時です、時には感情の赴くままに振る舞う事も、決して悪い事ではありませんよ?」

「やめて、そっち側に引っ張ろうとしないで……はぁ、何でうちの部はこうも――」

「ふふっ、ヴェリタスとは『そういう場所』ですから」

 

 くすくすと笑みを零すヒマリに、チヒロはこれ見よがしに溜息を吐き出す。卓上の缶珈琲を一息に呷ると、中身は既に空だった。温い僅かな水滴を舌で感じ取ったチヒロは、その顔を僅かに顰め缶をゴミ箱に放る。カコン、と音を立てて転がったそれは今日で五本目だった。

 

「一先ず、これ以上情報を収集しようとしても効果は薄いと判断しました、これから先は実際に動く必要があるでしょう」

「実際に動くって、まさか本当に――」

「暴力を振るうつもりはありません、新雪のように高潔で、清水の如く透き通る私がそのような手段に訴える筈がないでしょう?」

「………」

「何ですか、その目は?」

「……いや、何でもない」

 

 何か云いたげな瞳にヒマリが首を傾げれば、チヒロは視線を彼女から逸らす。

 軽く背を曲げて足元の小型冷蔵庫を開けると、中で冷えていた新しい缶を取り出しながら彼女は改めて問いかけた。

 

「実力行使もしないならどうするの? ネット上で探るのも限界なら、出来る事は……」

「ふふっ、勿論考えてあります」

 

 ――結局の所、背後に居るのが特異現象だろうが、ゲマトリアだろうが、やる事は変わらない。

 

「ミレニアムの清楚な高嶺の花であり、みなさんの憧れである全知の学位を持つ眉目秀麗な乙女である私に不可能などないのですから♪」

 


 

 あと二話位で本編突入ですわ~っ!

 幕間は平和な事しか書けないから、すっごくムズムズしますの。大体いっつも「は~、此処で先生爆散しねぇかしら~」って思いながら書いておりますわ。そういう時は心の中で先生をボコボコにした後に好きな生徒の前に放り投げると、心がスゥっとして染み渡りますわよ。多分一年前の私も同じような事云っていた気がしますわ。

 

 そう云えばヒナちゃんに紅茶を淹れさせるシーン書きながら思ったのですが、彼女って料理出来るんでしょうか? 珈琲とか紅茶とか淹れるのは執務の片手間にやっていそうだから出来る気がしますが、休日とか草臥れたOLみたいにコンビニでお弁当とか買ってきてもそもそ食べているイメージしかありませんわ~! というか食生活そのものが不透明というか、仕事中に食べれるからって理由でパッケージされたゼリー飲んでいたり、カロリーメイトみたいなの齧っていてもおかしくはない気がしますの。

 

 そんなヒナちゃんが仕事に忙殺されて死にかけの先生にお弁当を作るシチュエーションがあるとするじゃないですか。

 シャーレに向かったら今にも死にそうな先生が居て、「せ、先生、どうしたの……?」って聞いたら、「今日で五徹目なんだ」って余りにも透明感のある笑顔を浮かべて、慌てて休ませようとするも、「これだけ、これだけ……」って云ってデスクに齧りついて、そうこうしている内に先生のお腹が鳴って、「先生、お腹空いているの?」って聞くと、「冷蔵庫が空っぽでね、はは……」と恥ずかしそうに頬を掻くのだ。

 

 そんな事があった後、ヒナも仕事で結局ゲヘナに戻って来るのだけれど悶々としていて。仕事中も上の空でアコに「ヒナ委員長?」って訝し気にされて、結局その日の昼前に、「今日は早退する」って云って学園を後にするんだ。「ヒナ委員長が早退ッ!?」、「い、一体何が……!?」って風紀委員会の生徒達が愕然とするのだけれど、ヒナは自室に戻ってから先生にお弁当を作ってあげようと考える。

 食糧を買い込んで、いざ! と意気込んでみたのは良いものの、料理なんて普段から全くしないし、全く経験がないものだから不格好も不格好で。出来たものはレシピの中にある写真とは似ても似つかない代物。流石にこれはと思うけれど、これ以上はお昼を過ぎてしまうし、かなり迷いつつも不出来な弁当を綺麗な布で包んでシャーレへ向かう。

 紙袋に入れたそれを大事に大事に抱えて、恐る恐るシャーレに向かうとそこには。

 

 フウカの手料理を満面の笑みで食べる先生が居るのだ。

 

 食堂でテーブルに並べられた綺麗な料理の数々、自分とは手間も、腕前も、何もかも違って完璧な食事と云って良い。「お代わりは沢山ありますからね」と微笑み、スープをよそうフウカ。「うまい、うまい」と笑みを浮かべながら料理を口に運ぶ先生。

 そんな二人を見てヒナは食堂の扉から中を覗き込んだまま動く事が出来ず、けれど先生の笑顔だけはハッキリと脳裏に刻んで、そのまま静かに踵を返してシャーレを後にするのだ。

 

 先生が元気になってくれるのなら、それが一番。

 

 帰り道、そんな事を考えながら俯き歩くヒナ、けれど幾らそう自分に云い聞かせても先生のあの笑顔が脳裏にちらついて、自分の胸元に抱きしめた紙袋をくしゃりと強く締め付ける。

 あの笑顔を向けられるのが自分ではない事に、彼女は自分が思っていた以上にショックを受けていた。けれど仕方ない事なのだ、あの美味しそうな料理を前に、自分のこの不出来な弁当を差し出す気にはどうしてもなれなかった。

 

 力なく、透けた背中でとぼとぼと帰宅するヒナ。学園の傍まで戻って来ると、アコがどこか焦燥した様子で周囲を見渡している。そしてヒナを見つけると、かっと目を見開いて駆け寄って来る。そしてヒナの肩を掴むや否や、「委員長! 具合が悪いんじゃないんですか!?」、「もしかして、何処か怪我をしたのですか!?」、「或いは気疲れとか――」と言葉を捲し立て、面食らっているヒナを頭の天辺からつま先まで眺める。

 

 そしてふと、彼女の抱えた紙袋に気付くのだ。そしてそれを指差し、「委員長、これは……?」と問いかけると、ヒナは何とも云い難い表情を浮かべた後、どこか吹っ切れたような表情で、「アコにあげる」とそれを手渡す。

 アコが驚いたような表情で受け取り、紙袋とヒナを交互に見て、「あの、これは一体?」と問いかけると、ヒナは薄らと笑みを浮かべながら、「お弁当」と答えるのだ。「お、お弁当!? えっ、まさかヒナ委員長の手作りの……!?」、「一応、そう」そんなやり取りを経てアコは紙袋を宛ら家宝の如く抱え、業務も全て放り捨てて風紀委員会の休憩室に飛び込むのだ。

 

 部屋に鍵を掛け、誰にも邪魔されない事を確かめながら戦々恐々と紙袋から弁当を取り出す。清潔なランチクロス、素朴なお弁当箱、少し大き目な気がしたがそれもまた良し。ヒナ委員長の手作りお弁当――その響きはアコにとって、何物にも代えがたい素晴らしいものに聞こえた。

 溢れ出そうになる唾液を呑み込み、慎重に弁当の蓋に手を掛ける。その瞬間、ふと布の隙間から一枚の紙片が落ちて来る。それに気付いたアコは落ちた紙片を手に取ると、そこには『ちゃんと休んでね、先生』と丁寧な文字で書かれていた。

 

 その瞬間、アコは全てを悟る。何故ヒナが早退などと口にしたのか、何故あのように意気消沈した状態で帰って来たのか。まさか先生に弁当を突き返されたのかと考えた瞬間、ぶちんとアコの額から音が鳴る。お弁当に手を伸ばし、『しかし、要らないのなら私が貰っても良いのでは?』と悪魔が囁いて来るが、アコは血涙を流しながら歯を食い縛ってお弁当を紙袋に戻す。

 そして休憩室を飛び出し、「あ、アコちゃん、午後の業務は――」、「今日は早退しますッ!」、「エッ」みたいな会話をこなし廊下を疾走。そのままシャーレまで全力で走行し、食堂でお茶を飲みながら休憩している所にアコが突貫するのだ。

 

「シャオラッ!」みたいなノリで食堂に突貫してきたアコに、「えっ、何、何!?」と狼狽する先生。湯呑片手に狼狽する先生へとズンズン近寄るアコは、やや草臥れた紙袋を突き出す。皺はヒナが抱きしめた際に出来たものと、アコが惜し過ぎて抱き締めた為に出来たものだ。

 紙袋を突き出したまま、「これを食べて下さい、今直ぐにッ!」、「えっ、何、何で!?」、「良いからッ! 米粒ひとつ残す事は赦しませんよ!?」と凄まじい剣幕で叫び、先生はその気迫に逆らえずお弁当を恐る恐る受け取る。

 

 食事を済ませたばかりだったが、アコの般若も斯くやと云う表情には文句を口にする事も出来ず、お弁当を取り出す。そしてそれが市販のものではなく、手作りだと気付いた先生は、「もしかして、アコが作ってくれたの?」と少しだけ驚いたような顔をする。

 アコはどこか苦虫を嚙み潰したような、とても難しい表情をした後、「……良いから食べて下さいッ!」と一喝。慌てて箸を掴んで食べ始める先生、暫くしてアコが「どうですか」と問いかける。

 先生はお弁当を頬張りながら、「うん、凄く美味しいよ!」と満面の笑み。アコはふんと鼻を鳴らし、「当然です」と吐き捨てる。そしてちゃんと全部完食した事を確かめ、米粒ひとつ残っていなことを入念にチェックし、そのまま弁当箱を回収。「ごちそうさま、アコ」と告げる先生に対し、「……それは後日、ちゃんと本人に伝えて下さい」と口にしてシャーレを後にする。首を傾げる先生に対し、アコはとても悔しそうなぐぬぬ顔で退散。

 

 翌日、いつも通り風紀委員会へと顔を出したヒナに紙袋を差し出すアコ。それに気付き、「どうだった? その、不出来なお弁当だったでしょう?」と苦笑するヒナ。アコはそんな彼女を真っ直ぐ見て、こほんと咳払い。

 そして淡々とした様子で、「凄く美味しいよ! だそうです、まぁ当然の事だと思いますが」と告げる。その他人の感想染みた言葉に首を傾げるヒナに、「……次は、ご自分で渡せると良いですね」と微笑む。そしてその言葉に全てを悟ったヒナはカッ、と目を見開き顔を真っ赤に染め、そのまま視線を左右に揺らしながら恥ずかしそうにアコから空のお弁当を受け取るのだった。

 

 みたいな事がエデン条約調印式の前にあったと考えると非常に心躍りますわね~! 

 



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継ぎ接ぎ、補い、抗う

誤字脱字報告に感謝致しますわ!
今回一万二千三百字ですの! 一万字超えましたが三千字程度なら誤差ですわよ誤差。
二日に一回投稿するか、三日で二万字近く投稿しないと本編長すぎてエラい事になるんですわよ。


 

「――ん?」

 

 朝、シャーレの執務室にて。

 シャーレ内部に用意された私室から、いつも通りの制服姿で執務室に現れた先生。そんな彼の視界に、少々大きな白いボックスが目に入った。デスクの傍に寄せられたそれは丁度大人が抱えられる程の大きさで、穢れの無い白が窓から差し込む陽光を反射している。昨日の夜には無かったものだ、となると早朝誰かが運び入れたのか――ボックスに近寄った先生は周囲を軽く見渡し、足元のそれを注視する。

 

「これは、随分大きいな」

『先生、何か通販で買い物でも?』

「いや、憶えはないのだけれど――」

 

 タブレットから響くアロナの声に首を振り、疑問符を浮かべる。そうこうしていると不意に、着信が入った。シッテムの箱をデスクに置き、懐から通信用の端末を取り出す。すると画面には見覚えのある文字が躍っていた。

 

「――ウタハ?」

 

 時刻は早朝――エンジニア部の彼女が連絡を寄越す時間帯としては少々珍しい。不思議に思いながらも通信ボタンをタップすれば、画面にウタハの顔が浮かび上がる。

 

『やぁ先生、突然の連絡失礼するよ』

「それは構わないけれど、一体どうしたの? また何か問題でも起きて――」

『いや、そろそろ届いた頃だと思ってね』

 

 そう云ってふっと笑みを零すウタハ。その言葉に目を瞬かせた先生は、何かを悟ったように足元のボックスに視線を向ける。

 

「もしかして、大きな白いボックス?」

『そうだ、私達エンジニア部からの贈り物だよ――昨日の深夜に仕上がったんだ』

 

 昨日の深夜に仕上がった――その言葉に早朝一番で彼女がこれをシャーレに届く様手配したのだと分かった。どうやらかなり無理をしたらしい、ディスプレイ越しにも彼女の姿が草臥れているのが分かった。目元には隈が刻まれているし、髪も所々跳ねている。頬や額には油汚れらしい黒ずみも見え、何となく全身から倦怠感の様なものが滲み出ていた。

 

「それは有難いけれど、その、大丈夫かい? 凄く疲れている様に見えるけれど……」

『あぁ、何、先生から依頼を貰ってからずっと徹夜だったからね……ふふっ、流石に堪えた』

「――あの日から、今日まで?」

 

 その言葉に思わず視線が鋭くなる。ミレニアムに義手製作依頼を出したのは三日ほど前の話だ。あの日から今日までずっと作業していたとなると、かなりのデスマーチだっただろう。先生の声に肩を竦めたウタハは、軽く首を振りながら何でもない事の様に告げる。

 

『何、三徹程度はいつもの事さ、今日連絡を入れたのが私だけなのも、ヒビキとコトリの二人は死んだように眠っているからなんだ、流石に起こすのも忍びなくて……』

「いや、それはそうだよ、というかウタハも少し休んだ方が――」

『いいや、まだ休むことは出来ない、自分の仕事を見届けてからじゃないと』

 

 これは、マイスターとしての信念の様なものだ。

 その強い声に先生は思わず出そうになった言葉を呑み込んだ。少なくとも彼女は自身の創り上げるものに対して真摯に、信念を持って向き合っている。それを理解しているからこそ、彼女の無理を咎める事が出来なかった。押し黙った先生を前にウタハは苦笑を零すと、先生の足元を指差す様に手を揺らす。

 

『一先ずボックスを開けてくれ、きちんと先生の要望に沿っているか確認したい』

「……分かったよ」

 

 肩を落とし、ボックスの前に屈み込む先生。よく見ればボックスの表面にミレニアムのマークが印字されている。裏側だったので気付かなかったが確かに、この手の配色はミレニアムらしい。

 先生がボックスに手を伸ばすと不意に表面が発光し、四角いサークルが表示された。

 

『開封は認証式になっている、先生が手を翳せば勝手に開くよ』

「……箱一つ取ってもハイテクだね」

『どうせ作るなら恰好良く、美しく、ついでに実用性もあったら完璧だ』

「違いない」

 

 苦笑し、云われた通りに手を翳す。すると小さな光が先生の掌全体をスキャンし、数秒してボックスの割れ目から空気の抜ける様な音が響いた。ゆっくりと展開していくボックス、左右に開いた蓋が幾重にもスライドし、複雑な内部を晒していく。おっかなびっくり中を覗き込むと、中央に鎮座する義手の輪郭が目に入った。

 

「これは……」

 

 緩衝材に包まれ、ボックスの中央に鎮座するそれは傍から見ると人から切り落とした腕の様に見えた。想像以上に人間の手だ、それも先生が知っている自分自身のソレに酷似している。

 もしかして、以前の映像データから再現したのだろうか? もしそうだとすれば凄まじい技術だと先生は内心で舌を巻く。

 

「凄いね、まるで本当の腕みたいだ」

『外装は人の皮膚に似せている、けれどそれは単純な視覚効果だけなんだ』

「と、云うと?」

『触ってみてくれ』

 

 ウタハに促されるまま先生は端末を肩と顎先で挟み、義手へと手を伸ばす。指先が肌色の義手にふれると――金属特有の冷たさと硬さを感じた。

 

「……冷たいね」

『そう、触ると冷たいし、硬い、加えて一定以上の衝撃や熱が加わると黒く変色して更に硬化する、表面のDCA(discolored armor)が衝撃を検知し、分子配列が変わるんだ、内部の――あぁ、いや、難しい話は抜きとして、非常用の機能だとでも思ってくれ』

「人の手に見えるのは、通常時かつ見た目だけって事か」

 

 触れれば冷たく、硬いそれ。手首の辺りを掴み持ち上げれば、ずっしりとした重量が腕に伝わって来る。当たり前だが人の腕一本分となるとそれなりの重さに感じられた。

 

『限りなく人の手に近しい形を取るか、それとも頑強さと機能を取るか、これに関しては私達の間でも意見が分かれたのだけれど、万が一の時に壊れて使い物になりませんじゃ後悔してもし切れない、今回は機能性を優先させて貰った、外装に関しては殆ど悪足掻きの様なものだ……すまないね、先生』

「いや、これで良いよ、十分だ」

 

 寧ろもっとメカメカしい見た目を想像していた分だけ、外装だけでも弄れるのは有難い。機能と外見の二択ならば、先生としても前者に比重を置くと云うのが本音だ。彼女も云った事だが、非常時にどうにもならないという事は避けたかった。

 

『人工皮膚じゃないから、その分頑丈さは保証する、ライフル弾が適正距離で着弾しても貫通を許さないよ、今回は予算が大量にあったからね、少々お高い素材もふんだんに使わせて貰った』

「その、DCAって奴も?」

『これは私達が独自に開発した宇宙船用の外装だ、値段を付けると大変な事になる』

「それは、それは……」

 

 その言葉に思わず背筋が凍る。エンジニア部の独自開発した外装など、一体どんな代物か。基本的に面白ければ何でも作る、何ならコールドスリープ装置やら宇宙戦艦を本気で作ろうとする面々である――尚コールドスリープ装置は現在もエンジニア部で高性能冷蔵庫として絶賛稼働中である――件の宇宙戦艦も予算不足でとん挫したらしいが、それ故に彼女達は妥協を許さない。その外装に関しても、かなりの額が費やされたに違いない。

 

『と云っても全部に全部、それを使う訳にもいかない、これは非常に希少な素材を使う上に製造・加工に時間が必要でね』

「そんな希少な素材を使って宇宙船を作ろうとしたのかい?」

『うん、だから試作品用の外装パーツを一部作っただけで予算が底を突いた、まだ底面部分だけだったのだけれど』

「……ユウカ、怒っていなかった?」

『正しく魔王という顔をしていたね』

「だろうね」

『まぁ、何時までも死蔵しておくのも忍びないし、文字通り渡りに船だったよ』

 

 何でもない事の様に笑うウタハだが、当時のユウカの心情を考えれば笑うに笑えない。多分、私が課金し過ぎた時の比ではない表情で、正に般若の如く怒り狂ったのだろうなぁと先生は他人事の様に思った。

 

『内部にはCMF(複合発泡金属)も使っているんだ、セラミックとアルミニウムの厚さを弄って層を形成したものを採用していて、その義手はX線、ガンマ線、中性子線の類を通さない、更に当然熱にも強い、鋼鉄製の素材を使用した義手の二倍近い温度まで耐えられる、衝撃吸収能力も十分だし、気温の変化にも強いよ』

「それはそれは、至れり尽くせりだね」

『求められるものをそのまま作るのでは面白くないからね、特に今回は強度に拘ったんだ、弾丸に関しては流石に表面に凹凸位は出来るだろうけれど数発程度ならば余裕で動く、本当なら大口径のものでも防御出来るようにしたかったんだけれど――そうすると、今度は重量の問題があって、元々どちらの素材も重量がネックだし、比較的薄めに仕込んでも嵩張る、常に身に着ける物なら重さは重要だ』

「確かに、私も余り重い義手を付けて動き回れる自信はないかな……」

『そうだろう? キヴォトスの生徒ならば十キロ程度の義手であっても軽々扱えるだろうが……先生は肉体強度が違う、だから設計には少し難儀した、そこがまた興味深かったのだけれど』

 

 そう云ってウタハは腕を組みながら頷いて見せる。先生とキヴォトスの生徒ではそもそもの身体能力が違う。単純な出力や重量そのものに関しても頭を悩ませたに違いない。そう思うと何とも申し訳ない感情が滲み出て来た。

 

『私達が設定した重量(リミット)は三キロ、人間が扱う義手としてはかなり重い方だけれど、勿論対策は講じてある――ヴェリタスの事は知っているだろう?』

「勿論、何度もお世話になっているから」

『彼女達にも今回の制作には協力して貰ったんだ、ハレが使用しているEMPドローン、あの球体が宙に浮いている技術を義手に組み込んだ』

「EMPドローン……」

 

 先生はウタハの言葉に件のドローンを脳裏に思い浮かべる。白い球体のドローンで攻撃時には対象を自動で追跡、空中から急接近しEMPパルスを浴びせる代物だ。確か内部には人工知能が搭載されており、自己学習も可能なモデルだったと記憶している。彼女はあのドローンにも名前を付けていた筈だが――確か、『アテナ』だったか。

 

『義手が使用者を探知し起動すると内部電力を消費して重力方向とは逆に本体を持ち上げようとする作用が働くんだ、尤も消費電力の都合上完全に打ち消せる程の出力は無いから完全な形での反重力とは呼べないけれど、それでも総重量三キロの内、二キロは軽減出来る、だから電力がある間の重量は実質一キロ程度だ』

「実質三分の一か、これは凄いな」

『ふふっ、きっと先生がそう云っていたと聞けばハレも喜ぶだろう……あぁ、充電用のポートは肘の辺りにあるよ、若しくはタブレットを持つだけでも電力は給電される、要望通りバッテリーも大容量の物を搭載してあるから全機能を使って連続稼働しても七十二時間(三日)はもつだろう、本当なら別の機能を仕込みたかったのだけれど』

 

 そこで言葉を区切り、ウタハはやや不満げな声色で告げた。

 

『良かったのかい? 最初の案にあった電磁防壁の件、多少バッテリーを使うけれどかなり有用な機能だというのに』

「……私を守る盾は、代わりに張ってくれる人が居るからね」

『ふむ……? それは、ユウカやコトリの事かい?』

「彼女達の事も頼りにしているけれど、そうじゃないんだ――いつも傍に居てくれる生徒がひとり、居るんだよ」

 

 先生の答えに首を傾げるウタハ。今の口ぶりだと先生は自前で防壁を張れると云っている様なものだが――彼女の記憶に、先生がそのようなガジェットを持ち込んでいる様子はなかった。そして先生が常に連れているという生徒にも覚えがない。或いはシャーレに新しく加入した生徒でも居るのかと訝しんだが、ウタハその思考を一度打ちきり頭を振った。

 

『まぁ他ならぬ先生の事だ、何か考えがあるのだろう、今回作った義手はシンプルで分かり易い、日常でも難なく扱えて頑丈、それに大掛かりなギミックを搭載しなかった分バッテリーも大容量、位置情報機能もあるからリンクすれば先生のタブレットに義手の在る場所が表示される、紛失しても一安心だ』

「失くしたりなんかしないよ、大事なものだからね」

『それは助かる、作品を大事にしてもらえる事は製作者冥利に尽きるからね――うん、今回の製作は満足出来るものだった、機械の真善美は合理的で、精密で、そして簡易である事だ、この作品は正にそれを体現している』

「……因みになんだけれど」

『うん?』

 

 満足げに頷くウタハを前に、先生は義手を抱えながらどこか云い辛そうに問いかけた。

 

「自爆機能とか、仕込んでないよね……?」

『……先生、私を何だと思っているんだい?』

 

 画面の向こう側から、どこか呆れたような表情で先生を見つめるウタハ。しかし、どうか待って欲しい、これは自身にとって死活問題となるものなのだ。正直常に爆弾(物理)を抱えながら生活などしたくない。膝に爆弾を抱えていて――みたいなノリで腕に爆弾を仕込まれたら堪ったものではないではないか。

 そんな気持ちを込めて視線を返せば、彼女はやれやれと云わんばかりに唇を尖らせ答えた。

 

『自爆機能を搭載するのはロボットだけだよ、人の使うもの――それも人間である先生の物品に自爆機能を盛り込むなんて、非常識とすら云える』

「そっか、良かった」

 

 その言葉に先生は胸を撫でおろした。その辺りの常識はきちんと守ってくれるのかと。その様子を見ていた彼女は、「ふむ」と首を傾げ問いかける。

 

『もしかして、自爆機能が欲しかったのかい?』

「絶対に要らないです」

『あぁ、なら良かった、流石に私としても先生が日常的に使う代物に自爆機能を設けるのは気が引けるからね、安全装置に関しては絶対の自信を持っているが物事に絶対は存在しない、万が一というのは常に発生し得る、そのリスクを考えると義手に自爆機能を仕込むのは合理的とは云えない』

「実にその通りだと思うよ」

 

 真剣に、心の底からそう思う。実用性とリスクが全く嚙み合っていない、そもそも相手を傷付ける類の代物は仕込んで欲しくないと頼んでいたので元々実装されている可能性は低かったが――。

 

『先生がキヴォトスの生徒と同じ肉体強度を持っていたら、少しは考えたかもしれないが……』

「今だけは心底人間で良かったと思うよ」

『ふふっ、半分は冗談さ……それで、どうだろう先生? 私達の作品は満足のいくものだっただろうか?』

「あぁ、勿論――ありがとうウタハ、他の二人にもそう伝えてくれると嬉しい、今度皆に改めてお礼をさせて貰うから」

『そうか、良かった、きっと二人も喜ぶだろう』

 

 先生が微笑みと共にそう告げると、ウタハは心底安心したとばかりに胸を撫でおろしその表情を緩めた。

 

『ふぅ、何だろう、肩の荷が下りた気分だよ、流石にずっと働き詰めは疲労が蓄積してね……』

「ウタハ?」

 

 画面の向こう側でウタハの身体が微かに揺れる。どうやら疲労の限界らしい、三徹もすれば然もありなん。先生は心配を滲ませながら彼女の身を案じる言葉を口にした。

 

「ごめんね、私の為に……暫くゆっくり休んで欲しい」

『ふふっ、流石に無理をし過ぎた様だ、今回はお言葉に甘えさせて貰うよ先生、何か不具合や要望があったらいつでも頼ってくれ――それじゃあ、またね先生』

 

 その言葉を最後に、ウタハからの通信が切れる。単調な電子音を鳴らす端末を暫し見つめ、先生は画面の電源を落とした。

 

「……アロナ、クラフトチェンバーの起動を頼めるかい?」

『はい、設計図の登録と複製ですね?』

「うん、余り気乗りはしないけれど――」

 

 抱えた義手を見つめ、先生は目を細める。本当は生徒の作品をそのように扱いたくはない、彼女達の作り出した物はどんな品であれ唯一無二のもので替えの利く代物ではないからだ。しかし、そうも云っていられない状況がある。あらゆる状況に備えるのも――大人の役目だろう。

 

「……万が一、と云うのは本当に突然やってくるからね」

 

 

「此方の書類は全て片付きました、万魔殿にはこのファイルを――」

 

 ゲヘナ自治区――救急医学部。

 書類の積み重なったデスクに向き合いながら、忙しなく手を動かすセナは今しがた万魔殿に提出する書類を回収しに来た部員に、幾つかのファイルを纏めて手渡した。汗を滲ませながら腕の中に積もるファイルの束、それを見つめながら部員の生徒はおずおずと口を開く。

 

「せ、セナ部長、その、少し無理をし過ぎでは……?」

「無理?」

 

 ぴくりと、セナの手が止まった。ゆっくりと振り向いたセナの表情は――お世辞にも健康的とは云い難い。やや荒れた髪質に隈の見える目元、そして全体的に血の気の失せた顔色が普段以上に彼女の肌を白く見せている。そんな彼女を見つめる部員は、まごつきながら意見を口にする。

 

「最近は患者の数も減って来ましたし、私達だけでも対応可能なレベルにまで落ち着いて来ました、医者の不養生とも云いますし、少し休暇を取っても――」

「……いえ、有難い話ではありますが減ったと云っても患者がゼロになった訳ではありません、ひとりでも手が多いに越したことはないでしょう、それにまた騒動が起きていつ大量の急患が来るかも分かりませんから」

「せ、セナ部長……」

 

 そう云ってにべもなく断りを口にする自身の上司を前に、部員の生徒は思わず呻く。彼女から見ても最近のセナはオーバーワーク気味だ。夜も殆ど寝入っている様子はないし、あっても数時間程度の仮眠をソファで済ます。一体いつ休んでいるかもわからない状況は部員達の不安を煽り全体的な士気も下がっていた。確かに以前であれば無理をする理由もあったが、現在は比較的業務も安定している。また何か騒動が起こると見越して、先の仕事まで手を伸ばしているにしても限度がある――そんな事を思う部員の耳に、普段聞き慣れない声が届いた。

 

「失礼します、セナ部長宛てに今しがた郵便が届きました」

「……私に?」

 

 扉をノックし、顔を覗かせたのはゲヘナ自治区に於ける郵便担当の生徒だった。彼女はぶら下げていた鞄から一枚の封筒を取り出し差し出す。セナは頭上に疑問符を浮かべながらも差し出されたそれを受け取った。それは何の変哲もない、普通の封筒に見える。

 

「それでは、自分はこれで」

「ありがとうございます」

 

 一礼し、去って行く生徒。その背中を見送った後、セナは手にした封筒を観察する。相応に薄く軽い、中身は恐らく手紙か何かだろう。

 

「手紙、ですか?」

「えぇ、今時随分と古風な――」

 

 呟き、表の差出人の部分に目を向ける。そうして記載されていたそれに、セナは驚きと共に言葉を漏らした。

 

「――先生?」

 


 

 閑話 【大人として】

 

 アビドス自治区、ラーメン屋柴関――本店を砲撃で失って以降屋台として再出発したラーメン屋柴関は、比較的人の残っている商店街区画の街角で今日も店を開いていた。客足は上々、席は決して多くはないが少なくもない。以前店を開いていた場所から然程離れても居ないので、以前から店に通ってくれていた常連はそのまま屋台の方にも足を伸ばしてくれていた。

 今日も今日とて厨房にて調理に明け暮れる大将は、立ち昇る湯気に汗を滲ませながら手を動かす。

 そんな彼の下に歩み寄る影が一つ。

 

「――大将」

「お?」

 

 声に反応し、大将が顔を上げるとそこには久しく見ていなかった顔があった。

 

「よぉ、先生さん、久しぶりだな」

「どうも、ご無沙汰しています」

 

 暖簾を潜り、微笑みを浮かべる先生は小さく頭を下げる。大将は手にしていた包丁を戻すと、そっと横に積み上がっていた椅子を指差した。

 

「食ってくんだろう? 其処に椅子があるからよ、出して座ってくれ」

「えぇ、お邪魔します」

 

 大将に云われた通り、積み上がっていた椅子の一つを手に取ってカウンター前に陣取る。屋台は少し背が高く、厨房には大将に合わせた足場が設置してあった。頭に巻き付けていたタオルを縛り直した大将は、くんと鼻先を揺らしながら問いかける。

 

「オーダーは?」

「いつものラーメンをお願いします」

「あいよ」

 

 先生の声に対し軽く手を挙げ、調理に取り掛かる大将。彼の姿は板前法被を着込んだ犬の様にしか見えないが、その手付きは淀みなく熟練の業を感じさせる。用意した丼に特製のタレと油を入れ、トッピング用のチャーシューを切る。まな板を叩く包丁の小気味良い音、立ち昇る湯気、大将の背中と合わせ何となしに眺めるそれらを前に先生は呟いた。

 

「……この感じ、懐かしいですね」

「最近は顔を見てなかったからな、まぁ此処はシャーレからも遠いだろう? 仕方ねぇ事だけれどよ、偶には来てやってくれ、アビドスの生徒さんも喜ぶ」

「えぇ、そうします、今抱えている仕事が終われば――暫くは休める筈ですから」

 

 カウンターの上に乗せた手を見つめ、先生はそう答える。大将は調理の手を止める事無く背中越しに言葉を紡いだ。

 

「今日はもう、生徒さんの所には顔を出したのかい?」

「はい、便利屋の所と対策委員会にも、今はその帰りです」

「そりゃあ良い」

「此処に来たからには、大将のラーメンを食べずに帰れませんからね」

「ふははッ、嬉しい事云ってくれるじゃねぇか」

 

 トン、と一際大きな音がした。先生が顔を上げると、調理の手を止めた大将がじっと此方を見ている事に気付く。その瞳は見間違いでなければ、どこか悲しみの感情を孕んでいる様にも見えた。

 

「随分、男前になっちまったな、先生」

「……目の方は、大将とお揃いですよ」

 

 右目を指先で覆い、先生は苦笑と共にそう口にする。柴関の大将も右目に大きな傷があった。薄らと見える傷跡は彼のトレードマークでもあるが、一般的な観点からすれば決して見目の良いものではないだろう。タオルから飛び出た耳を揺らす彼は気恥ずかしそうに、肩を竦めながら云う。

 

「片目が潰れた事をお揃いなんて云われたのは初めてだ、あんまり嬉しくはねぇな」

「ふふっ、でしょうね、けれど後悔はしていないんです、大切なものを守る事は出来たから、失敗だらけの私としては上々でしょう」

「失敗だらけか、男の傷は勲章なんて云うが……あんまり生徒さんに心配かけてやるんじゃねぇぞ、先生」

「えぇ、分かってはいるんです――けれど、どうにも儘ならない事が多くて」

「……難しいモンだな」

 

 鼻を鳴らした大将はそのまま背を向け、鍋の前に立った。温めていた煮干しと正油を小鍋から掬い、丼に流し込む。次いで湯に浸した麺を長箸で解しながら、大将はふと先生と出会ったばかりの頃を思い出す。アビドスでの騒動があったのはもう何ヶ月も前の事だったか。或いは、そろそろ半年程度は経つかもしれない。

 たった半年、されど半年――その半年で、先生は多くの物を失った様に見えた。

 

「お前さんは見かける度に傷が増えてやがる、前もそうだったが、もう隠すのも難しいんだろう」

「……えぇ」

 

 大将の言葉に、先生は静かに頷いた。指先を這わせるのは体の彼方此方に刻まれた小さな傷痕。

 古傷を保護膜で覆っていたのはいつの事か。手足に関しては今もまだ使用している部位も多いが、そうでなくなった箇所も多い。何せ、余りにも傷が増えすぎたのだ。古傷の上に新しい傷が出来る、故に隠す方が寧ろ不自然となる。傷に塗れる事が普通になっていく。

 そして秘密を知る生徒も――治療に携わった生徒は、凡そ理解しているに違いない。

 

「先生さん、酒はイケる口か?」

「は……?」

 

 不意に、大将はその様な事を口走った。見ればいつの間にか戸棚の方から日本酒らしき酒瓶を手にした大将が此方を見つめ、ニッと口元を歪め笑っている。コンと、酒瓶がカウンターを叩いた。

 

「過去を云々するつもりはねぇよ、人生色々だ、だが溜め込み過ぎは良くねぇ、偶にはハメを外しても文句は云われねぇだろう? ――どうだ、一献」

「……気持ちは有難いのですが、その、お酒は避けていまして」

「何だ、もしかして下戸だったか?」

「いえ、飲めない訳ではないのです」

 

 大将の驚いたような顔に、先生は苦笑を零しながら首元を撫でつける。決して酒が飲めない訳ではない、多少嗜む事はあるし付き合いもある――生徒達の前では決して口を付けないが、シャーレ近辺の商店街の組合から誘われたり、個人的な交流で持ち掛けられたり、そうでなくとも酒を口にする機会は多々あった。

 しかし――。

 

「頼るべき大人が、肝心な時に酔っぱらって動けない……なんて事は避けたいんですよ、特に今は色々と忙しい時期ですから――せめて次に控えている大きな仕事(騒動)が終わるまでは」

「……なるほどな、お前さんらしい」

 

 最初は不思議そうにしていた大将だったが、その理由を聞けば納得した様子で頷き酒瓶を引っ込めた。「折角の厚意なのに、すみません」と先生が頭を下げれば、大将はからからと笑いながら首を振った。

 

「いや、先生さんは、根っから先生なんだと改めて実感したよ、それなら今日はウチの奢りだ、好きなだけ食ってけ」

「は、いや、しかし――」

「良いんだよ、先生には世話になっているし、あの事件以降この辺も多少平和になった、客足も増えて来たし商売も上手く行っている、この程度で傾く屋台骨じゃねぇ」

 

 そう云って二の腕を叩き、口元を釣り上げる大将。その何ともパワフルな姿に先生は目を瞬かせ、ふっと口元が緩むのを自覚した。

 

「……それなら、有難く」

「おう」

 

 返事は短く、ハッキリしていた。

 調理に戻った大将は手際よく動き、茹で上がった麺を湯切りしスープの注がれた丼に投入する。そして刻んでいた葱やチャーシュー、煮卵にナルト、メンマをこれでもかと盛り付け、ものの数分足らずで注文の一品を完成させた。大将の見た目と異なる、硬い肉球に包まれたラーメン丼は先生の前に置かれ、その存在をこれでもかという程に主張する。

 

「はいよ、先生特製、チャーシュー盛り合わせお待ち」

「……これは、また」

 

 差し出されたそれに先生は思わず声を上げる。普段より少し、いや、大分量が多い様に思える。決して食べられない量という訳でもないが、サービスにしては過剰ではないだろうか? そんな事を考えながらも大将を見れば、にやりと口元を歪めるのみ。いや、彼は便利屋の皆を迎えた時もそうだった。腹を決め、背筋を正した先生は箸を手に取り心の中で手を合わせる。生憎と、現実で合わせるには腕が一本足りない。

 

「箸じゃねぇモン用意するか?」

「いえ、大丈夫です、ただ無作法には目を瞑って頂けると」

「気にしちゃいねぇよ、美味しく食えるのが一番だ」

 

 何でもない事の様にそう口走る大将に、「ありがとうございます」と一言。そしてラーメンに視線を合わせると、頂きますと呟き、その麺に箸を伸ばした。

 こういう、真っ当な食事をするのは久し振りに思えた。湯気を発する麺を見つめながら考える。真っ当というのは、食事を楽しもうと意識して箸を動かす事だ。仕事に忙殺され半ば栄養補給的に口に突っ込む食事とは訳が違う。コンビニやファストフード、普段口にする栄養食品が不味い訳ではないのだが――やはり、自分の為に作られた食事と云うのは良い。麺を啜った先生は、心底そう思う。

 少しだけ、フウカの手料理が恋しく感じた。

 

「――美味い」

「そいつぁ良かった」

 

 漏れ出た一言、何の意志も介在しないからこそそれは本心からの一言であり、大将は心底嬉しそうに笑う。

 

「便利屋の生徒さんもよ、良くウチで食ってくれるんだ、セリカちゃんも忙しいってのに良く働いてくれている――此処(アビドス)は順調だよ、ウチの屋台も含めてな」

 

 麺を啜る先生を前に厨房から椅子を引っ張り出した大将は、先生の対面に腰掛けながらふとそんな事を口走る。その雰囲気は柔らかく、優し気な色を孕んでいた。

 

「俺ぁ昔から、自分の料理を美味そうに食ってくれるお客さんの顔が好きでな、アビドスの生徒さんや便利屋の生徒さんがよ、此処で美味そうにラーメンを啜ってくれてるのが嬉しくて……店が無くなっちまった後でも、未だに足を運んでくれる面々には頭が上がらねぇ」

「それだけ大将の作る料理が魅力的だと云う事でしょう――今でも、他所の自治区から足を運んでくれるお客さんもいる筈です」

「あぁ、前は何て云ったか、ゲヘナだったか? そこの生徒さんが来てくれてな」

 

 大将はそう云って嬉しそうに当時の事を語ってくれる。早朝、店を開店したばかりの時に突然現れ、大量のラーメンを注文したのだと云う。

 

「えらい上品で小食な生徒さんと、大食いの生徒さんが二人、それと小さいが根気のある生徒さんがひとり、朝一番の客だったってのに、その日の内に一日分の在庫が全部無くなっちまった」

「それは、また」

 

 大将の告げる生徒には心当たりがある。恐らく今はゲヘナ自治区の風紀委員会の元で絞られているのではないだろうか。そんな事を考え苦笑を零す先生に、大将はくつくつと肩を揺らした。

 

「驚きはしたが悪い気はしなかった、あんだけ笑顔で食って貰えたら料理人冥利に尽きるってモンだ」

「正に、天職ですね」

「あぁ」

 

 誰かの為に料理を作る――それが大将にとって天職だったのだろう。この屈託のない笑顔を見ていると、そう思えてならない。

 ふと、大将が先生を指差した。唐突なそれに面食らった先生だったが、大将は揶揄う様な表情で以て告げる。

 

「お前さんもそうだろう? ()()

 

 その声には親しみがあった。揶揄いの意図もあっただろうが、それ以上に嘘のない言葉だと思った。それが彼なりの親愛の言葉だという事は直ぐに分かる。故に先生は暫し口をつぐむ、それから彼と同じように何の憂いも感じさせず、屈託なく破顔した。

 

「くくっ――えぇ、そうですね、全く以てその通りだ」

 

 先生と云う在り方。

 自身には、文字通りこれが天職だった。

 生徒に寄り添う事、子ども達を見守る事、その困難に共に立ち向かう事。その行いこそが、先生にとって唯一無二の存在理由だった。それは、それだけはどれだけこの身が欠けようと、或いは摩耗しようと変わらない。

 正しく大将と同じ、どれだけやり直しても変わらない性根というものだ。

 

 誰か(他者)の為に料理を作り、食べて貰う事。

 誰か(他者)の為に寄り添い、共に歩み導く事。

 

 その最後には必ず、笑顔が待っている筈だから。

 

「先生さんよ、子どもの笑顔ってのは、いつの時代も宝だ」

「えぇ、本当に」

「だからこそ、長生きしろよ――あの子達にはまだ、お前さんが必要だ」

「………」

 

 深く腰掛けながら、頭上を見上げそう告げる大将。小さく蠢く口元は煙管を咥えた時の癖か。先生は箸を掴んだまま静かに目を伏せる。僅かに減ったスープの水面、そこには何も映りはしない。濁った視界には、何も。

 

「そうですね……けれど、彼女達も大人になる時が来る、だから――」

 

 呟き、目を閉じる。

 そう、根底は変わらない。

 七つ目の嘆きは必ず到来する。

 だから、どれだけ時間が掛かろうと。

 例え、どれ程の暗闇に覆われようと。

 先生は薄らと微笑みを浮かべ、告げる。

 

「せめて、幼年期の終わり(この命尽きる)までは」

 

 ――彼女達ならば歩いて行けると、先生はそう信じている。

 



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裏切りの末路

誤字脱字報告に感謝ですのっ! 
今回も一万二千五百字ですわ! 三千字未満だから誤差、ヨシッ!


 

 トリニティ自治区――補習授業部、教室。

 

 本校舎から離れた合宿所、その片隅にある教室。其処に足を運ぶのは久方振りだった。何せミカのクーデター騒動から既にそれなりの月日が経過している、その後エデン条約でのゴタゴタや諸々があった訳だが、既に補習授業部は解散し、この合宿所もティーパーティー管轄下に戻された筈であった。

 しかし、どういう訳か再び『著しく成績の悪い生徒』が発生したらしく、ナギサ経由で再度顧問を担当して欲しい旨の連絡が届いた。彼女としてもかなり苦渋の決断だったらしく、かなり畏まった文章と共に依頼が送られて来たのだが、先生はこれを二つ返事で快諾。

 そうして再びこの合宿所、教室へと訪れた訳だが――。

 

「えー、テスト期間が終了して、新しい補習授業部が作られたと聞いたのだけれど……」

 

 教卓の前に立ち、教室を見渡す先生は額を揉み解す。

 騒動があったとしても学園として試験の類は実施しなければならない。勉学に励める環境であったとは口が裂けても云えないが、それはそれとして赤点を取る様な生徒というのは滅多に居ない。トリニティという学園が元々学業に力を入れているという点もあるが、何より赤点のボーダーラインが低く設定されている為だった。

 つまり、赤点を取る生徒は『洒落にならないレベルで成績が酷い』という事になる。

 そして、その洒落にならないレベルで成績が酷い生徒達はというと。

 

「あぅ……」

「ふふっ♡」

「ふむ……」

「うぅ……」

「前回と、全く同じメンバーだね……?」

 

 呟き、先生は口元を引き攣らせる。

 

 阿慈谷ヒフミ。

 浦和ハナコ。

 白洲アズサ。

 下江コハル。

 以上の計四名。

 前回の補習授業部と全く同じメンバーが教室には集っていた。

 

「あ、あはは、それがその、えっと、し、試験日とペロロ様のコンサートが被ってしまって……」

「次の試験範囲はまだ習っていない」

「えっと、さ、三年生の試験を受けてみたんだけれど、全然解けなくて……」

「ひとりだけ放置プレイなんて、寂しいじゃないですか♡」

「……はぁ」

 

 各々が各々の理由で赤点を取り、どうやらこの場に戻って来たらしい。先生は俯き、思わず溜息を漏らしてしまった。綺麗に勉学の良さを知り解散、という結末にはならなかったらしい。あの努力の日々は一体何処へ、そう思うと何とも目尻に涙が滲んで来た。

 

「な、何それ! そんな反応しなくても良いじゃん!」

「す、すみません、先生」

「むぅ……」

 

 先生の動作に呆れられたと思ったのか、コハルは憤慨し、ヒフミは恐縮し、アズサは不満げだ。いや、しかし補習授業部など本来は存在しない方が良いのは事実だろう。少なくとも字面から良いものではないと分かり切っているのだから。

 

「ふふっ、またこの教室で――そう云いましたよね、先生」

「ハナコ……」

 

 くすくすと、唇に指を添えてそう告げる彼女に先生は眉を下げる。恐らく彼女はこうなる事を予測していたのだ、だからこそあのような言葉を自身に投げ掛けた。先生はその知性と観察眼を前に感服する他ない。

 

「それにこの辺りで一度評判を下げておかないと、また勧誘が来てしまいそうですし」

「ワザとだと分かる時点で、成績に関しては意味がないんじゃないかな……?」

「評判というものは常日頃変動するものですよ♪」

 

 軽々しくそう宣い、ウィンクするハナコ。彼女にも色々と考えがあっての行動らしい――いや、ある意味『そっちの方が楽しそうだから』とか、そんな些細な理由かもしれないが。

 

「……まぁ、こうなってしまったのなら仕方ないね」

 

 告げ、先生は気を取り直す。その顔を上げると、各々の表情が良く分かった。先生は口元を緩め、仕方なさそうに笑って告げる。

 

「また、皆で勉強しようか」

「は、はいっ! えっと、またよろしくお願いします――先生!」

 

 ヒフミが立ち上がり、声を張り上げる。補習授業部の部長はヒフミが続投、そのペロロ鞄に吊り下げられた補習授業部の人形が飛び跳ねる。やや傷跡が残るその人形はしかし、丁寧に修繕され今もなお笑顔を浮かべていた。

 

「え、えっと、よ、宜しく先生……!」

「うん、次こそは百点を取って見せる」

「ふふっ、皆で頑張りましょうね♡」

 

 ハナコも、コハルも、アズサも、同じよう頷き、告げる。その鞄に、胸元に、ポーチにぶら下げた人形達。

 

 どうやら彼女達の補習授業部(青春)は――まだまだ続いて行く様だった。

 

 ■

 

「アロナ、スクワッドの皆は――」

 

 補習授業部での顔合わせを終え、廊下を歩く先生はふと手元の端末に問い掛ける。

 合宿所の廊下は人気がなく、背後の教室からは少女たちの声が微かに聞こえて来る。抱えたシッテムの箱、その画面にはアロナが映し出されていた。彼女は宙に浮かべたパネルを指先で叩きながら、申し訳なさそうにその首を左右に振る。

 

『残念ですが、まだ――』

「……そうか、見つかっていないか」

 

 呟き、先生は表情を険しく変化させる。アロナの情報収集能力とて万能ではない、しかし此処まで見つからないとなると――何者かの妨害が現実味を帯びて来る。ベアトリーチェによる認識阻害か、或いはゲマトリアの協力を得ているのか。

 或いは――。

 

「少し、急がないといけないかもしれないね」

 

 呟き、先生はシッテムの箱を抱え直す。

 決戦の刻は徐々に――しかし確実に迫っていた。

 

 ■

 

「……ふむ」

 

 ゲヘナ自治区――外郭区スラム。

 罅割れた道路、薄汚れた廃墟、散乱する瓦礫片、彼方此方に描かれたグラフィティ、正に無法地帯と化したその場所で佇む一人の生徒。比較的背の高い廃墟ビルの屋上、その給水塔の上に立った彼女――ワカモは周辺一帯を見つめながら忌々し気に呟いた。

 

「此方にもいませんか、粗方目星を付けた場所は潰した筈ですが」

 

 担いだ愛銃に腕を絡ませながら、指先で銃口を撫でつける。

 日暮れ時、薄暗い闇に覆われたスラムにも彼方此方に灯が点在している。それらを視線でなぞるも彼女の求めていた標的は掠りもしない。もし逃げ込むとすればこの周辺であると予想していたが――どうやらアテが外れたらしいと鼻を鳴らす。

 

「姉御!」

「――見つかりましたか?」

 

 ふと、背後から声が響いた。

 見れば給水塔の梯子に足を掛けながら、必死によじ登って来る不良生徒(スケバン)が一人。ワカモがすわ標的を捉えたのかと振り返れば、マスクにバツマークを描いた彼女は息を弾ませ、給水塔の淵に手を掛けながら首を横に振った。

 

「い、いえ、その、アリウス・スクワッド……? って連中は見つからなかったんですが、ヒノム火山道中にあるスラム近辺に、コイツと同じマークの外套を着込んだガスマスク連中が出歩いているって報告が上がっていまして……」

「――ヒノム火山?」

 

 その言葉に、ぴくりとワカモの耳が震える。

 ヒノム火山と云えばミレニアムの廃墟、トリニティのカタコンベ、それらと同列に語られる立ち入りの制限された区画である。その近辺のスラム街となると、此処よりも更に人口の少ない、廃れた場所だ。確かに潜伏する場所としては悪くないかもしれないが――ワカモは顎先を指で撫でつけ呟く。

 

「ゲヘナの、それもまた辺鄙な場所に……しかし身を晦ませるならばあり得ない訳ではない、ですか」

 

 現在位置を脳裏に描きながらワカモは思考を巡らせる。だが一つ解せない事がある、それは手下(スケバン)の目視した生徒というのがワカモの追っているスクワッドではないという点だった。

 彼女達がアリウス分校を離れ、逃げ出したという報告は届いている。人目を避けるスクワッドが人口の少ない区画に身を隠すならば分かるが、何故アリウスがそのような場所に足を運ぶのか――ワカモの思考が加速し、彼女は再度問いかける。

 

「その外套を着込んだ者共は、配布した写真の生徒達ではないと?」

「えぇ、遠目だったので絶対とは云い切れないそうですが、写真の風貌の連中じゃなかったと、普通の何て事のない一般生徒っぽい恰好だったって……あと、何かを探している様な素振り? だったらしいっす!」

「それは、それは」

 

 スクワッドではない、アリウスの一般生徒。それがゲヘナの、それも辺鄙なヒノム火山近辺のスラムに足を運ぶ理由。その報告を聞き届けたワカモは振り返り、思考に没頭する。

 

「アリウスが何かを探している……? しかしエデン条約は既に――」

 

 エデン条約は既に白紙に戻り、ETOの権限はシャーレが握っているものの戦力としての複製は全てが掃討され、ただその形骸だけが横たわっている状態だった。この状況でアリウスがゲヘナに足を延ばす理由が分からない。彼女達は既にトリニティのカタコンベからアリウス自治区に撤退した筈だ、仮に今度はゲヘナに攻め入る計画があるとして、何故ヒノム火山近辺等と云う僻地に兵を向ける? 

 合理的ではない行動――しかし、それが彼女達にとって意味のある行動だとすれば。

 

「まさか――アリウスに追われているのですか?」

 

 不意に、閃きが走った。

 エデン条約に於けるスクワッドの役割、そしてヒノム火山という人の目のない僻地、先程も考えた事ではあるが潜伏先としては悪くない選択肢だった。スクワッドがアリウス自治区に戻らず逃走を図った事は理解している、そしてその事に対しアリウス分校が何の対策も取らない筈がないと云う事も――しかしまさか、ゲヘナの僻地にまで手を伸ばすほどに裏切り者の始末に力を入れているとは。

 それは、ワカモをして驚くほどの執念だった。

 見つかれば諸共殲滅されるリスクを孕んでいる、或いは一部隊の離反程度放って置くと云う手もあると云うのに。彼女達は既にトリニティ、及びゲヘナから目の敵にされている。そうでなくとも他学園からも、決して良い眼では見られまい。

 

「ふふっ、聊か拍子抜けですが、自ら始末を付けてくれると云うのであれば構いません、本当ならばこの手で縊り殺して差し上げたい感情もありますが……」

 

 くつくつと、ワカモは仮面の下で笑みを零す。

 

「あの方の隣に立つのに、清廉(綺麗な手)である事は良い方向へと働くでしょう」

 

 呟き、ワカモはその銃床で給水塔の外装を叩いた。その金属音にスケバンの肩が跳ね、ふわりと風が吹く。それはワカモにとって心地良い風であった。

 自身の手で始末をつけ、殺し合うと云うのであれば是非もない。可能な限り惨たらしく戦い、惨めに死んでいくと良い。先生を手に掛けようとした愚か者には相応の末路だと、ワカモは心底そう思っていた。

 どこか不穏な気配を纏うワカモを前にスケバンの生徒は恐る恐る問いかける。

 

「そ、それで、どうしましょう、姉御?」

「そうですね……一応幾人か尾行を、貴女方ならば万が一見つかってもスラムに屯する不良生徒(住人)程度にしか思われないでしょうし、保険として近隣区画にも何人か潜伏させておいて下さい――あぁ、手出しは無用です、必要があれば此方から再度指示を出します」

「了解っす!」

 

 ワカモからの指示に、スケバンの生徒は頷き給水塔を飛び降りる。その走り去っていく背中を眺めながら、ワカモは今もなお苦境に立たされているであろうスクワッドを想う。

 

「……あの方のご意向は何よりも優先させるべき、しかし物事には限度があります――貴女方に、あの方へと縋る資格はありません」

 

 そう、物事には限度がある。

 例え先生が赦しを与えたとしても、周りがそうであるとは限らない。そしてワカモという少女の持つ優しさは、ただ一人にのみ向けられる代物だった。それ以外は全て些事、寧ろ先生と自身を隔てる障害とすら思えてしまう。

 ならばこそ、彼女は悦楽の表情を浮かべながら吐き捨てるのだ。

 

「えぇ、実にお似合いの末路ですよ――アリウス・スクワッド」

 

 ■

 

「いたぞ、向こうだ、追えッ――!」

「くッ……!」

 

 暗闇の中、スラムの中に声が響く。複数人の忙しない足音、同時に背後から飛来する弾丸。発砲音と閃光が瞬き、直ぐ傍の外壁へと銃弾が突き刺さる。破片が皮膚を強かに叩き、彼女たち――スクワッドはその表情に焦燥を滲ませながら只管に足を動かしていた。

 アリウス分校に捕捉され、逃走劇を繰り広げてどれ程の時間が経過しただろうか。少なくとも一時間や二時間程度では済まない。そして、こうした追撃を受けるのは初めてではなかった。既にこの逃走生活を始めてから、幾度となく繰り返された行為だ。

 ふと、先頭を駆けるサオリの腕をミサキが掴んだ。振り返ると、汗を滲ませながら彼女は首を振る。

 

「リーダー、この先は袋小路、誘導されているよ」

「何――?」

 

 暗闇の中、微かに目視出来る月明りのみで前方を見る。視界を向ければ確かに、複雑に入り組んだ裏路地の果ては密集した廃墟群に囲まれた袋小路だった。これ以上逃げる先がない、ならば建物の中に――そう考えるも、それを予測していたのか直ぐ脇の建物からアリウスの生徒達が顔を覗かせる。

 誘い込まれた、その事実に歯噛みし銃口を向けるも、数は圧倒的に向こうが勝る。たちまちの内にスクワッドは壁際へと追い込まれ、逃走経路が封鎖された。

 

「も、もうおしまいです……っ!」

「……反対側も、包囲された」

 

 背中には外壁、左右の建物からもアリウスの生徒が遮蔽物越しに銃口を覗かせている。そして正面には今しがた追撃を仕掛けて来た部隊が――スクワッド全員がゆっくりと後退しながら銃を構えるも多勢に無勢、此方が仕掛ければ即座に数十倍の弾丸が仕返しとばかりに飛んでくるだろう。その未来を予期したからかヒヨリが泣き叫びながら震えだし、アツコがその表情を苦悶に歪めた。

 

「万事休す、だね」

「っ……」

 

 ミサキの呟いた言葉に、サオリは歯を食い縛る。

 突きつけられる無数の銃口、何か打開策は無いか思考を巡らせるも突破口は見えない。疲労し切った肉体はその活路を大いに狭め、これまでの逃走劇で装備や弾薬の類も制限されている。緩慢な動作で、しかし確実に包囲網を狭めるアリウス追撃部隊を前にサオリは打つ手を持たない。

 

 追撃部隊の中から、ふと一人の生徒が踏み出した。恐らく作戦指揮を執っていた部隊長だろう、彼女は銃を抱えたまま静かに、しかし強い口調で断じた。

 

「スクワッド――諦めろ、これ以上の抵抗は無意味だ」

「………」

 

 それは同情心から出た言葉か、或いは単なる勧告か。どちらにせよ諦めろと云われて素直に頷ける程度の覚悟であれば、元より無謀な離反など起こさなかった。故に彼女は一抹の望みを賭け、隣り合ったミサキに小さく囁く。

 

「ミサキ、セイントプレデターの弾薬は」

「……まだ残っている、でも撃ってどうするの? 前方に展開した部隊を私の攻撃で吹き飛ばしても、皆もう逃げるだけの体力も、弾薬も残っていないよ」

 

 それに、と。

 彼女は続けてサオリの身体を見つめる。泥と砂塵、そして銃撃によってボロボロになったサオリの外套。加えて度重なる襲撃に幾度となく殿(しんがり)を買って出た彼女の素肌は傷に塗れていた。顔色も悪く、体調は見るからに酷い、只ですら心身ともに負担の大きい逃亡生活で彼女は既に疲弊しきっていた。聖園ミカに折られた腕は辛うじて治癒したものの、万全の状態とは程遠い。

 

「それに、リーダーの体調……逃げるどころか、このままだと命が危ない」

「と、投降するしか、ないのでしょうか……?」

「――いいや」

 

 既にスクワッドには、この場を切り抜けるだけの手段が存在しない。そんな思考と共にヒヨリが呟けば、サオリは静かに首を振った。

 

「最後の手段なら、まだ残っている」

 

 ゆっくりと懐に差し込まれた指先、そして手に握られた歪な手榴弾。それを見た時、ヒヨリは驚愕に目を見開き、ミサキは分かり易くその表情を歪めた。

 

「えっ、ま、まさか……!」

「ヘイロー破壊爆弾……」

 

 エデン条約調印式に先駆け支給されたヘイロー破壊爆弾、通常兵器と異なりキヴォトスに生きる生徒を死に至らしめるソレは正に切り札(最後の手段)と呼ぶに相応しい。支給されていたのは手榴弾型が三発、設置型が二発、彼女はこれを常に肌身離さず持ち続けていた。

 そして、それの恐ろしさを知っているからこそ、アリウス側も心中穏やかではいられない。サオリがその爆弾を手にした瞬間、周囲のアリウス生徒達が一斉に殺気立ったのが分かった。引き金に指が掛かり、彼女達の視線がサオリに集中する。

 

 発砲する事は出来ない――万が一起爆でもしようものなら、サオリだけでなく周囲のアリウス生徒、更には確保目標すら死亡しかねない。故にサオリはこれ見よがしにヘイロー破壊爆弾を握り締め、ゆっくりと一歩を踏み出す。

 

「ミサキ、ヒヨリ、私が時間を稼ぐ――その隙に姫を連れて離脱しろ」

「……サオリ」

 

 姫――アツコが彼女の名を呼ぶ。

 しかし、それに応えるだけの余裕がサオリにはない。額に汗を滲ませ、自身の愛銃を右手に、爆弾を左手に掴んだ彼女は前だけを見据えている。その指先は微かに震えていた。それは恐怖から来るものか、それとも疲労から来るものか。ただ、彼女にとって一番恐ろしい事は家族を失う事だ、それに比べればこの程度――そう云い聞かせ、サオリは唇を噛む。

 

 初手でヘイロー破壊爆弾を投擲し、前方に血路を開く。後は閉じられる前に駆け抜け三人を逃がし、自身が殿を務める。最悪爆弾を抱えたまま突貫すればかなりの数を巻き添えにする事も出来るだろう。

 三人が逃げるだけの時間は、稼げる筈だ。

 

「リーダー、死ぬ気?」

 

 ミサキは能面の様な表情で、低く唸る様に問いかけた。しかし、その声はサオリに届かない。否、彼女は敢えてその問い掛けを無視していた。痛い程に銃を握り締め、サオリはアリウスの生徒を睨みつける。彼女の考える作戦では、これが最善手――これしか、切り抜ける方法がない。

 上手く事が運んだ場合は追っ手を撒いて、再び合流すれば良い。合流地点はこのスラムから離れた場所が良いだろう。もし自分が合流地点に現れなかった場合は彼女達だけで逃げて貰うしかない。

 そして、その次は――次の、逃げ場は。

 

「此処を離れて、そうしたら……」

「………」

「その、次は――……」

 

 指示は、それ以上続かなかった。

 誰もが理解していた、知っていたのだ――もう、何処にも逃げ場など無いのだと。

 トリニティにはスクワッドを血眼になって探している生徒達が大量に居る、ましてやアリウスの潜むその場所に戻る事は出来ない。ゲヘナも、こうして発見された以上留まる訳にはいかないだろう。ならば百鬼夜行か、ミレニアムか、レッドウィンターか、アビドスか、逃げるだけならば行先の候補はある、だが何処も自分達を受け入れてくれる筈もない。

 それだけの事を、自分達は為したのだから。

 

 ――私達は後、どれだけ逃げ続ければ良い?

 

 その単純で、残酷で、どうしようもない現実が彼女達の前に横たわっていた。

 

「……姫?」

 

 不意に、アツコがサオリの腕を掴んだ。はっとした表情でアツコを見下ろせば、彼女は顔を上げ、サオリの瞳を真っ直ぐ見つめる。その宝石の様な瞳を見返した時、サオリは何か表現できない、強い恐怖心を抱いた。何かを口にしようとして、けれどそれより早くアツコがアリウスの生徒達に向けて告げる。

 

「彼女が求めているのは私、そうでしょう?」

「――えぇ」

 

 隊長である生徒が頷く。その返答にどこか満足気な笑みを浮かべた彼女は、サオリの腕を強く引き一歩前へと踏み出した。

 

「私が行くよ、私が彼女の元に戻る……だから、他のメンバーは見逃して欲しい」

「……!」

「アツコっ!? 一体、何を――」

「逃げ出そうって云ったのは、私」

 

 サオリが声を荒げ、その行動を咎めようとする。しかしアツコはサオリの腕を掴んだまま強く、はっきりとした口調で断じた。

 

「でもこれ以上は逃げ切れない、此処が限界だと思うから」

「アツコ……ッ!」

「トリニティにゲヘナ、そしてアリウスさえも、私達を追って来る――多分、このキヴォトスの中で私達が安心出来る場所は無いんだって、身に染みて分かった、私達の命が尽きるまで、息を潜めて逃げ隠れる人生が続くだけ」

 

 そう、私達(スクワッド)に安住の地など存在しない。生きている限り追われ続け、ただ苦しむだけの日々が待っている。アツコはこの逃亡生活を経て、その苦しさを十分すぎる程に知った。

 けれど――。

 

「でも、それは私が居るからの話、サオリも、ミサキも、ヒヨリも、私のせいでこうなった……だから、私が終わらせる」

「ひ、姫ちゃん」

「……姫」

 

 アツコの声には強く、気高い意志が籠っていた。ヒヨリも、ミサキも、彼女のその悲壮な覚悟を前に声を失う。

 

「駄目だ……っ!」

 

 しかし、サオリだけは尚も抗った。そのアツコの献身を前に、認められないと首を振る。踏み出した彼女の足が砂利を踏み鳴らし、その指先が強くアツコの腕を掴んだ。焦燥に塗れた表情、恐怖を瞳に映し出し、彼女は叫ぶ。

 

「駄目だアツコ! 戻ったら殺される……! それくらい、分かっているだろうッ!?」

 

 アリウスは――彼女は、そのためにアツコを育てたのだから。

 彼女の存在理由、彼女が生き残る道、それを模索する為に自分達は此処までやって来た。こうして逃亡生活に身を投じたのも全ては、全ては皆で生き残る為。もし彼女が自治区に戻る事になれば、どうなるか等火を見るよりも明らかではないか。

 だって、アツコ(彼女)は――。

 

「――今までの私は、運命に流されて生きて来た」

 

 サオリの掴んだ手を、彼女は静かに、優しく撫でつける。長年マスクで覆われていたその素顔を月明かりに照らし、彼女はサオリに向かって微笑んだのだ。

 

「だから最期くらい、自分で決めたって良いでしょう?」

「ア、ツコ――……」

 

 その笑顔は。

 その柔からな表情は。

 サオリが今まで見た事がない程に優しくて、穏やかで、そんな笑みを真正面から見せつけられた彼女はそれ以上言葉を紡ぐ事が出来なった。

 するりと、手の中から彼女の腕が抜け落ちる。そのままサオリの数歩前へと立ったアツコは、スクワッドを庇う様に佇みながら問いかける。

 

「約束してくれる? 皆を自由にしてくれるって、もう彼女達の生き方を縛ったりしないって」

「………」

 

 その言葉に部隊長は口を噤み、ガスマスク越しに鋭い視線を寄越す。ややあって彼女は懐から古びた端末を取り出すと、その画面を叩きながら告げた。

 

「少し、待て――マダムに確認を取る」

 

 反応は素早かった。僅かな電子音の後、端末のホログラム機能によって投影される人物像。その輪郭は影になってハッキリと視認する事は叶わない。しかし、ホログラム越しにでも感じる事が出来る畏怖があった。スクワッドのメンバーが息を呑み、その人影を凝視する。彼女は腕を組み、崩れた本の玉座に腰を下ろしたまま頷いた。

 

「マダム」

『――成程、話は理解しました』

 

 部隊長より仔細を聞き届けた彼女――マダムと呼ばれた女性はスクワッド、そしてアツコをその瞳でなぞり、事も無げに告げる。

 

『分かりました、約束致しましょう――あなたが私の元へと戻れば、アリウス・スクワッドのメンバーを罪に問う事は致しません』

「その名に懸けて、誓って」

 

 アツコがマダムに向け、そう云い放った。周囲に僅かなどよめきが起こる、アリウス自治区の主人であり、大人である彼女を前に要求など――到底通るものではないと思ったのだ。ぴくりと、マダムの肩が震えるのが分かった。しかし彼女は激昂する事もなく、手にした扇子で掌を軽く打ちながら問いかける。

 

『名前――? それに、一体どれ程の意味があるのですか』

「必ず約束を守って欲しいから、だからその名に懸けて、彼女達の自由を保障して」

『………』

 

 尚も云い募るアツコを前に、マダムは沈黙を貫く。それは何を想ってか、或いは彼女の無謀さに呆れているのか。肌を刺すような沈黙を経て、彼女は結論を下す。

 

『良いでしょう、全ての巡礼者の幻想である私、【ベアトリーチェ】の名に懸けて、お約束致します』

「うん――約束だよ」

 

 ふっと、アツコはマダム――ベアトリーチェの約束を聞き届け、その身から力を抜く。そして一歩、二歩、軽い足取りでアリウスの生徒達へと歩み寄った。そして部隊長の直ぐ傍に立った彼女は、ただ静かにその目を閉じる。

 

「姫様、此方を」

 

 部隊長は佇むアツコを前に、背嚢へと備え付けていたマスクを手に取った。それは以前彼女が愛用していた仮面――ベアトリーチェの云う保険である。アツコは差し出されたそれを受け取り、まじまじと見つめる。その瞳は何処か悲しげである様に思えた。

 

「マダムのご指示です、勝手にマスクを外されては困ります」

「………」

『傷一つない様、丁重に扱いなさい、儀式は明朝、日の出と共に始めます』

「はっ!」

 

 静かにマスクを被り、顔を覆い隠した彼女。それを守る様に複数の生徒達が周囲を固める。そしてアツコとスクワッドの面々は隔たれ、ホログラム投影されていたマダムの姿は掻き消えた。

 最後に振り返った彼女はもう見えなくなった瞳を皆に向け、告げる。

 

「元気でね、サオリ、ミサキ、ヒヨリ――アズサにも、もしまた出会う事が出来たら、幸せに生きてって伝えて」

「だ、駄目だ……アツコ!」

 

 サオリが思わず駆け出そうとした。その献身を、自己犠牲を認める訳にはいなかったのだ。けれど、飛び出そうとした彼女の腕を掴む存在が居た。

 ミサキだ――彼女は鉛を飲み下すような、苦渋に塗れた表情を浮かべながらもサオリの腕を凄まじい力で掴んで離さない。此処で実力行使に出る事がアツコの意志を踏み躙る事に繋がると理解していたからだ。そうでなくとも他に方法がない。

 だから彼女はサオリを掴んで離さない――その意思に、強い共感を抱いたとしても。

 

「っ、ミサキ……!」

「リーダー、駄目――!」

「離せッ! 私は……私はっ!」

 

 ミサキに腕を引かれたまま、サオリはアツコを見る。くしゃりと歪んだその瞳には、紛れもない涙が浮かんでいた。心が、これが今生の別れになると理解しているのだ。

 もしアリウスに彼女を奪われてしまえば、もう取り返す術は――ない。

 

「待ってくれ、アツコ……っ! 私は……ッ!」

「出来るだけ長生きしてね、大人になっても私の事を覚えていてくれると嬉しいな、痛みを知っている皆ならきっと、素敵な大人になれると思うから」

「アツコ! 待て……待ってくれ、頼むッ!」

「――移動する」

 

 護衛に囲まれた彼女は、その手を引かれゆっくりと歩き始める。最後にスクワッドを一瞥した彼女は俯き、その砂利に塗れ、傷だらけの小さな手を静かに、ゆっくりと振った。

 

「――ばいばい、皆」

 

 その声は三人の鼓膜を叩き、サオリは思わずその場に膝を突いた。

 ぽつぽつと、小雨が降り始めた。それを最初、サオリは自身の涙だと思った。小さなそれは軈て大きな雨粒となり、即座に視界を覆い尽くすほどの勢いとなる。鼓膜を叩く雨音、砂利が水を吸って泥と変わる。

 サオリは顔を上げ、前を見つめた。アツコの背中が、その姿が徐々に徐々に小さくなっていく。

 家族が遠く、離れていく。

 

「私は、お前まで……お前まで、守れなかったら――っ」

 

 地面に這いつくばり、手を握り締め彼女は声を絞り出す。

 信念も、守るべきものも。

 全て、無くなってしまったら。

 

「私は、一体――」

 

 錠前サオリという存在は。

 

「一体、何の為に、今まで……っ!」

 

 雨に打ちつけられ、零れ落ちた涙と共に叫ぶ。

 その小さく細やかな居場所(スクワッドという居場所)を守る為に。

 突けば壊れそうな、苦しみの中にあるほんの僅かな幸福(しあわせ)を守る為に。

 あらゆる感情を捧げて来た、あらゆる夢を捧げて来た。

 血を吐き、泥に塗れ、恩義に反し、裏切り、己が手を汚し、飢え、渇き、苦しみ、それでも生きる事を諦めなかったのは――家族(スクワッド)が居たからだ。

 

 だが、その家族が奪われてしまうのなら。

 居なくなってしまうのなら。

 (サオリ)は。

 (サオリ)は、一体今まで何の為に。

 何の為にすべて犠牲にして。

 何の為に、この苦しみしか存在しない世界を――生きて来たのだ。

 

 打ちひしがれるサオリを前に、ミサキとヒヨリは掛ける言葉を持たない。ただ自身の胸に渦巻く無力感と自己嫌悪、そして遣る瀬無さに身を震わせる事しか出来なかった。

 

「……目標の回収を確認しました、護衛部隊と共に対象は自治区へと帰還します」

『そうですか、では――』

 

 部隊長が這い蹲り、項垂れるサオリを見下ろしながら端末に告げる。ホログラムの消えた端末からは、雨音に混じりマダムの気だるげな声だけが響いていた。

 そうして彼女は残った部隊に告げる。

 

『――残ったスクワッド(三名)は全員始末しなさい』

 

 声は、はっきりと周囲の生徒達に伝わった。

 膝を突いたサオリは微動だにせず、ヒヨリは驚愕と共にびくりと身を震わせた。

 ただ、ミサキだけは小さく、「――あぁ」と呟いた。

 それはどこか諦観の混じった、小馬鹿にするような吐息だった。

 

 その嘲りの対象は自分自身、この期に及んでアリウスを相手に真っ当な――約束を守る相手だと思い込んでいた自分に呆れていたのだ。彼女にとって誓いなど何の意味も持たないというのに。疲労で頭が鈍ったか、彼女はその自分自身の愚かさを責め、苦笑を零す。

 

『……返答が聞こえませんが?』

「――承知しました」

 

 端末から響く声に、部隊長は機械的な声で応じる。

 通信を切り、端末を懐に戻した彼女は――その左手をゆっくりと掲げた。

 それに応じる様に、スクワッドを取り囲んだ生徒達が降ろしていた銃口を再び突きつける。周囲を見渡したヒヨリ、ミサキの両名。ヒヨリは口元を引き攣らせ、ミサキは苦笑と共に愛銃を地面に放った。雨水に塗れたセイントプレデターが音を立てて地面に転がり、その外装が泥に塗れる。

 ヒヨリもまた、最初はどうにかならないかと忙しなく視線を彷徨わせていたが、銃を投げ捨てたミサキと這い蹲ったまま動かないサオリを見つめ、諦観の表情を浮かべ背嚢と共に腰を下ろす。雨に塗れ、傷の痛みに顔を顰めた彼女は深く、深く息を吐いた。

 

「まぁ、こうなるよね、結局全部、無駄だった」

「あ、あはは、苦しい、人生でしたね」

「………」

 

 最早、奇跡は起こらない。

 彼女達には戦うだけの体力も、意思も無かった。

 ミサキが云う様に、結局は全て無駄だったのだ――彼女の教えが指し示す様に(vanitas.vanitatum)

 

 雨の中、自分達を狙う無数の銃口。その引き金に指が掛かる。せめて苦しまない様に、一瞬で片を付けると部隊長は決めていた。幾ら頑強なキヴォトスの生徒と云えど、これだけの人数で一斉に集中砲火を加えればひとたまりもない。

 恐らく数秒も経たずに――その意識は闇に落ちるだろう。

 その後はヘイロー破壊爆弾を使えば、意識のない内に葬る事が出来る。それが今の彼女に赦された唯一苦しみを与えない方法だった。

 

「次があったら、もし……もし、生まれ変わりがあるのなら」

 

 不意に、ヒヨリがそんな事を口走った。雨音の中、曇天に覆われた夜空を見上げる彼女は肩を落とし、雨に塗れながらへらりと笑う。

 

「――陽の下で、皆一緒に笑える人生が良いですね」

「……なにそれ」

 

 そんなヒヨリの夢物語を、ミサキは鼻で笑って俯く。

 

「私達に、そんな未来は許されないでしょう」

 

 自分達が苦しんだのだから、他者にも同じ苦しみを。

 そんな生き方をした自分達に、救いなど与えられる筈がない。

 そんな意味を込めた返答に応える声は無く、部隊長はその掲げていた左腕を静かに振り下ろし、告げた。

 

「――撃て(殺せ)

 

 暗闇に包まれたスラムの一角で、多数の銃声と閃光が瞬く。

 その中に悲鳴の類は一つとして存在せず――銃声と閃光は夜空に吸い込まれ、掻き消える。

 

 後にはただ、静寂と暗闇だけが残っていた。



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エデン条約編 後編2 【託された願い、捧げられた祈り、残された呪い】
アリウス対策会議


誤字脱字報告に感謝致しますわ!


 

「お越し頂きありがとうございます、先生――多忙の中、申し訳ありません」

「やぁ、こんにちは」

 

 トリニティ自治区、本校舎――第一会議室。

 その日、先生はティーパーティーからの呼び出しに応じトリニティ自治区へと出張を行っていた。指定された場所は学園の本校舎、その中でもごく限られた人物のみが立ち入りを許される区画にある大会議室、部屋に入るとまず中央に設置された巨大な円卓が視界に入る、そしてそれぞれの位置に座す三名の生徒。先生は彼女達を見渡しなら、軽く手を振る。

 円卓最奥に座すナギサ、入り口から向かって右手方向にはサクラコ、そして左手側にはミネが。それぞれがそれぞれの分派の代表として着席している。トリニティに於ける各派閥、そのトップが一堂に会すその場所は何とも云えぬ厳かな雰囲気に包まれていたが、その表情は皆平然としていた。それが外見的なものだけなのか、或いは腹の底からそうなのかは分からないが、少なくとも険悪な空気を感じる事はなかった。

 

「先日はお世話になりました、先生」

「いいや、あれくらいはお安い御用さ、サクラコはその後どうだい?」

「体調に変わりなく、怪我についてもすっかり良くなりました」

「それは何よりだ」

「先生も、随分馴染んだ御様子で」

「あぁ――」

 

 呟き、先生は自身の左手を撫でつける。指先に感じる硬い感触は未だ慣れないが、それでも想像以上にスムーズな動きを左腕は見せた。左腕に装着した義手、その指先が開閉し細かな動作を繰り返す。

 先生の両手にはハーフグローブが嵌められており、その指先は完全に覆われている。見慣れないものであったが、それはつい先日付け始めたばかりのものだった。手袋の隙間から覗く色も肌と同じで、遠目から観察する程度には義手だとは気づかれないだろう。馴染んだ、というのも強ち間違いではない。

 

「もう大分慣れて来たよ、日常生活も困る事が殆どなくなった、色々と心配を掛けたね」

「いえ、その様な事は」

 

 ふと視線を横にずらすと、自身を注視するエメラルドグリーンの瞳と目があった。

 特徴的な白の制服に蒼色の髪、空の様な翼を持つ生徒。力強く注がれる視線に先生は応え、身体ごと彼女に向き直る。それに釣られるようにして、件の生徒は立ち上がると口を開いた。

 

「――はじめまして、になりますか」

「……そうだね、私としてはそういう意識は余りないのだけれど」

「私も救護騎士団の方で先生の噂は聞き及んでいましたので、感覚としては以前からの知り合いの様なものですが」

 

 そう云って足音を鳴らし、先生の直ぐ傍まで近寄る生徒。真っ直ぐ此方を見つめる瞳は余りにも真摯で、曇りない。

 

「改めて、救護騎士団の団長を務めております、蒼森ミネと申します」

「シャーレの先生です、宜しくね」

 

 そう云って差し出された手を握り締め、二人は握手を交わす。握り締めた彼女の手は力強く、女性特有のしなやかさの中に確かな硬さを感じた。人を助ける為の手だ、肌を通じて彼女の熱い信念が伝わって来るようだった。

 

「それにしても、ティーパーティーにシスターフッド、救護騎士団と……随分不思議な組み合わせだね?」

「ふふっ、そうですね、少々ナギサさんを困らせる組み合わせかもしれません」

「む、私はホストを困らせるつもりはないのですが……信念と誇りを掲げる尊き騎士団の一員として道を誤ったものを正すだけです、例えそれが正義実現委員会やティーパーティーの生徒であったとしても」

「………」

「そのお言葉が既にナギサさんを困らせている様ですが」

 

 ナギサが気まずそうに紅茶を啜っているのを見たサクラコが、思わずそう感想を漏らす。ミネが無言で踵を返し席に戻ると、ナギサは薄目でそれを確認しながら咳払いを一つ挟んだ。

 

「ごほん……構いません、こうなる事は予測出来ていましたから――兎角、本題に入りましょう、先生もどうぞご着席を」

「あぁ、うん」

 

 紅茶をソーサーに戻し、そう告げるナギサ。どうやらある程度混沌とした状況になる事は予測していた様だった。少々戸惑いながらも先生は扉に一番近い席に腰を下ろす。

 此処に、会議に出席する面子が揃った。

 全員を見渡したナギサは一つ頷き、努めて冷静な口調で以て告げる。

 

「さて、先生を御呼び立てした理由は他でもありません、エデン条約以降の顛末と事件、その後始末について話し合う為です」

「トリニティの復興状況と、認識の擦り合わせもだよね? 一応報告の類は小まめに貰っているけれど――」

「えぇ、ティーパーティーとしてシャーレとの綿密な連携は必要不可欠ですから、故に私と先生による会談の予定……だったのですが」

 

 呟き、ナギサの視線がサクラコとミネに向く。その瞳には複雑な感情が見え隠れしていた。視線の意図に気付いたミネが真剣な表情を浮かべたまま口を開く。

 

「私達、救護騎士団からも出席の要請を出し同席させて頂きました――私も、騎士団の団長として責務を果たさなければなりませんので」

「……シスターフッドも、あの事件を機に変化が必要であると判断しました、今後はこういった席にも積極的に参加するつもりです」

「――という訳です」

 

 二人の言葉を受け、ナギサが深々と頷く。本来であればティパーティーとシャーレの会談である筈が、そこに救護騎士団とシスターフッドも加わった。それ自体は特段構わない、元々トリニティは複数の派閥が纏まって出来た総合学園――ティーパーティー以外にも独自の勢力として活動する集団・組織は存在する。そしてその中でも強い影響力を持つ派閥、或いは組織が救護騎士団とシスターフッドの二つである。彼女達が参加する事はトリニティ全体を良い方向へと導くだろう。

 だが、それはそれとして――。

 

「えっと、一応聞いておくのだけれど、派閥間の牽制だったりはしないよね……?」

「はい、純粋に興味があるだけです」

「私は、その様な政治的な事は良く分かりませんので」

「そっかぁ」

 

 互いにあんまりと云えばあんまりな素っ気なさに、先生は気の抜けた声を漏らす。理解していた事だが少しだけ安心した。シスターフッドはそもそもこういった派閥間の云々に固執せず、救護騎士団は政治そのものに関心がない。寧ろどんな形であれ、こういった方面に意識を向け始めた事に喜ぶべきか。少々悩ましい解答であった。

 

「エデン条約の騒動はどうにか収まりを見せていますが事件の処理と状況分析は依然として終わっていません、シスターフッドとしても無関係ではありませんから、分析の一部は私達が担当しているのです――この席は、そういったティーパーティー以外の派閥に於ける情報共有及び事後処理について話し合う場でもあると思って頂ければ」

 

 トリニティの各派閥、その認識の擦り合わせと情報共有、そう考えれば成程――合理的ではある。何より各派閥の持つ情報を提供し合い、協力し合える土台を作れるのなら素晴らしい事だろう。そう思い、先生は頷いて見せた。

 そのようなサクラコを前に、ナギサは何処か神妙な面持ちで呟く。

 

「お恥ずかしい話ではありますが、現在ティーパーティーは外部の手助けを必要としています」

「……と、云うと」

「エデン条約の前後にティーパーティーの一員がホストを襲撃する事件が起こり、その結果メンバーが監獄に入れられるという前代未聞の事態となりましたから」

「……セイア様の治療に当たっていたのは周知の通り、私です、その為私も自分なりにこの事件を調査して参りました」

 

 ナギサに代わり、サクラコがティーパーティーの失態に関して言及し、その言葉に続く形でミネが説明する。

 

「ミカ様は結果的にアリウスに利用された形ではありますが、かと云って本人の罪が消える訳ではありません、そして現ホストであるナギサ様は『シャーレ』という超法規的組織を利用し、無辜の生徒を退学に追い込もうとしました、被害を受けた生徒に謝罪し丸く収まったとは聞き及んでいますが罪は罪、その事実は変えられません――セイア様も幸い学園に復帰する事が叶いましたが、以前より体調が悪化してしまい、現在も自室から簡単に出られない体となっております」

「つまり、ティーパーティーは現在非常に不安定な体制であると云えるのです、故に外部からの手助けが必要という判断に至りました」

「――という事です」

 

 ナギサは二人の丁寧な説明を前に、深い溜息を吐き出す。先の一件で学内に於けるティーパーティーの権威は大きく損なわれた、元より複数の派閥を統制する目的で作られた複数の生徒会長による統治(ティーパーティー)、しかしその代表全員の資質が疑われるような状態では、学園を以前と同じ様に統治出来る筈もなし。

 

「ミネ団長はトリニティでも最も古い歴史を誇る部活のリーダーであり、ヨハネ分派の首長でもあります、本来であればティーパーティーに参加する権利を有している筈なのですが……今までは救護活動を遂行する為にそれらを断っておりましたね」

「それは過去の話でしょう、必要があれば踏み出す、当たり前の事です」

「では、今からでも参政を?」

「いいえ、あくまでも私は救護騎士団の団長です、その立場を退く気はありません、先程云ったではありませんか、政治的な事は分からないと」

「んんっ、話を戻しましょう……この事件を紐解けば、全てはアリウス分校に集約されます」

 

 サクラコとミネの会話に割り込む形でナギサが告げる。二人の視線が彼女に向き、それを感じながらナギサは淡々とした口調で続けた。

 

「エデン条約の会場爆破、及び襲撃、その実行犯であり黒幕であったのもアリウス分校でした、アリウスが背後で糸を引いていたのならば幾つか疑問が残ります……一つ、アリウス分校は何故エデン条約を妨害したのか?」

「それに関しては分かり易い動機があります、アリウス分校は長年、我がトリニティとゲヘナ両校を憎んでいたと聞き及んでいます、今回の一件を一度に両学園の要人を無力化する絶好の機会と捉えたのでしょう」

「更に付け加えるのであればエデン条約と云う契約を利用し、不可解な兵力を手に入れたという報告も受けています」

「ユスティナ聖徒会……だね」

 

 ナギサ、サクラコ、ミネの順に発言し、最後に先生が呟く。ユスティナ聖徒会――あの朧気で、恐怖を煽る様な姿を忘れる事は難しい。先生の呟きに対しナギサは頷き、自身の見解を述べる。

 

「はい、正確に云えばその姿を模した幽霊の様なものでしたが、それらが無傷のままトリニティやゲヘナ中央区へ侵攻する状態を許せば――両学園の崩壊すら可能性としては存在していたと、私はそう考えております」

「ふむ……」

「………」

 

 冷静にそう告げるナギサに、ミネは唸りを上げサクラコは沈黙を貫く。

 ナギサは件の存在を非常に大きな脅威と見ていた。彼女自身は最初の爆撃によって意識を失い、気付けば救護騎士団病棟で目覚め全てが終わっていたが――それ故に事件後の分析と事後処理に関しては人一倍尽力したと云って良い。当時の映像や生徒達の証言を集め、当時のトリニティが動員出来た戦闘員数、及びゲヘナとの連携を含めた戦線構築の観点から、件のユスティナ聖徒会の戦力が文字通り両学園を壊滅するに足る代物だと結論付けたのだ。

 あの瞬間、ミカやハナコが蜂起せずに居たら。或いは先生の意識が戻らなかったら。そう云った未来もあり得たかもしれない。

 

「……ユスティナ聖徒会と云えば、件の存在はシスターフッドの前身でしょう、サクラコさん、シスターフッドの代表である貴女ならば何かご存知なのではありませんか?」

「――いいえ、残念ながら」

 

 ふと、ミネがそのような事を口走った。その視線が疑問と共に正面に座るサクラコに向けられるが――当の本人は緩く首を振って否定する。その動作は余りにも穏やかで、どこか余裕を感じさせた。その飄々とした態度が彼女の不信を刺激したのか、ミネはその視線を絞り尚も云い募った。

 

「シスターフッドは元来秘密が多い組織です、外部への露出が少なく情報の統制や秘匿、歪曲にも長けています」

「元よりシスターフッドとは、そう在るべき組織でしたので」

「学園の中にシスターフッドに対して不審を抱いている生徒が多くいる事は御存知でしょうか?」

「それは――例えば、今のあなたの様に、でしょうか?」

 

 穏やかに佇んでいたサクラコが片目を開け、正面のミネを見る。その視線が身を乗り出すミネと交わり、ぴんと緊張の糸が張り詰めた。片や真剣な面持ちで、片や薄ら笑いと共に。今にも銃口を突きつけ合いそうな緊迫感と冷たい空気が二人の間で吹き荒れ、その合間に座るナギサの眉間に皺が寄る。

 そして、尚もミネが何かを口にしようとして――。

 

「ストップ」

 

 それより早く、先生が二人の間に手を翳した。ミネとサクラコの視線が先生の手に遮られ、その瞳が先生に向けられる。二人の目を順に見つめた彼は、努めて穏やかな口調で以て告げた。

 

「議論するのは良い、意見の相違もあるだろう、その結果険悪な空気になる事もあるさ、けれど喧嘩は駄目だ、相手に対する敬意と配慮を忘れては建設的な意見は交わせない――違うかい?」

「………」

 

 先生の仲裁に対し、彼女達は互いの顔を見合わせ静かに浮かし掛けた腰を椅子に戻す。その様子を眺めていたナギサはほっと安堵の息を吐き出し、心を落ち着ける為に紅茶を啜った。口内に満ちる風味は良い、どんな状況であれ自身を慰めてくれる。彼女は緊張した時、あるいは緊急時程紅茶を愛飲した。最早彼女にとって、紅茶とは精神安定剤なのである。

 椅子に座り直したサクラコは両の指先を絡め、ごく淡々とした口調で言葉を紡ぐ。

 

「……ユスティナ聖徒会に酷似した存在についてはシスターフッド内でも幾つかの仮説が立っておりますが、それを裏付ける証拠が依然として発見出来ていない状況です、今この場で推測を口にした所で場を混乱させるだけでしょう、それと私がシスターフッドの秘密を全て知っていると思っているのであればそれは見込み違いというものです」

「と、云いますと」

 

 ミネの相槌に、サクラコは肩を竦め云った。

 

「シスターフッドには私すら知らない、秘匿されたものが数多く存在します――詳しく申し上げる事は出来ませんが」

「……そうでしたか、先程は失礼しました」

「――はぁ」

 

 二人の間に流れていた険悪な空気が一先ず晴れ、安堵の息を漏らすナギサ。彼女は再び紅茶に口を付けて心を落ち着けると態と音を立ててソーサーにカップを置く。マナーとしては決して褒められた行為ではないが、こういう場合視線を集める一つのテクニックとしては有用だった。

 

「一先ずユスティナ聖徒会に関しては保留で良いでしょう、現在分かっている事から一つずつ整理していく事が肝要です」

「そうですね……では、調印式会場に撃ち込まれた、あのミサイル――そちらの分析については?」

 

 ナギサの言葉にミネが問いかける。調印式会場に撃ち込まれた誘導弾頭、破片や残骸に関しては早い段階でトリニティの回収班が出張っており、それらの残骸は解析・分析用に現在もトリニティ内部にて厳重に保管されている。

 

「あの弾頭に関しては今現在も分析を進めておりますが、今のところは出所も構造も不明、そもそもキヴォトスに存在する技術ではないという事だけが分かっております、そちらについては恐らく……」

 

 ちらりと、ナギサは正面に座る先生に視線を向ける。それを感じ取った先生は一つ頷き、円卓の上に置いたタブレットを指先で叩きながら発言した。

 

「シャーレ側の見解としては、凡そはナギサと同じだよ、ただ内部に搭載されていた爆弾はヘイロー破壊爆弾だった、下手をすれば何万人という生徒が死んでもおかしくない程の数のね……私も、あの様な兵器は見た事がない」

「となると、アリウス分校は未知の力を最低二つは確保しているという事ですか」

「えぇ――そして、それが二つ目の疑問に続きます」

 

 サクラコの言葉に続けて、トン、とナギサが円卓を指先で叩く。

 その表情には強い懸念の色があった。

 

「二つ、アリウス分校は一体何を計画しているのか」

「………」

「これについては、私達は何も分かっていません、簡素に考えるのであれば私達トリニティ、そしてゲヘナを殲滅し嘗ての憎悪を晴らす、と云うのが尤もらしいですが」

「トリニティとゲヘナを壊滅させ、『その上で何かを為そうとしていた』可能性がある――という事ですね?」

「はい」

 

 その言葉にサクラコが膝上で指先を組み、ミネは眉間に皺を寄せる。その辺りに関しては余りにも情報が不足している、何かを推測する為の材料すらないのが現実だった。

 何せ、現在トリニティは彼女達の本拠地であるアリウス自治区を発見する事すら出来ていないのだから。

 

「しかし、私達はアリウス自治区が何処にあるのかも知らないのです、分析しようにも手の出しようがありません」

「……以前からその点については謎のままでしたが、今回の件をきっかけに幾つか糸口を得る事が出来ました」

「糸口?」

「――カタコンベ、だね」

 

 ミネが疑問符を浮かべれば、透かさず先生がカタコンベの名を出す。そう告げた先生の言葉に、ナギサは力強く頷いて見せた。長年謎であったアリウス自治区、その所在。それに関して彼女達ティーパーティーは有力な情報を既に掴んでいた。

 

「はい、彼女達は通功の古聖堂、その地下にあるカタコンベから潜入し、トリニティ自治区内にて活動を行っていた事が分かっています」

「カタコンベ……確かに、あれの出入り口は自治区内に広く分布していますが」

「となると、アリウス自治区はカタコンベの内部に?」

「恐らくは」

 

 頷き、肯定を示すナギサ。サクラコはその情報に目を細め、ミネも難し気な表情を浮かべる。トリニティのカタコンベ、その内部にアリウス自治区が存在する――その情報は確かに糸口とはなるだろう。しかし続く問題は、そのカタコンベ自体にあった。

 

「しかし、トリニティ自治区に存在する地下遺跡はかなりの数です、それらを全て調査し、統制する事は不可能でしょう」

「付け加えるのであれば、カタコンベは未だにその規模が明らかにされていない迷宮――そこから自力でアリウス自治区を見つけ出すのは、かなり無理がある話です」

 

 トリニティ自治区に点在する地下遺跡――カタコンベ。

 その存在は遥か昔から確認されており、カタコンベの名を知る者は少なくない。その詳細を知らない生徒は数多く存在しても、名前を一度も聞いた事がないという生徒は少数だ。しかしそうでありながら現在に至るまで迷宮と呼ばれ続け、内部を調査されなかった事には理由がある。

 

「セイアさん曰く、あの自治区は私達が理解出来ない『とある力』で保護されているとの事です、そうでもなければ、今まで隠し通せている説明が出来ないと」

「その、『とある力』というのは? 理解出来ないとは仰いますが、聊か想像が難しく」

「理解出来ないというのは、その力の構造的な側面についてでしょう、力そのものについては私達に認識できなくする代物、そこに存在する筈なのに、存在しない様に見えてしまう――とでも云えば良いのか」

「それもまた、アリウスの未知の技術か何かでしょうか……? シスターフッドとしてこの様な物云いは不躾ですが、不可思議な力が多すぎますね」

「嘗てアリウス所属であったアズサさんの話では、任務の度にカタコンベの出入り口が記録された地図を渡されていたそうです、地図の経路は常に変化し、更に暗号化まで施されているとの事でしたが――裏切者である自分はもう、アリウス自治区に戻る道を知らないと」

「――待って下さい」

 

 ふと、ミネが声を上げた。それは会議の中でも良く通る、力強い声だった。

 言葉を止めたナギサが声の主に視線を向ければ、ミネは何処か責める様な視線で以てナギサを見ていた。まるで悪人を詰る様な、鋭くも威圧感を覚えさせる視線だ。そんな視線を向けられる覚えのないナギサは、思わず目を泳がせたじろいでしまう。

 

「えっと、何か――?」

「……その少女を、取り調べたのですか?」

「えっ?」

「白洲アズサさん、あの子にアリウスの情報を吐かせたのですか!?」

 

 バン、と両手で円卓を叩き立ち上がるミネ。円卓の上にあったカップがソーサーとぶつかって音を鳴らし、その怒りを滲ませた空気を悟ったナギサは何か誤解を生んでいると気付き、慌てて両手を振ると弁明を試みる。

 

「あ、いえ、この情報は自主的に本人が――」

「彼女はもう十分な代償を支払っています! 自分が居た自治区から裏切者の烙印を押され、それでも私達の為に尽くしてくれました! やっと心の平穏を取り戻したであろう子に、私達の事情に巻き込んでアリウスの情報を問い詰めるなど、なんて残酷な……ッ!」

「いや、あの、違っ、話を聞い――」

「あの少女が果たしてそのような気持ちになるのでしょうか!? ティーパーティーの権力を利用して、か弱い少女に無体を働いたに違いありませんッ! それはキヴォトスに生きるひとりの存在として、このトリニティ総合学園に在籍する生徒して、何より学園の代表たるティーパーティーとして断じて許される行いでは――ッ!」

「――落ち着いて下さい、ミネ団長」

 

 ヒートアップし、尚もナギサを責め立てようといきり立つミネを前に、凛とした声を上げるサクラコ。彼女の鋭く、差し込む様な声に気付いたミネは一瞬口を噤む。そして澄まし顔で制止を口にしたサクラコは努めて冷静に、淡々とした口調で断じた。

 

「白洲アズサさん、彼女がその様な無体を受けた事実はありません」

「……違うのですか?」

「はい、ナギサさんが血も涙もない残酷な方であるのは確かですが、白洲アズサさんは心身ともに健康な状態で今も学園生活を送っております、何より彼女の所属する補習授業部はシャーレの先生が顧問として担当している部活動――その様な行いを先生が看過する筈がありません」

「……確かに、一理ありますね」

 

 サクラコの理性的な言葉に、ミネは熱くなっていた自身を自覚し背筋を正す。伝え聞く先生の噂が本当であれば、彼が白洲アズサに対する無体を許す筈がない。先程のナギサの狼狽え様、サクラコの態度、それらを鑑みて彼女の言葉が真実であると判断する。ゆっくりと席に戻ったミネは小さく息を吐き出し、ナギサに向けて静かに頭を下げた。

 

「失礼しました、ナギサ様」

「……えぇ」

「その、ナギサ……? ティーカップが震えているけれど――」

「――問題ありません」

 

 ミネの謝罪を受け入れ、再びティーカップを手に取ったナギサ。ソーサーとカップをそれぞれ両手に優雅な雰囲気で紅茶を口に含む彼女はしかし――その指先が小刻みに震える事で、カップとソーサーがぶつかりカタカタと音を鳴らしている。

 

 どう見ても問題しか無かった、問題しか無かったが彼女の名誉と尊厳の為に先生はそれ以上言及する事は無い。二度、三度、四度、先程よりも多くの紅茶で喉を潤したナギサは、青白い顔色のまま深く息を吐く。カップをテーブルへと戻した左手は静かに、さりげなく自身の腹部を摩っていた。それは胃痛によるものか、或いは紅茶を飲み過ぎたが故のものか。

 

「ふぅー……私も重々承知しております、補習授業部の方々は本来背負うべき責任よりもずっと多くの事を背負い、此処まで歩いて来ました、彼女達が背負ってしまったものの中には私が原因の荷もあったでしょう、それに関しては私にも負うべき責と後悔があります」

 

 告げ、彼女は腹部に手を当てたままぐっと唇を噛む。苦悶をその表情に滲ませながらも、しかしナギサはそれに勝る痛烈な意思によって言葉を続けた。

 

「その為にも私は此処に居るのです、エデン条約は彼女達に多くの苦難と傷跡を残しました、だからこそ――この様な場所に彼女達が座らずに済む様に、あの子達が関与せず終わらせる為に、今尚、私なりに最大限の努力をしているのです」

 

 両手を揃え、真っ直ぐミネを見つめたナギサは告げる。

 その言葉に嘘はない。ナギサは自身の為した事を、その選択を、行動を、心の底から後悔している。もっと別のやり方があったのではないか、もっと別の道があったのではないか、もっと話し合えば、もっと歩み寄れば、もっと深く考えていれば――もしも、もしかしたら、或いは、そんな『かもしれない』という無数の可能性を噛み締めて、彼女はこの場に立っていた。

 その後悔は察して余りある、彼女にしか分からない深い(感情)があった筈だ。だからこそ彼女の言葉は重く、ミネの胸に沈み込む様にして届いた。

 微動だにせずナギサを見つめる彼女は、両の手を握り締め、円卓の上に添えたまま――静かに頷いた。

 

「……その言葉、信じます」

「えぇ」

 

 重々しく告げられる、信じるという言葉。ナギサもまたそれを真摯に受け止め、椅子に深く背を預ける。

 

「……こんな泥仕合は、私達の役目でなければ――あの子達に、このような経験をさせてはならないのです」

「――同感です、私も、気持ちとしてはハナコさんに役目(シスターフッド)を渡したいと思っておりましたが……」

 

 ナギサの言葉に頷き、サクラコはその表情をふっと緩める。

 思い浮かべるのは才媛と称えられ、あらゆる期待と信頼に応えて来たひとりの生徒の事。なまじ能力があり、才能に恵まれたからこそ、その期待と信頼は際限なく膨らみ続け――その果てに彼女は自身の評判を手放し、自由に生きる道を選んだ。

 他者に自己を定義させるのではなく、自分自身によって自己を定義する道。それは体裁や外面を第一に考えるトリニティに於いて茨の道だろう。しかし彼女は、自身の中でそう在る事を善しとした。

 

 何より彼女は、あのような環境にあって尚、その責任を他者に求める事が無かった――徹頭徹尾、彼女の善悪は自身の内側によって完結していたのだ。

 それの善し悪しはどうあれ、サクラコはそんな彼女を見た時、『高潔である』と思った。それは外面的な話ではない、精神的な、在り方の話だ。信頼に応え、期待に応え、際限なく膨らむそれに彼女は応え続けた。しかし、その在り方をやめた途端、掌を返したように自身を責め立て揶揄する周囲に、彼女は当たり散らす事も報復する事もせず、全てをあるがまま受け入れていたのだ。

 それはサクラコにとって、非常に好ましい姿勢であった。

 或いは彼女であれば――自身の後継が務まるのではと、そう期待した。

 

 あるがままを受け入れ、理解されない事を理解し、秘密を秘密として胸に秘め続ける事。

 彼女の役目は万人に果たせるものではない、故にこそ彼女はハナコという存在に目を惹かれたのだが――。

 想い、サクラコは首を緩く振る。

 

「……これは感傷ですね、彼女には彼女の在り方がある、私達だけで残った問題を解決する事――それがエデン条約に於いて翻弄されてしまった、我々に出来る最低限の礼儀なのでしょう」

 

 そう、これはただの感傷だ。サクラコは既にハナコをシスターフッドに勧誘する事を諦めている、何せ本人がそれを望んでいないのだから。

 何よりサクラコは、もしも万が一彼女から加入の打診があったとしても断っていただろう。

 だって――。

 

「補習授業部の皆さんと過ごすハナコさんは、とても楽しそうに笑っていらっしゃいますから」

 

 そう、彼女達と過ごすハナコはとても綺麗に、何の屈託もなく笑うのだ。

 あの陰鬱とした気配を纏い、昏く沈んだ瞳をした彼女を知っているからこそ――その時間を、幸せを、奪いたくはない。

 

 だからこそ、暗闇(裏側)は自分達が背負う。

 

 それは此処に集った四人、全員に云える事であった。自身の親しき者、目を掛ける者、好意を抱く者を危険に晒したくはない。或いは重い責務を背負わせたくない、その様な想いが彼女達を今の地位に押し上げている、少なくとその一因である事は確かだった。

 

 サクラコの言葉に、先生はぐっと肩を張る。大人顔負けの責任感と使命感、それらを携え佇む彼女達を前に、先生は鏡を見せられている様な心地だった。あなたはこう在れと、こう在るべきだと、その手本を見せられている様な。

 そんな彼女達が頼もしく、心強く感じられ――そして同時に、先生にとっては少しだけ悲しい事でもあった。

 

「勿論、私も最大限協力させて貰うよ」

 

 そう云って、両の手を握り締める。全員の視線が向けられる中、先生は自身の胸に燻る遣る瀬無さを噛み締め、その口元を引き締め告げるのだった。

 

「――こういう後始末は本来、大人の仕事だからね」

 


 

 本当なら二日で投稿するつもりの話でしたの。

 投稿が遅れて申し訳ありませんわ、実は昨日40度近い熱を出してぶっ倒れましたの。「何か今日くっそ熱いのにくっそ寒いですわねぇ~?」とか思っていたら私自身がファッキンホットだったというオチですわ~! はー、この世から病原菌全部滅んで下さらないかしら~???

 

 でも投稿は延ばしません事よ、先生がまだ生きている以上私が先に斃れる訳にはいきませんの。私にはまだ文字を打つ為の両腕が残っています事よ~!!!

 正直病床だとくっそ暇なのですわ~! でもモニタとか見続けるとまた頭痛いんです事よ~っ! 地獄ですわ~ッ! はー、やってられねぇですわよおクソして寝ますわ。

 

 誤字脱字多かったら申し訳ねぇですわ~っ! 皆さまも季節の変わり目は体調を崩しやすいので十分気を付けて下さいまし!



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桐藤ナギサの(アガペー)

誤字脱字報告に感謝致しますわ~!


 

「――さて、では休憩を挟んだ所で会議を再開しましょう」

「承知しました」

「はい」

「そうだね」

 

 ソーサーにカップを戻したナギサが、ふとそう切り出した。

 手洗いやティータイムとしての僅かな休息を挟み、円卓を挟み再び四人が向き合う。長時間の会議はやはり心身ともに負担が大きく、時計を見れば既に開始から一時間が経過していた。円卓に用意されたティーポットの中身も、随分目減りした事だろう。

 ナギサが背筋を正し、口火を切る。

 

「さて、現在問題となっているのはアリウス自治区、その位置情報の把握に関してです、そしてカタコンベを通過する為の手段ですが――……」

「カタコンベは全体地図さえ判明していない巨大迷路、毎度変わる入り口を探すとなると、中々の難問ですね」

「今からでも調査隊を派遣して内部構造や入り口の変化、その規則性に関して調べるのも手ではありますが……」

「それは、かなり時間と労力が必要だろうね、少なくとも一ヶ月かそこらで結果が出るとは思えない」

 

 ナギサの言葉にミネは腕を組みながら呟き、サクラコが調査隊に関して言及する。しかし、先生はその提案に難色を示した。その発言にナギサも頷き同意を示す。

 

「先生の云う通り、調査隊に関しては現実的ではないでしょう、少なくともそう易々と解明できる事であるのならば先人が既にカタコンベを開拓していた筈です」

「手付かずのままであった事にはそれ相応の理由がある……という事ですか」

「アリウスがこのカタコンベの構造を把握している事も、彼女達の持つ不可思議な力に関係があるのでしょうか?」

「――或いは、知っていて秘匿されたか」

 

 先生の呟きは、誰の耳に届く事なく噛み潰される。元よりトリニティの過去については不明な点も多い。そしてその大部分は丁寧にコーティングされた(整えられた)代物である事が殆どだった。少なくとも、一般生徒の目に留まる部分は。

 過去のトリニティ、或いはトリニティ総合学園が生まれる前、彼女達がカタコンベの謎や構造を全て把握していた可能性はある。しかし時の流れの中でそれらの情報は失伝した、或いは意図的に秘匿され――いつしか、一部の者のみが知るだけとなった。

 そういった場合も考えられた。

 

 兎角、今必要なのはカタコンベを通過する方法、そしてアリウス自治区を見つけ出す事だ。実際問題、常に構造の変化するカタコンベは一つの正解を見つけた所で翌日には使えなくなる――なんて事は日常茶飯事。その変化が一定なのか、或いは不規則なのかすら定かではない現在、そうなると常に全ての入り口を確認する必要がある訳だが、入り口全てを見張る余裕は今のトリニティに存在しない。否、今でなくとも不可能だろう。

 調査ともなると都度変化する入り口を探して、という事になる。誰の目から見ても無謀な行為だ。

 そうなると、既に情報を持っているところから持ってくるしかない。

 

 同じ発想に至ったのか、サクラコは手を組んだまま穏やかな口調で告げた。

 

「確実な手段を取るのであれば、通路を把握している人に話を聞くのが一番でしょう」

「通路を把握?」

「――アリウス・スクワッドですよ」

 

 ミネの疑問に、彼女は極めて平坦な口調で答える。その言葉にナギサの視線が絞られ、ミネもその纏う雰囲気を寒々しいものへと変化させた。アリウス・スクワッド――その名は現在のトリニティに於いて一際重い意味を持つ。

 ずきりと、先生の潰れた右目が軋む様な痛みを発した。

 

「襲撃を主導したアリウスの特殊部隊、そのリーダーである錠前サオリ、彼女であれば確実に通路を熟知している筈です」

「アリウス・スクワッド、トリニティを此処まで追い込んだアリウスの特記戦力……ですね」

「成程、特殊部隊のリーダー、確かにその様な立場であれば通路の詳細を把握していてもおかしくはない」

 

 サクラコ、ナギサ、ミネの順に発言し、その表情には理解の色が灯っている。通路に関係する情報がどの程度の生徒にまで知らされているかは分からない。しかし、特殊部隊という分かり易く重要な部隊の長ともなれば、情報を貰っていないという事はまず無い筈だった。

 

「ですが、仮に捕らえたとしてどの様に聞き出すのですか? よもや、前時代的な手法を取るつもりではないでしょう?」

「今は薬剤による自白も促せますが……そうですね、学園の特殊部隊ともなれば尋問に対する訓練も積んでいる筈です、口を割らせるのは容易ではないでしょう」

「それでは――」

 

 ミネとサクラコが互いに言葉を交わし、二人の視線がナギサに向けられる。そこにある意図を汲み取り、ナギサは一度目を瞑る。そして何処か憂う様な表情と共に先生に顔を向けると、彼女は唇を噛み締めながらも、しかしハッキリとした口調で告げた。

 

「先生がいらっしゃる手前、このような事は口にしたくはありませんが……必要とあらば多少の暴力行為を厭うつもりはありません」

「――それは」

「決して褒められた事ではないのは重々承知の上です、しかし事は高度に政治的要素を含んでおります、ましては今回は私達トリニティの被った被害が余りにも大きすぎる、このまま野放しにして置くことは出来ません、襲ってくると分かっている相手を前に無防備な隙を晒す事は真似は、決して」

 

 次は――本当に死人が出てもおかしくないのですから。

 ナギサの言葉にサクラコとミネの両名は沈黙を返す。サクラコとしては消極的賛成、ミネとしては救護騎士団という立場上決して賛成は出来ない、しかし現状を考えれば反対を口にする事も出来かねる、という所だろう。

 先生はナギサの言葉に小さく頷きながら、感情を押し殺し発言する。

 

「少し、良いかな」

「勿論です、先生」

「……私としては、ナギサの意見に賛成は出来ない」

「それは、先生としての立場からでしょうか?」

「勿論そういう気持ちはある、けれどそれ以上に――」

 

 ナギサの問い掛けはもっともだ。本音を云えば生徒達が憎悪を持って銃を向け合う様な事態そのものを止めたいと思っている。しかし、スクワッドに関しては感情以外の問題が存在していた。

 

「肝心のスクワッドの消息が掴めていない、皆の情報網でアリウス・スクワッドの行方を掴んだ所はあるかい?」

「それは――」

 

 先生の問い掛けに、ナギサは言葉を詰まらせる。そのまま二人に目を向ければ、ミネとサクラコの二人は静かに首を振ってみせた。

 

「シスターフッドの方では、特に発見報告は上がっておりません」

「救護騎士団でも、スクワッドの行方に関しての情報は何も」

「……ティーパーティーでも、行政官から発見報告は受けておりません」

 

 トリニティに於ける三大組織、その何処もスクワッドの足取りを掴めていない。捕まえた後を云々する以前に、見つける事すら出来ていないのが現状だった。先生はその言葉を耳にし、神妙な面持ちで告げる。

 

「そうなると、既にアリウス自治区へと撤退している可能性もある筈だ、内部に戻った彼女達を追跡するのは不可能だろう」

「……情報源は既に闇の中、という訳ですか」

 

 呟き、ナギサは椅子に凭れ掛かる。その様子を見つめながら、先生は内心で彼女達に詫びた。スクワッドがアリウスを離反した事実を知っているのはごく一部だ。少なくともアズサがそれを彼女達に明かした様子はないし、そして先生自身も明かすつもりはない。

 先のナギサの発言からも察せられる通り――彼女達がゲヘナか、トリニティか、そのどちらかに拘束された場合、碌な未来にならないのは明らかであった。

 

「実質的な調査は難しい、情報源もない、これでは手詰まり――」

「いいえ」

 

 ミネがそう呟きを漏らせば、サクラコがふと声を上げた。二人の視線が彼女の向けられ、当の本人は涼し気な表情を浮かべたまま口を開く。

 

「スクワッドから聞き出す事が難しいのならば、彼女達以外に通路を知っている可能性のある生徒に当たってみましょう」

「……通路を知っている生徒?」

「サクラコさん、そのような方がいらっしゃるのですか?」

「えぇ、いらっしゃいます――このトリニティに」

「………」

 

 ミネが疑念を表情に張り付け、ナギサが純粋な驚きを見せる。そんな中、先生だけは強張った表情でサクラコを見ていた。彼女は薄らとした笑みを貼り付けたまま、その名を告げる。

 

「――聖園ミカ」

「っ……!」

 

 その声は決して大きくなどなかった筈なのに、会議室の中で良く響き全員の耳に届いた。

 カタリと、ナギサのティーカップが揺れ音を立てる。

 

「ミカさんが……?」

「――少し、待って欲しい」

 

 空かさず先生が口を開く。サクラコの美しい光を湛えた瞳が先生を真っ直ぐ捉え、それを正面から見返しながら彼は言葉を紡いだ。その表情は、酷く真剣だった。

 

「サクラコ、ミカの調書については既に目を通しているよね?」

「調書――と云うと、ミカさんを尋問(取り調べ)した際の報告書ですね」

 

 先生の問い掛けに対し、彼女は穏やかな様子で応える。先生の言葉にナギサはハッとした表情を浮かべ舌を回した。

 

「そ、そうです! 既に調書に関しては皆さんと共有している筈です! ミカさん本人も、アリウス自治区の位置は知らないと仰っていると、そう記載されて――」

「お言葉ですが」

 

 ナギサの弁護を両断する様に、凛と響いたサクラコが声を張る。びくりと、ナギサの肩が揺れた。薄らと閉じられていたサクラコの瞳が大きく開き、その双眸がナギサを捉えた。

 

「彼女は長い間アリウスと内通していました、誰にも悟られる事無く、パテル分派の傍付きにすら気付かれず、だというのにアリウスの位置を微塵も知らない等――その様な事が果たしてあり得るのでしょうか?」

「………」

 

 サクラコの言葉に、ナギサは思わず言葉を呑み込む。額に薄らと汗が滲んだ。サクラコの言葉に反論しようとしながら、しかしその言葉の正当性を僅かでも認めているナギサ自身が居たのだ。

 長期間誰にも悟られずアリウスと内通していたミカ、果たしてそんな彼女がカタコンベの情報を僅かも持っていない事があるのか?

 しかし、彼女の尋問に関しては既に終了している、これ以上聞き出すべき情報は無いと取り調べを担当した生徒も報告していた筈だった。

 

「……成程、理解は出来ます」

「ミネ団長まで――!?」

 

 サクラコの言葉に暫し沈黙を守っていたミネではあるが、その腕を組んだまま深く頷く。思わず非難する様に彼女の名を呼んだナギサに顔を向け、ミネはどこまでも真摯な態度で言葉を紡いだ。

 

「確か、ミカ様はアリウス生徒に補給品を手渡していた記録が残っていた筈です、クーデターを起こす為、アリウスを支援していた――そう考えるのが自然でしょう、元より存在を秘匿されていた自治区、補給状況が乏しい可能性は高い、であればアリウスにとっても彼女は重要な存在の筈、補給ルートの伝達の為にも情報を与えられている可能性は十二分に考えられます」

「で、ですが、ミカさんは――……」

 

 彼女は、知らないと――そう云って。

 そう口にしようとして、けれど言葉は続かない。俯き、両手を握り締めたナギサを痛ましそうに見つめながらミネは続ける。

 

「これまでのミカ様の評判と行動はあまり模範的とは云えません、ナギサ様は良くご存知だとは思いますが、彼女はティーパーティーに所属している事を盾に多くの過失や問題を誤魔化して来ました、未だ彼女に対する糾弾の声が止まぬのも――彼女のこれまでの振る舞いと無関係と云う訳ではないでしょう」

 

 ミカの現状に対し、思う所はある。しかしそれが起きたのには相応の理由があるのだ、その事をこの場に居る者は理解していた。ナギサは沈黙し、その口を堅く閉ざしてしまう。サクラコは深く息を吐き出し、自身の額を指先で軽く押し解しながら呟いた。

 

「現在のパテル分派とサンクトゥス分派の対立は彼女が根本的な原因であるとも云えます、決してそれだけではありませんが彼女の積み重ねて来たものが一因である事は否定できない事実です――それだけの背景が、存在してしまっているのですよ、ナギサさん」

「……それはミカさんが嘘を吐いた、という事ですか?」

 

 あの調書に記載されていたのは、ミカの嘘だった。

 サクラコの言葉はつまり、そういう事だ。

 その問い掛けに彼女はほんの一瞬目を瞑ると、その両手を膝の上で重ねながら静かに頷いた。

 

「……可能性のひとつとしては」

「っ、ありえません!」

 

 ガタリと、ナギサの椅子が音を立てた。立ち上がった彼女は両手を円卓に付けたまま身を乗り出し、サクラコを睨みつける様にして叫ぶ。ティーパーティーとして常に優雅に、淑女らしく――そう常日頃口にしていた彼女らしからぬ態度だった。

 

「ミカさんがその様な事をして、一体何の利になると云うのですか――ッ!?」

「落ち着いて下さい、ナギサ様」

 

 強い口調でそう叫ぶナギサを前に、ミネはそっと手を伸ばし宥める。その瞳の中に渦巻く感情を理解していながら、ミネは他者の理性に訴えかける声色で以て告げた。

 

「ナギサ様がミカ様を想う気持ちは良く理解しています、その上で不躾な話ではありますが、ミカ様の一番の理解者は誰かと云う議論になった場合――幼馴染であるナギサ様となるのではないでしょうか」

「ッ……!」

「ナギサ様から見て、ミカ様はまだ、私達に隠し事がある様に感じられますか?」

「それは――」

 

 その問い掛けに対し、ナギサは俯く。見下ろした両の手、握り締めたそれを見つめながら唇を強く噛んだ。隠し事があるか、無いか――その問い掛けに対してナギサは明確な答えを持っていない。

 何故なら、分からないからだ。

 ナギサには分からない、ミカの心も、その感情も、秘めたる想いも。何年と共に在った筈の自分でさえ、彼女の心の内を理解する事は出来なかった。そして、それは当然の事だった。

 

 ――だって自分達は所詮、他人なのだから。

 

 故に、今問いかけられる言葉の意図は単純にして明快。ミカが隠し事をしているのか、していないか。肝要なのは其処(ソコ)ではない。

 重要なのは彼女を――聖園ミカという一人の友人を、桐藤ナギサは信じているのか、どうか。

 これはただ、それだけの問い掛けだった。

 

「……ナギサ」

「っ――」

 

 先生の呟きに、彼女は顔を上げる。その今にも泣き出しそうな彼女の瞳の中に、先生の真剣な眼差しが映った。自身と一時敵対し、退けて尚補習授業部を守ろうとした先生。常に正しく在った――否、そう在ろうとした大人の姿。

 彼の存在は、ナギサの心に僅かな勇気を与えてくれた。

 

 小さく息を吸い込み、腹に力を籠める。視界の端に揺れる紅茶の水面が見えた。でも今は何故か、手を伸ばそうとは思わなかった。

 

 聖園ミカは、決して善良な生徒ではない。

 癇癪は起こすし、暴力に訴えかける事だってあるし、我儘で考えなしで無鉄砲で、常日頃から「まぁ、何とかなるでしょ☆」と楽観的に過ごしていた。自分の気に入らない事は子どもの様に喚いて反対するし、彼女が原因で騒動になった事、その後始末に追われた事は一度や二度ではない。彼女の意地の悪い行いに涙を濡らした生徒は一体どれ程存在するのか、全く淑女とは呼べない彼女と我ながら良くもまぁ此処まで関係が続いたものだと驚くほどだった。

 だが――それでも、桐藤ナギサにとって彼女は友人(幼馴染)である。

 

 唯一無二の、たったひとりの。

 自身の命を失う事になっても尚、その後を憂う程に心を許した相手だった。

 ――それならば。

 

「……いいえ、いいえ!」

 

 ナギサは力強く、宣言する。

 吸い込んだ空気を全て吐き出す勢いで、彼女は声を張り上げた。

 

「ミカさんが嘘を吐いている、その様な事実はありません」

「ナギサ様」

「――私は、ミカさんを信じます……!」

 

 サクラコの声に被せる形で、彼女はそう断じた。その双眸に先程まで滲んでいた迷い、逡巡はない。何処までも強い、鋼の覚悟を決めた一人の少女だけが立っていた。

 

「彼女が善良な生徒ではないと、それは確かに事実です、他ならぬ幼馴染である私が、それを一番良く知っています、しかしそれでも私は彼女を、ミカさんが私達を想う心を信じたい……いえ、信じると決めたのです! それこそが、今回の騒動で学んだ私の――教訓なのですからッ!」

 

 告げ、彼女は歯を強く噛み締める。

 そう、このエデン条約――そして補習授業部間で起きた騒動。その只中で彼女は多くの事を学んだ。

 そして、その中で最も価値ある学びであったと胸を張って云える事、それこそが他者を信じる事。

 

「他の方にも信じて頂けるよう、明日の聴聞会にも出席しミカさんを弁護するつもりです、あなた方にも、必要とあらばこの学園すべての生徒に、ミカさんの証言を信じて頂けるように……! 私は、私の持てる全てを費やし訴えて見せます!」

 

 強く、円卓を叩きつける様に再度手を置いた彼女は、左右に座るサクラコを、ミネを睥睨する様にして叫ぶ。ティーカップが音を鳴らし、その紅茶が僅かに跳ねた。

 

「たとえ……たとえっ! それが原因で私が糾弾されるような事になったとしても、私の持つ立場が剥奪されようとも、どれだけの生徒に罵られようとも、私は決して後悔しません、諦める様な事はいたしません――!」

 

 ナギサは決めたのだ、とことん戦い抜くと。彼女を、友人を、ミカを、腹の底から信じ抜くのだと。

 ナギサは目に見えずとも、そこにある筈の想いを信じると決めた。

 否――目に見えないからこそ、信じると決めた。

 故に彼女は必死になる、その証明出来ないもの(こころ)を証明する為に、全てを捨てる覚悟を以て。

 自身の名誉も、肩書も、立場も、権力も、金銭も、今まで積み重ねて来た何もかも(あらゆる全て)を費やして、彼女はミカの味方をする。

 この感情(きもち)が、想い(願い)が、友愛(祈り)相手(ミカ)にほんの少しでも届くように。

 

 分かり合う事は出来ないのかもしれない、通じ合う事は出来ないのかもしれない、どれだけ長い間共に居ようとも、幾千幾万の言葉を交わそうとも、本当の意味で相手を知る事は出来ないのかもしれない。

 けれど――それでも。

 この、彼女の想う(感情)だけは、本物である事を証明したい。

 

 ――それこそが、ナギサ()の想う『愛』なのだと。

 

「だから、私は――っ!」

「――いいえ、もう結構です」

 

 顔を歪め、必死に声を絞り出すナギサを前に、サクラコが手を翳す。彼女は目を瞑ったまま動かない。その表情は穏やかで、先程のナギサの宣言を聞いたとは思えない程に暖かな色に満ちていた。

 サクラコは静かに席を立つと、ナギサに向かって頭を下げる。

 

「どうやら誤解を招いてしまった様です、申し訳ありません、ナギサ様――私はただ仮説を口にしたまで、決して他意はありませんでした」

「……失礼いたしました、私も非礼をお詫び申し上げます」

 

 ミネとサクラコが真摯に謝罪を口にし、ナギサは驚いた様に目を瞬かせる。てっきり彼女達はまだミカがアリウス側に加担しているのではないかと疑っているのだと、そう思っていたのに。予想以上にあっさりと、それこそ真摯に謝罪をされてしまった為に、ナギサはほんの一瞬戸惑いに呑まれた。

 

「――一度、お開きにした方が良いね」

 

 その間隙を縫う様に、先生が手を叩き告げる。皆の視線が集中し、先生は努めて冷静に、淡々とした口調で云った。

 

「皆何とか状況を打破しようとして焦っているんだ、処理すべき問題が多くてそうなる気持ちは分かる、けれど急いては事を仕損じるとも云うから――また別の日に集まる事にしよう、幸いまだ時間的余裕はある、もう一度情報を収集して、分析してから話し合っても遅くはない」

「……そう、ですね」

 

 頭に血が上っていた事は自覚している、ナギサは自身の額を撫でつけながら崩れ落ちる様にして椅子に座り込み。サクラコとミネは先生の言葉に頷き、静かに席を立った。

 

「お騒がせしました、先生」

「いいや、皆必死に、自分に出来る事を頑張っているだけだよ」

「……そう云って頂けると、救われます」

 

 サクラコがふっと口元を緩め、静かに一礼する。そのウィンプルから零れた銀髪が揺れ、彼女の瞳は再び閉じられた。

 

「では、私は一度大聖堂に戻る事にしましょう、また何かあれば連絡を」

「ならば私も救護騎士団の方に――お会い出来て光栄でした、先生」

「うん、またね二人共」

「えぇ……どうか、お気を付けて」

 

 それぞれが頭を下げ、ミネとサクラコの両名は会議室を後にしていく。その背中をナギサと先生の二人は見送り、会議室の扉が音を立てて閉じられた。

 


 

 快復致しましたわ~っ!

 大変お騒がせ致しましたの! 数日寝込んですっかり良くなりましたわ!

 お薬というのは偉大ですわね~! 更新は今まで通り続けられますので、よろしくお願いいたしますわ!

 

 さて、段々とサオリの雨中土下座が近付いてきましたわね……。

 今章は殆ど前回後編の続きからになるので、フォーカスは学園そのものではなくキャラクターに絞っていきますわ。

 そしてセイアの予知夢描写も近付いて来たので、新規追加されるストーリーでプロット破壊が起きない事を祈っておきますの。

 最近会話パートばかり続いておりますが、基本的に最初の方は学園間に於ける政治の話が殆どなのですわ……。こればっかりは本編もそうなので我慢してもろて。次話でナギサとミカに対する相談、ミカの元へ行くパート。その次でミカと再会かな?

 本編とはトリニティに於ける情勢が少々異なり、また彼女の辿る運命も捻じ曲がったりしますが結末は変わりませんわ! 

 そして此処に来てイチカが実装されましたわねっ! 君、あと一ヶ月半くらい早く来てくれたら本編で活躍させてあげられたのに……ッ! 

 

 君絶対目の前で先生死んだら狂嗤しながら涙を流して感情爆発させるタイプじゃん……! 素晴らしい、新しいタイプだ、惹かれますわ~っ! 正義実現委員会ほんとたすかる。



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分派間対立

誤字脱字報告に感謝致しますわ~!


 

「……はぁー」

 

 二人が去った(のち)、ナギサは椅子に凭れ掛かりながら深い――それは深い溜息を零した。その片手で自身の腹部を摩り、青白い顔をそのままに呟く。

 

「全く、胃が痛い事ばかりですね」

「お疲れ様、ナギサ」

「先生こそ、お疲れ様でした……折角ですし、アフタヌーンティーでも如何ですか?」

「もうそんな時間か、それじゃあ有難く」

 

 ナギサのお誘いに頷き、先生は彼女と隣り合った席に腰を下ろす。時計を見れば既に時刻は三時を回っていた。随分と会議に熱中してしまったらしい。立ち上がった彼女はワゴンに備え付けられていたウォーマーを使って茶器を温め、新しい湯を注ぎながら茶葉を取り出した。そんな彼女の背中を見つめながら、先生は自身の義手を手袋を越しに撫でつける。最近出来た、先生の新しい癖の様なものだった。

 

「会議中は、正直紅茶の味が全く分かりませんでした、殆ど白湯を流し込んでいた気分です」

「はは、気持ちは分かるよ、私も似たような感覚になるからね」

「連邦生徒会での会議でしょうか?」

「それもあるけれど、まぁ、色々、でも今日の会議も同じ位大変だった」

「そうですね――はぁ、今日は何だか、情けない姿ばかり見せてしまっております、さぞかし残念に思われたでしょう」

「まさか、どんな形でも頑張っているナギサは素敵だよ」

 

 そう云って先生は朗らかに笑う。カップに出来上がった紅茶を注いでいたナギサが、そんな彼の笑顔を背中越しに眺め動きを一瞬止めたが――しかし何事も無かったように再起動を果たす。その口元は僅かに緩んでいたが、彼女はそれを悟られない様努めて何でもないかのように振る舞った。

 

「ごほん、それよりも先生、聞きたい事があるのではないでしょうか?」

「それは……ミカ周りの事、かな?」

「えぇ」

 

 頷き、ナギサはワゴンからソーサーに乗せたカップを二つ手に取る。それぞれを円卓に移すと、その一皿を先生の前へと差し出した。

 

「どうぞ、先生」

「ありがとう、ナギサ」

「先程の会議中にも何度か口にされておりましたが、現在のミカさんは非常に……えぇ、複雑な立場に置かれています」

 

 再び席に腰を下ろしたナギサは、その表情に憂いを滲ませながら呟く。現トリニティに於けるミカの立場、それは非常に難しいものだろう。以前の騒動を思い、先生は眉間に皺を寄せる。

 

「明日の午前に、ミカさんの聴聞会が開かれる予定です」

「聴聞会、か」

「とは云っても、実際には先日の件に対しての審問に近い――査問会のようなものだと思って頂ければ」

「それの議題は、エデン条約の?」

「はい、彼女の犯した罪、そしてエデン条約に関連する事柄が中心になるかと」

 

 やはり、そうなるか。

 口の中で呟きながら先生は紅茶を一口啜る。出来立てのそれは風味も良く、会議中に呑んだものとは味わいが違う。恐らく自身の好みの茶葉を使用してくれたのだろう、多少なりともリラックスした状態で口にする紅茶は、本当に美味かった。そっとソーサーにカップを戻した先生は、低く問いかける。

 

「趨勢は?」

「……難しい、ですね」

 

 同じように紅茶を口に運んでいたナギサは、そう云って首を振った。

 

「退学は無いと思います、しかしそれなりに厳しい状況である事は確かです」

「厳しい状況……不利、という事か」

「エデン条約での事件以降、トリニティ総合学園の情勢は複雑になりました、ミカさんに対する糾弾の声は勿論の事、ティーパーティーの席を剥奪するべきと云う声も、過程や真相はともあれ……ミカさんはアリウス分校と結託してエデン条約の事件を起こした主犯のひとりですから」

「でも、彼女は調印式の際にはアリウスと対峙し、トリニティやゲヘナと共に戦った筈だ」

「えぇ、一時的にとは云え彼女にトリニティを任せられたのは、その功績が大きかったからです」

 

 当時は彼女以外動けるティーパーティーが存在しなかった、今の様に救護騎士団やシスターフッドが政治の場に顔を見せる事もなく、学園の運営に関してはティーパーティーがその全てを担っていた。だからこそ、彼女以外学園の舵を取れる人物が居なかった為、あの様な措置となった訳だが――。

 しかし、トリニティは変わった。ティーパーティーの権威が削がれ他主力分派のシスターフッドと救護騎士団というティーパーティーに匹敵する柱が生まれた。学園の生徒達にとってティーパーティーという存在が絶対的ではなくなった瞬間だ。

 しかしトリニティ総合学園が設立されて以来、最も古く歴史ある生徒会、その役割を果たして来たティーパーティーの名は泥に塗れて尚相応に重い。各分派の生徒達がその伝統、歴史、権威を保とうとするのは自然な流れだ。名誉や権威を手っ取り早く回復させるのならば、その組織に於ける『汚点』を排除すれば良い、そしてティーパーティーに於いて現在最も疎まれている対象と云えば――聖園ミカ、彼女を於いて他にない。

 

「どのような形であれ、彼女がアリウスを撃退したのは事実、勿論その中には先生のご活躍も含まれていますが……彼女はアリウスに利用されていた、それが大半の生徒の見解である事は確かです」

「なら――」

「しかし、それでも収まらぬ怒りを抱いている分派があります」

 

 そう、今回の騒動――その根っこにあるのは分派間の対立だ。その言葉に先生の顔が顰められ、呟くようにしてその名が耳に届く。

 

「――サンクトゥスか」

「えぇ」

 

 サンクトゥス分派、百合園セイアが首長を務めるティーパーティーの一分派である。頷き、指に掛けたカップを揺らしながらナギサはその水面を見つめる。紅茶の香りは彼女の心を慰めるが、それでも拭いきれない不安が胸に燻っていた。

 

「自らの分派、その首長を襲撃されたサンクトゥス分派の生徒は、ミカさんを目の敵にしています、あの事件以降セイアさんの体調は悪化し、自室に籠り切りになってしまいましたから、余計に」

「サンクトゥス分派の生徒は、全員ミカを?」

「いいえ、勿論そうではない生徒もおります、同じ分派の生徒とは云え一枚岩ではないのです、特にセイアさんの率いるサンクトゥス分派はセイアさん自身余り分派生徒と関わる事を好みませんでしたから――それでも予知の力を持ち、知性に優れた彼女を慕う生徒は多く在籍しておりました、そうでなければ首長等という椅子に座る事はありません」

 

 告げ、ナギサは憂う様に目を伏せる。現在サンクトゥス分派はその統制を失いつつある。首長であるセイアが病床に在る為手綱を握れていないという点も大きいが、それにしては少々大袈裟過ぎる程に暴走しているきらいがある。ナギサの見解としては、件のアリウスを追撃出来なかった弊害が此処に現れている様な気がした。

 学園の不祥事、エデン条約締結の失敗、先生の負傷、ティーパーティーの失墜、そう云った様々な不安、不満、心の傷付く要素を誰かを攻撃する事によって解消しようとしているのだ。

 本来であれば、その怒りはアリウスに向けられる筈であった。しかし、その対象は既に姿を消し闇の中へと消えてしまった。

 

「……現在、一部の過激派によってミカさんが使っていた本や所持品、大事に集めていた服やアクセサリーの一部が持ち去られてしまい、恐らくは処分されてしまっています」

「それは――少々、いや、大分やり過ぎだ」

「えぇ、その事に怒ったパテル分派の一部と小競り合いが発生している様子でして、毎日報告が上がっています……正義実現委員会が取り締まってはいますが、中々どうして全てを阻止する事は難しく」

「中央区の警備に派閥間の仲裁、区画復興支援にパトロール、かなり激務だろうね」

 

 先生は顔を歪めながら息を吐き出し、指先を組む。正義実現委員会の業務は多岐に渡り、現在はアリウス襲撃に備える必要もあり警備にリソースを割いている筈だ。そうでなくともエデン条約に於ける戦闘で古聖堂区画も破損し、復興も続いている事だろう。その上、派閥間の小競り合い、その仲裁にも駆り出されるとなると――相当な激務が予測された。

 

「それでも、ミカさんがトリニティ全体の敵として石を投げられていないだけ、まだマシなのでしょう、尤もいつそれが転じるかも分からない状況ですので油断は出来ませんが」

「……パテル分派の方は?」

「元よりミカさんが首長を務めるような、その、大変力を信奉する様な生徒が多く、先の一件でミカさんが先陣を切ったからでしょうか、批判の声が全くない訳ではありませんが、他分派と比べれば穏やかなものです」

「そっか、少しだけ安心した」

「私もフィリウス分派の首長として、出来得る限り自身の一派の意思統一に努めていますが……このまま騒動が続けば、パテルとサンクトゥスが衝突する事態にもなりかねません」

 

 そうなれば、そこから火種が広がって分派間に於ける全面戦争――内部分裂すら起きかねない。アリウスとの戦闘が起こったばかりだと云うのに、内戦を起こすような愚を犯す事は絶対に避けなければならなかった。それが分かっているからこそシスターフッドのサクラコは政治的な介入を決めたのかもしれない。救護騎士団のミネ団長は――正直、どういった意図で表に出て来たのかは分からないが。

 ナギサは肩を竦め、紅茶に口を付ける。きゅっと、何となく胃が裏返る様な感覚があった。

 

「私に何かできる事は?」

「それは……」

 

 先生は円卓の上で指先を組み、真摯な表情で問いかける。ナギサは一瞬言葉に詰まった。先生――シャーレに依頼したい事を並べれば、それこそ山の様に存在する。桐藤ナギサでは出来ない事も、シャーレの先生ならば成し遂げられる。派閥間の云々でさえ、彼が介入すれば即座にとは云えないが解決する目途も立つだろう。

 しかし、今現在最も優先すべき事柄と云えば。

 

「その、ミカさん本人が、聴聞会にてご自身を弁護する意思がない様でして――」

「ミカが?」

「はい、ミカさんは聴聞会を欠席しようとしています、そんな状態で行われる聴聞会は――まず間違いなく、彼女の不利益に直結する筈です」

「………」

「私では、彼女を説得する事が叶いませんでした、或いはセイアさんであれば上手く出来たのかもしれませんが……彼女は今、それどころではありませんし」

「分かった」

 

 どこかまごつくように、或いは申し訳なさそうに呟くナギサを前にして、先生は二つ返事で頷いてみせる。

 

「なら、私がミカを説得してくるよ」

「あ、ありがとうございます、先生のお言葉なら、きっと……!」

 

 俯いていたナギサの顔が先生に向けられ、その表情がぱっと花開く。陰鬱であった彼女の雰囲気が少しだけ明るさを帯び、その顔色が僅かだが血の通う色合いに変化した気がした。

 

「その、ミカさんは先生を待っている様にも見えましたから」

「私を?」

「えぇ、私の所感ですが……でも、少し安心しました、まだ何も解決はしていませんけれど」

「ナギサは、その、大丈夫かい? 少し疲れている様に見えるよ」

「私は――大丈夫ですよ、いつもと変わりません」

 

 少し云い淀みながらもナギサは首を振って見せる。この程度の事は慣れている、とは云い難いけれど、それでも以前の騒動で経験は十分に積んでいる。それに今自分が倒れてしまえばティーパーティーの指揮を執る人物が居なくなってしまう。救護騎士団とシスターフッドが表舞台へと踏み出した今、ナギサが倒れたからと云ってミカを釈放する事は許されないだろう。

 故にこそ今が踏ん張りどころ、そう考えて彼女は腹部に力を籠める。

 

「ふふっ、私の事を心配してくれるのは先生くらいなものですね」

「まさか、きっとフィリウス分派の子達だって心配しているさ、それにきっとセイアも、ミカだってそう、ヒフミだってナギサの事を心配しているよ」

「……そうですね、ヒフミさんは優しいですから」

 

 呟き、ナギサは微笑む。ナギサの持つ人脈は多岐に渡る、それこそ両手両足の指では足りぬ程に。しかし其処に純粋な友愛のみで成立する縁がどれ程あるかと考えた時――彼女はそれが、存外に限られたものである事を自覚していた。それこそ、両の手ですら多い程に、その縁はほんの僅かに過ぎない。

 だからこそ、今度こそ大切にしようと思った。彼女達の存在に心から感謝し、ナギサは告げる。

 

「――それでは先生、ミカさんの事をどうか、宜しくお願い致します」

「うん、任せて」

 

 深々と頭を下げるナギサに、先生は力強く返答する。

 彼女からお願いされずとも、ミカに関しては先生もどうにかしなければと思っていた。だからこそお墨付きを貰えたのならば大々的に動く事も出来る。先生はシッテムの箱を抱えて立ち上がると、頷き告げた。

 

「ミカも、私の大切な生徒だからね」

 

 ■

 

「セイア様を害そうとした裏切り者を引き摺り出せ!」

「アリウスと手を組んでエデン条約を台無しにした罪人がティーパーティーだなんて、許せません!」

「罪人には罰を! 断罪を!」

「裏切りには代償を!」

「わわっ、こ、この線から出ないで下さい……っ!」

 

 会議室を後にし、本校舎周辺を歩く事十分程。時刻は既に夕刻に差し掛かり、空は茜色に染まり始めていた。夏の終わり、段々と陽が落ちる速度が早くなっている。以前ならばもう少し陽は長かったと云うのに。

 遠目にミカの収容されている建物が見えてくると同時、生徒達の喧騒が先生の耳に届いた。

 目を細めれば、何やら入り口に付近に屯する生徒達が十数名程。彼女達は手を突き上げ、身を乗り出し、何事かを懸命に叫んでいる。その勢いを止めようと、入り口の扉を身を以て守る小柄な生徒――正義実現委員会の構成員が二名。

 何かを叫ぶ生徒を見つめながら、先生は小さく呟いた。

 

「サンクトゥスの生徒達か」

 

 どうやら内容を聞くに、ミカを糾弾しているサンクトゥス分派の生徒達らしい。かなり悪辣で、心無い言葉も口にしていた。そんな彼女達の様子を伺いながら、先生は小さく首を振る。パテル分派の生徒が居ないのは僥倖だった、そうでなければ銃撃戦が起こってもおかしくない。

 

 きっと、そんな事を思ったのが悪かったのだろう。

 

「またサンクトゥス分派の連中か……!」

「お前達、まだこんな事をッ!」

「無駄に集まって罵声に怒声、品のない分派ですこと」

「程度がしれますね、サンクトゥス!」

 

 彼女達の声を聞いて駆け付けたのか、或いは遠目に見ていた仲間が連絡網で呼び出したのか。十名程度の同じ制服を身に纏った生徒達が、ゾロゾロと彼女達の傍へと足を進めていた。現場に緊張が走り、声を上げていたサンクトゥス分派の生徒達が色めき立つ。

 

「パテル……ッ!」

「ふん、サンクトゥス分派の生徒は随分暇なのですね?」

「なんですって……っ!?」

 

 互いの分派が横一列に並び、相手を睨みつける様にして胸を張る。張りつめた空気を感じ取った正義実現委員会の生徒二人が焦燥を滲ませながらあたふたと銃を抱え、しかし声を掛ける事も出来ず戦々恐々と扉の前で縮こまっていた。万が一に備え、その手には連絡用の端末が握られていたが――本部の生徒は殆ど出払っている筈だった、応援が駆け付けるとしても何分後かも分からない。

 そうこうしている内にパテル分派から一人の生徒が踏み出し、ふんと鼻を鳴らしながら告げる。

 

「そもそもミカ様はアリウスの悪辣な罠に掛かってしまっただけ、その証拠に以前の騒動ではこのトリニティを率いて見事、件のアリウスを撃退致しました、この学園が未だ形を保っているのもミカ様が先陣を切って戦ったからこそでしょう? その様な御方に裏切りだの、断罪をだの……良く云えますわね?」

「そもそも、あの事件は聖園ミカがアリウスを呼び込まなければ起きなかった筈でしょう!」

「どうだか、卑劣なアリウスの事だ、どう転ぼうと調印式で仕掛けて来たに違いない、ミカ様は慈悲を見せただけだ、長年の対立を水に流し手を差し伸べ、それを払ったのはアリウスそのものだろう?」

「ならば我らの首長、セイア様を襲撃した件はどうする!?」

「それこそアリウスが勝手にやった事、ミカ様はセイア様を攻撃しろ等と一度も指示しなかったと仰っているだろうに!」

「罪人の言葉を信じると云うのですか?」

「口を慎みなさい、我らの首長を罪人呼ばわりなど」

 

 互いが互いを睥睨し、敵意を剥き出しにして対立する。そしてどちらともなく、鞄に仕舞い込んでいた銃を静かに取り出した。その安全装置を弾き、薬室に弾丸を送り込む硬質的な音が周囲に木霊する。その銃口が、ゆっくりと対面に立つ相手へと向けられた。

 

「やはり、力を信奉すると頭まで筋肉になるのか? パテル?」

「口ばかり達者で頭でっかちなサンクトゥスには、やはり此方の方が良く効くかしら?」

「ちょ、ちょっと! こんな所で銃を構えないで下さい……ッ!?」 

「あわわっ、ほ、本部に応援を……!」

 

 一触即発、ほんの些細な刺激で銃撃戦に発展する予感。そこに至り先生は漸く動き出した。石畳の床を靴で叩き、コツコツと音を立てながら集団に接近する。そして突きつけられた二つの銃口をそっと手で覆い、告げた。

 

「ごめん、ちょっと良いかな?」

「何ですか、今私達は大事な話の最中――……?」

「申し訳ありませんが、今私達は、この魔女に加担する連中を――……?」

 

 自身の銃身を優しく掴まれ、横合いから唐突に掛けられた声に鋭く反応する両名。しかしその視線を向けた途端、彼女達は目に見えて狼狽し、その纏っていた敵意を霧散させた。

 

「あっ、せ、先生!」

「先生……!?」

 

 自身の直ぐ傍に立つ存在が先生だと気付いた途端、彼女達は構えていた銃を慌てて地面か空に向ける。先生の傍で銃火器を扱う危険性を、彼女達は良く理解していた。

 周囲に立っていた生徒達も先生を見るや否や慌てて銃口を逸らし、安全装置を掛けると弾倉を抜いて排莢を行う。排莢口(エジェクションポート)から排出された弾丸が石畳の床に転がり、甲高い音を鳴らした。これで万が一にも弾丸が発射されてしまう事は無い。

 

「申し訳ないのだけれど、これからそこの建物で会議があってね、出来れば少し静かにして欲しいんだ――頼めるかな?」

「えっ、か、会議ですか……?」

 

 先生は二人の肩を優しく掴むと、そっと顔を近付けながらそう告げる。その表情は薄らと笑みを浮かべていたが、声には表現する事が出来ない強い意志が込められている様な気がした。ぐっと、二人の肩を掴む先生の指先に力が籠められる。痛みは無いし、彼女達からすれば簡単に振りほどけてしまう程度の力だ。

 けれど何故だろう、彼女達はまるで凄まじい力で抑え込まれている様な錯覚を覚えた。

 先生の視線が二人を真っ直ぐ捉え、低く、力強い声で彼は云う。

 

「とても、重要で、大切な会議なんだよ」

「わ、分かりました……」

「は、はい……」

 

 先生の言葉に二人はぎこちなく頷き、口を噤む。その返答を聞いた先生はふっと先程よりも深い笑みを浮かべると、「ありがとう」と礼を口にし肩を掴んでいた手を離す。彼女達の背後に並んでいた生徒達は疑問符を浮かべながら口々に囁いた。

 

「シャーレの先生が一体、何の用でこの様な場所に――」

「此処の建物で会議があるとの事ですが」

「え、でも此処って……」

「先生がいらっしゃるとなると、サクラコ様も参加するのでしょうか?」

「という事は、ミネ団長がいらっしゃるという事に――」

「救護される……ッ!?」

「ふ、ふんっ、命拾いしましたねサンクトゥス……!」

「パテルこそ、次は必ず……!」

 

 互いに口々に罵りながら――しかし先生が傍に居る為、明らかにパワーダウンしている語彙だった――解散する両分派。その背中を見送り、先生は深く溜息を吐き出す。

 

「ふぅ、さて――」

 

 解散した生徒達、彼女達が排莢して足元に転がった弾丸を一つ一つ先生が拾い上げていると、直ぐ傍に駆け寄って来た影が二つ。先生は彼女達を見上げながら、労う様に声を掛ける。

 

「せ、先生……!」

「やぁ、お疲れ様、正義実現委員会も大変そうだね」

「い、いえ、助けて頂いてありがとうございます!」

「私は何も――申し訳ないけれど、警護の方お願いね? 何かあったら呼んで、直ぐ駆けつけるから」

「はい、此処はお任せ下さい! 後、掃除も私達で行いますから……!」

「ん、そっか……ごめん、ありがとう」

 

 頻りに恐縮し、頭を下げる正義実現委員会の二人に拾い上げた弾丸を手渡す。彼女達に礼を告げこの場を任せながら、先生は建物の扉を押し開け中へと踏み入った。

 独房の存在するこの場所は薄暗く、何処か空気が冷たく感じる。背後の大扉が閉じられると一気に静寂が周囲を支配し、吹き抜けとなった天井を見上げ先生は呟いた。

 

「……嫌な空気だね、全く」

 

 それは変化していくトリニティに向けて零れた言葉か。

 それとも――。

 そこまで考え、先生は緩く首を振る。思う事はあった、しかし自分にはまだ為すべき事がある。今はそれを優先しなければならない。

 そう考え、先生は地下へと続く階段へと足を進めた。

 

 寂れた聖堂の中で、先生の靴音だけが響いていた。

 


 

 本小説に於いてはパテル分派が比較的ミカに友好的ですの。元々本編でも救出の為にクーデター起こされる程度には好かれているし、前編でそれに参加してアリウスをボコした上に、エデン条約調印式前に流されていたカバーストーリーが効果を発揮していますわ。

 ただ、それはそれとしてセイアのサンクトゥス分派は「ウチの首長に何しとんじゃワレ」って感じ。復帰してからも病床で外出もままならないので益々ヒートアップ。

 ナギサのフィリウス分派は「ナギサ様もやらかしたけれど、アレは学園守るためだしノーカン、ミカ様? クーデター未遂は本当だし、でもアリウス撃退したのは彼女だし、うーん……後はお任せしますわ、オホホ」というスタンス。

 ミカのパテル分派は「確かにやらかしたけれど、元はアリウスと友好を結ぼうとした善意から始まった上に、そのアリウスもミカ様が撃退したじゃんね? ミカ様いればゲヘナとかワンパンだし!」という感じ。

 対立するパテルとサンクトゥスを、フィリウスが高みの見物状態ですわ~!

 

 因みに救護騎士団は「救護ォ!!!!」という思考。

 シスターフッドは「あれ、もしかしてこれ最悪内部分裂する? やべーぞ内戦だ!」という感じで外部から手助け中ですの。でも真意を聞いてもニコニコ微笑みながら、「さぁ、どうでしょう?」と回答するサクラコ様。

 実はぁ、シスターフッドが内部からティーパーティーを傀儡としようとしているって噂があってぇ……。



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彼女が見た破滅のはじまり。

誤字脱字報告に圧倒的感謝ですの!


 

 トリニティ自治区、本校舎離れ――地下牢。

 靴底が石床を叩く音が木霊し、階段を一段一段下って行く毎に冷気が濃くなって行く気がした。指先で手首を摩りながら、先生は薄暗い空間を進んでいく。すると開けた廊下に等間隔で並ぶ明かりが視界に入り、その向こう側に扉を挟んで立つ二人の生徒達が先生の存在に気付いた。

 

「先生……!」

「お疲れ様、ごめんね急に来ちゃって」

 

 微笑み、手を振ってそう口にする先生。トリニティの白い制服を身に纏う見張りの生徒は正義実現委員会の所属ではない、純白はこの暗闇でも良く映えた。彼女達は先生の傍に駆け寄ると、担いだ銃を抱え直しながら問いかける。

 

「どうしたのですか、このような場所に?」

「急用でね、中にミカは居るかい?」

「はい、勿論いらっしゃいます」

「そっか、申し訳ないのだけれど今からミカと面会する事は出来るかな? どうしても今日中に通さなくちゃいけない話があってね、面会申請は出せていないのだけれど……」

「申請が出ていない場合は、ティーパーティーの何方かの許可か、或いは総括本部の方で臨時許可書を発行して貰わないと――」

「あぁ、それならナギサから許可を貰っているよ、話は通っている筈だから確認して貰って構わない」

「そういう事であれば、どうぞ」

「……確認はしなくて良いの?」

「先生が嘘を吐く筈がありませんから、確認は後ほど行います――急ぎ、なんですよね?」

 

 そう云って笑みを浮かべる見張りの生徒に、先生は思わず苦笑を零す。しかし今はその厚意に甘える事にした。本来であれば決して好ましい行為ではないが、それでも今は何よりも時間が惜しい。何せ、聴聞会は明日なのだ、今から申請しても間に合わない事は明白であった。

 ありがとう、と一言礼を告げ、先生は部屋の扉の前に立つ。手を広げた先生に見張りの一人が手を伸ばし、そのポケットや懐を確かめ危険物の持ち込みが無いかを検査する。持ち込むものは携帯用端末とタブレット(シッテムの箱)、後は特に武器になりそうな刃物、銃器の類はなし。それを確認し、生徒は頷いて見せる。

 

「では、柵を解除しますので少しお待ちを」

「うん、お願い」

 

 そう云って壁に設置されたパネルを生徒が操作すると、内部で扉を覆っていた鉄柵が天井へと収納されて行く音が聞こえた。もう一人の生徒が懐から鍵を取り出し、扉に差し込み回す。カコン、と音が鳴って両開きの扉は独りでにその内側を晒した。先生は二人に頭を下げ、独房の中へと足を踏み入れる。

 ふわりと、鼻腔を花の様な香りが擽った。薄暗い部屋は小さな電灯のみを点けているのか、先生は目を細めながら部屋を見渡す。

 

「ミカ、居るかい?」

「……しーっ」

 

 声を上げると同時、ほんの数歩先からミカの吐息が聞こえた。

 見れば、ミカはベッドの傍で膝を突き、祈る様に両手を組んでいる。否、祈る様にではない――実際彼女は祈りを捧げているのだ。耳を澄ませると微かに音楽が聞こえて来た。恐らく上階から響いて来るものだろう、地下の此処まではハッキリと聞こえはしないが、耳を澄ませば辛うじて聞き取る事が出来る。

 小さく鳴り響くそれを前にミカは目を閉じ、微動だにしない。先生は暫くの間そんな彼女を見守り、聞こえて来る音楽が途切れるまで沈黙を守った。

 

「……お待たせ、礼拝の時間だったの、今日は讃美歌を聞く日だから」

「礼拝か、此処からでも聞こえるんだね」

「うん、一応此処も元々は聖堂だったから、上階でも流れるんだよね、それにしてもさ、檻の中でも礼拝だけは必ず参加しなきゃいけないなんてちょっと過酷じゃない?」

「確かに、聞き逃してしまいそうだ」

 

 礼拝を終えたミカは何処か不満げに口を尖らせながら、その様な事を口走った。先程までの敬虔な信徒とも云える姿からは想像もできない、実に彼女らしい言葉でもある。

 

「でも、良い曲だ」

「そうかな? 聞いていて退屈じゃない? 御慈悲をとか、憐れみたまえとか――Kyrie eleison(キリエ)なんて、名前も気に入らない、どうして見えない存在に縋らなきゃいけないのって思っちゃう、憐れみたまえだなんて口にしたところで悲惨なだけじゃん、そんなの自分にも、他人にもするものじゃないよ」

 

 そう云って彼女はベッドに腰掛けると、その両足を投げ出して両手を挙げる。その首にぶら下げたネックレス――銀の指輪がきらりと光を反射し、彼女の胸元で輝いていた。やや薄暗い独房の中でも彼女の笑顔は良く映える、先生に視線を向けた彼女は花が咲いた様に笑って告げた。

 

「あ、でも歌は好きだよ! 歌詞はちょっと微妙だけれど……そう云えば先生、私の歌を聞いた事ないよね? 本当ならタダで聴かせる物じゃないけれど、先生なら特別っていうか、こうやって会いに来てくれたし! 塔に幽閉されたお姫様が運命の人にセレナーデを歌うの! どう、物語のワンシーンみたいでしょ?」

「それは光栄だ、でも此処は塔というか、檻の中だけれどね」

「うわぁ、そこで現実に戻しちゃう……? まぁ、事実だけれどさ」

 

 詰まらなさそうに足を揺らし、唇を尖らせるミカ。彼女は指先を擦り合わせながら視線を落とすと、小さく問いかける。

 

「それで――今日はどうしたの、先生?」

「ミカと話がしたくてね」

「あははっ、それは嬉しいなっ☆ でもそれだけじゃないよね? もしかして聴聞会の話かな?」

「……そうだね、明日開かれると聞いたから」

「その事を教えたの――多分、ナギちゃんだよね」

 

 先生の言葉に対し、ミカはどこか確信を持って告げた。その声に先生は反応を示さない、ただ静かに佇むばかり。彼女にとってはそれが、何よりも雄弁な解答でもあった。ミカは小さく首を振ると、努めて何でもない事の様に問いかける。

 

「ナギちゃんはさ、その、元気だった?」

「……うん、業務に追われてはいたけれど、病気なんかはしていなかったよ」

「そっか、それなら良かった」

 

 小さく、呟かれる言葉。独房の中では得られる情報には限りがある、ましてやトリニティの情勢が移り変わって以降、ミカの周辺からはあらゆるものが遠ざけられた。それがサンクトゥス分派によるものなのか、或いは個別の生徒によるものなのか、はたまた議会や総括本部による決定なのか――それは分からないが。

 

「先生がトリニティに来たって事は、会議か何かがあったんじゃない?」

「そうだね、今日はトリニティの復興作業の進捗や情報の擦り合わせ何かで集まりがあったんだ」

「それなら多分、その会議にシスターフッドと救護騎士団長が同席したりしなかった? 勿論ティーパーティーからの要請じゃなくて、向こうから声をあげて」

「……同席していたよ、救護騎士団とシスターフッドも」

「やっぱり」

 

 吐き捨てる様にしてミカは顔を背けた。

 

「ティーパーティーの立場が危うくなればなるほど、他の勢力が幅を利かせるようになる、此処まで直截的にティーパーティーを牽制するとは思わなかったけれど……ナギちゃんのストレス、酷そうだね、全部私の責任なんだけれどさ」

「……明日の聴聞会は、欠席するつもりなのかい?」

「………」

 

 俯いたまま、先生に視線を向ける彼女。

 そして不意に笑みを浮かべ、ミカは云った。

 

「先生なら、まぁ、いっか」

 

 その声は小さく、独り言の様だった。ベッドから立ち上がったミカは先生の前に立つと、大袈裟に手を広げながら答える。

 

「ナギちゃんは私が聴聞会に出席すれば全てが丸く収まると思っているみたいだけれど、トリニティはそんなに甘くない、今のティーパーティーの権威は地に堕ちた、以前と比べれば一目瞭然、表の騒動とか見なかった? 時々、私に罵声を浴びせて来るのだけれど」

「集まっていた生徒なら、既に解散させたよ」

「……わーお、流石先生だね! ちょっと驚いちゃった、以前ならあぁ云った活動も全部取り締まれていたんだけれどね? 学園内の世論も、政治的な立場もそう、今のティーパーティーは学園を制御出来る程の力が無くなってしまったの――当然だよ、私があんな事をしちゃったんだから」

 

 そう云って、彼女は首を振る。最早現在のティーパーティーに、幾つもの分派の集合体であるトリニティ総合学園を取り纏めるだけの力はない。ホスト代理として活動しているナギサが指揮を執って尚、騒動の収拾がついていない現状がその証明となる。

 

「そんなボロボロの状態でさ、ナギちゃんが私を庇っちゃったらどうなると思う? ナギちゃんどころか、同じティーパーティーのセイアちゃんの立場すら危うくなっちゃうよ」

「ミカ……」

「私なんかの為に、そんな事にはなって欲しくない……これは全て私が払わなくちゃいけない代償なの」

 

 そう告げるミカの表情はどこまでも真剣だった。本気でそう考えているのだと、対面に立つ先生は理解した。

 聖園ミカという罪人を庇えば、現在もその権威を削がれているティーパーティーが完全に崩壊しかねない。それは信仰に似ている。穢れ無き存在で在れ、格調高き存在で在れ、皆に仰がれる存在で在れ。その感情に一点の曇りも許されない、手の届かない存在だからこそ人々は崇め、敬い、縋るのだ。

 しかし、聖園ミカという失態を犯した生徒を庇ってしまえば、その趨勢に再び暗雲が立ち込めるだろう。だが、今ならばまだ取り返しがつく。大罪を犯した首長、聖園ミカを追放する事によってティーパーティーは一定の権威を保つ事が出来るのだ。暫くはシスターフッドや救護騎士団という存在に幅を利かせる事を許してしまうだろう。しかし、時間を掛ければきっと、嘗てと同じ権威を、その感情(信仰)を取り戻せるとミカは信じていた。

 そう、彼女の友人であるナギサとセイアが居れば――きっと。

 

「……代償は、もう全部支払った筈だ」

 

 そんな彼女の独白を聞き届け、先生は静かに首を振る。彼女は既に代償を支払った。辛い経験をした筈だ、この牢獄の中で自身を責め続けた筈だ。彼女に罪があるとするならば、その償いは既に終わっている筈だった。もしその罪悪を理由に聴聞会を欠席すると云うのであれば、先生は決して認められない。

 

「少なくとも、ミカの罪悪は赦されている、ナギサだって同じように云うだろう」

「……でも、それでもやっぱり、私のせいだから」

 

 だが、それでも彼女は自身を責め続ける。その罪悪は未だ残っているのだと口にして譲らない。

 

「ナギちゃんと一緒に集めた思い出の宝物とか、無くなっちゃったけれど、それでも私は許されていないよ、セイアちゃんにもまだ、恨まれたままで――」

「セイアはミカを恨んでなんかいない、私が保証する」

「ち、違う! そんな訳ない、だって、何度も謝ろうとしたけれど駄目だった……っ!」

 

 先生の言葉に、ミカは声を荒らげて否定を叫んだ。両手を握り締め、俯き、今にも涙を零しそうな表情で彼女は訴える。

 

「こ、この間会った時だって……!」

 

 ■

 

「セイアちゃん、今日も顔色良くないよ、眠れなかったの? お肌も乾いているし、保湿クリーム貸してあげようか?」

「………」

「えっと、その、セイアちゃん……?」

 

 トリニティ自治区、本校舎――ティーパーティーテラスにて。

 その日は、珍しくセイアがミカと面会を行った日だった。

 麗らかな午後、柔らかな陽射しと風が吹く気持ちの良い日和だった事を覚えている。ティーパーティーのテラス、座り慣れたその場所で紅茶を手に向き合っていると、何となく昔を思い出す事があった。何の憂いも、遠慮も無く語り合えた日々、それを思い返し、ミカは勇気を振り絞って声を掛けた。

 

「……あ、あのさ、もし良かったら、その」

 

 声は少しだけ上擦っており、精一杯の勇気を感じさせるものだった。視線を逸らし、指先を擦り合わせながらミカは言葉を紡ぐ。

 

「一緒に、ご飯でも食べない? まぁ、ご飯って云っても檻の中でロールケーキなんだけれど!」

「………」

「全く、ナギちゃんも心が狭いよね、三食全部ロールケーキにするなんてさ! もうちょっとこう、栄養面とか、飽きさせない感じで食事を用意してくれても――」

「ミカ」

「う、うん? あ、えっと、ロールケーキ食べる……?」

 

 一方的に捲し立てる様に、或いは胸に巣くう恐怖心を誤魔化す様にして舌を回していたミカに対し、セイアは淡々と、いっそ機械的な様子で口を開いた。彼女は視線を下げたまま、抑揚なくミカに告げる。

 

「済まないが、今は……」

「あっ、そ、そうだよね? やっぱり、その……」

「少し、体調が優れなくてね……申し訳ないが、もう部屋に戻らせて貰うよ」

「……ぁ」

 

 そう云って彼女は席を立つ。介助する様にサンクトゥス分派の行政官が彼女の肩を支え、碌に話す事も出来ぬまま彼女は背中を向けた。

 会話をしたのは、ほんの数分足らずの時間だけ。決して十分とは云えない、殆ど顔を見ただけで終わった様な感覚だった。

 

 思わずミカはその背中に向けて手を伸ばそうとするが――それは許されない。

 ミカは未だ囚われの身、彼女を呼び止める権限も、資格も無い。

 故に伸ばされたそれは静かにティーテーブルの上に落ち、その指先を握り締めるだけで終わってしまった。

 

 ■

 

「セイアちゃん、最近自分の部屋から出て来ないし、誰も部屋に入れてないみたいで、寝たきりになっているって噂もあるくらい……セイアちゃん、元々体が弱いから」

 

 セイアと最後に行った面会を思い返し、彼女は暗い面持ちで呟きを漏らす。セイアの身体が弱い事は周知の事実だ、そしてその体調悪化の原因が自身にあるのだと、ミカはそう信じて自身を責めていた。

 

「それに、何だか他にも悪い噂ばっかりで、セイアちゃんの部屋からすすり泣きが聞こえたとか、苦しそうな声が聞こえたとか……セイアちゃんの言葉は分かり辛いけれど、多分、私は許されてないんだろうなって、それ位は分かるよ」

「……セイアは、ミカを許すと云っていた」

「……あはは、ありがとう先生、でもね、セイアちゃんが私を恨むのは別に構わないんだ」

 

 ――だって、私もまだ、セイアちゃんにちゃんと、ごめんねって云えていないから。

 

 告げ、自嘲を零す彼女の表情には焦燥の色が濃く残っていた。

 

「そんな状態で、セイアちゃんの体調がもっと悪くなったり、また無理しちゃったら……私、自分の事を絶対許せなくなると思うから」

「………」

 

 だから、彼女から面会を申し込む事は出来ないし、話す資格すらない。それは彼女なりに悩み、自責の念から生じた後ろ向きな償いだった。

 先生は大きく息を吸い込むと、膨らむ自身の肺を感じながら拳を握り締める。抱いたのは怒り、しかしその矛先は決してミカに向けられたものではない。どこまでも他者の機微に疎く、肝心な時に役立たぬ自身に向けての怒りだった。或いは、もっと早く自分がトリニティに足を運んでいれば――彼女がこれ程思い悩む事も無かったかもしれない、そう思ったのだ。

 シャーレの業務は多岐に渡る、そのスケジュールは三ヶ月先まで全て埋まってしまう程。だが、それが生徒を蔑ろにして良い理由にはならない。ましてや今尚、手の届く場所で思い悩む生徒が居るのならば、手を伸ばさなければ嘘だった。

 だからこそ先生はその責任を果たすべく、彼女に向けて提案する。

 

「分かった、それなら私が行ってくる」

「えっ……?」

「――私がセイアに会って来るよ」

「せ、先生が……?」

 

 その言葉に目を瞬かせるミカ。

 現在療養中という事で大抵の相手を追い返しているセイアではあるが、しかしシャーレの先生ともなればサンクトゥス分派の生徒にも門前払いはされないだろうという打算がある。勿論無理をさせるつもりは毛頭ない、ほんの数分、一分でも構わない、その間にミカが謝罪をする機会程度――何とか掴んで見せようと、そう意気込み胸を叩く。

 

「うん、ミカがセイアにちゃんと『ごめんね』って云えるように、私がセイアとサンクトゥス分派の行政官に話を通してくる――そうしたら私とナギサ、セイアとミカ、皆で一緒に明日の聴聞会に出席しよう」

「ちょ、ちょっとまってよ先生……! どうしてそんな、わ、私にそこまでする価値なんて」

「ミカ」

 

 彼女の口走ろうとした言葉を遮って、先生は指先を一本立てる。その動作に、彼女は思わず口を噤んだ。思い返すのは掛けられた言葉、どこまでも真摯に投げかけられ、その度にミカの心を揺らして来たもの。

 

 ――私は、私の全てを擲ってでも……。

 

 その言葉が、彼女の脳裏に過った。

 

「あ、あはは……そうだよね、うん、知っている、先生が何て云いたいのかも」

 

 頬を紅潮させ、胸元に下げた銀の指輪を握り締めたミカは呟く。先生はいつもそうだ、自分が自己嫌悪と自責の念に圧し潰され、自暴自棄になり掛けた時は必ず――そう、必ず助けてくれる。欲しい言葉を投げかけてくれる。だからミカは先生をこれ以上ない程に大切に想っているし、慕っている。

 だって――。

 唇を堅く結び、彼女はゆっくりと頷く。

 

「うん、分かった、私も……皆と一緒に聴聞会に出る」

「……ありがとう、ミカ」

「ううん、それはこっちの台詞だよ、正直、もうこんな機会なんて無いと思っていたんだ、でも、これが運命なら……」

 

 そう、これが運命なら――。

 私はやっぱり、塔の中に閉じ込められたお姫様だったのだろうか。

 

「ミカ?」

「……ぁ、ううん、何でも、何でもないよ、先生!」

 

 そんな、夢物語染みた思考を悟られたくなくて、ミカは緩みそうになる口元を隠して首を必死に振った。照れ隠しの様に俯いた彼女は、先生から一歩だけ後ろに下がって、そのままはにかみ告げる。

 

「それじゃあ、セイアちゃんの事――よろしくね、先生」

 

 その声は、先程よりも明るく。

 僅かであっても、希望を感じさせるものだった。

 

 ■

 

 トリニティ自治区、救護騎士団離棟――百合園セイア、治療室。

 

 セイアの治療室は救護騎士団の保有する病棟、その離れに存在した。完全個室で、またアリウスが攻め入って来た場合を考え正義実現委員会、及び救護騎士団による手厚い警備が敷かれている。面会に関しては何重にもチェックが必要となり、セイア自身の体調なども考慮され滅多に降りる事はない。

 病室前にはサンクトゥス分派の行政官が常に駐在し、交代で見張りや給仕を担当していた。先生は所持品のチェックや滅菌処理、病気の有無などを念入りに確認され、数分だけ面会の許可を得た。ナギサにも事前に連絡し、根回しを頼んでいたのが利いたのだろう。サンクトゥス分派の行政官も、「先生ならば」と一時離れへの通路封鎖を解き、セイアの病室前へと案内を買って出てくれた。

 

「セイア様は未だ体調が優れません、余り長時間のお話や、心身の負担となる話題は――」

「勿論、分かっているよ」

「……どうぞ、此方です」

 

 彼女の傍付きである行政官に掌で指し示された扉、そのドアノブに手を掛け、先生は静かに押し開ける。すると僅かに湿った空気が肌を撫でた。ゆっくりと踏み込むと、病室にしてはやや広めの空間が視界に入って来る。調度品の類はトリニティらしく、アンティーク調で揃えられているが中には救護騎士団が用意したのであろう介助器具の類も散見された。

 その最奥、綺麗に整えられた病床に横たわる小柄な人影。

 

「……先生?」

「やぁ、セイア」

 

 セイアは扉の軋む音で目が覚めた。

 正確に云えば、最近の彼女は常にどこか夢現(ゆめうつつ)な状態を維持している。ふわふわと覚束ない、現実感のない状態が続いていた。そんな彼女の耳に物音が届き、そちらに視線を向ければ扉を静かに開き中を覗き込む先生と目が合った。

 

 先生はどこか申し訳なさそうな表情で扉を潜り、セイアの横たわるベッドまで足を運ぶ。恐らくセイアが今の今まで寝入っており、物音で起こしてしまったと思っているのだろう。セイアは軽く頭を振り、その上体を起こす。さらりと彼女の金髪が肩から滑り落ち、皺だらけになった制服が露になった。

 そんな彼女を見下ろし、先生は呟く。

 

「調子は――良い、とは云えない顔色だ」

「あ、あぁ……」

 

 答え、ぎこちなく頷く。実際、調子が良いとは云えない。ずっと不調のまま過ごしていると云っても良い。しかし今は、それよりも驚くべき事が彼女にはあった。

 セイアは身を起こした状態で先生を見上げ、その表情を歓喜とも、悲壮とも取れるものに変化させる。その瞳は潤み、気のせいでなければ驚愕の色も混じっている様に見えた。

 

「先生、無事、だったのか――」

「……無事?」

「てっきり私はもう、駄目かと……先生は、アレに呑まれて――」

 

 そう云ってセイアは小さく細い指先を先生に向け伸ばす。しかし、その先端が先生に触れるよりも早く、彼女は伸ばした手を引き込み、肩を竦めた。くしゃりと歪んだ表情、その目には確かに恐怖の色が見て取れる。

 

「いや、これは、私の都合の良い夢かもしれない、幻か、虚構か、或いはいずれも同じ事かもしれないが、先生もまた、私の弱さが生んだ夢幻(ゆめまぼろし)で――……」

「セイア?」

 

 何やら錯乱した様子でぶつぶつと言葉を垂れ流すセイア。その様子に先生は尋常ならざる状態を感じ取り、咄嗟に彼女の手を取る。小さな指先を包み込むように、ふわりと握り締めた先生は身を屈め、セイアの顔を覗き込む。ぴくりと、彼女の肩が跳ね視線が揺れるのが分かった。

 

「先生――……?」

「セイア、私は此処に居るよ、夢でもなければ虚構でもない、私は何処にも行ったりしない」

「あ、あぁ、その様だね、この瞳は――」

 

 手を握り締めたまま、セイアは先生の瞳をじっと見つめる。その色に、気配に、彼女は研ぎ澄ませた感性で以て応える。そして彼女のあらゆる感覚が、目の前の先生が現実であり、偽物ではない事を告げていた。その事に気付いたセイアは深く、深く息を吸い込み、肺の中の空気を絞り出す。それは安堵の吐息だった。

 

「……そうか、今日は君がトリニティを訪れる日だったな」

「大丈夫かい? 少し、混乱している様だけれど」

「済まない、最近の私はこれまでにも増して夢と現実の境界が曖昧でね……現在、過去、未来、それらが絶え間なく私を包み込み、私が今何処(現在・過去・未来)に立っているのかも不明瞭になる位なんだ」

「それは――」

「そんな顔をしなくて良い、私は、問題ない」

 

 言葉を詰まらせた先生を前にして、彼女は薄らと笑みを浮かべる。しかし、とても大丈夫と云える様な状態には見えなかった。彼女の艶やかな髪はその色を喪い、目元にはハッキリとした形で隈が出来ている。肌の調子も悪い、普段よりも手や首元が細く見えるのは単なる錯覚か――どちらにせよ、問題ないと判断する訳にはいかない程の影響が見て取れた。

 先生は両手でセイアの指先を包みながら、緩慢な動作で首を振る。

 

「そういう風にはとても見えないよ、何か、良くない未来を見たのかい?」

「………」

「何かあったのなら、教えて欲しい」

 

 これほどまでに彼女が憔悴する理由を先生は他に知らない。きっと、何か彼女がこれ程までに思い詰めてしまう出来事が予知されたのだ。そんな確信と共に問いかければ、彼女はどこか云い辛そうに視線を横に逸らすと、先生の体温を感じながら小さく、呟く様な声量で答えた。

 

「何があった、という問い掛けに答える事は難しい、ただ、一つだけ云える事があるのなら――私は今、誰にも告げられない未来を手にしてしまっている」

「誰にも告げられない、未来?」

「あぁ、ナギサにも、ミカにも、誰にも伝える事など出来ない、荒唐無稽で、余りにも絶望的で、出口の見えない――」

 

 そう口にして、セイアは俯いていた顔を上げる。その視線が正面から先生を捉えた。怯えを含んだ瞳が、先生の意志に直接問いかける様にして揺れ動いている。

 

「しかし、先生……或いは、君になら」

 

 言葉を詰まらせ、一度自身を落ち着ける様に息を吸い込むセイア。二度、三度、深呼吸を繰り返した彼女は真摯な声色と共に問いかけた。彼女の低い体温が、指先越しに先生を包む。

 

「……私の言葉に、耳を傾けて貰えるかい、先生?」

「あぁ、勿論だよ、セイアの言葉を疑ったりしない」

「そうか……あぁ、そうか」

 

 頷き、彼女は先生の手を一度強く握った。それは自身を勇気づける為の行動だった、怯懦に塗れた彼女がなけなしの意志を絞り出す為の。青白い顔色をそのままに、彼女は小さく頷く。

 

「ならば語ろう、此処からは今まで君が経験して来た事件とは全く別種の……完全に異なる類のものだ、荒唐無稽と感じるかもしれない、あり得ないと思うかもしれない、けれど、それでもどうか最後まで聞いて欲しい」

「……分かった」

 

 重々しく頷き、告げる。先生は背筋を伸ばすと、努めて真剣な様子で彼女と向き合った。セイアの纏う雰囲気が冗談でも何でもなく、真実を語るのだと思わせていた。実際、これから彼女が語る内容は夢の中で体験した――或いは実際に視た光景なのだろう。

 セイアは自身の唇を指先で何度も撫でつけると、やや乾いたそれを感じながらぽつり、ぽつりと言葉を漏らした。

 

「過日、夢の使者が私に告げたんだ、いうなれば予知夢と云った類の、つまりはいつしか至る未来の片鱗、勿論それ自体は日頃私が視ている世界の一つだが……その日だけは、様子が違っていた――そう、あの日、私は」

 

 ――キヴォトス(世界)が終焉を迎える光景を視たんだ。

 


 

 トリニティの政治云々も此処までですわ~!

 次話以降、物語は大きく動き出しますの。

 そろそろ決戦の幕開けですわ! スクワッドvsアリウスvs聖園ミカ(複合体)vs

 ダークライ……胸が躍りますわね!



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崩壊の序章

誤字脱字報告、助かっておりますわ!


 

「世界の終わり、か」

「……あぁ、そうだ」

 

 先生の言葉に、重々しく頷くセイア。

 世界の終わり――口にすれば何と軽々しく、空虚な響きか。しかし、その声には彼女の確かな恐怖心と、そして絶望を感じさせるには十分な色を孕んでいた。セイアは自身の指先を摩り、努めて冷静な口調を装って続けた。

 

「終焉を迎えて滅亡したと云うべきか、結果的にそこへと至ってしまうのか、それは(よう)として知れないけれど、確かに、私はその光景を視たんだ」

「……難しいかもしれないけれど、もう少し具体的な様子は語れるかい?」

「そう、だな――」

 

 俯き、思案する様子を見せるセイア。その光景を思い返す事は彼女にとって苦痛だろう。実際、その眉間に皺が寄り汗が滲んでいる。しかし、それでも尚仔細を語らねば始まらない事は彼女自身も理解していた。故に脳裏に刻まれた記憶を思い出し、その視界に映った映像を彼女なりにかみ砕いて言葉へと変換する。

 

「天から巨大な塔が飛来し、虚空が緋色に染められ、それらはまるで悲鳴を上げるかのように鳴動し、この世界を、キヴォトスを少しずつ削り取って世界の破片を『何か』に被せていった、削られた世界の欠片が嵐の様に吹き荒れる中で、黒い光が天から舞い降りて……世界が終焉に傾いていく、そうして世界は滅亡し――キヴォトスは塵一つ残さずに、万物は虚無へと消えた」

「………」

 

 懸命に記憶を探り、それを何とか言葉として吐き出したセイアは額を撫でつけ、緩く首を振る。

 

「すまない先生、具体的と云われながら随分と抽象的な物云いになった、しかし私が思い出せる限りでは、これが限界なんだ」

「いや、大丈夫だよ――黒い光が、天から来るか」

 

 先生は呟き、難し気な表情で考え込む。黒い光、そして天、その不吉な単語に思う所はあった、もしソレが自身の考える通りの代物ならば――忘れたくても、忘れる事は出来ない。

 

「私が視たこれが単なる悪夢なのか、それともこれから先、未来に起こる事なのか、或いは過去に起きたものを観測しただけなのか――今の所は何も分かってはいない、しかしその光景を目にしてしまったからには、私は真実を見極めなければならない」

 

 焦燥を滲ませ、シーツを握り締めるセイアはそう云って唇を噛み締める。彼女にとって、その絶望的な予知は精神を削り、その弱々しい肉体に鞭打って何とか解決の糸口を見つけようと躍起にさせるには十分な効果を持っていた。

 あの日から、そう――あの予知を見た日から。

 セイアは意図して夢の中に潜り、僅かな希望を求め続けた。

 

「私は、あの光景が何かを明らかにする為に果てしない明晰夢の中を彷徨い歩いた、明晰夢は夢である自覚をもって意識的に微睡む行為だ、起こった事を記憶出来る事の代償として、夢と現実の境界が曖昧になってしまう……繰り返し夢と現実を行き来し過ぎた今、私は自分の立っている世界がどちら側なのかさえ知覚出来ていない、あやふやなのだ、現実と夢の境界線が」

「それは――かなりの危険を伴う行為だろう」

「……まぁ、否定をすれば嘘だろうね、しかし、それでも必要な事なんだ、以前の私であれば未来を知る事を恐れて狭間の世界に逃げ込んでいただろうけれど、今回ばかりはそうもいかない――あの光景がただの悪夢ではないと、私の直感が告げているんだ、いやこれは最早確信と云って良い」

「なら、本当にキヴォトスは……」

「可能性は高いと私は考えている、アレは本来キヴォトスに存在し得ない――キヴォトス外部から到来したものだ、私の想像を遥かに上回る、理解の及ばない存在……」

「外部から来た存在――か」

「あぁ、これは私の推測だが、恐らくアレを招いたのは【ゲマトリア】――彼らがキヴォトスに外部の存在を呼び寄せ、終焉に導こうとしているのではないかと考えている」

「――!」

 

 セイアがぽつりと漏らした単語――ゲマトリア。

 その名に先生の瞳が剣呑な色を帯び、握られた拳に力が込められた。

 

「もしかしたら、あの破滅を防ぐ方法があるかもしれない、だから、私は……」

「セイア」

 

 彼女の名を呼ぶ、先生の声。普段ならば柔らかな音と共に鼓膜を震わせたそれは、普段よりも重々しく、力強い響きを伴ってセイアの意識を揺さぶった。はっとした表情で顔を上げたセイアの視界に、先生の顔が映る。その表情は嘗て彼女が見た事がない程に険しく、どこか刃物の様な鋭さを内包しているように見えた。

 

「ゲマトリアと、今君はそう口にしたね」

「……せ、先生?」

「あの連中に関わる事ならば、今直ぐ手を引いた方が良い――その道は、余りにも危険すぎる」

 

 それは実体験からか、或いはセイアの知らぬ情報を既に掴んでいるのか。その真剣で、イノセントで、何処までも真っ直ぐ自身を見つめる瞳にセイアは思わず視線を横に逸らした。

 

「……あぁ、確かに、あの集団の痕跡を追うのは自殺行為に近いかもしれない、しかし先生、私にはこんな事しか――」

「それは、きちんと情報を集めた上で皆と協力して行うべき行動だ――セイアも、本当は分かっているんじゃないかい?」

「………」

「そういう事は大人に任せて、セイアは目の前に居る人をちゃんと見てあげて欲しい――それを欲している人が、すぐ傍に居る筈だから」

「……それは」

 

 どこか遠回しでありながら、しかし道を示すような言葉。先生が何を云いたのか、聡い彼女は理解していた。俯きながら思い返し、脳裏に過るのはひとりの友人の姿。

 

「ミカの事――だね」

 

 セイアの声に、先生は静かに頷いて見せる。良く考えずとも分かる事だった、セイアは自身の態度を恥じる様に目元を手で覆い呟く。その小さな口から、深い吐息が漏れた。

 

「まだ何の情報もない状態で夢に圧倒され、私は自分を見失っていたのかもしれないな……今の私に何かが起きてしまえばミカが――彼女がまた選択を誤ってしまうかもしれないというのに」

「それだけ予知の内容が衝撃的だったのだろう、誰にも相談できず、ずっと思い悩んで来たセイアを責める人は居ないよ」

「いいや、先生……私が、私自身が許せないんだ」

 

 両手を握り締め、セイアはくしゃりと歪んだ表情を浮かべたまま言葉を続ける。

 

「先生、あの子は、今まで甘やかされながら生きて来たんだ、皆が彼女を崇め、讃える――まるで童話に出て来るお姫様の様な存在として、そんな彼女が今や少なくない生徒から憎悪の対象として見られている、特に私の派閥からは……恐らく生まれて初めての体験だろう、私個人としても勿論思う所はある、しかし人の口には戸が立てられない上に、私がこの体たらくだからね、全く儘ならないものだよ」

「セイア……」

「彼女が背負う運命としては聊か以上に過酷だ――けれど、決して最悪ではない」

 

 トリニティの情勢は刻一刻と変化している。セイアが予知した未来に圧倒され、体調を崩しながらも夢に潜り続けていた間、ミカは自分を責め派閥間の対立は深刻な状態にまで悪化していた。しかし、まだ決定的に分かたれた訳ではない、取り返しのつかない分水嶺には至っていない。

 

「今は、ミカをこの泥濘から救う事が最優先事項、そういう事だね、先生」

「――あぁ」

「ならば、まずは一歩ずつ解決していこう、きっと先生の協力があれば上手くいく筈だ」

「勿論、協力は惜しまないよ、出来れば近い内にミカと会ってあげて欲しい、セイアに謝りたいって、そう云っていたから」

「謝る……?」

 

 その一言に、セイアはまるで異国の言葉を聞いたかのような、面食らった表情を浮かべた。

 

「一体今更何を、私は既に彼女を許した筈だが……」

「それは、ちゃんと口にしての事かな?」

「ん、確かに私は――あぁ、いや、すまない先生、この記憶も或いは、夢の中での話だったかもしれない」

 

 自身の目元を抑え、首を振るセイア。明晰夢を揺蕩い、数多の時間を夢の中で過ごした彼女にとっては現実で起こった事と、夢の中で起こった事が綯交ぜになっており、確かにミカと言葉を交わし謝罪をきちんと受け取ったつもりであったが――それは彼女の見た未来か、過去か、或いは別の世界での出来事に過ぎなかった。

 

「そうか、まだミカは私に許されていないと思っているのか……」

 

 呟き、セイアは彼女が未だに自責の念に苛まれているミカを想い、俯く。

 

「――何とも、愚かだね」

「セイア、ミカは……」

「分かっているよ先生、これは只の感傷だ、我儘で、浅慮で、衝動的で――欲張りなくせに自傷的でもある彼女は、童話に出て来るような生意気で傲慢な令嬢がお似合いだったというのに、よりによって童話ではなく、寓話の主題となる愚かな存在へと成り果ててしまった、もし彼女に唯一救いがあるとすれば、彼女が辛うじて人殺しには堕ちなかったという点か――それは、先生に云える事ではあるが」

「………」

「ミカがこの様な状況に耐えていられるのは、その事実があるからなのかもしれない」

 

 そう、セイアの思う決定的な一線。

 もう後戻りが出来ない状況、それは即ち、誰かの命を奪われた時か。

 或いは、自分が誰かの命を奪ってしまった時だけだ。

 その一線を文字通り死に物狂いで――先生は守ろうとした。

 

「先生と私の安否が、彼女にとっての心の拠り所になっているのだよ、現に先生が倒れた時彼女は――」

 

 告げ、セイアは言葉を呑み込む。彼女の見た未来、その無数に分岐した果てで哄笑するミカを知っているからこそ、セイアはその先を言葉にする事が出来なかった。緩く首を振って、セイアは自嘲を口にする。

 

「いずれにせよ、私は彼女に優しくなどなかった、しかし、彼女は私のせいであのような――はぁ、全く、子どもじゃあるまいに、私もミカも『ごめんね』の一言すら伝えられずにいるなんて、恥ずかしい限りだよ」

「セイア……」

「大丈夫だよ先生、どうか心配しないで欲しい」

 

 そう、何も心配する事などない。百合園セイアは既にミカを恨んでもいなければ、責めもしない。彼女は既に、友人であるミカの事を許している。それだけは夢だろうと現実だろうと決して変わらない、セイアにとっての真実だった。

 

「――今直ぐ、ミカを呼んで来て貰うとしようか」

 

 背筋を伸ばし、やや草臥れた自身の衣服を指先で正した彼女はそう告げる。先生を見上げたセイアはふっとその表情を優しく崩し、部屋の扉に目を向けた。

 

「彼女と言葉を交わし、そして明日の聴聞会にも参加する、現状ミカの罪状の中で最も重いのは私に危害を加えた事だろうから……その当事者である私が一緒に居れば、多少罪は軽くなるだろう、後は――」

「私も、勿論弁護するよ、きっと二人で、いやナギサを含め三人で弁護すれば――」

「あぁ」

 

 先生の力強い言葉に頷き、セイアはベッドの脇に設置されていた呼び鈴を鳴らす。すると扉の前で待機していた行政官が扉を控えめにノックし、恭しい態度で以て扉を開けた。

 

「御呼びでしょうか、セイア様?」

 

 一礼し、部屋の中程まで足を進める行政官。先生とセイアを一瞥した彼女は、自身の愛銃を肩に担いだまま直立不動を保つ。そんな自身の傍付きを見つめたセイアは、努めて穏やかな口調で云った。

 

「悪いがミカに会いたい、今直ぐ此処に連れてきて貰えるかい?」

「は、ミカ様ですか……?」

「あぁ、そうだ、頼むよ」

「……分かりました、ナギサ様に確認を取って参ります」

「ありがとう、それとミカと二人きりで話したいと伝えてくれ、どうにも他人が同席するのは恥ずかしいからね」

「――かしこまりました」

 

 一瞬困惑の表情を見せた行政官ではあったが、自身の首長である彼女の言葉に従い一礼、そのまま部屋を後にする。恐らくナギサに連絡を取りに行ったのだろう、先生はそんな彼女の背中を見送りながら静かに云った。

 

「なら、私もナギサの所に行って来よう、色々と報告しないといけないから」

「あぁ、ありがとう、先生――少し、人と接し過ぎた様だ、ミカと言葉を交わすまで、横になって休ませて貰うよ」

「うん、無理だけはしないで」

 

 セイアの頭を右手で優しく撫でつけ、微笑む先生。彼女はそんな先生の手癖を何処か恥ずかしそうに、しかしまんざらでもない様子で受け入れ、首を竦めた。

 

「セイア」

「うん……?」

「――お休み、また聴聞会で」

「……あぁ、お休み、先生」

 

 柔らかく、暖かな言葉を交わし再びベッドへと身を横たわらせるセイア。そんな彼女を暫く見守り、先生は部屋の外へと足を進ませる。静かに扉を押し開け部屋を出ると、左右に立つサンクトゥス分派の生徒に声を掛けた。

 

「セイアの事、見ていてあげて」

「あっ、はい――お任せください!」

 

 その言葉に背筋を正し、声を張る生徒。先生は一つ頷き、そのまま彼女の病室を後にした。渡り廊下を歩き、救護騎士団本棟へと歩みを進める先生。このまま一度ナギサの執務室へと顔を出し、報告をしようと考え――連絡用端末の振動を感じ取った。

 

「――……?」

 

 足を止め、懐から端末を取り出し画面を覗き込む先生。しかし、表示された通知は見慣れたモモトークの画面でもなければ、シャーレ公式SNSアカウントに対するメッセージでもない。先生個人に宛てられた身元不明のメール、名前は記号の羅列であり、先生は一瞬悪戯かスパムの類を疑った。

 しかし、開封し内容を検めれば――記載されていたのは、詳細な位置情報のみ。

 それは先生の記憶に残る、とある生徒からの悲痛な叫び。険しい表情で端末を見下ろす先生は、指先に力が籠る事を自覚しながら呟く。

 

「今日、このタイミングか――」

『……先生』

 

 目を伏せ、深く息を吸い込む先生に対し、シッテムの箱よりアロナが声を上げる。先生の視線が表示された彼女のホログラムに向けられ、画面の向こうに立つアロナは両手を握り締めながら告げた。

 

『送信場所と、端末を操作してメッセージを送信した生徒の特定を完了しました、記載されている内容と発信位置は殆ど同じです』

「そうなると、やはりこのメールは」

『はい、先生が考えている通りの生徒さんかと……』

 

 その言葉に、先生はぐっと唇を噛む。それはあらゆる覚悟を決める為に必要な一瞬だった。アロナは画面の中で視線を様寄せながら、どこか云い辛そうに口を開く。

 

『以前と比較して、先生の心肺機能、及び運動機能は著しく低下しています、万が一の事を考えると、この呼び出しに応じるのは、その――……』

「それでも、私は行くよ」

 

 遠回しに推奨しない旨を伝えるアロナに、先生は首を横に振る。『行かない』――という選択肢は、先生の中に存在しなかった。

 生徒が助けを求めているのであれば、それが何処であろうと、誰であろうと、絶対に手を差し伸べる。

 それこそが彼の信念だった。

 

「――私は、先生だからね」

 

 ■

 

 不意に、懐に仕舞っていた端末が振動している事に気付いた。とある廃墟区画、その荒廃した屋上に佇んでいた彼女は、それに気付き端末を取り出すと通話ボタンをタップする。途端電話口から、どこか焦燥を孕んだ声が響いて来た。

 

『姉御!』

「……この端末に連絡を入れたという事は、先生の身に大事が?」

『それが、えっと――』

 

 云い淀む電話口の相手。彼女――ワカモは端末を片手に周囲を見渡す。薄汚れ、苔に塗れた廃墟の屋上には彼女の他に、もう一人不良生徒が待機していた。彼女の視線は唐突に掛かって来た端末に向けられているが、気にする素振りはない。

 

『シャーレの先生が、トリニティ自治区を離れて、その、外郭区画に向かっているみたいでして……』

「―――」

 

 その報告に、一瞬ワカモの動きが止まる。

 そうして次の瞬間、ぶわりと滲み出す不穏な気配。それを感じ取った横合いで待機していた不良生徒はびくりと肩を跳ねさせ、ぎこちなく首を回しながら問いかけた。

 

「姉御、一体どうし――」

「しッ」

 

 その不良生徒の問い掛けに、ワカモは指を立てる事で口を噤ませた。暫く手にした端末を凝視し、彼女は疑問の声をあげる。

 

「こんな時間に、あの御方が外郭区画に……?」

『は、はい、本校舎を見張らせていた奴が、間違いねぇって、中央線のバスに乗ってそのまま――気合でバスに追いついて、確かに街外れで降りたのを見たって云ってました! そこからはまるで何かを警戒するように、雑踏と裏路地を使って撒かれちまった様なんで、目的地は分からなかったんですけれど……』

「………」

 

 ワカモはその話を聞き、無言でスケジュールアプリを開く。びっしりと埋まっているそれは彼女のものではない、シャーレの執務室、そのPCから抜き取った先生のスケジュールそのものである。この時間は、本来であればシャーレに戻って執務に取り掛かる筈。だと云うのに先生の向かった方角は――シャーレではない。

 更に、尾行を警戒する様な素振りだと? ざわりと何か、良くない予感がワカモの胸を擽る。否、それは確信に近い代物だった。

 

「具体的な位置情報は?」

『え、あ、す、直ぐ端末に送信します!』

 

 即座に端末のマップ情報が送信され、開いたキヴォトスマップが更新される。画面上には先生が最後に目撃された場所が表示されていた。位置情報が示すのはトリニティ自治区外郭、ゲヘナとの境界線付近、此処を真っ直ぐ行けば人の寄り付かぬ廃墟群へと辿り着く――どうやら自身の予感は当たっているらしい、それを確認し立ち上がるワカモ。

 

「少し用事が出来ました、あなた方はアリウスの監視を続けて下さい、何かあれば随時連絡致します」

「りょ、了解っす……!」

 

 その言葉に戦々恐々とした様子で頷く不良生徒。ワカモは通話を切ると建物の屋上を飛び跳ね、隣り合う廃墟、その屋上へと飛び移った。指名手配犯として各地を逃げ回っていたワカモの俊敏性は、キヴォトスの生徒の中でも群を抜いて高い。その気になれば建物から建物へ飛び移る事さえお手の物。

 そして飛び跳ねながら片手間に端末を再び操作し、登録されている数少ない生徒、その一人へと発信した。コールは四回、向こう側から間延びした声が響く。

 

『――もしも~し、此方ミチルぅ……』

「あの方に不審な動きがありました、どうか集合を」

 

 言葉は簡素に、そして端的だった。その言葉を聞いた瞬間、電話口の向こう側より何かが転がり落ちる音、ドタバタという忙しない音が響いて来る。ワカモはその音に小さく吐息を零しながら、淡々と告げる。

 

「位置情報を送信しますので、現地で合流しましょう」

『わ、分かった! イズナっ! ツクヨ! 出番、出番だよっ! 今から出陣だから準備してっ!』

「念の為、完全武装での集合を、最悪戦闘を想定して動くべきです」

『りょ、りょうかいっ! シャーレに詰めていたから、そっちに到着するのはワカモより少し遅れると思う……!』

「えぇ、構いません、しかしながら出来得る限りお早いご到着を」

『任せて!』

 

 その言葉を最後に通話を切り、ワカモは端末を握り締めた。

 

「あなた様――このワカモが、今参ります」

 

 ■

 

「ん……通知?」

 

 ミレニアム自治区――ヴェリタス部室。

 薄暗い部屋の中でモニタと睨み合っていたチヒロは、ふと視界の端でポップアップする通知を捉えた。表示は『一件の新着メッセージあり』というもの、マウスを動かしてクリックすれば即座に表示されるメッセージの内容。

 それを目線でなぞっていく内に、彼女の視線は鋭く変化する。

 

「これ――もしかして」

 

 そうして同封されていた位置情報、時刻などを確認する。そして確信を深めたチヒロは眼鏡を指先で押し上げ、静かに呟いた。

 

「そう、動いたんだね……先生」

 

 内容は先生がスケジュールに無い動きを見せたというもの、そしてその足取りが明らかに何かある地区へと向かっている事。時刻と位置情報を見つめ、間違いがない事を何度も確かめた彼女はデスクの横合いに放っていた携帯端末を操作する。同時にPCよりとある人物に通知を送った。

 

「予定通り繋ぐよ、部長」

 

 声はひとりきりの部屋で、小さく響いていた。

 

 ■

 

「ハルナさん」

「ん――?」

 

 とある屋台――今日も今日とて素晴らしい美食を求め飲食店を渡り歩いていた美食研究会の面々。やや寂れ古びた外観ながらも、中々どうして悪くない蕎麦屋で舌鼓を打っていたハルナの耳に、アカリの声が届いた。隣で勢い良く蕎麦を啜るジュンコ、最早啜るというより口の中に放るというレベルのイズミ。そんな彼女達を横目にアカリは片手に端末を持ち、静かに口を開いた。

 

「通知が来ました、どうやら先生に動きがあったようです」

「……成程、今日になりましたか」

 

 口元をナプキンで優雅に拭い、一つ頷いて見せるハルナ。彼女は手にしていた箸を静かに置き、両手を合わせる。

 

「むぐ――ん、どうしたのハルナ?」

「もぐ……んぐ?」

 

 何やら店を出る支度を始めたハルナに、ジュンコとイズミの二人は疑問の声を上げる。同時にアカリも残っていた蕎麦を一瞬で口に放り、立て掛けていた自身の愛銃――ボトムレスを担ぎ上げた。

 

「ジュンコさん、イズミさん、出立の準備を――」

「え、何処に行くの?」

「あ、もしかして次のご飯!?」

 

 この屋台に入ってからまだそれほど時間も経過していない。爆破していないという事は不味いという訳ではない筈だが――そんな思考と共にジュンコが首を傾げれば、イズミはもう次の食事に想いを馳せていた。

 

「……そうですね、食事と云えば食事になるのでしょうか?」

「やったぁ~! ごっはん、ごっはん! 美味しいご飯っ! 次はこってり系がいいなぁ~!」

「あっ、ちょっと待って、も、もうちょっとで食べ終わるから!」

 

 急ぎ残った蕎麦を掻き込むジュンコ、空になった器を重ねて片付けるイズミ。そんな彼女達を見つめながらアカリはハルナにそっと問いかける。

 

「良いんですかハルナさん、本当の事を云わなくても?」

「ふふっ、ある意味これも食事と同じようなものでしょう、仕事を終えた暁には先生と共に料亭に寄って祝杯をあげるのも悪くありません」

「あら、勝利の美酒というものですか? 確かに、勝利と共に頂く食事は大変魅力的ですねぇ」

「えぇ、お酒の味はまだ知りませんが――……」

 

 呟き、ハルナはその銀髪を掻き上げ払う。差し込む月光は、彼女の朱い瞳を煌々と照らしていた。

 

「究極の美食に至る為の戦い、これを経た後に頂く食事はきっと――素晴らしい一品になる筈ですわ」

 


 

 次回がゲマトリアの会議。

 そしてその次がセイアの垣間見る未来の話ですわ。

 区切る場所が難しいので一万五千字とかになるかもしれませんの、二日ではなく三日目に投稿なった場合はよろしくお願いしますわ~!

 今章は最終章への前段階みたいな部分もあるので、結構色々動き回りますの。



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「ごめんね」(零れ落ちた言葉)

誤字脱字報告に感謝ですわ!
今回大体一万二千字ですの。


 

「それでは、次の議題を――」

 

 ――ん?

 

 セイアがその意識を浮上させた時、彼女の視界に飛び込んで来たのは薄暗く、陰鬱とした空間であった。天井に設置されたパネル型のライトが部屋の中を照らし、薄い赤色の壁が周囲を完全に覆っている。扉らしい扉も見つからず、完全に閉鎖された空間だった。凡そ人の生活する様な場所ではない――そこに集う、四つの影。

 

「異論はない、だがその前に確認しておきたい事がある」

 

 ――此処は、また明晰夢か? やれやれ、ミカが来る前に少し休むつもりだったのが、いつの間にか深く眠ってしまったのか、最近夢から目覚めるのが段々難しくなっているというのに……。

 

 セイアは自身の薄らと透けた体を見下ろし、胸の中で溜息を吐く。彼女としてはほんの浅い眠りに留めるつもりであった。しかし、どうやら肉体は既に慣れた熟睡を選んでしまったらしい。これもまた夢に潜り過ぎた弊害か。その事に辟易としながら彼女は人影に視線を向ける。

 

「マエストロ、何か気になる事が?」

「………」

 

 暗がりで良く分からなかったが、良く見ればこの空間に存在する人影はどれも異形であった。漆黒を連想させる罅割れた皮膚を持つスーツの男、首のないコートを身に纏った紳士風の影、木製の身体に軋む音を響かせる双頭の人形、白いドレスに赤い肌を持つ長身の女性。

 ひと目で分かる、異様な気配、ただ目視するだけでセイアの中にある本能が警鐘を鳴らしている。ざわりと、彼女の肌が粟立ち産毛が逆立った。

 

 ――彼らは、まさか。

 

「ベアトリーチェに質問がある」

「……えぇ、何でしょう?」

 

 マエストロ――双頭を持つ木製人形が声を発した。それはどこから、どのようにして響いているのかも分からない声だった。彼らの存在を直に感じ取り、セイアは確信する。

 

 ――ゲマトリアか……!?

 

 咄嗟に口を噤み、呼吸すら最小限に留められたのは彼女が常に理性的であろうと努めていたからだ。自身の両手で口元を覆い、意味があるかどうかは分からないが距離を取って部屋の片隅に体を押し付ける。極力存在を消し、冷汗を流すセイアは自身の心臓が早鐘を打ち始めたのを自覚した。

 そんな彼女の存在に気付く事無く、彼らは言葉を交わし続ける。

 

「要請によって、私は自身の力を貴下に貸したのは憶えているな? 戒律を守護せし者たちを複製し、そちらの計画に付き合わせた件だ」

「えぇ、感謝していますよマエストロ、お陰様で私は領地内に於いて更なる大きな力を得る事が出来ました」

「……私は貴下がそれを利用する事を許可した覚えはない、そも私の作品をそのように扱うなどと、一度も聞いていなかった」

「そうは云いますが――そもそも、あの現象はあなたの所有物ではない筈でしょう、マエストロ」

「不躾だな、私は所有権を主張しているのではない、それは――」

「まぁまぁ、お二人共落ち着いて下さい、事を荒立てる必要はないでしょう?」

「そういうこった!」

「……失礼しました、マエストロはきっと普遍的な現象を通じて独創的な解釈をする事は、自分なりの表現方法だと考えているのでしょう、彼にとって件の現象は既に作品の一つなのです」

「………」

「しかし、それはマダムの立場では特段考慮する必要がない部分かもしれません、私達は皆、この世界に対する解釈の方法が異なりますから」

「――つまり、私がマエストロの武器を勝手に奪った事が気に食わない、と?」

 

 ゴルコンダの仲裁に、ベアトリーチェはその腕を組みながら淡々とした様子で問いかける。マエストロは小さくその身を震わせると、ベアトリーチェをその軋む指先で指し示し告げた。

 

「貴下が行うのは芸術ではない、そこには何の美学もなく、信念も感じられぬ、ただ兵器を生み出すだけの行為だ」

「えぇ、その通りです――それに何か問題が?」

「……何?」

「ふぅ、良いですかマエストロ、私のスタンスは以前から何一つ変わってなどいません、このように扱うのはあなたの力だけではないでしょう、私は黒服が提供した技術力も、ゴルコンダが解釈したテクストも、同じように使っているのですから、そもそも私はあなた達の芸術に興味などないのです、【ゲマトリア】の一員となる時から主張して来た話だと思いますが?」

「………」

「クックック……えぇ、その通り、それはそれで構わないと、私はそう考えています」

 

 ベアトリーチェの言葉に沈黙を返し、不気味に佇むマエストロ。その二人を視界に収めながらも笑みを零す黒服。彼は小さく手を叩き場を窘めると、穏やかな声で云った。

 

「彼女はキヴォトスに於いて自身だけの領地を確保しています、要素だけを考えるのであれば私達の計画に最も必要な代物でしょう、今、仲間同士で争う必要はないかと」

「彼女の領地――アリウス自治区ですね、ふむ、確かに内乱に乗じたとは云えあそこの全ての生徒と学園を自身の支配下に置いた手腕、それは偉業と云えますね」

 

 ――アリウス自治区を、支配だと……?

 

 部屋の片隅で息を顰めながら彼らの言葉に耳を傾けていたセイアは、その言葉に思わず目を見開き驚愕を露にする。ゲマトリアが関与している可能性は十二分に考えていた、しかしまさか、裏で全てを操っていたのは――。

 

「黒服のアビドスについては非常に残念でしたが……おっと失礼、皮肉を云っているつもりではありませんよ、後一押しで成功する件の計画を惜しんでの言葉ですので」

「ククッ、お気になさらず、えぇ、確かにあの計画はあと一歩の所でしたが――シャーレの先生が介入した以上、成就した可能性は限りなく低いものだったでしょう」

 

 ――っ、先生……!?

 

 ゲマトリアの口から、先生の名が出される。彼らはその単語にそれぞれの反応を示した。黒服はどこか感傷に浸る様に、マエストロは全身に歓喜を滲ませ、ゴルコンダは深く思案し額縁を撫でつける。

 そして、ベアトリーチェは――。

 

「先生――私達の敵対者」

 

 その無数の瞳に殺意を孕ませ、手にした扇子を力の限り握り締めた。ミシリと、その手の中から軋んだ音が鳴り響く。彼女の呟きは部屋の中でも良く響いた、その声に一番早く反応したのは黒服だ。彼は静かにベアトリーチェへと視線を向けると、その首を緩く振ってみせた。

 

「ふむ、ベアトリーチェ、その件については私達と貴女で聊か意見の相違がありますね」

「………」

「既に察しているとは思いますが、私は、あの者と敵対するつもりはありません、寧ろ私達の仲間に引き入れるべきだと考えています」

 

 黒服は努めて冷静に、先生の有用性と希少性を説く。そして彼を敵に回した場合の不利益と危険性を考え、ゲマトリアに迎え入れるべきであると論じて見せた。無論、それが全てではない、彼はまだ本心を語ってはいないが――それでも納得できるだけの材料は揃っていた。損得勘定だけで考えても、シャーレの先生は内に抱え込むべきだと、先生の為して来た実績が語っている。

 黒服の言葉に隣り合うマエストロは深く何度も頷き、その身体を震わせ、両手を広げながら賛同を口にする。

 

「私としても黒服の意見に賛成だ、彼の事は大変気に入っている、あの者は私達の真なる理解者になってくれるかもしれない存在だ、同胞として共に並び立つ事があれば、これほど喜ばしい事はない」

「ふむ……私はまだ判断を保留していますが、興味深いのは確かですね」

 

 ゴルコンダは二人の言葉に一定の理解を示し、額縁――デカルコマニーの輪郭をなぞりながら頷きを返した。

 

「もし、彼がベアトリーチェの様に私達の一員になってくれるのならば、確かにそれは喜ばしい事で――」

「いいえ」

 

 そんなゴルコンダの言葉は、鋭く差し込まれたベアトリーチェの声に掻き消された。三人の視線が彼女に集中し、それを前にベアトリーチェは強かに扇子を開く。そして口元をそれで覆い隠すと、低く、響く声で以て告げた。

 

「――彼の者は排除すべきです、確実に」

 

 その言葉には、音以上の何かを感じさせるには十分な響きを伴っていた。ひりつく様な熱が部屋に伝搬し、ベアトリーチェは吐き捨てる様に顔を逸らし続ける。

 

「仲間に引き入れるですって? 愚かで怠惰な思考ですね、良いでしょう、えぇ、この際ですから一つずつ順を追って説明しようではありませんか、まずは、そう――聖園ミカ、彼女についてです」

 

 ――ミカ?

 

 ベアトリーチェの口から漏れた、自身の友人の名にセイアは自身の呼吸が乱れた事を自覚する。口を塞ぐ指先に力を込めながら、彼女は只じっと彼女の言葉に耳を傾けた。

 

「聖園ミカがアリウス自治区を訪れて以降、彼女には多くの事を手伝って頂きました、そう、云わば聖園ミカは私にインスピレーションを与えてくれる、ミューズとでも云いましょうか、未来の私が何故そのような行動を取れたのか……そこで私は漸く理解したのです、エデン条約を利用して太古の威厳を確保するというアイディアも、予知夢の大天使を真っ先に処分すべきだと云う判断も、彼女のお陰で実現できたのですから」

「成程、彼女が――」

「えぇ、預言者等という厄介な存在は内に抱え込むか、そうでなければ排除するに限りますからね、珍しい技術を提供してくれたデカルコマニー……いえ、ゴルコンダには感謝しますよ」

「私はテクストを提供しただけです、形にしたのはマダムですよ」

「そういうこった!」

「寧ろ、その技術がマダムの足を引っ張ってはいませんでしたか?」

「えぇ、一時危うい場面があったのは事実ですが――生贄の身体に予め植えておいた防御システムのお陰で助かりました、その点に関しては感謝しますよ、黒服」

「……ククッ、無名の司祭達の技術が役立った様で、私としても安心しました」

 

 黒服の言葉にベアトリーチェは肩を竦める。そして開いていた扇子を勢い良く閉じると、畳んだそれを掌に落としながら彼女は告げた。

 

「そして、聖園ミカが最後にくれたインスピレーション――それが、シャーレの先生を屠る方法だった」

 

 シャーレの先生を屠る方法。

 彼女が必殺の意志を持ち、些細な積み重ねから成就した一撃。それは調印式での一幕を指しているのだろう、マエストロ、ゴルコンダ、黒服、彼らにすら内密に用意していた無名の司祭、その遺産――黒服が回収し分析、再開発した量産品ではない、文字通り彼らが運用していたオーパーツ、オリジナルそのものを用いた一度限りの計画であった。

 ベアトリーチェは二度、三度、扇子で掌を叩きながら頷く。

 

「彼の者は生徒を第一に動く、故に生徒諸共であれば屠れると、そう踏んでの行動でした」

「だが、あの者はまだ生きている」

「えぇ、憎たらしい事に」

 

 マエストロの言葉に舌打ちを零し、彼女は憎々し気にその口元を歪ませる。彼女にとってあの一撃は最大にして最高の好機であった。先生の特性を知り尽くし、その信念を理解し、それを逆手に取ったベアトリーチェの執念の一撃は確かに彼の聖人へと傷を刻んだのだ。そして、その傷は遂に命に届き得る筈だった――否、実際に届いた筈だった。

 だが、彼の者は今尚生き長らえている。

 

「私がアリウス自治区をターゲットにしたのは、純粋にそこが秘匿された場所であるからで、それ以上の意味はありません、トリニティ、ゲヘナ、それらに向けられた怒りや憎悪など……私にとっては至極どうでも良い、憎悪は子ども達を統制する為の手段に過ぎず、エデン条約は守護者の力を得るための方法に過ぎず、生徒は使い捨ての道具でしかない――本来の私であれば、先生の事など歯牙にもかけなかったでしょう、しかし」

「アビドスでの一件ですね」

「えぇ、その通りです、アレ(先生)が介入すると、私が持っている全ての意味が変わってしまう――あの者は危険です、余りにも危険すぎるのです、あの在り方は私達とは対極、劇毒の様な存在なのですから」

 

 ――故に私の計画を果たす為には、必ず先生を消さなければならない。

 そうでなければ、ベアトリーチェの大願成就は叶わず、それが為される前にその在り方が捻じれ歪み、変質する事だろう。その確信が彼女には存在した、それはどう在っても変えようのない真実だった。

 少なくとも、彼女にとっては。

 

「正にアンタゴニスト(敵対者)、ですか」

 

 ゴルコンダの呟く様な一言に、ベアトリーチェは泰然とした様子で問いかける。

 

「私の決定が気に入りませんか?」

「――いえ、元よりベアトリーチェの先生に対するスタンスは理解していました」

 

 答えたのは黒服だった。彼は静かに頷きながらも、その口元は薄ら笑いを湛えている。何処か不気味な気配を纏う黒服に、ベアトリーチェはその瞳を細めた。ベアトリーチェは黒服が先生を高く評価している事を知っている、或いは彼の者をゲマトリアに招く事が叶うのならば、どれ程の代償すら惜しくは無いと考えている事も。

 先程口にした先生の価値など、所詮表面的なものでしかない。そう、ある意味この瞬間互いの腹の底を理解しているのは黒服とベアトリーチェ、この二人のみであった。

 

「だからこそ私は妨害も、説得も行わなかった、元より私達は各々の目的を追求する存在、以前も口にしましたが――私達は互いに互いの道を云々する権利を持っていません、どうぞ思うがままになさって下さいベアトリーチェ、私達はそれを見守らせて頂きます」

「……ふん」

 

 これ以上手助けする事は無い、しかし邪魔する事もない。それがゲマトリアとしての最終的な決定――それに不満を覚えているのか、マエストロは分かり易く機嫌を損ね視線を逸らす。ゴルコンダはそんな彼の様子に緩く肩を竦めながらも、続けて彼女に問い掛けた。

 

「しかし、あなたの計画がどういうものなのか、私達に具体的に教えてくれた事はありませんでしたね……マダム、結局の所、あなたはアリウス自治区で何をしているのですか?」

「祭壇を用意しています」

「祭壇だと?」

「えぇ、黒服がアビドスでしようとしていた事と本質的には変わりません、ただ私は契約を交わすつもりはありませんが」

「ほう、契約の代わりに儀式ですか」

 

 その返答に、ゴルコンダは興味深いとばかりにその身を揺らす。世界の見方、その解釈の仕方はそれぞれ異なる。それはアプローチの違いとも云い換える事が出来た。文学的な解釈を好む彼は手にしたステッキで床を軽く小突きながら、二つの異なる点に関して思考する。

 

「本来その二つが含むテクストは変わらないと考える事も出来ますが……その実行に、先生の存在が邪魔になると」

「えぇ、そうです、あの者は生徒(子ども)が犠牲になる事を決して望まぬでしょう」

「……ふむ、儀式という響きから凡その予想を立てる事も出来ますが、それを阻止する為に彼の先生が踏み込んで来ると、そうお考えですか」

「当然です、先生にとって子どもとは心身を削って尚守るべき存在ですから――しかし、既に手は打ってあります」

 

 儀式に先駆け、最も警戒すべきは件の先生――それ以外にあり得ない。このキヴォトスに存在する子ども(生徒)など、ベアトリーチェにとっては皆等しく自身に搾取されるべき弱者。だからこそ唯一にして絶対的な敵対者である先生への対策は、必要不可欠な事柄であった。

 

「先の騒動であの者は瞳と腕を喪った、残念ながらその存在を奪うまでには至りませんでしたが……しかし二の矢がまだあります」

「ほう」

 

 ベアトリーチェは勢い良く扇子を広げると、力強く断言した。

 

「先生は――近くスクワッドの襲撃を受けるでしょう」

「……成程、スクワッドですか」

 

 アリウスを離反し、その消息を絶ったアリウス・スクワッド。つい先日その追撃を命じた部隊からスクワッドの足取りを掴んだと報告を受け、報告に上がった地区へと追加の戦力を投入、遂にロイヤルブラッドの確保に成功し儀式の手筈は整った。

 そして離反したスクワッドの処分を云い渡し、全ては恙なく達成された筈だったが――。

 

「えぇ、廃棄しようとしていた消耗品ですが、賢しくも追撃部隊の処理を免れました、あれでもアリウスの中では高い戦闘力を持っていましたからね、ならば最期に一仕事――先生を殺せばアリウスに帰還する機会を与えると伝えました、彼女達にとっては断る事の出来ない提案でしょう、何せ、彼女達の様な存在を受け入れる場所は私の支配下にあるアリウスを於いて他にない」

 

 一度手を汚した者(影に浸った者)は、二度と陽の当たる場所へと戻る事は出来ないのだから。

 

 その言葉に、部屋の隅で全てを聞いていたセイアの身体がぶるりと震えた。彼女の悪意が、害意が、明確な形を持って自身を包み込む様な感覚があった。何より彼女の口にした言葉、スクワッドが先生を狙っているという事実、それがセイアを心胆寒からしめ堪え切れない動揺を生み出した。

 

 ――いけない、このままでは、先生が……!

 

 動揺は揺らぎを生み、彼女の気配を僅かに、ほんの僅かに主張してしまう。夢を介して空間を漂うセイアは目に見える存在ではない。本来であれば知覚出来る要素は皆無、しかし此処に居る面々はキヴォトスの外部から到来した異形共である、その精神の在り方や肉体的な構成は彼女達と異なり、特に自身の領域に対して敏感なバランスを持つベアトリーチェはその僅かな揺らぎを逃さなかった。

 ぴくりと、彼女の方が小さく震え幾つもの瞳が一斉にセイアを捉える。見えない筈の自身を捉えたベアトリーチェを前に、セイアは引き攣った吐息を漏らし、慌てて口元を強く塞いだ。

 

「――どうやら、(ネズミ)が潜り込んだようですね」

「……!」

「鼠……もしや、彼の銀狼に察知を?」

 

 ベアトリーチェの言葉に三人は驚愕を示し、マエストロが疑問の声を上げる。この空間を察知し、侵入出来る者が居るとすれば彼女以外にないと云う考えからのものだった。しかし、隣り合ったゴルコンダは緩く体を振って否定する。

 

「いいえ、本来この空間を彼女は認識する事すら出来ない筈です、そうでなければ即座に乗り込んでベアトリーチェに銃口を向けているでしょう」

「そういうこった!」

 

 件の銀狼がベアトリーチェに対して憎悪に等しい強い害意を抱いている事はゲマトリア皆の知る所である。もし彼女がこの場を知覚しているのであれば、即座に乗り込みベアトリーチェに鉛玉を撃ち込んでいる筈である。それが起きていない以上、彼女が此処に気付いたという事は考え難い。

 

「いいえ、この感覚は、このキヴォトスに生きる生徒の――」

 

 呟き、ベアトリーチェの瞳が蠢く。セイアの潜む空間、部屋の隅を凝視しながら彼女は苛立ちを隠さない。それは感じ取れる気配が朧気で、輪郭が実にあやふやであったからだ。まるで霞のように捉えどころがなく、感じ取れるのはほんの僅かな違和感でしかない。寧ろこれを勘違いだと断じず、『何かが存在する』と確信出来るベアトリーチェの感覚の鋭さが異常であると云えた。

 

「此処にキヴォトスの生徒(子ども)が? しかし、この場所は――」

「少々、話に熱を上げ過ぎた様です」

 

 訝しむ様に告げるゴルコンダに、ベアトリーチェは話を打ち切る意思を見せる。そして鋭く扇子を振って折り畳むと、その髪を翻しながら自身の領域と空間を繋いだ。

 

「私は自身の領域に戻ります」

 

 ■

 

「ぅ、ぁッ――はっ!?」

 

 意識が戻るのは一瞬だった、まるで長いトンネルを抜けたかのような解放感、同時に両肩を抑え込む様にして迫る疲労、凄まじい勢いで早鐘を鳴らす心臓を抑えながら、病床よりセイアは飛び起きる。制服には汗が滲み、その顔色は青を通り越して白くすらあった。

 弾む吐息、熱い肺を酷使しながら必死に呼吸を整え、セイアは乱れた髪をそのままに俯く。脳裏に過るのは先程の光景、ゲマトリアの交わした会話の一幕。それを反芻しながら思考を回す。

 

「う、ぐ、ゲホッ、こほっ……!」

 

 堪えられず、咳が漏れた。妙に水気の籠った、嫌な咳だった。口の中に鉄の味が混じる、慣れたそれに顔を顰めながら、しかしセイアの思考は止まらない。

 アリウス自治区は、既にゲマトリアによって支配されていた――それはセイアの知らぬ事実だった。そして、それが本当であるのならば。

 

「はっ、はぁッ、はっ……!」

 

 指先が小刻みに震え、意識が朦朧とし始めた。意図しない明晰夢によって、肉体の限界を超えてしまっていたらしい。そのぶり返しが、セイアを襲っていた。或いは、それだけではないかもしれない。あの空間はこのキヴォトスに生きる生徒にとって、劇毒の様な気配を放っていた。あそこに長時間留まっていれば、先に肉体()の方が壊れていた可能性もある。

 

 ――けれど、漸く掴んだ。

 

 アリウスの生徒達の教育も、自治区の位置を今まで見つけられなかったのも、あの正体不明の技術も、ヘイローを破壊する爆弾も、全て、全て――!

 あの、ゲマトリアが背後に潜んでいたのだ。

 

「伝え、なく、ては……!」

 

 呟き、セイアはベッドを抜け出そうと動き出す。その動作は遅々としており、最早歩くだけの体力すら残っていない。しかしスクワッドが、アリウスの尖兵が先生を追っているのであれば。

 

「先生が、危険……だっ……!」

 

 彼女達は既に一度、先生を窮地に追いやっている。その牙は、先生に届き得る可能性があった。否、もし誰かが先生の命を奪う事があるとすれば、それは――生徒の手によって為されるだろうという予感が、セイアにはあった。

 

「ぅッ、ごほ――ッ」

 

 しかし、伝えようと動き出したセイアを阻む肉体の危機反応。口に滲む、血の味、それを噛み締めセイアはどうしようもない、弱々しい己の肉体を見下ろし顔を歪ませる。それは沸き立つ遣る瀬無さを誤魔化す為の苛立ちに他ならなかった。

 

 ――【そう、云わば聖園ミカは私にインスピレーションを与えてくれる、ミューズとでも云いましょうか】

 

 無意識の内に、彼女の思考はベアトリーチェと呼ばれた女性が発した言葉を思い出す。(セイア)の命が狙われ、長い時を掛け計画されたエデン条約が決裂し、あらゆる生徒が傷付き、先生の命が奪われかけたのも、全て。

 その全ての始点があるとすれば、それは。

 

「お、お邪魔するよ?」

「っ――!」

 

 控えめなノックと共に、そんな声がセイアの耳に届いた。ゆっくりと開かれる部屋の扉、その向こう側から顔を覗かせる見知った顔――自分自身の友人。

 

 ――聖園ミカ。

 

「えっと、その……こんにちは、セイアちゃん」

「………」

 

 後ろ手に扉を閉め、引き攣った笑みを必死に浮かべる彼女。セイアは病床から上体を起こしたまま彼女を凝視した。

 彼女の姿を見たのはいつ振りか、それ程時間が経過していない事は確かだ――けれどセイアにとっては、夢の中で起きた事、現実で起きた事が綯交ぜになり、以前彼女とどんな言葉を交わしたのか、どの言葉を発して、どの言葉を発していなかったのかさえあやふやだった。

 

 ミカは額に滲む冷汗を必死に隠し、意図して明るく振る舞う。その態度は誰の目から見ても空元気に過ぎなかったが、それでも彼女なりに必死に取り繕うとしている事だけは理解出来た。ミカは扉の前から一歩も動かず、セイアと距離を取ったまま身振り手振りを交え、大袈裟に語って見せる。

 その浮かべる笑みは、痛々しさすら感じられる程だった。

 

「あの、連絡貰ったから急いで来たよ! 二人っきりで私と話したいって……セイアちゃんらしくなくて、ちょっと吃驚したけれど! あ、いつも監視している正義実現委員会の子にも扉の外で待って貰っているから、だから……」

「ミカ――……」

 

 ゆっくりと手を伸ばすセイア。その、何処か鬼気迫る様な気配、そして口調にミカは面食らう。よく見ればセイアの表情が酷く歪んでいて、その顔色も酷いものだと分かった。流石に様子がおかしいと、そう気付いたミカは一歩一歩、恐る恐ると云った風に近付きながら問いかける。

 

「せ、セイアちゃん? 何か顔色、酷いよ……大丈夫? 体も震えて、誰か呼んだ方が――」

「アリウスに……」

 

 近付き、手を伸ばすミカを――セイアは掴む。その肩口、衣服を掴んだセイアは凭れ掛かる様にしてミカを見上げていた。自身を引っ張る彼女の力にどこか驚きながらも、ミカは息を呑む。

 近くで見たセイアは、死人の様な顔色をしていた。

 

「アリウスに接触した時、スクワッド以外で他の誰かに会った事は?」

「えっ」

「アリウス自治区には、本当に一度も行った事がないのかい?」

「あ、ぅ、えっと、セイアちゃん……?」

「ドレスを着た背の高い女性を見た事は? スクワッドについて、他に知っている情報は……!?」

「セイアちゃん、一体何を――」

 

 唇を震わせ、ミカを強く掴みながら必死にそう問いかけるセイアを前に、ミカは完全に呑まれていた。その口調は問いかけるものであったが、力強く、彼女らしくない敵意を孕んでいる、それは尋問に近い。

 

「ぅ、ゴホッ、ゲホッ!」

「せ、セイアちゃん……!」

 

 不意に、彼女が咳き込む。口元を抑えた掌から、赤い飛沫が漏れた。付着した赤、鼻腔を擽る微かな鉄の匂い。それを前にしてミカは動揺を隠せず、思わず視線を彷徨わせる。そして、そんな状況にありながらもセイアはミカの肩を離さず、血の混じった酷い声で呟いた。

 

「君が」

「――ぇ」

 

 ぐっと、引き寄せられる体。セイアに引っ張られ、近くなった互いの距離。再び自身を見上げるセイア、その口元から垂れる赤、そして自身を捉える瞳――そこに込められた敵意に、ミカは思わず声を失った。

 

「君が、アリウスに接触した事によって……」

「あ……」

 

 その敵意に、自身を見つめる瞳に、ミカは自身の感情が急激に落ち込んでいくのが分かった。先程まで自分は、セイアと話し合い、謝罪出来ればと思っていた。先生が云っていた様に彼女は既に自分を許していて、また以前のように他愛もない話をして、ティータイムなんかをして、また元通りの関係に戻れるんじゃないかって。

 そんな夢みたいな、未来を思い描いて。

 

 けれどそれは所詮夢だった、セイアは自分を許してなど居ない、寧ろ憎悪している。その感情が痛い程に伝わって来た。ミカは視線を揺らし、口元を歪ませながら力なく俯く。

 

「そ、そうだよね、私のせいで、その、沢山、傷付いて……」

「先生、が――」

 

 セイアは声を絞り出す。項垂れる様にミカへと寄り掛る彼女は、低く、唸る様な声で以て告げた。

 

「スクワッドに、狙われている――!」

「―――」

 

 空気が、凍るのが分かった。

 それは予想だにしない言葉であった。ミカの目が見開かれ、セイアを凝視する。それは彼女をして、決して聞き逃す事の出来ない言葉だったから。セイアの手を取り、ミカは再度問いかける。その唇は、隠しきれない程に震えていた。

 

「セイアちゃん、今、何て?」

「先生の、命が危ないんだ……っ!」

 

 声が部屋の中に響いた。セイアらしからぬ激昂、震え、力強く自身を掴む手からその感情は痛い程に伝わって来る。口元から垂れる赤が、ミカの胸元を汚す。しかし、それを気にする余裕も無く、純白に命の赤を刻みながらセイアは叫んだ。

 

「君が、君がっ――先生をこんな場所(トリニティ)に連れて来たからッ……!」

「ッ!?」

 

 その一言は、決定的であった。ミカの目が大きく揺らぎ、その肩が震える。

 そして伝わって来たそれに、ハッとセイアは自身の失態に気付いた。予想だにしなかった情報の濁流、そして精神的疲労、肉体的な痛みにより我を失っていた。するりと、ミカの肩から手を離したセイアはベッドに手を突きながら、首を緩く振る。唇を噛み締め俯くその姿からは、強い後悔が滲み出ていた。

 

「っ、いや、ち、がう……私は、こんな事を、云いたいんじゃ……」

 

 そうだ、何を口走っているのか己は――。

 自省し、セイアは胸中で呟く。

 ミカを呼んだのは、謝罪をする為だ。許されていないと思い込んでいる彼女に、そんな事はないのだと、既に自分はミカを許しているのだと、そう伝える為に呼び出したのだ。

 だと云うのに今、自分はそれと反対の事を為している。

 

 ――違う、違うんだミカ、私は君に、『ごめんね』と……そう一言、伝えたくて。

 

「ぐッ――!? ごほッ、ごほっ!」

「せ、セイアちゃん……!」

 

 そう思い、口を開こうとするも――言葉の代わりに吐き出されたのは、鉄臭い赤色だった。視界の隅が黒く染まり出し、手足から力が抜け始める。感じ慣れた危険信号、肉体が機能を停止する兆候。身体が云う事を聞かない、精神では抗う事の出来ない絶対的な力がセイアを襲う。

 

 また、意識が――。

 

 セイアの視界が徐々に塗りつぶされて行く。意識が落ちる。暗がりの中で、ミカが必死に自分に向けて叫んでいる姿が見えた。その表情にセイアは罪悪感を抱きながら、しかし睡魔に抗う事も出来ず瞼を閉じる。

 また夢の中に戻って――いいや、違う。

 セイアは自身を襲う微睡の中に、常と異なる感覚を覚えた。夢の中に混じるのではない、何か、抗えない強大な何かに引っ張られるようにして意識が沈んで行く。深く、深く、常よりも更に深く。

 そう、これは。

 目に見えぬ何か(誰か)に。

 

 引き摺り、込まれて――。

 


 

 次回

 

 再び夢の中へと引き摺り込まれたセイアは、その中とある存在に知覚され世界の破滅、その真実を目にする。『未来』、『過去』、『異なる可能性』を知ったセイアはこれから先生の身に何が起こるのか、どんな結末を迎えるのか、その切片を知り、その凄惨さに打ちひしがれる。彼女は夢の中で必死に足掻き、先生へとこれから起こる破滅を伝えようと叫ぶ。

 しかしその声が届く事は無く、先生はたったひとり、差出人不明のメールを頼りに外郭地区へと赴き、そこで一人の生徒と対峙するのであった。

 



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■■ーア■カ■■を、もう■■(■■;■■■■■■)

誤字脱字報告に感謝ですわ~!
今更ですが独自解釈に御注意くださいまし。
今回約一万七千字です、書いていて最高に楽しかったですの!


 暗転した視界、消失した意識、それらが再び覚醒した時――彼女の目にしたのは、崩れ朽ちた聖堂であった。

 呆然とした様子を隠さず、セイアは恐る恐る頭上を仰ぐ。

 

「――此処、は?」

 

 罅割れ、砕けたステンドグラス。崩れた天井や柱は瓦礫として周囲に散乱し、覗く向こう側には星空が広がっている。煌めく星々は薄暗い闇の中でも自己を主張し、聖堂の内部を微かに照らしていた。

 

 しかし、目に見えるそれは果たして本当に星空なのだろうか? それを見上げながらセイアは思った。或いは此処だけが別世界で、空間そのものが区切られている様な――そんな寒々しさも同時に感じ取れる。

 暫くそうして周辺を眺めていると、ふとそのステンドグラスに描かれた模様、そして聖堂そのものの造りに意識が向いた。彼女の知識の中に、これと酷似した造りの聖堂があったのだ。

 そして、この様式を用いる分派は――。

 

「この建築様式、まさかアリウス自治区の……」

「――えぇ、此処はアリウスの【バシリカ】と呼ばれる場所です」

「ッ!?」

 

 声は、直ぐ後ろから響いていた。咄嗟に振り向こうとして、しかしそれよりも早く衝撃が体を突き抜ける。首元に強烈な圧迫感、そして足が地面より浮き上がり、視界一杯に赤と白が踊っていた。

 

「ぐ、ぅ……!?」

「覗き見をしている鼠がいると思ったら、やはりあなたでしたか――よもや、この至聖所まで辿り着くとは」

 

 セイアの首元を握り締め、宙吊りにしているのは――アリウスの主、ベアトリーチェその人。

 彼女は正面からセイアを見つめながら、その口元を歪に歪め愉し気な笑みを浮かべていた。

 

「しかし、この場は私の領域内、異物を見つけるのは容易い、夢の中だと思って油断していたのですか? 予言の大天使――いえ、百合園セイア」

「こ、此処がっ、祭、壇……!」

「えぇ、普段ならば決して踏み込む事が許されぬ場所、光栄に思いなさい」

「ッ!」

 

 ■

 

「――せ、セイアちゃん! しっかりしてっ!」

「ぅ、ぐ、ぁ……!」

 

 病室の中に、ミカの悲痛な声が響き渡る。目前にで苦しみ、喘ぐ様に呼吸を繰り返すセイア。喀血し、胸元を抑えながら崩れ落ち意識を失った彼女を抱えながらミカは扉に向けて思わず叫んだ。

 

「だ、誰か!? 誰か、来てッ!」

「何事ですか――!?」

 

 ミカの声に反応し、扉の前で待機していた行政官、そして正義実現委員会の委員が中へと踏み込む。そしてミカの腕の中で血を吐き出し、痙攣するセイアを目撃し思わず息を呑んだ。

 

「救護騎士団を呼んで来てッ! セイアちゃんの……セイアちゃんの様子がおかしいの!」

「わ、分かりました! 直ぐに!」

「救急処置を……! 確か、この辺りに常備されて――!」

 

 蒼褪め、懇願するミカの言葉に頷き駆け出す行政官。正義実現の委員は病室の棚に飛びつくと、救急処置用に備え付けられていたキットを引っ張り出す。

 途端に、病室の中は喧騒が飛び交う混乱の坩堝と化す。そんな中で、セイアはただ小さく呻き、ミカの腕の中で苦しみ続けていた。

 

 ■

 

「ぅ……!」

「ふむ、やはりですか、この揺らぐ様な気配、この場で始末しても意味がない、その命には届かない様子、何とも不便な――」

 

 セイアの喉を握り締め、小さく言葉を零すベアトリーチェ。彼女の手には確かにセイアを掴む感覚がある、しかしこの行為が直接的に彼女を殺害するには至らない事を理解していた。苦しめる行為に意味がない訳では決してない、寧ろ彼女を肉体から切り離す為には必要な行為だ。長時間の隔離さえ叶えば、百合園セイアの肉体は自然と死を迎える事だろう。ならば白昼夢に捕え続ける事もまた、彼女には似合いの末路となる。

 

 そんな意図も知らずに、セイアは伸ばされた腕より逃れようと必死に身を捩る。

 しかし、存在としての質、肉体的な強度が異なる。セイアとてキヴォトスの生徒に違いはないが、元より身体が弱く運動機能は通常のそれを大きく下回っていた。一般生徒であれば難なく逃れる様な危機でさえ、彼女にとっては命懸けの行為となる。

 何より、今の彼女は意志のみで形作られた存在。夢の中で自身に触れられる存在など、セイアは今まで一度も出会った事がなかった。故に意識に空白があった、夢の中で攻撃されるという心構えが無かったのだ。

 

「っ、くぅ――……!」

 

 絞られた喉元に、視界が揺らぎ始める。これが肉体的な苦痛によるものなのか、或いはベアトリーチェの権能によるものなのか、それすらも定かではない。顔を歪ませ、必死に足を泳がせるセイアは――ふと視界の端に鮮やかな色彩を捉えた。

 

 ――それは一枚のステンドグラス。

 

 彼女が至聖所と呼ぶこの場所、その祭壇奥に描かれた白い何か。それは樹の様であり、華の様であり、同時に太陽のようにも見える奇妙なデザイン。だが全体像としては、白と赤の混じった巨大な怪物であるように思えた――視界に収めるだけでも、不吉な気配が漂ってくる。

 そして、そのステンドグラスの前に磔にされた人影がひとつ。

 

 彼女は――確か。

 

「スク、ワッド、の――……!」

 

 そう、確かスクワッドの一員であった生徒だ。全身に傷跡を付け、顔をマスクで覆われた彼女は赤い茨の様な植物に巻き付かれ、奇妙なオブジェの一部と化している。

 先程の会議にてベアトリーチェの口にした言葉が真実ならば――彼女は贄だ。

 この祭壇に捧げられる生贄が彼女、ロイヤルブラッドであり、その結果生まれるものは――。

 思考を走らせるセイアの視界に、一瞬、影が過る。

 

「ッ……!」

 

 ――光が見えた。

 

 それはセイアの第六感が知らせた、最初にして最後の警鐘。

 しかし、目を逸らす事は出来ない。その選択肢が、彼女には与えられていない。ステンドグラス越しに、何か奇妙で、不安で、昏くて、寒々しく、恐ろしい、何かが迫る。

 ソレ()が、セイアを見つめている。

 

「な、にか、近……づ――ッ!?」

「っ! ――これは」

 

 自身の腕の中で唐突に体を震わせ、瞳孔を開きながら譫言の様に声を零すセイア。それを見たベアトリーチェが驚愕を貼り付け、思わずその手を離す。

 瞬間、セイアは崩れ落ちる様にしてその場に落下し、人形の様に脱力したまま小刻みに痙攣し出した。開き切ったセイアの輝く瞳に――その色に、ベアトリーチェは見覚えがある。

 

「まさか、■彩が見■■■? 此■で、接■を■■――………」

 

 セイアの聴覚が狂い出す、何もかもがあやふやになり、その輪郭を捉える事すら出来なくなる。ベアトリーチェが何を云っているのか、まるで聞き取る事が出来ない。

 見えない何かに引き摺り込まれるように――否、実際に引き摺り込む様にしてセイアの意識は更に深層へと潜っていく。

 

 この時、漸くセイアは気付いた。自身をこの空間に引き摺り込んだのはベアトリーチェではない。

 セイアを、自身を招き、引き込んだのは。

 

 この昏く輝く、恐ろしい、光が――……。

 

 □

 

 ――……っ!

 

 視界がぼやける。

 意識が虚無の海を揺蕩い、自身の輪郭が曖昧となる。再びその瞳が外界を捉えた時、セイアは巨大な渦の中に存在した。常とは異なる世界の中、明晰夢と呼ぶには余りも不明瞭で、巨大。

 渦とそれを表現したのは、まるで世界が安定している様には見えなかったからだ。目に見える景色はどれもこれも移り変わりが激しく、まるで情報の波が押し寄せているかのように見える。

 一瞬毎に切り替わる光景は、彼女をして処理し切れぬ程に膨大にして刹那的。セイアは大きく息を荒らげながら、周囲を見渡す。

 

 ――此処は、また意識が飛んだのか?

 

 胸内で呟き、自身の意識が何処に在るのかを探る。しかし、このような場所に来た事など彼女は一度としてなかった。未来や過去を目にする時、それは一つ一つの世界として完結していた。

 しかし、此処は違う、まるで複数の世界が絡み合い、混ざり合い、数多の未来・過去が同時に存在し、それを全て見せつけられている様な。

 

 ――これは、記憶か? それとも……いや、違う、この光景は。

 

 ふと、そんな彼女の視界に新たな景色が映る――それは一度も目にした事の無い光景。

 百合園セイアの、知らない世界。

 それを知覚した瞬間、彼女の意識は急激にその光景の中へと引き込まれた。

 

 気付いた時、彼女は知覚した世界の中へと引き摺り込まれ、その場面の只中に佇む事になる。焦燥と共に周囲を見渡せば、切り抜かれた映像の中から、まるで世界の中に入り込んだかのように――周囲全ての景色が、一変していた。

 

「先生の為にッ! 先生だけの為にッ! 今度こそ、先生を【幸せにする】って決めたんだッ!」

 

 声がした。

 血を吐く様な叫び、或いは歓喜を滲ませる生誕の声。

 薄暗い視界の中で踊る白、その後ろ姿に――セイアは見覚えがあった。

 

 踊る白の後ろで見慣れたタブレットを掻き抱き、呆然とした表情を浮かべるその大人は――先生だ。それは見間違いではない、薄汚れ、血を滲ませ、それでも尚佇むその背格好を見間違える筈がない。

 

 彼は暗く、冷たく、黒々しい何かと対峙している。輪郭のあやふやなそれは、よく見ればアリウスの使役していたユスティナ聖徒会である事が分かった。彼女達は体を揺り動かしながら、先生へとその銃口を向ける。

 そんな彼を守る様に立ち塞がる生徒がひとり。

 

「私を受け入れてくれた先生! 私に素敵な思い出をくれた先生! 私を幸せにしてくれた先生ッ! あなたに――殉じる為に私はっ、今、此処にいるッ!」

 

 あれは――誰だ。

 

 セイアは想う、薄暗い聖堂、その回廊にて拳を振るう生徒。

 全身が血に塗れ、薄汚れた制服をそのままに嗤う誰か。見慣れた衣服、見慣れた翼、見慣れた顔立ち、聞き慣れた声――だと云うのに、どうしてか同一人物だと思えない。

 亡霊染みた何か、ユスティナ聖徒会と推測されるソレが掻き消える。彼女が拳を振るう度に、その銃器を向ける度にひとり、またひとりと搔き消えて行く。薄暗い回廊の中で踊る白は圧倒的で、まるで暴虐の嵐そのもの、正義実現委員会の部隊が揃って初めて対峙出来るか否かという程の脅威を前に、彼女は単独で道を切り開く。

 その強さを、セイアは知らない。

 その笑顔の意味を、セイアは知らない。

 その存在の異質さを、セイアは認められない。

 

 彼女は――あんな風に、嗤ったりしない。

 

「ねぇ、先生」

 

 最後の一人を殴り、掻き消し、彼女はゆっくりと振り返る。崩れ落ちた天井から差し込む月光が彼女――聖園ミカを照らし、血と砂利に塗れた純白(夜空)が、満面の笑みを浮かべながら告げた。

 

「救いに来たよ――私の大切な王子様!」

 

 その、血に塗れた手を先生に差し出しながら。

 彼女(聖園ミカ)はそう云って、嗤ったのだ。

 

 □

 

「自分なら今度こそ先生を守り切れると? シャーレを崩さず、先生を今のまま? ――それは驕りだ」

「自信と云って欲しいなぁ、それに最初から失敗する事を考えて動く人が何処にいるのさ、私はやるよ、やって見せる」

 

 ――ッ!?

 

 場面が切り替わる。まるで映像を早送りしたかのように、世界が加速と再生を繰り返す。場面が切り替わるのは一瞬、百合園セイアという異物を除き、世界は瞬く間にその景色を変える。

 

 ――何だ、景色が、切り替わった……!?

 

 戸惑うセイアを他所に、世界は再び正常に動き出す。

 目前には彼女――ミカの傍に立つ銀色の髪を持つ女性。黒いドレスの様な衣服に大人びた出で立ち、セイアの知らぬ存在。彼女はミカと対峙しながら鋭い視線で正面を射貫く。

 ミカの表情が嘲る様に歪み、銀色の女性が舌打ちを零した。

 

「――そんなあやふやな未来に、先生を連れて行こうとするな」

「――一回の敗北で随分負け犬根性が沁み込んだんだね、狼の癖に」

 

 二人の持つ引き金に、その指は掛かっていた。

 

 □

 

「……あなたは」

「………ッ!」

 

 ――まただ……!

 

 また、場面は切り替わる。セイアは額を抑えながら滲む脂汗を指先で拭う。酷い、頭痛があった。

 

 先生の前に立つ二人の人影、あの銀色の女性とミカだ。彼女達と先生の前に――何かノイズの走る、巨大な影が現れていた。

 

 セイアはそれを直視する事が出来ない。まるで存在そのものが切り抜かれているかのように、輪郭はあやふやで酷くおどろおどろしい気配だけが伝わって来る。しかし例えノイズに塗れていようとも発せられる気配と恐怖は確かなもので、映像としてではなく、情報としてセイアはソレの存在を知覚する事が出来た。

 

 身長は三メートルを超え、大柄な肉体は鉄仮面と奇妙な外套に覆われている。その包帯だらけの細い指先が外套を掴んでおり、肩に施された赤い装飾は、冷たい鉄仮面をより一層不気味に彩っていた。

 

 ――アレは、何だ……!?

 

 セイアは心の中で問う。この存在は、一体。

 分からない、凡その見当すらつける事が出来ない。そもそもコレは恐らく――キヴォトスの存在ですらない。

 セイアが理解出来るのは、それだけだった。

 

「そうか……やはり」

 

 そんな異形を前にして、先生は怯むことなく対峙する。薄汚れた制服を靡かせ、彼はその表情を大きく歪めた。

 それはセイアが見た事も無い様な焦燥と、悲観を滲ませた顔だった。

 凡そ先生が生徒に見せた事も無い様な、切羽詰まった感情、その発露。

 込められた感情は、悲しみと後悔か。

 

 握り締めたタブレットが軋み、その口が開かれる。

 何よりも、誰よりも――強い感情を滲ませながら。

 彼は呟いた。

 

「運命は、こうなるのか……!」

 

 □

 

「ッ、ぅ、ぐァア――!?」

「っ、先生!?」

「っ……!」

 

 世界が途切れる。再び流れ始めた世界をセイアは知覚する。その中で、最初に飛び込んで来たのは全身から蒸気を噴き出す先生の姿。

 古傷という古傷が赤く浮かび上がり、その合間から熱気が吹き上がっているのが分かる。その痛みに、熱に、彼は苦悶の声を上げ倒れかけていた。

 しかし、辛うじて崩れ落ちる事を堪え、先生は歯を食いしばって耐える。大量の汗を流し、自身の身体を見下ろした先生は絞り出すようにして声を発した。

 

「ぅ、ぐッ、これ、は……!?」 

 ――先生……! い、一体何が……?

 

 困惑と驚愕を滲ませ、セイアは視界を振る。

 すると聳え立つ巨躯の傍から黒い――影の様な存在が噴出し始めた。その存在が手にしているのは錆びれ、朽ちかけ、ボロボロになった■■■■■■。

 彼の抜き出したソレがゆっくりと光を放つ。

 青く、しかし黒の混じった光を。それは聖堂を、周囲を覆う様にして広がり続け、先生を、ミカを、銀色の女性を、セイアを包み込んでいく。

 まるで世界を塗り替えていくように。

 

 セイアは、愕然とした表情でそれを見つめていた。

 だって、その力は。

 その力を扱える者は、彼女の知る限り――。

 

 その色を直視し、先生は歯を剥き出しにして呟いた。

 自身の発熱する古傷を抑えながら。

 

「そう、か――……そういう事、か」

 

 その足を前に一歩、踏み出し、彼はタブレットを握り締める。その表情は悲痛そのものであった。今にも泣き出しそうで、羞恥と絶望と無念に染まった、余りにも酷い顔だった。

 絞り出した声に、数多の感情を込めながら彼は更に一歩を踏み出す。

 その影と、真正面から対峙する。

 

「一人じゃ、ないんだね……――」

【―――】

(あなた)の、救いたいと、そう願った生徒は……ッ!」

 

 鮮やかな色彩は朧げな輪郭すら持たない。まるで彷徨う空気の様に周囲を渦巻く。しかしそれも徐々に、徐々に形を得て人型へと収斂される。軈てその色が黒一色へと定まり、影が確かな姿形を纏った時――世界の色を塗り替えた異形が持つ、どこか見覚えのある端末から声が響いた。

 

 表面の罅割れた端末、そこから電子音が響いた瞬間セイアの意識にノイズが走る。

 垣間見える色は――白いリボンと黒の制服。

 

『――あなた(■■)の、望むままに』

 

 □

 

「先生を取り込もうとしているの!?」

「本人にそのつもりはないッ……!」

 

 ――……ッ!

 

 世界は加速する。

 場面が次々と切り替わる。セイアは情報を纏め、考える事すら出来ず流れ込む世界の光景に圧倒される。

 再び視界に映るのは群れを成し迫りくる大量の人影。

 全身を黒に染め、影としか表現できぬ昏さを身に纏った人型の何か。それを前に立ち塞がるミカと銀色の女性。彼女達は銃器を使い、手足を使い、必死になって影を退けていく。

 しかし影は幾ら倒されようとも、掻き消されようとも、続々と現れ駆けていく。異形の傍から、その足元から、覆われた世界の中で彼女達は何度も再誕する。

 

 ただひとり――先生(望む人)へと手を伸ばしながら。

 

「ただ、先生を求めて手を伸ばしているだけだ――だが、接触すれば何が起こるか分からない!」

 

 □

 

【先生――】

【せんせ――】

【せんせいっ――】

 

 場面が飛ぶ。影が一斉に手を伸ばす。

 何処かで見たような(人影)を象りながら、酷く濁音の混じった声を上げながら。必死になって先生に向かって、健気に、懸命に、一心に手の伸ばし続ける影たち。

 

 それを見つめる先生の表情が――歪む。

 

 痛い程に歯を食い縛り、目を見開き、ぐしゃぐしゃになった表情で影を見つめる。抱えたシッテムの箱、その指先が震えている事にセイアは気付いた。呼吸が引き攣っていた、それは余りにも痛々しい姿だった。

 それでも尚、彼は膝を折る事を許されない。

 

「先生ッ!」

「っ……!?」

 

 ひとりの影が、二人の防衛線を抜けた。

 次々と迫りくる人影に、たった二人で対応するのは困難を極める。影は他の影と比較し一際素早い動きで二人を躱し距離を詰め、身構えた先生目掛けて飛び込む。両手を広げ、まるで抱擁する様に。

 先生の身体が沈み、回避の為に動こうとした。接触すれば何が起こるか分からない、それは正しい言葉だと云える。故に先生の判断は至極当然だった。

 けれどその影が――彼の知る生徒に酷似した影が、口を開く。

 

【主殿――】

「……――」

 

 瞬間、先生の目が見開かれた。

 地面を蹴ろうとした両足が、縫い付けられたように微動だにせず、大きく体が震える。至近距離でその声を聴いた時、その姿を見つめた時、先生の唇が戦慄き、息を詰まらせた。

 たった一言、たった一言で先生は身動きが取れなくなってしまう。

 その言葉に込められた深い、何処までも深い感情に呑み込まれ、そして――彼女の面影を強く感じてしまったが故に。

 

 ――先生、何を……ッ!?

 

 足を止めた先生を前にセイアは思わず叫び、駆け出そうとする。自身が干渉出来る筈がないのに、声が届く筈がないのに。それでも叫ばずにはいられなかった。

 

 先生の瞳から涙が零れ落ちる。生徒に決して見せまいと、自分を偽ってまで堪えていたそれが頬を伝う。

 

 彼女たちを。

 彼女達を、見ていると。

 

 どうしても、心が――鈍るのだ。

 

 □

 

 ――ぐッ!?

 

 再び場面が飛んだ。加速した世界に目が眩み、セイアは駆け出そうとした姿勢のまま地面に投げ出される。這い蹲り、見上げた視界には人影に纏わりつかれ、影の中に沈み行く先生が居た。

 腕に、肩に、足に、腹に、影は全力で縋り付く。その黒が先生に触れる度に、その肉体が朽ちていくのが分かった。先生の制服が黒に浸食され、内部の肌が黒ずみ、罅割れる様にして穢れていく。

 その姿を見た瞬間、ミカが焦燥に塗れた表情で叫び、先生の名を呼んだ。

 しかし、彼は動かない――動けない。

 

「ぐ、う、ぅッ――……」

【――先生】

 

 自身を見上げ、その名を呼び続ける生徒の影を前に動く事が出来ない。それはどのような感情から齎されるものか、憐憫か、同情か、否――この影は先生の罪悪そのものだった。

 先生が此処まで歩んで来た、その罪の証なのだ。

 それを背負うと、彼は云った。歩みを止める事は出来ないと、彼は知っていた。

 

 故にその罪悪が形を為し、その先生の足に縋りついた時――彼は振りほどく事が出来なかった。

 

 その罪悪(積み上げた生徒達の想い)は先生の歩みを止めない為の代物だった。どれ程の苦難であっても、どれ程の痛みであっても、彼女達を想えば耐えられた。歩みを止める訳にはいかなかった。

 だが同時に、唯一その足を止め得る代物は、その罪悪(積み上げた生徒達の声)でもあった。一人、二人、ならば耐えられたかもしれない。真正面から向き合い、その声を聞き届け、歯を食いしばり、その重すぎる罪悪に圧し潰されそうになりながらも――それでも全てを呑み込んで、噛み締め、再び足を動かせたかもしれない。

 

 けれど、目前に存在する無数の罪悪は――それ全てが先生の歩んで来た道そのもの。彼の手が届かなかった、『あまねく世界の可能性』。

 それを直視させられた時、先生の心に大きく、強く、決して消えない傷が刻まれ、罅割れる音がした。

 それは余りにも強大で、存在そのものを圧し潰さんとする、罪悪感(自身の無力の証明)そのもの。振り払う覚悟が持てない、その影が、その声が、その形が、先生の精神を、肉体を穿ち、侵し、離さない。

 

『先生ッ、何をしているんですか!? 早くっ! 早く脱出を――ッ!』

「ッ、ぅ、ぁ――……!」

『彼女達はもう先生の生徒ではありませんッ! あの光に触れ、浸食され、変貌した存在(可能性)は、もう――ッ!』

 

 タブレットから声が響く、それが酷な選択であると分かっていた。だが敢えて、彼女はその様な物云いをした。そうでなければ先に先生が、その肉体が朽ちてしまうと理解していたからだ。

 

「ち、がう――……ッ!」

 

 だが、タブレットから響く声に先生は首を振る。血の滲んだ手を握り締め、涙を流し、後悔と悲壮と罪悪と自己嫌悪に塗れながら、先生は声を絞り出した。

 

「違う、んだよ、アロナ――……彼女、達は、いや……! 彼女達も――ッ!」

 

 自身に縋り、手を伸ばす生徒達。その手が先生の頬に触れ、滲み出る黒が彼の皮膚を汚した。その掌、指先から伝わる冷たさに顔を歪め、先生は大口を開け、嗚咽を零す。震え、力ない先生の指先が――縋り付く生徒の頬に触れた。

 途端、彼女の――影の表情が。

 少しだけ、ほんの少しだけ。

 

 笑った様に思えた。

 

「彼女達も、私の――ッ!」

 

 

 ――生徒で在った筈なのだ。

 

 

【■い、じょ■ぶ……】

「ッ――!」

 

 不意に、声が響いた。聖堂内におどろおどろしく、ノイズの掛かった声が響く。はっと、先生は声のした方向へと顔を向けた。黒に侵され、罅割れた頬をそのままに、彼は目を見開く。

 

【■い、■ょう■、だ■……――】

 

 声は、セイアの認識出来ない異形が発したものであった。その内容は、彼女の耳では聞き取る事が出来ない。

 異形はただその場に佇み、罅割れたタブレットを抱えたまま俯いている。

 

 ふと、隣に佇む影が異形の外套を引っ張った、それは彼の呼び出した影のひとりだった――顔も、形も定かではない誰か。そんな■■()の頭を優しく撫でつけ、異形()は告げる。

 影は撫でつけられる異形の手を優しく包み、嬉しそうに笑っていた。

 

【かな、ら■……助け、■、み■……■、から】

 

 そうして、彼はゆっくりと顔を上げ、先生を見る。

 真っ直ぐ、その鉄仮面越しに。

 濁り侵され、奪われて尚微かに残る色を覗かせながら。

 

【だっ、て……――】

「っ……!」

 

(あなた)は――先生(■■■)、だからね……】

 

 □

 

 それは、何と残酷で。

 何と、虚しく。

 そして、何と悲しい言葉であったか。

 

 その一言が、先生にとってどれほどの衝撃であったのか、セイアには分からない。ただ目を見開き、瞳孔すらも広げ、涙を流しながら嗚咽を零す先生を見れば、彼にとって決して逃れられない、その根底を指し示す言葉である事は分かった。

 愕然とした表情のまま、自身に縋る影を見下ろす先生。彼の視界に入る、無数の(生徒)、その罪悪の証。

 

「ぁ――」

【先生――】

 

 ぽろりと、先生の頬を伝う大粒の涙。

 零れ落ちたそれが、自身を見上げる(生徒)の頬を濡らした。

 

「あ、ああぁあアァアア――ッ!」

 

 叫ぶ、全力で。

 恥も外聞も無く、血を吐く想いで絶叫する。

 それは慟哭だった、どうしようもない感情をただ吐き出し、自身の罅割れた心を固める為に必要な行為だった。自身に縋り、見上げ、語り掛ける影を前にして、先生はその震える右手を掲げる。

 

 先生の背中には、生徒達の夢が、未来が、希望が――託されている。

 そしてそれと同じ分だけ、生徒達の願いが、慟哭が、祈りが、呪いが――積もっている。

 時を重ねただけ、その比率は偏っていく。

 止まる事は許されない。足を止める事は許されない。諦める事は、許されない。

 積み重ねて来た罪悪に報いる為に、ただ自身の願いの為に、あの日誓った、掴みたいと夢見た明日の為に。

 

 ――それでもと叫び続けた、成れの果てが、自分(先生)だった。

 

 切り札を、切る。

 

 途端、掲げた指先に集う、凄まじい光。黒と青の混じった世界の中で、純白と蒼が交差する。セイアは思わず顔を背け、凄まじい風に地面を這い蹲ったまま頭を抱えた。靡く髪がはためき、その光量は世界を覆い隠してしまうのではと錯覚する程。

 光を掲げる先生の肌が急激に罅割れ、古傷が再び浮かび上がっていく。その目から、鼻から、口から、大量の血を流しながらも彼は覚悟を決める。血に塗れた瞳を異形へと向け、彼は涙と血を流しながら叫んだ。

 

 たとえ、どれ程の代償を払う事になったとしても。

 

「アロナァアアッ!」

『――ッ!』

 

 ――その血を孕んだ慟哭が、最後の決断を下した。

 

 ■

 

『――シャーレの先生が意識不明の重体となってから、七十五日が経過しました』

『あの事件以降、破壊された■■■■本棟では、引き続き蘇生の可能性について数々の議論が行われ、各学園の医療従事者は――』

『当該事件についての議論は未だ決着が付かず、特にトリニティとゲヘナ間に於ける関係悪化は深刻な域に達しているとの見方が――』

『先生が主導していたアリウス自治区復興計画に関しても再開の目途は未だ立っておりません、当自治区に対して破壊活動や誹謗中傷を繰り返す生徒が後を絶たず、トリニティは自治区内の一時境界線封鎖を検討していると――』

『キヴォトス内に於ける治安の悪化が懸念されており、ここ一ヶ月以内でも既に幾つもの凶悪事件がD.U.及び各自治区内にて確認されています、この件について連邦生徒会長は……』

 

 ■

 

『そ、速報です! 先生の意識が戻らなくなってから百日が経過した本日、■■病院より緊急発表が……! 世論はこの事について――』

『医療関係者は先生の回復は見込めないと判断し、蘇生は不可能、これ以上の延命治療は無意味であるとの見解を示しました! 近く先生は■■病院より移送され――』

『しかし、一部学園、及び生徒からは反対の声も多く、幾つもの学園が連名で先生の延命治療を嘆願しているとの情報が――』

『連邦生徒会、及び現連邦生徒会長はこの件について――』

 

 ■

 

『先程ミレニアム・サイエンススクールより声明が発表されました! ミレニアムは■■病院の緊急発表に対し強く抗議すると共に、先生の身柄保護を――』

『宣戦布告です! 宣戦布告が行われましたっ! 既にトリニティ総合学園、及びゲヘナ学園の外郭区境界線にて突発的な戦闘が勃発しているとの情報が――! この宣戦布告は先生の身柄保護の観点から、トリニティ主戦派によるものと――』

『先程ゲヘナ生徒会、万魔殿(パンデモニウム・ソサエティ)からの正式な発表がありました! ゲヘナは緊急事態宣言を発令、戒厳による動員を決定したとの――』

『ひゃ、百鬼夜行連合学院自治区内にて大規模な火災が発生したとの情報がただ今入りましたっ! またレッドウィンター連邦学園にてクーデターが発生し、暴徒は隣接する自治区内に――』

『連邦生徒会は非常対策委員会の設立を発表しました、一連の騒動を【キヴォトス動乱】と呼称し、早急な対策を――! しかし既に各自治区内では――!』

 

 □

 

 巡る、巡る――世界が色を、景色を変える。時間を超越する予知はめぐるましい変化を見せ、セイアはその表情から色を失くす。感情を露にするだけの余裕すら、彼女は既に喪っていた。予知は彼女を待ってはくれない、望む、望まざる問わず濁流のように全てを流し込む。

 

 そうして彼女が最後に見た――その景色は。

 

「ま、待って……」

「だい、じょうぶ」

 

 其処は、何処だろうか。

 広い空間だった、薄暗く、火の手が回り、破壊跡の刻まれた何処か。その炎と瓦礫の中で対峙する二つの影、片方は先生、もう片方は――炎の熱気に遮られ、視認する事が出来ない。ただ、空の様な髪色が踊り、その人影の周囲を青い光が包み込んでいた。

 

 先生の状態は――酷いものだった。

 瓦礫に身を預ける様にして座り込んだ彼は全身という全身を赤で染め、彼を象徴するシャーレの純白は何処にも見当たらない。千切れた腕章がセイアの足元に転がっており、彼女は無意識の内に一歩退いていた。その腕は力なく垂れ落ち、左腕は肩口から消失している。

 そして何より、彼女が息を呑んだのは。

 

「待って、下さい――先生っ!」

「大丈夫、だよ……」

 

 譫言の様に、彼は呟く。

 実際、それが意識しての言葉なのかどうかも定かではない。先生の瞳はもう、何処も捉えてはいなかった。俯いたまま、光の消えかかった瞳で呟く。その指先は罅割れ、赤いランプを点灯させるタブレットに被さっている。血と砂利に塗れたそれは、爪が剥がれ掛け、直視出来たものではなかった。

 炎の向こう側から誰かが叫ぶ。

 長い空色が、動きに合わせ揺れ動く。

 

「先生、待って、お願いッ……! そんなっ!」

「だって、此処から……なんだ」

 

 俯いていた先生の顔が、ゆっくりと生徒に向けられる。炎越しに見える、朧げな輪郭。崩れ落ちる天井、重なる瓦礫の轟音に覆われながらも、彼の声は耳に届いた。一瞬、ほんの一瞬、先生の瞳に光が宿る。

 血と傷に塗れ、苦痛に苛まれる先生はそれでも尚――穏やかな笑みを浮かべて云った。

 

「君達の、希望に満ちた未来は――」

 

 そう、此処から。

 此処から全て、始まるのだ。

 今この瞬間、この場所こそが――。

 

「この瞬間が……」

 

 ――あまねく■■の(捻じれて■■■)■■点。

 

「先生ぇッ!」

「責任は――」

 

 その代償も。 

 色彩すらも。

 

「私が、負うからね」

 

 その一言と共に生徒が青の光に包まれ、掻き消える。

 その姿、影すら見えなくなり、彼女の肉体は跡形もなく消え去った。何処に行ったのか、どうやって行われたのか、その何もかもがセイアには分からない。彼女はただ、死に体となった先生の傍に佇み、呆然と見下ろす事しか出来ない。

 何があったのか、どうしてこうなったのか、それを聞きたくて仕方がない。だがその力も、資格も、彼女には無い。この世界に置いて、百合園セイアは傍観者に過ぎない。

 

 千切れ、砕けた両足を投げ出したまま、先生は小さく息を吐き出す。それが安堵の溜息なのだと、傍に立つセイアには分かった。

 世界が振動する、爆発が巻き起こり、黒煙が視界を覆い始めた。破壊された外壁の向こう側から吹きすさぶ風は先生の衣服と髪をはためかせる。よく見れば、この空間は空に在るのか――崩れ落ちた壁の向こう側に見える景色は、凄まじい勢いで上方へと流れていた。

 

「私は――……」

 

 先生の頸がゆっくりと落ち、指を乗せていたタブレットが静かにその画面を暗転させる。罅割れ、薄汚れたそれを指先で静かに撫でつけ、先生は小さく、ほんの囁く様な声色で呟いた。

 

「私は、やり遂げたのだろうか……?」

 

 その声に――答える者は居ない。

 それは彼の最後に見せた疑念だった。これで本当に良かったのか、これが自身の為せた最善だったのか。そんな事を最後の最後に想い、思わず口ずさむ。けれど、彼は自身の出来る範囲で全力であったのは確かだった。

 生徒の為に生き、生徒の為に戦い、生徒の為に抗い、生徒の為に歩き続け――此処まで辿り着いた。

 

 生徒こそが、絶対である。

 その人生に、後悔はない。

 

「っ……!」

 

 不意に、先生の横顔が陽に照らされる。

 見れば夜空に覆われていた世界が、徐々に明るさを取り戻していた。雲海の上、何も邪魔するもののない、綺麗な蒼穹――先生の愛した青色がそこにあった。

 差し込んだ陽光に照らされながら、先生は瞳をそっと細めた。

 

「あぁ――」

 

 ――朝が来る。

 

 崩壊が始まる。

 黒煙が吹き荒れ、爆発が連鎖し、世界が、空間が解体され始めた。振動は徐々に大きくなり、セイアは不安定になり始めた足場に顔を顰める。そんな中でも先生は微動だにせず、ただ穏やかな表情で視界に広がる青空と陽光を見つめていた。

 そうして彼はゆっくりと、何かを噛み締める様に、どこか感じ入る様に、ぽつりと最期に言葉を漏らした。

 

「――夜明けだ」

 

 炎が先生の方向へと雪崩れ込み、頭上から降り注ぐ瓦礫に何も見えなくなる。セイアが先生に手を伸ばそうとして、けれどそれよりも早く強大な爆発が全てを掻き消した。最後に呟かれた先生の言葉、それが耳にこびり付いて離れない。

 解体された空間から放り出され、セイアの肉体は虚空へと投げ出された。そして、セイアの視界は暗転し、その意識は再び異なる世界へと引き摺り込まれる。

 

 □

 

 ――これが、世界(先生)結末(終わり)だった。

 

 ■

 

「あ、あぁ、セイアちゃん……気が付いたの?」

「ぅ……ぁ――?」

 

 微かに揺れる感覚に、意識が覚醒した。滲む視界に真っ白な思考、見上げるその中には涙目で自身を見下ろすミカの姿があった。呆然と周囲に視線を飛ばせば、見慣れた天井に壁、行政官に正義実現委員会の生徒達が慌てふためき自身を囲んでいる。目の前のミカが放つ雰囲気はセイアの良く知るものだった、切り替わった世界の中で目視した彼女とは違う――聖園ミカ、その人だ。

 

 此処は、何処だ。

 まだ私は夢を見ているのか?

 いや、違う、此処は――。

 

 ――現実か。

 

 数多の世界を巡り、その景色を目にしてきたセイアは再び目が覚めた時、そこが夢の世界なのか、現実の世界なのか一瞬困惑する。だが肉体を襲う痛み、そして口の中に広がる鉄の味、その匂いに現実である事を悟った。呻き、顔を顰めながら彼女は想う。

 

 私は、夢を見ていたのか。

 いや、あれはきっと。

 

「どうして、セイアちゃんがこんな目に――私、どうすれば、セイアちゃん、どうしよう……!」

「ミ、カ……」

 

 血に塗れ、苦悶に呻くセイアを前にしてミカは涙を零す。セイアの身体を抱き締め、自身の無力を嘆くその姿に、セイアは口を開こうとして失敗した。その暖かな雫がセイアの頬を濡らし、彼女は胸中でミカに詫びる。

 

 ――すまないミカ、君のせいではない、これは私が招いた失敗だ。

 

 あらゆる要素が悪い方向へと転がった。単なる休憩であった筈の眠りが明晰夢へと繋がり、そこで真相を掴んでしまった。ましてやゲマトリアの一員に察知され、その情報の濁流に呑まれミカに心無い言葉を投げかけてしまった。

 そして、先程見た一連の光景。

 それを思い、セイアは心の内で叫ぶ。

 

 ――先生、私の声が聞こえていたら、どうか。

 

 ――逃げてくれ、出来るだけ遠くに、アリウス自治区から離れてくれ。

 

 ――或いは、この世界(キヴォトス)から。

 

 ――でなければ、先生は。

 

「ぐぅ……ッ!」

 

 胸中で呟いた言葉、しかしセイアは自身のそれに否定を叩きつけた。いいや、先生はきっとそんな道を選びはしない、きっと、救おうとすると。寄り添おうとしてしまう、と。

 それが自身にとって、どれ程致命的な傷になろうとも、彼はきっとその道を往こうとするだろう。想い、彼女は身を捩り、なけなしの力を振り絞ってミカの腕を掴む。

 そうしている間にも、ぐらりと――視界が捻じれ、意識が飛びかけた。

 

 時間がない。

 このままでは、また意識を引っ張られる。

 あの存在に、不吉な光に。

 だから、伝えなければならない。

 託さなければならない。

 自分が、今、此処で。

 

「み、か……っ!」

「せ、セイアちゃん! 喋らないで、安静にしていて……!」

「ミカ、お、ねがい、だっ、聞いて、くれ……!」

 

 意識を取り戻し、血を吐きながら辛うじて言葉を口にするセイア。ミカはそんな彼女を抱きかかえながら、無理をしないでと言葉を重ねる。だがそんな彼女の言葉を押し退け、セイアは必死の形相でミカを、その瞳を見つめ血の混じった声を発した。

 

「先生を……頼、む――……!」

「……!」

「どう、か――守って、くれ……ッ!」

「せ、セイアちゃん――?」

 

 それは、余りにも抽象的な言葉であった。何処で、誰から、どうやって、そんな言葉すら省略された曖昧でどんな解釈の余地すらある言葉だ。

 しかし、今のセイアにはそれが限界だった、今にも失われそうな意識に全身を苛む苦痛、言葉を一音発する事さえ、今の彼女には地獄の様な苦しみがあった。血を口の端から零し、ミカの制服を皺が刻まれる程に強く握り締めたセイアは、喘ぐ様な呼吸を繰り返しながら必死に言葉を連ねる。

 長々と説明する余裕も、時間も無い。その言葉が不十分な代物であると、彼女の理性は頭の片隅で叫んでいる。だからせめて、少しでも多く、言葉を残して。

 

「じゃないと、先生……はっ――!」

 

 ――今度こそ、その(存在)を。

 

 呼吸が深く、しゃくり上げる様なものへと変わる。大きなそれは不規則なもので、時折鼻や、口から血が噴き出した。限界が近い、目を開けていられない、意識を保つ事も難しくなり、セイアはその表情を苦しみと無念に歪めたまま――静かにまた、深い眠りへと沈んで行った。

 そのヘイローが静かに点滅し、軈て消失する。

 

「セイアちゃん……?」

「………」

 

 ミカが腕の中で目を閉じた彼女の名を呼ぶ。しかし、彼女が何か反応を見せる事は無い。

 百合園セイアは再び――白昼夢の中へと囚われたのだ。

 

 ■

 

 トリニティ自治区――郊外、廃墟区画。

 

「……っ!」

 

 不意に、先生は夜空を見上げた。それは何か、云い表す事の出来ない悪寒を覚えたからだった。

 まるで背中に氷柱をでも突き入れられたかの様な、一瞬の悪寒――身構えシッテムの箱を抱え込んだ先生ではあるが、しかし砲弾が降って来る事も、銃声が轟く事も無く。頭上には変わらず星々が瞬き、周囲は廃墟区画らしい古びた建物が立ち並ぶばかり。電気も通わぬその場所は、月明かりと時折此処に屯しているのであろう、不良生徒の放置した火台程度が唯一の光源だった。薄暗い闇の中で暫く歩みを止めていた先生だが、その首を緩く振って再び前を向く。

 

「……気のせい、か」

 

 呟きは、風に吹かれて掻き消える。携帯端末を起動すると、綴られた位置情報を再度確認する。

 マップが指し示す位置情報は――確かにこの場所だった。

 

「………」

 

 ふとに、月明かりが遮られ暗闇が広がった。顔を上げれば厚い雲が月を覆い隠そうとしている。ぽつりと、頬を叩く冷たい感触。どうやら、小雨が降り始めた様だ――このままだと、一雨来るかもしれない。

 そんな事を考えながら、周囲を見渡す。周囲を老朽化した建物に囲われた路地、薄汚れ、グラフィティの描かれた外壁を見つめながら耳を澄ませる。人の気配は全く存在しない、或いはこのメール自体が悪戯か、それに類するものであると断定する事も出来た。

 しかし、先生は確信を持って問いかける。

 

「――サオリ、居るんだろう?」

 

 声は、然程大きなものではなかった。しかし、人気のない路地の中では良く響く。空に問い掛け、暫くの間その場に佇む先生。ぽつぽつと、少しずつ雨が勢いを模していた。シッテムの箱を抱えながら、静かに立ち続ける事数十秒――先生の視界に、ひとつの影が物陰からゆっくりと姿を現す。

 

「……サオリ」

「………」

 

 それは、擦り切れ弾痕の刻まれた外套を着込んだ、ボロボロのサオリだった。肌と云う肌に傷を負い、薄汚れた格好のまま先生の前に立つ。どれ程の期間逃亡していたのか、或いは戦い続けていたのか。その表情には強い疲労の色が残る。ぶら下げた愛銃をそのまま、彼女は掠れた声で問いかける。

 

「分かって、いて――」

 

 その瞳が、先生を真っ直ぐ見つめる。髪に覆われた右目、それは自身が奪ったのものだ。そして彼の左腕も――その両手に嵌めたハーフグローブがどのような意味で身に付けられているのか、その理由も何となく察する事が出来た。故に彼女はその声に苦渋を感じさせながら、呟く。

 

「分かっていて、此処に来たのか……護衛の一人も付けずに」

「……当然だよ」

 

 ――私は、私の信念を一分(一瞬)たりとも曲げるつもりは無い。

 

 その声は、雨音の中でもサオリの耳に確りと届いた。正面に立ち、互いに相手を真っ直ぐ見据えながら視線を交わす。サオリの銃を握り締める手に、力が籠るのが分かった。軋むグリップの感触を感じながら、彼女は帽子のつばを掴み深く下げる。

 

「私は、全ての生徒の味方だと云った――困っている生徒を放ってはおけない」

「………」

 

 数秒、沈黙が降りる。それはサオリにとって選択の為に設けられた数秒であった。帽子のつばを掴み、愛銃を垂らしたまま彼女は口を噤む。此処が分水嶺だという自覚が彼女にはあった――そして、これから選ぶ道によって自身の、何より仲間達の未来が決定するという予感も。

 小さく、息を吸い込むサオリ。

 ただ呼吸をするだけで、肺が痛む。余り長くは迷っていられない。彼女に残された時間は多くなかった、追手がいつ此処を発見するかも分からない。

 何より、夜明けまで残された時間は僅か。

 だから――。

 

「シャーレの――先生」

 

 呟き、サオリはゆっくりと顔を上げる。その瞳には、確かな覚悟が秘められていた。

 その視線を先生に向けたまま彼女は静かに――先生へと、その銃口を向けた。

 

「………」

 

 雨音が、少しずつ強まっていく。

 先生とこうして対峙する時、大きな選択をする時、常に雨が隣に在った様な気がした。傷口に水が沁みる、しかしその痛みすら気にならない程、彼女の精神は圧迫されていた。微かに揺れる銃口、跳ねあがる心拍数、それらを感じながらサオリは引き金に指を掛ける。

 

 それでも先生は目を逸らさない。

 身構える訳でもなく、言葉で説得する訳でもなく。

 

 彼はただ生徒を――サオリを見つめ続けていた。

 



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全てを失った果てに。

誤字脱字報告に感謝いたしますわ!
少々多忙で約11,000字ですがお許しくださいまし。


 二人の間に、雨音だけが響いている。

 薄暗い暗闇の中で突きつけられた銃口が、月明かりを反射して鈍い光を発していた。対峙する二人は微動だにせず、先生もサオリも、その視線を逸らしはしない。それは覚悟の顕れであり、同時に相手に対する信頼でもあった。

 雨が、体温を奪っていく。

 

「………」

 

 不意に、カタリと音が鳴った。それはサオリの持つ銃器から響く音だ。見れば銃口が震え、その指先は小刻みに揺らいでいる。雨の中でも、サオリの額に汗が滲んでいるのが分かった。

 だが、銃口が降ろされる事は無い。その引き金には指が掛かり、黒く鈍い光は先生を捉えて離さない。

 

 ――私は。

 

 サオリは思う、滴る雨の中で何度も何度も自身に手を差し伸べて来た大人に銃口を突きつけながら。

 繰り返し、思考する。

 

 ――私、は……。

 

 雨の中、脳裏に浮かぶのは仲間達の姿。

 ミサキ、ヒヨリ、アズサ――アツコ。

 彼女達と過ごして来た時間を思い返す度に想う。此処、今この場所に至って、自身が今まで行ってきた事は全て無駄だったのかと。

 アリウスに生まれ、憎悪と苦痛の中で育ち、生きる僅かな希望すら抱く事を許されず――でも、それでも。

 暗がりのなかでも、全てが虚しい世界であったとしても、その些細な幸せを守る為に全てを擲ち、抗い続けた自身の行いは間違いだったのかと。

 

 今はもう分からない。

 守ろうとしたものを全て失ったサオリには、何も。

 

 ただ、それでも、諦める事は出来なかった。

 仲間は、家族は、サオリの全てなのだ。

 自身の何を捧げても守りたいと思える唯一無二だったから。

 そして、その家族を救う為に出来る事はもう。

 

 ――一つだけだった。

 

 ■

 

『追撃部隊を下がらせる事は致しません、貴女方スクワッドは既にアリウス(私の元)を離れた身、一度離反した者を易々と復帰させては他の者に示しがつかないでしょう?』

 

『しかし、そうですね……こうして差し向けた部隊を躱し、端末を奪取した上で私に連絡を取れる状況まで漕ぎ付けた事は評価しましょう、貴女は優秀ですねサオリ、えぇ、此方としても幼い頃より手塩にかけて育てた貴女を処分する事に心が痛んでいるのです、私とて情はありますから、優秀な貴女を失うのは大変惜しい』

 

『そうですね、それでしたら……こうしましょう』

 

『――シャーレの先生を、今度こそ始末しなさい』

 

『やり方は任せます、救援を装って呼び出してから始末しても良し、トリニティに乗り込んで暗殺しても良し……結果が伴えば手段は問いません』

 

『その亡骸か、或いは証を持って部隊へと合流すれば温情を差し上げます、追撃命令は撤回致しますし、アリウス自治区への帰還も許しましょう、勿論スクワッド全員、再び私の元へと戻って来る事が叶うのです』

 

『貴女は知った筈です、この世界の姿を、どれだけ藻掻き苦しもうとも貴女方に手を差し伸べる存在など何処にも居ないのだと、その手を汚した者に安息の地など存在せず、人並みの幸福など夢のまた夢、日陰で生まれた者は日陰の中でしか生きる事が出来ない』

 

『貴女達の様に生まれながらにして穢れを背負った存在を受け入れる場所など、このアリウス自治区を於いて他にありません』

 

『貴女が先生の殺害に成功したのならば、エデン条約に於ける失敗も帳消しとなるでしょう、ロイヤルブラッドを用いた儀式も――えぇ、中止しても構いません』

 

『これが私の見せる、最後の【温情】です……期待していますよ、サオリ?』

 

 ■

 

 マダムと交わした最後の通信、その記憶を反芻しサオリは覚悟を決める。

 錠前サオリという生徒に、裏切った自身に与えられた文字通り最後の温情。これを失えば自身は、本当に何にも縋る事が出来なくなる。

 自分達に行き場がない事など知っていた。そしてこの僅かな逃走生活の中でそれを痛い程に実感した。だから自分達には彼女の、マダムの温情に縋るしか道は無い。

 それ以外に、自分達が助かる道など。

 

 ――本当にそうか?

 

 心の中に潜む、何かがそう問いかけた。

 雨越しに佇んだ、目前の先生が滲む視界に映る。

 自身をじっと見つめ続ける、ひとりの大人。

 その真剣で、真摯で、穏やかな瞳を見た時、サオリの中にある信念がぐらりと揺らいだ気がした。

 

 マダムと先生、同じ大人だと云うのに、その性質はまるで真逆であるように思える。いや、実際そうなのだろう、アリウスの只中にあって笑顔を浮かべた事などサオリが憶えている限り、両の手で数えられる程度しかなかった様な気さえする。

 マダムの支配するあの自治区には、笑顔など何処にもなかった。代わりに痛みが、苦しみが、連綿と受け継がれる憎悪があった。

 

 先生の、目の前の大人の周りに集まる生徒は、いつも何処か幸せそうに見えた。ずっと前からそうだ、その笑みを奪ったのも、その居場所に消えぬ傷跡を残したのも、自分達だというのに。その光景を自分はずっと羨んでいた。

 

 ――この選択はきっと、取り返しのつかないものになる。

 

 グローブに沁み込んだ雨水の冷たさを感じながら、彼女はそう考える。

 一度道を選んでしまえばきっと、自分は本当に戻れなくなる。

 此処が最後だ、本当の分かれ道、己の結末を左右する選択は――今、この瞬間だった。

 

 過去(マダム)か。

 未来(先生)か。

 

「っ、ぅ――……」

 

 銃のグリップを握る手が汗ばみ、震える。

 これで本当に良いのか、この選択が正しいのか、自分はこの道を選んで――本当に後悔しないのか。分からない、思考が、心が揺らぐ。自身の選択に全てが、自身の命も、仲間の命も、文字通り全てが懸かっていると思えばこそ、その腕は重く、体温は冷たく、視界が揺らぐ。

 故に考え、考え、考え、呻き、苦悩し、歯を噛み砕かんとする程に強く噛み締め――その果てにサオリは決断した。

 

「――ッ!」

 

 

 ――廃墟の只中に、一発の銃声が轟いた。

 

 

「………」

 

 銃声は、たったの一発。

 それだけで十分だった。

 夜空に吸い込まれるようにして乾いたそれは淡々と響き渡り、廃墟街の中で木霊する。

 弾丸は狙い通り、確かに標的を射貫いていた。

 

「―――」

 

 先生は変わらず、何処までも真っ直ぐな視線でサオリを見ている。

 

 向けられた銃口、その先は――空を向いていた。

 

 弾丸は遥か彼方、夜空の中に吸い込まれ見えなくなる。暫くして、サオリの腕が静かに下げられ、そして脱力した指先から彼女の愛銃が滑り落ちた。硬質な音を立て、転がる彼女の愛銃。雨水に晒されたそれを一瞥もせず、彼女は俯く。

 

「……先生」

 

 雨音が強まっていく。

 ばしゃりと、水の跳ねる音が響いた。

 それはサオリが膝を突いた音だった。

 雨に打たれたまま項垂れ、地面に這い蹲った彼女は先生の名を呟く。膝から崩れ落ちたサオリを、先生はただ無言で見つめ続ける。

 雨が頬を滴る、生温いそれは体温を奪いながら地面へと落ちて行く。

 漏れ出した吐息が、微かに白く濁った。

 

「今更……今更、何をと、そう思うかもしれない」

「………」

「こんな私の話など、一蹴されて然るべきなのだと云う事も分かっている、先生に助けを乞う権利も、その資格も持ち合わせていない事も――でも、どうか頼む、少しで良い……話を、聞いて欲しい」

 

 ――本当は、分かっていた。

 

 心の中では理解していた。

 あの時、アツコが身を挺してスクワッドを救わんとした瞬間から。

 マダムの云う言葉が、単なるまやかしである事を。

 

 例え此処で先生を殺害したとしても、きっと彼女は言葉通りに自分達を許しはしないだろう。

 どの様な形であれ、一度裏切りを為した生徒をマダムは許容しない。自身に逆らった子どもを、受け入れる筈がない。

 その生徒に、自身にとって大きな利用価値でもなければ。

 

 錠前サオリ(自身)の積み重ねて来た過去(代償)は、全てが無意味だった。

 

 けれど、他に縋る相手が居なかった。

 手を差し伸べてくれる人など、居ないと思っていた。

 

 ――ずっと、ずっと前から差し出されていたソレ(先生の手)から目を背けて、そう信じていた。

 

 自分達を救ってくれる、そんな都合の良い存在は居ない。

 日陰に生まれた自分達を受け入れてくれる居場所は、此処(アリウス)しかない。

 こんな自分達が救われる未来など、存在する筈がない。

 ずっと幼い頃から云い聞かされ、教えられた、その学びこそが、彼女にとっての呪いだった。

 

「姫が……アツコが、アリウスに連れていかれたんだ」

「………」

「ミサキも、ヒヨリも、追撃部隊の襲撃に遭って、散り散りに――生死も、不明だ」

 

 両手を握り込み、彼女は緩く頭を振る。垂れた黒髪が泥水に塗れ、重く垂れさがる。

 彼女の周囲にスクワッドの姿は無い、サオリの云った通り、全員がバラバラになって逃走したのだろう。そして彼女達が未だ生きているのか、死んでいるのか、それすらも分からないと彼女は云う。

 

「あれから何日も逃げて来たが……私達に逃げ場など、このキヴォトスの何処にもなかった、どの自治区にも、どの街にも、必ず私達を厭う目があった」

 

 アリウスと云う身分を隠し、追撃部隊を警戒し、何を得られずとも、何も失わない。だが永遠に逃れ続ける事など出来ない、その罪悪から、彼女の手から。

 

「私達の行った事を考えれば当然だ……その罰を、報いを、受ける覚悟はあった――だが」

 

 深く、頭が沈み込む。

 サオリは額を床に押し付け、低く涙を滲ませ告げる。

 

「このままでは、アツコは――姫は、死んでしまう」

 

 明日の朝、夜明けと共に――彼女に、殺されてしまう。

 

「私の話など信じられないだろうが、これだけは、真実なんだ」

「………」

「アツコは元よりそういう風に育てられた存在だから、幼い頃から、生贄にされる運命だと、私はアリウスの主人からそう教えられた――彼女は……マダムは、私がアツコを部隊に引き入れたいと願い出た際、姫の運命を変えたいのなら自身の命令に従えと云った、そうすれば姫だけではなく他の仲間を助けてやると」

 

 声には、切実な響きが籠っていた。

 それはまだ何も知らず、無垢にも虚しいこの世界でも抗いたいと――そう思っていた幼き頃のサオリが結んだ、ベアトリーチェとの契約。

 秤アツコという少女に手を差し伸べた時から、錠前サオリはあらゆる努力を厭わなかった。どの様な任務でさえ熟し、どのような戦場であろうと掻い潜り、常に前に立ち続け、終ぞスクワッドはアリウス特殊部隊として選抜されるに至った。

 すべてはアツコを、仲間を助ける為に。

 この暗く、虚しく、絶望に満ちた世界で僅かでも長く、彼女達と細やかな生の喜びを享受する為に。

 それだけが、サオリの生きる理由だった。

 

「エデン条約を強奪し、ユスティナ聖徒会の力をアリウスのものとし――トリニティとゲヘナを手中に収めたら……アツコが、生贄にならずに済むと、元々そういう約束だったんだ」

 

 ――しかし。

 

「――私は、失敗した」

 

 アリウス・スクワッドは、任務を遂行出来なかった。

 エデン条約の強奪に失敗し、トリニティとゲヘナ自治区の征服も為せず、その果てに仲間は生死不明となり、幼き頃に誓ったアツコを守る事さえも叶わなかった。

 錠前サオリと云う存在は、その大切なものを悉く奪われた。

 

「全て……全て、私の力が及ばず、叶わなかった……!」

 

 叫び、その身体を震わせるサオリ。握り締めた拳が雨水を溢れさせ、その噛み締めた奥歯が軋んだ。溢れ出すそれは自身に対する失望と、無力に対する怒りだった。

 

「今の私には、もう何もない……トリニティにも、ゲヘナにも、同じアリウスにだって助けを求める事など出来ない、嘗て共に訓練に励んだ同胞さえ、私達に銃を向ける事を躊躇わないだろう……! 彼女の命令は絶対だ、そういう風に生きて来た、それ以外の生き方を知らない――疑問に思う余地すら、存在しない」

 

 ゆっくりと顔を上げ、先生を見上げるサオリ。

 先生の表情は見えない、薄暗く、月明かりが唯一の光源であるこの場所に於いて、俯く先生の表情は影に覆われていた。

 

「私自身はどうなっても構わない……! どんな末路を辿ったとしても、自業自得だと納得して泥の中で死んで行ける、だがアツコは……家族(仲間)だけは――」

 

 それだけは、諦める事が出来ない。

 自分の命よりも大切な、彼女達だけは。

 

 サオリがずっと、幼い頃から守り続けた。

 あらゆるものを犠牲にして、どれ程天秤が釣り合わずとも捧げ続けた。

 夢も、将来も、希望も、ありとあらゆるものを。

 その小さくて、何て事の無い、ささやかな居場所――そこに集う仲間を守る為に擦り切れ、傷だらけで、汚れ切ったその両手は。

 彼女にとっては他ならぬ、努力の証だった。

 それを泥に沈め、彼女は云う。

 

 自分は全てを失った。

 捧げられる代償も、今の自分には何も残っていない。

 正真正銘、空っぽだった。

 

 ――たったひとつ除いて。

 

「だから、頼れるのはもう、先生しか――……」

 

 項垂れ、サオリは再び額を地面に擦り付ける。泥と雨に塗れ、その身を寒さに震わせながらも、必死に。

 それは懇願だ、到底受け入れられる筈のない――彼女の持つ全て(最後の一つ)を捧げて行われる懇願だった。

 

「頼む」

「………」

「私の、命を賭けて約束する、どんな対価も支払う、どんな指示だろうと従う、何も持たない私だが、私に差し出せるものならば、全てを捧げると誓う……!」

 

 告げ、サオリは懐に手を差し込み、先生の前に幾つかの影を放る。それは先生にとって見覚えのある形をしていた。アリウスが用いる切り札――ヘイロー破壊爆弾だ。その設置型のものを全てサオリは投げ出し、それを見つめ、無言を貫く先生に向けて言葉を連ねた。

 

「ヘイローを破壊する爆弾、これも預ける、私の命を握って貰って構わない、私の事は使い潰してくれて良い、信用できないと判断したら、それを使って処分してくれ、私は決して、抵抗しないと約束する……! だから、頼む――お願いだ、先生」

 

 深く、深く、何度でも希う。

 震え、歯を食いしばり、自身の積み重ねて来た全てを擲って、彼女は先生に向かって必死の叫びを発した。

 

「どうか、アツコを――私の家族(仲間)を、助けてくれ……!」

 

 ■

 

「セイア様のご容態は!?」

「駄目です、痙攣と血が止まらなくて……!」

「救護騎士団は何をしているのですか!? この際、誰であっても構いません、医学の心得がある者は!? 一刻も早く対処法の確認を……!」

「ナギサ様は何と!?」

「現在は公務で移動中の筈です、他の方々にも連絡を取っていますが――」

「ならばシャーレに、先生に連絡は!?」

「さっきから連絡が取れないんですッ! ま、まさか先生の身にも、何か起きたんじゃ……!?」

「不吉な事を云わないでっ! 兎に角、今は連絡を続けて――」

 

 その日、救護騎士団離れにあるセイアの病室は混乱の坩堝と化していた。

 行政官、正義実現委員会が入り乱れ、何とかセイアを助けようと手を尽くす。喧騒は部屋の中だけに留まらず、廊下の向こう側からも響いていた。

 救護騎士団の生徒の声が、遥か向こう側から微かに聞こえる、同時に複数の足音も。セイアを救う為に幾多もの生徒が協力し、事に当たろうとしている。

 

 しかし――不意に、部屋の中に居たサンクトゥス分派の生徒がミカを睨みつけ叫んだ。

 

「事を起こした犯人は聖園ミカですかッ!? また、あの魔女がッ!」

「なっ、待って下さい! ミカ様は何も――」

「彼女がセイア様の部屋を訪ねたからこんな事が起きたのではないのですか!? あの女が何かをしたに決まっていますッ!」

「違うッ! ミカ様は何もしていないっ! 一体何を根拠にその様な――ッ!?」

「やめなさいッ! こんな時に争った所で……!」

 

 部屋に剣呑な気配が満ちる。

 ミカを指差し糾弾する生徒、何もそれらしい行動は無かったと擁護する生徒、こんな時に何を云い出すのかと憤慨する生徒。

 それぞれが自身の立場の違いから衝突し、その中で一際甲高い声がミカの鼓膜を揺さぶった。

 

「この、人殺しがッ!」

 

 ■

 

 先生が――スクワッドに、狙われている。

 

 ■

 

「あぁ――」

 

 その声を聞き届けながら、ミカはゆっくりと天井を見上げた。直ぐ傍には倒れ伏し、血を吐きながら苦しむ友人が一人、でも彼女にはどうする事も出来ない。治す事も、励ましを口にする事さえ、彼女には。

 

「また、私のせいで……こうなっちゃうんだね――あは、はは……」

 

 乾いた笑い声が漏れる。それは余りにも馬鹿馬鹿しく、愚かで、無価値な、そんな自分に対しての嘲りだった。

 

「わ、私、バカだかららさ、先生とナギちゃんが、あんまりにも真剣に、大丈夫って云ってくれるから……セイアちゃんも、きっと、許してくれたんだって、そんな風に誤解しちゃって――……」

 

 震える指先を不格好に丸めながら、ミカは言葉を漏らす。そう、夢を見ていた、理想的な夢だ。全部全部、上手くいって、セイアちゃんに「ごめんなさい」と口にして。それをセイアはどこか仕方なさそうに、相変わらず少しだけ鼻に付く、何処か尊大で堅苦しい云い回しで受け入れてくれて――。

 

「此処に来るまで、もしかしたら挽回出来るチャンスがあるかもしれないって思ってた、ま、また、夜が過ぎたら、いつかみたいに、ナギちゃんと、セイアちゃんと、先生と……み、皆、一緒に――お茶会なんて、出来るんじゃないかって」

 

 ――そんな御伽噺みたいな未来、ある筈がないのに。

 

「ほんと、私って、バカだよね……」

 

 ぽろぽろと零れる涙、それが座り込んだミカの膝元を濡らし、視界がぐるぐると回る。感情が胸の中で暴れまわり、あらゆる事がどうでも良くなる様な感覚があった。でも、それでもミカはセイアを見つめ続け、口を開く。

 

「ごめんね、セイアちゃん」

 

 もう、その言葉がセイアに届く事は無い。

 

「私がこんなだから、アリウスに利用されて、大切な人を傷付けて、怪我させて、居場所まで失くして――これじゃあ、まるで」

 

 ■

 

 ――魔女めッ!

 

『どう、か――守って、くれ……ッ!』

 

 ■

 

「おい、コイツ等を摘まみ出せっ!」

「わ、私達だけではっ、正義実現委員会の応援を……ッ!」

 

 暴れ、ミカを指差し、大声で糾弾するサンクトゥス分派の生徒達を抑えながら叫ぶ正義実現委員会の生徒と行政官。全員が全員、ミカを目の敵にしている訳ではない、しかし同分派のミカを見る目は決して好意的ではなかった。

 それを理解している。

 理解しているからこそ、ミカは彼女の心無い言葉を受け止めながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……ミカ様?」

「………」

 

 聖園ミカ(自分自身)に残されたものなど、もう何もない。

 セイアからの許しは得られない、聴聞会はきっと酷い事になるだろう。サンクトゥス分派からの憎しみは消えず、自身の分派が支持しようともティーパーティーに在籍する事は難しくなる。或いは自身の存在こそがトリニティの火種となると判断されてしまえば、退学すら現実的な話であった。

 

 きっと、この学園には居られなくなる。

 そうすればセイアちゃんにも、ナギちゃんにも、二度と会えなくなる。

 そして、生徒でなくなってしまえば、先生にさえも。

 それを思うと胸が張り裂けそうになる。恥も外聞もなく泣き叫びたくなる。

 

 でも、そんな自分でも――まだ、捨てられないものがあった。

 

「先生を、守らなきゃ……」

 

 呟き、静かに拳を握り締める。脳裏に描くのはアリウス・スクワッドの面々。

 あの連中はまだ、先生を狙っている。彼女が気を失う前の言葉、それを反芻し唇を噛み締める。

 きっと予知を得たのだ、セイアちゃんがそう云うのであれば、そうなのだろう。

 だからこれは、せめてもの償い。憎しみを抱いて尚、自分に託してくれたセイアに少しでも報いる為にも。

 これ以上、先生を傷付けさせはしない。

 

「行かなきゃ……セイアちゃんに、お願いされちゃったんだから」

 

 それ位しかもう、自分に出来る事なんてない。

 ふらふらと、覚束ない足取りで歩き始めるミカ。その傍でセイアの容態を見ていた行政官が歩き出したミカに気付き、驚愕と共に呼び止める。

 

「ミカ様、一体何処に……!?」

「先生が危険なの」

 

 その声に足を止め、ゆっくりと振り向いた彼女は行政官に視線を向ける。

 その、余りにも昏く淀んだ瞳を直視した彼女は、咄嗟に悲鳴を呑み込んだ。

 

「スクワッドが先生を狙っているって、セイアちゃんが云っていたから」

「ッ、セイア様が……!?」

 

 百合園セイアの予言。

 それはトリニティに在籍する生徒ならば馴染のあるものだった。そして同分派の生徒であるのならば、言葉に十分な実績と信頼を抱いている事だろう。実際、ミカの言葉に対し彼女は動揺を露にしながらも、その表情には思案の色が滲んでいた。

 

「し、しかし、この様な状況では……! せめて一度ナギサ様に判断を仰いだ後に――」

「その間に先生が怪我しちゃったらどうするの、あなた、責任取れる?」

「そ、それは……」

 

 云い淀み、口を噤んだ行政官を一瞥し、ミカは視界を戻す。そして立ち塞がる生徒をゆっくりと手で押しやりながら、静かに告げた。

 

「私の邪魔、しないで欲しいな」

 

 ■

 

「聖園ミカ! 魔女め! この学園から出て行きなさい――ッ!」

「やめろッ! いい加減にっ……!」

 

 セイアの病室から連れ出され、それでも尚糾弾の声を止めぬサンクトゥス分派の生徒。暴走し、ミカに危険な視線を向ける生徒は漏れなく全員病室から締め出される結果となっていた。セイアの体調を考えれば、あの場で喧嘩や云い合い等論外である。まだ理性の働く状態ならば、その程度の事は少し考えれば分かる筈だ。処置は傍付きの行政官に任せ、正義実現委員会の面々は暴走しかけた生徒達の対処に当たる。今尚扉の前で声を上げる彼女は、ミカに対し人一倍害意を抱く生徒、その筆頭であった。

 彼女を押さえつける正義実現委員会の生徒は苛立ちを滲ませながらも決して軽挙に走ることなく、あくまで抑え込むだけに留める。此処で銃を抜く様な愚行は侵さない、万が一にでも流れ弾が室内に入ってしまえば、それを思えば実力行使には出られない。

 本部から応援が到着するまで何とか持ち堪えて、そんな風に考えていた正義実現委員会の生徒であったが、ふと自身の取り押さえた生徒が嫌に静かになった事に気付いた。

 

「……?」

 

 見れば、愕然とした様子で目を見開くサンクトゥス分派の生徒の姿。彼女がゆっくりとその視線の方向へと顔を向ければ、彼女もまた言葉を失った。

 何せ、開いた病室の扉、そこから顔を覗かせた人物が――彼女の糾弾していた本人だったのだから。

 

「み、聖園ミカ……」

「――あぁ、確かセイアちゃんの所(サンクトゥス分派)の生徒だよね?」

 

 呆然とした様子で呟くサンクトゥス分派の生徒に向けて、ミカは何でもないかのように顔を向ける。扉を潜り、後ろ手に閉めた彼女は、今思いついたとばかりに恰好を崩すと両手を合わせながら笑みを浮かべて問いかけた。

 

「そうだ! 私の銃が何処にあるか知らない?」

「じゅ、銃? な、何を……!」

 

 まるで何も出ないかのように。

 病室でセイアが倒れた事など知らぬとばかりに。

 そんな風に宣う彼女を見て、サンクトゥス分派の生徒は額に青筋を浮かべ、全力で叫んだ。

 

「何を戯けた事をッ!? 銃なんて、今の貴女に持たせる筈が――ッ!?」

 

 しかし、言葉は最後まで続かなかった。

 正義実現委員会の生徒に押さえつけられた彼女の横合いを、凄まじい速度で何かが横切ったのだ。

 それは皮一枚を掠め、背後の壁へと衝突する。轟音を打ち鳴らし、凄まじい衝撃と爆音が周囲に鳴り響いた。

 一拍遅れて、がらがらと瓦礫が崩れ落ちる音が聞こえる。

 

 彼女の頬を掠めたのは――拳。

 

 少し離れた場所に立っていた彼女がいつの間にか目の前に居て、正義実現委員会の生徒を引き剥がしながら右の拳を振り抜いたのだ。

 肩を引かれ尻餅をついた正義実現委員会の生徒は、蒼褪めた表情でミカを見上げ、頬に一筋の傷を負ったサンクトゥス分派の生徒は、小刻みに震えながら自身の直ぐ横に付き出された拳を見つめ歯を打ち鳴らす。

 直ぐ後ろ、備品室の壁が崩れ落ち、その内部を晒していた。

 たった一発の拳で決して薄くはない壁を粉砕したのだ。

 それを間近で見せつけられた彼女は、怯えを隠す事も出来ずに体を硬直させていた。

 ミカは至近距離でサンクトゥス分派の生徒を眺めながら、小首を傾げる。

 

「ごめん、ちょっと聞こえなかったなぁ、もう一回、改めて聞くね?」

「っ……ぃ、ひ――……!」

「――私の銃は、どこにあるの?」

 

 上から見下されるように、機械的で、淡々と、いっそ殴り殺してしまおうかと云わんばかりに問い掛けられる言葉。

 まるで生きた心地がしなかった。

 サンクトゥス分派の生徒は震える指先をゆっくりと渡り廊下の向こう側に向け、「ぱ、パテル分派の、保管室で、厳重に……!」と辛うじて呟く。本当ならばそれも奪って、壊してやるつもりだった。だから場所だけはきちんと把握していた。

 

「あ、そっちだったんだ? サンキュー☆」

 

 その答えを聞いたミカはぱっと表情を明るく変化させ、軽い足取りでその場を後にする。唐突な轟音を聞きつけた生徒達が何事だと駆けて来るが、誰の先導も無く、我が物顔で道を往くミカを視界に捉え、慌てて壁際に身を寄せていた。彼女を止める勇気のある者は、誰も居ない。

 背後ではズルズルと座り込んだサンクトゥス分派の生徒を、正義実現委員会が必死に抱き起している所だった。

 

「……後で、ナギちゃんに怒られちゃうかな」

 

 その惨状を自覚しながら、ミカは苦笑を零す。

 道を往くミカに向けられる視線、そこに含まれる感情。

 恐怖、苛立ち、侮蔑、不安、崇拝、敬意――注がれるあらゆる色、それらを前に、ミカは吐き捨てる。

 

「――でも、どうでも良いや」

 

 この学園の誰に、どう思われようと。

 どの様な沙汰が下されようと。

 

「アリウス・スクワッドを潰せれば、それで良い」

 

 呟きはミカの足音に掻き消され、誰にも届かなかった。

 

 ――先生、やっぱりあの連中に赦しなんて与えられないよ。

 

 ミカは胸中で思う。連中は何度も、何度も、何度も何度も、先生を殺そうとした、その身体に、心に、消えぬ傷を刻んだ。

 私の大切な友達を害した。トリニティを、自身の居場所を滅茶苦茶にした。

 

 そして今尚――その罪を重ねている。

 

「言葉で理解し合えないのなら、もう、手段は一つしかないじゃんね?」

 

 浦和ハナコと共に立ち上がった時、彼女は先生の言葉に振り上げた拳を降ろした。それは尊い事だ、きっと『正しい行い』だ。浦和ハナコは自分とは違い、ちゃんと踏み留まる事が出来た。

 先生にとって、彼女はきっと善い生徒だった。

 

 けれど聖園ミカは、未だ握り締めた拳を解く事が出来ずにいる。

 自分の時間はあの日、スクワッドと地下で対峙した時のまま、ずっと止まっていた。

 聖園ミカが辛うじて踏み留まっていられたのは、先生が無事だったからだ。百合園セイアが生を繋いだからだ。

 でも、百合園セイアは再び倒れ、スクワッドは先生の命を狙っているという。

 だからもう、彼女は止まれない。

 

 言葉で止まる事がないのなら。

 何度でも先生を害そうとするのであれば。

 やっぱり。

 

 誰かが――人殺し(魔女)になるしかないのだ。

 



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裏返る憎悪(正義)

誤字脱字報告ありがとうございますわ~!


 

「……サオリ、立って」

 

 雨中、滴る雨音に紛れ先生の声が響いた。

 それは想像していたよりも穏やかで、柔らかな口調であった様に思う。雨水に塗れながら地面に這っていたサオリは、緩慢な動作で顔を上げる。そこには、確かな恐怖が見え隠れしている様な気がした。

 帽子のつばによって遮られた視界の上半分、影になったそこに先生の表情が重なる。

 先生の表情は――未だ見えない。

 

「私は、サオリと対等に話がしたい、そんな状態では目を見て話す事も出来ないだろう? だから、立って話をしよう」

「だ、だが、私は――……」

「……サオリが立ち上がらないのなら、こうするよ」

 

 云い淀み、未だ這い蹲るサオリに対して、先生は静かにその場へと腰を下ろす。泥水に塗れる事すら厭わず、先生はサオリと目線の高さを合わせる為に雨水の中へと自ら膝を突いた。ぱしゃりと、微かに跳ねた泥が先生の衣服を汚す。純白の中で、その汚れは酷く目立った。

 

「せ、先生……!?」

「これで対等だよ、目を見て話す事が出来る――さて、話を戻そう」

 

 膝を突いたままサオリを見つめる先生、視線が交わり漸くサオリは先生の表情を視界に捉えた。

 彼の表情は――いつか見た日と同じ。

 怒りも、憎しみも無い、ただ生徒を案じる大人の表情だけがそこに在った。

 

「アツコを連れ去った彼女と云うのは――ベアトリーチェの事だね」

「っ、あ、あぁ……」

 

 その、余りにも泰然自若とした様子に面食らい、言葉を詰まらせたサオリ。しかし、一拍置いて気を取り直した彼女はぎこちなく頷いてみせた。そうする事しか出来なかった。

 

「そうだ、彼女は……アリウス自治区の代表であり、アリウス分校の主人、他の生徒達からはマダムと呼ばれている、彼女がアツコを、追撃部隊を使って自治区へと連れ帰ったんだ」

「……そうか」

 

 戸惑いながらも肯定を返すサオリに、先生は細く絞った吐息を零す。

 

「――もっと早く、私が……」

 

 声は掠れ、微かに耳を掠めるのみ。雨音の中では、はっきりと聞こえる事はない。目を瞑った先生は数秒程沈黙を守り、それから努めて冷静に問いかける。

 

「……他のスクワッドは?」

「皆の消息は、分からない」

 

 サオリは首を振ると、散り散りになった仲間を思いながらぽつぽつと当時の様子を語る。

 

「姫を連れ去られてから直ぐに襲撃を受けた、その時に私が囮を買って出て散り散りになった切り、互いに連絡を取れていない、アリウスを離れる際に追っ手を警戒して端末は破棄していたんだ……先生に連絡した端末は、アリウスの追撃部隊を率いていた者の所持品だったから、もう手元には無い」

「となると、まだアリウスの生徒に追われている可能性もあるか」

「そう、だな……」

 

 現在のスクワッドには碌な支援もなく、弾薬だって心許ない筈だ。サオリと同じように長期間に渡って追跡を躱し続けていたのならば、体力だって底を突きかけているだろう。そう長い間、逃げ続けられるとは到底思えない。合流するのであれば出来得る限り早く動く必要があった。

 

「アツコは自治区の、具体的には何処に?」

「アリウス自治区の最奥、アリウス・バシリカ――その地下に彼女の用意した秘密の至聖所がある、恐らくは其処だ……そこで具体的に何をするつもりなのかは私にも分からない、ただ、姫の為に用意された場所だという事は知っている、そこで明日の夜明けと共に、儀式を行うとだけ」

「明日の夜明け、残された時間は――半日もないか」

 

 携帯端末のディスプレイに表示されたデジタル時計を見つめ、先生は呟く。半日、たった半日で僅かな手勢を率いてアリウス自治区に攻め入り、アツコを奪還して無事に地上へと戻る。言葉にすれば簡単だが、実際に行動に移すとなると余りにも無謀に思えた。

 本来であれば複数の学園に協力を要請し行うべきだ、しかし彼女が云う様に――現スクワッドに協力する様な勢力は何処にもいない。調印式にて行った彼女達の行動は、既にキヴォトス中に知れ渡ってしまっている。仮に先生が矢面に立ち、頭を下げて協力を願った所で、一体どれ程の生徒が了承してくれるだろうか。

 

 思い返すのはアビドスで行ったカイザーグループとベアトリーチェ相手の総力戦。当時繋いだパイプを片っ端から使い、何とか言い訳の立つ範囲で生徒達を招集し勝利をもぎ取った。だがあれは、云っては何だがアビドスという小さな学校だから出来た事でもある。

 アビドスの生徒会は実質対策委員会が兼任している、小規模なグループだからこそ話の通りは良く、ある程度自由に振る舞う事も出来た。原則として他自治区内での戦闘行為、及び明確な戦闘行為を目的とした越境は禁じられている。シャーレとして動くのならば合法的にアリウス自治区にて戦闘行為を行う事も出来るだろう、しかしそれも――戦力があって初めて為せる事。

 

 そして残念な事に、先生が今日(こんにち)に至るまで協力を確約出来た相手はゼロに等しい。

 エデン条約に於ける自身の負傷が、強い遺恨を生徒達の間に残していた。それは殊更に口に出す必要が無い程に、分かり切った事柄だった。

 

 クラフトチェンバーを用いた物資面の備え、万が一の手札、先生としての心構え。この日の為に用意出来たものなど、指折り数えられる程度。相手を考えれば非常に厳しいと云わざるを得ない。欠損の補填に奔走し、その習熟訓練が彼のスケジュールを圧迫していた。更に云えば、先生の記憶の中にある日程と、実際に事が起きた日にちにはズレがある――些細な違い、未来は既に記憶の中と解離を始めている。

 しかし。

 

「状況は大体把握したよ、なら――」

 

 静かにそう告げ、先生は立ち上がる。

 びくりと、サオリの肩が震えた。状況だけ聞けば余りにも絶望的、そしてサオリからすればこの件に先生が手を貸す理由など一つもない。

 普通であれば、「ふざけるな」と一蹴され、殺されても文句は云えない状況だった。

 這い蹲ったまま項垂れるサオリを前にして、先生はその濡れた帽子に手を置く。サオリの頭部に、その重さが感じられた。

 

「――今すぐにでも助けに動かないとね」

「っ……本当、に?」

 

 それは、了承の返答だった。

 はっとした表情でサオリが顔を上げれば、目前にはいつも通り、微笑みを浮かべる先生の姿。その言葉が信じられなくて、到底頷かれるとは思ってもいなくて、思わず問いかける。

 

「手を、貸してくれるのか……先生?」

「当然」

 

 その問い掛けに、先生は破顔する。その瞳は、信念は、ずっと前から変わっていない。

 

「私は全ての生徒の味方だから、勿論サオリの味方でもある」

「だ、だが……わ、私は、先生の瞳を奪っただろう? その腕だって、私のせいで……何度も、何度も先生に銃を向けた――私は、罪人だ」

「………」

「縋ろうとした身で何をと思うかもしれない、しかし……その傷は、私の罪の証だ、その命を奪おうとした事実は決して消えない、だというのに、どうして罵倒の一つも飛ばさずに、そんな、簡単に……」

「――簡単なんかじゃないさ」

 

 サオリの言葉に被せ、先生は呟く。そう、決して簡単な選択などではない。

 伏せられた瞳は、自身の左手を見つめていた。一見普通の腕にも見えるそれは生徒の善意によって与えられた無機質な義手に過ぎない。覆われた右目は今後二度と光を見る事は叶わないだろう。

 その事に思う所はある、何も感じていないと云えば嘘になる。

 しかし。

 

「でも、罵倒されようと、傷付けられようと、裏切られようと、或いは……この命を奪われようとも」

 

 生徒に、自身の信念に殉じる覚悟があって初めて踏み出せる一歩。

 それこそが、先生の常なる一歩だった。

 

「私は、君達(生徒)の味方で在り続けると誓った」

 

 ――生徒こそが、絶対である。

 

 サオリに向けられる瞳には、強烈で、鮮烈で、余りにも輝かしい光があった。それは意志だ、先生の鋼に勝る意思に他ならない。その強すぎる意思が、信念が血肉となり、先生という肉体を象っていた。

 その光を直視したサオリは、どこか愕然とした様子で唇を震わせ、怯んだように顔を俯かせる。地面を握り締める両手が、小さく揺れた。

 

「理解、出来ない」

「今はそれで良いんだ、けれど……爆弾は没収ね」

 

 苦笑し、先生は投げ捨てられ、地面に転がったヘイロー破壊爆弾を手に取る。手にしたそれを眺めながら、ふと先生はサオリに言葉を投げかけた。

 

「持っていたヘイロー破壊爆弾は、これで全部?」

「あ、あぁ――……」

 

 サオリはぎこちなく頷き、外套の内側を探ると他にない事を確かめ肯定した。

 

「そこにある分で、全部の筈だ、それと起爆装置も約束通り渡す……信用できないと思ったら、いつでも私を処分してくれ、決して抵抗しないと誓う」

「ヘイロー破壊爆弾には、確か手榴弾タイプのものもあったよね?」

「手榴弾も……?」

「うん、ヘイロー破壊爆弾は全部没収」

「わ、分かった、先生がそう云うのであれば――」

 

 先生の言葉に戸惑いを見せたサオリであったが、自身の言葉を曲げる様な真似はしない。内側に備えていた歪な手榴弾(ヘイロー破壊爆弾)を全て手渡し、最後にそれらの起爆装置も先生に手渡す。起爆装置は握り込むタイプのもので、思っていたよりもずっと小さく軽かった。

 サオリは起爆装置とヘイロー破壊爆弾を指差しながら、強張った面持ちで告げる。

 

「その手のタイプは安全装置が二重に掛かっているんだ、ちゃんとした操作を行わなければ爆発しないから安心してくれ」

「そっか、それは何より」

 

 その言葉に頷いた先生は、徐に起爆装置を左手で握り潰す。プラスチックの拉げる音が響き、同時に中の基盤が剥き出しになった。拉げたそれを足元をに落とすと、水溜りの中に沈め、そのまま足で念入りに踏み潰す。

 そんな先生の一連の動作を、サオリはどこか唖然とした様子で見ていた。

 

「なッ、何を――!?」

「私が持っていても、使わないからね」

 

 そう云って粉々になった起爆装置を摘まんだ先生は、そのまま無残な姿となった起爆装置を傍の薄汚れた廃棄ボックスへと投げ入れる。軽い音を立てて暗がりの中に消える起爆装置、これで少なくともヘイロー破壊爆弾を起爆させる方法は無くなった。物理的に起爆させようとすれば可能だろうが、肝心の爆弾も自身が持っている。コレをサオリに向けて使う様な気は更々ない。

 

「爆弾本体は後で私が処理しておくから――さぁ行くよサオリ、ミサキとヒヨリを探さないとね」

「……ちょ、ちょっと、待ってくれ先生!」

 

 先に歩き出した先生の後を慌てて追いかけるサオリ。その表情には困惑が滲んでいる。自分を処分する手段を目の前で破壊され、困惑するなと云う方が無理だろう。あれはサオリを従順に制御する為の首輪だった、何処の世界に敵対していた猟犬の首輪を壊す馬鹿が居るものか。

 そんな思いを抱えながら足を動かすサオリ、しかし先生は僅かな逡巡も、後悔すらも見せずに前を往く。

 

「せ、先生……!」

 

 揺らいだ声が、廃墟街の中に響いた。

 

 

 ――えぇ、少々待って頂きましょう。

 

 

「っ!」

 

 ぞわりと、サオリの背筋を悪寒が駆けた。一拍遅れて先生も目を見開き、咄嗟に振り向く。しかしそれより早く、その横合いを何か、風としか表現できない人影が駆けた。吹き抜けるそれに思わず目を瞑り、袖で顔を覆う先生。地面を蹴り穿ち、加速する影がサオリに肉薄する。

 雨は風に吹かれ、一瞬その音を止めた。

 

「な――ぐッ!?」

 

 咄嗟に銃を構えられたのは、サオリの天性の勘によるものか、或いは血の滲む反復練習の為せる業か。

 しかし突き出されたソレは振るわれた腕によって宙を舞い、そのまま人影はサオリの喉元を捉えた。

 そして勢いそのままに背後にあった廃墟の外壁へと叩きつけ、凄まじい轟音と衝撃を撒き散らしながら停止。サオリの背に衝撃と痛みが突き抜け、外壁に罅が走る。

 

「かは……ッ!?」

「サオリ――ッ!」

 

 唐突な襲撃、意識の間隙を突いた奇襲――正に電光石火。

 察知する事も、対応する暇もなかった。すわアリウスの追撃部隊かと先生が懐からシッテムの箱を取り出せば、雨の中、月を覆っていた雲が流れ月光が差し込む。

 微かに漏れた明かりに照らされるのは――見覚えのある狐面。

 

「ワカモ……!?」

 

 それは闇に良く溶け込む黒装束を身に纏ったワカモであった。

 仮面で顔を隠した彼女はサオリの頸を締めあげ、剣呑な気配を身に纏っている。先生は思わず彼女の名を呼ぶ。声には隠しきれない動揺が含まれていた。

 

「お、前は、災厄の、狐……っ!?」

「追われる身でありながら、随分と不用心ですね? 先程の銃声、確かにこの耳に届いておりました、何分耳が良いもので」

「くっ……!」

「お話は途中から聞かせて頂きましたよ――えぇ、確りと」

 

 ギチリと、万力の様な力がサオリの喉元を握り締める。指が食い込み、その爪が肌を裂かんと血を滲ませていた。苦悶に表情を歪めながら、サオリは胸中に焦りを見せる。狐坂ワカモ、当然その存在をサオリは熟知している、何せ彼奴とは何度か銃を交えた仲――そして彼女が連邦捜査部シャーレに身を寄せている事もサオリは知っていた。

 

 最初から彼女に自分を処分させるつもりで、先生はこの呼び出しに応じたのではないか。

 

 一瞬、ほんの一瞬だが、サオリはそんな風に疑ってしまった。

 そんな思考と共に先生へと視線を向ければ、そこには動揺を貼り付けたまま体を硬直させる先生の姿があった。その姿からは、最初からこの事態を仕組んでいた様にはとても思えなかった。

 

「あぁ、勘違いなさらないで下さい、これは全て(わたくし)の独断、あの方は私が此処に居る事も知りませんでしたから――裏切られた、等と思うのは御門違い」

 

 サオリの視線か凡その思考を予測したワカモはそう云って嘲笑う。

 そもそも、その様な事を思う事自体がお笑い種だと、そう云わんばかりに。

 

「本当ならばあの方に知られず、優しい闇の中で葬ってしまえれば良かったのに、よりにもよってその当人に縋ろうとは……全く、盗人猛々しいと云うべきでしょうか、面の皮の千枚張りと云うべきでしょうか? あなたを追っていたアリウスの兵隊共も、存外役に立ちませんね」

「っ、どう……いう――?」

「助けてくれる人が先生しか居ない? それはそうでしょう、あなた方はそれに見合うだけの事を為したのですから、十分に後悔して地獄に堕ちれば良いのです、先程御自分で仰っていましたね? 瞳を奪い、腕を奪い、その心音(こころね)を止めた相手だと云うのに……えぇ、えぇ、その通り、ですから」

 

 ワカモが顔をぐっとサオリに近付け、その耳元で囁くように告げた。

 

「此処で散る事こそが唯一の贖罪と知りなさい、スクワッド」

「ぅッ……!」

 

 喉を圧迫する、万力の如き指圧。

 言い訳の余地はない、この女は――本気で自身を殺すつもりだ。

 掌から伝わる熱に、サオリはそう確信した。

 

「ワカモ、止めるんだッ!」

「……あなた様」

 

 余りも唐突な光景に一瞬自失していた先生ではあるが、ワカモの行動を見逃す訳にはいかないと、何とか意識を取り戻す。シッテムの箱を抱えたまま一歩を踏み出し、あらん限りの声で叫んだ。

 その必死の声にワカモはサオリを掴んだまま、ゆっくりと振り返る。闇夜の中で彼女の黄金色は良く輝き、その瞳が見開かれる。

 

「あなた様のお心、思い遣る気持ちの深さ、このワカモ、十分に理解しております、あなた様がこの行動を望まない事も、その深い愛情が遍く生徒に注がれている事も、例えそれがその美しい瞳を、愛おしい(かいな)を奪った相手にさえ注がれるのだと――ですが」

 

 そう、狐坂ワカモは先生の意志こそを重視する。

 彼がやめろと云えばやめるし、難しい事柄であっても極力その意に沿った形で叶えようとする。彼女は混沌と破壊こそを好むが、だからと云って無差別に撒き散らすつもりなど毛頭ないのだ。特に先生の前であるのならば尚更。

 嫌われたくない、疎まれたくない、その性根は何処まで行っても変わる事はないだろう。先生が自身を見限る筈がないと思いながらも、根底ではその可能性を何処かで恐れている、それが狐坂ワカモという少女だった。

 

 ――だが、明らかな害意を見逃せと云うのであれば別である。

 

 ワカモの瞳が仮面越しに煌めき、真正面からサオリを射貫いた。

 

「この者は【害悪】です、あなた様に厄災を齎す存在……! あなた様にあれだけの恩を受けておきながら、この女は一度ならず二度までもあなた様を傷付け、挙句の果てにあのような言葉を吐き捨てた――ッ!」

「ぐッ!?」

 

 より一層強く、首を握り締めるワカモ。その瞳には燃え滾る炎の様な憎悪と嫌悪が渦巻いていた。骨が軋む、サオリの肉体が本能的な危険信号を発し、反射的にワカモの腕を掴み、その胴体を蹴り飛ばす。しかし彼女の肉体は微動だにしない。感情で身体的強さが変わるとは思えない、しかし実際問題として鋼を蹴っている様な感触がサオリの足先に伝わって来た。

 そんなサオリの抵抗をものともせず、ワカモは憤怒を滾らせたまま叫ぶ。

 

「最早、我慢の限界なのですよ、錠前サオリ……ッ!」

「っ……!」

 

 声は廃墟街に響き渡り、その肩が小刻みに震える。それは抑えきれない怒りの発露だった、堪えようとしても堪え切れない、正に狐坂ワカモが生涯で最も怒りを覚えた瞬間。それこそが今、この瞬間。

 

「忍術研究部の皆さんも直に合流致します、あなたのお仲間を救う事には否やはありません、アリウスには……いえ、あの女には然るべき報いを与えます、そしてスクワッドにも等しく――しかし」

 

 ――そこに、あなた(錠前サオリ)が居る必要はない。

 

「アリウスの殲滅は恙なく、私達が引き受けましょう、仮にあなたが私共に寝返るとして、再びあの御方の御心を裏切らないと証明出来るのですか? 二度も、三度も、伸ばした手は振り払われたのに、どうしてその様な者を信用出来ましょう? あなたが傍に存在するというだけで、私は虫唾が走って仕方ないというのに――!」

「ッわ、たし、は――……ッ!」

「返答は不要です、あなたは此処で果て消える運命(さだめ)、それはもう私の中では決定事項なのですから!」

 

 ワカモの言葉に何かを口にしようとするサオリ、しかし彼女の言葉が紡がれる事は終ぞなく。その仮面越しにも悍ましい笑みを浮かべている事が分かる程に高揚した声をワカモは響かせた。

 

「理解出来ましたか? ならば、このまま絞め殺して差し上げましょう――ッ!」

「ぐ、あッ……!?」

「ワカモ――ッ!」

 

 自身の愛銃を手放し、その両手でサオリの首を締めに掛かるワカモ。外壁に押し付けながら敢行されるそれはサオリの喉元を軋ませ、外壁の罅割れを深く、大きくしていく。徐々に、徐々に視界が狭まっていく、血の流れが、血管に流れる血液が分かる程に鮮明に、口元からか細い呼吸が漏れた。

 意識が保てなくなる、身体に力が入らない、思考が――回らない。

 ワカモの手首を掴んでいた指先が、するりと滑り落ちた。

 

「このまま意識を断てば、件の爆弾(ヘイロー破壊爆弾)で跡形もなく消し飛ばす事も叶います、さぁ、此処で散りなさい……!」

 

 濁った叫びが聞こえた、それはワカモの声だった。みしりと体内から音が鳴る。サオリは自身の顔色がどんどん悪化していくのが自覚出来た。指先が震え、背筋が勝手に反る。

 雨音が、何処か遠くに感じた。

 しかし、此処で果てる訳にはいかない。

 その一念が最後の力を沸き立たせ、サオリの指先を外套の中に差し込ませた。

 

「待ってくれワカモ、私は――っ!」

 

 焦燥を滲ませ、二人の元へと駆け出す先生。ワカモの纏う気配は異様だ、説得は困難であると強く感じられた。しかし、だからと云ってただ見ている訳にはいかない。言葉を尽くす事には意味がある筈なのだ、踏み出した一歩が水溜りを跳ねさせ、先生は必死の形相で手を伸ばす。

 

「目を――……」

「――ッ」

 

 しかし、それを遮る声があった。

 サオリは降りしきる雨の中、微かに届く声で苦悶に表情を歪めながら呟いた。

 

「目を瞑って、耳を、塞げ……先生」

 

 ピン、と何かを弾く音が聞こえた。それは雨音の中でも確かに、ワカモの耳に届く。両手で握り締めたサオリの喉元、その先にある瞳が此方を見下ろす。

 その瞳は、まだ死んでなどいなかった。

 

「耳が良い、らしいな――災厄の、狐」

「何を――」

 

 カランと、足元から何か金属が跳ねる音がした。

 咄嗟に視線を足元へと向ける、そこには雨水の中で転がる、筒状の何かが見えた。手に握り締める事が出来る程度に小さく、細長い。人は分からないものを恐れ、反射的に知ろうとする。故にワカモが視線を向けたのはごく普通の反応だった。

 反対にサオリは顔を背け、自身の両耳を覆う。

 その動作で、ワカモはその転がった物体の正体に気付いた。

 

「っ!? 閃光(スタン)――」

 

 一拍後、爆音。

 一瞬の閃光と共に、ワカモの鼓膜を劈く一撃。それは凄まじい衝撃で以て脳を揺らし、視界が白く染まり、平衡感覚が失われるのが分かった。ワカモの意識が一瞬のみ遠のき、その手から力が抜ける。その瞬間を見計らってサオリは全力で背を逸らし、ワカモを蹴飛ばした。

 ワカモは抵抗する事も出来ず地面の上を転がり、サオリは外壁に叩きつけられ、ずり落ちる様にして尻餅をつく。喉元を抑えながら咳き込むサオリは、涙を流しながら顔を上げた。

 

「ッ、ゲホッ、ごほっ、ぐ、せ、先生――ッ!」

「っ……!」

 

 先生は雨の中蹲る様にして耳を塞ぎ、目を瞑っていた。サオリの咄嗟の声に反応し、身を守ったのだ。しかし、それでも比較的近距離で喰らった為かその表情は歪み切っている。

 キヴォトス製の閃光弾は少々強烈で、特に人間の先生からすればコンカッショングレネードに近い威力を誇る。至近距離で直撃でもすれば、内臓が破裂しても可笑しくない。

 

 咳き込み、ふらつきながら立ち上がるサオリは一先ず先生の無事に安堵する。彼女は転がっていた愛銃を掴むと、微かに付着していた砂利を払い、そのまま覚束ない足取りで先生の元へと駆け寄った。

 

「先生、立てるか? 急いで、此処から……ッ!」

「ぅ、っ、小癪な――あなた様っ、あなた様……何処にッ!?」

 

 ワカモは至近距離の閃光を直視し目を焼かれ、音撃によって聴覚を狂わされた。這い蹲り、目を瞑りながら手を伸ばす彼女は一時的に無力化されたと云って良い。しかし、あくまで一時的だ、数分もすれば立ち上がり何事も無く復帰する事だろう。

 逃れるならば今しかない、そんな思いと共に先生の腕を引く。

 先生は鳴り響く耳鳴りに目を細めながら、何とかぎこちなく頷いて見せた。その視線が一瞬、ワカモを捉える。表情をくしゃりと歪め、何事かを口にしようとした先生だが、それよりも早くサオリの腕が強く先生を引いた。

 雨音に混じり、二つ分の足音が周囲に響く。

 

「錠前、サオリ……ッ!」

「――ッ!」

 

 背後から、怨念の籠った声が轟いた。思わず振り返れば、徐々に小さくなっていくワカモが這い蹲ったままサオリに怒りの形相を見せていた。仮面で覆われていても尚、そう直感できるだけの色がある。

 ワカモは未だ目を瞑り、その耳は垂れ下がっているが――しかし、その顔だけはサオリの方角を捉え、震える指先を突きつけながら叫ぶ。

 

「例え、あなたが如何に上手くあの御方の影へと潜もうと、必ず引き摺り出し、その罪を償わせてみせます……! そう考えるのは私だけではありません、あなたは先の襲撃……いえ、それ以前の蛮行を含め、数多の恨みを買ったのですから――!」

 

 その爪で地面を抉り、嘗てない程の声量で彼女は告げる。

 

「私達の怒りを、その憎悪を……存分に思い知りなさいッ!」

「―――」

 

 廃墟街に響き渡る絶叫。

 サオリはその言葉に、一瞬、ほんの一瞬だけ息を止めた。

 しかし彼女は足を止める事無く、先生の腕を掴みながら闇の中へと消えていく。ワカモは薄らと捉えられる輪郭の中で、その背中を憎々し気に見つめ続けていた。

 

 ■

 

「はっ、ハッ、うっ、ゴホッ……!」

「サオリ……!」

 

 どれ程走っただろうか。少なくとも、先生の息が弾む程度の距離は走り続けた筈だった。追撃の足音は聞こえない。

 暗闇の中で方角も分からず、雨音に紛れながら裏路地に身を寄せるサオリ。外壁に寄り掛り、咳き込みながら俯く彼女の背中を先生は摩った。サオリは喉元を軽く摩りながら、緩く首を振る。彼女の喉にはハッキリ形が浮かび上がる程の手形が刻まれていた。

 

「大丈夫、だ――少し、喉を締められた程度で、済んだ、先生こそ、大丈夫か……?」

「私は平気だよ、少し驚いただけさ」

 

 耳鳴りも、視界のちらつきも一分そこらで消え去った。唯一悔やまれるは、あの瞬間にワカモへと言葉を尽くせなかった事。内心で臍を嚙みながらも、先生はその素振りを見せずにサオリの体調を気遣う。

 

「耳や目に異常は?」

「至近距離で喰らったが、目は閉じて顔を背けたし、咄嗟に耳も保護した……問題、ない」

 

 ワカモと同じ至近距離で閃光と爆音を受けながらも殆ど影響を受けなかったのは、不完全とは云え心構えと対策が出来ていたから。

 頷き、大きく息を吸い込んだサオリは空を仰ぐ。曇天に覆われた視界は暗闇に閉ざされてしまっている。

 月明かりは、見えない。

 

 ――【私達の怒りを、その憎悪を――存分に思い知りなさいッ!】

 

「あぁ、そうだ、あの憎悪を……怒りを生んだのは、他ならぬアリウス(私達)だ」

 

 彼女の言葉を思い返し、そう呟く。

 嘗て自分達がそれを御旗に戦った様に。

 憎悪を、復讐を、その怒りを晴らすのだと声高に叫んだように。

 今度は彼女達がその『正義』を翳し、自身の前に立ちはだかっていた。

 数百年越しに受け継がれた、何処の誰とも知れぬ感情ではない。

 他ならぬ今を生きる自分が生み出し、刻み、与えた感情――それと相対する時が、今だった。

 

「分かっていた事だ、先生が私に協力してくれたとしても、他の生徒達はきっと、それを許さない」

「………」

「本来ならば、私達は彼女達に足蹴にされ、這い蹲りながら罵声を浴びせられるべきなのだろうな」

「……そんな事、私は望まないよ」

 

 ――あぁ、知っているとも。

 

 そんな言葉をサオリは呑み込んだ。その善性を、どうしようもない程に暖かなその温もりを、サオリは実感している。あの瞬間、ワカモに襲撃された一瞬のみとは云え、この大人を疑った自分を恥じる程度には知っているのだ。

 しかし、それを言葉にする事はしなかった。

 どの口が、今更そんな言葉を吐けると云うのだと。

 そんな思いが胸中に燻っていたから。

 

「ぐッ――だが、今彼女の言葉を受け入れる訳にはいかない、せめて姫を……アツコを助けるまでは、この汚らわしい命であっても喪う訳にはいかない」

 

 外壁に手を突き、自身の足で立ち上がったサオリはそう告げる。雨に塗れながらも、その瞳は決して死んでなどいない。ぶら下げた愛銃を何度か握り直しながら、彼女は先生へと振り返る。

 

「それを果たした後ならば、どんな罰でも、処遇でも、甘んじて受けるつもりだ」

 

 そう、彼女にとって優先すべきは家族の存在、それひとつのみ。それが果たされ、彼女達の安全が確保された後ならば、全ての罪悪を被って裁かれる覚悟が彼女にはある。

 矯正局でも、ヴァルキューレでも、シャーレでも、ゲヘナでも、トリニティでも構わない。投獄だろうが、処刑だろうが、リンチだろうが、それでも家族が無事だと分かったならば――冷たい牢獄の中でも、群衆の中での処刑だろうとも、自分の結末が貧民街の片隅で打ち捨てられた亡骸であっても、きっと微笑んで死んで行ける。

 白く濁った吐息を吐き出し、サオリは暗闇に向けて足を進める。

 

「行こう、先生……まずはヒヨリと合流する」

「……分かった」

 

 彼女の背中を見つめる先生は、その両手を握り締めたまま静かに頷く。胸中にはあらゆる感情が渦巻いていた。しかし、それを吐露すべきは決して今ではない。感情を、言葉を呑み込み、先生はサオリの後に続く。

 

「――ワカモ」

 

 最後にふと振り返った先生は、雨音の中で小さく彼女の名を呼ぶ。しかし暗闇の中を進むサオリの背中を一瞥し、彼はその言葉を噛み締めながら暗闇の中へと一歩を踏み出した。

 



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善悪の彼方

誤字脱字報告、大変助かりますわ~!
日付が変わってからの投稿申し訳ねぇですの……!


 

「……周辺に目標の確認出来ず」

「この辺りからはもう離れたか?」

 

 廃墟街の一角。

 薄暗い闇夜の中で周囲を見渡しながら足を進める人影があった。白いコートを靡かせ、ガスマスクに顔を包んだ彼女達はアリウス自治区より派遣された追撃部隊。彼女達はスクワッドを追ってこの区画に足を踏み入れたが、未だ発見には至っていない。

 手にした端末で他の部隊と情報を共有しながら、彼女達は周辺に視線を向ける。雨は未だ止まず、視界は相変わらず悪い。他所の区画を捜索している部隊からも発見報告は無く、部隊を率いる隊長は小さく溜息を吐いた。

 気温はどんどん下がっている、秋の到来を感じさせる寒さだ、雨中での捜索は一層冷え込んだ。

 

「少なくとも痕跡は見当たりません、或いは雨で流されてしまったのかもしれませんが……」

「このまま周辺の捜索範囲を広げますか?」

「ふむ――」

 

 その問い掛けに隊の中程を歩いていた隊長は声を漏らす。周辺の廃墟は変わらず、特にこれと云った異変は感じられない。そもそもスクワッドの足取りを追うと云っても、その残滓は断片的だ。スクワッドがアリウスを離反した以上、潜伏できる場所は限られている。このトリニティとゲヘナの境界線、廃墟街区画もその一つ。

 以前のスクワッド交戦場所から考えて、そう遠くない場所に潜伏していると考えてはいるが――暫し思考を巡らせた後、部隊長は首を縦に振った。

 

「そうだな、もうすこし周辺を探ってみよう、隣接区画の部隊に連絡を入れてこの区画を隈なく捜索する、境界線付近まできっちりと、だ」

「了解」

「手早く済ませる為に部隊を分けるぞ、三人一組(スリーマンセル)で各ブロックを捜索する、第一班は――」

 

 そう云って班分けを行おうとして振り向き――その側頭部を、飛来した弾丸が強かに打ち据えた。

 隊長の顔面が横に弾かれ、雨粒が虚空に散る。

 耳に銃声が届き、全員が浮足立った。

 ――奇襲だ。

 

「ッ、狙撃!?」

「隊長!」

「まさか、捜索対象の……!」

「いや、違う! 今の銃声は近――ッ!」

 

 生まれた一瞬の混乱、焦燥と緊張が生んだ意識の空白、その間隙を突いた攻撃が再度飛来する。乾いた銃声が周辺に響き渡り、今しがた叫んだ生徒の顔面が跳ね上がった。それが銃撃によるものだと気付いた時には既に遅く、隣り合う生徒の喉元、胸元にも一発ずつ弾丸が突き刺さる。体を突き抜ける衝撃に肺の空気を漏らし、もんどり打って倒れ込むアリウス生徒。

 

 隊長に続いて二名の被害を出し、漸く彼女達は立ち直った。

 障害物の近い生徒は素早く物陰に隠れ、そうでない者は泥に塗れる事も厭わず素早くその場へと伏せる。瞬間、その頭上を薙ぎ払う様にして銃撃が行われた。飛来した弾丸が周辺にあったドラム缶、外壁、折れ曲がった標識などに風穴を穿ち、甲高い跳弾音を鳴らす。

 連続した銃声の轟く方向へと顔を向ければ、暗闇の中で走り込んで来る影が一つあった。

 

「ちッ、倒せたのは三人か……!」

 

 闇夜の中で踊る白の外套。その口元をマスクで隠し、長髪を靡かせ駆ける影の正体は――錠前サオリ。

 スクワッドのリーダー、彼女達の標的の一人だった。

 

「こいつは、スクワッドのリーダー……!?」

「敵襲、応戦を――ッ!」

「遅いッ!」

 

 突貫する影に思わず叫び、慌てて立ち上がりながら銃を構えるアリウス生徒達。しかし、一足先に距離を詰めたサオリは一発、二発と発砲しながら滑り込む様にしてスライディングを敢行。飛沫を撒き散らしながら生徒の足元へと潜り込む。彼女の放った弾丸は先頭に立つ生徒の銃器を弾き、サオリはそのまま無手となった生徒の足に勢い良く絡み付いた。

 

「うわ――ッ!?」

 

 股で相手の片足を挟み込み、膝裏を脛で打って器用に相手を崩す。仰向けになった相手の胸元に踵を押し付け、そのまま奥に立っていた生徒二人に銃口を向け、素早くトリガー。鈍い金属音が鳴り響き、反動がサオリの肩を打つ。弾丸は吸い込まれるようにして奥で構えていた二人の生徒に着弾し、その頭部を強かに弾いた。

 

「こ、の……っ!?」

 

 組み敷いた生徒が咄嗟に胸元のサイドアームに手を伸ばすが、それよりも早くサオリは銃口を動かし、頭部、喉、胸元に一発ずつ撃ち込む。至近距離からの射撃に組み敷いた生徒は着弾の度に大きく体を震わせ、悲鳴を上げ、意識を手放す。サイドアームに手を伸ばしていた指先が、力なく地面に転がった。

 

 残りは三人。

 初手の交戦は、ほんの十秒足らずの出来事であった。

 

「貴様――ッ!」

「っ……!」

 

 流石に九人相手だと手が足りない。サオリが六人目を無力化すると同時に、残った三人全員がサオリに銃口を定めた。視界に出現する赤い予測線(レッドライン)、放たれるだろう弾丸の軌跡はサオリに重なる。

 咄嗟に組み敷いた生徒、その襟元を掴みながら体を逸らしたサオリは、そのまま横合いへと地面を転がる様にして回避行動を取る。その一拍後に銃声が轟き、薄汚れた砂利道に弾丸が跳ねた。

 雨水と泥に塗れながら素早く転がったサオリは、地面に膝を突いた状態で再び愛銃を構える。しかし、射撃のタイミングは相手の方が早い――アリウス生徒達は再度引き金を引き絞ろうとして、しかし弾丸を放つ事が出来なかった。

 サオリは失神した生徒を抱え、肉壁としていたのだ。

 

「なっ――!?」

「くそッ!?」

 

 サオリは一瞬動揺した相手に構わず、盾にした生徒の脇下から銃口を突き出し、引き金を絞る。マズルフラッシュが網膜を焼き、弾丸は正面に立っていた一人の生徒、その顔面に命中した。ガスマスクが弾け飛び、後方へと倒れ込む影。

 残りは二人。

 

「おぉッ!」

「っ……!」

 

 視界の端にアラート(警告)、咄嗟に振り向けばサオリ目掛けて突貫して来る生徒の影。視界に閃光が瞬き、弾丸がサオリのマスクを掠め火花を散らした。咄嗟に肉壁を突き出すも、アリウス生徒は勢いそのままにサオリへとタックルを敢行。

 衝撃で抱えていた生徒諸共後方へと吹き飛ばされ、サオリは転がりながら生徒()を手放し跳ね起きる。 

 

「接近戦ならば、仲間を盾には出来まい――ッ!」

「ちっ……!」

 

 長物(ライフル)を構えながら再度突っ込んで来るアリウス生徒、突き出されたそれから弾丸が吐き出され、サオリは低く屈む事で回避する。足を突き出した格好から愛銃(アリウス製アサルトライフル)を構え、射撃。

 銃声が届き、弾丸は駆け込むアリウス生徒の胸元に着弾し鈍い音を鳴らした。

 

「ぐゥッ――!」

 

 衝撃で仰け反り、呻き声を漏らすアリウス生徒。しかし防弾ベストが役割を果たした、衝撃は突き抜けたが足は止まらない。続けて引き金を絞ろうとするも、サオリは視線を右下に落とし舌打ちを零した。

 先生の支援により表示される自身の残弾――弾倉が空だった。

 残弾管理を怠るとは疲労で頭が鈍ったか、思わず自身に悪態を吐く。

 

「くたばれッ! スクワッド!」

 

 至近距離で引き金が絞られ、閃光が暗闇の中で瞬く。サオリはサイドアームに手を掛けようとして、しかし間に合わないと判断。手にした愛銃を咄嗟に相手の顔面目掛けて投げつけた。唐突なそれはアリウス生徒の突き出した銃に当たり、弾丸はサオリの僅か左方向へと逸れる。

 彼女はその一瞬を好機と捉えた。

 

 サオリは姿勢を低くしたまま一気に肉薄し、突き出された銃口を下から押し上げる。続けて放たれた銃弾は空へと吸い込まれ、閃光が二人の影を浮かび上がらせた。

 

「――ッ!」

「悪いが、この間合いは私の得手だ」

 

 ――余程の怪物(怪力)でもない限りは、競り負けん。

 

 呟きは届かず、打撃音に掻き消される。

 極近距離に於ける膝蹴り、アリウスの生徒、防弾ベストに覆われていない下腹部に一発、臓器を圧迫する様な一撃だった。膝が腹部にめり込み、アリウス生徒の身体がくの字に折れ曲がる。そこから下がった顎先目掛けて、下から掬い上げる様な掌打、鈍い音が響き顔面が跳ね上がる。ガスマスクのフィルターが弾け飛び、生徒は膝から崩れ落ちた。しかし、完全に崩れ落ちるより早くサオリは生徒の身体を抱え、そのまま愛銃を投げ捨てサイドアームを抜き放つ。

 

「お前で最後だ」

「っ……クソッ!」

 

 銃口の先に立つのは部隊最後のアリウス生徒。彼女は銃口を向けられた瞬間、遮蔽の裏に転がり込んだ。一拍遅れて角を掠める弾丸、頭を抱えながら彼女は思わず叫ぶ。

 

「たった一人に、部隊が――ッ!」

 

 アリウス・スクワッドの実力は知っていた、彼女とてアリウス所属の生徒だ、訓練の過酷さも、その選抜されるに足る素養の高さも知っている。だが連中は既に追い込まれ、疲労困憊の筈だった。だというのに、此処まで差があるものなのか――?

 ガスマスクの奥で表情を歪めながら、銃を抱えて思考する。しかし、それも長く続く事はなかった。

 

 廃墟街に、独特な射撃音が木霊する。

 

 同時に、遮蔽に隠れていたアリウス生徒、その顔面が弾かれた。ガスマスクが虚空を舞い、その身体が横合いへと吹き飛ばされるように転がる。跳ねた弾丸が外壁に突き刺さり、その角を抉り粉砕した。それは突撃銃の威力ではない、想像を絶する大口径のみが持つ威力だった。

 

「っ、今の銃声は――」

 

 自身のものではない銃声に一瞬警戒を見せるサオリ、しかしその耳の奥に残る、聞き慣れた銃声にはっとした表情を晒した。

 それを証明するように、直ぐ傍の裏路地から身の丈はある愛銃を抱えたヒヨリが恐る恐る顔を出し、路地を見渡す。そし路地の只中に佇むサオリを見つけた彼女は、暗闇の中でも必死に目を見開き問いかけた。

 

「り、リーダー……ですか?」

「ヒヨリ! 良かった、無事だったか……!」

 

 自身の仲間、その無事を喜ぶサオリ。抱えていたアリウスの生徒を地面に転がし、愛銃を拾い上げながら彼女の元へと駆け寄る。ヒヨリの格好はサオリ程ではないとは云え所々薄汚れ、手足や肩、頬には僅かな怪我が見て取れた。外套の所々には穴が空き、被弾した様子もある。恐らく散り散りになった後も、ひとりで戦闘を行いつつ逃げていたのだろう。

 ヒヨリはサオリと同じように仲間の無事を喜び、その表情を綻ばせる。

 

「ど、どうして私の居場所が分かって……?」

「あぁ、それは――」

「サオリ」

 

 サオリが何かを口にするより早く、彼女の名を呼ぶ先生が路地へと足を踏み出した。銃声が止み、アリウス生徒全員が戦闘不能になった事を確認した先生は、月明かりの下にその姿を晒す。

 そしてその姿を見た瞬間、分かり易い程にヒヨリは狼狽した。

 

「ひ、ひぇっ!? しゃ、シャーレの先生!?」

「やぁヒヨリ、無事でよかったよ」

 

 微笑む先生と対照的に、恐怖と焦燥を表情に滲ませるヒヨリ。その肩は大袈裟な程に跳ね、膝が小刻みに震えていた。

 しかし、その反応も当然と云えば当然である。何せ彼女にとって先生は何度も銃を交えた敵対者であり、自身に恨みを抱いていると絶対の自信を持って云える相手なのだから。どうしてそんな相手がこんな場所に――そんな疑問を抱きながらも、ヒヨリはサオリに向かって叫ぶ。

 

「ど、どうしてリーダーと先生が一緒に居るんですか!?」

「……それについては、私が先生に救援を頼――」

「わ、分かりました! ついに天罰の時がやって来てしまったんですね? やっぱり私は終わりなんだ! そ、そうですよね、よくよく考えてみたら先生は私達をアリウスから取り返したいですよね、自らの手で処罰したいでしょうから――わ、私達を捕まえて、シャーレにあると噂の地下牢に入れる気なんですよね!? シャーレに反抗した子達のすすり泣きが夜な夜な聞こえてくると云う、曰くつきのあの場所に……!」

「えっ、そんな噂があるの? えっと、知っているかい、サオリ?」

「……いいや、そんな噂は初めて聞いた」

 

 ヒヨリの言葉に困惑を滲ませるサオリ。シャーレについての情報は適宜収集してはいたが、その手の噂話は全く耳にした記憶がない。その辺りの井戸端会議とか、或いはネット掲示板か、それとも雑誌にでも掲載されていたのだろうか? どちらにせよ、とても鵜呑みに出来る情報ではないとサオリは判断する。

 そんな二人の反応を他所に、ヒヨリはひとりで誤解を深め続けた。

 

「うわぁあああんっ! もう終わりです! まだやりたい事も、読みたい雑誌も沢山あったのにぃ……!」

「………」

「でも、仮にそうだとして、リーダーと先生が一緒に居るのは何故でしょう……? あ、私完全に理解しました、リーダーはシャーレの先生に脅されているんですね!? リーダーも苦痛だらけの人生で、可哀そうに……!」

「ヒヨリ」

 

 彼女の言葉を遮る様にして、先生は声を上げる。びくりと肩を跳ねさせ、ぎこちない動作でヒヨリは声を発した先生に視線を向けた。

 

「な、なんでしょうか、先生……?」

「助けに来たよ」

「……え?」

 

 その一言に、彼女は目を瞬かせ、どこか呆然とした顔を晒した。

 

「えっと、助けって……わ、私をですか? せ、先生が?」

「うん」

「な――……何故?」

 

 言葉の間にはかなりの空白があった。

 予想だにしない事が起きたかのように、ありえない事が起きたかのように――実際、彼女からすれば到底信じられない出来事だったのだろう。両目を頻りに瞬かせ、雨の中でも分かり易い程に動揺の気配を滲ませながら彼女は言葉を続ける。

 

「せ、先生と私達って敵対していましたよね? け、結構冗談じゃ済まない位の怪我とか、被害とか、出しちゃいましたし、その腕も、目だって、私達(アリウス)が原因で……あっ、も、もしかして記憶喪失とかですか? 私達が誰なのか、分からないとか、そういう感じの――」

「サオリに、助けて欲しいと頼まれたんだ」

「うえっ……!?」

 

 ヒヨリが素っ頓狂な声を上げ、サオリを見る。その瞳には、分かり易く『嘘ですよね?』という類の問い掛けが混じっていた。しかし、サオリは先生の言葉に頷きを返す。

 

「あぁ、先生の云う通り――私が救援を求めた、一緒にアツコを助けて欲しいと」

「え、えぇ!? しょ、正気ですかリーダーっ!? きゅ、救援って、そんな……!」

「……先生が此処に居る事が、その証明だ」

 

 素っ頓狂な声でそう叫ぶヒヨリだが、サオリの真剣な面持ちに思わず先生とサオリを交互に見つめる。実際、先生はこの場に存在する。それはつまり、彼女の要請を先生が了承したという証に他ならない。

 

「た、頼むリーダーもリーダーですが、応じる先生も先生ですね……?」

 

 そう小声で呟き、ヒヨリは背を曲げ指先を擦り合わせる。そこに先生に対する後ろめたさが如実に表れていた。手を差し伸べてくれることは嬉しい、こんな状況で先生の助力は正に百人力どころの頼もしさではない、それ以上の価値があった。

 しかし、だからこそ分からない。どうして先生は手を貸してくれるのか、自分達を助けてくれるのか。

 あらゆる罪を重ねた自分達を、悪い生徒を――どうして。

 

「先生は、一体どうして――」

「ヒヨリ、一緒にアツコを助けに行こう」

 

 先生が一歩を踏み出し、そう告げる。ヒヨリがふと視線を上げると、先生の表情が視界に入った。瞳の中の彼は真剣で、純粋で、そこには一切の混じり気がなかった。どこまでも真摯に生徒を想う大人の姿――それはヒヨリの遠くから眺めている事しか出来なかった、救われるべき生徒に向けられる視線だった。

 

「今私がやるべき事は、それだけだよ」

「――姫ちゃん」

 

 その言葉に、ヒヨリの意識が引き戻される。

 脳裏に過るのは自分達の為にアリウスへと連行されたアツコ、その後ろ姿。その事を思い出す度に、彼女の中で悲観的な感情が燻る。両手を握り締め、感情を抑え込もうとするヒヨリは表情を歪め、俯いた。

 

「ひ、姫ちゃんを助けたい気持ちは私も同じです、助けられるのなら助けたい」

「なら――」

「で、でも……」

 

 雨に打たれながら、ぼそりと彼女は呟いた。

 

「果たして私達だけで、姫ちゃんを助けられるのでしょうか……?」

「………」

「アリウスは、強大です、キヴォトス全体から見れば小規模で、取るに足らないかもしれませんが、少なくとも私達だけで一つの自治区(学園)を相手取るなんて、そんな事――」

 

 自分で口にしている内に、事の困難さを再度自覚したのだろう。ヒヨリの視線はどんどん下がり、俯いた表情は影に包まれてしまう。

 アリウスとして戦っていた頃ならば良かった。ゲヘナとトリニティを敵に回そうとも、キヴォトス全てを敵に回そうとも、どこか他人事の様に戦う事が出来た。そこにヒヨリの意志など介在しなかったから、ただ云われるがままに戦って、云われた通りに傷付いて、教えられた通りに苦しんで死ぬのだと――漠然とそう思っていたから。

 全ては虚しい、その教えのままに。

 そうなる筈の同胞(なかま)が、周りには沢山居た。

 

 しかし一度(ひとたび)その場所から逃げ出したら、自身の意志で全てを決めなくてはならない。自身の行動で自身の運命が決定する、当たり前の事かもしれないが、彼女からすればそれはこの上なく恐ろしく、悲観的な自身の感情を強く刺激した。

 この戦いは文字通り――私達(スクワッド)だけの戦いだ。

 隣り合った大勢の仲間は居ない、この目の前に立つ大人が唯一その声に応えてくれた存在、彼以外には誰も、手など決して貸してくれない。

 そんな戦いに、勝ち目はあるのだろうか? 奥底に潜む、臆病なヒヨリが問いかける。

 答えは、分かり切っていた。

 

「わ、私は……」

 

 唇を噛み締め、ヒヨリは震えた声で告げる。

 

「リーダーの居場所を教えれば、アリウス自治区に戻れるように便宜を図ると、彼女に云われました」

「っ……!」

 

 それはベアトリーチェの用意した狡猾な甘言。

 散り散りになったスクワッド、囮になったサオリを含め一人一人に追撃部隊は差し向けられた。そして捕捉され、逃げ惑う彼女達に追撃部隊は語り掛けるのだ。『条件を呑むのであれば、アリウス自治区に帰還を許しても構わない』――と。

 追撃部隊を通じて齎されたそれ(マダムの毒)は、彼女達にとって文字通り最後の希望だろう。サオリは先生の殺害を条件に、そしてヒヨリはサオリを裏切る事を条件にアリウス帰還を許される手筈となっている。

 少なくとも、表面上は。

 

「わ、私はリーダーの言葉に従っただけの存在だから、情状酌量の余地があるのだとか、何とか、そう云って頂けて……へ、へへっ」

「……そう、か」

 

 引き攣った笑みを浮かべ、指先を擦り合わせるヒヨリを前にして、サオリは静かに目を瞑る。

 暫くの間、雨が滴る音だけが周囲に響いていた。

 小さくマスクの奥で息を吐き出す、再びサオリが目を見開いた時――そこには穏やかな、仲間を思う色だけが残っていた。

 

「分かった、ヒヨリは私の居場所を彼女に伝えて、そのまま自治区に戻れ」

「……えっ」

「そうすればヒヨリ、少なくともお前に迷惑は掛からない」

 

 その、予想もしなかった言葉にヒヨリは思わず硬直する。

 彼女はもっと、こう、激昂するとか、悲しむとか、責めるとか、そういう反応を予想していたのだ。リーダーの事だ、突然銃口を向けるという事はないだろうが――それでも苦言を呈する位はあると考えていた。

 だというのに、現実は全てを受け入れ、優し気な表情で寧ろ裏切る事を推奨して来る。ヒヨリは大いに戸惑い、狼狽した。

 

「は、はい!? リーダー!? い、いえっ、あの、私は……!」

「いつかこんな日が来ると、分かっていた……お前は今まで良く私に付き合ってくれたよ、ヒヨリ」

「え、えっと、その、ちょ、ちょっと――?」

「せめて、お前だけでも――」

「あ、あの、リーダーッ!」

 

 頷き、儚げにそう語るサオリに対してヒヨリは声を荒げる。彼女らしからぬ自己主張に面食らったサオリに、ヒヨリは強い口調で告げた。

 

「えっと、その話はもう、断ったんですけれど……!」

「………」

 

 数秒、沈黙が流れる。

 そもそも、最初からヒヨリはサオリの居場所をアリウスに漏らすつもりなど毛頭なかった。そんな仲間を裏切る様な真似、出来る筈がない。そんな彼女の言葉にサオリは目を瞬かせ、当の本人は何処か不満げに唇を尖らせる。

 

「な、何ですか、その裏切り者に理解を示すみたいな行動(ムーブ)、私ってそんなに簡単に裏切ると思われていたんですか?」

「い、いや、決してそういう訳ではないのだが、その……」

 

 妙に歯切れの悪いサオリは、視線を左右に逃しながら呟く。決して彼女が簡単に裏切る様な人物であると思っていた訳ではない。ただ、状況が状況なのだから、そういう選択肢もあり得ると――そんな風に思ってしまっただけだ。

 

「そもそも、彼女の言葉を素直に信じる事は難しいです、姫ちゃんとの一件で一度裏切られてしまっていますし、それにもう、私達は同じ船に乗った運命共同体のようなものじゃないですか! 私ひとりで自治区に戻った所で……何の意味もないんです」

 

 そう、(ヒヨリ)ひとりが生き残っても、意味が無い。

 

「――皆で、一緒じゃないと」

 

 呟き、ヒヨリは両手を握り締めた。

 強く、軋む程に強く。

 

 ひとりぼっちは嫌だ。

 ヒヨリは、ひとりでは生きていけない。

 皆が一緒だから、こんな辛くて苦しい世界でも生きていけるのだ。

 生きて行こうと、思えるのだ。

 だから――。

 

「そうですよね、えぇ、皆でアツコちゃんを、姫ちゃんを助けられるのなら……その方が良いに決まっています、出来るかどうか、それは分かりませんし、正直云って不安で仕方ないです、きっと辛くて、痛くて、苦しい事が沢山待っていますよね……で、でも――」

 

 ヒヨリがその顔を上げ、強く、挑む様に前を見据える。

 その不安と恐怖に歪んでいた表情はしかし、それを呑み込み、噛み締め、その大きさに勝る勇気(強さ)で以て包まれていた。

 

「此処で進めなかったら、辛くて苦しいって分かっているこの道を選べなかったら……私はきっと、死ぬまで後悔してしまいそうだからっ!」

 

 ――此処で逃げ出してしまう事は、絶対に間違いだから。

 

「それは、リーダーだって同じじゃないんですか? だから、私を助けに来たんですよね……!?」

「……あぁ、そうだ」

 

 ヒヨリの叫びに、その訴えに、サオリはゆっくりと頷く。

 どれ程困難であっても、諦められない大切なものがある。彼女にとって、それは命よりも大事な仲間(家族)だ。それ以外には存在しない、それこそが全てだ。

 逃げる事なんて、出来ない。

 

「間違った道ばかりを選んできた私だが、それでも――」

 

 静かに、手を差し出す。

 雨と砂利に塗れた、苦しみと痛みを約束する手だった。

 

「また力を貸してくれるか――ヒヨリ?」

「わ、私が役に立てるのなら……!」

 

 その手をヒヨリは、力一杯握り締めた。

 

「それで、具体的には一体どうやって――」

「詳しい話は全員が揃ってからにしよう」

 

 逸るヒヨリを前に、先生は穏やかな口調で以て告げる。

 

「まだ、スクワッドとして動くには一人足りない」

「あっ、そ、そうですよね……!」

 

 その言葉にヒヨリは何度も頷いて見せる。アリウス・スクワッドはアズサが離脱し、アツコが捕らえられ、人員は大きく欠けている。しかし、まだ一人――仲間が待っている。

 

「ヒヨリ、ミサキの行きそうな場所に心当たりはある?」

「ミサキさんの、行きそうな場所――」

 

 先生の問い掛けに対しヒヨリは考え込む様にして俯き、声を漏らした。

 

「そうですね、ミサキさんが行きそうな場所なら、何となく見当が付きます……!」

「あぁ、私もだ――恐らくは、あそこだろう」

「ミサキさんならきっと、今のこの状況を整理して、良い案を出してくれるかもしれません……!」

 

 どうやらヒヨリとサオリには、彼女が潜伏する場所に覚えがあるらしい。愛銃を抱え直し、巨大なガンケースと背嚢を背負った彼女は先頭を駆けながら云った。

 

「此方です、行きましょう、リーダー、先生!」

 

 ■

 

 トリニティ自治区――廃墟区画郊外、廃棄橋。

 その場所は、廃墟区画から奥まった場所にあった。区画間を隔てる大きな運河、その上に建築された巨大な廃棄橋。元は工業地帯か何かだったのだろうか、周辺には廃れたビルや工場が散見され、橋周辺には重機が行き来した痕跡も散見された。そんな建物群に挟まれた大通りを抜け廃棄橋へと踏み込む一行。

 一歩踏み出すごとに砂利が滑り、鼻腔を擽る古臭い香り。

 

「……随分錆びているね」

 

 呟き、先生は橋全体を見渡す。一応電気自体は通っているらしく、等間隔で並ぶ照明は光を放っていた。しかしその光の強さはバラツキがあり、完全に消えてしまっているものもあった。そして、その光に照らされた橋本体は――錆びに塗れ、薄汚れてしまっている。見れば手摺などは完全に朽ちて崩れている部分もあり、安全性に懸念があった。

 

「あぁ、かなり昔に建造されたらしいからな、周辺一帯の衰退によって廃棄が決定されて以降、碌に手入れもされていないのだろう」

「い、いつ来ても高いですね、此処……」

 

 ヒヨリが橋から下を覗き込み、思わずそう呟く。運河と橋はかなり高低差があり、高い場所が苦手な人物であれば眩暈を起こしそうな程だ。恐らく人間が落下すればひとたまりもないだろう。先生は暗闇の中で揺らめく水面を見つめ、そんな事を考える。

 

「――下を流れる川の水深は、五メートル以上あるからね」

「……!」

 

 不意に、声が響いた。

 サオリのものでも、ヒヨリのものでもない。

 薄暗い照明、その向こう側から足音が聞こえて来る。皆がその方向へと顔を向ければ、ゆっくりと歩いて来る人影が見えた。彼女は見慣れたアリウスの外套を揺らし、三人の前に姿を晒す。

 

「流れも速いから、落ちたらそのまま水底に沈む事になるよ」

「ミサキ」

「み、ミサキさん」

 

 二人が彼女の名を呼び、暗闇から現れた彼女――ミサキは三人をなぞる様にして見つめる。

 その瞳には何の色も見えない、強いて挙げるとすれば気怠さと、諦観か。

 

「リーダーにヒヨリ……そして、シャーレの先生か」

 

 サオリ、ヒヨリと視線を向け、そして最後に二人の奥に立つ大人へと視線を向ける。

 彼女は自身の愛銃、セイントプレデターを肩に担いだまま静かに、吐き捨てる様に云った。

 

「そっか――『そういう選択』をしたんだね、リーダー」

 


 

 次回 美食研究会、襲来



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リーダー(この手を握り続けた人)

誤字脱字報告ありがとうございますわ~ッ!
今回ちょっと短めで申し訳ねぇですの、でも私悪くありませんわ、ブルアカの生放送が悪いんですのよ!


 

「まさか、あのリーダーがね……それを受け入れる先生も先生だけれど、ちょっと予想外だったかな」

「ミサキ……」

 

 三人の前に現れたミサキは、気怠さを隠さず自身の髪を指先で払いそう告げた。頭上で点灯する照明が、皆の顔を照らす。ミサキの恰好はサオリと同じように所々血が滲み、戦闘の色が濃く残っていた。巻き付けられた包帯や薄汚れた外套、弾痕で解れた衣服が何とも云えない疲労感を滲ませている。

 セイントプレデターを地面に降ろし、それを立て掛けながら彼女は横目で問い掛けた。

 

「此処に来たって事は、姫の事を救出しに行くつもりなんでしょう? そうじゃないなら多分、もう『終わっていた』だろうし」

「……そうだ、私達で姫の救出に向かう」

「その為に、先生の力を借りたの?」

「あぁ」

「へぇ」

 

 声にはどこか、揶揄う様な色が滲んでいた。サオリの表情が僅かに険を帯び、ミサキを射貫く。彼女は黒いマスクで口元を隠したまま、肩を竦め云った。

 

「でも、先生は知っているの? 私達は先生を始末すれば、アリウス自治区に戻れるって事――そこに居るヒヨリも、リーダーも、同じ話を聞いた筈だよね?」

 

 その言葉に対し、サオリとヒヨリの両名は表情を変化させる。サオリは強張った表情を、ヒヨリは気まずそうな、申し訳なさそうな、そんな表情だった。

 

「わ、私が受けた提案は少し違いましたけれど……」

「確かに、そう云われたな、先生を始末すれば私達の裏切りを許すと」

「やっぱり……そんないつ背後から引き金を絞られるか分からない状況で、先生は私達を信用出来る訳? しかも、それが自分の瞳と腕を奪った上に、何発も銃弾を撃ち込んだ相手だっていうのに」

 

 その声には呆れが含まれていた様に思える。どこまでも生徒の為に奔走する先生を揶揄する様な、そんな感情だ。それに対し先生は怒る事も、動揺する事も無かった、ただ軽く首を振って穏やかな口調で答える。

 

「……サオリ達が私を始末するつもりなら、私はとっくに無事じゃないよ」

 

 実際、この状況で彼女達に銃口を向けられてしまえば――恐らく、かなりの確率で自身は最悪の結末を辿るだろう。残念ながら先生にスクワッドの追撃を躱すだけの身体能力も、戦力も無い、その危機を脱する秘策すらも。たとえ此処から逃走出来たとしても、五分生き延びられたのなら御の字だ。

 しかし、先生はそんな心配を微塵も抱いてはいなかった。

 

「それに裏切られるとか、騙されるとか、正直そんな事は私にとって大事じゃないんだ」

「なにそれ正気? 態々命懸けて助けて、その果てに騙されて、裏切られても良いとか」

「……私は困っている生徒が居るなら放ってはおけない、ただそれだけなんだよ」

 

 困った様に、その眉を下げながら先生は云った。そこには嘘を口にしている後ろめたさや、過剰に演出された表面をなぞるだけの色もなかった。ただ本当に、素朴な感情に従っている先生の姿だけがある。

 数秒、ミサキはそんな彼の姿を見つめる。その瞳に込められた感情は、揺らぎもしなければ動揺もしない、ミサキは先生をそういうものだと受け止めた。ただ少しだけその在り方を憐れむ様に視線を逸らすと、俯きながら言葉を紡ぐ。

 

「そっか、そこまでお人好しなんだ、それはちょっと想定外――でも、だからと云って私の考えは変わらないよ」

「ミサキ……!」

 

 彼女の言葉は暗に、姫の救出に向かう事を拒否している。或いは、諦観に徹していると云うべきか。非難する様にサオリが彼女の名を呼び、一歩を踏み出す。しかしミサキはそんなサオリの様子を見つめながら、努めて冷静に口を開いた。

 

「リーダー、姫を救うのは無理、装備も、人手も、時間も、何もかも足りない、それは分かっているでしょう?」

 

 あくまでミサキは冷静に、淡々とした様子で状況を語る。現在のスクワッドにはあらゆるものが足りていない。支援も、援護も望めない状況でアツコを救出に向かう、これは彼女からすればただ悪戯に、苦しみを増やすだけの行為に過ぎない。

 現状のスクワッドには勝算が見当たらない、それがミサキの導き出した結論だった。

 

「仮に今からアリウス自治区に上手く潜り込めたとして、どうするの? 姫が居るバシリカに辿り着くために三人で徹底抗戦する? アリウス分校の全生徒と? しかも、陽が昇る前に?」

 

 姫の元へと辿り着く事さえ困難だというのに、時間さえ彼女達の敵だった。

 

「それに、彼女は私達すら知らない奥の手を用意している筈、ずっと秘密を抱えて来た大人だもん、私達だけじゃ、いくら先生の助けがあったとしても不可能だよ」

「み、ミサキさん……」

 

 ヒヨリが思わず声を零す。スクワッドの中で一番冷静に物事を見れるのはミサキだ、少なくともヒヨリはそう思っていた。厭世的で、諦観に満ちていて、どんな物事であってもニュートラルに受け止める。だからこそ立場は別として状況をあるがままに告げる。難しい事は分かっていた、しかしいざ彼女が無理と断ずると、改めて状況の厳しさが伝わって来る。

 

「ねぇリーダー、仮に、アツコを救出出来たとして――そこに意味はあるの?」

「……どういう意味だ」

 

 不意に、ミサキはそんな事を口走った。ぴくりとサオリの眉が跳ね、鋭い視線で以てミサキを射貫く。しかし、そんな視線を向けられて尚彼女は言葉を続ける。そこには深く昏い、彼女なりの世界に対する観方があった。

 

「アツコを助けて、めでたしめでたし――そんな子ども染みた御伽噺じゃないんだから、もう私達はアリウス自治区に戻れない、トリニティとゲヘナも私達を探している、仮にアツコを助けられたとしても、帰る場所もないこの世界に取り残されて泥水を啜って生きるだけの……この無意味で苦しい人生が延々と続くだけ」

 

 そう、先の逃走生活でその事は痛い程に理解した。

 自分達に居場所はない、陽の当たる場所で生きる生徒が当たり前の様に持っているものを自分達は持ち得ていない。

 世界は無情にも続いて行く、ハッピーエンドのその先、誰かを救い、誰かを助け、希望に満ちた終わりの先に――絶望が待っているなんて話は珍しくもないだろう。

 アツコを助け、アリウス自治区から抜け出して、もう一度逃走生活に戻って、それでどうする? 苦しみ、逃げ惑い、痛みに耐える日々をもう一度送るのか。

 

 陽の当たる場所で青春を謳歌する子ども、日陰の中で搾取され苦しむだけの子ども。苦しみも、痛みも、不平等に分け与えられる。それは自分だけではない、ロイヤルブラッドと謳われた彼女ですら同じだ。自分達と同じように苦しみ、痛みに耐え、今日まで生きて来た。

 何故耐えて来たのか、何故生きて来たのか、それは未来に、この道を進んだ先に、ほんの僅かでも希望があるんじゃないかと。こんな地獄の様な場所よりマシな何かが、そんな居場所があるんじゃないかって、そんな風に語って聞かせた存在が居たからだ。

 いつしかその人は希望を語る事を止めたが、それでも心の何処かで、その胸の中で何を考えているのか何て分かり切っている。伊達に長年共に在った訳ではない。未来はない、希望は無い、将来は存在しない、そう教えられ続けた彼女の中にあった、ほんの僅かな想い。小さな砂粒よりも細やかで、硝子よりも砕け易く、簡単に消えてしまいそうなソレ。

 ミサキは決して口にする事は無いが、その願いに寄り添おうと思った。

 いつか、遠い遠い昔の事、貧民街でその日生きる事にすら精一杯だったあの日、幼い頃の彼女が口にした言葉をミサキは今でも忘れずにいる。

 

 ――夢は、大人にだって奪えはしない。

 

 でも、結局そんな事はなかった。

 どん底だと思っていた幼少期すらまだ地獄の入り口に過ぎず。

 その地獄こそが、自分達の唯一無二の居場所だった。

 世界は虚しく、苦しく、痛みで満ちている。

 生きる事に意味など無い。

 その存在に価値は無い。

 アリウスの教えは、正しかったのだ。

 

 ならば――もう、良いのではないか。

 この苦しみから解放されても、許されるのではないか。

 この苦しみに耐える事に果たして、意味はあるのか?

 自分達の望む居場所など、何処にもありはしないのに。

 そんな意図を込めてミサキは問いかける。

 サオリに、ずっと自分達の手を取って歩き続けた唯一の存在に。

 

「ねぇ、リーダー、苦痛ばかりだった姫の人生を引き延ばして……そこに、その苦しみに釣り合うだけの価値はあるの?」

 

 ――vanitas vanitatum, et omnia vanitas

 

「ただそれだけが私達の納得できる真実だというのに」

「………」

「リーダーはまだ、この虚しい世界の中で私達に苦しめって云うんだ」

 

 苦しむ事に意味などなく、痛みに底などく、未来に希望などなく、夢を語る事は許されず、幸福など与えられない。

 そんな世の中ならば、生きている事に意味はあるのか。

 その問い掛けに対し、サオリは返す術を持たない。その人生を、その苦しみを共に味わった自分には。そうではないと、上っ面の言葉を重ねる事は出来た。しかし彼女の奥底に眠る感情が、錠前サオリと云う苦痛の泥の中で足掻き続けた彼女の信念が安易な言葉を口にする事を嫌った。心の底から思いもしない言葉を彼女にぶつけて何になるのだと叫んでいた。

 ミサキの言葉は理解出来る、そう思う事も、感じてしまう事も、痛い程に。

 

 だが、それでも。

 サオリ()は――。

 

「それとも先生、大人である貴方なら、この答えを知っているのかな」

 

 ――この苦しみに塗れた世界の、真実を。

 

 ミサキの視線がふと、先生に向けられる。この場に存在する唯一の大人、自身の全てを投げ捨てて生徒に手を差し伸べようとするこの善人ならば、立場の異なる先生ならば異なる見解を示すのかと。

 その時先生が浮かべた表情は。

 どこか困った様な、難しそうな、そんな何とも表現し難いものであった。

 

「……答え、か」

「先生は以前云っていたよね、私達には無限の可能性があるんだって」

 

 思い返すのはエデン条約、その終わりに先生が叫んで見せた言葉。あの日、先生は全ての生徒に希望を語って聞かせた。生徒達(子ども達)には無限の可能性が広がっているんだと、腹の底から叫び訴えた。希望に満ちた言葉だ、耳障りの良い言葉だ、何とも陽を浴びて育った生徒の好きそうな言葉ではないかと、彼女は奥底で呟く。

 

「でも、現実にそんな事はあり得ない、仲間ひとり救えずに苦しんで死んでいくのが私達、結局それが私の知る真実――なら苦しみから逃れたいと思うのも、普通の事でしょう? 何もおかしな事じゃない、ただそれが早いか遅いかだけ、此処で終わってしまえば、これ以上苦しまずに済むのだから」

「……私は生徒達に自分の生を悔やんだり、責めて欲しくはないな」

 

 ミサキの言葉に、先生は緩く首を振って答えた。ミサキの立場は理解出来る、その感情も。彼女の境遇を考えれば当然とすら云える。自身がもっと早く、或いは上手くやれたのなら、そう感じたのは一度や二度ではない。ただ先生は、それでも彼女の言葉に共感を示す事は出来なかった。

 それがどんなに辛く、苦しい事でも。

 その人生が、どれ程昏く、絶望に満ちたものに見えても。

 

「生きる事を諦めて、苦しみから解き放たれるなんて――そんな悲しい事は云わないで欲しい」

「………」

「そんな風に思う必要なんて、絶対にないのだから」

 

 苦しみだけじゃない、楽しい事も、嬉しい事だって、この世界には沢山存在するのだ。

 この世に生まれ落ちた子ども達の未来はいつだって、何処までも広がっている。

 少なくとも先生は、そう信じている。

 その言葉を前に、ミサキは嘲笑を零した。それは言葉自体ではなく、自分自身に向けられている様に思えた。

 

「そうだね、そんな風に、世界は苦しみばかりじゃないって、馬鹿みたいに信じられたら……」

「今は思えないかもしれない、でも――子どもが絶望と悲しみの淵でその生を終わらせたいと願うのなら、そんな願いが、この世界に存在すると云うのなら」

 

 それは――その世界の責任を負う者(大人)が、抱えるべきもなのだ。

 

「その責任は、大人()が背負う、アリウスが、スクワッドの皆がそんな風に思うのならば――私の持つ全てを使って、君達(生徒達)の未来を切り開くと約束する」

 

 先生の持つあらゆる手を尽くし、その未来を切り開くと誓う。

 どんな困難があったとしても、決して諦めはしない、絶対に見捨てなどしない。

 先生はあらゆる生徒の味方だ。助けを求められた時、生徒達がその手を欲した時、彼は最大限の協力を約束する。だから先生はミサキを見つめる、その視線を決して逸らさずに、絶対的な意思の下に言葉を紡ぐ。

 

「もし、ミサキにほんの少しでも――僅かでも(未来)に進む気持ちが残っているのなら」

「………」

「私を、信じて欲しい」

 

 その言葉に、ミサキは無言を貫いた。

 マスクに覆われた唇を引き締め、彼女は目を伏せる。

 

 今更――先生の言葉を嘘だとは思わない。

 だが、全てを投げ捨てて信じようとも思わない。

 そう思うには余りにも、自分は擦れ(世界の冷たさを知り)過ぎた。

 

「ミサキ」

 

 不意に、自身の名を呼ぶ声が耳に届いた。

 伏せていた視線を上げれば、自分達のリーダーが此方を見つめている。いつも通り、凛とした視線で、けれどその身を案じる様に、力強い瞳だった。決して自分には出来ない、光を帯びた瞳だ。彼女の身体が揺れ一歩、前へと踏み出した。

 

「お前のその、苦痛だらけの人生は、死を迎えれば安息なのか?」

「……リーダー」

「私にはお前の云う答えも、真実も、確固たる何かがある訳じゃない、いつかお前が云った様に、私もお前達と同じ、アリウスで生まれ、育ち、ただ分からないなりに必死に足掻いていただけの存在に過ぎない」

 

 貧民街で育ち、何も持たない身でありながら仲間(家族)を守ろうと躍起になり、アリウスの尖兵となり果てて尚、その中で常に彼女達の先頭に立ち続けたサオリ。スクワッドにとって彼女は絶対的なリーダーで在り続けた、幼い頃の彼女達にはサオリは自分達の知らない『何か』を知っていると、そう信じるに足る何かを持っていたのだ。

 だが、その内面はミサキやヒヨリ、彼女達と何も変わりはしない。ただ彼女は彼女なりに、自分の手の届く範囲で――否、手の届かない範囲であっても足掻き続けただけだ。その姿が彼女達にとっては頼もしく、同時にどこか大人びて見えていたにすぎない。

 

 つい先日、彼女(サオリ)は誕生日を迎えた――十七歳の誕生日だった。

 

 ミサキとヒヨリは十六歳、アツコは十五歳。他の学園であれば三人は第二学年、アツコは第一学年に相当する。アズサも三人と同じ十六歳、けれど彼女達が学んだ事など、本当に戦う事ばかりで、普通の学生が勉強する事など何も知らない。

 自分達は――知らない(わからない)事ばかりだ。

 ただ世界が虚しいという事は、辛く、苦しいという事だけは、その身を通じて理解していた。決してそれは学びではない、自分達の身に染みた体験によって導き出された彼女達にとっての真実だ。

 

 大人は、自分達を酷使する。

 助けてくれる存在は、何処にも居ない。

 自分達の居場所は、日陰にしかない。

 

 けれど。

 そんな、冷たく、苦しく、痛みに満ちた世界だけれど。

 

「だが私は、私の我儘だと云われても、お前たちに生きていて欲しい」

 

 ――この世界が、どれだけ辛く苦しいものであっても、スクワッドの皆には生きていて欲しいから。

 

「だから、良く聞けミサキ、お前がそこから飛び込むと云うのなら、私も即座に追って飛び込む」

「………」

「絶対に死なせなどしない、服の中に重石を入れていても無駄だ、海岸まで連れて行くのに時間も然程掛からない、そこまで長くとも二十秒、お前が気を失った所で何度でも心肺蘇生を繰り返してやる、私がお前を生かす、是が非でもだ」

 

 声色は、本気だった。恐らく此処で自身が川に身投げしようとも、彼女は何の躊躇いも無く後に続くだろう、そう確信できるほどの気迫があった。

 更に一歩、サオリが前へと踏み込む。ミサキとの距離はほんの数歩まで迫っていた。サオリはその指先を伸ばし、ミサキへと突きつける。

 

「今まで何度やっても無駄だったというのに、今回は成功できると、お前はそう思えるのか? 私はお前の命を、絶対に諦めたりなどしないぞ――ミサキ」

「……まぁ、そうだよね、リーダーはいつもそうだった」

 

 呟き、ミサキは自身の喉元を摩った。薄汚れた包帯に包まれたその場所、似たような言葉をいつか交わしたような気がする。そうだ、サオリはいつもそうやって自分を死の淵から引っ張り上げた。何度でも何度でも、飽きずに。

 だからきっと今回も、そうなるのだろう。思い返し、ミサキは吐息を零した。

 それは諦めの吐息だった。

 無駄は、省くに限る。

 

「……此処で死ぬのも、アリウスの中で死ぬのも、結局一緒か」

 

 そう言葉を零し、ミサキはゆっくりと手摺を離れた。佇むサオリの前に数歩足を進め、手の届く距離へと立つ。彼女は口元のマスクを下にずらし、問いかけた。

 

「それで、姫を助けるの?」

「あぁ、そうだ、先生を含めた私達四人で」

「到底、勝ち目がなくても?」

「勝ち目なら、ある」

 

 強い口調だった。それをミサキは強がりだと受け取った。スクワッドにある唯一アリウスに勝る点など、先生の存在くらいしかないだろうに。

 だがそれを口にする事は無い、リーダーがそう云うのであれば、そうなのだろう。自分の役割は只、課された範囲の中で出来る事をするだけだ。肩を竦め、ミサキは頷く。

 

「……分かったよ、リーダーの命令なら従う」

 

 そう云って彼女は、仕方なさそうに苦笑を浮かべた。

 

「今回も、最後までお供するよ――リーダー」

「頼んだ」

 

 サオリがぶっきらぼうに手を差し出す。その傷に塗れた指先を見つめ、ミサキは無言で手を取った。握り締められる掌、力強いそれにミサキは目を閉じる。

 あぁ、本当に――サオリ(リーダー)は変わらないと。

 

「はぁ~っ……よ、良かった! な、何とかなって、本当に良かったです……!」

 

 ヒヨリが目尻に涙を浮かべ、これ見よがしに安堵の声を漏らす。それは先生も同じだった、張り詰めていた空気が抜ける様に、口から吐息が零れる。僅かに強張った頬を努めて柔らかくほぐし、先生はミサキへ深い感謝を告げた。

 

「ありがとう、ミサキ、思い留まってくれて」

「何それ……別に、先生が御礼を云う事じゃない」

「ミサキの事、ヒヨリが凄く心配していたんだ、勿論私もだけれど……」

「………」

「そ、その、やっぱり皆さんと一緒じゃないと、私ひとりじゃ何も出来ませんし、ミサキさんは頭が良いから、こんな状況も何とか出来るんじゃないかって思いまして……えへへ」

 

 口元を緩め、背を丸めながらそんな事を口走るヒヨリに対し、ミサキはそっぽを向きながら腕を組んだ。その表情に見えるのは呆れか、或いは単なる照れ隠しなのか。彼女は淡々と言葉を零す。

 

「……自治区に戻るなら急いだほうが良い、残された時間は約九十分、それまでに入り口に辿り着かないと通路が封鎖される」

「そうだな、日付変更まであと一時間半……今直ぐ向かうとしよう」

 

 ミサキが罅割れた腕時計を見つめ、サオリもその言葉に肯定を返す。アリウスの環境は劣悪であったが、作戦行動に時間の確認は必須。古いものだが、生徒には時刻を確認出来る手段が支給されていた。端末然り、腕時計然り。

 時間は限られている、行動は出来得る限り早い方が良い。

 

「説明は移動しながらする、今は付いて来てくれ先生」

「分かった」

 

 サオリがそう云って帽子を被り直し、先生は頷きを返す。

 これでスクワッドは揃った、この面々でアリウス自治区に乗り込む事になる。全員がこれからの激闘を予感し、各々の反応を見せる中――ふと、ミサキの視界が人影を捉えた。

 

「――あら?」

「……!」

 

 暗がりの向こう側から声が響く。それはどこか間の抜けた、場違いな声だった様に思う。咄嗟にサオリは愛銃を構え、ミサキがセイントプレデターを抱え直す。全員の視線が暗がりの中に吸い込まれ、僅かに強張った声色でミサキは告げた。

 

「リーダー、向こうに誰か居る」

「アリウスの追手か――?」

「ひぇっ!? も、もう嗅ぎつけられたんですか……?」

 

 こんな時間の廃墟区画に足を踏み入れる生徒など、そうはいない。かなりの確率でスクワッドの追撃命令を受けたアリウス生徒だろう、そう考えたスクワッドは強い警戒の色を見せる。

 

「先生、私達の後ろに」

「……分かった」

 

 サオリの言葉に頷き、先生はタブレットを抱えながら後方へと下がる。万が一を考えヒヨリが傍に付き、場合によっては即座に戦闘支援(リンク)を行えるよう先生の指先は画面に触れていた。

 点滅する照明に照らされ、影の中から顔を覗かせる生徒。コツコツと靴音が周囲に響き、色褪せた景色の中で彼女はその銀髪を靡かせ告げる。

 

「まさか、この様な場所でお会いするなんて」

 

 声は僅かに弾んでいた。一際強く地面を打つ音、停止した彼女の全身が光に照らされる。暗闇の中でうねる尻尾、その先端が微かに地面を掠め、肩に羽織った外套が風に揺らめいた。

 

 彼女――黒舘ハルナは愛銃アイディールを担ぎ、その表情を喜悦に染めながら先生を見つめていた。

 

「ごきげんよう――今宵も良い夜ですわね、先生?」

 


 

 申し訳ない、本当なら昨日投稿する筈の話だったのですわ。

 けれどコラボの情報によってキヴォトスという世界の謎が一気に深まってしまって、一日死んでおりました。

 

 異世界からやって来たキャラクターにヘイローがある……? 超電磁砲まったく全く知らないのですけれど、あの子達は普通の人間とは違う感じのキャラクターなのでしょうか? 強化人間とか、人造人間とか、機械生命体とか。もし何の変哲もない人間にヘイローが付与されるのであれば、じゃあ先生って何よとなる訳で、一日頭抱えて「ヘイローとは……人間とは、キヴォトスとは……?」となっておりましたの。

 

 或いはこのキヴォトスという世界が先生の世界ならば、『子ども』という明確に守護すべき対象を『ヘイロー』という権能か何かで守っているという考えも出来なくはありませんけれど。他所の世界から入って来た存在だろうが何だろうが、先生にとっては守るべき生徒、子どもである訳で、まぁ先生だったらそうするよねというのは納得出来る話です。

 子どもですよね? 実は大人でした~! ってオチはありませんわよね? 生放送で「〇〇中学」って云ってましたけれど、私聞き間違えてないですわよね?

 

 というか異世界から入り込めるという事は、キヴォトスの外の世界に他の『作品世界』が存在しているという可能性がある? そうなるとフランシスの文言から『先生』という存在がそもそも別の作品世界のキャラクターだとか、主人公役だったみたいな展開もあり得てしまう気がしますわ。

 

 あらすじが廃墟で倒れているのを見つけた……みたいな話でしたけれど、確かミレニアムの廃墟区画って「キヴォトスから忘れ去られたものが集積した時代の下水道云々」みたいな話があったような、無かった様な。多分ゲーム開発部のシナリオだった筈。

 この言葉をベースに考えると、「超電磁砲世界の遥か未来がキヴォトス」みたいな考え方も出来る気がしますし。元々プレナパテスの存在がある訳ですから、今更平行世界、過去、未来、云々という概念が出てきても驚きはしないのですが、完全別世界となると本当に話が変わって来るんですわよ。だってまったく毛色の違う世界な訳ですから、それが繋がるってホントとんでもねぇ事ですわよ。

 これがアリなら過去から生徒引っ張って来ても整合性が取れますし、(ただ、どうやって時代を超えるのかという手段は全くの不明)「忘れられた神々」ってつまりそういう事ですわよね? 廃墟に限ればどんな生徒(子ども)であってもポンポン呼び出せるって事……?

 

 というかマジでヘイロー周りの謎がコラボで出て来るとか想定もしてませんでしたわよ。もし彼女達が普通の生身の人間でヘイローを付与できるのであれば、何で先生にヘイローがないの? もしかしてヘイローの有無は「大人」か「子ども」かという部分で分けられるの? 総力戦のボスとか異形系でもヘイローは持っているけれど、それとは別? とか「キヴォトスの生徒はそういうものだ」、「キヴォトスの生徒は人間に限りなく近いが、神秘を秘めた何か」と仮置きしていた設定が一気に噴き出して私が死にかけるんですわ~! 

 

 取り敢えずシナリオ読まない事には確かな事は云えませんが、場合によっては先生の設定をまたコネコネする必要が出てきますし、廃墟から生徒を生やせる展開が公式ならばプロットが捻じ曲がる予感がひしひしと伝わって来て戦々恐々で大爆発ですわ。

 コラボでプロット破壊来るとは思わなかった、いや、ホントに。

 新章も実装されるし……私の目指した物語の終着点どこ……? ここ……?

 期待と不安が入り混じって死にそうですわ~~っ!



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美食の矜持(Hunt and eat)

今回一万六千字ですわ~!


 

「ハルナ……?」

 

 先生の呟きは、吹き抜ける風音に溶けて消えた。空から注ぐ雫は小雨へと変化しており、視界はそれほど悪くない。帽子に滴る雨粒を指先で払い、ハルナは先生を――そしてアリウスを視線でなぞった。

 その瞳が引き絞られ、暗闇に浮かぶ赤を直視した瞬間、ぞわりと肌が粟立つのが分かった。

 

「これは、思ったより早く見つけられましたねぇ」

「ねぇ、ちょっとハルナ、こんな寂れた場所に料亭なんて本当にあるの?」

「うぅ、またお腹が減って来たよぉ、ご飯食べられるところはまだ~?」

 

 ハルナの後に続き、姿を現す美食研究会の面々。アカリは普段通り一見温和に見える笑みを、ジュンコは猜疑心に満ちた瞳で周囲を見渡し、イズミは腹を摩りながら項垂れていた。

 総じて普段通りの美食研究会、店を探し放浪する様は何て事の無い様子だと云える。

 しかし、何故だろう――妙に落ち着かない、嫌な予感が胸に燻っている。先生は無言で自身の胸元を握り締め、その表情を強張らせる。

 

「……何だ、この連中は」

「げ、ゲヘナの生徒みたいですけれど」

「――美食研究会」

「何……?」

 

 訝しむサオリを前に、ミサキは呟く。

 その表情は険しく、指先がセイントプレデターの引き金に添えられていた。

 

「あの背格好、見覚えがある、調印式襲撃の作戦前に配布されていた特記戦力資料に記載されていた筈……先頭に立つあの女、美食研究会のリーダー、黒舘ハルナだ」

「――ゲヘナの風紀委員会ですら手を焼く、生粋のテロリストか」

 

 美食研究会――その名はエデン条約調印式に先駆け事前に用意された特記戦力資料、その中に記載があった。ゲヘナ自治区のみならず、あらゆる自治区内での活動が確認されていた為、記載はされていてもその存在が実際に障害になる確率は低いと考えていたが……しかし、今こうして彼女達は自分達の前に立ち塞がっている。

 

「な、何でそんな人たちがこんな場所に――」

「この辺りはゲヘナの外郭区画と隣接している、ゲヘナの生徒が出歩いていても可笑しくはないけれど……」

 

 ヒヨリが戦々恐々とした様子で呟き、ミサキは身構えたまま険しい表情を保つ。

 こんな廃墟街に態々足を運ぶ理由など到底思いつかない。少なくとも、楽しくお喋りに来たという訳ではない筈だ。自然とその銃口が持ち上がる、しかし彼女達に狙いを定めるより早く、そのバレルに手が添えられた。はっとした表情で視線を向ければ、隣り合った先生が首を振る。

 

「皆、銃は下げて欲しい」

「先生、だが――」

「こんな所で、争って欲しくない」

「……分かった」

 

 その声には強い懸念の色があった。先生の言葉に、スクワッドの面々が銃口を下げる。どちらにせよ先に引き金を絞る訳にはいかない、少なくとも今はまだ。

 そうこうしている内に後続の面々が先生に気付き、その表情をぱっと喜色に染めた。

 

「あ~っ、先生じゃん! こんな所で何やってんのよ!?」

「えっ、先生? わっ、やった~ッ! 先生、何かおいしいご飯ちょうだい! もしくは奢って~!」

「ふふっ、イズミさん、ジュンコさん、先生に会えた事が嬉しいのは分かりますが――今はそれよりも重要な事があります」

 

 燥ぎ、駆け寄ろうとする二人を徐に手で制するハルナ。飛び出そうとした彼女の身体を抑え込んだその手に、ジュンコはあからさまに訝しむ表情を向けた。

 

「はぁ? 何、どうしたのハルナ、最近なんか変じゃない? 先生と一緒にご飯食べる事より重要な事とかあるの?」

「フフッ、気持ちとしてはジュンコさんと同じなのですが、今回だけは特別なのです」

「特別ぅ?」

 

 彼女の返答に表情を歪めるジュンコ。そんな彼女の視界にふと、見覚えのない生徒達の姿が映った。先生を囲う様にして立つスクワッドのメンバー、はためく白い外套に妙に薄汚れた格好。ジュンコは腕を組みなが彼女達を眺める、彼女の記憶に何か引っかかるものがあった。

 

「……というか、先生と一緒に居る生徒は誰よ? 何か見覚えがある様な、無い様な、そんな感じなんだけれど――?」

「ゲヘナの制服でもないし、トリニティっぽくもないよね? うーん」

 

 イズミとジュンコはスクワッドの恰好からゲヘナでも、トリニティでもない事を理解し、首を捻る。しかし、全く見覚えがない訳ではなかった。頭の片隅に引っ掛かる様な、何か大事な事を忘れている様な、そんな感覚が燻って仕方がない。一体どこで見た格好だったのか、うんうん唸る二人を他所にアカリとハルナは微笑を浮かべる。

 スクワッドの間を縫い、一歩前へと踏み出した先生はハルナへと視線を向け問いかけた。

 

「ハルナ、一体何故こんな場所に――」

「あら、先生ならばご存知でしょう? 私達が動く理由は常に一つ、それは絶対不変の法則……即ち美食の為ですわ」

「美食だと?」

 

 その答えにサオリはぴくりと眉を顰めた。何せ周囲を見渡せば一目瞭然、こんな廃墟の立ち並ぶ場所に美食など、どうして求められよう。廃墟の中に潜む隠れ家的店舗でもあれば別だが、生憎とその様な話など一度も耳にした記憶がない。

 

「この辺りに食事を摂れる場所など、聞いたことが無いぞ」

「えっと、一応廃墟区画ですし……お店の類は無いと思いますよ?」

「………」

 

 サオリが至極真面目な表情で、ヒヨリはどこか申し訳なさそうな表情で告げる。ミサキは我関せずを貫き、それとなく先生の傍に身を寄せた。

 ミサキの視線はハルナとアカリに向けられている、その表情は警戒の色を強く放っていた。彼女の勘が告げているのだ、何か、良くない事が起こるだろうと。

 

「えーっ!?」

「ど、どういう事よハルナ!? この辺りに美味しい隠れた料亭があるって……ッ!?」

「ふふふッ、でも直ぐそこに『美食』の為に必要な人が居るではありませんか~?」

「えぇ、アカリさんの云う通りです」

 

 騙されたと知り、非難の声を上げるイズミとジュンコ、しかしそんな声にも微動だにせずアカリは深く頷きながらそんな言葉を投げかけた。

 

「美食の為に必要な人……」

「えっと、それって――先生……って事?」

 

 美食の為に必要な人、それは彼女達にとって酷く限定的だ。美食を探し出し、口にするだけならばこの四人で完結する。料理人を含めるのであれば給食部にもう一人、含むべき生徒が存在するがこの場に彼女の姿はない。

 そうなると、その言葉に当てはまる人物は――たった一人。

 全員の視線が先生に注がれる。それを感じながら先生は静かに口を噤み、じっとりと背に汗を流した。

 背筋をなぞる様な悪寒が、止まらない。

 

「えぇ、先生の存在は真なる美食の探求に必要不可欠、究極の味、至高の味、それは先生なしでは完成し得ない、それは皆さん共通した認識の筈です――違いますか?」

「そ、それは、うん、まぁ……先生と一緒に食べるご飯は、特別だし」

「ふふっ、沢山御馳走してくれますしね♡」

「確かに、先生と一緒にご飯食べると、いつもよりずっと美味しいよねーっ!」

 

 ハルナの問い掛けに全員が肯定を示す、彼女達の美食に先生と云う存在は必要不可欠。その言葉に異論はない、食卓は好ましい人と共にするのが彼女達にとっての正義なのだ。美食とは口に含む食物だけで成立するのではない、時間、場所、シチュエーション、あらゆるものが整って初めて生まれる至高の体験。

 故に彼女達にとって先生と美食とは、切っても切れぬ存在だった。

 

「そう、先生と席を共にする食事は正に至高のお味、そしてもし、そんな先生を奪う存在が居るとすれば――それは」

 

 すっ、と。

 徐にハルナの指先が持ち上がり、スクワッドの面々を捉えた。

 細く、しなやかな指先。

 その奥に煌めく彼女の瞳が、暗闇の中で妖しく蠢く。

 

「即ち――究極の美食を探求する障害と云えるでしょう」

「ッ……!」

 

 気を抜いたつもりはない、目を瞑った覚えも。

 ただ銃口を下げながらも、警戒を解かなかったサオリは気付けた。

 視界の中で余りにもなめらかに、そして機敏な動作でアカリが銃口を構えていた事に。その指先が引き金を絞り、弾丸が発射される瞬間までがハッキリと知覚出来た。マズルフラッシュが網膜を焼き、銃声が轟く。

 サオリが膝を抜き、全力で顔を逸らすのと、弾丸が頬を掠めたのは殆ど同時だった。マスクと弾丸が火花を散らし一瞬視界が光に眩む。唐突な銃撃に全員の意識が切り替わり、浮足立つのが分かった。ミサキがセイントプレデターを構え、ヒヨリがその身を竦ませる。

 

「ひ、ひぇっ!?」

「ッ……本当に撃って来た!」

「何のつもりだッ……!?」

 

 スクワッドの面々が一斉に戦闘態勢へと入り、思わず叫ぶ。

 

「ちょ、ちょっとアカリ!?」

「うわっ、な、何で撃ったのー!?」

 

 何の前触れもない銃撃にジュンコとイズミの二人は目を白黒させ、今しがた銃撃を敢行したアカリに非難の声を上げる。しかし暴挙に走った当の本人は薄ら笑いを浮かべたまま、硝煙を漂わせる銃口を突きつけ告げた。

 

「何のつもり……? ふふっ、面白い事を云いますね~? 貴女方アリウスの為した事を考えれば、当然の対応になるんじゃないですか~?」

「それは――」

 

 やはり、目的は先生か。

 サオリは言葉を詰まらせながらも内心で呟き、マスクの奥で歯噛みする。どういう訳か彼女達には先生が此処に来る事が分かっていたかのような素振りがあった。先生が漏らしたとは考え難い以上、何者かが情報をリークしている可能性がある。そして、少なくとも先頭の二人は自分達がアリウスである事を知っている。

 和解は、望めそうにない。

 

「――アリウス?」

 

 唐突な仲間の暴走に焦燥を見せたジュンコだったが、アカリの口から出た学園名にその動きをぴたりと止めた。

 

「ちょ、ちょっと待ってアカリ、アリウスって、確か――」

 

 彼女の視線が、先生を囲うスクワッドに向けられる。その瞳にはどこか、信じられないものを見たような色があった。

 

「先生の腕と目を奪った連中の学校……だよね?」

「えっ!?」

 

 その、突拍子もない言葉にイズミが驚愕の声を上げる。目を見開き、先生とジュンコ、アカリと視線を彷徨わせた彼女はどもりながら問いかけた。

 

「せ、先生、腕と目が無くなっちゃったの!?」

「……イズミさん、気付いていなかったんですね」

「ふふっ、イズミさんは良くも悪くも常に食事の事で頭が一杯ですから」

 

 その反応に、どうやら冗談ではないらしいと感じ取ったイズミ。焦燥した彼女は先生を爪先から頭の天辺まで観察する。恰好に変な所は無い、しかしよく見れば確かに以前はしていなかった手袋をしているし、前髪も片側だけ覆う様に下ろされている。それは明確に現れた過去との差異だ――しかし、肝心の腕はきちんと二本揃っていた。ちゃんと指も五本あるし、形だって同じように見える。それを指差し、イズミは主張する。

 

「で、でも、先生の腕はちゃんとあるよね!? ほ、ほら、ちゃんと二本、あそこに……!」

「アレは義手です、以前ミレニアムの食堂で先生にお会いした事があったではありませんか」

「あの時、義手の制作依頼に来ていたという訳ですね~」

「ぎ、義手……? そ、そんな――」

 

 愕然とする。

 だが、嘘を云っている感覚はない。美食研究会の仲間達の様子は極めてフラットだ。何より他ならぬ先生が、反論を口にしない。暗闇の中では良く見えないが、その表情が強張っている事だけは分かった。

 嘘じゃない――つまり、これは本当の事?

 先生の瞳と腕は、無くなっちゃったの?

 さっと、イズミは自身の顔から血の気が引いて行くのが分かった。

 

「彼女達は先生から腕と瞳を奪ったアリウス――そして、その中でも先生に直接鉛玉を撃ち込み、その命を奪おうとした元凶も元凶、【アリウス・スクワッド】の皆さんです」

「ふふッ」

「ッ……!」

 

 腕を奪い、瞳を奪い、その果てに鉛玉まで撃ち込んだ。

 それは一体、どれ程の罪悪か見当もつかない。少なくとも、そう易々と許せる様な行いでない事は確かだった。二人の視線が危険な色を帯び、銃のグリップを握る手に力が籠る。

 空気が、張り詰めるのが分かった。

 小雨程度では鎮火出来ない、強烈な怒りの波動。

 その起こりをサオリは肌で感じ取る。

 

「そんなスクワッドが先生を連れて、一体何をしようとしているのか――大変興味深いとは思いませんか?」

「――くっ」

 

 ハルナが煽る様に、或いは何処か誘う様に問いかけた。それは明確な挑発行為だった、彼女達の目的は分かり切っている、ならばいち早く動かなければならない。

 そう思考したサオリが咄嗟に銃を構えようとし――しかし、その腕を掴む者が居た。

 先生だ。

 銃口を美食研究会に向けようとしたサオリを、先生は咄嗟に止めていた。

 はっとした表情でサオリは叫ぶ。

 

「先生……!」

「駄目だ、サオリ……!」

「だがッ!」

「私達が戦うべきはアリウスだ! 決して彼女達じゃない!」

 

 此処で本格的に戦闘が勃発しようものならば、スクワッドはどれ程の不利を背負う事になるか。先のワカモの襲撃、それに合わせて美食研究会も加わった場合――ただですら厳しい戦局は、絶望的になるだろう。

 その予感がある。

 どれ程厳しい状況であろうと、和解の道を投げ捨ててはいけない。少なくとも、その意思を失ってはならない。それは先生の信条だけの話ではない、これからスクワッドがこのキヴォトスで生きていく上で、避けては通れぬ問題だった。

 

「……そんな悠長な事、云っている余裕はないと思うよ、先生」

「―――!」

 

 すぐ横から、ミサキの冷めきった声が聞こえた。咄嗟に視線を前に向ければ、既に銃口を構えるジュンコの姿があった。斜めに構えられた両手のアサルトライフル(ダイナーズアウトロー)が、照明に照らされ鈍く光る。

 

「っ、待――ッ!」

 

 咄嗟に手を突き出し叫んだ、しかしそれよりも早く凄まじい力が先生を引っ張り、後方へと投げ飛ばされる。地面を転がった先生をミサキが抱え、同時に暗闇の中でマズルフラッシュが瞬いた。

 

「散開しろ!」

「!?」

 

 サオリの声と、弾丸が地面を叩くのは同時だった。固まっていたスクワッドは広く間隔を取り、各々の愛銃を構える。それを油断なく睨みつけるジュンコは、犬歯を剥き出しにして吼えた。

 

「あんた達、また先生を傷付けようって云うの? 腕に目まで奪って、あんな傷だらけにして、まだ足りない訳ッ!? 冗談じゃないわよッ! そんなの、私が絶対許さないからッ!」

「ジュンコ……ッ!」

 

 先生は地面に這い蹲ったまま思わず彼女の名を呼ぶ。その激昂した様子は、先生をして未だ嘗て目にした事が無い程に苛烈に見えた。

 

「よ、良く分かんないけれど……っ! あの子達が先生に酷い事したんだよね? なら、そんな子達が先生と一緒に居るって、おかしい事だよね……? 何か、企んでるって事で良いんだよね――!? 先生を捕まえて、悪い事するつもりなんだよね!? もし、そうなら、先生はすっごく優しくて、すっごく良い人なんだから……ッ! そんな人を傷つけるなんて、絶対駄目なんだよッ!?」

 

 ジュンコの激発に促され、イズミもまた釣られるようにして担いでいた愛銃を構える。擦れた弾帯と銃身が金属音を鳴らし、先生は思わず息を呑む。事態が切迫していく、自身の手を離れていく感覚――それに抗う様に、先生は喉を震わせる。

 

「イズミ! 待ってくれ、違うんだ、話を――ッ!?」

「先生、危険だ、下がれッ!」

 

 此処に来て尚、それでも言葉を云い募ろうとする先生であったが、その視線を遮る様にしてサオリが立ち塞がった。まるで、先生を自分達から庇おうとする仕草。それを前に、ジュンコは怒りのボルテージを上げ地団駄を踏む。

 

「はぁッ!? 何それ、私達が先生に銃口向けると思ってんのッ!? ふざけないでよ、倒すのはアンタ達だけだからッ!」

「ならば銃を引け、先生は戦う事を望んでいないッ!」

「どの口で……ッ!? 先生って優しいから、色んな生徒に手を貸すけれど、アンタ達は絶対に駄目ッ! あの会場で起きた事、知っているんだからね……ッ! アンタ達が何をして、先生がどんな目に遭ったのか――ッ! 少しでも罪の自覚があるなら、先生を私達に返しなさいよッ!?」

「それは……出来ない」

 

 ジュンコの言葉に、サオリは首を横に振る。アツコ救出には先生の助力が必要不可欠、今先生に抜けて貰っては作戦遂行が不可能になる。それ故の拒否だったが、ジュンコにその辺りの事情は汲み取れない。それ見た事かとばかりに眉を吊り上げ、軋む程にグリップを握り締める。

 

「ふふっ、お二人もやる気になって頂けた様ですし、此方も総力を挙げて参りましょう、全ては美食の、先生の為に」

「これでも私、少し――いえ、かなり怒っているんですよぉ? なので~」

 

 イズミ、ジュンコと並びハルナ、アカリが足を進める。全員が戦闘態勢、美食研究会の全力――アンダーバレルに装着したグレネードランチャーのトリガーに指先を絡めながら、彼女はその口元を三日月の様に歪めた。

 

「――宣言通り、ほんの少しだけ、グロテスクにやらせて貰います」

 

 重圧。

 

 肩に圧し掛かる、殺意と憎悪を伴うプレッシャー。美食研究会から放たれるそれは、疑いようもなく強者のソレだった。サオリは額に冷汗を滲ませ、先生と美食研究会を素早く一瞥する。先生は苦渋に満ちた表情で歯を食いしばり、何とか言葉を絞り出そうと足掻いている。しかし、最早この状態からの和解は不可能だとサオリは判断した――だが正面から戦う事は出来ない、先生がそれを望まない。

 何より自分達には時間がない。直近の隔壁閉鎖まで残された時間は僅か、であれば此処は――。

 

「撤退するッ!」

 

 即断即決。

 叫ぶと共に銃を構え、引き金を絞った。迷いは無かった、閃光と共に吐き出された弾丸は正確に美食研究会の面々の元へと飛来し――虚空を穿つ。銃声が鳴り響くと同時、美食研究会の全員が銃口から逃れる様に散開していた。手慣れた動きだ、全員が各々の役割を理解し自然な形でフォーメーションを取っている。

 

「ヒヨリ、先生を担げッ!」

「えっ、あ、は、はいッ!」

「待っ、ぐ――ッ!?」

 

 サオリがヘイトを引き、ヒヨリに先生を担がせ即座に後退を促す。そしてサオリは満遍なく銃弾をばら撒きながら、予備の弾倉を片手に前進する。

 その背中に、ミサキの声が届いた。

 

「リーダーッ!」

「殿は私が受け持つ、行けェッ!」

 

 その叫びにミサキは表情を歪める。しかし、今は他に選択肢がない。先生を担いだヒヨリは一目散に撤退を開始し、ミサキは数秒迷った末にヒヨリの後方へと付いた。暗闇の中で乾いた銃声が轟き、一瞬だけ昼間の明るさを取り戻す。

 

「ひッ!?」

 

 風切り音と共に、ヒヨリの足元を銃撃が掠めた。それはヒヨリの足止めを狙ったものなのだろう、弾けたアスファルトが肌を叩き、思わずヒヨリの口から悲鳴が漏れる。弾丸は大橋の彼方此方に廃棄された寂れた車両、その遮蔽越しに飛んで来ていた。ボンネットに愛銃を乗せ、ヒヨリの脚部を狙っていたハルナは弾丸が外れたと見るや否や溜息を零す。

 

「あら、外してしまいましたわ、流石に動き回る相手だと暗くて敵いませんわね――先生を担がれると迂闊に撃つ事も出来ませんし」

「万が一先生に傷を負わせてしまえば悔やむに悔めませんから、幸い時間はたっぷりありますし、少しずつ追い詰めれば良いと思いますよ?」

「えぇ、アカリさんの云う通りですね、それならば――」

 

 ぐるりと、スコープを覗いていたハルナの瞳が未だ残るサオリを捉えた。

 

「個人的な恨みも含め――先に、彼女達の(リーダー)を潰すと致しましょう」

「っ!」

 

 即座に銃口が向けられ、引き絞られるトリガー。独特な発射音と共に暗闇の中で閃光が迸る。光の軌跡となったそれを、サオリは身を反らし紙一重で避けた。なびく外套の一部が消し飛び、黒ずんだ煤が虚空に舞う。それを横目にサオリは思わず歯噛みする。

 

 ――どういう神秘濃度だ、バイタルラインに直撃を許せば一撃で意識が飛ぶぞ……!?

 

 迸る弾丸に内包される神秘、掠れただけで衣服の端が消し飛んだ、サオリはそれを感じ取り戦々恐々とする。恐らく生半な装甲であれば諸共貫通し得るだけの威力がある。口径の大きさではない、これは彼女自身が持つ天性の才。

 ふと、サオリの視界に影が落ちた。咄嗟に頭上を見上げれば、両腕にアサルトライフルを握ったジュンコが街灯を背に飛び上がっているのが見えた。

 

「このッ! ぶっ壊してやるッ!」

 

 憤怒に塗れた表情で叫び、視界にマズルフラッシュが瞬く。反射的に横合いへと身を投げた瞬間、無数の弾丸が地面を穿った。跳ねた破片がサオリの背を叩き、二転、三転しながら飛び起きる。地面に滑りながら着地したジュンコは、自身の強襲を避けたサオリに銃口を向けながら叫んだ。

 

「あぁもうッ! 動くんじゃないわよっ!」

「無茶を云う――……ぅ!?」

 

 ぞわりと悪寒、勘に従って身を伏せた瞬間、轟音と共に弾丸が頭上を薙ぎ払う。帽子が風圧で吹き飛びそうになり、サオリは咄嗟に抑え込む様にして手を伸ばした。真後ろの手摺が粉々に吹き飛び、砕けたアスファルトがそこら中に転がる音が響く。

 

「っ、この威力――大口径か(7.62)!」

 

 アスファルトを粉砕し、抉り穿つ程の威力。視線を弾丸の飛来した方向へ向ければ、デイリーカトラリー(機関銃)を腰だめに構えたイズミがサオリを睨みつけていた。

 

「どんな所に隠れたって全部纏めてやっつけちゃうんだから! 覚悟してよねッ!」

「くっ……!」

 

 赤熱した銃口が再び火を噴き、視界が閃光で埋め尽くされる。凄まじい轟音と共に次々と弾丸が放たれ、周囲のアスファルトや手摺、街灯ごとサオリを粉砕しようと飛来していた。それは宛ら破壊の嵐、いつか見た風紀委員長のソレと比較すればまだマシだが、火力としては一線級である。一度捕まれば、数の暴力であっという間に削られる。

 

「見境なしか――ッ!?」

 

 的を絞らせない様駆け回りながらサオリは咄嗟に廃棄された車両、一際大きなトラックの影に飛び込む。一拍置いて甲高い金属音が鳴り響き、弾丸が錆びたトラックの外装を次々と穿ち始めた。飛び散る火花を横目に、サオリは愛銃に新しい弾倉を込めながら必死に声を上げる。

 

「聞いてくれッ! 私達は先生に危害を加えるつもりは――ッ!」

「今更、そんな言葉を信じられるとお思いで?」

「――ッ!?」

 

 ぽん、と。

 どこか空気の抜けるような音が響いた。

 同時に視界に影が過る。それは弾丸と比較すれば遥かに遅く、大きい代物。サオリの視界を過ったのはグレネードランチャーから射出される榴弾だ、そしてそれを認識すると同時、一条の閃光がトラックの外装諸共榴弾を貫いた。

 

 光線めいた狙撃と、爆撃。

 

 アカリの愛銃、そのアンダーバレルから射出された榴弾、それを空中で撃ち抜いたハルナの曲芸染みた一撃。サオリの頭上で炸裂したそれは、遮蔽に遮られていたサオリの身体を爆風で吹き飛ばした。

 

「ぐぁッ……!?」

 

 熱波が肌を焼き、破片が皮膚を殴打する。それでも辛うじて受け身を取れたのは訓練の賜物だった。激しく上下する視界に目を回しながら、サオリは銃のストックを地面に擦り付ける事で減速する。雨水の滴るアスファルトは良く滑り、サオリは白く濁った息を吐き出した。

 爆発によって立ち昇る噴煙を裂き現れる、ハルナとアカリ。二人は這い蹲るサオリを見下ろし、目を細める。

 

「あなた方アリウスは先生の優しさに漬け込んで、また騙そうとしているのではありませんか? 生徒の為に心身を削るあの人は、心の底から懇願すれば快く手を貸してくれる事でしょう、現に先生はその様に動いている――そもそも、話し合いの段階は疾うの昔に過ぎているのです、私達はあなた方を信じられない……いえ、信じたくない、これは合理ではなく感情のお話」

 

 告げ、ハルナは銃口を突きつける。その瞳には、微かな動揺も、慈悲も見られなかった。

 

「さぁ準備はよろしくって? 盛大にお出迎えして差し上げましょう――精々足掻き、惨めに這い蹲りなさい」

「ク、ソ――ッ!」

 

 このままでは、やられる。積極的に傷付ける気はなかったが、このままでは此方が危険だ。サオリはそう思考し、懐に手を差し込むと温存していた手榴弾を二つ取り出した。ヘイロー破壊爆弾ではない、通常の兵器として運用されるモノだ。アリウスからの逃走でこの手の兵器は使い果たし、持ち合わせは少ない。ここぞと云う所で使いたかったが――彼女はそれをハルナの目前へと投擲し、素早く銃を構える。

 唐突に目前へと投げつけられたそれに、ハルナは目を瞬かせる。

 

「あら――」

「悪く思うな……っ!」

 

 目を見開くハルナを狙い、引き金を絞る。しかし、それよりも早く庇う様にして一歩前へと出るアカリ。同時に銃声が木霊し、弾丸が手榴弾を捉えた。

 強烈な閃光と爆音、臓物が持ち上がる様な感覚。耳鳴りが響き、爆風と熱波、破片がサオリの外套を叩く。身を丸めて爆発をやり過ごしたサオリは立ち込める粉塵を見つめながら確かな手ごたえを感じた。至近距離での爆発、普通の生徒ならばこれで昏倒しても可笑しくはない。

 だが――。

 

「――温い攻撃ですねぇ」

「ッ……!?」

 

 声は、極至近距離から聞こえた。

 視界を覆う粉塵を裂き、現れたのは微かに焦げ跡の残る制服を身に纏った鰐渕アカリ、彼女は驚愕に身を固めたサオリに笑みを浮かべながら肉薄すると、その腹部目掛けて全力の蹴撃を叩き込んだ。踏み込んだ足元のアスファルトが罅割れ、同時に着撃、サオリの身体がくの字に折れ曲がり、臓物が圧迫される。

 メキリ、と。

 サオリは自身の骨格が軋む音を聞いた。

 

「うぐッ――!?」

 

 直撃を許してはならない類の打撃だった。聖園ミカ程ではない、しかし普通ならば一撃で戦闘不能になるレベルの打撃。サオリの身体が後方へと吹き飛び、廃棄されていた古めかしい車両のフロント部分に衝突、バウンド。錆びた外装をへこませ、甲高い音と共にフロントガラスに突っ込んだ。粉々になった硝子片を浴びながら、サオリは喘ぐ様に口を開く。

 腹に、熱した棒を突き入れられた様な感覚があった。咄嗟に手を這わせ、自身の腹部に穴が空いていない事を確認する。大丈夫だ、胴は繋がっている、穴もない――致命傷では、ない。

 

「助かりました、アカリさん」

「この位はお安い御用ですよ☆」

 

 足を突き出した格好のままアカリは何でもない事の様に宣い、そっと足を地面に落とす。靴底がアスファルトを叩き、アカリは自身の制服に付着した煤を軽く手で払った。

 

この程度(手榴弾の火力)じゃ物足りませんね、正直力で解決するのは嫌なんですが、世の中には力でしか解決できない事もあると私は知っていますので――此処は、その様に振る舞わせて貰います」

「ごほッ、コホッ……!」

 

 ボンネットの上に転がったサオリは、フロントガラスを手で砕きながら上体を起こす。そして一歩一歩迫りくるアカリを見つめながら、その表情を苦悶に歪めた。

 

 ――コイツ、あの爆発を至近距離で受けて微塵もダメージがない。

 

 確かにあの瞬間、手榴弾はこの女の顔面に炸裂した筈だった。キヴォトスの生徒は頑丈だが、物には限度がある。頭部にライフル弾が直撃すれば意識が混濁するし、至近距離での爆発などもっての外。普通の生徒ならば数時間は失神してもおかしくはない。特記戦力としてマークされるだけはある、という事か。

 サオリのそんな思考を他所に、アカリは自身の頬を撫でつけ恍惚とした笑みを浮かべ、云った。

 

「あなた方を打倒して、先生も連れて皆で一緒に美味しいものを食べに行くんです、知っていますか? 勝利って甘い味がするんです、だから私、もっと食べたいんですよね、先生と一緒に、もっと、も~っと沢山……! ふふ、ふふふッ!」

「っ……!」

「では、覚悟して下さいねぇ?」

 

 ゆっくりと、緩慢な動作で向けられる銃口。腹部を抑えたまま表情を歪めるサオリ。

 そんな光景を先生はヒヨリに担がれたまま遠目に見ている事しか出来なかった。刻一刻と遠ざかる彼女達を前に、先生は必死に手を伸ばし叫ぶ。

 

「ぐッ、ま、待ってくれ、ヒヨリ、ミサキ……! 頼む! 私が、私が彼女達と話を――っ!」

「あの連中、言葉だけで止まるとは到底思えない……! その前にこっちが全滅したら終わり、それに陽の出まで時間も無いんだよ!? 悠長に説得していたら間に合わなくなる! それとも先生には数分で彼女達を説得出来る自信があるの!?」

「―――………っ、ぅ」

 

 直ぐ脇を駆けるミサキが苦痛に満ちた表情で叫ぶ。その言葉は正論だ、どれだけ言葉を尽くしても彼女達が思い留まる未来が見えない、或いは誠心誠意話し合えば可能かもしれないが、それだけの時間が自分達には許されていない。

 これは、自身の失態だ。先生はそう心の中で悔いる。

 自身の行動がこれ程生徒に筒抜けになるなど、想定していなかった。シャーレ棟外であったから油断したか。

 否、今はそれを悔やむ時ではない。感情に呑まれるよりも、為すべき事がある。先生は唇を噛み切る程に強く噛み締め、腕の中に抱えたシッテムの箱を叩いた。

 

「――サオリッ!」

「……っ!」

 

 叫び、同時に先生からサオリへ、青白い光が迸る。ヘイローが点滅し、手足に痺れるような感覚が走った。視界に投影されるあらゆる情報、サオリは自身と先生がリンク(繋がった)のだと即座に理解した。

 視界に、赤い予測線が伸びる――アカリの指先が、引き金に触れる。

 まるでスローモーションの様に映し出されるそれに、サオリの身体は独りでに動いていた。

 

「っ、あら?」

 

 銃声が轟き、マズルフラッシュが一瞬暗闇を払い除ける。

 しかし、弾丸は廃車の内装、そのハンドルに突き刺さり、サオリは至近距離での射撃を紙一重で回避していた。サオリの髪がひと房宙を舞い、彼女はボンネットに手をついたまま飛び上がる。

 

「悪いが、まだ斃れる訳にはいかない……ッ!」

「っ、ぐ!?」

 

 腕を起点とし、アカリを両の足で蹴り飛ばす。距離を取る事を優先し、そのまま蹈鞴を踏んだアカリに銃を向ける事無く、サオリは廃車の上を駆け後方へと飛びずさった。

 

「往生際の悪い奴――ッ!」

「全弾撃ち込むよっ!」

 

 ジュンコとイズミが愛銃を構え、サオリの視界に無数の予測線が表示される。弾丸の数は凄まじく、全てを躱しきれる自信はない――だが、今ならば。

 視界の端でアラートが表示され、直近の廃車(遮蔽)が表示される。

 凄まじい轟音と射撃音が響き渡り、視界が昼間の明るさを取り戻す。サオリは転がっていた廃車のボンネットを目敏く見つけると、それを蹴り上げ即席の目晦ましとした。ボンネット一枚では防弾効果など望むべくもなく、ものの一秒足らずで穴だらけとなる。甲高い音を鳴らし地面に跳ねる金属板、それを尻目にサオリは地面へと着地し、そのまま横合いへと駆け抜ける。薙ぎ払う様に放たれる弾丸の雨、進行方向へと伸びる赤い予測線、それを掻い潜る様にしてスライディングを敢行し、指示されていた次の廃車へと飛び込む。二人の放つ弾丸は数発廃車の外装に穴を空けたものの、撃ちっ放しだった弾倉は程なく払底し、弾丸の雨は唐突に終わりを告げた。

 空になったそれを見下ろし、ジュンコは忌々し気に顔を歪める。

 

「ッ、やるじゃない……!」

「わわっ、た、弾切れちゃった、えっと予備の弾倉……!」

「成程――流石は先生」

 

 あの弾幕を無傷で切り抜けるとは、ハルナは唐突にキレを増した動き、その裏に先生の助力を嗅ぎ取った。恐らく弾丸の来る位置が予め分かっている、未来予測染みた動きだ、そうなると攻撃を当てるだけでも一苦労だろう。思考し、ハルナはアイディールのバレルを宙に向ける。

 

「ん――あら、アカリさん?」

「……制服に、泥が」

 

 ふと、ハルナはサオリに蹴飛ばされたまま動かずに居たアカリに気付いた。アカリはサオリに蹴りつけられた箇所を凝視したまま、ぴくりともしない。

 彼女の制服、その胸元には靴型の泥が付着している。先程サオリが繰り出した蹴撃によるものだ、ぬかるんだ道を走り回っていた彼女の靴は相応に泥に塗れ、それを押し付けられた彼女の制服も悲惨な事になっていた。アカリは暫くの間無言でその場に佇んでいたが、不意に空を仰ぎ深い息を吐き出す。

 

「ふぅ――ちょっと、頭にきました」

 

 髪を掻き上げ、自身の胸元を手袋越しに叩くアカリの目は、完全に据わっていた。それを見たハルナは肩を竦め、潔癖症ですものね、と心の中で呟く。

 

「ミサキ、支援攻撃を……!」

「――!」

「一先ず距離を稼ぐ、横合いに放置されている車両群を狙ってくれ、なるべく広く、攪乱する……!」

 

 先生のその言葉に、ミサキは足を止め振り向く。視界に廃車を捉え、此方に向けて駆けるサオリの姿を認めた。

 ミサキは素早く反転し、セイントプレデターを担ぎ引き金に指を掛けた。搭載されているのは一定の高度で炸裂し、子爆弾が放出される弾頭。この状況にはお誂え向きだった。

 

「リーダーッ!」

「――視えているッ!」

 

 ミサキの叫びに、サオリは即座に応える。視界に見えるセイントプレデターによる爆撃範囲――車両の爆破を含め、三秒後には誘爆範囲外だ。

 その声を聞くと同時、ミサキはトリガーを引き絞った。

 瞬間、ボシュ! と眩いバックブラストが砂塵を巻き起こし、弾頭が砲口より飛び出した。ほんの僅かな対空時間を経て、弾頭後部から火が噴き出す。そのまま白煙の尾を引いて上空へと飛び出した弾頭は上へ上へと高度を稼ぎ、一定の高さにて炸裂する。

 夜空の中で、花火の如き明るさは良く目立った。

 一瞬、視界に瞬く光に美食研究会の面々は顔を顰め、叫んだ。

 

「ッ――!」

「っ、砲撃!?」

「わわッ!」

「わぶっ!?」

 

 一拍遅れて飛来する小爆弾、それが次々と大橋に着弾し爆発を巻き起こす。放棄されていた廃車を巻き込んだそれは、相応の爆発と噴煙を撒き散らし視界と聴覚を錯乱する。

 

「今だ! 裏路地へ、早くッ!」

「はっ、はいッ!」

 

 ヒヨリの背中を叩き、横合いを指差す先生。ヒヨリが全速力で影の中へと飛び込み、続いてミサキ、最後にサオリが駆け抜ける。濛々と立ち上る砂塵は中々収まらず、地面には少量ではあるが火も舐めている。どうやらガソリンか何かが残っていた車両があった様子だった。そんな中で地面に尻餅をつき、目を回していたジュンコは頭を振って憤慨する。

 

「あいたた……もう、吃驚したじゃない!」

「イズミさん、大丈夫ですか?」

「けほっ、けほッ、なにコレ、け、ケムイんだけれど!?」

「……どうやら、煙幕代わりの様ですね」

 

 全員、直撃は免れ怪我らしい怪我も無い。元々子弾頭程度ならば直撃しても戦闘不能までは行かないだろうが――我に返ったジュンコは飛び上がり、周囲を隈なく見渡す。

 

「っ、あの女は!?」

 

 しかし、彼女の視界にサオリの姿はなく、影も形も残ってはいなかった。

 

「あら、逃がしちゃいましたか~……」

「しかし既に大まかな位置は捕捉しました、追撃するのは容易でしょう」

「なら早く追いかけようよ! 早くしないと、先生が……!」

「ひ、酷い事されちゃうかもしれないんだよね!?」

 

 ハルナの言葉にジュンコとイズミが声を上げ、焦燥を滲ませていた。

 

「一応、先生に危害を加えるつもりはないと云っていましたが……」

「そんなの、単なる口から出まかせに決まっているじゃない! あんなヤバいテロリストの云う事なんか信用出来ないでしょ!?」

「えぇ、そうですね、ジュンコさんの云う通りです、テロリストなんて碌なものでは――っと、少し失礼します」

 

 ハルナがジュンコの言葉にしみじみと頷きを返す中、不意に彼女の外套にあるポケットが振動している事に気付いた。手を伸ばしポケットの中に仕舞っていた端末を取り出せば、画面には無名での着信表示。ハルナはその口元を僅かに緩め、応答ボタンをタップする。

 

「はい」

『首尾は?』

「申し訳ありません、逃走を許してしまいました」

『構いません、一度の接触で戦闘不能に追い込めるとは思っておりませんでしたから』

 

 開口一番、世間話も何もなく単刀直入なもの云い。しかし自身と彼女は友人でもなければ知己でもない、単なる利害の一致で繋がっているだけの間柄だ。その辺りに関して、ハルナに思う所は何もなかった。

 

『あぁ、断っておくとこれは皆さんの戦闘能力を疑っているという訳ではありません、全てはこの超天才病弱美少女ハッカーの計算の内……という事です、何より向こうには先生がいらっしゃいますから』

「……それで、私達は次にどう動けば?」

『その周辺は妙なノイズが多く、正確なマッピングは難しいですが私に掛かればスクワッドの辿るルートを割り出す程度は造作もない事、端末に予測される経路を送信しておきます、追撃にお役立て下さい』

「それは――ご協力に感謝致します」

 

 そう云って端末を見れば、即座に詳細なマップデータが表示される。どうやらこの短時間で周囲のマッピングと彼女達の進行ルートの予測を立てたらしい。流石と云うべきか、何と云うべきか。その情報技能には舌を巻くしかない。

 

「そう云えば、今更ですが何故私にお声を? 確か其方にもこの手の荒事が得意な部活動があったと記憶しておりますが――」

『あぁ、C&Cの事ですか、確かにこの手の依頼は適任と云えますが――』

 

 そこまで口にして、通話の向こう側に佇む彼女は言葉を選ぶような素振りを見せた。

 

『原則として他学園の自治区内にて戦闘行為を行うのは非常にリスキーな行為です、特に現在のトリニティはいつ爆発するかも分からない爆弾の様なもの、万が一でも起爆剤となるのは御免ですから、学園間の関係や規則を鑑みても特段おかしな話でもないでしょう?』

「ふふっ、その云い方だと私達ならば爆発しても構わないと聞こえますわ」

『元より爆発させるのは得意でしょう、美食研究会の皆さんであれば……ね?』

「――そこに真なる美食に至る道があるのであれば、どんな場所であろうと関係ありません、私達はただ突き進み、その先にある究極の美食を探求するのみ……ただ、それだけの事ですもの」

『だからこそ、私は貴女方に話を持ち掛けたのです――この事は、くれぐれも内密に』

「えぇ、理解しております」

 

 呟き、同時に想う。

 きっとこの通信記録すら残る事はないだろう、と。しかし、それで構わない。ハルナがこの通信主に多くを望む事は無い。言葉を胸中で反芻し、静かに頷く。

 

『私がサポート出来るのは情報面のみ、その事はお忘れなく』

「勿論です――それでは、また後程」

 

 告げ、ハルナは端末をタップする。通信が切れた事を確認し、彼女は再びポケットの中へと端末を戻した。視線を上げれば、ジュンコは訝し気な視線で、イズミは何処か不思議そうな目で此方を見ている。

 

「ハルナ、今の通信相手誰よ?」

「それはですねぇ、今回の情報提供者とでも云っておきましょうか~」

「情報提供者……? っていうか、何でアカリが答えるのよ」

「私も一枚、噛ませて頂いていますので」

 

 ジュンコの問い掛けに飄々とした態度で答えるアカリ。今回の件を知っているのはアカリとハルナの二名のみ、イズミとジュンコに関しては一切何も知らされていない。

 

「先生がこの区画に足を踏み入れたと教えて下さった生徒さんです、正確に何処の誰と明かす事は出来ませんが……」

「……それ、信用出来るのよね?」

「少なくとも、アリウスよりは」

 

 肩を竦め、そう答えるハルナ。尤もこのキヴォトスに於いて、現在のアリウスよりも信用出来ない存在など居るかどうかも疑わしい限りではあるが。これは彼女なりの軽口でもあり、同時に発破でもあった。

 

「それに信用出来なくとも構いません、畢竟、私達のやるべき事は一つ――違いますか?」

 

 そう問いかけるハルナに対し、ジュンコは思わず黙り込む。重要な事をはき違えてはならない、ジュンコは自身を決して利口等とは思っていないが、目で見たものを信じない程愚かでもないと思っている。

 この場所に先生が居て、アリウスと共に行動している。

 

 先生を、あの連中から取り返す――事情を聞くのは、その後で良い。

 今、重要なのはそれだけだ。

 

「さて、では参りましょう――美食研究会の活動としては稀な事ではありますが」

 

 ハルナが外套を翻し、アイディールを肩に担いだまま踵を返す。夜に靡く銀髪が照明を反射させ、彼女の歩く背に輝きが残る様だった。

 その後ろに、三名の仲間達が続く。

 ハルナはその赤い瞳を以て煌々と周囲を照らし、力強く告げた。

 

「此処からは、狩り(狩猟)の時間です」

 



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私が私で、在る為に。

誤字脱字報告に感謝ですわ~!


 

「リーダー、傷は」

「大丈、夫だ……」

 

 狭く鬱屈とした裏路地に響き渡る足音、水の張ったアスファルトを駆けるそれが周囲に響き、それに混じってサオリの苦し気な呼吸音が耳に届いた。息を弾ませ、腹部を抑えながら駆けるサオリにミサキは声を掛ける。サオリはそれに首を振って答えるが、明らかに動きは精彩を欠いている様に見えた。

 

「と、とてもそうは見えませんが……」

 

 ヒヨリが不安げに呟き、隣り合った先生を見る。ヒヨリの背から降り、自身の足で駆ける先生は彼女の視線にひとつ頷きを返すと、前方にあった廃墟を指差し告げた。

 

「一旦身を隠す、そこの廃墟に入ろう、ミサキ、一応中の確認をお願い」

「――了解」

 

 先生が指差した建物は、廃棄されたテナントビルの一階だった。外観は錆びれ、路地の中でひっそりと佇んでいる。入り口は木板で封鎖されており、人が寄り付かなくなって長い時間が経過しているのか苔と蔦の類が外壁にびっしりと生え揃っていた。封鎖された入り口は迂回し、横合いにあった小窓から中を覗き込もうとするミサキ。

 

「……全然見えない」

 

 しかし、汚れた窓硝子越しでは中を覗き込む事が出来ず、ミサキは小さく溜息を零すと自身の拳で軽く窓硝子を叩く。なるべく音が出ない様に罅割れを起こし、そこから指先でそっと窓硝子を押し込む。多少硝子が砕ける音が響いたが、その程度であれば雨音に紛れる。内部の鍵を器用に回すと、窓を開けそっと中を覗き込む。

 内部の空気は淀んでいて、かなり埃っぽく感じた。ぐっと顰めそうになる表情を制御し、ミサキは無言でマスクを摘まみ口元を覆う。

 

「先生、一応大丈夫そう」

「ありがとう――サオリ、中へ」

「……あぁ」

 

 最初にミサキが窓枠を飛び越えて中に踏み込み、それにサオリが続く。先生も窓枠に手を掛けると、通りを監視している最後尾のヒヨリに声を掛けた。

 

「ヒヨリ、追撃の様子は?」

「えっと、姿は見えません、追っては来ていないみたいです……この暗さと雨ですし、潜伏すれば早々見つかる事はないかと思います」

「分かった、なら中で一旦小休憩を挟もう」

「は、はい……!」

 

 その声に頷き、ヒヨリは静かに先生と共に建物の中に踏み込む。床に着地すると、散乱した硝子片が鈍い音を立てた。内部は何か倉庫の様な場所で、備品の類が乱雑に積まれていた。部屋の片隅に腰を落とし、壁に寄り掛ったサオリは大きく息を吐き出す。

 

「窓は、此処だけかな?」

「そ、そうみたいですね」

「でも廃墟だし、何処かに穴があっても可笑しくはない」

「それなら、光源は対策なしで使わない様にしないとね……サオリ、怪我の具合は?」

 

 先生はタブレットを懐に仕舞い、壁に寄り掛ったまま深く息を吐き出すサオリに問い掛ける。サオリは気だるげに手を挙げると、緩く首を振ってみせた。

 

「ふぅ――問題ない、ダメージは抜けきっている」

「……そんな顔を顰めながら云われても、説得力ないよ、お腹も青痣になっているし」

 

 ミサキの云う通り、サオリの剥き出しの腹部にはくっきりと青痣が浮かび上がっていた。どうやらかなり強烈な一撃だったらしい、それに加えて爆発を受けた彼女の外套は所々煤けている。

 ふと、ミサキがヒヨリに顔を向け背嚢を指差す。

 

「ヒヨリ、確か鎮痛剤、まだ残っていたよね」

「あ、はい、そう云えばまだ一つ残っていた気がします……!」

 

 ミサキの声に頷き、その巨大な背嚢を降ろした彼女はその中に手を突っ込んで漁り始める。様々な物資が詰め込まれた彼女の背嚢、その中からヒヨリはくしゃくしゃになった箱を一つ取り出した。パッケージの文字は掠れて読めず、中には幾つにも分けられた空のPTPが詰まっている。

 その中に、一つだけ錠剤が残っているものがあった。

 

「さ、サオリさん、これを使って下さい」

 

 それをパッケージから抜き出し、サオリへと差し出す。

 

「鎮痛剤です、最後の一個ですけれど……」

「――助かる」

 

 差し出されたそれを手に取り、サオリは錠剤を取り出すと一息に呑み込んだ。直ぐに効果が出るとは思わないが、これで多少なりとも痛みがマシになれば良い――そんな風に思いながら周囲に視線を飛ばす。

 

「それにしても、これからどうしましょう、まさかゲヘナの生徒まで私達を追っているなんて――」

「……元より分かっていた事だ、それよりも私達には時間がない、直ぐ、出立しよう」

「いや」

 

 壁に寄り掛りながら、数分としない内に再び動き出そうとするサオリに、先生は手を突き出して制止の声を上げた。暗闇の中で、サオリの驚いた視線が先生に向けられる。

 

「時間が無い事は分かっている、その上で進行ルートを変更するべきだと私は思う」

「先生、それは一体……」

「此方の通る予定だったルートが露呈している可能性があると、そう思ってね――そうじゃなくても念には念を入れてルートを吟味すべきだよ、戦闘は極力避けたい、消耗は少ない方が良いからね」

 

 体力的にも、物資的にも――そして心情的にも。

 美食研究会、そしてワカモ(忍術研究部)、先生の覚えている限り彼女達に接点は無かった。特に美食研究会はあの四人で完結しているグループである、そこにフウカが加わる確率が高かったりするが――今は一旦置いておく。

 彼女達の食物に関する情報網は驚異的だ、一体どこからそれらの情報を仕入れているのか先生には見当もつかない。しかし、今回ばかりは違和感が残った。

 

「サオリ、先程云っていたあと九十分というのは――」

「……アリウス自治区に向かうには、トリニティ地下のカタコンベを通過する必要がある」

 

 先生の問い掛けに、サオリは淡々とした口調で答えた。

 それはこれからの辿るルートの最終地点、つまりアリウス自治区に侵入する為の『入り口』に対する問い掛けだった。

 

「そのカタコンベの入り口は判明しているだけでも約三百ヶ所、その中の『本当の入り口』は限られていて、残りは全て偽物だ」

「い、入り口を間違えれば、延々とカタコンベを彷徨う羽目になります」

「だから私達は普段正しい入り口と、そこからアリウス自治区に通じるカタコンベ内部のルートを暗号という形で伝えているんだ、カタコンベの内部は一定周期で変化するからな」

「……聞けば聞くほど、摩訶不思議な場所だね」

「この前通った道が行き止まりに成ったり、或いは方向を見失ったり、いい迷惑だよ、どんな仕組みかは分からないけれど、カタコンベは全容が明らかになっていない迷宮だから、足を踏み入れる度にルートと入り口が変わるの」

「アリウスを離反した今の私達では、どこが正しい入り口か分からないんです、その、もう暗号を教えてもらっていないので……」

「――逃げ出した猟犬に、帰り道を教える必要はないからな」

 

 吐き捨てる様にサオリは嘲笑を零す。彼女自身、まさか再びアリウス自治区に赴く事になるなど考えていなかっただろう。

 

「でも、まだ一つだけ使える入り口が残っている」

「あぁ、万が一通信手段が無くなった際の、緊急時避難経路――しかし、それも今日の日付変更までだ、緊急避難経路の変更は一定周期、その閉鎖までの時間があと九十分、時間が経過すれば其処も閉鎖される、そうなれば……」

「アリウス自治区には戻れない」

 

 全員の視線が先生に集中する。もしこの時間に間に合わなければ救出が始まる前から計画は頓挫する、そういう事だった。

 

「アリウスの生徒から他の入り口を聞き出すにしても、通路がブロックを跨いで存在した場合、時間的にアツコを救助する事は叶わないだろう――実質、その通路が閉ざされたら私達の負けだ」

「……分かった」

 

 先生はその言葉に重々しく頷いて見せる。この一分一秒が、スクワッドの進退、延いてはアツコの安否を左右する。その自覚をもって、先生は動かなければならなかった。

 

「ヒヨリ、緊急避難経路、その入り口の場所を教えて欲しい、此処からのルートを割り出すから」

「あ、は、はい」

 

 先生はヒヨリに手招きをし周囲を見渡すと、部屋に設置されていた荷物に塗れたラック、その影に屈む。埃っぽく不衛生であったが、窓側の死角に転がっているそれは遮蔽として利用出来る。そのまま外套を広げ即席の天幕とし、シッテムの箱、その光量を最低限まで落とした状態で電源を入れる。ぼうっと、微かな光が周囲を照らす。それを遮りながら先生はヒヨリに問い掛けた。

 

「どう、そっちから視認出来る?」

「いえ、光は漏れていません」

「良し」

 

 頷き、先生は周辺マップを開く。ヒヨリは先生の直ぐ傍に屈むと、画面を覗き込みながら指差した。

 

「えっと、現在位置が此処なので、北の方角に進んで、確か――此処です、この辺りに私達の目指す入り口があります」

「思ったより遠くは無いね」

 

 ヒヨリの指差した位置をマークし、現在位置からその場所まで通じるルートを割り出す。現在位置から伸びる複数のルート、アロナの演算機能によって導き出されたそれを突き詰め、各ルートを辿った場合必要な時間を計算する。

 残された時間からすれば余裕はある、最短ルートで駆け抜ければ三十分前後で到着する事も叶うだろう。しかし、そのルートは却下だ、万が一姿の見えない誰かが自分達の目的地を知っていた場合、最も狙われるのは最短ルートだろう。時短であればある程、リスクの振り幅は大きくなる。

 考え過ぎだろうか? しかし、備えるに越した事は無い。先生は比較的戦闘発生確率が低く、尚且つ時間的に多少の余裕が出来るルートを構築する必要があった。

 なるべく人目が付かず、広く知られていない道、或いは狭く、細く、大人数が一斉に戦闘出来ない様な通路。待ち伏せの可能性、周囲の建物から射線が広く通る場所は避ける、そんな風に頭を悩ませる先生を真剣に見つめるサオリは、不意に口を開いた。

 

「先生、参考までに聞いておきたい」

「何だい?」

「今回の件、私達の道中に立ち塞がる可能性のある生徒はどれだけ存在する?」

「………」

 

 その問い掛けに一瞬、先生の画面を操作する指先が止まった。

 

「それ、聞くだけ無駄じゃない、リーダー?」

「み、ミサキさん……」

 

 溜息を零し、そう告げるミサキ。その表情にはどこまでも面倒そうな色が滲んでいた。彼女からすれば、サオリの問い掛けは意味のないものに聞こえた。それこそ潜在的な敵性存在など、このキヴォトスには文字通り掃いて捨てる程存在するだろう。

 

「私達は先生に取り返しのつかない怪我を負わせた、シャーレの知名度はキヴォトスの中でも群を抜いている、先生を慕う生徒は多い、エデン条約の最後でそれは実感した筈でしょ」

「……あぁ、その通りだ」

一回目(条約の最後)は先生がその身を張って説得してくれたから何とかなった、でも二回目は――どうだろうね、恩を仇で返した生徒の為に先生が骨身を削っているって知ったら、今度こそ止まらない生徒が殆どだと思うよ、だからその問い掛けに意味はない」

 

 キヴォトス全部が敵――そう考えた方が良い。

 その呟きにサオリは反論する術を持たない。潜在的な敵となれば文字通り、キヴォトス全てと云っても過言ではない。だが目下サオリが気に掛けているのは、このアツコを救出する計画の道中に立ちはだかる可能性が高い生徒についてだった。学園規模の動員となれば、相応に時間も必要だろう。ミサキの言葉に頷きつつ、彼女は重ねて問いかける。

 

「確かに私達の潜在的な敵は多い、しかし今回の件を嗅ぎつけた生徒はまだ少ない筈だ……私が警戒しているのは、そういった少数の生徒に限る」

「さっきの、美食研究会みたいな連中の事?」

「そうだ、学園規模で動くには時間が掛かる、多くの生徒が今回の件を嗅ぎつける前にアリウス自治区に辿り着き、姫の下へと急行する――その間に立ち塞がる可能性がある生徒が知りたい」

 

 呟き、サオリは脳裏に現在自分達を襲撃して来た生徒を思い浮かべる。

 

「……少なくとも私が確認した限り、災厄の狐、あとは忍術研究部とやら、そして美食研究会が先生を取り戻そうと動いている、或いは私達が把握していないだけで、他に動き出している所もあるかもしれない」

「……学園規模で動員されたら、私達に勝ち目はないね」

「で、でも、それも時間の問題ですよね……?」

「だろうね、明日の陽の出までに、万が一上手く姫を助け出せたとしても、アリウス自治区は多分――」

 

 呟き、ミサキは口を噤む。

 今のアリウスに他自治区とやり合うだけの余力はない。少なくともエデン条約調印式襲撃により、その戦力と装備の半数以上は失われていた。頼みの綱であった複製(ミメシス)も失い、アリウス分校に再起の芽はないと断言できる。

 

 ――或いは、複製(ミメシス)を再び手に出来たのならば別かもしれないが。

 

 頭を振って、ミサキはその思考を断ち切る。自身の離反した元母校がどうなろうと、ミサキはどうとも思わない。あそこは痛みと苦しみの象徴だった、それが滅びようと、どうして悲しむ事が出来よう。

 それに今回の件、先生がどう主張するにしろスクワッドが先生を拉致した様に見られるだろう。或いはその善意を利用し、良い様に使ったとみられるか。どちらにせよ大差はない、アリウスから生きて帰ったとしてもスクワッドに居場所はない。

 自分達がどう生きようと、その未来が茨の道である事は確定している。

 そう考えれば実に些細な事だと、ミサキは自身に云い聞かせた。

 

「ひとり」

 

 不意に、先生が声を漏らした。

 全員の視線が先生に向けられ、当の本人は画面を操作しながら言葉を続ける。

 

「此処に来る可能性が高い生徒に、心当たりがある」

「……それは、誰だ?」

 

 その声は少し強張っている様に聞こえた。

 訝し気なサオリの問い掛けに、ミサキは脳裏に浮かんだ生徒の名を呟く。

 

「もしかしてトリニティの、あの浦和ハナコって生徒?」

「さ、最後に戦った、あの指揮を執っていた方、でしたよね?」

 

 ヒヨリが指を立て、そう答える。聖園ミカと浦和ハナコ、トリニティを率いて最後までスクワッドと戦闘を続けていた主戦派の生徒だ。その彼女の姿はスクワッドの記憶に深く刻まれている。

 もし、彼女が動いてるとすればかなり厄介な事となるだろう。浦和ハナコの観察眼、指揮能力、何よりその頭脳をスクワッドは高く評価していた。あんな生徒が特に注意すべき生徒として周知されていなかったのだから、堪らない。

 

「いや、今回彼女は動かない可能性が高いと考えている――ナギサやサクラコが、それを望んでいないから」

 

 しかし、先生は浦和ハナコの参戦を否定した。

 或いは、自身が見誤っているという可能性もあるが――それでもシスターフッドやティーパーティー、その矜持が許さない筈だと、先生はそう考える。ハナコは聡い子だ、自分の行動がどの様な影響を齎すかを十分に理解している。その上で動くのであれば、恐らく裏方としてだろう。彼女の名前が表に出る事は決してない筈だ。

 

「そ、それなら一体誰が……?」

「――まさか」

 

 ヒヨリが疑問符を浮かべ、沈黙していたサオリはハッとした様子で顔を上げた。その思考に掠めた、ひとりの生徒の姿。

 先生は彼女の思考を見透かしたかのように、その名を告げる。

 

「――聖園ミカ」

 

 その名前は、スクワッドの面々に重々しく受け取られた。サオリが顔を強張らせ、ミサキは露骨に表情を歪める、ヒヨリは顔から血の気が失せ恐怖に肩を弾ませていた。

 彼女の残した爪痕は、余りにも大きい。

 

「あの女が? でも、今はトリニティで監禁中の筈じゃ……」

「……だが、納得は出来る、聖園ミカは私達に強い執着と憎悪を抱いていた」

 

 ミサキの疑問にサオリはそう答え、彼女に折られた腕を静かに擦る。既に傷は完治した筈だった、しかし当時の痛みはその心に深く刻まれている。彼女の拳から抱いた憎悪が伝わって来るような、そんな感覚が未だに燻っていた。

 

「何より先生の言葉だ、あくまで可能性に過ぎないが、留意しておくべきだろう」

「……了解」

「わ、分かりました」

 

 サオリの言葉に頷くミサキとヒヨリ。もし本当に聖園ミカが自分達の前に立ちはだかったとしたら、果たして自分達は彼女を退けられるか。

 そんな不安を抱きながら思考を巡らせていたサオリは、沈痛な面持ちで佇む先生に気付いた。液晶に照らされ、暗闇の中で浮かび上がる彼の表情は未だ嘗てない程に苦り切っている様にも見える。

 

「その……先生の方こそ、大丈夫か?」

「………」

 

 思わず反射的に問いかけた後、サオリは自身を内心で罵倒した。

 大丈夫な筈がないだろう、と。

 先生は今、心と体を擦り減らしながら此処に居る。元々先生には自分達を助ける様な義理も理由もない、本来であれば先生に罵倒され、殴り倒される関係性なのだ。それでも尚、先生がこうして自分達を手助けしてくれているのは彼の善性と信念によるもの。

 自分達はその善意に縋っているに過ぎない。

 本来彼が寄り添うべき生徒達と敵対する事は、非常に強いストレスを与えている事だろう。それを思い、サオリは顔を俯かせる。

 

「すまない、先生、失言だった……私のせいで、先生は――」

「いいや」

 

 そんなサオリの言葉を遮り、先生は声を上げた。

 

「これは、私が決めた事だ」

 

 声は力強く、サオリの鼓膜を震わせる。俯いていた顔を上げると、シッテムの箱を見つめる先生は精悍な顔をしていた。

 

 そう、これはスクワッド云々の話ではない。

 先生が、先生で在り続ける為に必要な行いだった。

 例えどれ程スクワッドとの関係が悪化していたとしても、或いはこの腕、片目だけではない、両手両足すら失う結果になっていたとしても、先生は彼女達に手を差し伸べていただろう。

 それを、他の誰かが望まないとしても――その在り方だけは曲げられない。

 生徒の命が懸かっているのであれば、尚更。

 

 勿論、思う所がない訳ではない。

 想いは、尊いものだ。

 彼女達の自身に向ける想い、それを考えれば胸が痛む。それは善性の発露だ。彼女達の持つ、光の側面そのものだった。

 

 先生は、中立でなければならない。

 何処かの一組織、一学園、一グループを贔屓する事は出来ない。それは逆に云えば、どんな学園の生徒であろうと平等に見ていると云う事に他ならない。自身にどれだけ協力的な生徒であろうと、或いは自身の四肢や五感を奪い去った生徒であろうと、先生は平等に、同じように導き、寄り添う。

 先生は、遍く生徒の味方だ。

 

 ――その言葉は、相応の重さを伴う。

 

「私は、私の夢見た理想の為に、この手が届くあまねく生徒に寄り添うと誓った、それが彼女達の望まぬ行いだとしても、私は私の信念を曲げられない……だから、これが終わったら精一杯謝るよ、誠心誠意、心の底から」

 

 しかし、それは彼女達を不安にさせたり、心配させてしまった事に対する謝罪だ。スクワッドに手を貸した事、それが過ちであると先生は思わない。

 その選択が彼女達を傷付ける、或いは苦しめる道であると理解して尚。

 先生は全ての生徒の未来を諦める事が出来ない。

 きっと、私が私である限り――この道を選ぶ(同じ状況・同じ選択)だろうから。

 

 それを思い、彼は苦笑を零す。

 

「許して貰えるかは、分からないけれどね」

「先生……」

「……ルートは割り出した、そろそろ出立しよう、他の生徒が駆け付けて来るかもしれない」

 

 そう云って、先生は立ち上がる。話を切り上げようとしているのは明らかであった。それがスクワッドに対する思いやりなのか、それは定かではない。

 兎角ルートの割り出しは終わり、最終的な道筋が立った。スクワッドの面々も小休憩が出来ただろう、時間に制限がある以上此処に留まる理由は無い。そう判断し、サオリは小さく頷いて見せる。

 

「……あぁ、そうだな」

 

 一拍置いて愛銃を手に取り、静かに立ち上がる。先生はシッテムの箱、その画面をサオリに向け告げた。

 

「先にルートを共有するから、先導をお願い」

「あぁ、勿論だ――ヒヨリ、先生の護衛を、ミサキは私の後ろに付け」

「わ、分かりました」

「……了解」

 

 サオリ(リーダー)の声に促され、各々が立ち上がって装備の点検を行う。先生が窓からそっと顔を出し周囲を見渡せば、通路に人影は無く、足音も聞こえない。どうやらまだ発見には至っていないようだ。

 夜空を見上げれば雨はまだ止まない――冷たい雨粒が先生の頬を濡らし、厚い雨雲が星々を覆い隠している。

 窓枠に手を掛け、身を乗り出した先生はそっと呟いた。

 

「行こう――まだ、立ち止まる時じゃない」

 

 ■

 

「ナギサ様……!」

「ただ今戻りました」

 

 トリニティ自治区、本校舎――ティーパーティー執務室。

 今日の公務を全てキャンセルし学園へと帰還したナギサは、何処か焦燥した様子の行政官を横目に泰然とした姿勢を崩さず口を開いた。

 それは彼女なりの処世術に近い。トップが右往左往すれば下も不安になる、このような振る舞いは慣れたものだ。内心がどうあれ、それを極力殺す様に彼女は努めた。ゆったりとした動作で執務机に腰掛け、重なった報告書を横目に彼女は問いかける。

 

「それで、セイアさんは――」

「既に救護騎士団の病棟へと搬送されています、ミネ団長に診て頂いておりますが、容態はその、あまり」

「………」

 

 セイアの容態は芳しくない、その報告にナギサは組んだ両手に力が籠るのを自覚した。

 

「今回の件で、サンクトゥス分派からの声が大きくなっています、元々セイア様が席を空ける事が多くなってから不穏な動きが見受けられましたが、先程の一件でミカ様に対する糾弾の声が更に活発なものに――それに呼応して、パテル分派との衝突が学園各地で頻発していると報告が多数、現在も総括本部に寄せられています」

「分派間の対立が遂に表面化しましたか……もう数週間は抑え込んでおけると思っておりましたが、まさかこの様な事態になるとは――正義実現委員会への対応要請は?」

「既に、しかし事が事なので騒動の収拾には暫し時間が必要かと」

 

 その素早い対応に、ナギサは一つ頷いて見せる。

 普段から細々とした嫌がらせや争いは続いていたが、どうやら本格的に両陣営の対立が目に見える形で始まってしまった。

 セイアの不調はナギサとて把握していたが、此処まで一気に悪化する要因は一体何なのか? 大まかな報告は既に受けていた、ナギサはミカがセイアに対して何らかの害を齎す行為をしたとは全く考えていない。そもそも彼女は口ではどうこう云いながらもセイアを友人と考えており、先の事件ではセイアを傷付けた、延いては彼女を殺してしまったと思い込んだ事が彼女の突っ走った、そうせざるを得なかった一因であると見ていた。故に、彼女が再びその手の間違いを犯すとは考え難い、友人と云う贔屓目を抜いてもそう判断出来る。

 ならば偶然――彼女がセイアと接触したタイミングで偶々病状が悪化した? だとすれば何とタイミングの悪い。

 いや、原因に対する思考は後で良い、今はこの騒動の収拾が先決、ナギサは思考を切り替える。

 

「そうですか、ならば結構です……それで肝心のミカさんは何処に? 独房に居るのであれば建物周辺の警備を厚くするよう指示を――」

「……セイア様の病室を出た後、自身の武装を手に学外へ、行政官の制止を振り切ってスクワッドの捜索に向かったとの報告が」

「スクワッド――? 待って下さい、どういう事ですか? ミカさんが学外に……?」

「は、はい」

 

 思わず声が強張った。それは、まだ彼女の耳にしていない報告であった。てっきりミカは独房に再収監され、大人しくしているものだと思っていたが――想定していなかった事態に心臓が早鐘を打つ。

 どういう事だ、何故そんな事になる? ミカとて現在の自身の立ち位置を理解している筈だった。大人しく独房に戻り、騒動の収拾を待つのが賢い選択だろうに。

 

「何故、その様な事になったのですか」

「病室を後にする際、ミカ様は先生がスクワッドに狙われていると仰っていました」

「……! その情報は、一体どの様にして――」

「セイア様からの、言伝(ことづて)と」

 

 その言葉に、ナギサの表情に理解の色が灯った。

 何故ミカがそのような暴挙に出たのか、その切片を掴んだ気がした。

 

「セイアさんの予知――そういう事ですか」

 

 呟き、ナギサは腕を組みながら険しい表情で自身の腕を指先で何度も叩く。

 先生との連絡が取れない事は既に報告を受けていた。行政官、学園、個人的なメッセージも含め全て返信がないらしい。

 思考が巡る、病状の悪化したセイア、独房に戻らずトリニティを飛び出したミカ。スクワッドと連絡の取れない先生、それらの断片的な情報、互いの関係を踏まえた上でナギサは一つの結論を導き出す。

 

「混乱の収集は急務、しかしミカさんがそれらを押し退け外へ出たと云う事は……」

 

 ――本当に危険なのか、先生が。

 

 セイアの予知、その精度の高さは良く理解している。

 恐らくセイアは先生がスクワッドに殺害されるか、無視できない何かを行う未来を見たのだ。その予知によって大きく体調を崩し、運悪くそれがミカの来訪と重なり――その状態でミカに予知の内容を話し、先生の護衛を頼み込んだ。

 状況から察せられる真っ当な流れはこんな所だろう。ナギサは自身の推察が強ち間違いでない事を確信していた。

 しかし、それが本当ならば実に厄介な状況であった。

 騒動の収拾、混乱を沈める事は急務。しかしスクワッドを探しに行ったというミカを放置する事も出来ない。それが先生に関わる事であるというのならば尚更――私人としても、公人としても、先生の安否は無視できない。

 だが騒動を放置すれば、ミカへの糾弾の声は益々強くなるだろう。その声を看過できないパテル分派と全面的な抗争状態にでもなれば目も当てられない。議会でも不利な意見が多発する可能性がある、感情としては理解出来る、しかし政治的な面から見れば今回のミカの行動はかなり危ういものだ。

 せめて一声、或いは自身の到着を待ってから動き出してくれたのなら――そう思考し、ナギサは歯を食いしばる。

 考えれば考える程、腹の奥から煮え立つ様な感情が沸き上がるのを彼女は自覚した。

 

 スクワッド、スクワッド、スクワッド――……!

 

「何度も、何度も、羽虫の様に、良くもまぁ――……」

 

 騒動の影には必ずこの名前があった。

 エデン条約前から暗躍し、調印式当日には数多の損害を被った。更にはシャーレの先生への暴挙、加えて漸く学園の再建がひと段落し最後の後始末に掛かろうとしたところにこの事件。

 彼女らしからぬ不穏な気配を滲ませ、自身の腕を握り締める彼女の表情は正に憎悪と憤怒に塗れていた。その片面を見る羽目になった行政官は思わず悲鳴を呑み込み、視線を足元に下げる。

 

「――先程、救護騎士団のミネ団長はセイアさんに付いていると仰っていましたね」

「は、はい……その通りです」

「正義実現委員会も学内の取り締まりで手一杯、であれば――」

 

 学内の主要な戦力は動かせない、少なくとも自身が騒動を収拾させるまでは騒動を抑え込んで貰う必要がある。各派閥への根回し、同時に協力要請は必須事項、しかし政治的な手回しだけで済ませるにはミカと先生の安否が怖い。

 であれば比較的手透きな組織に先んじて動いて貰う必要がある。

 正義実現委員会、救護騎士団は動かせない。

 しかし、もう一つ――トリニティには動かせる戦力がある筈だ。

 

「シスターフッドに使いを出します」

「シスターフッド、ですか……?」

「えぇ」

 

 ティーパーティーの権威が失墜し、その求心力は衰え他派閥の介入を許すほどに弱体化した。しかし、それは同時にトリニティ総合学園として動く場合には一丸となれるだけの余地を残した。

 ティーパーティーとシャーレの会談にシスターフッドと救護騎士団が同席した事実は既に周知されている。学園内部に於いて、彼の二大組織は既に学内運営に携わる存在として認知されている筈だった。

 

「シスターフッドと救護騎士団に協力を要請し、私達は正義実現委員会と協力し学内の混乱を収拾します、救護騎士団はセイアさんの護衛と治療、及び負傷した生徒の回収で手一杯でしょうから、セイアさんの容態が安定次第此方に手を貸して貰う様配慮を、シスターフッドにはミカさんの追跡と先生の捜索を依頼します」

「し、しかしシスターフッドがその様な要請を受け入れるでしょうか? 確かに最近は以前の秘密主義然とした様子は見られませんが……」

「協力して貰わなければ困ります、サクラコさんとて先生の安否は気にしている筈ですから――私達の仕事は、派閥間の対立を可及的速やかに収める事です」

「えっと、その、具体的な方法は……?」

「――皆さんの抱いている感情の矛先を、本来在るべき相手に向ければ良いのです」

 

 告げ、ナギサは静かに吐息を零した。

 幸い、まだこの騒動は外部に広く知れ渡っていない。動くならば早い方が良いだろう。

 政治的な面から見ればミカの軽挙はマイナスとなるが、しかし何も全員が全員打算で以て動いている訳ではないのだ。誰かに対する憎しみや怒りといったものは、それ以上に憎む【対象】が存在するのであれば、そちらに擦り付ける事も出来る。ましてやそれが実際に多くの損害を齎した存在ともなれば、感情の矛先を変えるのは容易いだろう。

 彼女の軽挙はいの一番に学園の敵へと立ち向かった勇気と、そして大恩ある先生を守る為に急いた為だったとすり替えれば良い。

 その手の根回しは、実にナギサの得意とする所だった。

 今回に限っては特に容易い。

 

 何せ、その火種(アリウスへの憎悪)は――未だに燻っているのだから。

 

「良い加減終わらせましょう、エデン条約から始まったこの騒動を」

 

 とん、とナギサは執務机を指先で叩く。

 その音は何処か寒々しく、ナギサはその黄金色の瞳を絞り、告げた。

 

「――(ゴミ)は、塵箱に入れねばなりません」

 

 ■

 

「ごッ――!?」

 

 口から、悲鳴染みた声が漏れた。壁に叩きつけられた瞬間、まるで身体がバラバラになったかのような錯覚を覚える。背後のコンクリート壁が罅割れ、破片が零れ落ちる音が耳に届いた。そのままずり落ちる様にして這い蹲った生徒は、自身の腹部を抑えながら嗚咽を零す。

 

「う、げェ……ごほッ、ぅ――……」

 

 口から零れる赤色、鉄の匂い、唾液――顔を覆っていたガスマスクは剥ぎ取られ、直ぐ傍に転がっている。臓物が裏返り、呼吸が整わない。苦しみがずっと腹に蓄積されているような感覚。

 直ぐ傍から、足音が響く。

 咄嗟に手を突き出し、呂律の回らない舌で叫んだ。

 

「ま、待っへ! しゃ、喋る、から――た、たす、け……!」

 

 しかし、無情にも人影が足を振り上げ、彼女の顔面を踏みつけた。頭部に加わる逆らえない力、額が地面と衝突し頭蓋が軋む音が響く。周囲に鳴り渡る轟音、砕けた破片が頬を打ち、鼻から血が噴き出した。

 

「ぉ、ご――……」

「あっ、ちょっとやり過ぎちゃった?」

 

 びくりと、大きく痙攣し一切の動きを止めた生徒を見下ろし、彼女は驚いたような声を上げる。廃墟に囲まれたその場所で、彼女の声は良く響いた。

 

「あれ、おっかしいなぁ、大分手加減したつもりなんだけれど……」

 

 目前で点滅するヘイロー、消えかけのそれは倒れ伏した生徒が気を失いかけているという証明に他ならない。彼女としては手心に手心を加えた一撃であったが、腕と足ではやはり筋力(出力)に違いがあり過ぎると云う事かと首を捻る。

 徐に屈むと、倒れ伏した生徒の襟を掴み、強引に上体を起こす。ぼたぼたと、潰れた鼻と口から血を噴き出す生徒を持ち上げ顔を覗き込むと、その頬を軽く叩きながら声を上げた。

 

「ほら起きて! 寝ていちゃ駄目だよ、ちゃんと二人は居ないと情報の擦り合わせが出来ないじゃん! ねぇ、起きて、起きて――よッ!」

「おぶ――ッ!?」

 

 その頬を気持ち強めに叩けば、生徒の顔面が弾け血が周囲に飛び散る。同時にヘイローが再び灯り、その目が開かれた。左右に揺れる充血した視線が周囲の景色を捉え、血を流しながら生徒は咳き込む。

 

「がはッ、ごほっ、はッ、はっ、ハッ……! う、うぅぁ――……?」

「あっ、良かった! 喋れそうだね? 良し良し、それじゃあちょっと待っていてね、先に隊長さんから話を聞いて来るから☆」

 

 そう云って彼女は掴んでいた生徒の衣服を手放し、地面に転がす。支えを失った生徒は力なくその場に崩れ落ち、か細い呼吸を繰り返しながら項垂れる様にして口を噤んだ。

 

「ば、馬、鹿な、こんな、簡単……に――」

 

 そんな生徒に対する暴力を眺めていた、意識の在るもうひとりの生徒――倒れ伏すアリウス生徒、その小隊長は愕然とした様子で呟く。

 罅割れたガスマスク、その目元の部分からは見開かれた瞳が覗いており、自身に歩み寄る彼女を見上げながら声を荒げる。

 

「三十人は、居たんだぞ……!?」

「あははっ、無理無理☆ 私を相手にするなら、もっと数を揃えてくれないとさぁ、こんなんじゃウォーミングアップにもならないよ!」

 

 そう事も無げに告げ、アリウス生徒の直ぐ傍に立つ人影。彼女を見上げ、戦々恐々とした様子で唇を震わせる生徒。

 たったの一人で彼女の受け持った小隊を壊滅させた怪物、否、文字通り彼女にとっては準備運動にすらならないのだろう。それ程までに、彼我の戦力はかけ離れていた。

 

「ふふっ、それにしても探す手間が省けて良かった! あなた達、まだこの辺り(トリニティ自治区)をウロついていたんだ? ホント、害虫みたいに何処にでも沸くね」

「み、聖園ミ――ぅぐッ!?」

 

 彼女の名を呼ぼうとし、しかしその声が最後まで続く事はない。彼女――聖園ミカは徐にアリウス生徒の喉元を掴み、宙づりにしたのだ。首元を締め付ける万力の如き力、それに骨と筋肉が軋み、悲鳴を上げる。アリウス生徒の顔色が一気に蒼褪め、必死に彼女の腕を掴んで逃れようと足掻く。

 しかし、ミカの体幹は微動だにしない。

 

「あ、ぐ――ッ、ぅ、ぁ……!」

「私、面倒な事って大嫌いなの、さっきみたいに一々気を失わない程度に加減して殴るのも疲れるしさぁ、ね?」

 

 分かるでしょう? そう云わんばかりに笑顔を向け、問いかけるミカ。しかし、応える気力も、体力も無い。掴まれた彼女の胸中にあるのはただ一つ――恐怖だ。

 星が煌めく様な彼女の瞳、それに射貫かれた生徒は歯を鳴らし震える事しか出来ない。

 

「だから、さっさと吐いてくれると嬉しいな☆」

 

 告げ、生徒の目の前で見せつける様にして拳を握り締めるミカ。閉じられたそれから、ミシリと軋む音が鳴る。周囲に倒れ伏したアリウスの仲間達、血を流し昏倒したそれらを背に、ミカ(怪物)は問いかける。

 

「――アリウス自治区への入り方、教えてくれるよね?」

 

 どこまでも無邪気に、微笑みを湛えて。

 彼女はその拳を振り被った。

 


 

 ■よくわかる! 現在のトリニティのメタ政治事情! ナギちゃん編

 

 サンクトゥス

「お前ん所のリーダーがセイア様を……許せない!」

 

 パテル

「は? ミカ様はそんな事しないが? お清楚なんだが? 証拠あんの?」

 

 サンクトゥス

「逃げたじゃん! 学外に出ていったじゃん!」

 

 パテル

「溢れ出るパトスからアリウスぶっ飛ばしに行ったんだし、云いがかりはやめてよね」

 

 フィリウス

「うわぁ、分派間で争ってる、怖、近寄らないでおこ……」

 

 ナギちゃん

「このままだと内部分裂が……ティーパーティーの求心力が低下している事を実感します」

「此処は救護騎士団とシスターフッドに応援を要請しましょう」

「まさか先生と一緒に会議した事実も周知されているのに、拒否したりしませんよね?」

 

 救護騎士団

「救護ォオ!」

 

 シスターフッド

「見て、サクラコ様が過酷な表情をしていらっしゃるわ……!」

 

 ナギちゃん

「良く分からないけれど兎に角ヨシ!」

「皆さん聞いて下さい! 実はかくかくしかじかで、嘘もちょっと織り交ぜて、何かそれっぽいカバーストーリー作って、然もティーパーティー、救護騎士団、シスターフッドの三大勢力が手を組んだっぽく語って……」

 

 フィリウス

「ナギサ様の云っている事ならきっとそうに違いない、サスガダァ」

 

 パテル

「やっぱりミカ様はアリウスをシバきに行ったんだ! 私達も殴りに行こっ!」

 

 サンクトゥス

「嘘ですわ! 絶対信じませんわ! あいつは魔女なんですわ!」

 

 ナギちゃん

「それ救護騎士団とシスターフッドとシャーレ(事後承諾)とティーパーティーの前でも云えます?」

 

 救護騎士団

「は? 対立? 負傷者が増えるでしょうがッ!! 救護ォオッ!」

 

 シスターフッド

「見て、サクラコ様が酷く透明な表情で微笑んでいらっしゃるわ……!」

 

 正義実現委員会

「まぁ、私達はティーパーティーの麾下なので」

 

 サンクトゥス

「………」

 

 ナギちゃん

「よし、対立は鎮火しましたね! 一時的だけどヨシ! このまま勢いで怒りの矛先を捻じ曲げればかんぺき~」

 

 ナギちゃん

「これも全部アリウスって奴が悪いんです! 全ての元凶はアイツ等です!」 

「セイアさんが体調悪化したのも、学園がこんなになったのも、先生が怪我したのも、私達が仲たがいする羽目になったのも、全部全部あいつらが悪いんです!!」

「今現在、先生とは連絡が取れていません、きっとアリウスが先生を危険な目に遭わせようとしているのです!! セイアさんがそう予知しました! 単身で勇敢にもアリウスに向かったミカさんに続いて皆さんも立ち上がる時が来たのです!」

 

 フィリウス

「ナギサ様の名の下に!! 愛を以て正義を為しましょう!!」

 

 パテル

「殺せ! 殺せ! 殺せ! 力こそ正義!! ついでにゲヘナもぶっ壊せ!!」

 

 サンクトゥス

「セイア様をアリウスが傷付けたのは事実だし、セイア様の予知なら……」

 

 シスターフッド

「……今、何より優先すべきは先生の安否、否やはありません」

 

 救護騎士団

「救護が必要な場に救護を! 動けなくなるまで殴ってから治療(なお)します!」

 

 正義実現委員会

「しゅ、出動~!!」(モブちゃんわちゃわちゃ)

 

 一般モブ(トリカス)

「何か良く分からないけれど、皆そう云っているしそれに倣おっと! アリウス嫌いだし! 殺せ~! 殺せ~!」

 

 ナギちゃん

「今こそ、諸悪の根源を焼き尽くしましょう!!!」

 各分派

「おーっ!」

 

 トリニティ総合学園

「いけ~のりこめ~^^」

 

 アリウス自治区

「は???」

 

 大体合っている様な合っていない様なそんな感じですわよ。

 



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星の願いはただ、ひとつ

誤字脱字報告、ありがとうございますわ~!


 

「……到着した、此処が目的の通路だ」

 

 廃墟区画北東、廃棄地下道前。

 そこは廃墟区画の中でも更に奥まった、殆ど人の通らない様なひっそりとした場所だった。廃墟区画と云っても中程や表層部分には不良達の溜まり場になっている様な場所も多い。しかし、この辺りとなると人が滅多に通らないのか植物が生え放題となり、廃墟の中でも一際不気味な場所となっている。

 文明崩壊後の街とでも表現するべきか、アスファルトを覆い隠す雑草、倒れ伏した小さな樹々が道路を封鎖し、彼方此方に樹々が生え揃っている。錆び付き、蔦と苔に覆われた建物は強い緑の匂いを発している。

 

 そんな街の片隅に、他所の建物と同じように苔がむし、錆び付いた金網で隔離された地下通路への入り口があった。直ぐ脇にあった薄汚れた小さな看板を指先で擦り、その文字を確認したサオリは頷く。

 目的地は此処で間違いない。

 

「まさか、本当に接敵なしで此処まで辿り着けるとはな」

「時間は多少掛かってしまいましたが、戦闘時間を考えればトントンくらいでしょうか……?」

「何より、弾薬を節約できたのは大きいね」

「あぁ」

 

 メンバーの言葉に頷きながら、サオリは徐に足を上げ、入り口を封鎖していた金網を蹴飛ばして開ける。ガシャン、という甲高い音を立てて開いた扉は蔦の中に埋まり、生い茂ったそれを手で払いながらサオリが通路入り口を覗き込めば、地下へと続く薄汚れた階段が視界に映った。空気の唸る様な音が地下から響き、生温い風が頬を撫でる。

 

「……随分暗いね」

「足元に気を付けろ先生、この辺りは管理が行き届いていないから足場が悪い――全員、明かりは?」

「持っている」

「だ、大丈夫です」

「足元だけを照らせ、なるべく遠くには向けるな」

 

 そう云ってサオリは懐からほんの小さなペンライトを取り出すと、階段を照らしながら先行する。サオリに続いてミサキ、三番目に先生が地下に足を踏み入れる。縦一列になって階段を下る一行、通路には時折水滴の落ちる音が周囲に反響していた。地下であるからか、地上よりも肌寒く、先生は小さく身を震わせる。

 

「此処から地下道を通ってカタコンベの入り口に踏み込む、問題はこの先の緊急避難通路を防衛している部隊についてだが……」

向こう(アリウス)も私達がこの通路を使う事は分かっている筈」

「あぁ、十中八九――待ち伏せがある筈だ」

 

 階段を下り終えると、剥き出しのパイプ管と打ちっ放しのコンクリート壁に囲まれた場所へと出る。壁には赤い非常灯が薄らと光を発しており、それが唯一の光源として機能していた。

 

 三人はライトを頭上に掲げながら、なるべく光源が広く視認されない様足元を照らす。ライトを体から離した位置で構えるのは、確か光源を狙われた際に被弾しない様にする為だったか。そんな事を考えながら、先生は彼女達の背中に続く。

 

 念の為シッテムの箱で周囲の索敵を適度に行っているが、ごく近辺に限って反応は見られない。どうやら緊急避難用の入り口は複数存在するらしく、そこに分散して兵力は置いていない様子だった。

 ある程度通路を慎重に進んでいくと、曲がり角付近で不意にサオリが足を止めた。

 

「止まれ、此処から先は緊急避難経路の隔壁間近だ」

 

 そう云って角から先を覗き込むサオリ。

 彼女の視界には、真っ直ぐ伸びた通路と開けた地下空間が広がっていた。緊急避難経路は隔壁でブロックが区切られており、この先を少し進んだ場所に第一隔壁がある。そこを潜ればカタコンベ内部へと通じている地下通路に到着する筈だ。暗く、等間隔で設置された非常灯に照らされた通路は見通す事が出来ない。

 サオリは慎重に通路を観察しながら、背後のミサキに問い掛ける。

 

「ミサキ、お前はどう見る?」

「……緊急避難経路は全アリウス生徒が知っているし、警備が居ないのはあり得ない、寧ろかなりの数が配備されているだろうね、現在進行形で私達を捜索している部隊も、此処での交戦が明らかになれば一斉に戻って来る可能性があるよ」

「そ、そう聞くとかなり厳しそうですが、どうしましょう……?」

 

 ミサキが淡々とした様子で自身の考えを述べれば、ヒヨリは不安げに呟く。しかし、そうは云っても此処まで来て戻ると云う選択肢もないだろう。サオリは少し考える素振りを見せ、「先生、索敵は出来るか?」と問いかけた。先生は静かに頷き、出力を絞って前方に限った索敵を行う。するとシッテムの箱、そのモニタに複数の反応が表示された。それを覗き込み、サオリは声を漏らす。

 

「十、二十、三十、四十――凡そ五十か」

「数だけ聞くと小隊規模だけれど、後ろにまだ控えているかも」

「サオリ、一応聞くけれど周辺に迂回路とか、隠し通路の類は?」

「……無い、隔壁まで此処から一本道だ」

「となると、他の入り口を探す訳にもいかないか」

 

 ――最初からスクワッドに選択肢はない。

 その言葉を呑み込み、サオリは静かに愛銃を抱え直した。

 

「正面から、強行突破するしかないな」

「――だね、どうせ向こうも私達も考えは同じ、異なる点があるとすれば」

 

 その言葉に同調し、頷いたミサキの視線が先生に向けられる。

 

「シャーレの先生が居るかどうか」

「へ、へへ……そ、そうですね、唯一の勝ち筋がそれくらいですし……よろしくお願いします、先生」

「出来得る限り、支援するよ」

 

 彼女達の言葉に先生は頷き、シッテムの箱を強く握り締める。

 分かっていた事だが、これから先の戦いは厳しいものになるだろう。

 時間との勝負だ、増援が駆け付ける前に防衛部隊を退ける必要があった。

 

「先程の配置、見覚えがある、恐らく待ち構えているのは防衛隊の連中だ」

「……選抜組か、厄介だね」

 

 ミサキが舌打ちを零し、露骨に表情を歪めた。

 防衛隊――それはアリウスの中でも自治区の防衛に特化した部隊を指す言葉である。基本的にアリウス自治区内では訓練成績と適正によって部隊の配属先が異なるが、特に成績上位の生徒達は『選抜組』と呼称され、一般的な部隊ではなく特務や分野に特化した部隊に配属される事がある。防衛隊と呼ばれる部隊も、その中の一つであった。普段はカタコンベ内部の警備や防衛を主な任務としているが、今回に限っては態々外まで出張って来たらしい。恐らく『彼女』の指示によるものだろう、サオリはそう考える。

 

「だが、相手が何処の誰であれ、やる事はいつも通りだ、私が突貫し攪乱する、ヒヨリとミサキは支援を頼む、それとミサキ、悪いが中衛を任せて良いか?」

「それは別に良いけれど……リーダーのバディが居ない、大丈夫?」

「何とかする、それに今は先生の指揮があるからな」

 

 告げ、深く息を吐き出す。本来ならば前衛、中衛はサオリ、アズサ、アツコの三名で担っていた。その内の二人がこの場に存在しない為、サオリ単独で前線を張る必要がある。その負担はかなりのものになるだろう、しかし無いもの強請りは出来ない。その場に存在する装備、人材で対処するしかないのだから。

 サオリは体ごと先生に向き直ると、帽子のつばを下げながら云った。

 

「先生、私達が先行して敵を殲滅する、こうも狭いと跳弾の恐れがあるから、暫く此処で待機していてくれ、安全が確保され次第合図を出す、それを確認したら後に続いて欲しい」

「私も一緒に行動するというのは――」

「いや」

 

 先生の進言に、彼女は首を横に振った。

 

「時間の都合上、かなり強引な突入になりかねない、ましてや今の私達は三人、相手が雑兵ならばまだしも訓練された精鋭だ、先生に火力を集中するという判断を取られた場合、私達が身動き出来なくなる、正直先生の護衛に割く戦力すら惜しい状況だ――なら一、二分時間が取られるとしても進行タイミングをズラすべきだ、その方が私達も気兼ねなく動けるし、リスクも減る」

「……分かった、サオリの判断を信じるよ」

 

 彼女の言葉に、先生はやや思案の表情を見せたが、しかし最終的には頷いて見せる。実際に戦うのは彼女達だ、であるのならばその意見を無視する事は出来ないと判断した。幸いリンク自体はある程度離れていても維持出来る、戦術指揮もタブレット越しに可能だ。此処からでも指揮自体に支障はない。

 

「厳しい戦いになるだろうが、此処を突破すればアリウス自治区に侵入出来る、気を引き締めて行くぞ」

「うん」

「は、はい」

 

 リーダーの言葉に頷き、真剣な表情を浮かべる両名。

 此処がアリウス自治区に入る為の、最後の砦。逆に云えば、此処を突破できなければスタート地点にすら立てないという事になる。それを自覚すると同時、心臓の鼓動が大きく鳴り響いた。

 

「……ふーッ」

 

 頭上を仰ぎ、サオリは一度深く息を吐き出す。肺が萎む、血が凍る様な感覚があった。重要な場面ではいつもそうだ、この緊張がサオリに生の実感を与えて来る。自分はまだ生きている、生きているのならば足掻ける、まだ、戦える。

 二度、三度、空っぽの手を開閉させ、最後に強く握り締めた。

 

「準備は」

「だ、大丈夫です……!」

「いつでも」

 

 ヒヨリ、ミサキが応える。

 既に手の中には愛銃が握られていた。

 

「先生」

「うん」

 

 最後に先生へと視線を向けた。

 暗闇の中で、一際強い光を放つ瞳がサオリを射貫く。先生の瞳は、いつ見ても変わらない。力強い意志と想いが灯っている。どんな逆境でも、絶望的な場面でもそうだ。

 

 あの時もそうだった。

 

 今更、本当に今更な事ではあるが。その信頼に、善意に、今度こそ応えたいと思う。もう裏切る事など考えない、先生が斃れた時、それがスクワッドが壊滅する時だ。

 頷き、サオリは安全装置を指先で弾くと、力強く告げた。

 

「よし――アリウス・スクワッド、出撃するぞッ!」

 

 ■

 

 ――緊急避難通路、第一隔壁前

 

 防衛隊としてこの場所の防衛任務を受け、二日ほどの時間が経過していた。頭上に輝く薄暗い非常灯、通路を照らす為に持ち込まれたスタンド型の簡易照明、それがこの場に在る光源の全てだ。薄暗く冷たい地下通路の防衛任務は、想像以上に精神的な負担を強いて来た。自治区内部の警備が主な任務であった彼女達にとって、こんな場所の防衛任務に選ばれた事は貧乏くじとすら云える。

 しかし、それに反発する気も、意思もない。彼女達はただ淡々と下された命令に従い、この場に立っている。

 

「………?」

「どうした」

「あぁ、いや、今向こう側に、何か――」

 

 ふと、歩哨として立っていた生徒が通路の奥を指差す。カタコンベとは逆方向、地下通路の側だ。其処に何か、ちらつきが見えたような気がした。しかしそれが照明の光が何かに反射しただけなのか、或いは単なる目の錯覚なのか、それ以降何かが見える事は無く、彼女はガスマスク越しに額を指先で打ち、吐息を零す。

 

「……すまない、気のせいだと思う、少し気を張り過ぎた様だ」

「状況が状況だ、仕方ないさ――しかし、本当に来るのと思うか? 隔壁閉鎖まで後一時間もないというのに」

 

 担いだ銃を揺らしながら、そんな軽口を叩く同胞。彼女の視線はカタコンベ内部、その最奥にあるアリウス自治区に向けられていた。

 暗く、非常灯によって薄らと赤に彩られている通路は、彼女達の母校であるアリウス自治区へと通じている。

 

「連中だって自分の状況は分かっている筈だ、離反した連中が自治区に戻る何て……自殺行為だろう」

「それでも任務は任務だ、来ようが来なかろうが、此処を守るのが私達の役割だからな」

 

 頭をゆっくりと左右に振り、そう口にする生徒。何とも模範的な解答にもう片方の生徒は肩を竦める。その態度にはどこか、不満が滲み出ている様に見えた。

 

「なぁ」

「何だ、任務中の度を過ぎた私語は隊長に――」

「私達は」

 

 顔は真っ直ぐ前を見たまま、彼女は何かを云いかけた。しかし、その言葉が結局口から発せられる事は無く、ゆっくりと俯いたまま口を噤む。その言葉を口にする事に意味など無いと、そう思ったのだ。

 

「……いや、なんでもな――」

 

 言葉は、最後まで続かなかった。

 彼女が云い終わる前に、一条の光が白煙と共に彼女達の視界に過った。

 それは余りにも唐突で、身構える暇さえなかった。

 

 暗闇の中で灯る茜色は、弾頭を前へと推し進める為の炎色。その光が真っ直ぐ、自分達の方向へと飛んできたと、そう認識した瞬間――飛来した弾頭は空中で複数の子爆弾に分かれ、連鎖的に爆発を巻き起こした。

 コンクリートが爆ぜ、爆音が周囲に反響する。室内に於いての爆発物は、彼女達の聴覚と三半規管に無視できないダメージを齎した。爆音が脳を揺らし、爆炎と衝撃波が肉体を物理的に突き抜ける。同時に閃光が網膜を焼き、直ぐ傍に立っていた筈の同胞が虚空に打ち上げられるのが見えた。衝撃で照明が次々と転倒し、何もかもが一瞬にして混沌へと突き落とされるのが分かる。

 世界が、一瞬にして暗闇に支配された。

 

 ――奇襲だ。

 

 爆発に意識を断ち切られそうになって尚、兵士として積み重ねて来た訓練が彼女を生かした。爆発と同時に身を屈ませ、頭部を保護した彼女は幾つかの破片が体に叩きつけられる程度で済んだ。炎に肌を焼かれ、痛みに歯を噛み締めながら思考を回す。

 この手の砲撃を行う生徒を、彼女達は知っている。

 

「っ、スクワッド……!?」

「本当に来たのかッ!? 総員、戦闘――」

「遅いッ!」

 

 爆炎と爆風を裂き、暗闇の中で疾走するひとつの影。地面を這う炎が彼女の影を内壁に映し出し、宛ら影絵の如く演出する。

 ミサキの砲撃と同時に切り込んだサオリは、既に防衛隊の懐へと潜り込んでいた。握り締めた愛銃を即座にアリウス生徒へと向け、至近距離でトリガー。マズルフラッシュと銃声が轟き、理想的なフォームから放たれた弾丸は彼女達の頭部を強かに弾く。

 

「いぎッ!?」

「ぐッ――!」

 

 衝撃で身体を逸らし、ヘイローを点滅させる生徒。彼女達は反撃する間もなく崩れ落ち、そのまま意識を失う。他の銃声はない、サオリが一方的に射撃を加え、立ち直る暇を与えずに次々と生徒を薙ぎ倒していく。周囲にはサオリの発する銃声だけが響いていた。

 爆発による混乱、そこに空かさず突入して来る胆力と技量、同じ選抜組として彼女達の強さを良く理解している防衛隊は、何とか建て直しを図ろうとする。

 

「く、そ……! 錠前サオリ……! 気を付けろ、屋内戦闘のスペシャリストだッ! 距離を取れ、白兵戦の間合いでは絶対に――」

 

 部隊長である生徒が叫ぶ。爆発の衝撃で罅割れたガスマスクのレンズを指先で擦り、吹き飛ばされ地面を転がっていた生徒を掴み起こしながら、何とか小隊を立て直そうと声を張り上げる。兎に角、反撃に転じなければならない、思考はその一点のみに支配されていた。

 それが仇となった。

 周囲に響き渡る声は、部隊長の存在を示すものに他ならない。

 

「―――」

 

 不意に何か、金属を弾く様な音が耳に届いた。音の鳴った方へと視線を向ければ、地面に転がる手榴弾が二つ。同時に弾む安全ピン、それを見た瞬間、ぞっと、隊長の顔から血の気が引いた。

 

「っ、手榴――ッ!」

 

 叫ぶより早く、彼女の足元に転がっていた手榴弾は炸裂する。無数の破片が彼女の身体を殴打し、その身体が後方のコンテナ目掛けて派手に吹き飛ぶ。騒々しい音を立ててコンテナに衝突し、半ば埋もれる隊長。その白いコートには焦げ目が残り、穴だらけの状態だった。至近距離で手榴弾を受けたのだ、然もありなん、恐らく数時間は昏倒したままだろう。

 

「っ、室内での爆発は、かなり堪えるな……!」

 

 爆風に外套が靡き、酷い耳鳴りを感じながらサオリは思わず言葉を漏らす。部隊長の存在を知覚すると同時、手榴弾を滑り込む様にして投げ入れた彼女は比較的至近距離で爆発を受けた。衝撃や破片自体は遮蔽でやり過ごしたが、音ばかりはどうしようもない。何の備えも無しに受けていれば暫く耳が使い物にならなくなるだろう。

 

「やられるよりマシでしょ、それより次、来るよ」

「――あぁ」

 

 弾頭の再装填を終えたミサキがサオリの傍へと駆け寄り、そう素っ気なく告げる。

 ミサキは右手でセイントプレデターを構え、左手にはリボルバーを握っていた。彼女のそれは護身用の軽量小型モデルだが、使用する弾丸は.327フェデラル・マグナム弾、小口径ながら.357マグナム弾に負けず劣らずな威力を誇るものであり、頭部に撃ち込めば一撃で昏倒させるだけの威力はある。

 ロングレンジを砲で一掃し、至近距離ではリボルバーで援護する。慣れないスタイルではあるが、苦肉の策だ。ミサキの声に応えながらサオリが銃を構え直すと、大勢の足音が耳に届き、隔壁内部から続々とアリウス生徒が姿を現した。先生の索敵結果通り、総数は五十近い。

 しかし二十人近くは既に先の爆発とサオリの奇襲で戦闘不能になっている。決して勝機がない訳ではない。

 

「ヒヨリ、数を減らせッ!」

 

 サオリが後方に向かって声を張り上げると同時、重々しい銃声が轟いた。風がサオリ達の傍を吹き抜け、前方を駆けていた生徒のガスマスクが弾け飛ぶ。ぐらりと傾いた身体が後方へと流れ、弾けたガスマスクが地面に音を立てて転がった。

 倒れ込んだ生徒に巻き込まれ、後列の幾人かの生徒がその場に転倒する。

 

「っ、狙撃――!?」

「この暗さで当てて来るか……!」

「散開しろッ! 数では此方が上だ!」

 

 ヒヨリの存在を悟った彼女達は、狙いを絞られない様に即座に散開する。しかし、それでも一際重々しい銃声が鳴り響く度にひとり、また一人とアリウスの生徒が頭部を弾かれ、地面に転がった。

 

 通路の遥か後方、地面に這い蹲った状態でスコープを覗き込むヒヨリはその口元を歪ませる。構えたアイデンティティの下には背嚢とガンケースが即席の遮蔽として機能しており、ヒヨリはスコープ越しに見えるアリウス生徒に言葉を漏らした。

 

「へ、へへっ、悪く、思わないで下さいね――ッ!」

「がッ!?」

 

 引き金を絞り、銃声を轟かせる。唸りを上げた銃身が軋み、強烈なマズルフラッシュが暗闇の中で瞬いた。先生の支援によって暗闇の中でも正確に相手の位置を把握出来るスクワッドにとっては、暗中戦闘であっても正確無比な射撃が可能である。

 今しがた積み上がっていたコンテナの影に滑り込んだ生徒を、遮蔽越しにぶち抜いた。戦車の装甲を貫通する弾丸はそのまま生徒の背中を捉え、凄まじい衝撃と共にその肉体を吹き飛ばす。打ち上げられた生徒はそのまま地面を滑る様にして転がり、ピクリとも動かなくなった。

 

「こいつら、暗視装置も無しに……! 此方の位置が露呈しているのか!?」

 

 地下通路はミサキの撃ち込んだ弾頭により、照明の類が殆ど機能していない。頭上に設置された非常灯の赤が唯一の光源である。そんな中で昼間と同じような感覚で弾丸を当てて来るスクワッドは、正に驚異的な存在に思えた。

 どういう事だ、スクワッドは疲弊し装備も殆ど残されていなかったのではないのか。アリウスの生徒は遮蔽に身を潜めながら思う。

 

「悪いが――」

 

 サオリは後方から援護するミサキやヒヨリにヘイトが向かない様、過剰なまでに前へと詰める。狙撃を警戒し頭を引っ込めた防衛隊の側面に回り、その機動力で以て散発的な射撃を全て躱す。暗闇によって碌に狙いも付けられない上に、同士討ちを警戒して大きく銃口を動かす事も出来ない。更には凡その着弾位置が視界に表示される以上、肉薄し一人ずつ確実に倒していく事は、今のサオリにとって非常に簡単な行いであった。

 

「今の私達は、一味違うぞ……!」

 

 遮蔽の上を滑り、その裏に潜んでいたアリウスの生徒を蹴飛ばす。サオリの蹴撃は彼女の肩を強かに捉え、構えていた銃が地面を滑る。そのまま這いつくばり、咄嗟に顔を上げた瞬間トリガーを絞る。マズルフラッシュが瞬き、同時に顔面が弾かれ、ガスマスクが罅割れる音が耳に届く。即座に膝を突き、横合いで散発的に攻撃を行っていた生徒に狙いを変える、そのまま指切りで一発、二発、三発――吐き出された弾丸は咄嗟にサオリへと銃口を向けた生徒のバイタルラインを正確に射貫き、身体を強張らせ、苦悶の声を漏らした生徒はゆっくりと崩れ落ちる。

 一連の流れは余りにもスムーズに、滑らかな動きで行われた。サオリの思考と動きが一致する、阻害するものは何もない。

 肉体は疲労と痛みによって万全状態ではないというのに、精神だけはまだ戦えると叫んでいる。

 

 既に半数は切り崩した。

 もう半数、このまま削り切れば――!

 

 そう考え、再び動き出したサオリの身体を――凄まじい轟音と共に飛来した瓦礫が、強かに殴打した。

 

「な、にぃ――ッ!?」

 

 爆発が起きた、まるで戦車砲を撃ち込んだような衝撃だった。

 爆発の予兆など何もなかった、しかし実際問題としてサオリの傍に存在した内壁が突如吹き飛び、崩壊した。飛来する瓦礫に押し出される形で地面を転がったサオリは歪む視界を振り払い、ぱらぱらと降り注ぐ破片を被ったまま後方を見る。

 

「ミサキ、至近弾――ッ!」

「違う、私は撃っていない!」

 

 爆発の規模からミサキの砲撃だと咄嗟に判断したが、当の本人は焦燥を滲ませながら首を振る。実際彼女の担いでいるセイントプレデターに弾頭は装填されており、発射した痕跡もなかった。ならばアリウス側の攻撃かと前方を睨みつければ、どこか浮足立った防衛隊の面々が見える。見るからに彼女達の意図した攻撃でもない。

 ならば、一体誰が――?

 

 攻撃の主は、非常灯の赤に照らされながら、ゆっくりとした足取りで破壊した壁の中から現れた。

 

「もー、本当にさ、あなた達って暗い場所が大好きだよね?」

 

 地下に、声が響いた。

 どこか場違いで、明るくて、溌剌とした声だった。アリウスの防衛隊にとっては殆ど馴染のない声で、反対にスクワッドにとっては悪夢の到来を予期させる声で。

 彼女は崩れ落ちる内壁を素手で掴みながら、その顔を覗かせる。

 

「ふふっ、でも大当たり、やっぱり此処に来たんだ」

 

 その視線が、アリウスの生徒を――スクワッドを捉える。

 頭上に輝く星々(ヘイロー)がゆっくりと回転し、彼女の足が足元にあった瓦礫を粉砕した。

 

「お、お前は……ッ!?」

 

 咄嗟に、直ぐ傍に居た防衛隊の生徒が声を上げた。そのまま銃口を構え、引き金に指を掛ける――しかし弾丸が放たれるより早く、ミカの姿が掻き消える。暗闇の中で、その白い制服は良く目立つと云うのに、動きを捉える事さえ出来なかった。

 ただ踏み抜かれ、罅割れた地面だけが彼女の移動、その痕跡を物語っている。

 気付いた時、彼女、聖園ミカは防衛隊生徒の目前に迫っていた。

 

「――ぇ」

「邪魔」

 

 反応すら許されず、防衛隊の生徒、その顔面にミカの拳が突き刺さる。打撃音とは思えぬ爆音が響き渡り、風が周囲を吹き抜けた。

 殴打の直撃を許した生徒はガスマスクが砕け、凹み、その肉体がサオリの直ぐ脇を水平に吹き飛び、通過。そのまま後方のコンクリート壁に衝突すると、派手な衝突音を打ち鳴らして停止した。背中が壁の半ばまで埋まり、その腕はあらぬ方向へと曲がっている。まるで切れかけの蛍光灯の様に、彼女のヘイローが点滅し、軈て消失した。

 

 辛うじて息はあった、だがそれだけだった。

 

 誰も、声を上げる事が出来ない。唐突に現れた暴虐の存在に、固唾を呑んで硬直する事しか出来ない。

 そんな雰囲気の中でミカは持っていた愛銃を掲げ、小さく伸びをする。

 その表情には何処までも不気味な、薄らとした笑みが浮かんでいる。

 

 赤く、非常灯に照らされた彼女の横顔が――スクワッドを見つめていた。

 

「さてと――真打登場☆ って所かな!」

「……聖園、ミカ」

 


 

「――……?」

 

 トリニティ自治区――本校舎、周辺。

 その日、ハナコはトリニティの中で何とも表現できない胸騒ぎを覚えた。時刻は既に深夜を回ろうとしている、あと一時間もすれば日付も変わるだろうと云った頃。

 本校舎の外れを競泳水着姿で闊歩するハナコは、全身で世界を感じながら上機嫌に散歩を楽しんでいた。

 しかしふと、風に乗って時折耳に届く喧騒を訝しみ、足を止める。

 

「何でしょう、今日は妙に騒がしいですね……?」

 

 深夜帯の散歩は彼女にとって既に日課と化している。深夜のトリニティは実に静かなものだ、特に本校舎周りとなると残っている生徒は残業に追われている行政官くらいなもので、時折見回りに出る正義実現委員会に気を付ければゆったりのんびり徘徊する事が出来る。

 

 シスターフッド管轄の区画も静かで徘徊には良いのだが、やはりこのトリニティ特有の空気感を肌で確かめながら歩くのがハナコは好きだった。お淑やかで、閉鎖的で、表面だけを綺麗に取り繕った様な世界をぶち壊すような、尊厳破壊的な意味合いで、大変興奮出来るのだ。

 

 そして、いつも通り散歩道を楽しんでいたハナコであったが、どうにも今日はノイズが多い。視線を本校舎の方に向ければ、普段明かりの消えている部屋も軒並み電灯が点いたままで、何やら云い争う様な声まで耳に届いてくる。

 

 流石に、何かが可笑しいと勘付くハナコ。よくよく耳を澄ませば、銃声らしき乾いた音も遠くから微かに響いて来る。キヴォトスに於いて銃声など珍しくもなんともないが、トリニティに於いて銃声は他所の自治区と比較すると珍しい部類に入る。

 街や正義実現委員会の本部周辺ともなると別だが、この時間帯、更に本校舎近辺となると話は変わって来る。

 行政官を含む彼女達は銃声を響かせる前に、まず口で相手を云い負かそうとするからだ。それでも尚話がこじれたり、或いは片方が激昂してどうしようもなくなった時、初めて銃を抜く。その段階の中で誰かが仲裁に入ったり、或いは頭を冷やしたりするものだが――今回は銃を抜き放つまで悪化したらしい。

 

 思い当たる節はミカを糾弾するサンクトゥス分派、或いはそこと衝突したパテル分派による発砲か――どちらにせよ、その関連で揉めているのだろうとハナコはあたりを付ける。そしてその予測が、然程間違っていない事を彼女は確信していた。

 

 しかし、どうにも解せない事が一つある。

 

「こんな夜中まで対立が――?」

 

 ミカを巡った分派間の対立は既に多くの生徒が知るところであるが、だからと云ってこんな時間まで続いているとは到底思えない。或いは、続けるだけの『何か』があったとも考えられるが――そこまで思考を巡らせ、ハナコは自身の胸に渦巻く違和感の正体に気付いた。

 

「……少し、探ってみましょうか」

 

 補習授業部の事を思えば、軽挙(散歩は除く)は慎むべきだ。しかしハナコという生徒は、良くも悪くも変化に敏感であった。このトリニティの中で、また何かが起ころうとしている――或いは、既に起こっている。

 ハナコはその表情を僅かに変化させ、本校舎の方角へと足を進めた。

 



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零れ落ちた(未来)

誤字脱字報告、ありがとうございますの~!
遅くなって申し訳ありませんわ!
代わりに今回約一万八千字ですの、お時間ある時に読んでくださいまし。



 

「ふぅ~、これで全部かなぁ?」

 

 大きく息を吐き出し、彼女は気怠そうに肩を竦めた。

 その足元には倒れ伏したアリウス生徒、防衛隊の面々が転がっている。正に死屍累々、積み重なる彼女達はつい先程までミカに挑み、敗れて行った者の末路。防衛隊総勢五十名、二十名前後はスクワッドによって戦闘不能に追い込まれていたとは云え、残りの三十名近い人数をたった一人で壊滅させたミカは、その制服に弾痕ひとつ残さずに佇んでいた。

 経過した時間は、恐らく三分も掛からなかっただろう――その間、スクワッドの面々は動く事が出来なかった。

 彼女の放つプレッシャーに圧倒されていたのだ。まるで両肩に巨大な岩石を背負っているような感覚だった。

 

「ほんと、無駄に数だけは多いよね、アリウスって、まぁ他の自治区と比べれば少ない方なんだろうけれど……」

「ぅ、ぁ……」

「ん? あ~、まだ意識あったんだ?」

 

 背を軽く逸らしながら非常灯を見上げるミカ、その視界にふと、這いずりながら必死に逃れようとするアリウス生徒が映った。気付いたミカは愛銃をぶら下げたまま軽い足取りで生徒の前に立ち、その銃口を向ける。

 緩慢な動作でミカを見上げたアリウス生徒は、罅割れ、曇ったガスマスク越しに懇願を口にした。

 

「や……や、め――」

「ごめんね? 今この場には、あなた達は邪魔だから」

 

 銃声――一発、二発、三発。

 無慈悲に放たれたそれは生徒の額と喉元を叩き、その身体は今度こそ地面に突っ伏す。輝いていたヘイローは力なく消失し、失神したのだと分かった。硬い地面に空薬莢が弾む甲高い音が響く。ミカは徐に弾倉を取り外すと、空になったそれを地面に放りながらスクワッドへと視線を向けた。

 

「さて、これで漸くお話出来るね!」

「………」

 

 輝く様な、屈託のない笑顔。暗闇の中でも良く分かるその表情は非常灯の赤に彩られ、より一層彼女達の感情を揺さぶった。

 互いの瞳に倒れ伏したアリウス生徒は最早映らず、ミカはスクワッドを、スクワッドはミカを凝視する。空気がひりつき、肌を焼く様だった。ほんの些細な刺激が導火線に火を点け、爆発する様な緊張感がある。

 サオリはゆっくりと身構えたまま後退し、額に冷汗を滲ませながら口を開く。

 口の中が、からからに乾いていた。

 

「……聖園ミカ、トリニティで監禁中と聞いていたが」

「あぁ、うん、そうだったんだけれど、無理矢理出て来ちゃった! あなた達にどうしても会いに行かなくちゃいけない理由があって! だってさぁ、ほら、前回は中途半端に終わっちゃったじゃない? 私達、まだお話しなきゃいけない事があるんじゃないかって、そう思って――それに、大事な友達に頼まれちゃった事もあるし」

「………」

 

 両手を広げて、心から嬉しそうに笑う彼女は底知れぬ不気味さを醸し出していた。恐らくその感情がプラスのものから生まれたものではない、マイナスの感情から齎されるものだからだろう。ミカの表情には表には出ない、何か深く寒々しい色が秘められている様に思う。

 ミカの言葉を聞き流しながら、スクワッドの面々はそれとなく陣形を整える。ヒヨリも既に計画が崩れた事を悟ったのか、愛銃を抱えたままサオリの下へと合流し、全員が固まった位置、ミカを正面に捉えたまま言葉を交わす。

 

「リ、リーダー……!」

「まさか、本当に出て来るとはね」

「……ヒヨリ、先生は?」

「こ、後方に居ます、戦闘の余波が絶対に届かない位置に、合図を出せば直ぐに合流出来ると思いますが……」

「合図を送ってくれ、コイツを止めるには先生の協力がなければ不可能だ」

「いやぁ、でも運が良いよね! 一発目からアタリを引いちゃったもん! ここの通路を聞いた生徒も直ぐに吐いてくれたし、やっぱり日頃の行いってヤツかなぁ?」

 

 その場で踊る様に制服を翻し、両手を掲げながら高らかに声を張るミカ。その瞳は暗闇の中で爛々と輝いている、危険な光だ、破滅を齎す眼光だった。長く生死の狭間に近い場所で戦い続けていたサオリは、その手の瞳を良く知っていた。

 サオリの愛銃を握る手が、軋む。

 

「通路封鎖まで時間は」

「第三隔壁閉鎖まであと二十分、第二、第一は五分刻みだから、第一の此処は実質後十分で閉じる」

「……厳しいか」

 

 その一言に、ミサキは自身のリーダーがミカと戦う事を選んだのだと悟った。

 

「戦うつもり? あの女と交戦するのは無謀だと思うけれど」

「む、無謀ですかね?」

「体力も、弾薬も余裕が無い、それに時間的にも精神的な面でも――先生の指揮があれば戦えるかもしれないけれど、無傷じゃ無理、あの女の武力はティーパーティーでも群を抜いている、知っているでしょう?」

「あぅ……」

「あはは☆ 愚鈍な女だと侮ってた? まぁ、そうだよね、今まで散々好き勝手されたんだし、でも、あなた達の暗号表と地図くらいは頭に入っているんだから! 勿論、大まかな集合場所や拠点とかも、こう見えてもクーデターを起こした張本人だからねっ!」

 

 ミカはスクワッドの反応を他所に恍惚とした表情で言葉を捲し立てている。それは一方的な感情の吐露に近しい。気持ちが高ぶって、高揚感に支配されている、真面な精神状態ではない。それは誰の目から見ても明らかだ。

 

「……リーダー、一度後退して出直すのは」

「無理だ、時間がない、順次封鎖の点を考えれば第一隔壁でもギリギリになる」

「な、なら、何とか撃退するしか……」

「私の事利用しやすかった? あはは! きっと、馬鹿だと思っていたよね、まぁそれは否定しないよ!」

 

 全員が愛銃を握り締め、否が応でも戦意を高めていく。最早退路は無い、懸かっているものが仲間の命である以上、諦める事も出来ない。

 一瞬の油断が破滅に繋がる――それを彼女達は全身で感じていた。

 冷汗が頬を伝い、顎先に流れる。

 一歩、サオリが静かに踏み出した。

 

「合図は」

「……もう送ってある、三分以内には合流出来る筈」

「なら、それまで何とか凌いで――」

「ねぇねぇ、私の話聞いている? 無視? それって酷くない? これでも一緒にクーデターを起こした仲なのにさぁ……前だって、拳を交わしたのに」

 

 不意に、気分良く言葉を垂れ流していたミカが、ぴたりとその動きを止めた。

 そして身体をゆっくりと回転させ、スクワッドを正面に捉える。その全身から迸る憎悪や殺意、そういった感情がぶわりとスクワッドを包み込み、肌が粟立った。煌々と光る瞳が、サオリを射貫く。

 

「仲間外れは、良くないじゃん――ねッ!?」

 

 ほんの一呼吸、力む様な動作。

 そこから一瞬にしてミカの姿が視界から掻き消える。瞬間、全員の身体が強張るのが分かった。

 影に潜み、風となったミカが肉薄する。

 

「ひっ、き、来ましたッ!?」

「散開ッ! 絶対に正面から受けるな!」

 

 そう叫ぶと同時、サオリの真横を剛腕が掠めた。長髪が靡き、風圧だけで身体が圧し出されてしまう様な錯覚、目尻に痛いとも熱いとも取れる感覚が走り、一拍遅れて蹈鞴を踏む。直ぐ目の前に、星を散りばめた様なミカの瞳があった。

 その瞳は、余りにも昏い。

 

「ぅ――ッ!?」

「あははッ! 精々必死に足掻いてよ、サオリッ! そうじゃなきゃ、此処まで来た意味がないんだからさぁッ!?」

「っ、応戦するッ!」

 

 鈍い赤色の中で、サオリは外套を翻し愛銃を構える。応じる様にして彼女も銃口を突き出し、ミカの構えた銃口と、サオリの銃口が交差した。

 

 ■

 

「ふぅ――ッ」

『先生、大丈夫ですか……?』

「これくらいは、問題ないさ」

 

 スクワッドを送り出した直後、先生は深く息を吐き出し、その場に座り込むと壁に寄り掛った。背中に伝わる冷たさが、今だけは気にならない。先程まで取り繕っていた表情が微かに崩れ、強い疲労が色濃く顔に出ていた。

 暗闇では気付けない程度の、血色の悪さ。

 先生は弱々しく鼓動する自身の胸元を掴み、目を瞑る。

 

「けれど流石に、これだけ走ると堪えるな……」

『バイタルが乱れています、せめて少しだけでも休息を――』

「いや……直ぐに戦術指揮を執る、画面に戦況を映してくれ」

 

 シッテムの箱を片手に、先生はそう告げる。既にリンクを完了したアリウススクワッドは戦闘に突入しようとしている、自分だけはのうのうと休んでいる訳にはいかない。生徒達が頑張っているのだ、それに応えねば自分が此処に居る意味すらなくなってしまう。

 

『先生……』

「大丈夫、慣れたものさ」

 

 アロナの不安げな声に笑みを貼り付け、強がりを口にする。額や頬からたれる雫は雨水に違いない。自身にそう聞かせ、口から白い吐息を漏らしながらモニタを覗く。薄暗い地下道のなかでぼんやりと光る青は、スクワッドの戦況を詳細に映し出していた。

 

「――数は多いが、突破出来ない戦力じゃない」

 

 敵の配置、数、地形を見つめながら先生は呟く。スクワッドの配置は前衛(フロント)にサオリ、中衛(ミドル)にミサキ、後衛(バック)にヒヨリの配置。

 初手は大火力で敵の意表を突くと同時、なるべく多くの相手を戦闘不能にさせる様指示する。室内であれば爆発から逃げる場は無く、ミサキのセイントプレデターであればそれらの条件を満たせるだろう。

 後は爆発によって浮足立った所にサオリを投入し、一気に場を攪乱する。絞られた視界の中で派手に立ち回る彼女の姿はアリウスの目を引き付ける事だろう。その間にミサキにはリロードを済ませて貰い、再装填が済み次第サオリの援護に回ってもう。

 幸いな事に初手の爆発で大半の生徒を処理できた様で、その後の戦闘は殆ど残敵処理の様相を呈していた。

 

 その後、隔壁内部より増援が現れるもヒヨリの狙撃で出鼻を挫き、隙がある様ならミサキに弾頭を撃ち込む様に指示。サオリに関しては、適宜最適な立ち回りを自ずと心得ている為指示の必要すらなかった。後は敵の立ち位置などから危険な相手をピックアップし、彼女達の視界に強調表示させる。

 それらのほんの五分の間に済ませ、先生はふっと口元を緩ませる。

 

「……この調子なら、彼女達だけでも大丈夫そうだ」

 

 戦況はスクワッド有利で進んでいる。暗闇の中でもアロナのサポートは確実に機能しており、暗中に於いての戦闘では此方に一方的に有利な展開となる。ましてや室内に於いては同士討ちの類が発生しやすく、更に白兵戦に強いサオリが常に前に出張って肉薄して来る始末。向こうからすれば実に戦い辛いに違いない。

 次々と消失する敵性反応に先生は胸を撫でおろし、一度シッテムの箱を自身の足に乗せ、先生は画面の中に佇むアロナへと告げる。

 

「アロナ、少しの間戦況の監視をお願い」

『わ、分かりました、任せて下さい!』

 

 その返答を聞き届け、先生は懐に手を差し込むと、一本の細長いプラスチックケースを取り出した。それは人差し指よりも一回りか二回りほど太く、長い。ケースを開封し逆さにすると、中から注射器を取り出す。画面の光に翳して内容物を確かめると、先生は先端のキャップを外し、自身の右腕を包んでいた衣服を捲り上げ、そこに打ち込んだ。

 

「――ッ」

 

 プシュ、という気の抜ける音が響く。針の無いそれは、先生に痛みを齎さない。ただ何か、冷たい空気が肌を舐める様な感覚があった。効果は直ぐにあらわれるだろう、空になった注射器を腕から離し、先生はそう思考する。

 

 キヴォトスの生徒は平気で三十分、一時間と全力で走り続ける事が出来るが、残念ながら先生は違う。ましてや肉体を大きく損傷し、心肺機能や運動能力の低下した先生にとって、それらの強行軍は強い負担を肉体と精神に強いていた。しかし、足を止める事は出来ない。故にこうした状況では、薬に頼る事がしばしばあった。

 残念ながら、決して体に良い代物とは云えないが――それでも、今が踏ん張りどころなのだ。

 

「っ、ふ、は――……」

 

 肺を使い、大きく息を吸い込む。空になった注射器を手放すと、軽い音を立てて容器が床に転がった。全身が僅かながら熱を持ち始め心臓が強く脈動するのが分かる。足をそっと動かせば、確かに力が入り易くなった様な気がした。時間が経過すれば、効果もより実感出来る事だろう。

 

「……これで、まだ動ける」

 

 天井を仰ぎ、先生はそう呟いた。

 肉体が十全に動く事を確認し、先生は再び外套の前を開いて中を覗き込む。シャーレの制服、その内側に用意されている内ポケット。其処に吊り下げられたプラスチックの容器――細長いそれは本来五本存在していたが、内ふたつは空になっている。

 ヒヨリとミサキを見つける為に、サオリと共に走り回った際、既に同じものを一本打ち込んでいた。

 

 先生の手持ちは、残りは三本。

 

「それまでには、ケリをつけないとね……」

 

 呟き、先生は再びシッテムの箱へと視線を落とす。

 画面には次々とアリウス生徒を打倒するスクワッドの姿が映っていた。反応の消失速度は順調だ、既に全体の三分の一を削り終えている。隔壁閉鎖の時間を考えれば、余裕をもって防衛部隊を退けられるだろう。

 

「順調だ、これなら防衛部隊を突破出来る――」

 

 確信以てそう告げる先生。やはり、環境に思う所はあれどスクワッドは優秀な部隊だ、既に部隊としての戦い方は身に沁みついており、グループとしての練度は一線級だろう。このまま細かな指示を出さずとも、彼女達ならば――。

 

 そう考えていた先生の身体を、微かな揺れが襲った。

 同時に通路全体に鳴り響く様な爆発音、唐突なそれに面食らった先生は、僅かに腰を浮かせながら周囲を見渡す。

 

「っ、何だ……!」

『――先生!』

 

 手にしたシッテムの箱からアロナの声が響く。見下ろせば、戦況を映し出した画面に張り付いたアロナが焦燥を滲ませながら告げた。

 

『現地に新しい生徒さんの反応が……!』

「新しい反応……アリウスの増援か? けれど、まだ時間は――」

 

 画面に表示されるデジタル時計を確認しながら、そう言葉を零す。スクワッドが戦闘に突入してから然程時間は経過していない、どれ程近くに部隊が展開していたとしても、地下通路を通って此処に来るにはまだ少し時間が掛かる筈だった。

 

 しかし、先生の予想に反して新しい反応は確かに生まれており、不可解な事にその反応が動く度にアリウスの反応が続々と減っていく。スクワッドはその場から動く事無く、新たに確認出来た反応が次々と単独で防衛部隊を退けている様子だった。

 恐らく、そう遠くない内にこの生徒は防衛隊を全て撃破するだろう。そう確信出来る程度には、凄まじい強さだった。

 

「――まさか」

 

 先生の思考に過る存在。

 予感があった。

 拭いきれない、強い不安。

 同時にシッテムの箱が震え、一つの通知が齎される。

 赤色で表示されるそれは、予め決めていた一つの合図。

 

 ――合流信号。

 

「急ごう、アロナッ!」

『は、はい!』

 

 それを見た瞬間、先生は一も二も無く立ち上がった。シッテムの箱を胸元に抱え、なりふり構わず全力で駆け出す。靴音が地下通路に響き渡り、先生は白い吐息を零しながら思わずその名を呟いた。

 

「ミカ……!」

 

 ■

 

 周囲に轟音が鳴り響いた。

 同時に濛々と砂塵が立ち上り、その中央に寄り掛る様にして項垂れるヒヨリの姿がある。崩れた軍用コンテナに手を掛け、朦朧とする意識を辛うじて繋ぎ止める彼女。衝突した背中、そしてガンケースを支えた肩が酷く痛む。

 

「う、ぐぁ……」

 

 視界が狭まり、口から呻き声が漏れた。彼女の足元には軍用コンテナに混じる様にして、彼女の愛銃を収納していたガンケースが転がっていた。その表面は拳型に凹み、塗装が剥げ落ちている。数多の弾丸を防いで来た彼女の盾が、こうも簡単に。

 緩慢な動作で首を擡げれば、視線の先に拘束されたミサキの姿が見えた。

 腕を掴まれ、そのまま力任せに吊り上げられている。身長はミサキの方が僅かに大きいというのに、そこにはまるで大人と子供の様な膂力差が存在した。

 

「ぐッ――!」

「ねぇ? ねぇねぇ? ねぇねぇねぇサオリ! 嘘だよね? こんなものじゃないよねぇ!? あなた達スクワッドは……!」

 

 ミサキを釣り上げたまま、ミカは直ぐ傍で這い蹲るサオリに向かって煽る様に叫んだ。サオリは口から血の滲んだ唾液を垂らし、必死に立ち上がろうと藻掻いている。つい先ほど、ミカの蹴撃を胸元に受けた。咄嗟に衝撃を逸らし、受け身を取ったものの受けたダメージは深刻である。

 体を支配するそれらに対し、サオリは睨みつける様にしてミカを見上げる事しか出来ない。

 

「これで終わりなの? これが本当にあなたの全力なの? 違うって否定してよ、ほら精一杯さぁ……!」

「っ、はな、せ……ッ!」

 

 左腕を掴まれ、宙づりにされたミサキは不安定な状態から拳を繰り出す。それはミカの頬に直撃し、決して生易しくはない衝撃を生み出す。先生に直撃すれば頭蓋が陥没しても可笑しくないレベルの打撃。

 だというのにミカは微動だにせず、まるで赤子の駄々を受けた様な白けた視線を向けるだけであった。避けもしなければ防ぎもしない、ただ鼻を鳴らし口元を歪めるのみ。

 

「……お飾りの人形だって今のあなたより上手く戦えるんじゃない? まさか、本当にこの程度じゃないよね、スクワッドは、立ちなよサオリ、じゃないと――」

「い、ぎッ……!?」

 

 ミシリ、と。

 掴み上げたミサキのその腕が軋みを上げた。普段感情を表に出さないミサキが、その表情を苦悶に染める。

 

「あははッ! 前のあなたみたいに、今度はこの子の骨が折れちゃうかもねぇ!? このまま千切っちゃうのも良いかもッ! あなた達が先生にやったみたいにさぁ!」

「み、サキ……ッ!」

 

 反射的にミサキがミカより逃れようと、その足を使って必死にミカを蹴り飛ばす。しかし、彼女の身体は微動だにせず、腕を掴む力は益々強まる。ミサキの抵抗も段々と力を失い、その様子をミカはつまらなそうに眺めていた。

 

「あーあ、もう終わり? これで精一杯? ほら、もっと抵抗しなよ? 私がこんなに無防備にしているんだから、さぁッ!」

「がッ!?」

 

 腕を掴んだままミサキを振り回し、近場の外壁へと叩きつける。爆音を打ち鳴らし、コンクリート壁に背中を強打したミサキは、肺の空気を全て吐き出し、罅割れ飛び散った破片と共に地面へと崩れ落ちる。その光量を落とし、力なく点滅するミサキのヘイローを眺めたミカは肩を竦ませ、徐に周囲を見渡した。

 倒れ伏し此方を睥睨するサオリ、コンテナに埋もれたヒヨリ、今しがた内壁に叩きつけられ項垂れるミサキ――もうひとり、ミカの知る生徒の姿がない。

 

「あれ、そう云えば一人足りないね? マスク姿の無口なあの子は? 姫、姫って、皆で大事にしていたじゃん」

「っ……!」

 

 その一言に、サオリの口元がマスクの向こう側で歪んだ。しかしミカがそれに気付く事はなく、首を軽く揺らしながら事も無げに吐き捨てる。

 

「んー、でもまぁ、どうでも良いか、あなた達を片付けた後、ゆっくり探せば良いし――あの子ひとりじゃ、何も出来ないでしょ」

 

 それは慢心か――否、ミカにとっては真実であった。一度対峙し、彼女の力は良く理解している。その肉体には何か、表現できない神秘(何物かの守護)を感じる事があったが、だからと云って彼女自身の力が増している訳ではない。対峙すれば、絶対に負けない自信がある。ならば後で探し出して叩きのめせば良い、彼女にはそれが出来る。

 

「ぅ――……」

「さて、後はあなただけだね、サオリ」

 

 這い蹲るサオリに軽い足取りで近付き、ミカはその笑みを益々深くする。其処には嗜虐芯に勝る、隠しきれない侮蔑と嘲笑の色が含まれていた。

 

「それにしても、あなた達、ほんと懲りないよねぇ」

「……っ」

「何回も、何回も、銃を向けて、先生を殺そうとして――殆ど害虫みたいなものじゃない?」

「っ、先生……?」

 

 ミカの物言いに、何か違和感を覚えるサオリ。しかしそれを言葉にするだけの余裕が無い。ミカは徐に屈みこむと、倒れ伏したサオリの顔を覗き込みながら言葉を続けた。

 

「前に云ったけれど、私はあなた達を許すつもりなんてないよ、あなた達がしてきた事も、これからやろうとしている事も」

 

 カシャリ、と。

 持ち上げたミカの銃身がサオリを向く、その引き金には既に指が掛かっており、いつでも発砲出来る準備が整っていた。サオリとミカの視線が交差する、ほんの数秒、僅かな間だけ、周囲に沈黙が降りる。

 不意に、ミカがその瞳を伏せた。

 

「実はさ、ちょっとだけ――夢見ていたんだ」

「っ……?」

「明日になったら全部、元通りになるかもしれないって……前みたいにナギちゃんと、セイアちゃんと、先生と、いつも通りお茶会が出来るようになるんじゃないかって、そんな風にさ、ほんのちょっぴりだけれど、本当に、小さな小さな希望だけれど、夢見ちゃったの」

 

 声には、どこか惜しむ様な、切実な色が感じられた。

 縋る様な、希う様な、凡そサオリが知る聖園ミカからは想像もできない弱々しい声。

 伏せていた瞳を上げ、ミカは再びサオリを見つめる。

 

「でも、そんなものはお話の中だけだった……運命はもう決まっているみたい」

 

 へらりと、ミカはそう云って表情を崩す。

 そう、現実はそんな甘い未来を齎さない。

 犯した罪悪がなくなる事は、決してない。

 百合園セイアが自分(聖園ミカ)を許す事はないし。

 その(サンクトゥス)分派が憎しみを断つ事は無い。

 憎悪は波及し、自身を擁するパテルとの対立は深まっていく。

 その連鎖は、終わる事を知らない。

 自分(聖園ミカ)が、彼女達(スクワッド)を憎み続ける様に。

 それが、痛い程に良く分かった。

 だから――。

 

「私が、聖園ミカがあの場所に居るだけで、皆不幸になる、私がした事が許される事はないし、多分、これから先もずっとそう、永遠に私は罪を背負って生きていくの……でも」

 

 ミカの手が軋み、その口元が強く結ばれる。自分に残されたものは何もない、文字通り空っぽだ、彼女に残されたものは燻った感情と、最後に託された友人からの言葉。

 それだけだった。

 

「これが、私に出来る唯一の(贖い)だから――」

 

 だから、スクワッドは――彼女達は、自分と同じ痛みを受けるべきなんだ。

 これは正当な行いだ、その中で自分が個人的な恨みを果たそうと、その行いは正義に違いない。

 自分が失った分だけ、今度こそスクワッドも失うべきだ。

 友人も。

 居場所も。

 未来も。

 

 ――何もかも。

 

「これで――漸く、平等だね(私と同じだね)、サオリ」

「くッ……!」

 

 ゆっくりと絞られるトリガー、それをサオリは絶望的な心地で眺める事しか出来ず。

 サオリはその瞳を細めながら、自身の破滅を予期した。

 

「――ゲホッ、そん、な、くだらない、事は」

「……!」

 

 不意に、ミカの耳へと声が届いた。

 思わず振り向けば、壁に叩きつけられていた筈のミサキがセイントプレデターを構え、ミカにその砲口を向けている。額から流れ落ちる赤色を拭いもせず、ミサキは侮蔑を込めて叫んだ。

 

「ひとりで、やってなよ……ッ!」

 

 トリガー、同時に強烈なバックブラスト。弾頭が砲口より飛び出し、ミサキの前方へと一瞬の滞空を経て点火、閃光が周囲を照らしミカの下へと白い尾を引いて突貫した。反動でミサキの身体が後退し、同時に叫ぶ。サオリはミサキの砲撃と同時に死力を尽くし、素早く身を転がし近場のコンテナ、その裏へと滑り込んだ。

 

 直後、凄まじい爆音が鳴り響く。

 盾にしたコンテナが音を立てて吹き飛び、熱波がサオリの肌を焼いた。

 

「ぐぅッ……!」

 

 臓物が持ち上がり、耳が一時的に機能しなくなる。サオリは二度、三度、爆風に転がされ頭を抱えたまま硬い地面に叩きつけられる。しかし、ミカの拳を受けるよりは何倍もマシな状況だった。擦り切れ、血の滲む肌に顔を顰めながら、サオリは地面に蹲ったまま周囲を見渡す。

 爆発の中心に目を向ければ、濛々と立ち上る噴煙と火の粉で良く見えない。今だけは薄暗い地下通路が炎に照らされ明かりを取り戻し、サオリは今しがた致命的な一撃をミカに叩き込んだミサキへと目を向けると、力の入らない足を強く叩きながら何とか立ち上がった。

 

「ミ、サキ……ッ!」

 

 壁に寄り掛り、セイントプレデターを手放したミサキは荒い呼吸を繰り返し、その表情を苦痛に歪めている。サオリは彼女の肩を掴むと、その頬を軽く叩き覚醒を促した。

 

「ッ、おいミサキ、確りしろ……!」

「げほッ、こほっ! 大丈、夫」

 

 未だ朧げな視界の中で、しかし確かに頷いて見せるミサキ。負傷はしたが、致命的ではない、その事に安堵するサオリ。

 

「さ、サオリさん、ミサキさん……!」

「ヒヨリ、お前も無事だったか……!」

「は、はい、何とか、ですけれど……」

 

 同時に、コンテナを押し退けながら姿を現すヒヨリ。彼女も一時的な意識混濁から立ち直り、傷だらけの身体を引き摺って二人の視界に体を晒す。煤けた背嚢、塗装が剥げ凹んだガンケース、最後に愛銃を抱えたまま彼女は二人と合流した。

 全員の視線が地面を舐め、未だ噴煙の晴れぬ着弾地点へと向けられる。サオリの手を借りて立ち上がったミサキが、忌々しい色を隠さずに問いかけた。

 

「リーダー、あの女は?」

「……弾頭は直撃した、多少なりともダメージはある筈だ」

 

 ミサキの持つセイントプレデターは、本来であれば対人を想定して運用される兵器ではない。装填する弾頭を変更すれば最初に使用した広範囲を爆撃する用途にも使えるが、先程の一撃は正に戦車を撃破する為に用いる類の弾頭を装填していた。そこまでしなければ、聖園ミカを戦闘不能に出来ないと判断したからだ。

 ミサキは背負った背嚢の中に手を入れ、今のが対戦車・対装甲車用に持っていた最後の弾頭であった事を確かめる。

 この一撃で屠れなければ――今のスクワッドに、これ以上の火力は。

 

「あー、びっくりした!」

「―――」

 

 声は、思いの外歓喜を含んでいた。

 立ち昇る噴煙の中、くっきりと映る人型の影。それは軽い足取りでスクワッドの方へと距離を詰め、軈てその指先で煙を掻き分ける。

 

「サオリと同じで、結構タフなんだね、そっちの子も! まさかあの状況で撃って来るなんて想定外だったよ!」

 

 地を舐める炎を踏み躙り、再び姿を現した――聖園ミカ。

 その頬には微かに煤が付着し、身に纏っていた制服は所々解れている。

 しかし、逆に云えばそれだけだ、大きな傷らしい傷は全く見られなかった。

 その暴威は、未だ健在。

 

「確実に失神させたと思ったんだけれどなぁ……って、うわ、手の皮剥けちゃったじゃん、今ハンドクリーム良いの持ってないから、ケアが大変なんだよ? あなた達には馴染みのない話かもしれないけれどさぁ」

「――馬鹿な」

 

 思わず漏れたサオリの声は、スクワッドの総意であった。

 セイントプレデター、その弾頭の直撃、信管は確実に作動していた。少なくとも装甲車の装甲を貫通するだけの威力はある。煤け、微かに荒れた掌を見つめながら顔を顰めるミカには、その爆発を受けただけの様子が見受けられない。

 サオリも、ヒヨリも、ミサキでさえ、まるで理解出来ない存在を見つめる様な瞳を向けてしまう。

 

 まさか、弾頭が着弾する瞬間に掴み、握り潰したのか?

 

 手を開閉させ、その表面を擦るミカを見つめながらそんな事を考えてしまう。可能か不可能であるかを問うならば、理論上は可能だろう。しかしだからと云ってダメージが衣服にしか見られないというのは、明らかに可笑しい。

 どういう肉体強度だと、サオリは思わず内心で吐き捨てた。

 

「でも、ちょっと安心したよ、やっぱりアレが全力な筈ないよね? あははっ、まだまだ戦えそうじゃん!」

「ッ……!」

「んー……でも、あんまり余裕はなさそうだね? 後何発耐えられる? どれ位弾を撃ち込んだら動かなくなるのかな? 出来るだけ長く耐えてくれると嬉しいな」

 

 ミカは弾頭を受け止めた手を握り締め、一歩、力強く前へと踏み出す。その分、無意識の内にサオリ達は一歩退いた。

 しかし逃げ場はない、彼女の背中には進むべきアリウス自治区への入り口があるのだから。暗闇の中で口を開く通路に視線を向け、サオリは表情を歪める。迷う暇はなかった、今この中でミカと白兵戦を演じられるのは――自分を於いて他にない。

 最悪、自分が此処でミカを引き付け、二人だけで先生を連れ自治区へと進行して貰う想定もしておく。状況は更に悪くなるだろうが、他に代替案はない。

 大きく息を吸い、思い切り歯を噛み締め、サオリは一歩前へと踏み出す。

 

「ミサキ、ヒヨリ、カバーを頼む……!」

「さ、サオリさん……!」

「リーダー……ッ」

「あははッ、良いね、凄く良い顔つきじゃん!」

 

 戦闘の余波で手放してしまった愛銃と距離があると見たサオリはサイドアームとナイフを素早く抜き放ち、油断なく構える。インファイトに於いては寧ろ、リーチのある突撃銃は足枷になる可能性があった。そうでなくとも拾いに行く隙などないだろう。

 サオリは努めて冷静に呼吸を整え、覚悟を決めた。その瞳に宿るのは不退転の意志、それを感じ取ったミカが哄笑と共に歓喜を滲ませる。ミサキとヒヨリが彼女の名を呼ぶと同時、二人は殆ど同時に前へと駆け出した。

 

「猟犬の意地を、見せてやる……ッ!」

「そう、その調子だよサオリ! 全力で抗ってッ! その、最後の(ヘイローが壊れる)瞬間までさぁッ!」

 

 サオリがナイフを引き絞り、ミカは拳を握り締める。衝突はほんの一秒足らずの内に起こるだろう、勢いそのままに振り被った二人、その切っ先が互いに届く――そう思われた瞬間。

 

「――ちょっと待ったッ!」

 

 薄暗い地下通路に、聞き覚えのある声が響き渡った。

 

「ぅぇッ!?」

「ッ!?」

 

 その声に従う形でミカの拳は急停止し、サオリの顔面を突風が突き抜ける。

 同時にサオリの突き出したナイフも、ミカの眼球手前で停止していた。

 二人の視線がゆっくりと、声の響いた通路の奥へと向けられる。場所は隔壁とは反対方向、非常灯の赤に照らされたそこには、息を荒げ青白い表情をした先生が立っていた。

 余程急いで駆けて来たのだろう、肩は大きく上下し大量の汗を流している。髪はボサボサで、隠されていた右目が弾む呼吸に合わせて時折覗いていた。

 

「……せ、先生?」

 

 ミカが呆然とした様子で彼の名を呼ぶ。サオリはその合間に数歩間合いを取り、先生を見つめながら内心で安堵の声を漏らした。

 

 先生、間に合ってくれたのか――!

 

 先生の到着には大きな意味がある。これでミカは戦えない、少なくとも大立ち回りは出来なくなるはずだ。聖園ミカという少女が、先生の前で暴力を振るう事を疎んでいるとサオリは実体験として知っていた。少なくとも先生の指揮があれば撃退する事も叶うかもしれない、と。

 安堵した瞬間、身体の痛みがぶりかえし、サオリは思わず顔を顰める。しかし、完全に気を抜く事はしなかった。銃口は向けず、拳銃(サイドアーム)の引き金に指を掛けたまま、彼女はじっと沈黙を守る。

 

「え、ぁ、せ、先生? ほ、ホントに先生なの――……? な、なんで、こんな所に」

「ミカ、それは、それだけはしちゃいけない(その一線だけは超えちゃいけない)と――私は、そう云った筈だよ」

 

 先生は弾んだ息を整えながら、ミカの中途半端に突き出された拳を指差し告げる。それに気付いたミカは咄嗟に拳を解くと、慌てて自身の背中に隠した。視線が泳ぎ、ミカはばつが悪そうな、恥ずかしそうな、同時にどこか安心したような、何とも表現し難い表情を浮かべる。

 それは先生に咎められていた行為を見られたうしろめたさ、同時に先生の無事を確認出来た事による安堵だった。

 それらが混ざり合い、同時に疑問が踏まれる。

 痛々しい笑み、引き攣った口元をそのままにミカは口を開いた。

 

「せ、先生、あの、えっと、これは――そ、それより、何で先生が此処に居るの? 今、トリニティでセイアちゃんが大変な事になっていて、す、スクワッドが、先生を……」

「……ミカ」

「あっ、そ、そっか! 先生、スクワッドに無理矢理拉致されて、此処まで連れてこられたんだね!? だから、こんな場所に……!」

「……それは、違う」

「えっ、ち、違うって――」

 

 セイアは、スクワッドが先生を狙っていると云った。

 だから先生はスクワッドに無理矢理此処まで連れて来られて、アリウス自治区に誘拐される所だった。

 それをたった今、自分が阻止したのだ。

 彼女の予想は、大まかにそんな所だった。

 現状を見ても、そう間違った判断ではないと、ミカはそう断言出来る。

 

 けれど、それに対する先生の答えは否定だった。

 返された答えに酷く動揺した様子で、ミカはスクワッドと先生を見る。その瞳は、分かり易く揺らいでいた。

 

「え……だ、だって、だって先生が、スクワッドに、狙われているって、せ、セイアちゃんが、そう云って……先生が此処にいるのは、スクワッドに、無理矢理連れられて、従わされているからじゃ――」

 

 返答は無い、ただ先生は沈痛な表情を浮かべるのみ。答えは変わらない、その予想は間違っていると、言外に彼はそう告げていた。

 なら、どうして。

 

 ミカの心臓が一際強く音を鳴らした。

 酷く、嫌な予感がした。

 背中に氷柱を突き入れられた様な悪寒、冷汗が流れミカは血が凍る様な感覚を覚えた。

 

 なら、どうして。

 ――先生は、スクワッドと共に居るのだろうか?

 

「ち、違うの? な、なら何で、ねぇ、何で先生がこんな場所に居るの? 此処は、アリウス自治区に通じる通路だよね……? 無理矢理じゃないなら、もしかして、先生は自分の意志でコイツ等(スクワッド)と一緒に行動しているの?」

 

 声は、みっともない程に震えていた。

 偶然はあり得ない、先生は自身の意志でこの場所に立っている。先生の周りには他の生徒の姿が見えなかった、先生が出歩くとき、大抵は常に誰かしら護衛が存在する。ましてやこんな場所に立つならば尚更。

 だと云うのに、先生の周りには誰も無い、それらしい生徒の姿が見えない――トリニティの生徒も、ゲヘナの生徒も、ミレニアムの生徒も、百鬼夜行の生徒も、アビドスの生徒も、誰も。

 

 そして、唯一の例外が自分とスクワッドだった。

 加えて、先生はスクワッドに拉致されたのではないと云う。

 それが、答えだった。

 

 スクワッドは何も答えない。

 先生に銃口を向ける事も、敵意を向ける事も無い。今まであれ程先生を敵視し、傷付けていた彼女達が。

 先生に、何の注意も払っていない。

 それはミカからすれば余りにも不自然で、不可思議な行動であった。

 けれど、もしそれに理由があるのならば。

 もし、そうならば。

 それが、本当(真実)ならば。

 

「先生は、まさか、スクワッドの事を……」

「――私が、先生に救援を頼んだ」

 

 ふと、横からサオリが口を挟んだ。

 それは、彼女が予想もしていなかった答えだった。

 

「……は?」

 

 思わず、吐息が漏れる。

 ぎこちなく、ブリキの玩具めいた動作でミカは顔をサオリへと向けた。傷に塗れ、自身の肩を抑えながら真剣な面持ちで此方を見る彼女に、嘘の気配はない。

 

「私達、スクワッドは先生に助けを求め、それを先生が受け入れてくれた……ただ、それだけだ」

「――なに、それ」

 

 思わず、そんな言葉が口をついた。

 スクワッドは先生に協力を要請し、先生はそれを受け入れた。

 何故――? ミカの脳内にその言葉が溢れる、どうしで、何で、そんな事になるの、と。そんな思考に埋め尽くされたまま、彼女はゆっくりと先生に顔を向け、問うた。

 その顔は、今にも泣きそうな表情だった。

 

「先生、それ……本当?」

「――あぁ」

 

 返答は、肯定。

 それは余りにも簡潔で。

 余りにも残酷で。

 

 聖園ミカの直視し難い――現実だった。

 

「は、ははっ……」

 

 笑みが漏れた。

 肩が揺れ、視界が涙で滲む。

 それは余りにも乾いた、失笑だった。

 

「あはっ、あははッ! あははハハハハッ!」

 

 微かに漏れ出たそれは段々と哄笑へと変貌し、ミカは自身の顔を覆いながら無遠慮に、高らかに声を響かせる。周囲にミカの狂気じみた哄笑が鳴り響いていた。手から零れ落ちた愛銃が地面に転がり、甲高い音を立てる。対峙していたサオリは唐突なそれに面食らい、思わず数歩蹈鞴を踏んだ。

 ミカは顔を覆ったままよがり、背を曲げたまま絶叫する。

 

「なに、何それ、そんなのってアリ? スクワッドは、先生の腕も、目も奪ったんだよ? 体に銃弾まで撃ち込んで、一回心肺停止になったって、それなのに先生……こいつらの味方をするの!?」

「ミカ――!」

「ねぇ、どうしてこうなるの……!? よりによって、先生が、どうして……ッ!」

 

 それはミカの胸の内に秘めていた、感情の爆発。どうしようもない遣る瀬無さ、自身の想定していた未来との乖離、行き場を失ったそれらはミカの瞳からポロポロと零れ落ち、その指先が彼女の皮膚に傷を残す。

 

「先生は、私の味方だって、そう云って、くれたじゃない――……!」

 

 叫びながら彼女は想う。

 あぁ、知っている、知っているとも。先生は優しく、素敵で、強いひと。どんな罪悪を背負っても、どんなに癇癪を起しても、決して見捨てず寄り添おうとしてくれる。其処に損得の感情は無く、下心は無く、ただ真摯に、真っ直ぐ、生徒を想ってくれる善人だ。

 先生は聖園ミカの味方だと云った。

 そして先生は同時に、スクワッドの味方でもあった。

 どれだけ傷付けられても、どれだけその差し伸べた手を払われたも、何度でも言葉を尽くしたように。

 先生は、生徒みんなの味方だから。

 

 ――先生は、聖園ミカだけの味方にはなれない。

 

 セイアは云った、スクワッドが先生を狙っていると。

 だから先生を守る為に、聖園ミカはこの場所にまでやって来た。

 セイアのお願いを聞き届ける為に。

 大事な先生を守る為に。

 友達との、大切な、最後の約束を守る為に。

 

 でも――現実は異なっていて。

 先生はスクワッドの為に動いていて。

 聖園ミカ(予言)の望んだ未来何て、何処にもなくて。

 セイアの語って聞かせた先生を狙うスクワッドは存在せず。

 先生を守ると云う方便すらも失われ。

 残ったのは中途半端に振り上げられた、憎悪と怒りを孕んだ拳だけ。

 

 顔を覆い、涙を零し、震えるミカは声を絞り出す。

 セイアの約束は存在せず。憎悪と怒りの対象であったスクワッドは先生と共に在り。そのスクワッドを、憎しみの対象を――既に先生が赦していると云うのなら。

 

「なら、それなら私は、どうしたら――……ッ!」

 

 この、煮え滾る感情を。

 遣る瀬無さを。

 怒りを。

 憎しみを。

 悲しみを。

 

 ――一体、誰にぶつければ良いと云うのだ。

 

「ミカ、私は――」

 

 先生が、失意の底に在るミカへと歩み寄ろうとした。背を曲げたまま座り込み、涙を零す彼女に言葉を尽くそうと、その手を取ろうと、一歩を踏み出す。

 

 しかし、それを遮る影があった。

 

 唐突に鳴り響く一発の乾いた銃声。

 それは隔壁の反対側から。

 

 誰も、その存在に気付く事が出来なかった。

 発砲に気付いた時には既に遅く、飛来した弾丸は真っ直ぐ先生の額を狙って直進していた。

 暗闇の中を突き進むそれは、赤い非常灯を反射し鈍く、一瞬のみ輝く。

 まるで全てがスローモーションのように進んで見えた。サオリが、ヒヨリが、ミサキが目を見開き――ミカが驚愕と悲壮に口を開く。

 先生は、反応する事すら許されない。

 弾丸が無慈悲に、先生の頭部を捉える。

 その瞬間。

 

「先――ッ!?」

『させませんッ!』

 

 刹那、一瞬のみ青白い光が先生を覆った。

 そうとしか表現できない、摩訶不思議な現象だった。

 

 弾丸は先生の額に着弾する寸前、火花を散らして逸れ、後方へと着弾する。ほんの一瞬の出来事だった、先生は唐突に散った火花に面食らい蹈鞴を踏む、余りにも一瞬の出来事で理解が追いついていなかった。だが、撃たれたという事だけは直感で理解した。

 体を強張らせたまま先生はシッテムの箱を掻き抱き、姿勢を低くして素早く回避行動を取る。

 

「外したッ!?」

「構わん、このまま全員排除しろッ! 特に先生は優先排除目標だッ! 火力を集中するんだ!」

「っ!」

 

 通路から顔を出したのはアリウスの生徒達。どうやら緊急避難通路襲撃の報を受け、駆け付けた部隊らしい。

 その数は決して少なくない、ミサキはいち早く立ち直るとセイントプレデターを担いだまま先生の下へと駆け寄り、その腕を掴むと強引に遮蔽の中へと身を押し込め、先生の盾となるべく覆い被さり、叫んだ。

 

「リーダーッ!」

「っ、あぁ……!」

 

 唐突な先生の危機に浮足だっていたサオリは、その叫びに意識を取り戻し背後のヒヨリへと声を掛ける。

 

「ヒヨリ、走れるか……!?」

「だ、大丈夫です……っ!」

 

 背嚢を担ぎ直し頷きを返すヒヨリに、サオリは転がっていた愛銃を回収し、応戦するように発砲を繰り返しながらミサキと先生の下へと駆け出す。ヒヨリもその後に続き、全員が転がっていたコンテナの影に身を隠した。コンテナに次々と弾丸が突き刺さり、甲高い音を鳴り響かせる。先生は自身に覆い被さるミサキを見上げながら、口を開いた。

 

「ミサキ……!」

「げほッ、せ、先生、時間がない――第一隔壁がもう直ぐ閉じる、直ぐ移動するから、準備しておいて……!」

「だが――ッ!」

 

 先生は地面に這い蹲ったまま、視線を横に向けた。其処には呆然とした状態のまま座り込むミカの姿があった。何発もの弾丸が彼女の身体に突き刺さるも、ミカは意にも介さない。ただ先生だけをじっと見つめ、まるで抜け殻の様に微動だにしない。

 

 先生の視線の先、ミカを見つめている事に気付いたサオリ、しかし彼女に構っている暇はない。

 隔壁が閉鎖される時刻(タイムリミット)だ。

 

 警報が鳴り響いた、反響するそれは騒々しく皆の鼓膜を叩いていた。非常灯のランプが点滅を始め、鈍い音と共に第一隔壁の閉鎖が始まる。ゆっくりと視界の先で閉じていく隔壁、分厚く、重厚なそれは戦車の砲弾でも撃ち抜けそうにない。

 

 ――これが閉まり切れば、アツコ救出の希望は潰える。

 

 サオリが徐々に閉鎖されていく隔壁を見つめ、焦燥を滲ませ叫んだ。

 

「先生ッ!」

「頼む、お願いだ……! 少しだけ、一分、いや三十秒で良い! ミカと、彼女と話をさせてくれ――!」

「無理だ! もう隔壁が閉じるんだぞッ!?」

「ッぅ――……!」

 

 緩慢な動作で閉じていく障壁、座り込むミカ、その双方を忙しなく見つめ、先生はその表情を悲痛に歪める。食い縛った口元から、唸る様な声が漏れた。それは押し殺した、先生の悲鳴だった。

 時間がない、時間だけがない、言葉を尽くす為の――。

 

 一瞬、アリウス生徒達から放たれていた弾丸の雨が止む。弾倉が空になったか、様子見か、何方にせよ好機である。ミサキがサオリに視線を向け、サオリは力強く頷いて見せた。ヒヨリが凹んだガンケースを構え、「出られます!」と叫ぶ。

 

 同時にぐん、と先生の身体が持ち上がった。サオリが先生を担ぎ上げ、いの一番に障壁の中へと駆け込んでいった。その後にミサキが続き、ヒヨリが背嚢を緩衝材に、ガンケースを盾に最後尾に立つ。再び発砲音が鳴り響き、ヒヨリの構えたガンケースに着弾する。火花が散り、甲高い金属音が周囲に木霊した。

 ぐんぐんと、ミカとの距離が開いて行く。

 迷っている暇は、一秒たりともない。

 先生はサオリに担がれたまま大きく息を吸い、銃声に負けない位大声で、全力で叫んだ。

 

「ごめんミカ! 本当にすまないッ! 今は説明する時間がないんだ、トリニティで――いや、どこだって良い! シャーレでも構わない! 待っていて欲しい、私は必ず帰るから!」

「……ぁ」

「ミカ、私を信じてッ!」

 

 ミカが、力なく先生に手を伸ばした。弾丸が彼女の背中を強かに叩き、その制服が、翼が汚れていく。その涙の滲んだ瞳を直視しながら、先生は精一杯、腹の底から叫んだ。

 

「私は、ミカの味方だからッ!」

 

 隔壁が閉じていく。あれ程存在した幅は、もう人が通れるギリギリの狭さしかなかった。

 

「急げッ、カタコンベの中へ! 走れッ!」

 

 先生を担いだサオリが隔壁を抜け、続いてミサキが滑り込む様に隔壁の中へと身を投げる。最後にヒヨリがガンケースと背嚢を抱き寄せる様にして滑り込むと同時、重々しい音を立てて隔壁は閉じられ。

 

 その壁は、スクワッドとミカを完全に隔てた。

 



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邂逅する小さな(可能性)

誤字脱字ありがとうございますわ~!


 

「はっ、はぁ……! 何とか、せ、セーフ、ですね……っ!」

 

 背嚢とガンケース、愛銃を纏めて抱え、閉じた隔壁にギリギリで滑り込んだヒヨリが呟く。血と硝煙に塗れ、衣服に付着した汚れを払いながら彼女は胸を撫でおろす。分厚い隔壁は内と外を完全に隔て、少なくとも確かな安心感を彼女達に齎していた。

 

「……けほッ、第三隔壁が完全に閉じるまでは、まだ猶予がある」

 

 口元を拭い、立ち上がるミサキ。隔壁閉鎖は五分毎、第一隔壁の此処が閉鎖してから、第二隔壁閉鎖までは五分の猶予時間がある。距離はそれほど離れていない、サオリは担いでいた先生をそっと地面に降ろし、額に滲む血と汗を拭いながら問いかける。

 

「アリウスの追撃部隊は――」

「……大丈夫、全員向こう側、一人もこっちに入ってきていない」

「……なら、直ぐ移動するぞ、正規通路からの追撃部隊がいつ来るかも分からない」

「了解」

 

 正規の出入り口を知っている彼女達ならば、そちらの通路から追撃に来ていても可笑しくはない。カタコンベの通路は複雑で、隔壁を抜けた先では無数の通路が絡み合っている。ペンライトを点灯させたサオリは通路奥を注意深く照らしながら声を上げた。

 

「此処から先は通路が複雑だ、全員はぐれない様に注意しろ」

「そ、そうですね、此処は電波も通じませんし、道に迷ったら終わりです……」

 

 サオリに続き全員が立ち上がって通路の奥に顔を向ける。

 そんな中、先生はひとり、座り込んだまま最後まで隔壁に目を向けていた。浮かぶ表情は深く、苦しいもの。或いはどこか、打ちひしがれている様にも見えた。

 

「先生……」

「………」

 

 座り込んだまま微動だにしない先生に向け、サオリその名を呼ぶ。数秒、何の反応も示さず佇んでいた先生だが、軈て自身の足を軽く叩くと緩慢な動作で立ち上がる。

 

「……すまない、直ぐ、行くよ」

「……あぁ」

 

 力なく立ち上がる先生を見ていたサオリは、咄嗟に何かを云い掛け、口を噤む。どこか言葉を探すような配慮、同時にその表情には罪悪感、後ろめたさが滲んでいる気がした。何度か口を開閉させたサオリだったが、結局言葉を呑み込み帽子を深く被り直すと、静かに踵を返す。

 

「此処を抜ければ、目的地のアリウス自治区だ……行こう」

 

 背中を向け、歩き出すサオリ。ヒヨリとミサキも先生の状態に思う所があるのか、その表情は何処か心配げだ。その視線に気付いている先生は強く拳を握り締め、思わずらしくもない悪態を零す。

 

「――……クソッ」

 

 それは、余りにも無力な自身に対する怒りであり。

 そして現状に対する、遣る瀬無さであった。

 

 ■

 

「スクワッドがカタコンベ内へと侵入しました」

「追撃命令は出ているか?」

「……スクワッドが自治区内に到達するまでは、追撃を続行せよと」

「――了解した」

 

 閉鎖した隔壁の向こう、そこに駆け込んでいったスクワッドの背中を見つめながら問いかける。端末を眺めながら告げる生徒は、小さく頷きを返した。緊急避難通路襲撃の報を受け駆け付けたが、残念ながら出遅れたらしい。

 どちらにせよ任務は続行、閉鎖された隔壁を後から開く手段はない為、正規ルートから迂回して追撃を行う必要がある。彼女が連れている小隊は三十名、周囲を見渡し先の戦闘で負傷した防衛隊生徒の手当てを指示しながら、出立の準備を進める。

 回収班が来るまでは、数人此処に隊員を残す必要があるだろう。

 

「準備ができ次第直ぐに出るぞ、進行ルートは――」

「あー、もう、痛いなぁ……」

「っ!?」

 

 視界の隅で、ゆっくりと起き上がる影があった。

 それは集中砲火を受け地面に倒れ伏した筈の生徒、しかし彼女はゆらりと起き上がると衣服に付着した煤を手で払いながら、何事も無かったかのように伸びをする。周囲に立っていた生徒が驚愕を貼り付け、思わず叫んだ。

 

「馬鹿な、直撃弾が何発も……っ!?」

「……私の意識を断ちたいなら今の百倍は撃ち込まないと無理だよ」

 

 弾痕塗れの制服を見下ろし、気だるげな反応を見せる――聖園ミカ。

 彼女の瞳には最早何も映っていない、非常灯に照らされながら周囲を見渡す彼女はふと、自身の解れた髪に気付く。

 

「あーあ、折角セットした髪がボサボサ……」

「ッ、射撃用意――!」

「待て!」

 

 咄嗟に銃口を向けるアリウス生徒、その前に立ち手を翳す存在がいた。

 部隊の小隊長だ。唐突なそれに面食らい、銃を構えていた生徒の一人が思わず疑問の声を上げてしまう。

 

「隊長……?」

「……聖園ミカ」

 

 彼女の名を告げ、一歩踏み出す小隊長。他の生徒とは異なる気配を放つ彼女を、ミカは何の色も見えない瞳で捉えた。

 髪を梳いていた指先が、静かに落ちる。

 

「君は一時期、私達の自治区を支援してくれていたな」

「支援……?」

「トリニティ物資の、横流しの件だ、短くない間物資を都合してくれていただろう」

「……あぁ」

 

 小隊長が口にし、ミカが納得の声を上げる。

 それはクーデターが発生する以前の事柄、聖園ミカがアリウスに接触し、和解を持ちかけた時の事だ。

 その時結ばれた非公式の協定に、聖園ミカがティーパーティーの権力を用いて、トリニティ内部の物資目録を改ざんし、アリウスへ横流し、支援するというものがあった。その内容物は多岐に渡り、単なる銃器や弾丸から食品、日常生活に必要な細々としたものまで、ミカからすれば何て事の無い、簡単に手に入るものが殆どであった。

 

 しかし、アリウスにとってはそうではない。キヴォトスに於いて殆ど伝手を持たず、ただ外に物資調達に赴くだけでも負担となる彼女達にとって、トリニティから齎される物資は大変に貴重なものだった。

 小隊長である彼女は、それを良く知っている。

 

「君も知っての通り、私達の自治区は物資に乏しい、君の支援で救われた者も多い、特にまだ成熟し切っていない者(貧民街の幼子)は、その支援物資こそが生命線だった……情けない話ではあるが、私達の自治区は独力で全ての生徒を食べさせていく事が出来ない」

「………」

「それを考慮して、今直ぐ此処を立ち去るならば手出しはしないと約束する」

「……! 正気ですか、隊長!?」

 

 それは、余りにも唐突な提案だった。彼女達にとって聖園ミカは、既に協力者という立場にない。利用するだけ利用して、あと素知らぬ顔をする――それがアリウスの中で決定された事柄だ。

 しかし、小隊長はその決定に一石を投じようとしていた、それは明確なアリウスの持つ方針への反逆だ。

 しかし、小隊長は重ねて告げる。

 

「目標のリストに聖園ミカは記載されていない、リスト外の敵性存在については各部隊の判断に委ねられている筈だ、少なくとも、この場で彼女を攻撃するか、しないか……その判断は私に委ねられている」

「それは、そうですが――」

「これは私が決めた事だ、責任は私が取る」

 

 その強い口調と意思に、隣に立つ隊員同士が顔を見合わせ、静かに銃口を下げる。一連の流れをミカは、何処か胡乱な目で見つめていた。

 

「ふーん、何、それ本気で云っている訳?」

「あぁ、この部隊の指揮権は私が握っている、私は至って本気だ」

「……いや、そういう事じゃなくてさぁ」

 

 悪態を吐く様に、或いは馬鹿にする様に。

 ミカはその表情を歪めると、その指先を隊長に向け告げた。

 

「――この程度の人数で、私の相手が出来ると本気で思っているのって事」

「……何?」

 

 告げ、ミカはまるで散歩する様に、事も無げに足を進ませた。それを困惑の表情で見つめる小隊長。そしてある程度距離が詰まると、ミカは徐に足を振り上げ――小隊長の顔面を強かに蹴り抜いた。

 

「がッ!?」

「っ――!?」

 

 生々しい打撃音が鳴り響き、小隊長の首があらぬ方向へと弾け、その身体がその場で半回転する。歪な姿勢、肩から地面に落下した小隊長はそのまま出来の悪い人形の様に床の上へと激突し、ピクリとも動かなくなった。

 静寂が周囲を支配する。ほんの、一秒足らずの出来事であった。

 倒れ伏した小隊長の顔をガスマスク越しに踏みつけ、ミカは哄笑を響かせる。

 

「あははッ、良かった、ちゃんと脳みそは入っているんだね? なのにさっきみたいな事云っちゃうんだ! 面白~いっ! そんなんじゃ日常生活大変じゃない?」

「ッ、発砲許可! 撃てッ!」

 

 ミカの暴挙に、アリウス生徒達は即座に応戦へと転じる。発声と同時に幾つもの銃声が鳴り響き、マズルフラッシュが彼女達の影を濃く映し出す。ミカの身体に何発もの弾丸が突き刺さり、その衣服がはためく。

 しかし、彼女はそれをそよ風受ける様な心地で佇んでいた。

 

「私が一人だから勝てると思った? 勝ちたいなら、アリウス自治区の生徒全員連れて来ないと駄目じゃん? それにさぁ――」

 

 一歩、踏み出す。

 地面が震えるような、錯覚があった。

 弾丸を真正面から受けながら、ミカは敢えて力を込めず、ゆっくりとした足取りで彼女達へと近付いて行く。弾丸が額を捉える、前髪が微かに跳ねる。肩に着弾する、微動だにしない。その制服が僅かに揺れ、黒ずんだ色が付着する――ただ、それだけ。

 一番近くの生徒、その目前へと辿り着いたミカは、ゆっくりと拳を握り締めると、それを振り上げた。

 

「先生を撃っておいて、許される訳ないじゃんね?」

「っ、な、なんで――ッ」

 

 引き金を絞る、何度も、何度も。

 けれど、弾丸は発射されない。

 既に、弾切れだった(全弾、命中済だった)

 

「ごがッ!?」

 

 顔面を拳で撃ち抜く、ロケット砲染みたそれはアリウス生徒の被っていたガスマスクを粉砕し、その肉体は地面と水平に打ち出された。何度も地面をバウンドし、そのまま内壁へと衝突し轟音を上げる。

 その末路を直視していたアリウス生徒が錯乱し、震える手で銃を構えながら叫んだ。

 

「クソ、弾は当たっているだろう!? 何で倒れないッ!」

「撃ち続けろ! 奴とて無敵では――ッ!」

「ん~、やっぱり特殊部隊なだけあって、スクワッドの方が戦い甲斐はあるなぁ」

 

 呟き、ミカは再び別の生徒へと視線を向ける。その瞳に射貫かれた生徒は悲鳴を上げ、絶叫しながら銃を腰だめに構え、乱射した。飛来する弾丸を面倒そうに受け、或いは躱し、肉薄する。

 

 聖園ミカに、理論に基づいた戦術は存在しない。

 畢竟、彼女にとって戦闘方法とは大まかに分けて二つ。

 近付いて、ぶん殴る。

 或いは蹴り飛ばす。

 大抵はこれで何とかなる。

 距離があって面倒くさいときは、銃を構えて撃つ。

 射撃は得意ではないが、決して苦手という訳でもない。

 数を撃てば当たるだろうの感覚の元、彼女は弾丸を惜しまずにばら撒く。

 それで動きが鈍れば、やはり近付いて殴り飛ばす。

 いつか先生に云った様に、ミカは自分の強さにある程度の自信を抱いていた。少なくとも自身の全力、その拳を受けて無傷だった相手は――覚えている限り、一人しか存在しない。

 

「あぐッ……!?」

「ふふっ、捕まえた」

 

 気付けば、あれ程揃っていた小隊のメンバーは全滅していた。残っていたのは最後まで指示を飛ばし、指揮を行っていた生徒。彼女の首を掴み、壁に叩きつけたミカは薄らと笑みを浮かべながら問いかける。

 

「ねぇ、最初に倒れた隊長の代わりに指揮を執っていたっていう事は、この部隊の副隊長? それならスクワッドが何処に行ったのかは知っている? 彼女達は先生を連れて何をするつもり?」

「ぅ、ぐッ――……」

「もしかして、あなた達はスクワッドの為に時間稼ぎをしているのかな?」

「ち、がう……」

 

 仲間が全員戦闘不能となり、未だ健在のミカに囚われた彼女は、その首を必死に振りながら口を開く。

 

「私達の、追跡、対象は――……スクワッド、だ」

「―――」

 

 その言葉に、ミカの目が大きく見開かれた。

 

「スクワッド、は、アリウスを、裏切った……マダム、から、処分命令、が――」

「ちょっと……ちょっと、待って、何、裏切り? 逃げた? スクワッドが?」

 

 まさか。

 まさか、まさかだ。

 その情報はミカにとって、正に青天の霹靂に等しいものだった。

 スクワッドはアリウスを裏切った。

 彼女達もまた居場所を失い、母校を追われた。

 その事実に、ミカの胸は――大きく弾んだ。

 

「……ふふっ」

 

 口元が、彼女の意志に反して歪む。

 沸々と胸元から湧き上がる感情。決して綺麗とは云えない、寧ろ汚らわしい筈のソレが胸いっぱいに広がり、ミカは耐え切れず三日月の様に大口を開けて嗤った。

 悍ましいその声が地下通路に響き渡り、ミカは背を逸らし天を仰ぐ。

 

「あははははッ! そうなんだ! あの後、本当に自治区から逃げたんだぁ!? 面白いね☆ その果てに味方に捨てられちゃうなんてさ!?」

「あぐッ……!」

「は~ぁ、ホントにさぁ……!」

 

 思わず手に力が籠り、アリウス生徒が苦し気に声を上げる。しかし今のミカには、それに注意を払うだけの余裕が無い。胸中に広がる最高の悦楽、歓喜、昏い喜色、口に笑みを湛えたまま、彼女は俯き呟く。

 

「――これがあなたの末路なんだね、サオリ」

 

 その声には、万感の想いが込められていた。

 スクワッド、トリニティを混乱の坩堝に陥れ、決して消えない傷跡を残し、自身の居場所を奪い、未来を奪い、友人を奪い、先生すらも奪いかけた彼女にとってのワルモノ。それが正当なものであろうと、或いは逆恨みであろうと、彼女にとっては最早関係ない。

 

「そっか、そっか、狩りに失敗した猟犬は用済みって事か、居場所も、未来も、閉ざされて――なら先生は」

 

 ――あれ、そう云えば一人足りないね? マスク姿の無口なあの子は? 姫、姫って、皆で大事にしていたじゃん。

 

「また、危機に陥っている子の為に、その身を犠牲にしているのかな」

 

 呟き、ミカは小さく首を振る。

 その姿が、容易に想像出来るのだから――堪らない。

 

「はー……ほんと」

 

 その先の言葉を、ミカは噛み締め、呑み込んだ。

 無粋だと、そう思ったのだ。

 そうして彼女が再び顔を上げた時、その表情には隠しきれない笑みが浮かんでいた。喉元を掴まれた生徒の口から、引き攣った悲鳴が響く。

 

「でも、まだ聞きたい事があるんだよね☆」

「っ――!?」

「早く吐いた方が、身の為だよ」

 

 告げ、ミカは半分ほどの力でアリウス生徒、その腹部を殴りつけた。

 ズン、と鈍い音が響き、彼女の身体がくの字に折れ曲がった。足元の砂利が跳ね、ガスマスクの中で唾液を吐き出す音が響く。身を捩る彼女を無理矢理引き付け、今度は顔面を殴り飛ばす。ガスマスクの留め具が弾け、金髪の中で苦悶に歪む表情が視界に入った。

 ミカの頬に、飛び散った血が付着する。

 浅い呼吸を繰り返しながら、アリウス生徒が両手を突き出した。

 

「ま、まっへ、ま……――っ!」

「ごめんね、今の私は、機嫌が悪いから」

 

 ■

 

「……そ、れで、アツ、コを、彼女の……命令、で――自治区内の、バシリカに」

「ふぅん」

 

 壁に叩きつけられ、殴られ、蹴られ、ボロボロになった制服を身に纏う――元副隊長。ミカに胸元を掴まれ、力なく持ち上げられる彼女はぶつぶつと、囁く様な声で情報を漏らす。その瞳には戦意も、意思も、何もかも感じられない。

 ただミカの問い掛けに答えるだけの人形と化していた。

 尋問はほんの二、三分程度、しかしそれだけの時間でも彼女の心を折るのは十分な時間であった。

 

「わ、わた、しが、知って、いるのは、これだけ、です――」

「そっか、ご苦労様☆」

 

 そう云って微笑みを浮かべ、ミカはぱっと手を離す。途端崩れ落ちる彼女の肉体、そのまま硬く冷たい地面に横たわった生徒は、一も二も無く意識を手放した。外傷は酷いものだが、それは見た目だけだ。後遺症になる程に執拗な暴力は振るっていない。何なら折った骨は一本か二本程度のものだ、彼女からすればこれは素晴らしい程の自制であると云えた。

 崩れ落ちた生徒を見届けたミカは、踵を返して独り言を口にする。

 

「仲間を救う為、アリウス自治区に……先生を連れて、ねぇ」

 

 尋問の甲斐あって大まかな情報は手に入った、何故スクワッドがアリウスに追われているのか、何故先生が彼女達に同行しているのかも。先生が彼女達に同行しているのは、アリウス自治区で行われるという儀式を阻止する為だ。その儀式が完遂すれば、どうやらスクワッドに居た仮面の生徒――確か、アツコとか呼ばれていたあの子が犠牲になるそうなのだ。

 

 確かに、先生ならそうするだろう。

 生徒が窮地に陥っているのなら、誰かに助けを求められたのなら、ましてやそれが生徒の命に係わる事ならば、例え敵であっても我が身を顧みずに飛び込んで見せる。

 彼は、そういう人だから。

 それは、一度絶対的な悪意(ヘイロー破壊爆弾)から救われた自分が良く知っている。

 

「そっか、まぁ、そうだよね、先生ならきっとそうするよね、生徒の命が懸かっているのなら尚更」

 

 呟き、ミカは先生が最後に自身に向けて発した言葉を思い返す。

 

 ――ごめんミカ! 本当にすまないッ! 今は説明する時間がないんだ、トリニティで……いや、どこだって良い! シャーレでも構わない! 待っていて欲しい、私は必ず帰るから!

 

 あの時、先生が放った言葉は本気だった、表情は焦燥に塗れていた。少なくとも先生が決して自分を蔑ろにした訳ではないと、それだけは確かに伝わって来る。指先を丸め、彼女はぽつりぽつりと言葉を零した。

 

「先生、必死だったな……私の事、考えてくれているんだよね、こんな状況でも」

 

 ――私は、ミカの味方だからッ!

 

 その言葉の本質を、ミカは理解している。

 先生は生徒皆の味方、決して自分だけの味方にはなってくれない。

 けれど、それは仕方ない事だから。先生が悪い訳じゃない、その心根の優しさも、信念も、強さも、全て全てミカは好いている。

 

 けれど。

 

「でも、駄目」

 

 ミカはそう断じて、自身の愛銃を強く握り締めた。軋む音を立て、胸元へと引き寄せたそれをミカは指先で撫でつける。伝わる鉄の感触は固く、冷たかった。

 誰かを不幸にする冷たさであった。

 

「それでも、私は追いかけるよ、追いかけて――復讐する」

 

 彼女は想う。

 それが、先生の望まない行為だとしても。

 それが、悪行と誹りを受ける行為だとしても。

 それが、誰かを不幸にする行為だとしても。

 果てに、誰も幸福になれない結末だとしても。

 

 それでも、聖園ミカは実行する。

 

「嫌われちゃうかな、失望されちゃうかな、それとも軽蔑されちゃうかな……先生には嫌われたくなかったなぁ」

 

 それは、ミカの本心だった。気を抜けば涙を流してしまいそうになる程に、彼女の腹の底から出た言葉だ。

 

 でも。

 でもね、先生。

 

 ――それでも、私にはもう、これしかないの。

 

 ミカは頭上を見上げ、零れそうになる涙を拭う。

 彼女は居場所を失った、友人を失った、未来を失った。

 聖園ミカが願っていた、友人達と囲むお茶会はもう二度と実現しない。許しを得られず、その資格すらない己に残されたものなど何もない。その唯一彼女に託された言葉さえも、実際は伽藍洞の、形だけのものだった。それを、彼女は責めるつもりはない。

 だって、先生ならそうするって納得できるから。

 

 先生は、生徒の為に心を砕いている。

 自分が出来る事は、何もなかった。

 本当に、何一つ。

 けれど――。

 

「私は――」

 

 拳を握り締め、彼女は告げる。

 

「私はアリウス・スクワッドを絶対に許せないし、信用できない――例え魔女と呼ばれ続けたとしても、地の果てまで追いかけて、倒さないと駄目なの」

 

 そうしなければ、聖園ミカという存在は。

 

「万が一でも先生が居なくなってしまったら、私は、私を絶対に許せない――これは先生の為じゃない、私の為に、必要な戦い」

 

 先に進む為ではない。

 聖園ミカという存在が許される為でもない。

 何の生産性も、大義も、正義も、ない。

 けれど、意味はある。

 他ならぬ、聖園ミカという存在にとっては、何にも代えがたい意味が。

 

 聖園ミカは、全てを失った。

 錠前サオリもまた、同じように失った。

 

 ――けれどそれは、【全て】ではない。

 

「だから先生、どうか」

 

 彼女は一歩を踏み出す。

 其処には力強い、決意があった。

 その瞳に光が宿る、その光の色は昏くも輝く、彼女の掲げる星々の様な煌めきを秘めていた。決して正義ではない、許される事でもない、それでも――彼女にとっては、絶対に譲れぬ片道だ。

 

「私を止めないでね」

 

 これから為す、その悪行を。

 

「――あら」

 

 声が聞こえた。

 同時にミカの足音ではない、誰かの足音が耳に届く。

 視線を上げれば、暗い通路の奥から顔を覗かせる人影があった。アリウスではない、そういう気配がしない。ミカは銃を握り締めたまま、その瞳を絞る。暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる、人影。

 

「その恰好、トリニティの方ですね」

「……ゲヘナ?」

 

 非常灯に照らされ、視界に入った生徒はゲヘナの制服を身に纏った人物であった。かなり改造されているが間違いない、特徴的な尻尾や羽は彼女の目を誤魔化す事が出来ない。先頭に立つ銀髪の少女に続き、その背後から三人のゲヘナ生徒達が顔を覗かせる。

 

「あ、あれ、こんな所に人が居るよ……?」

「これは、想定外ですね」

「ってうわ、あの制服、トリニティじゃん……」

 

 続々と現れる纏まった数のゲヘナ生徒――美食研究会を前に、ミカは露骨に表情を歪め吐き捨てる。

 

「どうしてこんな場所に、ゲヘナの角付きが居る訳?」

「うわ、何か凄い喧嘩腰なんだけれど……!?」

「フフッ、如何にもトリニティらしい方ですねぇ」

「な、何か、怒ってない……?」

 

 ミカの悪態に対し、ジュンコはやや戦々恐々とした様子で、アカリはいつも通り余裕の表情を崩さず、イズミは単純に疑問符を浮かべている。そんな仲間達の様子を微笑みながら流し、ハルナはそれとなく目前の生徒、そして周辺を観察する。

 

 彼女の周りには多数の倒れ伏したアリウス生徒が確認出来る。数は凡そ五十以上、いや、もっとか――下手をすると百近いかもしれないと内心で感嘆する。

 単独でこれらを撃破したのならば驚異的な戦闘能力の持ち主と云わざるを得ない。その様な武力を持ち合わせるトリニティ生徒など、ハルナは数える程しか知らなかった。

 

 正義実現委員会のトップであるツルギ。

 救護騎士団のトップであるミネ。

 ティーパーティー、パテル分派首長であるミカ。

 

 そして、目の前の人物はその中の一人と酷似している。ハルナは彼女の素性にアタリを付け、小さく吐息を零した。しかし、ハルナの記憶によれば、確か聖園ミカは罪に問われ現在トリニティ内部で収監されているとの事だったが――。

 

「あ、もしかしてお腹減っているの……?」

「……は?」

 

 不意に、イズミがその様な声を上げた。

 嫌悪感を滲ませ自身を見つめるミカ、どうしてその様に不機嫌なのだろうとイズミなりに考えた時、その原因が空腹にあると結論付けたのだ。彼女は小走りでミカの下へと駆け寄ると、自身のポーチの中に手を突っ込んで漁り始める。

 彼女のポーチには愛銃の弾薬は勿論、医療品や食事に必要なスプーンやフォーク、緊急時用の携帯食料、おやつの類も詰め込まれていた。

 

「空腹だと機嫌悪くなっちゃうよね、分かるよ! ちょっと待って、えっと、此処に来るまでに結構食べちゃったんだけれど、確か飴位なら入っていた気が……あ、あった!」

 

 ガサゴソと忙しなく越しに括りつけたポーチを漁るイズミ。そして中から半分に折り畳んだ飴玉の入った袋を取り出すと、中にあった飴を掴み取り、笑顔を浮かべてミカへと差し出した。

 

「はい、これ! 期間限定、イカスミ味の飴だよ!」

「………」

 

 差し出されたそれを、ミカは何とも云えない表情で見下ろす。浮かぶ色は困惑、侮蔑、疑念、不信――そう云ったネガティブなものだ。というか、そもそも何でイカスミ味? イカスミ味の飴って何? ミカは未知の飴を嬉々として差し出すイズミを理解できない存在を見る目で眺め続けていた。

 

「んんッ! 私達も少々、この辺りに用事があって来たのですが――」

 

 満面の笑みを浮かべて飴を差し出すイズミをフォローする様に、咳払いを挟んだハルナが声を上げる。

 

「どうやらお互い、訳アリの様ですね?」

「……飴は要らないから、ソレ仕舞って」

「そ、そう……? 美味しいのに、残念……」

 

 ミカの言葉に力なく肩を落とし、そのまま包装を破くや否や迷いなく口に飴玉を放り込むイズミ。カラコロと飴を舐める彼女は満足げだ。反対にミカは、「良くそんなものを食べられるね」と云わんばかりの表情だった。

 

「……それで、このような場所で一体――」

「あなた様ッ!」

 

 ハルナがミカに問い掛けようとした瞬間、何処からか地下通路に声が響く。それはミカのものでもなければ、美食研究会のものでもない。今度は誰だとミカが胡乱な視線を声のした方向へと向ければ、影が彼女の視界に過る。

 素早く、飛び込む様にして彼女達のいる空間へと着地した人影は、周囲に蹴散らされたアリウス生徒を見るや否や忌々し気に声を漏らした。

 

「っ、一足遅かった――ッ!」

「主殿――……!」

「はぁッ、はぁっ……ふ、二人共、走るの速すぎるって!」

「先生の姿は、見えません、ね……」

 

 視界に映るのは特徴的な衣服を身に纏った面々。その独特な装いには見覚えがあった、何処となく閑雅で、キヴォトスでは見慣れない代物。ミカは先頭に立つ狐面を被った生徒に気付き、思わず目を見開く。

 

「その制服、百鬼夜行……? っていうか、狐の仮面って――」

「確か、貴女は……ワカモさん、でしたか」

「あなた方は――……」

「その制服、トリニティと、ゲヘナ……?」

「え、ぁ、う、うぅ……」

 

 ワカモ、イズナ、ミチル、ツクヨ――この場に飛び込んで来たのは忍術研究部の面々である。ツクヨはその性格上、見知らぬ生徒達との邂逅に委縮し、思わず背を曲げて縮んでしまう。しかし、その視線は油断なく周囲を見渡しており、内心で先生の姿が見えない事に肩を落としていた。

 イズナとミチルは純粋に、こんな場所にアリウス以外の生徒が居るとは思ってもいなかった様で、驚愕を貼り付けたまま硬直していた。ミチルはそのまま何のアクションも起こさずに居たが、イズナは後ろ手に回した指先でポーチから手裏剣を素早く摘み、身体の影に隠したまま身構える。

 彼女達が味方である保証がない、そう判断したのだ。

 ワカモは彼女達の先頭に立ったまま、不気味な沈黙を守っていた。

 

「これは、これは、トリニティにゲヘナ、加えて百鬼夜行……どうやら数奇な巡り合わせ、というものでしょうか?」

「………」

 

 ハルナがどこか感心した様な声色でそう呟き、全員を見渡す様に視線を動かす。

 そうこうしていると不意にワカモがその指先をミカに向け、問いかけた。

 

「その顔、背格好、記憶にあります……トリニティのパテル分派トップ、聖園ミカさん、で宜しいでしょうか」

「……そうだよ」

「ッ!」

 

 その返答を聞いた瞬間、ワカモは肩に担いでいた愛銃を素早くミカに突きつけた。その指は引き金に触れ、決して冗談ではない事が伝わって来る。一気に空気が緊迫し、ミカの瞳が細く絞られた。

 

「ちょ、わ、ワカモ!?」

「ワカモ殿!?」

「と、突然、どうしたんですか……!?」

 

 唐突な仲間の暴走にミチル達は声を荒げ、思わず彼女の身体に手を掛ける。衣服を引っ張られる状況でもワカモの体幹は微動だにせず、その銃口はミカの額をぴたりと狙っていた。

 

「直接会ったら一言二言、文句を云わねば気が済まないと常々思っておりました、あなたの軽率な行動によって、あの御方がどれ程心を擦り減らし、その御身体に消えぬ傷を負った事か――ッ!」

「……!」

 

 その、叩きつける様な苛烈な言葉に、ぴくりとミカの眉が跳ねた。彼女の言葉が誰を指しているのかを理解したからだ。ワカモの銃を握り締める手は震えていた、それは純粋な怒りから齎される震えだった。

 

「アリウスを秘密裏に支援し、手引きした主犯……! あの御方の負傷も、欠損も、その御心の傷さえ、全てあなたが引き金だった! これがどうして恨まずにいられましょう!?」

「ッ……」

 

 仮面で素顔は見えない、しかし――その表情はきっと、般若の如く歪んでいる事だろう。ミカは思わず唇を噛み締め、視線を逸らす。それは云われるまでもない、彼女自身が自覚し自身に何度も云い聞かせて来た、ミカの犯した罪悪そのものあった。

 

「た、確か、トリニティでクーデター未遂を起こした、生徒会長が、居た、と……」

「それがこの、人って事……?」

「ッ――!」

 

 ツクヨとミチルが困惑と、驚愕の声と共にミカを見る。当の本人はその視線に何の返答も、弁解すらも行わなかった。

 その沈黙が答えだった。

 

 その姿に――何の言い訳も、弁明も口にしないミカの姿に、イズナの瞳孔が開き、尻尾の毛が逆立った。

 

 ――目の前の方が原因で、主殿はあのような傷を……ッ!

 

 それは激烈な怒り、憎悪の発露。其処には自身が何の助けにもなれなかった、罪悪感も多分に含まれていた。それが反転し、先生に決して消えぬ傷を残した彼女に対し過剰な攻撃意思を抱いてしまう。ほんの一瞬、僅か一秒にも満たない時間であったが――イズナは確かに、彼女に対して殺意を抱いた。

 背に隠した手裏剣を掴む指先に力が籠り、歯を剥き出しにして身構える。あとコンマ数秒もすれば、恐らくワカモより早くその手裏剣を全力で投擲していた事だろう。

 しかし、その殺意が形を伴って放たれるよりも早く、ミチルが声を荒げ、ワカモの突き出した銃を掴んだ。

 

「お、落ち着いてよワカモ! 気持ちは分かるけれど、い、今はそんな事を云っている場合じゃないでしょ――!?」

「……っ!」

 

 その声に、イズナはハッと我に返る。動き出そうとした身体が、傍から見れば僅かに揺れた程度にしか見えなかった。彼女の意志は、そこで辛うじて踏みとどまった。

 

 ワカモは突き出した銃をそのままに、ただ沈黙を守っていた。ミカはその場から動かずに無言を貫き、ツクヨは右往左往する。ミチルは対峙する二人を不安げな瞳で見比べながら、何とか言葉を尽くそうとしていた。

 

「な、何か不穏な空気なんだけれど、もしかしてヤバイ感じ? どうするのハルナ……?」

「う~ん、これは少々……危険な状況かもしれませんね」

「せ、先生は居なくなっちゃうし、う、うえぇ、ど、どうしよう……!」

「―――」

 

 双方の纏う、一触即発の雰囲気。

 ゲヘナとトリニティに於いて、聖園ミカの為した悪行は良く知れ渡っている。百鬼夜行の生徒であれば知らぬのも無理のない事ではあるが、その件については既にハルナ達は吞み下していた。

 そうでなくともこの場で争う事など愚の骨頂、アリウス自治区へと通じるこの地下通路に赴いているのであれば、彼女達の目的も察して余りあるというもの。

 

「……ふぅ、余りこういった事は得意ではないのですが」

 

 溜息を零し、ハルナは一歩前に踏み出すと、徐に手を打ち鳴らした。

 その音は周囲に響き渡り、一瞬だけ全員の意識に空白を齎す。

 

「皆さん、一度冷静になりましょう」

 

 全員の視線が、ハルナの下へと集まった。彼女は肩を軽く回し、薄らとした笑みを貼り付けたまま声を上げる。

 

「私達の目的は同じ――恐らくこの先へと進んだ先生について、ですわね?」

「……ゲヘナと話す事なんて、何もないんだけれど?」

「……私としても、あの御方の害となる生徒と轡を並べるなど、御免被ります」

 

 取り付く島もない、或いは相手への嫌悪と憎悪が先行している、それが良く分かる回答であった。しかしハルナは諦める事無く、その羽織った外套を靡かせながら背を向ける。その視線の先には、同胞である美食研究会の面々。

 

「先生の為ならば、私達(美食研究会)は毒であろうとも、皿まで喰らう覚悟があります……ですわね?」

「うぇっ!?」

 

 唐突に投げかけられたその問いに、ジュンコは面食らった様に声を上げる。そして彼女達は隣り合う仲間の顔を伺いながら、ぎこちなく、しかし確かに頷いて見せた。

 

「ま、まぁ、うん……じゃないと、こんな所まで追ってこないでしょ」

「そうですねぇ」

「お、お皿は食べ物じゃないよ……?」

 

 ひとり、若干趣旨を理解していない答えがあったが、ハルナはそれを気にせず再び振り向いて見せる。そして再び両名と対峙すると、何処か煽る様に、先生への想いの強さを問いかける様な口調で云った。

 

「その覚悟が――貴女方にはおありで?」

「………」

「………」

 

 二人の視線が、交差する。

 その暗闇の中でも煌めく、力強い意志の光こそが何よりも雄弁に答えを語っていた。

 

「大変結構、その判断に感謝致します、それでは手始めに――」

 

 二人の態度に気を良くしたハルナは両手を合わせたまま足を進める。そして二人の合間を抜け、閉鎖された隔壁の前に立った彼女は振り向き、此処に集った全ての生徒を見渡しながら告げた。

 

「私達は一度、情報を擦り合わせる必要があるかもしれません」

 

 ――先生を、奪還する為にも。

 


 

 最近後書きのネタはTwitter(新:エックス)漫画の方に回していたのですが、絵にするのが無理ゲーだったのでこっちで書き綴りますわ。

 

 対象はイオリちゃん、前イベントで意外な一面を見せてくれた先生大好きっ娘(断固たる意志)です。何だかんだツンケンしておりますし、先生も彼女に対しては一切のブレーキを放棄しておりますが、絆アップ台詞に「新しい任務が入った、一緒にそれを遂行して……その、帰り道にちょっと遊んでくるっていうのは、どう……?」なんて卑しい台詞を口にするくらいには先生に信頼をよせてくれていますの。

 そうじゃなくても半裸みたいな状態で包帯巻き直しのさせてくれるし。まぁ卑しい子はなんぼおっても困りませんからね、大変宜しいと思います。

 

 それで、そんなイオリのどんなシチュエーションを漫画にしようかと思ったかと云うと、具体的にはエデン条約後編の後、ベアトリーチェ討伐後のお話ですわね。何やかんやあってエデン条約でのゴタゴタは一応の終結を見せ、それなりに時間が経過したある日。(多分、一ヶ月とかその辺)

 

 今日も今日とてイオリは忙しい日々を送っており、ヒナの補佐やパトロール、序に暴れ回るゲヘナ生徒の捕縛と鎮圧を任させれ、ゲヘナ自治区を走り回る。そんな業務を終えくたくたになって風紀委員会に戻って来ると、ヒナ委員長から「今日、先生が風紀委員会に顔を出すようだから、伝えておくわ」という言葉を掛けられる。僅かに微笑み、喜色を滲ませた彼女の様子に、あぁ、そう云えば最近先生と会っていないなぁ、なんてぼんやり考えるイオリ。

 モモトークで定期的に連絡は取っていたが、此処最近は忙しくて連絡は途切れ気味、直近の一週間位はもしかしてメッセージのやり取りすらしていなかったかもしれないと思い返す。

 

 何だか最近、学外も騒がしいし(これは最終章前の予兆か、或いはパヴァーヌ後編の突入直前とかでも良いかもしれない、しかし事の重大さを考えると最終編突入前が自然か、因みにトレインイベントは経験済みという方向に持って行きたい、エデン条約後ならあのイベントはいつ起きても大丈夫なハズ)また何か、風紀委員会に協力を要請しに来るのかと考える。

 取り敢えずヒナは執務机にあった書類を先程の三倍の速度で処理し始め、フンスフンスと鼻息荒く先生を迎える準備を始める。それを見てアコが「キィ~ッ!」と言葉には出さないが、表情で嫉妬の感情を覗かせる。チナツはそんなアコ行政官を見つめながら呆れた表情を浮かべ、それとなく手鏡でサッと髪を整えたりする。

 辟易とするイオリに、「イオリ、悪いけれど先生の出迎えをお願い」とヒナが告げる。書類を捌くにはもう少し時間が掛かりそうで、ヒナの代わりにイオリが広場で先生を出迎える事になる。

 

 その言葉に頷き、部屋を後にするイオリ。廊下を歩き、ふと窓硝子に写る自分を見る。先程まで仕事で走り回ったせいで髪は所々跳ね、服は銃撃戦でやや煤けている。それを見て何となく髪を手櫛で梳かし、制服の汚れを手で払って襟を正しきちんと着こなす、そしてまぁ、そこまで酷くはないかな? と納得し反射する硝子に向かって笑みを浮かべた所で、「いや、何をしているんだ私は」と我に返る。

 

 これじゃまるで先生を意識しているみたいじゃないかと思いつつ、いやでも一応相手はシャーレの先生だし、だらしないと思われるのもいやだし、出迎えを頼まれている以上、身だしなみに注意を払わないのも――ともごもごする。

 

 そしてそうこうしている内に時間が経過し、このまま足を止めている訳にも行かず、広場へと出向いたイオリは何とも云えないもやもやを抱えたまま先生の到着を待ち続ける。銃を担いだまま憎たらしい程に快晴な空を見上げながら、先生遅いな、なんて思っていると不意に端末が振動し、モモトークの通知が表示された。送り主は先生、「遅くなってごめん、もう直ぐ到着するね」とメッセージが届く。その画面を見て、また口元が緩むイオリ、しかしそれを自覚しぶんぶんと頭を振る。

 

 数分もすると、不意に背後から、「イオリ」と聞き慣れた声が響く。

 聞き間違える事は無い、先生の声だ。高鳴った胸元、それを抑えながらイオリは鼻を鳴らす。素直になれないのはいつもの事で、今日は特に業務が忙しかった事も影響し、いつもより少しだけ意地悪な気分になる。イオリは先生の方を振り向く事無く腕を組むと、「ふん、久しぶりだな先生、それで、今日はどんな厄介ごとを持って来たんだ?」と背中越しに顔を逸らしながら問いかける。

 

 先生は少しだけ困った様な気配を滲ませながら、「鋭いな、実はお願いがあってね」と言葉を漏らした。

 イオリはそれみた事かと内心で思いつつ、不意にアビドスでの一件を思い出す。這い蹲って足を舐めればヒナ委員長に会わせてやっても良いと口走った件だ。翻って、今の状況は当時と酷似している。加えて以前ハイランダー鉄道で起きた事件で味方になってくれなかった事を思い出し、イオリは意趣返しを心に決める。

 ふふんと、イオリは気分よさげに踵を返すと、「それなら這い蹲ってお願いすれば、聞いてやらない事もないぞ、あっ、足は舐めるなよ!? 先生が誠心誠意頭を下げれば、協力してやっても良いってだけで、絶対に変態行為は――」と言葉を紡ぐ。

 そして、ふと視線を向けた先に。

 

 両足が無くなって車椅子に乗った先生が微笑んでいるのだ。

 

 最初、イオリは何が起きているのか分からなくて、酷く混乱する。先生の腕と目が無くなった事は知っていても、両足が無くなった報告なんて聞いていなくて、少なくともここ一週間か、その間に何か大きな事件があった事は明らかだった。イオリはあまりの衝撃に二の句を告げる事が出来ず、目を見開いたまま硬直する。

 

 先生はイオリの様子に少しだけ困った顔で視線を落とすと、「分かった、ごめんね、ちょっと、時間が掛かるかも」と口走る。そして、ゆっくりと車椅子から身を捩って降りる動作を見せて、先生が自身の云った通り地面に這い蹲って頭を下げるつもりなのだとイオリは悟る。

 瞬間、サッとイオリの顔から血の気が引いて、「な、何やっているんだ先生っ!?」と先生の傍に駆け寄る。

 先生は中途半端な姿勢のまま地面を這うけれど、その頭を下げるより早くイオリに肩を掴まれ、思い切り抱き寄せられる。視線を上げると、今にも泣きそうなイオリが、「冗談に決まっているだろう!? 頼むから本気にしないでくれ……! それより、何だ、何があったんだ先生……!? 何で、足が、そんな……!?」と混乱と罪悪感と焦燥に塗れた表情を浮かべてくれるのだ。

 

 その後事情を説明して、今にも死にそうな顔のイオリに車椅子を押されながら風紀委員会に乗り込んでも良いし、業務を全力で終わらせたヒナがイオリの前で這い蹲る先生を目撃するのでも良い。ヒナの愛を感じるシーンなんて幾らあっても良いのです。多分すっごい顔してくれる筈だから、その感情の大きさと重さを想像するだけで「先生良かったね……」ってほっこりする事が出来る。

 

 って云うのを漫画一ページ、最大8コマで表現するのは「どう考えても無理ですわ~ッ!」となったので此方で発散致しましたの。

 最初は『ヒナがイオリに先生出迎えを頼む』、『廊下でイオリが愚痴を云いながら髪を整える』、『広場で腕を組みながら不満顔で待っている(でも尻尾は動いてる)』、『背後から先生が声を掛ける』、『どうせ今回も厄介ごとなんだろう? と悪態を吐きながら振り返る、這い蹲ってお願いすれば――と台詞が途中で切れる』、『両足なくなった車椅子先生が居る』、『イオリが面食らう中、先生が這い蹲ろうとする』、『あ、ち、違うんだ先生、頼む、やめてくれ……! という感じのイオリ』と云うコマ割りと情報で描こうと思いましたが、描いている内に「何かゴチャっとしてますわねぇ~?」となって没になりましたの。

 

 台詞だけじゃなく、情報を絵に落とし込む技術って滅茶苦茶大切ですのね……ページを増やせば良いという改善案に関しては一度それをやると以降絶対に一ページじゃ済まなくなる上に私の現実の方に絶対影響が出て来るのでやりませんわ! というか出来ませんわ! 私の睡眠時間が覚悟の角度になります事よ! 起き抜け一発にサクラコ様と同じ過酷な表情を浮かべながら活動する羽目になったら寿命がマッハでヴァニヴァニですわ~ッ!

 



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束の間、照らす月光を仰ぎ

誤字脱字報告大変助かりますわ!


 

「だ、大丈夫です、誰も居ません! 上がって来て下さい!」

 

 頭上から、ヒヨリの声が響いて来た。その声に頷き、地上へと繋がる梯子を登っていくミサキ。先生も彼女に続き、梯子に手を掛けた。

 狭く、昏く、埃っぽい地下通路、何度も角を曲がり突き進んだ先にあった一つの出口。冷たく苔の生えた梯子を上り、重く錆び付いたハッチを押し上げた先には崩れかけた建物の内部があった。ハッチの周囲には瓦礫が散乱し、地上へと顔を出した瞬間何とも云えない埃っぽさが鼻をつく。

 

「ケホッ、こほっ……!」

「これは……かなり、埃っぽいね」

「随分前から使われていない様子ですから……」

 

 先に地上へと出ていたヒヨリは、周囲の惨状を見渡しながらそう告げる。建物の天井、その一部は崩れ落ち、屋内だというのに地面には雑草や苔、内壁に蔦が生え茂っている箇所があった。埃の積もった場所と、緑の茂った場所、何とも退廃的な景色だと内心で零す。梯子を登り切り、地面に足を着けると何となく落ち着いた心地だった。薄暗く狭い通路をそれなりの時間進んでいたからだろう、先生は頭上を見上げながら深く息を吸い込む。

 

「……この辺りは、随分静かだね」

「自治区内でもかなり郊外に近い場所だから、人が滅多に寄り付かない……此処なら警備の手が薄い筈だと思ったけれど、正解だったみたい」

 

 ミサキがセイントプレデターを担ぎ直し、そう告げる。確かに彼女の云う通り、周辺にはまるで人気がない。聞こえて来る音と云えば微かな虫の鳴き声と風音程度のものだ。先生はそれらに耳を澄ませながら周囲に目を凝らす。闇夜の中であっても地下空間で慣れた先生の瞳は、周囲に転がる遺物を確かに捉えていた。

 数歩壁際に足を進め、屈んだ先生は砕けた木箱の中から零れた物品を手に取る。錆びれ、僅かに水気を含んだそれは未使用の弾丸だった。

 

「この建物は――?」

「昔は遺跡だった、今はただの跡地……こうしてみると訓練場として使われていた名残がまだあるね」

「……以前、此処で訓練をしていましたね、本当に小さい頃でしたけれど」

 

 不意に、ヒヨリが懐かしそうな目を向け呟いた。

 崩れた屋内には土嚢と、射撃訓練用の的と思わしき代物が複数壁に立て掛けてあった。的には幾つもの弾痕が残っており、周辺の圧し折れたテーブルには部品の欠けた銃や錆び付いて壊れた設置爆弾、ナイフの類が転がっている。

 どれもこれも年代を感じさせるものばかりだ。少なくとも一年か二年程度放置されたレベルではない。もっと昔から、この場で野晒しにされているのだと分かった。

 

「そうだね、内戦が終わったばかりの頃は何回か使った記憶もあるけれど、スクワッドに配属されてからは一度も足を運ばなかった」

「……内戦、か」

 

 ミサキの不意に漏らした言葉、その単語を先生は重々しく口にした。スクワッドの血塗られた歴史、彼女達が体験した事柄。それを想うと、どうにも穏やかではいられない。先生の呟きを拾ったミサキは、何でもない事の様に極めて淡々とした口調で云った。

 

「十年くらい前、アリウス自治区の内部が二つに分かれて起きた戦争の事、私達と同年代のアリウス生なら皆知っている」

「……あんまり、面白い話でもないですけれど」

 

 苦笑し、頬を掻くヒヨリ。実際、彼女達にとっては辛く、苦しく、痛みを伴う経験だったのだろう。ある意味、彼女達スクワッドの根幹を成している経験と云っても良い。ヒヨリはその過去の記憶に想いを馳せる様にして俯くと、ふと落ちていた錆だらけの空薬莢を拾い上げ、云った。

 

「そう云えば、アズサちゃんと初めて会った場所が此処でしたね……まだ、憶えています」

「………」

「どの訓練だったかな、射撃か、爆弾製作か、あの日は幾つかのグループが合同で訓練を行った日でした、指導教官の他にも自治区の幹部が視察に来ていて、アズサちゃんは私達とは別のグループで、大人の命令に従わなかったから、見せしめに酷く殴られて……」

 

 ヒヨリは当時の事を思い返し、深く沈んだ色を見せる。その頃のヒヨリは、大人に逆らうという発想すら持たない、小さくて、弱くて、ただ全てが過ぎ去るまで頭を抱えて縮こまる事しか出来ない存在だった。

 アズサがその矮躯で大人に食って掛かって、目の前で何度も殴り、蹴り飛ばされ、傷と泥まみれになっていた時も――確か、そうだった。

 

「アズサちゃんが殴られている間、周囲の皆は見ているだけでした……飛び火して、同じように殴られるのが怖かったんです、きっと私が同じ目に遭ったら、訳も分からず泣いて謝っていたと思います、でもあの子は何度も起き上がって、ずっと大人を睨んでいて……」

 

 それは周囲の生徒からすれば異質な存在に見えただろう。当時のヒヨリも同じように考えていた、何で逆らうんだろうって、何で反抗するんだろうって。そんな事をしたって痛いだけなのに、苦しいだけなのに――ヒヨリには彼女の胸に秘めるものの正体が、分からなかった。

 

「このまま放っておいたら、その子のヘイローが壊されてしまいそうだったのに、でも、怖くて動けなかったんです……そんな時、サオリ姉さん――いえ、リーダーが走って来て」

「ヒヨリ」

 

 言葉を続けようとしたヒヨリを遮る声があった。

 はっとした表情で彼女が顔を上げれば、ミサキは何処か陰鬱な表情を浮かべながら首を横に振った。

 

「思い出に浸るのは後にして――今は、任務に集中するよ」

「……す、すみません、そう、ですよね」

 

 慌てて肯定を返し、手にしていた弾薬を地面に手放す。軽い音を立てて転がったそれは、生え茂る雑草の中に消え、見えなくなった。ミサキはそれを一瞥し、最後に地下通路から出て来たサオリに目を向ける。

 影になって彼女の表情は見えず、その項垂れた様子は何かを思案している様にも見えた。

 

「リーダー」

「………」

「それで、これからどうするの」

 

 彼女にそう問いかけたミサキは、ヒヨリと先生にも視線を向けながら努めて冷静に状況を告げる。

 

「先生を連れてはきたけれど、私達だけでこの自治区全体と彼女を相手に戦うなんて不可能、目を盗んで姫を助け出すのが一番現実的だけれど――多分私達が自治区内部に侵入している事はバレている筈、中央区方面には防衛部隊が待ち構えているから、進行ルートを良く吟味しないと」

「あ、ぁ……」

 

 ミサキの冷静な言葉に、サオリは額を指先で擦りながら頷いて見せる。何処となく、浮ついた返答だった。一歩、二歩、サオリが前に進む、しかしその足取りはどこか覚束ない。

 

「そう、だな……正面から当たるのは、拙い、今、作戦を……考え、て――」

「……サオリ?」

 

 最初に気付いたのは先生だった。

 何となく違和感のある彼女の口調、そして揺れる輪郭、先生の表情が訝し気に歪み、そして次の瞬間、サオリの身体がぐらりと傾いた。

 

「っ!?」

「り、リーダー!?」

 

 倒れ込むサオリの身体に手を伸ばし、先生の伸ばされたそれがサオリの身体を支える。肩を抱いたその瞬間、手袋越しに肌に伝わる熱に思わず目を見開いた。そのまま搔き抱きながら腰を落とせば、差し込む明かりに照らされたサオリの表情が視界に映る。

 紅潮した頬、苦し気に顰められる眉、先生は彼女の額に手を当てながら呟く。

 

「……凄い熱だ、こんな状態になるまで――」

「は、発熱ですか……!?」

「……いや、無理もないか」

 

 先生の言葉にミサキが表情を歪め、サオリの傍に屈みこむ。

 

「リーダーはもう四日近く休んでいない、元々負傷している上に、追撃部隊から逃れる為にずっと無理をしていた、睡眠不足と疲労、戦闘によるストレス、更にさっきの聖園ミカとの戦いは身体的にもかなりダメージを負った筈――気力で耐えるのも限界だったんだ」

「た、確かに、ずっと過酷な状況でしたけれど……ど、どうしましょう? どうすれば……? こんな状況でリーダーが倒れるなんて――」

「ヒヨリ、薬は――」

「く、薬ですか? えっと……」

 

 問い掛けるミサキの言葉に、ヒヨリは担いでいた背嚢を降ろすと慌ただしい手つきで中を開く。詰められていた弾薬やちょっとした食糧、衣服、それらを掻き分け有用な医療品の類を探すが、彼女の表情は優れない。

 

「鎮痛剤は前に渡したものが最後でした、FAK(First aid kit)の中身は、圧縮包帯とか、止血帯とか、そんなものばかりで、えっと、今使えるものは何も……」

「……元々支給品も少なかったし、流石に残っていないか」

 

 長引く逃亡生活の中で、弾薬や食料品は勿論、医療品の類も使用せざるを得なかった。行動不能は即最悪な結末を招く、元々彼女達に支給されていた補給品も限られており、スクワッドの荷物番であったヒヨリの背嚢に無ければ他に手立てがない、少なくとも今の彼女達には。

 先生はサオリの額に手を乗せながら思案する素振りを見せ、ヒヨリを見上げ問いかける。

 

「……ヒヨリ、夜目は利く方?」

「えっ、あ、は、はい! これでも狙撃手ですので――」

「周囲数百メートルに人影が無いか確認して来て欲しい、出来れば高い場所から、満遍なく」

「わ、分かりました……!」

 

 そんな先生の言葉に何も疑う事無く、背嚢をそのままに駆け出すヒヨリ。近場の崩れていた天井の瓦礫に足を掛けると、そのまま不安定な足場を伝ってするすると天井の向こう側へと姿を消す。登攀訓練も行っていたのか、その動きは手慣れたもので危なげがない。念の為先生はシッテムの箱も用いて索敵を行い、周囲に敵性存在が居ない事を十分に確かめた。

 

「先生、何をするつもり?」

「――こういう時にこそ、便利な機能があってね、ただ結構派手で、目立つんだ」

 

 告げ、先生はサオリを抱き締めながら苦笑を零す。特に夜だと、光の類が不味い。それでも片手でシッテムの箱を操作しながら、先生は準備を進める。なるべく雨風の凌げる、天井の残っている場所に生成するのが良いだろう。幸いこの建物は半壊している状態でも、部屋と云える箇所が残っている。

 

「だ、大丈夫です、この辺りは完全に無人です!」

「良かった」

 

 崩れ落ちた天井、その瓦礫の向こう側から声を張るヒヨリ。そのまま軽い身のこなしで飛び降りて来た彼女の無事を確かめ、先生はシッテムの箱に向けて呟いた。

 

「アロナ、クラフトチェンバーの三番を」

『――はい先生、クラフトチェンバーより生成物の固定化を開始します!』

 

 アロナが画面の中で頷き、先生のポイントした座標に何か、小さな光の玉が生み出された。それは暗闇の中でも良く目立ち、ヒヨリとミサキの両名は目を瞬かせる。そうこうしている内に光の玉は渦を巻き、大きな円を部屋の中で描いた。その円の中には夜空に似た光景が広がっている。暗い空の向こうに星々が瞬き、煌々と輝いている様な――或いは、宇宙と称するべきか。

 そして一際強い光と共に、周囲の電子機器すべてにノイズが走る。強烈な閃光が周囲を包み、全員が思わず目を瞑った。

 

 そして、一拍後――恐る恐る目を開いた彼女達の前に、何もなかった筈の場所から幾つものコンテナが出現していた。二人は唐突に現れたそれを見つめながら、目を瞬かせる。

 

「これは――」

「ぶ、物資、ですか?」

 

 恐る恐る、問いかけるヒヨリ。出現したコンテナは無地の武骨な代物で、キヴォトスでも一般的に用いられる防弾コンテナだ。ミサキが無言で近付き一番手前にあったコンテナに手を掛ける、鍵は掛かっていない。そのまま無造作に蓋を開け中を覗き込むと、中一杯に弾薬の類が詰まっていた。箱詰めされたそれを手に取って感触を確かめる、夢でも何でもない、実体としてそこに存在している。

 

「薬に食糧、多くは無いけれど弾薬の補給も……気休め程度にはなる筈だから」

「少ないって云っても、こんな量――一体、どうやって?」

「お、大人って怖いですね……」

 

 彼女達には理解出来ない現象だろう。ミサキは怪訝な表情で、ヒヨリに至っては恐ろしいものを見る様な目で先生を見る。しかし、この状況でこれらの物資がどれ程有難い事か、分からない彼女達ではない。

 余計な詮索はなしだ。ミサキはそう断じ弾薬のコンテナを閉じると、振り返って先生に問い掛ける。

 

「でも助かった――先生、医療品の類は?」

「右端のコンテナ、そこに入っている筈だよ」

「……あった」

 

 先生の指差したコンテナに近付き、無遠慮に蓋を開ければ幾つかの医療品パッケージが彼女の目に付く。外傷用や戦闘中に服用する薬品は避け、比較的奥にあった解熱剤を手に取る。パッケージを開け中のシートを一枚取り出すと、ミサキは錠剤を二つ手に取る。

 そして先生に抱えられたサオリに近付くと、自身のポーチに入れていた水筒を手に告げた。

 

「リーダー、これ飲んで、多分、楽になるから」

「ぅ……」

 

 錠剤を彼女の口元に放り、持っていた水筒を近付ける。意識は朦朧としていても意図は伝わっているのか、サオリは素直に錠剤と水を呑み下し、ほっと息を吐き出した。これで暫くすれば熱も下がるだろう――しかし、今直ぐ動く事は出来ない。

 先生は顔を上げ、周囲を見渡しながら告げる。

 

「地下通路は既に閉鎖されている筈だから、追撃部隊も私達を捕捉するには暫く時間が必要だと思う、暫く此処で休もう、疲労状態で自治区に進入するのは危険だ」

「……確かに、そうだね」

「は、はい、リーダーも回復には時間が必要な筈ですし、それなら寝ずの番は私が――」

「交代でやるよ、ヒヨリも休まないと駄目……先生も少しは寝て、不寝番は私が先にやる」

「――いや」

 

 見張りを務めようとする彼女達を呼び止め、先生はサオリを抱いたまま手を伸ばし、物資コンテナの傍にある小さなジュラルミンケースを引っ張った。

 

「不寝番は、この子に任せよう」

 

 そう云って蓋を開けると、中には緩衝材に包まれた細長い、棒の様な何かが現れる。数は六、先生がその内の一本を摘まんで取り出すと、ミサキは不思議そうな視線を向け問いかけた。

 

「先生、それは……?」

「ドローンだよ、ミレニアムのマイスター達が作った傑作さ」

「ドローン……?」

「ず、随分小型ですね……?」

「その分、中々どうして見つけ辛い」

 

 手に持ったそれは反射防止コーティングが施され、その小ささも相まって目視で発見するのは非常に困難だ。大きさは人の親指より二回りほど太く、長い程度で、色合いはやや暗めのグレーである。

 先生がペンを使う様に頭頂部を押し込むと静かに電源が入り、先生の手の中から独りでに浮上する。そして外装が円型に開き、プロペラの様に回転を始めた。ハレの扱う疑似反重力技術とプロペラによって生じる揚力で、ドローンは危なげなく空中に静止していた。

 先生はその様子を確かめ、シッテムの箱を指先で叩く。

 

「接続は?」

『各ドローンとのデータリンク完了しました、異常があればすぐに探知出来ます!』

「良し、このまま此処を中心点に散開させて、探知網を敷こう」

『はい、制御はアロナに任せて下さい!』

 

 その声と共にケースの中に眠っていたドローンが独りでに空高く舞い上がり、先程と同じように外装を展開させると、四方に散って暗闇の中へと消えていく。後はそれぞれが定位置に付き次第、スパイクの様に地面へと撃ち込まれ、定期的に探知を行う仕組みだった。尚、起伏の激しい市街地や地面に打ち込めない様な場所の場合は空中に留まり、それぞれが空から探知を行う――尤も、その場合風や雨の強い日は精度が落ち、また常に浮遊する都合上稼働時間が大きく制限されるというデメリットもあるが。

 

「これで周辺二キロ圏内に動体反応があったら探知出来る、熱源と振動探知も出来るから早々漏れる事はないと思う、小型だからあまり長くは持たないけれど、最長三時間は連続稼働出来る筈だ」

「べ、便利ですね……?」

「私自身に戦う力はないからね、こういう事には力を入れないと……」

 

 呟き、先生は苦笑を漏らす。マイスター達に依頼すると、ややオーバースペック気味になったり、良く分からない機能が付属しているのが玉に瑕だが――それでも先生の生命線の一つである事は確かだった。

 

「これなら見張り立てなくても、安心して眠れそうだね」

「そ、そうですね……私達も、かなり強行軍でしたから、正直ちょっと辛かったです、えへへ」

「警報は、先生のタブレットに?」

「うん、一応警報に限っては外部スピーカーと連動接続しているから、皆にも直ぐ分かると思う」

「了解」

「せ、先生、あの、この物資って持ち帰り出来るんですか……?」

「持ち帰りも何も、皆の為に用意したものだから、持てない分は此処に置いて行く事になるけれど……」

「も、勿体ないですよ! 背嚢に詰めるだけ詰めないと――! あっ、リーダーのポーチも借りて、ぽ、ポケットにも一杯……!」

「……はぁ」

 

 先生の返答を聞いたヒヨリは飛び上がり、物資コンテナに駆け寄る。用意した物資は決して多くは無いが、先生を含めた四人分と考えれば十分すぎる程だ。ノード解放も途中で止めてある。

 ヒヨリは自身の背嚢に詰まっていた不要な代物――と云っても彼女からすれば十分使用に耐えられるものだが、新しいものと入れ替えられるのならばそうしたい――を小分けにして、なるべく大量に詰められる様整理を始めた。それから持って行く物資の吟味を行う為に、一通りコンテナの中を覗き込む。

 

「あっ、ミサキさん、これ、こっちに毛布が入っていますよ……! す、すっごいフワフワで肌触りが良いです! 先生、これ使っても良いんですよね!?」

「勿論、ちゃんと人数分はある筈だから」

「……ホントに、至れり尽くせりだね」

 

 目を輝かせ、両手に毛布を抱えたヒヨリから毛布を受け取り、思わず呟く。手にしたそれは確かに暖かく、アリウスでは決して手に出来ない類のものだった。ヒヨリはさっそくとばかりに毛布を羽織り、自身をくるみながら満面の笑みを浮かべる。

 

「えへへっ、こんなふかふかの状態で眠れるなんて、久しぶりですね! いっつも剥き出しの地面に外套を敷いて眠っていましたから……!」

「まぁ、寒くない事は良い事、身体も痛くならないし……これならちゃんと眠れそうだね」

「あっ、せ、先生とリーダーにも、どうぞ!」

「ありがとう」

 

 ヒヨリから残った毛布を二枚受け取り、先生はそれとなく周囲を見渡す。丁度屋根が崩れておらず、風を凌げそうな場所、尚且つ比較的小奇麗な地面を見つけ、その床に毛布を敷いた。後はサオリの外套、その前を閉じてやり、自分の分の毛布を彼女に被せる。それでも尚、彼女の肩の震えを見た先生は、自身の着ていた外套を脱ぎ、中に仕舞っていた諸々をシャツのポケットに移すと、彼女の上にそっと被せた。毛布には劣るだろうが、それでもないよりはマシな筈だ。

 

「サオリ、今だけでも良いから、確り休んで――」

「……ぅ」

 

 彼女の目に掛かった前髪を払い、そう呟く。

 声には、確かな優しさと憂いが滲んでいた。

 

「……先生も休んだ方が良い、私はヒヨリと物資の整理をしているから」

「分かった、なら、そうさせて貰うよ」

 

 ミサキの言葉に頷き、先生はシッテムの箱を胸に抱いたまま近くの壁に寄り掛る。薄いシャツとインナーだけになった先生の背中に、冷たい壁の感触が直に伝わって来た。しかし、寄り掛る事によって得られる脱力感は何物にも代えがたく、先生はコンテナ周りで作業する二人を見つめながら天井を仰ぐ。

 

「ふぅー……ッ」

 

 肩を落とし、深く息を吐き出した。

 蔦と苔の生え揃った天井は、少しだけ緑の匂いがする。そんな中で眠る経験は、余りない。けれど疲労感から、力を抜いて目を瞑れば何とも云えない心地良さが全身を包んでいく。

 

「流石に少し、疲れたな……」

 

 色々な事が、急激に起こった。トリニティ来訪から現在に至るまで、半日と経過していないというのだから堪らない。時刻は既に日付を跨いだ、全力疾走を繰り返した先生の肉体は疲れにより睡魔を引き寄せる。久しくしていなかった強行軍、戦闘時に滲んでいたアドレナリンが引き、只ですら常日頃から多量の業務を捌いていた先生の肉体は休息を選ぶ。シッテムの箱を掻き抱いたまま、先生はゆっくりと首を落とし、囁く様な声で呟き――意識を落とした。

 

「ごめん、アロナ、少しだけ……少しだけ、眠るから――……」

 

 ■

 

『先生、私の声が届いているかい――?』

 

『私の声が届いているのなら、どうか、耳を傾けて欲しい』

『私は今、夢でも現実でもない、その狭間の世界に閉じ込められている――いつまで此処に留まれるのかも定かではない、或いはこの意識が消失すれば、私は二度と起き上がる事が出来なくなる可能性すらある』

『時間は、あまり残されていない――だから先生に、私に残された力を使って、今の状況を伝えなければならない』

 

『私は、過ちを犯してしまった――あれ程、先生に忠告されたと云うのに』

『私は夢の中でゲマトリア――彼らの会議を知ってしまった、アリウス自治区を支配しているベアトリーチェは、バシリカで儀式を行おうとしている』

 

『――その儀式の果てに、キヴォトスは終焉を迎えるだろう』

 

『彼女が儀式で何をしようとしているのかは依然として判明していない、だが――』

『彼女が、このキヴォトスに存在しない【何か】を呼び寄せようとしているのは確かだ』

『私は明晰夢の中でベアトリーチェに攻撃され――儀式の向こう側に居る存在と接触してしまった』

『そう、【アレ】に触れてしまったせいで、私の器が崩れ始め……恐慌状態に陥り、私は、ミカを傷付けてしまった』

『いや、結果的にそうなってしまったと云うべきか……』

 

『……私は、いつもあの子を傷付けてばかりだ』

『ミカは己を責め、自暴自棄となり、取り返しのつかない罪を犯してしまうかもしれない、それは私が原因でもある……』

『そして、ベアトリーチェの儀式はこのキヴォトスを終焉へと導く切っ掛け足り得る――その過程で、アリウスのアツコは命を落とす事になるだろう』

『私はこの、夢でも現実でもない狭間に閉じ込められているが故に、先生――あなたに届くかも分からない言葉を投げかける事しか出来ない』

『現実に戻ろうとすれば、きっと――私の肉体は、今度こそ崩壊してしまうから』

 

『あぁ、そして先生、どうか気を付けてくれ――あなたはベアトリーチェに狙われている、いや、彼女はずっと、あなただけを見ていた』

『先生、あなたを葬る事こそが、彼女の――』

 

『……この問題を、全て解決する事は不可能だ』

 

『先生はもう十分力を尽くしてくれた、私達の為に、トリニティの為に、生徒の為に……だから、全ての問題を背負おうとしないでくれ』

『私も、何とか此処から抜け出す方法を探す、そしてナギサと皆の力を借りてミカを取り戻すよ』

『ミカの為にも、今、私が斃れる訳にはいかない』

『今度こそ、ちゃんと目を見て、彼女に謝罪したいんだ』

『真摯に……心から』

 

『だから、先生』

 

『先生、私の声が届いているのなら、どうか――』

『逃げてくれ――出来得る限り、アリウス自治区から遠ざかって欲しい』

『或いは、このキヴォトスという世界から』

『アリウス自治区にだけは、踏み込んではいけない』

『そうでなければ、先生は――』

 

『先生、は――……』

 

 ■

 

 ――今度こそ、全てを喪う結果となるだろう(■■の■■■は、既に先生を捉えている)

 

 ■

 

「――セイア?」

 

 自身の呟きで、目が覚めた。

 

 ぼやける視界に映る、何者かの影、それを薄らと絞られた瞳で直視しながら、壁に預けていた背を起こす。あれ程冷たく感じた壁は、自身の体温が移り温かみを帯びていた。

 視界を振ると丁度、ヒヨリとミサキが自身の起床に気付き覗き込んでいる所だった。

 何か、夢を見ていた様な気がした。けれど記憶の輪郭は余りにも朧気で、具体的にどんな夢を見ていたのかも定かではない。

 

「……ごめん、起こした?」

 

 ミサキがどこか、バツが悪そうに呟く。見れば彼女の手には毛布が握られており、恐らく自身のものであろうそれを自身に掛けようとしてくれている途中だった。先生は目元を擦ると、静かに首を振りながら口を開く。

 

「いや、少し……夢見が悪くてね」

「……まぁ、こんな環境じゃ熟睡は難しいよね、私達は慣れているけれど」

 

 彼女達からすれば、屋根があって、暖かい毛布に包まれながら眠れる環境は稀なのだろう、もっと酷い体験をしてきた筈だ。その実感が言葉の節々から感じられる。

 

「アロナ、探知の方は――」

『休息中に反応はありませんでした、大丈夫です!』

「……そっか」

 

 その聞き届け、タブレットの時計に目を落とす。先生が寝入ってから、凡そ一時間が経過していた。凝り固まった体を緩く動かし、先生は壁に手を着きながら立ち上がる。

 

「サオリの様子はどう?」

「えっと、解熱剤が効いたみたいで、熱は大分下がりました、今は眠っています」

 

 ヒヨリがサオリを指差し、そう答える。先生がサオリの顔を覗き込めば、顔色は以前と比べ大分良くなっている様にも見えた。先生は静かに彼女の額に手を当て熱の有無を確かめる。まだ少し熱いが、それでも許容範囲内だろう。

 

「まぁ、いつまでも休んでいる訳にはいかないけれどね……それでもまだ追手は来ていないから、あと三十分位は大丈夫だと思う」

「三十分か……」

 

 それを短いと見るか、長いと見るか、それは人それぞれだろう。思わず重々しく呟いた先生に、ミサキは視線を寄越す。

 

「どうしたの、先生」

「……いや、何でもないよ」

 

 首を緩く振り答える。せめて、その間だけでも休んで貰いたい。そんな切実な想いも、アリウスが此処に辿り着けば終わりを告げる。先生は壁から背を離し、ヒヨリとミサキの寝床にしたであろう場所の床に改めて腰を下ろした。

 ヒヨリはそんな先生の様子を伺いながら、手にしていた携帯食糧のパッケージを差し出す。

 

「あ、あの、先生これ……」

「食事かい? ありがとう、助かるよ」

「元々は先生が用意したものですし、置いて行くのも勿体ないので、持てない分は此処で食べちゃおうと思いまして……えへへ」

 

 そう云ってヒヨリはへらりと笑みを零す。彼女の傍に置かれた背嚢はパンパンに膨らんでおり、その傍には持ち切れなかったと思われる食糧や医療品の類が綺麗に整理して並べられていた。彼女のどことなくふっくらした体格を見るに、どうやら外套や内ポケットの類にもこれでもかと物資を詰め込んだらしい。

 何とも、彼女らしい事だと先生は思わず小さく笑う。

 

「そうじゃなくても、これからの戦闘を考えると、エネルギーは補給しておいた方が良い」

 

 呟き、ミサキも床に放置していた食べ掛けの携帯食糧を齧った。食糧はゼリータイプと固形タイプがあり、彼女が口にしていたのは後者だった。幸いコンテナには水もあるので、この手の乾いた食事でも問題ない。「先生、他にも味があるので、食べたいものを――」とヒヨリがパッケージを先生に見せ、勧める。

 それを手で制し、先生は首を振って云った。

 

「私は、これだけで良いよ」

「えっ、それだけ……? お、お腹いっぱいにはならないと思いますけれど」

「あぁ、満腹にはしないようにしたくて、残りは皆で食べて」

「お、お腹一杯だと走れなくなっちゃうから、とかですかね……?」

「――まぁ、そんな所かな」

 

 携帯食糧のパッケージを開けながら、先生は粛々と頷く。

 先生は食事を摂る時は、特別なものでない限り常に腹半分程度、或いは多くとも腹八分目に留める様にしていた。いつ戦闘に呼び出されるか分からないからだ。確実に戦闘が起こると分かっている時は、食事は最低限に留める。具体的には半分から三割程度が目安、絶対に満腹にはしない。

 満腹にすると、胃を撃たれた時に食ったものが飛び散って、死ぬ。

 

「……そうだな、もし良ければなのだけれど、食事の間、皆の話を聞かせて欲しい」

「えっ? それは……」

「……そんな事聞いてどうするの? 聞いていて、楽しい話じゃないよ」

「――皆の事を知りたいんだ」

 

 或いは、己の罪悪の輪郭を確かめる為に。

 その言葉を呑み込み、先生は代わりに食糧を口に放る。顔を見合わせたミサキとヒヨリは何とも云えない、複雑な表情を浮かべた後、どこか吹っ切れた様な様子を見せたミサキが溜息を零し、小さく頷いて見せた。

 

「まぁ、私が知っている範囲で良ければ……どうせ、時間も余っているしね」

 


 

 昨日深夜に何を考えたのか急に書き出したゲーム概要。

 携帯端末向けゲーム、『ドキドキ☆こっちを向いてティーチャー!』がリリース決定!(大嘘)

 

【あらすじ】

 

 キヴォトスの中に在る無数の学園、その一つに所属するあなたは何て事の無い、普通の生徒だった。しかしある日、学園近辺の銀行で強盗事件が発生し、運悪くあなたは巻き込まれてしまう。縛られ、地面に転がされたあなたの視界には凶悪な人相をした強盗団が意気揚々と叫んでいるのが見えた。

 

「フハハハッ! このファウスト様に掛かればどんな銀行だろうと赤子の手をひねる様なものよッ!」

「ファウスト! ファウスト! ファウスト!」

 

 警備の生徒は軒並み倒され、銀行の職員も項垂れ云われるがまま。もはやこれまで、財布の中身を諦めかけた――その時。

 あなたの背中を叩き、声を掛けるひとりの大人がいた。

 

「大丈夫――私に任せて」

 

 そう、何を隠そう、あなたに声を掛けた人物は、あのサーレの先生だったのだ……!

 銀行強盗の最中、運命的な出会いを果たしたあなたはサーレの先生と共に銀行強盗へと立ち向かう!

 それはあなたにとって、絶対に忘れられない運命の一年――その始まりを告げるものだった……!

 

【多種多様なNPC・育成要素】

 

 ゲーム内に存在する学園は何と百以上! また全ての生徒達には固有の役職や武器が与えられており、『マレニアム・サイエンススクールの魔王ユーカ』や、『プリニティ総合学園の怪力無双ミッカ』など、特定のキャラクターと交流を深めると特別な武器や技をゲット出来る! プレイヤーキャラクターにはパラメータが存在し、毎日の過ごし方によってステータスが変動する!

 強烈な筋力を持ったパワーファイターから、狙撃が得意な技巧派キャラまで! あなた好みのキャラクターを育てよう!

 

【所属学園・派閥によって変化するストーリー】

 特定の学園や派閥と交流を深める事によって、その学園に編入する事も出来ちゃいます! 所属する委員会、部活、肩書によっても発生するイベントはあるので、遊び方は無限大! けれど派閥間や学園間にも友好値は存在するので、交流した学園と仲の悪い派閥と敵対してしまう事も……?

 

【先生との恋愛要素】

 サーレの先生と知り合ったあなたは、先生と交流して好感度を稼ぐ事が出来ます。(この好感度が一定値を下回る事は絶対にありません)先生の好きなプレゼントを上げたり、一緒に過ごしたりして好感度を稼ごう! ある程度仲良くなると、何か良い事があるかも……!? 育成の状況によって、先生からの信頼の証である固有武器が貰えちゃったり……!?

 

【先生の疲労度】

 サーレの先生はいつも大変そう、あなたが見ていない所で頑張り過ぎて倒れちゃう事も……!? そんな先生の為に定期的にサーレに足を運ぼう! 仲良くなるとサーレ本棟に私室が与えられ、スムーズに移動が出来る様になるよ! 医学系の委員会や部活に所属すれば、先生を直接治療をして回復を促す事も出来ちゃう!

 この値が一定値を下回ってしまうと、大変な事に――!?

(タイトルの設定から、欠損状態・描写をOFFにする事が出来ます)

 

【戦闘要素】

 キヴォトスには危険が一杯! ただ歩いているだけで因縁をつけて来るチンピラや怖い生徒が沢山……! 彼女達を倒してお金を巻き上げ、スキルやパークを身に付けよう! 武器のカスタマイズや弾丸の種類によって、ダメージや使い勝手は大きく変わる! 

 ブラックマーケットやとある総合学園地下に在ると云う名も無い自治区には、誰にも知られていない強力なボスが潜んでいると云う噂も……?

 更に蒼穹の遥か向こう、宙には強大な存在が居て――!?

 

【季節イベントシステム】

 ゲーム内時間は春から始まり、夏、秋、冬とターンと共に経過してく。季節特有のイベントもあり、特定の生徒とのイベントも季節によって変化するよ! 一年と云う限られた時間の中で多くの生徒と絆を紡ぎ、先生と愛を深め、ハッピーエンドを目指そう!

 

【マルチエンディングシステム】

 あなたのちょっとした行動、言動、或いはキャラクターとの絆が、ストーリーに大きく影響するかもしれない……! また先生の疲労度によって、物語のテイストは大きく変わってしまう……! 

 場合によってはゲームオーバーになってしまう事も。バッドエンディングの種類は全四百六十五種類! 全ての生徒にそれぞれのバッドエンディングが用意されているよ!

 でも安心して! 万が一失敗してしまっても、育成状態を引き継いだ状況で新しくゲームを始める事が出来るよ! 繰り返し強くなって、全てを守れる力を手に、最善を尽くし、未来を切り開こう!

(周回時、精神バッドステータスはリセットされません)

(各NPCキャラクターとの友好値・敵対値はリセットされます)

(所有しているアイテム・固有武器はリセットされます)

(サーレ先生の好感度はリセットされません)

 

【色褪せた青春システム】

 あなたが失敗した世界、ゲームオーバーになってしまったデータ――しかし、それは果たしてそのまま終わりを迎えるのでしょうか?

 もしかしたら、意外な形でプレイヤーと再会を果たすかもしれません。

 

救済装置(大人のカード)

 どうしてもクリアできない! 強敵に勝てない! 詰みセーブしてしまった……! 大丈夫! そんな時はこの要素を使えば、どんな状況でも打破出来ちゃいます! ゲーム初心者の方でも快適にプレイできるので、どんどん使っちゃおう! どんなに大きな壁でも、どれ程強大な困難でも、あなたが諦めない限り先生は常にあなたと共に戦ってくれます!

 

【運命の十二月】

 物語は十二月に大きな転換期を迎えます。

 この十二月に到来する恐るべき存在に対抗する為に、プレイヤーは死力を尽くさなければなりません……! 先生との好感度、疲労度、紡いで来た生徒との絆、選んだ選択肢、装備やスキル、各イベントの結末、使用した最後の切り札(大人のカード)回数――それらが全て、このラストバトルに直結します。

 果たしてあなたは数多の困難を乗り越え、サーレの先生と共に春を迎える事が出来るのか――!?

 

 ■

 

 〇白服

 ☆☆☆☆★ 意欲作

 ゲームとしては中々どうして楽しめるものでした。しかし、先生の台詞回しに少々違和感を覚えてしまいます。彼の御仁はもう少し、含みのある物云いをするでしょう……尤も、その表層部分を描くに留めているのであればまさに、という代物ではありますが、ククッ!

 次回作に期待する為、少々甘めに星は四つとさせて頂きます。

 それと、開発費が入用であれば支援させて頂きますので、いつでもご連絡ください。

 

 〇芸術家

 ☆☆☆☆☆ 電子遊戯としての崇高に近しい

 よもやこの様な形で自身の中で燻る芸術欲を解き放つ事が出来ようとは――抱く芸術と彼の先生、そこから紡ぐ一幕の光景は何と素晴らしきものだろうか……!

 惜しむらくはこれが決して現実ではないという事だ、受け継がれしミームもまた一人に過ぎぬ……しかし、原石とはまさにこの事、今後とも是非作品作りに勤しんで貰いたい!

 

 〇ゴルデカ

 ☆☆★★★ 文学的には評価し難い

 ゲームというカテゴリとして在る以上、そこに文学的解釈のみを持ち込むのは無粋だとは重々承知しておりますが……そう口にしてしまいたくなる程、惜しい作品でした。非実在の中にある虚像、その中に漫然と輝く記号、そこに含まれたテクストは先生とプレイヤーこと生徒は互いに通じ合う事で完成される唯一無二であるという事。

 惜しい、実に惜しい。故にこそ、どうかこれからも、このような形で自身の世界を表現して頂きたいものです。

 そういうこった!

 

 〇マダム

 ☆★★★★

 クソゲー。

 

 〇水着徘徊

 ☆☆☆☆☆

 R-18版などの発売予定はあるのでしょうか? もし有志の方で全裸MODなどあれば教えて頂けると大変捗ります。

 

 〇真のアウトロー

 ☆★★★★★

 ちょっと! 最初に出て来るファウストの、あの小物感は何なのよ!? ファウストはあんな傲慢に笑ったりなんかしないし! もっと手際よく銀行を追って惚れ惚れする手腕を――(こちらのレビューは多くの方から参考にならないと報告されています、すべて読むには此方をクリックしてください)

 

 〇ん。

 ☆☆☆☆★

 銀行強盗のシミュレーターとしては、まずまずかな。

 でも逃走経路の決定やプランをもう少し細かく決められたらもっと良かった。

 あと、銀行強盗をすると先生の好感度が下がるのは何とかして欲しい。

 

 〇正実のエリート

 ☆★★★★

 特定の武器を持ちながら先生を狭い部屋の壁に誘導して障害物に押し付けながらスタックさせた後、そのまま自キャラで銃を構えながら壁に視点を向けて素早く振り向くと先生のズボンを貫通して中が見えちゃったんだけれど!? エッチなのは駄目! 禁止!

 

 〇超天才清楚系病弱美少女ハッカー

 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

(こちらのレビューは多くの方から通報されています、すべて読むには此方をクリックしてください)

 

 〇雛

 ☆☆☆★★

 どうしてエンディングでこんな酷い事をするの……?

 私はただ、先生と幸せになりたいだけなのに……。

 どうして、あんな結末に……。

 私に、力がないから……?

 

 〇MIKA

 ☆☆☆☆☆

 このプレイヤー弱すぎじゃない? 何か弾丸数発直撃しただけで倒れちゃうんだけれど、バグか何かかな? パンチで敵を吹き飛ばしたり、キックで壁も壊せないし、ちょっとあり得ない弱さじゃんね。この虚弱体質っぷりは私の友達に似ていて笑っちゃったけれど、先生と恋愛出来るところは最高だったかな☆

 

 〇黒子

 ☆☆☆☆☆

 こんな風に全部救えたら、良かったのにね。

 

 〇おじさん

 ☆☆☆☆★

 うへ。

 

 〇錠前サオリ

 ☆☆☆☆☆

 暫く目にしていなかった懐かしい母校の姿を見れて、少しだけ嬉しかった。

 げーむというものは初めて触ってみたが、このような気持ちに浸れるのなら悪くないものだな。金額に見合うだけの価値は確かにあった。あそこには苦しみと痛みしかないと思っていたのに、おかしな話だ。やはり、辛く苦しくとも家族と共に過ごした場所だからだろうか……?

 久々に、仲間の顔が見たくなったよ。

 

 〇clover

 ☆☆☆☆☆

 にはははは! すっごく楽しかったので、複製したものを周りの人に配っていっぱい宣伝してあげますね! 

 

 〇未来のキヴォトス君臨者

 ☆☆☆★★

 キキッ! 悪くない出来じゃないか、私をモチーフにしたキャラクターを用意するのも良い心がけだ、ステータスも悪くないしな……。

 ただ、何処となく馬鹿っぽい振る舞いに見えるのは気のせいか? 実際の私はもっと恰好良いし、知的だし、キマっているだろうに。そこが唯一の減点部分だ! 良いか、次私を登場させるならば、ちゃんと取材なりなんなりして――(こちらのレビューは多くの方から長すぎると報告されています、すべて読むには此方をクリックしてください)

 

 〇温泉郷の若女将

 ☆☆☆☆★

 動いている先生が一杯見れます! まだまだ序盤ですが、一杯楽しめそうでワクワクです。先生を眺めながら食べるプリンは最高ですよ! うぇへへ……今日はプリンを三つも食べちゃいます! でも、ちょっと値段が高すぎる気がしたので、星は四つです! 

 

 〇団長

 ☆☆☆☆★

 戦闘を行っていた勢力があったので、どちらも壊滅させた後に救護したところ、敵対値が上昇してしまったのですが何故でしょう? 改善を求めます。

 

 〇偉大なるチェリノ書記長

 ☆★★★★

 おいらに髭が付いていないじゃないか! こんなゲームを作った奴は粛清だ! 粛清!

 

 〇わっぴ~!

 ☆☆☆☆☆

 五分だけ試遊しようと思ったら、いつの間にか製品版を購入して十九時間十九分も遊んでしまいました……。

 

 〇( ᓀ‸ᓂ)

 ☆☆☆☆☆

 初めて迎えたエンディングは憂鬱で、昏くて、辛いものだった。これは私の知っている世界と良く似ている、私にとっては親しんだものだ……でも、それが諦める理由にはならないから。きっとこの、辛い物語の先には、私の友達が大好きな大団円が待っている筈。私はそれを迎えるまで、何度でも挑戦するつもりだ。

 

 〇⎛ಲළ൭⎞

 ☆☆☆☆☆

 先生にペロロ様の着ぐるみを着せる事が出来ます!!!

 

 〇魔王ユーカ

 ☆☆☆☆☆

 モモイ、後で覚悟しなさい。

 



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奈落へと踏み出す(底知れぬ悪意)

誤字脱字報告、大変助かっておりますわ~!


 

 ――最初の記憶は、長年続いた内戦の終わりを宣言するマダムの姿だった。

 

 それ以前の事は、余り憶えていない。毎日生きる事に必死だったから、その日の飢えを凌ぐ食糧を確保するだけでも精一杯で、何かを考える余裕も、学ぶ機会もなかった。

 私達は当時幼かったから、内戦の事もマダムの事も何一つ知らなかったの。

 日常的に鳴り響いていた銃声が消えて、怒声も、悲鳴もなくなって、突然現れた大人を前に、群衆に紛れた子どもの一人として、ただ見上げる事しか出来なかった。

 

 マダムは生き残った全ての生徒の前で、自分がアリウスの新しい生徒会長であり、主人で在り、支配者だと云っていた。そうして内戦を経て残った全ての生徒に多くの事を教える為に、教育を施して行ったの。

 貧民街に住んでいた私達も、その対象だった。

 

 それが『Vanitas vanitatum omnia vanitas.』――全ては虚しいものという真理。

 

 私達が経験する全ての苦痛はトリニティによって齎されたものであり、ゲヘナはそもそも共存など出来ない存在だと繰り返し教えられた。

 私達は自分がどうしてこんな場所にいるのか、どうしてこんな生活をしているのか、そんな事は何も知らない。歴史を知る必要も、機会もなかったし。私達だけじゃない、当時貧民街に居た子ども達は皆似たようなものだと思う。

 

 だから教えられた事は素直に信じたし、真偽を問うつもりもなかった。そもそも内戦以前の事を知ろうにも、昔あった書物や書庫に保管されていた歴史書の類も、書籍は全部マダムが回収してしまったから、多分、知ろうとしても出来なかったと思う。

 

 訓練校に入った後は――そうだね、兎に角訓練に次ぐ訓練。

 どうやって戦えば良いのか、どうやって他者を傷つければ良いのか、どうすればヘイローを壊せるのか――人を、殺す事が出来るのか。

 そういう事ばかり学んで、それ以外は必要ない事だとして切り捨てられた。

 寝ても覚めても訓練、訓練、訓練……。

 

 人の殺し方を教えられながら、誰かを憎しみ嫌う『殺害の意志』を秘めている私達は、『人殺し』と同義だとも教えられた。

 そして、そんな『人殺し』に、この自治区以外に居場所など無いと。

 私達は日陰の存在で、トリニティやゲヘナの生徒は日向の存在。影と光が交わる事は無い、どちらかが存在している限り、どちらかは消える運命、私達が永遠に理解し合える事は無い。

 世界は、そういう風に出来ているんだって。

 

 ――彼女は自分こそが真実を教える真なるものであり、生徒達が従い尊敬すべき大人だと云っていた。

 

 実際、アリウスの幹部もそういう風に彼女を扱っていたし、見ていた。彼女の云う事は正しいんだって、そうしないといけないんだって。

 それを疑うだけの知識も、余裕も、その発想さえ無かったの。

 

 ■

 

 パキリ、と。

 ミサキが戦闘糧食を歯で圧し折る音が聞こえた。薄いブロック状のそれをゆっくりと咀嚼しながら、彼女は薄昏い瞳で手にした糧食を眺める。

 何て事のない食事だった、その気になればコンビニですら買えてしまいそうな――普通の、ごく一般的な。

 賞味期限が切れていない、パッケージが擦れていない、砂の様な味がしない、食べても体調を崩さない。そんな当たり前のものを舌の上で転がしながら、彼女は呟く。

 その口元は、僅かに笑みを象っていた。

 

「……あそこ(訓練校)に入って唯一良かったのは、ちゃんと命令に従っていれば、食事を与えられた事かな、貧民街に居た頃はその日食べるものも無かったから、味のない、砂を噛む様な食事でも、毎日口に出来るのは有難かった」

「た、大変な時は、表通りのお店から食料を盗んだり、ゴミ捨て場の廃棄されたものを食べていましたよね、冬場は特にご飯が無くて、でも夏場は夏場で痛んだものも多く……えへへ、それで熱を出した時は、もう駄目かと思いました」

「あの時は、確か姫とリーダーが薬を持って来てくれたんだっけ」

「はい、何処から持って来たのかは……聞けなかったですけれど」

 

 懐かしそうにそう呟いて、ヒヨリはその視線を自身の胸元に落とす。座り込んだ彼女は膝を抱えたまま、ぽつぽつと当時を思い返しながら言葉を続けた。

 

「彼女の下に集められた後は、皆、その教えに従っていました、でも、それは怖かったからなんです、反抗すると怒られるから、殴られたり、蹴られたり、銃で撃たれたり……アズサちゃんとか、姫ちゃんみたいに」

 

 ヒヨリがぶるりと肩を震わせ、自身の頬を擦る。恐らく殴られた経験があるのだろう、彼女にとっては辛い記憶で、そしてそう云った暴行は日常茶飯事でもあった。暴力と教育、苦痛と恐怖によって支配される世界――それが彼女達の育って来た環境、その見慣れた光景そのものであった。

 

「い、一番堪えたのは、何日も食事を貰えない事でしたね、独房入りになると、食事どころか水も碌に貰えなくて、ひもじくて、寂しくて、辛くて、何が悪かったのかも分からないまま、ずっと謝る事しか出来ないんです」

「……余りにも反抗的だと判断されると、独房の中でも一際狭くて暗い、地下に放り込まれるの、光は少しも差し込まなくて、両手を伸ばせば触れられる距離に壁があって、ギリギリ体を横たえる程度の広さしかなくて――あそこに長くいると、気が狂いそうになる」

 

 呟き、ミサキは自身の身体を掻き抱くようにして顔を伏せた。その指先は僅かに震えている。それを隠す様に、ミサキは糧食を口に含んだまま小さく唇を動かし、その瞼を静かに閉じた。

 

「さ、最初は反抗的な子もいたんですけれど、そういう積み重ねが抵抗する意思とか、気力とか、そういうものを根こそぎ奪っていくんです……何も考えず、望まず、諾々と従う事が、あそこでは一番楽で、安心出来る行為でした」

 

 ――だって、そうしなければ生きる事が許されなかったから。

 

「………」

 

 先生はただ、静かに彼女達の言葉を聞いていた。

 聞きながら、目を瞑り、口を閉ざしている。

 不気味なほどに、先生は静寂を保っていた。

 そう在ろうと努めていた。

 しかし幾ら言葉を慎もうとも、胸から湧き上がる激情ばかりはどうしようもなかった。

 

 意図せず、手に持っていた携帯食糧を強く握り締める。ミシリ、と包装ごと食糧ブロックが砕ける音が手の中から響いた。見れば、先生の手には青筋が浮かび上がり、その表情は影に覆われながらも――凄まじい形相をしていた。

 それは決して生徒に見せる事がなかった、先生の苛烈な一面である。不条理に対する怒り、それを為した元凶に対する怒り、自身の不甲斐なさに対する怒り、あらゆる憤怒が綯交ぜになって、一つの巨大な激情のうねりと化している。

 

「ひえっ、せ、先生!? な、何か、凄い顔になっていますが……!?」

「……はぁ、だから云ったでしょ、楽しい話なんかじゃないって」

 

 ヒヨリは恐怖交じりに、ミサキはどこか呆れたように視線を逸らしながら云った。

 彼女の云う通りだった。その様な話である事は予想出来ていたというのに、故にその感情を見せたのは自身の不手際だ。先生は大きく息を吸い込み、自身の顔を左手で覆う。冷たい(甲鉄)はその思考を幾分か冷却し、心を咎めるだけの効果があった。

 

「……ごめん、二人共」

 

 小さく、そう言葉を漏らす。

 ミサキが顔を上げ、先生を見た。

 

「何、突然?」

「私が……私が、もっと早く――」

 

 そこまで口にして、先生は唇を強く噛む。それは、傲慢な物云いだ。その自覚はあった。

 それでも思わず口を突いたのは、身構えて尚胸を穿つ自責の念があったからだ。何か、ほんの僅かでも良い、変わるものがあったのではないかと、その可能性があったのなら、零さずにはいられなかった。

 ミサキが鼻を鳴らし、嘲笑を浮かべながら目を細める。

 

「何それ、先生がもっと早くシャーレに着任していれば私達は救われていたかもしれないって――もしかして、そう云いたいの?」

「………」

「……そんな筈、ないでしょ」

 

 そう、ミサキは想う。

 どれだけ先生が偉大な存在であろうと、その手は全てを守る事など出来ない。

 その手の届く範囲には限りがある。

 ましてや、それが過去の事ならば尚更。

 どれだけ強大な力を持っていても。

 どれだけ強い意志を持っていたとしても。

 過去に喪われたものを――取り戻す事は叶わない。

 少なくとも、ミサキはそう考える。

 俯きながら、彼女はぽつぽつと声を漏らした。

 

「先生は大人が責任を負うべきだって、あの大橋で、私の前で云ったけれど……この話に関して先生に責任なんて無い、これはただ、此処がそういう世界だっていうだけ、辛くて、苦しい、そういうどうしようもない……――大人だからって、何でも出来る訳じゃないんだから」

「そ、そうですね、それが人生ですから……辛くて、苦しい事が、えへへ」

「………」

 

 先生は、彼女達の言葉を重く受け止める。それしか出来る事がない。彼女達はそう口にするが、いいや、だからこそだと、彼は胸中で想いを吐露した。その言葉が、思い遣りが、より一層先生の意志を強固なものとする。そう在らねばならないと、先生の自己を補強する。

 それを呑み込む様に、手の中で粉々になった食糧を口に放る。皺だらけになった包装を握り締め先生は口元を指先で拭った。

 

「……アツコについて、教えて欲しい」

「ひ、姫ちゃんですか? えっと――やっぱり、何で姫ちゃんって呼ばれているのとか、気になりますかね……?」

「……姫は、私達の幼少期からそういう風に呼ばれていて、本当のお姫様だったんだ、私も詳しく知っている訳じゃないけれど、自治区を統治していたかつてのアリウス生徒会長の血を引いているんだって、だから【ロイヤルブラッド】って呼ばれていたみたい、アリウス自治区の生徒会長はそれまで世襲制だったらしいから――本来なら、彼女がアリウス分校の生徒会長になる筈だった」

 

 しかし、内戦の有耶無耶で彼女が実権を握る事無く、実際にはマダムがその席に座り、彼女の役割は空白のものとなった。

 

「……まぁ、さっきも話したけれど、リーダーと私、ヒヨリは小さい頃から貧民街のスラムで碌でもない生活をしていたの」

「そう云えば、私の記憶の中にいる姫ちゃんは、昔から気品あふれる服を着ていましたね、わ、私達とは全然違って……え、えへへ……」

 

 そう云ってヒヨリは微笑みを零す。それはまだ、誰かが幸せに見える頃の記憶だった。自分達は辛くて、苦しくて、酷い場所にいたけれど――それでも、同じ場所で、確かに幸福に見える子どもがいる事は、彼女にとって何か、表現できない夢を見る事が出来た。

 

「私やリーダーにとって、姫ちゃんは羨望の的でした、いえ、貧民街の子達なら皆同じように思っていたと思います……ミサキさんはあまり、興味が無さそうでしたけれど」

「別に、私もまったく興味が無かった訳じゃなかったよ、ただ表に出さなかっただけ」

「そ、そうだったんですか?」

「姫は凄く優しかったから、私達みたいな存在にも手を差し伸べてくれて……あぁ、そう云えばマスクを被っていなかった頃は、良く笑っていたっけ――多分、元居た場所より酷い環境だったのに、弱音なんて吐かずに……アツコは、私にとっても大切な人だよ」

「………」

「――内戦が終結した後、姫は【彼女】の手で生贄として捧げられるらしいって噂が流れ始めた、それがどういう意味なのか、どうしてそんな噂が流れ始めたのか、私達は良く分かっていなかったけれど……当時の私達は、皆から尊敬される貴い存在だから、選ばれたんだって思っていたよ」

 

 生贄――それの意味を、彼女達は良く理解していなかった。

 けれど、何かに選ばれるという事は、きっと素晴らしい事なのだと。

 きっと、彼女が貴き血を引いた存在だから、選ばれたのだと。

 そんな風に思って、心の中で祝福した。それが彼女にとって幸福につながる事なのだと信じていた。

 実態はどうあれ、こんな地獄の様な場所よりも――ずっとずっとマシな場所に行けるのなら、と。

 

「でも、リーダーはそれに納得しませんでした、だから生贄として捧げられる筈だった姫ちゃんを私達の元へと連れて来て……」

 

 あぁ、そうだ――彼女達は今でも憶えている。

 あの自分達とは全く生きる場所が異なる筈の少女が、自分達と同じ、何の変哲もない黒い布切れに身を包んで、それでも笑顔でやって来た時の事を。

 貧民街に似合わない微笑みと、手にした小さな小さな、白い花。

 あの日、自分達家族は四人になった――こんな苦しみと痛みに塗れた場所で、余りにもちっぽけで、何も持たない、踏み躙られるだけの私達と、高貴なお姫様が、家族に。

 それをアツコ()は、とても嬉しそうに聞いていた。

 

「リーダーが一体どうやって連れて来たのか何て想像もつかないけれど、でも彼女が素直に姫を解放するとは思えないから、リーダーと彼女の間で何か、約束でも結んだのだと思う」

 

 そのミサキの言葉に、先生はサオリと交わした言葉を思い返した。雨の中、膝をついた彼女が零した真実。

 

 ■

 

『姫の運命を変えたいのなら、彼女の命令に従えと』

『そうすれば、姫だけでなく、他の仲間も助けてやると……』

 

 ■

 

「姫と一緒に貧民街で暮らせた時間は、余り長くなかったかな、皆で一緒に暮らす様になって、直ぐに一定の年齢より上で、比較的健康な子ども達がマダムに招集され始めたから――私達は特に、姫と一緒だったから……抵抗する意思も、力もなかったけれど」

「リーダーも元々、そうなる事が分かっていた様でしたね……」

「うん、そうして姫は顔と声を隠して、私達と一緒に訓練を受ける様になったの、リーダーは私とヒヨリ、姫……そして後から合流したアズサを自ら指導した、今思い返しても辛い記憶しかないけれど」

「あぁ……思い出したくもないですね、あの頃のリーダーは凄く怖かったから」

「でも、それのお陰で戦う力は得られた、アリウスだとそれが何より重要だったし」

 

 膝に顔を埋め、呟くヒヨリにミサキはそう答える。

 アリウス分校の尖兵として、訓練校に入れられた後、サオリは誰よりも率先して自らを鍛え上げた。周りの子どもと比較も出来ない程の鍛錬と文字通り血の滲む努力、それを為し座学、実技共に高い成績を維持し続け――そしてそれを、自身の家族にも厳しく強いた。

 それが、この場所で生き残る唯一の方法だと知っていたのだ。

 力は、善くも悪くも家族を守ってくれる。

 全ては、交わした約束を成就させる為に。

 その矛先が、何処に向くのかも知らずに。

 

「その後は知っての通り、私達は特務に選抜され『スクワッド』と呼ばれるようになって、アリウスの多くの任務を遂行するようになった、色々と手を汚して来た自覚はあるよ――まぁ、結果的に一番重要な任務は果たせなかったし、姫は約束通り生贄として捕まってしまったけれど」

「………」

「それに、私達は元々ターゲットだったシャーレの先生と一緒に、裏切り者としてアリウスに戻ってきているし……本当に、笑えない話だね」

 

 そう自らを嘲り、ミサキは自身の腕を撫でつける。巻き付けられた包帯がはらりと緩み、風に靡いていた。家族がバラバラにならないよう、必死に生き残る為に戦い続けて来た。けれど、今はその母校に牙を剥き、本来であれば敵対する先生と共に自殺行為としか思えない様な作戦を遂行している。

 彼女の思い描いた未来も大抵惨憺たる代物だったが、少なくとも此処まで劇的ではなかった。

 

「笑えなくとも――進むしか、私達に道は無い」

「……!」

 

 声が聞こえた。

 全員が声のした方へと振り向くと、両手に毛布と先生の外套を抱えたサオリが壁に肩を寄せながら、佇んでいるのが見えた。その姿を見たヒヨリが腰を浮かせ、喜色を滲ませた声を上げる。

 

「り、リーダー!」

「……目が覚めたんだ、体調はどう?」

「動けない程じゃない、手間を掛けた」

 

 緩く首を振るサオリ、そのまま壁から身を離すと確かな足取りで三人の下へと歩み寄る。その表情は、嘘を云っている様には見えない。

 先生は彼女を見上げたまま、その名を呼ぶ。

 

「サオリ」

「先生……私は大丈夫だ、外套、ありがとう――助かった」

 

 そう云ってサオリは先生に外套を差し出す。

 先生は無言で受け取り、小さく頷いて見せた。

 

「よ、良かったです、へへ、全部終わってしまったかと思いました……!」

「一応、熱が下がったのなら大丈夫かな……でも、今が正常なコンディションじゃない事を忘れないで、次倒れたらもう起き上がれないかもしれない」

「あぁ……そうだな、肝に銘じておこう」

 

 サオリは自身の手を見下ろし、そう告げる。

 それはサオリが一番良く理解しているだろう、体調は口が裂けても良好とは云い難い。常の七割も力が出せれば良い方だ、多少休む事は出来たが積もりに積もった疲労を抜くには十分な休息とは云い難い。二度、三度、力の抜けた手を開閉させた彼女は、重々しく肯定の言葉を返した。

 

「それより、この毛布と――食糧は何処から?」

「あ、それは、えっと……」

「先生が用意してくれた、大人の不思議な力で……ね」

「……そうか」

 

 ミサキの余りにも大雑把な説明に、しかしサオリはそれ以上追及する事無く目を瞑った。

 

「詳しくは聞かない、だが礼を云う先生、これでまだ私達は抗う事が出来る」

「……生徒を助けるのが、先生の役目だからね」

「あ、あのっ、リーダー、これ食事です、此処に来るまで殆ど何も口にしていませんでしたし、せめて一つだけでも……」

「――そうだな、有難く頂くとしよう」

 

 ヒヨリの差し出したそれを目に、サオリは静かに先生の隣に腰を下ろす。ヒヨリから食料を受け取ると、サオリは手早く梱包を剥ぎ一口齧った。見た目はアリウスに居た頃から食べていたものとそう変わらない、しかし口に含んだ瞬間サオリは少しだけ驚いた様に目を見開いて、手にした戦闘糧食を眺め呟いた。

 

「……これは、美味いな」

「や、やっぱりそうですよね? 今まで古くなったレーションや、味なんて二の次、三の次なものばっかりでしたから……! どうせ食べるなら、こういう戦闘糧食が良いですよね……!」

 

 食事で士気はかなり変わりますもん、と力説するヒヨリ。普段からすっかり味気ない食事、何なら何かを口に出来るだけマシと理解している彼女だが、それはそれとしてどうせ食べるなら美味しいものが良いという気持ちが常にあった。

 そんなヒヨリを隣で眺めるミサキは溜息を零し、視線をサオリに向ける。

 

「……それでリーダー、これからどうする?」

 

 戦闘糧食を口に含み、咀嚼していたサオリが顔を上げる。

 

「目標に変更はないんだよね?」

「あぁ、アリウスのバシリカに向かい姫を救出する、最初から目的はそれだけだ」

 

 嚙み砕いた糧食を呑み込んだ後、サオリは頷きを返す。

 先生はモニタを点灯させたタブレットを見下ろしながら、どこか憂いのある表情を見せた。

 

「私としてはもう少し休んでいて欲しいけれど……時間的に厳しいか」

「あぁ、陽の出までそう余裕がある訳じゃない、もう数分したら出立するぞ」

 

 最後の一欠けらを口に放り、食事を終えたサオリが包装を握り締める。指先で唇を拭ったサオリは、先程よりも強い光を瞳に宿していた。

 

「リーダー、まだ具体的な計画を聞いていない」

「け、計画ですか……?」

「そう、此処はもうアリウス自治区内、カタコンベや他所の自治区とは違う、そこら中にアリウスの生徒達が居る――無策で突入すれば、すぐに圧殺されるのが目に見えている」

 

 そう云ってミサキは腕を組み、難し気な表情を浮かべたまま続けた。

 

「バシリカには、具体的にどうやって侵入するつもり? 既に私達が自治区に潜入している事は、彼女も知っているよ、大通りは封鎖されているだろうし、大聖堂付近にはきっと防衛隊が張っている」

「あ、えっと、裏路地からこっそり近付いて……とか、無理ですかね?」

「……どっちにしろ、バシリカに通じる道は限られているでしょ、その出入口を張っていれば必ず網に掛かるんだから、見つからずに侵入するなんて無理」

「う、うぅ……」

 

 戦力を考えれば今のスクワッドの選択は隠密一択だ、騒々しく突貫するには何もかもが足りていない。常識的に考えるのであればヒヨリの云う様に、裏道や地下通路などを駆使して誰にも見つからずバシリカに辿り着くのが理想ではあるが――此方の目的が割れている以上、主要な通路にはカタコンベ侵入時と同じように待ち伏せがあるというのがサオリの見解であった。

 

「先生、そっちの意見は?」

「……そうだね」

 

 ミサキに視線を投げかけられ、先生はシッテムの箱を抱いたまま思案する。大体はミサキの意見に同意するものであった、暫し思考を整理した先生は頷き、口を開く。

 

「凡そはミサキと同意見、完全に見つからず侵入を果たすのは難しいと思う、かと云って正面からぶつかるのはかなり危険が伴うだろうから、ギリギリまでは見つからずに進みたい――どこか警備の薄い、バシリカに通じる通路でもあれば良いのだけれど」

「……そんな都合の良い道、ある訳――」

「ある」

 

 ミサキの呆れたような声を、サオリの凛とした声が遮った。

 ヒヨリとミサキの視線が、今しがた声を上げたサオリに向けられる。彼女は真剣な面持ちで視線を返しながら、強い口調で以て断じた。

 

「ルートは既に決めている――アリウス分校旧校舎に向かうぞ」

「きゅ、旧校舎ですか?」

 

 予想もしていなかった唐突な行先にヒヨリは面食らう。その声には、疑問の色が強く滲んでいた。

 

「あそこは、かなり長い間放置されていた廃墟ですよ? そんな所に一体どうして……」

 

 戸惑いを口にするヒヨリを、ミサキは不意に手で制す。言葉を呑み込んだ彼女を横目に、ミサキはどこか疑る様な視線をサオリに向けながら問いかけた。

 

「リーダー、そういう風に云うって事は――そこに、何かあるの?」

「あぁ……これは姫から聞いた話だが、かつて聖徒会がアリウス分校を建設する際、バシリカと分校を繋ぐ地下回廊を作ったらしい」

「地下回廊……? 聖徒会が――?」

 

 ミサキは思わず顔を顰める。そんな話、一度も耳にした事がなかった。しかし嘘と断ずる事も出来ない、自身の顎先を指でなぞりながらミサキは思考を巡らせる。

 

「確か昔、ユスティナ聖徒会がトリニティ連合に反対したアリウスの脱出を支援したって、聞いた事はあるけれど……」

「そ、そうですね、私も耳にした記憶があります、彼女達は私達アリウスを最も強く糾弾しましたが、同時にアリウスのトリニティ自治区脱出(エクソダス)と再建を主導してくれたって」

「どの様な経緯で作られたのかは見当もつかないが、恐らく殆どの生徒が回廊の存在を知らない、それこそ姫の様な血族にのみ知らされていた様な代物だ」

 

 緊急避難用の経路だったのか、或いは別の意図があったのか――それは定かではないが、兎角その通路の存在をサオリはバシリカに至る為の唯一の手段であると考えている様子だった。神妙な顔で考え込むミサキを前に、サオリは言葉を重ねる。

 

「回廊自体はかなり昔に建設されたものになる、彼女が此処の主になる前からな――或いは、見落としている可能性が高い」

「成程、ね」

「……そこが封鎖されていなければ、消耗を限りなく抑えた上でバシリカに侵入出来るかもしれない――そういう事だね?」

「そうだ先生、多少遠回りになるが正面からぶつかるより余程良い」

 

 先生の言葉に頷き、サオリは皆を見渡す。

 反対意見は――ない。

 ミサキは幾つかの懸念事項を頭に浮かべながら、サオリに問い掛ける。

 

「リーダー、具体的な回廊の場所は?」

「大まかな位置は把握している、しかし肝心の回廊は現地で探す事になるだろう」

「……そう、まぁ古い回廊みたいだし、それは仕方ないか」

 

 ミサキが険しい表情で呟く。

 もしこれで回廊が埋め立てされていたり、崩れ落ちていた場合は、正面から力づくで突破するしかなくなる。旧校舎から引き返して大通りを隠れて進むだけの時間は、きっと残されていないだろう。そして先程云った様に、この戦力で正面からアリウスと戦うとなれば――。

 

「で、でも他に方法はありませんよね? バシリカまで強行突破となると、流石に……」

「さっき先生が云ったけれど、強行突破は流石に無理、弾も体力も足りない、成功する可能性は万に一つか、億に一つか――そうだね、普段ならそんな噂を頼りに探す何て絶対にしないけれど……他に選択肢がない」

 

 そう云って頷くミサキ。

 リスクは高いが、見返りも相応に大きい。もしサオリの云う通りで在れば防衛隊どころか、誰も知らず放置されている可能性もある。そうなればバシリカまで一度も戦闘を行わず、素通りすら叶うかもしれない。体力と弾薬を温存出来る事を考えれば、正に理想的だ。

 どうせ元より無謀な計画だったのだ、信憑性に欠けるものだろうが何だろうが、今更博打を打つ事に躊躇いは無かった。

 

「地形把握なら私の方でもある程度力になれる、場合によっては現地にさえ到着できれば隠し通路の類は私が見つけ出すよ」

「何、本当か、先生?」

「うん、それ程広い範囲は見れないけれど、建物ひとつくらいなら任せて」

「そ、それは助かりますね……!」

 

 その言葉に、ぱっとヒヨリの表情が明るくなった。ミサキはぐっと背筋を正すと、壁に立て掛けていたセイントプレデターに手を掛ける。

 方針は、定まった。

 

「なら、決まりだね、後は回廊が実際にあるかどうか」

「姫の言葉を信じろ――旧校舎は此処から遠すぎる訳じゃない、目立たない様に移動するぞ」

「了解です……!」

 

 サオリの言葉に各々が出立の準備を始め、慌ただしく動き出す。そんな中、先生も立ち上がろうとして――ふと、手元のシッテムの箱から声が聞こえた。

 

『先生……』

 

 先生の視線が画面に落ち、モニタの前で佇むアロナを捉える。彼女の放つ雰囲気を感じ取った先生はそれとなく周囲を見渡すと、準備に勤しむ彼女達に背を向けながらその名を呼んだ。

 

「アロナ」

『自治区に入ったばかりの頃は、そこまで感じなかったのですが、今のこの感覚、恐らくですが――』

「……そっか、やはり私の勘違いではなかったんだね」

 

 呟き、先生は宙を仰ぐ。黒く、暗闇に覆われた天は何の光も示さない。その暗さが人の恐怖や不安といったものを煽る――しかし、それだけではない。何か云い表す事の出来ない漠然とした違和感、或いは不快感の様なものを先生は宙より感じ取っていた。

 まるで自分が世界から拒まれているかのような、誰かに見つめられている様な。

 

「――目を覚ました時から、妙に嫌な感覚があった、多分だけれど、これは……」

 

 じっと虚空を睨みつけるようにして、先生は言葉を零す。

 

「……此処はもう彼女の領域だ、何があってもおかしくない」

『先生の肉体内部に関しては完全に遮断出来ていますが、外部に関しての阻害は、恐らく大きな効果は見込めない可能性が高いです、せめて十分に注意を……!』

「うん、ありがとう」

 

 アロナの言葉に、先生は強い頷きを返す。此処から先は一つの油断が命取りになる。

 此処に来るまでもそうだったが――この場所は、もう彼女の腹の中だと思った方が良い。

 ゲマトリアの中で唯一自身の領地を確保するに至った存在。

 

 アリウス自治区(この場所)は、彼女の庭だ。

 

 ■

 

「――先生、そろそろ出立するぞ」

 

 数分もすると、完全にいつものスタイルを取り戻したサオリが壁に寄り掛っていた先生に声を掛けた。その後ろには完全武装を終えたヒヨリとミサキも佇んでいる。ぱんぱんに膨れ上がった背嚢を背負うヒヨリは何とも重そうに見えるが、心なしかその表情は喜色が滲んでいた。

 

「……うん、直ぐ行くよ」

 

 告げ、先生は静かに立ち上がる。手に包んでいた外套に袖を通し、先生は一歩を踏み出した。

 パキリと、何かを踏み壊す音が周囲に響く。サオリはそれを、砕け散った硝子片か何かを踏んだのだと思い、気にも留めなかった。

 

「此処から先は、かなり走る事になるだろう……大丈夫か?」

「カタコンベに入るまでもそうだった、問題ないよ」

「ふっ、そうだな――行こう、先生」

 

 先生の軽口に笑みを零し、サオリは口元を見慣れた黒いマスクで覆い、外套を翻す。

 先生もその後に続き、四人は廃墟を後にした。

 皆の背を追う中、先生は静かに手を開閉させ、確かめる様に敢えて地面を強く踏み締める。

 脈拍は正常、眩暈や息切れも無い、力もきちんと入る。

 これなら、多少長い時間走り続けても問題ないだろう。

 そう判断する。

 

 考え、先生はそれとなく外套の内ポケットを覗き込んだ。

 吊るされたプラスチックのケース、そこに入った注射器。

 

 ――残りは、二本だった。

 


 

 実装された新ストーリーを読み終わりましたわ~!

 次話がめちゃ楽しみですの、でも同時にストーリー更新と共にプロット破壊が起こるのではないかと戦々恐々ですわ!!

 最後に出て来た鬼子ちゃんめっちゃ外見が好みなのですが、何とかして百鬼夜行を舞台の物語書けないかなぁ、今回のストーリー最終編後ですし、普通にやっていくとこの作品完結した後なんですわよねぇ……。

 幕間イベントストーリー的なもので何とか書けないだろうか。

 



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泥中の蓮

誤字脱字報告ありがとうございますわ!
大変遅くなりました、四時間の遅刻ですの。
でも代わりに約21,000字ありますわ!


 

 ――アリウス自治区、カタコンベ地下回廊、外郭

 

 薄暗く、霧に包まれたアリウス自治区、その地下通路に通じる回廊。

 その壁が不意に、轟音を立てて爆破された。否、それを爆破というのは正しくない、正確に云うのであれば強烈な力で以て内側からより突き穿たれたものだ。

 瓦礫の転がる音が周囲に鳴り響き、埃と砂塵の混じった粉塵が周囲に撒き散らされる。

 

「けほ、けほッ」

 

 その中から、ゆっくりと人影が足を進ませる。彼女は崩れ落ちた壁を跨ぐ様にして潜ると、その表情を歪めながら悪態を吐いた。

 

「あー、もう、埃っぽいなぁ……ちょっとは掃除すれば良いのに」

 

 そう呟き、周囲の粉塵を手で払いながら現れたのは――聖園ミカ。

 彼女は自身の空けた穴を確認しながら、自身の手を開閉させ思わず呟く。

 

「うーん、最近ずっと部屋に籠っていたから鈍ったなぁ……もしかしてロールケーキのせいかも?」

 

 もう少し大きく穴を穿つ気持ちで拳を振ったが、思っていたよりも力が出なかった。絶好調ならばこの二倍近い大穴を開けられた様な気もする。やはり、食生活というのは大事なのか――一日三食ロールケーキはどう考えても体に良い筈もなし。その事を思い、少しだけナギサを恨めしく思う。

 

「まぁでも、取り敢えず到着かな」

 

 何となしに肩を回しながら周囲を見渡すミカは、そう云って鼻を鳴らした。

 

「ふぅ、中々に激しい道中でした」

「げほっ、ゲホッ、うえぇ、砂が口に――」

「あら、随分と暗い場所ですね?」

「うーん、こうも明かりが無いと足元が……うべぇッ!?」

 

 彼女に続いて顔を出したのは、美食研究会の面々。地下回廊もそうであったが、自治区全体が暗闇に包まれた空間に思わず目を瞬かせる。足場も悪く、転がった瓦礫に足を取られたイズミは皆の目の前で盛大に転倒した。自身の目の前で派手に転がった彼女を見下ろし、ハルナが目を瞬かせる。

 

「あら、イズミさん、大丈夫ですか?」

「うぅ、あ、頭打った……!」

「まったく、どんくさいんだから……ほら、手を貸してあげるわよ」

 

 転んだイズミの腕を掴み、引っ張り上げるジュンコ。この付近は清掃も碌にされていない様で、転んだイズミの胸元には埃や砂利がこれでもかと云う程に付着していた。それを叩いてやりながら、ジュンコは悪態を吐く。

 そんな二人の様子を横目に、アカリはそれとなくハルナの傍に歩み寄ると、小さく呟きを零した。

 

「どうやら方角は合っていたみたいですねぇ、まさか地下通路を破壊しながら進む羽目になるとは思いませんでしたが……」

「緊急避難通路から然程離れていない場所だったのは幸いでした、そうでなければもう少し時間を取られていたでしょう」

「まぁ、到着出来たのならどうあれ、良しとしましょうか」

「えぇ」

 

 アカリの言葉に頷きを返すハルナ。

 そして、最後に忍術研究部が穴の向こう側から顔を覗かせる。

 

「わ、わぁ、す、凄い穴、ですね……?」

「な、何か重機で空けた穴みたいになっているんだけれど、本当に素手でやったの、これ」

 

 ツクヨとミチルが戦々恐々とした様子で穴を覗き込む。決して薄くない、どころか大分分厚い壁だったというのに、まさか本当にぶち抜いてしまうとは――トリニティ恐るべし。そんな事を考えながら穴を潜って自治区へと踏み込む二人。周囲に自分達以外の人影がない事を確認し、後方の暗闇へと声を上げる。

 

「ワカモ、イズナ、こっちは大丈夫そうだよ!」

「……分かりました」

 

 声に反応し、暗闇から顔を出す二つの人影。隊の最後尾を務めていたイズナとワカモの両名である。彼女達は遅れて穴を潜り、アリウスに集った九名全員が自治区に到着した。

 

「これが、アリウス自治区――」

「主殿は此処の何処かに……!」

 

 各々が呟きを零しながら周囲を見渡す。巨大なカタコンベを抜けた先に広がる黒々とした空に、周囲に広がる廃墟街。設置された街灯は外郭地区だからだろうか、点灯しておらず電気が通っていない事が分かる。老朽化し、崩れ落ちた建物は正に忘れられた街とでも表現すべきか――退廃的で、物悲しく、何処か寒々しい。

 街を見渡しながら息を呑んだミチルは、自身の腕を摩り小さく震えた。

 

「何か暗くて、おどろおどろしい感じがぁ……うぅん、明かりが少ないせいかな?」

「か、かもしれません、なるべく目立たない様に移動、しましょう、暗闇ならきっと、私達に味方してくれる筈です」

 

 ミチルの言葉にツクヨが頷きながら、いつもよりも深く背を曲げながら口走る。まさか、こんな所で修行の成果が活かされるなんて――言葉を呟き、ミチルは頬を掻いた。

 忍者と云えば暗闇の中でも戦える、夜目を持つ存在。序に心眼で相手を捉えるという言葉もある訳だし、暗闇に慣れる訓練をしよう! なんて云って積んでいた経験がこんな場所で活かされる等と誰が予想出来ようか。

 

「あー、えっと、と、兎に角、目的地に到着したなら先生殿の事を探そうよ! 急がないと大変な事になっちゃうかもしれないし……!」

「えぇ、そうですね、ミチルさんの云う通りです」

「……そうですわね」

 

 ミチルがそう声を上げると、傍に立っていたワカモは重々しく頷いて見せる。二人の反応にハルナは腕を組みながら考える素振りを見せると、不意にその視線をミカへと向けた。

 

「ミカさん」

「……何?」

 

 名を呼んでから、僅かに間があった。

 ミカは億劫そうに振り向くと、その態度を隠す事無く視線を寄越す。

 

「私達美食研究会は彼女達と共に、このまま先生の痕跡を辿って行こうと思います」

「あっそ――結局、いつまで同行するワケ?」

「あら、目的は一緒なのです、行動を共にするのは別段おかしな事ではないと思いますが?」

 

 あくまで素っ気ない態度を通すミカに、ハルナは肩を竦めながら告げる。それとなく視線をワカモに向けると、未だ寒々しい気配を隠さない彼女は努めて淡々とした様子で口を開いた。

 

「……業腹ですが、その意見には賛成致します、あの方を救出するのに手は多い方が宜しいでしょう」

 

 愛銃を肩に担いだまま、顔を背けワカモは云う。二人の関係は当初から芳しくない状態であったが、現在は小康状態とでも云うべき段階に落ち着いている。先生を取り戻すという一点に於いて利害は一致していた。

 

「忍術研究部としても、皆で動く方に賛成! 先生殿を助けるなら戦力は多い方が良いに決まっているし……! それに此処の戦力がどれくらいなのかも情報がないんだから、態々分散する理由もない……よね?」

「しょ、正直その、戦闘は余り、得意という訳では……」

「しかし、主殿を助ける為であれば、このイズナ、容赦するつもりはありません……!」

 

 ミチル、ツクヨ、イズナが各々声を上げる。アリウス側の戦力が未知数である以上、下手に戦力を分散する必要もない。そんな意図を含んだ発言であったが、しかしミカはその言葉を鼻で笑う。

 

「……別に、相手がどれだけ居ようと、全部ぶっ飛ばせば良くない? どっちにしろ、先生を襲った連中なんだし、全部掃除した方がすっきりするよ」

「流石にそれは……弾薬が足りなくなると思いますが」

「殴れば良いじゃん、素手で」

 

 ハルナの戸惑いを含んだ言葉に、そう云って拳を握り締めて見せるミカ。

 その拳から、骨の軋む音が響いた。地下通路のちょっとした隔壁や扉、壁を文字通り素手で粉砕して来た彼女が云うと、何とも冗談とは思えない現実味がある。否、実際冗談でも何でもないのだろう、彼女の瞳から見える意思は何処までも本気だった。

 

「……私は素直に相手の武器を奪うか、弾薬を拝借するとしましょう」

「うーん、トリニティのトップは皆こんな感じなのでしょうか?」

「は? 何、もしかして馬鹿にしてる?」

「いえ、まさか、頼もしいと思っただけですよ☆」

 

 アカリは自身を覗き込んで来るミカに対し、緩く手を振って見せる。

 実際、彼女ひとりで戦力としては破格と云って良い、単独でアリウスに乗り込むだけの実力はある。その一点に関して、美食研究会は彼女を信用していた。

 寧ろ未知数なのは――横合いに居る、忍術研究部と呼ばれる彼女達だった。

 

「そう云えば詳しく聞いておりませんでしたが、忍術研究部と仰いましたね――察するに、隠密に特化した部活動なのでしょうか?」

「忍者と云えば、確か、スパイとか、エージェント的な意味合いでしたか?」

「あ、知っているよ! アレでしょう、何か黒い恰好に頭巾をかぶった様な姿で、不思議なジュツを使うんでしょ!?」

「忍者って、そんなのいる訳ないじゃん……」

 

 そもそも忍者に詳しくないハルナ、ぼんやりとしたイメージしか持たないアカリ、偏った知識のイズミ。そんな彼女達の中でジュンコが思わず呆れたように吐き捨てる。忍者など創作の世界にしか存在せず、そもそも現実に居る筈がない――そんな意図を含んだ発言であったが、それを看過できぬ者が居た。

 

「なっ、ちょ、ちょっと! 今忍者の事馬鹿にした!? さっきだって火遁の術使ったのに! ほら、こう、しゅばばばっ! って印まで結んで……!」

「わわっ、ぶ、部長、落ち着いて……!」

「え、あれって忍術だったの?」

「花火か何かにしか見えませんでしたけれど……」

 

 憤慨し、腕を振る回しながら抗議するミチルを窘めるツクヨ。

 ミチルは想う。確かに投げつけたのは癇癪玉(クラッカーボール)だが、それはそれとしてちゃんと手榴弾代わりにもなる素晴らしい研究部手製の忍術道具なのだ。しかも火薬量を調整して、ちゃんと派手に見えるような工夫もされている。なので、彼女の中ではれっきとした忍術扱いである。

 そんなやり取りを見つめながら、ミカは露骨に溜息を零した。

 

「はぁ、百鬼夜行なら兎も角、正直私としては、いつまでもゲヘナと一緒と同じ空気を吸いたくないんだよね~……でも、先生を救出したいって話は本当だと思ったから、同行を許しているの」

「あら――」

 

 横目で美食研究会を見つめるミカ、その瞳には嫌悪の感情が見て取れる。しかしそれはどうにも個人に向けてというものではなく、単純にゲヘナという帰属先に向けられている感情である様だった。

 

「先に云っておくけれど――スクワッド、特に錠前サオリは私の獲物だから、絶対に誰にも渡さない」

「えぇ、私達の目標はあくまで先生、そちらはお任せ致します」

 

 彼女の発言に、澄まし顔で頷くハルナ。その辺りに関して彼女は然程拘りを見せていない、畢竟美食研究会は先生を取り戻せさえすれば良いのだ。

 

「……正直、あの連中にガツンと一発撃ち込んでやりたい気持ちもあるけれど」

「そうですねぇ、少々消化不良感が残りますが」

「う、うぅん……」

「――しかし、それで協力が得られるのならば安いものでしょう」

 

 ジュンコやアカリはやや不満げではあるものの、ハルナの言葉に反対する様子は見られない。彼女達の意志は凡その様に統一される。

 

「えぇっと、スクワッドって、確か――」

「え、エデン条約時、会場を襲撃した、実行部隊……でした、よね」

 

 アリウス・スクワッド――忍術研究部の面々は、ワカモを除いて実際に遭遇した事は無い。少なくとも彼女達はそう認識している。アビドスの一件で実際は銃口を交える寸前まで進んでいたが、それを知るのはスクワッドの面々のみ。

 彼女達にとってスクワッドという存在は、エデン条約以降の報道で名を知ってはいるが、詳細までは掴んでいない謎の部隊だ。それでもアリウス・スクワッドの悪名は轟いている、彼女達が何を為したのか、それによって先生やキヴォトスがどれ程の被害を受けたのか――それだけは知っていた。

 

「主殿の、腕と瞳を奪った部隊――」

 

 呟き、知らず知らずの内に拳を握り締めるイズナ。握り締めた愛銃のグリップが軋み、隣り合ったツクヨとミチルが不安げに視線を向ける。

 

「イズナ……」

「い、イズナちゃん……」

「……大丈夫です、部長、ツクヨ殿も」

 

 俯きながら、そう口にするイズナ。

 しかし、気負っているのは明らかであった。

 

「イズナさん、今はあの御方の救出を第一に、気持ちは理解出来ますが優先順位を忘れてはいけません」

「ワカモ殿……」

「先に取り乱した私が口にする事でもありませんが……あの御方在っての私達、今は、何よりもあの方をお救いする――それ以外に考える必要はありません」

「……承知の上です」

 

 それがイズナを思い遣っての言葉なのか、単純に先生を救出する上で有用であったからそうしたのか。その意図は本人にしか分からない。

 イズナは一瞬ワカモに目を向け、それから重々しく頷きを返した。

 

「……そう云えば、良いの? 此処に来る前、何か端末から色々声が響いていたけれど」

「あぁ、お気になさらずに――ちょっとした行き違いというものです」

 

 ふと、ミカがそんな事を口走った。彼女が問いかけたのは、この自治区に進入する前の事――美食研究会のハルナが個人的に通信を行っていた相手の事だ。緊急避難通路を迂回し、正規ルートから侵入した彼女達であったが、その際に件の生徒から通信が入っていた。

 そして現状を伝えつつ、これから先生を追って自治区に進行する旨を口にした所――通信相手から待ったが掛かった。

 

 彼女が云うには先生が自治区に進入してしまったのならば一度追撃を打ち切り、増援を要請してから自治区に進行すべきという事で、先に進もうとする彼女達に制止を呼び掛けていた。しかし、忍術研究部も、ミカ個人も止まる気配は全くなく、ハルナ個人としても此処で大人しく待っている事など論外――その様な結論に至り、一方的に通信を切っていた。

 ハルナが事も無げに告げ、肩を竦めると同時。

 

『何が行き違いですか、一方的に通信を切っておいて』

 

 声が響いた。

 それは若干ノイズ混じりの、機械的な音声であった。

 全員が振り向くと、丁度小型のドローンがミカの空けた穴から飛行し、皆の前に姿を現す。それは平べったく、前方にはレンズらしきものが光っており、上部外装には『SBGH』(super beautiful girl himari)と表記されていた。

 声はどうやら、そのドローンの外部スピーカーから発せられているものらしい。

 

『全く……ある程度予想はしておりましたが、困ったものですね』

「あら、これは――」

『万が一通信が機能しなくなった事を想定し、用意していた遠隔端末です、隠密性と稼働時間に重きを置いたモデルなので随分小型のモノとなってしまいましたが、備えあれば憂いなしとは正にこの事ですね、流石私と云ったところでしょう』

「な、なによこれ、ドローンなの……?」

 

 皆の前でふよふよと浮かぶ奇妙なドローン、全員が困惑と驚愕に目を瞬かせ、物珍し気に視線を向ける。響く声に対し、ミカはドローンを指差しながらハルナに問い掛けた。

 

「コレ、さっき話していた生徒?」

「えぇ、声は同じですが……」

『詮索は不要ですよ、今必要なのはアリウスと先生周辺の情報、違いますか?』

 

 その言葉に、全員が思わず口を噤む。ハルナは腕を組むと、ドローンに向けて首を傾げて見せた。

 

「態々この様な備えまでして追いかけて来たという事は、このまま進むと何か不都合な事でも?」

『えぇ、大アリです、立てば芍薬、座れば牡丹、溜息を吐く姿は百合の花――と評されている天才美少女である私に掛かれば大抵の情報は手に入りますが、何分電子的な機器を用いない区画に関しては、余り大きく動く事が出来ませんので、まぁ全く欠点が無い存在というのも可愛げがありませんから、そこもまた私のチャームポイントになる訳です』

「……何、アリウスの肩を持つわけ?」

『いいえ、その考えは少々短絡的過ぎます――ですがこのまま進めば、先生にも、そして私達にも望ましくない結果に繋がりかねない、そう判断したまでの事です』

 

 その言葉に、ハルナ達は顔を見合わせる。物云いは少々――いや、大分鼻につく相手ではあるが、その言動には確かな自信を感じさせる。

 黙り込んだ面々を前に、聞き入れる姿勢に入ったと判断した彼女は言葉を続けた。

 

『まず率直に申し上げますが、アリウス自治区内で先生と戦闘する事はおすすめ致しません』

「え、で、でも……」

『これは単純な話です、第一に、此処は既に敵地、アリウスは先生とも、私達とも敵対しております、そんな場所で互いに銃口を向け合って消耗するのは実に愚かしい行為と云えるでしょう、アリウスにとっては正に漁夫の利を狙う格好の機会となる訳ですから……誰にでも分かる、簡単な事です』

「う、う~ん、それは、そう、だけれど……」

 

 此処が敵のテリトリーである事は重々承知している。そんな中で少数同士が潰し合うのは相手の思う壺――だが、だからと云って放置する訳にもいかない理由がある。彼女達からすれば、スクワッドが先生を確保しているこの状況を一刻も早く脱したいのだ。

 

『今回の先生の行動は突発的で、私の方でも対応が遅れましたが、彼がその様に動いたからには何かしらの理由がある筈です、先生と同行しているアリウス・スクワッドは本来私達とは敵対関係にある部隊――だというのに今、彼女達はアリウスと敵対し、先生は彼女達に力を貸している』

「それに関してはアリウスの生徒を尋問して聞き出しているよ……離反したスクワッドの仲間がアリウスに攫われて、儀式の生贄にされたからって話でしょ? それを助ける為に先生は――」

『えぇ、存じております、先生ならばその様に動くでしょう、生徒の命が懸かっているのならば尚更』

「……なら、何? もしかしてスクワッドと協力して、その仲間を助けてあげましょうとでも云いたいの?」

『身も蓋も無い云い方をしてしまえば、それに近い事になるでしょう』

「………」

 

 その一言に、この場に集った殆どの生徒の表情が露骨に歪んだ。嫌悪や反抗よりも、困惑や戸惑いの表情を先に浮かべたのは――ミチルとツクヨ、そしてイズミの三名のみだった。

 その反応を予期していたのだろう。ドローンはその機体を左右に揺らしながら溜息を零す。

 

『ふぅ……感情として納得出来ないのは重々承知です、そうでなければこの場に貴女方が立っている事はないでしょうし――一先ず、順を追って説明します、それを聞いてから動いても遅くはない筈です』

「しかし、急がねば主殿が……」

『現在のスクワッドにとって先生は生命線そのものです、彼女達が先生を傷つける事はないでしょう――利用している、と云い換える事も出来ますが、潜在的な脅威はアリウスのみと断言出来ます』

 

 ドローンから響く声に考える素振りを見せるハルナ。彼女は担いだ愛銃のストックを指先で叩きながら目を細める。彼女の言葉には妙な力があった、その背景にあるのは権力や肩書と云った社会的なものではなく、科学性だ。或いは理論と云い換えても良い、努めて客観的な視点から物事を捉え、数値や情報で以て損得を計る。

 彼女の垂れ流す言葉にも一理ある、感情ではなく理性としてハルナはそう結論づけた。

 

「普通であれば、論外な選択肢――しかし態々通信を切った私達を追って来たという点を考えれば、普通ではない何か、事情があると」

「……あの者共と、手を組む等と」

 

 吐き捨て、仮面の向こう側で表情を歪ませるワカモ。しかし、そんな彼女の袖を引く存在があった。

 

「で、でも、この人は何か知っているじゃない? なら、話を聞いてからでも遅くは無いんじゃないかなぁ~って、その、私は思っちゃったり……」

「わ、私も、部長と同じ考えです……」

 

 恐る恐ると云った風に口を開き、視線を寄越すミチルとツクヨ。

 両名の視線を受けたワカモは、数秒して深い溜息と共に首を振った。

 

「……分かりました、そこまで仰るのならば」

 

 同時に、全員の視線がドローンに向く。スピーカーから、咳払いの声が響いた。

 

『まず、私は以前より先生を狙う何者かの意志、それに関して調査を行ってきました、そして今回得た情報を元に辿り着いた答えが一つ――即ち、この自治区の実態です』

「アリウス自治区の実態?」

『えぇ、生憎とトリニティの古書までは手が届きませんでしたが、それでも得られるものはありました、例え輪郭だけであっても歴史を知る事が出来るのは興味深い事です、特に皆さんから得られた情報は大変貴重なもので――』

「御託は良いから、必要な事だけ話して」

 

 何やら長い話になりそうだと勘付いたミカが、分かり易い怒気を発しながらそう突っ撥ねる。ドローンの向こう側から、小さな吐息が零れていた。

 

『……この自治区を管理しているのはアリウス生徒会ではありません、そもそもその様な組織が存在する事は終ぞ確認出来なかった、同等の権限を持った部活動や委員会も同様に――この自治区は、既に自治区としての機能すら失っているのです』

「……確か、アリウスの実質的な主は、ひとりの大人だって云っていたよね?」

「――彼女(マダム)

 

 ハルナが指先を立て、その名を口にした。

 全員の視線が彼女に集中する。

 

「アリウスの生徒は、その者をそう呼称しておりました」

『そう、その大人――マダムと呼ばれる存在こそ、私達(先生)の明確な【敵対者】です』

 

 敵対者――その言葉には、何処か力強い響きが伴っていた様に思う。

 

『或いは、そのマダムと呼ばれる存在すらも手駒の一つかもしれませんが、少なくともその存在が明確な悪意を以て先生を排除しようとしていたのは確かでしょう』

「そんなの、今までの所業を見れば明らかでしょう、何を今更――」

『アビドスで起きた事件でも、スクワッドが動員されていると聞いても?』

「……今、何と」

 

 その一言に、ぴくりとワカモの肩が震えた。思い返すのは赤い、大樹の如き怪物――アレ以外にも、スクワッドが動員されていた? それはワカモにとって予想だにしなかった事だった。

 

「あ、アビドス……? アビドスって、あの、砂漠の?」

「名前は存じておりますが、何故ここで――」

「……よもや、あの時から動いていたと――?」

 

 ワカモが呟き、隣に立っていたイズナが目を瞬かせた。

 彼女から放たれる雰囲気は、常とどこか異なる。

 

「……ワカモ殿?」

「――ベアトリーチェ」

 

 声は、淡々としていた。

 

「このアリウス自治区の主、その大人、彼女の名は、ベアトリーチェと云います」

『……どうやら、私達の知らない何かを、既に掴んでいた御様子ですね』

「えぇ、恐らく貴女の想定している黒幕、その組織についても――多少ではありますが」

 

 告げ、ワカモは指先で自身の狐面を擦る。エデン条約前に交わした銀狼との言葉――それを思い返していたのだ。どうやら件の怪物は、自身が想定していたよりも遥かに早い段階で算段を練っていたらしい。

 それを想い、彼女は強く歯を噛み締める。

 

「……元より、スクワッドを始末した後、()の存在は排除すべきだと考えておりました、今更誰に云われるまでもありません」

『………』

 

 その言葉に嘘はない。

 この自治区の主、マダム――スクワッドの背後に立つ存在は先生に害を為す存在である。であるならば何故、放って置く事など出来よう? どの様な形であれ必ず排除する、その様に銀狼とも話を付けた。約定を交わした等とは云えないが、それでも同じ意思を共有したのは確かであった。

 そんなワカモの様子を見て、ドローン越しに彼女は説得の失敗を自覚する。

 

「ねぇ、ねぇちょっと待ってよ、つまり、何が云いたいわけ?」

『――責任の所在はどこか、という話ですよ、聖園ミカさん』

「責任?」

『えぇ、この自治区の主、マダムと呼ばれる大人はアリウスを使って先生を殺害しようとしていました、スクワッドも含め――恐らくは、洗脳に近しい教育か何かを使って』

 

 それは彼女達が戦っていたアリウス生徒の戦闘方法、そして現在もマダムに付き従う姿、断片的な自治区の成り立ちと歴史、現在の自治区の様子を見て下した彼女なりの結論であった。

 

『不自然なほど隠蔽された情報、そして恐ろしいまでの統率、生徒の生死に対する希薄さ、加えてこの自治区の惨状を見て理解しました、件の大人にとってアリウスとは、都合の良い手駒か、使い捨ての銃器の様なもの……果たしてその様な状況にあって、云われるがままトリガーを引く事は完全な悪と断言出来るのか――まぁ、そちらの方には通用しなかった【方便】ではありますが』

「ほ、方便って……」

『実際、これで思い留まって頂けるとは思っておりません、私が云っても所詮は善悪の表面をなぞる程度のもの、それを語るべきは先生であって、私ではないでしょう、幾ら清楚で万能たる存在であっても、えぇ――では、現実的な不利益を語りましょう』

「……それは?」

『簡単な話です』

 

 ドローンのレンズが点滅する。ふわりと一段と高く浮上したドローンは、僅かに語気を強くして告げた。

 彼女の本音は、此処からだ。

 

『マダムが行おうとする儀式――これの影響が、余りにも未知数なのです』

 

 儀式――アリウス自治区で行われるという、スクワッドのメンバーを生贄にした何か。その詳細は不明であり、儀式の詳しい内容に関しては何も掴めていない。唯一分かっているのは、ワカモが盗み聞きした断片的な代物のみ。

 

「……儀式って確か、スクワッドの子を生贄にして云々、って話だよね」

『はい、この生贄というのは文字通り、ヘイローを破壊する――命を奪う行為と考えても良いでしょう、そうですねワカモさん?』

「……えぇ、少なくともスクワッドのリーダーはそう口にしていました」

「改めてそう聞くと、かなり悪趣味ですねぇ」

 

 アカリがその唇を指先で摩り、何処か他人事のように呟く。

 

『儀式とは本来、何かを得る、或いは乞う為に行われるものでしょう? 生徒一人の命を使った儀式とは、果たしてこのキヴォトスに何を齎すのか――少なくとも、真面な代物ではない事は確かです、このアリウスの惨状を見れば分かります、此処を支配する大人は先生とは真逆の性質を持つ存在……自身の目的の為ならば、どれだけの犠牲であっても容認する、生徒を生贄に捧げると云う行為だけで、その内面が透けて見える程です』

 

 告げ、彼女は想う。程度に差はありますが、どこかの誰かと似た性質を感じますね――と。

 尤も、他者(大多数)の為か(個人)の為かと云う明確で、余りにも隔絶した線引きは存在しており、その性質もまた根本的な部分では大きく異なっているが。

 此処を支配する大人と比較すれば、あの下水道の様な存在も多少は可愛げのある相手に思えるというもの。いや、流石にそれはないか? 不快感で比較すれば同程度――だが、いや、でも。

 思考が一瞬、あらぬ方向に向いた。

 こほん、と彼女は咳払いを挟み、改めて口を開く。

 

『――断言しましょう、件の儀式はキヴォトスにとって大きな害を齎すと』

「……しかしそれは、推測に過ぎない筈、何の証拠もありはしません」

『えぇ、勿論、確固たる証拠はありません、ですが為されてからでは遅い、少なくとも私達にとって善い代物でない事は確実、そうである以上阻止するべき事柄ではありませんか?』

 

 確かに儀式が必ず自分達に悪影響を及ぼすものではないかもしれない。しかし、この自治区の惨状とアリウス生徒の態度を見れば、件の存在が利己的な理由から他者の犠牲を容認する存在である事は明らか。それは生贄を用いる儀式からも読み取れる――であれば、実害を被る前に阻止するという行動は何もおかしな話ではない。

 とどのつまり、彼女が云っているのはそういう事だ。

 

『先生は確かにスクワッドの生徒を救う為に奔走している、皆さんはそれが気に入らない、しかし考えようによっては先生はこの儀式を阻止する為に動いていると見る事も出来ます――それを妨害する事は、明確な不利益をキヴォトスに齎すでしょう』

「う、うぅん……」

「た、確かに……?」

 

 ジュンコとイズミが苦り切った表情、或いは苦悶の顔と共に唸る。既に話の領域は、彼女達の理解の範疇を飛び出そうとしていた。

 

『本来であれば先生がこのアリウス自治区に入る前に止める予定でした、その為に美食研究会の皆さんに情報を流したのです、然るべき戦力を揃え、然るべき計画を以て対応する、その様に考えていたのですが、よもやこうも性急に事が運ぶとは……しかし、事此処に至って泣き言は云っていられません』

 

 ドローンが一拍、言葉を切る。その生まれた静寂に斬り込む様に放たれた一言、それこそが彼女の本命であった。

 

『此処で取るべき最も合理的な行動は、先生に協力し、この自治区の主であるマダム――ベアトリーチェを撃破する事です、件のスクワッドに対する罪を問うというのであれば、然るべき場所で、然るべき贖いを求めれば宜しい』

「………」

『私は何も、スクワッドに協力しろと云っているのではありません、あくまで主軸は先生、ただこの様な敵地でスクワッドと銃口を向け合う事はアリウスに要らぬ隙を見せる事になると助言しているまで――最終的な判断は、皆さんにお任せします』

 

 全員の間に、沈黙が流れる。当初提示された道筋は到底許容出来る代物ではなかったが――筋は通っている様にも思える。合理的な判断、成程、確かに合理的だと内心でハルナは頷いた。少なくとも、目の前のドローンを操る彼女にとっては。

 

「え、えっとぉ、ちょっと、難しくて分からなかったんだけれど……」

「わ、私も、えっと、つまり……?」

「――先生が今動いているのは、スクワッドの仲間を救出する為だけでなく、このキヴォトス、延いては私達を守る為である、そういう風にも見れるというお話ですわ」

 

 戸惑いを隠さず、恐る恐る挙手するイズミとジュンコの二人に、ハルナは淡々と言葉を零す。続けて同じように思案する様子を見せていたアカリが続けた。

 

「加えて、スクワッドがこのアリウス自治区の大人に騙されて、或いは良い様に利用されていたかもしれない……という点もありますね」

「あっ、そ、そういう話だったんだ……」

「騙されて、って……」

 

 ハルナは想う。

 彼女の言葉、提案、それは確かに合理的だ。

 理性で以て考えるのであれば、それが最も安全で多くの面で利益に繋がる。

 実際にその様に動けば、先生の願いに沿う形となるだろう。

 しかし――。

 

「騙されていたから、先生を傷つけたことが許されるのかって云われると……なんか、違くない?」

 

 それはあくまで、『理性で以て行動している』前提の話である。

 

「確かにその、儀式? がどういうものか分からないし、あいつらと協力すれば簡単に何とかなるかもしれないけれど、でも、別に、あいつらをぶっ飛ばして、それから此処の親玉を先生と何とかしても良いワケでしょう?」

「ジュンコさん」

「だ、だって、一歩間違ったら死んじゃう所だったじゃん!? それなのに知らなかったからとか! 誰かに云われたから悪くないとか……! そんな理由で許せって云われても、私は……! それが間違いだったとしても、先生の腕も、目も、元には戻らないじゃん!?」

「それでも――あの御方は、御許しになるでしょうね」

 

 難し気な表情で、必死にそう主張するジュンコに対し、ワカモは抑揚なく、いっそ不気味な程静かな口調で以て告げた。

 

「……ワカモ殿」

「そう云う御方です、それを私は十分に理解しています……理解していた筈でした」

 

 そう、ワカモは先生の性質を良く理解している。少なくとも今日(こんにち)まで、そう思っていた。その優しさも、強かさも、弱さでさえ。

 

「ですが」

 

 その両目が、真正面からドローンを射貫く。

 

「スクワッドがあの御方に害を為す存在である事は明白――一度ならばまだしも、二度も、三度も、それを許した私自身に対する怒りもありますが、何よりその様な悪事を為して尚、我が物顔であの御方の隣を歩く、その在り方が許せないのです」

『………』

「私は、私の意志の下、スクワッドは排除すべきだと判断致しました――アレ(スクワッド)は先生の傍に在るだけで害悪となる、ならばこそ、摘み取る機会は今を於いて他にありません」

 

 ワカモの意志は――依然、変わりなく。

 合理(道理)とは、立場によって異なる。少なくとも彼女にとっての合理的な判断はスクワッドを排し、マダムもまた排除する事にある。その内の一つと共闘するなど、彼女の理念が、矜持が、感情が許さない。すべては先生の安全と平穏の為に、あの方に対し害となる存在が居るのであれば地の果てまで追いかけて始末する。

 それ以外に、道はない。

 

「私は――」

 

 ひとり佇み、俯いていたミカは声を漏らす。その表情は陰鬱で、どこまでも昏く淀んでいた。

 

「私はスクワッドを許せないし、許すつもりもない……誰に何と云われようと、追跡して復讐しなきゃ駄目なの」

「………」

「それを、誰にも邪魔はさせない」

 

 告げ、彼女は顔を逸らす。

 ミカとワカモの両名は、依然としてスクワッドに対し敵対的な立場を表明する。それに対し残された面々は互いの顔を伺い、自身の感情を探る様にして顔に影を落とした。

 

「イ、イズナは……」

「う、うぅ……」

「ハルナさん」

「………」

 

 ジュンコは俯いたまま、しかし両手に握り締めた愛銃には強い力が加えられている。固く結ばれた口元は、自身の言葉を必死に押し込めている様にも見えた。ハルナはそんな彼女の姿を確かめ、それからイズミ、アカリに視線を向ける。イズミは頭を抱えたまま難しそうに唸り、アカリに関してはいつも通りのすまし顔――しかし、何を考えているのかは凡そ予想が付く。

 

 唯一、意見が別れそうなのは忍術研究部の方だった。

 イズナ、ミチル(部長)、ツクヨと呼ばれていたか、彼女達はこの中で一番深刻な表情を浮かべ、これから先進むべき道に迷っている。しかし、その中でも一際ワカモに近しい存在感を放つ彼女――イズナは此方側(敵対側)であるように思えた。

 放たれる雰囲気が、どこか寒々しく、攻撃的だった。

 理解は出来るが感情が許さないという所か。それを見ていたハルナは大きく息を吸い込み、吐き出した。ゆっくりと首を回せば、此方を見つめていたミカと視線がかち合う。

 彼女は此方を嫌悪しているが、どうやら思想は似通っているらしい。

 トリニティらしからぬ内面に、ハルナは内心で苦笑を零す。

 

「――未だ揺らいでいる方もいらっしゃいますが、凡その答えは出た様ですね」

「……みたいだね」

 

 呟き、ミカが一歩――前へと踏み出す。

 そして徐に拳を振り上げると、『何を――』と声を発したドローンを、何の躊躇いも見せずに殴りつけた。衝撃と共に外装が拉げ、ドローンが硬い石床に叩きつけられる。硬質的なもの同士がぶつかり合う甲高い音、そしてスピーカーのノイズと共にレンズを点灯させるドローンだった残骸。叩きつけられ拉げた外装の中から、幾つかの配線と基盤、部品らしきものが飛び出し、その破片が周囲に散らばった。

 

「えっ、あ、ちょ!?」

「あっ、ど、ドローンが!?」

 

 イズミとミチルが声を荒げ、地面に叩きつけられたドローンに駆け寄る。しかし既に破損した機体は徐々に機能を停止し、散らばったそれらを見つめながらミカは吐き捨てる様に口を開いた。

 

「貴女と私達は、異なる見解を示した――これはただ、それだけの話」

『――まさ、か、この様――……果と、な――……』

 

 最後に途切れ途切れの声を発し――軈てドローンは何も発しない、鉄屑に成り果てる。その様子を戦々恐々とした様子で見ていたツクヨが、思わずハルナに問いかける。

 

「こ、壊しちゃって、だ、大丈夫、なんでしょうか?」

「あの様子ですと、恐らく他にもドローンを用意してるでしょう、この程度は些事です」

 

 告げ、ハルナは自身の銀髪を手で払う。

 少々時間を食ったが、予定に変更はない――石床を靴底で叩きながら彼女は声を張る。

 

「――動かなければ、始まりません」

 

 声は反響し、皆の耳に届いた。外套と長髪を靡かせ振り向いた彼女は、隣に立つミカに視線を向けながら言葉を続ける。

 

「一先ず、スクワッド云々は個々の判断にお任せします、しかし先生をこのまま放っておく事は出来ない、それだけは全員共通した目的の筈――先生を取り戻し、スクワッドと切り離した上でお話を伺う、これを当面の指針に致しましょう」

「………」

「それで宜しいでしょうか、ミカさん?」

「……別に、何でも良いよ」

 

 ――スクワッドを始末出来るのなら、それで良い。

 

 声に出さずとも、伝わる想いがある。ミカは無言で足を進め、その様子を見たハルナもまた、肩を竦めながら後に続く。ワカモ、アカリ、ジュンコ、イズミも言葉を交わす事無く続いて歩き出し――暗闇の中に、彼女達は身を沈めていく。

 最後に残った三人、内イズナはミチルとツクヨ、そして前へと進む彼女達の背中を見比べ、それから何かを飲み干す様に、ぐっと表情を強張らせ。

 その足を、暗闇の方へと向けた。

 

「ぶ、部長……」

「―――」

 

 最後に残った二人、ミチルとツクヨ。

 ツクヨはどこか不安そうに、或いは憂う様な表情でミチルを見つめる。

 ミチルは愛銃を抱えたまま暫く沈黙を守っていたが、その顔を不意に上げると力強く告げた。

 

「ツクヨ、私達も行こう……!」

「えっ、い、良いんですか……?」

「良くは、多分ない――でもッ、もし何かあった時、止められるのは私達だけな気がするから……!」

 

 このまま別れる、という選択肢は彼女の中には無い。ツクヨは勿論、イズナも、ワカモだって、彼女にとっては既に友人、仲間なのだ。ワカモは忍術研究部ではないが、此処まで来たら実質部員の様なもの――いつか忍者の良さに気付かせて、自主的に入部させたいという狙いもある。

 

 正直不安だ、自分達がやろうとしている事が正しい事なのか、それすらも定かではない。いや、きっと先生にとって、自分達の行動は望まれない代物だろう、けれど彼女達が憤る理由も十分に理解出来る――だからこそ辛く、苦しいのだ。

 

 ミチルはそんな心を押し殺し、いつも通り不敵に、満面の笑みを浮かべながら自身の胸を拳で打った。

 

「だいじょ~ぶっ! 何とかする! イズナも、ワカモも、何かあったら私に任せて、この忍術研究部最強の部長にっ!」

「……は、はいっ!」

 

 ミチルのその、常と変わらぬ笑顔と宣言に、ツクヨは反射的に頷きを返す。その心は未だ恐怖を滲ませていたが、それでもほんの少しだけ楽になったのも事実だった。

 ミチルが愛銃を担ぎ直し、ツクヨの手を引いて駆け出す。「いこっ、ツクヨ!」と、その小さな体を精一杯奮起させて。少しだけ遠くなった彼女達の背中に追いつく為に。

 

 回廊には、彼女達の駆ける音だけが響いていた。

 


 

「はぁッ、ハッはぁ……ッ!」

 

 疲労が、呼吸から滲み出ていた。

 規則正しく吐き出されていたそれは今や不規則で、額や頬から流れ落ちる玉のような汗が彼女の疲労を物語っている。それでも足を止めないのは担いでいる彼の為だ。愛銃を肩に掛け、両手で先生を掻き抱いた彼女――アルは必死に足を動かし続ける。

 

「あ、アル様……!」

「大丈夫よ、これ、くらい……!」

「………」

 

 前を駆けていたハルカが、不安げに表情を歪ませ彼女の名を呼んだ。それに対し、アルは気丈にも笑みを返すが、誰の目から見ても限界が近いのは明らかであった。同じように殿を担当していたムツキは、先程からアルを見ては顔を顰めている。

 

 ――かなり消耗が激しい、このままじゃ……。

 

 駆けながら、便利屋の頭脳担当ことカヨコは思考する。

 全員、満身創痍。

 このまま包囲でもされてしまえば、完全に逃げ場はなくなる。便利屋全員に無傷の者は皆無であり、全員が全員激戦を潜り抜けた後と云わんばかりの負傷具合。弾薬も装備も、殆ど使い果たしてしまっている。

 このまま逃げ続ければ――詰みだ。

 それだけは今の彼女にも分かる、確かな真実だった。

 

「居たぞッ! こっちだ!」

「……ッ!?」

 

 声が響いた。裏路地に逃げ込んだ彼女達を追って、駆けて来る人影。壁に伸びたそれを見たムツキが、咄嗟にバッグから爆弾を取り出し投擲する。

 

「邪魔ァッ!」

 

 荒々しく叫んだその声、同時に虚空へと向けて投擲した爆弾が炸裂した。爆音が周囲に鳴り響き、熱波が肌を焼く。咄嗟に先生を強く抱き、背を丸めたアルの背中を突風が突き抜けた。

 

「ぐぁッ!?」

「うげッ!?」

 

 爆発によって吹き飛び、壁に叩きつけられ地面に転がる敵性勢力。その無力化を確かめたムツキは、荒い息をそのままにアルへと振り向く。

 

「アルちゃんどうしよう、こっちにもかなり追手が――!」

「っ……!」

 

 くしゃりと、アルの表情が歪んだ。裏路地に響く足音、今の爆発音で増援が駆け付けて来るのは時間の問題だ。息を吸い、吐き、弾む肩を自覚しながらアルは先生を強く抱きしめる。

 

「先生――……」

 

 自身の腕の中で、静かに眠る先生。今の彼は、酷い状態であった。全身を血の滲んだ包帯に包まれ、残った四肢は右腕一本。更にその顔面はプレートで固定され、これが外れると顔面が崩壊してしまう程の重傷。生きているのが奇跡と云える――彼が命を長らえているのは、彼が肌身離さず持っていた、このタブレットの力によるものらしい。

 だから先生と、このタブレットへの被弾は、何としてでも避けなければならない。

 

 しかし、状況はそれを許さない。

 

 アルは苦悶の表情で思考を巡らせる。先生を此処に置いて行くという選択肢は取れない、しかし逃走が困難な以上、このまま追撃を受け続ければ待っているのは確実な死――迷い、苦悩し、顔から血の気の失せた自身のリーダーを見つめ。

 

 カヨコは、決断した。

 

「此処まで、だね」

 

 声は、思っていたよりも無機質であった。

 先生を抱えたまま蹲るアルの横を通り、カヨコは自身の愛銃の弾倉を検める。弾薬は残り少ない、相手を出来て十数人という所だろう、そこからは純粋な体術か、相手の武装を奪うしかない。

 そんな事を考えながら、カヨコはアルに向けて云った。

 

「――社長、先に行って」

「え……?」

 

 一瞬、アルの瞳が見開かれる。

 まるで何を云われたのか分からないと、そう云わんばかりに。

 そんな彼女の様子に苦笑を零しながら、カヨコは言葉を続けた。

 

「此処は私とムツキ、ハルカで食い止めるから」

「ぇ、ぁ、な、なにを云っているの、そんな事――!?」

「ッ! だ、大丈夫です、アル様!」

 

 意味を理解した瞬間、アルは烈火の如く声を荒げる。そんな事を許せる筈がないと、そう叫ぼうとして――しかし、横合いから聞こえた必死な叫びに、思わず言葉を呑んだ。

 見れば、血と泥に塗れ、ぐしゃぐしゃになった顔でハルカが必死に、懸命に叫んでいるのが視界一杯に映る。

 

「わ、私は、ぜ、絶対、負けたり、しませんから……! アル様と、先生を、御守りしますから……っ!」

「ハルカ、あなた――」

 

 その、必死の形相に。

 懸命に意思を示すハルカの想いに。

 アルは言葉を続けられない。

 

「くふふっ、アルちゃん、何、もしかして私達が負けちゃうとか思っているの~? あんな連中、ぱぱっと爆破して直ぐ合流するから、心配しないで良いよ!」

「ムツキ……」

 

 続く様に、アルの肩を指先で突くムツキがいつものように、何て事のない用事を片付けるような言葉で笑みを零す。愛用のバッグと愛銃を振り回す彼女は、屈託のない笑顔を浮かべながら此方を見下ろしていた。

 

「先生を担いだ状態で、これ以上追撃を受けるのは不味い、なら社長だけ先に逃げて、追っ手を撒いた上で合流した方が良い、これが一番合理的な判断」

「か、カヨコ……」

「大丈夫、勝つ算段はあるから、社長は先に進んで」

 

 カヨコは淡々と、うっすらと笑みを浮かべながら告げる。

 足音が段々と近付いて来る。誰かの叫び声、自分達を探す声、アルは刻一刻と迫る破滅を前に先生を見下ろす。

 傷だらけになって、もう、差し出せるものなんて何一つなくなってしまった、大人を抱いて。

 声を、絞り出す。

 

「……本当に、信じて良いのよね」

 

 発した声は、みっともない程に震えていた。

 呟き、彼女は涙を呑んで、顔を上げた。

 潤んだアルの瞳が、カヨコを真剣に見つめていた。

 

「嘘じゃ、ないのよね……!?」

「――アル」

 

 敢えて、そう名を呼んだ。

 目を背けるな。カヨコは自身にそう云い聞かせる。

 カヨコは傷だらけの頬をそのままに、優しく、それでいて穏やかな笑みを湛え――告げた。

 

「私が今まで、嘘吐いた事、あった?」

「………」

 

 無かった。

 カヨコが自分に嘘を吐いた事など。

 一度だって、なかった。

 

「ッ――信じるわよ、カヨコ! ムツキ、ハルカッ!」

「うん」

「くふふっ!」

「は、はい!」

 

 先生を抱いて、アルは立ち上がる。震える両足を叱咤し、殴りつけてでも駆けてやると気概を抱く。そして一歩、二歩、三歩と歩き出し、やがてその足は駆け足へと転じていく。徐々に遠くなっていく仲間達の背中、それに向けて、アルは大口を開けて叫ぶ。

 我慢した涙が零れ落ち、頬を伝って先生を濡らした。

 

「ぜ、絶対! 絶対無事に帰って来るのよ!? 帰ったら、皆でお肉いっぱい食べるんだからッ! すき焼きよ! すき焼きッ!」

 

 アビドスで食べたすき焼きは、とても美味かった。困難を乗り越えた先にある食事と云うのは別格の味がある。だから、これを乗り越えた先で食べる皆との食事は、きっと、とても美味い。

 

「絶対――絶対だからねッ!?」

「………」

 

 最後まで叫び、皆を思い遣っていたリーダー。その背中が路地裏の、何て事の無い壁の向こう側へと消えていく。それを彼女達はただじっと、微笑みと共に見送っていた。

 アルの姿が見えなくなって、ふとムツキがカヨコに呟く。

 

「……初めてアルちゃんに嘘吐いちゃったね、カヨコちゃん」

「……あぁでも云わないと、絶対に此処に残るって云っていたでしょ」

 

 ぷっと、吹き出すような笑みが零れた。ムツキはバッグに手を掛けながら、「確かに」とけらけら笑う。それを肩を竦めながら受け流し、カヨコはハルカへと視線を向けた。

 

「ハルカ、ごめんね、勝手に決めて」

「い、いえッ! わ、私は、アル様を守れるならそれで……! む、寧ろ私程度でお役に立てるかどうか……」

「前線で暴れ回ってくれる役が居ないと、今回の作戦は成り立たないから、寧ろ必須だよ」

 

 そう云って、カヨコは銃を構える。

 足音はどんどん迫って来る。

 伸びた人影が、光の中で何度も過る。

 人数は十や二十では足りない。

 

「くふふ~っ! それで、カヨコちゃん、具体的な計画は?」

「力尽きるまで此処で粘る――まぁ、作戦なんてモノじゃないよ」

「……まぁ、それしかないよねぇ」

「だ、大丈夫です、お二人は、私が……!」

 

 全員が銃口を構え、その瞬間を待った。破滅の瞬間は数秒後か、数十秒後か、それは分からない。けれど此処で最後まで抗う意思は、決して折れる事がない。震えそうになる指先を、強く握り締める事で誤魔化し――小さく、息を吐く。

 

「――アルちゃん、泣いちゃうかな」

 

 不意に、ムツキが呟いた。

 声は、酷く優し気な色を孕んでいた。

 

「……多分、ね」

「わ、私なんかの為に、か、悲しい気持ちにはなって欲しくないのですが……」

 

 ハルカが、どもりながらそう呟く。

 

「で、でも、少しだけ、ほんのちょっぴりですけれど――誰かに想って涙を流して貰えるのは、う、嬉しい事、ですね……え、えへへ」

 

 それは、自分を大切に思ってくれていた証明だから。

 或いは、きっと、心の中でも想ってくれるのならば――それだけの価値が自分にはあるのだと、どこか認められた様で。

 しかし、それを口にしてハッとした表情を浮かべたハルカは、戦々恐々とした様子で何度も頭を下げる。その場に居ない、アルに向けて。そんな分不相応な感情を、自分が抱く等恐れ多いと。

 

「す、すみません、こんな事云って! ご、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

「……ま、気持ちは分からないでもないけれど」

 

 最後までブレない子だと、カヨコはそう苦笑する。

 足音は、直ぐそこまで迫っていた。

 

「ッ、来るよ、ハルカちゃん、カヨコちゃん!」

「っ、わ、私が前に出ます――!」

「ふーッ……」

 

 ムツキが声を荒げ、愛銃を腰だめに構える。ハルカが一歩前に踏み出すが、全員弾薬は心許ない――もって五分、いや十分か。出来得る限りアルが遠くに逃げられる様、限界まで粘る必要がある。

 楽に死ぬことは、許されない。

 

「大丈夫だよ、カヨコちゃん」

「……ムツキ」

「便利屋68は、アルちゃんそのものなんだよ、だから、アルちゃんが無事ならきっと大丈夫」

 

 不安が表情に出ていたのだろうか。

 誰も彼も恐ろしいと云われる顔をする自分に、ムツキは溌剌とした満面の笑みを浮かべ、云った。

 

「だって、私の大好きなアルちゃんだもん!」

「………」

 

 そう、臆面もなく云い放つムツキに対し、カヨコは一瞬面食らった様に目を見開き。それから呆れたような、感心したような、何とも云えない笑みを零し、呟いた。

 

「ほんと、そういう所は素直に羨ましいよ」

「え~? それ、どういう意味」

「褒め言葉」

 

 告げ、彼女は視線を切る。

 誰かに対して、素直に好意を示す事を自分は疎んでいた様に思う。或いは恥じていたのか――もう少し、器用に生きる事が出来たのなら、別な道もあっただろうに。そんな風に、どうにもならない事を今更考えて。

 カヨコは自分でも驚くほどに優しく、穏やかに、その言葉を口に出来た。

 

「私達のリーダーを、よろしくね――先生」

 

 声は、裏路地に轟く銃声に紛れ、消えた。

 

 ■

 

 というシチュエーションを本編書いている最中に思いつき、プロットから簡単な肉付けまで勢いそのままに行った所、午前四時になっていましたわ。「んほ~、新しいシチュエーション思いつきましたわ~! これ漫画無理ですわ~! 文字で書きますわ~!」ってプロットに着手し始めたのは午後十一時頃だった筈なのに。明日も平日なのに。一体何をしているのでしょうね、わたくしは。投稿遅れて大変申し訳ありませんの。

 

 もう駄目ですわ、クソ眠いのですわ、推敲出来ませんわ~! 誤字脱字一杯だったらごめんあそばせ! あと本編の方が地の分少ない様な気がしないでもないのでその内加筆修正するかもしれませんわ!

 

 因みにこの後は「先生死亡ルート」か、「先生生存ルート」かで分岐します。

 死亡していた場合は仲間も全滅した上に唯一の希望であった先生すら失ってテラーに転がり落ちるか、或いは周回して【例のBGMが絶対に鳴らない真アウトロー・アルちゃん】の完成ですの。愛銃を片手でブッパし、もう片方の手には号砲を打ち鳴らす遺品の拳銃、背中にボロボロのショットガンに、古び、何度も繕われた継ぎ接ぎだらけのバッグを背負って戦います。

 遠距離・中距離・近距離・範囲攻撃も完備とかなりオールラウンダーな戦力ですわ。なりたかった自分になれたよ、良かったねアルちゃん。

 

 先生生存ルートの場合は凡そは同じだろうけれど、周回やテラー化はせずに便利屋68として活動し続けていて欲しい。ただし新しい人員は決して補充されず、たった一人でブラックマーケットに名を轟かせた伝説のソロ(傭兵)とか、そんな感じになっていて欲しい。

 皆で便利屋をやっていた頃には手に入らなかった莫大な金銭とか、名前ひとつで平伏す様な威厳や名声を手に入れた筈なのに、どこか空虚で、虚しい。生命維持装置に繋がれた先生の傍に立って、今日あった事をぼそぼそと報告するアルちゃん。「今日もビル一棟、買えるくらいの報酬が入ったわ」とか、「昔はオフィスを借りるだけでも、ひーひー云っていたのにね」とか、そんな事を云って。

 皆が居なくなってからアビドスに行くことはなくなって、本当は柴関のラーメンとか食べたいと思っているのに。

 

「……そう云えば、久しく食べてないわね、あそこのラーメン」

「いつも大盛りにしてもらって、お金が無い時でもね、『新商品を開発したんだが、上手いかわからねぇ、試しに食ってみてくれ』って――そんな風に云って、皆の分のラーメンを作ってくれたの」

「大将には、本当に頭が上がらないわ」

「でも、私はもう……あの場所には行けない」

「見たらきっと、泣いてしまうもの」

「……真のアウトローは、涙を流さないものだから」

 

 みたいな事を云って足を運べずにいるのだ。先生の残ったおててを握り締めながら儚く微笑むアルちゃん、綺麗だべ……。

 



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大人として、先生として、人間として(子ども達の為に在る世界)

誤字脱字報告、感謝ですわ~!
今回約一万五千字ですわ!


 

 アリウス自治区、中央区画付近――街道。

 

「先生、こっちだ」

 

 先行したサオリが鋭い視線を周囲に向けながら合図を出す、それを見て先生は素早く立ち上がり、駆け出す。周囲には靴音だけが響き、街灯に照らされた道を先生の影が一瞬過った。路地に飛び込むと同時、サオリが素早く視線を動かし人影が無い事を確かめる。アリウスの生徒に発見されないよう、慎重に慎重を重ねて進行するスクワッド――幸いにして、現在警備らしい警備と出くわしてはいない。

 

 先に路地の中へと身を潜めていたヒヨリとミサキは全員が揃った事を確認すると、ゆっくりと物陰がら顔を出し進行方向の街道を見渡す。

 薄暗い街に街灯に照らされ僅かに濁った霧、整備も碌にされていない建築物や石畳の床、人影らしい人影は確認出来ない。胸を撫でおろしながら、ミサキとヒヨリはサオリと先生に向け告げる。

 

「クリア、どうやら此処までは安全みたい」

「は、はい、この周辺は大丈夫そうです……!」

「こっちの索敵にも反応は無い、一帯は無人のようだけれど」

 

 先生は二人の報告に頷きながら、シッテムの箱を使用し念の為近辺に反応がない事を確かめる。それらしい気配もないし、姿も見えず、音もない、シッテムの箱でも感知できない以上この周辺は全くの無人という事になる。

 

「………」

 

 その報告を耳にして、しかしサオリは険しい表情を浮かべる。誰も居ない、安全、クリア、その出来事が重なる度に彼女の気配は寒々しく、どこか緊張を強めていく。サオリは自身の帽子、そのつばを指先でなぞりながら静かに先生の名を呼んだ。

 

「先生」

「……うん、私も薄々感じているよ」

 

 呟き、シッテムの画面から視線を離しサオリを見る。

 異様な雰囲気に気付いたミサキが、二人に疑念の声を上げた。

 

「リーダー?」

「――おかしいんだ」

 

 そう云って、サオリは今から通過する街道を指差す。

 彼女達の目の前に広がるのは見慣れたアリウス自治区の光景だ。罅割れた石畳、薄らと明かりを灯す街灯、割れ放題の窓硝子、苔がむし蔦の生えた外壁、倒壊しかけの民家、撤去されずに残った瓦礫片――他所の自治区からすれば廃墟と見紛う街であろうとも、このアリウス自治区では中央街と呼ばれる。郊外でも、中央区画でも、こんな光景は当たり前だった。

 

「……街が静かすぎる、元々人通りが少ない場所ではあったが、此処まで誰とも出くわさないのは異常だろう」

「そう云えば……」

 

 呟き、ヒヨリは影から顔を覗かせながら近場の窓を覗き込む。明かりは薄らと内部から漏れていた、電灯が点けっぱなしになっているのだろう――だが、誰かが居る様子はない。物音ひとつ聞こえず、気配すらない、まるで街全てから人が消え去ってしまったかのような。

 ミサキは暫し沈黙を守った後、それとなく壁に身を寄せながら問いかける。

 

「……偶然、って線は? 予め彼女から退避命令か、招集が掛けられていたとか」

「だとしても極端すぎだ、最低限の警邏すら配備されていないんだぞ? これでは、まるで――」

「………」

 

 云い淀むサオリを他所に、先生は一歩、裏路地から踏み出す。そして徐に、何て事の無い動作で街道へと足を進めた。

 

「っ、待て、先生、危険だ――!」

「いや」

 

 その余りにも無造作な動きに一瞬反応が遅れたサオリ、咄嗟に声を上げるが先生は緩く首を振る。シッテムの箱を抱えたまま周囲を見渡し、確信する。もし狙撃手が居るならば、この瞬間にも頭部を撃ち抜かれているだろう。しかし、先生が撃たれる気配はなく、誰も、何の反応も無い。

 ジジ、と灯を点滅させる街灯を見上げながら先生は告げる。

 

「……文字通り、無人だ、此処には誰も居ない」

 

 その言葉を耳にし、顔を見合わせながら先生に続いてスクワッドが恐る恐る街道へと踏み出す。こうして堂々と姿を現しても、咎める声は無く、何の反応も返ってはこない。郊外に近いとはいえ、此処まで人の気配がない事に、困惑の表情を浮かべる。

 

「本当に、私達だけなの――?」

「一体、どういう事だ……」

 

 見慣れた街だというのに、何処か奇妙、不気味と云っても良い。自身の記憶の中に在る街との差異に戸惑っていると、ふと、街道の端に積み上げられたコンテナの存在にヒヨリは気付いた。

 

「これは……」

 

 駆け寄り、外装に目を向けるヒヨリ。中途半端に開いたそれは、廃れた街並みの中では比較的新しいものの様に見え、中を覗き込めば僅かに残った物資が視界に飛び込んで来た。手を突き入れ、取り出しながら検める。

 中身はアリウスの生徒達が使用しているグレネードランチャー、アサルトライフル、ハンドガンと云った銃器。それに加えて弾薬も箱で僅かに残っている。大半は持ち出された後の様だったが、コンテナの底で潰れていたパッケージを摘まみながら、ヒヨリは困惑の表情を見せた。

 

「銃器に、弾薬でしょうか?」

「そうみたいだね、でもコレは私達に支給されていたものじゃない、少し新しい物の様に見えるけれど」

「特務に支給される武装は一般生徒とは異なるからな、しかし――確かにこれは、私達が自治区に居た頃に一般生徒に支給されていた武装ではない」

 

 コンテナから無造作に取り出したハンドガンを眺め、サオリはそう呟く。

 アリウス自治区は内戦の頃から慢性的な物資不足に悩まされていた。それは食糧を始めとした生きていくのに必須な代物から、弾薬や銃器に至るまで、それこそありとあらゆるものが足りていない状況だった。その少ない物資を巡って、更に内戦は激化していた訳だが――その辺りについて、サオリは詳しく知らない。

 だが、全員に真っ当な銃器を配備する事さえ困難であった事は実体験として知っている。それこそ錆ついた銃器や、明らかに動作不良を起こす様な代物、いつの弾薬かも分からない様なものさえ現役であったのだ。

 幸いにしてスクワッドはアリウスの中でも重宝される部隊であった為、装備や配給は比較的優先して回されていたが、一般生徒はその限りではない。

 

 今、サオリが手にしている銃は、錆びてもいなければ壊れても居ない。メインならばまだ分かるが、サイドアームまで揃える余力がなく、錆びたアサルトライフルだけを担いで訓練を行っていた幼少期を思い返せば、この様な代物は物珍しい段階を遥かに通り越していた。

 セイフティを何度か弾き、スライドを滑らせながら感触を確かめる。ガタつきは全くない、トリガーに指を添えながら道の端を狙い、軽く力を籠める。弾丸は発射されないが、トリガープルは軽すぎず、重すぎず、若干の硬さを指先に伝える。

 間違いない、新品だった。

 

「な、何だか、私達の知らない間に知らないものが沢山増えているような気がします」

「……正直、違和感は私もあった」

 

 コンテナに放置されていた銃器や弾丸を手に取りながら、ミサキが口を開く。その瞳からは強い疑念が見て取れる。

 

「エデン条約以降、自治区から長く離れていたとは云え、私達の全く知らない街になっている気がする、外観は一緒なのに中身が違う……そんな感じ」

「その、何と云うか、よくよく思い出すと以前から少しずつ良く分からないものが増えていた様な気がしませんか?」

 

 手にしていた銃器をコンテナに戻し、振り向いたヒヨリが不安げな表情を隠さずに切り出した。

 

「自治区の彼方此方に設置された防衛設備、補給された出所の分からない武器、ヘイロー破壊爆弾……それに今考えてみると、あの複製(ミメシス)というのも凄く変じゃないですか、それなのに、私達は何も疑わずに受け入れて――」

「………」

「私達は、一体、何を――……」

「シッ!」

 

 不意に、サオリが鋭く声を張った。

 素早く振り向き、姿勢を低くする。屈むと云うより、地面に吸い付く様な動作だった。余りにもスムーズな動きで、先生は突然視界からサオリが消えた様にも見えた。

 彼女の声が聞こえた瞬間、スクワッドの面々も続く様に姿勢を下げる。銃撃を警戒していたのだ。しかし、彼女の声の意図した所は異なる。

 

「先生……!」

 

 彼女の声に、先生は意図を察して素早くシッテムの箱を指先で叩く。画面に表示される波形、自身を中心とした近辺に反応は――あった。

 敵性勢力だ、それは間違いない。

 しかし、これは――。

 

 先生の眉間に皺が寄る、だが反応自体は事実。後退りながら顔を上げた先生は、霧と暗闇に覆われた街道奥を指差しながら告げた。

 

「……何者かが此方に向かって来ている」

「ひえっ!? な、なら早く隠れましょう!」

 

 その言葉にヒヨリが慌てて周囲を見渡し、近場の崩れ落ちた民家に目を付ける。傍には物資コンテナが積まれており、民家の残骸を含めて遮蔽に困ることなく、身を隠すにはうってつけに思えた。ヒヨリがいの一番に其処へと走り込み、ミサキがその後に続く。

 

「リーダー、早く……!」

「分かっている――!」

 

 サオリは頷きながら先生の腕を掴むと、滑り込む様にして遮蔽の中へと身を寄せた。サオリの腕が先生の頭を覆い、そのまま抱き締める様にして抱える。全員が呼吸すら止め、必死に気配を殺す。薄暗い街道、点滅する街灯に照らされ現れる人影、それが薄らと霧に滲んでいた。先生はサオリの腕の中から辛うじて顔を出し、遮蔽の横合いから街道を見つめる。

 

「人の気配は無かったが、やはり警邏は残っていたか……」

「で、でも、数はそんなにいない様な――?」

「……どうする、リーダー? 今なら先手が取れる、少数なら勘付かれる前に制圧出来るかもしれない」

「た、戦うんですか……?」

「いいや、それは悪手だ」

 

 ミサキの言葉に、先生は即座に反対を示す。視線をサオリに向けると、彼女も同意見の様子で頷いて見せた。

 

「先生の云う通りだ、手出しはするな、このままやり過ごす――弾丸は万が一見つかった時に取っておけ」

 

 その言葉と共に、全員の視線が霧の向こう側より現れた人影に向かう。

 スクワッドの脳裏に、ガスマスクに白い外套を身に纏ったアリウス生徒の姿がイメージされた。自治区警邏部隊の生徒は殆どが一般生徒に過ぎない、戦力としては下の中程度。万が一見つかっても、通信を入れられる前に制圧出来れば――。

 そんな思考と共に視線を向けていた面々は、次第に明らかとなるその姿に思わず声を失った。

 

「っ、あれは……!?」

「――馬鹿な」

 

 心の底から、驚愕の声が漏れる。

 それは、到底あり得ない光景を目撃したからだ。

 

 ゆっくりと、罅割れた石畳を踏み締める素足。

 まず視界に入ったのは風に靡く襤褸布の様なウィンプル。そして独特な装いに罅割れたヘイロー、馴染みのあるガスマスクはレンズ部分が奇妙に光り、青白い肌はとても人とは思えない様な印象を見る者に抱かせる。

 装いや武装は各々異なるが、ガスマスクとウィンプル、シスター服を基調とした衣装、そして壊れかけのヘイローだけは共通していた。

 亡霊の如き出で立ち――否、実際その者達は亡霊だった。

 その特徴的な姿を、忘れられる筈がない。

 

 ――ユスティナ聖徒会の複製(ミメシス)、それが再びスクワッドの前に現れたのだ。

 

「せ、聖徒会!? あれって、ユスティナ聖徒会ですよね!?」

「しっ、ヒヨリ、声が大きい……!」

 

 気が動転し、聖徒会を指差し叫ぶヒヨリ、それをミサキが必死に抑え込む。窘めるミサキではあるが、その頬には冷汗が滲んでいた。どういう事だと、叫びたい気持ちは彼女も同じであったのだ。否、スクワッド全員が同じ気持ちであっただろう、アレは既に喪われた力の筈だと。ETOとしての権限も、古聖堂の確保さえ失敗した今、ユスティナ聖徒会を使役する事は不可能な筈。

 だと云うのに、現実としてユスティナ聖徒会は消えてない。

 こうして再び、スクワッドの前に姿を現している。

 

「―――」

 

 混乱するスクワッドを他所に、先生はユスティナ聖徒会を厳しい視線で見つめ続ける。その表情は険しく、憂いを含んでいた。

 

「何故だ、エデン条約が抹消された以上、アレの使役は不可能な筈――」

「……考えてみれば」

 

 呟きを漏らすサオリに、ミサキが声を返す。彼女はセイントプレデターを抱き締めながら、ユスティナ聖徒会を色の見えない瞳で睥睨していた。

 

「そもそも私達がエデン条約の会場を襲撃した理由は、複製能力を確保する為だった」

「そ、それはそう、ですが……その為に姫ちゃんは古聖堂の地下であの木人形の云う通りにした訳ですし」

「そうして確保した聖徒会の力でトリニティとゲヘナ自治区を占領する、それが私達の任務だった筈――まぁ、結局先生に負けちゃったけれど」

「……あぁ、私達が逃亡したのもそれが切っ掛けだった、複製能力の確保も、両学園の占領にも失敗してしまったからな、姫を逃がすにはそれしかなかった――だからこそ分からない、何故アリウス自治区は、【彼女】は複製能力をまだ保持して……?」

「あれは」

 

 不意に、先生が口を挟んだ。彼の指先がゆっくりと迫るユスティナ聖徒会に向けられる。

 

「あれは、恐らくただの『複製』じゃない」

「先生、それはどういう――」

 

 思わずサオリが問いかける。

 しかし、それよりも早く――身の毛もよだつ様な甲高い絶叫がアリウス自治区全体に響き渡った。

 

「―――ッ!」

 

 それは、余りにも唐突だった。

 怪鳥の様な、或いは女性の悲鳴のような、何とも表現し難い声。予期せぬそれに肩を竦ませ、耳を覆うスクワッド。びりびりと肌を刺す音の波動に、彼女達は顔を顰める。

 

「っ、こ、この甲高い声……!」

「な、なんですか、これ!?」

「――アンブロジウスの悲鳴だ」

 

 木霊する絶叫、先生は虚空を見上げながらそう告げる。

 声はほんの数秒足らずの間だけ響いていた。ゆっくりと耳を塞いでいた手を離せば、甲高い絶叫はもう聞こえない、残響が微かに滓むのみ。戦々恐々とした様子で周囲を見渡すヒヨリは、青白い表情のまま口を開く。

 

「アンブロジウスって、エデン条約の時に戦術兵器として私達が使役していた、あの?」

「……そうなると、どうやら複製の力は失っていないって事で間違いないみたいだね、やっと街が空っぽの理由が分かった、そもそも彼女は自治区に防衛戦力を残す必要すらなかったんだ」

 

 ミサキが表情を露骨に歪める。

 それは彼女をして、認めたくない事実であった。

 

「――複製(ミメシス)は、一度でも成功させれば繰り返し発動出来る」

 

 声は、寒々しい音と共に鼓膜を震わせる。ヒヨリが、サオリが、信じられないモノを見る様な目でミサキを見ていた。その視線を真正面から受け止めながら、彼女は声を続ける。

 

「……規模の大小はあれど、発動自体に調印や権限の有無は不要、全く、酷い話」

「――つまり、本来の私達の任務は【姫を古聖堂に連れて行って複製を発動させる事】だけだった?」

 

 ミサキの声に、サオリは愕然とした心地で声を漏らした。

 だって、そういう事になる。彼女が敢えてこの真実を隠していたのならば――もし彼女の目的がユスティナ聖徒会、その複製の確保だけだったのなら。

 慌てて、ヒヨリが云い募る。

 

「ま、待って下さい! それじゃあ、ゲヘナとトリニティ占領に関しての任務は、あの作戦は、一体……?」

「彼女にとっては、成功しようが失敗しようがどうでも良い事だった、本命は複製を発動させる事、それだけ――後は占領が成功すれば、手間が省ける、その程度の作戦だった……そういう事になる」

 

 苦り切った表情で断言するミサキ、それに対し返す言葉がないヒヨリ。その表情は蒼褪め、目は大きく見開かれていた。それは、自分達の存在、その全否定に他ならないからだ。何の為に訓練を繰り返し、何の為に戦って、何の為にあのような耐え難き苦痛に耐えたのか――全ては計画の為、作戦の為、数百年越しの悲願を達成する為だ。

 少なくとも彼女達は、それらを掲げて戦っていた。

 

 しかし、もしも。

 もしも、その悲願すら。

 自分達が積み重ねて来た過去の全てが、『どうでも良い事』であったのなら。

 

 それは一体、どれ程の――。

 

「ならば――」

 

 俯き、呟いたサオリの声が鼓膜を震わせる。

 見れば彼女は微動だにせず、大きく見開いた瞳を自身の掌に落としながら呟いていた。震える指先は、彼女の恐怖と同様の顕れだ。

 脳裏に過るのは、彼女達(自分達)が為して来た数多の罪悪。

 自身の傍にあった、ささやかな幸福を守る為に差し出して来た数々の犠牲。

 

「ならば、私達の、あの戦いは――……」

 

 聖園ミカを担ぎ上げ、行われたクーデター未遂。

 多くの生徒が傷付き、先生は聖園ミカをヘイロー破壊爆弾から身を挺して庇った。トリニティ内部は大きく揺れ動き、その影響は未だ収まっていない。分派間の対立は明白となり、ティーパーティーの求心力は大きく低下した。

 ひとつの学園、その在り方を変え、騒動の中心であった聖園ミカ――彼女の人生を、途轍もなく狂わせた行い。

 

「あの、苦しみは――」

 

 エデン条約調印式襲撃、並びにトリニティ・ゲヘナ自治区の占領作戦。

 あの作戦によって、数多の無辜の生徒が血を流した。犠牲者が出なかったのは正に奇跡という他なかった。トリニティが、ゲヘナが、キヴォトス全体が混乱に陥り、憎悪と憤怒が交じり合った地獄の様な光景だった。

 あれを作り上げたのは、他ならぬ自分達(アリウス)だ。

 遥か昔の、顔も名前も知らない誰かの悲願の為に、自分達はこの道を歩き続けた。

 しかし、それは過ちだった。

 その悲願すら、もう、定かではない。

 

「先生の、その、傷は――」

 

 サオリの瞳が、ゆっくりと先生を捉える。

 そこには、強い恐怖と後悔が滲んでいた。

 もしも、もしもそれら過去の行いすべてが、虚構や偽りの中で為された事であったのなら。

 

 その喪われた腕に。

 光を灯さなくなった瞳に。

 もう二度と戻らない、その傷痕(罪悪の証明)に。

 

『――一体、何の意味があったのか』

 

 声が響いた。

 それは、まるで耳元でささやかれている様な感覚だった。はっと、全員が顔を上げる。身体が硬直し、愛銃を握る手に不自然な力が入った。

 

「っ、て、敵……!?」

 

 最初に気付いたのは、ヒヨリだった。

 スナイパーとしての感性か、或いは危機管理能力か。顔を上げた時、自分達を囲む様にゆっくりと地面より出現するユスティナ聖徒会に気付いた。霧に混じって亡霊の如く現れる人影に、ミサキも遅れて気付く。

 サオリはその声に反応し愛銃を構えると、顔を歪ませながら素早く愛銃のセイフティを弾いた。

 感情に打ちのめされ、項垂れている余裕は無かった。鉛の如く重く苦いそれを呑み下し、サオリは叫ぶ。

 

「囲まれた、いつの間に――!」

「ミサキ、先生を守れッ!」

「っ、云われなくても――ッ!」

 

 入れ替わる形でミサキが先生の傍に滑り込み、サオリはコンテナを飛び越え、滑りながら素早く照準を合わせ、トリガーを引き絞り銃弾を撃ち込む。ユスティナ聖徒会との距離は十メートルもない、近すぎて外しようがなかった。

 マズルフラッシュが薄暗い街の中で瞬き、乾いた銃声が木霊した。

 弾丸はサオリの狙い通り、ユスティナ聖徒会の額を穿つ。弾かれた顔面、消し飛ぶガスマスク、同時に掻き消える希薄な存在、耐久力は決して高くない――しかし、その背後から続々とユスティナ聖徒会は現れる。

 

 一、二、三――十、十一、十二、いや、もっとだ。

 

 サオリは視界の端に映るそれらを数えながら、思わず苦り切った表情を浮かべる。

 スクワッドを囲う様に、街の至る所からユスティナ聖徒会が姿を現している。街全体が彼女達の縄張りであると云わんばかりに。

 路地裏から、街道のど真ん中から、崩れ落ちた民家の窓辺から、その屋根の上から。

 青白い輪郭の揺らめきが、サオリの視界を掠める。

 

「こ、この数は……!?」

「まさか、私達が此処に来るって分かっていたの――?」

「――誘い込まれたのか」

 

 コンテナの裏に身を潜めながら、先生は思わず呟いた。

 この数に配置、明らかに狙っていたとしか考えられない。

 

『えぇ、勿論です、先生』

「……ベアトリーチェ」

 

 その言葉に応える様に、スクワッドの目の前にホログラムの様に実体のない姿で彼女は顕現した。

 全員が思わず身構え、身体を強張らせる。

 スクワッドにとって彼女――マダムの存在は何よりも恐ろしく、心身に刻み込まれた恐怖そのものだった。

 幼少期より自分達を教え導き、真なる存在であると云って憚らなかった人物。肉体がどれだけ成長しようとも、幼き頃に刻まれたあらゆる教えと経験は決して消えない。姿を見るだけで足が竦む、逆らう気力が削がれる、反抗すればどうなるか、彼女達の肉体は身に染みて理解しているのだ。

 その様子を見つめながら、ベアトリーチェは上機嫌に言葉を紡ぐ。

 

『此処は正真正銘、私の支配下にある領地、皆さんの位置や目的地、その経路に至るまで全て把握しております、あなた達が旧校舎の回廊に向かっている事も最初から分かっていましたとも――あぁ、愚かな子ども達、私に隠し事など不可能なのです』

「さ、最初から……!?」

「やっぱり、掌の上だった」

「っ……!」

『何やら朧げな認識阻害を施している様ですが、私の支配する地に於いては十全な効力を発揮しない様ですね? 単なる悪足掻き、と云うべきでしょうか』

 

 クツクツと嗤うベアトリーチェは、手元の扇子を勢い良く開き口元を覆い隠す。その瞳は嗜虐心に爛々と輝いていた。

 

『追撃を躱し再びこの地を踏んだ褒美として、先程の問い掛けに答えましょう、サオリ――貴女たちの任務、それは最初からロイヤルブラッドを古聖堂に連れて行き、聖徒会を顕現させる事……ただそれだけだったのです』

「……!」

 

 はっとした表情で顔を上げるサオリ、その瞳が揺れ、ベアトリーチェを捉える。

 

『パスは一度接続さえすれば以降は全て統制が可能、マエストロは自身の作品が奪われるようだと嫌っていましたが、その様な事はどうでも宜しい……あぁ、貴女方が命を賭けたトリニティやゲヘナの占領に関してもです、私にとっては全て――些末な事』

 

 その言葉と共に、ベアトリーチェに備わった幾多もの瞳が絞られる。黒の中にある赤い瞳がサオリを射貫き、その全てが彼女を嘲笑っている様にも感じられた。

 

『この自治区が長年抱いていた憎悪を統制し、都合よく操る為の方便ですから、私自身あの学園に何の遺恨もありません、繁栄しようと、滅びようと、どうでも宜しい』

「――ッ!」

『そうですね、ですから……貴女方(スクワッド)は見事任務を遂行したと云えるでしょう、私に複製の能力を提供しましたし、ロイヤルブラッドも素直に生贄として捧げてくれました、あぁ、あなたは昔から云いつけを良く聞く良い子(都合の)ですね――サオリ』

「……やはり」

 

 ぎちりと、噛み締めた歯が軋んだ。

 過去、サオリがまだ何も持たず、力も、知恵も、何もかもが足りなかった頃。

 当時彼女にあったのは意志だけだ、家族を、手の届くほんの僅かな幸福を守りたいと、何を犠牲にしてもそれだけはと願った痛烈な意思。

 その願いの果てに、彼女と結んだ無謀な約束――トリニティを、ゲヘナを、両校の占領を為せば、アツコを、家族(スクワッド)を救ってくれると、確かにそう約束した。

 

 サオリは、その約束を成就させる為に努力した。

 その青春(人生)の全てを捧げて来た。

 どんなに辛くと耐えられた。

 どれ程の痛みであろうとも堪えられた。

 狂いそうになる苦しみでさえ、呑み下した。

 その先に――自分達の幸せ(家族と共に生きる事を許される世界)があると信じていたからだ。

 

 けれど――それは間違いだった。

 

 顔を上げ、充血した瞳でベアトリーチェを睥睨するサオリは、血の滲む様な声で叫んだ。

 

「最初から、約束を守るつもりなどなかったのか――マダムッ!?」

『ふふっ、子どもの躾けはこの程度で良いでしょう、【そんな事よりも】私が語るべきは――』

 

 激昂するサオリを嘲笑い、袖にしたベアトリーチェは改めて先生と対峙する。スクワッドに守られ、その後方に佇む大人の姿。

 

『――シャーレの先生』

「………」

『よもや裏切り者と共に、碌な戦力も連れず乗り込んで来るとは』

 

 告げ、彼女は小さく息を吐き出す。こうして仮初とは云え姿を見せた状態で言葉を交わすのは随分と久方振りか。権能を使い時折彼の様子は伺っていたが、こうして己が瞳で見れば感じるものも別格というもの。

 特に、その仮初の腕と、喪われた瞳――それを視界に捉える度、ベアトリーチェの胸には仄暗い歓びの感情が沸々と湧いて来る。

 それを噛み殺し、扇子で覆い隠しながら彼女は想う。

 

 正直、先生がここまで迅速に動くとは予想外であった。

 ロイヤルブラッドを生贄に捧げれば、必ず乗り込んで来ると思っていたが――しかしそれは、各校に協力を要請した上で自治区に乗り込むか、或いは別途秘密裏に戦力を用意した上で侵攻して来ると考えていた。

 それを見越した上でベアトリーチェは儀式を急ぎ、自治区内の戦力全てを吐き出してロイヤルブラッド確保に動いた訳だが――ある意味これは自身の方針が功を奏したと考えるべきだろう。自身が迅速に動いたからこそ、先生は今この場に、碌な戦力も連れずにこうして姿を見せている。

 更には不和となった生徒達も引き連れて。

 

 ――もしそうならば、実に好都合。

 

 自身にはまだ、勝ちの芽が残されている――勢い良く扇子を閉じ、ベアトリーチェはそう結論付ける。

 そんな彼女の思考を読んだのか、或いは別の意図があったのか、先生は険しい表情を保ったまま静かに口を開いた。

 

「……アリウスの生徒達については凡その予測は出来ていた、けれどこの自治区に到着して確信したよ」

『――もしや、生徒達の在り方について説いているのですか? えぇ、えぇ、あれは私なりの【学習】の成果です、洗脳や超能力……くくッ、そんな便利な力があれば良かったのですが、残念ながらそれは大人のやり方ではありませんので』

 

 告げ、ベアトリーチェは満足げに頷く。そうとも、子どもを従えるに、その様な大それた力など必要ない。

 ほんの少し、弱い(脆い)部分を刺激してやれば良いのだ。

 自身の都合の良い様に。

 それしか道が無い様に。

 

『あなたの予測通り私は、憎悪、怒り、軽蔑、嫌悪――そう云った負の感情を利用し、偽りと欺瞞で子ども達を支配して参りました、単純ですが確実な方法です、あなたなら良く知っているでしょう?』

 

 薄らと笑みを浮かべながら、そう告げるベアトリーチェ。脳裏に過るのは自爆すら許容し、先生の命を奪おうとした生徒達(アリウス)の姿。

 命令されたのならば、自身の命すら対価として差し出す――到底、真っ当な精神ではない。しかし、その様に教えたのは他ならぬベアトリーチェだ、彼女だけはその仕上がり(教育の成果)に満足していた。

 

『内戦に明け暮れ、疲弊し、互いに対する負の感情が満ち溢れていた場所――私はただ、そこにほんの少し刺激を加えたに過ぎません、何も特別な事はないでしょう? こんなもの、ありふれた光景ではありませんか』

「ありふれた……?」

 

 ベアトリーチェの言葉に、ぴくりと先生の肩が震えた。

 声には、堪え切れぬ強い感情が込められていた。

 先生の反応を上機嫌に伺いながら、彼女は深々と頷いて見せる。

 

『えぇ、そうです、寧ろ憎悪に限って云えば――アリウスよりもトリニティの方が強いのではありませんか? あなたはその目で見て来た筈です』

 

 妬み、怒り、憎しみ――あの学園はそれらの感情を実に好む。

 嘲笑う様に、否、実際彼女はその様に思っているのだ。聖園ミカを糾弾し、罵り、貶めようとしている子ども達(トリニティ)の様に、それを発端として派閥間で対立し嫌悪しあった様に。

 その様な感情は、光景は、何ら珍しい事ではないと彼女は云う。

 自身が手を下さずとも、子ども達は実に下らぬ理由で互いを攻撃し、憎しみ合い、嫌悪し、対立する。

 

 思想が異なるから、信念が異なるから、派閥が異なるから、学年が異なるから、所属が異なるから、自分よりも優れているから、自分よりも劣っているから、自分よりも強いから、自分よりも弱いから、何となく嫌いだから、何となく受け入れられないから、誰かにそう云われてから、皆がそうしているから――あぁ、彼女達にとって理由など何でも良いのだ。

 

 実に、実に――愚かしい(都合が良い)

 

『生の謙虚さを教える金言は無価値な空虚へと、堕落を警戒する厳格な自責は逃れられない罪悪感へと、事実を湾曲し、真実を隠蔽し、本心を曲解し、嫌悪を助長し、憎悪を煽り、他人を、隣人を、永遠にお互いを理解させぬ様に、私は子ども達に教えを授けて来ました』

 

 その絶対的な壁が、無理解こそが、大人が子供を都合よく操る為に必要なプロセスとなる。零は一に到達出来ない、しかし一に至ったものを百にしようが千にしようが、その(最初の感情)を用意したのは自分ではないのだ。

 そう、世界の真実とはそこにある。

 此処は――そういう世界なのだ。

 

『楽園は永遠に届かないからこそ、楽園足り得る――その地獄の中で大人は、子どもを支配し搾取し、役立たせる……えぇ、誰かにとっては地獄でしょうが、これこそ大人の安らかなる楽園(エデン)

「………」

『ロイヤルブラッド、あの子は私が丹精込めて教えを授けた生徒なのです、生贄として捧げればきっと、私達大人に素晴らしい福音を授けてくれるでしょう』

 

 両手を広げ、恍惚とした表情でベアトリーチェは告げる。

 その動作は世界を抱擁するかのように優しく、柔らかだった。

 しかし、それは決して慈愛や情念から来るものではない、ただ単に、利益を齎すものを好むと云う打算と彼女の価値観によって生まれる(さが)から齎されるものだ。

 其処に、愛は無い。

 其処に、感謝は無い。

 もし、あるとすれば、それは。

 

 ――自身の(血肉)となった事に対する感謝(よろこび)だけだ。

 

『ふふっ、神秘と恐怖が入り混じった崇高の転炉――それこそがこの世界の真実なのですから……!』

「――黙れ」

 

 ズン、と。

 先生の足が一際強く、石畳の床を踏み締めた。

 

『――!』

 

 一瞬、ほんの一瞬、ベアトリーチェの視界に映る先生の姿が、まるで巨大なものであるかの様に錯覚する。

 びりびりと肌を刺激する重圧、たった一人の人間から放たれるとは思えない激情の嵐。自身を睥睨する双眸、射殺してやると云わんばかりに注がれる視線。それを真正面から受けながら、ベアトリーチェは三日月の如く口元を吊り上げる。

 

 これでこそ聖人、唯一無二の敵対者(アンタゴニスト)――この者を超え、打倒した時、自身は何者にも負けぬ絶対者へと至る。

 その確信がある。

 

「あなたの語る真実と、私の信じる真実が交わる事は、もう決してない」

『えぇ、私達は互いに異なる真実を信じている、それは既に証明された一つの事実、不本意ながらアビドスでの一件で私はそれを良く理解しました……この私が、理解などと口にするとは夢にも思いませんでしたが』

 

 告げ、ベアトリーチェは苦笑を零す。他者の理解を拒み、嫌悪を助長させ、欺瞞と偽りで固める事を良しとした己が、他者を理解する等と今まで思ってもいなかった事だ――ベアトリーチェは他者を理解する事など一度としてなかった。その必要も、機会も、意思さえなかったのだから。

 ただひとり、先生(彼の存在)を除いて。

 

『見させて頂きましたよ、あなたの語る楽園、エデン条約――皆の友情で悪を退ける、罪を犯さんと進む子の手を引く清純な意思、単純で理解しやすい世界、まるで幼子の様に純粋で、単純で、無垢で、何と愚かしい!』

「人の希望を、(善性)を、子ども達の可能性を、そうも貶めるかベアトリーチェ」

『えぇ、当然です! その様なものが私達大人に何の利を齎しましょう? 断言します、その様なもの、何の役にも立ちはしない……! 故に大人が、私達こそがきちんと教えてあげねばなりません、エデン、楽園の名称――その楽園こそ、原罪が始まった場所なのだと!』

 

 ――そう、真の楽園こそ、憎悪、怒り、嫌悪、苦痛、悔恨、それらが溢れかえっているのだと……!

 

 天を仰ぎ、叫び、ベアトリーチェは想う。

 その楽園の中で嗤うのは、私達大人なのだ。

 子ども達にとっては地獄だろう、苦しみと痛みに満ちた一生だろう。

 しかし問題はない――その様に教えを授けたのだから、不満など出よう筈もない。

 

 ――何せ『幸福』を知らねば(不幸を自覚せねば)【不幸】ではないのだから(それは不幸ではない)

 

『さぁ、先生――これが私の用意した終幕、私とあなたの最後の舞台!』

「……御託は良い、ベアトリーチェ、あなたの領域(バシリカ)で待っていると良い」

 

 呟き、先生はベアトリーチェを緩慢な動作で指差す。

 その瞳には最早――憤怒以外の感情()は無い。

 静かに、湛える様な、水面の如き怒り。

 それを真っ直ぐ、ベアトリーチェに向ける。

 

「――必ず、そこに辿り着く」

『えぇ、バシリカでお待ちしておりますよ、先生』

 

 それをベアトリーチェは歓喜の念で以て迎える。

 この道以外に、自分達に選択肢など存在しない。頂きに至るはただひとり、どちらかが斃れ、どちらかが先に進む。先生とベアトリーチェの結末は、既に決まっている。

 

 黒服は先生を仲間と認識し、互いに競い合えると信じた。

 マエストロは先生を理解者と認識し、互いに高め合えると信じた。

 ゴルコンダは先生をメタファーと認識し、互いを通じて完成されると信じた。

 

『そして私はあなたを敵対者と認識し、互いに反発すると信じていました――そして、それは此処に証明された、あなたと私の真実が交わる事は永遠にない、私が、私こそがあなたの絶対なる敵対者(アンタゴニスト)

 

 ベアトリーチェは大きく手を振るい、扇子を閉じる。空気の破裂する様な乾いた音が周囲に響き、その数多の紅瞳が先生を射貫いた。交わる双方の視線、そこに乗せられた感情は異なるものの、根源は通ずるものがある。

 絶対的に理解し合えぬもの――大人としての自我(境界線)、その信念の衝突。

 そう信じ、貫き、此処まで歩いて来たからこそ譲れぬものがある。

 曲げるには互いに、余りにも多くの時間と犠牲を積み重ね過ぎた。

 

 ベアトリーチェは先生の大人としての在り方(子どもの為の世界)を受け入れられず。

 先生はベアトリーチェの大人としての在り方(大人の為の世界)を受け入れられない。

 

 ならば(言葉で理解し合えぬなら)、後はもう――手段は残されていない。

 視線を交わしたまま、二人は互いに口を開く。

 

『すべてに決着を付けましょう、今まで紡いで来た文字通り全てに――あなたが、この場所(バシリカ)に辿り着けるのならば……!』

私の生徒(秤アツコ)は――」

 

 ベアトリーチェを指差していた掌が、ゆっくりと、しかし力強く、握り締められる。

 その向こう側に、烈火の如く燃え盛る意思をベアトリーチェは確かに視た。

 

「必ず、返して貰う」

『……くくッ!』

 

 意図せず、口元が大きく開き笑いが漏れた。

 それを背で隠しながら、ベアトリーチェは踵を返す。そして扇子を広げると、振り返ることなく告げた。

 

『――始末()しなさい』

 

 その一言と共に、ユスティナ聖徒会が一斉に銃を構える。二人のやり取りに圧倒されていたスクワッドがハッと立ち直り、先生を守る様にして素早く円陣を組んだ。

 その中で、シッテムの箱を構えながら先生は冷静に告げる。

 

「行こう、スクワッドの皆」

 

 声は、力強く、僅かな震えすらなかった。

 その瞳が、掻き消えていくマダムの残影を睨みつける。

 

「アツコを、彼女(マダム)の下から助け出す――ッ!」

「――あぁ」

「は、はいッ!」

「……うん」

 

 全員の声が、先生の背中を押した。シッテムの箱が輝きを増し、周囲一帯に青白い光を放つ。スクワッドのヘイローが微かにノイズを発し、先生と彼女達がライン(繋がり)を形成した。

 ユスティナ聖徒会は数で此方を圧倒する、しかし――負ける気はしない。

 サオリが、ヒヨリが、ミサキが、愛銃を握り締めながら前を見据える。

 その瞳にマダムに対する恐怖は、もう何処にも宿っていない。

 

「アリウス・スクワッド――出撃ッ!」

「了解!」

 

 寂れた街の中に、生徒(子ども)達の力強い叫びが木霊した。

 


 

 因みにアリウス生徒がミカに対して命乞いをしていた事について、命差し出すのに躊躇いないのなら情報漏らしたりしないんじゃねぇですの~? と思うかもしれませんが、あれは死にたくないから命乞いしているのではないのです。

 単純に何の抵抗も出来ずに圧倒的な上位者から殴られたり蹴られたり、一方的に撃たれる状況に陥るとアリウスで罰則を喰らっている時の事を思い出(フラッシュバック)して、条件反射的に謝ったり許しを請うたり、自分の持ってる全部を無条件で差し出してしまうだけですの。

 

 ンギィ! かわいそうッ!!! 可哀そうなのは駄目!! 先生は死刑ッ!!! 

 先生何しているんですの~!? アリウスの子達(あなたの生徒)が大変な目に遭っているんですわよ~!? 無敵の大人のカードで何とかしてくださいましよォ~ッ!

 オラッ! 先生! もっと酷い目に遭え! 血を流せ! 臓物ぶちまけろ! 惨たらしくくたばれ! やっぱ生きろ! 死ぬな! ちょっと死んでんじゃねぇですわ!! 

 まだ捥げる所いっぱいあるし、生徒達の為にも長生きしてね先生……。 



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圧倒的ニンジャ

誤字脱字報告に感謝ですわ~!


 

「一番機、信号ロスト――」

 

 画面一杯に走るノイズを見つめながら、彼女――ヒマリはそう呟いた。

 場所は特異現象捜査部、メインルーム。ミレニアムの中でも特に秘匿性に優れ、部屋の中には無数のモニターが青白い光を放っている。その中央に座し、愛用の車椅子の上で指先を躍らせる彼女。手元のコンソールを操作しウィンドウを閉じると、耳に響いていた音も消える。完全に沈黙したドローン、真横に表示されたオフラインの表記を横目に、深く椅子に凭れ掛かったヒマリは溜息を零す。

 

「ふぅ、アリウス自治区に進行した時点で薄々感じていましたが、まさか突然殴りかかって来るとは、この手を出す速さは流石の私も予想していませんでしたね……」

 

 最後に表示された機体状況は大破、咄嗟に再起動(リブート)を掛けては見たものの、信号がロストした時点で再起動は絶望的だろう。超長距離通信可能な小型ドローンはそれなりに高価なのだが、仕方がないとヒマリは一番機の接続を完全に遮断する。

 

「しかし、駄目で元々、微々たるものではありますが――幸い時間を稼ぐ事は出来ました」

 

 素早くコンソールを叩き、複数のウィンドウを目前に投影する。其処には先程と同じ型版のドローン、そのカメラ越しの視点が映し出されていた。

 

 元々ヒマリは今回の説得の難度、その高さを理解していた。恐らく彼女達が納得して踵を返す、或いは戦闘行為を控える確率は限りなく低いであろうと予測し、失敗する前提で動いていたと云っても良い。

 それでも実行に移したのは、多少なりとも意識を逸らす為だった。

 何を隠そう、通信が途絶した後、アリウス追撃部隊の殆どをミカ一行にぶつけたのはヒマリの誘導によるものだった。若干彼女達が草臥れて見えたのは、連戦に次ぐ連戦の果てに自治区に辿り着いたからであろう。

 その甲斐あって先生は一度も会敵する事無く自治区内部に進行出来た筈である、尤も現時点でそれを確かめる術はないが――少なくとも戦闘が発生しても微々たる規模である筈だ。

 

 これはもう影の功労者と云っても過言ではないのではなかろうか? ヒマリはそんな事を思いつつ上機嫌にコンソールを叩く。本当ならば先生の自治区進入を止められる事が最善であったが――物事が常に最善の状況で推移するとは考えていない。

 

「――それで部長、これからどうするの?」

 

 横合いで椅子に寄り掛りながらモニタを監視していたエイミがふと問いかける。膝に毛布を掛け、きっちりと衣服を着込んでいるヒマリと比較し、相も変わらず彼女はかなり目を疑う様な薄着である。室内には彼女の希望で冷房すら掛けているというのに、ヒマリはエイミを横目にそれとなく膝掛けを上に引っ張る。

 

「結局先生の自治区進入は止められなかったし、他生徒の説得にも失敗しちゃったし、結構不味いんじゃない?」

「エイミ、確かに状況は決して良いとは云えませんが、その為に複数のプランを用意したのですよ?」

 

 彼女の問い掛けに、ヒマリは余裕を滲ませた表情で答える。彼女の顔には焦燥や不安と云った色は見られない、どこまでも泰然とした態度でヒマリは笑みを貼り付ける。

 

「先生を自治区進入前に止める第一プランは放棄、更には協力者の行動制御も失敗してしまったので――」

「第二、第三も放棄、だね」

「えぇ、この様子ですと第四プランを引っ張って来る必要がありそうです」

「第四――でも、それも難しいかも」

「あら……?」

 

 鼻高々に語って聞かせるヒマリ、しかしエイミの反応は芳しくない。

 想定していなかった彼女の言葉に、思わず目を瞬かせる。疑問符を浮かべるヒマリに対し、エイミは幾つかのモニタを指差し、その映像を彼女の手元へとポップアップさせた。

 

「部長、これ見て」

 

 そう云って表示されたのは現在彼女達が運用している小型ドローンのアクティブ状態、内装、外装含めた破損状況から通信状態まで、あらゆるステータスがそこには表示されている。それらにざっと目を通したヒマリは、その中で一部他とは異なるステータス状況になっているドローンに気付いた。

 

「――四番機の信号が弱い?」

「うん、一番先行させていた機体、システムチェックした時には何の問題もなかった、今も内装、外装共に損傷も無し、ステータスはオールグリーン、だから電波妨害か何かを疑ったんだけれど」

「ふむ……」

 

 ヒマリは自身の顎先を軽く撫でつけ、件の四番機を中心にコンソールを叩く。モニタには四番機の現在地、現在撮影している映像が投影されている――しかし、他の機体から送信されている映像と比較すると随分ノイズが酷い。試しに自治区の更に奥、中心に向けて機体を飛行させれば、そのノイズはどんどん粗を増していく。

 

「……これ以上近付けば、操作を受け付けなくなりそうですね」

「うん、このまま無理に進入させれば墜落かな」

「それは許容できませんね、一度呼び戻してください」

「分かった」

 

 エイミが手元のコンソールを操作し、四番機を外周付近に呼び戻す。その間ヒマリは他のドローンの状態をチェックしながら問いかけた。

 

「この影響は四番機のみですか?」

「ううん、中央区画に近付こうとすると、どの機体も同じような状態になる」

 

 その報告を聞きながら、ヒマリは別方角に向けていた別機を操作し試しに中央区画へと近付かせる。すると確かに、僅かずつではあるがノイズや信号の強弱が生まれだし、ドローンの操縦が覚束なくなる。ステータス上は何の異常も検知されていないというのに、確かな異変がそこには起きていた。

 

「この影響はアリウス自治区内中央区画に近付く程強くなっています、電波探知妨害――ではありませんね……アップリンク信号を遮断されているという感じではありません、フェイルセーフ(自律飛行)モードになる様子もありませんし、探知機に反応もなし」

「そもそもコレは既存の探知装置にダウンリンク信号を探知される造りじゃない、その為のステルス・ドローンだし、アリウスにミレニアム以上のテクノロジーがあるの?」

「どうでしょう、あの飛翔体を保有するアリウス自治区です、私達の知らない技術を擁していたとしても驚きはありません」

 

 溜息を零しながらヒマリはそう告げる。思い返すのはエデン条約調印式会場に撃ち込まれた弾頭、あれの解析には未だ着手していないが、早々簡単に種の割れるものでもないと考えている。元より未知の技術を使用する集団である事は分かっていた、故にこの程度の事は出来ても可笑しくはない――少なくともヒマリはそう思考する。

 

「第四プランが難しいと云った理由はこれですか、確かにこれは少々厄介ですね」

「うん、この状態だと先生に接触するのは難しい、間接的なサポートも同じ」

 

 相も変わらず微塵も変化しない表情、それを見つめながらヒマリは目を瞑る。ドローンを使用した先生の直接的、或いは間接的なサポート、自分達の関与は出来るだけ知られたくないヒマリであるが、それはそれとしてそうも云っていられない状況が迫りつつある。取られる選択肢は限られていた、小さく唸りながらヒマリは首を傾げる。

 

「今から解析する訳にはいきませんし、そもそもソフトウェア面でどうこう出来る保証もない、仮にハードウェアを弄って対策出来たとしてもドローンの改良を現地で行える人員はなし、全く嫌になってきますね――ですがまぁ、他に取れる手段はある筈です、えぇ、この私に解決できない問題など存在しないのですから、ふふっ♪」

「………」

 

 エイミは途中から何やら自画自賛し始めた彼女を見つめ、部長のそういう所、結構凄いと思う、と心の中で呟いた。彼女はどんな状況であっても自分に対する自信を失わない、少なくとも今までエイミはそういう彼女の面を目にしたことが無かった。そのポジティブさは恐らく唯一無二のものだろう――口に出すと絶対調子に乗るので、決して言葉にはしないが。

 

「しかし、この様子ですと時間的にこれ以上のサポートは難しそうですね、皆さんの殲滅速度と進行速度を考えると、先生達との接触もそう遠くはない――不必要な戦闘は避けて欲しい所ですが、あの返答を見るに難しいでしょうし」

「なら、外周を監視しつつ後続の支援に回る?」

「そうですね……ひとまずは先程破壊されたドローンの残骸を回収させておいて下さい、自治区に残しておく訳にもいきませんし、痕跡はなるべく残さないように」

「ん、分かった、一番近い二番機に回収させておく」

 

 破壊された一番機、その残骸の回収。エイミは頷きながら二番機に指定地点まで移動する様指示を出す。少量ではあるがドローンには運搬機能も備わっている、回収できない重量分は完全に破壊してしまうか、何処か発見されない場所に投棄すれば良い。その手の工作は苦手ではなかった。

 

「そう云えばエイミ、外部への情報提供準備は?」

「もう連絡は取ってある、幸い向こうも乗り気みたい」

「あら、流石トリニティの才媛と呼ばれる方は違いますね、話が早くて助かります」

 

 エイミの淡々とした返答に、彼女は上機嫌に頷いて見せる。

 

「向こうの古書館には私達も把握していない情報が眠っているでしょうし、此方が入手した情報も合わせればカタコンベ突破も不可能ではないでしょう、後は時間との勝負ですが……そればかりは私達でどうにも出来ません」

「そこは向こうに期待かな」

「えぇ――しかしエイミ、先程の説得についてですが、何がいけなかったのでしょうか?」

「……それ、私に聞く?」

 

 不意に、何でもない事の様に問いかけて来たヒマリに対し、エイミは何とも云えない、「ジト目」とも呼べる視線を彼女に向ける。小さく吐息を漏らすと、エイミはコンソールを操作したまま淡々と答えた。

 

「私は、感情がないってよく云われるけれど、それがどんな意味なのか良くわからない……でも多分、彼女達が動いている理由はソレだと思う」

 

 感情――それは時に人の動力源にもなるし、反対に足枷にもなる。ただそれが善いもの、悪いものと大別できる程簡単な代物ではない事は彼女も知っている。効率的、合理的、論理的なものを好むミレニアムだが、しかし感情というものを決して見下したり、蔑ろにしている訳ではない。

 確か何処かのマイスターが云っていた、重要なのは熱情だと。

 エイミはふと手を止めると、その手を自身の胸元に添え、僅かに気落ちした様に聞こえる声で呟いた。

 

「先生が居なくなると思うと、何となく胸がざわつく感じ――それが皆、嫌なんじゃないの?」

「ふむ――」

 

 エイミの言葉にヒマリは小さく頷き、思案する様子を見せる。そうして暫し考え込んだ彼女だったが、徐に顔を上げると緩く首を振ってみせた。

 

「私は、元より先生が居なくなる心配などしておりません」

「……それは、どうして?」

「どうして、って」

 

 エイミの問い掛けに対し、ヒマリは大袈裟な程目を見開くと、自身の胸を張りながら何処までも自信満々に、力強く宣言して見せた。

 

「このミレニアムの誇る超天才清楚系美少女が付いているのですよ? それに先生と私は運命の……えっと、そう、素敵な糸で結ばれているのです、今朝目にした雑誌の占いコーナーに書いてありました、今日の先生の運勢は最高、であれば何故そのように憂う必要があるのでしょう?」

「……部長って、偶に変になるよね」

「ちょっとエイミ、どういう意味ですか? ……エイミ? 聞いていますか、エイミ?」

 

 ■

 

「こ、これで三十体目です――……ッ!」

 

 街道に重々しい銃声が鳴り響く。

 ヒヨリの身体が反動で揺れ動き、強烈な反動が外套を靡かせる。弾丸は真っ直ぐ、最後のユスティナ聖徒会に飛来し、その胸元へと着弾――余りの威力に胸元を中心に大穴が空き、ユスティナ聖徒会はその肉体を霧散させる。霧の中へと滲む様に消えていく彼女を見送りながら荒い息を繰り返すサオリとミサキの両名。

 冷汗を滲ませながら周囲を見渡すミサキは、再び静寂を取り戻した街を目に呟く。

 

「流石に、打ち止め……?」

「み、みたいですね……」

 

 ミサキの呟きに、ヒヨリは強張った表情のまま頷いて見せる。

 破砕された石畳の床、弾痕の刻まれた外壁、圧し折れた街灯、戦いの痕跡が彼方此方に散見され、その激闘を物語っている。

 セイントプレデターを地面に突き立て、大きく息を吐き出したミサキは自身の前に立つサオリに視線を向けた。

 その背中には無数の弾痕が残っており、傍から見てもかなり外傷が増えてきている。一度休憩を挟んだので多少なりとも体調は持ち直した様子だが、やはり三時間にも満たない休息では外傷をどうにかする事は出来ない。徐々に、だが確実に、サオリの限界は近付いてきている。

 

「ふっ、ハッ、はぁ……!」

「リーダー、大丈夫?」

「大、丈夫だ……」

 

 ミサキの問い掛けにサオリは大きく息を吸い込むと、気丈にも胸を張って応える。

 

「――まだ、問題ない」

 

 口元に滲む血を拭い、サオリは断言した。その表情は険しく、顔色も悪いが、闘志だけは萎えていない。

 しかし、今の戦闘は先生の指揮が無ければ危なかった――。

 サオリは内心でそんな声を漏らす。ユスティナ聖徒会の戦闘能力は知っている、何せ彼女達は一時的にとは云え使役していた側だ。しかしいざ自分達が戦う側に回ると、どうして中々手強い存在であった。どこから出現するか分からない上に、弾丸の一発一発が奇妙な重さと威力を発揮する、恐らく頭部にでも直撃を許せば一瞬で意識を持って行かれる。その上痛覚が無い為、通常の生徒よりもタフである、弱点を撃てばその限りではないが、弾丸の衝撃に怯みもしない、何より白兵戦を仕掛けても周りの同胞が何の躊躇いも無く味方ごと発砲するのが一番堪えた。

 彼女の得手は室内に於ける奇襲、強襲――人数不利を覆す為に時には敵の懐に飛び込み、乱戦に持ち込むと云う戦法が暫し取られる。アリウスの防衛隊にも用いた戦い方だ、それがユスティナ聖徒会には通用しなかった。

 出現位置の事前警告、飛来する弾丸の予測線、先生の戦術眼、どれが欠けていても負けていた。サオリはそう強く思う。

 

「無理しないでリーダー、体調は万全じゃないんだから」

「……分かっているさ」

「はぁ、分かっていなさそうだから云ったんだけれど……」

 

 何処までも強がるサオリを前にしてミサキはそう苦言を呈す。彼女が倒れてしまえば、今度こそスクワッドは瓦解する、その確信があるからこその言葉だったが――小さく息を吐き出し、ミサキは視線を先生へと移す。

 

「先生も、無事?」

「うん、ヒヨリが守ってくれたからね」

「え、えへへ、隣で狙撃していただけですけれど」

 

 集積されたコンテナの裏に身を隠していた先生は、立ち上がると小さく頷いて見せる。隣には愛銃のアイデンティティを抱えたヒヨリが佇んでいる。コンテナにバイポッドを設置し、狙撃支援を行っていた彼女であるが、同時に先生の護衛も任されていた。

 尤も、派手にサオリやミサキが暴れ散らかした為、彼女がサイドアームを抜く事は無かったが。

 

「それにしても、補給しておいて助かった、そうじゃなかったら今の戦闘で弾薬が底を突いていたかもしれない」

「ほ、本当ですね……元々弾数は心許なかったですし」

 

 そう云ってヒヨリは自身の腰に装着された弾帯を見下ろす。彼女の扱う20mmは只ですらサイズが大きいため、多く持ち運ぶことが出来ない。今の戦闘で腰に下げていた分の弾薬は使い切ってしまった。

 そしてそれはミサキも同じである、或いは彼女の方が単純な弾数で云えば圧倒的に少ないと云える。担いでいた背嚢の中を覗き込み、新しい弾頭を取り出しながらミサキは云う。

 ヒヨリも彼女に倣い、背嚢横に下げていた弾薬ボックスから弾丸を取り出し、弾帯へと差し込んでいく。その作業は手慣れたもので、時間は取られない。

 

「兎に角、今の内に出来るだけ進もう、彼女に私達の行動が露呈しているのなら隠れて動いても無駄だろうし、迅速に動いて例の通路を見つけて――」

「いや」

 

 ミサキの言葉を、不意に先生が遮る。

 全員の視線が彼に集中した。

 先生はシッテムの箱を見つめたまま険しい表情を崩さない、その鋭い視線が街道へと移る。

 

「まだ、終わりじゃない」

「先生……?」

「――皆、構えて」

 

 その言葉と共に、街灯に照らされた薄暗い霧の中に再び人影が滲んだ。

 視界に表示される警告、咄嗟にサオリが愛銃を構え、ミサキとヒヨリもそれに続く。進行方向、旧校舎へと続く道に続々と出現する人影――それらは影の中から姿を現し、石畳の床を踏み締める。

 一歩一歩、緩慢な足取りで現れるユスティナ聖徒会。

 それを前に、サオリは思わず苦渋の表情を浮かべる。

 

「増援、か」

 

 文字通り無尽蔵とも云える兵力、先程三十人余りのユスティナ聖徒会を撃破したばかりだと云うのに、一分と立たずに第二派が襲来した。その事実にヒヨリは浮足立ち、ミサキは険しい面持ちでセイントプレデターを構える。

 

「ま、まだ来るんですか……!?」

「……成程、確かにこれは文字通り複製だね」

 

 倒しても倒してもキリがない。

 ミサキは脳内で背嚢に残っている弾頭の数、それを使って相手できる限界の数を弾き出す。事、この状況に於いて正面突破以外の策は無い、隠密は無意味だし何処かに立て籠もる事も出来ない。何せ増援は期待できなのだから。

 先生も同じ考えなのか、街道を真っ直ぐ指差しながら言葉を紡ぐ。

 

「戦えば戦う程こちらが不利になる、此処は多少の消耗を承知で正面突破するしかない、出来るだけ交戦は避けて旧校舎へ向かおう」

「……まぁ、それが最善か」

 

 その指示に否やはない。

 ゆっくりと歩み迫るユスティナ聖徒会を前に、スクワッドは緊張を高めていく。先生は酷であると理解していながら、しかし敵の隊列を乱し中央突破する為に一番最適な人物、サオリの名を呼んだ。

 

「――サオリ」

「あぁ、覚悟は出来ている、先生」

 

 頷き、息を吐き出すサオリ。

 その手が強くグリップを握り締め、睨みつける様にして前方を見据えた。視界に表示される進行ルート、攻撃する順番、その後取るべき動き、全て見えている――この程度の窮地、先生の助力があれば何てことは無い。

 これ以上に過酷な戦場を、自分達は生き抜いてきたのだ。

 サオリは大きく一歩を踏み出すと、声を張り上げた。

 

「行こう、私が血路を開――ッ!」

 

 しかし、その声は唐突に巻き起こった爆発に遮られる。

 爆発が発生した地点はユスティナ聖徒会のど真ん中、突然、何の前触れもなく炸裂する緋色の炎。唐突なそれにスクワッドの面々は面食らい、サオリは咄嗟に飛来する瓦礫片から身を守る為に姿勢を低くする。

 爆炎が周囲を明るく照らし、風が彼女達の髪と外套を靡かせる中、思わず困惑の声を上げた。

 爆発する予兆も、銃声も、砲撃音すら聞こえなかった。

 

「な、なんだ……っ!?」

「ば、爆発ですか!?」

「っ……!」

 

 ミサキはまだ弾頭を射出していない、ならば第三者による攻撃か。サオリが素早く視線を周囲に巡らせれば、そこには街灯の淡い光に照らされ、建物群を飛び交う人影があった。

 ハッとした表情で彼女が頭上を見上げれば、宙に舞い暗闇に溶け込んだ複数の影。外壁を蹴り飛ばし、宙高く舞い上がった彼女は指に挟んだ複数の手裏剣を構え、高らかに叫んだ。

 

「秘技、爆裂手裏剣――!」

 

 声と共に彼女――イズナは勢い良く両手を振り払う。

 同時に風切り音と共に放たれる六枚の手裏剣、それらは赤い尾を引きながらユスティナ聖徒会の下へと殺到し、その足元に着弾――炸裂する。

 爆発一つ一つは然程大きくないものの、六枚の爆裂手裏剣による同時攻撃は圧倒的な火力と手数を誇り、周囲の窓硝子が破砕され、石畳の床は穿たれる。ユスティナ聖徒会はその爆発をもろに受け、次々と消失、掻き消えて行った。

 

「イズナ……!」

「―――!」

 

 宙を舞う影、イズナと先生の視線がほんの一瞬交差する。街灯の淡い光に照らされた彼女の表情は良く見えない、だが何処か安堵したような、泣き笑う様な、そんな感情が伝わって来た様な気がした。

 周囲が一瞬昼間の明るさを取り戻す中、炎に照らされながら着地するイズナ、そこに集う三つの影。その足取りは余りにも軽く、まるで重さを感じさせない体捌きであった。

 彼女達は濃い影を地面に伸ばしながら、それぞれが得物を構えながら口を開く。

 

「暗闇を活かした奇襲、強襲の類は忍者の華なんだよ……っ! イズナ、ツクヨ! ワカモ!」

「はい、部長!」

「は、はいッ!」

「……えぇ」

 

 ミチルが皆の名前を呼ぶと同時、爆炎と爆風を裂き再度現れるユスティナ聖徒会、先の増援で終わりではない、彼女達はまだ余力を残している。

 しかし、それは此方とて同じ――ミチル率いる忍術研究部は懐からミチルの似顔絵の描かれた手製の煙幕玉を取り出すと、一斉にそれをユスティナ聖徒会に向かって投げつけた。

 

「行くよ、これぞ忍術研究部最終奥義――!」

 

 ミチルが素早く手を動かし、印を結ぶ。

 同時に煙幕玉が地面に着弾し、爆音を撒き散らしながら周囲に大量の煙幕を生み出した。霧を超える白煙、それらがユスティナ聖徒会とスクワッドを含めた周辺一帯を包み込み、暗闇も加わって非常に視界が悪くなる。スクワッドは先生のサポートがある為、大きな問題はないがそれが無ければかなり視界が制限され戦闘どころではないだろう。

 しかし、そんな視界の中で忍術研究部は一斉に動き出す。地面を蹴り飛ばし、外壁を駆け上がり、複数の影が宙を飛びユスティナ聖徒会を翻弄する様に駆けていた。

 

 そして一つの影が徐にユスティナ聖徒会に肉薄し、その腹部に愛銃――ミチル流オーバーフローショットガンを押し付け、叫んだ。

 

「煙に紛れてボッコボコ大作戦――しゅばばばッ!」

 

 開戦の号砲、ミチルの愛銃が火を噴き至近距離でそれを受けたユスティナ聖徒会が吹き飛ぶ。同時に攻撃の手応えさえ確かめずに再び彼女は駆け巡る。複数の人影がユスティナ聖徒会に肉薄しては離脱を繰り返し、銃声、小爆発、打撃音、斬撃音、あらゆる音が木霊する。

 煙幕の効果時間は室内ならば凡そ一分、屋外ならば三十秒程。しかし彼女達にはそれで十分、新たに出現したユスティナ聖徒会に対し忍術研究部はチームワークで対応する。誰かが足を撃って転倒させれば、空かさずもう一人が頭部を撃ち抜く。時には全く異なる標的を、全く同じタイミングで襲撃し反撃の暇さえ与えない。

 

 そして煙幕の効果時間が切れる絶妙なタイミングを見計らい、全員が外壁を蹴飛ばし空高く舞い上がる。

 虚空にて身を翻した四人は、それぞれが両手に爆裂手裏剣を構え、中心に立つミチルはマフラーを靡かせ叫んだ。

 

「これぞ天誅――ッ!」

 

 その声と共に四名が爆裂手裏剣を投擲、暗闇の中赤い閃光と共に放たれたそれは白煙の中に吸い込まれ――爆破。

 煙幕が爆風で吹き飛ばされ、ユスティナ聖徒会諸共霧散する。爆炎と衝撃に顔を逸らし、堪える様に這い蹲る、或いは遮蔽に身を隠すスクワッド。彼女達を他所に忍術研究部は地面に着地し、煌々と燃え盛る爆心地を背に佇んでいた。

 

 膝を突いた状態からゆっくりと立ち上がるミチル。

 彼女は地を舐める炎に照らされながら、印の二本指を立てながら告げた。

 

「私達、忍術研究部に――死角無し」

 


 

 キヴォトスに於いて忍者は最強、古事記(トリニティ古書館)にも書いてある圧倒的事実です事よ。

 嘘ですわよ。



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いつか両手一杯に握り締めた温もり(守ると誓った、傷だらけの両手)

誤字脱字報告ありがとうございますわ~!
Twitterで報告した通り、二日ほど休ませて頂きましたの。
後、先に謝っておきますわ!
今回、約24,000字ありますの。


 

「………」

 

 スクワッドが強張った面持ちで忍術研究部を見ていた。彼女達はその視線を感じながら、燃え盛る炎を背に佇み微動だにしない。それが強者の余裕なのか、或いは何らかの構えなのか、サオリには判断がつかなかった。

 じっとりと汗が滲む掌、それを実感しながら固唾を呑み動向を見守る。

 ふと、一歩、忍術研究部のリーダーであるミチルが動き出した。

 スクワッドが露骨に身構え、銃のグリップを強く握り締める。

 ミチルはその険しく、凛々しいと表現出来る表情を一変し――誇らしげに胸を張りながら諸手を挙げて叫んだ。

 

「どう? どう!? どぉ~よ、これぞ忍者の恐ろしさッ! お化けだか、妖怪だか、ユスティナ聖徒会だか、良く分かんないけれど! 見たか忍術研究部の実力をッ!」

「さ、作戦通り、決まりました!」

「やりましたね、部長! ツクヨ殿! ワカモ殿!」

「……えぇ、そうですね」

 

 声高らかに先程のアンブッシュを称賛するミチル、その雰囲気は最早手練れのソレではない。弛緩した空気にサオリは困惑しながら、籠っていた力が抜ける事を自覚する。目を瞬かせながら忍術研究部の面々を見るヒヨリは、視線を彷徨わせたまま戸惑った声を上げた。

 

「こ、この方たちは――……?」

「リーダー、忍術研究部って」

「……あぁ」

 

 ミサキの言葉に頷きながら、サオリは過去の記憶を掘り返す。

 

「一度、見た記憶がある」

 

 思い返すのはアビドスで秘密裏に行われた黒見セリカ誘拐、その際に先生が率いていた生徒達。サオリとミサキの両名は、一度その姿を見ている。尤も、向こうにとっては素知らぬ事であろうが。

 あの時はこれ程出来る相手だとは思っていなかった――奇襲したとはいえ、あのユスティナ聖徒会の複製をこうも一方的に屠るとは。

 

「狐坂ワカモと合流したのか」

「……厄介だね」

 

 ミサキの呟きは、強い苦みを伴っていた。

 あの災厄の狐だけでも面倒だというのに、加えて手練れが三名。身のこなしから特殊な訓練を受けていると分かる、百鬼夜行の特務か、或いは――あの時交戦を選ばなかったのは正解だったかもしれない、ミサキはそう胸の中で呟く。

 

「皆――」

「先生殿、やっと見つけたよ! ほんともう、此処まで来るのに凄く大変だったんだから……!」

 

 先生が忍術研究部の面々に声を掛ければ、ミチルがその表情をぱっと喜色に染めて叫んだ。

 

「主殿!」

「せ、先生……!」

「イズナに、ツクヨまで……全員で此処まで来たのか」

 

 イズナも、ツクヨも、恐らくユスティナ聖徒会か、アリウスの生徒達を相手取って此処までやって来たのだろう。その衣服には戦闘跡が見て取れた。それは自身を想ってくれた上での行動だろう。

 先生の表情が僅かに陰る。

 常ならば頼もしい限りだ、彼女達の助力は大いに助けとなる筈だ。

 しかし、今は――。

 くっと、袖を控えめに引っ張られる感覚。視線を向けれがミサキが真剣な面持ちで囁いた。

 

「先生、一旦引いた方が良い、此処でやり合うのは――」

「――行かせませんよ、スクワッド」

 

 撤退しようと動くスクワッドに対し、ワカモが声を上げ一歩詰める。彼女は肩に担いでいた愛銃をくるりと回転させ、手中に落とした。その鋭い視線からは強い重圧を感じる。

 

「っ、狐坂ワカモ……」

「……宣言通り、此処で貴女方を排除させて頂きます」

 

 告げ、ゆっくりとスクワッドに銃口を向けるワカモ。それに対しサオリは掌を向け、必死に言葉を云い募った。その表情には隠しきれない焦燥が滲み出ている。

 

「待て、正気か、此処はカタコンベとは違う、既に彼女の支配下なんだぞ……!?」

「関係ありません、貴女方スクワッドが先生を擁する限り、どこまでも追跡し、追い詰めるまでの事――」

「この女……」

「ひぇっ」

 

 ミサキが顔を顰め、ヒヨリが悲鳴を漏らす。仮面越しに伝わる彼女の気迫は本物だ、どこまでも追跡し、追い詰める、その言葉に嘘はない。スクワッドが例え地の果てまで逃げ出そうとも、彼女は決して諦める事無く追って来るだろう。

 咄嗟に、先生が一歩前に足を踏み出した。

 

「ワカモ」

「あなた様……」

 

 ぴくりと、ワカモの銃口が震える。

 その指先が、引き金から離れるのが見えた。

 それでも尚、銃口を降ろす事が出来なかったのは、その感情が強すぎた故だ。背後に立つスクワッドに向ける怒気が、肌に伝わってくるようだった。

 先生は彼女の視線を正面から見返しながら、努めて冷静に口を開く。

 

「お願いだ、銃口を降ろしてくれ――私は皆が争う事を望んでいない」

「……えぇ、あなた様はそう仰るでしょう、それは、分かり切っていた事です、それを押して尚、私はこの場に立っております」

「スクワッドの皆が嘗て敵対していた事は事実だ、けれど今は違う、彼女達はもう、私達に敵意など持っていない」

「………」

「スクワッドは、私達の敵じゃないんだ、ワカモ」

 

「――それを、どう証明すると仰るのですか?」

 

 ワカモの声が、寒々しく街道に響いた。

 それは敵意と憎悪を伴う、不信の発露だった。

 暗闇の中で、ぼうっと光り輝く彼女の瞳。その黄金色が先生を、スクワッドを捉えて離さない。

 それはいつか、ナギサが口にしていた言葉を思い出すものだった。

 

「スクワッドが敵ではないなどと、あなた様に危害を加えないと、一体どう証明すると仰るのです? あなた様に癒えぬ傷を齎したのも、その手を振り払ったのも、こうして危険な状況に巻き込んだのも、全て、全て――スクワッドによるものではありませんか」

 

 目に見えないものを、どうやって証明するのか。

 何故彼女達が先生を傷つけないと、そう断言する事が出来るのか。

 その感情は、色は、目に見る事も、感じる事も、手に取る事も叶わないというのに。

 人は、その感情を、想いを、目に見える形で示す事が出来ない。

 その心を証明する事は出来ない。

 そして人は――証明出来ないものを、信じる事が出来ない。

 少なくとも、その者に罪悪と云う真実(過去)があるのならば、尚更。

 

「……いいや、もし彼女達に請われなくとも、私はこの自治区の主、マダムを止める為に乗り込んでいた、だからこれは、決して巻き込まれた訳じゃない」

「頼られずとも動いていたと? しかしそれは、あくまで仮定の話に過ぎません、彼女達は現に、あなた様に縋った、それが事実です――どうか御慈悲を、あなた様はスクワッドを信じられるのでしょう、どこまでも真摯に生徒と向き合うあなた様は……! しかし、私は……」

「ワカモ」

 

 彼女の声を遮り、先生は尚も一歩を踏み出す。

 仮面の奥深く、黄金色に光る瞳が先生のそれと交わる。

 ワカモは先生の瞳、その奥に光を見た。

 

「――頼む」

「……っ」

 

 声には、何処までも切実な響きが伴っていた。

 希う、文字通りの懇願。

 言葉は余りにも短い、だが彼女だからこそ伝わる色がある。

 歪んだ先生の表情に、びくりと、ワカモの肩が無意識に震えた。

 ずるいと、そう思った。

 思わずには、いられなかった。

 

「あ、あの~」

 

 ふと、皆の耳に声が届く。

 見れば、恐る恐る手を挙げるミチルの姿が見えた。彼女は先生とスクワッド、そしてワカモに視線を配りながらゆっくりとした口調で告げた。

 

「えっと、ワカモの気持ちは凄く、良く分かるんだよ? 私も正直、そこのスクワッドを信じられるかと云われると、凄く微妙な気持ちになるし……で、でもね! だから、相手を傷つけなくちゃとか、絶対に敵にならなくちゃいけないとか、排除しなくちゃとか、そういうのは、何か、そのぅ、違う気もして……」

 

 彼女は俯き気味に、自身の指先を擦り合わせながら必死に言葉を紡ぐ。其処には滲み出る複雑な心境があった。ミチルは迷っている、それは自身の選んだ道について。

 

「せ、先生殿はスクワッドの子達と和解したんだよね……? だから、力を貸して、こうしてこの場に立っている訳だし、そっちの、リーダーっぽい生徒も、先生に敵意は無いって……た、確かに彼女達がした事は許されないかもしれないけれど、でも、私は――」

「――犯した罪が許される事はない、それが全てじゃんね?」

 

 だが、彼女が思いの丈を話し終えるよりも早く、響く声があった。

 ミチルの声を遮る様にして、現れる人影。

 全員の視線がそちらに向けられ、スクワッドが反射的に身構える。

 暗闇の中、聞き覚えのある声を発した彼女は――三日月の様な笑みを浮かべながらスクワッドの前に再び姿を現した。

 

「あははっ、やっと追いついたぁ、やっぱり忍者ってのも強ち嘘じゃないのかな、走るの凄く早かったし!」

「聖園ミカ……」

 

 呟き、サオリは強い警戒心を露にする。

 ミサキは苦虫を嚙み潰したような表情を、ヒヨリは恐怖を、その顔に張り付ける。

 

「ぜっ、はっ、な、何で、あんな建物から建物、飛び回ったり、出来るのよ……!?」

「ひぃ、ふぅ、つ、疲れたよぉ~!」

「う~ん、素晴らしい健脚ですね☆」

「ふふっ、逃走するには便利そうな技ですわね、単純な体力という訳ではなさそうですし……あれも忍術というものなのでしょうか? そうでない純粋な技術であるというのなら、少々ご教授いただきたい代物です」

「い、いや、教えられても出来る気がしないし……! げほっ、ゴッホ!」

「あら、ジュンコさん、大丈夫ですか?」

 

 ミカの背に続く美食研究会、かなりの距離を一息に駆けて来たのか、ジュンコやイズミの額には玉のような汗が滲んでいる。

 いつの間に接近していたのか、まるでスクワッドの退路を塞ぐ様に現れた彼女達にヒヨリは思わず悲鳴染みた声を上げた。

 

「こ、後方にも……!」

「美食研究会まで……」

「まさか、手を組んだのか――?」

「正解☆」

 

 サオリの問い掛けに、ミカは笑みを浮かべながら肯定を返した。

 所属の異なるグループ、ミカだけは単独ではあるが単純な戦闘能力だけならば美食研究会・忍術研究部にも引けを取らない。その三グループが手を組んだ、それは正にスクワッドにとっては絶望的な報せであった。

 

「百鬼夜行なら兎も角、ゲヘナの角付きと手を組むなんて正直反吐が出るけれど、まぁ一回限りだし、見逃してあげようかなぁ~って思ってさ?」

「くっ……!」

 

 手を広げ、事も無げに告げるミカ。

 今のスクワッドには、逃げ場がない。

 自然と彼女達は固まり、背中合わせの状態となる。彼女達の背にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。

 

「さぁて、それでは先程の続きと参りましょうか~♪」

「残念ですが、貴女方の逃走劇も此処まで」

「はぁ、ふーッ! よし、もう逃がさないんだから……!」

「いい加減、先生を返してよ~ッ!」

 

 美食研究会の面々が各々銃口を構え、スクワッドの前に立ち塞がる。

 ミサキ、サオリ、ヒヨリの三名は先生を守る様に円陣を組み、素早く周囲に視線を配る。しかし突破口が見つからない、逃走経路が全て塞がれてしまっている。

 

「……完全に囲まれたか」

「ぜ、前方には忍術研究部、後方には美食研究会、直ぐ横にはミカさんも……!」

「これは――かなり厳しい状況だね」

 

 どこか一ヶ所を突破しようと動けば、即座に背後を撃たれかねない状況。さりとてこのまま不動を貫いたとしても、そのまま磨り潰される未来しか見えない。スクワッドが沈黙を守る中、その様子を楽し気に見つめるミカは一歩、二歩と足を進める。

 

「ふふっ、やっと観念した? 流石の先生でも、これだけ生徒の数が揃っていれば突破は厳しいよね?」

「ミカ……!」

 

 ミカを見る先生の表情が歪む。

 そこに映る感情は、彼の複雑に絡み合った胸の内をそのまま映し出したような苦みを伴っていた。

 それを見たミカもまた、ふっと表情を変化させる。彼女は歪な笑みを貼り付け、下手糞に笑って見せようとしていた。

 黒々と渦を巻く彼女の瞳が、自虐(自罰)的な色を帯び始める。

 

「ごめんね、先生……? 私さ、元々云う事を聞かない悪い子だったでしょう? 先生が今どういう状況なのか、何をしようとしているのかは分かるけれど……それでも私は、止まれないの」

 

 止まれない。

 止まりたくない。

 止まる事が出来ない。

 だって、止まってしまったら。

 自分にはもう、本当に、何も残らなくなってしまう。

 

「それにほら、私は何度も先生を裏切って来た訳だし! あははっ、それが一回、二回増えたところで、今更何が変わる事もないよね、うん!」

「っ……!」

 

 ――悲痛。

 

 今にも泣きそうな表情で、無理矢理に貼り付けた笑みを浮かべ、そう宣うミカを前に、先生は力の限り唇を噛み締めた。皮膚を突き破った歯が血を滲ませ、先生は自身の心臓が早鐘を打ち始めるのを自覚する。

 強烈な自己嫌悪、同時に襲い来る葛藤。

 

 彼女のそれは、自身に云い聞かせている言葉だ。それこそ、彼女がこの場に立ち続けている呪いの言葉だった。

 もう戻る事は出来ないから。

 今更何も変わる事はないから。

 喪うものはもう何もないから。

 だから――このまま道を転げ落ちても、大丈夫だと。

 

「っ、ぅ――」

 

 そんな事は無いのだと、彼女に伝えるには。

 一体、どうすれば良い――?

 必死に言葉を探す、探し続ける。

 けれど、余りにも時間が足りない。

 

「それじゃあ、ゲヘナと手を組むのは気が乗らないけれど――手筈通り行こっか」

「えぇ、準備は出来ております」

「……申し訳ありません、あなた様」

「今度こそ、ぶっ壊してやる……!」

「ふふっ、メインディッシュ、でしょうか?」

「もう、逃げ場はないんだから……!」

 

 先生の葛藤を他所にミカ、ハルナ、ワカモ、ジュンコ、アカリ、イズミは戦いの遺志を見せる。全員の視線がスクワッドに突き刺さり、ひりつく様な空気が周囲に充満し始めていた。

 この場に於いて言葉はもう、意味を為さない。

 対話とは、双方にその意思がなければ成立しない。

 

「ぶ、部長……!」

「ぅ――」

 

 唯一、ミチル、ツクヨ、イズナの三名だけはその気配を滲ませず、一歩踏み込む事を躊躇っていた。

 ツクヨがミチルに視線を向け、どこか縋る様な声を発する。ミチルは対峙するスクワッド、ミカ、ワカモ、美食研究会、そして苦し気に表情を歪める先生を見つめ、呟いた。

 

「これしか、道は無いの……? 本当に――?」

 

 あのドローンの主が語って聞かせた言葉が頭を巡る。利益云々、責任の在り方、それもそうだが、何より――この選択が本当に、先生の為になるのか。

 この場に集った生徒にとって、善いものになるのか。

 

 怒りや憎悪に囚われ誰かを拒絶する事は、正しいのか。

 

 ミチルの足を止めているのは、彼女の持つ生粋の良心であった。何処もかしこもボロボロで、疲労困憊と云った様子のスクワッドを見ていると、分からなくなった。それも、彼女達は仲間を助ける為に動いているという。もし、自分が同じ立場だったら、部活の仲間達が悪い大人に捕まってしまったら――多分同じように、必死になって助け出そうとするだろう。

 それこそ、どんな相手にだって頭を下げてでも。

 

 彼女達を排斥する事が本当に正しいのか、それが善き未来に繋がるのか、まだ、もっと別の、違う方法や道があるのではないか。

 それを見つける為に、先生は彼女達に協力したのではないか。

 傷つけられた相手でも、それが困難な道であると分かっていても。

 そんな風に、ミチルは思ってしまった。

 

「い、イズナ……」

「っ……」

 

 ミチルは不安げにイズナへと視線を向ける。その瞳は潤み、自信なさげに揺らいでいた。

 先生を傷つけたスクワッド、彼女達に強い怒りを抱いていた彼女は――しかし、その表情を苦悶に染めている。

 そこには確かに、葛藤があった。

 情報としてのスクワッドは知っていた、彼女達が先生に何をしていたのかも十分に理解していた。しかしいざ彼女達と対峙し、先生とは異なる陣営に立った時、イズナに迷いが生まれた。

 

「い、イズナは――」

 

 言葉が、意図せず震える。

 イズナは、スクワッドに対して怒りを覚えている。それは間違いない、傷だらけになった先生の姿を見た時、ちょっとした日常動作すら儘ならなくなった事を知っているから。何て事をしてくれたのだと、彼女の心に黒々とした感情が刻まれた。

 その時の事を、昨日の事の様に憶えている。

 もう二度と、この様な事は起こしてはいけないと。

 今度こそ守らなければならないと。

 そう己に誓った。

 

 ――けれどそれは、あくまでイズナの感情に過ぎない。

 

 先生は、彼女達の排斥を望んでいない。

 寧ろその手を取って、自ら危険に飛び込もうとしている。

 拒絶もせず、復讐すらも考えずに。

 

 スクワッドを助ける事、それが、先生()の望みだった。

 それを叶える事こそ、忍者(イズナ)本懐(願い)であった筈なのだ。

 

「――応戦しながら後退する! ヒヨリ、ミサキっ!」

「っ、厳しいけれど、それしか無いか――」

「え、援護します……!」

「っ、待ってくれ、皆、話を――ッ!」

 

 ひりついた空気が弾ける、状況が動く。スクワッドが銃口を構え、街道に声が木霊する。

 堪らず先生が声を張り上げるが、その闘争は止まらない。

 一度火の着いた車輪は、燃え尽きるまで回り続ける。

 

「先生のお話を伺いたい気持ちはありますが、まずはスクワッドを無力化致します、全てが済んだ後、きちんと伺いますわ」

「ハルナッ……!」

 

 淡々と、それでいて平然と宣う彼女は何処までも涼し気で。

 先生の手を離れた戦火は急速に燃え上がる。

 

「さぁて、それじゃあ、あなたの相手は私だよ――サオリッ!」

「ッ、くぅ!?」

「っ、サオリ……!?」

 

 一陣の風が、先生の直ぐ横合いを吹き抜けた。

 ミカが全力で地面を蹴り飛ばし、サオリへと突進したのだ。止める間すらなかった、気付いた時には既にサオリとミカの両名は何十メートルと離れた場所で睨み合い、ミカが拳を繰り出し、サオリが辛うじて躱す。その速度は最早、先生の目では捉えきれぬほどに苛烈なものとなる。

 

「突っ込むよ、イズミ! 先生を奪い返してやるんだからっ!」

「わっ、分かった!」

「では、私も行かせて頂きましょうか~」

 

 ミカに続き、美食研究会が動き出す。ジュンコとイズミ、アカリが愛銃を担いだまま駆け出す、それを見たミサキは一瞬、サオリの方に視線を向けながら、しかし即座にセイントプレデターを担いだままサイドアームを抜き放ち、叫んだ。

 

ブロック(阻止)する! ヒヨリ、援護してっ!」

「は、はいぃッ!」

「ミサキ……!」

「先生は其処(後ろ)に居てッ!」

 

 サオリ(リーダー)はミカの相手で手一杯の筈だ、前衛を張れる戦力が、今は自分しかいない。

 ミサキのフロント(前衛)の経験は浅かった、しかし出来ないと泣き言を口にする事は許されない。険しい表情のまま唇を噛み、ミサキは一歩を踏み出す。

 

 ――同時にぬるりと、ミサキの横に影が奔った。

 

「錠前サオリは白兵戦に於いて優れた手腕を持っておりましたが、貴女はどうでしょうか――戒野ミサキ」

「ッ!?」

 

 その声に、ぞわりと肌が粟立つ。

 直ぐ横、数歩踏み込めば手が届きそうな距離に、狐坂ワカモが肉薄していた。

 

 いつの間に接近を許した? 目は、殆ど離していなかった筈だ。

 

 咄嗟にサイドアームの銃口を向け、早撃ちを敢行――腐ってもスクワッド、骨の髄にまで沁み込んだ動作が唐突な奇襲の迎撃を可能とした。

 手首のみで衝撃を逃し、閃光が視界に瞬く。ミサキの持つスームルガーLCRは強装弾を使用し、威力は.357マグナム弾にも匹敵する。一発でも頭部に直撃を許せば、意識を飛ばすだけの威力はある。乾いた音が木霊し、弾丸がワカモ目掛けて放たれる。

 

「―――」

 

 ワカモは、目前で発射された弾丸を冷静に認識し、初弾を首を傾げる事で回避、二発目、三発目は、首、胸元であった為、身体を逸らす事で回避、最後の四、五発目を銃剣で切り払う事で凌いだ。

 振るった銃剣が銀の軌跡を描き、弾かれた弾丸が甲高い金切り音と共に火花を散らす。

 この間、僅か二秒未満の攻防だった。

 瞬く間に撃ち切ったサイドアーム、その銃口から立ち上る白煙を見つめながら、ミサキは愕然とした表情で呟く。

 

「っ、どういう――!?」

 

 反応速度をしているのだ。

 確かに至近距離で、ほんの三メートル足らずの距離で全弾撃ち込んだ。

 だというのにワカモは一発の被弾も許さず、全てを凌いで見せた。それはミサキにとって、理解不能な技量という他ない。

 

 彼女の身体が揺れ動き、ミサキへと手を伸ばす。咄嗟に身構えるミサキだが、サイドアームは弾切れ、セイントプレデターは至近距離で発射する事が出来ない。

 ならば、後は体術で対抗するしかない。

 両手は塞がっている、故に素早く腰を捻り、ミサキはワカモ目掛けて蹴撃を放った。

 大きく踏み込み、穿つ様に放たれた一撃、直撃すれば一瞬意識を飛ばす程度の威力はある。

 

「――それだけの長物、懐に潜り込まれてしまえば不味いでしょう、故に相当近接格闘技術を磨いているやもしれぬと、そう懸念しておりましたが」

 

 しかし、放たれたそれは確かな感触と共に――ワカモの手に掴まれていた。

 蹴りは微かにワカモの胸元を掠め、虚空を穿っている。

 失敗した。

 ぞっと、ミサキの背筋に冷汗が流れる。

 ミシリと、掴まれたブーツの足首が軋んだ。

 ワカモは嘲笑を零し、告げる。

 

「どうやら、杞憂であった様子ですね」

「ッ――!?」

 

 ふっと。

 唐突な浮遊感がミサキの身体が襲った。

 気付いた時、彼女の身体は空中を舞っていた。一瞬記憶が飛んでいたかのように、視界がコマ送りで見える。下方に見える、薄暗い狐面の人影。

 

 そこから分かる事は――自分は、投げ飛ばされたのだ。

 

 ワカモは掴んだミサキの足を力任せに振り回し、上空へ向けて投げ飛ばした。回転し、宙を舞うミサキは揺れ動く視界の中で、必死に歯を食いしばりながら意識を保つ。両の手にある感触、サイドアームも、セイントプレデターも、手放してはいない。それは何度も訓練で教育され、肉体に沁み込んだ本能に近い。

 伊達にスクワッドとして選抜されていた訳ではない。

 ミサキは不安定な空中、それも上下反転した視界の中で――セイントプレデターを構えた。

 

「……!」

 

 照準は碌に定めず、揺れ動く視界の中だと云うのに、正確にロックオンを済ませる。不安定な足場、状態、状況での発射訓練など何度も熟した。発射の反動も、着地の事も考えず、ミサキはその砲口をワカモに――そしてその背後から迫る美食研究会の面々へと向け、グリップを強く握り締め固定する。

 

「げぇっ!?」

「うわぁ!?」

「あら」

 

 構えた方角、ワカモの背後に迫っていたジュンコ、イズミ、アカリが悲鳴とも取れる声を上げる。彼女達から見れば、宙高く投げ飛ばされた彼女が逆さまになりながら砲口を向けて来たのだから然もありなん。

 そんな彼女達を視界に捉えながら、ミサキは思い切りトリガーを引き絞った。

 

「纏めて吹き飛ばす――ッ!」

 

 耳に届く、特徴的な空気の抜ける音。

 セイントプレデターの砲筒から、スムーズに弾頭が飛び出す。

 同時に射出された弾頭が一瞬滞空し、そこからメインブースターが点火。ミサキの視界が緋色に輝き、一瞬その視界を細めた。

 

「――そう易々と、撃たせはしませんわ」

 

 だが、その瞬間を狙っていた射手(スナイパー)が居た。

 

 転がっていた瓦礫に足を乗せ、スコープ越しに弾頭を見つめる後方のハルナ。彼女の視界、スコープのクロスヘア、射出された加速前の弾頭――それらが綺麗に重なった瞬間、彼女は引き金を絞る。

 途端、一条の光が暗闇を射貫き、ジュンコやアカリ、イズミの直ぐ横を駆け抜けた。

 飛来した弾丸は射出された弾頭を見事捉え――ミサキのほんの十メートル程先の宙にて、爆発が巻き起こる。

 

「熱ッ!?」

 

 熱波はミサキの肌を焼き、衝撃がミサキの体を突き抜けた。白煙を纏い、力なく落下したミサキは硬い石畳に叩きつけられ、大きく呼吸を乱し、悲鳴を上げる。

 

「がは――ッ!」

「み、ミサキさん!?」

 

 煤け、穴の開いた外套と共に落下したミサキ。セイントプレデターを抱えたまま、痛みに呻く彼女は動けない。仰向けに倒れ伏した彼女の下へと駆け寄ったヒヨリは、ミサキの意識がまだある事を確認し、その襟を掴んで引き摺り始める。

 ミサキを掴んだまま後退するヒヨリは、アイデンティティを片腕で構え、凡その狙いを付けて発砲した。

 凄まじい反動と銃声が鳴り響き、弾丸は一番近場に立っていたワカモに向けて飛んでいく。流石のワカモも20mmを弾く事は困難だと判断したのか、身を翻し遮蔽に滑り込む。ヒヨリの弾丸は外壁や瓦礫、軍用コンテナすら貫通し、僅かばかりではあるが彼女達の足止めに貢献した。

 ミサキは未だ定まらない視界の中、信じられない心地で呟く。

 

「ぐ、ッ、あの、女、加速前の、弾頭を撃ち抜いたの……?」

 

 ミサキの扱うセイントプレデター、その使用する誘導弾頭は二段式(コールドローンチ式)である。発射と同時に後部のブースターによって数メートル前進し、射手から十分に距離が離れた段階でメインロケットブースターが点火し、対象へと飛翔するというもの。

 それを見切った上で、第二点火――つまり最高速に至る加速が始まる前に弾頭を撃ち抜いたのだ。

 どういう反応速度、いや狙撃精度と弾道予測か。

 それにこの暗闇の中で、こうも正確に、これで先生のバックアップを受けていないと云うのだから、凄まじい技量だった。

 

「っ、み、ミサキさん、立って、立って下さい……!」

「云われ、なくても……ッ!」

 

 ヒヨリはアイデンティティを撃ち続けながら、涙ぐんだ声で叫ぶ。ミサキは自身の震える太腿を思い切り叩き、歯を食いしばりながら前を睨みつけた。

 

「まだ、倒れる訳には、いかない――……ッ!」

 

 ■

 

「ほらほら、守ってばっかりなの、サオリッ!?」

「ち、ぃ……ッ!」

 

 弾丸の様に降り注ぐミカの拳、それをサオリは必死に捌いていく。一発手で受ける度に骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。真面に受け止めるのではなく、流すだけでこれだ――万全ではない今、直撃を許せばどうなるかなど、考えたくもない。

 先生の戦闘支援、サポートが無ければ既に自分はこの場に立っていないだろう。視界に映る彼女の攻撃予測線、それに従い最低限の動き、動作で打撃を捌いて行く。

 

「重いの一発、行くよッ!?」

「―――」

 

 大ぶりの動作、視界に表示される極大の脅威表示――それを見た瞬間サオリは全力で後方へと飛び退く。

 瞬間、ミカの拳が地面に突き刺さり、渾身の一撃が石畳の床を粉砕した。振り抜いた風圧で背後の窓硝子が砕け散り、足元にびりびりとした衝撃が伝わって来る。着弾の瞬間に瓦礫が一瞬浮き上がり、サオリは冷汗を流した。

 蜘蛛の巣上に広がった罅を見つめながら、ミカは小さく払う様に手を振り、溜息を吐く。

 

「あー、全然当たんないや……ん? あぁそうだ、こんな所に丁度良い【武器】があるじゃん」

 

 ひらりひらりと、捉えどころのないサオリを前に業を煮やしたのか、ミカは徐に近くにあった街灯を蹴り飛ばすと、中程から圧し折った。

 甲高い金切り音を鳴らしながら傾く街灯、折れ曲がったそれを余りにも無造作に引っこ抜くと、バチバチと電線が千切れる。それを一瞥もせず脇に挟みながら、ミカは片腕で大きく街灯の残骸を振り被った。

 轟、と。

 風が唸りを上げてサオリの頬を撫でる。

 

「これなら、全部まとめて掃除できそうだ……ねぇッ!?」

「っ……!」

 

 盛大な破砕音。

 風切り音を鳴らしながら飛来する巨大な質量、それを前にサオリは死ぬ気で横合いへと身を投げた。

 瞬間、帽子のつば、その僅か先端を掠める街灯だったモノ――振り抜いたソレは直ぐ脇にあった民家に直撃し、外壁が粉砕、窓硝子も、家具も、扉も、何もかもを薙ぎ払い、綺麗な吹き抜けが誕生する。

 飛び散った瓦礫が散弾の如く周辺の家屋に穴を空け、砂塵を撒き散らし、何かが崩れる音が響いていた。

 

「ぐぅ……ッ!」

 

 風圧と衝撃に体を押され、地面を転がるサオリ。二度、三度、硬い石畳の床を転がって、辛うじて停止する。戦慄と共に視線を上げれば、その様子をミカはケラケラと可笑しそうに見ていた。

 

「あははッ! 良いじゃん、良い反応だよサオリ! 前よりも動きが良くなっている気がする! 躊躇いが消えた? それとも体を休めたお陰かなぁ?」

「違う、私は――!」

「何でも良いよ、何だって……貴女が足掻いてくれるならさぁ!」

 

 告げ、拉げ、折れ曲がった街灯をサオリに向かって無造作に投げつける。やり投げの様に放たれたそれを、咄嗟に飛び上がって回避するサオリ。直ぐ足元に着弾したそれは石畳の床を穿ち、細かな破片を飛び散らせる。何かが砕ける音、金属同士の金切り声、サオリは飛来する石片を外套で防ぐ。

 飛び散るそれらを掻き分け、強引に飛び出すミカ。

 振り上げた拳が、サオリに向けられる。

 

「もっと全力で抗ってよ! 抵抗してよ、サオリィッ!」

「――ッ!」

 

 暗闇の中で疾走するミカ――その拳がサオリを捉えるより早く。

 ひとつの人影が、二人の間に飛び出した。

 

「ミカッ!」

「っ……!」

 

 振り抜かんと突き出された拳、それが二人の間に駆け込んだ先生の顔面に向かって繰り出される。

 だが、先生は避けるつもりも、防ぐつもりもない。ミカは全力で繰り出した拳を慌てて引き戻し、その甲斐あって彼女の打撃は先生の鼻先寸前で停止した。

 凄まじい突風に先生の目が細まり、外套が靡いた。咄嗟に拳を止められたのは僥倖だった、そうでなければ先生の首など、簡単に圧し折れてしまっていたに違いない。

 一歩、二歩、蹈鞴を踏んだミカは面食らった表情で呟く。

 

「先生――……?」

「これ以上は看過できない、お願いだ、もう止めてくれ……!」

 

 先の攻防、街灯が地面に突き刺さった時点で此処に駆けて来ていたのか、先生の頬には幾つかの切り傷が見て取れた。

 暗闇の中、ミカと対峙した先生はサオリを背に、必死に叫ぶ。

 

「頼む、今は、今だけは時間がないんだ! 彼女(マダム)の儀式が迫っている、私は、私の役割を果たさなくちゃいけない! 私の我儘でミカが、皆が傷付いた事も、苦しんでいる事も分かっている……! だが、それでも私は、彼女達を切り捨てる事は出来ない……!」

「……先、生」

「頼む、ミカ……!」

 

 ミカが先生を、先生はミカを、目の前の存在だけを見つめる。

 二人の間だけ一瞬、時が止まる。

 

「っ、ミサキ、ヒヨリ――!?」

 

 しかし、停止する二人を他所に、戦況は刻一刻と悪化の一途を辿る。

 屈んでいたサオリがふと、視線を横合いに向けた時、そこには美食研究会とワカモ相手に苦戦するミサキとヒヨリの姿があった。特にミサキは負傷が見て取れ、そう長くは持ち堪えられない事は誰の目から見ても明らかだった。

 

「っ、く……」

 

 サオリは目の前の先生とミカを見る。ミカの瞳は、揺れている様にも見える。だがそれは彼女に限った話だ――美食研究会と災厄の狐は止まらない。

 僅かな間思考を巡らすも、サオリは即座に後退する事を選ぶ。ミカの前に立つ先生の肩を掴むと、抵抗する間もなく勢い良くその身体を引っ張り上げ、一息に担ぎ上げた。

 

「サオ――ッ!? うぐっ……!」

「っ!?」

「すまない先生! これ以上はミサキとヒヨリがもたない、無理にでも後退する――ッ!」

 

 告げ、サオリは先生を担いだまま、一目散に後退していく。

 ミカは咄嗟にサオリへ向け銃口を突きつけるも――しかし、引き金を絞る事が出来なかった。

 その銃口の先には、先生もいる、万が一にでも弾丸が彼に当たる事があってはならない。

 それだけは、許されない。

 ミカは歯噛みし、銃口を逸らすと彼女の後を追って駆け出す。

 それを確認しながら、サオリは二人に向かって声を張り上げた。

 

「ヒヨリッ、ミサキッ! 退けッ!」

「……!」

「えっ、あ、は、はいっ!」

 

 サオリは先生を担いだまま、愛銃の銃口を宙に向け二度円を描き、一度突いて見せた。その動作の意味を理解した二人は、即座に背嚢へと手を伸ばす。乱戦となった今、既に包囲網は崩れている、加えて何故かは分からないが忍術研究部の動きがない――今なら突破出来る隙があった。

 しかし、そうはさせぬと踏み込むワカモ。彼女は遮蔽を一息に飛び越えると、先生を担ぎながら疾走するサオリに目を向け、低く唸る様に叫ぶ。

 

「そう何度も逃がす筈が――」

「――悪いけれど」

 

 呟き、ミサキは静かに動き出す。彼女の背嚢はヒヨリのものと比較すれば決して大きくはないが、小さくもない。小脇にはポーチもついており、ベルトごとポーチを取り外したミサキは、そのチャックを開きながら静かに告げた。

 

「この遭遇戦は、見越していたから」

「っ!?」

 

 告げ、大きく振り被られた、ミサキの腕。

 そこから放たれるポーチ、中から飛び出る幾つもの手榴弾らしき影。空中に散らばったそれらに、全員の視線が吸い込まれる。

 ミカ、ワカモ、美食研究会――それらが追いついて来る可能性は予期していた。故に一度だけ、逃れるための手段、或いはプランを練っていた。包囲された状態では使えなかったが、片側に敵が寄っているこの状況ならば。

 

「ヒヨリッ!」

「――!」

 

 その叫び声と共に、ヒヨリは虚空に投げられた手榴弾、その一つを正確に撃ち抜いた。

 途端、手榴弾らしき影は連鎖的に爆発し、周囲に白煙が充満する。まるで雪崩のように広がるそれに、美食研究会やミカ、ワカモは一瞬にして呑まれた。

 

「うぇっ、え、煙幕!?」

「はっ、何よ、今更こんなもので目晦ましなんてしたって、何の足止めにも――!」

 

 ただの目晦まし――そう何度も同じ手は喰らわない。

 そんな風に思考し構わず白煙を突っ切って突撃しようとしたジュンコは、しかし不意に足を止めた。

 それは顔に感じる、強烈な痛み、熱と云い換えても良い――刺激があったからだ。

 焼けるようなそれに、ジュンコは思わず愛銃を取り落とし、顔を覆いながら悶え苦しむ。

 

「げほッ、ごほっ、な、なによこれ……!? ただのスモークじゃないの……っ!?」

「め、目いったぁ!? うえぇ、けほ! 痛っ、あ、熱っ!? か、顔が!」

「ぐっ、これは、かなり沁みますね……!」

「――催涙ガス、ですか」

 

 煙から距離を取り、口元を覆ったハルナは煙の正体を冷静に分析する。鼻腔を刺激する強い痛み、針で突き刺されるような不快感、焼けるような熱、呼吸も碌に出来なくなり、目尻からは自身の意思とは関係なく涙が零れ落ちる。

 恐らく催涙弾と共に幾つか手榴弾の類も混ざっていたのかもしれない。急速に広がった白煙を前に、ハルナは静かに肩を落とした。

 

「ふふっ、これは一本取られましたわね」

「れ、冷静にそんな事云っている場合じゃないでしょ!? いだ、あだッ! ひーっ! ちょ、コレ、な、何とかしてよハルナッ!? 顔が焼けるみたいに痛いんだけれどっ!?」

「目が開けられないので無理です」

「だぁ~っ!」

 

 叫び、地面に蹲りながら痛みに悶えるジュンコ。それは多少違いはあるものの、イズミも、ジュンコも、ハルナも同じだ。美食研究会の足が完全に止まる、視界も嗅覚も封じられた、この状況で追撃を行う事は困難を極める。

 

「っ、あなた様……!」

「――ったいなぁ、もう……!」

 

 そしてそれは、ワカモとミカも同様だった。

 さしもの彼女達であっても、視界を奪われ喉や鼻に激痛が走るとなると、動きを止めざるを得ない。それでも動こうと思えば動けるが、完全に精彩を欠いている。その状態で軽挙に走る程、彼女達は無謀ではない。

 彼女達の中で唯一難を逃れたのは、忍術研究部の三名のみだった。

 

「先生殿……!? な、何か良く分からないけれど、皆動けないみたいだし、このまま見失うのは不味いよね……!? わ、私達が追うよ、イズナ、ツクヨッ!」

「は、はいっ!」

「っ、承知しました――!」

 

 唐突に広がった白煙、それを避けるように駆け出す忍術研究部。スクワッドを追って、裏路地を通って迂回し追跡を開始する。その姿を、街道を駆けるヒヨリは確かに捉えていた。

 

「に、忍者の人達が追って来ていますよ!?」

「効果範囲外だったか……! リーダー、此処からどうするの!?」

「――このまま旧校舎の地下回廊に向かう!」

 

 上手く包囲網を抜け出せたのは良いが、完全に撒く事は叶わない。この状況で一体どうするのか、そんな問い掛けに対しサオリは先頭を駆けたまま叫ぶ。

 その言葉に、ヒヨリは思わず目を見開いた。

 

「こ、こんな大人数を引き連れてですか……っ!?」

「それ以外に方法が無い! 撒く為の術も、装備も無いだろう!? 催涙弾、閃光弾の類もアレで最後だ……!」

 

 そう云ってサオリは自身の外套、その懐に手を突き込むも、目当ての装備はない。純粋な殺傷目的ではなく、目晦ましや追跡を攪乱する為の装備は、先の催涙弾で最後だった。

 後は単純な力戦、真っ向からの潰し合いしかない――しかし、このアリウス自治区でそれは憚られる。真っ当に当たれば勝ち目はない、そうでなくとも互いに消耗すればアリウスの横やりを許す事になる。それは避けたかった。

 

「先生、何でも良い、少しで良いから連中の足を止められる方法を――ッ!」

「――………」

 

 先生を担いだサオリが苦し気な呼吸を繰り返しながら告げる。

 先生は彼女に担がれた格好のまま顔を顰め、しかし湧き上がる感情を呑み下しシッテムの箱を素早く操作した。

 不意に、スクワッドの視界にガイドラインが表示される。

 

「次の角、右に曲がってくれッ!」

「っ、了解――!」

 

 そのガイドライン、先生の言葉に従ってスクワッドは街道を外れる。裏路地を駆け抜け、隣の旧街道に飛び出した途端――その進行方向に青白い影が渦巻いた。

 それはユスティナ聖徒会の出現する前兆である。

 それを見たスクワッドの面々が怯み、咄嗟に足を止めようとする。

 

「っ、複製(ユスティナ聖徒会)!?」

「て、敵が目の前に――っ!」

「止まるなッ!」

 

 しかし、その怯懦を先生の叫びが掻き消した。

 サオリは一も二も無く先生を信じ駆け抜け、続く形でスクワッド全員がユスティナ聖徒会の直ぐ脇を通過する。出現から実体化するまでの僅かなラグ、その合間を利用し安全に傍を駆け抜ける事が出来るのだ。

 スクワッドの後を追って裏路地から飛び出した忍術研究部は、完全に顕現したユスティナ聖徒会に阻まれ、急停止せざるを得ない。視界の中で、続々とユスティナ聖徒会が出現し始め、彼女達の表情が強張る。

 

「う、うぇっ、敵っ!?」

「せ、接敵します!」

「――イズナが突破口を開きます! お二人とも援護をッ!」

 

 いの一番にユスティナ聖徒会に飛び掛かったイズナが叫び、先頭のユスティナ聖徒会を蹴り飛ばす。打撃音が木霊し、吹き飛ばされたユスティナ聖徒会は近場の民家、その窓へと衝突、甲高い音を立てて室内へと転がり込んだ。

 忍術研究部とユスティナ聖徒会の戦闘が始まった。

 その様子を見ていたミサキは、感心した様な声を上げる。

 

「成程、先生っ、無茶するね――ッ!」

「本当なら、こんな手段は使いたくないよ……っ!」

 

 先生は表情を歪め、歯を噛み締める。

 追撃を仕掛ける部隊に対し、第三勢力をぶつけて時間を稼ぐ――本当であれば、彼女達相手にこの様な策を弄すなど論外だ。ぎちりと、先生の胸が軋みを上げた。

 

「主殿――……ッ!」

 

 徐々に離れていく先生を見つめ、呟くイズナ。

 行く道を阻む様に、ゆらゆらと覚束ない足取りで次々と現れるユスティナ聖徒会――その数は十、二十、三十と数秒毎に増えていく。その影を射貫くイズナの瞳に、強い戦意が宿る。

 躊躇っているだけの余裕はなかった。

 

「時間は掛けません、素早く斬り抜けます! 部長、ツクヨ殿、イズナが撹乱しますので、殲滅を!」

 

 告げ、イズナは自身の愛銃を真上に放り投げた。彼女の愛銃が回転しながら虚空を舞い、空いた両手を素早く結び、イズナは腰を落とす。

 

「イズナ流忍法――ッ!」

 

 結んだ印に微かな光が宿り、イズナを照らした。

 

「――百八式・影分身の術ッ!」

 

 宣言すると同時、イズナの姿が愛銃諸共掻き消え、ユスティナ聖徒会の真上へと出現する。彼女のいた場所には小さな狐の縫い包みが転がり、イズナと縫い包みは入れ替わるようにして一瞬にして移動を果たしていた。

 

 イズナは空中で身を翻し、真下のユスティナ聖徒会に向けて弾丸の雨を降らせる。飛来したそれらが強かにユスティナ聖徒会と石畳を叩き、彼女達が宙を見上げた頃には――既にイズナは姿を消している。

 気付けばまた、同じように狐の縫い包みが宙にて浮かび上がり、イズナ本人は回り込む様にして横合いへと出現している。白煙を引き、愛銃を回転させる彼女は空の弾倉を飛ばし、新しい弾倉を装填しながらユスティナ聖徒会に銃口を向ける。

 

 予測不能な動きによって相手を錯乱し、注目を一点に集める、前だと思えば後ろから、後ろだと思えば横から、横だと思えば上から――空間を最大限利用したイズナの影分身による単独連続攻撃。これこそイズナの誇る忍法、百八式・影分身の術。

 ユスティナ聖徒会の注意は今、イズナが全て引き付けている。

 それこそが、彼女の狙いだった。

 

「これ、すごく痛いから、あんまり使いたくないけれど――相手は幽霊みたいだし、遠慮も、出し惜しみもなし! 最大火力でいくよ、ツクヨ!」

「あ、アレですね、部長、分かりました……!」

 

 イズナが囮として機能している間、後方に立っていた二人は頷き合い、呼吸を合わせる。ミチルは大きく息を吸い込むと覚悟を決め、ぐっと唇を一文字に結んだ。

 

「ミチル流忍法――ッ!」

 

 叫び、印を結び終えると同時に両手を広げ、片袖の内側から細長い円筒を遠心力によって取り出す。それを両の指に挟み、素早く地面に擦り付け発火させ、ミチルは勢い良く振り被った。

 

「――キラキラファイアーの術・改ッ!」

 

 投擲される円筒――円を描きながら飛来するそれは、ミチル特製の焼夷弾である。ユスティナ聖徒会の足元へと着弾したそれは、爆発ではなく巨大な炎を周囲に撒き散らし、暗闇の中で煌々と燃え盛る炎の壁を生み出した。

 しかし、それだけでは決め手に欠ける、地を舐める火は確かにユスティナ聖徒会の足を止めたが、ただそれだけだ。彼女達の身が焼き尽くされるような勢いが、それにはない。

 

「ツクヨっ!」

「つ、ツクヨ流忍法……!」

 

 だが、これで良い――ミチルの役割は、炎を生み出す事だけで良い。

 ミチルが振り返りながら叫べば、既にツクヨの両手には巨大な木の葉が握られていた。

 それを構え、大きく体を回転させた彼女は勢いをつけ、一気に両腕を振り抜いた。

 

「――風切り発火の術!」

 

 瞬間、ミチルとツクヨの間を突き抜け、巻き起こる突風。

 それは地を舐める炎を一気に燃え上がらせ、竜巻の如く周囲を駆け巡る。それに沿う様にしてイズナもまた地を駆け、風の通り道を創り出す。

 

 結果、生まれ出るのは――炎の渦。

 

 一際激しく燃え上がった炎にイズナも巻き込まれた様に見えたが、一瞬で狐の縫い包みへと変貌し、白煙と共に二人の下へと着地する。

 イズナが敵を足止め、誘因し、ミチルとツクヨの合体忍法で諸共殲滅する。

 アビドス事件以降、修行に修行を重ねた彼女達が編み出した、奥義の一つである。

 

 最後に身代わりとなった狐人形、それが炎の渦の中に消えていく。そしてそれは、イズナが齎した最後の一撃に繋がる代物。大火炎を前にポーズを取ったミチルは印を結び、最後にその手で思い切り地面を叩いた。

 

「合体奥義――大花火(オオハナビ)ッ!」

 

 瞬間、炎の渦――その中心が炸裂し、盛大に火の粉が散った。

 周囲の家屋、その窓硝子が軒並み全損し、爆音が轟く。衝撃は炎を吹き飛ばし、凄まじい熱風を巻き起こした。

 イズナの身代わり人形、その中に詰められていた爆薬に引火し内部から凄まじい爆発を巻き起こしたのだ。

 対象を高温の炎壁によって渦に閉じ込め、焼き焦がし、最後に爆発によって吹き飛ばす。その効果は絶大で、渦に呑まれた何十人というユスティナ聖徒会は残らず消滅しており、跡形も残ってはいない。

 暗闇の中でも炎は良く目立ち、爆発した渦は遥か遠くまで火の粉を飛ばし、それが夜空に煌めき大華を咲かせる。その光景が齎す衝撃は、威力以上にスクワッドの精神を揺さぶった。

 

「ひ、ひぇッ!?」

「なに、アレ……!?」

 

 背後で燃え盛っていた炎の渦、そしてそれが散り散りに裂け、炸裂した瞬間を目撃したミサキとヒヨリが思わず目を見開く。まるで生きた様に蠢く炎、とても真面とは思えないファンタジー染みた光景に、言葉を紡ぐ事が出来ない。

 

「まさか、本物か――?」

 

 呟き、サオリは冷汗を流す。此処まで見せられては流石に疑う事も出来ない。忍者など、伝説上の存在、現実に存在しないと高を括っていたが――。

 

「聖徒会の兵力をぶつけて足止めしても、ぜ、全然止まりませんよ……!?」

「前だけを見ろ、振り返るなッ!」

 

 叫び、サオリは兎に角足を動かす。どちらにせよ、彼女達に選択肢はなかった。

 確かに彼奴等は強い、だが今はほんの一、二分程度の足止め、それが黄金に勝る価値を持つ。単純な脚力ならば此方も負けてはいない筈なのだ。

 ふと、サオリの視界に開けた景色が飛び込んで来た。暗闇の中で、等間隔に光る街灯、街道を抜けた先、開けた広場の向こう側に佇む廃れた校舎、それこそ彼女達が目指していた場所だ。

 

「見えた、旧校舎だ!」

「先生、地形把握は……!?」

「――地下回廊は最奥、小聖堂の祭壇壁裏、開閉装置を探す暇はない、壁を壊すんだ……!」

 

 元はトリニティと同じ敬虔な信徒であったアリウス、彼女達の校舎には小さな聖堂が備え付けられている事は珍しくない。先生の言葉に頷いたサオリは、封鎖されていた旧校舎の扉を蹴り開け、一も二もなく内部へと侵入する。

 旧校舎の中は埃っぽく、廊下には降り積もった埃と飛び散った瓦礫片、硝子、いつのかも分からないノートの切れ端や横たわったロッカーなどが散乱していた。それらを踏み越え、廊下を疾走するスクワッド、最奥の小聖堂に辿り着くにはただ真っ直ぐ駆ければ良い。少し走れば木製の、如何にもと云った両開きの扉が目に入り、サオリは銃口を向けると一発、二発と引き金を絞る。

 銃声が廊下に反響し、弾丸は扉のドアノブ部分を吹き飛ばして外側から鍵を破壊する。走る勢いそのままに扉を蹴飛ばし、静謐な聖堂内部へと踏み入った彼女は最奥の石壁、垂れ幕で覆われたそこに向かって叫んだ。

 

「急げ! ヒヨリ、壁ごと撃ち抜くんだッ!」

「は、はいっ!」

 

 頷き、ヒヨリは担いでいたアイデンティティを構え――立射。

 重々しい射撃音を打ち鳴らし、反動が空気を震わせる。ヒヨリの放った弾頭は石壁に突き刺さり、そのまま老朽化していた石壁は粉塵を撒き散らしながら脆くも崩れ去った。ミサキが駆け寄り、垂れ幕を力任せに引き千切れば――視界に映る石の階段。

 地下回廊へと続くそれを見つけ、ミサキはほっと僅かに口元を緩ませる。

 

「本当にあった、隠し通路――!」

「これが、地下回廊への入り口ですか……!?」

 

 これが無ければここで自分達は終わっていた、実在した事にミサキは胸を撫でおろす。しかし此処で悠長に足を止める訳にはいかない、ミサキは外套の胸ポケットに仕舞っていたペンライトを取り出すと点灯させ、行き先を照らす。かなり深い場所まで続いているらしく、光は置くまで届かない。セイントプレデターを背中に担ぎ直したミサキはサイドアームに手を掛けながら階段に足を掛けた。

 サオリは先生を地面に降ろし、愛銃を構えながら今しがた駆け抜けて来た廊下を警戒している。

 

「行くよ、ヒヨリ!」

「う、うぅ、く、暗くて、向こう側が――」

「迷っている暇はない、急げッ!」

「わわっ……!」

 

 ヒヨリが余りにも暗い空間に尻込みするが、サオリの一喝に気圧され慌てて中に入る。ミサキ、ヒヨリ、先生、サオリの順に階段を駆け下り、周囲にはその足音だけが響く。ペンライトの照らす微かな光、それを頼りに只管足を動かし続けると、軈て階段の終わりに近づき、視界に薄らと明かりが見えて来た。

 

「あ、明かりです……! あそこで終わりでしょうか……?」

 

 ヒヨリが微かに元気づき、全員が開けた空間に出る。

 視界一杯に広がる、石の柱が等間隔で並ぶ通路――地下回廊。

 周囲を見渡したスクワッドの面々は、思わず声を漏らした。

 

「これは――」

「何、この通路……」

「ま、まるで異次元みたいです――……!」

 

 罅割れ、崩れ落ちた内壁、その向こう側から覗く――夜空。

 地下であるこの場所から、何故空を仰ぐ事が出来るのか。星々が瞬き、月明かりが差し込む地下回廊は、地上よりも明るいとすら云える。地下で在りながら空を仰ぐ、故に回廊、その言葉の意味を彼女達は理解し、同時に困惑する。

 だが、その秘密を探る余裕も、時間も無い。

 

「っ、もう追いついたのか……!」

 

 階段の遥か向こう側から、微かに誰かの声が聞こえて来た。恐らくミカ達が追いついたのだ。その事に気付き、サオリは声を張り上げながら前方を指差す。

 

「急げ、走るんだッ! 私が殿を務める!」

 

 その声に、スクワッドはまた一斉に駆け始めた。回廊に、彼女達の靴音が響く。

 追いつかれてしまえば終わりだ、もう彼女達を凌ぐだけの余力がスクワッドに残っていない。文字通り、ベアトリーチェと対峙する最後の力だけしか。

 

 サオリは息を弾ませ必死に走る面々を見つめながら、静かに左右に視線を向けた。天井を支えているのは回廊左右に配置された石柱、老朽化によるものか傷も散見され、中には半ば崩れかけているものも見える。額に滲む冷汗を指先で払いながら、彼女は小さく呟く。

 

「この地形――バシリカに至るまで、回廊は一直線」

 

 視線の先、進行方向の遥か先は暗闇だ。崩れた内壁の隙間から差し込む月明かりは完全ではなく、その向こう側までは見通せない。時折横合いへと伸びる通路もあるが、どこへ通じているかは分からない――恐らく、地上の何処かなのだろう。

 サオリはそれとなく観察を続けながら、ふと一本の崩れかけの石柱を見つけた。

 

 走る足を緩め、立ち止まった彼女はその柱を見上げたまま静かに観察を続ける――対角線上にある石柱は僅か抉れ、傾いている。内壁の向こう側から何かが飛来したのか、或いは単なる老朽化か。

 だが、それは重要な事ではない。

 大切なのは、今の自分でも崩せるかどうか。

 

 サオリは一度今しがた駆けて来た方角に顔を向け、それから今なお遠ざかっていくスクワッドを見た。このままバシリカまで到達出来るか――難しい所だ、恐らく途中で捕捉される可能性が高い。そうなればアツコ救出の希望は途絶える。

 

 それだけは、阻止しなければならない。

 

「っ、リーダー、何しているのッ! 足を止めないで、早く!?」

 

 ふと、先頭を駆けていたミサキが足を止めたサオリに気付いた。振り向き、焦燥を滲ませ叫ぶ彼女。ヒヨリ、先生も足を止め、咄嗟に振り向く。

 

「サオリ――?」

「さ、サオリさん、急ぎましょうッ!」

「いいや……」

 

 ヒヨリの言葉に、彼女は緩慢な動作で首を振った。

 幸いにして、設置型のC4爆弾はまだ手持ちがあった。それを外套の裏から取り出し、起爆装置が損傷していない事を確かめ、サオリは顔を上げる。

 

「――この損傷具合なら、手持ちの爆薬でも何とかなりそうだ」

 

 左右の傷付いた石柱、恐らく抉れた内部に爆薬を設置すれば中程から圧し折る事が出来る。それでも足りなければ、最悪訓練場で拾ってきた件の爆弾で吹き飛ばせば良い。数を投げれば恐らく、どうにかなるはずだ。

 そう思案し、彼女は淡々と石柱に爆薬を設置する。その間にも、回廊には別の足音が迫っている――ミカ達が追いつこうとしていた。

 サオリは回廊脇の通路を確認し、直近に迂回路がない事を確かめる。少なくとも地上から別の通路を見つけるにしても、それなりに時間が必要な筈だ。五分か、十分か、或いはそれ以上か、それは分からないが。

 少なくとも、スクワッドがバシリカに辿り着くだけの時間は稼げる。

 

「……ミサキ、ヒヨリ、二人は先生を連れて先に行け」

「えっ、そ、それはどういう――……」

「……リーダー?」

 

 サオリは淡々と、いっそ無機質なまでの声色でそう告げた。

 何か、嫌な予感がした。

 ミサキの肌が粟立ち、妙に心音が騒がしく感じた。思わず一歩踏み出し、彼女の名を呼ぶ。サオリは一度大きく息を吸い、吐き出すと、三人の顔を真っ直ぐ見つめながら、告げた。

 

「――私は、此処に残る」

 

 回廊に、彼女の言葉が木霊した。

 

「は――?」

「な、何を云って――」

 

 ミサキが呆気にとられた様に言葉を失い、ヒヨリがあからさまに狼狽する。

 只一人、先生だけは何かに気付いた様に、サオリへと目を向けたまま足を一歩踏み出した。その視界に、彼女の設置した爆弾が映る。

 

 ――一直線の地形、老朽化した壁と石柱、そして迫り来る追撃部隊。

 

「まさか、サオリ――」

「先生」

 

 それは殆ど確信に近い。

 さっと、先生の顔色が変わる。

 先生ならば気付くと、そう思っていたのか。

 被せる様に、彼女は声を張った。

 口元を覆っていたマスクをゆっくりと外し、神妙な表情で口を結んだ彼女は。

 一度、二度、視線を彷徨わせた後、先生にそっと頭を下げ、云った。

 

「……どうか、頼む」

 

 直後、サオリの足が地面を蹴る。

 スクワッドから、先生から離れる様に身を翻したサオリは、二つの石柱を超える様にステップを踏み、三人から距離を取る。

 その握り締めた起爆装置に指を添えながら。けれど最後に、僅かな微笑みを見せ――サオリは強い覚悟を秘めた瞳を先生に向け、云った。

 

「――アツコを、助けてやってくれ」

「っ!? やめろ、サオリッ!?」

 

 咄嗟に先生が叫び、全力で石床を蹴った。

 伸ばした右の手、しかし、その指先が届くより早く――左右から爆発が巻き起こる。

 立ち並ぶ石柱に仕掛けられたC4爆弾が起爆したのだ。爆発の規模は決して大きくなかったが、老朽化し削れた石柱を圧し折る程度の威力はあった。中程から折れ曲がり、支えを失った柱と天井が次々と崩れ落ちる。視界が土砂と、粉塵に覆われる。

 

「サオリッ!」

「駄目、先生危ない――ッ!」

 

 それでも尚、先生はその雪崩の中に手を伸ばし、足を止めようとしなかった。

 しかし、寸でミサキが先生の肩を掴み、後方へと抱きかかえたまま飛びずさる。強い衝撃と暗転する視界。ミサキは先生の頭を抱きかかえ、地面に蹲って瓦礫片から先生を守った。

 

 轟音、衝撃、風圧――地下回廊に響く破砕音。

 

 そうして降りかかる小さな瓦礫片、土くれ、粉塵、そう云ったものを払い薄らと目を開いた時。

 

 スクワッドの前には、崩れ落ち封鎖された通路が横たわっていた。

 


 

 Twitter(新:X)で投稿していた通り、二日ほど所用で休ませて頂きましたわ~! お陰様で新ストーリーも読めて大満足ですの! 

 三日以上空く時は後書き・前書きか、Twitterの方で事前に連絡致しますので、宜しくお願い致しますわ~!

 新ストーリーで個人的ハイライトは先生がシュロちゃんに殴る蹴るの暴行を受けて血反吐撒き散らしながらユカリを庇っていたシーンですわ。

 嘘ですわ。

 でもいつか嘘じゃなくしたいと思ってしまいますわ~!

 

 ユカリの花言葉が『新生』、『再生』、『思い出』

 レンゲの花言葉が『心が和らぐ』、『私の幸せ』

 キキョウの花言葉が『永遠の愛』、『誠実』、『友人の帰りを願う』

(ワスレ)ナグサの花言葉が『私を忘れないで』、『真実の友情』

 因みにシュロの花言葉は、『勝利』、『不変の友情』だそうです。

 

 名前が花に因んでいた事から何かありますわよね~、と思っていたら案の定ですわぁ~!

 尚、部長であるアヤメの花言葉は、『よい便り』(朗報)、『希望』、『吉報』ですわ!

 はい勝ち~! これは間違いない、愛と希望に満ち溢れた透き通った世界ですわね~!

 

 

『イズナ』

 凄い忍者、実際忍者、固有武器渡した時に、「これで中忍に――」とか云っているけれど、多分もう上忍レベルの腕前だと思う。ホントに忍術を使える凄い奴。新ストーリー見たけれど怪談なんて概念あるし、もしかして本当に忍者って居るの? マジで忍術って存在する? かまぼこ疾風伝ってキヴォトスに於いてノンフィクションの可能性あったりする? わぁ……。

 因みに使用した忍法、「百八式・影分身の術」はカフェで彼女が呟く台詞から。百八式って事は他に忍術が百八個あるのか、それとも百八種類の影分身の術があるのか。なにそれ怖い。身のこなしに関しては彼女の協力もあって、忍術研究部一同、イズナに近しい俊敏性を会得するに至った。これでもう忍者が居ない何て云わせない!

 先生と彼女達が再び同じ道を往く為の鍵は、実は彼女が握っている。

 

 

『ミチル』

 へっぽこ忍者、それでも忍者、心構えならば忍術研究部最強、仲間を想う心は本物。忍術っぽいものは使える、口から火を噴くやつ、ライターの火よりは大きいけれど、忍術……? 忍術かなぁ、ってレベルの忍術。でもよく考えたら印を結ぶだけで口から火を噴けるって結構凄くない? どう考えても普通じゃないよね? もしかしてニンジャから忍者になれる素質をお持ちだったり……? 忍術研究部で使用される忍術道具は彼女考案のものが多い。道具を使っても忍術と云い張ればそれは忍術である。たとえ全力の右ストレートであっても「忍法!」と叫べば、それはもう忍術なのだ。

 自分に自信がないし、強がっていてもそれは虚勢に過ぎず、自分がどれだけ非力な存在なのかは十二分に自覚している。窮地に陥ると仲間を傷つけない為にも弱気になってしまう事があるが、それでも譲れない一線、或いは忍術研究部の仲間の声があれば、どんな苦境だって歯を食いしばって耐えられる、優しくてとても強い子。

 

 

『ツクヨ』

 多分本当の意味で下忍とか、そういう感じの忍者。見つからないという一点に関してはイズナにも勝る天性の才の持ち主。そして身長が百八十センチもある為、フィジカル的には多分忍術研究部最強だと思う。でもキヴォトスって身長低くても怪力な子とか結構いるし、体格って余り関係ないのかな……そうかな、そうかも。でも大きい事は良い事だと思います(断固たる意志)。個人的見解を述べさせて頂くのならばどこかのハスミさんみたいな悪足掻き(百七十九センチ)とするのではなく、堂々と百八十と申告するその心意気を買いたい。ハスミって絶対百八十行っていると思うんです、でも七と八の間には越えられない壁がある気がして、乙女心からマイナス一センチした説を私は推したい。自身のコンプレックスを気にして少しでも小さく見せようとする乙女心は尊い。ツクヨも気にしていっつも猫背だし……素晴らしいですわねぇ~!

 作中で使用した忍術は忍術(体術)である、いつも隠れる時に使っている葉っぱを使って凄まじい突風を巻き起こすというもの。なんかめっちゃ頑張ったら出来るようになった、しゅごい。本人的には「これって忍術、なの、かな……?」という具合だが、ミチルとイズナがキラキラした瞳で「凄いですツクヨ殿!」、「さっすがツクヨ~!」と褒めてくれるので忍術でも良いかなと思っている。

 彼女にとって忍術とは、仲間達との過ごした修行の日々、共に思い悩みながら紡いだ思い出そのものなのだ。

 

 

『ワカモ』

 忍術研究部の名誉部員とも云える立場、ミチルからは「いつか絶対に入部させてみせる!」と意気込まれている。彼女からすると忍術研究部の面々は良き友人、自身の衝動を否定せず、かと云って踏み込み過ぎない程度に接してくれる三人の事を比較的好ましく思っている。ただし、先生と彼女達の間には天と地の差が存在する、しかしそれは先生に対する感情がサンクトゥムタワー並みに高くデカイだけなので、別に彼女達を蔑ろにしている訳ではない。

 スクワッドに対しては不信・侮蔑・憎悪の感情を向けている。自分が守り切れなかった事実も含め、先生に二度と癒えぬ傷を付けた彼女達を受け入れる事が出来ない。スクワッドの事を先生が救いたいと思っている事は重々承知だが、それでも尚、彼女達が再び先生に牙を剥く可能性を考え始末したいと強く思っている。一度目があった、二度目があった、ならば三度目がないと何故云い切れるのか? ほんの僅かでも、その銃口を先生に向ける可能性があるのならば、そしてその切れ味が鋭い(戦闘能力が高い)懐刀であるからこそ、より危険視して遠ざけようとする。

 忍術は一切使用しないが、忍術道具は使用する。何分、忍術が関係なくとも彼女達の作り出す道具は便利なもので。

 

『ミカ』

 ミカ流忍法、街灯ぶん回しの術。

 とても応用の効く忍術であり、「廃車ぶん投げの術」になったり、「瓦礫叩きつけの術」になったりする。周囲の環境によって技が変化する特殊な忍法。

 因みに直撃した相手は再起不能になる。

 まごう事なき忍術(体術)

 因みに毎食ロールケーキだった為、以前より肉体は弱体化(パワーダウン)している。

 全盛期のミカだったら多分、降りた隔壁を素手で破壊して何事も無かったかのようにスクワッドを追跡していた。

 こわい。

 

 サオリvsミカ・ワカモ・ハルナ・ジュンコ・アカリ・イズミ・ミチル・イズナ・ツクヨvsダークライ……レディ、ファイッ!



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私達の罪悪(つみ)

誤字脱字報告感謝ですわ~!
今回は15,000字ですの!


 

「ぐッ、ゴホッ……!?」

「けほッ、ごほッ、り、リーダー!?」

「さ、サオリさん……ッ!?」

 

 粉塵が周囲を覆い尽くし、月明かりに反射する。それは場所と状況さえ異なれば、幻想的ともえ云える光景であり、煌めくそれらの向こう側に巨大な壁が生み出されていた。

 先生はミサキに抱かれ、這い蹲った格好のまま崩れ落ちた天井と柱の積み重なった山を見上げる。その光景は、先生に一瞬我を忘れさせる程には衝撃的なものだった。

 

「っ、サオリ――!」

 

 彼女の名を呼び、這い蹲った状態のまま瓦礫へと手を伸ばす先生。土と石、そして瓦礫に埋もれたそれに手を這わせ、必死に抜けられるような穴を探す。しかし見た限り回廊は完全に遮断され、それらしい隙間は何処にも見当たらなかった。同じように駆け寄って来たヒヨリとミサキも隙間を探すが、身体ごと通れるような都合の良い空間はやはり存在しない。

 ミサキは瓦礫に拳を叩きつけながら、吐き捨てる様に叫ぶ。

 

「っ、駄目、完全に封鎖されている……!」

「そ、そんな――」

「ッ……!」

 

 思わず、悪態が漏れかけた。

 回廊は一本道だ、横合いに地上へと通じているのであろう通路は散見されるも、それが何処に通じているかは一切不明。迂回路となるかどうかすら定かではない。

 ミサキは積み重なった瓦礫を掴み、血の気の失せた表情と共に向こう側へと叫んだ。

 

「リーダー、馬鹿な事はやめて今直ぐ逃げてッ! あの数相手に単独で戦うなんて……死ぬ気なの!?」

「そ、そうです、サオリさん! そんな体で、無茶ですよ……っ!?」

 

 声には、隠しきれぬ程の悲痛な想いが籠っていた。

 今尚自分達を追跡している彼女達の戦闘能力は、スクワッド全員で挑んでも勝率は僅か。百回戦って、一回勝ちを拾えれば良い、そのレベルで彼我の戦力差には開きがある。

 そんな相手に単独で挑む等――その勝敗は、誰の目から見ても明らか。自殺行為と云い換えても良い、それ程に無謀な行いだった。

 回廊が完全に封鎖されている事を確かめた先生はよろよろと立ち上がり、呼吸を整えながら拳を強く握りしめる。口の中がからからに乾いて、ひりついていた。

 

「待っていろサオリ、今迂回路を探して、そっちに――ッ!」

「来るなッ! 先生!」

 

 声を張り上げ、動き出そうとした先生。

 しかし、それを制止する叫びが瓦礫の向こう側から響いた。

 その、彼女(サオリ)の叫びに駆け出そうとした足が止まる。

 封鎖された通路の反対側に立つ彼女は、いっそ穏やかな抑揚で、告げた。

 

「……これで良いんだ、これが私達の取れる最善の選択だ」

「最善……? これの、これの何処が最善だと云うんだ、サオリ……!」

「分かっているのだろう、先生? 日の出までもう時間がない、此処から先、アイツ等を相手にしながらアリウスと戦うのは戦力的にも、時間的にも不可能だ――私が此処で食い止める、だから三人でアツコを救出してくれ」

「馬鹿な――ッ!」

「先生」

 

 尚も云い募ろうとした先生を、サオリは遮る。

 姿は見えないというのに、先生の視界には彼女の表情がはっきりと映る様だった。

 彼女はマスクを手に持ったまま静かに、晴れやかな微笑すら伴って告げるのだ。

 

「私は――お前を信じている」

 

 それは、実感を伴った言葉だった。

 こんな、本来であれば手を差し伸べる必要も、その資格すらない生徒にすら寄り添い、真摯に向き合ってくれる大人ならば。

 

 ――先生なら、必ずアツコを救ってくれると、彼女はそう信じている。

 

 先生であれば自身の大切な、残った全て(家族みんな)を託せる。

 その胸に不安はない、どのような形であれ、先生は文字通り死に物狂いで彼女を助けようとしてくれる筈だから。

 故に、サオリは何の不安も、恐れも抱かずに挑む事が出来る。

 全力で、命を賭す事が出来る。

 

「だから、頼む」

「サオリ――ッ!」

「――此処は、私が死守す(まも)るから」

 

 瓦礫に縋る先生の爪が、その表面を力の限り引っ掻く。剥がれかけた爪が、血と共に僅かな傷を付けた。痛みが、痛みだけが、先生の身体を苛む。

 

「はぁー……っ」

 

 深く、息を吐き出した。

 サオリは静かにマスクで口元を覆うと、前へと向き直る。肌寒い地下では、僅かに吐息が白く濁りを見せる。

 帽子を深く被り直し、つばを摘まむ。視界を覆う粉塵、それが月光を反射して煌めく。

 その中に、サオリは幼い頃の自分自身を垣間見た気がした。

 

「――!」

 

 陽炎の様に、朧げな輪郭と共に自分自身を見つめる人影――力を持たなかった(無垢であった)頃の自分。それが暗闇と粉塵に塗れ、幽鬼の如くじっと此方を見つめている。

 硝子玉の様な瞳に映る自分自身を、サオリは静かに見つめ返す。幼い頃の自分は擦り切れ、ボロボロになった手で膝を抱えて、今のサオリを眺めていた。枯れ木の様に細く、力ない手足、それこそが弱さの証であり、当時の彼女にとって何よりも忌むべきものだった。

 強くなりたい、力が欲しい。そうすれば大切なものを、家族を守れる筈だから。

 そこに善悪はなく、願いは使命へと変化し、その無垢が罪である事を知った。

 

 少女(あの日の自分)サオリ(今の自分)を見つめる。

 サオリ(今の自分)少女(あの日の自分)を見つめる。

 

「――大丈夫だ」

 

 今度は、目を逸らさなかった。

 調印式襲撃の前にも、カタコンベで同じような幻を見た。

 あの時は、後ろめたさから視線を合わせる事は出来なかった。

 でも、今は違う。

 

「もう、間違えないから」

 

 告げ、サオリは顔を上げる。

 その鋭く細めた瞳の先に――人影が浮かび上がった。

 既に少女(幼き頃のサオリ)の輪郭は掻き消え、朝霧の如く消え去っていた。代わりに段々と近付いて来る靴音。

 それを、サオリはただ待ち構えるのみ。

 

「――ふぅん」

 

 回廊に、声が響いた。

 粉塵の向こう側、浮かび上がった人影を前にサオリは口元を引き締める。

 追いつかれた、奴が此処まで辿り着いた。

 サオリにとっての天敵――彼女が顔を出す。

 

「……これが貴女の選択なんだね、サオリ」

 

 視界を覆う粉塵を裂き、現れる純白――聖園ミカ。

 彼女は積み上がった瓦礫の山、その前に佇むサオリを何処か、無機質染みた瞳で眺めていた。

 その瞳に込められるのは自身に単独で挑む愚かさを嘲笑う色か、それとも殊勝にも首を差し出したことに対する称賛か。

 或いは――今なお、仲間の為に自身の命を擲つ献身に対する苛立ちか。

 

「……やってくれましたね、アリウス」

「――成程、そう来ますか」

 

 彼女の後に続くワカモ、ハルナ。

 その視線はサオリの背後を塞ぐ瓦礫の山に向いている。その表情にどこか、苦い色が宿ったのをサオリは見た。

 

「け、ケホッ、こほっ……うぅん、これは、酷い匂いですね、埃と粉塵が混じって少々――」

「そんな事云っている場合じゃないでしょ、アカリ!?」

「て、天井と柱が……」

 

 完全に封鎖された回廊を見て、美食研究会は呆気にとられた様な声を漏らす。ジュンコは焦燥を滲ませ、イズミは完全に思考停止したかのように呆然としていた。

 アカリは口元を手で覆い周囲に蔓延する埃に辟易としながら、しかし油断なく思考を回す。

 単なる封鎖であれば自身の持つ愛銃(ボトムレス)、そのアンダーバレルに装着されたグレネードで吹き飛ばせるだろうが、天井から裂けるように崩れ落ち、土砂の混じった瓦礫の山を見上げそれを断念する。

 下手に崩せば、回廊全体に被害が及びかねない。

 そうなれば、もれなく全員生き埋めだ。

 

 アカリは小さく溜息を零し、傍に立つハルナへと視線を移す。美食研究会のリーダーは尻尾をゆらゆらと揺らしながら、何処か思案する様に自身の顎先を撫でつけていた。その瞳は鋭く、前方に立ち塞がるサオリと封鎖された回廊を見つめている。

 

「こ、これは、つ、通路が、完全に、塞がっちゃっています……!」

「ど、どうすんのこれぇっ!? こ、此処、もう通れないよね!? せ、先生殿が、向こう側にいるのに――!」

「ちょっと、あんた達忍者なんでしょ!? 何か、こう、良い感じの忍術? で向こう側に瞬間移動出来たりしないの!?」

「あっ、そ、そっか! 忍者なら何とか出来るかも……!」

「エッ!? あ、い、いや、流石に無理でしょ!? 私達は確かに忍者だけれど、そういうのは、こう、ちょっと、違うというかぁ……うぅ」

「っ、ですが何処かに迂回路があれば……っ!」

「――いいや」

 

 美食研究会の横、並んだ忍術研究部と彼女達の声に、サオリは声を被せる。

 爪先で地面を叩き、俯いたまま大きく息を吸い込んだ。

 ずきりと、胸元に鈍い痛みが走る。だが痛覚がある内は、痛みを感じられる間は――まだ、戦える証拠だ。

 サオリはその痛みを噛み締めながら言葉を紡ぐ。

 

「……悪いが、お前達をこの先に行かせる訳にはいかない」

 

 愛銃のグリップを強く握り直し、足を踏み出す。

 薄汚れた外套()が靡き、はためく裾が音を鳴らした。

 踏み出す一歩は力強く、彼女の意気込みが感じられる。月明かりがサオリを照らし、その足元に濃い影を残していた。砂利を踏み締める靴音が、周囲に響く。

 

「……陽の出まで、あと一時間」

 

 懐から取り出した罅割れ、壊れかけの時計。時刻は彼女の告げた数字からひとつ前、向かうとすれば(救出の為には)心細く、稼ぐとすれば(足止めの為ならば)途方もない時間。

 しかし、それでも為さねばならない理由がある。

 手にしていたそれを地面に投げ捨て――目の前に対峙する生徒達を挑む様に見据えるサオリは、静かに、しかし断固たる意志を秘め告げた。

 

「――それまで、私に付き合って貰うぞ」

 

 錠前サオリは。

 今、この瞬間、この場所で。

 自分の命、全てを賭して。

 死に物狂いで、彼女達を押し留める。

 その覚悟がある。

 

「―――!」

 

 月明かりが雲に掛かり、光が陰る。

 サオリの表情に影が差し、途端溢れ出す――強烈な圧迫感。

 地面から這い寄り、伸びる影の如く静謐で、穏やかで、しかし鋼鉄の如き硬さを感じさせる戦意。

 それを前に、ミカを除くすべての生徒は強い戦慄を覚えた。ハルナは目を見開き、無意識の内に一歩退いていた。その、下がった一歩を見下ろしながら、彼女は驚愕を貼り付ける。

 

「これは――」

 

 決死の覚悟――自身の命を最初から擲つ事を受け入れた者の放つ、絶対的な戦意の発露。

 怯まず、恐れず、慄かず、その生命が活動を終える一瞬まで相手の喉笛に喰らい付こうと決めた、痛烈な意思表明。

 それは、彼女が最後に秘めていた猟犬の意地に他ならない。

 

 誰かを、何かを守る時、人は一番強くも、残酷にもなれると云ったのは誰だったか。

 

「……ッ」

 

 そのやり取りを瓦礫の向こう側から聞いていたミサキは、両手を血が滲む程に握り締め、今一度瓦礫に強く拳を叩きつけた。

 しかし、それはこの巨大な山を崩す為の行為ではない。やり場のない怒りを、不甲斐なさを、無力感を振り払う為に咄嗟に出た、彼女の感情、その発露に過ぎなかった。

 

「――……先に進もう、先生、ヒヨリ」

「み、ミサキさん……!?」

 

 低く、努めて冷静に、彼女は告げる。

 ミサキは立ち上がると、眉間に皺を寄せ、睨みつけるような視線を瓦礫に向けたまま続ける。

 

「……あるかも分からない迂回路を探す時間は無い、あの戦力と正面から戦うのも無謀、ならリーダーの判断は――正しい」

 

 戦術的な意味で――正しい。

 ただでさえ戦力で劣っているスクワッドから、最低限の戦力を残し、追撃部隊の足を止める。倫理観や道徳云々はさておき、戦術的な観点から見れば何も間違ってなどいない。それが焼け石に水程度の、ほんの僅かな時間であっても、その五分、十分が、今のスクワッドにとっては何よりも価値を持つ。

 

「仮に道を探し出して戻ったとしても、手遅れだよ――今のリーダーで、いや、たとえ万全の状態だったとしても、あの数の手練れ相手に何十分も耐えられる筈がない」

「で、でも……っ!」

「私達が何の為に此処に居るのか思い出して、何もかも放り投げて、こんな場所に戻って来たのは姫を助ける為でしょう? 此処で私達がしくじれば……姫が手遅れになる」

「っ……!」

 

 ミサキの声は、淡々としていた。先生は瓦礫の山を前にして動けず、ただ沈黙を守る。

 彼女の云っている事は簡単だ。

 錠前サオリを犠牲に、秤アツコを救うのか。

 秤アツコを犠牲に、錠前サオリを救うのか。

 これは、そういう選択だった。

 

「――最終判断は先生に任せる、でも、一つだけ云っておく」

 

 ミサキの視線が先生に向けられる。歩み寄り、先生の腕を掴んだ彼女は唇を震わせ、揺れそうになる言葉を必死に整えながら、云った。

 

「先生、リーダー(錠前サオリ)が生き延びる可能性は、限りなく低い」

 

 彼女は殆ど、その命を全て使い切る前提であの向こう側へと踏み出した。今から迂回路を発見して、彼女の下へと辿り着いたとしても、サオリが生き延びている確率はどれほどか。

 十か、五か、一か――それとも、それ以下か。

 先生の腕を掴むミサキの手に、力が籠る。

 溢れ出そうになる涙を堪え、食い縛った歯を覗かせながら、彼女は言葉を振り絞った。

 

「リーダーの犠牲を、無駄にはしないで」

「―――」

 

 犠牲。

 その一言が、先生の思考をがつんと、強く殴りつけた。

 それは目の覚めるような一言であった。

 

 犠牲――犠牲、だと?

 

「………」

 

 彼女の言葉に、先生の俯いていた顔が、ゆっくりと天を仰ぐ。崩れ落ちた壁の向こうから差し込む月光が、その片面を照らしていた。

 その瞳孔が、静かに開いて行く。

 ミシリと、噛み締めた奥歯が軋みを上げた。

 

 今、先生の脳裏に過るのは、数多の可能性の中で消えて行った光達。どうしようもなくなった、仕方がなかった、行き詰った、他に道がなかった、そんな暗くて憂鬱で、苦痛に塗れた結末を迎えた中で潰えて行った子ども達の姿。

 それは、この掌から零れ落ちて行った可能性。

 無限に広がっていた筈だった、どんな未来でも掴み取れるはずだった。

 そんな彼女達が苦痛と涙に塗れ、志半ばで斃れていく姿を見た時、己の胸に奔ったのは――。

 

 ――生徒を犠牲にした幸福な結末など、存在しない。

 

 先生は強く、強く拳を握る。

 それを背負うべき存在は。

 それを担うべき存在は。

 決して、生徒(子ども)ではない。

 生徒(子ども)であって良い、筈がない。

 

「――アロナ」

 

 呟きは、静まり返った回廊に良く響いた。

 右手を外套の懐に差し込み、先生は強心剤(注射器)を取り出す。それを握る手は力強く、静かにその先端を首筋へと当てる。直ぐ傍に立つミサキが、目を見開くのが分かった。

 

「マッピングを、頼む」

 

 そして、何の躊躇いも無く先生は柄を押し込み、自身へと打ち込む。空気の抜けるような音と共に、内容物が先生の肉体へと投与された。ひんやりとした冷風が肌を撫でる感触、同時に漏れそうになった苦悶の声を呑み込む。

 ばくん、と。

 自身の心臓が一際高鳴り、胸が焼けるような感覚があった。先生の肌が熱を持ち始める、触れているミサキが一瞬で気付けるほどの熱を。

 

 前回の投薬からどれ程経過していただろうか?

 恐らく、時間は然程経過していない。連続した投薬は肉体と臓器に強い負荷を掛ける。特に補完による生命維持をアロナに委ねている先生は、その負荷を受け易い状態にあった。しかし、そのリスクすら顧みず、先生は一瞬を駆け抜ける身体能力を欲した。

 残りは、一本。

 もし途中で膝を突くならば、この最後の一本すら、先生は惜しまず自身に打ち込むだろう。白く、濁った吐息を吐き出しながら、先生は顔を上げる。

 その腕を掴むミサキが、思わず声を上げた。

 

「先生、何を打って――!?」

「私は……ッ!」

 

 一歩を踏み出し、先生は肺の中にある空気全てを使って叫ぶ。

 自身は、どうするべきか。

 そんなもの――考えるまでもない。

 

「私は、先生だ――ッ!」

 

 叫び、その視線を遥か彼方、暗闇へと向ける。向こう側へと辿り着く迂回路、それを最短で駆け抜け、必ずこの争いを止める。

 どんな手段を使っても、どんな無茶を成し遂げても。

 

 秤アツコを、死なせはしない。

 錠前サオリも、死なせはしない。

 ミサキも、ヒヨリもそうだ。

 ミカも、ワカモも。

 イズナも、ミチルも、ツクヨも。

 ハルナも、イズミも、アカリも、ジュンコも――……!

 そう、誰ひとりとして。

 

「絶対に、諦めなどしない――ッ!」

 

 言葉を噛み締め、先生はシッテムの箱を抱えたまま駆け出す。呆気にとられたミサキが慌ててその背中を追い、ヒヨリもまた、しゃくり上げるような呼吸を漏らし、駆け出す。回廊に、三人の靴音が木霊する。

 そう、例え誰に嘲られようとも。

 

 生徒達が笑う未来が在るのならば――それが全てだった。

 

 ■

 

「……あーあ、先生は行っちゃったみたいだね?」

「………」

 

 向こう側から聞こえていた声が、聞こえなくなっていた。

 最後に聞こえた何処かへと駆け出す足音に、スクワッドが移動を開始したのだと分かる。ミカはそれを先に進んだものと解釈した。サオリはそんな彼女に取り合う事無く、ただ静かに佇んでいる。

 

「……聖園ミカさん、此処は任せます」

「あら、どうなさるおつもりで?」

 

 膠着状態とも云える中、唐突に踵を返すワカモ。

 その去り行く背中にハルナは声を掛ける。ワカモは足を止めると、塞がれた回廊を見つめながら答えた。

 

「決まっています、迂回路を見つけ出すのです、私共の目的はあくまであの方の救出、スクワッドが先に進んだ以上、此処で足踏みしている暇は――」

 

 不意に、視界に影が躍った。

 言葉を途中で区切ったワカモは飛来したそれに視線を向け――直後、爆発が巻き起こる。

 爆音と衝撃が周囲に撒き散らされ、ワカモは和装を靡かせながら後方へと飛びずさっていた。見れば、サオリが何かを投げつけたかのように腕を前に突き出している。手榴弾か、或いは起爆可能な爆弾の類か。

 爆発は近場の石柱を揺らし、パラパラと天井から土くれと石片が落ちて来る。それを見たジュンコが及び腰になり、思わず叫んだ。

 

「ちょ、ちょっと、危ないじゃないのッ!?」

「び、びっくりした……!」

 

 唐突な爆撃、それも中々強力な代物。ハルナはサオリと今にも崩れ落ちそうな石柱を見比べ、納得の色を表情に宿した。

 

「……成程、そういう事ですか」

「ハルナさん、そういう事とは……?」

 

 アカリは何かを見抜いたらしい彼女に水を向ける。ハルナは愛銃を肩に担いだまま、どこか感心したような口調で声を上げる。

 

「態々柱を爆破して天井ごと崩したというのに、何故彼女だけが此方側に残ったのか――普通に考えれば、向こうに残って先生に同行した方が利口ではありませんか、ただ時間を稼ぐならばそれで十分な筈です」

「そ、それは、確かに……?」

 

 この戦力差、到底サオリひとりで埋められるものではない。ならば何も、彼女が此方側に残る必要などなかった。こうして回廊を爆破し封鎖した後、そのままスクワッド全員で直進すれば良かったのだ。

 だと云うのに、彼女はこの場に残った。それは何故か、たった数分の時間であっても稼ぐ為? 勿論、そう云った狙いもあるかもしれない。

 しかし、それ以上にハルナが嗅ぎ取った真意は。

 

「――最悪、自分諸共生き埋めにするつもりですね、錠前サオリさん」

「え、えぇッ!?」

「………」

 

 ハルナは、何処か確信を持ってそう告げた。

 彼女の言葉に対し、サオリは何の反応も示さない。ただ真っ直ぐ、冷たい意志と共に彼女達を見据えるのみ。

 しかし数秒して、詰めていた空気を僅かに吐き出した彼女は口を開く。

 

「……先生が傍に居たら使えない手だった、キヴォトスの生徒ならば瓦礫に圧し潰された程度では、ヘイローは壊れない」

「じ、自爆覚悟の特攻、ってワケ……!?」

「そ、そんな――」

「先程感じた怖気の正体は、ソレですか」

 

 呟き、ハルナはアイディールのグリップを握り締める。最初から彼女は全て道連れにする覚悟でこの場に立っていた。恐らく十分な爆薬をこの瞬間まで残していたのだろう、自分が諸共自爆し後続の生徒を全て生き埋めにし、足止め出来るのならば――成程、確かに戦術としては上策だ。たった一人で、これだけの戦力を無力化出来るのだから。

 

 ハルナは険しい表情でサオリを射貫き、さてどうするかと内心で思案する。下手に動けば先程の様に爆破されかねない、かと云ってサオリに銃弾を撃ち込めばその瞬間自爆し、連鎖的に自分達も道連れ――という可能性も捨てきれなかった。

 文字通り千日手だ、そして時間は彼女の味方であり、こうして悩む時間さえ彼女の術中と云っても良い。こうしている間にもスクワッドは、先生はどんどん遠ざかる。

 或いは彼女の認識できない速度で頭部を撃ち抜き、失神させれば……そんな風に彼女が考え、実行に移そうとした時。

 

「――大丈夫」

 

 一歩、踏み出す影があった。

 

「そんな事、私がさせないから」

 

 そう云って彼女は朗らかに制服の裾を翻し、サオリの目前に立つ。

 皆の前に立った彼女、ミカは他の面々に向かって手を払うと事も無げに云ってみせた。

 

「皆は迂回路とか、他の道を探しに行って良いよ、此処は私が受け持つから」

「ミカさん――」

「元々、私の目的は彼女(サオリ)だから、先生だけが目的の貴女達とは此処まで――それで良いでしょう?」

「……分かりました」

 

 冷え冷えとした視線に、どこかぞんざいな言葉。その視線を受けたハルナは静かに頷き、グリップを握り締めていた手から力を抜く。

 サオリは何処までも余裕を伺わせるミカを前に、ぐっと顎を引くと身構え、愛銃を握る手とは反対の腕を、外套の中に忍ばせる。

 

「……させないと、そう云って――」

「ふふっ」

 

 零れるような、笑い声が耳に届いた。

 同時に地面を蹴り砕く音、風音。

 そして気付いた時、目前にはミカの瞳があった。

 手を伸ばせば触れてしまえそうな、至近距離に。

 

「こんなにボロボロな体で?」

「――ッ!」

 

 反応出来たのは奇跡だ。

 咄嗟に飛んできた拳を手で掴み、防御した。しかし膂力で敵う筈もなく、半ば押し込まれるような形で瓦礫の山に突っ込む。衝撃が周囲を揺らし、土くれと瓦礫片が二人の身に降り注いだ。背中を瓦礫に強打したサオリは顔を苦痛に歪め、呻きを漏らす。

 

「ぐ、ぅッ――!?」

「やっぱり、反応が鈍くなっているね? さっきまで先生のサポートがあったんでしょう? でも今は無い……そんな状態で、私達全員を足止め出来る訳ないじゃん」

 

 サオリを瓦礫の山に押し付けたまま、薄ら笑みを浮かべながら告げる。ミカの拳を受け止めた手が、鈍い痛みを発していた。余裕綽々とばかりに拳を押し出すミカに、震える腕で必死に支えるサオリ。その額に、玉のような冷汗が流れる。

 

「……先に参ります」

「あっ、わ、ワカモ! ちょ、待って――!」

「ぶ、部長……! い、イズナちゃん、私達も……!」

「――……っ」

 

 サオリがミカに押し込まれたと見るや否や、ワカモは冷徹にそう告げその場を後にする。駆け足で去っていく彼女の背に、忍術研究部も慌てて続いた。その背中を視界に収めた美食研究会は、取っ組み合うミカとサオリを一瞥し、同じように踵を返す。

 

「さて、ではミカさんが彼女を拘束している内に、私達も先生を追いましょう」

「そうですねぇ……ケホッ、コホッ」

「そいつの事、任せたわよ! ぎったんぎったんにしてやって!」

「は、早く行こう!?」

 

 騒がしくその場を後にする彼女達に、ミカはどこか辟易とした表情で呟く。

 

「まったく、角付きにこんな気安く話しかけられるなんて――これでも私、トリニティのトップだったんだけれど?」

「――はァッ!」

「おっと」

 

 ミカと押し合っていたサオリは敢えてミカの腕を引き込み素早くその顎先目掛け膝蹴りを繰り出した。不自然な力の流れを感じた瞬間、ミカは驚異的な体幹で姿勢を戻し、後方へとステップを踏む。サオリの膝は虚空を打ち、ミカは何の痛痒も感じさせない様子で肩を竦めた。

 

「さって、と――漸く二人きりだね」

 

 両手を広げ、薄ら笑いを浮かべるミカ。

 サオリは彼女の背中の向こう、駆けて行く美食研究会と忍術研究部を見つめながら――しかし即座に意識を切り替えた。

 最早、追撃は叶わない、ならば目の前のひとりだけでも、確実に足止めする。

 幸い彼女は美食研究会、忍術研究部と比較しても驚異的な戦力な持ち主。彼女ひとり居ないだけでも、脅威度は大きく異なる。

 

 そんなサオリの思考を見透かしてか、ミカは何処かお道化る様に体を揺らして口を開いた。

 

「ふふっ、でも良かったねサオリ? きっとあなたのお姫様は助かるよ――だって、先生が向かったんだから、先生なら、絶対に救ってくれる筈だもん」

「……聖園、ミカ」

 

 ゆっくりと手にした愛銃、その銃口を向けながらサオリは呟く。

 其処には、強い疑念の色があった。

 

「お前が望んでいたのは、本当にこんな事だったのか?」

「……私の、望んでいた事?」

 

 それは彼女にとって、予想外の問い掛けだった。

 そう云わんばかりに目を瞬かせたミカは、小首を傾げながら疑問符を浮かべる。

 

「えっと、私は何を望んでいたんだっけ……?」

「………」

「……あぁ、うん、そうだね、そうかもしれない」

 

 私が――聖園ミカが望んでいた事。

 全部、全部手放して、最後に残ったひとつ。

 たった一つの、残った感情(いろ)

 それを晴らす為に望んだ光景。

 それは。

 

「――最も憎いあなたが、こうして私の前にいる事」

 

 呟き、ミカはゆっくりとサオリに指先を向ける。やや上向きになった彼女の顔を、月光の淡い光が照らした。

 

「でも、セイアちゃんとの約束があるから、ちゃんとこの後、あなたを始末したら先生を助けなきゃ……私はただ、あなたが憎いだけで、先生の事は今も、ずっと大切だもの、今回は、まぁ、ちょっとゲストが多すぎた気がするけれど、別に良いよね? それに彼女達は先生を連れ戻そうとしているみたいだけれど、先生は……生徒を助けに行くのが正しいよ」

 

 そう、先生は生徒を助ける姿が似合う。

 思い、彼女は乾いた笑みを浮かべた。それは自身に向けた嘲りを孕んだ笑みだった。

 

「ふふっ、最後は全ての苦難を乗り越えて、皆で幸せになる――そんなハッピーエンドが、先生には一番似合うから」

 

 そう、ミカは強く思う。

 頑張ったなら、頑張った分だけ。

 他者に尽くしたのならば、尽くした分だけ。

 善人には祝福を。

 それがきっと、最も美しい物語。

 

 それに倣うのならば。

 

 傷つけたのなら、傷付けた分だけ。

 他者から奪い去ったのならば、奪った分だけ。

 罪人には断罪を。

 それがきっと、正しい物語。

 

「先生とは反対に、数多くの悪行を重ねて来た私達は――此処で惨たらしく結末を迎える」

 

 それがきっと、世界の正しい在り方だ。

 そんな方便を、建前を、ミカは小さく呟く。

 そう、所詮は建前だ、嘘ぱちだ、取り繕った見せかけの理屈に他ならない。これはきっと、もっと単純で、悪辣で、どうしようもない感情的なお話だと云うのに。

 自覚し、ミカはくしゃくしゃになった口元のまま、嗤った。

 

「あはは、私達みたいな問題児はさ、先生に何度も心配掛けて、迷惑をかける生徒は、先生の傍になんかいられないんだよ、いちゃ、いけないの……」

「……聖園、ミカ」

「――ねぇ、サオリ、私さぁ」

 

 一歩、ミカが足を進めた。

 サオリとの距離が縮まる。

 月光に照らされた瞳が、昏く、星を宿す瞳が、サオリを見ていた。

 奈落の様に深く、底なし沼の様におどろおどろしく、背筋の氷様な感情を貼り付けた瞳を――サオリは、真っ直ぐ見返す。

 

「もう、帰る場所が無いんだよ……? トリニティにも、何処にも――私はトリニティの裏切者で、何度もセイアちゃんを傷付けて、先生に消えない傷跡を残した魔女だから」

 

 ――この、人殺しがッ!

 

 ――魔女めっ! この学園から出ていけッ!

 

 ――お前のせいで、セイア様は……!

 

 耳にこびり付く罵倒、四六時中聞こえて来た誰かの悪意、憎悪、怒り、そう云ったものはミカの心に深く刻まれている。ひとつひとつ、それを拾い上げる様にして、彼女は一言一句を噛み締め、あの薄暗い独房の中で祈り続けた。

 反論する術は持たない、それは全て事実だ――聖園ミカはあの学園に於いて、魔女で、人殺しで、災厄だった。

 自分はあの場所に居るだけで、争いの火種を生む。

 だからきっと、自分が帰る場所を失ったのは、当然の事だった。

 

 でも――。

 

「もし、学園から追い出されたらさ、ナギちゃんにも、セイアちゃんにも、きっと先生にも、二度と会えなくなっちゃう……生徒じゃなくなったら、私みたいな問題児、先生だって、もう会ってくれないよ」

 

 へらりと、ミカは引き攣った笑みを浮かべたまま呟く。

 自分は何度先生に手を差し伸べられた?

 何度先生に救われた?

 その度に――その手を払い除けたのは、ミカ自身だった。

 だからきっと、もう、先生にだって呆れられている。

 愛想を尽かされたに違いない。

 セイアにも、自分は許されなかった。

 そしてナギサに、これ以上迷惑は掛けられない。

 肩書も、財も、縁も、名声も、何もかもを失った等身大のミカに残ったものは、何もなかった。

 

 自分は――ひとりぼっちだ。

 

 あれ程様々なものを掴んでいた筈の、この両手にはもう、何も残ってなどいない。

 空っぽだ。

 伽藍洞なのだ。

 ミカは自身の掌を見下ろし、涙を零す。

 ぽつぽつと滴り落ちるそれを自覚しながら、彼女はくしゃりと顔を顰めた。

 

「私にはね、これ以上幸せな未来なんて、きっと、訪れない――それはもう、良く分かっているの……だから、私に残っているのはもう、こんなもの(憎しみ)しか」

 

 セイアちゃんに先生を頼まれたから、先生を守りたい。

 それは、本当だ。

 嘘じゃない。

 でも、心の奥底――自分の最も汚くて、誰にも見せたくない、本心は。

 

 ――ただ、目の前の生徒(錠前サオリ)を捉えて離さない。

 

 ミカの瞳が、覗き込む様にしてサオリを射貫いた。

 そこには溢れ出るような激情が秘められている。震える唇で、ミカは問う。

 サオリの犯した罪悪を、今尚続いている彼女の足掻きを。

 何処までも、恨めしそうに。

 

「なのに、ねぇ、どうしてサオリ――? あなた達はどうして、私は大切なものを全部失ったのに、あなた達はどうして許されているの? 大切な仲間も、友人も失わずに、先生と一緒に、こんな風に力なんて合わせちゃってさぁ……!」

「………」

「私が大切にしていたもの、全部あなた達に奪われたのに……ッ! あなた達が何の代償も支払わず、何も奪われずに済むなんて、そんな事――そんな事、許せる筈ないじゃん……!? それを許したらっ、私は……っ!」

 

 自身の薄汚れた髪を握り締め、俯きながら言葉を吐き出すミカ。丸めた背が震え、その肩は呼吸に合わせて大きく弾む。月明かりが翳り、ミカの瞳が暗闇の中で妖しく光った。

 その指先がサオリを指し示し、乾いた唇から吐き出される怨嗟は彼女の心を抉る。ミカの震えた、血の滲んだ指先が、サオリの瞳に反射した。

 

「あなた達が、錠前サオリ、あなたがッ――何の代償もなく先生の庇護を受けるなんて、絶対に駄目ッ! それだけは、絶対に、絶対に許せない……ッ!」

 

 だって、あなただって、私と同じ罪悪(つみ)を背負った筈なのに――ッ!

 

 奪ったならば、奪われなければならない。

 傷付けたのなら、傷付かなければならない。

 そうじゃなきゃ、平等じゃない。

 

 これが例え逆恨みだろうと、単なる責任転嫁だろうと、もう、どうでも良いのだ。ミカはこの憎悪を、苦痛を、目の前のこの生徒に――叩きつけなければ気が済まない。

 吐き捨て、大きく息を吸ったミカは顔を上げる。

 ぐしゃぐしゃに乱れ、涙と鼻水の滲んだ表情に前髪が張り付く。引き攣った口元をそのままに、ミカはサオリへと問いかけた。

 

「あははッ……さぁ、私達の結末を始めよっか? 最後に何か云い残したい事とか、ある?」

「………」

「恨み辛みとか、文句とか、罵詈雑言、何でも――なに、本当に何もないの? ひとつも? 納得できないとか、お前の不幸は自業自得だろうとか、云い訳しなくて良いの?」

 

 一歩、二歩、幽鬼の如く足を進めながら問いかけるミカに対し、サオリは何も語らない。ただマスクに覆われた口元を一文字に結んだまま、彼女から放たれた言葉を一つ一つ呑み下す様に、沈黙を貫いていた。

 そして数秒、目を瞑っていた彼女は――静かに言葉を紡ぐ。

 

「……納得は、している」

 

 ミカの視界に、影が落ちて来た。

 ふっと、飛来したそれに視線が向けられる。

 唐突に、突然に、降って湧いて出たような影に、ミカは思わず目を見開く。

 反射的に手で受け止めようとして、それは彼女の手中に収まった。

 

「ッ!?」

 

 途端、炸裂――ミカが握り締めた瞬間、影は爆発し凄まじい爆音と衝撃を撒き散らし、爆散した。炎が彼女の頬を焼き、ミカは数歩後退りながら受け止めた左手を軽く払った。白煙が彼女の身体を包み込み、衝撃が一瞬脳を揺らす。

 

「い、ったぁ……」

 

 じん、と確かな痛みを発する掌。

 煤け、傷のついたそれを見つめながら顔を顰める。

 サオリは爆発を受け、それでも平然と立つ彼女を見つめながら告げた。

 

「――今はもう、生産が禁止されている武器だ、古いものだが訓練場に廃棄されていてな、目についたものを利用させて貰った」

「……へぇ、そうなんだ☆ 別に、興味ないんだけれ――どッ!」

「ッ!」

 

 ミカが地面を踏み抜いて肉薄し、サオリはそれに応じる。

 避ける事はしなかった、ただ振り下ろされたミカの銃と、サオリの銃がかち合い、硬質的な音を鳴らす。着撃の瞬間、凄まじい衝撃がサオリの腕を襲った。ギチリと、フレームが軋む音が鳴り、身体全体を圧し潰さんと伝搬する力の奔流。まるで原始的な戦い、戦術の「せ」の字も無い――しかし、そこに込められた感情だけは余すことなく伝わった。

 互いの視線が至近距離で交差し、サオリは様々な感情が綯交ぜになった胸中を他所に、険しい表情で叫ぶ。

 

「ミカ――私はお前の、その憎悪を否定しない!」

「へぇ、そんな事云っちゃうんだ!? 他でもないあなたが!?」

「あぁ、そうだ……ッ! 他ならぬ、私だからだッ!」

 

 ミカが全力で押し込み、サオリの身体が重圧によって逸れ曲がる。その足元からミシミシと不吉な音がなり、少しずつ罅が広がって云った。サオリの背骨が軋み、身体を支える両足が小さく震えだす。一瞬でも気を抜けば、膝を突きそうな程だった。

 

「ぐッ……! お前に、幸せな未来が訪れない事も、居場所を奪われた事も、孤独になった事さえ、この私に原因がある――ッ! だからこそ、その憎悪に私は応じよう!」

「……!」

 

 かつんと、ミカの足元から何か硬質的な音が鳴った。

 その音の方向に視線を向けた時、視界の端に転がる楕円形の影を認める。それはミカの知識の中にもある、とある手榴弾と酷似していた。

 

「――サーモバリック手榴弾」

「正解だ」

 

 直後、爆発が巻き起こる。

 それは先程受けた爆発と全く同じ代物だった。破片手榴弾とは異なる、臓物に響く様な衝撃と爆発。ミカの衣服が靡き、爆炎に身体が呑み込まれる。サオリは上手くミカの影に潜み盾とし、衝撃と熱波をやり過ごした。

 爆音と共に地面を転がり、距離を取るサオリ。彼女が顔を上げると、先程よりも損傷の激しくなった制服を身に纏ったミカが歓喜を滲ませながらサオリを見下ろしていた。白煙を纏いながら、衝撃から数歩蹈鞴を踏むミカ。

 しかし、その暴威は尚も健在。

 受けた爆発の衝撃を嬉しそうに感じながら、ミカはその腕を広げる。

 

「ふ、はッ、あははっ! 初めて受けたけれど、結構凄い衝撃だねぇ☆ でも、ちゃんと沢山用意しているの? この程度の攻撃数発で私を相手に出来るなんて、思わないで欲しいなぁ……?」

「――あぁ、当然だ、他ならぬお前を相手取るのだからな」

 

 呟き、サオリは自身のベルトを取り外し、掲げる。そこにはずらりと繋がれた、何発ものサーモバリック手榴弾がぶら下がっていた。

 その向こう側で、サオリの瞳が煌々と輝く。

 

「――有りっ丈、持ち込んだとも」

「……良いね」

 

 呟き、ミカはその表情を歪めた。

 サオリの本気を感じた、全力で足掻こうとするその意志を。

 確信があった。

 この戦いがどんな結末を迎えるにしろ――立っているのは、どちらかひとりだけ。

 勝っても負けても、得るものなどない。

 しかし同時に、失うものもない。

 

 ミカは爪先を叩き、身体の調子を確かめる。疲労感はある、先程の爆発で多少のダメージも――しかし全て許容範囲内。自分が行動不能になるには、先程の攻撃を後十回は受ける必要があるだろう。いや、二十だろうか、或いは三十――? いいや、そんな事はどうでも良い。

 愛銃を握りる手と反対の指を順に握り込み、骨を鳴らす。

 

 今、この場に先生の目はなかった。

 彼女を縛る、制約は何もない。

 何を憚る必要もない。

 此処には正真正銘、罪人が二人佇むのみ。

 それなら、良いだろう。

 

 ――久々に、全力で暴れ倒す。

 

 途端、ミカの全身から夥しい重圧が溢れ出る。ミシリと、隣り合った石柱に亀裂が入った。その体格が二倍にも、三倍にも感じられるような凄まじいプレッシャー。ミカが一歩を踏み出した瞬間、回廊全体が揺れたかのような錯覚を覚えた。

 無論、そんな事はあり得ない。サオリは自身の背に滲む脂汗を感じながら、深く息を吸った。

 暗闇の中で輝く瞳が、サオリだけに向けられる。

 ミカの愛銃、Quis ut Deus(神の如き者)――その銃口が、サオリを捉えていた。

 

「なら、今から【ちゃんと】相手するからさ、全力で抵抗してね? あなたにとっては――全ては虚しいものなんだろうけれど」

「……あぁ、全力で足掻いて見せるとも」

 

 云われるまでもない。

 錠前サオリはこの場に、最初から命を賭けるつもりで立っている。

 サオリは括りつけたサーモバリック手榴弾を手に取り、安全ピンを弾く。如何に強靭な肉体を持つ聖園ミカとは云え、至近距離で連続した爆発を受ければ意識は飛ぶハズだった。それでも駄目ならば、当初の予定通り自分諸共回廊を崩し、生き埋めとする。

 そうすれば、少なくともミカだけはこの場に縫い付ける事が出来る筈だから。

 

 ゆっくりと立ち上がるサオリ。

 それを見つめながら、構えも無く佇むミカ。

 二人の視線が交差し、どちらともなく一歩を踏み出す。

 

「……これが、(錠前サオリ)にとっての」

 

 そして、恐らく――彼女(聖園ミカ)にとっても。

 

「最後の、足掻き(贖罪)だ」

 



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咲いた花(あの子)だけが知っている、その答え

誤字脱字報告、ありがとうございますわ~!


 

「あぁ、何と面白い見世物でしょう? 私が直接干渉せずとも、お互いの地獄を深めていくだなんて……ミカ、やはりあなたは私のミューズです」

 

 アリウス自治区――バシリカ。

 その最奥で虚空を見上げるベアトリーチェは、今尚行われている悲劇を前に恍惚とした笑みを浮かべていた。浮かび上がる暗闇、その奥では互いに死力を尽くし傷つけあう子ども達(ミカとサオリ)の姿が映し出されている。

 それこそ彼女が望んだ光景、正しいと信じる世界の在り方、その一端を垣間見た彼女は徐に手を伸ばし、直ぐ横で揺蕩う小さな光に語り掛ける。

 

「他者との接触は地獄である、互いが憎しみ合う事で、その実在を証明しているに他なりません、証明出来ない楽園と比較すれば、此方の方が遥かに分かり易く明確でしょう――そうは思いませんか、百合園セイア?」

『―――』

「……あら、まだ諦めていなかったのですか?」

 

 ベアトリーチェの隣、空中に浮かび上がる小さな光――それは今尚、夢の狭間へと閉じ込められた百合園セイア、その人だ。彼女の意識は未だ肉体への帰還を果たせず、この裏側の世界を揺蕩い続けている。

 それを嘲る様に見つめる彼女は、口元を歪ませ吐き捨てた。

 

「トリニティに戻るつもりでしょうが、夢の狭間から脱する事は容易ではありません、あなたはあの、『意識』に巻き込まれましたからね、キヴォトスの外部に通じる窓に顔を出したも同然――えぇ、あなたの存在はまるで暗闇に浮かぶ灯火の様に目立った事でしょう」

 

 百合園セイア、その存在は既に変質を始めている。

 未だその支配は完全ではないが、時間が経過すればするほど、彼女の本質は塗り替えられ、軈てその精神に限らず肉体すらも件の存在によって全く別の代物となるだろう。自身の全てが侵されて行く光景を彼女は、どうする事も出来ずに眺める事しか出来ないのだ。

 

「アレに見出されたあなたの神秘は既に恐怖へと反転され、裏面の原理があなたを支配し始めた、これは非常に興味深い事です、この先、あなたがどうなってしまうのか、それは私達にすら予測できません……解釈されず、理解されず、疎通されず、ただ到来するだけの不吉な光、目的も疎通も出来ない不可解な観念、私達ゲマトリアの最大の宿敵――」

 

 ――色彩。

 

 ベアトリーチェの目が引き絞られ、その一言がバシリカに木霊する。声には寒々しい程の怖気と、何処か仄暗い期待が込められていた。

 

「おや、どうやら準備が完了した様ですね」

『―――』

「気付きましたか? そう、アレが私の用意した先生への切り札」

 

 祭壇に佇み、扇子を開くベアトリーチェ。

 その奥から、ズシン――と。

 何者かが重々しい足取りと共に現れる。

 

 それは、セイアをして見た事も無い程に屈強で、濃密神秘を身に纏った大柄な聖徒会生徒。彼女達と同じウィンプルを、ガスマスクを身に纏い、その全身を拘束具の様にも見えるベルトで締め付けている。

 そして何より目を惹くのが、彼女の抱える巨大な武装――左手にガトリング砲を、右手には巨大なグレネードランチャーを携えている。その大きさは、ちょっとした生徒一人分に相当しそうな程。それを易々と、何の重さも感じさせずに手にしたまま、彼女は一歩、一歩、バシリカへと姿を現す。

 それを見つめるベアトリーチェは、放たれる神秘濃度と威圧感に満足げな吐息を零した。

 

「彼女はユスティナ聖徒会のもっとも偉大な聖女、バルバラと呼ばれた存在――予定通りの完成を見せたのであれば、あの人工天使をも遥かに凌ぐ戦力を持つ筈」

 

 聖女バルバラ――ユスティナ聖徒会に於いて、嘗てその首長を務め、最も偉大と謳われた存在。それは贋作の域にあって尚、確かな存在感を醸し出している。

 

「そして、それだけではありません」

 

 だが、ベアトリーチェは彼女だけで満足する事を良しとしなかった。

 バルバラの左右に、巻き起こる青白い光の渦。それは軈て人の形を象り、聖女バルバラと同じように顕現を果たす。バルバラより僅かに小柄な体躯、しかし複製の聖徒会と比較すれば大柄で、その存在感は決して無視できるものではない。

 それを指差し、ベアトリーチェはそれぞれの名を告げる。

 

「聖女カタリナ、聖女マルガリタ……彼女達もまた、救難の名を司る者達、いつか聖徒会と関わった伝承を持つ聖女、所詮は断片に過ぎませんが、その戦力は通常の聖徒会を遥かに凌ぎます、隙間を埋める程度の性能は見せてくれる事でしょう」

 

 ベアトリーチェが用意した、確実に先生を屠る為の戦力。

 アンブロジウスを始めとした、バルバラ、カタリナ、マルガリタ――通常の生徒では真面に相手をする事さえ困難な、圧倒的な戦力。あのユスティナ聖徒会ですらベアトリーチェにとっては本命とは程遠い、所詮は尖兵、彼女にとって本当の戦いというのは、此処から始まる。

 

「マエストロの云う通り、この方式に美学は存在しないかもしれませんが……しかし兵器には兵器の、機能美というものがありますから」

 

 芸術ではなく、作品ではなく――兵器として。

 ベアトリーチェは何の感慨も、思想も持たず、これらを運用し勝利する。

 それだけが彼女にとっての、マエストロ風に云う所の、云わば美学(信念)だ。

 

 自身の運命を知った時から、彼女は備えて来た。必中必殺の一手すら凌がれ、自身の持つあらゆる力を総動員し揃えた布陣。これを凌がれてしまえば、後に残るのはこの身一つのみ。ベアトリーチェは扇子で口元を隠しながら、思う。

 

「さて、果たして先生はこの兵器を突破し、私の元へと辿り着けるのか」

 

 運命は――果たして、どちらに傾くのか。

 

 呟きながら、しかしベアトリーチェは確信に近いものを抱いていた。

 恐らく彼の者はこの場所へと辿り着くであろう。それこそどんな姿になろうとも、血を流し這い蹲ってでも――必ず。

 

 扇子を勢い良く閉じ、音を鳴らす。

 そして崩れ落ちた外壁、その向こう側に見える夜空を仰ぎながら、彼女は告げた。

 

「それまで私と共に、この地獄の存在証明、その行く末を見守ろうではありませんか……セイア」

 

 ■

 

「ぅ、っ、は、ぁ――!」

 

 夢の狭間。

 或いは、彼女自身が白昼夢と呼ぶ世界。

 白く、広く、どこまでも眩い世界の中でセイアは苦悶に喘ぎ、その表情を歪める。覚束ない足取りで歩き続ける彼女は、外側から響いて来るベアトリーチェの声に、低く、唸るような声で反駁した。

 

「私は、諦める事など、できないよベアトリーチェ……何処かに、何処かに必ず、この状況を打破できる方策が、ある筈だからね……!」

 

 この世界に閉じ込められ、どれだけの時間が経過したのか。それ程長い時間ではない筈なのに、もう何日もこうして世界を揺蕩っている様な気さえする。出口の分からない世界を歩き続ける事は、彼女の精神に大きな負担を強いていた。

 そうでなくとも、この世界に於いて肉体など存在しない筈なのに、その身体は痛みや気怠さを再現する。或いは、この精神に全てが呼応しているのか。

 セイアは荒い息を繰り返しながら、額に大量の脂汗を流し、呟く。

 

「一刻も早く、この場所から抜け出さなくては……いつまでも、この白昼夢に囚われてはいけない――……」

 

 その視線を自身の手元に落とす。

 すると、少しずつ――ほんの少しずつ、黒ずみ、浸食する黒があった。

 それは彼女の指先から、手首の辺りまでを覆い隠そうとしている。罅割れ、ノイズの様なものが走るそれは、恐らく『アレ』に見いだされた結果、植え付けられたものだ。それは腕だけではない、足先も、同じような黒に浸食され始めている。

 これが自身の全身を覆い隠した時、自分は自分ではない、恐ろしい何かに変貌してしまうという確信があった。

 

 残された時間は、決して多くない。

 しかし、そんな状況でも尚、彼女は顔を上げ、告げる。

 

「嗚呼、そうだ、私には、まだ――……為すべき事が、残っているのだから」

 

 力強く一歩を踏み、セイアは前を見据える。

 もう、諦観の内に沈みはしない。

 全てを悟ったように、無気力に項垂れなどしない。

 全ては無駄だと、投げ捨てはしない。

 

 足掻く事の、諦めない事の大切さを。

 百合園セイアはあの日、確かに学んだのだ。

 

 ■

 

「こっちだよ、ヒヨリ、ミサキ、此処に隠れよう」

「さ、サオリ姉さん……」

「しーっ! 静かに、もっと頭を下げて」

「は、はいぃ……」

「………」

 

 アリウス自治区。

 倒壊した市街地、その中央道。彼女達が滅多に踏み込むことが無い表道にて、サオリ、ヒヨリ、ミサキの三人は息を潜め顔を覗かせていた。

 貧民街の奥、裏路地でひっそりと、誰にも見つからないように生きている彼女達は、襤褸布に近いシャツとパンツのみを着用し、近場にあった建物の間に身を差し込む。散乱した木板やベニヤ板、瓦礫を隠れ蓑に表通りに目を向ければ、幾人もの人だかりが視界に入った。

 その更に向こう側、人混みの奥に、サオリ達も見た事もないような、清潔で装飾品に彩られた女性の姿が見えた。何枚も重ねられたそれに遮られ、顔や体格は視認できないが艶やかな紫の髪が風に靡く様は印象的であった。

 サオリに頭を抑え込まれ、挙動不審に周囲を見渡していたヒヨリは、その絢爛華麗な姿を見て思わず問いかける。

 

「さ、サオリ姉さん、あの中央に居るのは誰ですか? す、す、すごくきれいな服を、き、着ているけれど……」

「私も良く知らない……偉い人なんじゃないかな」

 

 ヒヨリの視線をなぞり、同じ人物を視界に捉えたサオリはそう呟く。豪華な衣服を着込み、沢山の護衛に囲まれた人物。物々しさを感じるが、同時にどこか高貴な気配と尊さを感じる。学のない自分達ではその人物がどれだけ偉くて、凄い人物なのかは分からないが、きっとあんな凄い服を着れる位の人だ。自分達が思っているよりもずっと凄くて、偉い人なのかもしれない。そんな風に考えた。

 すると、その行列を見ていたミサキが言葉を漏らす。

 

「……周りの声からすると、お姫様なんだって、高貴な血を引いているとか、何とか」

「お、お姫様!? お姫様なんですか!? す、凄いですねぇ、世の中には、本当にお姫様もいるんですね? わ、私達のような底辺とは違って……」

 

 告げ、ヒヨリはその目を輝かせる。お姫様だとか、王子様だとか、そういうのはもっと、絵本の中の登場人物に過ぎなくて、現実になんて居ないとずっと思っていた。けれど実際に見たお姫様は本当に綺麗で、襤褸布何か身にまとう自分達とは全然違う世界に生きていて――ヒヨリはどこか眩しそうに、嬉しそうにしながらゆっくりと歩く彼女を見つめていた。

 

「飢えたりもしないだろうし、怪我だって、しないでしょうし……み、道端の隅っこで寝たりもしないですよね? 多分、おっきなベッドを独り占めして眠るんです、そうですよね……?」

「う、うん……良く知らないけれど、そうなんじゃない?」

 

 お姫様という存在に全く詳しくないサオリは、その表情を困惑に染めながらも頷く。自分達には想像も出来ない生活だが、お姫様という位なのだ、多分そういう生活をしていても可笑しくはない。

 それは実に、夢と希望に溢れたお話だった。

 返答を聞いたヒヨリはへらりと口元を緩め、自分の傷だらけで、がさつき、所々血の滲んだ両手を見下ろしながら云った。

 

「えへへ……この世の中には苦しみしかないと思っていましたけれど、あんなに綺麗で、幸せに過ごせているお姫様も居るんですね……! 何だか感動です……! うわぁぁん!」

「きゅ、急に泣かないでヒヨリ! バレるでしょう!?」

「す、すみませんサオリ姉さん、で、でも、うわぁああん!」

 

 お姫様を見て泣き出したヒヨリ、その口元を慌てて掴むサオリは思わず冷汗を流す。彼女達にとって、世界は苦しいもので、残酷で、不公平だ。何も持たず、野垂れ死ぬ様な孤児が殆どのこの場所で、あんな綺麗で、満ち足りた人がいる事。

 こんな世界にもそんな人が居るのだと云うだけで、何となくヒヨリは救われた様な気がした。それが涙とという形で頬を伝い、サオリはこんな時、どんな表情をすれば良いのだと困惑する。

 しかし、そんな二人を他所にミサキは酷く冷めた目で行列を見ていた。ゆっくりと歩き続けるお姫様、その両脇に侍る、銃を持った兵士達。

 

「……お姫様って云っても私達と変わらない境遇か、もしかしたらそれ以下の扱いだと思うよ」

「……?」

 

 どこか、吐き捨てる様な云い方だった。

 先程まで大泣きしていたヒヨリは、その零れ出た涙を拭うとミサキを疑問の目で見上げる。壁に寄り掛り、目を細めたミサキは漠然と行列を眺めながら続けた。

 

「パレードに見えるけれど、あれは人質を敵に送る行列だよ、内戦中だからなのかな……こんな事も、あるんだね」

「ひ、人質……ですか?」

「うん、あのお姫様もきっと、監獄で飢える事になる、食べ残しを貰えたらラッキー程度の生活になるよ」

 

 だから、あんなにも足は重く、気配は昏く、息苦しい。

 騒いでいるのは周りだけだ、あの渦中にいる女性の感情はどんなものか。嵐の様にごちゃ混ぜになっているのか、或いは最早凪の如くなのか。しかし、結局のところ行きつく先は同じ。

 即ち、諦観と屈服。

 この場所に立った時点で、彼女に選択肢はなく、意味など無い。

 全部――無意味だ。

 

「ぅ、あ……」

「――やめて、ミサキ、ヒヨリが怖がっているでしょ」

「………」

 

 その事実を知った瞬間、ヒヨリは思わず呻き声を上げる。綺麗なものを見れたと思った、尊いものが在ると知れた。けれどそれはやはり、上っ面だけのもので――。

 その現実に打ちのめされるヒヨリの背中を摩りながら、サオリはミサキに告げる。

 ミサキは何も云わず視線を逸らすと、行列に向けていた視線を周囲に散らした。

 

「……それで、どうするのサオリ姉さん、此処まで来たのに見物だけして帰るつもり?」

「――まさか、あの人だかりに紛れ込んで、役立ちそうなものを拝借する」

 

 告げ、サオリは周囲を取り囲む群衆を見る。その大半は表通りの住人で、中には貧民街の者もちらほら散見された。けれど大抵、その貧民街の住人は物陰からこっそりと周りを伺っていたり、或いはどこか忙しなく動き回っている。

 彼女達も自分達と同じ――狙いは明白であった。

 サオリはそっと唇を濡らし、二度、三度、手を握り締める。

 

「所々、制服を着ている連中も見えるし、身綺麗なのも多い、この人だかりだから逃げるのは簡単、皆行列の方に意識が向いている今がチャンスだと思う」

「だ、大丈夫でしょうか……?」

「万が一見つかっても、私達の身長なら人影に埋もれて直ぐ見えなくなるよ」

「……捕まったら、酷い事になるね」

 

 銃を持ち、周囲を伺う警備の姿を見て、ミサキは呟く。

 酷い事――サオリの脳裏に、路地裏に打ち捨てられた少女たちの姿が浮かんだ。

 表通りで何か失態を犯せば、即座に報復されて、そのまま襤褸雑巾の様な状態で路地裏に投げ捨てられてしまう。そうなれば、もう終わりだ。傷を治す為の薬も、栄養を摂る為の食料も、水もない。勿論、そんな弱者をスラムの住人が放っておく筈もなく、服も剥がれ、文字通り身一つで路肩に横たわる事となるだろう。それでも、生き長らえれば良い方だ。けれど大抵、徐々に衰弱して、ヘイローが浮かぶ時間も減り――軈て、ずっと、何時までもヘイローが出なくなる。

 サオリはそんな少女たちの姿を思い返し、思わず頭を振った。

 そんな未来には決してさせない、と。万が一の時は、自分が囮でもなんでもして、二人は絶対に路地裏へと逃がす。その為の覚悟を決める。

 

「……今年は少し寒いから、お金が入ったら毛布を買おう、一枚あれば、皆で包まってきっと寒くない」

「私達みたいなのに売ってくれるところなんてある?」

「お金さえあれば、表のお店だって売ってくれるよ」

「そ、そうしたら、ご飯も一杯食べられるでしょうか……?」

 

 ヒヨリはどこか、期待するような声で問いかけた。サオリは頷き、笑う。

 温かい毛布、美味しいご飯、それは目の前で横たわる恐怖や不安から目を逸らすには、丁度良い代物だった。所詮、夢の話。本当に毛布が手に入るだとか、美味しいモノが食べられるだとか、正直な所半信半疑だ。きっとこんな身なりで、なけなしの金を掴んで商店に行ったって足元を見られるのが結末だろう。けれど、希望を語り、夢を見る事だけは、大人達だって奪えない。

 だからサオリは力強い声で答える。

 

「……食べられるよ、久々にちゃんとしたものを食べよう」

「や、やったぁ……! た、楽しみですね……えへへっ!」

「………」

 

 サオリは二人の肩を叩き、そっと表通りへと一歩踏み出す。決して優しくない世界へ、残酷な世界へ、今日を、明日を生きる為に。ヒヨリとミサキが、遅れて一歩踏み出す。ふたりの伸ばした手を掴む。

 そして、強がり、笑みを浮かべながらサオリは告げるのだ。

 

「さぁ、行こう」

 

 ――ちゃんと私が、守るから。

 

 ■

 

 アリウス自治区――屋内訓練場。

 屋内と云われてはいるが、その実態は崩れかけた教会を利用した半屋外と云っても過言ではない。蔦が生え、苔に覆われ、とても整備されているとは云い難い銃を片手に、今日も今日とて訓練に興じる。

 それが唯一の生きる術だと、お前たちの持てる手段だと、ずっとそう教えられてきた。

 

 そんな中で響く銃声。

 訓練場に於いて、それは珍しくもなんともない音であった。

 その銃口が――生徒に向けられていないのであれば。

 

「っ、やめろッ!」

「……退け、第八分隊長」

 

 サオリは、咄嗟に飛び込み、叫んだ。

 目の前に立つのはアリウス自治区幹部、サオリ達を管理する大人の代わりに立っている上級生。彼女はガスマスクを被り、白いコートに身を包みながら小さなサオリを見下ろす。未だ中学の年齢にも届いていないサオリにとって、百七十に迫るその身長は大層巨大に見えた。けれど懸命に両手を広げ、叫ぶ。

 背後には倒れ伏し、砂利に塗れた白髪の生徒。

 齢は――自分より、少しだけ年下に見える。

 

「それ以上やれば、ヘイローが壊れるぞ!?」

「ふん……」

 

 サオリの言葉に、幹部は鼻を鳴らして銃口を下げる。しかし、其処に納得の色も、許しも存在していないのは明白であった。倒れ伏した白髪の生徒に、姫が駆け寄る。不気味な白面で顔を覆ったまま荒い息を繰り返す生徒を抱き起し、その背中を摩ってやった。

 

「………」

「ど、どうか……どうか、もうやめて下さい……うっ、うぅっ……!」

 

 壁際で蹲り、頭を抱えて泣き言を零すヒヨリ。壁に背を預け、地面を能面の様な表情で見つめるミサキ。蔓延する空気は昏く、淀んでいた。

 全員、ボロボロだった。

 衣服は泥と砂利に塗れ、髪は土に塗れている。体のあちこちに包帯が巻き付けられ、痛々しい痣や傷が所々に見られた。剥き出しの足に貼り付けられガーゼ、そして足首に付けられた枷が陽に照らされ鈍く光る。

 けれど、この場所に於いては――これが普通なのだ。

 

「こいつは我々に反抗した、当然のことだろう? もう一度云う、退け、第八分隊長、退かなければお前たちも同じ目に遭う事になる――同じ罰則を喰らいたいのか?」

「っ……!」

 

 そう云って突きつけた拳銃を、もう一度サオリの奥――倒れ伏した白髪の生徒に向ける。サオリは、その冷酷な瞳をガスマスク越しに直視した。

 此方を生徒とは思っていない、機械的で、何の色も無く、正に無機質な視線。

 彼女の良く知る――大人の目だ。

 

「ゴホッ、こほっ……笑わせ、ないで……誰が――」

 

 白髪の生徒、短く、ざっくばらんに切られたそれを払い、そう口にする。鼻から流れる血をそのままに、彼女は憎々し気に幹部を睨みつけていた。その態度を見た彼女はどこか感心した様に頷き、引き金に指を掛ける。

 

「ほぅ、まだそんな軽口を叩けるか、身体は頑丈な様だ……それなら」

「待てッ! 待ってくれ!」

「何だ? やはり、お前も反抗するつもりか、第八――」

「――私がッ!」

 

 幹部の声を遮り、サオリは叫んだ。

 腹の底から、全力で。

 

「私が……指導する!」

「何?」

 

 その言葉に幹部は目を細める。サオリは俯いていた顔を上げ、歯を食い縛った。

 

「……また無駄な事を」

 

 ミサキがぽつりと、そう呟いた。声は彼女に届かない。それがどれ程意味のある事なのか、そう疑問に思ってしまう。自分達とて、此処で生き残る事で精一杯なのに。また彼女は――サオリは、苦労を背負い込もうとする。

 

「ヒヨリも、ミサキも私が指導した生徒だ、姫も同じくな……! 皆、優秀な成績を残しているだろう!? あいつも私に預けてくれたら、一人前の兵士に育て上げてみせる!」

「……ふむ」

「だから任せてくれ、私が……私が責任を持って、コイツを指導するから」

 

 サオリの言葉に幹部はマスク越しに顎先を撫でる。どこか思案する素振り、或いは単に勘定をしているのか。どちらにせよ、どちらにメリットがあるか計りかねている様子だった。数秒、沈黙が流れる。サオリは背中に嫌な汗を滲ませながら、ぐっと怯懦を噛み殺し、彼女を見上げる。

 しばし思考を巡らせた幹部は、不安に揺れるサオリの瞳を見下ろし、頷いた。

 

「――良いだろう」

「っ!」

「此方としても優秀な駒が増えるのならば云う事はない、良く云い聞かせておけ……我々に逆らわず、従順になるようにな」

「……あぁ」

 

 それだけ告げ、幹部の生徒は拳銃をホルスターに戻し、去って行った。今日の訓練は此処まで――という事なのだろう。サオリはそんな彼女の背中を見送ると、踵を返して白髪の生徒の傍へ駆け寄る。

 

「姫、私が代わる……すまないが、私の部屋から薬を取って来てくれ」

「………」

 

 姫は無言で頷き、そっと宿舎へと駆けて行く。宿舎と云っても、崩れ落ちた過去の学校、その教室に簡素な布を敷いただけの部屋だ。半ば崩れ落ちたそこは、宿舎と呼べる程に上等なものではない。サオリはその部屋、自身の寝床の下に、万が一の際に備え薬品を隠していた。生傷の絶えないこの生活の中で、治療を受けられる事は稀だ。最低限、死ななければ良いという方針の下で運営されいてる故に、当然だった。

 此処の生徒達は全員、使い捨ての消耗品なのだから。

 

「ヒヨリ、もう大丈夫だ……あいつは行ったよ」

「うぅ――……さ、サオリ、ねぇざん……」

「……いい加減、泣き止みなよ、もう連中は居ないんだし」

「ずびっ……ほ、本当ですか……?」

 

 サオリとミサキの言葉に、ヒヨリは鼻水と涙を垂らしながら恐る恐る顔を上げる。ミサキはどこか面倒そうにしながら、ポケットから薄汚れた布を取り出し、ヒヨリの涙を拭ってやった。

 

「ぐ……」

「まだ動くな、何発も撃たれたんだ、安静にしていろ」

 

 自力で起き上がろうとする生徒を抑え、サオリは彼女の頬に付着した砂塵を払う。腹部と、顔面、恐らく頬に弾丸が着弾したのだろう。青痣になり、痛々しく晴れ上がった頬を、サオリは悲し気な表情で見つめた。

 

「何で上に逆らったりなどしたんだ、こうなる事は分かり切っていただろう?」

「………」

「抗う事は、無意味だ、この場所に於いて連中は絶対的な力を有している、逆らえば酷い目に遭う……だから、逆らわない方が良い」

「……私は」

 

 サオリの言葉に、彼女は歯を食い縛り、痛みに涙を流しながらも口を開いた。

 その、サオリよりも小さな手が、薄汚れた地面を強かに叩く。

 

「私はっ……! 例え、無意味、でも……抗う事を、やめたくない……っ!」

「それは……何故だ?」

「だって、抗う、事をやめたら……ッ!」

 

 生徒が、俯いていた顔を上げる。

 白い髪に、強い意思を秘めた、澄んだ瞳。

 それが、真っ直ぐ正面から、サオリを射貫いた。

 

「――心まで、連中に屈してしまいそうな気がするから……!」

「―――」

 

 それを聞いた時、サオリはどんな感情を抱いたのだろうか。自分自身、良く分からなかった。驚きだったのだろうか、或いは尊敬か、羨望か、それとも――憐れみか。

 サオリは開きかけた口を閉じ、数秒、言葉に迷う。

 けれど結局、掛けるべき言葉は見つからず。

 

「……そうか」

 

 お前は、こんな場所でもまだ、希望を失っていないんだな。

 そんな声を噛み殺し、サオリは彼女の瞳から目を逸らした。

 

「だが、一々上に噛み付いていたら顰蹙を買う、その在り方は改めた方が良い」

「っ、でも……」

「心まで屈しろとは云わない、表面上だけで良い、それが此処での生き残り方だ――代わりに、戦い方を教えてやる」

「……戦い方?」

「あぁ」

 

 どこかキョトンとした表情の彼女に笑いかけ、サオリは足元の銃を拾い上げる。薄汚れ、整備も万全とは云い難いそれ。しかし、この場所に於いては唯一無二の力の象徴である。

 

「どんな道を歩むにせよ、力があるに越したことはない、力を付ければ此処での立場も良くなる、そうすれば自然と意見も通る……先程の私の様にな」

「………」

「私が、お前を鍛えてやる」

 

 そう云って、サオリは手を差し伸べる。

 まだ何も知らない、無垢なる白へと。

 

「私は第八分隊長、錠前サオリだ……お前は?」

「……アズサ」

 

 呟き、彼女――アズサはサオリの手を取った。

 泥と砂利に塗れ、傷だらけで、それでも確かに――力強い手を。

 

「――白洲、アズサ」

 

 ■

 

「っ、痛い……」

 

 古びた、半ば廃墟染みた教室の中で、肌を叩く音が木霊した。それは、サオリがミサキの頬を張り飛ばした音だった。

 肩で息をし、怒りで表情を一緒に染めたサオリ。ミサキは僅かに赤らんだ頬を手で押さえながら、淡々とした様子で呟く。

 

「ミサキ……二度と、二度とそんな事はするなッ! 絶対にだ……ッ!」

「………」

 

 サオリの怒声に、ミサキは微塵も動じない。

 彼女のその左手首には、真新しい包帯が巻き付けられていた。そして包帯には、僅かに血が滲んでいる。彼女が、自分自身で切った証明であった。

 

「……どうして?」

「何?」

「どうして、駄目なの」

 

 ミサキは問いかける。その表情に、確かな諦観を滲ませながら。

 

「何で、こんな意味のない苦痛の中で生き続けなくちゃいけないの? 何で、こんな苦しまなくちゃいけないの?」

「ミサキ……?」

「寒くて、空腹で、辛くて……毎日殴られて、怒鳴られて、傷だらけになって、ただ苦痛が繰り返される日々なのに――何で、頑張らなくちゃいけないの」

 

 そう云って、自身の腕を掴みながら彼女は俯く。その瞳は黒々しく、光などどこにも存在しない。痣と切傷だらけの身体、年齢にしてはやせ細り、色褪せた肌。かさかさに渇き、血の滲んだ唇を震わせ、彼女は再度問いかける。

 

「どうして姉さんは、この無意味な苦痛を私達に強要するの? それに、一体何の意味があるの?」

「それ、は……」

 

 どうして――?

 

 その問いかけを前に、サオリは思わず言葉に詰まった。

 どうして、こんな辛い思いをしなくちゃいけないのか。どうして、諦めては(死んでは)いけないのか? この苦痛に意味はあるのか? この耐え難い苦難の先に、夢の様な希望が満ち溢れているのか?

 

 ――そんな保証、どこにもないのに。

 

 何で、私達はこんな苦しい想いをしてまで、生きなくちゃいけないの?

 

「それは……――」

 

 サオリは呟き、思わず口を結んだ。

 それは内心で分かっていたからだ。

 きっと、自分達に希望ある未来なんて存在しない。

 明日も、明後日も、明々後日も、その次も、そのまた次も、一ヶ月後も、一年後も――自分達はこうやって虐げられる、搾取し続けられる。自由は無く、意思は無く、歯車の様に、使い捨ての駒の様に。

 無意味に、何の意味もなく、戦って、苦しんで、傷付いて、きっといつか、塵の様に打ち捨てられる。

 なのに、どうして生きるのか?

 

 ――私達(スクワッド)の生まれた理由は、何だ?

 

 サオリは呻き、俯いた。

 答えられる筈がなかった。

 その解答を、彼女は持っていない。

 サオリはそれを、まだ知らない。

 

「……ほら、答えられないじゃん」

「ミサキ、私は――」

「何でも知っている様に振る舞って、姉さんだって、私達と同じ癖に」

「っ……!」

 

 ミサキの声には、失望の色が宿っていた。

 皆を引っ張り、何でもない様に振る舞って、いつも気丈に見えたサオリ(リーダー)。そんな彼女も、所詮は子どもで、自分達と同じで――この籠に捕らわれたまま、逃れる術を持っていない。ただ流されるままに、必死に生きようとしているだけで、そこに意味を見出す事は無く、逃れる意思を持つ訳でもなく。

 ただ、死んでいないだけの、子どもだった。

 

「全部無意味なら、いつ死んだって、きっと同じ……私達に生きる意味なんて、抗う意味なんてないんだよ」

「み、ミサキ! 待て……!」

 

 ふらりと覚束ない足取りで、ミサキはサオリの横を通り過ぎる。咄嗟に声を上げ、彼女に手を伸ばし――けれど、その指がミサキの手を掴むことは無く。するりと、煙の様にすり抜けてしまう。その指先を、サオリは愕然とした心地で見つめていた。

 くしゃりと、彼女の表情が歪んだ。

 何の為に苦痛に耐える? 何の為に抗う? 分からない、サオリには分からない――けれど。

 それでも。

 

「待て! わ、私は――私は、ただ……!」

 

 ――スクワッド(大切な家族)に、生きていて欲しいから。

 

 ■

 

「……ぅ――……」

 

 ふと、目が覚めた。

 サオリが目を覚ましたのは、酷い鈍痛と空腹の為だった。

 口の中がカラカラに乾き、罅割れた唇が痛む。布一枚存在しない床の上に転がって、肩を震わせるサオリ。冷たい床は容赦なくサオリの体から体温を奪い、手足の感覚は疾うにない。サオリは体を丸めて、まるで胎児のように自身の腕を抱き、蹲っている。そのまま薄らと視線で部屋をなぞれば、鉄格子に蓋をされた無機質な牢の隅が見えた。

 

 ――あぁ、そうだ、私は……。

 

 もう、こんな事を考えるのも何度目か。確か自分は、現状に折れかかったミサキや、泣き喚くヒヨリを励ます為に、ある事を無い事を口走ったのだ。

 自分達の明るい将来を語り、遠い昔、貧民街で拾って読んだ雑誌の記事を語り、このアリウスの外には遊園地だとか、水族館だとか、お洒落なカフェだとか、映画館なんかもあって、そこには楽しい事、楽しいものが沢山あるからと。

 いつか、皆でそこに行こうと。美味しいものだって、楽しいものだって、沢山ある。私達は知らない事ばかりだ、だから私達には想像もつかないような、素晴らしいものが世界にはある筈だと。

 それを探しに行こうと。

 

 だから――この苦痛は、その為の対価なのだと。

 

 そう熱弁した、らしくなく舌を回した。今のこの苦しみを忘れさせる為に、必死だった。そうしなければ、二人が、ミサキが、どこかに消えてしまいそうだったから。

 

 ――それを、幹部に聞かれた。

 

 アリウスで希望を語る事は許されない。すべては無意味で、無駄だ。そう何度も聞かされて育った、だから、自身のその行動は大人の言葉に反する行為だった。

 

 即日、懲罰房行きだった。

 散々罵倒され、殴られ、蹴られ、撃たれ、ボロボロになった所を牢に放り込まれた。最初の二日間は、痛みで碌に動けなかった。

 

 地下に作られたこの場所は、とても寒い。制服の上着を剥ぎ取られ、インナーのみで牢に投げ入れられて、もう何日目か。一週間は経っただろうか? 日にちの感覚は曖昧だ、何せこうして横たわり、何をする事も出来ないのだから、段々と時間の感覚は狂ってくる。

 食事は一日に一度、パンが半分と、一杯の水。生き残る為に、水にパンを浸して、ゆっくりと咀嚼して食べた。水を吸ったパンは、少しだけ膨らんだように感じて、満腹感がある。勿論、それが錯覚である事は知っている。けれど、そんな事でもしなければ本当に空腹で気が狂いそうだった。無意識の内に唇の皮を食い破り、血が流れる。それを舌で舐めとり、サオリは深く、息を吐いた。

 

 暫くして、ぽろりと、涙が零れた。

 一度ながしたそれは、中々止まる事が無く。

 蹲ったまま、サオリは音もなく涙を流し続けた。

 

 ――限界だった。

 

「許して、下さい……」

 

 小さく、呟く。

 声に力はない。数日もの間、碌な食事を与えられず、怪我の治療をされず、この誰も居ない、小さな牢に隔離されたサオリは、誰に対してでもない、ただ漠然と自分を支配する存在に声を上げる。

 

「申し訳、ございません……二度と、このような事は……」

 

 続け、何度もか細い息を繰り返す。吐き出した息が白く濁る。震える唇を必死に動かして、彼女は懇願する。一度口にすれば、咳を切ったように言葉が浮かんだ。昔から何度も教えられた、その身体に叩き込まれた、謝罪の言葉だった。

 

「二度と、大人の言葉を、破りません……反抗、しません……将来に、希望を抱かない様、努めます――……」

 

 ただ粛々と、大人の言葉に従い、歯車の様に、駒の様に、意思なく動けばそれで良い。考える事は必要ない、未来を語る必要ない――その権利が、自分達には与えられていない。

 だから、サオリは涙を流しながら、蹲り、呟き続ける。この場所に捕らわれた自身を、力のない子どもである事を自覚する。

 

「二度と、幸福を望みません……祈りません、だから……」

 

 もう、外の世界に行きたいなんて思いません。

 もう、未来に希望があるなんて語りません。

 もう、自分達に幸福があるなどと驕りません。

 もう、大人に逆らおうなんて考えません。

 だから――。

 

「だから、どうか……」

 

 サオリは、蹲ったまま手を伸ばす。

 牢の外に、薄らと見える光に向けて。

 それが自身の心を売り渡す行為だと知りながら、けれど、どうしようもない苦しみから逃れる為に。震える指先を、必死に。

 その、紅色(あかいろ)に向けて。

 

「慈悲を――」

 

 ■

 

『――なぁ、アズサ』

 

 サオリは、想う。

 心の中で、彼女の虚像に問い掛ける。

 薄暗く、自身の心の内を表現したかのような世界の中で、サオリは膝を抱えて俯いていた。

 座り込み、諦観の中にある彼女をアズサは――彼女の虚像は、ただじっと見下ろしている。

 

 アズサは幼い頃からずっと希望を抱き続けていた、誰もかれもが項垂れ、日々を生きる気力すら失っていく中で、彼女だけはずっと足掻き続けたのだ。

 こんな薄汚れ、昏く、沈んだ泥の中で――必死に、何度でも。

 それが、サオリには不思議で仕方なかった。

 

『お前は――』

『お前はどうして、そこまで抵抗するんだ?』

『和解の象徴――いいや、それは欺瞞に他ならない、お前はそんな存在ではない』

『お前が準備し、学んできたことの全ては任務の為だった』

『幾ら足掻こうとも、運命からは逃れられない』

『日陰に生まれた者は、日陰の中で静かに沈みゆくしかない』

『だから、諦めて受け入れろ――全ては虚しいだけなのだから』

『期待も、希望も、夢も、全て』

 

 そうすれば、苦しまなくて済む。

 そうすれば、痛い思いをしなくて済む。

 そうすれば、悲しまずに済む。 

 そう在り続ければ――生きる事が許される。

 

 希望を抱かなければ、絶望せずに済むのだから。

 

 それが、彼女の知った生きるための術。大きな希望を抱く事がなければ、深く絶望する事も無い。逆らおうと思わなければ、理不尽に痛めつけられる事もない。世界の真実を受け入れ、そう在れと云われた様に、教えられた通りに粛々と、歯車の様に従い続ければ――ただ皆と、生きる事だけは許される。

 それだけで良かった。

 それだけが、サオリの秘めていた、小さな小さな希望(幸福)だった。

 

 ――だというのに、彼女は背を向ける。

 

 座り込んだまま動けずにいるサオリに背を向けて、アズサは前へと歩き出す。

 暗い闇の中で留まるのではなく、その先、未来に――光のある方向へと。

 暗闇の中にっぽかりと空く、ほんの僅かな穴。差し込む光に目を焼かれ、サオリは手を伸ばそうとも思わなかったその場所に、アズサは何の躊躇いも無く足を向けた。

 その背中を、サオリは愕然とした表情で見つめる。

 

『アズサ――……?』

『待て、何処へ行く、アズサ……そっちは、違う』

『お前は、何処に――……何処に行くんだ?』

『私達は、私達はまだ、此処に居るというのに……』

『ずっと此処に……此処しか、私達には居場所がないんだ』

『この暗闇の中でしか私達は生きられない、他に生きていける場所など存在しない』

『そっちは駄目だ、戻って来い……! アズサ、そっちには――』

 

 声を上げ、必死にアズサに向け叫ぶ。

 けれど彼女は足を止めない、振り返らない、ただ何処までも力強い足取りで光の向こうへと進んでいく。段々と強くなる光、それが強くなればなるほど、影は、暗闇は色濃く反映される。

 闇の中で足を止めるサオリ、光に照らされるアズサ。

 その強い光に焼かれ、影となったアズサを見つめながら、サオリは呟く。

 

『まさか……』 

 

 脳裏に過る、いつかの光景。

 自身に投げかけられた、答えられなかった問い掛け。

 

 ――寒くて、空腹で、辛くて……毎日殴られて、怒鳴られて、傷だらけになって、ただ苦痛が繰り返される日々なのに、何で、頑張らなくちゃいけないの。

 

 ――どうして姉さんは、この無意味な苦痛を私達に強要するの? それに、一体何の意味があるの?

 

 ――私達(スクワッド)の生まれた理由って、何?

 

 アズサは、それを。

 息を呑み、サオリは口を開いた。

 

『お前は、知ったのか?』

『お前には……答えが、分かって――?』

 

 いつか、問いかけられた言葉。

 あの日、答えられなかった言葉。

 今の今まで、終ぞ見つけられなかった、その問い掛けへの答え。

 サオリは、震える指先をアズサに伸ばす。

 

『アズ、サ……!』

 

 光が、アズサを包んでいく。

 その背中が眩い世界に包まれ、見えなくなっていく。自分達には踏み出す事の出来なかった世界(陽の当たる場所)に、彼女は踏み出していく。

 サオリはその背中に手を伸ばす。

 必死に、何度でも、その喉を震わせながら。

 彼女へと言葉を投げかける。

 

『待って……!』

『待ってくれ、アズサっ!』

『頼む、教えてくれ、私は――ッ!?』

『私は、一体……どうすれば――ッ!』

『どうすれば、私は、皆を――ッ!?』

 

 指先が、彼女の背中に届く事は無い。ただ光に包まれ、影に覆われた彼女の表情は見えなくて。

 ゆっくりと、その首がサオリに向けられる。

 その強い意志を湛えた瞳が――最後に自分を見つめていた気がして。

 

 サオリは想う、懇願する。

 私は、どうすれば良かったのだと。

 どんな道を選べば良かったのだと。

 

 錠前サオリは。

 この、どうしようもなく辛く、苦しく、理不尽に満ちた世界に生まれ落ちた存在は。

 

『どうすれば、家族(みんな)を幸せに出来たんだ――……?』

 

 ■

 

「ア、ズサ――……」

 

 呟き、サオリはゆっくりと瞼を開いた。

 冷たい風が、額を撫でつける。

 

「アズ、サ……?」

 

 何か、夢を見ていた気がした、或いは幻か――ぼんやりとした思考のまま暫く、自身が何をしていたのか、何処にいるのか、全く分からずに瞳を揺らす。

 見れば、自身の身体は地面に這いつくばり、硬く、冷たい床に転がっていた。

 自分は、何故こんな場所に、寝転がって――? 不思議に思い、指先を動かすと、酷い痛みが走った。剥がれ掛けた爪、滲む赤色、変色した肌。

 徐々に、思考が明瞭になっていく。

 閉じそうになる瞼を押し上げ、ゆっくりと視界を上げると――。

 

 ――自身を見下ろす、聖園ミカと目があった。

 

「……っ、ぅ!?」

 

 思い出した。

 そうだ、自分は彼女と――。

 はっと息を呑み、急いで腕を突いて起き上がろうとするサオリ。

 しかし、途端全身から鈍痛が走り、悲鳴が漏れ出た。肩も、腕も、足も、腰も、あらゆる箇所が痛みを訴え、思う様に動かない。まるで全身に鉛が張り付ているかのように重く、怠く、息苦しい。

 肺が焼ける様に熱を発した。

 

「はっ、はッ、ぅ、ぐぁ――ぅ……!」

 

 上体を起こし、立ち上がろうと足掻く。しかし、震える腕は容易く折れ曲がり、サオリの身体を支えるだけの余力がない。青痣だらけの肌を晒したまま、半ばまで体を持ち上げたサオリは、しかし再び地面に音を立てて倒れ込んだ。

 荒い呼吸、指先は細かに痙攣し、その顔色は青を通り越して白に近しい。

 

 ――誰の目から見ても、彼女は限界だった。

 

 それでもサオリは頬を地面に擦り付け、転がっていた愛銃に手を伸ばす。流れた鼻血が地面に滲み、引き攣った呼吸音が静謐な回廊に響いた。

 

「う、ぐ、ぅ――……ッ!」

「――サオリ」

 

 ミカはそんな彼女を見下ろしながら――呟く。

 声には、何の色も感じられなかった。

 

「……その傷じゃ、もう無理だよ」

「――………」

「勝負はもう、ついた」

 

 声は、サオリの耳を叩く。

 這い蹲り、血と汗に塗れ、打撲痕塗れのサオリ。青痣と共に腫れ上がった全身は痛々しく、最早起き上がる事すら困難になっている。

 対して、ミカはどうか? 所々負傷し、制服は煤け、爆発によってケープは失われているものの――その肉体は健在。戦闘に何ら支障はなく、その気になればいつでもサオリに手を下す事が出来る。その佇まいを見れば、未だ余力を残しているのは明白。

 

 そう、彼女の言葉は正しい。

 どちらが勝者なのかは――明らかだ。

 

「………」

 

 サオリはその言葉に、愛銃へと伸ばしていた手をぴたりと止めた。

 震えていた指先が、冷たい地面に触れる。その手をゆっくりと握り締め、俯いていた視線をミカへと向けた。

 その瞳には、表現しきれない複雑な感情が混じっていた。

 

「そう、か……」

 

 声は、小さく、囁く様だった。

 

「そう、だな……」

「………」

 

 勝負は、ついた。

 

 その一言と共に、サオリの身体が大きく沈む。伸ばしていた腕が地面に落ち、その身体は再び地面に這い蹲った。

 そのまま痛みに呻き、その場で体を仰向けに転がすサオリ。

 彼女の視線が、崩れ落ちた回廊の天井に向けられた。

 

 深く、深く――息を吸う。

 それだけで痛みが全身を駆け巡り、思わず顔を顰めた。

 あれだけあった筈のサーモバリック手榴弾も、全て使い果たして。

 銃弾以外の装備も、費やして。

 それでも尚、彼女には届かなかった。

 

 それを自覚し、彼女は長い長い静寂の後に。

 ぽつりと、声を漏らした。

 

「私は――負けたのか」

 




次回 『(あがな)い』


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(あがな)

誤字脱字報告、感謝致しますわ~!
今回18,000字ですわ! 


 

 二人の間に、沈黙が降りる。

 弾痕と煤の残る、広い回廊。そこに佇む二人だけの空間、片方は地面に倒れ伏し、もう片方は二本の足で真っ直ぐ立っている。

 倒れ伏した彼女、サオリは天を仰ぎ、呟いた。

 

「私、は……」

 

 その表情は――何の色も見えなかった。

 悔しさも、悲壮も、怒りも、憎しみも、文字通り何も。

 罅割れ、血の滲む唇を震わせ、彼女は問う。

 

「私達は、何の、為に……生まれて、来たのだろうな」

 

 錠前サオリは、あの時の答えを、まだ見つけられずにいる。

 

「今まで、これが正しいと思い、突き進んで来た……だが、いざ振り返れば、全てが過ちだった」

 

 先生の事も。

 トリニティとの確執も。

 アズサとの衝突も。

 スクワッドの在り方も。

 ありとあらゆる選択を、彼女は間違えて来た。

 

「私達は、何の、為に――……」

「……白洲アズサ」

「――?」

 

 サオリの耳に、硬質的な足音が届いた。火薬の匂いが沁みつき、ぼさぼさになった髪をそのままにミカはサオリの下へと足を進めると、見下ろしながら告げる。

 

「あなたはアズサちゃんに、何を聞きたかったの?」

「……アズ、サ?」

 

 どこか呆然とした様子でその名を呟くサオリ。何故、その名前が出てくるのだと、そう思っている様な表情だった。

 

「うん、あなたが意識を失っていた数秒、譫言の様に呟いていたよ」

「………」

 

 その言葉に、サオリは口を噤む。

 彼女の言葉に、心当たりがあった。

 

「補習授業部のアズサちゃん、そもそも私のクーデター計画を手伝う為に選ばれたスパイだったでしょ? そんな彼女に、一体何を――」

「……アズサは」

 

 ミカの声を遮り。

 サオリは、ぽつりと言葉を漏らした。

 

「元々、スパイとして選出した訳では、なかった」

「――えっ?」

 

 ミカの表情が、驚愕に彩られる。

 それは、ミカも知らなかった事実であり。

 そして、それこそが全ての過ち、その始まりだった。

 

「あの子は、和解の象徴になる予定だったんだ」

「……は」

 

 ――和解の象徴。

 

 サオリの言葉を聞いたミカの口から、吐息が漏れる。

 和解の象徴、全てが終わった今、耳にするその言葉の何と空虚な事か。

 けれど、それは決して嘘ではない、もし一つボタンを掛け間違えていれば。或いは何かの弾みで異なる道を選んでいれば。

 そうなる未来だって、確かにあった筈なのだ。

 サオリは当時の事を思い返し、掠れた声で言葉を続けた。

 

「トリニティとアリウスの、和解の象徴……あぁ、そうだ、そう云えば――最初にその表現を使ったのは、お前だったな、ミカ」

「何を――」

 

 ミカが目を見開き、怒りすら滲ませて表情を強張らせる。だって、その表現を、そんな風な云い回しをしたのは――。

 

「何を、云っているの、それは――あなた達が適当に、云い繕った……!」

「いいや、違う……お前が初めて、私達を訪ねて来た時に使った言葉だったんだ」

 

 そうだとも、サオリは未だ憶えている。

 彼女が、聖園ミカがこんな風に誰かへの憎悪を滾らせ、喪われた空白を埋める為になりふり構わず走り始めた、その切っ掛けを。

 

「セイア襲撃が起こる前、そもそもエデン条約も、お前のクーデター計画も、何一つ存在していなかった頃……そうだ、お前はあの時、唐突にやって来て、アリウスと和解したいと云って来たんだ」

 

 ■

 

「はじめまして☆ 誰だか知らないけれど、あなたがアリウスの生徒だよね?」

「………」

 

 彼女――聖園ミカはある日、本当に唐突に、何の脈絡もなくアリウスに接触して来た。

 どうやって見つけ出したのか、トリニティ自治区で活動するアリウス生徒を捕捉し、そこを伝って秘密裏にコンタクトを取って来たのだ。

 生徒から幹部へ、幹部から彼女(マダム)へ、そうやって話が行き渡り、最終的にスクワッドである自身に命令が下された。

 

 最初は半信半疑だった、罠を疑って掛かった、交渉の場を設けたい等とそれらしい事を口にして、のこのこと顔を出しに来たアリウスを殲滅する気なのだと、そう思っていた。

 

 鉄火場は慣れている、下手に大部隊を動員して損害を被っても面白くない。そこでスクワッドに白羽の矢が立った。スクワッドならば少数の戦力であっても有効で、尚且つ包囲網を敷いた罠であっても突破できる力を有している。万が一戦闘になっても、追撃を躱し自治区に帰還するだけの能力があると、上はその様に判断した。

 

 僅かな部隊を率いて交渉の場――トリニティ自治区の廃墟街、その崩落した聖堂の中で彼女と対面した時。

 サオリは、何て平和ボケした女だと思った。

 

 その日、トリニティのティーパーティーに所属する聖園ミカは、護衛や傍付きの一人も同行させずにその場に立っていたのだ。

 ミカは廃墟の中で蒼穹を仰ぎ、どこまでも能天気な様子で云った。

 

「今日も良い天気だよねぇ~! 凄くのどかでさ、こんな日には外で日光浴をしながら紅茶でも飲んで、歌のひとつでも――」

「……用件だけを云え、トリニティ」

「うわぁ、アイスブレイクとか嫌いな感じ? うーん、そっかぁ、じゃあ仕方ないし本題から云うね?」

 

 トリニティ特有の長ったらしい前口上。或いは、彼女に云わせればアイスブレイク。

 それを煩わしいとばかりに一蹴したサオリに対し、ミカはしかし機嫌を損ねるような様子を見せず、淡々と自身の胸の内を打ち明けた。

 

「――私ね、あなた達アリウスと和解したいの」

「……和解、だと?」

 

 笑顔と、そして広げられた両手と共に放たれた言葉。

 それは、サオリをしてほんの少しも想定していなかった言葉だった。

 トリニティとアリウスの――和解。

 その声を認識している筈なのに、サオリは思わず自身の耳を疑った。何よりその提案があのトリニティから為された事が、その事に拍車を掛けていた。

 

「うん、ちょっと過激な主張かもしれないけれど……あなた達は多分、まだ私達を憎んでいるよね? だから私達の助けも、連邦生徒会からの助けも断って、秘匿された自治区で孤立しているんでしょう? 過去の憎悪がまだ、その胸に燻っているから」

「………」

「でも、これを解決するにはお互いの憎しみが大きすぎる、それに積み重なった誤解とかも相当だろうし、まぁ普通に考えて、簡単じゃないよね、ナギちゃんも、セイアちゃんも反対するのは当たり前だよ」

 

 告げ、彼女はどこか辟易とした様子で肩を落とす。

 どうやらお仲間に大分反対された様だと、サオリは内心で嘲笑った。それと同時に、安堵していた。

 それはそうだろう、当たり前の反応だと、普通はそう考える。

 

 現トリニティに於いてアリウスの存在を覚えている生徒がどれ程残っているか――そうでなくとも、過去に排斥し、徹底的に弾圧した相手と和解など、真っ当な思考を持っていれば論外な選択肢だ。

 その相手が莫大な富か、或いは手を結ぶに足るメリットを持っているならば別だが、生憎とアリウスにその様な資源も、財源も、余裕もない。だからトリニティに、アリウスと和解するメリットは存在しない。

 だと云うのに何故?

 サオリの疑問を他所に、彼女は腕を組みながら唸って見せる。

 

「でもさ、仲良くするのって、そんなに難しいのかな? お互い少しずつでも歩みよれば、いつかは叶うものじゃない? 少なくとも、私はそう思うの――だから、少しずつ努力しようと思って、此処に来たんだ」

「……その言葉が本心であると、どうやって信じろと?」

「うん、その反応も理解出来るよ……だから、考えてみたの」

 

 ぴん、と。

 ミカは指を一本立て、片目を瞑って云って見せた。

 

「あなた達のアリウス生徒を一人、トリニティに転校させるのはどうかな? 勿論、他の子には内緒で!」

「何……?」

「私が後見人になれば何とでもなるよ、こう見えてもティーパーティーだからね、生徒ひとりを学園に編入させるくらい、お茶の子さいさいってね!」

「………」

「それで、アリウス生が何の問題も無く、私達の学園で仲良く過ごしながら幸せになれるという事を証明する、そうすれば、時間は掛かるかもしれないけれど、私達はまた一緒に歩んでいく事も出来ると思うの!」

 

 どこまでも天真爛漫な笑顔で、何の憂いも心配もないと、そう口にする彼女を前にしてサオリは思わず言葉を失った。

 こいつは、何を云っているのだと冷静な部分がそう呟いた。

 アリウスの生徒をトリニティに転校させる? それで何も起きなければ賛同を得られる? 前者だけならばまだ、分かる。この女はトリニティの中でもティーパーティー――つまり生徒会に属す存在。彼女の云う通り生徒ひとりを捻じ込む程度ならば実に容易だろう。

 

 しかし、そんな事が上手く行くはずがない。

 アリウスとトリニティでは、余りにも環境が違い過ぎる。

 そもそも、トリニティは陽の当たる場所、表側なのだ。

 自分達アリウスの生徒は、日陰の存在。

 此処以外に生きていける場所など――。

 

「云わば、その子が『和解の象徴』になってくれるって事! どうかな、この案は?」

「―――」

 

 ――和解の象徴。

 

 満面の笑みを浮かべ、問いかける聖園ミカ。

 サオリは暫し、その笑顔を凝視していた。本当に、何の下心も、何の打算も感じられない笑顔だった。

 

 こいつは――まさか、本気なのか?

 

 ほんの小さな、小さな疑念。

 信じられない様な心地でサオリは彼女を見つめ続ける。だがこんな意味不明な提案を、文字通り身一つで持って来た点を考えれば、少しだけ納得がいく。少なくとも向こうに、今この場で罠に嵌めるような気はないのだろう。サオリは無言でその場に佇み、ミカの真意を計りかねていた。

 暫くして、どこか焦れた様に肩を揺らすミカ。

 サオリは落ち着かない様子答えを欲しがる彼女に、漸く言葉を絞り出す。

 

「……随分と荒唐無稽な計画だな」

「うぇっ!? そ、そうかなぁ……結構頑張って考えたんだけれど、で、でもそんな存在がいたら、きっとセイアちゃんも、ナギちゃんも納得してくれると思うんだ!」

「………」

 

 そう云って、両手を振りながら大袈裟な身振り手振りで力説するミカ。

 トリニティとの和解――サオリからすれば、それこそ夢にも思わなかった様な事柄。実際問題今のアリウスで、それが成ると考える生徒がどれ程存在するか。

 いや、どれ程も居る筈がない、きっと誰もそんな事は信じない。

 しかし、もしも――もしも、そんな事が実現出来るのならば。

 サオリの脳裏に、スクワッドの姿が過った。

 

「……良いだろう」

「えっ!」

 

 サオリは静かに、そう呟いて見せる。

 反応は劇的だった。ミカは思わず素っ頓狂な声を上げ、サオリを凝視した。

 

「だが、私一人で決められる問題ではない、次の連絡を待ってもらう事になる」

「う、うん! 良いよ、全然待つ! でも、えっと、自分で云っておいてなんだけれど、そんな子本当にいるの……?」

「………」

 

 ミカの疑念に満ちた声。

 それに対しサオリは何も答える事は無く、ただ静かに頷いて見せた。

 サオリの胸には――ひとりだけ、心当たりがあった。

 

 ■

 

 アリウス自治区――寄宿舎。

 所々崩れ落ち、補修すらされていない小聖堂。罅割れ砕けたステンドグラスから冷風が吹き、だだっ広い空間は朽ちた木長椅子が並び、壁際には幾つもの軍用コンテナが並ぶ。

 奥まった小部屋には寝袋が用意されており、そこが現スクワッドに割り振られた彼女達の寝床であった。

 

 寄宿舎、と呼ぶには余りにも粗雑で酷い環境ではあったが、訓練生時代と比較すれば幾分か扱いはマシになったとすら云える。幾人もの生徒と枕を並べ雑魚寝する事もなくなったし、最低限の装備と弾薬は支給されるのだから。

 それに特務となってからは食事も多少優先的に割り振られるようになって、味は兎も角腹を空かせる事も余りなくなった。賞味期限切れのレーションでも、口に出来るなら有難いものなのだ。

 

 アズサはそんな場所でひとり壁際に腰を下ろし、静かに銃器の手入れを行っていた。サオリは彼女の姿を見つけると、手にした紙袋を握り締めながら歩み寄る。地面を叩く靴音が、周囲に響いていた。

 

「アズサ」

「……何?」

 

 サオリが声を掛けると、彼女はどこか億劫そうに顔を上げた。小さな携帯用ランプがアズサの手元を照らし、忙しなく動いていた指先が止まる。サオリは腰を曲げると、静かに彼女の隣へと紙袋を置いた。

 

「新しい任務だ」

「……そう」

 

 素っ気なく呟き、アズサは置かれた紙袋に目を向け、銃を地面に置くと手を伸ばす。作戦指示書か、或いは次の作戦に必要な装備か何かか、中に入っているのはそういうものだと思っているのだろう。

 実際、それは間違ってはいない。

 ただ少し――常とは毛色が違うだけだ。

 

 アズサは無遠慮に紙袋を開くと中の書類と思わしきものを取り出し、足元のランプに翳す。すると暫し、面食らった様に目を瞬かせた。

 ランプの光に照らされたそれが、凡そアズサの考えていたものとはかけ離れていたからだ。

 

「サオリ、これは――?」

「質問は受け付けない、お前はただ、指示に従えば良い」

「………」

 

 彼女が手にしたのは、古ぼけた教科書だった。

 それは凡そ、アリウスには似つかないような、普通の学校で用いられる、何て事の無い書物。自治区の主の意向で特定の書籍以外は全て回収され、秘匿されている現状、こういった教本の類も酷く限られており、特に外のものとなると非常に貴重で物珍しいものだった。

 他にも参考書らしき書籍に、ノート、同封されていた書類の中身はトリニティの校則と見取図、それらを手にしたアズサは困惑の表情でサオリを見上げていた。

 サオリは敢えて冷たく突き放す様に告げ、彼女に背を向ける。ただ、それでも背中に感じるアズサの視線に、ぼそりと呟いた。

 

「……潜入任務だ、お前の身分が露呈しては作戦失敗となる、私は、お前が適役だと判断した」

 

 それ以上でも、以下でもない。

 もしトリニティに潜入する様な事があるとすれば、アズサが適任だと、ただ彼女は思ったのだ。

 サオリ自身は、スクワッドのリーダーとして不在になる訳にはいかない。

 ミサキは纏う雰囲気が厭世的過ぎてトリニティに馴染む未来が見えない。

 ヒヨリは何とかなるかもしれないが、元々彼女は任務のバックアップが専門な上に精神的に不安が残る。

 アツコは雰囲気だけならば合致するが、マダムとの約束と彼女の身の上から論外。

 精神的に強く、単独でもある程度の局面に対応出来て、トリニティの校風と致命的な齟齬を生まない、アズサが適任だった。

 

 けれど、本当は――それだけじゃない。

 彼女を選んだ本当の理由は、別にあった。

 

「今の内に良く、勉強しておけ」

「……うん」

 

 サオリの、その素っ気ない声に。

 アズサは胸元に教科書を抱き寄せ、小さく頷きを返した。

 

 ■

 

「――和解の申し出?」

「はい、トリニティのトップ、ティーパーティーの一人が」

 

 アリウス自治区――大聖堂、最奥。

 その場所は彼女の私室であり、同時に玉座である。打ち捨てられ、山の様に積まれた古ぼけた書籍。それらを椅子代わりに横たわる彼女は、膝を突き頭を垂れるサオリの報告に疑問の声を上げた。

 サオリは聖園ミカの提案して来た和解の件を、包み隠さず彼女へと報告しを得た。その声は、ほんの僅かではあるが弾んでいる様にも聞こえる。私室の壁際に並ぶ燭台、そこに灯る火が微かに揺らいだ。

 

「彼女は交渉の場には単独で赴き、少なくともあの場に伏兵は存在しませんでした、言葉通りに受け取る事は出来ませんが、或いはその糸口となる可能性はあると、私は――」

「――なりません」

 

 しかし、彼女の判断は無情であった。

 サオリの言葉に、マダムは勢い良く扇子を閉じるとそう断じる。其処には一切の交渉の余地も、言葉を挟む隙すら感じさせない、冷たい色が灯っていた。思わずサオリの肩が震え、その身が強張る。

 

「全く、呆れる程純真無垢な発想ですね、罠でなければおかしい位です」

「………」

「ですが、まぁ、そうですね……折角利用出来る隙があるのですから、結論を急く必要はないかもしれません、無垢なのか、それとも腹黒い蛇なのか、それを一先ず見守る事こそ肝要ですか――その提案は次の交渉の場で一度断って下さい、そして適度に云い包め関係を保ち、トリニティの情報を得るのです」

「それは……」

「何ですか、サオリ?」

「――この提案(和解の道)を、完全に捨てるという事ですか」

 

 サオリは、恐る恐ると云った風に顔を上げ、問うた。 

 揺らめく火が照らす表情、視界に鮮やかな紅が映る。

 マダムの開いた幾つもの瞳が正面からサオリを射貫いた。

 

「当然です、和解の象徴? 何を寝惚けた事を――彼女は、トリニティの情報を得る道具として利用して差し上げましょう、それ以外に取れる選択肢はありません」

「………」

「サオリ、何か問題でもありますか?」

「い、いいえ」

「……まさか、私の許可を得ず何か準備でも?」

「ち、違いますマダム、私は、ただ……」

 

 見抜かれたと、そう思った。

 それが僅かな焦燥となり、サオリの表情を歪ませる。それを見たマダムはサオリの隠す何か勘付き、深い溜息を零した。そこには気怠い、呆れの感情が強く滲んでいた。

 

「サオリ、まさか忘れてはいませんね? あなた達が苦しんでいる理由を――寒さに震え、飢え続ける理由の根源を」

「――……はい、それは、勿論です」

 

 問い掛けに、サオリはぎこちなく頷いて見せる。

 それを忘れた日は、一日たりとも無い。

 ずっと、ずっと、幼い頃より教えられてきた事だ。

 忘れようと思っても忘れられない、骨身に刻まれた感情と言葉だから。

 俯いたまま、サオリは何度も口にしたそれを再びなぞる。

 

「……それらは全て私達を追放したトリニティのせいです、私達が苦痛に苛まれたのも、アリウスの同胞が多くの血を流し続けた事も」

「そうです、仇と和解など未来永劫あり得ません、必ず裏切りを働くに決まっています、障りの良い言葉で騙し、欺き、またあなた達から多くを奪い去るつもりでしょう、あなた達はまた同じ過ちを繰り返すつもりですか? また、あの内乱の時代に戻りたいのですか?」

「その様な、事は……」

 

 絞り出した声は、小さく掻き消える様だった。内乱の時代、冬の時代、ただの一度の食事すら儘ならず、銃声と悲鳴と苦痛が支配していた時代。サオリは歴史に詳しくない、その為の術は全てマダムが取り上げてしまったから――けれど、その凄惨さだけは何度も教えられた。その憎悪と悲惨さを煽る様に、繰り返し、繰り返し。

 意気消沈し、委縮したサオリを見たマダムは満足げに頷き、その指先でサオリを指し示す。

 

「ならばゆめゆめ、その憎悪を忘れてはなりません、良いですかサオリ、あなた達を導けるのは私をおいて他におりません、そしてあなた達を受け入れるような場所も、此処以外に存在しないのです」

「……はい、マダム、私は――憎悪を忘れません、あなたに、従います」

「えぇ、それで良いのです」

 

 答えに、彼女は満足した様子で嗤った。

 

「それこそ、あなた達の唯一の役目なのですから」

 

 ■

 

「……サオリ?」

「アズサ」

 

 小聖堂――スクワッド寄宿舎。

 そこに戻ったのは、実に三日ぶりだった。

 ミカの齎した提案をマダムに報告し、次の会合を取り決め、日程を報告し、再び顔を合わせたミカに玉虫色の解答を寄越す。それを向こうは良い様に取り、話はトントン拍子に進んでいった。

 だからこそサオリは何処か陰鬱な雰囲気を滲ませたまま、アズサの下へと足を運ぶ。

 

 いつも通りの小部屋、そこに一人で佇んでいた彼女はランプを前に先日サオリが手渡した教科書を開いていた。手垢に塗れ、所々擦り切れた古めかしい教科書だ、それが現在トリニティで扱っている教科書なのか、あるいは昔の代物なのか、それすらも定かではない。けれどサオリが伝手を用いて何とか用立てた、替えの効かない一品である事は確かだった。

 アズサをそれを丁寧に、優しい手つきで捲っていた。

 

 きっと、あの日からずっと、勉学に励んでいたのだろう。

 彼女の座り込んだ壁の周りには、広げられたトリニティ見取り図と校則の記載された書類が並べられ、近くには幾つか実際に問題を解いてみたのであろう参考書とペンも転がっている。正答率は――良くない様子だが、その努力の痕跡は見て取れた。

 サオリはそんな彼女の様子を見て、思わず視線を逸らした。

 逸らしながら、しかし伝えなければならないと、その重い唇を開く。

 

「件の潜入任務は――彼女の判断で中止になった」

「………」

「もう、トリニティについて学ぶ必要はない」

 

 その声は、二人きりの小部屋に良く響く。直ぐに返答は無かった、ただ少しだけ、息を呑む様な音が耳に届いた。アズサを見る事が出来ない、逸らした視線は薄汚れ、埃の積もった部屋の隅に向けられている。

 

「……そう」

「………」

 

 暫しの間を置き、アズサは言葉少なく答えた。

 ゆっくりと視線を戻せば、彼女は――アズサは、その手にしていた教科書を何の色も見えない瞳で閉じ、俯いていた。

 

「……用件は、それだけ?」

「……あぁ」

 

 会話と呼ぶには余りにも無機質で。

 それは単なる実務的な報告に過ぎない。

 サオリはそれ以上何か言葉を重ねる事が出来ず、結局いつも通り、慣れた文言を唇が紡ぐ。

 

「……近い内にまた、任務が下されるかもしれない、準備はしておけ」

「……分かっている」

 

 返事は淡々としていて、アズサは手にしていた教科書を地面に置くと、壁に立て掛けていた愛銃を代わりに手に取った。いつも通り、手慣れた動作で。

 それを見ていたサオリは無言で踵を返し、小部屋を後にする。

 後にするしか、なかった。

 

「………」

 

 私は――。

 

 小聖堂を後にし、その罅割れたステンドグラスを見上げ、サオリは想う。

 胸中で呟きを漏らす、しかし即座に首を振った。それは考えてはいけない事だから、それを自分達は望まれていない。そう云い聞かせ、サオリは再びマダムの下へと足を進めた。

 けれど、握り締めた拳だけは――どうにも解く事が出来なかった。

 

 ■

 

「……セイアちゃんは此処に居る」

 

 それは、果たしてどのような流れでそうなったのだろうか。

 そう、サオリはただマダムの云いつけ通り、それらしい解答でミカを煙に巻き、情報を引き出していた最中の事だった。未だにアリウスの企みに気付いていない彼女は能天気に会合を重ね、そしてある日、その作戦が決行された事になった。

 

 それは、彼女にとっては恐らく何て事の無い、悪戯の延長線上だったのだろう。

 

 ほんの五分足らずの時間、アリウスをセイアの居るセーフハウスに招き入れ、少しだけ怖い想いをしてもらう。

 アリウスが手にしているのは普通の小銃に、手榴弾や設置型爆弾、その程度。如何に百合園セイアが肉体的に虚弱と云えど、その程度でヘイローが壊れる訳がないと、そう思っていたのは確かだった。

 

 ――聖園ミカは、ヘイローを破壊する爆弾の存在を知らなかったのだ。

 

「静かに病院にでも送ってくれたら、それでオッケー、そういう事だから、よろしくね!」

 

 しかしマダムは、その機会を逃さなかった。

 予言を行うセイアは、マダムにとって何よりも目障りな存在だったから。正に彼女にとっては望外の展開と云って良かっただろう。何せ極秘であるセイアの位置情報が、何もない状況から自身の手元に転がって来たのだから。

 聖園ミカはスクワッドを、便利な私兵程度に想っていた。そうでなければこの様な情報を簡単に教える筈がない。

 しかし、違う。

 スクワッドは――アリウスの兵士は。

 

 ヘイローを壊す方法を学び、訓練し、その道具を持った――人殺し集団だった。

 

 ■

 

 その日、ヘイロー破壊爆弾による、セイア殺害命令がスクワッドに下った。

 サオリはいの一番に立候補したが、ミカとの交渉役という間柄、その立候補は却下された。

 代わりに和解の象徴となるべくトリニティの多くの知識を持っていたアズサが指名され、交渉する間もなくその任務に投入される事になった。

 

 全てが裏目になったと、その日の夜、サオリは眠る事が出来なかった。

 自分があの時、要らぬ知恵を回してあんなものを用意しなければ。

 そもそも、彼女が適任だなどと思わなければ。

 マダムに、その事を悟られなければ。

 

 その罪悪(つみ)は――自分が被るべきであったのに。

 

 ■

 

「ナギちゃんが、変な事を企んでいるの」

「………」

 

 百合園セイアが死亡した――そう知らされた日から、聖園ミカは変わった。

 いつも通りの天真爛漫な笑顔の下に何か仄暗く、暗澹たる感情を押し殺している様な、サオリにはそんな風に見えた。

 いつも通りの廃聖堂、そこで腕を組みながらやや隈の見える表情で続ける彼女は、サオリを見つめ、云った。

 

「セイアちゃんが死んでしまってから、気が抜けちゃったみたい、ゲヘナと平和条約だなんて、全く、ナギちゃんったら、本当に突然意味不明な事云っちゃってさぁ」

「………」

「……だから、そう、この前私が提案した計画を始めて欲しいな」

 

 そう云って、ミカは懐から一枚の紙を取り出す。無言のままそれを受け取ったサオリは紙面に視線を落とし、口を強く結んだ。

 紙面には、『編入学届』の文字が躍っていた。

 強張った表情で紙面に目を落とすサオリを覗き込む様にして、ミカは告げる。

 

「トリニティ内部にスパイを送り込むの、セイアちゃんの時とは違って――慎重な方法でね?」

「……あぁ、分かった」

 

 これが、全ての始まりだった。

 

 ■

 

 ミカ――私は、お前の事が理解出来なかった。

 一体何を望んでいるのか、見当がつかなかった。

 態々敵地に一人で乗り込んできて、和解を提案してくるなどと――ただ単に、馬鹿なのかもしれないとも、最初は本気でそう思った。

 けれど。

 けれど、もしも、本当に、お前が和解を望んでくれているのなら。

 お前から『和解』という言葉を初めて聞いた時も、何の譫言だと頭では理解しつつも……。

 もしも、そんな未来が私達にあるのなら、と――。

 そんな風に、ほんの僅かな希望を、私は持ち続けていたよ。

 

 嗚呼、だからきっと。

 ミカ、お前は。

 

 本当に――心から私達と和解を願ってくれた、心優しい生徒だったのだろう。

 

 ■

 

 横たわったサオリは、天井を仰いだまま瞳を開く。痛みに引き攣る呼吸を時折漏らしながら、その視線をミカへと向けた。サオリの独白にミカはただ無言で、静かに耳を傾けていた。

 

「お前は善意を持って私達を訪ねて来た、そんなお前の心を踏み躙り、騙し、この地獄に導いたのは私だ……」

 

 あぁ、そうだ、ミカだけではない。

 先生に消えぬ傷跡を残す事になってしまった事も。

 姫が声と顔を隠して生きなければならなくなったのも。

 ヒヨリとミサキをスクワッドに引き込んだ事も。

 和解の象徴ではなく、人殺しとしてトリニティに送られたアズサさえ。

 

「――全て、私の責任だった」

 

 自身が、錠前サオリがその選択を誤らなければ。

 もっと早く、正しい道を選べていれば。

 或いは、こんな結末に至る事は無かったかもしれないのに。

 

「お前たちの云う事は正しかった、私は、猟犬などではない……周囲の全てに苦痛を撒き散らす、災厄だ」

 

 その場に居るだけで災いを撒き散らす存在。

 自分は兵士でも、駒でも、猟犬でもなかった。

 もっと悍ましく、卑下されるべき存在だった。

 それを自覚し、サオリは深く息を吐き出した。僅かに震えたそれが、白く濁って天へと滲む。目を細めたまま、サオリはふと口元を緩めた。

 

「アズサに聞きたかった事、そう、あったな……ひとつだけ」

「……それは、何?」

 

 ミカが抑揚なく、平坦な声で問いかける。

 アズサに聞きたかった事、疑問に思っていた事。

 けれど終ぞ、問いかける事が叶わなかった事。

 サオリは想い返し、呟く。

 

「あの子は、私の手で地獄に引き込まれて尚――幸せそうに見えたんだ」

 

 それは、トリニティで過ごすアズサを見た時に想った事だ。

 任務としてトリニティに潜入し、偽りの絆を結び、その中で日々を謳歌しながら裏側で暗躍する。二律背反、矛盾を孕んだ在り方だ、その生活がどれだけの精神的負担を彼女に与えていたかは計り知れない。そんな地獄の環境に、サオリはアズサを叩き落とした。

 何度もアズサとコンタクトを取り、定期連絡で顔を合わせていたサオリは知っている。

 アズサはそんな、地獄の様な環境にあっても尚、どこか、幸せそうに見えた。

 その青春を確かに、謳歌している様に見えた。

 それが偽りのものであっても、その関係がいつか破綻するものと知っていても。

 彼女は常に心の中で、その幸福を噛み締めていた。

 

「誰にも感情を表さず、私達を最後まで受け入れず、孤独を貫いていたあのアズサが……あぁ、友達と、大人と、一緒に力を合わせて、悪意と害意に満ちた大きな苦難を乗り越えて――晴れやかで、幸福に満ちた青空の下に、進んで行けた」

 

 或いは、こうも思う。

 アズサは、もしかして知っていたのだろうか? とも。

 自分の紡いだ絆が、決して壊れる事はないと。

 その偽りの関係は真に至るものだと、確信していたのだろうか? 

 もし、そうならば、そう考えるに至った理由は何なのだろうか。

 そして、そうではないのなら――アズサはその強さを、どうやって手にしたのだろうか。

 

 答えは、ない。

 

 サオリはきっと、それを永遠に問いかける機会を失ったのだ。

 歪んだ口元をそのままに、サオリはゆっくりと天に手を伸ばす。

 

「あぁ……」

 

 いつか、独房で伸ばした手の先。

 そこには常に、紅色の光(彼女の威光)があった。

 許しを請い、誓いを口にし、自身の過ちを認める。

 あの幼き日と同じように、サオリは手を伸ばす。

 

 けれど――もうその先に、従うべき光は無い。

 

「私達に幸福など訪れない、日陰に生まれ落ちた存在は、日陰の中でしか生きられない、私達に夢を抱く資格も、その力もない、全ては虚しく、意味などない――……」

 

 幼き頃、何度も何度も教えられた言葉。

 この血肉を作った、アリウスの教え。

 それが絶対の真理だと、世界の全てだと信じていた。

 あぁ、そうとも。

 

「――全部、嘘だった」

 

 声が回廊に響き、自嘲的な笑いが漏れた。

 引き攣ったそれは、強い悲しみを湛え、サオリの頬を流れる。

 それはサオリが見せた、明確な弱さだった。

 

 ずっと、ずっとスクワッドを守る為に走り続けた。

 どんな理不尽な現実を目にしようと、その膝を突く事はなかった。

 傷だらけの両手で、必死に自分達の生きていける場所を守ろうと足掻いた。

 それしか道が無いと信じていた、自分に云い聞かせていた。

 

 しかし――それこそが過ちだった。

 

「私はただ、それを認めたくなかっただけなんだ、私から離れ、陽の当たる場所へと踏み出し、幸福になったあの子(アズサ)を見て、ただ、自分を否定されたと、そう、思って――……」

 

 (錠前サオリ)が、全ての原因だったというのに。

 愚鈍で、惰弱だった自身は、疫病神の様に周囲を不幸にする――その真実を、認めたくなかったのだ。

 きっと、錠前サオリという存在がこの世に生まれなければ。

 もっと、上手くやれる、素晴らしい人物がこの場所に立っていれば。

 

 想い、サオリは震える唇で、涙を流しながら問いかける。

 歪んだ視界、薄暗い夜空、その向こう側へと踏み出した彼女(アズサ)に。

 

「アズサ、お前なら別の道を往けたのか……?」

 

 声は、みっともなく震えていた。

 彼女が自身と同じ場所に立っていれば、或いはミサキを、ヒヨリを、アツコを――幸せな未来に連れ出す事が叶ったのだろうか。

 

「どうすれば、お前のようになれたのだろうか? そもそも、そんな機会は存在するのだろうか? 私が、そんな風に願っても良いのだろうか……?」

 

「――私達が幸せになれる道も、あったのだろうか?」

 

 錠前サオリがあの時、あの手を取っていれば。

 或いは聖園ミカが持ち込んだ和解の提案を、あの善意を素直に受け取る事が出来たのなら。

 もっと別の、こんな悲惨な結末ではなく、他の未来を迎えられたのだろうか。

 

「私達にも、もっと別な、あの子と一緒に、陽の下で笑えるような……そんな、夢みたいな未来が――」

 

 呟き、その光景を幻視する。

 トリニティとアリウスの和解、夢物語と罵られるような代物だ。一年、二年でその蟠りが、対立意識が、育まれた憎悪が消える事は無い。

 けれどもし、アズサの様に。

 あの子の様に、希望を胸に前へと進める子がスクワッドを率いていたのなら。

 アリウス全体じゃなくても良い、せめて家族だけでも、あの子達だけでも――アズサの様に、トリニティの中で、補習授業部の中で、あの暖かな陽の下で笑い合って、他愛もない日常を享受する未来があったのかもしれない、と。

 

 ヘイローを破壊する術ではない、もっと普通の、学生らしい事を学んで。

 レーションの代わりに可愛らしいお弁当を、銃弾の代わりにペンを、血の代わりに汗を流し。

 共に机を並べ、放課後にどこかお店に寄って、何の益にもならない話を笑顔で続けるような。

 そんな、ごく普通の生活を。

 何て事のない日常を。

 

「あぁ、もっと早く、そう想えていたら――」

 

 呟き、サオリは口を噤んだ。

 流れ落ちた涙が地面に吸い込まれ、跡を残す。

 けれど、それは――夢に過ぎない。

 現実は薄汚れ、古びた回廊に横たわり、苦痛に喘いでいる自分。

 それが全てだった。

 

「……いいや」

 

 擦れた声だった。

 目を閉じ、首を緩く振ったサオリはその夢を、理想を否定する。

 それは、駄目だ。

 それはきっと、許されない。

 

「これ程の罪を重ねて、沢山の人々を傷つけて」

 

 そう、その道を夢想するには。

 そう在れば良かったのにと口にするには。

 

「……余りにも、都合の良い話だ」

「………」

 

 ――(錠前サオリ)は、罪を犯し過ぎた。

 

「ごほッ、ぐぅ――……」

 

 せり上がる嘔吐感に咳を漏らせば、口の中に血の味が広がった。唇の先から垂れたそれを無造作に拭い、サオリは掌に付着した赤を前に苦笑を漏らす。手を握り締め、視線をミカに投げかけた。

 

「私はもう、戻れない――こんな有様だ……だから、ミカ」

 

 その手が、ゆっくりと地面に落ちる。もう、抵抗の意思も、戦う意思もない。

 空っぽだ、今のサオリにはもう、何もなかった。

 

 聖園ミカと――同じように。

 

 硝子玉の様な瞳、透明なそれを真っ直ぐ見つめながら、ミカは口を固く結ぶ。サオリはその手を握り締めたまま、いっそ穏やかな口調で告げた。

 

「好きにすると良い、お前が奪われた分だけ、奪ってくれ……」

「………」

「優しい心を持っていたお前を、憎悪の魔女にしてしまったのは――他ならぬ私だ、私こそが全ての原因だった、私が他者から奪ってきた、その全ての報いをお前が為してくれ」

 

 そうだ、そうすれば――。

 

「これで、少なくとも……公平になる筈だから」

「――……そう」

 

 長い沈黙があった。

 

 ミカは下げていた愛銃の引き金に指を掛け、静かに銃口をサオリに向ける。倒れ伏したサオリはその様子を、何処か満ち足りた表情で見つめていた。

 血の滲んだミカの唇が言葉を紡ぐ。

 

「それが、最後の言葉で良いんだね――サオリ」

「……あぁ」

 

 頷き、サオリは想う。

 こうなる未来は、何となく察していた。けれどその最後、もしこの結末に至るとすれば。

 この役目が、もしあるとすれば。

 

「この役目があるのなら、それを為すのはアズサだと思っていたのだが」

 

 呟き、彼女は静かに目を閉じた。

 その口元に薄らと笑みを湛え。

 

「――お前だったのだな、ミカ」

「………」

 

 ――沈黙が、降りる。

 

 既にサオリは全てを受け入れている、後は聖園ミカがその引き金を絞れば――結末は定まる。

 錠前サオリの死という形で、この物語は幕を閉じるのだ。

 しかし、いつまで経っても弾丸は飛来しなかった。

 ただ目を瞑り、最後の瞬間を待っていたサオリは、戸惑いと共にその瞼を再び押し上げる。

 

「サオリ」

 

 声がした。

 ミカが、彼女の名を呼ぶ声だった。

 ミカは銃口を突きつけたまま、静かに息を吸い込む。

 その前髪に覆われ、影になっていた表情は見えない。しかし、その頬を一筋の涙が流れるのを、サオリは見た。

 

「……あなたは、私なんだね、サオリ」

「……何?」

「私もね、幸せになりたかった」

 

 それは、今しがた聞き届けたサオリの独白――その結果気付いた、運命の類似点。

 ミカは構えていた銃口をゆっくりと下ろし、ぽつり、ぽつりと心中を吐露する。言葉と共に大粒の涙が零れ落ちた。それは彼女の足元に幾つもの染みを作り、その度に肩が小さく揺れた。

 

「私も、あなたのように、もう少し先生に早く出会っていたら、或いはあの時、手を取る事が出来ていたら……そうしたら、過ちを取り返せたのかなって、毎日独房の中で思っていたんだ」

 

 そう、聖園ミカは独房に収監されたあの日から――薄暗い檻の中で何度も過去を悔いた。

 あの時、先生の差し伸べてくれた手を取る事が出来たのなら。

 もしくは先生ともっと早く、出会えていたら。

 或いは、せめて一瞬踏み留まるだけの心の強さが自分にあれば。

 違う道も、違う結末もあったんじゃないかって――そんな風に毎日思っていた。

 

「当然の罰だと受け入れていた、でも、それでもやっぱり慈悲が欲しいと数え切れない程祈った、でもね、そんなのはやっぱり無駄だった……私が犯した取り返しのつかない数々を、どうすれば良いのか、どうすれば償えるのか、どうすれば許されるのか、全然分からないから」

 

 どうすれば自身の罪は許される? どうすれば、またやり直す事が出来る? どうすればいつかの様に、また皆で笑い合いながら日々を過ごす事が出来る? 

 何度も祈った、何度も考えた、得意じゃない思考を回し続けて、普段縋らない様な憐れみさえ求めた。

 でも結局、その方法も、糸口すら、ミカには分からなかった。

 

「二度目のチャンスが――やり直す機会が欲しい」

 

 呟き、ミカは自身のポケットに手を当てた。

 中には、先生から貰った銀の指輪が仕舞い込まれている。

 彼の信頼を、想いを裏切った自分に、これを身に着ける資格はない。

 けれど、どうしてもおいて行く事は出来なくて。

 サンクトゥス分派の生徒に燃やされてしまうのが恐ろしくて。

 こうやって未練がましく、今でも肌身離さず持ち歩いている。

 それは、ミカの縋る願いの残滓、そのものだった。

 指先に伝わるその形に、ミカは口元を大きく歪めながら吐き捨てた。

 

「そんなものが、私にもあるって信じていたよ……でも、そんな都合の良いものはなかった、そんな未来はね、私達には最初から存在しなかったの、ただ救いを願って、苦しむだけだったんだ」

 

 ぽろぽろと、大粒の涙を流し、しゃくり上げながらミカは云った。

 願えば願った分だけ。

 祈れば祈った分だけ。

 苦しみは深く、強く、色濃く自身を苛む。

 結局救いなど、赦しなど与えられないのであれば、それはただ在りもしない救いを夢見て絶望を深めるだけの行為に他ならない。ただ自分は、自分達は自ら苦しんでいただけだ。

 

 ミカの視線がサオリに向けられる。

 そこには強い悲哀と、苦痛に歪み切った色だけがあった。

 目尻から次々と涙が流れ落ち、血と涙に滲んだ唇が言葉を紡ぐ。

 月明かりに照らされ、恥も外聞もなく泣き顔を晒すミカ、それこそが今の彼女の本当の姿だった。

 

「だからね、貴女は私だよ、サオリ――あなたは絶対に幸せにはなれない」

 

 ――私が、絶対幸せになれないのと同じように。

 

 聖園ミカは、決して幸せにはなれない。

 錠前サオリもまた、決して幸せにはなれない。

 そうなるには、余りにも多くの罪を犯し過ぎた。

 

「やり直すなんて、無理だよ、もう取り返しのつかなくなった私達に二度目のチャンスなんてある筈がない、そんな事は、許されない――きっと、許されちゃいけないの」

「ミカ……」

 

 ぎちりと、愛銃のグリップを強く握り締める。

 自分達は幸福にはなれない、許される事もない、手から零れ落ちた平穏を再び握り締める事はない。その機会は、永遠に失われたのだ。

 救いは与えられない――自分達に待つのは、破滅(絶望)だけだ。

 でも――。

 

「でも、だからこそ――……」

 

 告げ、ミカは顔を上げた。

 涙と鼻水に塗れ、酷い表情を晒したまま。

 彼女はしかし、力強い口調で断じる。

 その瞳には何処までも強固で仄暗い、強い意志が秘められていた。

 

 その罪悪(つみ)に、結末があるのなら。

 贖う方法が、あるとすれば。

 

「私が、あなたの結末を決める、それが私に救いなんて無いんだって、それを証明する事になったとしても――私達は、それくらいの大罪を犯してしまったのだから」

 

 一度下げられた銃口、それがまたゆっくりと――サオリへと向けられる。

 幾ら考えても分からなかった、贖いの方法。

 けれどもし、それにたった一つだけ答えがあるとすれば、それはコレ(銃弾)だけだ。

 

 罪人は、罪人同士で裁き合えば良い。

 

 自身の罪を自覚し、苦痛に塗れ、その果てで救いなど無かったと絶望しながら命を終わらせる事。

 それこそが、一つの贖いとなると、ミカは結論付けた。

 

「私達の罪は、私達で裁かなくちゃいけない、それが私に出来る、数少ない贖いの一つだから」

「……あぁ、そう、だな」

 

 ミカの言葉に、サオリは視線を落としながら小さく賛同を返す。

 もし手を汚すのであれば、それは、その罪悪を背負える者である事が好ましい。図らずも此方側(日陰)に踏み込んでしまった彼女には、その資格がある。そう考えれば、成程――この役目を担うのがミカとなるのは、どこか納得の出来る話の様に思えた。それを為したのが自分自身だと思えば、全く以て、酷い話ではあるが。

 想い、サオリは苦笑を零した。

 それをどういう風に捉えたのか、ミカは強張った表情のまま銃口を揺らし、云った。

 

「……最初は、殴り殺してやるって思っていたけれど――気が変わった、錠前サオリ、あなたはちゃんと、コレで殺して(ヘイローを壊して)あげるから」

 

 横たわったサオリに銃口を向けたまま、ミカの指先が緩慢な動作でトリガーに触れる。涙と血の跡が残る頬を晒し、ミカは真っ直ぐ彼女を見ていた。

 二人の視線が三度交わる。

 そこにはもう――互いに対する憎悪は存在しなかった。

 どこまでも真摯で、イノセントで、互いに対する理解の色だけが残っていた。目の前のこの人物はきっと救われない、何方も底の底まで転がり落ちてしまった、大罪人だ。そしてその光景を知っているのは、きっと、この目の前の存在だけ。

 終わらせられるのは、互いの指先(引き金)か、自分の指先(引き金)だけだった。

 それを呑み下し、ミカは囁くように告げる。

 

「……先に待っていて、多分私も、此処の主人をやっつけたら、そう遠くない内に『そっち』に行くと思うから、だから――」

「――……あぁ」

 

 頷き、サオリはそっと目を閉じる。

 

 ――すまない、皆。

 

 サオリは胸中でスクワッドの皆と、先生に詫びた。

 結局自分は多くの人物を地獄に叩き落とし、傷付け、苦痛を齎しただけだった。この生に意味があったなどと、口が裂けても云う事は出来ない。

 嗚呼そうだ、それこそ錠前サオリという存在は――生まれるべきではなかった。

 でも、そう――それでも。

 家族(スクワッド)と出会い、今日まで共に生きられた記憶は、何物にも代えがたい自身(サオリ)宝物(思い出)だ。

 それだけは、そう思う事だけはどうか、赦して欲しいと。

 誰に対してでもなく、そう、強く願った。

 

「なぁ、ミカ」

「……なぁに」

 

「――すまなかった」

 

「………」

「どうか、此方(こっち)には……ゆっくり来てくれ」

 

 ふっと、息が漏れた。

 それは最後に漏らしたサオリの言葉に対する、失笑だった。

 苦り切った表情で、けれど不格好な笑みを浮かべたままミカは呟く。

 

「……酷い奴」

 

 だって、そうでしょう?

 自身に問い掛け、ミカは想う。

 

「そんな事――出来ないって知っている癖に」

 

 それが、最後に交わした言葉だった。

 添えられた指先で、引き金(トリガー)を絞る。

 小さく、軋む様な音が響く。

 最後にミカはサオリに向け、何処か憂う様な、悲しむ様な、けれど全てを受け入れるような笑みを零し。

 目を瞑り、彼女は云った。

 

「……ばいばい、サオリ」

 

 

 回廊に、乾いた一発の銃声が木霊した。

 

 

 ■

 

 目を閉じたまま、サオリは静かにその時を待っていた。

 自身の終わりを迎えると云うのに、何故だろう、その心は穏やかで、想像していたよりも何倍も静かで、痛みは無かった。

 

 轟いた銃声は、確かに彼女の鼓膜を叩き、サオリは全身から力を抜く。もう、弾丸に耐えるだけの力は残っていない。一発か、二発か、それとも三発か、そう長い間撃ち続ける必要もないだろう。自分のヘイローはきっと、そう何発も撃ち込む必要なく破壊されるだろう、その確信がある。

 だから、ほんの一瞬、痛みを耐えるだけで良かった――。

 この命が尽きるまで。

 ヘイローが破壊されるまで。

 

 だというのに、何故だろう。

 

 いつまで経っても――衝撃が訪れない。

 銃声は耳に届いている、弾丸は発射されている筈だった。

 

「――……?」

 

 ゆっくりと、サオリは目を開く。

 もう開く事は無いと思っていたそれ、まさか狙いが逸れたのか? そんな風に、何とも決まりの悪い感情と共に顔を上げれば。

 

 

 目の前に、大きな――大人の背中があった。

 

 

「……先、生?」

「―――」

 

 ミカが、呆然とした表情で呟く。

 その大きく見開いた視線の先に立つ、見覚えのある姿に。

 震えた声で、その名を呼ぶ。

 

 彼――先生。

 全身に汗を流し、ぼさぼさの髪で、荒い呼吸を繰り返しながら。

 けれど確かに、その二本の足で。

 

 ――聖園ミカ(錠前サオリ)の前に、彼は立っていた。

 


 

 次回 『決して消えない、罪悪の形』



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決して消えない、罪悪の形

誤字脱字報告ありがとうございますわ~!
昨日の夜帰って直ぐ寝入ってしまったので、朝に投稿致しますの!
序にミカの所まで書けなかったので、サブタイトルは変更ですわ~!


 

「はッ、はぁ、は――ッ!」

 

 走る、走る――ただ、只管に走り続ける。

 この日、何時間にもわたり強行軍を繰り返していた先生の肉体には確かな疲労感が刻まれ、その両足には細かな痙攣が見られ始めていた。胸が詰まる様な感覚に、時折襲い掛かる嘔吐感。元より心肺機能が低下し、肉体的な強度が二段も三段も落ち込んだ先生は、薬品を用いて無理矢理体を動かしている体たらく。

 それでも尚、限界を訴える肉体に鞭打ち、先生は一気に街道を駆け抜ける。

 

 回廊の横に逸れた細い道は、地上へと繋がっていた。やはりあの場所は緊急時の脱出経路か何かだった様子で、自治区の彼方此方に回廊への隠し扉は存在し、旧校舎の入り口もその一つであったという事らしい。

 地上へと上がった先生は、脇目もふらず再び旧校舎へと駆け出し、抱えたシッテムの箱、アロナにナビゲーションを任せていた。

 

『先生、此処は直進して、次の角を右に――!』

「……!」

 

 視界に、光のラインが表示される。街道をこのまま直進、そして大通りを右に――そのように伸びる線を見つめ、先生はふと横合いに見える裏路地を指差した。建物の隙間にひっそりと伸びる道は、粗末な木板で封鎖され、剥がれ落ちた外壁が散らばっている。街道を直進して右折するより、此処を突っ切った方が早い。

 

「アロナ、あっちの道は!?」

『えっ、あ、其方は封鎖されていて、確かに近道にはなりますが――』

「ッ!」

 

 近道になる、その言葉を聞き届けた先生は躊躇なく木板を蹴り破った。静寂に包まれた街道に破砕音が木霊し、先生は中程から圧し折れた木板を踏み締め、そのまま裏路地に飛び込む。強い埃と、黴の匂い、碌に整備もされていない道は酷く走り辛いが、この程度は障害とすら呼べない。

 

『せ、先生!?』

「これで、近道出来るだろう――!?」

 

 アロナの困惑の滲んだ音声に、先生はそう強く答える。悪路であっても先生の足は微塵も緩まず、ぐんぐんと加速していた。

 

「せ、先生、は、早……!?」

「ッ、どれだけ全力なの……!」

 

 後続のミサキとヒヨリは、封鎖を蹴破って裏路地へと飛び込んだ先生に、困惑と驚愕の色を滲ませた声を上げる。未だ嘗て見た事も無い程の全力疾走、装備の重量差があるとは云えその足の速さは驚嘆に値する程。二人は慌てて先生の後に続き、裏路地に三人の足音が響く。

 

「はっ、ふッ、まだか……――!?」

『え、えっと! この先は崩れた廃屋があって、迂回するか、瓦礫を乗り越えて……!』

 

 アロナの声が響き、先生が顔を上げると、外壁が残り崩れかけた廃屋が裏路地の奥に鎮座していた。どうやら崩れた外壁が瓦礫となって路地を封鎖しており、これが原因であのような木板が張られていたらしい。

 中程まで崩れた建物は中が丸見えになっており、先生は一も二も無く踏み込むと、街道に続く窓硝子目掛けて思い切り加速した。

 

『せ、先生、まさか――ッ!』

「ちょ、ちょっと!?」

「ひぇっ、せ、先生!?」

 

 背後から、ミサキとヒヨリの焦燥した声が聞こえた。

 それを振り切り、跳躍――周囲に響く甲高い破砕音。

 先生は腕で頭部を覆い、全身で窓硝子に向かって跳躍、罅割れ、老朽化していたそれをぶち破りながら街道へと転がり落ちた。きらきらと粉砕された硝子片が宙を舞い、先生と共に地面へと叩きつけられる。

 一拍後、甲高い音が先生の鼓膜を叩き、同時に衝撃が体を突き抜けた。

 

「ぐぁ――ッ!」

 

 石畳の床に転がり、砂埃に塗れる先生。着地の瞬間肩を強打し、顔を顰める程の鈍痛が響く。しかし、云ってしまえばその程度の事、破片が頬を掠め僅かに熱を発するも、所詮はかすり傷。瓦礫をよじ登って通過したり、迂回するよりは余程早い。

 

『せ、先生……! なんて無茶を――』

「この、程度、無茶でも、何でもないよ――ッ!」

 

 それを自分達は、一番良く知っている。

 何せ失敗した所で、大した怪我にもならない。一分、二分、その黄金に勝る時間を得られるのならば、骨を折る程度の事は簡単に決断出来るとも。

 石畳に手を突き、硝子片を踏み締めた先生は大きく息を吸って、再び駆け出す。

 その背後から、続く形で窓枠を飛び越えるミサキとヒヨリ。綺麗に着地しながら、ミサキはその表情を苦渋に染めた。

 

「ほんっと、身体が弱い癖に、無茶苦茶なルート取り……!」

「わっ、に、荷物が引っ掛かって――あいたっ!」

『せ、先生、此処を抜けたら、後は一つ角を曲がって、直進するだけです……!』

 

 旧校舎は、然程遠くない。現状、それが唯一の救いか。

 焼け付く様な肺と足に顔を顰めながら、先生は薄暗い街道を駆け抜ける。何度か足を取られそうになりながらも、しかし力強い歩みで以て旧校舎を目指し続けた。

 

『目的地はもう直ぐです! 後は――』

「あなた様ッ!」

「ッ……!?」

 

 駆ける先生の耳に、聞き慣れた声が届いた。

 それは、アロナのものではない。

 はっと、顔を上げ声のした方向へと目を向ければ、そこには僅かに着崩れた和装を身に纏うワカモが立っていた。どうやら旧校舎から此方側に向かっていた様子で、丁度鉢合わせになったらしい。

 その事に一瞬、先生は息を詰まらせる。

 

「ワカモ――!?」

「せ、先生! 先生いたよっ!」

「主殿ッ!」

「せ、先生……!」

 

 ワカモの背後から、忍術研究部の面々が顔を覗かせる。全員が先生を視界に捉えた瞬間、その表情をぱっと歓喜に染めるのが分かった。

 

「あら、どうやら此処がアタリだったみたいですね? ワカモさんの嗅覚も中々鋭い様子で……」

「えぇ、その様で――」

「先生!? よ、良かった、居た!」

「や、やっと見つかった~!」

 

 その更に後ろから、美食研究会が駆けて来るのが見えた。追いついたヒヨリとミサキが足を止め、軽く息を弾ませながら苦々しい声を上げる。

 

「ひえっ……! 美食研の人達に、忍者の――!?」

「なんでこいつらが、まさか、もうリーダーは……」

 

 いいや、違う。

 先生は肩で息を繰り返しながら、心の中でミサキの言葉を否定した。美食研究会と忍術研究部、しかし其処にミカの姿は無い。

 恐らくミカがサオリを受け持ち、彼女達をフリーにしたのだ。だから、彼女達はこの場にいる。

 決して、サオリが倒れた訳ではない。

 

「あなた様……」

「はっ、はぁ――ふっ、フーッ……!」

 

 ワカモは額に大量の汗を滲ませ、白い吐息を繰り返し吐き出す先生をじっと凝視していた。砂埃に塗れ、硝子片を被った先生は、中々どうして酷い恰好だった。

 その肌には異常な発汗が見て取れ、時折ゆらりとその身体が揺らぐ。

 先生の肉体的疲労は、限界に達している。

 それは、誰の目から見ても明らかだった。

 

「その様に息を荒げて、一体何処へ行くおつもりですか」

「――決まって、いるだろう」

 

 弾む肩を押さえつけ、ぐっと、息を呑み込む。

 そして挑む様に前を見据えながら、先生は告げた。

 

「サオリと、ミカを、助けに行くんだ」

「ッ――!」

 

 全力である事は、ひと目見れば分かる。

 先生は文字通り、必死になってこの道を辿って来たのだ。

 生徒の為に――あの、錠前サオリの為に。

 そう思った瞬間、みしりとワカモの両手に力が籠った。

 

「そんなに、そんなに必死になってまで――」

「わ、ワカモ……?」

 

 俯き、震えるワカモ。その姿に不穏な気配を感じ取ったミチルが、恐る恐ると云った風に声を掛けた。

 しかし、彼女は応えない、応えられない。

 

 あの女の為に、その身体と心を傷付けた相手の為に、こうまで必死になる先生の姿に。

 その事実が、その現実が。

 どうしようもなく受け入れられなくて――苛立たしく思えた。

 

「何故――……何故、分かって頂けないのですかッ!?」

「ッ!」

 

 ぐわん、と。

 街道に、ワカモの悲鳴染みた声が響き渡った。

 その声量と迫力に、全員が思わず面食らう。ワカモは狐面の向こう側を、正に般若の如く歪ませ、先生へと一歩詰め寄る。

 瞬間、力を込め過ぎた足が、石畳を砕き穿つ。破片が周辺に撒き散らされ、彼女の全身から濃厚な敵意が滲み出した。

 その突き出された指先が先生の奥、背後に立つミサキとヒヨリを、震えながら指し示し、叫ぶ。

 

「その後ろの者共も、あの錠前サオリも、あなた様にとって危険な存在です! 御身を傷付ける災い……っ! その様な存在を野放しにすれば、いつかあなた様の命さえも奪われてしまうかもしれないというのに――ッ!」

「……私にとって、危険だから、遠ざけ、排除する、と」

「えぇ、えぇその通りです!」

 

 先生の途切れ途切れの言葉に、ワカモは肯定を返す。

 先生にとって危険だから遠ざける。

 先生を傷付けるかもしれないから排除する。

 ワカモにとっての基本的なスタンスとは、正にそれだ。

 先生本人に注意されたのなら、ある程度の許容も見せよう。

 そう在る事を許されたのなら、見逃す事も吝かではない。

 

 ――だが、彼女達は既に先生に不可逆な傷を刻んでいる。

 

 それは無視できない、それだけは看過できない。

 罪には罰を。

 罪人には、断罪を。

 彼女の感情は、今も尚、そう叫び続けている。

 

「その御心に反する私を、あなた様は嫌悪しますか? 疎みますか? 悪感情を抱きますか……!? それを想えば胸が張り裂けそうになります、恐ろしくて、苦しくて、あぁ、そうです! このワカモはどうにかなってしまいそうな程……!」

 

 万が一、億が一。

 そんな事はあり得ないと思いつつも、しかし決して無視できない未来の一つの形として、そうなる道も存在する。

 先生(想い人)に疎まれる未来、嫌悪される可能性。

 先生にその様な感情を、視線を向けられると考えるだけで怖気がする。足が竦み血の気が引いて行く。

 

「――ですがッ!」

 

 しかし、その感情を、苦痛を呑み込んで尚――ワカモには、耐えられない恐怖があった。

 狐面を血の滲んだ指先で撫でつけ、震える彼女は涙の滲んだ声で叫ぶ。

 

「あなた様が居なくなってしまうよりは、余程良い……ッ!」

「―――」

 

 先生が消える、居なくなってしまう。

 その事と比べれば、想い人に疎まれる程度――余りにも安過ぎる。

 

 狐面の向こう側、ワカモの黄金色の瞳。

 それと先生の瞳が、交差する。

 彼女のそれは、先生に対する想い、執着の発露だ。先生は暫し、その想いを、叫びを噛み締める様に沈黙を守った。その姿に、叫びに、慟哭に、重なるものがあった。嘗て彼女と同じように叫んだ生徒が居た、想いがあった、ぶつけられた感情があった。それらを反芻し、乱れた息を整え、先生はゆっくりと息を吸い込む。

 ぐるりと、胃が裏返る気分だった。胸が締め付けられ、焼けるような痛みがある。それを先生は振り払う事無く、甘んじて受け入れる。

 その義務が己に在ると、そう強く信じていた。

 

「皆の、私を想ってくれる気持ちは、嬉しいよ、あぁそうだとも、それこそ……どれだけ感謝してもし足りない程に」

「それならば……!」

「でも――」

 

 はっと、顔を上げたワカモに。

 しかし、先生は変わらず、水面の様に澄んだ視線を寄越した。

 其処には鋼の様に堅く、確固たる意志があった。

 

「――私は、彼女達を決して見捨てない」

 

 スクワッドの繋いだ手を、離す様な真似はしない。

 その自身の想いと反する答えに、ワカモの足が数歩蹈鞴を踏んだ。「何故――」と彼女は繰り返す。揺らぎ、涙が滲む彼女の瞳から目を逸らさず、先生は言葉を重ねた。

 その指先が、自身の左腕を撫でつける。

 

「この身を傷付けられた、心を傷付けられた、一生癒えぬ傷を刻まれた――それら一切は、私の信念を曲げる理由に足らない」

 

 どれだけ深い傷だろうと、どれだけ悪辣な行いを受けようとも、それ自体に先生が嫌悪や侮蔑の感情を抱く事は決してない。その行いを非難する事はあるだろう、行き過ぎた行いならば説教だってする。

 しかし、それを理由に手を伸ばさないなど、あり得ない。

 

「たとえ私は首ひとつになろうとも、私が私である限り、使える全ての力を費やして生徒達に寄り添い続ける……あぁ、そうだとも」

 

 腕を奪われた。

 瞳を奪われた。

 その果てに、残された時間は僅かとなった。

 それでも――先生は彼女達に寄り添い続ける。

 

「――それこそが、先生(大人)である私の責務だ」

 

 その意識がある限り。

 先生が、先生として在り続ける限り。

 心身を賭して、遍く(生徒)を導かんとする者。

 

 生徒の未来の為に、その身を捧ぐ。

 その姿に、生徒達が嘆き、苦しみ、懇願を口にしようとしても。

 先生がその歩みを止める事は無い――だがそれは、その声に耳を傾けないという事ではなかった。

 

 ――何度も、何度も、その声を聞いた。

 

 その度に先生の心は削れ、その背中にひとつ、またひとつと、募っていく。

 懇願の声が、希う声が、悲鳴が、慟哭が、怒りの声が、ずっとずっと、この耳に張り付いて消えない。

 

 ■

 

『――行かないで、傍に居て、お願い、先生……』

『やだっ! 血、止まらなっ……な、なんで、嫌、やだっ! 先生ッ! せんせぇ!?』

『何で、先生がそんな道を歩む必要があるんですか!? それを全うするのは、先生じゃなきゃダメなんですか……!?』

『ふざけんじゃねぇ! そんな選択、あたしは認めねぇぞ!?』

『大丈夫だ、先生、きっと、何か手がある筈だ、諦めちゃ、駄目だ、何か……きっと、何か、他に――!』

『ご主人様、全部、終わったらさ? 私はもう、普通の幸せとか、日常とか、そういうの全部、全部捨てるから――だから、どうか、ご主人様には、幸せになって欲しいな』

『こうならない為に、手を、尽くして来た筈でした……だと云うのに、何故――こうも……ッ!』

『それは、もう、どうしようもない事なの……? 此処から何か、別な道を探す事は、出来ないの……? この運命は――変えられないの、先生?』

『……うん、こうなる事は、予測出来ていたから、だから、大丈夫――私は、大丈夫』

『はぁ、ほんと……面倒な道を選んでくれましたね――この手は、離しませんよ、先生』

『大丈夫っすよ、私は、ずっと……先生の傍に、居ますから』

『な、なによそれ、そんなの、先生が苦しくなるだけじゃない……!? そんな顔で、そんな風に、何で――!?』

『合理と理性は、この真実を肯定しています、この記録はきっと、誰に届く事も無い……でも、この刹那の記録にも意味がある筈です、先生はきっと、憶えていてくれる筈ですから』

『わ、分からないのだ……っ! 先生の云っている事は、何一つ分からないのだ!』

『大丈夫です、だって、だってアリスは知っています! 教会に行けば復活の呪文で、先生は、何度だって蘇るって……! だから、アリスは――!』

『やっぱり、全部無駄だった、こんな風になるって知っていたなら、こんなに苦しい想いをするなら、最初からこんな道、選ばなかったのに――』

『に、にはは……わ、笑えませんよ、先生、その、冗談……』

『ご、ごめん、ごめんなさい先生……! わた、私、私が……っ! もっと、もっと早く――ッ!』

『ふざけんじゃないわよッ! そ、そんな、こんな、こんな事に為に、私達は戦ったんじゃ――!?』

『嫌ですっ! そんな、そんな結末、私は、絶対に――ッ!』

『――……先生』

『先生――』

『先生!』

 

 ■

 

【――分かりました、仰せの通りに】

【……その選択(この結末)が】

あなた(先生)の、望みならば】

 

 ■

 

「あぁ――……」

 

 先生は宙を見上げ、吐息を零した。

 脳裏に過る数多の光景、それを想い、噛み締める。

 酷い気分だった。

 それを思い返す度に。

 その残滓を想起する度に。

 先生の心は、その罪悪を自覚した意識は、強烈な自己嫌悪を発するのだ。

 

 その声に足を止められたのなら、どれ程良いだろう。その苦しみを掻き消す為に、その足を止める事が出来たら、どれ程楽になれるだろう。

 けれど、その足を止めようとすると、心が叫ぶのだ。

 その背中から這い出た想いが、囁くのだ。

 

 ――此処で足を止めるのなら、あの子達(この手から零れ落ちた光)の嘆きは、どうなる?

 

 結局足を止めるのならば、最初から歩まなければ良かったのだ。

 最初の嘆きを口にされた時点で、その足を止めれば良かったのだ。

 そうすれば、後に続く嘆きは生まれなかった。

 あの世界は、苦痛と慟哭に塗れた世界は、生まれなかった。

 

 それでもと叫んだのは、自分だ。

 己のエゴを押し通し、その道を歩き始めたのは自分だ。

 どれ程の犠牲を払ってでも、どれだけの苦汁を舐めようとも、どれだけの苦難にぶち当たっても――文字通り、己の全てを賭けてでも、掴みたい明日(希望)があった。

 

 ならば、自身の願い(生徒達が笑い合う未来)の為に、生徒達に苦しみを与える事は、肯定されるべきなのか。

 そんな筈がない。

 そんな事は、決して。

 

 だが――。

 

 己は、審判者ではない。

 己は、救済者ではない。

 己は、絶対者ではない。

 

 善悪も、苦痛も、罪悪も――己は消す事が出来ない。この傷だらけの両手で、全ては掴めない。誰も何も傷付かず、何の代償も犠牲も無く、皆が笑顔で迎えられる未来を掴むには、この身は余りにも無力が過ぎた。

 

 己は、全能者ではない。

 

 ならば――何かを得る(望んだ未来を勝ち取る)には、何かを喪わなければ(相応の代価を支払わなければ)ならない。

 

 そして先生が差し出せる代償は、己しかない。

 自身が自由に出来るのは、この身一つ、命一つ。

 ただ、それだけ。

 ただそれだけを引っ提げて、先生はこの道を往くのだ。

 何かを成し遂げる為に、生徒の犠牲を容認する事は出来ない。それがどれ程に素晴らしく、得難いものであったとしても。

 先生は己の目指す理想の為に、己の身体と心を削り、捧げ、進んでいく。その背中に無数の声を、骸を、取りこぼした可能性を背負って。その過程で生まれる生徒達の苦しみを、その慟哭を、願いを噛み締め。

 その苦難の果てに、地獄の様な道の向こう側に――望んでいた、生徒(子ども)達の笑い合える世界があると信じて。

 

 だから――だから、自身に出来る事は、ずっと前から一つしかない。

 彼女達の願い(呪い)を背負った、自分には。歯を食いしばり、苦痛と無念に塗れ、無限とも思える道を苦悶と共に唸り、歩く己に課された――唯一の使命は。

 

 天を仰いでいた先生の顔が、ワカモに向けられる。その澄んだ瞳が、強い光を湛えた瞳が、暗闇の中で煌々と輝いていた。

 その青色は、自身(ワカモ)ではなく、その遥か向こうを見ている様な気がした。

 

「この身、朽ち果てるまで――いいや、朽ち果てて尚、この心が擦り切れるまで、私は、遍く生徒と共に在り続ける」

「ッ――!」

「それが、私の選んだ、この道だ」

 

 はっきりと、先生の口はそう断じた。

 言葉には何の迷いも、躊躇いもなかった。そう在ると強く決めた声色だった、この決意を曲げるのは、余りにも困難だと、そう確信出来てしまう程の強い光。先生の瞳と視線が交わった時、ワカモは震えた。

 分かっていた筈なのに、その色に、想いに、胸を焼かれた。

 じわりと、焦がれた感情が顔を覗かせる。戦慄く唇を強く噛み締め、ワカモは動揺し、定まらない感情のまま声高に叫ぶ。

 叫ぶ事しか、出来なかった。

 

「ならば……ならばッ、私達の気持ちはどうなるのです……!? ただ搾取され、奪われ、喪い、消えていくあなた様を見ているしか出来ない、私達の、焦がれる様なこの、想いは――ッ!?」

「ワカモ殿ッ!」

 

 しかし、その声を遮るものがあった。

 声は街道の中でも良く通り、ひとつの影がワカモの直ぐ脇を通り抜ける。風を伴って現れた一つの影は、ワカモと正面から対峙した。

 

「い、イズナ……?」

「イズナちゃん……」

 

 ワカモの声を遮り、彼女の前に立ち塞がったのは――イズナだった。

 彼女はその表情を歪め、歯を食いしばったまま強張った表情でワカモを見つめる。その銃を握る手は、震えていた。

 

「イズナは」

 

 俯いたまま、震える両手を力一杯握り締め、イズナは小さく呟く。

 

「イズナは、ずっと、ずっと考えていました、正しい事はなんだろうって、守るって、どういう事だろうって――!」

 

 ワカモに招集され、先生の追跡を始めてからずっと。

 この事件の、物事の状況を知った時からイズナは、ずっと考え続けていた。

 正しきことを。

 守るという言葉の意味を。

 ただひたすらに、一生懸命に。

 

「イズナは、あの日、主殿を御守りすると誓いました、漸く見つけたイズナの、大切な主殿なのです、だからイズナは、まだまだ忍者として未熟でもお役に立ちたくて、でも、肝心な時にイズナは何も出来なくて、それで――……っ!」

 

 思い返すのは先生と出会えた日の事、百鬼夜行に初めて訪れ、桜花祭を眺めていた先生と出会って、勢いで様々な場所を案内した。どこか懐かしそうに、それでいて穏やかに自治区を見て回る先生を、イズナは不思議そうに眺めていた。

 初めて明かした、忍者になるという夢、それを先生は否定せず、寧ろ応援してくれるとまで口にした。それはイズナにとって、初めての体験で、嬉しくて、飛び跳ねて、色々と先生を困らせてしまった自覚がある。

 

 あの日から、色々な事があった。

 その間もイズナにとって、先生は仕えるべき唯一の主で在り続けた。

 念願の主を見つけたと喜び、浮かれ、けれど自分はいつも大事な時に間に合わなかった。イズナが駆け付けた時、先生はいつも満身創痍で、ボロボロで、息を弾ませ駆け付けた自分を労う様に、「ありがとうね」と優しく髪を撫でつけるのだ。

 間に合わなかったのに、忍者としての在り方すら守れていないのに。

 その時イズナは、どうしようもなく自分が情けなくて、消えてしまいそうになる。

 その失態を、遣る瀬無さをアリウススクワッドに重ね、彼女達は自身の主を傷付ける悪い奴なのだと思い込んだ。

 そしてそれは、きっとキヴォトス全体から見れば決して間違いではない。

 間違いでは、ない。

 

 ならば、それを理由に彼女達を排斥する事は――『正しい事』、なのだろうか。

 

 イズナには、分からなかった。

 少なくとも、先生がそう在る事を望んでいない事だけは、確かだった。

 

 だから、今度は守る事について考えた。

 先生を――主を守ると云う事。

 それを考えた時、答えは確かに、彼女の中にあった。

 震える手を足に押し付け、イズナは俯いたまま呟く。

 

「主殿を守るというのは、きっと、肉体的な事だけでは駄目なんです、主殿の御心も、きっと一緒に守らなくては、駄目なんです……!」

 

 喘ぐ様に息を吸ったイズナは、自身の衣服、その裾を強く掴み、絞り出すような声で云った。

 

「イズナは、部長に教えて貰ったんです……!」

「――!」

 

 顔を上げたイズナは、ワカモと、そして忍術研究部を真っ直ぐ見つめる。その視線に、ミチルの肩が僅かに跳ねた。涙の滲んだイズナの瞳はしかし、力強い意志を湛えていた。

 

「忍者は、一度交わした約束は必ず守るものだって――ッ!」

「ぁ……」

 

 その声を、瞳を見た瞬間、ミチルは思わず声を漏らした。

 それはいつか、彼女が口にした、忍者の掟。

 少なくとも、彼女の思い描いていた理想の忍者像、その在り方。

 イズナはずっと、それを忘れずにいた。

 ずっと、ずっと、そう在ろうとしてくれていた。

 その事実はミチルの心に、強い衝撃を齎した。

 

「イズナはあの日、主殿を生涯御守りすると約束しましたッ!」

 

 身体だけではない――心も、守ると約束したのだ。

 ならば、その約束は。

 イズナとして。

 忍者として。

 絶対に、守らなければならない。

 

 いつか桜花と共に芽生えた(立派な忍者になると)その夢に賭けて(そう信じてくれた貴方の為にも)

 

「だから、イズナは――イズナだけでもッ、命を賭して主殿にお力添えしますっ!」

「……!」

 

 叫び、イズナは愛銃と手裏剣を構え、ワカモ達の前に立ち塞がる。その瞳には闘志と使命感が渦巻き、断固たる意志を全身から発する。

 その叫びを、イズナの想いを、ミチルは俯き、その肩を震わせながら聞き届けた。

 そして不意に、思い切り顔を上げると――ツクヨに向け、ミチルは叫んだ。

 

「……~ッ! ツクヨ!」

「は、はいっ!」

 

 それ以上は、何も必要ない。

 彼女の名を呼ぶだけで、ツクヨはミチルの思考を、その心の内を余すことなく読み取った。

 ツクヨの口元には、微かに笑みが浮かんでいた。

 素早く身を翻し、駆け出したミチルとツクヨの両名は、イズナの直ぐ手前へ駆け込むと、風を切って反転し、それに並ぶ形でワカモと対峙した。

 砂埃を巻き上げ、石畳の上を滑った彼女達は構えを見せる。

 

「――ごめんイズナッ! 先生殿っ! それは、私が最初に云うべき台詞だったッ!」

「ぶ、部長!?」

 

 唐突に離反し、自身と同じように身構えたミチルに対し、イズナはどこか驚いたような、戸惑った様な表情を見せる。それに対し、ミチルは強張った表情で、けれど必死に不敵な笑みにも見えるような顔で、ヤケクソ気味に叫んだ。

 

「危うく一番大事な事を忘れる所だったよ! かまぼこ突風伝でも最後はいがみ合っていた相手と和解したし、ニンジャプレイヤーだって悪の組織に居たキャラが改心して味方になったりするんだもん! 悪い事をしたから、一回間違った道に行ってしまったからって、全部を否定しちゃったら、その可能性を全部捨てちゃう事になっちゃうじゃん……!」

 

 悪役が改心して、善の忍者ソウルを宿す事だってある! もしあの瞬間、主人公が和解を考えずに敵を倒してしまったら、その後の物語は滅茶苦茶になっちゃうもん! だからきっと、この道は正しいって、私は信じる!

 叫び、不安に塗れる胸中を覆い隠す様に笑って、ミチルは振り向き云った。

 

「まだ何とかなるかもしれない、そう思ったから、先生殿はこっち側に立っているんでしょ!? なら、どうせなら、皆一緒に笑顔になる未来の方が絶対良いに決まっているよ! ――そうだよね、先生殿!?」

 

 誰かといがみ合うより、許して、一緒に一歩を踏み出した方が、絶対に良い。

 ミチルの冷汗の滲んだ、けれど勇ましく、輝かしい笑みに、先生は目を見開き――しかし、力強く頷いて見せた。

 あぁ、そうだとも。言葉は、口には出さなかった。けれどその一つの反応だけで良かった。ミチルはにっと笑みを浮かべ、力強く自身の胸元を叩いて見せる。そこには紛れもない、忍術研究部の長としての自負があった。

 

「わ、私は、大それた事なんて云えませんが、でも、最初から全部諦めるような、イズナちゃんや、部長を、見たくないんです、勿論、ワカモさんの事も……! 和解は、大変な事かもしれません、いえ、きっと、凄く大変な事だと、思います、で、でも――!」

 

 呟き、同時にツクヨは力強く一歩を踏み出す。

 その背を真っ直ぐ正し、ミチルと同じように下手な笑みを浮かべ、高らかに叫んで見せた。

 

「忍者は、決して、諦めませんから……!」

 

 声には、強い想いが宿っていた。

 ツクヨは信じている、大好きな忍術研究部が、ミチルが、イズナが、正しい道を歩む事を。彼女達の信じる道には、常に忍者として在るべき姿が輝いていると。

 その声に、ミチルは歯を見せて笑い、ワカモを指差し云った。

 

「そーゆーことっ! という事で多数決! 先生もこっちにいるし、ほら、ワカモ! はやくこっちに鞍替えして! 正直、ワカモと戦いたくないし! ねっ、だからお願いッ!? 後で忍者グッズ進呈するからぁ~っ!」

「ワカモ殿!」

「ワカモさん……!」

「―――………」

 

 途中から若干懇願の混じったミチルの声に、ワカモは沈黙を返す。ただじっと、ミチルを、イズナを、ツクヨを、先生を見つめ続ける。

 そのやり取りを見ていたハルナは、ふと小さく溜息を零した。

 

「ふぅ……全く、これは所謂根負け、というものでしょうか?」

「は、ハルナ……?」

 

 徐に愛銃を肩から降ろした彼女に、ジュンコやアカリと云った面々は目を瞬かせる。ハルナはそんな仲間達を横目に肩を竦めると、緩く首を振ってみせた。

 

「これ以上我を通しては、先生が私達の銃口の前に飛び出して来てしまいそうです、それは私としても、望んでいない展開ですから」

「それは、そう、だけれど……!」

「先生を御守りする為に、先生を傷付けては本末転倒――そこのイズナさんが仰った通り、身体は無事でも心は傷だらけ……そんな状態になってしまっては、後悔してもし切れません」

 

 ――先生の心を私達は少々、軽視し過ぎたのかもしれませんわね。

 

 呟き、ハルナは愛銃を掴んだままゆったりとした足取りで歩き出した。その方向は先生と、イズナ達の居る方。羽織った上着と銀髪を靡かせ歩く彼女に、ジュンコは思わず目を瞬かせる。

 

「ちょ、ちょっとハルナ、まさか……」

「そのまさかです……スクワッドとは休戦致しますわ、少なくとも様子見、消極的協力――という所でしょうか」

「はぁッ!? 正気なの!?」

「うえぇっ!?」

 

 その決断にジュンコは非難の声を上げ、イズミは純粋に驚きの声を漏らした。どこまでも凛とした姿で、微笑みを絶やさない彼女に――アカリは不穏な気配を滲ませながら、一歩詰め寄る。

 その瞳の奥に、妖しい光が灯ったのをハルナは見た。

 

「――ハルナさん」

「アカリさん、思う所があるのは私も同じです、ですが先も云いましたが下手をすれば先生に危害が及びます、流石に先生がスクワッドの盾になってしまったら、どうしようもありませんもの」

「………」

「ならば目を光らせ、また彼女達が何か良からぬ事を企んだ瞬間、その額を撃ち抜いた方が建設的ではありませんか? 少なくとも私は今の話を聞き、そう判断致しました」

 

 ハルナとアカリの視線が、暫し交差する。

 薄らとした笑みを浮かべたまま微動だにしないハルナ、能面の様な表情で彼女を見つめるアカリ。二人の間に重苦しい、何とも言えない空気が流れ始め――しかし、それは唐突に打ち切られた。

 アカリが大きく肩を落とし、手にしていた銃を肩に担いだからだ。

 アカリは溜息を零すと、どこか詰まらなさそうに顔を逸らす。

 

「……はぁ、仕方ありませんね~、少々ストレスの溜まる選択ですが、ハルナさんがそう仰るのなら、今回は此処までにしてあげます」

「ふふっ、大丈夫です、恐らくそう遠くない内に発散する機会が訪れますもの」

 

 意気消沈するアカリ、その背中を軽く叩きながら二人は先生の方へと足を進める。そんなやり取りを、ジュンコはどこか唖然とした様子で眺めていた。

 

「な、何よそれ……! ハルナも、アカリも……!」

 

 震える両手で愛銃を握り締めながら、彼女はその銃口を宙に向け、地団駄を踏みながら怒り心頭と云った様子で叫んだ。

 

「わ、私は全然納得していないからねッ!? 大体ね! あんな事仕出かした連中なんて信頼出来る訳ないじゃん!? 絶対また、ヤバい事に先生を巻き込むに決まって――」

「ジュンコ」

 

 彼女の叫びを、先生が遮る。

 はっとした様子で先生を見たジュンコの視界に映ったのは、真剣な様子で此方を伺う先生の(かんばせ)だった。砂と傷に塗れて尚、先生のそれは力強く、ジュンコの瞳を真っ直ぐ射貫いていた。

 

「頼む」

「だっ、ぅ――」

 

 真剣な、それでいて誠実な声。

 その瞳を真っ直ぐ向けられ、そう声に出された瞬間、ジュンコの威勢が大きく削がれた。先生の姿を見れば、必死になって何とかしようとしているのだと分かる。だから、出来るならばその願いに沿う形でどうにかしてあげたい。その気持ちがあった。

 

 しかし、ジュンコの視界には先生の背後で佇む、ミサキとヒヨリの姿が映っている。

 あんな連中、絶対に、放って置いたら碌な事にならない。

 だから、そのお願いは聞けない。

 そう思い直し、愛銃を握り締めながら口を開こうとして――。

 

「今度、ミルフィーユのパフェを、一緒に食べに行こう」

「わたっ……うぇっ、ぁ――!?」

 

 唐突に、予想だにしなかった言葉が耳に届いた。

 思わず素っ頓狂な声を上げ、目をまん丸に見開く。

 ミルフィーユのパフェ、それはトリニティ自治区に存在するの有名菓子店、カフェ・ミルフィーユが販売している、それはもう高価なパフェである。普通の菓子の何十倍という値段を誇るそれは、普段ジュンコでも中々手が出ない代物であった。

 それを一緒に食べに行く――先生の奢りで、という事だろう。

 つまり、デートのお誘い? 普段食べられないスイーツと先生とデート、そのダブルパンチに、ぐらりとジュンコの心が揺れるのが分かった。

 

 しかし、そんなもので釣られる程自分は安くはない、パフェとデートは確かに、非常に、凄く、恐ろしく惜しいが……それとこれとは話が別だ。

 口元から垂れそうになった涎を拭い、ジュンコは垂れ下がっていた眉をきっと吊り上げ、再び口を開こうとして――。

 

「ハイクラスビュッフェの招待券も、ちゃんとあるから」

「―――………」

 

 今度こそ、時が止まった。

 ハイクラスビュッフェ招待券――それはキヴォトス随一のシェフ達が勤務する、高級レストランのバイキングを楽しめる招待券である。

 それは正に、ジュンコにとっての特攻だった。

 普通に手に入れようとすると、それこそ先のミルフィーユのパフェどころの話ではない、ジュンコがバイトして購入しようとすれば一ヶ月、いや二ヶ月? どれ程途方もない労力が必要かも分からない程。キヴォトスの中でも随一のシェフが調理する料理の数々が食べ放題、それは正に夢の様な話だった。

 

 そんな事を考えていると、不意にジュンコのお腹がぐぅと鳴った。

 食事の最中に抜け出し、今の今までスクワッドを追跡し駆け回っていた彼女の身体は、栄養を求めている。そこに素晴らしい料理の数々を想像し、腹が空かない筈がなかった。ジュンコは俯き、自身の愛銃を強く握り締めたまま肩を震わせる。

 

「だっ――……!」

 

 噛み締めた口から、声が漏れた。

 それは心から苦しい判断を下す、苦悶と自棄の声だった。

 駄目、絶対に受け入れられない――そう口にしようとするのに、声が一向に出なかった。魅力的な提案を前に、自身の気持がぐんぐんと傾いて行くのが分かる。それが腹立たしく、情けなくて、でも、拒否するには余りにも魅力的過ぎて。

 二度、三度、四度、地面を踏み締め、踵を叩きつけ、それから顔を思い切り逸らし――ジュンコは腹の底から叫んだ。

 

「だぁ~ッ! もう、分かった! 分かったわよッ! けれど良い、アンタ達ふたり! ちょっとでも変な動きしたら、問答無用でブッ壊してやるからね!? 今回、今回だけからっ! 次先生にちょっとでも怪我させたら、絶ぇっ対に許さないし、地の果てまで追いかけてやるんだからッ! わかったッ!?」

「は、はいぃッ!」

「………」

「ふんッ! 先生と私に精々感謝してよねッ!」

 

 ミサキとヒヨリを指先代わりに銃口で指し示し、あらん限りの声量でそう叫ぶジュンコ。釘を刺したことに満足した彼女は、アカリとハルナに続いて先生の下へとズンズン足を進めた。

 その背中を、ぽつんと残されたイズミが呆然と見つめ――それから慌てふためきながら絶叫した。

 

「え、え~ッ!? な、なにそれ、ジュンコだけ!? ジュンコだけ先生とパフェとか、ビュッフェ食べに行くのっ!? ず、ずるい! そんなのズルだよッ!? 先生、私は、私の分のご飯はっ!?」

「勿論イズミの分もあるよ、イズミだけじゃない、皆の分もちゃんとあるから――だからアカリ、ハルナ、どうかこの手を離して欲しい」

 

 先生は穏やかな口調で、それでいて何処か苦笑の混じった口調でそう告げた。見れば既に先生の側に立っていたアカリとハルナが、影のある表情で先生の両肩をそれぞれ掴んでいた。その指先は肩に食い込み、正直洒落にならない力が込められている。

 その一言にぱっと手を離した両名は、あらあら、うふふと微笑みを貼り付け、声を上げた。

 

「ふふっ、あぁ、良かった! これで私の分が無いと云われたら、今度こそストレスで爆発しちゃう所でした☆ 命拾いしましたね、スクワッドの御二方」

「私は勿論、先生ならば贔屓する事無く用意して頂けていると信じていましたから」

「よ、良かった~! 私の分もちゃんとあるんだね!? ならはやく終わらせて、ご飯いこう! ご飯!」

「び、ビュッフェにパフェ……お、美味しそうですね、やっぱりご飯には、人の心を変える魔性の力が――」

「……はぁ」

 

 緊迫した空気から一転、どこか緩い温度になった光景にヒヨリは思わず呟く。ミサキは何とも云えない、非常に苦り切った表情で美食研究会を眺め、マスク越しに溜息を零した。

 こんな連中に自分達は追い詰められていたのか、そう思うと脱力感は何倍にも感じられた。

 

「……ふーっ」

 

 最後にひとり、取り残されたワカモ――彼女は大きく息を吸って、吐き出す。

 先生の視線が彼女に注がれ、その表情が再び憂いを帯びた。

 

「ワカモ」

「――気勢が、削がれました」

 

 呟き、ワカモはひとり目を閉じる。

 それは決して空気にあてられた訳ではない、ただ先生の望む未来が、その在り方が僅かに垣間見えたからだ。恐らく先生が望んでいるのは、こういう何て事の無い日常の中にある、些細な幸せ――生徒同士の、幸福なのだと分かって。

 彼女は顔を逸らすと、小さく呟きを漏らす。

 

「えぇ、知っておりました、あなた様であれば、それを望むと……それでも、私は」

 

 自身の行いが先生に受け入れられない事は分かっていた。それでもアリウスの所業を許せず、半ば暴走する形で忍術研究部を巻き込み、此処までやって来た。

 ワカモは暫し沈黙を守り、その狐面の頬を指先で何度もなぞる。

 それは、彼女の癖だった。

 暫し沈黙した彼女はやがてその指先を降ろし、力なく告げた。

 

「……分かりました、この場に於いて私は、彼女達(スクワッド)と敵対しないとお約束致します」

「! ありがとう、ワカモ」

「――ですが」

 

 先生の喜色の混じった声に、しかしワカモは手を突き出し制止する。その瞳が先生の奥に立つ二人、スクワッドに向けられ、彼女はその声色に敵意を隠す事なく続けた。

 

「これはあくまでこの場限りのお話、私はスクワッドと和解する気は毛頭御座いません……たとえ、どれだけ彼女達が心を入れ替えたと仰っても、それは土台、不可能な話です」

「それでも良い、銃口を向け合う関係から、一歩でも進めたのなら、それで」

 

 ワカモの言葉に、先生は穏やかな微笑みと共に頷いて見せた。

 その可能性が生まれただけでも、十分だ。

 ゼロから一に至る、そこには大きな、きっと大きな意味がある。先生のそんな言葉にワカモは無言を通し、それから踵を返した。ふわりとその長い尻尾が揺らめき、街道の先を示す。

 

「……参りましょう、行き先は旧校舎、それで宜しいのですね?」

「うん、あの地下回廊に戻らなくちゃいけない、出来るだけ早く」

「お任せを、万が一道中に聖徒会による襲撃があった場合、私共が対処致します――ミチルさん、イズナさん、ツクヨさん、後衛をお願い致します」

「えっ、あ、う、うんッ! ばっちり任せてよ!」

「はいッ、イズナにお任せ下さい!」

「で、出来得る限り、頑張ります……!」

 

 ワカモの言葉に元気よく声を返す忍術研究部、対立が一段落した事により彼女達の表情には明るさが灯っていた。それを横目にワカモは音も無く駆け出し、先生は彼女の背を見つめながら、背後のスクワッド二人に声を掛けた。

 

「行こう、二人共――」

「は、はいっ!」

「……分かった」

 

 先頭にワカモ、その次に先生とスクワッド、その後ろに美食研究会、最後尾に忍術研究部。全員が一斉に駆け出し、街道に複数の足音が轟く。先生は心の中で、ミカとサオリの無事を祈った、どうにか間に合って欲しいと。

 

 見上げた先――夜空にまだ、陽は登っていなかった。

 



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いってらっしゃい(君は無邪気な夜の希望)

誤字脱字報告、感謝ですわ~!


 

「……ばいばい、サオリ」

 

 静謐な回廊に、銃声が轟いた。

 それと一つの影が飛び込むのは――殆ど同時だった。

 

 弾丸は本来であればサオリの額を強かに打ち、そのヘイローを破壊するだけの威力を秘めていた。

 故に、それを防ぐために人影は――先生は必死に手を伸ばす。

 

 それは本当に、刹那の合間。後一秒、後一歩、届かなければ弾丸はサオリへと撃ち込まれていただろう。伸ばした腕は辛うじて発砲の直後サオリと銃口の間に差し込まれ、弾丸は伸ばした先生の腕に着弾――その広げた中指を根元から千切り飛ばした。

 

「――ッ!」

 

 手の甲が抉れ、衝撃で先生の顔が歪む。僅かに軌道の変化した弾丸が、先生の側頭部を掠めた。そして背後の瓦礫に弾丸は着弾し、穴を穿つ。

 一拍後、空薬莢が甲高い音を立てて地面を跳ねた。

 

 ミカの驚愕に見開かれた瞳、背後から微かに聞こえる衣擦れの音。

 それを確認しながら深く――深く、息を吐き出す。

 

 ――間に合った。

 何とか、間に合った。

 あと一秒遅れていれば。

 いいや、ほんの一歩。

 或いは半歩、届かなかったら。

 

 この結果を手繰り寄せる事は、出来なかった。

 

 倒れ伏したサオリと、彼女に銃口を向けるミカ。その姿を見た瞬間、なりふり構わず飛び出してしまった。本来であれば余りにも軽挙であると云えるが、今回はそれが功を為した。

 腕を突き出したままサオリを背に庇った先生は、手袋に包まれたまま足元に転がる指を横目に、問いかける。

 

「……サオリ、無事だね?」

「あ、あぁ……」

「――良かった」

 

 サオリの困惑と驚愕を滲ませた返答に、先生は心から安堵する。そして視線を上げると、ミカが愕然とした表情で此方を見ていた。その銃口が、カタカタと音を立てて揺れ動く。先生は一歩、気遣う様に彼女へと歩み寄り、その名を呼んだ。

 

「ミカ――」

「せ、先生……」

 

 彼女の視線が、先生の欠けた手のひらに向けられる。滲み出る感情は恐怖と焦燥、月明かりに照らされ、転がる指先を見て、彼女は舌をもつれさせながら呟いた。その顔面からは、血の気が失せている。

 

「わ、わたっ、私、先生の手、撃って、ゆ、指――」

「大丈夫、落ち着いて、ミカ……」

 

 努めて冷静に、それでいて穏やかな口調で、先生は告げる。指の欠けた手、それに嵌められたハーフグローブを取り外せば、先生の腕全体が黒く、変色していた。

 

「……こっちの腕(左腕)は、義手だから」

「――ぁ」

 

 そう云って何の痛痒も感じないと、中指の欠けた義手を開閉させる先生。

 そう、突き出し防御した腕は、左腕だった。千切れた指先は機械のもので、先生の肉体ではない。

 先の衝撃で義手全体が硬化し、表面に投影されていた人肌が掻き消え本来の黒色を露呈させていた。関節部位に着弾した為に指自体は抉られてしまったが、フレーム全体は無事である。手の甲に走った損傷も大きなものではない、義手としての稼働に問題は無く、給電機構も動いていた。

 

「完全に壊れてもいない、弾は逸れたから私は平気だよ、だから安心して」

「そ、そっか……そっか――」

 

 譫言の様にミカは繰り返し、思わずその場に座り込む。完全に、先生に弾丸を撃ち込んでしまったと思い込んでいた。そうでなくとも先生に銃口を向け引き金を絞った事が、強い恐怖心と後悔を彼女に齎していた。心臓が早鐘を打ち、背中に滲む冷汗を感じながらミカは必死に呼吸を整える。足に、力が入らなかった。

 

「先生、何で、此処に――」

 

 サオリが痛みに顔を顰めながら、震える腕で体を起こす。瓦礫に寄り掛り、先生を見上げる彼女は恐る恐る問いかけた。

 

「姫を、助けに行ったんじゃ……?」

「勿論、助けに行く、けれどそれは、サオリ――君も一緒だ」

「なっ……」

 

 サオリを振り返った先生は、僅かな笑みを口元に湛え、告げる。

 その言葉にサオリが驚きを見せると同時、回廊に影が差し込んだ。

 

「リーダー……!」

「サオリさん!」

「っ、ひ、ヒヨリ、ミサキ……?」

 

 それは、先生と共に姫の救出に向かった筈のスクワッドの面々。息を弾ませ、背嚢と愛銃を担いだヒヨリとミサキは、倒れ伏したサオリの下へと駆け寄る。ミサキはセイントプレデターを地面に放ると、満身創痍となったサオリの身体、その肩を起こしながら呟いた。

 

「リーダー、無事――には見えないね」

「あ、青痣だらけで辛そうですね……? で、でも 兎に角、生きていてくれて良かったです……!」

「……お前達」

 

 自身を見下ろす家族の姿を凝視しながら、サオリは目を瞬かせる。

 それと同時背後から続く形で、残った生徒達も回廊へと辿り着いた。美食研究会に忍術研究部だ、彼女達は飛び出した先生の安否を確認し、内心で安堵の息を吐く。

 

「よ、良かった~ッ! 皆無事だよ!」

「一時はどうなるかと思いましたが……」

「なっ、美食研究会に、忍術研究部まで――?」

「……大丈夫、先生が説得してくれたから、もう敵じゃない」

「何……?」

 

 ミサキから齎された言葉。それは、サオリからすれば正に信じられない様な代物で。

 愕然とした様子で双方を眺めていてれば、散々打ちのめされボロボロになったサオリを見下ろしながら、ハルナはその肩を竦めて見せた。

 

「ふふっ、先生に根負けした、つまりそういう事です」

「――………」

 

 ハルナが笑みを浮かべ、ワカモは不機嫌そうにそっぽを向く。

 その様子から、ミサキの言葉が嘘でも何でもないと分かった。

 言葉が、なかった。

 あれ程、憎々しく敵対していたと云うのに。その遺恨は残っているだろう、完全な赦しを得た訳ではない。けれど、それでも、この場に彼女達は銃口を向け合う事無く立っていた。

 それはサオリからすれば、正に奇跡の様な光景だった。

 

「ミカ……」

「………」

 

 呟き、先生はミカのすぐ前へと足を進める。

 愛銃を抱え、座り込んだミカの前で膝を突き、先生は彼女の顔を覗き込んだ。

 ゆっくりと、緩慢な動作で顔を上げるミカ。その傷と砂利、煤に塗れたミカの頬、それはサオリの必死の抵抗、その表れだった。恐らく自身が想像しているよりもずっと、激しい戦いがあったのだろう――それを想い、先生は深く頭を下げた。

 

「本当に、ごめん」

「っ……!? な、何で、先生が謝るの……?」

「……私が、もっときちんと言葉を尽くすべきだった、そう強く思ったんだ」

 

 告げる声には、強い後悔の色が滲んでいた。

 ミカはそんな先生の姿を目にして、大きく取り乱した。もっと何か、別の言葉を掛けられると思っていたのだ。見放されたり、責められたり、罵倒されたりだって、覚悟していた。

 だって、それが普通だと思うから、当たり前の感情だと――そう思っていたから。

 だから先生がそう口にしたとき、ミカは狼狽した。それは自身の本心を曝け出したも同然の反応だった。

 抱えた愛銃を手放し、地面に両手を突いたミカは先生の方へと身を乗り出しながら声を裏返し、必死に叫ぶ。

 

「そ、そんな事ない! 先生が、謝る必要なんて……! だ、だって、先生は悪くない! 悪いのは、私、私でしょう!? それなのに――」

「いいや、私がもっと真摯に、正面から……ミカと言葉を交わしていれば、そうすればこんな、互いに傷付け合う様な事も無かったかもしれない」

 

 ミカがこんなに思い悩む事も。

 サオリと殺し合う様な事も。

 こんなに傷付く事も――無かったかもしれない。

 

 けれど、まだ致命的ではない。

 先生は間に合う事が出来た。

 だからこそ、こうして彼女に謝罪を口にする機会すら生まれたのだ。

 

 想い、先生は――彼女に向けて手を伸ばす。

 

 それは、いつかの姿を思い出す光景だった。

 伸ばされた右手、それが差し込む月光に照らされ淡く輝いて見えた。

 砂利と、煤と、血に汚れて――けれどミカにとっては、何よりも尊く、美しく、素晴らしいものに見えたのだ。

 

「ミカ」

「ぅ……」

 

 先生が、自身の名を呼ぶ。

 ミカの胸が高鳴り、その視線がゆっくりと先生と交わった。

 月明かりを反射し、煌めく瞳。その蒼に見つめられた時、ミカは自身の中にある何か、云い表す事の出来ない色が滲み出すのを自覚した。

 

「一緒に帰ろう、これが全部終わったら――トリニティに、ナギサとセイアの所に」

 

 先生の口から告げられる、その言葉に。

 ミカは差し出されたその手を凝視しながら、けれどその口元を歪め、緩く首を振る。

 それは、出来ない。

 言葉に出さずとも、彼女はそれを明確に主張する。

 

「そ、そんなの、無理だよ……わ、私は、私が学園に居ても、皆不幸になる……セイアちゃんも、私のせいで――」

「私が、何とかする」

 

 彼女の言葉を、その建前(理由)を先生は遮る。

 手を差し出したまま、先生は強い口調で断じた。

 

「ミカがどんな明日を迎えたいか、どんな日々を送りたいか、何が好きで、何が嫌いで、どんな子なのか――私はちゃんと、知っているから」

「……あ、あははっ、な、なに、云っているの先生、私の事を知っているって、何か……何か、誤解していない? 先生、ちゃんと私の事を見ているの? こんな、沢山の罪を犯した私の姿を――」

 

 乾いた笑み、虚飾に塗れた胸中。ミカは石床に爪を立て、俯きながら昏い感情を吐露する。そこには自罰的で、自嘲的で、こんな自分が救われる筈がない――救われてはいけないと云う、強い想いがあった。

 こんなのは、きっと夢だ。

 自分が都合の良い妄想だ。

 だって――。

 

「だ、だって、何回も、何回も何回も、先生に助けられて、手を伸ばされて、その度に私は台無しにして……っ! 挙句の果てにナギちゃんも、セイアちゃんも傷付けて……ッ!」

 

 叫び、同時に堪え切れず目尻から涙が溢れ出した。そうだ、こんな、こんな沢山の罪を犯した自分が許される筈がない、救われる筈がない。

 何回も、何回も先生の期待を裏切った。感情のままに暴れて、傷付けて、挙句の果てに大切な友人まで――。

 周囲の生徒が自身に投げかけた言葉を思い返す。牢の中で何度も耳にした言葉、そうだ、自分は――聖園ミカは。

 

 顔を上げ、涙に塗れた顔を月光に晒しながら、彼女(ミカ)は心から叫んだ。

 

「私は、魔女なんだよ――ッ!」

「――ミカは、魔女なんかじゃない」

 

 だが、先生はそれを否定する。

 心の底から、否定する。

 

 涙を零すミカを見つめながら、先生はその指先を伸ばす。零れ落ちる涙を拭いながら、先生は穏やかな口調で以て続けた。

 

「大丈夫だよミカ、やり直せない事なんてない、君の立つ其処はまだ、幾らだってやり直しの効く場所だ――私が何度だって手を伸ばす、君が底だと思っても、私が必ず引き上げる」

「……そのまま、振り向かないで行ってくれたのなら、良かったのに」

 

 先生の指先、そこから伝わる優しを感じながら、ミカは呟く。

 声は掻き消えてしまいそうな程弱々しく、震えていた。

 

「先生、どうして先生は、私をこんなに苦しめるの……? 何で、まだ私に、チャンスがあると信じさせちゃうの……? そんなもの無いって、完全に諦めてしまえば、それ以上苦しむ事なんてないのに、こんな私に、そんなもの、もう――」

「ある、ミカにだって、サオリにだって」

 

 やり直す機会は、必ずある。

 先生は、そう断言する。

 もし、それでも無いと、そう口にするのであれば。

 

「――もし存在しないのなら、私が一から作り出す」

 

 どこまでも真剣な面持ちで、先生は云った。

 心身を賭して。

 どんな障害があったとしても。

 全力で、その機会を設けてみせる。

 その意思が、先生にはあるのだ。

 ミカはそんな彼を見上げながら、弱々しく笑う。それは諦めの混じったものだった。

 

「……そんなの、無茶だよ」

「無茶でも何でも、私はやるよ――例え失敗したとしても、何度でも挑んで見せる」

 

 生憎と、諦めない事に関しては負けない自信がある。破顔し、屈託のない笑みを浮かべる先生は、伸ばしていた手を動かし、ミカの手を取った。傷だらけのそれ、先生に手を引かれたミカはぴくりと肩を震わせる。大きな大人の手が、ミカの細く小さな手を包んでいた。

 優しく、暖かく、けれど力強く。

 

「一回目で失敗したなら二回目で、二回目で失敗したら三回目で、三回目で失敗したら四回目で、何回、何十回、何百回でも、私は諦めない――この命ある限り、チャンスは何度だって生み出せると、私はそう信じている」

 

 子ども達の往く道が、一度や二度の失敗で閉ざされる事なんてない。

 小さな失敗でも、大きな失敗でも、どれだけ大きな壁に見えても、どれだけ困難な問題に直面しても。その向こう側は、その道は、必ず続いていると信じている。

 そう、だから。

 もし自分に、そんな(可能性)はないと、そう思うのなら。

 

「君達の、この先に続く未来には――無限の可能性があるんだ」

 

 先生は、何度だってそう口にして見せよう。

 誰が何と云おうと、生徒自身がそれを否定しても、先生だけはそう信じ続ける。

 未来が閉ざされる事なんて、あってはならない。生徒達がその未来を諦める事など、あってはならない。そのチャンスが無いと、機会がないと、もしそう感じてしまったのなら。

 その道は、先生が切り開く。

 生徒達がまた、その道を歩んでいけるように。

 全力を賭して、切り開いて見せる。

 

「機会は、何度だって私が作る、生徒が未来を諦める事なんて、あってはいけない……生徒達が心から願う夢を、そこに続く道が無いのなら」

 

 先生はミカの手を引き、立ち上がる。釣られるように、ミカもまた先生に手を引かれ立ち上がった。呆然と見上げる視線、それを見返し、その手を強く握り締め――先生は破顔する。

 あぁ、そうだとも。

 

「それを創る事こそ――(大人)が、(先生)こそが、やるべき事なんだ」

 

 生徒の可能性を信じ、その道を照らす事。

 それもまた、己の本懐である。

 

 その力強い言葉が、回廊に響いた。

 

『――そこまでになさい』

 

 それを、咎める存在(大人)が居た。

 回廊全体に響き渡る冷徹な声、暗闇の中に浮かび上がる朧げな輪郭。

 この領域の主――ベアトリーチェ。

 権能を通し一連の流れを観察していた彼女は、その数多の瞳を苛立ちと侮蔑に歪めながら、真っ直ぐ先生を見つめていた。

 ミカの手を離し、ホログラムの様に浮かび上がったベアトリーチェの虚像を見上げる先生はその名を呟く。生徒達が一斉に身構えるのが分かった。

 

「――ベアトリーチェ」

『先生、如何にあなたとて、これ以上私の領地で希望を謳う事は許しません、此処にそのようなものは存在しない、肯定されるべきは苦痛と恐怖、そして絶望――あぁ、つまらない余興はこれにて仕舞いとしましょう』

 

 告げ、彼女は手にしていた扇子を勢い良く閉じる。そこには隠しきれない苛立ちと失望があった。それは自身の望んでいた物語が、唐突にそのテイストを変えてしまったかのような、そんな色合い。

 扇子を閉じる音と共に、彼女はスクワッドにとって絶望の一言を告げる。

 

『――これより、儀式を開始します』

 

 声が、回廊に響き渡る。

 同時に何か、云い表す事の出来ない不気味な気配が回廊全体を突き抜けた。まるで夜が深まる様な、或いは何かが入れ替わる様な。スクワッドがはっと、蒼褪めた表情と共にベアトリーチェを仰いだ。

 

「っ!?」

「そ、そんな、まだ時間は、陽は登り切ってないのに……!?」

『――全く、そもそも其処からして認識が甘いのです』

 

 息を呑み、絶望の表情を浮かべるスクワッドを見下ろしながら、ベアトリーチェは嘲笑う。

 

『儀式はその気になれば、いつでも開始出来るのです、陽の出まで待つ理由が今の私にはありません、遊びはこれにて仕舞い――えぇ、ロイヤルブラッドのヘイローは間もなく破壊されるでしょう、そしてその神秘の欠片を通じ、私はより高位の存在と昇華する』

「や、やめろ……ッ!」

 

 サオリが覚束ない足取りで起き上がり、ベアトリーチェに向かって声を荒げる。しかし彼女はその叫びを聞き届ける事無く、静かにその指先で虚空をなぞった。

 

『さて、では――幕を降ろしましょうか、先生?』

 

 その、冷え冷えとした声色。

 振り上げられた扇子が虚空を切り、同時に先生の視界の中で蒼が渦巻く。それはユスティナ聖徒会の出現する前兆、冷たい風が周囲に巻き起こり肌を撫でる。

 だが違う、この召喚は今までのものとは異なる、その確信がある。

 それを裏付ける様に、渦巻く風と色は常の規模とは異なる、それは大きなうねりとなり、軈てひとつの大きな人影を生み出した。回廊に長い影が伸び、先生と生徒達を覆う様に出現する。

 

 通常の生徒の倍近い背丈、巨大な銃器を軽々と担ぎ、特徴的な衣服とベールを身に纏う黒の聖女。

 先生はその姿を目にした瞬間、戦慄と共に思わず呟いた。

 

「――聖女、バルバラ」

『ほぅ、やはり知っていましたか』

 

 先生の声を拾ったベアトリーチェは、その表情を愉悦に歪める。薄らと浮かべた冷笑をそのままに、ベアトリーチェは上機嫌に言葉を続けた。

 

『しかし、彼女だけではありません』

「……!」

 

 聖女バルバラ――その横合いに出現する、新たな個体。

 渦巻く青白い螺旋が生み出した影は、バルバラとは異なる存在でありながらも、近しい存在感を放っている。彼女とは異なる衣装、武装ながら体格の良さは同じ。ゆっくりと立ち上がった二人の聖徒会。

 聖女カタリナ、聖女マルガリタ。

 並んだ三人の聖女、その亡霊は生徒達の前に立ち塞がる様にして、そのガスマスク越しに視線を寄越す。

 瞬間、全身から放たれる悍ましい気配。

 その威圧感に、皆が一斉に気圧された。

 

「これは――」

「っ……!」

「あらあら」

「っ、この、圧力……!?」

「な、なんですかこの、肌が逆立つ様な、ひ、酷い寒気が――……!?」

「あれが、マダムの奥の手……? あんなの、私達で相手に出来るの……?」

 

 強大な敵の出現。

 放たれるそれは、雪国の寒波を想わせる。対峙しているだけで体温が奪われ、冷気で肌を撫でつけられるような感覚。その出で立ちと重圧が、目に見えない攻撃として精神と体力を削る。古く、戒律の守護者と呼ばれたトリニティの歴史、それが今彼女達に牙を剥こうとしていた。

 ミサキは冷静に敵の実力を観察しながらも、その頬に冷汗を滲ませる。本能が告げていた、この存在は危険だと、立ち向かう事すら愚かしい事だと。

 

 更に駄目押しとばかりに、聖女たちの背後から次々とユスティナ聖徒会、その一般生徒達が顔を表す。まるで今の今まで力を温存していたとばかりに回廊を埋め尽くさんと出現するそれに、先生の表情が顰められる。

 確実に、此方を仕留めるつもりだと、その意思が空気越しに伝わって来るようだった。

 虚空に浮かぶベアトリーチェの影が、その紅い瞳で先生を射貫く。

 

『さぁ先生、私達の因縁、此処で断ちましょう――』

「………」

 

 ベアトリーチェを前にして先生はその影を睥睨し、静かに肺を使う。

 目の前の存在はヒエロニムス――あれに比肩し得る怪物だった。

 いいや、左右の個体も含めて考えるのであれば、それを凌ぐ可能性すらある。

 見た目のインパクトだけならば巨躯であったヒエロニムスが勝るが、しかし目の前の存在はあの巨躯を、ほんの二メートル、三メートルに凝縮したような存在感があった。単純な戦力として見れば、通常の生徒達に相手など出来ない。アレは既に、その範疇に無い。

 反則の存在だ。

 

「――アロナ」

『……!』

 

 ――此処で、切り札(カード)を切る。

 

 その思考が脳裏を過った。

 シッテムの箱を抱えながら、先生は彼女の名を呼ぶ。アロナもその思考を読み取ったのか、画面の向こう側で口を一文字に引き締め、静かに指先を虚空に伸ばした。

 それは決して間違いではない筈だ。この場でカードを切り、出来得る限り早く敵性存在を片付ける。そしてこのままバシリカまで急行し、アツコを救出する――それもまた、一つの選択肢。

 今この場に集う戦力を考えれば、何とか撃退出来なくはない――かもしれない。

 しかし、博打を打つ様な真似は極力避けたい。

 ならば――やはり此処は自分がカードを切るべきだ。

 

 そう思い、先生がその口を開きかけた瞬間、視界に掌が翳された。

 それは視界の先に立つ、ミカのものだった。

 面食らい、目を見開いた先生は彼女へと視線を向ける。

 

「っ、ミカ……?」

「――先生、アレは私に任せて」

 

 告げ、彼女は何て事もないように一歩、二歩と前に歩みを進める。その聖女たちに向けて、余りにも軽い足取りで。

 

「先生……ごめんね、私、いっつも問題ばっかり起こして、感情的になって、アレコレ理由をつけて暴走して、面倒くさいし、ほんと、酷い不良生徒だよね」

 

 俯いたまま、彼女は呟く。声は弱々しく、震えていた。

 しかし同時に、何か奥に強い意志を感じさせる響きを伴っていた。

 ふと顔を上げ、真っ直ぐ起立した彼女は視界の向こう側に並ぶ、無数のユスティナ聖徒会を見つめた。カチャリと、彼女の手の中で愛銃を音を鳴らす。

 そのグリップを握り締め、ミカはその想いを口にした。

 

「でも――ありがとう、こんな私と、ずっと真剣に向き合ってくれて」

 

 ――まだチャンス(赦される機会)があるって、そう云ってくれて。

 

 告げ、ミカは制服の裾を翻し、ゆっくりと先生へと視線を向ける。その星々の煌めく瞳が瞬き、彼女の口元には微笑みを浮かんでいた。月光が、彼女の輪郭を淡く彩る。

 まるで躍る様に、彼女のヘイローが揺らめき、廻る。

 先生を制止するように突き出した腕を払い、ミカは云った。

 

「だから先生は先に進んで、サオリと、スクワッドと――ちゃんと生徒を救ってあげて」

「ミカ……!」

「……先生、私の事は何でも知ってるんでしょう? なら、これも知ってるよね」

 

 どこか悪戯っぽく、それでいてお道化る様に、彼女は破顔する。

 ミカは小さく息を吐き出すと、その愛銃を無造作に構えた。片腕で突き出す様にして向けられたそれは、型なんて大したものではない。ただ彼女にとってこの日、初めてきちんと構えた格好だった。

 思い切り地面を踏み締め、ミカは自身の腕に力を籠める。だが必要以上に力まない、大切なのは力を籠める事ではないのだ。重要なのは巡る神秘、それを一点に集中させて撃ち出す事。

 足元から揺らぐ様な風が吹き、ミカの髪を舞い上げた。

 その中で、彼女の()が煌めく。

 

「私って――結構強いんだから」

 

 ――Gloria Patri(グロリア・パトリ)

 

 迸るそれは、閃光の如く。

 ミカが引き金を絞った瞬間、轟音が打ち鳴らされた。

 強烈な光が網膜を焼き、ミカの構えた愛銃から放たれた弾丸は宛ら極光の如く直進し、その進路上に存在した敵を軒並み吹き飛ばす。ユスティナ聖徒会が紙切れの様に消し飛ばされ、宙を舞っていた。

 瞬く間に肉薄した弾丸は佇んでいた聖女バルバラの胸元に直撃し、強烈な爆発を生み出す。爆発で内壁が抉れ、衝撃波がミカを、先生を襲う。咄嗟に屈んだ生徒達の髪を、衣服を靡かせ、無数の破片がその肌を打った。先生に飛来したものは、ミカが全てその身で受ける。しかし、彼女は微動だにしない。

 

 爆発の衝撃でバルバラの身体が後方へと押し込まれ、その両足が石床を削り、電車道の如く二本の跡を残す。軈て停止したバルバラは胸元から吹き上げる蒸気、そして僅かに汚れた衣服を見下ろし、ゆっくりとその視線を――ミカに向けた。

 ミカは自身の一撃を受けて尚、余裕の佇まいを見せるバルバラに鋭い視線を向ける。

 

「――亡霊なら、ヘイローを壊しちゃうなんて、怖がる必要ないもんね? 最初から全力で行けそうだよ」

「……ミカ」

「先生、こんな事、今更って思われるかもしれないけれど」

 

 突き出した腕を降ろし、振り返ったミカは限りなく透明な、淡い色を滲ませ。

 綺麗に笑って、云って見せた。

 

「私を信じて」

「――……」

 

 逡巡があった。

 だが、それ以上に胸を掻きたてる何かがあった。今の彼女に嘘はない、何処までも純真な、真摯な想いだけがある。それは善意か、思い遣りか、だからこそ先生はそれが難しい選択であると知りながら、強く歯を噛み締め。

 

「――分かった」

 

 それでも、頷いて見せた。

 

「……ふーっ、ふふッ」

 

 先生からの返答を聞き届けたミカは、砕けた自身の足元、その破片を蹴り飛ばし、軽くコンディションを確かめる。調子は悪くない、傷は少し痛むが想定内。まだまだ戦えると云う確信がある。

 ミカはそれを確かめると徐に振り向き、サオリ達の背後にあった瓦礫の山に銃口を向け、トリガーを引いた。

 瞬間、先程と同じように極光が奔り、凄まじい衝撃と共に軽々と瓦礫の山を吹き飛ばす。風圧と舞い上がる砂塵に目を細めれば、回廊を封鎖していた瓦礫の山は綺麗さっぱり消し飛ばされ、天井にはぽっかりと穴が空いていた。

 散乱した瓦礫、作り出された風穴を見つめながら、サオリは呆然とミカを見た。

 ミカはその視線を受け止めながら、顎先で道を示す。

 

「――行きなよサオリ、時間、無いんでしょ?」

「………」

「此処は、私が守るから」

 

 手を払い、その背中を見せるミカ。其処には言葉には出さずとも、伝わる想いがあった。サオリはぐっと声を呑み込み、立ち上がる。

 その背中に、続く影があった。

 

「先生、此処は私達にお任せを」

「……ハルナ?」

「流石のミカさんと云えど、この数とあの怪物三体相手は厳しいでしょう、しかしそれは彼女単独であればのお話――丁度此処には、美食研究会(私達)と忍術研究部が居合わせていますから、全員で掛かれば何とでもなりますわ」

「うぇっ、わ、私達もぉ……!?」

 

 先生の肩を掴み、そう宣うハルナに対し、自然と巻き込まれたミチルは思わず驚愕の声を漏らす。ハルナはそんな彼女に対し、何処までも悠々とウィンクを返して見せた。

 震える腕を押さえつけ、恐る恐る視線をスライドさせるミチル。その先には佇む聖女達と、ミカの一撃を受けて尚、まだまだ数を残すユスティナ聖徒会の群れ。それを目にしながら、ミチルは内心で叫んだ。

 

 ――アレ、見るからにヤバそうな奴なんだけれど……!? 何かこう、見た目がもう悪の黒幕とか、そういう感じなんだけれどぉ……!?

 

 自分だけならば、まだ良い。万が一失敗したり、負けたとしても、喪われるのは自分自身だけだ。

 けれど今は違う、今この場にはイズナとツクヨ、それにワカモが居る。彼女達を巻き込んで、こんな見るからに途轍もない存在と戦う事を、ミチルは躊躇していた。

 

 彼女達が傷付く事が怖い。

 仲間を失う事が、恐ろしい。

 

 そんな思いと共にちらりと、ミチルは背後を盗み見る。

 しかし、そんな部長の内心は見透かしていると、知っているとばかりにイズナとツクヨの両名は、力強い瞳と共に頷きを返した。まるで自分達を見ると分かっていたかのような反応だった。

 それは、彼女(ミチル)に対する信頼に他ならない。

 それを見て、ミチルは自身の怯懦を噛み殺す。

 此処で逃げると云う選択肢は――無かった。

 だから両手を力強く握り締め、腹の底から絞り出した声で叫んだ。

 

「~ッ! に、忍者に二言なし! 先生殿を守る為に来たんだし、なんかめっちゃ強そうな怪物の一人や二人、私達なら何とかなるに決まってる! 忍術研究部を舐めるなぁ~ッ!」

「部長、御供しますっ!」

「わ、私も、全力で、お相手します……ッ!」

 

 ミチルが愛銃を担いでミカの元へと駆け出せば、その背中にイズナとツクヨが素早く続く。自身の背を駆け抜けて行く忍術研究部を見つめながら、サオリはその表情を微かに変化させた。胸中に湧き上がる、何か、表現できない色がある。

 

「錠前サオリ」

「っ……!」

 

 ふと、サオリの肩を掴む影があった。

 背を震わせ振り向けば、自身を真っ直ぐ凝視する狐面が視界一杯に広がる。

 

「あの御方を御守りしなさい、その命に代えても、もし万が一の事があれば――今度こそ、私が貴女を始末します」

 

 影からぬるりと現れたワカモは、そう云って黄金色の瞳でサオリを射貫く。自身の肩を掴む手には、万力の様な力が込められていた。サオリは数秒、驚愕に身を強張らせていたが、彼女の声を聞き届け。

 それから喉を鳴らし、ゆっくりと、しかし力強く頷いて見せた。

 

「私の名に――いいや」

 

スクワッド(家族)の名に、誓って」

「………ふん」

 

 瞳の奥に輝く絶対の意思。

 その返答に、ワカモは鼻を鳴らすとサオリの肩を離した。そして裾を翻し、忍術研究部の後に続く。その背中を、じっとサオリは見つめ続ける。ワカモに掴まれた肩には痛みとは違う、何か熱が込められていた様な気がした。

 

「ハルナさんの仰った通り、思ったより早くストレス発散の場がやって来ましたね~♪」

「コイツ等、どっから湧いて来ているのよ……!? 十五、二十、二十五――これ、下手すると百人くらい居ない!?」

「わわっ、え、えぇと、これ、弾足りるかなぁ……? 残りの弾薬は、えっとぉ……」

「ふふっ、弾が無くなったら最悪、拳で――という選択肢もありますわ」

「いや、それ出来るのってごく一部の奴だけだよね!?」

 

 忙しなく、そして喧騒と共に足を進める美食研究会。ハルナが片腕を掲げて軽く二度、三度揺らせば、それだけで彼女達はいつものフォーメーションを構築する。スクワッドの、先生の目の前に生徒達による防衛網が築かれて行く。

 その中央に立つミカが振り返り、先生に向かって力強く叫んだ。

 

「さぁ、先生――行って!」

「っ……!」

 

 回廊に、集った生徒達の声が響く。

 

「あなた様、どうか――ご無事で!」

「背中は私達が絶対守るから! あっ、でもなるべく早く帰って来てねぇ~!?」

「主殿、御武運を……! イズナは、無事のご帰還を信じています!」

「私達は、絶対に、負けません……! だから、安心して、背中を預けて下さい!」

「私達がお相手します、突き抜ける優雅さで――! えぇ、ですから……凱旋をお待ちしておりますわ、先生」

「ふふっ、終わったら一緒に食事の約束、忘れないで下さいね☆」

「な、なるべく頑張るけれど……! これだけ苦労したんだから、ご飯は奮発してよね!」

「はむっ、むぐ……ッ! 弾はあんまりないけれど、おやつはあったから! んんッ、エネルギー充填! よぉし、大丈夫、任せて先生!」

 

 月明かりに照らされ、並ぶ生徒達。目前に対峙するユスティナ聖徒会の群団と比べれば、余りにも小さく、ささやかな戦力に見えるだろう。けれどその輝きは何物にも勝り、星々の輝きにだって負けはしない。その意思が、心が、彼女達を遍く照らし、輝かせていた。

 その背中を先生は目を細め、見つめ続ける。

 

「リーダー、先生!」

「い、急ぎましょう……!」

 

 回廊の向こう側から、自分達を呼ぶ声が響く。振り返ればヒヨリとミサキが、自分達に向かって声を上げていた。サオリは足元に転がっていた自身の愛銃を拾い上げ、最後にもう一度ミカを――生徒達の背に視線を向ける。

 

「――サオリ、行こう」

「………」

 

 先生が、手を差し出した。

 それをじっと見下ろし、サオリは深く息を吸う。それだけで胸が、身体全体が軋み、鈍痛を発した。けれど、今はそれが気にならない程に強い感情が沸き上がっていた。

 サオリは背を向けたまま、ミカの、彼女の名を呼ぶ。

 

「ミカ」

「……なぁに」

 

「――ありがとう」

 

 告げ、サオリは先生の手を取った。

 先生がサオリの腕を引き、駆けて行く。最後に振り返り、ユスティナ聖徒会と対峙する生徒達を一瞥し、その瞳に強い光を湛えながら――再び前を向く。

 先生に手を引かれ、回廊の奥へと駆けて行くサオリ。

 その背中を見送って、ミカはふっと苦笑を零した。

 

「謝ったり、御礼を云ったり、ほんと――忙しない奴」

 

 呟き、前を向く。

 立ち塞がる有象無象、幽鬼の如く佇むユスティナ聖徒会、聖女、出来損ないの亡霊。ミカはそれらを一瞥し、大きく手を広げる。ひんやりとした風が少しだけ傷に沁みて、けれど今はそれすらも気にならない。

 

「――あなた達は通れないよ」

 

 声には、強い意思が込められていた。

 降り注ぐ月光を全身に浴びながら、彼女はゆっくりと足を進める。

 

「此処から先は、私が……」

 

 告げ、同時にコツリと靴音が鳴る。それに目を見開き、ミカが左右に視線を飛ばせば。

 彼女が一歩踏み出した分だけ、他の生徒が――忍術研究部が、美食研究会が、同じ一歩を踏み出していた。

 その表情が物語る。

 

『貴女ひとりの戦場ではありませんわ』

『ふふっ、食べ放題ですねぇ』

『全員ぶっ壊してやるんだから!』

『ちょっとはお腹が膨れたし、今の私は多分いつもよりすっごいよ!』

『皆で戦えば、何とかなるよね……!?』

『今こそ、忍の本懐を果たす時……!』

『此処は、私が、守ります……!』

『早急に排除し、あの方を御守りせねば』

 

 ――声に出さずとも、伝わって来るような声。

 随分と騒がしく感じたが、それが存外嫌でない事に、ミカは自分自身で驚いた。

 

 聖園ミカは、決して一人じゃない。

 

 その事実を噛み締め、ミカは薄らと笑みを湛えたまま。

 超えるべき試練(苦難)を前に、告げた。

 

「此処から先は――私達が守るから」

 


 

 次回 『その信念(想い)は、誰か(あなた)を救えるか。』

 



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その信念(想い)は、誰か(あなた)を救えるか。

誤字脱字報告、大変助かりますわ~!


 

 地下回廊を駆ける足音。それは周囲に反響し、月明かりに照らされた影が次々と内壁を過っていく。スクワッドはアツコの囚われているバシリカの至聖所に向けて、全速力で駆けている最中だった。前衛はヒヨリとミサキ、その後ろに先生とサオリが続く。後方で生徒達がユスティナ聖徒会を押し留めているとは云え、あれがアリウス自治区の全戦力であるかは分からない、バシリカ方面から新たなユスティナ聖徒会が投入される可能性もあった。故にヒヨリとミサキの双方は、愛銃を抱えたまま薄暗い回廊に視線を巡らせ、その神経を尖らせ続けている。

 儀式は既に開始されている、今は一分一秒が惜しい。兎に角前へ前へと懸命に足を動かすスクワッド――しかし、そんな彼女達の中で唯一、僅かに動きの鈍い人影があった。

 

「はぁ、ハッ……!」

 

 サオリだ。

 スクワッドの中で、明らかに彼女だけが激しく消耗していた。

 サオリは荒い息を繰り返し、その血の気の失せた顔で必死に足を動かす。しかし、如何に精神が踏ん張ろうとしても、肉体は限界を迎えようとしている。先行するミサキやヒヨリと比べて、彼女の一歩は短く、緩慢だった。

 何日も続いたアリウスの追撃、そこから美食研究会との戦闘、避難通路での攻防戦、ユスティナ聖徒会の奇襲、そしてミカとの死闘――連戦に次ぐ連戦、負傷に次ぐ負傷。最早彼女の身体は何処を見ても傷だらけで、痛々しい何て表現では足りぬ程に傷に塗れている。

 それでも尚意識を保ち動けている事自体が奇跡と云えた。

 だが、彼女の戦いはこれで終わりではない。この後に本命とも云うべき戦闘が控えている、彼女はその戦いの為に此処まで足掻いて来たのだ。

 故に、まだ倒れる事は許されない。

 サオリの手を引き駆けていた先生は、その弾む息を呑み込み彼女の名を呼んだ。

 

「サオリ」

「だい、丈夫だ、先生、足を、緩めるな……私は、まだ、走れるとも……!」

 

 先生に手を引かれながら、サオリは途切れ途切れにそう声を上げた。青痣だらけで、恐らく口の中も切っているのだろう、舌を回すだけで痛みが頬を刺してくる。それでも彼女の意思は固く、ただ前だけを向いていた。その声には、先程までには存在しなかった重々しさを伴っていた。それは彼女にとって初めて感じた強い情動。これまではただ、家族を助けたい一心で此処までやって来た。その気持ちは今も変わらない、優先事項はそのままだ。

 けれど、それだけではない、彼女の肩に圧し掛かった『想い』が確かにあった。

 ふと、彼女は口を開いた。吐息の混じった、途切れ途切れの言葉で、必死に何かを伝えようとする。

 

「先生、私は、私はずっと、間違った道を歩んで来た、その道の過程で、多くの人を傷付け、取り返しのつかない罪を犯して来た……その道に、ミサキも、ヒヨリも、アツコも、アズサさえ巻き込んだ、私の罪悪は、明確で、絶対的だ」

「………」

「そんな――そんな大きな過ちを犯し続けた私の為に、力を貸してくれる生徒が居たんだ……分かるか、先生? 確かに私は、あの瞬間託されたんだ、もう絶対に、手を差し伸べてくれる人なんて居ないと、そう思っていたのに」

 

 先生の手を握るサオリの手に、ぎゅっと力が込められた。不意にサオリの目尻から、涙が零れ落ちた。その表情は歯を食いしばったまま、苦悶に歪んだままだというのに、彼女が静かに流した涙は余りにも透明で、混じりけの無い色をしていた。

 それは罪悪感だとか、感動だとか、そういう類の涙ではない。ただ彼女の中にあった、巨大な罪悪の形に、ほんの少しでも、僅かでも触れてくれた生徒に対する深い感謝と敬服の表れだった。

 逆の立場だったら、自分の大切なものを悉く奪われたら、果たして自分は彼女達の様にその背を守る事が出来るのか? その銃口を逸らす事が出来るのか? 薄暗い暗闇の中で生まれ、泥水を啜って育ち、偽りと拒絶の教えと共に今日まで生きて来た彼女にとって、その在り方は眩く、気高く、余りにも輝いて見えた。

 

「許された訳じゃないと、分かってはいる、けれどこれは、もうスクワッド(私達)だけの戦いじゃない、私には、義務が……いいや、敢えてこう云わせてくれ――私には、責任があるんだ、あの声に、想いに、応える責任が」

 

 俯き、震えそうになる足で懸命に地面を踏み締めながら、彼女は腹の底から絞り出したような声で呟く。そうだ、自身には応える責任がある――あの想いに、優しさに、気高さに、応える責任が。少なくともサオリは、そう強く信じる。

 それが先生ありきの奇跡だという事は理解していた。それでも、ほんの僅かでも良い、自分の為に背を向けた彼女達に報いたいと、サオリの心はそう叫んだのだ。

 サオリは血の滲んだ指先を握り締め、声を張り上げる。

 

「あの光に報いる為にも、私は、絶対に――アツコを、助けなくちゃいけない……!」

 

 一歩、彼女は強く地面を蹴り飛ばす。ぐん、と彼女は加速し、先生の隣に並んだ。先生は傷に塗れて尚、その向こうに辿り着かんとするサオリを見て――故に、その足を一瞬止める。

 手を繋いでいたサオリは、引っ張られる形で体勢を崩した。今まで全速力で駆けていた先生が急停止したのだから然もありなん。後方に逸れる形となったサオリの身体、目を見開いたまま硬直する彼女の手を離し、肩に手を回すと――もう片方の腕を膝裏に潜り込ませ、先生は勢い良くサオリを抱き上げた。

 サオリは突如地面から離れた両足、そして急激に近付いた先生の顔に驚き、目を丸くする。そして自身が先生に抱えられている事に気付くと、困惑を滲ませながらその肩を掴んだ。

 

「っ、先生、何を――!?」

「私は」

 

 サオリを抱えたまま、先生は駆け出す。ヒヨリとミサキの背を追って、息を弾ませ、全速力で。骨が軋む、筋肉が悲鳴を上げていた。決して軽くはないサオリと、その装備を抱えながら、先生はそれでも地面を蹴り飛ばす。自身の身体に籠る熱を感じながら、大量の汗を流しながら先生は云った。

 

「私は、いつも生徒に背負われてばかりだけれど、こんな私にも、役に立てる時はあるんだよ」

 

 そう、自身はいつもそうだ。肝心な時に生徒達に背負われ、情けない姿を晒して来た。だからこそ生徒が倒れそうな時、苦痛に喘いでいる時、ほんの少し、僅かな時間でも構わない――こんな時ぐらい、彼女達を抱えられなければ、大人の矜持が泣いてしまう。

 自分だって一杯一杯だと云うのに、それでも先生は何でもないかのように笑って告げる。

 

「ほんの少しでも良い、身体を休めてサオリ、代わりに私が、走るから……!」

「―――」

 

 そう云って前を向く先生に、サオリは暫く呆然とした表情を向けた。けれどその感情を受け取り、俯いた彼女は先生の汗と血の滲んだシャツを握り締めながら、小さく呟く。

 

「……ありがとう、先生」

 

 声は、足音に掻き消されて届く事は無い。けれど確りと、先生の心には届いた。サオリの掴んだ先生の肩越しに、確かに伝わるものがあったのだ。その瞳を閉じ、サオリは心の中で告げる。

 

 もっと早く、幼い頃に先生と出会っていれば、そう思った事は何度もあった。或いは出会わなければ、そうすればこんな風に苦しむ事もなかったんじゃないかって。諦観と安寧の内に、希望を知らずに沈んで行けたのではないかと。

 しかし、それでもサオリは強く思う。

 

 ――私は、お前と出会えてよかった。

 

 ■

 

「此処は――……?」

 

 百合園セイアが気付いた時、その身は全く見覚えのない場所に存在していた。上も下も、何もかもがあやふやで知覚できない夢の狭間。その中でただ少しずつ蝕まれていく自身の肉体を苦痛と共に眺める事しか出来なかったセイアは、唐突に切り替わった世界を前に困惑する。その場所は彼女をして記憶にない場所で、かと云って夢の狭間の様にあやふやではない、確かな景色と立体感、現実味がある。それらを前にして暫し呆然としていたセイアは、周囲を見渡しながら我に返る。

 自身の足を支える木板、天井に描かれた特徴的な紋様、松の絵画、それでいて綺麗に重なった障子と遥か向こう側に見える山岳に蒼穹――浮かぶ雲を眺めながら、セイアは呟いた。

 

「蜃気楼、いや……この光景と様式は、百鬼夜行自治区、か?」

「ふぅむ、お客様かのぅ?」

 

 声がした。

 それは本当に、何の気配も感じさせずにセイアの目の前に佇んでいた。息を呑み、素早く振り返ったセイアの視界に飛び込んで来たのは、白い狐――否、彼女は狐ではない。着崩した和装に膨らんだ尻尾を携えた、生徒だった。その手に煙管を摘まみながら、軽く木板の床を踏み締めながら歩く彼女は、セイアを興味深そうな瞳で以て見つめる。

 

「此処に妾以外が足を踏み入れるとは、初めての事じゃのう、不可思議な事もあるもの……して、如何してこの様な白昼夢に(まみ)えたのじゃ?」

「貴女は、誰だ? 私を認識……出来るのか?」

「ふむ――」

 

 セイアは愕然と、そう呟く。今の今まで白昼夢の中で自身を認識できたものは居なかった。未来か、過去か、少なくとも彼女が観測する世界の中でその傍観者たる存在を認識できる事は異例であった。何せ、セイアは本来その世界の住人ではない、云わば軸の異なる存在――いや、そもそも目の前の彼女は、何処にいる? 此処は、未来か、それとも過去か? それすら、セイアには分からない。

 その混乱を察したか、何度か頷いた彼女は、セイアの表情を揶揄う様な瞳で見つめながら、告げた。

 

「何やら、訳有り――らしいのぅ」

 

 煙管から立ち上る煙が、ゆらりと揺らいでいた。

 

 ■

 

「つ、着きました……!」

「バシリカの、至聖所――!」

 

 地下回廊を駆け続ける事、暫く。息を切らせ前を指差すヒヨリ、その視界の中に崩れ落ち、夜空に包まれた大聖堂が見えて来た。巨大なホールの中に聳え立つステンドグラス、罅割れ、砕け、散乱する瓦礫と石柱。夜空から差し込む月光と星々がステンドグラスの模様を地面に伸ばし、スクワッドはその出入口に差し掛かる地点で足を止める。息を弾ませ周囲を観察するミサキとヒヨリ、先生もまた彼女達に続いて足を緩め、大きく肩で息を繰り返す。流れ落ちる汗は、半ば冷汗と化していた。

 

「先生、此処で、降ろしてくれ」

「……うん」

 

 サオリが先生の背中を叩いて呟き、先生は頷きながらそっとサオリを地面に降ろす。両足で床を踏み締めた彼女は、その調子を確かめる様に何度か踵を叩いた。崩れ落ちた瓦礫の影、ステンドグラスの向こう側、祭壇の裏、それらに視線を飛ばしながら慎重に足を運ぶミサキは、視線をサオリに向ける事無く問いかける。

 

「リーダー、身体は?」

「大丈夫だ、先生のお陰で少し休めた――最後の一戦位は、もたせてみせる」

 

 ミサキの声に応えながら、サオリは静かに愛銃の弾倉を検める。弾薬は決して多くない、しかし何とか、一戦を交える程度ならば残っている。残念ながら爆発物の類はミカとの戦いで出し尽くしてしまったが――例え弾薬が尽きようとも、彼女は決して諦めるつもりなどない。その意気を感じ取ったミサキは、それ以上追及する事無く口を噤む。幾ら心配の言葉を掛けようと彼女は歯牙にも掛けまい、その確信があった。

 

「……だ、誰の姿も、見えませんが」

「もしかして、謀られた――?」

「いいや、違う」

 

 辿り着いたは良いものの、周囲にはそれらしい影一つ見えない。その事に不安げなヒヨリと、顔を顰めながら呟くミサキ。

 しかし、先生は確信と共に首を振った。

 その視線はバシリカの最奥に存在する、長い祭壇に向けられていた。第六感、或いは備わった嗅覚とでも云うべきか――先生の奥底に眠る本能が告げていた。

 

 彼女は、直ぐ其処に居る。

 

「――果たして、辿り着きましたか」

 

 それを証明するかのように、彼女は虚空より姿を現した。

 唐突に、まるで空間から滲み出る様に。黒々しい気配を撒き散らしながら宙から祭壇の上へと顕現した彼女は、その扇子を大きく振るい、バシリカに乾いた音を響かせる。その純白のドレス、黒髪がふわりと靡き、紅の眼光が先生とスクワッドを射貫いていた。

 

「ベアトリーチェ」

 

 先生が彼女の名を告げる。

 彼女は先頭に立つヒヨリとミサキ、そして満身創痍のサオリ、最後に自身の宿敵を眺め、何処か感心する様に口を開いた。

 

「……アビドスでの失敗、それを踏まえた上での計画変更――万全に万全を重ね、弾頭を落とし、生徒を人質とし、その脆弱な肉体に鉛玉さえ撃ち込んだと云うのに、手綱の切れた猟犬(スクワッド)を従え、よもや本当にこの場所(バシリカ)まで辿り着くとは」

 

 そこには、彼女らしからぬ感嘆の色があった。彼女は全力だった、本気で先生を潰す為に今日まで動き続けていた。それでも尚、こうして満身創痍でありながら、この場に立つ彼に対してベアトリーチェは薄らと笑みを浮かべる。其処には反する二つの想いがあった、憎々しいと叫ぶ心と、良くぞ此処までと感じ入る心が。

 

「いえ――恐らく心のどこかでは確信していたのでしょう、あなたが此処に辿り着くであろう事は、何せあなたは……このキヴォトスに於ける唯一無二の【先生】なのですから」

「此処までだよ、ベアトリーチェ――あなたの暗躍も此処までだ」

 

 一歩、前へと踏み出した先生が告げる。ベアトリーチェはそんな彼の姿を真っ直ぐ視界に捉え、ゆっくりと扇子で口元を隠した。

 

「……いいえ、まだです、既に儀式は進行しています」

「……!」

 

 瞬間、ステンドグラスの前に陽炎の如く現れる奇妙なオブジェクト。星の様にも、華のようにも見えるそれは高く聳え立ち、スクワッドの、先生の視界の中に飛び込んで来た。それを見上げたミサキとヒヨリが、思わず声を荒げる。

 

「姫――ッ!」

「姫ちゃん……!」

 

 十字架の如く、或いは僅かに傾いた奇妙な恰好で磔にされたアツコ、それが件のオブジェクトに重なって見えた。ガスマスクで顔を覆い隠し、インナー姿で紅の蔦に絡めとられた彼女は、ぐったりとした姿のまま動かない。剥き出しになった腕や足には幾つもの打撲痕や切り傷が散見され、まるで拷問を受けた後の様な悲惨な状態だった。

 否、実際それに近しい扱いを受けたのだろう。より苦しむ様に、より痛みを叫ぶように、より絶望する様に――何度も、何度も。

 ベアトリーチェは磔にされたアツコの前に立ち、その姿を仰ぎながら淡々と言葉を呟く。

 

「ロイヤルブラッドの神秘を搾取し、キヴォトス外から到来する力を借りて……私はより高位のものへと昇華しています、以前の消耗分も大分回復しました、そして何より、此処(バシリカ)は私の真の領域――」

 

 ゆっくりと、ベアトリーチェはその踵を返す。靡いた黒髪が月光を反射し、幾つもの視線が先生を見つめる。手にした扇子を勢い良く畳み、手の中に落とした彼女は暫し感傷に浸る様な恰好で目を細め、云った。

 

「先生、不可解な大人、私の敵対者よ、私達はこの世界を通じて各自が望む事を追求しています、そう、それはあなただって同じ、何になる事も出来るし、全てを知ることだって出来る、私はただ、より高位の存在となりキヴォトスを救いたいだけ――それが大人の責務だから、その道中で失われる命は、必要な犠牲(捧げられる子羊)だったと、そう割り切る事もまた強さであると、そう信じているのです」

「………」

「いいえ、今更な事ですね……あなたはそれを認められない」

 

 淡々と、彼女は事実を述べる。

 不干渉で居る事はあり得ない、それはベアトリーチェも、先生とて同じだ。二人の大人としてのスタンスは致命的に噛み合わない、それは今まで対峙して来た双方、共に心の底から理解している真実だった。

 ゆっくりと目を閉じた彼女は摘まんだ扇子で顎先を撫でつけ、呟く。

 

「ならば後は互いの矜持を証明するのみ、果たして、あの銀狼の云う通りの結末となるか、或いは――」

「――用意された運命に意味など無い」

 

 その言葉を振り払い、先生は力強く告げる。踏み締めた地面から擦れた音が響き、先生の指先が懐からシッテムの箱を取り出した。

 起動したモニタの青白い光、それが先生の表情を照らす。

 月光と交じり合う光は淡い輪郭を浮かび上がらせ、力強い蒼がベアトリーチェを射貫いた。

 

「例えどれだけの苦痛があろうと、苦難があろうと、その先に皆が待ち望む希望の明日があるのなら、諦観の内に訪れる安寧など望みはしない――私は、それを否定する為に、此処に居る」

「……えぇ、そうでしたね、あなたは常にそう在った」

 

 運命に抗い、足掻き、跳ね退け、それでもと叫び続けた果て――それこそが先生。

 どれだけ完璧に見えても、限りなく最善に近くても、誰かが欠けた未来を、誰かが喪われた未来を、先生は認めない。その為ならば自ら苦難の道を選び、安寧を退け、傷に塗れる道を肯定する。ベアトリーチェはそれを、良く知っている、そう自負する。

 その意思の強さを、信念の強固さを。

 

「故にこそ……!」

 

 だからこそ、ベアトリーチェもまた、全力で以て立ち塞がる。その扇子を宙へ投げ捨て、その腕を掲げながら高らかに宣言する。彼女を中心に巨大な風が巻き起こる、それは周囲の瓦礫片を吹き飛ばし、先生の外套を揺らした。

 

「私はあなたを否定するッ! 今此処で、完膚なきまでにッ!」

「―――」

 

 宣言と共に、ベアトリーチェの肉体が、存在が変質していく。その身体は人型のものから異形のものへ、崩れ落ちた天井の向こう側、夜空より降り注ぐ紅の月光――それを浴びて成長する一凛の華。その足は根の様にバシリカを伝い、木の枝のように枝分かれした翼を模した骨格が伸びる、蕾の様に閉じた顔面が、紅を浴びて開花する。花弁一枚一枚に張り付いた瞳、眼光、背に顕現する赤の円環(ヘイロー)――血を吸い上げ、大輪を咲かせる花か、大樹の如く、彼女はその存在をこの場に晒す。

 空を仰ぐ様に両手を広げたベアトリーチェ、そして完全顕現を為した彼女は両手を交差させ、同時に絶叫した。この身を圧し潰さんと放たれる重圧、紅の波動、びりびりと肌を打つそれに押し出され、スクワッドは思わず顔を顰める。

 

「こ、これは……!」

「これが、マダムの本当の姿……!」

「一度、目にはしていましたが、あ、あの時よりも……!」

 

 その変貌を、変身を目の当たりにしたスクワッドの面々は愕然とした表情で呟く。ヒヨリはアビドスでの一件でその本質を理解していたが、目の前の怪物はあの時スコープ越しで見つめた姿よりも、一層悍ましく、恐ろしい存在に見えた。それはロイヤルブラッドを搾取し得た力によるものか、或いはこうして実際に対峙したが故のものか。

 それらを一瞥する事無く、ベアトリーチェは紅に染まった両手を掲げながら叫ぶ。

 

「世界の滅亡と、創世の権限……そう、破壊と創造の絶対者、それが私の追い求めた理想――! その断片を取り込んだ私は、より崇高へと近付いたッ!」

 

 細く、巨大な手が天を抱えんと伸ばされる。降り注ぐ紅の月光は彼女にとっての福音か、それを浴びて脈動する無数の根は、今なおロイヤルブラッドから全てを搾取せんと蠢いている。

 

「先生! 私の唯一無二の敵対者よ! この運命にあなたは抗えるかッ!?」

「――当然だ」

 

 ベアトリーチェの恐ろしい容貌、そして言葉に――先生は何処までも淡々と応える。その手に掴んだシッテムの箱、ベアトリーチェを見据える瞳、そこには僅かな怯懦も見当たらない。

 

「此処があなたの領域であろうとも、一度破った姿、ならばもう一度やってやれない事はない……!」

「ふふっ、その大言壮語……しかし、あなたが口にしたものであれば許しましょう、至高の器、その到達点の一つ――」

 

 告げ、彼女は想い返す。ベアトリーチェの脳裏に焼き付いて離れない、己を射貫いた一撃。アビドスで受けたあの強烈な神秘は、彼女の自尊心と矜持、信念を大きく傷つけた。自身が手を伸ばしても決して届く事が無かったその器、アレに対抗する為にベアトリーチェは数多の犠牲を強いて、準備してきたのだ。

 故に彼女は、その身に滾る戦意を昂らせ叫ぶ――。

 

「さぁ、切りなさい、先生――あなたの、切り札(カード)をッ!」

 

 その紅に輝く瞳、それらを一斉に開きながら彼女は促す。

 先生の切り札、その発現を。

 それを踏み越え、克服し、初めて自身はより高位の存在に近付く事が出来る。

 これは慢心ではない、ベアトリーチェという存在がこれから先、この道を歩むために必要な――儀式なのだ。

 

「……いいや、私はカードを切らない」

「何――?」

 

 だが、予想は裏切られた。ベアトリーチェの声に対し先生は切り札を用いる事はしないと、そう断言したのだ。ベアトリーチェの瞳が先生の持つタブレットに向けられる。そこから漏れ出る光は確かに、嘗てのあの光景と比べれば余りにもちっぽけで、弱々しい。其処には彼女の期待した膨大な神秘も、光も見られない。

 

「これは、アリウス・スクワッドが断ち切るべき鎖だ、生徒達が必死に藻掻き、自らの力で『成長』しようとしている――それを助けるのが、大人の仕事だろう」

 

 この戦いは、アツコ救出という絶対に負けられない戦い。その場所で切り札を切る事は決しておかしな選択ではない。寧ろ、正しい選択とも云えるだろう。

 しかし、サオリの想い丈をぶつけられた時、先生の中に強い感情が芽生えた。それは期待に似ている、いつか暗闇の中で項垂れ膝を折っていた彼女達が、自らの意思で、力で、その場所から脱しようとしているのだ。

 彼女達は今、自分達の力で成長しようとしている。

 

「この、私と」

 

 その言葉を聞き届けたベアトリーチェは、ゆっくりとその細長く巨大な指先でスクワッドを指す。

 

「そこの子ども(木っ端)が、三人」

 

 彼女の視線には、底知れぬ苛立ちと探る様な色が滲んでいた。

 

「――たったソレだけで、私に勝てると?」

「――私はそう云ったよ、ベアトリーチェ」

 

 問い掛けに、先生は確固たる口調で答える。

 私は、私の生徒の強さを信じる、と。

 

 先生の云うそれは、決して肉体的な強さではない。

 精神の――心の強さだ。

 諦めないと、抗うのだと、そう決めた者の持つ意志の強さ。それは運命を、未来を、世界(自分自身)を変え得る唯一無二の力。どんな物事にも意思が介在しなければ始まらない、一歩を踏み出そうと考えない者は歩みを進められない、走る事も出来ない、そうだ――彼女達には無限の可能性がある。

 

 何故ならスクワッド(彼女達)は、まだ歩き始めてすらいないのだから。

 

「あなたは克服すべき過去、彼女達にとっての楔、だからこそあなたという存在を乗り越え、彼女達は本当の意味で陽の当たる場所へと踏み出す事が出来る……これは、その最初の一歩」

 

 ――その一歩を、此処から始めるのだ。

 

 支配からの脱却、暗闇からの決別、陽の当たる場所で笑い合う幸福な未来への第一歩。

 そして彼女達ならば、この試練を乗り越えられると信じている。

 

「……あぁ、そうだな、先生」

 

 先生の言葉に、サオリは静かに頷きを返す。ゆっくりと、口元に手を伸ばしマスクを装着する。罅割れ、血の滲んだそれは彼女の決意の証。指先で表面を撫でつけ、サオリは真っ直ぐベアトリーチェを――その奥に居る、アツコを見上げる。

 ミサキが、ヒヨリが、無言で先生の隣へと並び立った。そこには言葉に表さない、強い覚悟があった。

 

「サオリ、ミサキ、ヒヨリ――行こう、君達ならきっと、成し遂げられる筈だ」

 

 皆の、スクワッドの中で先生は告げる。全員の視線がベアトリーチェを捉える、その強大な存在を、超えるべき試練(苦難)を。それぞれが、それぞれの意思を秘め。

 

「怖がる必要はない、苦しい時、辛い時、膝を折りそうになった時、思い出して欲しい、君達が戦い続ける限り――君達の背には、必ず私が立っている……!」

 

 三人の背中に、先生の手が添えられた。其処には暖かさ以上の強い何か、信頼が込められていた様に思えた。全員の両腕に、両足に、何か表現できない様な力が宿り戦意が奮い立たされる。精神的にも、体力的にも、スクワッドに余裕はない、皆が皆全力を振り絞った上でこの場所に立っている、満身創痍だ。そんな彼女達からすれば、目の前のベアトリーチェ(怪物)は余りにも強大で、恐ろしく高い壁に見えた。

 けれど、不思議と絶望を感じる事はなかった。暖かな光が、まるで太陽の様な何かが、自分達を照らしている。自分達は見守られている、信じられている、その想いが、真実が、彼女達の疲れ果てた体と心にほんの僅かな、けれど種火となる力を与えてくれた。

 月明かりが彼女達の表情を浮かび上がらせる。

 その瞳には、力強い光が宿っていた。

 ヒヨリがその恐怖を噛み殺し、口を開く。

 ミサキが、唸る様な声と共に彼女を睥睨する。

 

「ぜ、絶対、姫ちゃんを助けるんです……!」

「あの怪物を此処で倒して、全部終わりにする」

「先生――」

 

 サオリがスクワッドの先頭に立ち、その愛銃の安全装置(セイフティ)を弾く。ベアトリーチェから一陣の風が吹き、彼女の外套と長髪が靡いた。ゆっくりと顔を上げた彼女は、聳え立つベアトリーチェ(マダム)に挑む様に、声高らかに叫んだ。

 

「頼む、私に(家族)を――アツコを、救わせてくれ!」

 

 ――あぁ、勿論。

 

 響き渡るそれに、先生はシッテムの箱を掲げる事で答える。

 至聖所に満ちる光の波動、先生の掲げた腕から発せられるそれはスクワッドを包み込み、月光と星明りの中で一際強い輝きを生んでいた。

 その光景を、瞳を細めながら眺めるベアトリーチェは呟く。

 

「たかが木っ端が三人、あの神秘(あの生徒)とは比べるべくもない……しかし」

 

 アリウス・スクワッド。

 三人の事をベアトリーチェは知悉している、何せ幼い頃より育て上げたのは他ならぬ彼女だ。大多数の中で比較的使い勝手の良い駒、その様に扱って来た彼女達の戦力は確かに高い。しかし自身とは比べるまでもなく、そしてベアトリーチェの中にある望外の神秘――在りし日の奇跡(大人のカード)で顕現した存在(生徒)と比較すれば正に天と地ほどの差がある。

 内包される神秘は月と鼈で、技量に於いても比較するのが烏滸がましい程の差がある様に感じた。加えてこの場は彼女の領域、地の利も、実力の差も、肉体の状態でさえ、自分に分がある。満身創痍の子ども()が三匹、それで一体何が出来るというのか。彼女の冷静な思考がそう告げる。

 

 ――しかし。

 

「私は決して侮らない、私はあなたを、決して――故にこそ、その小さな光諸共、全力で屠って差し上げます……!」

 

 ベアトリーチェは決して生徒を――先生を侮らない。

 この者が介在した時、その運命が、未来が捻じ曲がる事を知っている。どれ程不利な状況でも、どれ程絶望的な状況でも、この者が膝を突く事はあり得ない、諦める事はあり得ない。最期のその瞬間まで、先生はその強靭な意思と絶対的な力と共に全てを覆す可能性を秘めている。

 だからこそ彼女は油断しない、慢心しない、侮らない。

 先生を、目の前のこの、ちっぽけな三人を――彼女は最大の脅威と見なし、全力で排除せんと躍動する。

 

 至聖所に、バシリカに、紅の空気が蔓延する。世界を塗り替えるような息苦しさ、圧迫感、子どもを搾取し己を高める彼女を表現する様に、自身を中心とした世界の在り方を――今この場に於いて彼女は証明する。

 目に見えない赤が伝搬し世界を覆い隠す、スクワッドと先生の退路を彼女の権能が断った。全身を圧し潰さんと奔る紅の波動、圧迫感に抗いながら、先生は真っ直ぐベアトリーチェを見据える。

 両手を広げたベアトリーチェが、迎える様に吼えた。

 

「さぁ、来なさい、我が生涯に於いて最大の宿敵――ッ! 今度は腕一本と片目だけで済むとは思わない事ですッ! その信念が、この運命に打ち勝てると証明してみせなさいッ!」

「私の体など、どうでも良い、だが――生徒達(彼女達)の希望ある未来だけは返して貰うッ!」

 

 叫び、紅と蒼が衝突する。先生の光がスクワッドを包み込み、全員のヘイローが一斉に光り輝いた。全員の視界に一瞬ノイズが奔り、その指先にひりつく様な痛みを感じる。だがそれ以上に、自身の中に流れ込む想いが、熱がある――それを噛み締め、力に変えて、紅を掻き分け一歩を踏み出す。

 恐れを知らず歩む事と、恐れを知って歩む事には、大きな違いがある。

 恐怖を知り、絶望を知り、それでも尚踏み出す一歩。

 

 ――人はそれを、勇気と呼ぶ。

 

「行こう、皆……!」

 

 その声が、スクワッドの背中を押した。見上げる程巨大な試練を前に、彼女達は強い意志と共に対峙した。燻る恐怖があった、憂いがあった、不安があった、けれどそれ以上に――助けたい(家族)が居た。

 その家族を視界に捉えながら、彼女達は歯を食いしばって一歩、また一歩と進む。

 自分達を支配した大人の前に、ベアトリーチェの前に。

 克服すべき、試練(苦難)の前に。

 

 先生の掲げた腕が振り下ろされ、その声がバシリカに轟いた。

 

「アリウス・スクワッド――出撃ッ!」

「了解!」

 

 彼女達は、この信念(想い)が、アツコ(スクワッド)を救えると信じている。

 



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いつか陽の下で笑い合う少女(子ども)達へ。

誤字脱字報告に感謝を捧げますわ~!


 

「アリウス・スクワッド――出撃ッ!」

「了解!」

 

 その声と共に弾ける光、先生を中心に感じ取れる力の波動。スクワッドのヘイローが爛々と輝き、その気配を強く変化させる。それを見つめるベアトリーチェは、確信と共に呟いた。

 

「あの光は、やはり……っ!」

 

 生徒は、先生と繋がる事で強化される。それが先生の切り札で呼び出された存在ではないにしろ、通常の数倍、下手をすれば数十倍のポテンシャルを引き出す。それが自身の力と比較すれば余りにも小さな振れ幅であったとしても、彼女は油断しない。この状態から更に戦力を引き上げるような秘策が、或いは力があるかもしれない。

 故に彼女が取った選択は、実に合理的だった。

 

「初手より全力、出し惜しみなど考えません――!」

 

 告げ、彼女は両の手を月光に晒し、紅の光を収束させた。風を巻き起こし、収束する紅の光は凄まじい濃度を誇り目に見える形でその脅威度を高めていく。そして収斂した光を突き出し、両手を合わせたベアトリーチェはその矛先をスクワッドに向けた。

 

「塵芥と消えろ、人間ッ!」

「――!」

「先生!」

 

 一拍後、凄まじい轟音と共に射出される――紅の極光。

 石床を砕き、飛来する光をスクワッドは散開する事で辛うじて避けた。サオリが先生の肩を抱き、すぐ横へと身を投げる。瞬間、鮮やかな紅色が通過し、背後にあった内壁に光は直撃、壁は音も無く消し飛び、巨大な空洞だけが残った。頬を撫でる熱風がその威力を物語り、通過した石床はグズグズと溶け落ち、蒸気を噴き出していた。

 それを見たスクワッドの面々は戦慄と共に呟く。

 

「っ、なんて馬鹿げた威力――」

「これは、直撃すれば一瞬で意識を持って行かれるな……!」

「な、何とか逃げ回りながら攻撃するしか……!」

 

 直線状の全てを退け、消し飛ばす砲撃――だが決して万能ではない。

 発動には確かな溜が必要であり、射出直後には隙も出来る。先生は地面に這い蹲ったまま、ベアトリーチェを指差し叫んだ。

 

「ミサキッ!」

「……!」

 

 その視界にターゲットマークが表示される。意図を察したミサキは素早くセイントプレデターを構え、トリガーに指を掛けた。

 

「――了解」 

 

 短い応答と共に砲口が火を噴き、弾頭が射出される。崩れ落ちた天井スレスレまで上昇した弾頭は空中で炸裂し、分裂する。幾つかに分かれた子弾頭はそのままベアトリーチェ目掛けて直進し、その巨躯に次々と着弾――爆発を巻き起こした。

 爆風と熱波がスクワッドの頬を撫で、外套を揺らす。並みの敵であれば打倒し得るだけの火力がある。

 だが――。

 

「温い――ッ!」

 

 ベアトリーチェは爆発を受けて尚、微動だにしない。外皮を舐める炎を掻き消し、彼女は噴煙を握り締め叫んだ。

 

「この程度の弾頭で、私の外皮を抜けるなどと……!」

「いいや、これで良い!」

 

 しかし、元よりこれはダメージを狙っての攻撃ではなかった。ベアトリーチェの肌に伝わる、何者かの気配、そして足音。はっと、彼女が視線を向けた時――爆炎を裂き、地を駆けるサオリが直ぐ足元まで肉薄していた。

 煤に塗れ、血の滲んだ両手で愛銃を握り締め、彼女はベアトリーチェの外皮を蹴飛ばし宙に舞い上がる。星々に照らされ虚空を舞うサオリの視線とベアトリーチェの瞳が一瞬交わった。

 

「――この部位(眼球)ならば、外皮は張れないだろうッ!?」

「!」

 

 突き出される銃口、同時に発砲、乾いた銃声が轟き弾丸はベアトリーチェの花弁(顔面)に着弾する。そして間髪入れず風切り音が鳴り、ベアトリーチェはサオリを腕で薙ぎ払った。それを身を反らして避け、着地と共に受け身を取って距離を取るサオリ。

 

「ちっ……ッ!」

 

 彼女は立ち上る砂塵越しにベアトリーチェを睨みつけ、舌打ちを零す。手応えはあった、弾丸も確実に着弾している、しかし。

 

「確かに弾丸は直撃した……だが――!」

「ふふっ」

 

 巻き上がった粉塵を両腕で掻き分け、ベアトリーチェはその花弁を突き出す。そこには細められ、嘲笑う様に歪められた幾つもの瞳があった。

 

「以前の私とは違うと、そう云った筈です」

 

 銃撃を受けた花弁――その瞳は無傷。

 外皮が存在しない眼球に弾丸を受けて尚、彼女には傷一つ存在しなかった。その事実に先生は顔を顰めながらも、しかし冷静に弾丸を防いだ存在、力の根源に言及する。

 

「――権能か」

「その通り!」

 

 先生の言葉に、ベアトリーチェは両手を広げ歓喜と共に叫んだ。これこそ彼女が先生の切り札に対し用意したひとつの解答。バシリカという真の領域、それに加えて儀式によって齎される力、その断片を用いた権能による一定濃度未満の神秘の無力化。

 これがある限り、余程強烈な一撃でもなければ彼女自身の外皮(はだ)に触れる事さえ許されない。

 

「まだ儀式は完遂しておりません、ですがその一部は既に私を崇高に近しい領域へと押し上げてくれている……ッ! その程度の神秘では、私に傷一つ与える事すら不可能――!」

「ヒヨリッ!」

「っ、は、はい!」

 

 間髪入れず、先生は指示を叫んだ。

 ミサキの砲撃、サオリの弱点部位への銃撃、それらが防がれた――ならば大口径弾頭はどうか。こと貫通力という一点に限れば、これほど有用な攻撃も無い。ヒヨリの視界にターゲットがマークされ、咄嗟に愛銃を構えたヒヨリはその場で立射を敢行。独特な重低音を打ち鳴らし、発射された弾丸はベアトリーチェの顔面に向け直進した。

 

「小賢しいッ!」

 

 しかし、態々それを受ける必要もない。飛来するそれをベアトリーチェは驚異的な反応速度で以て腕を振り、叩き落とす。硬い物体同士が衝突する甲高い音が鳴り響き、弾丸は後方のステンドグラスに着弾、破砕音と共に硝子を打ち破った。振り払ったベアトリーチェの指先、そこから蒸気が噴き出る。

 

『っ! 先生、今のは……!』

「――成程、そうか」

 

 先生はその一瞬を、確かに視認していた。

 アロナのサポート越しに見える、空間内部のエネルギー推移。ベアトリーチェの周囲を覆い隠す見えない不可思議な力、権能。しかし、弾頭を防いだ瞬間、或いは何かと接触する瞬間、それは確かな熱量を以て集中しているのだと分かった。数秒、先生は自身の頭の中で策と段取りを組み替える、そして一つの解答に辿り着き、スクワッドに目配せを送った。

 

「サオリ、ミサキっ!」

「……!」

 

 声と共に、視界に指示が表示される。ベアトリーチェの不可思議な力によって攻撃が無力化される以上、何かしらの対策は必須だと理解していた。二人は先生の声に頷きながら、指定されたルート通りに足を動かす。

 

「……何か策があるんだよね、先生」

「先生の命令に従う……!」

 

 告げ、左右に分かれて駆け出すミサキとサオリ。素早く動く二人の影を、ベアトリーチェの複眼が捉える。その両手、指先に深紅を纏いながら彼女は思考を回す。

 サオリの火力は然程脅威ではない、至近距離で発砲されたとしても自身の外皮を穿つ事は困難だろう。ならば先に屠るべきは、一撃の火力が重いミサキか。

 

 ――何て、その様な事を考える筈もない。

 

 二人を向いていたベアトリーチェの花弁()が、ぐるりと旋回し先生を見つめた。無数の瞳に捉えられた先生の身体が強張る。その肌を、殺意とも戦意とも取れる色が突き抜けた。

 

「私が屠るべきは――最初からひとりッ!」

「……っ!」

 

 そう、地面を這う子どもなど後からどうとでも出来る。故にベアトリーチェにとって真っ先に排除すべきは先生一人。この大人さえいなくなれば、あらゆる物事は終結するのだから。

 

「消えなさい――ッ!」

 

 ベアトリーチェの花弁に光が収束し、それらは無数の光線へと姿を変え、放射状に放たれる。足元に居たサオリやミサキ諸共先生を焼き払わんと飛来するそれ、咄嗟にミサキとサオリは地面を転がって避け、サオリは先生とヒヨリに向けて叫んだ。

 

「ヒヨリッ!」

「は、はいっ!」

 

 先生の直ぐ傍に立っていたヒヨリが愛銃を脇に挟んだまま、先生の腕を掴む。そして素早く担ぐと同時、外周を巡る様に駆け出した。着弾する光線が無差別に周囲を焼き払い、その内の一発がヒヨリの背嚢を掠め、横合いのポーチが焼け落ちた。中から丸めた雑誌が幾つも転がり落ち、端から燃えていくのが見える。肩に担がれた先生は燃え盛り、消えていくヒヨリの雑誌(宝物)を見つめながら、思わず叫ぶ。

 

「ぐっ、ヒヨリ、背嚢(雑誌)が――!」

「そ、そんなのどうだって良いんです……ッ!」

 

 燃え盛り、消えていく彼女の宝物。しかし、ヒヨリはそれを一瞥もしない。先生を抱え、必死に駆ける彼女の声色は本気だった。

 

「無くなったら、また集めれば良いんですから――っ! 本当に大切なものには、替えられませんッ!」

 

 零れ落ちて行く雑誌を一瞥する事無く、懸命に足を動かすヒヨリ。光に照らされたその赤の混じった表情から汗が零れ落ちる。先生は彼女の意思を感じ取り口を噤み、数秒後何かを堪える様に目を瞑り、タブレットを握り締めたままベアトリーチェに肉薄するミサキとサオリに向けて叫んだ。

 

「ベアトリーチェの狙いは私だ、ヒヨリ、このまま足を頼む! サオリとミサキは――」

「火力集中、でしょう……!」

 

 弾頭の再装填を終えたミサキが、再びベアトリーチェへと砲撃を敢行する。今度は分裂する代物ではなく、一発の威力と貫通力に重きを置いた弾頭を装填した。この手のものは残弾が少なく、連発は出来ないが出し惜しむ気はない。

 トリガーを絞り、射出されたそれは白い尾を引いてベアトリーチェに向けて直進し、着弾、爆発が巻き起こる。

 確かに直撃を確認した、しかし――マダムの巨躯は健在。それどころか微かな煤の汚れ一つ見えなかった。その結果を目の当たりにしたミサキは口元を歪ませ、吐き捨てる。

 

「っ、硬い、これで抜けない何て……!」

「―――」

 

 サオリはその光景を視て、じっと何かを思案する素振りを見せた。ミサキの砲撃ですら突破出来ない鉄壁の守り、それを自身が撃ち抜けるとは思えない――しかし、だからと云って諦めると云う選択肢はない。

 サオリは大きく息を吸い込み、ぐっと身を沈めると同時、告げた。

 

「ミサキ、援護を頼む……ッ!」

「っ……リーダー?」

 

 サオリがベアトリーチェ目掛け全力で駆け出し、飛来する紅の攻撃を掻い潜りながら地面を這う様に接近する。ミサキは何か策があるのかと驚愕し、即座にサイドアームを抜いて援護射撃を行った。乾いた銃声が後方から鳴り響き、幾本かの攻撃がミサキへと流れる。それを横目に、サオリはただ前だけを見つめていた。

 肉薄するサオリの姿、それを無謀な突貫だと思ったのか嘲笑い指差すベアトリーチェ。

 

「はッ、非力な子どもが、何度やって来ようとも……ッ!」

「いいや――!」

 

 サオリは愛銃を抱え、叫ぶ。声は荒々しく、しかし同時に奇妙な静けさを孕んでいた。前を見つめるその瞳には何か、燃え盛る様な火が在る。

 サオリは自身の意識を嘗てない程に、握り締めた愛銃へと集中させていた。スクワッドに配属され、支給品として手渡されてから徹底的に手に滲ませ、時には危ない橋さえ渡り独自にパーツを調達し、カスタムした愛銃。その扱いと性能については、他の誰よりもサオリは熟知している。求めていたのは効率のみだった、確実に動作し、必要な時に必要な性能を引き出せれば良かった。

 けれど今は、それだけでは足りない。

 求められるのは爆発力、性能を超えた力。

 銃だけではない、サオリの肉体自身にも、同じ事が云える。

 

「数で攻めるな、一発に込めろ、全てを、私の、文字通り全てを――ッ!」

 

 全身全霊、いや、それでも足りない。血の一滴、髪の毛に一本に至るまで、力を振り絞った上で尚、限界を超えた先――。

 呟き、両手で強く愛銃を握り締める。思い返すのは、この目にこびり付いたいつかの生徒が放った一撃(アビドスのホシノ)。全てを穿ち、突き進み、力の象徴とも云えた輝きだった。あの巨大な怪物を一撃で屠り、風穴を空けた光景に――あの日のサオリは憧れた。

 あんな力があれば、あれ程の強さがあれば、きっと自分も何かを守る事が出来たのではないかと。そんな思いと共にずっと脳裏に張り付いて消えなかった一撃だった。

 あれと同じ一撃を放つ事が出来たのならばきっと、マダムの権能を突破する事も叶うだろう。

 その確信が、サオリにはある。

 

 虚しい、全てはただ、虚しいだけだ――誰もそこからは逃れられない。

 

 それはきっと真実だ、自分達は未だその円環の中に在る。その想いを、教えを、サオリは振り払う事が出来ない。恐らくそれは今だけではないだろう、この先、もし生き長らえるとしても延々にその教えに、真実に苦しめられる事になる。

 

「だが――ッ!」

 

 胸中に湧き上がる想い、それを噛み締め、サオリは叫ぶ。

 全ては虚しい事なのかもしれない。

 全ては無意味な事なのかもしれない。

 でも――それでも。

 

「それでも、抗う事に意味はある筈なんだ……っ!」

 

 全てが無意味に終わるとしても、抗う意思にこそ価値がある。

 その想い(意志)が――奇跡を手繰り寄せる。

 それをサオリ()は、アズサから教わった。

 叫び、彼女は地面を踏み締める。その踵が石床を砕き、深く沈み込むと同時、銃口をベアトリーチェへと突きつけた。

 

「その事を思い知れ――ベアトリーチェッ!」

 

 いつか自身が努力の果てに放つ事が出来るかもしれない一撃。それを為せるのは一年後か、三年後か、五年後か、それとも十年後か? しかし、それでは遅い、遅すぎるのだ。

 自身は、錠前サオリは――今、この瞬間にこそ奇跡(困難を打ち破る力)を欲していた。

 故に足りない分は彼女の根源、その命に等しい力で以て支払われる。全身の産毛が逆立ち、彼女の心臓が凄まじい勢いで鼓動を開始する。みしり、と骨格が、筋肉が軋む音がした、それはサオリをして嘗て感じた事の無い様な苦痛を伴った。

 しかし、それを噛み殺し、彼女は引き金を絞る。

 地面を踏み砕き構えた愛銃、瞬間、そこから放たれるのは一発の弾丸――だがソレに込められた神秘は、今までの彼女からは考えられない程に収斂され、磨かれた一撃であった。

 

 マズルフラッシュが網膜を焼き、銃声が轟く。反動でサオリの身体が沈み込み、周辺を凄まじい衝撃が襲った。円型に抉れる地面、銃口から放たれた弾丸は青白い光を放ち、宛ら流星の如き速さで以てベアトリーチェへと肉薄する。

 脳裏に存在する、あの生徒が放った神秘砲――それを不完全だが、真似た。

 

 自身の中に残る全ての力を出し尽くす覚悟で放たれたそれは、ベアトリーチェの意表を突き、防御も回避も許す事無く、その肩を捉える。着弾の瞬間、強烈なフラッシュと甲高い破裂音、同時にベアトリーチェの上体が仰け反り、弾丸は外皮を貫通し中程まで抉り込んだ。

 

「――ッ!?」

 

 知覚できる痛み、そして吹き出す赤に目を見開き、ベアトリーチェは咄嗟に自身の周辺へと衝撃波を生み出す。無造作に放たれたソレによって周囲に散らばっていた瓦礫が吹き飛び、サオリもまた同じように抗う事も出来ず吹き飛ばされる。被っていた帽子が脱げ、宙を舞う彼女を、地面に衝突する寸前ミサキが何とか受け止めた。

 

「っ、リーダー!?」

「ぐぅッ……!」

 

 全身から蒸気を吹き上げ、肩で息を繰り返すサオリ。異常な熱を持つサオリを抱えたミサキは、思わず目を見開く。明らかに真面な状態ではなかった。

 

「ぅッ、はっ、はぁッ……! 大丈夫、だ……!」

「リーダー、これの、どこが……!」

「信じろ、ミサキ……!」

 

 だが、それを無視してサオリは尚も立ち上がる。抱えようとしたミサキの腕を払い、覚束ない足取りで一歩、二歩と進む。

 その瞳は、決して死んでいない。

 彼女の肉体は、限界に達していた。これ以上は最悪、ヘイローに影響が出かねない――しかし、止める事は出来なかった。

 

「私を、信じろ――ッ!」

「……っ!」

 

 その言葉が、振り返り、自身を射貫く瞳が――伸ばそうとするミサキの手を止めたのだ。ミサキは数秒唇を噛み締め、俯く。だが迷っているだけの余裕はない、抱えたセイントプレデターを担ぎ直し、覚悟を決めてサオリの隣へと並ぶ。

 限界を超える、それは何も彼女だけに限った話ではない。

 これはスクワッド皆で超えるべき困難なのだ。

 見上げた視線の先、佇むベアトリーチェは自身の肩を穿った弾丸、その穴を凝視していた。

 

「ぬ、かれた……っ? 私の、権能が――?」

 

 声は、明らかに動揺していた。溢れ出る血を眺めながらベアトリーチェは呆然と呟く。抜かれる筈がない防御であった、だというのに確かに、権能を突破されていた。流れ出る血はその証拠だ、先生の切り札でも何でもない、ただの子どもに。

 

「サオリ……!」

 

 サオリの放った一撃に、先生は驚愕の声を漏らす。それは彼をして、望外の戦果であり、予期せぬ一撃であった。

 

「あり得ない、たかが、こんなちっぽけな子ども如きに――私の領域で、色彩の、断片的なものとは云え、絶対者足る力が……」

「……どうした、マダム」

 

 荒い呼吸を繰り返し、ゆらりと立ち上がったサオリ。その口元を覆うマスクがボロボロと崩れ、素顔が露になる。マスクの破片が甲高い音を立てて弾け、彼女の足元に転がった。露になったサオリの口元は弧を描き、ベアトリーチェに挑発的な笑みを向ける。

 震える指先が、ベアトリーチェを指していた。

 

「御立派な大人とやらに、一矢――報いてやったぞ……ッ!」

「――……」

 

 その、姿を見た時。

 自身を嘲笑う子供を目にした瞬間。

 ミシリと、ベアトリーチェの身体が軋みを上げ。

 

「ふッ――……」

 

 彼女の怒りは頂点に達した。

 

「ふざけるなァアアアアッ!」

 

 目に見える程の激昂。

 紅の波動を撒き散らし、ベアトリーチェは天に向け咆哮する。びりびりと肌を打つ衝撃、転がる瓦礫片が地面を跳ね、ステンドグラスが次々と砕け落ちる。甲高い音を立てて地面に散らばるそれを踏み締めながら、スクワッドは冷汗と共にベアトリーチェを見上げていた。

 

「子どもがッ、搾取されるべき弱者がッ! 崇高の足元に及ばぬ木っ端がッ、この、この私にっ、このような傷をッ!? その様な言葉を――ッ!」

「ヒヨリッ!」

 

 取り乱すベアトリーチェに向けて、先生はその指先を突きつけた。空かさず鳴り響く重低音、直ぐ傍に立っていたヒヨリが即座に引き金を絞り、戦車の装甲を撃ち抜く大口径がベアトリーチェの顔面を捉えた。

 それは彼女を覆う権能に防がれる――事は無く、その花弁を強かに弾く。

 

「ぐ、ぅッ!?」

 

 弾丸は彼女の花弁、瞳の僅か脇に着弾し、その上半身が衝撃に仰け反った。外皮の表面が明らかに抉れ、僅かな出血が見られる。弾丸を発射したヒヨリが驚愕に目を見開き、声を漏らした。

 

「あ、当たった……!?」

「やはり、そういう類のものか――!」

 

 齎された結果に先生は声を上げる。それはベアトリーチェの持つ権能、それが完璧な代物ではない事を証明していた。

 

 ――彼女の持つ権能は精神状態や集中力によって左右される。

 

 云わば着弾の瞬間に密度を操作し、防御を固めるようなものだ。つまり焦燥すれば操作が覚束なくなるし、隙を突けば全く無防備な状態で攻撃を当てる事も出来る。決して無敵でもなければ、完璧でもない。

 戦い方次第では、勝ち筋は幾らでもある。

 

「今がチャンスだ、畳みかけるッ!」

「分かった……!」

「あぁ……っ!」

「は、はい……ッ!」

 

 先生の指示にミサキが、サオリが、ヒヨリが、一斉に動き出す。動揺し、権能の制御に思考が届いていない今、彼女は無防備に等しい。この状態であれば、幾らでも攻撃は通る筈だった。

 

「わ、私の権能が、あの恐るべき神秘に備えた、か、完璧な――」

 

 ベアトリーチェは自身の花弁に指先を這わせながら全身を戦慄かせる。飛来する弾丸、弾頭、数多の攻撃――それらを外皮で受け止めながら、彼女は両の手を握り締める。

 あの恐るべき存在に対抗する為に用意された代物、それがただの生徒に、そこらの有象無象に突破される。それは彼女をして、到底受け入れる事の出来ない現実であった。

 

「この様な有象無象のッ、障害などにィッ!」

 

 その怒りが、屈辱が火種となり、ベアトリーチェの全身を深紅が纏う。そこから放たれる攻撃はより苛烈さを増し、まるで癇癪の様に四方八方に向けて無造作に光が放たれた。その内の一本が、回避動作の遅れたミサキの右肩を直撃した。

 ズン、と光線の類とは思えない衝撃、同時にミサキの身体が後方へと泳ぎ、そのまま石床へと叩きつけられる。

 

「いッ!?」

「っ、ミサキ……!?」

「だい、丈夫……ッ!」

 

 地面に叩きつけられ、もんどりうったミサキは痛みに顔を歪めながらも――しかし気丈にも叫ぶ。撃たれた肩は外套ごと焼け落ち、肌が蒸気を噴き出し酷い火傷が見て取れた。僅かに動かすだけでも激痛が走り、その額に脂汗が滲む。

 しかし、ミサキは再びセイントプレデターを手に取って、立ち上がる。

 

「この、程度で、弱音なんか、吐いていられない……!」

 

 皆が死力を尽くしている。

 たった一発攻撃を受けただけで、足を止める事なんて出来ない。

 

「姫……ッ!」

 

 その視界の先に、磔になったアツコ(家族)が居た。血に塗れた姿、傷だらけの姿、それを目にするだけで胸の奥からどうしようもない感情が沸いて来る。歯を食いしばり、苦痛を呑み込み、彼女は思いの丈を叫ぶ。

 

「絶対、助けるから……ッ!」

 

 その一念のみで、スクワッドはこの場所に辿り着いたのだから。

 

「……ッ! ミサキ!」

「分かって、いる……!」

 

 ミサキの負傷に一瞬指示を躊躇した先生であったが、立ち上がった彼女の姿を見て即座に指示を視界に送信する。視界に表示されるターゲット、弾頭の再装填は既に終了している。焼け爛れた肩の痛みを噛み殺し、ミサキはセイントプレデターを構える。僅かに震える砲口、しかし狙いは外さない。

 

「もう一発、喰らわせてやる――ッ!」

 

 告げ、トリガーを絞り――発射。

 弾頭は空気の抜けるような音と共に飛び出し、同時に点火、白煙と共にベアトリーチェへと飛来し、着弾、起爆。爆炎が彼女の外皮を焼き、その花弁が暗闇の中で緋色に照らされた。

 

「ぐ、ぅッ……!?」

 

 衝撃と痛み、外皮が焼け落ち芯まで届く様な苦しみ。権能が発動していない、仮に発動していたとしても、その効力が大きく低下している。その事実にベアトリーチェの焦燥は益々深まる。

 ただの子どもに、木っ端に、こうも良い様にしてやられる事など――。

 爆炎を裂き、白煙を身に纏いながら彼女は狼狽する。

 

「何故、何故、何故ッ……! 切り札でもない、ただの子ども、私に従うべき子どもが、こうも……ッ!? こんな、異色の力が――!?」

「マダム――っ!」

 

 射撃を繰り返し、駆けるサオリは声を上げた。

 

「全ては虚しい、この生に意味は無く、この世は理不尽と絶望のみが支配していると私は信じていた! 今だって、この言葉の真実を忘れてはいない、恐らくこれから先、生き続ける限り私がこの、あなたの教えから逃れる術はないのだろう……ッ!」

 

 サオリは想う。

 そうだ、幼い頃より擦り込まれたそれを忘れる事は出来ない。その呪縛は自身を一生縛り付ける呪いとなるだろう。

 けれど。

 

「だが――だがッ!」

 

 同時に、彼女は知ったのだ。

 この世界は。

 この世界の、真実は――。

 

「決してそれだけじゃないのだと、私の家族(仲間)に教えられたッ!」

 

 想い、強く地面を踏み締める。

 真実を知って尚歩む事の出来る意思、暗闇の中であっても足掻く事を諦めない勇気。それさえあれば、どんな運命だって、困難だって乗り越えられるのだと――サオリは、それを学んだ。

 自身より遥かに小さく、けれど気高い、彼女(アズサ)の背中から学んだのだ。

 

「これは、その教えが齎した希望()だ――ッ!」

 

 サオリから放たれた神秘を内包する弾丸が、ベアトリーチェの胸元へと着弾する。それは決して無視できない衝撃と威力を以て、その巨躯を揺らし、ベアトリーチェが苦悶の声を漏らす。

 

「生きる事は苦しいし、意味なんて無い、ずっと苦痛が続くだけ……でも」

 

 ミサキは想う。

 世界は苦痛と絶望に満ちている、どれだけ頑張ったって、どれだけ足掻いたって、結局待っているのは一つの結末。ならば全ては無意味で、苦しんで死ぬか、苦しまずに死ぬか、早いか遅いかだけの違いしかない。

 けれど、その過程に価値が無いかと云われれば――そうではない。

 少なくとも戒野ミサキにとって、スクワッドと共に過ごした時間は、人生は、悪くないものだった。この仲間の為ならば多少骨を折る事位は、まぁ、仕方ないと思えるくらいには。

 だから彼女はセイントプレデターに次弾を押し込み、苦痛に塗れながらもベアトリーチェを見上げ叫ぶ。

 

「こんな酷い世界でも、それでも一緒に苦しんでいる人が居れば、少しはマシに思えるかもね……っ!」

 

 ひとりは、辛いから。

 誰かが傍に、一緒に悩んで、苦しんで、生きていく人が居るならば――こんな苦痛に満ちた世界であっても。

 生きてみようと思う位は、出来るのだ。

 

「人生は苦しくて、辛くて、酷い事が沢山ありますが――それでも、ほんのちょっぴりでも楽しかったと思える事もあるんです!」

 

 告げ、ヒヨリは繰り返しベアトリーチェに向けて発砲を繰り返す。一発撃つごとに轟音が鳴り響き、その外套と髪が靡く。

 彼女には成し遂げたい事が沢山ある、皆でやりたい事も、見たいものも、食べたいものも、体験したいものも――沢山、沢山。

 自分達はまだ世界を知らない、彼女に世界の一端を教えてくれるのは雑誌だけだ、それも何年も、何ヶ月前の情報だけれど。それでも彼女にとっては新鮮で、激烈で、希望の持てるお話だった。

 

「ま、まだまだやりたい事がありますっ……! ね、ネット小説だってまだ読みたいですしっ、雑誌の蒐集も、今月号が明日発売されるんですから……!」

 

 だから、ほんの小さな希望でも良い。皆で何かを楽しめるような、世界のおこぼれを噛み締めるような幸福で構わない。それだけが、それだけがあれば、苦しくて辛いだけの人生であっても、自分はきっと泣きながら、でも時折笑って生きていける。

 ヒヨリはそう、信じている。

 

 ――生徒達の瞳に、希望が宿っていた。

 

 それぞれの未来を、苦痛に塗れた世界であっても、(アツコ)と共に歩むのだと叫んでいる。それは彼女達の強さだ、育んだ絆が生んだ強さだ。

 決して折れない、心の強さだ。

 それは希望の叫びだった。

 

 ――希望、希望だと?

 

 ベアトリーチェは想う。

 この私の自治区で、この領域に於いて、希望を叫ぶだと?

 それは余りにもアリウスに似つかわしくない、ベアトリーチェの思う世界に相応しくない言葉だ。この苦痛に塗れ、他者を否定し、拒絶し、疑いと欺瞞の中で生きる生徒達にとって、その様な言葉は口にしてはいけない。

 何故なら、それは。

 

「なりませんッ……あぁ、なりませんッ!」

「っ!?」

「生きる喜びなどッ! 希望などっ! アリウスの、私の自治区(領域)で未来を、将来を、語る事などッ! ――許される筈がないでしょうッ!?」

 

 その巨躯が濃密な殺気を放ち、絶叫と共に両腕が振るわれる。狙いは最も至近距離に居たサオリ、彼女は飛来した左腕を辛うじて掻い潜る様にして避けるも、遅れて振るわれた右腕の掌が視界一杯に広がり――その指先が、サオリの身体を掴み上げた。

 

「ぐがッ!?」

 

 ミシリ、と。

 凄まじい握力で以て押し込まれる体。体格差から、まるで列車の突撃を受けたような衝撃が全身に走った。握り潰さんと震えるそれに、サオリの肉体が悲鳴を上げ、ヘイローが点滅した。衝撃で掴んでいた愛銃がその手から零れ落ち、軽い音を立てて床の上を転がる。

 

「サオリッ!」

「リーダーッ!」

「さ、サオリさんっ!?」

 

 先生が、スクワッドが、悲痛の声で彼女の名を呼ぶ。

 掴み上げられ、花弁の前へと晒されるサオリの肉体。両手を添え、全力でサオリを苦しませんと握り締める彼女は、その無数の瞳でサオリを睥睨しながら吐き捨てる様に声を響かせる。

 

「愚かなっ、何と矮小で無知な存在か……ッ!」

「ぅ、ぐ、がぁ――!?」

 

 右腕だけではない、左腕の力も籠められ、サオリの表情が苦悶に歪む。握り締める指先、その合間から血が滲み出す。点滅するヘイローはサオリの意識が飛びかけている証拠だ、そうでなくとも肉体的に危険域にある彼女に、これ以上の攻撃は最悪死亡(ヘイローが壊れる)すらあり得た。

 血相を変え駆け出す先生、ミサキやヒヨリが必死に攻撃を繰り返すも、幾つの弾丸を、弾頭をその身に受けようと、彼女は微動だにせずサオリだけを凝視している。

 そこには隠しきれない執着と、憎悪があった。

 

「生徒は憎悪を、軽蔑を――呪いを謳わなければなりませんっ! 子どもとは、小さき者とはッ! お互いを騙し、傷つけあう地獄の中で、私達(大人)に搾取される存在であるべきなのですッ!」

 

 花弁が不気味な紅色を放つ。朦朧とするサオリの視界に、いつか独房の中で手伸ばし、許しを請い、縋った色が見えた。ゆらゆらと揺れるそれ、痛くて、苦しくて、辛くて、我慢できなくて――それに縋れば、許しを乞えば救われると信じていた。

 それしか、道が無かった。

 そう思い込んでいた。

 

 その光が、()が、再び彼女の前に顕れた。

 

 ベアトリーチェがその両手にあらん限りの力を籠め、殺意と憎悪と敵意を滾らせ叫ぶ。その両手を、サオリを月光に、天に捧げる様に突き上げて。

 彼女の思い描く世界、完璧な世界、自身の願い救世の実現――そう、その為にも。

 

「そう、遍く全ての子ども達(全ての生徒)は、私達の贄となる(大人の為に存在する)べきなのですッ!」

「――だ、まれぇええエエェッ!」

 

 ――だが、サオリはそれ()を振り払った。

 

 あの日屈した、縋った光を退け、サオリは全力でその指先を抉じ開けんと咆哮する。その目から、鼻から、口から、幾多もの血を流し、悲鳴を上げる筋肉を酷使し、巨大なベアトリーチェの掌から逃れようと足掻く。その全身が赤く発熱し、ヘイローがその光をより一層強くする。

 ギラギラと、夜空に瞬く星々に負けぬ光を放つサオリの瞳が、正面からベアトリーチェを射貫いていた。

 

「そんな事を……っ! させる、ものかッ! お前の様な存在にッ、私の、大切な友人を――っ!」

「ッ……!」

「――私の大切な家族を、渡してなるものかァッ!」

 

 血を吐き、叫び、彼女は渾身の力でベアトリーチェの指先を押し退ける。全身赤に塗れ、満身創痍で、青痣だらけで、もういつ力尽きても可笑しくないというのに――それでも彼女の突き出した両腕からは、信じられない様な力の波動を感じた。大きさも、地力も、何もかもが異なるというのに、抗えない。

 

「こ、のッ……!?」

 

 両肩を怒らせ、全力をその両腕に込めるベアトリーチェ。震え、熱を持つ掌、だと云うのに手中にある子どもは潰れもしなければ諦めもしない。全身から蒸気を吹き上げ、歯を食いしばり、血を流し、苦痛の中で足掻き続けている。

 

 世界は苦痛と絶望で満ちている、きっとそれは間違いではない。

 けれどきっと、正しくもない。

 

 この場所に至るまで、数多の苦難があった。

 許されない罪を犯した。

 多くの誤った道を歩んだ。

 それでも――こんな罪深い己を、手助けしてくれた存在が居た。

 

 だから、私は。

 錠前サオリは。

 

「……私はッ、もう迷わない! 絶対に迷いなどしないッ! 私にまだ支払える代償があるというのならば、幾らでも支払ってやる……! 好きなだけ持って行け……ッ! 好きに奪えば良いッ! だが――だがッ!」

 

 ベアトリーチェを仰ぎ見るサオリは、その両目を見開き、鮮血と共に咆哮した。

 

「スクワッドの、家族の未来だけはッ! 絶対に返して貰うッ!」

 

 その声に応える様に。

 或いは賛同するように。

 サオリに注力していたベアトリーチェの外皮を駆け上がり、飛び上がる人影があった。

 

リーダー(サオリ姉さん)を、離せ……ッ!」

「――!」

 

 ベアトリーチェの視界に映る、ミサキの姿。彼女の外皮を駆け上がり、飛び上がった彼女はベアトリーチェの花弁(顔面)目掛けて、至近距離でセイントプレデターの引き金を絞った。

 瞬間、弾頭が発射され――炸裂する。

 緋色の爆炎が周囲を彩り、熱波が頬を焼く。爆風で自分諸共吹き飛ばされながら、しかしミサキは目下に立ち、自身を見上げる先生に向かって叫んだ。

 

「先生ェッ!」

「っ……!」

 

 その苦痛に塗れながら、しかし必死に叫ぶ彼女の表情を見て――先生は覚悟を決めた。

 

「あぁ……あぁ、勿論だ――ッ!」

 

 絶対に、応えなくてはいけない。  

 その声に、その想いに。

 

 先生の手にしたタブレットがより一層光り輝き、スクワッドの、サオリの身体に迸る青白い光。チカチカとヘイローが点滅し、痺れるような指先と溢れ出る全能感。サオリはそれを感じながら、より一層体に力を籠め、叫んだ。

 

「う、ぐ、ぁアアアアア――ッ!」

 

 ほんの僅かずつ、数センチ程度の微々たる速度で。ベアトリーチェの指先が、その両腕が押し返されて行く。サオリの矮躯からは想像も出来ない力で開いて行く己の両手を、ベアトリーチェは信じられない心地で見つめていた。

 

「ありえ、ない……こんな、力が――ッ!? 何故、どうして……ッ!」

「っ、今ですッ!」

 

 動揺したベアトリーチェの隙、それを目敏く突いたヒヨリの弾丸が、ベアトリーチェの片腕を撃ち抜いた。凄まじい衝撃と痛み、それにベアトリーチェの指先が緩み、サオリが崩れた両手のバランスを突き、その手中から飛び出す。

 自身の手首を蹴り飛ばし、花弁(顔面)に向けて跳躍するサオリを、驚愕に見開かれる無数の瞳が捉えた。

 

「なッ……!」

「私は――ッ!」

 

 ()に塗れたサオリが、月光に照らされ彼女(マダム)へと肉薄する。その両手には何も握られていない。脅威となる筈もない。だと云うのに、ベアトリーチェは彼女から視線を逸らす事が出来ない。

 

「今度こそ、私は――ッ!」

 

 その両手を力一杯握り締め、彼女はベアトリーチェへと臨む。

 

「その名に懸けて、私の家族を守り通すと誓ったッ!」

 

 繰り出される、彼女の拳。

 それは最も原始的な暴力、型も戦法もクソもない、ただ膂力と神秘で以て殴りつけるだけの技だ。サオリが知る限り、こんな戦い方を好むのは聖園ミカ位なものだった。

 けれど、それでも決死の覚悟で放たれたそれはベアトリーチェの花弁に直撃し、凄まじい衝撃と打撃音を生んだ。その巨躯が揺らぎ、上半身が仰け反る。風圧が二人の間を吹き抜け、互いが弾かれるように距離を取った。

 

「ぐ、ぅゥッ!?」

「ぐぁ――ッ……!」

 

 弾かれ、仰け反るベアトリーチェ。

 反動で吹き飛ばされ、虚空を泳ぎ、地面へと落下するサオリ。

 彼女の身体が硬い石床に叩きつけられる寸前、その合間に滑り込む人影があった。

 

「サオリ――ッ!」

 

 先生だ。

 宙から落ちて来る彼女の身体を、先生は全力で駆け受け止める。人ひとり分の衝撃はかなりのもので、先生は彼女を受け止めた瞬間、堪え切れず背中から地面に叩きつけられた。体を突き抜ける衝撃と痛み、それに苦悶の声を上げながらも、しかし両腕の中で確りと抱き留めたサオリが無事である事に安堵する。

 顔中血に塗れ、蒼褪めた彼女の目元を指先で拭いながら、先生は大きく息を吐いた。

 

「ぜっ、ハッ、ぐぅ――!」

「リーダー!」

「サオリさん……!」

「大丈夫、息はあるよ……!」

 

 苦悶に歪み、それでも呼吸を繰り返すサオリに安堵するスクワッド。先生は彼女の肩を強く抱きしめ、ベアトリーチェを見上げる。当の彼女はサオリに殴りつけられた花弁、その部分を執拗に撫でつけ、呆然としていた。

 

「こ、子どもが……私にッ、よくも――」

 

 戦慄く肩、そこから滲み出るのは屈辱と恥辱、そして堪え切れぬ怒り。

 

「この様な、暴挙を――ッ!」

「サオリ」

 

 先生はベアトリーチェの怒りの声を遮り、再度サオリの名を呼ぶ。その乱れた前髪を指先で払い、慈愛に満ちた笑みを彼女に送る。その震えていた瞼が開き、胡乱な視線が先生を捉える。サオリの視界には、自身を見下ろす先生と、スクワッド(家族)の姿が映っていた。

 彼女を見下ろしたまま、先生は優し気な口調で続ける。

 

「良く……良く叫んだ、良く望んでくれた――その意志こそが、その想いこそが、何よりも尊く大切なものなんだ」

「せ、んせい――……」

 

 抗う意思、その一歩を踏み出す勇気。

 自身の行きたい道を微塵も疑う事無く、それを突き通すのだと叫ぶ事の出来る心は、とても大切なものだ。それが本当に、心の底から望んでいるものでなければ、彼女がベアトリーチェに打ち勝つ事は出来なかっただろう。

 だからこそ先生は、彼女のその強さを称える。感じ入り、涙すら零しそうになる。

 

 故に――此処から先は、自身が果たすべき責務(仕事)だ。

 

 先生はサオリを抱えたままゆっくりと立ち上がり、ベアトリーチェを睨みつける。

 対峙した二人の視線が交差し、先生はその瞳に絶対的な意思を乗せ告げた。

 

「大丈夫――君達には光り輝く道が続いている、スクワッドの誰かが欠けた未来なんかじゃない、君達家族全員が揃ったハッピーエンドが待っている」

 

 そう、スクワッドは見せた。その未来を、その可能性を――その道に至る輝きを、確かに。

 ならば、その背中を押し、その未来を実現する為に手助けするのが(先生)の役目だ。

 この役目だけは、絶対に譲れない。

 譲ってなど、やらない。

 力強く一歩を踏み出す、いつかの様に、その巨躯を見上げ挑む。

 

 守るべき生徒を、その背中に負って。

 

「私が必ず――そうさせる!」

聖人(先生)……ッ!」

 


 

 物語もいよいよ大詰めですわ、前編・後編・後編2と続いて来たエデン条約編も終わりが近付いていると考えると、大変感慨深いですね。

 スクワッドは此処まで大変頑張りましたわ。前編・後編と暗躍し、先生を始めとした多くの生徒を傷付け、その罪悪を背負いながら血反吐を吐いて、苦痛に喘いで、心身を賭して、この場所まで突き進んできましたの。

 と云う訳で次は先生に血反吐を吐いて貰いますわ。

 生徒だけに良い恰好をさせない――そんな素敵な大人が、私は大好きなのです。

 



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終幕の火

誤字脱字報告に感謝致しますわ!
一日遅れて申し訳ありませんの、「インフル流行ってますわね~」とか呑気に過ごしていたら、私がインフルになりましたわ~!
皆さんもマジでお気をつけ下さいまし!


 

「ベツレヘムの星、生徒達のラビ……この様な輝きを、その力を持つ大人が、何故、こうも――」

「ベアトリーチェ」

 

 対峙するベアトリーチェと先生の視線が交差する。花弁に彩られた瞳の中には、動揺と焦燥が滲んでいた。

 そうだ、彼はいつだってそうだった。

 この大人は、先生は、自身の想定を必ず上回って来る。その時、その一瞬は弱々しく、小さな光だと云うのに、対峙した瞬間、余りにも小さな可能性を彼は必ず掴み取る。どれ程無理だと思われても、不可能だと語られても、それでも彼の者は挑戦をやめず、諦める事を知らない。

 

 ――それは運命に似ている。

 

 マエストロの云う様に、或いはゴルゴンダの表現した様に、彼が関わった瞬間にその道筋が、在り方が大きく変質するのだ。それは悍ましくも輝かしく、ベアトリーチェにとっては羨望を覚える程の圧倒的な力の片鱗だった。それは肉体の強弱に依らない、世界を云々する事が出来る力だ。

 世界(運命)を変える、絶対的な力だ。

 

「子どもが搾取される世界が肯定される真実など私は到底受け入れられない、その様な理由が存在しているというのならば、私はその理を正面から否定する――未だ名も無き小さな光、未来(生徒)を犠牲にして得られる力を、私は認めない」

 

 先生の腕が、サオリを強く抱き締める。傷だらけで、血と汗と砂利に塗れ、今尚暗闇の中で足掻き続ける彼女を。

 子ども達が苦痛と絶望の中で涙を流し、犠牲にされ続ける世界など絶対に認められない。それを否定する為に、自身は此処まで歩き続けた。たった一人でも、ほんの僅かな光でも、喪わない為に。

 自身の思い描く、幸福な未来の為に(生徒皆が、笑い合える世界の為に)

 

「二度と、二度とだ――ッ! その捻じれ曲がった思想を私の生徒に聞かせるな……ベアトリーチェ!」

「……ッ!」

 

 その声が、バシリカに響き渡った。

 鋭い刃の様な両目がベアトリーチェを射貫く。痛みすら覚える視線の強さに、彼女は思わず花弁を覆い、天を仰いだ。

 

「あぁ、先生、高潔で哀れな救世主よ……!」

 

 アリウスと先生を覆う巨躯、その影がゆっくりと揺らぐ。

 それは紛れもない、感傷だった。

 

「子どもに世界は救えない、弱者に明日は訪れない、ならば何を排しても力を得る事こそが大人の役割……! 強者に成る事こそが、頂きに至る為に必要な条件! あなた程の人間が、何故それを頑なに理解しようとしないのですか……ッ!?」

「弱者を切り捨てた未来に何がある!? 小さな光すら失った世界に、一体何の価値が――!?」

「世界は残りますッ! 世界と云う万物の器が……! その世界に君臨し、また良き世を創れば良い! 絶対者ならばそれが出来ます、そう、あなたの様な絶対者ならば――!」

 

 絶対的な力を持つ存在ならば、それを為せる。例え世界が荒廃しようとも、多くの犠牲が生まれようとも、そこからまた創り直せば良い。世界を救う為ならばどれ程の犠牲であっても許容されるべきだ――それこそが強さ、それこそが大人の役割、他者の命を左右出来る圧倒的な存在。絶対者に至る事こそ、彼女の本懐に他ならない。

 ベアトリーチェの手が先生へと伸びる、その指先を見つめながら彼は顔を顰めた。其処には滲み出す様な憤怒が存在していた。

 

「――そんな事の(絶対者に至る)為に、彼女達を犠牲にしたのか……ッ!」

 

 己の大願を成就させる為に――。

 幾人もの無垢なる生徒の希望を奪い。

 その心を偽りの教えで染め上げ。

 空と陽の光を奪い。

 底なしの陰の中へと引き摺り込んだ。

 それは余りにも傲慢で、悪辣な行いであった。

 

「その通り――ッ!」

 

 それを、彼女は肯定する。

 為して来た行いに何ら恥じるものは無いと、痛痒も感じぬと、彼女は高らかに叫んで見せた。その花弁には、何の後悔も悲壮も浮かんではいない。

 

(絶対者)に全てを捧げ、(絶対者)の為に生き、(絶対者)の為に死ぬ……そうです! それこそが、真なる献身(子羊)というもの! その生に意味など無く、全ては虚しく無意味なもの! それこそが子どもにとって最大の幸福であると(幸福を知らぬ事こそが幸福であると)知らずに! ――何故それが分からぬのですッ!?」

「どこまでもッ……!」

 

 ミシリと、先生の握り締めた拳が軋みを上げた。その額に青筋が浮かび上がり、全身を燃えるような熱が駆け巡る。ぶわりと、その毛が逆立ち瞳の奥に剣呑な光が宿った。それは生徒の可能性を、その光を否定する行為だ。あらゆる可能性を、道を摘み取る行為だ。

 踏み出した先生の足が瓦礫片を踏み砕き、彼は怒りと共に咆哮を轟かせた。

 

「――どこまで行っても、お前(あなた)は外道のままで在り続ける!」

「――そうですッ! これこそが私!」

 

 見開かれた無数の瞳が、絶叫と共に光を灯した。

 外道、邪道、非道、大いに結構。目的の為ならば手段を選ばず、自身の大願の為であればあらゆる犠牲を容認する。其処に至るまでに築き上げた屍が、無数の犠牲が、軈て彼女の道を証明するものとなるだろう。

 その上に立ち、世界を統べるものこそ大人(わたし)だ。

 彼女の思い描く、大人の為の世界だ。

 

「あなたは云った、私は愛を求めていると、否、その様なものを求めているのならば、この身に宿るはたった一つ――自己愛のみ!」

 

 自身(ベアトリーチェ)が持つ愛、もしそんなものが在るとするならば、それは自己愛以外にあり得ない。彼女はそう断言する。

 他者を顧みず、犠牲を顧みず、自身の思うがままに振る舞い圧倒的な力で以て全てを為す絶対者――それこそ自身(ベアトリーチェ)の在るべき姿だ。

 子どもに意味を与える唯一無二の存在、全てを捧げ、絶対の貴ぶべき存在。

 その愛が他者に与えられる事など在り得ない。

 超越者とは、絶対者とは、孤高なる者だからだ。

 

 故に――。

 

「私は、私の道を往き、その願いを成就させるッ! それ以外のあらゆる物事は全て些事! 全てを犠牲に、その骸で築き上げた道の先で、私は世界を救う存在へと昇華するのですッ!」

 

 数多の屍の上に立ち、築き上げた犠牲の頂きに立った、その瞬間こそ――自身の在り方は肯定される。己の正しさは証明される。世界を救い、遍く子どもに己を仰がせた時、幼き頃より求め続けた大願は成就する。

 

 彼女はそう、信じている。

 

「私は、その為に此処にいるのです(この世に生を受けた)ッ!」

「―――ッ」

 

 叫び、彼女が月光を仰ぎ手を伸ばした瞬間――爆発的な力の波動が生まれた。

 

 それは肌を打つ強烈な威圧感、風と共に流れる悍ましい気配、世界が一気に深紅へと引き摺り込まれ、バシリカ全体が赤に染まる。降り注ぐ月光がベアトリーチェを照らし、その輪郭が煌々と輝き始めた。

 

「っ、これは……」

「な、何ですか!?」

「――周囲が、昏く……?」

 

 唐突な変化、世界の変貌にスクワッドは戸惑いを露にする。周囲から光が、その輝きが消えていく。徐々に深い闇へと落ちていく世界、その中でベアトリーチェだけが煌々と輝いている。

 狼狽するスクワッドを一瞥もせず、ベアトリーチェは真っ直ぐ先生を睨みつけながら宣言した。

 

聖人(先生)ッ! 御覧なさいッ! これが私の最期の輝き……ッ! あなたの幕引きに相応しい、正真正銘最大の絶望を今、私自らが与えましょう――ッ!」

「……!」

 

 彼女の掲げられた両腕、その掌、身体全体から滲み出る紅――それらが帯のように収束し、収斂し、巨大な渦を巻き起こす。それはいつかの再現、アビドスで放たれた彼女の渾身の一撃と同じ代物。

 しかし此処は彼女の持つ真の領域、加えて断片とは云え色彩の力を得た彼女の行使する力は莫大である。その権能も、神秘の欠片も、溜め込んだあらゆる力を放出し、彼女の云う通り最大にして最悪の一撃を現実のものとする。

 

『先生ッ! 強力なエネルギー反応が、ベアトリーチェの手に集中して……っ!』

「――!」

 

 シッテムの箱から、アロナが悲鳴染みた声を漏らした。

 それは局所的な嵐に近い。

 凄まじい熱風がベアトリーチェを中心に吹き荒れ、空気の流れの中に火の粉が散り始める。掲げられた両腕の中に生まれる深紅の球体、それを渦巻く様に巻き起こる風、伝わる波、肌を焼くそれらを前にスクワッドは戦慄と共にベアトリーチェを見上げるしかない。

 風は益々勢いを増し、吸い込む空気は肺が焼ける様だった。咳き込み、先生は歯を食いしばりながら佇む。

 

()は此処に、呪いを、恐怖を、神秘を、素晴らしき赤なる円環を此処にッ! 万物の主は此処にッ! その栄光は全地に満つ! 瞬き! 明かり! 輝き! 煌めき! 我が崇高に至る導きをこの身に――ッ!」

 

 頭上より注がれる月光が徐々に、徐々に絞られて行く。

 まるで月光を吸収していくように、彼女の深紅は鮮やかさを増していく。

 月が、消える――それは傍から見れば幻想的で、非現実的にも思える光景だ。月光を織りなし生み出される力、そうして生まれた完全なる深紅の球体を前に、彼女は歓喜と共に叫んだ。

 

「この花弁は色彩へ至れり――ッ!」

 

 地面を抉る様な衝撃波――或いは灼熱の風。

 一際強いそれらがスクワッドと先生を襲い、咄嗟に全員がその場で屈む。ベアトリーチェの背負った赤の円環が輝きを増し、まるで生き物のように脈動を開始した。鼓動の如く蠢くそれ、耳を打つ音が不気味さを加速させる。暗がりの中で、彼女の円環だけが光を放ち続けていた。

 

「ッ、あれは一体何なの……!?」

「わ、分かりません! で、でも、あの光、凄く熱くて――!?」

「ぐっ……!」

 

 銃を抱えたまま彼女達は呆然と呟く。深紅に染まったそれはエネルギーの塊、文字通り彼女が全力を費やした代物に他ならない。球体から伝わる力の波動は途轍もなく、あれを受ければ何者であれ只では済まないと分かる。

 いや、掠めるだけで致命傷になるかもしれない。アレを受ける事は絶対に避けなければならないと、彼女達の本能が叫んでいた。挑む事自体が間違いだ。

 

 ――それは、太陽に挑むに等しい。

 

『こ、この規模は……!? 先生、あの光は危険ですッ! 直撃を許せば、建物周辺どころか一帯が崩壊するレベルのエネルギー量が――!?』

「――そんな事」

 

 告げ、先生は顔を上げた。

 

「絶対に、許すものか――ッ!」

 

 声はベアトリーチェに届いた。仰いでいた視線を落とし、先生を見つめる紅の瞳。掲げられた指先が、ぶるりと震えた。

 

「力に貴賎は無く、どの様な手段で在っても得られる色に偽りはない! 故にこそ、私は貴方を打倒し、その頂きに至るッ! 私こそが、この世界を統べるに相応しい存在なのだと……ッ! 世界(あなた)自身に証明するッ!」

「貴女は一線を越えた――私の生徒達を、その根底を傷付けたッ! その罪を裁く等とは云わない、だが……」

 

 その指先が。

 先生の血と泥に塗れた指先が、ベアトリーチェを指した。

 

「――相応の報いは受けて貰うッ!」

 

 叫び、先生はシッテムの箱を叩く。瞬間、先生を中心に光が迸り、スクワッド三名のヘイローが光り輝いた。手足に走る痺れ、同時に嘗てない程の充足感を覚える。今までとは違う、何か深く繋がりを得た様な、そんな感覚。

 先生は紡がれた光を横目に、高らかに宣言した。

 

「私の全てを、君達に託すッ!」

「――!」

 

 声は、嵐の様な暴風の中でも確かに響く。先頭に立った先生が外套を激しく靡かせながら、前を見据え声を張る。

 

「これが最後の一撃だ! 私達も、そしてベアトリーチェ(彼女)もッ! この一撃で全ての結末が決まる!」

 

 肌を撫でる熱風、臨むは深紅の太陽。

 瞳を焦がす様な圧倒的な光。

 しかし、それを前にした先生の表情に恐れはない、躊躇いも無い。

 この場に集ったちっぽけな光だけを抱え、この困難を、絶望を乗り越えられると信じている。サオリを見下ろし、それから背後に佇むヒヨリとミサキを視界に捉え、先生は薄らと笑みすら浮かべて云って見せる。

 

「大丈夫、私は君達を信じている! どんな瞬間も、どんな時も、皆ならば乗り越える事が出来ると信じているッ! だから――」

 

 その双眸に込められているのは、何処までも深い信頼。こんなちっぽけな自分達に何を、そう思い、戸惑ってしまう程の。それを切り、先生は自身の胸元を強く叩いた。

 

「皆も、私を信じてくれ――ッ!」

 

 想いは、確かにスクワッドに届いた。

 

「行こう、皆――ッ!」

『制限解除・給電モード変更――フルチャージ(最大送電)

 

 声がした、機械的で淡々とした音声だった。

 黒く染まった義手が蠢き、掴んでいたシッテムの箱と通電する。義手内部に存在する給電機構が稼働を開始し、その電力のバックアップを開始した。シッテムの箱、その充電残量が急速に回復し、グリーンランプが宿る。

 ベアトリーチェの放つ一撃、絶対的なそれを防ぐ手段を、先生は一つしか持っていない。

 故に先生は、粛々とその瞬間を待つ。

 

「消え去るが良い聖人(先生)、我が生涯の宿敵、我が敵対者(アンタゴニスト)よ――!」

 

 円環がゆっくりと回転する。強烈な熱波を放っていた深紅の球体が奇妙な音を立て、一段、二段、三段と縮小を開始した。赤に染まった世界が徐々に暗闇の中へと戻っていく、しかしそれは決してエネルギーが分散した訳ではない。

 収斂し、凝縮しているのだ――あの巨大な太陽と比較すれば小さな、ほんの小さな手の中に。

 天蓋を覆う程の大きさを持っていたそれは、何重もの縮小によって彼女の掌サイズへと押し込まれる。先生達からすれば人の頭程の大きさに、ベアトリーチェからすれば硝子玉程度の大きさに。

 

 ――光は潰え、夜が来る。

 

 月明かりすらなく、暗闇に支配された世界の中で、彼女の手の中にある深紅だけが淡い輝きを放っていた。ゆらゆらと揺らぐ紅、その小さな光をゆっくりと、彼女は握り締める。深紅を覆う様に、その掌が光を覆い隠す。

 

 瞬間、訪れるのは完全な暗闇。

 

 崩れ落ちた内壁の向こう側、罅割れたステンドグラス越しに見える星空、それが唯一の光源。静寂が周囲を支配し、その中でベアトリーチェの声だけが、僅かな寂寥感を滲ませ響いた。

 

「――これが手向けの一撃と知れ」

 

 暗闇の中で光る、彼女の紅瞳。

 そして、ゆっくりと――世界に光が差し込む。

 ベアトリーチェが緩慢な動作で掌を開き、その指先を先生に向けた。

 

 

 ――La Vita Nuova.(新生)

 

 

 轟音、爆発、衝撃――視界一杯に迸る深紅の極光。

 それは遮るもの悉くを焼き払い、直進する破滅の光。ベアトリーチェの存在そのものを削り取って放たれる、文字通り二度と放てぬ最期の一撃であった。

 その威力はこのバシリカだけではない、アリウス自治区そのものを灰燼と化す可能性すら秘めており、生徒で在ろうとも問答無用でヘイローを破壊するだけの力がある。先生を、己の敵対者を屠るまで、或いはその周辺一帯を焼き尽くすまで、この光の破壊は止まらない。光は先生とスクワッドを強烈に照らし、全員の影が濃く床に伸びた。

 

「き、来ましたッ!?」

「く……っ!? リーダーッ!」

「ッ……! せめて、先生だけでも――」

 

 サオリはその様な光景を目にしながら、素早く思考を回す――迎撃は不可能、回避も不可能、防御も不可能。極光に目を焼かれながら、しかしスクワッド達は咄嗟に動き出す。サオリが先生の胸元を掴み、覆い被さろうと体を起こした。無駄であると理解して尚、動かずにはいられなかった。

 だが、その傷だらけの手を掴み、押し留める存在が居た。

 先生だ。その力強い手に、サオリは目を見開く。彼は腕の中に居るサオリ、そして背後に立つスクワッドを肌に感じながら、叫んだ。

 

「アロナァッ!」

『ッ――防壁を展開します! 最大、出力ッ!』

 

 合図と同時、生成される青白い防壁。

 生徒と先生の前面に、半円球の光の膜が生み出され、ベアトリーチェの放った深紅と一瞬にして衝突した。途端、内部に伝わる凄まじい衝撃、爆音、そして周辺へと飛び散る紅の極光。それらはバシリカの床や壁を容易く貫通し、赤熱した痕だけを残す。衝撃波がスクワッドと先生を襲い、ミサキとヒヨリは堪らずその場に転がる。サオリは先生を掴みながら顔を逸らし、先生もまたサオリを抱えたまま低く姿勢を構えた。

 臓物が持ち上がり、胃が裏返る気分だった。

 

「ぐ、ぅうううッ!?」

「ッ、せ、先生――……!」

 

 腕の中に抱えたサオリから、自身の名を呼ぶ声が聞こえた。

 防壁越しに感じられる、全身を焼く様な熱波。閉じてしまいそうになる視線を下げ、シッテムの箱、その画面を確認すれば凄まじい勢いでバッテリーが消耗していく。ロイヤルブラッドを捧げ、神秘の欠片を用い、権能すら捧げた一撃というのは伊達ではないらしい――この一撃に限って云えば、先生の知る中でも最上位に近い一撃であった。

 調印式に撃ち込まれた誘導弾頭、あれすらも凌駕する。

 

「っぅ、これ、先生が防いでいるの……っ!?」

「う、ぐぐッ! な、何が、どうなって……!?」

 

 ヒヨリとミサキの面々は風圧と熱波に顔を背け、地面に這いつくばる様にして何とか吹き飛ばされない様に堪え続ける。少しでも気を抜けば、途端に足が地面から浮いてしまう様な突風だった。彼女達は何が起こっているのか理解していない、絶望的な光が放たれたと思った瞬間、自分達を守る様に展開された青白い光の壁。それらが極光と衝突し、致命的な未来を防いでいる。

 二人は困惑と焦燥に駆られながらも、しかし視線は前を捉えていた――サオリを抱え、自分達を庇う様に立つ、小さくてちっぽけで、けれど力強い背中を。

 先生から伸びる濃い影が、二人の顔を覆っていた。

 

『急激な温度上昇検知、排熱処理を開始します』

 

 身に着けていた義手が音声を発し、その外装が音を立てて展開し内部を露出させる。同時に蒸気を噴き出し、冷却装置が全力で稼働している事が分かった。シッテムの箱に表示される充電残量は、減少した傍から義手が補填している――しかし、消耗が余りにも急激である為給電機構が悲鳴を上げていた。

 同時に、処理限界が近付く。

 

「ぐ、ぎッ、ぃ――ッ!?」

『せ―…ん…―っ!』

 

 シッテムの箱からノイズ混じりの声が聞こえる。

 しかし、何かを応答するだけの余裕が無い。声の代わりに、口から押し殺した悲鳴が漏れた。

 食い縛った歯の隙間から血が滲み出し、先生の肉体が悲鳴を上げ始める。それは極光の熱波によるものではない、先生の肉体――その崩壊が始まる音だった。ベアトリーチェの放った渾身の一撃が、アロナの余力を限界まで削いでいたのだ。それこそ、アロナの処理が先生の生命維持に支障を来すレベルまで。

 シッテムの箱に生命維持の全てを委任している先生の肉体は、彼女の補助なしでは生きられない。演算処理に僅かな遅延が発生したその瞬間、先生は臓物を毟り取られる様な苦痛を受ける。

 

 ――地獄の時間が始まった。

 

 それは最初から分かっていた事だった。防壁を最大出力で展開した時点でアロナの処理能力は大部分がそちらに割り振られる。あの調印式会場で受けた攻撃ですら防壁の展開に恐ろしいまでの負荷が掛かり、シッテムの箱はダウンした――瞬間的な負荷で云えば向こうが上だが、此方は徐々に徐々に死が近付く恐ろしさがある。先生の生命維持を行いながら防壁を展開する事は、かなりの難度を誇るだろう。

 つまりこれは、シッテムの箱のバッテリーが尽きるか、先生が絶命するか。

 その前に、ベアトリーチェが力を使い果たすか。

 実に単純な――根比べだった。

 

「せ、先生!? どうしたんだ……!? 一体、何が――ッ!?」

「だい……じょう、ぶ――ッ!」

 

 サオリが、急変した先生の状態に気付き声を上げた。奇妙な光が周囲を包み込み、あの破滅の光を防いだと思った瞬間、先生が血を流し始めたのだから然もありなん。その動揺は手に取る様に分かった。

 口から滲む赤を垂れ流し、先生はほんの数秒の間で急激に悪化した顔色を光に晒す。今この瞬間にも、先生の臓物は破壊と再生を繰り返す。その痛みと苦しみは筆舌に尽くし難い、拷問と表現しても間違いないだろう。

 しかし、そんな状況に在りながらも先生は決して俯かない。手にしたシッテムの箱を見つめながら、必死に言葉を絞り出す。

 

「防壁を、緩めるな、アロナ……! 何が、何で、も……ッ!」

『――ッ!』

「私は、絶対……に――ッ!」

 

 腹の底から絞り出すような声、せり上がる血液が先生の声を濁らせ、その歯を真っ赤に染める。犬歯を剥き出しにして想像を絶する痛みに、苦しみに耐え続ける先生を、サオリは愕然とした表情で見上げていた。

 先生に抱き締められた彼女の頬に垂れた血液が付着する。震える指先でそれに触れたサオリは、瞳を大いに揺らした。

 

『フレーム温度上昇、バッテリー容量の急速な減少を検知、機能維持に問題発生、救難信号発信後、三十秒後にシャットダウン処理、り、りり――……』

「ぐゥッ――!?」

 

 がくんと、急激に義手の重量が増した気がした。見ればシッテムの箱を握る指先が、殆ど緩やかにしか動かなくなっていた。義手の内部バッテリーを全て吐き出し、セーフティモードが発動していた。抱えていたサオリ諸共その場に膝を突き、背を丸める先生。

 そして、一際強い衝撃と痛みが去来する。

 

「ごぼッ、お、ぐ――ッ!」

『せ―…せ――……ッ!?』

 

 一瞬、心臓が動きを止めた。

 頭を揺さぶられたと錯覚する程の凄まじい眩暈、強烈な悪寒、腹の中に腕を突っ込まれ、かき混ぜられるような不快感と苦痛。それらが一斉に先生を襲い、堪らず項垂れ吐血する。嘔吐感から吐き出された血は赤黒く、唇を伝って地面と橋を作る。直ぐ傍に吐き出されたそれに、サオリは顔を蒼褪めさせ思わず先生の肩を掴んだ。

 

「っ、せ、先生!? おい、先生! 確りしろッ!」

「ぅ、ぐ――……!」

 

 刻一刻と失われて行く己の生命(残電力)、義手の電力を使い果たし、後はシッテムの箱のみとなった。それを見つめながら、しかしそれでも尚希望を捨てる事は無い。先生はサオリの背中に手を回したまま、跪き、シッテムの箱を掴み続ける。

 サオリが先生の項垂れた体を抱き締め、必死に叫んだ。それは苦痛と悲壮に塗れた声だった。

 

「駄目だ、もう良い! もうやめろッ! この光は先生が作っているのだろうッ!? これを解けッ、私が、私達が先生の盾になるから――ッ!」

「―――……」

 

 このままでは、先生が死んでしまう。そんな動揺が透けて見える様な声色だった。

 そんな想いと共に放たれた言葉に対し、先生は何も答えない、応えられない。

 そんな事、認められる筈もないのだ。

 緩く首を持ち上げ、サオリを見上げる先生は心の中で呟く。

 アロナが防壁を解けば、自身は間違いなく蒸発し、スクワッド諸共葬り去られる。例えスクワッドが肉壁になろうとも、先にその肉体が崩壊するだろう。何より、そんな事は先生自身が望まない。

 だからこそ、堪えるしかない。

 堪えて、堪えて、堪えて――耐え抜いた先に、きっと道がある筈だから。

 

 この防壁は、自身が絶命するまで決して解かない。

 

 しかし、幾ら精神的に折れずとも、先に肉体が限界を迎えようとしている。先生の意識は朦朧とし、その目元には青黒い隈が浮かび上がった。懸命に意識を繋ぎとめようと瞼を押し上げる。苦痛に意識が覚醒し、次の瞬間にはぐらりと揺れる、そんな事を数秒の合間何度も繰り返した。

 この苦痛は、あと何度続く? あと何秒耐えれば終わりを告げる? 見えない終わりが、肉体を衰弱させていく。終わりのない痛みが肉体に死を選ばせようとしていた。

 

「―――」

 

 ふと、視界に影が過った。

 最初、先生はそれを単なる幻覚だと思った。頭上を浮遊するそれは、奇妙な形をしたドローンの様で、花のように羽を開き緩やかに回転している。それは淡い光を発しており、赤く染まった世界の中でも辛うじて目視出来る存在だった。

 はっと、サオリもまたその存在に気付く。スクワッドも地面に這い蹲った状態のまま、先生の傍で揺蕩うそれ(ドローン)に気付いた。

 

「ッ、敵――!?」

 

 いの一番に反応したのはミサキ。彼女は這い蹲った姿勢のままセイントプレデターを地面に押し付け、逆の手でサイドアームを抜き放とうとした。未確認の奇妙なドローン、全員が吹き飛ばされそうな熱風の中で、平然と宙に浮かぶそれは余りにも異質、警戒するなと云う方が難しい。

 しかし、ミサキがその銃口を突きつけるより早く、ドローンは円形のリングを発生させ、先生に――スクワッドに柔らかな光の帯を発した。それは緩やかに全員の身体へと纏わりつき、沈む様に消えていく。ミサキは咄嗟にそれを振り払おうとして、しかし自身の腹に落ちて来る暖かな感覚に目を見開いた。

 

「っ、な、何、これ……?」

「あ、温かくて、気持ち良い、様な……」

「――……」

 

 灼熱と轟音に晒される皆に送られる、不可思議な温もり。先生に抱き締められたまま、飛来したそれを受け取ったサオリは、自身の腕に巻き付く様にして消えていく光を見つめ、呟いた。

 この温かさを――優しさを、彼女は知っている。

 

「――アツコ?」

 

 その呟きと共にドローンの光は潰え、軈て力尽きた様に落下する。軽々しい音と共に石床へと叩きつけられたそれは、破損し、力なく先生の足元へと転がった。突風に晒される残骸は、軈て後方へと流れ消えていく。

 それを先生は霞む視界の中で捉える――彼女の想いが、送り出した光が、ほんの僅かな間とは云え先生の身体を癒した。朦朧とした意識が、徐々に明瞭となる。自身の身体に、その腕に、指先に巻き付く光を見下ろしながら先生は思い出す。

 

 あぁ、そうだ――そうだった。

 

 ■

 

【先生、私ね……?】

【ずっと考えることを諦めて、決めることを諦めて……】

【ただ、決まった運命をなぞって生きて来た】

【それで良いって思っていたの】

【抗うだけの力も、勇気も、私には無かったから……】

【でも、今は――】

【今はね……?】

 

【皆と一緒なら、どんな運命(困難)にだって打ち勝てるって、そう想えたの】

 

 ■

 

「前を――ッ!」

 

 一歩を、力強く踏み締めた。

 半ば項垂れる様にして膝を突いていた先生は、満身創痍の身体に鞭打ち、立ち上がろうと足掻く。その腕の中で気配を感じ取ったサオリが顔を上げた。

 視界に、血に塗れ、酷い顔色をした先生の表情が映った。

 

「前を、見るんだ……サオリッ!」

「せ、先生……!」

 

 血の絡んだ濁った声で彼女の名を呼ぶ先生は、項垂れていた顔を上げる。衰弱していた肉体が、アツコの用意した最後の秘策によって僅かな間息を吹き返した。それは単なる延命に過ぎない、しかし与えられたその一分が、或いは数十秒が、或いは数秒が――何よりも重要な意味を持っていた。

 

「必ず、好機は、訪れる……! 私が、私達が、その道を、創る――ッ!」

「―――」

「だから、前を――前だけを、見据えるんだ、サオリ……ッ!」

 

 その言葉にサオリは数秒息を止め、くしゃりと顔を歪める。先生は満身創痍だ、明らかに無理の出来る状態ではなかった。それでも彼はスクワッドの為に道を開かんと立ち上がろうとしていた。それはいつか目にした、先生の根底を証明する光景と同じ。

 サオリは自身の腕を見た。アツコの齎した光はサオリの負傷を癒し、疲れ果てた精神さえも奮い立たせている。吹き荒れる熱波の中、愛銃を握り締めたサオリは二度、三度、その感触を確かめる。

 自分はまだ、戦える。

 まだ、抗える。

 ならば――それならば。

 

 自身には、この想いに応える責任がある。

 

「ッ――!」

 

 彼女の背中を、先生の手が優しく押し出した。

 心が一歩を踏み出すには、それだけ十分だった。

 

「どんなに、辛くとも……!」

 

 サオリから離れた先生の身体が、ゆっくりと立ち上がる。

 震える足で、血に塗れた肉体で、何度倒れても立ち上がる。

 そうして彼は一歩、また一歩と、歩みを進める。

 その背中に、生徒を庇いながら。

 

「どんなに、苦しく、とも――ッ!」

 

 熱風が肌を焼く、光に網膜が焼かれる、全身を苛む苦痛は今尚その肉体を、精神を蝕んでいく。しかし、その程度の事で止まる事は出来ない。先生に続き、覚束ない足取りで立ち上がるサオリ。彼女の双眸は真っ直ぐ前を――先生の背中を見ていた。

 

「私の背中に、生徒が、居る限り――……ッ!」

 

 そして彼は、深紅を前に己の矜持を叫ぶのだ。

 

「私は、絶対にっ、斃れなどしない――ッ!」

 

 声は、飛来する衝撃に負けぬ程の大きさを伴っていた。

 まるで呼応する様に、世界が開ける――紅の極光が裂け、赤に覆われていた世界が静寂を取り戻す。

 永遠に思われたベアトリーチェの極光、渾身の一撃が終わりを告げる。赤熱し蒸気を吹き上げる石床、半円に抉れたバシリカ、その向こう側に無防備なベアトリーチェの姿を認めた。

 

 ――先生(スクワッド)は、耐え切ったのだ。

 

「ヒヨリッ、撃てぇェッ!」

「――ッ!」

 

 即座に声が飛んだ。

 這い蹲っていたヒヨリ、しかし準備だけは怠っていなかった。先生が信じろと云った、だからもし駄目だったとしても、万が一可能性があるのならばと、腕の中にあった愛銃と数発の弾丸だけは必死に死守していた。熱波と衝撃によって背嚢に備え付けられていた幾つかのポーチが紛失し、帽子も飛んで行った。けれど、一番大切なものだけは、手元に在る。

 伏せた姿勢のまま愛銃――アイデンティティの銃口をベアトリーチェに突き出し、ヒヨリは素早く狙いを定め引き金を絞る。瞬間、重低音を打ち鳴らし閃光の如き光が銃口より伸びた。

 それは微かに漂っていた紅を真っ二つに裂き、ベアトリーチェの身体に着弾を果たす。

 

「な――ッ!?」

 

 ベアトリーチェの花弁が揺らぎ、去来する痛み、その瞳が驚愕に見開かれる。あの攻撃で生き残っている筈がないと彼女は確信していた。或いは安心し切っていた。自身の全てを賭した一撃であった、あの脳裏に焼き付いた一撃(神秘砲)にすら届き得る全力攻撃。あれを凌げる存在など、居る筈がない。

 だというのに、視界に映るのは血に塗れ、今にも死にそうな先生の姿と――今尚健在の生徒達。

 確信していたが故に、無防備な状態で受けた一撃だった。それも只の一撃ではない、圧縮された神秘の込められた、致命的な一撃だ。弾頭はベアトリーチェの腹部を穿ち、貫通する。サオリの放った一発に次いで、致命的となり得る傷を齎した。貫通した弾頭は奥のステンドグラスの破片を穿ち、遥か向こうの星々の中へと消えていく。

 

「サオリッ!」

「あぁ……!」

 

 血の絡んだ声で、先生はサオリの名を呼ぶ。彼女は先生の声に応え、空かさず愛銃を構えた。

 

「――ッ!」

 

 躊躇いは無かった。だがほんの一瞬、僅かな感傷が顔を覗かせた。それは同情だとか、憐憫などでは決してない。自身の手でこの暗闇を脱する、楔を断ち切ると云う行為に対して想う複雑な感情、その発露だった。

 しかしそれも瞬きの間に消え、生み出されたそれは銃声に掻き消される。数発の弾丸が銃口より飛び出し、閃光の様にベアトリーチェへと飛来、着弾する。弱り切っていた肉体に駄目押しの一撃、外皮が抉れ、剥がれ落ちたそれが地面に転がる。ベアトリーチェの胴体に次々と風穴が穿たれ、その花弁が瞬く間に深紅へと染まった。大きく揺れ、仰け反る巨躯。

 

「ごふッ……!? ま、さか……あ、あり得な――」

 

 権能が機能しない。

 いや、それは当然の事――彼女は先の一撃で文字通り全てを使い切った。今の彼女には自身の身を守る術も、彼女達を打倒する為の手段もない。空洞となり、赤を垂れ流す自身の巨躯を見下ろしながら、彼女の瞳がゆっくりとスクワッド達に向けられた。

 

「ミサキ、これで、最後だ――ッ!」

「……あぁ」

 

 紅の瞳に、子どもが映る。

 ゆっくりと立ち上がり、セイントプレデターを構えるミサキ。その視界、照準器の向こう側で愕然とする嘗ての支配者(マダム)を見て、感嘆を漏らす。

 彼女はその目を細めると、吐き捨てる様に云った。

 

「やっと――そのいけ好かない顔を吹き飛ばせる」

「せ……」

 

 引き金が絞られ、弾頭が射出される。それは僅かな前進後、メインブースターに点火し、急速に加速した。

 白煙を引いて上昇し、ベアトリーチェに目掛けて飛翔する弾頭。それを避ける術が彼女には無い。根を張り、地面と一体化した彼女の巨躯は抗う事も出来ず――ベアトリーチェは最後に、スクワッドと先生に手を伸ばし。

 絶叫した。

 

聖人(先生)――ッ!」

 

 着弾――同時に炸裂。

 ベアトリーチェの上半身が爆炎に呑まれ、星々の輝く暗闇の中で緋色の灯を撒き散らす。衝撃と爆音が周囲を襲い、スクワッドと先生が爆風に一瞬目を閉じる。熱風が肌を焼き、再び目を開いた時、煌々と燃え盛る炎が視界に映った。火の粉が宙を舞い、僅かな間のみ昼間の明るさを取り戻すバシリカ。緋色の炎が彼女の身体を覆い尽くし、その外皮を舐める様に伝わっていく。その様子を先生とスクワッドは、ただじっと見つめ続けた。

 

 緩慢な動作でセイントプレデターを降ろしたミサキが息を吐き出す。這い蹲っていたヒヨリが愛銃を抱えて膝立ちになり、サオリは握り締めた愛銃の銃口を下げ、静かに先生を見た。

 

「お、わ……った?」

 

 酷く疲れた様子で、放心した様にヒヨリは呟いた。ミサキはその場に腰を下ろし、自身の口元を覆っていたマスクを下げ、云った。全身から倦怠感が滲み出る様な姿だった。

 

「流石に、もう起き上がれないでしょ……終わったんだよ、きっと」

「そ、そうですよね? ――そう、ですよね」

 

 繰り返し口にして、ヒヨリはその身体を折り曲げる。愛銃を地面に落とし、肩を震わせながら彼女は大きく息を吐き出した。その瞳には涙が滲んでいた。

 

「……先生」

「――……うん」

「これで、私達は――」

 

 声は、僅かに震えていた。ぐしゃぐしゃになった髪で、砂塵と血に塗れた顔で、彼女は先生を見つめる。その瞳込められた感情は複雑で、けれど強い安堵を感じさせた。スクワッドは、誰も欠けていない。あの絶望的な状況から、全員が生還を果たしている。

 先生はゆっくりと首を動かし、天を仰いだ。その手にしたシッテムの箱、それを大事に胸に抱え込み、動かなくなった左腕を揺らしながら――彼は呟く。

 

「……行こう、アツコが待っている」

 

 ぱちぱちと、火が爆ぜる音が響く。その明かりが先生の横顔を照らし、血の気の失せた、けれど確かな希望を灯らせた瞳で以て先生は告げた。

 

「彼女を、助けに行こう」

 



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捻じれて歪んだ始発点(はじまり)

誤字脱字報告、感謝いたしますわ!
今回一万七千字ですわ!


 

「っ――……」

「先生!」

 

 ゆっくりと歩き出そうとした先生の膝が、唐突に折れた。その身体が地面に沈み掛け、傍に立っていたサオリが慌ててその腕を掴む。反動で跳ねた赤色が床に垂れ、一瞬先生の意識が飛びかけたのだと分かった。

 先生の元へと駆け寄ったスクワッドが、その顔を覗き込みながら焦燥を滲ませ問いかける。

 

「だ、大丈夫ですか……!?」

「先生、無理をしないでくれ――」

「大丈夫……私は、大丈夫だよ」

 

 呟き、先生は緩く顔を振る。しかし如何ともしがたい倦怠感が体を支配していた。既にアロナによる生命維持は恙なく行われている筈だ。しかしその精神、及び肉体に受けた負担は相当なものであり、アリウス自治区に於いて重なった疲労と合わせて無視できない領域に達しようとしていた。手に掴んだシッテムの箱を見下ろせば、残量バッテリーは残り四割と云った所――少なくとも、今直ぐ命の危険がある訳ではない、それが不幸中の幸いか。

 だから自分は大丈夫だと、先生はそう内心で呟く。

 

「……やっぱり、あの光は先生が出していたんだね」

 

 ミサキが駆け寄りながら声を上げた。先生を掴むサオリを目線で退かしながら、彼女は先生の隣へと足を進める。

 

「ミサキ……?」

「ほら、肩貸して――ヒヨリ、これお願い」

「えっ、あ、は、はい……!」

 

 ミサキが先生の腕を掴み、自身の肩に回す。そのまま先生の腰に手をやると、静かにその身体を支え起こした。見ればセイントプレデターはヒヨリが抱え、彼女は両手にアイデンティティとセイントプレデター、両方を掴んでいる。傍から見れば何とも武骨な光景であった。先生はミサキに支えられながら視線で祭壇を指し示し、告げる。

 

「私の事より、アツコを……」

「姫の事も勿論助ける、でも先生も放ってはいかない――リーダー、行こう」

「……あぁ」

 

 頷き、全員が祭壇の方へと足を進める。

 祭壇へと続く階段、その前に鎮座する巨大な影――ベアトリーチェ。彼女は最後の一撃をその身に受けて以降、花弁は閉じ項垂れる様に沈黙している。地を舐める炎は徐々に収まり、再び暗闇が周囲を覆い始めていた。彼女達がベアトリーチェの脇を通り抜けようとした瞬間、何かが落ちるような重々しい音と、呻き声が周囲に響いた。

 思わず足を止め、音のした方向へと視線を向けるスクワッド。

 

「ぅ――」

「……!」

 

 振り返った時、あの巨大樹の如き影は消え、代わりに地面に横たわるベアトリーチェの姿があった。

 肉体を変質させるだけの余力がなくなり、彼女の変身が解除されたのだ。普段通りの白いドレス姿に、所々傷の垣間見える姿、ドレスから露出した肌には無数の傷痕が刻まれている――しかし、外見だけでは大した負傷にも見えなかった。スクワッドの面々と比較すれば、致命傷など一つもない。しかし彼女の根源的な部分、内側は相応に消耗している事は気配から分かる。

 彼女は地面に這い蹲ったまま呻き、震えていた。

 

「マダム……!?」

「ひぇっ!?」

「っ、あれで、まだ立てるの……!?」

「――いや」

 

 一斉に警戒を露にし、各々が素早く銃に手を伸ばす。

 しかし、先生はそれを遮った。ベアトリーチェを見下ろしたまま、静かに彼は告げる。

 

「彼女にはもう、戦う力は残っていない」

 

 見れば分かる、彼女は既に全てを出し尽くした。抗うどころか、立ち上がる力さえ残ってはいない。彼女に出来る事はもう――何もない。

 

「……ミサキ、ありがとう」

「先生?」

 

 自身を支えるミサキの手を離し、感謝を述べてから一人でその場に立つ先生。数歩蹈鞴を踏んだものの、意地で堪え、ゆっくりとベアトリーチェの元へと足を進める。不規則な足音、自身へと迫るそれにベアトリーチェが緩慢な動作で顔を上げた。

 満身創痍の大人が二人。血に塗れ、それでも自身の足で立つ先生をベアトリーチェは紅の瞳で以て見上げる。

 暫し、二人の間に沈黙が降りる。

 最初にそれを破ったのは、ベアトリーチェであった。

 

「先、生」

「………」

「まさか――あなたに二度も、敗れるとは」

 

 空気が抜けるような、力ない声色であった。先生を見上げる瞳には何か、普段ない色が混じっている様な気がする。地面に横たわり、広がった黒髪をそのままに、彼女は囁く様な声で続ける。

 

「いえ、半分は、分かっていた事です……私の道を往くと宣いながら、その実――心はあなたを排除する事だけを、求めていたのですから」

「………」

「この手はあなたに届かない、ゴルコンダの忠告は正しかった、という訳ですね……しかし、よもや飼っていた犬に手を噛まれるとは、ふ、ふふっ」

 

 地面に張り付いた彼女の指先が、ゆっくりと握り締められる。滲み出た赤が、石床に線を残した。

 

「何と、滑稽な――」

「……アツコは、返して貰う」

 

 小さく肩を揺らし、自嘲の声を漏らすベアトリーチェに対し、先生は抑揚のない声でそう云い放つ。

 ベアトリーチェの背後、祭壇の奥にて磔にされているアツコの元へ、先生は視線を向ける。当初ベアトリーチェを警戒していたスクワッドは僅かな逡巡を見せたが、彼女に立ち上がるだけの力も残っていないと理解し、構えた銃口をゆっくりと下げながら、そのままアツコの元へと急いだ。

 

「ひ、姫ちゃん!」

「アツコ……!」

 

 オブジェクトの直ぐ傍まで近付いたスクワッドは、アツコを見上げながらその名を呼ぶ。しかし、彼女から反応はない。完全に気を失っている事が分かる。

 

「ヒヨリ、蔦を切ってくれ、私が降ろす……!」

「は、はい! 姫ちゃん、今解放してあげますからね……!」

 

 サオリの言葉に頷き、ヒヨリは身に着けていたホルスターからナイフを抜き放つと、アツコの身体を縛り付ける様に纏わりついていた蔦を順に切断して回った。棘の生えたそれは幾つかアツコの肌に食い込み、出血を引き起こしている。そうでなくとも彼女の身体には意図的に付けられたと思われる切傷が首元にあった。まるで鋭い刃物で首を掻き切ったかのような、そんな傷だ。

 滴る赤に肝を冷やしながら、ゆっくりと彼女の身体を地面へと落とすサオリ。震える指先でその顔を覆うマスクを剥ぐと、あどけないアツコの表情が露になった。

 

「ひ、姫ちゃん……」

「姫、しっかりしろ……!」

「……首元の外傷が酷い、此処に来るまでかなり時間が掛かったから、血を流し過ぎたんだ」

 

 アツコの喉元に手を当て、苦し気に呟くミサキ。首から垂れた血は彼女の肩口まで伸び、地面にちょっとした血溜まりを作っていた。まさか、間に合わなかったのか――サオリの脳裏に、そんな最悪の結末が過る。しかし、それを受け入れる事が出来ずサオリはアツコの肩を掴み、何度も揺さぶる。

 

「姫、目を開けてくれ……頼む――アツコ!」

「ぅ―――」

 

 その声が彼女の耳に届いたのか、或いは想いが通じたのか。

 ぴくりと震える瞼、乾いた唇が呻き声を上げ――ゆっくりと、アツコの目が開かれる。そして焦点の定まらない瞳で周囲をなぞり、どこかぼんやりとした様子のままアツコは小さく口を開いた。

 

「……あれ、皆?」

「アツコ!」

「姫……」

「姫ちゃん! 気が付きましたか!?」

 

 彼女の視界に映る、自身を覗き込む家族の姿。ゆっくりと体を起こした彼女は、何度か瞬きを繰り返しながら柔らかく微笑みを浮かべる。

 

「うん……サオリ、ヒヨリ、ミサキ――みんな、おはよう」

「お、おはようって……」

「はぁ……相変わらずだね、姫」

 

 自分達が此処に至るまでどれ程の死線を潜り抜けて来たのか、まるで何でもない日常の一幕の様に振る舞うアツコを見て、ヒヨリとミサキの両名は毒気を抜かれる。

 しかしサオリは感極まったようにアツコを力一杯抱き締め、叫んだ。

 

「アツコ……!」

「わ……サオリ?」

「良かったッ! 本当に、良かった……!」

「う、うん……?」

 

 何やら嗚咽を零し、必死に縋りつくサオリ。最初困惑していたアツコだが、自身の傷だらけの腕に気付き、それから周囲を見渡して此処が何処かを悟る。段々と、自身の身に起きた事を思い出した。

 

「そっか、私――儀式の贄になって」

 

 マダムの元へと戻された彼女は一日と経たぬ内に意識を奪われ、以降ずっと眠り続けていた。故に自身がどの様に扱われていたのか、何が起こっていたのか、まるで知らない。しかし彼女達が文字通り死に物狂いで自身を取り戻しに来てくれた事だけは分かった。

 アツコを抱き締め、その肩に顔を埋めるサオリは涙に濡れた声で呟く。

 

「アツコ、生きていてくれて、ありがとう……本当に、ありがとう」

「………うん」

 

 必死にそう呟くサオリにアツコは目を瞑りながら頷く。頷きは小さく、けれど万感に満ちていた。

 

「サオリ、泣かないで、私は大丈夫だから……此処まで、先生が手伝ってくれたんだね?」

「あぁ、そうだ……! 先生だけじゃない、色んな生徒が、手を貸してくれたんだ……!」

「――そっか」

 

 縋るサオリ、その背中を優しく叩きながら、彼女は薄らと笑みを浮かべる。見上げると、自身を見下ろす先生の姿が視界に映った。外套や制服は血と砂利に塗れて顔色も良くない、きっと無茶をしたのだとひと目で分かった。

 それでも先生は優し気な口調で以てアツコに言葉を投げかける。

 

「これは、皆の力で成し遂げた事だよ」

「先生……」

「アツコ、無事で本当によかった」

「……うん、先生も、ありがとう」

 

 膝を突き、アツコに優しく語りかける先生に対し、彼女はそっと頭を下げる。暫くアツコの無事を喜びあっていたサオリは、ゆっくりとその身体を離し、先生に顔を向け問いかけた。

 

「ありがとう、先生……もうこれで、全部終わったんだな」

「……うん、大丈夫だよサオリ、きっと全部――」

「――いいえ、まだです」

 

 皆の鼓膜を、聞き慣れない低い声が叩いた。

 肩を跳ねさせ振り返れば、いつの間にか佇む黒い人影。

 彼は暗闇と同化する様にベアトリーチェの傍に立ち、先生とスクワッドを眺めていた。

 

「ッ、誰!?」

「こ、今度は何ですか!?」

「っ、アツコ、先生、下がれ、私が――!」

「待って」

 

 一斉にいきり立つスクワッド。ミサキがサイドアームに手を伸ばし、ヒヨリは身構えながらアイデンティティのストックを掴む。サオリは咄嗟に姫を抱き寄せ背に庇った。

 その姿がベアトリーチェと同じ異形である事も関係していたのだろう。全身から漂う不穏な気配、先手必勝、攻撃を行われる前に鎮圧する、その判断に迷いはない――しかし、先生は冷静に声を上げ、彼女達の前に手を翳した。

 ぴたりと、スクワッドの動きが止まった。

 

「……黒服」

「まだ終わってなどいません、あなたの戦いは――そうでしょう、先生?」

 

 ――あなたにはまだ、手を差し伸べるべき生徒が残っている。

 

 彼はいつも通り、飄々とした態度でそう口にする。鶴の一声で動きを止めたスクワッド、それらを薄ら笑いと共に見つめながら、彼は先生だけをじっと見つめ続けていた。黒服にとってスクワッドはおまけに過ぎない、今回の件に関しては称賛に値する働きではあるが――それも全てはたった一人、目の前の大人が関与したが故の結果だと知っているのだ。

 まるでそれを望んでいるかのような口ぶりだった。先生はそれ以上言葉を発する事無く、ただ黒服と視線を交わす。くつくつと、黒服は喉奥を鳴らす様に笑みを零した。その視線がふと、自身の足元に向けられる。

 

「ぐっ……」

「これはこれは、随分手酷くやられましたね、ベアトリーチェ」

「……は、楽しそうに、盗み見ていた分際で、良く、云います」

「えぇ、しかしあれ程の輝き、見るなという方が難しいでしょう、私自身芸術の分野に精通しているとは云い難いですが、胸を打つ何かがあったのは確かです――マエストロ風に云うのであれば、彼が手にすれば例え路傍の石であったとしても、磨かれた宝石に勝る輝きを放つ、それが立証された……とでも口にするでしょうか? とは云え、流石に貴女がアレを撃った瞬間は肝を冷やしましたがね」

「………」

「ククッ――さて、色々と積もる話もありますが、一先ず私達は退散させて頂きましょう」

 

 愉快そうに喉を鳴らしながら、黒服はベアトリーチェの腕を掴み上げ、彼女に肩を貸す。その様子を見ていた先生は一歩を踏み出し、咎めるような声を上げた。

 

「待て、黒服、私は――」

「先生」

 

 しかし、その歩みを止める様に黒服は手を翳す。その表情は微動だにせず、声には奇妙な力が籠っていた。

 

「それは、あなたの役割ではない」

「………」

「――万事、私共にお任せを」

 

 それは、一体どういう意図を孕んだ言葉であったのか。しかし、まやかしやその場凌ぎの言葉ではない事は確かであった。

 数秒、逡巡した先生であったが、踏み出した一歩をゆっくりと退け、後退する。それを見守っていた黒服は何処か感謝する様に一つ頷き、今度こそ踵を返した。

 

「あぁ、それと先生――」

「……何だい」

「どうか、お気を付けて」

 

 肩越しに振り返る黒服。

 その眼孔に似た白い罅割れが、先生を真っ直ぐ見つめていた。

 

「……これより先は、未知数ですので」

 

 それだけを告げ、二人の姿が暗闇の中へと滲んで消える。それ彼らの持つ技術か、技能か、それは定かではない。しかしスクワッドの面々からすれば、唐突に現れ消えた様にしか見えなかった。「き、消えた……?」と困惑を滲ませるヒヨリの声。暫く周囲を見渡し、警戒を続けていた彼女達であったが――完全にその姿が見えなくなったことを確認し、その肩からゆっくりと力を抜く。

 

「な、何だったのでしょう、あの人は……?」

「分からない、だが余り信用出来る連中では無さそうだ」

「……厄介な事にならなければ良いけれど」

 

 消えた黒服、何よりベアトリーチェを想い、舌打ちを零すミサキ。今後の事を思えば、此処で何かしら対策を取っておきたかった。それは別段、この手を汚すとか、そういう事ではない――ただ今後スクワッドが生きていく上で、彼女の存在が暗い影を落とす事だけはハッキリとしていたから。

 しかし、消えてしまった以上最早関与する事は叶わない。今は、アツコを救えた事だけでも喜びたい。ミサキは頭を振って、そう思考を切り替える。

 

「先生、改めて私達を助けてくれてありがとう、私はずっと眠っていただけだけれど……」

「気にしないで、それにお互い様だ、私もアツコに助けられたからね」

「……私が、先生を?」

「あぁ」

 

 先生の言葉に疑問符を浮かべるアツコ。恐らく自覚はないのだろう、彼女の精神に感応に動いたのか、或いは別の意図があったのか――目を瞬かせるアツコに先生は苦笑を浮かべ、しかし紛れもないその想いに感謝の念を抱いていた。

 

「先生――」

 

 不意に、サオリが強張った声を上げた。

 その声に振り返れば、酷く真剣な面持ちをしたサオリの表情が視界に入った。サオリは姿勢を正しながら、真っ直ぐ視線を先生に向け告げる。

 

「先生は私と交わした約束を果たしてくれた、こうして姫を救って貰って感謝している――だから今度は、私が約束を果たす番だ」

「……サッちゃん?」

「アリウスとして、スクワッドとして、為して来た全ての罪を償う、私が全ての元凶だ、連邦生徒会でも、トリニティでも、矯正局でも何でも構わない、先生が思う一番適切な所に私を送ってくれ――全ての処罰を、私は喜んで受けよう」

「一体何を……!?」

「リーダー!?」

 

 唐突な宣言、それに対しスクワッドが浮足立つ。驚き、困惑、焦燥、それらを前にしてサオリは微動だにせず、瞳に揺らぎはなかった。

 元より、サオリはそのつもりだった。先生がアツコを救ってくれた後ならば、自身の目的を果たした後、己がどの様な扱いを受けようとも構わない。最初からそういう約束で行動を共にしていたのだから。

 先生はアツコを救うと云う約束を果たしてくれた、だから次は自身が約束を果たす番だ。

 

「だが、一つだけ頼みたい、処罰されるのは私だけにしてくれ、エデン条約事件も、セイア襲撃も、ナギサ襲撃も……ミサキも、ヒヨリも、アツコも、皆私が巻き込んだようなものなんだ――三人が助かるならば、その分私の罪状に重ねて貰って構わない、だからどうか、裁くのは私だけにして欲しい、厚かましい事だとは理解している、それでもどうか……頼む」

「さ、サオリさん、待って下さい!」

「ふ、ふざけないでリーダー、一人だけそんな……!」

「いや、良いんだ、これで良い……私は長い間負うべき責任を放棄して生きて来た、その責任を果たす、今がその時なんだよ」

 

 呟き、彼女は深く頭を下げる。俯いた表情は影になって見えない、しかし其処には強い後悔と渦巻く複雑な感情があった。

 

「今回の件で、私がどれ程罪深い行いをしてきたのか、それを強く実感した――だと云うのに、ミカを始めとした多くの生徒に手を貸して貰ったんだ、私は自身の罪を清算しなければ彼女達に、何より先生に顔向けできない……犯した罪の償いは、為さねばならない」

「そ、そんな……」

「っ、く……!」

 

 彼女の意思は、固い。

 今回の件を通じ彼女は多くの事を知り、学び、そして現実を知った。その酷く残酷で、苦しく、辛い現実を前にして、それでも自身の願いが成就したのは誰かの優しさや、想い、祈りがあったからだ。

 ならばそれに報いる責任が自分にあると、サオリはそう信じる。

 こうなったサオリが梃子でも動かぬ事をスクワッドは知っていた。だからこそ、それ以上言葉を重ねる事が出来なくて、ヒヨリやミサキは言葉を呑み込む。アツコはじっと身動ぎせず、どこかぼんやりとサオリと先生を見つめていた。

 

「先生――どうか、頼む」

 

 頭を下げたまま、重ねて願うサオリ。

 その言葉に、先生は数秒程目を瞑って沈黙を守った。

 

「……分かった」

 

 はっと、全員が先生を見た。スクワッドの視線が先生に集中する、その視線に乗せられた色は嘆願か、絶望か、悔しさか。瞳に込められた感情(それ)は、実に様々だった。

 スクワッドとは反対に、サオリはどこか安堵した様子で、柔らかな笑みを零した。

 

「罪には罰を、それは正しき事だ、自身の行った行為に対しての責任は、取らなくてはならない」

「そ、そんな……!」

「待ってよ、それなら私達だって――!」

「ミサキ」

 

 咄嗟に非難の声を上げるミサキ、サオリが裁かれると云うのであれば、自分も同じように――そう口にしようとした。しかし、それを望まないサオリは手で言葉を制し、静かに先生に向かって感謝を告げる。

 

「……ありがとう、先生」

「うん、責任は重要だ――君達アリウスを、長年こういう環境に置いてしまった罪」

 

 目を瞑ったまま、先生は柔らかな口調で以て告げる。

 そして再び開いた左目が、サオリを優しく見つめていた。

 

「それは大人として、私が背負わないといけないね」

「――なっ!?」

 

 サオリが思わず言葉を失う。

 それは、彼女が望んでいたものとは全く異なる裁定であったからだ。思わず取り乱し、腰を浮かせた彼女は先生に掴み掛らんとばかりの勢いで言葉を重ねた。

 

「な、何を云っているんだ先生!? そんな事……!」

「子どもに罰を与える事はあっても、背負うべき責任はないよ、ましてや今回の事件については――尚更ね」

 

 その言葉には先程のサオリと同じように、確固たる意志が秘められていた。確かに彼女達は過ちを犯しただろう、間違った道を選んだ事も事実だ。しかし、それを理由に責任を問う様な選択は、先生に存在しない。

 

「アリウスが長年内戦に明け暮れ、多くの生徒達(子ども)が不幸に見舞われた、君達が喪った幼少期に与えられる筈だった幸福を、その時間を返す事は出来ない……だからこそ、それを償うとすれば私だ、大人の私が背負うべき責任なんだ」

「そんな馬鹿な……! 先生にそんな責任なんて、どこにもないだろう――ッ!」

「あるんだ、他ならぬ私にこそ……だからスクワッドを罪に問う様な事はしないよ、矯正局には送らないし、トリニティや連邦生徒会にも送らない、これは絶対だ」

「そんな……なら、それなら一体私はどう償って、私は、何を背負っていけば……!?」

「自分の人生そのものだよ、サオリ」

 

 サオリの必死の叫びに、先生は穏やかな口調で以て答えた。声は穏やかだったが、その声は普段以上に重々しい響きを伴っていた。ぴくりと、小さく震えたサオリはその動きを止め、呟きを返す。

 

「自分の、人生――?」

「あぁ、ずっと此処(アリウス)での生き方しか知らなかった、だからサオリはまだ、自分で選んで歩く事の意味を知らない、サオリには、スクワッドには――これから自分で道を選んで歩いて行って貰う」

「それは一体、どういう……」

「サッちゃん」

 

 ふと、アツコがサオリの腕を引いた。優しく、力ないそれにサオリが気付き、視線を落とす。視界の中に、座り込んだまま自分を見上げるアツコの顔があった。その瞳はどこか納得の色を湛えているようにも見えた。

 

「――私は、分かる様な気がする」

「……姫?」

 

 ふっと、顔を上げたアツコがサオリに問い掛ける。それは本当に、何て事の無い問い掛けだった。

 

「ねぇサッちゃん、やりたい事はある?」

「……やりたい、事?」

「うん」

 

 サオリの声には強い困惑が滲んでいた。唐突に、一体何の事だと。アツコは自身の指先を一本、また一本と立て、それを見下ろしながら言葉を続ける。

 

「アズサは、学ぶのが楽しいって云っていた、友達と一緒にいる事が幸せだって――サッちゃん、サオリの好きなものは何? やりたい事は? 趣味は? 将来の夢は? なりたいものは? ――私達はそういう当たり前で普通の事を、何一つ知らない」

「そんな……そんな、ものは」

 

 アツコの言葉にサオリは言葉を詰まらせ、俯くと同時に思考を巡らせる。しかしサオリの思考に、それらに該当する物事など何一つ浮かんでこなかった。

 だって、考える必要などなかった、考える余裕もなかった。毎日生きる事に必死だった。俯いたままサオリはゆっくりと首を左右に振る。

 

「分からない……一度も、考えた事がなかった、ずっと云われるがままに、生き抜く事だけを考えていたから――」

 

 好きなものも、やりたい事も、趣味も、将来の夢も、なりたいものも。

 何も、何一つ分からない。

 それを語る事は、考える事は、自分達に許されていなかったのだ――。

 そんなサオリを見ていたスクワッドの面々は顔を見合わせ、何かを考え込む様な素振りを見せる。そして最初に口火を切ったのはアツコだった。

 

「そうだね、サオリは責任感が強くて、決断力があって……んーと」

「リーダーは教えるのが上手です、色々……お、教えてくれる時は、怖いですけれど」

「真面目ではあるよね、計画を立てるのも上手いし、指揮をするのも上手だし、まぁそうじゃなきゃ、私達はずっと前に野垂れ死んでいた」

「………」

 

 仲間達から続々と投げかけられる言葉、自身の優れている点、それらを浴びせられたサオリは思わず面食らう。そんな風に言葉にされたのは初めての経験だったから。先生はそれらの言葉を聞き届け、どこか嬉しそうに笑って云った。

 

「うん――ならきっと、サオリは良い先生になれるね」

「なっ……!」

 

 それは、サオリをして全く想定もしていなかった言葉で。

 責任感が強く、決断力があり、教える事が上手い。それでいて真面目で、計画立案能力に優れ、指揮も得意――正にうってつけだろう。

 彼女の素質は、先生に向いている。

 

「リーダーが、せ、先生に!?」

「……あんまり想像がつかないけれど」

「ううん、そんな事ないよミサキ、サッちゃんなら良く似合いそう……でしょう?」

 

 ヒヨリは驚愕を、ミサキは疑りを口にする。しかしアツコだけは全くそんな素振りを見せず、そう云って、サオリに微笑みかけた。

 

「ね、サッちゃん」

「――……分からない、私にそんな未来が、本当に?」

 

 自身の手を見下ろし、サオリは呟く。傷に塗れ、血だらけで、到底そんな道を歩める者の手には見えなかった。

 ずっと、誰かを傷付ける術しか学んで来なかった。誰かに何かを教えるとしても、それは死なない為の術だった。そこには優しさや学びに対する姿勢云々をするだけの隙間などなく、ただ出来なければ死ぬだけという過酷な現実が存在していたからだ。

 そんな環境で、世界で育った自分に――誰かを導く様な未来なんて、本当にあるのだろうか? そんな疑念を察した様に、先生は柔らかくも、真剣な面持ちで断言する。

 

「あるとも――サオリ、私が云った事を忘れたのかい?」

「……ぁ」

 

 その声と表情に、彼女は思わず声を漏らした。

 そうだ、先生は何度も口にしていた。

 

「君達の未来は無限に広がっているんだ、何にだってなれるし、やりたいと思った事をやれる、それを応援して、道筋を示して、一緒に歩くのが私の仕事だ――だから」

 

 大きな掌が、そっとサオリの頭を撫でつける。傷と血の滲んだ、けれど自分達の為に必死になってくれた、大人の手だった。

 

「その無限の未来を背負って、サオリはこれから生きて行くんだ」

「……――」

 

 無限の未来。

 何にだってなれるし、どんな未来であっても選べる。

 自分自身を背負って生きるとは――そういう事だ。

 

 それは万人に当たり前のように与えられていた、子どもの持つ可能性()。けれど同時に、その道を知らずに育って来た彼女達からすれば、余りにも重く、眩い道に見えた。多くの選択肢を奪われ、未来を語る事さえ禁止されていた彼女達にとっては、唐突に与えられたそれは何よりも嬉しくて、貴重で、輝いていて――。

 ぎゅっと、サオリは自身の手を握り締める。

 それは動揺だった、云い方を変えれば恐怖でもあった。唐突に、突然に、眩い金銀財宝を与えられた様な、そんな感情。今までずっと暗闇の中で、細々と光を、希望を見出して生き長らえて来た。けれど突然目の前が開けて、陽の光が燦々と降り注ぐ場所に連れ出された様な――そんな衝撃。

 サオリは唇を震わせ、問う。

 

「先生、私は……」

「うん」

「私は、あれ程多くのものを傷つけて、壊して、此処に居るのに……」

 

 俯いたまま、彼女は云った。

 自身の為して来た事は、決して許されるような事ではない。何年、何十年と償い続けて、漸く許されるかどうかという領域の話だ。どんな罵倒も、侮蔑も、罪悪も、裁きも、罰も、甘んじて受けるつもりでいた。それこそ、命で償う覚悟だって。それが自身の命で支払われるものであるというのなら、彼女はそれすらも差し出すつもりだった。

 だと云うのに、先生は自身に生きろと云う――無限の未来を、その可能性を背負って生きろと。

 

「私は――生きていても、良いのだろうか?」

 

 こんな、罪悪に塗れた存在であっても。

 多くの人を悲しませ、傷付けた私の様な罪人であっても。

 サオリがゆっくりと顔をあげ、揺らぐ瞳と共に問いかけた。

 

「私は、これから(未来)を望んでも、良いのだろうか……?」

「何を当然の事を――」

 

 サオリの問い掛けに、先生は大袈裟に肩を竦めて見せた。そこには少しだけお道化るような、彼女達の心を解す様な、そんな意図した振る舞いがあった。

 

「生きていてはいけない生徒なんて居ない、未来を望んではいけない生徒なんていない、けれど、そうだね……多分そう云ってもサオリは自分を責めるだろうから――」

 

 告げ、先生はゆっくりと自身の外套に手を伸ばす。それは左腕に装着していたシャーレの腕章だ。道中の戦闘や移動で多少黒ずんだり、汚れてしまっているが問題ない。シャーレの腕章である事は遠目にだって判別できる。それを手早く外して、静かにサオリへと差し出した。

 

「はい、これ」

「……これは?」

「シャーレの腕章、まぁ云ってしまえば、先生の証みたいなものだよ」

「………」

 

 差し出されたそれと先生を交互に見つめ、サオリは静かにそれを受け取る。薄汚れ、若干草臥れたそれは此処までに先生がどれだけスクワッドの為に尽力してくれたのか、それを物語っている様にも見えた。サオリは手にした腕章を強く両手で摘み、唇を噛む。腕章は薄く、軽い。けれど物理的な重さに顕れない、確かな重さが彼女には感じられた気がした。

 

「いつか、自分が生きていても良いって、そう思えたら……そうじゃなくても、なりたいもの、やりたい事、趣味でも、好きなモノでも、何でも良い、そういうのが見つかったら、いつでもおいで――スクワッドの皆と一緒に」

 

 ――先生になりたいなら、私の元(シャーレ)で勉強するのが一番だよ。

 

 それは、何と暖かい言葉だっただろう。帰る場所も、母校も、彼女達は失った。それは自業自得で、誰に対して文句を云えるような事でもない。

 だからこそ、自身が戻れる場所、或いは安らげる場所が一つでもあるという事実は、彼女の胸に何か大きな熱と共に動揺を齎した。それを言葉で表現する術を、サオリは持たない。ただぽろぽろと、自身の手に落ちる雫があった。

 目尻から頬と伝い、顎先を流れるそれは――涙だった。

 

「………」

「きっとそれも、サオリの背負った重荷を解く、ひとつの選択肢だと思うから」

 

 サオリは暫し何も言葉を紡ぐ事が出来ず、ゆっくりと言葉を噛み締める様に沈黙を守る。それから暫く彼女は俯いたまま、漸く震える声で、その一言を絞り出した。

 

「……あり、がとう、先生」

「――うん」

 

 その一言があれば十分だ。

 それだけで、自分は報われる。

 想い、先生は静かに立ち上がった。

 身体はもう、十分に休めた――少し走る位は、きっと問題ない。

 

「さて、皆とは一先ず、ここでお別れだね」

「!? なっ、急に……待ってくれ、先生!?」

「黒服……彼が云っていた様に、まだ私の助けが必要な生徒が居るんだ、それなら、行かないと」

 

 自分のやるべき事はまだ残っている。

 彼の云った様に終わりではないのだ。それを想い、先生は自身の動かなくなった左腕を撫でつけ、笑って云った。

 

「――それじゃあ、またね、皆」

 

 言葉は短く、簡素だった。そして踵を返した先生は、ボロボロの身体を引き摺って駆け出す。今度はバシリカとは反対の方向に、今尚戦い続けているであろう生徒達を助ける為に。

 徐々に小さくなっていくその背中、暗闇に溶けていく先生の輪郭を見送りながら、スクワッドの面々は呆然と呟く。

 

「い、行ってしまいました……」

「……きっと、ミカ達を助けに行ったんでしょ」

「先生一人で大丈夫でしょうか? ま、まだ、あの聖徒会が残っているのなら……」

「……大丈夫だと思うよ、あの時もそうだったから」

 

 ――先生は大人だから。

 

 呟きは、確かな信頼を秘めていた。思い返すのはあの大敵、動く木人形が用意した巨大な怪物。アレを打倒した力を行使出来る先生ならば、きっと大丈夫だと、少なくともこの時のアツコはそう判断していた。アツコの言葉にミサキは視線を切り、それからバシリカを見渡す。

 砕け落ち、散乱した硝子片。崩れ落ちた内壁に積み上がった瓦礫、何処もかしこもボロボロで、殆ど廃墟同然と云って良い。セイントプレデターを担ぎ直し、窓枠の向こう側に広がる夜空を見上げた彼女は呟いた。

 

「もうベアトリーチェは消えて、アリウス自治区を管理する者は誰も居なくなった、今なら多分、自治区を抜け出すのも難しくはない」

「……でも、これからどうしましょう? 何処に向かえば良いんでしょう……?」

 

 ミサキの言葉に、ヒヨリは漠然とした不安を抱えたまま問いかける。アツコを救出する事は叶った、けれどスクワッドの状況は何一つ変わってはいない。各自治区から睨まれたまま、向かう場所も、目的も判然としない。

 そんな状況で、生きて行かなければならない。

 

「……サッちゃん、大丈夫?」

「うん……まだ何も分からないけれど、それでも」

 

 アツコに肩を抱かれ、立ち上がったサオリは。

 手渡された腕章を握り締めたまま、静かに。

 

「私は……この世界で生きても良いんだって」

 

 けれど力強く、微笑みを零した。

 

「少しだけ、そう思う事が出来たよ」

 

 ■

 

「……っ、此処は――?」

「私の領域の一つです、まぁ普段は不要な物資を保管しておく倉庫の様なものですが、防音性や機密性には大変優れておりまして……ククッ」

 

 一瞬の暗転、そして再び開かれる視界。

 ベアトリーチェが黒服に肩を貸され移動した場所は、薄暗い地下空間と思われる場所であった。剥き出しのコンクリート壁に、所々に走る錆びたパイプ、それでいて僅かに鼻腔を擽る埃の匂い、それらに顔を顰めながらベアトリーチェは呟く。

 

「……治療には、随分と不適切な場所ですね」

「それはそうでしょう」

 

 その苦言に、黒服は同感だとばかりに頷いて見せた。彼の声色にはどこか、人を食った様な色があった。

 罅割れ、空間に揺らぐ白がベアトリーチェを捉える。ぞわりと、彼に触れる肌に悪寒が奔った。

 

「何せ、あなたを処理するための場所です」

「……何を――?」

 

 ――瞬間、鳴り響く銃声。

 

 乾いたそれは空間の中で良く響き、ベアトリーチェの胸元を何か、強烈な衝撃が襲った。思わず仰け反り、蹈鞴を踏むベアトリーチェ。黒服の腕が彼女から離れ、ベアトリーチェは呆然とした表情で赤の滲むドレスを見下ろす。

 

「な、ん――……?」

 

 何が起きた、撃たれた、自分が? 脳裏を過る様々な憶測、混乱、焦燥、それらを押し殺し今しがた自身を貫いた弾丸が飛んできた方向へと顔を向ける。自身の背後から伸びる影――そこに立つ、銀色の輪郭。

 その人影には酷く、見覚えがあった。

 

「……銀、狼――?」

「あぁ――ずっと、こうしてやりたかった」

 

 硝煙の立ち昇る拳銃、その銃口を向けながら彼女は能面の様な表情を浮かべ、吐き捨てた。

 

「あの日、お前の命を奪えなかった事を今日まで悔やみ続けていた、けれどもう逃がさない、力が削がれ、領域間の移動すら儘ならない状態になるのをずっと待っていたんだ――この瞬間の為だけに、ずっと息を潜めていたからな」

「……ま、さか」

「先生に加勢しなかったのも、全て全て、お前の命を確実に狩り取る為――あぁ、お前の顔を見るのも今日で最後だと思うと、何故だろうな……最高に胸が爽やかだよ」

 

 暗がりの中でも視認出来る、僅かな指の動き。銀狼の指先が引き金を絞り、マズルフラッシュが薄暗い周囲を照らした。

 一発、二発、三発、続けて放たれたソレが次々とベアトリーチェを貫き、まるで出来の悪い舞踏の様に、彼女は体を揺らしながら後退する。白く輝かしいドレスを身に纏っていた彼女はもう、何処にもいない。弾丸が着弾する毎に赤が飛び散り、その白を汚していく。何発目かも分からない弾丸が腹部を貫き、思わず背を曲げ膝を落とすベアトリーチェ。口から、堪え切れない血が零れた。

 

「ごふッ、く、黒、服……――!」

「申し訳ありません、ベアトリーチェ、こうでもしなければ内部よりゲマトリアを崩壊されかねないと判断しました、元より銀狼さんと私の立場は対等、これもまた契約の一つという訳です」

 

 咄嗟に視線を横に投げ、黒服に手を伸ばせば――彼は何て事の無い、いつも通りの気配を身に纏いながら肩を竦めて見せた。彼には元より助けるつもりなどない、そうであるならばそもそもこんな場所に彼女を連れて来る事もなかった。緩く首を振った彼は顎先を指で撫でつけ、告げる。

 

「それに残念ですが、貴女は少々彼女の顰蹙を買い過ぎた、以前も口にしましたが――」

 

 空洞、燃え盛る様な白と黒、ぐにゃりと黒服の罅割れた口元が歪む。

 

「どうか良き最期を、ベアトリーチェ」

「ぁ――……」

 

 その罅割れに見つめられた彼女は――漸く自身の末路を悟った。

 

「死ね、塵屑」

 

 銃声が鳴り響く、子どもと比較すれば余りにも致命的で、殺意の籠った弾丸がベアトリーチェの身体を蹂躙する。胸元、肩、腹部、足、首、兎に角苦しませ、穴だらけにしてやると云う意思が伝わって来るような撃ち方であった。全身を打ち据える衝撃、痛み、飛び散る赤。銀狼がトリガーを引く度にベアトリーチェの身体が弾け、一歩、また一歩と足は彼女の意思に反し後退する。何発もの弾丸をその身に受けたベアトリーチェは遂に立っている事すら儘ならず、その場に倒れ込んだ。どしゃりと、音を立てて仰向けに転がり、小さく咽ながら血を吐き出すベアトリーチェ。背中からじわりと赤が滲み出し、銀狼は蔑む様な瞳でそれを見下ろす。

 弾丸は確かに彼女の生命を蝕んでいた、所謂虫の息とも云える状態。権能もなく、秘めた神秘も、恐怖も吐き出し、変身する事すら儘ならなくなった彼女は此処で死を迎える。

 それは、確定した運命であった。

 

「……まだ息があるのか、相変わらず害虫の様にしぶといな」

「く、くくッ―……」

 

 空になった弾倉を地面に放り、新しい弾倉を装填する銀狼。手慣れた動作でスライドを引く彼女の視界に、死にかけの状態で笑みを浮かべるベアトリーチェが映る。仰向けに転がったまま胸を上下させ、血を吐く彼女はこんな状況にあって尚心底愉快だとばかりに嗤っていた。

 周囲に、彼女の粘ついた笑い声が木霊する。

 

「く、ふふ、ふはは……っ――」

「……気でも狂ったか、いや、お前は最初から狂っていたな」

「あ、ぁ、えぇ、ふふっ、ある意味……そうかも、しれません」

 

 銀狼はそれを、死を受け入れられない狂人の末路だと切り捨てた。或いは自棄になって笑う他ないか――取り合う必要も、真面に受け止める必要もない。しかしベアトリーチェの精神は至って平常であり、そしてそれは死に直面したが故の逃避でもない。彼女はこの状況に陥って尚、心底嗤えるだけの材料を持っていた。

 ベアトリーチェは自身から流れ落ちる赤に身を染めながら、その幾つもの瞳を銀狼に向ける。其処には隠しきれない、悦楽の色が見て取れた。

 

「ふふっ、ですが……残念、でしたね、銀狼」

「………」

「――私が賭けたのは(命を賭したのは)、此処から、です」

「……何?」

 

 ぴくりと、銀狼の眉が跳ねた。

 それは虚言でも何でもない。ベアトリーチェは、先生を打倒し世界を救う事を夢見た。その果てに大人の為の世界を創り出し、自身の存在を、その道程を証明する事こそが己の道だと信じていたのだ。

 しかし、そう在ろうとした彼女の思考には常に陰がちらついた。本当に彼の者を打倒する事は叶うのか、或いは彼女が語った朧げな未来の様に自身は敗北を喫するのではないか。運命には逆らえない、運命は変えられない、そう口にしながらアリウスに於いて誰よりもソレに縛られていたのは彼女自身であった。誰よりも運命を絶対的なものとしながら、誰よりもその運命を打破したいと願っていたのだから。

 

 ――故にこそ、彼女は一つの賭けに出た。

 

 仮に事を起こせば、彼の者の打倒が叶ったとしても自身の首を絞めるだけだと云うのに、それでも彼女は止まらなかった。それは殆ど私怨・逆恨みの領域と云って良い。しかし、何れ対峙しなければならないモノである事は変わりない。ならばきっと、遅いか早いかの違いでしかないと、そう云い聞かせて。

 そしてもし、自身が敗れたのであれば。

 

 ――変貌し、誰も見た事がない未来を前に足掻く彼の者を、世界の果てから眺めてやろうと思ったのだ。

 

「銀狼、ひとつ、良い事を……教えて、差し上げましょう」

 

 血に塗れ、震える指先をひとつ立てる。

 ベアトリーチェは自身に銃口を向けたまま、怪訝な顔を浮かべ続ける銀狼に向かって――心底悪辣な笑みを浮かべたまま、告げた。

 

「……既に【色彩】は、先生を捉えています」

「ッ……!」

 

 その一言は、銀狼の心胆を寒からしめるには十分な力を持っていた。思わず強張った表情でベアトリーチェに詰め寄り、その胸元を掴み上げる。しかし、その行為すらも愛おしいとばかりに歪む彼女は、両手を広げながら哄笑した。

 

「お前、まさかッ……!」

「ふふ、あはッ――アハハハハッ!」

 

 最早、止める事は出来ない。

 負けた、負けた、嗚呼負けたとも。

 ベアトリーチェは聖人に、宿敵に、彼の者に敗北を喫した。

 故にこれは彼女が最期に残した嫌がらせ、或いは破滅への片道切符に他ならない。どうせ此処で終わるのならば結構――精々世界(先生)を道連れにしてやろう。

 今度ばかりは先生であっても、容易く斬り抜ける事は出来まい。何せ相手は力の欠片を手にした偽物(わたし)などとは比較にならない。

 全てを呑み込む、不吉な光(敵対する運命)そのものだ。

 

「先生ッ、私の、生涯の敵対者よッ!」

 

 叫び、恍惚とした表情で天を仰ぐベアトリーチェ。その首元を全力で掴み、額に銃口を突きつける銀狼。彼女は殺意と憎悪を滾らせ、酷く歪んだ瞳をベアトリーチェへと向けていた。

 最後に目にしたその光景、自身にはお似合いの末路だと嘯きながら、彼女は最後に微笑みを浮かべ、告げた。

 

「――狂気の果てで、待っていますよ」

 

 銃声――閃光。

 

 最後に感じたのは頭部への衝撃、仰け反り、跳ねた視界が黒に染まる。そしてそれ以上何かを感じるだけの余地もなく。

 ベアトリーチェは――その意識を永遠に失った。

 

 音を立てて崩れ落ちるその四肢、赤に染まった骸。それに向かって尚も引き金を絞り続ける銀狼、ベアトリーチェの顔面に何発もの弾丸を撃ち込み、弾倉が空になっても引き金を絞る。何度でも、何度でも。

 軈て弾倉が空になった事に気付いた彼女は、その苛立ちをぶつける様に銃を地面へと投げ捨てた。軽い音を立てて転がっていく拳銃、それを一瞥もせずに銀狼に事切れたベアトリーチェを睥睨し続ける。

 

「ふーッ、ふーっ……!」

「ふむ――これで、席に空きが出来てしまいましたね」

 

 全ての顛末を見届けた黒服は、軽く腕を組みながらそう云った。そのどこまでも呑気、或いは楽観的な言葉に銀狼は彼を睨みつけ、声を荒げる。

 

「ッ、そんな呑気な事を云っている場合か!? コイツの云った事が本当なら、既に――ッ!」

「えぇ、由々しき事態となります、本来観測された未来より到来時期が早すぎる、現キヴォトスでは対処の準備も出来ていないでしょう、よもやこの様な暴挙に及ぶとは……」

 

 彼女、ベアトリーチェが為した事を考えれば正直、今すぐにでも対応に動かなければ拙い。いや、拙いなんて言葉では到底足りない程の致命的な行いだった。下手をせずともキヴォトスが滅ぶ、そうでなくとも今後世界がどの様に変化してしまうのか、予想する事すらも不可能。

 

【色彩】――ゲマトリアが想定する最大の敵、解釈されず、理解されず、疎通されず、ただ到来するだけの不吉な光、不可解な観念。

 世界に終焉を齎す災厄そのもの。

 

 彼女はあろうことか、その最大の脅威をキヴォトスに呼び寄せてしまった。

 そして残念ながら、それに対抗する完全なる手段を自分達は手にしていない。

 欠片であったとしも、その力を取り込んだベアトリーチェの力は驚異的であった。そのオリジナルともなれば、その影響力は計り知れないだろう。その事をゲマトリアは、良く知っている。

 

「アビドスの頃より、【その様に】動いていたのなら、恐らく襲撃は――」

 

 黒服は呟きながら自身の腕に目を落とす。巻き付いた腕時計、その針が示す数字をじっと見つめながら――淡々とした、しかし確固たる口調で彼は告げた。

 

「もう、間もなくでしょう」

 


 

 エデン条約のラストバトル、大変楽しみですわね。

 苦しみ悶え、のた打ち回るのは此処からですわよ先生。スクワッドのお話が終わったとしても、先生のお話はまだ終わりませんの。自身の罪悪と目に見える形で対峙する瞬間がやって来たのですわ。此処まで来るのにWordで二百十七万字――長かった、本ッ当に長かった……!

 最終編に続く為の前哨戦、愛する生徒の為に全部、今ある全部を此処で絞り出して下さいまし!



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どんな時でも、それでもあなたは。

誤字脱字報告に感謝いたしますわ!


 

「秘技・爆裂手裏剣――ッ!」

 

 声は街道に響き渡り、同時にイズナの手元から放たれた手裏剣が風切り音と共に影を捉え――爆発を巻き起こす。爆炎が石畳の床を舐め、衝撃で周囲の建物、その硝子が一斉に砕け散った。

 幾人ものユスティナ聖徒会が弾け飛び、その中心に立っていた聖女――カタリナが爆発をもろに受け、膝を突く。両腕に持っていた巨大な銃火器が音を立てて石畳に沈み、その輪郭が徐々に空気の中へと溶けていくのが見えた。

 着地し、空かさず二枚目の爆裂手裏剣を構えたイズナは、消え行く大敵を前に油断なく身構える。

 反対に後方で銃を構えていたツクヨとミチルは、僅かに煤けた袖を振りながら歓声を上げた。

 

「や、やった……漸く、倒れました!」

「ほ、ホントに……!? 倒した? もう動かない? 絶対に!?」

「――流石に、限界だった様ですね」

 

 歓喜の声を上げるツクヨに、半信半疑のミチル。そんな彼女達の横合いに立ち、手早く愛銃に弾丸を込めながら呟くワカモは、内心で溜息を吐き出す。

 本当に手強く、タフな相手であった。

 美食研究会、ミカと分断され各聖女を一人ずつ相手取る事になり、地上で無数のユスティナ聖徒会と鬼ごっこをしながら削り合う事一時間近く。あの怪物相手にどれだけ弾薬を消耗させられた事か、少なくとも弾倉ひとつ、ふたつ程度ではない事は確かだ。火力も、耐久力も、並みのユスティナ聖徒会とは比較にならない難敵であった。

 

「や、やったぁーッ! って、うぇえッ、また後続の敵が来たぁ!?」

「っ、せ、聖徒会の方は、まだ残っていますね……!」

「――イズナさん、一度退きましょう、このまま機動力を生かして相手方の戦力を可能な限り削ります」

「はいっ、ワカモ殿……!」

 

 聖女カタリナが消滅したとしても、ユスティナ聖徒会は健在。わらわらと集まり出すそれらを前に、忍術研究部の面々は一斉に踵を返す。

 

「い、イズナ、これ予備の手裏剣! 使ってッ!」

「っと、ありがとうございます、部長!」

「そ、そろそろ、忍具のストックが、切れそうです……! 弾薬も、危ない、かも……!」

「えぇ、幾ら倒しても切りがありません、このままでは――」

 

 呟き、ワカモは後方から迫るユスティナ聖徒会に視線を向ける。此方に銃口を向け、発砲して来る有象無象の幽鬼。陽が昇ってからというもの、その動きは精彩を欠いているが――それでも数は力とは良く云ったもの。

 最悪、逃走する準備が必要になるかもしれないと、ワカモは狐面の奥を歪ませる。

 忍術研究部の機動力ならば、ユスティナ聖徒会を振り切って撤退する事は容易い。しかし、気掛かりなのは回廊の奥に向かった先生の安否。

 彼女は登り始めた陽を仰ぎながら、小さく呟いた。

 

「あなた様……」

 

 ■

 

「――ブッ壊れろォッ!」

 

 宙を舞う小柄な影、それは外壁を蹴飛ばし聳え立つ巨躯へと飛び掛かると、その顔面目掛けて無数の弾丸を叩きつけた。矮躯に見合わぬ二本の突撃銃が火を噴き、至近距離でけたたましい銃声と共に最大火力を発揮する。ものの数秒で弾倉に詰まっていた弾薬全てを吐き出した双銃は強烈な反動から使用者――ジュンコの両腕を跳ね上げ、彼女はそのまま仰向けに落下すると、石畳の床に思い切り後頭部をぶつけながら転がった。

 

「あイタッ!?」

「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」

「ジュンコさん、御無事ですか?」

「随分と派手に飛びましたねぇ」

 

 地面にひっくり返った彼女、ジュンコに向けて美食研究会の面々が声を掛ける。回廊から飛び出し、聖女の一人を引き連れて自治区内の街道で戦う事暫く。各々が愛銃のトリガーを絞りながら、しかしメンバーの動向には常に目を光らせ連携して聖女とユスティナ聖徒会を叩いていた美食研究会は、今しがた攻勢を終えたばかりであった。

 大の字に転がったまま力なく横たわったジュンコは、鳴り始めた腹の虫を摩りながら弱々しく呟く。

 

「うぅ、お、お腹空いたし、もう限界かも……」

「確かにそうですね、戦闘が始まってからそれなりの時間が経過していますし――ですが」

 

 ハルナがその視線をジュンコから今しがた弾丸を叩きつけた相手――聖女マルガリタへと向け、笑みを浮かべた。

 

「それは向こうも同じ様です」

「……あら?」

 

 ハルナの言動に何かを感じ取り、アカリがそちらの方向へと視線を向ければ――膝を突き、空気中に溶ける様に消滅する聖女マルガリタの姿があった。その様子をイズミが目を瞬かせながら見つめ、困惑したような声色で以て呟く。

 

「き、消えちゃった……」

「ふふっ、どうやら私達の粘り勝ちの様ですね?」

「た、倒したの……?」

 

 自身の一撃が決め手になるとは思っていなかったジュンコは、上半身を起こしながら呆然とした様子で問いかける。そしてマルガリタの姿が影も形も見えなくなり、漸く倒した実感が得られた彼女は愛銃を突き上げ、威勢よく声を張り上げた。

 

「ど、どぉよ! か、完璧な、しょうり~……あぅ」

「あら、本当に限界だったみたいですねぇ」

「ふぅ、仕方ありません、アカリさん、ジュンコさんを」

「ど、どうするの~!?」

 

 途中まで勢い良く叫んでいたジュンコだが、最後には力なく腕を地面に落としグロッキー状態に陥ってしまう。最初から最後まで前線で暴れ倒し、多くの弾丸をその矮躯に受けたが故に、然もありなん。弾痕の残る美食研究会の改造制服を掴んだアカリは、そのままジュンコを肩に担ぎ上げた。

 未だ奥から続々と現れるユスティナ聖徒会に向けて掃射を行っていたイズミは、銃声に負けない位の大声を上げながら皆の方向を向く。

 

「決まっています、敵の親玉の一角を切り崩したのですから――当然」

 

 ハルナは最後に一発、複数のユスティナ聖徒会、その頭部を撃ち抜きながら髪を掻き上げると。

 そのまま愛銃アイディールを肩に担ぎ直し、一目散に撤退を始めた。

 

「優雅に撤退致しますわッ!」

「では、そういう事で☆」

「うぅ~……」

「えっ!? あっ、ちょ、待ってよぉ!?」

 

 一番最初に駆け出したハルナ、ジュンコを担いでその背中に続くアカリ。出遅れたイズミは余りの手際の良さに一瞬惚け、それから慌てて愛銃と弾帯、繋がったバッグを担いで駆け出す。散らばった瓦礫片に足を取られかけながら、彼女は必死にハルナ達の背中を追いかけた。

 ハルナの横に並んだアカリは、ジュンコを担いでいるとは思えない程に軽い足取りで駆ける。そんな彼女のフィジカルに感心しながら、ハルナは薄らと笑みを浮かべたまま口を開いた。

 

「ふふっ、まだ聖徒会の残党は残っていますが、敵の目を惹き付けて時間を稼ぐ事には成功しました、先生ならばきっと既に事を為しているでしょう」

「そうですねぇ、寧ろ心配なのは、一際強そうに見えた聖女……確か、バルバラと呼ばれていましたか? あの個体は、私達の相手取った聖女と比較しても随分と規格外であるように感じました」

「えぇ、そうですね――確かあの個体は、ミカさんが担当していた筈ですが……無事ならば良いのですけれど」

「ふぇえ~っ!? 置いて行かないで~ッ!」

 

 ■

 

「はァ――ッ!」

 

 思い切り振り抜いた拳が、目の前のユスティナ聖徒会の頭部を捉えた。衝撃が空間を揺らし、轟音が周囲に木霊する。壁か床であればそのまま粉微塵に粉砕し、倒壊させるだけの威力――しかし相手は亡霊に等しい、手応えは奇妙なもので、拳を真面に受けたユスティナ聖徒会は横合いの壁に叩きつけられ、そのまま霧のように掻き消えた。凹み、砕け、足元へと転がる破片。

 それを踏み砕き彼女――ミカは大きく息を吐き出した。

 

「はぁッ、はぁ……ふーッ!」

 

 身体を支配する疲労感、びりびりと拳に走る微かな痛み。今ので一体何体目か? それを数える事はもう、大分前に止めていた。それに意味はないのだと、何となく察する事が出来たからだ。頬を滴る血と汗、それらを乱雑に拭い、彼女は顔を上げる。

 

「あぁ、ほんと――」

 

 その視界に――回廊を埋め尽くさんと迫る、ユスティナ聖徒会の亡霊が映った。

 

「潰しても、潰しても、虫みたいに湧いて来るね、あなた達」

 

 呟きには苦笑が混じっていた。弾痕と破砕痕が刻まれた回廊、その向こう側から行進を続けるユスティナ聖徒会と聖女と呼ばれた一際目立つ怪物、今現在ミカの目の前で歩みを続ける彼女は『聖女バルバラ』――その四肢には傷が散見され、身に着けたガスマスクのレンズは罅割れているものの、未だ健在。巨大な火砲とガトリングを両手に抱えながら、相も変わらず緩慢な動作一歩、また一歩と回廊の奥へと足を進めようとしている。彼奴に拳を叩き込んだの十や二十では足りない、文字通り百を超える打撃を叩き込んだ筈だが、それでも尚、その歩みを止めるに至ってはいない。死力を尽くして喰らい付き、万全の状態ではないところから此処まで削ったのは我ながら中々どうして頑張ったものだと自画自賛出来る程、しかし流石に分が悪かった。

 

 肉体の限界も近い。

 スクワッドを追いかけて戦い続けた時間、弾薬も、持ち込んだ分は装填されているもので最後、殴って、蹴って、其処らに散乱している瓦礫すら放りなげて、あらん限りの手段で以て抗ってはみたものの、肉体的にも、精神的にも、万策尽きようとしている。

 ミカは荒い息を繰り返しながら自身の右手を見下ろす。傷だらけで、青痣と切傷の目立つ、とても醜い手だった。数ヶ月前の保湿クリーム云々と口にしていた自分が見たら、きっと驚きの余り意識を飛ばしてしまうのではと思ってしまう程。

 そんな指先を握り込み、彼女は微笑みと共に呟く。

 

「でも、陽が昇るまでは耐え切ったよ……結構、大変だったけれどさ」

 

 告げ、ゆっくりと顔を上げれば、崩れ落ちた内壁の向こう側から差し込む微かな明かりが彼女の顔を照らす。その陽を見上げながら、彼女は静かに目を細めた。背後から感じていた奇妙な怖気も、今はもう微塵も感じない。恐らく此処の主が画策していた儀式とやらが終わりを告げたのだろう。大きく息を吸って、ミカは両手を広げる。

 

 ――サオリも、他のスクワッドも、皆ハッピーエンドを迎えられたのかな。

 

 怖気が消えた――儀式が終わったというのならば、それが完遂されたのか、途中で遮られたのかのどちらかだろう。そして、ミカは先生を何よりも信じている。

 

「……先生が一緒に居たから、きっと、大丈夫だよね」

 

 呟き、微笑んだ。

 恐らくスクワッドは、サオリは、救われたのだろう。

 秤アツコは救出され、スクワッドは誰も欠ける事無くその目的を完遂した。

 きっとそれが、この物語の結末。

 

「うん、それなら――良いかな」

 

 そんな結末なら、悪くない。

 そう思って、彼女は僅かに目を伏せる。

 

 瞬間、鳴り響く砲音――無防備な隙を晒したミカ目掛けて、聖女バルバラが砲撃を敢行したのだ。砲弾は真っ直ぐミカの身体に飛来し、その顔面を捉える。凄まじい爆発と爆音、衝撃が周囲に走り、ミカの身体は爆炎と共に後方へと吹き飛ばされた。

 

「ぁぐッ……!?」

 

 途轍もない勢いと共に内壁へと身体が叩きつけられ、そのまま壁をぶち抜き室内へと転がり込む。濛々と立ち上る砂塵、壁の崩れる音、破片が床を叩く硬い反響。背中を固い床に叩きつけられ、思わず悲鳴が口から漏れ出る。強い衝撃にゆらりと揺れる視界、揺すられた頭部からどろりと流れ落ちる血、額を伝うそれを感じながら、ミカは重なった瓦礫に手を掛け、ゆっくりと身を起こそうとする。

 

「痛っ、たぁ……」

 

 全身が痛みを発していた。額を押さえつけ、流れ出る赤を拭う。さしもの彼女であっても、聖女バルバラの放つ攻撃は嘗て経験した事のない火力を誇り、恐らくそう何発も受けてはいられない事を悟る。

 耐えられて後二、三発か、五発は恐らく――無理だろう(耐えられない)

 

 そんな事を考えて、彼女はふと自身の足元の伸びる鮮やかな色合いに気付く。周囲を見渡すと、ステンドグラス越しに差し込む光が、美麗な色彩と絵画を地面に映し出していた。ミカが転がり込んだ部屋は、どうやら聖堂かそれに連なる部屋らしく、彼女はぼうっと辺りに視線を送っていた。

 

「此処って、聖歌隊室――?」

 

 ミカが転がり込んだ場所は、聖堂内部の聖歌隊室。左右に並ぶパイプオルガン、それぞれ異なった様式で左はバロック、右はネオクラシック、中央身廊を遮るコロには小祭壇が整えられ、ぐるりと内部を囲う様に掘られた彫刻がミカを見下ろしている。それらは長い間放置されていたのか埃を被って酷い状態であったが、それでもひと目でそれと分かる程度には形を残していた。

 

「……あぁ、そっか、そうだよね、アリウスも私達と同じ授業を受けていた筈だもの、こういう場所も、あるよね」

 

 呟き、ミカは地面に映し出された鮮やかな青に手を翳す。コロの傍には蓄音機や譜面台も揃えられ、何処までも見覚えのある造りに思わず苦笑を零す。

 しかし、感傷に浸っていられる時間は限られていた。ミカの突き破った外壁の穴から顔を覗かせるユスティナ聖徒会、そして聖女バルバラ。その巨躯を折り曲げ、ゆっくりとした足取りで室内へと踏み込んで来る。伸びた影がミカを彩っていた青を遮り、手に影を落とした。

 

「ふーっ……」

 

 それを見つめながらミカもまた愛銃を手に取り、静かに立ち上がる。

 バルバラの背に続いて部屋に雪崩れ込むユスティナ聖徒会、退路は無く、正に袋の鼠とでも云うべき状況。しかし彼女はそれに対して何を想う事もなく、ただ周囲を照らすステンドグラスを仰ぎながら、呟く。

 

「――あの時の先生、格好良かったなぁ……」

 

 思い返すのは、何度も自分に手を差し伸べてくれた先生、その姿。

 プールサイドで語り合った時、体育館で対峙した時、爆弾から身を挺して守ってくれた時、牢の中に居た自分に会いに来てくれた時、先生を殺されたと思い込んで暴走した挙句スクワッドのヘイローを壊そうとした時、聴聞会に一緒に出ようと励ましに来てくれた時、サオリの命を奪おうとした時――聖園ミカが、その道を間違えそうになった時、彼はいつも駆け付けてくれる。

 

「先生ってさ、私が本当に間違えそうになった時、いつも絶対に駆け付けて助けてくれるの、本当に危なかったり、ギリギリのところで……私、そういうお話が大好きで、何回も読んじゃう」

 

 返答が無いと理解していながら、ミカはバルバラに、ユスティナ聖徒会に向けてそんな言葉を放つ。

 窮地に陥ったお姫様を運命の人が救う――そんな御伽噺。

 子どもっぽくて、夢に溢れて、素敵で、胸がときめく様な。

 そういうお話が、聖園ミカは大好きだった。

 

「……だからね? そんな風に助けられる自分は物語の主役なんじゃないかって、先生にとってのお姫様なんだって、ちょっとだけ勘違いしちゃったんだ」

 

 そう云ってミカは口元を歪ませる。そこには自分に対する、強い嘲りの色が滲んでいた。

 お姫様、物語の主人公。これは運命人と出会う為の苦難で、辛い現実の後には甘い理想の結末が待っていると、以前の自分はそんな風に夢想した。

 

 でも、そうじゃなかった――私に、そんな資格なんて無かったのだ。

 だって、聖園ミカはお姫様でも、主人公でもない。

 聖園ミカは――私は。

 

「魔女がハッピーエンドを迎えるお話なんて、この世の何処にもないのにね――ッ!?」

 

 吐き捨て、ミカは聖女バルバラへと躍り掛かった。地面を蹴り砕き、急速に加速するミカの肉体、傍から見れば瞬間移動に等しいその加速に、しかしバルバラの視線は確かに追いつく。

 

「はぁッ!」

「……!」

 

 振り抜いた拳が、バルバラの顔面に飛び込んだ。それに反応したバルバラは手にした巨大な砲、その外装を以て咄嗟に拳を防いで見せる。轟音が鳴り響き、何か金属の拉げるような音、続いてバルバラの巨躯が後方へと押し込まれ、砲の外装が拳型に凹み、衝撃波が周囲に集っていたユスティナ聖徒会を蹴散らした。

 

 ――サオリ、私は自分が受けた痛みをあなたに感じて欲しかった、そうじゃないと不公平だと、ずっとそう思っていたの。

 

 押し込まれたバルバラの後方、銃を構えたユスティナ聖徒会が一斉に射撃を開始する。ミカは鈍く光るそれらを目視し即座に頭を振ると、一拍後にミカの頭部が在った場所を弾丸が貫く。微かに跳ね、千切れた髪の毛を目視しながら、彼女は素早く身を翻し駆け出した。

 乾いた銃声が幾つも鳴り響き、後方のステンドグラス、木製の長椅子、小祭壇、コロに弾丸が次々と突き刺さる。甲高い音を立てて降り注ぐ硝子片を浴びながら、ミカは弾丸の中を雨を潜り抜け、お返しとばかりに銃口を向ける。

 

 ――でも、そうだよね、私と同じように、あなた達も救われたかったよね? あなた達も、幸せになりたかったよね。

 

「――ぁぐッ!?」

 

 しかし、その引き金を絞るより早く、脇腹を突き抜ける衝撃と鈍痛。

 顔を顰めながら視線を落とせば、聖女バルバラがその巨躯に見合わぬ俊敏さで以て、ミカの横腹を蹴り飛ばしていた。長い足が槍の様に腹を穿ち、骨が軋む音をミカは聞く。抗えない衝撃が背骨を襲い、圧倒的な力で蹴り飛ばされたミカはそのまま地面を滑り、幾つもの長椅子を巻き込み、外壁へと叩きつけられた。背中を硬い外壁に強打し、身体が跳ねる。

 

「かはッ……!」

 

 肺から空気が漏れ、唾液と血の混じった赤が床に飛び散った。

 大きな音を立てて床に倒れ込むミカの身体、項垂れた長髪が埃の積もった床に広がり、その肩が大きく上下する。

 

「っ、ぅ、ぐ……ま、だ――ッ!」

 

 地面に這いつくばり、飛び散った木片を手で圧し砕く。降り注ぐ光、それらを一身に浴びながらミカはバルバラを睥睨した。

 その眼光は、未だギラギラと衰えぬ光を放っている。

 

 嗚呼――分かるよ、サオリ、その気持ち。

 サオリがアツコを助けたい理由も、何となくだけれど理解出来る。家族が大切だって云うのは嘘じゃない。けれど同時に、こうも思ったんじゃないかな? 

 多くの人を騙し絶望に陥れた自分でも、最後の最後に誰かを救う事が出来たのなら……そう、大切な誰かを助ける事が出来たのなら。苦痛だらけの人生でも、それだけで報われる(価値があった)って、そう思いながら消えて行けるって、そう想ったんじゃないかな。

 分かるよ――私にだって分かるんだよ、サオリ。

 

 だって、他ならぬ……私とセイアちゃんもそうだったから。

 

「ああああァアアッ!」

 

 歯を剥き出しにして、獣のように飛び掛かる。近場に居たユスティナ聖徒会の頭部を掴み、全力で床に叩きつけた。轟音と共に床が陥没し、ユスティナ聖徒会のガスマスクが砕け四肢が痙攣する。再起不能となったユスティナ聖徒会の腕を掴み、まるで鈍器の様に振り回し、周囲の敵を軒並み弾き飛ばして突進した。狙いは聖女バルバラ、せめてこいつだけでも削る、限界まで喰らい付く。その意思を持って戦い続ける。

 後に続く生徒が少しでも楽に戦えるように。

 先生が往く道を、切り開くために。

 

 ――あぁ、だからね、サオリ。

 

「次――ッ!」

 

 向けられた銃口を蹴り上げ、顔面を殴り飛ばし、ユスティナ聖徒会から何発もの銃撃を受け背中を抉られるミカ。蹈鞴を踏み、飛来する第二射を翼で防ぎ、宙に舞う血の滲んだ羽に顔を顰めながら愛銃の引き金を絞る。マズルフラッシュが瞬き、閃光の如く放たれた弾丸は纏まって動いていたユスティナ聖徒会数人の上半身を消し飛ばした。聖歌隊室の外壁に穴が空き、差し込む陽光が血塗れのミカを照らす。

 その柔らかな光の中で、彼女は想う。

 

 ――私は、あなた達を赦すよ。

 

「ぐぅ――ッ……!?」

「――!」

 

 ミカの全身を、無数の弾丸が打ち据えた。鼓膜を叩く重低音、鳴り響く獣の唸るような砲音。バルバラの構えた巨大なガトリング砲が火を噴き、部屋全体に嵐の如く暴威を巻き起こしたのだ。視界内のあらゆるものが粉砕され、壁のパイプオルガンが悲鳴のような音を搔き鳴らし、崩れていく。

 その到来した嵐に対してミカは腕を交差させ、必死に耐える。肌が裂け、血が噴き出し、無数の青痣が刻まれようとも、彼女の両足は膝を突かない。その目は、光を失わない。

 

「っ、ぎッ……!」

 

 寧ろ、その弾丸の嵐を掻き分け――前進する。

 

 今は、今だけは――あなた達の為に、祈ってあげる。

 

 いつか――そう、いつか、あなた達の苦痛が癒える様に。

 やり直しの機会を希うのと同じように。

 あなた達に未来が、次の機会がある事を。

 それはお互いが公平に、不幸である事よりも――ずっと良い結末だろうから。

 

「っ、あァア――ッ!」

 

 嵐を潜り抜け、バルバラの目前へと迫ったミカが、彼女の突き出したガトリング砲、その銃身を蹴り飛ばす。赤く赤熱したバレルが捻じ曲がり、バルバラの腕が大きく逸れる。瞬間、その腹部目掛けてミカは全力の拳を叩き込んだ。踏み締めた床が砕け、破片が虚空に打ちあがる。バルバラの背中を突き抜けた衝撃が一陣の風を生み、その後方にあった壁を粉砕した。

 バキリ、と。

 バルバラの身体がくの字に折れ曲がり、ガスマスクに罅が入る。

 

「もぉ、一発――ッ!」

「っ……!」

 

 血の絡んだ声で、苦痛の中でも必死に立ち続けながら彼女は咆哮する。腕を振り上げ、全力でバルバラの顎をかち上げる。轟音が鳴り響き、強烈なアッパーがバルバラの顎を跳ね上げ、その巨躯を微かに浮かせた。逸れた彼女の上半身と微かに揺れる室内がその威力を物語り、視界に赤が舞う。衝撃で彼女の手の中からガトリング砲が零れ落ち、地面に転がった。

 数歩蹈鞴を踏んだバルバラが凹み、拉げ、罅割れたガスマスクを押さえ俯く。

 その眼光が、割れたレンズ越しに煌めく。

 ミカとバルバラの視線が、交差する。

 

 ねぇ、サオリ。

 例えアツコを救ったとしても、あなた達の未来はきっと苦痛に満ちている。

 一生追われ続けるだけの人生かもしれない、表を歩く事が出来ない様な悲惨な人生になるかもしれない。

 でも、それでもね? 

 あなたがもし、その未来に――ほんの一筋でも光明が在ると信じられるのなら。

 アツコと同じように、あなた自身を赦せるように、自分の事も救ってあげて欲しい。

 聖園ミカはもう手遅れだけれど、あなた達(スクワッド)にはまだ、時間が残されている筈だから。

 

「ぎッ――!?」

 

 ミカの顔面に、バルバラの拳が突き刺さった。自身の頭部を覆い尽くしそうな大きな拳が、その頬を打ち据える。まるでトラックの衝突を受けたような衝撃が脳を突き抜け、ぐらりと身体が後方へと傾いた。

 だが彼女は踏ん張りを聞かせ、思い切り地面を踏み締めて堪える。傾いた体を全力で引き戻し、バルバラと顔を突き合わせる。

 

「ッぐぅ! ぅ、ふぅーッ! フーッ――!」

「――………」

 

 睨み合う両者。血塗れのお姫様と、その前に立ちはだかる青白い幽鬼――肩で荒い息を繰り返し、ミカは鼻から流れる血を乱雑に拭う。世界が嫌に静かに思えた、それだけ自身が戦いに集中しているのだろうか? 否、ミカは想う――実際に世界は静謐であった。まるでフィナーレを迎えるかのように、荘厳で、厳粛で、神聖で。

 

 それに、先生が手伝ってくれているのなら、きっと大丈夫。

 きっと、その未来は、悪い物じゃない。

 

「はぁっ、ふッ、ねぇ――……サオリ」

 

 血の滲んだ唇で、ミカは呟く。

 銃を持つ腕は震えていた、もう真っ直ぐ銃を構える事さえ困難であった。けれど一発、あと一発だけならきっと、何とかなる。

 何とかする。

 ゆっくりとバルバラにその銃口を向けながら、血で塞がった視界、片目を瞑りながら彼女は告げる。

 自分がこんな風に、誰かの為に祈りを捧げる事なんてないと思っていた。他者の救いを希うなんて、自分らしくないとさえ思えるのに。

 けれどその口元は、薄らと笑みを浮かべていた。

 生涯でたった一度、ほんの最期の瞬きの間だけれど。

 聖園ミカは、真摯に祈りを捧げる。

 錠前サオリに――スクワッドに。

 救われるであろう、自分と同じ存在に(私ではない貴女に)

 

「あなた達の往く先に、幸いが――……」

 

 その未来に――明日に、希望が。

 

「輝きに満ちた祝福が、あらんことを」

 

 告げ、引き金が絞られる。

 瞬間放たれる銃口より極光、部屋を覆い尽くような眩い光、それは幾多もの光を織り重ねたような力強い輝きと共に、バルバラの身体を覆い隠した。その輪郭さえあやふやになる様な銃撃――神秘砲。

 それは正に、聖園ミカが最後に放つ輝きに他ならない。

 同時にバルバラの火砲が火を噴き、鈍色の砲弾がミカに迫った。それを避ける事がミカには出来ない。同じタイミングで放たれた両者の攻撃は互いの肉体を直撃し、聖歌隊室は一拍後、爆発と衝撃によって崩落する。

 

 ミカの肉体はバルバラの放った砲撃によって弾き飛ばされ、地下回廊へと逆戻りした。壁を突き破り、地面を転がる傷だらけの四肢。血が滲み、埃と砂利、煤に塗れたティーパーティーの制服は見る影もない。力なく投げ出された両手両足が地面に叩きつけられる度に血を撒き散らし、彼女の身体は摩擦によって徐々に停止する。血と砂利の混じった跡を残しながら、回廊に横たわるミカ。彼女は辛うじて動く腕を使い、ゆっくりと立ち上がろうと足掻く。

 

「ごほッ、コホッ! は、っ、ぅ、はぁ――……!」

 

 不意に、からんと音が鳴った。

 軽い金属製の何かが、落ちるような音だ。

 直ぐ傍から聞こえたそれに、ミカの視線が向けられる。

 

「――ぁ」

 

 直ぐ傍に転がっていたそれは、差し込む陽光を反射し鈍く輝いていた。

 先生から貰った銀の指輪だ。それが爆発の衝撃でポケットの中から零れ落ち、陽に照らされていた。あれ程の戦闘があった中でも、汚れも、傷さえないそれを震える指先で拾い上げ、ミカは蹲る様にして胸元で握り締める。傷だらけで、泥だらけで、酷い恰好である自分に残された、唯一無二の宝物。それを抱き締めるミカの胸には、表現する事の出来ない様々な感情が噴き出していた。

 

 歪んだ視界に映る、ユスティナ聖徒会の群れ。

 そして先程の攻撃で片腕を失いながら、蒸気を吹き上げ尚も立ち上がる聖女バルバラの姿。

 その光景を視て、ミカはか細い息を吐く。

 

 ――此処まで、かな。

 

 声は小さく、震えていた。

 彼女にはもう、抗うだけの力も、意思も残っていない。

 魔女にしては随分と健闘した方だ、自分の役割は恐らく果たす事が出来た。最後まで手にしていた愛銃が床に転がり、ミカは指輪を握り締めたまま天を仰ぐ。傷付き、血に塗れ、陽を仰ぐ少女は神聖な絵画の如く――その瞼がゆっくりと閉じられ、彼女は最後に言葉を漏らした。

 

「あぁ……私も、先生と一緒に、帰りたかった、なぁ――」

 

 もし、自分にもやり直す機会が与えられたのなら。

 もし、違う結末があったのなら。

 もし、救いがあったのなら。

 

 そんな――在りもしない夢を抱いて、彼女は微笑む。

 

「――ごめんね、先生」

 

 その頬に、一筋の涙が零れ落ちた。

 

 ■

 

 

「謝る必要なんてないよ、ミカ」

 

 

 ■

 

 一番聞きたいと思っていた声が、直ぐ傍から聞こえた。

 はっと、彼女は閉じていた目を見開く。涙で滲んだ視界、彷徨った視界の先に見える誰かの輪郭。

 陽光に照らされ、後光が差し込んでいる様に見える彼は自身を見下ろしながら優しく微笑んでいた。

 擦れた声で、けれど力強い声で、彼は自身の名を呼ぶ。

 

「――遅くなってごめん、ミカ」

 

 荒い息を繰り返す肩、汗の滲んだ額、血の滲んだ唇、疲労の吹き出した顔色。きっと全力で駆けて来たのだと分かる姿で、先生は自身に手を伸ばす。

 

「せ、せん……せい?」

 

 その姿を、呆然とミカは見上げていた。

 色んな疑問が、衝撃が彼女の胸を、思考を突き抜けた。

 どうして此処にいるのとか、何で戻って来たのとか、聞きたい事、問い詰めたい事が沢山あって。けれどそれ以上に自身を覆い隠す感情が、彼女の鼓動を高らかに鳴らしていた。

 とても格好良い姿ではない、必死で、余裕なんて無くて、泥臭い姿だ。

 でもそれが、その姿が。

 そんな先生が。

 

 今この瞬間、聖園ミカにとっては――何よりも素敵な、運命の人に見えた。

 


 

 ■■■■の断片。

 

「はぁッ、はッ――……!」

 

 歩く、歩く、歩き続ける。

 降りしきる雨の中、彼女を背負って必死に足を進める。薄暗い街道の裏路地、黴の匂いが充満するその場所を、遅々とした足取りで進む。

 肺が痛む、呼吸の度に全身が悲鳴を上げ節々が鈍っていくのが分かる。今が熱いのか、寒いのか、それすらも定かではない。ただ着実に、少しずつ自身の肉体が死に向かっている事だけは確かだった。

 

「ふーッ、ふっ、ごふっ、ゴホッ……! お、ぇ――」

 

 堪え切れず、歩きながらその場で嘔吐した。赤黒い血が垂れ、咽る度に血が吐き出される。肺に血が入った、そうでなくとも体中、何処もかしこも穴だらけだ。それでも足を止める事が出来ず、彼は此処まで歩いて来た。

 何もかもが足りない、文字通り何もかもが。

 それでも、立ち止まる事は許されない。

 時間は、残り少なかった。少しでも遠くに、少しでも前に、歩かなければならない。

 背負った温もりが、その小さな光が、彼の――先生の背中を押す。

 

「ぅッ、ふっ、か、はッ、はぁーッ……――!」

 

 躓き、数歩蹈鞴を踏んだ。ゆらり、ゆらりと揺れる先生の身体。踏み締めた両足がばしゃりと雨水を跳ね、制服が泥に塗れる。壁に着いた手、指の欠けた左腕を見つめながら、先生は大きく息を吸う。歯を食いしばり、震える両足を叱咤する。膝は情けない程に震えていた、それが疲労から来るものなのか、寒さから来るものなのか、恐らく両方だろうと先生は想った。

 血塗れの右腕で彼女を背負ったまま、血の絡んだ声で吐き捨てる。

 

「まだ、斃れる、ん、じゃ、ない……っ」

 

 身体が限界だろうと、心が摩耗しようとも、それは今、力尽きて良い理由にはならない――この背中に守るべき存在が居る限り、倒れる訳にはいかない。

 自身の首に腕を絡ませ、張り付く小さな存在。

 先生に背負われた彼女に視線を向け、小さくその名を口ずさむ。

 

「――■■」

 

 自身に全てを預け、目を瞑る彼女。

 長く、くせっけのある白い髪は赤に塗れ、身に纏う制服は解れ、穴が空き、血が滲んでいる。消失したヘイローが彼女の意識が無い事を証明しており、その手に愛銃は握られていない。それを手にするだけの余裕も、時間もなかった。数秒、彼女の血に塗れた、けれどあどけない寝顔を見つめていた先生は、大きく息を吸って両足に力を籠める。

 

「ぐッ、ぅ――……!」

 

 歯を噛み締め、壁に手を突きながら歩みを再開する。ぽたぽたと、雨に混じって赤黒い血液が地面に流れていった。どれだけ血を失ったか――それを考える事は、余りにも恐ろしい。

 

「……大丈夫、だよ」

 

 歩きながら白い吐息と共に、そう口ずさんだ。覚束ない、弱々しい足取りで一歩、また一歩と進んでいく。それが誰に向けた言葉だったか、自分か、背負った■■か、或いは今尚苦しみ続けている子ども達か。

 

「だい、じょう、ぶ……!」

 

 震えた弱々しい声が路地に響き渡る。けれどその殆どは雨音に掻き消され、誰の耳に届く事も無い。

 

「私が、絶対に――」

 

 雨と血に塗れた顔を上げ、先生は前を見続ける。赤に塗れた歯を剥き出しにしながら、苦痛を噛み殺し歩く。

 

「何とか、して、見せるから――!」

 

 ――だが、物事には限界がある。

 

 どんなに強い決意を抱いていも、鋼に勝る意思を秘めていても。終わりと結末は、必ず訪れる。

 そして先生にとって、それは脆弱な肉体がその切っ掛けであった。

 

「ぁ……ぐぅ――ッ!?」

 

 がくんと、唐突にその膝が折れ、先生の身体が沈み込む。遂に身体が地面へと倒れ込み、その穿たれた両足の傷痕から血が噴き出した。咄嗟に腕を回し、背負った■■を抱きかかえながら冷たいアスファルトの上に転がる先生。どしゃりと、重々しい音を立てながら地面に蹲った先生は、数秒痛みに顔を顰める。

 雨が頬を打ち、水溜りが先生の視界を半分覆っていた。体中から血が喪われ、雨に溶けていく――意識が少しずつ、しかし確実に遠のいていく。それを自覚しながら、先生は自身の腕の中で眠る彼女を見つめ続けた。

 意識が、本能が訴えかける。

 

 あぁ、駄目だ。

 まだ、眠るな。

 まだ、斃れるな。

 まだ、諦めるな。

 まだ、目の前に生徒が。

 寄り添うべき子どもが、居ると云うのに。

 

 そう云い聞かせ、意思を奮い立たせる。だと云うのに手足は動かず、その意識は意志に反して遠のいていく。抗い難い睡魔と安寧の泥の中に、刻一刻と先生の肉体は沈んで行く。

 

「……■、■」

 

 彼女の名を呟き、震える指先で、その頬を撫でつけた。剥がれ落ちた爪から滲む血が、彼女の頬に赤を彩る。

 ふと、その瞼が微かに震えるのが見えた。睫毛が雫を弾き、彼女の特徴的なヘイローが灯る。薄暗い路地の中で、■■のヘイローが微かな明かりとなって先生を照らした。ゆっくりと開かれる瞼、その奥に輝く瞳、胡乱なそれが目の前の先生を捉える。

 

「……せん、せ?」

「……あぁ」

 

 起き抜けの、やや幼い口調で彼女は問う。先生は自身の中で蠢く不安や焦燥、苦痛と云ったものを全て噛み殺し、精一杯微笑んで見せた。彼女は自身を抱きながら横たわった先生を見て、それとなく周囲に視線を向ける。

 滴り落ちる雨、跳ねる雨音、薄暗い路地裏に満身創痍の先生――彼女の瞳が動揺に揺れ、その唇が寒さと恐怖に震える。先生の顔は、右半分が暗闇と雨水に覆われ見えない。けれどそこから滴る、夥しい程の赤色だけは分かった。

 彼女の指先が無意識の内に先生の汚れ、煤けたシャツを握り締め、問いかける。

 

「せんせ、ここ、どこ……?」

「………」

「どうして、そんなに傷だらけなの……?」

「………」

「……せんせ?」

 

 先生は何も答えない――答えられない。

 先生は紫色に変色した唇を小刻みに震わせながら、緩慢な動作で右手を動かした。震え、僅かな動作にすら時間を要する指先が先生の首から下げていたシャーレのIDカードをゆっくりと抜き出す。それは先生の顔写真と、シャーレのマークが印字された、シャーレ及び連邦生徒会に於ける重要なキーカードである。これがあれば、大抵のセキュリティは突破出来る。それを■■の手の中にそっと握らせ、微笑みながら彼は告げた。

 

「私の、IDカード……だよ」

「………」

「これがあれば、シャーレで、大抵のものには、アクセス、出来る筈、だから」

「……な、なん、で」

 

 戸惑いの声が漏れ、思わず声が震える。どうしてこんなものを自分に手渡すのか、それが分からない。

 いいや、それは嘘だ、聡明な彼女は理解している。ただそれを、その現実を認めたくないだけだ。

 先生は何も答えない。ただ微笑みを浮かべたまま、その瞼が少しずつ、ほんの少しずつ落ちていく。まるで眠る様に、微睡む様に意識が消えていく。それが目の前に居る彼女には手に取る様に分かった。

 

「シャーレの、地下に――……役立つ、も……が、沢山……ある、か……」

「せ、先生、ねぇ……先生!」

 

 消えていく先生の意識、それを呼び起こそうと声を張り上げる。掴んだ先生のシャツを揺すって、彼を叱咤した。その甲斐あってか沈んだ瞼が僅かに押し上げられ、微笑みはより一層深みを増す。けれど先生の瞳は既に、彼女を見ていない――もう、何も見えていないのだ。

 

「だい、じょうぶ、少し、眠い、だけ……」

「………」

「私は、だいじょうぶ」

 

 大丈夫、大丈夫と――先生は繰り返した。

 何度も、繰り返し続けた。

 それが何の慰めにもならない事は理解していた、大丈夫と口にしながら、先生の肉体は刻一刻と死に迫っている。

 自身に縋る■■の手を握り返し、赤子の様な、酷く弱々しい力で握り返す。それに応えながら、彼女はか細い息を吐き出し、先生の傍に身を寄せる。その温もりを感じたくて、生きていると信じたくて。けれど肌を伝わるそれは冷たく、人とは思えない温度で、恐怖と寂しさで、彼女の歯がカチカチと鳴り始める。

 

「大丈夫、だいじょう、ぶ……安心、して、ね――」

「せ、先生……」

「私が、絶対に――……何とか、して……みせ、る、から」

 

 最早色を失くした唇、ぎこちなく声を発するそれが、徐々に震えさえしなくなる。微かに押し上げられていた瞼が遂に閉じられ、先生は雨の中小さく、最後に息を吸い込んだ。青黒い隈の刻まれた表情は、既に色を失くして久しい。

 

「わ、たし、が――……」

 

 ほんの、雨音にさえ負けてしまう様な声。それが彼女の鼓膜を揺する。

 そして、その言葉を最後に――先生はゆっくりと呼吸を止めた。

 それ以上先生が何かを口にする事は無く、彼女の手を握り締める指先は、僅かも動く事は無くなった。一斉に雨音が鳴り響き、彼女の世界が騒音を増す。

 雨音で、先生の声が聞こえない。

 

「――先生?」

 

 縋る彼女が、その耳元で先生の名を呼ぶ。

 けれど彼は何も答えない――答えられない。閉じられた瞼は開かない、自身の握り締めた手を、握り返してくれない。冷たくなったその肌は永遠に熱を灯さない。

 手渡されたシャーレのIDカード、笑顔で映る先生の写真。それを胸に押し当てたまま、先生の手を握り締めもう一度、彼女は問いかける。

 

「――……先生?」

 

 路地裏には彼女の震える声と、雨音だけが響いていた。

 



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私の、私だけの王子様。

誤字脱字報告、ありがとうございますわ!


 

「先生、な、なんで、此処に……どうして?」

「云ったよね、私はどんな時でも、ミカの味方だって」

 

 汗を流し、弾む息を噛み殺しながら屈託のない笑みを浮かべる先生。それを見上げながら戸惑い、弱々しく問いかけるミカ。先生の姿は中々どうして、酷いものだった。汗と血の滲んだシャツ、口の端には乾いた血がこびり付き顔色はどう見てもあの時より悪化している。ぶら下がった左腕はただ揺れるだけで、先程から一切動いていない。

 総じて満身創痍、誰かを助けられるような状態では決してない。だと云うのに彼はこの場に立ち、ミカの前に――生徒の前に佇んでいた。

 

「――どんな時でも、ミカの為なら駆け付けるって」

「……っ!」

 

 その言葉に息を呑む。

 そうだ、先生はその誓いを、約束を破った事など一度もない。自分が倒れそうな時、間違えそうになった時、底へ沈みそうになった時――先生はいつだって、どんな時だって、必死になって駆け付けてくれた。

 傷だらけになって、その手を伸ばしてくれた。

 けれどミカは伸ばされた手を取る事が出来ない、最後まで彼女の心が、自責の念が邪魔をする。

 

「で、でも、私に、そんな――そんな、価値なんて……!」

「あるとも」

 

 告げ、先生は徐にミカの手を取った。大きくて、少しだけ冷たい、けれど確かに大人の手だった。

 ぐんと、引き上げられるミカの身体。引っ張られるように引き起こされた彼女は、先生の胸の中に飛び込む形で抱き留められる。鼻腔を擽る先生と汗、そして血の香り、僅かな甘さを伴うそれにミカの心臓が高鳴る。

 先生はミカを抱き留めたまま小さく、けれど確かな力強さと共に告げた。

 

「どんな生徒であっても、その胸に秘めた光には無限の可能性と、計り切れない価値がある――文字通り、私の全てを賭す価値が」

 

 例え本人が否定しても、それだけは真実であると、先生は信じ続ける。

 生徒(生徒)とは光だ――希望そのものだ。

 それを守る為ならば、先生はどんな無茶だって通す。

 その想いと共にミカの手を離し、先生はゆっくりと踵を返してユスティナ聖徒会の元へと歩き出す。ミカは咄嗟に彼の裾を掴んだ、外套を引かれた先生の足が止まり、その視線がミカに向けられる。

 それを見上げながら、ミカは縋る様に懇願を口にした。

 

「だ、駄目だよ先生……! そ、そんな状態で、戦える筈ないじゃん! 今からでも遅くないから、私が、私が何とか、押し留めるから……! だからその間に、お願いだから逃げて……!」

 

 声には必死の想いが籠っていた。仮に此処で先生が立ち塞がろうと何にもならない。先生は人間だ、大人である前にか弱い一人の人間なのだ。銃の一つも持たず、肉体的に強靭な訳ではない、この場所に於いて先生の存在は精神的に救いにはなっても、事態を好転させるには至らない。そんな満身創痍な身体で守られる事に、ミカは堪え切れない罪悪感を覚えていた。

 

「……そのお願いは、悪いけれど聞けないよ」

 

 彼女の縋る手を見つめながら、けれど先生は首を振ってみせる。

 

「傷だらけで、今こうやって苦しんでいる生徒に背を向ける先生なんて、何処にも居ない」

 

 此処で逃げる選択肢なんて、存在しない。

 そもそもこの状況で背を向ける大人ならば、この場所に立つ事さえ無かった筈だ。

 だからこそ彼女の言葉に頷く事はあり得ない、例え手足全てを千切られて、伸ばす手さえ残されいなかったとしても――自身はきっと、この場所に立っていた筈だから。

 

「ミカがどんなに自分を悪く云っても、どんな道を選んでも、私の大切な生徒には変わりないんだ」

「―――」

「だから私は、私の持てる全てを費やし全力で寄り添う、(生徒)が私の背中に居る限り、どんな困難だって打ち砕いて見せる――……!」

 

 己は、先生だ。

 先生とは、そう在るべきなのだ。

 他ならぬ私は、先生と云う在り方を――そう信じる。

 

 薄汚れ、擦り切れた純白であった外套、シャーレのそれが視界の端で翻り、ミカの視界一杯に先生の背中が映った。するりと、ミカの手の中から掴んだ外套の裾が滑り落ちる。

 か弱い人間の背中だ、弾丸一つで命を落としてしまう程に脆い。

 けれど先生(大人)の背中は彼女にとって、余りにも大きく、力強く見えた。

 

「私のっ――」

 

 ――此処で、切り札(カード)を切る。

 

 目前で群れ為すユスティナ聖徒会を見据えながら、先生は右腕を天に突き上げた。懐に仕舞い込んだシッテムの箱が呼応し、画面が点灯する。

 瞬間、先生を中心に巻き起こる風、青白い光が回廊を奔り抜け、彼の指先が光り輝く。

 

「っ……!」

 

 そして、渦を巻く莫大な神秘が先生の指先に集中し、朧げな輪郭(四角形)を形成した。ミカは余りの光量に顔を背けながら、薄目で影となる先生の背中を見つめていた。

 先生の肉体、そしてシッテムの箱が持つ充電残量は心許ない。恐らくこれが最後の一回、これを切れば自身は戦闘能力の一切を消失する。電力を全て吐き出す訳にはいかなかった、しかしその覚悟が無ければこの苦難を乗り越えられない。

 

 ならばこそ、躊躇いはなかった。

 歯を食いしばり、力強く地面を踏み締める。指先に集中した青白い光、大人のカードを掲げたまま――光と共に、先生は叫んだ。

 

「私の大切なお姫様(生徒)に、何をしているッ!?」

「―――」

 

 光は弾け、先生の指先に完全なるカードが顕現する。

 膨大な神秘を圧縮した、先生の持ち得る不可逆の奇跡(大人のカード)

 それは回廊全てを遍く照らし。

 

 その美しい光景を、ミカは赤らんだ表情と共に呆然と眺めていた。

 

 ■

 

 

【――ずっとこの時を待っていたよ、先生】

 

 

 ■

 

「えっ――?」

 

 先生に見惚れるミカに冷や水を浴びせるような、そんな声が響いた。

 突如、ミカを襲う強烈な不快感。ぐわんと視界が揺れて、彼女はまるで海原の上に立ったかのような不安定さを覚えた。足元が覚束ず、思わずその場に膝を突く。強烈な痛みが胸を突き抜け、悲鳴を呑み込んだ。

 しかしそれは負傷による痛みや異常ではない――声は、自身の内側から響いていた。

 

「ぁ、ぐ……っ!?」

 

 ミカの心臓が跳ね、早鐘を繰り返す。冷汗が滲み、ミカの頭部が締め付けられるような痛みと不快感を発し、ヘイローにノイズが走った。視界が歪む、向こう側で光り輝く先生の背中が見える。その光景が、光が、背中が、ミカの何かを掻き立てる、何かを強く訴えかける。

 

【そう、ずっと待っていたんだよ……ずっと、ずっと】

「な、に、誰……なの?」

 

 何だ、これは。

 この声は、誰だ?

 ミカは額を押さえつけながら項垂れ、声の主に問い掛ける。地面に突いた掌に汗が滴り落ち、幾つもの痕を残した。どうしてだろう、その声を知っている筈なのに、一番良く聞いた声の筈なのに。それでも何故か乖離する、彼女の中に存在する何かが否定する。

 この声の主を、自分は知らない。

 この光景を、自分は知らない筈なのに。

 何故か、強い既視感を覚える。

 

【私と、『私』の想いが一致する――私が、『私』と交わる……!】

「あ、なた、は――……?」

 

 意識が混濁する、何か――途轍もなく大きな何かが、彼女の中に入り込もうとしている。それはミカという存在を掻き消してしまう程に強大で、鮮烈で、けれど破壊ではなく、寧ろ存在全てを包み込む様な優しさも持ち合わせていて。

 それが何かを理解するより早く、ミカの視界が徐々に暗転する。先生に向けて伸ばされた手は、ゆっくりと地面に落ち。

 

 誰かが代わりに、自身の内側で歓喜の声を上げた。

 

【この、瞬間を――ッ!】

 

 ■

 

「行こう、アロナ――!」

 

 先生の傍に、人型の光が浮かび上がるのが見えた。

 世界が急速に色を取り戻す、ミカの意識が復活する。

 視界が一気に広がり、視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚、全てが一度に流れ込み、大きく息を吸い込む。まるで生まれ変わった様な気分だった、否、実際生まれ変わったと云ったも過言ではない。

 先生が右腕を振り下ろし、何かを叫ぼうとするのが見えた。あの凝縮された神秘が解放されてしまえば、カードの使用が確定され、不可逆の奇跡が行使される――唇を滴る血を静かに舐めとり、彼女は手の中にあったそれを大事に仕舞い込むと、静かに動き出した。

 

 それ(大人のカード)の行使を、彼女は容認する事が出来ない。一度切ってしまえば取り返しは付かない、代償は速やかに先生から支払われ奇跡は現実のものとなるだろう。

 だからこそ先生の背後へと歩み寄ったミカは、無造作に掲げた先生の腕を掴む。

 それに気付いた先生が、驚愕と共に振り向いた。

 

「っ、ミカ――?」

「……先生、それは駄目だよ」

 

 回廊に声が響いた。

 その声はミカのものである筈なのに、酷く冷静で、淡々としていて、平坦だった。けれどそれは感情が存在しないという訳ではない――寧ろ何か、爆発しそうな想いを内に秘め、必死に覆い隠そうとしているようにも思えた。

 先生の腕を掴むミカの手に力が籠る。痛みを伴うものではなく、寧ろ離れがたい感情を伝えて来るような、そんな力強さだった。

 

「ありがとう、また助けてくれて――でも、此処は私に任せて」

「っ……?」

「先生にそれ(カード)は使わせない、こんな所で何て、絶対に」

 

 何か、様子がおかしい。

 先生は唐突に変化したミカの気配に、内心でそんな呟きを漏らす。

 外見は聖園ミカその人だ、つい先程まで自分が背に庇っていた生徒そのものだった。だというのに、纏う雰囲気だけが豹変している。中身が丸々入れ替わったかの様な、滲み出る気配だけが余りにも異質だった。

 彼女は弾丸によって所々ざっくばらんになった髪を払い、その顔を上げる。

 

「この程度の敵、私ひとりで十分なんだから」

 

 その表情は、何処までも自信に満ちており――瞳に星々が煌めいていた。

 硝子が割れるような甲高い音と共に、先生の指先に収斂した光は弾け、周囲に顕れようとしていた人型はその形を崩し力を発揮する前に霧散する。奇跡の行使は為らず、代償もまた支払われない。

 再び静寂の訪れた回廊を見渡しながら、ミカは満足そうに微笑んだ。

 下がっていて――そう告げ先生を後方へと優しく押しやったミカは、改めてユスティナ聖徒会と対峙する。

 そこに気負いは見られない。

 

「さて、と」

 

 手に握っていた愛銃を見つめ直し、その弾倉を検める。弾薬は弾倉半分、引き金を絞ればすぐに消えてなくなる様な弾数。そうなると肉弾戦主体で戦う事になるだろう、負傷した肉体ではやや不利か。

 しかし、不安はなかった。

 まるで世界全てを感じる様に両手を広げた彼女は、大きく息を吸い込む。肺を満たす空気、ずっと感じられなかった新鮮な世界の感覚。

 

 それらを堪能しながら徐に一歩を刻み――聖女バルバラへと肉薄した。

 

 それは一瞬の事であった。

 ミカの立っていた床が爆ぜ、衝撃と共に掻き消える影。

 つい先程まで、視線で追える程度の速度しか出せなかった聖園ミカが――気付けば、と表現するしかない様な速度と爆発力で以て目前に迫る。バルバラの反応が遅れ、視界一杯にミカの表情が映った。

 

「此処から先は、進ませないよ」

「――!」

 

 風切り音、同時に頭部に着撃する拳。

 一拍遅れてミカの足元が粉砕し、バルバラの顔面が弾け飛ぶ。本人からすれば、首から上が消し飛んだと錯覚する様な打撃。その巨躯が地面と水平に吹き飛び、背後のユスティナ聖徒会を巻き込みながら外壁へと叩きつけられ、轟音を打ち鳴らした。衝撃で崩れ落ちる外壁、暗闇の向こう側へと消える聖女バルバラ。ミカは殴り飛ばし、蒸気を吹き上げる自身の拳を見つめながら小さく息を吐き出す。

 

「ッ……!」

 

 その一部始終を辛うじて視認していた先生は、戦慄した。

 彼女の拳に込められた威力と神秘の濃度は、先生をして類を見ない程。切り札によって呼び出された生徒と比較しても、尚劣らないだけの威力を秘めている。それは本来、あり得ない現象と云っても良い。

 

 何故ならそれは――反則に近い事象なのだ。

 

 まるでほんの一瞬の内に著しい成長を遂げたかのように、彼女の中に巡る神秘は膨大なものとなっていた。まだ僅かな違和感が節々に残っているものの、それも何れ掻き消える。

 

「うん、大丈夫そう――良く馴染みそうじゃんね?」

 

 頭の天辺からつま先に至るまで、意識の届く範囲で感じられる神秘の躍動。それらを確かめながら彼女は呟く。

 これならきっと、大丈夫。

 そう確信し、彼女は自身の手を一際強く握り締める。そしてミカは先生の方を振り返ると、くしゃりとその表情を歪めた。それは今にも泣きそうな、それでいて何か、酷く嬉しそうでもある。複雑で、余りにもあらゆる感情の込められた表情であった。口を開き、閉じる、そんな事を何度か繰り返した彼女は意を決した様に言葉を発した。

 

「先生、今度は――……」

 

 呟きは、震えを含んでいた。

 何かを躊躇う様な、或いは言葉を選んでいる様な逡巡を見せ。ぐっと唇を噛み締めた彼女は、何度か声を呑み込み。それから泣き笑いする様な、歪んだ笑みを浮かべたまま、彼女は云った。

 

「今度は絶対、守るから」

「……ミカ?」

 

 ――後は、全部託すからね。

 

 胸中で告げ、彼女は目を瞑る。途端、内面で切り替わるその意識。再び目を開いた時、彼女は数歩蹈鞴を踏んで周囲に視線を向けた。

 

「えっ――……あれ?」

 

 最初に浮かんだのは困惑の表情、自身が今何をしたのかを理解している、しかしそれは明らかにミカの意志ではなかった。今しがたバルバラを殴り飛ばした拳を見下ろしながら、彼女はゆっくりとそれを引き戻す。

 

 意識が戻った、元の自分に切り替わった――違う、そうではない。

 彼女は、全てを託したのだ。

 

「先生……? あ、あれ、わ、私、何で……っていうか、こんな私、強くなかっ……じゃなくて――今、私はシャーレに居た筈で、これから……エデ、あ、いや、ゲヘナ、は、違う違う……」

 

 意味のない言葉の羅列、思考が完結せず自意識が曖昧になる。視線が泳ぎ、彼女は冷汗を噴き出しながら頭を抱えて後退した。

 今、ミカの脳裏には幾つもの記憶とそれに伴う感情が雪崩れ込み、その余りにもリアルな体験が彼女の心を焼き尽くさんと襲い掛かっていた。

 

 それは彼女の知らない世界、体験したことのない悲劇。

 

 こんな事は知らない、憶えていない――だというのに強烈な既視感と共に彼女の脳裏に刻まれて行く。聖園ミカの経験として、聖園ミカの人生として。

 それは上書きではなく共存、経験の蓄積、聖園ミカという器を長い時間をかけて拡張させた彼女が、満を持してそこに水を流し込んでいるのだ。

 流し込まれる水とは、ミカの意識に潜んでいたもう一人の彼女――異なる結末を辿った聖園ミカの人生そのもの。余りにも膨大なそれにミカは翻弄され、唯々自身の頭を抱えながら錯乱する事しか出来ない。

 頭が痛む、胸が軋む、胃が裏返る様だ、吐き気がする――けれどそれに勝る、託された激情がある。

 

「私はミカ、聖園ミカ、ティーパーティーで、パテル分派の首長で、今代のホスト……違う、もう私はトリニティを追放され、じゃない、そんな事じゃなくて、連邦生徒会……シャーレ、は、私、そう、私はシャーレで――エデン条約は、そう、そうだよ、先生は、私は先生を……――」

「ミカ? ミカ……ッ!?」

「条約は、アリウス、そう、アリウスに……シャーレが、そう、解体、されかけて、魔王も、あ、いや、あれは、そうだ、セミナーで、それで、連邦生徒会……違う、連邦生徒会長、そうだ、連邦生徒会長が……を――それで」

 

 頭を抱え、髪を毟りながら譫言の様に何かを口ずさむミカ、その光景は不気味で悍ましいものだろう。

 だが唐突に、ぴたりとその震えが収まった。

 時間にして十秒程度、しかし彼女からすれば文字通り――人生ひとつ分の回想。

 それを追体験し、記憶と経験として蓄積した彼女は自身の終わり、その結末を知った。ミカの両目が大きく見開かれ、彼女は呆然とした表情で【それ】を口にする。

 

「――先生が、虹の契約を結んだ」

「ッ――!?」

 

 彼女の発した一言に、先生の身体が明確に硬直する。

 何故なら、それを知る者は――知っている筈の者は、居ない筈だった。

 共に世界を渡るたった一人と、イレギュラーである彼女を除いて。

 その言葉が聖園ミカから発せられる事はあり得ない、もしそれを知っていると云うのであれば――目の前の存在は。

 聖園ミカは。

 

「まさかミカ、君は……っ!」

「思い、出した……いや、これは思い出すって云えるのかな? あはは、分かんないや、私、そんな頭良くないし、分かんないけれど……」

 

 微かに震え、冷え込んだ指先。それを握り込みながらゆっくりと顔を上げるミカ。陽に照らされた彼女の横顔、その瞳が先生を正面から射貫く。

 

「このまま進んだ(違う未来)で――先生がどうなるかだけは、分かった」

「ッ……!」

 

 先生(自身)を捉える、昏い――余りにも昏い瞳。

 まるで奈落の底を覗き込んだような、おどろおどろしい感情と激情の発露。そんな瞳を、表情を、先生は何度も見て来た。だからこそ彼の胸は軋み、動悸は激しさを増す。

 強張る先生の表情を見つめながら、彼女は引き攣った笑みを浮かべたまま納得の言葉を吐き出した。

 

「そっか、そういう事だったんだね、私の意識が時々途切れていたのも、何で私が【こんな道】を選んだのかも全部……全部、分かった」

 

 ゆらりと、彼女は上体を起こす。天を仰いだ彼女は数秒程差し込む陽の光を浴び、愛銃を強く握り締めたままユスティナ聖徒会と向き合った。彼女の纏う気配、雰囲気は何だろうか? 退廃的で、何処か薄暗く、同時に触れると焼けてしまいそうな熱を感じさせる。

 

 崩れ落ちた外壁、それを腕で払い除け、片腕を失ったバルバラが回廊へと戻って来る。凹み、傷付き、砲身の捻じれ曲がった火器を投げ捨て、相も変わらず色の見えない瞳で以てミカを見つめていた。

 それに応じる様に顔を逸らした彼女は、一歩、また一歩とユスティナ聖徒会へと歩みを進める。

 ぐるぐると、ミカの頭の中を同じ光景が巡っていた。聖園ミカという存在に刻み込まれた想いと記憶――ある意味、予知に等しいそれ。嗚呼、こういう景色を何度も見て来たのなら、セイアちゃんもこんな気持ちだったのだろうか? 何て、そんな事を考えて。

 ミカは乾き、ふとすれば掻き消えてしまいそうな声量で呟く。

 

「駄目だよね、そんなの……うん、だってさ、似合わないよ、先生には、あんな最期(終わり)

「ミカ……ミカッ!」

「先生は生徒の為に、身を粉にして、こんな、こんな私にだって、あんな事云っちゃう人なんだから――報われなきゃ駄目だよ、沢山、沢山苦しんで頑張ったんだから、幸せにならなくちゃ……その権利が、先生にはあるんだもん……!」

 

 必死にミカの名を呼ぶ先生。しかし、その声は彼女に届かない――正確に云えば、それに勝る激情がその胸を焦がしている。

 終わりを見た、結末を見た、絶望を見た、赤に沈む世界を見た。

 その中で救われない最期を迎える大切な人を見た。

 そんな結末を、彼女は認められない。

 そんな最期を、彼女は受け入れられない。

 だから――だからこんな真似をしてまで彼女は世界を超え、自身の中に(想い)を植え付けた。それが芽吹く保証何てないのに、先生ならきっと、此処に辿り着くと信じて。今の今までずっと息を殺し、待ち続けた。

 そして漸く、彼女の願いは成就する――もう一人の聖園ミカ(彼女)は、賭けに勝ったのだ。

 

 先生は報われなければならない。

 先生は幸せにならなければならない。

 その為に、聖園ミカ(彼女)は。

 

「だから、私は――ッ!」

「……!」

 

 示し合わせた様に、バルバラとミカが地面を蹴った。

 互いの足元が爆ぜ、バルバラの巨躯とミカの身体が瞬く間に接近する。振り被った拳、互いのそれが風切り音を鳴らして繰り出され、激突した。

 衝撃が周囲の空間を揺らし、瓦礫が突風に吹き荒らされる。傍に立っていたユスティナ聖徒会の数名が衝撃で吹き飛ばされ、地面を何度も転がるのが見えた。真正面からの力比べ、込められた神秘が互いの腕を貫き、バルバラとミカの長髪が後方へと靡く。

 激突した互いの拳――打ち勝ったのはミカ。

 バルバラは握り締めた指先、それが中程から圧し折れる音を聞いた。そのまま腕を振り抜くミカ、バルバラの腕が弾き飛ばされ、その巨躯が仰け反る。罅割れ、最早原型をとどめないガスマスク、その罅割れ欠けたレンズに映るミカは、狂気的な嗤みを浮かべ――全力で吼えた。

 

「先生の為にッ! 先生だけの為にッ! 今度こそ、先生を【幸せにする】って決めたんだッ!」

 

 ズン、と打ち鳴らされる震脚。同時に放たれたミカの打撃が、バルバラの腹部を打ち据えた。肉を打つ打撃音、背中を突き抜ける衝撃。同時に見上げるような巨躯が簡単に浮き上がり、肉体がくの字に折れ曲がる。耳を劈く途轍もない衝撃と轟音。石床が捲り上がり、蜘蛛の巣状に罅割れた。

 

「私を受け入れてくれた先生! 私に素敵な思い出をくれた先生! 私を幸せにしてくれた先生ッ! 私にッ、最後まで寄り添ってくれた先生ぇッ!」 

 

 それは血を吐く様な叫び、或いは歓喜を滲ませる生誕の声。

 陽に照らされた回廊、それでも未だ尚薄暗い影の中で踊る赤の滲んだ白、その後ろ姿から――先生は目を離せない。血が滲み、傷だらけになった拳を振り被って、彼女は自身の想い、その全てを声に乗せて叫んだ。

 

「あなたに殉じる為に、私はっ、今――此処にいるッ!」

 

 繰り出される拳――今の彼女が出せる、全力の一撃。

 出鱈目な神秘濃度を誇るそれが、バルバラの顔面を直撃し、回廊が揺れた。

 バルバラにとっては、それが決着の一撃となった。耐久限界に達したバルバラの輪郭が崩れ落ち、その存在が消失していく。空間に溶ける様に、或いは、最初から存在しなかったかのように。悲鳴一つなく掻き消えていく聖女バルバラ、それをミカは何の感慨も感じられない瞳で見送る。

 振り抜いた拳、バルバラを掻き消したそれが突風を巻き起こし、後方に居たユスティナ聖徒会に拳圧が直撃する。幾人かはその輪郭を不安定なものとさせ、数十人というユスティナ聖徒会が紙切れの如く吹き飛んでいくのが見えた。虚空に掻き消える個体、外壁に叩きつけられ消滅する個体、地面を転がりゆっくりと溶けていく個体。

 聖女バルバラは消滅し、残るはユスティナ聖徒会の生徒のみ。だが、戒律の守護者とは云え一般生徒に毛が生えた程度の戦力では彼女の相手になり得ない。

 それを理解しているからこそ、ミカは大きく息を吐き出して全身から力を抜いた。

 腕にぶら下げた愛銃を見下ろし、彼女は苦笑する。結局、ただの一発も撃つ事はなかった。

 

「ふぅー……あははっ、やっぱり先生と一緒に歩んだ私(主役になれた私)は凄いや……あぁ、いや、でも記憶は受け継いだし、想い(感情)も……なら、私も【私】、なの――かな?」

 

 全身を駆け巡る力の奔流、つい先ほどまで感じていた疲労も、痛みも、何も感じない。残るのは何事であっても成し遂げられそうな全能感と、強い渇望。或いは使命感と云い換えても良い。

 ミカは自身の胸元に触れ、小さく呟く。

 

 受け取ったよ、文字通り命懸けの――別の未来を歩んだ、貴女()の想い。

 

 彼女に心の中で言葉を送りながら、ミカは自身のポケットに手を差し込む。取り出したのは銀の指輪、先生と自身の繋がりを示す証明――以前の彼女であれば、縋る事はあってもソレを身に着ける事はしなかっただろう。その資格がないと、彼女の罪悪感や自責の念、後ろめたさが身に着ける事を許さなかったのだ。

 けれど今は違う、在り得るかもしれない未来を知った彼女は躊躇しない。確固たる想いが、決意が、覚悟があるのならば呑み込める筈なのだ。その程度で崩れてしまう想いならば、疾うの昔に折れていた。

 手にしたそれを陽光に照らし眺めた後、彼女は静かに自身の指先へと嵌める。あの日、初めてこれを受け取った日と同じように。

 

 ――塔に幽閉されたお姫様が運命の人にセレナーデを歌う物語。

 

 鬱屈とした世界の中で、唐突に現れた王子様(運命の人)に手を引かれて、お姫様は光に満ちた外の世界へと飛び出して行く。

 その先に希望と、明るい未来が続いていると信じて、真っ直ぐに。

 

 けれど、それでは手に入らないものがあると知った。この世界は、そういう物語ではなかった。

 希望は絶望に、光は闇に、どれだけ善人であっても、正しい事を為したとしても、それが報われる事は無く、ただ苦痛と恐怖だけが渦巻く世界。

 運命の人が、ただ苦しみ悶え消えていく世界。

 

 けれど。

 外の世界が希望ではなく絶望に、光ではなく暗闇に支配されているのならば。

 その中で運命の人が、傷だらけになって非業の最期を遂げるのならば。

 

 ――お姫様が、王子様の為に剣を取る事だってあるのだ。

 

「ねぇ、先生」

 

 差し込む陽光、淡いそれに照らされた彼女がゆっくりと振り返る。ふわりと煤けたスカートが浮き上がり、彼女のヘイローが一際強く輝いた様に見えた。

 先生の視界に、陽光に照らされたミカの姿が映る。けれど何故だろう、振り返る彼女の姿が――いつか見た、最後の姿と重なる。この場所に存在しない、燃え盛る炎の背景を幻視してしまう。場所も、状況も、何もかもが異なると云うのに、内に光る白だけは永遠に変わる事が無くて。

 

「救いに来たよ――私の大切な王子様!」

 

 降り注ぐ柔らかな光の中で、血に塗れた手を差し出し。

 彼女はそう云って、綺麗に微笑んだ。

 


 

 よわよわミカ、涙目ミカ、激昂ミカ、覚醒ミカ。

 それらを経て、究極のミカ(アンブロジウスをワンパン)が完成しましたわ。

 

Benedictio(祝祷)

 強靭な肉体と神秘濃度から成る防御・攻撃技術。技術と云うが、本人からすると、「わっ、何か痛そうな攻撃だな~」と思ったら気持ち身構える程度のもの。それだけで防御能力が飛躍的に向上し、反対に殴る時に「えいっ!」と力を籠めるとコンクリートを砕き、相手は死ぬ。

 小説内ではコレだけでスクワッド・アリウス相手に大立ち回りをしていた。技と云うか常に彼女に発動しているパッシブスキルみたいなもの。

 究極のミカになると、戦車の主砲が顔面に直撃しても、「びっくりしたなぁ」で済む。いや、これは前からそうか……? そうかな、そうかも……。

 

Gloria Patri(頌栄)

 祝祷を更に攻撃に先鋭化させたもの、簡単に云うと全力でぶん殴ったり、銃をブッパする。喰らった相手は死ぬ。普通の生徒相手に使うと大体過剰火力になって当たり所が悪かったり、消耗した相手に使うとヘイローを本当に破壊しかねないので、いつもは大体自重している。

 サオリ相手には一回も使わなかった。

 バルバラ相手には何回か使用したが普通に耐えられた。

 優秀なサンドバッグじゃんね?

 しかし究極のミカになった途端、火力が倍以上になったので耐えられなくなって消滅した。因みに防御力も倍になった。

 悪くないサンドバッグだったじゃんね?

 

【星の呼び声】

 隕石が落ちて来る、相手は死ぬ。

 ゲーム本編でも隕石が落ちて来る。

 何で……?

 流石に小説内で隕石を落とすのはどうなん……? と思ったので、恐らく車とか瓦礫とか石柱とか引っこ抜いてぶん投げる技にしたいと考えたが、それって「星の呼び声」と云えるのだろうかと苦悩する羽目になった。

 ミカが星って云ったらそれは星なんですわよ。

 何なら一時全力で相手を宙に殴り飛ばして星にするから「星の呼び声」でも良いのではないだろうかとも思ったけれど、絵面がギャグマンガのソレだったので却下。正直手に余る技である、もし作中隕石が落ちて来たらこの技のせい。実際どうやって隕石呼んでるの……? もしかして重力操れたりします……?

 

Kyrie Eleison(主よ、あわれみたまえ)

 ミカの全力射撃、つまり神秘砲、確定会心付き。

 通常ミカだけでも問題なく使用できるが、未来ミカの記憶や感情、神秘を譲渡された事により技の出力がエラい事になった。未来で陰惨な結末を迎えた未来ミカと、この世界のミカが交わる事によって手にした、先生からすると反則の力。

 因みに作中では一度も使用されていない。

 ミカが全力で殴るより強いし、隕石落とすより強い。バルバラもワンパン出来るし、召喚されたホシノの神秘砲と真正面から撃ち合えるレベルになると思われる。つまり一人だけ常時先生の大人のカードで呼び出された生徒状態。この状態なら一人でアリウスに喧嘩売っても自治区単独制圧が可能なんじゃないかなぁ……でもそうすると、「私のお姫様」って呼んで貰えないので駄目です。

 

 究極ミカの意識ベースはこの世界のミカですわ。正確に云えば彼女の中に存在していた未来ミカは既に存在しませんの。意識を交わらせ、その力や記憶、経験を全て譲渡した時点で彼女は現在のミカの中に溶けて消えましたわ。

 未来ミカの目的はこの瞬間、この場面に至る事。それによって自身の力や記憶を譲渡し、今度こそ先生と共に幸福な結末を掴み取る事。先生を守る力が足りなかったのなら、無理矢理にでも付け加えてしまえば良いという、何ともパワーイズジャスティスな考え方ですわね。

 けれどこの場面に至った自分ならば、きっと同じような想いを抱いてくれると彼女は信じているのです。これもまた同じ状況、同じ選択ですわね。

 素敵な王子様が辿る報われない最期を変える為に、圧倒的な力を持ったお姫様が降り注ぐ困難や試練を片っ端から粉砕していく……。

 これもまた愛ゆえに、ですわねぇ~ッ!

 

 因みにマタイ福音書の箴言に「剣を取るものは皆、剣によって滅ぶ」ってものがありましてぇ……。

 



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【先生】(A.R.O.N.A)『先生』(アロナ)

誤字脱字報告ありがとうございますわ~!
あけましておめでとうございますの!
今年もどうぞよろしくお願いいたしますわ!


 

「――………」

 

 降り注ぐ柔らかな陽光の中、差し出された赤を見つめ先生は声を失う。彼女の差し出したそれには、様々な意図と想いが込められていた。それが彼には分かった、分かったのだ。

 だからこそ差し出されたその手を、先生は取る事が出来ずに居た。

 

「あぁ、ごめんね先生、突然の事で訳がわからないよね? えーっと、そうだ、うん、まずは話が長くなっちゃうと思うし――周りの五月蠅いの片付けちゃおっか」

 

 差し出していた手をゆっくりと引っ込め、何でもない事のように告げるミカ。彼女からすれば、先生が突然の事に困惑するのは当然の事であると考えている。故にまずは落ち着いて話せる環境が必要だろう、そう決めた彼女は軽い動作で踵を返すとユスティナ聖徒会の残党へと向き直る。

 気負いはなく、佇む体はどこまでも自然体。そして事もなげに駆け出した彼女は、明らかに精彩を欠いたユスティナ聖徒会のひとり、その頭部を殴りつけた。

 拳は簡単にガスマスクの表面を砕き、中程までめり込む。振り抜いた瞬間には既にユスティナ聖徒会の四肢は消滅し、風切り音と共に霧散した。

 

「よいしょっと」

 

 彼女にとって、繰り広げる戦闘は殆ど作業に等しい。

 時折放たれる銃弾、抵抗すらも赤子のそれに等しく、唯一気を付ける事と云えば先生に流れ弾が行かないように立ち回る程度のもの。そもそもユスティナ聖徒会の銃口はミカを捉える事も出来ず、大多数の彼女達は次の瞬間には掻き消え、肉薄するミカに対し右往左往する事しか出来ない。

 先生の目からすれば、ミカが掻き消える度にユスティナ聖徒会が消滅する。そんな曲芸染みた、或いは何か夢幻の様な光景だった。

 そうこうしている間にも一人、また一人とユスティナ聖徒会は消え去り、何十人と存在していた彼女達の部隊は一分足らずで壊滅してしまう。着地と同時に振り抜いた拳、その表面を撫でる様に流れる冷風を感じながらミカは呟く。

 今ので、最後のひとりだった。

 

「これで最後――うん、まぁ、こんなものかな?」

「………」

 

 僅かに詰めていた息を吐き出し、ミカはゆっくりと周囲を見渡す。何度も戦闘の行われた地下回廊は破壊跡が散見され、老朽化した回廊全体の雰囲気も併せて中々の惨状である。足元の捲り上がった床を軽く飛び跳ねる様に移動しながら、ユスティナ聖徒会が全員消滅した事を念入りに確かめ。

 それから彼女は笑顔を浮かべて先生の方へと顔を向けた。

 

「お待たせ、先生! えっと、まずは何から話そうか――」

「君は」

 

 弾んだ彼女の声に被せ、先生は慎重に口を開く。目を瞬かせたミカが言葉を止め、先生を見た。先生はゆっくりと、伏せていた瞳を上げて問いかける。

 表情には、僅かな翳りがあった。

 

「君は、聖園ミカだよね」

「――うん、私は聖園ミカだよ」

 

 問い掛けに、彼女は確りと頷いて見せる。言葉の裏に含まれる意図を理解した上で、彼女は頷いて見せたのだ。

 

「先生に何度も助けられた、先生に何度も迷惑をかけた、先生の良く知る聖園ミカだよ、それだけは間違いない――先生だって、それは分かっているんでしょう? 先生が生徒を間違える筈がないもん、それが前でも、現在(いま)でも」

「………」

「私は……そうだね、ただ少しだけ未来の事を――違う世界で起きた結末を知ってしまっただけだよ」

「未来の、結末――」

 

 その一言だけで、先生が彼女の実態を察するには十分であった。

 為された結果に対しどの様な手段を用いたのか、彼女がどの様な道を経てその結論に至ったのか――先生は知る術を持たない。しかし、察する事は出来る。

 その想いを汲み取る事は、出来る。

 あの、自分に向けられた瞳。自身の持つ切り札を翳し、切ろうとした瞬間にその腕を掴んだのは、聖園ミカ(目の前の彼女)ではない。あの瞬間自身を、余りにも物悲しい瞳で見つめた彼女は、今目の前に立つミカではなかったのだ。

 ならば、それは――もう一人の彼女に他ならない。

 

「……ミカ」

 

 胸元を握り締め、零れ落ちた言葉。大きく歪めれた口元から歯を強く噛み締める音がした。先生の呟いたその名が、自身を指す言葉ではないとミカは気付いていた。じくりと、胸の中で彼女の残滓がさざめく様な感覚。自分を通して、過去の彼女に想いを馳せるような。

 ミカは自身の腕を摩りそっと息を吐き出した。

 それは感傷だった。

 

「……未来の事を知ったというのは、つまり」

「うん、多分先生が考えている通りの事かな」

 

 先生から視線を逸らしたミカが胸元を握り締め、思い返す様に目を瞑る。流れ込んだ記憶は彼女の脳裏に刻まれ、忘れたくとも忘れられない。その鮮烈な体験は既に彼女自身のものとして蓄積され、昨日のように思い出す事が出来た。

 

「私の記憶の中にね、ちゃんとあるの……先生が、私の前で――」

 

 小さく息を呑み、意を決して、それを口にしようとした時。

 

「――聖園ミカ」

「ッ!?」

 

 それを遮る様に響き渡る声があった。

 しかし、それは先生のものではない。

 背後から何かが着地する様な、大きな靴音が響き、ミカは素早く振り向く。銃口を翳しながら人影と対峙した時――彼女の表情は大きく顰められた。

 視界の中に舞う銀色の髪、ミカの寒々しい声が回廊に響く。

 

「……誰、あなた?」

「まさか本当に、私以外に【超えて来る】生徒が居るなんて、ね」

 

 見覚えのない相手であった、スリットの入れられた大胆な黒いドレスを身に纏った女性――キヴォトスの生徒と比較すると、かなり大人びて見える。特徴的なのは頭部に見える大きな耳か、少なくとも彼女の記憶の中に該当する存在はなかった。ミカが警戒を強める中、先生はその目を見開き名を呟く。

 

「シロコ――」

「……先生」

 

 シロコと呼ばれた女性――銀狼の視線が柔らかさを帯びる。先生の口調から感じ取れるのは驚愕と疑念、彼女の口調から感じ取れるのは親愛と悲しみ。

 ぴくりと、ミカの眉が跳ねた。

 

「シロコ? シロコって、確かアビドス……だっけ? そこの――」

 

 先生の漏らした名前に反応するミカ。確か、シロコと呼ばれた生徒がとある辺境の学校、アビドス高等学校に存在した筈だった。その名前はミカの記憶の中に存在する。かなり辺鄙な場所に位置する学園で、自治区の大部分を砂漠に埋め尽くされた場所だとか何とか――先生が以前関わったという事で辛うじて記憶しているが、学園の詳細までは思い出せない。在校生は五名程度、かなりの弱小校であった筈。そこの生徒会代わりの組織、アビドス対策委員会の一員にシロコという生徒が所属していた。もしや、その生徒かとミカは目を細める。

 

「………」 

 

 だが、違う。

 彼女の記憶の中に根付いた直感が、目の前の銀髪は自身の知るシロコとは別人であると告げていた。

 普通の生徒、ではない。

 纏う空気が常のそれとは異なる、何方かと云えば彼女は――。

 

「……いいや、あなたは違うね、うん、そういう感じが全くしないもん、あなたからは――私と同じ匂いがする」

「――正解」

 

 ミカの言葉に、彼女、銀狼は吐き捨てる様に頷いた。

 同時にブレる右腕、無造作に垂らしていた銃口が瞬時にミカを捉え、何の感慨も躊躇いもなく引き金を絞る。乾いた銃声が回廊に鳴り響き、マズルフラッシュが視界に瞬いた。

 

「ッ――!?」

 

 唐突なそれに、先生は反応する事さえ出来なかった。驚きと共に肩を跳ねさせた時、弾丸は既にミカに迫っていたのだから。

 ミカは飛来した弾丸を辛うじて知覚し、素早く、しかし正確に右手を払った。鉄同士が擦れ合う甲高い音が鳴り響き、ミカの身体が微かに揺れる。放たれた弾丸はミカの右拳に弾かれ、火花を散らし傍の外壁へと突き刺さった。轟音を打ち鳴らし崩れる外壁。砕かれ、粉塵と共に音を立てて散らばる瓦礫が足元に転がる、それを横目にミカは僅かに赤らんだ右手、その甲を見下ろし告げた。

 

「わーお、随分いきなりだね、吃驚しちゃった」

「……この神秘の質量で、悠々と弾くか」

「うん、強いね、あなた、結構本気でそう思う、多分さっきまでの私だったらかなりキツイ戦いだったかも、いや多分負けていたかな?」

 

 今の一発でミカは確信した。

 彼女は普通の生徒ではない、少なくとも自分の知る一般的な生徒とはかけ離れている。込められた神秘濃度、弾丸の重さ、芯まで響く様な凄まじい威力。彼女の手にしているのは通常の突撃銃(アサルトライフル)である筈なのに、腕全体に受けた衝撃は対物ライフルの弾頭以上のものがあった。

 あのまま引き金を絞られ続けたら、一発位は直撃を許したかもしれない。そんな事を考えつつ、静かにミカは銀狼を見据える。

 

「それで此処には――そうだなぁ、私と同じって事は、『先生の奥の手』を切らせないように駆けつけたって所?」

「………」

「あーうん、成程、そっか、確かに同じだね、私と」

「……けれど、その場所でイレギュラーを見つけた」

「私の事? まぁイレギュラーと云えばイレギュラーだろうけれど、別に私は先生の意に沿わない事はしないし、あなたと積極的に争うつもりはないよ? あなたが先生を傷付ける、って云うのなら別だけれど」

 

 その言葉に嘘はない。それを証明するかのようにミカは手を広げると、謳う様な口調で以て告げた。

 

「私の目的は単純だよ! 先生が困難な道を行くなら、その困難を私が打ち砕く! どれだけの生徒が束になろうと、私が蹴散らせば問題なしっ! ゲマトリアだろうが、連邦生徒会だろうが、それ以外のすんごい何かだろうが、全部私が纏めてぶっ飛ばしてあげる!」

「………」

「先生は自分の目標を達成出来て幸せ! 私は先生と一緒に居られて幸せ! お姫様と王子様は二人仲良く、幸せに暮らしましたとさ、なんてハッピーエンドで物語は幕を降ろすの! ――ほら、完璧でしょ?」

 

 聖園ミカの目的は単純にして明快。

 先生の力になる事、先生の矛となり盾となる事。

 そしてその果てに、二人で幸せを掴む事。

 聖園ミカは先生の夢を、希望を、その在り方を否定しない。生徒の為に身を投げ出し、時にはどんな無茶でさえやってのける先生が好きだ。その在り方を、何よりも貴いものだと理解している。正直自分以外の生徒の為に四苦八苦する先生の姿を見るのは、複雑な想いもあるが――何せそういう人に心奪われてしまったのだ、そこは呑み込むしかないと既に吹っ切れている。まぁ時折、ぶり返すかもしれないけれど、そこは愛嬌というものだろう。

 

 しかし、それを続けた果てに摩耗する先生を見たくはない。彼のこれから先に待ち受ける多くの苦難、試練を知れば如何に茨の道であるかは明白である。

 だからこそ彼女は先生の前に立ち、あらゆる困難を、その苦難を、力で以て蹴散らし、切り開くと決めた。先生がその目的を達する為に尽力し、全てを為した果てで今度こそハッピーエンドを迎えるのだと。

 しかし彼女のそんな思想を聞き届けた銀狼は、嘲りと共に呟く。

 

「それの、どこが……」

「――先生が傷付く姿を見たくないから、力づくでも引き留める……そんな選択肢しか取れないあなたからすれば、そうかもね」

「―――」

「……あれ、もしかして図星だった?」

 

 ミカからすれば、何て事の無い軽口の一つとして放たれた言葉。

 けれどその一言に、銀狼の身体は分かり易く硬直した。ミカは露骨に態度を硬化させた銀狼を見つめながら、その瞳を瞬かせる。

 

「何か、そういう事しそうな雰囲気だなぁって思って適当に云ったんだけれど……ほら、あなた暗~い雰囲気出しているし、何となく湿っぽいし、まさか当たっちゃうなんて」

「……随分と、挑発的なモノ云いだ」

「あははっ、顔を合わせた直後に鉛玉を撃ち込んで来る人よりはマシでしょ」

 

 途端に二人の間に流れる淀んだ空気、まるで空間そのものが軋む様な重圧。ミカと銀狼、二人の手にした愛銃、その引き金に触れる指先が微かに震えるのが見えた。薄ら笑いを浮かべながら大袈裟な身振りを交えてミカは言葉を続ける。

 

「本当に先生を想うなら、全部投げ捨てても先生の味方をすれば良いんだよ、違う?」

「そうした結果がお前であり、私だろう……世界は想像よりもずっと、昏く、冷たかった」

「うん、そうだね、世界云々に関しては同意見かも、あなたの云う通り以前の私は結局、先生を守れなかったし……守れるだけの力がなかったから」

 

 先生が自分にそうしてくれたように、自分もまた先生がどんな選択肢を選ぼうと、どんな道を歩もうと、絶対に味方すると決めていた。だからその決定に、その道に後悔はない。

 ただ一つ、訪れた結末を除いて。

 力が足りないと思った事はなかった、けれどあの日、あの時、初めて力が欲しいと願った。

 そう願った時には、既に遅かったけれど。

 

「でも――次はもう失敗しない、その為に私はずっとずっと、待ち続けたんだから」

 

 告げ、浮かべた表情をより深いものとする。

 彼女は、再びこの場所へと立っている。嘗て手に出来なかった力を手に、今度こそ先生と共に在る未来を掴む為に。投げかけられた答えに、銀狼は視線を険しいものに変化させ吐き捨てる。

 

「自分なら今度こそ先生を守り切れると? シャーレを崩さず、先生を今のまま? ――それは驕りだ」

「自信と云って欲しいなぁ、それに最初から失敗する事を考えて動く人が何処にいるのさ? 私はやるよ、やって見せる」

 

 二人の視線が重なる。

 表情から色が抜け落ちていく。

 漂う空気が張り詰め、肌を刺すような緊張感が強まっていく。

 ミカの表情が嘲る様に歪み、銀狼が舌打ちを零した。

 

「――そんなあやふやな未来に、先生を連れて行こうとするな」

「――一回の敗北で随分負け犬根性が沁み込んだんだね、狼の癖に」

 

 それが最後の言葉だった。

 数秒、互いを睥睨し合う二人。

 強く握り締めた銃のグリップが軋み――そして、次の瞬間には銃口を突きつけ合っていた。

 どちらが先、という事はなかった。殆ど同時に、直感としか云い様がない感覚に突き動かされて動いていた。視界に鈍く光る銃口、向こう側に見える相手の瞳、それを真っ直ぐ捉えながら覚悟を決める。

 

「――待った!」

 

 だが、その引き金に掛かった指先が動く事はなかった。

 指先がトリガーを引き絞る前に、飛び出した人影があったのだ。二人の瞳がその人影を認めた瞬間、無意識に引き金から指が離れる。それは意志の介在しない、精神に刻まれた反射的な行動だった。

 二人の間に駆け込んだ影、先生は二人の翳した銃口の先に立ちながら、真剣な面持ちで告げる。

 

「私の前で、これ以上本気の殺し合いなんて、絶対にさせないよ」

「………」

「………」

「どんな状況でも、どんな過去があっても、君達は私の大切な生徒だ……だから、どうか銃を降ろして、二人共」

 

 先生のどこまでも真摯な声色に、二人の間に流れていた剣呑な気配が僅かに和らぐ。

 先に銃口を下げたのは銀狼であった。聖園ミカ本人に対して思う所は何もない、彼女がどうなろうと知った事ではないという考えは変わらない。しかし先生に万が一の事があっては後悔し切れない。そんな思いと共に緩慢な動作で腕を降ろせば、それに応じてミカもまた銃口を逸らす。

 暫くの間先生とミカ、交互に視線を寄越していた銀狼は力なく呟いた。

 

「……私の目的は、先生にカードを使用させない事、そして先生に平穏を齎す事、その為なら何を犠牲にしても構わない、私自身も、世界さえも」

「わっかんないなぁ、そんなに先生を想っているのに、どうして『そっち側』にいるの?」

「好きだから、何を犠牲にしても助けたいの」

 

 声には、彼女なりの祈りが込められていた。

 それは仲間達に託された想いであり、使命であり、願いである。誰かを想い、幸福を願う何て事の無い善意の発露だ。好きな人には幸福で居て欲しい、安寧と共に在って欲しい、それが難しいのならば――せめて生きていて欲しい。

 求めているのはそんな切実で、何て事の無い日常。常人に当たり前のように与えられ、大多数が享受している在り方だ。畢竟、先生の未来に居るのが自分でなくとも良いのだ。ただ先生が、先生だけが平穏であればそれで良い。それ以外は望まない、文字通り何も。

 

 ――それは、そんなにも難しい願いなのだろうか?

 

「誰だって、百パーセント幸せになれる未来があるなら、そっちを選ぶ……違う?」

「あなたの選ぶ道を行けば、先生は絶対に幸せになれるって?」

「――少なくとも、【先生だけ】は確実に」

 

 それが先生のものではない、自身の望む幸福観である事は理解していた。その後、世界がどうなるかは分からない。生徒がどうなるかは分からない。少なくとも大団円と呼ばれる様な幸福な結末を辿る事はないだろう。

 けれど、先生は助かる。

 先生だけは、生き残れる。

 銀狼の言葉を聞き届けながら、ミカは静かに目を伏せる。

 

「……先生が望むのは、生徒達の幸せだよ、少なくともあなたの云う未来は、先生にとって望むものじゃない」

「けれど生き残る事は出来る、これ以上苦しまずに、傷付かずに済む……私はもう、傷付きながら進む先生を見たくない、だからこれは私の我儘、私がそうしたいから、先生には生きて、何て事の無い日々を享受して貰う」

「……押しつけがましいね」

「私に教えてくれた人が、そうだったから」

「ふふっ……確かに」

 

 彼女と対峙して、初めてミカが破顔した。それは何ともミカらしい屈託のない笑みだった。銀狼は表情を僅かも変化させず、能面の様な顔でミカを見つめ続ける。

 

「うん、分かった、ごめんね、煽る様な事云っちゃって――あなたは、あなたなりの方法で先生を想っているって分かった」

「………」

「気が変わったらいつでもこっちに来てね、シロコちゃん」

「……そっちこそ」

 

 言葉を交わした二人の間から険が取れる。二人の間には絶対に埋まらない溝がある、それは互いの信念、或いは在り方の違いだ。それが埋まる事は――恐らくこれから先、永遠にないのだろう。そんな予感が二人の中に存在する。

 けれど、求める形は違えど二人の理想は似通っていた。導き出した答えは異なっていても、その道中は同じものであった筈なのだ。それ故に納得は出来ずとも理解は出来た。呑み込む事は出来ずとも、共感出来る道筋だ。

 導き出した答えに至るまでの道を知るが故に、互いの感情が手に取る様に分かった。

 

 銀狼は大きく息を吸って、肺を膨らませる。ミカは既に彼女を警戒していないが、銀狼は未だに警戒を解いていなかった。放たれる重圧は微塵も揺らがず、皮膚の下に張り巡らされた緊張はそのままだ。しかし、それは聖園ミカに向けられたものでは決してなかった。それを不思議そうに眺めるミカに対し、銀狼は努めて冷静に告げる。

 

「私が此処に来たのは、そもそも問答をする為じゃない、先生を助ける為に私は此処に来た」

「……? 此処に居たユスティナ聖徒会なら、纏めて全部私が――」

「――違う、そうじゃない」

 

 ミカの言葉に、銀狼はゆっくりと首を振る。ユスティナ聖徒会、確かに彼女達も問題ではあった。しかし如何に戒律の守護者と云えど所詮は複製に過ぎず、それらが先生をどうにか出来るとは考えていない。

 彼女が恐れているのは、先生に伝えようとしたのは、そんなちっぽけな危機などではない。

 銀狼の視線が、ゆっくりと目の前に立つ先生に向けられる。

 交差する瞳、微かに濡れたその向こう側に――先生は確かな後悔を見た。

 

「先生」

「……シロコ?」

 

 ぽつりと、先生の唇が彼女の名を呟く。銀狼は一瞬その瞳を揺らし、それから小さく、掠れた声で云った。

 

「……ごめんなさい」

「―――」

 

 それが何に対して告げられた謝罪なのか、先生がその意図を察するよりも早く。

 三人の居る地下回廊、その地上へと繋がる天井が崩れ落ちた。

 まるで大量の爆薬で吹き飛ばしたかのような、強烈な爆発。一瞬、先生は迫撃砲か何かが直ぐ傍に撃ち込まれたのだと錯覚した。

 しかしそれは爆発でも何でもなく、何かが天井を貫き地下回廊へと侵入した余波に過ぎなかった。凄まじい速度で落下してきたそれは地面を穿ち、この地下回廊へと到達した。

 

「……っ、先生!」

「………ッ!」

 

 ミカが先生を抱き締め飛来する瓦礫片から守り、銀狼もまた先生とミカの前に立ち身構える。立ち上る砂塵、肌を叩く砂利、足元を跳ね回る瓦礫片、銀狼が陽の光を反射するそれらを視界に捉えながら、微かに見える人影を睨みつける。落下して来たそれは地下回廊の床に大きなクレーターを残し、砂塵の向こう側で身動ぎした。

 

 それは人影と呼称するには聊か歪すぎる輪郭をしていた。

 

 視界を遮る砂塵の向こう側に見えるシルエットは禍々しくも悍ましい。少なくとも通常の背丈よりも大柄で、肩幅は常人のソレよりも何倍も大きく見える。まるで巨大な箱に頭部を括りつけたような、傍から見れば奇妙な体格。

 ミカに抱き締められたまま先生は細めた瞳で影を捉え、思わず声を漏らした。

 

「――まさか」

 

 声は戦慄と共に発せられる。

 所詮は砂塵越しの影に過ぎない、確信はなかった。

 しかし、この肌の粟立つ感覚、背筋に氷柱を突き込まれた様な悪寒。その感覚を言葉にするのは難しい、しかし変化は劇的で、確かなものだった。心臓が一際強い音を鳴らし、空気に突然棘が生えたかのような、ひとつ呼吸するにも酷く気を使い、肺と喉が痛む様な重圧が精神を削る。ただ其処に存在するだけで、或いはそれを目にしただけで世界を一変させるもの――それらに該当する存在を、先生はひとつしか知らない。

 振り返ったミカが先生を抱いたまま影を見据え表情をくしゃりと歪める、開いた口からは驚愕の滲んだ声が響いた。

 

「あれって、もしかして――」

「……そう、多分あなたが考えているもので合っている、私は元々アレの到来を知らせる為に来た」

 

 身体を奔る戦慄。それに対し、銀狼は淡々とした口調で答える。しかし、その額に滲む冷汗だけは隠す事が出来ない。

 本来であればソレの到来は、まだ先の出来事である筈だった。物事には順序がある、崩壊への段取り、或いは前兆と云い換えても良い。全てが終わる時、それらは何らかの形で周知されるべきなのだ。

 だが今回に限っては、そういったものを彼女は一つも捉えていない、少なくとも記憶の中にある物事としては、文字通り何ひとつ。ミカの腕に痛い程の力が籠り、その強張った腕を伝って彼女自身の緊張が伝わって来る。

 

「どうして、まだ到来する時期じゃないでしょ……!」

「ベアトリーチェが時期を早めた、最初からあの女はコレを狙っていたんだ――もう既にこの世界は、私達の知っている未来と大きく解離している」

 

 銀狼はその手に抱えた愛銃を油断なく構え、叫んだ。

 

「【色彩】が、この世界を見つけてしまった……!」

 

 その声は、回廊全体に響き渡った。

 恐らく、今しがた現れた人影の耳にも届いていた事だろう。

 呼応するように影が一歩を踏み出し、周囲を覆い隠していた砂塵がゆっくりと晴れていく。微かに見切れる巨大な陰影、まるで深淵そのものの様な気配を撒き散らしながら、武骨な鉄仮面が暗がりに鈍い光を放つ。

 靡く擦り切れたコートの中から、長く、薄汚れた包帯に包まれた指先が伸びた。

 

 ――その指先が、懐から取り出した青白い光に触れる。

 

 青の教室に佇む、小さな少女の指先と。

 包帯に包まれた傷だらけの大人の指先が。

 優しく、けれど確かに触れる光景を先生は幻視した。

 

 ■

 

 

【――我々は望む、ジェリコの嘆きを。】

【――我々は憶えている、七つの古則を。】

 

 

 ■

 

「ッ――聖園ミカッ! 合わせろ!」

「分かっている、よッ!」

 

 躊躇いはなかった、寧ろそれを表に出せば消滅するのは自身だと理解していた。

 故に初手から全力、ミカと銀狼が全く同じタイミングで銃口を突き出し、引き金を絞る。銃声と共に二つの銃口から弾丸は放たれ、それは宛ら流星の如き尾を引いて人影へと着弾した。

 直進する光は回廊を照らしながら互いに絡み合い、本来の威力を何倍にも跳ね上げ、神秘の爆発を巻き起こす。青と白覆われた炎、地下回廊を揺るがす程の爆発を前に腕で顔を覆いながら、炸裂した光の先を見据える。ミカは弾倉に詰められた残弾を意識し、顔を顰めながら叫ぶ。

 直撃だ、あの聖女バルバラでさえ今の一撃を前にすれば耐えられまい。そんな確信がある。

 

「これだけの一撃なら……!」

「……いいや」

 

 だが、ミカとは反対に銀狼の表情は晴れない。

 寧ろ、表情に滲む切迫感はより深みを増している。

 燃え盛る青の火、地面を舐めるそれを睨みつけながら銀狼は大きく表情を歪めた。

 

「攻撃の威力を全て、逸らされた……ッ!」

 

 その声に応える様に、爆炎の一切は唐突に消滅する。

 まるで最初から攻撃など存在しなかったかのように、ある一定の範囲内の神秘、炎、砂塵が掻き消えたのだ。

 その中から現れる人影――青白い光(防壁)に守られ、彼女達の全力攻撃に僅かな痛痒も感じさせない彼は、ゆっくりと俯いていた顔を上げる。

 陽光に照らされた金属が淡く輝き、その全貌が明らかとなる。

 

【―――】

 

 顔全体を覆う鉄の仮面、頭部に被った奇妙なベールと円環。身長は三メートルを超えるだろう、両肩に圧し掛かる装飾と赤の肩章が体全体に纏わりつき、冷たい鉄仮面をより一層不気味に彩っている。その巨躯を覆うのは薄汚れた白のローブ(外套)一枚。隙間から覗く肉体は濃い闇に覆われて目視出来ず、辛うじて視界に入るのは包帯に包まれた細長い左手のみだった。

 総じて不気味かつ奇妙な存在であり、『ソレ』を人と呼称して良いのか、それすらも定かではなかった。唯一分かるのはソレが悍ましい存在であるという事。放つ気配は薄暗く、黒々としていて、対峙しているだけで強い圧迫感を覚える。目の前の存在と比較すれば、ゲマトリアでさえ生易しく感じてしまう程の気配。

 

 そんな存在に文字通り全力の一撃を放ち、汚れ一つ付ける事が叶わなかった二人は目に見えて浮足立つ。尋常でない事は理解していた、しかし改めて対峙した瞬間、その存在が持つ反則的な力を前に気圧された。

 

「嘘でしょ、あれだけの威力を全部……?」

「何も不思議な事じゃない、何せアレは――」

「二人共……」

 

 先生がミカの腕を引き、静かに前へと踏み出す。銀狼とミカを後方に下がらせ、最前線へと立った先生は大きく息を吐き出した。心臓の鼓動が五月蠅い、身体全体が強張る、こんなにも早く対峙する事になるとは思わなかった。

 しかし、現実問題として【彼】は此処に到達した。

 この世界に――この未来に、至ってしまった。

 ならば、躊躇っている余裕はなかった。先生は右手にシッテムの箱を掴み、嘗てない程の覚悟と共に告げる。

 

「どうか、下がって――!」

 

 この存在と対峙するのは、自分でなくてはならない。

 

『――所有者の生体認証、完了』

「……!」

 

 先生の耳に届く、特徴的な声。それは先生と『彼』にのみ届く声だ。聞き慣れている筈だと云うのに、今となっては僅かな違和感さえ覚えてしまう。

 同時に先生にとって、その声は――酷く懐かしいモノでもあった。

 何度もその声に何度も助けられた、共に死線を潜った唯一無二の存在。その彼女が今、再び自分の前に顕れた。

 嘗ては苦楽を共にした相棒(パートナー)として。

 そして今は、最大最悪の宿敵(支援システム)として。

 

「……そうか、やはり」

 

 唇を噛み締め、呟く。握り締めたシッテムの箱、画面の中に佇む彼女が身震いするのが分かった。アロナの動揺が、或いはその悲壮な決意が手に取る様に分かる。彼女は先生の心を案じていた、それが分かったからこそ彼は大丈夫と口ずさもうとした。けれど口から漏れる声は力ない吐息ばかりで、上手く舌が回らない。漏れ出る色は驚愕でも、戦慄でもない。

 それは通じ合っていたが故の苦しみ――悲嘆である。

 

『シッテムの箱、並びにメインOS【A.R.O.N.A】(アロナ)の起動――完了』

 

 ゆらりと、視界に走るノイズ。ナラム・シンの玉座ではないこの場所で、その姿を見る事は叶わない。しかし、共に過ごした長い時間が彼女の姿を無意識の内に浮かび上がらせる。

 鉄仮面の巨躯、その直ぐ隣に寄り添う様にして立つ黒と白の少女。

 黒い制服を身に纏い、黒傘を両手に抱えた彼女はとある少女と酷似した――否、全く同じ顔立ちで自身の前に佇む。靡く白髪とリボンが照らす陽光を淡く反射し、伏せられた彼女の瞳が、ゆっくりと正面に立つ先生を射貫いた。

 

『現在命令待機中』

【―――】

『全ては貴方の望むままに』

 

 罅割れ、薄汚れ、弾痕の刻まれた壊れかけのタブレット(シッテムの箱)を抱えた存在(大人)

 その傍らに佇み、寄り添い、献身的に支える小柄な少女(A.R.O.N.A)

 

 その姿が、その在り方が、先生の記憶を、感情を刺激する。

 口元から吐き出された息が微かに震える。

 無意識の内に先生はシッテムの箱を強く掴んでいた。

 

 条件は同等――それは彼も、自身も。

 地下回廊に差し込んでいた陽光、東の空が濃い灰色に覆われていく。風に吹かれた雲が太陽を遮り、地下回廊は一瞬にして薄暗い闇の中へと戻った。彼へと寄り添うA.R.O.N.Aはその長く白い髪を揺らし、薄汚れた彼の外套を指先で摘まむ。

 そして、鉄仮面で覆われた顔を見上げながら。

 全く変化のない能面の様な、けれど強い感情(想い)の込められた声で――彼女は怪物(鉄仮面)に向け、告げた。

 

『始めましょう――先生』

 

 大人として(大人の責任)――子供を守り(先生の義務を)生徒を守る為に(果たす為に)

 


 

 調印式爆破の時から書いていた不吉な光が漸く着弾しましたわ~!

 ご安心くださいまし、まだ最終編には突入致しませんの。これは云わば強制ラスボス戦闘イベント……最終編前のジャブみたいなものですの! 章の最初に書き綴ったように先生には此処で徹底的に苦しんで貰いますわよ。己の罪悪に向き合うのはサオリだけではなくってよ。

 ミカが覚醒した事でユスティナ聖徒会に使う分の代償が浮いたのですから、ちゃんと全力で先生には足掻いて貰わないと!

 うぅ、カードを使わせない為に駆け付けたのに先生が大人のカード目の前でバンバン使って命を刻一刻と削るとこみてて……。

 



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積み上げた骸の頂上(取りこぼした可能性の慟哭)

誤字脱字報告、感謝いたしますわ~!
本当なら一回で投稿しようと思ったのですが、長くなったので分割致しますわ!


 

 ■■■■の断片。

 

「ぅ――……」

 

 目が覚めた。

 最初に感じたのは強烈な痛み、同時に不快感と呼ぶには余りにも強すぎるそれ。先生は顔を顰めるだけの余裕すらなく、雨に濡れた冷たいアスファルトの上に転がりながら息を繰り返す。霞み、歪んだ視界の中に、爪の剥がれた血だらけの指先が映った。

 

「わ、たし、は……?」

 

 自身の肌を打つ雨の中、先生は呆然と呟く。痛みは感じない、それどころか寒ささえも。ただ雨水に混じった赤を視界の端に捉えながら、裏路地と思われる周囲にそれとなく視線を向ける。瞳だけを動かし、周囲を確かめる姿。その動作は余りにも緩慢で、遅々としていた。

 ふと、横合いに転がっていたシッテムの箱が薄らと光る。先生は光に気付き、瞳孔が微かに広がった。

 

「……あ、ろな」

『―――』

 

 罅割れ、弾痕の刻まれたシッテムの箱。それに指先を伸ばしながら、先生は掠れた声で彼女の名を呼ぶ。ノイズの走るモニタにはアロナの姿が映っていた。先生は彼女が無事である事に安堵し、同時に自身が辛うじて生きているのは彼女のお陰である事を悟る。影に覆われ、ノイズ混じりの姿でアロナは呟く。

 

『生命維持機能に、問題が、発生しています……この、状態も――長くは、維持出来ません』

「……そ、っか」

 

 恐らくシッテムの箱、その機能、全リソースを割いて肉体の生命維持を行ってくれたのだ。辛うじて意識があるのも、まだ生きていられるのも、アロナの尽力によるもの。先生は震える指先でシッテムの箱を引き寄せ、微笑む。

 右目から流れる赤が、雨に混じってシッテムの箱を汚した。

 

「あり、が……とう」

『………』

 

 画面の向こう側で、彼女が顔を顰めるのが分かった。命を繋いだと云えば聞こえは良い、しかしそれも所詮は時間稼ぎに過ぎない。

 彼の破滅は、既に確定された未来だった。

 

 ――そうだ、■■。

 

 シッテムの箱を右腕で手繰り寄せ、先生は周囲に視線を向ける。しかし、先生が求める彼女の姿は何処にも無い。確かに意識が途切れる寸前、彼女は此処に、直ぐ傍に居た筈だった。

 自身が力尽きた時、一体どうしたのが、彼女は何処に行ってしまったのか。それを想い、先生は動き出す。

 

 息を吐き出し、左手を前に突き出す。刺々しいアスファルトを掴み、這いずってでも前に進もうとする。しかし腕に力が入らない、指の欠けた腕では地面を確りと掴む事さえ困難だった。両足は既に何の感覚もなく、胸から下も同じ。血を失い過ぎたのか、それとも別の要因か――しかし、それは今重要ではなかった。

 今、自身の為すべき事は、ただひとつ。

 

「いか、なきゃ……」

『……先生』

 

 行かねばならない。

 

「わた、しの――生徒、を」

 

 前へ、ただ前へ。

 (先生)の――生徒の元へ。

 

 血に塗れた腕を伸ばし、ほんの僅かずつでも這いずって移動する。微かに動く度に身体が悲鳴を上げ、口や鼻から赤が零れ落ちる。正直な所を云えば呼吸一つすら困難であった。けれどその苦痛でさえ、先生にとっては手を伸ばさない理由にならない。文字通り血を吐き、死に体の身体を引き摺って進む。

 

「みん、なを……たす、け――ない、と……」

 

 先生の心にあるのは、その一念のみ。

 生徒を助けなければならない、彼女の元へ行かなければならない。

 それだけの想いで先生は足掻き続ける。

 

「……?」

 

 不意に、先生の視界が影に覆われた。這い蹲る先生の目に、雨と泥に塗れた誰かの靴が映る。

 震える首を緩慢な動作で動かし、ゆっくりと顔を上げるとそこには――。

 

「――先生」

「――……」

 

 ――全身に白い罅を走らせた、満身創痍の黒服が立っていた。

 

 彼は裂け、煤け、穴の開いた衣服を身に纏いながら地面を這う先生を見下ろす。そして徐に膝を突いて先生の状態を確かめると、いつものように肩を揺らして笑みを零した。

 

「クククッ、これは、これは……既にお互い、満身創痍ですね」

「黒、服――」

 

 彼の頭部は半分崩壊しかけ、白く淡い炎の様な揺らめきが立ち上っている。その肉体は辛うじて人型を保っているが、傍から見ると陽炎のように朧気で脆い。罅割れ、砕けた指先を見つめながら黒服はゆっくりと空を仰いだ。曇天に覆われた空、その向こう側には深紅が広がっている。軈て青に覆われていた空は終わりを告げ、終焉の赤に染められる事だろう。それは最早、避けようのない未来だ。

 

「残念ながら、この世界はつい先度、ゴルコンダの云う所の結末(終わり)を迎えました」

「………」

「最早、此処から巻き返す事は不可能でしょう、忘れられた神々は潰え、名も無き神の復権が約束された、アレはキヴォトスのあらゆる神秘と恐怖、そして崇高の概念を吸収しより強大な存在と成り果てる――私の肉体()も、そう遠くない内に崩壊を迎える筈です」

 

 ぼろぼろと崩れ行く肉体、自身の顔から零れ落ちる断片を見下ろしながら黒服は何て事の無い様子で告げる。其処には恐怖も、後悔もない、ただ淡々と事実を述べている様な無機質さだけがあった。先生は詰まった息をそっと吐き出しながら、渇き、血の滲んだ唇を震わせる。

 

「ゲマ、トリア……は」

「既に、壊滅しました」

 

 ゲマトリア――黒服を含む四名は襲撃を受け、全員が大きな損害を被った。マエストロ、ゴルコンダ、デカルコマニー、全員が生死不明。領域から辛うじて肉体を保持したまま逃げ出した黒服であったが、受けた傷は修復不能なレベルにまで達していた。せめて僅かな情報、忠告だけでも先生に、そう思って駆け付けたものの。

 どうやら、彼の聖人でさえ斃れる間際らしかった。

 

 ――こうなってしまえばもう、後は早いか遅いかの違いでしかない。

 

 黒服は裏路地の壁に身を預け、ずるずるとその場に座り込む。彼らしくもない、強い倦怠感の滲んだ動作だった。揺らめきが先生の顔を照らし、裏路地に灯を生み出す。先生は黒服を一瞥した後――再びその手を伸ばし、進み始めた。

 衣服と皮膚の擦れる音、アスファルトに滲んだ血の跡が残り、黒服は血の汗を流しながら足掻き続ける先生を眺め続ける。

 ふと、声が漏れた。

 

「――先生」

「……っ、ふぅ……!」

「最後に一つ、お聞きしたい事があります」

 

 この様な状況に陥って尚、項垂れ、諦める事を良しとせず、足掻き続ける大人。その様子を視界に収めながら、彼は生涯最後の疑問を投げかける。

 

「あなたはその気になれば、この滅びゆく箱舟(キヴォトス)より逃れる事も出来たでしょう、何故、あなたはキヴォトスが滅ぶと知って尚、この世界より退去しなかったのですか?」

「………」

「もう、あなたが手を伸ばせる者は、誰も居なかったと云うのに――何故」

 

 全ては急速に、余りにも唐突に行われた。しかし猶予が無かった筈ではない、徐々に崩壊していくキヴォトスを見れば分かる、彼が逃れるタイミング、時間は十分にあった筈だ。既に彼の望んでいた未来は遥か遠く、それどころか守るべき生徒ですら――この世界には、もう。

 思い返し、黒服は深く、重々しく告げる。

 

()()はもう、あなたの生徒と呼べる存在ではない――あなたの(先生という)役目は、終わったのです」

「――……わ、たし、の、生徒」

 

 手が伸びる。

 震える指先が地面を掴み、また僅かに前進する。

 黒服の言葉を耳にしながら、しかし先生はハッキリと首を振っていた。

 

「わた、しの、生徒、だ――から……」

「………」

 

 どんな姿になっても、どれ程の過ちを繰り返しても、彼女は自身の生徒である。

 先生の役目は、終わってなどいない。

 この世界に生徒が存在する限り――守るべき子どもが在る限り、自身は先生で在り続ける。多くの生徒が犠牲になった事を知っている。自身が望んだ理想は、未来は、守りたかった世界は既に崩壊した。けれどまだ、残っている生徒がいるのだ。

 ならばせめて、彼女だけでも。

 もう、どうしようもないのだと理解していても。せめて、自身の手の届く。

 

 ――最後の生徒だけは。

 

「わ、たし、が……寄り添わな、け――れば、ひとりに、なって、しまう……!」

 

 一際強く、地面を掴んだ。血に染まったシャーレの制服、煤け焼け落ちた腕章、五体満足など望むべくもない。あらゆる部分が足りていない、シッテムの箱がダウンすれば、その瞬間に自身は生命活動の一切を終えるだろう。

 けれど、だとしても。

 先生は最期の瞬間まで足掻き続ける。

 その血に塗れながらも決して淀みない瞳は、前だけを見ていた。

 

「………」

「あの、子を――ひとり、には、しない……!」

 

 ――それだけは、駄目だから。

 

 ■

 

「――アロナ」

『は、はいっ……!』

 

 対峙する異形(鉄仮面)の存在――寄り添う黒のA.R.O.N.A。

 その存在を前にして、先生は小さく彼女の名を呼んだ。

 青の教室、その中で忙しなく手を動かすアロナは表示される情報を前にして苦り切った表情を浮かべた。調査対象は今しがた出現した異形、ベアトリーチェが呼び込んだ不吉な光そのもの。ウィンドウの中に、彼の詳細な状態が表示される。

 

『たった今、私の方で彼の生体情報を確認してみました……』

「結果は――?」

『……表示される【彼】の生体情報、それの殆どは、先生のものと一致します』

「………」

『外見こそ大きく変わってしまいましたが、間違いありません――あの人は』

 

 アロナがウィンドウから目を離し、暗闇の中で佇む異形を見つめる。

 瞳に浮かぶ色には、隠しきれない大きな悲しみが見え隠れしていた。

 

『目の前の彼は――先生と、同じ存在(同一人物)です』

「……そうか」

 

 ――シッテムの箱による、防壁展開。

 

 先程彼を包み込んだあの、青白い光については見覚えがあった。何度も自身を助けてくれた、シッテムの箱の誇る防衛機能。それがある以上、どんな攻撃であっても対象者に攻撃が命中する事はない。弾丸は逸れ、弾かれ、目に見えぬ強力な攻撃であってもシステムがダウンしない限り絶対の守護を約束する。

 それを突破するには、途轍もない火力の集中が必要になるだろう。

 その眩い光に守られていたからこそ、先生は良く知っている。

 そしてシッテムの箱のアクセス権限を持つ者は、この世でただひとり。

 

 

 ――シャーレの先生だけだ。

 

 

 目の前のこの、人とも思えぬ異形は先生そのもの。或いはそれの成れの果てとも云える。

 弾痕の見えるタブレットを抱えたまま、じっと此方を見つめる異形を前に、先生は重い沈黙を返す。

 

『ですが先生、既に彼の生命反応は……』

「――命云々で語るのなら、私も同じようなものだろう」

 

 小さく、先生は噛み締める様に呟いた。

 恐らく目の前の彼は、異形と成り果てた先生は――既に、生物としては死んでいる。

 どのような手段で肉体を動かしているのか、或いはそもそもアレが肉体ですらないのか、先生には判断出来ない。自分と同じように、シッテムの箱を用いて疑似的な生命活動を可能としていても不思議はないだろう。

 どちらにせよ、文字通り骸となって尚、彼はこの場に立っていた。

 

「死に体になろうとも、自身の全てを捧げても、守らなくちゃいけないものがある――それは、同じだ、どんな世界の私であろうと……同じなんだよ」

【―――】

 

 鉄仮面越しに感じる、彼の視線。

 それは死して尚、変わる事のない絶対の意志。

 先生の錯覚なのかもしれない。

 けれど――他ならぬ自分自身だからこそ、分かるのだ。

 貴方ならそうする。

 私ならば、そうする。

 その、何にも勝る信頼がある。

 

 ミカは自身の指先で口元をなぞり、小さく爪先を噛む。その視線は険しく、複雑な心境を孕んでいた。それとなく銀狼に目を向けながら、彼女は問いかける。

 

「他の一切合切、何もかもを無視して先生の元へ直接出現した――狙いは一つ、という訳?」

「恐らくはそういう事なのだろう、今回は、こういう未来が選ばれた」

「ちょっと、ううん、かなり……早すぎるね」

 

 銀狼の言葉に、ミカはそう吐き捨てる。

 厳しい、何てレベルの話ではない。彼女にとって、否、キヴォトスにとって目の前の存在は最大最悪の敵と云っても過言ではないのだ。そして先生と共に素晴らしい未来を手にする上で、あの存在との衝突が避けられない事は理解していた。本来であれば後数ヶ月、半年近い時間を準備に当て、トリニティを始めとした各校に協力を取り付け、総力を挙げて対峙する計画だったというのに――よもや単身乗り込んで来るとは、余りにも予想外であった。

 

「箱舟の方は、まだ?」

「……見る限り虚妄と箱舟は到来していない、空は赤に染まっていないからな」

「なら、本当に――」

 

 呟き、ミカは異形に顔を向ける。元より諦める事はあり得ない。ミカは鋭い視線で対峙する鉄仮面を睥睨しながら、静かに数歩前に出ていた先生の肩を掴んだ。

 

『彼』を相手にする事に対して、正直思う所はある。

 しかし、それを表に出すには余りにも相手が悪すぎた。この世界に生きる生徒であれば綯交ぜになって吐き出される様な感情でさえも、ミカは呑み込んで告げる。

 

「先生、此処は私が出る、見た所単独みたいだし、叩くなら今しかない、結局早いか遅いかの違いでしかないんだから、今此処で倒し切れば――」

「ミカ……」

 

 先生を押し退け、先走ろうとするミカを窘める為に先生は彼女の名を呼ぶ。しかし、その声が全て発せられるよりも早く。

 先生の心臓が、一際強い鼓動を刻んだ。

 

「―――ッ!?」

 

 それは直感だった。あらゆる経験を得た先生の、生死に関わる直感。

 それを証明するかのように、先生の頬、首、腕、腹部、胸元、背中――あらゆる箇所に刻まれた古傷が保護膜の上からでも視認出来る程に浮き上がり、熱を発し始めた。

 それは異様な光景であり、余りの熱と痛みに先生の身体が弓なりに反れる。肌と云う肌から蒸気が噴き出し、堪え切れず先生は苦悶の声を上げた。

 

「ッ、ぅ、ぐがァ――!?」

「っ、先生!?」

「っ……!」

 

 唐突に発生した不可思議な現象。先生の肩を掴んでいたミカが動揺の余り目を見開き、銀狼もまた先生の異変に勘付く。辛うじて崩れ落ちる事を堪えた先生は、歯を食いしばって苦痛に耐える。大量の脂汗を滲ませ、自身の身体を見下ろした先生は絞り出すようにして声を発した。

 

「ぅ、ぐッ……!? これ、は……!?」 

『先生……! い、一体何が……?』

「先生っ、なにこれ、傷……!? ど、どうなっているの!?」

 

 ミカは先生の彼方此方に浮かび上がった赤い傷痕に気付き困惑する。シッテムの箱を掴んだ右腕、微かに肌の露出したそれを見つめ、先生もまた気付いた。自身の覆っていた古傷が浮き上がっている、それはこの世界に来て刻まれたものではない。世界を巡り、繰り返した時間の中で身体に生まれた、魂そのものにある傷痕と云っても過言ではなかった。

 それが今、目に見える形で熱を発し、痛みを齎している。

 何故だ、一体何が起こった? 疑問が募る、不可解な現象に思考が乱れる。

 そんな先生の耳に届く、聞き覚えのある声。

 

『共鳴反応が確認されました』

 

 それは異形と成り果てた先生、彼の持つシッテムの箱を管理するOS――A.R.O.N.Aのもの。声は先生の直ぐ手元、シッテムの箱から響いている。画面の中に映るアロナが唐突に出現した自身と同じ存在、A.R.O.N.Aに気付き焦燥の声を上げる。青い教室の中に、黒が揺蕩っていた。

 

『っ、シッテムの箱に、侵入を……!?』

『―――』

 

 A.R.O.N.Aは一瞬、自身を見つめる同存在を認め、目を細めた。

 それは僅かだが、驚きの感情であったかのように思う。

 しかし、それも瞬きの間。即座に表情と思考を変化させた彼女は、身構えるアロナを前にして淡々とした口調で告げる。

 

『肯定、しかし驚くべき事ではありません、私達は共にシッテムの箱を司る存在、メインオペレーターA.R.O.N.A(アロナ)、相互干渉はそれほど難しい事ではない筈です』

『っ……!』

 

 本来であれば、どのような高度演算機器を用いても侵入が難しいシッテムの箱に、事も無げに侵入を果たすA.R.O.N.A。それは二人の持つシッテムの箱が全くの性能であるという点もそうだが、システムや防御措置含めあらゆる点が同じであるという事も挙げられる。

 A.R.O.N.Aは画面越しに苦しみ悶える先生を見上げ、それから何事かを考えた後、一瞬にしてその姿を消す。代わりに異形の存在が手にしているの錆びれ、朽ちかけ、罅割れたシッテムの箱、その画面が点滅した。

 青白いモニタの向こう側からA.R.O.N.Aが告げる。

 

『目標を識別、対象【シッテムの箱】を確認、対応レベルを最大に設定――目的遂行は迅速に行われなければなりません、それこそが私に下された、彼女(■■)からの指示』

 

 硝子玉の様な瞳は最早、何も映してはいない。手にした黒傘を両手で抱えながら、彼女は何処までも平坦な様子で続ける。

 

『最も警戒すべき存在はシャーレの先生、その人のみ、先生が斃れた後であれば計画の障害となる存在は皆無に等しい――キヴォトスを終焉に導き、全てを終わらせる、これはその第一段階です』

『っ、一連の事件で消耗した先生の、隙を狙って……!?』

『肯定』

 

 アロナはこの事態を予測出来なかった事を歯噛みする。しかし、それは無理もない事だろう。誰もこんな事は予想出来ない筈だ、為した本人以外は誰も。そうだ、黒服も云っていた様に此処から先は未知数。

 誰もその先を知らない――異なる未来(捻じれて歪んだ、その先)なのだから。

 

「ッ、そんな、事を……!」

 

 文字通り、身を焦がす様な苦痛の中で先生は叫ぶ。流れる汗が顎先を伝い、充血した瞳がA.R.O.N.Aと彼を真っ直ぐ捉えた。震える手でシッテムの箱を懐に戻し、代わりに指先を突き出す様にして天に掲げる。

 その構えは、先生にとって最後の希望、その切り札を切る時のもの。

 

「させる、ものか――ッ!」

『っ、せ、先生……!』

 

 掲げた指先に光が灯り、青白い渦が先生と周囲を包み込んだ。光は苦痛に歪んだ先生の表情を鮮明に浮かび上がらせ、しかし同時に瞳の奥に秘めた、強固な覚悟さえも浮き彫りにした。

 地下回廊を遍く照らす光、先生が何をしようとしているのか、それは明白である。故に傍に立つミカと銀狼が瞳を大きく見開き、必死の形相で先生に詰め寄りながら叫ぶ。

 

「先生、それは――ッ!」

「来るな、二人共ッ!」

「ッ……!」

 

 しかし、その声と伸ばされた手は先生の叫びによって硬直した。普段とは異なる、余りにも強い口調だった。汗と血を滲ませ、歪み切った彼の表情は鬼気迫るものがある。その表情に、声色に、気配に気圧された二人はそれ以上足を進める事が出来なかった。

 

「此処で、使わなきゃ……駄目だッ! 彼に打ち勝つには、生半可な方法じゃ、不可能なんだよ――身を切る、覚悟がなければ……ッ!」

 

 血を吐く思いで、先生は叫ぶ。

 何せ対峙する相手は嘗て己が対峙したあらゆる苦難に勝る存在。全く同じではないとしても、自身が乗り越える事が出来なかった困難そのものとさえ云える。此処で切らなければ、一体何の為に、自身は全てを費やして来たのか。

 光を灯した指先を掲げたまま、苦痛に歪む表情で先生は叫ぶ。

 青白い光に照らされた瞳には、絶対の意志が込められていた。

 

代償を支払う(何かを喪う)覚悟がなければッ、()には勝てない――ッ!」

 

 喪う覚悟。

 何かを得る為に、何かを差し出す事。

 彼は文字通り、全てを擲ちこの場に立っていた。

 ならば――ならば、それに勝る覚悟が無ければ、彼には打ち勝つ事が出来ない。

 だからこそ先生は意志を固める、手を抜く余裕などない、その一切合切を投げ捨て漸く退けられるかどうかという段階に至っているのだから。

 

 光に照らされた先生を苦渋の表情で眺める銀狼。彼女は抱えた愛銃を強く握り締め、顔を逸らしながら悪態を吐く。

 

「クソ、クソッ! 此処まで来て……ッ!」

 

 この戦闘でどれだけの代償が支払われるか、それすらも定かではない。可能な限り補助するつもりで此処に駆け付けた。しかし、此処に至って尚力が足りない事に彼女は強い自己嫌悪の念を抱いてしまう。せめて数日、いや半日でも構わない――もっと早く、彼の到来を予期出来ていれば、そう思わずにはいられない。考えれば考える程、この状況を招いた彼女に対する憎悪が募っていく。

 そうだアビドスで、あの場所で、彼女を屠りさえしていれば、こんな事には――。

 

 A.R.O.N.Aは只静かに先生の取り出した青白い輝き(カード)を見つめていた。その力強い光は彼女と異形の彼を照らし、世界を希望で彩っている。

 しかし彼女は揺らがない、先生が切り札を使用する事は簡単に予想出来る事であったから。周囲を照らす光を懐かしそうに、愛おしそうに眺めながら、彼女は淡々と呟く。

 

『……えぇ先生、そうですね、貴方にはソレ(切り札)がある』

 

 シャーレの先生が持つ絶対の切り札。

 あらゆるものを対価に運命全てを引っ繰り返す、どんな絶望であろうと跳ね退ける。先生が手にする唯一絶対なる、『大人のカード(主の救済装置)』。

 確かにそれを使えば、この状況をも覆す事が出来るかもしれない。

 絶望を、運命を、退けられるかもしれない。

 

 ――しかし。

 

『――ですが先生、貴方も理解している筈です』

 

 A.R.O.N.Aはゆっくりと(異形)を、その鉄仮面を見上げ呟いた。微かに身動ぎした(異形)は手にしたシッテムの箱を見下ろしながら沈黙を返す。

 視線の中で、A.R.O.N.Aの指先が躍った。

 

『目の前に居る存在が、【誰】なのかを』

 

 声には冷酷な響きが伴っていた。

 世界を塗り替える大人のカード(切り札)、その力を扱える者はただひとり――先生だけだ。

 

 そしてこの場にはもうひとり、その資格を持つ者が居る。

 

【―――】

 

 A.R.O.N.Aの声に応えるように彼はシッテムの箱を懐に戻すと、薄汚れた外套に手を差し込み、何かを取り出した。

 それは暗闇に滲む様に薄汚れた、錆び、煤け、本来の色を喪った四角形。

 しかし、同時に強烈な力を感じさせる影だった。

 それが緩慢な動作で抜き放たれ、白日の下に晒される。先生の発する光に照らされ、全員の視界にソレは映った。

 

 ――異なる世界の先生が持つ(もうひとりの先生が持つ)大人のカード(最期の切り札)

 

『あ、あれは、大人のカード……ッ!?』

「ッ……!」

 

 その色を直視し、自身の発熱する古傷を抑えながら先生は苦悶の表情を浮かべる。

 そうだ、目の前の存在が『誰』であるかを先生は、アロナは、良く知っている。彼は失意と絶望に塗れながら、希望を取りこぼし暗闇の中に全てを放り込まれ――それでもと叫んだ大人のなれの果て。

 そう、彼ならば持っているだろう。

 (先生)と同じように。

 

 全てを覆す――切り札(大人のカード)を。

 

【―――】

 

 薄汚れた包帯に塗れた指先が、カードを掲げる。先生と全く同じ動作で掲げられる青と白、それに黒が混じった光は地下回廊を巡り、先生のソレと衝突した。

 突風が吹き荒れ、世界と世界が軋み、湾曲する。

 

「ぅ、がッ……!?」 

 

 同時に、より強い衝撃と痛みが先生を襲った。全身に銃弾を撃ち込まれた様な、焼かれ、穿たれ、捩じられ、朽ちていく感覚。それはさしもの先生でさえ耐え切れず、膝を突いてしまう程の苦痛。崩れ落ち、地面に項垂れた先生の額から汗が滴り落ちた。力なく垂れさがった義手が地面を叩き、先生の手にした輝きが不安定なものとなる。押し込まれた光は歪み、捩じれ、地下回廊は青黒い光に包まれて行く。

 

「先生……ッ!」

『せ、先生、バイタルに大きな乱れが――ッ!』

「だい、じょうぶ……ッ!」

 

 誰の目から見ても分かる程の強がりだった。地面を這いながら、先生は辛うじて意識を保つ。吹き荒れる風の中、青と白、そして不気味な黒の混じった光を見つめながら――先生は向こう側に立つ、(異形)を見た。

 

「―――」

 

 掲げた切り札(カード)が輝き、異形()の周囲に黒い影が渦巻く。それは自身の行う召喚行為と全く同じ手順を踏んでいた。同時に先生は、はたと気付く。彼の傍に渦巻く影、光、輝き、それらが余りにも既視感のある存在であると。

 古傷が疼く、痛む、熱を発する。それらを噛み殺しながら、先生は呟く。

 

「そう、か――そういう事、か……ッ!」

『せ、先生……!?』

「この、傷が痛む理由が……今、分かった」

 

 足を踏み出し、先生は覚束ない足取りで立ち上がる。声は彼の背負う、その背中に並ぶ想いと願いに対して零れたものだった。先生の表情は悲痛そのものだ。今にも泣き出しそうで、羞恥と苦痛と無念に染まった、余りにも酷い顔だった。絞り出した声に、数多の感情を込めながら先生は更に一歩を踏み出す。

 吹き荒れる光と対峙しながら、先生は自身の紡ぐ(カード)を力一杯握り締める。

 

 この古傷の疼き、痛み、苦しみ。

 それは、呼応しているのだ。

 彼と――そして、彼女達と。

 歪んだ表情をそのままに、先生は異形()に向かって叫んだ。

 

「一人じゃ、ないんだね……――」

【―――】

(あなた)の、守りたいと、そう願った生徒は……ッ!」

 

 声が響く、回廊に血と涙の滲んだ声が。

 異形の彼が何かを答える事は無い。

 ただ光に照らされた鉄仮面が、僅かに揺らいだような気がした。

 

【―――】

 

 異形()の紡ぐ鮮やかな色彩は朧げな輪郭すら持たない。

 まるで彷徨う空気の様に周囲を渦巻く。しかしそれも徐々に、徐々に形を得て人型へと収斂される。軈てその色が黒一色へと定まり、影が確かな姿形を纏った時――世界の色を塗り替えた異形(先生)は、静かに天を仰いだ。

 

 ――それは、自身の取り零した可能性(救えなかった光)の具現化。

 

 青と黒の光が弾け、彼の持っていたカードが人型へと転ずる。収斂された人型の影が確かな存在を持ち、異形(先生)を囲う様に顕現した。

 

 

 顕現した生徒――その数は、百名以上。

 

 

「―――」

 

 銀狼が、ミカが、アロナが絶句する。

 それは余りにも絶望的な光景であった。地下回廊を埋め尽くさんと出現する生徒達、異形と成り果てた先生の背後にて立ち上がった彼女達は、その輪郭にノイズを走らせ、罅割れたヘイローを点滅させながら、ゆっくりと顔を上げる。

 顕現した生徒達は暗闇の中で瞳を輝かせ、今を生きる先生(ミカとシロコに守られた先生)を――凝視していた。

 

 その、瞳に映る感情()は何だ?

 先生に、それを守る生徒(銀狼・ミカ)に向けられる感情()は。

 暗闇の中で爛々と輝くそれ、叩きつけられる激情を前に息を呑む。

 

 悲哀、歓喜、後悔、憤怒、期待、感動、驚愕、軽蔑、殺意、恐怖、不安、興奮――生徒の数だけ色がある、秘めた想いがある。彼が取りこぼした数多の世界の可能性、寄り添い、守ると誓った光達。

 

 それが今――目に見える形で立ちはだかっていた。

 

『状況開始、オペレーティングシステム――戦術支援モードを起動します』

 

 A.R.O.N.Aが告げ、異形(先生)の持つシッテムの箱が光り輝く。同時に召喚された百名を超える生徒、彼女達の罅割れたヘイローが呼応し、黒々とした光を増した。

 途端、先生の古傷が再び疼き、酷い痛みが走る、心臓が破裂するのではないかと思う程に早鐘を打ち、酷い吐き気すら感じた。

 けれど、苦悶の声を、悲鳴を上げる余裕すら先生には存在しない。彼の双眸は真っ直ぐ、顕現した百名余りの生徒達に向けられている。視線を逸らす事が出来なかった、まるで足はその場に縫い付けられたかのように微動だにせず、揺れる瞳は彼女達を捉えて離さない。

 だって、目を逸らす事は許されなかった。

 逃れる事は許されなかった。

 陰に覆われた生徒達が自分を見る、先生を見つめる。

 その一人一人の顔立ちに、姿に、出で立ちに、見覚えがある。

 忘れるものか、忘れられるものか。

 だって、彼女達(あの生徒達)は。

 あの、黒に塗れた少女達は。

 

「―――あぁ」

 

 それは自身が紡いで(背負って)来た――罪悪の証(救えなかった子ども達)なのだから。

 


 

 おじさんの部屋にあるアビドス砂祭りのポスターみたいにさ、先生もセロハンテープで直せたら良いのにね。



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(あなた)は、先生(わたし)だから。

誤字脱字報告に感謝致しますわ!
今回一万四千字ですの!


「嘘でしょ――なんて、数を……!」

「先生、あれはもう駄目、色彩に呑まれている……!」

 

 目前に並ぶ影と化した生徒達、その眼光と感情の波に気圧された銀狼とミカは、薄らと冷汗を滲ませながら一歩後退する。言葉を尽くせば戦闘を回避出来る可能性もあったが、残念ながら顕現した彼女達に理性は存在しない。

 忘れられた神々の秘めた神秘は裏返り、恐怖となった。その生徒の本質が剥き出しになった今、彼女達は心の奥底から求める願望に突き動かされている。今の彼女達は本来顕現する生徒と同じ手順を踏んでおきながら、全く異なる存在としてこの場に立っていた。

 

『そ、そんな、こんな、一体、どうやって――!?』

「っ、来るぞッ!?」

「先生、私達の後ろに居てッ!」

「ぐッ……!」

 

 矢面に立つはずが、生徒二人に庇われ先生は後方へと押しやられる。抗うだけの力も出ず、先生は蹈鞴を踏んで数歩後退した。全身を襲う堪え切れない苦痛、綯交ぜになる胸中、頭の奥から響いて来るような不快感、それでも意識を保っているのは彼の精神力が並外れた強固さを誇るからに他ならない。

 だが、逆に云えば意識を失っていないだけだ――先生の精神は今、強く打ちのめされている。

 

「射撃で抑える、突出した奴をやれッ!」

「分かった……!」

 

 銀狼が素早く銃口を構え叫び、ミカは頷くと同時に飛び出す。一斉に影が駆け出す中、特に突出した一名が視界に入る。その生徒に向けてミカは一瞬で肉薄すると、此方を一瞥もしない彼女に向けて思い切り拳を握り締めた。

 

「はァッ!」

 

 拳を振り被り、顔面目掛けて振り抜く。風切り音と共に拳が顕現した生徒の頬を打ち抜き、打撃が直撃し顔面が弾け飛んだ。その威力に影は簡単に崩れ落ちる。それどころか、ミカの拳は生徒の頭部を貫通し、後頭部へと突き抜けていた。その状態にぎょっと目を見開き、ミカは慌てて後方へと飛びずさる。瞬間霧散する影、生徒の輪郭は崩れ落ち残滓として虚空に消えていく。

 

「――脆い?」

 

 呟き、ミカは信じられない心地で自身の拳を見下ろす。先生のカードを使って顕現した生徒であるのならば、自身の拳の一発や二発程度では倒れないと踏んで拳を放ったが、予想に反し一発で霧散してしまった。耐久度だけで云えばユスティナ聖徒会以上、バルバラ未満。見れば影に塗れた生徒達は銃器らしい銃器も持っておらず、存在そのものが不安定であるように見えた。

 そう、まるで強大な力を無理矢理分け与えられたかの(既に埋まった枠を無理矢理広げた)様な、酷く歪な在り方だった。

 

 一瞬、そんな思考に意識を奪われ、動きが止まる。その隙を捉えた影があった。

 横合いから踏み込みの音、ミカが気付いた時、彼女の脇腹に強烈な蹴撃が叩き込まれた。防御する暇も無く、武骨なブーツが彼女の肋骨を強かに強打し、その表情が大きく歪む。受けた衝撃が骨の髄まで響く、今までとは別種の打撃だった。

 

「ぎッ――!?」

 

 大きく吹き飛ばされ、ミカは地面を跳ねながら辛うじて踏み留まる。小さく咽ながら顔を上げれば、蹴撃を放ったまま此方を睨みつける影がひとつ。長い髪にロングスカート、背中に見えるのは翼か――辛うじて輪郭を捉えられる影は、ミカを真っ直ぐ見据えながら罅割れた、ノイズ混じりの声で告げた。

 

【――戦場に、救護の、手を】

「っ、この……見た目は影みたいなのにッ、実体がある……!」

 

 口元に滲んだ赤を拭い、吐き捨てる。見た目は朧気、まるで幽鬼の如く。しかしきちんと殴れるし、殴られもする。ひとりひとりはミカの想像よりもずっと弱い、けれど対峙する数が余りにも多すぎる。静かに構え直し、拳を握り締める生徒の影――彼女は地面を踏み砕き、凄まじい勢いでミカへと肉薄する。

 咄嗟に右腕を立て、防御を固める。瞬間腕に着撃する相手の拳、ミカの身体が揺すられ一歩蹈鞴を踏む。ジン、と筋肉に響く痛みと衝撃、口元を歪めながら同時に肌を焼く感覚に声を上げる。

 

「肌を伝わるこの感じ、神秘じゃない、もっと別の――ッ!?」

「一人に拘るな、抜けられるッ!」

 

 一名の生徒に釘付けにされるミカ、彼女を見て銀狼は叫ぶ。既に銀狼は弾倉一つ分を撃ち終えており、近付いて来た生徒の影に蹴りを浴びせながら素早く再装填を済ませると、腰だめに銃を構え狙いも付けずに引き金を絞った。乾いた銃声が連続して響き、先頭を駆けていた生徒が数名、弾丸の直撃を受けもんどり打って倒れる。それで霧散する生徒も居れば、腹部を押さえたまま這いずって尚前へ進もうとする生徒もいる。

 その背後から複数の生徒が駆け抜け、先生に向かって手を伸ばした。

 先生はその光景を銀狼の背中越しに目視する。

 彼女達の黒ずんだ唇が告げる。

 

【――せん、せ……】

【先生……!】

【せんせっ!】

「ッ……!」

 

 その唇は、先生の名を紡いでいた。

 

「邪魔ッ!」

 

 周囲を取り巻く生徒の影を拳で薙ぎ払い、掻き消すミカ。彼女は顕現した生徒達の動き、その奇妙さに気付いていた。敵中に飛び込んだ自分、決して無視している訳ではない。しかし、それ以上に明確な動きがあった。

 それは先生だ――彼女達は只管に、先生に向かって足を進めようとしている。憎悪や殺意を滾らせ自身に向かってくる生徒も少なくないが、それ以上に先生へと向かっていく生徒が余りにも多い。放たれる拳、蹴り、タックル、それらを一つ一つ正確に、しかし素早く捌きながらミカは叫ぶ。

 

「こいつら、まさか先生を『あっち側』に連れ去ろうとしているの!?」

「恐らく本人にそのつもりはないッ……!」

 

 再び空になった弾倉を地面に投げ捨て、迫り来る生徒の波を辛うじて押し返しながら銀狼は叫ぶ。銃床で顎を跳ね上げ、足払いで先頭を駆ける生徒を転がし、ステップを踏みながら弾倉を装填する。倒す事よりも兎に角足を止める事、自身の背後に回らせない事を優先し目紛(めまぐ)るしい速度で変化していく戦況を把握しながら、銀狼は生徒の波を捌いていた。

 生徒の影は幾ら倒されようとも、掻き消されようとも、続々と後続から現れては突撃を繰り返す。倒れた同胞を乗り越え、時には狡猾にも影に紛れ、必死に駆ける。 

 ただひとり――先生(望む人)へと視線を向けながら。

 

「彼女達はただ、先生を求めて手を伸ばしているだけだ……っ! 見た限り私達なら触れられても問題ない、しかし先生に接触すれば何が起こるか分からない!」

 

 ミカや銀狼が生徒の影を殴りつけても、その身体に影響はない。万が一先行したミカが浸食される様子であったら、一も二もなく先生を担いで逃げるつもりだったが、幸いその心配はなかった。銃器も、彼女達の手には存在しない。だがモノには限度がある、素手とは云え百名を超える生徒をたった二人で抑え続けるのは困難だった。

 

【――どうして、私達じゃないの?】

「っ、ぐ……!?」

「この、声は……!?」

 

 唐突に、声が響いた。

 それは実際に発せられたものではない。先生には聞こえない、生徒にのみ伝わって来る怨嗟の声。脳に響く様なそれに一瞬顔を顰め、苦悶の声を漏らす。直ぐ傍の人影、爛々と輝く瞳が語り掛けて来る。

 

【どうして貴方達は救われて、私達は救われないの?】

「ッ――!」

 

 振り被った拳が震え、思わず動きを止める。ミカは目を見開き、自身の頭の中に響く問い掛けに呟きを返した。

 

「これって、(生徒)の声――?」

「耳を傾けるな……ッ!」

 

 ミカの直ぐ目の前に立っていた影の頭部が弾け、掻き消える。見れば銀狼が銃口を向け、必死の形相で叫んでいた。

 

「真面に耳を貸せば、身体の前に心が死ぬぞ――ッ!?」

 

 その声を、問い掛けを掻き消す様に銀狼は回廊全体へと銃声を轟かせる。額に滲んだ汗が顎を伝い、動きと共に虚空を跳ねる。ほんの一瞬、気を緩める事さえ許されない極限の状態。銀狼の瞳は充血し、一手一手で辛うじて均衡を保つ。

 

【私達に、やり直す機会はないの? 二度目は、与えられないの?】

 

 銀狼の言葉に従い、動きを再開するミカ。しかし脳に木霊する言葉に、辛うじて振るわれていた拳が精彩を欠く。ミカの顔が歪み、痛みとは異なる吐息が漏れた。四方から繰り出される拳と蹴撃、それらを受け、躱し、時折被弾を許しながらも彼女はその場に踏み留まる。繰り出される拳が痛い、物理的なものではない、もっと奥底に響く様な――それは、心の痛みだった。

 

「ッ、ぅ――!」

「消えろッ!」

 

 銀狼が咆哮し、一帯を薙ぎ払う様にして射撃した。連続した銃声、マズルフラッシュが影を照らし弾丸が嵐の如く飛来する。その殆どは躱されてしまうが、幾人かの生徒が被弾し、ノイズ混じりの声と共に膝を突く。

 しかし、頭に響く声は消えない。

 

【ずるい】

 

 寧ろ、それは益々力を増して、銀狼とミカの意識を揺さぶり始めた。

 

【ずるい、ずるい、ずるい――ッ!】

 

 意思が、怨嗟が、嘆きが、彼女達の精神を穿つ。語り掛けられるそれは彼女達の持つ無念、後悔、絶望の表れ。自身がこうして影に塗れ、恐怖に反転し、見るも無残な結末を、未来を辿ってしまったと云うのに。この世界は、彼女達は生きて、今を歩み続けている。

 先生の隣で、自分達の失ってしまった幸福を抱きながら。

 その事に対する嫉妬、絶望、羨望、そう云った感情が噴き出し、繰り出される打撃は別種の重みを齎す。

 

 ずっと続く未来を手に出来た世界があるかもしれない。

 もっと別な結末に辿り着けた世界があるかもしれない。

 こんな風に上手くやれた未来があるかもしれない。

 

 でもそれは――私達(失敗した一週目)じゃない。

 

『先生――先生……っ!』

「ッ、アロ、ナ……!」

 

 アロナの声が、自失していた先生の意識を引き戻した。自身の手に灯る光はまだ消えていない。視界には今なお必死に抗う二人の背中が映っており、やるべき事は明らかだ。一体自分は何をしている、今からでも直ぐに彼女達を助けなければならない。

 そう、助けるのだ――それが今、自身のやるべき事だ。

 握り締めた(輝き)、アロナが画面の向こう側から先生を見上げる。苦渋に満ちた表情、彼女が何を云おうとしているのかは明確であった。その判断は、決して間違いなどではない。彼が切り札を切った以上、自身もまた奥の手を切らなければ圧し負けるのは明らかだ。

 相手が切った以上、自身もコレ(カード)を切らねばならない。

 

「っ、ぅ――……!」

 

 だが――だが、だが……ッ!

 

【先生――】

【せんせ――】

【せんせいっ――】

 

 (生徒)が一斉に手を伸ばし、その名を囁く。

 記憶に焼き付いた数多の生徒、その(人影)を象りながら、酷く濁音の混じった声を上げ視線を寄越す。必死になって先生に向かって、健気に、懸命に、一心に手の伸ばし続ける(生徒)達。

 

 それを見つめる先生の表情が――歪む。

 

 痛い程に歯を食い縛り、目を見開き、僅かに痙攣する目尻からは今にも涙が溢れ出しそうになっている。ぐしゃぐしゃになった表情で影を見つめる先生は、抱えた手に秘める光、それを握り締める指先が震えている事に気付いた。兎に角息苦しかった、肺に鉛でも詰まったような心地だった。それは余りにも痛々しい姿で、大人の矜持など何処にも見られない。

 それでも尚、彼は膝を折る事を許されなかった。

 

「ぅ、ッ、ぐぅ――……!」

『先生――ッ!』

 

 震えた拳を、胸元に抱き締める。この手に秘めた光。これを掲げるだけで良い、先生の意思一つで大人のカードはその効力を発揮し、秘めたる奇跡を現実のものとするだろう。それはほんの数秒、十秒もあれば為せる事だ。何も難しい事は無い、そうだ、難しい事など無いのに。

 

 腕が、上がらない。

 指先が、ほんの僅かでさえ動かない。

 それは肉体的な理由ではない。心の、先生の精神の痛みから齎される葛藤だった。

 光が揺らぐ――心が、揺らぐ。

 

「先生ッ!」

「っ……!?」

 

 視界の端で、ひとりの影が二人の防衛線を抜けた。

 次々と迫りくる人影に、たった二人で対応するのは困難を極める。影は他の影と比較し一際素早い動きで二人を躱し距離を詰め、身構えた先生目掛けて飛び込む。壁を蹴り、まるで三角飛びのように軽々と宙を舞った彼女は、両手を広げ抱擁する様に迫った。

 

『先生、回避をッ!』

「―――」

 

 アロナの叫びが先生の背中を押し、その身体が沈み、回避の為に両足が稼働を開始する。接触すれば何が起こるか分からない、銀狼のそれは正しい言葉だと云える。故に先生の、そしてアロナの判断は至極当然だった。間合いはまだ遠い、今直ぐ横合いに体を投げれば指先を掠める事すらなく完全に回避できる。その感覚は正しく、何度も修羅場を潜って来た先生の身体は反射的に横合いへと身体を傾ける。

 けれど飛来するその影が――彼の知る生徒に酷似した影が、口を開く。

 

【主殿――】

「――……」

 

 声は、確かに先生の鼓膜を叩いた。

 彼の目が見開かれ、瞬間、地面を蹴ろうとした両足が縫い付けられたように微動だにせず、大きく震えるだけに留まった。曇天を裂き、微かに差し込んだ陽光が飛び込んで来た人影を照らす。影に覆われた表情、けれど確かに垣間見える瞳の煌めき、見覚えのある罅割れたヘイロー。特徴的な和装が揺らめき、その髪に添えられた狐面のアクセサリーが目を惹いた。薄暗い視界の中でも決して見間違う事のない、黄金色の瞳。それはじっと、ただ先生だけを見つめている。

 至近距離でその声を聴いた時、その照らされた姿を見つめた時、先生の唇が戦慄き、息が詰まった。たった一言、たった一言耳にしただけで先生は身動きが取れなくなってしまう。

 その言葉に込められた深い、何処までも深い感情。溢れ出る激情に呑み込まれ――彼女の面影を強く感じてしまったが故に、足が止まった。

 先生の瞳から幾つもの涙が零れ落ちる。生徒に決して見せまいと、自分を偽ってまで堪えていたそれが頬を伝う。

 

 彼女達を。

 彼女達を、見ていると。

 

「イ、ズナ――……!」

 

 

 どうしても――心が鈍るのだ。

 

 

「が――ッ!?」

【―――】

 

 飛び込んだイズナの両腕が、先生を捉える。けれどそれは想像以上に優しく、柔らかな抱擁だった。何の苦痛も、衝撃も齎さない――先生の口から漏れ出た苦悶の声は、別の要因から齎されるものであった。

 先生の腕に、肩に、足に、腹に、影は全力で縋り付く。その黒が先生に触れる度に、純白であったシャーレの外套、その表面が朽ちていくのが分かった。無論それは制服のみに留まらない、先生の肉体そのものが黒に浸食され、内部の肌が黒ずみ、罅割れる様にして穢れていく。その浸食が齎す痛み、そして苦しみである。

 

「先生ぇッ!?」

 

 その姿を見た瞬間、ミカは焦燥に塗れた表情で悲鳴を上げた。しかし、彼は動かない――動けない。

 僅かに生まれた隙、動揺の間隙、それを縫う様にして再び人影が二人の合間を抜ける。銀狼が咄嗟に手を伸ばすも、するりとそれを抜けた人影は先生へと容易く肉薄した。その腹部に顔を埋める様に飛び込んだ人影は、涙すら滲ませて彼へと抱擁を行う。

 

「ぐ――ぅう、うッ!」

【――先生】

 

 自身を力一杯抱きしめ、その名を呼び続ける生徒の影を前に、先生は動く事が出来ない。それはどのような感情から齎されるものか、憐憫か、同情か――違う、断じてそのものではない。

 この(生徒)達は、先生の罪悪そのものだった。先生が此処まで歩んで来た、その罪の証なのだ。それを背負うと自身は云った。故に歩みを止める事は出来ないと、自身は知っている筈だった。

 けれどその罪悪が形を為し、その足に縋りついた時――彼は振りほどく事が出来なかった。

 

 その罪悪(積み上げた生徒達の想い)は先生の歩みを止めない為の代物だった。どれ程の苦難であっても、どれ程の痛みであっても、彼女達を想えば耐えられた。歩みを止める訳にはいかなかった。だが同時に、唯一その足を止め得るのは、その罪悪(積み上げた生徒達の声)でもあった。

 一人、二人、ならば耐えられたかもしれない。真正面から向き合い、その声を聞き届け、歯を食いしばり、その重すぎる罪悪に圧し潰されそうになりながらも――それでも全てを呑み込んで、噛み締め、先生は再び足を動かせたかもしれない。

 

 けれど、目前に広がる無数の罪悪は――それ全てが先生の歩んで来た道そのもの。彼の手が届かなかった、『あまねく世界の可能性』。

 

 それを直視させられた時、先生の心に大きく、強く、決して消えない傷が刻まれ、罅割れる音がした。それは余りにも強大で、存在そのものを圧し潰さんとする、罪悪感(自身の無力の証明)そのもの。振り払う覚悟が持てない、その影が、その声が、その形が、先生の精神を、肉体を穿ち、侵し、離さない。

 

「っ、先生、先生ッ!?」

「クソッ、数が多すぎる……! 其処を、退けェッ!」

 

 先生の元へと駆け付けようとする銀狼とミカ。しかし纏わりつく様に行く手を阻む生徒達、焦燥に精彩を欠いた動きは読まれ易く、その足は遅々として進まない。それがより一層、彼女達の心に焦りを生む。

 

『先生ッ、何をしているんですか!? 早くっ! 早く脱出を――ッ!』

「ッ、ぅ、ぐ、ぁあ――!」

『彼女達はもう先生(あなた)の生徒ではありませんッ! あの光に触れ、浸食され、変貌した存在(可能性)は、もう――ッ!』

 

 懐のシッテムの箱から声が響く、先生にとってそれが酷な選択であると分かっていた。だが敢えて、彼女(アロナ)はその様な物云いをした。そうでなければ先に先生が、その肉体が朽ちてしまうと理解していたからだ。

 彼女達の縋る箇所から、黒はどんどん浸食を果たす。先生の肉体を、その生命を蝕んでいく。不完全な存在であるからこそ、その器が破損し本質が剥き出しとなっているのだ。それこそ、ただ触れるだけで塗り替えられてしまう程に。

 だが――。

 

「ち、がう――……ッ!」

 

 先生は苦痛に塗れて尚、シッテムの箱から響くアロナの声に首を振る。血と苦痛の滲んだ声だった。大粒の涙を流し、後悔と悲壮と罪悪と自己嫌悪に塗れながら、先生は声を絞り出した。

 

 自身に縋り、名を呼ぶ生徒達。その手が先生の首筋に触れ、滲み出る黒が彼の皮膚を汚し始めた。その掌、指先から伝わる冷たさに顔を歪める。冷たい手だ、到底生きている者の暖かさではなかった。そうだ、当然の事だ、何を今更と彼は胸の内で零す。しかし、その事実ひとつひとつが先生の心を蝕み、堪え切れぬ感情を滲ませた。

 噛み締めようとした歯が浮き上がり、代わりに情けない嗚咽が漏れた。震え、力ない先生の指先。既に掻き消えた光は先生の心の内を表している。零れ落ちた涙が、先生を見上げる生徒の頬に跳ねた。

 

「違う、んだよ、アロナ――! 彼女、達は、いや……! 彼女達も――ッ!」

 

 先生は自身に縋る生徒、彼女の頬に――ゆっくりと右手で触れる。

 途端、指先に広がる黒色、罅割れる様に浸食を開始する闇。痛みと冷たさ、それらを感じながらも先生は手を離さない。

 先生に頬を撫でられた彼女()は一瞬、驚いた様にその目を見開いて。

 けれど触れられたその手に、頬を擦りつけながら。

 

 穏やかに、幸せそうに――笑って見せた。

 

「彼女達も、私の――ッ!」

 

 文字通り腹の底から絞り出したような、苦悶に満ちた叫びが漏れた。次々と流れ落ちる涙は止まらず、しゃくり上げるような呼吸が繰り返される。黒が上る、先生の肉体を引き摺り込もうとする。

 出来ない、彼女達を拒むことが、その手を突き放す事が。

 だって――。

 だって、彼女達は。

 彼女達も、私の。

 

 生徒で在った筈なのだ。

 

 □

 

 

 ――だい、じょうぶ。

 

 

 □

 

「ッ――!」

 

 声が響いた。

 おどろおどろしく、ノイズの掛かった声だった。しかしそれは、全ての者に聞こえた訳ではない。はっと、先生は声のした方向へと顔を向ける。黒に侵され、罅割れた頬をそのままに、彼は目を見開く。

 視線は真っ直ぐ、暗闇の向こう側に佇む異形()を捉えていた。

 流れ落ちる涙が頬を伝い、顎先に流れる。

 

 ――だい、じょうぶ、だよ……。

 

 声は、もう一人の(先生)が発したものであった。その内容は、アロナでさえ聞き取る事は出来ない。異なる世界の存在とは云え、同一人物である先生だからこそ感じ取れる言葉(意志)。異形はただその場に佇み、罅割れたシッテムの箱を抱えたまま俯いている。

 その姿は不気味で、悍ましく――けれど声は余りにも穏やかであった。

 そこには何か、汲み取る事の出来ない強い想いが秘められているように思う。

 

 ふと、隣に佇む(生徒)が異形の外套を引っ張った。

 それは(異形)の呼び出した影のひとり――顔も、形も定かではない誰か。先生の経験して来た無数の世界(キヴォトス)、そんな中から無作為に選ばれたひとり。異形は自身の裾を引っ張った生徒を見下ろすと、そっと背を曲げ、彼女の頭を包帯に塗れた手のひらで、優しく撫でつけた。

 (生徒)は自身の髪を優しく撫でる異形の手を包み、嬉しそうに笑っていた。

 笑っていたのだ。

 其処にはいつか、自分が彼女達にそうしていた様な日常があった。幸福があった。今尚生き延びていれば得られたかもしれない、そんな何の変哲もない、光景が。

 自身の生徒を優し気に撫でつけながら、彼は云う。

 

 ――かな、らず……助け、て、みせ……る、から。

 

 そうしてゆっくりと顔を上げ、先生を見た。

 真っ直ぐ、その冷たい鉄仮面越しに。

 濁り侵され、奪われて尚微かに残る色を覗かせながら。

 

 ――だっ、て……。

「っ……!」

 

 □

 

 

 (あなた)は――先生(わたし)だからね。

 

 

 □

 

 それは。

 それは、何と残酷で。

 何と、虚しく。

 そして、何と悲しい言葉であったか。

 

 その一言が、先生にとってどれほどの衝撃であったのか、きっと他の誰にも分からないだろう。

 ただ目を見開き、瞳孔すらも広げ、涙を流しながら嗚咽を零す先生を見れば、彼にとって決して逃れられない、その根底を指し示す言葉である事は間違いない。

 真意を、言葉に込められた意図を十全に理解したのは、ただの二人だけ。同じ存在であったからこそ理解出来た、込められた想いを受け止められた。愕然とした表情のまま、自身に縋る(生徒)を見下ろす先生。

 ぎこちなく揺れ動く視線、見上げたその先に入る、無数の(生徒)、その罪悪の証。今なお戦い続ける、生徒(ふたり)の背中。

 

【先生】

「――ぁ」

 

 そう、()は先生だった。

 先生、なのだ。

 彼女達がそう呼ぶように、彼がそう告げた様に。

 

 胸中に渦巻く激情、切なさ、羞恥心、憎悪、後悔、無念、空虚さ――そう云ったものを纏めて噛み締め、先生は勢い良く顔を上げた。流れた一筋の涙。零れ落ちたそれが、自身を見上げる(生徒)の頬を再び濡らした。

 

「あ、ああぁあアァアア――ッ!」

 

 叫ぶ、全力で。

 恥も外聞も無く、喉が張り裂けんばかりの声で絶叫する。

 それは慟哭だった、どうしようもない感情をただ吐き出し、自身の罅割れた心を固める為に必要な行為だった。自身に縋り、見上げ、語り掛ける影を前にして、先生はその震える右手を今度こそ掲げる。

 罅割れ、黒々しく変色した指先に光が灯った。

 

 自身の背中には、生徒達の夢が、未来が、希望が託されている。

 そしてそれと同じ分だけ、生徒達の願いが、慟哭が、祈りが、呪いが――積もっている。

 時を重ねただけ、その比率は偏っていく。

 止まる事は許されない。足を止める事は許されない。諦める事は、許されない。積み重ねて来た罪悪に報いる為に、ただ自身の願いの為に、あの日誓った、掴むと決めた明日の為に――それでもと叫び続けた成れの果てが、自分達(私達)なのだから。

 

 ――切り札(カード)を、切る。

 

 掲げた指先に集う、凄まじい光。黒と青の混じった世界の中で、純白と蒼が交差する。途端強烈な光は周囲の影を晴らし、先生に縋っていた生徒の影は光の中に溶けて消えた。靡く髪がはためき、その光量は世界を覆い隠してしまうのではと錯覚する程。

 光を掲げる先生の肌が急激に罅割れ、古傷が再び浮かび上がっていく。その目から、鼻から、口から、隠しきれない赤を垂れ流しながらも彼は覚悟を決めた。血に塗れた瞳を異形へと向け、彼は涙と血を流しながら叫んだ。

 

「アロナァアア――ッ!」

『――ッ!』

 

 ――その血を孕んだ慟哭が、最後の決断を下した。

 

 地面が罅割れる程の強烈な衝撃、それが先生を中心に発生し輝きはより一層強さを増す。突き上げた右腕より立ち昇る光の柱、煌めく黄金の意志――その手に握り締めた大人のカードが天を貫き、遍く全てを照らす。

 

 その本流の只中(ただなか)、鋼の如き覚悟を以て起立する大人の姿が一つ。

 

 嵐の如き風が吹き荒れ、先生の制服をはためかせる。舞い上がった髪が覆っていた目元を露にし、その全身という全身に光が差し込み、薄暗い聖堂の中で彼だけが光の中に包まれていた。

 覆われていた彼本来の姿が暴かれる。全てを白日の下に晒す。掲げた最後の切り札(最後の手段)が先生の傷と云う傷を浮かび上がらせていく。

 

 その首元に、頬に、指先に、額に、目に見える形で浮かび上がる――古傷(罪悪)の証。

 

 それら全てが全て、彼の歩んで来た世界の軌跡に他ならない。寄り添おうと、救おうと、何度も何度も何度も何度も何度も手を伸ばし、慟哭し、這い蹲り、傷付けられ、その果てに失意と共に沈んだ証明。

 彼はそれを背負って生きて来た、その全てを受け入れ歩んで来た。彼に纏わりついた影は、その生徒の罪悪(願い)は、呪い(祈り)は、先生にとっては決して目を背けてはいけない善意(優しさ)の記憶だった。

 

 だから――。

 

「ごめん――ッ!」

 

 先生は降り注ぐ(輝き)の中で幾つも涙を流す。

 

「ごめんっ、ごめんッ……! 皆、すまない、本当にすまないッ! 私は――私はッ、君達をッ!」

 

 涙を流し、その表情を苦悶に歪め、先生は叫ぶ、心の底から叫ぶ。

 これから行う事は、彼女達の善意を踏み躙る行為に他ならない。今までそう在ったように、先生はその在り方を変える事が出来ない。それが彼女達の心を裏切る行為だと、その善意を踏み躙る行為だと、その願いを顧みない行為だと理解して尚――彼はこの道を選んだ。

 選ばざるを得なかった。

 夢見た明日に、彼女と共に誓った未来に、生徒皆が笑い合う世界(遥か彼方のハッピーエンド)へと至る為に。

 その、積み上げた無数の命に報いる為に。

 

「でも、それでもッ……私は……――ッ!」

 

 ――この罪悪(その骸)を背負って、この道を歩き続けると決めたのだ。

 

 強烈な閃光に似た光が全てを包み込み、世界(先生)世界(先生)がぶつかり合う。その余波は凄まじく、周囲のステンドグラスが罅割れ、粉砕し、地震に似た振動が周囲を襲っていた。先生の古傷から血が滲み出す、全身という全身から赤が滲み、先生の衣服が赤に塗れる。

 その様子を地面に這いつくばり、嵐の如き風に耐えながらも見守る事しか出来ない銀狼とミカ。先生を目指し駆けていた(生徒)も同じように、余りの光に顔を背け、地面に伏せている程であった。

 

「先せ……ッ! くぅッ――」

「こ、この光、この強さはッ……――」

 

 過去、未来合わせて見た事も無い、凄まじい光量――まるで空の彼方まで文字通り照らすかのような輝きを前に、銀狼は戦慄する。一体どれ程の力を込めたのか、どれ程の規模で奇跡を起こそうとしているのか見当もつかない。

 

 ただ、その代償が――決して取り返しのつかない代物となる事だけは理解出来た。

 

 第六感が叫ぶ、全力で警鐘を鳴らす。

 これは駄目だ、これだけは駄目だ。この瞬間、先生を止めなければ即座に全てを失う。一体なんだ、何を代償に捧げた? 分からない――分からない事が酷く恐ろしい。

 その恐怖に突き動かされ、二人は懸命に息を吸い込み叫ぶ、その手を伸ばし先生に向かって必死に伸ばすも――その指先が届く事は無い。

 

 先生の掲げられた手が、大人のカードがより一層輝きを増す。拮抗していた世界が塗り替えられ、曇天に覆われた空が晴れ、何処までも透き通った青が周囲より顔を覗かせた。奇跡の出力は捧げられた代償によってその力を増す、この場合は先生の代償が【彼】に勝っている事になるが――それはつまり、この戦いの果てに待っている結末を暗示していた。

 

 この一戦が終わった後、先生という存在がどの様な姿に成り果てるのか。

 

 それを予感し、先生は強く歯を噛み締める。軋んだ口元から血が滲み、涙と共に顎先を伝った。肺が焼ける様だ、骨が軋み古傷という古傷が酷く痛む、だがそれも徐々に、徐々に感じられなくなっていく。それは捧げられる代償の強大さに、生物としての本能が上げた最後の悲鳴だった。

 けれど――それを顧みる事はしない。

 

 今、此処で止めなくてはならない。

 この存在を――()を。

 是を非としても(どんな代償を支払う結果となっても)

 

 大人のカードを突きつけ、先生は叫ぶ。

 有りっ丈の覚悟と、意思を込めて。

 

「あなたは此処で――この場所で止めるッ! 止めなくてはならないッ! 私が、他ならぬ私自身がッ!」

 

 吹き抜けた青が生徒達と先生を包み込む。彼の周囲に幾つもの光が集い、その輝き、収斂した莫大な神秘は軈て人型を象り始めた。

 その数は、一人、二人、三人――いいや、まだだ。

 五人を超え、六人を、超え、七人を超え――まだ、光は灯る。

 十人、十一人、十二人。

 光は続々と数を増やす。先生の全力、己の持つ全てを費やしても構わないという覚悟の元に行われる全力顕現。その光が一つ、また一つと増える度に空間を軋ませるような力の波動が増していく。

 

 その果てに象られた光の数は、総勢二十四名――文字通り全てを費やした一斉顕現。

 

 先生の周りに出現した人型の神秘、その数にミカと銀狼は目を見開く。とても今の先生が耐えられる数ではない、それは殆ど確信であった。

 

「――此処(この場所)で、私の全てを使い切ってもッ!」

 

 先生の掌から光が弾ける。象られた人型の神秘が輝きを発する。切り札(カード)の使用が、確定されようとしている。

 

「ッ、駄目、先生ぇっ!」

「いけない、お願い、やめてッ……!」

 

 風音に紛れた二人の叫びが先生の鼓膜を揺する。背後から囁く様な、罪悪の声が聞こえて来た。また生徒達をおいていくのか、また一人で抱え込んで――消えていくのか、と。

 だが、直ぐ其処に、生徒とキヴォトスを救える選択肢が、ほんの手を伸ばせば届く距離にあるのだ。まだ見た事のない未来、自身が辿り着けなかった結末。

 最善は最早望むべくもない、だがこの擦れた命ひとつでこの苦難を退けられるのなら。

 その場所に――自分が居ないとしても、きっと。

 

「アロナ……ッ!」

『っ、ぅ、う――……!』

 

 先生の声に、アロナはその肩を跳ねさせた。先生の行使させようとしている力、その奇跡がどれ程の代償を必要とするのかを――彼女は良く理解している。これ程大規模な奇跡の行使、もしこのまま()に打ち勝てたとしても、その後先生は恐らくカードを切った代償として破滅を迎える。直ぐにという事にはならないだろう、それが数日後か、一週間後か、或いは一ヶ月後なのか、それは分からない。

 しかし、此処でカードを切ればその未来は確定されてしまう。先生の生命維持、その一切を任されているからこそ分かる事だった。

 

 先生の肉体は、既にカードの全力行使に耐える事が出来ない。

 その綻びは、必ず生まれる。

 

 アロナは恐怖と不安を滲ませ、先生を見上げた。其処にはただ真っ直ぐ此方を見下ろす、空色の瞳があった。瞳に一切の恐れはない、一切の絶望はない。

 ただ強い、余りにも強い意志があるだけだ。

 

『ッ、さいご、まで――!』

 

 歪んだ唇で、彼女は言葉を紡ぐ。涙が滲み、その終わりを理解しているからこそ彼女は涙を呑み、応えた。

 

『最期の、その瞬間まで……アロナが、先生をサポートしますッ!』

 

 声は確かに先生へと届いた。シッテムの箱から響くそれに、先生は薄らと笑みを浮かべる。そして再び前を見据えると小さく、囁く様な声で告げた。

 

 ――ありがとう。

 

 声には、万感の想いが籠っていた。

 

『……先生』

【―――】

 

 強烈な力の波動、先生の抜き放ったカードを前にA.R.O.N.Aは彼の名を呼ぶ。異形(先生)はただ静かに頷き、A.R.O.N.Aはそっと目を伏せる。

 そして再び目を見開いた時、そこに一切の色は存在しなかった。

 

 『先生』と【先生】――二人の持つ、シッテムの箱が青白い光を発する。

 

『データ解析完了、個別パターン承認、回路形成、先生から生徒へ、相互パス構築――完了! 情報転送開始しますッ!』

『データ解析完了、個別パターン承認、回路形成、生徒から先生へ、供給回路構築――完了、情報転送開始します』

 

 二人の手元が輝きを帯び、顕現した生徒達に青白い光が伸びる。それはシッテムの箱を利用したリンク、先生と生徒を繋げる青の軌跡、生徒達に行われる本気の戦闘支援。異形()より伸びたラインが(生徒)のヘイローへと繋がり、その動きが一瞬止まる。

 

 同時に先生の呼び出した生徒達、彼女達の輪郭が徐々にはっきりとし始める。出現したヘイローにノイズが走り、同時に空間そのものを圧し潰す様な重圧が醸し出されていた。

 対峙する(生徒)(生徒)、その背後に佇む二人の先生(異なる世界の大人)

 

「此処が、あなたの終着点だ……ッ!」

【―――】

 

 生徒の顕現(出現)が、終わりを告げようとしている。

 切り札の使用が確定される。

 手のひらに零れ落ちる光を握り締め、先生は天を指差し叫んだ。

 

「――色彩の嚮導者(プレナパテス)ッ!」

 

 その掲げた指先に、致命的な亀裂が生じる瞬間を銀狼は目撃した。

 

 

 

 

「――いいえ、先生、あなたはこの様な場所で斃れる(終わる)べき人ではない」

 

 


 

 先生が激やばクソピンチの時に颯爽と現れる先生大好きクラブ、一体、何服なんだ……?

 

 因みにちゃんと本来の展開通り、プレナパテスと共に世界を渡って来た生徒が一人います。A.R.O.N.A(プラナ)ちゃんの云う彼女とは、その生徒の事です。ただ、彼女は最終編まで登場はしませんわ、多分。

 プレ先の顕現生徒がスペックダウンしていたのは、本来『二十四名』という最大枠を無理矢理拡張して召喚してしまった為。プレ先がカードを使って『この世界の先生と逢いたい人~』って募集掛けたら、ほぼすべての生徒が殺到した為、無理矢理枠を増設した感じ。なので召喚された生徒は影のように黒ずんで、輪郭はあやふやで、存在がハッキリとしていない。スペックも神秘を用いない本来の肉体強度(ただしキヴォトス基準)、筋力そのままで銃器も無し。本来二十四人分しかない力を百名以上に分配したので仕方ないのですわ。尚、召喚された生徒の中にはモブ生徒ちゃんも混じっておりますわ。モブ生徒の中にだって先生を慕ってくれている子は沢山いる筈ですもの。

 最大召喚数が二十四人なのは、本来のゲーム編成部隊がストライカー四名、スペシャル二名で一部隊。それが四部隊まで編制できるから。

 最終編ではちゃんと文字通り全力全開の大人のカードをたった一人の生徒に集中させるので、文字通り超人が出来上がります。先生の愛は重いですわね。



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紡がれた一筋の希望

誤字脱字報告、ありがとうございますわ!
あと三十分遅れて申し訳ありませんわ!
物凄い今更ですが独自設定に御注意くださいませ! 


 

「――いいえ、先生、あなたはこの様な場所で斃れる(終わる)べき人ではない」

 

 ぶつかり合う青と黒、軋む空間に響く低い声。その主は異形――プレナパテスの真後ろに黒々しい歪と共に現れる。見慣れた黒いスーツ姿の彼は軽い音を立てて地面に立つと、白く罅割れた揺らめき越しに先生を見ていた。

 先生は本来この場所に現れる筈のない彼を視界に捉え、思わず驚愕に目を見開く。

 

「黒、服――ッ!?」

「ククッ、どうやら本当に間際であった様子ですね、どうか掲げたそれ(カード)は仕舞っておいて頂きたい……()の対処は我々にお任せを」

 

 先生の掲げたカードを見つめながら、黒服はくつくつと喉奥を鳴らす。そして徐に手を鳴らすと、それが合図であったかのように空間が歪み、プレナパテスを囲う様に黒く湾曲した歪が生まれる。そこから現れるマエストロ、デカルコマニーと額縁に収められたゴルコンダ。

 

「あいつらは……!」

「まさか――」

 

 ミカが呟き、銀狼は驚愕と共に黒服を見つめる。しかし、その瞳には警戒と疑念の色が濃く反映されていた。唐突な横やり、何故彼奴らが此処に――そんな強い疑りの感情が浮かび上がる。そんな彼女達を一瞥もする事無く、ゲマトリアの面々はプレナパテスに視線を向ける。

 

「よもや、こうも早く接触する事になろうとは……色彩の意志を代弁し、計画を遂行する実行者、色彩の嚮導者(プレナパテス)、初手で私達の領域に侵入されなかった事が功を奏しましたね、お陰様で用意が間に合いました――ゴルコンダ、マエストロ」

「えぇ――」

「ふむ――」

 

 黒服の言葉に頷きながら、ゲマトリア全員がプレナパテスに注意を払う。興味深そうに眺める彼らからは、各々の解釈が見て取れた。

 

「これが件の存在、何とも歪で、しかし確かな美しさを感じる、退廃的で不完全、内に秘めたる信念と決意、だが……ともあれ、このような形で相まみえるとは大変残念だ」

「異なる観念、多次元、色彩と同じ疎通しないそれらを解釈する事は叶いませんが、何とも興味深い、しかし今はまだ時ではありません――」

 

 総じて彼らが抱く感情は興味、畏怖、好奇心、しかし今はそれらを示す場ではない。ゴルコンダは手にした杖をゆっくりと持ち上げ、告げる。

 

「相応しき時まで、今しばし目を覆わせて頂きましょう」

 

 カツン、と。

 振り下ろした杖の先端が地面を叩いた。途端現れるのは赤黒い光、それらはゲマトリアを外縁の縁として、円形に広がりを見せる。光は一種の垂れ幕のようにも見えた、まるで外界と彼を隔てるようなベール、プレナパテスの真上に出現したそれは一帯に広がり、影諸共彼を拘束する。がくんと、プレナパテスの肉体が沈み込む。赤く染まった足元、影すら呑み込むそれにプレナパテスの鉄仮面が揺れ動いた。

 

『……空間内部に異常を探知、対抗手段を検索』

【―――】

「絶対的な力を持つ存在に対抗する為に用意した特別な一品です、あらゆる契約、誓約、制限さえこの聖遺物の前には無意味、ましてや先生――運命を捻じ曲げる、奇跡の体現者であるアナタにとって、これは天敵でしょう」

「そういうこった!」

 

 何やら対抗措置を施そうとする彼を前に、ゴルコンダと彼を抱えるデカルコマニーは再び杖を打ち鳴らす。すると空間が再度歪み、そこに一つの黒い箱(ブラックボックス)が出現した。漆黒に塗れたそれは傍から見ると奇妙な四角形にしか見えない。しかし、それが放つ気配は余りにも禍々しく、視界に収めた先生が息も絶え絶えに呟いた。

 

「ゴルコンダ、まさか、あなたは――」

「えぇ、御察しの通りですよ、先生」

 

 首のない紳士、黒い靄を纏った彼は先生の問い掛けに深く頷いて見せる。

 

「この聖遺物は、私の作品です」

 

 声には、僅かな誇らしさが含まれていた様に思う。或いは、それは単なる高揚感であったのか。指先で杖を回転させ、らしくも無く声を裏返らせる彼は続ける。

 

「尤も、もう一度同じ代物を創れと云われても二度と創造する事は叶わないでしょう――そういう【契約】ですから」

「………」

「我々に色彩への抵抗手段が無いと思っていましたか? いいえ、ベアトリーチェが動き始めた時より準備しておりましたとも、神秘は解析が出来ないからこそ神秘足り得ますが、あなたはそうではない、現存する矛盾を核として聖遺物に纏わせ記号とする、内包されるテクストの解釈には随分と手間取りました、しかしこれもまた『一つの世界』……奇跡を謳う救世主、それを守護する盾を穿つだけの効力はあります」

「そういうこった!」

「唯一残念に思う点があるとすれば――これを槍として生み出す事が出来なかった点でしょうか?」

 

 興奮した様に、高揚した声を隠す事無く続ける彼は額縁を抱えたまま、その杖で二度、三度床を打つ。顔の代わりに揺らめく靄はプレナパテスを捉え、彼はその手を広げ告げた。

 

「しかし、確信しております――これは今現在の私が残せる、最高傑作です」

【―――】

『……指示を確認、防壁展開』

 

 プレナパテスが虚空に浮かぶ黒い箱(ブラックボックス)を見上げ、A.R.O.N.Aに指示を送る。シッテムの箱を持ったプレナパテスを中心に青白い光が生まれ、彼の巨躯を覆う様に防壁が展開された。それはあらゆる悪意、害意、攻撃から身を守る絶対の盾。ミカや銀狼の全力射撃すら完全に遮断して見せたそれが、プレナパテスとゲマトリアを隔てる。

 

「ククッ、それは無謀ですよ」

『――!』

 

 しかし、それを見ても尚黒服の余裕が崩れる事は無かった。黒い箱(ブラックボックス)は黒服の合図と共に炸裂し、空間を呑み込む様な禍々しい渦を形成する。出現したソレはまるで防壁など意に介さずプレナパテスの身体を引き摺り込もうと蠢いていた。シッテムの箱よりA.R.O.N.Aが驚愕する気配が感じ取れる。

 

『対象より強いエネルギー反応、先生、回避を――』

【―――】

 

 咄嗟にA.R.O.N.Aが先生に向けて声を上げる。しかし、それに反応するよりも早く、黒々しく渦巻く闇より一筋の光が撃ち出された。それは今なお黒に引き摺り込まれようとしているプレナパテスに向けられ、身動き一つ許す事無くその肩に深々と突き刺さる。彼の身体が大きく揺らぎ、踏ん張りの効かなくなった身体は渦の中へと巻き込まれる。まるで猛獣に楔を打ち込み、檻へと引き摺り込む様に。

 

「先生にとって天敵となる聖遺物、それは即ち、同じ存在である貴方にも適用される、世界の原則(ルール)です」

『……状況分析、対象の無力化試行、失敗、接続状況維持、多次元解釈の適応、失敗、対象の発動阻止は現段階では不可能――()()からの指示、未達成』

 

 黒々しい渦に取り込まれたプレナパテスは、シッテムの箱を胸に抱いたまま徐々に掻き消えていく。軈て虚空に穿たれた黒点のように見えたそれは縮小し、最初から何もなかったかのように消失した。同時にプレナパテスの召喚した生徒達も薄れ、空の中に溶けて消える。その様子をミカや銀狼は呆然とした表情で見ているしかなかった。

 

「――き、えた?」

「……正に間一髪、という所でしたね」

 

 黒服が大きく息を吐き出し、自身のネクタイを僅かに緩める。数秒、強張った表情のまま硬直する先生。しかしプレナパテスの気配が微塵も感じられなくなった事を確かめ、掲げた腕をゆっくりと降ろす。指先に宿っていた光は静かにその力を失い、象られていた生徒達の輪郭が霧散した。途端地下回廊は暗闇に覆われ、青白い光は先生の中へと還る。

 その動作を目にしていた銀狼は、弾んだ息をそのままに黒服へと詰め寄った。

 

「お前……ッ!」

「おっと銀狼さん、お怒りは尤もですが現に阻止には成功しました、綱渡りであった事は認めますが、どうか穏便に」

 

 両手を軽く挙げながら告げる彼の態度は、常よりも友好的であったと思う。銀狼は彼の言葉に一瞬息を詰まらせ、僅かな苛立ちを滲ませたまま彼に問い掛ける。

 

「一体、何をした……?」

「以前お話したかは分かりませんが――色彩にとって、このキヴォトスは砂漠の中にある一粒の砂の様なもの、彼の者はその一粒を見つけ出し……いえ、正確に云うのであればマダムの策謀によって位置の特定を許しました」

「しかし、彼女が裏で動いていた様に、我々ゲマトリアも秘密裏に準備していたのです――色彩を一時的にではありますが、退ける為の代物を」

 

 黒服の言葉を継ぎ、頷いて見せるゴルコンダ。あの黒い箱(ブラックボックス)は先程彼自身が口にしたようにゴルコンダの作品である、正確に云えば黒服とマエストロの協力を得た上で何とか実用に漕ぎ付けた合作とも云える代物であったが、それでも聖遺物という一つの形を取れたのは彼の助力が大きい。

 

「とは云っても本来であれば完成はもっと後になる筈でした、これは一時凌ぎにすぎません、件の存在は何れこのキヴォトスを再び見つけ出すでしょう、一度見つかってしまった以上、凡その場所の見当は付いている筈です」

「えぇ、云わば砂漠の中から一粒の砂を見つける行為が、箱庭に詰められた砂場より一粒を見つける程度には容易くなってしまった――面倒である事に変わりはありませんが、不可能ではない」

「そう云うこった!」

 

 無限に等しい世界の中で、このキヴォトスを見つけ出す事は困難を極める。それこそ砂漠で一粒の砂を見つける事と同義と語られる程度には。だが内側より手引きする者が居ればその限りではない。本来であれば万全の準備を期して迎え撃つ予定であった【色彩】、それが予定よりもずっと早く到来してしまった。

 彼らの全力を以てしても可能だったのは精々が時間稼ぎ。今しがた件の存在――色彩の嚮導者(プレナパテス)はキヴォトスを追放され、外の世界へと送り届けられた。アレは決して攻撃的な聖遺物ではない、何せ本来であれば『あるべき者を、あるべき場所へ還す聖遺物』であった筈なのだ。故に未完成、故に不完全な代物。しかし、その模倣を為しただけでもゴルコンダにとっては途轍もない意味を持つ。

 ともあれ、再び彼がこの世界を見つけ出す前に、対策を講じる必要がある。マエストロは全身を軋ませ、腕を組みながら苦渋に満ちた声を漏らす。

 

「具体的な時刻は分かりかねるが、そう遠くない未来、あの者は再び到来するであろう……半年後か、或いは二、三ヶ月後か、流石に数週間、数日という事は無いだろうがな」

「それまでに我々も新たな対策を立てねばなりません、残念ながらこの手が使えるのは今回限り、何せ元々は色彩の力を手にしたマダムに対する手段として用いる予定でしたから、色彩そのものに対しては効力を持ちません――彼女を云々するだけならばもっと簡単に、それこそ分かり易い爆弾で処理する事も出来たのですが」

「一度きりの時間稼ぎ、という事です」

「そう云うこった!」

 

 勢い良く声を張るデカルコマニー、その声が周辺に響き渡る。

 ふと、黒服は自分達の言葉に耳を傾けていた先生の異変に気付いた。顔色が良くない、いや、それは元々であったが先程よりも見るからに悪化している。最早青を通り越して白く見える。そして黒服の観察眼が正しかった事を証明する様に、先生は唐突に膝を折った。

 

「ぐッ、ごふっ――」

「せ、先生っ!?」

 

 地面に膝を突き、吐血する先生。胃が裏返り、胃液と血が混じった吐しゃ物が足共に撒き散らされる。ミカが先生の名を呼び、慌てて肩を抱き寄せる。黒服は彼の状態を冷静に観察したまま、静かに声を漏らした。

 

「これは――」

 

 ――先程の召喚で、肉体にダメージが入ったか。

 

 先生の用いる大人のカード、それに必要な代償、それを黒服は正確に把握している訳ではない。召喚を途中で取りやめたとしても何らかの代価が発生するのか――いいや、それだけではない。恐らく彼の身体を蝕んだのは顕現した(生徒)に接触した部分だ。見れば先生の皮膚は彼方此方が黒ずみ、罅割れている様にも見える。それは自身の肌に近く、凡そ人間の発する色調ではない。辛うじて崩壊は始まっていない、これはその前段階と云った所。つまり余波程度のものだ。

 

「先生! 先生っ、確りして!」

「だ、いじょうぶ……」

 

 肩を抱き、必死に語りかけるミカに先生は辛うじて返事をする。引き攣った口元で笑みを浮かべようとするが上手くいかない。既に先生の肉体は動ける限界を超えている、それを騙し騙し酷使し、何度も無理を押して此処まで辿り着いた。

 だがもう絞り出す力、その欠片すら残っていない。震える指先、ぎこちなく動くそれで口元を拭い先生は呟く。

 

「少し、休めば――」

「かなり消耗しているでしょう、ご無理をなさらず」

「ッ……!」

 

 そんな先生の元へと歩み寄る黒服、ミカが殺気立ち鋭い視線を寄越す中、彼は堂々とした態度で先生の前に屈んだ。先生は深い隈の刻まれた瞳で黒服を捉えながら、ゆっくりと懐に手を差し込む。

 

「ぅ……」

「それは――」

 

 先生が取り出したのは一本の注射器、彼が最後に取っておいた強心剤である。先生は手に取ったそれを眺めると、震える手でキャップを外し、自身の首元に躊躇いなく打ち込んだ。空気抜けるような音と共に内容物が目減りし、震える先生の手から空になった注射器が零れ落ちる。軽い音を立てて転がったそれ、先生は苦悶の表情を浮かべながら荒い呼吸を繰り返す。

 強い効果は感じられなかった。比較的即効性の代物とは云え、即座に効果が発揮されないのは承知の上だ。しかし、そうだとしても足や腕に全く力が入らない。短い間隔で投与し過ぎたのか、先生は熱を持つ体とは反対に力の入らない肉体を見下ろし思考する。

 

「ッ、は、はっ、かは……ッ!」

「せ、先生……」

「少しばかり忠告をと、そう思ったのですが……貴方はもう其処まで」

 

 その時の黒服は、何と表現すれば良いか。痛ましいものを見るような、或いは強い懸念を示す様な表情をしていた。黒と白い罅割れた揺らめきに、そんなものがあるかどうかも分からないが、少なくとも先生はそう感じた。空になった注射器、それを拾い上げた黒服は指先でラベルをなぞりながら告げる。

 

「――良い機会です、先生、私は貴方に幾つか伺いたい事がある」

 

 それとなく空の注射器を胸ポケットに仕舞い込んだ彼は、続いて先生の指先に注視した。煤け、焼け焦げ、血を啜った穴の開いたハーフグローブ、そこから覗く黒ずんだ指先に彼は小さく嘆息する。

 既に件の代償は彼の身体を蝕んでいる、そう確信する。

 

「銀狼さんの語った未来の内容、これから先起こるであろうキヴォトス最大の事件――或いは、この世界では異なる道を辿るかもしれませんが」

 

 一度そこで言葉を切った黒服は、小さく、しかしハッキリとした声色で告げた。

 

「その本質は、先生――あなたの聖骸(死体)の争奪戦にある」

 

 その言葉に、ゆっくりと先生は俯いていた顔を上げた。深い隈の刻まれた表情、喪われた右目も相まって、今の先生の姿は死人のようにも見えた。必死に呼吸を整える先生を真っ直ぐ見据え、黒服は言葉を続ける。

 

「恐らく以前の世界に於いて先生、あなたは私達ゲマトリア、そしてセフィロト、クリフォトの排除に成功したのでしょう、いえ――或いは、連邦生徒会長の手によるものかもしれません、あなたは……生命を奪うという行為に対し、非常に強い忌避感を持っている」

「――……」

「ですが、連邦生徒会長はそうではなかった、キヴォトスという揺り篭を守るために、直接的な手段を取った可能性が高い」

 

 それが――世界の崩壊に繋がるなど、予想も出来なかった筈だ。

 

永遠の虹(虹の契約)――先生、あなたが求める物はそれだ、あなた自身を代価として捧げ、あなたはそれを為そうとしたのだ……失敗した、連邦生徒会長の代わりとして」

 

 黒服の白い揺らめき、炎に似たそれが先生を射貫く、視線には憂いの色があった。

 或いは、先生にその様な意図などなかったのかもしれない。結果的に彼の行いは大多数の者にとってそう映っただけで、彼自身は自分の役割を果たしただけだと、そう何の臆面もなく云い切るのかもしれない。だが結果的にその行動が実を結ぶ事はなかった。世界は彼が願う程、優しくはなかったのだ。

 それは銀狼やミカを見れば分かる。

 彼女達がこの場にこうして立っている、それが答えだ。

 

「キヴォトスの安寧、平穏の為に身を投げ捨てる、救世の器である、その魂すらも捧げて……何と無垢な在り方か、全く以て、私には真似出来そうにありません――あなたは最後まで、生徒(子ども)達に殉じたのだ」

「――それは、違う」

 

 黒服の言葉に、先生はハッキリと答えた。疲労と苦痛に塗れながら、しかし僅かな弱さも感じさせない口調であった。先生の揺れ動いていた視線が、ぴたりと黒服に定まる。弾む息を呑み込み、先生は口を開いた。

 生徒に殉じる。

 これはそんな重々しく、高尚なものなどでは決してない。少なくとも、先生()にとっては。

 

「私は、ただ信じている、だけなんだ」

「………」

「彼女達を――私の、生徒達(子ども達)を」

 

 持ちあがった瞳、其処に込められた強い光。自身を照らすそれに黒服は一瞬言葉を詰まらせる。

 疑念があった。強い、疑念が。

 

「……この質問の意図を、貴方は理解している筈です」

「……このエデン条約は、七つの嘆き、その【五番目】」

「えぇ、その通りです、少なくとも私はそう解釈致しました、本来であれば今しばし時間的猶予があった筈ですがベアトリーチェの介入によって予想図は大きく変化してしまった、そして恐らく――彼の存在(プレナパテス)が【六番目】となる」

 

 黒服は指先で自身の顔を撫でつけ、呟く。既に未来は未知数となった、つい先程到来した(プレナパテス)の存在が良い証拠だ。或いはこの解釈すら誤ったものである可能性がある。神秘は、神秘であるが故に解釈の余地が残る。

 世界もまた然り。

 

「七つの嘆き、その最後に当たる七番目、それこそが――」

「………」

 

 背後から感じる強い視線。その単語を出すなという強い意志(銀狼の双眸)、殺意すら籠ったそれに黒服は口を噤む。小さく俯いた彼は息を吐き出し、云った。

 

あなたの居ない(目に見える希望が喪われた)世界で、揺り籠の中に在る生徒達(子ども達)は苦難を乗り越えられるか否か、私はただ、それを――……」

「――乗り越えるとも」

 

 声は即座に返された。

 はっと、黒服が顔を上げれば視界に入る先生の表情。血の気の失せた顔で、疲労の刻まれた表情で、けれど先生は破顔していた。屈託のない、憂い一つ感じさせない笑みだった。其処には強い、混じりけの無い信頼があった。

 血の滲んだ唇を動かし、彼は断言する。

 

「私の、自慢の生徒達だ」

「……――」

 

 信念。

 自身が触れるのも烏滸がましいと感じてしまう程の、完成された精神。誰かを、何かを、僅かな疑念も抱かずに信じられる事の貴さ。それを前に黒服は自身の顔を静かに撫でつけ、力なく呟いた。

 

「聊か……私には眩し過ぎますね」

 

 彼らの関係か、或いはそう思えるほどの熱情か。頭で分かっていたとしても、こうも臆面もなく告げられてしまえば感嘆の息も漏れるというもの。それは黒服自身理解出来ない感情であった、しかし理解出来ない事と受け入れられない事は違う。苦笑とも、歓喜の笑みとも取れるそれを零した彼は静かに立ち上がる。

 

「一先ず、此処は退散するとしましょう――我々もアレに対抗する為の手段が必要だ」

「……そうだな、時間は余り残されていない、今からでも動くべきであろう」

「えぇ」

 

 マエストロの言葉に頷き、黒服は踵を返す。

 

「銀狼さん、一度戻りましょう、そろそろ彼女達が来る時間です」

「……あぁ」

 

 彼女達が誰を指すのか、銀狼は何となく察していた。先生と寄り添うミカに視線を向け、それから黒服の元へと足を進める。そしてそれとなく彼の肩に顔を寄せると、小さな声で呟いた。

 

「……悪かった」

「――?」

「あのままだと、きっと先生を守り切る事は出来なかったから、だから……助かった」

 

 視線を寄越さず、俯いたまま呟かれる言葉。それに黒服は少しだけ驚いた様に肩を震わせ、それからいつも通り不敵な笑みを零した。

 

「ククッ、私達としても先生とは良い関係を築いておきたいですからね――礼には及びません」

「……ふん」

 

 それが純然たる善意ではない事は理解している。利害が衝突しない限り彼らは良き隣人にも唾棄すべき悪人にもなる。今回はそれが、偶然良い方向へと働いただけだ。大いなる責任――あぁ、それを耳にしたのはいつの事だったか。しかし今の自分は、それを語る資格を持たない。銀狼は拳を強く握り締め、そう強く思う。

 

「聖園ミカ」

「……何」

「今の戦闘で分かった、私も、お前も――」

 

 ミカに水を向けた銀狼は、俯いたまま静かに唇を噛み締める。薄暗く、影に覆われた表情に浮かぶのは――屈辱と無念。

 

「まだ、弱い」

 

 声には底知れぬ、様々な想いが籠っていた様に思う。ミカはその言葉に応える事無く、ただ静かに顔を顰めた。それに反駁する術を、彼女もまた持っていなかったのだ。

 黒服は手を振り払い、先生へと向けて静かに頭を下げる。

 

「それでは、然るべき時にまたお会いしましょう――先生」

「また逢おう先生、次は私の全てを賭した、最高の作品と共に」

「どうかお気をつけて、この先は私達をしても全くの未知、危険は避けられぬでしょう」

「そういうこった!」

「……またね、先生」

 

 その言葉と共に、ゲマトリア一行の姿が暗闇に呑み込まれる。彼らの領域へと帰ったのだろう、黒点は即座に収縮し、黒が晴れた時そこには誰も残っていなかった。地下回廊に再び静寂が訪れる。

 

「ふぅー……」

「先生、身体は……?」

 

 彼らが去ると、先生は大きく息を吐き出した。安堵か、単に緊張が緩んだだけか、どちらにせよそれに近い感情だろう。ミカは先生の身体を抱き寄せたままそっと問いかける。先生は寄り添う彼女に顔を向けると、小さく微笑みながら頷いた。

 

「大丈夫、気分はそれなりに良くなったよ、ただ――」

 

 先生の視線が、投げ出された両足に落ちる。血と泥と、硝煙に塗れた制服、その中にある二本の足はピクリとも動かない。

 

「足は、駄目かな……」

「………」

 

 疲労か、無理が祟ったのか――両足の感覚がなかった。

 力を籠めると細かに震えるそれは立ち上がる事さえ出来ず、これは這って動く他ないかと先生は内心で苦笑した。そんな先生を見下ろすミカは分かり易く表情に影を落とし、先生の肩に顔を埋める。先生から血と汗の匂いに混じって、甘い匂いがした。

 

「……ミカ?」

「先生、私やっぱり……駄目な生徒だね」

 

 涙の滲んだ声で、ミカは言葉を絞り出す。

 

「先生を守るって決めて大見得を切ったのに、あんな……消耗していたからとか、弾が無かったからとか、そんなの云い訳にもならない、私が先生を守れなきゃ、そうじゃなきゃ、私は一体、何の為に――」

「そんな事は無いよ」

 

 深い後悔を露にするミカを前に、先生は彼女の手を取る。両足はどうにもならないが、腕を少し動かす程度は何とかなる。傷と砂利に塗れ、青痣に塗れたミカの掌。それを自身の指先で包み込み、先生は屈託なく笑う。

 

「少なくとも私は、まだ生きている、生きてミカと話しが出来る、こうやって触れる事も出来る、それは――とても大事な事なんだ」

「……先生」

 

 あの影を見たからこそ、言葉には重い響きが伴う。触れる事が出来る、言葉を交わす事が出来る、それがどれだけ嬉しい事かミカは良く理解している。内に秘めた彼女の記憶として、良く理解している。

 ミカは滲んだ涙を乱雑に拭って鼻を啜る。そうだ、今は泣いている時ではない。この場所だってまだ安全とは程遠いのだ、泣いて先生に縋るよりもやるべき事があった。ミカは地面に放っていた愛銃を掴み、先生を抱えて移動する事を決める。兎に角今は先生の安全を最優先、アリウス自治区の脱出する為にも気は抜けない。

 先生を背負って走る為にも、その旨を彼に伝えようとして。

 

「こっちに隠し階段が……!」

「よし、突撃――ッ!」

「わ、わぁーッ!」

「っ……!? 先生、頭を下げて――!」

 

 地下回廊に、大勢の足音と声が響く。ミカは咄嗟に先生を背に隠し、愛銃を構える。だが弾薬は残り少ない、最悪は先生を担いだまま遁走する事を覚悟し――しかし横合いの通路から地下回廊に雪崩れ込んで来たのは、ユスティナ聖徒会でもアリウス生徒でもなかった。

 

「っ、貴女達は……!」

「み、見つけました! 先生とミカ様ですッ!」

「い、居ました、居ましたよっ!」

「ナギサ様に報告をッ! 早く!」

 

 差し込む陽光に照らされる白色、その制服はトリニティ総合学園の生徒が身に纏うもの。そして頭部に被った白いベレー帽、両肩を包み込むトリニティの校章が煌めくケープはティーパーティー所属の証明である。先頭を駆けていた生徒は涙目で先生とミカを指差し、後方に続いていた茶髪の生徒が横合いの通路に向けて声を張る。

 ミカはそんな彼女達の様子に目を瞬かせ、唖然とした表情で呟いた。

 

「ティーパーティーの、親衛隊(ロイヤルガード)――?」

 

 ■

 

「隊長、一体どうしたのですか?」

「マダムと連絡が……取れない」

 

 アリウス自治区、中央街道にて。

 侵入した生徒達を捜索、及び排除する為に駆り出されていた分隊の一つ。自身を入れて総員六名、アリウス生徒を率いる隊長は先程から何ひとつ指示を寄越さなくなった端末を見つめながら呆然とした声色で呟いた。呟きは決して大きなものものではなかったが、周囲の生徒達の耳にも確りと届いた。

 時刻は既に明朝、本来であればマダムより儀式完遂の報告があってもおかしくない。寧ろ何の指示も降りてこない事自体が不自然。彼女の身に何かあったのだと考えるのが妥当であった。

 

「そんな、まさか」

「……嫌な予感がする、展開した防衛隊と連絡を取る、周囲を固めろ」

「……了解」

「此処から近い防衛隊の班は、何処があった?」

「はっ、確か隣接区に第七班が――」

 

 部隊を街道の壁際に移動させ、影に紛れながら端末を操作する。通信相手はアリウス自治区に広く展開した防衛隊の面々、比較的近距離に位置している筈の分隊、そのひとつ。ガスマスク越しに固唾を呑んで連絡を待つアリウス生徒達、その内のひとりがふと顔を上げ、周囲に視線を向け始めた。

 隣り合ったが生徒が忙しなく動く彼女の視線に気付き問いかける。

 

「おい、どうした」

「あ、あぁ、いや、その何か――妙な音が聞こえて」

「妙な音?」

「靴が石畳を叩いている様な……?」

「足音だと」

 

 全員がその一言に黙り込み耳を澄ませる。すると確かに、街道の奥から誰かが駆けて来るような足音が響いていた。十中八九味方の部隊だろう、しかし此方の通りに部隊が通るという連絡は来ていない。全員がそれとなく警戒を露にする中、薄らとあたりを覆う朝霧を裂き飛来したのは――銃声と弾丸であった。

 それは先頭に立っていたアリウス生徒の顔面に突き刺さり、ガスマスクに弾痕を刻む。大きく仰け反り、弾かれた顔面をそのままに崩れ落ちる仲間を視界に収めながら隊長は叫んだ。

 

「ッ、敵襲!? 馬鹿な、一体どこの――」

 

 奇襲、それもこんなアリウス自治区、中央区画の街道で。

 浮足立った彼女達の視界に、黒い制服を身に纏いながら朝霧を裂き駆けて来る幾つもの人影が映った。彼女達は深く被った黒いベレー帽を半ば浮かせながら、汗を滲ませ叫んだ。

 

「しゅ、出動!」

「突撃ですっ!」

「っ、トリニティ!?」

「正義実現委員会だと……!?」

 

 ■

 

「――此処が、アリウス自治区ですか」

 

 深く、息を吐き出しながら告げられる言葉。彼女は今しがた拳で打ち崩した壁を潜り、パラパラと落ちて来る粉塵と破片を払いながら静かに立ち上がった。彼女が辿り着いたのはカタコンベより到達出来るアリウス自治区外郭、地下回廊の一つ。薄暗く、不衛生で、強い黴と埃の匂いを感じられるそこには、防衛隊と呼ばれるアリウスの部隊がひとつ展開していた。

 巡廻中であった二名のアリウス生徒はたった今、凄まじい轟音と共に外壁を粉砕し内部へと侵入を果たした生徒を見て、思わず気圧される。ガスマスクの内側に冷汗を滲ませながら銃口を突きつけ数歩後退った。

 そんな様子を見つめながら微塵も怯まず、彼女――トリニティ総合学園、救護騎士団団長、蒼森ミネは足元に愛用のシールドを打ち付け告げた。

 彼女にとっては軽い、何て事のない動作であったが、シールドの下部がコンクリートにめり込んでいる。一体どれ程の膂力を秘めているのか、対峙する生徒の背筋がぶるりと震えた。

 

「セイア様の云う通り、確かに救護が必要な様ですね」

「なっ、何だお前は――!?」

「構わん、撃てッ!」

 

 その言葉を皮切りに、二人の構えた銃口が火を噴く。しかし、その弾丸がミネに届く事は無い。発砲と同時にミネは盾を構え、甲高い跳弾音と火花を撒き散らし、悉くがあらぬ方向へと弾かれる。そして一瞬の溜めを経て、驚異的な脚力で以てアリウス生徒の懐に潜り込んだミネは、恐れ戦き腰の引けた二人の顔面目掛けて構えていた盾を振り被った。

 

「救護ォッ!」

「ごぼぉッ!?」

 

 盾による殴打、或いはシールドバッシュ。突き出されたそれはコンクリート壁よりも固く、そして戦車の正面装甲すら拉げさせる一撃。そんなものを顔面に繰り出された二名は大きく吹き飛び、そのまま外壁へと叩きつけられる。凄まじい衝撃に抗う術もなく半ばまで埋まり、項垂れた両名のヘイローが点滅し、軈て消失した。意識を失ったのだ。それを見届けたミネは嘆息し、逆手に持った愛銃――救護の証明を振り払う。

 

「私をお許し下さい、個人的な感傷によって果たすべき義務を疎かにしました、彼女達もまた救護が必要な方々だと云うのに……セリナ、ハナエ、彼女達の治療を」

「は、はい、団長……」

 

 名を呼ばれた二名の生徒、セリナとハナエは今しがたミネの空けた外壁の大穴から顔を覗かせ、周囲に敵が居ない事を確認するとそそくさと壁にめり込んだアリウス生徒二名を回収する。ぐったりとした生徒を二人で抱え、運んでいく様は何とも物騒である。手際よく包帯を巻き、絆創膏を貼り付けていく彼女達を見守りながら、ミネは何処までも凛とした態度で告げた。

 

「それから二人共、これから私が生み出す負傷者も、速やかに救護し、治療する様お願いします」

「えっ」

「こ、これからって……?」

「――敵勢力発見! 既に外部経路より進入されています!」

 

 まるで今この瞬間に敵がやって来る事が分かっていたかのような口ぶり。そしてミネの言葉通り、回廊の曲がり角より戦闘音を聞きつけたのか、何名かのアリウス生徒達が銃口を構えながら現れた。慌てて自身の銃を手に取るセリナとハナエであったが、それよりも早くミネが二人の前に立ち塞がる。

 

「此処で止めるぞ――各員射撃開始!」

「セリナ、ハナエ、頭を低くして下さい!」

「わっ……!?」

 

 地下回廊に鳴り響く乾いた銃声。それらを一身に受け、盾で防ぐミネ。その背後で身を縮こまらせるセリナとハナエは、マズルフラッシュで浮き上がる団長の背を見つめながら思わず叫んだ。

 

「だ、団長……!」

「問題ありません――では、参ります!」

 

 弾を全て撃ち尽くした、ほんの僅かな隙。弾幕が薄くなったと見るや否や、ミネは盾を構え深く膝を屈めた。

 瞬間、彼女の足元が罅割れ、ズン――と重低音が鳴り響く。

 その両足に紫電が走り、ミネの双眸が鋭く前を見据える。そして十分な溜めを作った彼女は地面を踏み砕き、同時にコンクリート床が捲り上がり、ミネの身体は宙高く舞い上がった。

 

「っ、消え……!?」

「――戦場に」

 

 消えたと錯覚する程の跳躍。声に気付き、はっとした表情で頭上を見上げれば――自分達の真上に、盾を振り被ったミネの姿があった。

 

「救護の手をッ!」

 

 叫び、落下と共に振り下ろされる盾。ミネ団長用に特注されたソレは最早鈍器と云っても過言ではなく、インパクトの瞬間に地面を粉砕し巨大なクレーターを生み出す。凄まじい衝撃と爆音、噴煙が巻き起こり周囲に立っていたアリウス生徒達が軒並み空中へと打ち上げられる。衝撃波が彼女達の肉体を突き抜け、ガスマスクのレンズが罅割れる。そして再び地面へと打ち付けられた時、彼女達の意識は既に消失していた。

 地面に深く突き刺さった盾、それを力任せに引っこ抜き、瓦礫塗れになった周辺を見渡すミネ。全員が戦闘不能になった事を確かめた彼女は素早く身を翻し、セリナとハナエに視線を向ける。

 

「対象の沈黙を確認、治療を!」

「まさにミネ団長が壊して騎士団が治す、という私達のモットーですね! 久しぶりの救護騎士団、本領発揮です!」

「う、うぅ、そんなモットーはないのですが……」

「さぁ、迅速に動いて下さい! 信念と誇りを胸に! 適切に、必要な場所(ところ)に救護を!」

 

 倒れ伏したアリウス生徒に治療を施していく救護騎士団の姿を見つめながら、彼女は制服の裾を翻す。自身の信を置く盾を地面に突き刺し、前方へと銃口を突きつけた彼女は高らかに声を響かせた。

 

「――アリウス自治区を解放し、先生とミカ様を救出するのです!」

 


 

 先生の両足が無くなるのはまだ先なので、どうか安心して下さいまし。



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澄み切った青色()の下で

誤字脱字報告に感謝致しますわ!


 

「一帯の制圧は完了、周辺の捜索はどうですか?」

「ど、どうやら此処には居ないみたいです、報告も上がっていません……!」

「そうですか……」

 

 アリウス自治区、トレウ大聖堂周辺。

 捲り上がった石畳の床、その瓦礫に足を乗せながら周囲を満遍なく見渡すハスミは齎された報告に落胆の息を吐き出す。彼女の周りには正義実現委員会の生徒が忙しなく駆け回り、裏路地から瓦礫の下、廃墟の内部に至るまで隈なく捜索を行っていた。暫く周辺を捜索していた彼女達であったが、一向に上がって来ない発見報告にポケットから端末を取り出すと手早く通信を繋ぐ。三コールで繋がった端末を耳に当て、ハスミは声を発した。

 

「もしもし」

『はいはい、此方イチカっす、何かあったっすかハスミ先輩?』

「イチカ、此方の地区では先生を発見出来ませんでした、そちらの状況はどうですか?」

『あー、えっと、協力者からの情報提供で大まかな位置がつい先程割り出されまして……』

「っ、それは本当ですか!?」

『本当っす、それで、そのぅ、それを知ったツルギ先輩が大変な事に――』

「えっ、ツルギが……?」

 

 ■

 

「先生ぇえエエエエエッ!」

「ぐぼォッ!?」

 

 目の前で繰り広げられる暴力の嵐、振り上げたブラッド&ガンパウダーの銃身でアリウス生徒のガスマスクを殴りつけ、目を限界まで見開きながら先生の名を叫ぶツルギ(我らが委員長)。真面に殴打された生徒は地面に叩きつけられ、石畳にガスマスク型の凹みを量産している。イチカはハスミと繋がったままの端末を手に、恐る恐ると云った風にツルギへと声を掛けた。

 

「お、落ち着いて欲しいっす、ツルギ先輩、この周辺の建物は崩れ易いって報告が上がって……あっ、そっちは特に脆い廃屋――」

「キェエエエエエッ!」

「あっ、おわった」

 

 呟きと同時に、轟音が鳴り響く。イチカは思わず肩を竦め、端末を手で覆いながら顔を背けた。立ち塞がるアリウス生徒を掴み、暴走列車の如くツルギが廃屋へと突っ込んで行ったのだ。止める暇も無かった、叩きつけられたアリウス生徒が外壁を貫通し支柱にぶち当たる。折れ曲がったそれは廃屋を支えきる事が出来ず、そのまま建物全体が儚く崩れ落ちた。その光景を遠目に眺めながら、イチカは端末を再び耳に添え呟く。

 

「はぁ、まぁ一応敵の目は惹き付けられているんで役割は果たせているんでしょうけれど、ちょっと止められる気がしなくてですね……」

『ツルギの事は心配いりません、彼女とて分別はありますから、それで先生の元へは誰が――?』

「あぁ、それは――」

 

 ■

 

「ミカさん、先生、御無事でしたか……!」

「ナギちゃん……!?」

 

 驚愕するミカの前に現れたのはトリニティ総合学園、ティーパーティーのナギサその人。こんな場所に親衛隊が出張って来る事自体に驚いたが、彼女が居るならば納得である。各分派の首長を警備する彼女達は、常にティーパーティーの傍に侍っている傍付きなのだから。

 しかし、それはそれとして何故彼女がこんな場所に居るのか。現ホスト代理が敵地の奥深くに入り込む等、とても正気の沙汰ではない。自身を棚に上げ、ミカはそんな事を考えた。よたよたと覚束ない足取りで彼女へと近寄り、困惑の滲んだ声で問いかけるミカ。

 

「ど、どうしてナギちゃんが此処に居るの!? だって此処、アリウスの結構奥の方で――」

「えぇ、本当ならばアリウス自治区攻略作戦の指揮本部で陣頭指揮を執る予定でしたが、居ても立ってもいられず、私自ら突入部隊を率いる事にしました」

「え、えぇ……?」

 

 愛銃のロイヤルブレンドを手の中で遊ばせ、ふっと口元を緩ませるナギサ。その表情はどこか得意げであるが、ミカからすれば何でそうなるの? と云わんばかりの行動力である。何より表面では平静を装ってはいるが額に滲む汗と云い僅かに弾んだ息と云い、余程急いだのか楽な道中ではなかったらしい。何とも云えない、幼馴染の意外な一面に固まるミカを他所に、ナギサは先生へと視線を向ける。

 

「先生も御無事――には見えませんね、えっと、生きていらっしゃいますよね……?」

「ははは、うん、大丈夫……何とか生きているよ」

 

 澄まし顔で言葉を続けようとしたナギサだが、地面に座り込んで自分達を見上げる先生の格好と状態に、声は尻すぼみに消えていく。何となく血の気の引いた表情にも見える彼女に、先生は努めて何でもないかの様にひらひらと手を振って見せた。自身の外観を確かめる事は叶わないが、彼女がその様な反応を見せると云う事は余程酷い状態なのだろうと、先生は他人事のように思った。せめて顔位はちゃんとしようと、擦り切れた袖で口元や鼻先を拭うも、全く以て今更な話である。

 

「というか、ナギちゃんが此処に居るって事は、もしかして……」

「――何だ、随分と察しが良いじゃないか、ミカ」

 

 ミカの声に、並んだ親衛隊を掻き分け現れる小柄な影。地下回廊にその足音は妙に響いて聞こえ、特徴的な二つの耳がピクリと跳ねるのが見えた。

 

「所謂、野生の勘という奴かな?」

「せっ……!」

 

 現れたのはいつも通り、何処か人を食ったかのような表情を浮かべるセイア。ミカの肩がびくりと震え、その表情が強張るのが分かった。奇妙な恰好のまま固まった彼女はぎこちなく口元を動かし、セイアの名を呼ぶ。

 

「せ、セイア……ちゃん」

「全く、そんなボロボロになって、本当に愚かだね、常の様に衝動的に動き事を(あやま)つ――君の悪癖だよ」

 

 身体全体を強張らせるミカとは反対に、セイアはいつも通り何て事の無い様子で苦言を呈する。彼女の周りには救護騎士団と思わしき団員と、傍付き(親衛隊)の生徒がガッチリと固めている。軽い足取りで歩み寄る彼女に、先生は地面に座り込んだまま声を掛けた。

 

「こほッ、セイア、身体の方は……?」

「問題ないよ、少なくともこうして戦場に身を投じる程度にはね……それより」

 

 セイアの視線が先生に向けられる。その表情には強い不安と、しかしそれに勝る安堵が滲み出ていた。それは先生が確かに生きて、この場に存在する事への安堵であった。様々な未来を見て来たからこそ、彼の生存した未来にセイアは強い喜びと安心を覚える。セイアは先生の前に屈みこむと、その血と砂利と傷に塗れた頬に手を当て呟いた。

 

「先生、君の方が酷い顔色じゃないか、数時間前の私より今の先生の方がずっと重病人に見えるよ」

「……これは、一本取られたかな」

 

 苦笑を零し、肩を竦める先生。返す言葉が見当たらないとは正にこの事か。二人の放つ雰囲気に咳払いを挟んだナギサは、これ見よがし手を叩くと周囲に声を響かせる。別に、横合いでじっと先生とセイアを見つめているミカに配慮した訳ではない。

 

「誰か、先生とミカさんに手を!」

「は、はいッ!」

 

 ナギサの声に、その背後から慌てて飛び出す生徒達の影。幾人かの生徒が別れ、外套を手にしたパテル分派の生徒がミカに手にしたそれを羽織らせる。傷と破けた衣服が痛々しい彼女をこのまま連れて行く訳にはいかないという配慮だった。

 

「ミカ様、此方を――」

「あ、うん、ありがとう……」

「先生、どうぞ肩を、歩けますか?」

「助かるよ……っ」

 

 先生の傍には複数の生徒が集まり、先生の容態を確かめながら問いかける。肩を借りて何とか立ち上がろうとする先生だが、小刻みに震える膝には力が入らない。両脇から支えられ辛うじて直立する先生だったがとても歩けるような状態ではなかった。苦悶の表情で足を震わせる先生に、支えていた生徒は険しい表情を浮かべる。

 

「ごめん、足が動かなくてね……」

「歩くのは難しそうですね……確か、簡易担架があった筈だけれど」

「えっと、救護騎士団の子が持ち込んで――」

「今、組み上げます!」

 

 そう口にした途端、駆け寄って来た救護騎士団の団員が背負っていた背嚢を地面に降ろし、その中から四角いボックスの様なものを取り出す。中を開くと伸縮性のアルミ合金スティックが収納されており、伸ばしたそれに折り畳まれた塩化ビニールを通すと簡単な担架が出来上がった。地面に降ろしたそれに先生を乗せ、胸元と膝をテープで手早く固定していく救護騎士団の生徒。先生は彼女の手際の良さに感嘆の息を漏らしながら、感謝の言葉を呟く。

 

「ありがとう、手間を掛けるね……」

「い、いえっ! それと先生、忘れない内にこちらを――」

 

 彼女は先生の言葉に恐縮しながら、続けて背嚢から小さな何かを取り出す。それを担架の上に寝そべる先生の手にそっと握らせると、先生の懐に仕舞われたタブレットを見つめながら云った。

 

「これは――」

「シスターフッドのマリーさんから、先生は以前も充電用バッテリーを所望していたとの事で、今回も必要になるのではないかと……予備を含め大量に持って参りました」

 

 そう云って手にした背嚢を揺する生徒。中の小ポケットには今しがた手渡したバッテリーと同じものが幾つも詰まっている。そんな彼女の姿を見た先生は驚いた様に目を見開き、それからふっと口元を緩めた。

 

「ありがとう、とても――あぁ、とても助かったよ」

「い、いえ……! お礼でしたら、マリーさんに」

 

 手渡されたバッテリーとコードを繋ぎ、先生は胸元のタブレットへと片手で器用に繋げる。赤く点灯していたランプが緑へと変わり、残量が僅かずつ回復していくのが見えた。残りの電力は六%――これで少なくとも充電が底を突いて倒れる事はなくなった。その事に先生は深く、安堵の息を吐く。

 

「セイアちゃん……」

「……言葉を紡ぐには、聊か時間が足りないかもしれないね、だから起きた出来事を手短に話そう」

 

 担架に乗せられた先生を見て、ミカは僅かに緩んだ表情と共にセイアへと視線を向ける。何故自分達が此処に居るのか、今何が起きているのか、セイアはそれらを頭の中で整理しながらぽつぽつと言葉を零した。

 

「私は白昼夢の中で偶然、在る人と邂逅出来たんだ、多くの部分は割愛するが――私はその人物と、小さな取引を交わしたのだよ」

 

 ■

 

【アリウス自治区突入前】

 

 トリニティ総合学園、救護騎士団本棟、専用病室にて。

 並んだ白いベッド、その内の一つに眠るセイアの姿。彼女の傍には護衛兼付き添いとして常にサンクトゥス分派の行政官が侍っている。眠る彼女(セイア)の代わりに執務を代行する行政官は、セイアの寝顔を時折確認しながら小さな折り畳み式のデスクを持ち込みペンを動かしている。室内には微かな吐息の音と、彼女の状態を表すモニタの電子音、そしてペンが走る音だけが聞こえる。

 

「ぅ……」

「――?」

 

 ふと、行政官の耳に声が聞こえた。それは自身のものではない、そうなると声を発した者はただ一人。思わず椅子を蹴り飛ばし立ち上がってベッドに駆け寄れば、ずっと閉じられていたセイアの瞼がゆっくりと開くのが見えた。彼女(セイア)の乾いた唇が震え、小さく息を吸い込む。

 

「せ、セイア様!?」

「げほっ、コホ……ッ!」

「だ、誰か! 誰かっ! 救護騎士団を呼んで来て下さいっ! セイア様が……!」

 

 自身の首長が目覚めた事に取り乱し、彼女は傍に在ったコールボタンを押し込みながら、壁に備え付けられていた通話機に叫ぶ。しかし、そんな行政官の腕を掴む手があった。小さく、震えるそれはしかし、確かな力強さを伴って彼女の肌に食い込む。

 

「た、のむ……!」

「っ!?」

「今直ぐ、ナギサを……シスターフッドと、正義実現委員会を、此処に……!」

「えっ、ぁ……?」

「時間が、無いんだ――今直ぐ先生と、ミカの元に向かわなければ……!」

 

 乾いた喉、張り付いた声で懸命にそう訴えるセイア。それに気圧された行政官は、騒がしくなった扉の向こう側に視線を向け、それからセイアに再び向き直り、息を呑む。

 

「え、えっと、今シスターフッドと正義実現委員会は、ナギサ様と会合を――」

「っ……!」

 

 ■

 

「――これが現在の状況、ティーパーティーとしての要請の全てです」

「………」

「………」

「………」

 

 トリニティ自治区本校舎、ティーパーティーのテラスにて。

 深夜にも関わらず淡い光に照らされたその場所で、普段であれば滅多に顔を合わせない様な面々が顔を突き合わせていた。ティーパーティー、救護騎士団、シスターフッド、正義実現委員会――各々の組織を代表する首長、或いはそれに準ずる生徒。

 

 救護騎士団団長、蒼森ミネ。

 シスターフッド代表、歌住サクラコ。

 正義実現委員会副委員長、羽川ハスミ。

 ティーパーティーホスト代理、桐藤ナギサ。

 

 彼女達は神妙な顔で、或いはいつも通り毅然とした態度で佇み、一つのテーブルを囲んでいる。しかし周囲に流れる空気はお茶会と呼ぶには余りにも重々しく、そして時刻も適していない。本来であれば既に全員床に入っている時間帯だ。

 ナギサは手元のティーカップに口をつけ、小さく息を吐き出した後に三人を見渡す。全員の前に置かれた紅茶、しかし誰も手を付けていないそれ。最初は湯気を立ち昇らせていた水面も今ではすっかり冷え切っている。

 最初に口を開いたのは正義実現委員会より出向いたハスミであった。彼女は垂れていた髪を指先で掬い上げ、耳元に掛けながら淡々と告げる。

 

「正義実現委員会としては、ティーパーティーとして下された命である以上、拒否する事はありません――迅速に招集を行い、ミカ様と先生の救出作戦を決行します」

「えぇ、お願いします」

 

 ハスミの言葉に小さく頷くナギサ。元より正義実現委員会がこの指示を跳ね退けるとは考えていない。問題なのは残りの二派閥、ナギサの視線がミネとサクラコに向けられ、ミネは真正面からナギサを見返し、サクラコは指先を組んだまま目を伏せていた。

 

「救護騎士団とシスターフッドとしては、如何でしょうか」

「……そうですね」

 

 ナギサに水を向けられ、ゆっくりと口を開くサクラコ。その表情は変化がなく、感情や思考を読み取る事は難しい。自身の指先を見下ろしながら僅かな沈黙を守った後、彼女はナギサに向けて云った。

 

「思う所はありますが、先生の危機とあっては見過ごす事も出来ません、何よりも優先すべきは先生……シスターフッドとしても今回の作戦に協力し、最善を尽くしましょう――既に、その様に動いている生徒もいらっしゃる様ですから」

 

 告げ、サクラコは穏やかな笑みを浮かべる。彼女としてはあくまで優し気に微笑んだつもりであるが、対峙するナギサの視線は鋭く細められた。つまるところシスターフッドとしては、ティーパーティーの問題(ゴタゴタ)は兎も角、先生の安否は無視できない。その救出に当たるという事であれば手を貸す――そういう認識で問題ないだろう。

 協力を取り付けられたのならば、その理由は何でも良い。そんな思惑と共にナギサが最後に残ったミネへと目を動かすと、彼女はいつも通り泰然とした態度で頷く。

 

「救護騎士団としてミカ様の問題は承知しました、しかし一体何があったのですか? こうも性急に動かれるとは――失礼ですが、聊か先走っている様にも思えます」

「………」

 

 ミネの言葉にナギサは声を詰まらせる。彼女(ミネ)からすれば確かにそうだろう、騎士団に復帰したと思えば突然の招集、ヨハネ分派の首長としても奔走していた彼女にとって寝耳に水であった事は想像に難くない。一応ナギサから一通りの説明を聞いた後ではあるが、それは現状に至る理由の説明ではなく、現トリニティの状況とアリウスの現状、そして其処に突入していったというミカと、何故か現地に居るという先生についてだ。

 簡潔に云えば、ティーパーティー――ナギサからの要請というのは先生を含めたミカの救出、及びアリウス自治区の制圧協力要請である。トリニティの各分派、各組織の総力を終結させカタコンベを攻略し、アリウス自治区へと侵攻する。表向きはエデン条約調印式襲撃、及びパテル分派首長を教唆しクーデターを発生させようとした事に対する報復。聖園ミカは勇敢にもその先陣を切り、単独でアリウス自治区に乗り込んだ――という事になっている。

 そう、全ては表向きだ。これは全く事実とは異なる、しかし目に見えた分かり易い加害者に対し、報復と義憤により先走った戦乙女というのは中々にヒロイックである事は確かであった。事情を知らない大多数の生徒を納得させる方便としては実に便利な文言だ。何より学内に於ける『あのパテル分派の首長ならば、或いは』という色があるのも大きい。聖園ミカの持つ規格外の武力は多くの生徒が知る所であり、彼女単独であってもアリウス相手に大きなダメージを与える事が出来るだろうと云う歪な信頼がある。

 

 だが、当然の事ながら彼女単独でアリウス自治区制圧は難しい。だからこその救助、制圧協力要請。ナギサは自身の権限の及ぶ範囲で生徒を動員し、ティーパーティー麾下に存在しない各派閥には、こうして直接顔を合わせて協力を要請している。

 しかし、この所求心力の低下が著しいティーパーティーが一夜で強引な動員を為すとなると、只ですら弱まっている権勢に影響が出かねないという懸念もあった。この場合は聖園ミカの暴走に合わせ学園そのものを動かす事になるナギサ、彼女にこそ矛先は向く筈。サクラコはその後に変化するであろう政治的バランスを考慮し、穏やかな口調で以てナギサに問い掛ける。

 

「ミネ団長に同調する訳ではありませんが、今回の動員についてはシスターフッドから見てもかなり強引な動きであるように感じました、学園に襲撃があった時分ならば兎も角、事前通達もなく一夜でサンクトゥス、フィリウス、パテルの三派をナギサ様の一存で動員する以上、議会からの大きな反発と顰蹙が予想されるでしょう――最悪、何かしらのペナルティが課されても可笑しくありません」

「……構いません、トリニティの戦力を総動員出来るのであれば、どの様な沙汰であれ受け入れます、それこそティーパーティーを追放される様な事になったとしても、後悔はありません」

「――それは」

 

 返答は素早く、ナギサの声には断固たる意志が秘められている様に思う。思わずサクラコが言葉を呑み、たじろぐ程の気配だった。サクラコの瞳を真っ直ぐ見返すナギサ、其処に嘘偽りの言葉はない。暫しテラスに重苦しい沈黙が降り、全員が口を噤む。

 

「――そんな事には、させないよ」

 

 そんな状況で、全く予想していなかった人物の声が響いた。四名が声の上がった方向へと顔を向ければ、そこにはテラスの扉を押し開き顔を覗かせる小柄な人影――セイアの姿。よれた制服に所々跳ねた髪、それを整える事無くこの場に現れた彼女に、四人は驚愕を露にした。

 

「っ、セイアさん……ッ!?」

「セイア様……?」

「お目覚めになられたのですか?」

「あぁ、つい先ほどね……私の体調は後回しで良い、それより、ミカの件についてだ」

 

 各々が反応を見せる中、ミネだけは僅かな疑念を浮かべながらも冷静に対応する。セイアは彼女の言葉に頷きながら、覚束ない足取りでティーテーブルへと歩み寄った。見れば開かれた扉の向こう側に、不安げな表情で佇む生徒の姿がある。確かセイアの傍付きを担当していた生徒だ、恐らく彼女の助けを借りてこの場まで歩いて来たのだろう。

 原則としてこの場所には、その資格か許可を持つ生徒以外立ち入る事は出来ない。セイアが此処から先はひとりで良いと云い含めたか。何とも、彼女らしい行いであると内心で零す。

 セイアはティーテーブルに手を突くと、その額に冷汗を滲ませながら強い口調で断じた。

 

「そもそもこの一件には、私に責任がある」

「それは、どういう――」

「私が、伝え方を間違えた……いや、もっと根本的な話だ、私は、彼女を傷付けたんだ」

 

 彼女と云うのが誰を指すのかは明白であった。セイアは大きく息を吸って呼吸を整えると、ナギサに視線を向けながら苦々しくも言葉を続ける。

 

「サンクトゥス分派の面々に関しては私が責任を持って協力を取り付ける、現在起こっているパテル分派との衝突も、私が実際に誤解を解いて回ろう、予言の内容についても公言して貰って構わない、ナギサの事だ、ミカの――パテル分派を云い包める文言は用意してあるのだろう?」

「それは……はい、既に手配してあります」

「ならば、それに私の名前も追加しておいてくれ、そうすれば僅かだが議会の印象は良くなる、首長二名の連名であれば、悪い様には取られない筈だ、少なくともナギサ個人の暴走とは取られない、これはティーパーティーの総意だと伝えるんだ」

「セイアさん……」

 

 アリウスに乗り込んでいる以上、ミカの意志を推察するのは容易い。パテル分派を焚きつける事は然程難しくない。そしてフィリウス分派、サンクトゥス分派の首長が合意した以上、各分派を動員する決定はナギサの一存ではなくなる。ティーパーティーの求心力低下は避けられない事かもしれないが、少なくともナギサ個人が顰蹙を買うという事は避けられる筈だった。

 パテルとサンクトゥスの衝突も、病床にあったセイアが実際に顔を見せればある程度沈静化するだろう。そうすれば現在其方に割いている正義実現委員会の戦力もアリウスに回す事が出来る。

 

「ナギサから既に要請されているだろうけれど、私からも頼む――先生を、ミカを、救って欲しい」

「………」

「――お願いします」

 

 セイアが焦燥を滲ませた表情で頭を下げ、ナギサもまたそれに続き深々と頭を下げる。それを見ていた三名はそれぞれ異なる反応を見せる。ハスミは自身よりも立場の高いものに頭を下げられる事に対して何処か居心地が悪そうに身を捩り、サクラコはいつも通り何事かを考え込んでいる。やはりと云うか、最初に動いたのはミネ団長であった。彼女は手元にあったティーカップをじっと眺めると、徐にそれを手に取って一息で飲み干したのだ。

 

「……ミネ団長?」

「ふぅ――頭を上げてください、ナギサ様、セイア様、あなた方が私達に頭を下げる様な事はなさらずに」

 

 そっとカップをソーサーに戻した彼女は、小さく息を吐き出し力強い視線をセイアとナギサへと向ける。

 

「セイア様、仔細を伺う事は?」

「……語れば、長くなる」

「――分かりました、であれば直ぐに行動致しましょう」

 

 彼女がどの様な予知を得たのか、或いは何を知ったのか、どうしてこのような事態に陥ったのか。それらを伺いたい感情はある、しかし今は何よりも時間が惜しい。そんな思いと共に立ち上がった彼女は横合いに立て掛けていた盾を手に取り、告げる。

 

「ハスミさん」

「……えぇ」

 

 そんなミネの行動を見ていたサクラコとハスミは、各々含みのある表情を浮かべた後、手元にあったティーカップを呷る。そして同じように席を立ちあがると、脇に退かしていた愛銃を手に取って言葉を紡いだ。

 

「トリニティには先生を慕う生徒が多く在籍しています、声を掛ければ彼女達もきっと協力してくれる筈です、正義実現委員会の連絡網を用いて協力を仰いでみます」

「……その場合、学外の生徒に対して協力の要請は?」

「可能であれば事をこれ以上大きくしたくはありませんが――万が一を考えれば、使える手は全て使うべきかもしれません」

「分かりました、であればあくまで『個人的に動ける生徒』のみに限定致しましょう、学園を巻き込まなければ事後処理も簡単に済みます」

 

 ティーパーティー、正義実現委員会、救護騎士団、シスターフッド、それぞれが持つ力を結集させ動き出す。ナギサもまた彼女達に倣って立ち上がり、セイアの手を取った。未だ顔色の優れない彼女であるが、ナギサの意図を汲み取った彼女は小さく頷いて見せる。

 

「急ぎましょう――時間は待ってくれません」

 

 ■

 

『――此処一帯の書籍には、探している情報はありませんでしたね』

 

 古書館本棟――壁一面に並ぶ古書と強い紙とインクの香り、それらを感じながら目と手を動かす三名の生徒。その中には駆動音を響かせ移動するドローンが一つ。球体に二本のアームの付いたそれはレンズを忙しなく動かし、ふよふよと本棚から本棚を移動する。そんな浮遊するドローンを恨めしそうに見つめながら隈の浮かんだ表情で彼女、ウイは執務机に張り付き歯噛みした。

 

「う、うぅ……全く、一体いま何時だと思って――」

「うふふっ、皆さん眠りについている時間ですね、ウイさん」

 

 彼女の悪態に邪気のない笑みを浮かべながらそう返すハナコ。

 彼女は現在重ねた古書を丁寧にデスクに並べ、一つ一つを素早く捲っては内容を確認している。その速度は最早読むと云うよりは適当に頁を捲っている様にしか見えず、しかし目を通した古書に関して質問すれば、内容を完璧に(そら)んずる事が出来るという、ドローンを介して情報を収集しているヒマリからしても驚異的と思える才を彼女は遺憾なく発揮していた。

 既にハナコが目を通した古書は百冊を超える。古書館の主であるウイに事情を説明し、協力を取り付けたハナコはそれらしい題名、関連性のありそうな古書をヒマリに探し出して貰い、内容を精査するという事を何度も繰り返していた。

 ヒマリはドローンのアームを使って新しい古書をデスクに届けながら、スピーカー越しに問い掛ける。

 

『ハナコさん、そちらの書籍はどうでしたか?』

「残念ながら有力な記載はありませんでした、聖徒会に関しての細々とした文章は幾つか散見されたのですが、曖昧な点も多く――あぁ、ウイさん、あちらの棚の閲覧許可も頂けますか?」

「え? あぁ、はい、もう汚したり傷付けなければ好きにして下さい……というか、あの、今更ですけれど」

「はい?」

「――何で、水着なんですか」

 

 ウイは執務机の上から、何とも云えない表情で問いかける。そう、何を隠そうハナコの恰好はトリニティ指定の水着姿。当たり前だが体にフィットしたそれは彼女の豊満な肉体をこれ以上ない程に強調し、夏の終わり、それも深夜という点も相まって非常にミスマッチ感が強い。ハナコはそんな彼女の疑問に対し、「あらあら♡」と云わんばかりに頬に手を当て、何でもない事のように答える。

 

「私も急に散歩……いえ、水泳の最中に異変に気付きまして、着替える暇も惜しんで此方に足を運んだ結果、こういう格好になってしまったんです」

「水泳……こんな、夜中に?」

「はい♡」

「……そうですか」

 

 ウイはそれ以上追及する事を止めた。何となく突っ込んだ所で何も得られるものはないと悟ったのだ。因みにヒマリに関しては身近に露出――いや、彼女の場合は少々特殊だが、似た格好の後輩が居る為最初から特に気にしていない。黙々と新しく閲覧許可の出た本棚に移動し、上から順に本をスキャンしていく。

 

『全く、データベースとして情報検索できない事がこんなに手間だとは思いませんでした、ミレニアムでは大抵こういったものは電子媒体として記録・保管されているものですから』

「元よりトリニティに関する古い情報ですからね、伝承や歴史、古文書の類となると電子化も難しいですし、何よりセキュリティ面で見ればこういったアナログな方法が最善である場合もあります」

『正しく今の状況がそうですね、しかし分類としてはかなり絞られた筈です……そろそろ何かしら発見があっても可笑しくはないと思いますが』

「えぇ、そうですね、丁度この書籍にも近しい表現が――ッ、あった、ありました! これです! 古代聖徒会が残したカタコンベの地図!」

『っ、本当ですか!』

 

 ハナコが椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、手にした古書を掲げる。ヒマリのドローンが素早く彼女の元へと飛翔し、その手元を覗き込んだ。ウイはハナコの立ち上がった際に鳴り響いた音に肩を震わせ、ついつい体を起こして彼女の方向へと視線を向ける。ハナコはズンズンとウイの座る執務机に歩み寄ると、頁の内容を指先で確認しながら告げる。

 

『――確かに、これは私の持っているカタコンベ、その地形データとも一致します』

「えっと、こ、このページですか……? 大分痛んでしまって変色が酷いけれど――」

「えぇ、ですからずっと起きて頂いていたんです――古書館の魔術師と呼ばれる古関ウイさん、あなたに」

「うぇっ?」

 

 唐突に水を向けられ、目を見開くウイ。ハナコは手にした古書を彼女へと差し出すと、その変色した頁を広げながら満面の笑みを浮かべ云った。

 

「あなたなら、この地図を復元できますよね? 時間が、無いんです」

『超天才清楚系病弱美少女ハッカーである私にも、流石に古書の復元は難しく――頑張れば出来ない事もないかもしれませんが、今は何よりも時間が大事ですから、餅は餅屋、というものでしょう? この地図が復元できれば、私の収集したデータを元にかなり正確なルートが割り出せる筈です』

「ぇ、ぁ、ぅ……」

「という事で、今からこれの復元を、なるべく迅速にお願い出来ますか古関先輩? 私も、力一杯お手伝いしますから♡」

 

 妙な迫力と共に詰め寄り、そう告げるハナコ。その圧に逆らう事が出来ず、ウイは涙目になりながら突き出されたそれを受け取った。

 

「う、うぅ……どうして私がこんな目に――」

 

 ■

 

「――これが、私の知っているカタコンベの変化パターン、その全てだ」

「大変助かりました、ありがとうございます、アズサ」

 

 シスターフッド――大聖堂、客室。

 テーブルを挟んで互いに長椅子に腰掛ける二人、サクラコとアズサ。彼女達の間には何枚もの用紙が並べられており、その殆どに複雑な通路の地図が手書きで記されていた。それら全てはカタコンベの通路を表したものであり、全体から見れば僅かな数ではあるがアズサの知る地形変化、その全てが記されていた。

 つい最近になって漸く握り慣れたペンをテーブルに置き、アズサはサクラコを上目遣いに伺いながらおずおずと問いかける。

 

「えっと、本当に私が行かなくて大丈夫なのか? 現地についても、私の方が土地勘はあるし、それに――」

「いいえ、あなたは此処で先生の帰還を待っていて下さい」

「………」

「この任務で補習授業部――特にあなたの手を借りてしまえば、私達の矜持や体裁が崩れてしまいますから」

「む、ぅ……」

 

 矜持、体裁。

 トリニティが自身の母校となってまだ日が浅いアズサ、そんな彼女であってもこの学園のパワーバランスや政治的な配慮、或いは各派閥の特色等は理解している。最初は単なる知識としてであったが、実際に身を置く様になってからは肌そのもので感じる機会も多くなった。特にシスターフッドとアリウスの関係は表と裏併せて、中々に一言では云い表せない複雑さを孕んでいる。

 

「ハナコさんのお手も余り煩わせたくはなかったのですが、あの人は少々、聡すぎるきらいがあります、私が何も云わずとも既に手を回していらっしゃいましたから――だからこそ、此処から先は私達で解決させて下さい」

「……そう」

 

 真っ直ぐ此方を見つめ、そう告げるサクラコにアズサはそれ以上何かを口にする事が出来なかった。デスクに並べられた用紙を回収し、丁寧に纏める彼女を視線で追いながら、アズサは唇をまごつかせる。

 

「えっと、その――サクラコ」

「あら、まだ何か?」

 

 何処か落ち着かない様子のアズサを見て、サクラコは穏やかに問いかける。アズサは暫く逡巡する様に口を開いては閉じ、そんな事を繰り返した後、漸くぽつぽつと言葉を漏らした。

 

「その、出来れば……出来ればで、良いのだけれど」

「はい」

「アツコを――スクワッド()を助けてあげて、欲しい」

 

 それは、彼女をして非常に難しい事だと理解している。事実それを口にした途端、サクラコの視線に僅かな刺々しさが生まれたのが分かった。しかし、それは決して自身に向けられたものではない。アリウスに、延いてはスクワッドに向けられた感情だった。

 

「アズサ、勘違いしてはいけません、私達はあくまで先生を助けに行くのです」

「うん、それは分かっている、でもどうせなら他の皆も無事に助けられる道があったら良いなって、私は……そんな風に思うんだ」

「……彼女達は、あなたに銃を向けたと云うのに」

 

 サクラコの呟きに、アズサは苦笑を零す。

 

「うん、サクラコの言葉は正しい、数え切れない程、取り返しのつかない事をした、それは分かっている……分かっているんだ」

 

 頷き、アズサは自身の手を包みながら俯く。それは幼少期から続く自分達の罪悪、犯した罪は消えないし、許される事は無いのかもしれない。アリウス・スクワッドはトリニティにとって許し難い存在だろう、それをアズサは否定するつもりなどない。

 けれど、大多数の生徒にとって彼女達が憎悪の対象であったとしても。

 彼女――白洲アズサにとっては。

 

「でも――間違いなくあの場所(アリウス)私達(スクワッド)は、大切な家族だったんだ」

 


 

 もう少しで今章も終わりですわね。

 あと二話、三話位でしょうか……長かった、唯々長かった。

 エデン条約前編から続いた全部が漸く終わると思うと奇妙な気持ちになりますの。

 スクワッドの結末、ミカの決断、受け継がれた遺志、再び紡がれた友情と親愛、同時に出現した新たな大敵と運命、最終編へと続くエデン条約後編もそろそろエピローグに入りますわ。



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弱くとも輝く、未来の象徴(私の正義)

誤字脱字報告ありがとうございますわ~!


 

「あ~、もうッ! 何で繋がらないのよ!?」

 

 ミレニアム自治区、セミナー執務室。

 一向に繋がる気配のない端末をデスクに放り、ユウカは自身の髪を掻き乱しながら声を荒げる。その表情には焦燥と不安が滲み、普段予算について設問する表情より三割増しの威圧感を醸し出しながら彼女は地団太を踏んだ。ユウカの背後、執務室へと通じる扉がスライドし向こう側から端末と手帳を手にしたノアが顔を出す。ノアは荒れ切った友人の背中を見つめながら苦笑を零し、穏やかな口調で問いかけた。

 

「ユウカちゃん、其方はどうですか?」

「全然ッ駄目! トリニティの部活動総括本部に聞いても現在ティーパーティーには繋げないの一点張りだし、先生については知らぬ存ぜぬ、現在調査中としか云わないし……!」

「う~ん、困りましたねぇ、保安部の方も今は手が空いていませんし……」

「それよりノア、エンジニア部の方はどうだったの?」

 

 ユウカが振り向き勢い良くそう問いかければ、ノアは自身の手元にあるタブレットを指先でなぞりながら答える。

 

「先生の義手から発信された救難信号の範囲は大分絞り込めたみたいです、ヴェリタスにも協力を要請していますし、恐らく最終発信位置はトリニティ自治区で間違いないかと……」

「これが先生の最終位置情報?」

「はい」

 

 タブレットを覗き込んだユウカは目を三角にして問い掛け、ノアはゆっくりと頷く。画面にはトリニティ自治区の一部に赤いサークルが表示されており、恐らくこのエリアから発信されたのだと分かる。しかし、残念ながらユウカをしてその場所に辿り着く為の具体的なルートは不明だった。発信場所は地下であり、その地下空間に辿り着く為の出入り口が見当たらなかったのだ。ミレニアムの事ならば兎も角他所の自治区、それも中央区画以外の僻地に関しての地形情報などユウカは把握していない。思わず歯噛みし、頭を抱える。

 

「トリニティはトリニティでも、何処なのよ此処ぉ……」

「トリニティ自治区自体が広いですし、どうも地形が複雑で――幾つかそれらしい入り口は発見されましたが、確証はありませんし、うーん」

「こうなったらもう、この位置情報の場所に直接航空機で乗り込んで片っ端から……!」

「流石にそれは、学園間の問題にも発展しかねませんよ?」

「うぐぅ……っ!」

 

 ユウカの発言に対し、ノアはあくまで冷静に言葉を返す。全く以て正論である。先生の危機である以上、ある程度の武装は必須であるし、そんな状態で許可も得ずにトリニティへと乗り込めば面倒事になるのは目に見えている。ユウカは暫くの間デスクに顔を埋めて呻くと、勢い良く立ち上がって叫んだ。

 

「ま、まずトリニティに直接出向いて説明を求めましょう! それで理解を得られなかったら、何とか捜索の許可だけでも取り付けて後は全員で捜索……! ノア、悪いけれどもう一度エンジニア部に行って航空機を借りて来て、出来るだけ速い奴!」

「あら……そういう事なら、分かりました」

「急ぎでね! 後は出来るだけ人員とドローンを集めて、それから――」

 

 ■

 

「マコト議長」

「キキッ……! 何か情報が入ったか?」

 

 ゲヘナ自治区、万魔殿(パンデモニウム・ソサエティー)議事堂、執務室。

 深夜だと云うのに未だ明かりの灯るその場所に、音も立てずに入室する人影が一つ。現れた生徒に対し椅子に背を預け足を投げ出していた部屋の主――マコトが不遜に応じる。黒い外套に赤いネクタイを身に纏う生徒は彼女の問い掛けに対し、淡々と頷いて見せた。

 

「はい、カタコンベ周辺と中央区画郊外に張り込んでいた生徒より、トリニティが動き出したとの報告がありました、アリウス自治区攻略作戦が近く開始される様子です」

そんな事(トリニティ)はどうでも良い、アリウス幹部……特にスクワッドはどうなった? 捕縛される様子はあるか?」

「いえ、スクワッドに関しては未だ目撃情報もなく、諜報員の配置された各カタコンベ出入口より脱出したという報告は上がっておりません、トリニティにもそれらしい様子は」

「――となると、このマコト様ですら把握していない緊急避難通路の類があるのか、或いは」

 

 呟き、顎先をそっと撫でつける。彼女の脳内では幾つかの可能性が浮かび上がっては消えていく。

 

「……捕まったなら既に情報が出ていても可笑しくない、そうなるとアリウス内部で逃げ回っている最中か? もしそうなら――キヒャヒャッ! 活きが良くて結構な事ではないか!」

「情報収集と確保の為、カタコンベ内部に諜報員を動かしますか?」

「いいや、このままで良い、カタコンベに関する情報は収集出来なかったからなぁ……唯一分かった事と云えば、あの場所は開拓も碌に出来ていない広大な迷路だという事だ、そんな場所に地形データも持たずに突入させる真似は出来ん、只ですら動かせる人員は少ないんだ、引き続き現地に待機と伝えろ、動きがあったら都度万魔殿情報部に送れ」

「はっ!」

「はぁ……疲れた、マコト先輩面倒事がまた増えて――」

 

 背筋を正し、威勢の良い返答を寄越す万魔殿の生徒。そんな彼女の背後からぬるりと現れるイロハ。胸に何枚かの書類を抱いて入室した彼女は、いつも通り不遜なマコトと彼女の前に立つ生徒を見て顔を顰める。

 

「……何ですか、また面倒くさい事を企んでいます?」

「キキッ、心外だぞイロハ、このマコト様は常日頃から真摯に職務と向き合っているとも――さぁ動け、朗報を期待している」

 

 悪辣な笑みを浮かべ手を払うマコト、それに対して一礼した生徒はきびきびと退出する。イロハは去っていく彼女の背中を見送りながら溜息を零した。あの顔には見覚えがあった、確か万魔殿の諜報部――どう考えても良い予感はしない。イロハはマコトの執務机の前に立ち問いかける。

 

「それで、次は何を企んでいるんですか? 出来れば早めに説明して下さいね、いの一番にイブキと逃げないといけないので」

「キキキッ! なぁに、単なる火消しの様なものだ! アリウスとこのマコト様がコンタクトを取っていた事を知られては不都合だからなぁ!」

「……あぁ、そういう事ですか」

 

 火消し、という言葉の意味を理解したイロハは呆れとも感心とも取れる声を発する。この目の前の生徒の嗅覚というか、何と云うか、自身が罪に問われないように立ち回る手腕と悪運だけは認めざるを得ない。そう云った点は見習うべきかもしれないと思う反面、何分手間暇かけて何かを行うという事に対して自分は致命的に向いていないという自覚がある為、それを表に出す事はしない。そもそも、目の前の彼女は尊敬だとか、敬意だとか、そう云った言葉とは対極の位置に存在する生徒であった。

 

「目標はスクワッドですか?」

「あぁ、私と関与していたのは連中だけだ、トリニティに捕縛されていたら尋問前に身柄引き渡しの要求、或いは強奪、最悪逃走幇助だけでも構わん、他校に弱みを握られるよりはマシだからな……なぁに、諜報員もアリウスから拝借したコートとマスクを被れば見分けはつかんよ、全ては追い詰められたアリウスのやった事にすれば良い、キキッ!」

「これがバレたら本当に面倒な事になりそうですね……私としてはスクワッド云々よりも、先生の安否の方が気になるのですが」

「あぁ、シャーレの先生か、それに関しては私も懸念しているが――」

 

 イロハの言葉にマコトは椅子を軋ませ、天井を見上げる。一瞬マコトの眉が顰められるものの、次の瞬間には吊り上がった口角に覆われ見えなくなった。

 

「キキッ! なぁに、一度死んだと聞かされたのに蘇った先生の事だ、今回も大丈夫だろう!」

「いや、一体どこから来るんですかその自信……」

「このマコト様を信じろ、万魔殿の未来には――いいや、このマコト様の未来には華やかで素晴らしい世界が広がっている筈だからなぁ! キヒャヒャヒャッ!」

「はぁ」

 

 重々しい溜息を零し、目を逸らす。この人の自信はいつも何処から来るのだろうか、それも彼女が企む作戦というのは大抵悉くが失敗している気がする。というか成功した悪だくみなどあっただろうか? 自分が知らないだけで、今までもこういった策謀でこの地位に辿り着いたのか、それすらも定かではない。まぁ、自分に火の粉が降りかからないのならば構わない、考えるのも面倒くさいし。

 

「あぁ、そうでしたマコト先輩、これ追加の仕事です」

「――ヒャ?」

 

 思考を打ち切り、マコトの執務机に書類を差し出す。広がった数枚のそれに視線を落とし、マコトが哄笑を打ち切って視線を下げた。指先で書類を手前に引き寄せる彼女に向けて、イロハは至極面倒そうな気配を隠さずに告げる。

 

「風紀委員会の方でも今回の動きを情報部が掴んでいたみたいです、トリニティ自治区との交渉許可と自治区間の部隊移動の申請が――」

「却下だ、却下!」

 

 風紀委員会――その単語が出た瞬間、マコトはイロハの説明を全て耳にする事無く却下の二文字を叩きつける。分かり切っていた反応だった、故にイロハは「あぁ、やっぱりか」と表情に浮かべながら一応問いかける。

 

「良いんですか?」

「構わん、却下理由は適当に云い繕っておけ!」

「具体的には?」

「あー……その、何だ、今トリニティを刺激する様な真似は慎めとか、既に向こうが動いているからその必要はないとか、そんな感じだ!」

「ヒナ委員長が怒り出しそうですね」

「寧ろ良い気味ではないか! キキキキッ!」

「はー、面倒くさい……」

 

 恐らく一度却下した程度で風紀委員会は引き下がらないだろう、寧ろ怒りながら万魔殿(此処)に乗り込んで来る可能性すらある。普段は理性的でゲヘナでは珍しい程に校則を遵守する彼女達であるが、事先生が絡むと中々どうして過激な手段を取る傾向がある。腐ってもゲヘナというか何と云うか、イロハは頭に乗せた愛用の帽子、そのつばを指先で押し上げながらふと問いかける。

 

「いつも思うんですけれど、マコト先輩って風紀委員会……というよりヒナ委員長を目の敵にしていますよね、何か理由とかあるんですか?」

「何ぃ? そんなもの、あるに決まっているだろうが!」

 

 イロハの問い掛けに、マコトは怒り心頭と云った様子で執務机に手を叩きつける。周囲に響く音に、内心でこの場にイブキが居なくて良かったと安堵する。まぁ、イブキが居たら居たでマコトはこんな攻撃的な態度を見せないだろうが。マコトはふんふんと鼻息荒く窓辺に足を進めると、イロハに向かって振り返り叫ぶ。

 

「まずこのマコト様より名前が知られている事! この万魔殿のトップに立つマコト様より、一介の風紀委員長の方が名が通っているとか可笑しいだろう!? ゲヘナと云えばこのマコト様、そういう認識が普通だろうがッ!? いや、認知されていないからこそ好き放題出来るという面はあるが、それはそれとして気に食わん!」

「はぁ、そうですか」

「それに、あいつは私の完璧で究極の作戦を何度も潰して来たからな、しかもため息交じりに、如何にも面倒くさそうな顔で、何度も何度も何度も簡単に……ッ!」

「いや、それはマコト先輩が暴走するからでしょう」

「後はほら、そのぅ、アレだッ!」

「アレ?」

「――何となく気に入らんッ!」

「………」

「何だその胡乱な目は、何か云いたい事でもあるのか!?」

「いえ、別に……何と云うか、本当に面倒な議長だなと思っただけです」

 

 つまりは殆ど私怨によるものだと、イロハは聞いた自分が馬鹿であったと云わんばかりに肩を竦めた。これは益々、風紀委員会と事を始める前に退散する必要があると内心で考える。

 そんな彼女の耳に、木製の扉が軋む音が届いた。イロハは音のした方に視線を向け、思わず目を見開く。幸いマコトは窓の向こう側に顔を向けており、此方の状況には気付いていない――イロハは無言で踵を返すと、そそくさと彼女の脇を抜けて執務室を後にした。

 代わりに入室した小柄な影、矮躯に見合わぬ愛銃を引っ提げた彼女は先程イロハの立っていた執務机の前に足を進める。マコトはその影に気付かず、クツクツと喉を震わせ笑い続けていた。

 

「キキッ、それになイロハ、理由などそう必要なものではない――混沌(カオス)こそゲヘナだ、どこぞの総合学園の様に好き嫌いで語るのも、そう悪くないものだぞ? なぁ……」

「――そう、ならこれから私がする事も、好き嫌いで済む話だから無罪放免ね」

「……あ?」

 

 想定していた声とは異なるもの。マコトが間の抜けた声を上げ、ゆっくりと振り返る。其処には自身の部下であるイロハではなく、風紀委員長のトップであるヒナが立っていた。それも常と同じ正装で、彼女の愛銃であるデストロイヤーまで担いでいる完全武装。彼女の身の丈を超えるそれは奇妙な威圧感を放っており、特徴的なヘイローがゆっくりと周囲を紫色に彩っていた。

 自身を射貫く威圧的な双眸、視界に踊る白髪を凝視し、自身の目の前に立っている存在が今しがたこき下ろした相手だと理解したマコトは――素早く後退し窓に背を貼り付けながら叫んだ。

 

「な、何ぃィーッ!?」

「……どうせ却下されると思って来てみれば、私の事が気に入らないって話が聞こえたから、勝手にお邪魔させて貰ったわ」

 

 溜息交じりに、「正解だった様ね」と零すヒナ。聞かれていた、何処から? 恐らく彼女の悪口を口にした辺りからだろう。アリウスとの云々を聞かれなかった事は不幸中の幸いか、いやそんな事を考えている場合ではない。マコトは先程まで傍に居た自身の腹心の姿を探し、右往左往する。

 

「なっ、ば、馬鹿な……! い、イロハ! 議長の危機だ、今こそ鋼の忠誠心を発揮して――!」

 

 しかし、彼女が如何に叫ぼうともイロハは現れない。それどころか痕跡ひとつ残っておらず、唯一執務机に散らばった風紀委員会の提出した申請書が彼女が此処に居た証明である。

 

「い、イロハッ!? イロハっ、何処に――!?」

「あの子なら私と入れ違いで廊下を走って行ったわよ」

 

 ヒナがそう云って開けっ放しの扉を指差せば、蒼褪め、冷汗を流すマコトが大口を開けて絶句する。

 

「ばっ、な、がッ、あ……!?」

「……はぁ」

 

 まさか見捨てられるとは思っていなかったのか、或いは何か算段でもあったのか。どちらにせよ、残念ながら数分間この執務室に誰かが訪れる事は無い。議事堂周辺は既に風紀委員会の面々で固め、退館ならば兎も角入館に関しては制限している。

 ヒナは愛銃を脇に挟みながら両手のグローブを強く締め直す。その瞳には苛立ちと怒りが滲み、何かを取り繕う事さえ億劫に感じた。

 

「確か万魔殿の議長が何かしらの理由で決裁が困難な場合、各委員会はある程度自身の裁量で行動出来るという校則があったわよね? 今、代理を務められる行政官、議員は居ない筈だし、此処であなたを蜂の巣にすれば勝手に動いても問題はなくなる筈だけれど……」

「だっ!? ま、待っ――」

「それで、マコト」

 

 ガシャンと、重々しい音を立てて突き出される銃口、本来であれば片腕で振り回す様な代物ではないソレをヒナは容易く手足のように操る。明かりに照らされ鈍く光る銃口、その向こう側に佇むヒナは僅かな笑みすら浮かべずに、告げた。

 

その書類に、サインは貰えるかしら?(ペンと銃、どちらが良い?)

 

 その日――議事堂の一部が深夜に吹き飛んだという噂が、実しやかに囁かれた。

 しかし、議事堂の爆破などゲヘナでは日常茶飯である為、数日後には誰の記憶からも忘れ去られる事となる。

 

 ■

 

「さぁ、出動の時間っすよ! 一番近い遺跡まで駆け足っす!」

「は、はいっ!」

 

 トリニティ総合学園、正門前。

 未だ陽も差し込まぬ時間帯だと云うのに本校舎正門前には幾人もの生徒が忙しなく駆け回っていた。彼女達は大多数が黒い制服を身に纏う、正義実現委員会の面々である。弾薬や銃、医療品を抱えながらは走る彼女達は今しがた組織された先遣隊。カタコンベの暫定通過ルートがシスターフッドより提出され、ティーパーティーがそれを受理し正義実現委員会より正式に先遣隊としての命が下ったのが数分前の事。ツルギとハスミを中核とした本隊は、イチカ率いる先遣隊が開拓したルートを後から通る事となっている。

 今は兎に角速度重視、そんな思いと共に声を張り上げるイチカの元に駆け寄る影がひとつ。

 

「あ、あのっ!」

「ん、あれ?」

 

 自身に声を掛けて来た人影に、イチカは振り向く。正義実現委員会の黒いベレー帽にピンク色の髪、ややだぼっとした制服の着こなしには見覚えがある。イチカはその細い視線を彼女に注ぎ、記憶の中から目の前の生徒、その名前を引っ張り出す。

 

「確か君は、コハル……?」

「あ、ぅ……わ、私も正義実現委員会だけれど、今は補習授業部で、い、一緒に出動できないから――だから、えっと、先輩にお願いがあって」

「えっと、何すか?」

 

 やや強張った表情で、舌を縺れさせながら口走るコハル。こんな大事な時に一体何の用だと疑問を抱くと同時、後輩の必死な様子は見過ごせないという気持ちでイチカは首を傾げる。コハルは慌ただしい手つきで肩に下げていたポーチを手に取ると、中から折り畳まれた紙袋を取り出した。そして、イチカへとそれを指し出し震える声で告げる。

 

「こ、これ……ミカ様に」

「――?」

 

 イチカは紙袋を受け取りながら僅かに目を開く。視線で中を覗いても? と問いかければ、コハルは遠慮がちに頷いた。彼女の頷きを確認したイチカはそっと紙袋を開き、中を覗き込む。差し出されたソレに入っていたのは、何とも奇妙な物品だった。

 

「リボンに、アクセサリーに……煤けた小箱?」

 

 中のものに触れない様、覗き込んだイチカは疑問の声を上げる。中に入っているのはリボン、シュシュ、ヘアピン等様々。どうやら小物やアクセサリーの類に見えるが、一体どういう意図でこれを自身に差し出したのか。疑念と共にコハルへと視線を戻せば、彼女は俯き衣服を強く握り締めたままポツポツと言葉を零した。

 

「そ、その、これは正義実現委員会の押収品管理室に保管していた、ミカ様の私物……です」

「――あぁ、云われてみれば確かにそうっすね、これはミカさんが集めていたアクセサリーっす」

 

 コハルの言葉にイチカは理解の色を見せる。紙袋の中に仕舞われたそれらは、何となく見覚えがある小物だった。一体何だったかと思い返せば、ティーパーティーのひとりであるミカが身に着けていたアクセサリーだった。リボン然り、シュシュ然り、ヘアピン然り――しかし、納得すると同時に新しい疑問が沸き上がる。

 

「あれ、でも確か……風の噂で盗まれたとか、燃やされたとか、聞いた気が――」

「あ、えっと、燃え残ったものとか、無事なもの、こっそり集めたり、現場を押さえて取り締まったんです、ほ、本当は、駄目なんですけれど」

 

 ミカの私物はサンクトゥス分派の過激派や、一部嫌がらせ目的の生徒に持ち出されたり、盗まれて燃やされたとイチカは聞き及んでいた。それがパテル分派とサンクトゥス分派の衝突要因の一つでもあったのだが――今は置いておく。

 イチカがそんな風に呟けば、コハルは更に身を縮こまらせながら申し訳なさそうに答えた。現在補習授業部に所属しているコハルは、学内のそう云った行為を取り締まる権限を持たない。それを自覚した上で、彼女は独自に動いていたのだ。

 

「ちょ、ちょっと燃えちゃったものもあるけれど形はちゃんと残っているから、箱の中のものは全部無事の筈……です、それは絶対に、大切なものだって思ったから――」

 

 強く、皺になる程に制服を掴みながら呟くコハル。見れば、彼女の指先やはみ出した肩の一部には、湿布やガーゼが散見された。それらを目視し、イチカは思い出す。そうだ、確かハスミが茶の席で云っていた期待している一年生。自分の正義を貫く意思を秘めた、期待のホープ。

 思い出す、彼女がその生徒だ。

 イチカは手渡された紙袋をもう一度見下ろし、それから丁寧に畳んで小脇に挟むと、俯いたコハルに視線を合わせる様に屈んで告げた。

 

「……成程、了解っす――これは絶対に届けて見せるっすよ」

「あ、ありがとうございます……!」

 

 ■

 

【アリウス自治区攻略作戦から数日前の夜】

 

 それは、本当に偶然の事だった。

 補習授業部に配属されそれなりに時間が経過し、もしかしてこのまま正義実現委員会に所属している時間より、補習授業部で過ごす時間の方が長くなるのではないだろうか? と戦々恐々としていた頃。日々の勉強に悲鳴を上げながら毎日を過ごしていたコハルは、時折自主的に周囲をパトロールする様になった。

 最近のトリニティはどうにもきな臭い、以前のようにシスターフッドや救護騎士団、ティーパーティーで睨み合ったり策謀渦巻く――と云った事は無くなったが、代わりにティーパーティー内部の派閥間対立が顕著となり、その余波が一般生徒にまで及ぶ事も珍しくなくなっている。

 そんな状況で忙しなく駆け回る正義実現委員会(古巣の同級生)の様子を見ていると、自分も何かしなくちゃいけない気持ちになって、焦燥感ばかりが募っていた。普段の授業に加えて補習授業を受けるのは大変だが、それはそれとして自分の本来の所属は正義実現委員会。それを忘れない為にも、夜にちょっとしたパトロールをするのがコハルの日課になった。

 

 そんな彼女が本校舎から離れて、やや歩いた先にある補習授業部合宿所付近を巡回していた時である。視界の先に、薄らと灯る緋色と煙を認めたのだ。

 

「何、あれ――煙?」

 

 視界に入ったそれに対し、コハルは立ち止まると目を細めて呟く。合宿所近辺は自然に囲まれ、決して高くはないがちょっとした起伏、山もある。そこで焚火でもしている生徒が居るのか、コハルは疑問符を浮かべながら恐る恐る煙の立ち昇る方へと足を進めた。

 そして慎重に進んで行くと開けた場所に辿り着き、その片隅で焚火を囲む四人組のグループを見つけた。野外活動か何かだろうかと、木陰に隠れて様子を伺っていたコハルであるがどうにも様子がおかしい事に気付く。彼女達は頻りに周囲を見渡し、何かを警戒している様にも見えたのだ。更に焚火周辺に転がる、煤けた何か――よく見ればそれは、燃やされたアクセサリー、その残骸であった。

 明らかに普通じゃない、良くない事をしている。そんな確信を抱いたコハルは湧き上がる怯懦を呑み込み、一歩を踏み出しながら声を上げた。

 

「な、何しているの!?」

「ッ! ――何だ、お前は」

 

 コハルの叫びに肩を跳ねさせた生徒達。すわ誰かに見つかったのかと素早く振り向けば、視界に入ったのは小柄な生徒ひとり。それも見るからに非力で、仲間の姿も無い。暫く周囲を警戒していた彼女達であるがコハル単独である事が分かると、分かり易い侮蔑と嘲笑を浮かべながら面倒そうに視線を寄越す。

 悪意と害意に塗れた視線、それに晒されたコハルは両足が震えない様に必死に堪えながら指先を突きつけ声を張り上げた。

 

「それ、何を燃やそうとしているの!? こんな誰も居ないような所で、こそこそ隠れて……!」

「……別に、不要なものを処分しようとしているだけだ、お前には関係ないだろう」

 

 両手に握り締めたそれを揺らし、吐き捨てる様に答える生徒。まともに取り合う気など無いのだろう、億劫そうに再び背を向けた彼女に、コハルは言葉を叩きつけた。

 

「手に持っているソレ、ミカ様の私物じゃないの……!?」

「っ……!」

 

 反応は劇的であった。

 この場合は、彼女のその動揺こそが何よりも証拠であると云える。

 コハルは先の事件の折、ミカの身に着けていたアクセサリーの類を覚えていた。そうでなくともティーパーティーはトリニティに於いて有名な三名、媒体問わず目にする機会は多く、目の前の生徒が握り締めた手から覗くリボンの端に、コハルは見覚えがあった。咄嗟に両手を背に隠すが既に遅い、コハルの目は確かに彼女が両手に握っていたアクセサリーを捉えていた。

 

「それ、ミカ様のシュシュと、髪飾り(リボン)でしょ!? 私、見たことがあるんだから……!」

「――ちッ」

 

 コハルの糾弾に対し、生徒の舌打ちが漏れる。しかしそれは、拙い所を見られたと云う焦燥感や不安から漏れたものではない。唯々面倒な事になったという、倦怠感や怒りから生まれたものであった。

 

「だとしたら、一体何だと云うんだ」

「ふん、妙な正義感を振りかざして、私達を止めるおつもりでしょうか?」

「たった一人で、随分勇ましい事」

「ぅ――……!」

 

 集った生徒達がコハルに視線を向ける。当たり前だが友好的な反応など一つたりとも存在しない。攻撃的な瞳にコハルの肩がぶるりと震えた、大多数の悪意ある視線は彼女の精神を勢い良く削り、なけなしの勇気すら踏み躙ろうとする。しかし抱えた愛銃を強く握り締めながら、彼女は尚も食い下がる。

 

「ひ、人のものを勝手に燃やしたりしたら、だ、駄目なんだからッ!」

「はっ、駄目だったら、どうする? あの女は魔女なんだぞ? こういう仕打ちを受けて当然の事をしたんだ」

「たっ、確かに、ミカ様は色々悪い事をしたし、良くない事も、沢山悪い事も、したと思う……で、でも!」

 

 俯き、歯を食いしばりながら一歩を踏み出す。聖園ミカは確かに許されない事をした、沢山の生徒を傷付けた。真相を聞いた時は確かに怒りの感情も沸き上がったし、思う所は確かにある。

 けれど――。

 

「だからって、そんな事をして良い理由にはならないじゃない!」

 

 顔を上げ、強い口調で叫ぶ。

 誰かに傷付けられたから傷付けて、恨み辛みでやってやり返して。相手は悪者だから、悪い事をしたから、罪を犯したから、何をしても良い――そんな事が正しい事の筈がない。

 コハルに小難しい事は分からない、政治的な云々だとか立場から来る正しさとか、そういう背景や事情の絡んだ側面の正義を語る事は出来ない。

 けれど、彼女は普遍的な正義を信じる。自身の信じる正しさを決して曲げない。

 屯する生徒達に指を突きつけ、コハルは声高に訴えた。

 

「それは、絶対に正しくない! 他の誰が何を云っても、わっ、私が絶対に許さないんだから……!」

「――はっ」

 

 及び腰になりながらも、その愛銃を構えるコハルを見た生徒が悪辣な笑みを零す。身に纏う制服は正義実現委員会、しかし委員長の放つ圧倒的な暴力の気配も、副委員長が持つ冷静さの欠片も見えない。木っ端の構成員、それも弱小。それを確信した彼女はコハルに一瞥をくれた後、手元のシュシュと髪飾りを燃え盛る焚火の中へと放った。

 

「口では何とでも云えるさ」

「あっ……!」

 

 ゆっくりと虚空を舞うアクセサリー、明るい火に照らされたそれらが、ゆっくりと燃え盛る焚火に消えていく。

 

「だっ、駄目――ッ!」

「なっ……!」

 

 咄嗟にコハルは自身の愛銃を手放し、燃え盛る火に放られたアクセサリーに手を伸ばした。半ば焚火に飛び込む様にして宙を舞ったコハルは、両手にアクセサリーを抱えたまま腹から地面に衝突する。焚火に覆い被さる様にして転がるコハル、衝撃で撒き散らされた火の粉、圧し折れた薪、頬に煤が付着し何とも云えない熱さがコハルの胸元を焼く。しかし彼女は両手に握り締めたシュシュと髪飾りの感触を確かめ、僅かに口元を緩ませた。

 

「火が……! お前! そこを退けッ!」

「い、嫌っ! 絶対に退かない!」

「っ、この――ッ!」

 

 弱火になった焚火、じりじりと肌を焼く熱を感じながらコハルは必死に腕を動かして地面に散らばった小火を掻き消そうとする。火が無ければアクセサリーを焼く事は出来ない。そんな思いから彼女はその場から動く事無く、両手を握り締めたま肘や肩を駆使して枝を圧し折る。

 

「あぐっ……!?」

 

 唐突に、コハルの脇腹に衝撃と鈍痛が走った。体を折り曲げ悲鳴を上げるコハル、肋骨が軋み臓物を突き上げるような痛みだった。見れば足を振り上げたトリニティの生徒が怒りと滲ませた視線で自身を見下ろしており、腹部を蹴り飛ばされたのだと分かった。

 

「痛めつければ、少しは気が変わるか――ッ!?」

「ぅ、ぐ、ぃっ……!」

 

 遠慮なく浴びせられる蹴撃、肩、頭、腹、背中、次々と自身を襲うそれらに歯を食いしばって耐えながら、コハルはその場で両手を胸元に引き寄せ丸まる。泥と煤に塗れながら、コハルは涙の滲んだ声で叫んだ。

 

「や、やだッ、ぜ、絶対に……ど、退かない――ッ!」

「コイツ……!」

 

 痛みには耐えられる。

 心の痛みに比べれば、ちょっとやそっとの怪我なんて、何ともない。

 コハルはそう零しながら絶対に動いてなどやらないと、心に決める。小さな体ひとつで自身の邪魔をする生徒、彼女を囲うトリニティの生徒は無言でコハルを見下ろす。その瞳が強い悪意を滲ませ、大きく足を振り上げた。

 

「――良いだろう、その意地が何処まで通せるか見てやる!」

 

 ■

 

「報告があったのは、この辺りですか――」

 

 呟き、ハスミは吐息を零した。時刻は深夜という程ではないものの、それなりに遅い時間。本部にて執務作業に追われていたハスミの元に齎された報告。本来であれば態々が彼女が出向く様なものではなかったが、最近はパテル分派とサンクトゥス分派の衝突が増え何処も人手が足りない。その穴埋めの為に彼女自らが腰を上げ現場へと駆け付けていた。

 暗闇の中、微かに立ち昇る煙。自然に囲まれた山の中腹辺り、狙撃手として鍛えられた視界は確かにそれらを確認する。

 

「確かに、煙が見えますね」

「はい、生徒からの通報だと何やら数人の声も聞こえたとか、何とか……」

「全く、火を扱う場合は各所に届け出が無ければならないと云うのに――手早く取り締まりましょう、どうせ悪戯か、ちょっとした遊びでしょうが、火事にでも発展すれば大事ですから」

「分かりました」

 

 引き連れた三人の正義実現委員会(後輩達)と共に、生い茂った茂みを手で払いながら山へと踏み込む。暫く進むと僅かに開けた場所が見え、月明かりが微かに通るだけの薄暗い暗闇が周囲を支配していた。ハスミは足元の枯葉を踏み締めながら辺りを見渡す。

 

「……人の姿が見えませんね」

「まさか、既に解散を?」

「通報されたのを悟ったのかもしれませんね、全く――」

 

 この手の悪戯や悪巧みをする生徒というのは、兎に角逃げ足が速い。正義実現委員会や自警団と云った組織が駆け付ける前に、大抵中心人物は逃げおおせているのが殆どだ。一応周辺を見て回るかとハスミが内心で呟くと、ふと自身の衣服を引っ張る感触に気付いた。見れば傍に立っていた委員がひとり、前方を指差している。

 

「あ、あの、ハスミ先輩」

「何ですか?」

「えっと、あそこに誰か一人……倒れて」

「……?」

 

 云われて初めて気付く。微かに煙を立ち昇らせている薪、その少し離れた場所で倒れ伏した影。黒い制服は闇に同化し、ピクリとも動かない。ハスミが目線で指示を出し、各々が銃を構えたまま警戒を見せる。ハスミもまた愛銃を構えたまま倒れ伏した人影に近付き、徐々にその輪郭がはっきりと見えるようになる。

 

「――コハル?」

 

 月明かりに照らされたその髪色には見覚えがあった。うつ伏せに倒れ、何かを抱き締める様にして蹲っていたのは自身の後輩であるコハルであった。ハスミは素早く彼女の元に駆け寄ると、愛銃を地面に放り後方に居る委員に向けて指示を叫んだ。

 

「っ、救護騎士団に連絡を、早くッ!」

「えっ、あ、は、はい!」

 

 ハスミより指示を受けた委員がポケットから端末を取り出す。それを横目にハスミはコハルの身体を仰向けに転がし、その煤と泥、青痣に塗れた頬を優しく撫でつけた。

 

「コハル、コハル……ッ!」

「う、ぅ……」

 

 ハスミに揺り動かされ、苦悶の声を漏らすコハル。良く見れば彼女の制服は泥と砂利に塗れ、くっきりと靴跡が残っている。何度も何度も体を蹴り飛ばされたのだろう、はだけた肩にも痣が残り、口の端を切ったのか血が滲んでいる。銃を撃つでもなく、ただ相手を甚振るだけを目的とした陰湿な暴力行為。ハスミはコハルから滲み出る暴力の残り香に怒りを滲ませながら、コハルの名を呼び続ける。

 

「確りしなさいコハル、一体何があったのですか――!?」

「は、ハスミ、先輩……?」

 

 自身の名を呼ぶ声に薄らと目を開けるコハル。半分塞がった瞼の向こう側、滲む視界に映る敬愛するハスミを認め、彼女は思わず安堵の息を吐き出す。ハスミ先輩が来てくれたのなら、もう大丈夫だ。溢れ出たのはそんな感情、コハルは最後の力を振り絞って震える腕を伸ばし、最後まで喰らい付き、死守したそれを指し出す。

 

「ハスミ、先輩……こ、これ」

「――?」

 

 自身の負傷も顧みず、差し出されたソレにハスミは視線を落とす。煤と砂利、血の滲んだ両手一杯に握り締められたもの。汚れ、皺くちゃになったリボン、泥の付着したシュシュ、それに焦げ目が残る小箱に、ネックレスやヘアピンと云った小物が沢山。差し出されたアクセサリーを受け取ったハスミは、両手一杯のそれを見下ろしながら問いかける。

 

「コハル、これは……?」

「お――」

 

 ハスミに守り切ったそれらを手渡した後、コハルはどこか懇願する様に口にした。

 

「――押収品、です」

 

 誰かが、誰かから奪い取った品物。

 それは、きちんと持ち主に返還しなければならない。

 

「押収品、だから……私が、責任を持って、管理、します」

「………」

「だ、だから、管理、室に、お願い、します」

 

 震える指先でハスミの手に触れたコハルは、ゆっくりと口を動かす。

 

「き、きっと――大切な、物だと、思うから」

 

 大切なもの。

 その言葉にハスミはふと気づく、自身の手の中にあるアクセサリー、その色合いや模様に見覚えがあると。何より焦げ跡や煤が付着している所を見るに、何者かがこれを燃やそうとしていたのは明らかであった。汚れが目立つが品質自体は高級品、それを態々燃やそうとするとなると悪意があるのは明らか。最近のサンクトゥス分派とパテル分派の衝突、そしてそれの主な原因となった人物が脳裏を過る。

 

「まさか、これはミカ様の――……?」

 

 漸く理解する。

 恐らく何者かが此処でミカの私物を焼却しようとして、そこにコハルが鉢合わせたのだ。そして彼女は身を挺してミカの私物を、宝物を守った。彼女はたった一人で暴力に晒されながら、小さな体で彼女の宝物を守り切ったのだ。

 

「………」

 

 その事実に、ハスミは強い動揺を覚えた。しかし先輩の務めとしてそれを表に出す事はしない、無言で頷きを返したハスミは両手一杯に握り締めたアクセサリーをそのままに立ち上がった。

 

「ハスミ先輩! きゅ、救護騎士団に連絡を取りました!」

「分かりました、ありがとうございます……それと、これを正義実現委員会本部の押収品管理室に」

 

 ハスミは自身の胸ポケットから取り出したハンカチを広げ、コハルより受け取った押収品を包み込む。それを駆け付けた委員に手渡すと、彼女は背筋を正しながら確りと頷いた。

 

「はっ、了解しました! 保管分類は――」

「最重要です」

 

 告げ、再びコハルへと向き直る。彼女の目の前に膝を突いたハスミは口元を緩め、慈愛に満ちた表情でコハルの額を撫でつけた。

 

「――コハル、よく頑張りましたね」

 

 声は優しく、同時に尊敬の念が滲んでいた。結んでいた髪が解け、乱雑になった前髪を払ってやると、コハルは半分腫れ上がり、痣に覆われた目を瞬かせながら呟く。

 

「は、ハスミ、先輩……?」

「私がコハルを抱えて山を下ります、身体は起こせますか?」

「ぇ、ぁ、ふ、服、汚れちゃ――……」

「気にしません、それに正義実現委員会の制服は汚れが目立ち難いですから、この程度は何でもありませんよ」

 

 慌て、何事かを口にしようとするコハル、その唇に指先を当てながらハスミは微笑む。そんな彼女の背中に駆け寄った委員が一人、声を潜め報告する。

 

「……犯人と思わしき痕跡を発見しました、恐らくまだそう時間は経過していません、我々の接近に気付いて山岳方向に逃走したものと思われます、足跡に加え不自然に折れた枝がそちらの方に――追跡は?」

「当然です、然るべき対応を――ミカ様の私物窃盗に届けの無い火の使用、正義実現委員会(仲間)への集団暴行、追求すればまだありそうですね、必ず見つけ出して後悔させなさい」

「はっ」

 

 冷徹に、それでいて確かな怒りを滲ませた返答。それを聞き届けた委員は頷き、端末を操作して何処かへと連絡を取る。ハスミはそれを横目に愛銃を肩に掛けると、コハルの身体を抱き上げそのまま立ち上がる。敬愛する先輩の手で抱えられているという事実に赤くなったり、青くなったりするコハル。しかし身体が碌に動かせないのは事実であり、観念したように彼女はハスミの首に手を回した。

 

「コハル、あなたは強い子ですね」

 

 枯葉を踏み締め下山するハスミは、絞り出すような声色でそう云った。掛けられた言葉にコハルは顔を俯かせ、弱々しく答える。

 

「で、でも、私、結局負けちゃい、ました……」

「力は後から付ければ良いのです、けれど正義を為す心、そればかりは決して簡単に手に出来るものではありません、正義が芽生える事はあっても、あなたの様に一から生み出す事は、大変難しく勇気の要る事なのです――あなたのそれ(正義)は、唯一無二で、とても素晴らしいものなのですから」

 

 ハスミは強く、けれど穏やかな口調でそう云い聞かせる。正義とは何か? 正しさとは何か? 立場や状況、時の流れによってそう云ったものは悉く変化する。正義の反対が必ずしも悪である保証はない、自身の正義と他者の正義がぶつかる事だってある、寧ろ大多数の争いというのはそう云った形で勃発する事が殆どだ。

 その中で自身の中にあるそれを信じる、信じ続けられるというのは――どんな生徒にも出来る事ではないのだ。芽生える(他者から分け与えられる)のではなく、自身で生み出す(自分の確固たる正義を持つ)事、これが出来る者は存外少ない。

 

「コハル、私はあなたを――誇りに思います」

「ぁ……」

 

 自身を抱え見下ろすハスミの表情が、微笑みと共に月光を浴びる。それを見上げた時コハルの胸に何か暖かくて大きな、強い感情が沸き上がった。それは敬愛する先輩に認められた事実に対する歓喜だとか、自身の行動が間違っていなかった事に対する安堵だとか、そう云った色んな感情が綯交ぜになって一つになった想いだった。

 

「え、えへへ……」

 

 思わず頬が緩み、痛みに引き攣った不格好な口元で笑みを零す。一歩一歩、暗闇の中を月明かりに照らされ歩いて行くハスミ。その中で丸まるコハルは小さく、囁く様な声でふと呟く。

 

「こ、今回の事、先生には、内緒にして、貰えますか……」

「あら――」

「わ、私は、その、正義実現委員会の、え、えっと……エ、エリート、ですから……!」

 

 自身の敬愛する彼女の前でこんな事を口走るのは何とも不遜で、気恥ずかしく思えるけれど。今なら、今だけなら云える気がして、彼女は紅潮した頬で破顔し、云った。

 

「先生には、格好良い私を、見せたいんです」

 


 

 オデ コハル スキ。

 最後敢えてハスミの前で自身をエリートと呼んだのは照れ隠しの為、格好良い私を見せたいと見栄を張っているが本当は先生に心配を掛けたくないから。因みに正義実現委員会の接近に気付いて逃げ出そうとした生徒に掴み掛って、残った小箱やアクセサリーの奪取にも成功しているコハルちゃん。頬を切ったのはその際、全力で殴られた為。先生を失ったと感じたあの瞬間に比べれば、どんな痛みだって大したことじゃないと自分に云い聞かせ全ての暴力に耐えきった。ずっと先生の背中を見て来たので、良くも悪くも影響され始めている素晴らしきコハルちゃん。

 エデン条約後編第一章で暴行されるミカを庇うコハルちゃんが出来なかったので、こちらで活躍して貰いましたわ! 

 

 そして恐らく次回がエデン条約編、最終話ですの。

 遂に此処まで、という心地ですわ……。



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陽の当たる場所で(何て事の無い)笑い合えた日(小さな奇跡)

誤字脱字報告感謝ですわ!
深夜の更新になって申し訳ありませんの。
今回がエデン条約編最終回、一万八千字ですわ!


 

「トリニティの、皆が――」

「あぁ、多くの生徒の力を借りて、私達はこの場に立っている」

 

 セイアから語られる、自分が駆け出した後のトリニティ総合学園。多くの混乱があった、窮地であったと断言できる。ひとつ間違えば全員がバラバラになってしまうかもしれない状況、けれど今まで睨み合っていた面々が力を合わせ、一つの目的の為に手を重ねる事が出来た。

 それは彼女達にとって、とても大きな意味を持つ。

 

「私達とて、いつまでも先生の力を借り続けていてはならない、彼の人の道先に光を灯せてこそ理想的な関係足り得るからね――だから」

 

 セイアが小さく、細いその掌をミカに差し出す。何処もかしこもボロボロで、自罰的で、面倒な手合いで、楽観的で、考えなしで、けれど――確かな友人に向けて。

 小さな彼女の口元が微笑みを浮かべ、告げた。

 

「――(友達)を救いに来たよ、ミカ」

「……あはっ」

 

 その言葉を聞いた時、ぽろりとミカの目尻から一粒の涙が零れ落ちた。

 

「……ミカ?」

「……ミカさん?」

 

 ミカの涙を見た時、セイアとナギサは思わず目を丸くする。それは隠しきれない動揺だった。

 けれどミカからすれば、この光景は余りにも眩しくて、嬉しくて、仕方ない事だったのだ。だって、先生だけじゃなかったと知れたから。こうして手を差し伸べてくれる人が居る、自分をなりふり構わず助けようとしてくれる友人が居るのだと。

 

「ごめん、ごめんね、ちょっとさ、予想外過ぎて……うん、あはは、本当に吃驚しちゃったんだ」

 

 それは聖園ミカだけの感傷ではなかった、彼女の内に秘めた記憶に刺激され零れ落ちた涙でもある。こんなにも必死になって、自分の為に何かをしてくれる人が居る、友人がいる――それが喪われていない今、その事実がどれ程貴く素晴らしい事か。

 彼女(聖園ミカ)は、良く理解しているのだ。

 

「ふふっ、でもさセイアちゃん、相変わらず何云っているのか分からないよ、本当に偉そうだし、云い回しが一々小難しいし、心底ムカつく」

「むっ……何だい、その云い草は?」

「そういう所、何度も懲らしめてやろうって思ったよ」

 

 むっとした表情で眉を顰めるセイアに対し、擦り切れた指先で目元を拭いミカは屈託なく笑う。

 傷だらけの頬で、けれど心底嬉しそうに。

 

「――それでも大好き、セイアちゃん」

「……あぁ、知っているとも」

 

 セイアの声色は優しかった。何て事のない親愛の表れ、言葉にすれば何て簡単で、容易い事か。そんな言葉を私達は今まで一度も口にした事がなかった。

 

「ナギちゃんはヒステリー酷過ぎ! っていうか、後ろのあの傍付きが抱えているのって何? ナギちゃんが使っているティーテーブルの椅子じゃん! もしかして、こんな所まで紅茶を持って来て飲もうとしているの?」

「まぁ、その、紅茶は私にとって安定剤の様なものなので……」

「ほんっと、ナギちゃんって紅茶が絡むと可笑しくなっちゃうよねっ!」

 

 苦笑を浮かべ、腹部を擦るナギサ。今この場に於いても彼女は今後の事を常に考えている。しかしそれが心身の負担になる事は間違いなく、ミカが単独でアリウス自治区に乗り込んだと聞いた時からナギサの腹部はずっと悲鳴を上げていた。キリキリと痛む胃に流し込む紅茶、これが効くのだ。例え戦場であったとしても紅茶を手放す事は出来ない。

 そんな何処かズレたナギサに対しても、ミカは笑みと共に告げる。

 

「――でも、そんなナギちゃんが大好き」

「……えぇ、知っていますよ」

 

 何せ、ずっと一緒に居た幼馴染なのだから。

 分からない事も沢山ある、理解していない事も、きっと秘密にしている事だってあるだろう。けれど知らない事よりも、知っている事の方が多い筈だ。時間は嘘を吐かない、ミカも、ナギサも、セイアだってそうだ。

 分からない事ならば、これから知って行けば良い。

 だって自分達にはまだ――未来があるのだから。

 

「うん――二人共、大好きだよ、私にとって大切な、とっても大切な友達」

 

 胸元を握り締め、一言一言を噛み締める様にミカは呟く。そんな風に言葉にして伝える事などしてこなかったから、酷く新鮮な気持ちだった。

 こうしてほんの一言、好意を、友情を伝えるだけで済んだというのに。

 一体何を自分達は躊躇っていたのか。

 

「だから、ありがとう――そして、ごめんね」

「いいや、寧ろ謝るのは私だ……すまなかった、ミカ」

 

 セイアはそう云ってミカに深く頭を下げる。それはずっとずっと、病床の上で云おうと思っても口に出せなかった言葉だった。

 

「いつも、君に謝ろうと思っていたんだ――でも、子どもの様な意地が邪魔をして、中々果たす事が出来なかった、もっと簡単に、何てことのない過程を経る事だって出来た筈なのに」

 

 そうだ、元はもっと簡単な話だったのに。

 発端は確かに彼女だったのかもしれない、だが其処に至るまでの過程は無数に分岐していた筈だ。彼女が事を起こす未来を回避する事だって出来た筈なのだ。ミカだけが(あやま)ったのではない、自分達三人、全員がそれぞれ過った結果が今だった。

 

「ミカ、君が……アリウスと和解したいと云い出した時、私は――」

「ううん、何も云わないで、セイアちゃん」

「……ミカ」

「私はもう大丈夫だから……ごめんね、私が悪かったの」

「いいえ、ミカさんだけの責任ではありません」

 

 ミカの言葉に、ナギサはゆっくりと首を振る。

 

「私達皆がもう少し、あと一歩だけでも歩み寄る事が出来たのなら――きっとこれは、そういうお話だったのです」

「ナギちゃん――……ッ!?」

 

 ナギサの悲し気な、それでいて強い口調で語られるそれにミカは眉を下げる。彼女の名を呼び、何かを口にしようとして――不意に集った親衛隊の頭上を凄まじい速度で過り、地下回廊の床に着地する影があった。凄まじい風圧と爆音に、ナギサとセイアは思わず目を瞑って顔を背ける。

 

「な、何っ!?」

「ッ、親衛隊、警戒を!」

「私の事は構いません、先生を守って下さいッ!」

 

 すわアリウスの襲撃か、そう判断した親衛隊は素早くミカやナギサ、セイアの前に壁を作り、先生に至っては数名の生徒が覆い被さって肉壁となる。全員の間に緊張が走り、幾つもの銃口が飛び込んで来た人影に向けられた。

 そして周囲を覆う砂塵を掻き分け現れたのは――。

 

「先生ぇえエエエエッ!?」

「っ、せ、正義実現委員会のツルギ委員長……!?」

「――っと、漸く合流出来たっす!」

 

 血走った眼で叫び、血に塗れ擦り切れた制服を身に纏う正義実現委員会トップ――ツルギ委員長。彼女に続いて地下回廊へと続く階段に響く足音、見れば息を弾ませ額に汗を滲ませた正義実現委員会の部隊が地下回廊へと駆け込んで来る所であった。先頭を切って飛び込んで来た生徒、イチカは親衛隊に囲まれた中で狂乱するツルギを確認し、ほっと胸を撫でおろす。どうやら撃たれる事は回避出来た様だと。それから流れ落ちる汗を指先で拭うと、先生とティーパーティーの元へと足を進め背筋を正した。

 

「ティーパーティーの御三方、御無事で何よりっす! ご指示通り周辺一帯の安全確保が出来たので手筈通り合流に来たっす!」

「えぇ、ご苦労様です……ただ、もう少し静かに入って頂けると驚かずに済んだのですが」

「す、すみません」

 

 宛ら砲弾の如く地下回廊に跳んできたツルギを見て答えるナギサに、イチカは身を縮こまらせながら頭を下げる。残念ながらツルギを制御出来るのは先生か副委員長のハスミ位なものである。後輩のイチカに彼女を云々する事は非常に困難な任務であった。

 

「せ、せ、せん、せせせせ……ッ!」

「……ツルギ、大丈夫だよ、私は無事だから」

「ぎぃ、きッ、い――」

 

 視線をあっちこっちに飛ばしながら震え、恐る恐ると云った風に歩み寄るツルギ。担架に寝そべって彼女を見上げる先生は、苦笑と共にツルギへと声を掛けた。死んではいない、死んではいないが――先生の恰好から死線を潜ったのは明らかであった。暫く大きく見開き血走った視線で先生の四肢を凝視していたツルギは、ぬるりと今度は傍に立っていた救護騎士団に目を向ける。唐突に恐ろしい瞳で射貫かれた救護騎士団員は肩を跳ねさせ、訳も分からぬまま只振り子のように頷いた。

 ツルギからすれば、「先生は本当に大丈夫なんだな?」という意味合いで視線を向けたつもりだが、当の本人には残念ながら伝わっていない。兎角、その返答を見届けたツルギは再び身を震わせ、その黒い髪を振り回しながら絶叫、回廊の向こう側へと駆け出した。

 

「きひィぃぃああアアアッ!」

「ひィッ!? ごめんなさいッ!」

「あっ、ちょ、ツルギ先輩!?」

 

 回廊に響く彼女の怪鳥染みた絶叫。傍に立っていた救護騎士団員が頭を抱えて蹲り、イチカは駆け出したツルギに慌てて声を掛ける。しかし彼女の健脚はものの数秒でトップスピードに乗り、その背中は瞬く間に小さくなった。暗闇の向こう側へと消えていく自身のトップを見送りながら、イチカは頬を掻き溜息を零す。

 

「はぁー……まぁ、ツルギ先輩なら大丈夫だと思いますけれど、一応一班は援護に向かって欲しいっす」

「りょ、了解しました!」

 

 単独で再び行動を開始したツルギ、彼女に限ってアリウスの生徒に負けるという事はないだろう。しかし、連絡を取る為にも常に正義実現委員会の生徒は同行させておきたい。そんな意図と共に指示を出せば、三名の正義実現委員会生徒がツルギの後を追って駆け出す。それを確認したイチカはふと細く絞っていた瞳を見開くと、担架に寝そべった先生の元へと歩み寄った。

 

「どうもっす、先生、正義実現委員会のイチカっす、あー、その、大分前に美食研究会の逮捕の際に一応お会いしたっすが……もしかしたら、憶えていないかも――」

「いや、憶えているともイチカ――また逢えて嬉しいよ」

「あっ」

 

 イチカと先生が顔を合わせたのはエデン条約調印式の前、それこそ深夜に美食研究会がトリニティ自治区内でゴールドマグロを強奪した一件以来だったか。以降も遠目に姿を見る事はあったが、実際にこうして顔を合わせて言葉を交わす機会は中々無かった。自分の事などきっと忘れてしまっているだろう、そんな想いから口をついた言葉であったが、先生は予想に反しイチカの事を記憶していると云う。微笑みと共に発せられた言葉にイチカはそれが嘘でも何でもない事を悟った。

 何とも云えない気恥ずかしさに襲われ、イチカはへらりと口元を緩めながら後頭部を掻く。

 

「え、えへへ……先生とちゃんと挨拶出来て光栄っす」

「此方こそ、寧ろごめんね、こんな格好で」

「い、いえいえっ、とんでもないっす……!」

 

 慌てて首を振るイチカ。折角先生と顔を合わせて話せる機会、多忙な彼は中々捕まえる事が出来ず一分足らずであっても会話出来たら幸運と云われる程。しかし、残念ながら今はお喋りに興じている状況ではない。惜しいと思う気持ちを噛み殺しながら、イチカは自身の肩に下げていたポーチを持ち上げ云った。

 

「あー、えぇっと、その、それで……実はミカ様に渡したいものがありまして」

「えっ、私?」

「えぇ、これを――」

 

 まさか自身の名が呼ばれるとは思っておらず、目を瞬かせるミカ。イチカは小さく頷くと、ポーチから折り畳まれた紙袋を取り出し彼女に手渡した。ミカは渡されたそれに訝し気な視線を向け、それから恐る恐る中を覗き込む。

 

「えっ、これ……私のアクセサリー? それに、この小箱って――ど、どうして、全部盗まれたり、燃やされちゃった筈で……!」

「押収品の管理室担当員が――コハルって子が、身体を張って集めていたそうです」

「……!」

 

 紙袋の中に入っていたのは自身が収集していた小物全般。ミカの私室から奪われたそれらは、既に喪われたものだとばかり思っていた。当然だ、悪意を以て盗んだ生徒が殊勝にも持ち去った戦利品を返す筈もない。燃やされるか、無惨にも棄てられるか、破壊されるか、どちらにせよ手元に戻って来る何て思っていなかった。

 しかし、これら全てをコハルが取り返したと云う。その事実に、ミカは信じられない心地で呟く。

 

「コハルちゃんが……?」

「はい、コハルが――って、もしかしてご存知でした?」

「……うん、知っているよ」

 

 ミカは勿論、記憶の中に佇む彼女ならもっと知っている。彼女の強さも、勇気も、在り方だって。自分とは比べ物にならない位、強く、気高く、正しく――優しい子だ。

 

「相変わらず、凄いなぁ――コハルちゃんは」

 

 思わずそんな言葉が漏れ出た。あんなに沢山酷い事をしたのに、それでも彼女はそんな相手の為に奔走する事が出来る。紙袋に詰められたそれらは、きっと一人二人から取り返したものではないのだろう。毎日のように走り回って、一つ一つ取り戻す彼女の姿が目に浮かぶ様だった。

 ミカはそっと紙袋の中に手を入れ、小物の中でも一際目立つ小箱を取り出す。本来であればお洒落に塗装され、純白に輝いていたものだが、今はもう見る影もない。

 

「ミカさん、それは――」

「……うん、ナギちゃんと小さい頃から集めていた宝物、小箱の外装は、ちょっと焦げちゃったけれど」

 

 取り出した小箱を見たナギサが声を上げ、ミカは小さく頷く。その小箱はナギサとミカが小さい頃から集めた色々なものが入っている、思い出そのものだった。焦げ目の残る外装を指先で撫でつけ、ミカは微笑みを浮かべながら蓋を開ける。

 

「――中身は全部、無事だった」

 

 黒ずみ、汚れの目立つ外装。けれど中身に詰まった想い出は――無傷。

 入っていたのは子どもっぽい指輪、お揃いのイヤリング、擦り切れ折り畳まれた手紙、押し花、手作りの栞、使い古されたペンに羽――それと沢山の写真。写っているのはまだ幼い頃のミカとナギサ、それにティーパーティー結成初期の三人並んだ写真も仕舞ってある。写真は最近になればなる程鮮明となり、ミカは一番最後に撮った三人の写真を手に取る。

 それら全て、ミカにとっては失ってしまったと思っていた大切な思い出だった。

 

「全部、無くなっちゃったと思っていたのに……」

 

 そんな事はなかった。

 一番大事だと思っていたものは、こうして自身の元に戻って来た。

 写真を眺めながら、ミカは呟く。

 満面の笑みを浮かべながらピースをする自分、紅茶を片手に微笑み背筋を正すナギサ、澄まし顔でシマエナガを手に乗せ撮影者を一瞥するセイア。

 今代のティーパーティーとして結成され、初めてあのテラスで撮影された一枚だった。まだ自分達の未来を知らず、気持ちを素直に吐露する事もなく、相手に対する想いを胸に秘めていた頃。

 無知で、無鉄砲で、恐れ知らずだった。

 

「っ――ミカ」

「……先生」

 

 先生が担架の上から、ゆっくりと上体を起こす。慌てて傍に立っていた生徒が介助すれば、先生は礼を云いながらミカを見上げ云った。

 

「聞きたい事も、話したい事も沢山ある、でも今は……」

 

 一度言葉を止め、先生は柔らかな口調で以て続けた。

 

「三人で、話さなくちゃいけない事も、沢山あると思うから」

「――……うん」

 

 そうだ、自分達は沢山――沢山話し合わなくちゃいけない。

 これまでの事も。

 これからの事も。

 ちゃんと、三人で。

 

「ありがとう、先生」

 

 感謝の言葉は随分とすんなり口に出来た。紙袋を抱き締め、ミカは小さく頷く。喪ったものは多い、けれど全部無くなった訳じゃない。

 今は――それだけで十分だった。

 

「ナギサ様!」

 

 地下回廊に生徒の声が木霊する。見れば階段を駆け下りて来る親衛隊の姿、彼女はナギサの直ぐ傍まで足を進めると弾んだ息をそのままに報告を行った。

 

「シスターフッド、正義実現委員会、救護騎士団、各区画の制圧完了との報告が――このエリアの安全が確保出来れば、アリウス自治区全域の制圧が完了するとの事です」

「そうですか、ご苦労様です」

「……ふぅ、何とか作戦は成功したようだね」

「えぇ」

 

 齎された言葉にナギサとセイアの二人は胸を撫でおろす。アリウス自治区の完全制圧、トリニティ総合学園の戦力を文字通りほぼ全て吐き出した上での結果なので、当たり前と云えば当たり前なのかもしれないが、肩の荷が下りた心地なのは確かだ。ナギサは両手を軽く合わせると淡々とした声色で告げる。

 

「であれば、そろそろ参りましょうか」

「参りましょうって、えっと……トリニティに帰るって事?」

「ミカ、それも間違いではないが、その前にやる事があるだろう?」

 

 ミカの言葉にセイアは呆れたような声で告げる。「やる事……?」と疑問符を浮かべるミカに対し、ナギサは仕方ない相手を見るような目線を送りながら口を開いた。

 

「ミカさんの聴聞会まで、もう時間がありません――議会は融通が利きませんからね」

「うぇっ!?」

 

 聴聞会――その言葉にミカの表情から血の気が失せる。

 そうだ、確かにそれがあった。時刻は既に早朝、陽が差し込む時間帯であり聴聞会の開始時刻も確か午前であった筈。今からトリニティに戻って間に合うかどうかと云った時間だろう。

 ミカは紙袋を抱えたまま自身の恰好を見下ろし思わずたじろぐ。だって肌も、髪型も、制服もボロボロで、とても大勢の前に出て行けるような恰好ではなかった。羽織った外套を強く掴みながら、ミカは慌てたように言葉を紡ぐ。

 

「い、今から? 私、結構ボロボロなんだけれど……? えーと、この恰好で行かなきゃ駄目? 着替えて傷の治療して、あっ、人前に立つんだから髪もセットし直して、化粧も――」

「はぁ……全く、君と云う奴は」

「まぁ、私達も徹夜した上に、前線に立っていましたから所々硝煙の香りが……しかし多少なりとも大袈裟な恰好をした方が同情を買える可能性も――? ミカさん程ではないにしろ、敢えて制服を汚していくのもアリかもしれませんよ、セイアさん」

「うわぁ……ナギちゃんこっすい」

「策略と云って下さい」

「……はぁ、止めたまえナギサ、私達が負傷すれば親衛隊に追及が飛ぶだろう」

 

 自分達の恰好すら政治的アピールに用いようとするナギサに、ミカは思わず率直なリアクションを取り、セイアは額に指を当てて首を振る。これはある意味、職業病に近いものなのかもしれないと、そんな事を思いながら。

 

「……聴聞会には、私も同行して良いかな?」

「え、えぇっ!?」

 

 ゆっくりと挙がる右手、先生は担架の上に座り込みながらそう口にする。掛けられた言葉にミカは驚きの声を上げ、セイアもまた目を見開く。

 

「い、いや、無理でしょ先生、そんな怪我で――」

「勿論です先生、全員で聴聞会に出席するのが、私達の約束ですから」

「な、ナギちゃん……!?」

「――と、云いたい所ですが」

 

 何処までも澄まし顔で頷くナギサ、まさか本当に連れて行くのかとミカが彼女に非難の視線を向ければ、ナギサは困り顔で再び問いかける。

 

「その、本当に大丈夫ですか? そもそも歩く事も出来ませんし、今にも死にそうな顔色で――」

「大丈夫さ、それに今にも死にそうな方が議会から同情が買えるかもしれないよ?」

「……い、いえ、確かに似たニュアンスでは口にしましたが、先生の場合は少々、度が過ぎているというか、洒落にならないというか」

「……まぁ救護騎士団も傍に付いてくれる筈だ、大事にはならないとは思う、しかし本当に問題ないのか、先生?」

「勿論」

 

 セイアの言葉に先生は自信に満ちた答えを返す。自分の事は自分が一番良く理解している、身体は碌に動かないし体調も最悪に近いが、しかし死ぬ事は無いと云う確信があった。バッテリーが無ければかなり厳しかっただろうが充電残量の問題が解決された今、生命維持を行うのに何ら支障はない。今直ぐ銃弾でも撃ち込まれない限り、即座に絶命する事は無い筈だ。死に行く感覚に関しては、先生はその直感と経験を深く信頼している。

 何なら聴聞会で敢えて体調を悪化させ、血反吐をぶちまけても良い。生徒(議会)に対し自身の身体を人質に取る様で心が痛むが、ミカの判決を有利にする為ならば芝居の一つや二つ打つ程度、何ていう事は無い。

 無論、これはどうしようも無くなった場合の最終手段になるだろうが。そういう事態にはならないだろうという信頼が、先生にはあった。

 

「う、うぅん……」

「ごめんねミカ、心配を掛けてしまって、実は私もトリニティに戻る道すがら皆に相談したい事があるんだ」

「相談したい事?」

「うん」

 

 不安げな声を漏らすミカに謝罪を口にしながら、先生は小さく呟く。小首を傾げるナギサ、目を瞬かせるセイア。先生は三人を視界に留めながら少しだけ考える素振りを見せ、それから崩れ落ちた外壁、地下回廊に差し込む陽光を見上げ。

 どこか遠く、噛み締めるような口調で告げた。

 

「トリニティ、アリウス、何よりこのキヴォトスの――未来について」

 

 ■

 

「――あら」

「………」

 

 トリニティ自治区――カタコンベ、外部避難通路。

 アリウス自治区を後にし、崩れ落ちた外壁を跨いで再び侵入したカタコンベ。トリニティ自治区へと続く薄暗い通路を歩くワカモの視界に、ふと見覚えのある銀髪が踊った。通路の終わり、出入口より差し込む陽光に照らされ薄汚れた外套を羽織ったまま振り向く彼女はワカモの姿と、その後方に続く忍術研究部の面々を見て笑みを浮かべる。

 

「忍術研究部の皆さん、御無事で何よりです」

「そちらも、無事切り抜けた御様子で」

 

 微かに罅割れ、血の付着した狐面を指先で撫でつけながら答えるワカモ。背後から響く荒い呼吸音に、彼女は肩を竦めながら仮面の奥で苦笑を漏らす。

 

「此方は無事、と云って良いのかは分かりませんが」

「う、うぅ……も、もう、無理ぃ~」

「さ、流石に、疲れ、ました」

「だ、大丈夫です、イズナは、まだ――」

 

 ワカモの背後に続くミチル、ツクヨ、イズナの三名。全員が全員、疲労困憊と云った様子で足元が覚束ない。地下回廊で別れてからというもの、ユスティナ聖徒会相手に大立ち回りを繰り広げていた彼女達は正に手持ちの弾薬、爆薬、忍具、全てを出し尽くした。アリウス自治区のユスティナ聖徒会、地下回廊に集った大半は全て撃退したと云っても過言ではない。

 

「ふふっ、此方も似たような状況ですわ」

 

 そしてそれは、美食研究会も同じである。苦笑を浮かべハルナが視線を背後に向ければ、カタコンベの壁際で屯する美食研究会の三名が見えた。

 

「私はまだまだ戦えますよ~☆」

「も、もう、歩けない……」

「お腹へったよぉ~……」

 

 壁に背を預け微笑を浮かべるアカリ、座り込んで動かないジュンコ、お腹を摩って項垂れるイズミ。全員どこかしらに負傷が見え、裂けた制服の向こう側には血や青痣の滲んだ肌が覗いている。持ち込んだ弾薬を全て使い果たしたのは彼女達も同じであり、ハルナはすっかり汗と硝煙の匂いが沁みついた髪を指先で払うとワカモへと問いかけた。

 

「それで、先生は何方に? あなたの事ですから、脱出前に確認したのでしょう?」

「……えぇ、トリニティに無事保護されたのをこの目で確りと、救護騎士団も同行していたので適切な治療も受けられるでしょう――例のバルバラと戦ったミカさんも無事の様でした」

「そうですか、それなら一安心ですわね……!」

 

 両手を合わせ、嬉しそうに微笑むハルナ。きっと先生は本懐を遂げたのだろう、スクワッドが何処に消えたのかは不明だが第一は先生、その生存と安否が確かめられたのなら云う事は無い。態々此処で待っていた甲斐があるという物。

 聞きたかった事を聞けた反動、安堵の為か不意にハルナの腹が鳴る。思わず赤面した彼女は指先で腹部を撫でつけ、恥ずかしそうに呟いた。

 

「あら、失礼致しました――夜通し動き回ったので、流石に空腹でして」

「………」

「あぁ、そうです、良い機会ですし、宜しければ御一緒に食事でも如何ですか? 丁度これから美食研究会の皆で食べに行こうと考えておりまして――」

「えっ、ごはん!?」

 

 その言葉に背筋が伸びるミチル、昨夜突然ワカモから招集が掛かり碌に食事も摂っていなかった忍術研究部。日付変更前から陽が上る今の今まで戦い続けた彼女達も相応に腹を空かせている。その反応を見たワカモは溜息を噛み殺し、彼女の名を呼んだ。

 

「ミチルさん」

「えっ、あ、いや、ほ、ほら……! 私達も結構動き回ったから、お腹減ったなぁ~って思って、ワカモも流石にお腹減ったでしょ!?」

「それは――」

「ふふっ、美食研究会の名に恥じぬ一品を保証致します、彼女ならば大人数であっても手早く作って下さるでしょうし――ゲヘナの食堂はとても広いですから」

「ほらっ、こう云っているし……! ね、ね?」

「何でも良いから、早く行こうよぉ~……」

 

 ハルナの言葉に目を輝かせるミチル。反対側で腹を擦るイズミは急かす様に声を上げる。ワカモは各々の表情を眺めた後、静かに息を吐き出し残った二名の名を呼ぶ。

 

「……はぁ、イズナさん、ツクヨさん」

「わ、私は、皆さんと一緒なら、な、何でも、大丈夫です」

「お腹は、確かに減っていますが……」

「先生の所に赴くにも、手土産の一つや二つなくては恰好が付きませんもの、先生の元――シャーレには後日、皆さん一緒に改めて伺いましょう」

「そ、そういう事であれば」

 

 ハルナの言葉に、イズナは渋々と云った様子で頷く。補給を済ませて直ぐにでも先生の所に急行したい気持ちがあるのだろう、そしてそれはワカモとて同じだ。しかし、現在先生の身柄はトリニティが保護している。指名手配犯のワカモ、ゲヘナ所属の美食研究会、どちらもトリニティ総合学園本校舎に堂々と正面切って入るのは難しい。ならば先生がシャーレに戻ってから伺うのがベスト、そんな思惑と共に告げられた言葉にワカモは口を噤んだ。

 

「あっ、でもあんまり高いのは……そのぅ」

「あら、そんな無粋な事は申しません、費用(食材)は全て此方で持ちますわ」

「えっ、良いの!?」

「一夜限りとは云え共に背中を預け合った仲ですから、遠慮はいりません」

「や、やったぁ! イズナ、ツクヨ、美味しいご飯がいっぱい食べられるよ!?」

「さぁ、そうと決まれば早速参りましょうか」

 

 手を合わせ軽い足取りで歩き出すハルナ、その背後に続く美食研究会。

 

「やったぁ~ッ! ごっはん! ごっはん!」

「ぅ……イズミ、あんた本当に元気ね……?」

「ジュンコさん大丈夫ですか? 辛かったら私が担いで歩きますよ」

「お、お願い、お腹が減ってもう一歩も歩けない……」

 

 アカリがジュンコを担ぎ上げ、イズミは食事に胸を弾ませながらステップを刻む。ワカモは狐面を二度、三度撫でつけ、それから観念したように足を進めた。彼女に続き忍術研究部も駆け出し、全員が並んだまま眩い陽光の中に消えていく。

 

「そう云えばワカモさんは普段、どの様なお食事を?」

「……基本的には和食でしょうか、あまり意識して口に運ぶ事はありませんが」

「あら、漫然とした食事は感心致しませんね? 食とは常に意識して行ってこそ、素晴らしい美食に繋がると云うもの――」

「ねぇねぇ、忍者ってやっぱりご飯も凄い奴を食べていたりするの? 身長とかおっきいのに速いし! 秘伝の料理とか、あったりする!?」

「え? い、いえ……その、多分普通の、えっと、精進料理とか、お、おむすびとか――?」

「それにしても、あの爆発は凄かったですねぇ~、私も榴弾を扱っていますから、アレには中々素敵なものを感じました☆」

「あっ、もしかして私の考案した忍術!? でしょ、でしょ!? やっぱりこう、忍者を名乗るからには火を扱えて漸く一人前みたいな所あるし、炎って動画映えもするから凄く助かってさ~! イズナの爆裂手裏剣も私が改良して威力と爆発した時の火花が――」

「ぅー……ねぇ、何かおやつとか、美味しいの、持ってない……? 飴玉とか、ガムとか、口に入れられるなら何でも良いんだけれど」

「おやつですか? うーん、イズナのポーチには基本的に忍具の類しか……あっ、一個これが残っていました!」

「な、なにそれ?」

「イズナ特製、狐の縫い包み(身代わり人形)ですっ!」

「……食べ物じゃないじゃん」

 

 ■

 

「わ、わっ……!」

「気を付けろヒヨリ、此処は足場が悪い」

「は、はい、そうですね……!」

 

 眩い陽が差し込んでいた。

 鬱蒼とした森の中、微かに地面を照らす木漏れ日を浴びながら歩き続けるスクワッドの四名。碌に整備もされていない錆びた鉄道に沿って歩き、時折見える木製の電柱を見上げながら息を吐く。吹きすさぶ風の肌寒さに指先を擦れば、先頭を歩いていたヒヨリが大きな背嚢を背負ったまま振り向く。

 

「こっちの方面に来るのは初めてですね、というか此処、殆ど森というか……」

「廃線になった鉄道を辿って来ているんだから、仕方ない」

 

 後ろに続くミサキが気怠そうに肩を竦め、答える。緊急避難通路の一つを使用しアリウス自治区を脱出したスクワッドは、遥か昔に廃線になった鉄道を辿って深い森の中を歩いていた。広大なトリニティ自治区の中、既に彼女達が知っている地図の外側へと足は進んでいる。風で揺れる木の葉を見上げながら、ヒヨリはぽつりと言葉を零す。

 

「この道は、一体どこに繋がっているんでしょうか……?」

「さぁね、地図もないし、端末も持っていないから」

「取り敢えず進んでみよう? 何処だって同じ、これから私達が初めて歩く道だから」

「そ、そうですね……!」

 

 姫――アツコの言葉にヒヨリは頷き、再び線路の上を歩き始める。この先が何処に繋がっているのか、道を歩いた先に何が在るのか――彼女達の誰もそれを知らない。知らないままに歩いて行く。

 

「………」

 

 ふと、最後尾を歩いていたサオリが足を止めた。疲労に草臥れた足を指先で軽く叩き、前を歩く仲間の背中を見つめる。

 途端、何とも表現し難い感情が胸中に湧き上がった。

 

「……私は」

 

 唇を噛み締め、呟く。

 それは迷いだった、葛藤と云い換えても良い。このまま自分は彼女達と共に、この道を真っ直ぐ進んで良いのだろうかと云う漠然とした不安。

 聖園ミカに語って聞かせた言葉に嘘はない。錠前サオリは、自分の事を疫病神だと信じている。自分が率いなければスクワッドはもっとマシな未来を掴めたかもしれない、自分が居なければ聖園ミカはあんなに苦しい想いをしなくて済んだかもしれない。自分がもっと――上手くやれていたら(白洲アズサの様になれていたら)。そんな想いが捨てきれない、自責の念が沸々と湧き上がる。

 このまま彼女達と共に道を歩む事で、再びそれを繰り返す事をサオリは恐れていた。大切だからこそ彼女達には良い未来があって欲しい、幸せになって欲しい。自分が居ればそんな彼女達の未来をまた邪魔してしまうのではないかと、そんな恐怖を捨てきれないで居たのだ。

 直ぐ前を歩いていたミサキの背が少しずつ遠ざかる。ミサキは頭が良い、きっと彼女が居ればスクワッドが他所の部隊に捕まる様な結末にはならないだろう。

 それなら、(サオリ)は――。

 

「――リーダー」

「っ……何だ、ミサキ?」

 

 ふと、そのミサキが足を止めた。

 土を踏み締めていた足音が止まり、傷と砂利に塗れたミサキが振り返る。担いだセイントプレデターを弾ませ、億劫そうに此方を見るミサキの目は真剣だった。木漏れ日が彼女の顔を照らし、その輪郭が淡く輝く。

 

「今更」

 

 乾き、血の滲んだ唇が言葉を紡いだ。

 

「今更、一人で何処かに行くなんて、ナシだよ」

「………」

 

 見透かされていた。

 或いは、予期されていた。

 サオリは思わず言葉を失くし、ぐっと自身の肩が強張るのを自覚する。ミサキはそんな彼女を見つめながら淡々と、けれど同時に懇願する様に、そっぽを向いて続けた。

 

「皆の事を家族って、最初にそう呼んだのは――サオリ姉さん(リーダー)なんだから」

 

 皆一緒だって、最初にそう叫んだのは。

 それはまだ彼女達が小さく、弱く、無力であった頃から。

 そして今日に至るまで常にサオリの中にあった言葉だ。何もかもバラバラで、血の繋がりなんてなくて、放っておけば直ぐにでも野垂れ死んでしまう様な自分達を集めたのは彼女(サオリ)だ。

 そして家族と云うのは、一方的な感情や関係によって成り立つものではない。

 サオリが皆をそう想い、呼んだように。

 彼女達もまたサオリをそう想い、呼ぶのだ。

 

 ――家族と。

 

「云ったよね、こんな酷い世界でも一緒に苦しんでくれる人が居るなら、まぁ、そんなに悪くないって」

「………」

 

 それは、ミサキの不器用な愛情表現に他ならない。普段遠回しでもそんな事を口にしない彼女が、精一杯譲歩して、或いは勇気を振り絞って告げた言葉。見間違いだろうか、微かに紅潮する頬はミサキの内心を表している様にも見える。ミサキは陽に照らされたそれを隠すように背を向けると、僅かに遠くなったヒヨリとアツコの背に視線を向け、ぶっきらぼうに云った。

 

「……行くよ、二人に置いて行かれる」

「……あぁ」

 

 ――そうだな。

 

 サオリの声は晴れやかで、吹っ切れた様に聞こえた。

 小走りで二人の背を負うミサキ。その背中に続いて、ゆっくりと足を踏み出すサオリ。踏み出す一歩は想ったよりも軽く、弾むように地面を蹴った。ミサキの言葉はサオリの背中を強く押し出し、鉛の様な感情を吐き出させてくれた。

 誰かに必要とされる事、家族だと認めて貰える事、想われる事。

 それは当たり前の様で、けれど少しだけ難しい。

 

「えっと、取り敢えずアリウス自治区から離れはしましたが、これからどうしましょう……?」

 

 いつも通り、何て事のない様子で先頭を歩くヒヨリが首だけで後方を振り向き問いかける。視界の先にはアツコ、ミサキ、サオリの順に顔が見える。誰も欠けてなんて居ない、ミサキは背後に続くサオリを一瞥し、それから答えた。

 

「アリウス自治区にも、トリニティにも、ゲヘナにも、私達の居場所はない、足を踏み入れたらすぐさま部隊を差し向けられるだろうね……多分だけれど、何処の自治区も同じ筈、これからも追撃から逃げる為に街を転々とし続ける事になると思う」

「………」

「私達を待ち受けているのは、そんな未来だよ」

「――大丈夫」

 

 ミサキの発言は至極真っ当なものだった。アリウス自治区から脱出出来たのは事実だが、しかし全ての問題が解決した訳ではない。過去からは逃げられない。為した罪は一生自分達を苦しめ続ける。そんな思いから発せられた言葉に、しかしアツコは手を叩いて明るく告げる。

 マスクに覆われる事無く、真っ直ぐ前を見据える彼女は強かであった。木漏れ日に照らされた彼女の表情はどこまでも輝いて見える。

 

「私達は、きっと大丈夫だよ」

「……姫、これからの生活は皆が思っているより簡単な事じゃない、一度味わったのだから知っているでしょう?」

「うん、でもきっと大丈夫」

「………」

「だって、こんな事で弱音を吐いたら、コンクリートに咲いた花に失礼だから」

 

 難しい事は理解している、これから自分達に降りかかる困難はきっと自分達が思っている数倍以上に辛く、苦しいものなのかもしれない。けれど、アツコは今度こそ諦める気なんてないし、悲観的になるつもりもない。

 彼女は振り向き、最後尾を歩くサオリに笑顔を向ける。

 

「ねっ、サッちゃん?」

「―――」

 

 だって、それを為した家族(アズサ)が既に居るのだから。

 数歩前に進んだ彼女は、指先を一本立てながら謳う様に告げる。

 

アズサ(あの子)はあの時、小さな青い花を見てこう云っていた、たとえそれが虚しい事であっても、抵抗し続ける事を止めるべきじゃないって」

「……姫」

「アズサがやり遂げているのだから、私達だって出来ない訳じゃない、だって――」

 

 ふと、足を止めたアツコが空を仰ぐ。

 樹々の隙間から垣間見える蒼穹は何処までも広がっていた。

 

「私達の青春は、私達だけのものだから」

「………」

「ちゃんと見守ってくれる大人もいる――ね、そうでしょう?」

 

 それが、誰を指している事なのかは明白だった。アツコの言葉にミサキとヒヨリの二人は口を噤み、思わず顔を見合わせ――しかしゆっくりと頷いて見せる。

 

「そう、ですね」

「……うん」

 

 確かに状況は好転していないかもしれない。これから過ごす未来は困難に満ち溢れているかもしれない。けれど、ひとつだけ過去と異なる点がある。

 頼れる大人が居る――自分達に味方して、見守ってくれる大人が。

 利益の為なんかじゃない、他者の為に、子どもの為に、自分達の為に必死になってくれる人が居るという事実は彼女達の心に勇気を与えてくれた。だから怖くても、苦難に塗れた道であっても、彼女達は恐れずに進む事が出来る。

 

「そ、そう云えばサオリさん、先生から頂いた腕章は付けないんですか?」

「ん、いや、これは……今の私が付けるものでは――」

 

 ヒヨリの言葉に、サオリは外套のポケットに仕舞い込んでいた腕章を取り出す。これは今の自分が身に着けるべきものではない。もっと未来の、道を定めた時の自分が身に着けるべき大切なものだ。そんな想いを秘め、僅かに汚れた青色を見下ろす。

 ふとサオリは、指先の違和感に気付いた。

 

「………」

「リーダー?」

 

 指先に感じるざらついた感覚、それに違和感を覚え腕章を裏返して見ればテープで貼り付けられた小さな紙に気付いた。サオリが訝し気な視線でテープを剥がせば、何やら異変に気付いたスクワッドの面々がサオリの元へと集まり彼女の手元を覗き込む。

 

「サッちゃん、それって」

「め、メモ用紙ですか?」

「……あぁ、腕章の裏面に貼り付けられていた」

 

 呟き、折り畳まれていたそれを開く。陽に照らしてみれば中には文字がびっしりと書き綴られており、サオリはそれを指先で丁寧になぞりながら読み取った。同じように視線で文字を追うスクワッドの面々は、綴られた内容を読んでいく内に困惑を滲ませる。

 

「これって、住所か何か?」

「い、色んな自治区と区画の名前が書いてありますけれど……」

「――多分これ、先生のセーフハウスの位置情報だ」

 

 ミサキはメモ用紙に視線を落とし読み進めていく内に、それが住所である事に気付いた。態々そんなものを秘密裏に仕込んだという事は先生の個人的なセーフハウス、或いは協力者がいる場所である可能性が高いとミサキは考える。

 しかし後者の場合は余りにもリスクがある様に思えた、スクワッドの悪名は既に多くの生徒が知る所だろう。故にミサキは記載されている位置情報には先生のセーフハウスがあるのだと推測し、口にした。尤もこれが自分達宛てに書かれたものであれば、という前提であるが。

 しかし腕章に態々こんな形でメモを仕込むなんて、十中八九自分達の為に用意したものだろう。ミサキは余りの用意周到さに溜息を吐き出す。

 

「え、えぇッ!?」

「補給に使えという事か……参ったな」

 

 綴られたそれは各自治区毎に分けられており、トリニティ、ゲヘナ、アビドス、ミレニアム、百鬼夜行、レッドウィンター等、主要な自治区には必ず一ヶ所存在している。用紙の最初から最後までびっしり埋まった文字に、サオリは苦笑を零した。

 

「もう既に、返しきれない程の恩があると云うのに――」

 

 或いは、困った時はいつでも頼って欲しいと云う事なのだろうか。逃亡生活の中で先生に連絡を取るのは中々難しいだろうが、しかし手段がない訳ではない。それに先生の事だ、この住所の場所に何らかの端末や連絡手段を用意していても可笑しくはない。

 

「せ、セーフハウスって事は、ご飯とか、お風呂もあるんでしょうか……!?」

「お風呂は分からないけれど、小さなシャワールーム位はあるんじゃない? 食料もまぁ、備蓄はあるだろうし……」

「そっ、それなら早く最寄りの場所に行きましょう! 何処かで地図か何かを調達して、それから、それから……!」

「ちょっと、ヒヨリ」

 

 目の前に現れた唐突な希望に、ヒヨリは勇んで駆けていく。ずっと逃走生活で、そこから戦闘に次ぐ戦闘、草臥れた体を休めたいという気持ちは良く分かる。それもちゃんとした場所で体を横たえられるというのなら気分も高揚するだろう。埃や苔に塗れた廃墟と比較すれば大抵の場所は快適に過ごせる筈だ。それも周囲を壁に覆われ、屋根があって、ベッドがあるかもしれないというのなら尚更。

 

「はぁ……全く、ホント現金」

 

 駆けていくヒヨリの背中、そんな彼女に辟易とした様子で言葉を零し続くミサキ。それを見て、サオリはゆっくりと足を踏み出す。

 

 私達は犯罪者だ――追われる身でもある。

 ここから先の未来はきっと、苦しい日々が続くだろう。自分達の居場所は無くなり、身一つで世界の只中へと放り込まれた。その日食べるものにも困るだろうし、安定した生活など望むべくもない。元々無いも同然の学籍であったが、身元も分からない自分達が生きていくとなると相応に厳しい環境に身を置かなければならない。

 

 しかし、その苦難の果てに――厳しい旅路の向こう側に、私達にも素晴らしい未来があるというのなら。

 そんな事を思うサオリの隣に、そっと並ぶ影が一つ。

 

「――きっと、訪れるよ」

「……アツコ」

「最後にはきっと、私達にも」

 

 まるで思考を読み取ったかのように彼女は告げる。並び歩くアツコは、サオリを見上げ笑っていた。

 とても綺麗に、花が咲いた様に。

 

「とっておきの、素敵なハッピーエンドが」

「――あぁ、そうだな」

 

 

 そう信じる事は、出来るのだ。

 

 

「サオリさん、姫ちゃん、早く行きましょう!」

「はぁ……リーダー、姫」

 

 先を駆ける二人が声を響かせる。降り注ぐ木漏れ日、陽に照らされた向こう側で笑う家族。木々の陰に佇むサオリは、同じように陰に覆われた姫――アツコに向かって手を差し出す。

 

「行こう、アツコ」

 

 陽光に浮かぶ傷らだけで、擦り切れた指先。

 ずっと自分達を守り続けた手のひら。

 それを見つめ、アツコはサオリの顔を見上げる。

 向けられた瞳を真っ直ぐ見返すサオリは、彼女と同じように笑みを浮かべ告げた。

 浮かべた笑顔は、今まで見た事もない程に晴れやかで――優しさに満ちていた。

 

「私達の青春(これから)を、取り戻しに」

「……うん!」

 

 サオリの言葉に、アツコは満面の笑みで差し出された手を取る。握り締めた指先、自分達の名を呼ぶ二人(家族)

 そうして陰から陽の当たる場所へ、彼女達は一歩を踏み出す。

 

 眩い陽光が、彼女達の笑顔を照らしていた。

 

 

 

 エデン条約編・後編 第二章 完。

 


 

 

【今後の方針と私信】

 

 長かった、唯々長かった。幕間の投稿をしたのが九月十日、そこから今日に至るまで四ヶ月以上が経過している。普段なら三ヶ月で完結する章がプラス一ヶ月必要だった、それだけエデン条約後編が濃い内容だったのですわ。

 その間に色んなメインストーリー、イベントが挟まって新しい情報も解禁されましたの。でも此処まで来るとマジでプロット捏ね繰り回す余地が無くなって来るのですわ……。一年と四ヶ月書き続けておいて、「実はこの設定はウソでした~!」なんて出来ません事よ、初期設定と何とか折り合いをつけて投入された新情報を臨機応変に盛り込んでいくしかないのです、そう、エデン条約編前編の最中に最終編がぶち込まれた時のように……! 

 

 兎にも角にも今はエデン条約編という大きな章を書き切れた事に安堵しておりますの。二百万字必要かもと云っていた一年前の私、ちゃんと二百万字以上必要でしたわ、Wordだとボツ含めて二百三十万字ですの、イカれてんじゃねぇですの? ワタシノカラダハボドボドダ!

 

 さて、次章についてですが、いつも通り一ヶ月か二ヶ月のお休みを挟んだ後、再び連載を開始しますわ! 色々考えたのですがパヴァーヌ編は後編から手を出す可能性が高いですの。後編前に一応、本編を履修していない方向けのダイジェストをサラっと書いて、そこから後編をそのまま書くのが良いかなぁと。正直パヴァーヌ前編を書くのならば、アビドス編の直後にやるべきでしたわ……。

 パヴァーヌ後編は必ず書くのですが、カルバノグの兎編に関しては正直書けるかどうか何とも云えない感じです。最終編を鑑みると書いた方が絶対に良いのは分かっているのですが、一章書くのにまた三ヶ月と五十万字前後なので仮にパヴァーヌ後編、カルバノグ前編をやるとなると今からプラス百万字になり、総文字数は三百万字になりますの。それに加えて最終編(エデン条約編に匹敵する長さと濃さ)になると多分総文字数四百万字とかになりますわ。もしパヴァーヌ前編入れたら四百五十とかですわよ。

 此処まで書いて半分とかマジですの? 嘘でしょ? と現実逃避したくなるので書けるかどうかは未来の私に任せますわ。此処で「書けますわ~ッ!」と断言出来る人間であれば良かったのですが、もう一年と半年書き続けられるかと聞かれると現実の忙しさと健康的に断言出来んのです、最終編は書きたくて書きたくて仕方ないのですが、其処に至るまでが余りにも遠いのです。エデン条約編で先生の四肢を吹き飛ばしたくて、その一心でアビドス編書いていた心境に似ていますわね。

 まぁでも恐らく書く事になるのでしょう、先生とプレ先の戦い見たい……ちゃんと最後まで足掻かせてあげたいのですわ。

 一先ず現状としては。

 

・私の肉体が爆発四散しそうな場合

【パヴァーヌ後編】⇒【最終編】

 

・ある程度余裕があって普段通りなら

【パヴァーヌ後編(前編ダイジェスト)】⇒【カルバノグの兎編】⇒【最終編】

 

・余りにも要望が多く、かつ私の気力があれば

【パヴァーヌ前編(過去)】⇒【パヴァーヌ後編】⇒【カルバノグの兎編】⇒【最終編】

 

 以上の四通りになっておりますの。まだ決まっておりませんが一、二ヶ月休んで復活したら考えますわ! 頑張って未来のワタシ!

 取り敢えず更新再開する時はTwitter(X)の方でお知らせ致しますわ。それと凄く今更な話なのですが、Twitterの方で沢山の方にフォローして頂いて恐縮ですの……。月に一回か二回しか投稿しないへっぽこアカウントですのに、殆ど返信できなくてごめんなさいね。

 

 さて、取り敢えずお知らせする事はこれ位でしょう。九月十日から今日の一月二十日まで、四ヶ月もの間お付き合い頂いて感謝ですわ! どうせ此処まで見たなら感想とか、評価とか、ここ好きとか諸々よろしくお願い致しますわよ~!

 

 それではまた一ヶ月か、二ヶ月後にお会い致しましょう!

 わっぴ~☆



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幕間
穏やかで、平和で、暖かな。


前回までのあらすじ:色々あって先生が苦しんだけれど生徒は皆無事なのではっぴ~!


 

「う~ん、やっと戻ってこれたね! やっぱり独房より自分の家が一番だよ!」

「ミカさん、まだ聴聞会全体が終わった訳ではないのですから――」

「やれやれ、相変わらずだね」

 

 大きく伸びをし、周囲を見渡すミカ。彼女の溌剌とした笑みに背後から続くセイアは呆れを、ナギサは苦笑を零す。

 場所はトリニティ総合学園、パテル分派首長である彼女が所有する個人邸宅。各分派の首長ともなると学内に於いて寮ではなく邸宅が用意され、割り振られる資金もまた莫大なものとなる。内装はミカの趣味が反映され絢爛華麗というよりは、やや少女趣味のきらいがある。とは云ってもあくまでアクセント程度のもので、本質的にはナギサの使用している邸宅と然程変わりはない。

 住み慣れた自宅へと戻った彼女は久方振りの我が家に表情を綻ばせ、リビングに備え付けられた長椅子に腰掛けた。ふわりとした感触に感じる反動、これだ、これぞ我が家。パテル分派の傍付きが定期的に清掃も行っていたのか埃っぽさも感じない。他分派の過激派、その侵入を許した時点で廃屋同然となっている覚悟もしていたが――どうやら杞憂であったらしい。

 

「聴聞会の結果次第ではこの邸宅も没収だろうに、そうなったら他の生徒と同じ寮住まいになるだろう」

「ティーパーティーとしての権限剥奪は回避するつもりですが、幾分か範囲が縮小する可能性は、確かにありますね……」

「まぁ、その時はその時だよ――屋根裏部屋のお姫様っていうのも、中々ロマンチックじゃない?」

 

 長椅子に背を預け両足を揃えて投げ出したミカは余裕そうな表情で応える。そこには未来に対する不安や焦燥といったものが微塵も見えなかった。一瞬顔を見合わせたセイアとナギサ、何となく彼女の言動に違和感があった。しかしその正体を探る様な真似はせず、二人は静かにテーブルを囲う様に配置された長椅子、それに腰を落とす。

 

「屋根裏部屋とは、やけに具体的な部屋割りですが……しかし、今回の様子であれば邸宅に関しても没収は回避出来るでしょう、セイアさんの復帰に合わせ、パテル分派とサンクトゥス分派の対立も目に見えて沈静化しましたし、結果論ではありますがトリニティの結束をより強固にする要因にもなりました」

「アリウス自治区を自分達の手で攻略出来たという点も大きいだろうね、本来であれば弱みであったミカの独断行動もナギサの根回しで良い様に受け止められている」

「善悪は兎も角、政治に於いて根回しは重要ですからね、その分各所に随分と借りを作ってしまいましたが――」

「そうだねー……っと、そうだ、頼んでいたお菓子届いているかな?」

 

 暫し椅子に凭れ掛かって脱力していたミカだが、ふと何かを思い立ったのか長椅子より立ち上がり、傍にあった棚へと駆け寄っていく。長椅子の傍に並ぶ棚にはティーカップやソーサー、ポッドが並び温められた湯が常備されていた。綺麗に整頓されていたソレを片っ端から開け、中を覗き込むミカ。そんな彼女の背中を呆れ顔で見つめながらナギサは咳払いを一つ挟む。

 

「んんっ、それでミカさん、今回はどのようなお話でしょうか?」

「えーと、こっちは紅茶で、御菓子は~……え? 何、ナギちゃん、何か云った?」

 

 片手に茶葉の入ったパックを持ち、目を瞬かせながら振り返るミカ。何とも云えないその間抜けな姿にセイアは溜息を零し、胡乱な目を彼女に向けながら再度問いかけた。

 

「態々君の個人的な邸宅に招いた上で設けた会談だ、ティーパーティー内部では口に出来ない様な内容なのだろう?」

「行政官か、監視官か、ミカさんが遠ざけたかった対象が何であるかは分かりませんが、今は私も、そしてセイアさんの傍付きも席を外しております、この場での会話を耳にするのは私達三人だけです」

「え? あ、いや――」

 

 二人の言葉に困惑と焦燥を滲ませるミカ。視線を彷徨わせる彼女にセイアとナギサの両名は疑問符を浮かべる。

 ミカの軟禁状態が解除され、個人邸宅への帰宅が認められた初日――そんな日に彼女自らがセイアとナギサ両名を招待し、茶会を開こうと口にした。先の事件に関する事もあり、何かしら独房内では口に出来ない様な相談事、或いはそれに準じる密談があると勘ぐっていたが。

 予想に反しミカの様子は余りにもいつも通りで、張り詰めた空気や真剣な面持ちなど欠片も無い。そんな空気を感じ取ったのか彼女は手に持った茶葉の入った紙袋を握り締め、恐る恐ると云った風に口を開いた。

 

「その、普通に皆とお喋りしたいなぁって……そう思って招待しただけ、なんだけれど」

「………」

「………」

 

 一瞬、部屋に沈黙が降りた。

 セイアとナギサはミカを真っ直ぐ見つめ、暫くの間言葉を紡ぐ事が無かった。ただ見開かれた瞳が彼女達の衝撃を物語っており、それを悪い方向へと捉えたミカは肩を竦め、気まずそうに続ける。

 

「えっと、もしかして駄目だった?」

「い、いえ、そんな事は全くありませんが……」

「……ふぅ」

 

 しどろもどろに答え、視線が泳ぐナギサ。彼女の動揺が手に取る様に分かる。セイアは自身の額に指を当てゆっくりと首を振り、「やれやれ」と云わんばかりに肩を竦めた。

 

「ミカ、確かに独房の中に居ては食事も限られていただろうが、拾い食いなど全く、流石の君でもそこまで品位を売る様な真似はしないと思っていたというのに……」

「セイアちゃん、それどういう意味? もしかして悪いモノでも食べたって云いたいの?」

「はッ! まさか、毎食ロールケーキだった事が原因で栄養が偏って――」

「ナギちゃん?」

 

 ナギサの言葉に対しぴくりと眉を動かすミカ。幼馴染を呼ぶ声には隠しきれない怒気が秘められていた。一体何だと云うのだ、お茶会に招待したくらいで何故こうも悪い様に云われるのか。ミカが笑みを浮かべながら内心で不満を蓄積させる中、ナギサは戦々恐々とした様子で告げる。

 

「で、ですがその、正直な所ミカさんらしくないと云うか、もっとこうちゃらんぽらんで、楽観的で、憎まれ口を悪気なく発するのがミカさんであって――」

「えー、ナギちゃんの私に対する印象酷くない? 私そんなに頭空っぽじゃないよ?」

「自覚がない点が正にだろう……しかし」

 

 ナギサの意見に同意しながらミカを見るセイア。確かに以前の彼女であれば自らこの様な場を設ける事はしなかっただろう。仮に何らかの形で場を持ったとしても「セイアちゃんのお話ってつまんなーい」、「ナギちゃん紅茶の話ばっかじゃんね?」と茶化すか喧嘩を売る様な真似を積み重ねて来たのが彼女だ。今回の件も何か、そう云った事情を押した上で伝えるべき、『重要な何か』があるのだろうと推測して受けた話だったというのに。

 まさか本当に何て事の無い、紅茶を啜りながら菓子を摘まみ、雑談する事が目的など夢にも思わないだろう。セイアは心なしか背筋を正すと、真剣な面持ちで問いかけた。

 

「本当に、一体どうしたと云うんだミカ? 聊か以上に驚きが勝る、以前よりも随分と君は……何だ、素直な物云いになった」

「……明け透けな物云いと口にしなかった分、セイアさんにも配慮が見られますね」

「ナギサ、一言多いよ」

 

 澄まし顔で頷くナギサに、セイアはちくりと言葉を刺す。そんな二人を見つめながら一瞬考える素振りを見せたミカは、再び棚の中を漁りながらぽつぽつと言葉を漏らした。

 

「んー、別に変なものを食べた訳でもないし、何か特別な意図とか下心とか、そういうのは全くないんだよ? ただ、何て云うのかなぁ――」

 

 棚の中を物色しながらミカは思う。

 言葉を捏ね繰り回す事を、自分は得意としていない。

 そもそも何か深く物事を考えたり、駆け引きだとか、そういったものを駆使する才もない。だからミカは率直に、ありのまま自分の想っている事をそのまま言葉にした。それが一番大事で、大切で、時に幾万の言葉に勝る事を彼女は知っていたのだ。

 

「純粋にこうして一緒に紅茶でも飲んで、御菓子を摘まんで、どんなくだらない事でも、中身のない会話でも良いの、そういう事を二人としたかっただけ――気の置けない友達同士で、ね?」

「………」

「………」

 

 漸く見つけた菓子袋を手に取り、微笑みを見せるミカ。彼女のそれを見た二人は面食らった様子で黙り込み、ミカが三人分のティーカップと紅茶、そして菓子を用意するまで言葉一つ紡ぐ事が出来なかった。コトリと、自分達の前に差し出された一杯の紅茶――湯気を立ち昇らせるそれを見下ろし、ふわりと対面に腰掛ける。彼女は二人の視線に気付くと、悪戯っぽく口の端を歪めウィンクをして見せた。

 

「偶には良いでしょう? こういうさ、何て事の無い集まりも!」

「……ふむ」

「……えぇ」

 

 頷き、ぎこちなく紅茶を手に取った。思えばミカが紅茶を自ら淹れた事などあっただろうか? そう思うと、目の前の一杯が様々な意味で貴重な一杯である様な気がした。砂糖の量、ミルクの有無、それはもう互いが互いを知り尽くしている。セイアは風味を損ねない程度の甘味とまろやかさを、ナギサは紅茶本来の香りと味を。

 思えば何らかの問題を解決する為、派閥間の云々を語る目的もなく席を共にした事は何度あっただろう? こうして何の憂いも、早急に対応すべき問題もなく、下心も打算もなく、ただ語り合うだけを目的とした茶会など、自身が憶えている限り遠い昔の事の様に思えた。

 

 一口、紅茶で唇を湿らせた二人は吐息を零し、静かにカップをソーサーへと戻す。セイアは水面に写る自身を見下ろしながら、僅かに緩んだ頬をそのままに呟いた。いつも仏頂面でいた自分が、今は少しだけマシな表情をしている様に感じられたのだ。

 

「そう云えば、こうしてティーパーティーという肩書すら背負わずに席を共にしたのはいつ振りだったか、随分と……遠い日の事に思える」

「あははっ、セイアちゃんその云い方、ちょっと年寄りっぽいよ?」

「ふふっ、ですが分かります、以前のように無邪気に、何の打算もなく茶会を開ける時間は限られていましたから」

 

 ナギサの口調は随分と穏やかだった。張りつめた空気が緩み、彼女本来の嫋やかさが顔を覗かせている。ずっと気を張っていた、張らざるを得なかった。トリニティに巻き起こった数々の事件や事態を想えば当然の事だ。だからこそミカはそんな二人の表情を横目に実感の籠った声を吐き出す。

 

「私はね、そういう時間を大切にしたいの――今度こそ」

 

 何て事の無い日常。

 危機に晒される事も無く、命が脅かされる事は無く。

 当たり前の様に明日があると信じられる、そんな日々の中で語られる山も谷も無い、ただ互いの輪郭をなぞる様な会話。

 毒にも薬にもならないそれが、どれ程貴重で輝かしいものであったかを彼女は知っている。だからこそミカはそんな日常を求める、大切にしたいと思っている。

 カップを手に俯く彼女のそんな言葉を二人は真摯に受け止める。セイアとナギサはミカの言葉を今回の騒動を顧みての変化だと受け取った。あの日から、ふと彼女がどこか大人びて見える時がある。それはあの事件を通して彼女が成長し、過去を顧みたが故の発言なのだろうと。

 そしてそれは、自分達にも当て嵌まる。

 今回の事件を通して変化したのは、ミカだけではない。

 

「そうですね、その想いには賛成します……ですがミカさん、この紅茶は頂けません」

「――うぇっ?」

「淹れ方から温度に至るまでなっていない点が多すぎます、これでは正義実現委員会で頂いた紅茶、救護騎士団で頂いた紅茶、そのどちらにも劣る仕上がりですよ?」

「え、いや、それどっちも紅茶に五月蠅い副委員長と団長が居る場所……」

 

 ナギサの発言にミカはあからさまに表情を歪め、ハスミ副委員長、ミネ団長の顔を思い出す。そのどちらも紅茶に関しては一家言あり、ナギサの長々しく矢鱈と小難しい紅茶談義に軽々と追従できる猛者である。自身であればきっと、五分で飽きて上の空になる事間違いなし。

 

「良いですかミカさん、以前も口にしたかもしれませんが紅茶と云うのはただ淹れれば良いという訳ではないのです、『次の茶会』では事前に連絡を下さい、手取り足取り教えて差し上げます」

「ナギちゃん紅茶の話になると凄く長いじゃん! 嫌だよ、お小言云われながら紅茶淹れるのなんて……!? ねぇ、セイアちゃんからも何か云ってよ!」

「諦めたまえミカ、こうなったナギサは手に負えない、それにお茶会と呼ぶからには紅茶か、それに準ずるものがメインに据えられるものだろう? この細やかなティーパーティー(お茶会)のホストとして責任を持つ事だね」

「えぇ~!?」

 

 どこかミカの苦悩を楽しむ様に、僅かに口元を緩めたセイアは素っ気なく告げる。茶会のホストとして準備する事が余りなかったミカである、その辺りに関しては改善の余地が十分にある。少なくともティーパーティーという名を冠した場所に座している以上、ある程度の腕前は備えていなければ嘘だろう。

 まだまだ雑味の残る紅茶――しかし、これはこれで味がある。セイアは手元のカップを覗き込みながら思う。

 アリウス自治区の今後、加えてアリウスに関するシスターフッドとの協議、トリニティの派閥間(パワーバランス)調整、ミカの聴聞会、ゲヘナとの外交、戦費の補填とティーパーティーの復権、及び救護騎士団、シスターフッド、正義実現委員会との関係構築……やるべき事は多岐に渡る。これからのトリニティは良くも悪くも変化を強いられるだろう、そして変化というものは時に強い痛みを伴うものだ。

 しかし、偶には思考を止めて休む事も大事。そしてその痛みを乗り越え、全ての試練を乗り越えた時――そこにはきっと、痛みを得る前には手に出来なかった大切なものが在る筈だ。

 願わくばその場所に、この三人で立っていられる事を。

 

 ――尤も、そんな恥ずかしい事を口にするつもりはないけれど。

 

「ところでミカさん」

「……ん、なぁにナギちゃん? 紅茶に関する抗議ならもうお腹一杯だよ?」

「いえ、それに関してはまた今度お願いします」

「まだあるんだ……」

 

 ナギサのすまし顔と共に告げられたそれに肩を落とすミカ。口元を指先で覆い忍び笑いを零すナギサは、暫し喉を震わせた後改めてミカの指先へと視線を落とした。

 

「アリウス自治区より帰還してから、時折目にしてよりずっと気になっていたのですが……」

「うん」

「その、左手に嵌めている銀の指輪は一体どういった経緯で?」

 

 ナギサの言葉に、セイアもまた視線をミカの指先に落とす。そこには先程からずっと鈍く輝く銀の指輪が嵌っていた。指輪自体は何度か目にした覚えがある、特にナギサは独房でもミカが指輪を大切に扱っていた事を知っていた。

 

「あっ、これ? やっぱり気になる? 気になっちゃう?」

「え、えぇ、まぁ……」

「………」

 

 指輪を指摘されたミカは、先程までの意気消沈した気配から一転。まるでこの世の春が来たと云わんばかりに表情を緩め、二人に対し緩み切った口元を晒した。頬に散らした桜色はミカの心情を如実に表し、二人はこの時点で『あっ』と何かを察した。これは実に面倒な話題であったと。

 

「これはね~、実はね? じ・つ・は~~~!」

「………」

「………」

 

 指輪を嵌めた左手を掴みながら、いやんいやんと体をくねらせるミカ。そんな彼女を見つめながら辟易とした表情を隠さない両名。面倒くさい、そんな言葉を吐き出しそうになり紅茶で無理矢理言葉を喉奥に流し込むナギサ。手元のシマエナガを指先で撫でつけ、溜息を堪えるセイア。そんな二人を流し目で見つめ、ミカは満面の笑みで爆弾を投下した。

 

「先生からプレゼントして貰ったの、『私のお姫様』って呼ばれながら!」

「ぶぼッ!」

「―――……」

 

 果たして、反応は劇的であった。

 ナギサは本来ではあり得ない様な醜態を見せ、セイアは一瞬身体が硬直する。ナギサは咄嗟に横を向いて噴き出した紅茶が虚空を舞う様を呆然と見送り、口の端から垂れた紅茶を指先で隠しながら慌てて問うた。

 

「せ、先生からの贈り物、ですか!?」

「うん、そうなの! 贈られたのは結構前なんだけれど、身に着けるだけの『覚悟』が無かったというか、あの頃は私の気持ちも固まっていなくて……」

「な、な、なん、な――」

「ナギサ、落ち着きたまえ」

 

 身に着ける覚悟、気持ちが固まっていない。

 そんなワードにナギサの表情が刻一刻と変化し、赤くなったり青くなったり忙しない。彼女の脳内ではミカがウェディングドレスで子沢山でピースで暖炉で大きな犬で子どもと一緒に編み物だった。それはもう一瞬で脳内を駆け巡る存在しない記憶、或いは訪れるかもしれない未来。

 えっ、ミカさんが、ミカさんが――先生と、ゴールイン? えっ、自分より早く? というかよりによって先生と? 

 今にも死にそうな表情で空想に浸るナギサを、セイアはいち早く再起動した意識で以て引き起こす。泰然とした様子で佇むセイアに、ナギサは震える指先をミカに向けながら云った。

 

「だっ、だっ、ミカさ、せんせッ、ゆ、ゆびわっ、く、薬指……!」

「……恐らく先生にそういった意図はない、何故指輪を贈ったのかは不明だがどうせミカの事だ、先生に強請ったかしたのだろう」

「えー、私そんなはしたない事しないよ?」

 

 ティーカップをカタカタと鳴らすナギサを前に、ミカは満面の笑みを浮かべる。セイアは額を指先で幾度か叩くと、努めて冷静な声色で続けた。

 

「だとしてもだ、君と先生が結婚、或いは婚約したという訳ではあるまい? ましてや指輪を身に着ける位置に関しては、君の意図が透けて見える……ナギサを揶揄うのはよしたまえ、ミカ」

「ぶー、ぶー」

「そ、そうなのですか、ミカさん……?」

 

 唇を突き出して不満げなミカに対し、ナギサはどうにか平静を持ち直す。問いかけられたミカはどこか詰まらなさそう肩を竦めると、渋々その事実を認めた。

 

「んー、まぁ、それはそうだけれど」

「そ、そうですか――良かった」

「でも先生は『私はいつでもミカの味方だから』って云ってくれたよ?」

「彼は生徒を皆大事に想っている、その言葉に嘘はないだろうが、君だけ特別扱いという訳ではない筈だ」

「ぶーッ! セイアちゃんってばホント意地悪! ちょっとくらい夢を見せてくれたって良いじゃん!」

「夢を見るのは勝手だが、事実を歪曲するのはまた別の問題だろう」

「……はぁ」

 

 云い合う二人を他所に、ナギサは深い溜息を零し紅茶を一口。味は決して褒められたものではないが、それでも紅茶で唇を湿らせているという事実が彼女の心を大いに慰めた。紅茶さえあれば、例え戦場のど真ん中で在ろうと平静を装えるだけの自信がナギサにはある――無論、装えるだけに過ぎないが。

 しかし、その外面を繕う技能がトップには必要であったりする。最近では特に、その必要性を感じる場面が多かった。

 

「まさかとは思いますが、私達以外の生徒にもその様な対応を取っているのでは――」

「ん? そんな事しないよ、先生の迷惑になっちゃうかもしれないし! 指輪を付けるのは一人だけの時とか、こういう身近なお茶会の時だけ」

「む……」

 

 彼女の身に着けている指輪がどれだけ厄ネタなのかを理解している二人は、もしや既にこの事実が周知されているのではと不安を覗かせた。以前の彼女であれば嬉々として周囲に見せびらかし、自慢し倒すと判断していたのだ。しかしミカは緩く首を振って、その事実を否定する。

 そんな彼女の返答に声を詰まらせるセイア。

 

「なぁにセイアちゃん、その如何にも意外ですって顔」

「おや、まさかミカに察せられるとはね、少々驚きだ」

「え、なにセイアちゃん、私と腕相撲でもする?」

「やめたまえミカ、何でもかんでも力で解決しようとするのは」

 

 満面の笑みで恐ろしい提案を口走るミカ。セイアとミカが腕相撲などすれば、その結果は分かり切っている。全治一ヶ月、いやそれで済めば良い方かと内心でセイアは呟いた。

 

「でも、確かに意外ですね……ミカさんの事ですから、これ見よがしに指輪を掲げて自慢するものかと」

「確かにそういう事をしたい気持ちはあるけれどさぁ、その後絶対面倒な事になるじゃん? 先生の所に確認の連絡がいったり、そうじゃなくてもある事ない事云われて、ただですら大変な状況がもっと大変になっちゃうかもしれないし」

 

 指輪を嵌めた左手を天井のシャンデリアに翳しながら、ミカはポツポツと語って見せる。これを自慢したり見せびらかしたい気持ちは勿論ある、この指輪は先生がどれだけ自分を気にかけてくれているのか、心を砕いてくれているかの証明に他ならない。これを嵌めているだけで、ミカは自分自身を肯定する事が出来る。けれど、それをすれば先生や自身の立場が悪くなる、廻り巡ってそれがどんな結果を生むのか分からない――ならばそれを自制する程度の理性は、自分にだってあるのだ。

 

「そんな事は私も、勿論先生だって望んでない、だったらこれ位の配慮はするし、私だって考えなしじゃないんだから」

「………」

「………」

 

 ぼうっと指輪を眺めながら呟く彼女を前に、セイアとナギサは一瞬顔を見合わせる。其処には何とも呑み下す事の出来ない、複雑な色が宿っていた。

 

「……何と云うか、ミカ」

「うん……?」

「君は少し、その、何だ」

「……ミカさんが、以前よりずっと大人びて見えますね」

「あはは、なにそれ!」

 

 ナギサも、セイアも、まるでミカではない誰かを見る様な視線で此方を見ている。其処には驚愕と、少しばかり急激な変化に戸惑う不安が覗いていた。そんな彼女達の心境を笑い飛ばす様に、ミカは溌剌と破顔する。その笑顔は二人の良く知るミカのものだった。彼女は自身の肩に掛かった髪を指先に巻き付け、目を閉じながら告げた。

 

「あれだけ色々な事があったんだから、大人にもなるよ」

 

 クーデター未遂然り、エデン条約然り、アリウス自治区然り。

 そして――その先(未来)の事も。

 想い、ミカは二人に視線を向ける。

 其処には何か、二人が感じ取れる以上の重みが伴っていた。

 

「――本当に、色々な事があったんだから」

 


 

 ジャスト二ヶ月で戻って参りましたわよ!

 エデン条約編が終わって直ぐにアビドス新章が来て、「あ、コレ終わりましたわ~!」ってなりましたがプロローグだけで、まだ何も分からないんですわ! 多分書いている最中にまたぶち込まれるのでしょう、そん時はそん時なんですわよ。

 Twitter(新:X)は数日したら更新しますわ! 漫画まだ描けてねぇんですわ! ごめんあそばせ!

 取り敢えず幕間でリハビリしてからダイジェスト版パヴァーヌ前編、その後に後編に入りますわ!

 また三ヶ月か四ヶ月、よろしくお願いいたしますわ~!



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()べるべき幸福の記憶

誤字脱字報告、ありがとうございますわ!
投降再開二話目なので、前話読み飛ばしに御注意下さいませ!


 

「ん――」

 

 最初に感じたのは視界に差し込む眩い光、そして全身を覆う倦怠感と鈍い痛みだった。デスクにうつ伏せになる様な形で寝入っていた人影――先生はゆっくりと身を起こし、滲む視界で周囲を見渡す。

 部屋の中にあるのは山積みにされた段ボールと書類、直ぐ傍には飲み掛けのマグカップに転がるペンとスリープ状態のモニタ。それらが窓から差し込む陽光に照らされ、先生は暫くの間ぼうっとそんな光景を眺めていた。

 

「此処は――……」

 

 一瞬、先生は自身が何処にいるのか分からなかった。その場所が自身の知っているソレより、遥かに綺麗で真っ当だったからだ。まるで異国に迷い込んでしまったかのように目を細め、ゆっくりと自身の身体を見下ろす先生。白くよれたシャーレの制服にシャツ、そんな衣服から顔を覗かせる左腕に指先を這わせ、彼は呟く。

 

「腕が、ある」

『――先生、目が覚めたんですね』

「……アロナ?」

 

 ふと、声が響いた。それはデスクの上、点滅するタブレット――シッテムの箱より。

 名を呼ばれた先生は彼女の声に何度か目を瞬かせ、それから自身の指先に感じる感触、金属特有の冷たさと硬さに全てを理解した。思考の靄が晴れ、はっきりとした記憶が蘇る。

 

「あぁ、そうだ、此処は――」

 

 シャーレか。

 押し殺した声が腹に落ち、先生は悔いる様に天井を仰ぐ。義手で顔を覆うと、ひんやりとした冷たさが頬の熱を奪い、僅かだが目が覚める様な気がした。

 

『昨日は業務の最中に寝入ってしまって、ずっとそのままに――』

「……そっか、拙いな、ちゃんとベッドで眠るべきだった、身体が彼方此方固まってしまったよ」

 

 答え、先生は小さく伸びをする。途端体の彼方此方から小気味良い音が鳴り響き、口元から息が漏れた。乱雑に髪を掻き上げると、僅かに気分が晴れる。差し込む日光が自身を照らし先生は思わず目を細めた。

 時刻は――八時を少し過ぎた辺り、完全に熟睡してしまっていた様だ。

 

『先生、顔色が優れません――何か、悪い夢を?』

「いや、そんな事は無い、或いは見たのかもしれないけれど、記憶にないから問題ないさ」

 

 顔色が優れないのは単純に血行が悪い寝方をしてしまったか、或いは寝起きだからだと云い聞かせる。それ以外の要因が思い当たらない訳ではないが、敢えて意識を向ける事はしなかった。伸びをした指先をデスクに降ろすと、僅かに黒ずんだ右手の指先が目に入る。

 一度その心臓を止めた時――這う黒色はあの時から僅かに、しかし確実にその色味を強め、指先全体を覆い尽くそうと浸食し続けている。先生は暫し日光に指先を照らし、それから無言で脇に退かされていたグローブを手に取り、手に嵌めた。

 

「……何だか、眠気を覚える事が多くなっている気がする、以前ならこの程度の徹夜、何て事なかった筈なんだけれどね」

『――それは』

「ふふっ、私もそろそろ歳かな」

 

 アロナの声を敢えて遮り、先生は苦笑を零した。それがてんで的外れな発言である事は自覚していた。しかし、言外にそういう事にしているという意思だけは伝わった。アロナは先生の言葉にそれ以上追及する事もせず、黙り込む。

 

「さて、朝食前に昨日やりかけた仕事を済ませてしまおうか」

『先生、その、退院したばかりですし、もう少しお休みした方が……』

「……気持ちは有難いけれど、それは難しいかな」

 

 そう云って、先生は手に取った書類の一番上に目を落とす。其処には、『アリウス自治区復興』の文字が躍っていた。

 

「只ですらアリウス云々に関しては早めに手を打たないといけないし、こうしている間にも自治区に居た生徒達が窮屈な思いをしてしまう――そうでなくとも入院中の仕事が溜まっているんだ、トリニティに関してもそうだけれど、出来得る限り色々な自治区に目を配っておきたい」

 

 トリニティ、アリウスに関する対応が急務である事には変わりない。しかし通常業務は勿論、自治区関連で対応しなければならない仕事は幾らでもある。そして先生はそれらを放置するつもりなど更々ない。

 そして、何よりも。

 

「もう、私達の知る世界とは――乖離してしまったのだから、尚更ね」

『………』

 

 早すぎる到来、彼の者の襲撃が先生の精神に暗い影を落としていた。

 ある程度の変化は予期していた、しかし此処まで逸れてしまえばどれ程知識を蓄えようと、何処まで通用するかが未知数となる。あらゆる出来事に目を光らせなければならない、それに気付かず介入すら出来なかったなど――そんな云い訳を口にしたくはない。

 

「大丈夫、今が一番忙しいだろうし、一段落したら半日休暇を取るよ」

 

 告げ、先生は隈の残る目元で笑って見せた。自身がトリニティの救護騎士団、そこから退院して一週間ほど――今こそが正念場だと、先生は気合を入れ直す。

 

 そんな彼の耳に、特徴的な電子音が届いた。それはシャーレ本棟に生徒が入館した場合に鳴り響く入館音である。

 

「――入館音?」

『あっ、どうやら、今日当番の生徒さんが来たみたいです、先生』

 

 アロナが即座にシャーレ内部の防犯システムを覗くと、廊下を歩く二人の人影を捉えた。そう云えば今日も当番をお願いしていたのだと、先生はぼんやり思い出す。尤も、その当番に関しては先生がお願いしたといより生徒が押しかけている状態なのだが。退院したばかりの先生を補助、もとい無理をしないか監視する為に毎日のように生徒がやって来るのだ。

 

 当番の生徒は大抵夜になると強制的に仕事を打ち切らせ、先生を私室に押し込んで寝るまで断固として離れない。先生も苦笑しつつ素直に従い、ベッドで横になり一時間程仮眠を取る。そして起床と同時に生徒が帰宅している事を念入りに確認し、ひとり静かに深夜の残業へと繰り出すのが此処最近の日常である。

 しかし、そんな先生にも少々『都合の悪い生徒』というものが存在する。

 

「アロナ、今日の当番って――……」

『えーと、ミレニアムのユウカさんと、ノアさんですね!』

「ッ!?」

 

 その名前を聞いた瞬間、先生はデスク下部の棚からファイルを取り出し、中に詰まった紙束を素早く確認すると椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。

 

『えっ、あれ、先生?』

「アロナ! 今の私は留守! 留守だからッ!」

 

 叫び、先生は部屋の中を見渡す。何処か隠れられる場所が必要だった。

 積まれた段ボールの影、デスクの下、ホワイトボードの裏――いや、そもそもこの部屋で隠れたとしても簡単に見つかってしまう予感がある。こうなれば廊下に出て、シャーレの格納庫か、倉庫、トイレ辺りに息を潜めて。

 

「ッ、遅かった――!」

 

 しかし、微かに耳に届いた靴音に先生は唇を噛んだ。直ぐ其処まで彼女達は迫っている、最早隠れ場所を吟味している余裕はない。先生はシッテムの箱を懐に仕舞い込み、素早く傍にあったソファ、その裏側へと飛び込んだ。

 

「先生、お邪魔しますね?」

「先生、約束通り今日の当番は私とノアが――」

 

 瞬間、部屋の扉が開き見慣れた二人が顔を覗かせる。室内へと足を踏み入れたノア、ユウカの二人は予想していた先生の出迎えがない事を訝しみ、疑問符を浮かべた。

 

「……あれ?」

「あら、先生の姿が見当たりませんね、席を外しているんでしょうか?」

「おかしいわね、この時間帯はいつも執務に励んでいる筈だけれど――」

 

 呟き、ユウカはゆっくりとした足取りで先生が先程まで作業していたデスクに足を進めた。そして散乱した書類や僅かに傾いた椅子に手を伸ばし、首を傾げる。

 

「書きかけの書類、点灯したままのモニタ、まだ暖かいカップ……」

「さっきまで此処に居たみたいですね、席を離れたのはつい先程――という感じでしょうか」

「椅子の暖かさからして、そうみたい……先生~? いらっしゃらないんですか~?」

 

 周囲を見渡しながらユウカは声を張り上げ、序にオフィス横にある洗面所の方にも顔を覗かせる。しかし先生の姿は全く見えず、その肩を僅かに落とした。

 

「うーん、もしかしたらお手洗いに行っているのかもしれません」

「そうね、それなら少し待って――」

 

 どうやらオフィスを離れているらしいと判断したユウカとノアは、そのまま来客用のソファに足を進めた。しかし、残念ながら其処こそが先生が隠れている場所。影から伸びた白い布、シャーレの制服、その端に気付いたユウカは目を瞬かせ、ソファから身を乗り出し裏側を覗き込んだ。

 

「あっ、ちょっと先生、居るじゃないですか! 居るなら返事位して下さいよ!」

「――ッ!」

 

 果たして、先生は見つかった。

 ソファ裏で蹲り、息を殺して隠れ潜んでいた先生は、自身を覗き込むユウカに気付くと地面に這う様な恰好のまま引き攣った笑みを浮かべた。

 

「や、やぁ、二人共、来てくれたんだね……」

「勿論です、只ですら当番で来れる日は少ないですし――それより何をしているんですか、そんな場所で蹲って」

「いや、そのぅ、えっとぉ……」

「というか先生、その恰好、また徹夜しましたね? 全く、退院してまだそう経っていないんですから、余り無理はしないで欲しいとあれ程――」

 

 先生の乱雑に跳ねた髪、皺になった制服、微かに香る彼の匂いにユウカはまた徹夜をしたのだと判断した。心なしか顔から血の気が失せている様にも見える。其処まで考えて、ユウカは咄嗟に口を閉じた。

 こんな状態で何故先生は地面に蹲っていたのか? その疑問を浮かべた時、一つの答えが脳裏に過ったのだ。さっと表情を変えたユウカは、何処か鬼気迫る表情で問い詰める。

 

「も、もしかして、先生、どこか具合が悪いんですか!?」

「――ユウカちゃん、先生をお願いします、私は救急班に連絡を」

「あ、いや、ち、違う、何処も悪くないんだ、本当だよ」

 

 即座に懐へと手を入れ、ミレニアムの救急に連絡を入れようとするノア。この様な事態は既に想定済み、万が一に備えてどの学園であっても救護部隊を即座に投入できる体制を整えていた。その姿に先生は思わず声を上げ、緩く手を振って見せた。大事になる事は避けたかった、ましてやこんな状況であれば尚更。

 

「……じゃあ、何でそんな場所に?」

「えっ、と……」

 

 ユウカの追及に対し、先生は何も云い返す事が出来ない。ただ言葉を濁し、視線を彷徨わせるのが精一杯。そんな彼の態度を二人が訝しむのは当然の流れであり――。

 

「ユウカちゃん、これは……」

「えぇ、ノア――」

 

 二人は静かに視線を交わすと、徐に先生の前へと立ち塞がった。そして無造作に先生の肩を掴むと、彼が抱き締めるようにして胸元に抱えたファイルを目敏く見つける。ユウカは手を伸ばすと、先生の抱えていたファイルを力強く掴んだ。

 

「ふんッ!」

「あっ、待って! 暴力反対! 暴力反対!」

「暴力ではありませんッ! どうせ何か隠しているんでしょう!? 知っているんですからねっ!」

「ち、違うよ! 隠しごとなんてないよっ!」

「ほら、良いから隠しているものを見せてくだ……さいッ!」

「あぁあ~ッ!」

 

 先生がこんな態度を取る時は大抵、自分達に見せたくない何かを抱えている。そんな確信と共に先生が抱えていたファイルを抜き取る。ファイルを奪われた先生は地面に這い蹲ったまま手を絶叫し、素早く中身を覗いたユウカは眉を顰めた。

 

「これって、レシート?」

「――あら?」

 

 ノアは何かを察して笑みを零し、ユウカはファイルを地面に放りレシートの束を一枚一枚念入りに確認していく。

 

「これはレーションに、飲料水、シャンプー、石鹸、バスタオル、サプリメント――」

「日用品の領収書ですか? 確かに量は多い様ですが、特に隠す様なものでは……」

「――待って、ノア」

 

 頬に指を添えながら疑問符を浮かべるノアに対し、ユウカの目は徐々に怒りを帯びていく。先生は最早身を縮こまらせ、額と背中から大量の冷汗を流す事しか出来なかった。

 

「化粧水にリップクリーム、ファンデーション、グロス、櫛……へぇ、香水まで」

「――……これは、また随分と分かり易いものを」

 

 ユウカの目がじろりと先生を捉え、溢れた怒りが彼の肌を刺す。ノアはどこか呆れた様な、或いは何とも云えない苦笑を浮かべていた。先生は微妙に腰を浮かせながら、恐る恐ると云った風に弁明する。

 

「ち、違うんだ、違うんだよ二人共、どうか話を聞いて欲しい」

「せ~ん~せ~い~?」

「明らかに先生ご自身の買い物ではありませんね?」

「待ってユウカ、ノア、待って、ほんとに、ほんとに違うの、これはね、私なりの気遣いと云うか、今までそういうものに興味があっても出来なかった子達にこう、少しでも着飾る楽しさを知って欲しいっていうか、何て云うか……」

 

 身振り手振りで必死に活路を見出そうとする先生、そんな彼の前に仁王立ちするユウカ。彼女からレシートを受け取ったノアはパラパラと束を捲り、目に付いた商品を一つ一つ読み上げていく。

 

「ユウカちゃん、よく見たら日用品ばかりではありません、縫い包みに、造花、小説に……あら、衣服まで」

「というかシャンプーや石鹼のブランドも全部女性向けの奴ばっかりじゃないですか! これは一体どういう事ですッ!?」

 

 這い蹲る先生に向けて顔を近付け、腰に両手をつけたまま怒声を発するユウカ。その額には青筋が浮かんでおり、場合によっては容赦しないという気配がありありと感じられた。先生は視線を泳がせながら更に身を縮こまらせ、ぼそぼそと呟く。

 

「その、どうしても必要で……」

「何で先生が女性向けの日用品やら化粧品やらを買い込む必要があるんですか!?」

 

 いや全くその通りです、先生は内心で思った。

 しかし、これには深い事情と諸々理由がありまして。しかしそれを口にするのも中々難しく、先生は煮え切らない態度のまま口を固く結ぶ。そんな先生の態度に益々目を吊り上げたユウカは、一つの可能性に辿り着いた。

 目元を引き攣らせた彼女は、血の気の引いた表情のまま告げる。

 

「せ、先生まさか、せ、生徒とシャーレで、ど、どどっ、同棲とかしているんじゃ――ッ!?」

「はっ? いや、違う、してない! してないよッ! 本当だよ! どうしても事情がある生徒に空き部屋を貸したりはしているけれど、皆も偶に利用しているでしょう!? それにシャーレで使用する身の回りのものは自己負担が原則! 事情があったら考慮するけれども!」

「それは知っていますけれど! だとしても、この買い物はちょっとおかしいでしょう!? しかもっ、結構高額――っ!」

 

 先生がこんなものを大量に買い込む理由など、それ以外に考えられない。しかもシャンプーや石鹸、化粧品の類はどれも安価なものではなく、そこそこ品質が良いとされているものばかり。

 もし先生が秘密裏に生徒の誰かと同棲、つまり――『そういう関係』になっているのだとしたら、こればかりはキヴォトスの一生徒として、セミナーの一員として、何よりユウカという個人からして認める訳にはいかない。

 

 先生がキヴォトスに到着した時、いの一番に味方となったのは自分である、初陣だって自分と一緒だったし、その後シャーレが軌道に乗るまで色々と手助けしたのも自分。金遣いの荒い先生の預金を管理し、先生が出先でフィギュアやらゲームやら漫画を見つけて目を輝かせ駆けて行こうとするのを羽交い締めにして阻止した回数は数え切れず。一番お世話をしたのは己だという自負がある。

 シャーレという組織がこうやってキヴォトス全土に影響を持つ様になったのも、先生が曲がりなりにも先生としてきちんと職務に励めているのも、自分が事ある毎に補佐し、支え、協力したからに他ならない。

 

 こんな事をしてくれる生徒など、自分以外にちょっと思いつかない。つまり先生を一番に考えている生徒は自分な訳で、先生が頼るべき生徒も自分な訳で、つまり先生が隣に置くべき生徒は自分なのである――Q.E.D(証明終了)、かんぺき~!

 

 ユウカの精神はより一層強靭なものとなった。

 

 さて、こうなれば徹底的に問い詰める他ない、先生には隣に立つべき生徒が誰なのかをきっちり理解させねば(分からせなければ)ならない。そんな意気込みと共に一歩を踏み出したユウカの肩を、ふとノアの手が引っ張った。

 

「ユウカちゃん、少し待って下さい」

「――ノア?」

 

 小声で、囁かれるようにして制止される。その妙に真剣な表情に対し、ユウカは踏み出そうとした一歩を引き戻した。ノアは手元のレシート束、それを最後まで捲り終えると小さく、しかしハッキリとした口調で告げた。

 

「一通り見て分かったのですが、金額の大部分で購入されているのはレーションや飲料水、サプリメントに市販の医療品などです、次いで石鹸や歯磨き粉、シャンプーなどの日用品、確かに嗜好品も散見されますが全体から見ればごく僅かで……そうですね、何方かと云えばこれは救援物資とか、備蓄物資に近いものに思えます」

「ほ、本当に……?」

「えぇ、それに以前起きた騒動を考えると、恐らく――」

 

 ノアは一瞬言葉を呑み、静かにユウカへと視線を向ける。救援物資に、以前起きた騒動、それらを結びつける事柄がひとつある。ユウカはハッとした表情で目を見開き、呟いた。

 

「あっ、アリウス自治区の……!」

「はい、先生の事です、自腹を切って一部逃れた生徒か、何かしら事情がある生徒を保護、或いは援助していてもおかしくありません、女性向けの化粧品等もそうでしょう」

「確かに、先生ならそういう事をしそうだけれど――さ、最初からそう云って貰えれば、私だって……!」

「先生には先生の考えがあるのでしょう、それにどうあれアリウス側の心証は現在のキヴォトスに於いて良くありませんし、アリウスに対しての援助を私達……正確に云えばアリウス以外の生徒が良く思わないと考えたのかもしれません、どちらにせよ此処は余り追及してあげない方が――」

「そ、そうね、ありがとうノア」

 

 そう云った事情が考えられるのならば――成程、理解出来なくはない。何より如何にも先生がやりそうな事柄でもある、ユウカがちらりと先生を見れば、項垂れたまま微動だにしていない姿が見える。当たり前だが、会話の内容に耳を立てる様な真似はしていなかった。小声での相談事を、自分に対する裁定の相談と受け取ったのか、その表情は何とも云えない過酷なものだった。

 ユウカは佇まいを正すと先程までと一転、努めて理性的な態度を装った。

 

「んんッ! 先生?」

「はい!」

 

 自然と正座になった先生は呼びかけに対し、背筋を正して対応する。

 

「――今回は見逃してあげます、でも個人で大きな買い物をする時は私に……わ・た・し・にッ! 相談してください!」

「わ、分かりました」

「丁度良い機会です、先生には前々から云いたい事があったので――ちょっとお時間頂けますか?」

 

 頂けますか? その口調は問い掛けであったが、有無を云わせぬ威圧感が滲み出ていた。先生がイエスとも、ノーとも口にする前からユウカは語り始める。正座をする先生の前に立つユウカを、ノアは背後からくすくすと微笑みながら見守っている。

 

「前も五千円以上の買い物をする時は相談して欲しいって云いましたよね?」

「……はい」

「なら、何でこんなに大きな買い物をするのに相談してくれなかったんですか?」

「……怒られると思って」

「子どもですかッ!」

 

 いや、しかし実際問題絶対怒る、怒髪冠を衝くレベルで怒るに決まっている。

 こんなレベルの買い物をして良いかとメッセージで聞けば、即座に既読が付き『今、何処ですか?』のメッセージと共にシャーレに乗り込んできて、「せ~ん~せ~い~!?」が第一声になるだろうし。

 ましてや電話で聞こうものなら問いかけた瞬間、『は?』と怒りを滲ませた声で返答し、そのままセミナーの業務中だろうが何だろうが即座に切り上げ、「今から反省会を開きます」と云って問答無用でやっぱりシャーレに乗り込んで来る。

 そんな未来が先生は容易く予想出来た。

 つまりどう転んでも自分は怒られるのだ。

 南無三。

 

「只ですら先生は浪費が激しくて、生徒の為に身銭を切って、それにガチャやらフィギュアやら限定品が云々、貯金だって碌に――先生、聞いていますか!?」

「き、聞いているよ!」

 

 咄嗟に背筋を正して声を張り上げたが、半分意識が飛んでいた。ユウカが顔を近付けながら恐ろしい表情で問い詰める。

 

「なら今回の出費で残高殆どなくなっちゃいましたよね!? どうするんですか!?」

「しょ、食費を削って――」

「それ前も同じ事云っていましたよねッ!? それでまた倒れたらどうするんですかッ!?」

「すみませんッ!」

 

 その後もユウカは先生を前にし次から次へと声を張り上げる。「そもそも最近、自分に対して連絡が少ない」だとか、「将来の為にも金銭管理はきちんとするべき」だとか、「こんなに親身になってくれる生徒は自分くらい」だとか――その話題は尽きる事無く、先生は精魂尽き果てたと云わんばかりの表情で項垂れる他なかった。

 

「ぅぐ――」

「……ふふっ、先生?」

「の、ノア?」

 

 正座を続け、そろそろ足の感覚が無くなって来た頃、背後からふと小さな声が聞こえた。振り向くとノアが直ぐ背後まで迫っており、正座した先生の肩に顔を近付け、妖しく微笑んでいた。前を見るとユウカは目を瞑ったまま指を立て、淡々と如何に先生が浪費家で自分の管理が必要かを語っており、ノアの行動に気付いた様子はない。

 そんなユウカを横目にノアはそっと先生にレシートの一枚、束の最後に貼り付けてあったそれを見せた。

 

「最後の方に記載されていた、コレに関してなのですが――」

「……あっ」

 

 その一枚を目にした瞬間、先生の表情がさっと変化する。途端に挙動不審となった先生の態度に、ノアはくすりと吐息を零した。

 

「バニー服やブルマ、浴衣から水着まで……お好きなんですか、こういうの?」

「ち、ちがうよ、私の趣味じゃないよ」

「へぇ、そうですか――ふふっ」

 

 声は明らかに理解した上で紡いだものだった。先生は背中に感じる冷汗をそのままに、縋る様な視線をノアに向ける。彼女はそんな先生を一瞥し、手にしていた愛用の手帳を開くとすらすらと手慣れた様子で何かを書き記す。

 そして徐に閉じると何の悪気も感じさせない、満面の笑みを浮かべ云った。

 

「――ユウカちゃんには内緒にしておいてあげますね♪」

「………ぉ」

 

 先生は深く身を曲げると、万感の籠った呟きを漏らした。

 

「お願い、します……」

 


 

 パヴァーヌ後編が始まったらどうせボコボコにされるのですから、今の内に先生には幸せな日常を噛み締めて頂かないと。穏やかな日常、暖かな陽射し、何て事の無い細やかなやり取り。そう云った幸福の積み重ねが、転げ落ちた奈落の底で「それでも」と踏ん張る為の燃料になるんですわよ。



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ほろ苦い甘味

誤字脱字報告に感謝致しますわ!


 

「はぁ、全く、何で態々こんな遠いところまで……」

 

 トリニティ自治区、本校舎広場横――並木道。

 本校舎の影になる様な場所にひっそりと並ぶ自販機の前で、カズサはひとり溜息を吐き出した。放課後スイーツ部の集まりで行きつけの店がセールを開催した為、これ幸いと全員で突撃し有りっ丈のスイーツを買い込んだのだ。そうなると当然飲料も欲しくなる訳で、公正なじゃんけんの結果カズサが皆の飲み物を買い出しに行く係と相成った。

 

 トリニティ自治区も他の自治区と同じように、本校舎区画に自販機や売店が設置されているが、前者の自販機は景観の問題上余り目立つ様な場所には設置されていない。スイーツ部が良く使用しているオープンテラス付近にも幾つか自販機は存在するのだが、ナツの愛飲している紙パック牛乳は少々離れた場所の自販機にしか売っていなかった。

 

 別にこんな時くらい、紅茶だろうがココアだろうが変わらないだろう、そう思うが彼女には彼女の拘りがあるらしく、態々此処まで足を運んだ次第である。カズサは皆から預かった小銭を掌で弾ませ、投入口に一つ一つ入れていく。

 そして順にボタンを押していると不意に声が聞こえた。

 

「うーん、確かこの辺に――」

「……?」

 

 声は直ぐ傍から響いていた。何となくだが、聞き覚えのある声。カズサが全員分の飲み物を確保し、ゆっくりと声のした方向――自販機脇の並木道、その左右を彩る茂みの向こう側に顔を覗かせれば、地面に這い蹲って何かをしている大人の姿を発見する。

 その人影は何かを熱心に探しているらしく、芝に張り付くようにして顔を動かす彼に向けて、カズサは声を掛けた。

 

「――先生?」

「……ん?」

 

 その後ろ姿が誰であるかなど一目瞭然、ましてやカズサからすれば遠目でも分かる程。白い制服に葉っぱを貼り付けながら地面を這う彼は、カズサの声に反応し顔を上げる。二人の視線が交わり、何とも云えない空気が流れた。

 

「……えっと」

「………」

 

 沈黙が降りる。

 カズサは声を掛けたが良いが何と言葉を発すれば良いのか分からず、先生は何とも情けない姿を生徒に見せてしまったと云う衝撃から。暫くして先生は徐に立ち上がると、ズボンに付着した土や芝を払い、咳払いを一つ挟んで微笑み云った。

 

「こんにちはカズサ、久しぶりだね」

「うん、まぁ、そうなんだけれど……先生さ、そんな所で這い蹲って一体何をしている訳?」

「……別に生徒のスカートを覗こうとしていたとか、そういう訳じゃないからね?」

「いや、そんな事疑っていないし」

 

 至極真面目な顔でそう告げる先生に対し、カズサは呆れを含ませながら呟く。と云うか出て来る云い訳が開口一番ソレってどうなの? と内心で思わず突っ込んだ。

 

「えっとね、実はこの辺でお金落としちゃって」

「お金?」

「うん、このままだとお昼食べられなくなっちゃうから……」

 

 どうやら地面に這い蹲って探していたのは落とした金銭だったらしい。見れば相当必死に探していたらしく、髪にも葉が付着していた。この様子だと落としたのは百円、二百円の話ではないだろう。カズサはそう判断し、先生を手伝う為に手にしていた飲料を傍の長椅子に置き、腕まくりをした。

 

「もしかして財布ごと失くしちゃった訳? それなら一緒に探して――」

「ううん、百円一枚……」

「百円一枚!?」

 

 予想を裏切られたカズサは思わず声を荒げ、目を見開いた。何故百円一枚の為にそこまで必死になるのだ。いや、一円に泣くと云う言葉もある訳で、決して硬貨一枚を軽んじる訳ではないが――それにしてもだろう。

 それにこのままだとお昼を食べられなくなると云っていたが、まさか。

 

「ちょっと、もしかして先生のお昼のご飯代って、百円だけ……?」

「最近金欠でね、あはは……」

 

 カズサの信じられないといった風な問いかけに、先生は苦笑と共に頷いた。

 エデン条約調印式の為の備え、加えてミレニアムに依頼した義手の制作費、購入出来ていなかった限定版フィギュアに復刻グッズ、アリウスに対する救援物資購入、各自治区要人との交際費と云う名の根回し。

 そしてトドメとなったのは万が一の避難先と、アリウス・スクワッドが使用できるように用意した各自治区に点在するセーフハウスの存在。これに関しては連邦生徒会にも勿論話を通している筈もなく、完全個人として用意した代物となる。当然だが経費として落ちる筈もなく、アロナと協力して搔き集めた先生の給料とは別途の資金(ユウカにも知られていないヘソクリ)が殆どが吹き飛んだ。

 現在先生の預金残高はとても人に見せられるような状態ではないのだ。

 そうこうしている内に先生の腹が鳴り、恥ずかしそうに頬を掻く大の大人がひとり。カズサは暫くそんな先生を胡乱な目で見つめ、仕方なさそうに溜息を吐いた。

 

「はぁ、全く……ほら先生、こっち来て」

「え、でもまだ、お昼ご飯代が――」

「百円くらい私があげるから、そんな事で良い大人が必死にならないの――あーあ、葉っぱだらけじゃん、ほら、こっちに背中向けて」

 

 先生の手を強く引っ張り、カズサは先生の制服に付着した葉やら何やらを叩き落としていく。そしてぱっと見問題ない事を確認した彼女は、指先で並木道の向こう側を指しながら云った。

 

「今からウチ(スイーツ部)においでよ、丁度皆でスイーツを食べる予定だったんだ、沢山買い込んであるし先生ひとり増えても問題ないでしょ?」

「いや、流石に生徒のお世話になる訳には――」

「良いから! 最近皆先生と一緒に居られる時間が短いって云っていたし、良い機会じゃん!」

「うーん、でも……」

 

 ぐいぐい腕を引っ張るカズサに対し、先生はあくまで困った表情を浮かべ難色を示す。大人として生徒に集るのは何とも恰好が付かない上に、申し訳ないという感情が強かった。そんな先生の態度に目を細めたカズサは、何処か威圧感を込めた声色で告げた。

 

「それとも何、ミネ団長を此処で呼んで病院食をもう暫く堪能する?」

「すみません、一食だけご厚意に甘えさせて頂きます」

 

 即座に先生は折れた。此処でカズサが救護騎士団に一報を入れ、「この人、ちゃんとご飯食べてません」なんて告げ口などされてしまえば、ほぼ百パーセントの確率で『救護』されてしまうと確信していた。そしてそれはミネ団長を初め、セリナやハナエも同じだ。ミネの場合は云わずもがな、セリナはきちんと食事を摂るか食事毎に確認するだろうし、何なら気付いた時には背後に現れかねない。ハナエの場合は寝台に縛り付けた上での強制あーんだろうか。どちらにせよキヴォトスの生徒が本気になった場合、先生に抗う術はない。

 項垂れた先生の腕を引いて並木道を歩き出すカズサは、片腕でペットボトルや紙パックの飲料を抱えながら呆れた様な色を隠さず、隣を歩く先生に顔を向ける。

 

「全く、まさか先生がそんな食事生活を送っていたなんて……シャーレって私達が思っているより薄給なの?」

「いや、そんな事はない筈なんだけれど、何と云うか支出がどうしても多くなっちゃって」

「どーせ、生徒の為に私生活分を削っているんでしょ」

「……あはは」

 

 否定も、肯定もしない。

 それが先生にとって精一杯の抵抗である事は分かっていた。故にカズサは肩を竦め、やっぱりと云わんばかりに唇を尖らせるのだ。

 

「で、その様子だと仕事も大変なんじゃないの? 何なら私が手伝ってあげるけれど……」

「あぁ、それに関しては大丈夫、会計処理とか、事務処理になれた子が手伝ってくれてね」

 

 退院したての頃、シャーレに復帰して直ぐに仕事を補佐してくれた生徒が多くいた。それは連邦生徒会のリンやアオイを初め、ユウカやノアは勿論、忙しい間を縫ってゲヘナ風紀委員会、便利屋68、正義実現委員会、補習授業部、C&C、対策委員会など、時には所属している部活全員で、或いは個人で、沢山の生徒が助力してくれたのだ。

 お陰で仕事塗れであった初期と比べれば、今は多少外回りをするだけの余裕が出来ていた。そうでなければ今も自分はシャーレのオフィスで悲鳴を上げていた事だろう。

 

「――へぇ」

 

 だが、どうやら先生の回答はカズサにとって良いものではなかったらしい。彼女は露骨に雰囲気を昏く、粘つく様なものに変えると、握っていた先生の手を僅かに強く引っ張った。

 

「ふぅ~ん、そっか、他の生徒に手伝って貰ったんだ……まぁ、私は小難しい文章読むのは苦手って云っていたし、そっちの方が早いし確実だよね、そーだよね」

「……えっと、カズサ?」

「へ~、そっか、そっか、他の生徒とね」

 

 コツ、コツ、と。

 カズサの履くローファーが石畳の床を叩く。その音は何故だろう、先程よりも少しだけ力強く感じた。先生は彼女の変化を肌で感じ取り、恐る恐ると云った風に問いかける。

 

「――もしかして、怒っている?」

「べっつにぃ?」

 

 云いながら、カズサは顔を先生から大きく逸らした。ぐっと、先生の手を握る指先に力が籠る。口では曖昧に答えながらも、その態度は如実に彼女の不機嫌を語っていた。

 

「ただ最近全然先生に呼ばれないし、連絡も無かったのに、他の子はそういう面で先生の力になれたんだなぁって思っただけだし」

「……ごめんって」

「あのね先生、私だって別に事務処理出来ない訳じゃないんだよ? ただ、面倒くさいってだけでさ、先生の為だったら別にそういう面でも力になれるし――いや、確かに私そんな成績良い訳じゃないけれど、最近は結構頑張って……」

 

 何やらそっぽを向きつつブツブツと呟くカズサ、そんな彼女の背中を視界に入れながら先生はふっと微笑を零す。彼女のその優しさ、思い遣りが嬉しかったのだ。

 先生は咄嗟に彼女の頭部に手を伸ばそうとした。それは反射的なものだ、引かれた右手とは反対の左手――それを彼女の柔らかな黒髪に伸ばし。

 しかし硬く、冷たいそれを自覚した時、思わず途中で手を止めてしまった。寸で止まった左手、グローブに包まれた肌色は人の腕と何ら変わらない、けれどコレは本来の指先とは余りにも異なる。何となくこの腕で彼女を撫でつける事に、抵抗感があった。

 カズサはそんな先生の動作に横目で気付き、無言で腕を引っ込めようとする先生を咎めるように、握っていた右手を離し、虚空を彷徨う左手を掴む。

 そして驚く先生を他所に、義手の掌を自身の頭に擦り付ける様に乗せた。

 

「……何?」

「………」

 

 不機嫌そうに眼を細めるカズサ、彼女は「何やってんの、早く撫でてよ」と云わんばかりに自分で先生の左腕を揺らす。先生は暫しそんな彼女に瞠目していたが、思わず吹き出し、静かに彼女の頭を優しく撫でた。

 ぴくりと、カズサの耳が跳ねる。

 

「――次困った時は、カズサにお願いするよ」

「……ふん」

 

 その言葉に満足そうに、或いは「当然でしょ」と云わんばかりに鼻を鳴らしたカズサは、そのまま先生の左腕を掴むと、ズンズン前へと歩き出した。どうやら彼女にとっては右だろうが左だろうが、撫でられる腕に貴賎はないらしい。或いは、先生ならばどっちでも良いという言外意思表示だろうか――もしそうならば、何とも気恥ずかしい心地だった。

 

「あ、やっと帰って来た……って、先生じゃん!?」

「お~、これはこれは、珍しいトクベツが顕れたね」

「えっ……わわっ!」

 

 暫し歩くと、生徒達の休憩所として設置されているオープンテラスが見えて来た。本校舎離れ、多目的ホール脇に設置されたその場所には等間隔で円テーブルが設置されており、談笑する生徒、紅茶を楽しむ生徒、自習する生徒、読書に勤しむ生徒と様々な生徒が思い思いの方法で過ごしている。

 その一角のテーブルでカズサの帰りを待っていたアイリ、ナツ、ヨシミの放課後スイーツ部三名は、彼女と一緒に現れた先生の姿に腰を浮かす。

 チョコミントアイスを一人先に食べていたアイリは、思わぬ人物の登場に口元を慌てて拭った。「あ、アイスついてないよね、ナツちゃん……?」と小声で問いかけるアイリに、椅子に凭れ掛かってケーキを突いていたナツは無言で親指を立てる。

 カズサは彼女達の座っていたテーブルに飲み物を置くと、先生を一瞥しながら問いかけた。

 

「先生と一緒にスイーツ食べたいんだけれど、良い?」

「勿論! 先生こっち、こっち座ってよ!」

 

 カズサの問い掛けにヨシミは何度も頷き、隣のテーブルにあった椅子を一つ引っ張って来る。バンバンと椅子を叩いて輝く瞳を見せる彼女に、先生は温厚な笑みを浮かべながら頷いた。

 

「ごめんね、突然お邪魔しちゃって」

「お邪魔なんかじゃないわよ! というかカズサ、一体どこで先生を捕まえて来たの!? 学内でも滅多に逢えないのに……!」

「いや、何と云うか、うーん……」

 

 それとなく先生の隣を確保したカズサはヨシミの問い掛けに、さて何と答えたものかと思案する。暫し考える素振りを見せた彼女は、指先でテーブルを叩きながら淡々とした様子で応えた。

 

「お腹を空かせていて、その上に御昼はまだって聞いたから食事に誘った……って感じ?」

「つまり、偶然捕まえられたって事ね!」

「まぁ」

 

 満面の笑みで告げられたそれに、カズサは曖昧な声色で答えた。流石に昼食百円の下りは口に出さない、というか出せない。先生(大人)の尊厳的に、そう思ったのだ。

 

「おや、先生は空腹なのかい? それは良くないね~、此処にあるのはスイーツばかりだけれど量はある、ゆっくりお腹を満たしていくと良いよ」

「あ、あのっ、先生、チョコミント・ドーナツは如何ですか……!?」

「――ありがとう、それじゃあ頂こうかな」

 

 ナツはいつも通り何とも緩く穏やかな声で、アイリは自身の購入したドーナツをバスケットから取り出し、先生へと差し出す。先生は差し出されたそれを受け取りながら、静かに礼を口にした。

 

「にひ、先生とこうして席を共にするのは久し振りだね、おやつの時間に会えるなんてとってもラッキー」

「う、うん、そうだね、最近は特に忙しかったみたいだし……」

「忙しいのは分かるけれど、偶には顔を見に来てよね、あっ、でも勘違いしないでよ! 気兼ねなく逢いに来て欲しいだけで、無理に来て欲しいって訳じゃないから!」

「……ヨシミ、それ色々間違っていると思うよ」

「えっ?」

「あっ、先生、どうでしょう? このドーナツは最近発売されたものなんですけれど、砂糖が多めに含まれていて甘さが凄いんです! けれど、ミントとの噛み合いというか、そのバランスが絶妙で――」

 

 各々がスイーツを手に取りながら笑顔を浮かべ輪を作る。先生はそんな彼女達を眺めながら何とも云い表せぬ幸福感に暫し浸った。

 そしてアイリに勧められるまま、手渡されたドーナツを一口齧る。

 

「―――」

 

 一瞬、先生はその動きを止めた。

 それは本当に瞬きの間であったが、彼をつぶさに観察していればその表情が硬く強張った事に気付いただろう。

 しかし幸いにして放課後スイーツ部の面々がそれに気付いた様子はなく、先生は即座に表情を切り替え、無言で咀嚼を再開する。

 

「ん、先生? もしかして、それ微妙だった?」

「まぁ、ミント味は結構好き嫌いが分かれるし――」

「あぅ……」

「あ、いや」

 

 先生が何のリアクションも見せない事に疑問を抱いた彼女達は、口に合わなかったのではと危惧したらしい。先生は緩く首を振って、努めて何でもない様にもう一口、ドーナツを口に放る。そのまま残り半分程咀嚼し、穏やかな笑みを浮かべ先生は告げる。

 

「……うん、良いね、甘さとミントのスッとした風味が合っているよ」

「よ、良かった!」

 

 最近ミントにド嵌りしているアイリは、先生に自身の趣向が認められたことにホッと安堵して見せる。歓喜の念を滲ませる彼女を暖かな目で見つめながら、先生は残りのドーナツを全て口の中に放り込んだ。

 

「ん――けれど、本当に沢山買い込んだんだね、こんなに一杯……」

「今日はいつも利用しているお店が月に一度のセールを開催してさ、皆で開店と同時にダッシュして買い込んだってワケ」

「あの時のヨシミは鬼気迫る表情をしていたね~、割り込もうとした生徒を蹴飛ばしてまで甘味を求めていたし」

「はぁ!? 何よ、そういうナツだって両手一杯に買い込んでホクホク顔だったじゃない! と云うか割り込みに関しては、あっちが悪いんだから!」

「よ、ヨシミちゃん、落ち着いて……」

 

 その場面を思い出してか、激昂するヨシミをアイリは宥める。しかし彼女達にとってスイーツ争奪戦は、文字通り戦争なのだ。新発売、数量限定、期間限定――それらの言葉は甘い誘惑で以てキヴォトスの生徒達を誘い込み、場合によっては銃撃戦を敢行してでも手に入れなければならないと云う強い意志を抱かせる。

 

「ま~、何はともあれ沢山食べてよ先生、こっちは私のおすすめ、これを手に入れるのにも中々苦労してね、是非とも浪漫を分かち合おうじゃないか」

「あっ、じゃあこっちも食べてよ先生! コレ一ヶ月前位に出たばっかりの新作で――」

「ん~、じゃあ私はこっちかな、意外とサッパリして美味しいんだよ」

 

 アイリから貰ったドーナツを食べ終わった先生に、各々がお気に入りの甘味を提供する。先生はそれらを一つ一つ受け取り、丁寧に咀嚼し感想を零した。

 エナジードリンクとゼリー飲料、簡素な栄養ブロックと乾パンばかりの食生活の中で、久々の甘味は何とも美味く感じた。甘味なんて口にしたのはいつ振りだろうか? 思い、先生は自身の記憶を振り返る。

 病院食はそもそも味が薄く作られているし、院内で口にする事も無かった、それ以前も――余り記憶にない。こうして生徒達に囲まれた時、一緒に口にした程度かもしれない。先生はそんな事を考えながら一口、一口と手を進めた。

 

「そう云えば皆、最近困った事とかはないかい?」

「え、困った事?」

「えーっと、もしかして前に起きた騒動関連?」

 

 唐突な先生からの問い掛けに、スイーツ部の面々は疑問符を浮かべる。困った事と云えば、精々が勉強が云々だとか、スイーツを確保する為の群資金調達バイトがとか、そんな所だが――恐らく先生が聞いているのは、そう云った彼女達にとっての些事ではないと判断した。

 ナツは紙パックの牛乳に刺したストローを口に加えながら、間延びした声で答える。

 

「う~ん、まぁ確かに騒がしくはあったね、ただ私達はいつも通り過ごしていただけだよ」

「普段あんまり派閥云々だとか、そういうのには関わらないようにしているし、面倒は御免っていうか……一応、本当にヤバい時は手伝ったりするけれどね」

「流石に条約の時は学園全体がピリピリして、私達も大変でしたけれど……あはは」

「というか私達より先生でしょ、色々大変だったって聞いたよ? 条約の時は――本当に心臓が飛び出るかと思ったし」

 

 思い返し、カズサや皆の表情に影が落ちる。特に調印式後の記憶は、思い返したくもない。学園全体が殺意と憎悪に包まれ、普段の光景など何処にも存在しなかった。

 各委員会は統制を喪い、罵詈雑言が飛び交いながら血塗れの生徒が次々と校舎に運ばれてくる。更には先生重傷の噂が唐突に蔓延り、ましてや死亡説まで出回っていた程。

 普段政治に絡まず、我関せずを貫いていたグループさえも、あの時ばかりは殆ど――全生徒が動き出したと云っても過言ではない。

 そしてそれは、放課後スイーツ部も例外ではなかった。

 

「あの時のヨシミは凄かったね、トリニティの弾薬庫にあった砲兵隊管理下の砲弾を抱えて、般若の形相で戦場に向かおうとしていたのを憶えているよ、制止する生徒を蹴飛ばして行く様は正に鬼……」

「そういうナツだって、滅多に使わないビヨンド(ザ・ルミネーション)を引っ張りだしていたじゃない!」

「でも、実際皆動揺して、私達だけでも動こうって話も出たくらいで――」

「……そっか」

 

 彼女達の言葉に、先生は沈痛な面持ちを伏せる。

 既に終わった事ではあるが、当時の彼女達、その心情を想えば一言二言で云い表す事など出来ない。本当にあと一歩、僅かでも道を外れていれば――血で血を洗う凄惨な結末が待っていたのかもしれなかったのだから。

 

「というか、一、二週間位前だっけ? その時のアリウス自治区攻略作戦でも先生が指揮を執ったんでしょう? そんな素振り無かったのに、夜眠って、朝起きたらトリニティが憎きアリウスを打倒したとか何とか叫んでいる生徒が居て、ホントにビックリした」

「あぁ、アレ? 確かに驚いたわね、何か深夜の内に乗り込んだとか何とか聞いたけれど……」

「私も同じクラスの正義実現委員会の子から聞いた位で、あんまり詳しくないですけれど……」

「そんな事もあった訳だし、先生こそ結構無理をしているんじゃないの?」

「あれは――」

 

 先生は一瞬、何と口にすべきか逡巡した。アリウス自治区に対するトリニティの侵攻――アリウス・スクワッドからの要請、セイアの予知、ミカの暴走から始まった一連の騒動は一応表向き、『秘密裏に計画されていたアリウスへの報復・自治区攻略作戦』という事になっている。

 一般生徒からすれば一夜の内にアリウス自治区が瓦解し、トリニティが勝利したという風に映るだろう。作戦時間は深夜から朝方に掛けて、陽が登って少し経った頃には終わっていたのだ、正に夢の様なと表現するべき代物。

 

 そして、件の事件に於いて真実を知る者はごく限られている――それを態々口にして、彼女達の平穏を壊す事を先生は選べなかった。騒動の裏に多くの生徒、その尽力があり、涙があり、汗があり、血も流れた。正にサクラコがいつか口にした裏側の事情、しかしそれを知らなくても良い生徒は、平穏は、確かにあるべきなのだ。テーブルの下で緩く手を握り締めた先生は、努めて冷静に応えた。

 

「いや――心配掛けてごめんね、私は大丈夫」

「大丈夫って……暫く救護騎士団に入院していたんでしょう? それで大丈夫って云われても、心配になるじゃん」

 

 カズサの言葉に、僅かな棘が混じっていた。それは先生の身を案じる裏返し、それを彼は良く理解していた。その上で薄らと綺麗な笑みを浮かべ、先生は首を振る。

 

「検査入院みたいなものだよ、前の騒動で色々あって、それから大きな運動をしたのは久々だったから、念の為――ね」

「ふぅ~ん」

「か、カズサちゃん」

「まぁ、先生が云うなら、信じるけれど」

「………」

 

 反応は何とも鈍い、ヨシミは表面上頷いているが胸中がどうあるかは分かり易い。ナツは考え込む様に無言を貫き、カズサに至っては露骨に信用していない反応であった。その事に先生は苦笑を零す他ない。

 

 そんな会話を交わしていると、ふと先生の個人端末が振動した。シッテムの箱とは別に、連絡兼バッテリー温存用に携帯しているソレを懐から取り出すと、画面には見知った生徒の名前。時刻を見れば、そろそろ昼の時間が終わりを告げようとしている。

 

「――ごめん、次の会談があるからそろそろ行くよ」

「えっ、もう行っちゃうんですか? まだ十分も一緒に――」

「ごめんねアイリ、皆も、また今度埋め合わせするから」

「埋め合わせって、それっていつ頃? あ、いや、先生が忙しいのは分かっているんだけれどさ……」

「ヨシミの時間が空いてる時に、シャーレに来てくれたらいつでも歓迎するよ」

 

 そう笑顔で告げ先生は席を立つ、各々に感謝の言葉を述べ立ち去ろうとする先生に向けて、ふとカズサが声を上げた。彼女は席を立つと、傍にあったドーナツボックスを手に取る。

 

「先生」

「うん?」

 

 振り返る先生、そんな彼に向けてカズサは小走りで歩み寄ると手にしたそれをぶっきらぼうに差し出す。

 

「これ持って行って、おやつにでもして食べてよ」

「……良いのかい?」

「良いの、どうせ碌なもの食べてないんだろうし」

 

 受け取ったそれには、一人分にしてはやや量の多いドーナツが詰まっている。伺う様にカズサ、その背後に居る三人に目を向ければ、彼女達は笑顔を浮かべて頷いた。

 

「それ位全然! まだまだ一杯あるし!」

「幸福の御裾分けという奴だね、偶にはこういうあま~い一日も良いものさ」

「ご、御迷惑でなければ……!」

「――ありがとう」

 

 深く感謝し、先生はドーナツボックスを片手にテラスを離れる。先生の背中が見えなくなるまで、放課後スイーツ部の皆は手を振ってくれた。

 先生は本校舎の影になる場所まで歩き、次の会合場所を端末マップに表示する。トリニティ自治区は本校舎区画だけでもかなり広いが、場所は幸いそこまで遠くない。先生は自身の口元を指先で拭い、ふと呟く。

 その指先は、自身の舌に伸びていた。

 

「アロナ、私は――」

 

 声は途切れ、中途半端に響いた。手にしたシッテムの箱からアロナが顔を出し、先生の表情を見上げ伺う。

 

『――先生?』

「……いや、何でもないよ」

 

 頭を振って、先生は静かに歩き出す。そこには何とも表現できぬ、痛ましさが滲み出ている様に思えた。

 アロナは青の教室越しに先生を見上げながら、何事かを口にしようとする。けれど結局、その言葉が紡がれる事は無く――代わりに両手を握り締め、彼女は沈黙を貫いた。

 


 

 その内美食研究会の皆と一緒に美食を堪能しましょうね、先生。

 フウカのごはんも、ちゃんと味わって食べなきゃ駄目ですわよ。

 今ならきっと、ジュリを笑顔にする事だって叶う筈ですわ。

 

 ブルアカのアニメ放送が近付いておりますが、皆さんアニメ先生のビジュアル見ました事? かなり若くて髪の毛ふさふさでめっちゃ優しそうなお顔でしたわね。あんなお可愛らしい先生が腹に穴開けて血反吐ぶちまけながらヒナちゃんシナシナにさせるなんて……ヨースターさんは業が深いですわね。

 大変宜しいと思います。

 

 便利屋先生、ゲーム開発部先生、アニメ先生……作品の数だけ先生が居る、そう考えるとドンドン夢が広がって行きますわ。

 わたくしも頑張って出来得る限り、力一杯先生の手足を捥いで行きたいと、そう強く志を新たにしましたの! 艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すのですわ! だからこそ、先生には是非! もっともっと頑張って苦難を乗り越えて頂きたいですのッ!!!



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揺蕩う日々()の中で

誤字脱字報告に感謝致しますわ~ッ!


 

「――さて、全員揃っていますね?」

 

 赤に染まる空間、中央にて照らされる円卓、その中で聞き慣れた声が響いた。周囲をぐるりと囲う様に佇む昏い気配を放つ存在が四名。彼ら、彼女は互いが互いを目視し超然とした態度を崩さない。空間には何とも云えぬ淀んだ空気が流れていた、それは影に潜み生きる者特有の息苦しさとでも云い換えれば良いか。

 木製特有の軋みを上げながら震える木人形――マエストロは集まった面々を一瞥し、思案する様に俯き、呟いた。

 

「ベアトリーチェの消滅により席が一つ空いてしまったが……ふむ」

 

 本来この場に立っている筈だったゲマトリアの一員――ベアトリーチェの消滅により空いた一席、以前彼女が立っていた場に佇む銀狼へと顔を向け彼は問いかける。

 

「そなたが此処に居るという事は、本格的にゲマトリアへと加入したのかね?」

「――お前達と一緒にするな、塵屑」

 

 問いを投げかけられた彼女、銀狼は露骨に表情を歪め吐き捨てる。今この瞬間、同じ空気を吸っていると思うだけで反吐が出ると云わんばかりの対応。彼女の辛辣なそれにマエストロは何の反応を返す事も無く、小さく軋む音を響かせた。

 

「ククッ、彼女の立場は以前と変わりません、ただ少し……そう、今回の件については協力出来るかもしれないと考えまして」

「今回の件……?」

「えぇ」

 

 唐突な招集、それ自体は何も珍しい事ではなかったがゴルコンダは今回の集まりに何か関係が在るのかと疑問を呈する。黒服は自身の頬を指先で撫でつけながら、神妙な気配と共に告げた。

 

「――我々でひとつ、用意したいものがあります」

「用意したいもの、ですか」

 

 態々こうしてゲマトリアを招集したという事は、個人で云々出来るものではないのだろう。それ自体は以前のエデン条約でも為されている――尤も性質は少々異なっていたが。

 しかし、このタイミングでその様な提案をするという事は。

 思考し、マエストロは黒服に顔を向けた。

 

「ふむ、それは件の――色彩対策となる何かだろうか?」

「そういうこった!」

「……いいえ、それとは別の、個人的な要望からなるものです、これが必要になるとすれば色彩の脅威が過ぎた後の事でしょう」

「……色彩の脅威が過ぎた後、だと?」

 

 黒服の言葉に疑問符を浮かべる二人を他所に、銀狼は一切口を開かない。或いは先に内容を知らされている様にも見えた。カツンと、デカルコマニーがステッキで軽く床を小突いた。

 

「それはつまり黒服、あなたの実験、或いは契約に連なるものと?」

「大きく外れてはいませんが、それだけではありません」

「しかし、今注力すべきはあの不吉な光を退ける術を模索する事でしょう、時間は無限ではありません、目を向けるべき大事を差し置いて一体何を――」

「恐らく聞けば皆さんも賛成して頂ける筈ですよ……ククッ」

 

 黒服の言葉は嫌に迂遠で、しかし嘘を交えている様な気配は微塵も無かった。彼はくつくつと肩を揺らしながら、ふとマエストロへと視線を向ける。

 

「マエストロ、確か【聖者の左腕】はあなたの領域に保管されていた筈ですね?」

「……あぁ、件の聖遺物ならば丁寧に私の領域に保管してあるとも、ベアトリーチェに貸し出した作品を創り上げる為に僅かばかり削ってしまったが……あれ程の者であると事前に知っていれば、ほんの僅かでも削る様な失態は犯さなかったと云うのに――あぁ、実に惜しい事をした」

「結構、であれば問題はありません、以降は大切に保管しておいて下さい、私の計画の重要なピースとなる筈です」

「………」

「おっと銀狼さん、そう睨まないで頂きたい」

「ちッ――」

 

 彼の者の部位、それに言及した途端銀狼が分かり易く剣呑な気配を放ち始め、刺々しい敵意と殺意が黒服に集中する。そんな彼女から向けられる感情をいなしながら黒服は仰々しく身を竦ませた。ゴルコンダとデカルコマニーはその身を揺らし、黒服へと水を向ける。

 

「それで黒服、一体何をするおつもりで?」

「――ククッ」

 

 ゴルコンダの問い掛けに、彼は愉快そうに哂う。そこには何か云い表す事の出来ぬ不気味さが滲み出ていた。

 

「何、以前私達だったモノが目指した計画(プラン)を、少々拝借しようかと思いまして」

「以前私達だったモノ……?」

 

 それは彼らがまだキヴォトスに足を踏み入れていなかった、或いは認識していなかった時代。マエストロは要領を得ないと小首を傾げ、訝し気に腕を組む。黒服の言葉を最初に理解したのはゴルコンダであった。

 

「――まさか、()の再現をなさるおつもりですか」

「そういうこった!?」

 

 ゴルコンダの漏らした呟きに、デカルコマニーが驚きと共に肩を震わせた。それは以前、少なくとも組織上の先人が為そうとし――結果として破局を迎えた計画の一つである。マエストロは驚愕と納得を、黒服は淡々とした頷きを返した。

 

「えぇ、尤も少々アプローチ、というよりも目的が異なりますが……」

「嘗てゲマトリアと名乗っていた先人が為した、再現による神の証明か」

「しかし、あれは失敗だった筈でしょう? 元より私達とは余りに方向性が異なります、解釈は各々と云えど、あれの持つテクストは――」

 

 尚も何かを云い募ろうとするゴルコンダに対し、黒服は静かに手を翳した。そこには拒絶の意志ではなく、いっそ穏やかな色が見え隠れしている。

 

「いいえ、ゴルコンダ、勘違いしないで頂きたい、私は何も以前彼らの為した計画(プラン)をそのままなぞると云っているのではないのです、『結果的にそうなる』と云うべきか、それに近しい結果を得られるだけの事――」

「……それは、一体どういう」

「私達が用意するソレ、その創造にAIを用いる事はしません、ましてや人工の主を再現し、彼の者の証明をする事が目的でもない、元より先人たる彼らが重視したのは内側、つまり中身です――しかし私が求めるものは異なります、重要なのは器の方なのですよ」

「器だと?」

 

 その言葉に益々疑念は深まる。自身に集中するそれらを一身に浴びながら、黒服は白い罅割れをより大きく、そして歪に曲げた。

 

「――この話を聞けば、きっとご納得頂けますよ」

 

 

「――と云う訳で、明日試験を行います」

「えッ!?」

 

 トリニティ総合学園――合宿所、補習授業部教室。

 寂れ、誰も使用しなくなった合宿所は現在殆ど補習授業部専用の施設となりつつあり、ナギサの許可――先の事件による負い目もあるのだろうが――もあり、補習授業や試験を行う際は基本的にこの場所で行う事が通例になっていた。

 本校舎からのアクセスは悪いが、周辺は静かで体育館にプール、資料室に食堂まである。基本的な生活や一通りの運動含めた学業を修める環境としてはこれ以上なく、ハナコの個人的な要望と尽力もあり、週に一度は皆で集まって勉強合宿をしているとか何とか。無論、その分合宿所の管理、清掃などは全て補習授業部が請け負っている。

 そんな場所で今日も今日とて補習を行っていた彼女達の前に現れた先生は、授業が終わった瞬間その様な爆弾発言を投下した。

 

「し、試験って、何で急に……!?」

「いや、色々ゴタゴタがあったから少し遅れてしまったけれど、一応此処って補習授業部だからね? 定期的に試験はやらないといけなくてさ」

「あ、あはは……」

 

 コハルが焦燥を滲ませながら立ち上がれば、先生は至極真っ当な解答を寄越す。補習授業部が結成され、それなりに時間が経過した現在ではあるが本来であれば試験を通過して脱補習授業部を目指さなければならないのだ。

 因みに以前ナギサが行った様な試験内容、合格条件等はなく、全員合格や九十点以上等という高すぎるハードルも無い。少なくとも用意されている試験は一般的なものと変わらない内容だった。

 尤も彼女達の場合、自分だけが一抜け――という状況は決して受け入れないだろう。試験に関しては期間を置いて三度実施され、全ての試験に於いて一定以上の成績を取得した場合にのみ補習授業部卒業が認められるというものである。

 先生はタブレットを教卓の上に立てながら彼女達を落ち着かせる様に穏やかな口調で以て続けた。

 

「試験と云っても難しいものじゃないよ、事前に配布していた教材をきちんと学習していれば普通に解ける難易度だから、気持ちを楽にして受けて欲しい」

「うん、大丈夫、勉強は欠かしていないから準備は万全」

「た、多分、大丈夫だとは思うのですけれど……」

「ふふっ♡」

 

 アズサはいつも通りの仏頂面を浮かべつつ、フンスと自信ありげに鼻を鳴らす。対してヒフミの表情はやや不安げで、ハナコはいつも通りの含みのある笑顔を浮かべていた。

 

「あ、あぅ……」

 

 ただ一人、彼女達の中で全く声を上げられずに居たコハル――彼女は項垂れる様に身を竦めると、小さく呻く事しか出来なかった。

 

 ■

 

「ど、どうしよう、試験って、そんなの聞いてないし……べ、勉強、あんまり出来てない」

 

 その日の夜、自室へと戻った彼女は少しダボついた寝間着に身を包みながら机の前に座っていた。薄暗い室内、勉強用のライトに照らされた教材が並べられ、コハルはそれを見下ろしながら蒼褪めた表情で呟く。コハルがきちんと教科書と向き合う時など、精々補習授業の時間か、週に一度の勉強合宿の時位なもので、更にその勉強合宿でさえ主にハナコとかハナコとかハナコが様々な非行、誘惑――もとい遊びを提案する為一日勉強漬けという事は稀である。

 因みに通常授業に関しては既に置いて行かれて久しい為、殆ど睡眠学習と落書き、個人的な保健体育の学習に費やされているのでカウントされない。

 

「うぅ、一体どうすれば――」

 

 机の上で頭を抱え、思わず悲鳴染みた声を漏らすコハル。今から一夜漬け? いや、そんな事をしても無駄な足掻きでは、しかし自分だけ落第なんて事になったら悲しすぎるし、どんな状況でも諦めるのは嫌――でもでも。

 そんなコハルが苦悩する最中、ふと彼女の耳に端末の電子音が届いた。

 見れば机の脇に置いた個人端末のモニタが点灯し、メッセージの着信を伝えている。

 

「着信? こんな夜に、誰から……」

 

 時刻は既に出歩くには少々遅い時間になっている。コハルの連絡相手と云えば精々が補習授業部の皆か先生、後は正義実現委員会の面々くらいなものである。一応もうひとり、半ば強引に連絡先を交換させられた相手もいるのだが、その御方に関しては余りにも立場が違い過ぎる為基本的にコハルから連絡する様な事はしていない――というか出来ない。

 まさかと思いつつ恐る恐る端末を手に取り、通知を覗く。

 

「――ハナコ?」

 

 果たして、メッセージを送って来たのはハナコであった。一体なんだろうと首を傾げつつメッセージをタップすれば、モモトークのトーク画面が表示される。

 

『先生、お疲れ様です♡ こちらいつも頑張っている先生に私からのプレゼントになります、存分に活用して下さいね♡』

「……?」

 

 表示されたメッセージはコハルに向けてのものではなく、先生に向けたものである様に思えた。もしかして宛先を間違えた? プレゼント、と云うと教材関連だろうか。彼女らしくないと思いつつ、間違いを指摘しようと指を入力欄に伸ばせば。

 

【添付ファイル 先生専用自撮り写真集♡】

「なッ――!?」

 

 メッセージに添付されたファイル名に、思わず椅子を蹴飛ばして立ち上がった。ガタリと跳ねた椅子が音を響かせる。その名前、ワード、意味深なハート、これはもう間違いない、コハルの正義実現委員会(正義の心)が訴えていた。

 

「ここ、これ、先生に送信しようとして間違ったの……? は、ハナコ、気付いてない……?」

 

 食いつく様に端末を見つめるコハル。既に送信から一分程経過しているが、彼女がメッセージを取り消す気配も、ましてや謝罪して来る気配もない。という事はハナコは現在このメッセージに気付いていないという事になる。

 わなわなと震える指先で端末を保持しつつ、コハルは跳ねる心臓をそのままに呟く。

 

「こんなの、絶対エッチな奴じゃん……! こんなの送るなんて絶対駄目! 主文後回し! エッチなのは死刑っ!」

 

 そしてその指で、メッセージに添付されたファイルを即座にダウンロードした。

 

「………」

 

 猫目のまま静かに机と座り直したコハルは、無言で端末を握り締めそわそわと落ち着かない様子。表示されるダウンロード時間はそれなり、「あっ、これ結構容量あるんだ……」と内心で思いつつ解凍ソフトを立ち上げる。圧縮されたファイルを解凍し、解凍される幾つかのフォルダ。いざ中身を御開帳とタップすれば――。

 

【パスワードを入力してください】

「えっ!?」

 

 まさかのパスワード要求。

 出鼻を挫かれたコハルは冷汗を流しながら、逸る気を抑え呟いた。

 

「ぱ、パスワードなんてあるんだ……そ、そうよね、間違って他の人に見られちゃったら大変だし……」

 

 一瞬ウィルスの類を疑ったが、そもそもハナコがそんなものを先生に送りつける筈が無いかと胸を撫でおろす。しかしパスワードとなると全く見当もつかない、もしかして二人だけが知っている合言葉みたいなものだろうか――何それエッチじゃない? やっぱり死刑。

 コハルはふんふんと鼻を鳴らしながら何か手掛かりが無いかと画面をスクロールする。すると解凍された幾つかのフォルダとは別に、テキストが同封されている事に気付いた。どうやらそれ自体にパスワードは掛かっていない様で、コハルは恐る恐るテキストを表示する。

 

【パスワード① 補習授業部配布教材、二十五頁の例題三解答】

「補習授業部の教材……? あっ、授業で使ってる教科書――!」

 

 コハルは思い立ち、机の横に置いていた愛用の肩掛けバッグから補習授業部で使用する教科書を取り出す。それなりの厚さを誇る教科書は一冊で複数の教科に対応しており、基礎から応用まで幅広くカバーしている優れものだった。

 

「えっと、二十五頁の例題三……これかな?」

 

 ペラペラと頁を捲り、テキストの指示している例題を発見するコハル。

 

「す、数学……あ、あんまり得意じゃないんだけれど」

 

 その頁は数学を扱っており、問題式を見た瞬間彼女の表情が分かり易く引き攣った。あまり難しくない筈の序盤問題でさえ難問に感じる、頭を悩ませ唸るコハルは何とか答えを導き出そうとペンを走らせるが上手く行かない。

 

「うーん……あれ?」

【ヒント 二十四頁の公式を当て嵌めましょう、例題一から順に解いてみるとスムーズかもしれません】

 

 コハルがふと端末に目を向けると、パスワード①には続きがあった。良く見れば各パスワードの下にはそれぞれヒントが綴られており、パスワードの答えに躓いた際は助言をくれると云う親切設計になっていた。

 

「二十四頁の公式……あっ、これ? これを使って、えっと、例題一から――」

 

 頁を一枚捲り、一つ前の段階から始める。内容は例題三から入るよりも幾分か分かり易く、少々難しく感じた場合も教科書が丁寧に解き方を提示してくれている。それを真似て公式を当て嵌めれば、例題一、二とスムーズに解く事が出来た。

 

「と、解けた! やったっ!」

 

 例題三――先程躓き、頭を悩ませたものもスラスラと解答。導き出された答えを早速とばかりに端末へと入力する。パスワード①だから、恐らくフォルダ①の解答だろうとあたりを付ける。

 

「えっと解答を入力して――ひ、開いたッ!」

 

 コハルの考えは正解であった様で、パスワードを入力するとフォルダはその中身を彼女の前に晒した。

 

「い、一杯ある……これ、全部えっちな奴なの――?」

 

 途端、彼女の前にずらりと並ぶデータ。フォルダ①の中にあった画像ファイルは十枚、これが後四つフォルダがある訳だから、全部で五十枚の自撮り画像をハナコは送った事になる。「は、ハナコ、こんなに一杯送ったんだ……!」と思いつつ、コハルは恐る恐る画像ファイルをタップした。

 此処に、ハナコのエッチな自撮りが――!

 

【パスワードを入力して下さい】

「って、まだあるの!?」

 

 しかし、どうやらセキュリティチェックはかなり厳しい様で、各画像を開くにのにもパスワードが必要だった。スクロールすれば、やはり最後にテキストファイルが同封されている。若干気落ちしながらもテキストを開けば、表示される見慣れた文言。

 

【パスワード 補習授業部配布教材、二十六頁の例題二解答】

「……よしっ!」

 

 これを解けば、次こそちゃんと画像が見れる。

 コハルは自身の頬を叩いて気合を入れ直し、改めてペンを手に取った。

 

 ――これがコハルの長い夜の始まりだった。

 

 ■

 

 翌日。

 

「す、凄いですコハルちゃん! 試験満点だったんですか!?」

「流石正義実現委員会のエリートだな、対策はバッチリだったという訳だ」

「………」

 

 補習授業部、合宿所教室。

 朝一で行われた試験が終了し、各々が自己採点を終えた昼時。合宿所の食堂は利用せず、教室でお弁当を広げながら談笑する補習授業部の面々はコハルの前にある自己採点結果を見ながら驚愕の声を上げていた。ヒフミとアズサは純粋な瞳と称賛を彼女に浴びせ、その結果を素晴らしいものだと心の底から思っている様子だった。

 しかしコハルはそんな彼女達の称賛を他所に、モソモソとお弁当を僅かずつ頬張る。その目元には隈があり、何処となく覇気がない様に見えた。

 

「……えっと? どうしたんですか、コハルちゃん」

「コハル、もしかして具合でも悪いのか?」

「あ、い、いや、何でも……ない」

 

 戸惑う様に問いかけるヒフミ、心配を口にするアズサ。二人を一瞥したコハルは慌てて首を振り、曖昧に返答して見せる。それは虚勢であったが、真実を知られるよりは遥かにマシである様に思えた。

 

「ふふっ♡ 凄いですね、コハルちゃん♡」

「ふぐっ!?」

 

 不意に、声が聞こえた。それは直ぐ傍から。

 見れば同じ様に机を合わせ、コハルに妖しい笑みを浮かべるハナコの姿がある。彼女の前には可愛らしいお弁当と、合わせて自己採点の結果があった。因みにハナコの点数は、『六十九点』である――最早何も云うまい。

 

「あら、お顔が真っ赤ですよ? 何かあったんですか?」

「なっ、何も無いから! 何でも、ホントに何でもない!」

 

 ハナコは素知らぬふりをしつつ、何でもないかのように笑顔で問いかけて来る。そんな彼女の態度を目にした瞬間、コハルの顔が真っ赤に染まり、怒りとも羞恥とも云える感情が一気に駆け巡った。良く考えなくとも、あれ程用意周到に準備されたものがタイトル通りの筈がなく――正に自分は彼女の掌の上で転がされたのだと気付いたのは、夜が明け陽が登り、いつも起床している時間を過ぎてからだった。残されたのは結局一夜漬けというには余りにも効率的な試験勉強を終えた自分だけであり、多少の違いはあれどハナコの考えた問題は殆どそのまま試験に出される程の正確さだった。

 

「くぅ~……」

 

 ニマニマと何とも憎たらしい笑みを浮かべるハナコ――いや、彼女はきっといつも通り微笑んでいるだけなのだろうが、今のコハルからすれば正に意地の悪い微笑みにしか見えなかった。

 試験結果には感謝しよう、しかしやり方が余りにも姑息ではないか。彼女は全てを知っているのだ、自分が本来であれば満点など取れない事を知っている。だというのに高得点を取ったという事は――彼女から見れば、つまりそういう事だ。

 コハルは涙目でハナコを睨みつけながら、しかし彼女を糾弾する事も出来ず、悔しさに呻く事しか出来なかった。此処で彼女を糾弾すれば自らあのフォルダ全てを開封し、中身を検めたという事を告白するに等しい。そうでなくとも点数で真実は知られている、ならばこの生暖かい目を受け入れる事がただ唯一他の面々に今回の真実を知られずに済む方法だった。

 

「今回は全員難なく合格ラインを越えられたね、流石だよ皆」

「っ!」

 

 そんな彼女達の元に、採点を終えた先生が戻って来る。いつも通りで、穏やかで、何も知らぬ彼を見た瞬間、コハルは思わず椅子を蹴飛ばして立ち上がり、先生を指差し叫んだ。

 

「こ、これも全部、先生のせいだからッ!」

「えっ、私? 何、なんの話――?」

「先生のばーかっ! えっちなのは焼却ッ! 死刑っ! ……やっぱり無期懲役!」

 

 云うだけ云って、コハルは鞄もお弁当もそのままに教室を飛び出してしまう。先生は唐突なそれに唖然とし、一体何があったのだと先生は残った面々に顔を向けた。しかし事情を知らぬヒフミとアズサは同じように困惑を滲ませ、首を緩く振る。

 

「……ど、どうしたんでしょうか、コハルちゃん」

「ふむ、テストで満点を取る事は誇るべき事だと思ったのだけれど」

「……えっと、私がコハルに何かしちゃったのかな?」

「ふふっ、大丈夫ですよ先生、コハルちゃんのアレは単なる照れ隠しですから、きっとあられもない想像をしてしまってお顔を直視出来ないんです」

 

 ただ一人、ハナコだけは訳知り顔で頬に手を添えると楽しそうに言葉を零す。困惑する二人とは別で、ハナコの背景には花が咲いている様にも見えた。先生はハナコの様子に一瞬疑問符を浮かべ、それからコハルの試験結果と彼女の態度を照らし合わせ、一つの仮説に辿り着いた。

 

「――もしかしてハナコ」

「はい?」

「前にハナコが云っていた【作戦】、今回実際にやってみたり……した?」

「………」

 

 にっこり。

 それは正に綺麗過ぎる、余りにもわざとらしい笑顔だった。そして彼女がそんな笑顔を浮かべる時は何十、何百と云う言葉よりも雄弁である。先生は全てを悟った、悟ったが故に顔を手で覆い天を仰いだ。

 

「最近の技術は凄いですね先生、特にミレニアム製のアプリには実際の人物がまるで本当に■■■している様に見せる合成技術があって、人工知能(AI)を用いた■■■■や■■■■も作れちゃうんですから♡」

「ハナコ? えっハナコ、嘘だよね? アレ本当にやったの? それにやるとしても中身は適当に見繕うって……えっ」

「――ふふっ♡」

 

 焦燥を滲ませる先生を前に、ハナコはあくまで自然体。彼女は机に頬杖を突きながら、楽し気で、揶揄う様な、それでいて彼女らしい生き生きとした笑みを浮かべ、告げた。

 

「大丈夫ですよ先生、用意した御褒美は――ちゃんと健全、ですから♡」




 平和過ぎて爆発しそう。


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受け継がれる遺志

誤字脱字報告、感謝ですわ~!


 

「――という事で、現在のアリウス自治区の管理、保全に関してはこの様な形となっております」

「そっか……うん、ありがとうサクラコ、大体把握出来たよ」

 

 トリニティ総合学園――大聖堂、執務室。

 サクラコが普段仕事場としているその場所で向き合う二つの影は、デスクに広げた幾つもの書類を見比べながら言葉を交わす。片やシャーレの先生、片やシスターフッドの長であるサクラコ。見る者が見ればまた何かシスターフッドが云々と勘繰られそうなものだが、大聖堂内部に他の目はない。サクラコは手元の書類を揃えながら緩く首を振ると、微笑みながら告げた。

 

「いいえ、御礼を口にされる様な事では――元よりこの件に関しては、シスターフッドこそが動くべき一件ですから」

「……シスターフッドの前身、聖徒会のやり残した事か」

「えぇ、彼女達がどの様な思惑、或いは理念、信念で動いていたのか今となっては明らかにする事も叶いませんが……それでも受け継いで来たあらゆるものを、無為にする事は出来ません、先生風に云うのであれば、シスターフッドを率いる者としての責任――とでも申しましょうか」

 

 口調は穏やかで、しかし同時に確固たる意志を感じさせるものだった。責任感の強い彼女らしいと云えばらしい、何十、何百年前の先人達が残して来たもの。それが善いものであれ悪いものであれ、自身にはそれを知り受け継ぐ責任があると考えているのだろう。

 

「それにアリウス自治区に関してはティーパーティー、正義実現委員会、救護騎士団共に協力して事に当たっております、一部内々に処理しなければならない部分もありますが――以前の政治的(しがらみ)を考えれば、随分と楽になったものです」

「そっか」 

 

 微笑み、綴られるサクラコの言葉に嘘はない。以前と比較すれば風通しも良くなり、他派閥への話も通し易くなった。以前であれば痛くも無い腹を探られ、何時間と交渉の席を持たなければならなかっただろう。秘密主義のシスターフッドが動くとは、そういう事だった。

 

「互いに疑り、疑心暗鬼を生じていた頃と比べれば今は雲泥の差でしょう」

「……それなら復興計画もきっと」

「えぇ、時間は掛かるでしょうが、恐らくは」

 

 先生の呟きに、サクラコは力強く頷く。

 

「ただ管轄の問題や心情的な部分もあります、トリニティ、連邦生徒会、ゲヘナ、アリウス、まだ何も確たるものはありません、予想できない点も多く――どの様な形になるかまでは、私としても」

「それで良い、ほんの僅かでも可能性があるのなら十分だ」

 

 組んだ両手で口元を隠した先生は、神妙な顔つきで応えた。先生の口にする復興計画――即ちアリウス自治区の復興と再生。

 現在アリウス自治区はトリニティ総合学園が占領、管理を担当しており、定期的に治安維持の為の巡廻と瓦礫撤去、簡易的ながら街道の整備などが行われている。マダム・ベアトリーチェの指揮下にあった生徒は幹部クラスの者も含め、その殆どが拘束され一般生徒も大多数が虜囚となった。一部捕らわれる前に自治区を脱出した生徒もいるが、それに関しては現在ヴァルキューレ警察学校が指名手配、及び追跡を行っている。

 尤も行方を追っているのはヴァルキューレのみならず、個人的、或いは学園規模で捜索を行っている場所も多い。そして例に漏れず、このトリニティも脱出したアリウス生徒の行方を追っていた。

 だが、何より現在先生が気に掛けているのは――。

 

「サクラコ、投降したアリウスの生徒達については――」

「そうですね……その件については議会でも未だ意見は揃っておりません、トリニティの内々で処理をするか、ヴァルキューレに突き出すか、シスターフッドが引き受けるか、正義実現委員会や分派の生徒と共に条件付きでアリウス自治区に一度帰すか……小規模とは云え自治区全ての生徒を捕らえるとなると、相応の施設や備蓄が必要になりますから」

「それは、そうだね……以前のクーデター未遂の際に拘束されたままの生徒も残っているから、その分も考えると」

「はい、其方は先生の口添えでシスターフッドが担当しておりますが――どちらにせよ、厳しい意見が大半である事は確かです、対応を間違えれば取り返しのつかない事になってしまう可能性すらありますから、議会の方々も各々慎重な対応を心掛けている印象です」

「………」

 

 強張ったサクラコの声に、先生は思わず黙り込む。

 アリウス自治区制圧より然程時間は経過していない、一夜の内に崩れ落ちた自治区には多くの生徒が住んでいた。その大半はベアトリーチェによって駒同然の扱いを受けていた者が殆どで、主を失った彼女達は碌な抵抗もせずに現在も収容されている。

 そして残念ながら彼女達に対するトリニティ側の心情は――ハッキリ云って、ミカに対する糾弾とは比べ物にならない程に悪辣で、痛みすら伴う程であった。

 

 現在彼女達はトリニティ自治区、外郭区画隔離塔に収容されているが、もしこれが中央区画に近い場所であったのなら――恐らく毎日のように罵詈雑言が飛び交い、心無い仕打ちを受ける事になっただろう。それこそ、聴聞会を控えていたミカの時と同じように。

 責めるべき対象が手の内に転がり込んで来たからこそ、彼女への怒りや憎しみと云ったものが薄れ、矛先が変わった。ある意味これこそがナギサの狙いであり、実際その策謀は実を結んだと云って良い。その事に関して、先生は彼女を責めるつもりはない。しかし、だからと云って静観するという選択肢もなかった。

 その現状を何とか変えねばとならぬと方々を走り回ったが、残念ながらどうにかなっているとは云い難い。如何に先生と云えど学園全ての生徒を一人一人説得して回るのは不可能であり、各分派の長や有力者に渡りを付け、多少手心を加えて貰ったとしても一般生徒に不満が蓄積され爆発してしまえば、その手回しさえ無為に帰す。そしてその事を議会の面々も理解していた。

 

 現ティーパーティーホストであるセイアに対する暗殺未遂、ミカを傀儡としたクーデター未遂、代理ホストであるナギサへの襲撃、調印式会場襲撃による条約阻止、ゲヘナ・トリニティ両校に対する攻撃行為、トリニティ自治区への破壊工作――そして自身の重傷と欠損、それら全てがアリウスに対する迫害、その感情的な正当性を保持していた。

 大海の如く押し寄せるそれを、全て捌き切る事など到底出来ない。そしてそれはトリニティのみならず、キヴォトスに於いてどの学園も似たようなスタンスを保っているのだ。

 今先生が出来る事と云えば、時間を見つけて彼女達の元へと通い、精々が差し入れと称して日用品やら雑貨、多少の娯楽品を贈る程度の事だ。面会に関しては残念ながら、トリニティ側の意向としてやんわりと断られている。

 だからこそ一日でも早く、アリウス復興案を通し着手しなければならなかった。アリウスの為にも、トリニティの為にも――その憎悪の螺旋は止めなければならない。

 その為の準備はずっとしてきた筈なのだから。

 先生は強く両手を握り締め、精悍な表情をサクラコに向ける。

 

「……何かあればいつでも頼って欲しい、私も全力でサポートするから」

「えぇ、そう云って頂けるだけで十分です――それに、それは此方の台詞でもあります」

 

 力強い先生の言葉に、サクラコの視線が彼の瞳を真っ直ぐ見返した。退院したばかりの頃にはなかった筈の隈が、再び先生の目元に刻まれている。病み上がりにも関わらず、また昼夜問わず生徒の為に尽力しているのだろう。その様子が目に浮かぶ様だった。

 

「先生はいつも、ご自身で抱え込んでしまいますから、私もそうですがシスターフッドのシスター達、ヒナタやマリーも心配しておりました――事の重要さは理解しておりますが、無理は良くありません」

「……私としては、出来る事をやっているだけなんだけれどね」

「程度の問題です、また先生が倒れてしまったら今度こそシスターフッド総員で押しかける事になっても知りませんよ?」

「――参ったな」

 

 サクラコの言葉に面食らった先生は、軽く頬を掻きながら苦笑を零した。彼女の言葉が冗談でも何でもないと、そう感じたからだ。

 

「先生、私達は先生の為にいつも祈っております、だからこそ苦難も、喜びも先生と皆で分かち合い、苦しみはより軽く、喜びはより大きく――そうやって日々を過ごして行きたいと思っているのです」

「……ありがとう、サクラコ」

 

 彼女な真摯な想いに、先生は深い感謝を示す。シスターフッドの皆が自身を想い、祈りを捧げてくれる事を知っていた。その想いに応えたいと、そう強く思う。

 だからこそ少々無理をしてしまう面もあるが――後頭部を掻き、先生は優しく言葉を漏らす。

 

「マリーやヒナタにも、後で御礼を云わないと」

「そうですね、きっと先生をお声を掛けて頂ければ喜ぶと思います、二人には様々な面で助けられていますから」

 

 膝の上で掌を重ね、小さく頷きながら口を開いたサクラコは一瞬、何かを考える素振りを見せた。それからややあって、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「先生、恐らくシスターヒナタから口に出す事はないと思いますが、最近ヒナタさんは力加減を間違えて備品や運搬物を壊す事が殆ど無くなったのです」

「それは――」

 

 真剣な表情でそう口にするサクラコを見て、先生は言葉を呑み込んだ。それは喜ぶべき事の筈だった、自身の力に悩まされ改善する方法を求めていたのは他ならぬ彼女である。備品を壊してしまって皆さんに迷惑を掛けてしまったと落ち込む彼女を見たのは、二度や三度ではない。しかし、そこに至る過程を察したからこそ――先生は素直に喜ぶ事が出来なかった。自身の冷たくなった左腕を握り、先生は目を伏せる。

 

「理由はどうあれ……等と軽々しく口にする気はありません」

「……うん」

「だから、どうか先生」

「――大丈夫、分かっているよサクラコ」

 

 何かを云い募ろうとするサクラコに向けて、先生は手を差し出す。サクラコの視界に映った先生は悲し気で、けれど同時に儚くも美しい顔をしていた。

 

「今日中にも会いに行く、約束するよ」

「……ありがとうございます、先生」

「いいや、寧ろ私がもっと早く気付くべきだった――私は、皆に助けられてばかりだ、本当に」

 

 こうして言葉にする度、実感する。自分ひとりで出来る事など高が知れているのだ、彼女達の助けが無ければ自分など疾うに朽ち果てているに違いない、先生にはその確信があった。

 

「んんッ――先生、話は変わりますが」

「……?」

「実は私も、先生に少し相談したい事がありまして」

 

 感傷に浸る先生を見て、空気を変えようとしたのか。或いは彼女なりの優しか。佇まいを正したサクラコは咳払いを一つ挟み、妙に落ち着きなく告げた。

 

「相談事かい?」

「はい、内部の生徒に相談にするには、少々躊躇われるものでして」

「……何だろう、私に協力出来る事なら良いのだけれど」

 

 元より生徒からの相談と聞いて突っ撥ねる気等更々ない。先生が頷くと、彼女は頻りに扉の方――廊下側を気に掛けながら、心なしか声を落として呟いた。

 

「私事で大変恐縮なのですが――その、最近シスターの方々に誤解されている様な気がして」

「……誤解?」

「えぇ、率直に云ってしまうと、皆さんに怖がられているというか、恐れられていると云うか、その様な気配をひしひしと感じるのです」

「それは――」

 

 先生は思わず言葉に詰まった。他の生徒であれば気のせいで済ませられるような事であっても、サクラコであるのならば少々事情が変わって来る。それを自覚しているのだろう、彼女は何とも云えぬ表情を浮かべながら額を揉み解し、言葉を続けた。

 

「いえ、最初は気難しい人物であると思われている程度のものだったのです、何分シスターフッドはやや閉鎖的な風潮もあり、その長という立場上威厳を保つ必要もありますから、意図的にそう云った噂を是正する事もしなかったのですが……」

「目に余る様になってきた、と?」

「……はい」

 

 外部の生徒にどの様に思われようとも、サクラコは特に気に掛けもしない。シスターフッドという組織を率いる以上、多少の風評などで揺らぐ心を彼女は持ち合わせていないのだ。しかし、それが内部からの評価となって来ると少々話が変わって来る。

 サクラコは膝の上で組んだ両の指を忙しなく動かしながら回想する。

 

「実は、以前にこんな事がありまして――」

 

 ■

 

「あら皆様、ごきげんよう」

「さ、サクラコ様!」

 

 そう、確か数日前の事である。

 ある程度執務を終え、休憩がてら少々散歩に行こうと思い立ったサクラコは大聖堂を後にし、その門前を清掃するシスター達を目にしたのだ。箒を片手に清掃に励む彼女達は凛々しく、今日も真面目に勤めを果たすシスター達に対しサクラコは優し気に微笑んで見せた。

 サクラコに気付いた彼女達は即座に足並みを揃え、背筋を正す。

 

「ふふっ、聖堂周辺のお掃除ですか? 精が出ますね、大変結構です――私はいつでも皆さんを見守っておりますよ」

「は、はいッ! け、決して手は抜きませんッ!」

「枯葉一つ残しません!」

 

 サクラコの言葉に喉が張り裂けんとばかりに応え、何度も頷いて見せるシスター達。彼女達はサクラコが正門を抜けた後も、必死に枯葉を集め、枯葉どころか砂埃一つ残すまいと文字通り血眼になって清掃を行った。そんな彼女達の様子を横目にしたサクラコは顎先に指を添えながら考える。

 

「……かなり汗を掻いていた様子ですが、陽射しが強いのでしょうか?」

 

 呟き頭上を仰げば、今日は快晴である。燦々と降り注ぐ陽光は暖かく、決して暑いと呼べる程ではない。寧ろサクラコにとっては少し肌寒い位に感じた。

 

「確かに快晴ではありますが、そろそろ冬も近いですし――いえ、外で動いていると体も暖まりますから、そのせいかもしれません」

 

 シスターフッドの正装は主に黒で統一されている。頭に被るウィンプルもあり熱が籠り易い事はサクラコも理解していた。故に彼女は近場の売店を脳裏に浮かべ、差し入れでも持って行こうと決める。

 

「此処は飲み物の差し入れでも――あら?」

 

 そんな彼女の視界に映る、ふとした光景。それは広場の並木道を歩く生徒の姿、四人組の彼女達は手に色とりどりのアイスクリームを持ち、楽し気に話しながら歩いていた。一番手前の生徒が手にしているのは、チョコミントアイスだろうか? サクラコはそれをじっと見つめながら思考を巡らせる。

 

「そうですね、アイスも悪くない……でしょうか」

 

 呟き、彼女は一つ頷いて見せた。

 季節はもうそろそろ冬に差し掛かろうとしている頃、季節としては時期外れな甘味であるが、その位の方が少し茶目っ気を感じるだろう。つまり、そう、少しお茶目な所をアピールして親近感を抱いて貰えるチャンスという訳だ。少なくともサクラコはそう考えた。

 

「ふふっ♪」

 

 そうと決まれば早速実践である。サクラコは弾んだ心をそのままに売店まで赴き、普段は購入しないような僅かばかりお高いカップアイスクリームを複数購入した。尚、上機嫌に微笑みながら歩くサクラコを目撃した一般生徒が戦慄と共に散って行った事を本人だけが知らない。

 そうしてビニール袋を揺らしながら大聖堂へと戻って来たサクラコの視界に、先程と同じように清掃を行うシスター達の姿が映った。

 彼女達は心なしか先程より多くの汗を流し、懸命に箒を動かしている。

 

「は、速く済ませましょう! いえ、ですが丁寧に、確実に……! 汚れ一つあっては、サクラコ様に消されてしまう――!」

「ど、どうしましょう、ここは応援を呼ぶべきでしょうか? 私達だけで、この一帯を全て掃除するなんて、とても……」

「――皆様」

 

 そんな勤勉で真面目な彼女達に対し、サクラコは穏やかに、それでいて優し気な笑みを浮かべながら声を掛けた。

 

「ひッ!? さ、サクラコ様……!」

「そ、外回りに、行かれたのでは――!?」

 

 その声が聞こえた瞬間、彼女達は分かり易く肩を弾ませ素早くサクラコへ向き直った。箒を強く掴みながら抱き寄せ震える様子からは、とても暑がっている様には見えないが――しかし頬や顎先に流れる汗は益々嵩を増していた。それだけ懸命に仕事を行っている証拠だろう、サクラコはそんな彼女達の様子に感心し、笑みを更に深くした。

 反対に、彼女達の顔色は悪化する。だがウィンプルと前髪の影になった彼女達の顔色は、残念ながらサクラコに目視されていない。

 

「えぇ、仕事は残っておりますが、頑張っていらっしゃる皆様に差し入れをと思いまして」

「さ、差し入れ……?」

「サクラコ様が、ですか……?」

「えぇ、先程、少しばかり良いものを仕入れて来たのです」

「良いものを、仕入れ――?」

「ですから、少し手を休めて――」

 

 そう云ってサクラコは手にしたビニール袋を胸の前まで掲げ、出来得る限り優しく、茶目っ気を見せる様な弾んだ声と満面の笑みで以て告げた。

 

「――アイス(甘味)など、如何ですか?」

「――……あ」

 

 瞬間、カコンと。

 立っていたシスターの一人が、手にしていた箒をその場に取り落とした。二人の身体は微動だにせず、青を通り越し、真っ白になった顔のまま二人は呟く。

 

アイス(お薬)……?』

 

 そこには、恐怖と絶望を混ぜ込んだようなどす黒い色でサクラコを見る瞳があった。

 

 ■

 

「何故かその後、号泣しながら縋りつかれてしまい、アイス漬けは嫌だの、どうかお許し下さいだの、本気で懇願されてしまい……私としても訳も分からぬまま右往左往する事しか出来ず、その一件で更に妙な噂が――一応その後誤解は解けて、皆さんとアイスを頂く事は出来たのですが、以降も妙に強張った表情で接されてしまって」

「……そっかぁ」

 

 先生は過酷な表情を浮かべ苦悩するサクラコを前に、何とも云えない顔と共に天井を見上げた。皆結構想像力が逞しいなぁとか、もうそのレベルまでサクラコは誤解されているのかとか、色々思う所はあったがどれも口に出す様な事はしなかった。

 サクラコは背を曲げたまま眉間に皺を寄せ、真剣に悩みを吐露する。

 

「やはりこんな季節にアイスを持って来たのが悪かったのでしょうか? 私としては、少し茶目っ気を出して気さくに接して貰えるチャンスだと思ったのですが……」

「まぁ、何と云うか、多分タイミングが悪かっただけだよ」

「そうなのでしょうか……?」

「きっとそうだよ」

 

 それ以上に云う言葉が見つからない、何と云うか秘密主義のシスターフッドに於いて、その長というだけで畏怖と疑念を抱かれると云うのに、そこに加えて彼女の気真面目さや神秘的な雰囲気、対峙する派閥への毅然とした対応が善くも悪くも現在の彼女――その風評を創り上げてしまっていた。ましてやティーパーティーとすら真正面からやり合い、結果論ではあるが失墜した権威の片翼を担う状況まで持ち込んだ手腕は傍から見れば恐怖以外の何物でもないだろう。

 尤も、それは表面上の話であり、実際はティーパーティーを助け学園の統治を維持するための行動なのだが――それを知る者は極一部である。

 サクラコは何とも重い溜息を零すと、目線を落としたままポツポツと呟きを漏らす。

 

「外部からならばまだしも、同じシスターフッドの皆様からその様に思われるのは心外で、何よりこの場は皆様にとって心安らぐ、安寧と共にある場所であって欲しいという想いがありまして……どうにかしなければと、気が逸ってしまい」

「うーん」

 

 生徒が悩んでいる以上、どうにかしてあげたいという気持ちが先生にはある。それこそ自身に出来る事なら何でもやり遂げてみせるという気概も持ち合わせているが――こう云った風評云々に関しては、一日そこらでどうこうなる問題ではなかった。

 アリウスと同じように、人の感情や想いというものは複雑だ。

 

「こういうものは一日二日でどうにかなるものではないからね、地道に改善していくしかないかな」

「やはり、そうですよね……」

「――大丈夫、サクラコがどういう生徒かは、私も、マリーやヒナタも、良く知っているから」

 

 気落ちするサクラコに、先生はそう云って微笑みかける。気休めかもしれないが、良き理解者が傍に居ると居ないとでは心の負担が大きく異なる。先生はサクラコがどういう生徒なのかを良く知っている、そしてそれは自分だけではなく、彼女と共に歩んで来たマリーやヒナタだって同じ筈だった。何なら自身の方からそれとなく触れ回っても良い、彼女に強要される様なシチュエーションならばまだしも、個人で動く範囲ならばそう深く疑われる様な事もないだろう――恐らくは。

 その言葉に元気付けられたサクラコは落としていた視線を戻し、ふっと口元を緩める。そして何事かを口にしようとして。

 

「――サクラコ様、会談中失礼致します」

「……!」

 

 執務室の扉がノックされた。

 サクラコはその音に素早く反応し、佇まいを正すと表情を取り繕う。その反応たるや先生が疑問の余地を挟む暇さえなく、扉が独りでに開きシスターが部屋の中へと足を進める頃には、いつも通りのシスターフッドの長、サクラコが顔を覗かせていた。

 彼女はいつも通りの凛々しい表情をシスターに向けると、淡々とした口調で告げる。

 

「この時間は先生とトリニティの今後について話し合う予定だと、事前に伝えていた筈ですが?」

「はい、ですが早急にお耳に入れたい情報が先程――アリウス自治区より」

 

 一瞬先生に視線を向けたシスターは速足でサクラコの傍に足を進めると、彼女の耳元に口を近付け何事かを囁く。疑念の色を浮かべながら報告を聞いていたサクラコであったが、全てを聞き終えた頃には僅かな驚愕と緊張を表情に滲ませ、重ねて問うた。

 

「……それは、本当ですか?」

「はい、先遣隊が発見したとの報告が、確かに」

「――分かりました」

 

 頷き、サクラコは徐に席を立つ。そして対面に座る先生に向けて深々と頭を下げた。

 

「先生、此方の都合で大変申し訳ありませんが――」

「大丈夫、何かあったんだね?」

「はい――直ぐにでも現場に赴かねばなりません」

「分かった、私の事は良いから行ってあげて……何かあったら連絡して欲しい、直ぐ駆けつけるから」

「えぇ、ありがとうございます」

 

 先生の言葉に微笑みを零したサクラコは、そのままシスターを引き連れ執務室を後にする。扉に手を掛けた彼女は振り向きながら、自身を見つめる先生に向けて告げた。

 

「それでは先生――また近い内に」

「うん、どうか気を付けてね」

 


 

 幕間はあと三~四話やって、その後ダイジェスト前編・後編挟み、本編って感じですわ~!

 

 というか制約解除決戦やりました事? 何ですのアレ、コンテンツとしても一度に投入する生徒数十人で吃驚しましたけれど、それ以前に地下生活者の発した文言が発狂ものですわよ。

 神々の星座とか、属していた世界とか、超越的存在とか、キヴォトスの概念とは異質的な存在とか、神格の顕現そのものとか、神秘と恐怖で表現する事は不可能とか……。強いて云うなら崇高以前、その向こうの観念って何? つまり色彩とか黄昏とか、そういう感じの? それとも名も無き神とかそういうアレですか? 分からねぇですわ、何もわからねぇですの……というかやっぱりキヴォトスの他にも世界があって、それぞれに神というか主みたいなのがいらっしゃるんですかね? マジ宇宙猫になりますわ。

 

 でも制約解除って文言と最大生徒枠増加はとっても素晴らしいと思うので、これを使って最終編では先生にもっと苦しんでもらおうと思いました、まる。



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夕暮れの中で微笑む貴方は。

誤字脱字報告に感謝致しますわ!
ギリギリまで書いていたら日付超えちゃいましたの……。
今回一万五千字ですわ!


 

「こちらです、サクラコ様」

「――えぇ」

 

 先生との会談を切り上げ、移動する事一時間と少し。トリニティ自治区からアリウス自治区へと足を進めたサクラコは、未だ整備されておらず街灯の折れた薄暗い街道をシスターフッドの護衛と共に黙々と歩いていた。

 崩れ落ちた建物や破損した石畳は車両の走行出来る環境ではなく、アリウス中央区画であっても徒歩での移動を強いられる。基本的に警邏やアリウス自治区の復興担当は外郭地区まで車両移動し、街に入る際は徒歩と云う形を取っていた。先導するシスターの後に続くサクラコは、人影の見えぬ周囲を見渡しながらふと口を開く。

 

「他の皆さん――シスターフッド以外の動きはどうなっていますか?」

「正義実現委員会のパトロール隊と、総括本部より各派閥の部隊が幾つか、しかし当区画は既にシスターフッドによって固められております、特に聖堂周辺はパテル、フィリウス、サンクトゥス、それ以外の如何なる分派であっても、立ち入りは認めておりません」

「そうですか、既にナギサさんには話を通してありますが、何か揉め事等があれば即座に報告を」

「はっ!」

 

 サクラコの言葉に、周辺を固めるシスター達は頷きを返す。各派閥の表面上の衝突はなくなったものの、それでも完全に解消された訳ではない。少なくとも自分達がトップに立っている間、その火種が消える事はないだろうという確信が彼女にはあった。

 それでもある程度融通が利く様になったのも事実である。そして、その裏には常に先生の存在があった。

 

「サクラコ様、足元が不安定です、どうぞお気をつけて」

「えぇ、ありがとうございます」

 

 アリウス自治区、聖堂内部。

 破壊され内側へと吹き飛んだ大扉を跨ぎ、聖堂の奥へと足を進める一行。内部は埃っぽく、僅かながら黴の匂いが鼻を突いた。清掃など行っていなかったのだろう、その余裕が此処にはないのだ。口元を袖で覆いながら辺りを観察し、サクラコは所々の意匠や建築様式に嘗ての聖徒会――その信仰の残り香を感じ取る。

 嘗て存在し、確かに心に根付きながらも、しかし時と共に忘れ去られ朽ち果てた恩寵。その残影に心を痛めながらも、サクラコは無言で聖具室へと踏み込んだ。

 

「此方が件の――秘匿聖堂に続く入り口になります」

「……成程、やはり此処にありましたか」

 

 先導するシスターが足を止め、サクラコへと振り返る。そんな彼女の足元には、ぽっかりと口を開ける暗闇があった。直ぐ脇には半ば剥がされるように避けられた床が転がっており、それが覆い隠していたものが秘匿された通路――隠し階段である。

 

「はい、サクラコ様の睨んだ通り、聖堂各所に痕跡が散りばめられておりました、一見意味の分からないものや、解読不能なものもありましたが――サクラコ様のご指示通り、この場の床を探った所、この様な隠し階段が」

「正当な後継者であれば分かる暗号、とでも云いましょうか……先に発ったシスターの皆さんは、階下に?」

「はい、危険がないか現在内部を調査中です」

「分かりました……行きましょう」

「はっ」

 

 サクラコがそう告げれば、先頭に立ったシスターが懐からライトを取り出し階段を照らす。慎重に一歩を踏み出す彼女に続き、サクラコもまた暗闇の中へと身を投じた。隠し階段はかなり古いものらしく、長く続く暗闇には時折錆び付き、折れた燭台の様なものが散見された。

 無言で階段を降りていく事暫く、微かに差し込む明かりがサクラコの網膜を刺激し、先頭を行くシスターが小さく声を上げる。照らすライトの向こう側、光と靴音に気付いた人影は降りて来る人物を確かめるように顔を覗かせ、同じシスターフッドの姿に軽く手を挙げた。そして、その背後に続くサクラコの姿を認め自然と背筋を正す。

 

「――サクラコ様」

「ご苦労様です、調査の程は?」

「今の所、危険物は発見されておりません、唯一見つかったものは――……」

 

 告げ、警備を担当していたシスターの視線が自然と部屋の奥へと向けられる。秘匿聖堂はサクラコ達、シスターフッドが拠点とする大聖堂と比較すると幾分かこじんまりとしていて、内部に屯する十数人のシスター達を見ると小、中規模程度の広さであった。壁や柱、床や天井に至るまで彫りこまれた内装は馴染みのある様式であったが、周囲に漂う気配、荘厳さや厳粛さとでも云うべき感覚は此方の方が重々しい。何より目を惹くのは秘匿聖堂最奥に鎮座する祭壇――地下だと云うのにステンドグラスが張り巡らされ、その向こう側に夜空すら浮かんでいるその場所で、一等目立つ場所に安置された影。それを目視したサクラコは独り息を呑んだ。

 

「では、アレがそうなのですね」

「――はい」

 

 問い掛けにシスターはぎこちなく頷く。自然と、サクラコの両足は祭壇の前へと進んでいた。吊り下げられたキャンドルが軋みを上げ、金切り声を響かせる。星々に照らされ秘匿聖堂に安置されたソレの前に立ったサクラコは、神妙な面持ちで呟きを漏らした。

 

「最後の聖徒会長が残した――『ユスティナ聖徒会礼装』」

 

 サクラコの目下に存在する礼装――まるで祀られる様に安置されたそれはユスティナ聖徒会の正当継承者のみが所有する事を許される、由緒正しい礼装であった。黒く艶やかな布地に穢れを知らぬ純白、明確に区切られたそれは嘗て戒律の守護者と謳われた名残か。アリウスが行使していたと云う亡霊と酷似した装いを前に、サクラコは静かに目を伏せる。

 

「アリウスを弾圧しながら、同時に彼女達のトリニティ自治区(エクソダス)脱出を手助けし、復興を支援した彼の聖徒会長……彼女は後継者に渡る筈であった礼装を、このアリウス自治区に隠していたのですね」

 

 本来であればこの礼装は先代、先々代と受け継がれ、現シスターフッドの長であるサクラコへと渡る筈であった。しかし何故か時の聖徒会長はこの礼装をアリウスの、一部の者のみが知る秘匿聖堂へと隠した。それは戒律の守護者と呼ばれた存在からの決別か、それとも――。

 

「思った以上に状態が良い、とても長年秘匿されていたものとは思えない程に」

「はい、かなり厳重に、かつ丁寧に保管されていた様です」

「―――……」

 

 折り目正しく、綺麗に畳まれた礼装、その周辺だけがまるで別世界の様な空気を放っている。何らかの見えない力が働いている事は明らかで、サクラコは静かに礼装へと手を伸ばした。その指先が触れた瞬間、ピクリとサクラコの眉が跳ねる。僅かな抵抗、痛み、しかしそれもほんの一瞬の事で――サクラコの指先は聖徒会の礼装を確りと掴んだ。指先に感じる滑らかな材質、ひんやりとした冷たさがサクラコから体温を奪う。

 

「……サクラコ様」

「問題ありません、私は大丈夫です」

 

 僅かな空気の揺らぎを感じ取った護衛のシスターが一歩を踏み出すが、サクラコはそれを目で制した。そして礼装を無言で広げると、黒と白が星明りに照らされる。どれ程此処に保管されていたのかも不明だが、埃一つ広がることなく礼装は光を反射していた。降り注ぐ星々の光に目を細めながら、サクラコはそっと呟きを漏らす。

 

「何故、これを手放したのですか――?」

 

 それは今は亡き聖徒会長へと向けた問い掛け。第一回公会議でアリウスを徹底的に排斥し、弾圧しながらも脱出を手伝った当時の聖徒会長。彼女は、一体何を想ってこの礼装を手放したのか。アリウス分校を排斥し、この様な境遇に追いやった事に対する後悔か? それとも聖徒会として、その長としての責任感からか? 弾圧を逃れた後、この場で生きるアリウス生徒達の、その悲劇を見て彼女は――。

 想い、サクラコは静かに首を振った。

 

「……いいえ、今を生きる私が、その理由を知る術はありませんね」

 

 当時の聖徒会長、その心情や想いを汲み取る事は出来ない。それを行うには、余りにも時が経ち過ぎていた。サクラコは手にした礼装を強く握り締め、靴音を鳴らしながら振り向く。視線の先にはサクラコを注視する複数のシスター達が立っていた。彼女達を見渡しながらサクラコは深く息を吸い込み宣言する。

 

「ユスティナ聖徒会の最後の意志は、シスターフッド代表である私――『歌住サクラコ』が正当な継承権限を以て引き継ぎます」

「……!」

 

 その声は秘匿聖堂の隅々まで響き渡り、同じ空間に立っていたシスター達は一斉に足を揃え背筋を正した。それはサクラコに払われる敬意の顕れ、嘗て存在した偉大なるユスティナ聖徒会、その意思と礼装を引き継いだサクラコ(首長)に対する尽くすべき礼儀であると感じたのだ。紛失していたユスティナ聖徒会の礼装、その発見と継承――それはシスターフッドに於いても、トリニティに於いても、とても大きな意味を持つ。

 サクラコは改めて礼装を胸に抱き、強い意志を湛えた瞳で以て叫んだ。

 

「――これ以上、ユスティナ聖徒会の権威が失墜する様を看過する事は出来ません、彼女達の祈りと信仰は、私達シスターフッドが継承するのです!」

「――はッ!」

 

 応えた彼女達の声が秘匿聖堂に木霊した。サクラコは彼女達の声に耳を傾けながら、祈りを捧げるように一瞬目を閉じた。それは先代と今はなき聖徒会に捧ぐ、彼女にとって最後の祈りでもあった。

 

「さ、サクラコ様……!」

「――?」

 

 不意に、そんな荘厳かつ厳粛な空気を壊す声が響いた。声のした方向へと目線を寄越せば、焦燥を滲ませながら駆けて来るシスターが一人。彼女はサクラコの元へと駆け寄ると、弾んだ肩をそのままに告げる。

 

「サクラコ様、どうか此方に……!」

「一体何事ですか?」

「す、直ぐにでも、お見せしたいものが……!」

 

 サクラコは疑念を抱きながらも、しかしシスターの様子に只事ではないと感じ取った。彼女は傍に立っていた護衛のシスターに目を向けると、手に持った礼装を差し出しながら指示を口にする。

 

「此方の礼装をトリニティに――ユスティナ聖徒会礼装はシスターフッド管轄、大聖堂にて管理します」

「分かりました、では周辺警備を担当していた生徒を一部呼び戻し、大聖堂へと帰還します」

「えぇ、お願いします」

 

 頷き、礼装を預けながら目線で今しがた駆け付けたシスターを促す。彼女は息を呑むと、「此方です!」と身を翻し秘匿聖堂脇の通路へと駆け出した。サクラコも後に続き、硬質的な足音が周囲に響く。薄暗い暗闇の中、星明りに照らされた秘匿聖堂の端、彼女の向かった場所は横合いに逸れた通路、更にその奥にあった。

 通路周辺には埃を被り、半ば腐り落ちた様な木製机、長椅子、燭台などが退けられており、元々通路がこれらで埋まっていた事が分かった。明かり一つなく、窓も見えない暗闇を前にサクラコは目を細め、向こう側を覗き込む。

 

「この通路は……」

「つい先程発見されたものです、先遣隊が通路の先を探った所――シャーレの先生が交戦したアリウス自治区の主、件の存在が『至聖所』と呼称していた場所に繋がっていたとの事で……」

「秘匿聖堂が、あの場所に?」

「はい、間違いありません」

 

 サクラコの表情が険しさを増す。それは至聖所と呼ばれる場所で、どんな激しい戦闘が起こったのか報告を受けていたからだ。先生をして、立ち入りを制限すべきとしたその場所は様々な破壊跡が刻まれ、爆発や攻撃の余波により空間全体が不安定なものとなっているという。アリウス自治区を隈なく調査しているトリニティであるが、危険がある場所は極力避ける様に通達が行われている。

 

「確か、あそこは崩落の危険があると聞いていますが――」

「はい、ですので探索は短時間で引き返しました、お伝えしたかったのは――この部屋についてなのです」

「部屋……? その様なものは、何処にも――」

 

 サクラコは一瞬、困惑の表情を浮かべる。しかしシスターは一つ頷くと、一見何でもない様な石壁――その表面に手を翳し、徐に押し込んだ。瞬間、押し当てたシスターの手がグンと石壁の一部に埋まり、何処からともなく重々しい音が響く。途端サクラコの視界一杯に広がっていた通路の壁、その一部がゆっくりと後退していくのが見えた。

 仕掛けによる開錠、ゆっくりと動く壁を前にサクラコは思わず唸る。

 

「……成程、隠し扉ですか」

「はい、偶然の産物ですが、運良く凭れ掛かったシスターのひとりが発見しまして――内部に危険が無い事は既に確認済みです」

 

 扉は途中まで後退し、以降は動きを止めた。シスターはそれを確認し、ゆっくりと石壁を押し開ける。内部より微かに差し込む光、それは天井に作られた天窓より差し込む星明りである。シスターが一歩中へと踏み込み、それからサクラコの道を空ける様に脇へとズレた。それを見たサクラコは慎重に内側へと足を進める。

 最初に目に付いたのは、乱雑に積み上げられた書籍の数々。否、積み上げられたというよりは投棄されているという表現が正しいか。部屋の半分を埋め尽くさんと放られたそれはアリウス自治区中から搔き集めたものか、尋常な数ではなかった。かなり古ぼけ、擦り切れたそれらはまるで本の墓場。異様な光景だ、サクラコが思わず気圧される中――隣に立っていたシスターは広がった書籍の山、その前を指差し、告げた。

 

「サクラコ様、これを」

「―――」

 

 指し示されたそれに、サクラコは視線を向ける。薄らと埃の積もった地面、その石畳の床に描かれた紅――そして感じ取れる残滓。同時に朽ち果て萎びた茨の様な植物に、サクラコは表情を強張らせた。

 彼女は足早にその残滓に近付くと、屈みながら強い口調で告げる。

 

「――地上に連絡を、直ちにシスターフッドの司祭を此処に」

「は、はいッ!」

 

 サクラコの指示を聞き、シスターは慌てて通路側へと駆け出す。サクラコは響く足音を背に険しい表情を崩さない。視界に映る茨の痕跡、描かれた紋様、感じ取れる残滓――それら全てに、サクラコは見覚えがあった。どれもこれも古くから聖徒会、或いはシスターフッドの長に継承されて来た古の知識である。紋様外周を指先でなぞり、形を何度も確かめた彼女は脳裏に描くソレと一致する事を認める。

 

「……アリウス自治区の主、マダムと呼ばれる存在、もし彼女がこのアリウス自治区で『アレ』を行っていたのだとすれば、この痕跡は――」

 

 指先に付着した埃を握り締め、サクラコは内に秘めていた憂いを露にする。彼女の口から放たれた声は、僅かに震えていた。

 

「事態は私達が想像していたよりもずっと――深刻なのかもしれません」

 

 ■

 

「――っしょ、と!」

 

 トリニティ自治区、大聖堂――裏手倉庫。

 多くのラックとコンテナの類に包まれた屋内、天窓から差し込む陽光に照らされたその場所で作業に励む生徒が一人。彼女は何十キロもある様なコンテナを両手で掴み移動させ、倉庫の片隅に積み上げていく。降ろす度に金属同士が擦れ合う音が響き、丁度キリの良い数まで重ねた事を確認した彼女は、額に流れる汗を指先で拭った。

 

「ふぅ、これでこっちの分は全部ですね!」

 

 倉庫の整理を行っていたのはシスターヒナタ、その人である。彼女はシスターフッド内部でも主に備品管理を任されており、この倉庫も彼女の仕事場、その一つである。先の作戦で使用した弾薬、装備の補充が近々行われる為、奥まった所にあった古い弾薬、装備の点検と移動を行っていた。基本的に弾薬や爆薬などにも使用期限が在り、そう長い期間置いておく事もないが使う場合は古いモノから消費していくと備蓄が長持ちする。特に期限が近いものは訓練などで早々に使い切る為、点検は欠かせない。移動させたコンテナを開き、梱包されている弾薬の種類と期限を調べていると、ふと背後から声が掛かった。

 

「シスターヒナタ」

「あっ、マリーさん……!」

「お疲れ様です、此方の点検も終わりましたから少し休憩にしましょう」

 

 声を掛けたのは、同じ倉庫内で作業に勤しんでいたマリーであった。彼女はいつも通りの柔らかな笑みを浮かべつつヒナタに休憩を促す。大聖堂裏手の倉庫は中々に広く、ヒナタひとりで全てのコンテナを移動、点検するのは中々に手間であった。それでも時間を掛けてやり遂げるつもりであったがマリーが善意から協力を申し出た為、ふたりで作業する事と相成ったのである。

 ヒナタとマリーの二人は頬を流れる汗を拭い、軽くウィンプルを靡かせる。はしたないがこうすると風が首筋に届き、僅かだが涼む事が出来るのだ。

 ヒナタがポケットに仕舞っていた端末を取り出し画面を点灯させると、既に時刻は夕刻に迫ろうとしている。まだ陽は落ちていないが、見れば差し込む陽光は茜色に染まっていた。

 

「そう云えば、お昼からずっと働き詰めでしたか……」

「はい、あれだけ大きな事がありましたから、忙しくなるのは仕方ない事です、しかし適度に休憩を挟みませんと疲れてしまいます」

「そ、そうですよね」

 

 マリーの言葉に同意しながら、ヒナタは頻りに頷いて見せる。二人は近場にあった空のコンテナに腰掛け、深く息を吐き出した。マリーは持ち込んだクーラーボックスを開き、中からペットボトルを取り出す。

 

「シスターヒナタ、此方をどうぞ、冷やしていたので火照った体に丁度良いと思います」

「あ、ありがとうございます、マリーさん!」

 

 夏場程ではないが、やはり動き回った後だと熱気が籠る。特にシスターフッドの制服は色合いと布面積から熱が籠り易く、受け取った飲料に口を付けるとひんやりとした心地良い冷たさが喉と腹を突き抜けた。「ぷは」と一息入れると、前髪に付着した汗が弾ける。横を見ればマリーも小さな口でこくこくとボトルを口にし、その頬に一筋の汗が流れているのが見えた。自分より肌の露出が少ない制服であるというのに、マリーはまるで堪えた様子を見せない。やはり精神力の違いなのでしょうかと考えつつ、ヒナタは二度、三度とボトルに口を付けた。

 

「そう云えば、サクラコ様は――」

「ふぅ……えぇと、確か今日は先生と会談があった筈です、今は執務室ではないでしょうか?」

「あぁ、もうそんな日付なのですね」

 

 ふと呟いたヒナタの声に、マリーは口元を指先で拭いながら答える。シスターフッドの長であるサクラコは何かと多忙であり、二人が彼女の仕事を手伝う機会も多い。自然とサクラコのスケジュールを把握する様になったマリーは、脳内のスケジュール表で今日が先生との会談が予定されている事を思い出した。

 それを聞いたヒナタは途端、露骨に身なりを整え始め、何処となく落ち着かない様子だった。前髪を整え、ポケットから白いハンカチを取り出した彼女は頬や首元、胸元などを順に拭っていく。視線は倉庫の出入り口をちらちらと行き来し、両足がむず痒そうに揺れていた。

 その様子を横目で見守っていたマリーは、何とも云えない微笑ましい感情と共に告げる。

 

「ふふっ、きっと先生の事ですから、私達にも顔を見せに来て下さいますよ」

「えっ!? あ、そっ、そうですよね……? あはは、はは……」

 

 自身の行動を注視されていたと気付いたヒナタは、途端に頬を赤らめ自身の行動を恥じる様に俯く。そしてその身体を限界まで縮こまらせると、真っ赤な瞳を泳がせながら恐る恐る問いかけた。

 

「あ、その、えっと――わ、私、分かり易かった、でしょうか……?」

「いえ、私も同じ気持ちでしたから」

 

 ヒナタの消え入りそうな声に対しマリーは微笑みを返す。ヒナタは余裕を感じさせる彼女の答えに、「そ、そうですか……」と頷きながら口を噤んだ。羞恥心から顔が燃えそうな心地だった。

 

「――先生、恐らくお二人は此方かと」

「ありがとう、助かったよ」

「い、いえ、それでは私はこれで……!」

「……!」

 

 不意に倉庫の扉が開き、聞き慣れた声が響いた。ヒナタとマリーの肩が小さく弾み、二人の視線が出入り口に向く。茜色と共に倉庫内へと踏み込んだ人影は扉を後ろ手に閉め、周囲を見渡しながら声を上げた。

 

「――ヒナタ、マリー、居るかい?」

 

 間違いない。

 確信を持った二人は座っていたコンテナから降りると、衣服を軽く整えながら先生の居る場所へと足を向けた。

 

「――先生」

「っと、こっちに居たんだね」

 

 ラックの隙間、コンテナの影から現れた二人に先生は目を向ける。マリーが声を掛けると、先生は片手を挙げながら破顔した。陽光に照らされた先生は、何とも幻想的な色合いに見えた。

 

「お疲れ様、二人共」

「先生も、お疲れ様です……!」

「先生、お元気そうで何よりです」

 

 二人の声は心なしか弾んでいた。件の騒動以降、救護騎士団にて暫く入院していた先生。その間、二人は先生の病室に殆ど毎日と云って良い頻度で通っていたが――シャーレに戻ってからというもの、直接顔を合わせる機会は少なくなっている。

 多くて週に一度か二度、だからこそ先生はトリニティに立ち寄った際には、こうして必ず顔を見せに来てくれるのだ。二人はその時間をいつも心待ちにしていた。

 

「うん、最近は調子が良くてね、マリーの御祈りのお陰かな?」

「まさか、私の力など微々たるもので――ふふっ、この平和に感謝を、先生が穏やかに過ごされている様で安心しました」

「あはは、大袈裟だよ」

 

 マリーの言葉に先生は頬を掻くと、苦笑交じりにそう告げる。しかし仕事に忙殺されかけているとは云え、事件や事故が発生していない現在は確かに平穏そのものである。欲を云えばもう少し睡眠出来る余裕が欲しいが――それは欲張り過ぎというものか。

 

「あの、先生、サクラコ様との会談はもう?」

「あ、うん、何か急用が出来たみたいでね、少し早いけれど切り上げたんだ」

「急用、ですか……?」

「アリウス自治区に関しての事らしいけれど、詳しくは私も」

 

 ヒナタの問い掛けに対し、先生は緩く首を振る。残念ながら彼女の行動については何も知らされていない、勿論聞き耳を立てる様な真似もしていないのでアリウス自治区で何があったのかは不明だった。それでも本当に困った時、大きな問題が起こった時、彼女なら必ず一報を入れてくれる筈だという信頼が先生にはあった。

 同時に万が一の策ではあるが――アリウス自治区には、先生しか知らない情報網が存在する。大事になる様な騒動が発生したのならば、即座にタブレットへと通知が飛んで来るだろう。

 先生は手元のタブレットを一瞥し、何の通知も無い事を確認すると、改めて周囲に視線を向けた。ヒナタとマリーの立つラック周辺は随分と片付いている様に思う。思い返すと、以前此処に足を踏み入れた時と比較してコンテナの数が大分減っていた。

 

「倉庫、随分と荷が減ったね」

「あ、はい、以前の作戦でシスターフッドも弾薬や装備品を随分と使いましたから……備蓄も大分減ってしまって」

「新しい弾薬や装備の申請は済んでおりますので、補給が届き次第また此方の倉庫に保管する手筈になっています」

「そっか、ならそれまで此処の整理を?」

「はい、シスターヒナタが特に頑張って下さって」

「そ、そんな……!」

 

 マリーが笑みを浮かべながら肯定すると、ヒナタは慌てて掌を振って後退る。

 

「元々私は管理担当ですし、こういう時位しかお役に立てないので……! あの、当然と云いますか、寧ろご迷惑を掛けてばかりで――!」

「そんな事はありません、シスターヒナタのお陰で様々な方が助かっています、勿論私も、サクラコ様も」

「――そうだね、マリーの云う通りだ」

 

 頻りに恐縮し肩を竦めるヒナタに対し、先生は目線を合わせるように背を曲げると笑みを零す。

 

「ヒナタのお陰で助かっている生徒が沢山居るんだ、私だってその一人だよ……それに」

 

 言葉を続け、先生の指先が周囲のコンテナやラック、備品に向けられた。

 

「最近は備品を壊してしまうミスが殆ど無くなったって聞いたよ」

「ぁ――」

 

 その一言に、彼女の肩が分かり易く跳ねた。

 それはヒナタ自身、自覚のある事であった。

 以前であれば力加減を誤ってコンテナを変形させてしまったり、或いはラックを粉砕してしまったり、そんな事が日常茶飯事であった。この倉庫ばかりの話ではない、授業中にペンを粉砕したり、食事のスプーンを曲げてしまったり、清掃中の箒に罅を入れてしまったり。あらゆる場面、日常生活の中で彼女の力加減は悪影響を生んだ。その度に謝罪し、始末書を書き、不甲斐ない自分に失望したものだ。

 

 だが最近――正確に云えば先生に対する大きな負い目と罪悪を背負ったあの日から、ヒナタの両手は物を壊す事が殆ど無くなり、業務が滞る事もなくなった。

 

 それは客観的に評価すれば素晴らしい事であった。

 自身の弱点が一つ無くなり、以前どう頑張っても改善出来なかった悪癖が矯正されたのだから。

 事件以前の自分であれば諸手を挙げて喜び、嬉々として先生や友人達に報告して回ったに違いない。これでもっと皆の役に立てると、迷惑を掛ける事がなくなると。

 

 しかし、ヒナタはそうしなかった。

 出来なかった。

 その欠点を克服した理由が――先生の腕を代価としたものであるからだ。

 

 誰がどうして、恩人であり想い人である先生の腕を引き千切ったお陰で力加減を覚える事が出来ましたと、そう胸を張って報告出来よう?

 そんな人物が居て、目の前に現れたのなら、ヒナタはきっとらしくもなく憤慨し、憎悪に相手を睨みつけ、罵詈雑言を浴びせた後に力一杯殴り飛ばすに違いない。その自信が彼女にはあった。

 

 だからこそヒナタはこの事について決して云い触らす様な事も、喜ぶ事も、ましてや誇る事もしなかった。その過程を、代わりに失われたものの大きさを知っているからだ。けれど幾ら隠したとしても、自罰的になったとしても、今まで積み重ねて来た始末書は誤魔化せない。明らかに書く回数が減り、ミスが減り、騒動が起きなくなったのならば――気付かれるのは明白だ。

 

 ヒナタは唇を噛んで俯くと、目を強く瞑って痛みに備えた。それは物理的なものではない、心の痛みに対する備えだった。先生にどんな言葉を掛けられるか、恐ろしく思ったのだ。それは先生に対する信頼が揺らいだとか、そういう事ではない。それはヒナタにとって殆ど反射的な、心を守るための所作だった。

 

「……っ!」

 

 だが、衝撃は来ない。

 寧ろ彼女の身に走ったのは暖かな重みであり、ヒナタが恐る恐る片目を開けば――当の先生は自身の頭に手を乗せ、満面の笑みを浮かべていた。

 

「――凄いじゃないかヒナタ」

 

 それは余りにも屈託のない笑みだった。含むところなど何もない、混ざり気の全くない喜び。

 それは生徒(子ども)が成長した、出来ない事が出来るようになった、その事を心の底から喜ぶ大人の姿だった。

 

「ヒナタは今まで出来なかった事を成し遂げたんだ、それがどんな形であったとしても、君の成長である事に変わりはない――私はその事が、とても嬉しいんだ」

「せ、先生……?」

 

 自身の事でもないのに、心の底から笑みを零す先生を前にしてヒナタは思わず困惑の声を漏らす。罵倒も、責める声も、何もない。そんな事を先生が口にする筈がないと理解していながら、自身の怯懦が生んだ幻が掻き立てる不安に気圧され、それでも、万が一、億が一――そんな風に考えた自分が馬鹿らしく思えてしまう程、目の前の先生は明るく笑っていた。

 戸惑う彼女を他所に、ウィンプル越しにヒナタを撫でつける先生は、より一層語気を強めて続けた。

 笑みはその質を変え、余りにも大きな優しさで以てヒナタを照らす。

 

「どうかヒナタ、後ろめたく思わないで、今は難しいかもしれないけれど、それはきっといつか君の大きな糧になる」

「か……糧、ですか?」

「そうだよ、そしてヒナタ、柔らかな手で触れられるのなら――」

 

 先生の腕が――右手がヒナタの手を取る。

 暖かなそれに触れた途端、彼女の肩が跳ねるのが分かった。力強い握り、先生の優しい空色の瞳が真っ直ぐヒナタを見つめ、告げる。

 

「こうしてまた、手を繋ぐ事だって出来るんだ」

「――……」

「ほら、前に云った通りだろう?」

 

 二人の握り締めた手が視界に広がり、ぐっと先生の指先がより強くヒナタの手を掴む。自分より大きなそれ、けれど余りにも隔絶した力の差がある指先。

 けれどそんな差など知らないと、関係ないのだと――繋いだ手の先で、先生の笑顔が咲いていた。

 

「こうして日常に、また戻って来れた」

「っ!」

 

 それはいつか、病床のヒナタに告げた言葉。

 私達はまた、いつも通りの日常に戻れる――何て事のない日々の中で語り合い、笑い合い、こうして触れ合う事だって出来る。

 本当に些細な、けれど奇跡の様な日常。

 

 ――それは今、こうして私達の中に存在しているのだから。

 

「―――」

 

 それを自覚した時、ヒナタには込み上げる何かがあった。それは喜びだとか、感謝だとか、そういう明るく、沸き立つ感情であった。自身の感じていた不安、恐怖、そう云ったものを一切合切洗い流し、それ以上の優しさと(アガペー)で包み込む。何処までも深く、溺れてしまいそうな博愛と受容。

 同時にヒナタの中に生まれる深い想い。彼の者は許し、導き、受け容れる。その在り方はまるで彼女が信奉する存在そのもので――。

 だからこそ彼女は先生の手を両手で握り締め、祈る様に深く、深く頷いて見せた。

 

「っ、は――……はいっ!」

 

 吐き出し、項垂れた。それは縋る様な姿勢だった。繋いだ先生の手に額を擦りつけ、彼女は歯を食いしばる。

 ヒナタは暫くその場から動く事が出来なかった、今顔を上げれば涙が零れてしまいそうだったから。隣り合うマリーがそっと寄り添い、ヒナタの背中を撫でつけながら微笑みかける。涙を呑んだヒナタが僅かに視線を上げれば、マリーは彼女の涙を隠す様に指先で目元を拭った。

 

「ま、マリーさん……」

「大丈夫ですよ、シスターフッドの皆さんは知っています……ヒナタさんの頑張りも、努力も、献身も」

 

 その言葉にヒナタは目を泳がせ、再び深く頷いた。

 

 不意に電子音が鳴る。

 それは先生の懐から――見ればタブレットの画面が点灯し、幾つかメッセージを受信していた。

 

「……っと、もうこんな時間か」

「っ! お、お仕事ですか?」

「うん――ごめんね、そろそろシャーレに戻らないと」

 

 目元と鼻を拭い、背筋を正したヒナタは慌てて問いかける。先生は申し訳なさそうに頷くと、時計を確認しながらタブレットを二度、三度視線でなぞった。

 ヒナタは何かを云い掛け、しかし隣り合うマリーに目を向けると、彼女の指先を優しく握りながら告げた。

 

「あの、マリーさん、先生のお見送りをお願いしても良いですか? 私は此処の整理を続けますので」

「えっ? それは、勿論構いませんが――」

「……私ばっかり、えっと、先生を独占してしまったので」

 

 鼻を啜って、恥ずかしそうにはにかむヒナタを前にマリーは一瞬面食らう。そして一拍間を置いて、彼女もまた恥ずかしそうに笑って頷いた。

 

「……分かりました、御厚意に感謝致します」

「い、いえっ、そんな」

 

 深く頭を下げるマリーにヒナタは首を勢い良く振る。彼女は僅かに汗ばんだ手を制服で拭うと、先生と向き合い羞恥心を隠す様にして捲し立てた。

 

「で、では先生! 私は此方の倉庫整理を続けますので……!」

「……分かった、頑張ってねヒナタ、でも、ちゃんと休憩は取るんだよ? 何かあったらまたいつでも連絡して」

「は、はい!」

 

 勢い良く返事をし、倉庫を後にする二人を見送るヒナタ。彼女はその背中が見えなくなるまで手を振り続け、マリーと先生の二人は静かに倉庫を後にした。

 扉を閉めると夕暮れが視界に広がり、茜色が二人を照らす。その光量に先生は思わず目を細め、左手を目前に翳した。

 

「――ふふっ」

「……マリー?」

 

 不意にマリーが笑みを零す。唐突なそれに目を瞬かせた先生だったが、どこか嬉しそうに笑みを零す彼女は先生を見上げ口を開いた。

 

「いえ、申し訳ありません、不躾に……やはり先生は、先生なのだなと思いまして」

「それは、どういう?」

「シスターヒナタが最近ずっと思い詰めた様に学業や大聖堂での仕事に打ち込んでいたので……仕事上の失敗が少なくなっていた事には気付いていたんです、ただその理由が理由ですから、中々云い出す事も出来ず時間ばかりが経ってしまって」

「そっか――ごめんね、気を揉ませてしまって」

「いいえ、寧ろ気付いて頂けて、更にあのような言葉まで掛けて下さって感謝致します、先生」

「……いや、私一人の力じゃないんだ」

「――サクラコ様、でしょうか?」

 

 マリーの言葉に先生は驚きを露にした。思考を先回りされた様な奇妙な感覚、面食らった先生を見上げた彼女は優し気に微笑み、呟いた。

 

「あの方も、誤解される事も多いですが、とてもお優しい方ですから……私達シスター一人一人に気を配って下さるのです」

「そう云えば、マリーはサクラコと一緒に仕事をする事が多いんだったね、ならそうか……うん、サクラコに助言を貰ったんだ、全く、私こそもっと周りを見なければいけないと云うのに」

「ひとりで全てを熟す事は困難です、助け合い、手を取り合う事こそ本懐――特に先生は一人で何でも背負い込んでしまいますから」

「……参ったな、全く同じ事をサクラコにも云われたよ」

 

 呟き、苦笑を零す先生。そんな彼の右手に視線を落としたマリーは、徐に先生の指先を握った。ひんやりと、僅かに自身のそれと比べ体温の低い先生の指先。

 

「……マリー?」

「――傷が、また増えてしまいましたね」

 

 先生の右手は普段ハーフグローブに包まれている。しかし、その日は素肌が見えていた。先生の指先はごつごつしていて、彼方此方傷に塗れている。指先の爪も生えかけの部分があり、お世辞にも綺麗な手とは云えなかった。

 事件が起こる度に足掻き、必死に駆ける彼の指先は時を経るごとに傷を増やす。必死な大人の、先生の手だ。

 じっと自身の手を眺めるマリーを前に、先生は穏やかな口調で以て告げた。

 

「これ位、私は平気さ」

「身体がそうであっても、心はどうでしょう? 如何に傷が癒えるとしても、その恐怖や苦痛はきっといつまでも残り続けます」

「……マリー」

「先生、私は――私達は、戦う事を好みません」

 

 声は淡々としていた。それは彼女らしからぬ強い口調であった様に思う。夕焼けが沈み始め、夜の蚊帳が降りて来る。星が瞬き始める時刻の中で、マリーの表情は影に覆われ良く見えなかった。もう数十分もすれば夜がやって来るだろう。

 マリーの暖かな指先が先生の古傷を静かになぞっていく。その度にざわざわとした感覚が先生の背筋を奔っていた。

 

「平和の為に武器を取る事が必要であると、その事は理解しています、しかし――それを続けた果てに、果たして本当に平和が、平穏が訪れるのかと、考えてしまう事があるのです」

「………」

「愛とは貴く、崇高なもの、ですが……私は時折、それを恐ろしく感じてしまいます、私はいつだって嘘偽りのない姿を先生にお見せしたいと思っています、だからこそ私は、その愛が――恐ろしい」

 

 それは彼女なりの懺悔か、或いは告解だったのかもしれない。風に揺れるウィンプルがマリーの瞳を隠し、時折覗く青色は先生の()だけを見つめている。

 

「この胸に巣くう感情(想い)が、貴く崇高な筈のソレが、躊躇いなく武器()を手にしてしまう事が、いつか私の求める平和と反対の事を為してしまうのではないかと、それが恐ろしいのです――その果てに平和など、貴き平穏など存在しないと、そう理解しているのに」

 

 ――ただ私は、先生(大切な人)に幸福で在って欲しいだけなのです。

 

 その一言が先生の鼓膜を揺らす。

 途端、先生の表情が苦痛に歪んだ――精神的なモノでもあったが、同時に物理的な痛みでもあった。視界に過る煤けたウィンプル、シスターフッドの制服に身を包みながらも疎んでいた銃器を握る姿。

 それは今の彼女ではない――既に過去となり、先生が背負った世界の彼女だ。

 彼女のその姿を幻視し、重ね、先生は咄嗟に声を噛み殺す。その感情を、表情を、今目の前にいるマリーに見せる訳にはいかなかった。

 故に彼女が顔を上げ、自身に目を向けた時。先生は内心を押し殺し平静を装った。それは困った様な、或いは何かを噛み締める様な表情に見えただろうか。

 マリーは申し訳なさそうに眉を落とし、自身に対する失望を吐露する。

 

「……私は、シスターとして失格なのかもしれません」

「まさか」

 

 彼女の言葉に先生は大袈裟に手を広げると、首を振った。もし彼女がシスター失格ならば大多数の存在がシスターとしての資格を失ってしまうのではないだろうか? そう思う程に彼女と云う存在は清廉で、神聖で、誠実だ。あくまで口元に笑みを装った先生は彼女の手を引くと徐に歩き出す。「あっ」と声を発したマリーは夕焼けの中を歩き出した先生の横に連れられ、同じように歩みを進めた。

 茜色に染め上げられたトリニティの中で、先生の影は濃く地面に伸びる。見上げたマリーの視界の中で先生の表情は影と髪に覆われ見えなかった。

 しかし、声だけはハッキリと聞こえる。

 

「マリー」

「……はい、先生」

「ありがとう、いつも私の為に祈ってくれて――その心を、私はとても嬉しく思う」

「……いいえ」

 

 先生の言葉にマリーは緩く首を振った。そして何か言葉を口にしようとして、一度呑み込む。そして再び顔を上げた時、彼女は花が咲いた様に笑って云った。

 

「いつか一度口にしましたが――先生が幸せでしたら、私も幸せですから」

「――……それなら、きっと大丈夫さ」

 

 応え、先生はマリーの方へとゆっくり振り返る。照らされた夕日の中、先生は何処までも透き通る笑顔を浮かべ、静かに告げた。

 

生徒達(みんな)の幸せが、私の幸せだ」

 


 

「先生がこれまで積み上げて来た道、そしてこれから選ばれる道――そこにどうか、出来るだけ多くの平和と、幸せがありますように……」

 

 マリーちゃんは先生の為に祈りを捧げ、平和と幸福を祈ってくれる良い子。

 バイトして色んな美食を安く一杯食べたいと思っているのがジュンコ。

 「ウサギは寂しいと死んでしまう生き物だそうです」と云って言外に構えと云ってくるのがミヤコ。

 お姫様で子どもの作り方を真正面から先生に聞いて来るのがアツコ。

 しっとりとした雨の中で身を寄せ合い存外悪くないねと微笑み掛けるのがカヨコ。

 エグいハイレグを身に纏って「これが私の覚悟――」するのがサクラコ。

 それを横から驚愕と歓喜の滲んだ声で称賛し一緒に脱ぐのがハナコ。

 百夜堂の看板娘で出張販売もしてくれて「あの目だ……」をしてくるのがシズコ。

 思っていた以上に怪力で本の虫でじっと先生の帰りを待ち続けてくれるのがシミコ。

 ん、銀行強盗をして、あっち向いてホイして先生は幸福になるべきなのがシロコ。

 SRTのFOX小隊の副小隊長で耳もふもふお稲荷さん美味しいのがニコ。

 シュロの保護者で未だまるで何も分からんぞなのがコクリコ。

 そして手足を捥がれながらも大切なモノの為に血反吐を撒き散らしながら進むのが先生です。

 



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微睡の幸福(酷薄で儚い夢)

誤字脱字報告に感謝ですわ!


 

「ふふっ、今日も今日とて仕事三昧~……」

 

 日中、シャーレ執務室。

 左手でキーボードを叩き、右手でペンを走らせる。跳ねた髪はゆらゆらと揺れる先生の身体に合わせ靡き、その瞳は有体に云って死んでいた。室内には打鍵音だけが響いており、時折パソコンとタブレットの着信音が混ざって来る。しかしそれは大抵仕事の追加音であり、響く度に先生の纏う気配はより一層沈んで行くのが分かった。

 

「目を離した隙に書類が山の様に連なる、何と云う環境、でも自分で増やした分もあるから、ふふっ、仕方ないよね……」

 

 呟きながら自嘲の混じった笑みを零す。左右に積み重なる書類の山、そうでなくともメールボックスに連なる未対応メール。一応【大至急】や『締め切り間近』など記載のあるものから片付けているが、それでも中々どうしてギリギリで。兎に角無心の心で一つ一つ確実に処理していく他なく、先生はその日も無我の境地に至ろうとしていた。

 

 そんな彼の耳に再び着信音が届く――しかし常なら一度の電子音で済むそれが、連続して鳴り響いている事に気付いた。

 

「……ん、電話?」

『先生、ゲヘナの風紀委員会から連絡が――』

「風紀委員会? 分かった、繋いで」

『はい!』

 

 先生が告げると、タブレットの応答ボタンが反応する。その間にも先生の仕事の手は止まっていない。電子音が止み、代わりに先生が口を開いた。

 

「もしも――」

『先生、今シャーレにいらっしゃいますか!?』

 

 途端、響き渡る聞き覚えのある声。ぐわんと室内に響く金切声に思わず面食らった先生は一瞬口を噤み、それから恐る恐る言葉を続ける。

 

「……えっと、アコ? 今はシャーレに居るけれど」

『なら今すぐ来てください! ヒナ委員長が限界なんですッ!』

「――直ぐに行く、待っていて」

 

 それだけ告げて、先生は椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。ペンをデスクに投げ捨て、来客用のソファに掛けていた外套を掴み袖を通す。

 

「アロナ、足の手配を頼む」

『あ、はい、任せて下さい!』

 

 交通手段をアロナに一任し、先生は対応準備を済ませる。充電用のバッテリーを予備含め二つ、財布に連絡用端末、腕章にIDカード、錠剤に義手の充電残量を確認し、最後にシッテムの箱を手に取り執務室を飛び出す。

 其処までの所要時間は三十秒程度、緊急時の準備には慣れたもので、先生はシャーレの廊下を駆けながら思考する。

 

「ヒナ――!」

 

 アコからの連絡、あの焦り様――一体何があったのか。

 

 ■

 

「あっ、先生、ゲヘナに何か御用で――」

「おや? キキッ、どうした先生、そんなに急いで――」

「あら? 先生じゃない、良ければ催眠術の練習に――」

「先生、こんな時間に珍しいですね? お暇なら一緒にサボ――」

「ごめんっ、またあとでッ!」

 

 ゲヘナ自治区へと到着後、校門から広場を突っ切って風紀委員会本部へと向かう。途中何人もの生徒と顔を合わせ、何事か話しかけられていたが今は余裕が無いと謝罪しつつ足は緩めない。風紀委員会本部へと駆け込むと委員の何名かが何事かと顔を向けるが、先生の姿を認めると佇まいを正しながら安堵の色を見せた。

 そのまま先生は彼女達に挨拶を口にしながらも執務室へと駆け込み、扉を押し開く。

 

「遅くなったッ! ヒナ、アコ、皆は無事――」

 

 息を弾ませ、そう問いかける先生。そして視界に飛び込んで来たのは。

 

「先生、遊びたいの? ふふっ、駄目よ、まだ書類仕事が残っているから、風紀委員長として仕事はきちんとこなさないと、でもそうね、後で一緒に少しだけ仮眠を――」

「………」

 

 それは、一瞬我を忘れる様な光景であった。

 デスクに座りスラスラと淀みなく仕事を進めるヒナ、彼女の語り掛ける対象は先生である――しかし、当の先生は今しがた到着したばかりであった。

 なら、一体ヒナは何に話しかけていたのか?

 彼女がデスク脇に置いていたのは、先生を模した人形であった。朦朧とした視線をそのままに、彼女は穏やかな様子で人形に語り掛けている。とても正気の沙汰ではない。その余りにも異様な光景に先生は思わず意識を飛ばし掛け、入室した状態のまま暫し硬直する事となった。

 

「あっ、先生! 遅かったじゃないですかっ!」

 

 傍にあったデスクで同じように書類仕事を行っていたアコは、飛び込んで来た先生を見るや否や勢い良く立ち上がり、ズンズンと距離を詰めて来る。憤慨した様子の彼女であるが、その目元にはハッキリと分かる程の隈が仕上がっていた。先生はそんな彼女に戦々恐々とした様子で問いかける。

 

「……あの、アコ」

「何ですかっ!?」

「これは、一体?」

 

 これというのが何を指すのか、彼女はハッキリと分かっている事だろう。アコは何かを堪える様な素振りを見せ、呟いた。

 

「……今日で三徹目なんです」

 

 余りにも真剣な面持ちだった。声は囁くように小さかったが、はっきりと聞こえた。その両手は固く握り締められており、堪え切れない怒りが額に青筋として浮かんでいる。

 

「……三徹?」

「はい」

「二人共?」

「そうですッ!」

 

 カッ! と迫力のある表情で叫んだアコは、そのまま睨みつける様な視線を先生に寄越し地団駄を踏む。其処には今の今まで蓄積していた怒りを爆発させるような勢いがあった。

 

「あの騒動の後、何の嫌がらせか万魔殿のタヌキ達が時間だけ取られる上に大して重要でもない書類やら何やらを送りつけて来て……! 只ですら通常業務でやる事が多い上に、最近は謎のスマイル仮面集団が暗躍しているとか何とかで時間を取られ、更に嫌がらせでそれらを処理するとなると、もう残業するしかなくて――!」

「――……成程」

 

 今にも怒り泣きしそうなアコに理解を示しつつ、先生はそれとなく執務室を見渡す。風紀委員会の中核メンバーと云えばヒナをトップとしてアコ、イオリ、チナツとなるが二人の姿は何処にも見当たらない。となるとチナツとイオリは外回り、実働部隊として対応に当たっているのか。先生はそうアタリを付ける。

 そうこうしている内にもアコはヒナを指差し、嘆く様に歯を食いしばりながら叫んだ。

 

「私が話しかけても事務的な会話しか返事しか頂けない上に、私の、私のっ、淹れた珈琲を、あまつさえ美味しいとッ!?」

「それは……良い事なのでは?」

「――そんな訳ないじゃないですかァッ!」

 

 とても真剣に怒られた。正に怒髪冠を衝く勢いであった。

 云っては何だがアコの淹れる珈琲は決して不味くない。彼女はヒナの為にきちんとした商品を買い込んで来るし、そのマメな性格と奉仕精神(ヒナ限定)の為に淹れる手順も間違えない。故にその珈琲を美味しいと口にしても何ら違和感等は無い筈なのだが――先生は頬を掻きながら今にも嗚咽を零しそうなアコを宥め、ヒナの前へと足を進める。

 先生が彼女の前に姿を晒しても、彼女は未だ気付く様子を見せない。これはかなり重症であると先生は断じる。

 

「……ヒナ」

「ふふっ、大丈夫よ先生、私はまだ――」

「ヒナ!」

 

 少しだけ強めに彼女の名を呼んだ。するとピクリとヒナの肩が震え、その朦朧とした視線が先生を捉える。瞬間、真っ黒に染まっていた彼女の瞳に微かな光が差し込むのが分かった。

 

「――……先生?」

「……お疲れ様、ヒナ」

「えっ、あれ、先生が何でゲヘナに――今日は特に、訪問する予定は」

 

 唐突に現れた等身大先生を前に、ヒナはらしくもなく狼狽えて見せる。ペンを握ったまま腰を浮かせ、まさか先生の訪問スケジュールを見落としていた? と呟く。先生はそんな彼女を落ち着かせる様に手を翳し、努めて穏やかな様子で語りかける。

 

「大丈夫、元々予定を組んでいた訳じゃないんだ、えっと……ちょっとゲヘナでやるべき仕事があってね、そのついでとは云っては何だけれど、皆の顔を見たくて」

「……そう、そうだったのね」

 

 露骨に胸を撫でおろすヒナ、そのまま椅子に腰かけ直すと彼女は深い溜息を零す。無論、デスクの上にあった先生人形に話しかける様な真似もしない。その姿はいつも通りの風紀委員長――空崎ヒナである。

 

「ひ、ヒナ委員長ぉ~……!」

「アコ? 一体どうしたの、そんなに萎びて……」

「よ、良かった、委員長が戻って来て……!」

「……?」

 

 涙すら目に浮かべて自身の名を呼ぶアコに、ヒナは疑問符を浮かべる。その様子から、どうやら自身がどんな状況であったのか自覚はないらしい。先生は敢えてその点を問い掛けようとは思わなかった。

 ただ一点、どうしても気になる代物がある。

 

「あー、その、ところでヒナ、ちょっと聞きたいんだけれど」

「何、先生? 大丈夫、何でも聞いて」

 

 咳払いを挟みつつ、云い難そうに声を掛ける先生を前にして、瞳に光を取り戻したヒナはいつも通りの様子で頷く。先生は一瞬躊躇う様子を見せたが、ややあって彼女のデスクに置かれた人形を指差し告げた。

 

「その、私によく似た、この人形は……」

「これ? これは――アコから貰ったの」

 

 ヒナはそう云って嬉しそうに先生と似た人形を撫でつける。大きさは丁度掌よりも大きい程度で、良くある人形座りというか、両手足を前に突き出しながらにっこり笑顔を浮かべている。先生は小さく、「そっか」と頷きながら背後を見た。

 

「……アコ?」

「――はい? 何ですか、何か文句でもあるんですか?」

 

 振り向き、問いかける様な視線を飛ばせば、アコは毅然とした態度で応じて見せた。その表情には一切の躊躇いや気後れはなかった。

 

「いや、別にないけれど――」

「もしかして勘違いしています? 私が先生の人形を持っているから気を許しているんじゃないかとか思ったんですか? 云っておきますが私個人として先生に含むものは全く、これっぽちも! ありませんからッ!」

「……多分アレだよね、ストレス発散のサンドバッグ的な意味で作った感じ――」

「はぁ~!? 何ですかそれ、先生の人形を私が粗雑に扱うって決めつけるんですか? もしかして自分は嫌われているとか勘違いしてるんですかっ!? そんな事ありませんけれど? 先生の事は嫌ってなどいませんけれど? で? だから何ですかッ!? 私が先生を嫌ってないからって、良い気になって――!」

「アコ、私は何もそこまで云っていないよ」

 

 先生が何も口を挟まずとも、アコは何から何まで顔を真っ赤に捲し立てる様に叫んでいた。これはこれでいつものアコである、別に仕事のし過ぎで錯乱している訳ではない。先生は自分にそう云い聞かせた。

 

「ふぅ~……取り敢えず仕事を手伝うから、ヒナとアコは少し休んで」

「えっ、でも先生だって忙しい筈じゃ――」

「大丈夫、実は明日の分の仕事も終わらせちゃって、今は手透きなんだ」

 

 いつもの様に笑みを貼り付け、さらりと何でもない事の様に告げる。本当は今すぐにでもシャーレに戻り処理しなければならない案件が山の様に存在する、しかし即日中のものは既に片付けてあるので一日――いや、半日程度ならば問題ない筈だ。ゲヘナから帰宅する最中もタブレットで仕事は出来るし、シャーレに戻ってから徹夜で打ち込めば何とかなる。

 そんな先生をじっと見つめるヒナは、ふっと苦笑を零した。先生の言葉は恐らく半分嘘で、半分本当だ――その真っ黒な目元を見れば分かる。

 

「……なら私も頑張る、元々私の仕事だし、私ばっかり休む訳にはいかない」

「そっか、ならアコだけでも……」

「はぁ!?」

「――うんまぁ、そうだよね、分かったからそんな目で見ないで欲しい」

 

 ヒナが働いている中、自分だけ休める筈がないだろうと云いたげな視線を受け、先生は緩く手を挙げた。身に纏っていた外套を脱ぎ、来客用の長椅子に掛ける。椅子の背凭れにはヒナの外套も掛かっていた。もしかしたら執務の最中にも何度か出動していたのかもしれない。

 

「よぉし、それじゃあ始めますか……アコ、珈琲貰って良いかな? 私のカップ、あったよね?」

「えぇ、まぁ――はぁ、分かりましたよ、今回だけ特別、トクベツ! ですからねっ!」

「ありがとう」

 

 風紀委員会の執務室には先生用のティーカップも常備されている。渋々それを手に取ったアコを横目に、先生はヒナへと手を伸ばし問いかけた。

 

「ヒナ、私に任せても大丈夫な書類はあるかい?」

「………うん」

 

 ■

 

 そうして、作業開始から数時間後。

 

「お、終わったぁ~っ!」

「ふぅ、お疲れ様、先生」

 

 長い戦いであった、それはもう伸びをした瞬間骨が鳴り響く程度には。凝り固まった体をほぐしながらペンをデスクに放った先生は、綺麗サッパリ無くなった書類の山を前に凄まじい達成感を味わう。週に一度は似たような達成感を味わっている筈だというのに、中々どうして慣れないものである。

 最後の一束をデスクで纏めながら微笑むヒナは、そのまま最終確認を終えアコへと書類を手渡す。

 

「アコ、これの提出をお願い、なるべく今日中に提出しておきたい、万魔殿なら日付が変わったから受け付けないとか何とか、云い出してもおかしくないから」

「は、はいっ! お任せ下さい!」

 

 ヒナから書類を受け取ったアコは頷き、そのまま駆け足で風紀委員長本部を後にする。ふと窓の外を見ると既に陽は沈み、時刻は十一時を回ろうとしていた。我ながら随分と集中したものだと感心する。

 

「そっか、もう日付が変わるのか……凄いな、半日近くずっと集中していたのか」

「そうね、ごめんなさい先生、こんな時間まで」

「平気だよ、風紀委員会の皆――ヒナの為ならどんな仕事だってどんと来いさ」

「……もう」

 

 余裕ぶった表情で胸を叩き、朗らかに笑って見せる先生。彼女達の前では例えどんな時でも大人として在りたいという想いがある。そんな彼の思惑を見透かしながらも、ヒナはその厚意を有難く思った。

 

「チナツとイオリは……」

「本部には戻らずに直接帰宅して良いって連絡しておいた、あの子達もずっと忙しかったから」

「流石、用意周到だ」

「――シャーレまで送っていくわ、最近は特に治安が悪いし」

「校門前までで良いよ、ヒナも疲れているだろう? 一秒でも長く休んで欲しい」

「……それは、私も同じなのだけれど」

 

 席を立ち、長椅子に掛けていた外套を手に取るヒナ。先生も彼女と並んで外套を羽織り、そのまま風紀委員会を後にする。深夜のゲヘナはいつもの喧騒が嘘の様に静かで、特に風紀委員会本部周辺は虫の声ひとつ聞こえない様な静寂であった。

 

「流石にこの時間だと、生徒も全然居ないね」

「校舎周辺だとそうね、街の方だとこの時間でも不良生徒が暴れていたりするけれど」

「……何と云うか、ゲヘナって感じはするよ」

 

 はっちゃけた生徒が街の方で暴れているのか。此処からだと街の方まで目にする事は叶わないが、確かにゲヘナの生徒達が夜だからという理由で大人しくなる未来は見えない。

 

「此処までで大丈夫、後は一人で戻れるから」

「………そう」

 

 校門まで足を進めると、先生は振り返って告げる。ヒナは頷きながら、心なしかその表情は残念そうに見えた。だから先生は少し考え、目線を合わせるように屈むと不器用な彼女に問いかける。

 

「ヒナ、明日……は休んで欲しいから、明後日か、その次の日でも良いけれど空いている?」

「え? え、えぇ、大きな仕事は片付いたし、少し位なら余裕はある筈だけれど――」

「ならシャーレの当番、頼んで良いかな?」

「――!」

 

 先生がそう口にするとヒナの顔色が目に見えて紅潮し、喜色に染まるのが分かった。

 

「う、うん、行く、絶対行く!」

「ありがとう」

 

 やや食い気味に放たれた返事。先生はそれに感謝を述べながらゆっくりと屈んでいた背を正す。

 

「それじゃあ、また今度ね、モモトークで連絡するから」

「……うん」

 

 手を振り、軽い足取りで去っていく先生。その背中が見えなくなるまでヒナは見送る、暗闇と徹夜のせいで若干目が霞んでいるが、それでも視線を切る様な事はしなかった。やがてその大きな背中が見えなくなると、ヒナは小さく吐息を零し両手を握る。

 

「シャーレの当番、久しぶり……ふふっ」

 

 声はらしくもなく弾んでいて、久しぶりに先生の顔を見たからだろうか? 何となく先生に包まれている気分だった。

 そのまま鼻歌でも歌いそうな気分でヒナは風紀委員会本部へと戻り、執務室のデスクを片付け始める。今日の業務は終了、明日は万魔殿が出しゃばって来ない限り簡単な業務だけになるだろう。尤もゲヘナの問題児の事だから何かしら騒動を起こすのだろうけれど――それはいつもの事なので、最早勘定に入れない。

 デスクの上に鎮座する先生のデフォルメ人形を見つめ、ヒナは笑みを零しながらその額を突いた。

 

「委員長! 書類を万魔殿に提出して来ま――」

「あぁ、お疲れ様アコ、先生の方は私が見送って来たから、今日はもう閉めましょうか」

 

 勢い良く扉を開き、満面の笑みで報告を口にするアコ。彼女を一瞥しながらヒナは施錠の為に鍵を取り出す。しかしアコは扉を開いた姿勢のまま固まり、此方を凝視し続けていた。その様子にヒナは首を傾げ、彼女の名を呼ぶ。

 

「……アコ?」

「ひ、ヒナ委員長、その」

「……?」

「その外套は、一体……?」

「――外套?」

 

 アコの言葉に目を瞬かせ、ヒナは自身の羽織っている外套に目を落とす。其処には着慣れた黒と風紀委員会の腕章が付けられた外套ではなく――純白かつシャーレの腕章が付けられた先生の外套があった。

 

「………ぇ」

 

 思わず、と云った風に声が漏れる。

 何で自分が先生の外套を羽織っているのか? まるで理解出来ないとばかりにヒナは目を見開き硬直する。黒と白、どう考えても間違う要素がない。だと云うのに現実問題、自身は先生の外套を身に纏っている。

 通りで先生に包まれている様な感覚があった筈だ。

 

「まさか、取り違えた――?」

 

 思い返すのは来客用の長椅子に掛けられていた二つの外套。確か自分と同じように先生も椅子に外套を掛け、そのまま執務に入った。お互い徹夜続きで意識が朦朧としていたのもあるだろう、先生の体格が大きく普段ヒナが羽織っているサイズと違和感がなかった点もある。

 ヒナは頬を赤くすると、その羞恥心を振り払う様に額を軽く叩き告げた。

 

「はぁ、どうやら疲れが残っているみたい……先生に返却して来る」

「あっ、ヒナ委員長! それでしたら私が――!」

「良い、アコも徹夜続きで疲れているでしょう? 先に休んでいて」

 

 勢い良く手を挙げ提案するアコだが、自身のミスを彼女に拭わせるような真似は出来ない。明日も業務はあるのだ、出来得る限りアコには休んで貰いたかった。

 そのまま何事かを叫ぶアコを他所に、ヒナは風紀委員会を速足で後にする。廊下を進み外へと踏み出すと冷たい風が頬を撫でた。端末を取り出しシャーレまでの交通情報を確認する――しかし残念ながらこの時間だと何処も営業を終了してしまっている。

 それを確認し、ヒナは肩を竦める。

 

「この時間だと……流石にバスも地下鉄もやってないか、ちょっと高く付くけれど仕方ない」

 

 夜間料金は高く付くが背に腹は代えられない、タクシーを利用するしかないだろう。流石に風紀委員会の保有する車両を私用で使う訳にもいかないし――そう考えヒナは広場を無言で歩いて行く。周囲には誰の目もなく、まるで世界に自分一人である様に感じられた。

 ヒナはそれとなく周囲を確認すると、靡く外套の襟元を引っ張り、自分の鼻先を埋める。

 

「――ん」

 

 鼻を鳴らすと、先生の匂いがした。徹夜続きだったからだろう、普段よりも少しだけ匂いが強かったように思う。いつも自身の頭部に顔を埋め、ヒナ吸い等と宣う先生だ――別に、これ位なら許される筈だろう。

 

「ふふっ」

 

 ■

 

「……お邪魔します」

 

 ヒナがシャーレへと到着した頃、既に時刻は日付を跨ぎ一時を回ろうとしていた。どっぷりと深けた夜は暗く、シャーレ内部も殆ど光を落としている。学生証を翳し入館すると一斉にライトが点灯し内部を明るく照らす。ヒナは眩しそうに眼を細めながら周囲を見渡すが、当然人影はない。

 

「流石に、この時間だと静かね」

 

 普段ならば様々な生徒が屯し、或いは思い思いに過ごしているシャーレであるが深夜ともなると流石に静寂そのものである。その中で唯一気配があるのは一階のエンジェル24位なもので、ヒナはそれとなく傍まで足を運ぶと硝子越しに中を覗き込んだ。

 

「……良かった、流石にソラじゃない」

 

 まさかとは思ったが、流石に中学生のソラがこの時間まで店員をしている訳ではない様だ。店員は見覚えのないロボットになっており、直立不動でレジに立っている。ヒナはそのまま踵を返すと、エレベーターを使って居住区に移動した。

 

 目指すのは先生の私室――一部過激派生徒が存在する為、先生の私室周辺はある程度防備が固められているが、それでも先生の善意により出入りの制限などはされていない。ヒナは長い廊下を歩き先生の私室の前に立つと、そのまま控えめなノックをした。

 

「先生、居る?」

 

 返事はない。二度、三度、ノックを繰り返すが同じく。

 仕方なくドアノブに手を掛けると、ゆっくりと回す。すると扉は簡単に開き、鍵が掛かっていない事が分かった。

 

「……先生?」

 

 問い掛けながら恐る恐る中を覗き込むヒナ、しかし部屋の中は暗く中に誰も居ない事が分かる。室内は相変わらず殺風景で、棚やデスク周りにフィギュアやら何やらが飾られている程度であった。

 此処に居ないとなると――ヒナは凡その場所にあたりを付け、そのまま扉を閉めるとオフィスの方に向かう。時間が時間の為、既に寝入っているだろうと考えていたが。

 

「――やっぱり」

 

 ヒナがオフィスの方に向かうと、廊下の向こう側から青白い光が漏れていた。きっと帰って来たからまた仕事に取り掛かっていたのだ。敢えて廊下のライトを消灯し、廊下を静かに歩いて行くヒナ。そのまま光が漏れているオフィス内部を覗き込むと、デスクにうつ伏せになる先生の背中が見えた。

 その横には山積みの書類が残っており、光は先生のパソコンのモニタから漏れているものだった。

 

「……仕事は終わらせてあるって云ったのに」

 

 呟き、ヒナはゆっくりとオフィスの扉を開ける。中に踏み込むと先生の寝息が聞こえて来る。右手にマウス、左手にペンを握ったまま先生は寝入っており、かなり無理して進めたのか足元の段ボールには処理済みの書類が詰まっていた。一枚、二枚、ヒナはそれを手に取って確認し、思わず苦笑を零す。

 

 ――私が当番として来る前に少しでも減らしておこうと思ったの? そういう所が、本当に先生。

 

 無理をしている姿を見せようとしないのも、生徒の前では何でもない様に振る舞う所も。

 

「……っていうか、私のコートそのまま着て寝ちゃったんだ」

 

 遅れて、ヒナは先生が外套を羽織ったまま仕事をしていた事に気付く。先生もそうだが、自分も徹夜続きだった為、結構、その――匂いが籠っていた筈だ。勿論隙を見てシャワーを浴びたり着替えてはいるが、制服の類は三徹の間に一度か二度変えた記憶しかない。それを想うと、かっと羞恥で頬が赤く染まった。

 

「………」

 

 ヒナは暫く無言で佇み、平常心を取り戻す。そして今目の前で寝入っている先生を起こすべきかどうか逡巡した。本当ならばこのままゆっくり眠らせておきたい、しかしせめてちゃんとした所で横になって貰わないと、起きた時に身体が悲鳴を上げる事になるだろう。ましてや先生は常日頃から横になって眠る事の方が少ないのだから。

 

「先生、先生、起きて……」

「ぅ――……」

 

 そっと優しく、先生の肩を揺り動かして声を掛ける。しかしヒナの声に反応はするものの、余程疲労が溜まっていたのか起きる気配は微塵もない。暫く声を掛け続けても先生が目を覚ます事は無く、ヒナは彼を起こす事を諦めた。

 

「仕方ない、せめてそこのソファに移して……よいしょ、っと」

「ん――……」

 

 起きないのなら勝手に運ぶまで、幸いにしてキヴォトスの生徒からすれば先生を持ち運ぶ程度は朝飯前。ヒナは寝入っている先生を軽く持ち上げお姫様抱っこすると、そのままオフィスの来客用ソファへと運んだ。本当はベッドの方が好ましいが、少なくとも椅子で寝入るよりはマシだろう。先生をソファに横たわらせ、自身の外套を回収しつつ代わりに先生の外套を布団代わりに被せる。

 

「――これで良し」

 

 先生を起こす事無くソファに移したヒナはほっと安堵の一息。そして今尚眠り続ける

 先生の傍に屈みこみ、じっとその寝顔を観察した。

 

「………」

 

 先生の顔には大小様々な傷がある。特に起きている間もずっと閉じられた右目は、もう二度と光を映す事はない。ほんの僅かに変色した皮膚は、それ自体がメイクか何かである事をヒナは知っていた。先生は生徒に凄惨な傷痕を見せない為に普段は何らかの形で傷跡を隠している。

 それは人の皮膚を模した薄い膜であったり、指先を覆うハーフグローブであったり、夏場でも頑なに緩めない胸元であったり。

 

 エデン条約で起きた襲撃以降、先生は様々なものを失った様に思う。それを隠す様な素振りを見る度に、ヒナはあの時に抱いた自身への強い失望と後悔を思い出す。

 けれど今こうして眠る先生の表情は余りにも穏やかで、何の憂いも心配もなく、ヒナは思わずと云った風に呟いた。

 

「――いつもこんな風に、貴方が安らかであれば良いのに」

 

 それは願望であり、祈りだ。

 先生が穏やかで、何の不安も、傷付く事も無く過ごせる世界。こんな風に日常の中で、あどけない寝顔を晒す事が出来る毎日。彼女はそれを強く望んでいる。

 ヒナはそっと手を伸ばし、先生の頬を撫でつける。

 その表情には内に秘めた強い決意が滲み出ていた。

 

「大丈夫、今度こそ――」

 

 そう、今度こそ。

 

「私が守るから」

 

 ■

 

 ――例え、何を犠牲にしたとしても。

 

 ■

 

「っ――?」

 

 一瞬、ヒナは顔を顰めた。

 それは額を奔った痛み、同時に耳へと届いた幻聴の為だった。

 視界に過った暗闇、深く何かを憂い、決意し、罅割れた声。ヒナは額を抑えながら声を漏らす。

 

「……今、何か」

 

 聞こえた、様な。

 けれどそれは本当に一瞬の事で、以降ヒナの額に痛みが齎される事も、誰かの声が聞こえて来る事もない。緩く首を振ったヒナは深い溜息を零し、肩を落とす。

 

「駄目、疲れているのね……」

 

 無理もない、ここ数日は正に激務続きで睡眠は勿論、碌な休憩時間も取れていなかったのだから。ヒナは再度先生の寝顔を一瞥し、それから思い悩む素振りを見せる。

 

「――ちょっと位、良いよね」

 

 自身の中に在った天使と悪魔、しかし今だけは互いに意見を揃え硬い握手を交わしている。ヒナは自分の外套をテーブルに放ると、いそいそと先生の懐に潜り込み蹲る。小柄なヒナはソファの殆どを占領せず、先生の横合いで添い寝するだけの余裕があった。

 

「……ふふっ」

 

 先生の懐に潜り込むと、思わず忍び笑いが漏れた。

 先生の体温は自分と比べると随分と低い。先生の腕を引っ張って自身に被せると、ぬるい人肌が布越しに感じられた。少しばかり体温の高い自分にとっては、丁度良い位だ。ヒナは先生の胸元に顔を埋め、そのまま静かに瞼を落とす。

 疲労し切った肉体と精神は先生に包まれ、いとも簡単に睡魔に屈する。うつらうつらと船を漕ぎながらヒナは先生の衣服を掴み、そのままゆっくりと眠りに落ちた。

 

「……おやすみ、先生」

 


 

 次話で逞しく生きる現世界線のスクワッドと、サオリに撃ち殺された先生に「痛いの、痛いの、飛んでいけ……」する別世界線ヒナちゃん書きたいですわね。



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青空を見上げる少女達

誤字脱字報告、助かりますわ~!


 

 ――ゲヘナ自治区郊外、スラム街。

 

 真夜中であっても喧騒と銃声が鳴り止まないその場所で、一人のロボットが壁に背を預け屯していた。彼の佇む裏路地は埃っぽく棄てられた空き缶やら何やらが散乱し、正にアンダーグラウンドと云った景観であったが、その中でも彼は小綺麗なスーツに身を包み手元の端末を忙しなく操作している。

 そんな彼の聴覚が誰かの足音を察知する。顔を上げると裏路地の入口に立ち影を伸ばす一団の姿。スラム街特有のネオンが彼女達の輪郭を淡く浮かび上がらせ、ロボットの彼はディスプレイに表示される目を細めた。

 

「――誰だ?」

「……依頼の品を届けに来た」

 

 声は低く、良く響いた。

 逆光の中歩き、彼の前へと姿を現したのは四人組の集団――仮面(マスク)で顔半分を覆い隠した彼女達は、その内の一人が片手に大きめのジュラルミンケースを手にしていた。持っていた端末の画面を消し、壁から背を離した彼は四人の立ち姿とケースの存在、そして先の言葉に納得を示す。彼が上からの指示で待っていた傭兵、それこそが彼女達だった。

 

「あぁ、テメェらが例の雇われか、出身校(身元)は無記名って話だったが――まぁ何だって良い、この界隈は腕が立つなら関係ねぇ、それでブツは?」

「無論、この中にある……ヒヨリ」

「あっ、は、はい!」

 

 先頭に立つリーダーらしき生徒に促され、巨大な背嚢を背負った一人が手にしていたケースを地面に置く。そして開け口を彼――仲介人の方へと向けると、ゆっくりとした手付きで錠を弾き、中を晒した。

 

「指示されたギャングより奪取して来た一品――期間限定、完全少数生産品、【勇壮に羽ばたくペロロ人形】だ」

「ほぅ、悪くねぇ」

 

 ケースの中を検めた仲介人は感心の呟きを漏らし、一つ二つと頷きを見せる。ケースの中に入っていたのはふっくらとしたペロロ人形、その舌は靡く様に体に纏わりつき、両の翼は今にも飛び出さんとばかりに広がっている。少数のみ生産され、しかも期間限定という事でかなりの値が付いた希少品。

 注目すべきはその状態――傷一つなく、汚れも付着していない。相手方のギャングはそう柔い存在でもなかった筈だが、どうやら完璧に依頼を遂行して来たらしい。その事に仲介人の彼は満足そうに笑みをディスプレイで表現した。

 

「依頼品は、これで確かか?」

「……あぁ、確認した、これで間違いねぇ――これが今回の成功報酬だ」

 

 リーダーらしき生徒の問い掛けに仲介人は肯定を示し、懐から膨らんだ封筒を取り出す。ケースはそのまま彼に引き渡され、封筒はリーダー格の隣に居た別の生徒が受け取った。彼女は受け取った瞬間に中を検め、素早い手つきで枚数を数える。こういう取引に於いて中抜きは常套手段、仲介人はその行為を咎める訳でも、気を悪くする訳でもなく当然の様に受け入れていた。

 

「仲介手数料は既に引いてある、額は間違ってねぇ筈だぜ、存分に確かめな」

「――うん、リーダー、確かに額は間違っていない」

 

 最後まで数え終えた瞬間、封筒をリーダーに差し出し頷く生徒。それを確認した彼女は封筒を外套の内ポケットに仕舞い込み、被っていた帽子を深く被り直した。

 

「そうか、良い仕事が出来た、感謝する」

「あぁ、今後とも御贔屓に」

「――……なぁ、少し良いか」

 

 取引はこれで終了――後は互いに他人の様に振る舞い、この場を離れるだけ。仲介人はケースを持ち上げその場を後にしようとし、ふと背後から掛かった声に足を止めた。

 

「……これは、単なる好奇心からの質問なのだが」

「あん?」

「その人形に、これ程の高値が付くのか?」

 

 帽子とマスクの隙間から視線を飛ばす彼女の問い掛け、その指先は自身の懐を指している。先程支払われた報酬、それは相応に高額である。普通のバイト程度で稼ごうとすると少々時間が掛かる上に、かなり過密なスケジュールとなるだろう。それを考えれば問い掛けもある意味当然のものと云える。彼はケースを小脇に抱えながら淡々と頷いて見せた。

 

「あぁ、良く知らねぇがマニア受けする一品らしい、偉い上品な恰好の、たい焼きの匂いがする紙袋を被った嬢ちゃんが大枚叩いて購入したんだとよ、まぁ流通経路に関しては知らなかったのかもしれねぇが……売るモンがねぇなら他所から奪う、何も可笑しな話じゃねぇだろう?」

「……そうか、そういうものか」

 

 仲介人の言葉を素直に受け取った彼女は興味深そうに何度も頷いて見せる。

 

「邪魔をした、また依頼を受けた時は頼む」

「あぁ、腕の立つ連中はいつでも歓迎するぜ、しかし、お前さんら――」

「……?」

 

 回答を聞き届けるや否や踵を返し帰路へと就く四人組。そんな彼女達の顔を注視しながら、仲介人の彼はその表情に困惑を滲ませながら告げた。

 

「その、何だ――えらく、奇妙なマスクを被っているな?」

 

 彼の目には四人の顔半分を覆う、にっこり笑ったマスクが映っていた。

 

 ■

 

 ゲヘナ自治区郊外――雑多なビルが立ち並び、傍には閑静な住宅街が広がる区画のひとつ。

 その中に一見何の変哲もない雑居ビルがあり、先程取引を終えた四人組――アリウス・スクワッドは周囲の目を気にしながらその雑居ビルに足を踏み入れた。ビル内部は相応に老朽化し、一見空き部屋の多い何て事の無い建築物だが、その実態は単なるフェイクである。ビル自体は殆ど囮の様なものであり、彼女達の目的は地下に存在した。一階奥、備品室と書かれた一室に踏み込んだスクワッドは、乱雑に放置されたラックや段ボールの合間を縫って部屋の片隅に屈みこむ。凝視しても分からない程に隠蔽された床には隠し階段が存在しており、サオリが脇の壁を這う様に手で探れば微かな違和感。特定の壁を軽く押し込むと、電子音と共に壁の一部がせり上がりスキャナーが顔を出す、後は甘んじてスキャンを受け入れれば足元の床がスライドし、白く真新しい階段が顔を覗かせた。

 サオリは無言で指先を動かし、最初にアツコ、次にミサキが階下へと降りていく。備品室扉の前で外を警戒していたヒヨリが三番目で、最後にサオリが地下へと降りる。全員が内部に足を踏み入れた事を確認すると、床は独りでに動き再び入り口は封鎖される。

 階段を暫く降りると開けた地下空間へと辿り着き、自動センサーによって室内の明かりが点灯した。瞬間、眩しそうに全員が眼を細める。

 

「今日も、か、帰って来れましたね……!」

 

 ヒヨリが部屋を見渡し、喜色を滲ませながら呟いた。

 地下室は計三部屋で構成されており、寝室、リビング、キッチンなどを兼用する中央部屋が一つ。保存食や飲料、弾薬から日用品までが保管されている倉庫が一つ。小さなシャワー室とトイレ、洗面所などがある部屋が一つ。四人で生活するには十分な広さと設備、安全性を備えた場所。

 このビル――正確に云えば地下のセーフハウスこそが、彼女達が現在活動の中心としている拠点であった。

 

「……あぁ、何とか今日も凌いだな」

「お疲れ様、リーダー」

「ミサキもな、皆、よくやった」

 

 帽子を脱ぎ、マスクを外したリーダー――サオリは背後の三人に目を向けながら声を掛ける。背負っていた背嚢を出入り口付近に降ろし、担いでいた銃器はガンラックにへと立て掛ける。常に身に纏う装備品は階段付近に集中させ、咄嗟の出撃にも対応出来るよう配置を変えていた。無論、護身用の拳銃は寝床に常備してある。尤もこのセーフハウスは侵入者に対する防備も用意しており、ビルに侵入された場合、備品室に侵入された場合、そしてこの地下空間に侵入された場合の三種類に分け警告が発せられるようになっている。

 尤も、彼女達がこのセーフハウスを拠点にしてから一度としてその様な事態が起こった事は無いが。

 

「セーフハウスに入る瞬間は見られていないな?」

「た、多分大丈夫です、ビルに入る瞬間もドローンや人の目を警戒していましたし、少なくとも人の影はありませんでした」

「こっちの防犯センサーにも反応はなかったし、問題ない筈」

「そうか」

 

 二人の言葉に頷き、サオリは安堵の息を零す。

 この拠点に腰を落ち着けてどれ程の時間が経過しただろうか? 恐らく一ヶ月は経過していないだろうが、それでもそれなりの時間を過ごしている。

 そんな日々の中でも彼女の警戒心は衰えず、セーフハウスに帰還する瞬間こそ一番気を張っていると云っても良かった。自分達の安全もそうだが、何よりこの場所が露呈してしまえば先生にも迷惑が掛かる。サオリにとって、それが一番の懸念点だった。

 

「へへ……きょ、今日も、頑張りました」

 

 拠点へと戻った彼女達は装備を解除し、各々リラックスした姿を見せ始める。常在戦場を地で行くスクワッドであるが、それは今までの環境が強く影響している。誰の目もなく、襲われる心配もなく、多少気を緩める事が許される環境と云うのは彼女達の人生の中で稀だった。

 背負っていたガンケース、背嚢を降ろし帽子から外套、ホルスター、弾帯の類までデスクに放ったヒヨリは四つ並べられた簡易ベッドに身を投げ、深い溜息を零す。

 

「それにしても、は、働くって、大変ですね、ただ云われた事をやるだけじゃなくて、方法とか、仕事以外の事も考えなくちゃいけなくて……」

「そうだな、アリウスに居た頃の私達はただ命じられるがままに戦うだけだったから――此処に来てから良くも悪くも、自由という言葉の重さを思い知った気分だ」

「契約書の読み方とか、交わし方とか、最初全然分からなかったもんね」

「あぁ、その辺りはミサキに感謝しないとな」

「……別に、適当に端末で調べただけで、そもそも通信環境が無い場所じゃ無理だった」

 

 セイントプレデターを保管用コンテナに立て掛けたミサキは、掛けられた言葉にそっけなく言葉を返す。

 アリウス・スクワッドが自治区を脱出し生活を初め、最初に直面した問題は『社会の常識』である。当然だがアリウス自治区という閉鎖的かつマダム(大人)が絶対の場所に於いて、スクワッドが社会の何たるかを学ぶ機会など皆無に等しい。

 当然最初は失敗もした、心無い大人に利用されそうになったり、ただ働きする事もあった。殆ど着の身着のまま自治区を出奔する事になった彼女達にとって、この雨風凌げるセーフハウスと食糧、日用品の備蓄は涙が出る程助かった。弾薬や武器のパーツ、装備品も少ない金銭で遣り繰りし、失敗すれば改善する、知らなければ調べ、学び、何とか自らの力で金銭を得られるようになったのが――ほんの一、二週間ほど前。

 

 その間の試行錯誤は辛くもあったが、貴重な経験でもあった。何よりどれだけ失敗しても悲観的にならなかったのは、『自分達を助けてくれる大人』の存在があったからだ。既に大きな罪悪を抱えた自分達にとって、多少の失敗など悲観するに足りず、その精神で家族と共に突き進んだサオリは本人達の預かり知らぬ所で、『奇妙なスマイル仮面を被った凄腕の傭兵チーム』と称される様になっている。

 尤もその名声が良いモノかどうかは別で――既にある程度名が売れ始めている事は薄々ミサキが勘付いていた。名前が売れれば高額依頼も舞い込む様になるだろうし、仕事がないという事も少なくなるだろうが、学園や特定の生徒に目を付けられる危険性を孕んでいる。

 

 外套を脱ぎ、ガンラックに掛けた愛銃の整備用品をデスクに広げながら思い思いに体を休める仲間を眺めるサオリは、ふと笑みを零す。恐らく自分一人であったのなら、もっと手古摺る羽目になっていただろう。単なる予想に過ぎないが、もしかしたらその日食べるものにさえ困っていたのではないだろうか。

 

「うん、確かに色々大変な事もあるけれど、でもちゃんと生きているって感じがする、こんな毎日も悪くないよ」

「あぁ、そうだな、アリウスに居た頃はなかった充実感、とでも云えば良いか……少なくとも今までとは別種の学びがある事は確かだ」

「そ、それに今は帰れる場所がありますからね、前と比べれば気持ちも全然楽ですし、あ、後からもっと辛くなるかもしれませんけれど、えへへ……っ」

「……まぁ、このセーフハウスは私達のものじゃないけれど、楽になったのは確か」

 

 帰れる場所がある、安心して眠れる拠点がある、それは彼女達の肉体的にも精神的にも大きな意味を持つ。殆ど毎日仕事を探して歩き回れるのも、拠点で十分に体を休める事が出来るからだろう。

 

「それにしても、別れ際仲介の人が云っていた事ですけれど……このマスク、他の人から見ると不評なのでしょうか?」

「む――」

「そう? 可愛いのに、にっこりマスク」

「可愛いかどうかは兎も角、奇妙なのは確かだね」

 

 ふと、ヒヨリが手にしていたマスクを見下ろしながら呟く。それは現在スクワッド全員が着用している、身バレ防止用の装備品である。以前は各々好きな様に調達していたが、今後活動するにあたってある程度対策が必要であるという事で新調する流れとなった。

 サオリはデスクの上に置いた同じマスクを一瞥し、告げる。

 

「だが追われる身である私達が顔を出したまま活動する訳にはいかない、ある程度身を隠す工夫は必要だろう」

「それは否定しないけれど、何で態々こんなデザインになった訳?」

「ひ、姫ちゃんが、出来れば笑顔になれるマスクが良いと云って――」

 

 ヒヨリがそう呟くと、皆の視線がアツコに向けられる。アツコは外套を脱ぎ、レオタードの様な姿を晒したまま両手でスマイル・マスクを持ち、小首を傾げた。

 

「――ダメ?」

「……別に、駄目とは云っていないけれど」

 

 何の悪気も、悪意もないアツコの様子にミサキは思わず口を閉ざす。着用出来るのならば何だって良いと云えば何だって良い、そもそもミサキが元々用いていたのは何の変哲もない黒いマスクである。当然、防弾性能も期待出来ない分、多少なりとも頑丈な素材を使っているこちらの方が優れていると云っても良い。

 

「一時期は顔全体を覆うフルフェイス――ヘルメットの様なものを検討していたのだが、余り評判が良く無くてな」

「フルフェイスのヘルメットって、あのカタカタヘルメット団だっけ? あぁ云うタイプの?」

「あぁそうだ、顔全部を覆ってしまえば特定される心配もないと思ったんだ、しかし――」

「アレって、夏場は蒸れそうですし、狙撃手としても視界が制限されて、ちょっと使い辛いんですよね……」

「うーん、口元ににっこりマーク描いて良い?」

「……という訳だ」

 

 それぞれヒヨリ、アツコの意見である。肩を竦めるサオリを見て、ミサキは静かに溜息を零した。フルフェイスのヘルメットに、満面のにっこりマークか。想像するだけで実に奇妙な絵面となるだろう。恐らく今被っているコレより威圧感と面妖さは上がるに違いない。

 

「……そう、まぁリーダーの決めた事なら従うよ、今でも身元は隠せている訳だし」

「あぁ――だが念の為後数日したら拠点を移すつもりだ」

「えっ、此処から出ていくんですか!?」

 

 無造作に漏れたサオリの発言に思わず悲鳴染みた声を漏らすヒヨリ。ベッドの上に寝転がり、ラフな格好でネット小説を読もうとしていた彼女だが、流石に看過できないと飛び上がる。

 

「あぁそうだ、今の所私達が指名手配犯である事は露呈していないが、いつまでも同じ場所に留まっているのは危険だろう」

「そうだね、依頼相手から素性を探られる危険性もあるし、最近は私達の名前――というより特徴が売れて来た、定期的に移動して身元特定を防ぐのは当然」

「そ、そんな、こんな快適な環境を……!」

 

 リーダーのサオリ、参謀のミサキが拠点離脱の方針を固めている。その事実を知り最早この世の終わりと云わんばかりに蒼褪め、崩れ落ちるヒヨリ。その身体は小刻みに震え、全身が絶望感に包まれていた。そんな仲間を見下ろし、呆れた様に苦笑を零すサオリ。

 

「――とは云っても、別自治区のセーフハウスに移るだけだ、移動に車は使えないから数日、長くとも一週間程度は野営になるが」

「……幸い今ならある程度お金に余裕はあるし、食糧と必要な雑多品を買い揃える蓄えはあるよ、前の逃亡生活と比べれば全然マシな方」

「そっか、それなら安心だね」

 

 ミサキはここ最近の仕事で稼いだ金銭を脳裏に浮かべ、次の自治区に行くまでの費用を大雑把に見積もる。仮に快適に野営出来る装備を買い揃えたとしても、直ぐに貯蓄が消える訳じゃない。アツコは最初から何の心配もしていないのか、いつも通り穏やかな笑みを浮かべながら粛々と頷きを見せる。

 それを聞いたヒヨリは項垂れていた顔を恐る恐る上げ、露骨に安堵の表情を浮かべた。

 

「な、何だ、他所のセーフハウスに移るんですね、そういう事なら、はい、安心しました……えへへっ」

「……最近のヒヨリは随分と、その、何だ」

「適応した、というより贅沢になったね」

 

 サオリは何処か云い辛そうに、ミサキは若干の呆れを滲ませながらヒヨリに向かって吐き捨てる。そんな二人に対しヒヨリは縋る様にベッドを這いながら訴えかけた。

 

「だ、だって、此処には電気も水道もあるんですよ!? 更に毎日シャワーを浴びても水の残量を気にする必要はないですし、汚れたら洗濯だって出来ます! 夜に固い地面に寝る必要も、夜襲に怯えて夜番をしなくても安心……! 何より、態々節電の為に端末の光量を最低にして小説を読む事さえしなくて済むんです……! こ、こんな環境を失う何て、これより辛くて苦しい事、中々ありませんよ!?」

「いや、気持ちは分かるが――」

「……はぁ」

 

 その語気の強さに思わず気圧されるサオリ、頭が痛いとばかりに額を抑えるミサキ。今まで酷い環境に身を置いた反動か、或いはヒヨリの環境適応能力の高さ故か、恐らく今この状況を一番満喫しているのは彼女だろう。

 ヒヨリは端末を胸に抱いたままベッドに転がり、シーツに身を擦り寄せながら呟く。

 

「え、えへへ、でもきっと、いつかは全部取り上げられるんです、反動でもっと辛くて苦しい未来が待っている筈……だ、だから、今の内に一杯贅沢しておかないと」

「……そう悲観的になるな、ヒヨリ」

「ポジティブになったり、ネガティブになったり、忙しないね」

「でもヒヨリらしいと云えばらしい、かも?」

 

 家族の新しい一面とでも云い換えれば良いか、いやある意味最初から分かっていた事ではあるが。サオリは銃を整備する手を一度止め、吐息を零す。

 

「とは云え、これも全て先生の厚意によって成り立っているのも事実だ――ミサキ、封筒の用意は?」

「用意出来ているよ――でも、良いの?」

「あぁ、これは必要な事だ」

 

 サオリが不意にミサキへと問いかければ、彼女は深々と頷いて見せる。ミサキは数秒考える素振りを見せ、それからベッド脇に置いた背嚢の中から一枚の封筒を抜き出す。基本的にスクワッドの財政に関しては彼女が管理している為、報酬を含む大きな金額はミサキが纏めて保管していた。

 ミサキが取り出したそれにヒヨリは首を傾げ、サオリへと問いかける。

 

「リーダー、それは……?」

「私達が此処に来てから稼いだ報酬、日々の出費分を差し引いて、余ったの内の九割の金だ」

「残った一割は野営の準備とか、万が一の貯蓄に回す、そんなに多くはないけれど数日位なら何とかなる筈」

「きゅ、九割……? そ、そんな大金、どうするんですか?」

「無論――此処に置いて行く、書置きと一緒にな」

 

 毅然とした態度で告げ、サオリはデスクの中心に封筒を置いた。

 彼女達が稼いだ報酬、それは決して多くはないが少なくもない。特に四人全員が揃っているという事で日雇い労働の様な仕事は行わず、殆ど銃撃戦を行う様な危険な仕事ばかり率先して受けていた。

 その背景には彼女達の育った環境、マダムによる教育がある。スクワッド全員の中に、自分達に出来るのは戦う事だけだという意識が深く根付いているのだ。もし自分に価値があるとすれば、自身の最も優れた点は何かという問い掛けに対し、彼女達個々ならばまだしも、全員揃った今ならば『戦闘能力』と答えるだろう。

 スクワッドがそれ以外の道を知るのは――もう少し先の事だ。

 

「裏社会に於いては、『スジ』というものが大事らしい、これ程の設備を無償で使わせて貰ってはスジが通らない、私達がこうして全員揃って生きていられるのも、曲がりなりにもこうして働いていられるのも、全て先生のお陰だ……だからこうして、感謝の気持ちと対価を支払う、それが裏社会の流儀――らしい」

「まぁ、このセーフハウスを作った金額と比べれば微々たるものだろうけれど、何かの足しにはなるでしょう」

「な、成程、スジ……ですか」

「うん、そうだね、感謝の気持ちは大事だと思う」

 

 腕を組みながら最近知った裏社会の流儀を語るサオリ。基本的に根が素直な彼女は、「なるほど、そういうものか」と納得した事には倣う習性があった。特に社会の常識に疎い彼女は基本的に自身の知識を信頼しない為、多少大袈裟であっても疑わない。流石に過ぎたものはミサキによって矯正、或いは指摘されるが今回の件に限っては彼女も特に反対の意志も見せなかった。

 そしてそれは、ヒヨリも、アツコも同じである。

 

「ぅ、そ、そうですね、そもそも先生が居なければ、私達は……」

「そういう事だ、今後セーフハウスを利用した際は滞在中稼いだ九割をこうして先生に支払う――反対意見があるのなら、聞こう」

 

 サオリはそう云って皆を見渡すが、特に反論らしい反論は何もない。スクワッド全員が納得した様子で頷き、サオリは微笑みを浮かべた。

 

「……良し、なら明日の早朝に準備が整い次第此処を発つ、次に目標とする自治区は」

 

 そう口にして、サオリは懐から一枚の紙面を取り出す。それは皺が目立ち、多少汚れながらも大切に保管されている先生のメモ用紙。セーフハウスの位置情報が書かれたそれ、控えを取りながらもサオリはずっと肌身離さず持ち続け、紙面に書き込まれた行の一つを指差し、彼女は告げた。

 

「ミレニアム自治区だ」

 


 

 ヒナちゃんの悪夢が間に合わなかった……申し訳ねぇですわ。

 二日間隔更新だとやっぱりギリギリになりますわね。

 まぁ入れられなかった分は次話にズレ込んで文字数増えるだけなので問題でねぇですわ!

 多分次か、その次位でパヴァーヌ行きます事よ!



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欺瞞の(優しい)

誤字脱字報告、ありがとうございますわ~!


「失礼致しますね~、フウカさん☆」

「………」

 

 ゲヘナ自治区――第八学生食堂、厨房。

 給食部として今日も今日とて多忙な一日を送るフウカは、昼時を前にして巨大な釜を前に汗を滲ませ、マスクにエプロン、三角巾を身に纏いながら釜を必死に掻き混ぜていた。

 給食部の器具は人数的な問題によりある程度自動化が推し進められ、多少放っておいても問題ないのだが、フウカにはそれが出来ない理由がある。ずばり、重要なのは異物が混入していないかのチェックであり、特に給食部では時折謎の生命体が誕生したり、唐突に跳ね回ったりするので、その辺りの確認を怠ると大変な事になる。というかなった。実体験としてフウカは身に染みているのだ。

 キヴォトス有数のマンモス校であるゲヘナ、その給食の一切を取り仕切る彼女は一日に何百キロという食糧の調理をしなければならない。その労力は並みではなく、一分一秒であっても無駄に出来ない――厨房は彼女の戦場と云い換えても良いのだ。

 

 そして、そんな場所に笑顔を浮かべてやって来る悪魔(見覚えのある生徒)。彼女の瞳が死に、顔から表情が抜け落ちるのもいた仕方ないというもの。フウカは溜息を零しながら、しかし手は一切止める事無く素っ気なく吐き捨てた。

 

「……後二十分で作り終わるから、それまで待っていて」

「あら、何の用かはお聞きにならないのですか?」

「いや、どうせまた誘拐されるんでしょう? 別に抵抗しないからちょっとだけ時間を頂戴、配膳とか細かいところだけならジュリひとりでも任せられるけれど、調理がまだ終わっていない部分があって、あと給食推進車は明日の早朝使うから絶対走れる状態で返却を――」

「え~っと、別に今回はフウカさんを誘拐しに来た訳ではありませんよ~?」

 

 淡々と全てを諦めた様に告げるフウカを前にして、厨房を覗き込む生徒――アカリは苦笑を零しながら小首を傾げる。美食研究会の一員として常日頃、嬉々として自身を誘拐するアカリは最早フウカにとって天敵であり、顔を出しただけで『今度は何処に連れて行くつもりだ』と警戒心を抱かせる。それだけの実績が彼女と、所属する美食研究会には存在するのだ。

 そんな彼女が今回は誘拐しに来た訳ではないのだと云う。フウカは意外そうな表情を隠す事が出来ず思わずと云った風に問うた。

 

「じゃあ何しに来たの? さっきも云ったけれど、給食はまだ出来ていないわよ?」

「ふふっ☆ 実は~……ちょぉっとだけ、フウカさんにお願いがありまして」

「………」

 

 お願い――その響きの何と不穏な事か。

 どうせまた面倒事に巻き込むつもりだろうという呆れと怒りの混じったジト目に晒されたアカリは、全く悪びれる様子もなくヒラヒラと手を振った。

 

「そんな目をしないで下さい、本当にちょっとだけですから!」

「……はぁ、それで何? 一応聞くだけなら聞くけれど」

 

 一瞬手を止めたフウカが肩を落とし、気怠そうに問いかける。アカリは両手を揃えながら微笑むと、僅かな茶目っ気を滲ませながら告げた。

 

「――私の御料理、手伝って頂けませんか?」

 

 ■

 

「――お、お邪魔します」

「いらっしゃいませ先生~!」

 

 ゲヘナ学園、第十三学生食堂。

 本校舎より離れた場所にあり普段あまり使用されない学生食堂の一つであるその場所は、通常の食堂と比較するとややこじんまりとしている。活用されるのは精々イベントごとや、何かしら理由があり主要な学生食堂が生徒で埋まった時位なもので、普段は離れにある事もあって静謐に満ちていた。

 そんな食堂の中に足を踏み入れる先生、それを満面の笑みで以て迎え入れるアカリ。

 

「はい、一名様ご案内で~す☆」

「おっと……!」

「さぁ先生、此処に座って下さいね~?」

 

 食堂に踏み込んだ先生は素早く歩み寄って来たアカリに手を引かれ、並べられたテーブルと椅子の一つに腰掛ける。溌剌とした様子のアカリに対し、先生はやや困惑を隠せずにいた。

 シャーレの仕事中、アカリより連絡が来たのが昨日の事。内容は明日の夕刻に食事でもどうか? という誘い。幸い緊急の仕事は全て片付き、数時間程度であれば都合も付いたので了承の返事を送った所――この第十三学生食堂を待ち合わせ場所に指定された。

 てっきり商店街で待ち合わせでもするのではと考えていた先生は、少々身構えてしまったのだ。

 

「えっと、アカリ? まずは誘ってくれてありがとう」

「いえいえ、寧ろ感謝するのは私の方です、先生はいつも予約で一杯ですから~……ふふっ、忙しい仕事の合間を縫って、私に逢いに来てくれたんですよね~?」

 

 どこか優越感と嗜虐心を感じさせる彼女の笑み。アカリの言葉に先生は苦笑いを浮かべる他ない。忙しいというのは事実、尤も先生としては仕事よりも生徒を優先したい気持ちがあるのだが――仕事もまた、生徒に関する事なので手は抜けない。

 

「それより、今日はアカリだけなんだね? てっきり美食研究会の皆で食事をするのだとばかり――」

「私だって偶には先生をひとり占めしたくなる時もありますよ~? 以前のお詫びも兼ねて今日は一対一でお食事をしようと思いまして! 所で先生、何でそんなに強張った表情をしているんですか?」

「あ、いや、アカリと食事って聞いたから色々頑張って、その、食事代の都合を……」

「あら?」

 

 先生の言葉に目を見開くアカリ。何やら食堂に入った時から妙にぎこちない表情だと思っていたが、どうやら自身にまた奢らされるのではと戦々恐々としていたらしい。いつぞやの回転寿司、商店街食事処梯子ツアーを思い出すが、今回は少々事情が異なる。

 アカリは口元を手で覆うと、くすくすと声を漏らした。

 

「ふふっ、先生は私の為に頑張ってくれたんですね」

「まぁ、そうなる……のかな? 私もアカリには沢山助けられたし、一杯食べる美食家のアカリを満足させられるかは分からないけれど、一応ね」

「そうですか、そうですか~」

 

 彼の返答に彼女は満足感を覚える、先生に心を砕かれるのは中々どうして悪くない。本来であれば色々と粗相をした自分達(美食研究会)が先生をもてなす方が自然だろう。しかし、どうやら本人にその意識は無い様だった。

 

「フフッ、でもご安心下さい、今日は私の手料理を一緒に食べるだけです! 先生は一円も払う必要はありませんよ~? 高級店を梯子するのも悪くはないですが――偶にはこういう二人きりの空間って云うのも、悪くないと思いませんか?」

「それには同意するけれど、と云うか手料理?」

「えぇ――と云う訳で、じゃ~ん!」

 

 先生の困惑を他所にアカリは厨房に駆けていくと、トレイ付きのワゴンを二つ同時に押して戻って来る。其処には大量の料理が乗せてあり、鼻腔を擽る何とも香ばしい匂いを放っていた。

 

「一杯作っちゃいました☆」

「これは――」

 

 輝く笑顔と共に告げるアカリ、先生は彼女の運んできた料理の数々に思わず面食らう。見た目や香りだけの判断ではあるが、かなり出来の良い品々である様に思える。

 

「私の手作りお料理です、足りなかったら云って下さいね? まだまだ沢山あるので!」

「え、あ、いや、私はそんなに沢山は食べられ……」

「ん~?」

「――有難く頂きます」

 

 目を細めながら顔を近付けて来るアカリ、その威圧感に屈した先生は思わず頷く。機嫌を良くしたアカリは鼻歌を歌いながら料理を配膳していく。手際よくテーブルへと並べられる料理の数々、それを前に先生は唾を呑み込むと無言の覚悟を決めた。

 ワゴンは二つだけではない様で、厨房からは次々と料理が際限なく運ばれ何十人もの生徒が座る長テーブルはあっという間に料理で埋め尽くされた。アカリは一仕事終えると徐に先生の隣へと腰を下ろし、スプーンやフォーク、箸を先生に押し付けながら笑顔で告げる。

 

「さぁさぁ先生、沢山食べて下さいね~! こうぐいっと、ぐいっと!」

「分かった、分かったよ、食べるから待って、ちょっと待って」

「ふふっ、楽しみですね~☆」

 

 それは料理の感想的な意味だろうか、それとも別の意味だろうか? 先生は背中に冷汗を流し、どうして自分は一食事でこうも緊張しているのだろうかと自問自答する。手渡された箸を手に取り、先生は一番手前にあった肉じゃがに手を付けた。掴むとほろりと崩れてしまいそうになるそれに、絶妙な煮込み具合を予感しながら先生は口へと運ぶ。そして噛み締めた瞬間広がる確かな旨味、染み付いた味が先生の舌に滲み思わず目を見開いた。

 微かであっても分かる、薄れ行く感覚の中でもこの味を忘れる事はない。それは確かに、先生の知っている味だった。

 

「……これは」

「――あら、お気付きになられましたか?」

 

 先生の様子に、どうやら勘付いた様だと笑みを浮かべたアカリは笑みを零す。先生はもう一口、二口と料理を口に運ぶと確信を持って告げた。

 

「この味というか、風味は……フウカの作る料理に似ているね」

「えぇ、実はフウカさんにも手伝って頂いたんです!」

「フウカに?」

「えぇ、自分だけ食べるならばまだしも、誰かの為に作るとなると少々不安がありまして、断られたら拉致、じゃなくて脅し、でもなく爆破――……過激な手段を取るつもりでしたが、素直に協力して頂けて大変助かりました☆」

「……うん、まぁ、成程ね」

「ふふっ、フウカさんの腕前は良く知っておりますから」

 

 ■

 

「――あら?」

「ん、何よアカリ」

 

 先生との食事会当日、早朝――買い込んだ食料を前に、第十三学生食堂の簡易厨房にて調理を行う二人の姿。

 最初は懐疑的であったフウカであったが、アカリより事情を聞き先生に手料理を振る舞いたいという彼女の真摯さを一先ず信じ、渋々ではあるが助力する流れとなった。恐らく先生に振る舞うという部分が決め手であったのだろうとアカリはそう考える。

 

 厨房を練り歩くアカリはフウカの仕上げた料理を次々と味見し、ふと声を零す。フウカの手料理を文字通り何度も食して来たアカリは、その些細な味の変化に気付けるほどに精通していた。

 普段の給食で振る舞われる彼女の食事は酷いものだが――尤も、それはフウカの瑕疵ではない事を、美食研究会の面々は良く理解している――彼女が個人的に作る料理に関しては好ましいと思っている。そうでなければ美食研究会が個人的に彼女の腕を頼る事はまずないだろう。

 普段彼女を誘拐する理由もまた、フウカの腕前を深く信頼しているからに他ならない。つまりこれは美食の為の致し方ない犠牲、美しき信頼の為せる(誘拐)と云い換えて良いだろう――恐らく、多分。

 

「いえ、普段より味が薄目だなと思いまして、これはこれで美味しいのですけれど」

 

 ひとつ、ふたつと料理を口に運ぶアカリは口を丁寧に咀嚼し、呑み込みながら呟く。フウカはいつも通りの流麗な包丁さばきを見せつつ、アカリの感想に対し肯定を返した。

 

「そうね、塩分とか色々控えめに作ってあるから、味は薄く感じるかも」

「もしかして、先生への配慮ですか?」

「そういう事、退院してそんなに日も経ってないし、何より先生の食生活って結構栄養食とかで済ませちゃうから、なるべく胃の負担にならない様にとか色々考えているの……本当なら私が毎日でもシャーレに通って食事を作ってあげたいんだけれど、誰かさんが頻繁に問題を起こしたりするから給食の支度をするだけで精一杯だし」

「成程、まったく悪い生徒もいたものですねぇ」

「………」

 

 何の悪気もなくそう答えるアカリ(元凶の一人)に、フウカは無言で視線を向けた。その視線は昏く、粘つき、若干怨嗟が混じっている様にも思える。

 しかし幾ら彼女にそれを訴えたとしても馬の耳に念仏、犬に論語、牛に経文、つまり全く以て意味がない事をフウカは知っていた。現にアカリは全く堪える様子を見せず、寧ろ楽し気にフウカの作った料理を丁寧に一品ずつ味見していた。

 故に溜息と共に留まっていた不満やら何やらを吐き出し、兎に角目の前の調理に集中するフウカ。

 

「フウカさん、薄い味付けって具体的にはどういう風に作るのでしょうか?」

「今回の料理だとニンニクとか、唐辛子とか、胡椒とか、香辛料の類とか、そういうのをなるべく避けて作っているの、その分ちょっと味付けが変わっちゃうけれど、それはそれで素材の味が引き立つし、悪い事ばっかりじゃない」

「ん~☆ 確かに、これはこれで素朴と云うか、優しい味ですねぇ、もっと沢山食べたくなる様な美食です! あ、これ特に美味しかったのでお代わり貰えますか?」

「……お願いだから、作った分を全部食べないでね?」

 

 一日に数千人規模の給食を作る彼女からすれば、一品二品作るのはそう苦ではない。しかし作った傍から味見と云う名の摘み食いを繰り返すアカリを見ていると不安に駆られる。フウカそんな忠告とも不満共取れる言葉に対し、彼女はきょとんとした表情を見せると首を傾げた。

 

「当たり前ですよ? 先生の為に作った料理を全部食べてしまう何て、そんな事する筈がないじゃないですか」

「心配だから云っているんだけれど……というか食べる手を止めて自分も作ってよ!」

 

 ■

 

 そんなこんなで出来上がった料理の数々、朝食代わりに色々と摘まみ食いをしてしまったが胃に入ったのは作った分の半分にも満たない量だ。アカリとしては十二分に自制した結果とも云える。

 

「さぁ先生、こっちはどうですか? これは私が一から作った自信作なんですよ~?」

「ん――うん、優しい味がするね」

「ふふっ、真心一杯、愛情も沢山込めましたから☆」

 

 これもこれもと料理を差し出し、先生が食べる姿を横から嬉々として眺めるアカリ。彼女自身食べる事が大好きだが、他者が食べる姿を眺めるのも中々どうして悪くない。ハルナの優雅な食べ方、ジュンコの気持が良い食べ方、イズミの元気一杯な食べ方、先生のは――慎ましくも穏やかな食べ方、だろうか。

 何方かと云えば淡々とした、けれど食事に対する真摯な姿勢を覗かせる佇まいだと思った。恐らく普段は仕事の片手間に食事を済ませるからだろう、食事の所作というものはそれだけで人柄が分かるものだ。

 アカリはテーブルに身を預けながら、にんまりとした笑みを浮かべる。

 

「特別な料理を食べて、素晴らしい時間を過ごす――なんて素敵なんでしょう、そうは思いませんか先生?」

「うん、素晴らしい時間と云うのは確かに、同感だね」

「ですよね? ふふっ、さ~て、それじゃあ私も食べちゃいます!」

 

 これは食事会、先生とアカリだけの時間。先生の食事を眺めるのも悪くないが、一緒に食べればきっと更に楽しいし、美味しい。

 アカリは手元にあったフォークを手に取ると、目に付いた料理を手元に置く。元々この食事会は先生と美食を味わう為のもの、量は十分に――それはもう十分に確保している。

 

「むぐ……うんうん、我ながら悪くない出来です! ハルナさんも仰っていましたが食事というものは料理単体ではなくシチュエーション、やはり誰と食べるのかという点も大事ですね☆」

「ひとりで食べる食事は味気ないからね、誰かと食卓を囲むと云うのは、本当に素敵なものだよ」

 

 仕事に追われ、栄養食を齧る事が多い先生からすると暖かい食事というだけでもかなり違いがある。苦労を背負った本人がそう口にするからこそ、その言葉には妙な説得力があった。

 

「ん、あら――」

 

 不意にアカリの食事、その手が止まる。

 ふと口にした漬物――確か山海経から取り寄せたザーサイを使った漬物だ。何気なく口にしたソレだが、かなり塩辛く感じたからだった。

 どうやら塩抜きの加減を間違ってしまった様子。フウカさんなら上手くやれたのでしょうが、アカリは内心で呟きつつ唸る。食べられないという事は全くない、しかし全体的に味が薄い食事の中で飛び切り濃いこれは、口にした瞬間吃驚する事請け合いだろう。

 アカリは暫く手にした漬物を見下ろし、それから黙々と食事を続ける先生に目を向けた。その瞳にちょっとした悪戯の光が宿り、アカリの口元が微笑を湛える。

 

「先生、こちらの品――一つどうですか?」

「ん?」

 

 先程口にしたザーサイの漬物、それが盛られた小皿をそれとなく先生に勧める。先生は彼女の意図に気付いた様子もなく、穏やかな佇まいで目を瞬かせた。

 

「漬物か、良いね、頂くよ」

「ふふっ」

 

 先生の箸が小皿に伸び、そのまま一摘みの漬物を口に運ぶ。その様子をどこか期待する様な目で眺めるアカリ。そして口に入れ、咀嚼する先生を見て彼女は悪戯っぽく問いかけた。彼女の脳裏には余りの塩辛さに驚き、咳き込む先生の姿が浮かんだ。

 

「お味はどうですか先生~?」

「ん、これは……」

「やっぱり驚きましたか? ちょっと失敗して――」

 

 僅かに見開かれる瞳、きっと驚いたに違いない、アカリはくつくつと肩を揺らしながら口直しに汁物を差し出そうとして――。

 

「――丁度良い塩加減で、とても美味しいよ、アカリ」

「………」

 

 満面の笑みを浮かべ、「美味い」と語る先生に思わず面食らった。

 想像とはかなり、百八十度異なる反応だったから。

 アカリは思わず差し出そうとした椀を手にしたまま硬直する。そのまま何て事のない様に食事を再開する先生、アカリは暫し先生を凝視したまま緩やかに再起動を果たした。

 

 ――先生は、塩辛い食事が好みだっただろうか?

 

 アカリはそう自問自答する、アレはかなり味が濃い、結構好みの分かれる塩辛さだった。自分が知らないだけで、先生がそういう味が好みだった可能性も勿論ある。しかし今まで先生と共に商店街の食事処や、あらゆるレストランを梯子して来たアカリは強い疑念を抱いた。

 先生の味覚は至って平凡――良い意味で好き嫌いが無く、特に好む味を持たない。その感覚はアカリやハルナと近しいラインにあり、特に振れ幅の大きい食事には反応を見せる。今食べた漬物は、そのラインを逸脱した味である筈だった。

 

「ん~……?」

 

 アカリは思わず食事の手を止め、唸った。

 高々一度の疑念、偶然味の好みが合致しただけ、そんな何て事の無い反応に拘る自分を不思議に思う。

 けれど何故か、何故か無視出来なかったのである。

 これまで先生と共に梯子してきた数々の店、美食の記憶が警鐘を、違和感を、異変を叫んでいた。

 

「……アカリ、どうしたの?」

「そうですね、えぇ――……先生、実はですね」

 

 食事の手を止めたアカリに気付いた先生が問いかける、故にアカリは一つ策とも云えぬ考えを実行する事にした。

 それは単なる悪戯の範疇、カマかけと云っても良い。

 それとなく、何て事のないように、アカリはいつも通りの笑みを浮かべながら嘯いた。

 

「今回の料理、全体的に味付けを【濃い目】に作っておいたんです、フウカさんに教わりながら、調味料の類に気をつけて先生の身体にも優しい味を目指したんですよ~!」

 

 何て分かり易い嘘だと、自身で口にしながらアカリは嗤った。

 今回の食事はフウカ監修の元、先生の身体に配慮した優しく素朴な味で統一されている。インパクトのある、ガツンとした味ではなく、包み込む様な柔らかな味わい。だからこそ先程の塩辛さが際立つ訳だが――これだけ食事を口にして、先生が気付かない筈がないという確信がアカリにはあった。

 

 何せ自身と、美食研究会と共にずっと美食を探求して来た先生である。当然ではあるが、彼の味覚もまた相応に鍛えられている。気付けない筈がない、「えっ、結構薄味だと思うけれど……」とか、「あれ、そうかな?」とか、「この漬物は確かに濃い目だけれど、他のは――」とか、そういう先生の反応をアカリは予感していた。

 そう在る事が自然な反応であると彼女は信じていた。

 だと云うのに。

 

「先生に気に入って頂けたか不安で――どうでしょう、濃すぎたりしませんでしたか?」

「……いや、寧ろ丁度良い位さ」

 

 先生は穏やかに微笑み、告げる。

 箸を下ろし、自然体に振る舞う先生。

 けれどアカリは見逃さなかった。

 何気なく落とした瞳の中に滲む後ろめたさを。

 

「最近味気ない食事が多かったから、こういう全体的に味の濃い食事は久し振りで――うん、こういう食事も偶には良いものだと感じるよ」

「―――」

 

 それは明確な。

 余りにも分かり易い、まやかし(誤魔化し)だった。

 

「ッ!」

 

 瞬間、アカリの中に噴き出す猛烈な感情、その波。それは一瞬にしてアカリの視界を真っ赤に染め上げ、彼女の身体を突き動かした。

 手にしていたフォークが甲高い音を立てて床に落ち、アカリの手は知らず知らずの内に先生の右腕を掴んでいた。箸を持つ先生の手が震え、思わず目を見開く。

 

「……アカリ?」

「――………」

 

 目の前に、アカリの特徴的な瞳があった。深い蒼の中に広がる妖しい光、それは彼女の開き切った瞳孔。その光は先生の奥底を見透かすように、或いは責めるようにして此方を捉えて離さない。

 

 ぎちりと、アカリの手に力が籠る。恐らく無意識の内に発生した力みだ、彼女からすれば何て事の無い力でも先生からすれば万力の様に感じる。思わず先生の骨が軋み、意図せず苦悶の声が漏れた。

 

「っ、アカリ、少し力が、強い――」

「この、フウカさんと一緒に作ったお料理は」

 

 低く唸る様な、それでいて寒々しい声が響いた。普段の朗らかなアカリとは異なる、怒りを滲ませた表情。彼女の手は先生が離れる事を許さず、寧ろ凄まじい力で引き寄せ、今にも鼻先が触れてしまいそうな距離へと詰める。

 そして疑念は、嬉しくも無い確信に至ろうとしていた。

 

「調味料を極力使わず、薄味で統一してあるんです」

「っ――」

 

 その言葉を聞いた瞬間、先生の表情が明確に崩れた。それはほんの一瞬、僅かな間だけだったが――確かにアカリは目視した。

 

 そして、それこそが何より雄弁な答えだった。

 

 アカリの左手がゆっくりと伸び、先生の唇をなぞる。

 普段であれば余りにも妖艶で、意味深な動作。しかし今の二人の間にその様な空気は一切なく――其処に漂うのは不穏な、それでいて今にも爆発しそうな気配のみ。アカリの表情に色は一切なく、能面の様なそれが先生に問うた。

 シルクの手袋を脱いだ彼女の指先が、先生の肌に食い込む。

 

「……アカリ」

「絶対に離しませんよ、先生――ですから、正直に答えて下さい」

 

 一切の虚偽は許さず、優しい嘘すら拒絶する。

 アカリは自身の胸中に渦巻く感情を押し込め、飲み下し、それでも一抹の希望に縋る様な心地で、震える唇を動かした。

 

「先生、もしかして――味が、分からないのではありませんか」

 


 

 長くなったので分割しますわ~!

 味覚イベント美食研究会全員分やりたい。というか各キャラにフォーカス当てた話全部書きたい。でもきっと膨大な文字数になるので完結後にひっそりと書くのですわ。

 何でアカリだけなんですの~? 美食研究会でハルナの出番が結構多く感じたから、アカリの素敵なところを書きたかったんですわ……。ジュンコとイズミの二人も、いつか輝かせてあげたいですわね!



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彼女にとっての美食

誤字脱字報告感謝ですわ!
祝アニメ化! アニメ見ていたら日付超えちゃいましたわ……。


 

「答えて下さい、先生」

「………」

 

 投げかけられた問い掛け、それは余りにも直截的で、だからこそ言葉を捏ね繰り回すだけの余地が存在しない。

 自身を真っ直ぐ見つめるアカリの瞳から逃れるように、先生の視線が揺らめく。戸惑い、逡巡、苦悩――それでも尚、口元は変わることなく断固として結ばれていた。

 僅かに感じ取れる身動ぎ、それを自身から逃れようとしていると誤解したアカリはより一層表情を険しくさせ、思わず詰め寄り叫んだ。

 

「ッ、逃げないで下さい、悲しくなるじゃないですかッ!」

 

 絶叫は彼女の身体に不要な力みを生み、普段先生に接する時よりもずっと強い力が働いた。それを支えるだけの余力が先生には無く、半ば押し倒される様な形で二人は地面に縺れ込む。咄嗟に手を伸ばした先生の指先がテーブルに引っ掛かり、ひっくり返った椅子がけたたましい音を鳴らす。縁に沿って並べられていた幾つかの料理が地面に落下し、その中身を床に零した。

 だがアカリは零れたそれらに見向きもしない、普段の彼女からは考えられない程激昂に染まった声色で、再度先生に詰め寄る。

 

「答えて下さいッ! 先生! 今、すぐにッ!」

 

 地面に押し倒された先生は口を結び、苦し気な表情を浮かべていた。それが自身の痛みによって齎されているものではないと、アカリは理解していた。視線の先にあるのは生徒(アカリ)、いつだって先生は自身の痛みより他者の痛みに共感する。

 だからこそ心がざわつく。

 苛立つ。

 

「……アカリ」

「そんな、苦しそうな顔をして……ッ!」

 

 至近距離で先生を凝視するアカリは思わず唸る様に云い放った。視界一杯に彼の苦悶に満ちた表情が映る。その表情に滲む色は、感情は何だ? 隠していた事を後ろめたく思っているのか? それとも自身がこうして怒り狂っている事に関して申し訳なく思っているのか? 不甲斐ない自分を責めているのか? ――アカリには分からない、だが自身の行動が間違っている事だけは理解している。

 今にも消え入りそうな声で、先生はぽつりと声を漏らす。

 

「……ごめん、本当にごめん」

「謝る位なら、全部話して下さいよ……っ!」

 

 先生の声を聞きながら、アカリは思考の片隅で思う。

 何故、先生が謝る必要があるのだ。

 望んで喪った訳ではないだろう。

 自ら手放した訳ではないだろう。

 こうして先生に詰め寄る事自体が間違いなのだ、先生にその責任はない。だと云うのに取り乱し、癇癪を起し、子どもの様に駄々を捏ねるのはどうにも耐え切れないからだった。

 アカリの両腕が先生の肩を押さえつけ、絞り出すような声が漏れる。見上げる先生は今にも泣き出しそうなアカリの表情を見て、固く結んでいた口を漸く開いた。

 

「……全部、無くなってしまった訳じゃないんだよ」

 

 ぽつりと、ぽつりと。

 

「ただ、かなり鈍ってしまったのは事実だ、以前の半分、いや、もっとかな――元からそこまで味に繊細な舌のつもりはないけれど……大分、分かり辛くはなっているかもしれない」

 

 自身の唇に指先を這わせながら、先生は目を閉じる。

 

「いつからですか、いつからそんな――」

「……気付いたのは、つい最近なんだ」

 

 嘘じゃない。

 そう言葉を重ねながら、先生は自身の行動を思い返す。

 

「病院食は元々味が薄かったし、私も普段栄養食で済ませてしまっていたから、気付くのが遅れた、ただ違和感を抱いたのは……」

 

 脳裏に浮かぶのは、放課後スイーツ部と共に過ごしたひと時。

 あの瞬間、自身は明確に肉体の異変に気付き、戸惑った。同時に、「あぁ、遂に来たのか」とも思った。寧ろ明確な異常が今の今まで表面化しなかった事に感謝したい位だった。

 

「最近甘味を食べる機会があってね、口にした時――想像していたよりもずっと、甘さが無かったんだ、砂を噛むとまでは云わないけれど、はっきりと分かる程度には」

「………」

「ごめん、私はアカリの作ってくれた料理を、不誠実な形で――」

「そんな事は、どうだって良いんです」

 

 ぎゅっと、先生の肩を掴むアカリの両手に力が籠る。それは先生に明確な痛みを齎したが、彼は声ひとつ上げる事無く受け入れた。

 見上げるアカリの瞳、それが大きく揺らいでいるのが分かる。湧き上がる感情を処理し切れず、綯交ぜになった色が喉元までせり上がっていた。それを必死に制御しようと、押さえつけようと、彼女は唇を噛んで唸りを上げる。くしゃりと、自身の髪を握った彼女は髪が崩れるのも厭わずに喉を震わせた。口から零れたのは乾き切り、震えた笑い声だった。

 

「は、はは――よりに、よりによって、味覚ですか……? こんな、こんな狙い澄ました様に……? 先生と一緒にご飯を食べるのは、幸福で、素敵な事で……ただ、それだけが、それだけで、良かったのに」

「………」

 

 アカリにとって美食とは唯一無二だ、代えの利かない存在だ。

 そしてそれを分かち合えるというのは、大変素晴らしい事なのだ。

 ましてやそれが大切な存在ともなれば――正に至高だろう。

 ハルナがいつか口にしたように、真の美食とは料理のみで完結するものではない。

 

 けれどそれ(至高の美食)が今、自身の手から零れ落ちようとしている。

 

「何故そんな事になったのですか? 味覚が喪われるなんて、そんな――」

 

 口にして、アカリは内心で自身を嘲笑った――そんな事、考えるまでもないと。

 味覚が感じられなくなるなど、到底普通の事ではない。食生活による亜鉛欠乏、口腔疾患、何らかの合併症、薬の副作用、心因性のもの、味覚障害に至る過程は幾つもある。だが何より、最も分かり易い原因が一つあるではないか。

 先生を見ろ、喪われた片目に、潰された片腕――何よりも明確な証拠がそこにはある。

 そも、生きている事自体が奇跡だと云ったのは誰だったか。

 

「ッ!」

 

 歯を食い縛り、一滴の涙を零したアカリはキッと先生を睨み付けながら叫ぶ。その傷の向こうに見える怨敵の姿、其処には彼女にすら制御不可能な強烈な憎悪だけが込められていた。

 

「やっぱりあの時、ヘイローを破壊しておけば良かっ――ッ!」

「アカリ!」

 

 ぐわんと、食堂全体に二人の声が響いた。先生が声を荒げ、アカリの声を遮る。それは彼らしくない、荒々しい口調だった。彼女の声を遮ったのは他でもない、その言葉をそれ以上口に出して欲しくなかったからだ。

 顔を歪めたアカリが口を噤み、先生は努めて冷静に、しかしハッキリとした口調で断じる。

 

「それ以上は云って欲しくない、私はそれ(報復)を望まない……!」

「っ、ですが――!」

 

 先生であればそう口にするだろう、知っていた事だ、理解していた筈だ。

 でも、けれど――呑み込もうとすればするほど、堪え切れない激情が腹の底から沸々と湧き上がって来る。苦悶に歪むアカリの表情、彼女は先生を押し倒した格好のまま縋る様に呟いた。

 

「――ねぇ先生、分かりますか? 食べる事って、生きる上で最も重要ですよね? それを誰かと分かち合える事って、とっても素敵で、素晴らしい事だと、私は思うんです……!」

 

 アカリはそう強く思う。生きる事で一番重要な事を、誰かと分け合える事、大切な人と共有出来る事。それはとても素晴らしい事で、素敵な事の筈だ。

 けれど――。

 

「でも、先生とはそれがもう出来ない、出来ないかもしれない……! 一番大切なのに! 一番一緒に食べたいのにッ!」

 

 その一番重要な事を、一番大切な人と分け合う事が出来ない。出来なくなるかもしれない。それは今まで探していたアカリにとっての美食、その断絶を暗に示していた。

 その絶望感たるやどうか、正に地獄と称して相違ない。傷付き、苦悩し、その上自身の求めていた唯一すら奪われる。

 アカリは両腕で先生の肩を掴みながら、蹲る様に先生の胸元へと額を擦りつけた。ポロポロと零れ落ちる涙が先生の衣服を濡らし、その心を軋ませる。硬質的な角が、先生の肌を引っ掻いていた。

 

「こんな事ってありますか!? こんな事、許せますかッ!?」

「アカリ……!」

「目を片方喪って、左腕まで無くなって、その上美食(味覚)まで――ッ! どれだけ奪えば気が済むんですかッ!?」

 

 先生は――目の前の大人は奪われてばかりだ。だと云うのに、当人は奪ったものに罰を与えない。復讐する事をしない。笑顔で全てを受け入れる。

 

 アカリはそれが――その優しさが、腹の底から気に入らない。

 

「次は、この次は何ですか!? (聴覚)ですか? (嗅覚)ですか? それとも足でも動かなくなりますか? まだ底があるんですか!? これよりもっと、酷くなるんですか!?」

 

 叫び、アカリは見開いた瞳で先生を凝視する。

 優しさを与える者は限られた存在で良い。

 欲を云えば自分だけで良い、先生と生徒の立場などどうでも良いのだ。

 先生が生徒を大切に思う事は普通か? アカリは普通が好きではない――特別こそを、彼女は好む。

 それは浅ましい欲望、恥ずべき事だろうと内に秘めていた感情。

 彼女はそれを吐露する、錯乱していると云っても良い。だからこそ彼女は奥の奥に秘めていた、それに手を掛ける。

 アカリの指先が、ゆっくりと先生の頸へと伸びていた。

 

「これ以上喪う位なら――」

「――ッ!」

 

 自身の特別が、永遠に失われてしまうのなら。

 

「いっそ私が、先生の全部を……ッ!」

 

 アカリの指差が先生の首元に掛かり、その指先が緩く握られる。難しい事は無い、軽く締め上げれば先生の意識を奪う事など造作もない。そしてそのまま連れ去り、誰も知らない場所で共に過ごす事だって出来る筈だ。

 

 先生(自分の大事)が奪われる位なら――誰にも気づかれず、傷付かないように、自身が閉じ込め、奪ってしまおうか。

 

「――っ」

 

 そんな激情に突き動かされたアカリは、一瞬間を置いて息を呑んだ。それは見下ろした先生の表情が苦悶でも、怒りでもなく――唯々、悲壮に染まっていたからだ。

 彼の表情を正確に表現する術をアカリは持たない、だが酷く追い詰められている事だけは分かった。一杯一杯で、言葉を脳裏に巡らせ、あらゆる物事を想定しているのだろう。だがそれを口にする事も、抵抗する事も無く、ただ悲し気に自身を見る先生を目にした時――アカリは急激に感情が引っ込み、代わりに自身に対する失望が広がって行くのを実感した。

 

 ――自分は今、何をしようとしたのだ?

 

 思わず腰を上げ、そのまま背後へと尻餅をつく。そのまま呆然と先生の喉元へと掛けた両手を見下ろし、沈黙した。

 先生は自身の喉を撫でつけながら、ゆっくりと身を起こす。何かを口にしようとする先生に対し、アカリは無言で手を翳した。

 今は、今だけは何も云って欲しくなかった。

 

「――……今日は、もう帰って下さい、片付けは、私がやっておきますから」

「アカリ……」

「じゃないと、私、きっと先生に――」

 

 それ以上は言葉にならない、掻き消えるようにして呑み込まれる声。

 先生は何事かを口にしようとして、二度、三度息を吐く。しかし結局それ以上言葉を重ねる事無く、沈痛な面持ちで立ち上がると近場の倒れた椅子だけを整え、外套を身に纏った。

 

「……今日はありがとうね、アカリ」

「………」

「出来れば、また食事を一緒にしたい、まだ暫く猶予はある筈だから」

 

 それは一体どんな表情で放たれた言葉なのか。俯き、先生から顔を逸らしたアカリには分からない。ただコツコツと離れていく足音を前にして、アカリは焦燥感に駆られる。何か、何か伝えなくちゃいけないと思った。こんな別れは嫌だと、強烈にそう感じたのだ。

 

「――お料理の味付け」

 

 先生の足音が止まる。

 アカリは先生に視線を向けず、俯いたまま呟いた。

 

「次は……濃い目の所を、探しておきます、先生」

「――ありがとう」

 

 抑揚はなく、素っ気ない言葉。けれど先生は柔らかく、穏やかに礼を告げる。そのまま先生の足音は遠くへ消え、食堂にはアカリだけが残された。

 彼女は暫くの間座り込んだまま項垂れ、動く事が出来なかった。漸く落ち着いた頃、覚束ない足取りで立ち上がったアカリはそのまま傍の壁に寄り掛る。

 

「ッ!」

 

 そして徐に顔を上げると、全力で壁を殴りつけた。振り抜かれた拳は壁に埋まり込み、周辺に亀裂が走る。憤怒と共に振るわれたそれは常の数倍近い膂力を発揮し、パラパラと欠片が足元に飛び散った。罅割れた壁を睨み付けながら浅い息を繰り返すアカリ、今にも射殺(いころ)さんとばかりに絞られた眼光が思い描く対象は、ただひとつ。

 

「――ほんと、頭に来ますねッ……!」

 

 幻影は、何時までも彼女を蝕んでいた。

 

 ■

 

「――……失敗しちゃったな」

 

 食堂を出て直ぐ、すっかり夜に包まれた空を見上げながら先生は力なく呟いた。数歩覚束ない足取りで歩むと、そのままズルズルと壁に肩を預ける。今は真っ直ぐ歩くだけの気力もなかった。空いた右手は首元を摩り、握り締められた感触を思い返す。

 深く息を吸い、吐き出すと僅かに白く濁った――最近の夜は良く冷える、もう冬が近い。

 

「アロナ」

『先生……』

「ごめん、情けない所を見せちゃったね」

 

 懐に差し込んだままのシッテムの箱、それに声を掛ければ画面が点灯しアロナの声が耳に届く。どうやらかなり心配を掛けた様で、ずっと裏で待機していてくれたらしい。先生は懐を摩る様にしてシッテムの箱に触れると、静かに声を落とし問うた。

 

「ねぇアロナ、私の身体は――」

 

 ――本当に半年、命を繋げるのだろうか。

 

 口にして、思わず言葉を呑む。

 それは真実を知る事を躊躇ったからか、或いはただ言葉に詰まっただけか。先生の意図を見透かしたアロナは僅かな逡巡を経て、恐る恐る声を響かせた。

 

『残念ですが……初期の頃から比較して、少しずつですけれど確実に機能は落ちています、固定化した直後はまだ補完の影響が出ていませんでした――しかし私が先生の補完、生命維持を開始して既に二ヶ月以上が経過しています、何らかの不具合が表面化しても、おかしくはありません』

「……元々死体だったものを動かしている様なものだからね、そう考えればこうしてモノを考えられるだけ儲けもの、か」

 

 苦笑し、先生は目を伏せる。

 穴だらけの肉体(既に息絶えた骸)を、代用品(シッテムの箱)によって補い繋ぐ生――補完による肉体、その生命維持限界点は近付きつつある。

 それは納得の出来る話であった。

 元より覚悟の上、少しずつ死に近づいて行く事を理解した上で為した事。

 しかし、いざこうして問題に直面すると、何とも云えない哀愁の念が胸中に湧き上がる。それは自身の肉体や命に対する執着ではない、それを喪った事により生徒を悲しませ、そして彼女達と共に世界を感じる事が出来なくなると云う寂しさから来るものだった。

 

『触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚――正直、最初にどの感覚が消えてしまうかは私にも、ただこれから全ての機能が少しずつ衰えていくのだと思います』

「代償を支払わずとも、少しずつ体は機能を喪っていくか」

『……はい』

 

 機能の消失は避けられない――もし、そうであるのならば。

 考え、先生は壁に寄り掛ったまま彼女に提案を口にする。

 

「アロナ、無茶を云っている自覚はあるのだけれど、何とか感覚消失の順をコントロールする事は出来ないかな?」

『コントロール、ですか――?』

「うん、可能ならば視覚と聴覚は最後まで残したい」

 

 五感全てを失う事は避けられずとも、その順番が変えられるのならば当面大きな問題にはならない。出来れば味覚も残しておきたいが――そもそも可能か知るのが先決だろう。

 

「もし他の感覚を犠牲に、残りを少しでも残せるのなら、やって欲しい」

『それは……』

 

 アロナは思わず云い淀む。正直難しい提案であったが、恐らくやろうと思えば――可能だった。

 アロナの持つ演算能力を一方に偏らせる事で一部の感覚を長く残す事は出来る。しかしそれは、他の五感が急速に消失する結果を生む筈だ。

 

「味覚の消失が始まったのは最近だった、完全に喪ってしまう前に何とかしたい」

『……分かりました、出来得る限りやってはみます、ですが先生、消失を完全に防ぐ事は――』

「うん、分かっている、時間の猶予を少しでも増やしてくれるだけで良い……ごめんね、いつも無茶な事を頼んで」

『……いいえ』

 

 先生の言葉にアロナは教室の中で緩く首を振った。如何にアロナが凄まじい性能を誇る存在であろうと、最終的な五感の消失は避けられない。それは先生が補完された瞬間から決まっていた事だった。

 

『先生、残す順番は――』

「嗅覚から消失させて欲しい、そこから触覚、味覚、聴覚、最後に視覚かな……出来れば味覚も、ほんの僅かでも良いんだ、視覚と聴覚を多少でも削って残せるのなら、残してくれると嬉しい」

 

 ――生徒達と喜び(美食)を分かち合えないのは辛い事だからね。

 

 それが誰を、何を想っての選択なのかは理解していた。生徒(子ども)を切り捨てる事が出来ない大人は、自身を少しずつ、少しずつ切り捨て、削っていく。アロナはそんな先生を見上げながら無言で頷きを返した。

 これより先生の選択した感覚は急激に衰え、消えていくだろう。しかし残った感覚は今暫し時を稼げる筈だ。

 

 ――もう少しで冬が来る。

 

 冬が近い夜空は綺麗だった、澄んだ星々に月、混じり気の無い空気は肺を満たし清々しい気分になれる。先生は暫し無言で壁に寄り掛り、夜空を見上げていた。

 

『先生』

「………」

『分かっているとは思いますが、私の演算で導き出された時間(余命)は先生が代償を支払わず(大人のカードを使わず)、一切の外傷や病気を患わなかった場合のみです』

「……うん」

『……無茶を繰り返せばその分だけ先生の肉体は消耗していきます』

「……分かっているよ」

 

 そうだ、良く分かっている。

 自身に残された(時間)はそう多くない。

 

『アリウスで行った、大規模な力の行使ともなれば……恐らく、一度が限界です』

「二度目はない、か」

『……はい、直ぐに生命活動が停止する事はないと思いますが、もし二度目を行使してしまえば、確実に――』

 

 ――二回目の奇跡は、確実に先生と云う存在と引き換えになる。

 

 現状の肉体、先生の生命維持を担当するアロナの見解は重々しい響きを伴った。先生は口を固く結びながら、ゆっくりと頷いて見せる。

 

「分かった、肝に銘じておくとも」

 

 呟き、目を瞑る。

 

 雪が降り、年が明け、寒さを乗り越えた先に芽吹きがある。

 花が咲き、桜が咲く頃――そうして漸く、先生はキヴォトスにて一年を迎える。

 けれど、その頃には既に、自身の身体は朽ちているだろう。

 予感がある――きっと自分は生徒と共に桜を仰ぐ事は出来ない。

 仮に生き残れたとしても、それは緩やかに死に往く骸に過ぎないのだ。

 だが、それでも。

 

「――やり遂げるとも」

 

 私が私である限り。

 

 シッテムの箱を懐に感じながら、先生はゆっくりと自身の足で立ち上がり、夜道を歩き出す。

 ポツポツと等間隔で並ぶ街灯、その光を縫う様に先生の背中は暗闇の中へと消えて行き――やがて解けて消えるように、見えなくなった。

 

 ■

 

「アカリ、片付け手伝いに来たわよ~……」

 

 気の抜けた声を発し、ゆっくりと食堂へ続く両開きの扉を押し開くフウカ。第十三学生食堂はフウカの普段使いしている厨房からやや遠く、今日の分の仕事を全て片付けてから立ち寄った為、それなりに遅い時間になってしまった。

 もうこんな時間だと、先生は既に帰ってしまっているだろうが、念の為様子を見に来た彼女。給食部の部長としての気真面目さが伺えるというもの。

 

「って、なにこれ!?」

「………」

 

 果たしてフウカは、食堂に入った瞬間目に飛び込んで来た光景に思わず悲鳴染みた声を漏らした。

 倒れた幾つかの椅子に、零れ落ちた料理の数々。何より壁に走った罅と、拳大の穴。一体何があったのだと戦々恐々とする。

 確か今日は此処で先生と食事会だった筈だと慌てて先生の姿を探すも――彼の姿は何処にも無い。代わりに椅子に座り、項垂れるようにして微動だにしないアカリの姿があった。フウカはテーブルに並ぶ冷めきった料理を一瞥しながら、不安げな面持ちで彼女に駆け寄る。

 

「ちょっと、これどうしたのよ? 床に料理が零れちゃっているし、壁に穴まで空いているし……」

「――……転んだんです」

 

 そこらの一般生徒がスラムの不良とそう大差ないゲヘナに於いて、銃撃戦など実にありふれたものだが、先生が巻き込まれるとなると少々話が変わって来る。ゲヘナに於いても先生の近辺、或いは校舎周辺に先生が滞在している状態での戦闘行為は厳罰化されており、風紀委員会と万魔殿の両組織、加えて懲戒委員会や救急医学部等もこれに賛同している。その為、基本的に先生がゲヘナに滞在している間、中央区画、校舎周辺で銃撃戦など滅多に起きない筈だが――それでもあり得ないと云い切れないところが実にゲヘナらしい。

 何か戦闘でもあったのかと訝しむフウカに、アカリは淡々とした口調で告げた。

 問い掛けに答える声色は余りにも無機質で、色が抜け落ちていた。

 

「壁に手を突いた拍子に、壊しちゃいました」

「……壊しちゃったって、そんな簡単に壊れる訳――」

「壊れたんです」

 

 遮る様に放たれたそれに、フウカは思わずたじろいだ。それ以上踏み込んで来るなと云わんばかりの強い語気だった。しかし、それで気後れする様であれば、そもそもゲヘナの給食部の部長など務まらない。一瞬気圧されたフウカであったが肩にぐっと力を籠め、重ねて問いかける。

 

「何かあったの……?」

 

 明らかに、いつもの彼女とは様子が異なっている。彼女の知る鰐渕アカリという生徒は滅茶苦茶で、飄々としていて、それでいて底知れない妖しさと破天荒さを持ち合わせた生徒だ。

 他自治区と比較すると頭の螺子が数本外れていると称されるゲヘナに於いて、更に一等ヤバい存在と称される美食研究会の一員――そんな彼女が、こんな風に力なく項垂れている姿など想像もしていなかった。

 

 尚も言葉を重ねるフウカに対し、ぴくりと反応を見せるアカリ。その落とされていた視線がゆっくりとフウカを一瞥する。普段と同じ瞳の色、しかし明確に異なる点が存在する。心なしかその目元は赤く、腫れているように見えた。だがその内心を悟らせる事無く、一度深呼吸を行ったアカリは緩く首を振った。

 

「……いえ、ちょっと椅子に躓いて料理を零してしまって、うっかりですね、ごめんなさいフウカさん、折角協力して頂いたのに」

「それは別に、良いけれど……」

 

 本当に、らしくない。

 料理を粗末に扱う事はしない、それは彼女のポリシーに反する。無論、彼女が意図してこの様な真似をするとは思っていない、恐らくうっかりミスで零してしまったというのは嘘でも何でもないのだろう。しかし、それ以外の部分で彼女は何かを隠しているのだとフウカは感じた。そもそも普段何十人前をぺろりと完食し、どれだけの量であっても余裕で胃袋に収める彼女が作った料理を残している時点で異常なのだ。

 フウカはアカリをじっと凝視しながら、顔を顰める。

 

「――本当に何もなかったのね?」

「ふふっ……えぇ、先生と楽しくお食事会をしただけですから☆ 少し楽しすぎて、張り切ってしまったんですよ!」

 

 度々繰り返されるフウカの切実な問いかけに、アカリは溌剌とした笑みを浮かべて頷く。その表情、身振り手振りはいつもの彼女そのもので、浮かんだ笑顔は余りにも綺麗だった。

 

「フウカさん、何もありませんでしたよ――本当に」

「……そう」

 

 少なくとも、本人はそういう事にしたがっている。フウカは天井を見上げて息を吸い込むと、自身の意識を切り替えるように二度、三度、額を揉み解した。そして再びアカリへと視線を戻した時、そこにはもう不安や疑念の色はサッパリ消えて無くなっている。

 

「――なら後片付けをしましょう、テーブルの残り物はラップをして冷蔵庫に、床も掃除して、皿洗いも沢山しなきゃいけないし」

「……えぇ、そうですね☆」

 

 やるべき事は沢山ある、まずは床に散らばった料理を片付け、モップ掛け。テーブルに残った料理にはラップをして冷蔵庫に保管――いつものアカリならばものの五分程度でぺろりと食べてしまえそうな量だが、恐らく彼女の事だ、明日の朝にでも全て食べきってしまう事だろう。

 それを終えたら食器洗い、壁の破損については事故という事でフウカが後々修繕申請を出す事となった。アカリは自身でどうにかすると口にしたが、いつも襲撃されている給食部である、食堂で給食の取り合いになり銃撃戦、壁が穴だらけに――何て事は日常茶飯事なので、手慣れた自分が申請した方が良いとフウカが云って突っ撥ねた。

 どうせ万魔殿の事だ、いつ何処で誰がどうして、なんて詳細を書かずとも申請は通るだろう。何せ申請数が余りにも膨大なのだから。ゲヘナでは毎日、どこかしらで壁やら天井が破壊される。

 

「と云うか、態々手伝いに来てくれるなんて思っていませんでした」

 

 二人肩を寄せ合って食器を洗う中、ふとアカリはそんな言葉を漏らした。てっきりフウカは自分達美食研究会を好意的に見ていないと思っていたが、まさかこんな風に手助けしてくれるなんて。

 アカリがそう言葉を漏らすと、フウカはいつも通りの呆れた視線を寄越し、溜息交じりに答えた。

 

「学園の厨房は基本的に給食部の管轄だから、洗い物を放置されると私達が後で大変なの、此処の食堂もいつ使われるか分からないし」

「ふふっ、そんな事はしませんよ~?」

「まぁ、後片付け含め食事に関する事で疑ったりはしないけれど……でもアカリって潔癖症でしょう?」

「あら、お皿洗い位なら全然平気ですし、そこまで酷いものでもありません、日常生活に差し障りない程度には☆」

 

 泡に包まれた両手を広げ、アカリはにかっとした笑顔で答える。いつも彼女の両手を包んでいたシルクの手袋はポケットからはみ出し、顔を覗かせていた。

 

「……ねぇ、フウカさん」

「何よ?」

 

 黙々と手際良く食器を洗い続けるフウカ、そんな彼女を横目に丁寧に一枚一枚汚れを拭っていくアカリは、落ち着いた声を漏らす。

 

「――もし、自身の求める至上の喜びを、分かち合う事が出来ない、大切な人が居るとしたら」

 

 もし、そんな未来が存在するのなら。

 声を切り云い淀むアカリ。低く、乾き切った声。そこに込められたのは深い失望と虚しさ、それは自身に向けられたものか、相手に向けられたものか。

 フウカが目を瞬かせながらアカリを見れば、真剣な面持ちで自身の手元を見下ろしていた彼女は、不意に表情を緩めて云った。

 

「……いえ、何でもありません☆」

「――?」

 

 要領を得ない、今のフウカには理解出来ない言葉、無意味な問いかけであるとアカリ自身分かっていた。何せ自分達の答えがどんなものであっても、特別な人の振る舞いはきっと決まっているのだ。

 恐らく、それでも彼は。

 

「それでもきっと、笑顔で頬張ってくれるのでしょうから」

 


 

【後日の美食研究会】

 

「――……あら?」

 

 先生との食事会から数日後。

 ゲヘナ自治区本校舎――空き教室。

 いつものように街へと繰り出し、現地で出来立てを食しつつ気に入った食品をテイクアウトした美食研究会の面々。机を彩る様々な料理を堪能する中、ふとハルナが疑問の声を上げた。

 

「もごもご」

「ん――どうしたのハルナ?」

「いえ、大した事ではないのですが……」

 

 イズミは両手一杯に料理を掴み、ジュンコも負けじと屋台で買い込んだ焼き鳥を口に放る。そんな中疑問符を浮かべるハルナに対し、ジュンコは首を傾げながら問いかけた。ハルナは緩く首を振りつつ、手にした料理を眺める。ジュンコが買い込んだやきとり屋、その隣にあった焼きそばだ。値段もリーズナブルで、パック一杯に詰め込んだ割に味も中々どうして悪くない。満場一致で爆破を逃れた屋台であったが、確かこれは――アカリが買い込んだ料理であったと思い出す。

 

「アカリさん、少々お伺いしたいのですが」

「ん~? どうしたんですか、ハルナさん?」

 

 皆の隣でお好み焼きを頬張るアカリ、机にはソースやマヨネーズ、調味料の類がずらりと並んでいる。各々が好みの味、或いは新しい美食を探求する為に用意したそれは何も珍しい光景でもない。尤も一番良く使うのはイズミなのだが――今回は珍しくアカリが独占している。

 

「このお料理もそうですが、アカリさんの購入したもの全般、私の気のせいでなければ……全体的に少し、お味が濃くありませんか?」

 

 ハルナは手にした焼きそばを軽く持ち上げなら問いかける。その口調は軽く、ちょっとした疑問を訪ねる様な抑揚であった。

 

「ん、そう? 別にそんな気になる程じゃないけれど」

「もごっ、全然おいしーよ?」

「えぇ、これはこれで美味しく頂けるのは確かなのですが……」

 

 イズミとジュンコの二人は特に違和感を覚える事無く食事をしていたが、余り量を食べる事無く、特に繊細な舌を持つハルナは気になったらしい。アカリはそんな彼女の問い掛けに飄々とした態度のまま薄らと笑みを浮かべた。

 

「ふふっ、そうですね、今回の料理は味が濃い目の物を選びましたので、実は最近味が濃い目で美味しいお店を探しているんです☆」

「あら、そうだったのですか、そういう事なら……濃いお味を探求し始めたのには、何か理由でも?」

「……ん~」

 

 椅子に背を預けたアカリは、手にしていたソースを眺めながら思案する様子を見せる。ハルナからすれば、何か素敵なお料理と出会い、濃い味を求め始めたのか? という美食に関する好奇心からの問い掛けであったが、アカリの様子を見るにどうもそういう感じではないらしい。彼女は手の中でソースの容器をくるりと回すと、どこか茶化す様に片目を瞑って云った。

 

「――今はまだ、内緒という事で!」

 

 溌剌としたアカリの声が教室に響く。

 

「内緒って……どうせまた新しい美食の開拓とか、そういう感じじゃないの? っていうか元々アカリってこういうこってり系とか好きだったじゃん」

「私は美味しければ何でも良いよ~! はむっ!」

「あ、そう云えばアカリってもう先生と食事しに行って来たんでしょう? どうだった? やっぱり高級店とか連れて行って貰ったの?」

「ん~? んふふ……さぁて、どうでしょうか☆」

 

 ジュンコがふと思い出したようにアカリへと尋ねると、アカリは肩を竦めながら手元にあったお好み焼きを次々と口に放る。その様子は正に大食いの女王と云わんばかりで、見ているだけで腹が膨れそうになる程。

 

「ジュンコさん、先生に対しては真摯に、一人一人時間を過ごすという取り決めですからね?」

「わ、分かっているわよ! ただ、ちょっと参考にしようかなって思っただけで――やっぱり私はビュッフェとか、いつもは行けない様な所で一杯食べるのが……えへへっ」

「あ、食べ放題とか良いよね! 普段はゲヘナ中心だけれど、百鬼夜行とか、ミレニアムの方にも美味しいお店があるし、遠出するのも良いかも!」

「そういうハルナはもう決まっている訳? どうせ先生と一緒に行くんだから、普段行けない様な所に行きたいじゃん!」

「私も決まっている訳ではありませんが……そうですね、確かに特別感というものは大事です、普段足を運ばない場所だからこそ得られる美食というものも――」

 

 あそこはどうだ、こっちが良い、それなら此方も。各々が自身の一押しの店名を上げ先生と共に一食を――美食を共にする場所を吟味する。アカリはそんな仲間達の姿を見守りながら、喧騒に紛れるようにしてぽつりと言葉を漏らした。

 

「食事は生きる上で最も重要だと云っても過言ではない、でもそれより重要な事だって世の中には――あるのかな~? ないのかな~?」

 

 小さく笑みを零しながら呟かれた言葉は彼女達に届く事は無い。そも、それは彼女の独り言に過ぎないのだから。恐らく一年前の自分であれば何の躊躇いもなく食事(美食)よりも重要な事など無いと云い切っただろう。

 しかし――今は。

 

 思考し、アカリは無言で口に残った料理を放る。ソースの類をこれでもかと投入し、それなり以上に味を濃くしたそれは、まぁ悪くない。元々薄味より濃い味が好みのアカリからすれば、何枚でも食べられると思う程には。

 しかし、どうにも納得できる味ではなく、口元のソースをハンカチで拭いながら、アカリはぼんやりと呟いた。

 

「やっぱり……何だか、味気ないですね」



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パヴァーヌ編 前編【ダイジェスト】
レトロチック・ロマン①


前話日付跨いだ為、連続更新ですわ!
読み飛ばしに御注意下さいまし!


 

【第一話】

 

 アビドス事件を解決し日常に戻ったある日、シャーレの元に奇妙な手紙が届く。送り主はミレニアム・サイエンススクールのゲーム開発部。

 内容は――。

 

『ゲーム開発部は今、存続の危機に陥っています』

『生徒会からの廃部命令により破滅が目前に迫っている今、助けを求められる相手はあなただけです』

『勇者よ、どうか私達を助けて下さい!』

 

 先生は手紙の内容に懐かしさを覚えながら、ミレニアムへと足を運ぶ。道中様々な生徒と挨拶を交わしながらゲーム開発部の部室へと足を踏み入れた先生は、開いた扉から唐突に飛来したプライステーションを辛うじて受け止め、中を覗き込むと慌てた様子のゲーム開発部の部員――モモイとミドリの姉妹と邂逅する。

 ゲーム機の安否を心配するモモイと、そんな彼女を窘めながら謝罪を口にするミドリ。彼女達に自身がシャーレの先生であると告げると、自分達の手紙がきちんと届き、それに先生が応えてくれた事にふたりは喜ぶ。

 そうして改めて手紙の内容を聞き、事情を尋ねようとした所――ゲーム開発部の部室に、彼女達の云う生徒会(セミナー)に所属するユウカが踏み込むのだった。

 

 アビドス事件以降も度々シャーレに足を運んでいたユウカは、「こんな形で先生と逢いたくなかった」とぼやきつつ、モモイとミドリに呆れた表情を向ける。モモイは「出たな、この冷酷な算術使い!」とユウカを揶揄しつつ、徹底抗戦の構え。

 そこでユウカは先生にゲーム開発部の実情を明かす。「部員が規定数に達する」、「ミレニアムの部活として相応しい成果を出す」、「それが出来なければ廃部、部費は勿論部室も没収」、「そしてゲーム開発部はその勧告を受けた状態で何ヶ月も経過している」と。

 

 これだけ時間が経過したのだから廃部に異議はないでしょうと問いかけるユウカに、モモイは食って掛かる。「私達も全力で活動しているもん!」と反駁するモモイに対し、「笑わせないで!」と一喝。彼女達が行っているのは全くゲーム開発とは縁遠い所にあり、校内に変な建物を建てたと思ったらカジノの様に装飾してギャンブル大会を開いたり、レトロゲームを探すと云って古代史研究会を襲撃したり。

 ミレニアムに於いては結果が全てと告げるユウカに、モモイは歯噛みする。そして彼女達が唯一開発したというゲーム、『テイルズ・サガ・クロニクル』は今年のクソゲーランキング一位を獲得してしまっていた。

 

 悔しいならば結果を出しなさいと告げるユウカに怒り心頭と云った様子のモモイは、そこで勢いに任せ「ミレニアムプライスで受賞する」と宣言する。ミレニアムプライスとは、ミレニアムサイエンススクールに於いて最大級のコンテストであり、あらゆる部活動が各々の成果物を競い合う場であった。

 確かに、ミレニアムプライスで結果を出したのならこれ以上ない成果となるだろう、納得したユウカは「そこまで云うなら、ミレニアムプライスまでの残り二週間、楽しみに待ってあげる」と告げ笑みを浮かべる。去り際に「まさか先生の前でこんな、可愛くない所を見せてしまう事になるなんて……」と意気消沈するユウカに、次は落ち着いた状況でお話しようねと先生は笑って見送った。

 

 部室に残った先生とモモイ、ミドリ。「ミレニアムプライスを受賞するより、部員を集めた方が良いんじゃ……」と呟くミドリに対し、モモイは「大丈夫、切り札があるから!」と自信満々に告げる。その切り札とは一体何か問いかけると、モモイは神妙な顔で問いかけるのだ。

 

「先生――G.Bibleって知っている?」

 

 ■

 

【第二話】

 

 G.Bible――それは嘗てミレニアムに存在した伝説的なゲームクリエイターが作った『最高のゲームを作れる秘密の方法』だという。モモイ曰くゲームの聖書であり、それを読めば最高のゲームが作れるため、ミレニアムプライスも楽勝の筈と高笑いする。そうしてそのG.Bibleを求めやって来たのはミレニアムでも出入り禁止区域とされる『廃墟』であった。

 

 ヴェリタスやヒマリの協力を受け、G.Bibleが最後に稼働した場所を目指す先生、モモイ、ミドリの三名。廃墟には草臥れた機械人形(オートマタ)が無数に稼働しており、その目を掻い潜って侵入を果たす。

 途中オートマタに発見され、応戦しながら廃墟を走り回り、三人は近くの廃工場へと逃げ込んだ。外をうろつくオートマタの群れに戦々恐々としながら、三名は別の脱出路を求めて廃工場の奥へと足を進める。そこで奇妙な電子音声に導かれ、先生のアクセス権限によって三名は地下へと足を進める事となる。

 

 そうして辿り着いた廃墟の最奥、そこで三人は無機質な椅子に腰かけたひとりの少女を見つけた。裸のまま、死んだ様に目を瞑った彼女は天井より差し込む陽光に照らされ、白い肌と長く黒い髪が良く映えていた。

 まるで人形の様な少女に困惑し、周りを観察するモモイとミドリ。そしてモモイは少女の傍に刻まれた文字に気付く。

 

 ――AL-1S

 

 それが彼女を表す唯一の文字列であり、モモイはその文字列を「アリス?」と読んだ。先生は神妙な表情の中に一抹の懐古を忍ばせ、一先ずこんな格好では居させられないと、自身の外套と上着で彼女を包み込む。その際少女に触れた指先が微かに震え、少女の休眠状態が解除されてしまう。

 咄嗟に距離を取るミドリとモモイ、そんな彼女達に反しごく自然体で少女の傍に佇む先生。

 

「状況把握、難航、会話を試みます――説明をお願い出来ますか」

 

 周囲を見渡し、モモイ、ミドリ、先生と順に視線を向けた彼女は無機質な声色で問いかける。しかし誰も説明出来る人などなく、寧ろあなたが何か知っているのではないかとモモイやミドリは少女に問い掛ける。しかし少女の記憶データは消去され、何も残ってはいないのだと首を振る。それを聞いたモモイは何かを思いついたかのように手を打ち、それから口元を緩め告げた。

 

「工場の地下、ほぼ全裸の女の子、おまけに記憶喪失……ふふっ、良い事思い付いちゃった!」

 

 ■

 

【第三話】

 

「………」

 

 モモイが思いついた良い事とは、彼女をそのまま部室まで連れ込む事だった。

 

「もごもご……」

「あぁっ、私のweeリモコン食べちゃだめ! ぺっ、して、ぺっ!」

 

 先生の手引きもあって特に何の支障も無く部室に連れて来られたアリスは、物珍しそうに周囲を見渡し、時折目を輝かせては口にものを放り込む。それをミドリが何とか阻止しながら、腕を組んで悩むモモイを見る。モモイは暫し沈黙を守ると、「良し、名前は必要だし、今日からこの子はアリスって呼ぼう!」と宣言する。「いや、AL-1Sちゃんじゃないの?」と問いかけるミドリに、そんな長いのは呼びにくいと一蹴する。

 

 モモイが少女――アリスに「気に入った?」と問いかければ、アリスは自身を指差し、「本機、アリス」と頷いて見せる。「本人が気に入っているなら良いけれど……」と呟くミドリは、次に何故彼女を部室に連れ込んだのかを問いかけた。

 モモイは自慢げに胸を張ると、ユウカに指定された廃部回避の方法は実績を残すか部員を増やすかのどちらか。ミレニアムプライスで受賞するのも、あくまで廃部を回避する為の方法に過ぎないと告げる。それを聞いたミドリは段々と顔を蒼褪めさせ、呟く。

 

「ま、まさか、この子をミレニアムの生徒に偽装して――うちの部に入れるつもりじゃ……」

「そのまさかっ! アリス、私達の仲間になってッ!」

「あむあむ……」

「あぁっ! 私のゲームガールズアドバンスSP食べちゃだめっ! 8コア16スレッドカスタムCPUに8K解像度を誇るキヴォトス唯一の16btゲーム機なんだよ!?」

「……あーもう!」

 

 そうしてアリスをゲーム開発部へと引き込む算段を立てるモモイとミドリ。モモイは先生に縋りつき、何とか協力を得ようと四苦八苦する。先生は当初何かを考え込むように沈黙を守っていたが、暫くアリスをゲーム開発部に向かえると云う提案に賛成の意を示した。諸手を挙げて喜ぶモモイ、不安げなミドリは「先生の協力があるって云っても、大丈夫かなぁ……」と呟く。

 

「大丈夫の意味を確認――状態が悪くなく問題が発生していない状況、肯定します」

「いや、この口調じゃ絶対疑われるよ!? これは無理だって!」

 

 余りにも機械的な口調であるため懸念を露にするミドリ。しかしモモイは、今更諦める方が無理だと突っ撥ねる。「じゃないと、ユズの居場所が……寮に戻る訳にもいかないし」と呟きを漏らす。ミドリもまたその言葉に顔を俯かせ、「そうだったね……」と頷く。

 

「取り敢えず今必要なのは制服と、武器と、学生証と、データベースに登録も……」

「学生証関連とミレニアムの学籍データベースに関しては私が何とかするよ、代わりに制服の方を任せて良いかな?」

「本当、先生!? 分かった、任せて!」

「うーん、それなら私は……」

「ミドリはユズと二人でアリスに喋り方を教えてあげて!」

「しゃ、喋り方……?」

「流石にこの口調だと疑われちゃうから、なんかこう、良い感じに!」

「……まぁ、やれるだけやってみるけれど」

「良し、じゃあ任せた!」

「えっ、あ、お姉ちゃん!?」

 

 そうして先生はアリスの学籍情報取得に動き出し、モモイはアリスの制服を調達しに向かう。そしてミドリはアリスと向き合い、何とか普通に喋る事が出来るように教育を開始するのだった。

 

 ■

 

【第四話】

 

 どうやってアリスに口調を教え込もうかと悩むミドリ、あぁでもない、こうでもないと思案する彼女を他所にアリスは周囲を探索する。すると、その中に埋もれた一つのゲームを見つけた。手に取ったそれは彼女達が嘗て製作し、クソゲーと酷評された『テイルズサガクロニクル』であった。アリスが手に取ったゲームに気付くと、ミドリは恥ずかしそうに自分達が作ったゲームである事を説明し、「そうだ、どうせならゲームをやりながら学習するって手も――」と妙案を思いつく。

 

 その提案を受け入れたアリスは、ミドリに促されるまま『テイルズ・サガ・クロニクル』のプレイを開始する。そうして序盤の世界観説明を終え、チュートリアルに突入したアリスであったが、何と武器を装備する為にボタンを押した瞬間画面の主人公が爆散し、ゲームオーバーになってしまう。その事に困惑する彼女に対し、手早く制服を調達してきたモモイが「予想出来る展開ほどつまらないものはないよ! 本当は此処で指示通りにBボタンじゃなくて、Aボタンを押さなくちゃいけないの!」とケラケラと笑って告げる。

 

 困惑しながらゲームを続けるアリス、次は武器を持って敵とエンカウント、野生のプニプニと戦闘する事になる。指示通り剣を振って攻撃するものの、アリスの操作する主人公はプニプニの放ったクイックドロー(早撃ち)によって射殺されてしまう。突っ込みどころが多すぎる展開にアリスの演算処理が遅延し、その隣で「うーん、やっぱりプニプニが『ふっ』って笑うのは可笑しいかなぁ?」と首を傾げるモモイ。

 

 そんなこんなで正に苦難に次ぐ苦難、アリスは何度も躓きながらテイルズ・サガ・クロニクルをプレイし続ける。何度もエラーを吐き、演算遅延を引き起こし、リブートを繰り返した彼女は何時間もの死闘の果てにゲームをクリアする。

 因みに最後に吐いた言葉は、「こ、ろ、し……て」である。

 

 自分達のアドバイスがあったとは云え、初見数時間でゲームをクリアしたアリスに称賛の言葉を投げかける二人。そしてミドリはゲーム前よりもアリスの口調が人間味を帯び、感情的である事に気付く。ゲームの台詞をそのまま憶えている為、やや不自然ではあるが機械的な言葉でなくなった分、まだマシであると判断した彼女はアリスにゲームによる教育を施す事を決定した。

 尚、それはそれとして。

 

「わ、私達のゲームどうだった!? 面白かった!?」

「い、一応、頑張って作った作品なんだけれど……」

「……説明不可」

「え、えぇっ、何で!?」

「類似表現を検索、ロード中」

「も、もしかして悪口を探しているとか、そんな事ないよね……?」

「面白さ、それは明確に存在する」

「お、おぉっ……!」

「プレイを進めれば進める程、まるで別の世界を旅しているような、夢を見ている様な、そんな気分……あれを、もう一度」

 

 途端、アリスは涙を零してしまう。その事に驚きを見せるモモイとミドリ。「あ、アリスちゃん、何で泣いているの……!?」と困惑を滲ませるミドリに対し、モモイは「決まっているじゃん! それくらい、私達のゲームが感動的だったって事でしょ!?」と喜びを爆発させる。いや、これってギャグ系のゲームの筈で、泣く様な要素なんて無い筈と尚も疑るミドリに反し、モモイはこの感想をゲーム開発部の部長であるユズにも教えてあげたいと口にする。

 

「ちゃ、ちゃんと……全部、見ていた、よ」

 

 すると、部室のロッカーが独りでに開き、中から小柄な影がゆっくりと顔を覗かせた。驚く彼女達を前に人影はおどおどした様子で、しかしどこか喜色を滲ませた雰囲気を纏いながらアリスに近付く。廃墟から皆が戻って来て以降、ずっとロッカーに隠れていたという彼女はゲーム開発部の三人目の部員であり、部長であるユズであった。

 

「あ、あ、ありが、とう……ゲーム、面白いって、云ってくれて……もう一度、やりたいって云ってくれて――」

 

 その言葉が、ずっと聞きたかったの。

 そう云って今にも泣き出しそうにしながら笑うユズに、感情の育ち切らぬアリスはただ疑問符を浮かべる事しか出来なかった。

 


 

 本ダイジェストは【アビドス編】直後の先生である為、まだまだ元気いっぱいの頃ですわ。素敵ですわね!

 

 ダイジェスト版なのに想定より長くなった為、このダイジェスト編の間は毎日更新に切り替えますの! 最初は前編・後編の二話で纏めますわ~! とか考えていたら全然足りなかったです事よ。なので番号表記にして一話5,000字前後の毎日更新で何とか乗り切ります。

 ダイジェストが終わったら、そのまま後編に突入しますわ! そうしたら多分いつも通り二日~三日更新に戻りますの!



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レトロチック・ロマン②

誤字脱字報告、感謝しますわ!
毎日投稿二日目ですの、読み飛ばしにご注意くださいませ。
ダイジェストが終わり次第、以前の書き方に戻りますわ!


 

【第五話】

 

 全員揃ったゲーム開発部、アリスの入部を歓迎する意思を表明したユズは早速とばかりに新しいゲームをアリスに勧める。するとミドリ、モモイもまた自身のお勧めを取り出しアリスへと押し付ける。あらゆるジャンル、特色の異なるゲームを手渡された彼女は片っ端からゲームをプレイし、皆が寝静まった後もずっとゲームをプレイし続けた。

 

 深夜、モニタの青白い光だけが周囲を照らす中、アリスのコントローラーを弾く音だけが周囲に響く。そんなゲーム開発部の扉がゆっくりと開き、顔を覗かせる人物がいた。

 

「――皆、もう寝ちゃったか」

 

 深夜のゲーム開発部へと訪れたのは先生、彼は方々に手を回しアリスの学籍情報を取得するに至った。学生証を片手に部室へと足を踏み入れた先生は、ゲーム機を片手に寝転がるモモイ、ミドリ、ソファで丸まるユズにそっと毛布を掛けて回る。そして微動だにせずモニタを注視し、ゲームをプレイし続けるアリスの傍へと歩み寄った。

 

 先生が隣に腰を落とした後も、一瞥もせずに画面を食い入るように見るアリスを眺め、先生はしばし沈黙を守る。画面の中では勇者アリスが魔物を倒し、魔王城へと入っていくところであった。先生はそんな冒険を見守りつつ、徐にアリスの頭を撫でつける。その意図を理解出来ないアリスはピクリと一瞬動きを止め、何かを問いかける様な視線を先生に向けた。けれど彼は何も云わず、ただ微笑むのみ。

 暫く冒険を見守っていた先生は無言で立ち上がり、学生証と何かの書置きを残し、そのまま部室を後にするのだった。

 

「パンパカパーン、アリスが仲間として合流しました!」

 

 翌朝、起床したゲーム開発部の面々はゲーム的な口調でありながらも、比較的スムーズなやり取りを行えるようになったアリスに歓喜の声を上げる。そして部室内にあった学生証と先生の書置きに気付き、正式にアリスはゲーム開発部の一員として所属する事になった。

 しかし、彼女をミレニアムの生徒として扱うにはまだ足りないものがある。

 

「制服もオッケー、学生証も先生が用意してくれた! 学籍情報も完璧に偽装――もとい書き換えられた筈だから……」

「えぇっと、後必要なのは」

 

 ミドリがそう呟けば、ユズがゆっくりと頷きながら答える。

 

「――武器、だよね?」

 

 ■

 

【第六話】

 

 キヴォトスに於いて銃火器を携帯していない事は非常に不自然な事である。という事でアリスの武器を見繕う必要があると発言したモモイは、先生の書置きを手に取りながら、「先生がエンジニア部に話を付けてくれたみたい!」と喜色を浮かべる。

 機械全般に精通している彼女達の場所になら使用していない銃器の類もある筈だと、モモイとミドリ、そしてアリスの三名は早速エンジニア部へと向かう。尚ユズは人見知りであるため、ひとりお留守番である。

 

「先生から話は聞いているよ、新しい仲間に良い武器をプレゼントしたいのだろう? 向こうにある試作品、それに作ったは良いが特に使い道が無かった銃器何かも置いてある、どれでも好きなものを持って行くと良い」

「本当に!? やった~! ありがとう先輩っ!」

 

 エンジニア部に到着すると早速マイスターであるウタハが出迎え、快く彼女達に協力を申し出る。倉庫の片隅で並べられた銃器を前に悩むゲーム開発部。電子決済機能とBluetoothを搭載した拳銃。タバスコを連射可能なサブマシンガン、相手の服だけを溶かす光線を発射するライフルなど、多種多様かつ実用性に疑問が残る代物が盛りだくさん。

 もし戦闘経験があまりないのなら、比較的扱いやすい銃器が良いのではないかとヒビキが拳銃、小口径のSMGなどを勧める。しかしアリスは「既に〇〇回世界を救い、〇〇回魔王を討伐しました、戦闘経験なら豊富です!」と豪語。その発言に困惑するヒビキであったが、何とかミドリがフォローし事なきを得る。

 

「――あれは、何ですか?」

 

 そんな事をしていると、アリスの目に一つの武器が飛び込んで来る。それは倉庫の片隅で安置されていた巨大な火砲『宇宙戦艦搭載用レールガン』であった。

 身の丈を超える様な巨大武器、ミレニアムに於いて最上位に近い予算を与えられたエンジニア部の下半期予算、その七割を費やして造られた兵器である――その正式名称は。

 

「これは、『光の剣・スーパーノヴァ』です!」

「ッ……!」

 

 その名前を聞いた瞬間、アリスは目を輝かせ始める。「あれが欲しいです!」と叫ぶアリスに対し、しかしエンジニア部の面々は難色を示した。「何でも持って行って良いって云ったじゃん!」と反論するモモイに、コトリやヒビキ、ウタハはこのスーパーノヴァが個人携帯火器としては余りにも重く、大きく過ぎる旨を伝えた。

 基本重量で百四十キロ以上、更に照準器とバッテリーを足した上で砲撃を行えば、瞬間的な反動は二百キロを超える怪物火器。クレーンでも使わなければ持ち上がらず、渡せるのなら渡したいが――と思い悩むウタハを前に、アリスは再び目を輝かせ問いかける。

 

「……汝、その言葉に一点の曇りも無いと誓えるか?」

 

 その独特な云い回しに困惑するウタハであったが、彼女の言葉に頷いて見せる。そしてアリスは無造作にスーパーノヴァへと近付くと、一息に銃身を持ち上げた。その怪力に呆然とするマイスター達を他所に、アリスは適当にボタンを操作しスーパーノヴァを天井目掛けて発射してしまう。光線は倉庫の天井に巨大な穴を空け、アリスは光の剣の威力に頬を紅潮させた。

 

「まさか、本当に砲撃まで行えるとは――」

「嘘、信じられない……」

「す、凄いパワーですね……!?」

 

 驚愕するエンジニア部一同、しかし言葉を撤回する気はないとアリスにスーパーノヴァを託す意思を見せる。元より自分達にとっては手に余る代物だった、倉庫で埃を被っているよりは余程良い。

 しかし、それはそれとして本当にその重量を扱い切る事が出来るのかとテスト――もとい、光の剣を扱う資格があるのかを試すと云い放ち、廃棄処分予定であったドローンを彼女達に嗾ける。

 

 唐突なそれに驚きつつも対応するゲーム開発部、アリスは重量のあるスーパーノヴァを軽々と振り回し、砲撃の反動さえも完璧に吸収して見せた。

 その結果に満足そうに頷いたウタハは、コトリにスーパーノヴァの取り扱いに関する説明を、ヒビキにはアリスが扱いやすいよう取っ手の補強やバンドの増設などを頼み、撃墜されたドローン達に目を向けた。

 和気藹々と互いの健闘を称え合うゲーム開発部。彼女達の喜びに反し、ウタハの瞳は何処か冷徹でもあった。

 

「……最低でも一トン以上と推定される握力、あの砲撃時でさえブレない安定した体幹、強度や出力は勿論、外皮に傷一つ見当たらない綺麗な肉体――いや、機体(素体)か」

「つまり最初から厳しい環境での活動を想定し、ナノマシンによって自己修復する事を前提として作られている、とはいえ内部骨子の強度も尋常ではないだろうね、外皮系に自己修復機能があるのなら内部も同じ筈、あれだけ複雑な動作をする基幹システムなんて聞いた事がないが、さて……」

 

 ――それらを踏まえた上で、あれ(アリス)の製造目的を推測するならば。

 

 ウタハはモモイとミドリ、そしてヒビキ、コトリに囲まれ嬉々としてスーパーノヴァを抱える少女を一瞥し、告げる。

 

「――戦闘用、か」

 

 ■

 

【第七話】

 

「よっし、これで漸くゲーム三昧出来るね! アリス、レイド行ける!?」

「攻略法は把握しています、レイド専用装備も獲得済み――【初心者歓迎/燃える森遠征/編成四人/ヒーラー@1、遠距離DPS@1】……あっ、H_is_DeathPenalty(死刑)さんと、perorosama123さんが合流しました」

 

 念願の武器も手にし、漸くミレニアムの生徒として必要なものを全て揃えたアリス。これで安心と胡坐を掻いたモモイは早速とばかりにアリスとゲームの世界に飛び込む。そんなモモイに対しミドリは未だ不安げで、午後にはユウカが資格審査の為に訪れる事を知る。「本当に大丈夫なの!? ゲーム開発部の存続が掛かっているんだよ!?」と必死なミドリに対し、モモイは対策は完璧だと楽観的に云い放った。

 

「ありえないわ……ゲーム開発部に新入部員が入ったなんて、あり得ない」

 

 そんなこんなで午後、資格審査に訪れたユウカはゲーム開発部の部室へと足を踏み入れる。彼女は誇らしげに胸を張るモモイ、何処か冷汗の滲んでいるミドリを一瞥し、そしてゲーム開発部四人目メンバーとなるアリスへと視線を向ける。尚、ユズはユウカの接近を感知しロッカー内部へ退避していた。

 ユウカは新入部員と称されるアリスに近付くと、腕を組みながら胡乱な目でアリスを爪先から頭の天辺まで観察した。

 

「あなたがアリスちゃんね? ミレニアムの生徒ならほぼ全員把握していると思っていたけれど……私がこんなかわいい子の事を知らなかったなんて、ちょっと信じられないわね」

「ぅぐ――! そ、そんな事より! アリスが入部すれば部活存続の条件はクリアでしょう? これでゲーム開発部は晴れて部活として認められて、今まで通り活動も――」

「……そうね、本来は部活の加入を申告すればそれだけで良かったのだけれど、でも最近は部活運営規則も少し変わって、もうちょっと厳しく確認する必要が出て来たのよ」

「え、えぇっ!? 何それ、そんなの聞いていないよ!」

「最近変更されたのだから仕方ないわ、という訳でアリスちゃんに簡単な取り調べ……あら、思ってもいない言葉がつい」

「絶対本音だよそれ!」

 

 錯乱するモモイを他所に、咳払いを挟んだユウカは真剣な面持ちでアリスを見下ろす。

 

「今からアリスちゃん、あなたに簡単な質問をするわ」

「せ、選択肢によっては、バッドエンドになる事もありますか?」

「バッドエンド――まぁ、そういう事もあるかもね」

「っ……!」

 

 その言葉に戦慄するアリス。一体どんな質問が来るのだと身構える彼女に対し、ユウカは徐に腰を曲げるとアリスの耳に囁くようにして云った。

 

「アリスちゃん、もしゲーム開発部に脅されて仕方なくこの場にいるのなら、左目で瞬きをして」

「初っ端から何その質問!? し、しないよそんな事っ!?」

 

 あんまりな質問に憤慨するモモイ。その後もユウカの質問は続き、アリスもまた時折躓きながら回答を続ける。

 しかし、質問が続けば続く程何とも云えない予想外な解答が飛び出し、遂には現実とゲームを混同しているとしか思えない様な発言が飛び出す。その事にモモイとミドリは顔を真っ青にし、「お、終わった……」とゲーム開発部の破滅を予感した。

 ユウカはどこか満足気な表情で頷き、何事かを端末に入力する。

 

「……成程、短い間だったけれどアリスちゃん、貴女の事は良く分かったわ、ゲームが好きだって事、それに新しい世界を冒険したり、仲間と一緒に何かを成し遂げるストーリーが好きなんだって事、十分に伝わった」

「えっ……」

「えぇ、そんな子がゲーム開発部に入部する事は、何もおかしな事じゃないわね」

 

 質問、もとい尋問を終えたユウカはそう云って端末の画面を落とす。予想外の好感触にモモイは思わず驚きを隠せず、声を漏らした。

 

「規定人数を満たしているので、ゲーム開発部をあらためて正式な部活として認定……部としての存続を承認します」

「やっ……」

「やったぁ~ッ!」

 

 ユウカの決定にモモイ、ミドリは両手を挙げて喜び、困惑するアリスへと抱き着く。何だか良く分からないが危機を乗り切ったと顔を緩ませる二人に――しかしユウカはここぞとばかりに水を被せるのだった。

 

「――今学期までは、ね」

「ヴェッ!?」

 

 予想外の追撃に凍り付く二人。ぎこちなく自身に視線を向けて来るモモイとミドリ両名を見下ろしながら、ユウカは寒々しい声色と共に告げる。

 

「規則が変わったのよ、さっきも云ったでしょう? 少し厳しくなったって――今は部活の規定人数を満たすだけじゃなくて、同時に部活としての成果を証明しなくてはいけないの、最近変更された部分だから勿論猶予は設けるけれど……その期間も今月末まで、それまでに結果を出せなければゲーム開発部は四人だろうと、四百人だろうと、廃部よ!」

「そっ、そんな……! あ、あり得ない!」

「あり得るの! というか、この間全体部長会議でちゃんと説明した内容でしょう?」

「ぜ、全体部長会議……?」

 

 ユウカの呆れを含んだ言葉に、モモイは覚えがないとばかりに口を開く。

 

「えぇ、まぁ前回の全体部長会議、あなた達の部長――ユズは参加していなかった様だけれど」

「うぇっ!? そ、そんな!?」

「つまり全部――あなた達、ゲーム開発部の責任よ」

「そんなのってアリ!? な、何て卑怯な――!」

「……鬼とかならまだ分かるけれど、規則通りに運ぶ事の何が卑怯なのよ」

 

 溜息を零し、首を緩く振るユウカ。彼女は手元のタブレットを懐に仕舞い込むと、そのまま疑る様な視線で三人を見た。

 

「――正直アリスちゃんの身元も怪しいし、本当なら今日、今直ぐにでも退去要請をしようと思っていたのだけれど」

「ぅぐッ……!」

「誰かさんから何度も頭を下げられて、どうしても猶予を作って欲しいとせがまれてね、それに――彼女のゲームが好きっていう純粋な気持ちは、本物だと思ったから」

 

 それだけ告げ、彼女は踵を返す。そしてゲーム開発部の扉を開くと、やや威圧感を滲ませた瞳で以て硬直するモモイを注視した。

 

「モモイ、あなた私に向かって云ったわよね? ミレニアム・プライスで吃驚するくらいの結果を出して見せるって」

「そ、それは、確かに……云ったけれど」

「彼女の熱意は本物だと感じた、けれどセミナーの会計として結果を残せない部活に予算は出せない――あなたのその気持ちに相応しい成果が出る事を期待しているわ」

 

 冷徹に、しかし多分に期待を滲ませる声を最後に、ユウカはゲーム開発部を後にする。後ろ手で扉を閉め、足音を鳴らしながら廊下を歩く。

 そして一つ目の角に差し掛かった所で、不意に彼女は足を止めた。

 

「――これで良かったんですか、先生?」

「うん、ありがとうユウカ」

 

 曲がり角、壁に背を預けて待機していた大人にユウカは肩を竦めて見せる。

 

「別に先生に云われて仕方なく猶予を設けた訳じゃありません、あの子のゲームに対する想いは本物だと感じましたし……ただ」

 

 言葉を止めたユウカの表情には、隠しきれない不安が覗いていた。

 

「セミナーの一員として聞いておきたいのですけれど、あのアリスって子は危険な存在――って訳じゃないですよね?」

「……大丈夫だよ、アリスはそんな子じゃないから」

 

 ユウカの疑念は尤も。彼女にはミレニアムを守る責務がある、セミナーとして身元不明の生徒を受け入れる事に抵抗があるのだろう、その感情が先生には良く分かった。故に先生は自身の胸元を叩きながら告げる。

 

「何かあったら、私が責任を取るよ」

「――分かりました、先生がそこまで仰るのなら」

 

 元より情に厚いユウカである、何だかんだ云いつつも心の中では既にアリスをミレニアムに受け入れていた。

 

「もしゲーム開発部が廃部する事になったとしても、アリスちゃんの身元を詮索するような真似はしません、あの子がミレニアムで過ごせる場所の手助け位は――」

「ゲーム開発部は、無くなったりしないよ」

 

 ユウカの声を遮り、先生はそう断言する。顔を上げた彼女の視界に、自信に満ちた先生の笑顔が映った。

 

「あの子達ならきっと、素晴らしい作品を作ってくれる筈だから」

 



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レトロチック・ロマン③

誤字脱字報告、ありがとうございますの!


 

【第八話】

 

「……ご、ごめん、私が部長会議に参加出来なかったせいで、こんな事に――」

「ゆ、ユズちゃんのせいじゃないよ! というかこういう大勢の生徒が集まる会議の時って、お姉ちゃんが代わりに参加する約束だったでしょう!?」

「えっ!? あ、あの時は、えっと、そのぅ、アイテムドロップ率二倍キャンペーンがあって、そっちの方に……」

「やっぱりお姉ちゃんのせいじゃんッ!」

 

 ユウカが去った後、ゲーム開発部の面々は阿鼻叫喚の状態となる。部活動の人員さえ集めれば廃部を免れると思っていた彼女達は、しかしそうならなかった現実に打ちのめされてしまう。しかし奮起したモモイは自身の頬を叩き、神妙な顔つきで告げる。

 

「と、兎に角! これで退路は無くなっちゃった、そうなれば、やる事は一つしかないよ……!」

「う、うん、そう、だね」

「ミレニアムプライスで受賞出来るような、すっごいゲームを作る事」

「って事は、結局G.Bibleが必要なんじゃん! また廃墟に行くの!? やだぁ!」

 

 ミレニアムプライスを受賞するゲームを作る、勿論それがどれ程難しい事かは理解している。となれば当初の予定通り、伝説のG.Bibleに頼る他ない。一行は苦り切った表情を浮かべながらも、再び廃墟へと潜入する流れとなる。

 またその際、ユズは自身が会議に出席しなかったせいでこの様な事態になったのだと責任を感じ、彼女達に同行を申し出る。半年近く校舎の外に出ず、授業もインターネット受講だけだった彼女が外出する事に驚くモモイ達、しかし自身の苦手な事を為してでも部室を、皆との居場所を守りたいと口にする彼女に対し、モモイ、ミドリの両名は共感し立ち上がる。

 

「行こう、皆で居場所(部室)を守るんだ!」

 

 かくしてモモイ、ミドリ、ユズ、アリス――ゲーム開発部の一行は、廃墟へと繰り出す事となる。

 

 ■

 

【第九話】

 

「――という事で先生、何度もごめん! 私達に力を貸して!」

「そういう事なら、分かった、任せて」

 

 廃墟へと足を踏み入れたゲーム開発部、自分達だけで進むのは不安が残った為、再び先生に救援要請を飛ばし計五名で探索を行う事となる。

 そんな彼女達を出迎えたのは廃墟に蔓延るロボットの集団、飛来する無数の弾丸とロケット砲にゲーム開発部の面々は苦戦、「何か前より抵抗激しくない!?」と焦燥顔のモモイ。以前廃墟に来たときよりも、心なしか敵の抵抗、及び数が増えている様に思えた。

 そして気のせいだろうか、ロボット達の攻撃が先生の方向へと集中している気さえする。

 

「こ、これちょっと撤退した方が良くない? 先生だって居るんだし……万が一の事があったら」

「大丈夫です、先生の事はアリスが守ります!」

 

 余りの攻勢、その激しさにミドリは一時撤退を提案するも、集中砲火に晒されながらアリスは堂々とした態度で叫ぶ。

 

「先生、アリスを信じて下さい――!」

 

 その言葉に先生は頷き、ロボット集団を正面から突破する事となる。先生がシッテムの箱を用いて生徒達とリンクし、モモイ、ユズ、ミドリが前衛として敵の押し留め、アリスの火力、及び攻撃範囲で以て一気に焼き払う作戦を敢行する。

 その作戦は成功し一気に道が開け、増援が来る前に敵陣を突破、地下道へと潜り込む事に成功する。追撃が無い事を念入りに確認した後、一行は再び探索を開始した。

 

「――此処は」

 

 暫く地下道を歩いて行くと、不意にアリスが足を止めた。皆が訝し気に彼女を見ると、アリスはふらふらと勝手に道を外れ歩いて行く。慌ててその背後に続くゲーム開発部と先生。

 

「あ、アリス、どこ行くの!?」

「アリスちゃん、危ないよ……!」

「分かりません、ただ、此方に行かないといけない気がして――」

 

 彼女の声に従って歩き続けると、ふと放置され古びたPCを発見する。周囲を注意深く観察すると、嘗てアリスを見つけた場所に酷似している事に気付いた。

 

【Divi:sion Systemへ ようこそお越しくださいました お探しの項目を入力して下さい】

「なにこれ、何かの……端末?」

 

 PCは一行が接近すると同時、電子音声を鳴らし告げる。何処か怪しむミドリに、呆然とした様子で画面を見つめるアリス。モモイは何かを考え込むと、先生が声を発するよりも早くアリスに向かって叫んだ。

 

「アリス、丁度良いし! G.Bibleについて聞いてみようよ!」

「……分かりました、入力してみます」

 

 モモイに促されてキーボード入力を開始するアリス。しかしエンターを押す前に、画面には新しい文字が映し出されていた。

 

【あなたはAL-1Sですか?】

「ッ!?」

「……? いえ、アリスは、アリスで」

「アリスちゃん!」

 

 何かおかしいと勘付いたミドリが叫ぶも、モニタには【音声確認、資格を確認しました――お帰りなさいませ、AL-1S】と表示される。

 アリスは表示されたソレが自身の本当の名前である事を知り、AL-1Sとは何なのかをPCに向かって問いかける。しかし返答が返って来る事は無く、代わりに【電力限界】の文字が表示された。どうやら長い間放置されていた施設の為、発電周りに不具合が発生していたらしい。突然のシャットダウン宣言に慌て始めるゲーム開発部。

 

「え、えっ、何、電力限界って!?」

「せ、せめてG.Bibleの事を教えてから――!」

【G.Bible……検索完了、コード遊戯、人間、理解、リファレンス、ライブラリ登録ナンバー193、廃棄対象データ第一号――機能停止まで残り時間三十五秒】

「廃棄ぃ!? ちょちょ、どうして!? それはゲーム開発者達の、いや世界の宝物なんだよ!?」

【――提案、データ転送の為の保存媒体の接続】

 

 残り三十秒程度で電力が切れると云うPCは、データを転送する為に保存媒体が必要であると通達する。G.Bibleのデータが中に存在すると知ったモモイ達は何とかPCのデータ消失を免れる為に保存媒体を必死に探し始めた。

 

「――スティック型SSDなら持ち歩ているから、これって使えるかな?」

「ナイス先生っ! 流石準備が良いねっ!」 

 

 すると先生が懐から一本の保存媒体を取り出し、モモイに手渡す。諸手を挙げて喜んだ彼女達はPCの挿入口を探し、其処にSSDを差し込む。データの転送は即座に開始され、ほどなくしてPCの電源が落ちてしまう。暗くなった画面を前に気を揉む面々。

 

「こ、これ、ちゃんと転送出来たのかな……?」

「分かんないけれど、これゲームガールアドバンスSPに差したらファイルって見れるかな?」

「変なウィルスとか入っていたら、ゲーム壊れそうだけれど――」

「いや、でも背に腹は代えられない……!」

「迷ったら進め、ですね!」

 

 PCから抜いたSSDを、今度はモモイの持ち込んでいたゲームガールに接続し中身を検める。すると《G.Bible.exe》というデータが存在していた。その事にゲーム開発部の面々は大喜び、早速中身を開こうとする。

 しかし実行にはパスワードが必要であり、その場で中身を確認する事は出来ず。ゲーム開発部はパスワード解析の為にヴェリタスを頼る事を決め、その場を後にするのだった。

 

 ■

 

【第十話】

 

「依頼されたデータについて結果が出たよ」

「ど、どうだったの……!?」

 

 廃墟から持ち帰ったデータをヴェリタスに持ち込んだゲーム開発部一行。少なくない時間を掛け分析した彼女達の結論は、少なくとも取得したデータは本物のG.Bibleであるというものだった。主に解析を担当したマキは得意げな表情で告げる。

 

「ファイルの作成日や最後に転送された日時、ファイル形式から見ても確実だね、作業者も噂の伝説ゲーム制作者、それのIPと一致していたから、データ転送の痕跡も一回きり」

「私達が転送させた時の一回、って事だよね?」

「そーいう事!」

 

 ただ、どうにもファイルを開く為のパスワードを突破する事が出来ず、ヴェリタスの技術を以てしても直接解析は不可能だと云う。しかし彼女達曰く、セキュリティファイルを取り除き、それ以外を丸ごとコピーするという手段ならば可能との事。「じゃあそれをやってよ!」と勇むモモイに、ヴェリタスは特殊なツールが必要であると事情を説明する。

 

「Optimus Mirror System――通称【鏡】って呼ばれるツール、これが無いとどうにもならない」

「それは何処にあるのさ?」

「私達ヴェリタスが持って――いた」

「ん? 待って、過去形なの!?」

 

 事情を聞くと、どうやら不法な用途の機器所持は禁止という事でつい最近生徒会に押収されてしまったという。「私の盗聴器も没収されました、先生の録音データも……」と落ち込むコタマ。ただ先生のスマホに届いたメッセージを確認したかっただけなのにと呟く彼女に対し、「程々にね、あと私は構わないけれど生徒達のプライバシーは尊重して欲しいな」と苦笑を零す先生。ユズは内心で、何でそんな事をされて平気なのだと先生に戦慄する。

 

 生徒会が押収するほど危険な物なんですかと問いかけるミドリに、ハレは「そんな事は無い、ただ暗号化されたシステムを開くのに最適化されたツールってだけ」と弁明する。ただそのツール制作者が只者ではなく、ヴェリタスの部長であるヒマリが直々に製作したこの世に一つだけのツールだという。

 

「つまりやる事は明白、私達はツールを取り戻さないと部長に怒られる、ゲーム開発部はツールを使ってコレの中身を見たい……そうでしょう?」

 

 ヴェリタスは鏡を取り戻す必要があり、ゲーム開発部はG.Bibleの解析に鏡が必要。そこに利害の一致を見たハレ、マキ、コタマはゲーム開発部にある提案を行う。

 

「私達の作戦に――乗ってくれる?」

 

 それはミレニアムの生徒会――『セミナー』を襲撃し、【鏡】を取り戻す計画であった。

 

 ■

 

【第十一話】

 

 ヴェリタスと手を組み、セミナーを襲撃して鏡を取り戻す。その計画を聞いたゲーム開発部の反応は劇的であった。モモイはやる気満々と云った様子で、ミドリは正気? と云わんばかりの不安顔。ユズに至っては部屋の片隅で真っ青な表情となり、アリスはどれだけの事をやろうとしているのか理解していないのか、「レイドバトルですね!」と拳を突き上げる。

 

「ね、今回は先生も見逃してっ! アレがないと私達部長に怒られちゃうの!」

「個人的には先生の録音データと、コピーしたメッセージの回収も……」

「まぁ色々云いたい事はあるけれど、アレが万が一他の人の手に渡ると問題があるっていうのは本当で……」

「うーん」

 

 彼女達の言葉に先生は困った様に腕を組む。シャーレという立場上、中々どうして積極的に賛成も出来ない。しかし実際の所は異なり、先生は既に部長であるヒマリから個人的な協力要請を受けていた。先生は思案顔のまま消極的賛成を示し、「後でユウカに揃って怒られようか」と苦笑を零す。

 その事に喜びの声を上げるヴェリタス。かくしてゲーム開発部・ヴェリタス合同での鏡奪還作戦が計画される流れとなる。

 

「取り敢えず鏡がある場所は分かっている、この差押品保管所って所にあるんだけれど……」

「問題は此処を守っている存在、それが厄介なんです」

「一体何でしょう、もしかして強大なボスキャラですか?」

「まぁ、強ちボスって云い方も間違いじゃないかも……」

「なになに、最新鋭の防衛ロボットとか、タレットとかそういうの? そんなもの、私達が力を合わせれば――」

「いや、此処を守っているのは――メイド部なんだよね」

 

 マキが云い辛そうに告げた名称、それを聞いた瞬間アリスを除いたゲーム開発部の表情が固まる。

 メイド部――正式名称『Cleaning&Clearing』

 ミレニアム最高のエージェント集団であり、同校トップクラスの戦闘能力を誇る武力組織である。「あ~、そっかぁ、ふ~ん、なるほどね~」と納得顔のモモイは、その後素早く踵を返し叫ぶ。

 

「無理だ! 諦めよう! ゲーム開発回れ右ッ!」

「わーっ! 待って待って待って! 諦めちゃ駄目だよモモ! G.Bibleが欲しいんでしょう!?」

 

 帰ろうとするモモイに飛びつき必死に説得するマキ。このままじゃゲーム開発部は廃部になっちゃうんだよ!? と叫ばれるも、モモイの表情は優れない。C&Cの圧倒的な戦闘能力、そして実績を知っていたのだ。

 彼女達のご奉仕によって壊滅したサークル、武装組織は数知れず、そんな連中と戦うなんて危険すぎると彼女は判断していた。確かにゲーム開発部は大切だ、けれどその部員であるミドリ、ユズ、アリスの事はもっと大切だった。彼女達を危険に晒す事は出来ないとモモイは云う。

 しかし、マキは懇切丁寧に何も真正面から戦うつもりは無いと説得を口にした。何よりヴェリタスが入手した情報によれば、現在のC&Cは万全の状態ではないと云う。

 

「確かにC&Cは強いよ? 所属しているエージェントは優秀だし、普通にやれば万が一にも勝ち目はない――でも、彼女達が此処まで名声を獲得するに至ったのは、彼女の存在が大きいんだ」

 

 C&Cのリーダー――コールサイン『ダブルオー』、美甘ネル。

 彼女は現在、別途任務の為C&Cを離脱しているという。つまりC&C最大戦力は不在であり、その状態ならば鏡だけを奪取し逃走する事は十分に可能であるとヴェリタスは考えていた。

 マキたちの必死の説得により熟考を重ねるモモイ。そんな彼女を眺めていたミドリは、ぐっと腹に力を籠め告げる。

 

「――やろう、お姉ちゃん」

 

 驚くユズとモモイを前に、彼女は自身の想いを吐露する。雨漏りもするし、狭いし、ボロボロの部室だけれど、それでも自分達の思い出が沢山詰まった部室。ゲーム開発部はもう、皆で遊ぶ為だけの場所じゃない。

 一緒に居る為の、大切な場所なのだと。

 その言葉を聞いたユズは震える自身の膝を見下ろし、それからぎゅっと目を瞑る。そして二度、三度、自身の膝を叩いて揺れを収めると、食い縛った口元をそのままに告げる。

 

「わ、私も……あの場所を、皆の、居場所を、守りたい……!」

「ユズ――」

「こんな私に、何が出来るのか分からないけれど……あ、諦めたくないから!」

 

 元来争いを好まず、誰かの悪意に対し敏感なユズ。多くの困難を前に目を背けて来た彼女は、この困難だけは立ち向かわなければならないと奮起する。そんな彼女の腕を掴み、支える存在が居た。

 

「大丈夫です、アリス達ならきっと出来ます!」

 

 アリスはゲーム開発部の面々を見渡し、自信に満ちた笑顔で断言する。

 

「アリスは沢山のRPGをやって、色々な世界を知って、勇者たちが魔王を倒す為に必要な――大切なものを学びました」

 

 勇者が世界を救う為に必要なもの。

 魔王を倒す一等強力な力。

 それは――。

 

「心強い仲間達――そして、困難に挑む勇気ですッ!」




 今日更新のアビドス編新ストーリー。
 最後が衝撃的過ぎて情緒がプレナパテス先生ですの。
 詳しく説明して下さい。
 私は今、冷静さを欠こうとしております。
 アレがアビドス崩壊世界線への第一歩、って事ですの……?


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レトロチック・ロマン④

誤字脱字報告に感謝致しますわ~!
基本的にダイジェスト編のパヴァーヌ前編は希望の物語ですわよ。
先生がアリスに光の剣で消し飛ばされるのは、これの続きである後編ですの。
後今回、一万二千字近いですわ。


 

【第十二話】

 

「恐らく近い内にセミナーは襲撃を受けるわ」

「………」

 

 同日、ミレニアム自治区の校舎屋上で対峙する二名の生徒。片方はセミナー所属のユウカ、もう片方はC&C所属のアカネ。ユウカは事前にヴェリタス・ゲーム開発部襲撃の情報を掴んでおり、その防衛の為にC&Cを動かそうと画策していた。

 その知らせを聞いたアカネは瞳を細めながら呟く。

 

「にわかには信じられませんね、あんなに可愛らしいのに……ミレニアムの生徒会を襲撃しようだなんて、人は見かけによらないと云うか」

「純粋な子達よ、でもだからこそ時にはとんでもない悪戯をしたりもするの」

 

 ヴェリタスとゲーム開発部の共通点、それは大事なモノの為ならば手段を選ばないというもの。アカネはユウカの言葉に何度が頷きながらも、C&Cとして依頼を出された以上断る事は無いと受諾する。

 

「……ただ一つ問題がありまして」

「問題? C&Cに? 一体何よ」

「リーダーであるネル先輩が、現在不在なんです」

「ネル先輩が……?」

「えぇ、現在は郊外の方に出払っていて――」

 

 C&C最高戦力であるネルが不在である事を知り驚くユウカ。ただ、リーダーであるネルは守る事より壊す事に特化している為、ある意味いない方が周囲の被害は少ないかもしれないとアカネはひとり零す。

 ともあれC&Cはセミナーより正式に依頼を受け、規定時刻までゲーム開発部を特定の場所――差押品保管所に接近させない事を約束した。

 

「あぁ、そう云えば最後に一つだけ」

「――何かしら?」

「ゲーム開発部とヴェリタスが生徒会を襲撃するという情報……その事は一体どこから仕入れたのですか?」

 

 立ち去ろうとするユウカの背中に向けて、アカネは腹の底から疑問であるとばかりに問い掛ける。

 

「情報戦と云う分野において、ミレニアムにヴェリタスを超える諜報組織は存在しないと認識しておりましたが……」

「その通りよ」

「……?」

「情報戦に於いてヴェリタスを超える組織は存在しない――だから今回の襲撃の件も、予めヴェリタスが教えてくれたの、ただそれだけの事よ」

「ヴェリタスが? それは一体どういう――」

「今回の一件、私達セミナーに情報を提供したのは……」

 

 ユウカは振り向き、真剣な面持ちのまま告げた。

 

「ヴェリタスの部長(リーダー)――ヒマリよ」

 

 ■

 

【第十三話】

 

「成程、私達に協力を仰ぐのは的確な判断だね」

 

 ヴェリタスと手を組み鏡を奪取する計画を立てたゲーム開発部は、エンジニア部へと再度接触を果たす。計画を実行するにあたり、彼女達の協力が不可欠であるという結論に至った為だ。ヴェリタスやゲーム開発部としてもエンジニア部に伝手はなかった為、アリスに銃器を提供して貰った時と同じように先生が橋渡し役となる。ゲーム開発部から事情を一通り聞いた彼女達は、快く計画への協力を申し出た。

 

「――うん、分かった、協力しよう」

「ほ、本当に良いんですか?」

「あぁ、構わないとも」

「で、でも、エンジニア部は実績もありますし、こんな危ない橋を渡る必要なんて……」

 

 十分な実績を持つエンジニア部は予算も潤沢に割り振られており、態々騒動を起こし生徒会(セミナー)と関係を悪化させる必要はないのではとミドリは問いかける。

 

「そうだね、合理的に考えればその通りだ」

「なら、どうして――?」

「それはだね――」

 

 笑顔を浮かべるウタハ、コトリ、ヒビキの答えは単純。「面白そうだから」、「ロマンがあるから」、「熱情を感じたから」、そして「先生と仲良くなれる(パイプが作れるから)」というもの。明け透けであるが、故にこそ嘘はなく、同時に下心というよりも単なる好奇心と好意から来るものであると感じた。

 ややあってゲーム開発部と固い握手を交わしたエンジニア部の面々は、先生と共にヴェリタスの部室へと集合し作戦会議が始まった。

 

「それで、具体的にはどうするの?」

「さっきも云ったけれど、正面からぶつかるのは得策じゃない、トリニティの正義実現委員会やゲヘナの風紀委員会みたいな戦力があるのなら別だけれど……」

「私達を呼んだと云う事は、そうじゃないのだろう? 兎に角、まずはこれを見て欲しい」

「……ウタハ先輩、これは?」

「これはミレニアムタワーの高層――つまりセミナーの専用スペース、その見取り図だ」

「す、すごっ!?」

 

 ミレニアム生徒会、セミナーはミレニアムタワー最上階を専用スペースとして使用しており、差押品保管所もまた同階層西側に存在していた。周辺にはC&Cの他に約四百台の監視カメラ、五十二体の警備ロボット、違法企業、部活動から押収した戦闘機体が複数。それらの詳細な情報を前に、ゲーム開発部の面々は驚愕を見せる。

 

「な、何でこんなに詳しい情報を……?」

「なに簡単な事さ、あの場所のセキュリティ構築には私達エンジニア部が関わっていてね」

「それじゃあ、殆ど内応みたいなものですね……」

「それを云えば私達は皆ミレニアムの生徒だし、内も外も無いんじゃない?」

「まぁともあれだ、このセキュリティは大した問題ではない――一番の問題はエレベーターと、このフロア全体を区切るセクションだ」

 

 投影されたマップを指差しながら告げるウタハにゲーム開発部が首を傾げる。彼女曰く、最上階へと通じるエレベーターには専用の指紋認識システムが導入されており、最上階の各セクションにはそれぞれ同様のシステムが配備、更に認証を失敗するとシャッターが降下し他セクションへの移動を制限するという。加えて内部、外部問わずに衝撃を感知すると更に強固な第二シャッターが降下し、それの解除には生徒会役員の指紋と虹彩、二つのキーが必要になるとの事。

 

「あぁ、因みにエレベーターの方は強引に突破してフロアに侵入すると、セミナーフロアの全セクションがロックされて全ての第一、第二シャッターが一斉に降りる設計だ、一度こうなったら豊富な爆薬でも持ち込まない限り突破は不可能だろう……無策での強行突破はお勧めしない」

「なんかすっごい複雑だし、絶望的な話ばっかりじゃん!? もっとこう、分かり易い弱点とかないの!?」

「それがあればセミナーは疾うの昔に瓦解しているだろうね――とは云え、無敵という訳ではない」

「……うん、少ないけれど弱点自体はある、その一つが」

「――外部電力の遮断、ですね!」

 

 エンジニア部曰く、セミナーのフロアは万が一の事態に備え独立した電力ラインを持っており、その供給されている外部電力を遮断すれば、復旧の際に外部ネットワークと接続される為、ほんの一瞬外部からハッキングを行う隙が生まれると云う。

 しかし、天下のセミナーの持つ復旧システムもまた優秀であり、エンジニア部の作った小型EMPを内部から炸裂させ、電力と一帯のシステムを遮断、無力化出来る時間は――凡そ六秒。

 ヒビキが呟いたその言葉に、ヴェリタスの面々は顔を見合わせる。

 

「六秒かぁ~」

「中々ですね」

「うん、でも――」

 

 ――私達(ヴェリタス)には十分すぎる時間。

 

 ■

 

【第十四話】

 

「ぐふっ、や、やられました~……ふ、復活の呪文を――!」

「えぇ……?」

 

 夕刻、待機していたユウカの元にゲーム開発部襲撃の報が届く。こうも早く動いたかとオペレーションルームに駆け付けたユウカが目にしたのは、C&Cのアカネに制圧されたアリスの姿であった。どんな方法で攻めて来るか想定していたユウカは、まさか無策で正面突破を選ぶとは予想しておらず、困惑の声を漏らす。

 

「ふふっ、この子がアリスちゃんですね、とっても可愛いじゃないですか……六番目のエージェントメイドとして育てたくなってしまいます、連れ帰っても良いですか?」

「ダメに決まっているでしょう? 今は生徒会を襲撃した犯人の一人なんだから……取り敢えず生徒会の反省部屋に閉じ込めておくわ」

 

 単独で襲撃を行い、敗北したアリスはそのままセミナーの反省部屋へと収容。それを終えたユウカは満足げな様子で戦闘報告をアカネより受ける。

 

「それで、戦闘の被害は?」

「エレベーターの指紋認識システムが破壊されました、どうやら最初からこれの破壊が目的だったみですね」

「この規模の破損だと、セキュリティロックの修理は無理ね、一時的に予備のものと取り換えるしか――」

 

 セミナーのオペレーターと共に被害状況を確認したユウカはエレベーターの指紋認証システムが破損した為、システム周りをそっくり取り換える必要があると口にする。しかし、ユウカの思考に引っ掛かるものがあった。

 早速システムを取り換えようとするオペレーターを制止し、ユウカは神妙な表情で続ける。

 

「ねぇ、ちょっと待って」

「はい?」

「さっきアリスちゃんが使っていた武器、あの巨大な銃器って――多分、エンジニア部の作品よね?」

 

 ユウカはアリスの使用していた銃器に見覚えがなかった。しかし、あんな奇天烈な兵装を開発する場所など――ミレニアムのエンジニア部位しか思いつかない。元々身元がハッキリしない生徒だ、ミレニアム内で銃器を調達した可能性は十分にあり得る。

 

「……念の為、エンジニア部製作のセキュリティシステムじゃない、市販か、ミレニアムで開発された別の部活のものを使いましょう」

「――分かりました」

 

 ユウカの指示に頷き、予備のシステムを準備するオペレーター。思案顔で黙り込むユウカに近付いたアカネは、落ち着いた声色で問いかける。

 

「今回の件にエンジニア部が噛んでいると?」

「確証はないわ、けれど――一応ね」

 

 ■

 

「あ、アリスが捕まっちゃった……!」

「だ、大丈夫モモイ、計画通りだよ」

「アリスちゃん、待っていて……直ぐに助けてあげるから」

 

 一連の流れをヴェリタスの部室でモニタリングしていたゲーム開発部は、反省部屋へと収容されるアリスに声を漏らす。こうなる事は分かっていたし、狙い通りではあるが単独でアリスを突撃させた事に何とも云えない罪悪感を覚える。尤も当の本人は「単騎駆けは戦士の誉れです! ゴースト・オブ・ヒャッキヤコーで学びました!」と喜んでいたが。

 

「――先生」

「うん……ウタハ、そっちの方は?」

『こちらエンジニア部、全ては順調だよ、後はこれを仕込めば――トロイの木馬、侵入成功だ』

「良し、ありがとう」

 

 ミドリが先生に視線を向け、先生は手にした端末から別動隊として動いているエンジニア部に連絡を取る。彼女達も順調に計画を進行している様で、動きの切っ掛けとなるトロイの木馬を仕込む事に成功する。

 

「それじゃあ、ヴェリタスの皆はそれぞれ持ち場で待機をお願い、作戦開始時刻は――」

「勿論確認済み、後は先生の合図で……だよね?」

「うん、よろしくね」

「まっかせて!」

 

 エンジニア部、ヴェリタス、ゲーム開発部がそれぞれの役割を持ち、実質的な鏡奪還部隊となるゲーム開発部はミレニアムタワー近辺の別棟にて待機する流れとなる。ウタハ、ヒビキの両名はミレニアムタワー外部からの支援。マキ、コトリは囮を兼ねた突入陽動部隊。ハレはヴェリタス部室より電子支援とオペレーターを兼任。

 作戦決行は視認性が悪くなる夜――息を潜めて作戦開始時間まで身を隠すゲーム開発部。そして持ち込んだ軽食を口に含みつつ、別棟の退館時間が過ぎて室内灯が落とされる頃。

 先生はタブレットの時計を確認し、時刻が作戦開始時間を示した。

 

「――時間だ」

「よっし、行こうか!」

「うぅ、き、緊張する……こんな気持ち、古代史研究会の建物を襲撃した時以来だよ」

「わ、私も、大丈夫かな……?」

「まぁ何とかなるよ! というかユズ、何で段ボール持ってきているの?」

「ま、万が一見つかりそうになったら、これに隠れられないかなって思って……」

「さ、流石に難しいんじゃないかな……?」

 

 緊張に強張る体を自覚するゲーム開発部。先生は彼女達に声を掛け、励ましながら端末を通じヴェリタス、エンジニア部双方に作戦開始を告げる。

 

「――皆、作戦を開始するよ」

『こちらハレ、準備は出来ているよ、支援はいつでも』

『こちらマキ、現地で待機中! 直ぐにでも動けるよっ!』

『こちらコトリ、万事お任せ下さい! 理論上今回の作戦成功率は九十八パーセントです!』

 

 続々と応答する声、先生はその声に頷きを返しながらミレニアムタワーを臨む。タワー全体を包むように光を放つ不夜城は堅牢な守りを感じさせた。

 

「さて、始めよう」

 

 ゲーム開発部と共にタワーの前へと立った先生は、シッテムの箱を抱えながら作戦の開始を宣言する。

 

「――ゲーム開発部、出撃!」

「お~ッ!」

 


 

 私はヒフミが大好きですわ。

 彼女は私がブルアカを始めた時、一番最初に来てくれた生徒ですの。

 なので【補習授業部崩壊(ヒフミが勇気を出せなかった世界線)ルート】を考えますわ~!

 

 先生が心肺停止した後、もし即日復活出来なかったら――から派生する結末。

 或いはコハルに発破を掛けられた時、ヒフミが『先生が斃れ、不在の中、平凡な自分に一体何が出来るのか?』という疑念に打つ勝つことが出来なかった場合、訪れるエンディング(一周目)

 

 アズサが単独でスクワッド追跡に赴き、ヒフミとコハルに別れを告げた後、コハルはヒフミに彼女を追い掛け、「ハナコもアズサも止めなきゃ、駄目……!」と泣きながら説得するが、ヒフミは平凡な自分にそんな事が出来るのだろうかと自信を失う。

 ハナコは分派を取り纏め、ティーパーティーのミカを代理ホストとして動かしアリウスとの全面戦争に身を投じており、アズサと彼女を止めると云う事は学園そのものを止めるに等しい。そんな大それたことを、平凡な自分が出来るのか――? そんな迷いと共に、コハルの言葉に逡巡する。

 

 それを否定と受け取ったコハルは歯を食い縛り、「分かった、私一人でも……絶対に、諦めないから!」と一人で部屋を飛び出してしまう。「こ、コハルちゃん……!」とヒフミは彼女に手を伸ばすが、その指先が届く事は無くヒフミはひとり取り残される。

 ヒフミは暗がりに消えていくコハルの背中を見送る事しか出来ず、そのまま先生の亡骸に縋る様に沈黙を守った。

 

 その間にも事態は悪化し、本編の流れ通りアズサはスクワッドに単独で強襲を仕掛ける。ヒフミからのプレゼント、ペロロ人形に隠したヘイロー破壊爆弾を用いてスクワッドに壊滅的な打撃を与えるが、アツコが庇う事でヘイローの破壊に失敗。ベアトリーチェの加護によって一命を取り留めたアツコは戦線を離脱し、サオリとヒヨリ、ミサキの三名はアツコ負傷によって不安定になった戒律更新の為に聖堂へと向かう。

 それを追撃するアズサ――其処にハナコ率いるトリニティ部隊が追いつき、衝突してしまう。

 

「……ハナコッ!」

「――アズサちゃん」

 

 ETOを交えたアリウス対トリニティの戦闘は苛烈を極め、アズサはハナコの戦う姿に苦悶の表情を浮かべるも、何としてもアリウスを止める為に喰らい付く。

 其処に遅れてトリニティから駆けて来たコハルが参戦する。戦闘――もとい、殺し合う両陣営を止めるべく声を張り上げるが、彼女の言葉に耳を傾ける者はなく、力ない声に力を貸す者もいない。

 

「やめ、やめてよッ! こんな事して、一体何になるの……っ!?」

「綺麗事ばかり、その力も無いと云うのに――ッ!」

 

 コハルの声に苛立つサオリ、奇跡を起こす事も叶わず戦闘は止まらない。

 先生不在の為ヒナは未だ再起不能、これによりゲヘナ風紀委員会は合流せず、正義実現委員会のトップ二名も不在。同時にアビドス対策委員会もトリニティ本校舎に留まっており、戦闘は決め手に欠けるまま膠着状態に陥る。

 そして地上で繰り広げられるそれらを前に、マエストロは件の存在が姿を見せない事に落胆を覚える。

 結局程なくして切り札であるヒエロニムスを起動させ、地下を突き破って怪物は地上へと顕現を果たす。

 

「あ、れは――」

「ッ……!?」

 

 巨大な怪物に圧倒されるトリニティ生徒達、ハナコは敵の切り札を前に勝算は低いと判断、先生の仇を前にして何たる様かと憎悪に呑まれかけるも、辛うじて残った理性が事の無謀さを訴えかける。苦渋の表情を浮かべながら撤退を決断。主力となる本隊を逃がし、自らが殿に残ると口にしコハル、アズサにトリニティへの撤退を進言する。

 

「二人共、トリニティ中央区まで撤退をッ! 此処は私と少数の生徒で何とか食い止めますから――……!」

「い、嫌っ! ぜ、絶対に、一人で残したり、し、しないからッ!」

「いいや、此処は私が残るッ! 生き残るだけなら私が適任だ! 二人は早く逃げるんだッ! 急げッ!」

「単独で勝てる相手ではありません、アズサちゃんッ! 部隊指揮を執れる私が残るのが、一番時間を稼げるのですから――!」

「やだぁッ! ハナコも、アズサもッ! 絶対に一人にしないからッ!」

「くッ――!」

 

 しかし各々は互いを残す事を頑なに拒み、三名は僅かな護衛のみを残し絶望的な決戦を強いられる事となる。

 そして残念ながら、奇跡を起こす存在は――この場に居らず。

 

 ■

 

「―――」

 

 コハルより遅れてトリニティを出発し、勇気を振り絞って戦場へと立ったヒフミ。

 彼女が目にするのは、全滅した補習授業部と、トリニティの殿部隊。

 

 聖堂は崩壊し、倒れ伏した生徒達の骸を前に呆然と立ち尽くす事しか出来ないヒフミ。アリウスの姿はどこにもなく、既に彼女達は別の区画に侵攻を開始したのだと分かる。

 曇天は厚く、光は見えず、ヒフミはふらふらと崩れ落ちた聖堂に近付くと、泥に塗れる事も厭わず瓦礫の隙間に腕を突っ込み、嘗て共に笑い合った仲間達を引っ張り出す。ヘイローが浮かぶ事は無く、ぐったりと動かない友人達。

 

「……コハルちゃん」

 

 銃身の折れ曲がったライフルを掴んだまま、苦悶の表情で丸まるコハル。帯の切れたバッグが傍に転がっており、中から数冊の教本と、丸っこい字が一杯に書き綴られた学習ノートが零れ落ちている。

 

「……ハナコちゃん」

 

 コハルを庇う様に抱き締め、長い髪が半ばバッサリ切り取られているハナコ。背中に酷い火傷痕が残り、白い制服が黒く煤けている。だというのに表情は眠っているように綺麗で、トレードマークの白いリボンがポケットから顔を覗かせる。

 

「……アズサちゃん」

 

 最後まで足掻いたアズサの周りには空の弾倉が幾つも転がっており、壁に寄り掛って項垂れるように力尽きていた。空いたもう片方の手は自身の胸元を掴んでおり、そこから補習授業部人形が垣間見えた。

 

 全員を崩壊した聖堂から引っ張り出し、丁寧に床の上へと並べたヒフミは暫し無言で佇み、それからゆっくりとその場に屈みこむ。ペロロを模した鞄を強く抱き締めながら俯いた彼女は、悲しい筈なのに涙が出なくて、ただ制御できない感情が胸の内で荒れ狂い、見開いた目をそのままにくしゃりと髪を握り締める。歯がカチカチと鳴って、全身に夥しい寒気が走った。

 

 ――私があの時、勇気を出せていれば。

 

「ぅ、ぁ――……ッ!」

 

 自己嫌悪、失望、恐怖、後悔、怒り、憎しみ――様々な感情が彼女の中で蠢いて、震えながら何度も何度も額を鞄に打ち付ける。何で、何で、何で、あの時私は、あの時の私は。コハルに、アズサに、ハナコに、手を伸ばす事が出来なかったのか。そう自分に云い聞かせ、詰り、責め、憎悪する。

 先生の時だってそうだった、なりふり構わず助けに行けば良かったのに。結局同じように自分は、何も出来ないって高を括って、またこんな風に。痛い位に頭を抱えて、ヒフミは友人達だったものの前で蹲り続けるのだ。

 

 ――その後、別動隊として動いていたミカが到着した頃には既に聖堂周辺は掃討されており、ハナコを含む複数名の生徒、そのヘイロー消失が公式に確認される。

 

 しかし、その場所にヒフミの姿はない。

 

 ■

 

「サオリ、失態ですよ? 彼女には傷一つ付けてはならないと、そう云った筈です」

「……申し訳ありません、マダム」

「ふぅ――余り時間を掛けては万が一もあり得ますか、漸く件の聖人を排除出来たと云うのに……あぁ、その件に関しては褒めて差し上げましょう」

 

 ヒエロニムスとユスティナ聖徒会を使いハナコ率いるトリニティ部隊を撃退したスクワッドは、攻略作戦を一時別動隊に任せアツコの容態確認を兼ねて自治区へと帰還していた。そこでベアトリーチェとの面会を許可されるが、絶望的な言葉を掛けられる。

 

「では――儀式は三日後に執り行いましょう」

「……は?」

 

 ベアトリーチェは元々約束など守るつもりなどなく、先生の排除、ETOの確保、その両方が成し遂げられた今――大事なロイヤルブラッドが手元に在る状態で、儀式を待つ気などなかった。

 何せ儀式を為せば、自身に比肩し得る存在など何処にも居ないのだから。

 故にサオリは愕然とした表情で問いかける。

 

「そ、んな、任務を果たせば、儀式は……アツコは、助けて頂けると、そう云って――!」

「そう云えば、そんな約束もしていましたねぇ」

 

 まるでどうでも良い事を思い出したかのように彼女は気怠げに、そして呆ける様に間延びした声で応じる。ベアトリーチェは手元の扇子を勢い良く閉じると、悪辣に歪んだ口元を隠す事無く告げた。

 

「――そんな筈ないでしょう、愚かで可愛い私のサオリ?」

「――………」

 

 サオリは此処にて、漸く自身が最初から謀られていたのだと理解する。しかし気付いた時には遅く、アツコはベアトリーチェの手中にあり、次の瞬間には周囲に聖徒会が出現し、一斉にサオリへと銃口を向けるのだ。

 

「さい、しょから――」

「聖人を排除し、ユスティナ聖徒会を手にした以上、スクワッドは既に不要なのです、貴女達は十分に役目を果たしてくれました……えぇ、お疲れさまでした、後はロイヤルブラッド(アツコ)を贄とし私は次の段階()へと至るだけ」

「最初から、約束を、守るつもりなんて――……!?」

「――処分しなさい」

 

 ベアトリーチェが指先を振り下ろし、一斉に銃声が鳴り響く。サオリのベアトリーチェに向けた叫びはそれらに掻き消され――一拍後には静寂が訪れる。

 

 ■

 

 先生の死亡を知った万魔殿はトリニティ自治区内で辛うじて戦闘を続けていた風紀委員会、近衛隊をゲヘナ中央区へと呼び戻し、ゲヘナ防衛に力を注ぐ。アビドス、ワカモ含む忍術研究部もまた失意に呑まれ、アビドスは立ち尽くし、ワカモは殺意のままにアリウスとの抗争に身を投じる事を決意する。

 ハナコが消えた後もミカは単独でトリニティを率い、ユスティナ聖徒会との戦争を継続。同時に正義実現委員会のツルギ、ハスミが意識を取り戻し先生の死亡を知る。

 双方は正義実現委員会を率いてトリニティ防衛に注力するも、戦況は劣勢のまま一日、二日と経過する。

 

 そして運命の三日目――キヴォトスの空が赤く染まり、儀式が開始される。

 

 その異変を感じ取りながらも、トリニティはどうする事も出来ずにユスティナ聖徒会との戦いを継続。そして一際強い力の波動、振動、空間の捻じれを感じ取ると同時に、儀式を完遂したベアトリーチェがトリニティ自治区へと君臨する。

 

 同時期、先生の意識が浮上――自身がどういった状況にあるのかを朧気ながら理解する。転がされていた寝台より這い出ると、辛うじて電源を残していたアロナの力を借りて四肢を補完、赤く染まった空を見上げ自身が間に合わなかった事を悟る。先生は自身の誤断を大いに責め、この結末に至った事を強く悔いる。

 しかし――それでも為さねばならないと、先生は最後の責任を果たす為に校外へと足を進める。

 

 ■

 

 ヒフミは補習授業部の皆を失ってから、覚束ない足取りで合宿所に帰還していた。皆で共に過ごした場所で延々と自身を責め続け、三日間ずっと蹲り続けていた。しかし空が赤く染まり、異変が起こった事を知りゆっくりと顔を上げる。そこで彼女のペロロ鞄にぶら下がった補習授業部の人形に視線を吸われ、「それでも諦める理由にはならない」というアズサの言葉を思い出す。

 居なくなってしまった大切な友人達の想い出を振り返り、ヒフミは緩慢な動作で立ち上がる。

 

「行か、ないと……」

 

 それが何故なのかはヒフミには分からない。ただ、漠然と皆と過ごしたこの場所が無くなってしまうのは嫌だった。自分一人が行った所でどうにもならないと知りつつも、ヒフミは銃器を手に合宿所を後にするのだった。

 

 ■

 

 ベアトリーチェは新しく手にした力を前に嬉々として暴虐の限りを尽くし、自身こそがこの世を統べる絶対者であると豪語する。逆らう生徒を殴打し、叩き潰し、抵抗の意思が無くなるまで、彼我の力の差を理解させる。さしものミカ、ハスミ、ツルギでさえも儀式を為したベアトリーチェの前では歯が立たず、憎悪と憤怒に塗れたまま力尽きてしまう。圧倒的な力、無尽蔵の兵力を前にトリニティが屈しようとした時――満身創痍の先生は現れる。

 

 ベアトリーチェは死んだはずの先生、その出現に大層驚き、しかし嘲るように手を広げ云った。

 

「まさか生きているとは思いませんでした、確実に命を奪ったとばかり――あの子(サオリ)もその様に報告していたのですが、全く、最期まで愚かな子でしたね」

「………」

「ですが、今更何をしに来たのですか先生? 既に儀式は完遂されました、私は色彩の力を得、貴方を凌駕する絶対的な力を手にした――ロイヤルブラッドとは斯くも素晴らしい、いつも子ども達は私達大人に素晴らしい贈り物をくれます」

「……ベアト、リーチェ」

 

 先生は朽ちかけの身体に鞭を打ち、ゆっくりと手を掲げる。そこに集まる光、それは先生が果たすべき最後の責任。ベアトリーチェはその光を忌々しく睨み付けながら告げる。

 

「成程、つまり貴方は……死にに来たのですね?」

「――責任を、果たしに来たんだよ」

 

 先生の持つ全ての力、大人のカード、その全力行使。

 悍ましいまでの光にベアトリーチェは目を細め、その光景は赤に染まったキヴォトスを一時的に青空へと戻す。光柱に気付いたヒフミは、その光に見覚えがあり、まさかという思いで必死に駆け出す。

 そして見つけた、崩れ落ちた校舎の前に立つ大人の背中。

 

「せん、せい――……?」

「――ヒフミ」

 

 先生は残った一本の腕を突き上げながら、ヒフミの存在に気付く。その表情は強い光の影となり、良く見えない。

 

「皆を、守れなくてごめん、最後まで、寄り添えなくて、ごめん」

「い、一体、何を――何を、して」

「――責任は」

 

 先生がゆっくりと振り返り、ヒフミを真剣な瞳で射貫く。

 

「私が負うからね」

 

 ■

 

 先生の大人のカード、その全力行使によって呼び出された生徒達。圧倒的な奇跡の力によってベアトリーチェは退けられる。

 しかし同時に先生も代償によって全てを失い、ヒフミの目の前で肉体を崩壊させる。何かを口にする余力すらなく、瞬く間に朽ちていく先生に向かって必死に手を伸ばすヒフミ。しかし指先が先生に届くより早く、その存在は消え去った。

 

 残されたのは血塗れのシャーレ腕章と、擦り切れたIDカード、電源の入らなくなったシッテムの箱――触れれば崩れてしまいそうな程、脆い大人のカード。

 

 ヒフミはその場に崩れ落ち、先生だったものを必死になって搔き集める。風で飛ばされないように腕で囲い、自身の身体で守る様に覆い被さって――そこまでやって初めて、自分は大切だったもの、あらゆる全てを失ったのだと理解し、大粒の涙を零して泣き叫ぶのだ。

 自分が大切に思っていた補習授業部はもう、何処にも存在しない。

 生きていたのだと喜ぶ暇さえなく、先生も消えてしまった。

 正真正銘の、ひとりぼっち。

 涙が先生の腕章を濡らし、震える指先が強く地面を引っ掻く。けれど幾ら悔いても、悲しんでも、失われたものは戻って来ない。

 ヒフミはこの日、平凡である自分を始めて腹の底から呪った。

 

 ■

 

補習授業部崩壊(ひとりぼっちのヒフミ)ルート】

 

 何かの切っ掛けで失敗してしまった世界線のヒフミ。ブルアカ宣言出来なかったら、多分こうなっちゃうよねというルートその一。

 先生がミサイルで死んでも同じ感じになる、というかその場合ベアトリーチェ大勝利ルート、けれど最終的にはプレナパテス先生に叩き潰されるのではないだろうか。

 このヒフミを大人のカードで呼び出すと、多分酷く自罰的な感情を抱く。生きている先生、未だ健在の補習授業部、いつか自分が手放してしまった未来の光景がそのまま目の前の世界には広がっていて。あぁ、これこそが自分に対する罰なのだと、あの時、あの瞬間、勇気を振り絞る事が出来た自分自身(この世界のヒフミ)に羨望と尊敬と憧憬の視線を向けるのだ。

 事情を知ったハナコとか滅茶苦茶自己嫌悪になって落ち込みそう。

 全部ミサイル撃ち込まれた程度で絶命する先生が悪いんですわよ。先生はね、手足が捥げようが、心臓ぶち抜かれようが、何だろうが血反吐撒き散らしながら生き残って生徒の為にもっと苦しまなくちゃいけないんですの。

 絶命する時は沢山の生徒に囲まれて、一杯の愛を感じながらおくたばりなさるんですわよ。

 



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レトロチック・ロマン⑤

誤字脱字報告に感謝ですわっ!


 

【第十五話】

 

「――来た」

 

 アリス襲撃より数時間、その間オペレータールームで待機を続けていたユウカは、防犯システムのアラートにて襲撃を察知する。即座に監視カメラの映像を回せば、モニタに映る二人組の姿が。場所はミレニアムタワー一番ゲート内部、ポイントA1――進行速度は周囲を警戒しているのか緩慢で、それでも程なくA2へと到達するだろう。

 

「一番ゲートから入り込んできましたか、B3とC3に設置した準備は空振りですね」

「まだ分からないわアカネ、別動隊が居るかもしれないし――カメラを回して、第二、第三ゲートに人影は?」

「……第二、第三ゲート、B1、C1共にそれらしい人影は何も」

 

 オペレーターの言葉に頷きを返すユウカ。アカネは床に置いていた巨大なトランクケースを持ち上げるとユウカに告げる。

 

「A3にまで踏み込めば此処から脱出は不可能でしょう――私が直接出ます、生徒会役員の方々はなるべく近付かないよう、勧告を」

「あら、アカネ自ら出るなんて、ゲーム開発部を大分高く買っているのね?」

「えぇ、勿論です」

 

 ユウカの意外そうな声に、彼女はスカートの裾を摘まみ上げながら優雅に一礼して見せた。

 

「お客様のお出迎えは、メイドとしての基本ですから」

 

 ■

 

 第一ゲートよりミレニアムタワー内部へと侵入した二人組は、暗闇の中を移動し続ける。そして内部の奥まで足を進めた二人は不意に足を止め、互いに端末を出して確認し合った。

 

「えーっと、この辺だっけ?」

「凄く奥の方まで来た感じですが、恐らくこの辺りですね!」

「じゃあ、後は――」

「させませんよ」

 

 何か動きを見せようとした二人に、唐突に掛かる声。二人が肩を跳ねさせながら素早く後退すれば、音もなく背後に立つメイド服の生徒。

 彼女――アカネは暗がりの中で辛うじて視認出来る二人の輪郭に向け微笑み、一礼して見せる。

 

「――こんばんは、良い夜ですね? お二人共」

 

 手にしたトランクを床に置き、対峙する人影。二人組は緊張した様子で無言を貫き、反対にアカネは朗らかな笑みさえ浮かべている。アカネは初対面である二人に向けて穏やかな口調で自己紹介を口にした。

 

「改めまして、私はC&Cコールサイン・ゼロスリー……本名は秘密ですので、謎の美少女メイドとでも」

「あ、アカネ先輩!」

「あの、特技が暗殺で有名なアカネ先輩、でしょうか?」

「……一応機密扱いのエージェントの筈なのですが、いつの間にそんな知られ方を? 正体を明かさない系ヒロインはもう時代遅れなのでしょうか?」

 

 予想に反した返答にアカネは困惑と落胆を滲ませる。

 

「知っているよ~、確かコタマ先輩情報によると、最近体重が――」

「――ま、待って下さい! その情報漏洩は流石に問題がありますよね!?」

 

 てっきり相手方は自身を知らないとばかり考えていたら、そんな事もなく余計な情報まで付いて来る始末。アカネは羞恥心に頬を赤く染めながら懐の拳銃、サイレントソリューションを抜き放ち叫ぶ。

 

「その情報に関しては永久に黙って頂きます……! さぁ、そろそろ姿を見せて頂きましょうか、モモイちゃん、ミドリちゃん!」

 

 暗がりで立ち竦む二人の影、それがゲーム開発部の二人組である事をアカネは知っている。少なくとも監視カメラで確認した映像では、二人の姿がハッキリと映っていた。

 

「ふふふ――」

「……?」

 

 しかし、アカネの発言に対して影は不敵な笑みを零すばかり。

 

「何を笑って……」

「まだ気付かれていない感じかな? 失敗しているのは、そっちの計画の方だよ」

「やはり偽装工作は完璧ですね! 変身君MK.3も良い仕事をしています!」

「偽装――」

 

 その一言に、アカネの胸に嫌な予感が過った。手にした愛銃のグリップを握り締めながらアカネは驚愕の声を漏らす。

 

「ま、まさかっ!?」

「その――まさかだよッ!」

 

 ハッとした表情でアカネが叫べば、二人の輪郭がぐにゃりと歪む。同時に暗がりで分かり辛かった二人の顔がハッキリと光に照らされ、マキとコトリの二人が姿を現した。モモイとミドリだと思っていた影は、彼女達が変装した姿であったのだ。してやったりと笑みを浮かべながら自身の名を呼ぶ二人、そしてアカネがセクションの内側に踏み込んでいる事を確認したマキは手元の端末を素早く操作する。

 

「タイミングは今、ですね!」

「防犯システム、起動!」

 

 電子音と共に、館内に鳴り響くアラーム。同時に金属同士が擦れるような音が響き、巨大な影が落ちて来る。

 

「――っ、これは、シャッターがっ!?」

 

 後方を塞ぐ様に降りる防壁、シャッター。それによりセクションが封鎖され、アカネ達三人は現セクションに閉じ込められてしまうのだった。

 

 ■

 

【第十六話】

 

『ユウカ、一体何が起きているのですか!?』

「わ、分からないわ! こっちの監視カメラでは今でも確かにモモイとミドリが映っているし、でもアカネ、貴女の姿が映っていなくて……!」

『私の姿が――? それは、まさか!』

「――カメラ設定を初期化して! クラウド接続を遮断、プライベート回線でもう一度繋ぎ直すのよ!」

 

 ユウカの指示によって即座に更新されるモニタ、一度途切れたそれは今度こそ正確にアカネとマキ、コトリの三名を映し出す。今まで見せられていたのは偽装映像、まさかこんな事を許す何てとユウカは臍を噛む。

 隔壁閉鎖で閉じ込められたアカネに対し、ユウカはマイク越しに叫んだ。

 

「アカネ、認証権限は与えている筈でしょう!? シャッターの解除は可能な筈だから自力で脱出を――」

『ッ、駄目です、認証が無効化されて……! 第二シャッターが降りてきます!』

「そんな……!?」

 

 アカネの認証は弾かれ、失敗判定となり更に強力な第二シャッターが区画を隔てる。ユウカは素早くフロアマップを開き、アカネに一番近い解除権限を持つ生徒役員を確認した。

 

「誰かアカネの救出を、確かノアが近くにいた筈だから向かわせて!」

「い、いえ、どうやら他の生徒会役員も全てセクション封鎖に巻き込まれ、認証が失敗していると……!」

「なっ……!?」

 

 ――まさか、セキュリティが乗っ取られた?

 

 ユウカの脳裏に過る最悪の予感。セクション全体が封鎖され、生徒会役員全員が各々解除に失敗して第二シャッターまで降りている。その事実にユウカは思わず息を呑み、そしてつい先程破壊されたエレベーターに視線を向けた。

 

「もしかして、最初からこれを狙ってアリスちゃんを……!?」

 

 アリスの単独行動、それにより破壊された指紋認証システム。取り換える為に敢えて普段とは異なる選択肢を取った筈だった――しかし、それすらも読まれていたとしたら。

 換装したミレニアムで開発されたという認証システムは、エンジニア部の息が掛かった作品であった。

 

「――やられた!」

 

 ユウカはこれが相手の作戦であった事を悟り、怒りと共に端末を握り締めた。

 

 ■

 

「さて、そろそろ偽装工作がバレた頃かな」

「分断は成功、って事でしょうか……?」

 

 一方その頃、別ルートよりミレニアムタワーへと侵入したゲーム開発部。本来であれば生徒会役員しか使用できないエレベーターを私用しフロアへ侵入、恐る恐る廊下へと顔を出す。遠目にシャッターが降りているのが確認出来、セクションは完全に区切られているのだと分かった。

 周囲を計画する先生の端末が震え、ヴェリタスより作戦成功の報告が届く。

 

「――連絡が来たよ、どうやら作戦は成功したみたいだ」

「って事は……」

「指紋認証システムは、正常に作動したって事だよね!?」

「うん、ヴェリタスとエンジニア部の皆が上手くやってくれたみたい」

「よ、良かった……!」

 

 その一言に安堵するユズ。取り敢えずこれによって分断作戦の第一段階は突破出来た事になる。先生はタブレットを抱えたまま皆の方を振り向き告げる。

 

「これで生徒会役員は隔離され、タワー内部を自由に動けるのは権限を持っている私達だけ――今の内に目的を達成しよう」

「りょーかいっ!」

 

 上書きした権限を利用し、シャッターを次々と突破するゲーム開発部。現生徒会役員のセキュリティ権限を剥奪し、ゲーム開発部と先生のみがセキュリティを解除出来る状況を作り上げた今、セミナー側はゲーム開発部の位置を特定出来ていない。自由に動ける今こそが鏡奪取のチャンスだった。

 

「っと、流石にガードの類はまだ生きているか」

「い、意外と多い……!」

「こっちは私達で対処します、先生、指揮を!」

「分かった、任せて――!」

 

 目的地へと急ぐゲーム開発部の前に、ユウカが予め配備していたガードロボットが出現する。モモイ、ミドリ、ユズの三名は身構え、先生の指揮によって強硬突破を敢行、廊下に銃声が轟くのであった。

 

 ■

 

【第十七話】

 

「ふふっ、流石に合金製とはレベルの違うシャッターだね、これを破るのはかなり骨だけれど……さて、どうしよっか?」

「現状の火力で突破するのはかなり困難でしょう! アカネ先輩、こうして仲良く閉じ込められたのも何かの縁ですし、楽しい相対性理論の講義でも――」

 

 モモイとミドリの代わりに囮となってアカネをセクションAへと閉じ込めたマキ、コトリの両名。二人は目の前に立ち塞がる二枚の障壁を前にしてあくまで自然体に振る舞う。こうなってしまえば脱出は難しい、ならばこのまま時間稼ぎに付き合って貰おうと語り掛ける二人に反し、アカネは耳元に装着したインカムに指を添えながら声を荒げる。

 

「此方コールサイン・ゼロスリー! A-11セクションにて閉じ込められました、コールサイン・ゼロワン、応答を……!」

【―――】

「オフライン状態……!? アスナ先輩、一体何処にいるんですか、もう! せめて電源位点けていて頂かないと……!」

 

 自身の窮地を仲間に知らせようと通信を飛ばすも、応答はない。と云うよりもこの様子だと恐らく取り決めていた地点で待機していない可能性すらある。いつもの事とは云え、その事実に焦燥感を覚えるアカネ。

 

『――安心して、アカネ』

「っ、カリン?」

 

 アスナの代わりに、同じC&C所属のカリンが応答する。マイク越しに聞こえる微かな風切り音、そして焦りを見せるアカネと反対に、何処までも淡々と冷静な声色で彼女は告げた。

 

『ゲーム開発部は、既に私の射程範囲内だ』

 

 ■

 

「……っし! この辺りのガードはこれで全部だね!」

「数は多いけれど、先生の指揮と戦闘支援もあるし、全然余裕」

「あ、あとセクションを四つ移動すれば、目的地に到着するから――」

 

 道中のガードロボットを薙ぎ倒し、順調にセクション間を移動するゲーム開発部。丁度四つ目のセクションを攻略し、特にこれと云った問題も発生していない為、ゲーム開発部の面々には余裕の色が垣間見えた。

 そんなこんなで廊下を駆け抜ける四名、窓一杯に広がるミレニアムの夜景――その中できらりと何が一瞬光る。

 

『――先生!』

「ッ!?」

 

 アロナの声が耳に届き、それが危険を知らせる声だと瞬時に判断。

 咄嗟に先生は叫ぶ。

 

「三人共、頭を下げろッ!」

「えっ――」

 

 先頭を駆けていたモモイが振り向き、同時に凄まじい何かが彼女の頭上を通り過ぎる。窓硝子を粉砕し、直ぐ脇の壁を破壊して粉塵を撒き散らした弾丸は、そのまま数枚先の壁まで貫通していた。散らばった壁の残骸が地面に散乱し、破片が肌を殴打する。

 

「おわぁあッ!?」

「お、お姉ちゃん!」

「も、モモイっ!?」

 

 攻撃の余波で地面を転がったモモイは額を抑えながら這い蹲り、冷汗と共に目を瞬かせる。ミドリは転がったモモイを引っ張り上げ、慌てて近場の遮蔽へと引き摺って行った。ユズは先生の傍に付くと、そのまま攻撃の飛来した方向を警戒する。

 

「よ、良かった、お姉ちゃんの背が後五センチ高かったら、おでこに直撃だったよ……」

「ヒューッ! 小さくて良かった……じゃないよ!? というか、私の髪の毛無くなってないよね!?」

「大丈夫、あと少し横にズレていたらヘッドホンに当たっていたと思うけれど」

「あっぶな!? これすっごく高かったんだからねっ!?」

 

 自身の頭と猫耳型ヘッドホンをぺたぺたと触りながら叫ぶモモイ。地面に転がった愛銃を慌てて回収しながら、罅割れた窓硝子越しに夜のミレニアムを涙目で睨み付ける。しかし、肝心の狙撃手の姿は何処にも見えなかった。

 

「今の狙撃だよね……? どんな威力の弾丸を使っているのさ、壁が吹っ飛んじゃっているし……っ!」

「た、対物狙撃用の49mm弾かな……流石にこれを受けたら、私達でも一発で意識が飛んじゃうと思う……!」

 

 穴の開いた壁を戦々恐々とした表情で見つめるモモイ。ユズは被害の大きさから飛来した弾頭の正確な種類を見抜く。先生はタブレットを注視するが、索敵出来る範囲内に反応は存在しない。自分達の探知出来る範囲外からの狙撃――夜景の明かりに潜む人影を探しながら、彼女の名を呟く。

 

「この狙撃、カリンか――!」

 

 C&C所属、コールサイン・ゼロツー――彼女の扱う愛銃、ホークアイは正確無比な狙撃と、強固な装甲をも撃ち抜く火力を併せ持つ。百メートル以内に限った話であれば殆ど必中、そして20mmのRHA(均質圧延装甲)をも貫通可能。例えセミナーのフロアが対爆・防弾仕様で固められていようと安心は出来ない。そうでないのなら尚更、彼女相手に足を止めるのは論外。

 床を這う様にして身を隠すゲーム開発部に向けて、先生は行動を促す。

 

「直接体は見えないよう気を付けながら、壁越しに移動しよう……! このまま此処に留まるのは危険だ、壁ごと撃ち抜かれてしまう」

「えっ、で、でも、下手に動くと危ないんじゃ――」

「彼女相手には足を止める方が不味い、予測線と危険域は視界に表示するから、慎重に動けば大丈夫……!」

「わ、分かった、先生を信じるよっ!」

 

 先生の言葉に身を潜めていたゲーム開発部は再び動き出し、窓側ではなく部屋から部屋を通る形で動きを悟らせないルートを取る。駆けながら先生はハレと通信を繋ぐ。

 

『先生、気を付けて、C&Cの攻撃支援が始まったみたい』

「そうだね、絶賛味わっている最中だよ……!」

『向こうもプロだし、無いとは思うけれど先生に直撃したら――』

「流石に、それは考えたくないね――大丈夫、カリンの腕前なら誤射なんてしないさ」

 


 

 誤射させてぇですわ~ッ! おミンチでしてよ~!

 

 そんな事より一年前の私はどうやって毎日投稿で一万字近く投稿していたのでしょうか。

 しかもダイジェスト版でもないのに、頭イカれてんじゃねぇですの?

 これ一ヶ月とか正気の沙汰じゃねぇですわ、今の私だと一、二週間が限界でしてよ。



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レトロチック・ロマン⑥

誤字脱字報告、マジで助かっておりますわ!
今回約八千四百字ですの!


 

【第十八話】

 

「――一発で仕留めたかったけれど、五センチ上にズレたか」

 

 コッキングを行い、次弾を薬室に送り込みながら呟くカリン。夜の屋上、ミレニアムタワーを一望出来るその場所で愛銃を構えた彼女は、第一射が外れた事に溜息を零す。

 今しがた狙いを定めた対象は自分が予想していたよりも幾分か小柄で素早い。レンズ越しに目視出来る標的は三人、ゲーム開発部のモモイ、ミドリ、ユズ――勿論、先生は最初から除外してある。彼に銃口を向けるなど論外。

 

「ん……?」

 

 一発目の狙撃で一斉に物陰へと身を隠したゲーム開発部であったが、程なくして動き出すのが分かった。窓側を嫌って室内へと駆け込む姿、咄嗟に引き金を絞り銃撃、マズルフラッシュが網膜を焼き弾丸は駆け出したモモイの背中に直進したが――まるで狙われている事を分かっているかのように、彼女は着弾地点より身を反らし回避する。弾丸は奥の壁に突き刺さり、彼女達の背中は閉じられた扉の向こうへと消える。

 

「今のを避けるか……あれは、先生の戦闘支援があるな」

 

 確実に直撃を狙えるコースだった。しかし殆ど予知染みた回避を見せたモモイに、先生の戦闘支援が働いている事をカリンは確信する。視界内に危険域、飛来する弾丸の予測線、敵の位置情報等が一斉に表示されるそれらは驚異的なアドバンテージを使用者に齎す。

 尤も狙撃の場合はどうなるか、いまいち確証は持てなかったが――この距離ならば効果範囲内である様だ。

 

「全体的に動きが変わった、これも先生の指示かな? 壁や遮蔽に身を隠せば安全、何て先生が考える筈は無いと思うけれど――もしかして夜に動いたのは私対策?」

 

 先生が敵方に付いているのだ、C&Cが動くと分かっている以上、狙撃手である自分が出て来るという予測は出来た筈。そう考えればある程度対策も練っているだろう。

 本来であれば此処で釘付けにし時間を稼ぐつもりであったが、大胆にもゲーム開発部は足を止める様子がない。彼女達の動きを予測しながらカリンは薄らと笑みを浮かべる。室内で姿が見えなければ狙撃されないというのは、少々早とちりだろう。C&Cの狙撃手として、夜間だろうが壁越しに撃ち抜くだけの技量はある。

 再度コッキングする金属音が夜の中に響いた。

 

「ふふっ、先生――悪いけれど、暗闇の中でさえ私の狙撃は正確だ」

 

 呟き、今しがた逃げ込んだ部屋の壁に照準を合わせる。

 目的地が分かっている以上、進行ルートは凡そ予想出来る。等間隔で弾を撃ち込み反応を見るか、万が一にも先生に着弾しないよう慎重になる必要はあるが、追い詰められているのはゲーム開発部の方だ。

 この状況からいつまで逃げ続けられるか――。

 

「さて、それはどうかな」

「――!?」

 

 唐突に聞こえた自身以外の声――その事に驚愕を露にするカリン。慌てて振り返れば、何者かが屋上の縁に立っていた。続いて聞こえる空転音、それが重火器のスピンアップであると理解した瞬間、カリンは横合いへと身を投げる。

 次の瞬間放たれる弾丸の雨、屋上の一角を削り取るそれに戦慄しながらカリンは人影に向かって叫ぶ。

 

「どうやって此処に!? 屋上に通じる階段とエレベーターには細工を――ッ!」

「何、簡単な事だ、外周の壁を登って来たんだよ――この子と一緒にね」

 

 狙撃手として敵の接近には十二分に注意を払っていた。だというのに目の前の存在は階段もエレベーターも用いず、垂直に壁を登って屋上に辿り着いたと云う。カリンの前に足を進めた人影――ウタハは薄らとした笑みを浮かべながら胸を張る。

 

「エンジニア部……!」

「ふふっ、紹介しよう、エンジニア部の力作、全ての天候に対応可能な上、垂直の壁すら歩いて登る二足歩行型戦闘用椅子、『雷の玉座』――通称、雷ちゃんだ」

「……は?」

 

 彼女の紹介と共に、テコテコと音がしそうな程軽やかに前進する――砲台付きの椅子。ご丁寧に上部には搭乗者を固定する用のベルトすら垣間見え、カリンは暫しの間言葉を失う。その理由は単純に、何故椅子を歩かせているのか理解出来なかったからだ。

 その反応から凡そ何を考えているのか理解したのだろう、ウタハは酷く残念そうに肩を竦める。

 

「ふむ、この雷ちゃんの魅力を理解して貰えないとは、大変残念だ……先生は満面の笑みで褒めてくれたと云うのに」

「……作品について理解は出来ないが、凡そ把握は出来た」

 

 彼女の持ち込んだ兵器云々に関しては兎も角、カリンが疑念に思っていた事の一つがこの場で氷解する。

 

「――ゲーム開発部単独でミレニアム生徒会、セミナーのセキュリティを突破する事は考え辛い、先生の手によるものかとも疑ったけれど、エンジニア部が出てくるのなら答えは明白だ」

「おや、もしかして私達の協力を見越していたのかい?」

「可能性としては、考えていた」

 

 こうなるとヒマリが齎したという情報も、自分達を混乱させる為の罠だったのか、疑わしいものだ。

 答えながらカリンはゆっくりと立ち上がる。愛銃を抱えながら脱力する彼女からは、いっそ不自然なほど攻撃の意志が見えない。

 

「けれど――ッ!」

「むっ!?」

 

 しかし、それは彼女なりのフェイントである。

 下げていた銃口を即座に構え、前傾姿勢からの速射。強烈な反動を驚異的な筋力で抑え込み、強烈なマズルフラッシュが二人を照らす。放たれた弾丸は真っ直ぐウタハの隣に立つ雷の玉座へと突き刺さった。甲高い破砕音と共に火花が散り、ぐらりと傾いた巨躯が後方へと転がり倒れる。重々しい音と共にひっくり返った雷の玉座は、そのまま起き上がろうと足を何度も回転させ続けた。

 その結果を見届け、カリンは鼻を鳴らしながら素早くコッキングを行う。

 

「――私の弾頭で貫通を許さないとは、随分と頑丈な装甲を使っている……転んだ拍子に足をバタバタさせているのは、何とも奇妙だけれど」

「むぅ、これもこれでチャームポイントではあるのだけれど、しかし参ったな、一発で横転してしまうとは、重心制御が甘かったか、それとも静歩行の方かな? 弾丸の着弾に合わせて加速度センサーがきちんと検知したか後できちんと確認しないとだね、通常のライフル程度なら実際に強度実験で試したけれど、対物ライフルまでは想定していなかった、これは私の失態だな」

「はぁ……そもそも、私を本気で止めるつもりならば奇襲を仕掛けるべきだった、如何に狙撃手相手とは云え正面戦闘なんて――」

 

 倒れ伏した雷の玉座を前に改善案を脳裏に浮かべるウタハ。そんな根っからの技術屋の彼女に対し、カリンは若干の呆れを含みながら告げる。

 

「それは計算ミスだろう、ウタハ」

「いいや、計算通りさ」

 

 しかし、ウタハは余裕の笑みを崩さなかった。

 虚勢だとカリンは断じた。

 再び銃口をウタハへと突きつけながら重ねて問いかける。

 

「こんな開けた場所で、私と正面からぶつかる事が?」

「そうさ、こんな開けた場所――屋根すらない此処で、戦う事が、だ」

 

 何処までも飄々とした態度、それにカリンが不気味なものを感じ始めた頃。不意に風切り音が聞こえた。ハッと彼女が頭上を仰げば、星々の中を切り裂き飛来する影。咄嗟に身を逸らせば、直ぐ傍に着弾する砲弾。爆発は彼女の衣服を靡かせ、熱波が肌を焼いた。地面を転がり愛銃を抱えるカリン、広い屋上で良かったと内心で叫ぶ。そうでなければ爆風で吹き飛ばされ屋上から落下していた。

 立ち上る砂塵、飛び散る破片を払いながら叫ぶ。

 

「ッ、砲撃、何処から――!?」

「ミレニアムタワーの反対側からさ、うちには優秀な砲撃手がいるからね」

「……曲射砲かッ!?」

 

 夜間、それもたった一人を相手に此処までするかとカリンは驚愕する。ウタハは爆発で体勢を崩したカリンを前に、ゆっくりと腕を掲げた。

 

「さて、では始めよう――雷ちゃんMK-Ⅱ、駆動開始だ」

 

 ウタハの合図と共に現れるのは複数のドローン――赤と緑のランプを点灯させ出現したそれらは、下部に何か奇妙な物体を吊り下げていた。よく見ればそれは先程倒れた雷の玉座、それの小型バージョンとも云うべき代物。ドローンによって屋上へと投下されたそれらは、通常の雷の玉座、その三分の一程度の大きさで駆動を開始する。

 ウタハは足元で蠢く小型版雷の玉座を見下ろしながら、薄らと笑みを浮かべていた。

 

「これは元々先生……その身辺警護用に開発した子達でね、雷ちゃんを更に小型化してあらゆる場所、状況に対応できるよう改良したものだ、火力と継戦能力はかなり低下してしまったけれど頑丈さは折り紙付きだよ」

 

 投下されたミニ雷の玉座は凡そ五台、それらが一斉に銃口をカリンに向け前進を開始する。愛銃を構え直し対峙するも、再び耳に届く風切り音。

 頭上から自分を狙った砲撃が来る。カリンはウタハの狙いを理解し、思わず舌打ちを零した。正面には複数の火砲、頭上からは砲撃の雨。

 

「正確に降り注ぐ砲弾を回避しながら、私達(雷の玉座)を相手取る事が出来るかな? 勿論、砲撃でこのビルが崩れても私達の勝ちだよ――さて、C&Cの底力、見せて貰おう」

「くッ――!」

 

 ■

 

「さ、三発目が来ない……?」

「姿が見えなくなったから、出方を伺っているのかも……」

 

 窓辺を避け、部屋を通って中央通路へと飛び出したゲーム開発部は、追撃が来ない事に疑問の声を上げる。あの大口径であれば壁ごと貫通させて来る事も可能である筈だが、予想に反して第三射が放たれる事は無かった。代わりに先生の端末が振動し、先生はエンジニア部がカリンを捉えた事を知る。

 

「ウタハとヒビキがカリンを捉えたらしい、今カリンは狙撃するだけの余裕が無い、今の内に進もう……!」

「流石、もう狙撃スポットを見つけたんだ……!」

「よ、良し! 今の内に一気に進むよミドリ! ユズ!」

「う、うん!」

 

 自分達を狙う銃口はもうない、そうなれば慎重に進む必要もなく、モモイ達は一直線に差押品保管所へと駆け出す。残りのシャッターを解除し、最後の一枚を目視した瞬間――彼女達の足元に強烈な振動と爆音が届く。

 

「ちょ、うわッ!? 今度は何!?」

「せ、先生!」

「っ、大丈夫……!」

 

 かなり大きな揺れにより思わず床へと這い蹲る面々。ユズが先生を庇う様に覆い被さり、忙しなく周囲を見渡す。

 

「今の何、ば、爆発!?」

「一体、何処から……」

「結構近かったと思う、た、多分だけれど、下の階かも……」

「下って、まさか――」

 

 ■

 

【第十九話】

 

「くぅ、講義はまだ、終わって……!?」

「ひーっ! し、死ぬかと思った!」

 

 同時刻――ゲーム開発部階下、セクションA11にて。

 強烈な爆発に巻き込まれたマキとコトリは煤けた制服をそのままに尻餅をつく。先の爆発はセクション内に閉じ込められたアカネが爆薬を用いて、強引にシャッターを爆破した際に生じたものであった。マキは漂う白煙を手で払いながら冷汗を滲ませ叫ぶ。

 

「一体そんな大量の爆弾、何処に隠していたのさ……!?」

「出来るメイドの嗜みです、本来であれば余り学校の設備を破壊したくは無いのですが――やむを得ません」

 

 そう云ってアカネは大量の爆発物が詰められた長方形のトランクケースを勢い良く閉じる。彼女のC&C制服――メイド服には様々な武装が秘密裏に仕込まれているが、それは咄嗟の対応が可能な様に常備している通常兵装に過ぎない。

 彼女の真骨頂は『掃除』、爆薬を用いた一切合切の掃討、それこそがアカネの本領である。そして愛銃とは別の、常に持ち歩く長方形の大きなケースこそが彼女の仕事道具が収められた代物であった。

 

「ユウカ、申し訳ありませんがシャッターは強引に爆破しました、このまま対象の追跡に移行します、ゲーム開発部の現在位置は?」

『さっきまでカリンが捕捉していたけれど、どうやらエンジニア部と交戦になったみたい、正確な位置はロスト――でもガードロボットの反応消失地点から、最後に確認された位置を割り出せるわ、今送信する』

「ありがとうございます、しかしどの様なルートを選ぶにしろ、恐らく最終目標は――」

『差押品保管所ね』

 

 二人の声が合わさり、頷き合う。アカネとユウカの認識は一致していた。彼女達が最終的に目立つ場所は差押品保管所、鏡が其処に保管されている以上選択肢はない。アカネはケースを手に取ると靴音を鳴らしながら抉れ、爆破されたシャッターを潜る。

 

「エレベーターで現地に急行します、準備を……」

 

 そこまで口にして、周囲の明かりが一斉に落ちた。唐突なそれに面食らうアカネ。

 

「停電!?」

『一体何が――……』

「っ、ユウカ、ユウカ!?」

 

 同時に通信状態の悪化、ノイズが走りユウカの声が途切れる。それによりアカネはこの停電が意図的に引き起こされたものだと悟った。ユウカ以外の面々、C&Cの仲間へと通信を試みるも耳元から響くのはノイズばかり。

 

 ――通信妨害に停電、何て大規模な。

 

「くっ、まさかここまでするとは……!」

 

 ■

 

「あっ、電力が――」

 

 セミナーフロア――反省部屋。

 ミレニアムの中でも一等強固なセキュリティと防壁、隔離扉を持つその場所は最低限の生活環境のみが整えられた綺麗な監獄と云って良い。

 そんな部屋の片隅で座り込み、只管待機を続けていたアリスは不意に部屋の明かりが落ちた事に気付いた。視界を暗視モードへと切り替え、周囲をゆっくりと見渡すアリス。そして事前に皆と話し合った計画の内容を反芻する。

 

「このイベントが発生したという事は……」

 

 呟き、アリスは懐に手を差し込んで小さなメダルの様な電子機器を取り出す。何を隠そう、それこそがヴェリタスに持たされていた小型EMPである。アリスは軽い足取りで部屋を封鎖する巨大な隔離扉へと近付くと、扉脇にある操作盤へと件のEMPを貼り付けボタンを押し込む。

 するとピッ、という短い電子音と共に青白い光が周囲に弾け、続いてガコンという音が隔離扉より鳴り響いた。アリスが恐る恐る扉に手を掛ければ、ゆっくりと開く隔離扉。EMPにより開錠されたのだ。

 

「EMP作動、把握しました――アリス、脱出します!」

 

 自身を遮るものがなくなったと理解したアリスは、そのまま扉を押し開けて外へと脱出を果たす。反省部屋の傍には生徒から押収した銃器や弾倉の類を保管する小部屋が並んでおり、アリスの光の剣(スーパーノヴァ)もまたその一つの小部屋に放り込まれ、無造作に床へと安置されていた。

 どうやら重量が重量なだけに、ラックなどに立て掛けるのは危険と判断された様だ。

 アリスはそれを軽々しく持ち上げると、帯を肩に掛け背負い直す。その際、きちんと充電残量を確認し砲撃が可能な回数を把握しておく。単独で突撃した際は敢えて攻撃を控え、殆ど一割未満の出力でしか砲撃を行わなかった。

 その為充電残量は十分――フルパワーで砲撃しても、三回は撃ち込める。

 

「此処からの、アリスのクエストは――」

 

 牢獄(反省部屋)からの脱出、勇者の剣(光の剣)回収、此処までは予定通り。

 そしてその次に自分が為すべき事を考え、アリスは暗闇の中を駆け出した。

 

 ■

 

「電力が落ちた、って事は――!」

「う、ウタハ先輩達の仕組んだプログラムが上手く作動してくれたみたい」

「でも、さっきの爆発は一体?」

「分からない、少なくとも良い予感はしないね――今は、兎に角先を急ごう」

「わ、分かった……!」

 

 爆発が起きたと思った瞬間、間を置かずして訪れた暗闇。停電したセクションは非常灯へと切り替わり、薄らとした灯が廊下と天井を照らすのみ。その淡い光に導かれながらゲーム開発部は最後のシャッター、その前へと辿り着く。

 

「こ、此処を抜ければ、あと一つのセクションで目標地点……!」

 

 ユズが上擦った声で呟き、モモイは興奮気味に指紋認証システムへと指先を翳す。しかし、それより早くシャッターは独りでに開き、上部へと引き上げて行った。

 

『先生、EMPが上手く作動した、ネットワークは一時的にヴェリタスが掌握したよ』

「ハレ……!」

『でも電力復旧を遅らせるのにも限界がある、鏡を入手したら即座に撤退して、非常電源を使ったシャッターの開閉とエレベーターの作動はこっちでやるから』

「さっすが、頼りになる!」

「あ、ありがとうございます……!」

 

 ハレからの連絡に歓声を上げるゲーム開発部。これで障害は何一つなくなった、後は目的地である差押品保管所から鏡を回収し脱出するのみ。最後の隔壁を抜け、差押品保管所のあるフロアへと踏み込む四人。

 

「この先が、差押品――……!」

「――お、やっと来たね!」

 

 しかし、その目的地へと続く廊下に立ち塞がる人影があった。

 非常灯に照らされた彼女は長い髪を靡かせながら愛銃のサプライズパーティーを脇に挟む。そしてゲーム開発部の前に立つと、屈託のない笑みを浮かべながらひらひらと手を振って見せた。

 

「遅かったね~、ずっと待っていたんだよ?」

「えっ、だ、誰……!?」

「あの制服、なんでこんな場所にC&Cが――!」

 

 彼女の身に纏う特徴的なメイド服に、ゲーム開発部の面々はその人物がC&Cである事を察する。ゆっくりと足を進めた彼女は光の当たる場所まで顔を覗かせると、にっと笑みを深めながら口を開いた。皆の前に彼女の顔が晒される。

 

「ようこそゲーム開発部の皆! それにご主人様っ!」

「――アスナ」

 

 差押品保管所の前に単独で待機していたのはC&C所属、コールサイン・ゼロワン――アスナ。

 彼女は先生を見つけると花が咲いた様に笑い、今にも飛び込んできそうな様子で前傾姿勢を取り体を揺すり始める。

 

「もー、最近会えてなかったからずっと会いたかったんだよ~? 最近は先生も忙しいって知っているけれどさ!」

「あ、アスナ先輩、どうして此処に……っ!?」

 

 ミドリが愕然とした様子で呟く。差押品保管所が最終目的地だとして、其処に至るまでのルートで網を張るのなら分かる。しかし彼女はセクションの隔壁閉鎖、そして停電前から此処で待機していたのだろう。そうでなければ封鎖が完了した今、この場所に立っている筈がない。シャッターを強引に爆破して此処に来た? いいや、そんな音も振動も全く感じなかった。

 ゲーム開発部が必ず此処に辿り着くと、そう確信していなければ出来ない行動だ。

 

 ミドリからの問い掛けに顎先へと指先を添わせたアスナは、どこか飄々とした態度で答える。

 

「どうしてって、ん~……何となく?」

「何で何となくで最善を引き当てられるのさ!?」

「予感とか直感とか、そういうのってあるじゃない? 此処で待っていたら先生に会えそうな気がして、ずっと待っていたの!」

「なにそれ、つまり先生のせいじゃん!」

「えっ、私?」

「ち、違うと思うけれど……」

 

 モモイの責任転嫁とも云える声に困惑するユズ。しかし、強ち間違った言葉でもないと先生は内心で零した。元よりアスナの隔離、攪乱はユズが担当する筈であったのだ。

 アカネにはマキとコトリ。

 カリンにはウタハとヒビキ。

 そしてアスナにはユズを。

 しかし、アスナの驚異的な直感を知る先生は敢えて彼女をマークしないという選択肢を彼女達に提示したのである。

 

 果たして、その選択は正しかったのか、間違っていたのか――アスナはこうしてゲーム開発部の前に立ち塞がった。マークしていたとしても直感で躱されたかもしれないし、上手く騙されてくれたかもしれない。それはアスナにしか分からない。

 

「よーしっ! それじゃあ、始めよっか!」

「えっ、始める……?」

「始めるって、一体……何を?」

「何って――戦闘っ! 私、戦うのが大好きだから!」

 

 恐る恐る問いかけるモモイとミドリ。いっそ清々しいまでに素直な彼女は、腕の中に抱えた銃を掲げながら叫ぶ。その言葉にゲーム開発部の面々はさっと顔色を青くし、反射的に身構えた。

 

「あっ、ご主人様には絶対当てないようにするから安心してね! でも念の為、後ろの遮蔽に隠れてくれると嬉しいなっ!」

「………」

 

 何て事ないとばかりに告げるアスナ、先生は視線で周囲を探り脇に支柱が在る事を確認する。ゲーム開発部の三人は顔を見合わせると、先生に向けておずおずと進言した。

 

「先生、ここは一応云われた通りにした方が良いかも……」

「アスナ先輩相手だと、多分三人掛かりでも、勝てると断言は……」

「い、一応、頑張っては、みますから……!」

「――分かった、戦闘支援は任せて」

 

 何処となく自信なさげな三人に、先生は力強く頷いて見せる。相手はC&Cの実質ナンバー2、リーダーであるネルと同じ三年生である彼女は驚異的な戦闘能力を秘めている。只ですら手強いC&Cの中でも更に強敵、自然と体も強張るというもの。

 先生はシッテムの箱を操作しモモイ、ミドリ、ユズの三名とリンクする。それを確認したアスナは破顔し、二度、三度ステップを踏みながら――ゲーム開発部に向け勢い良く飛び出すのだった。

 

「準備オッケー? なら――コールサイン・ゼロワン、アスナ! いっくよーッ!」

 



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レトロチック・ロマン⑦

誤字脱字報告、感謝致しますわ!
今日は七千五百字ですの。


【第二十話】

 

「あはははっ! ほらほら、もっと派手にやろうよ!」

「あだっ、いだっ、あひッ!?」

 

 縦横無尽に走り回るアスナの影に、ゲーム開発部の面々は翻弄される。彼女は兎に角足を止めない、遮蔽に隠れたとしてもそれはリロードの行う間の数秒のみで、常に的を絞らせず地面を蹴り、壁を跳ね、天井スレスレを飛び回る。その姿はまるで兎か飛蝗か、だと云うのに放たれる弾丸は悉く目標に命中し、特に前衛を張っていたモモイに降り注ぐ。

 弾丸の飛来する予測線は見えているのだ。しかし避けたと思った先にまた弾丸が置いてある――それが彼女の狙い通りなのか、それとも偶然なのか。モモイは自身の肌を強かに叩く弾丸に悲鳴を上げながら遮蔽に転がり込む。

 

「お、お姉ちゃん!」

「も、モモイ、下がって!」

 

 集中砲火を浴びるモモイを援護すべく、引き金を絞るミドリ。銃口が火を噴き、弾丸は駆けるアスナに向かって伸びる。しかし着弾の瞬間、まるで来るのが分かっていたとばかりに身を反らすアスナ。長髪を掠めた弾丸は背後の壁に突き刺さり、弾痕を刻んだ。自身の背後に着弾した弾丸を一瞥し、アスナは笑みを深くする。

 

「あはっ、惜しかったね!」

「な、何で、弾が全然当たらない……! こっちには先生のサポートだってあるのに――!」

 

 スコープを覗き、アスナの駆ける軌道を予測しながら丁寧に、正確に発砲を繰り返す。しかし笑みを零しながら駆け回る彼女に直撃する事はなく、悉く回避を許す。彼女の動き、その予測は視界に表示されている、その通りにも動いている――しかし着弾の瞬間、唐突に足を止める、上体を逸らす、飛び上がるなどして回避する。

 

 ――何なんだその超人的な危機への嗅覚は、ミドリは思わず悪態を吐きたくなった。

 

「これはお返しだよ――ッ!」

 

 壁を蹴り、空中で逆さになったアスナが銃口をミドリへと向ける。瞬間ミドリはハッとした表情を浮かべ、即座に横合いへと身を投げた。

 

「おっ?」

 

 良い反応だ、アスナは内心で零す。彼女が発砲する頃にはミドリの身体は回避を完了し、弾丸は床を穿つのみに留まる。

 

「モモイッ!」

「――っ!」

 

 先生が叫び、モモイが即座に応えた。着地の瞬間、遮蔽に身を潜めていたモモイが飛び出し、愛銃を腰だめに構える。

 アスナは彼女が着地を狙っていたのだと分かった。恐らく先生の判断だろう。

 

 ――思っていたよりも、全然悪くない。

 

 勿論、C&C基準からすれば戦闘能力は高いとは云えない。射撃技術や身体能力、体捌き云々などは一般的か、それより少し優れている程度。ただチームとしての動きは及第点、先生の支援もあるのだろうけれど一瞬ひやりとする場面が幾つもあった。

 

「いいねっ! 何だか良い感じっ!」

「ちょッ――!?」

 

 着地、同時に加えられるモモイの射撃。

 アスナが接地した瞬間に放たれた弾丸は、しかしアスナの頭上を掠めるのみ。彼女は接地の瞬間に体を倒し、そのままスライディングするように床を滑ったのだ。上体を狙った複数の弾丸は彼女の髪と肩を掠めるに留まり、お返しとばかりにアスナの銃口が火を噴く。予想外の反撃と回避に慌てて再び遮蔽に身を隠すモモイ、隠れた支柱の隅が削り取られて行く。

 だが、其処に走り込む影があった。

 

「速いけれど、範囲攻撃なら――ッ! レトロよ、永遠であれっ!」

「んっ?」

 

 床を転がり、体勢を整えたアスナが駆け込んで来たユズに気付く。彼女はアスナからやや遠い位置より愛銃を構えると、そのまま引き金を絞った。

 ポン、という空気が抜ける様な音と共に放たれる影、アスナはその音に目を見開く。

 

 ――グレネードランチャー

 

 ユズの放ったソレが即座に爆発を伴うものだと理解したアスナは、一瞬その表情を真剣なモノに切り替え――敢えて体を前に倒し、加速した。

 

「えっ――!?」

 

 その行動に面食らうユズ。彼女が狙ったのはアスナの手前、つまりこのまま進めば直撃コース。しかしアスナはその驚異的な直感により、凡その着弾地点を感じ取り、そのまま飛び越える様にして地面を蹴る。

 瞬間、着弾と爆発。

 

「ひゃっほ~ッ!」

 

 アスナの背中で爆発した炎が周囲の暗闇を吹き飛ばす。同時に爆風が彼女の背中を押し、アスナは勢いをつけ一気に距離を詰めて来た。

 

「ば、爆風で加速ッ……!?」

「なにその出鱈目っ!?」

 

 想定外の行動に面食らうゲーム開発部。相手の攻撃、爆発を利用して勢いをつけるなんて、仮に思いついても実行しようなんて思わないだろう。だが、だからこそ相手の盲点を突ける。驚愕は硬直と意識の停止を生み出す。

 しかし後方に佇む先生だけは取り乱す事無く、冷静に戦局を見据えていた。

 

「――モモイッ! もう一度!」

 

 臆せず懐に飛び込む判断、ゲーム開発部に白兵戦を行える生徒は存在しない。距離を詰めて一気に制圧するというアスナの判断は、決して間違いなどではない。

 しかし。

 

「っ、お願いだからどれかは当たってよ~ッ!」

 

 視界に表示される先生の指示、同時に声を受けたモモイは反射的に銃を構え乱射した。まるで広範囲を薙ぎ払う様な一撃、狙いも大雑把で数を撃てば当たるを体現したような行動だった。

 

「わっ、っと、っと!」

 

 アスナは爆発で加速しながら、しかし即座に反撃を敢行したモモイの射撃を受ける。空中では咄嗟に回避も出来ない。故に彼女が出来たのは銃を脇に抱えながら腕で頭部をガードし、攻撃を凌ぐ事のみ。空中にあるアスナの身体を強かに叩くモモイの弾丸、ガードによって視界が奪われる。

 

「ミドリッ! 今だッ!」

「っ、はい――!」

 

 着地まで数秒、しかし確実に当たる今なら十分。

 ミドリは愛銃であるスナイパーライフル――フレッシュ・インスピレーションを構え、サイト中央にアスナを捉えた。落下の勢い、加速、着地地点、全て予測が表示されている。

 

「これでッ――!?」

 

 ――絶対に外さない。

 

 その意気と共に引き絞られた引き金は、しかし銃弾を発射する事は無かった。

 ミドリの視界に表示されるアラート、それは自身に迫る脅威の検知。

 咄嗟に彼女が身を捩った瞬間、その頬を掠める様に銃弾が通過した。思わず悲鳴を呑み込み、尻餅をつくミドリ。弾丸は傍の支柱を砕く勢いで削り、そのまま後方の壁へと突き刺さる。

 

「そ、狙撃っ!? 何でッ!?」

「こ、これ、カリン先輩の――!」

 

 唸る様な銃声、同時に目を見張る様な威力。

 その攻撃には覚えがある。

 最悪の予感が脳裏を過り、思わず叫んだ。

 

「まさか、ウタハ先輩が……!?」

 

 ■

 

「……む、私は一体――?」

 

 ウタハは頭部に感じる鈍痛と共に目を覚ました。

 彼女の身体は地面に横たわっており、冷たい床が彼女の温度を奪う。自身の背中に感じるずっしりとした重さに、ウタハゆっくりと背後を向いた。すると彼女の視界一杯に柔らかな臀部が映り込み、思わず気圧される。

 

「この大きなお尻は、一体誰の……」

「……悪かったな、大きくて」

 

 尻が喋った――ウタハは一瞬、本気でそう思った。

 しかしそんな筈もなく、よく見ればウタハを尻に敷き、そのまま愛銃を構えるカリンの姿。彼女は僅かも狙撃姿勢を崩す事無くウタハを一瞥すると、そのまま淡々とした口調で告げる。

 

「ごめん、手加減する余裕はなかった」

「あぁ、そうか、私は……負けたのか」

「頭部に一発撃ち込んだ――まだ額が痛むだろう?」

「いいや、この位は平気だとも……しかし、よもやあの猛攻の中、私を正確に射貫いて来るとは、爆炎と煙で視界も悪かっただろうに」

 

 ウタハは自身がカリンとの戦いに敗北した事を知り、思わず脱力する。彼女が憶えているのは降り注ぐ砲弾の中、爆炎と粉塵に塗れた彼女に集中砲火を浴びせている光景。戦いは常にウタハが優勢であり、また自身が撃たれたという意識も無かった。

 恐らくあの爆炎と煙の中、カリンは正確に狙いを付け自身の頭部を撃ち抜いたのだ。故に意識を奪われたのは一瞬の事で、倒された瞬間の記憶さえない。その絶技にウタハは純粋に尊敬の念を抱く。

 

「視覚を奪われるだけで戦えなくなるエージェントは、C&Cに存在しない」

「C&Cの評価に偽りはなかった様だね……しかし、何故私はこんな体勢に?」

「もう一人の協力者、その砲撃を防ぐ為だ、こうすれば先輩想いの彼女は砲撃を撃ち込めないだろう?」

「……成程、合理的だね」

「理解したら大人しくして欲しい、私もあまり乱暴はしたくない、心が痛むからな」

 

 それだけ告げ、再びスコープを覗き込むカリン。こうしてカリンがウタハを押さえつけ尻の下に敷いている間、ヒビキが砲撃を撃ち込む事は出来ない。つまり今のウタハは人質であり、彼女にとっての盾である。一瞬力技で脱出する事も考えたが、技術屋である自身とC&Cという精鋭に並ぶカリンでは身体的にも技術的にも後者が勝る。

 ウタハは小さく溜息を吐くと、カリンに向けてやや云い辛そうに口を開いた。

 

「あー……不躾で申し訳ないのだけれど、一つお願いがある」

「――?」

 

 何やら含みのある口調にカリンは振り向く。すると視界に何とも云えない、困った様な表情を浮かべるウタハが見えた。

 

「ほんの少しで良いから離れて貰っても良いだろうか? その、この状態だと君のお尻が近すぎて、ちょっと困る」

「なっ!? それなら、こっちを見なければ良いだろう!?」

 

 ■

 

『先生、別動隊がやられた、狙撃手の抑えが利かなくなる――!』

「分かっているよ……!」

 

 ハレからの連絡に、先生は支柱に身を隠しながら苦々しい声で以て答えた。先程までの攻勢が嘘のようにゲーム開発部は遮蔽に身を隠すしかなくなり、C&Cの連携に押し込まれる。初めから分かっていた事だが、C&Cの戦闘能力には舌を巻くしかない、単純な個人戦闘能力は勿論、チームを組めば更に強くなるなど。

 特にアスナの直感――殆ど未来予知か何かと思ってしまう様なソレは、時に理不尽と思えるほどに凄まじい働きを見せる。一手一手、丁寧に詰めたとしても『何となく』で全て引っ繰り返されるのだから、堪らない。

 

 天性の直感による被弾を抑えるアスナ、それを破るにはゲーム開発部の連携を生かすしかなく、しかしカリンの狙撃がそれを許さない。戦線は膠着状態、突破するにはどちらかを攻略するしかないが――。

 

『せ、先生、後方より凄い数のロボットが来ます! それに生徒さんの反応も――これは、恐らくユウカさんと、アカネさんです!』

「――!」

 

 アロナの声に、先生は顔を上げ背後に視線を向ける。

 想定よりも早い、もう少し時間は稼げると思っていたが、殆ど同時に別動隊が突破を許した。

 遅かった、時間切れだ。

 先生は内心で自身の想定の甘さを悔やむ。直ぐに彼女達はこの場所へと殺到して来るだろう。ゲーム開発部が差押品管理所を目指している事は、既にセミナーの知る所である。

 

「あははっ、この様子だとこっちが優勢って感じかな? 流石のご主人様でも、此処から挽回するのは難しいんじゃない?」

「うぅっ……!」

「せ、先生……」

 

 未だ健在のアスナが余裕の笑みを浮かべながら告げれば、ユズとミドリが不安げな声を漏らす。同時に背後から足音が響き、振り返ると複数の影が此方に駆けて来るのが分かった。

 

「はぁっ、ハァッ! よ、漸く見つけたわよ……!」

「げっ、ユウカ――!」

 

 最初に辿り着いたのはユウカ、彼女は愛銃と携帯端末を片手に息を切らせ、ゲーム開発部を睨み付ける。モモイは露骨に顔色を青くし、身を縮こまらせた。

 

「全く……! セミナーとC&Cを相手にして、ここまで状況を引っ掻きまわした事については褒めてあげるわ……!」

「わ、私達だってやる時はやるんだよっ!」

「……こんな状況では聞きたくなかった台詞ね」

 

 モモイの言葉に彼女は肩を竦め、溜息を零しながら告げる。

 

「でもそれはそれ、これはこれ――ここまで被害を出したなら、もう悪戯じゃ済まされないわよ、罰として無条件一週間停学、拘禁位は覚悟しなさい!」

「てっ、停学!?」

「拘禁って……!?」

「そ、そんな、一週間も経ったらミレニアム・プライスが終わっちゃう……!」

 

 ユウカから告げられた今回の一件に対する罰に、彼女達は思わず絶句する。精々説教されて正座一時間とか、奉仕活動一日とか、その程度の罰を予想していたのだろう。蒼褪めるゲーム開発部を前にユウカは愉し気な笑みを浮かべる。

 

「アリスちゃんも今は反省部屋に入っているわ、ひとりだけで可哀そうだったけれど、貴女達も一緒ならきっと喜ぶでしょうね」

「うぐぅ……!」

 

 このまま捕まれば直反省部屋行き、無条件の一週間停学――もとい拘禁が確定してしまう。そうなればもう、ミレニアム・プライスへ出展するゲーム開発は出来ない。

 

「ふぅ、やっと到着しました、こんなにも息が切れるなんて、まさか本当に体重――いえ、そんな筈は」

「――おっ、やっと来たね!」

「アスナ先輩、何度も通信を試みましたのに……せめて電源位は入れて下さい」

「あれ、入れてなかったっけ?」

「えぇ、オフラインになっていましたよ」

 

 次いで合流を果たしたのはアカネ。彼女は弾む息を自覚しながら何かを憂う様な表情を見せる。そして天真爛漫なアスナを見て小言を漏らし、肩を落とす。

 

「アカネ、そっちは片付いたのね?」

「えぇ、お二人は丁寧に拘束させて頂きました――そして」

 

 ユウカの言葉に頷きを返しながら、アカネは視線をゲーム開発部、そして先生に向ける。その表情は朗らかで優し気に見えたが、目だけは決して笑っていなかった。

 

「今度こそ本物の様ですね? ゲーム開発部の皆さん」

「C&Cの、アカネ先輩……」

「ふふっ、ご主人様も――どうやら大変な一日を過ごされた御様子で」

「……まぁ、そこそこね」

 

 アカネの一言に苦笑を浮かべる先生、否定は出来ない。

 

「先生も、今回の件についてシャーレに抗議文を送りますからねっ!? そこの所、分かっていますか!? 流石に今回は看過できません!」

「ははっ、これは一気に仕事が増えてしまうね……また暫く徹夜かな」

「せ~ん~せ~い~ッ!?」

 

 その仕事を手伝うのは誰になると思っているんですか? もしかして、他所の学園の生徒に手伝って貰えば良いとか考えていますか? 良いですか先生、会計処理もそうですけれど、ひとりで家計簿も付けられない人がですね――と一気に捲し立てるユウカ。

 どうやら彼女の小言は長くなりそうだと早々に悟りを開く先生。しかし次から次へと先生に対して如何に自身が有能で心優しいか、シャーレの運営に欠かせないか力説するユウカは周囲の視線に気付き、頬を赤くすると咳払いを一つ挟み話を戻す。

 

「んんッ! 兎も角! もう、どちらにせよもう終わりです、諦めて下さい! C&Cは再集結、各セクションのガードロボットも此方に集合させました、もう先生達に勝ち目はありません!」

 

 そう発言するユウカの背後に集結するガードロボット。銃口を左右に取り付けた特徴的なロボットが続々と集合する。点灯するグリーンランプが先生達を照らし、絶望的な劣勢を視覚的に表現していた。

 

「さぁ、大人しく投降を――」

「いいや、まだだよ」

 

 しかし、ユウカの声を遮る様に先生は答える。

 緩く首を振った先生は、シッテムの箱を握り締めたまま告げた。

 

「まだ終わっていない――諦める必要なんてないんだ」

「? この状況で、何を……」

 

 ユウカは疑る様な視線を先生に向ける。カリンを足止めしていたエンジニア部は動けず、アカネを担当していた二名も同じ。ゲーム開発部をバックアップしていたハレも精々出来るのは電子的な支援のみ。現在ゲーム開発部は孤立無援、既に万策尽きている。

 C&Cの全戦力が集結し、ユウカの持つガードロボットも揃っている。この状況で何故そう云い切れるのか、ユウカには理解出来ない。そしてそれは、アカネも同じであった。

 

「―――」

 

 しかし、唯一アスナだけは先生を凝視していた。超人的な直感を持つ彼女は、何か云い表す事の出来ない予感を先生に覚えていたのだ。

 先生はこういう時、決して諦めたりしない。そして、それには根拠がある――どんな時だって、先生は自分をわくわくさせてくれる。

 自然と、アスナの口角が上がっていく。

 

「ねぇ皆、ゲームで強い技って聞くと、どんなものが思い浮かぶ?」

「……えっ」

「げ、ゲーム……?」

 

 先生は項垂れ、半ば諦めかけていたゲーム開発部に問い掛けた。その口調は穏やかで、楽し気で、同時に力強かった。先生の言葉に、ゲーム開発部の三人は落としていた顔をゆっくりと上げる。

 

 ■

 

『大丈夫です、先生の支援バフにより全部見えています……!』

 

 ■

 

 唐突に問いかけられた内容、ゲームで強い技。三人は顔を見合わせ、おずおずといった風に口を開く。

 

「えっと、避けられない攻撃、とか? 当たり判定が大きくて……」

「が、ガード不能?」

「こ、高火力の、一撃で倒せる技、でしょうか」

 

 各々が得意とするゲームに出て来る技、或いは一般的に強いとされる技。それらを脳裏に浮かべながら口にした回答は、どれも明確に強いといえるものだ。

 

 ■

 

『魔力充填率――三十、六十、百パーセント、完了ッ!』

 

 ■

 

「そうだね――それは全部、正解だよ」

「先生、一体何の話を――……?」

 

 何の脈絡もなく放たれた言葉に困惑するユウカ、アカネも頭上に疑問符を浮かべる。そしてそれはゲーム開発部も例外ではない、一体どういった意図があるのかが分からない。

 

 不意に――アスナの肌が粟立った。

 それは彼女の直感が齎す警鐘だった。

 

「っ、来るよッ! 避けてッ!」

「は――?」

 

 瞬時に動いたアスナが、両脇に立っていたアカネとユウカを突き飛ばす。唐突なそれに対応出来ず、廊下の端へと押し出される両名。

 同時に何処からか、聞き覚えのある叫びが聞こえた。

 

『――光よーッ!』

 

 瞬間――廊下の中心を貫く、青白い光の柱。

 凄まじい熱波と衝撃、極光に目を焼かれ、夜は一瞬昼間の明るさを取り戻す。青白い光の奔流はあらゆる壁を粉砕し、支柱を消し飛ばし、遥か向こうの端まで一切合切を消失させた。後に残るのは熱で焦がれた床と天井、そして半円に抉れた幾つもの壁である。

 

「な、なんっ……!?」

 

 突き飛ばされ、尻餅をついたユウカは今しがた目の前を通り過ぎた極光に思わず声を失う。ゲーム開発部の面々は攻撃が来た瞬間先生に飛びつき、団子になって先生に覆い被さっていた。先生を掴んだまま恐る恐る顔を上げたユズ、ミドリ、モモイの視界に飛び込んで来たのは――大きく円形に抉れた壁を跨ぎ、駆けて来る小柄な影。

 

「あ、アリス……っ!?」

「アリスちゃん……!?」

「な、何で此処にアリスちゃんがっ!?」

 

 皆が彼女の名を呼び、驚愕を顔に貼り付ける。

 彼女――アリスは身の丈を超える勇者の剣(スーパーノヴァ)を掲げながら、満面の笑みを浮かべながら先生と、そしてゲーム開発部を見つめ叫んだ。

 

「勇者アリス、ただ今到着です――ッ!」




愛と勇気とロマンのお話過ぎてンギィ↑ってなりますの。
あと明日の投稿、もしかしたら一日遅れるかもしれませんわ!


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レトロチック・ロマン⑧

誤字脱字報告、ありがとうございますわ!
今日は約六千字ですの。


 

【第二十一話】

 

「だ、大丈夫ですか、アスナ先輩!?」

 

 壁越しに放たれた光の剣――スーパーノヴァの砲撃。

 その発射に直前で気付いたアスナはユウカとアカネの両名を突き飛ばし射線上から退避させた。しかし彼女自身は攻撃を避ける事が叶わなかった。砲撃の直撃を受けた彼女は十数メートル程吹き飛ばされ、廊下の片隅に転がる。煤け、焼け焦げたメイド服をそのままに床へと大の字になって倒れるアスナは、蒸気を吹き上げる自身の身体を見下ろしながら、しかし笑みを絶やさない。

 アカネが慌てて彼女の傍に駆け寄れば、アスナは視線だけ動かして云った。

 

「あははっ、大丈夫じゃないよ~! 思いっきり当たっちゃった! なにこれ、めっちゃ痛い、頭の天辺からつま先まで一ミリも動かしたくない!」

「……声だけ聞くと、大丈夫そうですね」

 

 けらけらと笑って自身の状態を告げる彼女に、アカネは思わず引き攣った笑みを零す。外見は酷いものだし、到底大丈夫には見えないが、当の本人は楽し気にさえ見える。ユウカは暫し砲撃の余波に呆然としていたが、自身の傍に募っていたガードロボットが軒並み消滅している事に気付き慌てて立ち上がった。

 

「アスナ先輩とガードロボットが殆ど一撃で……! 何よ、あの火力!?」

「エンジニア部の兵装、噂には聞いていましたが何てピーキーな――」

 

 二人の視線が今しがた合流したアリス、その両手に掴んだ光の剣へと向けられる。凄まじく大きな火砲、そしてそれに見合うだけの攻撃範囲と火力を持っている。先程先生が口にした通り――分かっていても回避が難しい広大な攻撃範囲、防御を固めても諸共沈める火力、直撃すればC&Cですら戦闘不能になってしまう威力は驚異的だ。

 こんな代物がそうポンポン作られる筈も無し、エンジニア部の技術力は相変わらず凄まじいものがある。

 

「皆、ありがとう、助かったよ」

「い、いえ……」

「それより、アリス! 何で此処に居るのさ!?」

「あ、アリスちゃん、差押品保管所に向かったんじゃ――」

 

 先生を飛び散る瓦礫片より守ったゲーム開発部は、駆け寄って来るアリスに疑問をぶつける。ヴェリタスの部室にて事前に練り上げた計画では、此処でアリス以外の三名が盛大に注意を引き、その間に彼女が秘密裏に反省部屋を脱出、鏡を確保するというものだった。

 しかし、どういう訳か彼女はこの場に居る。アリスは皆の疑問は尤もだと頷くと、ゆっくりと口を開いた。

 

「はい、当初の計画ではその様に予定されていました――でも」

 

 光の剣を持ち上げ、真剣な表情を浮かべた彼女は力強く告げる。

 

「先生と二人で話し合って、此処に合流すると決めたんです」

「先生と……?」

「はいっ!」

 

 三人の視線が先生に向く。彼は地面に座り込んだまま意味深に微笑んで見せた。これは決して先生だけの判断ではない、アリスの願望――信念によって選択された道だった。

 ゲーム開発部を庇う様に前へと足を進めたアリスは、ユウカとアカネ、その遥か向こうにいるカリンに挑む様にして身構える。

 

「アリスは沢山のゲームをプレイして、そこから学びました、『ファイナルファンタジア』、『ドラゴンテスト』、『トールズ・オブ・フェイト』、『竜騎伝統』、『英雄神話』、『アイズエターナル』――そして、『テイルズ・サガ・クロニクル』」

 

 アリスが廃墟から連れて来られ、ゲーム開発部の一員として過ごした日々。それは決して長くはない、人生全体からすればほんの刹那と云い換えても良いだろう。

 しかし、その間にプレイした数々のゲーム、世界、物語は彼女に途轍もなく大きな成長と学びを齎した。

 アリスは自身の指先で天を指し、自信満々に叫ぶ。

 星々の明かりが、彼女の姿を照らしていた。

 

「どんなゲームでも、どんな物語でも、主人公たちは試練に見舞われ、苦悩し、苦境に立たされて――けれど決して、仲間の事を諦めたりしませんでした!」

「あ、アリス……」

「だからアリスもそうします! どんな試練も、困難も、皆で一緒なら、仲間と一緒なら、絶対に突破出来るんです!」

 

 困難に立ち向かう時、勇者の傍には必ず仲間がいる。

 そして仲間と共に強敵へと立ち向かう時、彼ら、彼女らは常の何倍も、何十倍も強いのだ。

 アリスは信じている、心の底から信じている。

 どんなに辛く苦しい戦いでも、自分達の未来には必ず最後にハッピーエンドが待っていると。

 

 だって――。

 

「だってアリスは――勇者(主人公)ですからッ!」

 

 その光り輝く瞳には一切の翳りが無く、不安も、恐怖も、絶望も無い。どんなに不利な状況であっても、どんなに希望が見えない戦いでも、彼女は勇気を胸に立ち上がる。

 

 何故なら――それ(勇気)こそが勇者の第一条件だからだ。

 

「……アリスちゃん」

「――………」

 

 アリスの小さな、けれど大きな背中を見つめるゲーム開発部は一瞬声を失う。そこに込められた感情は、竦んだ体を奮い立たせるには十分な熱を持っていた。

 

「――うん、その通りだよ……!」

 

 アリスの背後から、立ち上がる一つの影。

 

「そうだよね、結局此処で諦めたらミレニアム・プライスには出展出来ない、部室もなくなっちゃう、それなら……最後の最後、本当の限界ギリギリまで、絶対に諦めてなんてあげないっ!」

「お姉ちゃん……」

「も、モモイ」

 

 最初に応えたのは、モモイだった。地面に放られていた愛銃を拾い直し、銃撃によって穴の開いた制服をそのままに立ち上がる。そんな彼女の姿を見上げるユズとミドリは、互いに顔を見つめ合い、力強く頷いた。

 

「そうだよね、どんなゲームだって主人公たちが諦めちゃったら、そこで物語は終わっちゃうもん……! まだ、終わらせなんかしない……!」

「う、うん、そうだね……それなら、最後まで――!」

 

 ユズとミドリの二人もまた立ち上がり、肩を寄せ合って愛銃を抱える。此処で諦めてしまえば大切なものが失われてしまう。なら我武者羅に、頑張って頑張って、最後の最後まで足掻いてからでも遅くない。

 まだ終わってなんかいない――まだ諦める訳にはいかない。

 先頭に立つアリス、その隣に足を進めたモモイが振り向き、最後に先生を見た。

 

「先生……っ!」

「――あぁ」

 

 先生は彼女から向けられる真剣な瞳に、その声に力強く頷く。

 

 ――応えるとも、その声に。

 

「行こうッ! ゲーム開発部っ!」

「おーッ!」

 

 先生がシッテムの箱を掲げ、一際強い光が彼女達を包み込む。互いの繋がりはより深く、強く結ばれ、彼女達のヘイローが輝きを増した。暗闇の中で煌々と光るそれを見たユウカは思わず怯み、アカネは表情を厳しく変化させる。

 

「っ、ガードロボットは大半が吹き飛ばされて機能停止しちゃっているし、向こうには先生が居るし、これはちょっと――!」

「カリン、聞こえますか? アリスちゃんが反省部屋を脱出して合流しました、此方はこのまま戦闘を開始します、火力支援を……」

 

 アリスの一撃によって、セミナー側の戦力は大きく削られた。何よりC&Cに於ける一大戦力のアスナが戦闘不能になった事は大きい。故に此処はカリンの狙撃で頭を押さえ、大火力を持つアリスを早急に倒す他ない。

 そう判断し、カリンへと火力支援を要請するアカネであったが。

 

「カリン、カリン? 応答を――!?」

 

 ■

 

「あの子がアリスか、途轍もない火力だな、セクションの一角が丸々吹き飛んでしまっている」

 

 遠方ビル屋上よりミレニアムタワーを注視していたカリンは、アリスの放った一撃を見て感嘆の声を上げた。アリスの砲撃は最上階フロアの一角を完全に消し飛ばし、ビルに風穴を空けている。恐らく直撃を許せばどんな生徒であれ戦闘不能、余程頑強な肉体を持っていなければ動く事すら儘ならなくなるだろう。

 

「しかし、この距離ならば――」

「そうだ、一つ云っておこう」

「……?」

 

 早速とばかりにアリスを狙撃しようと動き出すカリンに、圧し掛かられたウタハが声を掛けた。彼女はうつ伏せに倒れたままカリンを見上げ、淡々とした口調で告げる。

 

「私の後輩は大事な先輩に爆撃を当てたりしない、心優しい後輩で合っているとも、しかし同時にエンジニアという存在は不測の事態を良く妄想……もとい考える存在でもあってね」

「……何が云いたい?」

「特に私の後輩は物凄く賢いんだ、この状況を予測して、備えを怠らない程度には」

 

 迂遠な云い方、或いは意味深な言葉の羅列。カリンは言葉を咀嚼し呑み込むと同時に、徐々に目を見開く。

 

 夜空の向こう側から音が聞こえていた。

 風を切る様な――砲弾が飛来する音だ。

 

「―――」

「こんな台詞を、まさか此処で口に出来るとは思ってもいなかったが……さて」

 

 咄嗟にカリンが頭上を見上げた時、夜に溶け込む様にして砲弾は直ぐ傍にまで迫っていた。まさか、先輩諸共自分を爆破するつもりかと驚愕し、一瞬行動が遅れる。驚愕は肉体にも現れた、訓練した彼女の身体は砲撃から逃れようと腰を浮かす。

 その瞬間を逃さずウタハはカリンの下から素早く逃れ、渾身の笑みを浮かべながら叫んだ。

 

「――こんな事もあろうかと、だ!」

「なッ!?」

 

 爆破――炸裂。

 ヒビキが迫撃砲より撃ち出したものは爆発を引き起こす榴弾ではなく、閃光弾。夜空の中で炸裂したそれは一等目立ち、空を見上げていたカリンの網膜を焼いた。

 苦悶の声を上げながら顔を背け蹈鞴を踏むカリン、同時に地面に着弾する第二、第三射。それは周囲に白煙を撒き散らし、ビルの屋上を白く染め上げる。高所である為効果は短いが、僅かな間視線を遮れるのならば十分。涙目になったカリンは、自身の周囲を覆う白に思わず叫ぶ。

 

「閃光弾ッ――それに、煙幕(スモーク)か!」

「その通り、そして万が一に備え第二プランも用意してあるとも!」

 

 素早くカリンより距離を取ったウタハは、最初の一撃で横転していた雷の玉座へと近付くと、転倒していた機体を一気に押し起こす。そして表面に手を這わせ致命的な損傷がない事を確認すると、薄らと笑みを浮かべた。

 

「機械の真善美は合理的で、精密で、そして簡易である事――流石雷ちゃん、頑丈な子だ」

 

 ドローンに輸送させた小型の雷ちゃんは全て破壊されてしまったが、一等頑丈なこの子は難を逃れた。表面装甲はべっこりと凹んでしまっているが電源も入るし攻撃も可能、歩行に問題はない――パーフェクトだ。

 

「雷の玉座、戦闘モード再起動!」

「……っ!」

「――プロトコル【情熱と浪漫】(合理を超えた先)!」

 

 ウタハの声と共に雷の玉座が再起動し、項垂れていた銃身がゆっくりと上を向く。同時に白煙を掻き分けたカリンが彼女の行動に気付き、素早く愛銃を構え直した。

 

「何度起き上がろうとも……所詮はっ!」

「あぁ、そうだ、知っているかい? これは私の矜持、持論の様なものなのだけれど」

 

 ウタハの口上を無視し、カリンは即座に発砲する。重々しい銃声が鳴り響き、白煙の中でマズルフラッシュが瞬いた。弾丸は真っ直ぐ雷の玉座へと直進し、その銃身へと着弾する。大口径のソレはバレルを貫通し、そのまま上部装甲をも内部より吹き飛ばす。これで銃身は使い物にならない、発砲は不可能だ。

 カリンは自身の勝利を確信していた。

 しかし――ウタハは笑みを消す事無く告げる。

 

「――自爆機能のないロボットなんて、ただの鉄くずだと思わないかい?」

「―――」

 

 雷の玉座は止まらない。

 元より銃撃する意思など無かった、雷の玉座は通常の五倍以上の回転速度で足を回しカリンの元へと急接近する。その動きは余りにもコミカルであったが、やられた側からすればたまったものではない。両足を生やした砲塔付き椅子が凄まじい速度で迫って来るのだから然もありなん。

 カリンは思わず顔を引きつらせ、次弾装填のコッキングすら忘れ悲鳴を上げた。

 何より、今のウタハの口ぶりからして、コレの次の行動は。

 

「ばッ――!?」

 

 その声が最後まで届く事は無く、雷の玉座は跳躍する。カリンの目前へと迫った雷の玉座より――ピッ、という短い電子音が鳴り響いた。

 そして。

 

「――これがミレニアムの猛獣だ」

 

 プロトコル【情熱と浪漫】(合理を超えた先)とは、つまり――自爆である。

 

 凄まじい爆発が巻き起こり、周囲を覆っていた白煙が全て吹き飛ばされる。ウタハは爆発の瞬間に地面へと伏せ、自身の全身を押し出す様な熱波に唇を噛んで耐えた。そして程なく訪れる静寂。彼女が再び顔を上げた時、屋上には焼け焦げ抉れた床と飛び散った火の粉、コンクリートを舐める小火が見えた。

 

 跡形もなく消し飛んだ雷の玉座、しかしその成果は明確で――爆発の中心点には愛銃を抱きかかえたまま苦悶の表情で転がるカリンの姿があった。爆発をもろに受けた影響か肌は所々傷付き、制服も酷い有様だ。

 ウタハは自身の衣服に付着した火の粉と煤を払い、外套を靡かせ告げる。

 

エンジニア部(私達)の技術力と熱情――確りと感じただろう?」

 

 ■

 

「カリン、応答を――ッ!」

 

 インカムに向けて声を荒げるアカネ。しかしそんな彼女の耳に届く爆発音、音に釣られて振り向けば闇夜の中で煌めく炎が視界に見える。粉砕された壁の向こうに散るそれが、カリンの狙撃地点である事をアカネは知っている。

 

 ――まさか、カリンが倒されたのか。

 

 彼女の実力を知っているからこそ、アカネの動揺は大きく深い。耳元から走るノイズに思わず唇を噛み、警戒を数段高める。

 

「くっ、そんな……!」

「あはは、面白くなってきたね! けれどまだ身体がビクンビクンして、まともに立てないや!」

 

 一気に傾いた形勢、それを面白おかしく思っているアスナは相変わらず楽し気だ。傍から見ると到底あの砲撃を受けた後には思えないが、その負傷は真実である。

 

「先生、指揮を!」

「任せて――行くよ、皆!」

「うんっ!」

「は、はい!」

「が、頑張ります……!」

 

 先生の声を合図にモモイ、アリスが先陣を切って駆け出し、その後ろにミドリ、ユズが続く。その表情に怯懦はなく、何処までも強い意志を感じさせる瞳がある。一気に攻勢をかけて来たゲーム開発部に対し、ユウカは周囲の残った少ないドローンを動員し迎え撃つ姿勢を見せた。

 

「アカネ、来るわよ!」

「っ、仕方ありません、アスナ先輩は出来るだけ後ろに退避をっ! ユウカ、援護をお願いします!」

「分かったわ、任せて――ッ!」

 

 ユウカは周囲のロボットに指示を出し、持ち込んでいた二挺の愛銃――ロジック&リーズンを抜き放つ。まさかこれを抜く羽目になるとは思っていなかったが、しかし現にゲーム開発部は数多の困難を打破し此処に辿り着いた。

 だからこそ彼女も一切の手加減なく、真剣な面持ちでゲーム開発部と対峙する。

 

「ご主人様と手合わせするのは不本意且つ心が痛みますが、これもまたC&Cとしての務め――大丈夫です、落ち込んだご主人様を慰め癒すのもメイドの本懐ですので」

 

 サイレントソリューションを片手に、アカネは巨大なトランクケースを地面に降ろす。ズン、と音が鳴りそうな程力強く設置されたそれは、即座に内部を晒し幾つもの爆弾が顔を覗かせていた。

 目元の眼鏡を指先で押し上げ、彼女は告げる。

 

「――さて、お掃除を始めましょう」

 

 C&Cの一員として、その名に傷を付けない為に。

 

「C&C所属、コールサイン・ゼロスリー――アカネ、参ります!」

 


 

 恰好の良いメイドさんは最高でしてよ?

 毎日投稿八日目、間に合わないかもと思いましたが存外なんとかなりましたわ。

 でも明日こそ間に合わないかもしれませんわ。

 まぁその時は文字数増えるだけですの。



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レトロチック・ロマン⑨

誤字脱字報告に感謝ですわ!
今回は一万一千字ですの。


 

【第二十三話】

 

「皆、散開――ッ!」

 

 先生が叫び、ゲーム開発部の全員が広く距離を取って遮蔽に滑り込む。前衛をモモイとユズ、後衛をミドリとアリスとして展開し、アリスのスーパーノヴァによる一撃必殺を狙う構え。互いに距離を取ったのはアカネの爆発物を警戒しての事だった、C&Cに於いて爆発物のスペシャリストとして知られる彼女は、あらゆる爆弾に精通している。彼女が常に持ち歩くトランクケース、それに警戒を向けながら先生は常に視野を広く持つ。

 

「制圧射撃――!」

「りょーかいっ!」

「はい……!」

 

 アリスの光の剣、スーパーノヴァのチャージ時間を稼ぐ為にユズ、ミドリ、モモイの三名に対し積極的に銃撃を指示。視界に映ったそれに反応した三名は遮蔽より半身を覗かせ、即座に銃撃を加える。

 

「させないわよッ!」

 

 飛来する弾丸に対しユウカはガードロボットに指示、装甲の最も厚い前面部分で受け、ユズのグレネードランチャーに対しては電磁防壁を発生させ、何とかやり過ごす。弾丸の大多数は装甲に弾かれ、電磁防壁に着弾したものは後方へと逸れる。何発かがガードロボットの関節部位に着弾し、ロボットのアームが千切れ飛ぶのが分かった。

 分散したゲーム開発部を前にアカネは僅かな喜色を滲ませ告げる。

 

「あら、この陣形――流石ご主人様、私の事をご理解頂いている様子で大変光栄です」

「云っている場合!? 兎に角、アリスちゃんの一撃、あれをもう撃たせる訳にはいかないわっ!」

「同意見です、ですから果敢に攻めると致しましょう!」

 

 アリスの主砲、その威力を知っているからこそ攻め手に回る判断を下したアカネ達は容赦なく攻める事を選択する。

 

「ご主人様、念の為頭は低く……さて、爆発のお時間です!」

 

 告げたアカネはトランクケースからベルトの様に繋がれた爆薬を取り出し、それを鞭のように撓らせ投擲する。空中を舞うそれはゲーム開発部目掛けて投擲され、一定の距離に達した瞬間赤いランプが点灯、ベルトに繋がれていた爆弾が一斉に散布された。

 

「ミドリッ!」

「――!」

 

 ミドリの視界に表示されるロックオンマーカー、自分達に被害が及ぶ可能性が高い爆弾。先生は演算によって即座に弾き出されたそれをミドリの視界に表示させる。彼女は思考を挟まず、全幅の信頼を持ってマーカーへと銃口を向ける。

 銃声が轟き、空薬莢が弾き出される。マズルフラッシュと同時に放たれた弾丸は空中を舞う爆弾を一つ、二つと撃ち抜いた。そのまま背を逸らし、床に背中を付けたミドリは真上へと銃口を向け、最後の一つを撃ち抜く。

 瞬間爆発が臓物を揺らし、火の粉が彼女達の衣服に降りかかる。

 

「っ、ちょっと、遅かった……!」

「直撃しなかっただけ十分……っ! アリス――!?」

「充填率、七十パーセント……!」

「まだですッ! ユウカ!」

「突撃!」

 

 アリスのチャージを阻止すべく、ユウカはガードロボットを突撃させる。残った全てのロボットがゲーム開発部へと迫る、モモイが兎に角弾幕を張り、近付かせまいと奮闘するも、その勢いは止まらない。跳弾する弾丸が壁や床に穴を空け、瞬く間にモモイの弾倉は空になった。カチン、という硬質的な弾切れを知らせる音にモモイは顔を歪める。

 

「っ、硬いし、速いよ、このロボット……!?」

「ユズ、先頭を狙えッ!」

「――は、はいっ!」

 

 ユズは先生の指示に従い、先頭を走るロボットに向けてグレネードランチャーを放つ。独特の発砲音と、同時に爆発。その攻撃は先頭を走っていたロボットの脚部履帯を破壊し、転倒したガードロボットが火花を散らしながら床を滑り、後続を巻き込み盛大に大破した。頭を引っ込めていたモモイは盛大な爆発に肩を竦め、ユズは齎された結果に歓声を上げる。

 

「や、やった……!」

「流石ユズちゃん!」

「ナイスユズ! これでもうロボットは……」

「えぇ、ロボットは打ち止めです――ですがっ!」

 

 同時に大破したロボット、その影から飛び出すアカネ。突撃したロボットを盾に、強引に距離を詰めた彼女は手に持っていた爆弾を投擲し、空中でそれを正確に撃ち抜いた。瞬間、チャージの為に待機していたアリスに襲い掛かる爆発。特製の爆薬か何かを使っているのか、通常のそれよりも遥かに強力なそれはアリスの矮躯を吹き飛ばし、スーパーノヴァに引き摺られる形で床を転がる。

 

「あぐっ!?」

「あ、アリスちゃん、大丈夫!?」

「っ、損傷率十二パーセント、戦闘継続、問題ありません……!」

 

 爆発によって煤けた制服をそのままに、アリスは立ち上がる。しかし爆発によってスーパーノヴァのチャージは中断されてしまっており、再度充填する必要があった。

 

「この距離であれば、チャージの時間はもう与えません!」

「さぁ、観念しなさい、此処まで接近を許したあなた達が勝てる確率は――極めて低い!」

 

 ユウカを前衛に、後方から爆弾を次々と投擲、同時に正確な射撃を加えるアカネ。此方の攻撃はユウカの電磁防壁によってガードされ、何とかチャージを通そうとする度にアリスは被弾を重ねる。遮蔽に身を隠そうとも、炙り出す様に投擲される爆弾がそれを許さない。  

 

「アリス、光の剣(スーパーノヴァ)を盾にするんだ! ソレの外装はちょっとやそっとじゃ壊れはしない!」

「っ、先生からの指示を確認、防御を実行します――!」

 

 アカネの猛攻による被弾増加を嫌った先生は、一旦チャージを諦め防御を固める方針へと固める。

 巨大なスーパーノヴァは優秀な火砲でもあるが、同時に盾でもある。宇宙戦艦に搭載する予定だったレールガンというのは誇張でも何でもなく、その外装は宇宙空間での運用を視野に入れており、デブリの衝突から戦艦クラスの銃火からもある程度耐えられる様強固な装甲を施されている。

 

「―――」

 

 先生は冷静に二人の動きを観察し、つぶさに隙を探る。ユウカとアカネ、いざこうしてタッグを組まれると厄介極まりない。恐らくこの面子にアスナが混じっていたら、かなり厳しい戦いを強いられていただろう。

 電磁防壁と合わせて単純な耐久性で云えばミレニアム上位のユウカ、そんな彼女を盾代わりに攻撃を担当するのは歩く爆薬庫とも云うべきアカネ。相手が単独であれ、複数であれ、圧倒的な火力でゴリ押しが効く。そのアカネを仕留めるにはユウカを抜く必要があり――残念ながら今のゲーム開発部で、その火力を持つのはアリスだけである。

 だからこそ彼女達は是が非でも彼女の攻撃を許さない。こうなると殆ど我慢比べに等しい。

 

 ――向こうの攻勢が息切れするか、此方の体力が先に尽きるか。

 

「……!」

 

 そんな先生のタブレットから通知音が鳴った。咄嗟に視線をタブレットに落とせば、送信主はヴェリタス部室にて電子支援を務めるハレ。表示されているのはフロアマップ、そして特定のポイントに表示されるピン。先生は彼女の意図を理解し、同時に幾つかの要素を検討する。

 現在のユウカ、アカネの装備、これまでの行動、辿って来たルート、この戦闘で使用した弾薬、爆発物。それらを脳裏に思い浮かべ、決断を済ませた先生はゲーム開発部全員の視界に指示を送信する。

 

「っ……!」

「これは――」

「え、っと……」

「――なるほど、引き撃ちですね!」

 

 先生からの指示を確認した彼女達は各々の反応を見せ、アリスは一等早く指示に従う。内容は一時後退、アリスと自身を先頭としてユズ、ミドリ、モモイが後退支援を行うというもの。

 アリスはその指示を目視すると同時、素早く踵を返し叫ぶ。

 

「アリス、後方へ撤退します!」

「えっ!?」

「ユズ、ミドリ!」

「う、うん!」

「分かった……!」

 

 唐突に駆け出したアリス、同時に先生もアリスと同じタイミングで後退を開始。それを見たユズ、モモイ、ミドリはユウカとアカネに射撃を加えつつ同じように後方へと下がっていく。

 その動きを見たアカネ、ユウカの両名は疑念に満ちた表情を浮かべる。

 

「差押品管理所はこの奥の筈、何故距離を取る様な真似を――?」

「もしかして、下がってチャージの時間を稼ぐ算段!? もしそうなら、追うわよアカネ!」

「……分かりました」

 

 何か引っ掛かるものがあるが、そのまま見送るという選択肢はない。急ぎ後退したゲーム開発部を追い駆けるユウカとアカネ。二人が追って来る事を確認した先生はより足を速め、ゲーム開発部を引き連れ一つ前のセクションへと飛び込む。

 戦闘痕の無い真新しいフロアへと踏み込むゲーム開発部、その背後からアカネ達が迫る。

 

「待ちなさいっ! どこまで走ったって、絶対に逃がさな――ッ」

「モモイ、今だッ!」

 

 恐ろしい表情で迫るユウカを視界に収めつつ、二人があと十数メートルという距離まで迫った所で先生が叫ぶ。ハッとアカネが気付いた時には既に遅く、壁に備え付けられた認証装置に手を翳すモモイの姿。

 同時に電子音が鳴り響き、ゲーム開発部とアカネ達を遮る様にシャッターが降りた。シャッターは重々しい音を立てて視界を遮り、二人の行く手を阻む。

 

「なっ、これは――ッ!」

シャッター(隔壁)!?」

 

 セクションの防犯システム。それの頑丈さをセミナーであるユウカは知識として、アカネは実体験として知っている。電子音を搔き鳴らしながら続々と降りて来るシャッターはセクション全体を封鎖する、ゲーム開発部が進むために開放していたそれらが再び二人の進路を塞ぎ、瞬く間に通路は行き場を失くした。

 

「まさか私達をこのセクションに誘い込んだのは、こうやって閉じ込めるつもりで!?」

「くっ、ならば爆破してでも――!」

 

 目前を塞ぐシャッターを睨み付けながら、アカネは担いでいたトランクケースを地面に接地させる。そして収納していた爆薬を取り出そうとして――。

 

「……!」

 

 しかし彼女の手が新しい爆薬を取る事は無かった。内部に並んでいた爆薬、限界一杯まで詰め込んでいた筈の場薬は、しかしその数を大きく減らしていたのだ。

 

 ――やられた。

 

 それを見た瞬間、アカネは内心で呟く。合流する為に爆破したシャッターは複数、先の戦闘を含めアカネが所有する爆弾は自身の制服に仕込んでいたものと、このケース内部のもののみ。特にアリスのチャージを阻止する為に、出し惜しむ様な真似は出来なかった為、先の戦闘で使用した爆薬も少なくない。

 

 ――手持ちの爆薬で、シャッターを吹き飛ばせるだけの威力は出せない。爆発物のスペシャリストとして、アカネは確信を持って云えた。

 

 まさか先生は此処に来るまでに使用した爆薬、その量すら計算していたのか? 或いはこちらの手札が少ない事を見越してコレを仕掛けて来たのか。どちらにせよ、完全にしてやられた形になる。アカネはケースに伸ばした手を引っ込め、感嘆とも呆れとも取れる吐息を零した。

 

「アカネ! これ、どうにかして開けられないの!?」

「……手持ちの火力でどうにかするのは、難しいですね」

 

 閉ざされた隔壁を前に声を荒げるユウカに対し、アカネは穏やかな口調で答える。こうなってしまえば内側からどうにかする手段はない、外部から権限を持った役員の救助が来るのを待つ他なかった。

 

「……全く、C&Cとして失態ですね」

 

 ■

 

【第二十四話】

 

「ひぃ、ふぅ、も、もう追って来ないよね!?」

「た、多分、シャッターは閉じちゃったし……!」

「追撃は確認出来ていません、アリス達の戦術的勝利です!」

「ぜっ、はっ、も、もう、走れ、ない、かも……」

 

 アカネとユウカ、二人をセクションに閉じ込める事に成功したゲーム開発部は、迂回する様に隣り合うセクションを通過し差押品管理所を目指し駆けていた。

 作戦が開始されてからずっと走りっぱなしのモモイ、ユズ、ミドリの三名は額に汗を掻き、強い疲労感を滲ませている。それは先生も同じだが、普段から騒動に巻き込まれ文字通り駆け回っている先生には僅かだが余裕が見えた。尤も、それはほんの僅かな差に過ぎないが。

 普段室内でばかり過ごしているゲーム開発部と比べれば、多少体力面では勝っているらしい。アビドスの一件以来、定期的にシロコと運動を続けているのも要因の一つだろう。

 

「あ、あれだけ啖呵切っておいて逃げるのも、何だか申し訳ない気もするけれど……」

「何も彼女達を完全に倒す必要はないんだ、私達の目的は鏡の奪取だからね……!」

「そうそう、別に良いんだよ! 失敗したら部室が無くなっちゃうんだし、手段は選んでいられないもん!」

 

 勢い良く先頭を駆けるモモイは疲労を滲ませながら、しかし満足げな笑みを浮かべ告げる。そのまま幾つかのシャッターを開き、差押品管理所のあるセクションへと辿り着くゲーム開発部。円型の重厚な扉に守られたその場所に辿り着いた一行は歓声を上げ、扉の前へと足を進めた。

 

「っと、あった! 差押品管理所! 此処で良いんだよね!?」

「う、うん、あっている筈――えっと、ロックは……?」

「確かシャッターの解除と同じシステムだから、私達の指紋と虹彩で大丈夫だっと思う」

「おっけ~!」

 

 ミドリの言葉にモモイは認証装置へと手を近付ける。指紋と虹彩によってロックを解除した瞬間、重々しい音を立てて扉が開き内部を晒す。

 意気揚々と内部へ踏み込んだ彼女達の視界に、ずらりと並んだ差押品の数々。差押品管理所は予想以上に物が多く、何か良く分からない小さなパーツから、身の丈を超えるロボットまで、ミレニアム内部で押収されたありとあらゆるものが詰め込まれていた。

 

「うわ、思った以上に物が多い……!」

「見て下さい、おっきなロボットもあります! まだ動くのでしょうか?」

「この中から探すの、結構大変そう……あ、アリスちゃん、下手に触っちゃ駄目だよ」

「う、ううん、確かヴェリタス関連のものは、纏めて置いてあるって――」

「ヴェリタスの保管棚はこっちだよ、皆」

 

 薄暗い室内で右往左往する彼女達に対し、先生は部屋の片隅を指し示す。先生が指差した方向には、ヴェリタス専用の棚が設けられており、様々な物品に溢れかえっていた。

 

「あっ、これ全部ヴェリタスの差押品なんだ」

「す、凄く、多いね?」

「何か、大半はメモリーカードとか、USBとか、保存媒体っぽいけれど……」

「この中から鏡を探せば良いんですね? 宝探しクエストです!」

 

 押収品に溢れたヴェリタス専用の棚、そこに足を進めたゲーム開発部の面々はアレでもない、コレでもないと鏡の捜索を開始する。

 

「えっと、この変な機械は違う、こっちも……」

「これは? 何か小型マイクっぽいけれど」

「そ、それは多分、コタマ先輩の――」

「何々、『先生の私生活ファイル 115』……」

「えっ、何、もしかして先生のお宝映像?」

「お姉ちゃん……」

「あわわっ」

「お宝ですか!? アリスも欲しいですっ!」

「……それは戻しておこうね」 

 

 途中色々と見たくないものを目にしてしまったが、それはそれとして鏡を探して棚を漁るゲーム開発部。そしてふと、アリスが掴んだ物品を掲げながら告げた。

 

「あ、もしかしてコレでしょうか?」

 

 アリスが見つけ出したそれは、ぱっと見何らかのデータ保存媒体らしいもので、ありふれたSSDの様にしか見えない。だがヴェリタスより知らされていた外見と一致する。アリスの傍に駆け寄った他の面々はソレが鏡である事を確かめ、喜色を滲ませた。

 

「あった、多分それだ! 聞かされていた奴と同じ!」

「じゃあ、これが鏡?」

「テテテデーン! アリスは鏡を手に入れた!」

「い、急いで戻ろう、これでヴェリタスにG.Bibleを解析して貰って……!」

 

 アリスは手にした鏡を暫くじっと見つめ、それから先生の方へとそれを差し出す。

 

「これは先生が所持していて下さい! 重要アイテムは、一番戦闘不能にならない仲間に渡すのが鉄則です!」

「……分かった、私が責任を持って預かるよ」

 

 手渡された鏡を懐に仕舞い込み、落とさないように確りと前を閉じる先生。そんな彼の端末に着信表記。振動に気付いた先生は画面をタップする。

 

『先生、早くそこから逃げて、いや隠れて、何としても接触する前にタワーをだsっしゅつsて』

「……ハレ?」

 

 余程急いで入力したのか、彼女らしくないタイピングミスが目立つ。先生はそこから何かを感じ取る。

 はっと顔を上げれば、廊下の向こう側から歩いて来る、誰かの足音が耳に届いた。先生は目を細め、ゲーム開発部の面々に何者かの接近を伝える。

 

「――皆、誰か来たみたいだ」

「えっ?」

「誰かって……生徒会の役員、でしょうか?」

 

 ミドリとユズが顔を上げ、緊張に強張った表情を見せる。今このフロアに居る生徒と云えば、セミナーの役員かC&Cくらいなもの。モモイは此方にやって来る足音が一人分である事に気付き、自信満々に愛銃を掲げながら告げる。

 

「数はひとりだけ? だったらこのまま無理矢理突破して、部室に帰還しちゃお――」

「――モモイ静かに、ミュートでお願いします」

「……アリス?」

 

 しかし、その声はアリスの無機質な声に遮られる。アリスは非常灯に照らされた廊下を歩いて来る人影を凝視しながら、真剣な面持ちで呟いた。

 

「接近対象を確認中、ミレニアムの生徒名簿を検索――……該当者候補一名」

 

 アリスの瞳が煌めき、人影を拡大する。体格は小柄だ、自身と同じかそれ以下か。武装もこれと云って特徴がある訳でもなく、自身の光の剣とは比較にもならない。

 しかし――肌がひりつく様な、独特な威圧感がある。

 

「身長百四十六センチ、ダブルSMG、メイド服の上から龍柄のスカジャン……」

「え……」

「そ、それって」

「まさか――」

 

 アリスは辛うじて確認出来る特徴を口にする。その余りにも覚えのある格好にゲーム開発部はさっと表情を変化させる。ミレニアム内部に於いて、この特徴を持つ生徒は――ただの一人。

 彼女はゲーム開発部と手前で足を止めると、影に覆われた顔をそのままに告げた。

 

「――よぉ」

 

 びくりと、先生を除いた全員の肩が跳ねる。ただ声を掛けられただけだ、しかしまるで虎にでも睨まれた様な恐怖心が彼女達を襲っていた。一歩、前に踏み出した生徒の顔が非常灯に照らされ、視界に映る。

 

「あたしが留守の間、随分派手にやってくれたみてぇじゃねぇか?」

「ね……ネル、先輩」

 

 エージェント組織C&Cを率いるリーダー、ミレニアム最強と名高い生徒。

 ミドリが引き攣った声で彼女の名を呼ぶ。

 小柄な体格にメイド服、それに似合わぬスカジャンを羽織った生徒――美甘ネル。

 鋭い眼光で以てゲーム開発部を睨み付ける彼女は、ジャラリと鎖で繋がった二挺のSMGを揺らし告げた。

 

「………」

 

 この人は、何かが違う。

 アリスは自身と同程度の背丈、その生徒を見てそう思った。

 胸に沸々と湧き上がる正体不明の感情――恐怖。

 そう恐怖だ、アリスは生まれて初めてその感情を抱いた。アリスの優秀な演算機能がこの状況で正面から戦闘を行った場合、その成功確率を計算する。そして得られた結果は、成功確率――三パーセント未満。

 戦闘行為、非推奨。

 それがアリスの結論であった。

 

「ハッ! 成程な、ゲーム開発部なんざ聞いた事もなかった部活だが、そんな連中にC&Cが蹴散らされる筈もねぇと思っていたんだ……けれど、あんたが手を貸していたなら納得だ」

 

 愛銃のツイン・ドラゴンをぶら下げ鎖を鳴らす彼女は破顔し、彼女達の背後に佇む大人――先生へと無遠慮に視線を飛ばす。その表情は実に楽し気で、同時に何か期待を孕んでいるように見えた。

 

「なぁ、先生?」

「……ネル、戻っていたんだね」

「あぁ、ついさっきな」

 

 別の依頼でミレニアム郊外へと出向いていた筈のC&Cリーダー、彼女はどういう訳かこの場に姿を現した。今は居ない筈じゃなかったのかと戦慄するゲーム開発部を他所に、ネルは吐き捨てるように任務への不満を口にした。

 

「つまんねぇ依頼だったよ、小突けば倒れちまうような弱小勢力を潰すのに、何で態々あたしを指名したのかイマイチ腑に落ちなかったが……どうやらリオとヒマリはあたしを今回の件に関わらせたくなかったみてぇだな」

「り、リオ……?」

「それって確か、生徒会長の名前だよね……?」

「それに、ヒマリ先輩まで……一体、何の話を――」

 

 ネルの言葉に疑問符を浮かべるゲーム開発部の面々。何故此処でリオとヒマリの名前が出て来るのか分からないと云った様子。しかし、ネルにとってそんな事は重要ではない。口元を歪ませ凄む彼女はギラギラとした瞳を彼女達へと向ける。

 

「だが、そんなモンは関係ねぇ、こんだけやらかしたんだ――テメェら、覚悟出来ているんだろうな?」

「ひぃっ……!?」

「お、お姉ちゃん……!」

「う、うぅ……」

 

 唐突に向けられた戦意、その迫力に思わず仰け反るモモイ。ユズとミドリは近場に居た先生の背中へと隠れ、顔を青くする。小柄な体格に見合わぬ強烈な戦意、常在戦場、趣味を『勝利』と断言する彼女とゲーム開発部で潜って来た修羅場が違う。気圧されるゲーム開発部を眺めながら、ふと彼女はアリスに視線を止めた。

 

「あぁ、それと、その馬鹿デケェ武器を持ったあんた」

「……アリス、ですか?」

「そうだ、うちのC&Cに一発喰らわせてくれたらしいじゃねぇか」

 

 どこかぽかんとした様子のアリスに、ネルは面白そうに笑って声を掛ける。どうやらアリスがC&Cに痛手を加えた事を既に知っていたらしい。その戦果がネルの興味を引いていた。

 

「うちのアスナを真正面から()すとは、俄然興味が湧いて来やがる……ちっと面貸して貰うぜ」

「あ、アリス、このパターンを知っています! 『私にあんな事をしたのは、あなたが初めてよ……っ!』――告白イベントですね、チビメイド様はアリスに惚れていると見ました! これはスチル獲得です!」

「―――」

 

 それは余りにも場違いな発言であった。

 同時にアリスは恐怖と云う感情を理解しても、それがどういった行動に繋がるかを知らなかった。故にいつも通り何と事のないように、笑顔を浮かべながら悪意なく言葉を口にする。自身の発言がどれだけ相手の怒りに火を点けるか、自覚しないままに。

 

「あ、アリス……?」

「あわわ……」

「?」

 

 反対にゲーム開発部はアリスの発言がどれだけ相手を怒らせるのか、それを理解していた。アリスの言葉、それを聞いたネルは俯き黙り込む。心なしかその肩は震えているようにも見え、アリスは小首を傾げた。

 そして――。

 

「ふっ――」

「ふっ?」

「ふっざけんなこの野郎ッ! ってか、誰がチビメイド様だ!? ぶっ殺されてぇのか!?」

「ひぐッ!?」

 

 当然の如く、怒り狂うネル(最強)

 顔を真っ赤にして放たれた怒声に思わず身を竦め、肩を震わせるアリス。チビメイド呼ばわりされた彼女は相当頭に来ているのか、額に青筋を浮かべながらアリスに向けて銃口を突きつける。

 

「良い度胸だテメェ! あたしを此処までコケにする奴は中々いねぇ、気に入ったぜ、色んな意味でなぁ……!?」

「す、ステータス激怒を確認、どうしてチビメイド様はアリスに怒りを向けているのですか……?」

「おもしれぇ、このあたしを馬鹿にしてんのか――問答無用だ、ぶっ殺す」

「ひぇっ!?」

 

 二度目のチビメイド呼びに堪忍袋の緒が切れるネル。どうやらアリスが意図的に自身を煽っているのだと勘違いしたらしい。アリスは突然爆発した相手に戦々恐々としながら、抱えていた光の剣に手を掛ける。

 

「あ、アリス、決闘の作法なら心得ています!」

「あ?」

 

 怯えを見せながら、しかし何やら妙な事を云い出すアリス。何かを思いついたとばかりに動き出した彼女は予備動作もなく抱えていた光の剣をネルに突きつける。更に砲口は既に青白く発光しており、幾らかチャージを済ませているのが分かった。

 会話中の低速チャージ――比較的静音で行われるそれに、ネルは直前まで気付かなかった。

 

「てめっ――!?」

「充填率三十パーセント――貫け、バランス崩壊ッ!」

 

 彼女の叫びと共に炸裂する砲撃――廊下を走る青白い閃光。

 百パーセントチャージと比較すれば小規模ではあるが、三割であっても通常の火器と比較すれば途轍もない威力である事に変わりはない。床を半円に抉り、遥か先の壁まで抉り抜いた砲撃。閃光は周囲に居た全員の網膜を焼き、爆音が辺りに轟いた。

 収束しする光、赤熱し立ち上る蒸気を銃身で掻き消しながら、アリスは告げた。

 

「アンブッシュは一度までなら許されるのです、誉れはネオ・キヴォトスで死にました!」

「な、何て堂々とした不意打ち……」

「あ、アリスちゃん……? これって勇者的にアリなの……?」

「大丈夫です! 勇者は他人の家で壺を割ったり箪笥を漁っても合法です! タックルでぶつかっても一度目は許されます!」

「えっと、これ、また怒られるんじゃ……?」

「うーん」

 

 まさかC&Cのリーダー相手に不意打ちを敢行するとは思っていなかったゲーム開発部の面々は、アリスに対して驚愕と畏怖を抱く。同時に三割チャージとは云え光の剣、その砲撃を受けたならば――もしかして倒せたのではないかと、そんな言葉が脳裏を過った。

 しかし、その幻想を裂くように蒸気越しに轟く銃声。

 

「あだっ!?」

「あぶなっ!?」

「ひっ……!」

 

 一帯を薙ぐ様にして放たれたそれはゲーム開発部に襲い掛かり、モモイは肩に一発、ミドリは辛うじて回避、ユズも咄嗟に屈んで難を逃れる。しかし先生の元へは一発たりとも飛来する事無く、まるで弾丸は先生を避けるように廊下の向こう側へと消えていった。

 

「っ……!」

 

 同時に小柄な影が蒸気を裂いて飛来し、アリスは咄嗟に光の剣を盾に見立て構えた。

 ガツン、と強力な衝撃がアリスの腕に走る。衝撃は百キロを超えるスーパーノヴァを持つアリスを後方へと僅かに押し込み、見れば光の剣に飛び蹴りを敢行するネルの姿。彼女はギラギラと光る瞳で以てアリスを睨みつけていた。

 

「うッ――!」

「へぇ、良い反応じゃねぇか! 戦闘勘もありやがる――いや、これは先生の力か?」

 

 自身の奇襲を完璧に防いで見せたアリスに対しネルは称賛の言葉を投げかける。その視線が一瞬先生に向けられ、歯を剥き出しにして彼女は笑った。

 光の剣、その外装を蹴飛ばし宙を舞うネル。軽い足取りで着地した彼女はステップを踏む様に身を揺らし、両手にぶら下げた愛銃の弾倉を取り外す。音を立てて床に転がる空の弾倉、同時にスカジャンから取り出した弾倉を空中に放り投げ、振り払う様にツイン・ドラゴンを薙ぐ。弾倉は確りと銃に嵌り、換装は一瞬で事足りた。

 ツイン・ドラゴンで肩を叩く彼女は、楽し気に喉を震わせながら声を上げる。

 

「はっ、やっぱり先生はスゲェな、あんたが居るだけで戦いにハリが出る」

「ネル……!」

「先生の戦闘支援を卑怯だとは思わねぇよ、寧ろ丁度良いハンデだ、あぁ、勿論今の不意打ちもな」

 

 使えるものは何でも使え、そう云って彼女は一歩、二歩とゲーム開発部に歩み寄る。同時に対峙する彼女達は無意識の内に一歩、二歩と下がる。一歩距離を詰められるだけで、息が詰まる様な圧迫感を覚える。

 

「だからこそ遠慮はいらねぇ、全員纏めて掛かって来な――テメェらがどんな存在か、あたしに魅せてみろ」

 

 先の銃撃で割れた非常灯の一つが点滅する。影と光が彼女の姿を暗闇に浮かび上がらせ、ジャラリと鎖が音を立てた。

 避けられない戦闘――ゲーム開発部に拒否権はない。

 暗闇の中で煌々と輝く赤い瞳。ネルは愛銃を両手に握り締めたまま告げた。

 

「C&C、コールサイン・ダブルオー――さぁ、始めようぜ!」




 毎日投稿は浜で死にましたの。
 恐らくあと二、三話でダイジェスト前編は終わりですわ。


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レトロチック・ロマン⑩

誤字脱字報告、感謝致しますわ!
今回は約一万二千字ですの。


 

【第二十五話】

 

「おらおらッ! こんなモンじゃねぇだろう!?」

「ぐ、ぅッ――!」

 

 C&Cリーダー、ネルと突発的な戦闘に突入したゲーム開発部。四対一という状況でありながら、彼女達は現在進行形で苦戦を強いられていた。

 アリスの構えるスーパーノヴァ、その表面装甲をネルの放った弾丸が強かに叩く。銃声と着弾音、暗闇に瞬くマズルフラッシュがアリス達の網膜を焼く。その闇の中でネルの眼光が赤く煌めいていた。尾を引く軌跡がアリスを取り囲み、光の剣を抱えるアリスの腕が震える。

 

「てめぇの武器は確かに強い、火力も範囲も大したモンだ……だがな、だからこそ弱点も分かり易い!」

「じゃ、弱点……?」

「一つ目は取り回しだ、デケェ分懐に飛び込まれたら銃口を相手に合わせるのに苦労するだろう!?」

 

 アリスの扱う光の剣(スーパーノヴァ)、その全長はアリスと同等かそれ以上、彼女の膂力を以てすれば運用可能な兵器ではあるものの、だからと云って扱いやすいかどうかは別である。特にその大きさからクロスレンジでは殆ど文字通り無用の長物と化す。ネルはそれを理解しており、常に一番の脅威となるアリスへと張り付くようにして立ち回っていた。

 

「二つ目は爆圧! 火力も範囲も馬鹿にならねぇ分、自爆しねぇように一定以上の距離がねぇと撃てねぇ!」

「あぐッ!?」

 

 回り込んだネルの至近距離で放った弾丸、アリスは辛うじて反応し光の剣を盾とする。しかし数発の弾丸が彼女の防御を抜け、脇腹を叩く。思わず蹈鞴を踏んだ彼女に対し、ここぞとばかりに攻勢を強めるネルは構えた光の剣を蹴り飛ばし、空中で弾倉を取り外した。

 

「そして三つ目! チャージに時間が掛かる! ある程度溜めねぇと碌に射撃も出来ねぇ、一度詰められちまえば殆ど完封されちまう! 今みてぇになッ!」

「っ、ぅ……――!」

「――そして、この間合いであたしに勝てる奴なんざ、キヴォトスに於いて一人も存在しねぇッ!」

「あ、アリスッ!」

 

 正に一方的な攻撃。

 光の剣を盾にして必死に耐えるしか出来ないアリスに対し、ネルの猛攻は続いて行く。モモイは居ても立っても居られず、覚悟を決めると銃口をネルへと向けた。アリスに張り付く様な立ち回り、FF(同士討ち)を警戒して手を出せなかったが、そうも云っていられない状況にある。このままでは、先にアリスが削られてしまう、モモイはそう判断した。

 

「こ、このッ!」

「はッ、見えてんだよッ!」

 

 しかし、その攻撃さえネルにとっては予期出来たものらしい。

 モモイが引き金に指を掛けた瞬間、視界に走るアラート。だがネルの銃口は自身に向いていなかった。故に彼女の反応は遅れ、攻撃はモモイに直撃する。

 

「いッ!?」

 

 思考に気を取られた一秒足らずの時間、その合間にモモイは強烈な打撃を頭部に受けた。ガツンと、頸から上が吹き飛んだと思う程の衝撃、鈍痛、堪え切れず転倒し床の上を滑り、抱えていた銃が脇へと転がる。痛みを発する頭部を抱え、苦悶の声を漏らすモモイ。

 

「いっ、たぁ……! な、何? 弾丸は、飛んで来なかったのに……!?」

「鎖だ、モモイ!」

「く、鎖――?」

 

 先生の声にモモイが視線を上げれば、愛銃同士を繋ぐ鎖を靡かせ、手足の様に操るネルの姿があった。それなりの長さを持つ鎖は唸る様に宙を舞い、時には相手を拘束する道具、時には殴打の武器、時には弾丸を防ぐ盾にもなる。ネルはそれを十全に扱い、手札の一つとしていたのだ。

 

「あ、あれってアクセサリーじゃないの……!?」

「カッケェのは大事だぜ? だが、使いこなせりゃもっとイカすだろう!」

「ユズ!」

「は、はいっ!」

 

 自身を囲う様に靡く鎖を鳴らしながら破顔するネル、先生は彼女にマーカーを設定しユズの名を呼んだ。意図を察したユズは即座に構え、発砲する。常の銃声とは異なる異質な発砲音、ネルは飛来する影に気付き――しかし避ける事も、迎撃する事もしない。

 寧ろ自ら駆け出し、飛来する弾頭へと気にせず突っ込んだ。

 

「っ……!?」

 

 着弾――炸裂。

 爆音が周囲に鳴り響き、風圧と爆炎に目を細めるアリス、モモイ、ミドリの三名。そんな中炎を切り裂き、獰猛な笑みを浮かべながら駆けるネルはユズへと肉薄する。

 

 ――これでも止まらないか。

 

 先生は思わず顔を顰め、ユズは自身の攻撃を受けて尚、欠片も堪えていない様子の相手に思わず悲鳴染みた声を上げる。

 

「ちょ、直撃したのにっ!?」

「ははッ、この程度であたしを止められると思ってんじゃねェぞ!?」

「ッ、ユズ、回避を――!」

 

 爆炎を裂き迫る影、至近距離での撃ち合いでユズが彼女に勝る点は一つとして存在しない。互いの銃、その相性もあるが白兵戦に縺れ込めば単純な技量と身体能力が物を云う。故にこそ先生は後退を指示したが――ユズは怯えと恐怖を滲ませた表情で、しかし敢えて一歩を踏み出した。

 

「っ、うわぁあッ!」

「あ――?」

 

 愛銃を足元に投げ、両手を突き出しながらネルの方へと飛び込むユズ。同時によもや突っ込んで来ると思っていたネルは面食らい、ユズの突進を正面から受ける。しかし彼女の体重、力ではネルを押し倒すどころか一歩後退させる事も出来ず、僅かな振動に体を揺らすのみ。

 一体何を――ネルが疑問と呆れを含ませた表情でユズを見下ろせば、彼女は涙の滲んだ目元をそのままに震える腕でネルを精一杯拘束し、比較的近場に居たミドリへと叫んだ。

 

「ッ、ミドリッ!」

「っ、ごめん、ユズちゃんッ!」

 

 ミドリは即座に彼女の意図を理解した。ユズが拘束し稼いだ時間、恐らく二秒にも満たない。しかし狙い撃つには十分な時間。ミドリは素早く屈んで愛銃を構えると、ネルの頭部にレティクルを合わせ――発砲。

 銃声が轟き、閃光と共に放たれた弾丸はネルの頭部を確かに弾き上げた。鎖が鳴り、ネルの足が一歩退く。

 

「あ、頭に直撃したっ!」

「これなら……!」

「――まだだッ!」

 

 ミドリの扱うライフル弾、7.62mmが無防備な頭部に直撃した。通常の生徒なら一発で昏倒してもおかしくはない、そうでなくとも何らかのダメージはある筈――そう期待したゲーム開発部に対し、先生は即座に否定を口にする。

 

「へぇ――悪くねぇ一発だ」

「ッ!?」

 

 そして事実、ネルは僅かも堪えた様子を見せない。額に滲んだ微かな赤み、それが唯一の着弾痕である。ネルを拘束したユズは頭部を弾かれても尚、全く揺らぎのないネルを見上げ血の気の失せた顔を晒す。

 ネルは怯え、竦んだユズを見下ろしながら息を吸い込むと、足を後ろに引きながら強烈な膝蹴りを彼女の腹部に叩き込んだ。衝撃でユズの身体が一瞬、浮き上がる。

 

「ぅぐッ!?」

 

 ミシリと肉を打つ打撃音、骨の軋む音をユズは自身の身体から聞いた。意思に反してネルを拘束していた腕から力が抜け、身体が硬直する。

 

「ハッ、良いガッツだったぜ、おでこ――中々根性あるじゃねぇか、あんた!」

 

 土壇場の状況で根性を見せたユズに称賛の言葉を掛けながら、腹部を抑え体を折り曲げた彼女を後方へと投げ飛ばす。地面を転がり、苦悶の表情を浮かべながら床を転がるユズ。

 

「ごほっ、げほッ……!」

「ユズ……!」

 

 先生は倒れ伏したユズ、彼女の脇の下へと腕を差し込み、そのまま引き摺って後退する。ユズは自身の腹部を抑えながら涙を浮かべ、痛みにぐっと耐えていた。

 

「っ、はぁ――ッ!」

「おっと」

 

 回収されていくユズを感心した様子で見送ったネル、その背後からアリスが光の剣で以て殴りかかる。大振りのそれをステップを踏んで回避するネル。床に激突した光の剣は表面を粉砕し、タイルを拉げさせた。

 

「はっ、その馬鹿デケェ銃を振り回せんのか、とんでもねぇ馬鹿力だな……!」

「っ、これ以上アリスの仲間を傷付けさせません!」

「お姉ちゃんっ!」

「ッ、分かってる……!」

 

 果敢に挑むアリスがネルのヘイトを買い、ミドリ、モモイが隙あらば銃撃を加え体力を削る。背後に突き刺さる幾つもの弾丸、チャージを諦めたのか光の剣を鈍器として振るうアリス。その戦い方は粗削りで、隙も多く近接戦闘としては下も下。唯一評価できる点は膂力、真面に受ければ諸共吹き飛ばされるだけの威力はあるが――。

 彼女達の立ち回りを観察し、ネルは一度大きく距離を取る。空振りしたアリスの一撃が重々しい風切り音を鳴らし、振り抜いた光の剣が床の一部を削り取った。

 

「中々どうして悪くねぇ連携だ、戦い方に関しては色々云いてぇ事もあるが、全体的な戦闘力に関しては他所の武装組織(そこらのグループ)よりも上等――だが想像以上って程じゃねぇ、戦術や立ち回りは兎も角基本的な技術と身体能力が低い、先生の支援があってコレなら、ちっと期待し過ぎたか……?」

 

 愛銃で肩を叩きながら呟くネル。総評としてゲーム開発部の戦闘能力は決して低くない、ミレニアム内部でも上位に食い込む実力はある原石達だ。

 しかし、先生による戦闘支援込みでコレならば、予想以上という程ではない。何より足を引っ張っているのがゲーム開発部の身体能力、射撃精度、戦闘に於ける練度全体。基本的に戦闘より技術的な面に重きを置くミレニアムに於いて、それは決して珍しい事ではないのだが……アリスを除いた三名の身体能力は、平均的な域を出ない。

 

 ――この程度でC&Cの守りを抜けたとは到底思えねぇ、単なる偶然(ラッキーパンチ)か?

 

 アスナを一発で戦闘不能にしたというアリス。セミナーのユウカ、アカネとカリンのタッグを崩したという一戦。その光るものがこの戦いで目に出来れば良いと思っていたが、どうにも不完全燃焼に傾きつつある。

 動きを止め、此方をじっと見つめるネルに対し、アリスは光の剣を構えながら傍に居るモモイ、ミドリ両名に告げた。

 

「……モモイ、ミドリ、先生の所まで下がっていて下さい」

「あ、アリスちゃん?」

「アリス、何か作戦でもあるの……?」

「はい――とっておきのものが一つ」

 

 二人の問い掛けに対し、アリスは自信満々に告げた。彼女の表情は凛々しく、少なくとも嘘には思えなかった。二人は顔を見合わせると、小さく頷いてアリスの後方へと回る。それはアリスへの信頼から来る行動だった。

 

「先生、皆をお願いします」

「……分かった」

 

 ユズ、ミドリ、モモイを先生に任せたアリスは、盾にするようにして構えていた光の剣を抱え上げ、その銃口を僅かに下げる。まるで巨大なランスを扱う様な恰好で、アリスは叫んだ。

 

「――行きますッ!」

 

 宣言すると同時に急速チャージを開始、唸りを上げる光の剣。重低音が鳴り響き、限界までチャージ速度を高めた影響か青白いスパークが光の剣より漏れ出る。光はアリスの姿を暗闇の中で浮き彫りにし、青い瞳がネルを捉えた。

 そしてアリスは光の剣を突き出しながら、ネル目掛けて床を力強く蹴る。

 

「魔力充填――三十、四十ッ!」

「へぇ、自分から距離を詰めて来るのかよ? だが、それは悪手だろうッ!」

「ぐッ、いいえ、そんな事は、ありません……!」

 

 恰好の的だと云わんばかりに愛銃を突き出し、発砲するネル。何の工夫もなしに、直線的に駆けるアリスは雨の様に降り注ぐ弾丸を真正面から受ける。咄嗟に腕で顔面をガードし、光の剣はチャージを続行。急速チャージを途切れらせないよう、限界まで盾にする事は避ける。

 

「ハッ! これだけ浴びて怯まねぇか! 良い根性だ、チビ!」

「アリスは、勇者ですっ!」

 

 そして無数の弾丸を潜り抜け、遂にクロスレンジへと到達するアリス。チャージを完了した光の剣を全力で突き出し突進する彼女に対し、笑みを浮かべながら前蹴りを放つネル。金属特有の反響が耳に届き、ネルは突き出された光の剣を全力で踏みつけた。銃口は床に突き立てられ、無防備なアリスに向けてネルは二つの銃口を突きつける。

 無謀な突進を敢行した彼女に対し、ネルは感心とも呆れとも取れる言葉を漏らした。

 

「度胸は認めてやる、だがチャージした所で、どうやってあたしに砲撃を当てるつもりだったんだ? 防ぐので手一杯のてめぇが、この距離であたしを捉えられると本気で思ったのか?」

「いいえ、照準は既に合わせてあります――!」

「んだと?」

 

 銃口を突きつけられ、光の剣はネルの足に押さえつけられている。

 だがそれで良い――既に照準は合っている。

 その言葉に眉を顰めるネル。最初は虚仮脅しか、単なる虚勢かとも思った。しかし自身を見上げるアリスの瞳に諦観や絶望はなく、暗闇の中でも爛々と輝く光がある。踏みつける光の剣、その銃口が向かっている場所、それらを一瞥したネルの脳裏にある一手が浮かんだ。

 

「……まさか」

「充填率――百パーセント、発射準備完了っ!」

 

 アリスの手の中で光の剣が唸りを上げる。攻撃を捌きながら溜め切ったチャージ、そして銃口が向く先は――ネルの足元。

 今ここで発射すれば、どうなるかなど火を見るよりも明らか。その決断にネルは思わず声を荒げる。

 

「ばッ、正気か!? このまま撃ったらてめぇも……!」

「これがッ、アリス生まれて初めての――自爆ですッ!」

 

 最初から狙いはこれ一つ。

 攻撃を当てられないのなら、確実に当てられる状況を作る。

 無論、この場所でフルチャージの光の剣を発射すれば攻撃範囲に自分も含まれるだろう、しかし問題ない――自身の肉体(ボディ)は頑丈だ。

 驚きで目を見開くネルに対し、最後にアリスは挑む様な笑みを零し――叫んだ。

 

「光よーッ!」

 

 直後、二人を包み込む巨大な爆発。

 アリス渾身の自爆攻撃。

 青白い光が視界一杯に広がり、炸裂、フロア全体を揺るがす様な振動と爆音が鳴り響く。背後に居たゲーム開発部は先生に抱き着き、先生もまた生徒達を掴みながら地面に伏せる。粉砕され、風圧に吹き飛ばされた石片が幾つか背中を叩き、やがて振動と爆発は徐々に収まった。

 

「っ、先生……!」

「私は、大丈夫っ! アリスとネルは――!?」

 

 地面に伏せた先生は掴んだ三人の無事を確認し、爆炎と蒸気、そして粉塵の舞う爆心地に目を向ける。慌てて駆け寄ったゲーム開発部が見たものは、爆発によって粉砕され崩れ落ちたフロアだった。

 

「ゆ、床が完全に壊れて……」

「下まで完全に貫通しちゃっているじゃん……!」

 

 アリスのスーパーノヴァ、その砲撃は周辺の床を完全に破壊し、階下まで貫通してしまっていた。漂う塵を手で払い除けながら、皆は薄暗い階下を覗き込みアリスを探す。

 

「――ぅ、ぐ」

「居た! 居たよっ!」

「あ、アリス!」

「アリスちゃん……!」

 

 空いた巨大な穴、そこから階下を覗き込んだゲーム開発部の視界に、瓦礫に乗り上げたアリスの姿が映った。幸い、崩れた瓦礫に圧し潰される事はなかった様で、現在ゲーム開発部のいる階層と、階下を繋ぐ様にして崩れた瓦礫の上に彼女は横たわっていた。

 傍には光の剣も転がっている。アリスは彼方此方煤け、傷付いた腕を伸ばし皆に助けを求めた。

 

「に、肉体損傷七十三パーセント……こ、後退を、望みます」

「私がアリスを背負う、ネルが攻勢を仕掛けて来る前に撤退しよう……!」

「分かりました――お姉ちゃん、光の剣(スーパーノヴァ)!」

「えっ、私達で運ぶのッ!?」

「当たり前でしょう!?」

「わ、私も手伝う……!」

 

 先生は素早く瓦礫を伝ってアリスの傍まで駆け寄ると、そのままシッテムの箱を懐に仕舞って彼女を背負い上げる。残った面々は光の剣を運搬する為に三人がかりで飛び出し、瓦礫と一緒に転がっていた光の剣をどうにかこうにか元の階層へと引き上げた。通常状態でも百キロを超える光の剣は、インドア派である彼女達の筋肉を大いに苦しめる。

 

「ごめん皆、重いとは思うけれど頑張ってくれ――!」

「だ、大丈夫、です……!」

「んぎっ、お、重っ……!?」

「き、筋肉痛確定だけれど、い、急いで……!」

 

 アリスを背負って先頭を駆ける先生、その背後に光の剣を担いだ三人が続く。ネルが再び立ち上がる前に撤退を開始したゲーム開発部は、そのまま暗がりの中に姿を消した。

 

 ゲーム開発部が爆心地を離れて数十秒後、階下に埋まった瓦礫の一つが揺れ動き、その下から指先が顔を覗かせる。

 

「っ、邪魔くせぇ、なッ!」

 

 自身の身の丈を超える瓦礫を渾身の力で跳ねのけ、確りとした足取りで立ち上がるネル。制服に付着した汚れを手で払うと、鋭い目つきで以て周囲を見渡す。床を貫通し、数階分落下した彼女は頭上にぽっかりと空いた穴を見上げながら、放たれた火力の高さに感心の吐息を零した。

 

「あ~、久々だな、こんな規模の攻撃を喰らったのは……」

 

 今まで数多くの戦闘を経験した彼女ではあるが、個人携帯火器として見ればこれ以上の攻撃を喰らった経験など数える程しかない。見下ろせばC&C専用の制服も所々煤け、スカート部分は端が焼き切れている。

 幸いなのはお気に入りのスカジャンが無事だった事か。袖口に付着した煤を乱雑に拭い、穴の向こう側にいるであろうゲーム開発部の気配を探る。しかし、周辺には誰の気配もない。

 

「連中は――逃げたか、まぁ先生が指揮してんなら追っても無駄だろうな」

 

 こっちに強烈な一撃を叩き込み、その隙に逃走する。その判断の速さは流石というべきか、恐らく今から追跡したとしても手遅れだろう。何かを考え込む様に近場の瓦礫へと腰を落としたネルは、足元の石片を蹴飛ばしながら呟く。

 

「……ゲーム開発部、か」

 

 中々、面白い連中だった。

 戦闘に関しては手慣れていないようだが、こんな計画を実行する程の胆力、あの度胸は見所がある。それに土壇場で見せる根性、あれも中々悪くない。何より全員チビで偉ぶって見えないのが良かった。

 端的に云って――気に入った。

 

「お、電力が戻ったか」

 

 そんな事を考えていると、非常灯が通常の室内灯に切り替わり、薄暗かった周辺が一気に明るくなる。恐らくゲーム開発部が脱出を終えたのだろう、ネルは瓦礫から立ち上がると耳元のインカムに指先を添え、気怠そうな声で通信を開いた。

 

「あー、アカネか? あたしだ、さっき任務が終わって戻って来たんだがよ……あ? 依頼? セミナーの奴だろう? あの依頼は撤回だとよ、さっきリオから連絡が……理由? 知るかよ、あたしに聞くんじゃねぇ」

 

 ジャラジャラと、愛銃を束ねた鎖を鳴らしながら彼女は歩き出す。その歩みは淀みなく、廊下の向こう側から誰かの呼ぶ声が聞こえていた。

 

 ■

 

【第二十六話】

 

 セミナー襲撃より一夜明けた――ゲーム開発部、部室にて。

 

「うぅ、うう……」

「……お姉ちゃん、緊張し過ぎじゃない?」

「だ、だって、そろそろでしょう!? そろそろだよね!?」

「う、うん、確か今日の昼頃って云っていたし……」

 

 落ち着かない様子で時計を見るモモイ、時刻は丁度十二時半を回ろうとしている。

 ヴェリタス、エンジニア部と手を組んでセミナーを襲撃したのがつい昨日の事。襲撃した足で鏡をヴェリタスに届け、次いでデータ解析を頼み、ゲーム開発部は解析終了まで部室で待機する流れとなった。

 無論、その間にセミナーからの抗議や、C&Cからの連絡など色々あった訳だが――細々としたものは先生が裏で処理し、またリオとヒマリの目論見もあり大事にはならずに済んでいる。

 様々な困難を乗り越え、漸く念願のG.Bibleに手が掛かった訳だが――アリスは落ち着かない様子の三人を見て、疑問符を浮かべた。

 

「? 皆、今日は何か特別なレイドでもあるのでしょうか」

「今日の昼頃、ヴェリタスから解析したデータが届くらしいんだ」

「あっ、例の重要アイテムですね!」

 

 昨日から同席している先生が、強い疲労を滲ませた表情で答える。よれたシャーレの制服を身に纏う先生は、比喩でも何でもなく死ぬほど疲れていた。覇気がなく、血の気の失せた顔を見れば凡そ察せられるだろう。

 ゲーム開発部の作戦に参加し走り回り、彼女達と一緒にヴェリタスへ鏡を届けた後は事後処理の時間である。ミレニアムタワーの被害確認、負傷者の有無から今回の戦闘で迷惑を被った生徒達への謝罪行脚。セミナーの生徒会役員は勿論、C&Cの皆にも事情を説明しなければならない。無論ヴェリタスやゲーム開発部にも、協力して貰った感謝を示す必要がある。

 

 今回の一件はヒマリとリオが噛んでいる為、セミナー側としても先生、延いてはシャーレに対して何らかのアクションを起こす事は無かった。しかし、それでユウカとノアの両名が納得するかと云えばそうではなく、彼女達には個人的なお願いを幾つか頼まれてしまった訳である。勿論、先生にそれを断る権利は存在しない。

 そんな草臥れた大人の先生がソファに身を預け魂を飛ばし、ゲーム開発部の面々は解析データの到着を今か今かと待っていた頃。

 

 ――ゲーム開発部、部室の扉がノックされた。

 

「はーい! ゲーム開発部のちびっ子たち! マキちゃんからプレゼントのお届けだよ!」

「きっ、来た!」

 

 扉越しに聞こえて来たマキの声に、モモイは思わず飛び上がる。慌てて扉に駆け寄ると、そのまま彼女を中へと招き入れた。中に踏み込んだマキは揃って緊張した様子のゲーム開発部を見て、それからソファに座った先生に気付く。

 

「あっ、先生! こっちに居たんだ、やっほ~!」

「……やぁマキ、昨日はお世話になったね」

「全然! っていうか、それはこっちの台詞だから! 後でヴェリタスにも寄ってくれるの?」

「うん、迷惑でなければ」

「迷惑な訳ないじゃん!」

 

 昨日の作戦に参加したとは思えない程、元気溌剌と云った様子のマキ。データ解析も徹夜で行ったのだろう、しかしその疲労が彼女には欠片も見えない。これが若さか、先生は内心で彼女の体力を羨んだ。

 

「それでマキ、部室に来たって事は……!」

「うん、鏡で例のデータ、解析が完了したよ! いやぁ遅れてごめんね~、あの後鏡に関してセミナーとゴタゴタがあってさ」

「一晩で解析出来たなら全然おっけー! という事で、例のブツはどこに……」

 

 モモイがそう云って視線に期待を滲ませると、マキは笑みを浮かべながら自身のポケットに手を入れ、一本のUSBメモリらしき記憶媒体を取り出した。

 

「ジャジャーン! 解析したデータはこの中に入っているからね!」

「おぉ~……!」

「これに、G.Bibleが……!」

「ゆ、ユズ、パソコン!」

「あ、う、うん」

 

 マキから手渡されたそれを恭しく受け取り、モモイはユズの持って来たPCへと早速記憶媒体を差し込む。一拍置いて表示されるフォルダ、中身には勿論――G.Bibleの名前がある。

 

「……ん、あれ? マキ、こっちのフォルダは?」

「あ、それ?」

 

 しかし、表示されたフォルダは一つだけではなかった。もう一つ、見覚えのないものがある。モモイが疑問の声を上げながら画面を指差せば、同じようにモニタを覗き込んでいたマキが頬を掻いた。

 

「そのフォルダ、解析を終えて内部データを確認していた時に出て来てさ」

「なにこれ、key(ケイ)?」

「嘘でしょ、お姉ちゃん」

「……これは『キー』って読むんだ、鍵って意味だね」

 

 まさかのkeyすら読めない姉に、驚きよりも不安が勝るミドリ。先生は苦笑を零しながら正しい読みを彼女に教える。「いや、ちょっと間違っただけだし!」と虚勢を張るモモイに、ミドリは胡乱な目を向け続けた。

 

「えっと実はね、これについてはヴェリタスでも何一つ分からなくて、ファイル自体は破損していないっぽいんだけれど、私達の知っている機械語のどれにも当て嵌まらない形式で解読出来なくてさ」

「ヴェリタスでも分からないって、それ結構凄い事なんじゃ……?」

「うん、多分ミレニアムの誰にも分からないんじゃないかな? もし解読の可能性があるとすれば、ヒマリ部長位だけれど……って事で、皆はこの『key』ってデータの事、何か知っていたりする?」

 

 マキが若干の期待を込めて全員に問い掛けるも、ゲーム開発部の面々は緩く首を振る。

 

「いや、全然」

「わ、私も……ミドリは?」

「うーん」

 

 ユズの問い掛けに対しミドリは一瞬悩む素振りを見せたものの、ややあって否定を口にした。

 

「憶えはない、かなぁ」

「アリスも分かりません!」

「そっか~、データを持って来た皆なら何か知っているかもって思ったけれど……まぁこっちについては後々頑張って解析してみるよ、多分時間は掛かるだろうけれど」

 

 それだけ告げて、マキは立ち上がる。

 

「という訳で、確かに依頼の品は届けたから! 先生も、またあとでね!」

「うん、また後で」

「ありがとう、マキ! あ、今度会う時は秘書を通して連絡してね! 何せ私達は『テイルズ・サガ・クロニクル2』で大ヒットする予定だから!」

「あははっ、楽しみにしているよ!」

 

 モモイの力強い宣言に破顔し、マキは手を振りながらゲーム開発部を後にする。モモイは彼女の背中を見送ると改めてゲーム開発部の仲間達へと視線を向け、大きく息を吸い込んだ。

 

「良し、皆居るよね!?」

 

 アリス、ユズ、ミドリ、先生――昨日作戦に参加した全員が此処に居る事を指差し確かめ、彼女は佇まいを正すと言葉を続ける。

 

「皆も知っている通り、この中に何が入っているかについては、殆ど誰も知らない――ただ最後にG.Bibleを見たと噂される、あるカリスマ開発者によると、ゲーム開発に於ける秘技、皆が知っている様で、誰も知らなかった奇跡が入っているんだって」

「――奇跡、ですか?」

「うん、奇跡……私はそれがずっと知りたかった」

 

 アリスの疑問に、モモイは自身の両手を見下ろしながら呟く。あらゆるゲーム開発者、クリエイターが求めた奇跡。それがこの中にはある筈なのだ。

 

「……最高のゲームを作る為に、だよね?」

「うん、そういう事」

 

 ミドリの言葉に、力強く頷きを返すモモイ。

 

「最高のゲームを作って、ミレニアム・プライスで優勝……ううん、入賞するだけで良い、そうすれば部活の実績としては十分な筈」

「そうすれば、これからも皆で、この場所に居られる……」

 

 ミドリ、ユズの順に呟き、全員の視線がPCのモニタへと注がれる。表示されるG.Bibleの文字、この中に自分達の未来全てが掛かっていると云っても過言ではない。

 もし万が一失敗してゲーム開発部が廃部となれば、考えたくはないがユズは寮に戻される羽目になるだろう。会いたくもない同居人と顔を突き合わせ、息苦しい毎日を送る事になるに違いない。

 そして、そもそも本来ミレニアムの生徒ですらないアリスは――。

 

「もし、もし万が一失敗したら、アリスちゃんはどうなっちゃうんだろう……?」

 

 それはふと漏れた、不安の声だった。ミドリの呟いたそれに対し、モモイは慌てて言葉を返す。

 

「ッ、きっ、きっと何とかなるよ、先生だって居るんだし!」

「……? えっと、先生と一緒なのは、アリスとっても嬉しいのですが」

 

 アリスはモモイの発言に対し、目を瞬かせながら先生、そしてゲーム開発部の皆と視線を動かす。そこには不安や焦燥ではなく、純粋な疑念の色だけがあった。

 

「――失敗したら、アリスはもう此処(ゲーム開発部)に……皆と一緒には居られないのですか?」

「ッ……!」

 

 唐突に投げかけられた言葉。失敗してしまった場合の末路――その未来を案じる声に、モモイは一瞬怯み、言葉を詰まらせ、そしてその未来に対抗しようと大声で以て否定した。

 

「そ、そんな事ないっ! 私達は絶対に、何が何でもっ、最高のゲームを作るんだからッ!」

 

 両手を握り締め、挑む様にパソコンのモニタを睨み付けるモモイ。その為に本来侵入が禁止されている廃墟なんて危険な場所に潜り込んで、苦労してデータを手に入れたのだ。

 更に中身のデータを解析する為にセミナーに喧嘩を売って、C&Cに酷い目に遭わされて、本当に色々な人に助けて貰って――漸く此処まで辿り着いた。

 だからきっと、コレには素晴らしい奇跡が眠っている。

 

「これさえ、伝説のG.bibleさえあれば、絶対に……!」

 

 神ゲーが作れる。

 皆が認めるゲームを完成させられる。

 それは自分に云い聞かせている様でもあり、同時に安心させる様な声色だった。モモイはアリス、ミドリ、ユズに視線を向け断言する。

 

「私達の作品は神ゲーになって、これからも皆と一緒に居られるんだから――!」

 

 G.Bibleさえあれば、神ゲーを作れる。

 神ゲーを作ってミレニアム・プライスで実績を残せれば、ゲーム開発部は存続出来る。

 ゲーム開発部が存続出来れば――皆で一緒に居られる(アリスも一緒に居られる)

 その為に彼女達はコレを探し求めた。

 この場所を守る為に。

 皆の居場所を――守る為に。

 

「………」

 

 そんなモモイの姿を、先生は真剣な眼差しで見守っていた。

 

「アリス、G.bibleを……起動しよう!」

「――分かりました」

 

 振り向き、PCへと向き直ったモモイはアリスにG.Bibleの起動を指示する。全員の視線がモニタに集中し、固唾を呑んでアリスを見守る。

 アリスはゆっくりとマウスカーソルを動かしフォルダに重ねた。視線を脇に逸らせば、モモイが様々な感情の滲んだ瞳で以て頷いて見せる。ユズも、ミドリも同じだ、一人一人視線を合わせれば緊張、不安、恐怖、期待、それらが肌越しに感じ取れる。

 最後にアリスは先生を見た。先生はただ、真っ直ぐ此方を見ていた。そこからはただ強い信頼を感じる。それ以上でも以下でもない、先生はただどんな結果が提示されるにしろ、自分達ならば乗り越えられると信じているのだ。

 アリスは小さく息を吸い込み、吐き出す。

 そして改めてモニタに向き直ると、指先に力を籠め――告げた。

 

「G.Bible、起動します……!」

 


 

 次回でダイジェスト版、パヴァーヌ前編は終わりですわ!

 ダイジェストなのに結局十万字近く掛かっちゃった……まぁ本来二ヶ月掛かるものを二週間に縮めたのだから「ヨシ!」としましょう。

 ダイジェスト前編が終わり次第、間を置かずパヴァーヌ後編に入りますの。

 そしてやっと先生をボコボコに出来ますわ! 待ってましたわよぉ! この瞬間(トキ)をよぉ! ですわぁ~!

 

 パヴァーヌ前編は平和でしたわね。愛と勇気とロマンのお話、素敵ですわね、感動的ですわ、でも先生は血を流しておりませんの。

 エデン条約で目を奪われ、腕を奪われ、余命幾許かの先生から五感を奪い、そこからカードで更に体を削る時、きっと生徒達は美しい愛を先生に魅せてくれる筈です。

 得られる希望の過程、そこに至るまでに失われたものが多ければ多い程、その手にした希望は一等輝き、素晴らしい価値を持つのですわ。



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