乙女ゲーに転生したら本編前の主人公と仲良くなった。 (4kibou)
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1/気付いてしまった


乙女回路が暴走したので初投稿です(大嘘)






 

 

 

 

 彼が彼女とはじめて出会ったのは中学三年生のとき。

 まだ季節の暖かさが残る、春の終わり頃だ。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 紙の上ではありふれた話ではあるけれど、彼がこうして在るのは二度目だった。

 

 どこか遠いところで産まれ育って、紆余曲折を得ながら過ごして――病気で死んだのが十九歳。

 それからもう一度意識が起きて、誰とも同じく普通に暮らして十五年。

 

 分かったのは経験というのは馬鹿にならないというコトと、それでも自分には足りないものがいっぱいあるというコトと、なんであれ生きるのはしんどいというコト。

 あとは、それでも疲労心労に項垂れないぐらい月並みなものは有り難いというコト。

 

「…………、」

 

 ほう、と息を吐きながら歩く。

 

 町外れのそこそこ大きい――けれどその割に利用者が多くもない進学塾。

 授業がはじまるまでは結構時間があるためか、廊下には人影がない。

 

 しん、と静まり返った廊下はきっちりひとり分……彼のスリッパの音だけを反響させている。

 

 もとより人の気配が少ない建物だ。

 混み合う時間を避けるとこの通り、空気は見事に閑散としたものになる。

 

(……経営とか、大丈夫なんだろうか……)

 

 ふと、なんでもない疑問なんて浮かんだりする。

 

 授業内容は決して悪くない。

 講師の先生もしっかり教えてくれていて、入会金その他の費用も他と比べれば安め。

 だというのに立地的な問題か、町中にできた流行りの大手学習塾に人をどんどん取られているのか生徒の数はてんでさっぱり。

 

 彼としてはおそらく後者かなと予想しているがどんなものか。

 

 そうなるとなんとなく、コンビニエンスストアやスーパーマーケットに追いやられた下町の商店街を想起させる。

 

「…………、」

 

 ペタペタといやに響く足音を鳴らしながら進む。

 目的地は塾生なら基本自由に使える自習室だ。

 

 時間帯は決まっているものの、前述した通り寂れた学習塾の一室。

 

 誰も近寄らないような片隅も片隅。

 学校よりも静かで、図書館よりも他人に気遣うコトがない。

 勉強するには打ってつけの場所である。

 

 ……そう、勉強。

 

 一年もない先に迫った高校受験の対策。

 言うまでもなく、足りないというのはそのあたり。

 

 もともと、彼は勉強があまり得意ではない。

 以前の高校は近場でそこそこの、大ポカでもしない限りは無理せず入れる市立高だった。

 それもせいぜい一年ちょっとで辞めざるを得なくなり、その後は通信教育に切り替えるもあまり身が入らず断念。

 

 そんなもんだから人生二回目がどうしたというのか。

 前世の記憶なんて大層なモノを引っ張り出しても、進学はまったく優位にならない現実を突き付けられたのである。

 

(……あれ?)

 

 不意に足を止めて気付いた。

 廊下の先、あとわずかの距離まで迫った塾の自習室。

 本来なら誰もいないはずのそこから、薄く光が漏れている。

 

(珍しいな……、俺以外に使ってる人いるんだ……)

 

 騒ぐような声は聞こえない。

 響いている音はせいぜいが教室の壁一枚で押さえ込めるぐらいの微かな物音だけ。

 

 だとするなら恐らく向こうも同じ手合いだ。

 静かな環境のほうが集中できるというコトだろう。

 

 少しばかり息をおさえて、できるだけ大人しく……ゆっくりと、自習室の扉を開ける。

 

 中に居るのは――たったひとりだけ。

 

「…………、」

「…………、」

 

 目が合ってお互いにコクリ、と会釈を交わす。

 

 見れば同年代の、学校にいれば間違いなく人目につくであろう人間だった。

 室内の古びた蛍光灯の下でさえその綺麗さは霞んでいない。

 

 冬の月みたいに冷たく光る銀色の長髪と、暗い紫水晶じみた両の瞳。

 肌は玻璃のように白く、ペンを持つ手は細くてしなやか。

 ひときわ目を引くのは赤い縞模様のカチューシャと、髪を結んだ黄色いリボン。

 

 こんなところにいるのが似合わないぐらいの、とんでもない美少女だ。

 

(……でも、なんだろう。彼女、どこかで――)

 

 ……会っただろうか? なんて思案する少年。

 

 だが生憎なにかしたようなエピソードも、すれ違ったような記憶もない。

 そもそもあれほどの容姿であれば一度見ていれば早々忘れないものである。

 

 少なくとも、直接的な関係を持ったワケじゃないのはたしかだ。

 

(……気のせいかな。たぶん。大体、女の子の知り合いなんて殆ど居ないし)

 

 静かにドアを閉めて、彼は廊下側――彼女から少し離れた席についた。

 

 念のため視線を向けたみたが反応はない。

 どうやら新しく人が入ってきたことよりも自分の勉強に夢中のよう。

 

 受験生の鑑みたいだ、なんて思いながら彼もノートと教材を開いていく。

 

「…………、」

「…………、」

 

 静けさを取り戻した自習室には淋しい音だけが続く。

 

 ガリガリとペンを走らせる音。

 どちらも気にならないぐらいの息遣い。

 そしてたまに、わずかながら起こる衣擦れの音。

 

 ページは時たま止まりながらも、これといった大渋滞はなく捲られていく。

 

「………………、」

「………………、」

 

 ガリガリ、ガリガリと。

 視線は教材とノートを行ったり来たり。

 

 やる事も考える事もそれなりに多い。

 忙しないけれど、地道で気の遠くなるような時間。

 

 やっぱり勉強は、得意ではなかった模様。

 

(理数系と英語はどうにかしたいな……国語と社会はなんとかいけそうだし)

 

 目下、彼の第一志望は県内有数の超名門校だ。

 正直ノー勉でもいけた前回とは違ってハードルがぐんと上がっている。

 

 教師からの評価はまあ頑張ればいけなくもないんじゃないか、というぐらい。

 それだって毎回必死に勉強しての成果なのだから、生半可なモノではきっと敵わないだろうコトは分かっていた。

 

(ほんと、大変だこれ)

 

 ひっそりとため息をつく。

 

 繰り返すように、勉強は得意じゃない。

 人一倍頑張ってやっといまの学校で成績上位に入れる程度。

 ちょっと高望みなのは最初からなんとなく察していたのだ。

 

 ……そのあたりで心配させたのかどうか。

 

 いまの彼の両親は、無理して良いところにいかなくても構わないと言っていた。

 有り難いお言葉である。

 

(……けど、ちょっとは良いほうが、そりゃあ、良いだろうし)

 

 理由なんてそんなもの。

 ぶっちゃけてしまえば熱意に燃えているワケでも、使命に追われているワケでもない。

 ましてや命を懸けるほど本気になっているのでもない。

 

 ただよくしてもらったから、その分だけ返せるなら返したいのであって。

 たぶん良い学校にいって、良い会社に入るのがそうなのだろうと。

 

「――――――、」

「……、」

 

 益体もないコトを考えながら問題を解くこと数十分。

 ちょっとした難問にぶつかった。

 簡単な計算ではなく応用問題である。

 しかもちょうどよく苦手範囲に被っているところ。

 

 不幸なコトに、頭がそっちの方面にまったく弱い彼はこういうタイプが大敵であった。

 それまで最低限のリズムを保っていたペンがピタリと止まる。

 

(まじか)

 

 なにこれ? と頭を捻りながら問題文を見詰める。

 

 読み直す、解いてみる――ダメだ違うやり直し。

 順番が違うのだろうか、それともシンプルに方法がダメなのか。

 それとも考え方が根本的に間違っているのか、そもそも式は合っていて――

 

 なんて、うんうん唸りながらぐるぐる思考を回すことしばらく。

 

「あの」

 

 ふと、件の美少女から話しかけられた。

 

「? はい」

「……それ、数学……です、よね」

「そう……ですね」

「……あ、と。西中(にしちゅう)の……」

「え? ……あ、そっか。制服……うん、そう。三年です」

「……私も三年、北中(きたちゅう)。……悩んでるみたいだし、よかったら教えよう……か……?」

「…………いいの?」

 

 恐る恐るといった問いかけに、少女が「うん」とだけ短く返す。

 なんとも親切な申し出である。

 大方、彼のペンが止まったのを気にして話しかけてくれたのだろう、と。

 

「私、数学は得意だから。その……同じ受験生として、見過ごせないっていうか」

「……ありがとう。是非」

「――――……うん」

「えっと、じゃあ早速なんだけど、ここの問題で――」

「……ああ、これなら――――」

 

 彼女の説明をもとに問題を解いていく。

 

 地頭が良いのだろう。

 態度こそ初対面故の距離があるものの、少女の教え方は酷くするりと耳に入った。

 

 勉強のできない彼でも思わず「おぉ」なんて声に出してしまうほど。

 

「ならここはこうだ」

「あ、違う違う。そうじゃない。まず――」

「え、じゃあこう――」

「それでもない。問題文にこう書いてあるから――」

「……あれ? 違うの? 合ってる?」

「最後で間違ってるよ。そっちの数じゃなくて――」

 

 ……そう、本当に、説明は分かりやすかった。

 分かりやすかったのだ、間違いなく。

 いけないのは二回も人生体験を繰り返している変な頭のほうである。

 

「――――で、できた……」

「ん、よかった」

「どうもありがとう。すごいタメになった。……代わりといってはなんだけど、文系なら俺も自信あるから」

「そう……なんだ。私は()()()がちょっと苦手だから……助かる、かも」

「うん。それならその……必要そうなときに、呼んでもらえたら。……まあ一番得意なのは美術なんだけど」

「……絵?」

「え? ……あ、絵。絵か。そう、絵」

「……好きなの?」

「うーん……それなりに」

 

 笑いながら彼が答えると、彼女はどこかぼうっとしながら。

 

「……そういうこと言う人って、大体好きなんだよ」

「…………そうかな?」

「うん」

 

 そうでもないんだけど、という言葉は声に出さずにおいた。

 わざわざ伝えるコトでもなし、必死になって否定するほどでもない。

 なんだかんだで色々と嫌いでもないのだし。

 

「……えっと、じゃあ……西中の……」

「あ、名前まだだっけ。俺は水桶肇(みなおけはじめ)って……言います」

「……なんでいきなり敬語?」

「なんで、だろう……?」

「……まぁ、いいのかな……水桶(みなおけ)くんね。……やっぱ、違ったのか」

「?」

「あ、ごめん。なんでもないよ」

 

 ふわりと笑って少女が彼――肇の前に立つ。

 

 ――瞬間だった。

 

 例えるならパチッと火花が散ったような。

 肌に針を刺したみたいな、あっと跳ねるような唐突な気付き。

 

 不思議と、偶然、引き上げられてきた記憶が。

 脳裏に過った一枚のイメージが――眼前の少女と一致する。

 

「――私は(なぎさ)優希之(ゆきの)渚。……よろしくね、水桶くん」

 

「――――――」

 

 その名前には覚えがあった。

 

 勉強の時とは比べものにならないほど思考が回転する。

 水底深くに沈んでいた記憶が攪拌されていくような錯覚。

 

 微かながらもキーワードは以前から。

 

 彼が進学先として選んだ県内有数の超名門校。

 世間に広く知れ渡っている()()()聞き慣れない社名。

 古いモノに引っ張られるようなナニカ。

 

 そして決定打は――――この少女の名前。

 

 ……間違い、ない。

 

(ここって、もしかして……)

 

 いや、もしかしなくても。

 

 ほんと、紙の上ではありふれた話ではあるけれど。

 

 どうやらここは前世でいう乙女ゲームの世界であって。

 自分はその中の本編に影も形もない名もなき誰かになっていて。

 

 いま目の前にいるのはその作品の主人公――ヒロインである、ということらしい。

 

 

 



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2/かわいいヒロインちゃんです

 

 

 

 

 銀に輝く渚の恋歌――というゲームがある。

 

 ジャンルは女性向け恋愛シミュレーションゲーム。

 俗に言う乙女ゲー。

 

 舞台は大きな学園、そこに入学した主人公(ヒロイン)が個性豊かな男子たちと出会い、交流を重ねながら恋に落ちていく――

 特にこれといって突飛な要素も少ない、至って普通のシンプルな物語だ。

 

「……水桶くん?」

「――――、」

 

 目の前にいるのが――勉強を教えてもらったのが、その主人公だった。

 

 肇はちょっと混乱した。

 端的にいって訳が分からない。

 

 掘り起こした記憶が確かであれば、前に彼はその作品を遊んだコトがある。

 一緒に住んでいた姉に勧められてのコトだ。

 流石にゲーム内容までは詳しく覚えていないけれど、何度かスチルで見たキャラクターの容姿ぐらいならしっかりと思い出せた。

 

(優希之、渚……――)

 

 銀の髪、紫の瞳、赤縞のカチューシャ、黄色いリボン。

 どこかで見たような、と引っ掛かったワケを今更ながら理解する。

 

 名前はもちろん容姿だって現時点でそう変わりない。

 不思議なコトに平面と立体であるのに記憶の光景ともピッタリだ。

 

「……えっと。私の顔、なんかついてる……?」

「ご、ごめん。大丈夫、そういうのじゃなくて……うん、ちょっとびっくりして」

「え?」

「あー、だから、まあ。その、良い名前だなって」

「…………そう?」

「うん。俺はそう思う」

 

 咄嗟に誤魔化しながらも、肇の脳内では恐るべき速度で疑問がわいていた。

 

 何故、なに、つまりあれがこうで、それがどうで、なにがなんで。

 いやでも俄には信じられないけど現実で、しかし到底ありえないコトで、でもありえないとなれば彼自身の状況がありえなくて――と、思考回路はぐるぐるぐるぐる。

 

「……なんか、それ、ナンパの台詞みたいだね」

「そういう意図はないん、だけど……?」

「私もそれで誘われる気はないから、大丈夫」

「そっか」

「うん、そう」

 

 勉強を教えるために隣まで来ていた彼女がくすりと微笑む。

 

 没個性的でプレイヤーの分身感が強いギャルゲーの主人公と違い、乙女ゲーの主人公は非常にかわいらしくデザインされ描かれている作品も多い。

 

 かくいう渚もその類いの主人公だった。

 攻略対象であるキャラと並んでも負けず劣らずの美人。

 そこらのヒロインなんて目じゃないレベルで綺麗なのである。

 

(いや、実際こうしてみると、すごいな……破壊力)

 

 一見した雰囲気がダウナーなものであるだけに、笑った顔は殊更絶大だ。

 全然そういった感じでもないのに、肇の心臓が少し跳ねかけた。

 

 乙女ゲームの主人公(ヒロイン)恐るべし、と。

 

「……そういえばなんだけど」

「? なに」

「優希之さんは……どこ受けるかって、決めてる?」

「高校?」

「うん」

「一応、星辰奏(せいしんそう)かな」

 

 県立星辰奏学園――件の乙女ゲームの舞台になる学園だ。

 

 この近くでは有名で、一番大きく一番頭の良い進学先になる。

 入れたらそれだけで将来安泰とまで冗談交じりに言われる超名門校。

 

 ゲームはそこに主人公が入学したところからなので、つまり今は本編前。

 なにもはじまっていない状況であるのだが……そこで彼女と出会ってしまった場合どうすれば良いのか。

 ゲームでは名前も存在も一切なかった肇としてはやっぱりさっぱり。

 

「水桶くんは?」

「あ、俺も同じ。第一志望は星辰奏。……学力的にいけるか分からないんだけど」

「……だから勉強、してるんじゃないの?」

「あ、うん。そうだね。そうそう」

「…………、志望理由とか、あるの?」

「なんとなく」

 

 訊かれて、すっぱりと。

 なにかを隠したようでも誤魔化した風でもなく、そのまま返すように肇は答えた。

 

「なんとなく……?」

「そう。家族のコトとか、これからのコトとか考えたら、とりあえず良いところに行っておいたほうがいいかなって。ただそれだけ」

「……それでそんな、必死に勉強してるの?」

「やれるだけやっておかないと。それに実際、そこまで気負ってるワケでもないし」

「……そっか」

 

 言いながら、彼の目はすでに手元へと戻っていた。

 ひとつ壁を越えたからか、カリカリと淀みなくペンが走っていく。

 

 そんな姿を気になったのか、ぼんやり渚は眺めてみる。

 黙々と問題を解いている様子は先ほどと同じく必死といえば必死。

 けれど言われてみればたしかに、鬼気迫るといったモノがあまり感じられない。

 気持ち肩の力だって抜けているようだ。

 

 なるほど。

 それならまあ、彼の言う通りなのだろう。

 

「とにかく俺はそんな感じ。……優希之さんは?」

「……私?」

「うん。星辰奏選んだ理由とかあったりする?」

「……あー……まあ……、とりあえず……って感じかな」

「?」

「そのぐらいはまあ、私だってしても良いかなって思って」

「……俺と似たような感じ?」

「そう、だね。……先のことを考えたら、行っておいたほうが良いんだろうね」

 

 視線を落としながら肯定する渚。

 

 実際、入れるだけの能力があるのなら入っておいて損はない。

 誰にでも門戸を開くというワケではないが故に、星辰奏はそれぐらいの進学先(ところ)だ。

 

 肇としても彼女の言い分は共感できて、十分理解できるものだった。

 渚自身がどう感じているかは、また別として。

 

「でも、そっか。進学先は同じになるんだ」

「……ふたりとも合格できたらの話だけどね。そこ、違うよ」

「え、うそ」

「本当。途中で式、間違ってる」

「……計算は苦手だ」

 

 はあ、とため息をつきながら肇はペンから消しゴムに持ち替えた。

 学習範囲はあくまでまだまだ中学生のところ。

 それですら悪戦苦闘なのだから、これで高校生にあがったらどうなるか考えたくもない。

 

 経験があってもダメなものはてんでダメ、というのは辛い現実だ。

 ろくな勉強をしてこなかった前世の知識はやっぱり役に立たず。

 

「……頑張って。私も頑張るし」

「……うん、ありがとう」

「だから、分かんないところがあったら訊いて。……私も水桶くんに訊くから」

「そうだね。そのぐらいは、はい。喜んで」

「……なにそれ」

 

 変なの、なんて呟きながら渚はくすくすと笑った。

 それにこてんと首をかしげた肇だったが、その反応がまたおかしくって口元をおさえる。

 

 予感というか、直感じみたものがあるのならそのときだ。

 

 不思議と彼女はどこか懐かしい、なにかの残影を見て――――

 

 

 

「…………ねえ」

「?」

「もしかしてなんだけど、君――」

 

 

 

 言いかけて、やめる。

 

「…………いや、ごめん。やっぱなんでもない」

「……そう?」

「うん。……どっちにしたって、構わないし」

 

 どうであれ変わることもない、とでも言いたげに渚は口を噤んだ。

 

 その表情は先ほどと打って変わってどことなく沈んでいる。

 探していた宝物を見つけたと思ったらそうじゃなくて、落ち込んでいる子供みたいだ。

 変な話、肇にはその感情がなんとなく読み取れた。

 

 何故だかは、さっぱり分からないけれど。

 彼女のことは昔から、よく知っているような気がする。

 

 ……まあ前世(むかし)から知っていたといえばその通りなのだが。

 

「優希之さん?」

「あ、うん。なに」

「えっと……悩み事でも、あるの……?」

「……ごめん、そうじゃない。大丈夫。違うから、安心して」

「そう……?」

「…………ちょっとした、自己嫌悪みたいなもの。……集中できないよね。頭、冷やしてくる」

 

 言って、渚はそのまま席を立って扉まで走っていく。

 肇がなにか答えようとする暇も、声をかける隙もない。

 あっという間に教室を横切った彼女は淀みない動作のまま廊下へと出ていった。

 

 トタトタと、壁を隔てて外から響く足音が急速に遠ざかっていく。

 

「…………?」

 

 その背中を呆然と眺めて、肇はいま一度なんだろうと首をかしげた。

 

 悩み事ではないというのなら原因は一体どこにあるのか。

 自己嫌悪とは言っていたが、そうなった経緯がイマイチ彼には分からない。

 

 ……ああ、でも。

 結局、彼女は――

 

(……なにが聞きたかったんだろう……?)

 

 そんなことを思いながら、ペンを握り直す。

 

 考えても答えは浮かんでこなかった。

 当然の如く人の心なんて数学とは比べものにならないほど難解だ。

 解き方も公式もないのだから手強いなんてものじゃない。

 

 悩んでいたってきっと時間だけが過ぎていく。

 仕方なく教材に視線を落として、肇は勉強を再開した。

 

 

 

 ……でも、ひとつだけ訂正。

 

 比べ物にならないなんて言ったけれど、やっぱり数学は数学でそれなりに難解だ。

 

 

 







おや? と思ったあなたは鋭いひと。

あっ(察し)となったひとは勘の良いガキは(ry


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3/不思議なヨカン

 

 

 

 

 塾の授業が終わると、時計の針はすでに左上へと差しかかっていた。

 

 これから日が伸びてくるとはいえまだ春の陽気が残る時期。

 あたりはすでに薄暗い闇。

 ぽつぽつと在る街灯と民家の明かりがほんのりと道を照らしている。

 

 そんな中を並んで歩く男女が一組。

 言うまでもなく、肇と渚だった。

 

「今日は本当にありがとう。色々と助かったよ」

「……そう? なら、良いんだけど」

「本当。……優希之さん、教え方上手だったし、よく分かった」

「そのわりに結構間違えてたけどね、水桶くん」

「うっ……」

 

 胸を押さえるようにしてどこか遠くを見る肇。

 

 悲しいかな、今までが駄目すぎたのか生来のものか、彼の頭はそこまで勉強に強くない。

 むしろ弱い。

 

 以前苦労しなかったのは偏にそこまで学力を重視するような生活じゃなかったコトと、病気のせいで勉強の機会が極端に減っていったせいだ。

 それも今となっては環境が一変、身体だって無事なのだから自然とこうもなる。

 

「これでも学年の中では上から数えたほうが早いんだよ……?」

「それは分かるよ。言ってたとおり、国語と社会は私が教えてもらったぐらいだし」

「そっちは得意科目だからね。これからも力になれると嬉しい」

「私は私が要らなくなってくれるほうが嬉しいけどね。水桶くんの学力的に」

「精進します……」

 

 がくりと肩を落とす肇を見て、渚が小さく笑い声をこぼす。

 

 授業までの自習中、隣の渚から散々指摘をもらった受験生である。

 自分では上手く解いているつもりでもそうではない。

 公式を間違っていたり計算が狂っていたりと、目下問題点は増加中。

 

 このままではいけるかどうか、なんて()()()悩みも出てきてしまう。

 

「……地道にやっていけばいいと思うよ、本番は来年なんだし」

「それで間に合えばいいんだけど」

「間に合わせなきゃね。……せっかく同じ塾で同じ進学先なんだし、一緒に受かったほうがいいでしょ」

「あぁ、そうだね」

 

 偶然とはいえ、そこが彼と彼女の共通点。

 特別でもなんでもない、探せばどこにでもいそうな勉強仲間の間柄。

 

 だからこそなのかどうなのか。

 殆ど今日が初対面だというのに、打ち解けるのは早かった。

 

 それが単に相性が良かったからか、それとも主人公(ヒロイン)の手腕によるものか。

 そこはイマイチ分からなかったけれど。

 

「……水桶くんってさ、よく勉強会とか誘われない?」

「え、いや、まったく」

「ほんと?」

「うん。仲の良い子、運動系のほうが多いし。俺はもっぱら勉強だから」

「……そうなんだ。私は今日、結構集中できたから……」

「自習室だからじゃない?」

「……たしかに、それはあるね」

 

 けれどまあ、集中できたという点に関しては彼も同じ感想だった。

 分からないところは教えてもらったというのもあるが、手の進みの速さでいえばいつもよりずっと速かったように思う。

 

「……水桶くんは結構使うの? うちの塾の、自習室」

「使うよ。たぶん、これから一年間はもっと」

「そっか。……私もまたあそこで勉強しようかな。捗ったワケだし」

「良いと思う。……そのときはまた教えてもらってもいい?」

「……水桶くんもね。一方的な貸し借りはなしで」

「それはもちろん」

「…………うん」

 

 自然と会話が途切れる。

 

 時間も相まって人通りの少ない道はすれ違う人影だって滅多にない。

 都会の喧噪とは少し離れた住宅街。

 聞こえる音の大半は薄く微かに、ふたり分の靴音だけが大きく響いていく。

 

 居心地に悪さはなかった。

 ただどこか、言いようのない感じを肇は覚えて。

 

 ……なぜだろう。

 昔、誰かとこうして歩いていたような――――

 

 

 

「……あ、その……めちゃくちゃ関係ないコト訊くんだけど……」

「――――あ、うん。なに?」

「水桶くんって……えっと、格好いい男子と知り合いだったりする……?」

「……急だね」

「ご、ごめん。ちょっと気になって。ほら、女子として……その、ね」

「……格好いい男子かー……」

 

 うーん、と顎に手を当てながら思い返す。

 

 格好良い、と一言にいっても難しい。

 男子のそれと女子のそれは違うという話はよく聞くし、なにより人の好みは千差万別だ。

 クラスメートというだけでフィルターがかからないこともない。

 

 案外自分の印象というのはアテになるかならないか半々だったりする。

 

 ので、

 

「うちの学校でモテてる奴とか、女子から人気ある奴とかは知ってるけど……」

「……西中の? えっと……名前とか、聞いてもいい?」

比良本(ひらもと)とか、瀬利乃(せりの)とか。後輩だと唯咲(ゆいざき)とか?」

「へぇ……当たり前だけど、全然知らないなあ……」

「知ってたら逆に怖いと思うよ」

「……そうだね、怖いね」

 

 はあ、と彼女はひとつ小さくため息をついて。

 

「――――あ、じゃあ、私ここで」

「……大丈夫? 暗いし、何なら家まで送るけど」

「大丈夫大丈夫。家、すぐそこだし。時間取らせちゃっても悪いから」

「そう?」

 

 こくこくと頷きながら渚が指をさしたほうへ足を向ける。

 

 もとより一緒に歩いていたのは途中まで帰り道が同じ方向だったからだ。

 彼女は右に曲がる道を示していて、彼の家はまだ真っ直ぐ進んだ先。

 

 これ以上は流石に考え無しで行っていい領分でもない。

 

「……それならじゃあ、また」

「うん。また」

 

 ひらひらと手を振って勉強仲間の少女と別れる。

 

 名残惜しさみたいなものはあったかどうか。

 くるりと踵を返して肇が歩みを再開するのと、背中から聞こえてくる足音が遠ざかっていくのは同時だった。

 そこに落胆するような心の動きは、たぶんどちらもない。

 

 唯一あるとすれば、ほんの些細な――気付かないぐらいの微かな震え。

 

(…………?)

 

 針か棘で刺されたみたいな違和感に首をかしげる。

 

 なにが変だったのか、どう違っていたのかは彼もさっぱり。

 でも、不思議なことに感情の機微は僅かながらも存在した。

 

 であるのなら、やっぱり。

 

(あれかな。――――乙女ゲー主人公(ヒロイン)、恐るべし)

 

 たぶん、そういうコトなんじゃないかなと。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

「ただいま」

 

 肇と別れてから五分も経たない頃。

 

 言った通りすごそこだった実家の玄関をくぐって、渚は帰宅と相成った。

 少し遅めの時間帯だが、廊下も部屋も電気はまだ煌々とついている。

 

「お帰り。ご飯とお風呂は準備してあるから、早く着替えてらっしゃい」

「……ん、分かった。いつもありがと」

「良いから良いから」

 

 リビングから顔を出して声をかけてきたのは母親だった。

 ちらっと見れば父親のほうはテレビの前でソファーを占拠している。

 その間にあるガラステーブルの上には銀色の(ヤツ)と惣菜の焼き鳥。

 また飲んでる、なんて言うとべったべたのでっれでれなダル絡みをされるのが目に見えているので今はスルー。

 

 大人しく母親の言うコトに従って部屋へ向かうコトにした。

 

「……? ねえねえ渚」

「……お母さん? どうしたの急に?」

「いや、嬉しそうだけど。なにか良いことあったのかなーって」

「…………私?」

「うん。ほら、ちょっとニヤけてる」

「…………別に、なんもないと思う……けど……」

 

 ぱっと口元を隠しながら、途中で止まった階段を上りきる。

 

 自室は二階の手前から二番目、両親たちの寝室の横だ。

 着替えだけならそんなに時間もかからない。

 

 至って普通に彼女はドアを開けて中に入り、手早く制服を脱いでいく。

 

 姿見に映ったのはなんてことはない自分の身体と――

 

(……ニヤけてる……? というか、ならなにが嬉しくて……?)

 

 いつもとあまり変わり映えのしない己の顔をじっと見詰めて、眉根を寄せた。

 

 母親は分かっていたようにああ言ったけれど、彼女に自覚は一切ない。

 むしろ言われてはじめて「そうだろうか?」なんて疑問を抱いたほどだ。

 

 その理由もなにも一切不明。

 

(……見間違いじゃないかな。そんなこと、ないと思うんだけど……)

 

 首をかしげながら脱いだ制服をハンガーにかけて、箪笥から私服を引っ張り出す。

 

 今日これといって嬉しいコトがあったかと言われても微妙なところだ。

 道端で偶然お金を拾ったのでもなし、クジやなにか当たったのでもなし。

 びっくりするぐらい運が良かったワケでもなく、そう変わらない一日だった。

 

「……普通、だよね」

 

 呟いて、いま一度姿見を確認する。

 毎日見ている顔は当然の如く、変なところもない。

 

「――ママ? ()()()()()帰ってきたの? いまどこ? 二階?」

「着替えに行かせてるから。お父さんもはやくソレ片付けて寝てくださいね」

「なーちゃんがご飯まだだろー。そのあとまで居る」

「……その呼び方、間違いなく思春期のあの子に嫌われるわよ」

「あっはっは――――ごめん、ちょっと泣く」

「弱いわね」

 

 階下からは両親のとりとめもない会話。

 いつも通りのちょっと遅めな塾帰り。

 なにも変わらない、普通の彼女の日常だ。

 

(…………うん。やっぱり、気のせいだ――)

 

 私服に着替えて、彼女はそのまま階段を降りてリビングへと向かう。

 その足取りがいつもより軽やかなのに気付けないのは、言うまでもなかった。

 

 

 



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4/おどろきまして

 

 

 

 

 日々は消費されるように進んでいく。

 季節が変わるのだってあっという間だ。

 

 彼女――渚と肇が出会ってからはや一か月ほど。

 

 六月も半ば、梅雨真っ只中の時期。

 自習室の窓から眺める空は相も変わらず鉛色。

 

 降り続けている雨は少なくとも今日一日止みそうな気配はない。

 

「……水桶くん、傘持って来てる?」

「そりゃあ、まあ。朝からずっとだし」

「そうだよね」

 

 どこか土をかぶったような匂いと、パラパラと窓を叩く雨の音。

 いつもより音は多いものの、空気は冴えるように静かだ。

 

 湿度の高さ故か、湿った教材は触れるとほんのり冷たい。

 

 そんな状況だとしても今年度が勝負の受験生。

 ペンを走らせる手は、緩みこそすれ止まらないままである。

 

「…………、」

「…………、」

 

 会話もコミュニケーションもそこそこ。

 

 時折ある他愛ない会話も続いたり続かなかったり。

 けれど教え合うときに不便なので席は近く、隣同士に。

 

 肇と渚――原作主人公との付き合いは奇妙な距離感のまま続いている。

 先に話していたとおり互いに分からないところを助け合う勉強仲間として。

 

「…………水桶くん、助けて」

「どうしたの」

「文章抜き出し……」

「うん、どこ?」

「ほら、ここ」

 

 とんとん、と手元の問題集を指差されて椅子を動かした。

 

 自分の席から少しずれて横へ。

 ちょうど並ぶようにして、机の上を覗き込むように身体を傾ける。

 

「二十五字以内とかあるけど、なんでこういうのちゃんと文字数決めないんだろうね」

「決まってるのもあると思うよ、たぶん」

「……引っ掛け?」

「かも。それで、問題だけど。月がどうしてヒトのカタチになりたいのか、だから――」

 

 ざっと設問の文章を読みながら渚に説明していく。

 

 国語は理数系に比べればまだ全然できる科目だ。

 ずっと昔からインドア派だったのと、おそらく前世で一時期入院したときに飽きるほど小説を読んでいたからだろう。

 

 ゲームも漫画も思いっきり嗜んだのはその時期だった。

 それ以前はまあそこそこ忙しくも充実した普通の学生生活を。

 

 それ以降にやっていたことなんて本当、馬鹿の一つ覚えみたいに――

 

「わっ」

「あ、雷」

 

 じめっとした空気を震わせるような轟き。

 ぴかっと光った稲妻は数秒と待たずに音が追い付いてくる。

 どうにもそこまで離れていない様子。

 

 びっくりしながら渚のほうを見ると、彼女も肇のほうへ顔を向けながらパチパチと忙しなく瞬きなんかしていた。

 パチパチ、パチパチと。

 

「近かったね……」

「うん、驚いた。帰り、ちょっと怖いね」

「……たしかに。雨はどうにかなっても、雷はね」

「…………、」

 

 それからなんでもないように、渚が問題集へと視線を落とす。

 

 怖がっているとかそういうのではない。

 表情にしろ身体の動きにしろ、彼女にそういった態度は見られない。

 声のトーンも視線の動きも至って普通、いつも通りの姿。

 

 ただ、やっぱり肇にはなんだかおかしなモノがあって。

 

 つきん、と細く頭が痛む。

 

「…………?」

「……どうしたの? 水桶くん」

「あ、えっと……その……――」

「…………?」

 

 思わず額に手を置いて俯く。

 

 普段なら気にもとめないぐらいの些細な感触。

 それは物理的なモノではなくて、やっぱり胸の内で起きたコトだ。

 

 手応えを探っても曖昧で分からない。

 今年に入ってからやけにこういうことが起こる。

 

 ……本当になんだろう、と彼はひとつ息を吐いて。

 

「――もしかして水桶くん、雷が苦手?」

「……え」

「別に、それならそうって言えばいいのに。……隠さなくてもいいと思うけど」

「いや、違うって。そういうのじゃなくて、もっと――」

 

 ぴしゃああぁあん、と先に続いて二度目の雷が落ちる。

 今度はおそらくもっと近い。

 

 ふたりして顔を向け合ったまま音を浴びること数秒。

 繰り返すように渚はパチパチと忙しなく瞬きをし、肇の顔も引き攣るように強張った。

 

「……ほら、やっぱり苦手でしょ」

「別に――うん、本当に違う。苦手とかじゃない。そうじゃないんだよ」

「そこまで必死にならなくても。……もっと近くに寄ろうか?」

「だから違うんだって、もう……」

「……ふふっ。そっか」

「…………、」

 

 からかうように笑って渚が目を細める。

 果たして彼の言い分は正しくしっかり伝わったかどうか。

 はっきりと明言はされなかった。

 

 ……されなかったのだが、その後も度々向けられた暖かい目がなによりも雄弁に物語っていた。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 帰る時間になっても天気は変わらなかった。

 空は依然として濁ったような雲に覆われている。

 

 ざあざあと降りしきる雨。

 

 星も月もない夜は酷く暗い。

 代わりと言ってはなんだけれど、雨音のおかげで自然の喧噪はそれなりにあった。

 加えて時折起こる稲光と、ゴロゴロと唸る雷の音。

 

 夜の静けさは曖昧に誤魔化されている。

 

「大丈夫? 水桶くん」

「だから違うんだよ、優希之さん」

「……そんなに強がらなくても。実際、雷って危ないし」

「強がってなんかないし、本当に違うからね」

「……うん、そうだね」

 

 頷きながら、ぽわぽわと暖かい目を渚が向けてくる。

 

「…………優希之さん……」

「なに、どうしたの」

「……そういうつもりなの?」

「そういう、って?」

「…………君は()()()()だね、案外」

「――――ふふっ、ごめん」

 

(…………、まったく……)

 

 らしくもなくふて腐れて、肇はふいっとそっぽを向いた。

 渚のいる方とは反対側に首をまわしつつ、うなじをガリガリと掻く。

 

 年甲斐もない……というのは中身の話で、身体はきちんと男子中学生なわけだが、それにしたって今日の彼女は言った通りちょっと意地が悪い。

 

 途中から半ば分かっていただろうにからかって来たのなんて正しくそうだ。

 ほんとにもう、なんて若干の不機嫌を隠しもせず歩いていく。

 

 と、

 

 

 

「――――――」

 

 

「…………、優希之さん?」

 

 不意に隣を歩いていた彼女の足音が止んだ。

 振り返って見てみれば、わずかに下がったところで渚が静かに佇んでいる。

 

 反射的にジトっとした視線を投げたのは先ほどの件によるもの。

 呼びかけた声は聞こえなかったのか反応がない。

 

 一体何事か、と身体ごと向き直って少女と相対する。

 

「――――――――、」

「……優希之さん?」

 

 もう一度名前を呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 渚は呆然とその場に立ち尽くしていた。

 視線はじっと肇のほうへ向けられている。

 気のせいか、その瞳を微かに震わせながら。

 

 時間停止にも近い動作の制止、もしくは意識の空白。

 

 ありえないものを見たように、その目が大きく見開かれる。

 

――――」

「どうしたの?」

「っ……あ……、いや……えっ、と……」

「……大丈夫? 気分悪いとか?」

「っ、そうじゃ――……、……あぁ、ううん……、……気分は悪い、かな……」

 

 あはは、と力無く笑って肩を落とす渚。

 

 こぼしたため息は重く空気にのし掛かっていく。

 それこそ雨の音にも負けないほど強烈に、沈むみたいに。

 

「……歩けないぐらい? 熱とかある? 痛いところとか……」

「あ……そういうんじゃ、ないんだ。ごめん……ただ……」

「……ただ?」

「…………なん、だろうね。こう……凄い、情けなくって」

「……?」

「……ああ。ごめん。これも……私の、話だった……」

 

 見るに堪えないぐらいの意気消沈。

 

 ついさっきまで肇相手にふざけていた態度はどこへ行ったのか。

 いまの彼女は自分の感情に押し潰されるのではというほど沈痛だ。

 

 目を離せばすぐにでも消えてしまうんじゃないかと思ってしまうほど。

 

「……水桶くん、さ」

「? う、うん」

「前に、美術が得意って……言ってた、じゃん」

「そう、だね。たしかに言ったけど」

「……実際に、その、色々……というか、いっぱい描いてたり……するの?」

「いや、全然」

 

 その答えは彼女にとってどう映ったのか。

 

「せいぜい授業とか宿題でやるぐらいだよ。自分で描いたりしたコトはないかな」

「………………そう、なんだ」

 

 肇には分からない。

 俯く渚の顔は夜の闇と傘の影に包まれて見えない。

 

 ただ、聞こえてきた声音は奇妙な響きを孕んでいた。

 

 どこか安堵したような。

 それでいてどこか失望したような――微妙な声の震え。

 

「……それが、どうかしたの?」

「…………ううん、なんでもない。ちょっと、気になっただけ」

「…………、」

「気分が悪かったのは……情けないのは……、うん。私自身、言い過ぎたなって……」

「……良いよ、そのぐらい。もう怒ってないから」

「あはは……ありがと。……優しいんだね、水桶くんは」

 

 そうでもない、と返しながら自然に彼女を促して歩みを再開する。

 

 一時は真っ青だった顔色は段々と血の気を取り戻していた。

 足取りも淀みない。

 意識も視線もはっきりとしている。

 

 危ないのは、その心の模様だけ。

 

「……そうかな」

 

 否定も肯定もせずに彼女の隣を往く。

 

 なにが良くてなにが悪いか。

 その人にとってなにがタメになるのか。

 

 優しいかどうかなんて分からない。

 

 

 ……でも。

 

 

 下手にすぎる女の子の嘘ぐらいは、彼でも分かるコトができた。

 

 

 



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5/きっといつか

 

 

 

 

 自販機でそれぞれの飲み物を購入する。

 彼自身はココアを、彼女には聞いていたとおり紅茶を。

 

 ちょっと落ち着こう、という肇の申し出でふたりは近くの公園で休むコトにした。

 

 道すがらにある、遊具も少ない淋しげな庭園。

 その片隅に設けられた小さな休憩所は、屋根があるのも相まってちょうど良い場所だった。

 

「はい、どうぞ。これでよかった?」

「……うん、大丈夫……えっと、お金……」

「ううん、いいから。いつも教えてもらってるお礼と思って」

「それは……、……ごめん。ありがとう……」

 

 遠慮がちに受け取る渚に笑って返しながら、彼女の横に腰掛ける。

 

 雨はまだ止みそうにない。

 幸いなコトに傘もあるしまったく濡れてはいないが、じめじめした空気は馴染むように重苦しさを増していた。

 

 息が詰まるというよりは泥に嵌まっていく感じ。

 引っ張られて肇まで気分が落ちそうになる錯覚。

 

 他人である彼でさえそうなのだから、当人の心持ちなんて相当だろう。

 

 放っておくのは、下策に思えた。

 

「……、いただきます……」

「うん」

 

 かちっと蓋を回して、渚がペットボトルに口を付ける。

 こくこくと何度か喉を鳴らす音。

 それを見ながら彼も缶のつまみを起こして、ゆっくりと傾けた。

 

 いやな静けさに包まれた空間には飲み物の嚥下する音だけが響いていく。

 

(……ああ、そういえば……)

 

 ……ふと、思い起こしたのはなんでもないコト。

 

 前世(むかし)からずっと、珈琲よりココアのほうが好きだった。

 とくに姉が淹れてくれたココアは格別で、それを片手によく午後の時間を過ごした。

 

 まだ今に至る前の、遠い彼方で過ぎた充実していた日々の話である。

 そこに大きな未練とかはないけれど、一抹の寂しさは覚えて然るべきだ。

 

 軽いホームシックみたいなもの。

 離れた故郷を想う、おかしくもなんともない人の性。

 

「…………、」

「…………、」

 

 姉はとにかく明るい人だった。

 いつもニコニコ笑っていて、朗らかで、優しく賢い自慢の姉弟(きょうだい)

 幼い頃からたくさん暖かく接してもらって、病気になってからも支えてくれた。

 

 その気持ちに救われた事は少なくない。

 他人の温度が心に届くのは彼自身よく分かっている。

 

 彼がここまで世話を焼いたのはだからなのか、なんなのか。

 

 そこまで上手くやれる自信はないけれど、ちょっとでもそうなれたらと思った。

 

「……少しは楽になった?」

「…………うん、ごめん」

「そんな、謝らなくても。……大丈夫だから、気にしないで」

「…………、……ほんと、ごめん……」

「……優希之さん……」

「…………、」

 

 ざあざあと雨が降る。

 ふたりの間には再度沈黙が訪れる。

 

 塾の終わり。

 時間は遅い、夜は暗い。

 おまけに悪天候で視界が悪い、路面状況だって最悪だ。

 

 あまりここに居すぎてはいけないのはどちらも理解している。

 

 家族のことを思えば、学生である身を考えれば、安全のことを頭に入れるなら。

 こんな風に寄り道せず真っ直ぐ歩いて、大人しく家に帰るのが正しい。

 

 ……そんなことは、彼も彼女もちゃんと分かっていた。

 

「…………首」

「……くび?」

 

 口火を切ったのは意外にも渚だった。

 

 彼女は悲痛な面持ちのまま、わずかに顔を上げて自分のうなじをトントンと指で叩く。

 どこか力無く微笑みながら。

 

「あんまり掻いてると、よくないよ。……痕、つくから」

「……そんなことしてた?」

「してたよ、さっき。……無意識……なの?」

「……かもしれない。うん、全然気付かなかった」

「…………そっか」

 

 もう一度ペットボトルに口を付けて、こくこくと渚が喉を鳴らす。

 

 飲み物のおかげか座ってゆっくりしたせいか。

 顔色はさっきより格段によくなった。

 指先の震えも瞳孔の揺らぎもない。

 未だ纏い付く、えもいわれぬ雰囲気を除けばいつも通りの彼女に戻っている。

 

 それに少しだけ安心して、肇はほっと息を吐いた。

 

「…………昔さ、知り合いの……男の子が、似たようなクセ持ってて」

「うん」

「何度も掻いたんだろうね……その子の首、酷くてさ。もう、傷だらけで」

「そっか……じゃあ、俺も気をつけないとだ」

「そう、だね……ほんと、凄いから。やめたほうが、いいよ」

 

 そっと自分のうなじを撫でながら、肇はうんうんと頷いた。

 

 驚いた理由はその傷痕を思い出してのモノだろうか。

 だとすればどれほどの惨状だったのだろう。

 

 教えてもらったとは言え、まだ見ぬ未来に若干震える純朴少年である。

 そういえば前世でも時たま姉に「それはやめなー?」なんて注意されたような、されていなかったような。

 

「…………水桶くんは、さ」

「……うん」

「後悔してるコトって、ある?」

「……どうだろ。色々、人並みにはあると思うよ」

 

 パッと思いつくことはないけれど、前世を含めて探せば十分に出てくるだろう。

 

 例えばもっとちゃんと勉強していれば良かったとか。

 もっと長く生きていられたらなあとか、動ける内にできることもあったなとか。

 優しい姉を残して先に死んでしまったコトだとか。

 

「……そっか。私もまあ……それなりに、あって」

「…………、」

「……過去(むかし)のことを、ずっと引き摺ってて。上手く割り切れなくて……」

「……うん」

「それを、なんか。思い知らされちゃったって言うか……」

 

 いや、分かってたんだけどね、と弱々しい声で呟く渚。

 

 肇はあまり詳しくこの世界(ゲーム)を覚えていない。

 せいぜいが主人公(ヒロイン)は誰で、攻略対象者はどんな人物で、こういう話があったか無かったかといった程度だ。

 

 前世でプレイしたゲームの中のひとつである。

 知識も記憶も勉強と同じくアテになんてまったくならない。

 

 だから正直、彼女がここまで何かを抱えていたコトは純粋に驚いた。

 

 ……なんとなく、その立場にあるなら問題なんてないだろうと思っていた。

 

「どうしたら、良いんだろうね……切り替えるとか、時間が経てば解決するとか……そんなコトだったら、私、こんなになってないのに」

「………」

「自分でも、分かってるんだ。こんなんじゃいけないって。どうにかしなきゃって。……分かってるのにね。いつまで経っても、ずるずる引っ張って……みっともなくてさ……」

「…………、」

「要は、そんな私に気付いて、すごいショック受けただけ。……ほんと、それだけ」

 

 落ちていくような語尾と共に、渚は折れるよう俯いた。

 

 視線は休憩所備え付けのテーブルとベンチの間に固定されている。

 なにかを見ているわけではなく、なにかを想っているような瞳。

 

 肇はその姿をじっと見詰めている。

 

 隣から覗く彼女の横顔は髪に隠れて全貌が見えない。

 でも表情は手に取るように分かった。

 きっと彼でなくてもそれは同じ。

 

 それほどまでにいまの渚は、大きすぎる後悔の念に襲われている。

 

「……ごめんね、水桶くん……変な話……しちゃって。空気、悪くしちゃって」

「そんなこと……」

「いいよ。気、遣わなくても……私が、勝手に喋っただけ、だし」

「…………、」

 

 他人の事情に土足で踏み込むことはできない。

 知りもしないコトを誤魔化して喋ることなんてできない。

 

 (かれ)には分からない。

 

 もちろん生きているうちに後悔はある。

 未練だって少ないながらも、一切無いなんてコトはなかった。

 それらに引っ張られる感覚は分からないでもない。

 

 けれど、そうやって思い悩む誰かにかける言葉が分からない。

 

 たかだか十九年、生まれ変わっても十五年。

 

 人を慰めた経験が、彼には少なすぎた。

 

「…………、」

「…………、」

 

 空気は重い。

 世界は沈んでいる。

 

 公園の街灯が雫を照らしながら淡く輝く。

 一片の光は闇を照らしても人の心までは照らせない。

 

 当然だ、物理的なモノと精神的なモノは違う。

 内と外、見えるものと見えないもの。

 その違いは正しく隔絶している。

 

(……もしもこれが、ゲームだったなら――)

 

 きっと適役が他にいる。

 救われる少女は正しい形で救われる。

 他所からやって来たなにも知らない人間がわざわざ首を突っ込むまでもない。

 

 ()()は正真正銘ヒーローだ。

 苦痛に苛まれる彼女を助けられるだけの言葉を持っている。

 その言葉が浮かんでくるぐらい素敵な心を持っている。

 

 肇にそれはできない。

 

 キャラクターがどうとか、話の都合がとかそんな問題ではなく。

 単純に、そこまでの能力が人として備わっていない。

 

(――――、…………)

 

 しょうがない、仕方ないだろう。

 分からないのは当然で、足りないのも当たり前だ。

 

 彼にはろくな能力(チカラ)がない。

 勉強もイマイチであれば前世の記憶で気の利いたコトなんかを言えるワケでもない。

 乙女ゲームの主人公(ヒロイン)にとって彼は救い人たり得ない。

 

「……優希之さんは――」

 

 だからこそ。

 無理をするワケも、ここで彼が苦悩する必要もなかった。

 

 肇の心は話を聞く前からずっと変わらない。

 揺れる感情があったとしても、自分自身の何かが曲がるワケではないのだから。

 

「――それを、どうしたいの?」

「…………どう、って……」

「忘れたい? それとも、気にしたくない?」

「…………、」

 

 返事は無言だった。

 

 ぐっと噛み締められた口から言葉は出て来ない。

 沈黙は是、という状況がこれほど似合うときもないだろう。

 

 その回答は声に出さずとも伝わった。

 

 

 

「別に、良いんじゃないかな」

 

 

 

 少女の顔が持ち上がる。

 困惑と、驚きと、ひとつまみの恐怖が入り交じったような複雑な面立ち。

 

 恐る恐るといった様子の渚に、肇は真っ直ぐ視線を合わせた。

 

「人間なんだし、後悔するのは当たり前だし。心に残ってるなら、引き摺って当然だと思う」

「……でも、幾らなんでも……ずっと、なんだよ……?」

「うん。けど、焦らなくても良いんじゃない?」

「そんなの……」

「……上手く言えないけど。いつ後悔が消えるとか、割り切れるとか、分からないよそんなの。もしかしたら明日、ちょっとした切欠で軽くなるかもしれないし、もっとずっと先まで抱えていくのかもしれない」

 

 心の在処に正解はない。

 もとより後悔は先に立たないもの。

 過去に戻ってどうするコトもできない限り、完璧に解決するコトなんて早々できないだろう。

 

「ならそれまで抱えていて良いんじゃないかな。無理して切り替えなんかしなくても。いつかなくなるまで、思っていても良いと思う」

 

 少女が瞠目する。

 呆然と彼の方を見る。

 

 肇は少し照れくさそうに、微笑みながら口を開いた。

 

「だって、長く引き摺るのは大切な証だ。たぶんそれだけ大事ってことだ。簡単にどうにかできなくて当然だよ。だったら大切な分だけ、大事な分だけ抱えていても良いんじゃない」

 

「――――――」

 

 なにもかもが分からなかった。

 戻らない過去を振り返ってずっと嘆いている。

 

 理性はそれを間違いだと述べていて。

 本能はぐしゃぐしゃに潰れるぐらい痛かった。

 

 正しいコトが優しいとは限らない。

 

 立ち直らなくてはと何度も思った。

 このままじゃいられないと考えたのは彼女なりの胸に残った微かな強さだ。

 

「それでいつか――本当にいつか、どこかで、上手く折り合いをつける日が来たらそれで良いんだ。……ううん、来なくてもいい。だって、大切なものを抱えて生きたんだから。そこまでの毎日が駄目なワケでも、無駄になるハズもないんだから」

 

 ――本心は、ずっとずっと泣いていた。

 

 割り切れるワケがない、切り替えられるハズもない。

 忘れてしまえたならどれだけ楽だろう。

 でも、忘れるコトなんてできない、忘れたくなんてない。

 

 ……本当、その通り。

 

 思い悩んで、悔やんで、こんなになるまで抱え込んで。

 それだけ彼女にとって――――大切なコトだった。

 

 

「大事だから、痛いんだ」

 

 

 水桶肇は分からない。

 

 他人の痛みに寄り添った経験もない。

 誰かに本気の言葉を向けて、そこにある問題を解決できるほど上手くもない。

 

 彼が言ったのは無責任な先延ばしだ。

 いつか終わる日が来るのなら。

 いつか変わるときがくるのなら――そのときまでそのままでも良いと。

 

 あまりにも愚かしい、優しすぎる甘い言葉。

 

「――――――……、」

 

 でも、それはどこかの誰かに刺さってしまった。

 ちょうど目の前にいる、なんでもないひとりの少女に。

 

「……そっか……」

 

 雫は流れる。

 雨は降り続ける。

 

 今夜は止む気配が一切ない。

 

 ぽつぽつと肌を濡らした雫が、見える景色を濡らしていく。

 

「……大事だから……こんなに――痛いんだね……」

「…………うん」

 

 ――ほんと、気の利いたコトも言えない。

 

 おまけにぜんぜん優しくもない。

 

 小さく息を吐きながら、肇はぼうっと天井を見詰めた。

 

 暗い夜だけれど音は喧しい。

 パラパラと窓を叩く雨音、地面に跳ねる水音、ゴロゴロと唸る雷。

 

 そこに微かに混じる声は、聞こえていないことにした。

 

 必死で堪えて押し殺そうとする彼女の努力を、いまは自分なんかが邪魔したくなくて。

 

 

 



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6/それぞれの話

 

 

 

 

 湯船に浸かると、今までの疲れが一気に抜けていくようだった。

 

 彼の前で色々とぶちまけて、勝手に落ち込んで、泣き腫らした後のこと。

 

 控えめに「落ち着いた?」なんて聞いてきた彼に苦笑して。

 時間も不味いからと急いで帰った渚は、いつも通り食事を済ませてそのままお風呂へ。

 

 ようやくひと息つけたような気分になって、ほう、とちいさく息を吐く。

 

「…………、」

 

 ぼんやりと浴室の天井を眺める。

 

 頭の中で反芻するのは肇の言葉だ。

 脳を揺さぶるような一言だった。

 

 一度、また一度と繰り返すたびに胸がきゅっと締めつけられる感覚。

 

(……そう、だよね。どうでも良かったら……痛いとさえ、思わないんだ)

 

 くすりと微笑む。

 思わず頬が緩んでいく。

 

 はじめて胸の奥の感情を外に出した。

 はじめて心につっかえたモノを誰かに吐いた。

 

 たぶん、それ自体は誰でも良かったのかもしれないけれど。

 

 ――答えをくれたのは、誰でもない彼だった。

 

「……大事だから、痛い……」

 

 ぽちゃん、と水滴が落ちる。

 音も感触もたしかに拾って意識する。

 

 公園からの帰り道。

 思えば、雨の音を煩わしく思ったのはいつ以来だろう。

 住宅街の家から洩れる光や音はあんなに鮮明だったかどうか。

 

 今日の夕飯にしたってそうだ。

 はじめて心の底から美味しいと、そう思って口にした。

 

 ずっと同じものを食べてきたハズなのに。

 ずっと感じてきたものだろうに。

 

 はじめてちゃんとした、料理の味を感じた気がした。

 

「…………」

 

 正直、ありえないと思っていた。

 なにがどうあっても、()()に望むモノが来るとは思わなかった。

 

 出会いは特別でもなんでもない。

 相手は本来あるべき誰とも違う。

 筋書きにすら居るはずのない、ただの人。

 

 声をかけたのも、勉強を教えてみせたのも――なんてコトはないただの気まぐれ。

 将来やるべきであろうことに備えての予行演習じみた、打算に塗れた関係だった。

 

(……水桶、くん……か……)

 

 関係がないのは都合が良かった。

 どうなっても構わないのがちょうど良かった。

 

 けど――彼の言動、一挙手一投足、すべてが不思議と()()()()()()に刺さってしまった。

 

 遠く離れた彼方で在った、魂に根付いた古臭い記憶の欠片。

 そこに色濃く残る誰かと、彼の姿が妙に重なる。

 

 かわいらしく首をかしげる仕種も。

 傍に居ると余計感じる穏やかな雰囲気も。

 機嫌が悪くなると首の後ろを乱雑にかくクセも。

 

 胸の奥底に仕舞ったはずのものを刺激されてしまって、どうしようもなかった。

 

(偶々……なんだろうけど。でも、だからこそ……無視できなくて)

 

 忘れもしない姿を幻視する。

 

 わがままを滅多に言わない子だった。

 残されたわずかな時間ではじめて願い事を言ってくれた子だった。

 

 幼い頃から一緒に過ごしてきて、共に育った大切な存在だった。

 同胞だった。

 

(……でも……うん。……男の子の前で、泣いちゃうとか……)

 

 思い返して、恥ずかしさにほんのりと頬を染める。

 

 見て見ぬフリをしてくれたけれど、あんなのはちゃんと気付いてましたと言っているようなものだ。

 下手すぎる気遣いを笑ってしまったのがしょうがないだろう。

 

 ……そんな男の子に、心をかき乱された上、整理までしてもらった。

 

「あはは……」

 

 生まれる前からずっと心はボロボロだった。

 無くしてから先、あとはもう崩れるだけの時間が過ぎた。

 

 いま体験している奇跡じみたコトも。

 その立場を与えられたことの名誉も。

 

 全部が全部、どうでもいいことのようだった。

 糸の切れた凧みたいに、惰性で流され続けるだけのような人生。

 

 ――それが偶然、風に流れて一本の枝に引っ掛かってくれた。

 

「……あ、はは……っ」

 

 ずきん、と心臓に杭がうたれる錯覚。

 

 胸が痛い。

 呼吸が苦しい。

 頬を濡らしたのは湯船よりもずっと冷たい。

 

 大切なものを失った心は、生きていようと冷えて固まったままだった。

 

 ……でも、教えてくれたから。

 

 なんでもない彼が、関係のない彼が、主役でもない彼が。

 この痛みが大事なものなんだって、教えてくれたから。

 

 抱えた苦しみも辛さも――私が大切に思うが故の、私だけのモノ。

 私だけが感じることのできる、大切な痛みなんだと。

 

「――ぅ、あ、ははっ……あははっ……」

 

 馬鹿げた話だけれど。

 ありえない喩え話にすぎないけれど。

 

 あの瞬間、本当の意味で――彼女は再び心臓が動いた気がした。

 

 ここに生きていると、ようやく、その意味を実感した気がしたのだ。

 

「……、……水桶、くん」

 

 呟く声は静かに響く。

 落ちる水滴は波紋を広げる。

 

 音に色があるのなら、それはきっと鮮やかだったろう。

 それぐらいの気持ち良さと晴れやかさを持って、彼女は湯船から立ち上がった。

 

 

 ――ああ、比喩ではなく。

 

 まるで世界が、輝いて見える――

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 はあ、とひとつため息をつく。

 

 泣き止んだ渚と別れたあと。

 ちょっと遅くなりながらも帰宅した肇は、ご飯とお風呂を済ませて自室のベッドに寝転がった。

 どうにも落ち着かない原因は言うまでも無い。

 

(余計なコト……だったかな……)

 

 今更ながら、思い返してアレはどうなんだろうと首をかしげる。

 

 二十歳にもならずに死んでしまった彼に大人らしい対応などできない。

 繰り返すように、経験もなにも薄い肇になにが正解でなにが駄目かは分からない。

 

 知っているコトは狭く、できることも限られた前世だった。

 

 それでも自分なりに思うことを言った結果――盛大に泣かれたのである。

 

(……あれ。もしかして、まずい……?)

 

 さぁっと顔から血の気が引いていく。

 

 考え無しに心に浮かんだコトを述べたが、相手はあの優希之渚。

 乙女ゲームの主役を張る主人公(ヒロイン)だ。

 

 今までは勉強だけの関係でとくに気にしてこなかったが、果たして先ほどの一件はどうなることかと。

 

(でも、流石にあの状態で放っておけってのも酷じゃないかな……)

 

 むぅ、と考えこむように唸るぽんこつ転生者。

 

 見過ごせなかったのは勉強だけとはいえ、少なからず関わりのある人物だったからだ。

 ゲームの主人公だからとか、外見が綺麗だからとかは関係ない。

 

 知り合いがあんなに酷い顔をしているのに、なにもしないでいるのは違うだろうと。

 

「……大丈夫かな、優希之さん……」

 

 別れるときはいつも通りの様子だったけれど、それだけに心配だ。

 

 ――肇としては自分のしたコトの自覚など一切ない。

 

 落ち込む彼女をちょっと静めたぐらいの感覚で、まさかそれがぶっささっているなどとは夢にも思っていない。

 あまつさえまだ心の問題は片付いていないのだから、これからは攻略対象(ヒーロー)たちの役目なのかな、なんてぼんやり予想しているぐらいである。

 

 ……繰り返すが。

 

 水桶肇には、圧倒的に経験というものが足りていなかった。

 

(……明日、塾に何か……お菓子とか、持っていったほうが良いかな……)

 

 少年は天井を見詰めながらなんとはなしに考える。

 

 足りない部分は勉強以外にもたくさん。

 勉強にだってたくさん。

 

 病気で死んだ十九年というのは、思っていた以上にダメダメなものだったらしい。

 

「……ん?」

 

 と、そこで家の外から鳴る低い音を聞いた。

 

 ゴロゴロと腹の奥に響くような震動。

 雷によるものだ。

 

 天気はまだまだ下り坂のよう。

 

 よく耳を澄ませば、微かに降りしきる雨の音も聞こえてくる。

 

(雷……、)

 

 そういえば変な誤解もされたっけ、なんて薄く笑う。

 

 別に本当、雷が怖くておかしな反応をしたワケではない。

 前世でも今世でも、別に恐怖で震えるような原因ではなかった。

 

 引っ掛かったのは彼女――渚の反応だ。

 

 確かめるように何度か、パチパチと瞬きを繰り返す姿。

 そんな反応をいつだったか、彼はどこかで見た気がして――

 

「――あぁ、そっか……」

 

 不意に思い出した。

 探していた記憶を掘り当てて、思わず口元が緩む。

 

 なんてコトはない。

 

 たまたま重なっただけの、意味もない共通点だ。

 まったくもって性格から、何から何まで似ても似つかないけれど。

 

 

 

「姉さんが、そんな反応するんだったっけ」

 

 

 

 その答えにすっきりして、彼は満足しながら頷いた。

 

 

 



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7/雨のち曇り のち――

 

 

 

 

 例えばそれはどこかに埋めたタイムカプセルみたいに。

 掘り起こしたモノに付いてきた土がパラパラと落ちていくみたいに。

 

 懐かしい思い出が蘇る。

 

 依然として雨音のうるさい夜のコト。

 彼はまだ、深い眠りの中に居る――――

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 彼に物心がついた頃、すでに父親はいなかった。

 

 身近にいる頼れる大人は母親だけ。

 たったふたりで生きていく毎日。

 

 それが幼い彼にとって世界のすべてだった。

 

『……大人しくしてて』

 

 母親は忙しい人だった。

 昼間はずっと留守にしていて、帰ってくるのは決まって夜遅く。

 

 食事は最低限用意してもらったものがある。

 幸いなコトに空腹や栄養不足で困るコトはなかった。

 

 普通の生活を続けられるほどに稼ぎはあったらしい。

 

 長い間ひとりになるのはすこし寂しいけれど、彼にとってそれ自体は苦痛じゃなくて。

 

『――おまえさえいなければ』

 

 困ったのは夜の間。

 

 お酒を飲んだ母親は振り切れたように手が出た。

 

 理由はなんとなく、子供の彼には分かりそうで分からないコト。

 自分を捨てた父親に似ているから、と癇癪を起こしながら怒鳴っていたのを覚えている。

 

 見えるところは傷だらけで、見ないところも痣だらけ。

 

 それが六歳までの記憶。

 

 当たり前の、なんでもない日々は呆気なく終わった。

 いつも通りに朝から仕事へ向かった母親。

 昼はひとりご飯を食べて、それからずっと大人しく待ち続けて。

 

 でも、彼の母親は二度と戻って来なかった。

 後から聞いたところによると、車に撥ねられて即死だったらしい。

 

 

 

 

 

『……今までなにもできなくてすまなかった』

 

 次に出会ったのは真面目そうな雰囲気の、がっしりとした大人の男性だった。

 

 特徴で言えば鏡で見た彼の髪の毛と瞳の色がまったく同じ。

 初対面ながらどことなく不思議な感覚を覚える相手。

 

 話を聞いていると、どうにもその大人は母親の言っていた父親(それ)らしい。

 

 難しいコトはそのときよく分からなかったけれど、彼の出自は結構複雑な事情があったようで。

 けれど怪我を見て顔をしかめながら、優しく抱き締めてくれたその人のコトはすぐに信頼できた。

 

『――君が彩斗(あやと)くん? 私は陽嫁(はるか)! 今日から君のお姉さんになります!』

 

 そして二人目の――人生において三人目の家族は、太陽みたいな人だった。

 

 

『良いんだよ、遠慮しなくて! もう家族なんだから!』

 

『彩斗! ご飯だよ! ふふっ、こう見えて私、もう料理できるからね!』

 

『大丈夫? 怪我、痛くない? ……放っておいちゃダメだよ!? もう!』

 

『困ったコトがあったらなんでもお姉ちゃんに言ってね。彩斗のためにできることならなんでもやっちゃうんだから!』

 

『えっ、これ彩斗が描いたの!? 凄い凄い! 上手だね! 将来は画家さんかなー!』

 

『はい、これ彩斗の分。ふたりで半分こしよ!』

 

『ゲームする? やってみる? いや殆ど私の趣味だけど! これとかね――』

 

 

 人生に於いてターニングポイントがあるのなら、彼にとっては間違いなくそこだった。

 

 教えてもらったコトは沢山ある。

 

 例えば、誰かと一緒に過ごす時間の楽しさ。

 殴られることのない夜の気楽さ。

 他人に優しくされることの温かさ。

 

 なにより――普通に立って生きるコトの幸せ。

 

 それだけで、彼の生きていく時間は満ち足りていた。

 

 

『彩斗が元気なら私も良いの! いつか分かるよ、彩斗も!』

 

『本当、笑うようになったよね。はじめに(ウチ)に来た頃はすっごい死にそうな顔で……ね? お父さん?』

 

『彩斗ー、最近仕事がつらくてー! 聞いてー! 慰めてー!』

 

『かけがえのない家族なんだもん! ずっと一緒に居られたら最高でしょ!?』

 

 

 姉と出会ってから心は晴れやかだった。

 

 小学校はとくになんの問題も無く卒業して。

 中学校は勉強に苦しみながらも推薦枠を取って無事進学。

 

 いざ高校生活――というところで、身体に異変が生じたワケだ。

 

 最初はただの体調不良から。

 段々と学校へ行ける日が少なくなって、それでも週に何日かは登校して。

 

 あまりにもおかしいと父親にも姉にも心配されて、一度大きな病院で結構な検査を受けてみれば――――まあ、見事に健康とはいえない状態になっていた。

 

 

『大丈夫だよ、彩斗! お医者さんが治療してくれるって! すぐ良くなるからね!』

 

『お見舞い持って来たんだ! りんご、食べられる? 待ってて、いま切って上げるからね!』

 

『彩斗ー、痛いときは我慢しなくていいんだよー。そういう顔ぜんぜんしないから分かんないけど、本当に大丈夫? なにかあったらすぐお医者さん呼ぶんだよ?』

 

『……もうちょっとしたら良くなるよ、きっと。うん、大丈夫』

 

『彩斗、起きてる? あ、無理しなくていいからね! うん、横になってて』

 

『…………大丈夫だよ。彩斗はきっと、きっと――――』

 

 

 病状がどうだったとか。

 治療の具合がどうだったとか。

 入院生活でどんなに苦労したかとか。

 

 そのあたりは彼の記憶の中で新しくも薄い。

 

 酷さでいえば母親と過ごしていたときのほうが鮮明だし。

 印象でいえば姉がちょこっとだけ元気をなくしていた姿の方がインパクトがあった。

 

 ひとつ言える事があるとすれば。

 

 昔のキズが駄目だったのか、もともと身体が弱かったのか。

 

 よくなるコトは、一向になかったという事実だけ。

 

 

『……あのね、彩斗。落ち着いて、よく、聞いて欲しい――――……』

 

 

 あと一年も生きられないかもしれない、と言われたのは十七歳のときだった。

 

 治療は続いているものの進展は見られない。

 体力も落ちる一方で、身体的にもう限界が来ている。

 

 長くはないと言われたとき、不思議と彼はそれに納得した。

 

 心のどこかで「やっぱりそうなのか」なんて。

 

 

『――ごめん。ごめんね、彩斗。ごめん――』

 

 

 あれは一体なにに謝っていたのだろう。

 

 なにも悪くないのに、ずっと『ごめんね』なんて呟く姉。

 それが見ていられなくて、どうしようもなくて。

 

 でも、それだけ想ってもらえているコトは分かったから。

 最後ぐらい、ちょっと欲張りたい気持ちが顔を出した。

 

 

『父さんと姉さんと過ごした家で、ずっと絵を描いていたい』

 

 

 ちょっとした我儘だ。

 彼自身、それが通るとは微塵も思っていなかったけれど。

 

 結局、色々な条件が付け加えられて願いは叶った。

 

 そこから先はなんてことない。

 

 病院から家に戻って、父と姉が勢いで通して作った家の仕事部屋(アトリエ)で毎日筆を走らせて、変わらぬ日々を過ごすだけ。

 不思議なコトといえば絵を描き始めた瞬間、体調が格段に良くなったことぐらいだろう。

 定期的に家に訪れてくれた医者が信じられないといった様子で話していたのを思い出す。

 

 きっとあの瞬間、彼の蝋燭は激しく燃えていたに違いない。

 

 だからずっとずっと描き続けて。

 

 なにかに取り憑かれたように筆を握り続けて。

 たまにスランプに陥って姉と一緒にゲームしたりなんかして。

 なにもかもを忘れて思うがままに内側にあるイメージを吐ききって。

 

 これ以上はない幸せな生活を送った二年後。

 

 医者の宣告より一年も長く生きて、少年は静かな眠りについた。

 たった十九年の、満ち足りた短い生涯だった。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 どうにも今日はお天道様の機嫌が良いらしい。

 

 翌日になると雨はパッタリ止んでいた。

 いまだ鼠色の雲は空を覆っているが、朝から一度も降り出してはいない。

 

 念のため傘を持って来ている肇だが、いまのところ使わなくても済んでいる。

 

「…………、」

 

 いつも通りの塾がはじまる前の時間。

 

 到着した自習室にまだ彼女の姿はなかった。

 肇の方が早く来たのは今回が初めてでもない。

 

 今までも何度かあったコトだ。

 本来なら気にするほどでもないのに、どうしても不安になるのは昨日の件が尾を引いているせいだろう。

 

(……いや、落ち着こう。まだ大丈夫。まだ早い。大丈夫、大丈夫……だよな……?)

 

 ざわつく心を落ち着かせながら席につく。

 

 別に本編と一切関係のない彼が渚に避けられたところで問題はないのだが――それはそれ、これはこれ。

 

 ゲーム本編はゲーム本編、現実は現実だ。

 一緒の塾で勉強しているだけとはいえ、関わりがある以上無視はできない。

 

 なんだかんだで人間関係は重要である。

 

「…………、」

 

 教材を開いてペンを持って、手の中でくるくると回す。

 

 いつもなら直ぐさまノートに向かうペン先は今日に限って迷子だ。

 やはりというかなんというか、まったくどうして落ち着かない。

 

 このまま自習室に来なくなったとすれば、今後どんな顔で彼女と一緒の授業を受けていくのかと――

 

 

 

「…………あ」

 

 

 

 からり、と控えめにドアが開かれる。

 咄嗟に目を向ければ自然と肩の力が抜けていった。

 

 待ち人は図らずもこちらを見て、ちいさくペコリと頭を下げつつ。

 

「――どう、も」

「……うん」

「…………、」

「…………、」

 

 微妙な空気。

 固まったような沈黙。

 

 別れる前と違ってまったく言葉が出て来ない。

 会話が続かない。

 

 じっと、お互いに遠慮がちな視線をぶつけ合う。

 

 ……口を開いたのは、昨夜同様渚のほう。

 

「あのっ……えっと……、……昨日は、ごめん」

「え、いや……こっちこそ、余計なコト言っちゃって」

「う、ううん! 全然、余計じゃない。うん……凄い、その……助かったって、いうか」

「そ、そう……かな……?」

「うん……だから……えと、そのっ……あ、ありがとう……ね。水桶、くん」

「……それなら、よかったんだけど」

 

 軽く息を吐きながら、内心で胸をなで下ろす。

 距離感は曖昧なところだけど、少なくとも評価を下げるほどではなかったらしい。

 

 ここまで教えて教えられての関係を続けておいて嫌われたとなると肇だって傷付く。

 その心配がなくなったことに安堵するのはまあ、自然な反応と言えた。

 

「……考え無しで言っちゃったから、嫌われたんじゃないかって――」

「そ、そんなことないから! 嫌いとかじゃ、ない! ……うん、違う……」

「本当に?」

「ほ、本当! む、むしろ結構、その、感謝してるって、いうか……」

 

 きゅっと、学生鞄の持ち手を強く握りながら渚がこぼす。

 

「だから、大丈……夫……です……」

「……どうしていきなり敬語?」

「え、あ……その……えっ、と……?」

「――あははっ」

「!? な、なんで笑うの……?」

「うん、いや……」

 

 なんだかこのやり取りは覚えがあるなあ、なんて。

 くすくすと笑いながら肇が渚のほうを見る。

 

 ひとりでうだうだ考え込んでいてもいけない。

 

 彼女も同じだ。

 彼も彼で掴めなかったように、向こうだって測りかねている。

 

「チョコ持って来たんだけど、食べる?」

「ち、チョコ? なん……急に、どしたの……?」

「……甘いもの食べたら元気でるかな……って」

「わ、私そこまで子供じゃないけど」

「じゃあ、要らない?」

「…………もらう」

 

 おずおずと隣まで来た彼女に包装を開けて「はい」と差し出す。

 きちんと返事をしてくれたあたり、甘いもの自体は嫌いじゃなかった様子。

 

 渚がひとつ摘まんだのを確認して、肇もひょいっと口に放りこんだ。

 

 そこまで高くも貴重でもない市販のチョコレート。

 味はほんのり苦くて、けれどもそれ以上に甘かった。

 

 

 







しゅごい難産で後れ申した!


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8/熱いのもしょうがない

 

 

 

 

 梅雨が明ければすぐに夏が来る。

 

 七月に入ると気温はぐんと上がってきた。

 一年も折り返しを過ぎた頃。

 中学生活最後になる一学期の終わり。

 

 最後のホームルームは九月の体育祭に向けて係、種目決めとなった。

 

「じゃあ次、大縄飛び! 五人まで! オレら三年だから縄役もするぞー!」

「はいはい! 大縄いく! できれば縄のほう!」

「俺も俺も。できれば走りたくねえんだわ」

「じゃあ私も!」

「文化系ばっかじゃねーか! 動けるヤツは!?」

「運動部はリレーと徒競走いけよなー。俺らは障害走でも()()()のに」

 

 夏休みを目前にした時間のせいか。

 それともラストを飾る一大イベントの準備になるためか。

 クラスの雰囲気はどこか浮き足立っている。

 

 もともと運動が得意な生徒はここぞとばかりに張り切って。

 苦手な生徒はまあ、それなりにある軽めの団体競技を虎視眈々と狙いつつ。

 

「なあなあ、肇は選択種目なに参加すんの?」

「借り物と百メートル」

「地味に走るの速いもんなあ、水桶。帰宅部なのに」

「身体動かすのは嫌いじゃないからね」

「それこそリレー来いよリレー! ひとり枠空いてるぜ!?」

「……塾で遅くまで残れないから多分ダメだと思うよ?」

「そうだったよ! 水桶おまえ塾があったわ!」

 

 席の近い男子と談笑しつつぼんやりと黒板を眺める。

 

 種目決めに関しては特にこれといった問題もなく埋まりつつあった。

 肇としても自分の出る競技に大きな不満はない。

 

 前と違ってまだまだ元気ないまは身体能力だって十二分。

 走るだけならそこそこクラスにも貢献できる。

 

 ……リレーもそうだが、団体競技を避けたのは練習に長く時間を割かざるを得ないからだ。

 勉強と学校行事の両立はちょびっとだけ難しい。

 

「――これで大体決まったか? 選択はひとり二種目以上だぞー! 全員出てるかー? ……、……よし、じゃあこのまま係いくぞ、係!」

「ウチらダンス行くわー!」

「あたしも同じく」

「男子応援は誰? 比良本はやっぱ定番?」

「イケメンだしな! むしろあいついかなくて誰がするって」

「いや俺の意見聞きな? 勝手に決めんなよマジ」

 

 ちなみに係はできるだけ参加、という形なので強制ではない。

 それにしたって自分たちの団のまとめ役だったりとかそんなものだ。

 

 体育祭全体で見て大事なところは殆ど生徒会と実行委員の仕事になる。

 

 なので、肇としては申し訳なく思いつつもやる気は無いのだが――

 

「水桶はパネルやんの?」

「え、しないけど」

「はっ!? ちょ、えっ!? なんで!?」

「肇くん来てくんないと私ら戦力不足ですが!?」

「絵、上手いじゃん水桶! 滅多に描かないけど!」

「やっても殆ど行けないから……」

「やっぱあれ、勉強? 塾?」

「うん、そう」

「まあ星辰奏だもんなあ……」

「そんなーーー!!」

 

 うがーっ、と少し離れたところで叫んでいるのはたしか美術部の女子だ。

 何度か授業で提出したコンクールの賞を取って、肇と一緒に壇上へ上ったコトがある。

 

 親密とまではいかないけれど、そこそこ話したりするぐらい。

 

「ごめん。……というか美術部五人も居るんだし、問題ないと思うよ」

「肇くんが居たらパネルの部門取れるの! 絶対!」

「いやそれはどう……だろう……? 飛び抜けて上手いワケじゃないし、俺」

「嘘つけぇ!! 私と一緒にこの前の動物絵画コンテスト金賞だったじゃん!?」

「た、偶々だから……」

 

 ずんずんと距離を詰めてくる女子を宥めながら返す。

 

 たしかに賞は取れたが、あくまで評価されているのは中学生時点でのものだろう。

 これがなんでもないようになると本当さっぱり。

 

 前世でもれなく経験済みだ。

 

 少しでも足しになったりしないかと描いていた絵を売りに出すよう家族へ頼んでみたところ、なんと不思議なぐらい一枚も売れなかった。

 最後までどうだったかと彼は聞き続けてみたけれど、いつまで経っても「あー、うん。値段、つかないし……売れてない……ねー……。なんで、なんだろうねー、あはは」なんて苦笑いしていた姉の顔を思い出す。

 

 絵の才能は、彼が思っている限り多分ない。

 

「あと十分ー! 他、なんかやりたい奴いるかー? もういいかー!?」

「おい比良本が応援から自分の名前消そうとしてるぞ!」

「防げ防げ! ディフェンス! 駄目だぞイケメン、その顔面を惜しげ無く使え!」

「だから勝手に決めんなマジで! 俺こういうの苦手なんだって!」

 

「こっそりパネルにも肇くんの名前入れといたら……!」

「ダメだよ?」

「うぅっ」

 

 かくしてまだまだ先のコトながらも賑やかに。

 充実した時間は過ぎていくのもあっという間だった

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 彼が下校する頃、校門にはわずかに人集りが出来ていた。

 

 見たところ男子が大半、女子が数名。

 なにかを遠巻きに見ているようで、ざわざわと話し声も聞こえてくる。

 

 無論、夏休み前だろうと部活は関係無しにあるため、こんなところで油を売っているのは彼と同じ帰宅部員の皆さんだ。

 

「……なにかあったの?」

「お、水桶も来たか」

「なにもこうもねぇーよ! 見てみなあそこ、門の前!」

「どちゃクソ可愛い女子が誰か待ってんだよ!」

「あの制服、たしか北中だよな?!」

「すごいよね、お人形さんみたい……」

 

 ほらほら、と全員が一斉に同じ方向を指差す。

 

「へぇー……」

「なあなあ、誰か声かけてこいよ」

「無理だって! ぜってー取り合ってもらえない!」

「でも冷たい感じが良いよなあ……こう、クールな美少女みたいな!」

「相手だれだろ……ぜってー顔面偏差値バケモン連中だよな……」

「羨ましいなー、俺もあれぐらい綺麗な彼女欲しいわー」

「はははっ、ムリムリ。俺らこうやって話せもせず見てるしかできないのに!」

「言えてんねえ!」

 

 ひそひそと会話をリレーしていく引っ込み思案……もといチキンメンタルな()()()たち。

 

 悲しいかな、玉砕できるぐらい気概のある人間はここに居なかった。

 そういうのはもっぱら、現在グラウンドや体育館で汗水流して練習している運動部連中のやるコトである。

 

「…………?」

 

 全員が注目しているほうへ目を向けて、肇がこてんと首をかしげる。

 一体なにをしているのだろう、という感じで。

 

 ……彼らの言うコトは間違っていない。

 

 たしかにそこに居たのはとんでもない美少女だった。

 ものすごく綺麗で可愛くて、けど一見すると冷たい、クールな印象の女子だ。

 ひとりぼうっと校門の前に佇んでいる姿はシンプルに画になる。

 

 それこそ、慣れていなければ彼だって一瞬見惚れてしまいそうになったほど。

 

「――優希之さん?」

 

 思わずといった様子で名前を呼ぶ。

 喧噪の中にあってもその声はたしかに届いたらしい。

 

 跳ねるようにがばっ、と顔をあげた彼女が肇のほうを見て薄く微笑んだ。

 

「あ、み、水桶くんっ」

「……どうしたの? 誰かに用事?」

「あ、いや、その……ぐ、偶然近くに来たから、一緒に塾行こうかなって……思って……」

「そうだったんだ……」

「…………えと、駄目……だった?」

「? ううん、全然。……じゃあ、行こうか?」

「っ……う、うん!」

 

 こくこくこく! と大袈裟にうなずく渚を変に思いながら、彼女を促して歩いていく。

 

 背後からあがる悲鳴というか絶叫というか咆哮じみたモノは聞こえないコトにした。

 

 放っておいてもおそらく問題ないだろうし。

 律儀に反応を返したところで色々と詰め寄られて疲れるだけだ。

 

 これから勉強をするという時に大幅な疲弊したくはない。

 

「水桶てめえこの裏切りものー!」

「いつどこでそんな美少女と知り合った!? おい!?」

「ちょっと待って水桶くん! 誰よその女っ!?」

「彼女!? 彼女なの!? てか距離近いってあれ!」

「ああちくしょう俺も塾行っとけばなー! 失敗したぁああ!」

 

 やいのやいのと騒ぎ立てる後方の暇人集団。

 

 賑やかなのは良いことだが、何事も過ぎてはどうかというもの。

 生憎と万年帰宅部だった肇はそのあたり、彼らの悪ノリを知っている。

 

 ……ぶっちゃけ絡んでいっても楽しいので構わないだが、自分ひとりならともかく渚にまで付き合ってもらうのはちょっと申しわけない。

 

「……いいの? その……凄い言われてるけど……」

「良いよ。夏休み明けたら忘れてるだろうし。いつものことだし」

「いつものことなんだ……」

「それに話してたら勉強どころじゃなくなるからね。ファミレスとかに連れこまれて」

「ああ……なるほどそういう……」

 

 どこか納得しながら少女がくすくすと笑う。

 それに肇は気持ち呆れ交じりのため息で返した。

 

 歩き出してからしばらく。

 もう十五メートルは離れたというのに、後ろの声は止む気配がない。

 

「――……ああもう。じゃあまた、二学期にね」

「あッ、おいこら待て水桶ェ!!」

「その子とどこ行くつもりだてめえ!?」

「いや塾って言ってただろ」

「あいつら一緒に勉強したんだ!」

「大丈夫大丈夫水桶くんの良いところ知ってるのは私ぐらいだから……っ」

「はっはっは。ばいばい水桶。月夜ばかりと思うなよー」

 

 若干声を張りながらヒラヒラと手を振って、そのまま歩くスピードをあげようとする。

 

 ……前に。

 

「ちょっとごめん、優希之さんっ」

「え?」

 

 ぱしっ、と。

 肇としては流れで咄嗟に、なんとなく。

 

 自然な様子で渚の手を取った。

 

 気負った風でも決心したような様子でもない。

 本当になんでもないように、きゅっと少女の手を少年が包む。

 

 

 

「――――、」

 

 

 

 固まること数秒。

 

 引っ張られていく自分を冷静に眺めて、渚は弾けるように喉を震わせた。

 ぼんっ、と爆ぜたみたいに顔が赤くなる。

 

「なっ、えっ、え!? っ!!??」

「大丈夫? ちょっと走るよ」

「!? ぁ、ぅん! うん! わ、わか、わかった、うん!!」

「どうしたの、急に良い返事――」

「ななななんでも!? なんでも、ないっ!?」

「そう?」

 

 あたふたとしながら必死で彼についていく。

 

 足が追い付かないワケじゃない。

 ふざけているようなものだ。

 走ってはいるもののスピードは緩やかでいる。

 

 身体のほうが問題なんじゃない。

 追い付いていないのは心のほうだ。

 

(っ!? ――!? ――、――!!?? !?!?!?)

 

 混乱したまま渚は駆ける。

 

 伝わってくる温度は普通のはずなのにやけに熱かった。

 

 掴まれた手の状態がいやに気になって仕方ない。

 汚れてなかったかとか、手汗が凄くないかとか、どこか変じゃないかとか。

 

 とにかく訳が分からなくて、唐突で、突然で、一杯一杯で。

 

 ――けれど、自分よりがっしりとしていて、筋張った手はどこか安心できて。

 

 彼がその手を離すまで、少女の心臓はまったくもって落ち着かなかった。

 

 

 



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9/夏の昼下がり

 

 

 

 

 しばらく行ったところで、肇はゆっくりと渚の手を離した。

 するりと指の隙間を抜けるように少女の腕が落ちていく。

 

 微かに唇の隙間から洩れ出た声は彼に聞こえていたかどうか。

 いまは心臓がうるさすぎて、彼女には確認のしようもない。

 

「――――、……」

 

 だらんと力の抜けきった右手。

 それをなんとか持ち上げて、渚はぼうっと視線を向ける。

 

 細く白い手指はいつも通り見慣れているもの。

 痕みたいに残るナニカなんてなにもない。

 けれど、浮ついたような熱がまだそこに残っている気がした。

 

 目にも見えない、感覚も覚束ない、掴めないそれを握るように手を閉じる。

 

「――――」

「……優希之さん?」

「っ!」

 

 名前を呼ばれて、反射的に顔を上げる。

 

 見れば目と鼻の先にまで彼は迫っていた。

 

 突然の景色の切り替わり。

 渚自身を映した濁りのない黒瞳が、じっと覗き込むよう向けられる。

 

「どうしたの? ……あ、まさか手、強く握りすぎた? 痛かった?」

「ぇ、あ、や……そんなこと、ない……けど……」

「そう? ……なら良いんだけど。ごめん、付き合ってくれてありがとうね」

「う、ううん。……その、全然、大丈夫……、うん……」

「……?」

 

 妙に歯切れの悪い返事に首をかしげる肇。

 

 出会った頃から大人しめで気にしていなかったが、ここ最近……というよりはひと月ほど前から彼女にこういった態度を取られるコトが多くなっていた。

 

 何故なのかはまったくさっぱり分からない。

 

 機嫌を損ねるようなコトをしたのだろうか、と思い返してみても自分では心当たりなんてあるはずもなく。

 本人にそれとなく訊いてみても「大丈夫だから……なんでもない……」とだけ返されて結局原因は分からずじまい。

 

 はたしてこれはどういうコトなのだろう、と目下悩みの種になりかけている。

 

「……あ、クッキー食べる?」

「……え?」

「?」

「?」

 

 困惑したような表情を向け合うふたり。

 文字通り彼の甘い考えは正解ではなかったらしい。

 胸中でぽん、と手を叩く。

 

(――成る程。甘いものが欲しいワケじゃない……)

 

 予想を外して大人しく鞄の中にそれを仕舞おうとする。

 と、

 

「いちおう、もらう……けど……」

「あ、うん。じゃあ、はい。どうぞ」

「……ありがと」

「…………、」

 

 人付き合いは難しい、と唸りながら肇は空を仰いだ。

 

 本日は気持ちの良い晴天。

 雲ひとつない青空はすでに梅雨時の面影もない。

 

 太陽はじりじりと照りつけていて、歩いているだけなのに汗が浮かんでくるほど。

 

 夏はまだまだ始まったばかりだけれど、暑さはすでに立派なものだった。

 

「――そういえば、珍しいね」

「?」

 

 もぐもぐとクッキーをかじりながら渚が不思議そうな顔をする。

 

「北中と西中(うち)、結構離れてるから。帰り道も一緒にならないぐらいなのに」

 

「んぐっ!?」

 

「…………、大丈夫……?」

「だ、だい、だいじょ……けほっ、えほっ……っ」

「どうしたのそんな急に……」

 

 咽せる渚の背中をさすさすと擦りながら、そこまで驚くようなコトがあったんだろうか……なんてぼんやり考える水桶某。

 

 彼としては質問に他意なんてない。

 微塵もない。

 

 ただ気になって会話に出しただけなのだが、よもやまさかそれがお隣の美少女に刺さるとは思わなかったのだろう。

 

 多分というかおそらくというか、ちょっと天然入っている弊害だ。

 

「ご、ごめん、平気、ちょっと……変なトコ入っただけ……で……」

「そ、そう?」

「うん……、あの、いや、本当に偶々……こっちに、用事があって……」

「へぇ、どんな?」

「それは……、」

 

 びたっ、と口を開いた渚が答えに詰まる。

 だらだらと顔を伝う汗は果たして気温からかそれとも冷や汗か。

 

 ――――言えない。

 

 まさか終業式の日で学校が早く終わったからといって、気まぐれに彼の中学まで足を運んでみたところ、ちょうどまだ帰っていなかったから待っていた――――

 

 なんて、どう考えても言えるワケがない。

 

「……ちょっと、服を……見に、来てて……」

「そうなんだ。……でも、服なら駅前のモールのほうが近くて良いんじゃ――」

「こ、こっちにもその、良いお店が……あって……ね? うん……そこに……はい……」

「――そうだったんだ。いいね、そういうの。凄いおしゃれさんだ」

「そう……かな……」

 

 露骨に語尾を下げながら、ギギギ……と油の切れた機械みたいに顔を背ける。

 

 得心がいったのか、そもそも質問の最初から懐疑心ゼロだった為か。

 肇の浮かべた笑顔は邪気の一切ない百パーセント純粋な表情だ。

 子供みたいにキラッキラな「いいね!」という輝かんばかりの眩しいスマイルだ。

 

 それを下手な嘘で騙してしまった身としては後ろめたくてしょうがない。

 

 ……こう、なんというか、心が痛む。

 

「今度俺も行ってみようかな。それ、どこに――」

「お、女物しかないよ!?」

「? そっか。それなら俺が知っても仕方ないね」

「う、うん、うん……」

 

 ちょっと残念、と眉尻を下げる肇に渚が一段と他所を向いた。

 

 彼に悪意はない。

 断じてない。

 

 話題にするのも繋げるのも、偏に彼自身の好奇心故だろう。

 わざわざ渚を追い詰めるために言っているのとは違う。

 そこまで鋭いならば彼女の心持ちなどとうのとっくに看破されているハズだ。

 

 ……それが分かっているから、余計にちょっと、目を合わせづらいというか、なんというか。

 

「…………、」

「…………、」

 

 ふたり並んで塾までの道を歩いて行く。

 

 いつもとは違って向かうときの、さらには日の高い昼間のコト。

 通り抜ける車もすれ違う人もそれなりに多い。

 渚にとっては滅多に見ない景色でわりと新鮮だ。

 

 おまけに気持ち、注目されている感じだってする。

 どう見られているかは……精神衛生上、あまり深く考えない方が良いだろう。

 

 主に冷静を保つという意味で。

 

 

 

 

「――ねえ、優希之さん」

「っ……あ、うん。どう、したの……?」

 

 肩を跳ねさせながら肇の呼びかけに応える。

 

 周囲の景色は依然として見慣れないまま。

 塾までは多分まだまだ先。

 

 それなのにピタリと足を止めて、彼はふと真剣な面持ちで少女を見据えた。

 

「やっぱり今日、なにかあった? 悩み事とか……」

「え、いや……特には……ない、けど……」

「じゃあ、体の調子が悪いとか……?」

「も……大丈夫だけど……変な感じは、しないし……?」

 

 嘘はついていない。

 

 なにかあったワケではない。

 悩み事だってそうそう大した問題でもない程度。

 体調に関しては頗る万全だ。

 

 まあ、自発的になにかをしたワケではあるのだが。

 

「……俺、ほんと、優希之さんになにもしてない……?」

「な、なにって、なにが……?」

「嫌なところがあったら遠慮せず言ってくれて良いからね……怒らないから……」

「ち、違っ、そういうんじゃ――……そういうんじゃ、ないよ、うん……」

「なら良いんだけど……大丈夫だからね……」

「……本当、違うから。気にしないで。水桶くんが嫌だったら、そもそもこうやって話してないと思うし……」

 

 頬をかきながらなんとか言葉にして吐き出す。

 

 彼の不安はなんとなく渚も読み取れた。

 最近の挙動不審を疑われているのだろう。

 

 でも、それこそ真相なんて言えるハズもない。

 

 彼女の解答欄はまだ白紙のまま。

 胸にあるのは馴染みのないものだ。

 

 ()のコトを含めても、初めて覚えたモノが分からなくて混乱している真っ最中。

 

 自分にすら分からないのに、他人に向けて説明するなんて無理に過ぎる。

 

「あ、あの……さ」

「……? うん」

「私、その……上手く言えないけど、水桶くんは……結構、良いと思う、から。その……だから……っ」

「うん」

「……だから、そういうことで……っ」

 

(どういうことなんだろう……)

 

 あやふやな結論に苦笑いを浮かべながら悩む肇。

 

 彼女の言いたいことはちょっと分からない。

 推測するにも難しい。

 

 けれど、悪い意味でないコトぐらいは理解できた。

 きっと渚なりに励まそうと思ってかけてくれた言葉なのだろう。

 

 なら、返すものは決まっている。

 

「――ありがとう。とりあえず、それなら良いんだ」

「…………うん」

 

 小さく笑って彼は歩みを再開した。

 渚もそれに遅れないよう足を踏み出す。

 

 ふたりは並んで塾の方へ。

 

 ……それで一度落ち着いたからか、時間を置いて冷静になったからか。

 細かな部分に気付けたのは、それこそ偶々だ。

 

 ありきたりなものだけれど。

 

 身長が違えば歩幅も違うのに、彼女が隣を歩いていて疲れないのはそういうことなのだろうと。

 

 

 



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10/変わってきたもの

 

 

 

 

 カリカリとペンを走らせる音が響く。

 

 通い慣れた町外れの塾。

 いつも通りの場所と、いつもよりずっと早い時間帯。

 

 夏休みに入っても自習室は利用可能だった。

 朝から夜まで、普段と変わらない範囲で開かれている。

 

 それもそのはず。

 

 学校は休みでも塾はそうではない。

 巷では夏の体験学習に夏期講習、その他通常のスケジュールとフル稼働状態。

 ここいらが稼ぎ時とでも言わんばかりに駅前には有名進学塾のポスターがでかでかと張り出されていた。

 

 ……なのだが、依然として肇たちの通う(ココ)は人気がない。

 

 やっぱり立地の問題なのだろうか、なんて思う一塾生である。

 まあ単純に知名度がないだけ、というのもあるだろうが。

 

「…………、」

「……どうしたの? ぼうっとして」

「――ううん、なんでも?」

「? ……そう……?」

 

 こちらを気にかけてきた渚に笑みを返しながら、いま一度手元の問題集に向き合う。

 

 中学校生活最後の夏休みはこの通り勉強三昧となった。

 ちょっと上の志望校を目指す受験生の運命みたいなものである。

 

 家では宿題、塾で勉強。

 それ以外はまあ適度に運動したり息抜きをしたり。

 

 満喫しているとか謳歌している……と言われると少し違うが、概ね満足のいく毎日を送っているとは言えた。

 

「…………、」

「…………、」

 

 無心で問題を解いていく。

 ペンの動きは今のところ淀みない。

 思考にも集中にも問題はなし。

 

 案の定というか、部屋よりも自習室のほうが意欲は増した。

 たぶん、不思議とこの環境が合っているのだろう。

 

「…………――」

「………………、」

 

 静かな自習室には小さな音だって大きな要因だ。

 

 ふたり分の気配と、ふたり分の勉強のオト。

 

 春から続いてきた渚と肇の関係はそれなりのまま続いている。

 

 彼としては特にコレといった進展もないが、かといって大きな後退もなく。

 彼女としてはとんでもないものに苛まれつつも、状況を動かせるワケもなく。

 

 距離感はまだまだ勉強友達。

 こうして並んで座っていても、会話の機会は意外と少ない。

 

(――あぁ、そういえば)

 

 ふと、なんでもないかのように肇は自覚した。

 

 なだらかな変化だからあまり気付かなかったけれど、進歩はたしかにあった。

 

 こうやってふたりで自習室を使っているとき。

 初めの頃はよく質問なんかをぶつけ合っていたが、今となってはそれも少ない。

 

 別に関係がこじれたとか変な空気になるからとかそういうのではなく、お互いの学力が順調に上がっている証拠だ。

 彼が苦手だった数学理科も今となっては大抵の問題を自力で解けるようになっている。

 

(……うん。期末も学年三位まで上がってたし……もしかしたら、もしかするかも)

 

 なんとなくで選んだ進学先ではあるが、ここまでやったのだし折角だから受かりたいな、と思う肇である。

 

 間違いなく受かっておいて損はないところではあるだろうし。

 

 ちょっとだけ、乙女ゲー主人公(ヒロイン)の恋愛模様というのも気になった。

 前世でプレイした――殆どシナリオもイベントも曖昧な――ゲームを現実で直に見るという経験はそれこそ中々できるものじゃない。

 

 だからといってなにかするつもりはないけれど、同学年の人間として普通に過ごすぐらいは何ら問題ないだろうと。

 

「……あのさ、水桶くん」

「? どうしたの」

「……夏休みの宿題とかって、終わってる……?」

「うん。最初の二週間で殆ど片付けたよ。自由研究もお盆までには終わるかな」

「早いね……」

「ありがとう」

 

 きらきら笑顔で返す少年は渚が若干引いているのに気付いていなかった。

 

 夏休みの宿題を二週間。

 

 できないコトはもちろんない。

 やってやれないコトはおそらくない。

 

 世の中には初っ端一日で継続系以外の課題をすべて終わらせる猛者だっている。

 逆に最終日まで残して泣きながら徹夜で強引に片付ける修羅だっているのだ。

 

 そう考えると二週間で夏期休暇の課題を捌くのは不可能ではない。

 

 不可能ではないのだが……渚はその初めの二週間、彼が自分と一緒に塾の自習室で普通の教材を使った勉強をしていたと知っている。

 

「……水桶くんってさ」

「うん」

「もしかして、勉強大好き……?」

「え、嫌いだけど」

「き、嫌いなんだ……」

「? うん」

 

 なんで? と真顔で訊ねてくる男子の顔がちょっと怖い。

 渚はそのとき初めて彼のえげつなさを見たような気がした。

 

 然もありなん。

 

 彼女がその正体まで知る由もないが、生まれ変わる前は死ぬまでの二年間に命を燃やすよう金にも名誉にもなんにもならない絵を描き続けた集中力モンスターである。

 

 もちろんそれそのものな行為に比べれば格段にレベルは下がるが、この類いの作業における肇の忍耐はちょっとおかしい。

 

「……疲れないの? その、無理してるんじゃない……?」

「疲れるけど、平気だよ。ちゃんと寝てるし。体力もあるし。怪我も病気もないし」

「……ストレスとか……大丈夫……?」

「まあまあ、それなりに。気分転換とかしてるし」

「そう、なんだ。……なにしてるの?」

「英単語のリスニングしながら掃除機かけたり」

 

(勉強の息抜きに勉強してる……) 

 

 はたしてそれで良いのか受験生……、と心配になる渚だったが、むしろ彼の行動は受験生として申し分ないものなのでは、と気付いて頭を抱えそうになった。

 

 勉強の合間に英単語を覚える。

 牛丼を食べたあとにデザートでピザを頼むような暴力だが、本人が気にしていないのなら仕方ないのかもしれない。

 

 勉強のしすぎで血糖値スパイクは起こらないのだし。

 

「防水性のイヤホンかスピーカーがあるとお風呂の時とか捗るよ?」

「いや……そこまでは私、良いかな……お風呂ぐらいゆっくりしたいし……」

「そっか」

「……でも、あんまりやり過ぎはよくないよ。ノイローゼとか……」

「……たしかに。病気になってからじゃ、遅いもんね」

 

 よし、と肇は少し意気込むようにしてペンを構えた。

 止まっていたところからしばらく、カリカリと小気味の良いペン先の走る音が続いていく。

 

 時間にしておよそ三十秒ほど。

 

 それでキリの良いところまで終わったのか。

 ペンを置いた彼は椅子を引いて立ち上がり、腕を組んでぐっと軽く伸びをする。

 

「――それじゃ、俺は一旦休憩。外の自販機で飲み物買ってくるけど、優希之さんは?」

「あ……じゃあ、私も一緒に行くよ。ちょうど、喉渇いてたし……」

「わかった。じゃあ行こっか」

 

 後を追うように渚も財布片手に席を離れ、ぱたぱたと肇の隣に駆けていく。

 ちょうど肩を並べる感じで、手がぎりぎり触れるかどうかという位置。

 

 ……余談ではあるが。

 

 いつからかなんとなく、そこが彼女の定位置になっているコトを肇はおろか、本人ですら未だに気付いていなかった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 クーラーの効いた室内と違い、一歩建物の外に出るとうだるような熱さが包んだ。

 すでに真夏日、気温は三十度に近い猛暑の連続である。

 

 自販機で肇はスポーツドリンクを購入した。

 流石の温度にいつものココアには手が出なかったらしい。

 

 渚も珍しく選んだのは紅茶ではなく冷たい麦茶だった。

 

 ふたりして近くにあるベンチに座り込んでペットボトルを傾ける。

 

「――――、ふぅ」

「……熱いね」

「うん、熱い。年々熱くなってる気がする」

「たしかに。……エアコンは偉大なんだね……」

「言えてるかも」

 

 ごくごくと喉を鳴らしながら飲み物を嚥下する。

 

 塾の前にある自販機周りはちょうど日陰になっていて日差しもない。

 気温自体が高くて熱くはあるが、時折吹く風は涼しくて気持ちの良いものだった。

 

 ほう、と小さく息を吐きながらぼんやりと空を眺める。

 

「…………、」

 

 身体も心も疲れ切ってはいない。

 この程度で弱音を吐く程度でもない。

 

 けれど実際、少なからず負担はあったのだろう。

 水分を取ってひと息つくと、頭の中がすっと切り替わるようだった。

 

 どこか穏やかな心持ちのまま視線を動かす。

 

 少し離れて見える街並み。

 晴れ渡った青い空。

 遠く山の向こうには立ち上る入道雲。

 

 ぜんぶがぜんぶ、景色としては月並みなものだけれど。

 

「なんか……」

「……?」

「いや……なんか、良いなって。こういうの」

「……ん、そっか」

 

 久方ぶりの感覚。

 

 そこまで肩に力を入れていたつもりはなかったけれど、抜けたものがきちんとあった。

 

 だからなのか、感傷に浸ったからか。

 

 いつかの日々を思い出す。

 遠く遠く、遙かに昔のコトになってしまったけれど。

 

 沢山はしゃいで遊んだあと、こうして姉と一緒に公園のベンチで休んでいた時があった。

 あの頃もなんだか、今みたいに安心できて――

 

「……ねぇ、水桶くん」

「……ん?」

「あの、さ……宿題、終わったって言ってた……よね」

「そうだね」

「なら……その、気分転換に、なんだけど……」

「……? うん」

 

 風が吹く。

 銀糸の髪がなびいていく。

 

 ざあ、と緑色が騒ぐように揺れた。

 

 頬を撫でたのは熱に消えるぐらい淡い冷たさ。

 それにつられるように、肇は渚のほうへ視線を向ける。

 

 

 

「――――ふ、ふたりで花火、とか……見に行かない……?」

 

 

 

 わずかに目を見張る。

 大した意味はない。

 ただちょっと予想外だっただけで、彼の答えは悩まずして出てきた。

 

「いいね」

 

 そのぐらいはまあ、一緒に勉強している仲間として全然アリだ。

 

 

 



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11/太陽みたいなアナタに

 

 

 

 

 玄関で靴を履いていると、後ろから声がかかった。

 

「――兄さん?」

 

 ぱたぱたと裸足で近付いてくる音。

 

 顔を見ずとも声だけで誰かは判別できた。

 家の中で肇をそう呼ぶのは一人しかいない。

 

「なに、了華(りょうか)

「どこか行くんですか? さっき塾から帰ってきたばかりなのに」

「うん。ちょっとデートしてくる」

「ッ!?」

 

 がたたたっ、と背面でなにやら大袈裟に驚く妹君。

 

 ひとつ下の彼女は中高一貫で全寮制の女子校に通っている。

 今は夏休みで帰省しているが、基本的に家に居ることは少ない。

 

 たまに電話したりメッセージでやり取りしたりはするが、当然ながらそれだけで肇の交友関係について知っている筈もなかった。

 

「でっ、ででで……!? 兄さんが!? 嘘でしょう!?」

「ごめん、冗談」

「ですよね! びっくりしました!」

「塾の子に誘われて、一緒に花火見に行くことにしたんだよ」

 

 きゅっと靴紐を結びながら立ち上がる。

 振り返ると、妹――了華はどこか難しい表情をして顎に手を当てていた。

 

 むむむ、と眉間にシワを寄せながら向けられる鋭い瞳。

 じろじろ、というよりはぎろぎろ、みたいな感じの尖りよう。

 

「……ちなみに、一応……訊いておきますけど」

「? うん」

「…………男性の方、ですよね?」

「一緒に行くのは女の子だよ?」

 

「なんでッ!!」

 

 がんっ! と靴箱に向かって振り下ろされる小さな拳。

 思わず肇も肩がびくんと反応した。

 

 中学一年のときから寮に入って中々直接会う機会も少なくなった妹である。

 それまでは断然兄妹仲は良くて、これまでも特に問題なく育ってきたのだが――ここに来て彼女の何かが爆発したらしい。

 

 肇にはさっぱり分からない何かが。

 

「……了華……?」

「っ、ご、ごめんなさい。取り乱しました」

「あ、そう……」

「んんっ……、……花火、と言いましたけど。兄さんは今年受験生でしょう? 遊んでいても良いんですか? 私は心配です」

「息抜きだよ。夏休みの課題は全部終わってるし、朝からずっと塾で勉強はしてたしね」

「――まさかそのお方と?」

「? うん」

 

「どうしてッ!!」

 

 がんっ! と都合二度目のハンマーが打ちつけられる。

 結構作りの良い靴箱は気持ち若干凹んで見えなくもない。

 

 普段は礼儀正しい、巷ではお嬢様学校として有名な女子校に通う了華だ。

 幼いときは可愛く、存分に甘やかし、大きくなってからは清楚で可憐な美人さんに成長した自慢の妹である。

 

 そんな彼女がどうしてこんな風になってしまっているのか。

 残念なコトに水桶肇(ポンコツ)にはさっぱり分からない。

 

「兄さん……!」

「あ、うん。どうしたの?」

 

「久しぶりに帰ってきた妹を置いてどこの馬の骨とも知らない女子と会っていたんですか……!?」

「言い方。了華、言い方。どこでそんな言葉覚えてきたの。お兄ちゃんそっちの方が心配だよ」

 

「塾に通っているのもそのためですか!? 不心得でしょう!? 兄さん!!」

「進学のためだからね。そもそも優希之さんとは偶々交流があるだけで」

 

「ユキノさん!? 下の名前ですか!? 名前呼びですか!?」

「いや優希之は名字だから……」

 

 ふーっ、ふーっ、とヒートアップしてきた妹の頭をぽんぽんと撫でる。

 

 成る程どうやら渚と仲良くなっているのが気になるらしい、と天然ボケ男子はここに来てようやく彼女の心理を汲み取った。

 

 数字で言えばたぶん一ミリぐらい。

 下手するともっと小さく、一ミクロンぐらいかもしれなかったが。

 

「っ、兄さんは受験で大事な時期だからあんまり勉強の邪魔はしないでおこうって久々の帰省でも遠慮して距離を取っていた私を放っておいて別のところで他の女の子と遊んでるとかふざけてるんですか兄さん!! 私のことはどうでも良いんですか!?」

 

「落ち着いて、了華。早口すぎて何言ってるか聞き取れないよ」

「私にも構ってください!!」

「うん、ごめんごめん。ありがとうね」

 

 おそらく家に帰ってからあまり時間を取れなかったので寂しかったのだろう、と肇は自分なりに考えて納得した。

 

 実際、今年は家族との時間がそこまで取れていない。

 大半の時間を塾で過ごして、帰宅してからもずっと勉強だ。

 

 歳が近いとはいえ了華はまだ中学二年生である。

 

 きっと見ず知らずの相手に兄を取られるとでも思ったのかもしれない、なんて。

 

「今度一緒に買い物行こっか。一日ずっとは難しいけど、お昼からなら大丈夫だよ」

「……駅前の水族館」

「そっちの方がいいの? じゃあ都合のつく日に――」

「明日」

「急だね。良いんだけど。……よし、分かった明日ね」

「…………、」

 

 目線を合わせるようにして再度撫でるもぶすっとした表情は崩れない。

 彼はシンプルにコミュニケーションが少ない所為で機嫌を損ねたと思っているのだが、実際のところはもちろん違う。

 

 というのも、彼女が全寮制の学校へ入学を踏み切ったのはすべて兄のせいなのだ。

 

 生まれてからずっと、物心ついてからもすぐ傍で育ってきた兄妹同士。

 肇自身の認識どおりふたりの仲は良好だった。

 喧嘩だって小さい頃から滅多にしたことがないぐらい。

 

 問題があるとすればそれは――彼の()()()()()感が前世でぶち壊されていたことだろう。

 

 

『彩斗ー! ふぉーえばーらぶゆー! 大好きー! 愛してるー!!』

 

 

 幼い時分に虐待を受けて、母親の死と共に引き取られた先で出会ったのが件の姉。

 当然ながら彼の姉弟に対する愛情の向け方というのはそこが原点になる。

 

 肇はできるだけ同じように接した。

 

 ぶっちゃけドの付くレベルのブラコンが入っていてもおかしくないほどの姉を、そうとは知らずに模してそれはもうデロッデロに甘やかした。

 

 了華自身がわりとそれを異常だと認識できたのは不幸中の幸いか。

 

 ――このままだと兄無しでは生きられない身体になる。

 

 そんな未来を危惧した彼女は、齢十二歳にして家族の元を離れるコトを決意。

 断腸の思いで女子校の入試に挑み、見事合格して寮生活となった。

 

 ……そう、断腸の思い、身を切るほどの痛み。

 

 気付けたは気付けたが、それが間に合っていたかどうかは言うまでもない。

 

「それじゃあ行ってくるよ。了華も友達誘って行っても良いんだよ?」

「……私はまだ課題が終わってないので」

「そっか。頑張ってね、なんなら手伝――」

「受験生の手を煩わせるワケにはいきませんので大丈夫です。……はやく行って、はやく帰ってきてください」

「遅くはならないようにするよ」

 

 可愛いお願いだなぁ、と笑いながら手を振って家を出る。

 

 けれど、良い切欠だと肇自身思った。

 

 たしかに勉強ばっかりでロクに妹とは遊べていない。

 ずっと居ないワケじゃないけれど、一年を通して見れば貴重な妹と過ごす時間だ。

 

 なにより、人間()()()()()()()なんて分かったものじゃないし。

 

 勉強も大事だけれど、やっぱり偶には他のコトもして然るべきだろう。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 待ち合わせ場所は町中から少し外れたコンビニだった。

 

 塾からはそれなりに遠く、肇や渚の通う中学とも離れた位置。

 

 それもそのはず。

 

 花火の打ち上げは海の近くで行われる。

 海岸があるのは街の南側だ。

 普段の行動範囲よりもっと外になるところ。

 

 嗅ぎ慣れない強めの潮の香りを浴びながら、肇は携帯のマップ片手に歩いていく。

 

(たぶんここら辺かな……?)

 

 同じ町内とはいえ彼の生活圏からはよっぽど逸れている。

 残念なコトに好奇心旺盛な冒険家(こども)でもなかった肇に地理感はあまりない。

 

 これで地図も読めなければ絶望的なのだが、そこは腐っても文系男子。

 地理・歴史・公民ともに一応ではあるが得意科目のひとつだ。

 

(…………あれか)

 

 ――と。

 

 次に出た大通りの向かい側に、それらしき建物を見つけた。

 

 マップの情報を照らし合わせてみても間違いない。

 少し横に歩けばちょうどよく道路の上を大きく跨ぐ歩道橋もある。

 

 長めの階段を上り下りしなくてはいけないが、現役中学生としては苦でもない程度。

 

 事もなげに上りきって、反対側に向かう。

 

「…………」

 

 時刻は夜の七時過ぎ。

 

 お互いで決めた集合時間は七時半だ。

 約束のリミットまではあと二十分以上ある。

 

 これなら待たせることもなく、十分(じゅうぶん)に間に合うだろう。

 

「――――……、」

 

 ゆっくりと階段を降りていく。

 

 祭りの日だからか、町中の空気はどこか熱っぽい。

 夜に入ろうとしているのにむしろ明るさは増していくようだ。

 

 どこかから聞こえてくる独特な太鼓や笛の響き。

 

 いつもならコツコツと固い地面を叩くだけの靴音は、今日に限ってカラカラという下駄の音がよく混じっていた。

 

(ああ、なんていうか――)

 

 ……久々に。

 少しだけ、食指が動いた。

 

 もう出すものは出し切ったと思っていたし、実際こうなってから一度も()()が顔を出すことはなかったけれど。

 

 どうにもまだ、筆を握る理由が少しは残っていたらしい。

 

(……昔ほどではないけど。あの頃は凄かったもんな……身体の痛みも忘れて一日中描いてたっけ。あそこまでの意欲はもうないかなぁ……)

 

 服も肌も汚しながら無心で手を動かしていた時期を思い出す。

 

 ――鼻孔をくすぐる油の匂い。

 ――何層も色を重ねていたパレット。

 ――数十と転がる筆とナイフと多くの画材。

 

 自分でも不思議なぐらい頭にはイメージが湧いていて、それを吐き出すのに夢中だった。

 

 焦りとも衝動とも違うとめどない創作意欲の膨張。

 それが破裂したのはきっと終わったときなのだろう。

 

 だからまた描こうなんて思わなかったし、こうやって何とはなしに生きてきた。

 

 そんなものが今更復活したのは良いことなのか悪いことなのか。

 当面、勉強で()()()()()を持つ気もない彼にすればどちらにせよ関係ない話。

 

(…………あれ?)

 

 ふと、コンビニの近くまで行くと目に留まる光景があった。

 

 店の前にある駐車場の片隅。

 邪魔にならないような端っこで、静かに佇む人影を視認する。

 

 いつか見た景色をどことなく想起させる風景だ。

 

 声をかける人はいない。

 ひとり待ち続ける少女には不思議と他人を強く拒絶する雰囲気が濃い。

 

 誰もがそれを大小の差はあるとはいえ感じ取っているのだろう。

 

(……ほんと、目立ってるなあ……)

 

 遠巻きに眺められる視線に本人は気付いているかどうか。

 いつも通りの彼女の態度を思い返して、肇はくすりと微笑む。

 

 乙女ゲーの主人公(ヒロイン)ならもっと愛想を振りまいても良いだろうに、彼女のタイプはどちらかと言うと愛想を()()()ほうだ。

 

 そのあたり、彼の中でもわりと良かったのかは分からないけれど。

 

「――――……」

 

 力を抜いて歩を進める。

 向かう先はもう目前。

 

 これならマップを見る必要もない、と携帯はポケットにしまった。

 

 ふたりの間は縮まっていく。

 距離にして五メートル。

 

 そろそろ声をかけようか――なんて肇が口元を緩めたところで、うつむき加減だった少女の顔がぱっと持ち上げられた。

 

 ぱっちりと、視線が合う。

 

 

「……こんばんわ、優希之さん」

「えっ、あ――こ、ここっ……こん、ばんわ……」

 

 

 やあ、と彼が手をあげると、渚もひょこっとちいさく手をあげて返す。

 

 顔が若干赤いのは焦って挨拶を吃ったからか。

 わずかばかり視線を逸らしながら、密かに窺うようにちらっと肇の方を向く。

 

「浴衣、着てきたんだ」

「あ、うんっ……お、お母さんに……友達と花火見に行くって言ったら、無理やり……」

「……そっかぁ。普段着で来ちゃったな、俺」

「あはは……それでいいと、私も思うんだけど……」

 

 曖昧な笑みを浮かべながら恥じらうように頬をかく渚。

 肇の言った通り彼女の格好はいつものそれとは違っている。

 

 黒を基調とした向日葵の柄があしらわれた浴衣。

 帯は白く、足は黄色い鼻緒の下駄を履いていた。

 いつもはふわりと流されている銀髪も今日は片側で巻かれ、灰色の簪をさして緩めのサイドアップになっている。

 

 まだまだ学生ではあるのだけれど、なんとなく色気がある感じ。

 

「……うん」

「…………、……?」

 

 それを彼は呑み込むようにして頷いた。

 意識を切り替えるように瞼を閉じて、そっと視界を確保していく。

 

 視線を切ってもその鮮やかさは変わらない。

 

 少年は純粋に、どこか甘いものを噛み締めるみたいに。

 

 

 

 

「――すっごい綺麗。優希之さんにとても似合ってる」

 

 

 

 率直な感想を、少女に囁いた。

 

 

「――――――ぇ……ぁ……っ」

 

 

 ほんのりとか、かぁっ、なんてレベルではない。

 

 賛辞を受けた渚の表情は溶けるように崩れた。

 

 ぼおっ、と顔が赤くなっていく感覚。

 今までで一番、これまで生きていて感じたコトのない衝撃に胸を打たれる。

 

「ぁ……そ、その……っ」

 

 唇がわななく。

 視線が固定できない。

 

 顔を見られても一瞬だけ。

 

 瞳はあちらこちらを行ったり来たり。

 まったくもって落ち着かない。

 

「…………っ」

「――?」

 

 ……それでも、きゅっと。

 浴衣の端をちいさく握りしめて、彼女は全身に力を込めた。

 

 返事一つかえすのになんてコトだと思うだろうが、しょうがない。

 

 このままなにもしないでいたら、足下からなにか、盛大に倒れていきそうだったし。

 

 精一杯の気合いを込めて、意を決して――洩れ出たのはほんのか細い声。

 

「――――ぁ、あり、が、と……っ」

「ううん。本当、綺麗だと思うよ」

 

 情けないぐらいの小声だったのに、彼はちゃんと聞き取って言葉を投げ返した。

 追い打ちじみた一撃は胸に刺さるどころか同じ場所を叩いて砕くように響いていく。

 

 ……顔に集まる熱は留まることを知らない。

 

 彼にとっては変に意識することもない、心に抱いたものをそのまま口にしただけの台詞なのだろう。

 事実、真っ赤になった渚とは打って変わって肇の表情はいつも通りだ。

 

 悪意もなにも知らないような笑みのまま、ニコニコと彼女を見詰めている。

 

 ……だから余計に心臓が跳ねるのだというコトは、きっと知らないし伝わりもしないけど。

 

「少し早いけど行く? どこで見るかも決めないとだし」

「っ、そ、そう……だね……あ、あと、屋台とか……見て回りたい……し……」

「遊ぶほう? それとも腹ごしらえ?」

「……た、食べ物のほう……で……」

「ならそっちで。俺も夕飯は食べてないから、お腹は空いてるんだ」

 

 焼き鳥とかあるかなー、なんて言いつつ歩く肇の隣についていく。

 

 周囲の空気はハレの日につき本当賑やかだ。

 いつもなら閑散とした道にも浮ついた空気が流れ込んでいる。

 

 音は溢れている。

 

 けれど、そのどれもが今の彼女にとって遠く離れた残響に過ぎない。

 

 やけにうるさい胸の鼓動。

 

 落ち着かない気分と共に抱えたそれを持て余す。

 

「…………っ」

 

 綺麗も、似合ってるも、なんてコトはない褒め言葉。

 はじめて言われたワケじゃない。

 

 生きていれば本心かどうかは別としても、何度かそれを言われる機会はなくもない。

 

 彼女みたいな美少女なら尚更だ。

 慣れていないハズでもないのに、珍しい言葉でもないだろうに。

 

 ――彼のいった一言が、頭の中に反響して消えてくれない。

 

「――――……っ」

 

 顔を赤らめたまま、視線を落として足を動かす。

 

 もうこれ以上はキャパオーバーだ。

 余計なコトなんて考えなくてもいい。

 

 でも、ああ、よせば良いのに、ぴったりと横を歩く彼の姿を捉えてしまって。

 

 いつもとは違うのに。

 浴衣で彼女の歩幅はもっともっと小さくなっているのに。

 

 ――ほんと、余計なコトをしてくれなくてもと。

 

 唇を噛み締めるようにして、彼女は胸中で愚痴をこぼした。

 拗ねるように、皮肉るように。

 

 ……それはほんのちょっとの、いじらしい少女の気持ちだろう。

 

 

 







紫陽花とかと迷いましたがやっぱこっちかなって。



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12/そうやって見上げている

 

 

 

 

 遠くから聞こえる祭囃子を背にふたりで歩いていく。

 

 海側に近付くほど歩道には人が多くなった。

 

 家族連れ、カップル、何人かの友達と来ているもの、ひとりのもの。

 テンションや楽しみ方に違いはあれど催し物の雰囲気は等しく明るい。

 

 誰もがどこか、普段とは違った感覚に呑まれつつある。

 

「とりあえずなにか食べる?」

「……っ、そ、そう……だね……」

「出店が海岸道路のほうに並んでる筈だから……もうちょっと向こうかな」

「……うん。だと、思う……」

 

 だからなのか、なんなのか。

 

 渚の心境はさっきからずっと落ち着かないままだった。

 いつもなら気にならない些細なコトがやけに引っ掛かる。

 

 精神の状態だけでいえば緊張しているのだろう。

 

 問題は、なにをそんなにというところ。

 

「……大丈夫? 優希之さん。なにかあった?」

「へっ!? あ、いや、なんでもっ……うん、なんでもないよ、全然……」

「それなら良いんだけど……辛かったら言ってね。下駄、履き慣れてないと鼻緒ずれとかしちゃうみたいだし」

「ぁ、えっ、と……一応、ベビーパウダーつけてるから、早々ならないとは思う……」

「……そんな対策方法あるんだ、知らなかった……」

 

 へぇー、なんて感心した風に彼女の顔を見てくる肇。

 それにやっぱりどこか堪えきれないものを感じて、そっと渚は視線を逸らした。

 

 鼻緒ずれの予防についてはわりと一般的なものである。

 彼が知らないのは単にそのあたりの方面に詳しくないだけだろう。

 

 なんとなく、それをらしいと彼女は思った。

 

「……優希之さんはなにか食べたいものある?」

「と、特にこれといっては……見てから選ぼうかな、って……」

「あぁ、いいねそれ。実際見て回るだけでも楽しそう」

「…………、うん」

 

 きゅっと浴衣の端を握りながら息を吐く。

 

 震えていた声音は時間と共に戻ってきていた。

 心臓だって会ったばかりの時に比べれば幾分か大人しい。

 

 そもそも、いつまでも吃ってばっかりでは折角の時間が台無しだ。

 

 よし、と気合いを入れてひとつパチリと瞬きをする。

 

「――ほんとに大丈夫? 熱とかない?」

 

 と、そのとき。

 急に渚の額へ触れるモノがあった。

 

 なにかは分からない。

 

 正体を探るために一周回って冷静になった思考が働いていく。

 

 ほのかに熱を帯びた柔らかな感触。

 至近距離には隣を歩いていたはずの肇の顔。

 

 ――手を、当てられている。

 

「――――っ!?」

「あ、平気……? ん? ある? ……ごめん、分かんないや」

「ぃ、いい! 平気! ね、熱とか、ないっ、から! うん! うんうん!」

「……そうかな?」

「そ、そう! そうだから! 大丈夫っ」

 

 ぶんぶんと首を振って必死に肯定する。

 すると、珍しく彼にもその気持ちが伝わったのか。

 

「……たしかに。そこまで元気だと、大丈夫なのかな」

「――――っ」

 

 口元に手を当ててくすくすと微笑む純朴少年。

 その表情は相変わらず影というか、邪気みたいなものがない。

 

 困ったように笑うのも、曖昧に口元を緩めるのも渚は見たコトがあるが。

 今みたいな顔はなによりも、彼に似合っていると思った。

 

 そうあってほしいと、どこかで望んだのだ。

 

(……あぁ、もう――……なんなんだろう、私……)

 

 自分自身に呆れるようため息をこぼす。

 

 彼女だって自覚できるぐらいに、今日の優希之渚はなんだかおかしい。

 

 小さなコトで鼓動が跳ね上がる。

 少しの接触で熱っぽくなる。

 わずかに視線を向けただけで気分が変になる。

 

 本当、どうしてしまったというのだろう。

 

 騒がしい空気にやられたのでもなければ、なにかしらの病気にかかっているとしか思えない。

 

「あ、なんか良い匂いする……」

「…………――、」

 

 くんくんと鼻を動かす彼の様子は年相応だ。

 それを新鮮とも珍しいとも感じるのは偏に普段の態度が静かすぎるからだろう。

 

 決して大人びているワケではない。

 肇にある余裕はあくまで生来の性格故のもの。

 人付き合いに慣れきった人間の出すそれとは違っている。

 

「…………、」

「――――――」

 

 ひとたび会話が途切れると、気持ち鼓動が落ち着いた。

 温度を下げた思考はそのまま辺りへと意識を向ける。

 

 花火の時間まではもうしばらく。

 

 出店が近付いてきたからか、周囲の人集りは結構なものだ。

 重なるように色んな音が響いて、溶けて、交ざり合っている賑やかさ。

 

(…………、)

 

 そっと、覗き込むようにして彼に視線を向ける。

 身長差のせいで渚としては見上げる感じ。

 

 肇はわずか遠く、屋台の並ぶほうを見ていた。

 横顔を見詰めている少女にはまだ気付けていない。

 

 ……それで、ちょっとだけ。

 

 ほんの少し、気にしなければ見落とすぐらいのコトに気付いた。

 

 ほんと、口にすればどうでもいい気遣いだけど。

 

 例えばそう、道を歩くときに必ず車道側に居たりとか。

 時折先行しすぎないように、歩く速度をちょっぴり緩めたりとか。

 並んでいても他の人にぶつからないように、さりげなく位置を変えたりとか。

 

「――――水桶くん、ってさ……」

 

 どくん、と心臓が跳ねる。

 

 さっきまでとは違う、どちらかというと嫌な響き。

 なんとなく気になったコトを聞き出そうとしただけなのに、冷や汗が頬を伝った。

 

 理由はあまり、分からない。

 

「? うん」

「……か、彼女とか……居たこと、ある……?」

「ないよ」

 

 回答はスパッと、不安の根を切るように歯切れよく。

 

 少年はなんでもないかのように言い切った。

 嘘をつく意味もなし、意地を張る必要もなし、躊躇うワケもなし。

 

 そういうコトはなかったなあ、なんてどこか懐かしむように。

 

「……ほ、欲しいとかは、思わない……の……?」

「……どうだろう。でも、急だね。なんで?」

「えっ、あ、いや……私たちぐらいの、男子だと……そういう、ものかな……って……」

「ああ、たしかに。うちのクラスも男子が何人か集まって叫んでたなー」

 

 からからと笑う肇は件の光景を思い出して楽しんでいるみたいだった。

 

 大人しい雰囲気には包まれているものの、彼自体は騒がしいほうが好きらしい。

 自習室の静けさを好んでいるのは勉強をする上での環境の問題だろう。

 

 ……だからそう、勘違いしがちだけど、決して彼は冷めているワケではないのだ。

 ただちょっと、疲れたようにぼんやりしている風なだけで。

 

「でも、そういうの考えたコトなかったなあ……そっか、彼女かぁ」

「……好みのタイプとか、あるの? 身長が高いとか、か、顔、とか……?」

「どういう人と付き合いたいかってこと?」

「う、うん。……まあ、そんな……感じ……っ」

 

 言いながら恥ずかしくなって、俯きつつ渚が口を噤む。

 

 対する肇は頭の中から抜け落ちていたコトを指摘されて楽しそうに悩み出した。

 

 前世では早くから体を壊してそんな余裕もないまま病死。

 恋人といえば絵か筆、というぐらいに没頭していた彼に色恋沙汰などあるはずもなく。

 ここに生まれてからも、知識としてはあってもどこか自分とは関係のないことだと思っていた。

 

 けれどもよくよく考えれば、一応健康なままなのだし。

 まあ、そういうコトもあるものかと。

 

「そうだね……」

「――――」

 

 こくり、と生唾を飲み込む音。

 どちらが出したかなんて言うまでもない。

 

 彼女から話を振っておいてなんだが、聞きたいような聞きたくないような。

 怖いような、でも若干楽しみなような。

 

 複雑な心境のまま、至近距離から放たれる彼の言葉を待ち続ける。

 

 

「笑顔が似合う人」

 

 

 どういう答えが返ってきても少しは揺れる。

 

 そう思っていたのに、その答えは不思議なぐらいあっさりと受け取れた。

 驚きや衝撃より先に、なるほど、なんて納得してしまうぐらいのもの。

 

「太陽みたいに笑う人。付き合うなら、そんな人が良いなって」

「…………そっか」

 

 胸に去来したのは正体不明の感触だった。

 掴んでみてもまったくこれっぽっちも分からない。

 

 複雑だ。

 

 姿形も生き方もまったく違うのに、重なる部分がどこかにある。

 そう言えば、最愛の家族がよく言っていたっけ、なんて。

 

 

 〝――姉さんは、なんというかお日様みたいに笑うよね〟

 

 

 あのときは意味が分からなかったけれど、ここに来てやっとそれが理解できた。

 

 暗くなってきた夜の中。

 向き合って、淡い出店の光を背に立つ彼を見る。

 

 浴衣の向日葵(もよう)と同じように。

 眩しいものでも見たかのように、渚はそっと目を細めながら。

 

「……たしかに素敵だね。そういう人……」

「そう?」

「……うん」

 

 引き摺る面影に胸を痛める。

 締めつけるような苦しみを大事に抱えて仕舞い込む。

 

 本当、今日はおかしなコトだらけだ。

 

 ()()()のコトを思いだしておきながら、こんな程度で済むなんて。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 腹の奥、地面の中まで伝わるような震え。

 遅れて飛んでくる鈍い音。

 

 夜空は晴れるように光っていた。

 

 色とりどりの花火が連なるよう咲いていく。

 

「おぉー……」

「……綺麗、だね」

「ほんと。直で見ると何倍も」

「……うん、たしかに」

 

 落ちる火花と、ふわりと漂う煙の群れ。

 それを照らすようにまた新しい花火が打ち上げられる。

 

 下から放たれる歓声もかき消されるほどの轟音。

 

 やっぱりいいな、と肇はそわそわと指を動かした。

 いつからか消えていたクセの再発だというコトを、当然彼は気付いていない。

 

「――――……、」

 

 むしろ、目敏く気付いたのは渚のほうだった。

 頭上の絶景から視線を切って、ぼんやりと彼の手を眺める。

 

 肇の指は綺麗だ。

 それは別に悪いことでもなんでもない。

 

 ただ、彼女の大好きだった誰かさんの手はもっと汚れていて。

 中指には大きなペン胼胝を拵えて、なかなか取れない油絵の具をつけて、様々な画材を握る手はいつもボロボロだった。

 

 ……渚が勝手に思うに、誰かさんならどんな姿になってもそこだけは変わらないだろう。

 

 あれだけ必死に描いていたのだから、きっと今でもどこかで、ずっと筆を握っているはずと。

 

「……綺麗すぎるね」

「あはは。うん、そうかも」

 

 花火を見上げながら肇が返す。

 

 見下ろした彼女の意図なんて伝わらなくて当然だ。

 渚としても、こんな情けない未練を伝えたいとは思わない。

 

「いいなあ、花火」

 

 どこか弾んだような少年の声。

 

 その横顔を彼女はそっと覗き込む。

 

 目をきらきらと輝かせる姿は子供っぽくて、いつもの落ち着いた様子が嘘みたいだ。

 それで幻滅するような心だったなら、もっと付き合いやすくて良かったろうに。

 

(……浮かれてるのかな)

 

 ふと、そんなことを考える。

 誰がどうとかは関係なしに。

 

 彼にとっても未知数であるように、彼女にとってもそれは初めてだ。

 

 答えに辿り着くのはまだまだ先。

 

 いまはもう少しだけ、隣に居られるだけの時間が続く。

 

「――――、」

「…………、」

 

 ふたり並んで空を眺める。

 同じだけのものに囲まれて過ごしていく。

 

 その居心地がどうかなんて語るまでもなかった。

 

 鏡がなかったコトだけが残念なところ。

 きっと自分の表情を見られたならば、彼女だって先の言葉を意識しただろうと――

 

 

 



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13/熱を引く余韻

 

 

 

 

 夜空はいつも通りの群青に戻った。

 ざわめきは蜘蛛の子を散らすように離れていく。

 

 四十分近く続いた花火の打ち上げは見事終了。

 

 あとは下るように熱も引いていって、やがて静かな夜になるだろう。

 

「凄かったねー……」

「……そうだね」

 

 その例に漏れず、肇と渚も帰り道を歩いていく。

 

 町の空気はすでに浮ついたものから切り替わっていた。

 残った熱が頬を撫でていくような感覚。

 微かに漂う余韻を味わうみたいに、明るい声があがっている。

 

 淋しさはない。

 終わりは忌避するものではなく、振り返って良かったと賞賛するものだ。

 

 そんな様子がどこか、肇の胸にじんと響いた。

 

「花火……花火かあ」

「……そんなに、気に入ったの……?」

「うん。いや、初めてじゃないんだけどね。なんでかな。こう……とにかく良くて」

「……うん」

「色と光だけじゃないんだよ。音も、形も、こう……上手く言えないけど。久しぶりに、なんか、結構キタっていうか……」

「……うん、うん」

 

 未だ忘れられないコトを思い返すように彼が空を見上げる。

 

 瞼の裏に残った閃光の軌跡。

 耳朶を震わせて身体中に響いた音。

 五感で味わう綺麗という感覚。

 

 まだまだ小さな、蝋燭の明かりにも満たない小さな種火だけど。

 燃えるものが確かにあったのだと、再確認できたのはどちらにせよ進歩だ。

 

「――あぁ、ごめん。なんか、すっごい変なこと言ってるね……俺……」

「ううん、いいよ。そのぐらい……私は、ぜんぜん……」

「……優希之さんはどう? 楽しめた?」

「……うん。そうだね、楽しめたよ。ちゃんと」

「ふふ、そっか」

 

 珍しく、分かりやすいぐらい機嫌がいい肇に渚もくすりと微笑む。

 色々と衝撃的なコトはあったけれど、悪かったワケじゃない。

 

 総評して言えば満足も満足。

 これ以上ないというぐらい充実した時間だった。

 

 それこそ、このまま別れてしまうのが名残惜しいほどに。

 

「いいね。やっぱりこういうの。勉強ばっかりじゃこうはならないし」

「……水桶くんは、もっと休んでも良いんじゃない。成績、順調に上がってるんだし」

「どうかな。今だって結構頑張ってやっとってところだけど……」

「…………数学はもっと力入れないといけないかもね」

「うっ、ごもっともです……」

 

 痛いところを突かれて一転、しゅんとする受験生。

 

 上位だった一学期の期末でも点数が最も低かったのが数学だった。

 たしかに自力でなんとかなるぐらいの実力はついているが、それはそれ。

 まだまだ苦手科目のレッテルを脱却するにはほど遠い。

 

 二次関数とか、三平方とか、解けなくはなくても頭はめいっぱい。

 

「この調子でいったら受からなくはないと思うけど」

「受かりたいよ。ここまでやったんだから。落ちたら色々と申しわけない」

「……受かるといいね」

「優希之さんもでしょ。……もしかして、安全圏だからってそんなコトを……?」

「そんなことないよ。私も精一杯。……まあ、意趣返しの意味は……あるかも」

「えっ」

「……半分冗談だから。気にしないで」

「ちょっと気にする……」

 

 なにかとてつもない粗相をしたのだろうか、とわなわな震える肇を尻目に彼女はちいさく息をつく。

 

 時間はかかったけれど、ようやくエンジンがかかってきたというか。

 むしろ心持ちはその逆というか。

 

 明確に終わったんだな、と実感しだしたあたりで感情は平静を取り戻していた。

 

 緊張が解けたのではなく、それを覆い隠すぐらいの気持ちに引っ張られて。

 

「――でも、良かったよ。また見に来られるといいな」

「……そうだね。また――」

「来年とかかな」

「…………来年、かもね。うん……」

 

 鬼がいたら笑いそうな話。

 まだどうなるかも分からない未来のコトだ。

 

 そこに思うところがあるのか、渚は静かに視線を逸らした。

 

 もともとどうして彼女が彼と同じ進学先を目指していたのか。

 最初の頃に伝えた通り、その考えはいまのところ変わっていない。

 

「…………、」

 

 しばらくふたりで進んでいると、待ち合わせ場所だったコンビニが見えてきた。

 いまのペースだと五分も経たずに着いてしまうだろう。

 

 そう反射的に考えたのがいけなかったのか。

 

 その気はないのに、渚は一瞬――歩く速度を緩めかけた。

 

(……いや、なにしてるの私……)

 

 はあ、と自分に呆れてため息なんか出てくる。

 

 そんなことをしても何の意味もない。

 みっともない、まったくもって情けない。

 

 弱すぎるにも程がある。

 

 ……今生の別れというワケでもないのだし。

 

 綺麗さっぱり花火の観覧は済んだのだから、気持ちよくシメて仕舞えばいいと。

 

「――み、水桶くん」

「ん、なに?」

 

 上から覗き込むように肇が顔を見てくる。

 うっ、とたじろいだのは最早彼女にとってそれが兵器じみたものだったからだ。

 

 ……前言撤回。

 

 落ち着いたと思ったけれど、視線ひとつで崩れるほど彼女の心はボロボロだったらしい。

 

「ぁ……そ、その。えっと……」

「……?」

「あの、だから、き、今日は……この辺で」

「え?」

「……え?」

 

 あれ、と見つめ合うふたり。

 どうにも認識に違いがあった模様。

 

 場所は前述したとおりコンビニの前である。

 当たり前のように渚はここが別れるところだと思っていた。

 

 なにせ待ち合わせに指定した地点だ。

 

 そこで離れずにどこで離れるのか、と。

 

「……あぁ、そっか、そういう……」

「……う、うん……」

 

「――どうせなら帰る方向も一緒だし、もう少しだけ歩かない?」

 

「…………ぇ?」

 

 予想外の答えに、今度は渚がぽかんと口を開ける。

 

「? ……あ、もしかして車とか? それなら全然――」

「ぁ、いや、そ、違っ、あ、ああ歩き、だけど……っ」

「……なら、せめて近くまで送るよ。いつものところまで」

 

 いつものところ、とは塾からの帰りにある分かれ道だろう。

 

 言うまでもなく彼の家とは別方向に行くことになる。

 そこからまた自分の家まで、となると……無理なほどじゃないが距離はそれなりだ。

 

「そ、それだと、そのっ、水桶くんだって時間、ないだろうに……っ」

「いやあ、そうなんだけど。……あはは、ごめん、なんか気分上がっちゃって……もうちょっとだけ話したいなって。……、ダメ?」

「――――――っ」

 

 実際、いつもよりテンションが高いのは渚も気付いていた。

 

 彼の言った理由は本音そのままで裏なんてひとつもないのだろう。

 そんなのは言うまでもなく分かっている。

 

 ――――けれど、ああ。

 

 その言い方は、とてもじゃないが反則だ。

 

 彼の問いかけに「ダメ」なんて言えるほどだったら、そもそもこんな風に一緒に花火を見ようと誘ってすらいない。

 

「……み、水桶くんが……そこまで、いうなら……」

「よし、やった」

 

 ふふっ、と微笑みながら肇が小さくガッツポーズなんてする。

 

 いつもの彼ならきっとそこまでやらない。

 気分が上がっている、というのは嘘でもなんでもない目に見える変化だ。

 

 あれだけ瞳を輝かせていたのだから理由だって察して余りある。

 

 それはきっと、滅多にないだろう彼の姿で。

 

「……そんなに、喜ぶところ……?」

「ごめん。浮かれてる。明日になったら落ち着くだろうから、安心してほしい」

「……ふふっ、なにそれ……」

 

 安心して、なんてとんでもない。

 むしろ不安なんて微塵もないぐらい。

 

 その様子を見られただけで、彼女は今日一番幸せだった。

 

 ……そう、当の本人だって思い返すまで自覚しなかったほど。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 ぼうっと、ベッドに沈みながら天井を見詰める。

 

 渚が家の近くで彼と別れてはや三十分。

 

 一通りやる事を済ませた少女は、深刻な問題にぶち当たっていた。

 

「…………、」

 

 はあ、と知らず知らずのうちにため息がこぼれていく。

 

 楽しかったあとの夜。

 思い起こす映像はどれも色付いていて暖かい。

 

 それに溺れながら意識を手放しでもすれば最高だっただろうが、目下彼女の頭を悩ませるモノのせいでそんな夢も叶わない。

 

 理由は単純にして明白。

 

 別れ際、肇がなんでもないかのようにさらっと切り出したコトだった。

 

『……あ、そうだ。連絡先交換しておく? 今日みたいな待ち合わせとかだと、色々便利だろうし』

『へぅぇっ!?』

 

 あんまりにもあんまりな声をあげたのは正真正銘の不意打ちだったからだ。

 

 許して欲しい。

 というか彼には忘れて欲しい。

 

 渚自身も聞かれたくて出した声ではないのだ。

 

 その後、案の定ツボに入ったのかクスクスと笑われた記憶まで蘇ってくる。

 

(――って、それは、どうでもよくて……!)

 

 仰向けになったまま、手探りで掴んだ携帯の画面を眺める。

 

 らしいというかなんというか、登録名は本名そのまま。

 アイコンだってデフォルトのものから変えられていない。

 

 本気で連絡手段としてしか使っていないと分かるあたり、どうにも。

 

「…………ふふっ」

 

 思わず笑う。

 

 そして直後に盛大な自己嫌悪に陥った。

 

 ――なんだ、いまの、気持ち悪い含み笑いは――

 

(ああもうっ、なに、なんなの……! そこまで、荒れるようなこと……!?)

 

 今度は低く、細く、心を落ち着かせるように息を吐く。

 

 伊達に長いだけの人生経験があるワケではない。

 誰にも言うつもりはないが、彼女だって現役中学生としては二度目だ。

 こういうときには焦らず、ゆっくり、冷静に考えることができる。

 

 ……尤も。

 

(……まあ、思い返すと……)

 

 ずっと弟にべったりで、狂ったようにはしゃいで、こういった経験が皆無だったのは言うまでもない。

 昔を含めても、同年代の男子とここまで濃い時間を過ごしたのは彼が初めてだった。

 

「…………、」

 

 どうしてそんなコトになったのか。

 いま考えてみても不思議で、それこそ出会いだって在り来たりなものである。

 

 ただそのとき感じた安心感というか、変に穏やかな雰囲気がなんとなく良くて。

 ちょうど受験シーズンで塾に通い詰めていれば、顔を見ることも話すことも増えて。

 それでちょっとボロが出たところに、思いっきり大きな釘をドスンと打ち込まれたようなもの。

 

「…………っ」

 

 きっと彼はそんな奇跡に気付いてもいないのだろう。

 

 だってこんなのは勝手に彼女が刺されただけだ。

 もしも狙ってやっているとするのなら相当な策士である。

 

 ……まあ、そんなコトができる頭があれば彼はもっと違う方向(べんきょう)に使いそうだが。

 

(……そりゃ、分かんないよ。他人同然の男の子との、接し方なんて……)

 

 ぼんやりと液晶を見詰めながら、再三になる息を吐く。

 

 メッセージの欄に履歴はない。

 なにせついさっき連絡先として登録したばかり。

 試しになにか送る暇もなく、時間も時間だからと早々に彼と離れた。

 

 実際は、キャパオーバー気味になった渚が逃げ帰ったワケだけど、そこはいまどうでもいい。

 

 関係ない。

 一緒にお祭りに行って花火を見て楽しんで、連絡先を交換しただけで限界ってそれ女子中学生としてどうなのかと言われても知らない。

 

 精神年齢幾つであろうと、彼女は歴とした乙女である。

 

 たぶん。

 

(……水桶くん、もう家に着いたかな……)

 

 たしか以前に肇から聞いた話によると、歩いても二十分程度の距離だと言っていた。

 

 夜も遅い時間で変に真面目な彼が寄り道なんてするハズもなし。

 とくにこれといったコトもなければ既に帰宅している頃だ。

 

 なら今はお風呂か、部屋でゆっくりしているか、早めに寝ているか――

 

(――――……大丈夫、集中。ヘンな想像は、しなくていい……っ)

 

 赤くなっていく顔から熱を引かせるように深呼吸。

 閉じた瞼をそっと持ち上げて、真っ直ぐ画面を見る。

 

 眠れない悩みの種。

 折角交換した彼との連絡先。

 

 ――さて、となるとメッセージはなにを送るべきなのか。

 

 送るとしてどういう文面がいいのか。

 それともわざわざ送らないほうが良いのかどうか。

 

 ベッドの上で、少女は真剣に悩み続ける。

 

 

(はじめまして……じゃないし。お久しぶり……ってほど時間も開いてないし。やっほー……とか? いやそんな気軽な挨拶したコトないし、できないし……。どうも……ってそれだとちょっと愛想がなさすぎる……。私です……、だからなんなのって感じじゃん……)

 

 

 あーでもないこーでもないとウンウン唸る女子中学生。

 

 普段から物静かで大人びた娘を心配している渚の両親も、いまの彼女を見ればさぞ喜ぶことだろう。

 本人が気付けるワケもないが、その姿はどこからどう見ても年頃の恋する女の子である。

 

 知らないのは彼女と、その彼女から特別に見られているどこかの天然野郎(ポンコツ)だけ。

 

「――――――きゃっ!?」

 

 ……と。

 

 一心に考え込んでいたところへ突然手元の携帯が震えた。

 

 離して落とさなかったのは不幸中の幸いである。

 顔か胸の上に飛来するスマホアタックを避ける技術は残念ながら人生二回目でも身に付けられていない。

 

(な、なに……?)

 

 恐る恐るといった風に見てみれば、ちょうどその彼からメッセージが飛んできたところだった。

 

「え?」

 

 ごしごしと目を擦って確認する。

 

 見間違いではない。

 幻覚でもない。

 ましてや変ないたずらでもなんでもない。

 

 本当に、ちょうど、タイミング良く。

 彼女が携帯を覗いていたときに、肇がメッセージを送ってきていた。

 

(ちょっ、嘘、待っ――いやいや落ち着け、私! 落ち着け、落ち着いて……冷静に……こういうときこそ、冷静に……っ)

 

 掛け布団を引っ掴んで蓑虫のようになりながら、そっと、そぉー……っと、怯える小動物みたいに内容を確認する。

 

 

 

『今日は誘ってくれてありがとう! 凄い楽しかったよ。浴衣も本当綺麗で似合ってた! それじゃあまた明日塾で。少し早いけどおやすみなさい』

 

 

 

 簡潔かつシンプルな文面は、それでもどこかテンションの高さが透けて見えた。

 だからなのか、自然と頭では彼の声で再生されていく。

 

 ……面と向かって言っていたならきっと満面の笑みだったろう。

 

 いつもの純度百パーセント天然モノのきらきらスマイルだ。

 

 そんなことを考えて、嬉しさと、気恥ずかしさと、あとなんか色々な感情がごちゃごちゃになって身体中を駆け巡っていく。

 

(――――やばい。なんか分かんないけど、やばい。……というか、返事、どうしよ……なんて返せばいいの、これぇ……)

 

 ぐるぐると布団に包まれながら渚が悶える。

 

 悩みの種は増えるばかり。

 

 結局彼女がメッセージの返信に成功したのはその一時間後。

 考えに考えた末に絞り出した、『こちらこそありがとう。水桶くんと一緒でよかったよ』という短い文章だった。

 

 なんだかんだで道のりは、やや遠い。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 わずかに遅れて返された内容を見て、肇はくすりと微笑んだ。

 なんだか自分ばかりはしゃいでしまった気がするけれど、彼女も楽しめたならなによりだと。

 

「――兄さん? なにしてるんですか?」

「ん? なんでもないよ。ほら、塾の子にお礼してただけで」

「…………私を放っておいて勉強の合間に女の子とやり取りですか。ふーん、そうですか」

「だから言い方。ていうか……」

 

 と、彼は椅子をくるりと回して後ろを向きながら。

 

「俺のタオルケットでなにしてるの、了華」

「兄吸いです」

「あにす……? ……よく分からないけど、それ、匂わない……?」

「別に。というか兄妹でそこまで気にしませんよ、兄さん」

「あ、そう……」

(計画通り)

 

 すーはーっ、と深呼吸する妹をどこか不思議そうな目で見遣る肇。

 

 彼はわりと了華がダメなところまで堕ちているのに気付いていない。

 なんなら最愛の兄を言いくるめてほくそ笑む彼女にすら気付いていない。

 

(……あれかな。流行ってるのかなそういうの……? でもなあ……それとも了華がおかしい? ……いや、まさかね。お嬢様学校にまで行ったできる妹だし。きっとなんかあるんだろうな)

 

 うんうん、とひとりで納得しながら机に向かう。

 

 純粋な学力・知力でいえばおそらく妹のほうが上だし、流行り廃りに敏感なのも間違いなく彼女だ。

 色々と疎い彼には知り得ないコトがあるのだろう、なんて。

 

 ――まさかそれが姉直伝の溺愛モードによる弊害だということは、肇自身(あと)にも先にも気付くことがなかった。

 

 

 



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14/何事も過ぎれば毒

 

 

 

 

 それはまだ、気持ちも落ち着かない翌日のコト。

 いつものように塾の自習室でふたり勉強していたところ、ふとお昼時になって肇が教材を鞄に仕舞いはじめた。

 

「――あれ、水桶くん、もう帰るの……?」

「うん。午後に妹と水族館に行く約束してて」

「へぇ……そう、なんだ……」

 

 というか妹いたんだ、なんて知らなかった事実にうなずく渚。

 

 なるほどそれならあれだけエスコートに慣れているのも納得がいく。

 彼の兄妹ならおそらく同じように物静かで真面目な子に違いない。

 

 ……なんて想像をしたものの、そのすべてが外れているのを指摘する人間はいなかった。

 

 前者でいえば原因は一緒に引っ付いて歩いていた前世の彼女自身だし。

 後者にいたってはどんな妹かなんて言うまでもなく。

 

「本当は買い物でもしようと思ってたんだけどね。ねだられちゃって」

「……そのわりに、なんか嬉しそうだね」

「そうかな? ……そうかも」

「……そうだよ。花火のときと同じぐらい笑ってる」

「あはは……うん、でも兄妹からお願いされるのってやっぱり嬉しいよ、実際」

「…………そっか」

 

 渚に兄弟はいないけれど、その気持ちは十分理解できた。

 

 彼女だって遡ればひとりの弟をでろんでろんに甘やかした実績がある。

 大人しくて元気とはほど遠い状態の男の子だったが、それでも最後にはと頼み事を受けたときの嬉しさは忘れもしない。

 

 込み上げるものが沢山あって、できることはなんでもしてあげたいと思ったものだ。

 

 調子に乗って父と一緒に勢いのまま作業部屋(アトリエ)を作ったほど。

 

「隣町の女子校に通っててね。いつもは家にいないんだけど、夏休みで帰ってきてるんだよ。だから今のうちにって」

「――もしかして()()()? 凄いね、中高一貫でしょ。結構頭良くないと入れないのに」

「そう、凄いんだよ。うちの妹。合格したとき、思わず通知書握りしめてたけど」

「ふふっ……よっぽど嬉しかったんだろうね」

 

 無論、実際のところ了華が「受かってしまったじゃないですか!」なんて絶望で合格通知書をぐしゃっとしたコトなど彼らは知る由もない。

 

 正直駄目だったら仕方ないな、という甘い考えのあった彼女は、それでも受かったという事実を誠実に受け止めて寮生活へ踏み切ったのである。

 かの邪知暴虐とはほど遠い超絶激甘溺愛型の兄によって齎された兄中毒を治療(なんとか)するために。

 

 結果はまあ、お察しの通り。

 

「だからまあ、今日はうんと甘やかしてくることにする」

「……そうだね。いっぱい言うコト聞いてあげると良いと思う」

「もちろん。じゃあ、そういうわけで」

「うん。またね、水桶くん」

 

 急ぎ足で自習室を出て行く肇に、ひらひらと手を振って渚が別れを告げる。

 

 走り去っていく背中はいつもよりどこか弾んでいた。

 遠ざかる足音だってずいぶんと軽やかだ。

 

 それだけで彼の妹に対する気持ちは手に取るように分かる。

 

 かつて渚もそうだったように。

 家族に向ける大きな感情は、本当、痛いほどに。

 

「…………、」

 

 思えばそれは、もしかすると大きすぎたのかもしれない。

 

 仕事をずっと頑張れていたのも。

 辛い毎日を明るく笑って過ごせたのも。

 しんどいコトだってさらっと乗り越えられたのも。

 

 毎日を当たり前のように生きていたのも。

 

 全部が全部、弟が居たからできていた。

 

(だから、私は――――)

 

 あの子が居なくなってから、ボロボロに崩れていったのだ。

 

 ……いや、それはいまもまったく同じコト。

 ()のお陰で少しは持ち直したものの、まだまだ過去は重く引き摺っている。

 

 沈む心、泥に浸かっていく気分。

 久々に毒を飲んだみたいな苦しさに顔を顰めた。

 

 わずかに俯きながら、ぎゅっと胸元を握りしめる。

 

「――――――」

 

 どこまでも暗い気持ち。

 

 嫌なタイミングで、嫌なコトを思いだした。

 

 病気の弟は手間こそ大きくかからなかったものの、色々と世話をする必要があった。

 

 それによって削られた彼女の時間があるのも事実。

 プライベートとか、仕事に関係するコトとか。

 

 でも、そうだったとしても彼女は満足していたのに。

 

 その分の時間がこれからどうとか。

 弟の分まで幸せにとか、これから取り返していけば良いとか、知ったような口をきく名前もよく思い出せない人たちが――――

 

 

 

 

 

「はい、優希之さん」

「っ…………、え……?」

 

 

 不意に、ぽんと目の前に飲み物が出てきた。

 

 そこらの自販機で売っているペットボトルの紅茶だ。

 基本的に彼女が愛飲している――最近は暑さでちょっとだけ選ばなくなっていた――種類のものである。

 

 外で飲むのならともかく、空調の効いた室内で飲む分なら申し分ない。

 

「……水桶、くん……?」

「昨日の花火のお礼と、今日は先に帰っちゃうお詫び。だから元気出して」

「…………ぇ?」

「なんか、凄い暗い顔してたから。……今はこれぐらいしかできないけど、あと……相談があったら乗るからね、いつでも」

 

 気軽に連絡して、なんて言いながら彼が笑う。

 

 それだけで泥に沈んでいた気持ちが嘘みたいに浮かんできた。

 じめじめとしたモノから一転、振り払ったあとの感触はなんだか熱っぽい。

 

 苦しみではなく、暖かさを掴むように胸元を握り直す。

 

 ――本当に、彼には助けられてばかりだ。

 

「……ありがと。でも、大丈夫だよ」

「……そう? 無理しないでね」

「しないよ。……私は、良いから。はやく妹さんのところ、行ってあげて」

「……うん。それじゃあ、また明日ね」

「…………うん」

 

 いま一度ひらひらと手を振って見送りながら、ひとつ小さな息をつく。

 

 すぐそこの、塾の前にある自販機で買ってきたのだろう。

 

 両手で掴んだペットボトルは冷たくて。

 けれど、彼の気遣いがなんとなく暖かい。

 

 ひとりになった自習室は静かだ。

 

 今までの経験からすると彼と彼女以外、誰も来ることはない一室。

 

「…………、」

 

 ふたりで居るといってもお互いに勉強で集中している。

 

 賑やかさなんてない筈なのに、肇が居なくなっただけで妙に物足りないと感じた。

 

 気分はどちらかというと下がっていく。

 ほんのちょっと寂しいという感情。

 

 でも、先ほどのモノに比べれば何倍もいい感触だった。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

「――お待たせしました、兄さん」

「ん、できた?」

「はい。ばっちりですよ」

 

 ふふん、と鼻を鳴らしてその場でくるりと了華が回る。

 

 さらりと舞う長い黒髪と、つられて広がる青のプリーツスカート。

 上は白いブラウスを着ていて、全体的な雰囲気としては清楚系。

 

 本日は女学校に通うその素性を裏切らないパーフェクトお嬢様スタイルだ。

 

「では行きましょうか兄さん。時間は有限ですよ」

「そうだね。楽しみにしてたもんね、了華」

「普通です、普通。そういえば塾の方は特に何事もなく?」

「? うん。……あ、優希之さんがちょっと元気なかったっけ」

「またッ!!」

 

 がんっ! とまたもや靴箱に叩きこまれる拳。

 

 ぷるぷると肩を震わせる彼女の力加減はちょっと予測できない。

 やっぱり気持ち凹んでいる気はするが、誰も気にしていないので多分気のせいだろう。

 

「なんなんですかその方はっ。兄さんのことが好きなんですか!」

「うーん……普通に仲は良いと思うよ。一緒に勉強してるワケだし」

「それだけですかっ」

「? まあ、それだけだけど」

「……ならいいんです」

 

 ふんすっ、と胸を張りながら了華が納得する。

 

 絶賛兄離れ治療中の身ではあるが、それはそれとして大事な兄妹である肇に悪い虫がつかないかは心配だ。

 家族として純粋に心配なのだ。

 

 決して他意はない。

 

 ましてや兄をどこかの雌猫に取られると思って焦っているワケでもない。

 そのあたりの分別はしっかりしてる……と自分では思い込んでいる了華である。

 

 そう、だから寮生活で兄断ち中の身であったとしても、夏休みにふたりで遊びに行くことぐらいは普通のこと。

 

 例えるならダイエット中のチートデイみたいなものである。

 

「兄さん、ほら早く。出発しますよ」

「そんなに焦らなくても水族館は逃げないよ」

「兄さんは逃げるでしょう」

「俺も逃げないよ」

「じゃあ今日はずっと私と手を繋いでてください」

 

(――甘えたがりだなあ)

 

 ほんわかした気持ちで了華の手を取りつつ、玄関から外へ出る。

 

 身内の贔屓目にしても彼女は大変可愛らしい。

 女子校に入っていなければ同年代の男子から引く手数多だったはずだ。

 

「…………♪」

 

(そして凄い楽しそうだ)

 

 余程テンションが上がっているのか、了華の機嫌は鰻上りだった。

 

 指を絡めて握ってきた手をぎゅっぎゅっとしたり。

 暑い真夏日だというのにピタッと傍にくっついていたり。

 なんなら小さく鼻唄なんて歌っていたり。

 

 こういう姿を見ていると、時間を設けた甲斐があったな、なんて思ってくる。

 

(……姉さんも似たような気持ちだったのかな)

 

 隙あらば甘やかしてきた姉のコトは今でも強く覚えている。

 

 歩き方さえ見失っていた彼を引き摺り上げて、溢れんばかりの光で照らしてくれた人。

 

 いつも前向きで、失敗してもへこたれなくて、怒られても折れなくて。

 些細な悩みもなにも持ち前の明るさでぱっと吹き飛ばしていた強い女性。

 

 自分が大変なコトになったときは迷惑をかけたけれど、それでも最後まで沢山の愛情を振りまいてくれた存在だった。

 

(――そういえば、なにしてるんだろうな。今まで考えたコトもなかったけど……)

 

 ……でも、きっと大丈夫だろうと彼は思った。

 

 水桶肇はまったく知らないコト。

 その前でさえ全然気付かなかったモノ。

 

 悲しむことはあれど、あの(ヒト)ならきっとあっさり立ち直って、いまも変わらず明るく元気に生きていてくれるハズだと。

 

(……あの姉さんが沈んだままなんて、考えられないもんなあ)

 

 彼は知らない。

 

 その要素のすべてがたったひとりの誰かによって成り立っていたものだなんて知る由もない。

 

 だからそれは勝手な憶測。

 

 なんの勘違いでもない、当たり前に組み立てた――正しい彼の予想だった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 すなわち水桶了華は、幼少期からこのような仕打ちを受けてきた。

 

 例えばふたりで歩いているとき。

 

「ほら、はぐれると危ないからね」

「そうですね」

 

 言わなかったとしても自然と手を引いてくれる。

 

「――だから珊瑚は歴とした生き物なんですよ」

「へぇ、そうだったの。お兄ちゃん全然知らなかった。……了華は賢いね」

 

 ほんのわずかなコトでも頭を撫でながら褒めてくれる。

 

「ちょっ、おっき――!? 兄さん迫力! アレ、凄い迫力!」

「あはは。水槽だから大丈夫だよ。平気、平気」

 

 怖い事があったらさっと背中に隠してくれる。

 

「――――……、」

「あっち行こうか。ペンギンだって、ペンギン。良いよね、可愛くて」

 

 視線だけで色々気付いて、ああだこうだと気遣ってくれる。

 

「――そうですね、兄さん!」

 

 惨い所業、最低の行為。

 

 酷い仕打ちだ、ありえない。

 こんなのではまるで成長できない。

 

 私は兄の近くに居れば居るほどズブズブに溶けてなにもできなくなっていく――

 

 と、本格的にヤバいと感じたのが小学校高学年だった。

 

 ……もはや何も言うまい。

 

「はいこれ、どうぞ」

「だっ、大丈夫です! ぬいぐるみなんて! 私そんなに子供じゃありませんし!」

「良いから良いから。今日の記念だと思って。ほら、ね?」

「……兄さんがそこまで言うならっ」

 

 もしも近くにその関係性について「いや行き過ぎだろ」と言える誰かが居たなら変わっていたのだろう。

 

 だが悲しいかな、偶然かどうか彼らにとってそんな相手はいなかった。

 

 肇としては意図したコトなんてひとつもない。

 彼は純粋に兄妹にはこう接するものだという知識が根付いている。

 

 なんもかんもはしゃぎすぎてやり過ぎた姉が悪いのだ、たぶん。

 

「はい、了華。あーん」

「――――んっ」

「……どう、美味しい?」

「美味しいです! 兄さんも一口どうぞ!」

「じゃあお言葉に甘えて」

 

 妹から差し出されたケーキを口に含みつつ肇が微笑む。

 

 ふたりの間にはのほほんとした穏やかな空気が流れていた。

 本人たちにとってはコレといっておかしくもない健全な兄妹で過ごす時間である。

 

 が、それが傍から見ても同じかというと勿論そうではない。

 

「――み、水桶くんが女の子とデートしてるぅ!?」

「?」

 

 ちょうど近場のカフェで休憩を取っていたところだった。

 

 声をあげたほうを向けば、どこか見覚えのある女子が驚愕の表情で立っている。

 

 私服で一瞬分からなかったがなんてことはない。

 普段いつも顔を合わせているクラスメートのひとりだ。

 

「あれ、蒔群(まきむら)さん」

「え、あ、うん! 久しぶり! 元気だった!?」

「うん、元気だけど。いま美術部は部活してなかったっけ?」

「お盆近いから休み――じゃなくて! そ、その女の子は一体!?」

「ああ、こっちは……」

 

 と、肇が紹介するより速く了華が動いた。

 

 そっと椅子の隣に立って、これまた見事なカーテシーを披露する。

 独学なのか学校で習ったのかなんなのか、面白いぐらい完成度が高い。

 

「――はじめまして。肇さんの恋人の了華と申します」

「ッ!?」

「違うからね。了華もそこまでにしておいて。……ごめんね蒔群さん。彼女、うちの妹」

「…………!?」

「……どうも。水桶了華です。兄がいつもお世話になっております」

「……ぇ? あ、うん……そ、そうだったの……、……確かに似てる……」

 

 どこかぶすっとした表情の了華と肇を見比べながら、ふんふんと頷く蒔群女史。

 ちょうど偶々ふらっと立ち寄った彼女にとってはとんでもない爆弾だったが――まあそれは置いておくとして。

 

「仲良いんだねー……水桶くんところ。カップルみたいだったよ?」

「「いえいえそんなこと」」

 

(あ、これふたりして気付いてないヤツだ……)

 

 なんだかんだとありつつ、賑やかながらも兄妹らしく。

 妹とのお出かけは了華の好評を博して、無事終了まで迎えることができたのだった。

 

 

 



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15/かしこい兎とポンコツ亀

 

 

 

 

 学生とは言え二ヶ月近い期間は長くも短い。

 

 夏休みはあっという間に過ぎて、二学期のはじまる九月。

 

 肇の周りにあった変化といえば帰省していた妹が寮へ戻ったコトと、課題で描いた絵が校内最優秀賞を取ったコト。

 それから、期首テストでようやく念願の学年一位になったコト。

 

 どうにも勉強漬けだった時間はしっかり身になってくれたらしい。

 

「――――で、数学はいくつだったの」

「……言わなきゃダメ?」

「……教えないのはどうなのかな?」

「…………七十九点です」

「……頑張って」

「はい……」

 

 いつもの塾の自習室。

 

 帰ってきたテストの結果を渚と語らいつつ、肇はがっくしと肩を落とした。

 

 他は殆ど九十点台後半か、悪くても九十には乗っていたほどである。

 五教科合計でいえば十分すぎる点数。

 実際二位の子との差も比べればたった三点という僅差。

 

 これ以上はない結果にもちろん彼も喜んだものだ。

 

 ただひとつ、生粋の苦手科目筆頭に躍り出た数学を除いて。

 

「……どこ間違えてたの?」

「相似の条件と、三平方とかの図形問題」

「あー……、それは、うん。ご愁傷さま……計算問題のほうは?」

「そっちはバッチリ。夏休み中に必死で解いた甲斐があったかなあ」

「……まあ、慣れるとできるものだしね」

 

 はあ、とため息をつきながらペンを回す肇に、渚が曖昧な笑みを浮かべる。

 

 同じ受験生、同じ志望校で下手すればライバルでもある彼女だが、しかし一方で彼の努力を一番近くで見てきたのも彼女だった。

 それが半分報われて嬉しい気持ちと、あと一歩足りなくて惜しいという気持ち。

 

 そこで羨む心が出ないだけ彼女も相当なものなのだが、当然そのあたりに気付くような人間はここにいない。

 

「……図形は難しいよね。易しいのだと、すぐパッと解けるけど」

「俺たちは星辰奏だから間違いなく難しいでしょ……」

「まあ、たしかに」

「……そういう優希之さんはどうだったの? 北中もあるよね、期首テスト」

「それ、は…………」

 

 と、どこか話しづらそうに視線を逸らす渚。

 

 もごもごと言い淀む様子は見るからに分かりやすい。

 その件にはあまり触れて欲しくないです、と言外に伝えているようだった。

 

 ちなみにここ数ヶ月の付き合いで肇が培った経験に基づくと、これは本気で拒絶しているワケではなく彼女なりの分かりやすい態度の表れ。

 

 ちょっとしたモーションだというコトを知っている。

 

「どうしたの? ね、優希之さん?」

「……いや、うん。私は別によくない、かな……?」

「よくないよ。俺だって教えたんだから。優希之さんのも知りたいなー」

「…………お互い不幸になるだけだよ」

「そんなことないって」

 

 ニコニコと笑いながら肇が渚に詰め寄っていく。

 

 珍しいパターンではあるが、彼女も彼女でどこか慣れるところもあったらしい。

 わずかに頬を染めつつ「うっ」なんて洩らしながらも、観念したように息を吐いた。

 

「……言ってなかったんだけど」

「うん」

「……私、北中(むこう)ではずっと学年トップ……」

「え」

「入学してから一回も下がったことないよ、いちおう……」

 

 どこか恥ずかしがるように言って、渚が頬をぽりぽりと掻く。

 

 対する肇は一転してジト目のまま彼女を睨んでいた。

 気持ち椅子を遠くに引きながら、背中を丸めて敵意をぶつけていくスタイル。

 

 今までただの勉強仲間だと思っていた少女が、まさかの大天才美少女だったという事実に思うところがあるらしい。

 

「裏切ったんだね……優希之さん……!」

「い、いや、違うから。その、言うタイミングがなかっただけで。……み、水桶くんに教えてもらったところが役に立ってるのは、本当……だよ……?」

「でも俺よりずっと成績良かったんだ。ふーん。そうなんだ」

 

 へぇー、ふーん、とジト目のままそっぽを向く臍曲がり男子。

 その姿がきっかり一ヶ月程前の了華(だれか)と似ているのは言うまでもない。

 

 面倒くさい事情が色々あれど血の繋がった兄妹というコトなのだろう。

 

「そ、そこまで拗ねなくても……」

「…………五教科の合計は?」

「四百九十六……」

「――――優希之さんなんて知らないっ」

「えッ、ちょっ、なんっ――……っ、そ、そんなに……?」

「つーん」

 

 それをわざわざ口に出すあたり天然(ぽんこつ)甚だしいが、肇は肇でわりと真面目にふて腐れている演技をしているつもりらしい。

 

 別に本気で嫉妬するワケでもないが、それはそれ、これはこれ。

 学力があるというのは素直に羨ましいので、ちょっとした悪ふざけである。

 

 渚のほうはそれでわたわたと慌てているので作戦は大成功だろう。

 

 なんだかんだでふたりとも、そうやって絡めるぐらい親交が深くなったというコトだ。

 

「い、いやその、あの、ごめん……ってなんで私謝ってるの……?」

「…………、」

「ぇ、あぁあじゃなくてっ、だから、えっと……ほ、ほら。水桶くんだって今回一位だったワケだし……! よ、良かった……じゃん? あれ、うん、そう……!」

「………………、」

「それに、ほら。だ、大丈夫だよ。いまの調子なら……」

 

 あのその、とあたふたしながら渚が口を開く。

 

「きっと、きっと合格できる、はずだから……っ」

 

 

 〝――大丈夫だよ。彩斗はきっと、きっと幸せになれるはずだから――〟

 

 

「っ!!」

「わっ!?」

 

 重なった音を聞いて咄嗟に顔を上げる。

 声をかけるために近くまで来ていた渚と至近距離で見つめ合う。

 

 間違いなくただの空耳。

 記憶に引っ張られただけの虚しい幻聴。

 

 眼前の少女に()()()の面影は殆どない。

 

 眩しいぐらいの日差しの輝きがてんで彼女には足りていない。

 

「……ど、どうした……の……?」

「――いまの、すごく良かった。優希之さん、家庭教師とかの才能あるんじゃないかな」

「え、なに……いきなり、どういう意味……?」

「……なんだか刺さる言葉だったんだ。俺にとって。だから、ちょっと嬉しかった」

「そ、そう……なんだ。それなら、良かったん……だけど……」

「うん。困らせてごめんね」

「……やっぱりわざと……」

 

 今度は渚からのじとっとした視線にぺこぺこと頭を下げて。

 ついでに来る前に買っておいた彼女の好物である紅茶を献上して、いつも通り机に広げた教材へと向かい合う。

 

 そこからはなんてことのない変わらぬ時間。

 

 やけに喧噪から離れた教室。

 カリカリと響くペンの走る音。

 ふたり分の気配と自然に起こる衣擦れの音。

 

 あくまで自習室は自習室らしく、その有り様を大事にされている。

 

「……あ、水桶くん」

「ん、なに」

「そこに土、ついてるけど……」

「……え、うそ」

「本当。首のうしろ、右側あたりに……」

「……微妙に見えない……」

 

 うーん、と唸りながら肇が首のあたりをパタパタとまさぐる。

 

 目視では若干見えづらいところになるのか探り当てる気配はない。

 

 鏡があればまだしも、現役男子中学生である彼が都合良く小さな手鏡なんかを持って来ている筈もなく。

 ここ? それともこっち? なんて見当外れの場所を手で払っていく。

 

「…………、」

「……っと、どう? 取れてる?」

「あ、いや……、……ちょっと、待って」

「? うん」

 

 かたん、と椅子を鳴らして渚が立ち上がる。

 そっとその手が彼の方へ伸ばされる。

 

 ぴたりと動きを止めていた少年は固まったまま。

 

 彼女は持っていたタオルで、さっと付いていた汚れを拭き取った。

 

 ほんのわずか、ふわりと優しげな匂いが肇の鼻孔を擽る。

 

「……うん、これで取れた……」

「そう? ありがとう。ごめんね、手間かけさせちゃって」

「ううん、別に――――……」

 

 ……と、そこでようやく彼女も自分がいま何をしたか自覚したらしい。

 というか実際に動いた時点では半ば無意識だった模様。

 

 かぁっ、なんて顔を赤くしながらタオルをパッパッと叩いて鞄に仕舞い、急かされるように席へ戻る。

 

「……その、別に。お礼言われるほどでも、ない……から……っ」

「そんなことないよ。……でも、どこで付いたんだろう。体育祭準備のときかな……」

「……そ、そういえば……西中はもうそろそろ、だっけ」

「うん。来週の日曜日。北中はたしか、五月の終わりにもう済ませてたよね」

「だね……うちは開催、早いほうだから……」

 

 彼自身勉強で参加できないところも多いが、用意自体はすこぶる順調だ。

 

 夏休み前は泣き言に近いコトを言っていたパネル組も無事完成。

 今世紀最大の自信作、と胸を張っていたので大丈夫だろう。

 

 肇も個人で出る分の種目に関しては説明を聞いて粗方頭には入れている。

 

 いまのところ懸念点はない。

 

「……良かったら見に来る? これといって目玉競技とかはないけど」

「そう、だね……時間があったら、行ってみるかも……」

「そのときは声かけてね。できるだけ格好良いところ見せるから」

「なにそれ……、……運動、得意なんだ? 水桶くん」

「そこそこ自信あるよ。こう見えて足は速いから」

「……そうなんだ」

 

 柔らかく微笑みながら彼の会話に返す。

 

 ほぼここでの姿しか知らないからか、文系が得意で美術が一番という台詞を偶々覚えていたからか。

 

 他人を抜き去る勢いで走る肇の画はちょっと想像できない。

 ともすれば少し面白いかも、と思うぐらいミスマッチな要素だった。

 

「……ん、わかった。来週の日曜日だよね。ちょっとだけ見に行くかも」

「まあ、俺が出る競技自体そんなに多くないんだけどね」

「ふふっ……もう……ダメじゃんそれ……」

「そのぶん力は出し切るつもりだよ。どうせなら優勝したいし」

「……そっか」

 

 意気込む肇を見ながら頷いて、彼女もいま一度手元へ視線を落とした。

 

 前を含めても他校の体育祭に行くなんて初めての経験。

 他の誰かを意識して見るというのもそうだ。

 

 なんせそうするべき相手は昔、最終的に運動なんてさっぱり縁がなくなっていたし。

 

 ……ああ、でも。

 

 まだ元気なときは嬉しそうに走っていたっけ、なんて古い記憶を思い出して。

 ちょっとだけ痛みを抱えつつも、若干楽しみになった。

 

 どうしてなのかは一切不明。

 

 彼女はまだ、なんの正体にも気付いていない。

 

 

 



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16/ささやかな口約束

 

 

 

 

 天高く馬肥ゆる秋――というにはまだ暑さの残る日曜日。

 

 空は見事に雲ひとつない模様。

 気持ちの良いぐらいの快晴にて、本日は絶好の開催日和と相成った。

 

 昨今、熱中症や年々上がる気温などで色々と物議を醸している夏休み明けの体育祭だが、盛り上がりと比例して高まる温度はなんだかんだで良い感じだ。

 

 乾きはじめた空気を震わせてわあっとあがる歓声。

 そこらに舞い踊る砂埃。

 マイクを越しで響いていく放送部の実況。

 

 学校内だけという小さく狭いものだが、それでも祭は祭。

 この極小空間は十分な活気に満ち溢れている。

 

『――次の競技は男子百メートル走。男子百メートル走です。出場する選手は待機場所に集合してください』

 

「百メートルー! さっさと出る奴行ってこーい!」

「あらかた運動部連中だろ、任せた」

「ははは、かけっこ頑張れ! 取るなら一位だぞ、一位!」

「男子のあとはすぐ女子だからな! そっちも準備しとけよ!」

「そんぐらい分かってるわよ!」

 

 やいのやいのと騒ぐクラスメートたちは実に賑やかで微笑ましい。

 

 言ったように中学校生活最後の数ある一大イベント。

 最高学年というのもあってそれぞれ様々な角度から関わっている行事でもある。

 込められる気合いも一入というものだろう。

 

「水桶も百メートルだったよな?」

「そう。ということで行ってくるよ」

「行ってらっしゃーい! 頑張ってねー!」

「水桶ぇ! おまえ最低でも三位には入れよー! 得点配分ガクンと変わるからなぁ!」

「あはは、やれるだけやってみる」

 

 ひらひらと手を振って自分たちのテントから出て行く。

 

 彼らの中学の体育祭はクラスごと三チームに分かれての競い合いだ。

 それぞれ一組が赤色、二組が青色、三組が黄色というイメージカラーのもと毎年団名を決めて各集団は結成される。

 

 ちなみに肇たちが所属するのは一組、赤の団。

 名前は団長自ら発案した〝紅鏡(こうきょう)〟。

 どうでも良いが最近鬼退治の漫画にハマっているらしい。

 

「はい、じゃあ出走順に並んでくださーい。一レーンと二レーンが赤。三レーンと四レーンが青。五レーンと六レーンが黄になりまーす。はいはい、早くお願いしまーす」

 

「おっ、水桶こっちこっち。儲けもんだぜ、隣見てみろよ。全員文化部だ」

「そういう三亜樹(みつあき)くんも吹奏楽でしょ」

「ばかやろう吹部(すいぶ)は楽器持ったりするから力つくんだよ。新聞部とか美術部には負けん」

 

「けっ、言ってろ下手くそトロンボーン。おまえこれで俺が勝ったら今度の校内新聞で演奏会は音外しまくってたってこき下ろしてやるからな」

「フェイクニュースゥ!」

 

「水桶くん。また暇になったら美術室顔出してね。教えてもらいたいこともあるし」

「うん、落ち着いたらちょっとお邪魔させてもらうかも」

 

 最近、時間があいた時に少しずつではあるが筆を握り直しはじめた彼である。

 

 理由はもちろん夏期休暇中にあった祭と花火だ。

 受験が終わるまで触らずにいようと思っていたのだが、前世からの本能じみた意欲には逆らえなかったらしい。

 

 偶々あった美術の授業で、これまた偶然油絵の画材を見てしまい、なんだか不思議な事に抑えが効かなくなって、結果はこの通り。

 

 時々ちょろっと場所を借りて、昔を懐かしみながら手を動かしていたりする。

 

「水桶、俺とおまえでワンツーフィニッシュだ。いいな?」

「できるの? 三亜樹くん」

「当たり前だよ。五十メートル何秒だと思ってるんだ」

「いくつだったの?」

「七秒三。水桶はどうだったっけ」

「六秒七ぐらいだったかな。勉強ばっかりでちょっと落ちてるかも」

「見事な帰宅部詐欺だな。期待してる」

 

 なお、同順番の他文化系四人が泥のような視線を送っていたのは言うまでもない。

 

 たしかに身体能力が重視される百メートル走だが、それはそれとして競技内容はただ走るだけ。

 ちょっと全力で駆け抜ければ二十秒と待たずに終わるぐらいの短時間種目。

 

 それを狙って運動嫌いの彼らも参加したのだが、悲しいかな時にはこういうコトもある。

 神の名の下に人は皆平等なんて言うが、才能と素質は平等ではないのだ。

 

「それじゃあ次の組、並んでくださーい。手前から赤、赤、青、青、黄、黄でーす」

 

「水桶いちばん端いくか? ちょっと隣あけとくわ。抜くとき楽だろ」

「そこまでしなくても……余計プレッシャーになるよ、もう」

「どんと行け。はっはっは、こりゃ勝っちまった。勝っちまったわぁ」

「……ちょっと足かけるか? あいつだけ」

「やめときなよ……」

 

 言いながら、それぞれが所定の位置についていく。

 

 百メートル走のコースはスタートからゴールまでストレートだ。

 借り物や障害走と違いトラックではないため、シンプルに真っ直ぐ走ればいい。

 

 条件は誰もが同じ。

 

 ぐっと構えながら、歓声に混じった放送の声を聞く。

 

『位置について』

 

「…………、」

「しゃあ、キタぁ……っ」

「うわやべ、今更緊張してきた」

「あはは……いや僕めっちゃ場違い……」

「こけろー、まじこけろー」

「せめて三位……四位……五位……?」

 

 息を吐く、視線をあげる。

 

『ヨーイ……』

 

 ――わずか離れた場所で、ピストルの音が響いた。

 

『スタートしました先頭は……赤団紅鏡! 続いて同じく――』

 

「えっ、マジ? だれだれ!?」

「トップ水桶! 次に三亜樹! おぉー速え速え!」

「紅鏡ファイトー! フレーフレー!」

「おまえら集中しろ集中! 応援声出せー!」

「そこは元ネタ的に全集中じゃねーの?」

「残念ながら比良元くん鬼滅(き○つ)読んでないんだわ」

 

 無心で駆け抜ける。

 十メートル、二十メートルなんてあっという間。

 

 それぞれの団のテントを横切れば色々な音が耳に入った。

 

 一度身体が乗り始めると狭まった視界もにわかに広くなる。

 

 前方、隣に追いすがる気配はなし。

 

「よしよし行ったれ水桶! 帰宅部で鍛えた足が光ってんぞー!」

「それ鍛えてるって言わねえよ! いやぶっちぎりだけど!」

「肇くんいいよー!! 格好いいよー!! 最高だよー!! なんでパネル協力してくんなかったのー!?」

「あんたはいつまで引き摺ってんのよ!」

 

 ……まあ、そんな声も聞きつつ。

 

「おいおい三亜樹後ろォ! 他の奴来てる! もっと離せ離せ!」

吹部(ウチ)のエースが必死で走ってんのウケるな。最後頑張れー」

「元部長ふぁいとぉー、応援してますよー」

「クソが女子割合多めの吹部だからってだけで後輩女子から応援されやがってあのボケぇ! 羨ましいぞー!」

 

 騒ぐ声を後方に置いて足を動かす。

 

 今日はなんとも良いもの。

 澄み渡る空模様も、頬を撫でる熱を帯びた空気も、あふれんばかりの声援も、すべていつかは手からこぼれ落ちた夢物語。

 

 それがいまは全力で味わえる。

 自分の手足で動いて走って、駆けて回って体感できる。

 

 たったそれだけ、ほんのそれだけ。

 

 けれどもそれだけで、生きている意味は十二分に満ち足りた。

 

 

(――――……ん?)

 

 

 ふと、半分以上を越えた頃。

 

 視界の隅にどこか気になる影を見た。

 

 生徒用のテントとは違う。

 保護者観覧者・外部からの見学者用のテント近く。

 

 そこに佇む、ひときわ目を引く少女の姿を視認する。

 

(…………、よぉっし――――)

 

 いま一度気合いを入れ直す。

 

 終着点はもう目前。

 

 銀糸の髪を揺らす誰かは彼方で見守るように。

 

 一段と速度を上げながら、肇は真っ先にゴールテープを切った。

 

『赤団一着! 一人目です! 続いて……僅差で青団二着! 赤団二人目は惜しくも三着! あっとここで黄団も届きました四着! さらに――』

 

「やったー! 水桶くん一着おめー!」

「きゃー! 肇くんこっち向いてー! パネル見てー!! 描きたくならない!?」

「笑えるぐらい断トツ。つか最後ちょっとブーストしなかったあいつ?」

「ははは、まっさかぁ」

 

「あぁあああ三亜樹てめぇ!?」

「なに抜かれてんねんぼけぇー! いてまうぞゴルァ!!」

「ナイスナイス! 流石だよー、吹部(ウチ)王子様(エース)素敵ー!」

「先輩ー、良かったですよー、めちゃ必死で。あと思いの外格好良くて。あははっ」

 

「お疲れお疲れ! はい二人とも頑張ったってことで! 次の組の応援行くよ!」

 

 ぽてぽてとゆっくり歩きながら肇は息を整える。

 

 久方ぶりの全力疾走は思ったよりも疲労が凄かった。

 勉強で体力が落ちた、というのはあながち冗談でもなかったよう。

 

 荒い呼吸をくり返しながら、ふぅ、と体操服を引っ張って汗を拭うよう顔にあてる。

 

(……ちょっとだけ、って言ってたのに……)

 

 くすくすと笑いながら遠く目立つ少女のほうへ視線を向ける。

 

 今はまだ午前の部、体育祭もはじまったばかりのところだ。

 先の彼女の言い方ならもう少し遅くにちらっと顔を出すだけかと思ったのに、意外にも朝からということだったらしい。

 

「…………ふふっ」

 

 人差し指と中指。

 手を二本指立ててあげながら、渚のほうへ向けて笑う。

 

「……えっ、なに、だれっ……わ、私……!? こ、こう……?」

 

 どこか慌てたような様子の美少女。

 遠すぎてなにを言っているかは聞こえないが、最終的には彼と同じように「ぴーす」と返ってきた。

 

 ちょっと控えめに手を上げながらというのがいじらしい。

 

 まあ、なにはともあれ伝わったようで。

 

「……あぁ? 水桶おまえ、なにしてんの……」

「いや、塾の知り合いが来てたから。挨拶」

「知り合いぃ……? ……もしかしてあれ、あそこのめっちゃ綺麗な子? テント横の」

「そうそう。銀髪の女の子」

「――良かったらちょっと紹介してくれ」

「いいけど、後でね」

 

 お互い雑に肩を組み合いながら団のテントに向かって歩いていく。

 なお、その後三亜樹某は同部活の後輩女子に囲まれて拘束されソレどころではなくなったのだが、結局渚と話してもなんらコトは起きないので何も問題はなかった。

 

 彼が解放されるのは十月の演奏会、そこで無事任期満了の退部なのだ。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 ――第一印象は、日陰に揺れる草花みたいな落ち着きよう。

 

 視線の流れや、手足の動きひとつを取ってみても驚くほど緩やか。

 

 容姿はまあ、なにをどう判断するかはともかく普通っぽい感じ。

 ピアスもあけていなければアクセサリーもない、所謂自然体が一番似合う朴訥さ。

 

 雰囲気は穏やかで、一緒に居るとなんだか安心するような、懐かしさがある人。

 

 けれど少し接してみれば、そのどれも浅い表面のものだと気付けるだろう。

 

 渚は知っている。

 

 落ち着いているのは彼がぼんやりしているだけで、緩やかなのも生来の性格がどちらかというとマイペース気味だからだ。

 本当の彼はパッと明るく笑うし、他人を照らす元気の良さがあるし、はしゃぐときは子供みたいに顔をほころばせる。

 

 普段がこう、ぼんやりとしているだけに、その表情はひときわ眩しく思えるほど。

 

 ……普通っぽいだなんてとんでもない。

 

 彼女にとってアレは、なんていうか――――

 

(…………、)

 

 肇の出場した競技が終わって、渚はぼうっと空の日差しを眺める。

 

 予想とは反して、彼の走っている姿はなんとも似合っていた。

 らしくはない、ではなく、ああいうのも良いな、というのが感想。

 

 なにが良いのかは地雷っぽいのであえて深く考えない。

 

 けれど、不思議なぐらい胸に突き刺さったのは事実だ。

 

(……うん。だから、その。つまり……)

 

 顔は真剣そのものだったけれど、目はやっぱり輝いていた。

 

 それで独走するのだから見ていた彼女(こっち)だって気分が上がってしまう。

 そのあとのピースサインにしたってどうにもズルい。

 

 でも、たまにしか見られない固い表情で風を切っていた彼は、こう、上手くは言えないけれど、とても魅力的に思えてしまって。

 

 ……まあ、その、率直に言うと。

 

 今日の彼は――――

 

 

 

「優希之さんっ」

「ひゃわぁっ!?」

 

 急に名前を呼ばれて、びくんっと肩を跳ねさせながら反応する。

 

 なんか前もこういうコトがあったな、と想起しながら振り向けば予想通りの人物。

 そもそも、渚としては声を聞いた瞬間から分かっていた。

 

「……み、水桶くん……」

「おはよう。もう見に来たの?」

「え、あ、う、うん……その、ちょうど、暇だった……から……」

「そっか」

 

 くしゃりと笑う肇の顔にはポツポツと汗が浮かんでた。

 

 ほんの百メートルとはいえ全力で走った競技のあと。

 まだまだ落ち着くには至っていないのだろう。

 

 体調不良なんかに思えないのは偏に彼の気分を感じ取ってのコトだ。

 花火のときとはまた違う方向で、しっかりテンションは高めである。

 

「……タオル、貸そうか? その、汗、凄いけど……」

「いや、良いよ。テント戻れば自分のがあるし」

「そ、そう……だよね……」

「――で、どうだった、俺。ちゃんと格好良かった?」

「へ?」

 

 不意打ち気味な質問に間の抜けた声がこぼれる。

 

 彼としては冗談交じりの軽口として。

 彼女としては図星を突かれたような刺さりようで。

 

「ぁ、えと、それ、は……っ、た、たしかに速くて、凄かった、し……っ」

「うん、」

「い、一着、だったし」

「うん、うん」

 

 満足げにうなずく肇。

 きっと彼は渚の胸中に渦巻く混沌を一ミリも完治してはいない。

 

 それでもなんとか、彼女は絞り出すように吐き出した。

 

「――――か、格好良かった……です……」

「おー……優希之さんに言ってもらうと、なんかくすぐったいね。しかも敬語だし」

「な、なに……もう……っ」

「ううん。でも頑張った甲斐があった。よかったよ」

 

 からからと笑う少年は、渚の賞賛を額面通り真っ直ぐ受け取って喜んでいる。

 その裏に潜むものがあるというコトを見落として綺麗に失念している。

 

 然もありなん。

 

 同じ塾の生徒として親交を深め、仲良くなった肇はほぼ忘れているが、もともと渚は他人を寄せ付けないオーラを遺憾なく振りまく美少女だ。

 当然ながら対人関係における相手との距離も相応に遠い。

 

 そこにちょうど噛み合うというか、偶然入り込んだというか、わりと特別な形で突き刺さったのが彼である。

 

 その理由も中身を知ってしまえば当然と言えば当然なのだが――ともかく。

 

 通常は淀んだ泥みたいな瞳で冷め切った感情のまま人を捌く少女が、誰かさんにだけ偉く柔らかい反応をする特別性を――とうの本人はまったく気付かないワケだ。

 

 ……これで渚がその気なら怒っても良いだろうが、なんの因果か彼女も自身の気持ちに明確な答えを見つけられてないあたり似たもの同士というか、前世云々というか。

 

 

「――おやおや。これはどういう状況?」

「えっ……」

 

 

 と、そこで不意に第三者の介入があった。

 

 渚から見て肇の向こう側。

 彼の背中からにゅっと生えてきた人影に目が行く。

 

 さっぱりとした雰囲気の、見るからに妙齢の女性だった。

 

 太股あたりまで届くかという茶髪交じりの黒髪に、空よりも海に近い青の瞳。

 

 顔には赤縁の眼鏡をかけていて、けれど翳りは微塵も感じさせない。

 服装は至ってシンプル、無地のTシャツに動きやすそうなジーンズだ。

 

 その人がじっと、渚のほうを興味ありげに見詰めている。

 

「肇、あんたなにしたの。この子は?」

「別になにもしてない……っていうか、来てたの」

「そりゃあ来るわよ。当たり前でしょう? あんたの晴れ舞台なんだから」

「晴れ舞台って……それはたぶん言い過ぎ」

「なによ。まるで来てもらって嬉しくないって感じね」

「……嬉しいよ。ただちょっと恥ずかしいだけ」

「素直でなにより」

 

 うんうん、と頷きながら彼の頭をくしゃくしゃと撫で回す女性。

 

 当然ながら渚の頭は大混乱である。

 

 一体なにがどうして、どうなって、どういう状況で――

 

 ――つまりどんな関係? という最大の疑問が頭を占める。

 

 同時につきん、とどこか胸が痛む感触。

 

(っ――……って、あ、いや……待って。でも。もしかして……)

 

「――あの、水桶くんのお姉さん……ですか……?」

 

 一か八かで問いかける。

 なにがどうして一か八かなのかは置いておいて。

 

 その女性の髪色と瞳は、なんとなく彼のものと重なるように思えたからだ。

 

「……ね、聞いた肇。聞いた、いまの」

「うん、聞いたよ。そんなに肩揺らさなくても」

「お姉さんですって、お姉さん! いやー参っちゃうなーもう! まだまだ私も女捨てたもんじゃないわねー! ねぇ、肇!」

「俺に言わないで……というかいつものコトでしょ……」

「あら、何度言われたって嬉しいものよ? こういうのって」

「あっそう……」

 

(な、なんだろうこの反応……)

 

 正解なのか不正解なのか分からず首をかしげる渚。

 が、それに気付いたのか女性はふと彼女のほうを向いて。

 

「――どうも。肇の母親です。いつも息子がお世話になってる、でいいわよね?」

「…………えッ」

 

(待ってめっちゃ若――――!?)

 

 ばっと弾けるように彼へ視線を投げると、どことなく疲れた様子で頷かれる。

 

 お姉さんではなく、義母(かあ)さん

 違う、お母さん。

 いまの間違いにこれといった他意はない。

 

 ないったらない。

 

「……ちなみに母さんは今年で三十六だよ、優希之さん」

「ッ!?」

「ちょっと。女性の年齢をそう無闇矢鱈に言うもんじゃないわよ。デリカシーのない」

「……あっ、えと、その、ゆ、優希之渚……です。む、息子さんとは塾で、あの、勉強、教えてもらったりとか、してて……!」

「あぁ! ……(コイツ)から聞いてるわ。この前一緒に花火見に行った()でしょ。いやぁどんなガリ勉ちゃんとぶらついてたのかと思ってたら、まさかこんな子とねぇ」

「えっ、あの、いや……?」

 

 このこの、なんて脇腹をどつかれる肇はすでに無抵抗だった。

 

 嫌がっているというよりは半分諦めの境地。

 もう母さんの好きにしてくれ、といった感じの態度である。

 

「あんたも隅に置けないじゃない。どこまで行ったの?」

「そういうのじゃないよ母さん……」

「――あらそう。なんだ、格好のゴシップかと思ったのに」

「もう……、というか父さんは? 一緒じゃないの?」

「そこでカメラ構えてるわよ」

 

 言うが早いか、パシャリと一枚切り取る家族専門の写真家。

 

 これまた渚視点ではどことなく彼と似通った、穏やかな雰囲気の男性だった。

 肇自身に覚える妙な安心感はないものの、見ていてトゲのない空気が如何にも優しげ。

 

 けれどスラッと伸びた手足だったり背筋だったりが違和感なく格好良い。

 

「父さん……」

「こういう時こそ一眼レフの使い所じゃないかな。だろう、母さん」

「どうかしらねー? ……まーた変にソレ気に入っちゃって……」

「……父の日に高いカメラ贈るからだよ、母さん」

「だってあの人が先に母の日で私が目ぇ付けてた真珠のネックレス渡してきたのよ。それもうんと高いの。仕返ししてあげるのは当然でしょうっ」

 

「――優希之さん。こういうのが犬も食わないって言うからね」

「あはは……その、良い夫婦なんじゃない……かな……?」

 

 ああだこうだと言い始めた両親を背に肇と渚が笑い合う。

 

 その場の空気は実に悪くない。

 家族同士仲が良いのは喜ぶべきことだ。

 

 父親と母親が揃っていて、兄弟姉妹がいるなら尚更。

 

(……そう、あんな風に――)

 

 自分が腹を痛めて産んだ息子を殴りつけて、片目の瞼やら耳やら左手の小指やらを駄目にしていたどこぞの駄目人間(ははおや)なぞ言語道断。

 

 その点に関しては、彼女も今世に感謝できる。

 渚だって家族仲はいちおう良好だった。

 

(……まあ、顔が良いからってだけで結婚して、詐欺師の男に唆されてお金パクって逃げようとした(ヒト)だし。父さんが家にいなかったら酷いものだったし。本当……偶然そのお腹にいただけで、なにも悪いコトなんてしてないのにな……)

 

 ――そこまで思い返して、これ以上はやめようと頭を振った。

 

 なんにせよ遠い昔に終わったコト。

 わざわざ古い記憶を掘り起こしてまで腹を立てる必要もない。

 

 結局はまともに育児もできないまま事故で死んで、最後までこちらに迷惑をかけただけのものだ。

 

 たったひとつ、あの世に最愛の彩斗(おとうと)を産んでくれたコトだけは一万歩譲って感謝してあげても良いが。

 

 

 

『――次の競技は借り物競走。借り物競走です。出場する選手は待機場所まで集合してください。繰り返します――』

 

 ふと、流れてきた放送に肇が反応した。

 どうにも騒いでいるうちに幾つかプログラムが進んでいたらしい。

 

「あ、もう行かなきゃ」

「……出るの? 借り物競走」

「うん。それじゃあまたね、優希之さん。父さんと母さんも」

「はいはい。しっかりやんなさいよー、肇ー」

「いっぱい撮るから頑張って活躍してくるんだよ」

「…………、」

 

 ひらひらと手を振って見送る。

 遠く去りゆく背中は何度か目に焼き付けたものだ。

 

 だというのにちょうど、感傷に浸るような真似をしていたからか。

 

 彼方にまで遡る、誰かの後ろ姿が不気味なぐらい重なって――

 

「……で、優希之ちゃんだっけ。うちの息子とはどうなの?」

「へぁっ!? あ、いえ! その、そんなっ、私なんか、ぜんぜん……っ」

「えー、どうなのよ。なんだかんだで気は利くでしょ、あいつ。昔からそうなの」

「そっ……それは、その……はい……」

「母さん、あんまり若い子をからかっちゃ駄目だよ。まあ僕も気になるけど」

「えぇ……っ」

 

 その後、次の競技が開始するまでの数分間、渚が質問攻めにされたのは言うまでもない。

 

 

 



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17/スキがあるものだから

 

 

 

 

 借り物競走。

 

 体育祭の種目でもポピュラーなそれは西中(ここ)でもそう変わりはない。

 

 スタートから五メートルの地点で封筒を拾い、中に入れてある紙に書かれたお題のモノを持ってくる。

 それをグラウンド中央の判定員に見せてOKであれば、再走地点から借り物を持ったままトラックをぐるっと半周してゴールだ。

 

 純粋に走る距離だけで言うのなら百メートル走よりもずっと長い。

 さらに言えばお題の品物を探すために動いていればもっと体力は減っていく。

 

 勝負運と、身体能力と、あと協力してもらえそうな人柄が重要な競技だ。

 

「おっす、水桶。おまえも一緒だったか」

「比良元くん」

「さっきはナイスダッシュ。続けて頼むぜー学年一位」

「……この前まで君がずっとトップだったのによく言うよ……」

「抜かれたからな、ついぞ。まあ俺は志望校も適当だし良いんだけどな?」

 

 気持ちよく笑う男子は彼らの学年でも一目置かれるイケメン枠である。

 

 元サッカー部のキャプテンで成績優秀、人当たりも良くさっぱりした性格。

 当然の如く先輩後輩同級生問わず多くの女子のハートを撃ち抜いているのだが、本人はなぜかしら一度も告白に頷いたコトはないらしい。

 

 噂によると他校に彼女がいるとか、年上美人の従姉妹にゾッコンだとか、あとホモだとか。

 

 真偽のほどはどれも明らかではないというコトだけ言っておく。

 

「そういえば比良元くんは北高(キタコー)だっけ? 意外だよね、頭良いのに」

「無理してまで上に行きたくねえんだよなー。高校ぐらいこう、穏やかに過ごしたい」

「おじいちゃんみたいなこと言ってる」

「水桶さん、わしゃあの、もう女子からのアタックがしんどうてしんどうて……」

「それ言うとクラスの男子大半を敵に回すよ」

「水桶は違うだろ?」

「え、俺も戦うけど」

「なんじゃと」

 

 ふたりでくすくす笑いながら、恒例のごとく順番に並んでいく。

 

 ちなみに彼らのいう北高(キタコー)というのは近隣でわりと手頃な――悪く言えば偏差値がちょっとアレな――県立高校である。

 不良の巣窟とまではいかないが、主に体育会系(のうきん)が集うコトで有名だ。

 

 代わりと言ってはなんだが部活動は活発。

 大半の運動部では県内ベストエイトに食い込むぐらい。

 

「いや、気持ちはありがたいんだけどなー……断るのもこう、クルんだよ結構」

「ふーん。俺は告白されたコトなんて一度もないから分かんないけど、そうなんだ」

「いつか分かるよ水桶も。たぶん。……つかなんだ、拗ねてんのか珍しい」

「イケメンは敵だってみんな言ってるからね」

「おのれ貴様も周りの男子(ヤツ)らに洗脳されたか……!」

 

 まあ半分冗談、からかい交じりの言葉である。

 もう半分はとりあえず彼自体納得しているので本心だ。

 

 肇だってこれでも歴とした男子中学生。

 なるほど女子に大層モテるというのは――自分から進んでそうなりたいかは別として――普通に羨ましくも思える。

 

 そうなりたいかは別として。

 

「ったく……、……てかよ、聞いてるか水桶」

「なにを? 比良元くんがこの前後輩の女の子フって号泣された話?」

「違えよつうかなんで知ってんの!? ……じゃなくて、借り物のフダ。とんでもねえお題が入ってるらしいぜ。なんでも――」

 

「次、出走者の皆さん整列してください。手前から赤二名、青二名、黄二名でお願いします。ピストルの合図を待っていてください」

 

 そこでちょうど彼らの番が来た。

 

 一先ず話を打ち切って言われたとおりに並んでいく。

 

 つつがなく全員の準備は完了。

 

 息を整えると、少しだけ心臓の拍動が気になった。

 走るだけではないコトに、彼もほんのちょっぴり緊張しているよう。

 

「……で、とんでもないお題って?」

「好きな人持って来いみたいなの。物じゃねえよな、それ。人だぞ人」

「あはは……それ当たったら凄い困るね……」

「まったくだよ」

 

『位置について。ヨーイ……』

 

 なんだかアレなフラグを立てつつ、前を見据えて足に力を込める。

 

『――スタートです! 先ずは全員好調な出だし! ここでそれぞれお題を拾って――ああっとどうした赤団一名、その場で固まっております!』

 

 びしぃっ、と石のように止まる動き。

 膠着したのは先の発言を行った肇――

 

 

 

 

 ではなく、きっちり同じくフラグを立てていた若干もう一名様だった。

 

 学内きってのイケメン、ここにきて策に溺れる。

 

『一体どういうお題だったのでしょうか!? 非常に気になる反応です! 比良元選手! 大丈夫ですか!? まだ諦めてはいけませんよー!』

 

 気のせいか放送部の実況の語尾に緑が見えた。

 端的にいって草が生い茂っている。

 

 本当、女子に大層モテるというのは素直に羨ましい。

 

 そうなりたいかは別として。

 そうなりたいかは、まったくの別として。

 

「くっっっそ嵌めやがったな実行委員……っ! なにが時の運だ責任者出て来いッ!」

 

「おいこら比良元ォー! なにやってんだテメエー!」

「比良元くん頑張ってー! なに、なんなの、借り物は!?」

「せんぱーい! どうしたんですかー!?」

「さっさとしろ応援隊長ッ! もう水桶は探しに向かってんだぞ!」

 

 石化を解いてぷるぷると震える比良元某を背に肇は迷いなく駆けていく。

 

 お題は至って簡単かつシンプルなもの。

 あれこれ戸惑う必要も探す手間も一様に省けた。

 

 なにより先ほど声をかけておいたのが彼の中でも大きくハードルを下げている。

 

 目的地はもちろん、外部見学者用のテントの近く。

 

「――優希之さんっ」

「へぅっ!? えっ、ちょ、ま、み、みみ水桶くん!? どしたの!? あ、借り物!? な、なに!?」

「それっ」

「!?」

 

 ずびしっ、と渚の頭を指さしながら、もう片方の手でお題の書かれた紙を掲げる肇。

 内容はこうだ。

 

 〝黄色のリボン〟

 

 ……そう、出会った当初からずっと。

 

 ともすればゲーム本編のスチルからして、彼女の銀髪を飾る赤い縞模様のカチューシャと、黄色いリボンは生粋のトレードマークである。

 

「あ、こ、これ、うん! ちょっと待って! ――――……っ、は、はい!」

「ん、ありがとう! また返しに戻ってくるから!」

「ぁ、うん! その、が、頑張って!」

 

 後ろからかけられた渚の声に、手を上げて応えながら中央へ向かう。

 

 判定員は実行委員五名。

 

 そのどれにも今のところ選手は来ていない。

 物を持ってそれらしくトラックを回っている姿もない。

 

 ちなみに同級生のイケメンはいまだ必死になにかを考え込んでいる。

 飛んでいる野次が物凄かった。

 

(ご愁傷さま、比良元(イケメン)くん……)

 

『真っ先に辿り着いたのは赤団水桶くん! 先の百メートル走では好走を見せました。さて判定は――合格! 合格ですおめでとう! ここからはトラック半周です! 残りの皆さんも頑張ってください!』

 

「ああもう! 水桶そのまま突っ切れー!」

「つか待ってやっぱ速いわあいつ! 怖っ! 帰宅部ってなに!?」

「肇くん私持っていかなくていい!? パネル持っていかなくていい!?」

「パネルに関しては持っていける重さじゃねーよ!」

「――あっ、比良元のヤツやっと動き出した! 早く早く! ほらもっと走れぇ!」

 

 渚のリボンを握ったまま肇は駆けていく。

 

 西中のグラウンドはそこそこ大きい。

 体育祭用で敷かれたトラック半周はおよそ二百メートルほどだ。

 

 それを余裕の気持ちで走れるのは迅速に対応してくれた彼女のお陰である。

 

 こういうシーンを想定していたワケではなかったけれど、誘っておいて良かったと。

 

『赤団一着でいまゴール! 借り物もちゃんと手にあります! 一着赤確定!』

 

「よぉっし! 流石は美術部の誇る運動できる系男子肇くんっ!」

「美術部じゃないでしょ、帰宅部でしょ。記憶改竄しないの」

「調子いいなー、水桶。それに比べて比良元ォ!」

「待って待って。あいつどこ行ってんの?」

「てかマジで借り物なんなん? あんな焦るもの?」

 

 ほう、と息をつきながら肇は周囲を見渡す。

 

 後続がごたついているのを見ると彼は相当に運が良かったらしい。

 分かりやすいものだったし、なにより持っている人が誰でどこに居るかも知っていた。

 

 これで一着にならないほうが嘘だ。

 

(さて、早めに優希之さんに返しに行かないと――)

 

『さあなかなか皆さん苦戦して……おぉっとここで赤団比良元くん、女の子を抱えて中央まで走っていきます! ()()()()()()です! 一体どういうご関係で!?』

 

「なぁにやってんだクソイケメンー!!」

「死ねぇー! マジで死ねぇ! こけろー!」

「最下位! あっそれ最下位! 判定ーっ、頼むー!」

「ちょっ、せんぱいソレ誰ですかぁ!?」

「マジでどういう間柄!? つかふたりのギャップなに!? やばいって!」

 

 ふと騒がしくなって振り返れば、エラいことになっている同級生を見た。

 

 突然の事態に生徒は騒然。

 とくに彼と関わりがあったであろう女子は阿鼻叫喚の嵐となっている。

 

 ちなみに男子は九割方がブーイング勢へと移行した模様。

 

『判定――合格! なんと合格です! どういうことでしょう!? そのまま比良元くん女子を抱きかかえて走っ――速い速い! ひと一人抱えているとは思えません!』

 

 爆速ダッシュを繰り出すイケメンの腕には見慣れない女子が縮こまっている。

 

 私服であるところを見るとおそらく他校の生徒だろう。

 遠目からで分かるのはお下げ髪が特徴的な、大人しめの感じの子であるコト。

 

 歳はたぶん彼らと変わらない。

 様子を見る限り同年代。

 

「――ちょっ、やだぁ……っ、お、下ろしてよっ、ばかぁ……!」

「ああもうッ! 俺だってこんなんでオマエ抱えるとか想定してねえよ!?」

 

(……なるほど、外部の相手が正解だったと……)

 

 微笑ましいやり取りを遠くに聞きながらテントの後ろを回っていく。

 

 いかにもパーフェクトイケメンといった感じの少年と、私服からでも分かる静かそうな文学少女然とした女子はズレているようでお似合いだ。

 

 きっと大丈夫だろう、なんて。

 

「――ん、お待たせ優希之さん」

「ぇっ、ぁう、お、お帰り、水桶……くんっ」

「リボンありがとうね。これ……っと、ちょっと待って」

「? あ、うん……、……?」

 

 どこか不思議そうな様子で肇を見上げる渚。

 それに彼はくすりと微笑んで、そっと少女のほうへ手を伸ばした。

 

 割れ物でも扱うみたいに、指先が銀糸の髪を繊細に撫でる。

 

「――――――!?」

「動かないで」

 

 言われるまでもなく渚は動かない。

 

 動けない。

 

 呼吸も忘れそうな刹那に心臓が爆発するよう跳ね起きる。

 

 至近距離には胸を高鳴らせる原因の彼。

 ほんとのほんとに目と鼻の先で笑う肇に、思考回路は完全にショートした。

 

 もう、なにが、なんだか、ワケが、わからない、と。

 

「ぇ、あっ、の、……っ!?」

「良いから良いから」

 

 なんにも良くない。

 万に一つも良くない。

 

 これは一体なんだというのだろう。

 

 渚にはてんでさっぱり意味不明。

 

 ……ああ、でも。

 

 近くで感じる彼の肌は、まだ走り終えたあとの熱さが残っていて。

 いつもなら気にしないぐらいの匂いが鼻をかすめて、だから余計に意識してしまって。

 

 それが嫌なものならまだしも、ちょっと、こう、なんか良くて。

 

 すぐに終わってくれと願う気持ちとは裏腹に、ずっと続いてほしいなんて心は密かに訴えるものだから――

 

 

 

 

 

「はい、できた」

「っ……、……ぇ?」

「リボン」

「…………あっ」

 

 とんとん、と自分の側頭部を叩きながら、肇がにこりと顔をほころばせる。

 渚もそれでようやく合点がいった。

 

 つまるところ彼は、預けたリボンをその手でもう一度結んでくれたらしい。

 

 理解が追い付くと気持ちだって落ち着いてくる。

 彼女はふっと、安心したように顔を上げて――

 

 

「うん、優希之さんはやっぱりそれが一番似合ってる。可愛いし」

 

 

 ぽんぽんと、優しく頭を撫でられた。

 

 驚いて目を見開く。

 

 油断か、(スキ)か、はたまた警戒心の無さか。

 

 少し考えればきっと分かっていたコトだろう。

 なんであれ気分の上がっている彼の脅威は、渚も一度経験していたのだから。

 

「それじゃあまたね、ばいばい」

「――――ぁ」

 

 なんだかんだで生徒としてやる事もあるのか。

 彼女の反応を待たず、肇は依然変わらぬ様子で去っていく。

 

 残された渚はただ顔を赤くするだけ。

 

 いまはもう居なくなった人に、届かない愚痴を胸中でこぼすだけだ。

 

(――――な、な、なななな…………ッ)

 

 わなわなと手を震わせて、残り香と重ねるように頭の上へ置く。

 

 温度はすぐに引いてもうない。

 けれど、感覚はいまも微かに残っている。

 

 

 ――撫でられた、撫でられた、撫でられた。

 

 

 微笑まれて、似合ってると。

 可愛いと言われて。

 それで、彼に頭を撫でられた。

 

 ……顔が、とんでもなく熱い。

 もう火が出そうだ。

 

(――――――――っ、なん、なの……っ)

 

 恥ずかしさで涙目になりつつ、渚はぎゅうっとスカートの端を握りしめた。

 

 

 ――撫でられた、撫でられた、撫でられた、撫でられた、撫でられた、撫でられた――

 

 

 九月も半ばを過ぎる頃。

 だというのに気温はそうそう下がってくれない。

 

 否応なしに彼女の頬は赤みを増していく。

 

 熱い、とにかく熱くてしょうがない。

 

 なんのせいか。

 きっとなにもかものせいだ。

 

 暑さのせい、気温のせい、体調のせい、心拍のせい、血流のせい、自分のせい。

 

 ――――(あなた)の、せい。

 

「………………っ」

 

 胸に覚えた息苦しいモノをぐっと嚥下する。

 

 甘ったるくて、されど苦くて、ちょっと酸っぱくて。

 どろどろしていて、とても飲み込めるようなものではなかったけれど、強引に嚥下した。

 

 分からない。

 分かりそうもない。

 分かってしまいたくない。

 

 だって怖い。

 

 知らないコトはいつだってそう。

 未知は恐怖の対象だ。

 

 これがなんなのか判明したらどうなるか――分からなくて、ほんとさっぱりで。

 

 だから怖い。

 

 怖くて、痛くて、苦しくて、切なくて。

 

 ……ほんのり暖かい、とても眩しい。

 

 そんな、心持ち。

 

 

(――――…………私、は……)

 

 

 ああ、優希之渚(わたし)は。

 

 水桶肇(あなた)を、どう思っているのだろう――?

 

 

 



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18/間違いなく気付いている

 

 

 

 

 

「――――ねぇ」

 

 テントに帰る途中、ふと誰かに話しかけられた。

 

 声をかけてきたのは私服姿の男子で、当然見覚えはない。

 

 何事だろう、と振り向きながら肇は首をかしげる。

 

「……さっき、放送で聞いたけど。君が水桶くん?」

「え、あ、はい。そうです……けど……?」

「…………、」

「…………?」

 

 見知らぬ男子はじろじろと肇を観察する。

 堂々と値踏みするような、ともすれば不躾なぐらい無遠慮な凝視。

 

 それに疑問を深める彼だが、あいにくと心当たりなんて微塵もない。

 

 そもそも、相手は見覚えがあるなら忘れそうもない容姿だった。

 

 日差しを受けて輝く栗色の髪と、前髪の隙間から覗く翠緑玉(エメラルド)じみた碧色の瞳。

 身長は百六十五あるかないか。

 小柄だけれど明るさは薄く、どこか落ち着いた暗さを受ける態度。

 

「……あのパネルは君も?」

「? あ、いえ。俺はぜんぜん手伝ってないですよ」

「……だろうね。ちょっと聞いてみただけ」

「そう、ですか……?」

 

 余計分からなくなりながら、脳内でクエスチョンマークを乱立する肇。

 

 突然の邂逅、突然の質問、突然の事態。

 なにもかもが突発的で、どうにも彼には現状が不明すぎた。

 

(――――あれ)

 

 夏の終わり、秋のはじめ。

 まだ熱の残る乾いた風がするりと通り抜ける。

 

 そこでようやく、手にかかるモノを覚えた。

 

 いや、どうでもいい部分ではあるけれど。

 目の前の男子から香る微かな匂い。

 

(……これって……)

 

「君、進学先は?」

「え?」

「……高校。どこにするかは、もう決めてると思うけど」

「…………とりあえず、星辰奏を目指してます、けど……」

「……そうだね。それがいい」

 

 言うだけ言って、少年はくるりと踵を返した。

 

 名前も知らない、出身も分からない、見たところ同年代ぐらいの男子。

 

 肇からすると本気でなんなのかさっぱりだ。

 流されるように色々喋ってしまったが、もしかすると新手の詐欺かなんかだったのでは、とすら思えてきたりする。

 

(……でも、あの匂いって……)

 

 過去、嗅ぎ慣れていた――今になって再び身近になったモノ。

 おそらくは他校の美術部員かなんかだろう、なんて勝手に結論づける。

 

 だとするならどうして彼にわざわざ話しかけてきたりしたのか。

 

(まあ、受賞作とかで、その方面だと名前は見るコトもあるだろうけど……)

 

 にしたって相当なモノでないと見られはしない。

 

 他校の一般生徒なら先ずないであろう機会。

 

 その上彼はもともと帰宅部だ。

 部活動の一環とかなんとかで、大々的に取り上げられるコトもない。

 

(……たまたまどっかで見かけたのかな。それで親戚がいるから来てたとか? まさか俺に声かけるために足を運んだのじゃあるまいし)

 

 うんうん、とひとりで答えを導きながら彼は歩みを再開した。

 

(…………それにしても)

 

 どこか喉に小骨が刺さったみたいな感覚に空を見上げる。

 

 翳のある表情と、落ち着き払った様子。

 栗色の髪に緑色の目。

 おそらく否応なしに女子が押し寄せるであろう美貌。

 

 この目で見た記憶はさっぱりないけれど、その姿はなんとなく引っ掛かった。

 

(……名前ぐらい、聞いておけば良かったかな……)

 

 苦笑しながらテントに向かって駆けていく。

 

 ちょっと不安になるやり取りは、けれども同時に安心する言葉をもらったものでもあった。

 

 ――それがいい。

 

 誰かも分からない他人だけど、高めの志望先に対してそうハッキリ言われたのは初めてだ。

 

 その一言がなんとなく、肇にとっては喜ばしかった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 それぞれの出場競技を終えれば大半の生徒は応援に回る。

 

 肇たち三年生もその例には漏れない。

 ポツポツとある全体競技以外はテントに座って、応援部隊に混じって声出し。

 

 基本的にはずっとそんな調子だ。

 

 最高学年というコトもあってある程度自由に動いてもなにも言われないのだが、流石に自分たちのチームをほったらかしてずぅーっと遊んでいるワケにはいかない。

 

 例えば応援部隊の隊長なのに外部用テントに行ったきりの比良元(だれか)みたいに。

 

「おいあのクソイケメン連れ戻してこい! 旗振る仕事残ってんだよ!」

「誰か双眼鏡持ってる? あと読唇術習得してる?」

「アイツさっき見てきたけど借り物で抱っこしてた女子に叩かれてたぞ」

「ざまあッ! あんな真似するからだボケェ!」

「というか比良元にそんだけできる女子って凄えな。マジじゃん」

「なにがマジになんのよ、なにが」

 

 まあ、とはいえ強制ではない。

 最後の体育祭というコトで皆気合いの入れようは違うが、ちょっと抜け出して他校の友人や家族に挨拶をしにいく生徒もそれなりにいる。

 

 競技の流れに支障さえなければ、在校生として常識の範囲でわりとどうでも。

 

「比良元くん、凄いねそれ」

「水桶……」

「俺はじめて見たかも。紅葉のおてて」

「――いくら女子にモテるからって、幸せとは限らないんだぜ……!」

 

「これはどう考えてもアウトだよ」

「おぉい聞こえてんぞイケメンッ!!」

「死なすっ! 今こそ死なすっ!!」

「応援ほっぽって彼女とイチャついてんじゃねぇよクソがッ!!」

 

 ちなみに彼女ではなく中学が別になってしまった幼馴染みということだが関係ない。

 

 是非もなし。

 慈悲もなし。

 

 なにはともあれ職務を放り出して女に現を抜かしていた野郎(イケメン)有罪(ギルティ)

 愛に飢えた男子連中(ケモノども)に袋叩きにされても文句は言えないのだ。

 

「なぁにが体育祭マジックだ。けっ」

「一生旗振ってろ。死ぬまで振ってろ」

「てかあの娘。地味目だけど……あれだよな、スタイル良さげだったよな……ワンちゃんある?」

「あぁッ、てめえ誰に手ぇ出そうと――」

 

「そこでマジギレするあたり比良元マジじゃん。大マジじゃん」

「だからなにがマジだって!?」

 

「なあなあ水桶! さっきの子なんだけど今からどう――」

「せんぱーい! どこ行くんですかぁ!?」

 

「頑張って、吹奏楽部……」

 

 ……とまあ、なんだかんだありつつもプログラムは時間と共に進んでいく。

 

 午前の部で個人種目も殆ど終わり、昼食を挟めばあとは午後の部だ。

 騎馬戦やら大縄やら百足競走やらと、団体競技を消化していく形になる。

 

 肇は選択の二種目を早々に終えたので、当然の如く全員参加の競技以外はお留守番。

 声を上げたり旗を振ったりメガホンを握ったりと、忙しくはないが暇でもない。

 

 今のところコレといって問題はなく、良い感じ。

 

「やれー! 取れぇー!」

「五騎全部ぶっ殺せぇー!」

「青、後ろガラ空きだよ! 狙って狙って!」

「比良元落ちろォ!!」

「騎馬崩せ、騎馬! そいつに活躍はいらねえ!」

 

「身内がいちばんの敵!!」

 

 騒がしい時間、賑やかな空気、熱を帯びた感覚。

 

 楽しいときはあっという間に過ぎていく。

 

 気付けばすでに終わりも間近。

 最後の最後、ラストを飾るのは得点配分が非常に大きい団対抗リレーである。

 

 一年生から三年生まで男女別に五人ずつ。

 団の中から選ばれた足に自信のあるものが出場する種目だ。

 

 前にもあったように肇は勉強でいっぱいいっぱいなので辞退している。

 

 同じようにテントから応援するだけだ。

 

 

 

「――――足をひねったぁ?」

「あれだ、組体操のときだ。ちょっとタイミング合わなかったから」

「捻挫? 大丈夫なんそれ」

「軽めだから歩くのに支障はないとよ。けど全力で走んのは無理っぽい」

「おぉう……ここにきてかー、いやなんかあるとは思ったけどよぉ」

 

 バッサバッサと応援部隊から借り受けた旗をテント前で振り回しながら、うん? なんて肇が小首をかしげる。

 

 不測の事態でも起こったのか、後ろのほうがにわかに騒がしい。

 やけに空気がざわついている感じ。

 

 なんだろう、と気持ち耳を傾けてみた。

 

「どうするよ、補欠」

「何回か練習した奴はいるけどまあお察しだぜ!」

「言ってる場合か! いや、しゃあねぇだろ四人で走るワケにもいかないんだし」

「速い奴で手ぇ空いてる男子いねえの?」

「それこそそこで旗振ってる奴は速えけどな! なぁ水桶!」

 

「あはは、リレーは全然練習してないからねー」

 

 からからと笑いながら、我関せずといった風に旗を振り続ける二種目一位通過者。

 

 楽観しているのではなく、実際やれることがないからだろう。

 

 勉強の忙しさで個人競技を優先した彼は団体競技に参加していない。

 バトンを繋げて走るだけとはいえリレーも立派に連携の必要な種目だ。

 今のような事態に陥っても肇の出る幕はないのである。

 

 ので、彼の役目はもっぱら応援に力を入れることに尽きるわけであって。

 

「……なるほど、百メートル走ぶっちぎり……」

「……借り物競走でも一着だったよな、あいつ……」

「……つうか午後からほぼ出てねえよ水桶……応援ばっかしてる」

「体力も温存している、と……」

 

「?」

 

 ふむふむ、なんて頷く後方のクラスメートたち。

 

 肇はそれに気付かないまま無心で旗を振り続ける。

 

 ばさばさ、ばさばさと。

 

 みんな頑張れ、最後だ、ファイト、なんてわりと純真な気持ちで。

 

 

「――水桶クン?」

 

 

 そんな暢気者の肩に、ポンと置かれる手がひとつ。

 

「……どうしたの?」

「ちょっと、こっち来ようか……」

 

 ついでに、突き刺さる視線が四方八方幾つも。

 

「え、あっ待っ旗……ちょ、ちょっと……?」

「大丈夫大丈夫。少し付きあってもらうだけだから」

「な、なにを……?」

「そうそう。少し、あれだ。バトン持つだけで良いんだ」

「いや待って。待って待って」

「確保。ちょっくらパスの練習して即出場な。行くぞ」

 

 持っていた旗を奪われ、脇の下から手を回され、クラスの男子に囲まれながらあれよあれよと肇が連行されていく。

 

 ずるずる、ずるずると引き摺られるように。

 

 気分はさながら荷馬車に乗せられた仔牛かなにかだ。

 彼の脳内では絶賛ドナドナがリピートされている。

 

「みんな落ち着こう。きっと焦っていて冷静な判断が失われてるんだ」

「あはは、僕たちは落ち着いてるよ水桶くん」

 

「さっき小耳に挟んだけどあれでしょ。怪我した子ってアンカーだよね」

「そうだな。大事な大事なラストランだな」

 

「俺帰宅部だよ。荷が重いよ。ねえ待って。一旦落ち着こう。話し合おうよ、ねえ」

「はっはっは。水桶。落ち着いて考えるとおまえが一番適任だ。頑張れ」

 

 必死の抵抗も虚しく、ぽんと優しめに肩を叩かれた。

 

 たしかに肇なら体力も十分残っている。

 足の速さにしたってそうだ、もともと出来ないコトもない。

 

 ――が、にしたってぶっつけ本番、それもアンカーというのはいくらなんでもだ。

 

 酷い、あまりにも酷すぎる顛末。

 

「み、みんなして俺を生け贄にするつもりだね……!」

「うるせえちゃっちゃか走れっ! こちとらテメエが昼休みに家族ぐるみで美少女とランチしてたの知ってんだよッ!」

「そうだそうだ! なんだあの銀髪美女! 羨ましくなんかねえけど死ねぇ!」

「おまえを見てるあの子の視線の熱さ分かってる!? ぶっちゃけアホだよ君!?」

 

「優希之さんとはそう言うんじゃないんだけど!?」

 

「「「このクソボケ野郎ッ!!!!」」」

 

 三重奏の罵倒を浴びながら出荷されていく仔牛(はじめ)

 

 そう、クラスメートはちゃんと見ていた。

 

 何を隠そうこの男、両親と渚を含めた四人でちゃっかりお昼を一緒していたのである。

 

 なんなら母親が弁当を作りすぎて余っているから――と。

 コンビニでなにか買おうと考えていた彼女を引き入れて……というイベントまでこなしている。

 

 ちなみにその際、母親から大層渚が弄られたのは言うまでもない。

 

 比良元(イケメン)の件もあるが肇だって罪状はまったく等しかった。

 有罪(ギルティ)無罪(ノットギルティ)かでいえばもちろん有罪(ギルティ)だ。

 

「……というか一緒にご飯食べたいなら別に全然誘ったのに」

「馬鹿テメエ。そっちが本筋じゃねえ」

「裏でこっそり話しかけてた男子全員撃沈してんだわ」

「水桶に向ける笑顔の一割も他に向けてないからねあの子。おまえが見えないとすっげー冷め切った顔してるからね。なんなの? 氷の女王様なの?」

 

「あはは、そんなまさか」

 

「「「そのまさかなんだよッ!!!!」」」

 

 ともあれ、これにて役者は揃ったワケである。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

『次は団対抗リレー。団対抗リレーです。出場する生徒は待機場所に集合してください。繰り返します――』

 

 恒例の放送に耳を傾けながら、渚はぼんやりと空を眺めている。

 

 彼の誘いで休日をおして見に来た他校の体育祭。

 そのプラグラムも残すところあとひとつとなった。

 

 走るだけなら肇も出るのかと思っていた渚だが、聞いたところによると練習時間の兼ね合いもあって彼は参加しないらしい。

 

 なのでまあ、目前の競技に対する関心もそこそこに。

 まったく無いというワケではないけれど、限りなく薄く。

 

 ぼうっと、考え込むように視線を遠くへ投げる。

 

(――――――……、)

 

 頭に浮かぶのはやっぱりというか肇のコトだ。

 

 いつもは塾で勉強という建前に隠されているけれど。

 今日に限っては彼を見に来るという名目以外を彼女は持ち合わせていない。

 

 だからだろう。

 

 真剣な表情で走る姿が。

 明るくこちらに笑いかけてくる顔が。

 可愛いといって優しく頭を撫でてくれた感触が。

 

 忘れられないとでも言わんばかりに、胸をしめている。

 

(…………ほんと。どうしちゃったんだろ、私……)

 

 何度も言うように、最初はこんな筈じゃなかった。

 

 ただ偶然知り合っただけの塾生同士。

 得意分野を互いに教え合うだけの勉強仲間。

 

 その関係性自体はいまも変わりない。

 ふたりがどういうものなのか、と例えるならそれが一番しっくりくる。

 

 ……だから、そう。

 

 両者を繋ぐ関係はまったく変わっていなくて。

 

 変化したのだとすれば、なにより自分(なぎさ)だ。

 

 

 

「――あれっ、アンカー変わってる?」

「怪我したってよ、軽度の捻挫。んで代わりに野郎(クソボケ)放りこんできた」

「クソボケって誰よ?」

「水桶のヤツ」

「ちょっとちょっと! 肇くんになんてこと言うの男子!?」

「でもあいつ今年のパネル断ったじゃん。あと昼飯他校の女子と食ってたぞ」

「肇くんはクソボケっ! 異議無しっ!!」

「手のひらくるっくるだな」

 

 

(…………水桶くん?)

 

 ふと、遠くに聞こえた声を拾って目を凝らす。

 

 グラウンド中央、リレー選手の待機場所には彼らの言うように肇の姿があった。

 

 最高学年の三年生にとっては最後の体育祭、最後の種目、最後の走者。

 

 かかるプレッシャーは計り知れない。

 そのせいなのか気持ち表情が青ざめているようにさえ見える。

 

 彼にしてはちょっとだけ、珍しい反応。

 

 

『――さあスタートです! 先ずは一年生、第一走者がトラックをぐるっと回っていきます! トップは青団、続いて赤団、そのすぐ後ろに黄団が迫ります!』

 

 

(……走るのはいちばんあとかな……)

 

 ほう、と渚が細く息を吐く。

 

 なにもかも分からないことだらけ。

 

 この世に生まれた時でさえこんな夢想はしなかった。

 

 彼女の心は沈んだまま。

 羽搏けるコトなどありはしない。

 

 翼をなくした鳥は地面に落ちて喘ぐだけだ。

 いずれは藻掻く体力すらなくなって、静かに密かに死んでいく命。

 

 ――そこに差した光に、いつかなくした羽の面影を見るまでは。

 

(そう、きっと……私は彩斗(あの子)と、(かれ)を重ねてる)

 

 いなくなった人間。

 死んでしまった家族。

 別れたはずの弟。

 

 それが被って見えるのは何故なのか。

 

 偶然でもなければ、無理やり脳がそうやって認識しているとしか思えない。

 

 ……言うまでもなく。

 ずっとずっと引き摺っている想いが、彼の中にある共通点を血眼になって探した結果だ。

 

 そんなのは何の救いにもならないこと。

 

 自分も相手も不幸にしかならない、醜いまでの愚かなすれ違い。

 

(だからこんなに意識しちゃうのかな……似てるから、そういうところがあるからって…………)

 

 細かなクセとか、それっぽい仕種とか、漂わせている雰囲気とか。

 本当に不思議なぐらい誰かさんとそっくり。

 

 ……けれど、全部が全部ピッタリ合うわけではない。

 

 彼は自分から進んで絵を描いたコトがないと言った。

 

 それを裏付けるかのように、肇の手は綺麗なままだった。

 筆を握った痕の殆どない、ペン胼胝も爪の汚れも油の匂いも一切しない彼本来の指。

 

 その指が嫌いというワケではないけれど。

 決して、そう決して嫌いというワケではないのだけれど…………、ほんの少しだけ、残念とは思った。

 

(……彩斗(あの子)が絵を描かないなんてありえない。筆を持たないなんて信じられない。それぐらいのめり込んでた。だから――(かれ)は)

 

 彼は彼だ。

 水桶肇だ。

 

 そんなコトは分かっている。

 それぐらいの事実はとうの昔に知り尽くしている。

 

 今更そうじゃないなんて癇癪を起こすほど愚かではない。

 

 だからこそ余計に分からない。

 

 肇を肇として認識しているのなら。

 家族以外の人間が胸をしめるのだとしたら。

 

 この気持ちは一体、どういうモノに分類されるのだろう――?

 

 

『次は二年生となります。――スタート! 第一走者並んでスタートを切りました! おっとここで黄団速い速い! 陸上部の抹流(まつなが)くんひとり抜け出しトップを走ります! さあ赤団青団追いつけるか! いまコーナーを曲がって――』

 

 

 渚には今までこういう経験がない。

 彼女自体がこういったモノに酷く疎い。

 

 昔を含めても恋人なんておらず、デートもキスもその先もさっぱり。

 

 そんな暇があるのなら彩斗(おとうと)のために時間をつくるほうが大事だった。

 それがなくなってからは、そんなコトをするような状態でもなかった。

 

 生きていくなんて、出来なかった。

 

 だから彼女はあのとき、自分から――――

 

 

『……さあ、ラストを飾るのは三年生です。中学最後の体育祭、全員が想いを込めてバトンを繋ぎます。…………スタートしました! 三人横並びになって一歩も譲りません! そのままコーナーへ!』

 

 

 そうしたら不思議なコトに今みたいになって。

 その名前も立場も役割も、錆び付いた記憶には残っていて。

 

 仕方がないから、生きていくことにした。

 

 ……やる気はあまりなかったけれど。

 

 正真正銘自分のモノでないと思うと、二度目の過ちを繰り返すような真似はできないから。

 

「………………、」

 

 少しずつ前向きになれたのは、偏に周囲の環境のお陰だ。

 

 両親はこんな彼女にも暖かくて優しくて、やれるだけのことはやろうと思えるぐらいにありがたい存在だった。

 

 周りに溶けこむのは大変苦労したけれど、それでも世界は支えるように甘くて。

 このまま命を消化するぐらいなら、せめて関わるぐらいはしてもいいだろうなんて原作の舞台(しんがくさき)を選んだとき。

 

 なんとはない流れで、なんでもない日々の中で。

 

 ――――彼に出会った。

 

 

『バトンが渡ります! これで三人目! トップは青団、続いて黄団! 赤団わずかに遅れています! さあ三チームともバトンを繋いで――』

 

 

 穏やかに佇む人。

 

 花が咲くように笑う人。

 

 トゲを忘れたみたいに優しい人。

 

 それまでの彼女を大きく変えてくれた人。

 

 この胸に残る、心を震わせる、たぶん一番大きな人。

 

(…………水桶くんは)

 

 わりと良い人だ。

 拙い部分はもちろんあるし、足りないところも多いけど、少なくとも彼女からして嫌うほど悪い人ではない。

 

 進学に向けて必死に勉強している姿なんかは真面目にも映る。

 けれど気分が上がると行動に大胆さが増すし、距離が近付けばからかってくる一面もあった。

 

 前者は夏休みあたりから、後者は現在進行形で体験しているコトである。

 

 総評すると本当に、なんというか、()()の少ないひと。

 

 

『四人目! トップは引き続き青団! 赤団追い上げて黄団とほぼ同時にパスが繋がりました! 青団独走! 後方両チームともに追い上げます!』

 

 

 魅力的な人かと言えば、どうなのだろう。

 

 少なくとも彼が誰かに言い寄られている姿は想像できなかった。

 女子に囲まれている映像なんて尚更だ。

 

 通りを歩いていて、ふとすれ違った十人が十人とも振り向く、なんて格好良さはない。

 

 客観的に見ればあくまで普通、一般的、良すぎもせず悪すぎもせず。

 

 

『青団トップ! 赤団追走! 黄団はやや離されています!』

 

 

(……ああ、もう。なんか……)

 

 放っておいたらずっと、彼のコトを考えている。

 

 馬鹿みたいだ。

 なんともらしくない。

 

 目の前の光景も身の回りの状況も忘れて、唯々思考に没頭する。

 

 我を忘れたような意識の暴走。

 ほんと笑ってしまう。

 

 こんなのは、まるで――――

 

 

『そしてついに! ラスト! 最後! アンカーです! 最終走者一人目は……青団! すぐ後に赤団続きます! 少し遅れて黄団届きました! 皆さん頑張ってください!』

 

「水桶ぇーッ!!」

「頼む、頼むー! マジでお願いっ!!」

「抜けーっ! やれーっ! ぶっ飛ばせーっ!!」

「良いよー良いよー! 肇くんその調子ー!!」

「頑張れ水桶っ! 勝利はおまえにかかってんぞぉ!!」

 

 

 はっとして眼前の光景が目に入る。

 

 二番手に走る赤いハチマキをつけた体操服姿の少年。

 その必死の形相が、自然と瞼の裏に焼き付けられる。

 

 

『依然青団トップのまま半分を超えました! 赤団届くかどうか! 黄団もふたりのすぐ後ろまで迫っています!』

 

「だあああくっそ元陸上部ずりぃなァ!?」

「頼む頼む水桶っ! 水桶頼むマジ頼む――っ!」

「いけるいける! スパートかけろスパート!」

「体力あんだろ本気出せぇッ! ぶっ飛ばすぞオラァ!!」

「肇くーん! ファイトー!! 美術部の星ーっ!」

「だからあいつ帰宅部!」

 

 

 先頭との差はごくわずか。

 少しでも足が縺れたら決壊するような紙一重の差だ。

 

 それから後ろだって気を抜けない。

 

 そちらも人ひとり分空いているかどうかというところまで迫っている。

 

(――――――……)

 

 観覧席のテントからでも分かる苦悶の表情。

 午前中の二種目とは比べ物にならない。

 

 歯を剥き出しにして、髪を振り乱して、汗を散らしながら彼は駆けていく。

 

 文字通り絞り出すぐらいの全力疾走。

 塾で難問にぶち当たっている時だってあんな顔はしないだろう。

 

 それは同時にそれぐらい、たぶん肇がこの空気を楽しんでいる証拠で。

 

 

 

「…………頑張れ」

 

 

 

 無意識のうちにこぼれた声は小さかった。

 

 走る音、風の音、ともすれば周りの歓声に容易くかき消されるほど小さな響き。

 当然ながら死ぬ気で走っている彼に届くはずなんてない。

 

 なのに、

 

 

「――――――、」

 

 

 彼は、ひと息。

 食いしばっていた歯を緩めて、にっと笑うように。

 

(あ――――……)

 

 

『並んだ並んだ! 赤団並びました!! 黄団も来る! 黄団も来る! 青団どうだこのまま逃げきれるかー!?』

 

「水桶ぇーーーーっ!!」

「マジであいつ!? マジで!?」

「フレーフレーっ、肇! 来年こそパネル!!」

「私ら来年は高一なんだけど!?」

「どうでも良いから抜けっ! さっさと抜けっ! すぐ抜けーっ!」

 

 

 世界は広い。

 景色は明るい。

 

 視線は固定されている。

 それ以外に瞳に入れるものなどないように。

 

 意識はたったひとりに向けられる。

 

 

『ゴールまで二十メートルを切りました! さあ三人とも譲らぬまま今――――』

 

 

 思えば特別で。

 思えば新鮮で。

 思えば良好で。

 

 胸を弾ませながら(かれ)を見る。

 

 走り抜けた影は崩れるように地面へ倒れた。

 手足を放り投げて大の字にして、少年は荒く肺を上下させている。

 

 どっと湧き上がる歓声と、わっと立ち上がる中央の走者一同。

 

 結果を告げる放送はどこか遠く、別世界の出来事みたいに。

 

 

 

『――――ゴールっ、一着は赤団! 二着青団、三着黄団です!』

 

「ぃよっしゃぁあああああっ!!」

「ナイス水桶っ! やっぱアイツ出して正解だったろ!?」

「結果論、結果論! まあ俺は最初から信じてたけど!」

「きゃーっ! 肇くーん! 素敵ー! 格好良いー! パネルー!」

「パネルは褒め言葉なの? 普通名詞じゃないの?」

「あっはっは! 見ろよ水桶ぶっ倒れてる! すげー死にそう!」

 

 

(………………、)

 

 跳ねる心臓を掴まえるように、渚は胸の前で手を握る。

 

 分かっていた筈だった。

 

 こういうとき、余力を残して流せるほど彼は冷静な人でもない。

 冷め切っているワケではなく、本当にただぼんやりしているだけ。

 

 その変わり様は予想できた。

 

 花火でも、つい先ほどの競技でも、彼のテンションは高かったから。

 

 ――でも、終わってみればなんてコトはない。

 

 分かっていてもなお、胸の奥を突き刺したそれは。

 

(……ほんと、こんなのは――)

 

 

 

 そう、まるで。

 

 彼に恋でもしているみたい――――と。

 

 

 

 渚は微かに笑いながらそう思った。

 それが正解かどうかなんて、考えてもいないまま。

 

(ま、まさか……ね。そんな、私に限って、そんな。――そんな、こと――)

 

 答え合わせは唐突に。

 

 周りが肩を貸して立ち上がらせた彼が見えて。

 誰とも顔を合わせて笑い合って、ひと息ついた肇が真っ直ぐこちらを見ながら。

 

 くしゃりと力が抜けたように、笑うものだから。

 

 

「――――――っ」

 

 

 バクバクと心臓がうるさいぐらい拍動する。

 混乱と困惑と焦燥と、色んなものが脳内でぐちゃぐちゃに回っていく。

 

 ああ、なんてこと。

 

 偶然引っ張り出した知識(こたえ)だというのに。

 

 頭に染み付いて、感覚に刻まれて。

 どくどくと脈打つモノが言外に結果を告げてきた。

 

 否定する材料が見つからない。

 

 どうしよう。

 

 嘘みたいだ。

 

 

 

 ――――もしかしたら、私は彼に、恋してしまっているのかもしれない。

 

 

 

 



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19/突然で心臓に悪い

 

 

 

 

 十月に入ると、暑かった気温も次第に熱を引いていった。

 

 寒いというにはまだ及ばないが、わずかに涼しさを覚えはじめた季節。

 

 青々と生い茂っていた緑の面影はすでになくなりかけている。

 見える風景は赤や黄色に色付きつつあった。

 

 ついぞ秋の到来を感じさせる変化だ。

 

(…………、)

 

 いつからかを境にして、塾における渚と肇の立ち位置は逆転した。

 

 それまでは互いの学校との距離、歩くペースによって若干肇のほうが早く来ていたのを、いまでは渚のほうが先に着いて待っている。

 

 理由はもちろん言うまでもない。

 

 先の体育祭からずっと、彼女の脳裡を占めるのは誰かさんだ。

 

(………………、)

 

 カリカリとペンを走らせる。

 

 ひとりきりの自習室はやはりというか淋しい。

 彼女自身の気持ちとしてではなく、空気がという意味でだ。

 

 不気味なぐらいの静けさは人の気配を薄くしていく。

 

 白い紙の上に、鉛筆でぽつんと打たれた点のような感じ。

 

 ちらりと、盗み見るように時計を覗く。

 

(……まだ、かな。水桶くん……)

 

 そんなことを考えながら、ぼんやりと教材に視線を落とす。

 

 思えば彼女としても誰かを待つというのは新鮮なコトだった。

 

 昔はどちらかというと相手が動けなくて待っている側であったし。

 そもそも今の渚自身、こんな風に望んでいる人というのがまるで少ない。

 

 それもまあ当然のコト。

 

 一度バラバラに壊れた心は、治したとしても元通りとはいかないのだ。

 最低限中身が零れないように補強しただけで、ヒビ割れの痕は消えないでいる。

 

(…………昔の、私なら――)

 

 例えば、大好きな彩斗(おとうと)がいて。

 

 何にも気にせず周囲に愛想を振りまいて、誰とも笑って過ごして、家族が生きているだけで幸せを噛み締められていた。

 そんな自分なら、(かれ)との距離感も少しは変わっただろうか、と。

 

(……そんなコト言っても、しょうがないか……)

 

 呆れるように息を吐く。

 

 想像するだけ意味のない。

 彼女が他人に明るく接するとしたら、それは弟が死んでいないというコトだ。

 

 だとするなら彼との関係など生まれる筈もないだろう。

 

 仲の良い異性の顔見知り程度に落ち着いて、なにも意識しないのが目に見えている。

 

 だから結局、こうなったのは過去を含めた今の渚が招いたコトであって。

 

 誰でもない彼女でなければ。

 誰でもない彼でなければ成立しなかった、必然的な結果に過ぎない。

 

 

(――あ、そっか……)

 

 

 そこで渚は初めて気付いた。

 

 父親も母親も生まれてくる子供には決められない。

 ともすれば周囲の人たちだって流れのままで出来た関係である。

 

 そこに彼女自身の意思が介在しているとしても薄いもの。

 殆どあるとも言えないような代物だ。

 

 けれど、(かれ)は明確に違う。

 

(……私がはじめてつくった関係が、水桶くんなんだ……)

 

 その名前は古い知識に出てこない。

 その存在は遠い記憶にありもしない。

 

 彼女が体験した画面の向こうにそんな誰かは影も形もなかった。

 

 だからこそ、優希之渚(ヒロイン)とは違う。

 

 優希之渚(かのじょ)が手にした、唯一無二の関係性。

 

「…………ふふっ」

 

 口元をおさえて小さく笑う。

 自覚すれば余計に頬が熱かった。

 

 なるほどつまり、彼との間にあるものは原作ヒロインすら持っていないもので――

 

 

 

 

 

「なにか良いことでもあった?」

「ひゃうっ!?」

 

 

 がたたっ! と椅子を引いて防御姿勢を取る渚。

 

 突然振ってきた声は机を挟んで真正面から。

 肩をびくびくと跳ねさせながら恐る恐る見れば、件の待ち人が軽く手を上げた状態で固まっていた。

 

 あちらもあちらでビックリ仰天、といった様子。

 

「ご、ごめんね。そんな驚かすつもりはなかったんだけど……」

「い、いや、あのっ、その、わ、私のほう、こそ……お、オーバーな……リアクションで……えと、……ごめん……」

「良いよ、そのぐらい。急に声をかけたのは俺なんだし」

「…………っ」

 

 ぽっと身体が熱くなるのを感じる。

 

 ただでさえ上手く回らなかった口は前回(アレ)以降余計にたどたどしさを増した。

 上手く精神(ココロ)をコントロールできていない証拠だ。

 

 要は落ち着けないでいる。

 

 最近は心臓も頭も手も足も顔も口もなにかも忙しい。

 彼女の身体が会社なら追加業務で社員が潰れるほどの繁忙期だ。

 

 原因はもちろん水桶建設(そのひと)との取引(かんけい)である。

 

「そ……それより、お、遅かった……ね……」

「うん。ちょっと、急に放課後用事が入っちゃって」

「……なにか、してるの……?」

「……してるっていうより、された?」

 

 あはは、と困ったように笑いながら肇が机に教材を開けていく。

 

 渚からすればなんとなくその態度には疲れが見えた。

 分かりにくいけれど、ほんの少しだけ参っているような感じ。

 

 彼にしては珍しい露骨な心労の表れ。

 

 

 

「びっくりした。俺、はじめて女の子に告白されちゃって」

 

「――――――」

 

 

 ぺきん、と。

 

 握っていたシャーペンの芯が折れた。

 

 唐突なカミングアウトに脳の回路が停止する。

 無意識のうちに本能が理解を拒みかけたせいだ。

 

 ――告白?

 

 それは一体、誰が、誰に、いつ、どこで――?

 

「――……そ、そう……なん、だ……」

「ひとつ下の後輩で、何回か話したこともあってね。リレー格好良かったですって褒めてくれた。あれ、補欠代わりに引き摺られて出されたんだけどね……」

「へぇ……なら、良かった……じゃん……」

「あんなコトもう二度としたくないけど」

 

 苦笑しつつ肇がため息をこぼす。

 渚は俯き気味になりながら話を聞くしかない。

 

「…………っ」

 

 顔はあげられない。

 胸が酷く締めつけられている。

 

 頭の中は色んな感情(こえ)でうるさかった。

 

 身体中から熱が引いていく錯覚。

 

 心臓は嫌な意味でどくどくと脈打っている。

 

 なんだかとても、気分が悪い。

 

「だから少し遅くなっちゃって。それだけ」

「…………そ、その……っ」

「?」

 

 ぐっと拳を握りながら、渚は震える唇を必死で動かした。

 

 聞きたくないこと。

 

 でも、聞きたいこと。

 聞かずにはいられないこと。

 

 ぐらついた意識の中で、それだけは知らなくてはと願いながら口にする。

 

「……へ、返事……は……?」

「断ったよ」

 

 誤魔化しの一切ない答え。

 

 どこか申し訳なさそうに彼は苦笑した。

 先の渚の観察通り、若干疲れていそうな表情と声音で。

 

「な……、なん、で……?」

「受験生だからね。勉強に集中しなきゃだし。付き合ったとして、たぶん時間も取れないだろうからって。俺の場合、志望校が志望校だから」

「……そ……そっか……、そう、なんだ……」

「うん。なんで、受かるまでは誰とも付き合う気とかはないかなあ」

 

 生半可な気持ちで合格できるような進学先でもないし、と肇は自信なさげに呟く。

 

 たしかに彼の言うコトは一理あった。

 今まで何度も話題に出したとおり、有名校というのもあって星辰奏は難関だ。

 

 学年一位の現状をキープできるならともかく、そのあたりの学力を必死の勉強で積み上げてきた肇からすれば恋愛に現を抜かす余裕もないのだろう。

 

 ……まあ、彼女(こいびと)が出来たからといって彼が簡単に堕落するとは渚は思えなかったが。

 

「……じっ、じゃあ……誰から告白されても、ぜんぶ、断るっていうコト……?」

「そのつもり。勉強ばっかりで相手になにもしないのは失礼だし。かといってそれで成績が落ちたりしたら、ここまでやって来た意味がないじゃない?」

「…………、……そう、かもね……」

「気持ちは嬉しい、けど、ね……って、これ言ってること比良元くんと一緒だ……! うそ、あのひとエスパー……!?」

 

 なんだか渚の知らない驚愕の事実に気付いたのか、カタカタと震えながら戦慄する肇。

 

 それを傍目に見ながら、彼女は複雑な心境のままひっそりと息を吐いた。

 

 はっきりとした理由も掴めないまま内心で胸をなで下ろす。

 依然としてモヤモヤとしたものはあるが、肉体が芯から冷め切るような感触はもうない。

 

 あるのは微かな喜びと、一片の不安と、処理しきれない残念さ。

 

 口にしてしまうとあまりにも陳腐で馬鹿らしい想い。

 

「あ、あはは……、……っ」

 

 彼に相手ができなくて良かったという安心と。

 もしかしたら他にもいるかもしれないという疑念と。

 たぶん自分だってその例外ではないという自覚。

 

 なんだかんだで真面目な肇のことだ。

 

 言ったことは律儀なぐらい守るだろう。

 きっとこの場で渚が想いを告げたとしても結果は同じ。

 

 それがどうにも良いようで、悪いようで。

 

「……そう、だよね。一緒にいる時間、取れないもんね……」

「そうそう。先ずは試験を乗り越えないと。考えるならその後だよ」

「……待っててとかは、言わなかったんだ」

「いやそれは……流石にどうなんだろうね……? というか、待ってほしいほどだったらノータイムで頷いてる気がする」

 

(なら、私は――――)

 

 塾の自習室で一緒の時間は十分取れて。

 同じ三年生(じゅけんせい)で、志望校もまったく同じで。

 お互いに勉強を見ている関係である(わたし)ならどうなのだろう――なんて。

 

 そんなとんちを効かせたような考えが出るのは、ちょっとずるいだろうか。

 

 ……本気で言ってしまったらどうなるかは分からないけれど。

 

 困った顔をする肇のことは、なんとなく想像できた。

 

「……水桶くん」

「ん、なに?」

「……受験、頑張ろうね」

「? そりゃあ、もちろん」

「……うん」

「??」

 

 首をかしげる肇を余所に、渚はいま一度シャーペンの頭を叩いた。

 

 彼が来る前より幾分か落ち着いた心持ちで教材に目を向ける。

 

 なんというか、意識すると余計に駄目というか。

 ごちゃごちゃ考えておきながらも根は単純だ。

 

 だってそう、隣に肇が居るだけでずっと気分は良いし集中できる。

 

 ……ほんと、単純すぎて恥ずかしい。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 ――――などと、言っていたものだから。

 

「……っ、……っ!」

「あはは」

 

 渚は勘違いしていた。

 厳密に言えば思い込んでいた。

 

 肇は受験に向けて勉強に力を入れている。

 二学期に入ったというのもあってその考えが一層強くなったに違いない。

 

 だから以前のようにプライベートで遊ぶようなコトも少なくなるだろう――そう確信した矢先だった。

 

 十月某日、渚たちの通う北中(がっこう)の文化祭にて。

 

「な……なん、で……っ」

「比良元くん……あ、クラスメートの男子でね、幼馴染みが北中(ココ)に通ってるらしくて。それで何人か集めて乗り込まないかって話をしてたから、ちょうど良いなって俺も来ちゃった。優希之さんもいるしって」

「なっ、なに、なにもちょうど良くないっ、けどっ!?」

「えー」

 

 からからと笑う肇の様子は心底楽しそうだ。

 気持ちいつもより純真パワーが高めに見える。

 

 それだけなら良い。

 なにも問題ない。

 彼の笑顔なら渚だっていつでも歓迎ウェルカム欲しい代物だ。

 

 だからそれは彼女が焦る要因たり得ないワケで。

 

 問題なのはそう――渚の格好、その服装のほうだった。

 

「凄い似合ってるよ、メイド服。めちゃめちゃかわいい」

「ちょっ、や、やめ……っ! 見ないで……っ」

「ふふっ、……ついでに一枚いい?」

「ぜ、ぜぜぜ絶対だめっ、それはだめ……!」

「お願い、一回だけ。ポーズは取らなくていいから」

「それでもだめ……!」

 

 そんなー、と笑いながら携帯を取り出す(はじめ)は彼女の羞恥を絶対に分かってやっている節がある。

 

 というかそのあたりを察していなかったらこんな笑顔にはならない。

 いつもと違って珍しい衣装、珍しい態度、珍しい表情は彼のどこかにぶっ刺さったよう。

 

 それは刺さらなくていい、と渚はわりと切実に思った。

 

 あとメイド喫茶なんてベタなやつを出し物に選んだクラスの文化祭実行委員も恨んだ。

 

 おのれこんな調子なら無難に劇とかでも良かった、と。

 

「ねえねえ、見てアレ。見てほら!」

()()()()がすっごい赤面してる……!」

「渚ちゃん、他校(よそ)に彼氏いるって本当だったんだ……」

「あんな慌ててる優希之女史も見たコトねえ。何者(なにもん)だあいつ」

「くっそ羨ましい……! 俺たちは事務的会話以外殆どねえってのに!」

 

「ち、違っ、か、()はそういうんじゃなくてっ」

「「「「「カレ!?」」」」」

「そっ、そっちの意味じゃ、ない……っ!」

 

(優希之さんもちゃんと馴染んでるんだなー、クラス)

 

 ざわざわと騒ぎだした空気にほんのり暖かなものを感じながら、肇はそっとポケットに携帯を仕舞う。

 

 一枚欲しかったのは本心だが、当人が嫌がるのなら無理強いは良くない。

 なにより隠し撮りなんかしていると後が怖いワケだし。

 

 余計なコトはしないのが吉だ。

 

 なお、もうちょっと気分が上がっていればパシャパシャしていたかもしれないのは彼の名誉のために言わないでおく。

 

「あの……すいません」

「? はい」

 

 と、そこで後ろから誰かに話しかけられた。

 

 大人しめな雰囲気の、眼鏡をかけた女子生徒である。

 例にならって格好はメイド服姿。

 

 長い前髪の隙間から、わずかに鋭い視線が真っ直ぐ向けられる。

 

「いちおう、教師以外は校内撮影、禁止となってます……ので……」

「あ、これはこれはすいません……、……あれ?」

「…………?」

 

 が、しかし彼はその人物に見覚えがあった。

 

「比良元くんの彼女さん?」

「――――――」

 

 そう、体育祭のときに借り物でどこかのイケメンが抱えたお姫様である。

 

「――――そっ、なっ……!?」

「うん? 幼馴染み……? もう彼女だっけ……?」

「おーい水桶ぇ。おまえどこ行ってんだー」

「あ、比良元くんこっちこっち」

「っ!!」

 

 しゅばっ! と凄まじい勢いで教室の奥へ戻っていく少女。

 

 見事な早業、目にも留まらぬスピードだった。

 乙女の羞恥は時として絶大な力を発揮するらしい。

 

 肇にはなんら分からないコトである。

 

「……いま誰かいたか?」

「比良元くんの彼女。メイド服着てたよ、見てみたら?」

「は? 彼女? ……あー、あーあー! そうか! なるほどサンキュー!」

 

 直後、負けず劣らずの勢いで教室に入っていく幼馴染み男子。

 中からは「きゃぁあー!」という黄色い声援と「やぁあーっ!」という絶望の悲鳴が聞こえてくる。

 

 西中(うち)の誇るイケメンは北中(ここ)でも通用したようだ。

 

 その目的が約一名なのもあって、阿鼻叫喚の絵面はなんとも想像に易い。

 

「うっわすっげぇ! なにそれ良いじゃん! 写真撮っていい!?」

「こ、校内撮影禁止……っ! 帰って……!」

「そう言わずに! 頼むから!」

「良いから帰って……!!」

 

(やっぱり彼女で間違ってなかったんだね……)

 

 うんうん、と頷きながら謎の一仕事終えた感に包まれる肇である。

 立派な勘違いではあるのだが、はっきり否定しなかったあたり比良元(イケメン)も悪いところがあるので彼だけが悪いとも言えない。

 

「ところで、これって優希之さんたちが店員してるの?」

「そ、そう……だけ、ど……っ」

「お邪魔していい? 優希之さんの淹れてくれたコーヒー飲んでみたいな」

「い、いいからっ……そもそもいつもココアじゃん、水桶くん……!」

「たまには良くない?」

「よ、良くないっ!」

 

 その後、顔を真っ赤にして接客する銀髪美少女の姿があったとかなかったとか。

 

 それはまた別のお話。

 

 

 



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20/とてもつらい、くるしい、たえられないので

 

 

 

 

 予想外だった闖入者との遭遇からおよそ一時間後。

 ある程度人の流れも落ち着いてきたところで、渚に実行委員の女子から声がかかった。

 

「優希之さーん、次の班と交代だからもうあがっていいよー!」

「……うん、わかった」

 

 回収した食器を引き継ぎに来たクラスメートに渡して、そのまま近くの空き教室へ。

 いつもは使わないそこは臨時で使用申請を出していた着替え用のスペースだ。

 

 メイド喫茶というコトもあって出入りするのは基本的に女子だけ。

 当然ながら内側から鍵がかけられるようになっている。

 

 念のため、軽くノックをして反応を待つ。

 

「誰ー?」

「……優希之、です」

「えっ、渚ちゃん!?」

「いま大丈夫だよー」

「どーぞどーぞ! 入ってー!」

「? し、失礼します……」

 

 妙な返事に首をかしげながら、ゆっくり扉をスライドしていく。

 

 室内は着替えの覗き対策でカーテンが全部閉めきられていた。

 外からの光は殆ど入ってこないような状態。

 

 代わりと言ってはなんだが、電灯は全部つけられている。

 

「ウチら今着替え終わったところだから、気にしないでねー」

「……うん、ありがと……」

 

「あ、いちおう鍵しといて! 誰が間違えてあけるか分かんないから!」

「……そうだね、ごめん。今しておく」

 

「まあ外に貼り紙してあるから大丈夫とは思うけど。馬鹿な男子連中でもない限り」

「……あはは……たしかに、だね……」

 

 短く答えながら、自分の鞄類を置いた机まで歩いていく。

 

 メイド服はあくまで接客用の格好に過ぎない。

 人数分ではなく、数着限られたものを全員で使い回していく形になる。

 

 着たままどこかへ出歩くのはNGだ。

 

 まあ尤も、これを着て余所へ向かうなんて渚は出来てもしたくはないのだが。

 

「――――ねぇねぇ、優希之さんっ」

「ん、なに……?」

 

 しゅるしゅると衣装を脱ぎながら返答する渚。

 

 声に抑揚がないのはわりといつものコトだ。

 そのぐらいは話しかけた彼女たちですら分かっている。

 

 ただ、そんな渚を見慣れているからこそ誰もが興味津々で。

 

「さっき話してたのが優希之さんの彼氏って本当!?」

「っ!?」

 

 がここん! と音を立てて揺れる机や椅子。

 

 それまで不変を保っていた表情はその一言で瓦解した。

 目を見開いてビシッと固まったかと思えば、見る見るうちに顔が赤くなっていく。

 

 ニヤリ、と女子たちの口元が歪んだのは錯覚ではない。

 

 ある程度親しくなければいつだって低く静かに、どこか怖いぐらい冷め切った態度がデフォルトになっている雪の(優希之)女王様。

 

 そんな渚がここまで取り乱すのはなんとも珍しい。

 クラスメートでわりと打ち解けているほうに入る彼女たちからしてもだ。

 

「あっ、そ、その、だから、ち、違って……っ」

「じゃあじゃあどういう関係!?」

「お、同じ塾……で、勉強とか、教え合ったり……してて……」

「あー、塾仲間。じゃあ優希之さん的にそういう感じではないみたいな?」

「そっ、それ、は……――――」

 

 と、考え込んでいた表情が二秒と待たずぼっと熱に溶ける。

 

「えっ、まさか!?」

「っ、や、あのっ、そ、そそそんな……っ」

「うそうそー! やっぱりそういうこと!?」

「だっ、まっ、わ、私は、あの、えっと」

「そっかー、渚ちゃんはああいう人が趣味なのかー。草食系? 意外だねー」

 

 わたわたと手を振って焦る女王様をニヤニヤと見守る女性陣。

 

 咄嗟に掴んだシャツで渚が顔を隠そうとするが、当然全部が隠せるワケもなく。

 

 彼女特有の冷たい空気なんて最早残り香すらない。

 とっくのとうに飛び去ってしまっている。

 

 そこにあるのは飾り気もなにもない、ただの女の子じみたいじらしさだ。

 

「い、いや、その、趣味……とかじゃ、なくて……」

「うんうん」

 

「……い、一緒にいて、あの、よ、良かった、から……っ」

 

「きゃーっ! あの優希之さんが!」

「渚ちゃんにここまで言わせるとはやるな、あの男子!」

「あはは。あんまりからかうのもやめなー? 優希之さんのラヴは伝わってきたけど!」

 

「――――――っ」

 

 口に出すと余計に恥ずかしくなって、急ぎ制服へと着替えていく。

 

 これ以上は耐えきれない。

 

 この場の空気に馴染めないとか。

 彼女らの質問攻めが嫌だとかではなく。

 

 次にこの唇が反射的になにかを口走ったとき、たぶん心臓が耐えられない。

 

 もう無理、限界である、瀕死も重傷。

 

 身体が伝えるのは紛うことなき体調不良のサインだ。

 顔は熱い、心臓の鼓動は早い、血液は脈打っている、なにより頭は混乱の渦である。

 

「……じゃ、じゃあ私、行くからっ」

 

「あ、待って待って優希之さん!」

「もうちょっと話聞かせて! 出会いとか経緯とか詳しく!」

「そこまでー……と言いたいけど、こういう優希之さんは貴重だからね、あと少しだけ!」

 

「ご、ごめんなさいっ」

 

 勢いよく扉を開けて外へ出る。

 

 全員着替え終わっているので配慮する必要はない。

 頬に帯びた熱も冷めやらないうちに渚は一歩踏み出した。

 

 そのまま早足で廊下を進んでいく。

 

 なにはともあれクラスの出し物における役目も終え、晴れて自由行動の身だ。

 とりあえずは落ち着いてこの気分をどうにかしようと――

 

「あ、優希之さんさっきぶり」

「はぅぇっ!?」

 

 びくぅーん! と過去(イチ)トンデモな反応で飛び上がる渚。

 

 たぶん尻尾か何かがあれば見事なぐらいピンと立っただろう。

 が、生憎ただの人間である彼女にできたことは足を止めて気を付けするぐらいだった。

 

 どこか遠く、後方から「きゃーっ!」なんて聞こえてくる。

 いや、むしろ隣の空間(きょうしつ)からも同じように。

 

 話しかけた男子はそんな騒ぎを前に謎のニコニコ顔。

 大方その胸中は賑やかでいいな、ぐらいの気持ちであるのを渚は察した。

 

「接客は終わったの?」

「ぇ、あ、う、うん。いま、終わった……」

「そっか。……ね、このあと用事ある?」

「……と、特には……ない、けど……」

「じゃあ一緒に回らない? 俺北中(ここ)のコトよく知らないから、色々教えてほしいなって思って」

「――――――っ」

 

 一段とボリュームを増して四方八方から響き渡る「きゃあぁあーっ!!」という黄色い歓声、あるいは絶叫みたいなもの。

 

 もう渚はいっそ蹲りたかった。

 

 この場で膝を抱え込んで静かにこの気持ちを落ち着けたい。

 一度ゆっくり休んで整理したい。

 

 けれど悲しいかな、嘆いても現状はなにも変わらないのである。

 

 ……無論、彼が悪いというワケではないのだ。

 

 むしろその申し出自体は非常に嬉しく思う。

 ここが教室の前ではなくどこか人通りの少ない廊下だったら素直に喜びを噛み締めているぐらいの自信が渚にはある。

 

 だが、だがしかし。

 

 彼がおそらく考え無しに誘ってきた場所は、偶然知り合いや友人の多いところだった。

 

 ならば仕方ない、それが運の尽き。

 もはや渚にある選択肢などひとつしかない。

 

「…………うん……」

「いいの?」

「うん…………っ」

「おー、よし。やった」

 

 そう言って、相も変わらず屈託のない表情で肇が微笑む。

 

 きっと彼はそれに秘められた破壊力というものを知らないのだろう。

 羞恥に崩れかけていた渚の心はそんな笑顔ひとつで安くも簡単に立ち直ってしまう。

 

 ……本当単純で馬鹿らしい。

 

 先に惚れたほうが負けというなら彼女はもう挽回のしようもない敗北者だ。

 

 ちょっと自分でもどうかと思うぐらい、肇の笑った顔が特効薬になっている。

 

「……っ、ほ、ほら、行こ、み、水桶くんっ」

「ん? ……ふふっ、そんな急がなくても」

「み、みんな見てるから……っ」

「そうなの? ……あっ、自己紹介とかしたほうがいい?」

「い、いいっ、やらなくていいからっ!」

 

 咄嗟に彼の手を掴んでそのまま引っ張っていく。

 瞬間的に行った自らの大胆さなど今は振り返る余裕もない。

 

 耳まで真っ赤にしながら、俯き加減で渚はずんずんとその場を離れた。

 

 繋いだ手の感触に気付くのはそれから十分後。

 

 ようやく辿り着いた人気のない廊下で、雷に打たれたみたいに跳ねながらのコトだ。

 

 唯一の目撃者である(かれ)は後に語る。

 そのときの渚の叫び声は、まるで猫みたいな響きだった――などと。

 

 真相はもちろん当人にしか分からない。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 しばらくして渚が落ち着いたあと、ふたりは先の約束通り文化祭を回ることにした。

 

 校内の廊下を隣同士並びながら進んでいく。

 

 いちおうは比良元(クラスメート)指導のもと大勢で来た肇たちだが、リーダーがリーダーなのもあって着いてからはそれぞれ単独行動。

 今は全員別れて好き勝手に楽しんでいるらしい。

 

 現に彼の手にはそこらの出し物で買ったであろう焼き鳥が握られている。

 

「――それにしても」

「……? どう、したの……?」

「優希之さんって驚くと、こう、毎回かわいい声を出すよね」

「っ……かっ、なっ……」

「さっきのもそうだけど」

「そ、それは忘れてっ、お願いだから……!」

 

 やっとのことで引いてきた熱をぶり返しながら、渚はじろっと真横を歩く少年を睨む。

 

 顔が赤くなっているのはちょっと不意打ち気味だったからだ。

 

 勘違いしてはいけない。

 いまの〝かわいい〟はどちらかというと冗談半分、からかい交じりのほうで、率直に彼女を褒めたワケではない。

 

 他意なんてない、ないったらない。

 逆に肇の言動からしてあるだろうか。

 

 いや、ない。

 

「ごめんごめん。でもかわいいのは本当だよ」

「――――っ」

 

 ないったら、ないのだ。

 

 ……たぶん。

 

「制服に着替えちゃったのがもったいないぐらい」

「そ、そっちの記憶も消して……っ!」

「あはは……うん。あれだね。今日の優希之さんは一段とかわゆい」

「――っ、や、やめて、ほんとやめて……っ!」

「それこそ俺まで見られてるのかな、って視線を感じるぐらい。凄いね」

「き、気にしないで、別に、違うから。ぜんぜん……っ」

 

 わしゃっと横髪を梳くように引っ張りながら顔を隠す渚。

 耳を澄ませば「うぅー……」なんて唸り声が聞こえてきそうな形態である。

 

 言うなればキャパオーバー寸前の限界域。

 恥じらい百パーセントのマックス照れモードだ。

 

 それを心穏やかに見詰めながら焼き鳥を頬張る少年(ポンコツ)は、純粋に知り合いが注目されているのを喜んでもいるのだろう。

 

(やっぱり有名人とか人気者みたいな感じなんだろうか、優希之さん)

 

 塾でよく一緒になり、さらに関わりも多いから忘れそうになるが、渚の容姿は極めて整っている。

 肇の学校でも類を見ないレベルの美少女だ。

 

 然もありなん、イケメンにも負けないレベルの可愛さを詰め込まれてデザインされた乙女ゲーヒロインはとにかく顔が良い。

 美人は三日で飽きるというが、彼としては未だ素直に素敵だと思える。

 

 わりと渚に対しての褒め言葉に嘘はない肇だった。

 

「な、なあ、アレ……」

「優希之先輩が……男と歩いてる……!」

「てかなんだ。めっちゃ、その、雰囲気がやわっこい!」

「へー……あの人、ああいう男子(あいて)がタイプだったんだ……」

「神は死んだ……っ、天使は堕ちたんだ……っ」

「天使っていう性格(タチ)か……? いや綺麗ではあるけど」

 

(こういう騒がしい感じ、良いな。なんか……好きだな、うん)

(やめてやめてそれ以上なにも言わないでやめて黙ってお願い静かにして――――っ)

 

 両者の心は交わらないまま、けれど進行方向は同じく。

 

 ざわざわと声の飛び交う校舎のなかをふたり歩いて抜けていく。

 

 その際、下を向いていた渚が誰ともぶつからなかったのは、やっぱり誰かさんの所為(おかげ)なのだろう。

 彼の隣にピッタリとくっついておけばとりあえず安全だ。

 

 それを無意識のうちにやっている時点で彼女も彼女なのだが、当人たちが気付いていないコトをとやかく言ってもしょうがない。

 

「あ、中庭にもあるんだ、出し物。……アイス? 時期的に……ギリギリ、あり……?」

「――――――……、」

 

 ひっそりと、細く長い息を吐き出しながら渚は顔をあげた。

 

 十分、十五分も歩いていればちょっとはメンタルも回復してくる。

 

 羞恥に染まっていた顔の色も今や既にいつも通り。

 ほんのちょっぴり頬っぺがまだ赤いかな、というぐらいで不調はない。

 

「…………、」

「でもな……いまアイスは……うーん……?」

 

 なにやら窓の外から覗いた光景に頭を悩ませる肇。

 その顔をちょうど窺うように見ていると、彼がもぐもぐと焼き鳥を頬張った。

 

 帰宅部だが体育祭で見せたように運動自体は嫌いじゃない彼のこと。

 おそらく食欲は男子中学生らしくそれなりにあるのだろう。

 

 ――と。

 

「……あ、優希之さんも食べる? 焼き鳥」

「えっ」

 

 こてん、と首をかしげるように肇が問いかけてくる。

 それを聞いた渚は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして。

 

「……っ!? あ、ぇ、えと……っ、そ、()()っ!?」

「? うん、()()

 

 不思議そうな顔で肯定する天然男子。

 その手には件の焼き鳥が――厳密に言うなら彼が先ほど口にして、食い止しとなった串が――握られている。

 

(……ど、どう、なん、こ、こここれ、は、なに!? なんの試練――!?)

 

 彼から放たれた(あや)しい誘い(ひかり)に渚は混乱(こんらん)した。

 ピヨピヨと頭の周りを得体の知れないひよこが飛んでいる幻覚まで見える。

 

 ――冷静に、落ち着いて考えよう。

 

 これは一体なんなのだろうか。

 

 彼は渚の視線に気付いて食べますかと訊いてきた。

 問題はその手にあったのが今、つい先ほど肇がかぶりついたものであったということ。

 

 つまりそれは、その、なんとも口にしがたい、とんでもなく恥ずかしい、間違いなく距離感が近い者と()()を許容できる人同士の間柄でしか起こらないコトで。

 

 だから、えっと、なんというか、彼と渚の、あの、それがあれして、あれがこうで――

 

「……遠慮しなくていいよ?」

「えっ、あっ、と……み、水桶くんはいい、の……!?」

「? うん。別に、このぐらい」

「っ!?」

 

(こ、このぐらい!? このぐらいって、どのぐらいか分かって――!?)

 

 優希之渚、二度目の混乱である。

 空中を飛ぶひよこの幻覚はまだ晴れない。

 

 このぐらい。

 

 食べかけ(このぐらい)おさそい(このぐらい)間接キス(このぐらい)

 

 それはモノを測る定義としてどうなんだと言いたくなる単語だった。

 

 このぐらいもなにもない。

 こんなのはあんまりだ。

 

 なんだかゲシュタルト崩壊まで起きかけている気がする。

 

 

「――――――…………っ、じゃ、じゃあ……っ」

 

 

 ぎゅっとスカートの端を掴みながら返事をこぼす。

 なんだかワケも分からないが、貰えるものは……そう、貰っておいたほうが良い気がする……、ので、はい。

 

 別に、それ以上も以下もない、と。

 

「そう。なら、はい。どうぞ」

 

 言って、彼はもう片方の手に持つプラ容器を差し出した。

 当然、中にはまだ誰も手を付けてない焼き鳥が入っている。

 

 少女はパチパチとしばし瞬きを繰り返して、ひと息。

 

 

「…………あッ!!」

 

 

 ――渚の、混乱が、解けた!

 

「……あ?」

「あ、あり! ありがとう、ね! 水桶くん! す、凄い、嬉しいっ!!」

「……そう、そんなに? もしかして焼き鳥好きなの? 優希之さん」

「う、うん! 好き、だよ! すっごい好き! うん! うん!!」

「ふふっ……なら良かった。まだあるから、いっぱい食べていいよ」

「あ、あははっ、あははは――――」

 

(――――うぁあ……っ、やだもぉ……やだぁ……!)

 

 顔は笑っていても心は泣いている。

 

 それはそう。

 

 普通に考えれば、常識に則って判断すれば、変に捉えなければ。

 冷静に落ち着いてみれば、彼が食べかけのモノを渡してくるなんて先ずありえない。

 

 当然も当然の流れだった。

 

 渚はもう静かに眠りたい。

 なんならこのままどこかへ消え去りたい気分。

 

「美味しいよね、文化祭の出し物なのに」

「そっ、そそ、そう、だね!!」

 

 誤魔化すように笑いながら、やけになって串にかじりついた。

 

 たしかに美味しい。

 たぶんそこらで買ってきた市販品の味だろうけど、雰囲気的に美味しく感じる。

 

 ……あとはまあ、一緒のモノを食べているから、こう、余計に。

 

「――――…………っ」

 

 ああ、間違いなく。

 今日は彼女にとって厄日か、天誅殺である。

 

 

 



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21/胸に抱える痛いもの

 

 

 

 

 ほう、と中庭のベンチに座って渚はひと息ついた。

 

 肇と共に回っていた北中(ジブン)の文化祭。

 

 飲み物を買ってくるから、と駆けていった彼とは別に彼女は休憩中。

 それもこれもいきなり来て一緒に回ろうとか言い出した誰かさんのせいだ。

 

「…………、」

 

 予期しなかった幸運は、けれど予定にないぐらいの体力を奪っていった。

 たった一時間ちょっと歩き回っただけでもうへとへとである。

 

 どうしてかなんて言うまでもない。

 

 先の焼き鳥事件を発端に、行く先々で気分の上がった肇が勝手な――そう、非常に、渚からしてみれば目に余る、極悪非道にすぎる――振る舞いをするものだから、その対応に追われてのコトだ。

 

(ケーキ食べさせてこようとしたのは本当、どうしようかと思った――)

 

 はあ、とため息交じりのモノを吐きながら項垂れる。

 

 渚たちと同じくカフェ的な出し物をしていた別クラスでのこと。

 テーブルに運ばれたデザートを、肇は当たり前のようにスプーンですくって彼女のほうへ向けてきた。

 

 はい、あーん……などというそれはもうコッテコテな台詞で。

 

(あれはない。ないない。いやほんとない)

 

 比喩じゃなく渚は死ぬかと思った。

 心臓が胸を突き破って鳩時計のごとく飛び出るかと思った。

 

 本日何度目かの混乱に陥ったのも仕方ない。

 

 いきなりそんなコトをされて驚かない女子(ヒト)はいないだろう。

 しかも推定惚れている男子(ヒト)にだ。

 

 ご褒美なんてもんじゃない。

 あれは拷問だ。

 

(……まあ、水桶くんもそこは自覚してくれたけど……)

 

 流石の肇も互いの距離感としてどうかと気付いたのか、その際に渚の対応を待たずスプーンを引っ込めた。

 なんでも「いつも妹にしてるから、つい」というコトらしい。

 

 成る程つまり彼はいつも自分の妹に「あーん」なるものをしているというコトになるのだが、それは非常に羨ま――――ではなく。

 

 客観的に見るとちょっと、あれだと思う渚である。

 

(うん……うん、そこまで行くと、甘やかしすぎじゃないかな……水桶くんも。いくら妹が可愛いからって、そんなコトまでしなくても)

 

 大体、聞いたところによると中学二年で南女子――中高一貫のお嬢様学校――に通う非常(ひっじょー)に良くできた妹さんだという。

 

 ならば幾らなんでもひとりでご飯を食べられないなんてコトはない筈だ。

 つまり妹のほうから強請っているか、彼が進んで世話を焼いているかのふたつ。

 

 肇の猫かわいがりな雰囲気からして渚は後者だと判断した。

 

 そしてあわよくば妹殿(むこう)側は内心それに辟易としていてほしい。

 いや、していると思う。

 

 なにせ年頃の女子が年齢の近い兄にモノを食べさせてもらうなんて、どう考えても恥ずかしくて受け入れがたいだけだろうし。

 兄妹仲を取り持つために仕方なく、そう仕方なく受け入れているだけだろうと。

 

(私だって彩斗(おとうと)に「あーん」なんて――――……結構、頻繁に、やってたケド……それはあくまで彩斗が病気でしんどそうだからであって)

 

 健康体であるのならわざわざ手を貸す必要もない。

 自分で出来ることなら最低限自分でさせてあげたほうがいい例もある。

 

 よって、彼の妹に対する態度は極度の甘やかしだ。

 将来に影響するほどの代物だ。

 これはあくまで正当性を持った、決して感情的ではない、ごくごく普通の観点から見たただの指摘。

 

 まさか好きな人の妹に嫉妬しているとか、そういうのでは、ない。

 

(だからこれは、妹さんのことも考えて、そう思うのであって……)

 

 ――余談ではあるが。

 

 そんな風に必死で理由を探して考えている御仁(なぎさ)が、前世では病気になる前から弟を猫かわいがりして「あーん」なんて日常茶飯事だったコトは隠しようもない事実だった。

 それどころか過度のスキンシップも愛の言葉もなにもかも弟最高マジ世界一(アヤト・イズ・ベスト!)の精神で注ぎ続けたのは知る人ぞ知る秘密だ。

 

 優希之渚(おねえさま)、ここに来て過去の自分を棚上げする。

 

 

 

「――お、いたいた」

「あら、ほんと。あなたの言った通りね」

「そうだろう? 俺の感覚は当たるんだぞー」

「こういう時だけね?」

 

 ふと、聞き慣れた声に顔を上げる。

 

 見れば校舎のほうからこちらに向かって、手を振りながら歩いてくる人影があった。

 

 ひとりはやけに砕けた感じの、スラッとした細身の男性。

 もうひとりは渚に似て落ち着き払った様子のお淑やかな美人。

 

 どちらも彼女が毎日よく見ている顔である。

 

「……お父さん、お母さん?」

 

「来たぞー、なーちゃん! パパが来たぞー!」

「うるさいわよあなた。周りの人に見られてるわ」

「はっはっは。ママ、今日ぐらい良いじゃないか。文化祭だぞ?」

「あなた?」

「はいッ、申し訳ございませんッ」

 

 ずざっ、と一秒で土下座のモーションに入る優希之パパ。

 

 家庭内のヒエラルキーが垣間見える一瞬だった。

 中庭の芝生の上だろうとノータイムでその判断ができるのが美しい。

 

 おそらく全国土下座選手権があったなら上位に食い込めるだろう。

 

「余計目立つからやめて。立って」

「はいッ」

「……どうしたの? いちおう、文化祭は無理して来なくてもって言ったのに」

「いや、いきなりパパ仕事空いちゃってさー。ちょうど良いから、ついでにね?」

「この人が勝手に有給取ってたのよ。私にも言わずに。渚は知ってた?」

「ううん、いま初めて聞いた……」

「そりゃあ届けは昨日出したからな! パパも今朝母さんにはじめて伝えた!」

 

 課長は笑って送り出してくれたぞ、なんて歯を光らせながら言う係長(ナンバーツー)

 トラブルで大炎上しない限りはそれなりに緩い、けれど締めるところはきっちり締める職場らしいのだが真相は如何に。

 

「……お父さん携帯鳴ってるよ」

「ん、そうだな。まあアレだろ、適当な知り合――――わぁい、部下からだぁ……」

「あなた、そういうことあまり言わないほうがいいわ」

「ごめん、ちょっと電話出てくる。――もしもし優希之です。うん、うんいいよ。でも手短にね。うん……、えッ!? 発注ミス!? ……大丈夫? ごめん詳しく情報教えて。えっと、まず先方の納期が――

 

 にわかに離れて、父親は小声にしつつ電話口とのやり取りを続ける。

 

 あれが所謂仕事モードなのだろうが、普段が普段だけにどうしていつもあんな風に落ち着けないのかと思ってしまう母子である。

 いや、別にいつもの態度は嫌いではないのだが、渚として思うところがないワケでもないので肯定はしない。

 

 とくにお酒を飲んでからのウザ絡みはちょっと見直してほしい、家族として。

 

「――うん、うん。じゃあそういうことで。課長には言った? まだ? そうだね、すぐ報告あげて。大丈夫、怒られてもサポート回ってくれるから。とりあえずそれでよろしくね。またなにかあったら連絡して。はい。はーい、お願いしますっ」

 

 電話を切ってふぅ、と父親がわざとらしく額の汗を拭う。

 

「――さて! じゃあなーちゃん、ハグいこう!」

「いやだけど……」

「ふぅ゛う゛ん゛ッ」

「あなた。シンプルに中三の娘にそれはないわ」

「でも……っ、でも、スキンシップは唯一なーちゃんの温度を感じれるから……っ」

「お父さん……」

 

 そもそもその「なーちゃん」とかいう謎の呼び方をやめてほしい、と渚はわりと切実に思った。

 

 小学生ならまだしも彼女は御歳十五歳の中学三年生。

 来年にはもう高校生だというのに「なーちゃん」は()()、「なーちゃん」は。

 

 百歩譲っても「渚ちゃん」とかそのあたりにしてほしい。

 

 父親からちゃん付けで呼ばれるというのも彼女にとってはむず痒かったが。

 

「……そもそも、名前――」

 

 ついぞ、その感想を口にしようとした時だった。

 

「――お待たせー、飲み物買ってきたよ優希之さん」

 

「っ」

「ん?」

「あら?」

 

 突然現れた男子に両親の注目が集まる。

 

 渚は顔さえ向けられない。

 恥ずかしさではなく、今度は現実から目を背けたい思いで。

 

 いや、まさかというかなんというか。

 持っているというかそうでないというか。

 

 よもやここまで信じられないほど戻ってきてほしくないタイミングで戻ってくるコトある? と。

 

「……あっ、優希之さんのご両親ですか?」

「あらあら、そういう貴方は……」

「ちょっ――」

「水桶肇って言います。優希之さ――えと、()()()には塾で色々勉強を教えてもらって」

「――――――っ」

 

(な、名前っ、仕方がないとはいえ名前――――っ!)

 

 カッと頬を赤く染めながら胸中では心臓バックバクの渚だった。

 先述の鳩時計ならもはや巣に戻るコトもなく破壊され(飛び立っ)ている。

 

 何気なく、さらっと言ってのけたが下の名前で呼ばれたのはコレが初。

 ファースト、トップ、はじめて。

 正真正銘、彼の口から聞いた最初の瞬間。

 

 意識するなというほうが、ちょっと難しい。

 

「……あ、そうだこれ優希之さんの分。紅茶」

「……っ、あ、ありがと……」

 

(いや、べ、別にそこは名前、でも――)

 

 まあ、そんな言えもしない要望は置いておいて。

 

「良いから良いから。……もしかして邪魔しちゃった?」

「う、ううんっ、……そ、そんなことない、から……」

「……そう?」

 

 なら良いんだけど、と頬をかきながらいう肇。

 

 らしくもなくその声には少し自信がない。

 仲の良い渚の親とはいえ、さしもの彼もこういう状況では緊張する模様。

 

 偏に家族との時間がどれほど大事なコトか理解しているからだろう。

 

 前世も今世も、肇にとって血の繋がりというのは等しく大きい。

 

「……まあ。まあまあ! 見てあなた、あれ」

「――――、君ぃ……」

「? あ、はい」

「水桶くん、と言ったね……?」

「はい、そう……です、けど……?」

 

 瞬間、ちょうど飲み物を渡して(カラ)になった肇の手を優希之父(おとうさん)が包み込むよう掴んだ。

 

「――水桶くんッ!!」

「え、あ、はいっ」

 

 

 

 

 

 

「――――ありがとう……ッ」

「……え。あ、いえ、そんな……?」

 

 急な感謝にワケも分からず首をかしげる天然男子。

 

 理解できないのは無理もない。

 彼のあずかり知らぬところではあるが、実のところ渚の両親は滅多に表情を崩さない娘に一抹の不安を抱いていた。

 

 ――このまま自分の殻の内側に閉じこもっていってしまったらどうしよう。

 

 その考えはなんとなくでも生きようとした彼女によって杞憂に終わったが、だとしても笑顔の乏しい年頃の子供というのは心配だ。

 普通に育って、普通に健康で、普通に友達や知り合いもいて、これといって致命的なモノはない渚だが――ただ一点彼女の両親はそこを懸念していた。

 

 それがいま、ここで、この瞬間。

 

 完膚なきまでに晴れたのである。

 

「それじゃあ渚がよく言ってた塾が同じ子って貴方なのね」

「? あ、はい。そう……なの? 俺のこと?」

「っ……お、お母さんっ」

「勉強頑張ってる子がいるって。まさかそれが、ねー……?」

「ありがとう、ありがとう……ッ」

「? ??」

 

 なにかを察してあらあらうふふと微笑む母親に、感謝を繰り返しながらぶんぶんと肇の手を握って振り続ける父親。

 

 怖いのはこれが三分と待たずにできた惨状であること。

 

 正しくインスタント地獄である。

 お湯を入れるまでもなく関係者を集めれば完成だ。

 

 味のほどはたぶん苦くて辛くて食べられたものじゃない。

 

「ねぇねぇ水桶くん。高校はどこにするつもりなの?」

「えっと、いちおう星辰奏に」

「そうなの? うちの娘と同じじゃない」

「はい。それで渚さんと一緒に勉強するようになって。理数系とか苦手なんで、結構教えてもらったりして助かってます。渚さん、凄く頭が良くって」

 

 キラキラと笑顔でいう肇はとっても生き生きしていた。

 シンプルにこの状況を純粋な意味で楽しんでいる。

 

 たぶん本当に悪意も打算もひとつもない。

 娘さんが凄くて凄くてそれはもうお世話になってます! と伝えたいだけ。

 

 渚はもう胸が痛い、心が苦しい。

 

 名前呼びのたびに心臓がはち切れそうだ。

 

 ――誰か助けて。

 

「そうそう、渚、成績良いのよー。だから進学先も星辰奏があってるのかなと思って……水桶くんはどうして志望校に?」

「その、少しでも良いところのほうがタメになるかなって思って……後々、恩返しもできるのかなーと……」

「……ええ。そうね、とっても……うん。良いと思う」

「素晴らしい、素晴らしい……ッ」

 

 ぐっと親指をたてて謎のジェスチャー……もといサムズアップをするご婦人。

 

 いっぽう一家の大黒柱は未だに興奮冷めやらぬ様子で彼の手を振り続けている。

 疲れるわけではないが、あまりにも慣れない状態に「これいつまでやるんだろう……」と疑問に思う肇だった。

 

「――――ッ、水桶くん!!」

 

(あ、止まった)

 

 がばっ、と顔を上げながら暴走機関車(なぎさパパ)が両手でいま一度肇の手を掴む。

 

「は、はい」

「いつでもウチに顔を出してもらって構わないからね!」

「ッ!? ちょっ――」

「? はい、ありがとう、ございます?」

「待っ……!?」

 

 突っ込む暇もない超特急の会話だった。

 渚としては赤面したままバッバッと振り向くしかない。

 

 おそらく正しい意味で伝わっていないコトだけが救いだ。

 

 肇としてはいつでも遊びに来てってことかな? ぐらいにしか思ってないだろう。

 

「落ち着いて、あなた。……ふふっ、渚ね。水桶くんのこと話すようになってから、少し明るくなったのよ。これでも」

「そう、なんですか?」

「ええ。ちょっとずつ笑うようにもなって。だから、静かな娘だけど……今後もどうかよろしくね?」

「お、お母さんっ!」

 

 照れまくった渚が母親の服をぐいぐいと引っ張る。

 

 そんな態度ですら滅多にないコトなのか。

 父も母も顔を真っ赤にした娘を前にニコニコ顔だった。

 

 ついでによろしくとお願いされた男子(ポンコツ)も笑顔のまま。

 

 広い校内でもここだけは限定的に笑顔の花が咲き乱れている。

 

「も、もう良いからっ、ほら、水桶くんにも悪いしっ」

「あら、渚ったら……でもそうね。私たちは他のところでも見て回りましょう、あなた」

「そうだねママ。それじゃあ楽しんで、なーちゃん! 水桶くんも娘をよろしく!」

「はい、わかりました」

「み、水桶くんもそんな風に笑顔で答えなくていいからっ」

 

 ふたり手を繋ぎながら仲睦まじい様子で両親が去っていく。

 

 残されたのは疲れきってため息をもらす少女と。

 先の流れに秘められた事情(コト)など知らないようにひらひらと手を振る少年。

 

「……明るくて良い親御さんだね、なぎ――んんっ、優希之さん」

「…………そう、だね。……私も……そう、思う……」

 

(――べ、別のいまのは言い直さなくても……)

 

 そう思った渚だが、やっぱり口には出せなかった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

「――でも、そっか」

「?」

 

 父親と母親の背中が見えなくなったところで、ふと肇は微笑んだ。

 

 渚の隣に並ぶようベンチへ腰掛けながら、片手に持っていたココアの缶を開ける。

 

 なんとなくいつかの思い出を呼び起こすような景色。

 天気の具合も時間帯も、周りの騒がしささえ違うけれど、彼女の心に浮かんだ記憶はたしかにそれだった。

 

 緩やかな視線がゆっくりと渚を向く。

 

「俺と話すようになって明るくなったんだ、優希之さん?」

「えふッ」

 

 げほっ、ごほっ、と咽せる女子中学生。

 

 あやうく飲んでいる紅茶を鼻から噴き出しかけた。

 すんでのところで制御したのは花も恥じらう乙女の最低限の意地である。

 

 というか、彼の前でそんな失態を犯したくはないという一心で。

 

「大丈夫?」

「だ、だい、じょぶ……っ」

「……ふふっ、けど、なんでそんなにビックリしてるの」

「――っ、だ、だだ、だって……っ、み、水桶くんが、いきなり、そんなコト……」

 

 息を整えて彼のほうを見上げると、視線が合った。

 

 ――これまでドキドキとパニックの連続で意識していなかったが。

 

 文化祭の空気にあてられた彼の表情は実に良い。

 自分たちの体育祭ほど乗っているワケではないけれど、相応に気分はあげている。

 

 だからだろう、その雰囲気は平時より酷く柔らかいものだった。

 

 いつもならすぐに目を逸らしてしまう渚が、つい見つめ合えたぐらいに。

 

「なんとなく俺も思ってたよ」

「え…………?」

「優希之さん。最初に会った頃に比べて、元気になったなって。あの時はもうちょっと、なんていうか……参ってるみたいだったから」

「…………そっか」

 

 きゅっと、手元のペットボトルを握りしめる。

 

 胸に込み上げるのは色々なもの。

 

 気付いていたんだという驚きと、そこまで見ていてくれたという喜びと。

 出会った頃の(わたし)はどれだけ酷かったんだろう、という落胆。

 

 言わずもがな。

 

 死んだ弟のコトをずっと引き摺って、惰性で生きてきた人間の様子など――考えるまでもなく最悪以上の死体以下だ。

 きっと死にかけの老人のほうが、まだマシな顔色をしていたに違いない。

 

「……どう、いまは」

「……どう、って……?」

過去(むかし)のこと。まだまだ、重い?」

「それ、は――――」

 

 ――考えて、全身に枷を付けられたような錯覚が襲う。

 

 辛うじて呼吸は平常を保てた。

 

 流れる血は鉛が混じったみたいに気持ち悪い。

 心臓が不規則に動いて、変な汗まで出てくる。

 

 指先の震え、視線のブレ、染みのように広がる胸の奥底に沈む想い。

 

 そっと、彼女は首に手を当てた。

 

 いまの(かのじょ)には、そこになんの痕もないというのに。

 

 

 

 

「大丈夫、大丈夫」

「っ」

 

 

 そんな、暗く深い意識に囚われそうになったとき。

 

 不意に頭上へ置かれた温かさが、渚を現実に引き戻した。

 

 ぽんぽんと肇の手が柔らかく髪を撫でる。

 

「前も言ったけど、それでどうっていうことはないからね。そのままでも、そうじゃなくなっても。それまでずっと抱えてても。優希之さんは、優希之さんで良いから 」

「――――…………、うん……」

「ごめんね、嫌なコト聞いちゃって」

「……いいよ、そのぐらい……これは、私の問題、だし……」

「うん、ごめん」

「………………、」

 

 肇はなにも変わらない考えを伝えてくる。

 

 引き摺っていても良い。

 抱えていても構わない。

 

 いつかどうにかなるか、ならなくともそうまでして歩いた時間に意味があると。

 

 優しすぎて卑怯な言葉を、当たり前みたいに繰り返しながら。

 それが彼女の胸にいまも深く刺さっているコトなど、知りもしないで。

 

「……まだ、私にとっては……重いよ。うん、ずっと重い……」

「……うん」

「…………でも、大丈夫。あの頃とは、違うから……」

「……そっか」

「だから、大丈夫。……大丈夫、なんだよ、私……は……っ」

「……わかってるよ、優希之さんだもん」

 

 どうでも良ければ、なんとも思わない。

 

 悲しむのは大切だからだ。

 辛いのは大事だからだ。

 苦しいのは必要だからだ。

 

 それだけ大きいものだから、欠けたときの痛みも大きくなって当たり前。

 

「だから……もう……少し、だけ……っ」

「……うん。わかってる」

 

 彼の温度を頭に感じながら声をひそめる。

 

 方向性でいえば正反対。

 でも形であればまったく同じ。

 

 大事だから痛い。

 

 それは古い記憶で愛した誰かの喪失も。

 新しい今の胸を占める誰かへの想いも。

 

 変わらない、変えられない、変えたくない――只一つの(かのじょ)のものだ。

 

 優希之渚(かのじょ)だけの、かけがえのない想いなのだから。

 

 

 

「……もう大丈夫?」

「…………も、もう、ちょっとだけ……」

「そっか……」

 

 ちなみに、この機に乗じて延長を申し込んだとしても彼女は悪くない。

 相手がしてくれるというのだから、ちょっとそれに甘えただけだ。

 

 悪いコトでは、まったくない。

 

 

 



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22/バトラーは突然に

 

 

 

 

 

 それから、一週間が経って。

 十月も折り返しを過ぎた土曜日。

 

 渚は本日、意を決して敵の本拠地へ乗り込むコトにした。

 

 そう――西中(かれら)の文化祭である。

 

「――――……」

 

 ぎゅっと鞄の持ち手を握りしめながら校門を睨む。

 

 そもそもどうしてこのような思いに至ったのか。

 切欠は夏休み明けの体育祭と、この前の北中(自分たち)の文化祭。

 

 度重なるイベントで彼女の心はぐちゃぐちゃにかき回されたワケだが――とうのかき回してくれた本人は朗らかスマイルでノーダメージ。

 いつも通り変わらぬ様子で勉強するものだから、これはどうかと思ったのだ。

 

 具体的にいうと(わたし)ばっかり意識して(なんて)不公平だろうと。

 

(……水桶くんには文化祭に行くと言ってない。一切伝えてもいない。……よし)

 

 満を持して学校の敷地内へと足を踏み入れる。

 

 どういう反応が欲しいかはまあ、一旦置いておくとして。

 とにかく自分だけやられっぱなしというのはアレだ。

 

 納得できない。

 

 そう、納得できないので、こうやって鬱憤晴らし……もとい仕返しをさせてもらうのだ。

 

 題して急にやって来てメイド服を見られたのだから、こっちもいきなり顔を出して彼の恥ずかしいところを見てやろう大作戦。

 

 ネーミングセンスについてはお目こぼしいただきたい。

 優希之渚(てんせいしゃ)に芸術的才能は皆無だった。

 

(最低限、びっくりしてほしい。あわよくばあられもない姿を披露してほしい。……いや私が見たいとかそういうのじゃなくて! 彼がどう思うかは二の次であって――ッ!)

 

 うわぁあぁああ――と叫びたいのを心の中でぐっっと我慢する。

 

 接客時のメイド服を見られたのはそれだけ渚にとって大事件だった。

 それまでまさか肇が顔を出すと思ってなくて何事もなく心を落ち着かせていただけに、反動でその後がてんやわんやになったぐらいだ。

 

 ……あと、あれ以来学校で肇関連(ゴシップ)が蔓延り女子からもみくちゃにされているのも許せない。

 

 ヒトが油断するからとさりげなく彼の話題を出してくるクラスメートも同様、断じてそのままにしてはおけない。

 いや本当、渚としては心が落ち着かないのでやめてほしい、切実に。

 

(――とにかく、今日は水桶くんを驚かせるコトが最優先事項――!)

 

 なんて、彼女が気合いを入れたときだった。

 

「おっ、すげー美少女いる」

「……ん? 待てあれ水桶(アイツ)の……」

「あ、あの()な。小学校んときのダチから聞いたわ。北中の雪の女王!」

「なんで居るかは……聞かなくても分かるなぁ、俺……」

「しょうがないね……水桶くんには後でジュース奢ってもらお」

 

(……?)

 

 遠巻きに渚を眺めていた数名の男子グループが俄にざわつきはじめる。

 

 なんだろう、と顔を向ければバッチリと目が合った。

 それも漏れなく全員。

 

 恐ろしいぐらい完璧に、視線が交錯する。

 

「――なあなあそこの別嬪さん!」

「え……?」

「ちょっと一緒に来てくれない? 僕らに協力すると思って」

「…………あの、私――」

「良いから良いから。遠慮しないで。少しで大丈夫だからさ。ね?」

「…………、」

 

 ぞろぞろと歩いてきた男子がそのまま渚を取り囲む。

 

 あっという間に逃げ場を塞がれた。

 

 同年代とはいえ体格差がモロに出てくる十五歳。

 いくらなんでも隙間を縫うように逃げ出すのは難しい。

 

 今朝からこれまで、若干浮き足立っていた渚の気分は急落中。

 

 ここに来て氷点下を突き抜けるほどに失墜している。

 

「――――――私、用事があるので」

「ふっふっふ。……すっげ背筋がめっちゃゾッとする」

「水桶、よくこんな人とデキてんなぁ……ちょっと尊敬」

「そう怖い顔しないで。とりあえず来てもらうよ」

「はい出発。目的地はあえて黙秘だっ、行くぞ野郎どもッ」

「ッ、だから――――」

 

 

 

 ……それが、わずか五分前のコト。

 

 

 

「水桶ー! おまえのお姫さま居たから連れて来たぞー!」

「えっ」

「ふぇッ!?」

 

 ――かくしてこのように。

 

 致命的な邪魔が入ったせいで、渚の作戦は見事失敗に終わったのであった。

 

「おい、いまの聞いたかてめえら」

「ふぇっ、だって! あんな凍えきってた美人が!」

「コワー……なに、恋って人を変えるの……魔法なの……」

「ともかく水桶は俺ら全員にジュース奢るべき! 対価だ、払え払えー!」

 

 ドスドスと脇腹をつつかれて「ちょっ、いたっ!?」なんて洩らす肇。

 なんてコトはない実に仲睦まじいクラスメート諸君だった。

 

 ちなみに渚は覚えていないが、一度体育祭のときに話しかけて撃沈した集団でもある。

 

 悉く絶対零度の視線で撫で切った名刀・渚。

 

 正式な担い手はいまのところ肇唯一人のみ。

 今後増える可能性はおそらくない。

 

「勝手に連れて来てたかるのはどうなの?」

「良いじゃねえの。ほら、俺ら不審者覚悟で引っ張ってきたワケだし?」

「そうなる予想があるならやめておきなよ……」

「なんだよー、水桶は不満かよー! こんな可愛いお姫さまが要らないってかよー!」

 

「っ」

 

 ぴくん、と何気ない一言に渚の肩がわずかに跳ねる。

 

 はたして彼はそれに気付いたのかどうなのか。

 

 ほう、と短く息を吐きながらごそごそとポケットを漁りだした。

 

「――しょうがないなあ……五人分ね。ついでに俺のもお願い」

「しゃあッ、やりぃ! ゴチになります! ココア缶で良いよな!?」

「良いよー……あ、待った。優希之さん用に紅茶も」

「了解、みんな行こー、水桶くんの奢りだってー」

 

「「「「「えッまじ!?」」」」」

 

「待って他の人(それいがい)は違うから落ち着いて! 流石に全員は無理だよ!」

 

 雪の女王誘拐犯、もとい招待班を除くクラスメートの反応にわたわたと手を振る肇。

 

 いくらなんでも一般的な中学生の財力しか持たない彼にそこまでは無理だ。

 頑張ったとしてもせいぜい十人そこら。

 

 それ以上は財布が痛むどころではない、死ぬ。

 季節と同じく真冬を迎えてしまう。

 

「まったくもー……、……それで」

「……っ」

()()()()はどうしてここに? 文化祭、来るともなんとも聞いてなかったのに」

「っ!!」

 

 瞬間、渚の脳裡に彼の言葉が反芻された。

 

 ――お、おおお姫さま!? お姫さま! お姫さまお姫さまお姫さまお姫さま――!!

 

 なんて破壊力、なんて衝撃、なんて呼び方。

 

 平時であればまずありえない二人称に彼女の心がガクガクと震える。

 

 さながら胸の奥は生まれたての子鹿だった。

 産声をあげてバタバタと倒れ行く姿は滑稽で儚い。

 

「……い、言わなかった、から……っ」

「えー、なんでー。言ってくれても良かったのに」

「っ……こ、この前水桶くんは言わなかった、でしょ……!」

「なるほど事の発端はこっちだったんだ……」

「わ、私、ちょっと怒ってる、から……っ!」

「――はい、ごめんなさい。メイド服すっごい可愛いかったです。あと叫び声も」

「水桶くん……!!」

「ふふっ、ごめんごめん」

 

 くすくすと笑いながら肇が触れるように頭を撫でる。

 

 この前の文化祭以降彼の中で()()()()とハードルが下がったのか、希によくやってくれるようになったコトだ。

 

 渚としては正直役得なのであえて特に何も言わない。

 

 彼はなんの問題もなく彼女を撫でる、彼女は黙ってそれを受け入れる。

 これぞWIN WINの関係ではなかろうか。

 

(…………、……それにしても……)

 

 と、そこでようやく渚は肇の服装へと目を向けた。

 

「――ん? あはは……どうかな? 似合ってる?」

 

 笑顔のままその場でくるりと回転する男子はもちろんいつもと格好が違う。

 

 上は背中側に裾が尾を伸ばすような黒いジャケット。

 下は上着同様の色をした学生服のスラックス。

 

 靴もきっかり校舎内なのに上履きではなく革靴(ローファー)だ。

 中に着ているシャツだっておそらく学校指定のものだろう。

 

 ひとつひとつあげてみると、まあ、そこまで普段の制服(かっこう)と変わったコトもない姿。

 

 ――――が、実際目にしてみるとぶっちゃけやばかった。

 

()()()()()――!)

 

 思わず言語野にちょっと衝撃が(ガンッと)きた渚姫(なぎさひめ)である。

 

 燕尾服。

 あるいは執事服。

 

 とにかく想像できるモノそのまんまをお出しされた恋する乙女の至高回路(はじめやばい!)――もとい思考回路(しつじはじめ!)はショート寸前。

 

 今すぐ会いたいどころかもう会っているのだがとにかく総じて一言にまとめるならこうだ。

 

 ()()()なって。

 

比良元(イケメン)くんがいるからまあ、売り出すのは男子だよねってコトになって。それで執事喫茶。凄いね、奇跡的に優希之さんたちとは真逆だよ」

「………………、」

「あっ、ちょっと待って。無言でスマホ向けないで。写真撮ろうとしないで。いちおう西中(ウチ)でも禁止だよ撮影。仕舞って仕舞って」

「……い、一枚だけ駄目かな……っ」

「駄目なものは駄目です。俺は真面目な優希之さんが好きだよー」

「――そうだよねっルールはルールだもんね! うん!!」

「おぉ、急に元気いっぱいな返事……!」

 

 無意識のうちに少女を手のひらの上でコロコロ転がす天然執事。

 

 歓喜に包まれるなかで将来彼にお酒を与えるのは駄目っぽいと渚は予測した。

 行事ごとの空気に当てられただけでコレなのだから、アルコールが入った(ヤツ)の破壊力なんて計り知れない。

 

 というか冗談半分でも気軽に〝好き〟とか言わないで欲しい。

 

 彼のテンション事情を知っているから大打撃で済んだが、それでも威力は高め。

 もう惚れていなければあやうく惚れかけるところだった。

 

 この少女、すでに手遅れである。

 

 

 

 なお、彼が好きだの可愛いだのと言うのにわりと抵抗がないのは前世における姉(どこかのだれか)の溺愛っぷりが影響しているのをここに記しておく。

 

 

 

「……早いけどなにか食べていく? お菓子とかあるよ」

「い、いいの……!?」

「? ぜんぜん、そのための文化祭だしね」

「じゃ、じゃあお言葉に、甘えて……!」

「うん、どうぞどうぞ……――――っと、そうだった」

「……?」

 

 渚を先導しようとした肇が、くるっと踵を返して彼女の前に立った。

 

 すっと腰を折りながら左手を身体の前に。

 もう片方の右手は後ろに。

 

 微かな笑みを浮かべながら、どう見ても仕込まれたであろう礼をする。

 

 

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 

「――――――」

 

 

 渚の頭には三つの画像が浮かんだ。

 

 勢いよく胸をおさえつける(ジブン)

 ストレッチャーで運ばれていく(ジブン)

 救急車に乗って病院へ搬送される(ジブン)

 

「きゃー! きゃーきゃー!! 見て肇くんがっ、肇くんがぁっ!! あぁあああ!!」

「誰かAEDー、大丈夫大丈夫、蘇生じゃなくて停止に使うからー」

「セーフティーで使えないよぉ……」

 

「おっ、鍛えた甲斐があったねありゃ。乙女心(ハート)鷲掴みよ」

「うーん、七十点。腰の曲がり具合が、もっとこう。惜しいぜ」

「ウッ……!? ――だ、大丈夫大丈夫、落ち着けあたし……! あれは水桶くん、あれは水桶くんぅ……っ!」

「あいつすげーな。小っ恥ずかしい動作に淀みがないじゃん。そりゃ女子(ウチ)らの玩具(おもちゃ)になるわ……」

 

 騒ぎ立てる女子陣営の声なんて一切耳に入ってこない。

 

 そのぐらいの代物。

 あくまで執事(はじめ)

 

 それは分かっているが――分かっているからこそ――ハンマーが止まらない。

 

 少し早めに開始された除夜の鐘は当分響くだろう。

 

「ふふっ……どう? 様になってる? クラスの女の子たちにめちゃくちゃキツく練習させられて――」

「す、すごく良い……っ」

「ほんと? ……やった、優希之さんのお眼鏡に適った」

「でもダメ……っ」

「えっ」

 

 それはどういう……? と肇が首をかしげる。

 

 意味は真反対だが込められた感情自体は奇しくも同じだ。

 乙女心の複雑怪奇な理論は彼には分からない。

 

 もうちょっとしたら分かるかもしれないが、いまの彼にはてんでさっぱり。

 

 まだまだふたりの関係が進むまでの道程はとても長いので。

 

(――――どうしよう。私、今日、マトモに生きて帰れないかもしれない……っ)

 

 両手で顔を覆いながら「はぅぁあ……っ」なんて言葉にもならない声を出す美少女。

 

 出会って十分足らず。

 早々に致命傷を受けた渚は瀕死の重傷だった。

 

 決め手は見慣れない格好と、似合わない仕種と、聞き慣れない言葉遣い。

 

 あと普段はかけないであろう眼鏡をしているのがワンポイントでアクセントになっている。

 彼以外はしていたりしていなかったりなので、各個人に合わせているのだろう。

 

 非常にグッド。

 

 その提案をした人には金一封を贈りたい。

 

「――――、――――っ、…………!」

「……優希之さん? 大丈夫? あれー……? ……()()()()ー?」

「ッ!?」

「あ、戻ってきた」

「――!? っ!! ……?! ッ??」

 

(えッいまなんて言ったいまなんて!? 待って!? そんなのアリ!? ダメじゃないかな!? ダメだと思う! うん!!)

 

 内心では元気よく頷きながら、現実では百面相をしている渚お嬢様。

 

 彼女が落ち着いたのはそれから三十分後。

 肇たちの教室を出て、適当に校舎内を歩いて回って、自由行動になった彼と落ち合う流れになってからだ。

 

 ……結論を述べよう。

 

 

 

 ――――優希之渚、完膚なきまでに敗北する――――

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 ――してやられた。

 

 

 渚は待ち合わせ場所の教室前で佇みながらずぅんと肩を落とした。

 

 肇に仕返しをしようと足を運んだ西中(たこう)の文化祭。

 

 それがまさかの開始数分でフルボッコ。

 どころか攻め入った先で返り討ちに遭いご覧の有様である。

 

 

 ――――してやられた。

 

 

 もう駄目だ、勝てるワケがない。

 

 相手は筋金入りの天然混じりな純朴少年だ。

 一体どうすれば良いというのか。

 

 百戦錬磨の恋の駆け引きにおける達人がいるのなら教えてほしい。

 

 

 ――――――してやられたぁ……ッ!

 

 

 ちょっと報復というか、驚かそうというか。

 そんなぐらいの魂胆だったのに結果は酷いものだ。

 

 いや酷いのはむしろ彼のほうだった。

 

 なんだ、アレは。

 アレが彼の本気だとでも言うのだろうか。

 

 だとするならちょっと抑えてほしい。

 

 あんな様子だとうっかり近くの女子をオトしかねない、渚の贔屓目込みで。

 

「優希之さんお待たせ――って、このやり取り先週もしたね」

「っ、そ、そう……だね、うん。あはは……っ」

 

 返しながら、チラチラと窺うように肇のほうを見る。

 

「……? どうしたの、なんか顔についてる……?」

「いや、その。い、いつも通りだな……って……」

「……そんなに良かったの? 執事服」

「うんッ!!」

「おー……なんか、こう、そこまでハッキリ頷かれると照れくさいねー……」

 

 あはは、と若干頬を染めながら彼が笑みをこぼす。

 

 偶発的に入った一発だった。

 脊髄反射で応えた勢いが珍しく肇の心を刺激したらしい。

 

 そう、全体的にテンション高めで流されているからアレだが、彼だって一介の男子中学生。

 文化祭の出し物とはいえ半強制のコスプレに思うところはあったのか。

 

 珍しく恥ずかしがる肇の顔は新鮮で、ちょっとときめいた。

 

 ……繰り返すがすでに手遅れである。

 

「くっ……誰なのあの娘……! 肇くんとイチャイチャしやがってからに……!」

「どうどう、落ち着きな。たぶん知り合いとかそこらだよ」

「だから体育祭のとき一緒に飯食ってた女子だって。北中のマドンナ」

「――おのれ銀髪美少女許すまじっ! 私の肇くんを返せ! いちおうパネルの部門取れたけど今ひとつだったよ! この泥棒猫っ!」

「いやアンタのじゃないでしょ、名実ともに」

 

 がるるる、と吠え立てるのは未だに引き摺っている美術部の女子だった。

 クラスメート数名に押さえられながらふんすふんすと息巻いている。

 

 思えば、体育祭の頃から応援の様子で渚も察してはいたけれど。

 西中(みうち)間において肇の株はそこまで悪くない。

 

 それこそ、彼女から見て彼に対する態度がアレな女子が何人か分かったほど。

 

「塾が一緒ぐらいでなんなの! 私のほうが絵は上手いけど!?」

「アンタの中のヒエラルキーは全部画力で決まってんのか」

「私は自分より画力の高い男子としか結婚しないから!」

「おい誰か口封じろ。ストップだ、ストップ。カメラ止めろー」

 

「いやでも水桶くんなら大丈夫でしょ! そんじょそこらの女子には靡かないって!」

「さっきの照れ顔を見ておらなかったのかおぬし」

「おのれ銀髪美少女……!」

「その流れ一回やったよ、天丼だよ。もういいって」

 

(……意外と、そういう感じの子、いるのかな……? 水桶くん……)

 

「??」

 

 当の本人が気付いていないのは幸いか。

 

 いまは受験シーズンで「勉強があるから」という防御札を貼っている肇だが、これがなくなるとどうなるか分からない。

 相手が来るかどうかだけでなく、女子からの告白に何も断る理由がなかった場合、彼がどのような返答をするかが分からない。

 

 それがほんの少しだけ、渚には怖かった。

 明確に、胸に痛いと感じたのだ。

 

 薔薇の茎を握りつぶした時のような、トゲの刺さる心の感触。

 

「――とりあえず、この前は付き添ってもらったし、今日は俺が優希之さんを案内しよっか。なんでも聞いてね、これでも三年間元気に通ってるから」

「…………ふふっ、なにそれ……」

「あ、美術室とか覗く? 出し物で受賞作とか色々飾ってあるけど」

 

 彼がそう訊ねたのは以前――ほんとに結構昔、渚が絵に関して訊いてきたコトがあったからだ。

 

 ともすれば彼女自身だって忘れていそうな何気ないやり取り。

 美術が得意というが、実際に色々と絵を描いていたりするのか――という簡単な問い。

 

 それに対して彼は否と答えたのを覚えている。

 

 理由はもちろん、水桶肇(このカラダ)で意欲が膨らむコトは殆どなかったから。

 少しずつ取り戻してきたのは、それから随分経っての最近だ。

 

 だから、ついでにそのあたりも言おうかと思っての提案だったのだが。

 

「――ごめん、美術室は……ちょっと……」

「…………、あんまり好きじゃない?」

「……うん。絵の具の匂いとか、嗅いじゃうと……気分、悪くなるっていうか……」

「……そっか。じゃあとりあえず、クラスの出し物見て回ろう。西中(こっち)西中(こっち)で楽しめると思うよ」

「…………うん、ごめん……」

「良いって良いって。気にすることないからね」

 

 からからと笑って歩き出す肇に、渚もゆっくりと追従する。

 

「………………、」

 

 絵が嫌いなワケじゃない。

 美術室にトラウマがあるのでもない。

 

 授業が受けられないほどの忌避感とまではいかなかった。

 

 ただ、自分から進んで入っていきたくはないだけ。

 

(…………だって、あれは……)

 

 彼女自身の身に起こったモノとはまた違う。

 

 ――乾いた空気と、冷め切った温度。

 ――あまりにも静かで音のない気配。

 ――昨日まで熱を持って動いていた命が消えてしまった現実。

 

 いまでも(こころ)が鮮明に覚えている。

 

 冬の、ある寒い日のコトだ。

 ちょうど買い物に出かけた彼女が家に帰ってきたとき。

 

 油絵の具の匂いが漂う作業部屋(アトリエ)の中で、最後まで筆を握ったまま、弟は眠るように亡くなった。

 

 これ以上ないぐらい幸せそうな表情で、触れて直す必要がないぐらい綺麗に瞼を閉じて。

 いってらっしゃいと姉を見送ったあと、おかえりと言うコトもなく。

 

(………………、)

 

 だから渚は今でも絵の具の匂いが苦手だ。

 

 嫌な記憶を一番に思い出すから。

 

 あれは、大切な人が死んだときの匂いだから。

 

 

 とてもじゃないけど、こんな日にまで行きたくはない。

 

 

 

 

 



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23/渚の水をすくう君

 

 

 

 

 

 結局、胸に引き摺った渚の想いは軽く拭えなかった。

 

 一旦彼と別れて入った手洗い場。

 その鏡の前で、バシャバシャと思いきり顔を洗う。

 

 気持ちを一度切り替えるために。

 

(――――……)

 

 ひとりになったのは偏に申し訳なさからだ。

 

 肇と居るのは楽しい。

 どんな時だって彼が隣に居るだけで世界は明るく見える。

 

 けれど、この(ココロ)に染み付く情念はまた別のもの。

 

 折角の肇との時間だというのに、気持ちを沈ませたままでは勿体ない。

 なによりこうして付き合ってくれた彼自身に申し訳が立たない。

 

(……私は…………)

 

 蛇口から流れていく水をぼんやりと眺める。

 

 意識は暗く、深く、沈むように彼方へ飛んでいく。

 

 それは遠い遠い昔話。

 彼女がまだ生まれる前の、幸せだったときの記憶。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――それなりに裕福な家に彼女(わたし)は生まれた。

 

 父親はとある大企業の社長。

 母親はしがない舞台女優。

 

 傍から見れば玉の輿な夫婦は、事実片方が上手く()()()()()だけでその通り。

 

 ――母親は、自己愛と欲に塗れたようなヒトだった。

 

 自分が大切で、自分が一番で。

 お金が好きで、幸せになりたくて、お酒に溺れるような人間。

 

 正しく愛されたコトなんて一度もない。

 けれど、小さい頃は何度も危害を加えられた。

 

 ……それもほんの少しだけ。

 

 詐欺師の男に引っ掛かった母親は父の会社の資金を盗もうとしてそれが発覚。

 未遂に終わったとはいえ、それまでの一見して――ともすれば騙されていた父は間違いなく――円満だと思っていた家族事情は白日の下にさらされたのだ。

 

 結果として両親は離婚。

 彼女は父親のほうに引き取られ、事なきを得た。

 

 人生の不幸なんて言ってしまえば、これにて一回終了である。

 

 

『――すまない、陽嫁。私が悪かった。これからは沢山、おまえと一緒にいよう――』

 

 

 その事件を契機に父親は家にいることが増えた。

 仕事は相変わらず忙しかったけれど、多少無理をしてでも時間を割いて学校行事にまで顔を出すようになった。

 

 顔を合わせてご飯を食べて、甘やかしてもらって、撫でてもらって、誕生日なんか祝ってもらって。

 

 前と比べれば随分幸せになったけれど、でも、足りないものはある。

 

 いつだってどこだって、人の世に完璧なんてあるはずもないのだから。

 

 

 〝――羨ましいな〟

 

 

 一言でいえばそんな感情。

 

 笑う同年代の子が等しく全員羨ましかった。

 最初から幸せなままでいた、父母揃っている家族に憧れた。

 

 思えば心の余裕が生んだ、子供らしい望みだったのだろう。

 

 生来の明るさと、母親譲りの芝居上手で誰とも仲良くはなれたけれど。

 本当の意味で満たされるような気にはならない。

 

 だって彼女は生まれたときから、家族に罅が入っていたから。

 

 

『陽嫁。おまえに、弟がいるみたいなんだ』

 

 

 そんな時だった。

 

 父親から急に、そんなコトを言われたのは。

 

 聞いたところによればその子は離婚当時、すでに母親のお腹に居たらしい。

 それが完膚なきまでに縁を切ったせいで今まで気付けもせず、この度無様にも事故死した母親のせいで掘り起こされたとか。

 

 なにせ電撃離婚するまでは顔の良さに眩んでやる事やっていた欲塗れだ。

 

 いまさらそんな事実には驚かなかったけれど。

 

 

『――――――、』

 

 

 はじめて()()()に出会ったとき。

 

 彼女は、自分のすべてが崩れていくコトを感じた。

 

 弟の名前は彩斗、歳は六つ下。

 髪と目の色が父親と同じで、雰囲気はどこか母親似で。

 

 そして――そんな容姿がとてもじゃないけど分からないぐらい、酷い様相だった。

 

 右目の瞼は切れていて半分しか開かない。

 同じ右の耳も潰れたように歪で不格好。

 左手の小指なんてぐにゃりと曲がっている。

 

 おそらく神経から骨から筋繊維までなにもかもズタズタ。

 一生涯完治しまい、というほどの惨状。

 

 それをたった六歳の身体で受けたという衝撃。

 

 ――信じられなかった。

 

 なにを勘違いしていたんだろう、と自分自身に憤る思い。

 

 彼女は十分恵まれている。

 最初が躓いただけで、いまは苦労もなく幸せな道を歩けている。

 

 だというのになにが足りないのか、どこが不満なのか。

 

 そんなのは、目の前にいる相手を見て言えるハズもない我儘だ。

 

 ――初めてだった。

 

 身近で、明確に、より正確に、自分より酷い誰かを見たのは。

 

 だから、彼女は。

 

 

『――君が彩斗くん? 私は陽嫁! 今日から君のお姉さんになります!』

 

 

 目の前に現れた彼を、心の底から救いたいと思った。

 

 

『………………、』

『よろしくね、彩斗!』

 

 

 それまで母親のもとで育っていた弟はなんともまあ最悪だった。

 

 まず上手く話せない。

 声がでない、喉自体がちょっとおかしい。

 表情がまったく変わらなくて感情を出さない。

 

 おまけに全身痣だらけで、無事なところなんてないぐらい。

 

 ……本当、どれだけ最悪な環境か分かるぐらい酷かった。

 

 

『彩斗っ! お姉ちゃんと遊ぼっ!』

『――――――、』

『はいっ、彩斗、ケーキだよ! 食べて食べて! 美味しいよ?』

『………………、』

『今日、誕生日だよね彩斗! これ、プレゼント! ふふっ、どうかな?』

『…………、ぁ……――――』

 

 

 いつも周りには明るく振る舞っていた彼女だけれど。

 弟の前では殊更突き抜けるように気分をあげた。

 

 唯々、なんら難しいコトでもない、普通の幸せを教えてあげたくて。

 

 その成果は自ずとして実を結んだ。

 

 ひと月経てば声が出るようになって。

 二月も世話を焼けば微かに会話ができて。

 三ヶ月を過ぎる頃には微かに表情も増えてきて。

 四ヶ月目には声にも顔にも色が乗るようになって。

 五ヶ月頃となると笑った顔が見られて。

 

 そして半年も一緒に暮らせば、そこに居るのが当たり前になった。

 

 

『ただいま彩斗っ! お姉ちゃんだぞー!』

『……うん。お帰りなさい、姉さん』

 

 

 彼女と、もちろん父親もありえないぐらい優しくして。

 

 愛情を伝えれば伝えるほど彼は元気になった。

 彼が笑うとそれだけで彼女の苦労は吹き飛ぶようだった。

 

 あげたもの。

 返ってくるもの。

 

 それが暖かくて、尊くて、大事で、大切で、唯一で、至上で、最高で。

 もうこれ以上なんてないぐらい、幸せだった。

 

 たったひとりの、切っても切れない血の繋がった家族(きょうだい)

 

 ――ああ、彼女が救いたいと願って彼に幸せを教えたように。

 彼の花咲く笑顔は見返りとして、いまとなっては懐かしい彼女の空白を埋めたのだ。

 

 少女の人生は、それでありえないぐらい満ち足りた。

 

 

 

 ――――弟の身体が、致命的に悪くなるまでは。

 

 

『……落ち着いて聞いてください。彩斗さんの命は、もって――』

 

 

 そのときはまだ、悲しかった。

 辛かった。

 泣き腫らすほど落ち込んだ。

 

 当の本人のほうが苦しいだろうに、彼の前で弱い姿を見せるほど。

 

 

『……大丈夫だよ、姉さん』

 

 

 でも弟は、嘆くように謝る彼女に声をかけて。

 

 

『自分のコトは自分がよく分かってるし。だから、大丈夫。あと少しだっていうのも、自覚あるんだよ、実際』

 

 

 困ったように笑って、そう言っていた誰かの顔を思い出す。

 

 

『――っ、なんでも。なんでも言って……っ、叶えられることなら、彩斗のためなら、なんだって叶えてあげるから……っ! 欲しいものだって、買ってあげるから……!』

『いや、そんな――…………、』

『なんでもっ、良いから……っ、遠慮、しなくても……!』

『…………だったらひとつ、お願いがあるんだけど――』

 

 

 家で絵を描いていたいという弟の要求は、治療の見込みが薄いのもあって比較的早々に叶った。

 

 それからはずっと家族だけで過ごす毎日。

 父親は仕事の量を強引に減らして時間を設け、彼女も同様にプライベートな時間を多めにつくって弟と一緒に居るだけ。

 

 そこで気付いたのは、彼がとてつもなく尖った人間だったコト。

 

 短命なのが()()理由だとしても納得いくぐらい。

 不幸だったのが揺り戻しだったみたいに。

 

 

『……ね、姉さん。俺の描いた絵って売れたりしない?』

『え、なんで!? 勿体ないよ、彩斗の絵を誰かに売っちゃうなんて!』

『でも絵画ってそういうものじゃない? ……それに、色々してもらってばかりで、こう……申し訳なくって……』

『もー! 病気の人がなに言ってるの! 彩斗は私たちに甘えて良いんだからね!?』

『……うん。でも、試してみてほしいな。それでお金が入るなら絶対良いと思うし』

 

 そこまで言われて、彼女は渋々弟の絵を出してみたコトがある。

 たった一度だけ、知人経由で教えてもらった有名な絵画のオークションサイトにだ。

 

 ――ほんの二時間。

 

 それまで一切、名前も何も知れ渡っていなかった彼の描いた絵は短時間で八桁を超えた。

 

 

『…………っ』

 

 

 もちろん出品は取り消し。

 

 当然売れない。

 売れるはずがない。

 

 価値を知った後でも手放すなんて考えられない。

 それほど大事な、弟の描いた絵だ。

 

 ……でも。

 

 怖いのは、それが彼女にとってだけのオンリーワンな代物ではなく。

 

 誰しもを魅了するぐらい、莫大な金額が付くぐらい優れた代物であること。

 

 ――彼自身にだって、知られるのは良くないコトに思えた。

 

 先の短いと自覚している弟が、自分の絵は金になると知ってなにもしない筈がない。

 きっと無理にだって、振り切ったって売ろうとするだろう。

 

 そんなのは彼女として、姉として、家族として。

 

 騙してでも、秘めておきたいコトだった。

 

 ――そうして、ちょうど現実(イマ)みたいな冬の日に。

 

 

『ただいま彩斗ー! お姉ちゃんが帰ってきたぞー! 今日は挽肉が安かったから私お手製のハンバーグです! 彩斗好きでしょ、ちょっとでも良いから食べてね。……彩斗ー? ……あれ、寝てる? もう、駄目だよー、こんなところで寝たら。体調が悪化しちゃう。……彩斗? ねえ、彩斗。ほら起きて。起きてよ彩斗。ねえ。彩斗。彩斗ってば。ねえっ、彩斗! …………彩斗? ……彩斗! 彩斗!! 起きて! ねえ! 彩斗っ!! 起きてっ!! 起きてよぉっ!! 彩斗――――――』

 

 

 最期までなにも知ることなく、弟はその短い生涯を終えた。

 

 二回目の不幸が来たのはその瞬間。

 

 彼のいない世界は酷く冷たくて。

 窮屈で、色がなくて、退屈で、薄汚れて、穢らわしくて。

 

 耐えられないような、地獄だった。

 

 

 〝――ね、もう一年間、お姉ちゃんは頑張ったよ〟

 

 

 だから。

 だから彼女は、あのとき。

 

 

 〝そろそろ良いでしょ。十分、頑張ってみたよ〟

 

 

 狭い部屋の中で、ひとり空に浮かぶように。

 雨止みを願うつくりものの人形みたいに。

 

 

 〝――いまいくね、あやと〟

 

 

 孤独に、揺れて。

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………、」

 

 バシャバシャと、いま一度渚は水を浴びた。

 

 その選択を後悔したコトはない。

 けれど、今となってはハッキリ良くなかったと否定できる。

 

 ぐしゃぐしゃに潰れた心では、きっとしょうがない末路だったけれど。

 

 自ら絶った過ちの大きさは誰に教えられずとも分かっていた。

 

 だから、そう。

 いまの彼女は、大丈夫。

 

 少なくとも、彼のいない世界に絶望して死なないぐらいには正気だ。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 手洗い場から戻ると、肇は変わらぬ様子で渚を出迎えた。

 や、なんて気軽な調子で手を上げて彼女のほうへ歩み寄る。

 

「落ち着いた?」

「っ……なん、で」

「気付かないワケないでしょ。一体何ヶ月ずっと一緒の場所で勉強してると思ってるの」

「――――……そっ、か……」

 

 その言葉にほっと熱のこもった息をこぼしたくなるような。

 もしくは吐き出せずに肌を赤くしてしまうような、そんな気分に襲われる。

 

 〝少しだけ、お手洗いに行ってくるから〟

 

 できるだけ淀んだ心を悟らせないようにデリケートな言い分を選んだ渚だったが、どうにも無駄だったみたい。

 

「前髪、濡れてるよ。どうしたの」

「……なんでもないよ。ちょっと、顔を洗ってただけで……」

「そんな暗い顔で言っても説得力ないってば」

「っ…………」

 

 肇がポケットからハンカチを取り出して、彼女の前髪をそっと優しく拭いていく。

 

 撫でるような感触はこそばゆくて気恥ずかしい。

 跳ねる心臓は彼に向けられた一片の熱情から。

 

 過去(よごれ)に塗れた泥だらけの心は、それで少しだけ持ち直した。

 

 ……本当、単純すぎて反吐が出る。

 

「…………ごめん」

「良いから。それで、なにかあったの。……言いたくないなら言わなくてもいいけど」

「……ほんと、なんでもないよ。偶々嫌なコト思い出しちゃって、落ち込んだだけ」

「………………、」

「いつもと同じ……だから、なんでも」

 

 なんでもないと。

 再三、それこそ自分に言い聞かせでもするように。

 

 ぎゅっと拳を握って言い訳をする渚の姿は酷く翳っていて。

 

 とてもじゃないけれど、なんでもないとは言えない様子のままだ。

 

「……優希之さん」

「…………、」

「引き摺るのは、駄目なコトじゃないよ」

「っ――――」

 

 ふわりと、触れるみたいに渚の頭へ手が乗せられる。

 

 肇の主張、彼の考えが込められたいつかの台詞。

 

 そこに感じるのは何だったのか。

 思えばどうして胸に突き刺さったのか。

 

「…………ごめん」

「……謝らないで。優希之さんが迷惑かけたワケじゃないんだから」

「っ…………、……ごめん……」

「……もう」

 

 宥めるようにさらさらと髪を梳かしていく温かな手。

 

 迷惑だなんて言うのならとっくに、目の前の彼自身にかけている。

 

 こうやって何度も足を引っ張られて、勝手に沈んで、勝手に救われて。

 あまつさえ惚れ込んで、一喜一憂して、混乱して困惑して。

 

 ほんとう、迷惑ばかりだ。

 

 思わず胸が悲鳴をあげるぐらい、彼には返したいモノが多すぎる。

 

「………………、」

 

 消沈した様子で渚は息を吐く。

 

 人の機能(あたま)はときに残酷だ。

 

 それは理性としていえば合理的で、本能としていえばあまりにも不義理。

 

 いつか見た美しいもの、懐かしいもの。

 鮮やかな記憶、綺麗な風景、楽しかった思い出、輝かしい景色。

 

 盛者必衰の理は必ずしも現実のコトだけではない。

 

 古い映像はいずれ新しい衝撃に塗り替えられていく。

 記憶は掠れ、泡のように舞い、後方へ千切れて消えていく。

 

 そんなのは当たり前だ。

 特段忌避すべきコトでもない。

 なにより目の前のものを見て、味わって、体感して、未来へ進んでいく証拠だ。

 

 悪い機能(こと)では断じてない。

 

 やりようだって幾らでもある。

 塗り潰されると最初から分かっているのなら、その分、思い出せる今に噛み締めておけば良いだけのこと。

 

 ――――だから。

 

 そんな中でも鮮明に、忘れられないぐらい残るというのは酷く重い。

 

「…………水桶くんはさ」

 

 肇に手を引いてもらったのは一度ではない。

 それは精神面でも、物理的にも同じだ。

 

 彼にその気はなくても、彼女は十分助けられてしまっている。

 

 なんの因果関係もない――と渚は思っている――人に何度も何度も頼っている現状。

 

 錆び付いた記憶に後ろ髪を引かれ続ける自分と。

 その気持ちを他人に救われる形でしか軽くできない自分。

 

 どちらが惨めかなんて言うまでもない。

 

「……絵、得意……なんだよね……」

「……まあ、中学生にしては? だと思うよ。美術部(ほんしょく)ではないし」

「描くのは……好き……?」

「うーん……前も言ったけど、それなり?」

「……前にも言ったけど、そう言う人は、大体好きなんだよ……」

 

 時間にしてみれば十五年。

 遠い人生を合わせればおよそ十六年。

 

 あまりにもかかりすぎた。

 

 でも、ようやく。

 

 苦しくても、辛くても、悲しくても、痛くても。

 

「……じゃあ、さ」

 

 自分から前に進みたいと、わずかでも思ったのだ。

 

 

「もし、ずっと絵だけを描いて生きていられたら、幸せ……?」

 

「――――――」

 

 

 渚にとっては決意を込めた、ただの喩え話にしかならない質問。

 けれどその問いを受けた少年は、目を見開いて反応した。

 

 彼は知らない。

 

 彼女の正体も、その質問の真意も、裏に込められた誰か(カレ)への気持ちも。

 全部が全部、頭をかすめる程度にもならないぐらい知りもしない。

 

 だからこその驚愕、一瞬の空白だった。

 

 虚を衝かれたと言ってもいい言葉の奇襲。

 

「……それは」

 

 肇は胸を張れるほど絵が上手じゃない。

 描いたモノが売れなかった前世でそれは分かりきっている。

 

 あくまでいまの年齢でなら、せいぜい賞を取れるぐらいの実力だ。

 

 自覚だって昔からあった。

 なにせ初めて筆をとった時から、大して画力は伸びていない。

 死ぬときまでずっと、成長といえば手応えのない微妙なものだけである。

 

 けれど。

 

「――――――」

 

 少女が彼を見上げたまま固まる。

 

 目一杯に開かれた紫の瞳が波のように揺れた。

 思考回路の一切が上手く動かない。

 

 ――素敵だと思ったコトは何度も。

 

 彼の()()は眩しくて、見るだけで心が弾んだ。

 日差しのように綺麗な表情は見事過去に囚われていた彼女を仄かにも照らした。

 

 ――ならば、それを優に超えるのは。

 

「とっても、素敵な話だね」

 

 見たコトもないぐらい満足げに笑う、水桶肇(しょうねん)の横顔で。

 

「俺はあんまり絵を描かないから、実際どうかは分からないけど。でも、生きて描くだけの毎日はきっと夢みたいなんじゃないかな」

 

 彼は過去を振り返る。

 

 彼女のような泥に塗れる陰鬱さではなく。

 砂浜に埋められた大切な宝石を、大事に掬い上げるように。

 

 キラキラと、その周りについた小さな輝きにさえ喜びながら。

 

「幸せだろうね。それこそ、一度限りでもう十分満足しちゃうぐらい」

 

 そう、あんな贅沢は一度だけで構わない。

 二度目なんてあったら甘すぎて苦いほどだ。

 

 だから簡単な話、未練なんて微かなものを除けば殆ど無かった。

 

 笑って過去(みず)に流せるぐらい、あれで良かったと心底笑えるぐらい満足な一生。

 

 幼少期に苦労した経験も、病気で大変だった時期も、早逝したコトも関係ない。

 

 あのとき生きて死んだ一生はかけがえのない時間だ。

 忘れることも消すことも、変えることもできない大切な思い出そのもの。

 

 なればこそ――与えられるばかりだった前世(いぜん)があるから――今回はきちんと返せるように、難しい試験も頑張って上に行こうと。

 

「なんなら笑って死ねそうかも、そんな生き方」

 

 言葉はそのまま響くとは限らない。

 

 読めない心は伝えるのも一苦労だ。

 

 彼女の喩え話が()()()()彼の記憶を震わせたように。

 彼の回答は()()()()彼女の思い出を真っ直ぐに肯定する。

 

 あのとき、笑って死んでいたのは。

 キャンバスを前に椅子に座って、燃え尽きるように眠ったのは。

 

 誰でもない、彩斗(おとうと)で――――

 

「――――……そう、なんだ」

「分からないけどね。もしそうなら、俺だったらって話」

「……そう、だよね……うん。そう、だろうね――」

 

 力無く渚が笑う。

 

 ここに来て、どうして彼の笑顔にやられるのか、その意味が正しく理解できた。

 

 過去(うしろ)に引っ張られる彼女とは違う。

 

 肇は鮮やかに前を向いている。

 生きていく上で当然のように、真っ直ぐ未来へ進んでいる。

 

 それは重いモノを抱えた人間には難しいコトだ。

 なんであれ暗い感情に呑まれないというのが先ず厳しい。

 

 ともすれば眩しいぐらい淀みのない歩き方。

 

 でも、ああ、だからこそ。

 

 

 ――――そんな(あなた)に、恋をした。

 

 

 心の底から好きで惚れ込んでいるのだと、誤魔化しようがないぐらい自覚してしまった。

 

 

「ていうか、急にどうしてそんな話を?」

「……私の遠い親戚が、絵を描き続けて死んだって聞いて。その人は、どんな気持ちで亡くなったのかなって……」

「……ごめん、配慮が足りてなかった。嫌なコト思い出させちゃって」

「ううん、いいよ。……いいの、もう……大丈夫、だから」

「…………、」

 

 ゆっくりと息を吐く渚は、沈んだ雰囲気さえあれど大分落ち着いている。

 戻ってきたばかりに比べれば幾分かマシな状態。

 

 少しでも手助けになったら良かったな、と肇は力を抜いて天を仰いだ。

 

 校舎内の空気は文化祭につき大分騒々しい。

 気持ち彼らの周囲だけ気温が下がっているのかと錯覚するほど。

 

(…………あ)

 

 ――――ふと。

 

 すっかり忘れていたことを肇は思い出した。

 

 別にそこまで大したものではない。

 なんてコトはない、言葉にすれば些細なもの。

 

 でもどうしてか、ここで言っておかなくてはいけない気がして。

 

 

「――――お帰り、優希之さん」

 

 

「………………ぇ?」

「いや、そういえば、言ってなかったなって。さっき」

「…………ぁ、そう、だね……あははっ……たしかに、そうかも……っ」

 

 渚にとってそれは、いつしか聞けなかった誰かの言葉で。

 

「……うん。ただいま、水桶くん……」

 

 ふたりで目を見て笑い合う。

 

 こびりついて離れない大切で痛い過去の思い出。

 

 それが今まではずっと潰れそうな重荷だったけれど。

 まだまだ重いのは相変わらずだったけれど。

 

 なんとなく、気持ち、引っ張れるぐらいにはなった気がした。

 

 一歩、踏み出せた気がしたのだ。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 乙女ゲーの世界というのは、なんであれ凄いらしい。

 

 今までそう意識してこなかったその事実を渚が思い知ったのは、改めて肇と文化祭を見て回って楽しんだ後のコト。

 

 さて、夜も更けるし今日はこのぐらいに――というところで、誰もがグラウンドへと集まりはじめた。

 なんなら一緒に歩いていた肇でさえ「行こっか」なんて嬉々として。

 

 ――そう、それこそが西中における文化祭名物。

 

 伝統と格式高い……かどうかは置いておいて、歴史ある最後の砦(グランドフィナーレ)

 

 キャンプファイヤーである。

 

「――おいこら三年一組男子ぃ!」

「最後を飾るってのにその格好はどうした野郎どもぉ!」

「しみったれた服装して恥ずかしくないの!?」

 

「いや普通に制服じゃん」

「女子のみんな、こういうとき急に元気だよね。怖い」

「こういうときじゃなくても常に元気だったぞ今日」

 

「正装に決まってるでしょ! ほら三の一(サンノイチ)集合! やる気ある奴は着替えだ着替えっ!」

「数多のお嬢様を楽しませてきやがれー!」

 

 

 ……とまあ、そんなコトもあり。

 

 

「それじゃあ一緒に踊ろっか、優希之さん」

「!? !!?? !?!?!?」

 

 着替えた彼(しつじはじめ!)に手を取られて歩いていく。

 

 中央には薄暗闇に映えて燃え上がる火。

 流れている曲はどこか聞き覚えのあるオーケストラ。

 

 すでに周りには彼らと同じく二人組の生徒がちらほらと見え始めている。

 

 ベタもベタ、新鮮さでいうなら零点必至の恒例行事。

 

 肇と渚、男女ペアでのフォークダンス。

 

 

 ――心臓が、九割九分九厘破裂しかけた。

 

 

 こう、ぱぱぱぱぁーん、と。

 

「ダンスの経験とかある?」

「っ、あ、あるにはある、けど……」

「けど?」

「…………だ、誰かとは、ない、です……」

「……なんで敬語?」

 

 それは貴方の格好とこの状況が私の言語野(こころ)酷く衝撃(ゴガガガンッ)とキテいるからです――なんて彼女の口から言えるワケもない。

 

 抵抗する力さえ失った渚はされるがままキャンプファイアーの近くまで。

 向い合うよう立った彼にいま一度仕込まれた礼を披露され、白い手袋をはめた眼前の執事にその手を取られた。

 

「適当に手を繋いでそれっぽくやろう。俺もダンスは分かんないし」

「そっ、そそそ、そんっ、あのっ、えっ……!?」

「なにか問題でも、お嬢様?」

「ひゃぅえ!?」

「あははっ、そこまで驚かなくても。すっごい声」

 

(驚くなって言うほうが無理があるんですけど!?)

 

 内心ではキレかけの渚だった。

 

 キャンプファイアー自体はまだ良い。

 

 なんなら幻想的で綺麗で、見ているだけで満足だ。

 

 そこでフォークダンスをするというのも同じ。

 

 学生たちが二人で踊る慣れない姿はとても良く映るだろう。

 

 彼女がそれに参加して、その相手が肇だというのも百歩譲ってまだ大丈夫。

 

 彼との接触はそこそこ多い。

 精神的にきついのは正直そうだが、耐えられないコトもない。

 

 では最後の仕上げに肇が接客時の執事服となっていればどうか。

 

 許容限界である。

 渚の頭はパッカーンと割れる思いだった。

 

 魅力度を測るそれっぽい機械があれば、たぶんボンッと爆発している。

 

「それにほら、みんな楽しんでるし」

「っ――――……、…………」

 

 言われて、ちらっと周囲を観察してみる渚。

 

 

 

「ああくっそ! 俺も女子と踊りてえ!」

「あいつらマジイチャつきやがって……全員燃えろ! 爆ぜろ!」

「だったら俺と踊るか?」

「男同士とか誰に需要があんだよ、誰に」

「一部にはあるだろ。そこでスケブ構えてる女子陣とか」

 

「おのれ銀髪美少女ッ、肇くんの相手を務めやがってからにぃ……!」

「そう言いながらアンタもスケブ持ってるのはなに」

「踊れないならせめて描くっ! 悔しいけど画になってて――――悔しい! くそぅ!」

「嫉妬と絵描きの(サガ)に振り回される悲しきモンスター……」

 

「おい見ろ比良元の奴を。お姫様抱っこの君と楽しんでやがる」

「いや待て。さりげにめちゃくちゃ足踏まれてるぞ」

「……っ、この……! こんなことして、絶対許さない……!」

「良いだろふたりで踊るぐら――いたッ、いたぁ!? ちょっと待て! ああもう――」

 

 

 

 ざわめきは炎が燃える音に混じって空気に吸い込まれる。

 出来上がった雰囲気は寒空の下でも暖かく賑やかな空間だ。

 

 そんな中でゆったりと、指を絡めて手を繋いで、ふわふわと舞う執事(はじめ)お嬢様(なぎさ)

 

 非日常じみた全ての要素が、彼女の心を仕留めにかかっていた。

 

「ね?」

「……っ、そ、それは、そう……だけど……!」

 

 身が持たないので勘弁してほしい。

 

 渚の身体はひとつ、心臓もひとつ、頭もひとつしかないのだ。

 こうも一気に来られては処理しきれずにオーバーヒートも起こしてしまうもの。

 

 さっきから顔はもうとめどないほど熱かった。

 

 ヤカンがあればとっくに沸いてぴーぴー鳴っている。

 

「ふふっ……優希之さんが喜ぶと思って執事服(コレ)着てみたけど、正解だったね」

「えっ、あっ、や、その、そんなっ、ぁ、あぅ――――」

 

(ありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございます――!!)

 

「……もっと近くに寄ろうか?」

「ぴっ!!」

 

 訂正、もはやそれは彼女の鳴き声だった。

 ぴーぴーと鳴く恋愛感情生まれたてのヨチヨチ歩き、クソザコぴよこちゃん(前世年齢含めると余裕で三十路越え)だ。

 

「なに、どうしたのいまの声」

「な、なななんでも! き、きかっ、聞かなかった、ことに、して……!」

「そこまで慌てなくても。……可愛い声だったよ?」

「み、みなっ、水桶、くんっ!!」

「ごめんごめん」

 

 笑いながらリードする肇は例に漏れず絶賛ハイテンションプレイボーイ。

 渚との距離感が近いだけにその破壊力はいや増している。

 

 ……そう、なんとなく、本日一緒に見て回って彼女も気付いたコトだが。

 

 基本的に褒めたりなんだりと躊躇いなくやる彼だが、その中でも渚は特別ハードルが低いらしい。

 おそらく勉強仲間として色々親しくなったからだろう。

 

 つまり一応、ちゃんと、実はこういう台詞は彼女だけの特権であって。

 

「――――――っ」

 

 それを意識するとまた余計に、頬が溶けそうになる。

 

「……か、からかわ、ないで……っ」

「そうだね。ちょっとやり過ぎだった、うん」

「っ、も、もう……っ、ほんとうに……っ」

「でも嘘じゃないからね」

 

 ふわりと身体が浮く。

 

 腰に、背中に、腕が回される。

 

 距離が縮まる。

 

 目の前には眼鏡をかけた彼の顔。

 

 それが緩く微笑んで。

 

 

「今日も綺麗だよ、優希之さん」

 

「――――――ぁう」

 

 

 ――乙女ゲー主人公(ヒロイン)、優希之渚、十五歳。

 

 惚れた相手にストレートな殺し文句を言われて、再起不能(リタイア)――

 

 

(――なんでっ、どうして私ばっかり……! もうっ……もぉー!! 水桶くんの天然(あほ)ー!)

 

 

 女心と秋の空なんてよく言うけれど。

 

 彼女の心はそうそう簡単に変わってくれないらしい。

 

 

 



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24/並んで棒立ち

 

 

 

 

 夏の暑さは通り過ぎて、秋の涼しさも風に吹かれた。

 明るく色付いた葉は役目を終えたように散っては落ちていく。

 

 窓から見える木々はやせ細って枯れ木の模様。

 

 早くも朝の気温が十度前後を示しはじめた冬目前。

 

 肇と渚は、それでも変わらず塾の自習室で二人きりの時間を過ごしていた。

 

「…………、」

「…………、」

「……………………、」

「……………………、」

 

 ……とは言っても、そう期待するような関係ではない。

 

 暦の上では十一月。

 

 二学期の目玉行事を二つとも終えて、あとは細々としてイベント事も済ませて。

 大体の学校生活が落ち着いてくればやる事などひとつに絞られる。

 

 すなわち勉強。

 

 建前上は学生の本分であるそれに力を入れるのは言うまでもなく進学のため。

 両者ともに目指すところは同じだ。

 

 難関の高校入試を前にして、ペンを走らせる手は滞りない。

 

「――――、」

「…………、」

 

 カリカリと淀みないリズムで音が刻まれていく。

 

 優秀とまではいかないが、実直な努力は最近実を結びがち。

 肇の成績はいまのところガンガンと上がっている。

 

 渚と出会った当初はてんで駄目だった数学もそれなりに解け出した。

 この分だと本当に、一年かけた時間はもしかするともしかするかもしれない。

 

 そんな己の学力の成長っぷりがちゃんと分かるのは大きな成果だ。

 

(手応えがあるのって良いな、やっぱり)

 

 芸術方面ではからっきしだったその感覚に肇は胸中でほころぶ。

 

 筆を握るのは嫌いじゃないが、昔ほど熱が有り余っているワケでもない今は人並み。

 描きたいモノがないワケじゃないけれど、全身全霊の全力をかけても良いぐらいに描きたいかと言えば――それより大事なコトもあるんじゃないかな、というぐらいで。

 

 まあ、過去からして下手の横好き。

 やるとしても趣味程度で、というのが本音だ。

 

(狂ったように描いてたけど、()()なってから全然だもんな。完璧に糸が切れてる。実際、それで構わないんだろうけど)

 

 良いものを見たらその熱で一瞬繋がりはするが、一度切れたものは仕方ない。

 耐久度も持久力も性質ですら残っているのは微かなもの。

 

 試しにこの前、少しやる気を出して描いてみたものだって全然進歩もなにもない有様だった。

 

 長年のブランクで腕が落ちていなかったコトだけが救いか。

 

 まあそもそも、元からない腕に落ちるもなにもないのだが。

 

(楽しいのは楽しかったけど、あれだ。費用対効果というか……かけた時間に対する満足感が足りないのはどうもね……せいぜい暇潰しが関の山かなぁ)

 

 あ、この問題この前教えてもらったとこだ、と問題集を解く一般無自覚絵師。

 

 ちなみに完成品はクラスメートの美術部女子にあげたのだが、なんと泣いて喜ばれた。

 それどころか五体投地の姿勢で「ありがとうございます家宝にします!」と教室の中心で感謝を叫ばれた。

 

 大して価値もないズブの素人が描いた代物とはいえそこまで言われると肇も嬉しい。

 

 売りに出しても金額はつかないだろうし、本職の部員でもあるのだからおそらく大事にしてくれるだろう。

 

(……まあ、それで思い出したコトもあるし、収穫はゼロじゃなかったんだけど……)

 

 久々に掘り返した彼自身の遠い記憶。

 

 幸せに満ち溢れた人生のなかで、きらりと光る砂粒みたいな未練があった。

 

 最後の最後、眠る前に描いていた間際の作品だ。

 

 それだけはあとちょっとというところでお迎えが来てしまったので未完のまま。

 時間があったらいつかこっちで完成させてあげたいな、と思う親心……もとい画家心である。

 

 クオリティに難はあれ生み出した絵画(かいが)はみんな子供同然なので。

 

(いや一枚も売れなかった奴がなに言ってるんだって話なんだけど)

 

 自嘲するように内心でくすくす笑いながら勉強に励む。

 才能の無さだって結果の付いて来なさだって悲観するものではない。

 

 なんであれ過ぎたコト。

 

 大事な思い出になっているのなら気落ちする要素などなかった。

 

 そういうものがあったコトは、幸せで変わりようもない事実なのだから。

 

 

 

「――よし、一旦休憩!」

「……ん、私もちょっと一休み」

 

 それからしばらくして、ふたりでほうと息を吐く。

 

 彼女は机にべたっと顔をうずめるよう突っ伏して。

 彼は背もたれに体重を預けながら、ぐぐっと伸びなんかしてみた。

 

 ぱきぱきと、どこかしら分からない骨の鳴る音がする。

 

 座ってばかりが身体に悪いのは年若い彼らだって同じコト。

 エコノミークラス症候群なんてその代表的な例だ。

 

「んー……っ、肩でも凝ってるのかな? やっぱり」

「……最近、多いみたいだよ。私たちぐらいの歳でも」

「そうなの? あれかな、みんな何だかんだで勉強してるからかな」

「それは、そうだろうけど……詳しくは私もあんまり……」

「へぇ、そっか」

 

 なんでもないように肇が頷く。

 大して躍起になるワケでもない世間話。

 

 落ち着いたやり取りはいつも通りの彼と、いつも通りを必死で装えるようになった彼女の努力の賜物だった。

 というのも、人間一度強すぎる刺激を浴びれば慣れるというもの。

 

 西中文化祭の執事服で乙女心を粉々に叩き砕かれた少女は、そんじょそこらの(かれ)では取り乱さないぐらいになっている。

 

 いつまでだって恋に振り回される軟弱なお姫さまとは違うのだ。

 

「……ねぇ、水桶くん」

「ん、なに」

 

 気の抜けた返事は言ったとおり休んでいる途中だからか。

 ペンを放った肇は手首を回したり首を傾けたりと軽く身体を動かしている。

 

 それは別におかしくもなんともない日常の風景だ。

 新鮮味もなければとくに指摘することでもない。

 

 ただひとつ、微かに鼻をついたそれに彼女が気付かなければ。

 

「……絵、描いてるの?」

「? なんで?」

「いや……ちょっと絵の具の匂い、して……」

「……あー……優希之さん、苦手だったっけ。……ごめんね?」

「や……別にその、謝らなくても……」

 

 目を伏せながら、渚は唇をきゅっと噛み締める。

 

 口に出すまでもなく引き金はこうも簡単に。

 どこか重なる部分の多い少年は、それこそ特有の香りをまとってしまえば余計にだ。

 

 何度も味わったいまの光景が過去の傷を抉る感覚。

 

 懐かしい雰囲気と懐かしい匂い。

 

 彼と弟は別物だと分かりきっているのに、未だ切り離せない未熟さに嫌気がさす。

 

「――――……あんまり、描かないんじゃなかった……?」

 

 震える指を握り込みながら渚は口を開いた。

 沈む心を釣り上げるように、なるべく声のトーンを維持しつつ話を振る。

 

「うん、そうなんだけど。この前、少しだけね。気が向いて描いてみた」

「……そっか。……上手く、描けた……?」

「まさか、全然。我ながら才能ないなーって。下手くそだもん、俺」

「……? 賞とか取ってるんじゃ……?」

「あはは……中学生レベルではね……」

 

 そうなんだ、と胸を掴むように手を握る少女。

 

 やっぱり似通っているのはその空気だけのよう。

 

 なにせ弟は超の付くレベルで技術と素質に溢れていた。

 天才というのならああいうのを言うのだろう。

 

 少なくとも彼の実力があれば下手だなんて間違っても思えない。

 

 ――けれど、()()()()()()()()

 

 そして()()はしっかり()()だ。

 以前までの渚なら深くまで沈んでいただろう話も、こうして頑張れば乗り切れる。

 

「……機会があれば見てみたいな、水桶くんの絵」

「本当にいうほど上手じゃないよ……? あんまり期待しないでね」

「…………うん、期待しておくね……っ」

 

 えぇー……なんて困った表情をする肇を前に、渚がくすりと小さく微笑む。

 蕾がわずかに花開くようなほんのちょっぴりだけの笑顔。

 

 その表情は曖昧だ。

 苦みが浮き出ているようでもあるし、ちゃんと笑えているようでもある。

 

 どこか複雑な視線は肇自身も渚から何度か受けていた。

 

 だから気付かないワケではなかったし。

 理由は分からないけど、時たま彼女のどこかを刺激しているのは密かな疑問だった。

 

「――――――、」

「…………、」

 

 仄かに眉尻を下げる渚は、それでも暗さは洩らさない。

 

 彼女はそっと触れるように。

 掴めば痛む、握れば刺さる針山じみた思い出(きおく)に手をかけている。

 

 今はないものを懐かしむ純粋な心の揺れ動き。

 それは余裕のない少女では成し得なかった進歩の表れだ。

 

 後悔も苦しみも傷の重みも消えていないけれど。

 

 そこにたしかな幸せがあったのだと噛み締めるぐらいはできた。

 

(……誰に言っても伝わらないような、奇妙な話だけど――)

 

 胸に抱えたオマケの秘密はおかしな事情だ。

 

 

 ――実は私には前世の記憶があります。

 ――そしてこの世界がゲームだった知識が残っています。

 ――そしてそして、なんと(わたし)はそのゲームの主人公だったのです。

 

 

 ……なんて、普通に考えて馬鹿らしいにも程がある。

 

 言ったところでなんだそれはという話だし、彼女自身その秘密を誰彼かまわず言うつもりもない。

 最悪お墓の中にまで持っていく所存だ。

 

(……あぁ、いやでも……そうだね……――)

 

 それこそいつか、一生を共にする人なんか出来たとき。

 

 たったひとり。

 

 この人の傍でずっと一緒にいたいと思えた相手(だれか)に、さらっとバラすぐらいがちょうどいい。

 

 たぶん、絶対信じてもらえないだろうけど。

 一世一代の告白が、実はこの世界のコトを生まれる前から知ってました――なんてのは冗談っぽくて最高だ。

 

 なにぶん、ロマンチックさには欠けるけれど。

 

(……そのときは、どんな反応されるかな――――)

 

 そう思って。

 

 ふと、浮かんできた誰かさん(おとなり)の顔に思考がピッと固まった。

 

「――――……っ」

 

 いや、仕方ない。

 その連想は分からなくもない。

 

 渚だって自覚している。

 

 だから仕方ない、ほんとしょうがないコトだ。

 そんなに慌てる要素でもない。

 

 ――ないのだが、意識した瞬間に心臓が感情(エモ)銀河の土星あたりまで飛んでいった。

 

 優希之渚、紅顔は紅顔でもちょっと赤すぎる模様。

 

(ま、待って。待って、待って……っ、よ、よくよく考えて、みたら――)

 

 例えば、その、可能性として。

 

 この想いが奇跡的に届いて、ありえないコトに叶って、そういう関係になったら。

 

 つまりふたりは一緒になって、傍にいて、共に歩いて、()()()()()()をしたりするのかと――――

 

(――――みなおけ、くん、と?)

 

 瞬間。

 彼女の脳内には桃色旋風が吹き荒れた。

 

「はぅぉっ……!!」

「ど、どうしたの優希之さん……」

「な、なんでも……っ、ちょっと、……そ、そそ、その、自傷、ダメージっ……!」

「? ??」

 

 呼吸を整えながら渚は心配そうにこちらを窺う肇を制止する。

 

 心拍数、異常アリ。

 呼吸、脈拍ともに異常アリ。

 思考回路、大々的に異常アリ。

 

 身体中に張り巡らされた緊急事態を告げる赤ランプが回りだす。

 空耳かなにか、渚は内側から響く「ウ~!」というサイレンを聞いた気がした。

 

 かなりやられている。

 

 やはり手遅れだった。

 

(と、というか、そのぐらい、で……っ、わ、私はこれでも一度成人を迎えた、精神年齢だけは高いてんせ――――)

 

 さて、遠い昔の記憶では二十五年。

 いまに命を繋げた意識と身体では十五年。

 

 合計四十年あまりの人生経験をしてきた()()()()だが、その間に夢っぽいピンクっぽい男女っぽいそれがあったかどうか。

 

 もちろんない。

 驚くほどない。

 雀の涙ほども、道端の小石ほどもない。

 

 言い方は悪いが、完膚なきまでの喪女である。

 

 ガンッ、と今さらすぎる金槌が渚の側頭部に叩きつけられた。

 

(――――私そういう経験一度もない……っ!? え、嘘、これ……もしかしてけっこう、やばい、の……!?)

 

「…………?」

 

 優希之さん大丈夫かな、と心配そうに見守る肇をよそにわなわなと震える主人公(ヒロイン)

 

 知りもしないし嬉しくもないだろう共通点だが。

 

 この姉弟、肝心なところで前世の知識がちっとも役に立たない。

 そういう呪いにでもかかっているのではないかというレベルである。

 

 肇はもちろん今現在必死で仕上げている学力方面で。

 渚は当然この瞬間にも胸を占める複雑怪奇な心情で。

 

(……っ、いやでも、そうなると決まったワケじゃないし……っ、わ、私が、あの、その、相手とも、限らないワケで……っ)

 

 その想像をした瞬間になんかすっごいモヤッとしたものを感じた渚だったが、いまはあえて無視した。

 触れたら多分余計酷くなると直感して。

 

(……いちおう、優希之渚(このたちば)には……決まった相手も、いて……)

 

 少なからず、それらしい役目もある。

 

 彼女だけが事前に知り得ているたしかな筋道。

 それはもともと、彼と出会う前の彼女が進学先を決めた要因の主だ。

 

 すなわち関わるべき誰かがいるというコト。

 

 ひときわ魅力に溢れたような、攻略対象(ヒーロー)たちがいる。

 

(……そう、考えたら……)

 

 不意打ちじみた事実の羅列で、急に分からなくなってきた。

 

 重みはないけどカーテンを閉ざされたような不安感。

 忘れかけていた未来に対する恐ろしさが唐突に胸を過る。

 

(私は、どう……するのが、正解……なん、だろう――?)

 

「優希之さん?」

「――あっ、うん……っ」

「大丈夫? 怖い顔してたけど」

「だ、大丈夫……こ、高校、どんな感じだろって、なんとなく……思っただけ」

「あー……たしかに。新しい学校(とこ)に行くの、緊張するよね」

「う、うん……」

 

 以前までのような危うい陰鬱さではない。

 道で躓いたような沈みように、ふむ、なんて肇が顎に手を当てて考えこむ。

 

 渚の言ったことは彼だって共感できる類いの感情だ。

 

 小学校から中学校、中学校から高校、高校から専門学校または大学または仕事。

 はてには大学から大学院か就職か――と新天地への移り変わりは人生における避けられない壁のひとつ。

 

 その都度、知らない場所に身を移す不安はあって然るべき。

 

 うんうん、と頷く天然(ポンコツ)はたぶん真面目で、どこかズレている。

 

「――あ、そうだ」

「……?」

「優希之さん、甘いもの好きだったよね」

「え……まあ、嫌いでは……ないけど……」

「今日何日か知ってる?」

「十一月……十一、日……?」

 

 そう、と明るく応える肇。

 

 この時点で渚はなんだか嫌な予感がした。

 長い時間を勉強仲間として過ごしたが故の危険予知。

 

 肇専用KYT(危険予知トレーニング)の効果はここに来て発揮されたらしい。

 

 脳内でヘルメットを被った独特な絵柄の猫が「ヨシ!」と指をさしている。

 

「ポッキーの日」

「……あー……なる、ほど……」

 

 一瞬構えた渚の緊張はここで解けた。

 

 ――まだ大丈夫。

 なんでもない。

 セーフだ、セーフ。

 

 ステイ、まだだ、まだ舞える、まだなにも問題はない。

 

「ということでどう、食べる? 甘いもの取るとリラックスできるよ、たぶん」

「それはどうか知らないけど……じゃあ、その、ありがたく……」

「うん。……あ、ポッキーゲームとかする?」

 

「ぅんッぐぃ!!」

 

「優希之さん?」

 

 バキィ! と彼から受け取って囓った棒状菓子(ポッキー)を噛み砕く。

 

 とんでもないコトを言ってくれた少年は相も変わらず。

 どうしたの? なんて首をかしげながら渚のほうを真っ直ぐ見詰めていた。

 

 脳内で先ほど同様の猫が受話器を耳にあてて「どうしてヨシなんて言ったんですか?」と震え声でささやきかけている。

 

「……み、水桶くん、さ……っ」

「? うん」

「ポッキーゲーム……って、どんなの、か……知ってる……?」

「それはもちろん」

 

 念のため確認の意味を込めて渚は問いかける。

 

 そう、もしかしたら勘違いをしているかもしれない。

 その可能性はなきにしもあらずだ。

 

 ゼロじゃない、天然純朴少年である彼なのだからむしろ高確率。

 

 振り回されっぱなしだった自分とはもう違うのだ。

 

ほういうやふでひょ(こういうやつでしょ)?」

 

「あッ!!!!!!」

 

ゆひのはん(優希之さん)?」

 

「んッ!!!!!!」

 

 急激に上昇した温度が渚の顔をさらに赤く染める。

 

 さながら頭から湯気がのぼる勢い。

 まるで一昔前の鉄道車両。

 

 機関車ユキノーマスだ。

 

 煙突から噴き出るケムリはとめどなく。

 軽快なBGMと共に汽笛を鳴らしてどこかへ走っていく映像を渚は幻視した。

 

いふでもほうほ(いつでもどうぞ)?」

「……っ、み、水桶くん……っ」

「?」

 

(――――くぅっ……! なんて、視覚の暴力、を……!)

 

 ポッキーをくわえながら首をかしげる肇の姿は正直とんでもなかった。

 

 感情(エモ)銀河の土星あたりに飛んだ心臓がさらにぶっ飛んで宇宙(そら)を渡りアンドロメダ感情(エモエモ)銀河まで到達している。

 

 彼女のハートは約二百五十万光年を超速で駆け抜けたらしい。

 

「――わ、私の故郷(ふるさと)は地球……っ」

「? ??」

「っ、ごめん、な、なんでもない……!」

いいへほ、はらないほ(いいけど、やらないの)?」

「――――――っ」

 

 ぐぐっと強く拳を握る。

 

 これはゲーム、あくまでもゲーム。

 それに彼女から切り出したワケでもない。

 

 誘われたから――肇に言われて断るのも忍びなくて、仕方なく、だ。

 

 ……よし、と決意を固めて彼のほうへ顔を寄せる。

 

「…………、ん……」

ひゃあ、いふよ(じゃあ、いくよ)

「ん……、……んっ!?」

 

 ポリポリと食べ進める音が正面から鳴り出した。

 

 ありえないぐらいの至近距離で彼の顔を見る。

 ありえないぐらいの至近距離なのに更に彼の顔が近付く。

 

 渚はもう叫びたかった。

 

 声を出さないで居られたのは、それ以上に衝撃で身体が固まっていたからだ。

 

(……? 優希之さん食べないなー)

 

(なっ、あっ! あぁッ! ダメこれ! もうムリ! ムリだこれ! 近い近い近い! 近いって! 近いよっ! あ、あああ当たるって――!)

 

(プリッツのほうが好きだったとか? あ、もしかしてトッポ派……?)

 

(あっ、あっあっ、あっ……あぁっ、あ――! あぁ――――!!)

 

 絶叫だった。

 心の底からとんでもないシャウトが起こっていた。

 

 たぶん頑張れば陰鬱とした特撮ドラマ(読モ並の「ア○ゾンッ!」)みたいな演技がワンチャン出来そうである。

 

 なお天然ボケに至っては根本的な問題を理解していない。

 菓子の種類が問題なのではなくシチュエーションが駄目なのだと何故気付かないのか。

 

 真相は目の前の人物が握っているのだが、ふたりともそんな事実は知らないまま。

 

(わ、私だって、ぽ、ポッキーゲームは弟とやったぐらいで! け、経験はあるけどこれはっ、その、そ――あぁあっ! あぁあぁ――――っ!!)

 

(おー、顔真っ赤だ、優希之さん。恥ずかしいなら無理しなくていいのになぁ)

 

 くすくすと笑って、大体半ばまで行ったところで肇はぐっと噛み砕いた。

 ぽきっ、という間の抜けた音が静かな自習室に響き渡る。

 

「――俺の負けだね」

「…………っ!? んっ、ん!? ――――!?」

「あはは、慌てすぎ慌てすぎ。落ち着いて優希之さん」

「――――っ!!」

 

 誰のせいだと!? という彼女渾身の怒りは伝わったかどうか。

 

 折れたポッキーをもそもそと食べながら、若干拗ねた様子で渚は肇を睨む。

 

 ――この恨み、晴らさでおくべきか。

 

 乙女心をスクランブルエッグみたいにぐちゃぐちゃにかき混ぜてくれた悪漢は報いを受けて当然なのである。

 いつか絶対やり返す、なにがなんでもやり返す、と復讐に燃える渚の巌窟王だが。

 

「はい、それじゃあ戦利品」

「……へ?」

 

 ぽん、と渚の机にペットボトルの紅茶が置かれた。

 いつも通りの、彼女が愛飲しているものだ。

 

 ――驚いて肇のほうを見る。

 

 彼は薄く笑って、まだ残っているお菓子をかじりながら。

 

「優希之さんの勝ちなので、どうぞお納めください」

「…………、もう……なんなのそれ……」

「ふふっ、ちょっとしたサプライズ?」

「…………ありがと」

「どういたしまして」

 

 ちいさく感謝を告げた渚は、早速と蓋を開けて口を付けた。

 

 なにせ状況が状況。

 

 甘すぎるものだから、まあ、その。

 紅茶のお供ぐらいがこんなのはちょうど良いので。

 

「………………、」

 

 それは決して、悪くはない感覚(あじ)だ。

 

 

 



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25/受験生らしい過ごし方

 

 

 

 

 季節は瞬く間に巡っていく。

 

 師匠も走る十二月。

 

 年末にかけて忙しくなるこの時期は学生だってその例に漏れない。

 

 半分と少し授業を受ければすぐ冬休みだが、その前には恒例の学期末テストがある。

 ここで赤点でも取ろうものなら補修が確定。

 ただでさえ短い冬期休暇がさらに削れるという地獄が待っていた。

 

 尤も、受験を控えて真面目に予習復習している三年生諸君にとっては容易な関門(ハードル)だ。

 星辰奏なんて超難関を目指す生徒なら尚更。

 

 こんなところで躓いていては本番も駄目だろうコトは明白なので。

 

「――優希之さん、優希之さん」

「……え、なに……どうしたの、そのハイテンション……」

「二学期の期末テスト、返ってきた?」

「い、いちおう……」

「俺も返ってきたんだけどね」

 

 ふっふっふ、なんて似合わない笑い方を疲労する水桶某。

 その手には結果表が入っているであろうA4の茶封筒を持っている。

 

 成る程どうやらその成績に余程自信があるらしい。

 

 渚はこれまでの彼との経験から完璧に察した。

 ついでに気分が上がりまくっているコトからも推測は容易だった。

 

 水桶肇検定準一級を(たぶん)持っている実力は伊達じゃない。

 

「……で、何点だったの?」

「聞いて驚かないでよ?」

「うん」

「五教科で」

「うん」

 

「――なんと四百九十二点っ」

 

「……おー……すごいね、おめでとう」

 

 パチパチパチ、と取り敢えず拍手を送る渚。

 

 それに対して肇は渾身のガッツポーズなんてしていた。

 よぉっし! とらしくもなく大きめな声である。

 

 いつもぼんやりとした彼がこうやって純粋にはしゃぐ姿は珍しい。

 雰囲気に流されず自発的というのも相まって新鮮味も倍率で()()()

 

 ちょっと微笑ましくなって、渚もつい頬を緩めてしまう。

 

「ありがとう優希之さんっ」

 

 と、油断した瞬間だった。

 

「っ!?」

 

(きゃぁああぁああぁ――――――っ!?)

 

 勢いのままハグしてきた肇に抱きつぶされる。

 

 それまで全く冷静で問題のなかった彼女の思考だがこれは管轄外。

 即座に古いOS(Windows XP)みたいな音をたててシャットダウン(テンテンテテン)

 

 借りてきた猫状態で固まったまま、ぐるぐると大回転されていく。

 

「優希之さんのお陰だよ、色々教えてもらってたし。ほんとにありがとうっ」

「わ、わかっ、わ、わかった、から――っ」

 

(これ止めてはやく止めてすぐ止めていま止めてでもやっぱ止めないでいややっぱ止めて止めないで止めて止めないで止めて止めないで――――!!)

 

 再起動も束の間、ハグされた状況に渚の脳が震えた。

 

 目と鼻の先にある肇の顔、ワンアウト。

 すぐ近くから香る彼の匂い、ツーアウト。

 密着した状態で感じる肌の体温、スリーアウト。

 

 あえなくゲームセットである。

 

 チーム優希之、投手は優秀だが打撃はてんでダメ。

 

 打ち返した球も当然取れない、なんならピッチャーライナーしか喰らっていない。

 守備もぜんぜん使い物にならないという欠陥球団だったようだ。

 

「――あ、ごめん感極まっちゃって……!」

「い、いいよ、全然、大丈夫……気持ちは痛いほど、分かるし……」

「そう?」

「う、うん……っ」

 

 何故なら現在進行形で渚の心臓は痛い。

 

 暴れ狂う心臓はもはやリズムすら暴力的だ。

 

 四気筒のバイクとかそこら辺のテンポを刻んでいる。

 こう、熱とか感情がぎゅぃーん! と回転して上がっていくあたりがとくに。

 

「先生からもこれなら星辰奏大丈夫そうだね、ってお墨付きもらっちゃった」

「……そっか。よかったじゃん……」

「ちなみに優希之さんはいくつだった?」

「四百九十七点」

「――――優希之さんの裏切り者ぉっ」

「えッ!?」

 

 がたん、と椅子からわざわざ立ち上がって肇は崩れ落ちた。

 

 さらっと言われたがとんでもない点数だった。

 あんまりにもあんまりな学力差に項垂れる。

 

 必死で頑張って休みも返上してようやく手に入れた高得点。

 

 それを難なく易々と越えてのけた原作主人公(ヒロイン)は凄まじいの一言。

 そう、凄まじいが――贅沢を言うならちょっと自重してほしい。

 

 このままでは肇は嫉妬にかられて学力モンスターになってしまう。

 

「なんでそんな高いの……っ」

「だっ、だって……いや、そもそも私、北中(むこう)でずっとトップだし……」

「俺の合計点を聞いたときも内心嘲笑ってたんだね……?」

「い、いや普通に、めでたいなって思ってたけど……!」

「自慢げに話す俺を見下してたんだね……!?」

「し、してないしてない! わ、私、水桶くんのコトそんな酷い見方しないから!」

 

 嘘偽りない本心である。

 

 惚れた弱みというかなんというか。

 

 小さなコトであれ大きなコトであれ、一喜一憂する彼の姿は見ていて楽しい。

 肇が嬉しそうなら渚だって笑みがこぼれるし、逆に落ち込んでいれば彼女だって少し元気がなくなるぐらいなのだ。

 

 なにしろ何度も言うが一番近くでその勉強を見ていたのは渚自身。

 

 向けたのは純度百パーセントの努力の成果が出て良かったね、という気持ちの他あるものかと。

 

「…………、……優希之さん。国語、何点だった?」

「九十八点」

「ちなみに俺は百点満点」

「…………、」

 

 むっ、としてわずかに眉根を寄せる渚。

 その微細な表情の変化を肇は見逃さなかった。

 

「俺の気持ち分かった?」

「……でも合計点は私のほうが上だし」

「え、嘘。もしかしてストレートに喧嘩売られてる……?」

「冗談だよ。……うん、冗談。たった五点だもん、そんな……ね?」

「……やっぱり売ってない?」

「ううん、売ってない売ってない……」

 

 じとーっ、と見詰めている肇の視線を渚は華麗に躱していく。

 

 いつもやられてばかりが故の小さな抵抗だった。

 

 放った球はすべて悉くヒット。

 なんなら彼女が投げていなくてもヒット。

 

 果てはハートを撃ち抜くようなホームランまで見舞わせる水桶打線は油断ならない。

 

「……でも、本当に心配要らないね、それだけ出来たら」

「ううん、大事なのは入試本番だから。合格できるまで気は抜けないよ」

「そっか。……あ、ちなみに」

「うん」

「その点数なら今回も一位だった……?」

 

 訊いた瞬間、それまでふわふわオーラだった少年がピシッと固まった。

 

 期末試験の成績表を持ったまま笑顔を停止させてギギギと関節を曲げる。

 

 油の切れたロボットみたいだ。

 

 よいしょと足を折りたたんで腕で抱え込んで。

 結果、椅子の上に体育座りなんてベタな真似をする秀才くん。

 

「はぁ……、」

「えっ、ちょっ、み、水桶くん……!?」

「そうそう一番になれたら苦労しないよね……」

「あ、違ったんだ……」

「二位だったよ。……優希之さんは一位なんだもんね」

「そう、だけど……」

「…………はぁ」

 

 じとじとーっ、とさらに濁った視線を渚に向ける肇。

 天才に凡人の心は分からない、と言わんばかりのものだった。

 

 なお別分野ではそれこそ化け物クラスの天才だというのを彼自身は知らない。

 自分の才能を大勢の人に認められる機会はまったく無かったせいだろう。

 

 知らないというのはなんとも複雑でなんとも恐ろしい。

 

「――っ、で、でも凄いよ、水桶くん……! うん、凄い、凄い……!」

「子供扱いみたいな褒め方しても無駄だよ」

「……よ、よしよし……っ」

「頭撫でても駄目だよ」

 

(私だったら一発なのに…………!?)

 

 いやそんな上下関係はどうでも良くて。

 

「ほ、ほら、二位でも十分凄いし……っ」

「優希之さん、優希之さん。それ一位(トップ)の人が言っても嫌味にしか聞こえないからね」

「わ、私は水桶くんが勉強頑張ってるの、誰よりも分かってるから……!」

「……おー……、」

「な、なに、その……反応……?」

 

 ゆっくりと顔を上げた肇がうんうんとひとり頷く。

 

 渚はちょっと前後関係が分からなかった。

 いまの言葉はそれほどアレだったろうか、なんて頭の中はちょっと混乱。

 

 脳内緊急会議を開くために重役まで集まりはじめている。

 

 転生者渚(ぜんせちしき)恋愛脳渚(みなおけくん!?)弟溺愛渚(あやとラヴ!)鬱状態渚(あやといない!)、そして優希之渚CEO(さいこうせきにんしゃ)だ。

 

(静粛にっ、静粛に――!)

 

「いや、ありがたいなって」

「……っ、あ……いま、の……?」

「うん。そりゃ結果は大事だけど、努力を認められるのって嬉しいじゃない?」

「…………まあ、そう……だね……」

「そういうこと」

 

 会議は回るどころか一瞬で崩壊。

 

 恋愛脳渚(みなおけくんぅ♡)は倒れた。

 転生者渚(私のデータにないぞ!?)は思考の片隅で頭を抱えている。

 弟溺愛渚(あやとすきすきー!)も役に立たない。

 鬱状態渚(あやとかえしてぇッ!)なんて出てきてはいけない類いのものだ。

 

 残された優希之渚CEO(かのじょほんにん)はそっと息をつくように考えを落ち着かせる。

 

 ……そうだというなら、彼女としても悪い気はしない。

 

「だから今回はこのぐらいで勘弁してあげる」

「……ふふっ、なにそれ……」

「捨て台詞みたいな」

「あははっ……似合わないって、それ……」

「えー」

 

 くすくすと笑い合いながら満足な時間を過ごしていく。

 

 平日は学校が終わってから。

 休日は基本的に朝の塾が開く時間帯から。

 

 特別用事がない限り受験生らしく勉強漬けの日々は息苦しいようで楽しいものだ。

 

 理由なんてそれこそ口にすれば恥ずかしい。

 

 きっと、誰かさんと一緒に居られるのが要因として大きすぎる。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 その年の初雪はちょうど二十五日に降り出した。

 

 なんだかんだで珍しいホワイトクリスマス。

 待ち行く人はロマンチックな光景に目を輝かせて胸を弾ませ、一年に一度の特別な日をしっかり堪能している。

 

 本場と違ってイブのほうが盛り上がる日本とはいえクリスマスはクリスマスだ。

 

 町中を歩けば雑踏に呑まれるほど出歩く人は多い。

 とくに恋人同士、カップル、家族連れの多さは相当なもの。

 

 それ故にスーパーもコンビニもパン屋もケーキ屋も、ここぞとばかりに集客へ精を出していた。

 

 外は一面の聖誕祭ムードである。

 

「…………、」

 

 が、今日も塾でお勉強の渚にとってはそれも関係ないコトだ。

 

 学校は冬休みに入ったが夏休み同様に自習室は開放中。

 はしゃげ遊べ騒げな空気を逃れて静かな場所で教材と睨めっこする。

 

 ……時々ちらちらと、入り口のほうを確認しながら。

 

(――――いやいや、集中……集中……)

 

 黙々と問題集の連立方程式を解いていく。

 

 どこぞの彼と違って渚の学力は極めて高い。

 主人公(ヒロイン)らしく文武両道……というワケではなく、偏に二度目のブーストあってのものだ。

 

 少なくとも中学生数学の範囲で致命的に躓くことはなくて済んでいる。

 

 これが高校になって微分やら積分やら出てくると彼女も少し自信がないのだが、どちらにせよ今はまだちょっと先の話。

 

 これといって思い悩むコトもなくペン先が走っていく。

 

 

 

 

(…………、!)

 

 と、しばらくしたところで廊下から響く微かな足音に気付いた。

 驚いて手を止めそうになるも、ぐっとペンを握り込んで勉強を再開する。

 

 入り口から真っ直ぐ自習室(こちら)に向かう気配。

 近付く足音はゆったりしたペースでカツカツと床を鳴らす。

 

 相変わらず淀みのない様子。

 

 きっと今日もいつも通りなんだろうな、なんて綻びそうになった顔をきゅっと引き締めたとき。

 

 ――がらり、と扉が開かれた。

 

「や、メリークリスマス、優希之さん」

「……ん、メリークリスマス……水桶くん」

 

 手を振りながら入ってきた待ち人に、ちいさく笑いながら手を振り返す。

 

 理由は明白。

 

 その姿がちょっと面白いものだったからだ。

 

「? どうしたの」

「ふふっ……水桶くん、頭白くなってる」

「え、ほんと? ……まあ、そうだよね。この天気だと」

 

 言いながら、肇はぱっぱっと頭を叩いた。

 

 本日は十二月二十五日。

 前述のとおりホワイトクリスマス。

 

 深夜から降り始めた雪はいまだ止む気配がない。

 今もなお深雪を増しながら、風に吹かれて景色を染めるみたいに降り続けている。

 

「いちおう傘はさしてたんだけどなー……」

「…………おっちょこちょい?」

「そんなまさか。わりとしっかり者の自覚があるからね、俺」

「……でも大抵そういうのって自分から言わないよね」

「…………最近、悩みができたんだけど」

「うん」

「優希之さんが俺をいじめてくるんだよ。酷くないかな?」

「……違うよ。からかってるだけだよ」

 

 今月に入って渚がやっと身に付けた反撃方法だった。

 通常の会話から気分の上がったときまで、てんで勝ち目のない肇相手に仕返しのできる唯一の策だ。

 

 文化祭の彼(しつじはじめ!)を見たお陰である程度慣れたのがでかい。

 普通に話す分ではご覧の有様である。

 

 乙女ゲー主人公(ヒロイン)、ちょっとずつ(りせい)を取り戻す。

 

「……水桶くん、雪、まだ残ってるよ」

「え、どこどこ?」

「えっと……だから、その――……ほら、ここ」

「んっ」

 

 ぱたぱたと渚が肇の頭についた雪を優しく払う。

 

 隣の席に来たのもあってちょうど手が伸ばせたからだ。

 行動に出た経緯としてほぼほぼ反射的。

 

 昔彩斗(おとうと)の世話を焼いていたクセが洩れたようなもの。

 

「……ん、取れた」

「……優希之さんって時々お姉さんっぽくなるよね。同い年じゃないみたい」

「――――そ、そんなワケないじゃん……あ、あはは、あははは……っ」

「? まあ、そうなんだけど」

「あはは……――――」

 

 いやそんなワケ()()()()()()なのだが。

 

 渚は内心で脂汗()()()()()だった。

 

 今は間違いなく不正もなくピッチピチの十五歳。

 だが前世の年齢を合算するともれなく目の前の彼とダブルスコアがついてしまう彼女だ。

 

 実際は肇も肇で十九プラス十五なので昔からの六歳差にひとつ加え七歳差といった事実なのだが。

 

 真相はいまだ深い闇の中に置かれている。

 

「――っと、それより良いものがあるんだけど、欲しい?」

「……その聞き方だとなんかよからぬコトを感じるんだけど……」

「優希之さんが〝水桶くんはしっかりものだね〟って言ってくれたらプレゼントします」

 

 水桶肇(コイツ)ちょっと根に持ってやがる。

 

「……水桶くんはしっかりものだねー」

「心がこもってない!」

「ふぅ……、」

「あからさまなため息! ……やっぱり最近酷くない? 俺なにか悪いことした……?」

 

 しくしくと目元を覆う彼はちゃんと嘘泣きだった。

 というかわりとノッてくれるあたり肇もこういったやり取りを楽しんでいる節がある。

 

 ……言わずもがな。

 

 学校行事でもきちんとはしゃぐ彼はこういった軽めの言い合いも全然オッケー。

 むしろ思わず笑ってしまうぐらい好きなのだろう。

 

「……私と水桶くんの仲だからだよ」

「なるほどそういう」

 

 そしてチョロいのもそうだった。

 

 渚は将来、肇が悪い女に騙されないか心配になった。

 具体的には演技だけが上手い掃き溜めの塵みたいな悪女(だれか)に。

 

 本人の名誉とかそういうのはないが敢えて名前は伏せておく。

 

 偏に彼女が思い出したくはないので。

 

「さて、そんな優希之さんには肇サンタがプレゼントをあげます」

「おぉ……、あ、だから赤いトレーナー着てるの……?」

「これは偶々」

「あっ、そう……」

「――ともかく。はい、どうぞー」

 

 トン、と渚の机に小さなプラ容器が置かれる。

 

 見れば食べきりサイズのショートケーキだった。

 いまの時期らしくクリスマスっぽい飾り付けもしてある。

 

 ご丁寧に使い捨てのフォークまで添えられているあたりがこう、用意周到というか、なんというか。

 

「コンビニスイーツ。来る途中で買ってきました」

「嬉しい、けど……いいの?」

「うん。俺の分もあるし。折角だから優希之さんにも買ってこーって思って」

「……そっか……、ありがと……」

「いえいえ」

 

 喜んでいただけたらなにより、なんて微笑みながら肇が早速包装を解いていく。

 それに倣って渚も渡された容器に手をかけた。

 

 寒さも本格的になった冬の日。

 ムードもへったくれもない塾の自習室。

 

 良いところがあるとすれば暖房がしっかり効いているのと、彼と彼女以外は誰も居ないことぐらい。

 

 ……でも、それだけで渚にとってはちょっと贅沢だ。

 

 ありふれた既製品とは言えケーキの甘さも美味しさも増すというもの。

 

 

 

 

「――そうだ、あーんしてあげよっか?」

「ぴゃっ!?」

 

 たったひとつ、心を惑わす彼の言葉さえなければ。

 

 ちなみにその後、ぷるぷる震えながら口をあけてケーキを待つ少女の姿があったとかなかったとかいうが……それはまた別の機会に。

 

 ひとつ言える事があるとすれば、その日の渚は終始火照ったままだったという。

 

 

 チーム水桶、九回裏ツーアウトを逆転サヨナラ満塁ホームランにて試合終了。

 

 以上が年末最終戦。

 

 次の戦いはまた来年へ持ち越しである――

 

 

 



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26/帰ってきたお姫さま

 

 

 

 

 冬期休暇中も開かれている塾だが、いくらなんでも大晦日の少し手前から三箇日まではお休みだ。

 

 塾が休みであれば当然自習室だって使えない。

 その間は大人しく家で勉強するコトになる。

 

 ――ので、本日年内最終日。

 

 十二月三十一日。

 

 肇は実に穏やかな気持ちで朝を迎えた。

 

(今日ぐらいは……二度寝も、いいかな……)

 

 らしくもなく気が緩む。

 

 集中力に自信があるとはいえ彼も人間だ。

 文句も言わずに決まった作業を熟せるロボットとは違う。

 

 (そと)で自習、(うち)では宿題。

 

 それ以外はほぼ食事と睡眠というハードスケジュールも、二日前に塾が閉まり、昨晩学校からの課題を全部終わらせたことで一旦終了。

 

 ようやくゆっくり出来る余裕を持てたところで、彼はもぞもぞと布団にこもる。

 

「――――――」

 

 冬真っ只中の寒い朝である。

 暖房をつけているとはいえ布団の温もりは変わらず恋しい。

 

 薄ぼんやりと目を開けて携帯の画面を確認すれば時刻は七時半を過ぎたところ。

 

 休み中とはいえ普段の彼ならもう起きている。

 平日ならそれこそもっと早い時間帯からだ。

 

 ……が、人間生きていれば気を抜きたくなるときがあるというもの。

 

 たまには休日らしく惰眠を貪ろう、なんて悪魔の囁きに耳を傾けたときだった。

 

 

「――――んぅ」

 

「…………、」

 

 もぞもぞ、ごそごそと。

 なにやら、布団の中で彼の意思とは関係なく、ひとりでに動く熱源を感じる。

 

「――――ふみゅ……」

「………………、」

 

 大きさは大体百六十センチ前後。

 彼より少し小さい、おおよそ人間大サイズのものだ。

 

 その温もりはどこか人肌の温度に似ている。

 というかそれ以外考えられないほどに似通っている。

 

 言わずもがな、いま一度瞼を持ち上げて布団を捲れば予想通りの人影が目に入った。

 

「了華……」

「――――にゅぅ……」

 

 すぅすぅと寝息をたてながら脇――肇の隣、ちょうど布団全部被るような状態――でわずかに丸まっているのは誰でもない。

 

 彼の実妹だ。

 恒例の如く長期休暇で実家に帰省している妹殿だ。

 

 それがなにをどう寝ぼけていたのか兄の布団に潜り込んできたらしい。

 

「……おーい、了華ー?」

「――――ふにゃ……」

 

 人間懐炉(カイロ)湯湯婆(ゆたんぽ)か、彼の傍で眠る了華の表情は穏やかだ。

 

 起きているときはいつも保たれているキリッとした顔がそれはもう溶けている。

 ふにゃふにゃのほにゃほにゃである。

 

 見ている肇までつられて微笑んでしまうぐらいの安眠っぷり。

 

 思わずちょうど良い位置に頭が来ていたのもあって優しく撫でてしまう。

 

(了華、髪さらっさらだよねー……ふふ、女子校じゃなかったらモテモテだろうなあ)

 

「――――すぅ……」

 

 一体誰に似たのか、それとも顕性遺伝子だけを引き継いで来たのか。

 はたまた兄バカと言っても過言ではない彼の色眼鏡補正が強すぎるからか。

 

 一部の才覚を除いて平凡平均平静な肇と違い、了華は紛うことなき美少女だ。

 

 流石に主人公(ヒロイン)でトップクラスの渚には敵わないがそれでも十二分。

 きっと異性が普通に混じる環境であれば引く手数多だろう。

 

 (はじめ)としてそれほど可愛らしい(りょうか)は当然誇らしい。

 

「……了華? 起きて? 朝だよ。あと、ここ俺のベッドだよ」

「――――んぅ……、」

「了華ー? 了華ちゃん。了華さま。了華お嬢様。了華(ヒメ)? 起きてー」

「んんぅ……、……っ」

 

 ゆっさゆっさと身体を揺らしてみるが、どうにもまだ彼女は幸せな夢の中。

 

 すぅすぅと心地良い寝息のままにきゅっとシーツなんか掴んでいる。

 

 毒林檎を食べさせられた白雪姫とか、はたまた魔女の呪いにかけられた眠り姫とか。

 お姫さまはシナリオ上簡単に目覚めてはくれないらしい。

 

「……了華ー? 起きないとキスしちゃうぞー、なんて」

「――――ふぇぅ……?」

「あ、起きた」

「…………――――すぅ」

「こらこら、もう」

 

 即座に二度寝の態勢に入った妹を枕のほうまで引き摺り上げる。

 

 むにゃむにゃふわふわと微笑む妹は実に愛くるしい。

 それはもう最高に可愛い。

 これ以上なく可愛い。

 

 最早可愛いで家が建って住宅街に発展して町が出来上がるレベルだ。

 

 そんな了華の頭をよしよしと際限なく肇が撫でる。

 

 そういうコトをしているので妹が兄離れしようと決意するほどなのだが、もちろん彼はそんな事情に気付いてもいなければ知りもしなかった。

 

「了華ちゃん起きてー」

「――――むにゃ……ふぇ……」

「お目々開けてー? 了華ー」

「――――にゅぅ……」

「……まったくもー……了華っ、ほら起きてっ」

 

 耳元で気持ち大きめの声を出すと、ようやく彼女の身体がピクリと跳ねた。

 

「――っ、……んぅ? ……にぃさぁん……?」

「おはよう、了華」

「………………えへへ、にぃさんだぁ……」

「はいはい、お兄ちゃんだよー」

「……にぃさぁん……ふぇへへ……」

 

 目は開けたもののまだ寝ぼけているのか、普段からは想像できない間延びした声で了華がぎゅっと抱きついてくる。

 

 可愛い(キュート)

 究極(アルティメット)可愛い(キュート)

 超絶怒濤(スーパーウルトラハイパー)可愛い(キュート)

 

 こんなのはもう町どころではない。

 

 国だ。

 

 国が出来ている。

 

 妹の可愛さだけで国家が出来つつある。

 新生カワイイ帝国リョウカ王朝の幕開けだ。

 

 国家元首はもちろん可愛いの化身、天使の権化、地上に舞い降りた女神こと了華(いもうと)しかいない。

 

(流石自慢の妹、了華は凄いね。むしろ凄いが了華のためにあるね。うん)

 

「にぃさぁん……えへ、えへへ……っ」

「あはは。もうしっかり。中学二年生なんだから」

 

 言いながら、肇は一切の迷いも躊躇もなにもなく。

 さも慣れ親しんだかのように。

 

 前髪をさらっとかき分けて、了華の額にちゅっと口付けた。

 

 ――いやまあ仕方ないコトがあるにはあるのだが。

 

 兄も兄で結構妹に対するモノが色々とぶっ飛んでいる。

 それもこれも前世で百万飛んで一千万の愛してるを送り続けた誰かさん(おねえちゃん)のせいだ。

 

「――ふぃひっ……にぃさんだいしゅきー……」

「うんうん、俺も了華のこと大好きだよー。よしよし」

「えへへ、えへへへへ……っ」

「でもそろそろ起きようね、お姫さまなら目覚めてー」

「えへ――……、………………、……兄さん?」

「うん」

 

 直後、彼女の取った行動は早かった。

 

 布団をはね除けて瞬時にベッドを脱出。

 その勢いで乱れた寝間着(パジャマ)をパッパッと直して、ついでに()()()()大事な部分に問題がないか()()()()確認。

 

 残念なコトに異常なし、オールクリア。

 

 ぴしっと綺麗な気を付けの姿勢でその場に立って、こつんと踵を合わせる。

 

「おはようございます兄さん。ところでなぜ兄さんが私のベッドに?」

「俺のベッドだしここは俺の部屋だよ、了華」

「――本当ですね。……たしか夜中、トイレに行ったのでそのとき……」

「寝ぼけてて間違えちゃった?」

「はい……」

「まあそうだと思ったんだけど。とりあえずおはよう」

 

 肇もベッドから出て立ち上がると、了華は応えるようにこくんと頷いた。

 

 一見して平常心そのものだが実際は違う。

 必死に冷静そうな態度を装っているだけで視線は右へ左へ泳ぎまくっている。

 

 たぶん部屋間違えたのが恥ずかしいんだろうなー、なんてぼんやり考える兄はやはり天然(ポンコツ)でしかない。

 

「ご迷惑をおかけしました兄さん。では私は一先ず自分の部屋に戻りますので」

「うん。着替えたらまた降りておいで。今日は俺もずっと家だから」

「はい、分かりました。――失礼します」

 

 しゅばっ、と秒で扉の前まで移動した妹はご丁寧に一礼。

 そのまま廊下に出てまた一礼していた。

 

 ぱたん、と自室のドアが閉められる。

 

(……もう眠気飛んじゃったし、俺も起きよ……)

 

 くあ、と欠伸をこぼしつつ肇は箪笥から服を引っ張り出した。

 

 暢気な彼は先ほどの一連のやり取りもなんのその。

 気にした様子もなくさっさと寝間着から部屋着に着替えていく。

 

 

 

 そう――まさか隣の部屋で久々の兄成分(アニニウム)過剰摂取(オーバードウズ)により副作用で妹が死にかけているなどとは思いもせず。

 

 

『あぁああッ!! あぁあぁあぁ!! あぁあぁああぁあ――――ッ!!!!!!!』

 

 

 声にならない悲鳴を枕に顔をうずめて必死に押し殺す了華。

 肝心の兄はそんな彼女の努力をこれっぽっちだって知る由もなかった。

 

 まあ、なにはともあれ。

 

 一年の締めくくり。

 天気は小雪。

 

 今日も水桶邸は実に平和である。

 

 

『あぁああぁああ!!!! ああぁあッ!! あッ! あぁああああ――――!!!! ――あっ♡

 

 

 ……約一名の心境を除いて。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 リビングに降りるとすでに朝食は用意されていた。

 母お手製のベーコンエッグとトーストだ。

 

 いつもは共働きで忙しい両親も年末は流石に休業。

 

 母親はこのとおり家事を、父親は外で雪かきなんかしているらしい。

 

 北の国ではないのでそこまで深く積もりはしないが、銀世界が出来上がるほどにはここ最近降雪続き。

 あとでちょっと手伝いに行こう、なんて思いながら肇は食卓につく。

 

「おはよー肇。あ、ご飯食べ終わったらシンクに置いといて」

「おはよう母さん。洗い物ぐらいならするけど?」

「いいのいいの。了華もまだだし、まとめて後でやっちゃうから」

 

 受験生は大人しく自分に時間使いなさい、なんて窓を拭きながら言われる。

 

 こう見えて掃除洗濯炊事のできる家庭的な男子こと肇だ。

 妹が進学して寮に入るまではふたり分の料理だってつくっていた。

 

 故に多少の洗い物なんてお手の物――なのだが、こうもキッパリ断られては無理に手を出しづらい。

 

 母親は母親で彼に任せているのに思うところがあるのだろう。

 日頃の疲れも感じさせない勢いで()()()()動く姿はとても三十台とは思えなかった。

 

「――お待たせしました兄さん。母さんも、おはようございます」

「はいはい、おはよー了華。あんたもちゃっちゃと食べて片付けなさい」

「…………、」

 

 しばらくして二階から下りてきた了華が肇の隣に腰掛けた。

 

 もちろん格好はちゃんと普段着に着替えられている。

 軽く整えてきたのか、髪の毛も寝癖やら跳ねやらがない。

 

「……? どうしましたか、兄さん」

「いや……、」

 

 そしてなんか、妙に、お肌が艶々(ツヤツヤ)しているような気がするのだが――

 

「――なんでもないや、うん」

「ふふっ、そうですか」

 

 なんとなく聞かない方が良いような気がして誤魔化す。

 

 本能からの注意勧告、純朴なりの危機察知能力が働いた結果だ。

 その答えにまでは辿り着けなくても訊くのは不味いと判断したらしい。

 

 率直にいって彼自身の長年の勘である。

 

 当たるも八卦、当たらぬも八卦。

 

 いずれにしても気にするコトはないだろう、と。

 

「――そういえば兄さんは初詣いくんですか?」

「まあ、いちおう? 合格祈願のお守りとか買っておきたいし」

「そうですか。残念です、私、学校の友達に誘われてて」

「? 良かったじゃない。みんなで初詣、楽しそうで」

「兄さんと行けませんのでっ」

「ああ、そういう。そっかそっか」

 

 すぐ横でハムスターみたいにトーストを囓る了華の頭を撫で回す。

 

 どうあれ血の繋がりというのはやっぱり大きなもの。

 ひとつ下に生まれてきてくれた妹はそりゃもうカワイイ・オブ・ザ・カワイイ。

 

 どこぞの姉によって姉弟とはかくあるべし、と身体に教え込まれたのもあって肇の甘さは留まるところを知らなかった。

 

 水桶了華、全人類()の四大欲求である食欲と()()を同時に満たす。

 

「俺も誰か誘ってみようかな、知り合い」

「良いじゃないでしょうか。……あぁ、夏休みのときに言っていた塾の方は――」

「ん、優希之さん良いね。あとで連絡しとこう」

「――やめてくださいねと言おうとしたのにぃ……っ」

「えー、なんでー」

 

 ぎりぃっ、と歯を食いしばる危機感を忘れなかった妹君。

 そんな了華を前に肇は困り顔をしながらくすくすと笑っている。

 

 悪意なしにまるっきり微笑ましいものを見る目だった。

 

「優希之さん良い人だよ。頭良いし、勉強教えてくれるし、綺麗だし可愛いし」

「後ろふたつの情報は要りません!」

「なになに、優希之ちゃんの話? たしかにあの子すっごい美人さんだったわねー」

「っ、だ、だいたいそれなら私と比べてどっちのほうが上ですか!?」

 

 がたん、と椅子から立ち上がりかけた了華をどうどうと押さえる。

 

 張り合う必要があるのかどうか肇には甚だ疑問だが、聞かれただけに律儀にうーん……なんて考え込む。

 

 ……数秒して、ぽつりと。

 

「………………若干……」

「はいっ」

 

「優希之さんかな」

 

「兄さんっ!?」

 

 がーん、とショックを受けるのは現在進行形で兄離れ挑戦者である。

 

 言うほど離れられていないのではというツッコミは禁句だ。

 目に見える成果がないだけで、実際精神面では効果が出ている……はず……たぶん……おそらく……きっと。

 

 了華的にあると信じたい。

 

「いや、客観的に見て。だってあの子凄いよ、存在からして」

「そんな感想は求めていません! 嘘でも私と言ってください兄さん!」

「ごめんごめん」

「兄さんのばかぁー!」

 

 ぽてぽてと肇の胸を叩きつつ、嘘泣きしつつ、同情を誘おうとする策士了華。

 

 

 しかしそれでどうにかなる兄ならそもそも苦労しない。

 

 妹のいじらしい抵抗によしよしと宥めながら朝食のホットココアに口を付ける。

 

 少し冷めてはいるがちゃんと美味しい。

 冬場はやっぱり暖かいものだ。

 

「まあ優希之さんが駄目って言ったら駄目なワケだし、そうと決まったのでもないからね? あくまで誰を誘うかっていう選択肢のひとつだよ」

「そ、そうですね! 年末年始ですし、あちらにも色々と事情がおありなのでしょう。他をあたりましょうね兄さん」

「おかしい。まだ聞いてもいないのに答えが決まってる話の流れだ……」

「年頃の女子でしたらその方も友達と行くのでは?」

「たしかに、それもそうだね」

 

(計画通り)

 

 肇に隠れて了華がニヤリと笑う。

 

 これでさりげなく兄と塾仲間とかいう優希之某の接触を潰すことができた。

 第一候補をなくした彼はその他のクラスメートか誰かを誘うだろう。

 

 了華は勝利を確信してトーストに齧り付く。

 

 任務完了(ミッションコンプリート)

 

 一仕事終えたあとの食事は最高にたまらない。

 

「でも聞くだけタダだし聞いてみるよ、いちおう」

「なんでッ!!」

「こらー、了華ー。テーブル殴るなー」

 

 訂正、作戦失敗(ミッションフェイルド)

 食卓に叩きつけられた拳がわなわざと震えている。

 

「兄さんはその優希之さんという方がそんなに良いんですか!?」

「わりと結構好きだよ?」

「どうしてッ!!」

「了華ー、次やったらアンタにも拳骨落とすからねー」

 

 その後、宣言通り渚へ連絡しようとする肇の背後には「断れー、断れー……」と念みたいなものを送る少女の姿があったとかなかったとか。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 ――ふと、携帯の震える音で渚は目を覚ました。

 

「…………、」

 

 もぞもぞと布団に包まったまま、無心で手を伸ばす。

 所構わずぺちんぺちんと叩かれる様相はモグラ叩きみたいだ。

 

 尤も彼女が叩きたいのはモグラでもなければ、叩くのでもなくそれはモノを探す行動なのだが。

 

「ん」

 

 べしっ、と会心の手応えを覚えてぐっと掴む。

 

 そのまま携帯は彼女の生息範囲(テリトリー)へ。

 するすると腕と共に布団の中へ仕舞われていった。

 

 さながら姿なき狩人。

 ファンタジーの世界に居そうな、捉えた獲物を己の城に引き摺り込むタイプのボスだ。

 

(……こんな時間に、だれ……?)

 

 寝起きの不機嫌さも隠さず画面を点ける。

 

 こんな時間というが現在すでに十時半過ぎ。

 朝に強い善良な人たちなら起きている時間帯だ。

 

 夜更かし三昧の学生諸君や日頃の疲れを癒すのに必死な社会人諸君には些か少ないかもしれない。

 

 が、それはともかく。

 

(メッセージ……だれ……、……水桶……、)

 

 なんだ水桶くんか、と画面を切って枕元にぽんと置き直す。

 そのまま顔をうずめるようにして再度目を閉じていく。

 

 なんだか寝ぼけている気がするけれどとりあえずいまは睡眠。

 

 一に睡眠、二に睡眠、三四も睡眠で、五も睡眠だ。

 とにかく寝たい、力が出ない、やる気も曖昧な渚である。

 

 理由なんて考えたくはないけれど。

 

 おそらくこの二、三日の間。

 塾が閉まって、毎日のように顔を合わせていた彼とめっきり会う機会がなくなったのが――――

 

 

 

 

 

(………………待って水桶くんッ!?)

 

 

 がばぁっ、と布団を飛ばして跳ね起きる渚。

 

 ぽやぽやしていた頭はゆっくり情報を整理したところで一気に覚醒。

 そして同時に理性は感情の荒波、濁流に呑まれて流されていった。

 

 残念ながら救助(レスキュー)は難しい。

 

(でっ、だ、なんっ、え!? 水桶くん、からっ、メッセージ……!?)

 

 カタカタと震える手で携帯を掴み直す。

 いま一度画面を点灯してみれば通知の文言は変わりない。

 

 メッセージ、一件、水桶肇。

 

 ためしに寝ぼけ眼をごしごしと擦ってみた。

 まだ変わらない。

 

 もしやこれは夢だろうか。

 いまだ夢の中にいるのか。

 

 ぎゅっと頬を抓ってみる、ちゃんと痛い。

 

(な、あぅ、ぇ、え!? ほ、ほんとになんで……!? なにか用事……!?)

 

 胸を高鳴らせながら祈るようにそっとロックを解除する。

 アプリのトーク欄を開いてみれば短い文面で一言。

 

 〝いま電話して大丈夫?〟

 

「――――――」

 

 渚の脳は機能停止に陥った。

 

 電話、デンワ、でんワ、電わ、でんわ。

 

 ――()()()? と内心で思いっきり首をかしげる。

 

 はて、なんだろう。

 彼の言いたいところがちょっとよく意味が分からない。

 

 電話というのは一体どういう意味なのか、もしかして通話というコトなのか、それならそれでなぜ通話をするのか――渚にはまったく理解できない。

 

 この乙女ゲー主人公(ヒロイン)、思考能力が低下している。

 

(――――どっ、どど、どどどどどどど……っ!?)

 

 挙げ句の果てに頭の中で吃りに吃ってとんでもないコトになっていた。

 

 工事現場の掘削ドリルみたいな混乱に襲われながら渚は画面と睨めっこ。

 目の前の状況を冷静に判断するため、まずはひとつずつ区切って確認してみる。

 

 ――いま/電話して/大丈夫?

 

(大丈夫じゃない大問題だよ)

 

 寝起きである。

 目が覚めたばかりである。

 

 髪の毛はボサボサだし寝間着(パジャマ)のままだ。

 

 問題しかないが――それは目に見える彼女の状態であって話すのに支障はない。

 

 渚は目を伏せて、んんっ、と軽く喉を鳴らしてみた。

 

(――どうしよう起きたばっかりで喉が潤ってない……っ)

 

 気にしすぎだった。

 

 けれどもまあ仕方ない。

 彼女の気持ちを考えるなら当然のコト。

 

 これでもちゃっかりきっかり、本人には言えないが恋する乙女なワケで。

 

(……だ、大丈夫です……っと)

 

 なんか敬語になったけれど構わない、これで送信、とボタンを押す。

 

(――――はやッ!?)

 

 直後、秒で鳴った携帯に渚の肩はびっくぅーん! と跳ねた。

 あまりの驚きに宙へ放りだしてしまったスマホでお手玉なんかする始末。

 

 それをなんとか掴み取って、着信画面を穴が開くほど見詰めて三秒。

 

 意を決したように瞼をぎゅっと閉じながら、彼女は通話ボタンを恐る恐る押し込んだ。

 

 

「――――も、もしもし……っ」

『あ、優希之さんおはよー。元気?』

「う、うん……元気、だけど……」

『そっかー』

「……その、み、水桶くんは……?」

『俺も元気だよ。冬休みの課題も殆ど終わったし』

「お、おー……はやい、ね……」

 

 詰まりながらも笑みを浮かべる渚。

 彼への対応が一段階下がっている気がするが、なにしろ不意打ちなので致し方なし。

 

 今日は機会があると最初から分かっている場合と、今日は話す事もないだろうと気を抜いている場合とでは彼女の心持ちにも天と地ほどの差がある。

 

 現在は紛れもなく後者だ。

 唐突にかかってきた電話チャンスに完璧な対応ができるほど渚は強くない。

 

「っ……そ、それで……あの、」

『? うん』

「い、いきなり電話、とか……どう、したの……?」

『あぁ、なんか、優希之さんの声聞きたくなって』

「っ!?」

 

 〝――――兵器だ。ここに生物兵器がある……ッ〟

 

 ガタガタと震えだした両足を渚は懸命に力を込めて落ち着かせる。

 

 どうでもいい理由ならまだしもその言い方は反則だ。

 声が聞きたい――だなんて、それこそ恋人とかじゃないと普通はしないやり取りと言っても過言ではない。

 

 つまり実質渚と肇は恋人である。

 

 Q.E.D. 証明終――――じゃなくて。

 

 そうじゃなくて、つまり、その、なんというか。

 

「わ、私……の、声……!?」

『うん。ほら、メッセージだけだと素っ気ないかなーって』

「そ、そっか……っ」

『ていうことで本題に入るんだけど』

「? ぇ、あ、うん……?」

 

 なんだろう、と渚は困惑したまま首をかしげる。

 

 声が聞きたいのが本題ではなかったのか。

 だとするとそれはちょっと残念だが……とにかく、ならば用件は何なのかと。

 

『今日大晦日でしょ』

「う、うん」

『年が明けたら初詣行こうと思ってるんだけどさ』

「うん、うん」

『ふたりで一緒にいかない?』

 

「――――ふぇぁっ!?」

 

 今度こそ渚の思考回路は爆散した。

 

 これより頭を支配していた理性は無事消滅。

 以降は恋愛脳がトップをつとめるらしい。

 

 そんな悪ふざけは無しにしても久しぶりの彼との時間。

 少し離れていたあとの再開だ。

 

 もうその時点で彼女は強く直感した。

 

 ――どうしよう。

 

 そんなの、絶対にマトモじゃいられない……!

 

 

 



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27/あけまして、

 

 

 

 

 年をまたぐ近辺は往々にして忙しい。

 それは家のコトでも他のコトでも等しくだ。

 

 十二月からしても二十四日は聖誕祭前夜(クリスマスイブ)

 二十五日は聖誕祭本番(クリスマス)、それが終わればすぐに大晦日であっという間にお正月である。

 

 日々の移ろいは激しいとはいえ、冷静になってみると激しすぎる移り変わりだ。

 

 もはや馴染みのあるモノとなった一連の流れ。

 その切り替えの良さを薄情だと思えるだろうか。

 

 そんな誰かはきっと少ない。

 

 移ろう日々に不変などあるはずもなく。

 すべて変わり行くからこそ世の常だ。

 

 ――午前零時を越えた一日(ついたち)の深夜。

 

 いつもは寝静まっているはずの町も今日に限っては朝まで大賑わい。

 住宅街には明かりが灯って、道行く人たちも昼間同様多いまま。

 

 とくに各所のお寺や神社は初詣の参拝客で溢れかえっている。

 

 まさしく年明け初日、一月一日、正月騒ぎ。

 

 そんな中、道路脇にぽつりと佇む少女がひとり。

 地上の光に潰された夜空を見ながら、渚はほうと息を吐いた。

 

「…………、」

 

 肇が待ち合わせ場所に選んだのは塾から帰るいつもの分かれ道だ。

 彼の家からは若干遠いものの、渚の家からは五分足らずでつく位置になる。

 

 気を遣ってくれた……かどうかは知らないが、彼女の負担が少ないのは事実。

 そしてそれを知ってわずかに嬉しくなるぐらいには、彼女がやられているのも事実だ。

 

「――――……」

 

 細く、煙をふかすように息を吐いていく。

 

 待ちはじめてはや十分。

 

 もともと集合時間がもう五分は先なのもあって彼の気配はまだない。

 そんなコトを分かりきっていながら早めに準備してここに居る。

 

 どうしてなんて聞くのはナンセンス。

 渚自身この時間が嫌いじゃない、といえばほぼ答えに近いか。

 

 ――真冬の空気は肌を刺すようだ。

 

 手袋をしていない指先は刻一刻と熱を奪われていく。

 頬も耳も夜の冷気に感覚が鈍くなっている。

 首元にはショールを巻いているものの、見える部分は当然寒い。

 

 けれどそれでも待ち続ける。

 

 なんだかちょっと楽しくなって。

 

 外はめっきり寒いのに、胸の内はなんだか熱くて暖かい。

 燃えるような感じはそれこそいつまでだって待っていられるほど。

 

 ……そんな、あまりにも気恥ずかしい考えに囚われたとき。

 

「――優希之さん?」

「っ……」

 

 電波に乗った通話越しではなく、きちんと近くで肉声で。

 

 待ち人の声が深く少女の耳朶を震わせた。

 約束の時間より早いのは偏に彼の性格故のコト。

 

 半ば分かりきっていた行動に――それでもちゃっかり嬉しくなりながら――ゆっくりと顔を上げていく。

 

「……水桶、くん」

「ん、久しぶりー……でもない?」

 

 くすくすと笑う彼は自分の言葉選びにツボるところでもあったらしい。

 

 肇と会えなかった期間は数字にして三日。

 ほんの三日、たった三日。

 

 でも、渚にとってはされど三日だった。

 

 会えない時間が(おもい)を育てるなんて良く言ったものだ。

 三日間会えなかったというだけで、目の前の彼に酷く心がかき乱される。

 

 ……ああ、本当に。

 

 厄介な惚れ方(もの)抱え()たものだと。

 

「――それ、振袖?」

「っ、ぇ、あ、う、うん……っ、その、せ、折角だからって、お母さんが……っ」

「へぇー……」

 

 正確には「水桶くんと初詣? あらあら! 折角だからとっておきの格好で行ってらっしゃい! 振袖! 振袖着ましょう!」と強引に押し切られたのだが、それを言うと彼女も火傷を負うので黙っておく。

 

 ちなみに後から聞いた話だが、父親はこのとき気配を殺しつつこっそりカメラ片手に着いてきていたらしい。

 数々の写真を見て「いやぁ、()()()()()()()()のツーショットはどれも最高だなぁ!」なんて言ってくれやがったのはほんとに最悪だった。

 

 閑話休題(それは置いといて)

 

「…………っ」

 

 じっと、照れたように髪を弄る渚を肇が見詰める。

 

 浴衣のときも、それこそメイド服のときだって思ったが、流石は乙女ゲー主人公(ヒロイン)

 素材という点では他者に断然引けを取らない。

 

 なにを着ても似合うだろうコトは分かっているだけに、実際珍しい格好をしているとそれだけで魅力的に見えてくる。

 

 彼女が着ているのは紺地に綺麗な水色の暈しが入った振袖だった。

 

 青の濃淡(グラデーション)が特徴的で見事なデザイン。

 着物の柄は色に合わせて青い薔薇と鮮やかな宝石の紋様が入っている。

 

 夏場の向日葵とはまた違う、彼女本来の良さに溶け込むような似合いよう。

 

 

「――――――、」

 

 

 眩暈を呑み込んだのは一瞬。

 

 理由なんてこっちもまた分かっていたことの再確認。

 いい加減慣れきったと思っていたけれど、まだまだ彼女(なぎさ)の底は深いみたいだ。

 

 ……端的にいって。

 

 その瞬間、程度の差はあれ。

 

 肇は間違いなく、彼女に見惚れたのだ。

 

 

「――……うん」

 

 

 そんな感覚を味わうように彼がこくりと頷く。

 

 次いでスッと目を開けて、恥ずかしそうに――けどどこか不安そうに――言葉を待っている少女に向かって。

 

 

「やっぱり〝君〟(優希之さん)は綺麗だね」

 

 

 優しい顔で微笑みながら、そう告げた。

 

 向い合った少女はただその言葉を受けるだけ。

 ぽかんと固まって、わずかに口を開けて。

 

「――――――」

 

 そして、凍えていた耳たぶまで真っ赤になる。

 

(な、ぁ、あっ、なんっ、なん――っ――――っ!?)

 

 ……ありえ、ない。

 

 体内で熱が一気に燃え広がっていく。

 寒さで辛うじて固まっていた理性が一気に溶け崩れる。

 

 ……ありえない。

 

 だってこんなのは反則だ。

 まったくもって予想外の一撃だ。

 

 ありえない。

 

 本当、今まで何度も散々褒め尽くしておいて。

 なにを着ても似合ってるだの可愛いだのと言っておいて。

 

 あまつさえ綺麗だなんて台詞も聞き覚えがあるというのに。

 道端の人通りも少ない場所で、ぜんぜん心躍るシチュエーションでもないのに。

 

 ――ありえない。

 

 その一言が、こんなにも……胸を、揺さぶるよう響く……なんて。

 

 …………本当、ありえない。

 

 彼は、ズルい人だ。

 

「素敵だ、優希之さん。世界でいちばん似合ってる」

「――――――っ」

 

 こんなに欲しい言葉をくれて。

 こんなに暖かく微笑んでくれて。

 こんなに大事な言葉をくれて。

 

 それで惚れない人がいるというのなら、教えてほしい。

 

 なんなら渚は師に仰ぎたい。

 

 そのぐらい――ちょっと――これは――なんとも――ダメ、だ――……

 

「…………ぁ、り、がと……っ」

「ふふっ、顔真っ赤」

「っ、み、水桶くん、が……変なコト、言うから……っ」

「変じゃないよ、大事なこと。――それでいて本当のこと」

「っ…………も、もうっ……」

 

 耐えきれなくてふいっとそっぽを向く渚に、肇が口に手を当てて笑い声を洩らす。

 

 流れる銀髪は夜に映える。

 濃紺の着物は彼女の白さをより一層引き立てていた。

 現在(イマ)と同じ、冬の月を思わせる目映い輝き。

 

 こんなものを独占するだなんて勿体なさ過ぎる。

 自分がその立場なのだと思うと余計、尚更だ。

 

「……ていうか、いつから待ってたの?」

「えっ、と……だいたい、十分ぐらい前、から……?」

「うそ、そんなに」

「あ、あはは……っ」

 

 冷静になってみると途轍もなくはしゃいでいるようで、渚は思わず下を向いた。

 

 場所は家のすぐ近く、時間はぜんぜん先のコト。

 事前の連絡でそれだけ分かっていながら堪えきれず待っていたのだ。

 これをはしゃいでいると言わなくてどういうのか。

 

 ……違うとも、そうじゃないとも言えない。

 

 彼女はもう笑うしかない。

 

 だって、こんなのは――――

 

「寒かったでしょ……」

「え、あ、うん……そう、かな?」

「そうだよ。だって、ほら」

 

 と、彼は赤くなった少女の指先を両手で包んで。

 

「こんなに冷たくなってるのに」

「っ!?」

 

 渚の頭の裏でばちん、ばちん! となにやら弾ける音。

 

 理性とか冷静さとか落ち着きとか、そういった確かなものが爆ぜていく。

 

 心臓はさっきからもう闘牛並みの暴れっぷり。

 うるさすぎるのが一周回って最早心音すら聞き取れないぐらいだ。

 

 視界も鼓膜もなにもかも、まとめて滲んで不鮮明な世界。

 

 こんなのは拷問だ。

 

 これほど距離が近いのに、ただの勉強仲間でしかないあたりがとくに。

 

「……手、繋いでおこうか?」

「ぇ……?」

「初詣だから人が多いし、これならちょっとは寒くないし」

「――ぁ、あ、うんっ……そ、そう……だね……っ」

「おっけー」

 

 きゅっと、渚の手が取られる。

 

 その誘いに頷けたのは我ながら凄まじい勇気。

 彼女自身頑張ったと褒めてあげたいような一手だった。

 

 左手に彼の温度を感じながら、ふたり並んで歩いていく。

 

(っ――――……)

 

 年明け早々の町は少し歩けば仄明るい。

 人の流れを追っていけば段々と賑やかさも増してくる。

 

 寒さの中に漂う熱気は乾燥しきった空気もあって湯気のよう。

 形もなく儚く流れて昇っていく、泡沫の名残みたいなもの。

 

 依然として気温は肌を刺す。

 

 一瞬の風に身を縮めた渚は、肇は大丈夫だろうかと彼のほうを見た。

 

「……ん、どうしたの?」

「っ……い、いや……」

「?」

 

 肇の格好は晴れ着でこそないものの、防寒対策は十分だった。

 

 上は膝丈まであるコートを着ていて、首元には落ち着いた色のマフラーを巻いている。

 良い意味で中学生らしくないコーディネートは不思議と彼の雰囲気に似合っている。

 

 少年らしさの薄れた、どちらかというと青年っぽいトゲの無さ。

 

 走る姿は活発的で溌剌としたものだった。

 笑った表情は眩しく輝いていて、気分が上がれば年相応に子供っぽくて可愛らしい。

 

 でもいまの彼はそのどれとも違う。

 

 ただ静かに微笑んであるくその様が、胸の扉を何度も何度も叩い(ノックし)てきて。

 

 嫌が応にも、私はこの人が好きなんだと自覚させられる。

 

 ――――とても、魅力的。

 

「き、今日の水桶くんは、格好いいなー……なん、て……っ」

「――そう?」

「あ、あはは……っ、ご、ごめん急に、変な、コト……言って……っ」

「ううん、嬉しいよ。お世辞でも、そう言ってもらえると」

 

 俺だって男の子だし、と付け足す肇。

 

 ……お世辞だなんてとんでもない。

 口にしてしまって渚は殊更確信してしまったほどだ。

 

 とっても前に、彼が知り合いで格好良い男子の名前をあげてくれたコトがある。

 その顔は体育祭と文化祭のときにちらっと覗いてみたけれど。

 

 なんてことはない。

 

 彼女にとっていちばん格好良いと思える人は、もう世界でたったひとりだけになってしまった。

 

「ありがとう、優希之さん」

「――――――、うん……っ」

 

 無邪気な笑顔にちいさく返す。

 それだけで心は幸せだ。

 

 目も耳も鼻も人の器じゃ足りないと思うような充足感。

 

 幸先の良いスタート。

 ともすればそれは良すぎるぐらいに。

 

 ふたりは同じ道をなんにも邪魔されず進んでいく。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 予見していたとおり神社は大勢の人で賑わっていた。

 

 深夜二時を回って気持ち数も減ったが、目に見えて分かるほどかというと微妙なところ。

 

 なんだかんだで元旦には特別なものがあり続けるが故か。

 流行り廃りも関係ない日常に溶けこんだ一大行事の大きさだろう。

 

 肇と渚は手を繋いだまま参拝客の列に並んだ。

 

 ふたりで他愛もない会話を交わしながら、ゆっくりと順番が来るのを待つ。

 

「――それでね、今朝起きたら妹が俺の布団に入ってて」

「え」

「寝ぼけてて間違えちゃったんだって。猫みたいでカワイイよね、うちの妹」

「そうなんだ……、……ふーん……」

「……優希之さん怒ってる?」

「別にー?」

 

 まあ偶に、そんな感じのやり取りも交えつつ。

 

 列が進むことおよそ一時間弱。

 ようやくといったところで彼らの番がやって来た。

 

 鳥居をくぐって、手水舎で手を洗って口をすすいで、いざ本殿へ。

 

「……神社のお参りってどっちだっけ?」

「二礼二拍手一礼じゃなかった……?」

「ああ、そっか。お寺は手、叩かないんだよね」

「たしか、そう。……私も詳しくは覚えてないけど」

 

 賽銭箱の前に着くと、ふたりしてポケットから財布を取り出す。

 小銭を入れて鈴を鳴らして、言ったとおり二回お辞儀をして二度手を打ち合わせる。

 

 じっと固まること数秒。

 

 最後にもう一回お辞儀を済ませて、一通りの流れは完了した。

 

「……水桶くんは、なにかお願いした?」

「もちろん合格できますようにって。優希之さんは?」

「私も同じ。……まぁ、そうなるよね……」

「俺より頭が良い優希之さんは願わなくても受かるでしょ、どうせ」

「そんないきなり拗ねないでも……そこまで変わらないじゃん、点数……」

「四百九十二と四百九十七が大して変わらないは言い過ぎだと思う」

「えぇ……、」

 

 実際五点差なのだが、肇における五点と渚の思う五点はまったく異なる。

 

 彼からしてみれば五重の壁、あるいは五つの峠みたいな差。

 彼女からするとほんの五歩分の違いみたいなものだ。

 

 両者の隔絶は大きい。

 

 たぶん()()()()にマリアナ海溝ぐらい。

 

「……えっと、どうしよっか……? おみくじとか、引いていく……?」

「良いね。引こう引こう」

「……あと、お守りもあるみたい」

「そっちも当然。今年が勝負なんだし」

「……そっか」

 

 今年が勝負。

 

 その言葉は渚だって例外じゃない。

 高校に上がれば大事なときがやってくる。

 

 そんな未来は最初から分かりきっていたことだ。

 

 何度も繰り返すように懸念点があるとすればそこだけ。

 もしも受かって入学して、優希之渚が優希之渚(ヒロイン)になるというのなら。

 

 彼女の取るべき行動は一体どれが正解なのだろう。

 

(――――……)

 

 引いたおみくじに目を通していく。

 

 彼のほうはそこそこ良かったらしい。

 横目でちらりと見れば、ふんふむと明るい表情で頷いていた。

 

 対して彼女のほうはというと――

 

「優希之さんは結んでく? おみくじ」

「……ううん、持っておく」

「そっか。結構良かったんだね」

「…………うん」

 

 結果をそっと仕舞い込んで、渚は曖昧に微笑んだ。

 

 それは陰鬱さというよりも複雑さの滲んだ顔。

 

 胸の奥に隠した疑問は殆ど答えの決まっている自身への問いかけだ。

 

 いまにあるものを壊してまで新しいものが欲しいのか。

 この関係を崩してまで掴みたいほど、知らない誰かが魅力的なのか。

 

 そんなのは少し考えただけでも分かる問題(コト)でしかない。

 

 何故なら彼女は、もうすでに。

 

「――――あっ!」

「っ?」

 

 と、不意に肇が珍しく大きめな声をあげた。

 渚が驚いてそちらを見ると、彼も自分で言ってびっくりしたのかパッと口を押さえている。

 

 一体何事だろう。

 

 そんな風に見詰めたところで、肇は変わらぬ笑顔で頬を緩ませて。

 

「――言い忘れてた。あけましておめでとう、優希之さん」

「…………あぁ、そういう……」

 

 はあ、と息を吐きながら心臓を落ち着かせる。

 

 いきなりのコトで胸は跳ねたが致命傷ではない。

 ぜんぜん軽傷、このぐらいならどうってコトもない擦り傷。

 

 なので彼女も、返すように優しく微笑んで。

 

「……あけましておめでとう、水桶くん」

 

 穏やかに鮮やかに、祝いの言葉を返すのだった。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 ――――神社

 

 おみくじ

 

 

 第――番

 【大吉】

 

 

 満ち足りた先の幸運に恵まれる。

 難しく考えずに割り切るのが良い。

 怖がらずに行動すればなおの事良い結果をえられる。

 迷わないことが肝心。

 

 

 ○願い事:かなう。焦ってはいけない。

 ○失し物:見つかる。けれど望んだ形ではないかもしれない。

 ○争い事:苦労せずに勝てる。

 ○転居 :良い。

 ○仕事 :成功の機会。心身ともに無理は禁物。

 ○縁談 :周囲の人に縁あり。

 ○恋愛 :その人にとってもあなたが一番大切な相手。

 ○家庭 :息災。心配は要らない。

 ○出産 :安泰。

 ○学問 :とてもいい。余所見には注意。

 ○待ち人:来る。すでに会っている人の可能性あり。

 ○旅行 :誰かと行くとなおよし。

 ○病気 :快方に向かう。

 

 

 

 

 



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28/甘いものと意味

 

 

 

 

 お正月が終わればあっという間に冬休みは終わり――了華も南女子の寮へ戻り――肇にとってはいつも通りの毎日が帰ってきた。

 

 涙ながらの別れをしてきた妹のコトはちょっと気になるが、いまはそれより自分のコト。

 

 変わらぬ日々の流れは差し迫った受験への対策でいっぱい。

 学校で授業を受けて、塾で諸々勉強して、家で課題を済ませて自習に励む。

 

 忙しない時期は時間の経過も早いもの。

 

 なにより年の初めは古くから色々と行事ごとも重なっている。

 一月往ぬる二月逃げる三月去るとは有名な言だ。

 

 なので、

 

「もう二月だよ優希之さん……」

「……そうだね」

 

 気付けばまるまるひと月を何事もなく消費してしまっていた。

 

 いや、学力的に成果は十分あるのだが――それとこれとは話が別。

 

 不安の種は早々取り除けるものではない。

 目下彼らの志望校である星辰奏は立ち位置的にいちおう公立高校だ。

 その一般入試は近隣の私立高校より後、二月末に予定されている。

 

 つまり期限まではあと一か月を切っている。

 

 運命の日は本格的に、刻一刻と近付きつつあった。

 

「大丈夫かな……いけるかな……試験……」

「……そんなに心配……?」

「心配だよ、もちろん。……俺は優希之さんみたいに素で頭良くないの」

「いや、私も勉強してるからで……生まれつきじゃないし……」

「またそんなこと言って。この前の期首テスト、忘れてないから」

 

 そう――思い起こされるのはちょうど半月ほど前。

 中学生活最後の三学期がはじまり、しばらくして試験結果が帰ってきたときの話だ。

 

 肇はここで学年首位の座を奪還。

 

 見事五教科の総合計、および各教科の点数でも一位(トップ)に君臨。

 最早これ以上なんてないだろう、と意気揚々塾で待つ渚へと突撃した。

 

 突撃してしまったのだ、身の程も知らずに。

 

『どう? 凄くない!?』

『……ん、すごい。おめでと、水桶くん……』

『ありがとー!!』

『っ!?』

 

 〝きゃぁああぁあぁ――――!?〟

 

 まあそのあたりのリアクションは昨年の焼き直しに過ぎないとして。

 

『それでそれで! 優希之さんは!?』

『……えっと、その……』

『なになに! 何点なの!? もしかして!?』

『――――ん……』

『え、なに? なんだって!?』

『――ま、満点……です……』

 

 満点。

 

 つまりは五教科合計五百点。

 

 一問のミスもなし。

 部分点すらなし。

 

 オールクリア、パーフェクト、素晴らしい、よく出来ました、花丸上出来。

 

 本当の本当に、比喩でもなんでもなく、これ以上ない点数を叩き出したのだ。

 

 そりゃあ勝てない。

 勝てるハズがない。

 

 肇は悲しさのあまり枕を濡らした。

 

 なんという才能の差、これが人間のやる事かと。

 

「――あ、あれは偶々……だから。稀に、あるんだよ……」

「……へぇー、ふーん」

「な、なに……?」

「稀にあるんだ、満点。すごいなー、尊敬しちゃうなー」

「いや……もう、だから拗ねないでって……」

「ふーん」

 

 未だにちょっと……というかは個人の裁量だが……根に持っている肇である。

 

 渾身のテスト結果を容赦ない実力で叩き潰されたのはとんでもない衝撃だった。

 そしてやはり五点の差は大きかったということだ。

 

 そもそもいくら勉強が出来ると言っても限度があるだろう。

 基本五教科で成績が良いというのはせいぜい九十点後半が良いところ。

 

 オール百はない、百は。

 

 なんだ五教科満点って。

 

「それだから優希之さんは受験に緊張も心配もしてないんだ」

「まあ、半分ぐらいそうだけど……」

「半分……?」

「…………ごめん、七割ぐらい……」

「ほら。ほらやっぱり。――まあ良いけど。当然だろうし……」

 

 はあ、と肩を落としながら肇はため息なんてつく。

 

 やれるだけのコトはやった。

 自分なりに必死こいて勉強して、実際学力もそれなりに上がった。

 

 三年になったばかりの頃は上位止まりだった成績もいまやトップだ。

 

 間違いなく躍進している。

 努力は実を結ばなかったワケではない。

 むしろ試験のとおりこれ以上ない形で結果に表れていた。

 

 それでも不安なものは不安なのだ。

 

 なにせ一度目はノー勉で通った比較的緩い市立校。

 

 今回のような挑戦は初めてなのもあって、柄にもなく焦燥感に襲われている。

 悪い表現をするのなら怯えている、と言っても良い。

 

「……大丈夫だよ。水桶くんなら」

「分かんないよ、そんなの」

「元気出して。……えっと、ほら……あ、飴、あげるから……っ」

「……甘い物でつられるほど子供じゃないよ、俺は」

「い、いらない……?」

「もらうけど」

 

 ぽん、と渚の手から包装された飴玉(キャンディー)を受け取る。

 

 とくにコレといった変わり種でもない。

 よくスーパーのお菓子売り場なんかに売っている市販のものだ。

 

 折角なので、早速口に含んでみる。

 

「……美味しい」

「そ、そう……よかった……」

 

 ……疲れたときには甘い物。

 

 成る程たしかにそうだ、と肇は胸中で納得するよう頷いた。

 

 ――にしても、

 

(普通だ……優希之さんの反応的に、なにかあるかと思ったけど)

 

 先ほどの返答にしろ、その前の勧めてくる態度にしろ、少し落ち着かない様子だった渚である。

 正直いたずらの類いかとも思ったのだがそうではないらしい。

 

 貰ったキャンディーは不味くもない普通の味。

 普通に甘く普通に美味しいマスカット味だった。

 

 ならば一体、なにが彼女に些細な異変を与えたというのか。

 

 コロコロと飴玉を口の中で転がしながら、ふと渚のほうへ視線を向ける。

 

「……っ」

「…………?」

 

 机に向かってカリカリと教材にペンを走らせる少女。

 

 その姿は一見して普段とそう変わりない。

 ハイペースを保つ淀みない筆記音も、綺麗な居住まいもまったくいつも通り。

 

 おかしなところがあるとすれば――そう、ちょっと耳が赤いぐらいだ。

 

 というか、顔までなにやら赤くはないかと肇は気付いて。

 

「……大丈夫、優希之さん? もしかして熱でもあるの?」

「へっ!? え、あ、いや! ち、ちがっ」

「真っ赤だよ……様子も変だし。――ちょっとごめんね」

「ひぅっ!!」

 

 言うが早いか、彼は席を立ってそのまま彼女のほうへ。

 お互いの前髪を手で退かして、ピタリと額をくっつける。

 

 その際にこぼれた可愛らしい悲鳴は一旦スルーするとして。

 

 古典的な方法はそれでもわずかな熱を伝えるほどだ。

 気持ち、彼女の体温は高いように思えた。

 

 いいや、それどころかもっと、密着しているだけ無際限に上がっていくように――

 

(――?? え、冗談みたいに熱くないこれ。本当に大丈夫……?)

 

「っ……ひっ、は――はっ、ぁ……ぅ……ゃぁっ……」

 

(俺のが低すぎる……? どっちかっていうと平熱は高いほうなんだけど)

 

「ぅ、ぅうっ……、ぁぅ……ひ……っ」

 

 

 冷静に分析する肇だが、やられた当人である渚はそれどころじゃない。

 

 

(あ、あっ! あっあっ、あぁあぁ――――! あぁあああ――――ッ!!)

 

 

 遊園地の絶叫系アトラクションの乗客もかくやという大絶叫。

 

 ともすれば大叫喚の住人じみた喚き声。

 もっといえば大咆哮。

 

 少女は胸の内で張り裂けそうな想いに声を張り上げている。

 

 偏に肇との距離が近すぎるが故だ。

 

 如何せん何度かあった事案とはいえ目と鼻の先。

 ほんの少しでもどちらかが動けば唇まであたる至近距離。

 

 近い、とにかく近い。

 

 渚はもう身体の芯から震えそうだった。

 

 脳内ではどこかビーバーっぽいなにかが凄まじい声量(アァアアァ――ッ!!)で鳴いている。

 

「み、みみ、みな、水桶、くんっ!」

「……優希之さん、熱――――」

「だっ、大丈夫! 大丈夫、だから! これは、そのっ、えっと……!」

 

 ぐっ、と彼女は全身に力を込めるようにして。

 

「――み、水桶くんのせいだからっ!」

「えっ」

「た、体調悪いとかじゃ、ない……!」

「そ、そうなんだ……」

 

 どういう原理なんだろう、なんてわずかに首をかしげる天然純朴野郎(ポンコツクソボケだんし)

 

 ()()()を合わせるだなんて冗談じゃない。

 そんなのは彼女だって一番身近だった家族にだけしたぐらいだ。

 

 血も繋がっていない赤の他人とくっつけるのは以ての外。

 間違いなく距離感が近すぎる。

 

 ……そう。

 

 だから、問題は。

 

 身内同然の距離感に本来なら嫌悪が先に立つはずなのに、まったくそれが来ないことで。

 

「……でも、無理しちゃダメだよ。俺と同じで優希之さんだって月末が入試なんだし」

「そ、れは……そうだけど……」

「この時期に風邪とか引いたら勿体ないどころの話でもないしねー……うん。体調管理、大事だなぁ……」

「………………、」

 

 むしろ貴方の態度で風邪を引きそうなんですが、とは渚は言わなかった。

 

 わざわざ口に出すのなんて恥ずかしすぎて耐えられなかったし。

 どうせ伝えても理解してくれるかは別の話だし。

 

 なにより、受験が終わるまで誰ともそうなる気はない、と宣言した彼に胸の内を告げるのは違っている気がした。

 

(………………でも、それなら)

 

 もしもの話。

 

 彼が無事試験に合格して、星辰奏(しぼうこう)に受かったとしたら。

 それから先はどうなってしまうのだろう。

 

 渚には分からない。

 

 問答無用で来る者を拒む受験生の防壁はその時点で崩れ去る。

 

 目下最大の障害である理由がなくなるというコトだ。

 そうなった場合、肇に他人からの好意を断るというワケは殆どない。

 

 だから、もし。

 

 ――そのタイミングを狙って、誰かが彼に告白したなら――?

 

(――――……っ)

 

 ……胸が痛い。

 

 心臓とかそのあたりに、藻のような手触りの何かが纏わり付いている。

 厄介なのはそれが決して柔らかく優しく、穏やかでないことだった。

 

 鋸の刃みたいに内臓や血管の外側をざらざらと撫でられる錯覚。

 

 邪魔で気持ち悪くて鬱陶しいけれど、直接その手で掴んで引き摺り出すことは敵わない。

 

 ――ああ、考えただけで、気分が悪くなる――

 

「ほら、やっぱり顔色悪いよ」

「っ…………ぇ……」

「無理、してるんじゃないの。優希之さん」

「……そ、んな……ことは……っ」

「…………、」

 

 渚の言に嘘はない。

 少なくとも彼女の身体は万全だ。

 

 無理をしているのでも、体調を崩しているのでもない。

 

 酷い表情なのは体の都合ではなく心の問題。

 

 今更沈んでいた心が浮上して、生きる意思に余裕ができて、たしかな幸せを噛み締めることができた。

 だからこそ当たり前の思考を取り戻した頭が悩んでいる。

 

 他に目を向けるようになってきたからこその変化。

 

 世界(げんじつ)がどうとか。

 物語(シナリオ)があれだとか。

 人物(あいて)がいるからとか。

 

 そんな尤もらしい理屈がないでもないけど。

 

 本当の、正直に、彼女自身が心の片隅で思っているコトは。

 

「――もう今日は帰ろう」

「っ、え……?」

「それじゃ勉強にもならないって。家でゆっくりしとこう。俺、送るから」

「――で、でも……っ」

「はいはい、問答無用。いいから、ほら」

 

 ささっと自分の荷物をまとめて立ち上がる肇。

 手際の良さはきっと話を切り出す前から心の中で決めていたのだろう。

 

 ……いまの彼女にはその心配が心苦しい。

 

 そのまま渚の傍に寄って気遣うように動くものだから余計に胸が痛かった。

 

 なんともないのにそこまでさせてしまったという罪悪感と、そこまでしてくれるほど彼にとって大事な相手になっているという実感。

 

「……ほんと……大丈夫、なのに……」

「そんな顔で言われても俺が大丈夫じゃないってば」

「………………、」

 

 彼は長い付き合いでも変わらず優しい。

 

 それは他人(ヒト)を選ばない仄かな純真さの表れだ。

 渚に対する尺度が彼女以外とは違っているのもなんとなく察している。

 

 けれど関係性に進展はないまま。

 

 もう一年近くなるかという付き合いなのに、彼と彼女はただの勉強仲間。

 

「行こう、優希之さん。……ゆっくりで良いからね」

 

 いまだに、呼び方だって名字のままだ。

 

「……うん……ごめん、ね……()()、くん」

 

 別に拘っているワケではない。

 そこに執着する意味なんて欠片もありはしない。

 

 けれど共に過ごしてきたこれまでの時間はありえないほど濃くて。

 困ったコトに彼女は大変難儀なものを抱えてしまったのもあって。

 

 だから色々と気になるし、狂うし、おかしくもなる。

 

(…………、)

 

 けれども、もし運命みたいなものがあるのなら。

 用意された誰かと結ばれる道筋が決まっているとしたら。

 

 ――(わたし)はいまのこの感情(こころ)も忘れて、誰かに夢中になってしまうのだろうか……?

 

(それは――……)

 

 非常に怖い喩え話。

 夢物語みたいな益体のない想像だ。

 

 気になっただけで確信はない。

 これといった予感もそう。

 

 可能性のひとつとしてふと思い浮かんだだけで、そうなる理屈は一切なかった。

 

(…………、…………私は)

 

 力無い足取りで肇の背中を追っていく。

 

 なんにせよ舞台はもう目前。

 泣いても笑ってもいずれこの身で体感するときが来る。

 

 ……だったらそのときに。

 

 それでも私が、貴方を想うような未来があれば――

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 少し早めの帰宅時間はいつもよりわずかな明るさの名残があった。

 

 とはいえ日が短い真冬の季節。

 気持ち闇が浅いだけで、あたりはすでに多くの影をつくっている。

 

 渚の調子は変わらない。

 

 負ぶっていこうか、という肇の申し出は決死の形相で首を横に振りながら断られた。

 かといって自分ひとりで歩けるという彼女を放置しておくコトもできず。

 

 結果、速度を落としてゆっくりとふたり並んで歩いている。

 

「辛かったら言ってね?」

「……別に、平気……だから、本当……」

「…………、」

「……嘘じゃないから……うん……」

 

(うーん、強情……)

 

 当然ながら肇は渚の不調の原因を知らない。

 それがまさか彼自身の手で立ち直らせたコトが原因だなんて想像もつかない。

 

 過去を引き摺ったままの彼女であれば来たるべき原作(モノ)に思うところはあれ、悩み苦しむコトなどなかっただろう。

 

 頭の中は(こころ)の隙間まですべて亡くした彼しかないからだ。

 それが何の因果か、彼と出会ってしまったせいでブレている。

 

 少女らしく、生きた人間らしく。

 

「…………、」

「――――、」

 

 物事の価値観は個人個人によってまばらだ。

 

 最低限の生き方を胸に、無感動のまま命を消費すること。

 新たに抱いた想いを胸に、傷は痛くとも前を向いたこと。

 

 どちらが正解で、どちらが彼女にとって幸せな人生だったのか。

 

 それは誰にも分からない。

 

 肇にはもちろん、選ばなかった未来との比較は渚にだってそのように。

 

「……っと、着いたよ」

「ぁ…………」

 

 ふと、気付けばいつもの分かれ道だった。

 

 渚の家はすぐそこ、肇はまだまだ進んだ先のところ。

 

 なんだかんだで不可侵になっている互いの分岐点。

 そこから彼女が彼のほうへ踏み込んだコトも、逆に彼が彼女のほうへ来たコトもない。

 

「……家まで送らなくて平気?」

「っ、う、うん……あり、がとう……」

「…………、」

「そ……それ、じゃ――」

 

 そっと後退りして、渚が踵を返そうとしたとき。

 

「優希之さん」

「っ!」

 

 ぱしっ、と。

 

 彼にその手を掴まれる。

 優しく、暖かく、包み込むように握られる。

 

「へ!? あ、えっ、な、なっ……!」

「俺は優希之さんの味方だから。遠慮とかいらないよ、いつでも相談乗るからね」

「っ――――……、……う、うん……っ」

「それだけ。……ずっと浮かない顔してるんだから、もう」

「……そう、だね。……ごめん」

 

 こくりと渚が俯くと、その手は彼女の頭へ移動した。

 銀糸の髪を梳いていくみたいにそっと撫でられる。

 

「……だからゆっくり休んでね。優希之さんが元気ないと、俺も寂しいし」

「…………うん」

「……それじゃあまたね。ばいばい、優希之さん」

「……うん、また……ね、水桶くん……」

 

 最後に笑いながら手を振って、肇は歩き出した。

 その背中を渚はしばらく見送る。

 

 きゅっと胸をおさえるよう指を握り込んで。

 見えない心臓の鼓動を掴まえるみたいに。

 

 嫌な想像もした。

 ありえないコトも考えている。

 数々の正しい理由と賢い理屈に彼女の選択は塗れている。

 

 ……でも、そんなのはただ本心を隠しただけの張りぼてに過ぎない。

 

 結局のところ、なにが言いたいかといえば。

 

 彼女はただ――怖いだけ。

 

 この関係が()わるのが。

 彼との時間を過ごせなくなるのが。

 いまのこの立ち位置がなんでもないモノになるのが。

 

 肇の隣に立てないかもしれないコトが。

 

 唯々怖くて、仕方ないだけ。

 

(私は――――……)

 

 度胸のなさが情けない。

 大義名分があるからと現状に甘んじている姿はなんとも惨めだ。

 

 彼との距離が心地良くて、ずっとこのまま続けばなんて一瞬でも思ってしまった自分の弱さに恥じ入る気持ち。

 

 でもそれは、結局昔となんら変わらない停滞した心向きだった。

 

「……っ」

 

 変わりたいと思うのか。

 

 分からない。

 

 変わるのは怖い。

 終わるのは怖い。

 

 本当になにをどうしたいのか、彼女には答えも見つけられていない。

 

「――――っ」

 

 風を切る。

 足を動かす。

 

 頬を伝う冷気を無視して走っていく。

 

 分からない、分からない、分からない。

 

 なにもかもが彼女にとって新鮮だった。

 慣れ親しんだ感覚など欠片も存在しない時間。

 

 古びた以前(むかし)の知識なんてぜんぜん役に立ってはくれない。

 

「――――水桶くんっ!」

 

 それでも、初めに変えてくれたのは彼だから。

 

「……優希之さん?」

 

 遠ざかっていった彼の手を掴んで、ぎゅっと握りしめる。

 

 らしくもない全力疾走は渚の体力をごっそり持っていった。

 エネルギーを一瞬で使い切ったも同じ。

 

 ぜーはーと、肩で息をしながら呼吸を整えていく。

 

「どうしたの、そんな――」

「っ、あ、の!」

「? うん」

「そのっ、えっと……だから……っ」

 

 掴んだ手を離して、唇をちいさく結ぶ渚。

 

 ――大丈夫、大丈夫、大丈夫。

 

 慌てるなくてもいい、焦る必要なんてどこにある。

 きっと、おそらく、たぶん、絶対――彼に知る由なんてない。

 

 だから大丈夫、なにも起こらない。

 起こっていいハズがない。

 

 それは今までの肇の言動から予測した、信頼できる渚の直感だった。

 

 

 

「――――こ、これ! 渡すの、忘れてた……っ」

「……マカロン?」

 

 

 ラッピングされた透明な袋を彼に贈る。

 

 隙を衝くようなさりげない渡し方ではなく。

 面と向かってはっきりと、逃げも隠れもしないように。

 

 公立高校の一般入試まで一か月を切った日。

 

 

 二月、日付は――――十四日。

 

 

 

「バレンタイン?」

「そ、そう……っ!」

「ふふっ……ありがとう。……これ、もしかして手作り?」

「で、です……!」

「おー、凄いね……流石は優希之さん」

 

 なにが流石なのだろうか。

 渚にはそのあたりてんでさっぱり。

 

「ん、家で食べさせてもらいます。お返しもちゃんとするからね」

「う、うん……、ま、不味くはない、と……思うから……っ」

「……にしてもそう走らなくても良かったんじゃないかと」

「こっ、これは、そのっ……つ、つい、あの、い、勢いで……!」

「そうなの? ……とにかく嬉しいよ、こういうの」

 

 くすりと微笑む肇に、じんわりと熱が広がっていく。

 

 ……本当、都合がよろしいことに。

 

 こういうときだけは胸の靄もトゲもなにも綺麗さっぱりなくなるのだから、彼はやっぱりズルい人だ。

 

 

「――クラスの女子からも何個か貰ったし」

 

 

 もやっ。

 

「……もらっ、てたんだ……」

「? うん。クッキーとか、チョコとか」

「……そう……」

「あとキャンディーとか、珍しいのだとカップケーキとか?」

 

 もやもやっ。

 

(何個か本命(ガチ)じゃないそれ……!?)

 

「みんな好きだよねー……いや、俺もありがたいから良いんだけど」

「水桶くんっ」

「? どうしたの」

「余計なコト、考えないでね……!」

「え、あ……うん……?」

「お、お願い、だから……!」

「うん、うん……なんか分かんないけど、分かった、うん」

 

 圧が凄かった。

 こう、ぐぐぐーっと近付いてくる壁を思わせるほど。

 

(もしかしてとは、思ってたけど……!)

 

 ――いやしかし、だがしかし。

 

 そう。

 

 彼ならば気付かない。

 

 というか頼むから気付かないでくれ。

 

 どうせなら共倒れの精神である。

 

 いくら塾が一緒で過ごす時間も長いとはいえ他校の生徒である渚は相対的に不利。

 同校のクラスメートなんていう特大のメリットには普通に考えて勝ちようもないのだ。

 

「――っ、そ、そういうコトだからっ」

「あ、うん。またねー、優希之さん」

 

 二度目の挨拶をして今度こそ彼と別れる。

 

 とりあえずの決着はついた。

 走り去る彼女にひらひらと手を振った肇は、ふむと考えるよう顎に手を当てて。

 

(……これを渡すか悩んでたのかな? だとしたら中身は一体……?)

 

 むむむ、と見当違いの思考回路を展開していく天然ボケ。

 渚の想像したとおりその意味まで知らなかったのは幸か不幸か。

 

 なんであれ、今はまだ変わり行く時期ではない模様。

 

 少年は純粋に頬を緩ませて、帰り道を歩いていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから家に帰って。

 ふと彼女からもらったお菓子(マカロン)を一口囓ってみれば――脳髄を痺れるような感覚が走った。

 

 いや、毒とかそういった類いのものではなく。

 

 もっと人体の奥側を叩くような微かな衝撃。

 

 これは――――

 

 

(……なんだろう。この味、どこかで食べたような気が……)

 

 

 そんな筈はないのに、謎の懐かしさに舌鼓をうつ。

 

 真相は不明。

 まったくもって分からないけれど、ひとつ彼から言える事は。

 

 その味は今まで食べたモノを軽く凌駕するほど。

 

 なによりいちばん、美味しく思えた。

 

 

 

 

 



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29/去っていく月

 

 

 

 

 繰り返すように、価値観というのは人それぞれだ。

 

 誰一人だってまったく同じ人間なんかいないように。

 誰かにとっては大事なものが、誰かにとってはありふれたものでもある。

 

 久方ぶりの夢の旅路。

 

 それは甘い香りが引き起こした、仄かな記憶の残滓――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――――♪』

 

 微かな音色に意識が浮上する。

 

 どこか楽しそうに響く声。

 さらさらと髪を梳かすような暖かさ。

 

 いずれにしろ大切な感覚が充満した部屋の空気。

 

 ……ぼう、と目を開けてみる。

 

 見ればその人は鼻唄なんて歌いながら、彼の頭を優しく撫でていた。

 

『――姉さん……?』

『ん、起こしちゃったか』

 

 ごめんごめん、なんて彼女は謝る。

 それを彼は寝ぼけ眼のままぼんやりと見詰めた。

 

 後頭部にはソファより固く、床より柔らかい弾力。

 視界には山がふたつと姉の顔。

 背景にはどこか見覚えのある天井の模様。

 

 そこまで把握して彼はようやく確信した。

 

 現在、絶賛姉の膝枕を堪能中ということらしい。

 

『おはよー彩斗。また作業部屋(アトリエ)で寝ちゃってたよ、もう』

『……そっか、ごめん……』

『良いよー。でも気を付けてね。もっと体調崩しちゃうよ』

『うん。気を付ける』

 

 謝りながら、そっと瞼を閉じる。

 

 眠気に襲われてではなく、不意にやってきた眩暈を抑えるため。

 

 光の遮断された闇の中で目玉だけがゴロゴロと転がっていく感覚。

 脳みそごろ揺らされたみたいな気持ち悪さは払うのにも軽くない。

 

 時間にしておよそ五分ほど。

 

 ようやく落ち着いてきた症状に、ほっと息を吐いていま一度瞼を持ち上げた。

 

『大丈夫?』

『うん』

『ほんとに? 無理してないー? 無理は禁物だよ?』

『……してないよ』

『よし、お姉ちゃんとの約束だからね! 無理しない! ね!』

『……しない、しないよ。別に』

 

 こうやって会話をしている間も、彼女は頭を撫で続けていた。

 

 その手は一向に止まる気配がない。

 ともすれば摩擦で髪が焼けるまでやられるんじゃないかという弛みの無さ。

 

 果たしてそんなに良いものかな、と彼は苦笑する。

 されてばかりの少年にはそのあたりよく分からないのだ。

 

『起きるの? あ、おやつ食べよっか! さっき作ったんだー』

『……いま、何時ぐらい……?』

『十五時半! ちょうどおやつ時だよ、どう? 彩斗、甘い物好きでしょ!』

『それほどは……でも、ちょっとだけなら食べる』

『そっか! 待ってて、持ってくるから!』

 

 彼が上体を起こしたのを見届けて、姉はとててーっと小走りで去っていく。

 

 寝転がっていたのはリビングのソファだった。

 彼女が運んでくれたのだろう、意識を失った作業部屋(アトリエ)ではない。

 

 ならばちょうど背中側に食卓があって、その向こうにはキッチンがあるはずだ。

 

 作ったというのならそのあたりに置いていたのかどうか。

 

 そう時間の開けずして、彼女はお皿を片手に戻ってきた。

 その上にはなにやら色とりどりの小さい焼き菓子が並んでいる。

 

『はい、どーぞ! いや初挑戦だったんだけどね! 上手く出来たんだよ!』

『……なにこれ?』

『マカロン! 知らない? 美味しいよー、ほらほら口開けてー』

 

 言われるがままに少年はパッと口を開いた。

 

 そこに羞恥も戸惑いも一切ない。

 まるで躾られた犬みたいな従順さ。

 

 餌を待つ雛鳥のように焼き菓子が突っ込まれるのを待機している。

 

『はい、あーんっ』

『あー……、ん……』

『どう? 美味しいでしょ!』

『……うん、美味い』

『そっかー、そっかー! お姉ちゃんの手作りは美味しいかー! よしよーし!』

『…………、』

 

 もむもむと咀嚼する彼にぎゅーっ! と抱きつく六歳年上の姉。

 

 そのまま頭を撫で撫で、ほっぺたをすりすり。

 肩までぐいっと密着して、髪に耳に頬にと止め処なく唇が落ちてくる。

 

 彼女の心はただひとつだった。

 

 〝私の弟の可愛さ(マイ・ラブリーエンジェル)は世界一(彩斗たんナンバーワン)ィ!〟

 

 もう触れても触れても足りない。

 満ちてはくれない、恒久的に不足している。

 

 なにがと訊かれると、もちろん彩斗成分(アヤトニウム)が。

 

『んふぅー! 彩斗ー、彩斗ー! 彩斗はどうして彩斗なのー!?』

『……言ってる意味が分からないよ、姉さん』

『私も分かんないかな! でも良いの! 彩斗がいるだけでお姉ちゃんは幸せです!』

『……そっか、良かった』

『なら私も良かったっ!』

 

 ぺかーっ、と満面の笑みで彼女が肯定する。

 

 不安も悩みも吹き飛ばす翳りのない眩しい表情。

 太陽みたいな輝きはそれこそ彼にとって姉の象徴だった。

 

 節々の痛みも頭蓋に走る激痛も、その笑顔ひとつでどうでも良くなるほど。

 

『……ん、もう良いかな……』

『ありゃりゃ。まだ二個しか食べてないのにー?』

『……これ以上食べたらたぶん吐いちゃうよ』

『……そっか。――じゃあ、あとはお姉ちゃんとお父さんで食べちゃうね!』

『…………ん』

 

 小さく頷いて、彼はゆったりと立ち上がる。

 

 ……と。

 

『わっ』

『彩斗っ!』

 

 ゴトン、と膝から思いっきり崩れ落ちた。

 

 勢いよく倒れそうになったのをすんでのところで彼女の手が掴む。

 

 ビックリして、パチパチと目をしばたたきながら――視線は足のほうへ。

 

 恐る恐る見てみると、これが不思議と何事もない。

 驚きの原因は痛みによるもの。

 

 あまりの衝撃に、足が千切れたかと思った。

 

『だ、大丈夫? 怪我は? やっぱりまだ休んでおいたほうが――』

『……いいよ。ちょっとふらついただけ。もう平気』

『で、でもっ!』

『平気。……絵、描いてるから。夕飯になったら、教えて』

『あっ、わ、私も! お姉ちゃんも一緒に行くよ!? というか行かせて!』

『……別にそんな』

『心配なのっ! もう! 彩斗そういうところニブチンなんだからっ!』

『…………、ごめん』

 

 ぷんすか怒る姉に抱えられて(お姫様だっこ)リビングを出る。

 

 作業部屋はそう遠くない。

 廊下を少し行けばすぐに見える程度の位置。

 

 彼の父親と姉が共同でノリノリのままつくった自宅内彼専用スペースだ。

 

『さっきも言ったけど、無理はダメだからね。絵だってそこそこにしないと……』

『……描いてないと落ち着かないんだ。それに、色々と紛らわせておけるから』

『色々ってなにー! お姉ちゃん許さないからね! 彩斗の健康第一だよ!』

『……もう健康とは言えないよ、姉さん』

『そ・れ・で・もっ! 大事なものは、大事なのっ!』

『…………、』

 

 彼女の言い分は分からなくもない。

 

 けれど彼にだってそれなりにワケがある。

 

 普段の日常生活は慣れ親しんだ痛みとの戦いだ。

 少し気を抜けば息をするのも手足を動かすのも辛い日々。

 

 そんな中で唯一安らげるのはキャンバスに向かっているとき。

 

 筆を握って、無心で手を動かして、油の匂いに包まれながら絵を描いているときだけが他のなにも感じないほど没頭できた。

 

『……寝る前、結構出来上がってたんだ。だから仕上げたくて』

『またそんなこと言って!』

『……お願い、姉さん』

『――――ちょ、ちょっとだけだぞっ、ちょっとだけ!』

『……ありがとう』

『――――この、可愛い顔を卑怯に使う奴めぇ……! ふわりと笑う彩斗はもう、あれだからね! 国際条約で禁止したほうが良いと思う!』

『……なにそれ……』

 

 激痛の伴う歩行も自然とできる。

 曲がらなくなった指だって気付けば曲がっている。

 

 なにかが起きているのかも知れないが、医者からは「ありえないこと」としか聞かされていない。

 

 要因としてはおそらく心的なものとかそこらとかだろう。

 その道の専門家ではない彼からすれば詳しくは分からない。

 

 どうでもいい。

 

 ただ、生きているうちにこの胸のモノは吐き出しておきたかった。

 

『そういえば今の絵、タイトルとかあるのー?』

『……うん。最初から決めてた』

『え、なになに! お姉ちゃんに教えて、彩斗!』

『〝陽嫁(はるか)〟』

 

 

『――――――……、』

 

 

『それが、今度のタイトル。……だから、楽しみにしてて』

『――――うんっ! すっっっっごい、楽しみにしてるね!』

 

 奇しくもその絵が最後の作品になった。

 あとほんの少しを残して未完となった一枚。

 

 古い記憶の心残りといえばほんとそれぐらい。

 

 完成間際のなにかを悟った彼は、事あるごとに感謝と笑顔を家族に振りまいていた。

 だからこそ過去は引き摺るものでなく、時の流れに薄れ行くもの。

 

 幸せな記憶は幸せなまま蓋をされる。

 

 いつまでもどこまでも。

 

 大事に仕舞って鍵をかけて、錆び付いても風化しないように――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうしてようやく、肇や渚にとって大事な()()()はやって来た。

 

 意図的に遮断された無言の空間。

 静けさの中に響く物音はいやに大きい。

 

 コチコチと秒針を鳴らす黒板上の掛け時計。

 時たまわずかに起こる誰かの衣擦れ。

 ガリガリと曖昧に重なって走っていくペンの音。

 

 試験会場は如何にもそれらしい雰囲気に包まれている。

 

(――――……)

 

 一足早く辿り着いた星辰奏学園(原作舞台)の教室。

 

 そこに肇が感じたコトと言えば――まあ、広いなという率直な感想だけ。

 見覚えがあるワケでもないし、どこか不思議な感覚があるのでもない。

 

 思っていたよりも呆気ない接触で。

 

 そしてなにより、思っていたよりもやれるものだった。

 

(……意外と分かってありがたい……)

 

 淀みなく解答用紙を埋めていく。

 

 去年の春先から続けてきた勉強の成果だろう。

 時折悩む問題こそあれまったく答えられないものはない。

 

 空白の答えは一切なし。

 

 今までの知識を総動員すればなんとかなった。

 七割がマークシート方式だったのが非常に救いである。

 

(国語は最高、社会もそこそこ。数学だって問題なし。いや、調子いいな――)

 

 試験前の緊張はどこへやら。

 

 手を動かし始めると肇の集中は酷く高まった。

 昔から根付いた作業への没頭癖だ。

 

 絵を描かなくなって久しく無かったそれがここ一番で発動したのは……少なくとも悪いことではないと言える。

 

 結果、午前の教科は無事終了。

 

 不安も吹き飛び晴れやかな気持ちで昼食と相成った。

 

 

「あぁあ……やっと半分……」

「おーい、誰か一緒に食べよう!」

「敵と一緒に飯食えっかよ……」

「てかあれ、国語めっちゃむずくない?」

「たぶんあたし筆記だったら死んでたわー」

「あぁぅお……最悪……時間足りなかったぁ……!」

 

 

 周囲の喧噪は悲喜交々。

 

 頭を抱えて机に突っ伏す者もいれば、コンビニの袋片手に意気揚々と声をかける者もいる。

 

 気の張った入試における唯一の半自由時間だが……安らげるかどうかはまた別。

 なんなら特別な日に食べるご飯はちょっと喉を通りにくいまである。

 

 が、そのあたり肇はてんで気にしていなかったのか。

 

(……よし。俺も弁当、弁当……っと)

 

 ごそごそと鞄の中を漁ってお目当ての昼食を取り出す。

 忙しい母親がこの日のためだけに早起きして作ってくれたお手製だ。

 

 ガンガンに隈のできた顔と血走った眼で「受験ッ! 頑張れぇッ!!」と親指を立てながら見送ってくれた姿が記憶に新しい。

 

 なお本日は有休消化で半休のため即座に爆睡したとか。

 

 証拠は父親からのメッセージで『うちのママ倒れてて草。ファイト、肇』と写真付きで受け取っている。

 

「なぁなぁ、あんた――」

 

 と、不意に後ろから肩をトンと叩かれた。

 

 振り向けばなんともまあ凄まじい。

 トンデモないレベルのイケメンが、爽やかフェイスでエンジェルスマイルを放っている。

 

「? どうしたの?」

「折角だし昼メシ一緒しない? ほら、席近いしさ」

「……ん、良いよ。俺もちょうどひとりで寂しかったんだ」

「こっちもだよ、よろしく。……あ、名前は?」

「水桶肇。君は?」

海座貴(かいざき)三葉(みつば)。好きに呼んでくれ」

「そう、海座貴く――――」

 

 ――海座貴、三葉。

 

 あれ、ちょっと待てよ、と。

 そこで肇の思考はちょっとガコンと何かに引っ掛かった。

 

 レールの上に置かれた石みたいに、淡く記憶に触れるところを感じる。

 

 目の前の少年は彼と同年代の美男子だ。

 

 髪は紅葉を思わせる赤色で、瞳の色はビー玉みたいに綺麗な青。

 

 前述のとおり容姿は酷く整っている、いや整いすぎている。

 パーツひとつひとつがとかそういうのではなく、纏う雰囲気からして段違いのような完成度の高さ。

 

 今更ながら遠巻きに女子陣営がチラチラと窺っているのも目についた。

 

 

「――――あ」

「……あ?」

 

 

 薄らと覚えていた記憶のフィルターが重なる。

 数にして言えば二度目の感覚。

 

 ……間違いない。

 

 彼の記憶が狂っていなければ確実にそうだ。

 

 この男――――攻略対象(ヒーロー)である。

 

「なるほど、たしかに……」

「……あー、水桶くん……?」

 

 イケメンだ。

 それはもう超絶イケメンだ。

 これ以上ないぐらいのイケてるメンズだ。

 

 比良元某が足下に及ばないぐらいの格好良いの体現者である。

 

 肇はぐるんっと椅子を後ろに回転させて、その男子――三葉と向き合った。

 

「どうぞ宜しくお願いします」

「え、なに急に……」

「なんとなく伝えておこうかなって。うん、是非とも頑張ってほしい」

「頑張れって……独特な人なんだな、水桶くん……」

「クラスメートによく〝クソボケ〟とは言われる」

「シンプル悪口じゃないかそれ」

 

 もぐもぐと箸を動かしながら益体もない会話を繰り広げていく。

 

 気分はちょっとした有名人に会ったようなものだ。

 

 この場に渚がいないのが本当に惜しい。

 彼女は別の教室(かいじょう)で食事中。

 

 肇が初対面の男子とおかしなやり取りをしているとも知らず、わりとテスト簡単だったな……なんて余裕でおにぎりを頬張っていた。

 

「それより試験どんな感じだ? 今のところ」

「結構いけてる。全部書けてはいるし。でも満点はないかなー」

「……いや試験で満点なんて取れないだろ、普通」

「俺もそう思ってたんだよ……あの頃まではね……」

「??」

 

 ふっ、と遠い目で薄く微笑む肇。

 

 さながら菩薩の如き表情。

 悟りの極致に身を置いた少年に、さしものイケメンもたじろいだ。

 

 そう、普通は満点なんてありえない。

 どんな試験だろうと分からない問題、小さなミスはあって当然のこと。

 

 それを軽く飛び越えるようにして五教科オール百なんて取った暁には人外認定もしたくなる。

 

 ……という電波が飛んだのか、別の教室では「へくちっ!」と誰かさん(ヒロイン)がくしゃみをしたそうだが、それはともかく。

 

「水桶くんって頭良いのか」

「星辰奏受ける人は大体頭良いと思うよ?」

「……三学期の期首とか、いくつ?」

「五教科で四百九十八点」

「人外だな」

「えっ」

 

 それこそ()()だった。

 

 たしかに学内では他者を寄せ付けないぶっちぎりのトップである。

 だがその裏で肇以上のとんでもない点数を叩き出した怪物がいたのだから仕方ない。

 

 自分が人外だというなら彼女は一体なんになるのだろう。

 

 もはや生き物ではないのか、惑星とかそこらか。

 

 遠い教室では「くしゅっ! ……風邪気味……?」なんて声が洩れている。

 

「……にしても水桶くん、珍しいな」

「? 珍しいって?」

「いや、ここ受けるの金持ちが多いから。ご令嬢とかご令息とか。ほら、周りの奴等もこっち見てるだろ。興味あるんだよ庶民に」

「ごめんそれ絶対勘違いだと思う。見られてるの俺じゃないよ間違いなく」

「そうか?」

 

 あとそういうあなたも総合商社の跡取り息子では? とは言わないでおいた。

 

 どちらにせよ付き合いがあれば後々耳にする内容でもある。

 彼のほうから切り出さない手前、わざわざ口にする必要もないかと。

 

「ねぇいま水桶肇って……」

「聞いた。私、去年の秋の風景画コンクールの作品覚えてる」

「え、うそ。受かったら同じ学校なんすか? まぢ……?」

「こ、声かけてみようかな……っ」

「やめとけやめとけ。いいか天才画家って大体ロクデナシのやべー奴だぞ。歴史が証明してる」

「すっごい偏見はやめときなさいって」

 

 ちらり、と三葉は視線を往復する。

 

「ほら」

「――え?」

「いや聞いてないんかい」

「……あれは美術関係じゃないかな? 絵、いくつか受賞したから」

「それは……まあいいか。好きなのか? 描くの」

「そこそこ。暇があったら、ぐらいかな」

「へぇー……」

 

 実際固まって彼の噂をしているのは芸術(ソッチ)系の人たちだろう。

 

 他の受験生は大抵肇の眼前に座る三葉(イケメン)に視線を向けている。

 

 家柄ヨシ、見た目ヨシ、性格も攻略対象なのでおそらく問題ナシ。

 これ以上はないぐらいの優良物件だ。

 

 なるほどこれはモテるだろうな、というのが分かってくる。

 

「……ま、とにかくお互い頑張ろう。水桶くんは余裕そうだけど」

「そんなことないって。必死に勉強したからやれてるだけで」

「ちなみに勉強は?」

「嫌い」

「それはよかった。うん、ヤバいタイプの天才じゃなくて」

 

 そうして肇の認識では初となる攻略対象との接触は終わった。

 

 昼食が済めばあとは午後の二教科を残すのみ。

 

 理科と英語。

 そこを乗り越えれば晴れて自由の身。

 

 よしと気合いを入れて、彼はいま一度ペンを握り直す。

 

 気分は良い。

 達成感は十分にあった。

 

 肇はスラスラと、変わらず問題を解いていく――

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 かくて試験は終わりを告げた。

 

 あとは合格発表の日を待つだけ。

 

 過ぎたことは変えられない。

 嘆いたところで意味もない。

 

 泣いても笑っても結果は結果である。

 

 

 ――――が、その前に。

 

 

(もうそろそろホワイトデーだ)

 

 三月上旬。

 

 受験生にとってはまだ合否判定も出ずに悩み苦しむ忙しない時期。

 来たるべき運命の日を前に、肇は調理場(キッチン)へ立っていた。

 

 星辰奏学園の発表日は三月十七日。

 

 その三日前はちょうどいつぞやのお返しをする番だ。

 

 なんの因果か今年は少し多めにお菓子をいただいた肇である。

 中には凝ったものを渡してきてくれた女子もいた。

 

 ならばこちらもそうそう手は抜けない。

 

(手作りが良いかな……自宅療養(ぜんせでアレ)のとき、調子が良いと何回か作ったっけ。まあ姉さんには凄い顔(ム○クの叫び)で止められてたけど)

 

 今でも思い出せる爆笑モノのリアクションにくすくすと笑いながら、うーんと顎に手を付いて考える。

 

 現在の両親の都合で料理に関しては技術もそこそこな彼だ。

 あまり本格的すぎるコトは難しいとはいえ、大抵はやって出来ないコトもない。

 

 ならばこそ、とくにコレといった理由もなしに選んだのは――

 

 

「……そうだ、アイスボックスクッキーにしよう」

 

(前世でも何回か挑戦したしね)

 

 

 うんうん、と頷く前知識ゼロの処刑人。

 

 

 

 ――まさかそれが数人の乙女心を粉々に砕く圧倒的純粋な暴力だと、肇は知らなかった。

 

 中学生女子の淡い恋、ここでクッキーの如くぼろぼろと砕ける――

 

 

 

 

 



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30/本編前のエピローグ

 

 

 

 

 

 例えば、仲の良い女子の場合。

 

 

「お、貴様もお返しかー? 苦しゅうない、苦しゅうない!」

「待ってクッキー手作りじゃん!? 水桶すごぉ! 作り方おせーてー!」

「水桶ちゃんありがとー! あたし抹茶味超好きだし超食べる!」

 

 

 例えば、もっと仲の良い女子の場合。

 

 

「えっ、あ、ありが、とう――ッ、ございましたぁあぁ――!」

「容赦ないね、水桶くん……私、笑ってるけど心は泣いてるよ?」

「ぐぬぅっ……分かっては、分かってはいたけどっ……水桶ぇ……っ」

 

 

 例えば、未だにパネルを根に持つ彼女の場合。

 

 

「ありがとう……ありがとう……! この恵みは天からの供物としてきちんと崇め奉るから……っ!」

「いやいやちゃんと食べて。美味しくできたからね」

「肇くん……! ――ところでコレって他意とかない感じスか」

「? なにが?」

「おっけぇい! 未来は明るいぞ私! ふははは! ……あれなんか眼鏡が曇ってッ」

「??」

 

 

 例えば、いつも一緒に勉強していた優希之渚(かのじょ)の場合。

 

 

「…………まあ、むしろ安心したかな……」

「え?」

「……うん。水桶くんは、そのままの水桶くんでいてね」

「? どういう……?」

「……純粋なのは美点だってコトだよ」

「なるほど」

 

 ふんふむ、なんて納得するちょろすぎな男子。

 

 それに渚はため息なんてこぼしながら、受け取ったクッキーを眺めてみる。

 

 家庭の事情で料理をするのは慣れている――と時々言っていたのは本当だったらしい。

 分量やら時間やらがシビアなお菓子作りにもかかわらずよく出来ていた。

 

 女子力どうのというのは置いておいて、現役男子中学生でこれなら十二分だ。

 

 きっと西中(がっこう)でもらったクラスメートも阿鼻叫喚だったろう。

 

「……他のみんな、喜んでくれた?」

「? そうだね、殆どは。泣かれたり抱きつかれたりしたのはびっくりしたけど。……そんなに嬉しかったのかな……?」

「……そうだと思うよ、うん」

 

 てか抱きつかれたんだ、と渚はジト目で肇を睨む。

 

 一体どういうシチュエーションなのかは……おおよそ想像できるとして。

 こう、なんだかもやもやっとする感覚はやっぱり消えてくれない。

 

(……まぁ? 水桶くんに()()()()知識求めてる時点で敵じゃないし?)

 

 ふいっとさりげなくそっぽを向きながら、鞄に肇お手製のクッキーを仕舞った。

 

 何かしらの意味を求めているのも、その答えに衝撃を受けるのもぜんぶ雑兵の仕種。

 彼のコトをまだまだ全然理解できていないド三流の考えだ。

 

 少しでも水桶肇(だれかさん)天然(ポンコツ)加減を知っていればすぐに分かる。

 

 彼はお返しにそうそう特別な意味など込めていない。

 ただ貰ったコトがありがたくて誠実な感謝を伝えたいだけ。

 

 そこを察せてもいないのなら、本気でなんてことはない相手である。

 

 そう――恋敵たり得ない、と。

 

(まぁまぁ? そういうの把握してるのって、たぶんそこまでいないだろうし……むしろ私ぐらいなもので――)

 

「あ、でも何人かには深い意味とかあるのって聞かれたんだよね。あれなんだろ」

「――考えないで。それたぶん、ろくでもないコトだから」

「そ、そうなの……?」

「うん。――うん」

「二回も頷くほど……?」

 

 いた。

 

 いてしまった。

 

 彼の思考を読んでダメージを抑えた同士(ライバル)がすでに存在していた。

 

 ホワイトデーのお返しで撃沈した雑魚とは違う本気の手合い。

 

 これは強い、きっと一筋縄ではいかないだろう。

 なにせ度重なる天然(クソボケ)の嵐に揉まれた戦士だ。

 

 渚も相当なものになったと自覚しているが、同校のアドバンテージは計り知れない。

 

 

 

 ……なお、距離感的にもその脅威が最大級に振りまかれているのは自分などと冷静さを失った彼女には気付けなかった。

 

 優希之渚は俄然突き抜けるようにトップ。

 アドバンテージもクソもないのである。

 

「――……それにしても、三日後だね……私たちの、合格発表」

「うん、いよいよだ。ほんと、ここまで長かったなあ……」

「……もう受かったつもり……?」

「自信あるよ。全部解けたし! ……あ、ごめんやっぱないかも……」

「……情緒不安定じゃん……」

「不安なものは不安だって。よくできた、とはたしかに思ってるんだけどね……」

 

 その気持ちは渚も分からないでもなかった。

 

 いくら手応えがあって確信があっても、結果が出るまではあやふやなもの。

 合格しているかどうかは実際に見てみるまで確証なんてない。

 

 シュレディンガーの猫ならぬシュレディンガーの合否判定だ。

 

 それだと純粋に意味が変わるのでは、とかいうツッコミはなしの方向で。

 

「受かってるなら間違いなく優希之さん以上だよ、今回は」

「……ふーん……そんなに良かったんだ……」

「当然。俺がどれだけ勉強してきたか知らないの?」

「……何度も言うけど、それ、私が一番分かってるんだよ」

「ふふっ、何度聞いても嬉しいんだよ」

 

 小さく微笑む彼の笑顔にやられて、渚は頬を染めながら視線を逸らした。

 

 彼女自身どうにも最近気付いたコトではあるが。

 前世のときからわりとその傾向があったように、自分はふわっという笑い方が大の弱点らしい。

 

 いまだってそうだ。

 

 彼の表情を見た渚はこれ以上ないほど熱で茹だっている。

 

「嬉しいこと言ってくれたついでに、はい。手、出して」

「……なに、それ?」

「いいから。追加でお礼っ」

「………………、」

 

 変なモノなら即行で投げ捨てよう、とアレな覚悟を決めながら手を差し出す。

 

 きゅっと握り込まれた肇の拳は中身を見せないまま移動。

 そのまま渚の手のひらの上で停止して、ゆっくりと降下していった。

 

 ……くすぐったいような、こそばゆいような。

 

 開けた手に彼の指先が掠める感触がなんとも言い難い。

 頬が緩まなかったのと身をよじらせなかったのは最低限の意地だ。

 

 ゆっくりと解かれた手から、ついぞその品物を受け取る。

 

 ……見れば、それは。

 

飴玉(キャンディー)……?」

「ホワイトデーだからね。チョコが有名だけど、それも良いんでしょ?」

「え、まあ……うん、そう……だけど……、」

「優希之さんからも貰ってたし。付き合いも人一倍濃いんだから、色を付けるって意味でもね」

「…………そ、れって」

 

「正真正銘、優希之さんだけ。サービス、みたいな?」

 

「――――――っ」

 

 ぴーす、と二本指たてる彼はきっと本当の意味など知りもしない。

 知っていればきっとこんな真似はしてくれない。

 

 それは少し複雑なコトだけれど。

 

 ……でも、今だけはちょっとだけ喜ばしい無知だった。

 

 包装紙に赤い色の果実がプリントされた市販の飴玉。

 奇しくも林檎味というのがなんともいえない。

 

 もしもそうなら、本当、どれだけ良かったことかと。

 

「……あり、がとう。水桶、くん……」

「いえいえ。いっぱいお世話になったんだし、このぐらいはぜんぜん」

 

 素敵な意図など微塵もないただの贈り物。

 そこに価値を求めるのは先の通り雑兵のごとき愚かさだ。

 

 渚は違う。

 

 彼女はきちんと、このお返しに深い事情なんてないと分かっている。

 

 分かっているのだが――――

 

「………………っ」

 

 これが優希之渚だけの特別なのだと、同時に理解もしていて。

 

 だからこれは違う。

 どこの誰とも知らない人と同じ過ちではない。

 

 ちゃんと意図を把握した上での、自分にのみ贈られたモノに対する想いだ。

 

 勘違いなんかじゃ絶対にない、彼の用意した唯一のお礼。

 

(…………ばか)

 

 胸中でぼそりと呟く。

 

 どこまでいっても敵わない。

 長いだけの人生経験がなければ即死だった。

 

 こんなコトをされて勘違いしない女子など、(じぶん)以外にいないだろう。

 まったくもって迷惑なコトだ。

 

 だから。

 

 ……そう、だから。

 

 こんなのは、私だけにしておいてくれれば良いのに――と。

 

(ばか、ばか、ばか)

 

 そんな、ちょっとどうかと思う独占欲が胸の中をぐるぐる渦巻いて。

 

(――――――ばか(すき)

 

 頬から熱が、引いてくれない。

 

ばか(すき)ばか(すき)ばか(すき)ばか(すき)――――)

 

 わずかに指を握り込む。

 渡された飴玉を大切そうに両手で包む。

 

 胸につかえるトゲは沢山あった。

 思うところだってひとつやふたつじゃない。

 

 でも、だとしても、些細なコトでも。

 

 肇にとっての特別に自分がなっていたというのは、諸々の些事を吹き飛ばすぐらい酷く心臓を穿った(もの)で。

 

(――――水桶くんの、ばか)

 

 堪えきれないほど、胸の奥から(すき)が溢れてくる。

 

 ……ああ、どうしよう。

 

 彼の思っている以上に。

 彼女が自覚している以上に。

 

 (わたし)(かれ)が、えらく大好きだ――――

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 家に帰って夕飯とお風呂を済ませると、渚は自室のクッションに腰を下ろした。

 

 部屋の中央に置かれた安物のガラステーブル。

 その上には本日午後、肇から手渡されたお菓子が乗っている。

 

 彼お手製のアイスボックスクッキーと、ついでに貰ったキャンディーだ。

 

「…………、」

 

 眺めて思わず顔をほころばせる。

 唇の隙間からはくすりとこぼすような笑い声。

 

 期待していたワケじゃないし、望んでいた答えともズレてはいたけど。

 

 それでもこうして貰えただけで悪い気はしなかった。

 むしろどちらかと言えば良いぐらい。

 

 とくに、彼なりのサービス、というあたりが。

 

(……ま、水桶くんだし……)

 

 偶然とはいえドンピシャを引いた時点で褒めてあげるべきだ。

 肇の気持ちがどうかは知らないけれど、渚にとってはこれ以上ない正解になる。

 

 本心が伴っていたらもっともっと最高だったろう。

 

 が、そこまで求めるのは何度も言うように理解不足な希望(モノ)

 いまのところはこのぐらいで勘弁してやる、と彼女はお菓子の包装を解いた。

 

(おー……ふーん? ……水桶くんのくせに、やるじゃん……)

 

 そっと取り出して軽く掲げてみる。

 

 中に入っていたのは抹茶とプレーンの二色で出来た市松模様のクッキーだ。

 

 袋の外からでも見えたとおり、市販品とまではいかないが出来は良い。

 少なくとも味が苦手とかでなければコレを渡されて嫌な気分にはならないだろう。

 

 ……そう、見た目は合格点。

 

 肝心なのは美味しいかどうかである。

 

(……いただきます)

 

 胸中でどこかの誰かさんに向かって呟きつつ、口に含む。

 

 

 

(……うん、これは美味し――――)

 

 

 

 い、と続くはずの言葉が頭の中からフッと消えた。

 

 電池がなくなったのとはまた違う。

 急にコンセントを抜かれたような思考の遮断。

 

 ――衝撃は遅れるよう脳髄の奥底に。

 

「――――――……、」

 

 呆然とただ顎を動かす。

 

 気付けば部屋のカーペットに、ぱたた、と数滴の雫が落ちていった。

 

「………………っ」

 

 震える頭。

 悲鳴をあげる心の音。

 

 古い記憶が金切り声をあげて急激に上がってくる。

 

 ……不思議だ。

 

 なんて、涙が、止まらない。

 

「……っ、…………っ! ――――!!」

 

 食べ始めた分を噛み締めるように嚥下して、渚は跳ねるように立ち上がった。

 

 ベッドに転がる携帯を引っ掴んで、勢いのままトークアプリを開く。

 

 冷静な思考など微塵もない気持ちのままの衝動。

 メッセージの返信すら思い悩む躊躇も戸惑いもいまはどこかへ行ったらしい。

 

 どうでもいい、なんだっていい。

 

 いまはただ、すぐにでも彼と話さなくてはいけない気がした。

 

 発信ボタンを押す。

 耳が潰れるぐらいに携帯を顔の横へ当てる。

 

「…………っ、…………――」

 

 一コール目。

 

 ニコール目。

 

 三コール目――の途中で、ぽつ、と切り替わる音を聞く。

 

 電話は無事に繋がった。

 

『もしもし、優希之さん?』

「――――っ、ぁ……う……っ」

『……? 優希之さん? あれ、おーい……?』

「…………っ、ふ、ぅ……っ……!」

 

 どうしよう。

 

 声が、上手く出ない。

 

『……優希之さーん?』

「っ、ぃ……み、――み、みな、みなぉけ、く……っ」

『――どうしたの』

 

 震える声で感じ取るものがあったのか、肇の声からスッと穏やかさが消えた。

 

 今まで話していて一度もなかったぐらい冷たい声音が耳朶に響いていく。

 

 心配してくれたのだろう。

 無理もない。

 

 普段はメッセージのやり取りすら滅多にしない相手から急に通話がかかってきて、さらにその相手が電話口で泣いているとくればもうビンゴだ。

 

 なにかに巻き込まれているか怖い思いをしているかぐらいしかない。

 

『いまどこ? 大丈夫? どういう状況? 落ち着いて、すぐに――』

「ち、ちがっ……ちが、くて……っ、わ、わた、しっ……私……っ」

『…………どう、したの』

 

 打って変わって、今度は電波の中でも暖かさを感じるほど優しい声だった。

 

「――――っ、ぅ、あ……っ、ぁあ……っ」

『……大丈夫。落ち着いて、優希之さん。ゆっくりで、良いから』

「わ、たし……っ、こ、れ……、この……――――っ」

『…………うん』

「この……っ、ぁ、ぁあ、あじっ、あじ、がっ……なん、か」

 

 ありえない。

 

 嘘みたいだ。

 

 涙が止まらない。

 

 まったくもって酷すぎる。

 

 彼のあずかり知らない事情で、彼の分かるはずもない理由で泣いている。

 

「なんかぁ……っ、ぁ、ぅ、っ……――――っ」

『うん、うん……大丈夫』

 

 こんなのはただの一人芝居。

 相手が本当にいないのも含めて救いようがない。

 

 肇はワケも分からないだろう。

 なにもかもが意味不明のコトだろう。

 

 それでも優しく相づちを打って、柔らかな言葉をかけてくれる。

 

 あまりにも惨めで、情けなくて。酷いもので。

 申し訳ない、ばかり。

 

「ご、めん……っ、ごめん、急にっ……こん、こんな……っ」

『いいから。気にしないで。俺もちょうど暇してたんだ』

「――っ、ごめん……! ごめんっ、ごめん、ね……っ、みなおけ、くん……っ」

『……謝らないで。大丈夫だから。全然良いから、ね?』

「――――……っ」

 

 ――――彩斗(カレ)だ。

 

 彩斗(カレ)の味だ。

 

 間違いない。

 間違えるはずなど断じてない。

 

 この陽嫁(ワタシ)が、それを誤るコトなど絶対にありはしない。

 

 ……でも、違う。

 

 コレをつくったのは(かれ)で。

 

 沢山愛情を注いで、いっぱい好きになって、消えていった彩斗(カレ)じゃなくて。

 いまの自分を支えてくれた、胸に秘めるモノを抱えこんだ(カレ)であって。

 

「ふ、ぅ……っ、ぇぅ……っ」

『……大丈夫、大丈夫』

 

 別人なのだと、渚は分かっている。

 

 たまたま似通っている部分があるだけで、致命的に異なっているところだってある。

 

 彼は絵がそこまで上手くないと言った。

 

/弟なら違う。

 

 彼はたまにしか絵を描かないと言った。

 

/弟なら違う。

 

 それを裏付けるように指はまだまだ綺麗だった。

 

/弟なら違う。

 

 もしも彩斗(おとうと)ならそんなコトはない。

 だから別人なのだと、頭では分かっているのに。

 

「――――っぅ、――――……ぅぁ……っ」

 

 こんなのは、重ねるなというほうが。

 思い出すなというほうが、到底無理な話だった。

 

(あや、と――――……っ)

 

 ……たまに調子が良いと、弟は彼女を真似て料理するコトがあった。

 普通のおかずから少し難しいお菓子類まで。

 

 最初は失敗ばかりだったものの、数をこなすうちに着々と腕をあげていって。

 

 病人に包丁を持たせるのが怖くて何度も止めたけれど、結局目を盗んでなにかとつくっていたものだ。

 

 クッキーだってそのうちのひとつに入る。

 とても味が似通った、抹茶とプレーンのクッキーが。

 

 ……あの頃は市松模様じゃなくて、渦巻き模様だったけれど。

 

「――あ、あり、がと……っ、ご、めん……っ」

『だから――……、……良いんだよ、うん。ぜんぜん』

「……っ、あり、がと……ありがと……ありがと、水桶、くん――――」

『…………うん』

 

 それから十分間。

 

 渚が泣き止むまで、彼は律儀に相づちを打ち続けた。

 本気で感謝しかない話である。

 

 こんなのでは彼女はもう一生肇に足を向けて寝られない。

 

 

 

 ……そしてついでに。

 

 翌日の渚が顔も向けられなかったのは、まあ、言うまでも無いコトだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 ――そして、運命の日はやって来た。

 

 色々あったホワイトデーから三日後。

 

 三月十七日。

 

 星辰奏学園の敷地内、昇降口の前には大勢の人が詰めかけている。

 一般入試と推薦入試……学校指定のものと、特別推薦と呼ばれるもの……を含めた合格者の発表がされる瞬間だ。

 

 見ればチラホラと試験会場で見かけた顔も窺えた。

 

「……人、多いね……」

「そりゃあ……有名校だし。……というか水桶くん引率の先生は……?」

「知り合いがいるので一緒に見てきます、って言ったらちょっと離れたところに行っちゃった。人ごみ嫌いなんだって」

「えぇ……」

 

 教員としてそれはどうなのか、と思った渚だがこちらもこちらで微妙に離れていた。

 どころか、先ほど……肇と合流してから五歩ほど下がった位置で微笑ましいもの見るような笑顔を向けてくる。

 

 一体なんだというのか。

 

 一年間を共にした担任の女性教諭の意図が今日だけは掴めない。

 

「――――あ、きた」

「っ」

 

 と、不意に周囲がざわめき出した。

 視線を向けると昇降口からは数人の教師が出てきている。

 

 一緒に運ばれているのは紛れもない掲示用のパネル。

 

 それが期待に胸を弾ませる……あるいは動悸に気分を悪くする……受験者の前にズラズラと並んでいく。

 

「……うわ、今更になって緊張……」

「…………、」

 

 県立星辰奏学園、合格者一覧。

 

 そのヴェールがいま。

 

 幕を切って落とすように。

 

 

 

「――――っ」

 

 

 

 

 

 ……どっと沸いたのは、まず周囲の反応から。

 

「ぃよっしゃぁあああ――ッ!!」

「やった! やった! あったぁ!!」

「あーやべ! 最高っ、母さん父さんっ、ありがとう!!」

「七十二番、七十二番……! っし……!」

「いやあ安心安心。ほっとひと息だわマジで……」

 

 歓声に埋もれるあたりの空気。

 

 テンションの差だろう。

 耳に聞こえてくるのは揃って成功者たちの声だ。

 

 惜しくも届かなかった敗者は影に沈むよう退いていく。

 

(えっと、私は……あった、七十五番……)

 

「こっちは大丈夫だったみたい。……ねぇ、水桶くんは――――」

 

 瞬間。

 こう、ざわっと。

 

 生まれてこの方、生きていて一番、人生ではじめて。

 渚は文字通り生命の危機じみたものを感じ取った。

 

 理由は分からない。

 

 だが、この場にいては大変なコトになると本能が必死に告げていて――

 

 

「――――――、や」

「…………や?」

 

 

 ざり、と一歩後退る。

 

 しかしその判断はもはや遅かった。

 

 

 

「やったぁあぁあ――――――――――ッ!!」

 

「きゃぁあぁあぁああぁああぁ――――っ!?」

 

 

 

 ふたり同時に発された絶叫が重なって轟いていく。

 

 肇はこの目で確認した己の番号に歓喜して。

 渚は隣でハイになった彼に思いっきり抱き締められて。

 

 ぐるんぐるんと空中で振り回されながら、わたわたと慌てふためく。

 

 美少女、少し早い春の大回転祭りだった。

 

「あははっ、あった! あったよ優希之さん! ちゃんと受かってた!」

「そっ、そそ、そう、みたい、だねっ!?」

「あはは! あははははっ! やったーっ! よかったぁーっ!」

「――っ、わ、わか、わかった! わかったから! ちょっと、下ろ、下ろし――」

 

 喜ぶ彼とは打って変わって彼女の心境はもう大混乱真っ最中。

 まるで小さい子供にやるみたいに抱え上げられてふわりと回る姿はとんでもない。

 

 いや本気でとんでもない代物だ。

 

 羞恥で顔から火どころか太陽が昇るんじゃないかという赤面っぷり。

 よもや手で覆ってしまいたくなるほどに熱を帯びている。

 

 これを冷静に止めてくれる相手がいれば良いのだが、頼みの綱の担任教師はなにやらカメラを構えたシャッターチャンスを狙う始末。

 

 終わりだ、と渚は内心絶望した。

 こんなのはもう、処刑となんら変わらない。

 

「――――下ろしてぇ……っ」

「あはは! あはははっ! あーもう最高! 生きてて良かったー!」

「お願い……! ――して……! お願いぃ……!」

「合格だよ、合格! 優希之さんも、俺も! あはは! よし! よぉっし!」

 

(頼むから誰かいますぐに私をコロしてぇ……っ!)

 

 大騒ぎの中ふたりの声が溶けていく。

 

 ――ともあれ。

 

 なんにせよ無事入学は決定。

 これにて彼らはまだ見ぬ未来への片道切符を手に入れるコトとなった。

 

 後戻りはもうできない。

 

 これより先は記されていない過去の記録ではなく。

 どこかに記憶された、いつかにあるべき筈の物語。

 

 本編前(かいそう)はこのように。

 

 ついぞ現実(シナリオ)は、乙女ゲームの舞台へと突入するとき――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――これからもよろしくね、優希之さんっ!」

……っ、…………っ!(良いようにやられながらも反撃できない)

 

 

 

 

 







※注)続きます。


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原作時のAdoration
31/その出会いは軽く早く、そして


 

 

 

 

 県立星辰奏学園。

 

 肇たちの暮らす近辺でもひときわ有名なそこは、ドの付くレベルの超名門校でもある。

 

 入試の合格ラインも他と比べていっそう高め。

 土地や敷地内施設の規模も大きく、設備だって色々整いまくっているという。

 

 入ったらそれだけで将来安泰とまで噂される学びの園だ。

 

 ――そして、ありえないコトにどこかの別次元における〝乙女ゲームの舞台〟でもある。

 

 銀に輝く渚の恋歌。

 

 ジャンルは女性向け恋愛シミュレーション。

 俗にいう乙女ゲーと呼ばれるタイプのものだ。

 

 その舞台に、本日、足を踏み入れる本編シナリオでは名無しモブだった男子が一名。

 

(……今更だけど。考えてみるとよく分からない事態だなぁ……)

 

 彼の名前は水桶(みなおけ)(はじめ)

 どこかから流れ着いてきた一般転性者(いほうじん)で、前世(むかし)の記憶を持つ以外はとりわけ特徴もない男――なのだが。

 

 あろうことか原作開始前から主人公(ヒロイン)と出会い、

 

 長い時間をかけて親睦を深め、

 

 今となっては(本人の自覚の有無はともかく)取り返しのつかないところまで落としてしまった極悪非道(ポンコツクソボケ)天然(にぶちん)野郎だ。

 

(ゲーム……とは言ってもどういう話だったかはあんまり覚えてないし。そもそも()()()()()感覚があるワケでもないし。……うん、結局あれだ。普通と変わらないや)

 

 ぼうっと考えながら肇は慣れない通学路を歩いて行く。

 

 入学式当日。

 

 最寄りの駅から学園へ向かう人の波は少なくない。

 その殆どが制服に身を包んだ星辰奏の生徒たちだった。

 

 彼ら彼女らは不安や期待に胸を躍らせながら遠く見える校門に吸い込まれていく。

 

 かくいう肇だってそのうちの新参者。

 下ろしたての学生服に着られながら、のんびりと革靴(ローファー)を鳴らしている。

 

(――いや、でも本当……受かってよかった……)

 

 合格後、家族や親戚から盛大に祝われたコトを思い出す。

 

 彼自身としても一年間続けた努力の成果が実を結んで達成感に浸っていたのだが、他人(ヒト)にも喜んでもらえたのは嬉しい限りだ。

 

 おそらく期待半分ぐらいだったろう両親は「マジで!?」と二度見三度を見繰り返し、妙に心中のハードルが高い妹は「兄さんなら当然では? 私は信じてました」と胸を張り。

 それ以外の親類縁者からはよしよしと撫でられ褒められ、ついでにお小遣いをもらうという好待遇っぷりである。

 

 なんというか、そう、最早乙女ゲーの舞台がどうとか関係なく。

 

 星辰奏、凄い――――と思わざるを得なかった肇だった。

 

(……よし、とにかく頑張ろう。まず勉強。成績が振るわなくて退学とかになったら合わせる顔がないからね)

 

 うんうん、と深く頷く真面目な新入生。

 

 なお、そんなコトを考えているのが満点合格をした首席にギリギリ一点差で敗北を喫した次席という真相を誰も知らない。

 はたして己の力量を勘違いする呪いでもあるのかというぐらい自覚が足りなかった。

 

「…………、」

 

 通学路には仄かな喧噪が入り交じっている。

 

 友人たちと楽しそうに話す声。

 元気よく空に響く朝の挨拶。

 不規則に塗装された道を蹴る固い靴音。

 

 ――――その中で、

 

(…………ん?)

 

 ふと、彼は場違いに浮いた光景(モノ)を見た。

 

 学園への入り口になる校門からわずか二十メートルほど手前。

 ブロック積みの擁壁にもたれ掛かって、ひときわ目を引く美少女が佇んでいる。

 

 髪は日差しに照らされて光る銀色で、腰あたりまで伸びるほど長い。

 頭には特徴的な赤いカチューシャと黄色いリボン。

 その場の誰よりも星辰奏(ここ)の制服が似合っている絶世の美人。

 

 独特な雰囲気からか近寄ろうとする人間はいなかった。

 

 おそらく纏っている空気が本能的に忌避感を呼ぶからだろう。

 ひとりの少女が発するものは黒いブレザーに染みるほど陰鬱だ。

 

 言うなれば葬式の静けさがそれに近い。

 

 いつであろうと基本的に、彼女は喪に服する人間じみた暗さを漂わせている。

 それが容姿の綺麗さと相まって、余計他人を寄せ付けない絶対的な防御壁になっているのだが――当然自分では知る由もなかった。

 

 そしてついでに、そんな空気を微塵も気にしない少年だって同じく。

 

「優希之さん?」

「っ……」

 

 声をかけると少女の肩が跳ねた。

 びっくりしたように、顔を上げて視線が肇のほうを向く。

 

 ……空気が解ける。

 

 嫌な気配が霧散する。

 十代の女子から出ているとは思えない死臭じみた雰囲気が和らいだ。

 

 たったひとりの人物を前にして。

 まるで呪いが解けるみたいに。

 

「……お、おはよう……水桶、くん……」

「おはよう。元気してた?」

「う、うん……っ」

 

 やあ、という気軽さで肇が挨拶を返す。

 

 優希之(ゆきの)(なぎさ)

 

 彼と一緒の塾に通っていた女子で、その関係で仲良くなった相手。

 ついでに言うと、実はこの舞台の元になる乙女ゲーにおいて主人公(ヒロイン)だった人物だった。

 

 ……詰まるところどういうコトかというと。

 

「でも、思ったとおりだね」

「……? な、なに……が……?」

「制服、とっても似合ってる。今日の優希之さんも可愛いよ」

「――――……っ」

 

 この天然純朴(ポンコツクソボケ)野郎に完膚なきまでハートを撃ち抜かれた被害者(おとめ)その一である。

 

 その二以降があるかどうかは知らない。

 いやむしろ渚的にはあったとしても無くていい。

 

 今でも相当なモノなのにこれ以上増えるとすればもう悪夢だ。

 きっと心に少なくないダメージを受けることになる。

 

「……あ、ありがと……」

「綺麗な人が着ると様になってるよね。ほら、俺なんかこう、しっくりこないし」

「……水桶くんだって、その、似合ってると思う……けど……っ」

「そうかな……? 個人的にはどうにも。了華は激写してたけどね」

「…………あぁ、あの妹ちゃん……」

「??」

 

 ずぅん、とあからさまに肩を落としながら渚はため息をつく。

 

 思い起こすのはつい最近の春休み。

 

 気分転換がてらショッピングモールに立ち寄った彼女は、偶然にもひとり休憩スペースでくつろぐ肇と遭遇した。

 

 そうなれば当然世間話にも花が咲くというもの。

 

 なにしろ勉強三昧の塾仲間とはいえ一年間を共にした戦友。

 彼女からすれば付き合ってもいないのにぞっこんレベルで惚れきった男子になる。

 

 時間もなにも忘れてふたり楽しく過ごしていたところで――そんな穏やかな空気を裂くように、件の人物(いもうと)は現れた。

 

 

『――肇さんっ! 私という彼女(こいびと)がありながらこれはどういうコトですかっ!?』

 

『ッ!?』

 

 

 開口一番、とんでもない事実(うそ)を叫びながら。

 

 

『…………あー、紹介するね。優希之さん。この子は――』

『貴女は誰ですかっ!? 私の肇さんに何の用です!?』

『了華、了華。冗談も程々にするんだよ? 変な噂になるからね?』

 

『ど、どどどどういうコト水桶くん……!? 前、恋人、いないって……!』

『うん、いないから。これ了華の演技(ウソ)だから。一旦落ち着こうか』

 

『肇さんから離れなさいっ! この泥棒猫っ!!』

『了華??』

 

 

 その後、あまりの酷さに(あに)渾身のアイアンクローが決まったことで事態は収束を迎えたのだが……渚にとってはちょっと心臓の落ち着かない記憶だった。

 

 もし妹ではなく本物の彼女だったら今頃布団の上で貝になっている自信がある。

 無事に登校できていたかも怪しいぐらいだ。

 

 ……それはもう手遅れなのでは、という指摘はご遠慮願いたい。

 

 彼女だって内心薄らと分かっているのである。

 

 

『……どうもっ、妹の水桶了華ですっ』

『ど、どうも……優希之渚です。……えっと、お兄さんとは塾が一緒で――』

『知っています。……勘違いしないでくださいっ』

『……え?』

『兄さんは誰にも優しいので。ちょっとよくされたぐらいで調子に乗らないでくださいね。私、貴女のコトなんて絶対認めませんから!』

『えぇ……?』

 

『こらこら、初対面でなんてこと言うの了華。優希之さん困ってるから……』

『困ってしまえばいいんですぅ、こんな人ぉ! 私のっ、私の兄さんですから……っ』

『どうどう、落ち着いて。よしよーし。可愛い了華ちゃん落ち着けー』

『――――ふにゃぁ……』

 

 〝なんだろうこの何とも言えない微妙な感情……〟

 

 

 以上が渚と了華のファーストコンタクトだった。

 

 第一印象が最悪どころの話ではない。

 下手するとトラウマになるレベルで酷い有様。

 

 そんな相手の話を聞いて憂鬱になるなというほうが無理な話だろう。

 

 例えそれが彼の大事で大切で最愛の妹だとしてもだ。

 

「……水桶くんはさ……」

「? うん」

「もうちょっと、妹離れしたほうが良いんじゃない……?」

「えー、でも了華、長期休暇でしか帰ってこないし。たまにしか会えないから、とことん付き合ってあげたほうが良くない?」

「…………限度があると思うな、私は……」

 

 そうやってしみじみと語る渚だが、過去(ぜんせ)で姉だった彼女がどうだったかと言われれば――まあ、どの口がそれを言うかということで。

 

 最愛の弟をでろんでろんに甘やかし、愛してるの感情(ひびき)だけで強くなり。

 震えるほど抱き締めるどころか抱き潰し溺愛溺愛即ち溺愛(らぶらぶちゅっちゅ)を繰り広げた元凶である。

 

 渚に彼の兄弟愛を指摘できるようなところなど更々なかった。

 

 一度冷静になって前世弟(だれか)への振る舞いを思い出してほしい。

 

「それに了華だって優希之さんの人となりを知れば仲良くなれると思う。普段は凄い良い子なんだよ? 可愛いし、天使だし」

「……また言ってる……」

「世界でたったひとりの兄妹は超絶可愛いんだよ、優希之さん」

「それは……、」

 

 すっきりしない気分だが、そこに関しては渚も頷けなくはない。

 

 世界で唯一無二の姉弟は可愛い、然りだ。

 いまは亡き彩斗(おとうと)はそれはもう最高だった。

 

 一挙手一投足頭の天辺から足の爪先までオールパーフェクト。

 キュートでクールでナイスの化身、ついでに絵の素質(センス)も天才的。

 

 ……たったひとつ身体が弱いという欠点はあったが、それはそれ。

 

 たかだかそんな問題で人の魅力も価値も変わらない、と。

 

「まあそれはともかく。新入生の代表挨拶、優希之さんなんだって? 凄いね」

「……好きでやるんじゃないけどね……成績、いちばん良かっただけだろうから」

「だからそれが凄いんだよ。……俺、今回は自信あったのになぁ」

「…………まあ、ずっと私のほうが合計は上だったし」

「なんか言ったー?」

「……ううん、なにも」

 

 じとーっ、とした目を向けてくる肇の視線を躱しつつ、渚が歩を進める。

 

 いつの間にか彼女を中心とした結界(サークル)は消えていた。

 人の流れだって道端で会話する男女に気を取られるコトもない。

 

 その異様な変化に気付けたのは一体何人いたものか。

 

 ふたりは何事もなかったように並んで校門へ向かっていく。

 

「……最近、優希之さんが俺のこと嫌いなんじゃないかと思って悲しくなるときがある」

「そんなことないって。ちゃんと好きだよ、水桶くん、の……こと…………」

 

 と、言っている途中で恥ずかしくなったのか。

 それとも自分がなにを言っているのかそこで自覚したのか。

 

 ぼっ、と髪の毛が跳ね上がりそうなぐらい渚の顔が赤くなる。

 

(――い、いい、いま、いまなんて!? わたしいまなんて――――!?)

 

 もう脳内は大混乱(パニック)

 悲鳴じみたサイレンが頭の中をうるさく響き渡る。

 

 会議を開こうにも重役たちは先の衝撃で全員洩れなく重傷。

 瀕死の身体で召集にすら応じれない状態だ。

 

「おー……嬉しいけど、そうはっきり言われると気恥ずかしいね」

「っ、あ、えと! いまのはその、あのっ――だから!」

「大丈夫、大丈夫。俺も優希之さんのことは結構好きだよ」

「っ!!!!!!」

 

 その、返しは、聞いて、ない。

 

「ぇ、ぁ……ぅ、ぁ、ぇぁっ……!?」

「なんだかんだで付き合い長いし。……あ、おはようございます」

「はい、おはよーう! 入学おめでとー! 隣の子も、おはよう!」

「っ、ぁ、お、おはようっ、ございます!」

「うん! 元気がよくて宜しいっ!」

 

 からからと笑うのは校門前に立っている在校生の女子だった。

 腕に「庶務」と書かれた腕章をつけているあたり、おそらく生徒会役員だろう。

 

 朝の挨拶運動みたいな仕事なのか、彼女は通りがかる生徒――主に新入生――一人一人に明るく声をかけている。

 

 お陰で初日の登校というのに堅苦しい空気がほぐれていた。

 なるほど人選としてはこれ以上ない。

 

「……い、いきなり、好き……とか言わないでよ……っ」

「あはは、やっぱ恥ずかしいよね。ごめんごめん」

「っ――な、もっ……ひ、独り言も、聞かないで……!」

「この距離だから聞こえちゃうって」

 

 くすくすと笑う肇に、渚が顔を真っ赤にしながら涙目で睨みつける。

 

 ……最悪だ。

 

 よりにもよってその一言を聞かれたくなかった。

 いまだけは彼が難聴にでもなってくれないかと渚は願う。

 

 いまだけでいい。

 

 普段の態度に難聴まで加わったら難易度がナイトメアなんてモンじゃないほど跳ね上がるので本当いまだけでいいから。

 というかなんならこの十秒間の記憶をさっぱり消してほしいまである。

 

「ほら、照れてないでしっかりして。新入生代表さん」

……っ、…………っ!(いつかやり返そうと決意する女子の図)

「……直接会場に行けばいいんだっけ? 皆に付いて行ったらいいのかな」

「…………先ず、教室じゃないかな。ほら、そこ……昇降口のとこに、クラス分けの貼り紙してあるみたいだし……」

「なるほど」

 

 胸中で手をぽんと叩くような返事をして、肇は真っ直ぐ道なりに進んでいく。

 

 ……と、

 

「……優希之さん?」

「――――…………、」

 

 急に隣からの足音が止んで後ろを向く。

 

 見れば渚はどこか複雑そうな面持ちで俯き加減。

 目を伏せて自分の足下の少し先あたりを見詰めていた。

 

 なんだろう、と小首をかしげながら肇が近付く。

 

「どうかしたの?」

「……あ、そ……その……」

「……?」

「ご、ごめんっ……よ、用事、思いだし、ちゃって……――さ、先、行ってて……っ」

「……ん、了解」

 

 言いながら、さっと敷地内のいずこかへ消えていく渚の姿。

 

 微かな葛藤はあるものの決断はハッキリしているらしい。

 遠くなる後ろ姿は暗くはなく、少なくとも沈む感じはなかった。

 

 ならばきっと、いつかみたいな心配は要らないだろう。

 

(まあ、優希之さんなりに都合はあるだろうし)

 

 なにしろ本来のゲームであればたったひとりの主人公(ヒロイン)

 出会いはそれこそ各所に散らばっているように。

 

 これから沢山の攻略対象(ヒーロー)たちと、恋をするのが彼女の運命。

 

 そのあたりは今のところ肇に関係のない事情だ。

 

(寂しくなるけど、わざわざ首を突っ込むようなコトじゃないし。……うん、頑張れ優希之さん)

 

 未来はたぶん明るいよー、と胸中で応援(エール)を送りながら歩みを再開する。

 

 他人の心配ばかりもしていられない。

 

 彼だって正真正銘、経験の薄い高校生活一日目。

 自分のコトでも気にかけるべき点はいっぱいあった。

 

 名門校への進学は良くも悪くも忙しないのだ。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 ――辿り着いた桜の木の下で、彼女はぼうっと校舎を眺める。

 

 あたりは静かだ。

 場所が場所だからだろう。

 

 校門や昇降口と比べて周囲の喧噪は極端に少ない。

 通りがかる生徒だって滅多に見ないほど。

 

 それもそのはず。

 

 まだまだ式の開始までは遠い朝の時間帯。

 中庭にまで足を運ぶような物好きは殆どいなかった。

 

 なにもかも分かっている彼女を除いて。

 

 

 

「――どうしたんだ? あんた」

 

 

 

 ふと、耳をついたのは酷く透き通る声。

 

 けれど違和感なく耳朶に馴染む不思議な震え。

 

 変な予感と共に、ゆっくりと音のほうを振り返った。

 

 

「――――――」

「……?」

 

 

 目を見開いて、その姿を視認する。

 頭の中の記録(イメージ)と現実の映像(かたち)が重なり合う。

 

 翳りと暗さはあったかどうか。

 自分では他人から見た姿は分からない。

 

 ただ、あまりにも慣れないその感覚に彼女は瞠目して。

 

 そして――――ゆっくりと目を閉じた。

 

(……あぁ、そういうこと……)

 

 胸中で細く息を吐く。

 

 なるほどこれなら仕方ない。

 呆れるぐらい正直な代物に思わず笑ってしまう。

 

 だってそうだ。

 

 こんなもの。

 

(……どうりで)

 

 ――心は穏やかだ。

 

 ざわめきたつコトも、騒ぎ立てるコトもない。

 理性の紐は簡単に緩んで本能が綻んでいる。

 

 彼女のすべては極めて自然体。

 

 ともすれば知らないと()()()してしまうほど暖かな手触りだった。

 

「……()()()()()()()()()()()

「こんなときに? ……おかしなコトしてるんだな、あんた」

「…………、」

 

 嫌悪の類いは一切湧かない。

 そもそも初対面の相手に湧くはずもない。

 

 だからこそ清々しくて駄目だ。

 

 ……ことごとく彼女の事情でしかないけれど。

 

「見たところ新入生だろ? 俺もなんだ。折角だし一緒に行こうぜ」

「……貴方はどうしてここに来たの?」

「偶々だ。先輩に知り合いが居てな、挨拶してきた帰りだよ」

「…………そう」

 

 胸に覚えたのは微かで確かな不鮮明なもの。

 

 心の跳ね方。

 意識の飛び方。

 感情のはじけ方。

 

 なによりこの場における居心地そのもの。

 

「オレは海座貴三葉。あんたの名前は?」

「……優希之渚」

「優希之ね、了解。……ところで自分のクラス、分かるか?」

「…………ええ」

 

 嫌いではないけれど。

 悪くはないけれど。

 不合格ではないけれど。

 無理ではないけれど。

 

 なんというか――――

 

「……よろしく、海座貴くん」

 

 

 ――――ちょっと、なにもかも足りない、なんて。

 

 

 誰かと比べて、思ってしまったのだ。

 

 

 

 

 



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32/別に恋仲とかではないけれど

 

 

 

 

 星辰奏学園のクラスは一学年に四つある。

 

 それぞれ一組から三組が普通科。

 四組が商業科というのが大きな枠組み。

 

 一クラスしかない商業科はともかく、普通科の三クラスは年ごとに入れ替えもある。

 

 入学時は成績優秀者から一組に、それ以降は繰り下がりで二組へ。

 学校指定の推薦や部活動推薦――他特別推薦の合格者は全員まとめて三組。

 

 その後二年生では文理選択で別れ、さらに三年となると進路別になる仕組みだ。

 

 なので、肇たち普通科の新入生は学力ごとの組み分けになる。

 

 当然ながら彼の所属は一組。

 無自覚とはいえ一点(マイナス)の次席が成績上位者なのに変わりはない。

 

「…………、」

 

 かつかつと階段を上っていく。

 

 一年生の教室は五階にまとめられていた。

 四階は二年、三階は三年――と、進級するごとに下がっていく形だ。

 

 若輩者が苦労する配置になんとなく社会構造的なアレを感じる肇である。

 

 悲しいかな、なんであろうと年功序列は基本も基本。

 年の差、勤続年数の違いによって先輩後輩はあって然るべき。

 

(まあ足腰自体は今のところ問題ないし、いいのかな)

 

 昔と違ってフルパワー健康状態の身体に感謝しつつ階段を上りきる。

 

 教室は校舎を右に行った方面だ。

 手前から番号順に、三組と四組だけわずかに間をあけつつ並んでいる。

 

 言うまでもなく一組は階段から最も近いところ。

 

 スタスタと廊下を横断して、彼は一番手前のドアをガラリとスライドした。

 

 

「いやほんと。マジでウチは感動したね」

一組(こっち)側のくせによく言うよー」

「つか聞いた? 今年の首席やばいらしいじゃん」

「化け物らしいな。兄貴が先生らの会話耳に挟んだっつってた」

「あっはっは! 彼氏が二組いってキレてんだけど! 通知止まんねー! ……ふふふ、煽ってやーろぉ」

「やめとけやめとけ。学力煽りは亀裂入るわ」

 

 

 ガヤガヤと騒がしい声を聞きながら後ろ手に扉を閉める。

 

 室内にいる生徒数はぼちぼちと言ったところだった。

 半分より若干多めの人がすでに来ているかという具合。

 

 比較的優等生が集められている筈だが堅苦しさはそこまでない。

 何人か静かに本を読んだりして過ごしている者もいるが、八割方がすでに交友関係を築いて談笑しているからだろう。

 

 ……そのうちの多くがえらいところの出身だとは彼も知らないことである。

 

(ちょっと意外かも)

 

 微かに目を見開きつつ、ちらりと黒板の貼り紙を見た。

 最初の席順は五十音順で教室の奥――窓側から詰められている。

 

 肇の机は廊下側から二番目の前から三列目だ。

 

 とりあえず自分の席に向かって、持っていた荷物を置く。

 

 ……と。

 

 

「――あっ、水桶肇ぇ!」

「ほ、ほんとに来た……! 三組じゃないんだ……!」

「あほ、一般入試でいたでしょ」

「つか一組ってコトは勉強もできるんだね。はは、すげー」

「……っ、わ、わたし行ってくるぅ!」

「えっ、あ! あんた待っ、ちょっ――――!?」

 

 

 なにやら名前を呼ばれたかと思えばずだだだーっ! と走ってくる少女が約一名。

 机の間をぎゅるんぎゃるんとくぐり抜けて、彼女はあっという間に肇の前に着いた。

 

 仲間内の女子が止める暇もない高速移動である。

 

「……えっと?」

「あッ――と! あの、えぇっとぉ!」

 

 わたわたと慌てる少女は一言でいうと〝ふぁさっ〟としている。

 

 ゆるふわウェーブの長い茶髪と、同色の眠たげに潰れた瞳。

 寝不足なのか薄く隈まで残っていた。

 

 けれど先の疾走のとおり、言動に寝ぼけた様子は感じられない。

 

「……あー……一旦、落ち着こう……?」

「――――!!」

 

 ぶんぶんぶん! と首振り人形みたいに上下する頭。

 

 そのままポロッと取れてしまわないか怖くなるぐらいの勢いだった。

 脳みそが正常ならガンガンに攪拌されていてもおかしくない。

 

 初対面の肇とはいえ流石にこれはどうか、と心配になってくる。

 

「――わたしっ、あの!」

「うん」

姫晞(ひめかわ)摩弓(まゆみ)って言います!」

「うん、うん」

「――こ、これからどうぞ宜しくお願いしまぁーす!!」

「ん、姫晞さんだね。よろしくお願いします」

 

 ぶんぶんぶん! と今度は握手を交わした肇の腕を上下させる姫晞女史。

 

 いつぞやの優希之父(なぎさパパ)を思い出すシェイクハンドである。

 ちょっと肩の駆動に負担をかける動作だが。

 

 ……とはいえ、肇としても願ってもない申し出はありがたかった。

 

 なにしろこれから一年を共にするコトとなるクラス。

 友人はひとりでも多いほうがいいだろう、なんて。

 

「――ファンです!」

「え?」

「高校では美術部入りますか!?」

「……うーん、どうだろ? まだ決めてないかなー……」

「じゃあ一緒に見学行きませんか!?」

「いいの?」

「はいっ!!」

「……ん、わかった。じゃあそのときはまたお願いするかも」

 

 元気な子だなあ、と口元に手を当てて笑いながら答える肇。

 

 普段は渚との会話が多い彼からすると、この類いの空気はわりと新鮮だ。

 卒業してクラスメートと直接やり取りする機会がなかったのもある。

 

 なんであれ明るく喋る相手は気持ちの良いもの。

 

 思わず頬を緩める肇だったが――直後、件の少女……摩弓某は急に「んぐっ」と喉になにか詰めたような反応を返した。

 

「――水桶さん!」

「あ、うん」

「わたし死にます!」

「なんで?」

 

 唐突なカミングアウトだった。

 

 余命宣告もなにもなくいきなりの死亡宣言。

 

 肇はワケが分からない。

 ワケが分からないのだが……目の前で胸のあたりを()()()()()()と押さえる女子(まゆみ)はたしかに苦しそうだった。

 

 なるほどこれは死にそうである。

 

「……姫晞さん? 大丈夫……?」

「ひっひっふー……! ひっひっふぅー……!」

「なぜラマーズ法……」

「ふぅーっ、はぁー…………っ!」

 

 仕方がないのでさすさすと肇が摩弓の背中を擦る。

 

 気分は前世(あっち)で酔い潰れた父親を介抱した時のようなものだ。

 たまたま体調が良かったときで、これじゃどっちが病人だか分からないよ、なんてトイレで愚痴った記憶が蘇る始末。

 

 そんな経験があったからかどうなのか。

 

 しばらくして落ち着きを取り戻した摩弓嬢は、スカートの端をぎゅっと握りしめながら勢いよく顔を上げた。

 

「……っ、あ、あの! 水桶さん!!」

「うん、どうしたの」

「い、いいいいま彼女とか居ますかっ!?」

「居ないけど」

「わたしと付き合ってみませんか!?」

「ごめんね?」

「かっはァ――!?」

 

 ノータイムだった。

 

 振り抜かれた刃は刹那の閃きを以てして乙女心を斬殺、もとい惨殺。

 かくして勢い百パーセント本心五百パーセント計六百パーセントの告白は見事春の桜と同じように散っていく。

 

 是非もなし。

 

 場所とタイミングと好感度と交友関係のすべてが悪かった。

 初対面で想いを告げても創作みたいに実るとは限らないのである。

 

「――あーあー、申しわけない水桶くん。この子、ちょっと興奮してるだけだから」

「あ、うん。それはなんとなく分かるけど」

「ちょくちょくコンクールで賞取ってたでしょ? そのときからこの人の絵良いなーって言ってる子なの。許してあげて」

「へぇー……学生の絵なんて滅多に見る機会ないのに。好きなんだね、姫晞さん」

 

(――絵のコトが)

 

「そうなの。メチャクチャ好きなんだよ、この子」

 

(――君のことが)

 

 ふたりの会話は通じ合っているようで微妙にずれている。

 が、それを指摘する人も気付く人もいまここにはいなかった。

 

 他人とのコミュニケーションとはなんとも難しい。

 

 認識の違い、意味の差異。

 

 人と人との結び付きは奇妙複雑な彩模様だ。

 

「あ、摩弓の友達やってます。蒼姫(あおき)留奈(るな)です。よろしくー」

「よろしく蒼姫さん。……ところで姫晞さんの顔色が悪いのって」

「平常運転だから気にしないで。寝不足と朝の低血圧で死にかけてるだけ」

「あ、そうなんだ……」

 

 難儀だ、と思いながら依然として背中を擦り続ける肇。

 

 失恋した女子は吐血しながら(あくまでイメージです)未だ蹲っている。

 涙を流していないのと、心が折れていないのはせめてもの強さか。

 

 憧れとか歓喜とか愛しさとか切なさとか心強さとかがない交ぜになった表情で床のタイルを眺めていた。

 

「姫晞さん」

「っ、は、はい……!」

「お付き合いはアレだけど、まずお友達からお願いします」

 

「――――交際を前提にッ!?」

「いや流石に初対面でそれはどうかと」

 

「留奈ちゃん、留奈ちゃん。わたし泣いちゃいそう」

「いいぞ、泣け。水桶くんにとっては絶対(ヒャク)迷惑だけど泣け」

 

「お友達でお願いします……!」

「いいんだ……」

 

 よもやこの少女ちょっと分からないぞ、なんて小首をかしげながら二度目の握手を敢行する肇である。

 

 それに引き換え、友人に頭をよしよしされながら憧れの男子と手を握る摩弓はさながら天にものぼる気分だった。

 

 グッバイ人生、サヨナラ現世。

 口の端からふわふわと空に浮かぶモノは果たして幻覚か現実か。

 

 有名校にも色々人は集まるんだな、と至極感心している彼は気付きもしない。

 

「姫晞ちゃんクソ度胸の塊だなー……どう? やっぱロクデナシか?」

「いや普通っぽい。たぶんだけど」

「初めまして水桶さん。あなたの作品印象に残ってて――」

「どうもです! 早速だけど下の名前で呼んでいい!?」

 

(急に沢山押し寄せてきた……)

 

 わらわらと集うどこか見覚えのある女子集団。

 彼の記憶が正しければ摩弓たちを含め入試を同じくしたいつぞやの少女たちだ。

 

 その誰もが肇の絵を気にかけているあたり、なんともこう回答に困る。

 

 そこまでじゃないんだけどなー、と苦笑する推定八桁の無名画家。

 昔の経験が泥沼に引き摺り込むレベルで足を引っ張っている例だった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 ――下手な芝居を打ってみて。

 

 渚自身、いくつか分かったコトがあった。

 

 先ず一つは知識通りになぞれば機会が訪れるということ。

 

 彼――海座貴三葉との出会いはいちばん始めに用意されている共通のエピソードだ。

 入学式の日に偶然迷った優希之渚(ヒロイン)が桜に見惚れていたところ、赤毛の男子に発見されて教室へ向かう。

 

 わざとらしさ満載の流れでもそれ自体は現実になった。

 ある程度でもやろうと思えば記憶は使い物になるだろう。

 

 

「えっと……オレらの教室は……五階みたいだな」

「…………、」

 

 

 あと一つは、益体のない夢想話はその通り考えすぎだったこと。

 

 無意識のうちに他人を拒絶する渚は、自分でも気付かないうちに相手への嫌悪を抱くときがある。

 古い記憶(ぜんせ)で抱えた誰か(おとうと)への想いを引き摺っている所為だ。

 

 それは例外なく起こるものだったが、三葉と対面したときにそれはない。

 

 だからこその他人と比べて驚くほどの接しやすさがある。

 なんとなく痛む傷を誤魔化せるようなもの。

 少なくとも話していて悪い気持ちにならないのだから凄まじく相性の良い相手だ。

 

 けれどそれだけ。

 

 だからと言ってなんというコトはない感じ。

 運命じみた響きは軽いもので、感触は相応に曖昧だった。

 

 別に世界(げんじつ)物語(シナリオ)人物(あいて)も関係ない。

 

 生きているものは間違いなく動い(いき)ている現実(せかい)である。

 

 

「うわ、階段なっが……、あー、優希之? しんどくないか?」

「……平気。そこまで心配しなくてもいいよ」

「そっか。まあ、そうだよなあ。学校の階段ぐらい」

「そうだよ……海座貴くんは色々、気を配りすぎじゃないかな……」

「……優希之。おまえ会った時のこう、キリッとした感じはどうした。イメチェンか」

「…………これが素だから」

 

 

 ――そしてもう一つは、なにも誤魔化せなくなったこと。

 

 

「しっかし、あれだな」

「……? なに、どうしたの」

「いや、顔見知りに優希之がタイプど真ん中ストレートっぽい奴がいたと思って」

「ぇ…………」

「おいこら。そこで嫌そうな顔してやるなよ……本人傷付くぞ、知らないだろうけど」

「…………私、これでも一応好きな人いるから」

「まじで? あー、こりゃ負けだ。どんまいだなー」

「……そうだね。その人には悪いけど」

 

 

 いつかに秘めたもしもの話。

 いまとなっては到底馬鹿げた妄想だけれど。

 

 原作(ゲーム)攻略対象(ヒーロー)と出会ってしまったら、無条件で渚の心が向くのではと恐れたコトがあった。

 

 そうなれば肇との関係なんていくら進んでも意味がない。

 運命の糸みたいな修正力を前にふたりの仲は引き裂かれる――とか。

 

 そんな紙の上でよくある話を想像した渚だったが、結果はご覧のとおり。

 

 どころかとっつきやすい男子(あいて)を前に余計感じてしまう羽目になった。

 

 

「っと、ここだな。一組は……」

「……そこ。いちばんこっち側みたい」

「お、ラッキーだ。早く入ろうぜ、優希之」

「……そんなに急がなくても……」

 

 

 いや、ほんと、自分でも笑ってしまうほど。

 めちゃくちゃ(カレ)に対する感情(すき)は大きいみたい――

 

「おはようございまーす」

「……失礼、しま――」

 

 なんて、三葉と一緒に晴れやかな気持ちで教室をくぐったとき。

 

 少女は視界の端で。

 

 なにやら。

 

 数人の女子に囲まれる、男子(ヤツ)の姿を見た。

 

 

 ――あれは誰だ。

 

 

 どうしてだろう、その光景は覚えがない筈なのに、その人物にはいやに見覚えがある。

 

 

 ――あれは誰だ。

 

 

 茶髪混じりの黒髪と、空よりも海に近い色の瞳。

 背丈は高すぎず低すぎず、身に纏う雰囲気は穏やかさの濃い男子。

 

 

 ――あれは誰だ?

 

 

 ついでに言うと、さっきのさっき。

 

 今の今まで考えていた、校門を過ぎたところで別れた誰かに――酷く、似ていないだろうか?

 というかそっくりじゃなかろうか? なんて頭を九十度横にぐぎぎ、なんて傾げかける渚嬢。

 

 隣にいる三葉が「優希之おまえ首どうした? 寝違えたか?」なんて有り体なボケツッコミを繰り出している。

 

(――――なんだあの集りよう(じょしのむれ)は?)

 

 気付いた瞬間、渚のこめかみにピキッと浮かび上がるものがあった。

 

 理不尽な怒りだ。

 

 彼女がキレる道理なんてさらさらない。

 なんなら彼だって別にそう悪いコトをしているワケでもない。

 

 渚は肇の恋人でもなければ将来を誓い合った婚約者とも違う。

 

 まだ想いもなにも伝えていないただの知り合い、勉強仲間。

 彼がクラスメートの女子に囲まれているだけで嫉妬にかられるのはどう考えても間違っている。

 

 間違ってはいるのだが――――それでどうにかなるならこの世からジェラシーという単語は消えてなくなるのだ。

 

「――――――」

 

 こつん、と踵を鳴らして机の隙間を往く。

 

 自らの席順は先ほど、黒板に一瞬目を向けて把握した。

 

 運の良いことに。

 非常に都合の宜しいコトに、水桶肇(ソイツ)の隣だ。

 

 〝ま行〟と〝や行〟の五十音順の近さにいまは感謝する。

 

「おーい優希之? ……どうしたんだ、あいつ……?」

 

 こつん、こつん。

 

 靴音を高く響かせて歩いていく。

 

 彼はまだ気付かない。

 気付いてくれない。

 

 気付いてほしい(けこのバカ)

 

 こつん、こつん、こつん。

 

 彼我の距離は、わずか五メートル。

 少女の身体からは気持ち、凍えるほどの冷気が迸っている模様。

 

「――――――――」

 

 

「へぇ、じゃあ油絵のほうが得意なんだ?」

「うん。そっちの方が色々慣れてるから。……上手いかは置いといて」

「一度見てみたいですね。……やっぱり部活、入りましょうよ」

「あー……でもねー……授業ついていけるか不安だし」

「水桶さんなら大丈夫だと思います! わたしはそう思います!」

「その根拠は?」

「ないですけど!!」

「だめじゃないの」

 

 

 こつん、こつん、こつん、こつん。

 

 ピタリと止まる少女の靴音。

 まだ気付かない(このクソボケやろう)

 

 鞄を両手に身体の前で持ったまま、仕方なく渚はニコリと微笑みつつ声をかけた。

 

「――――水桶くん?」

「? ……あ、優希之さん。……さっきぶり、用事は済んだの?」

「終わったよ? 水桶くんは――」

 

 集まっていた女子一同を密かに見回して、彼女(なぎさ)は一言。

 

「――楽しそうだね?」

「そりゃあ、まあ……?」

「へぇー? ふーん?」

 

()()()()? ()()? あははは(なにそれ)

 

「……優希之さん?」

「なに?」

「なんか、怒ってる……?」

「べつに?」

 

 その言い方は間違いなく怒っているのだが、少女は頑なに首を振り続けた。

 

 ここで怒ってます、と言ってしまったら負けな気がして。

 なんなら今まで培ってきた大切なものが壊れてしまう気がして。

 

 ニコニコと貼り付けた笑みを浮かべたまま、すとん、と隣の席に腰を下ろす。

 

「お、誰かと思えば水桶くんか。オレのこと覚えてる?」

「海座貴くん。お昼一緒したんだから忘れないって。ついでに合格おめでとう」

「おお、さんきゅ。これからよろしく。……ところで優希之になにしたわけで?」

 

 ひそひそと耳打ちする男子ふたり。

 

 流石は攻略対象(イケメン)、感情の機微にはそれなりに聡い。

 いやまあそのあたりは肇もなんだかんだ察しているので攻略対象に限った話でもないのだが、それはともかく。

 

「……なにかした覚えはないんだけど……」

「でも水桶くんのこと見た瞬間から()()だぜ、優希之。……もしやタイプだからってド直球のアタックでも決めたのか?」

「? 誰が誰のタイプだって?」

「? 水桶くんのタイプだろ、優希之?」

 

「え??」

「ん??」

 

 混乱する肇と三葉。

 

 両者の間にはとても大きな勘違い(へだたり)がある。

 

 乙女ゲーなんだしそりゃあ優希之さんは好きだよね、と軽い気持ちで話題にあげた彼と。

 自己紹介代わりなのかな、と話の流れで誤解した男子のすれ違いだ。

 

「言ってたじゃん、入試のとき。銀髪美少女どう思うって」

「あれは純粋に訊いただけだよ?」

「質問の範囲絞りすぎだろ……え? なら本当になにもないの? 優希之あれだけ――」

 

「海座貴くん」

 

「はいッ!」

 

 びくーん! と名前を呼ばれて三葉が大きく肩を跳ねさせた。

 

 ギリギリと油の切れた様子で後ろを向けば、なにやらパクパクと口を動かす渚が見える。

 無論、いくら攻略対象者とはいえ彼は読唇術なんて持っていない。

 

 持っていないのだが――

 

『ヨケイ ナ コト ヲ イウ ナ』

 

 ――なぜか分かってしまった。

 

「優希之、優希之。おまえちょっと怖いよ」

「海座貴くん?」

はい(サー)ッ、分かりました(イエッサー)!」

 

(おぉ……流石だ、海座貴くん。もうあんなに仲良くなるなんて)

 

 自分(おれ)はもっと時間かかってたっけなあ、なんて見当違いにもほどがある感想を抱く肇。

 

 入学初日、波乱の幕開けはこのように見えない冷気と炎に包まれてスタートした。

 

 

 

 

 

「超絶美少女が水桶さんと仲良さげにしてるぅ――! ……ごふっ」

「あぁ、また摩弓がダメージを受けて……」

「このままじゃ教室が血の海だよ、姫晞さん」

「……水桶さんは顔でどうこうという人じゃないのでは?」

「ちっちっち。甘いね、男子はみんなメンクイのオオカミよ」

 

 

 ……しばらく機嫌は、直りそうにない。

 

 

 



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33/だって貴方が嬉しそうにするから

 

 

 

 

 入学式はこれといった問題もなく、つつがなく終了した。

 

 保護者との挨拶も済ませ、現在は新入生にとって初めての授業となるLHR(ロングホームルーム)

 それぞれが軽く自己紹介を終えたあと、教壇に立った担任……神店(かみだな)という男性教諭……が柔和な笑みを浮かべつつ話をする。

 

 これからの授業のコト、部活のコト、成績のコト。

 学園の生徒として過ごしていく上での注意点。

 

 その他諸々を、手元のファイルに目を通しながら説明していく。

 

「――とまあ、色々難しく言いましたが、先生から言えるのはひとつです」

 

 パタン、と神店教諭はそのファイルを閉じながら、

 

「皆さんがいけないことをすると先生の仕事が増えます。まあそれが大人の責務なんですけど、先生も人間です。お願いだから私に睡眠時間をください。いいですね?」

 

 にっこりと微笑む新参者の担当者。

 

 その目の下にはメイクでもしたのかというぐらい深い隈が出来ている。

 

 最低限のセットはされているけれど、ちょこちょこピンと跳ねた髪の毛。

 不快感を覚えない程度で絶妙によれた白衣。

 

 加えて若干の猫背もある。

 

 穏やかな空気で誤魔化されているものの、彼は満身創痍の状態だった。

 そこはかとなくブラックを感じざるを得ない生徒諸君である。

 

「では早速ですけど、まとめ役を決めましょう。……とは言っても代々一年一組は首席が学級委員を務めることになっていますので……優希之さん、お願いできますか?」

「…………ぇ」

 

「返事は〝はい〟でお願いします。相棒(パートナー)は……ちょうど良いので水桶くんに頼みましょう。僅差の次席ですからね」

「俺って次席だったんだ……」

 

「そうだったんですよ。ということで、あとの進行お願いします。先ずは各種委員会と係を決めるところから。ウチは生徒の自主性を重視しますからね。先生は流石に四徹目なので休――んんっ、皆さんをちゃんと見守っておくので、安心してください」

 

(……大丈夫かこのひと……)

 

 クラスの心が初めて一致団結した瞬間だった。

 

 教壇を学級委員二名に譲り渡した神店教諭はそうして沈黙。

 教室後方を陣取って、腕組みをしながら生徒全員を見る――フリをしてこくこくと船を漕いでいる。

 

 四徹目、つまり四日寝てないというのは冗談でもないらしい。

 

 布団にも入らない仮眠だというのにとても幸せそうな寝顔をしていた。

 

「……ど、どうする……水桶くん……?」

「とりあえず言われたとおりにやろっか。じゃあ委員会決めまーす」

「そ、そんな軽いノリでいいの……?」

「良いの良いの。こういうのは悩んでも仕方ないしね」

 

 ささっと神店教諭の置いていった資料に目を通して、肇が黒板に白墨(チョーク)を走らせる。

 書いていくのはそれぞれの委員会、係の名前と定員数だ。

 

 慣れているワケではないが、行動が早いのは偏に彼の性格故だろう。

 

 良く言えば割り切りの良い、悪く言えば勢い任せの気風。

 大人しく見えて騒がしい方が好みの傾向にあるのが肇のこと。

 

 こういう姿はなんというか、渚も素直に良いんじゃないかなと思える。

 

 ……頼りがいのある部分にキュンとしただけ、というのは彼女の名誉のためにも伏せておくべきか。

 

「優希之さん、司会できる?」

「……できなくはない、けど……」

「なら俺がやろうか? 書く方頼める?」

「……水桶くんが、それで……良いなら……」

「いいよ。はい、それじゃあお願いね」

 

 ぽん、とチョークを渚に渡して。

 ついでにぽんぽん、ともう片方の綺麗な手で彼女の頭を撫でて、肇はいま一度渡された資料を確認する。

 

 ざっと見ただけでも委員会は八つほど。

 係に関しては五つぐらいなものだ。

 

 それぞれの定員数を合わせてみても全員強制参加というワケではない。

 意欲のある人員がぽつぽつと協力してくれればすぐにでも埋まるだろう。

 

 

 

 ――などと真面目に考え込む優等生を余所に、クラスの雰囲気はざわついていた。

 

 

「ねえ、いまのなに。ねえ」

「さらっと美少女の頭撫でてんだけど。えぐない?」

「えらい奴がクラスメートになっちまったな、こりゃあ」

「ははっ、優希之のやつ固まってんじゃねーかよ。しっかりしろー」

「留奈ちゃん、留奈ちゃん。わたしたちは何を見せられたの?」

「摩弓。辛いだろうけど現実を直視するんだよ、ありゃデキてる」

 

 

 理由は言うまでもなく先ほどの身体的接触(スキンシップ)

 

 塾では他人がおらず常に二人っきりだったので何事もなかったが、これからの学園生活はまた違ってくる。

 

 同じ室内、同じ席の位置関係だとしても衆人環視の目があるのだ。

 当然ながらそれを見過ごされるワケがない。

 

 渚に対する肇の距離感は異性としても友人としても度を超している。

 なんなら例え姉弟だったとしても近すぎるぐらいなものだった。

 

 血の繋がりを免罪符にしても「それはどうか」と言われるほどのやり取り。

 

 なればこそ、そんな関係を当てはめる図式なんてひとつしかない。

 

「なーなー水桶ー。興味本位で訊くんだけどさー」

「? うん。どうしたの」

「おまえって普段そんなコトしてんのー?」

「そんなコト?」

「ほら、今さっき優希之さんにぽんぽんってしてたじゃーん」

「…………え、したっけ」

 

「「「「したよッ!!」」」」

 

 

 がたたたんっ! と机椅子を鳴らして唐突に起こる大合唱。

 

 一年一組の結束力はここに来て瞬間強力接着剤のごとく固まった。

 それぞれが紡ぎ出した音色と迫力に一切の乱れなし。

 

 今年の県内合同合唱コンクールは貰ったも同然である。

 

「ごめんごめん、優希之さん。無意識だった」

「っ……ぅ、ううん、別に……っ」

「頭、チョークとかついてない? 汚かったよね?」

 

「水桶違う。そうじゃない」

「俺らを鈴木○之(マーチン)にさせてくれるな」

「ははははっ! 水桶くん最高! 優希之ー、顔真っ赤だぞー!」

「ず、ずるくない? あの子ずるくない……!?」

「どうどう、落ち着け摩弓。ありゃ強敵すぎる」

 

 目線を合わせて謝る肇に、渚が小声で「だ、だいじょうぶ……っ」と答える。

 

 彼が撫でた手はちょうどチョークを握ったのとは逆のほうだった。

 汚れなんてそう気にするほどついていない。

 

 なんならその感触のほうが気になっていまも熱を上げている。

 さりげないとは言えオトメ的に慣れるものでもないのだ。

 

「ぁ、頭のコト、は……良いから……っ、は、早くさき、進めて……!」

「ん、了解。そうしよっか」

「――――――っ」

 

 ふわっと渚の間近で微笑む暴力そのものな眩しい表情(カオ)

 

 

 〝()ッ!!!!!!〟

 

 

 春休みを越えて久方ぶりの接触にしては強すぎる刺激。

 

 ちょっとオーバーキルだった。

 なんなら過剰摂取(オーバードウズ)でもある。

 

 副作用として渚の頬は際限なく赤みを増していく。

 

 このままでは火照りすぎて「照り焼きチキン定食」ならぬ「照り焼きナギサ定食」が完成してしまいかねない。

 お値段七三(ナ(ギ)サ)〇円、お求めはお近くの水桶(ポンコツ)食堂まで。

 

 

「…………なんか空気甘くね?」

「誰かコーヒー買ってこい。無糖のブラックがいいぞ」

「水桶。おまえ進めなくていいから一生優希之さん構ってろ」

「あははははっ! ひー! お腹いてぇー! 水桶くんマジでさぁ……っ」

「な、なにあれ。なんなの、あの、え、笑顔――――!?」

「おーい、こっちにも被害者出てんだけどー?」

 

 

 ぶすぶすぶす、と湯気どころか黒煙があがる渚の変化に肇は気付かない。

 うん? なんて不思議そうに首を傾げる様子が追撃になっているとも本人は知らない。

 

 悲しいかな、言い逃れ出来ないほど自覚した恋心はすでに箍の外れた代物。

 原作展開とか攻略対象とか関係なく、ひとりの少女として彼に惚れてしまったというのは揺るぎようもない事実だ。

 

 だからなのか一挙手一投足、彼から受けるすべての印象(インパクト)が五から六倍に跳ね上がっている。

 

 率直に言って渚は死にそうだった。

 つい先刻の姫晞某と同じ状態である。

 

「えっと……まずは保険委員から――ってどうしたのみんなして」

 

「どうしたもこうしたもねえよ!」

「何事もなかったように再開しないで! びっくりするから!」

「ほらもう優希之さんが固まったままでしょ!」

「あー……笑った笑った。いや、最高。一組で良かったわ、オレ」

「水桶さん! わたしの頭あいてますよ!?」

「摩弓、ステイ。あんたの頭はもう煩悩で埋め尽くされてる」

 

 

 がやがやと一層騒がしくなる成績上位者集団。

 はたして学年の顔になるトップ陣営がこれで良いものだろうか、と肇は内心で微かに疑問を覚えた。

 

 いや、彼自身としてはこういう空気も全然嫌いではないのだが。

 

 裕福な家系と一般家庭の違いなんだろうか、なんて思いながら苦笑する。

 

「とりあえず、はい。保険委員やりたい人ー?男女各ひとりずつね」

「あ、僕やろうか? 中学でもやってたし」

「はいはいあたしもやりたーい! 内申点あげたいからね!」

「他には? ……いないね、よし。優希之さん、保険委員は宮嗣(みやつぐ)くんと高発条(たかばね)さんで」

「あ、うん……」

 

 と、渚は黒板に白墨を滑らせようとして。

 

「…………もしかして全員の名前もう覚えたの?」

「? うん。さっき自己紹介してたし」

 

(……どうりで勉強が実になるワケだよ……)

 

 意外なところで隠れた才能を発揮する肇だった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 一通りすべての委員会と係が決め終わったところで、本日の日程は終了と相成った。

 

「それでは皆さん、節度を守って楽しい放課後を過ごしてください。部活動見学するもヨシ、羽目を外しすぎないように遊ぶもヨシです。――あ、警察の方のお世話になるのはやめてくださいね。今日ぐらいは、先生、布団が恋しいので。それでは」

 

 さようなら、と挨拶をして神店教諭は教室から出て行く。

 

 おそらくは職員室で溜まりに溜まった仕事を消化したいのだろう。

 ポロッとこぼれた話ではあったが、流石に四徹目はやばいなと思った一組生である。

 

 口調も穏和で普通にしていれば態度もまあまあ。

 なにより優しい担任だ。

 

 ここは彼の面子を立てるためにも迷惑はかけないでおこう、と半数以上の生徒が心に決めた。

 

 あまりにも憐れで、可哀想すぎて。

 

 神店教諭の目の隈が取れることを切に願う。

 

 

「なあ、このあとどうするー?」

「野球部見に行こうぜ、野球部。知り合いの先輩が居てさ」

「ていうかお昼持って来てないんだけど! 近くにお店ある?」

「食堂開放してるって。購買におにぎりとかも売ってるみたいよ」

「今日は新刊の発売日なのでウチは帰ります! それじゃ!」

「部活は基本自由だっけ? 中学だと強制だったからありがたいわー……」

 

 

 会話をリレーしながらクラスメートはそれぞれ好きに散っていく。

 

 現在の時刻、午前十一時過ぎ。

 

 上級生はこれから所属する部活動の時間となるが、入ったばかりの一年生は言ったとおり自由行動となる。

 後にはもう授業もないので早々に帰宅したところで問題ない。

 

(うーん……俺はどうしよっかなぁ……)

 

 そんなところでぼんやり考える肇。

 

 はてさて今後の予定はまったくと言っていいほどない。

 

 誰かと会う約束をしてるのでもなし。

 通っていた塾だって無事合格の後に卒塾した。

 

 びっくりするぐらい放課後はまるっきり空いている。

 

「……あ、優希之さんはどうするの? これから」

「えっ……あ、いや、普通に帰るつもり……だった、けど……」

「そうなの? 部活とかは?」

「……あんまり、やりたい事とか……ないし……」

「なるほど」

 

 たしかに一年間通してみて、いまこういうコトにハマっています、という話を渚の口から聞いたことがない。

 強いて言うならどこのお店のスイーツが美味しかったとか、最近読んだ本が面白かったとか、そんなぐらいの世間話程度だ。

 

 肇のようにやり切った上での燃え尽き症候群ならともかく、乙女ゲー主人公(ヒロイン)でそれは如何ほどなものか。

 

 よもや本編でそれを探していくのがシナリオか、なんて予想しだしたところで。

 

「み、みみみ、水桶さんっ!」

「? どうしたの姫晞さん」

「こ、これから一緒に美術部の見学行きませんか!?」

「あぁ、そういえばそんな話してたね」

「――――!」

 

 ぶんぶんぶん! と恒例のごとく上下する首振り摩弓(にんぎょう)

 

 たしかに初めて会話したとき、彼女からのお誘いに肇は答えていた。

 頭から抜け落ちていたのはそれ以外のインパクトが大きすぎたせいだろう。

 

 色々と忙しない……もとい飽きさせないリアクションは凄まじい。

 彼としても結構分からない思考回路をしている女子は新鮮だ。

 

 いや、良くも悪くも。

 

「……それじゃあ、私は帰るよ」

「あ、うん。ばいばい優希之さん」

「…………ん」

 

 こくん、とちいさく頷いて渚は席を立った。

 

 準備自体はとっくに終わっていたのか。

 鞄を片手にこつこつと靴音を鳴らして彼女は教室を後にする。

 

(…………あー)

 

 そこに含まれた感情の機微に気付けたのは、これまでの経験がある肇だったからだ。

 苦笑しながらさっと荷物を片付けて、早々に帰り支度を整える。

 

「ごめん姫晞さん、部活、また明日でも大丈夫?」

「えッ!? あ、はい! 大丈夫です()()!!」

「……()()?」

「大丈夫、ですっ!」

「ありがとう。それじゃあまた。部活、前向きに考えておくから」

「は、はい! よろしくお願いしますぅ!」

 

 だばだばと勢いよく頭を下げる摩弓嬢。

 それにひらひらと手を振って、肇は急ぎ足で歩き出した。

 

 校則もあるのでいちおうは走らない程度に。

 けれど普段のペースより二段階ほどあげて廊下を進み、階段を下りていく。

 

 やっとのことで人影を捉えたのは、ちょうど昇降口を出るところだ。

 

「優希之さんっ」

「!」

 

 追い付きながら声をかける。

 渚は一瞬肩を跳ねさせたかと思うと、センサーもびっくりの速度でぐるんと肇のほうを向いた。

 

「……ど、どう……したの、水桶くん……?」

「ううん、やっぱり一緒に帰ろうと思って」

「……え?」

「……だめ?」

 

 あはは、なんて笑いながら彼は訊いてくる。

 

 ……分かってやっているならズルいことこの上ない。

 

 なにせその問いかけに対して渚はひとつ以外の選択肢を持っていなかった。

 持てないでいる、というのが彼女の心情的には正しいか。

 

「……いい、けど……」

「ん、それなら良かった」

 

 だめ? と言われて。

 だめ、と返せるようならそもそもあそこで拗ねて逃げたりはしないのだ。

 

 きっと彼は気付いてもいないだろうけど。

 なんならコレだって単なる気まぐれだろうけれど。

 

 と、やっぱり若干拗ねた様子を引き摺りながら。

 

「………………、」

「…………」

 

 ふたり並んで校門から外に出る。

 

 身体的な距離は近くとも心は曖昧だ。

 

 普段と同じく穏やかな沈黙もいまだけは針の筵。

 気持ちギスギスとした空気の間に会話はない。

 

 本人も気付かぬうちに脹れっ面になっている渚の雰囲気が余計にトゲを強くしている。

 

 ……しばらくして、口を開いたのは肇のほうだった

 

「……ね、優希之さん」

「…………なに」

 

「喉、乾かない? 飲み物買ってこようか?」

「…………いらない」

 

「お菓子いる? 市販のチョコだけど」

「…………いらないってば」

 

「……優希之さん」

「………………、」

 

 あからさまに不機嫌な様子を隠しもせずふいっとそっぽを向く渚。

 

 面倒くさいのは彼女自身これがよろしくないと自覚しているあたりだ。

 いや、そのあたりも含めて納得いかないからご機嫌斜めなのか。

 

 ――彼に非はない。

 

 入学初日の授業が終わったあと、どこへ行こうとなにをしようと個人の自由。

 クラスメートの女子と部活を見学するのだって普通のコト。

 

 なにもおかしくない当たり前の話の流れである。

 その行動を咎める理由も、ましてやどうにかする権限も渚は持ち合わせていない。

 

 だから彼女の苛立ちは自分本位な、身勝手なものだ。

 

 それは分かっている。

 ちゃんと頭で理解している。

 

 ……けれど、それで納得できるならやっぱりトラブルで刃傷沙汰なんて起きないのだ。

 

「…………別に、行ってくれば良かったじゃん。……部活見学」

「そんな意地悪言わなくても。……どうしたの優希之さん」

「…………なにが」

「やっぱり怒ってるでしょ」

「……怒ってないもん」

 

 ぽそっと呟く。

 

 そう、これは別に、ちょっとモヤモヤしているだけで。

 胸中穏やかでなくなってはいるけれど、怒っているとかではない。

 

 断じてない。

 

「怒ってるよ」

「……怒ってない」

 

「怒ってる」

「怒ってない」

 

「怒ってるってば」

「怒ってないからっ!!」

 

 思わず声を張り上げながら彼のほうを向く。

 と、

 

「ほら、やっぱり怒ってるんだ」

「……っ」

 

 優しげに、宥めるように。

 自然な様子で頭を撫でられる。

 

 それになにか思うでもない渚だったけれど、いまは意図的に全部シャットアウトした。

 

 どうせさっきと同じ無意識。

 いつもみたいなこちらを乱すだけの勘違い行動だろうと。

 

「……またそれ」

「うん?」

「……恥ずかしいでしょ、みんなの前で……」

「あ、それが原因だったの」

「違うけどっ……、…………え、あれ……待って――」

 

 いまの言い方だと、なんか。

 

「……水桶、くん」

「なに?」

「……頭、撫でてる……けど」

「そりゃあ、まあ。そうしてるワケだし」

「…………っ」

 

 こいつ、分かってて、やってやがったのか、と。

 

 震える渚を知ってか知らずか、肇が撫でる手を強くする。

 

 とんでもない。

 信じられない。

 

 ありえない加減だ。

 ばか(すき)だ、水桶肇(こいつ)

 

 ……じゃあ、そのばか(かれ)に惚れた自分はどれだけ阿呆なのかと。

 

「みんなと仲良くなったからって、優希之さんと疎遠になるわけじゃないよ?」

「そんなの……っ」

「俺と優希之さんが一緒に勉強して頑張ってたのは変わりないんだし。他の人とはそこらへん、比べものにならないと思うけど」

「……わ、分かってる、し……」

「でも妬いちゃうんだ」

「妬っ……!? な――んで、それ……!」

「? 違うの?」

「っ、そ……れは……っ」

 

 違わない。

 違わなくもない。

 

 ――そう、はっきり言って渚は妬いている。

 

 それはもうとんでもないぐらいに妬いている。

 知り合いとか塾仲間とか勉強仲間とか、そんな関係性では説明のしようがないぐらいに嫉妬の炎が燃え上がっている。

 

 が、それはそれ、これはこれ。

 

 たしかに妬いてはいるが、その事実を彼に悟られているというコトは――

 

「…………いつ、から……?」

「……まあ、わりと初めから?」

「っ……それって、つ、つまり……っ」

 

 彼女が、ふとした瞬間に意識するより前から、というコトだろうか。

 

(……で、でも、だって……っ)

 

 指先が震える。

 顔が一気に熱くなる。

 

 喉は焼けるみたいで、頬は溶けるようだ。

 

 別に嬉しくも悲しくもないのに目が潤んでくる。

 

 でも仕方ない。

 こんな会話をしていればしょうがない。

 

 だって、

 

(水桶くんは、私の――――)

 

 

 

 

 

「分かるよ。仲良い友達が他の子と交友関係持つと妬けるよね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 〝――――――――水桶肇(キサマ)ッ〟

 

 

 ごう、と吹き荒ぶ突風。

 強風、いいや烈風とも呼ぶべき嵐の前触れ。

 

 燃え上がりつつあった渚の周囲からすでに熱の類いは消えていた。

 

 代わりに、極寒のごとき冷気があたりを伝っていく。

 

 

「――――水桶くんの」

「? うん」

「あほ」

「えっ」

「あほあほ。あほ。ばか。……ぼけなす。もう知らないっ」

「ちょっ――いや待って優希之さん。待って待って。急に走ったら危ないってば!」

「ふんっ!!」

 

 思いっきりそっぽを向いて駆けていく渚。

 

 ――嗚呼、馬鹿だ。

 

 馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ。

 大馬鹿だ、心底馬鹿だ、てんで馬鹿だ。

 

 もう駄目なぐらいに馬鹿で馬鹿で馬鹿らしくて――――

 

 

「…………っ」

 

 

 ――――だから、馬鹿(すき)なんだ。

 

「……もうっ、いきなりどうしたの!」

「っ!? ちょ、なんっ……追い付く……!?」

「体育祭、見てた、でしょっ! 俺、足には自信、あるからねっ!」

 

(――あぁああぁそうだったッ! この男走るの速いんだった――!)

 

 並走する肇に自身の行動の失敗を嘆きながら、渚は微塵も速度を緩めず足を動かした。

 

 なんだか悔しくて、負けたくなくて、でももう負けているのは自明の理で。

 

 ……本当、心底面倒くさくて、厄介な惚れ方をしてしまったのだと改めて感じながら。

 

 

 

 

「競争する? ……そうだ、優希之さん、負けたら比良元くんがやったみたいなお姫様抱っことかどう?」

「っ!?」

 

 

 ――競るべきか、退くべきか。

 

 少女の葛藤は、刹那の隙間を永遠に引き延ばしたよう続いていく――

 

 

 



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34/勢い任せに流されて

 

 

 

 

 ――さて。

 

 ここでひとつ、他愛もない話をしよう。

 それはまだ少女……姫晞摩弓が中学生だった時のこと。

 

 物心がついた頃から彼女は絵を描くのが好きだった。

 

 なにかに憧れたとか、どうしたいとか、明確な理由なんてない。

 強いて言うなら頭の中に浮かぶ彩を吐き出すのが心地良くて仕方ない。

 

 そんな幼い芸術家が、その道に踏み込むのは当然の道理だろう。

 

 幼稚園、小学校の頃は並ぶ者なんていなかった。

 なにを描かせても彼女が断トツ。

 

 絵が上手だと友達にも先生にも褒められた。

 それで気分を良くするぐらいには性格も変わっていなかった。

 

『…………、』

 

 中学で美術部に入ってからしばらくして。

 展覧会やコンクールの発表会に顔を出す機会が増えた。

 

 他人(ヒト)の描いた絵には然程興味がない。

 いや、厳密には()()()()摩弓である。

 

 どれもこれも似たり寄ったり。

 あまりにも退屈でつまらなくて、とてもじゃないけど楽しめない。

 

 なんにせよ同年代で彼女に土を付けるほどの相手などいないのだから。

 

 

 ――――などと調子に乗っていた過去の摩弓(ジブン)をぶん殴ってやりたい、と今の彼女は切に思う。

 

 

 忘れもしない中学一年の七月二十五日。

 

 その日も〝県内梅雨の絵画コンクール〟に参加していた摩弓は、とくにコレといった興味もなくぶらぶらと会場を冷めた目で練り歩いていた。

 

 どうせ自分(わたし)より上手い学生なんていない。

 こんな無駄なコトで部活の時間を費やすなどもったいないのも程がある。

 

 三時間も四時間も下手な作品を見るぐらいなら描いていたほうがマシだと――

 

 

 

 そう思っていた彼女の前に、()が在った。

 

 

 

 

『――――――』

 

 目についたのは一枚の絵。

 そこに飾られた作品の隅から隅まで今もなお彼女の脳裏に焼き付く原風景。

 

 瞬間、少女の儚い自尊心は淡雪のごとく融け落ちた。

 

 あとついでに色々ぶっ壊れた。

 こう、女子としてというか、筆を握った人間として。

 

 〝――――あぁ、そうだったんだ〟

 

 姫晞摩弓は悟る。

 

 運命というものがあればこのような感覚を言うのだろう。

 奇跡や魔法じみた陳腐なものではない。

 

 それは正しく福音じみた輝かしい出会いと衝撃。

 

 〝わたしはこの色彩(イロ)を拝むために産まれたんですね、神よ(ジーザス)

 

 こうして彼女は一般無名男子、水桶肇の信者(ファン)となった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 そして時は流れ、現在。

 星辰奏学園に入学して二日目のこと。

 

 六限目のチャイムが鳴って放課後に入ると、摩弓は意を決して立ち上がった。

 

 昨日はなんだかよく分からないうちに勢いで断られたがそれはそれ。

 約束も取り付けられたしどちらかといえばプラスである。

 

 なれば今度こそ、今日こそは一緒に部活見学を――と。

 

 

「――優希之さんは今日も直帰?」

「……水桶くん、それ意味違うよ。寄り道せず帰る、っていうことじゃないから」

「あれ、そうなの?」

「そうだよ。……出先から会社とかに戻らず家に帰る、ってコトだから」

「なるほど。よく知ってるね優希之さん」

「…………別に」

 

(ぐっ……おのれ優希之渚(ぎんぱつびしょうじょ)っ。今日も今日とて水桶さんと気軽に話して……!)

 

 ぐぬぬぬ、とふたりを睨む摩弓。

 

 一体どういうワケか彼女は知らないが、全くもって認めがたい相手である。

 中学が同じというコトでもないのに親しく接し、あまつさえ先日は頭を撫でてもらうなんて羨ま――けしからん不敬を働いた輩だ。

 

 目下第一級の要注意人物であるその女子の名前はユキノナギサ。

 惜しいことに摩弓はちょっと彼女とは仲良くなれそうにない。

 

(でも、その程度で諦めるわたしじゃないから……!)

 

 がたん、と椅子を鳴らして歩みを進める。

 

 中学のときはただ只管遠い存在だった。

 いまとなっては身近に舞い降りた奇跡と言って良い。

 

 目を焼くほどの絵を描いた人は穏やかで心優しい草食系男子。

 

 正直に白状しよう。

 

 ――彼は、彼女の好みドストライクのドストレートでハートにずっきゅーんだった。

 

 

 〝FOOOOOOO(フォーーーーーー)!! 物静かな男子サイコー!!〟

 

 

 もはや手の届かない天上の楽土ではない。

 

 憧れ(カミ)はいま好き(ヒト)へと変化(シンカ)した。

 こちとら中学一年からずっと追い続けていた背中にようやく手をかけたのである。

 ここまできてぽっと出の女子に掠め取られるなんて言語道断だ。

 

 水桶肇(かれ)摩弓(わたし)のものにする。

 

 初手の告白は断られたが問題ない。

 所詮はひとつ黒星がついただけ。

 

 まだまだチャンスは残っていると、少女は意気揚々と声をかける。

 

「水桶さ――――」

 

 

「見つけたよ、水桶くん」

 

 

 ――その前に。

 

 ガラリと開いた教室の出入り口から、ひとりの少年が顔を覗かせた。

 

 摩弓としても知らない人物ではない。

 というか知ったばかりの人物でもある。

 

 機会はちょうど昨日、しょんぼりしながらも見に行った美術部にて、一緒に見学へ参加していた同学年の男子。

 

「え? あれ、君……体育祭の……」

「……久しぶり。見に来るでしょ、美術部」

「あー……うん。そのつもり、だったけど……?」

「なら早く行こう。……時間は、限られてるんだし」

「そう……だね……?」

 

 淡く輝く栗色の髪。

 前髪の隙間からわずかに光る碧色の目。

 小柄だけど溌剌さより落ち着いた翳りを印象づける佇まい。

 

 ――その少年と肇のツーショットを前に、摩弓は静かに膝を折った。

 

 なにかに祈るようにして手を組みながら、黙って顔を伏せる。

 

 

二柱の邂逅(ゴッド・リンク)――!!)

 

 

 天才(カミ)はふたつ此処に在った。

 

「……自己紹介がまだだったね。僕は潮槻(しおづき)(かおる)

「あ、これはどうも。俺は――って、もう知ってたね。なんで?」

「わりと一部には有名だと思う、君は」

「へぇ……なんだか照れくさいかも、それ」

「……謙遜は必ずしも美徳じゃないよ、水桶くん」

「??」

 

(あーッ! なんか分からず首を傾げてる水桶さんもイイ――ッ!!)

 

 これは摩弓の素直な感想だ。

 彼女も彼女で大抵やられているのだが、実のところコレはあくまで弱火の例である。

 

 知らぬは当人同士というかなんというか。

 

 想像したようなぽっと出なんかでは断じてなく、かなり濃い一年間を過ごして共に歩いた強火(なぎさ)は、このとき余裕の無表情でこう思っていた。

 

(よし、いつもの水桶くんだね。天然(キュート)で非常によろしい(すきです)

 

 どちらも手遅れなのは言うまでもない。

 

「優希之さんも一緒に来る?」

「――……あ、いや……私は……」

「……そういえば美術室苦手って言ってたっけ」

「…………うん」

「ん、了解。好き嫌いは仕方ないよね」

 

 眉尻を下げて笑う肇はきっと渚のなにかを受け取ったのだろう。

 それならしょうがない、と言った感じに引き下がって荷物をまとめていく。

 

 だからその際、彼女と彼――潮槻馨の視線が密かに重なったコトを気付けなかった。

 

 一瞬の交錯というにはあまりにも濃密なぶつかり合い。

 

 少女は見定めるような冷めた瞳を。

 少年は温度のない目を向けて、無言のまま睨み合う。

 

 

「――――、」

「…………、」

 

 

 興味本位で湧いた理由は同じもの。

 けれど、その後の結論はふたりとも真逆だった。

 

 どこか軽く安堵の色を浮かべる渚と、滲むような嫌悪を隠しもしない馨。

 

 そこにあった声なき交わりを知るのは当人たちだけ。

 

「――よし、なら行こっか」

 

 支度を終えた肇が声をかけると、両者の間に流れる空気は霧散した。

 

「……そうだね。ついてきて、水桶くん」

「うん、よろしくお願い。――っと、じゃあね優希之さん。ばいばい」

「――、……あ、うん……」

 

「…………帰ったら電話するから。また後でね?」

「っ、ぇ、あ……っ、う、うん……! ま、また、後で……っ」

 

 ひらひらと手を振って馨の後ろをついていく肇。

 渚はそれに小さく手を振り返す。

 

 一方の時間はこうして平和に終わりを告げた。

 

 ……ではもう一方はというと。

 

(あ――っ! 神が! 神が神を引き連れて練り歩いてるぅ――!)

 

 この通り脳内は楽園で極楽でパラダイス。

 エデンとはここにあり。

 祈りを捧げる聖地は目前である――とばかりに俯く信徒(まゆみ)である。

 

 本来ならそれを止めるべき友人の留奈は見て見ぬフリをした。

 私とこの人は無関係です、なんでもありません、とひたすら視線を逸らす無視っぷり。

 

 是非もなし。

 行きすぎた奇行は孤立を生むのだ。

 本人の意思にかかわらず。

 

 ……しかし、捨てる(かみ)あれば拾う(かみ)あり。

 

 ちらっと摩弓のほうを向いた肇は、ちょっとやばい少女の姿に面食らいながら、ひょいひょいと手招きをした。

 

「姫晞さんも来ないの?」

「――行きますぅ!!」

 

「……お帰り摩弓」

「はっ、留奈ちゃんわたし一体……!?」

 

(仲良いなあ、あのふたり)

 

 わたわたと慌てふためく少女を温かく見守りながら彼は頷いた。

 

 初日に色々と巻き起こした珍獣女子だったけれど、肇からして悪い人ではない。

 異性としてそういった情を抱けるかはともかく嫌うような人柄とは違う。

 

 そういった情を抱けるかはともかく。

 

 大事なコトなので二回述べておくとして。

 

「……水桶くん。君、姫晞さんと仲良いの?」

「まあ、そこそこ? ……潮槻くんは、知り合いとか?」

「いや、昨日が初対面だよ。……僕は苦手だ、ああいうひと」

「ひとりぐらいああいう子がいても良いと思うよ、俺は」

「…………そう」

 

 静かに目を伏せて馨は口を噤む。

 

 否定も肯定もしない返答はどう思ったからか。

 肇はなんとなくその様子に既視感を覚えた。

 

 そういえばこんな会話をどこかで……と、脳内の記憶を探ってみて。

 

(あ、そっか)

 

 苦労せず、その答えに辿り着く。

 

(優希之さんと似てるんだな、潮槻くん。……ん、あれ? 優希之さん? 潮槻……?)

 

 あれれ、とここに来てやっと記憶の切れ端を掴む前世持ち。

 今の今まで忘れていたが、馨の見た目と名前、その喋り方はおそらく記憶に等しい。

 

(――潮槻くん、二人目の攻略対象(ヒーロー)じゃなかったっけ……!?)

 

 詳しい設定は肇も忘れたが、画家を志す……みたいな感じの人物像(キャラクター)である。

 

 物静かで大人しい。

 普段は滅多に笑わないけれど、好感度が上がると抜群のギャップを持つ笑顔を見せてくれる――という類いのクールな男子だ。

 

 間違いない。

 

 薄ぼんやりと浮かんだゲーム内CG(スチル)ともほぼ一致する。

 ならば渚の反応はどうだったのか――と、彼は勢いよく彼女のほうを向いて。

 

 

「やーい優希之、水桶くん取られてやんのー」

「……うるさい。私帰るから」

「ははっ、分かりやすく拗ねてんなよな。……もしかしなくてもさ、おまえ、昨日言ってた好きな人って水桶くんだろ。……いや、露骨すぎねえ?

「っ、海座貴くんうるさい……! ちょっと黙って……!」

「こわっ。そんじゃオレも部活あるから。頑張れ優希之ー、道は遠いぞー」

「っ……この……! ちょっと顔が良いからって調子に……!!」

 

(――――なるほど)

 

 いま一度腕を組んで深く頷くポンコツ転生者。

 

 入学二日目、大変仲良く話す男女の姿は正しくそうとしか捉えられない。

 現実の優希之渚(ヒロイン)が選んだのはクールな美少年ではなく社交的で顔の良いイケメンだったらしい。

 

 ああいうのが好みだったかー、と感慨深げに天を仰ぐ肇である。

 

 

 ……無論、すべて彼の勘違いなのでそんなコトは一切なかった。

 むしろこの思考を読まれた場合、その渚ちゃん(ヒロイン)に右ストレートで殴られたとしても文句は言えない。

 

 天然馬鹿(クソボケ)ここに極まれり。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 美術室は十数人の生徒が居るものの、不思議な静寂に包まれていた。

 

 担当教師の姿はまだない。

 

 部員数が少ないのは集まりきっていないから……ではなく、自由参加であるコトと先ずもってイマイチ人気のない部活というのもあってだろう。

 盛況の度合いでいうなら廊下を挟んで向かい側、音楽室で活動している吹奏楽部のほうが全然あるぐらい。

 

 けれども居心地は悪くなかった。

 

(おー……流石有名校……色々あるなー……)

 

 ふらふらと肇は画材だったり作品だったりに目を通していく。

 

 床や壁に染み付くようなごちゃ混ぜの匂いと空気。

 かつての作業部屋(アトリエ)とはまた違ったモノに気分のあがる元画家(無名)である。

 

 中学の美術室も十分なものだったが、それより一回り大きい教室はなんとも言い難い感覚に満ち溢れている。

 

 ちょびっとでも疼くものがあったのは幸いだ。

 ほんのちょびっとだけ、ではあるが。

 

「……入部届はもう出したの、水桶くんは」

「? いや、まだだよ。入るかも決めてなくって」

「…………どうして?」

「うーん……色々あるけど、やっぱり勉強とか? 学力にあんまり自信ないから」

 

 ――そう、いくら次席で受かったとはいえ肇は元から成績が良いワケではない。

 

 中学最後の一年を徹頭徹尾費やしてようやく仕上げたのが現状の地位だ。

 

 なにより彼自身、勉強は好きでもなんでもないコトである。

 このまま放っておけば入試の結果が嘘みたいに成績が右肩下がりとなるだろう。

 

 そのあたりを心配しての発言だったのだが。

 

「入りなよ」

「えっ」

「君が入らなくて誰が入るっていうの。……テストで良い点を取るよりずっと役に立つと思うけど」

「えー……それはどうだろう……?」

「…………、」

 

 前世(むかし)なら迷わず頷いていたであろうありがたい誘い文句。

 けれど今の肇にとっては微妙で希薄な申し出になる。

 

 理由は言わずもがな。

 

 先ずもってしてその胸の蝋燭は一度完膚なきまで燃え尽きている。

 溶けきった創作意欲は時たま火を上げるとはいえ、元通りには戻らない。

 

 なにより今生で大事なのは貰ったぶんを返していくことだ。

 

 そう考えると部活をするより勉強に力を入れて、成績を保ちつつ過ごしていくほうが良いのではと思わざるを得なかった。

 

「で、でも水桶さんっ、昨日!」

「あー……うん。考えてみたけど、やっぱり即決はできないかなー……」

「も、もももったいないです! 入りましょう! 是非!」

「……そんなに……?」

「なんならどっちもやれば良いと思います!」

「いやそれは結構無茶だよ」

 

 両立するほどの力は肇自身にない。

 

 ……昨日は前向きに考えるとは言ったものの、どうしてもこればっかりは本人の問題だ。

 

「正直、いまはそれほど打ち込める気がしなくって」

「……それは水桶くんが、絵に?」

「うん。だからまあ、やるとしても手慰み程度が合ってるかな……なんて」

「…………ありえない」

「……? えっと、どういう……」

「……君がいちばん分かっていない。入れば良い。それで全部済む話だよ」

「えぇー……」

 

 あまりのごり押しにちょっとどうか、と肇が困ったように苦笑する。

 なにを根拠にそこまで……と内心で戸惑う少年は、数多の複雑な歯車が奇跡的に噛み合ってしまったせいで盛大な勘違いを起こしている。

 

 主に完成品を売りに出さなかったどころか大事に隠して仕舞い込んでいた前世姉のおかげで。

 

 

 

「――じゃあ入らなくて良いわよ」

 

 

 

 と、そんな風に話していたところへ強烈な一声。

 

 見れば部員のうちのひとりの女子生徒が、立ち上がって彼らの前まで歩いてきていた。

 リボンの色を見るにどうやら三年生の先輩である。

 

「やる気のないヤツが居たってそいつのためにも周りのためにもならない。そんなのうちはお断りだから。さっさと帰って」

 

 びっ、と勢いよく肇に筆先が向けられる。

 

 ……ちょっと絵の具が飛び散らないか心配だったが、そこはきちんと拭いていたらしい。

 

 ともかく、そんな御仁の発言に対して他の生徒たちはというと。

 

 

「――――ちょっ、部長……!?」

「いくらなんでも言い方キツすぎねえ!?」

「ありゃまずい。超絶ブチギレてんだけど。……え、なぜ?」

「そういうの気にする人じゃないよね、いつも」

「他人に対しての興味関心が湯葉並に薄いからな、うちの部長(トップ)

「俺が内申評価欲しくて席だけくださいって入部したときも怒んなかったのに」

「私も私も。友達に誘われただけの暇潰しですって思いっきり言ったのにスルーだもん」

 

 

 ――などと、割かしフランクな雰囲気だった。

 

 意外な会話のリレーに「おや」と肇がわずかに目を見開く。

 静かなのはそういう人たちの集まりかと思っていたけれど、もしや集中していただけで結構気安い感じかもしれない。

 

 それはそれとして。

 

「――部員(あんたら)は黙ってて。私はこいつと話してるんだから」

「………………、」

「……なんか言いなさいよ、一年」

「あ、申し遅れました。水桶肇って言います」

名前(それ)ぐらい知ってる。……用が無いなら出てって。ここは暇な生徒がくつろぐ場でもなければお気楽な遊び場でもないの。ほら、出口はあっち」

 

 そう言って一度入ってきた扉のほうを指し示す美術部部長。

 切れ長の瞳と刺々しい態度は美人なのもあって迫力が凄まじい。

 

 渚とは別方向で他人を寄せ付けない高嶺の花だ。

 

 儚さではなく苛烈さで構成されたオーラはむしろ薔薇より実際の炎みたいだが。

 

 

「すいません部長。俺いま思いっきり描くフリしてスマホ弄ってます」

「ごめんなさい先輩。私めちゃくちゃAirPodsで音楽聴いてました」

「申し訳ないっすキャプテン。模写してるつもりでこっそりジャ○プ(週刊少年)読んでて」

「許してくれ女将(おかみ)。ここで飲む午後の紅茶がいちばん美味ぇんだ」

「さーせん部長(トップ)。こう見えてなんもしてません」

「失礼しましたリーダー。ひとりでバトエンしてました。友達見つけてきます……」

「怒んないでキャップ。……ところでお菓子食べるぐらいならセーフ?」

 

部員(あんたら)は良いのっ、もう入ってるんだから好きにしなさい!」

 

「「「「「「「ありがとうございます!!」」」」」」」

 

 

 由緒正しき星辰奏学園の美術部、思ったよりユルユルだった。

 

「……そういうコトだから。入部希望者じゃないなら出て行って」

「出て行かなくて良いよ水桶くん。見学は自由だから」

「あ、あのっ、全然気にしないでくださいねっ!」

「あんたらも余計なコト言うな。こんなのに無理強いしたところで何の得があんのよ」

 

(――これはとんでもない状況(コト)になった……)

 

 困り果てる肇へと女性生徒――部長の視線が突き刺さる。

 

 慣れ親しんだ誰かと正反対のものだからか、そこに込められた色は分かりやすい。

 彼としても納得できる範疇の行いだ。

 

 だからこそ申し訳なさが多分にあるけれど。

 

「――はい、失礼しました」

「…………、」

 

 ここは大人しく身を引く肇だった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

「――ていうコトがあったんだよ」

『そう……なんだ……』

 

 その日の夜。

 帰り際に言っていたとおり、夕飯とお風呂を済ませたところで肇は渚に通話を持ちかけた。

 

 とりとめのない会話から始まり、彼女の知らないコト……つまり教室から出て別れた後のことを話す肇に、渚も律儀に相づちを返している。

 

『……厳しい人なんだね、美術部の部長』

「いや、そうでもないと思うよ?」

『…………え、いまの踏まえた上で……?』

「うん。だって――」

 

 と、彼は続く言葉を口に出そうかどうか迷って。

 

「――……いや、はっきりとは言えないけどね。なんとなく、違う気がする」

『そう……? まあ、水桶くんがそう思うなら……別に良いけど……』

「それより優希之さんこそ、海座貴くんと凄い仲良くなってない?」

『は? ……んんっ、いや、あの人とは別に……てかそんなに仲良くないし……』

「またまたー」

 

『――やめて。違うから。冗談でもないから』

「あ、うん。はい、すいませんでした……」

 

 ちょっとキレ気味の渚にぺこぺこと頭を下げながら謝る。

 

 どうやら()()()に触れてしまったらしい。

 

 いくら仲が良いとはいえ異性の友達関係だ。

 なにより乙女の恋愛模様に関してはトップシークレットと相場が決まっている。

 

 他人の恋路をアレする輩は馬に蹴られるともいうのだし。

 

 余計なコトはしないのが賢いか、と肇はちょっと落ち込みつつ反省した。

 今日はなんだか妙に怒られるコトが多い。

 

『良いけど、別に。……それより、部活どうするの。やっぱりそんなコトがあったから美術部、やめておく……?』

「まだ悩んでるかな。個人的には入っても良いんだけど、いまの成績からは間違いなく転げ落ちるだろうし」

『……よくない? ちょっとぐらい……』

「ちょっとで済めば良いんだけどねー……」

『大丈夫だと思うよ。それに……っ、ほ、ほら……こ、これからは、私がすぐ近くに、居るんだし……っ』

 

 分からないトコは教えてあげられるんだし、と。

 恥ずかしそうに吃りながらも渚が呟く。

 

 人呼んで希代の秀才。

 

 入試満点の学園はじまって以来の大快挙。

 新入生首席として化け物とも噂されつつある彼女からの言葉だ。

 

 きっと聞く人が聞けばとんでもない贅沢だと叫ぶだろう。

 無論、肇だってその感想自体は変わらない。

 

「そっか、優希之さんが教えてくれるんだ」

『ま、まぁ……私にできる範囲、であれば……だけど……』

「じゃあこれからは優希之塾の塾生だね、俺は。どうぞよろしくお願いします」

『……うちの塾は厳しいよ、言っておくけど』

「どうかお手柔らかに……」

 

『…………ふふっ』

「…………あははっ」

 

 ふたりして笑い合う。

 

 タメになるわけでもなんでもないやり取り。

 特別性なんて微塵もないけれど、それでも十分だった。

 

 時間は過ぎていく。

 電波越しの会話はそうして長引くように。

 

 ……夜は更けていく。

 

 

 



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35/思えばすでに

 

 

 

 

 明くる日の昼休み、肇はなんとはなしに渚へ声をかけた。

 

「優希之さん、ご飯一緒に食べよー」

「ぴッ!?」

 

 彼にとっては本気でさりげないお誘い。

 彼女にとっては思わず奇声をあげるぐらい唐突な衝撃。

 

 そしてその他大勢のクラスメートにとっては、聞き逃せない爆弾発言……もとい無視できない面白エピソードだった。

 

 

「まーたやってるよ水桶のヤツ」

「優希之嬢の声すごいな、鳥類じゃん鳥類」

「縁日のユキノヒヨコだねっ、ぴよぴよー!」

っ……、……っ!!(肩を震わせてうずくまるイケメンの図)

「……海座貴くん笑いすぎとちゃう?」

「おのれ優希之渚(となりのせき)……っ」

「どうどう。落ち着け摩弓(ウスノロ)。勝てんぜ、おまえは……」

 

 

 約一名著しいショックで動けなくなっているがそれは置いておくとして。

 

「…………っ」

 

 正直な話、渚はここのところ虫の居所が微妙に悪かった。

 

 どうしてかなんて言うまでもない。

 

 学園に入ってから肇との間に起きた変化。

 いや、厳密にいうなら彼と彼女を含めた両者を取り巻く環境の変化だ。

 

 中学の時は学区の関係で別々の登校先。

 

 当然ながら一緒になるのは塾やその帰り道だけで、いつもの学校生活に関しては一切交わることもなくなる。

 

 それが当時はちょっと焦れったく感じていたのだが、かといって同じ学校になるとそれはそれで不満な渚だった。

 

「……優希之さん?」

「…………、」

 

 ――通う先が同じ、というコト自体は別に良い。

 

 クラスが一緒なのも、席が隣なのも断じて嫌ではない。

 むしろ一向に構わない。

 

 昼休みや授業間の休み時間にこうして話しかけてきてくれるのもありがたい限りだ。

 

 だけれどもそれはそれ、これはこれ。

 

 やっぱり渚としてはこう、なんというか、上手くは言えないが複雑で。

 

「……私と、水桶くんで……?」

「? うん」

 

 素直に頷く純朴少年。

 そこに疚しい思いも他意もない。

 

 そんなコトは一年間ずっと見てきた彼女がよく分かっている。

 

 ……そう、一年間。

 

 中学三年の春先から卒業まで。

 

 肇と渚の時間は基本的に他の誰もいない塾の自習室だった。

 

 一対一、ふたりっきり、感じ取れる気配はお互いだけ。

 それ以外に声も意識も向けられるコトのない閉じた関係性。

 

 意図的なものではない。

 偶発的に起こっただけの代物だ。

 

 彼も彼女も自習室へ足を運んだのは勉強するためで、決して誰かに会いたくて毎日毎日通っていたワケではなかった。

 

(――いや本当勉強のためだから。それだけだから。うん)

 

 ……ともかく。

 

 中学のときは限られたタイミングでしか会えなかったけれど、それでも何にも代えがたい特別感がふたりの間にはあったのだ。

 

 それはいつも顔を合わせている同級生では決して出せない空気。

 目的を同じくして、出会いを偶然にして、それぞれが相手を受け入れたからこその雰囲気。

 

 思えばあの時のほうがずっと周囲に幸せは満ち足りていたような気さえする。

 

 過ぎてしまったが故の思い出補正もあるかもしれないが、だとしても、そんな特別(シアワセ)が急速に薄れてしまっているように感じられて。

 

「……それなら――」

 

 ああ、全くもって面倒くさいけれど。

 

 でも仕方ないだろう。

 

 だって渚は彼との時間を軽いものにしたくない。

 その重みは程度の差はあれきちんと貴重なモノに分類しておきたい。

 

 なにより彼女にとって十分だったように、肇にとっても同じでありたい。

 

 ――特別な人間なのだと、願う形と異なるとはいえ思っていてもらいたいのだ。

 

 だから同じ学校に通うのは嬉しくて、喜ばしくて、新鮮で――

 

 同時に、不満があって、ちょっと嫌で、納得いかなくて、複雑な気分。

 

 

 

 ――でもそれはそれとして名指しでお食事のお誘いは超嬉しい。

 

 どうしよう渚めちゃくちゃウルトラハッピー……! という馬鹿みたいな本心を鉄の仮面(まがお)で隠しながら頷こうとした瞬間。

 

 

「――水桶くん。話があるんだけど」

 

 

 昨日の放課後を繰り返す(リピートする)ように、教室の扉が開かれた。

 

「潮槻くん? どうしたの」

「……ちょっと()()な相談があって。来てもらっていいかな」

「え、あ、うん」

「……昼食もいちおう持って来て」

「ん、わかった」

 

 がたん、と気持ち勢いよく席を立ち上がる肇。

 おおかた大事と言われて緊急事態かなにかと捉えたのだろう。

 

 机に出していた弁当箱を片手に迷いなく馨へついていく。

 

「ごめん優希之さんっ。急用みたいだから、また今度お願い」

「――――うん、また、ね」

 

 ぎぎぎぎ、と油の切れた機械(ロボット)みたいに渚が手を振る。

 ともすれば発する声さえ酷ければカタコトじみていた。

 

 連行者の言葉によって若干余裕をなくしている肇はそれに気付かない。

 大人しく馨の後ろを追って彼はあっさり教室から出ていく。

 

 次いで、誰とはなしに。

 

 示し合わせもせずに、関係各所(クラスメート)の口からまばらなため息がこぼれた。

 

 

「ドンマイ、優希之さん……」

「ポジティブに行こう。生きてれば良い事あるって!」

「うちのパパが経営してるホテルのスパ無料券いる? それともフリーパスがいい?」

「優希之。おまえ男に彼氏寝取られたのか……一生の持ちネタにできるぞ」

「海座貴ひでーコト言うな。彼氏でもなければ寝てもねえだろ」

「あんたのほうが酷いこと言ってるよそれ!」

 

 

「――――っ、――――……!!」

 

 ざわざわと伝播していく話題に渚がわなわなと震える。

 

 ……やっぱり、一緒の学校というのは、めちゃくちゃ不満かもしれない。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 星辰奏学園の本校舎二階には各種特別教室が揃っている。

 昨日肇たちが見学した美術室や音楽室、他実験室や視聴覚室なんかもこの階だ。

 

 肇が馨に連れて来られたのは二階の片隅。

 美術室の隣にちょこんと構えられた美術準備室だった。

 

 一般の生徒なら普段なんら用もない、中を見るコトさえない部屋だが、馨にとっては違うらしい。

 

 勝手知ったる様子でポケットから鍵を取りだし、扉を解錠する。

 

「……入って良いの?」

「良いよ。別に」

 

 簡潔に答えながら馨は扉を潜っていく。

 

 ……いまさらここで突っ立っていても仕方ない。

 

 彼の言を信じて、肇も失礼しますと部屋へ足を踏み入れた。

 

「好きなとこに座って。たぶん、誰も来ないから」

「あ、うん」

 

 後ろ手に扉を閉めながら室内を眺める。

 

 準備室というだけあって部屋の中は備品だらけだった。

 

 古いポスターや歴代生徒の作品。

 青い背表紙のファイルがズラリと並ぶ書類棚。

 

 端のほうには普段の授業では使わないであろう長尺の物差しや模型人形、篦やスプレーなんかの画材がごっちゃりと置かれている。

 

 腰を落ち着けられるのは中央に置かれた長机と、そこに押し込まれたパイプ椅子だ。

 

 言われたとおり肇は適当な場所の椅子を引いて座る。

 馨はちょうどその対面、向き合う形で席につく。

 

「……それで、大事な相談って?」

 

 弁当の包みを開けながら肇が話を切り出す。

 

 ……このとき彼にしては珍しく。

 自分自身ですら気付かない程度にだが、機嫌を損ねていたらしい。

 

 表情に一切の変わりはないが、声のトーンがいつもよりわずかに落ちている。

 

 きっとなんだかんだで付き合いが濃く長い渚がいれば、すわこれは一体何事かと真っ先に気付いただろう。

 どうして機嫌が悪いのかは、言われたところで彼自身にも分からないところではあるが。

 

「……昨日の部活について」

「あー……その件についてはごめん。空気悪くしちゃって」

「そうじゃないよ。……あれはあの人の横暴だから」

「…………苦労してるみたいだね、部長」

「……?」

 

 あはは、と笑う肇を馨が胡乱げな目で見詰める。

 さっぱり分からない流行りものとかを見るような感じで。

 

「……とにかく、このままだと君が部活に入れないかもしれない」

「まあ、そう……なのかな?」

「そうでしょ。なんでかは知らないけど、あの人は君をやけに敵視してる。……いちおう訊くけど、水桶くん、なにかしたのかい」

「ううん。ぜんぜん、なにも」

「……だよね」

 

 その答えは彼なりに予想していたのか、肯定するように馨は頷く。

 

 彼の手元には無糖のスポーツドリンクとブロック状の簡易食だけが置かれている。

 他のものをまだ用意するような気配はない。

 

 どうやら昼食はそれだけで済ませるみたいだった。

 

 ……どちらかというと部活の相談よりそっちの方が気になる肇である。

 

「こうなったら強引にでも認めさせたほうが良い。君ならそれができるだろう」

「認めさせるって……例えば?」

「実際に水桶くんの絵を描いてみせればいい。そうすればあの人だって分かるはずだ」

「そこまで買ってもらえてるのは嬉しいけど、過大評価じゃない?」

「そんなハズはない。ああ言うのは彼女が知らないだけだ」

「うーん……、」

 

 もぐもぐと弁当を片手に箸を進める肇。

 

 その意識はすでに目前のやり取りからふらっと消えていた。

 なんなら「あ、この卵焼きしょっぱめだ。美味しい」なんて昼食に舌鼓までうつ始末。

 

 無論、決して馨のコトを馬鹿にしているワケではなく。

 彼自身この会話に大して重要性を感じられなかったからだ。

 

 いや、もっと言うならそれ以上の問題が色々と感じ取れてしまって。

 

「要らないと思うよ、そういうの」

「……どうして?」

「たぶんだけど、認めさせるとか知ってもらうとか、そういうのじゃないと思う。強いて言うなら、俺と同じ考え方なんだろうね」

「……君とあの人が? どういうコトだい、それ」

「燃料がなにかってこと……かな?」

 

 依然としてもぐもぐと弁当のおかずを咀嚼しながら笑う肇に、馨はいっそう眉間にシワを寄せていく。

 まるで理解ができない、言っている意味が分からない、といった風に。

 

 ……然もありなん。

 

 ぽけーっとしてぼやーっとしてのんびりゆっくりマイペース。

 ちょっと天然入った純朴少年である肇だが、その実態はある種の分野に置いて尖りまくった感覚派の天才肌だ。

 

 五角形の図があれば【芸術:絵画】だけ成層圏まで飛び抜けているようなもの。

 

 なので、その点に関しては間違いなく他者の理解などそうそう得られない。

 

「部長はちゃんと分かってくれてるよ。その上で帰れって言ったんだと思う」

「……さっぱりだ。それのどこが分かってるって言うの」

「だって俺が自己紹介する前から俺のコト知ってたし」

 

 〝――名前(それ)ぐらい知ってる。〟

 

 ぶっきらぼうに呟かれた言葉の本心をたしかに受け取れた人間はどれほど居たものか。

 部員の言葉を借りるなら、彼女は他人に関する興味関心が湯葉……豆乳を煮立てて生じるごくわずかな薄皮……ほどもないという。

 

 ならばどうして入学して間もない、初日の見学にも来ていなかった生徒の名前を知っていたのだろう。

 

 ……考えてみれば分かるコト。

 

 なにより肇自身、その一瞬で盗み見た制作途中の作品を前に確信してしまった。

 桁違いなぐらい見惚れる表現は、技量の違いこそあれ同じ感覚派(タイプ)だ。

 

「それで俺も気付けたところあるし。大事なのはそこなんだろうね」

「…………水桶くんの言いたいこと、イマイチ頭に入ってこないんだけど」

「部長は俺が嫌いだから怒ったんじゃなくて、俺が引っ張られて顔出したから怒ったんだってこと」

「そんなの……、……出鱈目だ。知っているとしたら尚更……」

 

 言って、馨がつまらなそうに昼食へ手を付ける。

 

 もそもそと。

 

 これまた実に味気ないとでも言いたげな顔で。

 

 最低限の味はついていても食感といい口当たりといい変わらぬ簡易食。

 無言でブロック状のモノをぼりぼりと囓る様子は、肇からしてちょっと見ていられないものがあった。

 

 なんというか、不味そうで。

 

「俺の勝手な想像で確かめてはないんだけど。……なんでだろうね、こう、目があった時にピンと来たっていうか。言いたいことが分かったというか」

「……超能力者でもあるまいし、ありえないよそんなの」

「いやいや本当に。でも怒られたのはちょっと落ち込んだ。今度は普通に話してみたいな。部長、きっと可愛い人だ」

「…………かわ、いい……?」

「うん。だってあんな作品は可愛くないと描けないと思うよ?」

 

 ――本人の名誉のために言っておくと。

 

 そのとき彼女(ぶちょう)が描いていたのは萌え萌えキュンなイラストでもゆるふわプリティーなキャラクターでもなく、単なる雪景色の風景画だ。

 

 当然ながら普通に見て〝可愛い〟と感じ取れる部分は一切ない。

 むしろ玄妙な色使いは見るものを魅了する輝きに満ちている。

 

 肇だって一目見た瞬間に「ちょっとこの人の絵は天地がひっくり返っても敵わないな」と判断してしまったぐらいだ。

 

 いや前世の認識的に彼が上手い下手を評価するのはちゃんちゃらおかしいのだが。

 

「それと、なんていうか……ちょっと嫌な言い方しちゃうけど」

「……? なにがだい」

()()()()()()()()()()()()()。あくまで」

 

 

 

 

「――――――……そんなの、分かってるさ……」

 

 

 ぎゅっと膝の上に置いた拳を握りながら馨が応える。

 いまの肇の言葉に少なからず刺さる部分があったらしい。

 

 どころか、それは見透かされているのではとでも言うぐらいストレートな忠告で。 

 

「――それより潮槻くん。お昼はそれだけ?」

「…………いちおう、そうだけど」

「えー、もったいない。……しょうがないからおかずをわけてあげよう」

「え……いや、いいよそんな……」

「遠慮せず。あ、唐揚げ好き? 冷食だけど。ほら口開けてー」

「……嫌いじゃないけど。君、その距離感の詰め方はどうなの……」

「男同士一度語り合ったら色々と打ち解けるものだよ」

「…………天才となにかは紙一重って本当なんだ……」

 

 そのなにかとはなんなのかあえて言わず、馨はそっとため息をついた。

 

 仕方なく手をお皿のようにしながら差し出して、肇もその手に箸でつまんだ唐揚げを置く。

 お弁当のおかず、それも冷凍食品だからか熱くはない。

 

 味のほどは正直言ってまあまあ。

 簡易食を囓ったあとならちょっと美味しいか、というぐらいだった。

 

「…………、ああ、そういえば……」

「ん? どうしたの」

「……優希之渚……あの子と親しいの?」

「うん、ちょっと……いや違うかな、結構ね」

「そう。……彼女、気を付けた方が良いよ」

「?」

 

 そうしてぼそりと、馨は悪いものを吐き出すみたいに。

 

「嫌な目をしてる。ああいうのは、分かるんだ」

「…………?」

 

 今度は打って変わって、肇に理解できない曖昧なコトを言うのだった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 はじまりは些細な流れだった。

 

 

 〝優希之さん、一緒に帰ろー〟

 

 〝ぴぇっ!?〟

 

 

 事の発端はその日の放課後。

 昨日の部活動の件もあって見学をせず帰るコトにした肇に声をかけられて、渚は一日ぶりに彼と一緒に下校するコトとなった。

 

 クラスでは「ピヨノちゃん」とか「ひよのなぎさ」とか「鳥類憐れみの令」とか「優希之鳥」とかふざけた渾名がまことしやかに囁かれたがそれはともかく。

 

 とくに部活に所属するとも決めていなかった渚はその申し出を快く受けた。

 詰まりに詰まって焦りに焦って吃りに吃りはしたが、それでもなんとか頷いた。

 

 なお、そのときにクラスの美術部陣営が嘆いていたがそこは無視(スルー)する。

 

 選ばれたのは優希之(かのじょ)でした。

 

(――そこまでは、良い)

 

 まったく問題ない。

 なんなら渚としても満更でもない。

 

 一緒の通学路で帰るというのは同じ学校に通う人間の特権だ。

 無理に押しかけるのもアレかと遠慮して、中学のときには数回程度しか出来なかったコトである。

 

 それも彼女が行っていたのだから、彼からの申し出である今回の誘いは渡りに船。

 

 いつも通りふたり横並びで、学園から家までの距離を歩くのは紛れもない役得だろう。

 

(――そこまでも、ぜんぜん良い)

 

 雲行きが怪しくなったのは町中に近付いたあたりで。

 ちょうど小腹も空いたしどこかで休憩しようか、と肇が切り出してからだ。

 

 正直彼と居る時間が長引くならありかなー……なんて軽い気持ちで思った渚はこれを承諾。

 

 あれよあれよという間に店舗が並ぶ大通りまでたどり着き、気付けば彼とふたりで喫茶店にお邪魔していた。

 

 放課後、帰り際、好きな人とふたりっきりで、制服のまま、喫茶店。

 

 聡明な方々ならお気づきであろう。

 渚の思考はすでにその結果へ手を伸ばしつつある。

 

 

 ――これ、もしや放課後デートというヤツなのでは……!?

 

 

 まあ、本人たちの認識はどうあれ実際見ての通りなのだが。

 

「春限定、四種のベリー乗せチーズケーキだって、優希之さん」

「…………ソ、ソウダネ」

「? どうしたの急に。カタコトになって」

「い、いや……冷静に状況を把握しすぎて……これは……っ」

「……?」

 

 どっどっどっどっ、と急にリズムを上げはじめた渚の心臓には気付かず、肇はこてんと首を傾げつつもメニューを眺める。

 

 肇と渚が座ったのは店内でも最奥に位置する座席だ。

 時間帯的に好いているときだったのか、あたりに喧噪は少ない。

 

 ぽつぽつとコーヒーブレイクを楽しんでいる人がいるものの空席のほうが多かった。

 

「優希之さんはどうする? 注文」

「え、あ……め、メニュー見せて……」

「ん、はい。どうぞ」

「あ、ありが――――」

 

 と、テーブルに置かれたメニュー表を覗き込もうとしたところで。

 視界の端、ほんのちょっぴり見えづらい位置から。

 

 さらっと流れた銀色(ジブン)の髪の毛が、彼の茶髪とほんのり触れた。

 

 ――――近い。

 

 めちゃくちゃ、近い。

 

 

 〝気にするな(ドキッてした)気にするな(ドキッてした)気にするな(ドキッてした)気にするな(ドキッてした)気にするな(ドキッてした)気にするな(ドキッてした)気にするな(ドキッてした)――!!〟

 

 

「色々あるよ。ホットケーキとか、サンドイッチとか。アイスとか」

「そ、そそそ、そうだねっ!?」

「? ……どしたの優希之さん。なんか今日変だね」

「そそそそうかな!? あ、あは、あはは――!」

 

 〝――変なのはお前じゃろがいっ!〟

 

 そう言える気概は渚にはなかった。

 

 悲しいかな、いくら氷の女王と言えど日差しを前にしては溶けるしかない。

 ()()()()()()()()な優希之ちゃんはこの男子が弱点なのだ。

 

 有名RPG(某ポ○モン)なら四倍弱点の急所である。

 

「でも良かったよ、ここに来て。昼休み、一緒に食べられなかったし」

「っ……そ、そんなに私と食べたかったの……?」

「? そりゃもちろん。今日はそのつもりだったんだから」

「――――っ」

 

 まったくもー、なんてぶつくさ呟く彼の姿は珍しい。

 

 こうして連れ添ってきた――いや()()夫婦になったワケじゃないが――渚でさえあまり見ないような反応だった。

 

 ギャップ萌えか、はたまた新たな一面を発見したコトによるものか。

 胸の奥、心臓の裏側あたりがきゅぅーっ、と締め付けられる。

 

 ……どうしよう。

 

 震える唇が、うまく、閉じられない。

 

「――――…………そ、その……っ」

「? なになに」

「……ど、どうして、そんなに……私と、食べたかったのかなー……って」

 

 

「――――――」

 

 

 細く、誰かが息を呑む音。

 

 

「……あ、あはは……ご、ごめん。変なコト聞いちゃったね……っ」

「え? ……あ、うん……?」

「あ、あはっ、あははは――――」

 

(待ってめっちゃハズい)

 

 かぁっと頬を真っ赤に染める渚。

 

 とっさにメニューを開いて顔を隠した彼女はそのときの彼の表情を見ていない。

 

 少年にとっては初めての。

 意識(こころ)の隙をついた問いかけ。

 

 どうして自分は彼女と昼食を摂りたかったのか。

 その意味を考えた瞬間、肇自身も「あれ、なんでだろう」と疑問に思った。

 

 ……いいや、正確に言うのなら。

 

 自分の感情(コト)なのに理解できなかったらしい。

 

(……たしかに。俺、なんで優希之さんとお昼食べるのにこだわってたんだ……?)

 

 むむむ、と照れて恥ずかしがる少女をよそに考え込む。

 

 思えばいつからか、彼の言動には自覚しないほど不自然な傾きがあった。

 

 出会いはなんでもなかったのに不思議と話すようになったコト。

 色々と知って少しでも助けになればと思ったコト。

 驚くほどの美しさをそのまま声に出して伝えていたコト。

 

 だんだんと気安い関係になって距離も縮まっていったコト。

 

 乙女ゲーがどうかとか関係なく。

 主人公(ヒロイン)だからとか深い考えはなく。

 

 彼女の誘いに乗って、悲しんでいるのが見ていられなくて、笑っていると喜ばしくて、いつからか一緒に過ごすのが当たり前になって。

 

 

 ――それで、ふとした今日、一緒に食事を取れないだけで機嫌を損ねた。

 

 

 ……その全てを分かっていれば答えは出ているようなもの。

 気付けないのはすべてが徐々に変化した見えないものだからだ。

 

 彼の解答欄はまだ空白のまま。

 なにせ頭の辞書にその説明がない。

 

 だから、これはそれだけの話。

 

 ちょっとだけ疑問に思った、男の子らしいちっぽけな悩み事だ。

 

(……仲の良い友達、だからかな……?)

 

 少年の疑問は、いまは遠く思考の海へ消えていった。

 

 

 



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36/ゴーストハジメはじめました

 

 

 

 

 ――美術商である父に、幼い頃から色んな場所へ連れて行かれた。

 

 大小様々な博物館、展覧会、オークション、アートフェア。

 国内外問わず足を伸ばして幾多もの作品を見る日々。

 

 それは忙しないけれど、心の奥底に沈んだ微かな暖かさの名残。

 

 

 〝いいかい、馨。見る眼を鍛えなさい。どういうものが価値を持つのか、どういったものが優れているのかを分かるように。それがきっと馨の力になるはずだよ〟

 

 

 名画はどうして名画と呼ばれるのか。

 価値ある美術品がどのような理屈でその価値を付けられたのか。

 

 古くから込められた歴史。

 貴重な資料情報。

 当時にしかなかったものの残滓。

 死によって二度と表われないが故の唯一性。

 

 理由なんて人と同じく千差万別だ。

 ただ今まで無事に在るだけで酷く大事なものだってある。

 

 長い年月を得た先達たちはそうやって評価される。

 

 ……では直近のモノはどうだろう。

 

 創作の敷居が下がった現代では質の良いモノだって沢山だ。

 少しネットを探せば綺麗で素敵な作品があふれている。

 それは等しく評価されるけれど、それだけのコト。

 

 綺麗なだけでは価値がつかない。

 上手いだけだと埋もれて沈む。

 

 あまりにも残酷だけど、その分、浮かんできたモノはいっそう眩しかった。

 

 

 

 ――そんな人になりたかった。

 

 

 

 幸いにも絵の才能がそこそこあって、毎日の練習も欠かさない意欲がある。

 

 描けば描くほど実力は上達して、中学に上がる頃にはそれなりに有名にもなって。

 父親からも「良いものだ」と太鼓判を貰ったものだから。

 このままいけばそうなれると思っていたけれど。

 

 ……人生はそんなに甘くなかったみたいだ。

 

 画力が停滞してきたのはいつからか。

 壁よりも先に天井が見えてきたのはどれぐらいからか。

 

 なまじ必死に努力するたびに薄らとそれが見えてきて折れそうになる。

 なにより一定の領域に達した時点で我ながら確信した。

 

 ――ああ、己は。

 

 きっと歴史に名を残せるような、そんな大それた才能などではない――と。

 

 ……だから、それは見た瞬間に分かった。

 

 色使いがどうとか技法がなんだとか、そういった理屈では表せない神秘性。

 その気はなくとも目を奪われる、見るものを魅了する輝きに近い。

 

 ただ鮮やかで綺麗なカタチ。

 

 あれは良いものだ。

 

 言葉にすればそんな程度の、陳腐なぐらい素敵な絵画。

 

 ――いまこの瞬間、この場所に、この年代に。

 

 美術商の息子として産まれた意味を分かった気がした。

 

 ああ、きっと自分は。

 これに出会うために、生きてきたのだと。

 

 

 

 

 

 …………さて。

 

 潮槻馨(しょうねん)は知らない。

 

 胸に秘めた「己は生み出す側じゃない」という悩みと、本物には勝てないでいるという厳しさ。

 それがいつかどこかの世界では高校まで抱えたものであり、とある少女によって解決されるべき事柄なのだと――

 

 彼自身が、知る由もない。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 入学してから一週間も過ぎると、新参者たちの空気も落ち着いてきた。

 

 すでに各クラス内での交友関係も出来上がってきた頃。

 

 男子はまあ一部イケメンやら物静かなタイプを除いて全体的に幅広く。

 女子はそれぞれ小さなグループに別れて、というのはそういうらしさかどうか。

 

 ともあれ雰囲気も固まってきたところで、学園にはある噂が流れつつあった。

 

 ――どうやら一年生にとんでもない美男美女がいるらしい。

 

 活発的な先輩たちによる話だ。

 

 もちろん美男というのは先日「死ね」と渚からストレートな物言いを受けた海座貴某で、美女というのはそれを言った張本人である優希之お嬢様である。

 

 ふたりの仲は付き合いのある肇からしても普通に宜しい。

 この前スナック菓子のポテトチップを二枚口にぶち込んで「ユキノドリのクチバシ」と遊んでいたぐらいだ。

 

 なおその後に彼の頬へ咲いた綺麗な紅葉については見て見ぬフリをする。

 いや、腰の入った良い平手だった――という感想は心に秘めておくとして。

 

 そういう関係性だからまあそれなりに話題を呼んだワケだ。

 

 お似合いのイケメンと美少女は並んでいるだけでそりゃもう眼福。

 そのまま一年の話題になるかと思いきや……なぜか、そうなぜかきゃーきゃーと騒がれていたふたりの噂は沈黙した。

 

 もっというと海座貴少年へのアタックが強くなって渚のほうがスンッと沈静化した。

 

 どうしてなのかは本当に分からない。

 

 肇としても不思議な事態だなー、なんて教室で彼女の口へポッキーを突っ込みながら思ったものだ。

 

 ……その際、周囲から「餌付け」「飼育員水桶」「優希之係」「やっぱユキノヒヨコじゃん」「クチバシもう一回いっとくか」なんてあがった声がほぼ正解を導くのだが……憐れなことに少年へは届かなかったよう。

 

 

 

 

 

「――あ、そういえば潮槻くん」

「……? なんだい」

 

 そんなある日のコトだ。

 

 今日も今日とて馨に誘われて準備室で昼食を摂っていた肇は、なんでもない様子で――本人としては心底なんでもない――口を開いた。

 

「俺、やっぱり部活入らないでおこうかなって」

 

 さらっと。

 

 まるで「ちょっと忘れ物したんだ」みたいな気楽さで。

 昨日の話をするような気安い物言いで。

 

「………………はぁ!?」

 

 これに思わず椅子から立ち上がるほど驚いたのが馨である。

 

 なにせ彼にとっては認めざるを得なかったほどの大天才。

 現代でこれ以上の作品を描ける逸材はふたりとして存在しないと、幼い頃から鍛え上げられた審美眼で確信した人物だ。

 

 それがあろうことか部活をせず、やっぱり学生の本分は勉強だよねー、なんて笑いながら言っている。

 

 これが冷静のままで居られるだろうか。

 いや、ない。

 

「――ま、待ってくれ水桶くんっ、だ、だって君っ、この前部長は――」

「? 部長がどうかしたの」

「嫌ってるワケじゃないんだろう……? だ、だったら別に入部してもっ」

「うーん……いまはダメだと思うかなー」

「な、なんでっ」

「残念なことに描きたい欲がなくって」

 

 からからと笑う肇は決してふざけているワケではない。

 ましてやなにか隠しているとか、複雑な事情があってとかでもない。

 

 本心を偽るようなコトなど微塵もない気持ちの良い笑顔。

 正真正銘、本気の本気でこの男、それだけの理由で帰宅部になろうとしている。

 

 ――――信じられなかった。

 

 馨としては、その全部が分かるだけ余計に。

 

「……あ、ありえない……っ」

「いや、楽しそうではあるんだけどね、部活」

「っ、な、なら入れば良いじゃないか。そうすれば――」

「でも、やる気はないけど部活だからとりあえず、ってのは違うと思うし」

 

 長期休暇の宿題や授業の一環でならともかく。

 部活動自体は生徒による自主的な参加によるものだ。

 

 学園も担任教師も入部自体を強制してはいない。

 届けがあるのなら早く出せ、とせいぜいせっつかれるぐらいである。

 

 肇としても部活動の参加実績が欲しいとか内申点をあげたいやらの下心は薄かった。

 

 なんなら家で予習復習やっておけば意外と授業もついて行けるんじゃないか、とこの一週間で思い始めていて。

 

「――じゃあ、君は……これからはもう描かない、とでも……?」

「描きたくなったら描くよ。中学の時もそういうタイミングあったから。いや、良かったなあ……優希之さんと見た花火」

「――――――…………、」

 

 はあ、と重苦しいため息をつきながら肩を落とす馨。

 いくら芸術面で埒外の化け物といえど一週間も昼食を同じくすれば分かってくるコトだってある。

 

 自己主張のない容姿をしているせいで勘違いしそうになるが、肇自身はどちらかというと(ぶっと)い芯が一本通っているほうだ。

 彼は彼なりに完成した……ともすればこの歳にしてはできすぎている……自分(こたえ)を持っている。

 

 右も左も分からない赤子ではない。

 

 わりと嫌なコトは拒絶するし、ダメなことはダメというし、無理なことは無理という。

 たしかにズレているところは沢山あるけれど、根本的な部分でのブレは殆ど皆無。

 

 徹頭徹尾安定した状態。

 

 良く言うならしっかりとした、悪く言うなら面白みのない精神性。

 

 肇の心を震わせるには、絵というのはちょっと古かったらしい。

 

「そんなわけで美術部には入らないつもり。……あ、でも美術室自体は使いたいから、後で部長に挨拶しに行こうかな」

「……部員じゃないけど、たまに描きたくなったら使わせてくれって……?」

「まあ、そんな感じ?」

「――――じょっ……冗談じゃない……、いくら君でもそんな要求が通るワケないだろう。また怒られるのがオチだ。……大体部活っていうのは――」

「無理だったらそれはそれで。頼むのはタダだし」

 

 

 

 

 

 

 

 

「良いわよ別に」

 

 

 そうして放課後。

 件の内容を話した肇に、美術部部長は二つ返事で答えた。

 

(なん――――ッ)

 

「ただし入部届だけ書いといて。幽霊で席だけ置いときなさい。そのほうが都合つくし。先生には私から話通しておくから。あと私の邪魔もすんな」

「邪魔って?」

「余計な口きいたり周りうろちょろしたり話しかけたりすんなってコト。とくに手ぇ動かしてるときに変なコトしたら許さないから。覚えておいて」

「あ、はい。分かりました。……いまは大丈夫なんですよね?」

「大丈夫じゃなかったらあんた今頃どうなってたと思う?」

「ありがとうございますっ」

 

 がばっと腰を折ると、頭上から「よし」とだけ声が聞こえてくる。

 変な話だが彼女はそれで納得したらしい。

 

 同じ感覚派同士繋がる部分がある模様。

 

 むしろ思考のおかしさでは感覚やら理論やらというより天才(あっち)系のものだろうが。

 

「――っ、ま、待ってください……!」

 

 しかしながら、それで納得いかない人がいるのも事実だ。

 

「……なに? えっと……一年の……ごめん誰だっけ」

「っ、……潮槻、です。そんな形で入部なんて、僕は認められません」

「シオヅキ。私が良いって言ってるから良いのよ、そんなの。大体うち、こいつ以外に何人幽霊居ると思ってんの。私が把握してる人数だけでも五人は部活来てない」

「し、しかし……っ」

「とにかくあんたの出る幕じゃない。というか()()が普通にみんなに混じって部活するとか私がイヤだから」

 

 心底軽蔑する、といった視線を肇へ向ける女子生徒(ぶちょう)

 が、それはそれでキッパリやっぱり変な方向性の反応だ。

 

 咄嗟に声を上げた馨はなにも間違っていない。

 

 彼の気持ちは察してあまりある。

 いくらなんでもひとりの生徒への対応としてその形は認めがたいものだ。

 

 当然のごとくこれが普通の部活動なら論外の代物。

 

 ――だがここは星辰奏学園美術部。

 

 顧問の教師が居るとはいえ、生徒の自主性を重んじる学園ではほぼ形だけ。

 実質的に部長の自治領みたいなものだ。

 

 

「……え、うそ。部長が後輩の名前()()で言ってる……!」

「同級生の私ですら未だに誰だっけとか言われるのに」

「つうか多分部員ひとりも覚えてもらってねえ」

「マジで興味関心ないからな、うちの部長(トップ)

「あたしも自己紹介したあと三十分でもう一回名前訊かれたなー……」

「そう考えるとあの一年生けっこう凄い子なのでは」

 

 

 〝けっこう〟どころか頭のおかしいレベルなのは言うまでもない。

 

「そもそも、どう見たってこいつ拘束して無理矢理ケツ叩いてどうこうってヤツじゃないでしょ。気が向いて描くほうが性に合ってる」

 

「……俺だけじゃなく部長だってそうじゃないですか? なんとなく」

「私は部活が好きだから。勉強と迷ってるようなあんたと一緒にすんな」

「ごめんなさい」

 

「……てか水桶(みなおけ)って長いから(はじめ)で良いわよね。うん、一通り分かったから取り敢えず今日は帰って」

「あ、はい。お疲れさまです」

「ん、お疲れ肇」

 

 ぺこりといま一度頭を下げる彼を部長はひらひらと手を振って見送る。

 

 そこからは一秒もしないうちに彼女だけの世界だ。

 筆を握り直してキャンバスと向い合った少女が、目を細めながら手を動かしていく。

 

「名前呼び……。もし、部長ー? よもやあの一年生くん好きなん?」

 

「いや別に。あっちから告って来たら結婚ぐらいしてあげるけど」

 

「ワケ分かんない返し来たなこれ」

「いま一瞬なに言ってるか俺も理解できなかったわ」

「待ってさっきの日本語? カムチャッカ語とかではなく?」

「えっ、まさか部長も水桶さんのことが!?」

 

 わーきゃーと騒ぐ美術部員プラスアルファ。

 主に大声を出しているのはここ最近優希之渚(ヒロイン)に分からせられつつある姫晞女史だったが。

 

 ……いや、彼女は悪くない。

 

 というか渚も渚でとくにコレといったことはしていない。

 ただ少し前から輪をかけて肇が渚に構うようになったからである。

 

 同じ空間に居るというだけでそのダメージは計り知れないのだろう。

 

「流石世界の聿咲彩(ぶちょー)。今度の画展予約チケットもう売り切れでしょ」

「この前うちの親父が部長の絵、四百万で落札してたの笑ったんだよなー。……いや月々の振り込み増やしてくれよと」

 

「――てか話しかけてこないで。気が散る」

 

「これだもんなあ、天才学生画家……」

「…………、」

 

 馨はぐっと人知れず奥歯を噛み締める。

 

 理解不能で意味不明。

 はっきり言ってまったく得心いかない。

 

 いまの部長の発言がどうこうではなく――彼と彼女の思考とやり取り全てがだ。

 

 継続は力なり、途切れさせるコトなく努力するからこそ実になるもの。

 だというのにたまに描けば良い、あまつさえ幽霊部員扱いだなんて馬鹿げている。

 

 それこそありえない思考回路だ。

 

 そんなもので良い作品が出来上がるワケがない。

 

(……っ、今まで美術部にもいなくてあれだ。だから、部活で毎日描くようになれば)

 

 彼の才能はもっと輝くと、そう信じているのに。

 

(――水桶くん……っ)

 

 強く、固く、拳を握り締める。

 

 嫉妬しているワケではないけれど。

 その実力は妬むほどの領域にはないけれど。

 

 でも、もどかしさは決してなくならない馨だった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

「そんなわけで部活に入るコトになったけど部活に行かないコトになった」

「……うん、意味が分からないね」

 

 はあ、と息を吐きながら渚が紅茶を嚥下する。

 

 放課後、一度来てから味を占めてしまった喫茶店にて。

 

 声だけかけてくる、と美術部に行っていた肇を律儀に待っていた渚は、今日も今日とて彼と一緒に帰るコトになった。

 星辰奏学園に入学しておよそ一週間、すでに習慣になりかけている行事(イベント)である。

 

「……この前、やる気がないなら帰れって言われたんでしょ? なのにそんないきなり人が変わったみたいに……」

「だからだよ。やる気ないなら来るな、描きたいときに来いってコト」

「…………水桶くんは美術部の部長と副音声で会話でもしてるの……?」

「絵描いてる私に話しかけて良いのは恋人だけだからって言われたときは本当に申し訳ないと思ったけど」

「いやどういう会話してるの本気で」

 

 副音声である。

 心の会話とも言うかもしれない。

 

 なにはともあれ当人たち以外には関係ないところだ。

 

「……でも、凄い人なんだよね。部長の先輩……」

「そうなの?」

「うん。私もあんまり、知らなかったけど……聿咲(ふでさき)(あや)……だっけ。世界的に有名らしいよ」

「へー……」

 

 ずずず、とドリンクのココアを啜りながら聞く。

 

 どうでも良いけれどほんのちょっぴり昔の彼の名前に似ていた。

 性別も違うし本当響きだけだけれど。

 

 それはともかく。

 

「どうりで。俺、あんな凄い絵はじめて見た」

「……そうなの?」

「うん。自分のがもうド下手くそに見えちゃうぐらい。いや常日頃から上手いとも言えないんだけど」

「…………ふーん」

 

 頷きつつ、渚はなんとはなしに携帯を手に取った。

 ブラウザアプリを立ち上げて画像検索でささっと件の部長の名前を打ち込んでみる。

 

 一発ツモだったのはそれだけ知名度があるからだろう。

 

 適当なサンプル画像を開いて、どこか重ねるように見るコト数秒。

 

 

 

「……私はたぶん、これより凄いの見たコトあるけどね」

「え、どんな?」

「水桶くんが知らないヤツだよ、きっと。……これから先もずっとね」

「……?」

 

 再度ココアを飲みながら肇が首を傾げる。

 

 遠い世界のもう戻らない過去の話。

 いつしか消えてなくなった残骸の原形。

 

 真実を知るのは果たしていつになるのか。

 

(……そうだよ、そう……二度と誰にも知られないんだ。だって、私が――――)

 

 その先は、あえて彼女も考えなかった。

 

 いちばん嫌な時期をわざわざ思い出すコトもないだろう、と。

 彼の前で十分に強くなった心持ちで。

 

 

 



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37/ナギサの七変化

 

 

 

 

 それはもう、いまとなっては古い時代(ぜんせ)の話。

 

 彼女がまだ生きていた頃、一度だけ家に泥棒が入った。

 

 有名企業の社長が暮らす自宅だ。

 金目のモノを狙っての犯行なら世間的に見てそうそう珍しいコトでもない。

 

 違ったのはその人物が家にある金庫や調度品には一切手を付けず、真っ直ぐ地下の保管庫に向かったコトだろう。

 

 ……保管庫には死んだ弟の絵を置いていた。

 

 捨てるコトはできない。

 かといって手放(売りに出)すコトもできない。

 

 けれど見ていると、彼女は彼を思い出して泣いてしまうから。

 そんな娘に気を遣って、父親がそこに飾っておいてくれたのだ。

 

 ――それが盗まれかけた。

 

 幸いなことに地下の保管庫といえどセキュリティは万全……どころか彼女が輪をかけて厳重にしていたのもあって直ぐに警察が駆けつけて現行犯逮捕。

 弟の絵にもコレといった傷みはなく、事なきを得た。

 

 その一件が切欠だった。

 

 愛する弟を失って半年過ぎ。

 すでに精神を摩耗していた彼女に理性など泡のように浮かぶもの。

 

 冷静な判断などできようもない。

 ましてや父親の声なんて聞こえるはずもなく。

 

 

 〝熱い〟

 

 

 理由など考えただけで沢山だ。

 

 第一に先ず、今回もう少しで大事な彼の作品がどうにかなってしまいそうだったコト。

 どこから洩れたのか、彼の絵の価値が広まりつつあるコト。

 

 父親が仕事仲間と話すうちに、財界での有名人や世界的な財閥にかつて出品した絵の作者が弟だと知られてしまったコト。

 

 

 〝明るい〟

 

 

 そして最近になって、そんな影も形も捉えられない大物たちからどうか譲ってくれないかと密かに札束を積まれているコト。

 

 

 〝あたたかい〟

 

 

 彼女にはイマイチ分からなかったコトだけれど、弟の絵は大勢の人を魅了するほどの代物だったらしい。

 単純に上手だな、とだけ見ていた少女には弟が描いた以上の価値など付きようもなかったけれど。

 

 いや――その価値が付いたからこそ、共通の認識にもなったのかどうか。

 

 彼女が以前、一度だけオークションに出したモノに至っては億越えの値段がつけられているという。

 

 もちろん父親が売ろうとしているワケではない。

 父は父で「大切な息子の絵はいくら積まれようと手放すコトはできない」と言い切っていた。

 

 でも、もしもそんな個人の意思すら無視して、無理やり奪われるとしたら――?

 

 

 〝これでいいの〟

 

 

 ツンと鼻をつく匂いを嗅ぎながらぼんやりと少女は眺める。

 

 材質のせいか変化はすぐだった。

 煙に紛れて上るようにひとつ残らず()()になっていく。

 

 残しておきたい。

 持っておきたい。

 けれど奪われたくはない。

 

 顔も名前も知らない他人の手に弟のモノが渡るなんて断固として御免だ。

 

 だから彼女は、すべてを燃やして――――

 

 

 〝……うん。これで、ずっと家族(わたし)だけのもの〟

 

 

 灰の詰まった瓶を大切に、胸へ抱き締めた。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 美術部での一件を境に、馨は昼食を誘いに来なくなった。

 

 それまでがそれまでだっただけにちょっと大きな変化でもある。

 学年は同じだがクラスが違えば出会う機会は相応に少ない。

 

 なによりちょっと避けられている気もする肇だ。

 こういうときは無理せず時を待った方が良いのかな……なんて思いながら、最近はクラスの男子や海座貴三葉(イケメンやろう)やら仲の良い女子らと食事を共にしている。

 

 そして本日、ようやくその権利を勝ち取ったのは我らが乙女ゲー主人公(メインヒロイン)渚ちゃんだった。

 

 それまでいつの間にやらスクラム組んだ男子連中に阻止され、

 ニヤニヤしながらさらっと誘い出した三葉に出し抜かれ、

 わーきゃーと女子陣営にファイアーウォールのごとく防御された果ての勝利。

 

 方法はとっても簡単(イージー)

 

 先ず四限目終了のチャイムが鳴った瞬間に隣の席という利点を生かして彼の手を掴み、割りと大きめ声で名前を呼びこちらに振り向かせる。

 そのあと余計なコトをいわずストレートに「ふ、ふふふたりでお昼しようっ!?」と宣言する。

 

 この際に「一緒に食べない?」とか「私と食べよう?」なんて曖昧な誘い方をすると彼の天然(ポンコツ)っぷりが発揮され集団(グループ)に発展する可能性があるので注意するコト。

 

 これだけだ。

 

 たったのこれだけ。

 ほんのこれだけなのだが――言った後の渚がもう茹で蛸もかくやという赤さになっていたのは言うまでもない。

 

 

「よく言った、優希之さんっ」

「ユキノダコ。いやタコノナギサか……?」

RPG(ゲーム)にありそうな地名はやめろ」

「結局焦って自分がいちばん恥ずかしいコトしてるってなんで気付かないんだろうな、優希之(あいつ)

「………………っ!」

「どうしたんだこの前までの勢いは……笑えよ摩弓(マユーミ)

 

 

 そんなワケで弁当片手に中庭まで足を運んだふたりは仲睦まじく昼食と相成った。

 木製のベンチに二人並んで座りつつ食事を済ませていく。

 

 優雅で静かなお昼時。

 

 生徒の大半は学食か購買で済ませるためか弁当派はごく少数勢力だ。

 食堂の味が大層良いのもあって余計その傾向は強い。

 

 それでも彼は偏に料理がそう嫌いというワケでもなく。

 彼女はそんな彼に自然と合わせてしまったような形で件の派閥に身を置いている。

 

「――え、部活まだ一回も出てないの。水桶くん……?」

「うん。本当に幽霊部員になっちゃったね」

「……顔ぐらい出したほうが良いんじゃない……?」

「そう思ってこの前入部届書きましたーって挨拶行ったんだけど、一言「帰れ」って言われてドア閉められたんだよ。面白いよね」

「…………え、どこが?」

「いやだって……ふふふっ」

「……? ……??」

 

 本当になんなのだろう、と首を傾げる渚。

 

 この前からチョロチョロと話に聞いていたが、聞けば聞くほど美術部の部長――聿咲彩と肇の関係性が分からない。

 

 やる気ないなら帰れというのが描きたくなったら来いという意味で。

 邪魔をするなというのが余計なコトしたら婿に取るぞみたいなコトで。

 

 あまつさえ帰れとシンプルドストレートに言われても面白いという。

 

 いや本気でワケが分からなかった。

 よもや彼らはテレパシーかなんかで繋がっているのかと。

 

「冗談にしても婿にとるぞって脅しはどうなんだろうねー」

「いやほんとにどういう会話してるのそれ。真面目に意味あってる?」

「俺はどっちかっていうと嫁に来てもらいたい」

「いまそういう話してないしどうでもいいから水桶くんの事情(コト)とか」

 

 ひと息で言い切りながら渚の脳内はその事情(コト)でいっぱいだっった。

 

 

 〝嫁に来てもらいたい(みなおけなぎさ)嫁に来てもらいたい(みなおけなぎさ)嫁に来てもらいたい(みなおけなぎさ)嫁に来てもらいたい(みなおけなぎさ)嫁に来てもらいたい(みなおけなぎさ)嫁に来てもらいたい(みなおけなぎさ)嫁に来てもらいたい(みなおけなぎさ)――――〟

 

 

 ぐるぐるとタメにもならない思考を回しながら胸中で頷く。

 

 いや本当どうでもいいけれど、まあまあ語感は悪くないのではなかろうかと。

 

 どうでもいいけれど。

 

「……なに。水桶くんは部長と、その……そ、そういう関係になりたい、願望……でもあるの……?」

「あはは、まさか。部長も冗談半分じゃないかなあ」

「そ、そう……なんだ……、」

「でも多分俺が本気になったらソッコーでいただかれる気がする。なんとなくね」

 

(それは微塵も冗談半分とは言わないのでは)

 

 くすくすと笑いながら話す肇を余所によろしくないモノを察する渚だった。

 

 天才特有の超絶理解と天然特有の超絶解釈が合わさって最強に見える。

 

 実際危ういは危ういので彼女の判断は間違ってもいない。

 間違いなく肇が進学前に渚と出会って交流を深めていなければ三秒ルートだ。

 

 出会って握手をした瞬間にゲームセットとなるだろう。

 

 おそらくは。

 

「まあ俺はそんなつもりないし。そうしたいとも思わないし」

「……部長さん、美人なんじゃないの……?」

「そうだよ。可愛くてスタイルも良いし」

「…………ふぅーん……」

 

 ずずず、とペットボトルを傾ける渚。

 

「あ、でも優希之さんのほうが綺麗だよ」

「え゙ん゙ッ!!」

 

 呑んでいたお茶がちょっと器官へ入りかけた。

 女子らしくない声を出したのは大目に見てほしい。

 

 不意打ちだ。

 

 これはいくらなんでもズルいだろう。

 まったくなにが綺麗なのだか。

 

 そう言われて悪い気はしない――そう、本当に、あくまで一人の女子として? まあ? 綺麗というのは褒め言葉なのであって? 別になんでもないけれど嬉しいものは誰から言われても嬉しいから――赤ら顔の渚である。

 

 日焼けをしたのでもお酒を飲んだのでもないのになぜ顔が赤いのか。

 その真相は探るまでもなく隣の彼なので犬も食わない。

 

 ――いや夫婦喧嘩とかそういうのではないが、まったく、ぜんぜん。

 

「えほっ、げぇっほ……!」

「大丈夫、優希之さん?」

「だっ……だ、大丈夫――――」

 

 と、顔をあげかけたときだった。

 

 ふわりと舞い上がった前髪が彼の鼻先を掠めていく。

 

 ――――なんて、近い(あれ、この流れ前もあったような)

 

 死ぬほど近い。

 

 ていうかもう死ぬ。

 死んでしまう。

 

 なんというか強い衝撃を与えないで欲しい。

 肇と一緒に過ごす渚はちょっとのコトで昇天するグッピーなのだ。

 

 鳥だったり魚介類だったり熱帯魚だったりと渚は一体どこを目指しているのか。

 

 それはたぶん肇のお嫁さんあたりである(自分でも分からないでいる)

 

「……っ、……!!」

「……優希之さん? おーい」

「――――み、水桶くんのおたんこなすぅ……!」

「急に凄いコト言う」

「私はグッピー……!」

 

 温度差(ギャップ)で死ぬタイプの人間です、なんてめそめそ泣く虹目高(レインボーフィッシュ)

 

 肇には些か高度すぎるギャグだった。

 

 このように渚は時々キャパを超えると支離滅裂な言動をしたりする。

 取り扱いには十分な注意が必要だということだろう。

 

 優希之渚取扱者甲種の資格を取得しているのが望ましい。

 受験の条件はもちろん彼女と一定以上の関係にあるコトだ。

 

「ほら、落ち着いて。背中叩いてあげるから」

「っ……み、水桶くん……っ」

「大丈夫だからゆっくりねー。深呼吸、深呼吸」

「お、お願いだからなにもしないで……っ、これ以上殴らないで……!」

「優希之さん優希之さん。それ知らない人に聞かれたら俺DV彼氏みたいになるよ」

 

「なによ、肇。あんたそういう最低男(タイプ)だったワケ?」

 

 突然降ってきた声に肇が反射的に顔を上げる。

 それにつられて俯いていた渚もぱっとそちらを向く。

 

 見ればふたりの前にはひとりの女子が立っていた。

 

……部長(なんか変わりました)?」

そうだけど、なによ(さあ、どうかしらね)鳩が豆鉄砲を食ったような顔して(どうせなら当ててみなさいよ)

いや、新鮮だなーって(あ、いつもと格好違いますね。綺麗です)

ああ、そういうコト(ありがとう)ありがたく受け取ってあげてもいいけど(ところでそれプロポーズのつもり)?」

ご遠慮しておきます(違いますよ素直な感想です)

 

 群青色をした長髪と細淵の赤い眼鏡。

 伸びた前髪は目元を隠すようで、けれどその実陰鬱さが吹き飛ぶようなキレの良さ。

 

 いつもと異なった様子はおそらく授業モードだろう。

 

 普段の部活中はカチューシャで髪を上げて眼鏡もしていないので違和感が凄まじい。

 

 一、二度見ただけの肇だってそう思うぐらいだ。

 他の部員ならさぞ驚かれるのではないかと。

 

「ところでその子があんたの彼女? 暴力とか……最低ね」

「いえ違いますって。優希之さんには俺、優しくしてます。ね?」

「………………、」

「どうしてそこで睨んでくるの……」

 

 色々と複雑な乙女心故だ。

 いまだけはどうか許して欲しい。

 

 あとなんかさらっと聞き逃してしまいそうになるけれど、一幽霊部員を一部長が名前で呼んでいるの一体どういうコトだろうか?

 

 とてつもなく気になる渚である。

 

「肇、あんたいくら感性がひん曲がってるからってそれは……」

「部長も乗らないでください。……ほら優希之さんも笑って。笑顔笑顔。可愛く笑う優希之さんが俺はいちばん好きだよー」

…………っ、…………(必死で笑顔を堪える美少女の図)

「あれ、今回手強いぞ……!」

 

 色々と本気で複雑な乙女心故だ。

 今回ばかりはどうか許して欲しい。

 

 付け加えるならいつまでもそんな真似が効くと思われるのも渚的に癪だ。

 

 いやもちろん「可愛い」とか「好き」とか言ってくれるのは嬉しいがそれはそれ。

 やっぱり大事な台詞は大事なときに聞きたいもの。

 

 ……まあ頬がすでにユルユル一歩手前なのはしょうがないとして。

 

「てか肇、あんたどうするつもり?」

「ちょっと休憩してから教室に戻ります」

「そう、じゃあ私も帰るわ。また今度」

「はい、お疲れさまです」

 

 ひらひらと手を振って別れる肇と部長。

 その会話は一見通じているように見えてやっぱり通じている。

 

 具体的にいうと二重の意味が含まれているのだが、それは彼らの感性が似通っているが故のものだ。

 

 答え合わせは以下のように。

 

『あんた今日は部活来る?』

『いえ、普通に帰りますよ』

『あっそ。なんか変わったら来なさい』

『ありがとうございます』

 

 ちょっと理解できなかった。

 

 なぜ言葉で会話しつつ他の意思疎通が出来ているのか。

 よもや進化した人類なのかどうか。

 

 謎は深まるばかり。

 

 ひとつ言える事実があるとすれば、おかしいのは分からない他の全員ではなく彼と彼女のほうだというコトだ。

 

「………………水桶くん、いまのって……」

「? どうかした?」

「……いや、なんでもない。……というか――」

「??」

 

(部長からは、下の名前……なんだ……)

 

 きゅっと、渚は小さくスカートの端を握りしめる。

 

 彼と彼女が中学時代からの知り合いだったとかそういう話は聞いていない。

 正真正銘この前の部活動見学が初対面だったハズだ。

 

 おまけにその際結構なコトを言われただろうに、この短期間で肇呼び(したのなまえ)

 

 ……渚のほうがずっとずっと過ごした時間も長ければ関係性も良好なのに。

 

 だというのに――そこで差が付いているのは、なんとも、こう。

 ままならないというか、なんというか。

 

 …………なんか、悔しい(いやだ)

 

「――ごちそうさまでした。うん、我ながら美味しかった」

「…………、」

「……優希之さん大丈夫? 箸止まってるけど」

「っ、ぇ、あ、うん。だ、大丈、夫……」

「…………、」

 

 パクパクと食事を再開しながら思考を打ち切る。

 同じ学校になれば少しは良くなるかと思ったコトもあったけれど、実際はそう甘くないのは現実的な問題か。

 

 敵が多い、障害が多い、上手くいかないコトが多い。

 

 なにより今更な話だけれど、(ジブン)はどうにも嫉妬深いらしい。

 少なくとも、彼が他の誰かと喋っているだけで機嫌を損ねる程度には。

 

「……良いけど、無理しないでね。優希之さん時々危なっかしいから」

「…………私、が?」

「うん。こう、なんだろうね。触ったら崩れそうな感じの時あるよね。絹ごしのお豆腐みたいな?」

「…………なにそれ……」

 

 おかしな喩えに渚がくすくすと笑みを浮かべる。

 

 だとするならその優希之渚は相当に脆いのだろう。

 

 箸でつつけばぽろぽろと零れて掴めない。

 スプーンですくってようやく口に運べるようなもの。

 

 器用でなければ相手にならないとでも言うような繊細さ。

 たしかにそんなのは割れ物注意の貼り紙でもつけてもらわなくては危なっかしくて仕方ない。

 

 ――と、自嘲気味に考え込んでいたとき。

 

 

 

(…………え?)

 

 

 

 とん、と肩に乗ってくるなにやら重量を感じた。

 

 首筋にはほんのり微かに擽るような感触。

 視界の端からわずかに見慣れた髪色が見える。

 

 それが何かなんて、人肌の温度を感じておきながら分からないほど彼女だって間抜けじゃない。

 

「っ……ぁ、えっと……水桶く――」

「――――……、」

 

(……ね、寝てる……!?)

 

 〝え、うそ、私の肩でぇッ!?〟

 

 思わず跳ね上がるぐらいの衝撃だった。

 

 でも動けない。

 離れられもしない。

 

 寝息をたてる彼の表情はとてつもなく貴重なものだ。

 

 渚はぷるぷると震えながら固まる。

 

 こんなシチュエーションは耐えられないと叫ぶ理性と、

 こんな機会は滅多にないから逃せないと心を燃やす本能。

 

 そのふたつが胸中で死に物狂いの争いを行っていた。

 

「ん……、」

「っ…………!」

 

 〝きゃー!(みなおけくん) きゃーきゃー!!(みなおけくんみなおけくん) きゃーきゃーきゃー!!!(みなおけくんみなおけくんみなおけくん)

 

 なるほどたしかに彼の言も頷ける。

 

 豆腐だ。

 紛うことなき絹ごし豆腐だこんなのは。

 

 主に理性と冷静さと落ち着きようとか全体的に。

 

(私は豆腐……!)

 

 そもそもどうしてこんなところで寝ているのか。

 大方彼のことだから食事を済ませて眠気に襲われたのだろうが……にしても寝付きが良すぎて困る、いや困らない、やっぱ困る、困らない。

 

 困る……たぶん、困っている。

 

 なにをどうして良いかさっぱり分からなくて。

 

(……ひ、膝枕とかっ……どう、だろ。い、嫌かな……? でも、寝てるし……っ)

 

 少女の葛藤は、澄み渡る青空に広く溶けていく。

 

 

 



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38/再浮上と、それと

 

 

 

 

『――――♪』

 

 ぼんやりと、どこかで聞いた音を耳にする。

 

 揺れる意識は水に浮かぶように曖昧だ。

 

 いまがどこで、なにがどうかもあやふやな夢見の心地。

 叩き起こされた理性が覚めるまであと数秒といった寝起きの余韻。

 

 彼は目を瞑ったまま寝ぼけている。

 

 暖かい春先の空気が髪を撫でていく。

 理由なんてそれで十分だった。

 

 食事を済ませて腹が満たされたコト。

 それと、肇自身も気付いていなかったけれど、最近の自主勉強で睡眠時間がちょっと削れていたコト。

 

 細かな要因が重なって、いつの間にやら眠ってしまったらしい。

 

 

「――――♪」

 

(…………、姉さん……?)

 

 

 うっすらと目を開ける。

 ぼやけた視界に懐かしい景色が広がっていく。

 

 聞き心地のいい微かな音色。

 どこか楽しそうに響いていく声。

 さらさらと髪を梳かすような暖かさ。

 

 いずれにしろ大切な感覚が充満したいつかの空気。

 

「――――……、」

あ……お、起きた……?(……ん、起こしちゃったか)

 

 音が重なった。

 声はダブるように響いている。

 

 その銀髪(黒髪)鮮やか(濡れ羽色)でとても綺麗だ。

 眼は暗い紫水晶(翡翠色)で、けれどその微笑(笑顔)消え入る(輝いている)ように儚い(眩しい)

 

 今に生きるこのときで、(古く遠い世界の果てで、)最も美しいと思えたひとりの少女。(彼を救った〝はじまりの陽〟)

 

――お、おはよう(おはよー彩斗。)……み、水桶くん……っ(またこんなところで寝ちゃって)

 

 瞬間を彩る夢の跡。

 身体についた目と心の奥に秘めた()

 

 それがいやにどうして呼び起こされる。

 

 一秒。

 彼はぼんやりと、少女の太股の上から世界を視た。

 

 二秒。

 彼女はどうしていいか分からず、名前を呼んで静かに小首をかしげた。

 

 三秒。

 

 

 

 ――目を覚ました水桶肇は、弾かれるように飛び上がった。

 

 

 

「ひゃっ!?」

 

 姿勢を崩した渚の手首が優しく握られる。

 そのままくるっと位置関係を変えられて、そっと腰に手を添えられた。

 

 彼女があっと驚いている間にふたりは見事逆転。

 

 渚はベンチを背に見上げるように、

 肇は小柄な彼女の体躯を逃がさないようじっと見詰める。

 

 もれなく距離は酷く近い。

 

(――――えっ、ちょ、あの、これ――!?)

 

「み、みな、水桶っ、くん……!?」

「――――――、」

 

 ぐぐっ……と、渚の上から身体を押しつけられる。

 

 間近で向けられる視線はひたすらに強い。

 ともすれば瞳の奥まで捉えられてしまいそうな急接近。

 

 ふたりの間はもはや垂れた髪が肌に触れるほど狭まっていた。

 

 ……つまり、こう、なんというか。

 

 端的にいって――――渚は彼に、現在進行形で押し倒されている。

 学園の、中庭の、ベンチの上で。

 

(――ま、待って待って待って。ステイ、落ち着け私……! み、水桶くんがいきなりこんなコトするワケないでしょ、常識的に考えて! うん! だから、落ち着――――)

 

 つぅ――と。

 

 彼の右手が渚の頬へ優しく添えられる。

 

 

 

 

 〝――――んにゃあッ!?〟

 

 

 

 

 C-4は無事起爆した。

 キュート(Cute)チック(Chick)チャーミング(Charming)キャンディー(Candy)味の爆弾である。

 

 ぼんッ、と音をたてて破裂した渚の頭は赤一色。

 

 血色の良いどころではない熱を伴ってパクパクと口を動かすしかできない。

 さながら餌を待ち望む池の鯉みたいに。

 

「み、みみみ、みなっ、みなおけ、水桶くんッ!?」

「――――……」

 

 そうっと銀髪が持ち上げられる。

 

 分からない。

 

 渚には彼のしたいとするコトが分からない。

 ()()みたいとするコトがまったく分からない。

 

 いや本当なんのことだか。

 一体全体どういう()()なのかさっぱりだ。

 

 そう、さっぱりなのである。

 

 ……言い訳がましいとはいえ、彼女がさっぱりと言えばさっぱりなのだ。

 

 どうかそのように捉えてほしい、切に。

 

「…………、」

「ぇ、あ、あのッ……こ、ここ、学校……ていうか中庭……!?」

 

「…………優希之さん」

 

「えッ、あ、はっ、はいっ!!」

 

 びくびくぅ! と押し倒されたまま肩を跳ねさせる渚。

 

 答えながらもきつく目を瞑ってしまったのは羞恥心からか。

 

 右手はがっしりと手首ごと掴まれていて動かせない。

 左手はちょうど背もたれと自分の身体に挟まれている。

 

 足だって下手にはずらせない。

 

 だって、いま彼女の身体の真上には。

 至近距離には、妙に真剣な顔をした肇が居て。

 

 

「君は――――」

 

 

 どくん、と心臓が息をする。

 

 ひときわ高い生命(いのち)の音。

 

 それは一体どちらのものだったのか。

 

 彼は彼女から目を離せない。

 彼女は開かれた唇を黙って見ているしかない。

 

 たしかな瞬間。

 たしかな答え。

 

 いつか起こりうるひとつの訣別。

 

 肇の口は、ゆっくりと言葉を紡いで――

 

 

 

「――――」

 

 

 

 被さるように鐘の音が響く。

 昼休みの終了と、五限目のはじまりを告げる予鈴だ。

 

 どうやら彼が眠っている間にそこまで時間が経っていたらしい。

 

 ……開かれた口がそっと閉じられる。

 

 その先の言葉は簡単に吐けるものでもないように。

 

 

「みな、おけ……くん……?」

「……ごめん、なんでもないや。教室に戻ろ?」

「ぇ……あっ……う、うん……?」

 

 

 ふるふると首を振って肇は立ち上がった。

 そんな彼に手を引かれて、渚もベンチから腰を上げる。

 

 いま一度表情を見てみればもういつも通り。

 

 先ほどまでの空気は嘘みたいにない。

 ただ穏やかで緩やかな、ちょっと天然(ポンコツ)入った男子の姿がそこにはあった。

 

 ほっと、胸中で胸をなで下ろしかけたのは気のせいか。

 

「ごめんね、なんか寝ぼけてたっぽい」

「あっ、い、いや! 別に、その、ぜんぜん……」

「……でも優希之さんだってあんな物欲しそうな顔しちゃダメだよ?」

「えッ、あ!? い、いいいいいや私っ、そんな!?」

「ごめん冗談」

「――――っ、――――!!」

「あはは、痛いってば」

 

 ぽこすかと弱々しい拳で右肩を殴られつつ肇は歩いていく。

 

 繰り返すがそこに変わった様子はない。

 よくも悪くも素直は彼は軽くない衝撃を受けて隠せるほど器用じゃないだろう。

 

 疑問も確信も当たり前の態度と共に掠れて消えた。

 ならばこそ残るのは密かに抱えたものだけ。

 

 ――浮上したのは意識と共に。

 

 広がるように燃える熱に()が灯る。

 待ちきれないと震える指をいまは意図的に握りしめた。

 

 ……ああ、なんてコト。

 

 これでは部長に謝らなければならない、と肇はちいさく微笑んだ。

 

 あの夏祭りより高く、花火よりも激しく。

 今までのすべてを軽く凌駕していくような意欲(しきさい)奔流(ぼうりょく)

 

 酷くもどかしい。

 

 これを吐き出せない一瞬一秒の全部がもどかしくて、そして。

 

 

 

 ――――なにより愛おしい、彼に芽吹いた原初の鼓動。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 なんだかんだで肇の気質は真面目なほうに傾く。

 

 緩い部分はたしかにある。

 抜けているところだって片手の指では数え切れないぐらいだ。

 

 けれど押さえるところは押さえようとするし、大事な部分はきちんと大事にするのが彼の基本的な考え方。

 

 ――そんな彼をして、午後の授業はまったく集中できなかった。

 

(――――――、)

 

 理由は単純。

 意味も明白。

 

 これ以上ないほどの答えに彼は確信の手応えだった。

 

 気を抜けばそわそわと指を動かしている。

 いつもは大切に噛み締める教師の言葉もいまばかりは耳を通り抜けていく。

 

 よもやこんな調子では授業を受けるべきではない。

 

 そんなコトは彼も分かっている。

 ぜんぶ自覚して承知の上だ。

 

 ……けれど、分かっているからといってどうにかできるなら、それはあくまで常識の及ぶ範疇の出来事に過ぎない。

 

(――――――――――――、)

 

 同時に、彼は知らない。

 ぜんぶ自覚などしていない。

 

 いまとなっては誰も知る由もない事実。

 

 死後、別の場所で()()()()はこう呼ばれた。

 

 名のある画家の再来。

 あるいは現代美術におけるオーパーツ。

 またはダイヤモンドより価値のあると認められた油彩の宝石職人。

 

 若くして散った短命の天才、翅崎(はねざき)彩斗(あやと)

 

 父親である元翅崎グループ社長の翅崎南斗(みなと)の尽力により大々的に評価され、彼の残した画像データだけで近代芸術に波紋を広げた数百年に一度という才能の持ち主。

 

 すなわち、ただ絵を描くためだけに産まれてきた神の御子。

 後に五十年経ってもその技能に追いつけないとまで言われた正真正銘の絵描き狂い。

 

 

 ――それが()()()()ではなく、明確な創作意欲に突き動かされてる。

 

 

 〝早く、早く、早く――――〟

 

 最低限の理性で逸ろうとする身体を押さえ込む。

 握りしめた拳から血が滲んでいようと彼は気にした様子もない。

 

 然もありなん、それはいつぞやの歩けないほどの激痛を誤魔化した爆発的な衝動だ。

 出血程度の軽傷ならなんら感じるところではないだろう。

 

 〝はやく〟

 

 いつの間にかシャーペンを持つ手はカタカタと震えていた。

 

 教師の話は依然として頭に入ってこない。

 板書は黒板を写すだけで精一杯。

 

 考え事なんてひとつもできないでいる。

 

 ……本来、湧き上がるものは時間を経てば落ち着くものだ。

 

 ましてや学校、授業中。

 昼休みにぽっと灯った明かり程度ならそのうちに消えてくれる。

 

 けれど違う。

 コレは異なる。

 

 彼はある一点において非常に頭のおかしい人物だ。

 

 時間が経てば経つほどに気持ちは抑えられなくなる。

 抑圧されたその分だけ堪えきれず膨らんでいく。

 しぼむ気配などさらさらない。

 

 すでにその気力だけで言えば前世(むかし)のソレを上回っている。

 

 なぜか。

 

 ……当然、だっていまの彼には縛るものがない。

 

 足枷になっていた身体の弱さと病気の辛さがてんでさっぱり。

 これでは意識はひたすらに集中力を増していく。

 

 それこそ加速するように。

 

 

 

 

 

「――っと、えー……では今日の授業はここまで。ちゃんと次までに復習しておくように。分からないコトがあれば後で先生に聞きに来ること。じゃあ、号令係」

「起立――」

 

 六限目が終わる。

 挨拶をして教師――古文の担当――はスタスタと廊下へ。

 

 同時に、勢いよく立ち上がる人影がひとつ。

 

「――っ」

「!? ぇ、あ……水桶、くん……?」

 

「――――――」

 

 

 鞄も持たずに教室を出る。

 ルールも忘れて廊下を走り抜け、階段を駆け下りていく。

 

 放課後特有の憩いの空気が伝播するより速い。

 

 周りの声などお構いなしとばかりに肇は目的地へ向かう。

 

 すでに熱は全身へ行き渡っていた。

 どころか脳まで焼くほどのもの。

 

 勢いのまま足は二階へ。

 

 そこからは下りるのではなく、廊下を通り抜ける。

 目指すのはもちろん――――美術室。

 

 

(――――、)

 

 

 と、走りながら前方に立つ誰かの姿を捉えた。

 なんの因果か教室の扉を開けて少女がひとり佇んでいる。

 

 部長だ。

 

 分かっていたのかなんなのか、薄く笑いながら彼女は肇のほうを見ている。

 

――やっぱ来た。いける?(なんか胸がざわつくと思ったのよね)

っ、すいません!(いけます) お願いします!(どこ使ったらいいですか)

おっけー(そこ)用意はしてやった(画材は適当に揃えた)感謝なさい(勝手に使いなさい)

はい!(ありがとうございます)

 

 美術室に入ってすぐ、キャンパスの構えられた席に座る。

 

 近くの机には所狭しと(ぶちょう)の言ったとおり道具が並んでいた。

 

 筆やパレットはもちろんナイフと各画用液(オイル)

 油絵具、筆洗機にクリーナー、サーフェスコートなどなど(エトセトラ)

 

 とりあえず最低限のものは置かれている。

 

どうなのよその調子は?(どのぐらい時間かかる?)

良いぐらいで!(三時間もあれば)

そう。(わかった。)んじゃあ好きにやっといて(ちょっと見学させて)

はい!(大丈夫です)

 

 下書きは要らない。

 アタリは取らなくても問題ない。

 

 余程手は動く。

 

 いちいち震えていた過去(ぜんせ)とは比べものにならない精度だ。

 

 なにせ二時間も授業を受けたあと。

 下絵なんてすでに瞼の裏に焼き付いている。

 

 あとはそれを写すだけだった。

 

 その程度は肇にとってなんら難しいコトじゃない。

 

 

「失礼しま――って、あれ、部長? 早いですね」

「え、なに。部長もう来てる? ……おや、そこの彼はいつぞやの」

「っ、み、水桶さんもしかして来てます!? 居たー!!」

「ちょっと声大きいぞ摩弓ちゃん。いちおう静かに」

「すいません!!!!」

「うるさっ!? なんの騒ぎだコレ……ん? あ、例の一年生くんか?」

 

 

 過去最高に筆が乗っている。

 まばたきすら忘れて手を動かしていく。

 

 肇の眼球は開始一分と待たず既に血走っていた。

 

 鬼気迫るというのは正しくこういう表情(コト)を言うのだろう。

 

 かつて中学時代に打ち込んだときも、

 入試のときに発揮されたそれも嘘みたいな過度の集中状態。

 

 その意識に余人の入り込む隙間はない。

 完全に彼ひとりだけの隔絶した世界。

 

 

「気になるなら見ときなさい。(こいつ)多分私ぐらい上手いから。……いや、下手すると私以上かも」

「…………本当ですか? それ」

「いやまさか……天下の聿咲彩に勝てる学生なんて……」

「あっはっは。冗談きついなー部長。……冗談ですよね?」

「み、水桶さんの手元! 見てみたいです!」

 

「てか部長はなんでそこで()()()()してるんすか?」

「べ……は? なに?」

「あ、なんでもないす。後方腕組みしてるのはどうしてかなー、と」

「そりゃあ私が気になるからに決まってるじゃない」

 

「…………、」

 

 

 その一言で顔を出した美術部の面々はしんと静まり返った。

 

 興味がなければ名前すら刹那で忘れる我らが部長(てんさい)様だ。

 そんな彼女が明確に「気になる」といって後ろから見守っている。

 

 答えなんてそれで十分。

 

 なにも彼らは自分たちのトップが持つ実力を疑っているワケではない。

 

 

「…………まじで?」

「……俺見てくる……」

「あ、私も私も。そこまで言われると」

「まあ一年生の実力確かめるには良い機会……なのかな?」

「単純に部長が褒めそやす技量がどんなものか興味はあるけども」

 

「……あんまり大勢だと私ならぶん殴ってるけど(肇あんたこれぐらいの観客大丈夫?)

別にいいです(大丈夫ですよ)

 

 

 答えながらも手は止めない。

 いまはコンマ一秒の電気信号(じいしき)断絶(バグ)ですら惜しい。

 

 脳裡にはより強く鮮明にイロドリが浮かんでいる。

 

 湧き起こったのは複雑怪奇な色と形だった。

 ただ示し合わせたようにパズルのピースはカッチリと嵌まっている。

 

 それは肇もまだ知識として理解していない真実の断片。

 

「……え? これどういうヤツ?」

「わかんねえ。てかなにしてんだこの子。全体図が見えねえんだけど」

「はっや。手の動きバケモンじゃん」

「は? そこでその色使っ……、えぇ……なんでそうなるの……?」

「…………、」

 

 ――空には太陽が迫っている。

 

 日差しは強い。

 影が伸びていた。

 

 疎らにこぼれるのは光か雪。

 

 融け出した中にまた別のモノが見え隠れしている。

 

 立地はどうだろう、分からない。

 東から日は上る。

 いまは何時ぐらいだろう。

 

 夜みたいに穏やかな氷上の海。

 少女は踊りながら立ち尽くして哭い(わらっ)ている。

 

 

「……どうしたんですか、みんなして」

「あ、潮槻。おまえも見ていくか? 一年生が変なの描いてるけど」

「一年生……? いや、僕は」

「み、水桶さんですよっ、潮槻さん!」

「っ! ――ちょっと通してくださいっ」

「あっ、おい押すな。待てって」

 

 

 指先から滴るのは雫。

 汗、涙、涎――いいや脂肪(アブラ)だ。

 

 日差しに人が溶けている。

 熱気は草原となって彩を歪ませる。

 

 空は眩しく透き通るような(アオ)さ。

 たったひとり、銀糸の髪を振りながら黒髪の少女が揺れる(わらう)

 

 くすくすと、どろどろと。

 

 花火みたいでなんとも綺麗だ。

 

 

「――――――……」

「潮槻。おまえこれなに描いてるか分かるか? 形は整ってきたけど」

「…………いや」

「部長はどうなんですか?」

「逆になんで部員(あんた)らは分かんないの?」

「俺らは悪くないです。たぶん部長がおかしいです、はい」

 

 

 ふと、身体にちょっと異変が起きた。

 

 肇の指先が微かにブレる。

 目が乾いている。

 動悸が激しい。

 

 関係ない。

 どうでもいい。

 

 いまは手を動かすのが最優先。

 

 その精度は一ミリでも落としてはいられない。

 奥歯を噛み締めながら不調のすべてを飲み下す。

 

 時間は砂が落ちるように。

 

 

「……ねえ……やけに静かじゃない?」

「たしかに。なんでだろうな」

「みんな集中してるからだろ?」

「なるほど……、……いや待て。違うそうじゃない」

 

「――おい水桶くん息してなくね?」

「え? いやいやまさかそんな。……そんな……、……あれ?」

「呼吸音聞こえねえんだけど……ちょっと誰か止めたほうが……」

 

 

「絶対止めんな。これ部長命令だから」

 

「いや人の命かかってそうなんですけど!?」

 

 

 一時間、二時間と経って。

 

 極限まで研ぎ澄まされた集中が継続していく。

 いや、さらにその鋭さを増していく。

 

 

「ちょ、ちょっと失礼! ……あ、心臓は動いてる」

 

「こら。あんたら邪魔すんな」

 

「そんなコト言ってる場合と違いますよ部長! 誰か保健室から酸素スプレー持って来て!」

「あー、俺このあとの展開なんとなく分かっちゃった……担架いる?」

「念のためAEDも準備しといて! 一階の事務室前にあるから!」

 

「あんまり余計なコトしないでよ。いま良いところだから」

 

「部長!! あんまりですその態度は!!」

 

 

 ――ちなみに余談ではあるが。

 

 過去(ぜんせ)の彼はよく自宅の作業部屋(アトリエ)で眠っていたのだが、まさかそれが偏に気を失ってのものだとは最後まで家族も彼自身も気付かなかったという。

 

 つまり何が言いたいかというと、美術部の皆さんはえらく優秀だ。

 

 

「――――――」

 

 

 そして、彼の宣言したとおりようやく三時間が過ぎようとした頃。

 

 ちいさく、細く。

 ほう――――と、肇は途絶えていた息を吐いた。

 

「…………できたぁぅッ」

 

 そのままふらっと後ろに向かって倒れこみながら。

 

「あっぶな!? 構えておいて良かった!」

「脈ある!? ……ある! 心臓動いてる! 酸素はやく! 貸して!!」

「なんか既視感あるなって思ったら一年のときに部長がやらかしたコトありましたねこれ! あのときも凄い大変だった!」

 

「ふーん……まあまあ良い出来じゃない?」

 

「ちょっと部長も絵なんか見てないで手伝って!」

 

「絵なんかって……あんたらの目節穴なんじゃないの?」

 

 

 そんなコトを言っている場合ではないのだが、事実彼の描いたものはこれまでの作品と一線を画す代物だった。

 

 過去の受賞作もコンクールの優秀賞も劣って見えるぐらいの完成度。

 たかだか学生の中でも飛び抜けていたモノは、完全にかつての輝きに埋め尽くされている。

 

 すなわちオークションに出せば短時間で八桁は行く、

 死後その貴重性が上乗せされれば億単位にまで届く――

 

 ――――翅崎彩斗(バケモノ)の最新作。

 

「……ぇ、ぁ…………」

「だ、大丈夫水桶くん!? これ見える!? 何本!?」

「……? に、二本……です……」

「親指立ててるから三本だよ! ダメだ! 酸素いくよ!」

「もごもご……?」

「大丈夫大丈夫! 水桶しっかりしてるから!」

 

 こてん、と可愛らしく首をかしげる肇は当然のごとく気を失ったとは思っていない。

 あれなんか寝てる間に凄い誤解されていないかな、ぐらいの心持ちだ。

 

 めちゃくちゃな阿呆である。

 同時にめちゃくちゃな才能を発揮したワケだが。

 

「――――なん、だ……これ……」

 

 ぽつりとこぼしたのは馨だ。

 彼は肇の書き上げた絵を呆然と見ている。

 

 ……心を掴むには意欲(やるき)がなくても十分だった。

 それ以上ないというのは今までの画で散々理解できる。

 

 ならば、そんなハードルを軽々と飛び越えていったのは。

 

「ねぇねぇ肇。あんたこれタイトルは?」

「うーん……雪射(ユキザ)し? ……ですかね……?」

「おぉ、たしかに。やるわねー」

「ふふっ、ありがとうございます」

 

 くしゃりと笑う肇。

 珍しく満面の笑みで返す彩。

 

 当然ながら他の全員がその反応を理解できなかった。

 

 いや、たしかに凄いは凄いのだけれど。

 

 これの一体どのあたりが〝たしかに〟という感想へ繋がるのかと。

 

 

 

 

 



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39/実は貴女のコトですよ?

 

 

 

 

 肇が帰宅する頃には、すでにあたりは暗くなりかけていた。

 

 日が長くなってきたとはいえまだまだ春先の四月終わり。

 日中の時間も気温もこれからが本番。

 

 寒さはないけれど汗をかくほど熱くもない。

 心地の良い暖かさだっていまだけの特権になる。

 

 貴重な一年の大事なひとときだ。

 

「――――……、」

 

 靴音を鳴らして廊下を歩いて行く。

 

 死に物狂いの――本当に一瞬死にそうなときがあったが――創作は終わった。

 

 今日描いたものには乾燥促進剤(シッカチーフ)を混ぜている。

 そう日付も立たないうちに表層……指触乾燥は終わるだろう。

 

 中まで乾くとなるともう少し時間が必要ではあるけれど。

 

(にしても……)

 

 過去一番の速さだった、と彼は振り返りながら微笑んだ。

 

 なるほど骨や神経に異常がなければ人の身体はここまで動くのか、と今更ながら再認識したぐらい。

 

 それほどまでに指先は思い通りに稼働(うご)いてくれている。

 脆く震えることも弱く痺れることも、ましてや痛みに刺されることもない健康体。

 

 その本領が遺憾なく発揮されたのがさっきのコト。

 それだけで肇はもうニヤけるぐらい嬉しかった。

 

 久しぶりに、飛び跳ねてしまうほど楽しいと思ったのだ。

 

「……ふふっ」

 

 思わず笑う。

 静かな廊下には彼の声がいやに響く。

 

 現在時刻は六時過ぎ。

 

 学園の生徒にとっては微妙に曖昧な時間帯だ。

 

 熱心に活動する運動部にとってはまだまだこれからというもので、

 まあ勉強との両立も重要と捉える文化部的にはもう解散しているところ。

 

 そのせいか校舎の中は喧噪が絶えている。

 

 聞こえてくるのは窓の外から響く野球部やサッカー部のかけ声と、ひとり歩く彼の靴音のみ。

 

「――――…………、」

 

 ほう、と忍ばせるように息をつく。

 

 一度吐き出せば頭はそれなりに落ち着いた。

 六限目を終えたときのような我慢ならなさは流石に残っていない。

 

 思考はまったくなんとはなしに冷静だ。

 

 ……けれど、その余韻はじんわりと胸に広がっている。

 

 一瞬灯ったと思った蝋燭の火だけれど。

 どうやらそれはまた違う()()()になってくれたらしい。

 

(我ながらスイッチが入ると凄いな、俺。もう次になに描くかしか考えてない)

 

 ああ、これは駄目だろうな、と肇は直感した。

 

 なにが駄目かなんて言うまでもない。

 

 これほどまでの感情。

 これほどまでの熱量。

 

 普通の人間なら持て余さなくてどうするか。

 そんなものは彼だって同じコト。

 

 きっと成績は急転直下だ。

 

 悩みの種はそのままのとおり解決に向かうだろう。

 色んな意味での決着(おわり)へと。

 

(……でも、先ずは新作の前に、ひとつは片付けないとね)

 

 とりあえずは心残りから。

 

 くすりと微笑んで、肇はいつの間にか止めていた歩みを再開する。

 

 その技に一切の弛みなし。

 輝きは溢れんばかりにより増した。

 天性の素質は身体が違うとも魂が覚えていたのか。

 

 なればこそ、ひとりでもその事実を知っていれば確信しただろう。

 

 今までの作品なぞ所詮は飛び抜けて絵が上手いだけの一学生。

 

 故に今日、あの瞬間、あの場所で。

 水桶肇(はねざきあやと)は名実ともに生まれ変わったのだ。

 

(一週間もあればできるかな……? いやでも、前は数ヶ月かけてようやく一枚ってところだったしなー……まあ、今回がちょっと調子良すぎたのもあるんだけど。うん)

 

 誰かさんみたいに頬が赤くなっているワケではないけれど。

 いまだに熱っぽさは血流に乗って広がるみたいだった。

 

 繰り返すようにプスプスと燃え燻っていたものは完全に別物になっている。

 

 描いた本人がそんな状態。

 であるのなら、周りで見ていた部員らがどう思ったかなんて至極簡単だ。

 

 ましてやそれ以前の彼を知っている人間ならば。

 

(さて、鞄、鞄――っと)

 

 ガラガラと扉を開けて一年一組の教室に入る。

 

 この時間まで残っている生徒はひとりもいない。

 

 だからだろう、照明はついていなかった。

 薄暗くはあるけれど、窓から差しこむ明かりで室内は見渡せる。

 

 そのまま肇は真っ直ぐ、自分の席に向かって――

 

「…………ぅ」

「へっ!?」

 

 びくぅ! と珍しくその肩を跳ねさせた。

 

 原因はひとつ。

 不意打ち気味に耳をついた微かな声音。

 

 瞬時に驚いて飛び退きながら、肇は教室の電気スイッチをフルでプッシュする。

 

 誰も居ないはずの暗い室内。

 影に埋もれた常夜の闇。

 

 そんな場所に隠れ潜んでいたのは――――

 

 

 

「…………優希之さん?」

「…………ん――」

 

 どこからどう見ても知り合いの銀髪美少女だった。

 

「……なんで帰ってないんだろう……」

 

 部活があるワケでもなし、とため息なんかついてみる肇。

 

 そんな彼の心境を知る由もない渚はぐっすり眠ってしまっている。

 

 椅子に座ったまま机に置いた手を枕代わりにするように。

 よほど良い夢でも見ているのか、すぅすぅと心地良い寝息をたてながら。

 

(…………ん?)

 

 と、そこで彼は渚の隣――自分の机に視線が向かった。

 

 授業終わりに直ぐさま飛び出した後のことだ。

 筆記用具も教科書もごちゃごちゃで、帰る支度なんて全く出来ていない。

 

 明かりを付けてみればよく分かる。

 肇の席は荒れに荒れ放題。

 

 ――の、ハズだった。

 

「…………、」

 

 実際は違う。

 

 彼の机には綺麗に中身の詰まった学生鞄だけが、ぽんとひとつ置かれている。

 

 肇自身が片付けた記憶などさらさらない。

 絵を描くのに熱中していた己が途中で抜け出すコトもない。

 

 なにより集中はしていても記憶はたしかだ。

 

 事実、彼はいまになるまで一切ここには戻ってきていなかった。

 だというのにどうしてもう帰り支度が済んでいるのか。

 

 ……その答えは、訊かずとも律儀に待っていてくれた眠り姫がこれ以上ないほどの証拠だろう。

 

(――まったくもう……)

 

 ふわりと呆れるように笑いながら、そっと彼女の肩を揺さぶる。

 

「優希之さん。起きて、もうとっくに帰る時間だよ」

「ん……、……あと五分……」

「こらこら。六時過ぎちゃってるから。あんまり遅くなると危ないんじゃない?」

「…………、……――――ふぁ……」

「……おぉ、おっきいあくび」

「――――ぇぅ……?」

 

 上体を起こしながら、こてん、と首をかしげる()()()()()()

 

 十五歳の少女にあるまじき油断した姿と、十五歳の少女らしいいじらしさを内包した実に素晴らしい一枚だった。

 思わず肇は携帯のカメラ機能を使おうかと手が伸びかけたほどである。

 

 なんなら彼らしく描いてみてもいい。

 

 タイトルは「ねむねむゆきのちゃん(じゅーごちゃい)」だ。

 

「…………、……みな、おけ……くん……?」

「ん、おはよう優希之さん。もう夕方だけども」

「……………………いま、私」

「カワイイお口だったね?」

 

 

「――――――――ふみゅぅ……っ」

 

 

 

 ぽん、と爆発したのは昼間の不発弾か。

 頬を真っ赤に染めた渚が折角上げた顔を腕枕に戻す。

 

 彼女はもう泣きたかった。

 

 なんでこんな、どうしていま、なぜこのタイミングで――?

 

 ぐるぐると頭のなかで渦巻く思考は出口の見えない迷宮に近い。

 乙女回路は混線必至のスクランブルモード。

 

 よりにもよって彼に間抜けな大欠伸を見られたのが失態すぎる。

 

 あまりにも恥ずかしすぎる。

 いっそ記憶を消してほしい。

 

 彼も彼女自身も。

 

「……荷物、まとめてくれたの?」

「――――…………うんっ……」

「ありがと。いまのは見なかったコトにするから、顔上げて?」

「っ…………じ、じゃあ言わないでよ……っ」

「ごめんごめん。……帰ろ、優希之さん。いつものところまで送るよ」

 

 そう言って肇がいつも通りの眩しい笑みを浮かべる。

 明るさを塗りたくった太陽みたいな屈託のない表情。

 

 単純なコトに渚の意識はそれで覚めてしまった。

 

 ゆっくりと上げた顔で、彼のほうをぼんやりと見詰める。

 

 ……普段の態度から「どうして私はこんな人を好きになったんだろう」なんて思うコトがないと言えば嘘になるけれど。

 

 でもやっぱり、考えれば考えるほど「だから好きなんだ」が増えていくあたり結局負けているに違いない。

 

「………………うん」

 

 彼の申し出にちいさく答える。

 軽い誘い方はふたりで築いてきたものがあるからこそだ。

 

 ほんと短く、たった二文字。

 

 泡のように仄かな響きで告げられた文句はだからこそ価値がある。

 一緒に帰らない? なんて気遣うような言葉じゃない。

 

 ……それがやっぱり、渚は良いのだ。

 

 なによりも、誰よりも。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

「――そういえば、どうして待っててくれたの?」

「えっ……あ、いや……も、もしかしたら早めに戻ってくるのかなーって……」

「……あぁ、俺がなにも用意せずに出て行ったからだ」

「う、うん……、……結局、待ってる間に寝ちゃって、こんな時間になっちゃったけど……」

 

「……気を付けてね。あんなところで寝てたら風邪ひいちゃうだろうし」

「ご。ごめん……」

「それに優希之さん可愛いから心配だよ。男子はみんな獣だからね……!」

「……っ、……み、水桶くんはそれ、どうなの……っ?」

 

「――さあ、どうだろう?」

 

 にこにこと笑いながら問い返す獣かもしれない男子。

 尤も性欲云々についてはともかく、件の分野についてはあながち間違った評価でもないのだろうが。

 

 息をするコトも忘れて筆を動かし続けるのは理性をへし折る本能の凶悪さである。

 走るために生まれた動物(モノ)に生半可な気持ちで挑めば怪我をするだけ。

 

 それを火傷というのなら、まあ、焼ける部分こそ違えど似たようなものか。

 

「そっ、それより……えっと、なに……してたの……?」

「部活。久々になんか描きたくなっちゃって」

「……へぇ……そう、なんだ……」

 

「…………優希之さんの所為(おかげ)だよ」

 

「え……?」

「………………、」

 

 言おうか言うまいか迷って、肇はどこか繊細な口ぶりで呟いた。

 

 春の気温にそのまま溶けこんでしまいそうな火照り声。

 

 彼の目は真っ直ぐ渚を捉えている。

 その鮮やかな黒瞳が射貫くように彼女を映す。

 

 まるで空に上るシャボン玉を見るみたいに。

 

「子守唄」

「……えっ、あっ……」

「良かったよ。こう、じーんと来た。鼻唄だったけどね?」

「っ、わ、忘れて……! それも忘れて、ぜんぶ忘れて……!」

「あはは。最近、優希之さんそういうの多くない?」

「み、水桶くんと居るせいだからっ」

「えー」

 

 ふいっと顔を逸らす渚を見て、肇はささやかな笑みを浮かべる。

 

 特別性があるのは出会ったときから知っていた。

 なにせ優希之渚はそういう立ち位置にあって然るべき人物そのもの。

 

 無意識のうちにそういうものだろう、と納得していた部分も多い。

 

 でも思い返してみれば当然の帰結。

 

 一度満足してからずっと無くしていた気分が蘇ったのはいつだったか。

 ほんの微かな感触でも覚えはじめたのはどの時期だったか。

 

 今日のコトは偶然でもなんでもない顕著なだけの話だ。

 

 ……そう。

 

 いつだって、彼の琴線を震わせる、

 燃料に、原動力になっていたのは――――

 

 

 

 

 

「……ね、優希之さん」

「……? うん。なに……?」

 

「いま、楽しい?」

 

 

 

 風が吹く。

 

 前髪がつられて揺れる。

 

 肇は微かに口元を緩めながら訊いてきた。

 脈絡はない。

 

 けれど自然と吐き出された不思議な問いかけ。

 

 対する渚はそれをぽかんと呆けた顔で見詰めている。

 色々、急すぎて、ワケが分からなくて。

 

「……えっと……?」

「しんどくないかなってこと」

「しんどく……?」

「例えば、学校通ったりとか、勉強したりとか、帰りに寄り道したりとか。あと、俺と一緒にいたりとか?」

「…………それは別に、ぜんぜん……苦でもないけど」

「じゃあ楽しいってことだ」

「……………………まぁ、そうなるかな……」

 

 そっか、と彼は嬉しげに笑う。

 

 おかしなコトだ。

 

 楽しいかと訊いてきたその人のほうがよっぽど楽しそうに見える。

 

 くすくす、くすくすと。

 口元をおさえて笑い声を洩らす男子。

 

「……ちょっと笑いすぎじゃない……?」

「いや、そうでもない。そうでもないよ、うん」

 

 手放すように声は止んだ。

 そっと彼はいつも通りの落ち着いた顔に戻る。

 

 それで一旦空気はリセット。

 

 ……話しながら歩いていたせいか、時間はずっと経っていた。

 

 すでに周りは薄らと夜の気配が濃くなっている。

 しばらくもしないうちにパッタリと暗くなるだろう。

 

 頭上にはぼやけながらも浮かぶ淡い玻璃の色。

 

 尾を引いた雲がコントラストとしてなんとも良い。

 

「……うん」

 

 肇は目を閉じながら頷いた。

 それこそ普段は渚がやる方な、眩しいものを見た風なまばたきをして。

 

「今夜は月が綺麗みたいだ」

 

 そう独りごちる。

 

 渚はそんな彼を静かに隣から見上げた。

 ちょっとびっくりするのもあって。

 

 いや、期待するのは馬鹿らしいと知ってはいるけれど。

 なにせ天然純朴(ポンコツクソボケ)な彼の言うコトだ。

 

 流石に有名なワンフレーズとはいえ、意図してそんな代物を使えるほど立派で賢く気の回るような男ではない。

 

 でも。

 

 ほんのちょっぴり。

 

 すこしだけ、気になるものだから。

 

 

「…………夏目漱石?」

「よく知ってるね」

「そりゃもちろ―――――」

 

 

 ――――マテ。

 イマ、コノ男、ナンテ、言ッタ――――?

 

 

「――――――なぬ?」

「……昔にね、教えてもらったんだよ」

 

 ぴしっ! と芯から石化す(かたま)る渚をよそに、肇はどこか遠くを見遣りながら呟いた。

 

 本当の本気で珍しい。

 彼にはとてもじゃないけど似合わない、眉尻を下げた気弱な面を強く出して。

 

「私はあなたのコトが大好きなんです……って。俺のこと抱き締めながら、教えてくれた人がいたんだ」

「…………、」

 

 その言葉に石化を解いてムッとする渚である。

 乙女の嫉妬はメドゥーサの呪いさえはね除けてみせたらしい。

 

「……ふーん……」

「もう会えないんだけどね。こう、後ろからぎゅーってさ」

「へー……、…………どうせ女の人なんでしょ」

「まあ、そうなんだけど」

「ほら、やっぱり」

 

 むっすー、と余計頬をふくらませるジェラシーの化身。

 

 肇が嬉しそうに語ってるのもあってその不機嫌さはひときわ強い。

 さぞかしそれはイイ思い出なんでしょうねー、なんて率直に拗ねているぐらいだ。

 

 ……それでもまあ、可愛らしいものなのは変わりなかったが。

 

「でもまあ、それはそれで」

「…………?」

「やっぱり大事なのは今だと思うんだよ、俺は」

「――――…………、」

 

 ――――嗚呼。

 

 こういうところがあるから、きっと彼は眩しいんだろう。

 

「ね、()()()()()

「…………そう、だね」

「うん。だからね、本当に――――」

 

 いま一度、肇は夜空を高く見上げながら。

 

 

 

「今夜は月が綺麗なんだ」

 

 

 

 

 

 



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40/やっぱりぜんぜん伝わってない

 

 

 

 

 その後、無事家に帰り着いた渚はまず食事を済ませた。

 

 食事が済めばお風呂へ。

 お風呂が済めば軽いお肌のケアをして自室へ。

 

 無心で本日分の宿題を終わらせて、パタンと教材を閉じて立ち上がる。

 

 がん。

 

 脛に衝撃。

 部屋のガラステーブルに足をぶつけたらしい。

 

 がん、がん。

 

 爪先に衝撃。

 続いて頭にも衝撃。

 ベッドの脚に躓いて、倒れこみながら頭を打ったらしい。

 

 ぱたん。

 

 布団の上で大の字に寝転がる。

 

 少女は呆然と天井を眺めている。

 星を見るような漠然とした表情(カオ)はすでに事切れた後のものでしかない。

 

 どうやら思考回路はすでに焼き切れてしまったみたいだ。

 

 ただぼへーっと、ぼけーっと。

 ひたすらに視線を固定させるだけの生き物。

 

「………………」

 

 あたりは静寂に包まれていた。

 

 耳を澄ませば微かな音が聞こえてくる。

 

 コチコチと秒針を鳴らす枕元の時計。

 カタカタと窓を震わせる外の風。

 

 壁や床を伝って届いてくるのは水道かガスの通る響き。

 一階で母親が洗い物をしているからだろう。

 

 扉越しに酔っ払い(だいこくばしら)の笑い声まで入ってくる。

 

「……………………」

 

 コチコチ、コチコチと。

 

 時間は無為に過ぎていく。

 

 渚は固まったまま動けない。

 漠然と、茫然自失とした様子のままベッドに寝転がっている。

 

 十分(コチコチ)二十分(コチコチ)三十分(コチコチ)

 

 世界は歩みを止めてくれなかった。

 

 当然のコト。

 

 たったひとりの少女に付き合うほど地球(ほし)は気安くない。

 表層に溢れた数ある命のほんの一欠片に固執するほど優しくもない。

 

 世はこともなげに無情そのもの。

 

 いくら本質は乙女ゲームの主人公(ヒロイン)とはいえ、ここはゲームの中ではなく立派な現実だ。

 それらしい要素こそあれど歴としたフィクションではないリアルである。

 

 なので、

 

 

 

「……………………、――――??」

 

 

 

 彼女の心境はこのとおり、宇宙猫状態(?????)にあった。

 

 〝――――わけがわからない〟

 

 ぽかん、と口を間抜けに開きながら天をあおぐ渚。

 

 その顔に感情の色はない。

 強いて言うならなにもない、というのが色として表われている。

 

 理由はつい先ほどの帰り道。

 

 同行していた少年が吐いた見事な一言だった。

 

月が綺麗って(あいらぶゆー)……?)

 

 こてん、と寝転がったまま首を傾げる。

 近くにあった猫っぽいクッションを無意識のうちにかき抱く。

 

 もぎゅもぎゅ、むぎゅむぎゅと。

 

 腕と胸の間に挟まれた柔らかにゃんこが流動体のように形を変えた。

 

月が綺麗って(あいらぶゆー)…………!?)

 

 渚の首はいや曲がる。

 

 よもや側頭部と肩がくっつくのではないかというほどだ。

 

 傾げるどころの騒ぎではない。

 ぐぎぎぎぎぎぃーっ、という擬音が聞こえてきそうなほど曲がった首はシンプルにホラーだった。

 

 怪異、首曲がり女の誕生である。

 

 それはともかく。

 

月が綺麗(あいらぶゆー)……、月が綺麗(あいらぶゆー)……? 月が、綺麗(あい、らぶ、ゆー)……??)

 

 曲がらない首をさらに傾げて渚が疑問を表現する。

 

 諸説ありながらもかの有名な御仁が訳したとして伝わるその言葉。

 それを隣に連れ添って歩く相手に投げ掛ける意味を彼は知っていたのだろうか。

 

 知っていた。

 

 嘘だろう、ありえない。

 なんならその上で二回も言って来やがった。

 

 やず○でさえ二回しか――いや回数は同じだが、とにかく二回だ。

 

 月が綺麗だ(I love you)と。

 

 

 

(――よし、一旦落ち着こう)

 

 

 

 渚はクッションを抱き締めながら極めて冷静であろうとした。

 

 息を強く吸って、細く吐いていく。

 

 分からないコトはしょうがない。

 人間は学ぶ生き物だ。

 産まれてからなにも習わずに生きていくコトなど不可能。

 

 故に初めてのものは大抵分からなくて当然。

 なので、そういうときこそ理性を働かせて考えるのである。

 

 冷静に、冷静に。

 

 心に凍てついた氷を這わせながら、彼女は回想する。

 

 

(ふたりで歩いてて。なんとなく話してて。月が綺麗なんだって言われた)

 

 

 

 〝あはは、告白みたいなコトされてる――――〟

 

 

 

 ばしゃん、と氷は一瞬で全部溶けた。

 あまりにも儚い理性(しょうがい)だった、南無。

 

 

(――――どっ、どどどどど! どどどどどどどど!? どぅえ!? ?! あっ、えっ。あっ、あっあっ、あ!? え!? なんっ、ぅえ――!?)

 

 

 しゅぽーっ、と煙突(あたま)から白煙(ケムリ)をあげる蒸気機関車(ユキノーマス)

 

 もはや彼女に残る落ち着きなどなし。

 心臓はガッタンゴットンと不揃いなレールを走っている。

 

 顔はすでに耳まで真っ赤。

 じんわりと手汗まで滲む始末。

 

 おおよそこれで冷静などと言えるものなら色んな意味で大物だろう。

 

 恋愛弱者的に小物としか言いようがない渚はもうクッションを抱き潰しながら悶えるしかない。

 

 かよわい生き物である。

 

(こ、告白!? ナンデ!? 水桶くんが? 私に!? 一体どういう理由で!? わかんないわかんない! ていうかほんとに告白!? いつもの勘違いとかじゃなくて!? そもそも告白の定義ってなに!? 教えて! 誰か教えて――――っ!!)

 

 じたばたとベッドで跳ねる乙女はともすれば陸に打ち上げられた鯉より瀕死だった。

 

 ()()だけに。

 

(いややかましいわ)

 

 なんにせよ仲の良い男子から告げられた実質プロポーズである。

 

 これに無反応で居ろというほうが鬼畜にすぎる。

 いまがなにでどんな状況だろうが考えずにはいられない。

 

 それが幸運なコトに意中の相手であるなら尚更だ。

 

 ……尤も、彼女はその衝撃になにも応えられず帰宅と相成ったのだが。

 

(あぁあぁあそうだ私なにも言い返してない……ッ)

 

 ぐぁしぃ! と今度は己の頭を両手で掴んで唸る渚。

 

 ベッドの上で海老反り……背中が下なのでブリッジと呼ぶべきか……じみた真似をして、寝間着からおヘソを()()()とさせているのはとても十代の少女とは思えない痴態だ。

 

 たぶん親に見られたら一生モノの傷を負う蛮行である。

 

 けれどもいまの彼女にそんなコトを考えられる余裕なんてない。

 あったとしても先ほどの心の氷と共に刹那で見事蒸発してしまった。

 

 ああ悲しきかな我が人生。

 

 恋愛感情に振り回される少女がご大層なやり取りを前に僅かでも理性を残せるワケがないのだ。

 

(――――い、いやでも、水桶くんもそのあと変わったところなかったし……!? やっぱりいつもの!? 天然特有のアレ!? 単純に月が綺麗だったから!? 今夜は…………ちょうど満月!! あァ――――ッ!! 分かんないぃい……!!)

 

 暴れる身体とは裏腹に思考は徐々に冴えていく。

 ……ように思えて熱に浮かされていく。

 

 今晩が新月だったとしたらそりゃもうビンゴだったろう。

 渚は手放しでハッピーラッキー太陽スマイルイェーイと錯乱していたはずだ。

 

 しかし本日はバリバリギラギラの満月。

 

 文字通りまん丸綺麗なお月様。

 部屋の窓から覗いてみてもその形はくっきりと目に映る。

 

 それを見れば、まあ、件の台詞が出てくるか出てこないかで言えば出てくるだろう。

 

(か、勘違い? でもでも、意味自体は知ってたし……!? ど、どうなの!? ていうか本当に告白されたの!? 私たち付き合ってるの!? わかんない!! 告白!? 告白じゃない!? どっちなんだい!?)

 

 なお渚にはガチガチの筋肉(パワー!)なんてひとつもないのでルーレットはできない。

 

(か、確認してみる? ……なんて? 私と水桶くんってもう恋人同士ー? ――――いや無理ぃー!! そうやって率直に訊けたら苦労しないよ恥ずかしすぎるよ!!)

 

 なんならそうやって切り出して「え?」なんて返されたときを思うと俄然不可能だ。

 

 心が折れるどころではない。

 

 もう崩れる。

 砂になって崩れ去る。

 

 ボロボロと粒子になって溶けてしまうのだ。

 こう、さぁっ――……と。

 

 そうなってしまったら渚は()()()()()立ち上がれる気がしない。

 

(くっ……水桶くんのくせになんて爆弾を……! というか意味知ってるなら余計言わないでほしいんだけど!? 誤解するからね!! いやこれは決して水桶くんからの好意が嫌だとかそんなコトはなくってむしろその逆で私の本心的にはばっちこいっていうかいや私はなにを言っているんだァ――――!?)

 

 がんがんがんがん。

 

 若い命が真っ赤になるまでヘッドボードに頭を打ちつけている。

 

 渚はもう狂っていた。

 

 仕方のないコトだ。

 古くから月光は妖しくヒトを誘うという。

 

 太陽の輝きを受けて育った少年にそれがあるというのなら彼女は上手く()()()()()()というワケで。

 

 ……実際は因果応報みたいな感じだが、当然彼女はまだその真実に辿り着いてすらいない。

 

(――お、落ち着け。落ち着こう、とりあえず電話して――――電話して――……電話、して…………どうするんだろうね、この(わたし)は? うん??)

 

 ぱたん、と最初と同じように大の字でベッドへ倒れ込む。

 

 ぼんやりと眺めた天井は見慣れた模様だけがあってなにもない。

 変わったのは思考の停止から解放されて動きはじめた渚と、今更になって痛み始めた各所にぶつけた怪我だ。

 

 意識すれば余計にじわじわと鈍痛が走っていく。

 

「…………、」

 

 ほう、とひとつ何気ないため息。

 

 考えてみても結局分からない。

 あれはどういう意味だったのか。

 

 彼の言葉は本心からの告白(プロポーズ)だったのか。

 それともただ洩れただけの感想なのか。

 

 てんでさっぱり不明なまま。

 

 ……けれど。

 

 しかしながら、残念なコトに。

 

 予想するのならきっと後者だろうと、同時に渚は思っていた。

 

 なにせ今まで散々振り回してくれた天然純朴少年(ポンコツクソボケやろう)だ。

 いくら事前知識があるとはいっても、そこまでロマンチックな真似はできないだろうと。

 

 

(……思ってるん、だけどなぁ……っ)

 

 

 可能性の薄いほうを捨てきれないのは彼のせいだ。

 

 まったくもって勘弁してほしい。

 こんな思いをするぐらいならいっそ何も言ってほしくなかった。

 

 かといって、じゃあ言われたコトを綺麗さっぱり忘れるかというと、それはそれで勿体ないので大事に仕舞い込みたい渚なのだが。

 

 ……問題は、そうやって仕舞いたいモノが大きすぎて容れ物がないコト。

 

(こんなの、酷いってば……)

 

 苦笑しながら渚は胸中で悪態をつく。

 

 頬の熱はいまだ冷めない。

 胸の鼓動は忙しなくリズムを刻んでいた。

 

 この瞬間限定ならメトロノームにさえなれるであろう心臓は元気よく高鳴る。

 

 室内ですら暖かい春の気配は身体の芯から熱いものに変わった。

 

 横になっているというのに気分は一切落ち着く気配がない。

 

 

 

 

 ……結局。

 

 その日、彼女は一睡もできなかった。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 ――――そうして、待ちに待った翌日。

 

 通学路で再会した肇は、渚を見るなりふわりと微笑んだ。

 ()()()()()()()()()()()()()表情で。

 

 

 

「おはよう、優希之さん」

 

 

 

 〝――――――――――水桶肇(コイツ)ッ〟

 

 

 

 いや別にそこまで期待していたワケじゃないが。

 実際冷静に考えてみても望み薄ではあったが。

 彼ならたぶんそう来るだろうと予測してさえいたが。

 

 それはそれとして、ムカッとしてしまうのはしょうがないコトだろう。

 

 だってあんな話をしたのに、向こうは意識もなにもしていないとか、ちょっとアレだ。

 ずるいではないか、と渚の機嫌は急降下していく。

 

「……………………、」

「……? あれ、どうしたの?」

「別に」

 

 ふんっ、とそっぽを向きながら彼女は歩みを再開した。

 

 よくある分かりにくい意思表示なんかとは違う。

 明確に、はっきり、私いま不機嫌です、といったオーラを撒き散らしながら。

 

「……なんか怒ってる?」

「おこってない」

「でもそんな怖い顔」

「こわくない」

「いやいや優希之さ――」

 

「水桶くん、うるさい」

「的確に刺してきたね。どうしたの本当」

 

 さらさらと隣を歩く渚の頭を撫でながら訊く肇。

 これで機嫌を直してもらおう――なんていう下心からではなく、自然と手が伸びた結果だ。

 

 そこは渚としても嫌ではないので一先ずスルーする。

 

 撫でたいなら存分に撫でればいい。

 今だけは許してつかわす、と尊大なお姫さま的に受け止めた。

 

 これがわざとらしい仕種なら()で払い除けてやったが。

 

「………………昨日」

「きのう?」

「……分かんないならいいっ」

「どうしよう過去イチで優希之さんが拗ねてる……」

 

 そりゃあ拗ねる。

 もう拗ねに拗ねる。

 

 大体こんな精神状態で拗ねなければそれは聖人君子だ。

 残念なコトに渚はそこまで大層な性格はしていない。

 

 今回ばかりは主張させてもらおう、と彼女は胸を張って眉根を寄せた。

 

 誰がなんと言おうと悪いのは彼だ。

 勝手なコトを言ってくれやがった肇のほうだ。

 

 (わたし)は悪くない、自分(わたし)は正しい、と。

 

「……お昼寝ちゃったこと?」

「ちがう」

 

「放課後急に出て行ったこと?」

「ちがうっ」

 

「何も言わずに待たせてたこと?」

「ちがうっ!」

 

 

「……あぁ! 欠伸見ちゃったことだ」

「それはちがわないけどちがうッ!」

 

 

 忘れてっ、と吐き捨てる渚は早くもちょっとだけボロが出ていた。

 

 乙女的に見過ごせない重大機密事項。

 今すぐ瞬時にさっさと刹那で記憶から抹消してほしい。

 

 大口開けた自分の姿を見られるなんて下手すれば自殺級の代物だ。

 

 ……前世がアレな彼女の言とするなら冗談にもならない寒さがあったが。

 

「っ、もう! 水桶くんのばか! あほっ!」

「あほで良いから理由を教えてもらいたいなー……」

「絶対言わない。ぼけっ、くそぼけっ」

「せめてヒントだけでも……、」

「言わないったら言わないっ」

「あっ、ちょっと待って優希之さんっ」

 

 ぷんすか怒りながら歩いていく渚を肇がゆっくり追っていく。

 

 足の速さでは敵わないと彼女も分かっているからか走ろうとはしない。

 ただこれ以上ない意思表示として「つーん」と余所を向いて目を合わせようとはしなかった。

 

 地味に痛い反撃である。

 

 

「……クッキーいる? 市販品だけど」

「…………私そんなに甘くないから」

 

「お菓子だけに?」

「私そんなに軽くないから」

 

「合格発表のときは軽かったよ?」

「っ! ……そんな、話は、いま、してない……!」

 

「ごめんごめん。……謝るから許して。ほら、あーん」

「往来だからっ! 謝るぐらいなら自重してっ」

 

「えー」

「えーじゃないっ!」

 

 

 珍しく押し負けずに声を荒げる渚だが、やはりというかなんというかその顔は赤い。

 

 結局のところどう取り繕ったって根底のあるのは誤魔化せないのだ。

 

 たしかに腹は立つし。

 イライラするし、モヤモヤするし。

 

 めちゃくちゃ思うところがあって、良い部分ばっかりでもないけれど。

 

 ……なんだかんだといって、そういうところも含めて惚れてしまった時点で終わっている。

 

 色んな意味で負けなのだ、彼女は。

 

「――――っ、もう……!」

「ふふっ、ごめん。だから待ってってば」

 

(絶対待ってやらない……!)

 

 せめてもの抵抗としてそこだけは固く決意しながら渚は歩を進める。

 

 なにはともあれ関係性でいえば変わりなく。

 胸躍るタイミングはあったとしても、それで決定的とまではいかなかった。

 

 得てして意思疎通とは難しいもの。

 

 声にしろ文字にしろ、言葉でのコミュニケーションにだって限界はある。

 人間関係なんて複雑に絡まり合う綾模様そのものだ。

 

 完璧に分かり合うなんて不可能に近い。

 

 どっかの天才(ぶちょう)どもは別として。

 

 

(…………うーん)

 

 

 そんな渚を見つつ、肇はちいさく頬をかいた。

 いまだご機嫌斜めな理由が分からずに、胸中でひっそりとため息をつく。

(……やっぱり伝わってないのかな……いやでも……結構分かりやすい、とは思ったんだけど……)

 春の陽気に照らされてまた新しい一日が始まる。

 学園生活はスタートしてまだ一か月足らず。

 

 道程は遠く、足を向けたばかりだ。

 

(……深く考えたら余計な傷を生む気がする。まさかそれで不機嫌だったら、いや立ち直れない……)

 

 

 

(……でも、そうだとしても、これから分かるコトかな。……うん、だってもう俺たちは――)







一部表現を修正(2022/12/3 1:12)

まあ全体の見える範囲では誤差レベルです。


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41/好きだからというコト

 

 

 

 

 その日の昼休みは、久しぶりに馨がやって来た。

 

 いつも通りの落ち着いた表情のまま机の間を抜けて、肇の前で立ち止まる。

 

「――ん、どうしたの。潮槻くん」

「…………、」

 

 なにかを言い淀むような沈黙。

 

 クラスの空気は少しだけざわついている。

 彼が入ってきたからではなく、昼休み特有の騒がしさ故だ。

 

 部活の優等生や有名どころの子供が集まる推薦組の三組や、

 学力に自信を持って挑んだものの上側になれなかった二組とはまた違った、一組(かれら)特有の余裕に満ちた空気である。

 

 ちなみに商業科の四組は教師陣の噂によると絶賛動物園らしい。

 なぜなのか。

 

「……お昼」

「うん」

「…………一緒に、どうだい」

「いいよ」

 

 かたん、と事も無げに肇が席を立つ。

 

 普段なら空気など然程気にしない……というかあまり気付きもしない……彼だが、今回に限っては気付いた上で意図的にスルーした。

 

「…………いいの、かい……?」

「もちろん。最近ご無沙汰だったしね?」

「っ…………」

「――そういうワケで優希之さん。今日は潮槻くんと食べるからっ」

「ぇ、あ、う、うん……」

 

 詰まりながらもコクコクと頷く渚。

 

 それにひらひらと手を振りながら、馨の背中を押して教室を出る。

 

 ……クラスの全員は承知の上だし。

 なんなら肇自身もまあまあそれもそのはずといったところだが。

 

 誘いに来た男子よりずっと心情の強い表情を向けているのに、はたして気付いていないのは当人だけだった。

 

 偏に慣れすぎてしまったからだろう。

 特別(スペシャル)もずっと続いていればいつしか普通(ノーマル)に成り下がるのだ。

 

「さ、行こっか。美術準備室だよね?」

「…………ああ」

 

 短く応える馨に「よし」と笑って肇が歩き出す。

 これまでの微妙な空気なんて一片もなかったような見事な態度。

 

 気遣っているとも取れる対応は、ある種の人間にとっては非常にありがたい反面、ある種の人間にとっては苦い毒にもなる。

 

 肇自身の性質だって同じようなものだ。

 

 良くも悪くも嘘が少なすぎる彼は緩く親しみやすい。

 けれどもその分、悪感情をそうであると認知した賢く聡い人間からすればあまりよろしくない。

 

 不気味とか、眩しすぎるとか。

 そういった否定的なものが先走ってしまう。

 

 それは特別推薦組(マネー・イズ・パワー)の――若くして注目された馨としても例外ではなかった。

 

「…………君は」

「うん?」

「……いや、なんでもない。落ち着いてから話そう」

「そうだね。それがいいよ」

 

 くすくすと笑みをこぼす肇。

 

 そこに裏の真意を読み取ろうなんて思考は無駄だろう。

 繰り返すように彼は良くも悪くも正直である。

 

 持ち前の天然さと頭の回転の悪さが致命的なエラーを吐くコトこそあれど、口に出す言葉は腹の探り合いなど微塵もない素直なものだ。

 

 ……素直すぎるのもどうか、と最近約一名の頭を悩ませていたりもするが。

 

 それはそれ。

 被害者は推定ひとりだけなので、残念だが一生涯解決するコトはない。

 

 たぶん、きっと、おそらく。

 

 

 

 

 

「――へっくちっ!」

 

 一方、そんなコトがあってかどうかくしゃみを洩らす渚だった。

 

「……おぉ、どうした優希之。風邪か?」

「…………別に。熱とかないし」

「水桶くんにふられたからってオレに八つ当たりすんなよ」

「ふられてないし!? むしろ――……、……むしろぉ……ッ」

「むしろなんだよ。告られたのか?」

 

「――――知らないッ!!」

「稀に見るブチギレ」

 

 今度水桶(あっち)に訊いてみるかー、なんて笑いながら海座貴某が教室を出ていく。

 

 軽音楽部に所属している彼は昼間も部室にいってギターを弄っているらしい。

 最近の悩み……というか半ば口癖になっているのは「ボーカルがいねえ」という。

 

 ちなみにその問題を解決する糸口を渚は知っているのだが言う気はなかった。

 

 彼にとっては可哀想だが、残念なコトにもうそこまで首を突っ込めるような心持ちでもないのだと。

 

(……歌上手いのって、()の特技ではないしね……)

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

「――――ごめん」

 

 準備室の席につくなり、馨はそう言って頭を下げた。

 

「別にいいよ。気にしてないし」

「…………それもあるけど」

「?」

「……僕は君のコトを誤解していたから」

 

 ああ、と弁当箱をあけながらどこか得心いったように応える肇。

 

 それに馨はわずかばかり目を見開いて顔をあげる。

 

 一方にとっては周知の事実だった、

 もう一方にとってはまさかという新情報。

 

 その元凶は律儀に「いただきます」と手を合わせて早速昼食へ箸をつけようとしていた。

 

「……まさか分かっていたのかい?」

「ううん。ただ、今まで描いたものから逆算するとなんとなく」

「……じゃあやっぱり、アレが水桶くんの本気っていうコトか……」

「まあ、本気といえば本気だね。間違いなく」

 

 なんとも気持ちの良い絵が描けた、と豪語するあたり余程なのだろう。

 

 肇がどういう作品を仕上げるか事前に理解していた馨でさえ、完成品を見た瞬間に心底から目を奪われてしまうほどだった。

 

 ふたりの間にある彼我の力量差など関係なく。

 その才能に対する妬み嫉みの類いも介在しない。

 

 ただひたすらに見惚れるような、正真正銘の輝かしい鮮やかさ。

 

「……今まで君は、本格的に絵を描く立場になかっただろう」

「そうだね。部活もやってないし。家では基本勉強だし」

「だから美術部で活動するようになればもっと上達すると思ったんだ。……毎日描くようになれば自然と腕もあがるって」

「なるほどたしかに。継続は力なりって言うしね」

 

 が、実際それではどうにもならないコトを知っていたりもする肇である。

 

 ソースは過去(ぜんせ)

 

 余命宣告を受けてから一日として欠かさず筆を握り続けていたが、結果はこのとおり。

 雀の涙ほどにもならない微妙なモノで一度生涯を終えてしまったワケだ。

 

 そこら辺は能力的に仕方ないのかな、と納得もしていたが。

 

「でも違った。君の言う通りなら、描きたくなって出来たのがアレなんだろう」

「うん」

「だったら……部活なんて、積み重ねなんて要らないハズだ。……分かるんだ、昔から、色々な作品(もの)を見てきたから」

「……そっか」

 

 すなわちそれは、隠されていた彼の真実を解き明かした奇跡かどうか。

 

「――君の技術はもう完成されてる。あまりにも伸び代がなさすぎる。あのやり方は……、……あの動きは、長年の経験に裏打ちされたものじゃないか」

「……凄いんだね、潮槻くん。そこまで分かるなんて」

「君に言われたところで慰めにもならない……」

 

 暗に、凄いのはそっちのほうだと。

 嫌味じみたこぼし方で馨は吐き捨てた。

 

 でもやっぱり、それにとんでもないと思う肇である。

 

 なにしろ彼の言に間違いはひとつもない。

 完成されて伸び代がないコトも、長年の経験があるコトも残らず真実。

 

 彼の絵に関する技量は前世の終わりで――ともすれば筆を握った瞬間から――後付けのしようがないぐらいに出来上がっている。

 

 代わりと言ってはなんだが、身体は弱かったし、長くは生きられなかったし。

 幼いときの家庭環境なんてそれはもう酷いものだったけれど。

 

「……そこまで重く捉えなくても。俺がただそういう感じなだけで、普通に考えたら部活に入って時間つくったほうが良いものはできるだろうし」

「でも君を無理やり入部させようとしたのは事実だ。そこは――」

「いいんだってば。結局部活自体には入ってるワケだし。だいたい俺自身がそこまで気にしてるのでもないんだから、それで」

「…………っ」

 

 そう、半幽霊部員という特例措置こそあるが、肇はちゃんと美術部に所属している。

 

 同系統の絵描きである彩による計らいだ。

 

 部長権限で「描きたいときだけ来てヨシ! 解散!」されたのは記憶に新しい。

 もっと言うなら「来たわね! ヨシ! 開始!」となったのが昨日の事件だった。

 

 テレパシーかなんかでもしているような意思疎通だが、彼ら彼女らはわりと本気で相手の心情を汲み取って会話しているだけなので超能力とかではない模様。

 

「…………まったく敵わないな、君には」

「そんなコトないと思うけど」

「お世辞はよしてくれ。……僕は所詮、君たちみたいな才能(ヒト)とは違うんだ」

「…………、」

 

 かちゃん、と肇が一旦箸を置く。

 

 言いたいコトは多分にあった。

 馨の言葉で納得いかない点だってある。

 

 けれどなにより思ったのは、肩を落とした彼に対するコト。

 

 自分たちとは違うというけれど、

 それなら――――

 

「……前にも言ったけど、俺は潮槻くんの筆じゃないんだ」

「…………わかってる」

「それなら落ち込む必要なんてないんじゃない?」

「落ち込むよ。……落ち込むんだ、普通は」

「いやでも…………」

 

 うーん、と腕組みして考え込む。

 

 目に見えて点数のある学力ならともかく、芸術の比較というのは得てして難しい。

 

 正解はあってもそれはあくまで一例。

 数ある答えのひとつではあるけれど、突き詰めれば基準も同然だ。

 

 式を求めれば必ず決まった答えの出る数学なんかとはまた違う。

 

 正しいコトは正しいけれど、正しいものが良いものとは限らない。

 ちょっとした横道からより優れたものが出てくる場合だってあるだろう。

 

 だからこそ面白いのだが、誰にとってもそれが喜べる世界(システム)かというとまた別の話。

 

「……なんて言ったら良いか分からないけど。俺に潮槻くんの絵は描けないんだ」

「そりゃあ、そうでしょ……」

「だからそれで良いと思うんだよ。俺は俺で、潮槻くんは潮槻くんだ」

「けれど僕は君みたいになりたかった。……君みたいな才能が、欲しかったんだ」

「……俺の才能なんてたかが知れてると思うけど」

「そんなコトはないって何度も言ってる。……いい加減、学習しなよ」

 

 語気が強くなっているのも馨の心情を思えば仕方のないコトだ。

 

 性格も毒なら素質だって同じく。

 なんなら肇の存在そのものが彼にとっては毒だった。

 

 いくら努力を重ねたって届かない。

 その秘訣を知ったところで理解できない。

 

 埒天外の才能は文字通り歩くステージからして異なっている。

 

 だというのに、相互理解など不可能。

 

「……潮槻くんはどうして絵を描こうと思ったの?」

「別に。大した理由じゃない。……色々と見ているうちに、憧れたから」

「そっか。俺は……昔、姉さんに褒められたのが切欠だったかなあ」

「……君、姉弟(きょうだい)がいたんだ」

「いるよ。妹がひとり」

「? でもいま、姉って――」

()()()()()()()。姉さんは、ね」

 

 

 

「…………それは、ごめん」

「ううん。なんでもないから」

 

 ――そう、姉はもう、居ない。

 

 この世に生きているのは短命で病弱だった(あやと)ではない。

 至って普通の身体でこの歳まで生きてきた(はじめ)なワケだ。

 

 だからもういない。

 

 それが事実。

 なにがどう覆ってもそれこそが真実。

 

 その意味を彼はきっちりキッカリ理解している。

 

 悪い方向での捉え方じゃない。

 なにせ彼にとっては一度、満ち足りて終わったもの。

 

 それをどうして今更ながら、未練がましく想うことがあろうかと。

 

「俺の絵を見て、上手いって言ってくれたんだ。そのときの顔はいまでも思い出せる。きらきらしてて、輝いてて、眩しいぐらい綺麗な笑顔だった。すごい素敵な、明るい表情」

 

 

 〝えっ、これ彩斗が描いたの!? 凄い凄い! 上手だね! 将来は画家さんかなー!〟

 

 

 きっと彼女は知らないだろう。

 

 そんな何気ない一言が少年の蝋燭に火を灯したのだと。

 それだけでわずか十九年の歳月をこれ以上ないほどに押し上げたのだと。

 

 ……だから。

 

 いつだってどこだって、その部分だけは変わらない。

 故に、彼は〝きっちりキッカリ〟理解している。

 

「だからなんだろうね。俺も……たぶん部長も。気まぐれで面倒くさいんだ」

 

 本人が訊いていたら「一緒にするな(私よりあんたが酷い)」と言われるだろうが。

 

「けど潮槻くんは違うよね。たぶん、頑張った分だけ身に付く人だ」

「……そこまで知らないだろう、水桶くんは。僕のことを」

「でも、分かるよ。これでも画家の端くれだからね、絵を見れば十分」

「………………、」

 

 これまでの経歴を考えると本当に端くれな肇である。

 

 なにより突出した才能は溢れんばかりの天性の素質だ。

 描くほうはもちろん、視るほうでも他者とは一線を画すセンスがあった。

 

 ……じゃあなぜ己の画力に自信を持てないかといえば、それはまあ事実として一枚も売れなかったのが意外と響いていて。

 

 お陰で魅力がないのだと完全に信じ切っているあたり重症でしかない。

 

「俺は正直ちょっと羨ましいよ、潮槻くん」

「……なんで」

「だって描いた分だけ上手くなるんだよ。それって――」

 

 そうして肇はなんでもない、

 ありふれた疑問をぶつけるみたいに。

 

 

「――凄い楽しそうなものだけど」

 

 

 決して彼が絵画(ソレ)で味わうコトのなかったワケを呟いた。

 

「……そもそも、潮槻くんが美術部入ってる時点で俺はアレだと思ったんだけど」

「アレって……なにが」

「俺の絵をどうこうしたいならわざわざ部活しなくても良いのにってコト。いや、言葉にするとなんだけどね。結局潮槻くんは描くの、好きじゃないの?」

「それは――――――」

 

 ――輝かしい作品(モノ)に憧れた。

 

 眩しい一欠片に一等星(ひかり)を見た。

 素敵な状態(けしき)にただ惚れ込んだ。

 

 だからそんな風に魅力的な何かを。

 価値のある、決して埋もれない何かをつくりだせるようになりたかった。

 

 絵の道を選んだのはそこそこ才能があったからだ。

 毎日練習を欠かさない程度には意欲が湧いたからだ。

 

「――――――……、」

 

 でも、ああ。

 その願望がすべてのもとになっているのなら。

 

 それならどうして。

 

 己の実力に天井が見えてきて。

 届かないと分かってしまって。

 

 そんな現実に押し潰されてなお、筆を折ろうとしなかったのだろう――?

 

「潮槻くんは理由みたいに話すけど、それは目標なんじゃない? 理由はもっとシンプルだと思う。じゃなきゃ誰かの絵を見た時点で描く気なんて失せちゃうよ」

 

 それこそ部長の絵を見た瞬間にでも心は折れたハズだ。

 

 彼に理解できない感覚派(べつじげん)天才肌(ばかども)は常識の外側になる。

 馨ほどの審美眼を持った人間がその事実を気付けないとは思えない。

 

 

「好きなんでしょ。絵、描くの。それが全部じゃない?」

 

「――――――」

 

 

 笑いながら肇は言った。

 

 馨は真正面から相対して顔をあげている。

 

「きっと一番上等な燃料だよ。好きこそものの、って言うしね」

「…………そこまで言ったなら、最後まで言いなよ……」

「ふふっ、そうだね。上手なれ、だ」

「…………ああ、そうだよ」

 

 それはそうだ、と。

 

 少年が薄く笑みを浮かべる。

 

 どうにも肝心なコトを見落としていたらしい。

 考えれば簡単に分かりそうなものだというのに。

 

 それほどまで拗れていたのは……どう考えても、その問題を解決してくれた目の前の人物のせいだ。

 

 マッチポンプにも程がある。

 

「……そうか、そうだった」

 

 心が途切れなかった理由なんて、ひとつしかない。

 

 

 

「――――僕は、絵を描くのが好きだ」

 

 

 

 そういって笑った表情に、彼の中で重なる影がちらりと覗く。

 

 記憶の片隅に押しやっていた思い出の残滓。

 すでに崩れてボロボロな型はきっとこの通りだ。

 

 笑わない芸術少年。

 

 その笑顔を見たのはさて、どんなタイミングだったか――

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 ――そんなワケで食事を再開しながら、肇はぽつりと話題を振った。

 

「実際、やる気って本当大事だと思う」

「? ……そういう君は好きじゃないの、描くの」

「嫌いじゃないよ。でも一番じゃないかな。俺の一番の燃料は――」

 

 ……分かりきっているコトだけど。

 

 本当、思い返してみればいつだって変わらぬただひとつ。

 いくら性能の良いパソコンがあっても電源がなければ使い物にならないみたいに。

 

 彼にとって彼女は、もはやなくてはならないすべての根源なのだ。

 

 ――まあ、それだけが()()というワケでもないけれど。

 

「だからこそ完全スルーはちょっと、うん。ガクッときたけども」

「……?」

「あ、や。なんでもない。……うん、俺の一番の燃料は、そうだね……」

 

 くすりと、彼は笑って――

 

「――きっと、優希之さん(だいすきなひと)がいることだ」

 

 主に、そういう意味で。

 



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42/ハマりすぎるのもどうか

 

 

 

 

 その日、肇が早めに美術室へ顔を出すと珍しい客人の姿があった。

 

 一目見た印象は酷く厳かな……どこか時代錯誤感さえ覚える生真面目さ。

 髪は染めもなにもしてない黒髪で、ピンと張った背筋がなんとも綺麗。

 全体的に整った風貌で立っている姿にも総じて隙がない。

 

 学校指定の制服をピシッと着こなした男子生徒。

 

 彼の左腕には特徴的な色の腕章がつけられている。

 書かれている文字はふたつだけ。

 

「……生徒会長?」

 

 そう呼ぶと、件の人物はくるりと反転して肇のほうを見た。

 

「ん、あぁ。君が水桶肇だな」

「え、あ、はい。そうです」

「俺のコトは……知られていたようでなによりだ」

「そりゃあ、入学式とかありましたし」

「そういう行事ごとを覚えているのが良いんだろう」

 

 フッと微かに笑う生徒会長。

 

 清く正しくなんて言葉が似合う彼は態度も表情も固い。

 ともすれば初期の渚以上の硬度がありそうなものだが、だからこそなのか綻んだ顔は見ていて印象に残る。

 

 だから同時に、肇が胸中で「あっ」と声を上げたのも止むなしだ。

 そういえばたしかにそうだった、みたいな感じで。

 

「……部長に用事ですか?」

「それもあるが、もうひとつだな」

「?」

「君の絵を見に来た。一体どんなものかと思ってな」

 

 ――なるほど、と頷く一年生。

 

 たったそれだけでコトのからくりを読んでしまったらしい。

 

 尤も、これに限っては事前知識による後押しもあってのもの。

 説明されるまでもなく名前は知っているし、素性だってばっちりである。

 

 と、

 

「お、早いわね肇。あんた今日も――――げっ」

「……なんだその反応は、おい」

「いやいや、だって……なんでここに居るワケよ……」

「俺がここに居たら悪いか。同じ学園の生徒だろうが、まったく」

「生徒会でしょ、部員じゃないじゃない」

 

 はあ、とわざとらしくため息をつきながら、彩がいつもの定位置へ鞄を投げる。

 

 その表情は嫌っているというよりも取り繕わない様相だ。

 雑な悪感情はとくに距離が近い者特有の気安さだろう。

 

 肇としてはこういう関係性(カタチ)もあるのか、という大まかなノリ。

 

 彼自身、他人(ひと)様の事情にちょっと学ぶところもあるらしい。

 

「いちおう訊いておくが、今日は何の日か覚えているな」

「……え、なにかあったっけ」

「月に一度の部長会議だ! ……昨日も寝る前、あれだけ散々言っただろう」

「あー、そんなこと言ってた……っけ? あはは、ごめん覚えてないわー。てかあんた、〝姉弟(きょうだい)〟に向かっておまえはないでしょ。おまえは」

「そうやって忘れて何度も欠席しなければお姉様でも姉さんでもなんでも呼んでやる」

 

「可愛くない弟だこと。堅物で勉強馬鹿のくせに」

「おまえも大概絵描き馬鹿だろうが」

 

 腕を組みながらギリギリとガラスを引き裂くような視線で彩を睨む会長。

 それはやっぱり肇の記憶が正しかったコトを証明している。

 

 聿咲陽向(ひなた)

 

 星辰奏学園二年二組所属の十六歳。

 現生徒会長にして画家「聿咲彩」の実の弟。

 

 姉とは違って本人に類い希な画力はないものの、極めて優秀な成績と真面目な態度で生徒の信頼を掴んだ優等生――というのが表の顔だ。

 

 そして付け加えるなら、どこかの別世界における乙女ゲーム――「銀に輝く渚の恋歌」のメイン攻略対象三人のうち最後のひとりでもある。

 

「そもそも聿咲の人間なら()()()()を一目見ておけと行ってきたのは姉貴だ」

「え、それで律儀に見に来たワケ? うわー……クソ真面目ぇ……ひくわー」

 

「――――水桶。うちの姉がすまない。おそらく、きっと、絶対、酷く迷惑をかけているだろう。代わりに謝るからどうか許してやってほしい」

「あ、いえ。大丈夫ですので……」

 

「迷惑なんてかけてないわよ。あんたじゃあるまいし」

 

「水桶。殴ってもらって良いからな。あんなのは」

「ほんとうに大丈夫ですから……」

 

 ビキビキと引き攣った笑みに浮かび上がる青筋の数々に肇は震えた。

 

 あれ、おかしいな、世の姉弟ってこんなものだっけ――――と。

 

 無論言うまでもない。

 

 おかしいのは洩れなくいつぞやの翅崎姉弟(はるかとあやと)だ。

 彼ら彼女らの接し方はどこからどう見ても世間一般でいう姉弟(ソレ)と違う。

 

 血の繋がった家族だからダダ甘に甘やかしておーけー! とはいかないだろう、普通。

 

 けれども不幸なコトに姉も父親も彼の境遇を考えてそれはもうデロンデロンに甘く接してしまったのだから後の祭りだった。

 

「とにかく会議には出てくれ。いいな」

「学園じゃ先輩なのに敬語も使ってくれないのね、天下の生徒会長サマが」

「真面目にやってくれればいくらでも使うが? 試しに今日は遅刻もせず出席してくれればいい。それともそんなコトすら姉貴には難しいか」

「まぁ気が向いたら行ってやるわよー」

 

「水桶、すまないが頼む。こんな姉だがどうか頼む。本気で頼むぞ」

「たぶん俺でも無理だと思いますけど」

 

 これは肇の素直な感想だ。

 

 肉親からの言葉で動かないのなら他人からなんて尚更。

 彼の中できょうだい……とくに姉の発言は強いのである。

 

 東にご飯ができたという姉あれば黙って行き、

 西におやつができたという姉いれば大人しく向かい、

 ――――中略。

 そういうものに、わたしはなりたい。

 

 水桶肇、心の手帳記載――ア()ニモマケズ。

 

「……ああ、そうだ。近々新入生に生徒会の手伝いを頼もうかと思っていたんだが……君は一組の学級委員だったな。良かったらどうだろうか」

「すいません。いまはコッチ……描いてるのが楽しいので」

「……、……そうか。なら仕方ない。もうひとりの……優希之渚にもそれとなく伝えておいてくれ。またこちらから声はかける」

「はい、わかりました」

「ではな。――絵に関しては専門外だが、とても良かったよ。良い作品(モノ)を見せてもらった、ありがとう」

「いえいえ」

 

 ぴしゃり、と強めに扉を閉めて生徒会長は去っていった。

 

 肇に思うところがあって、というワケではなく。

 単純に姉への苛々が発散しなければならないほどに溜まっていたのだろう。

 

「……それで、部長(行きましたけど)どうするんですか(会議出ますよね)?」

行けたら行くかなー(出ない出ない)とか(たぶん)

いいんですか?(会長怒りますよ)

まあ、(別に。)可愛いもんだしね。(あんなん小型犬よ)あいつぐらい(チワワチワワ)

なるほど(チワワかぁ)……」

 

 弟とはいえ乙女ゲームの攻略キャラにそれはどうなのか、と思う肇である。

 

 他のふたりと負けず劣らず顔の良い生徒会長は校内人気も相当なものらしい。

 聞いたところによれば密かにファンクラブまで作られているという。

 

 容姿端麗、成績優秀、文武両道のカチッと決まった真面目な男子。

 

 これだけでもまあ十分なのだから、その魅力は推して知るべしなのだろう。

 

「……というか出なくて大丈夫なんですか」

「だっていつも副部長が適当にやってくれてるし」

「副部長…………、」

 

 ちなみに副部長は先日ぶっ倒れた肇を酸素スプレーで介抱してくれた女子生徒だ。

 

 彩と同じ三年生の先輩にあたるのだが、悲しいことに三年連続同じクラス&同じ部活という経歴ながらも未だに名前を覚えてもらっていない。

 

 本人はそのコトを気にしているのいないのか微妙なネタにしているが、そうやって昇華できているだけ良いほうか。

 

 なお、肇が一発で名前を覚えたときにちょっと感動されてハグっぽいなにかをされたのだが、それはまた別の話。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 ここ最近、渚には悩み事があった。

 

 ひとつはお昼時、肇と馨が仲直りしたせいで昼食の時間を独占されはじめたコト。

 

 これに関しては天然(ポンコツ)だけでなく相手(ヒーロー)にも思うところのある渚である。

 

 いくらなんでも露骨すぎれば気付くというもの。

 初対面から忌避感に満ちた視線を投げつけていたのを彼女は察していた。

 

 それがどういう理由かまでは分からないが……ともかく、あの潮槻とかいう少年は肇を渚から引き剥がそうとしているらしい。

 

 いや、そうに違いない、と彼女自身半ば確信している。

 なんでかは本当知らないけれど。

 

 

 〝それだけでもちょっとアレなのに、水桶くんを取っていくのは違うよね、うん〟

 

 

 別に彼女のモノというワケでもないけれど、それはそれ。

 同時に馨だけのモノでもないワケだ。

 

 機会は平等に、公平に分け与えられるべきである。

 

 いつの間にやら「潮槻くん」「水桶くん」ではなく、

 ちゃっかり「馨」「肇」と呼び合っていたふたりを妬んでのものではない。

 

 決してそうではない。

 

 ――いやたしかにズルいとか卑怯とか男子ってそういうコトあるよねとかどうしてひと月足らずの彼は名前呼びで一年以上の付き合いになる私はいまだに名字なのかとか――

 

 思わないでもなかったが。

 そうでないったらないのだ、たぶん。

 

 ……ちなみにこの件で「やっぱ男に水桶くん寝取られてんのか。優希之、ドンマイ」などとふざけたコトを言ってきた海座貴三葉(どこぞのアホ)は渾身の右ストレートで沈めておいた。

 

 慈悲はない、ヒトをからかってくるなら覚悟してこいというヤツだ。

 

 

 〝まあ、それは良いとして。……いや良くないけども。良くないけどもッ〟

 

 

 思い出すとまた腹が立ちそうなので渚は意識してスルーする。

 

 ……さて、ふたつめは直近になって頼まれた生徒会の仕事だった。

 

 とはいっても新入生につき役職のない生徒会役員見習いみたいなもの。

 本格的な活動は見ているだけで、基本は書類の整理だったりの雑務が多い。

 

 内容(ソレ)自体は別に良い。

 渚としてもそのぐらいの活動なら屁でもないコトだ。

 

 ――だが。

 

 だがしかし。

 

 そこに本来相方として来るはずだった水桶肇(だれかさん)が「あぁ、水桶なら断ったよ。絵を描きたいそうだ」と会長直々に認められて不参加となれば違うだろう。

 

 マジでなにもかも違うだろう。

 

 なんだその理由はぼけてんのかこのくそぼけぇーッ――――と叫ばなかった自分を渚は褒めてやりたい、切に。

 

 

 〝この前の告白まがいのコトもあるしッ!〟

 

 

 ――ここで誰かさんの名誉のために言っておくと、件の「月が綺麗ですね」台詞を受けた美少女はその後別れるまでずっと無言だったという。

 

 話しかけても無反応。

 名前を呼んでも一切無視。

 

 手を握っても肩を叩いても声すら発さず。

 

 あまつさえ翌日に思いきって挨拶すればなぜか不機嫌、という状態なワケだ。

 

 肇が本気ならそれこそ泣いて良いぐらいの脈なしリターンなのだが、これを奇跡的に持ち前の天然(ポンコツ)で上手く繋いでいるのだからどっちもどっちか。

 

 

 〝結局なんなのっ、ぜんぜん態度とか変わんないしっ、名字呼び(プラス)さん付けのままだしっ! もうっ! もうっ!!〟

 

 

 態度が変わらないのはそもそも変わりようがないぐらいなのであって。

 名字呼びだって彼女も同じなのだが、そのあたりは恋する乙女として致し方なし。

 

 恋は盲目というか、猛毒というか、猛烈というか。

 

 なにはともあれ意中の相手を前に冷静さを失うのはしょうがない。

 

 

 〝それも良……くはないけど。良くはないけどもっ、うん! 良くない!〟

 

 

 ――そして最後の三つ目は、彼との放課後デートがなくなったコト

 間違えた。

 

 彼と一緒に帰る時間がパッタリなくなったコトだ。

 

 理由は当然、肇に起きた行動の変化――もとい心境の変化だろう。

 

 先の「水桶肇、放課後美術室爆走事件」以来、創作意欲の再燃した売れない天才画家はもっぱらその熱意を吐き出し中。

 

 連日授業が終われば香ると共に美術室へ向かって、部活でずっと絵を描いている。

 

 所属するだけで幽霊部員、なんて言っていた姿はどこへやら。

 毎日のように渚と帰路を共にしていた肇はいまや本の虫ならぬ筆の虫へと成り果てた。

 

 それ自体は傍から見て大変宜しいコトなのだろうが……、

 

 ――コトなのだろうが、渚としてはちょっと、

 あんまり、少し、微妙に、わずかに、わりと、けっこう、ぶっちゃけ――

 

 面白くない。

 

 なんか嫌だ。

 不満である。

 

 なんなら告白騒動よりも不満()()()()である。

 

 なので、

 

 

「おはよー、優希之さん」

「…………、」

 

 

 このように。

 朝の通学路で肇と出会ったとしても、彼女の機嫌は悪いままだった。

 

「……まだ怒ってるの? 生徒会の誘い断ったこと」

「……別に」

「じゃあ……最近お昼一緒できてないからとか?」

「……それも別に」

「えー……、最近優希之さん冷たくない?」

「水桶くんには言われたくない」

 

 ふんっ、と思いっきりそっぽを向きながら。

 冷たいのは一体どっちだとでも言わんばかりに渚が顔を逸らす。

 

 なんだかんだでアレ以降、ずっとまとまった時間が取れていない。

 

 一緒にいるのがどうこうではなく、ふたりっきりの時間がというコトだ。

 

 別にそれ自体を取らなくてはいけないなんてルールも義務もましてや責任もないのだが、それまであったものが無くなるのはどちらにせよ耐え難いモノ。

 

「……もしかして一緒に帰ってあげられないから?」

「別に。どうせ水桶くんにとっては部活のほうが楽しいんでしょ。会長からの話断るぐらいだもんね」

「もしかしなくてもそうなんだね……」

「べ・つ・に。好きにすれば良いじゃん、水桶くんのコトなんだから」

 

 私との時間より絵を描いてるほうが好きですかそーですか、なんて拗ねながら校門に向かって歩いていく渚。

 

 このまま行くと将来「仕事と私どっちが大事なの!?」という非常に困る(ありきたりな)ヤツをかますだろうが、その場合被害者はまあ変わらないので問題ないだろう。

 ここらで慣れておくという意味も込めて現在の状況は必要かもしれない。

 

 分からないが、おそらく。

 

「ごめんごめん。でもいまはこう、描きたい欲が抑えられなくって」

「……ふーん。この前までやる気ないとか言ってたくせに」

「この前まではこの前まで。いまはいまだから……」

「へぇー、ふーん……言い訳すると格好悪いよ水桶くん」

「うぐっ……な、なんてグサッとくるところを……!」

「つーん」

 

 格好悪いよ、という台詞がエコーをかけながら肇の脳裏に響き渡る。

 色々あって()()()()()()()()彼からしてもその言葉はプチショックだった。

 

 そうそう言われたコトのない――ともすれば前世では一度も聞かなかった――マイナス表現。

 

 新鮮ではあるが、同時に鮮度が良いために切れ味も鋭い。

 

 魚のヒレかなにかだろうか。

 

 

 

「……優希之さん」

「ふーんだ」

「土日、空いてる?」

 

 ぴく、と渚の肩が分かりやすく反応する。

 ついでに淀みなかった足取りがピタリと止まった。

 

「……別に。用事とかは、ないけど」

「この前オープンした隣町の水族館、行かない? チケット二枚取れて」

「……水桶くんが、私で良いなら、いいけど」

「うん、決まりね」

 

 やった、なんて破顔する肇を余所にぐいーっ……と殊更顔を背ける銀髪美少女。

 

 大したコトのない申し出なら一刀両断してやろうとも思っていた彼女だが、残念なコトに断ろうとした瞬間に胸をしめたのはもったいない精神だった。

 この機会をみすみす逃すのか、折角向こうからの話だというのに? と。

 

 ああ、惨めなコトに。

 

 この恋愛脳に支配された頭は結局そういうのに弱すぎるのだろう。

 

「――あ、でもしばらく部活で一緒に帰れないから。そこはごめんね?」

「…………そこ蒸し返さなかったら良かったのにね」

「えっ」

「水桶くんのあーほ」

 

 ツカツカとひときわ高く靴音を鳴らして歩みを再開する。

 

 足取りが速いのは気持ち苛ついているからだ。

 別に彼とのお出かけが楽しみで舞い上がっているとかそういうのではない。

 

 ないったらない。

 

 たぶん。

 

 

 



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43/絶体絶命のアクアリウム

 

 

 

 

 ――そうして来るべき週末の土曜日、約束の日。

 

 自宅付近の駅から電車に乗って三駅分。

 数分間をレールの上で揺らされて、渚は目的地に辿り着いた。

 

 その名を調色駅。

 

 彼女らの住む町に隣接する、そこそこ大きめな地方都市の玄関口だ。

 

 街にコレといって変わった雰囲気はない。

 立地的にもごくごく近いからだろう。

 

 根本的には渚たちの地元同様、特色もなにも薄い近代的な空気が広がっている。

 

 強いてあげるなら星辰奏(あちら)のようにひときわ有名な進学先もないところ。

 

 私立では地名同様の調色高校、公立でいえば彩盛高校などあるが、どちらも規模で言えば星辰奏に遠く及ばない。

 ならば伝統や文化で、となるともうひとつ向こうの筆が丘に軍配が上がる微妙な具合だ。

 

 そんな調色の町であるが、近年は議会の意向か自治会の努力の賜物か、細々としながらも徐々に発展を遂げている。

 

 駅を抜ければ広々としたロータリー。

 歩いて十分もしない範囲には巨大複合商業施設(ショッピングモール)

 

 今回のデートメインスポットである水族館なんかはその最たる例だ。

 

 先月オープンしたばかりの展示施設はチケットが取れないとまではいかないものの、未だに盛況であると聞く。

 

 渚的にはそんなところへ二人で来ることになった時点で及第点だったのだが、おまけに向こうからのお誘いというのもあって満点をあげてやらんコトもない。

 

 誇れ天然(ポンコツ)、といったもよう。

 

(にしてもわざわざ現地の駅で待ち合わせって……)

 

 一体どういう風の吹き回しだろう、なんて首を傾げる渚。

 

 今までならふたりで出掛ける際、待ち合わせ場所は決まって件の別れ道だった。

 肇の家からは少し歩く、渚の家からはとても近い慣れ親しんだ集合地点。

 

 それが今回に限っては「向こうの駅で落ち合わない?」なんて言ってきたものだからそりゃもう彼女はびっくり仰天である。

 

 なんなら目が飛び出るかと思った。

 こう、ト○とジェ○ー的表現で。

 

(……まあ、水桶くんのコトだし……、深く考えても仕方ないか……)

 

 なにせかの悪名高い――優希之渚界隈ではとくに――天然鈍感男子(ポンコツクソボケやろう)

 

 やることなすこと突飛でおかしくたって変ではない。

 むしろそれが普通かもしれない、などと彼女は胸中でハードルを上げておいた。

 

 いざという時に予想外の一撃を喰らわないために。

 

 こう見えて渚だって肇との付き合いは一年以上というものになる。

 やられっぱなしで対策もなしというワケではないのだ。

 

(よしよし、大丈夫。いきなり笑顔ふりまかれても驚かない。手を握られても顔を赤くしない。抱きつかれても天然だから心臓バクバク言わせない。うん)

 

 渚の考案した肇対応マニュアル基礎。

 急なスキンシップにおける〝()()()〟だ。

 

 完璧である。

 

 これで彼女の心を乱すものなどありはしない。

 

 

「…………、」

 

 

 四月も終わりが見えてきた下旬。

 暖かさの増した外の風を浴びながら、渚は駅前広場の端に背中を預けて佇む。

 

 つと腕の時計を見れば時刻は朝の十時過ぎ。

 

 約束の刻限まではあと三十分ほどの猶予があった。

 その間、とくにするコトもないので春空をぼうっと眺めてひたすら待つ。

 

 地方都市とはいえ立派な町の玄関口。

 

 土曜の午前中とはいえ人通りはそこそこだ。

 耳を澄まさずともそこら中に音が溢れている。

 

 大小高低様々な足音。

 お年寄りから子供まで、男女ともに幅広い人たちの話し声。

 

 喧噪は鋭くもなく穏やかでもなく。

 

 それとはなしに騒がしく、空気を伝うような喧しさ。

 

(――そういえば、こういうところで待ったコトとかあんまりないかも……)

 

 思いながら、ふぅ、とちいさく息をこぼす。

 

 賑やかさの絶えない駅前の広場だ。

 

 彼女ほどの綺麗どころがひとり立っていれば何度か声をかけられて良いものを、やはりというか近付く人間はよほど少ない。

 

 そのコトに渚自身だって気付いている気配はない。

 

 ――空気が読めずとも察知できる感覚、というのは得てしてある。

 

 変わらない日常の景色、安心感を覚える風景の中に、ぽつんとひとつ打たれた点は嫌な意味で目立つものだ。

 

 誰もが好きこのんでマイナスの方向に行きたがるワケではないというコト。

 

 一度自分から命を絶った彼女にはその傾向が極めて強い。

 きっとその雰囲気は根本的な問題が解決するまでそのままだろう。

 

「――――」

 

 風の流れ、雲の動きと共に時間は過ぎていく。

 腕の時計は声も出さずに針を刻む。

 

 ただ待っているだけというのはどうも退屈。

 

 けれど、だからといって他になにかする気も起きない。

 一分、一秒――瞬間が引き伸ばされるような錯覚。

 

 だからなのか。

 

 ふと、耳より先に身体がなにかを拾ったのを彼女は自覚した。

 

 

「あ、いたいた」

 

「っ――」

 

 

 聞き慣れた声に心臓が早鐘をうつ。

 否応なしに自然と目は音のほうを向く。

 

 対応マニュアルが一体どうしたというのか。

 そんなものは何の役にも立たない。

 

 いくら構えていてもどんなに意気込んでいても根底に抱えるモノは同じだ。

 

 ……そっと、近寄る足音を聞いて顔を上げる。

 

「や。おはよう、優希之さん」

「――――お、おは、よう……っ」

 

 頬をほころばせながら、肇はひらひらと気安く手を振って挨拶する。

 

 当然というかその姿はいつも見る制服ではなく私服だ。

 

 インナーは白のカットソー、下は黒のスキニーとキャンバスシューズ。

 上には薄手のコートを羽織っている。

 

 総評すると全体的にシンプルな、彼に似合ったコーディネート。

 

 普段から静かそうな空気を醸し出す肇のコトだ。

 学園指定の制服ですらその落ち着き払った様子は受け取れるほど。

 

 ――が、これはもはや音響閃光弾(フラッシュバン)なみの衝撃があった。

 

 目どころじゃない。

 

 瞼を貫通して脳が焼かれる。

 毛細血管が、神経が融け落ちている。

 

 ――――なんだ、これは。

 

 

 

 〝めっ、めちゃくちゃ格好良い――――ッ!!〟

 

 

 

 瞬間、渚の膝はぽきっと折れた。

 両手で顔を覆いながら声なき声を押し殺して天を仰ぐ。

 

 ――神よ。

 

 嗚呼、神よ。

 

 此処に。

 いま此処に、原罪を背負うべき男がいます。

 

 どうにかしてください――

 

「えっ、優希之さん急にどうしたの……」

「……っ、そ、その服は……水桶くんが自分で……?」

「そうだけど……適当に良さげな感じにしてみた。どう、似合ってる?」

「に、似合ってます……!」

「ありがとうっ。……でもなんで敬語?」

「気にしないで……っ!」

 

 言いながら、肇の手を借りつつ立ち上がる渚。

 

 出会い頭の一撃は先制攻撃につき彼女のライフを九割削りとったらしい。

 まだなにもしていないのに挨拶だけで瀕死である。

 

 どうしようもないほど優希之渚は()()()生物だった。

 

「――――うん」

「……?」

「優希之さんも似合ってるよ。今日は一段と綺麗だ」

 

 

 〝――――ミ゚ッ〟

 

 

 ぼんッ、という衝撃は顔に熱が上った音か。

 それとも己の心臓が破裂した音か。

 

 渚には分からない。

 

 彼女は耳まで真っ赤になりながら「――はぅっ、はぁっ、はぇっ、ひぅ――」と不規則な呼吸を繰り返している。

 

 なんなら口もうまく閉じられず涎を垂らしそうになりながら。

 うるうるのびちゃびちゃの涙目で。

 

 悲しき恋愛脳モンスターだ。

 

「あ、照れてる」

「――てっ、て、て! てててててれっ、てれ! 照れて()()()っ!?」

「ふふっ、今度は噛んでる」

「う、うるさいからっ! ほんとっ、か、からかうのもいい加減に……!」

「ごめんごめん。でも綺麗なのは本当だよ」

 

 ずどぉんッ――と、精神を叩くボディブロー。

 またはストレートに放たれたハートブレイクショット。

 

 瀕死の重傷である女子にそんなモノを叩きこめばどうなるか。

 

 言うまでもない。

 

 そんなモン許容範囲外(キャパオーバー)だ。

 渚の時間はこれまた見事に停止する。

 

「――――――――」

「あれ、優希之さん? おーい」

「…………水桶、くん」

「あ、うん。なに?」

「今日は、もう、喋らないで――――」

「どうして」

 

 いきなりのリターンである。

 要約すれば歯に衣着せぬシンプル黙れという言葉は深すぎず浅すぎず肇に突き刺さる。

 

 具体的にいうとしょぼん、という感じで彼は悄気ていた。

 そんな反応自体は別に珍しいコトでもなんでもない。

 

 ……なんでもないのだが。

 

 不思議なコトに渚は一瞬、その姿に垂れる耳と尻尾を見た気がして眩暈がした。

 

 いや、なんというか。

 

 あまりにもコレはやられすぎではなかろうか、と。

 

「ごめん視界にも入らないで……ッ」

「優希之さん優希之さん。それじゃあふたりで出掛けてる意味がないよ」

「水桶くんは私にとって毒なんだよ……!」

「いままで散々一緒にいたのに!」

 

 むしろ散々一緒にいたからこそ毒になったというか。

 薬も過ぎたるは毒というか。

 

 なんにせよ、現状渚にとっては刺激が強すぎるコトこの上なかった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 水族館は駅から十五分ほど歩いた市街地と郊外の境目あたりにあった。

 

 広い敷地面積を確保する上での問題だろう。

 

 立地の関係から周囲に建物は少ない。

 ちょっと目を凝らせばぽつぽつとビルやマンションは見えるが、街中よりずっと自然の色が残っている。

 

 客入りはそこそこ。

 当日券の列は長蛇というほどでもなく、並んでも数分で順番が来るだろう。

 

 いっぽう隣の列は随分と空いている。

 予約チケットを持っている人間はそこまでいなかったらしい。

 

「じゃあ行こっか」

「う、うん……」

 

 人の少ない列をすいすいと進んでいく。

 わざわざ並んで待つ必要なんて微塵もない。

 

 あっさりと受付まで辿り着いた肇は長財布から二枚分、デフォルメされたイルカの描かれた入場券(チケット)を差し出した。

 

「確認いたします。――こちらペアチケットにつきましてカップル特典の対象になりますが、よろしいでしょうか?」

 

 

 〝!?〟

 

 

 肩を跳ねさせて思わず驚く渚。

 と、

 

「大丈夫です。ねっ?」

 

 

 〝――!?!?〟

 

 

 ぎゅっと手を握って見える範囲まで持ち上げる肇。

 

 刹那で彼女の思考回路は焼き切れた。

 

 意味が分からないがどうやら自分たちはカップルだったらしい、と妙に冷静な己が胸中で呟いている。

 

 いや本当に意味が分からない。

 

 よもや彼と付き合っている世界線にでも転移したのだろうか。

 そうでもないと辻褄が合わないのだが。

 

「はい、ありがとうございます。ではごゆっくりどうぞ」

 

 受付の係員――人が良さそうなお姉さん――に通されて、ふたりはスタスタとロビーに進んでいく。

 

 手を握り合ったまま。

 さも当然のごとく横並びで。

 

 もちろん渚は疑問符を乱立しながら。

 

 

 〝わたし(???)かれと(???)かっぷる(????)――〟

 

 

 ぎぎぎ、と油の切れたロボットみたいに首を動かす。

 肇のほうを見上げれば、ちょうど彼も渚へと視線を向けたときだった。

 

 なんというタイミング。

 

 目が合って、不意にくすりと微笑まれる。

 

「ごめんごめん。でもこれでお土産コーナーの買い物、三割引してもらえるんだって」

「――え、あ、そう……なん、だ……」

「そうそう。いや、三割は大きいよ、三割は」

「…………」

 

 たしかに大きい。

 

 しかも聞くところによれば一律というのだから相当だ。

 オープンセールを兼ねた破格の設定みたいなものだろう。

 

 その価値観自体は渚も理解できる。

 

 大体、こういうイベント系のカップル認定なんて名ばかりなもので、姉弟友達従姉妹に先輩後輩とわりかし偽られるもの。

 公然の秘密みたいなもので、そういう体裁でさえあれば真偽はどうだっていい。

 

 なのでそんなに悪いコトをしたとかそういうワケじゃないのだが。

 

 ないのだが、それは世間一般に対してであって渚に悪いかどうかは別問題。

 

 つまり何が言いたいかというと渚的にはとても悪かった。

 精神衛生上にも、心臓にも。

 

 

「まあ、そういうわけで」

 

 〝ッ!?〟

 

 

 きゅっとキツく絡んでいく指。

 人肌の温度が隙間もないほどに伝わる右手。

 

 いま一度驚いて、しゅばっと渚は彼のほうをへ向き直る。

 

水族館(ココ)に居るうちはカップルだからね。――よろしく、()()()っ」

「ぴ!?!?!?」

 

 ぱっかーん、と渚の頭は盛大に弾けた。

 

 あれれ、おかしい。

 なんかおかしい、と胸中の恋愛脳が首を傾げる。

 

 いや少し前からちょっと雰囲気違う? とは思っていたけれど。

 

 こんなのは予想していない。

 

 

(――まって)

 

 

 気のせいとかそういうのじゃない。

 

 

(まって、まって、まって、まって――)

 

 

 間違いなく、明らかに、確かに、コレは。

 

 

(――なんか今日、攻撃力めっちゃ高くない――――!?)

 

「――――♪」

 

 

 にこにこと笑う肇は依然変わらず渚の手を引きながら歩いていく。

 

 その足取りはいつもと変わらず淀みがない。

 どころか気持ち軽くなっているような様子さえ見受けられた。

 

 あまりにも衝撃的なコトの連続、連発、連撃。

 

 彼女はそんな少年にただひたすら困惑するしかない。

 もうそろそろライフが削れるどころか残機が減って謎の土管(ゲームオーバー)から謎の復活を(コンティニュー)しそうだ。

 

 優希之渚神の誕生である。

 

「――――……ね、ねぇ、み、みな、水桶っ、くん……!?」

「……そっちは名前で呼んでくれないの?」

「へぅあぇッ!?」

「あくまでカップル設定だからね。まあ無理にとは言わないけど?」

 

 暗に「俺は出来てるけど渚さんは?」と言われている。

 

 とんでもねえ副音声だった。

 冗談じゃない。

 

 たしかに未だに名字呼びなコトにアレな気分だった渚だが、かといっていきなり名前呼びに切り替えるなど早々できるコトではない。

 

 なに考えてんだてめえこの野郎、と内心で羞恥のあまりキレ散らかす乙女。

 歓喜と憤怒がない交ぜになってもう渚の情緒はぐちゃぐちゃだ。

 

 

 〝――ステイ。落ち着け私。やっぱ今日なんか火力強いな、うん。すき。――っじゃなくて! じゃあなくてだよッ!! しっかりしろ優希之渚(わたし)ぃ!!〟

 

 

 そんな状況で落ち着けるワケがなかった。

 

 熱した油のたまった鍋に水を入れればどうなるか。

 ちょっとでも料理でやらかした経験者なら分かるコトだろう。

 

 ――――とんでもなく爆ぜるのである。

 

「…………っ、……――は、っ……」

「うん」

「っ――――は、……ぇ……っ」

「うんうん」

 

「――――――は、じめ……くんっ!!」

「ん。どうしたの、渚さん」

 

 

 〝あぁああぁあ(まじでやめて)ぁぁああああぁあああ!!!!!!(ほんとすきぃいいぃいぃい――――!!)

 

 

 暴走特急機関車ユキノーマス、ただいまレールを外れて滑落中。

 しばらくは運転見合わせ、むしろ運行停止の大騒ぎだ。

 

 車両が無事かどうかも怪しい。

 いや無事ならそれはそれでまた別の問題が発生しそうだが。

 

「……っ、……な、んか……! 今日、機嫌っ、良くないかな……!?」

 

 顔から火をぼーぼーと吐きながら(※あくまでイメージです)渚が問いかける。

 

 余裕もなにもない質問だったが、そこは変なところで律儀な肇だ。

 変わらず満面の笑み――これまた純度百パーセントの凶悪なスマイル――を浮かべたまま、彼女へさらなる追撃を仕掛けた。

 

 

「それならたぶん、渚さんと一緒にお出かけしてるからだよ」

 

 

 ――――ああ、

 

 もう、

 

 なんていうか、

 

 ダメ(すき)だ。

 

 死ぬ。

 

 

 ――このままでは、十分もしないうちに死んでしまう――!

 

 ◇◆◇

 

 

 ……まあ、要するに。

 

 同じ土俵に立ってしまった以上、渚に勝ち目なんて万に一つもなかったのである。



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44/水の旅路における試練

 

 

 

 

 ロビーは明るい、自然の光で満たされていた。

 

 大きな天窓から降り注ぐ日差しは溢れんばかりに届いている。

 今日みたいな晴れの日はそれだけで気持ちが良いもの。

 

 設計思想としてもそこが肝心なのか、室内の照明はあまり見当たらない。

 せいぜいが壁にぽつぽつと埋め込まれているぐらいだ。

 

「……い、意外と人、いるね……」

 

 ぐるりとロビーを見渡す渚。

 

 その顔が赤いのは言うまでもなくこの短時間で彼に振り回されたからだろう。

 

 熱はまだぜんぜん抜けきっていない。

 むしろ肇が隣に居るせいで徐々に上がってさえいた。

 

 休日に男女ふたりで水族館、というシチュエーションがスリップダメージを生んでいる。

 

 もはや彼女にとってここは火山か八大地獄かといったところ。

 誰かにクーラードリンク(最新作では撤廃済み)でも持って来てほしい。

 

「土曜日だし、まだオープンして日が経ってないからね」

「た、たしかに……で、でもそれなら、近所の……駅前の水族館でも良かったんじゃ、ないかな……?」

 

 あはは、と無理に笑いながら渚は肇のほうを見る。

 別になにか思うところがあってのコトではなく、苦しまぎれに吐き出した言葉が故だ。

 

 白状しよう。

 

 ぶっちゃけ今の渚はこうして冷静に喋っているだけでも相当に精神を削られている。

 そりゃあもうごりごりがりがりと、岩塩を削るがごとく磨り減っている。

 

 なにせ胸の内側は初球からストライクバッターパーリーピーポーバイブスアガって最&高――――みたいなお祭り騒ぎ。

 

 理性はそのあまりにもショッキングな精神(こうけい)に怯え押し入れに引き籠もる始末。

 必死の説得にも応じず、心の押し入れ(うちがわ)カシュッと(ストゼロの)プルタブを起こす音が響いていた。

 

 理性ちゃん、(※二十歳未満の飲酒は法律)酒に溺れる(で禁止されています)――――

 

「まぁ、水族館に行くだけならそうなんだけど」

「だ、だよねー……」

「どうせなら楽しみたいし。新鮮味あったほうが良いじゃない? 俺も渚さんも」

 

「――――ごめんやっぱり呼び方戻さないカナ??」

「じゃあ()()()()()で」

「それはやめてまじでやめてほんとにやめておねがいだからやめて」

 

「そんなに恥ずかしがらなくても。可愛いよ、なーちゃん」

「やめてっ……ほんとに……っ!」

 

 〝私は死ぬ〟

 

 渚の残機はひとつ減った。

 あといくつあるかは彼女自身も分からない。

 

 脳内では土管から出てきた己が「とぅっ!」と元気よく跳ねている。

 

 

「じゃあ、渚?」

 

「――――――――」

 

 

 死んだ。

 

 有無を言わせない着地狩りだった。

 地面に降り立った硬直を狙い撃つような一撃。

 

 わずか五秒足らずの儚い生涯を散らして脳内(エックス)番目の渚は昇天する。

 

 またもや残機はひとつ減った模様。

 この調子だと水族館を出るまでどれだけ死ぬか分かったもんじゃない。

 

 いや、こう、精神的に。

 

「…………さん付けでお願いします……!」

「ん、渚()()ね。ほら、そっちも。カップルだから」

「よ、余計なコト言わないで……! みっ――は、はっ――は……、は……!!」

「…………、」

「はじっ……はじめ、くん……っ」

 

「ぜんぜん慣れないね」

「う、うるさい……っ!」

 

 先ほど復活したばかりの優希之X(プラス)(イチ)号機はすでに大破損傷。

 ゲージとかバーみたいなものがあればミリで残存。

 

 たぶんきっと彼女の頬っぺた同様真っ赤になっているコト請け合いだ。

 

 優希之渚を支える精神エネルギーは肇の前では急激に消耗する。

 精神エネルギーが残り少なくなると彼女の意識は点滅を始める。

 そしてもし、意識が消えてしまったら優希之渚は二度と再び立ち上がる力を失ってしまうのだ。

 

 渚ちゃんがんばれ。

 

「ふふっ……じゃあ、行こうか。渚さん」

「………………、」

 

 自然と差し出された手を取って、彼のあとに着いていく。

 

 やはり機嫌が良い。

 おまけに火力もえらく高い。

 

 こんなのは不公平だ、納得いかない、と少しむくれる渚である。

 

 どんなに胸を高鳴らせようと彼女は彼女で肇のコトを理解している。

 

 現状にしたってどうせいつもの天然ボケ。

 その気もないくせにこちらの心をかき乱すだけの暴力じみたスキンシップだ。

 

 焦り逸って慌てふためく渚とは違い、彼は満面の笑みを浮かべたまま歩いていく。

 握った手を大事そうにぎゅっとしめて、優しく指を絡めながら。

 

(…………なんなの、もう……)

 

 不満のひとつも出てくるというもの。

 余裕がないのは彼女だけで、彼は事も無げにしているのだから当然だ。

 

 ――どうして私だけ。

 

 そんな勝手なコトだって思ってしまう。

 ふたりの間柄はなんでもないものなのに。

 

 恋人でもなければ家族(きょうだい)でもない、いまはただ同じクラスの友人。

 それはともすると、同じ塾に通う勉強仲間――という肩書きより弱く思えて。

 

(………………っ)

 

 つきん、と胸の奥に針がさす。

 

 思わず微かに顔をしかめる。

 

 心の奥、心臓の裏側を突いたのは痛くはないけれど無視できないトゲそのもの。

 触れれば表情が歪む、小さな小さな傷跡だった。

 

 ……その心情に引っ張られるように。

 

 歩みは進む。

 

 光のあたるロビーから薄ぼんやりとした水槽の群れへ。

 手を引かれながら、彼女はともに短い水中の旅路へ踏みだした。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 展示スペースは暗い、静かな雰囲気を漂わせていた。

 

 最低限にとどめられた人工の明かり。

 鮮やかにライトアップされた大小様々な水槽。

 

 騒がしさはあまりない。

 

 見たところ家族連れやカップルが結構いるものの、館内の喧噪は抑えられている。

 

 ここでの主役は水の中。

 それを外から眺める客人は端役にすぎない一部分。

 

 ――こつこつと、ふたりは揃って進んでいく。

 

「新しいだけあって綺麗だね、やっぱり」

「……まあ、たしかに……」

「…………渚さんは水族館嫌い?」

「嫌いじゃ、ないけど……なんで……?」

「唇がとんがってるから」

「………………別にっ」

 

 気にしなくていい、と渚はそっぽを向いた。

 

 いまこの場においてはまったく関係ない事情。

 わざわざ話題にあげるまでもない胸中の問題だ。

 

 折角胸に秘めたそれを掘り起こすなんて真似はいけない。

 

 ぶんぶんと頭をふって彼女は気分を切り替える。

 

 ……そんな風に意識が己の内側へ向いていたからだろう。

 

 幸か不幸か渚はまったく気付かなかった。

 

 それを見た彼が気遣うような視線を向けたコトも、困ったように眉尻を下げたのも。

 てんでさっぱり気付かないまま。

 

「あ、クマノミ」

「……ほんとだね」

「渚さん好きでしょ? こういうの」

「えっ……な、なんで……?」

「違うの?」

「……あ、合ってる……けど……」

「やっぱりね」

 

 くすくすと肇が笑う。

 

 たしかめるような問いかけは確信に近い響きを持っていた。

 予測や推測とはまた違った、決まった解答を望んでいる感じ。

 

 どうしてなのか渚には分からない。

 

 ただ、嬉しそうに微笑む彼の表情は変わらず印象的だ。

 普段から笑顔の絶えない少年ではあるけれど、だからこそ笑った顔はよく馴染む。

 

「渚さんなら多分そうかなって思ってた」

「…………、なにそれ……」

「まあ、思ったのは最近なんだけど」

「ふーん、そう……」

 

「ちなみにクラゲとかは苦手だったり」

「だっ、だからなんで分かるの……!?」

「さあ、なんででしょう?」

 

 口元に手を当てて彼は嬉しげに笑みを深める。

 

 脅威の的中率はさしもの渚もそら恐ろしいものを感じざるを得ない。

 

 少なくとも彼女の記憶では一度も言ったコトはなかった事実だ。

 本来なら知られているはずもない好みの話。

 

 それを一発でビンゴを引いたというのだから運が良いにもすぎる。

 

 ……かといってじゃあ何を疑うのか、と聞かれるとまた困るのだが。

 

 無いとは思うけれど一先ずモーションだけ、ジトッとした目を肇に向けてみる。

 

「……探偵でも雇ったの……?」

「? なにか大きな事件とかあったっけ?」

「あ、それは違うんだ……」

「??」

「……現実の探偵はそういうのじゃないよ、たぶん。みなっ――はじめ、くん」

 

「…………、」

「やめて。なにも言わないで」

 

 返すように猫みたいな目を向けられて視線を逸らす渚。

 私は悪くない、スムーズに移行できている彼のほうがおかしい、と内心で持論を振りかざすがあまり自信はなかった。

 

 大体どうしてさらっと「渚さん」呼びを定着させているのか。

 もともとそう呼ぶ気が前からあったのか。

 

 そのあたりぜんぜん知らない彼女だが、だとするとちょっと、まあ、なんというか、アレコレと考えてしまったりする。

 

 何度も言うが流石に一年ちょっとの付き合い。

 こうして遊びに来るまでの仲だというのに、ずっと名字で呼び合うのもなんだかなあと。

 

「……渚さんは恥ずかしがり屋だよね、意外と」

「い、意外とってなに……?」

「ううん。こっちの問題。大丈夫、ちゃんと分かってるから」

「分かってるってなに……!?」

「渚さんは渚さんだってコト。あと、俺も俺だってコト」

「――な、なにそれ……ほんとう……」

 

 意味が分からない、と渚がぼやく。

 そんな彼女に肇は緩く笑いかけるだけ。

 

 モノにしろヒトにしろ、時間の経過により変化はあって然るべき。

 自然の中でも劣化に老化、進化に退化と忙しない有り様だ。

 

 人間社会においてもそれは同じコト。

 

 様々な事象、感情の荒波に揉まれるココロは石みたいなもの。

 

 それはときに削れ、

 ときにひび割れ、

 

 ときに尖り、

 ときに丸みを帯びながら、

 

 ああでもないこうでもないと形を変えて転がっていく。

 

 

「俺にとって君が素敵な女の子だってことだよ」

 

「…………………………ぇ?」

 

「渚さんは綺麗だねっていう意味です」

 

 

 にこりと微笑む天然純朴青少年。

 カチッと固まる銀色の神の少女。

 

 カウントダウンは程なくして。

 

 ――ぼんッ、と赤くなった渚の顔がこれでもかと雄弁に物語っていた。

 

 時間差で爆発するタイプの榴弾である。

 

 渚の残機はもう十二個ほど一気に消し飛んだ。

 たとえ彼女が狂戦士(バーサーカー)であっても耐えられてはいまい。

 

「――――ッ!? へっ!? あぅ!? あ、えっ、っ?!」

「そこまで驚かなくても。何度も言ってると思うし」

「なっ、だ、でっ――い、いきなり! 言う……から……っ!」

「じゃあいまから言うけど」

「っ、ぇ、まっ、あ、ちょっ――――……、……ど、どうぞ」

 

 なんとか心臓を落ち着かせて肇と向き合う。

 

 すでに感情はもう保ちそうにないが、かといって断るのも惜しく思えてだ。

 

 なんだかんだで渚も普通に人間の女子。

 褒めてもらえるなら折角だし褒めてもらいたい。

 

 相手が彼であるなら、余計に。

 

 

 

()()()()()ほど可愛くて綺麗な女子はなかなか居ないよ」

 

「     」

 

 

 〝ぴぃっ――――――――〟

 

 

 断末魔は心音の停止を告げるかのように。

 

 雛鳥の鳴き声じみた心の慟哭をあげながら、渚の意識は蒸発した。

 火照った顔からあがる湯気と共に天へとのぼっていく。

 

 なんてコトはない。

 

 今日この日が優希之渚の命日だ。

 今し方そうと決まった。

 

 いいや、もっと言うなら彼との休日に出掛けることになった瞬間から――

 

「あ、おーい? 渚さんしっかりー」

「……あ、お母さん……まだいたんだ……しぶといね……」

「どういう状況。――ストップストップ。それなんか変な幻覚見えてるよ。戻ってきて」

 

「――――はっ」

「……大丈夫? 渚さん」

「私は……世界で一番醜い女の顔を見たような……」

「ほんとに大丈夫それ。俺は切に心配になるよ」

 

 具体的にいうと過去(ぜんせ)家族(おとうと)虐待(つぶ)した血が繋がっただけの塵屑(ははおや)とか。

 

「ご、ごめん。意識が飛んでた……」

「……え、急に?」

「……水桶くんのせいだよ」

()()()()()

 

「――肇くんのせいだからっ!」

「よしっ」

 

 うんうん、なんてどこか満足げにうなずく肇。

 

 渚はそれに涙目で睨むコトしかできない。

 乙女としてのせめての抵抗だ。

 

 擬音にすれば「うぅう~」とか「がるるぅ~」みたいな感じ。

 

 唸り声をあげる渚のワンちゃんは果たして猛犬となれるのか否か。

 期待はちょっと薄めである。

 

「じゃあ、あっちの方にも行ってみよう。ピラルクとか、俺、見てみたい」

「…………あぁ、あの大きいの……」

「迫力あってよくない? 子供の頃に見てすっごい驚いた記憶がある」

「まあ、あれはね……」

 

 そう言えば彩斗(おとうと)も驚いていたっけ、なんて思い返しながら渚は肇に引っ張られて歩く。

 

 ふたりの手は離れない。

 絡み合った指はそのままぎゅっと握られるだけ。

 

 彼女は無意識のうちにそれを受け入れた。

 

 態度にした猛攻は捌けないのに。

 いいや、捌けないからこそ、それだけは出来たのか。

 

 ……彼は意識してその温もりを連れていく。

 

 いつかどこかであった昔話。

 

 記憶の片隅、思い出の残滓にある景色はきっと真逆。

 

 彼の心はいつだって変わりない。

 

 もらいっぱなしの前世(コト)があるから、今世(いま)は少しでも返したい。

 その気持ちは〝渚〟を相手にしても同じものだ。

 

 今までずっと、彼女にはもらってきたものがいっぱいある。

 

 だから、そう。

 

 それをちゃんと返せることが、肇にとっては嬉しいコトなのだ。

 なにはどうあれ、姿形はどうあれ。

 

 魂の奥に秘められた正体がなんであれ。

 

 ――だって。

 

 これはシンプルな心の在処。

 少年にとって悩むまでもない、結果よりも過程で確信したコト。

 

 ああ、間違いなく。

 勘違いでもなく。

 

 ――彼は。

 

 肇は、

 

 水桶肇は――

 

 ――優希之渚(かのじょ)に、惚れているのだから――

 

 



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45/最高で最悪なすれ違い

 

 

 

 

 水の隙間を巡る旅路は続いていく。

 ふたりは手を繋いだまま歩いていく。

 

 徒歩で渡る海も川も窓ガラスを隔ててなお鮮明だ。

 

 それはある種のつまらなさであって、

 同時にある種の心地よさでもあった。

 

 落ち着いた空気。

 雑踏も紛れる暗い様相。

 手入れの行き届いた人工の水底。

 

 ここに大声ではしゃぐような楽しさはない。

 ただ気分を上げるだけの陽気な雰囲気は薄い。

 

 けれどもたしかに、抑え気味な静けさは彼と彼女に合っていた。

 

 おそらくは()()自習室の空気に似ているからだろう。

 

 大事なものはなくなってから気付くというのが一般的。

 

 だとするならそれはなるほど。

 間違いなく大切なひとときであったのだと。

 

「ね、渚さん。見てほら。シュモクザメ」

「…………サメ好きなの?」

「竜巻に乗ってくるあたり面白いよね」

「……え?」

「ん?」

 

 どうにも彼らの間ではサメに対する認識が異なる様子。

 

 水上竜巻と共にやってくる恐怖の象徴なんて知る人ぞ知る名作(B級)だ。

 

 およそ九割の人間にとってそれは単なる水棲生物なのであって、決して砂地や雪原を泳いだり宇宙へ行ったり頭が増えたりしないのだ。

 

 たぶん。

 

「ちなみに渚さん、サメの弱点はなにか知ってる?」

「……あ、それは知ってる……鼻の先っぽだっけ」

「残念、違うよ」

「え、そうなの……?」

「チェーンソーだよ」

「ごめんさっきからなんの話をしてるの私たち?」

 

 サメである。

 

 繰り返すが大半の人間にとってそれは単なる軟骨魚類。

 

 海に行かなければ出会うこともない水場の脅威であって、決して幽霊やゾンビになったり知能が人間並だったり下半身が蛸だったりしないのだ。

 

 たぶん。

 

「……そういえば俺、海で泳いだコトないなあ」

「え……意外……」

「びっくりするぐらい縁がなくて。カナヅチじゃないんだけど」

「…………こ、今年の夏、泳ぎに行く……?」

「いいね。一緒に行っか。渚さんなら水着も素敵だろうし」

「――――せッ、セクハラ! やっぱなし! いまの撤回……っ!」

「えー」

「えーじゃない……!」

 

 そんなー、とからかうようにしょんぼりする肇を渚は睨みつけた。

 

 夏場の定番スポットというコトでふと口に出してしまったが、冷静に考えると彼の前で水着姿(ソレ)を披露するコトになる。

 

 なんなら彼の水着姿(ソレ)も拝むコトになってしまう。

 

 ただでさえ羞恥で死にかけるというのにお互い布面積の少ない状態ならどうなるか。

 

 もう渚は怖くて考えたくもない。

 いや自分の露出は衣服の種類の関係上ともかく、向こうの露出に耐えられるかが怪しい。

 

 文化系の大人しい男子だからと侮ることなかれ。

 

 たしかに本領は運動より技術――手先のほうだが、肇は中学の体育祭で独走するぐらいには身体能力もある。

 油断したところにほっそり、けれど適度な筋肉質……なんてモノを見せられたらその瞬間に渚は跡形もなく消えるだろう。

 

 それでなのかどうしてか。

 

 彼女は屋内だというのに北の空で輝く死兆星を幻視した。

 

 たぶんきっと気のせいであってほしい。

 

「残念だなー」

「っ……だ、だって、その……っ」

「…………ふーん?」

「……な、なに……?」

 

「恥ずかしいんだ。渚さんってば」

 

「はッ――は、恥ずかしくは、ないしっ!」

「じゃあ行こうか、海」

「もちろん! ――――……うん?」

「決まりね」

 

 にこっ、と微笑む小悪魔系(クソボケ)男子。

 

 

 〝あぁあぁあぁあああぁあぁああああぁあ――――!?〟

 

 

 ぐにゃあ、と渚の顔が胸中でどろどろになったように歪む。

 FXとかギャンブルでお金を溶かした人間のそれが近い。

 

 売り言葉に買い言葉。

 

 咄嗟に口を突いて出た言葉は否定のしようもない肯定の意思を彼へ叩きつけた。

 

 これにて運命は決着した。

 

 さあ――天を仰げ。

 

 空を見よ。

 

 あれなるは北に並ぶ七剣星。

 

 その近くに寄り添う輝きは昼間の屋内ですら目映いもの。

 彼女の死兆星(アルコル)は文字通り死ぬほど光っている。

 

 この世に生をうけて十五年とすこし。

 儚い生涯だった。

 

 

 

「――思ったんだけどさ」

 

 と、そんな風に渚が大きなショック――良い意味でも(ちょっと楽しみで)悪い意味でも(ちょっと憂鬱な)――を受けたときだった。

 

「去年は俺たち、勉強でいっぱいだったじゃない?」

「……まあ……受験生、だったし……」

「うん。それ自体はしょうがないよ。星辰奏なんて目指してたから余計」

「…………だね」

 

 しかしながらそんな甲斐があってか、こうしてふたり無事に志望校へ通えている。

 

 色々と大変ではあったし。

 苦労も沢山ではあったが、それだけで報われたというもの。

 

 彼も彼女もそこに後悔しているワケではない。

 

 いまの肇の話の切り口は確認みたいなもので、大した意味はない。

 

「でも……ううん。だからかな」

「……?」

「これまで遊べなかった分、これからは色んなコトしたいなって思うよ。俺は」

「…………そっか」

 

 ほんのりと、花咲くように少女が笑う。

 

 微かな表情はそれでも明確な意思の表れだった。

 先ほどまでの荒れ狂ったようなものとは違う。

 

 いきすぎず、やりすぎず。

 

 満ち足りた想いは温かく、膨らむように胸を占めていく。

 

 それはとても心地良いものだ。

 思わず和んでしまうぐらい幸せな感覚の発露。

 

 いつもこうなら良いのに、と彼女は心の底から思った。

 同時に、いつもこうならないから彼が良いのだろうとも。

 

 

「――()()()()()との思い出が、欲しいんだ」

 

 

 ……はたして少女はその真意に気付いたかどうか。

 

 からかわれるほどだった渚とは違って、肇の名前呼びはスッと切り替わったものだった。

 

 淀みも躊躇いもないすらりとした呼びかけ。

 おそらくは彼から提案したというのがあるからだろう。

 

 急な用件に対応するのと、事前に分かっていたコトを実践するのでは難易度も異なる。

 

 だからこそ、その音は単なる間違いで済まされるものではない。

 

 渚と呼ぶ(ちがうオトの)意味(ワケ)

 優希之と呼ぶ(いつもどおりの)意味(コト)

 

 突如としてはじまった水族館での偽装カップルは、あくまで彼らにとっておふざけの範疇を出ないやり取り。

 それぞれ胸に抱えるモノこそあれど、なにも本気でそうなったと思い込んでいるワケではない。

 

 すなわち、ソレは。

 

 

「だからこれからも()()と付き合ってよ」

 

「――――――」

 

 

 冗談交じりに吐き出される軽い発言(おと)と、

 現状(いま)に叩きつけられる真剣そのものな本音(こえ)

 

 

 〝――――――……〟

 

 

 渚は呆然と彼を見詰めている。

 ぶり返すように制御できない熱を持て余しながら頬を染めている。

 

 ……なんなのだろう、この男子は。

 

 いつもいつも(わたし)の心をかき乱して。

 乱暴に我関せずとでも言いたげに振り回して。

 

 挙げ句それに自覚がないというのだからもう最悪だ。

 本当に質が悪い。

 

 のに、

 

「…………イヤ、かな?」

「――っ、え、あっ……ちがっ……」

 

 目を泳がせながら渚は言い淀む。

 

 答えに悩んでいるのではない。

 

 むしろ解答自体は直ぐさま胸に浮かんでいた。

 あとはそれは変に誤魔化さず吐き出せば良いだけ。

 

 ……問題は。

 

 それがそう簡単にできる性格(タチ)なら、彼女はこんな場面で言い淀まないというコト。

 

「わ、わたしは……そ、の――――」

 

 盗み見るように肇のほうへ視線を向ける。

 

 まったくペースを乱してくる相手。

 一緒にいてぜんぜん落ち着かない相手。

 些細な行動が酷く冷静さを失わせる相手。

 

 そんなのだから、彼に不満点なんぞ山ほどあった。

 

 

(――――……っ)

 

 

 優しい仕種が嫌いだ。

 

 ――特別だと勘違いして、他に迷惑をかけてしまいそうになるから(あなたの全部が欲しくなるから)

 

 気軽に触れてくる距離感が嫌いだ。

 

 ――肌の温もりがやってきて、腹が立つほど驚いてしまうから(もっとずっと触れたくなるから)

 

 些細な気遣いが嫌いだ。

 

 ――私のコトを見透かされている気がして、酷く不安になってしまうから(とても嬉しくなってしまうから)

 

 笑った顔が嫌いだ。

 

 ――太陽みたいに眩しい、あなたのほうをよく見られないから(あなたをもっと見ていたいから)

 

 その()()()()()()嫌いだ。

 

 ――他の誰かにもそうしているんじゃないかと(あなたは私のことが好きじゃないのかと)嫉妬に狂いそうになるから(とても悲しくなってしまうから)

 

 

 ――――でも。

 

 

「い、イヤ……じゃ、ない……から……、ぜんぜん……っ」

「それなら良いんだ」

 

 なんでだろう。

 

 その()()()()()()、彼女は大好きだ。

 

 優しい仕種も、

 気軽に触れてくる距離感も、

 些細な気遣いも、

 

 笑った顔も、

 

 なにもかも、彼を構成する大好きな要素のひとつ。

 

「入学直後だし、部活とかで色々あったけどね。せっかく同じ学園(トコ)に通ってるんだし、やっぱり一段と仲は深めたい」

「――そう、だね……うん。同じ、ところ……だもんね……っ」

 

 ふと、渚は肇からもらった大事な言葉を思い出す。

 

 大事だから、痛い。

 

 ……まったくもってその通りだ。

 

 彼の一言に揺れる感情も。

 彼の一挙手一投足にささくれ立つ心も。

 そのコトで思い悩んで苦しんで、針を打たれる傷もなにも。

 

 胸に秘めた想いが大事で大切だからこそのモノ。

 何物にも代えがたい、ただひとつの彼女が抱いた桃色の響き。

 

 ならばしょうがない。

 

 好きで嫌いで、嫌いで好きで。

 そんなコトだってあるだろう、と。

 

 彼女はひとつ切り替えて、意気込みよろしく足を踏み出そうとして。

 

 

「でもね」

 

 

 つい、と。

 

 繋いだ手を優しく引かれる。

 前進しようとした渚の身体はふわりと後ろへ。

 

 体勢を崩した彼女は倒れこむ――コトはなく、待ち構えていた少年にキャッチされた。

 

 ――ほのかに漂う彼の香り。

 

 耳元で微かな吐息がこぼれている。

 彼の鼻先が彼女(わたし)の銀髪に埋もれているのを気配で(なんとなく)察知する。

 

 心臓は杭を打つように。

 鼓動はひときわ高く大きく。

 

 

「そう思うのは、相手が優希之さん(きみ)だから」

 

 

 背中から。

 肩の後ろから。

 

 耳をなぞって響いてくる甘い声。

 

 

優希之さん(きみ)だけだから」

 

 

 ――――ありえない。

 

 ……おまけに言えば、信じられない。

 

 想像だにしていない事態は、真実渚の思考をショートさせた。

 

 夢か、幻か、あるいは偽物か。

 でなければ度が過ぎていてとんでもない。

 

 だって。

 

 だって、こんなのは、もう。

 

 

「……だから、勘違いしないでね」

 

 〝――――(なぎさ)

 

 囁くように彼は呟く。

 握った手を引かれて彼女は歩く。

 

 ……その後のコトを渚はあまり覚えていない。

 

 気付けば水族館はぐるりと一周回っていて、いつしか見たロビーの景色に戻っていて。

 

 肇に連れて行かれるままにメインスポットの散策は終了した。

 

 彼女の意識が戻ったのはその後、駅前のショッピングモールにあるフードコートで昼食を摂ろうとしたとき。

 

 当然のごとく爆発した渚は眼前にいる彼の表情に追撃を受けノックアウト。

 よもや言い逃れもできないほどの大惨敗を喫して、見事机に突っ伏すのだった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 調色駅から歩いて十分弱。

 町外れの水族館からとなると駅から反対側なので二十分ほど。

 

 お昼過ぎになって辿り着いた巨大複合商業施設(ショッピングモール)はそれなりの混みようだった。

 

 人が多くとも静寂が支配していた水族館と違ってモール内は騒がしい。

 

 忙しなく往く老若男女数々の足音。

 各店舗から流れてくるテンポも曲調も違う様々な音楽。

 全体に響き渡るような良く通るアナウンス。

 楽しげに会話をリレーしていく賑やかな話し声。

 

 町に於いては離れるコトのほうが困難な、雑踏と喧噪の渦。

 

 言うなれば都市の日常。

 

 それは決して忌避する類いのものではなく、慣れ親しんだ毎日の空気だ。

 

「………………、」

「――――……、」

 

 土曜の昼時というのもあってか、あたりの雰囲気は落ち着かない。

 

 平日なら学業に励まざるを得ない生徒諸君も、今日は休日につき自由の身である。

 彼らを縛るものは――まあ常識の範囲内で――さっぱりなくなっている。

 

 肇と渚だってその例には漏れなかった。

 

 運良く席を取れたモール内のフードコート。

 

 黙々とフレンチトーストを食べ進める彼を「じぃぃぃぃっ……」と睨みながら、渚は自分のたまごサンドを口に含む。

 

 もむもむ、もぐもぐ。

 

「………………、」

「――――――…………、」

 

 じぃぃぃぃぃ――……っと、肇へ視線を送り続ける渚。

 

 胡乱げな目でハムスターのごとくサンドイッチを頬張る彼女は外面こそ平静そのもの。

 だがその内心は嵐のごとく荒れ狂っていた。

 

 絶えず咀嚼を続けて上手く誤魔化してはいるが顔は燃え上がるような緋色。

 よく見れば目尻には雫のあと、食事を掴む指先には微かな震え。

 心臓なんて気を取り直してからドクドクバクバクと破裂寸前の拍動を繰り返すばかり。

 

 なんなら内側からこう、ぱーん、と爆発するのではないかという不安に駆られるほど渚の胸中は乱されている。

 

 原因なんて考えるまでもなくひとつしかない。

 主に目の前の男子によって。

 

(――――アレは一体なに)

 

 もむもむもむ、もぐもぐもぐ。

 

 たまごサンドをかじりながら渚は考え込む。

 もちろん件の元凶からは目を逸らさずに。

 

 途中の色々は抜け落ちてしまったが、肝心要の台詞は記憶(あたま)ではなく(こころ)で覚えていたようだ。

 

 ちょっとのコトで発火する可燃性美少女にとっては辛い行為だが、かといって見て見ぬフリをしているワケにもいかない。

 

 〝――――勘違いしないでね〟

 

 その言葉の意味はなんだというのか。

 勘違いとは一体どういうコトなのか。

 

 渚にとっての疑問、疑念、議題は尽きない。

 

(私だから仲良くなりたい。私だから思い出をつくりたい)

 

 もむもむもむもむ。

 もぐもぐもぐもぐ。

 

 サンドイッチはひまわりのタネみたいに囓られる。

 

 げっ歯類にでもなったかのような渚の態度に食事中の肇は気付かない。

 いや、むしろ気付かないほうが良いのかもしれない。

 

 彼の精神の安寧のためにも、彼女の対外的な名誉のためにも。

 

(――――私だから、そうなりたい……)

 

 もむっ。

 

 咀嚼が止まる。

 

 頬が赤みを濃くする。

 

 カチッと回ったスイッチが一気に熱を灯した。

 渚コンロは今日も元気に良い燃え上がり。

 

 そろそろ顔から出た火で炒め物ができそうなぐらいだ。

 

(え? あ、うん? あれれ? えぇ? なに? なにを勘違いしないでほしいの? まさかそういう意味じゃないってコト? そういうコト? あはは――――分かんないよ()()()()ー!!)

 

 ふしゃーっ! と胸中で吼えながらサンドイッチをもむもむする渚ハムスター。

 

 ドストレートに過ぎる物言い。

 言い訳のしようもない殺し文句。

 

 されどそんな攻撃は彼女にとって解決の糸口にはならなかったらしい。

 

 悲しいかな、これまで飛ぶ鳥を落とす勢いだった天然純朴(ポンコツクソボケ)は良い意味でも悪い意味でも過大な信頼を得ている。

 

 本来ならもうその時点でルート確定婚約締結ハッピーエンドへレディゴーするようなアプローチは彼ら彼女らの築き上げた()()()()()()関係性が()()()()()()形で足を引っ張っていた。

 

(きゅ、急にあんなコトしたら勘違いもするけど!? がんがんにしちゃうけど!? だからって普通釘刺すあそこで!? ありえなくない!? そんなに私だめかな!? 水桶くんの恋人として色々だめかな!? これでも容姿には自信あるけど!?)

 

 暴走した思考は止まらない。

 

 がるるる、と脳内の渚が威嚇するよう喉を鳴らす。

 

 現実でやると正面の彼にドン引きされかねないので、あくまで想像上でだ。

 

(キープ!? 私キープなの!? うわサイテー! 水桶くんサイテーサイテー! サイテーサイテーサイテー!! ほんとにサイテーまじでサイテーいますぐサイテー!)

 

 もっしゃもっしゃ、むっしゃむっしゃ。

 

 食事は止まらない。

 ついでに彼への不満も止まらない。

 

 冷静に考えるコトから逃げているだけだと内心で気付いても止められない。

 

 だってあんなのを真面目に考えるだなんて無理だ。

 

 いくら命があっても足りない。

 どれだけ鍛えたところで心臓は保ってくれまい。

 

 

 …………そう。

 

 ……だって、あんなのは、もう。

 

 

 

(――――あんな、告白、まがい…………っ)

 

 

 

 ――――ああ、不味い。

 

 全身の穴という穴から液体が噴き出そうだ。

 気を抜けば涙も涎も鼻水もびちゃびちゃと垂れてしまう。

 

 歓喜ではなく。

 悲観してでもなく。

 

 ただ偏に、純粋に、衝撃があまりにも大きすぎて。

 勘違いだとしても、胸を叩く痛みがとてもじゃないが重すぎて。

 

 

「…………あ、()()()()()

 

「ぴッ!?」

 

 

 何気ない響きで声をかけられる。

 

 水族館を出ているからだろう。

 その呼び方はすでにいつも通りのモノへ戻っていた。

 

 特別性はない。

 驚く必要は皆無だ。

 

 ……それでも異様な悲鳴をあげたのは、彼女はそんなコトすら無視できないほどボロボロなだけであって。

 

「ん、ちょっと動かないで」

「ぇ――――」

 

 そっと、

 

 テーブルを挟んで向かいの席から、

 

 彼の――肇の手が伸びた。

 

 ……指先が触れる。

 

 肌の温度を頬で感じ取る。

 

 彼は笑っていた。

 彼女は固まったままその笑顔を見続ける。

 

 数秒の後。

 

 優しく拭われた頬の()()からは、微かに香るたまごの匂い。

 

 

「ついてたよ、()()()

「――――――――――ッ!?!?!?」

 

 

 なぎさ は めのまえ が まっしろ に なった!

 

 

 






……………………。
(私はうっかり毎日投稿を途切れさせた駄目な作者です、と粘土板を手に立たされている)




悔しいので今度また1日2話投げます。


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46/星に願ったのは……

 

 

 

 

 街のはずれにある展望台からは、あたりの景色を一眸するコトができた。

 

 ……色々渚が振り回されたり、勝手に熱を上げたり、無機物になったり。

 

 そんなフードコートでの昼食を終えたあと。

 モール内を軽く見て回り、適当な買い物を済ませた次の行き先が此処だった。

 

 連れてきたのは肇のほうになる。

 渚は依然として手を引かれたまま歩みを進めただけ。

 

「……よくこんな場所知ってたね」

「往年の知り合いに教えてもらったんだよ、つい今朝方」

「へぇ……、水桶くん、こっちにも知ってる人いるんだ……」

「んー……まあ、ちょっとね。話した回数自体は少なかったんだけど」

 

 困ったように笑いながら肇は空を視線を投げた。

 

 なんにせよ彼にとっては今のところどうでもいいコト。

 渚としても聞いたところで何ら変わりない事情。

 

 わざわざここで話すようなものでもない、と微笑みつつ息を吐く。

 

 同時に、確信がより深くなったのはあるだろうけど――どれにしたって本筋には関わり合いのない問題だろう。

 

 要するに彼はただ、素敵な場所を紹介してもらっただけ。

 

「――――……、」

「………………、」

 

 風が頬を撫でていく。

 春特有の肌に馴染むような暖かい空気が皮膚を伝う。

 

 もうそろそろゴールデンウィークも見えてきた四月末。

 桜はすでに散っていて、どこもかしこもピンク色の影は見えない。

 

 そんな中、ふたりは揃って遠くへと視線を投げた。

 

 少しずつ西へ傾きはじめた午後の青空。

 

 天気は良好。

 雲の流れは穏やかでこれといって異変もなし。

 

 眼下に広がる町並みは壮観というには少し物足りないぐらいか。

 

 いくら発展したとはいえ微妙にもすぎる地方都市だ。

 決して手放しで褒められるような景色ではない。

 

 けれど、午前中を使って散策したあとならそれも違ってくる。

 

「……なんか、良いね。こういうの」

「…………うん」

 

 示し合わせてもいないのに、お互い頷き合う。

 

 眺めてみればちいさな町の風景。

 

 一歩離れたところから見る都市はミニチュアじみていてなんともスケールが曖昧だ。

 

 おそらくはそれだって何千何万という絶景に隠れる程度のものでしかない。

 ともすれば大都会のビル群にすら呑まれて沈むだろう。

 

 でも。

 

 つい先ほどまで自分たちがあのわずかな片隅に居たのだと思えば、不思議と印象はがらりと変わっていく。

 

「――ん。あー、うん。あははっ」

「っ……な、なに。急にどうしたの……?」

「いや、こう、ビビッと来て。それこそ良いなあ、ってね」

「……ふーん……」

 

 なにかしら彼の琴線に触れる部分があったのだろう。

 

 空の下にぽつんと固まる人工物。

 アスファルトの色が殆どを占める近代風景。

 

 メインになりそうな印象深いモノは一切ない。

 特徴も特色も薄い調色の町。

 

 しかしながら、そんなものがやっぱり雫を落としたように波紋を広げるのであって。

 

 ……どうしてかなんて、いまさら肇は思い悩むまでもない。

 

 いつだって彼の食指が動く理由(ワケ)には()()が絡んでいた。

 

「実際歩くと十分大きいのに、こうして俯瞰すると驚くほど小さい……っていうのはよく使われるようなテーマだろうけどね」

「……よく使われるんだ……」

「うん、見てれば分かる。伝えたいコトってさ、やっぱり濃く筆に乗るんだよ」

「…………そう、なの?」

「そうそう。いくら取り繕ってもね」

 

 創作意欲は(しぼ)まない。

 こうしているうちにも肇の胸に灯った火はあれから燃え続けている。

 

 よほど強力な着火剤、もしくは上質な燃料だったからか。

 

 いいやむしろ、どちらも揃っていたからか。

 

 気分は謎の達成感を伴ったものが近い。

 あと一欠片というジグソーパズルのピースを上手くはめ込んだ後のような心持ち。

 

 だとするなら正しくそのとおり。

 

 ……それがなくても全然生きていけるし、それがないだけで全部壊れるというほどの代物ではないけれど。

 

 彼にとって物足りなかったモノがあるとするなら、間違いなく。

 

 

「――――……うん」

 

 

 肇はこくんとひときわ深く頷いた。

 

 万感の思いを秘めたかのように強く、重く。

 

 展望台は標高(たかさ)があるだけに気持ち風も強い。

 垂れた彼の前髪がさらりと流されて揺れる。

 

 渚の銀糸の髪はぶわりと広がって、彼女はそれを咄嗟に押さえつける。

 ちょうど耳元へと手を添えるかのように。

 

 

「――――やっぱり、素敵だ」

 

 

 そうして。

 

 こぼれた言葉は無音の空気(かぜ)を震わせた。

 

 少年は頬を染めて()()()()みたいに少女のほうを向く。

 

 酷く珍しい年相応な彼の表情。

 いつものような落ち着き払った態度も、物静かな空気も取っ払った高校生らしい笑み。

 

 それは真正面から眺めたのに背中から刺すように。

 

 ……どくん、なんて生易しいものじゃない。

 

 ざくん、と。

 

 渚の胸に刃を突き立てていく。

 

 

「――――――――」

 

 

 ……恋に落ちるなんてコトがあるのなら、きっとこんな感覚を言うのだろう。

 

 すでに惚れてしまっている彼女をしてそう思うぐらいの衝撃。

 比喩ではなく心臓が止まるコトがあるのだと彼女は刹那に理解した。

 

 渚は目を見開いて向き合った肇の顔を見ている。

 瞼の裏どころか脳裡に焼き付けんばかりにその景色をおさめている。

 

 何度も思った感想は繰り返すように言葉として浮かんできた。

 

 眩しいにもほどがある。

 なにかに熱中する彼はとても魅力的で、輝いていて、なにより――――

 

 

 

()()()()()()

 

 

 

 ――――なにより。

 なにより……なんだろう、と。

 

 そこまでフルで回転していた渚の思考は急ブレーキをかけて停止した。

 

 オンオフを切り替えるみたいに見事に回路が変質する。

 

 端的にいって。

 

 彼の言葉を理解するのに、少女の頭は時間を要した。

 

 一度整理しよう。

 

 町はずれの展望台。

 

 そこに立って景色を見た彼は大変満足したように笑って。

 そして渚のほうを向きながら素敵だと伝えてきた。

 

 ここまでは良い。

 

 大丈夫だ。

 なにも問題はない。

 

 あるとするならそこに付け足された最後の一言。

 

 

 〝優希之さんは〟

 

 

「――――――――ぇ?」

 

 鼓膜の奥で名前(オト)が反響する。

 

 優希之さん、ユキノさん、ゆきのサン、ゆきのさん――――――

 

 ……修飾、被修飾の関係にて考えると。

 

 この場合、上の語句がすなわち下にかかるのであって。

 素敵なのは、()()()()()たらいうモノであると。

 

 彼は。

 

 肇はそう言っているコトになる。

 

 

「――――なっ、ぇッ、っ!?」

「ん、どうしたの?」

「どっ、どどど! どどどどどどう!? ぇっ!? あ!? なんっ――」

「……今日も散々言ったのにねー……」

 

 〝っ、だっ、だだだだぁっ、だ! だだだ! だだだだだっ――――!?〟

 

 あわあわワナワナと口をあけて震える渚。

 

 それはもう後ろから刺すなんて生温いものじゃない。

 彼女の心臓を直接抉り出して握りつぶすような蛮行だった。

 

 クサい台詞を言うのならまだ耐えられる。

 

 肇はそこまでキザな物言いが自然と馴染むタイプではないからだ。

 そのあたりを気にしないで居られるときは雰囲気の後押しあってこそ。

 

 こういう場面で「優希之さんのほうが綺麗だよ?」なんて言われたとしても――想像しただけでちょっと渚の余裕は淡雪のごとく溶けたが――ギリギリ我慢できる。

 

 が、これは不意打ちでバズーカを喰らったようなもの。

 油断していたところへ空から宇宙戦艦が降ってきたのに等しい埒外の暴力。

 

 勘弁してほしい。

 

 先ほどまでのアレコレですらもう保たない気配がしていたのだ。

 渚の心はもうぐしゃぐしゃのべしゃべしゃである。

 

「――ね、優希之さん」

「っ!!」

 

 そんな頭ピヨピヨの雛渚(ヒナギサ)ちゃんの頭に、ぽんと置かれる手がひとつ。

 

「他の誰がどう思っても、優希之さん自身がなんて思っても、俺にとってはきちんとしっかり君が素敵なんだ。それを忘れないでほしい」

「なっ、ぁ、ぇう――?」

「あはは、なに言ってるか分かんない。――落ち着いて」

「ひぇぅっ!!」

 

 ぴた、と問答無用で肇が渚とおでこをくっつける。

 

 少女の顔からは急速に沸いて噴き出ていく蒸気。

 ぷしゅーっ、と吐き出された湯気は銀髪を持ち上げるように揺らしていく。

 

 熱が上がりすぎているせいか。

 

 すでに彼女の言語野はもう使い物にならないレベル。

 大人しく池の鯉よろしく口をパクパクさせるしかない。

 

「大丈夫。ぜんぶ大丈夫だよ。俺がいる。だから慌てないで。焦らないで。無理しないで――落ち着いて。大丈夫だから」

「っ――――……ぁ……――、ぇ……と……っ」

「……平気?」

 

 〝じゃないよ??〟

 

 こくこくこくこくぅ!! とキレのある上下運動を披露しながら渚の胸中は真逆の感想で埋め尽くされていた。

 

 致命傷を喰らったところへトドメの一撃。

 ラストの追撃。

 さらにはシメの連撃――と喰らって平気なんかじゃない。

 

 平気でいられるワケがない。

 

 この土壇場においてそれを越えられたならもう彼女は恋愛強者を名乗っていいだろう。

 

 

 〝あぁあぁああやばいやばい近い近い顔が距離が身体が匂いが存在がなにもかもが近い至近距離頭に手が乗ってる肌触りさいこーていうか顔が良いなこいつなんなの私を殺す気なの私死ぬの死にますごめんなさいもうむりげんかい――――〟

 

「――――ね、優希之さん」

「っ、ぅえ!? あっ、う、うん!!」

「……前に言ってた話なんだけど」

「ま、まえ!? あ、ぇと、その、なん、だった……けっ……!?」

過去(むかし)のコトは、いま、どうかなって」

「っ……――――――」

 

 さらっと。

 でもきっと、彼としてはたしかに気遣って。

 

 空気を伝ってきた言葉が渚の胸に沈みこんでいく。

 

 苦労していた暴れ狂う感情はそれで一応の静けさを取り戻すものだ。

 それほどまでに彼女にとって古い傷痕は大きい。

 

 

 …………大きい、ハズなのだが。

 

 

 どうしてだろう。

 

 いまはぜんぜん、冷や水をかけられたみたいな消沈も。

 心臓の奥を引き裂くような苦い痛みに悶え苦しみもしない。

 

 ……痛みはある。

 

 太い針かトゲのような、胸を刺す悲しみの色。

 

 それはいつまで経っても消えやしない(ココロ)に根付いた記憶の破片だ。

 

 きっと一生涯完治しまい。

 だからそんなのは正直気にするほどでもない。

 

 ――――そう。

 

 気にする、ほどでも。

 

 

「………………ぁ」

 

 

 そこでやっと。

 ようやく、渚は驚愕の事実を理解した。

 

 自覚したと言っても良い。

 

 彼女自身が気付いたのはいまこの瞬間。

 

 けれどもタイミングで言うのならもっと前から。

 

 思えば水族館のときにだって彩斗(おとうと)のコトは思い出している。

 些細な記憶だったが、それでもつい一年ほど前の彼女なら心底から取り乱していた。

 

 じゃあ、さっきは。

 いまはどうなのかと言えば。

 

 ……言わずもがな。

 

 今更になって掴んだコトだけれど。

 

(………………軽く、なってる……)

 

 完全に消えてしまったワケではない。

 目を逸らして見ないようにしているのでもない。

 

 思い出はかくも痛い。

 

 だからこその大事なモノだ。

 忘れない、忘れられるハズもない過去(ぜんせ)記憶(おもいで)

 

 それは当たり前みたいに引っ張り出せて、大切に仕舞い込める宝石のような彩りの欠片。

 

「…………いまは」

「…………、」

「いまは、ぜんぜん……大丈夫……」

「……そっか」

 

 あのとき終わりの見えなかった、

 止む気配のない雨のなかで吐露された渚の後悔。

 

 未練、情けなさ、後ろ向きな想いそのもの。

 

 そんな暗さは最早薄い。

 雫を落とすまでもない程度の悲しさ。

 

 ……ああ、なんてコトだろう。

 

 彼の言っていた「いつかの日」は、こうして甘すぎるぐらいにやってきた。

 そんな未来を教え導いてくれた彼自身の手によって。

 

 

「――――それなら、良かった」

 

 

 肇はぽつりとこぼすように呟いた。

 

 彼女の心の安らぎを思っての笑顔ではなく。

 ただどこか、安堵するような表情をしながら。

 

 その言に嘘はないのだろう。

 

 ましてや別の意味が被っているのとも違う。

 彼は純粋に、偏に、ならばこそ良かったものだと頷いた。

 

 渚にはその真意が読み取れない。

 

 いや、読み取ろうとするにはその顔がどうにも見慣れていなくて――

 

「みな――」

「今朝は冗談でやってみたけどさ」

 

 肇が渚と視線を合わせる。

 

 彼女の言葉はそれで途切れた。

 続けようにもなにを言いたいのかが自分自身分かっていない。

 

 代わりに話を切り出した彼の声に口を噤む。

 

「やっぱりさ、名前で呼ばない? もう余所余所しい仲でもないと思うし」

「――――……えっ、と」

「……恥ずかしい? 別に無理強いしたいとかじゃないんだけど」

「そっ――……や、恥ずかしいは、恥ずかしい、けど……っ」

「うん」

「………………っ」

 

 こくん、と渚がちいさく頭を縦に振る。

 

「……良いってこと?」

「っ……だ、だから、そう……!」

 

 ぎゅぅうっ、とスカートの端を握りながら。

 うつむき加減の顔を赤くしながら、彼女は答えた。

 

 ほんの一握りの言葉と、一握り以上の気持ちで。

 

「……わかった」

 

 肇はならうようにちいさな笑みで返す。

 

 それで構わない。

 いまはぜんぜんそれでいい、と。

 

 いじらしい少女の思いを汲むように、ゆっくりと彼女へ手を差し伸べた。

 

 

「じゃあ、もうそろそろ帰ろっか。()()()

 

「――――……う、うん……っ」

 

 

 再度手を握り直して展望台を後にする。

 

 散々渚が振り回されっぱなしだったふたりのお出かけはこれにて閉幕。

 あとは駅に戻って逆向きの電車に乗って、家までちょっと歩くだけだ。

 

 時間でいうなら午後四時にさしかかる前ぐらい。

 

 日はまだまだ高くある。

 夜の気配は微塵も存在しない。

 空は澄み渡っていた。

 

 気持ちの良い休日の一ページ。

 それはどちらにとっても快い思い出のひとつ。

 

 遠ざかる足音に乱れはなく。

 そのままふたりは小さな町の中へ、潜るように消えていった。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

「――あっ、そうだ」

「?」

 

 ふと、別れ際に思い出したように肇が声をあげた。

 何事だろう、と見守る渚をよそに荷物のなかをごそごそと探る。

 

 彼女としても彼の予想外の行動、突飛な対応は慣れたものだ。

 軽く流して当然、なにもそこまで振り回されるコトはない。

 

 ……と、常々心の中では思っているのだが。

 

「……ん、あったあった」

「……なにかあるの?」

「あるよ。――はい、どうぞ」

「えっ」

 

 〝あぁ、なるほど。プレゼント……〟

 

 そういうコト、とどこか納得しながらソレを受け取る。

 

 彼が渡してきたのは封筒のような梱包の紙袋だった。

 どこか――それこそ昼間のショッピングモールとかで――見覚えのある店名とロゴ。

 

 重くはない。

 厚みもない。

 

 軽くて薄い、振っても音すらしない代物。

 封がしてあるあたり空ではないだろう。

 

 ぺり、とシールを剥いで中を覗いてみる。

 

 ――――と、

 

「…………しおり?」

「そう。こっそり買っておいた」

「……気付かなかったんだけど……」

「渚さんと合流するより先に買ったものだからね」

「あー……どうりで……」

 

 現地集合にした理由はそれだったのか、と渚が苦笑する。

 

 しっかりした小物店の品物だからか。

 しおりの作りは結構良いもので、デザインもシンプルで可愛らしい。

 

 ピンク色の背景に象ったように描かれた星形の花弁。

 

 そのカタチは綺麗ではあるが彼女の知識にはなかった。

 

「……これ、なにか知ってるの。みなッ――は、肇くん……?」

「クロウエアとかなんとか」

「……へぇー……クロウエア……」

「ちなみにサザンクロスって言うんだって。なんだろう、凄く格好良いよね!」

「そういう部分(ところ)()()()()()なんだから……」

 

 瞳をキラキラさせる肇とは反対に、ちょっと冷めた視線を向ける渚。

 よくある「男子ってこういうの好きだよね」みたいな目だ。

 

「そういえばこういうのも良いなーって思って。渚さん、本は読むでしょ?」

「まあ、そこそこ……」

()()()()()()()()()()()()()。まぁ、そこは俺たちなんだし良いってコトで」

「……? ブルースターって、なに……?」

「なんでもなんでも。いや、あれはあれで凄いものだなーって

「…………??」

 

 よく分からないコトを言う肇はどこか遠くを見ていた。

 

 時折ある、古びた記憶を引っ張り出すような仕種。

 そんな態度が少し気になった渚だったが、彼女が声をかける前にその空気はふっと消えていく。

 

 見れば彼はいつも通りの雰囲気でにこりと微笑んでいる。

 

「――そういうわけで。またね、渚さん。今日は楽しかったよ、ありがとう」

「っ、わ、私も、うん……また、ね。肇くん……っ」

「――――ん」

 

 顔をほころばせながら、肇はひらひらと手を振って渚と別れた。

 

 おそらくはそのまま真っ直ぐ家に帰るのだろう。

 時間を経たずして彼の背中は遠くなっていく。

 

 ……彼女はそれが完全に見えなくなるのを待って、ゆっくりと踵を返した。

 

 自然と口元がにやけたのは仕方ない。

 

 楽しい思い出、充実した時間。

 

 それらを大事に抱え込むようにして、贈り物をぎゅっと抱きしめる。

 

 

 ――大変疲れた。

 

 

 引っ掻き回されて、こっぴどく振り回されて。

 心は乱されっぱなしでもうくたくた。

 

 文句のひとつでも言ってやりたい惨状だったが……そこはまあ、彼女も彼女で。

 

 なんだかんだと言いながらも、満足できた一日だったのだ。

 

 

 

 ……なので、そう。

 

 今日のところは、これぐらいで勘弁してやろう――

 

 

 

 

 



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47/一年一組の裏事情

 

 

 

 

 正直なところを言うと、肇にとって渚と出会うまでの時間は高価(たか)すぎた。

 むしろ出会ってからでもその考えはあまり変わらなかったぐらいだ。

 

 変な理由ではない。

 

 彼自身の培った経験からくる純粋な価値観。

 

 例えば誰かと他愛もない話をして。

 毎日の変わらない朝を迎えて。

 一瞬一瞬の景色を瞳で切り取って。

 

 色も音も味も、なにもかもを体感する。

 

 それだけで彼からすればとんでもないもの。

 

 過去(ぜんせ)で病気にかかったからとかではなく、それは生来の感覚で昔から胸にあったコトだった。

 

 すなわち今あるものはすべて贅沢で。

 世界は胸に飾ってしまえるぐらい綺麗だという事実。

 

 ……だから、正直な話をすると。

 

 いまの人生(にどめ)なんていうのは、ぶっちゃけちょっと困ったのだ。

 

 なにせ彼にはしがみつくほどの未練がない。

 心に抱えて残した熱量のようなものもほんの僅か。

 

 不幸に塗れて望まない最期を迎えたワケでも、誰かのように思い悩んで苦しんだ末に命を絶ったのでもない。

 

 肇は心底、徹頭徹尾、先の生き方に満足している。

 これ以上はなかったと思えるぐらいに納得している。

 

 その考えはきっと誰になんと言われようと変わらない。

 

 例え最愛()()()姉に否定されたとしても彼だけは強く肯定する事実だ。

 

 他人から見てどうだったとか、常識的に見て良かったかじゃなく。

 彼自身が最高だと思えたのだから、それ以外に付ける評価はないだろうと。

 

 ――その上で降って湧いた人生(リスタート)である。

 

 肇としては承服しかねる。

 

 嫌というワケではない。

 難しい理屈をこねなければ彼だって素直に嬉しい。

 

 けれど、それは高価(たか)すぎて。

 あるいは嬉しすぎて、贅沢すぎて。

 

 良いものであるのは間違いないけれど受け取りがたい、唯一無二の代物だった。

 

 しかし、だからといって命あるのならとやかく言うのも間違いというもの。

 

 なによりウダウダ悩んでいてもしょうがない。

 余計なことは引き摺るだけ時間の無駄だ。

 

 産まれたのなら生きていくだけ。

 

 そうやって当たり前のように立って、周囲に馴染んで、熱意を失っても歩けるものとここまでやってきた。

 

 ……肇は一度完璧に終わった命になる。

 

 人の一生を死を以て終結とするのなら、なるほど彼は見事に完結したワケだ。

 

 無念で無念で悔やみきれない非業の死ではない。

 心残りや思い残したコトが強すぎるなんて話もない。

 

 ましてや人として当たり前を享受しないまま、空っぽの無色透明なまま育った自我であるのでもない。

 

 彼の自意識は確立している。

 

 揺れるような危うさも崩れるような脆さもそこにはない。

 

 たったひとつ。

 

 個として完成された一人の人間の命。

 

 その後に続く道があるなら贅沢か、それこそ蛇足以外のなにものでもないだろう。

 ちゃんとした蛇の絵はもう一部の隙もなく完璧に出来上がっているのに、これ以上なにをどうして足を付けてしまえるものかと。

 

 ……でも、実は。

 

 ほんのちょびっとだけ。

 描けていなかった部分があったみたい。

 

 蛇に足を付けるまでもなく。

 たぶん、そう――鱗あたりが一枚二枚抜けていたようだ。

 

 それに気付けたのはつい最近のコト。

 

 だからといって死ぬほど悩んだとか、苦しんだワケではやっぱりないけれど。

 折角だから仕上げてしまいたいと思ったのは絵描きの性か。

 

 繰り返すように後悔はない。

 未練なんて引き摺るほどでもない。

 

 残したモノも出来なかった過去もぜんぶ含めて己にとっては素敵な思い出。

 

 そこから再度生まれ落ちた先で彼自身の培ったものは一切欠如しなかった。

 強いて言うなら電池(やるき)がなくなってしまっただけで、電池(ソレ)以外で動く部分はぜんぜん元気なまま。

 

 良くも悪くも、水桶肇という人格は強固に完成されすぎている。

 

 だからこそ脆く儚い他人(だれか)には毒にも薬にもなる刺激物。

 

 要は、これはそういうお話――――

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 土曜日のお出かけ(デート)を無事終えて、週明けの学園生活。

 渚と肇の間に於いて、変わったコトと変わらなかったコトがふたつずつある。

 

 まず変わったコト。

 

 ひとつは言わずもがなお互いの呼び方。

 

 肇は彼女を渚さんと。

 渚は彼は肇くんと呼ぶようになった。

 

 それだけ。

 

 たったそれだけ。

 

 けれども、だからこそ――明確に距離が縮まった感じのする変化だ。

 

 ちなみに早速とばかりに「優希之おまえ〝はっ、はははじめくん〟って誰? どっかのペンネーム? え? 名前呼び? ……過呼吸なってんのかと思ったわー!」なんて煽ってきた海座貴三葉(どこぞのばか)は三枚におろしてやった。

 

 約束された自在の箒(エクスカリバー・クリーナー)で。

 ちょうど日直の掃除当番だったのが功を奏した。

 

 閑話休題(それはともかく)

 

 変わったコトのふたつめである。

 

 もうひとつは件の(かれ)からの態度だ。

 

 もともと近かった距離感はここのところ更に近付いてさえいるほど。

 よもやいつしか隣同士ほっぺがくっつくのでは――いやまあそれはそれで渚としては役得なのだが――とさえ思うぐらいに接し方が酷すぎる。

 

 こう、なんというか、耐えられないほど良すぎて。

 

 

「あ、渚さんご飯一緒に食べない?」

 

「渚さん荷物持つの手伝うよー。貸して貸して」

 

「あはは、渚さんほっぺにお弁当ついてるー」

 

「そういえばこの前の膝枕はまたやってくれないの?」

 

「渚さんお菓子いる? チョコ。……ん、じゃあはい。口開けてー、あーん」

 

「よしよし。渚さんはやっぱり賢いねー、えらいねー」

 

 

 ありえない。

 全体的に至極真っ当にありえない。

 

 これらすべてが家でのコトならまだしも、学園内で起きた事件である。

 

 もう一度言おう。

 

 学園内で起きた事件なのである。

 

 これによってただでさえ傍から見守りを決め込んでいたクラスメートは九割以上の大部分が手出し一切無用のパーフェクトスルー。

 

 お陰様で一年一組間での渚の評価は「ユキノヒヨコ」「ピヨノナギサ」「小動物」「茹で蛸」「ナギサ狒々」「赤面鳥」「銀の尾を引く赤い彗星」「銀髪赤面クール()(くすっ)系女子」「コイツいっつも顔赤いな」「ネツハナイサ」「水桶の嫁」「肇の妻」「水桶渚か優希之肇か早くどっちかに決めろ」――――と、散々なものだ。

 

 散々なものだと同意してほしい。

 世界中のひとり残らず、切に。

 

 

 〝――――――おのれ天然純朴(クソボケ)ッ〟

 

 

 なお本人の口から直々に「ふふっ……渚さんってば、いつから俺の奥さんやってたの?」とか言ってきたのはどう考えても有罪(ギルティ)だと彼女は思う。

 

 是非ともこれでもかという刑罰に処してほしい。

 具体的にいうなら終身刑とか。

 

 いやどこのなにがとは言わないが。

 

 言わないのだが――ここは被害者に真摯な対応を見せるべきではないだろうかと。

 なにがとは言わないが、うん、まあ、はい。

 

 

 

 ……さて、では変わらなかったコトはというと。

 

 ひとつは大方彼女も予想していたとおり、彼が部活に熱中し続けているコト。

 もうひとつも彼女の思ったとおり、今週も一緒に帰る機会がなさそうなコト。

 

 以上である。

 

 ――以上である。

 

 ――――以上である。

 

 大事なコトなので渚は三度(みたび)心中で繰り返した。

 つまりなにが言いたいのかというと。

 

 

 〝スキンシップが酷いくせに部活ばっかりに夢中とかコイツ釣った魚に餌あげてキープまんまではないか? やはりクソボケ最低ではないか――??〟

 

 

 というコトである。

 

 無論、ポンコツ男子の名誉のために言っておくと彼が部活に熱中するのは分かりきっていたコトだ。

 

 なんなら渚を水族館に誘う前にきちんと「描きたい欲が凄くてここ最近は一緒に帰ってあげられません」と断ってさえいる。

 

 だがそれはそれ、これはこれ。

 

 事情説明をしただけで済んだと思うなら大間違い。

 たった一度の休日私服デートお出かけで収まるほど乙女の気持ちは安くない。

 

 そんなに軽い女子ではないのだ、優希之渚(ヒロイン)という人間は。

 

 

 

「――――……、」

 

「……なぁ、優希之嬢がめっちゃ不機嫌なんだけど」

「水桶くんがさっさと部活行っちゃったからじゃない?」

「あー……なるほど。一緒に居られないから……」

「優希之、おまえついぞ部活にすら男を取られたのか……かわいそうにィッ!?」

 

「あ、海座貴が腹パンされた」

「大の男が蹲ってんよ。こえー、水桶嫁ちょうこえー」

 

「――――よ、嫁じゃない、からっ!!」

 

「そうだそうだ。優希之みたいな小動物が嫁なんてストレスで死んじゃうだろ」

 

 

 二度目の衝撃が海座貴少年の腹を貫いていく。

 

 

「優希之……ッ、おまえ……!!」

「――私、海座貴くん、キライ」

 

「なんだあの絶対零度の視線。雪女みてえ」

「優希之女史ならぬ雪の女王だったかぁ……」

「水で溶ける淡雪だけどね」

「肇くんはどうやってあんなに仲良くなったんだろう」

 

 ぴくぴく、と渚の銀色センサーが反応する。

 

 変化点は以上の計四つだが、不満点は腐るほどあった。

 直近でいうなら先ほどサラッと女子陣営から出た名前呼び。

 

 ……そう、水桶肇(あのオトコ)、ヒトには一年以上ずっと名字呼びで通しておいて、

 水族館ではあれほどからかって、

 挙げ句の果てには勿体振った上で下の名前に移行しておきながら他の女子とはあっさり姓の垣根を越えているのだ。

 

 率直にいってふざけてやがる。

 

「っ、てて……? ……あはは。優希之、クラスメートに嫉妬とかたぶん絶対、まず間違いなく不毛だぞ」

「っ、は、はぁ!? 嫉妬とかっ――別に、してないし……!」

「顔赤いんだけど」

「っ!!」

「いや今更隠してもおせッ」

 

 どすん、と響く三度目の正直。

 

 揺れる肢体に力はなく。

 頽れる身体に支えはなく。

 

 地に叩きつけられる膝には割れんばかりの激痛。

 

 ここに本日の勝敗は喫した。

 

 腹筋から内臓を貫いて背中へ突き抜けた衝撃に、ひとりの男子生徒が儚く散っていく。

 

 

「容赦ねえな、優希之さん……」

「この前水桶も殴られてたぞ。こう、胸板をどすどすって」

「それ絶対効果音もっと軽いよね。ぽかぽかーって感じだよね」

 

「でもさ、実際、その……両極端だよね。肇くん」

「まあたしかに。昼間あんだけ優希之さんに構ってるのに、放課後きたら即部活だし」

 

「そういえば美術室の作品見た? 水桶くんの。ヤバいよ。マジでえぐい」

「えー、そんなに……?」

「ほんとほんと。うち絵心とか絵画のコトとかさっぱりだけど見ただけで鳥肌めちゃくちゃたったもん。ホワイトタイガーに目の前で吼えられたときぐらい!」

「微妙に分かりづらい境遇ぶっ込まないでくんねぇ?」

 

 件の女子がいうには「がおー!」という()力が()ってくる感じらしい。

 

 渚はちょっと聞いただけで頭()()かった。

 彼女自身としてもそのような()覚を()じられるかは分からない。

 

 おそらく天性の感性だけでいえば似通っていたりするのだろう。

 渚の知ったところではないが。

 

 

「ん? 作品は出来てんだ。じゃあなんでせっせか部活に励んでんの、あいつ」

「み、水桶さん、新しい絵を描いてますので!」

 

「ん? 摩弓。あんたも美術部行かなくていいの?」

「早く行きすぎると部長と水桶さんのツーカー言語で心を打たれるの……!」

 

「よく分かんないコトになってんな美術室……」

 

 天才及び感覚派特有の言語に意思を重ねた新手のコミュニケーションだ。

 

 使い手はいまのところ名門星辰奏の中でもふたり以外に存在しない。

 むしろふたりしか存在しないが故に成立している可能性すらある。

 

 最近はどちらからともなく飲み物を差し入れたり、絵の具をノールックで渡したり、お菓子を適当に相手の口へ放りこんだりとエスカレート気味。

 

 三つ目に関しては渚に知られた場合一週間は拗ねるので注意が必要だった。

 まあ本人がその真実に気付いていないのでそう遠くないうちに露見するだろうが。

 

 

「――優希之さんは見に行った? 水桶の絵」

「ぁ、えっと……、……まだ、かな……」

「そっか。そうだよね。優希之さん芸術の科目選択音楽だし」

「音楽組は美術室あんまり行かねーもんな。とくに用事ないし」

「とくに女子は海座貴のギターに聞き惚れてるしな」

「そのギター、優希之嬢自身の手でそこに伸されてんだけど」

 

「海座貴ー、大丈夫かー? 聞こえるかー? 声出すか瞬きしろー」

「……っ、……!」

「無事だな、ヨシ!」

 

 ぺしぺしと叩かれて生存確認されるイケメンはシュールだった。

 どことなく憐れでさえある。

 

 これで暴力を振るった相手が少しでも気にしていれば甘酸っぱさもなにも別なのだが、下手人はいまだ冷めた目で蹲る男子を見る始末。

 有罪か無罪かでいえば情け容赦なく貴様は〝ぐー〟だ、とでも言わんばかりの視線だ。

 

 わざわざいちいち煽ってこられては彼女もたまったものではないので。

 あと申し訳ないコトに行き場のない鬱憤を吐き出すのにちょうど良いので。

 

 

「しかし新しい絵って、どんなの描いてんの。風景画?」

「んー……あれは、なんだろ……、……笑ってる、女の人かな……?」

「ちなみに特徴は」

「銀髪とかならビンゴだな」

「え、あ、普通に髪は黒っぽかった気が……?」

 

「――――だははははっ! ドンマイ、優希之っ!!」

 

「あ、海座貴が復活した」

 

「っ!!」

「こ゚っ!」

 

「また沈んだ」

「命って儚いんだな……」

 

 

 都合四度目になる鉄拳制裁。

 

 それは呵々大笑と声を上げる男の腰を折り、人の夢のごとく砕け散らせた。

 

 悲しいかな、よもや渚専用サンドバッグと化しているイケメンである。

 じゃれ合いの範疇なので渚も本気ではないのだが、回数を重ねればそれなりに痛手だ。

 

 ……尤も、回数を重ねずとも三葉(しょうねん)は満身創痍なのだが致し方なし。

 

 満面の笑みでいじってくる顔の良い男子は大抵の場合敵としてよろしい。

 

「……大体、海座貴くんだってこんなところで油売ってる暇、ないと思うけど……」

「――っ、ぁ……? なにが……?」

「…………好きなコトやるの、学園の三年間がミソなくせに」

「――――なんで優希之がそれ知ってるかなぁ……」

「別に。……たまたま耳にしただけ。それに()()()関係ないし」

「言ってくれんなあ、おい……そりゃそうだけども……」

 

 ぶつくさという三葉に、渚が堪えきれず苦笑を漏らす。

 

 本来の形なら彼女の言うコトは間違っている。

 

 関係がない、なんてコトはないのが()()()()()()()()()だ。

 学園でいちばん初めに出会うふたりは同じ学年の同じクラスにつき十分特別な間柄に発展していく。

 

 それは目の前の気心知れた者同士のど付き合いなんかでは断じてない、もっと洗練された鮮やかなばかりの交わりと言ってもいい。

 

 だからこそ現実は違っている。

 

 彼女は優希之渚(かのじょ)であるだけで。

 そうすると彼は海座貴三葉というだけの男子なままだ。

 

 その道が開かれるコトは、この世界線に於いて遠くありえない。

 

 のだが、

 

 

「おーおー、これが新手のツンデレか?」

「ツンデレというかツンドラというかツン(物理)デレ(溶解)というか」

 

「男ふたりで美少女取り合うのは鉄板だよな」

「なんだなんだ不倫か? いけないなー、優希之さんそれはいけない」

 

「誰かこっそり伝えてみろ。水桶の珍しい嫉妬が見れるかもしらん」

「み、水桶さんの嫉妬(ジェラシー)!! 見たい……!」

「摩弓。あんたのスイッチが最近分からないよ、もう」

 

 このとおり外野は好き勝手騒ぎ立てていた。

 

 一部は英才教育を受けた名のある家系。

 一部は普通に試験を切り抜けた優等生。

 一部は素の学力で席を掴んだ才能の塊。

 

 そんな一年一組の諸君であるが、おおよそ順応性も高かったらしい。

 たぶん学内で余裕のある立場というのが大きく関係している。

 

「……オレいやだよ。こんな暴力的な恋人」

「私、海座貴くん、キライ」

 

「喧嘩するほどなんとやらっていうよね」

「実はお似合い? 美男美女?」

「NTRだ! の、脳がッ」

「肇くんかわいそうに……、……傷心につけ込んだらワンチャンいけるな、コレ」

「ないない。ないよ。たぶんない。……ないと良いなあ……」

 

 まあ、そういった冗談の類いはともかく。

 ちょっとだけ気持ちも前向きで、勇気もわいてきた渚からすると件の話は気になった。

 

 どれかなんて言うまでもない。

 

 もちろん彼が女性の絵を描いているというあたりである。

 

 しかも黒髪の。

 銀髪じゃなくて。

 

 ……いや別に肇の作品なのだから黒だろうが白だろうが銀だろうが金だろうが好きにしていいのだが。

 

 

 

(…………ちょっとだけ、見てみたいかも)

 

 

 

 興味本位で、と。

 

 少女はほんの少しだけ心を揺らす。

 

 それはなにも予感していない純粋な思念そのもの。

 彼の思い描く女性像を見てみたいだけという、ありきたりな心持ちからだ。

 

 だからだろう。

 

 彼女は気付けない。

 気付けるハズなどない。

 

 それは()()()()()()()()誰かと分かっても、どこの誰なのかまでは分からない。

 

 ……好奇心は猫をも殺すという。

 

 だとするなら、そこに好奇を抱いた彼女の行く末は――――

 

 

 







……………………。
(粘土板を二枚持って大人しく正座している)


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48/最後の色彩

 

 

 

 

 ――カリカリと、ペンを走らせる音が響く。

 

 星辰奏学園本校舎三階。

 第一生徒会室。

 

 放課後、役員の手伝いで呼ばれた渚は書類の整理と一部のまとめを頼まれた。

 

 難しいものではなく、時間さえあれば簡単に片付けられそうな仕事である。

 

 いくら入試首席とはいえ彼女だってまだまだ新参者の一年生。

 そのあたり経験の有無を考えての割り振りなのだろう。

 

「――――、」

「…………、」

 

 生徒会室はやけに静かだ。

 普段使う教室と少し離れているのもあって喧噪は遠い。

 

 もともと人通りが少ない廊下なので人気もそこまで。

 

 加えていうなら現在、室内には渚ともうひとり――生徒会長だけだった。

 

 顔見知りで喋ったコトもあるとはいえ親しいとは言い難い相手である。

 当然ながら会話に花が咲くワケもあらず。

 

 結果、お互い無言のまま手を動かす時間が続いていく。

 

(………………なんか、気まずい……)

 

 ペンを淀みなく動かしながら、渚は胸中でぽつりとこぼした。

 

 その場の空気か雰囲気か。

 

 彼女自身静かな環境には慣れていないハズもないのに、どうしてか落ち着かない。

 集中できる状態、真剣に取り組める条件であるのに心地よさは皆無。

 

 ……当たり前のコトだけれど。

 

 知らない誰かとふたりっきりでリラックスできるのは一部の人間だけだ。

 大半の人は警戒、ないしは緊張するもので、渚の反応は別に変なものじゃない。

 

 彼女は正しく他人との隔たりを味わっている。

 

(別にこういう感じも嫌い、とかじゃなかったと思うんだけど……)

 

 思い起こされるのは一年前。

 

 毎日のように通っていた塾の自習室。

 人気もなく、閑散としていて、もっぱらペンの音だけが響いていた懐かしの空間。

 

 けれど彼女はそこに向かうのが嫌いではなかった。

 

 居心地だって最高だった。

 

 いつもの何倍も集中できて、いつもの何倍も勉強は捗って。

 そしていつもの何倍、気分を上げさせてくれる日常の休憩場。

 

 肇と一緒に居るときですらそれは変わらなかっただろう。

 

 いやむしろ、途中からは彼が来るからこそ足を運んでいたぐらいなもので――

 

(――っ、やめやめ。余計なコト考えるな、私……っ)

 

 よしと気持ちを切り替えながら、渚は作業に意識を戻した。

 

 相変わらず空気は固い。

 生徒会室は息の詰まる静けさに支配されている。

 

 理由をつけるならそれはたぶん、相手のコトを知らない事情からくる気まずさだ。

 

 初対面だから、よく分かっていないから、まだぜんぜん慣れないから。

 だから居心地も微妙で落ち着けずにいる。

 

 ……だというのなら。

 

 それなら一体どうして、()()()()は最初から馴染んでいたのだろう――?

 

 

 

「――――優希之」

「っ、ぇ、あ、はい!」

「手が止まっているようだが」

「す、すいません!」

「いや、良い。少し休憩しよう。根気を詰めすぎても効率は悪い」

「……はい」

 

 パソコンを打つ手を止めて会長――聿咲陽向が席を立つ。

 

「コーヒーと紅茶と緑茶と中国茶があるが、どれがいい?」

「あ、いや、大丈夫です……」

「遠慮するな。こういうときのためのティーセットと給湯器だ」

「…………そ、それじゃあ、紅茶で……」

「砂糖とミルクは?」

「い、要らないです……」

「わかった」

 

 テキパキとした動作でお茶の準備をしていく陽向。

 

 その動きは洗練されていて淀みがない。

 二年生――前年度では一年生――ながらも会長職にまで上り詰めた実力は折り紙付き。

 

 彼自身のスペックは攻略対象なの(とある事情)もあって相当に高くある。

 

 かといってそこらの女子よろしくとめいたりはしない渚だったが。

 

 この主人公(ヒロイン)、フラグの悉くを凍てつかせていた。

 雪の女王の渾名は伊達じゃないらしい。

 

 たぶん。

 

「ほら」

「……ありがとうございます……」

「ん、いい。構わん、ついでだ」

 

 そういう陽向は彼女とは違って湯呑みを片手に持っている。

 匂いからしておそらく緑茶だろう。

 

 渚の机にはティーカップに淹れられた紅茶。

 

 どちらも茶葉から煮出したのではなくティーバッグだ。

 

 お味のほどはまあ、それなりに。

 良すぎはせず悪すぎもせずと言った感じの味わい。

 

「……そういえば。優希之は水桶と仲が良かったな」

「へぇっ!? あ、や、その……まあ……?」

「彼の作品は見てみたか」

「い、いや……まだ、ぜんぜん……」

「……そうか」

 

 ずず、と湯呑みを傾ける生徒会長。

 

 渚が初めて会ったときからだが、どうにも彼は肇に並々ならぬ関心を持っているらしい。

 その証拠にこうやって、生徒会のお手伝い中にぽつぽつと話題に上がったコトがある。

 

 うっすらと前提知識(ぜんせのきおく)が残っている彼女からすると分からなくもない理由(ワケ)

 

 ――聿咲陽向は優秀な人間だ。

 

 成績は堂々の学年トップ。

 身体能力にしても去年の星辰競祭――他でいう体育祭――では出場した殆どの種目でぶっちぎりの一位だったという。

 

 性格だって真面目で人となりも悪いワケじゃない。

 

 多少固いところもあるが、概ね酷くできた人間というのが周囲からの彼の評価。

 おまけに顔も良いとくればそりゃあ女子人気だって爆発する。

 

 言わずもがな、それも含めて生徒の代表に無事当選したのがなにより証明していた。

 

「……優希之は絵の価値が分かるか?」

「いえ、そんなには……」

「水桶のような相手を近くで見るのはどうだ」

「…………どう、って……?」

「嫌にならないか、と訊いている」

「……別に、なりません……けど……」

「まあ、だろうな」

 

 文武両道、容姿端麗、質実剛健。

 

 その上で己の力量を傲るのではなく、誰かと手を取り合うことを重視する。

 同じ場所に在る人なら繋がるべきだろう、と彼はよく言う。

 

 それがなにより関係性を大事にしているが故のコトだと彼女は前から識っていた。

 

 だからいま、その表情に入る微かな苦味も。

 知らないコトだといえば嘘になるワケで。

 

「俺には芸術的センスがない」

「……そう、ですか」

「ああ。さっぱりだ。なにが良くてどこが良いのかまったく分からん。どれも同じようなものだろうと思ってしまうぐらいだ」

「………………、」

「が、彼……水桶肇の絵は相当だ。俺でさえそれは分かった。姉貴に言われて見に行った価値はたしかにあったな、あれは。一度覗いてみるコトを勧めるぞ」

「……クラスの子にも似たようなこと言われましたけど」

「それほどのものなんだ、たぶんな」

 

 なにせあの姉貴が絶賛している――と語る声は平坦そのもの。

 

 陽向の芸術、美術に向けられる想いはたしかに覚えている渚だ。

 

 産まれた場所さえ違ったのなら縛られなかっただろうコトも。

 いつかのときに体験(プレイ)して、同じ芸術家を姉弟に持つ人間としてまったく共感できなかったコトも。

 

 だからきっと、彼に関しては会う前から警戒する必要もなかった。

 

 すでに三葉や馨に会っていたというのもあるけれど。

 記憶にあるとおりの人物に近いのなら、絶対に馬が合うわけはないと確信していたから。

 

「……会長は」

「? あぁ。なんだ」

「お姉さんが嫌いですか」

「――――いや、嫌いじゃない。色々と苦手ではあるが」

「……それは絵が描けるからですか」

「それもある。……が、大部分はあの性格だぞ。いつもこっちが振り回されるんだ」

「――――なら」

 

 ふと。

 そこで気になって。

 

 よせば良いのに、確かめたくて。

 

 彼女は口を開いた。

 

 

「もしもお姉さんが絵を残していなくなったりしたら。会長は、どうしますか?」

 

 

 なんでもないように。

 明日の話をするように渚は彼へ問いかける。

 

 それに一体どう思ったのか。

 

 ぴたり、と。

 

 湯呑みを持っていた陽向の動きは一瞬止まった。

 

「……急に嫌な話をするな、優希之」

「喩え話です。……遠い親戚に、絵が売れないまま早死にした画家がいるので」

「ああ、そういうコトか。御愁傷様だ」

「いえ……もう済んだ話ですので」

 

 厳密にいうなら遠い家族だ。

 もっというなら遠いというのも物理的なモノとは違う表現。

 

 けれどそれ以外はまるっきり真実である。

 

 彼女の知るところに早死にした画家は、たしかにいた。

 

「……そうだな。一枚だけ取っておいて、あとは寄贈するか……売るかはするさ」

「……良いんですか? お姉さんの描いたものなのに……」

「だが姉貴の生きた証は酷く知れ渡るだろう。大勢に覚えてもらっているというのはそれこそ喜ばしい。画家なら尚更、誰からも忘れられるよりずっと良い」

「……顔も知らない他人がそれを持っていたとしても、ですか」

「顔も知らない他人が知っているぐらい、俺の姉貴(かぞく)が凄いというコトだろう?」

 

 そうやって笑う陽向の表情はどこか自信に満ち溢れている。

 

 彼が絵に対してコンプレックスがあるのは見てとれる。

 現在進行形で若くして画家の才能を遺憾なく発揮する姉は、それこそ苦手な相手としてもしょうがない。

 

 だが同時に、強く宣言するぐらい嫌いではないとも言っていた。

 

 そのあたりの強さか、誠実さか、はたまた割り切った人間の気持ち良さか。

 自分と同じ両親のもとに産まれた人は凄いのだ、と。

 

「大体、姉貴が死んだとして作品を全部独占なんかしたらきっと化けて出る。どうして私を有名にしない、だからおまえは絵描きの素質がないんだー……とか言ってな」

「…………そういう、ものなんでしょうか……」

「そういうものだよ。よく言うだろう。誰かが覚えているかぎり、人の記憶の中で生き続けるんだ。俺たちはひとりじゃない。だから繋がるものがある」

 

 そうして陽向は、薄く微笑んで。

 

 

「それは素敵なことだと思わないか、優希之」

 

「――――私、は…………」

 

 一部の隙もない笑みにグッと黙り込む。

 

 ……どうだろう。

 

 彼女にはその正しさが知識として理解できる。

 彼の言っているコトの素晴らしさが常識として受け止められる。

 

 けれど、感情として納得できるかは別問題。

 

 翅崎彩斗はたしかに凄かった。

 

 渚の知らないところではあるが、死後父親の尽力もあって芸術の分野では後世にまで長く名が残ったほどだ。

 実際の作品があったならもっとずっと有名になっただろう。

 

 でも、そうはなっていない。

 

 ここにも、

 果ては向こうにも、

 

 すでにどこにも――彼の凄さの証明は実在しない。

 

「……私は。大事な相手のものだったら、誰かに渡したくありません……」

「そうだな。そういう答えもあるだろう」

「…………それで名が売れるとしても、近くに置いておきたいです」

「それもまたひとつの考え方だ。別に正解なんてないからな」

「………………、」

 

 だから、彼女は。

 

「さて、そろそろ仕事に戻るぞ。優希之。あと少しだ」

「……はい」

 

 渚は紅茶を飲み干して、いま一度ペンを握り直す。

 

 何事もなければ残るものとして彼の死後も現存したはずだ。

 価値がなければ残さざるを得ないとして残り続けたはずだ。

 

 思い入れなんてなければ消えるまでもなく散らばったに違いない。

 

 様々な要因が重なった上での末路。

 

 燃え滓になった灰の温かさは万人にとってただの残骸。

 それでも彼女にだけは形を変えても胸に響く彼の残滓だった。

 

(………………、)

 

 思い出はかくも儚く千切れていく。

 

 その中で残るものを必死に守ったつもりでいたけれど。

 

 ああ、今更になって――こんな風になって――冷静になって――

 

 不意に向き合ってみればその後ろ暗さに足を引っ張られる。

 

 落ち着いた心持ち。

 余裕を抱いた精神状態。

 

 柔らかくなった過去の痛み。

 

 それは彼女本来の性質の目覚め。

 

 ……そう、であるのなら。

 

 ――――陽嫁(わたし)は一体、弟になにができていたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 生徒会の手伝いが終わると結構な時間が経っていた。

 あたりはすでに夕暮れの色を越して暗くなりつつある。

 

 校舎のなかに人気はない。

 最終下校時刻まではおよそ十五分ほど。

 

 つい先ほどまで響いていた吹奏楽の練習音も、演劇部の喧噪もいまは途絶えている。

 

 廊下も教室もとても静かだ。

 

 

「――――あッ!」

「……?」

 

 

 と、渚が帰ろうかと階段を降りていたとき。

 偶然階下の廊下でクラスメートの姿を見かけた。

 

 肇と仲の良い美術部の女子である。

 

 たしか名前は――――

 

 

「……姫晞さん?」

「っ、おのれ優希之渚(ぎんぱつびしょうじょ)……!」

「え」

 

「こらこら摩弓ちゃん。どうどう。あ、優希之さんお疲れー。生徒会終わったの?」

「あ、うん……いまさっき、ちょうど……」

「そっかそっかー」

 

「ん、何事よコレ。……お、優希之だ。珍しいー」

「ほんとだ。渚ちゃんがこんな時間までいるの滅多にないね」

 

「まあ……帰宅部だし……」

 

 

 ぞろぞろと追加で並んでくる美術部員一同。

 

 鞄を持っているあたり、どうやら彼女らもちょうど帰るところだったらしい。

 

 ……そうと分かった瞬間、無意識のうちのどなたかを探してしまったのはよっぽどやられている渚だからだ。

 

 

「あ、肇くんならまだ美術室いるよー、もうちょっとだけやりたいって」

「えっ、あ、そう……なんだ……」

 

「なんか力の入れよう凄いよな、マジで。鬼気迫るっつうか……」

「本人曰くあれでも抑えめらしいぞ。本当はもっとできるとかなんとか」

「なにそれ意味不明。部長も水桶も一体なに星人なの」

「お絵描き星人カイーガー」

「ネーミングが雑」

 

 

 騒ぎ立てる部員とは対照的に、渚は少しだけ複雑そうな表情をする。

 

 文字通り二の足を踏んでいて。

 

 彼女としては美術室は苦手な要素の巣窟だ。

 絶対に入れないというほどはないけれど、進んで足を踏み入れたくはない感じ。

 

 なにより今まで寄りつく理由もなかった渚は完全な部外者。

 

 ここで彼が居るから、と好き勝手突っ込んでいくのはアレな気がした。

 

「――――ゆ、優希之渚っ!」

「っ、ぇ、あ……な、なに……姫晞、さん……??」

「あ、あなたが水桶さんのっ、よ、よよよ嫁だと言うのならっ」

「――よ、嫁じゃないけどっ!?」

「と、とにかくっ! ……作品、見てください。それだけ、ですっ」

 

 ふんすっ! と息巻いて踵を返しつつ、摩弓はトテトテと階段を降りていった。

 

 同じ絵描きとして渚の言に思うところがあったのだろう。

 

 彼と近しくなるつもりならどういう絵を描くかだけでも見ておけ。

 

 内容に差異はあれど、要はそう言われたようなものだ。

 たしかに芸術家であるのならとりわけ大事なコトなのかもしれない。

 

 一介の女子高生である渚にはあまりピンとは来なかったが。

 

 来なかったのだが――いちおうというか、なんというか。

 理由自体はこうして出来上がってしまったワケで。

 

 

「あーもう、待ちなよ摩弓ちゃん! ――っと、優希之さんもじゃあね! 美術室、まだ開けっ放しだから!」

「見たほうが良いのは同感だなー。まじですげーもん、あれ」

「完成品もいま描いてるやつも上手いよね」

「上手いって言うか、化け物? 部長然り水桶然り、ああいう人らって何食ってればあんなの描けるんだろうねー……」

 

 

 やいのやいのと騒ぎつつ美術部の面々は去っていく。

 

 残された渚はただ呆然と廊下の先を見詰めている。

 

 大勢の人間に色々言われている画力。

 

 本人の認識だとそれほどでもないと言っていたのを彼女も聞いていた。

 

 中学生のレベルだから。

 いまの年齢だから評価される程度のものだと。

 

 だが実際はどうなのか見ていない渚には判断つかない。

 

 なら、そのあたり確かめてみるのもありと言えばありだ。

 

(…………仕方、ないかぁ……)

 

 あれだけ言われてしまったものだし。

 気持ち背中を押されたようでもあって。

 

 本当に仕方なく。

 

 しょうがなく――美術部のほうへと足を向ける。

 

 カツカツと校内に響いていくひとり分の靴音。

 

 やはりというか、いまから()()に行くというのに気分は沈まなかった。

 むしろちょっとだけ楽しみであるぐらい。

 

 かつて己の手で命を絶つまで深かった心の傷。

 正常性も理性もなにも歪ませた根源の闇。

 

 それがいまは触って握り込めるほどに優しく柔らかだ。

 

 心境の変化によるものだろう。

 (かれ)によるものだろう。

 

 ここまでのコトをしておいて未だ友人関係というのだから――本当、笑えてくる話だ。

 

 こう、複雑怪奇にない交ぜになった心理状態で。

 

 

「――――……、」

 

 

 カツカツと。

 

 靴音は寂しく響いていく。

 

 距離は瞬く間に縮まっていく。

 

 学園広しといえど同階の教室に向かうのはそこまで時間もかからない。

 

 気付けば目的地は見えていた。

 

 扉は中ほどまで開かれていて、線のように光が漏れている。

 

 美術室はもう目前。

 

 そこまで来て足取りは弛むことなく。

 意識が乱れることもなく。

 

 ただ真っ直ぐに、穏やかな心に従って。

 

 ――――少女は、懐かしい匂いの広がる空間に入り込んだ。

 

 

「……あら? 一年の」

「っ、お、お疲れさま、です……」

「お疲れ。なに、用は(あいつ)?」

「ぇ、あ、っと……いちおう……」

「ん、了解。別に邪険にしないから勝手になさい」

「……あ、ありがとう、ございます……」

 

 ひらひらと手を振って部長――彩が準備室のほうに入っていく。

 引っ張り出した資料や画材なんかを仕舞う為だ。

 

 見慣れない教室の中。

 

 鼻孔をつく絵具やオイルの匂い。

 それに心は跳ねたけれど、でもそれだけだった。

 

 ――かつ、と歩を進める。

 

 彼は窓際の席で、まだキャンバスを構えて筆を走らせていた。

 内容はちょうど肇の身体と被さる位置でよく見えない。

 

 渚はゆっくりと、その距離を詰めていく。

 

 

「――――肇くん」

「……ん、渚さんだね。この声は」

 

 

 振り向かずに少年は答えた。

 

 手は止まらない。

 それだけ彼は目の前のコトに夢中になっている。

 

 反応したのは偏に()()()()()()だっただけかどうか。

 

 ……彩斗(おとうと)はあまりしなかったな、と軽い心地で思い出す。

 

 

「うん、私。……もう遅いよ。帰らないの」

「帰るよ。もうちょっとしたらね。……優希之さんこそ、なんでこんな時間まで?」

「私は……生徒会の手伝いが長引いて」

「あー、そっか。なるほどなるほど」

 

 

 うんうん、と得心いったように頷く肇。

 

 それでも彼は振り向かない。

 それでも手は動き続けている。

 

 不思議なのは態度の悪さと反して声音が色味の乗ったものだというコトだ。

 

 無論、彼にとっては蔑ろにしているワケじゃないので。

 

 ……そんなものだから、やっぱりなんとなく渚は気になった。

 

 

「それ、なに描いてるの……?」

「俺の忘れ物」

「……忘れ物……?」

「そう。あと少しってところでずうっと放っておいた作品。それを仕上げてる」

「へぇ……」

「一時期の俺の、()()()を込めた一枚だよ」

「そう、なんだ……」

 

 

 〝どれどれ――――〟

 

 

 ふぅーん、なんて反応をしつつ、渚は後ろから――肩から覗き込むような感じで――彼の絵を視界におさめた。

 

 

 

 

 

 〝――――――――〟

 

 

 

 

 

 ――――それは、

 

 

 ――真っ白な、

 

 ともすれば  (くうはく)そのものな、

 

 目と、頭蓋と、脳みそと、

 すべての間に空間をねじ込まれたような錯覚。

 

 あまりにも意識を曇らせる衝撃。

 

 

 

 〝――――なんで

 

 

 

 かつん。

 

 靴音はいやに高く響いた。

 無意識のうちに渚は足を引いたらしい。

 

 一歩分だけ彼女が後退る。

 

 それに彼は気付いたかどうか。

 

 

「あと少しで完成するんだ。出来たら、そうだね。渚さんにあげる」

「――――ぇ、ぁ……あ……っと……、」

「……嬉しくない?」

「そんっ……な、こと……なく、て…………、」

「じゃあ、是非持っていてほしい」

 

 

 わからない。

 

 ……わからない。

 

 いまの渚には、もう、なにも――――

 

 

 

 

 

 

 

「――――な、なまえ……」

「ん?」

「……そ、その……絵の、名前……タイトル、とかって……」

「ああ。もう決まってるよ、うん」

「それ、は――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

「〝陽嫁(はるか)〟」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――ひときわ高く。

 

 この世に生まれていちばん強く。

 

 心臓が、跳ねた気がした。

 

 

「この絵のタイトルは、〝陽嫁〟っていうんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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49/願ってもいない奇跡

 

 

 

 

「この絵のタイトルは、〝陽嫁(はるか)〟っていうんだ」

 

 

 渚のほうを振り向かずに肇はそう言った。

 

 彼は熱心に筆を握り続けている。

 その集中力は彼女が話しかけていても淀みない。

 

 会話と描画を上手く自分のなかで両立させているのだろう。

 そういうところが出来るあたり、なんとも素質の高さが垣間見えた。

 

 ……同時にそれは。

 

 リソースを割けるほど安定しているという、焼き直しによる熱意の薄れでもあって。

 

 

「はる、か……――――」

 

「うん。最初から決めてた」

 

 

 ……かつん。

 

 渚が足下をふらつかせる。

 

 姿勢が安定しない。

 視界は鮮明ではっきりしているのに、どうにもぐらついて曖昧だ。

 

 わからない。

 

 なにがどうで、どれがなんで。

 いまの目の前の状況がどういうコトか。

 

 頭では理解して当然のハズなのに――心が受け入れるのを拒んでいる。

 

 偏に。

 

 その衝撃が、あまりにも。

 

 

「ひとりの終わり。だれかの結実。でもって、ひとつの訣別かな」

「――――、……けつ、べつ……」

「そう。だからこれが……これだけが、ぜんぶの終わりだ」

「――――――――」

 

 

 かつん、かつん。

 

 膝が震える。

 足下はおぼつかない。

 

 アルコールでも摂取したみたいな奇妙な酩酊感。

 脳みそから中身ごと揺らされているような平衡感覚の喪失。

 

 わからない、わからない、わからない。

 

 だってそれは。

 

 その絵は。

 

 此処には――

 

 

 ――いいや、どこにだって存在しない。

 

 いつかの彩斗(おとうと)が描いた、最期の一枚そのもので。

 

 

「本当にあとちょっとだったんだ。もう一筆二筆ってところで、描けなくなってた」

 

 

 ぐちゃぐちゃの心模様。

 ミルクを注いだ珈琲みたいに混ざり行く意識の中。

 

 彼の言葉に渚の奥深くから記憶が浮かび出す。

 

 忘れもしない寒い寒い冬のある日。

 長い眠りについた姉弟(かぞく)は、命を手放したあとも筆は離さなかった。

 

 

「それがこうやっていま仕上げられる。そこは有り難いかもね。大した未練ではないけれど、小っちゃくたって後悔は後悔だから。……うん、そこは良い」

 

 

 そのときのキャンバスに飾られていた絵が。

 死んだ彩斗(おとうと)が最期のひとときまで描き続けた最終作が。

 関わり合いもなにもない現在(いま)のこの瞬間。

 

 彼女(なぎさ)の目の前で、(はじめ)によって描かれつつある。

 

 揺れる視界。

 霞む意識。

 

 曖昧でぼやけた自分(あたま)で何度見てもそれは現実だった。

 

 ……間違いない。

 

 見違えるハズもない。

 なにより彼女が彼の絵を見て気付かないワケがない。

 

 ましてや一度過去(ぜんせ)でほぼ完成したモノを見ているなら尚更。

 

 

 

 〝――――――なん、で……〟

 

 

 

 かつん、かつん、かつん。

 

 蹈鞴(たたら)を踏む。

 

 いや、実際はどうか。

 

 前後不覚に陥った渚はもうどこが前でどこが後ろかも分からない。

 なにもかもが理解の外。

 

 頭脳は拒むように鈍い痛みを訴えている。

 

 いやな心臓の鼓動が止まらない。

 息が苦しい。

 

 水中にいるような感覚に空気を求めてあえぐように呼吸する。

 

 ただ、そう。

 

 明確に、冷静に。

 

 正しく分かっているコトがあるとするなら。

 

 

 

 〝――――――――なんで〟

 

 

 

 その絵には見覚えがあって。

 その姿には重なるものがあって。

 その言葉には通ずる部分があって。

 

 その雰囲気には――たしかな答えが隠されていた、というコト。

 

 

「だから、楽しみにしてて」

 

 

 絵を描き続けながら肇はそう言った。

 

 渚はもう瞠目するしかない。

 

 音は同じく。

 響きは等しく。

 

 別人のはずの彼の背中に、記憶の中の影が被さる。

 

 ――――かつん。

 

 踵が床を叩く。

 

 

()()()()()

 

 

 

 〝――――――――――〟

 

 

 

 ぱん、と。

 

 軽い発砲音じみた衝撃が身体に走る。

 

 冗談じゃなく。

 比喩ではなく本当に、渚は脳みそが弾けたと思った。

 

 

 ――――かつん、かつん。

 

 

 頭がさっぱり回らない。

 思考回路がぜんぜん動かない。

 

 全身に異常がないところなんてないぐらいだ。

 

 

 ――――かつん、かつん、かつん。

 

 

 血液は沸騰している。

 脈打つ血管はいまにも千切れそうなほど。

 

 心臓だって気を抜けばすぐにも破裂するだろう。

 

 

 ――――かつ、かつ、かつ、かつ。

 

 

 胃液は逆流していた。

 

 頭が痛い。

 

 眼球が乾きすぎてぽろぽろと崩れそうだ。

 

 手足は痙攣している。

 喉も痺れたように引き攣ったまま。

 

 声だってもうぜんぜん。

 

 

 ――――かつ、かつ――たん――――

 

 

 なにもできない。

 なにも発せない。

 なにも反応できない。

 

 その中でも足だけが真っ先に動いた。

 

 脳髄が復帰するより前に爪先が大地を蹴る。

 

 彼に向かってではなく。

 近付くためなんかじゃなく。

 

 身体は倒れこむよう、出入り口の扉を抜けていく。

 

 

「――――――――ッ」

 

 

 ばたばたばた。

 

 泥のように駆けていく。

 陸に打ち上げられた魚か死んで生き返った屍体(ゾンビ)みたいに。

 

 無様に手足を振って、ぐしゃぐしゃに崩れそうな様子(フォーム)で、彼女はひと息に階段を下っていく。

 

 頭の中は真っ白だ。

 

 意識が飛んでいるのでない。

 本当に、本気で考えるというコトができない。

 

 わからない。

 

 こわい。

 

 ありえない。

 

 しんじられない。

 

 自我が壊れそうだ。

 そんな、今までのすべてを打ち砕くほどの真実。

 

 

 

〝――――ッ、――――……っ!!〟

 

 

 

 ……()()()()()は見つかった。

 

 彼女がもう二度と手に入らないと思っていた宝物(キセキ)は近くにあった。

 

 それは姿形が変わろうとも関係ない。

 目に見える価値だけを尊んでいたワケじゃないからだ。

 

 彼女が惚れ込んだのはすべてを含めたその本質。

 

 なればこそ、それは彼にとって当たり前に備わっていてしまった。

 

 

 

〝――――ぁ、――――あぁ〟

 

 

 

 大切だった。

 大事だった。

 

 ずっと引き摺っていた。

 ずっと割り切れていなかった。

 

 彼のすべてを彼女は愛していて。

 彼女のすべては彼に捧げたいと思ったほどだ。

 

 

 

〝あ――ぁ、あ――――あぁあ――――っ〟

 

 

 

 失って酷く傷付いた。

 無くすまでもなく代え難いと分かっていた。

 

 当然のコト。

 

 それでも天はふたりを引き裂いていって。

 

 だから彼女は以前のような陽光(あかるさ)夜闇(くらさ)に沈んでいる。

 

 そこをなんとかようやく、最近になって取り戻しかけていたのに。

 

 

 

〝あ、あぁあ――――あぁあぁあああ――――ッ〟

 

 

 

 二度目の人生を救った彼が。

 手を引いてくれた明るい太陽(ほし)が。

 

 

 ――――好きになった(ひと)が、彩斗(おとうと)だった。

 

 

 この(いのち)に深く刻み込まれた、最愛の家族(あいて)だった。

 

 

「――――――――ッ」

 

 

 

 

 

 

 

 その後についてはもう渚も記憶にない。

 どこをどう通ってどう行ったのかも一切不明。

 

 無我夢中に走って、ただがむしゃらに駆け抜けた。

 

 息が切れても倒れそうになっても遮二無二手足を動かした。

 

 彼女が意識を取り戻したのは家の玄関の前。

 

 心配そうにこちらを見詰める母親が顔を出したところで、やっと帰宅したのだと認知できたらしい。

 

 まともに返事をする気力なんて、それで残っているはずもなかった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 少女が走り去ったあと。

 

 引き留める間もなくあっという間に教室から出て行ったのを確認して、肇はちいさく息を吐いた。

 

 それまで動きっぱなしだった手を止めて、ゆっくりと扉のほうを見詰める。

 

「……やっぱり」

 

 くすりと、全部分かっていたように彼は笑う。

 

 いつか彼女がここに顔を出すコトも。

 目の前の作品を見ればどうなるのかというコトも。

 衝撃を受ければどんな反応をするかも。

 

 そして――その最奥に在る秘密の正体すらにも手をかけていたとでも言わんばかりに。

 

「え、なに。逃げられてんの肇」

「ちょっと見せびらかしてまして」

「はー、なるほどねー……あんたらって複雑よね」

「かもしれないです。俺は違うんですけど」

「そりゃあんたが肇だからでしょ」

「まあ、はい」

 

 軽く笑いながら肇が筆を置く。

 

 その会話に重ねられた真意は語るまでもない。

 事実を知ったとして思い悩むコトこそあれど、彼は苦痛に歪まなかった。

 

 ただそれだけ。

 

 一分の隙もないだけに心の在り方は強固だ。

 

「すべては感覚と実感ですから」

「あらまあ、なんとも真理。嫌いじゃないわね」

「ごめんなさい」

「うっさいっての。大体、無視されてんでしょうに」

「……そういうんじゃないですケド」

「ふん。あっそー」

 

 ふいっとそっぽを向く部長に肇は苦笑した。

 

 切欠はなんてコトのない日常の一幕から。

 気付きは彼らしくその熱の高まりようである。

 

 再起の原因。

 彼にとっての原初の燃料。

 

 そんなのはたったひとりを除いて他にいない。

 

 ならば答えなんて簡単に掴めたコト。

 そも、音もリズムも名残も重なりも関係なかった。

 

 彼女の傍にいて彼が描きたいと思った時点で、答え合わせは終わったようなものだ。

 

「関係ないんです。俺らは赤の他人なので」

「……よく言うわよ、まったく」

「だってそうじゃないと失礼なので」

「律儀ねー……いやはや馬鹿の所業だわ」

「ありがとうございます」

「やりやすくて助かるわ、あんた」

 

 会話のリレーはテンポ良く。

 

 言葉に込められた意味は二重にも三重にもなっていた。

 正真正銘、肇と彩でなければ成立しないやり取りである。

 

「――だって、渚さんですから」

「…………あっそ」

 

 もう一度彼はちいさく微笑む。

 

 冷静に考えれば分かるコト。

 もっと言うなら考えなくても自ずと出てくる答え。

 

 すべての記憶とすべての感覚が肇の中でそれを告げている。

 

 肝心なのは薄れゆくモノではない。

 いまにたしかに在るべき色と形だ。

 

 彼はとっくに分かっていた。

 

 その心の矛先は間違いでも勘違いでもないだろう。

 

 なにせ戸惑うまでもなく。

 

 ここまで来て笑い合ったのは、

 穏やかな時間を過ごしたのは、助け合ってきたのは、思い出を重ねて来たのは、

 

 好きだと思えているのは――――

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 ばたん、とベッドに倒れる自分をどこか遠く思いながら、渚はようやくひと息ついた。

 

「――――――、」

 

 ……とは言っても、さっぱり落ち着いてはいない。

 

 指先は微かに震えている。

 動悸は激しくなるばかりで、頭は靄か霞のかかったみたいな微妙さ。

 

 喉だって引き攣ったままだ。

 

 未だに声は出ない。

 出そうと思っても、震えて嗚咽みたいに洩れるだけ。

 

 

 〝――――――――〟

 

 

 彼女は力無く倒れこんでいる。

 虚無のような時間はそのとおり何も無しに過ぎていく。

 

 まるで迷子になったみたいだ。

 

 流れる世界のなかでひとりだけ明確に取り残された感じ。

 

 事実、渚の意識は停止してると言っていい。

 

 あの瞬間。

 肇の描いた陽嫁(かのじょ)の絵を見たときから。

 

 もうなにがなんだか、分からなくなっている。

 

「――――………………、」

 

 あまりの衝撃に麻痺する感情。

 

 心がとんでもなく攪拌されて上手く掴めない。

 いくら掬っても指の隙間から意識はすり抜けていく。

 

 茫然自失。

 

 その言葉がいまはなにより彼女によく似合っていた。

 

 だってそうだ。

 

 あれは。

 彼は。

 

 水桶肇は。

 

「………………ぁゃ、と……」

 

 震える音で声を紡ぐ。

 口にすれば胸の中身はこぼれるよう広がった。

 

 じんわりと。

 

 身体中を浸すみたいに染みになって感情が伝播する。

 

「…………ぁ、あ…………」

 

 胸を掴む。

 

 気持ちが悪い。

 

 いっそのコト、そのまま取り出してぜんぶ洗ってしまえたら良いのにと。

 そう思ってしまうぐらい、調子という調子が崩れまくっている。

 

 ――おかしいとは思っていた。

 

 いくら現実の世界とはいえ肇は原作(ゲーム)登場(そんざい)しない名前の人間(キャラクター)だ。

 それなのにどうして付き合う上での特別感があったのか、これまで彼女はあまり深く考えてはこなかった。

 

 ……思い返せば当然のコト。

 

 外側がどうであれ、培ってきたモノがなんであれ。

 

 生まれ落ちた時点から中身が彩斗(かれ)であるのなら特別でないハズがない。

 彼と出会ってしまってそう感じないワケがない。

 

 ――ヒントは散りばめられている。

 

 近付くだけで感じ取れる雰囲気。

 傍で一緒に居て心地良く思える波長。

 ところどころの所作に表れる微細なクセ。

 

 そして決定打になった桁外れの描画センス。

 

 ……学生レベルだから、なんてとんでもない。

 

 それは売りに出せば一瞬で高値がつくような。

 その道で食べていくには一切苦労しないような怪物レベルの才能だ。

 

「あ――あぁあ……っ、ぁ、あぁ……!」

 

 ――彼はそれに気付いていない。

 

 外野からなんて言われようとその認識を覆してはいない。

 

 それもまた当然だった。

 

 なんせ誰も知らないだけで、彼には明確な結果が出ている。

 過去にそうなったという事実を受け止めている。

 

 ――ひとつも売れなかったという、誰かの吐いた苦しまぎれの嘘を信じ続けて。

 

「あぁああぁああっ、あぁあああぁあ――――」

 

 思い出は走馬灯のように。

 壊れた頭を映像だけが鮮明によぎっていく。

 

 

 〝あ、名前まだだっけ。俺は水桶肇って……言います〟

 

 〝だったら大切な分だけ、大事な分だけ抱えていても良いんじゃない〟

 

 〝大事だから、痛いんだ〟

 

 

「あ、あぁっ――――」

 

 

 〝太陽みたいに笑う人。付き合うなら、そんな人が良いなって〟

 

 〝いいなあ、花火〟

 

 〝――で、どうだった、俺。ちゃんと格好良かった?〟

 

 〝うん、優希之さんはやっぱりそれが一番似合ってる。可愛いし〟

 

 

「あぁあぁっ、ああぁあああぁ――――」

 

 

 〝大丈夫、大丈夫〟

 

 〝幸せだろうね。それこそ、一度限りでもう十分満足しちゃうぐらい〟

 

 〝――――お帰り、優希之さん〟

 

 〝あははっ、あった! あったよ優希之さん! ちゃんと受かってた!〟

 

 

「あぁあぁああ――――――――!」

 

 

 〝やっぱり大事なのは今だと思うんだよ、俺は〟

 

 〝――――それなら、良かった〟

 

 

 

「っ――――…………!!」

 

 

 

 ココロが砕けそうだ。

 

 頭は割れんばかりに痛い。

 

 精神状態の悪化だろう。

 えづくほど胃酸がのぼってくるのが分かる。

 

 ともすれば渚自信、壊れそうなぐらいひとまとめに引き裂かれていて。

 

 だから、本当。

 

 なにもかもが、てんでさっぱり。

 一切合切。

 

 まったく、わからない。

 

「………………ぅあ……っ」

 

 想いは複雑に絡み合った紐みたいに。

 

 驚き。

 喜び。

 悲しみ。

 苦しみ。

 混乱。

 困惑。

 

 ――かき混ぜられた胸の液体はドロドロとしていて気持ち悪い。

 

 口に指を突っ込んで無理やり吐き出してしまいたいほど。

 

 けれどできない。

 それをしたところで彼女の腹が空くだけだ。

 

 精神的なものはどうやったって即席で直らない。

 

「なんで……っ」

 

 この世界に彩斗(おとうと)がいるという事実は嬉しい。

 

/なんで。

 彩斗(おとうと)がまた絵を描いているというのは喜ばしい。

 

/なんで。

 その心根もなにも歪んでいなかったのはすぐ分かった。

 

/なんで。

 彼女が違うワケもない、そんな事実に心から湧き上がってくるものがある。

 

/なんで。

 

 なのに/なんで。

 

 どうして。

 よりにもよって。

 

 

 それが――――(かれ)だった。

 

 

 

 

「――――なん、でぇ……っ」

 

 

 

 

 わからない。

 

 わからない。

 

 わからない。

 

 軽くなったと思っていた。

 立ち直りつつあると思っていた。

 

 肇の言ったとおり、無理をせずとも良くなるいつかは成されたのだと。

 

 そう感じていたのは、ぜんぶ、間違いだったのだろうか――?

 

 

「わ、わたっ、わた、し、は……っ」

 

 

 影は伸びていく。

 抑えつつあった心が酷く傾いた。

 

 自覚して思わず顔を覆った少女に誰がなにを言えるのか。

 

 ――彼のコトは好きだ。

 

 頭のてっぺんから足の爪先まで惚れ込んでいる。

 

 だから渚の胸は高鳴って。

 己の恋心に散々振り回されて。

 その温かさにことごとく救われて。

 

 本当に、本気で、踏ん切りがつきかけていたのに。

 

 ……もしもそれが勘違いなら。

 

 そうじゃなかったとするのなら。

 ただ彼の中にあった彩斗(おとうと)の影を追い続けていただけというなら。

 

 

「っ――――……」

 

 

 ああ、それは。

 

 なんて醜悪で、

 

 最低な、

 

 前世(かこ)を引き摺ったままの陽嫁(じぶん)で――――

 

 

はじめ、くん…………――――」

 

 

 わからない。

 いまの渚にはなにもかも。

 

 冷静であるなら余程答えも出ただろう。

 落ち着いていれば時間と共に導き出せもしたハズだ。

 

 けれど彼女はそのどれも失ってしまっている。

 それほどの衝撃を受けた事実を前にマトモでいられる人間がどこに居よう。

 

 ただ胸に残ったのは残酷なまでの結果。

 

 ……夜は更けていく。

 

 少女の慟哭は途切れない。

 

 鉛筆で書き殴ったみたいに解答欄は塗り潰された。

 

 どうすればいい。

 どんな顔をして会えばいい。

 どう話をすればいい。

 

 どうして続けられると思っている。

 

 

「……っ」

 

 

 もう無理だ。

 限界だ。

 

 苦しくて辛くて。

 

 涙が止まらない。

 

 こんなに思い悩むなら。

 こんなに胸を掻き毟るなら。

 

 ――こんなに痛むのなら。

 

 そんな真実、彼女は知りたくもなかった――

 

 

 

 

 



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50/心を濡らしたお姫さま

 

 

 

 

 ――目を覚ますと、昨晩の疲れがどっと出た。

 

 それは肉体面でも精神面でも同じコト。

 どちらもが引っ張り合って渚の調子を崩している。

 

 時計を見ればまだ朝の五時半。

 

 いつもならぐっすりと眠っている時間帯だ。

 けれども今日に限っては、意識はまったく揺れてくれない。

 

 ずきずきと頭が痛む。

 

 思えば目を覚ましたとは言うけれど、

 いつ眠りについたのかが随分と曖昧だった。

 

 おそらく睡眠時間は圧倒的に足りていない。

 

 かといってもう一眠りできるかといえば――現状の渚の心模様だと、そんな真似が通じてくれるワケもなくて。

 

「…………、」

 

 すこぶる気分は悪かった。

 

 体調は最悪だ。

 

 一晩寝ても考えは全くまとまっていない。

 

 バラバラになったピースは手の中で塊にこそなれど、いま一度たしかな形を取れるようになるのはもう少し時間が要る。

 

(……あと、二時間もしたら……)

 

 学園に行かなければならない。

 

 登校時間だ。

 通学路をとおる。

 

 彼と出会う。

 

 肇と対面してしまう。

 

 そうすると、なにをどうすれば良いのだろうか。

 

 渚の疑問は何度繰り返しても解決しない。

 

(…………学校……)

 

 休もうかな、と。

 弱りきった心が鎌首をもたげる。

 

 軽い道、楽な方向。

 甘すぎるほどの誘い文句。

 

 それに身を任せてしまう人は決して少なくないのだろう。

 

 事実、渚だってぐらつくほど揺れた。

 

(………………、)

 

 即決はできない。

 

 いまの彼女からその判断力は失われている。

 

 あいにくと時間は余るほどあった。

 

 カチコチと。

 秒針が刻まれる音を聞く。

 

 数秒。

 

 数分。

 

 数十分。

 

 

 

 ――もう一時間、と経とうとしたところで変化は起きた。

 

 ほう、と渚はタバコの煙でも吐くよう息をこぼす。

 

 なんともまあ、情けない。

 

(……私って、こんなにダメだったんだ……)

 

 渚はきゅっと唇を噛み締める。

 

 酷い気分、酷い状態だ。

 休んだって誰も何も、両親でさえ文句は言わないだろう。

 

 それほどまでに少女は心身共にボロボロだった。

 

 でも、ほんの一日。

 たった一日休んだぐらいで、一体どうなるというのか。

 

(…………、)

 

 同じ学園に通う同年代のクラスメート。

 

 おまけに席はすぐ隣で、築いてきた関係は深く強い。

 

 いずれにせよ避けては通れない結果。

 いつかは必ず混じり合うコトだ。

 

 逃げたところでタイミングの引き伸ばしにしかならないのは渚も分かっている。

 

 ……第一、休むかどうか迷っている時点で動けるのは明白だ。

 

(…………肇くん(あやと)……っ)

 

 ぎゅう、と。

 

 胸元をつよく握りしめる。

 

 心臓を握り潰さんかのように。

 古い傷と新しい痛みに耐えるように。

 

 きつく、固く。

 

 渚は目を瞑りながら掴み続けた。

 

(…………――――――)

 

 薄明るい外の光がカーテンの隙間から洩れている。

 

 なにはともあれ行かなければならない。

 話さなくてはなにも始まらない。

 

 そのぐらいの前向きさは辛うじて心に残っていてくれた。

 

 ……いまはそれだけでも支えになる。

 

 胸を締める色は少しずつ鮮明に。

 

 後悔と、未練と、罪悪感と、親愛と。

 衝撃と、困惑と、恐怖心と、恋心と。

 

 なにより大きな――――

 

「……私、なにしてたんだろ……」

 

 今更な問いかけはどうにも遅すぎた。

 

 優希之渚として産まれてきて十五年と少し。

 

 失意のどん底にあった心は水面に浮上するも沈み出す。

 前世(かこ)は海底に刺さる錨のように足を引っ張った。

 

 ああ、もしも(かれ)彩斗(かれ)じゃないのなら。

 もしも彼の正体を知らないままで居たのなら。

 

 渚はいまも幸せなままで居られただろうか――?

 

「…………ばかだね……そんなの」

 

 益体もない喩え話に呆れながら笑う。

 

 目に見えて認識せざるを得なかった真実だ。

 遠くないうちにきっと気付いてしまう問題に過ぎない。

 

 そもそも、肇がそうでなかったのなら特別感なんて抱くハズもなかった。

 

 同時に、だからこそ彼女の胸には極大なトゲが刺さるのだが。

 

 〝……私は結局、なにも――――〟

 

 涙を堪えて拳を握る。

 時間は刻一刻と過ぎて早い。

 

 もう朝だ。

 

 疲れはさっぱり取れていないのに。眠気のない不快感が襲ってくる。

 それをどうにか押さえ込んで、渚はベッドから起き上がった。

 

 足取りはすでに正しさを取り戻しているみたい。

 

「…………、」

 

 空元気を絞り出せたのは偏により強烈な比較対象が存在したからだろう。

 

 たしかに陰鬱で、吐きそうで、苦しくて。

 嫌で、辛くて、悲しくて、頭の中身はぐちゃぐちゃだけれど――

 

 ――少なくとも、彩斗(おとうと)が死んだときに比べればまだマシだ。

 

(……それは、成長かな。それとも、気付いたからなのかな……)

 

 わからない。

 

 けれどちゃんとお腹は空いている。

 自分の意思でなんとかしようと動けはした。

 

 顔色だって姿見で確認すれば――そこまで酷くはない。

 せいぜいが露骨に悪く見えるだけで、いまにも死にそうな気配はない。

 

 なら大丈夫だ。

 

 渚は寝間着を脱いで、制服へと着替えていく。

 

 たったそれだけの行為でさえ出来るのなら御の字。

 

 前世(むかし)とは違う。

 

 あのときみたいなコトをする気は起きなかった。

 だから、彼女はまだ。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 通学路はいつも通りの賑やかな雰囲気が広がっている。

 

 梅雨時もまだ遠い、春の暖かな朝の空気。

 

 行き交う生徒の姿は昨日までとそう大差ない。

 彼らにとっては今日も明日もなんら変わらぬ日常だ。

 

 平時における気分の浮き沈み、体調の変化こそあれど劇的な変化は見られない。

 

 たったひとり、道端の塀に背を預ける渚を除いて。

 

「…………、」

 

 ぼんやりと舗装された道路を見ながらひとり俯く。

 

 沼に沈みこむような気配。

 氷点下を越えて吹き荒ぶ冷め切った心情。

 

 話しかけずとも分かるテンションの落差は周囲にも伝わったようだ。

 渚の周りはいつもより二倍ほど距離を増してスペースがあけられている。

 

 それに彼女が気付くコトはなかったが。

 

(………………ああ。嫌だな、この感じ)

 

 ――正直、期待がないワケじゃない。

 

 でもそんなモノよりずっと大きくて深いナニカが隣にあった。

 

 頭は悪い意味で落ち着いている。

 

 上手く処理しきれたが為の余裕ではなく。

 なにも片付けられないから諦めただけの冷静さ。

 

 考えることを放棄した思考の停止。

 

 それが再び動くとすれば彼と会ったときだろう。

 そして動いたとすればどうなるかは――言うまでもない。

 

 きっと、もう。

 

 まともで居られるハズがないのは、予想できていて。

 

 

 

 

 

「――渚さん」

 

 

 

 

 

 こつん、と。

 

 ちいさく、止まる靴音の響きを聞いた。

 

 耳朶を震わせたのは明確に待っていた彼の声。

 

 ……彼女は持っていた鞄の紐をぎゅっと握りしめながら。

 

 恐る恐る窺うように、下に向けていた顔をあげる。

 

 

「おはよう」

 

「――――ぇ、ぁ……」

 

 

 ――声が、

 

 うまく、

      出せない。

 

 

「昨日は大丈夫だった? 急に走って帰っちゃったけど」

「ぁ、そ、の……っ、べ、つに……私、は……」

「……俺の絵に驚いたの?」

「だっ――――」

 

 と、反射的に答えようとして渚は言葉に詰まった。

 

 口を開けたまま声だけがピタリと途切れる。

 

 ……そう言えば。

 

 彼女は彼の素性に気付いたけれど、彼はこちらを知っているのだろうか――なんて。

 

 今の今まで己の感情ばかりで目を向けられなかった部分に気付いた。

 

「――――……、…………っ」

「……渚さん」

「っ、ちが、ぁ……なん、でも……っ」

「…………落ち着いて」

「――――――ッ」

 

 そっと、渚の頭に肇の手が置かれる。

 

 今までも何度かあったスキンシップのひとつ。

 クラスメートや他の親しい相手にはしないけれど、いつしか渚には当たり前になったコトだ。

 

 いつもならその感触を素直に受け取っていただろう。

 

 彼との接触に馬鹿正直に跳ねていたに違いない。

 

 でもいまは。

 そうじゃなくて。

 

 

 〝…………ぁ――――――〟

 

 

 深みに落ちていくような錯覚。

 

 肇の声に焦っていた心は落ち着く。

 その肌の温もりにたしかな安心感を覚える。

 

 これまでずっと彼女の心を振り乱してきた行為。

 ついこの前までは幸せだった時間そのもの。

 

 

 ……ああ。

 

 なんて――――惨め。

 

 

 結局それは、なんの進歩もない彼女の醜さだと。

 

 そうとしか、いまの渚には受け取れない。

 

「――――ごめん、大丈、夫……」

「……そう?」

「うん。だから……もう、いい……」

「……ん、わかった」

 

 彼女が両手をゆっくりと頭に持っていけば、肇は大人しく腕を退けた。

 

 そこに渚は名残惜しさを感じて。

 

 ……同時に、とてつもない罪悪感で押し潰されそうになって。

 

 なんでだろう。

 ちょっとしたコトなのに。

 

 まだ朝で会ったばかりで、ろくに会話もしていないのに。

 

 無性に、泣きたくなる。

 

 感動に由来するものでは、ない。

 

 

「…………は、じめっ……くんは――――」

 

 

 ――――どくん。

 

 心臓には杭が突き立つ。

 

 脳髄は水風船みたいに弾けて()()

 どこからともなく襲ってくる全身の毛穴から針を通すような幻肢痛。

 

 キリキリ、ギリギリと。

 

 皮膚を裂くように見えない刺激が走っていく。

 空気がぜんぶ毒に変わったみたいだ。

 

 ギリギリ、ギチギチと。

 

 余すところなく襲い来る、凶器に触れた冷たい痛み。

 

「――――絵、上手……なん、だね……っ」

「……そうかな」

「そう、だよ。……たぶん、売りに出したら、凄い……値段、つくと思う……」

「それは……どうだろう。そのあたりの凄さはないと思うけど?」

「っ――――――」

 

 〝ギ、ギギギィ、ギィ――――〟

 

 心臓の奥まで針が伸びる。

 

 心が刺される。

 胸が痛い。

 

 散々聞いてきた――何度も彼の言っていた――自信の無さに納得してしまって。

 

 過去(ぜんせ)越しの因縁が、彼女を殺しにやってきた。

 

「っ、な、んで……っ」

「なんでって……そりゃあ、分かりきってるから」

「…………わ、わたし……っ」

「? 渚さん?」

「私、が――――――」

 

 〝ギギギッ〟

 

 渚の頭に嫌な音が響く。

 

 身体中穴だらけだ。

 無事なところがあるなら切に教えてほしい。

 

 ――話がしたかった。

 

 でも話せない。

 話したくない。

 

 なにを話せば良いのか分からない。

 

 彼はなにをどう思って、どんな風に感じているのだろう。

 

 怖い。

 ただ恐ろしい。

 

 知りたくて、知りたくなくて、伝えたくて、伝えたくなくて。

 

 分かっているつもりで、なにも分かってなんかいない。

 

 本当に、なにをどうすれば良いんだろう。

 

「――…………ご、めん。なんでも、ない……」

「……渚さん。今日はずっと顔色が悪い」

「っ…………」

「無理しないでね。ほんとうに、大丈夫だから」

「……………………、」

 

 俯きながら唇を噛み締める。

 

 (かれ)は気付いているのだろうか。

 

 渚にはちっともさっぱり。

 小さなヒントさえ手に取る余裕が彼女にはない。

 

 だからぜんぜん判断もつかなかった。

 

 もし気付いているとすればどう思われていて、

 いまの(じぶん)はどう映っているのか。

 

 そう考えると、ギギギギギギギギギギギギ

 ギギギギギギギ頭が、ギギギギギギギギギ

 ギギギギギギギギギギ痛くなって――――

 

 

 

 

 

 

 

 

「渚さんっ!」

 

「っ――――ぁ、ぇ……?」

 

 

 大きく肩を揺さぶられて意識が戻る。

 渚はパチパチと目をしばたたかせて肇を見た。

 

 ……どうやら、気を失いかけていたらしい。

 

 

「本当に大丈夫? 凄い顔してたよ、いま」

「…………ご、めん……ちょっと、寝不足……で……」

「……俺も寝不足だけどそこまでじゃないよ」

「…………大丈夫、だから」

「渚さん」

 

「本当っ! ――…………、いい、から」

「…………、」

 

 

 色々なモノを抑えこみながら彼女は口を結んだ。

 

 平常運転なんてできようハズもなかった。

 なにもかもが不安定になっている。

 

 怖いのは決められたなにかだけじゃない。

 

 数え切れない色々な要素が恐怖に繋がっている錯覚。

 いつどこから刺してくるのかも分からない見えないが故の震え。

 

 ……切実に。

 率直に。

 

 これ以上の負荷がかかれば歩けもしないのだと、全身が克明に告げていた。

 

「……もう、行こっか……その、授業……遅れたら、大変……だし……」

「……しつこく言うけど無理しなくて良いんだからね」

「無理じゃ、ないから。……うん、無理じゃ、ない……」

「…………、」

 

 ほう、と彼の口から吐かれた息に意味はあったのかどうか。

 

 聞き取れもしなかった渚には考察のしようもないコト。

 

 心はずっと悲鳴をあげている。

 脳髄は途絶えることなく叫んでいた。

 

 いくら頭を振っても気分は一向に変わらない。

 それはこれまでの経緯と関係性があったからこそだろう。

 

 彼女が拗らせていなければ。

 単純に考えられたなら、後ろ向きな部分がなければ、後悔も未練も薄ければ、彼に執着していなければ、彼を好きになっていなかったなら、彼が弟でなければ――

 

 優希之渚が()()でなければ。

 

 なにも、恐ろしい部分はなかったのに。

 

 

「――――よし」

 

 

 ふと、肇が一言そう洩らした。

 渚はまだまださっぱり反応しない。

 

 それは良いコトか悪いコトか。

 

 ……彼女の中では多分後者のほうだろうが、構わず彼は鞄を背負うようにして手を空ける。

 

 そのまま、

 

 

「ごめんね」

「…………ぇっ?」

 

 

 すぱっと後ろから渚の膝裏と背中に手を回して、勢いよく持ち上げた。

 

「えっ、なっ、ま――――!?」

「元気がない渚さんは緊急搬送です!」

「だっ、や――――つ、()()()()()! ここ通学路っ、だからっ!」

「だからなに!?」

「み、み、みみ、見てる! みんな見てる――――!!」

「良いから良いから! そんな調子で歩いてたっていつか倒れるだけだよ!!」

 

 

 〝あぁあああああうあうあうあうおあおあうあうあえおあえうあいあおえうあおうああうあおあうあおうあえ――――!?!?!?〟

 

 

 カッ――――。

 

 謎の音を残して渚の思考はショートした。

 もっと言うとあまりの爆発物に脆くなっていた意識がハジけた。

 

 過度の心労。

 重たすぎるストレス。

 

 追い込むようなそれらの連続。

 

 加えて重度の睡眠不足。

 

 そんな状態で肇からの剛速球二百キロ越え火の玉ストレートを耐えられるワケがない。

 

 当然の結果である。

 

「このまま保健室行くからね!」

「っ、な、なんっ――なん、で……っ」

「授業受けるような状態じゃないのは渚さんが一番分かってると思うけど!?」

「っ――――――」

 

 ……ああ、本当に情けなくて恥ずかしい。

 

 そこまで気遣われておきながら直ぐ切り替えられないあたり、とくに。

 

「――おっ、水桶く……じゃねえ。優希之。おまえ、それ、お姫様抱っこ――っ!!」

「おはよう海座貴くん! 話はまた後で!」

「おう! 任せろ! とりあえずクラス全員にあるコトないコト吹聴しておく!」

 

「………………、」

 

「――あれ、珍しく優希之が無反応だな。……寝てんのか?」

 

 

 〝むしろ寝させてほしいよいまはッ!!!!〟

 

 

 肇の腕の中でカチコチに固まる渚。

 

 胸中の言葉は辛うじて吐き出せるものの現実の肉体は動かせない。

 

 ただ、ぽすん、と力無く頭をあずけた彼の身体は思った以上の頼りがいがあって。

 

 ……それで、心のどこかに残っていたものがポキンと折れた気がした。

 

 いつかは逆で。

 ともすれば自分が運んでいたぐらいの弱さで。

 

 人として、家族として、姉として。

 手本を見せられていた己の性質は、とうに見失って久しい。

 

 ……どうしようもない。

 

 だって彼は。

 

 いまの少年は。

 

 こんなにも、強い――――

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

「とりあえず、ゆっくりしておいて」

「………………、」

 

 そっと肇に布団を掛けられる。

 

 星辰奏学園本校舎一階。

 保健室のベッドの上。

 

 為す術なく転がされた渚は、抵抗虚しく病人扱いとなった。

 

 ……実際、寝不足で体調不良は凄まじいコトになっているけれど。

 

「…………先生は」

「ちょっとお手洗い。すぐ戻ってくるって」

「…………そう」

「うん。だから安心して」

 

 そう言って、彼はまたもや渚の頭を撫でる。

 

 

 〝――――――……っ〟

 

 

 ……そこに未だ居心地の良さを感じたのはどんな感情からか。

 

 肇の手は柔らかく温かい。

 繰り返すようにその温度には安心感を覚える。

 

 それは至って普通の、健康的で、変わったところのない男の子の手。

 

 ごつごつとして、ペン胼胝だらけで、細く痩せこけていた誰かの指とはまったく違う。

 

 だから別だと思っていたのに。

 だから重なる部分だけで異なると言い聞かせていたのに。

 

 本当、どうしてだろう。

 

 

 

 

 

「…………肇、くんは」

「なに」

 

 

 絞り出した声は呆気なくこぼれた。

 

 横になっているからか。

 彼の手のひらから伝わる温度が背中を押したのか。

 

 渚には到底判断つかないところ。

 

 たしかなのは、胸から湧いてきたものがあったという事実だけだ。

 

 

「……なんで……いまに、なって……描いてる、の……?」

 

「――描きたくなったから」

 

 

 返答は飾り気なくシンプルに。

 目映いぐらいの笑顔を見せながら、肇はどこまでも素直に告げた。

 

「描きたくならないから描かなかった。でもいまは描きたくてたまらない。だからやってる。それだけだよ。他に理由なんてないんだ」

「………………そう、なんだ」

 

 さらさらと、銀糸の髪を心地良く手櫛が梳かす。

 

 不思議と誘われるように眠気はきた。

 揺りかごじみた気分はなんとも言い難い。

 

 意識はそのまま泥に還るみたいに沈んでいく。

 

 頭上に感じる温度はそのまま。

 

「ぜんぶ渚さんのお陰なんだよ」

「ぇ…………?」

「君と一緒だったからやる気が湧いたんだ。……うん、ずっとそうだ。渚さんは十分、俺にとって特別な人だから」

「――――そ……、…………、」

 

 

 〝そ、れ……って…………――――――〟

 

 

 深い睡魔に襲われる。

 瞼は劇場の幕を下ろすよう閉じられる。

 

 水中へ引っ張られる意識の淀み。

 

 溺れるように彼女は束の間の休息へ旅立った。

 

 残ったのはただひとり。

 優しく渚の頭を撫でる肇だけ。

 

「……だから、焦らなくて良い。慌てなくていい。……深く考えすぎなんだ、ぜんぶ。思い返せば簡単なんだよ――」

 

 ――だってずっと、現世(ここ)に来てから関係を紡いだのは誰でもない。

 

 ただこの時にいる優希之渚(あなた)なのだから。

 



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51/はるかなる夢の旅路

 

 

 

 

 意識は深く沈むように。

 

 しばし記憶は底へ向かって遡行する。

 

 人的なひとつの宇宙(せかい)

 ひとつの根源(はじまり)

 

 彼女はわずかに、揺蕩うような夢を見ている――――

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 鼻孔をくすぐる懐かしい匂い。

 ちいさく連発する微かな描画の音。

 

 見れば、彼女はひとりの背中を見ていた。

 

 二十歳にいくかいかないかというぐらいの青年だ。

 

 性別はおそらく男子。

 姿形はラフなもので、同年代と比べると幾分細く頼りない。

 

 彼はキャンバスを前に筆を走らせている。

 

 その動作は淀みない。

 

 なにをどう描くか迷うような素振りはまったくなかった。

 すでに在るモノをなぞるみたいに色彩は重ねられていく。

 

 いつかに過ぎていった日常の一ページ。

 

 そんな場面だけ切り取れば、誰もが彼を天才と讃えるのだろう。

 

 けれど実際は違う。

 

 彼の素質はその程度の生易しいワケがないと。

 ずっと傍で見てきた彼女は知っていた。

 

 

 ――その身体は普通動かないものだ。

 杖が、あるいは車椅子がなければ移動もままならない。

 

 

 ――その手は本来使い物にならないハズだ。

 箸を握るときすら震えているくせに、一度筆をとれば痺れもなにもピタリと止まる。

 

 

 ――その命はすでになくなっていたところだ。

 一年経っておおよそ衰えながらも、絵を描くときだけは常に動きは洗練されていた。

 

 彩斗(おとうと)は絵の天才だった。

 

 それは間違いない。

 彼女自身に美的センスが備わっていなくてもそのぐらいは分かる。

 

 ……ああ、しかしながら。

 

 壊れかけの血肉を引き摺ってまで作品を生み出す執念を、一体どこの誰が奇跡と呼んで尊ぶものなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……場面は切り替わる。

 

 彼女は喪服を着て闇の中に立っていた。

 手には先ほどまで動いていた誰かの遺影。

 

『どうか一枚、お譲りいただくコトはできませんでしょうか』

 

 知らない声が響いていく。

 耳障りなノイズじみた、砂嵐のような雑音。

 

『お金ならいくらでも出します』

『彼の作品は素晴らしい』

『こんな才能が埋もれたままだったなんて!』

『評価されないはずがないでしょう』

『是非私どもの開く美術展で――――』

 

 蠅か虻蚊のようにうっとうしい、てんでうるさい話。

 

 

 

『――きっと彩斗さんは、絵を描くために生まれてきた神童なのですね――』

 

 

 

 ふと、

 そんなふざけた言葉を聞いた気がした。

 

 彼女は静かに俯いている。

 いつまで経っても喪に服している。

 

 顔を上げずに眼前の何物かを認識しようとすれば。

 

 必然、睨むように黒瞳だけが上を向く。

 

『死後評価される画家は少なくありませんから』

『若くして散った天才というのもそうです』

『彼の才能は間違いない』

『きっと後の世まで名前が残るでしょう』

 

 ――なにを言っているのだろう、と思った。

 

 彼女にはその言い分がさっぱり分からない。

 

 評価されるのが良いコトなのだろうか。

 

 わずかしか生きられなかったのがそんなに大それた事実か。

 たかだか絵の具を塗りたくられただけの布がそこまで良いものか。

 名前が残るのがそうもエラいコトか。

 

 分からなかった。

 

 事実、彼らは知らないのだろう。

 

 家に帰ってきてからも彩斗(おとうと)の身体は死に行く道から外れなかった。

 

 食欲はどんどん減る一方。

 どころか食べたとしてもよく吐き出すぐらい。

 

 顔色は良いときなんてなくて、身体はみるみる細く痩せていく。

 自分の力で歩けるときなんてほんのちょっとだった。

 

 なのに絵を描くときだけは力強さが戻る。

 

 ……正直に言ってしまえば、彼女はそれが不気味だった。

 

 怖かった、嫌いだったと言っても良い。

 ともすれば彩斗(おとうと)を殺したのが絵画(それ)なのではと思うほどに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……陽嫁』

『――――もう、イヤだ。イヤだよ、私。こんなの』

『大丈夫だ。彩斗の絵はなんとか守る。もう今回限りだ、だから』

『っ――――――』

 

 短命を決定づけられるほどの天賦の才能。

 並大抵ではおさまりきらない人々を魅了する画力。

 

 ……繰り返すように。

 

 画家、翅崎彩斗は間違いなく天才だった。

 

 

 

 ――――でも。

 

 けれども。

 

 そうやって持ち上げる誰かは、彼の人となりを知っているだろうか――――?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ありがとう、姉さん』

 

 

 場面は切り替わる。

 

 彼は笑っている。

 彼女はその様子を、喪服のままに遠くから見ている。

 

 

『ふふ、くすぐったいよ』

 

『姉さん。これ美味しい、また食べたい』

 

『――おはよう姉さんっ、どうどう!? 制服似合ってる!?』

 

『おー! 姉さんもスーツ似合ってるね! 凄い! 綺麗! 美人! 素敵だ!』

 

『姉さんはねー、もう最高でねー……? え、なに……、……っ!? ちょっ、なんで聞いてるの!? 居るなら言ってよもー!!』

 

『あはは……ごめんね姉さん。父さんも。迷惑かけちゃって……』

 

『ううん、大丈夫。この程度、母さんとの生活に比べたら全然マシだからねー』

 

 

 絵が上手いのはあくまで彼の特技だ。

 売れるモノが描けるのはひとつの才能だ。

 

 それは全体を構成する一部であってすべてじゃない。

 

 そのために早く死ぬなんて間違っている。

 

 ……ああ、そんなものだというのなら。

 

 絵が描けるせいで彼が死んだというのなら。

 そんな才能、彼女は持っていてほしくもなかった。

 

 ただ、もっと。

 

 ずっと。

 

 楽しく、幸せに。

 

 長く、生きて欲しかったのだ――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『姉さんは、なんというかお日様みたいに笑うよね』

 

 

 それは彼女のコトでありながら。

 同時に、彼女自身を表してはいない言葉だった。

 

 太陽みたいというのならきっと彼がそうなのだろう。

 

 嬉しかったのは彼がいたからだ。

 輝けていたのは彼のために頑張ろうと思っていたからだ。

 笑えていたのは彼が笑顔をみせるからだ。

 

 そんな自分で在り続けられたのは彼という見せる対象が居たからだ。

 

 ……なんてことはない。

 

 ずっと昔から。

 ともすればこうなる前から。

 

 純粋で、眩しくて、きらきらしていて、偏に真っ直ぐで。

 

 周りを照らしてくれたのは――――彼だった。

 

 

 

『よしよし、愛いヤツめー。このこのー』

 

『お姉ちゃんをなめてもらっちゃあ困るなー?』

 

『彩斗ー! さいこー! らぶりーまいえんじぇー! 愛してるぅー!』

 

『ところで貴女はうちの弟とどういう関係で? うん? ……ふふっ、いやー、彩斗も隅に置けないねぇー? 色男だねー』

 

『…………大好きだよ、彩斗』

 

 

 その言葉に偽りはない。

 心底から彼女は彩斗(おとうと)のコトを好いていた。

 

 でもそれはあくまで家族として。

 血の繋がった姉弟としての愛情だ。

 

 決してそういう関係を望んでいたんじゃない。

 そうなりたいと願っていたワケでもない。

 

 彼が女の子と仲良くなったとしても、そういうコトもあるだろうと思って。

 むしろそれが悪くない相手なら応援したいぐらいの気持ちで。

 

 いつか当たり前の幸せを掴んでほしいとすら考えていた。

 

 ……結局、そのお節介が叶うことはなかったが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〝――――ごめんね〟

 

 

 視界は眩む。

 意識は点滅する。

 

 首にはぎゅう、と締め付けるもの。

 

 細く吊された身体が千切れるように引っ張られて。

 

 

 〝いま、いくから〟

 

 

 ばつん、と画面が消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それが一度目の終わり。

 

 そして、願いもしなかった二度目のはじまり。

 

 

『――――ゆきの、なぎさ』

 

 

 

 何の因果か記憶を引き継いで生まれ落ちた彼女は、所謂過去(ぜんせ)でいう乙女ゲームの主人公そのものだった。

 以前の彼女自身が遊んだコトもあるだけにそれはすぐ分かった。

 

 だからといってはしゃげるほどの気力も、喜べるほどの温度もなくしていたけれど。

 

 

『なーちゃん! 外、めっちゃ天気良いから外いこう! パパと遊んでくれーっ』

『…………え』

『どうしようママ。もうなーちゃんが反抗期だ。泣きそう』

『あなた。たぶんシンプルに構い過ぎてるからよ』

『なるほどそっちかー……ッ』

『あっちもそっちもないわよバカなの?』

 

 

 それでも貰った分だけ輝けるのは彼女本来の素質。

 弱く、緩く、仄かに――ともすれば亀よりも遅い歩みだったが、少しずつ当たり前に歩いて生きていく力は取り戻せた。

 

 ……当然、前のように明るく振る舞うコトはできない。

 

 多少の感情の機微は表せてもそれまで。

 彼女のそれは表にでないのではなく、センサーが壊れているからだ。

 

 だというのに苦労なく過ごせたのは、周りに支えられてか、それとも彼女が優希之渚(ヒロイン)だったからか。

 

 小学校、中学校は引き摺るような暗さで過ごしていた。

 その中で少しずつ治っていった心は前を向こうとして何度も躓く。

 

 過去は重く。

 痛く、辛く、苦しく、悲しく、

 

 なにより深い後悔と未練に塗れた泥だ。

 

 そうそう立ち直りようもない。

 

 頭を押さえつけられて沼に沈められるような感覚はいつまでも付きまとった。

 

 

 

 

 

 ――――あの日。

 

 適当に決めて通うコトにした塾の自習室で。

 

 彼と、出会うまでは。

 

 

 

 

 

 

『あの』

 

 

 なんて。

 思い返せば露骨にもほどがある声のかけ方をしたのが付き合いのはじまり。

 

 話しかけた理由はなんだったか。

 

 たしか彼女がひとりで居るときに彼も教室へ入ってきて。

 それで――――不意に気になって目を向ければ、難問を前にうんうん唸っていたからだ。

 

 ……振り返ってみれば、なるほど。

 

 たぶん、そのときから感覚はあったのだろう。

 

 

『俺は水桶肇って……言います』

『……なんでいきなり敬語?』

『なんで、だろう……?』

『……まぁ、いいのかな……水桶くんね。……やっぱ、違ったのか』

『?』

 

 

 なにが違うかは言うまでもなく彼の外側のコト。

 

 記憶にある原作(ゲーム)には少年の姿はなかった。

 水桶肇、という名前すら出てきた(ためし)がない。

 

 現在(いま)場所(せかい)が件の原作(ゲーム)を基にしているなら名もなきモブというコトになる。

 

 それは優希之渚にとってどうなるコトもない相手。

 最初に思ったのは、彼との付き合いで将来的な立ち回りの練習にでもなるかな、といったぐあいの、打算にまみれた関わり合いだった。

 

 

 

 

 ――そんなものは、ほんの数ヶ月で跡形もなく崩れたが。

 

 

 

 

 

 

 

『別に、良いんじゃないかな』

 

 

 決定的だったのは六月半ばの雨が降っていた日。

 

 

『人間なんだし、後悔するのは当たり前だし。心に残ってるなら、引き摺って当然だと思う』

 

 

 生前のクセを発した彼を前にして、絶大な隙を見せたとき。

 

 

『……上手く言えないけど。いつ後悔が消えるとか、割り切れるとか、分からないよそんなの。もしかしたら明日、ちょっとした切欠で軽くなるかもしれないし、もっとずっと先まで抱えていくのかもしれない』

 

 

 塾帰りに立ち寄った寂れた公園の休憩所。

 降りしきる雨が屋根を叩くなかで、なにより彼の言葉が彼女の胸を叩いたのだ。

 

 

『ならそれまで抱えていて良いんじゃないかな。無理して切り替えなんかしなくても。いつかなくなるまで、思っていても良いと思う』

 

 

 ――なにも変わらない。

 

 それは彼だと分かっていなかった時ですら響いたものだ。

 彼だと判明したいま、衝撃は薄れるどころか膨れ上がっている。

 

 

『だって、長く引き摺るのは大切な証だ。たぶんそれだけ大事ってことだ。簡単にどうにかできなくて当然だよ。だったら大切な分だけ、大事な分だけ抱えていても良いんじゃない』

 

 

 そう。

 

 彼はどうなったって。

 いつだって。

 

 

『それでいつか――本当にいつか、どこかで、上手く折り合いをつける日が来たらそれで良いんだ。……ううん、来なくてもいい。だって、大切なものを抱えて生きたんだから。そこまでの毎日が駄目なワケでも、無駄になるハズもないんだから』

 

 

 日の光が差すように笑っていた。

 

 

『大事だから、痛いんだ』

 

 

 

 

 

 

 

 翅崎彩斗はたったひとりの弟だった。

 血を分けた大切な姉弟だった。

 

 だから愛しい。

 好ましい。

 大事にしたい。

 笑ってほしい。

 

 幸せになってほしい。

 幸せだと感じていてもらいたい。

 

 失いたくない、失ってしまえば悲しい。

 

 

 

 

 

 ――――じゃあ、肇は?

 

 そんな疑問に、渚は上手く答えられない。

 

 彼と紡いできた時間はなにひとつ欠けるコトなく素晴らしい。

 血が繋がっているわけでも、家族として過ごしたのでもないけれど大切だ。

 

 だから愛おしいと思う。

 好ましいと思う。

 大事だと思う。

 笑った顔も素敵だ。

 

 幸せになるならそれが良いだろう。

 幸せだと感じるならそれが一番だろう。

 

 当然失いたくはない、失ってしまえば絶対に悲しい。

 

 なら、彩斗(おとうと)みたいに誰かと親しく過ごす姿を、彼女は大人しく見ていられるのか――?

 

 

 〝――――――――…………、〟

 

 

 ……無理だ、そんなの。

 

 できるワケがない。

 

 だって嫌だ。

 彼のことが好きだ。

 

 他人に渡したくなんてない。

 

 わからない。

 

 ぐちゃぐちゃの紐を引っ張れば、スルスルと悩みがひとつずつ抜けていく。

 

 

 愛おしい、好ましい――その通りだ、異論はない。

 

 大事にしたい――それ以上に大事にしてほしい、大事だと思われたい。

 

 笑ってほしい――でもそれは私の前だけがいい、私だけに笑ってほしい。

 

 幸せになってほしい、幸せだと感じてもらいたい――いやだいやだいやだ、私の隣で私と一緒じゃないとそんなの祝福できない。

 

 

 

 ――――どうして?

 

 

 

 わからない。

 

 感情は複雑に絡み合って解答を隠している。

 

 彼の優しさはとても温かくて。

 誰かと話す姿を見ると苦い気持ちで。

 なにかと恥ずかしくてなんとも言えない酸っぱさで。

 でもこっちを見てくれるだけで甘くなる。

 

 そんな味。

 そんな感覚。

 

 願うだけじゃない。

 見ているだけじゃない。

 

 親愛とは違う。

 

 恋心が望むのはもっと深く。

 

 その笑顔は傍で見たい。

 歩くなら隣がいい。

 一緒にいたい、手を繋ぎたい。

 近付きたい、見つめ合いたい、触れ合いたい。

 

 

 ――――()()、だって。

 

 ほんとは、やっぱり、してみたい。

 

 

 ああ、嫌だ。

 

 本当にどういうワケか分からなくなる。

 

 彼が欲しい。

 彼といたい。

 彼がいい。

 彼じゃなきゃダメだ。

 

 だって、彼女はそれぐらい、

 

 どうしようもなく――好きであって。

 

 

 

 怖いのは、その感情がどこから出てきたかというコト。

 

 

『〝陽嫁〟』

 

 

 その名前は誰かの口から最も聞きたくて。

 誰かの口から最も聞きたくなかった。

 

 

『この絵のタイトルは、〝陽嫁〟っていうんだ』

 

 

 そう言われたときの表情を見られなくてよかったと、いまになって渚は思う。

 

 なにせ絶対酷い顔をしていたハズだ。

 でもなければ死にかけるほど顔色は悪かったろう。

 

 そんな表情は見られたくない。

 見せたくないのではなく、見られたくない。

 

 そのあたりも、よく、わからない。

 

 

 

 

 

 ――彩斗(おとうと)は好きだ。

 

 抱き寄せて、触れ合って。

 わしゃわしゃと頭を撫でて、一緒にご飯を食べて、お菓子を分け合って。

 

 それはもうとことん甘やかしたいぐらい。

 

 

 

 

 

 ――(かれ)は好きだ。

 

 抱き寄せるなんてできないけれど、触れ合うのも恥ずかしいけれど。

 頭を撫でてもらうのは良くて、一緒にご飯を食べるのも嬉しくて、お菓子を分けてもらえると心は弾む。

 

 とことん甘やかされたら、脆く弱い彼女はきっとでろでろに溶けてしまうだろう。

 

 

 

 

 

 ……何度も少女は問いかける。

 

 

 

 ――――それは、どうして?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『大丈夫』

 

 

 夢の中で仄かな温もりに触れる。

 

 彼女は為すがままに撫でられていた。

 複雑な心境は、まだまだ解ける様子がない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――ねえ、彩斗』

 

 ふと。

 

 急に懐かしい記憶を掘り起こした。

 

 遠い遠い昔の話。

 時期はたしか九月か十月頃。

 

 綺麗に浮かんだ月を、彩斗《おとうと》と見たコトがあった。

 

『なに? 姉さん』

『――月が綺麗ですね?』

『……? うん。そりゃ、まあ。満月だし』

『ぶっぶー。不正解です、違いまーす』

『え』

 

 ちょうどリビングの窓から。

 ふたりして座って、彼女は後ろから彼を抱き締めて。

 

 彼はすっぽりと彼女の身体の前におさまりながら。

 

『アイラブユーだよ、アイラブユー』

『姉さん。俺、この前の英語は三十二点だよ』

『うーん微妙だね! でも赤点じゃない! えらい!!』

『赤点ラインは四十点なんだけど』

『三割は取れてる! すごい!!』

『姉さんは優しいねー……』

 

 他愛もない話も混ぜながら夜空を見上げる。

 

 雲に囲まれて鮮やかに浮かぶ、玻璃のような白い月。

 記憶のなかでも見事なら実際はもっと綺麗だったのだろう。

 

『私はあなたのコトが大好きなんです。あなたを愛していますってコト! まあ、私が彩斗にいうのもちょっと違うんだけどねー!』

『姉さんは俺が好きじゃないのかー……』

『違う違う違う! そうじゃなくて! そうじゃなくってね!? なんていうか、こういうのってアレだよ! 告白とかでよくあるの! うん!』

『ああ、そういう。へぇ……』

『少女漫画とか恋愛小説でね!』

『姉さん?』

 

 だからそれは間違えようもない。

 捉えるにしても勘違いのない言葉の意味だった。

 

『もしも好きな子とか、恋人、彼女? ができたら言ってみると良いかもねー? ちゃんと伝わったら凄くロマンチックだよ?』

『月が綺麗ですねって?』

『そうそう。ちなみに私死んでもいいわ! って返ってきたらもう最高だよね! きゃー! どうしよー! お姉ちゃんそういうの弱いのー!!』

『うん。ちょっと苦しいよ姉さん。そういうところあるよね』

『わぁー! ごめんごめんごめん!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――なら、あれは。

 

 

『ね、()()()()()

 

 

 (かれ)彩斗(かれ)だと分かったいま。

 

 あの意味は――――

 

 

『今夜は月が綺麗なんだ』

 

 

 

 

 

 



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52/いまの彼にとってなら

 

 

 

 

 そうして彼女は、穏やかに目を覚ました。

 

 ひとときの深い休息。

 長かった夢見の名残を微かに胸へ抱きながら。

 

「…………、」

 

 ぼうっと天井を見詰める。

 

 一度落ち着いたからだろう。

 朝に比べて身体の調子はぜんぜん良い。

 

 全快とまではいかないが、普通に過ごすには申し分ないぐらいだ。

 程度でいうならいつもより悪いけれど、過去における最低値にはまだ届かない。

 

 少なくとも彩斗(おとうと)が死んだあとの自分よりかはずっと元気。

 

(……いま、って――――)

 

 ゆっくりとベッドから起き上がる。

 

 カーテンに仕切られた空間は室内なのもあって時間も曖昧だった。

 直ぐ傍で脱ぎ揃えられていた靴を履いて、渚はそっと顔を出してみる。

 

 彼女を除いて保健室のなかに人の気配はひとつだけ。

 

 わずかな物音を聞いたそのひとは、キィ、と椅子を鳴らして少女のほうを向く。

 

「あら、起きた?」

「――は、はい……」

「大丈夫? 凄い魘されてたけど」

「だ、大丈夫……です……」

 

 そう? と柔らかく微笑む白衣の女性。

 

 この保健室の主。

 

 学園において生徒の健康を一手に担う一大人物。

 ゆるふわロングの金髪をたなびかせる学内随一の美人教師。

 

 彼女こそが星辰奏学園の養護教諭、見雨良(みうら)深殊(みこと)である。

 

「今朝のコト覚えてる? あなたクラスメートの男の子に担がれて来たのよ。お姫さま抱っこで」

「…………覚えて、ない、です……っ」

「うん。記憶はたしかっぽいわね。顔色もよくなってるし」

「――――――っ」

 

 

 〝あの野郎マジ〟

 

 

 メラメラと燃え立つ衝動的な渚の復讐心。

 が、それは直ぐさま勢いを弱くしてブスブスと燻りだした。

 

 

 〝――――あの(ヤロウ)もう(マジ)……っ〟

 

 

 悲しいかな、土砂降りのあとに残された薪は湿って使い物にならない。

 火を起こしたとしても気持ちよく燃料になってはくれないのだ。

 

 そのあたり渚の心はもうびしゃびしゃ。

 

 下手すれば湿度百パーセントいくかどうかという、よもや水そのものな湿地帯で煙はたたなかった。

 

「いま、ちょうど昼休みだから。大丈夫そうならご飯食べておいで。キツかったら無理しないで午後からも来て良いからね」

「っ、すいません……」

「良いから良いから。謝る必要なんてないのよー」

「……ありがとう、ございます……」

「ん、よろしい」

 

 満足げにうなずく見雨良教諭に見送られて、「失礼しました」と渚は保健室を後にする。

 

 言われたとおり日はまだ中天にのぼったところだった。

 

 校舎には授業中とは違う、一時の解放による喧噪が溢れている。

 廊下はまったく明るい。

 

 そこにどこかほっと胸をなで下ろす。

 

(……とりあえず、教室行かなきゃ……)

 

 ……鞄は手元になかった。

 

 記憶がたしかであれば、どこぞの誰かさんに掬われた際に取られた気がする。

 おそらくは気を遣って持って行ってくれたのだろう。

 

 わざわざそこまでしなくても良いのに、と思うのは過去(ぜんせ)の距離感か現在(イマ)の感情か。

 

 どちらにせよ疑う心情がないあたり相当なものだ。

 

「――――――、」

 

 コツコツと靴音を鳴らして廊下を進んでいく。

 

 歩くのにこれといった支障はない。

 

 彼に保健室へ押し込まれたのは登校した直後だ。

 眠っていたのはそれから今まで。

 

 だとすればなるほど、時間でいえば十分なぐらいだった。

 

 四時間ちょっとの睡眠はそれ相応に心と体を整えている。

 

「………………、」

 

 反面、悩みの種は明らかになったところで対処のしようもなかった。

 

 気付かなかったこれまでと、気付いてしまったこれから。

 (かれ)彩斗(かれ)を別で考えていた時間と、(かれ)彩斗(かれ)も同じだと認識した未来。

 

 たったそれだけのコトだけれど――いや、それだけのコトだからこそ――まったく同じとはいかない。

 

 なにより違いを容認できるほどの余裕を渚は持てないでいる。

 

 築いてきた関係性は言うまでもなく壊れていた。

 渚の認識でソレは間違いようもない事実。

 

 

(――――わかっ、てるの……かな……)

 

 

 こつん、と階段を踏みながら考え込む。

 

 彼のコトはよく知っている。

 でもいまの彼はよく分からない。

 

 昔ならちょっとした声色や表情の微細な変化、些細な動作で透き通るように読み取れた。

 

 肇との間にそういったコトはあっただろうか。

 

 ……彼女自身、それはあまり無かったように思う。

 

 だから通じない。

 たぶん、きっとそうはいかない。

 

(………………私は……)

 

 苦虫を噛み潰したみたいに渚は顔を顰める。

 思い浮かんだのは最悪な未来と最低な考え方。

 

 ……優希之渚が翅崎陽嫁だと気付かれていたとして。

 

 自分のすべてを告白すればどうなるか。

 彼は一体どんな反応をするのか。

 

 

 

 ――――もし。

 

 仮に。

 

 そう、例えば、このように。

 

 

『失望したよ、優希之さん(姉さん)

 

 

 なんて言われた日にはもう立ち直れない。

 

 彼女は二度と空を見上げる権利を失うコトだろう。

 それほどのショックは余裕で受ける自信があった。

 

 なんならこの首にかけてもいいぐらいだ。

 

 主に罵倒直後に吊るのではないかという想像も込みで。

 

(――――ダメだ)

 

 がくん、と膝を折りながら足を止める渚。

 なにがダメかなんて言うまでもない。

 

(想像しただけで私もう生きてけない……っ)

 

 両目からポロポロと涙がこぼれてくる。

 

 最愛の家族に拒絶されたショックと、好いた相手にすげなくされる絶望感。

 

 肇と彩斗は別々に捉えているのに――いや、別々で捉えているからこそ――こういう場合に限っては衝撃は掛け合わされていた。

 

 彼はちょっと一度、(あね)に対する破壊力を計算し直したほうが良いかもしれない。

 

(違うって思ってた。私は大丈夫って。でも、でもさぁ……っ)

 

 ――見下ろすような蔑む瞳。

 

 冷め切った表情と色のない声。

 淡々と告げられる否定の言葉。

 

 そんな彼の姿を思い描くだけで渚は死にたくなった。

 

 自分でも驚くぐらい。

 それだけでたぶん十回は()れる。

 

 

(無理だよだって中身彩斗だもん肇くんだもん! そんなん嫌だよぉ! だって元家族で好きで恋してて愛しくて好きで優しくて好きで惚れてて好きで好きで好きであぁぁぁああぁあああああ――――!!!!)

 

 

 ――ちなみに公共の施設における階段で崩れ落ちる行為は大変危険です。

 

 例え多大な精神的ダメージを負っていたとしてもやめましょう。

 説明するまでもなく彼女は悪いお手本なので。

 

(死にたい…………!)

 

 ぷるぷると震える渚はさながら弱小生物のごとく。

 

 気力を取り戻してもその根本的な実力は変わらなかったらしい。

 端的にいって彼女は対水桶肇関連において徹底的に弱いのだ。

 

 それがピンポイントでウィークポイントを突かれているのだからそれはもう大変。

 

 実に面倒くさい生き物である。

 

 なおそんなコトはそうそう起きないだろうが、実際に「面倒くさい」と肇から面と向かっていわれると病む模様。

 

 もはや何も言うまい。

 

(……かといって)

 

 彼女が姉だと気付かれていないとすればそれはそれで複雑で。

 

 そのまま正体を隠して彼と付き合っていけるかといえば――到底無理だ。

 

 いまでさえ結構かなりギリギリだというのにこれ以上は不味い。

 罪悪感が倍々ゲームで押し潰してくる。

 

 その場合も同じように最終的な行き着く先で首を吊る姿を幻視した。

 

 

 ――――どうしよう。

 

 

 渚はどうなっても死ぬ未来しか見えない。

 

(えっほんとに私は肇くんになにされても心折れる気しかしないけど。えっえっ)

 

 馬鹿げた話、ちょっとだけ余命宣告された彩斗(かれ)の心を知れた気がする。

 

 もちろん冗談で。

 たぶん半分ぐらい。

 

 ……まあ、ともかく結論として。

 

(わかんない)

 

 やっぱりただその一言に尽きるわけで。

 

(わかんないよ……ぜんぜん……)

 

 ほう、とひとつため息をつきながら歩を進める。

 

 なんにせよ彼女が知ってしまった時点でもう後戻りもできなかった。

 

 気付いているなら姉弟。

 気付いていないなら他人。

 

 ……そんな簡単な話で済む問題でもないだろう。

 

 割り切れているのならともかく、渚の心はまだ混戦状態だ。

 

 姉と知って過去の所業を知られて嫌われたら。

 ――泣く。

 

 姉弟だからと親愛の情でしかない対応をされたら。

 ――それも泣く。

 

 ぜんぜんなんとも想っていないと打ち明けられたら。

 ――当然泣く。

 

 泣く、泣く、泣く。

 

 ――――心が、辛い。

 

(ああっ……! 知らないだけで女の子を泣かせるクソボケめぇ……っ、お姉ちゃんはそんな子に育てた覚えはないよっ!!)

 

 無論、半分ほどブーメランであるのは過去の所業からして明らかだ。

 

 渚はここに来てもまた自分の行動を棚上げしたらしい。

 

 必然的に他人との関わりが薄くなっていった彼へ過剰なまでのスキンシップを敢行し、見事距離感をぶっ壊した元凶は一体誰なのか。

 事件の謎は深まるばかりである。

 

(…………意趣返し、なのかな。それとも、本心……?)

 

 夢に見たいつかの言葉を思い出す渚。

 

 見上げた夜空は流れる川のような群青。

 きらめく星は光を弾くみたいに。

 

 頭上に浮かぶ月にかけられた言葉は鮮明に胸を打つ。

 

 あなたのコトが大好きなのだと。

 

 彼にそう教えたのは誰でもない彼女だった。

 だからこそ、深く考えれば考えるほど思考はぐるぐると迷路を回る。

 

 

(ああ、もう……ずっと悩んでばっかりだ、私……彼のコト、で……)

 

 

 

 ――――それは。

 

 唐突に、頭を刺すみたいな気付きだった。

 

 目の前の対処に精一杯な頭は過去の見落としも多い。

 だからだろう、忘れかけていた記憶の端に指の爪先が引っ掛かる。

 

 目の前の光景も身の回りの状況も忘れて、唯々思考に没頭する。

 我を忘れたような意識の暴走。

 

 しつこいぐらいに彼のコトで悩んでばかり。

 

 放っておいたらずっと、彼のコトを考えている。

 

 そんな状態を自覚したときが、以前の彼女には一度だけあって――――

 

 

 〝そう、まるで

 

 

「――――――――」

 

 きゅっと、階段をのぼりきった先で渚の足が止まった。

 保健室のある一階から特別教室の集まる二階へ。

 

 

 〝彼に恋でもしているみたい――――と

 

 

 一年生の教室がある五階まではあと三階分。

 

 間違えようもなく彼女の目的地はそこだ。

 昼食もなにも――それこそ財布すら――持っていない状態なのだから尚更。

 

 先ずは自教室へ顔を出さなくては腹ごしらえさえできない。

 

 ……けれど。

 

 やっぱりやめた、なんて。

 

 気分で行き先を変えたみたいに、渚は二階の奥へと進んだ。

 

 

「――――…………、」

 

 

 コツコツと踵を鳴らして、無言で廊下を歩いて行く。

 

 いまさら自覚しはじめた空腹も、

 人気のない雰囲気も彼女には関係ない。

 

 足を引っ張るにはそれらの要素は弱すぎた。

 

 ただ今は。

 なんだか無性に、彼の絵が見たくて。

 

 

 

 コツコツ、コツコツと。

 

 今日一番の元気が良い足取りで彼女は往く。

 

 ……授業の関係だろう。

 

 美術室は昼休み時でも開放されていた。

 出入り口の扉すら開けたままだ。

 

 それをなんとはなしにくぐり抜けて、室内をぐるりと見回す。

 

 

「…………、」

 

 

 肇の描いた絵は後方の、部員の作品を並べる場所に置かれてあった。

 彼だって立派な美術部の一員というコトだろう。

 

 淀みない動作で教室を縦断した渚は、そのままキャンバスの前でピタリと固まる。

 

 昨日はショックでまともに見られなかった一枚。

 記憶にある色彩は眼前のものと殆ど遜色ない。

 

 死の間際で描き上げられた――と彼女も思っていた――過去(むかし)の彼の集大成。

 天才、翅崎彩斗の生み出した最後の作品。

 

 

 ――澄み渡るような青い空と、風に揺れる深々と生い茂った緑の絨毯。

 

 ――その中で、薄手の白いシャツドレスに身を包んだ少女が手を合わせて祈っている。

 

 ――穏やかに、密やかに。

 

 ――いまの誰かだとは思えないほど眩しい笑顔で。

 

 

 その絵はいつかの彼女の名前を取って『陽嫁』と名付けられた。

 

 なればこそ、長い黒髪をなびかせて笑う絵画の女性は。

 遠く彼方の星に消えた、古く錆び付いた彼女自身の写しだ。

 

(………………、)

 

 思えば、彼はどうしてこれを描こうと思ったのだろう。

 

 そのあたり渚も疑問に思うところがあったらしい。

 

 なにせ過去(ぜんせ)で未完成だったとはいえ殆ど出来上がっていた作品だ。

 同じモノを再度描くというのは、理屈で筆を取らない(あやと)にとって気分の良いものでもなかったろう。

 

 夢中はなっていたけれど乗り気ではなかったハズ。

 

 ……それをどうして、わざわざ今になって描き上げたのか。

 

 たまたま足を運んだだけの彼女にあっさり「あげる」と言ったのか。

 かつての焼き直しみたいな言葉を選んで吐きかけたのか。

 

 それは。

 

 その答えは。

 

 おそらくは。

 

 疑うまでもなく――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君、そこでなにをしているんだ」

 

「…………、」

 

 

 こつ、と後ろから違う靴音が聞こえてくる。

 

 見れば渚が通ってきた出入り口の扉にもたれかかるようにして、ひとりの男子の姿があった。

 

 まったく知らない顔ではない。

 どころか、一時期は親の仇みたいに見ていた人物でもある。

 

「……潮槻くん」

「その絵がどうかしたのかい」

「……別に。貴方には関係ない」

「そんなコトはない。僕は美術部で、肇の友人だ」

「…………、」

「……なにか言いたげだね、優希之渚」

 

 その言葉に渚はあえて答えなかった。

 なんとでも言えはしたけれど、正直にいうのもどこか癪で。

 

「この分野に身を置いていると、色々人を見て分かるコトもある」

「……嘘みたいな話だね」

「嘘じゃないさ。実際、今だって僕は分かってるつもりだけど」

「なにが」

「そういうところだよ」

 

 彼女らしからぬ食い気味の解答に、馨からも似たような勢いで返される。

 

 ……本来の優希之渚と潮槻馨であったのならそんな空気はなかったに違いない。

 

 彼女は己の実力と才能で思い悩む少年の心を救って、

 少年はそんな彼女に並々ならぬ想いを抱く。

 

 ――そんな道筋も用意されていただろう。

 

 でも、ここで出会ったのはそんな前提を壊した複雑怪奇な少女だ。

 

「君、絵を燃やしたコトがあるだろう」

「――――――」

「分かるんだよ。そういう人は目に映るから。雰囲気で匂うんだ。酷いものだね。――作品の価値をまるで理解できてない、品のない目だ」

「…………だったら、なに」

「肇の絵を燃やすつもりじゃないの」

「……違う」

「信憑性のない言葉だね」

 

 ふん、と鼻で笑うようにして彼が歩き出す。

 

 彼我の距離は徒歩でさえ十秒もしないうちになくなる。

 

 渚は馨を。

 馨は渚を見詰めながら。

 

 背景に肇の絵を挟むようにしてふたりは対面した。

 

「僕は散々忠告したんだけどね」

「…………誰に」

「肇に。君とは距離を取った方が良いって」

「っ、そんなの――」

「ああ。彼の勝手だ。別にそれで腹を立ててるんじゃない。そこは勘違いしないでほしいな。何度も言っているけれど、気に入らないのは君だ。優希之渚」

「――私も貴方のこと、好きじゃない」

 

 ぎり、と視線をいっそうキツくする渚。

 それに返すように馨の表情だって急激に温度をなくしていた。

 

 お互いに一歩も引かない。

 譲ろうともしない明確な敵意のぶつけ合い。

 

 なにをそこまでムキになっているのかは、考えるまでもなくシンプルなモノだ。

 

 

「君は彼の才能を分かっていない」

「……少なくとも貴方の百倍分かってる」

 

「価値だって判断できてない」

「この世界の誰より知ってるよそんなの」

 

「それは君自身の感性による評価じゃないだろう」

「私の経験則から導き出してるのがそんなに悪い」

 

 

 ――ああ、今の今までぐちゃぐちゃになっていたけれど。

 不思議なコトに、こうなってくるとどうも火が付くようだった。

 

 それは水桶肇だけを見ていた彼女にはなかった感情の起こり。

 翅崎彩斗だと知ったが故の分かりやすい変化。

 

 根源的な部分に染み付いた衝動はストレートだ。

 

 ――彼のコトを知ったように他人が語るのは、どうにも。

 

「肇は気にしていないようだけれど、僕は君が彼に相応しいとは到底思えない」

「……なにを根拠に」

「だって君が見ているのはあくまで肇で、その絵はおまけとでも思っている」

「――――だったら、なに」

 

 語気は強かった。

 きっと、彼女自身次の言葉を半ば予想できたから。

 

「彼の才能を分からない人間がなにを望んでる?」

「たかだか絵の才能がそこまで偉い?」

 

 夢の中でも。

 遠い過去の世界でも。

 

 何度も何度も耳にした。

 

 聞き飽きるぐらい入ってきた彼の素質を肯定する言葉。

 

 それは偏に突出しすぎているがために、強大すぎるが故に目を焼く輝きの証明だ。

 

「……彼の才能を()()()()で済ませるあたりとくにそうだね」

「そうやって持ち上げて本人がどう思うかを考えないんだね、芸術人(ゲイジュツジン)って」

「君が肇を幸せにできるようには見えない」

「そんなの――――」

 

 

 

 

 

 ……と。

 

 そこまで威勢が良かった声は、その問答で一気に静まった。

 

 たった一瞬。

 ほんのひととき。

 

 彼を幸せにできるかどうかと真面目に考えてしまって。

 

 はっきりと、答えられるだけの根拠も勇気もないのに気付く。

 

 

「っ――――……そんなの。わからない、から」

「……そこで言い淀む時点で君は違う」

「違わない」

「君は彼になにができる」

「なんだって――」

「なにか出来た試しがあるのかい」

 

 過去(むかし)なら。

 

 沢山、それこそいっぱい世話を焼いていた。

 

 なにせ彩斗は身体が弱かった。

 誰かが手を貸さなくては生きていけないほど病弱だった。

 

 でもそれはそれ。

 昔は昔、今は今だ。

 

 現在(いま)の彼女が肇になにか出来たコトは。

 

 

「……結局」

 

 

 意地悪く吐き捨てて馨が踵を返す。

 

 渚は口を開けたまま二の句を告げない。

 

 なにか。

 なにか、肇に。

 思い返して出来ていたコトは。

 

 手伝えていたような、大事なコトは。

 

 

 …………あった、だろうかと。

 

 

「理屈どうこうの前に、いまの君じゃダメみたいだね」

 

 

 よく知りもしない他人の言葉なんてどうだっていい。

 関わり合いのない人間ならそも雑音と変わらない。

 

 だからそんな、去り際の馨が放った一言だって彼女にとっては意味のない戯れ言だ。

 

 ……問題は。

 

 戯れ言のはずのその一言が、心に思いっきり刺さったコトで。

 

「――――…………っ」

 

 知らず、拳を握り締める。

 

 暗さは消えた。

 陰鬱さは残っていない。

 

 彼女はいつの間にか普段の名残を取り戻している。

 

 

 

 ――代わりに、どこか拭いきれないモノと、正体不明の悔しさに焼かれながら。

 

 

 



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53/彼のとっても悪いところ

 

 

 

 

「――――あ」

 

 渚が教室に顔を出したとき、誰かの口からそんな声が洩れた。

 

 残り半分を切ったかという昼休みの時間帯。

 

 中に居るのは弁当組と購買組。

 あとは早くに済ませてきた食堂組だろう。

 

 クラス全体で見ればおよそ七割の人間が集まっている。

 

 その全員が一瞬渚の顔を見たあと、しゅばっと勢いよく目を逸らした。

 こう、なんというか、示し合わせたように。

 

 

「優希之さんだ」

「にわとりちゃん……!」

「オトナギサ……」

「名字はどっちだ……!?」

「君はまだシンデレラだと思ってたよ私は」

 

「…………?」

 

 

 ひそひそと語られるなんだかオカシな話。

 

 それに彼女はガッツリ眉をひそめて反応する。

 

 なんとも微妙な雰囲気は意図的に作り上げられたものだ。

 自然発生したワケではない。

 

 今まで保健室に居たからそれが理由かと思ったがそうではない。

 

 ほんのり、やんわりと。

 

 渚から逃げた視線はひとりの少年へと集まっていく。

 

 

 

「――お、優希之。戻ってきたのか。おっすおっす」

 

 

 

 未来の花嫁ー、なんてからから笑う少年に渚はつい天を仰いだ。

 

 

 〝――――――コイツかぁ…………〟

 

 

 どこか遠い空を拝む今朝方お姫様抱っこされたばかりの美少女。

 いまのいままですっかり忘れていたが、そのときのどこぞの阿呆が言ったコトを彼女はしっかり思い出せた。

 

「あ、渚さんもう大丈夫? 元気出た?」

 

 と、そんな三葉(アホ)の横からひょいと肇が顔を覗かせる。

 

 どうやら珍しく一緒に食事を摂っていたらしい。

 

 いつもなら肇は美術部の部員や馨か渚と、

 三葉は軽音楽部のメンバーと食べるのだが今日は違ったようだった。

 

「――――――」

 

 だがそんな想い人の反応を渚はあえて無視した。

 

 コツ、と甲高く靴音を鳴らして歩みを進める。

 

 彼我の距離は十メートルもない。

 走らずとも逃さぬコトなく捕らえるのは簡単だ。

 

 

「えっ、なんか寒っ」

「急に冷え込んだね。もう四月も終わりなのに」

「……ちょっと待て。優希之嬢の様子がなんかおかしい」

「全員下がれっ! なんか不味いぞ、あれ! ……いや海座貴はそこに座ってろ。いい。水桶も大丈夫だ。うん」

「鎮まれ! 鎮まりたまえ! さぞかし名のある女神と見受けたが、何故そのように荒ぶるのかッ!?」

 

 

 ――コツ、コツ、コツ。

 

 

 気のせいか、一年一組の教室は春真っ盛りだというのに真冬の光景を幻視できた。

 ちょっと薄目にすれば窓の外は強く吹雪いている。

 

 幻覚だ。

 

 あまりの迫力にみんな脳がやられているのだろう。

 

 

 ――コツ、コツ、カツン。

 

 

 ぴったりと三葉の前で足を止めた渚が、立ったまま容赦なく彼を見下ろす。

 

「……オイくそ野郎(ねえ海座貴くん)

 

「渚さん?」

「どうどう。落ち着け優希之。たぶん本音と建前が逆だ。見ろ、おまえのボーイフレンドがめちゃくちゃ驚いてる」

「ストレートに罵倒しても渚さんは素敵だよ……!」

「人をダメにするフォローの仕方してんじゃねえ」

 

 まあそうやって空気を読まない天然純朴野郎(ポンコツクソボケ)は置いといて。

 

「――――なんて言ったの?」

「優希之と水桶が朝帰りしてて通学途中に優希之が腰痛すぎて歩けなくなったから保健室で休んでるって」

 

「ふんッ!」

「こ゚ッ!!」

 

「渚さん!?」

 

 ずどん、とイケメンの腹筋に叩きこまれるボディブロー。

 一撃で仕留めんばかりの躊躇のなさ。

 

 真っ直ぐ突き刺さった拳はその衝撃を余すところなく人体へ伝えた。

 

 血痰を吐き出さん勢いで殴り抜かれた海座貴某はガクンと膝から崩れ落ちる。

 

「み、三葉くーん!」

「っ、肇ぇ……! 逃げろ……おまえじゃ、優希之には……敵わねぇ……ッ」

「そ、そんな! しっかりしてくれ三葉くん! 食堂の唐揚げ定食をひとりで平らげるって言ってたじゃないか!」

「もう……喰ったさ。腹ァ……いっぱいだ……!」

 

 茶番だった。

 ちょっとイラッとした渚は仕方ないだろう。

 

 …………というか、

 

「いつから下の名前で呼ぶようになったの……」

「ついさっきだぞ。肇と一緒に飯食ってたら、なー?」

「そうそう。なんかこう、話がはずんでね。三葉くんやっぱ良い人だし」

「どうよ。一年以上名字でしか呼べてなかったヤツとは違うんだぜ、ユキノニワトリ」

 

「っ!!」

「か゚ッ!!」

 

「三葉くーん!!」

 

 漢海座貴、本日二度目の腹筋崩壊(物理)である。

 

 冗談交じりの煽りはそれでも有罪(ギルティ)だ。

 

 三葉と肇が親しげにしている様子は渚もあまり見たコトがなかった。

 つまり本当にそれまで普通の同級生感覚だったというコト。

 

 一日足らず。

 

 クラスメートの美術部連中ですら数週間はかかったのに昼休みの食事一回。

 

 それでお互い下の名前に移行したというのだから男だろうがなんだろうがちょっと嫉妬す(ジェラ)る。

 

 

「……肇くんこいつダメな男だから仲良くしない方が良いよ絶対。やめた方が良いよ」

「えー。でも話してて面白いよ三葉くん。すっごく」

「同感。なんていうかオレも分かる。優希之はやめとけ」

「ほらこんなコト言うよ」

 

「て言われてるけど。どうなの三葉くん」

「肇。オレはあれだぞ。おまえの絵を見たときからエモーショナルだった」

「そこ気付くの凄いよね。包丁みたいなセンスしてる」

「あっはっは。褒めるな褒めるな!」

 

 〝あっこれ美術部部長とかと同じ感じ(タイプ)の会話だ……〟

 

 

 どこか要領を得ない会話に察する渚。

 

 流石に「ツーカー」というレベルではないだろうが彼らもそれなりに本能言語でのやり取りができている。

 え、まじで? これが? と人を指差して顰めっ面をする彼女は傍から見るとちょっと失礼かもしれなかった。

 

「しかし上手いよな肇。雪射しだっけ? すげーよ。ダイヤモンドみてえ」

「ありがとう。そこまで言われるとちょっと照れる」

「照れんなよ。大丈夫だろ、あれだけのものだったら」

「個人的には色々とあるけども」

「へぇー。そりゃあまたなあ……?」

 

 〝……部長さんとだと別になんでもなかったのに。海座貴くんだとなんか腹立つんだよね……〟

 

 なんでなのかは渚も分からない。

 

 ついでに言うと付随してひとつ思い出してもいた。

 そう言えば、なんて記憶の掘り起こしで。

 

 原作(ゲーム)ではたしか、海座貴三葉(あほまぬけ)楽曲(ソッチ)方面に関する才能とセンスは尖りまくっていたなと。

 

「……雪射しって、なに?」

「なにっておまえ……ああ。優希之は絵、まだ見てないんだっけか」

「渚さんも見てはいるよ。三葉くんが言ってるのはまた違う前に描き上げたやつ」

「……そう、なんだ……」

「うん。俺が創作意欲を爆発させた正真正銘の復帰作」

 

 いぇーい、なんてピースサインをつくる天然(クソ)ボケ。

 隣にいる三葉(アホ)が気の合う同性と知ってテンションが上がっているのだろう。

 

 渚はというと思うところがあったのか、それを受けて急に俯いた。

 

 

「…………ねえ。肇、くん……」

「……? うん、どうしたの」

 

 

 ぎゅっと、ちいさく拳を握り締めたのはどういう心境からか。

 

 

 

「――私、その……肇くんに、なんか……してあげられた、かな……」

 

 

「え? 勉強??」

「っ、そ……そういうの、じゃなくて……!」

「そういうのじゃなく」

 

 ほほぉー、とオウム返し込みで頷く肇はそのあたり分かっているのか心配になる。

 

 じゃあどういうのか、と訊かれると渚としても言語化するのはちょっと難しい。

 頭の中では理解しているものの、上手い言葉を見つけ出せない。

 

 ……それがまた悔しくて、自然と握った拳に力を入れた。

 

「うーん……」

「――――――……っ」

「よく分かんないけど」

 

 ぴくん、と彼女がその声に肩を震わせたときだ。

 

 

「色々とお世話になってる気がするから良いんじゃない? 少なくとも俺は渚さんと一緒なら十分嬉しいし!」

 

「――――――――」

 

 

 〝かっ!!!!!!〟

 

 

 それは閃光じみた胸中の悲鳴だった。

 

 目の前で花開い(ひかっ)表情(フラッシュバン)はあまりにも衝撃的。

 

 眩しい。

 

 ただただ目を焼かれる純度百パーセント――百二十パーセント――いいやそれすら越えて五百パーセントの()()()とした笑顔。

 

 直後、渚は頽れるように溶けた。

 

「――あれ、渚さん?」

「肇。火力が高すぎたな。見ろ、優希之が地面に落ちたアイスみたいになってる」

「渚さん??」

「家庭科室行ってこい。業務用の冷凍庫あるから」

「なんでそんなもの置いてるのこの学園……」

「シンプルな規模のでかさだろうな……」

 

 びしゃびしゃの水溜まりみたいになった少女の前で男二人が食事を再開する。

 

 当たり前のように会話しながらサラッとおかずの交換をしているあたり、やっぱり聞こえてない言葉は続いているようだった。

 渚にはてんでさっぱり、触りすら掴めない。

 

「――そうだ。渚さんもご飯まだでしょ。一緒に食べよー」

「…………え、あ……う、うん……っ」

「肇、肇。オレは犬に食われたくねえよ」

「大丈夫大丈夫。お馬さんは賢いんだよ」

「そうかぁ。……それより優希之、おまえ本当に腰は大丈夫かッ――」

「三葉くーん!」

 

 くの字に折れ曲がって倒れる海座貴少年を余所に渚は自分の席へと向かう。

 

 弁当を引っ張り出してくるのだろう。

 

 鞄は事前の予想通り、朝のうちに肇が持って運んで机の上に置いていた。

 本当、そこまでしなくてもいい気遣い。

 

 ……けれど、いまの彼女にはそれだけでもちょっと嬉しいので。

 

「おのれ優希之……! あいつオレのコトをサンドバッグかなにかとッ」

「仲が良いからだよ。俺、あんなコトそうそうされないし」

「それこそ犬も食わねえんだよなあ……」

「??」

 

「海座貴くん、黙って」

「こういうところあるからマジでオレ優希之はやめた方がいいと思う」

「――――っ」

「やめろ優希之。無言で構えんな。……気を付けろよ、おまえ」

 

 ぴた、と口を開かないまま動きを止める渚。

 

「…………、」

 

「――――腰やってんだから」

 

「ふっ!」

「き゚っ!!」

 

 もはや漫才コンビもかくやという流れだった。

 音楽系イケメン、ここに散る――――

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 その日の放課後も肇は部活動へ参加した。

 

 残りわずかとなった過去の遺産を描き上げるためである。

 

 軽い調子で顔を出したとしても部長から文句は言われない。

 湧いている意欲が正真正銘本物だと分かってるからだ。

 

 天才特有の阿吽の呼吸は相も変わらずも絶好調。

 

 いつも通りの席に座っていつも通りの席に座れば、特にコレといった異常もなくいつも通り時間は過ぎていく。

 

 

 

 ――ハズだったのが、今日はどうにも違ったらしい。

 

 というのも約一名、非常に荒ぶっている人が居たからだ。

 

 

「――――――」

 

 

「……あの、水桶さん」

「? どうしたの姫晞さん」

「いや、あの。潮槻さんなんですけど……」

「うん」

「なんか様子、おかしくないですか……?」

「そうかな?」

 

 言われて肇も馨のほうを向く。

 

 見れば彼はいつにも増して真剣な表情で筆を走らせていた。

 眉間にシワを寄せていると言ってもいい。

 

 普段のクールビューティーじみた冷酷な鉄の仮面が気持ち般若のように変わっている感じさえ見受けられる。

 

「筆遣いが荒いです……」

「言われてみればたしかに」

「あとさっき折れてこっちに飛んできました」

「え。なにが?」

「――――筆が」

「筆が…………、」

 

 摩弓がそっと差し出したポッキリいった絵筆に「おぉ……」なんて若干驚いた反応を返す肇。

 

 本人が気付いているかどうかはともかく、馨の持ち味は絶妙な加減の繊細なタッチと境界を曖昧にする流れるような色彩のラインだ。

 

 そのあたりは肇ですら敵わないほどの高いポテンシャルを持っている。

 優劣ではなく表現の技法が違う方向性にあるからこその素質。

 

 それを踏まえて考えればなるほど、力任せにキャンバスへ筆を叩きつけている彼の姿はたしかにおかしい。

 

「話聞いてみる?」

「……え、あ……良いんですか……? 絵のほうは……」

「もうちょっとだし大丈夫。ちょっと休憩」

「そ、そうですか」

 

 よし、と肇が筆を起きながら席を立つ。

 

 過去(ぜんせ)を含めても珍しい彼自身の意思による作業の中断だ。

 おそらくは一度描いているからこその微かな熱意の弱さから来ているモノ。

 

 なんだかんだで部活中に描いているときは気を緩めるコトをしなかった画家の端くれである。

 

 快諾された摩弓がつい戸惑ってしまったのも無理はない。

 

「馨ー?」

「ごめんいま話しかけないでくれ忙しいから」

「……姫晞さん。本当に機嫌悪いね、馨」

「で、ですねっ、水桶さん!」

 

 

 

「――――誰のせいだと……!」

 

 

 ぎりぃ、と馨がキャンバスに筆を押しつける。

 

 余程強い力を込めたのだろう。

 歯を食いしばったのではなく、曲がりかけた絵筆の持ち手が出した悲鳴だ。

 

 あぁ、アレは折れるな――と納得したのは肇も摩弓も。

 

 ちなみにそんな彼の瞳は真っ直ぐ話しかけてきた男子のほうへと向いている。

 

 

「……え、俺?」

「君の恋人」

「馨。俺まだフリーだけど。誰とも付き合ってないけど」

「君の婚約者」

「ごめんそういう相手はいない」

「…………優希之渚ッ」

「渚さんかー……それはそれで気が早いよ、もう……ふふっ」

 

「かはっ……!?」

 

 

 隣で吐血した摩弓嬢を気にもとめず微笑む肇。

 それだけでちょっと混沌(カオス)だったが美術部の面々は誰も気にしなかった。

 

 なんてコトはない、少し前から始まった彼らの日常である。

 

 憧れの人に惚気られて致命的な傷を負う女子生徒の姿は酷いものだが致し方なし。

 コラテラルダメージというやつだろう。

 

 

「――今日、昼休みに美術室(ここ)で話したんだ」

「へぇ……どんな話?」

「僕はおまえが気にくわないって話」

「ストレートだね」

「あとおまえが嫌いだって話」

「意味殆ど同じじゃない?」

「あとそんな奴に君がぞっこんだから僕は心底ムカついてるって話」

 

「馨はちょっと俺のコト好きすぎない?」

「うるさい。僕アイツめちゃくちゃ()()

 

 

 むっすー、と頬を膨らませる少年はこれまた珍しく年相応の顔だった。

 なんでもない日だと肇は思っていたが、もしかすると本日は結構な非日常かもしれない。

 

 

「馨は最初からずっとそう言ってるよね。なんで?」

「……なんでもなにも全部だよ。目の色も、人を見る感じも、雰囲気も、匂いも、身振り手振りもなにもかも」

「俺は渚さんの全部好きだよ。頭の天辺から足の爪先までっ」

 

「こふぅ……っ!!」

「――摩弓ちゃんっ! もうっ……もういい……っ! もういいだろぉ!!」

 

 

 流れ弾を受けて瀕死の重傷となった摩弓を同じ一年の女子が抱きとめる。

 

 死因は間近で好きな人の他人に対する恋心を聞いてしまったことによるショック死。

 嫉妬(ジェラ)死、あるいは脳が破壊されたコトによる脳死だ。

 

 一介の女子高生にはなにかと耐えがたい衝撃の連続。

 

 彼女の(こころ)にはいくつもの弾痕、何本もの矢が刺さっている。

 

 

「……君がそうだから余計に心配なんだ」

「? そりゃまた、どうして」

「……いっぽうが強すぎる関係は深くて脆いから」

「渚さんは十分強いと思うけど」

 

「あれのどこが……、……いや、君の前だからって遠慮すると余計悪いね。はっきり言うよ。どうせ僕が嫌悪を抱いてるのは変わりない」

「俺は馨のそういうところすっごい尊敬できるしすっごい好きだ」

「……ありがとう。僕も君の素直さは話していて非常に新鮮で楽しくある」

 

 

 ふっと仄かな笑みを浮かべる馨。

 

 その様子にきゃーきゃーと湧き上がった女子数名だったが、直後に教室の端っこへ集まってなにやらヒソヒソと話しはじめた。

 

 ふたりにはまったく聞こえていないが、彼女らはどうも「受け」やら「攻め」やら「はじかお」やら「かおはじ」やらと謎の会話を繰り広げている

 

 

「……正直、僕としては念のため釘を刺すのと八つ当たりだったんだけど」

「八つ当たりなんだ……」

「話してみたら脆すぎてびっくりした。……あれじゃ他人(ひと)と繋がっても意味がない。君や部長よりよっぽど隔絶してる」

 

「ちょっと、なんか言ったそこ。えっと……し、し……シオカワ!」

「……潮槻(シオヅキ)です」

 

 

 なんでもありません、と答えながら馨はひっそりとため息をついた。

 

 前例からして分かりきっているけれど、トップに名前を記憶してもらえないというのは結構クルらしい。

 判別の条件が条件だけに特に。

 

 

「意味がないってどういう?」

「そのままだよ。君が将来のパートナーなら尚更、これからずっとあの調子じゃいつかなにも出来なくなる」

「そのときは俺が渚さんを支えるから平気だよ?」

「……だからそういうところだよ。肇。君、甘やかすしかしないだろう」

「そりゃあ、まあ? 基本的には? ……うん、惚れてるワケだし」

 

 

 あと過去(ぜんせ)のアレコレで返したいモノがいっぱいあるし、と。

 

 

「だからアレなんだ。正直僕は本気でやめた方がいいと思ってる。今からでも遅くない。肇、せめて部長あたりにしておくのがいいよ」

 

「勝手になに言ってんのよコラ。そこ、し……シオモミ!」

 

「潮槻です。部長はちょっと静かにしててください」

「なるほど塩揉(しおも)(かお)る……!」

「肇。僕はいま産まれてはじめて人をぶっても良いかもしれないと思っている」

「ごめん」

 

 

 冷静沈着な馨からまさかの「ぐー」が出掛けていた。

 

 割合でいうと七割方肇が悪いので是非もない。

 あとの三割は一向に名前を記憶しようとしない(ぶちょう)にも非がある。

 

 

「……話を戻すけど、結局そこがどうしようもないと僕は思う。どうせ君らは好き同士で放っておいてもくっつくだろうけど、そういう間柄だからなにも解決しない」

「やだなー好き同士なんて。まだ明確な返事はもらってないのにー」

「デレデレするなよ。君がアレを想って鼻の下を伸ばしてると思うと気分が悪くなる。もう一回……というか何度でも言うけど僕は彼女が嫌いだ。心底嫌いだ。腹が立つ」

「えー……そこまで来ると筋金入りだね。俺はちょっと悲しいよ」

「仕方ない。これは僕の問題でもあるから」

 

 

 と、馨は一瞬だけどこか遠くを見るような目をして。

 

 

「……なんにせよ彼女、あの程度の嫌味すら胸を張って退けられないようじゃダメだ」

「……もしかして昼休みにちょっと元気なかったの馨に八つ当たりされたから?」

「そうじゃないの。……で、どんな風だった。なにか相談されたのかい、肇は」

「うん。俺になんかしてあげられたかどうかって言ってたから、一緒に居るだけで幸せだよーって告白しておいた」

「じゃあそれで彼女は元気になったワケだね」

「まあそこからは、そうだね。変わりなかったと思うよ」

 

「……だから嫌いなんだ」

 

 

 はあ、とあからさまに大きなため息をつく馨はすでに筆を手放していた。

 

 会話を続けていくうちに段々と止まらなくなってきたのだろう。

 よもや犠牲になる画材はなく、突き破られんばかりに虐待されるキャンバスはいない。

 

 彼らは一時の休息に机の上でほっとひと息ついているコト間違いなしだ。

 

 

「他人を拠り所にしすぎるとどうなるか肇は知ってるかい」

「え? いや……そこまで、詳しくないかな……」

「自分しか見えなくなる。勝手にどっか行くんだ。……人の気も知らないで」

「…………馨?」

「……ああそうだよ。あいつ母さんと同じ感じがする。だから嫌いなんだ。そうだ。そうだった、くそっもう……優希之渚……っ」

 

「どうどう。ステイ。馨。なんか凄い怖い顔してるってば」

「…………ごめん、熱くなりすぎた……」

 

 

 本日二度目の彼にしては珍しい明確な感情の発露。

 肇から始まり馨へと移り変わり、やはり今日はいつもと違ったモノが沢山溢れ出てくる日のようだ。

 

 

「……渚さんと馨のお母さんが似てるの?」

「そうだよ。先に言っておくけど僕、両親いないから」

 

「…………え」

「ふたりとも死んでる。父さんが残した会社は親戚名義で実質僕が抱えてるけど」

 

「……えっえっ」

「別にそんな驚く事じゃないだろう。割とよくある話だよ」

 

「いやよくはないと思う!」

 

 

 予期しなかったとんでもないカミングアウトに肇が目を見開いて反応する。

 

 両親不在もそうだが、同年代でそこまでやれるものかという驚きもあってだ。

 加えてなにより馨自身がそこまで切羽詰まった暗さを醸し出していない。

 

 だからてっきり父親も母親も生きていて、裕福な家庭でなに不自由なく暮らしているのだと肇は勝手に思っていたのだが。

 

 

「あー、知らなかったの肇。そいつ仕事〝は〟めちゃくちゃできるわよ。今度の私の展示会も会社ごと協力してくれる手筈だし」

「そうだったんですか。なのに潮槻くんはダメなんですね」

「なに言ってんのよ。シオノハカタでしょ」

 

「潮槻です。……もう()()しか合ってません」

「ごめんごめん。私自分より絵が上手い奴以外に脳のリソース使いたくないのー」

 

「……肇。君は彼女にフルネームを覚えられているという事実をよく受け止めたほうがいいと僕は思う」

「うん。俺も急になんかそんな感じがしてきた」

 

「なによ二人して」

 

 

 気味悪いわねー、とぼやく彩は先日の肇同様一切キャンバスから目を逸らさない。

 

 瞬きすらしているのか怪しいぐらいの集中力でひたすら手を動かしている。

 それに対して「ちょっと酷いなー」なんて苦笑いを浮かべる天然純朴(クソボケ)はちょっと己の身の振り方を省みたほうが良いかもしれない。

 

 人の振り見てなんとやら。

 

 同系統の天才たちはお互いを見て「うわ自分よりやってんな」などと思い合うばかりだった。

 

 

「認めてはいるわよ。成績は良いって聞くし、人に対する観察力も相当なもの。画商に必要な審美眼だってまず間違いなく鋭い。総じて能力は高いわよね。絵は微妙だけど。絵だけは微妙だけど」

「どうして二回も?」

「だって実際微妙じゃない。なんというか今一歩よね。厚切りベーコン?」

「ちょっと言い過ぎじゃないですか? せめて薄切りで」

 

「……そうだね。君たちのおかしな会話でも僕が落ち込むぐらいには言い過ぎだ」

 

 

 薄いのと厚いのでなんの差があるのか。

 ベーコンとは一体なんのコトを言っているのか。

 

 肇と彩の間でだけ成立する語は本当、いつだって意味不明だ。

 

 馨にだって到底分かるものではない。

 

 

「それに余計なお節介まで焼こうとしてるし。別に良いじゃないどうなっても。むしろ私にワンチャンあるから放っておいてほしいんだけど」

「えっ」

「肇。私は一度も帰るとは言ってないのよ」

「困ります部長」

「だってあの程度なら私のほうが絵、上手いワケだし」

 

「……いい加減、続けてもいいかな……?」

「あっ、ごめん。良いよどうぞ」

 

 

 ワケの分からない会話を断ち切って話の流れを戻す。

 つまるところ馨がなにを言いたいのかというと。

 

 

「……要は肇が強すぎるからいけないんだ」

「えっと……ありがとう?」

「褒めてない。いや、褒めてはいるけど論点はそこじゃなくて…………、」

 

「……言いづらい話?」

「聞いてて面白くないコト」

「じゃあ大丈夫」

 

 

 こくん、と頷く肇に馨がそっと視線を向けた。

 

 ……そう、正しくそのあたり。

 

 いま実感している部分がそうなのだが、だからこそだと少年は一度目を伏せる。

 

 

「……うちの母さんは家族想いな人だった。父さんが大好きだった。僕だって相当良くしてもらったよ。本当に。……本当に良い母さんだった」

「……うん」

「父さんとは大恋愛だったらしい。周囲の反対を押し切って結婚したとも聞いていた。父さんがそのために色々動いたのも」

「……そっか」

「それで二年前、僕が中学二年のときに父さんが病気で倒れて。一か月足らずで容態が急変して。そのあとはまあ、言わなくても分かるだろう」

 

「…………それは」

「だから聞いてて面白くないって言ったんだ。……あっちだって残された側だろうに、それにどうして気付かない。嫌いだあんなの。僕は心底いやだ」

 

 

 それはおそらく触れづらいが故の彼の気配りで。

 最低限、誰かに向けられた微かな優しさの残滓だった。

 

 きっと本人がいれば我を忘れるぐらい驚いたろう。

 

 少なくとも、喧嘩を売るような物言いでよっぽど良かったと思えるぐらいに。

 

「……いや、まさか。渚さんがそんな……なるかなー……?」

「どうだろうね。あくまで僕が見た上ではだけど。嫌なニオイはするし、嫌なカンジもするし。だから最悪なんだ。なにより――」

 

 ぐぎぎ、と馨が拳を握り締める。

 理由でいうならたぶんそれが最も大きいもの、とでも言わんばかりに。

 

 

「――そういうところを全部含めて僕が嫌だと感じないどころか別に良いと許容してしまいそうな感覚が大嫌いだ」

 

「……馨の心は複雑だね。それ矛盾してる気がする」

 

「そうかもね。でも仕方ない。()()()()()()()()()()()なんて、それだけで嫌う理由に余りあるよ。……少なくともこんな感覚(きもち)、僕自身のものじゃないさ」

 

 

 吐き捨てるように言って彼は再度乱暴に筆を取った。

 

 それはともすれば肇も、彩も分からないような別種の情緒だ。

 

 嫌いなのに嫌いじゃない。

 嫌いになれないから嫌いと思う。

 

 想いの在処に正解はないとはいえ、言葉にするとそれはいや難しい問題である。

 

「……馨も渚さんも、俺は深く考えすぎと思うんだけど」

「肇はそれで良いよ。きっと。あくまで僕が思うのは彼女だ」

「よっぽどだね。いや、どうかと思う」

「なにがだい」

 

 

 

「――――馨、やっぱり俺のことめちゃくちゃ好きじゃないか?」

「うるさいよ」

 

 

 

 

 

 



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54/いつか消えてしまうなら

 

 

 

 

 いつの間にか、窓から見える景色は朱色に染まりかけていた。

 

 放課後に入った一年一組の教室。

 しんと静まり返った空間に人影はただひとり。

 

 渚はぼんやりと夕暮れの空を眺めている。

 

「…………、」

 

 ほう、とため息にもならない吐息が洩れる。

 

 部活動の音に溢れた校舎は賑やかであれども人気は薄い。

 廊下側に近くある彼女の席でもそれは一緒だった。

 

 新参者が集められた教室は五階。

 

 いまの時間帯にそこを通る生徒は殆どいない。

 別におかしなコトではなく、単に用なんて出来ようもないからだろう。

 

(……なに、してるんだろ……)

 

 机の上に上半身を倒しながら渚は考える。

 

 彼女が残る理由はまったくない。

 今日は学級委員としての仕事も生徒会の手伝いも入っていなかった。

 

 部活動にも所属していないのだから授業が終わればすぐ帰ればいい話。

 

 ただ、そこでちょっと色々と思うところがあって。

 結局は立ち上がれもしないまま長居してしまっただけ。

 

(…………私は)

 

 思い起こされるのは昼休みの一件だ。

 ふらっと立ち寄った美術室で起きた馨とのやり取りである。

 

 ……別に彼の言葉が刺さったままなワケではない。

 

 心を揺らされてズルズルと引き摺っているのとは違う。

 以前までの渚ならそうなっていただろうが、今はまだまだ大丈夫なほう。

 

 落ち着いて思考を回せているだけ、少しは前に進めている証拠だった。

 

(結局……どう、なんだろう)

 

 心に浮かんだ答えはたしかな形を取りつつもぼやけている。

 

 優希之渚という少女の在り方。

 彼女がこれまで歩んできた過去に対するモノ。

 

 なんであれ持ち直した現状は、けれども自分自身だけの成果ではない。

 

 かつては正しく物事を捉えるコトすら難しかった精神(ココロ)

 

 生まれ変わったとしてもそれは根本的に解決していなかった。

 渚の醸し出す人を寄せ付けない雰囲気(オーラ)がその証明だろう。

 

 それが薄れてきたのはつい最近になる。

 

 理由だって考えずとも分かるぐらい明白だ。

 

 たしかに彼女は前に進んだ。

 なんであれ以前のように生きていく力を取り戻しつつあった。

 

 

 ――――誰でもない、(かれ)に支えてもらいながら。

 

 

 もしも彼が杖であるのなら。

 義手、義足、果ては車椅子であったなら。

 

 そんな状況も悪くはないと言えたかもしれない。

 

 でも肇は人間だ。

 

 生命機構でいえば変わったところもないただのヒト。

 

 刺されれば血が出るし、血が出れば命に関わるし、下手すれば手遅れになる。

 当たり前に生きて当たり前に死んでいく。

 

 それは悲観するコトじゃない。

 

 生き物である以上いつか死ぬのが自然の決まり。

 

 当然の流れだろう。

 

 ヒトはモノと違って代えが効かないものだ。

 それは現実的な話じゃなく、個人的な――もっと言えば精神的な話。

 

 壊れたからといって簡単に治せるワケじゃない。

 駄目になったからといって交換できるハズもない。

 

 ……だから問題は。

 

 それが絶対的な支えになっているというコトになる。

 

 そのコトに渚は少しだけ気が付いた。

 思えば、私はいつも彼に頼ってばかりいたのかな――――と。

 

(……肇くんが、もし……)

 

 居なくなったら。

 姿が消えたら。

 遠くへ行ってしまったら。

 離れ離れになってしまったら。

 

 最悪――――死んでしまったら。

 

 ……言うまでもなく。

 

 きっと彼女は耐えられない。

 

 ただ好きな人であっただけでも相当なモノだ。

 過去(ぜんせ)彩斗(おとうと)だと分かったいまそのショックは計り知れないものとなるだろう。

 

 そうなれば多分、精神は深い場所へと遡行する。

 

 暗い過去へとさかのぼる。

 

 そんなときにどういった選択をするのか、一度身をもって経験した彼女はなんとなく判断もついた。

 

(――――最低……なんてこと考えてるんだろう、私…………、)

 

 くすりと微笑む。

 想像上では笑えもしない有様だったけれど。

 

 せめて形だけの笑みを浮かべて彼女は顔を伏せた。

 

 彼女の歪みは根本的な部分と、そこから発展した対人関係によるものだ。

 簡単に処理できる爆弾(もの)じゃない。

 

 それこそ渚が自立できるように肇が支えていたのなら結果はまた違ったろうが、なんの自覚もない彼にそこまで望むのは難しいと言えた。

 

(…………でも、ほんとに、いなくなったら……)

 

 いつかに失って取り戻した彼女の指針。

 生きる気力を湧き出させてくれる心の拠り所。

 他にひとつと存在しない彼女の太陽(ひかり)

 

 凍えきった身体を、冷めた精神を温めてくれた。

 引っ張り上げてくれた、すくい上げてくれた。

 

 優しく背中を押してくれた恋い焦がれる相手(ひと)

 

 そんな相手を失う。

 

 彼女にとっては考えたくもない未来。

 目を背けたいほどの暗い行き先。

 

 ……でも、いつかは必ず辿る結末のひとつ。

 

 違うとすれば、それは彼より先に彼女が死んだ場合だけだ。

 

(――――私が、先に……)

 

 そうすればきっと渚()幸せだ。

 彼の傍で、最期の最期まで彼に見られながら、彼を失う痛みを知らずに去っていく。

 

 正しくこれ以上はない終わりだろう。

 おそらく未練なんてあってないようなぐらい。

 

 けれど必ずしもそうなるとは限らないのが人生だ。

 一日先、一寸先ですらなにが起こるか知りようもないのが普通。

 

 …………なにより。

 

 残される側の苦さを、辛さを。

 彼女はよく、知っている。

 

 それを彼に与えていいものかと。

 

 そこまで思考が回ったのは、自力ではないとはいえ進歩があったが故の間違いなく良い部分(ところ)だ。

 

(……私が死んだら、肇くんはどうなるんだろう……)

 

 泣いてくれるだろうか。

 渚のように重く引き摺るだろうか。

 

 わからない。

 

 姉弟でも精神性が同じとは限らない。

 産まれ育った微かな環境の違いだってある。

 

 ――彼は強固だ。

 

 彼女とは根本的に自我のつくりからして違う。

 芸術的センスが飛び抜けているだけに肇の自己、完全性は欠落する余地がない。

 

 なればこそ、きっと泣きはするだろう。

 

 でもそれまで。

 たぶんそれだけ。

 

 思いっきり泣いて、思いっきり悲しんで。

 たくさんいっぱい沈んだあとに、変わりなく進んでいける強さを持っている。

 

 ……ああ、そう考えるとたしかに。

 

 渚ではダメだという馨の言葉は、ちょっとだけ頷けるような気がして――

 

 

 

 

 

「――――あれ、優希之? おまえなんでまだ居んの」

 

「……海座貴くん?」

 

 

 いぶかしげな目で渚を見るひとりの男子。

 異性にしてはよく話すクラスメート。

 

 突然の闖入者は黒いギターケースを背負いながらやってきた。

 

 予期しない人物の登場に驚いたのも一瞬、彼女は思考を中断して居住まいを直す。

 

 

「そっちこそ、いま部活じゃないの……?」

「早めに切り上げ。そんで、教室に数学のノート忘れてたから取りに来たんだよ。ひとり物憂げに佇んでる奴がいたけど」

「……別にそういうのじゃない」

「じゃあ格好付けてる奴がいたと」

 

「殴るよ」

「優希之。オレ、おまえのその、直ぐ手が出るところは悪いところだと思うぞ」

「海座貴くんにだけだから」

「うわぁ、世界で一番嬉しくねえ独り占め」

 

 

 うへぇー、なんて声をあげながら彼は自分の席へ向かう。

 

 

「んで最初の話に戻るけどなんで居んの、おまえ」

「……なんでだろうね」

「いやその返しがなんでだよ。……肇待ってんの?」

「……そういうんじゃないよ」

「ふーん……」

 

 

 がさごそと机の中を漁る三葉。

 お目当ての品物は早々に発見できたのか、「おっ」なんて声をあげて一冊のノートを引き抜いていく。

 

 そうして彼はそのままUターン。

 

 渚のコトは気にせず帰る――かと思いきや、どすんと彼女の隣の席へ腰掛けた。

 

 さも最初からそう決めていたような様子で。

 

 

「…………なに」

「いや。ちょっと気になって」

 

「……そこ退いてよ。肇くんの席だし」

「いいじゃん。オレと肇の仲だからな?」

 

「そんなに仲良くないでしょ」

「少なくとも長いコト名字呼びだったおまえよりか近しくあるだろ」

 

「は?」

「冗談だっつうの」

 

「笑えないから」

「いつにも増してピリピリしてんなー……おまえ」

 

 

 呆れたように三葉がため息をつく。

 渚は打って変わって彼と反対側――廊下のほうへ顔を向けた。

 

 なんとも面倒くさい遠回しな意思表示。

 

 それを少年はどう思ったのか、頬杖をつきながら二度目のため息をこぼす。

 

 

「……どうしたんだよ、優希之」

「……なにが」

「如何にも悩み事ありますって顔してんぞ。どうせ肇関連だろうけど」

「……どうにしたって海座貴くんには関係ないコトだから」

「そうだな。関係ないから話聞いてやるよ。そのほうがやりやすいんじゃねえの」

「………………、」

 

 

 そっと、渚が三葉を盗み見るように首を動かす。

 

 ……いつものふざけた態度で忘れがちだが。

 

 ほんとう。

 こういうところは()()()ものだな――と。

 

 

「……別に大したコトじゃないけど」

「ああ」

「肇くんが居なかったら私、生きていけないかもなって」

「大したコトじゃねーかおまえ」

 

 

 いつにも増して鋭いツッコミに渚はくすりと微笑んだ。

 

 彼女としてはふざけたように言ったけれど、彼相手ならそれで十分らしい。

 

 本心の重みがどうかぐらいは察して余りある。

 そのあたりの機微には聡いのが三葉という少年だった。

 

 

「前から思ってたけど、優希之って重いよな。つくづく肇相手で良かったと思う」

「……なにが良いの?」

「だっておまえ、そこまでだと普通は困るだろ。……いや、なにをもって普通とするのかはオレも昨今わかんないけども」

「私だってわかんないよ」

「そうか。……ま、そこらへんマジで相性は抜群だとオレは感じたけどなー」

 

 

 ああいうのはなかなかいねえ、と笑う三葉。

 

 それはたしかにその通りだと渚も思う。

 肇のような相手はそうそういない。

 

 繋がり的にも、人となり的にも、素質的にも紛れもない希少性の塊だ。

 一部だって彼の代わりは他人に務まらない唯一性。

 

 だからこそ、やっぱり渚は暗い予想に考えを引っ張られる。

 

 

「……私さ、肇くんに助けられてばっかりなんだよ」

「まあそりゃあ、見てりゃ分かるけど」

「ずっとずっと引っ張ってきてもらってさ。それでここまで来れたってのも分かってるし……実際そうなんだけどね」

「ほぉー……そんで、そのなにが不満なワケよ」

「言ったでしょ。居なくなったら、生きていけないんだって」

「………………、」

 

 

 自嘲するように渚は語る。

 

 その言葉に強い響きが付随するのは事実だからだ。

 遠く離れた空間とはいえ、過去に実際あったコトだからだ。

 

 無論、三葉はそんな馬鹿げた因果を知る由もない。

 

 ただ酷く感情のこもった言葉であったのは理解できた。

 

 

「肇くんと居ると楽しいし、嬉しい。幸せだって思うし、満足できる。一緒に居たいって思う。ずっと傍に居たいって」

「急に惚気んな。口の中甘くなる」

「……だって仕方ないじゃん。私知らなかったんだよ。ぜんぜん気付かなかったもん」

()()っておまえ」

「なのに……、なのに――――惚れちゃったんだよ。私、あの子に」

 

 

 肇と過ごしたいつかの時間。

 

 過ぎていった何気ない日々の中で。

 重ねていたのは彩斗(おとうと)の影だったけれど、追っていたのはそうじゃなかった。

 

 

「しょうがないじゃん……そんなの、私……違うのに。でも、だって……っ」

 

 

 いつだって彼女の胸を弾ませたのは。

 この心を独占していたのは、振り回したのは。

 

 彩斗(おとうと)によく似た誰かじゃなくて。

 

 ――――そうではないと切り離した水桶肇その人だった。

 

 

「なのに今更言われたって、わかんないよ。違うもん。私、あの子を見てたワケじゃない。ちゃんと肇くんだから、彼だから――――好き、でっ」

「……落ち着け優希之。そんなん向こうだって分かってるだろ」

「分かってないよ多分絶対だって肇くんだよクソボケだもんっ!!」

「お、おう。そうだな。そうかもしれんな」

 

 

 なるほどクソボケは言い得て妙だな、と頷く三葉のセンスはきっっと正しい。

 古今東西純朴天然を表す言葉などそれで十分なのだ。

 

 水桶肇はポンコツクソボケ。

 

 そんなのは男女共通――ともすれば万国世界共通の認識である。

 

 

「……大切なんだよ、大事なんだよ。だったらさ、そしたらさ……なくなったら、どうすればいいの」

「……肇、あいつなんか悪いところでもあんの?」

「そうじゃ、ないよ。ううん、そうじゃない。……いつか、死んじゃったら。居なくなっちゃったら、私、無理だよ。絶対無理。生きていけない。彼がいない世界なんて……そんなの、私――――」

「優希之…………」

 

 

 経験則に基づいた結論と、自覚しているが故の現実。

 そこに過去の出来事が余計な装飾として加われば完璧だ。

 

 自分の弱さに気付いて、不足している部分に気付いて、失敗にも気付いた。

 

 後退する理由はそれだけで出来上がってしまっている。

 

 皮肉にも、前へ進んでしまったがために。

 

 

「――……だから、どうなのかな……って、思って。……考え込んでた」

「………………、」

「私、こんなんで良いのかなって。肇くんの傍に居て良いのかなって。どうしようもないのに、そんな資格とか、あるのかなってさ……」

 

 

 きゅっと、ちいさく両手の拳を握りながら渚はこぼし終えた。

 

 整理のつかない感情。

 整理のつきはじめた思考。

 

 ふたつがない交ぜになった言葉は後ろ暗いものに塗れている。

 

 罪状はたしかではない。

 けれどそれはある意味告発じみていた。

 

 絵を燃やしたというコト。

 後を追ったというコト。

 彼の死を長らく引き摺り続けたコト。

 

 そのせいでまともじゃ居られなかったコト。

 根本的な部分ではそんな自分に変わりないコト。

 

 ……そう、実際、今みたいに。

 

 肝心なところで後ずさってしまうほどには。

 

 

「――――……優希之、おまえさ……」

 

 

 そっと三葉が口を開く。

 

 俯き加減な渚を見詰めながら。

 どこか気遣うような視線を投げて。

 

 彼は優しく――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おっっっっっっっっっっも」

 

 

 

 

 ――――優しく、というのは誰かの見間違いだったらしい。

 

 静かに顔をあげた渚はくるりと九十度横に回転。

 ゆっくりと両手を伸ばし、彼の頭を振れるように掴んだ。

 

 そして、

 

 

「――――しッ!!」

 

「がッ!!」

 

 

 ごん、と逃げ場をおさえて膝を喰らわせる。

 

 衝撃の逃れようもない。

 防御のしようもない本気の膝蹴り。

 

 しかも顔面への情け容赦のない一撃だった。

 

 真正面からそれを受けた三葉は土砂かなにかのように床へ崩れ落ちていく。

 

 

「……て、てめえ優希之……っ、そういうところがなぁ……!」

「人が真面目に話してるのに茶化すからだよ」

「いやおまえそれ以外どう反応しろと。重いんだよ、重い」

「女子にそういうコト言うの最低だと思う」

「うっせ。違うしな。つうかおまえだって乗っかってんじゃん」

 

 

 ぶつくさ言いつつ姿勢を戻す三葉。

 

 渚から結構な制裁を喰らっているのにめげないあたり彼はわりと大物だ。

 むしろまったく怒る気配がないあたり凄まじい強者と言ってもいい。

 

 なんだかんだで二人の仲が宜しい証拠でもあるが。

 

 

「重いし、めんどくせえし。その上こじらせ過ぎてんな、優希之は」

「…………しょうが、ないじゃん。私だって好きでこんなんじゃ……っ」

「ま、そこら辺は仕方ねえよ。生まれ持った性ってのもあるだろうし」

 

 

 息を吐くように三葉が笑う。

 再度すぐに下を向いてしまった渚からその表情は見えていない。

 

 

「……な、優希之。おまえなんで生きてるんだ?」

「…………それ、は」

「ああいや、違う。すまん、ごめん。悪い意味じゃない。どうしてって感じだ」

「……なんでって、別に、普通に……」

「じゃなくってさ。うん。優希之だけじゃないし。なんつうかなぁ」

 

 

 うーん、と考え込んだのは数秒足らず。

 

 なにを悩んだのか彼女には見当もつかなかった。

 質問の意図すら曖昧なものだ。

 

 渚にはまだ三葉の言いたいとするコトがイマイチ掴めない。

 

 

「優希之の言ってるコトは分かんなくもねえけど、それをどうにかするために生きてるもんじゃねえのかな。普通」

「……どうにか、って」

「なくなってからも歩いて行けるように、いまあるうちに沢山溜めておくんだろ」

 

 

 咲き誇るような表情で三葉は言った。

 肇とはまた違う、真っ直ぐで晴れやかな顔で。

 

 

「死んだら辛え。消えたら悲しい。居なくなったら寂しい。当たり前だ。誰だって同じだそんなん。そのあと生きていくのだってしんどいに決まってる。だから生きてるうちにいっぱい作っとくんだろ。充電だ充電」

「充電って……」

「違うのかよ? だっておまえ人なんだからいつかは絶対死ぬんだぞ。そうと分かってるなら今のうちにやれるコトやっとかなくてどうするんだ」

「………………っ」

 

 

 思わず返す言葉を失ったのはあまりのストレートさからだ。

 

 気遣いの欠片もない台詞。

 

 浪漫も特別な響きも一切込められてはいない。

 ともすれば嫌な現実さだけが刺さる一言。

 

 けれど、だからこそ。

 

 そんな彼の言うコトは率直に届いてきた。

 

 

「いつ来るかもどうやって来るかも分かんねえ未来に怯えて足踏みしてるだけとか馬鹿らしいぜ。耐えられないって気付いてんならそれこそだ。たとえ肇がいなくなったとしても歩いて行けるぐらい今のうちに作ってためとけよ。モノじゃなくて、カタチじゃなくて、優希之の思う部分になー」

「……私の、思う部分……」

「これさえあればあいつが居なくても大丈夫って思えるところをだよ」

 

 

 くしゃりと笑って立ち上がった三葉が、ぐわわーっ、と乱雑に渚の頭をかき回していく。

 

 

「っ、な、なにすっ……やめっ……――やめてホントに」

「いやガチトーンはよせ。怖え。肇には無抵抗でやられてんのに」

「うるさい。肇くんは別に良いもん」

 

「優希之」

「なに」

「おまえが〝もん〟ってちょっとキツ――」

 

「っ!!」

「ぐっ!!」

 

 

 本日何度目かも分からない衝撃に悶える少年の姿はちょっと憐れだ。

 

 渚にもっとパワーがあって本気ならもう腹筋は青痣だらけだったろう。

 

 彼女がか弱い女子であったコトに三葉は地味に感謝した。

 これが同性の運動部連中であれば洒落にならない。

 

 シンプルに喧嘩の時間だ。

 

「……いってぇ……おまえな。折角ヒトが助言してやったのに……」

「余計なコト言うからでしょ」

「はいはい、すいませんね。……ともかく、オレから言えるのはそんなもんだよ。複雑に考えすぎなんだよ、優希之は。きっと肇だってそう思ってるぜ」

「そんなワケ――――」

 

 〝深く考えすぎなんだ

 

 瞬間、頭に浮かんできたのはそんな言葉。

 

 面と向かって言われた記憶はない。

 彼女が朧気な意識でとらえた誰かの響き。

 

 眠る前に聞いたような、隙をついて発せられたような、靄がかった肇の声だ。

 

 

「――…………、」

「ん、当たったか? まあどっちでも良いけど、少しは素直になれよ。気持ち的にも考え方的にも。そのほうがお前らは良いよ。多分だけどな」

「…………なにそれ」

「オレの勘。じゃあな、優希之。あとどうするか決めるのはおまえだから」

 

 

 そう言うと、三葉はさっさと教室から出て行った。

 

 自分から言ってやれるのはここまで。

 あとは他人に任せる領分でもない――とでも言うかのように。

 

 大事な部分は渚自身でやるものだろうと。

 

(……いまのうちに、溜めておく……)

 

 かたん、と椅子を鳴らしながら背もたれに体重を預ける。

 

 見上げた天井に夕暮れの色は消えていた。

 窓から覗く空模様はすでに夜の景色に移り気味。

 

 どうしようもなく時間は無情に過ぎていく。

 

 ……いや、だからこそ無情も薄情もない。

 

 予感はある。

 確信だってしている。

 

 いつか消えると分かりきっているもの。

 定められてここに在るモノ。

 

 ならばそれが残っているうちに。

 

(……ああ、そっか)

 

 思えばそんな考えを、彼女はしたコトがなかった。

 

(……私、彩斗がいないってコトに悲しむだけで、なにも見てなかったんだ……)

 

 そこに気付けたのは果たして幸か不幸か。

 

 暗くなっていく教室で少女はひとり物憂げに座り込む。

 

 密やかに、静やかに。

 どこか風が抜けていくように。

 

 

 

 

 



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55/用意された舞台

 

 

 

 

「失礼しまーす」

 

 がらがらと扉を開ける音と共に響く元気な声。

 

 放課後の美術室に飛びこんできた客人はきょろきょろと辺りを見渡した後、肇を目にしてニカッと笑った。

 

 誰であるかは件の人物にとっても声で分かる。

 クラスメートの陽気なイケメンこと海座貴三葉だ。

 

「おっ、いたいた。すいません肇ちょっと借りていいっすかー?」

「別にいいわよー」

「あざっす!」

「?? ……三葉くん?」

 

 どうしたの急に、なんて席を立ち上がるお絵かき中だった美術男子。

 

 やはりというか簡単に中断してしまえるあたりに集中力の薄さがある。

 嫌々描いているというワケではないだろうが、熱意に駆られての衝動的なものと比べるとどうしても。

 

 如何せんしょうがない。

 

「ちょっとな。部活もう終わりか?」

「いや。まだあと三十分ぐらいは」

「そっか。ならまあ……三十分は……妥当だろうなあ……」

「……?」

 

 うんうんと頭を上下に振って三葉は頷く。

 

 と、肇はそんな彼に立ち寄ってようやく気付いたところがあった。

 

 あまりにも薄くて。

 ともすれば見間違いに思えるぐらいなものだったが。

 

「……三葉くん、なんか顔……ていうか鼻? 赤くない?」

「おう。分かるか肇。これはな、酷い霜焼けなんだよ」

「いま四月の末だけど……」

「いたく冷たい雪がな、容赦なく降ってきたんだ…………」

 

 ――――膝のカタチで。

 

 こう、思い切りよく顔面へガンッ――と。

 

 そう語る三葉の視線はどこか遠くを向いていた。

 情け無用の一撃は確実にひとりの少年へ痛みを植え付けていたらしい。

 

 鼻血が出なかったのは偏に雪の女王様の恩赦……ではなく非力さだろう。

 力にせよ心にせよ渚は()()()()なので。

 

「……なんかよく分かんないけど大丈夫?」

「少なくともこうやって立って歩けるぐらいには平気だな」

「それなら良いんだけど。……どうしてここに?」

「まあ軽く伝言というか、助言というか。端的にいうとお節介をな」

 

 にしし、と笑う三葉に肇がこてんと首を傾げる。

 

 彼の雰囲気的にそう悪い話ではないのだろうが、お節介と言われてもイマイチ思い当たる節がない。

 助言としてもなにをどう助けるのか皆目見当もつかない。

 

 なにか三葉にそこまで心配させているコトがあっただろうか、とわずかに考え込む。

 

「? それって……」

「部活終わったらオレらの教室に寄ってみな。かぐや姫が居るから。いや、白雪姫……? うん、白雪の(優希之)姫だな、ある意味」

「え、どういう話」

「いいから一年一組の教室に顔出して来い。意味は行けば分かる。分かれば行けるさ。それだけ。――じゃあな、肇。失礼しましたー」

「え、あ、うん。またね」

 

 それで短いやり取りは終了。

 

 ひらひらと手を振って、三葉は入ってきたとき同様明るい声を出しながら去っていく。

 

 残された肇は一体どういう意味だろうと不思議に思うばかり。

 かぐや姫や白雪姫なんて現実にいるワケもなし。

 

 なにかの比喩だろうか、と無駄に豊かな想像力を膨らませてみた。

 

 

「肇、あんた賑やかなのと付き合いあるのね」

「はい。昼からの深い付き合いです」

「へぇー。おもろい奴ねあれ。名前なんていうの?」

「三葉くんですよ。海座貴三葉」

「おっけー。頭の片隅に記録しといてやるわー」

 

「部長が外部のヒトを覚えた……!?」

「そんなっ、たかだか水桶くんの友達ってだけで!?」

「それなら潮槻くんも姫晞さんも覚えられてて良いでしょ!」

「なんか通じるところとかあったのかな……」

「あの人の言動は意味分かんないから考えない方がいいよ、たぶん」

 

 

 良い意味でも悪い意味でも信頼ある部長への言葉の数々。

 思うところはあれど貶めているワケではないあたり部員たちと彩の関係性が窺える。

 

 たしかに独りよがりで傍若無人で横暴で礼儀知らずで破天荒で型破りな天才だが、それはそれとして身内には甘いし頼れるときはとことん頼れる人物だ。

 

 なんだかんだでみんな彩を好ましく思ってはいるらしい。

 

 

 

「ね、ね、()()()()()

「? はい」

 

 と、三葉を見送った肇へ近付く声がひとつ。

 

 渚パパみたいな渾名で彼を呼んだのは副部長だった。

 

 会議や集会をサボりがちな彩に代わって日々忙しなく活動する影の実力者。

 むしろ部長より部長してる、実質権力握ってる、ともっぱら噂の裏で美術部を上手く動かし続けてきた猛者だ。

 

 ちなみに肇が倒れたとき真っ先に酸素スプレーをしてくれたのもこの人である。

 

「ポッキーいる? 食べる?」

「良いんですか?」

「どうぞー」

「ん、いただきます」

 

 もぐもぐと差し出された棒菓子(ポッキー)を咀嚼する肇。

 それを心温まるような、穏やかな表情で見詰める副部長。

 

 ふたりの間にはなんとも言えない空気が漂っている。

 

 主に後者から放たれる強烈な心的爆発力によって。

 

 

「また副部長が餌付けしてる……」

「急になんで? 今日は会議とかなかったろ」

「部長が余所の子の名前覚えたからでしょ」

「あっ、そっか……御愁傷様です……」

「アニマルセラピーならぬ水桶セラピーか……お疲れさまです副部長」

 

「……え、なんでちょっと私が悪いみたいな空気になってんの」

 

「実際ちょっと可哀想だと僕は思います」

「うっさいシオダレ」

「潮槻です」

 

 

 あはー、なんて気の抜けた顔で微笑む少女。

 

 無言でポッキーを囓る男子がそんなに良いのかどうかは置いておいて、彼女の心を蝕むストレスは多分にあった。

 

 本来は補佐の立場なのに毎回実質トップとして出ざるを得ない部活動会議。

 その他諸々の生徒会、部長の集まり。

 

 加えてそれら全てにおいて悉く言われる「部長は出てこないのか」という圧力とか責めとか注意とかなんとか。

 

 そのような毎日を続けていればアオハル的女子高生としては胃も痛くなる。

 癒しだって欲しくなる。

 

 そんな時だった。

 

 聿咲彩と同格――ともすればそれ以上の才能を持つ少年、水桶肇と出会ったのは。

 

 当然彼のコトも同じ天才枠として警戒していた副部長だったが、これが話してみるとなんとも物分かりが良い。

 

 なによりきちんと会話が成立する。

 常識的な観点から物事をちゃんと捉えられていた。

 

 挙げ句の果てには自己紹介の直後。

 

 

『――はい、柊木(ひいらぎ)先輩ですね。よろしくお願いします』

 

 

 聞き返すコトもなく。

 覚える気はないなんてふざけたコトを()かすコトもなく。

 

 一発で名前を記憶し、純真無垢な笑顔で手を握った彼に楽園(ぱらいぞ)を垣間見た。

 

 嗚呼、なんて素敵で当たり前というやり取り。

 同じ才能持ちというだけでこうも違うものか、と彼女は感動した。

 

 以来、肇に精神安定の妙を見出した副部長――柊木預奈(あずな)はこうして時たま急なストレスに襲われると彼を構うようになっている。

 

 もちろん天然馬鹿(クソボケ)にその自覚はない。

 

「はーちゃんはーちゃん、Fran(フラン)もあるよ。食べる?」

「良いんですか?」

「どうぞどうぞ」

「ん、いただきます」

「……あっ、その前に」

「? なんですか()()()()

「――――よしっ、いいよどんどん食べて全部食べて! うん!!」

 

 にぱにぱと(とろ)けんばかりの笑みを浮かべる副部長。

 それはきっと一歩間違えれば()()()()可能性があったのではと感じざるを得ない表情だった。

 

 無論、彼女に他意はない。

 

 悪意もなければ下心だって存在しない。

 副部長はシンプルに心の癒しを求めて肇と触れ合っている。

 

 そのあたりがメチャクチャ危ないというかイッてるというかやっちゃってるというか……ともかくアレだが、今のところは大丈夫なのだろう。

 

 たぶん、きっと。

 

 

「うわぁ……副部長めっちゃ笑顔……」

「凄いな水桶くん。リラックス効果あるのかほんとに」

「優希之さんにどう伝えようあれ。うーん、悩みどころだねえ」

 

「肇。ああいうところあるわよね。シンプルに手遅れだわ」

「部長に比べたらまだマシだと思います」

「黙りなさいシオフリカケ」

「潮槻です」

 

「わっ、私も後でやっていいかな……!?」

「ステイ摩弓ちゃん。君は下心ありきだからダメだよ」

 

 

 本日も星辰奏学園美術部は平和である。

 

 

「――あっ、そういえば明日緊急で部費関連の会議入ったから」

 

「はーちゃん! パイの実食べる!? キノコとタコノコどっち!?」

「あ、いちおうタケノコで」

「よしっ!」

 

 

 ……平和、なのだ。

 少なくとも〝本日〟は。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 部活後、三葉に言われたとおり肇は自教室へ向かうコトにした。

 

 意味深な言い方に興味が湧いたのもあるが、単純に仲良くなった彼を信頼しての行動でもある。

 

 完全下校時刻まであとわずかとなった校舎。

 

 聞こえてくる音は極端に少ない。

 廊下も階段も閑散としていて人気はなかった。

 

 そんな中をひとり、流れに遡行するよう上の階へのぼっていく。

 

(……なんか、こんな風に――――)

 

 歩いたコトが最近あったような、と。

 まだ薄れはじめて新しい記憶に指先が触れた。

 

 いつだったかちょっと前。

 けれども肇にとっては十分特別だった日の終わり。

 

 この心に再び火が付いて、狂ったように描き上げたときも今のように教室へ戻っていた。

 

(…………まさか、ね)

 

 その先にある未来を半ば予想して、ぶんぶんと頭を振る。

 

 いくらなんでもそこまで同じであるハズもない。

 考えるだけ無駄に期待を高くするものだ。

 

 わざわざ自分から墓穴を掘って埋まりに行く……どころか自分で土まで被るような真似はしなくてもいいだろう。

 

 

 ――――尤も、彼の想う誰かさんは墓穴を掘って自分から入り土を被ってあまつさえ石まで持ってくるという愉快な真似を何度もしているのだが。

 

 

(にしても、海座貴くんがあそこまで言うなんてなんだろう?)

 

 思考は回しても回しても答えまで辿り着かない。

 

 辿り着いた答えを先ほど簡単に手放してしまったのが原因なのだが、なにも知らない肇自身はそのことに至りもしない。

 

 カツカツと、足だけがその距離を詰めていく。

 美術室のある二階から五階まで。

 

 段数は多いけれど、昇降自体は彼にとってそう苦でもなかった。

 偏に文化系の男子とはいえ運動慣れしているのが大きい。

 

 カツカツ、カツカツと。

 

 重くはなく、高くもなく。

 

 小気味よく靴音を鳴らして階段をのぼりきる。

 

(……あれ?)

 

 と、教室のほうを見てみればすっかり真っ暗だった。

 

 てっきり待ち構えているのは人だと思っていた肇である。

 当然いまの時間帯なら明かりはつけているものとの想定だったが違ったらしい。

 

 余計正解が分からなくなり「ほんとになんだろう?」と首を傾げながら歩を進める。

 

(……誰もいないなら開いてないんじゃないかな……?)

 

 そう思いながらドアの取っ手に触れてみる。

 

「あ」

 

 かたん、と。

 

 少し力を加えた扉は横へずれるようスライドした。

 

 鍵は開いている。

 

 ならこんな時間まで誰が。

 一体なにをどうして――――なんて、室内灯をつけた瞬間だった。

 

 

 

 

 

「――――――……」

 

 

 

 

 

 目に飛び込んできた景色に。

 

 その中で真っ先に認識した色彩に、ほう、と知らず息をこぼす。

 

 理解するのに時間は要らなかった。

 ただ漠然と視界におさめただけでどういうワケかは判断ついた。

 

 ……なるほど、どうりで。

 

 三葉のいったコトの意味はそれでだったかと納得もいく。

 

 本人が頷くかは分からないが、どちらも少女には似合っているかもしれない。

 

(……直感、当たってたんだなぁ……)

 

 空恐ろしくもある予想の的中でも、肇にとってはどうでも良かった。

 くすくすと小さな笑い声をこぼしながら机の間を抜けていく。

 

 廊下側の前から三列目。

 

 そこに座る少女はぺたんと机に上体を伏せている。

 

 彼の侵入、照明の点灯共に反応した様子はない。

 ひっそりと耳を澄ませば微かな吐息も聞こえてきた。

 

 よく眠る……のではなく、昨日からずっと眠れないままで居たからだろう。

 

 彼女自身、混乱したまま思い悩み続けて夜を明かし。

 彼と会って、問題点を自覚して、誰かの言葉で向き合い、また誰かとの会話で重みを軽くし、気を緩めたように。

 

「…………、」

 

 出来るだけ足音を殺して近付き、彼女の隣――自分の席に肇が腰掛ける。

 

 前からでは鮮やかな頭髪しか見えなかったけれど、横に来ると幸運にも寝顔を覗けた。

 

 どこか憑き物が落ちたような、安らかに見える緊張の解けた表情。

 一緒にいると自動的に百面相になりがちな彼としてはそんな顔がどこか新鮮だ。

 

 思わず、彼女本来の容姿に込められた造形の良さを再認識するぐらいに。

 

(――――ああ、でも……そういえば、そうだった)

 

 それは古く遠く、奥深くに沈殿していた化石のような記録。

 

 今更ながら思い出したコトだけれど、原作(ゲーム)優希之渚(かのじょ)はもっと異なる人間(キャラクター)だった。

 

 見た目はさほど変わらない。

 どころかむしろそっくりそのまま。

 

 けれど性格は至ってクール。

 

 表情を変えるコトは少なく、声も平坦で、口調も勝気さの混じった鋭いもの。

 

 そんな少女の得意分野だったのが歌である。

 

 他人の心に突き刺さるような、万人を魅了する歌声。

 星辰奏学園に来た理由だって、その才能を評価されてという設定があったハズだ。

 

 一風変わった歌姫が他人との交流を通して、仲を深めて、傷を癒して、傷付いて、温かさを受けて、恋を知って、立ち上がって――――

 

 

 ――思い返せば返すほど、そんな流れはどこにもなかったなと。

 

 

「……ほんとに。なぞる気あったの……? ……俺が言えたコトでもないけど」

 

 

 からかうように独りごちる。

 

 世界は重なるほど似通っていた。

 人だって想起できるほどそのままだ。

 

 場所も時間もなにもかも、つくられたように現実じみている。

 もっと言うとそれらが一纏めに揃って現状(イマ)に在るコトだけが非現実的。

 

 益体もない考えはいつかのお出かけの際にも心の片隅で思っていた。

 

 どうにも摩訶不思議でおかしなところがあるものだと。

 

「まぁ、だから良いんだけどね。多分()()()()人なら、俺と関わるコトもなかったんだろうし」

 

 歌唱力を見込まれてのものなら彼女は一般入試ではなく推薦入試に回っていたハズだ。

 その場合、中三の春から塾に通って勉強という方法(ルート)にはならない。

 

 なればこそ、果たしてそうだと知ってのコトか知らずのうちか。

 

 ただたしかなのは。

 

 そうやって関わるようになったからこそ今があって。

 今があるのはそんなやり方をする彼女だったからこそという事実。

 

 そのあたり、いい加減彼女が気付いてもいい頃だろう。

 

「……渚さん」

 

 とんとん、と優しく肩を叩く。

 

 彼女は眉を顰めながらくぐもった声を出した。

 

 起きる気配はまだない。

 

「渚さん、渚さん。もう帰る時間だよ」

「……んぅっ」

「渚さん。起きて。ほら、渚さんってば」

「………………、」

 

 ……ほう、と彼は呆れるように息を吐いて。

 

 

 

「――――起きて、姉さん

 

 

 

 耳元でぽつりと。

 こぼすように眠り姫へ囁いた。

 

 

 

「っ――――!?」

 

 

「おはよう、渚さん」

 

「………………は、じめ、くん?」

 

「もう遅い時間だよ。そろそろ帰らないと」

「ぇ、っ、あ、え……??」

 

 きょろきょろと周囲を見渡しながら目をぱちくりとさせる渚。

 寝起きの彼女の一挙手一投足が「私、いま、混乱しています」と全力で伝えていた。

 

 引き金になったのは肇の一言で間違いない。

 

 それほどまでに衝撃的な、眠っていた頭にでさえ響くような台詞だったのである。

 

 ……そんな大事を成した犯人は自然体なままちいさく笑っていたが。

 

 

「ふふっ、油断したね。渚さん」

「な、ぇ……?」

 

「――――よだれついてる。かわいー」

 

「…………………………ッ!?」

 

 

 ガタタン! と立ち上がって渚は精一杯距離を取った。

 

 後頭部を窓枠にガンッ! とぶつけながら後ろに下がって口元を拭う。

 

 制服の袖でゴシゴシと。

 焦りすぎてハンカチを使うなんてそんなエレガントな選択肢は浮かばなかった模様。

 

「…………な、なんで」

「? 寝てたからじゃないの?」

よだれ(そう)じゃなくてっ! ……な、なんで肇くんが居るの……!?」

「毒林檎を食べて寝てるお姫さまがいるらしくって」

「………………白雪姫?」

「白雪の(優希之)姫だって。素敵だね」

「誰」

「三葉くん」

 

 〝海座貴(あいつ)ほんとまじでぇ――――ッ〟

 

 

 怒って良いのか感謝して良いのか感情が迷子な渚だった。

 

 寝顔をがっつり見られたのは――まあ良いか悪いかでいうと間違いなく悪いが――まだマシだ、女子として許容範囲――でもないが、我慢はできる。

 

 だがよだれはない、よだれは。

 しかもそれを見たのが肇というあたり特に。

 

 最悪にもほどがある。

 

 穴があったら入りたいどころか穴がなくても掘って入りたい気持ちだ。

 

 早速自分から埋まっていくあたり流石は渚といったところか。

 

「じゃあ、そろそろ帰ろっかお姫さま。あと十分ぐらいで鐘が鳴るから魔法解けちゃうよ」

「……混ざってるし。それ言ってて恥ずかしくならない?」

「女の子はみんなお姫様、って言ってたのは誰かな」

「いや私そんな話してな――――」

 

 

 

 〝――彩斗。女の子はね、みんなお姫様に憧れるの。っていうかもうみんなお姫様なの。運命の王子様がきゃーって時期があるの。わかるかなこのイメージ!〟

 

 

 

「――――い…………」

 

 

 

 思わず彼のほうを見る。

 

 すぐに動くつもりだったからだろう。

 肇はもう席から立ち上がっていた。

 

 渚からはちょうど少し顔を上げる形で視線が重なる。

 

 ――彼は。

 

 少年は。

 

 水桶肇は――――

 

 

()()()()()一緒に帰ろう。渚さん」

「ぇ、あ…………」

「イヤ?」

「っ、い、いや、じゃない! ぜんぜん! ちがう……うん……、」

「なら良いんだ。早く行こっ、さっきも言ったけど遅いからね」

 

 ふわりと微笑みながら彼は渚の手を取った。

 

 咄嗟の接触に固まらず居られたのは事前に受けた大きな衝撃と、ある程度の心構えが出来ていたからか。

 

 机の横に引っ掛けていた、帰り支度を済ませた自分の鞄を手に取って彼女はされるがままに連れられていく。

 

「家の近くまで送るよ。こんな時間だし」

「で、でも、結構距離……っ」

「いいからいいから。それに、距離はあるに越したことないよ」

「っ……そ、れは……どういう……」

「話したいコトも聞きたいコトもいっぱいあるからね」

「――――……そっ、か……」

 

 コツコツ、カツカツと。

 

 ふたり分の足音が校舎に響いていく。

 

 あるひとときの終わり。

 ある場所からの別れ。

 ある時間からの離れ。

 

 ――そして、ある種の拘束の解放。

 

 遠ざかる足音は終止符を打つように。

 彼と彼女はようやくといった帰路についていった。

 

 

 

 

 






ギリギリセーフ! セーフです!!(用意された石版を投げ捨てて日付を見ながら)


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56/彼と彼女の最期の時間

 

 

 

 

 帰り道にはすでに夜の影が伸びていた。

 

 気温は昼と比べてやや低い。

 日差しの途絶えた暗闇特有の肌寒さだろう。

 

 頭上には欠けだした月が浮かんでいる。

 

 不思議と今日は星の光もちらほらと見えた。

 日が落ちても町が深い闇に呑まれないのはそのせいかどうか。

 

「――――、」

「…………、」

 

 肇と渚はふたり並んで歩いていく。

 

 学園から家まで帰る道程。

 

 早い時間ならいつもの喫茶店に寄るのもアリだったが、ご覧のとおりあたりは真っ暗。

 

 これ以上遅くなると学生の身分である以上色々と不都合もある。

 ふらふらせずに真っ直ぐ帰るのが吉だった。

 

 ……とはいえ、足取りは重すぎるコトはなくとも軽やかではない。

 

 緩やかに踏み出される一歩は踏みしめるような一歩でもあるように。

 

 彼は真っ当に気持ちを落ち着かせて、

 彼女は心底冷静であるようにと、

 

 お互い自分なりの方法で現実を受け止めていく。

 

 

 

 

 

 

「…………あの、さ」

 

 

 

 口火を切ったのは意外にも渚のほうだった。

 彼女は鞄の持ち手をぎゅっと握りながら、ややうつむき加減で問いかける。

 

 

「うん」

「…………い、いつ……から、その……」

「分かってたのかってコト?」

「っ…………うん…………、」

「……そうだね」

 

 

 反対に、肇はやや顔を上げて夜空を見上げていた。

 

 それぞれの心境の在り方だろう。

 

 切欠となったのが他人の温かさとはいえ、生来の根源はそのまま彼のものだ。

 一度成された以上、その強さに翳りはない。

 

 夜の寂しさの中でも彼の持つ雰囲気は()()()に満ちている。

 

 

「一番は絵を描いたときかな」

「…………絵?」

「そう、絵。こうやって放課後、遅い時間に一緒に帰った日があったでしょ」

「……放課後に、肇くんが走りだした、あの……?」

「それそれ。なんというか、筆を走らせてやっと確信したっていうか」

 

 

 なんだろうねあれ、なんて彼はくすくすと笑う。

 

 渚にだってそんなのはてんでさっぱり。

 

 彼の感性を一般的な理屈で捉えるのはおよそ難しい。

 自分自身でさえ分かっていないのなら尚更だ。

 

 技巧、技法はもちろんだけれど、彼の真価はその思考と性質にこそあるので。

 

 

「正直、〝あれっ〟て感じる部分は前からいくつかあったんだけどね」

「……そっ、か。そう……だよね……うん……」

「例えば、雷が落ちると目をぱちぱちさせたり」

「…………私、そんなコトしてた……?」

「してたよ。前からずっと。言うほどでもないから黙ってたけど」

「……なにそれ……」

 

 

 からかうような肇の言葉に、渚はぎこちなく返す。

 

 意地悪な言い方をしてくれやがって、という純粋な気持ちと。

 一体どこでそんな悪い子になったのか、という複雑な姉心のミックスだ。

 

 少なくとも過去(むかし)はそこまで優しくない子ではなかったというのに。

 

 

「……肇くんだって、不機嫌になると首掻いてたし」

「残念。いまのところそこまで不機嫌にはなってないのです」

「……絵、描きたそうにしてたら手をわきわきさせてるし」

「あはは、そっちは知らないや。俺、そんなコトする?」

「してたよ。……一緒に花火見てたとき」

「……そっか。あぁ、そうなんだ。どうりでね……」

 

 

 たしかにそれは描きたくなったときだ、と肇は頷いた。

 

 当てずっぽうだとしても間違ってはいない。

 第一、彼女がそれほどの仕種があったとして気付かないワケもない。

 

 ならばおそらく嘘でもなんでもないのだろう。

 

 ふたりの距離は実際にして十センチあるかないか。

 

 心はもっと遠く。

 

 されどゆっくりと、その差を静かに縮めていく。

 

 

「――どうして渚さんは塾に来たの」

「…………学園に入るためだけど」

「だからどうして。覚えてたんじゃないの、渚さん」

「……どういう意味?」

「絶妙に音痴だったのに、やけに上手くなってたなーと思って」

 

「――――――――」

 

 

 かっ、と頬を赤くしたのは彼女にしてはよくある――けれど珍しい反応だった。

 

 いつもの限界間際な羞恥から来る悶絶ではない。

 

 単純に。

 そうシンプルに。

 

 渚は過去(むかし)の致命的な弱点を刺激されて照れている。

 

 

「ぜっ、絶妙ってなに! だ、大体っ、そ、そのお、おん、音痴の子守唄でぐっすり眠ってたのは、どこの誰……!?」

「だから眠れたんだよ。誰かさんだってすぐ分かるから」

「――――っ、ほんと、なにそれ……、肇くんのクセに。生意気……」

「同い年の男の子なので生意気盛りだよ、俺は」

「……もう……」

 

 

 冗談交じりの言葉に、なんとも言えないモノを感じて少女が息を吐く。

 

 

「……私の才能(モノ)じゃないから。それで進んでも、意味ないと思って」

「でもいまは渚さんの力でしょ?」

「使うのと頼るのは違うんだよ。……どうあっても私は私でしかないんだし」

「……ふふっ、君らしいや。よっぽど」

「…………どうだろ」

 

 

 ぽつりとこぼす。

 

 渦巻く不安。

 

 胸の奥底にこびりついた苦悩と後悔。

 脳内を支配する困惑や混乱。

 

 幾多もの暗い感情に引き摺られる渚にはそのあたりもよく分からない。

 

 ただ漠然と選んだ道に正しさがあったのかどうかも。

 それを進んだ意味があったのかもいまはぜんぜん。

 

 

「そのあたり、変わったけど変わってないと思うんだ」

「…………私が?」

「うん。だからやっぱり、渚さんは深く考えすぎなんだよ」

「……そうかな」

「そうだよ。今だってそうじゃない?」

 

 

 くすり、と微かな笑い声が渚の頭上から振ってくる。

 

 彼は彼女から見て車道側。

 隣にピッタリと並ぶように歩調を合わせていた。

 

 音の方向は偏にふたりの身長差だ。

 

 以前は年の差か育ちの良し悪しによるものかそこまで。

 此処に至っては明確なものとなった違い。

 

 だからこそ、傍を歩く彼からすればそれはよく見えたのか。

 

 

「ずっと俯いてばかりだ。渚さん」

「…………そう、だね」

 

 

 それは少女にとって返す言葉もない事実で。

 余計に下を向いてしまう、彼からの鋭い指摘だった。

 

 

「優しく見下ろすには高くないと。落ち込んで俯くのとは違うでしょ」

「……そんな風にはなれないよ、私」

「そんなコトない。少なくとも俺の見た人は高く昇って輝いてた」

「それは……それこそ、()()()が居たから……」

「だからこそだよ」

 

 

 相も変わらず少年は笑う。

 

 彼女との会話、やり取り、問答がそんなにも楽しいのか。

 

 一分の隙もない満面の笑みで。

 心のすべてをさらけ出したみたいな自然体で。

 

 

「いま直ぐ隣に俺が居るのに、なれない理由がないじゃない?」

 

「――――――……ぁ……え……」

 

 

 その一言はまるで矢のように心へ突き立った。

 

 感情を吐露した呟きに対するストレートなカウンター。

 

 あなたが居たから頑張れたのだと少女は語る。

 ならば目の前に居るのにどうして頑張れないのかと少年は問うたのだ。

 

 確信にも近い答えを胸に秘めて。

 

 

「……で、でも……」

「〝でも〟も〝だって〟もないよ。……そういうところ、色々と母親似なんだろうね」

「…………それ、どっち」

「言わなくても分かると思うけど?」

「――――――あんな(ヤツ)なんか……っ」

「似てるよ。すっごく似てる。試しにひとつ、面白い話でもしようか」

 

 

 くるくると得意げに人差し指を回しながら肇は語る。

 

 遠い遠い過去(むかし)の話。

 不出来な童話めいた薄暗い彼の物語を。

 

 

「あの人はなにかするとき、絶対左手を使ってた。なんでか分かる?」

「……わかんないよ、そんなの」

 

「力を弱くするため。もっと言うと大きな怪我を負わせない、死なせないため。しかもその上で、アルコールが抜けたらわざわざ自分で骨を折ってた。毎日ずっと。だから怪我はしても大事にはならなかったんだ」

「…………それ、面白い……?」

 

「うん。だって手加減もできない、抑えるのも無理だって自覚しておいて、わざわざまともに準備してるあたり本当にズレてると思う。自分にそういう母親らしい感情が自然と湧いてるって分かってるのに、後ろ暗い部分にしか目がいってないんだ。……まあ、そこに気付けないからあの人はあの人なんだけど」

 

 

 よく言えば人間らしい、悪く言えばガタつくほどの芯の弱さ。

 

 人の心は常に正しいとは限らない。

 かつての母親はそれに振り回された末路だった。

 

 八つ当たりをせざるを得ない己の性質(サガ)と、

 自分の子供を死なせたくないという純粋な気持ち。

 

 ……人間、意識しなければ悪い方にばかり目が行くともいう。

 

 己のうちにあった良心に気付いたとしても、母親の脳裏を占めたのは暗い感情に支配される自らの醜悪さだったのだろう。

 

 上手くは生きていけなかったヒトの愚かさだ。

 

 

「君もあの人も下を向いてずっと俯いてる。底に溜まった嫌な部分しかよく見てない。上辺にある色々なものが分からないじゃない、そんなの」

「………………、」

「たしかに酷いよ、あの人。でも俺は六歳まで普通に育った。ご飯だってちゃんとあった。風邪をひいたら看病してもらったし、病院にも連れて行ってもらった。でも酒に溺れて殴って、泣いて喚いてさっさと眠って。で、俺の知らない間に家を出る。変じゃない、それ」

「…………気まぐれなだけだよ、あんなの」

 

「ちなみに誕生日は一度もまともに祝われたコトはありません」

「ほらやっぱり……」

「ケーキだけ置いて余所でずっとお酒飲んでたから。日付が変わるまで家にも入ってこなかったよ、そのときだけは」

 

「……ばかみたい」

「だよね。ばかみたいだ」

 

 

 肇は素直に微笑みながらそう言った。

 揶揄したのでも皮肉っているのでもない。

 

 なんであれ、どうであれ。

 彼にとってはそんな酷い人間がたしかに母親だったというコト。

 

 それは何と言っても変えようのない唯一つの真実だ。

 

 

「父さんにいち早く連絡がいったのも遺書があったからみたいだし。色々と考えてるくせに、悪い方へ傾かざるを得ない人だから。……そもそも単純な話、俺が要らないなら産んだときに厚顔無恥を承知の上でさっさと父さんに押しつければ良かったのにね」

「……無理だよ。そのときにはもうぜんぶ断ってるはずだから」

「あ、そっか。それだと尚更、うん。よく見つかったね、俺」

「…………それはこっちの台詞だったって……」

 

 

 ……本当一体、あの父親とあの母親からどのようにして彼のような人格(ニンゲン)が生まれてきたのか。

 

 なんらかの秘密でも無ければ突然変異としか思えない。

 同じ腹の中から産まれてきたとしても彼女にはその人となりは眩しすぎる。

 

 幼少期に自分へ手を上げた母親を笑って流せる子供がどれだけ居るものかと。

 

 

「――まあ、そんな感じで横道に逸れちゃったけど、俺が思うのはそういうコト」

「……私はあの(ひと)みたいな最低な人間だってこと……?」

「違うよ、もう。……何度も言うけど、だから本当にそういうところだって」

 

 

 心底呆れ果てるように肇がため息をつく。

 

 まったくどうしてそうなるのかと。

 わざわざ長くて不出来な昔話をした意味がない。

 

 やっぱりまるでぜんぜん伝わっていない、と少し不機嫌にもなる。

 

 そのまま首の裏に手をやろうとして――寸前で気付いて止めた。

 

 ……いつの話だったか。

 

 痕になるからやめたほうが良い、と言われたのを思い出して。

 

 

「渚さんは気付いてないだろうけど、実際、相当は落ち込んでないと思う」

「…………私、が?」

「うん。間違いなく折れてはないよ。壊れてもない。ましてや変わりきってるワケもない。……本当にダメな人はね、もっと透明で色がないよ」

「…………そんな……こと」

「あるんだ。これがね」

 

 

 遠く輝く星を見ながら彼はこぼした。

 

 どこか懐かしむような視線。

 

 その意味を渚は読み取れないでいる。

 おそらくは彼だけの抱えるモノだからだろう。

 

 

「正しく渚さんは矛盾してる。ある一方で考えすぎて、ある一方でぜんぜん見てもない。心と思うところって本当は隣り合ってるハズなのに、それが別々になってる感じ」

「……あ、いや……ごめん……なんかよく、分かんないかも……」

「えー……俺いま結構凄いコト言ってると思うのに。なんでー」

「ご、ごめん……」

「……まあ良いんだけど。うん。良いよぜんぜん。別に良いし。ほんと」

 

「どうしてそこで拗ねるの……」

「拗ねてませんー」

 

 

 ぶー、なんて口を尖らせる彼は完全に巫山戯(スネ)ている。

 肇としては渾身の切り口だっただけに「意味不明」と返されてショックだった模様。

 

 

「……ほんと、なんで気付かないかな」

「…………私に言ってる、よね……」

「もちろん。だってそうでしょ。思い悩んで歩いてる時点でそれはもう普通なんだよ」

「……ふつう?」

「違うの。なにも無かったら先ず進めないし、悩んで歩くなんて難しいコトできないし」

 

 

 例えばそれこそ自己が薄いなら。

 自我が弱ければ、精神が未熟なまま閉じられていたなら。

 

 きっと前に行くなんて真似はできない。

 

 他人の心情だって分からないまま何かに縋って生きていくだけだ。

 それこそ都合の良い役目や()()があったなら使ってしまうぐらいに。

 

 

「さっきは俺が居るのにって言ったけど、たぶんそこら辺は関係ないんじゃないかな」

「ぇ…………」

「だって()は出会ったときから()だった。優希之渚はちゃんと渚さんだったんじゃないの」

「わ、私が……私……?」

「だから塾に来たんだ。誰でもない渚さんだから。それはどこにもない君だけの道だって、さっき自分から言ったと思うけど?」

 

 

 ――――それは。

 

 たしかに、つい先ほど。

 彼女が自分の口から吐いた事実だった。

 

 

()()()()なのに、君はちゃんと()()()だった。過去に引き摺られる自分を情けないなんて思ってた。苦しくても胸に抱えてどうにかしなきゃって頑張ってた。それを刺激する俺に対してもね」

「…………肇くんに、対して……?」

「渚さんの言うとおりなら花火のときも……たぶんそれ以外でも、俺がそう見えるときはあったハズなのに。君はずっと変わらず接してた。気付くとかどうこうじゃなく、切り分けて見てたんじゃないの、それは」

 

「――――――――」

 

 

 ……それもまた、図星といえば図星のコト。

 

 恐ろしいぐらいに的を射ている。

 

 彼が彩斗(おとうと)の名残を見せるたびに何度も自分に言い聞かせていた。

 

 ()()()()()()思えばそれは正しい感覚だったのだろうけど。

 ()()()()()()()かつての己がそう判断したのは。

 

 なにも知らない自分が胸中で下した結論は、

 

 力強いまでの別だと断じる想いで。

 

 

「……ホワイトデーのときだって。あれ、俺の手作りだから食べたコトあったんだよね。なのにいきなり電話かけてきた渚さんは俺に謝ることしかしてなかった。弱い心で重ねてたなら、もしかしてそうなんじゃないかって縋っても良いだろうに」

「ぁ……れはっ……――――」

「思い出して泣いちゃうぐらい引き摺ってる人と、そんな誰かに似た人を前にして一切ブレずに別人だって分けて考えられるってどうかな」

 

 

 そんなのは確認するまでもない。

 

 

「思考だけが俯いてばかりで、心はもう前を向いてるじゃないか。(ねえ)さんは」

 

 

 だから似ているんだ、と。

 彼は困ったような顔で彼女に告げた。

 

 

 〝――――――――〟

 

 

 生まれ変わっても落ち込んだままの自分。

 ――けれども理由はどうあれもう一度自死を選ぶコトはしなかった。

 

 醜くも過去を引き摺ったままの情けない自分。

 ――そう感じたのは偏に前を向こうとする意思があったからだ。

 

 みっともなく彼と弟を重ねかけていた自分。

 ――でも彼女はそうじゃないとハッキリ割り切った。

 

 ここに至って望まない真実を前に動揺を隠せなかった自分。

 ――それでもやっぱり彼のコトが好きなままで。

 

 ……深く考えすぎ、という肇の言葉が脳裏に響く。

 

 ああ、なればこそ。

 今まで思い悩んでいても歩いて来られたのは。

 

 

「渚さんは知らないんだ、そういうの。……大体、弱りきった家族を励まそうと無理して明るく振る舞える人のどこが弱いだけだっていうの。十分強いに決まってる。だから俺は素敵だなって心から思えたんだ。じゃないとあんな絵、描けない」

 

「っ……あ、あれこそ彩斗がっ、死んじゃうって知って、苦しそうで……少しでも私が支えてあげないとって頑張っただけで……!」

 

「そうやって行動に移すのがどうして前向きなんだって分かんないのかな、今まで話しておいて」

 

「――――――――ぁ」

 

 

 それは泡がはじけるような。

 音もなく消えるような呆気ない声だった。

 

 

「俺が俺がって言うけど、渚さんだって相当だよ。少なくとも俺は君がいたから幸せだった。君の明るさに救われたんだ。それは勘違いでもなんでもないよ」

「…………そう……だったん、だ……」

「うん。だから……これはもう今回限りだから。しっかり聞いておいてね」

「……え? なにを――――」

 

 

 ふっと、渚が顔をあげる。

 

 肇のほうを向くために。

 彼の表情を見るために。

 

 それまでずっと地面だけを映していた瞳が、やっと少年の(イロ)を映し出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――ありがとう、姉さん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不思議と心臓は跳ねなかった。

 思考は硬直しなかった。

 

 耳朶を震わせた言葉は素直に彼女の心へ吸い込まれていく。

 

 衝撃は来ない。

 壊れるほどの感情は押し寄せない。

 

 ……ただ。

 

 

「…………っ、あ、ははっ……あはははっ……」

 

 

 その響きを認識した瞬間、自然と渚の瞳からは涙がこぼれた。

 

 音もなく、嗚咽もなく。

 

 雫は頬を静かに伝っていく。

 

 

「――なんでいま、そんなコト言っちゃうのかなぁ……っ」

「前置きはしたけど?」

「そういう、コトじゃないよ……っ、もう……本当に……っ」

「間違えないで欲しいけど、これはお世辞でもなんでもないからね」

「…………分かってる、よ。そんなの……言い方と、声音だけで、十分……」

「……そっか」

 

 

 引き取られてから死ぬまで。

 ずっとずっと一緒に過ごしてきた対弟能力(スキル)は未だ健在だ。

 

 精神の不安定さと共に鳴りを潜めていた彼女の本領が、ようやく。

 

 

「……先に言われちゃったら、なんて言えば良いの……私のほうが、たくさん……感謝したいコト、いっぱいあるのに……っ」

「そこは負けらんない。俺のほうが感謝してる。ずっといっぱい、ほんとたくさん」

 

「そんなコト、ないよ。私のほうが」

「いやいや俺だってば」

 

「…………、」

「…………、」

 

 

 ――口元を緩めたのは一体どっちが先だったか。

 

 堪えきれない空気が破裂するみたいに、ふたりして笑い合う。

 

 くすくす、からからと。

 どこまでも暖かい空気がいまは自然と溢れ出た。

 

 ……それがもう、なによりの証拠だろう。

 

 

「――――ああ、もう……敵わないなぁ……肇くんには……」

「誰かの自慢の弟()()()からね」

「……そうだね。うん、ほんと、目に入れても痛くない弟()()()よ」

「ん、そっか」

「そう」

 

 

 足並みは揃って。

 

 歩みは淀みなく進められる。

 ふたりの影は伸びるように並んで動く。

 

 現実的な距離でいえば変わりない。

 けれどもっと違う部分でいえば、ずっと近くに。

 

 

 

 

 ――――だから。

 

 

「……なら、私から……良いかな」

「うん」

 

 

 彼女は決意を固めて。

 いま一度鞄を握る両手にぐっと力を込めながら。

 

 告解するように口を開いた。

 

 

 

「――実は、謝らなきゃいけないコトがあるんだよ」

 

 

 

 

 

 



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57/はじめのコトバ

 

 

 

 

「ずっと、嘘……ついてんだ。私」

「……どんな?」

 

 素朴な疑問を呟くような肇の問いかけ。

 

 渚はきゅっと唇を噛み締めた。

 構えるように全身へ力を込める。

 

 どんな返しがやって来ても耐えられるように。

 逃げるコトだけはないように。

 

「絵の、こと。……売れないワケじゃ、なかったの」

「そうなの?」

「……うん」

 

 へぇ、そっか、なんて明るく応える肇。

 

 けれども彼女の告白はそれだけではない。

 そんな事実の一欠片を話したところで、渚の表情は厳しいものから変わっていないのだから。

 

「ちなみに幾らぐらいになったの?」

「……売ってないの」

「? でもさっき、売れないワケじゃないって」

「…………一度だけ、オークションに出したんだよ。でも……やっぱ、出来なくて。大事な家族の絵を、他人に、渡すのが……嫌で」

「……そうだったんだ」

 

 驚きよりもどこか穏やかさの際立つ声音で彼は頷いた。

 

 謝らなきゃいけない、と言われて一瞬身構えたがなんてことはない。

 

 肇にとってそれは過ぎた日々の些細な問題。

 加えていうなら実際大したものでもないコトだ。

 

「まあ、あの時はなにか返したいって俺も思ってばっかりだったから、仕方ないのかな。うん。今だから聞けることかも」

「……ごめん……でもっ」

「別に良いって。もう終わったことだもん。……あ、オークションの話は気になる。いちおう出したってことは、値段がついたんだよね?」

「っ、ぇ、ぁ……たしか……四千八百万……」

「え? なんて?」

 

 耳を澄ませて肇が渚のほうを向く。

 

 笑顔のまま固まりつつ。

 もしかして聞き間違いだろうか? なんて。

 

「四千八百万円……だったと思う」

「よんせんはっぴゃくまん」

 

 聞き間違いじゃなかった。

 

 アホみたいなオウム返しをしながら肇は両手で指折り数えてみる。

 

 右手の親指から順に、一、十、百、千、万。

 十万、百万、千万――と、カウントは左手の中指を折ったところで止まった。

 

 

「――――四千八百万ッ!?」

「うん……」

 

 〝――――――――まじか〟

 

 

 まさかの八桁。

 八桁万円である。

 

 肇はシンプルに愕然とした。

 

 よもや一枚も売れない、世間からの一般評価では駄作と思っていた作品群にそんな価値がついていようとは彼自身も思うまい。

 

「……もしかして俺って結構凄い?」

「そうだよ。あなたは凄いの。……ほんとに、凄すぎたんだよ」

「わー……どうりで周りのみんなと認識のズレがあるわけだ……そうだったのかー」

「…………うん」

 

 天才画家、ここに自覚と気付きを得る。

 

 値段以外に大して驚きも動揺もしていないのは他人からの評価がそこまで肇にとって大部分を占めるものではなかったからだろう。

 結局のところ、彼は売れようが売れまいが、評価されようがされまいが、己の感性に従って自由に筆を走らせるだけなのだ。

 

 その在り方は過去に()かれたちょっとの嘘ぐらいでは揺るぎない。

 

「でもそこまでだと色々声とかかからなかったの? 譲ってとか見せてとか」

「かかったよ、もちろん。……絵を狙って、うちに泥棒が入ったときだってあった」

「え、大丈夫だったのそれ。父さんとふたりだけだよね? 怪我とか……」

「ううん、してない、大丈夫。絵も傷ひとつなくて……」

「おぉ、それなら良かった」

 

「――――――でも」

 

 

 繋げる言葉は空気ごと沈めていくように。

 

 なんでもない発声がいまは酷く重たかった。

 いつもぽやっとした肇ですら敏感に感じ取れるほどの変化。

 

 ……だとするなら。

 

 きっと、そこに続くコトこそが彼女の言いたかった一番大きな事情だと彼は察した。

 

 ひとつ静かに生唾を嚥下して、渚の台詞に耳を傾ける。

 

「私……それで、怖くなっちゃって……」

「……泥棒に入られたのが?」

「それもある、けど……なにより、他人に絵を持って行かれる、っていうのが……」

「…………うん」

「だから……私」

 

 罪状は少女の口からハッキリと。

 緊張で震えてはいても、こと此処に至って怯える真似はせず。

 

 彼女は真っ直ぐ肇のほうを向いてたしかに告げた。

 

 

 

「――――ぜんぶ、燃やしたの」

 

 

 

 ……瞬間。

 

 ピタリと、それまで止まらなかった彼の足が止まった。

 

 振り向いた顔にさっきまでの軽妙さは消えている。

 よりいっそう驚いたように見開かれる瞳。

 

 ひとときの静寂が支配する夜の沈黙。

 

「……え、さっきの八桁万円も?」

「…………、」

 

 こくん、と力強く首を縦に振る渚。

 

 対する肇は呆然とそんな彼女の様子を見詰めたあと、ひっそりと天を仰いだ。

 依然として綺麗な夜空を眺めて、「Oh……」とでも言いたげにぱしんと目元を手で覆う。

 

 なんたる衝撃。

 なんたる真実。

 

 ――――なんというとんでもなさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「も、勿体なぁあぁあぁあ…………っ」

 

「……え、あ……そっち……?」

 

「いやいや! だってそうでしょ! 燃やすぐらいなら売ってお金にすれば良いのに! 俺いっぱい描いてたんだから絶対老後に苦労しないぐらいにはなったでしょ!? うわーっ、うわぁーっ!」

「……取られたく、なかったの。持っておきたかったの。……灰に、なっても」

「――――……そうだよね。出来たらもっと早く素直に売ってるかぁ……」

「……ごめん、なさい」

 

 はあ、とため息をつきながら肇は渚に向き直った。

 

 彼女の考えは理解できなくもない。

 一緒に過ごした人物のコトを思えばわりと想像もつく。

 

 そのあたりは彼だって間違いなく心を繋いだ家族のひとりだ。

 

 姉がそんなコトをするかどうかで言えば、まあ、いま目の前に居る少女の落ち込みようを考えればしてもおかしくないだろう。

 

「――油絵具だからよく燃えたでしょ」

「っ、ぁ、ぅ……」

「冗談だよ。……いけない子なんだね、渚さんってば」

「っ…………」

「俺、描き終わった作品はあんまり気にかけないけど、それでも俺から生まれたモノだから。燃やしたり壊されたりしたら悲しいし怒るよ」

「ご、ごめん。本当に、ごめん、なさい――」

「……まったくもう……」

 

 俯いて謝罪を繰り返す渚はどこか怒られる子供みたいだった。

 

 精神の積み重ねも経験の有無も関係ない。

 ただ悪いコトをしたと分かっているから叱られるのを待っている。

 

 肇だって腐っても芸術家だ。

 

 自分の作品が燃やされたと知って思うところがないワケではない。

 

 けれどそれは涙を流すほどでもなければ、我を忘れるぐらいの激情に身を任せるようなものでもなかった。

 

 実行したのが姉だというのなら尚更。

 彼にとっては本当に些細な、どうでもいい問題。

 

 ……でもまあ、それはそれとして。

 

 創作に身を置く者としてやっぱりいけないとは思うので。

 

「渚さん。こっち向いて」

「っ……ぇ……」

「――えいっ」

「はうっ」

 

 ぺしーん、と小気味好く弾かれた指先が渚のおでこを叩く。

 

「お仕置き。もうそんなコトしちゃ駄目だよ」

「……ぇ、なっ」

「初犯だし()()()()これで許してあげる。次はもっと酷いことするからね」

「ひ、酷いこと……って……?」

「さぁ、なんでしょう?」

 

 ニコニコと笑う肇。

 

 その笑顔はいつもと違ってちょっとなにか含んでいそうだった。

 渚にはてんでさっぱり見当もつかない。

 

 酷いコトとは言うけれど。

 彼のする酷いコトなんて一体どんなものだろう、と。

 

「それで?」

「……? それで、って……?」

「謝りたいのはそれだけかな」

「それだけ……っていうか、えっと……、……思って、たのは……うん」

「じゃあ全部問題ナシだ」

 

 うん、とひとつ頷いて肇はそう言った。

 

 なんでもないコトのように。

 昨日にあった用事を済ませたみたいに。

 

 なにひとつ変わらぬ様子で。

 

「絵を売らなかったのも、そのことを隠してたのも、燃やしたのも。たしかに初耳で驚いたけど、どうってコトない。……うん、そのぐらいで心底良かった」

「そ、そのぐらいって……わ、私はっ」

()()()()()だよ。だってそれらは全部俺の描いたものだ。だったら俺にとってはそのぐらいで良い。もう一度言うけど、()()()()ね」

 

「――――――――」

 

 

 特別ではない。

 飾られてはいない。

 

 でも、けれど。

 

 それは間違いなく、彼女にかけられた魔法の呪文だった。

 

 ……どのあたりが魔法なのかは言うまでもないだろう。

 

 奇跡を魔法と尊ぶなら、落ち込んでいたひとりの少女を完膚なきまでに掬い上げるコトのどこが奇跡じゃないというのか。

 

 心なんて、体よりも繊細で脆く崩れやすいというのに。

 

「……どうして」

「ん?」

「なんで、そこまで……あなたは。肇、くんは……」

「まだ分からない?」

 

 彼が覗き込むように渚のほうを見ると、彼女は素直にこくりと応えた。

 

 それがまたどこか迷子になった子供じみていて。

 今日はやけに幼い面が見られるのだな、と肇は少し微笑んでしまう。

 

 おそらく平時ならもっと思考が回せたハズだ。

 

 苦悩の渦中についさっきまで身を置いていれば言葉も記憶も曖昧になる。

 だけど彼女はそうなっても頑張れてしまう人だった。

 

 要はそれだけの、微かな強さの証明でもあって。

 

「ね、渚さん」

「……、なに……?」

「これまで色んなコトがあったじゃない?」

「……まぁ、そう……だね……」

 

 空を見ながら彼は呟く。

 

 欠けはじめた月と淡い星の光。

 水に混ざる群青みたいな闇夜の景色。

 

 すなわち人工の明かりによってくすんだ自然の名残だ。

 都市にあっては日常となってしまった薄味の風景である。

 

 素直に受け取れば、それを綺麗だなんて言えるものでもない。

 

「同じ塾で出会って、勉強を教え合って、悩みを聞いたり相談したりして……夏祭りに行って花火も見て。体育祭も文化祭もあったし」

「……うん」

「パッと思い出せるだけでもこれだけあるんだよ、俺たちの間にあったコト」

「……? そう、だね……?」

 

 こてん、と首を傾げながら渚が顔を上げる。

 言っている意味が分からないワケではなかったが、彼の言いたいとするところがイマイチ分からなくて。

 

「それは誰のものでもない俺たちだけの思い出なんだ」

「あ、うん……」

「……意味、ほんとに分かってる?」

「わ、分かってはいるけど……」

「念のため言っておくと、()()()()()()()のモノってことだよ」

「…………ぇ、あ」

 

 その気付きはとうのとっくに遅かった。

 失念していた、見落としていたなんて言い訳が通じるハズもない。

 

 ――胸の内側が整理できていなければ。

 

 心が不安定であったなら、彼の一言は渚に突き刺さる事実となって機能した。

 彼女が立ち直るための貴重な一手になった。

 

 でも違う。

 

 そうじゃない。

 いまは状況が異なる。

 

 渚はすでに前を向いて歩き出す時間にある。

 

 ならば、それは。

 

 彼にとって。

 あるいは彼女に向けての。

 

 一世一代の宣言だ。

 

「重なる部分はあったよ。でもほんの少しだけ。同じだなんて思えない。だってそうなってるなんて考えられない。ましてや全然違ってるんだから。でも……ううん、だからこそ」

 

 視線が交錯する。

 

 その瞳の奥にある色を読み取れたかどうか。

 

 彼はゆっくりと歩みを止めて振り向いた。

 彼女は動けないまま固まって呆然とそちらを見ている。

 

 互いの距離はわずか一メートルもない。

 

「綺麗で、頭が良くて、ちょっとダウナーで、昔のことを引き摺ってて、些細なことで揺れて、でも少しずつ前に進んで、こうやって話せるようにもなって」

「っ…………」

「あと可愛くて、恥ずかしがり屋で、すぐ照れて赤くなって、焦ったらなんか凄いコトになるし、慌てたらまともにしゃべれないけど」

「は、えっ!? ちょっ、なっ、なに!? なにそれそんな――」

「うん。そんな渚さんだから惚れたんだ」

 

 

 ――――時間が、止まった。

 

 呼吸も続いたかどうかという一瞬。

 心臓が動いたかもわからない刹那。

 

 彼の口から放たれた言葉の衝撃があまりにも大きすぎて、ありえなくて――――とんでもなくて。

 

 ただ只管に、停止する。

 

 

「回りくどい言い方だと伝わらないみたいだから、率直に言うよ」

「…………ぁ……ぇ……」

 

「水桶肇は君のことが好きだ」

 

 

 ――息ができない。

 

 目を離せない。

 瞬きすらできない。

 

 手足のひとつ、指先の一本に至るまでまったく身体は動いてくれない。

 

 

「ひとりの女子(きみ)としての、優希之渚に恋をしたんだ」

 

 

 声が鼓膜を震わせる。

 意味が心を震えさせる。

 

 言葉に(いろ)があったなら、きっとそれは鮮やかだったに違いない。

 

 それほどまでに明るく、眩しく、爽やかな――――

 

 

「だから、()()()

 

 

 素直にすぎる、受け取り方の間違いようもない。

 

 

「俺の恋人になってくれ」

 

 

 唯々想いの込められた、彼らしい告白。

 

 

 

 〝――――――――――〟

 

 

 

 ……渚は言葉を返せない。

 

 口を開くにもなにも、先ずは慎重にやらなくては止まった時から抜け出せない。

 

 そっと指先を起こして。

 その震えを認識して。

 

 腕を動かして。

 力の抜けように驚愕して。

 

 足に意識を向けて。

 倒れそうな状況に困惑して。

 

 全身に神経を張り巡らせて。

 

 ――やっと、心臓がとてつもないスピードで脈動しているコトに気付く。

 

 

「ぁ……あ……っ」

 

 

 喉が震えた。

 

 声が出せてしまう。

 

 思考がまとまらない。

 

 感情が跳ねるようでバラバラだ。

 

 それは決して悪い方向に沈んでいるのではなく。

 あまりにも予期せぬ事態に空へ飛んでしまったみたいで。

 

 

「わ……っ、で……ぁ……そ……っ、な……」

 

 

 言葉にならない声が洩れる。

 

 ……駄目だ、違う、そうじゃない。

 

 そんなコトを言うために自分を起こしたワケじゃない。

 そんな返しをするために口を開いたのではない。

 

 ――――なら、一体、なんのため。

 

 

「わ……私、はっ」

 

 

 記憶が混濁する。

 思考は混ざり合って答えを出すのにも一苦労。

 

 そこにあるものを掴めば良いだけなのに、攪拌されすぎて上手くできない。

 

 

「い、いっぱい、迷惑かける、かも、しれなくて」

「良いよそんなの」

 

「あ、あなたの、絵を、燃やしちゃったような人でっ」

「さっき許すって言った」

 

「重い、しっ、面倒になるかも、だし、すぐ、落ち込む、し」

「ぜんぜん構わない」

 

 

 

「――――彩斗の、お姉ちゃん、で」

「君はそうじゃないだろう?」

 

 

 折れる。

 砕ける。

 散っていく。

 

 溶け落ちて流れていく。

 雪に日射しが差すように。

 

 

「御託はいらない。俺は君のコトが好きだ。じゃあ次はそっちの番でしょ」

 

 

 暖かな視線は渚に向けられた。

 

 手札はなく。

 逃げ場もなく。

 

 答える以外に進む道は存在しない。

 

 

 

優希之渚(いまのキミ)はどうなの」

 

「――――――――」

 

 

 どくんと、心臓が跳ねる。

 

 さながら文字通り飛び出しそうな勢い。

 それを手でぎゅっと押さえ込んで、掴むように彼女は握りしめた。

 

 思考の渦に突っ込んで引き抜いた感触は淡雪のように。

 

 熱の温度で消えてしまいそうなぐらい繊細な感情と、純粋であるが故に透き通るほど綺麗な心の在処。

 

 震える唇を必死で動かして、少女が言葉を紡ぐ。

 

 

「――――私、は」

 

 

 ひと息。

 

 彼を見る。

 

 少年は笑っていた。

 

 いつものように、太陽のように。

 

 

 

 〝っ――――――〟

 

 

 

 …………ああ。

 

 そんなのは、とてもずるい。

 卑怯なぐらいの、目の前にした真実だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――――すき、です」

 

 

 

 

 

 

 

 返す音は空気に沁みこむみたいに。

 春の暖かさと夜の暗さに交じって、彼のもとへと届けられる。

 

 

 

「私は……、……私、も」

 

 

 

 ぎゅっと、潰れんばかりに胸元を握った。

 想いよ届けと喉を震わせる。

 

 どんなに小さくてもいい。

 

 今だけは。

 これだけは。

 

 なによりこれまでだってそうだ。

 

 彼は――――(わたし)の言葉を、聞き逃さなかったから。

 

 

 

「――――優希之渚(わたし)も、あなたのことが大好き、です……」

 

 

 

 一度口にしてしまえばそれで終わりだ。

 もう歯止めなど効くワケもない。

 

 

「恋、してます。愛して、ますっ、惚れてます、好きです、ほんとのほんとにっ、大好き、です……っ!」

 

「うん」

 

 

 満足げに彼が待つ。

 

 だから。

 彼女は。

 

 

 

 

 

「私を、肇くんの恋人にしてください……っ!」

 

「――――喜んでっ」

 

 

 

 

 









…………………。
(私は肝心な場面で更新を落とした作者です、と書かれた粘土板を背に土下座している)


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58/解きほぐされた心模様

 

 

 

 

 

 夜道は続く。

 

 一世一代の告白から数分後。

 

 ひとしきり溢れんばかりの現実(しあわせ)を受け止めた渚は、肇に手を引かれる形で歩き出した。

 

 積極的なスキンシップはなんら変わらない。

 いつもの彼女ならそんな仕種に取り乱していたところだ。

 

 けれどいまは違う。

 

 心境の変化はあからさまに。

 少女は可愛らしく微笑んで、指を絡めながら傍につく。

 

 隣にそっと寄り添うように。

 

「ん?」

「ふふっ……(♪♪)

 

 語尾に音楽記号でもついていそうな笑い声。

 

 渚は繋いだ手から伝わる温もりを噛み締めるように感じ取る。

 

 大切なモノ、大事なモノ。

 

 そんなのはあれからずっと。

 いつかの過去(とき)から、この先見つかるコトはないと思っていた。

 

 それこそ、生きていくコトに絶望してしまったぐらい。

 

「……あったかい」

「渚さんが冷たいんだよ」

「そうかな……、ううん。そうじゃないよ、きっと」

「えー」

 

 彼の言い分に頭を振って、たしかめるように握りなおす。

 

 見つかるコトはないと思っていた。

 

 無くし物は唯一無二で姿のある形のないモノ。

 

 奇跡でもなければ二度とは手に入らない。

 そんな都合の良い現実は実際にありはしない。

 

 だけど。

 

 ありえないコトに、奇跡はこうして目の前にあって。

 胸に秘めた彼女の想いは叶ってしまって。

 

 あぁ、なんていうか――――とても。

 

「――えへへっ」

 

 とても、幸せだ。

 

 

「嬉しそうだね」

「……うん、嬉しい」

 

「しかも素直だ。明日は雪が降るかも」

「……む、どういう意味。それ」

 

「新鮮な渚さんって意味」

「ばかにしてるでしょ」

 

「うーん……三割ぐらい?」

「このっ」

 

 

 ぼすん、と彼の胸に飛びこみながら渚が頭を押しつける。

 

 こう、ぐりぐりと。

 

 さながら飼い主の足下に頭を擦り付ける猫みたいに。

 

 ついぞ鳥類から脱却して哺乳類になったのは果たして進歩かどうか。

 少なくとも着実に人間には近付いていた。

 

 いやまあ彼女自身は歴とした哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属のヒトなのだが。

 

「渚さんって意外と甘えたがりだよね」

「……意外とってなに」

「うん?」

「なにと比較して意外なのっ……別だって言ったの、そっちじゃん……っ」

「……ふふっ、そうだね。ごめんごめん」

 

 肇の指によってさらさらと梳かれていく銀糸の髪。

 

 ……結局、こうなってしまった時点で明白だったけれど。

 

 彼が頭を撫でるのは渚だけだった。

 

 その理由がいまは完璧に理解できる。

 

 言うまでもなく。

 語るまでもなく。

 

 たったひとりに向けられるのなら、それは無類の特別なのだ。

 

「……言ってなかったんだけど、さ」

「ん。なに?」

「私、肇くんに撫でられるの、すき……かも」

「……そっか」

 

 否定とも肯定とも取れないコメントは、同時に頭を撫でる手を止めないコトで返答してもいた。

 

 そんな事実に気付いてまたもや渚はニヤけてしまう。

 彼の背中に手を回して、ぎゅっと強く抱きついて、顔を(うず)めるように押しつける。

 

 だらしのない表情を見られたくないのと。

 なんだか無性に離れたくない気持ちになってしまって。

 

 ……ついでに、まだまだもっと彼の色々に包まれてもいたくて。

 

「あと、肇くんのこともすき」

「それはさっき聞きました」

「……いいでしょ。何回も言いたいの」

「価値が下がっちゃうよ」

「下がらないもん。ずっと一緒だもん」

「もんって……いくつなの渚さん」

「十五歳だからっ」

 

 どこかむくれた様子で渚は密着状態のまま肇を見上げる。

 

 その言に偽りはない。

 ふたりとも誕生日はまだちょっと先だ。

 

 当然ごとく同学年であるなら同い年でもある。

 

 無論、彼と彼女が普通の学生であったならの場合。

 

「それよりもっと長い経験があると思うけど?」

「……肇くんとそう変わらないよ、それでも」

「あれ、そうなの?」

「うん。だって私、一年ぐらいして、死んだワケだし」

「え、うそ」

「……ほんとだよ」

 

 微笑みを薄くしながら彼女は答えた。

 

 けれども熱は逃げていかない。

 酷く落ち込む様子はない。

 

 沈むような空気は出番をなくしている。

 

 渚自身がここに来てようやく掴んだ――あるいは取り戻した――日射しの欠片だろう。

 

「なんで? 病気?」

「言ったでしょ。引き摺ってたの、ずっと。あなたが居ないから」

 

 思い返せばつきんと胸が痛んだ。

 

 頭には針を刺したような記憶のトゲ。

 心臓は怯えるように跳ねていく。

 

 顔と身体を分かつ位置に幻肢痛が走る。

 

 傷はまだ深く彼女の心へ痕を残しているようだった。

 

 でもそれだけ。

 たったそれだけ。

 

 なら、もうなんの問題もありはしない。

 

「だから――――耐えきれなくなって」

 

 追いかけて、ここに来た。

 彼が居るとも、どうなるとも知らずに。

 

「まさか」

「うん。……私を殺したのは、私」

「…………ありえない」

 

 はぁ、と空に向かってため息がこぼされる。

 

「なにしてるの……」

「……ほんと、だよね」

「まったくだよ。むしろ俺的にはそこがいちばんダメなんだけど?」

「……ごめんなさい」

「いいや許さないよ、もう」

 

 頭を撫でる手を止めて、肇は渚を潰れんばかりに抱き締めた。

 

 腕にすっぽりと収まるサイズのいまは小さな少女。

 その目の前の彼女がもう二度と間違えるような真似をしないように。

 

 ぎゅっと。

 

 なにより強く、どこまでも固く。

 

 

「俺だけじゃないし、父さんだってひとり残ったじゃないか。それ」

「……半年頃にはもう見限られてたよ」

 

「あの父さんが?」

「うん。会話もなかったし、一緒にご飯も食べなくなってた。たぶん、病院にも入れようとしてたんじゃないかな」

 

「? やっぱり身体が悪くなって?」

「ううん、精神病院」

 

「どこまで酷かったの……」

「誰かを想って毎晩泣き喚いて、疲れて寝ちゃうぐらいかな」

 

「……拗らせすぎだし。好きすぎでしょ……」

 

 

 ふと、どうして自分の周りにはやけに尖った好感度をしている人が多いんだろう? なんて不思議に思ってしまう肇である。

 

 渚しかり馨しかり、美術系なら摩弓しかり中学の女子しかり。

 嬉しい悲鳴なのかもしれないが、ちょっと重めの感情が渦巻きすぎていた。

 

 尤もそれはおそらく類友(ルイトモ)――類は友を呼ぶ――案件なのだろうが。

 

「やっぱり渚さんは悪い子だったんだね」

「……そうだね。私、悪い子だ」

「うん。なので悪い子にはおしおき。罰を受けてもらいます」

「…………どんな?」

 

 ぎゅぅっ、と。

 渚の後ろに回された手が彼女をキツく抱き寄せる。

 

 

「俺と一生一緒に年を食っていく罰」

「……そんなの罰にならないって」

「どうかなー、それ。浮気とか不倫とか、絶対ダメだからね」

「できないよ、私。――肇くん以外に、こんな気持ち、持てない」

 

「む……渚さんのクセにずるい言い方するね……」

「……肇くんのクセに生意気だよ」

 

 

 それは彼だからこそ通じる、

 彼女だからこそ伝えられる響きだった。

 

 ()()()()のでもなく、()()()()のでもなく。

 頭がおかしくなるほどの熱量はひとり以外に持てるワケがないと。

 

 そんな容量(キャパ)はどこにもないのだという殺し文句。

 

 ……成る程、褒められたコトではないけれど。

 

 それを思い悩んであまつさえ首まで吊った人間が言うと説得力なんてものじゃない真実味がある。

 

 

「……あ。あと名字も変えてもらいます」

「別に……、……もとから変えるつもりだったし」

 

「もちろん刑期は死ぬまでだから」

「いいよ。肇くんとなら、そんなのぜんぜん」

 

「ちなみに執行猶予がつきますので」

「要らないよそんなの」

 

「いや要るとは思うんだけど」

「要らない」

 

 

 ぶんぶんと首を振る渚だが法律上婚姻年齢は十八歳以上だ。

 

 世間一般では高校一年生にあたるふたりなら最低でもあと二年ちょっと。

 現実的なコトを含めるとおそらくずっともっと先。

 

 名実ともに夫婦となるのはそれからの話なので。

 

 

「……もう一回したら生まれ変わっても口きかないからね」

「しないよ……もうしない。大丈夫」

「それなら良いけど」

「うん。もうあんなコト、しない」

 

「……お願いだからね」

「……うん」

 

 

 そこまで言われて、そこまで言っておいて。

 なにより彼からの言葉を受けておいて、彼女が違えるはずもない。

 

 お願いとは言うけれどそれは実質約束みたいなものだった。

 

 互いに込められた想いも価値観も一致している。

 なにがいけなかったのかも、どうして悪かったのかも理解のうち。

 

 だとすれば、その最悪な結末はたった一度きりの失敗。

 

 繰り返されるコトのない不幸な末路のひとつだ。

 

「――やっぱり明日は雪みたいだ」

「? ……なんで?」

「渚さんが素直だから」

「……また言った。このっ」

「冗談冗談」

 

 あはは、なんて笑いながら胸に渚の拳を受ける肇。

 

 擬音にすればポカポカとでも鳴りそうな攻撃は可愛らしいものだ。

 決してどこかのイケメンが喰らったような足を震わせるレベルの打撃ではない。

 

 

 後に同じような光景を目にした海座貴少年はこう語る。

 優希之渚、ヤツは陰湿で最低な悪女そのものだと――――

 

「あっ、そういえば」

 

 と、そこで肇が不意に声を上げた。

 

 

「……なに? どうしたの……?」

「いや、ちょっとしたコトなんだけど」

「……ちょっとしたコト?」

「うん。流石にもうさん付けってのは他人行儀かなって」

 

「……一年以上ずっと名字呼びだった人がなんか言ってる」

「それとこれとは別じゃない?」

「別だけど別じゃない」

 

 

 ふいっとそっぽを向く渚はあからさまにふくれっ面だ。

 彼は大して気にしていなかったようだが、彼女は大層ご立腹だったらしい。

 

 名前呼びに移行したのだってつい最近。

 

 夏祭りも、花火も、学校行事も、クリスマスも、正月も一緒で。

 バレンタインでチョコを渡してホワイトデーにお返しをもらうほどになっていたのに。

 

 悉く呼び方は「優希之さん」で固定という現実にどれだけ渚がモヤモヤしたコトか。

 

 それが分からないなんてとんでもない、とでも言いたげにつーんと拗ねている。

 

 

「……ごめんごめん。ほら、ちょうど受験の時期だったし」

「だとしても呼び方ぐらい別に良いじゃん名前でも」

「なんか響きが馴染んじゃって」

「……〝優希之さん〟って?」

「うん」

 

「――このっ、このっ」

「ごめん、ごめんってば。許して」

 

 

 ぽかぽかぽかぽか。

 

 拳は柔らかく跳ねるように彼を叩く。

 

 当然その程度なら痛くもかゆくもない。

 制服の上からトンと小突かれるぐらいの衝撃だ。

 

 なんだかんだでどうであれ、渚は肇の前だとてんで非力なので。

 

「……頭撫でてくれたら許す」

「よしよーし。偉いよー、良い子だよー」

「てきとーなのやめて。ちゃんとして」

「承知しましたお姫様」

「……………………うむ」

 

 苦しゅうない、と顔を赤くする少女は自分の引いた引き金によって撃ち抜かれそうになっていた。

 

 是非もない。

 

 いくら舞い上がろうと忘れてはならない事実が目の前にある。

 

 彼女がどんな状態かとか、彼とどんな関係であるかなんて関係なく。

 根本的に水桶肇の対応力は渚限定でどこかちょっとバグっているのだ。

 

 それに加えて今までただの友人関係だったのが進展したのなら尚更。

 

 ようやく本来の在り方を取り戻しつつあるとはいえ、まだ立って歩き出したばかりの渚には劇薬すぎた。

 

 

「照れるなら自分から言わなきゃ良いのにー」

「っ…………」

「耳まで真っ赤だけど大丈夫? 熱ない?」

「な、ないっ、うるさいっ」

「かわいー」

 

「っ……もう! ほら、行こっ! 道、あとちょっとだし!」

「ふふっ……はいはい」

「…………っ」

 

 

 カツカツと高い靴音を鳴らして渚が歩みを再開する。

 そんな彼女に引っ張られて肇も後をついて行く。

 

 ふたりの手はしっかりと繋げられて。

 

 互いの距離は――たぶん数字に直すのだって野暮なモノ。

 

 ただ近く、傍にある。

 

 人間同士の親しい間隔なんてそんな表現で十分なのだ。

 

 

「ところでさ」

「……なに」

 

「今ちょっと思ったんだけど、俺ってもしかして画家として食べていけるのかな」

「…………たぶん肇くんが食べていけなかったら殆ど誰も画家として成功しないよ」

 

「まあ実際成功するのは一握りだけど」

「いやそういう問題じゃなくて……」

 

 

 反射的にじとーっ、とした目を向ける渚。

 けれどそんな反応も仕方ない。

 

 過去を告げる上でしっかり伝えた彼の真実はいまも変わらないモノだ。

 

 だというのにまだ己の腕を理解していないのだろうか? と。

 

 

「でも星辰奏まで来て定職に就かないのは惜しくない?」

「……世間にとってみたらその才能を活かさない方が惜しいとか言われるよ、たぶん」

「あぁ、ありそう。馨とかいつもそんなコト言ってる。見る目はほんとに凄いから、それは絶対そうだったんだろうね」

 

「……私あの芸術技能しか頭にないような才能コンプ野郎きらい」

 

「なんてこというの」

 

 

 びきっ、と青筋をたてながら渚は呟いた。

 

 原因は美術室での押し問答以外に他ならない。

 

 悪口に込められたのは実感と予備知識だろう。

 殆ど付き合いのない彼女が知らないであろうコトも、そういえばアイツああいう奴だったな、と遠い記憶で保管した上での罵倒。

 

 要するに恨みつらみがめちゃくちゃこもっている。

 

 

「でも凄いんだよ馨。直感だろうけど、君が後追いしたのも分かってたし」

「……え、なんで。こわ……」

「なんでもお母さんに似てたんだって」

 

「…………あぁ……そんな設定(じじょう)、あったっけ……」

「あ、やっぱり完璧に覚えてるワケじゃないんだ」

「……そりゃそうだよ。もうずっと前にやったコトなんだし」

 

 

 例えば彼女がそれこそ設定資料の隅から隅まで覚えているような重度のファンなら。

 原作(ゲーム)を何度もプレイして全分岐バッドトゥルーハッピーを幾度となく網羅したほどの激烈なオタクなら。

 

 いずれかの彼らとの関わりも変わっていたかもしれない。

 

 けれど現実はどこにでもいる、ちょっと弟が好きすぎてぐしゃぐしゃになった姉がその役割を与えられたワケで。

 

「……しかし犬猿の仲だね。馨も嫌だって言ってたし」

「だろうね。分かるよそのぐらい」

「でも喧嘩するほど、とも言うんじゃない?」

「肇くん。それは前提条件として仲の良いひとが喧嘩するからそう言うんだよ」

「あっはい」

 

 なんかこう、見えない圧力におされて肇は反射的に答える。

 

 なんとも言えない謎の恐怖感と謎の説得力があった。

 思わず返す言葉の全部が頭の中から抜けたほど。

 

 

「……まあ、八つ当たりって向こうも言ってたし。嫌うのも分からなくはないけど」

「…………自覚してるあたりほんとムカつく。なんなの、あいつ」

「馨だって悪いところばかりじゃないんだけどね」

「どこがっ」

 

「だって半分は部長に名前覚えてもらってるし。もう半分、飛び抜けたらきっと物凄く跳ねるんじゃないかな。あれだったら」

「…………絵の話?」

「そう。少なくとも才能がない、なんてコトないのにねー」

 

 

 ……そう言っている彼のコトには覚えがあって、渚はそっと目を逸らした。

 

 今となってはもうなぞるつもりもない原典の話。

 見事な美声を持つ歌姫と出会ってヒントを掴んだ絵描きの少年は、そこからどんどんと頭角を現していくようになる。

 

 だからと言って絶対聞かせてやるものか――とまでは渚も思わない。

 でも、進んでこっちから聞かせてやる気もない……というぐらいにはやっぱり嫌いなのも正直なところだ。

 

「……まぁ、合唱コンクールも文化祭のステージもあるし、いっか……」

「? なんの話?」

「ううん、こっちの話。……どうでもいいお節介のコトだよ」

「??」

 

 彼とこうして繋がった手前、深入りする必要はひとつもないけれど。

 

 それでも当初の目的は「せめてそれぐらいは」なんていう半端なものだ。

 ならばまあ、そのあたりだけでも解決するのが彼女の選んだ道なのだろう。

 

 

 

「……ほんと、肇くんがいて良かった」

 

 

 

 彼に聞こえないようにぽつりと呟く。

 

 暖かな感触を大事そうに握りしめながら。

 間近で浴びる彼のすべてに愛おしさを抱きながら。

 

 

「そう言ってもらえると嬉しい限りだね」

「ぴっ!?」

 

 

 ――まあ当然、間近なので小声だろうとなんだろうと。容赦なく彼の耳は拾ったのだが。

 

 

「ちょっ、なっ、なん――っ、なんでそういうところは絶対外さないの……!」

「だってこの距離だよ。これでも俺、聴力検査はずっと良いのです」

「っ……もー! もーっ! ばかーっ! 肇くんのあほーっ!」

「そんな照れなくても。言葉で伝わって嬉しいコトに損はないんだし」

「わ、私が恥ずかしいのっ!」

「あはは。だね、真っ赤っかだ」

っ……! (恋人になっても)…………っ!(勝てない美少女の図)

 

 

 伝えるつもりで言うのと伝えないと思って言うのではまったく違う。

 

 その差が如何に強大かを力説したい渚だったが、いざ口を開こうとすると余計に地雷を踏みそうで躊躇した。

 

 セルフ地雷原タップダンスなんてやりたい人間が居るだろうか。

 いや、居たとしても一握りであるコトは誰でも分かるコト。

 

 わざわざ自分からやられに行く必要は一切ない。

 

 

「――――っと、ここだね」

「っ……、あ……」

 

 

 こつん、と肇の歩みが止まる。

 

 見ればそこはいつもの恒例となった別れ道だった。

 

 楽しい時間は満たされているが故にあっという間に過ぎていったらしい。

 

 そっと、絡めていた手を解いていく。

 

 

「……ありがとう」

「いいよぜんぜん。このぐらい」

 

「…………、」

「…………、」

 

 

 わずかな沈黙。

 

 彼は真っ直ぐ少女を見つめて、

 彼女はえっと、なんて前置きしつつ視線を彷徨わせる。

 

 なにかを切り出そうとして悩んでいるのか。

 なにを言うかを迷っているのか。

 

 それは向い合う肇もどことなく察して。

 

 

「……その、じゃあ……また、ね。肇……くん」

 

 

 結局普通にやるコトにしたのか、渚がふりふりと胸のあたりで手を揺らす。

 

「……そうだね。じゃあまた」

「う、うん――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――そんな風に。

 

 

 いざ別れるとなって油断した瞬間だった。

 

 一歩。

 

 彼がなんでもないように距離を詰める。

 

 驚いた渚は無防備なまま動けない。

 

 ただ漠然と、

 呆然と迫り来る彼の顔を見て。

 

 あぁ、よく見ると目の色が綺麗だな、なんて見当違いなコトも思って。

 

 

 〝――――――え?〟

 

 

 

 

 

「――――――」

 

 

 

 

 銀色の光が広がる。

 鼻先を素敵な香りが掠めていく。

 

 腰には見た目のわりに丈夫でがっしりとした男子の腕。

 そっと抱き寄せられた身体はわずかに反るように。

 

 ……正真正銘、

 

 この世に産まれてはじめての口づけは、触れるように優しく。

 

 溶けるように暖かく。

 

 

 ――――瞳を閉じた彼の表情が扇情的でたまらない、魅力にあふれたモノだった。

 

 

 

「――――――――、」

 

「――――――……あははっ」

 

 

 

 ゆっくりと顔を離して肇が笑う。

 

 珍しく顔が赤い。

 照れくさそうに恥ずかしがる彼の表情は新鮮だ。

 

 それだけでもう心が溶け落ちてしまうぐらい、不思議な熱に焼かれそうになる。

 

 ……でも、そこから動けるのがきっと彼の勇気で、凄いところ。

 

 

 

「――じゃあね。また明日。……おやすみ、()

 

 

 

 耳元でそう囁いて、いま一度微笑んだあとに肇は踵を返した。

 

 コツコツ、カツカツと。

 

 少し早足で彼女の前から去っていく。

 

 残された渚はそれを見守るしかできない。

 完全に固まってしまって動きたくとも動けない。

 

 完璧な不意打ち。

 

 隙を突いた致命的な一発。

 ありえないぐらい心に響いた一撃。

 

 

「――――――ぁ」

 

 

 ばかみたいだ。

 

 あんな気障な真似をして。

 

 ばかみたいだ。

 

 あんなに格好付けて。

 

 ばかみたいだ。

 

 あんなに恥ずかしがって。

 

 ばかみたいだ。

 

 あんなコトを呟いてくれやがって。

 

 ばかみたいだ。

 

 いきなりキスなんぞしてくれやがって。

 

 

 

「ぁ――――あ――……っ」

 

 

 

 ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ――――

 

 

 

「――――ぁあああぁおおぁああぁおあおああおあおうぅうあぁぁああ…………ッ!!」

 

 

 

 べしゃっ、と崩れ落ちながら渚は言葉にならない声をあげた。

 

 ほんと信じられない。

 ばかみたい。

 

 ずるい、せこい、反則だ、ルール違反だ、イエロー通り越してレッドカードだあんなのは。

 

 なんてコト。

 なんて蛮行。

 

 なんて――――

 

 

「………………っ!!」

 

 

 ――――めちゃくちゃに、好みな行動を。

 

 

 

〝あーッ! やだぁー!! あーッ! あーあーッ!! なんなのぉっ!! もうやだぁ! 好きすぎてやだぁーっ!! あぁあぁああぁ――――――ッ!!〟

 

 

 

 胸中で少女は泣き叫ぶ。

 

 勝敗があるなら言うまでもなく。

 これから先だってずっとそのように。

 

 恋人になったとしても、渚の受難は終わらない。

 

 ヒヨコに戻った彼女がニワトリに成るのは、まだまだ遠い未来の話――

 

 

 

 

 



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59/晴れて賑やかな日々

 

 

 

 

 翌朝の通学路は春の陽気とはまた別で、人為的な熱が渦巻いていた。

 

 誰によるものかなんて言うまでもない。

 

 朝一番から手を繋ぎ合って、

 いつもよりずっと近くで肩をくっつけて、

 

 仲良しこよしな様子で歩いていく肇と渚である。

 

「……わざわざ迎えに来てくれなくても良かったのに……」

「俺がしたかったから良いの。一緒に学校行くとか、考えてみたらわりと貴重だし」

「そりゃ、まあ……たしかにそう、だけども」

「じゃあやっぱり良いんだよ。これで」

「………………もうっ」

 

 ふいっ、と照れくさくなってそっぽを向く渚。

 

 その顔は当然ながらちょっと赤い。

 熱は耳までのぼっているほどだ。

 

 いつも通りと言えばいつも通りな振り回されよう。

 

 がしかし、先日までの彼女を思えば完全に吹っ切れた証であるとも言えた。

 

 

「……昨日も思ったんだけど」

「え、なに……?」

「渚のお手々はちっちゃいね」

「……ばかにしてるでしょ」

「してないしてない」

「ちょっ、やめっ……にぎにぎしないで……!」

「そっちだってやってくるくせにー」

「ぐっ……この……!」

 

 〝――――図星だからなにも言い返せない……ッ!〟

 

 

 ぐぬぬぬ、と警戒する小型犬みたいな表情で肇を睨む渚だが、その程度で怯む彼でもない。

 

 左手にはぎゅっぎゅっと力を加えられるような独特の感触。

 肌の温度と混ざり合ってその刺激はなんとも気恥ずかしくなってくる。

 

 それと、付け加えるなら肇の感想はなにも間違っていなかった。

 

 実際に渚の手は彼よりも少し小さめ。

 すっぽりと手の内におさめてしまえるぐらいなものだ。

 

 それが良いのか悪いのかは、まあ、肇の顔を見れば分かるコトだろう。

 

 

「ところでまだ聞いてないんだけど」

「……なにを?」

「いや、()はどうなのかなって」

「っ……だ、だからなにがっ?」

「わかってるくせに」

「わ、わかっ、わから()()()()っ!」

 

「えっ、まってすごいかわいい」

「っ――――――!!」

 

 

 顔を真っ赤にしながら渚が「うにゃぁあぁぁああ――!!」なんて胸中で叫ぶ。

 

 平静を装えてるつもりでも動揺は隠せなかったらしい。

 その証拠にガッツリ噛んでしまったのだが、悲しいかなそれが決定打になっていた。

 

 というか完全に墓穴を掘っている。

 

 土木建設会社ユキノ、今日も元気に掘削作業に励む。

 なお将来的に統合して会社名は変わる模様。

 

「ナギサ語だね、ナギサ語」

「なっ――なに、それ……!」

「渚が焦ったときに出る謎言語」

「かっ、か、噛んだだけだしっ!」

「真相はどうあれかわいかったからよし。百点で」

「なんの採点……っ!」

 

 よーしよしよし、と渚の頭を撫でまくる肇。

 

 なんにせよカワイイ(オブ)正義(ジャスティス)

 

 羞恥に焦る恋人は甘やかすに限る、と()()()()()な笑顔で手を動かしている。

 

 対する渚は好き勝手されながらも睨みつけるだけで物理的な抵抗には出ない。

 好機を待っているかと思えばそうでもない。

 

 鞄を持つ手も空いている手もだらんと下げてされるがままの状態。

 

 なぜかと訊かれればもちろん彼なので。

 

 ()()()()()()なら()()()()()()

 思い通りになるのは癪だけれど満更でもなかった。

 

 

「で」

「…………で、ってなに」

「言ってくれないの?」

「………………言わなきゃ、ダメ……?」

「別にダメってワケじゃないけど」

「っ、じゃ、じゃあ……」

「俺は言って欲しいし言ってもらえたら嬉しい」

「……………………いぢわる」

「そうだねー意地悪だねー」

「っ…………」

 

 〝おのれ水桶肇(くそぼけ)ぇ…………っ!!〟

 

 

 少し前から薄々と感じていた渚だったが、ここに来て予想は確信へと変わった。

 

 過去(ぜんせ)では自分のほうが歳も立場も力の強さも上で。

 

 彼は病弱だったし弟というコトでもっぱら大事にされる立ち位置だったけれど。

 それが同年代というステージに移ったコトでひとつ発見したコトがある。

 

 ――いまさらな話かもしれないが。

 

 もしかしなくてもこの男、責めるの大好きか? と。

 

「…………はっ」

「は……?」

「ちょっとやめて繰り返さないで」

「えー」

「〝えー〟じゃない……!」

「おー」

「〝おー〟でもないっ……、いつからそんな風になったの……!」

「君が可愛いから仕方ないんだよ」

 

 〝はうあ――――――――ッ!?〟

 

 

 ずどぉっ! と深く入った一撃に乙女心が容易く吹き飛ばされていく。

 

 不意打ちも不意打ち。

 

 突発的な殺し文句は未だ彼女の苦手とするものだ。

 これが現実的なダメージなら足がガクガクと震えて立てなくなっている。

 

 精神的なモノなのでもちろん代わりに心臓がドクドクと震えていたりするけれど。

 

「かっ、か、かわっ、なにっ、はぁ!? なにっ!?」

「どうどう。落ち着いて、渚」

「そんな簡単に落ち着けたら苦労しないよっ!」

「怒ってる表情も素敵だよ」

「ふ、ふざけないでっ……もー……! もー!!」

「あはは。痛い痛い」

 

 ぽかぽかと胸を殴る女子と、それを臆さずに受け止める男子。

 

 お互いにとってはなんでもない日常のやり取り。

 けれど傍から見ればそれは紛うことなきバカップルの行為(ソレ)だった。

 

 入学初日……いや、もっと言うならついこの前まで。

 

 異様な雰囲気(オーラ)を放つ渚の周囲には人が立ち寄らずに空間が出来ていた。

 

 その原因となったモノはそこにないが、いまはまた別の理由でふたりを避けるよう謎の空間が生まれつつある。

 

 あまりの()()に耐えきれなくなった学生たちの傷痕だ。

 

 

「なんだアレ……なんだアレ……!」

「朝からあんなもん見せつけられるこっちの身にもなれちくしょー……!」

「一年の優希之と水桶だろ。平常運転だ平常運転」

「いや待って、それにしてはちょっと距離近すぎない?」

「とても距離が近いと思う。だからこそ、とても距離が近いと思う」

「美術部ー、なんとかしてくれー」

「やべ、なんかえづいてきた……これは……幸せの味……?」

「他人の不幸が蜜なら他人の幸福は酸かぁ……」

 

 

 無論、気にしない人間もいる。

 なんとも思わず通り過ぎる生徒だって少なくはない。

 

 が、コトこれに関しては今までの人生勉強三昧で甘い時間の足りなかったガリ勉諸君や、スポーツ芸術分野の部活に励んだ秀才諸君に酷く刺さるものだった。

 

 校門前に高級(たか)そうな車を停めて降りている特別推薦組に比べると心的余裕の大事さが分かるかもしれないだろう。

 

「おっ、なんだなんだ。今日も変わらずやってんのかおまえら」

 

 と、そんなところへ遠慮せず入り込んでいく猛者がひとり。

 

 

「三葉くん」

「おっす肇。優希之も。その様子だとすっきりしたのか?」

「っ…………」

「まあそんな感じ」

「ていうか手ぇ繋いで相変わらず仲良いな。しかもちゃっかり恋人繋ぎ」

「あ、うん。俺たち付き合うコトになったから」

「へぇー、そうだったか。おめでとう! …………ん?」

 

 

 ぱちぱちぱち、と自然(ナチュラル)に手を叩きだしたところで三葉は停止した。

 

 ピタッと拍手をやめて、ギギギ、と固い動作で視線を渚へ映す。

 

 一秒、二秒、三秒。

 

 反論する様子はない。

 どころか顔を赤くして黙り込むように俯いている。

 

 すなわちハッキリと否定しておらず、ならばこそこういう反応は嘘や冗談ではない証拠だと同時に彼は理解していた。

 

 視線は繋ぎ合う手のほうへ。

 

 そこからゆっくり上がっていって、身長差のある顔を交互に覗いて。

 

 ――どこか深く頷いたあと、ぐっと親指をたててはにかんだ。

 

 

「とりあえずクラスの連中に報告してくるな!!」

「っ!?」

「あー、うん。別に良いけども」

 

「おーいおまえら! 今日から優希之が名字変えるってよー!!」

 

「ちょっと待てぇ!?」

「えっ、優希之めっちゃ元気じゃん。こわ。テキトーに言ったけどマジだったか……すまん、悪いコトしたな……」

「マジじゃないけど?!」

 

 

 そそそ、と下がっていく男子に吼える銀髪美少女はたしかに調子が良い。

 

 顔色も良い。

 むしろ良すぎて赤く見えるぐらいだ。

 

 それを異変と感じるかいつものコトと捉えるかは見た人次第。

 

 ほとんど関わり合いがなければ前者。

 おおよそ普段の彼らを知っていれば後者になる。

 

 もはや基本(デフォ)になりかけている渚の赤面は珍しくもなかった。

 

 

「って言ってるけどどうなんだ肇」

(そっち)に訊かないでよっ!?」

「お嫁に来てもらいたいから変えてもらう方向で!」

()()()も乗らないでっ!!」

「――()()()?」

 

 

 びくん、と渚の肩がちいさく跳ねる。

 

 特にコレといってなんでもない呼び方。

 学園に入ってからやっと進展した下の名前での呼び名だ。

 

 けれどもそれは昨日までの話だったら。

 

 いまは更にもう少し進んでしまっている。

 

 その事実を決定付けるように肇からはもうただ〝渚〟とだけ。

 

 ……ごくり、と生唾を呑んだ音を目前の彼に聞こえたかどうか。

 

 

「…………は、……は……っ」

「…………、」

 

 

 彼は静かに彼女を見詰めた。

 今度は茶化さずにしっかり見守る。

 

 その視線は穏やかさと暖かさに溢れている。

 

 焦らなくていい、慌てなくて構わない。

 一度だけだとしてもそれは聞き逃さなのだから。

 

 

「――――はじめ……っ」

「うん。なに、渚?」

「よ、呼んだだけっ!」

「凄い元気なやり取りだ……」

「っ――――」

 

 

 瞬間だった。

 

 渚が恥ずかしさに耐えきれなくなった直後。

 ちょうど逃げるように顔を背けた先で、真っ白な光と邂逅する。

 

 ぱしゃり、と。

 

 なにやら携帯(スマホ)を構える無名の写真家は絶好のチャンスを逃がさなかった。

 

 無論、正体は彼らの直ぐ傍まで近付いていた第三者。

 カメラマン海座貴三葉である。

 

 

「――とりあえず視聴覚室からプロジェクターとくそでかスクリーン持ってきとくな」

「待って!?」

「あ、肇おまえちょっと映っちゃったけど大丈夫か? 修正(モザイク)入れるか?」

「いや別にぜんぜん大丈夫だけど」

「そっか! じゃ、お先に失礼しとく」

 

「私は!?」

「馬鹿おまえ、優希之を隠したらなんのための写真か分かんねえだろ」

 

「――しっ!」

「がっ!」

 

 

 音を越える早業だった。

 

 一瞬の加速。

 

 右足から左足にかけての体重移動。

 奇跡的なまでの重心の運び。

 

 絶大な威力を乗せた拳は三葉の腹筋から背骨を貫き通っていく。

 

 どしゃあッ! と崩れる男子の姿はさながら燃え尽きた灰のようだ。

 

 

「こ……こいつキレが増してやがる……!」

「いますぐ消して……!」

「はっ……残念だったな優希之。オレは写真なんぞ撮ってないぜ……」

「じゃあいまのなに」

「――――動画だ」

 

「っ!」

「ぐっ!!」

 

 

 倒れる人影。

 数えられる数字(カウント)

 

 どこからともなく甲高い音が鳴り響く。

 

 そうして彼女の傍に立った水桶肇(レフェリー)は勢いよく片手を掴んで天へと持ち上げた。

 

 スリーカウントKO。

 

 勝者、優希之――――

 

 

「ちなみにほんとに写真じゃないの、三葉くん?」

「ふふっ……驚くな肇。実はどっちも撮ってる。――すでにクラスのグループには送っておいたぜっ! 感謝しろよな優希之!」

 

「――――――」

 

 

 その日、音楽系イケメンは空を飛んだという。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 当初、一年一組の教室はちょっとした騒ぎになっていた。

 

 理由はもちろん朝方に海座貴某から伝えられた情報によるもの。

 

 入学してからおよそ一か月。

 

 すでに彼らの中で半ば名物と化していた肇と渚だったが、その関係が進展したというのは大なり小なり驚くべきコトである。

 実情を知って直に見ていたクラスメートなら特に。

 

 なにせ無自覚天然ボケ純朴火力特化型の少年と、

 激弱受け身悲鳴三昧小動物系心臓の少女だ。

 

 そうそう上手く噛み合うはずもなし。

 あれは二年三年とかかるだろうな、なんて彼らの予想を裏切る結果。

 

 当然良くも悪くも賑やかにはなる。

 

 

『――え、あれまじなの?』 

『おめでとー優希之さん! 良かったねー!』

『水桶やるなあいつ。なんだ、偶々冴えてたのか?』

『くそっ……大穴で三か月までに賭けとくんだった……っ』

『よぉーしッ! 今日はなんでも奢ってやるぜ!』

『うわぁあぁあぁあああ――――――アッ!!』

『ま、摩弓! しっかり! しっかりしてっ! ――誰か! 誰かAEDー!!』

 

 

 ――だが。

 

 だがしかし。

 

 彼らはまだなにも知らなかった。

 

 想いが通じ合う前ですら色々と近かったふたりである。

 それが晴れて付き合うとなればどうなるか。

 

 想像はしても当たるかどうかはまた別。

 

 なにより現実は小説より奇なりとはよく言ったもので。

 

 さらにさらに言えばふたりの関係は昨日から数えてもまだ一日経ってないというほやほや加減であるので。

 

 

 

 ――――例えば授業がはじまる前。

 

 

「………………っ」

「どうしたの渚。大人しいね」

「っ……だっ、だ、だって、こんな格好……っ」

「一回やってみたかったんだー、膝に乗せるの。……ん、やっぱりカワイイ」

「ぴっ!!」

 

 

 例えば合間合間の短い休み時間。

 

 

「渚ー、お菓子いる?」

「あ、うん……もらう、かも」

「じゃあはい、ポッキー。あーん」

「えー……」

「良いから良いから」

「…………ぁ」

「どうぞっ」

「……ん……」

…………、(無言で逆の端を)……はむ(かじりだす)

「ふぃっ!??!」

 

 

 例えば昼休みの食事時。

 

 

「ほ、ほら、肇……っ、あ、あーん……!」

「あー」

「っ、な、なんで躊躇なくできるワケ……!?」

らっへはへへるひ(だって慣れてるし)

「っ――ど、どこでっ!?」

過去(むかし)食べさせてくれたひと?」

「………………………………あっ」

 

 

 それはもはや幸せのお裾分けとも言えない暴力的なナニカだった。

 

 視覚的、聴覚的、嗅覚的――五感全てを駄目にする純粋にして最悪のパワー。

 

 撒き散らされるバカップルオーラほどキツいものはない。

 間近で体感せざるを得ないとなれば尚更だ。

 

 道端でふらっと出会すならまだしもこの場は教室。

 言わば一年一組諸君にとってのホームグラウンド。

 

 絶対に足を運ぶ、ともすればそこで過ごす環境でコレはもうテロだ。

 

 バイオハザードだ。

 

 

「――二階の自販機はッ!?」

「駄目だカフェオレしかねえ!」

 

「こちら教室本部! 図書館方面の捜索如何ですかどーぞー!」

『図書館組、渡り廊下でブラック三つ確保です!』

 

「おい二組の込溜(こめだ)がサイフォン持参してきてるってよ!」

「僕のコーヒーが飲みたいって本当っすか……? いや、普通に照れるんすけど……」

 

「でかしたッ!」

「あぁ……神はここに居た……ッ!」

「ありがとう……ありがとう込溜くん……っ」

 

「なんか思ってた一組の雰囲気と違う……えぇ……これが成績上位者……?」

 

 

 彼の疑問はもっともだったがこの際割愛する。

 

 どえらい家系の人間や学校指定の真面目でピシッとした推薦者が多い三組。

 勉学に自信を持って受けたものの繰り下がりとなって若干一組に対抗意識を燃やしている二組。

 精神的余裕とクラス委員の人選によって色々方向性が決定してしまった一組。

 

 同じ普通科と言えど三つの学級における隔たりは大きかった。

 

 

「……一体なんなのこの騒ぎは」

 

「あ、馨」

「肇。今日はお昼どうかと思ったんだけど」

「ごめん先約がいて」

 

「…………君か、優希之渚」

「…………なに、潮槻くん」

 

 

 ばちん、と突発的に火花が散る。

 

 お昼時に顔を出した馨と渚は互いに蛇蝎へ向けるがごとく容赦ない嫌悪の視線で睨み合った。

 

 肝心要の肇を間に挟んで。

 

 

「噂に聞くと君たち恋人になったみたいだね。おめでとう。素直に喜ばしいよ」

「その割にはぜんぜん笑わないんだね。表情筋が死んでるのかな、潮槻くんは」

 

「嫌味かい? 人の表情にとやかく言うなんて狭量な子だね君は」

「自覚しておきながら他人に八つ当たりするような人に言われたくないな」

 

「驚いたよ、とても口が回るんだ。普段はぴーぴー鳴いてるらしいのに」

「そっちこそ氷の貴公子とか言われてるわりに熱くなって恥ずかしくないの」

 

「酷い人間だ」

「どっちが?」

 

「………………、」

「………………、」

 

 

 ばちばち、ばちばちと。

 

 闘争心は収まらない。

 むしろ言葉を交わすたびにより一層肥大化していく。

 

 悲しいかな、本来はどうであれ彼と彼女の相性は最悪の一言だ。

 

 とてもじゃないが唐突に出会って親しくなるワケもなかった。

 

 ――が、当人たち以外の第三者にとっては少し変わって見えたようで。

 

 

「馨も渚も息ぴったりだね、妬けちゃうなー」

 

「「どこがッ!!」」

 

「ほらいまだってそうじゃない?」

 

「「っ…………!!」」

 

(なんだかんだで似てるところあるよねー……このふたり)

 

 

 仲良くなれると良いな、なんて微笑みながら箸を動かす肇である。

 

 両者の口から嫌いだと聞いているのでアレだが、とはいえどちらも彼自身としては親しい間柄の相手に違いない。

 

 そりゃあもちろん、出来れば仲は良い方が嬉しくもあった。

 

 

「――あ、でも渚さんは俺の彼女だからね、馨」

「……っ!」

 

「肇。僕を牽制しているつもりなら見当違いだからやめてほしい。あとそんな些細なところで喜ぶなよ優希之渚、君そんなんで大丈夫か」

「うっさいよ潮槻くん。別に大丈夫だし」

 

「…………まぁ、口で負けないだけ心配は要らないか……」

 

 

 ぼそっと呟く馨を渚はジト目で睨む。 

 

 

「……なに」

「……なんでも」

 

 

 関係は最低。

 相性は最悪。

 

 通ずるところなんて傍目には見つからない。

 

 それでも共通のものがあったからかどうからか。

 

 少なくとも表面上はどうであれ、彼女はどこか察したようにそっぽを向いて、彼もまた安堵のような息を吐いたのだった。

 

 

「――――ちなみに僕は一か月で破局に缶コーヒー五本かけてる」

 

「いやなにしてるの馨?」

 

「しねっ!」

 

「渚もなんてこというの!」

 

 

 ……察したのだろう、たぶん。

 

 

 

 

 







………………。
(次回でメインの話は最後となります、と書かれた粘土板を土下寝しながら掲げている)


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60/本編時のエピローグ

 

 

 

 

 ――カリカリと、小気味よくペンを走らせる音が響く。

 

 入学してから一か月弱。

 

 渚にとってはすでに通い慣れた第一生徒会室は、今日も依然変わらず稼働していた。

 

 室内に人影はふたつ。

 いつかの日と重ねるように彼女と会長のふたりだけだ。

 

 今日も今日とて手伝いで呼ばれた身としては書類整理が関の山。

 

 外で色々と動き回っている本役員とは違って新参者に出来るコトはまだまだ少ない。

 

「――――――」

「………………」

 

 喧噪から遠く離れた静かな空間。

 人の気配も通り過ぎる足音も極端に少ない場所。

 

 その中でただひたすら手を動かす時間は長く感じる。

 

 これいって会話がないのもそんな要因のひとつだろう。

 

 ……が、今日に限ってはまた違っていたらしい。

 

「会長、ひととおり言われた分は終わりました」

「……早いな、優希之。なにか良いコトでもあったか」

「え、あ……いや、まあ……」

「――成る程。その様子だと姉貴の言っていたコトは本当のようだ」

 

 珍しく生徒会長……陽向がくすりと微笑む。

 

 普段から硬い表情の多い彼の緩んだ顔だ。

 そこには洩れなくとてつもないギャップが溢れている。

 

 きっと少なからず陽向を良く思う女子が見ればドスンと心臓を撃ち抜かれるだろう。

 

 無論、別の攻撃でもはや胸がズタズタな渚にはてんで効かないものでもあったが。

 

「……部長さんの言ってたコト、ですか……?」

「目に見えた結果になったとな。俺から言えるのは、せめて学園生でいる間は羽目を外しすぎないように、というぐらいだが」

「だっ、大丈夫……です……!」

「だと良いんだが。……なに、優希之と水桶のコトだ。そう心配してはいない。どっちも話してみた限りしっかりしてはいるようだからな」

「あ、あはは……っ」

 

 ――そのしっかりした奴等が昼間、周囲のコトも顧みずにテロを起こしたのは記憶に新しい。

 

 星辰奏学園ブラックコーヒー売り切れ事件だ。

 

 規模は購買から学園中そこらに設置されている自販機に至るまで。

 朝の登校中に被害をこうむった生徒と、至近距離の同じ空間(スペース)でバカップルオーラを浴び続けた一年一組による犯行である。

 

 余談だが、この事件を経て後に校内自販機のラインナップに無糖の缶コーヒーがいくつか増えたらしい。

 

「……あの」

「ん、どうした」

「……私、ちょっとだけ分かった気がします。会長の言ってたコト」

「……なにか言っていたか、俺は?」

「はい」

 

 薄く笑いながら渚が頷く。

 

 衝撃的なコトがあって忘れていた些細なやり取り。

 

 そのときは理解はできても納得できなかった。

 偏に考え方の問題ではなく感情の問題で。

 

 それを覆されたのはシンプルな理由からではなく、心持ちに変化があったからこそだ。

 

「みんなに認められるぐらい、私の好きな人は凄いってコトです」

「――ああ……そんな話もしていたか、少し前に」

「……はい」

「……俺がどうこう言えるタチではないが、まあ、なら良かったんだろう」

 

 曖昧な言い方は、同時にどちらも否定するモノではなく正しさだと認める彼の思いそのものだろう。

 

 十人十色、千差万別。

 

 ひとりとして全く同じ人間など居やしない。

 誰にだって違う部分はあって然るべきだ。

 

 人は繋がっていく。

 

 物理的にしろ、思想にしろ、目に見えない命にしろ。

 だからこそ素敵なのだと夢を見るよう陽向は笑う。

 

 そんな彼の心持ちだって、思えば渚はずいぶん昔から知ってはいた。

 

「でも私、彼の絵がどんな風に良いのかちっとも分からないんです」

「……まあ、感覚は人それぞれだからな。そういうものだろう」

「ですね。――けど、彼に安心して絵を描いてもらうコトはできると思うんです」

「……? そうか、それはなによりだ」

「はい、だから……出来るコトはそれぞれで、やっぱり良いんだなと」

 

 それは彼女にとって軽いお礼じみた、

 ほんの少しの後押しを含む鍵のような言葉だった。

 

 ――聿咲陽向は優秀な人間だ。

 

 成績は堂々の学年トップ。

 

 身体能力にしても去年の星辰競祭――他でいう体育祭――では出場した殆どの種目でぶっちぎりの一位だったという。

 

 性格だって真面目で人となりも悪いワケじゃない。

 多少固いところもあるが、概ね酷くできた人間というのが周囲からの彼の評価。

 

 文武両道、容姿端麗、質実剛健。

 

「――――そうか。そうだな。いや、まったくその通りだ。本当に」

 

 傍から見れば完璧な人間であっても綻びはある。

 

 それは渚の記憶に残っていた過去(ぜんせ)の引き出しから。

 

 彼の家系で大事なのは学力でも真面目さでもなく、芸術方面での才能だったというコト。

 聿咲の家とはそういうものなのだとずっと教えられて生きていたコト。

 

 ……そして彼にはまったく、そっちの素質がひとつも無かったコト。

 

「得意不得意、得手不得手は違うからな。それはそうだ。なんとも頷ける」

「…………、」

「良い考え方だ、優希之。見誤っていたのを謝罪する。……ああ、誰にするか悩んでいたが、おまえを推すのも面白いかもしれない」

「…………、……え? 推すって……」

会長(オレ)の席をだ」

「…………!?」

 

 藪をつついて蛇を出す。

 

 まさしく要らぬ世話を焼かなければ舞い込まなかった面倒事に渚は一瞬固まった。

 

 悲しいかな、これでも彼女は主役級美少女(メインヒロイン)

 

 中身はともかく素体だけでいえば相性が悪くないのは前例の示すとおり。

 ましてや迂闊になぞるような真似をすれば変に成功するのだって過去に例がある。

 

 もっと言えばそういう類いの災難は浮かれているときこそ起こるものなので。

 

 おそらくは遠からず同じ結果になっただろうコトは言うまでもない。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

「――ってコトがあって」

「良いじゃない、生徒会長優希之渚。似合ってるよ」

「……他人事だからってふざけてるでしょ」

「そんなことないって」

 

 昨日同様遅くなった学園からの帰り道。

 

 渚から件の話を聞いた肇は口元に手を当ててくすくすと笑った。

 

 本人にとっては厄介な申し出かもしれないが、なんにせよ彼女が他人から評価されるのは良いコトだ。

 学園の生徒、その代表ともなれば彼自身も誇らしい。

 

 きっと色々楽しい日々になるだろう。

 

「もしそうなったら応援するよ。なんなら副会長でもしようか?」

「……え、ほんと?」

「ほんとほんと。俺で良いならぜんぜんやるからね」

「――――どうしよっかな……」

 

(あ、本気で悩み始めた)

 

 むむむ、と顎に手を当てて渚が考え込む。

 

 彼女の脳内では大きな天秤がぎこぎこと動いていた。

 

 片方には責任とか、重圧とか、大変さとか、自由な時間が減るコトとか。

 もう片方には彼と過ごす時間が増えるコトとか、彼と一緒に動けるコトとか、彼が自分の補佐に回ってくれるコトとか、彼と共同作業できるコトとか。

 

 現状はやや後者のほうに傾きつつある。

 

「あ、でも絵が描きたくなったら行けないかも。流石にそれはダメかな?」

「? そのときはその分私が頑張るし。別に大丈夫だと思うけど」

「…………おー……」

「……え、その反応はなに……?」

「いまの、すっごく()()()()。うん、惚れ直せるね。これは」

「――――なっ、なに……!? なんなの急に……!?」

 

 渚としてはまったく無意識の言動だったのだろう。

 その証拠に彼女本人はなにが引き金(トリガー)だったか気付いてもいない。

 

 自然と吐かれた言葉は補い支え合うという意味そのもの。

 

 足りない部分はなんとかする、と当たり前みたいに言われたようなものだ。

 

 そんな彼女に溢れる自信に満ちた台詞を。

 手を差し伸べるなんて、つい一年前までは出来そうもなかったコトをさらっと出来るようになっている少女の気持ちに喜ばなくてどうするのか。

 

 

「うん。ならありかもね。会長に渚、副会長に俺でも」

「……ちゃんと私が困ったら助けてね」

「そのときは自分の絵を放り出してでもいくから」

「や、別にそこまではしなくても……」

「そこまでするぐらい渚が大事なんだよ」

「ぴゃっ!?」

 

 〝――――すぅうぅうきぃいぃぃいいぃいぃいいいいぃい――――ッ!!!!〟

 

 

 胸中で声高らかに少女は叫ぶ。

 

 趣味、部活より優先する……という時点で彼の言葉は嬉しいものだ。

 それだけのコトだとしても渚は「ぴっ!?」なんてぐらいの(ひめい)はあげたに違いない。

 

 だがそれが眼前の男子の、しかも自発的に描く絵となれば意味は増してくる。

 

 命までをも削るのではという没頭。

 ボロボロだった身体すら動かすほどの熱狂。

 

 ましてや息をすることまで忘れてしまうぐらいの集中力。

 

 肇にとって絵を描くというのは己のすべてを捧げて良いぐらいの特別だ。

 過去(ぜんせ)でも傍に居た彼女だってそんなのは分かりきっている。

 

 だからこその衝撃。

 

 そんなにも夢中になるコトより。

 金額にすれば八桁はくだらない作品をつくるより。

 

 ただ貴女ひとりのほうがずっと大切なのだと。

 

「あ、照れてる」

「っ……て、照れてない……っ」

「恥ずかしがらなくても。俺にとって好きな人はそういうものなのです」

「も、もういいっ……わかった、わかったから……!」

「ふふっ……それなら良いんだっ」

「っ…………」

 

 ふいっ、と顔を真っ赤にしてそっぽを向く渚を、いつものコトだと慣れたように肇がさらっと頭を撫ではじめる。

 

 その表情は柔らかく緩められている。

 

 これ以上はないというぐらい満足げな微笑み。

 手つきは優しく、どこか愛情を込めるみたいに。

 

 ……それが嫌というワケではないけれど、彼女は少しだけ気にかかった。

 

「……肇、すぐ……というか、頭、よく撫でるよね」

「そうかな?」

「そうだよ。……なんで?」

「んー……、たぶんだけど、俺がいっぱいしてもらったからだよ。よしよしーって」

「えっ、誰に」

「さぁ、誰でしょう?」

 

 ニコニコと笑いながら彼は問いかけをそのまま少女に返す。

 分かってるんじゃないの? とでも言わんばかりに。

 

「…………もしかして、それも私……?」

「どうかなー。事あるごとに偉いね、凄いねって言いながら撫でてくれた人なら心当たりもあるんだろうなー」

「わ、私そこまでじゃ……」

「常日頃から暇があれば近くで構ってくれた人だったなー」

「……………………、」

 

 だらだらだら、と渚は撫でられつつ冷や汗を流した。

 

 今まで関係もないと決めつけていなかったし。

 そうだと気付いてからも大して引っ掛かってはいなかったけれど。

 

 もしや自分は、病弱やら天才性やらの他人と隔絶する要素を持たなければとんでもない男子を生みだしてしまったのでは? と。

 

 よもや育て方というか、甘やかし方を間違えたか? と。

 

 急に思い当たって心臓がきゅっとなったのである。

 

 いや、そうではないと信じたい。

 信じたいのだが――――たしかに彼女はもう事あるごとに抱きつくわキスするわ頭は撫でるわ好きだなんだと言うわで途轍もない溺愛をしていたのも事実だ。

 

 さながら過去がえげつない威力を伴うブーメランとなって飛来してきた気分。

 

「は、肇……!」

「ん、なに」

「それ、私以外にしちゃダメだから……!」

「しないしない。渚だけだよ、こんなコトするの」

「な、なら良いけど! うん! それなら、よしっ!」

「ふふっ」

 

 ぐっ、とちいさくガッツポーズする銀髪美少女。

 

 別に他意はない。

 

 これはその気もないのに致命傷を喰らう女子をなくすための注意であって、彼を独占したいとか余所の奴に譲るつもりはないとかそんなコトではない。

 

 あくまで被害者を極力減らすためだ。

 

 たぶん。

 

 

 

「…………ねぇ、肇」

「……どうしたの、渚」

 

 

 ふたり並んで歩きながら口を開く。

 

 視線はどこか遠くの夜空へ。

 

 暗くなりだした帰路は淡い光と薄い闇に染まりだしていた。

 

 伸びていく影はふたつ。

 隣り合うような近さで地面に映る。

 

 

「私、いま幸せ」

「……そっか」

 

 

 ほんの短いやり取りは、けれどもそれまでの全部が詰まっていた。

 

 耐えきれずに壊れてしまったひとりの人間。

 過去を引き摺り続けて俯いていた少女。

 弱気なままに後ろ暗いコトばかりに囚われていた誰か。

 

 そんな誰かが、こうして。

 

 なんの淀みもなく。

 

 憂いもなく。

 閊えもなく。

 

 ありふれたように過ごせている。

 

 

「お返し、してあげようか?」

「? なんの?」

 

「――私、死んでもいいわ」

 

「…………縁起でもないよ、もう」

「そうだね、ふふっ……、でも、だからだよ」

「……?」

「これを冗談で言えるから、良いんだってこと」

 

「……たしかに、そうだね」

「うんっ」

 

 

 はじけるように渚は笑った。

 

 銀色の(かみ)を靡かせて。

 夜の暗さも吹き飛ばしていくように。

 

 

 

「――――――」

 

 

 

 彼はそれをわずかに瞠目しながら見る。

 瞬きもひとつもせずにただ視認する。

 

 日の落ちてきた時間帯。

 

 気温はまだまだ昼の名残があるものの、明るさはすでに大分なくなっていた。

 

 ぽつぽつと点きだした街灯。

 行き交う車やバイクのヘッドライト。

 

 建物の傍に橋の下、入り組んだ道はすでに影が濃い。

 

 その中で。

 

 ほんの一瞬。

 ただの瞬間。

 

 彼の視界に閃いたのは、なにも変わらない――どころか過去(むかし)を超える――目映いばかりの暖かな輝きで。

 

 

「……ははっ……」

「? な、なに。どうしたの急に……」

「いや……あぁ、うん。なんか……嬉しくって」

「…………?」

「――本当に、もう大丈夫なんだって」

 

 

 重なるというのはそういうコトだ。

 必ずしも悪いモノではない。

 

 かつては強く、いつかに翳り、これまでずっと沈んでいたもの。

 

 それがいま一度昇ったのなら最早なんの心配もないだろう。

 

 実証はされてしまったワケだ。

 

 止まない雨はないように。

 西の空に消えた日も、東からまた昇る。

 

 

 

「――――お帰り、()

 

 

 

 笑みを浮かべて彼が言う。

 

 こてんと首を傾げていた少女は、しばし考え込んだ後にはっとしてなにかに気付いた。

 

 そして、

 

 

 

「――――ただいま、()っ!」

 

 

 

 ぎゅっと、抱きつくように飛びかかっていく。

 

 笑い合う。

 触れ合う。

 

 温度を感じて、包まれて、なにもかもに満たされて。

 

 穏やかで暖かなひとときは続いていく。

 

 

 

 

 

 ふたりの時間はまだ始まったばかり。

 

 それは人としても関係としてもそうだ。

 

 この先なにが起こるかなんて神様でもないのに分かるハズもなし。

 ちょっとやそっとじゃない困難も壁もあって然るべき。

 

 けれど、そんな未来の話なんて関係ないのだろう。

 

 不安に囚われていた心はもうない。

 怯えて怖がっていたときはもう過ぎた。

 

 前を向いて歩き出したなら、きっと今より沢山の幸福が待っている。

 

 いつまでも、どこまでも。

 

 隣り合って歩いていくように――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――それは酷く、幻想的な(イロ)だった。

 

 澄み渡るほど青い空。

 飲み込まれるほど深い海。

 

 地平線は曖昧に。

 

 遠く立ち上る雲は薄くぼやけて広がっている。

 

 その中でひとり、海には少女が立っていた。

 

 煌めくような銀色の長髪。

 暗く輝く紫水晶じみた瞳。

 

 肌は目映いばかりに白く、踊るような姿は鮮やかで美しい。

 

 それは誰かを映した心の模様。

 最大限に高まった想いの結晶。

 

 いつまで経っても薄れるコトはない無二の証明。

 

 

 値段にして三億七千万円。

 

 近代を代表する画家、水桶肇によって描かれたその絵はとある地方の博物館にひっそりと飾られている。

 

 その題名はただひとつ。

 ほんの一文字。

 

 

 

 〝渚〟――――――と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







これにてメインの話は終了となるのですが、お付き合いいただける方は残り十話だけお付き合いください。

一話ごとの話にはなりますが、本筋とはあまり関係ないところと軽い本編後を書いて全話完結となります。



大きい物語としてはここでシメですね。ご愛読ありがとうございました! 4kibou先生の次回作にご期待ください!


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完結後のAfter Episode
Ex01/セーフティ渚ちゃん




前話後書きのとおり、以降はメインから外れるおまけ話となります。

単発、時系列バラバラとなりますのでご注意ください。

文量も気持ち(※ここ重要)控えめとなります。








 

 

 

 

 月日の流れは早くも穏やかに。

 

 大きな事件はなくとも、小さな笑い話は指折り数えるほどでは足りない。

 

 それは彼と彼女が付き合いだしてから数週間が経つかといった頃。

 

 数々の恋人っぽいコトやデートなんかを繰り返しているうちに、ふと肇の心へ()()()()と湧き立つものがあった。

 

 そう、渚が傍に居ることで発揮される純度マックスの創作意欲である。

 

「渚、俺ちょっと絵に集中するかも」

「うん、いいよー」

 

 そんなこんなで数日前から放課後デートは打ち止め。

 

 彼は一時期やめていた部活へ毎日のように通うコトになり、彼女もそれをまた笑顔で許容した。

 

 無論、渚としても思うところがなかったワケではない。

 

 好きな人と一緒に居られる時間はもれなく大切だ。

 それが減るとなると単純に寂しくある。

 

 ぶっちゃけ部活よりも自分を優先してほしい、というのが恋人としての本音。

 

 ……だが、かといって肇の行動を縛りすぎるのもいけない。

 

 あくまで彼女は普通の幸せに満ちた時間を過ごしたいのであって、なにも無理強いを働くような――例えるなら管理やら監視やら監禁やらという――アブノーマルな関係になりたいワケではないのである。

 

 もとより彼のやりたいコトはとことんやってほしい心持ちでもあった。

 ならばそう、ちょっとの寂しさも悲しさもなんてコトはない。

 

 肇の幸せを思えばぜんぜん我慢できるようなもの。

 

 気にせず好きに描いていればいいんだよ――――と、聖母もかくやという見守り態勢に入っていた渚だったのだが。

 

 

「………………、」

「……肇?」

「あ、うん。なに?」

「目の隈凄いけど……どうしたの……?」

「え? ……あー、たぶん寝不足。頭の中で景色がぐわーって渦巻いてて」

「そ、そうなんだ……程々にね?」

「うんっ」

 

 

 徐々に徐々に。

 その雲行きは怪しくなっていった。

 

 

「――――――」

「……肇っ」

「――ぅえ、あ、うん……どうしたの?」

「……大丈夫? 目が虚ろだけど……」

「ん、へーきへーき。大丈夫。まだ全然元気だよー」

「……それなら、良いんだけど……」

「うんうん」

 

 

 二日もすればなんとなく雰囲気が変わり。

 三日が経てば露骨に不健康な顔色となって。

 四日と過ぎればついぞ歩き方にまで支障が出る始末。

 

 

「――……――……――……」

「肇っ、肇っ!」

「――――…………ふぁ?」

「前! 電柱っ!」

「いたァッ!?」

「肇――――――っ!!」

 

 

 何故なのかといえば偏に睡眠時間を削っているからだろう。

 もっと言うなら削らざるを得なくなっている、というのが正しい。

 

 普段はぽやぽやしていて天然純朴(クソボケ)気味なので忘れがちだが、肇はこう見えて化け物級(トップクラス)の天才肌だ。

 

 常人の物差しで測れるどころか、用意された物差しを折って蛇口に突き刺すタイプ。

 

 そんな彼をして一度再燃した〝描きたい欲〟がどれほどのモノかというと、比喩ではなく命を削るような代物であった。

 

 ふつふつと胸の奥底から噴出されるエネルギー。

 吐いても吐いてもとめどない映像と色彩。

 寝ても覚めても脳内を占拠してやまない膨大なイメージ。

 

 狂ったように筆を握る彼にとって睡眠はもはや二の次だった。

 

 授業だってまともに受けられるワケがない。

 

 そのあたりを察して板書や注意書きやらと色々完璧なノートを作ったりは渚もしていたが、まさかこれまでとは予想だにしなかったのである。

 

 さらにはとどめに、

 

 

「おーい、水桶ー」

「――――……ふぁい……」

 

(え、待ってなにいまの気が抜けた声ちょっと反則じゃない??)

 

「寝るなよおまえ。大丈夫か、ここ最近」

「すみま()()()……」

 

(あーッ!! あーあーあーッ!! あぁぁああぁあ――ッ!!)

 

()()()って……あー、眠気覚ましにこれ解いてみろ」

「……ぇー……っと…………――――」

 

 

 ばたん、と。

 見事、渚の目の前で崩れ落ちたのである。

 

 

「肇っ!?」

「痛っ!? えっ!? ……なに!? あれ……? 俺なんかした!?」

「先生私保健室に連れて行きますっ!」

「ん、いや誰か保健委員――――」

「行きますッ!!」

「…………お、おう。任せたぞ優希之……」

 

 

 これにはいつもクールで冷静沈着な渚(※あくまで個人の感想です)も慌てずにはいられなかった。

 

 ただ単に寝落ちしただけならそれでいい。

 転けたりなんかで倒れたとしても問題はないだろう。

 

 だが絵を描くのにリソースを割きすぎてぶっ倒れる、というのは些か彼女のトラウマゲージをぎゅんッッと引き上げたのだ。

 

 主に前世で想像したアレコレが蘇って。

 

 

「肇っ! 大丈夫!? 怪我はない!?」

「あ、うん。ないけど……」

「傷は!? 血は出てない!? 熱はない!? あっ! ここちょっと赤くなってるぅー!!」

「渚、それこのまえ電柱にぶつかったときのだよ」

「うわーっ! 死なないでー! 肇死なないでー! 置いてかないでー! うぇーん!!やだやだー! 肇死んじゃやだぁーっ!!」

「死なない死なない。俺すっごいピンピンしてるけど」

「うわぁあぁあああん!!!!」

 

 

 なお、後日渚が知ったコトだが、彼の()()()()()()()()という判断は過去(ぜんせ)の調子に基づいてのものらしかった。

 

 そりゃあ当然ちょっとやそっとの体調不良など屁でもない。

 

 箸を持つのも一苦労、まともに歩くコトだって出来やしないほどの病弱死に際ボディを一度経験すれば大抵の怪我や病気が掠り傷になる。

 

 この男、最低最悪の状態を熟知しているが故に基準がぶっ壊れていた。

 

 

「休んでっ!」

「そりゃあ休むけど」

「家に帰ってっ! 部活もだめ! 禁止っ! 大人しくしててっ!!」

「そんな殺生な。絵が描けないと俺死んじゃう」

「死なないでぇーーーー!!!!」

 

「ちょっとー? 保健室だからいちおう静かにねー?」

 

 

 子供みたいに泣きじゃくる渚の心境はそれはもう酷いものだった。

 

 紆余曲折の末、折角手に入れた幸福な時間。

 

 それが今まさに壊れようとしているのを実感して急に恐ろしくなってくる。

 眼前で決定的なコトが起きたとなれば尚更だ。

 

 弟の死。

 恋人の死。

 

 魂の規格でいえば同様な喪失。

 

 それとどうにか向き合っていくと決めた渚ではあるけれど、こうも早くその足音が聞こえてくるなんて聞いていない。

 

 

「どうして寝ないの……っ」

「いや、寝ようとはするんだけど。もう描くことで頭がいっぱいで」

 

「そんな無理してまで描かなくていいのに……っ」

「そこまで無理してるつもりはないよ。なんか自然とこうなっちゃうものだし」

 

「やだぁ……! 健康は肇でいてぇ……! いなくなっちゃやだぁ……っ」

「大丈夫大丈夫。よしよし、俺はいなくならないからね。あとこういう感じはわりと前世(むかし)からだからね?」

 

「やっぱり()のせいなんだぁー!!」

「えっ?」

 

 

 繰り返すが肇は頭のおかしいタイプの化け物である。

 

 彼にとって描きたいときに描くなというのは空腹を前にご飯を食べるなと言っているようなもので、その在り方を変えろというのは口や鼻ではなく目や耳で呼吸しろと言っているのと同義だ。

 

 しかし真っ当で常識的なセンスしか持たない渚にそんなのは知ったところではない。

 

 好きな人が無理をしている。

 それだけでもう世界が終わるぐらいの大事件なので。

 

 

「そうだね、今日はゆっくり帰って休むけど、明日からはまた部活行くの許して?」

「やだぁー……!」

「あはは。いやかーそっかー……どうしよっかなぁ……」

「はじめぇ……!! いるー……! いっしょいるー……!!」

 

「ねえねぇ、君たち元気なら授業に戻ってくれる? 保健室はバカップルのいちゃつく場所じゃないんだけど?」

 

 

 ご尤もな養護教諭からの指摘だった。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

「――というわけで肇は一週間部活禁止です」

 

 そうして明くる日の放課後。

 席を立っていつも通り美術室に行こうとした彼を確保して渚はそう宣言した。

 

 こう、後ろからぎゅっと。

 

 身長差を活かして腰あたりに抱きつくように。

 

 ひょこっと脇腹から出ているお顔がなんとも可愛らしい。

 

「渚ー……許してー」

「だめっ。今日は私と一緒に帰るのっ」

「それ渚が帰りたいだけなんじゃ?」

「………………帰るのっ!」

 

 否定はなかった。

 

 少し頬を赤く染めてそっぽを向くあたり図星だった模様。

 

 けれどもしょうがないだろう。

 なにせ早退した昨日を含めておよそ一週間近く彼と一緒に下校できていないのだ。

 

 寂しくて死んじゃうほどではないけれど肇のコトが大大大好きな渚ちゃんはそれがちょっと……けっこう、わりと、しっかり……不満なのである。

 

「ごめんね。俺も一緒に居たいけど、いまは描きたくもあるんだよ」

「っ、で、でも……っ」

「大丈夫。昨日はぐっすり寝たから。むしろ頭がスッキリして余計にやる気だしねっ」

「………………、」

 

 ぽんぽん、さらさらと。

 

 慣れた手つきで渚の頭を撫でる肇は実際顔色がよくなっていた。

 怖いぐらい深かった目の隈も、ボサボサッとしたままだった髪も整っている。

 

 因果関係から過去(むかし)の病弱だった頃を重ねてしまうが、今生での身体はすこぶる逞しいらしい。

 

 運動やらなにやらと色々手を出していた結果だ。

 

「……渚」

「っ…………、……じゃあ」

「うん?」

「――じゃあ、私も一緒に行くからっ」

「……ん、わかった。ならそれでやろっか」

「………………、」

 

 ぱっと拘束を解いて離脱する渚。

 そのまま彼女はせっせと鞄に教材を詰め、帰り支度を整えた後に肇の隣へついた。

 

「……ん」

「はい」

 

 ずい、と渚の差し出す手を肇が握り返す。

 

 お約束のように指を絡め合って。

 ふたり仲良く幸せオーラを振りまいて、彼らは教室を後にした。

 

 

 

「……なぁ、誰かコーヒー回してくれ」

「微糖でいいか?」

「ブラックに決まってんだろ」

「込溜呼んでこい、込溜。缶よりマシだぜ」

 

「もうそろそろ冷めないのかなアレ……冷めないんだろうなあアレ……」

「美術部固まってないでなんとかしなよ。同じ部員だろ君たち」

「私らは摩弓の延命措置で必死なんだけど!?」

 

「こひゅー……っ! かひゅー……!!」

「姫晞さん落ち着いて! 深呼吸! ひっひっふー! ひっひっふー……!」

「いやそれラマーズ法」

 

 

 過ぎていくのは嵐のように。

 

 恋愛粒子を撒き散らすラブハリケーンは未だ顕在だ。

 バカップル台風一号ミナオケーは強い勢力を保ったまま停滞中。

 

 四月以降、一年一組地方付近には常に大雨暴風波浪()()警報が発令している。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 ――なお、余談ではあるが。

 

 肇の付き添いで部活見学に行った渚は幸か不幸か諸々の事実を知るコトとなった。

 

 つまりは彼があまりに描くのに集中しすぎると息を忘れていたり。

 そのせいで美術室には酸素スプレーが常備されていたり。

 部長との会話で本当は強烈なアタックを仕掛けられていたり。

 

 あまつさえ極度の集中力を良いことに、癒しを求める副部長からお菓子を食べさせられたり頭を撫でられたりほっぺを触られたり。

 

 いままで彼女が寄りつかなかったせいで闇に隠れていた美術部の実態を把握したのだ。

 

 

 

 後に少女は語る。

 

 

 さながら、彼氏をコンパや同窓会に送り出す彼女の気持ちが良く分かった――と。

 

 

 

 

 



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Ex02/水桶了華は認めない

 

 

 

 

 その年の夏は、開放的な空気に満ち満ちていた。

 

 七月某日。

 

 とある地方都市の一角にて。

 

 少女はすこし大きめの荷物と共に約三ヶ月ぶりの帰省と相成っていた。

 

 眼前にそびえるのは見慣れた家の扉。

 右に左に並ぶのも見慣れた道路と町並み。

 

 そして肺に取り込むモノすらどこか懐かしさを覚える匂い。

 

 しみじみと郷愁の念を充足させて、ひとつ「よし」と意気込んでみたりする。

 

 彼女の名前は水桶了華。

 今年で十五歳になる中学三年生。

 

 普段は全寮制のお嬢様学校である南女子に通う、水桶家自慢の真面目な長女である。

 

(――――ついに)

 

 そんな彼女はいま、実家の門を目の前にして感慨深い思いに浸っていた。

 

(ついにこの時がやってきました……!)

 

 ぐわしっ! とガッツポーズなんてする優等生。

 通りすがる隣人が「了華ちゃんまた今回もやってるわ」なんて目で見ているが彼女のあずかり知るところではない。

 

(遠慮なく兄さんと触れあえる日常が、ついにっ!)

 

 きらきらと目を輝かせる了華だが、これでもいちおう春休みはちゃんと帰っているのだ。

 

 しかしながら問題はそこではない。

 彼女が気にしているのは離れていた時間ではなく一緒に居る機会のコト。

 

 思えばそれは一年ほど前から。

 

 〝将来のために少しでも良いところに進学したい――〟

 

 そうやって()()()()公立校を第一志望に決めた兄はひたすら勉強に打ち込んだ。

 今までのルーチンワークがなんだったのかというぐらい真剣に学問に励んだ。

 

 部活もせずに家でゆっくりしたりトレーニングしたりしていた時間を塾に費やし、それまで宿題程度だったのを予習復習へ手を伸ばし、あまつさえ土日祝日を返上してまで自習するような毎日。

 

 平時は寮生活で遠く離れている了華でもそのやる気……というか謎の熱意……みたいなものは薄々と感じ取れた。

 

 ゆるふわぽわぽわーっとした兄がちょっとではあるが一生懸命やれている。

 それは少女としても喜ばしいコトに違いない。

 

 事実、彼女はできるだけ兄の邪魔をしないように気遣い、長期休暇の帰省時も勉強のほうを優先させ、どうしても我慢できなくなったときだけちょこっと押しかける……なんてぐらいに接触を絶っていた。

 

 だがそれも四月までの話。

 

 猛勉強の成果か、彼は無事星辰奏学園(だいいちしぼう)に合格。

 

 いまとなってはなんの問題もなく実家から元気に登校していると聞く。

 当初は不安だったハイレベルな授業にもどうにかついていけているらしい。

 

 ――――ならば。

 

 ならば、そう。

 

 一体ここに来てなんの憂いがあるというのか。

 

(夏休みはずっと塾! 冬休みもずっと勉強! 春休みは入学のゴタゴタで時間が足りず! ゴールデンウィークは私が帰れず! ついにやってきた夏休みの時間!!)

 

 もはや彼女を縛る鎖はどこにもない。

 

 ばきばきばーにんぐはーと! と胸中で派手にチェーンをブレイキングした了華は意気揚々と久方ぶりの実家へと足を踏み入れた。

 

「ただいま戻りましたっ」

 

 合鍵は両親から持たされているので遠慮無く鍵をあけて玄関の扉を開く。

 

 学生諸君にとっては夏休みとはいえ平日の昼間だからだろう。

 返ってくる声は居間のほうからひとつだけだった。

 

 もちろん、了華には聞き覚えがある――いや、むしろありすぎる――男性の声。

 

 にへら、と口の端がどうしても緩む。

 弾む気持ちはおさえられない。

 

 去年は受験のシーズンだから、大切な時期だからと勢いを強めていた理性はすでに淡く儚くぱっと光って過去へ消え去った。

 

 だが問題ない。

 

 今年の夏は嫌というほど、飽きるほど、死ぬほど、溺れるほど兄に構ってもらえる。

 

 それだけで少女の未来は薔薇色だった。

 

 ああ、なんて明るい人生。

 

 希望に満ちた将来。

 幸せに包まれた時間の幕開け。

 

 ――はじまりの鐘の音は居間へ繋がるドアノブを捻る音と共に。

 

 がちゃん、と下ろされた引き金は穏やかな響きを伴って閃いた。

 

 視界が染まる。

 

 真っ白に。

 

 いずれ向かえるべき光に埋まるように。

 

 そうして彼女は、満面の笑みで片手をあげて――――

 

 

 

「お久しぶりですっ! 兄さ――――」

 

「ん、おかえり了華。久しぶりだね」

「あっ、お邪魔してます」

 

 

「――――――――――ほぉーりぃしぃぃいぃいいぃいいいッッッと!!!!!!」

 

 

「えっ!?」

「了華?」

 

 爆発するように叫びながら崩れ落ちた。

 こう、膝からガクンと。

 

 

「どうして……! なぜ貴女が居るんです……!?」

「え、あれ……肇、言ってないの……?」

 

「――()()()ッ!?」

 

「あ、ごめん。渚のコト伝えるの忘れてた」

 

「――()()()ッ!?!?」

 

 

 ワナワナと震える了華はテンションの乱高下のためか息が乱れていた。

 

 居間には彼女の予想通り兄――水桶肇が待っていた。

 

 ぽやぽやふわふわ。

 天然純朴、鈍感唐変木。

 

 人並み外れたセンスと意識と、上手い具合の常識加減で構成された、少女が世界でいちばん慕うお兄ちゃんである。

 

 それは良い。

 むしろ最高だ。

 

 家に帰って最愛の兄がリビングで待っていてくれるコトのどれだけ幸福なコトか。

 

 了華はもうこの現実を噛み締めても噛み締めても足りないぐらいに、ともすれば味のないガムを延々と噛み続けるぐらいに噛み締めている。

 

 問題はそんな彼の隣にちょこんと居座ってやがる女のほうだった。

 

(――――優希之渚……!)

 

 ぎりり、と黒板を引っ掻くような擬音の似合う視線で了華が渚を睨む。

 

 彼女の聞いたところによれば、兄が偶然選んだ塾の自習室で()()()()出会い、なんだかんだで気も合って仲良くなったという同年代の相手。

 

 そしてこれまた()()()()進学先も一緒で、見事彼と同じく合格を勝ち取った元知り合いの現クラスメート。

 

 そんな少女がなんの因果か。

 

 高校の一年の夏休みに、

 何食わぬ顔で、

 同級生の家にあがりこみ、

 あまつさえ二人っきりでいたという。

 

 ……びびび、と震えた彼女のアホ毛(アンテナ)は本物かどうか。

 

 了華は眼前の光景にこれ以上ない危険信号を感じ取った。

 ひしひしと伝わるアブナイ気配、イケナイ太陽に視線の鋭さが二割増しになる。

 

 この女はまずい。

 

 なにがまずいかなんて言うまでも無い。

 

 こいつは。

 このメスは。

 

 

(私の兄を奪い取っていく女の匂い――――!)

 

 

「あ、言い忘れてたけど俺と渚付き合いだしたんだー」

「う、うん……っ」

 

「――――――がぁああぁああッッッッッッでぇむ!!!!」

 

 

 神は死んだ。

 

 了華は両拳を握り締めて思いっきり床を殴りつけた。

 

 どんっ、みしみしぃ。

 

 居間のフローリングが切実な悲鳴をあげている。

 きっと母親が在宅中であれば間違いなく怒られる威力だろう。

 

「そんな……っ、だって兄さん、高校で彼女つくる気とかないって……!」

「えー、言ってたっけ?」

「言ってましたっ! 今年の三月二十一日午前十時五十四分二十一秒から四十三秒にかけて言い切ってましたっ!!」

「なんでそこまで細かく覚えてるの……」

「とにかく言いましたっ!!」

 

 問い詰められると痛いところを強引に躱しつつ了華は主張する。

 

 なお肇がちょっと引いているあたり完璧に躱しきれているとは言えなかった。

 それでもドン引きとはいかないのは偏に彼の肉親への情に違いない。

 

 前世で姉妹関係が盛大にバグりちらかしているため、今生でも距離感は盛大にバグりちらかしているのだ。

 

 ……尤も彼女のような妹が生まれてしまったのはそのせいなのだが。

 

 事の発端。

 原初の理由。

 

 主犯格たる渚はもちろんそれに気付かないまま苦笑いで了華を眺めている。

 

 目の前の光景をつくりだした原因はぜんぶ貴女ですよ、とはおそらく誰かから言われるまで気付くコトもないかもしれない。

 

 いや、現状それを言う誰かさえこの世には居ないのだが。

 

「――まぁでも仕方ないよ。なっちゃったもんはなっちゃったんだし」

「仕方なくありませんっ! 兄さんは……兄さんは私の兄さんなんですぅー!」

 

「あはは……肇、やっぱりすごい好かれてるんだねー……」

「うん、ありがたいコトに」

 

「そうです私は兄さんのコトが世界でいちばん好きですけど!? 貴女はどうなんです!?」

 

「生まれ変わっても大好きだよ」

「うわ、照れる……」

 

「クソァ!!」

「了華、了華。すごいコト言ってる、口調がお嬢様学校のそれじゃないよ」

 

 

「ええい! なんなんですか!? お付き合いがなんだというんです!? 私は認めませんからね! 貴女のコトなんかッ……絶対の絶対に認めないんだから――――!」

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 ――それから約二時間後。

 

 

「了華ちゃん、クッキー食べる、クッキー? これ美味しいよー」

「食べますぅ……」

 

 

 この通り。

 

 水桶了華は渚の膝の上でふにゃふにゃに溶かされかけていた。

 

 

「…………はっ!」

「? どうかした?」

「いえ! 違います! こうじゃない! こうじゃないでしょう! しっかりしなさい水桶了華っ! 渚さんは敵……! 渚さんは敵……!!」

「そんな悲しいコト言わないでー、お紅茶飲もっ。ほら、ミルクと砂糖入ってるから甘くて美味しいよー」

「――ずず……はふ……、」

 

 〝――――いや待てだからちがうッ!!!!〟

 

 

 がるるるる、と了華のなかで起き上がる防衛本能モンスター。

 

 思わず紅茶の温かさと甘味にほだされかけたが彼女だってもう立派な中学三年生。

 流石にお菓子と飲み物で懐柔されるような年齢ではない。

 

 了華は渚の膝の上、むぎゅむぎゅと半ば抱き枕にされながら冷静に思考する。

 

 驚くべきはひとつしか変わらぬ女子の包容力――ではなく、彼女の心にピンポイントでクリーンヒット、ぶっ刺さってくるような構いようだ。

 

 これでもかというほどのスキンシップ。

 身を任せたときのすさまじい安心感。

 肌の温度が心地良くさえ思えるとてつもない環境。

 

 間違いない。

 

 それは彼女が受けてきたモノのさらに上を行く極限の頂。

 いつかの時代に於いては、ひとりの心傷付いた少年すら前を向かせた対・下の兄弟姉妹特攻兵器。

 

 でれでれどろどろの姉ばか甘やかし攻撃だ。

 

「いけません! いけませんこんなの! 兄さんは私が守るんですっ!」

「了華ちゃんは私のこと嫌なの?」

「イ――――ヤというワケではないコトもなきにしもあらずにもあらずでもないですけどっ!」

「じゃあ良いじゃないっ」

「そうですね! …………そうですねじゃないでしょうッ!?」

 

 うがぁあぁあああ! と吼える少女の心境は如何ほどか。

 

 わずか三十分足らずで陥落した妹防護壁は虚しくもされるがままだった。

 

 けれど致し方なし。

 

 なにせ渚は肇の技術の基になった原形だ。

 薄めないカルピス原液そのままみたいなものである。

 

 ずっと薄めたカルピスを極甘と思っていた人間にそれを出せばどうなるか。

 

 簡単なコト。

 

 相性の悪さからキャパが瞬で融けるコトなど目に見えていた。

 

 

「すっかり仲良しだね、ふたりとも」

「ふふっ、なんだか義妹(いもうと)になるんだって思ったら可愛く見えてきちゃって」

「気が早いよ、渚」

「早いに越したコトはないでしょー? 了華ちゃんは私がお姉ちゃんになるの、いや?」

 

「イヤじゃな――――くもなくもないですが!?」

 

「ほらねー」

「もう、了華ったら……」

 

「あぁあぁあああぁあ!? 私っ、私はなにを!? 口が勝手に……!!」

 

 

 溺愛妹、すでに後戻りできないほど本能をおさえきれていなかった。

 

 

 

 

 



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Ex03/パネルの君へ走る衝撃

 

 

 

 

 とある少女の話をしよう。

 

 彼女は地方都市の片隅で産まれた。

 なんの変哲もない、取り立てて語るコトもないひとつの命の誕生(はじまり)だ。

 

 だからなんだというコトでもない。

 

 穏やかに産まれた少女はすくすくと穏やかに成長していった。

 

 特別重い病気にも、特別大きいな不幸に見舞われるコトもなく。

 ちょっと前向きで、明るくはしゃぐ、絵を描くのが好きな元気な女の子に。

 

 契機があったとすれば中学一年生のとき。

 

 彼女は美術の授業中、たまたま同じクラスだったひとりの男子が描いた絵を見た。

 

『――きみ、すごい上手だねっ!?』

『えっ』

 

 思わずそう声をあげたのも仕方ないだろう。

 咄嗟にそんな感想が出るぐらいには彼の絵は見事だった。

 

『あー……ありがとう』

『美術部入らないの!? まだぜんぜん間に合うけど!』

『うーん、たぶん入らないかな』

『なんで!? なんか、あの、重い理由とかおありで!?』

『あ、違う違う。あんまりそういう意欲がいまなくって』

『――そうなんだっ!』

 

 彼は困ったように笑いながらそう答えた。

 

 それに彼女がどこか納得できたのは、偏にその作品を見て感じ入るものがあったからに違いない。

 

 たしかに上手いとは思う。

 

 自分よりいくらかずいぶん。

 他の部員や先輩たちよりずっともっと。

 

 中学生という範囲に絞れば飛び抜けている。

 そうでないとしても注目を浴びるぐらいのものだろう。

 

 けれど言われてみればたしかにその通り。

 

 上手いだけ。

 ただそれだけ。

 

 彼の根底にあるべき何かはきっと込められていないのだろうな、と。

 

 

 ――それが懐かしい、大好きな人との出会い。

 

 

 中学生活は夢のような日々だった。

 

 幸いなコトに彼と彼女はなんだかんだでずっとクラスも一緒で、話す機会も接する機会もたくさんあった。

 

 もちろん、他の作品を見る機会だって当然のように。

 

『お、やってるね肇くん!』

『授業だしそりゃあ描くよ?』

『――ふんふむ。イマイチめちゃくちゃ上手だねっ!』

『ありがとう。美術部にそう言われると照れる』

『あっはっは! なにを照れてんのやおぬしー!』

 

 嫉妬するワケでもない。

 羨んでいたワケでもない。

 

 事実としてそれは、彼女が直感した最大の欠点だった。

 

 技量は抜群、作品として申し分なし。

 

 されど心此処に在らず。

 

 熱のない(イロ)は綺麗であっても寂しいもの。

 鮮やかであっても冷たいもの。

 

 見事ではあったけれど、同時に残念でもあったのだ。

 

 ……だからと言って評価を下げたコトもないのだけれど。

 

『肇くん体育祭パネルやろパネル! ひとり枠余ってるから!』

『俺でよければ』

『やったー! 主力確保っ! これはまずひとつもらったねっ!』

『なにをもらったの?』

『個別部門パネルの部っ!』

『あぁ、そういう』

 

 そしてまあ、ぶっちゃけてしまうと。

 そういう小難しい話は抜きにして、シンプルに彼のコトは好ましかった。

 

 少なくとも共同作業でテンションがぶち上がるぐらいには。

 

『肇くーん! 私いま世界の真理見えてるぅー!』

『落ち着いて。なに言ってるか分かんないよ』

『FOOOOOOOO!! 私のこの手が真っ赤に燃えるぅッ!』

『めちゃくちゃ動きが速い……!』

 

 高校はそんな彼と別のところになる。

 

 狙ったのではなく、狙えなかったが故。

 悲しいコトに彼女の成績(のうりょく)ではちょっと現実的ではなかった。

 

 三年間赤点ギリギリを低空飛行していた実力は伊達ではない。

 

 

 ――それがひとときの、別れの時節。

 

 

 高校生活は滝行のような鍛錬だった。

 学生らしくひたすら勉学に……ではなく、部活に打ち込んだのである。

 

 〝とりあえず中学の肇くんレベルになるまで粘るか!〟

 

 冗談半分で打ち立てた目標は意外と良かったのだろう。

 

 部活は毎日最終下校時間手前まで。

 土曜日もフルで入ってずっと筆を握り続け。

 

 展覧会にもコンクールにも顔を出さず、「そんなコトする暇があったら自分の描いてるし!」と研鑽を続けること三年。

 

 努力の成果かどうか。

 

 学校側の後押しもあって、わりと良いところの芸術大学にも進学できた。

 

 

 ――それが、昨日までのコト。

 

 

「久しぶり、羽根乃(はねの)さん」

 

 

 肝心要の入学初日。

 

 彼女――羽根乃柚莉(ゆり)はかつて別れた男子と再会した。

 

 行動に続いていく道路脇のベンチで。

 なんか、めちゃくちゃ大人っぽくなった感じを受けながら。

 

「――――は、肇くんだーーー!?」

「うん。中学以来だねー」

「なんでいるの!? ここ芸大だよ!?」

「そりゃあ俺が進学先に選んだからだし。あと家から近いし」

「あっ、そっかぁ! ――ってなるかーい!!」

 

(相変わらず元気だなぁ)

 

 ニコニコと笑う少年はなにひとつ分かっていない。

 

 たぶん柚莉に話しかけたのだって見知らぬ場所で偶然知り合いを見つけたからだ。

 おそらくそれ以上の理由も、それ以下の思惑もないだろう。

 

 良い意味で純粋。

 悪い意味で考え無しな天然鈍感(クソボケ)である。

 

 どこか遠い場所で「むむっ!」と銀髪美少女のクソボケアンテナが反応していたとしてもあずかり知らぬところだ。

 

「えっ、なに!? 美術系!? しかないよね! まさか高校でも!?」

「いちおう三年間ずっと部活は所属してたけど」

「展覧会とかコンクールは!?」

「自分の作品出したら行ってたかな」

「ヘイSi○i! オッケーGo○gle! ア○クサ! 時を戻して!!」

「??」

 

 うがーっ! と発狂するいつぞやのパネルゴリ押し系女子。

 

 もちろん彼女だって美術部に所属していた。

 なんなら上級生になれば部長だって任されていた。

 

 だが繰り返すように柚莉の高校生活は筆を動かす修練の日々。

 

 どこそこで行われる展覧会に行くとか、いつぞや開催のコンクールに足を運ぶとか。

 あまつさえその時の感想を聞くなんてよりもひたすら自己研鑽に努めたのである。

 

 結果、このように高校での再会チャンスをすべてパーにするというとんでもない奇跡が巻き起こった。

 

 大学で再会できたのはもうなんというか奇跡を通り越して神の領域だ。

 

「なぜっ……どうして私は頑張っちゃったの……!?」

「そこ後悔するポイント……?」

「せめて部員の話を聞いていればそこで気付けたのに……っ、おのれ極限の集中力……!」

「羽根乃さん、名前はちょくちょく聞いてたけどね。顔見せないからどうしちゃったんだろうって思ってた」

「いやほんとに私どうかしてたと思う!!」

「そんな元気よく言えるんだ……」

 

 無論、成果が無いワケではなかった。

 三年にわたる研鑽は目に見える形として表れている。

 

 なにより彼女自身の実力を比べればいまや肇と遜色ないほど。

 眠れる獅子はたしかに雄叫びをあげて覚醒した。

 

 ――が。

 

 それはそれ、これはこれ。

 

 彼が美術部に入っていると分かっていて、色々な行事にも来ると情報を掴んでいたのなら彼女もひとつ残らず参加したというのに。

 

「でも、そっか! これからは一緒なんだね!」

「そうなるのかな。……改めてまたよろしくお願いします」

「ううんっ、こちらこそ!」

 

 パッと切り替えてガシッと握手を交わす羽根乃女史。

 

 ハイテンションで前向きな彼女だからこそできる芸当。

 少女なりの明るいばかりの切り替え方だろう。

 

 残念ではある。

 悔やんでもいる。

 

 けれどいつまでも落ち込んでいたってなにも変わらない。

 

 なによりせっかくの()との再会だ。

 嬉しくないかといえば当然嬉しいものだし。

 

 ここで笑わなくていつ笑うのか、と少女は淡く微笑んで。

 

 

「……ね、折角だしこのあと一緒にま――――」

 

「あ、ごめん、電話かかってきた。ちょっと出ていい?」

「あ、うん! いいよ! ぜんぜん大丈夫! ちなみに誰? 親御さん?」

「ううん、彼女(こいびと)っ」

 

 

「――――――――――」

 

 

 

 

 ――拝啓、お父様お母様。

 

 前略両親のみなさま。

 

 羽根乃柚莉の初恋は、大学進学一日目にして砕け散りました――――

 

 

 

「見たコトなかったっけ? ほら、文化祭とかにも来てた銀髪の女の子」

「………………あッ!!」

「思い出した?」

 

 〝――――おのれあの銀髪美少女――――――!!〟

 

 

 がるるるる、と彼女が胸中で吠え立てたのは言うまでもない。

 

 薔薇色夢色だった中学三年生の文化祭。

 

 他校から来て肇となにやら酷く仲の良い雰囲気を醸し出していた女子を柚莉も忘れてはいなかった。

 むしろいまさら思い返してメラメラと対抗心が湧いてくる始末である。

 

「もしもし渚? 急にどうしたの」

『肇。私いますっごい不安に襲われてる。なんかやばい気配がする』

「なにが起きてるの」

『これは――――不倫の匂い……!』

「いやしてないけど」

 

(――いや、待て待て。落ち着け私。同じ大学なのは好機(チャンス)……! だってそうじゃん! 私のほうが絵は上手いし! そもそも先に好きになったのは私じゃない!? というかやっぱり自分より描ける男子じゃないと結婚したくないし――!)

 

 

 げに恐ろしきは女の勘か。

 渚の直感はあながち間違いでもなかった。

 

 要領を得ない恋人通話の裏側では大型肉食獣がゆっくり牙を剥きつつある。

 

 笑顔とは本来うんたらかんたら、みたいな含蓄が流れそうな勢いだ。

 

 

(ふっふっふ……彼女だからどうしたって言うの……! そうッ! 欲しいものは奪う! 私と関わりあったヤツには悪いけど、腹くくってもらう。わがままかな。わがままだね。そうだよねえ! さあ進むZEっ!)

 

「肇くんやっぱこのあとデート行こー!」

「っ!?」

 

『――――だれカナ? いまの声ハ? ン?』

 

「待って渚、五階(誤解)。これ百パーセント沙蚕(誤解)。――羽根乃さんもどういうつもりで!?」

「それとも大学生らしくホテルがいいって!? きゃー!!」

 

『肇?』

 

「待って。落ち着いて。落ち着こう。みんな一旦冷静になろう。これは――――罠だ……!」

 

 なお、これ以降激化した柚莉の攻撃(アタック)によって何度か「ガチ拗ね渚」と「ヤンデレ監禁渚」と「冷徹見下し渚」が発生するコトを彼らはまだ知らない。

 

 知らなくていいコト。

 知らないほうがいいコトなのかもしれない。

 

 たぶん。

 

「羽根乃さん一先ずなんかちょっと不味くなりそうだからごめん静かにしてて」

「あっ、だ、ダメだよ肇くん! 彼女さんが居るのにこんなところでっ」

 

『肇??』

 

「そうか羽根乃さんもしかしなくてもわざとだね! うん! からかうのはやめよう!」

 

『うーんこの天然純朴(クソボケ)……』

 

 

 

 

 



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Ex04/「お父さん」

 

 

 

 

 

 

 いつか、泥のように濁った瞳を見た。

 

 遥かに遠い過去(むかし)話。

 いまは関わる術も無い隔絶した空想の夢。

 

 すべてを手に入れて、そのすべてを悉く失った誰かがいた。

 

 隣に在るもの。

 

 守るべきもの。

 守らなくてはいけなかったもの。

 

 本当に大切なモノは無くしてから気付くという。

 

 言わずもがな。

 まさしくその通り。

 

 胸に抱えた悲しみは当然の量だった。

 落ち込んで俯いていた時期がないワケではない。

 

 ヒトはそれを悲劇という。

 

 耐えがたい艱難辛苦の連続だ。

 暗く淀んだ道程だと。

 

 

 ――そんな声を、馬鹿らしいと一笑に付す誰かがいる。

 

 

 真面目な男はこう答えた。

 

 

 〝人生とは常、学ぶものだ〟

 

 

 傷は消えない。

 痛みは癒えない。

 無くしたものは戻らない。

 

 (ココロ)についた痕は深く残り続けていく。

 

 精神も肉体もぼろぼろだった。

 無事なところなんてないぐらい、どこもかしこも傷だらけ。

 

 間違っても綺麗だなんて言えない有様。

 

 されど、掴んだ欠片を手に前へ進めるのが人生だ。

 

 誰かは笑って歩いていく。

 

 こぼれ落ちてしまった大切なもの。

 もう二度と手に入らない大事なもの。

 

 それはとても悲しいことだけれど、胸の記憶にはそれまでに得たものがたくさん詰まっている。

 

 ならばどうというコトはない。

 原動力は十分足りている。

 

 悲しくて泣いたけれど、もう涙がでないぐらい泣ききった。

 

 それでいい。

 

 

 ――――簡単な話。

 

 

 顔をあげればきっと世界は事も無しに見事で。

 

 生きていくだけで、人生(じぶん)はどうしようもなく幸せなのだろう――――

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 その日の夜、渚は妙にそわそわして寝付けなかった。

 

 人生におけるひとつの重要な節目を目前としたときのコト。

 

 いつも通り布団に入った彼女だったが、一時間、二時間……と経ってもなかなかどうして眠気がやって来ない。

 

 むしろ時間が経てば経つほどに目が冴えていく。

 挙げ句、ベッドの上でぼうっと暗い天井を眺めながら考え事までする始末。

 

 これはイカン、と渚は一度起き上がるコトにした。

 

 寝間着のまま部屋を出て階段を降りる。

 

(…………あれ?)

 

 と、見れば一階のリビングからは淡く光が漏れていた。

 

 時刻は零時を回ってしばらく。

 普段なら両親も寝静まった深夜帯。

 

 電気でも消し忘れたのだろうか、と彼女はそっと中を覗いて。

 

「――お父さん?」

「んー? ……お、なーちゃん」

 

 ひらひらと手を振りながら真っ赤な顔で父親が笑う。

 

 手には珍しく銀の(ヤツ)ではなくワイングラスを持っていた。

 テーブルに用意されたおつまみも生ハムとチーズだ。

 

 一体どういう心境の変化だろう、なんて内心疑問に思いながら渚は居間へ足を踏み入れる。

 

「まだ飲んでたの……」

「なーちゃんこそまだ起きてたの? ダメだよー、しっかり寝ないと」

「分かってるよ。……なんか落ち着かなくて。水飲みに来たの」

「お水かー。なーちゃんは健康志向さんだねぇ」

「お父さんは酔っ払いすぎだね……どう見ても……」

 

 ひっく、なんてよくある反応を返す父親。

 

 見ればテーブルにはすでに一本空になったボトルが転がっていた。

 いま飲んでいるのは二本目というコトになるのだろう。

 

 繰り返すが時刻は日付を跨いでちょっと過ぎた頃。

 

 平時にしろそうでないにしろ、この時間まで起きて飲んでいるというのは娘として少し心配にもなってくる。

 

 

「……二日酔いとかやめてよ」

「大丈夫大丈夫。このあとコップ五杯分ぐらい水飲むからネ」

「いや途中途中で飲みなよ……もう……」

「あっはっは。パパはお酒は嗜みたいタイプなのだー」

 

(すでに会話がなんか怪しい)

 

 

 ひっそりと息をつきながら冷蔵庫をあける。

 

 常備されている市販の飲料水を取り出して、適当に用意したコップに注ぐ。

 せっかくなのでついでにふたり分。

 

 ひとつは自分で持って。

 もうひとつは父親用にテーブルへ置いて。

 

「ん、ありがとー」

「……お父さんもはやく寝てよ。明日だって――」

「分かってる分かってるー」

「……ほんとに大丈夫?」

「大丈夫だって。なーちゃんは心配性だなぁー」

「…………、」

 

 気持ちいつもよりふにゃふにゃになっている大黒柱を見て心配するなというほうが無理な話なのだが、肝心要の本人はそこまで頭も回っていないようだった。

 

 加えて明日は色々と彼女らにとって大変な日。

 ともすれば一生に一度あるかないかという大切な機会だ。

 

 忙しないのも疲れ果てるのも目に見えている。

 

 本来ならふたりとも揃ってぐっすり眠っていなければいけない。

 が、現状はこのとおり明日が今日に変わってもまだ床についてはいなかった。

 

「……ワインなんか開けちゃって。いつもビールなのに、今日に限ってまた……」

「久々に飲みたくなってね、うん。色々とパパも思うところがあるワケだ」

「ふーん……」

「ま、こういう時でもないと飲めないし!」

 

 ぐい、と父親がグラスの中身をひと息にあおる。

 

 赤い顔はそうやってハイペースでアルコールを摂取した証拠だろう。

 いくらつまみながらとはいえ二本近い量は普通に考えても多い。

 

 端的にいって完全に出来上がっていた。

 

 べろんべろんとまではいかないが、もう千鳥足ができるぐらいには酔っ払っている。

 

 無論、ソファーに座っているので実際のふらつき加減はどうか分からなかったが。

 

「時間が経つのは早いね。なーちゃんがもう大人だ」

「……急にどうしたの」

「いやいや。だってこの前までこんなに小っちゃかったのに」

 

 そういう父親は自分の足のくるぶしあたりに手を添えてニコニコ笑っている。

 地上約五センチあるかないかといったところだ。

 

「その私たぶん人間じゃないと思う」

「そっかそっか。じゃあこんぐらい?」

 

 今度は使っていたフォークをピンと立てて渚に示す。

 変わらずそれもおそらく人間で適用できる大きさではなかった。

 

 

「もういいよ……それで、どうしたの」

「うんにゃ。ちょろっと昔のコトを思いだしてねー」

「……昔のコト?」

「そう。なーちゃんを初めて抱いたときかなー」

 

 

 トポトポと空になったグラスに再度ワインが注がれていく。

 

 渚はそれをなんとはなしに見詰めながらコップを傾けた。

 

 とくに気にするコトもないはずの夜の一幕。

 日常に紛れこんだ至って普通のズレたひととき。

 

 それがどこか、なにかに重なったような気がした。

 

 

「正直、駄目だこれってパパ思ったんだよ」

「……どういうこと?」

「なーちゃんの目がね。なんていうか、昔によく似た子を見たコトがあって。その人のことを考えると、無事に育てられるとは思わなかった」

「私の目……?」

「命の価値観が濁りきった、泥みたいに淀んだ目」

「――――――――」

 

 

 その言葉がなにを示しているか分からない渚ではなかった。

 

 なにより時期が時期である。

 彼女がこの世に産まれ落ちた瞬間。

 

 たとえ赤子であったとしても、その瞳に宿した意思がどんな色だったのかなんて安易に想像がつく。

 

 きっとずっと、引き摺っていたままの酷い色彩だ。

 

 

「俺の勘はよく当たるんだ。確信に近くさえあった。きっとどうやったって無理だって、諦めかけたんだよ」

「…………そう、だったんだ」

 

「うん。でも、すぐに違うなってパパ考えちゃってさ」

「…………、」

 

「だからってなにもしないまま放っておいて良いワケがないよなー、ってなーちゃんのこと嫌というほど甘やかすコトに決めたんだ」

「……結局この歳までずっと()()呼び方だしね……お父さん……」

 

「良いじゃない、かわいいでしょ? なーちゃん」

「やめてって……何回言っても聞かなかったね……」

 

 

 からからと笑う父親は楽しげにお酒を飲み干していく。

 

 どこか心の奥底で隠していたコト。

 誰にも見せないでいた思い出の残滓。

 

 それがこぼれたのは間違いなく酔って箍が緩くなったからだろう。

 

 故にこそいまこの瞬間。

 この状態だからこそ露呈した事実だった。

 

「……そのよく似た子にはね、俺はなーんもしてあげられなかった。なに言っても無駄だし、なにしても駄目だし。こりゃもうお手上げーってなって、見捨てちゃったんだよ」

「……ふーん……」

「結局、その子がやらかしちゃってさ。そのときに気付いたっていうか、めちゃくちゃ後悔しちゃったのよ、パパ。あぁ、もっとなんかやりようあったろうに、なにしてたんだよーって。……そりゃそうだよね、先には立ってくれないワケでさー……」

「………………、」

 

 語る口調は軽やかに。

 

 父親の醸し出す雰囲気からか、そもお酒が入っているからか。

 

 わりと重い内容だろうに、それは笑い話のごとくふわりと流された。

 

 ずいぶん前まで彼女の抱えていたような陰鬱さなどまったくない。

 ただそんなコトがあって、懐かしく今に思い出しただけ。

 

 辛く苦しい過去ではなく。

 悲しいだけの思い出じゃなく。

 

 あのときああいう失敗もあったけど、なんて若気の至りを恥じるように。

 

 

「だからパパはさ、こう考えたのよ。きっと愛情が足りないからだって。いっぱいたくさん真っ直ぐ愛したらいけるんじゃないかって。そうしてなーちゃんが育ったのです」

「……そっか。それで……どうなの、結果は」

「言うまでもないでしょ? 大成功だよ、大成功。もう感動、最高! なーちゃんの輝かしい未来に乾杯! って感じ! ……もう一本開けようかなー」

「いや流石にこれ以上は駄目だから。お水飲んで、水」

「あ、あと一本だけ……!」

「駄目」

 

 

 がっくりと肩を落とす父親。

 それに渚は呆れ交じりの息を吐きながら、飲み終わったグラスを自分のコップと一緒にキッチンへ持って行く。

 

 

「やっぱり人生は常、学ぶものだよ。コレ重要。パパの座右の銘だから」

「へぇー……」

「あ、聞き流してるな。わりと真面目なこと言ってるのに」

「そういうことならお父さんも早く寝て。明日、しっかりしなきゃでしょ」

「そうだねぇ……」

 

 

 彼はくすりと、ちいさく笑って。

 

 

 

「――――いやほんと、その通りだ」

 

 

 

 わずかながら。

 少し低めの音を出した。

 

 いつもの緩い態度とは違う硬い声。

 

 一瞬別人かと思うほどの響きは、されどふにゃりと笑う様相にかき消されていく。

 酔っ払った父親は変わらず赤くなったままヘロヘロだ。

 

 

「お父さん?」

「……実はね、けっこう楽しみだったんだよ。自分の子供の結婚式。ぶっちゃけ長年の夢だったとも言える」

「…………そっか」

「ま、だから色々考えちゃってさ。お酒飲んでたのよ、パパは。それもなーちゃんに怒られちゃったからここらで終わりかなー?」

「……そうだよ、終わり終わり。さっさと休んで」

「あははっ、厳しい娘に育っちゃってもー」

 

 

 軽くふらつきながら父親がソファから立ち上がる。

 

 足取りは揺れているものの酷くはない。

 おそらく寝室へ戻るぐらいならどこかにぶつかるコトもなくいけるだろう。

 

 渚はそんな父の背中をそっとリビングから見守って、

 

「あ、言い忘れてた」

 

 ふと、父親が振り返る。

 

 へらへらとしたいつもの表情はどこか引き締まったものに変わっていた。

 

 姿形はまったく違う。

 顔も髪色もまったく似ていない。

 

 けれど何故か。

 どうしてか。

 

 その景色に重なる影を、渚はたしかにその目で捉えた。

 

 

 

 

「――おめでとう。幸せになりなさい、なぎさ(はるか)

 

 

 

 

 それは胸に染み渡るように。

 微かな予感は鈴の音を鳴らすように。

 

 誰でもない彼女へと突き刺さるひとつの言葉だった。

 

 渚はわずかに目を開く。

 

 けれどそんな反応も一瞬。

 

 しばらくして、彼女はどこか懐かしむように。

 

 

「……うん」

 

 

 こくりと頷きながら、声を返した。

 

 

「今までありがとう。()()()()っ」

「――ん、今度は間違えないようにね。()()()()()

 

 

 ……彼女が母に似たというのなら、きっと彼は父に似たのだろう。

 

 なにをするでもなく前向きに生きて笑っていく。

 傍から見れば物静かであっても胸のうちには暖かさが渦巻いている。

 

 俯いてもいずれ必ず顔を上げる強さの象徴。

 

 それがどこかの誰かにとっての、記憶に残る偉大な背中だった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

(――にしてもまあ、因果だなあ……)

 

 くすくすと彼は笑う。

 いやはやなんともまあ、業が深いというかなんというか。

 

(相も変わらずあの子も達者だ。前みたいに手を回すのは……しんどいなぁ。サラリーマンには人脈が足りてない。なにより、(ワタシ)が動かずとも評価されてるワケだし)

 

 出会ったときはともかく、あの絵を見て気付かないワケもなかったと。

 

(となると、うん。旦那様にはいつどうやって、驚かせてみせようか)

 

 くすくす、からからと。

 

 彼は笑いながら部屋に向かう。

 

 そんな悪戯心もまた一興。

 考えてるだけで尽きない幸せの在処だ。

 

 想像してみれば余計に。

 

 よもやまさかの事態を前に、いつぞやの天才児はなんて反応をしてくれるものかと――

 

 

 

 

 








これを匂わせてもなくておまけ話まで大事に隠してたのに感想欄でピンポぶち抜かれたのなんなん??


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Ex05/明け透けでも零じゃ無い“君“



前作ギャルゲーを読んでくださっていた方へのお礼話。

向こうの本編語一年がこっちの本編一年目みたいな感じ。





 

 

 

 

 

 遠い記憶は儚くも淡く消えていく。

 古いものは新しいものに塗り替えられていく。

 

 幸福も悲哀も過ぎれば泡のように。

 

 それはいつかに眠っていた些細な一欠片。

 ふとした瞬間に湧き出た過去(むかし)の思い出。

 

 ――彼がその少年と出会ったのは高校一年生のとき。

 

 ちょうど体調がおかしくなって、急遽入院と相成った時期のコトだ。

 

『どうしたの?』

『え……?』

『暗い顔してる。なにかあった?』

『……えと……その……なにも……?』

 

 声をかけたのはまだ中学生にも届かないぐらいの男の子。

 

 髪の毛はぐしゃぐしゃで、身体はちっちゃくて全体的にやせ細っている。

 肌は日の光を知らないみたいな白さで、目は赤ん坊のような水晶じみていた。

 

 無論、知り合いではない。

 親戚やご近所さんというワケでもない。

 

 ただ、その子の姿に彼としてもどこか重なる部分があったというだけ。

 

『……俺は翅崎彩斗っていうんだ。君は?』

『え、あ……あ、ぼ、僕は――』

 

 身体に傷はない。

 

 五体満足な様子はきっと守られていたが故だ。

 

 痩せすぎているぐらいの肉付きはおそらく生来のものだろう。

 生まれつき身体が弱く生きるのが難しくある。

 

『なんだか女の子みたいな名前だ』

『あ、その……ごめんなさい……?』

『――どうして謝るの。違うって思うなら怒らないと』

『え、や……あ、で、でも……』

 

 壊れるような環境にあったのではない。

 その証拠に少年の瞳は濁り淀んではいなかった。

 

 けれど。

 

『君はいつも泣きそうな顔をしてるね』

『……? そう……かな……?』

『うん。だってそうでしょ? 涙に色はないからね』

『……ごめん。彩兄(あやにい)の言ってるコト、ときどくよく分からない……』

『別に謝らなくても。悪いコトはしてないんだし』

『…………、ごめん……』

『もー……』

 

 思えばよく謝罪の言葉を口にする少年だった。

 

 それこそ彼より幾分か素直で純粋。

 悪く言ってしまえば自我が希薄で自己が曖昧。

 

 なにかに流されるのではなく。

 なにかに染まるのでもなく。

 

 なにかを映し取るみたいな()()()()

 

 透き通るような黒瞳は無知そのものだ。

 

 なにも知らない。

 なにも分からない。

 

 であれば、なにをどう思うコトもない――――

 

 そう願ったのは、聞いたところによればおそらく少年の父親で。

 

『……彩兄、具合悪いの……?』

『君もだろう? お互い苦労するね、ほんと』

『…………、』

『そんな顔しないで。大丈夫大丈夫。心配要らないよ』

『…………ごめん』

『だから、謝らないでいいんだって』

 

 結局、その後は彼も容態が酷くなって。

 少年のほうも回復の見込みがないようで悪化の一途を辿ったらしい。

 

 付き合いがあったとすればそんな、ほんのわずかな間だけ。

 

 けれど妙に気にしてしまった相手だった。

 

 同じようでまったく別物。

 似ているようで似つかない。

 

 彼は折れた心に熱を入れて打ち直し、その在り方を強固にした。

 誰かは心すら曖昧なまま、その色彩を持ち得ずに育っていった。

 

 はじめから(イロ)のあった彼と、はじめから()かった少年は――――

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 時間は遡って以前の話。

 

 それは肇がようやく自覚して、渚を水族館に誘ったときのコト。

 週末の土曜日、彼は彼女より一足先に目的地の隣町まで来ていた。

 

 理由は単純。

 

 異性の交遊、デートの定番といえば待ち合わせである。

 

 いつもの別れ道で落ち合うというのも悪くはないのだが、それだとどうしても特別感が欠けてしまう。

 

 せっかくの初お誘いデートだというのにそれはどうも、と考えて彼が思いついたのが目的地の駅前で待ち合わせ、という今回の方法だった。

 

 ――が、そこで満足しては天然純朴(クソボケ)の名折れ。

 

 気付きを得た肇の行動力はその程度じゃおさまらない。

 

 結果、早々に町を散策していた彼は「よし、サプライズでなんかプレゼントでも買ってよう」と朝早くから大きめのショッピングモールへ足を運んだ。

 

(優希之さんだとなにが良いかなー……)

 

 店内の様子はきょろきょろと眺めながら思案する。

 

 困ったコトにいざ決めようとすると彼の知識は心許ない。

 今まで付き合ってきた異性の知り合いとしても。

 

 ほぼ確信を得ている誰かさんだとしても、どんなものを渡せば良いのか悩みどころだ。

 

 なにせ彼自身は過去(ふるく)から貰う側の立場だったのである。

 贅沢な今生(いま)で返せるようになったとはいえ直ぐに完璧とはいかない。

 

 美術的センス以外はわりと努力で補っているのが水桶肇という少年なのだ。

 

(服……靴……? いや、そもそも優希之さんのサイズ知らないし……フライパンとかエプロン……は、どうだろ……学生でそれは嬉しい、のかな……? ……微妙な気がする。アクセサリーにしたって昔からあんまりつけてるところ見たコトないし……)

 

 むむむ、と考え込む一端の恋愛初心者。

 

 彼の欠点は奥手だとか慎重加減だとかそういうのではなく、偏に火力の調整ができないというところにあるだろう。

 

 常に強火。

 焼き時間を考えない最大火力。

 

 往々にして料理下手といわれる人たちに備わる才能(スキル)が、なんとこの男には恋愛方面でついていた。

 お陰様で淡雪のお嬢様は毎回至近距離でガスバーナーを当てられているようなもの。

 

 〝ぴっ!?〟

 

 〝ぴぇっ!?〟

 

 〝ぴゃっ!?!?〟

 

 〝あぁぁあぁうあうあぅあうあおううあおおぉあぁあぁ――――!!〟

 

 ――なんて声をあげながらでろんでろんのどろんどろんに溶けている。

 

 繊細で触れると脆い乙女心(ハート)だった。

 

(いっそのコト指輪――……もサイズ分かんないし。うん。流石に高校生の貯金じゃ買えないし。……むしろ将来の俺の稼ぎですら買えるのか……!?)

 

 わなわなと震える肇だったが――言わずもがなその心配は杞憂だろう。

 

 後に現在を代表する画家のひとりとして有名になった彼は、給料三ヶ月分どころか家三軒は買えるんじゃなかろうかという結婚指輪を誰かさんにプレゼントするコトになる。

 

 立てば名作、座れば神作、歩く姿は希代の名画、とまことしやかに囁かれた評判は伊達じゃない。

 

(……駄目だ、考えすぎてなんか分かんなくなってきた……花束とか持って行ったらー……普通に邪魔だろうなぁ……)

 

 ああでもないこうでもない、と思考を巡らせながら肇はうんうんと唸り続ける。

 

 件の少女ならきっとその話を聞いただけでも「お腹いっぱい」と真っ赤になること請け合いだが、彼はまだそんな彼女のひよこっぷりに詳しくなかった。

 

 どうせなら良さげなものを、と悩んでいれば幾らでも選択肢は広がっていく。

 このままでは決まるものも決まらない。

 

 一度落ち着いて整理しよう、と肇がモール内のベンチに座り込んだときだ。

 

 

「「――――はぁ」」

 

 

 声が重なる。

 

 ため息じみた音はふたり分。

 自分のものと、あともうひとり隣から。

 

 驚いて顔をあげれば相手も同様に彼のほうを見ていた。

 

 黒い髪に黒い瞳の、これまた容姿の整った好青年である。

 雰囲気だけでいうなら、落ち着いて静かそうなところがどこか肇によく似ている。

 

「あ、すいません」

「いえいえ、謝らなくても」

「そ……うかも、しれませんね。はい。……隣、いいですか?」

「大丈夫ですよ。俺もいま座ったところなので」

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 どさどさどさ、と青年が大量の買い物袋を置いていく。

 

 両手にいっぱい、肩にかけていっぱい、背負っていっぱい――という規格外の量。

 それにまた驚いてぎょっと肇が視線を投げてしまったのは仕方あるまい。

 

「……? えっと、なにか……?」

「いえ、すごい荷物だなー、と」

「……ちょっと、仲の良い知り合いとかと一緒に来てて。今日は僕、荷物持ちなんです」

「へぇー……、……あ、失礼ですけどお幾つで……?」

「十七です。今年で高校三年生なので」

「年上の先輩だったんですね。俺、まだ今年高校に入ったばかりの一年生です」

「…………意外だ……」

「そうですかねー?」

 

 あはは、と笑う肇を青年がまじまじと見詰める。

 

 意外というにはどちらも学生らしさの薄い空気があるのだが、偶然にも彼ら自身はそんな感覚をまったくと言っていいほど自覚してはいなかった。

 

 悲しいかな、ここにそれを「いや君もでしょ?」と突っ込める女房役でもいれば良かったが、そんな誰かはいま影も形もない。

 急にぬっと出てくるのでもなければ姿も見えない。

 

 野郎ふたりのボケ倒しはそのまま流されていく。

 

「それで、どうしたんですか?」

「…………え?」

「疲れた顔してますし。なにかあったんじゃ?」

「………………もし」

 

 と、急に青年のポケットから軽快な電子音が鳴り響いた。

 

「――あ、ごめんなさい」

「ぜんぜん。どうぞどうぞ」

「……なら、失礼して」

 

 くるりと肇とは反対側を向きながら、彼は取り出した携帯の通話ボタンをタップして耳に押し当てる。

 

 

「もしも――」

『いきなり逃げるなんてあなた良い度胸ね』

「…………先輩」

『良いから戻ってきなさい。ほら、あなたの大切な恋人もいるでしょう?』

 

『ちょっ――この女の口車には乗らないでいいからね!? ちょっと休んでて良いからね!? あと貴女は携帯返してくださいっ!』

 

『うわー、相変わらず陰湿なヤツ。だからトップバッターのくせにチャンス取りこぼしてんのよ』

 

『し、ししし下着売り場まで連れこむのはどうかとわ、私も思いますっ』

 

『うーん、あたしは賛成だけどねー? どうせなら良い機会でもあるしー……?』

 

『お兄お兄、この人らやばくない? やっぱ妹一択しかなくない? え? お兄もそう思うって? ……だよねー! このこのー!』

 

 

 ぴっ、と青年は静かに電話を切った。

 

「…………はぁ……」

「――おぉ……」

「あ、なんかすいません……」

「いえいえ。なんというか、賑やかでいいですねっ」

「えっ……」

「??」

 

 純度百パーセントの笑顔に「うわっ眩し……」なんて呟きが漏れたのは偶然か必然か。

 

 きらきら笑う天然純朴を前に青年はひっそりと目を細めた。

 

 なにかと苦労するコトがあったのだろう。

 真っ直ぐな人間の心持ちがいまやオアシスの光と重なって見えているらしい。

 

「……それで、あの……さっきのコト、なんですけど」

「? はい」

「もしかして、その……、……えっと……」

 

 言葉に悩んでいるのか、言い淀むように青年の言葉が途切れる。

 

 

 〝――――――おや?〟

 

 

 ふと、そんなところに響く部分があったのかどうか。

 

 言いづらそうに視線を泳がせる様子と、ぼうっとした姿の残り香。

 

 微かな特徴の合致に記憶のなかの小さい欠片が当てはまる。

 

 ぶっちゃけ、肇にはそれで事の絡繰が読めてしまった。

 

 なんというか因果なものだけれど。

 冷静に考えると不思議なコトもあるものだけれど。

 

 きっと、そういう偶然も往々にしてあるのだろう。

 

 ……なにせ、肝心要の彼女だって()()であるのだし。

 

「ふふっ、そういう……なるほどなー」

「……? え、あの」

「君が先輩というのはちょっと面白い。いや、謎は深まるばかりだけど」

「――――――」

「ようやく色付いたようで俺としても喜ばしいばかりだ」

 

 くすりと口元に手を当てて笑う肇に、青年は目を見開いて応えた。

 

 間違いないというように。

 これ以上ないほどの確信を胸に持って。

 

「……どうして、そんな……いきなりなのに」

「いきなりでもなんでも、そう在るならその通りじゃない?」

「それって……?」

「――自分の感性と心中できなきゃ、画家なんてやってられないからね」

「…………やっぱり言ってるコト、よく分かんないよ……」

 

 その返答にまた彼が笑みを深める。

 

 いつかの日に出会った少年の瞳はすでに鮮やかだった。

 なればこそ、それがこれ以上ないほどの証明なのだろう。

 

 彩りの魔術師にそのあたりの差異が分からないなんてコトはないのだ、きっと。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 そこからはきっとつまらない話。

 

 

「じゃあなに、さっきのはハーレムってこと? 女泣かせだなー、君」

「いや違うよ。大体僕はちゃんと恋人一筋で……」

「でもみんな君を狙ってるみたいだったじゃない?」

「………………、」

「否定できないのかー、あははっ」

 

 

 今と昔を股にかけた、意味の薄い言葉の交わり。

 

 

「なるほど主人公が女の子……そっかー、ギャルゲーかー」

「? 知ってたの、アキホメ」

「一時期やってたよ。もう殆ど覚えてないけど。……あ、後輩の妹キャラが可愛かったことだけは記憶にあるかな。こう、甘えてきたりするのが良かったよね」

「…………………………、」

「どうしたの。目がすっごい泳いでるけど」

「――――僕だって知らなかったんだ……っ」

「??」

 

 

 ショッピングモールの雑踏に消えるぐらいの雑談だ。

 

 

「……え、乙女ゲー?」

「そうそう。もしかして世界観同じ作品だったっけ?」

「いやそんなまさか……父さんに訊けば分かるかな……?」

「? なんだいそれ、一体どういう――」

「もしもし父さん? アキホメと同一世界観の乙女ゲーつくったりした?」

「ちょっと待って?」

『ん、あー……はははっ。――乙女ゲーチームは結成する前に誰かの手によってBLゲー制作チームに変わってたなぁ……』

「お母さん……っ」

「色々と分からないけど君の家系はもしかしなくても凄いね?」

 

 

 価値でいえばきっとほんの少しもありはしない。

 

 

「……プレゼント? 誰かに贈るの……?」

「このあとデートなんだー。どう? なにかアドバイスとか」

「いや僕はそんな……、……しおり……とか……?」

「そっかー……本命は図書委員の先輩だったと」

「え、あ。いや違う! ごめん! それはその、たぶん誤解!」

「携帯鳴ってるよー」

「ああなんでこんなときにタイミング良く……ッ!?」

 

 

 まあ、てんやわんやな展開も多少交えつつ。

 

 

「……街のはずれにある展望台とかなら、その……良い景色……見られると思う」

「ほんと? じゃあ一緒に行ってみる。やっぱり地元の人に聞くのが一番だね」

「……僕も少し前までは知らなかったんだ。教えてくれた人がいて」

「…………そっか」

 

 

 出会いと別れと、懐かしい時間はすれ違うようささやかに。

 

 

「ん、良いコトいっぱい聞けた。それじゃあね、ありがとう」

「……もう行くの?」

「行くよ。好きな人を待たせてるからね。俺のお嫁さん候補唯一人だから!」

「待ってそれだと僕がたくさんいるみたいな感じにならない……!?」

「頑張って、先輩さん!」

「撤回の余地がない……!」

 

 

 とりあえず誰も知らない間に、そんなコトもあったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(――しかし、そうか)

 

 

(乙女ゲーの舞台はあるけど、世界じゃないワケだ)

 

 

(……不思議だね、いや本当に……だとするなら、そっか)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(――俺が優希之さんに惚れても、まったく問題ないってコトかな!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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Ex06/水桶さん家の内情



大変お待たせしました。

お待たせしすぎたかもしれません(土下座)





 

 

 

 

「――ただいまー!」

 

 がちゃん、とドアを開いて元気よく声を上げる。

 

 十二月の中旬。

 

 寒さを増した外の空気とは打って変わって、扉一枚隔てた室内はいや温かい。

 凍えた指先はともかく、熱を下げていた肌ぐらいには特効薬として機能するぐらいだ。

 

 これが暖房のひとつもつけてない冷気に支配されていれば生きた心地もしなくなるのだが、ここ最近――というかしばらくはそんなコトもなかった。

 

 ほっと一安心しながら彼女は靴を脱いで家に上がる。

 

(……リビング……に居たら返事あるか。じゃあ――)

 

 とてとてと廊下を真っ直ぐ進んでいく。

 

 居間は電気こそついているものの人の気配はしない。

 おそらく家主は休憩がてら一度立ち寄ったぐらいなのだろう。

 

 そこはきちんと消しておいてほしかったなー、という要望は十回を超えたあたりでもう割り切った。

 

 正しいコトと悪いコト。

 できるコトとできないコト。

 

 判断すればまあギリギリ、彼女としても許容範囲なところだ。

 

 ……むしろそれを徹底されて凍え死ぬとか本当に勘弁してほしいところだし。

 

(冬場の()()()、あんまり入りたくないんだけどなあ)

 

 薄れてきた記憶の棘に刺されて苦笑する。

 

 つん、と胸の外側を突かれたような微かな感触。

 

 落ち込むような大事ではない。

 けれど無視できるほどの些事でもない。

 

 なればこそ、それは彼女にとって大切な何かの名残。

 産まれ育って二十三年と経ったいまでもなお持ち続けるかけがえのない色だ。

 

(…………ん、やっぱり)

 

 一階の廊下の突き当たり。

 そこにある扉からはあからさまな光が漏れていた。

 

 彼女の予想は見事的中。

 

 これでも伊達に二度目の家族をやっていない、と息をつきながらドアノブを捻る。

 

 がちゃん、と開く音はどこか印象的に響くように。

 視界に広がった景色は胸中の言葉通り、往年の景色を思い浮かばせた。

 

 

 ――部屋中に広がる鼻をつく独特な香り。

 

 ――分子の動きすら停まったように思える静けさ。

 

 ――その中でたったひとつ、異物のように動き続けるひとつの影。

 

 

 記憶は重なる。

 思い出はかくも見事に鮮明に浮かび上がる。

 

 けれど、肝心要の影の動きだけは違った様相を呈していた。

 

「……あれ、帰ってたの渚」

 

 先ほどまでの没頭はどこへやら。

 彼女が扉を開けるのに反応して、彼はあっさりと手に持った筆を置く。

 

 それがどんな意味を持つか分からない渚でもない。

 

 過去(ぜんせ)では彼女が近付いても空返事のときだってあった。

 酷いときは何度か話しかけてようやくこっちに意識を向けるなんてこともザラ。

 

 なんであれ彼女からアクションを仕掛けなければ気付きもしなかったというのに。

 

 部屋に入っただけで手を止めて振り向くのは、そう、間違いなく――――

 

「……結構大きな声で挨拶したのになー?」

「ごめんごめん。気付かなかった。お疲れさま。ご飯は? まだなら作るけど」

「今日って肇の番だったっけ?」

「だったと思うよー。あ、買い物は行って来たから安心してね!」

「いやそこは心配してないけど……、……まず、やるコトないかなー……?」

「??」

 

 こてん、と首を傾げながら笑顔を浮かべる肇。

 それにむっ、と眉根を寄せながら渚は不機嫌そうに彼を睨んだ。

 

 ついでに、

 

「……んっ」

 

 ふいっとそっぽを向きながら、両手をあげてわずかに広げる。

 

 いかにも抱き締めろ(ハグくれー!)というような動作。

 恥じらいかなにか少し顔を赤くしているのもあってご要望は明白だった。

 

 そんな彼女を前に勘違いするほど肇も天然純朴(クソボケ)拗らせていない。

 

 ああなるほど、なんて頷きながら穏やかな笑みで立ち上がる。

 

 中学生ぐらいの肇が見れば「なんで分かるんだ……!?」なんて驚愕するかもしれないが、いまの彼にとってはなんてこともないのだ。

 

 これまで色々と――本当に色々とあった時間は大きい。

 

 例えば危うくどこぞの部長に掠め取られそうになったりとか。

 どこぞのパネルの君に既成事実をつくられそうになったりとか。

 高校時代のファンガールにデンジャーゾーンへ誘い込まれたりとか。

 

 あと渚にでろんでろんにされた妹が「お義姉(ねえ)さまっ」とか呼び出して変な扉を開きかけていたりとか。

 

 もうとんでもなく色々あったのだが――なにはともあれこうして過ごしているワケである。

 

「――おかえりなさい」

「ただいまっ」

 

 ぎゅうーっ、と抱き合ってぐるぐる回るバカップル――もといおしどり夫婦。

 

 そう、夫婦。

 紛うことなき夫と妻。

 

 よもや学生時代のおふざけ半分なあだ名ではない。

 

 届けも出して式をあげたふたりは晴れて家族と相成った。

 大学卒業後即入籍、即同居、半年を得て挙式――という流れである。

 

 結婚二年目に差しかかるかという時期はまだまだ彼にとっても彼女にとってもお熱い時期だ。

 

「――八時間ぶりのハジメニウム……!」

「なにそれ?」

「肇から出てるなんか肇的なエネルギー?」

「俺の身体どうなってるの。どんな効果? 癒し?」

「私が幸せになる成分が多量に含まれています」

「じゃあいっか!」

「うん、いいのっ」

 

 にこにこ笑いながら抱き合ってバカみたいなコトを話すバカップルバカ夫婦。

 

 ふたりだけの世界に入った水桶夫妻の幸福感は凄まじい。

 学生時代のソレ(イチャイチャ)すら軽く凌駕するほどの代物だ。

 

 ここに第三者がいないコトだけが救いだろう。

 

 こんなものは傍目から見ていればきっと身体中の穴という穴からブドウ糖が噴射される。

 

 たぶん。

 

「それでどうする? まずご飯にする? お風呂にする? それとも――」

「肇っ!」

「まだ俺なにも言ってないけど」

「肇にするー!」

「はいはい、それはまた後でねー」

「後ならいいのっ!?」

「いいよ、渚なら俺のなんでもあげちゃいます」

「――――――ふひひ」

「美人さんが出しちゃいけないような声だしてる……」

 

 にへら、と表情を崩す渚を抱き上げて肇がくすりと微笑む。

 

 十五ですでに隔絶した美少女だった彼女は歳を重ねて見事に成長。

 

 その美貌は弱まるどころか綺麗系の容姿としてより磨きがかかっていた。

 大人の女性としての魅力に溢れているといってもいい。

 

 まあ、とはいえ中身はやっぱり渚なのだが。

 

「冗談は置いといてどうするの?」

「冗談じゃないけど」

「え?」

「え?」

「…………、」

「…………、」

 

 じっ、と見つめ合う夫婦。

 

 姓を同じくしたと言えど気持ちが完璧に繋がり合うワケではない。

 それは仲良しこよしな彼らだって例外なく同じである。

 

 いくら帰宅して数分足らずでIQ(知能指数)5あるかどうかという言動をしているといっても意思疎通は難しいので。

 

「……とりあえずご飯とお風呂どっちで?」

「お風呂かなー……。あっ、肇も一緒に入る!?」

「うちのお風呂じゃ狭いってば」

「広かったら一緒に入ってくれるんだ!?」

「あ、待って。ストップ。違うから落ち着いて。いま渚からとてつもなく危険な予感がした。こう、身に覚えのある感じの!」

「なるほど、なるほどね……!」

 

 ふんふむ、と頷くお嫁さんは姫抱きのまま肇の手におさまっている。

 

 その彼女から感じ取れるものは遠い過去(むかし)にも彼が一度体感したモノだ。

 具体的にいうと「家で絵が描きたいなー」なんて軽い気持ちで言ったら専用のアトリエが出来上がっていたときのようなモノ。

 

 すなわち突発的な行動力。

 有無を言わさない金銭の暴力。

 

 お互いにそれなりの稼ぎがある新生水桶家はわりと財布に余裕がある。

 

 なんなら肇が大学在学中に得た収入だけでも一般的な会社員の生涯賃金を上回るかというレベル。

 

 新築のお風呂をちょっと大きくするぐらいならそれこそ出来なくもない範囲だ。

 

「……ご飯つくっておくから今日はひとりでゆっくりしてきて」

「えー」

「可愛くだだこねてもダメ。……後で俺にするんでしょ?」

「…………肇――――」

「なに」

「――――いまの言い方、すっごくえっち!」

「ヘンタイさんは煩悩もすっきり洗い流そうねー!」

「きゃー!」

 

 とん、と優しく脱衣所に着地させられてふたりはようやく離れる。

 

 去り際、肇は「今日の夕飯は麻婆豆腐です。ひき肉が余ってたからね」とだけ言って静かに廊下と繋がる扉を閉めていった。

 

 実はもっと引っ付いていたかった渚だがこればかりは致し方なし。

 

 現実的に。

 ともすれば物理的に、ずっと傍に居てはろくに動けもしないのだから。

 

 ちなみに、引き留める暇すらなかった別離はなんら怒っているのでもなんでもない。

 

 これが結婚してからの彼らの日常。

 ある種の習慣。

 ルーティーンみたいなものだ。

 

 ――――そう、驚くコトに。

 

 今までの一連の流れを。

 同居しはじめてからの約一年間。

 渚に仕事があるときは毎日のように繰り返しているのである。

 

 げに恐ろしきは完全無欠の伴侶(パートナー)になった(つがい)か。

 

 誰にも見られない家の中だからこそ成される平和がここにはたしかに存在した。

 

 ……なお、余談ではあるが。

 

 時折街中へ買い出しやデートに出掛けたふたりが周囲へわりと甚大な被害をばらまいているのは言うまでもない。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 入浴と食事はコレといって変わったコトもなく終わった。

 そのあとにふたりで軽く晩酌なんてすれば直ぐに時間も過ぎていく。

 

 時計の針は曖昧に。

 

 景色で言えば夜の闇も揺れ動かなくなってきた頃。

 

 ぽすん、とふたりで寝室のベッドに横たわる。

 

 自然と指を交差させて手を繋ぐ。

 

 いつからか、たぶんクセになっているようなもの。

 心のどこかで強く、離したくないと思っていた彼女の名残だ。

 

「……ね、肇」

「ん?」

 

 どこか芝居がかった渚の呼びかけに、彼は短くあっけらかんと応える。

 

 問い返すような軽い一音。

 

 ささやかに向けられた視線がなんともこそばゆく面映ゆい。

 それでなおさら、ぎゅっと彼女は肇の手を握りしめた。

 

「……指、硬くなってきたね」

「そうかな」

「そうだよ。昔はぜんぜんだったのに」

「そりゃあ、ずうっと描いてたらね……」

「……そっか。そうだよね……」

 

 思い出す感触はふたつ。

 

 遥かに遠く霞靄じみた細い手指と、

 いつかに覚えた綺麗で色を知らない男子の手。

 

 けれど、硬く結んだ好きな人の手はそのどちらとも違うものだ。

 

 どれが良いかなんてわざわざ言葉にするのも勿体ない。

 

 言うまでもなく。

 語るまでもなく。

 

 その答えは彼女にとって未来永劫ただひとつ。

 

「……それに、油クサい」

「うん。やっぱり取れないよね、これ」

「私この匂いあんまり好きじゃないんだよ?」

「知ってる。でも嫌いじゃないのも分かってる」

「…………よくご存じで」

「渚のコトだからね」

 

 ぱっと笑う肇から渚がさっと顔を逸らす。

 

 いずれにせよ人間は慣れる生き物だ。

 

 認めるコトは難しい。

 けれど受け入れるだけなら案外簡単にできる。

 

 一度受け入れてしまえば馴染むのも、溶けこむのもそう苦労はしない。

 

 だが、根本的に慣れるものと慣れないものはどうしてもあって然るべき。

 

 渚にとってそれが彼の攻撃力だったのかどうか。

 

 隙をつかれて顔を真っ赤にしたお嫁さんは「そこで照れるのか……」と言われても仕方ないぐらい時たま()()()()になる模様。

 

「どうしたのいきなり」

「や……なんでも、ない……けど……」

「誰かさんの手でも思い出した?」

「……それは、そう」

「……ん」

「…………でも、肇は肇、だから」

「そっか」

「そう、だよ……そうなの、うん……」

 

 再度、たしかめるように握り直す。

 

 触れ合う肌は温かく柔らかい。

 ごつごつとした指も手のひらも心地良くて素敵だ。

 

 冷たい冬にあってなお、その温度を実感できる。

 その喜びをなにも忘れたワケではない。

 

 ……ああ、だというなら。

 

 そうであるのなら、なんてコトはない話。

 

「……肇」

「なに」

「幸せ。大好き」

「……俺もだよ、渚」

「ふふっ、そっか……っ」

 

 特別なコトがなくても。

 ただ傍に居るだけでも。

 

 これ以上ないぐらい、この人生に価値はあったのだ。

 

「――――ね」

「…………ん?」

 

 ……きゅっ、と。

 

 細く淡く。

 ほんのり甘く。

 

 渚は彼の手を撫でるように指を動かした。

 

 肇に投げた視線に色がついたならきっとそれらしく。

 ちいさな声はそれでも耳朶を震わせて微かに届いた。

 

 向い合った瞳が重なる。

 ゆっくりと距離が詰まる。

 

 ――――そうして、

 

 ふたりは――――

 

 

 

 

 






(省略されました。全てを読むにはワッフルワッフルと書き込んでください)


↓良い子(オトナ)だけに見える扉
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Ex07/水桶五兄妹の認識

 

 

 

 

 それはとある週末の一幕。

 いつもの流れから切り取られた珍しい一ページ。

 

 切っ掛けは半月ほど前。

 

 一番上の兄が雑誌の懸賞で温泉宿のペアチケットを当てたコトに始まる。

 

 

 〝ちょうどいいし母さんと父さんで行ってきたら? 俺らで留守番しとくし〟

 

 

 そう言って今年二十一歳になる長男――学芸員を目指して大学生活を邁進中――は見ようによっては垂涎モノの権利を放棄。

 家事諸々は任せろー(バリバリー)、なんて感じで早めの親孝行を敢行した。

 

 これにはバカップル……もといバカ夫婦も大喜び。

 

 久しぶりのふたりっきりで旅行だやったー! と今朝方ニコニコ笑いながらスーツケース片手に家を出て行ったという。

 

 残された家族は男が二人、女が三人。

 年齢は上が成人済みから下が中学生まで。

 

 わりと()()コトである子供だけで家を回す大事は宣言を裏切って崩壊――――するようなベタもなく、なんだかんだで平和は維持されていた。

 

 なにを隠そう、それが現在の水桶邸である。

 

 

「あーっ、こいつチャーハンにウィンナー入れてるー!」

「良いだろウィンナー! 美味いじゃん!」

「私はベーコン派なんだけど!?」

「うるせえベーコンなかったんだよ!」

「じゃあ買ってよー! 買いに行ってよー! むしろ買いに行こうよー!」

「ちょっ、ばか暴れんなおまっ、やめ――――ここ火の元ォ!!」

 

 

 ぎゃあぎゃあと台所からあがる賑やかなやり取り。

 

 お玉片手にフライパンを振るう男子と、その背中にコアラのごとく引っ付いている女子は喧しくも楽しげに会話している。

 

 一見すると同年代のソレな彼らの微笑ましい光景は、だがしかしその内情を知っているのといないのでは違うものだ。

 

 ふたりの間に恋心とか慕情とかそういったものはない。

 仲睦まじい様子であっても断じてそういう関係では一切無い。

 

 驚くなかれ、彼ら彼女らこそがいまこの家における最高責任者。

 記念すべき初子にして双子の長男長女。

 

 水桶陽斗(はると)、および水桶彩嫁(あやか)の年長者コンビだ。

 

 

「じゃあカニカマ! カニカマ入れよう!」

「おまえ俺がカニカマ嫌いなの知っててそれ言うか?」

「私はめっちゃ好きなんだけど!?」

「うるせえ俺が食えなくなんの! 海鮮風味にしてあるんだからそれで良いだろ!」

「好き嫌いしてたらお母さんに頭撫でてもらえないよ!?」

「もうそんな歳じゃねえんだわ! いつの話をしてんだよ!」

 

 

 わーこらとまだまだ言い合う仲良し兄妹。

 

 同い年の女の子をおぶって料理をしながら言葉を交すのは些か大変だろうに、それを手慣れたようにこなすあたり長男のスペックが垣間見えた。

 

 要領が良いだけでは解決できない凄さがそこにはある。

 実用的な凄さかと言えば限定的すぎてまあなんとも言えないところだが。

 

 

「あっ!」

「今度はなんだ!?」

「チャーハンなら私麦茶が良い!」

「つくってるから冷蔵庫開けて勝手に持ってけ!」

「ありがとー! でも手が届かないからもうちょっと寄って。ほら、右に五歩ぐらいっ」

「いや取るなら降りろよ! めっちゃ動きづれえって俺も!」

「うわー! 女子に重いとか言っちゃ駄目なんだー!」

「言ってねえ!」

 

 

 言外に「取らないなら別に乗ってても気にしない」と言っているようなものだが然もありなん。

 

 彼にとっては彩嫁(ちょうじょ)との密着状態などほぼノーマルスタンス。

 半ば当たり前となったセット状態。

 

 このぐらいのスキンシップはなんてコトもない日常のひとつだった。

 

 内外問わず「距離感バグってない?」と言われる所以である。

 

 

 

(――――ハル兄とアヤ姉、一生結婚できなそうだなー……)

 

 そんなふたりを若干冷めた目で見る視線がひとつ。

 

 カウンターを挟んで広がるリビングの片隅。

 

 テレビを前にして置かれたソファーベッドの上で寝転ぶ人影――四番目にして次男となる水桶聿貴(いつき)は呆れ交じりの息をこぼした。

 

(普通にやばいよな、アレ。家じゃ誰も気にしないけど。完璧になんか拗らせてるもん。こう、ブラでシスなコンみたいなのを)

 

 最早手遅れであろう兄姉を半眼で眺めつつ、聿貴はぽちぽちと携帯の画面を触る。

 

 なにかに集中しているワケではなく暇を持て余してのコトだ。

 

 時刻をちょうど十二時を過ぎたあたりのお昼時。

 

 自室に戻って時間を潰すにしても件の食事は完成が近い。

 なにより彼自身も良い具合にお腹が減っている。

 

 ので、大人しく居間でゴロゴロしながら昼食を待っていたのだが。

 

 

「あ、ハル。お皿私が取ろっか?」

「良いよ、別に。彩嫁にやらせると危なっかしいし」

「ちょっとそれどういう意味ー!」

「だからそうやって後ろから手ぇ伸ばしてくんのが危ねえの! くっつくならしっかり掴まってくんねえ!?」

 

(――うん。俺は絶対ああならないようにしよう)

 

 

 ゼロ距離でイチャつく双子を前に彼は密かに決意した。

 

 偉大なるは先人の教え。

 賢者は歴史に学ぶという。

 

 その点ふたりは年上の家族として申し分ないところがあった。

 

 もちろん反面教師として。

 

 

(思うに父さんも母さんも世間一般とはズレてる。その影響を受けたハル兄もアヤ姉もたぶんズレてる。……そう考えると俺ってめちゃくちゃマシな部類では……?)

 

「ん、ちょっと」

「?」

 

 と、不意に声をかけられて聿貴が顔を上げる。

 

 見れば傍らにはもうひとりの家族の姿。

 

 自室で休んでいたはずの次女――聿貴からしてひとつ上の姉――はソファーを独占する弟を若干冷めた目で見下ろしていた。

 

「んっ」

 

 くい、とちいさく顎を動かす姉君。

 

 気怠そうな雰囲気はテンションの平坦(フラット)さと力の抜けた姿勢(ポーズ)によるものだろう。

 ゆったりとした服装でポケットに手を突っ込んでいるあたりがその印象をより一層強めている。

 

 睨んでいるようにさえ見えるジト目はおそらく生来の目付きの悪さからだ。

 

 母親譲りの整った容姿も相まって受け取る印象(イメージ)はなんとも鋭い。

 

 ――が、そこは産まれたタイミングも近い年子の姉弟。

 

 聿貴は彼女――水桶華波(かなみ)が実はわりと優しい人間なのだと誰から言われずとも理解している。

 

 ので、

 

「……あい」

「ん」

 

 大人しく起き上がってひとり分のスペースをあける。

 それに短い声だけで応えた華波(じじょ)はすとんと弟の隣へ腰を下ろす。

 

 喋るのも面倒とでも言わんばかりのやり取り。

 

 音だけで交わすコトバは人らしい会話とは到底言えない。

 けれども意思の疎通という点でいえばこれ以上ない極致でもあった。

 

 歳が離れていないからか、それとも過ごすうちに自然とそうなったのか。

 

 家族の中でもなにかと一歩引いた立ち位置にいる高校生は互いに最低限の労力でコミュニケーションをこなしている。

 

 

「あれ、()()()()()きてたの?」

「うん。いまさっき」

「ご飯すぐできるからちょっと待っててねー! あ、()()()()もね!」

「わかった」

「うん」

 

 

 こくこく頷きながらぽちぽち携帯を弄るソファー組。

 騒がしい長兄長姉と違って物静かな様子は同一空間なのもあって余計に際立つ。

 

 

「彩嫁おまえ勝手になに言ってんの! 作ってんの俺なんだけど!」

「細かいコト気にしないで! ほらお醤油!」

「後ろから渡すのやめろやっ! うっかり落として怪我したらどうすんだ!」

「責任とってハルが一生すねを齧らせてくれるしかないねぇー!」

「やだこいつニート目指してる! これだから父さんの素質を受け継いだ天然の絵描きは! ペン握ってるだけで働いてると思いやがってちくしょー!」

 

「…………姉さんと兄さん、一生相手できなさそう」

「うん、わかる……」

 

 

 ぼそっと呟く華波に思わず頷いてしまった聿貴だった。

 

 流石は姉弟というべきか。

 奇しくも末期患者を前に出てくる感想は同じらしい。

 

 自分たちはああなるまい、という考えが兄姉を見る目に如実に表れている。

 

「――むっ! なんか良い匂いする! お昼できた感じ!?」

 

 どたたたっ、と小気味良い足音と共に居間へ駆けこんでくる少女。

 満を持して二階の自室から降りてきたのは水桶海優希(みゆき)、十四歳。

 

 兄妹の最後を飾る中学二年の末っ子である。

 

 

「良いタイミングだね()()()()()! もう少しで出来るから!」

「いやだから料理してんの俺だって! 勝手に返事すんな!」

「はいはい、ハル兄もアヤ姉もいつも通り元気だねー。あはは、一生恋人とかつくれなさそう」

 

「「えッ!?」」

 

(だね)

(わかる)

 

 

 海優希嬢の衝撃的な言葉から数秒。

 

 驚愕する長男長女。

 無言で同意の意を示す次男次女。

 からからとなんでもないように笑う末の妹。

 

 水桶家はその三つに分かれ、混沌を極めていた――――

 

 

「どういうことミユちゃん!?」

「海優希!? いまめっちゃ聞き捨てならない台詞が聞こえたケド!?」

 

「まあ良いんじゃない? 幸せならそれでオッケーとあたしは思うヨ、ウン」

 

「なに!? どういう意味!? ――はっ、まさか私が高校時代に男子からひとつも告白されなかったのは貴様のせいかハル――――!」

「うっせーな俺だって大学入るまで告られたコトなかったわ!」

「いまはあるんだー! うわー! そっちだけズルいじゃんもー!」

「ばっ、だから暴れんな! 火元! コンロ近い! デンジャーデンジャー!」

 

「……やー、平和だなーうちの家族。うん。――あたしはああならないようにしよう」

 

(そうだね)

(わかるわー)

 

 

 家族の贔屓目()()で見ても一番上のふたりはヤバい。

 

 それが下の三人が出した結論、および共通認識だった。

 

 いくら仲の良い兄妹とはいえ。

 産まれたときからずっと一緒の双子とはいえ。

 

 料理中でも構わず後ろから抱きついて、あまつさえそれを当たり前のようにおぶって動く彼ら彼女らはナニカが狂っている。

 

 こう、対人関係での決定的なナニカが。

 

「イツ兄とカナ姉もそうだよね」

 

 次弾は続いてもう一グループのほうへ。

 

 くるっと振り向いてソファー組を見る末妹。

 

 唐突に話を振られた聿貴と華波であるが、当然のごとくそんなつもりは一切無いふたりはムッと眉間にシワを寄せる。

 

 

「……んなコトないでしょ」

「ん。どこらへんが?」

 

「いやだっていつもめっちゃ近いじゃん? 今だって座りながら肩ぴっとりだし」

 

「別にそのぐらい普通でしょ」

「俺もそう思う」

 

「……え、ソファーだよ。広いんだよ。そこまでくっつかなくてもよくない?」

 

「逆に離れて座る意味がわかんない」

「ないない。わざわざそんなコトしなくても」

 

 

 

「――――ダメだこれ。もう無理だ。マトモなのはあたしだけか……っ!」

 

 

 

 がくん、と膝を折る海優希の姿はどこか孤独に包まれていた。

 

 大前提である父親と母親。

 そしてふたりの兄とふたりの姉。

 

 そのどれも全員がわりと手遅れではなかろうか、と認識した瞬間である。

 

 

 ……なお、余談ではあるが。

 

 少し離れた未来の話。

 

 その後しばらくして産まれた六人目の弟を溺愛する彼女の姿があるとかなかったとか。

 

 

 真実はまだまだ先の本人だけが知るところだろう――――

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 ――――いっぽうその頃。

 末の娘が家庭内環境にある種絶望している最中、その元凶たるふたりはというと。

 

 

「凄いね、流石二等。窓の外も綺麗だし」

「わ、ほんとだ……陽斗には感謝しないとね」

「そうだねー。いつの間にか大きくなっちゃって……」

「あらら、お父さん。年寄りみたいなコト言ってる」

「話振ってきたのはお母さんでしょ?」

「…………あははっ」

「…………ふふっ」

 

 

 ちゃっかり見事な雪景色を眺めながら温泉宿を堪能していた。

 

 

 

 ……少女の孤独が晴れるのはわりとすぐなのかも知れない。

 

 

 









簡単なまとめ


・陽斗くん
長男。学芸員志望。お母さんっ子。頭を撫でられるのが大好きだったが子供のときに「このままではいけない」という気付き(天啓)を得て代わりに双子の妹へその役割を頼んだコトがある。手遅れ。

・彩嫁ちゃん
長女。現役の絵描き。感性がお父さん似。性格はどこぞの弟を猫可愛がりしていたフルパワーお姉ちゃんに天然純朴を混ぜたような破天荒。カワイイ系銀髪美人。やっぱり手遅れ。

・華波ちゃん
次女。三番目。どこからか引っ提げてきたダウナー要素の目立つ娘。弟とのコミュニケーションは基本単音で行う。他は普通に話す。最近校内で弟関連のアレコレを聞いて内心ちょっと気になっているらしい。綺麗系の美少女。

・聿貴くん
次男。美術部所属。落ち着いた雰囲気の男子。自分はマトモ枠だと自負している。最近同学年別クラスの海座貴たらいう女子や副部長の先輩と仲良くしているらしい。ひとつ上の姉が言いたいコトはだいたい分かる。

・海優希ちゃん
唯一の(まだ)マトモ枠。お父さん寄りのさっぱりした性格をした女子中学生。なんだかんだ微妙に年の差があるコトによって常識を保っている。なお未来はお察し。



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Ex08/迷い人フォーリンラブ

 

 

 

 

 その日はよく晴れた、心地の良い天気だった。

 

 思うままに描くコトを是とする肇であるが、見たままを切り取るコトに関しても理解がないワケではない。

 

 むしろ気持ちの良い空模様からして心も向くというもの。

 

 何事も思い立ったが吉日ともいう。

 なにより気分に左右される彼にとってタイミングは最重要だ。

 

 ならば、そう。

 

 これ以上の理由なんてあるはずもない。

 

 ――結果、肇は適当な画材を持って久方ぶりに野外で描くコトにした。

 

「車とか気を付けてねー、肇」

「うん。暗くなるまでには帰るから」

「いってらっしゃーい」

 

 ひらひらと手を振りながら家を出る。

 新生水桶邸がまだ比較的大人しかった、彼と彼女だけだった頃である。

 

「――――」

 

 田舎町とはいえ数年も経てば成長は著しい。

 

 分かりやすいところでいえば駅前や大通りに並ぶ店舗。

 近いところでいえば住宅街にできはじめた新鮮なデザインの一戸建て。

 

 行き交う人の服装も雰囲気もそうだろう。

 

 日々は忙しなく移ろいでいく。

 頭に覚えた記憶ですら儚く霞んで消えていく。

 

 その中でも変わらないモノは、密かに静かに時間の流れに溶けこんだ自然と歴史だ。

 

(……河原のほうにでもいってみようか)

 

 荷物を片手にふらっと行き先を決めて、肇はコツコツと歩いていく。

 

 変に悩みはしなかった。

 なんとなく今日はそんな感じ。

 

 はじめからそれが目的だったと言わんばかりに足は自然と動き出す。

 

 町の様子は変わりない。

 

 とくにコレといって特別な企画もない日のコト。

 いつも通りの景色は印象的でもなければインパクトもない。

 

 見慣れた風景。

 嗅ぎ慣れた香り。

 聞き慣れた雑踏の音。

 

 感じ慣れた日常の要素。

 

 それらすべてを意識もせずに受けて町を往く。

 

 数分後。

 

 辿り着いたのは山から海に繋がる川の中流あたりだった。

 

 ちょうど町を二分するように通っている細めの河川。

 場所的には人々の喧噪からわずかに離れた自然寄りの区域になる。

 

 近くには橋がかかっていて、散歩用の細道にはご丁寧にベンチまで設けられてあった。

 

(ん、ここにしよう)

 

 直感的に判断して、肇は木製の長椅子へストンと腰を下ろした。

 そのままバッグから道具を引っ張り出して、いそいそと構えていく。

 

 ついでに長いコト眠っていた小型画架(イーゼル)の晴れ舞台でもある。

 

 知り合いから貰ったは良いものの使い所を見失っていた物置の重鎮はついぞ本日デビューを果たしてくれたらしい。

 

(あー、なんかいい。新鮮だ。こういうのも偶にはアリかも)

 

 ふふん、と楽しげに鼻を鳴らしながら筆を握る肇。

 

 大学時代、馨の協力もあって向こう十数年は遊んでも困らないぐらいの財産は築いたものの創作意欲は衰えていない。

 

 中学生までの執着のなさが嘘だったみたいに蝋燭の火は灯り続けている。

 

 きっと絶えず燃料が補給されているからだろう。

 その正体がなんなのかは言うまでもない。

 

 色々とあったけれど、きっと変わらなかった唯一つがそうなのだ。

 

「――――――、」

 

 夢中になって手を動かす。

 

 視線はキャンバスと景色の間を行ったり来たり。

 ペーパーパレットは瞬く間に汚れていく。

 

 そこからは彼ひとりだけの世界だ。

 

 時間の流れも他者の介入もない没入した空間。

 

 息は忘れない。

 身体の調子はそのままに。

 

 過度の集中でも負担を少なくしたのは偏に渚の懸命な努力だ。

 

 事情を知った彼女はなんとか解決方法を模索し、しつこいぐらいに試すコトでひとりの天才の欠点を克服させた。

 

 たぶんわりと名前が語り継がれてもいいぐらいの大功である。

 知らぬはきっと当人たちだけだろう。

 

「…………、」

 

 風の音が耳を抜けていく。

 

 衣擦れの音すらうるさいぐらい落ち着いた穏やかな空気。

 人間の暮らす場所にあってなお残り続けた自然の香り。

 

 ふと、彼はそれにどこか懐かしさを覚えた。

 

 いまはもうさっぱり覚えていないぐらいの遠い感覚。

 

 前世のものとは違う。

 はじまりより遡る(いぜん)のコト。

 

 個人ではなく生き物としての手応えに、ソレは――――

 

 

 

「――――素敵な絵だね」

 

 

 

 ふと。

 

 そんな声をかけられる。

 

 音の主は彼の真横から空気を震わせた。

 

 気付けば肇の隣にはいつの間にやら人影がひとつ。

 今まで誰もいなかったそこに、ひとりの女性らしき姿がある。

 

 ……おかしな言い方になるけれど。

 

 それは本当に、曖昧な色と形をしたモノだった。

 

 

「ありがとうございます」

「ワタシはあまりそういうのに詳しくないんだが、それだけ君の絵が魅力的というコトかな。実に見事だ、素晴らしい。なるほど綺麗という言葉をこぼす価値もあろう」

「……そこまで褒められると照れますね……」

「ふふ、それならば重畳」

 

 

 くすくすと女性が笑う。

 

 少女のように無垢な、老婆のように覇気のない笑い声。

 掴みどころのない音に思わず手を止めて肇が彼女のほうを振り向く。

 

 そこには、

 

 夏場の陽炎じみた、

 霧の中の街灯みたいな、

 

 薄ぼんやりした人間が座っていた。

 

 

「どうかしたかな」

「……いえ……」

「ああ、遠慮しなくていい。深い意味などないよ」

「? ……それって」

「君の感性の鋭さには流石に驚くというコトだ」

 

 

 か細い声音は透き通るようで、広くあたりへ響いていく。

 

 光のように白い肌と、空を映す澄んだ瞳。

 

 夜の宇宙(うみ)を込めた長髪はきっと立っても地面につくほどだ。

 服装は学生のようで、スーツのようで、ラフな私服のようなモノを着ている。

 

 会ったコトはない。

 

 正真正銘肇と彼女は初対面だ。

 けれど知っているような感覚はあった。

 

 命の奥底にある根源として、その残滓は誰もが抱えるものだろう。

 

 

「――――なるほど。ああ、そういう」

「おや、肯定するのか。その反応はなんとも」

「これでも画家の端くれなので。自分は誤魔化さないようにしてるんです」

「……そうか。いや、末恐ろしいな、これはこれで」

 

 

 困ったように女性は息を吐いた。

 

 ぼんやりとした影は連動するように揺らぐ。

 

 それはなにかによって成された現象ではない。

 すべて彼女がここに居るからこそ起こりうるもの。

 

 いまはまだ埋められない認識の差異だろう。

 

 

「……俺を呼んだのは貴女ですか?」

「それはこの場所に、という意味で?」

 

「ここに、という意味です」

「ならば否だ。ワタシはあくまで神秘の導き手に過ぎない。いまあるモノをどうにかするコトはできても、外部の手にあるモノは操れない」

 

「じゃあ、どうして?」

「欠陥だ。ワタシの時代は隠されて閉じたものが多い。不備も起こる。平穏ではあるが、不安定な状態で安定している。故に跳ねた命が迷い込むコトも少なくない」

 

 

 言葉は溶けて空気に沁みこむ。

 意識は淀んで自我を融解させる。

 

 彼は気分は悪くないのにどこか頭の痛さを覚えた。

 話しているだけで己を見失いそうになる不思議な感覚。

 

 ちゃんと人の言語を喉から出せているかさえ怪しい状況で、それでも堪えられたのは肇がそもそも個として確立していたからだ。

 

 

「なら、なぜこんな風なコトを?」

「余興だよ。試しただけのコト。操作はできないが、この世界(ほし)に産まれたのなら話が変わる。君たちの無意識から十分な情報ぐらい引き出せもしよう」

 

「……それじゃあ、元からあったものは」

「いいや、その考えは間違いだ。元からというが、そんなものはない。ワタシの持つ権限は閲覧と編集だ。切り落とされた枝葉はない。いわば壁紙(テクスチャ)表示(ラベル)を貼り替えただけのようなものだからね」

 

「それで変わってしまった人が居たとしても、ですか」

「当然。星の巡りは変わらない。宇宙(そら)全体(もよう)でいえば熱量は等しく保存されている。であるならワタシの気にする要素(ところ)ではないだろう」

 

「………………、」

 

 

 女性はなんでもないコトのように言った。

 

 頭の片隅。

 心の隙間。

 

 彼がどこかで、なんとはなしに考えていただけのコト。

 

 例えばどうしてゲームの舞台が用意されていて。

 いつか出会った彼の舞台が同じくあったのか。

 

 

「――しかし、こうも眺めていると疑問に思うワケだよ」

「? それはなにを?」

 

「単純な話、一体どういうものかという興味だ」

「……知りたい、知らないんですか?」

 

「無論。ワタシは産まれたときから個としてあった。他者を媒介にするものに疎い。これでも勤勉であってね。出来るなら知っておきたいさ」

「…………そうですか」

 

 

 いま一度姿を見る。

 

 薄ぼんやりとした景色はひとつ瞬きをして鮮やかさを増していた。

 

 生きるコトを引き換えにした素質。

 桁外れの天性の素質はたしかになにかを感じたように。

 

 瞳はただ星のような髪を伸ばした、少女ぐらいの影を映す。

 

 

「――そっか、生きてはいないワケですか」

「妙なコトを言う。ワタシに生死の概念は存在しない。ただそこに在るだけの機構がもっとも近いだろう」

 

「それはなんだか寂しいですね。うん。きっと違うように思います」

「ほう?」

 

「いつか人であったなら、貴女はやっぱり人で在るべきかと」

「――――残しておこう。その言葉は少し、価値の有無が分からない」

 

「はい、是非」

 

 

 笑いながら肇はうなずく。

 

 すでにあたりは霧のようだった。

 

 彼と彼女。

 自身と相手。

 

 ふたり以外のなにをも遠くに感じる霧中の会話。

 

 そこにたしかな形はない。

 

 

「――ああ、しかし。だから余計に残念でならない。人並み外れた色だから期待したのだが、君とは巡りがないらしい。かみ合わせも最悪だ。無理やり繋げる線すらないとは恐れ入る」

 

「俺にはすでに心へ決めた人がいるので」

 

「そうらしい。命の運びとは強固だ。それはきっと表面をなぞらえただけで変えられまい」

 

「誰だってそうです。貴女も」

 

「さあ。君たちほどのものがあるかは、まだ未来(さき)(コト)だろうが」

 

 

 ふわり、と。

 

 風が吹く。

 空気が抜けていく。

 

 肌を撫でる感触は久しく忘れていたものだ。

 

 そこでようやく、彼はこの無情なやり取りの結末を思い知った。

 

 

 

「少々興が乗った。調べてみるのも吝かではない。今度はワタシ自身として、だが」

 

「……えぇ。そうですね。なら、たぶん」

 

「言葉は要らない。もう必要もないだろう。因果は途切れているようだ。――ささやかながら、君たちの運命に祝福を。実に楽しませてもらったよ」

 

 

 

 それは一瞬のまぼろし。

 

 ひとときの空目。

 

 淡く消え去る泡沫の夢。

 

 

 

 

「――――――あれ?」

 

 

 

 

 ふと気付けば肇は誰もいない隣のスペースを見詰めていた。

 

 どうにも不思議な感じがする。

 なんというか、直前までの記憶がぼんやりと靄がかっているような。

 

「……? なにかあったかな……」

 

 むむむ、と悩みつつも手に持った筆を見て思考が切り替わる。

 

 そういえば外で絵を描いている最中だった。

 

 ぼけっとしている場合ではない。

 急ぐワケではないけれど時間は有限だ。

 

 ここはなにより描くのが先――と、彼はキャンバスへ視線を向けて。

 

「えっ」

 

 驚きのあまりピシッと固まる。

 

 一体どういうワケか。

 なにが起こったのか分からないけれど。

 

「で、できてる……」

 

 描きかけだと思った絵は、いつの間にかすでに完成していたらしい。

 

 

 

 

 







残り二話短めとなりますが、実質ラストにてパパッと投稿させていただきます。




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Ex09/辿り着いてしまった

 

 

 

 

 去り際、彼女は言った。

 

 

『ありがとう。私はずっと、倖せだったよ――』

 

 

 その言葉に嘘はない。

 疑うまでもない。

 

 本心からの響きは、本心からの重みを持って彼に届く。

 

 近くも遠い、薄れゆく脳裏に焼き付いた記憶の残滓。

 

 優しく彼女の手を握り返した彼は、それにただ深く頷いた。

 

 ごつごつとした、

 骨張った、ペン胼胝だらけの汚い手で。

 

 でも。

 

 人の感性、価値基準はそれぞれだ。

 

 誰かにとって要らないものが、誰かにとっては大切なものであるように。

 しわがれて絵の具に塗れた彼の手は、彼女にとってなによりも素敵なものだった。

 

 

 

 ……それからどれぐらい経ったろう。

 

 時間はこぼれ落ちる砂のように過ぎていく。

 残された命の期限が刻一刻と迫ってくる。

 

 それは焦るでもないけれど、少しだけ寂しい消費の道だ。

 

 別れを惜しんで十数年。

 

 何かを無くした痛みは馴染んで久しい。

 悲哀の涙はとっくのとうに流し終えていた。

 

 ここまで生きて来れたのはかけられた言葉があったからこそ。

 

 ほんの一度。

 たったの一回。

 

 それでも彼女に満ち足りた命を送れたのなら。

 

 ああ、ならば、そんな誰かは誇らしく。

 胸を張って余生を過ごしても良いものだろうと。

 

 

『だから――――耐えきれなくなって』

 

 

 いつかに聞いた言葉を思い出す。

 

 あのときはため息をつくぐらい呆れたけれど。

 なるほどどうして――いまはそんな気分が分からなくもない。

 

 無論、それはそれとして自分から死にに行くなど馬鹿らしいと彼は思うが。

 

 なにせ見つめ直せば簡単なコト。

 

 気付けば広がるすべてが贅沢で華やかだ。

 特別な要因も人並み外れた要素もいらない。

 

 ただ生きてここに在る。

 

 それだけできっと――毎日は素敵なものだろう。

 

 

 〝………………、〟

 

 

 部屋の窓からぼんやりと外を眺める。

 

 なんだか寒いな、と思った感覚は間違っていなかったらしい。

 

 空は埃をかぶったような煤け具合。

 風に流れてひらひらと光のような雨。

 

 見れば庭には薄く白雪が積もりかけていた。

 

 いまのところ止む気配はない。

 時期的にも寒さは増していく一方だろう。

 

 明日の朝にはきっと真っ白な風景が広がっている。

 

 

 〝…………――――〟

 

 

 雪の日が好きだった。

 

 前期(むかし)より長く過ごした彼女の見事な色彩を思い出すから。

 

 それが見守るように空を舞うものだから、好きにならずにいられない。

 

 風に揺れる銀糸の長髪。

 冬の月みたいに白く美しい肌。

 夜を招くような暗い紫水晶の瞳。

 

 記憶は鮮明に。

 景色は淡くも美しく浮かんでいく。

 

 彼は無言で筆をとった。

 

 命の猶予もなにも関係ない。

 弱りきった身体が、いまだけはどうにもよく動いてくれる。

 

 気分で目の前に置いていたキャンバスは最期の最期に役目を果たしてくれた。

 

 ただただ、無心で筆を走らせる。

 

 なぞるように。

 願うように。

 

 いつまでもどこまでも叶うように。

 

 祈る絵筆は止まらない。

 

 

 

 …………そうして彼は。

 

 いつかの暮れ。

 初雪の夜。

 

 一枚の画の完成と共に深い眠りへついた。

 

 近代芸術に名を刻んだ大天才。

 色彩の魔術師、水桶肇。

 

 彼が亡くなる直前に描いた幻の一枚だけは、いまだ世に公開されていない。

 

 その家族だけが時代を繋いで保管しているという――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ふと、

 

 目が覚めた。

 

 

 なんだか(なが)い夢を見ていたような気分。

 

 とても忙しくて。

 とても満ち足りていて。

 とても楽しくて嬉しいばかりの。

 

 これ以上ない、幸せな夢だった。

 

 短い旅路を歩ききった。

 長い旅路ももうすぐ終わる。

 

 思えばずいぶんと遠回りをしたものだと、彼はちいさく微笑(わら)ってしまった。

 

 

 ――孤独(ひとり)には()れない。

 

 

 傍に在るはずの温かさがいつまで経っても恋しくなる。

 

 寒さは身体の芯まで凍えるようだ。

 ほんのわずかな歩みですら進むのを躊躇させる。

 

 ……ああ、でも。

 

 代わりと言ってはなんだけれど、胸の炎は燃えていた。

 

 魂には火がついている。

 

 なら大丈夫。

 なにも問題はない。

 

 

 さぁ――――あとすこしだ。

 

 ちょっとだけ、頑張ろう。

 

 

 

 〝――――――〟

 

 

 白い光の中を歩く。

 

 いや、光と思ったけれど、踏み心地からしてコレは違う。

 人工物じみた固さや柔らかさを感じない。

 

 コレは――――

 

 

「……雪だ」

 

 

 ざく、と一歩深雪を踏み込む。

 

 不意に顔をあげるとあたり一面は見事な銀世界だった。

 

 足下から地平線の向こうまで。

 空と陸の境界すら分からないぐらい真っ白な世界。

 

 ならそれをどうして光と思ったのか。

 

 簡単なコト。

 

 なにせ積もる雪は溶けないままに。

 中天には目映いばかりの太陽が昇っている。

 

 ……その風景に。

 

 不思議な光景に。

 なにより輝かしい心象に、彼は見覚えがあった。

 

 

「…………、」

 

 

 きゅっと拳を握って歩みを再開する。

 ざくざくと音をたてて雪道を踏破していく。

 

 途中、色んなモノを見た。

 

 笑う顔、怒った表情、悲しむ涙、嬉しそうな泣き顔――

 

 途中、色んなオトを聞いた。

 

 些細な一言、愛情のこもった囁き、恥ずかしそうな声、かわいらしい悲鳴――

 

 途中、色んなニオイを嗅いだ。

 

 花のような、忘れそうになっていた、それでも残っていた、美味しそうな――

 

 

「――――――、」

 

 

 時計の針は朽ち果てた。

 肉体は在りし日まで遡行する。

 

 骨と皮になっていた手も足も、弱々しく拍動するだけだった心臓も力強さを取り戻す。

 

 精神(ココロ)はいつまでも瑞々しいままだ。

 だから巻き戻すコトはない。

 

 彼はすべてを胸のうちに抱えて、真っ直ぐ歩を進める。

 

 見えない道の先には、ひとつの建物があった。

 

 

「――――……、」

 

 

 いつぶりだろう。

 

 深呼吸をしてからそこに足を踏み入れる。

 

 外観がそうなら内装も記憶にあるとおり。

 共通した認識が一時の懐かしさを孕ませた。

 

 彼は革靴(ローファー)からスリッパに履き替える。

 

 

「………………」

 

 

 ペタペタといやに響く足音を鳴らしながら進む。

 

 紙の上ではありふれた話ではあるけれど、彼がこうして在るのは二度目だった。

 

 どこか遠いところで産まれ育って、紆余曲折を得ながら過ごして――病気で死んだのが十九歳。

 それからもう一度意識が起きて、誰とも同じく普通に暮らして――老衰したのが九十七歳。

 

 思えば本当に、遠く長い夢の出来事だった。

 

 ともすればゴールがないようにも見えて。

 あったとしても価値なんてないだろうと簡単に考えていたけれど。

 

 そうではなかったらしい。

 

 

「…………、」

 

 

 ほう、と息を吐きながら歩く。

 

 古い記憶の染みとなった懐かしいばかりの空間。

 彼以外には人影がひとつもない。

 

 しん、と静まり返った廊下はきっちりひとり分……彼のスリッパの音だけを反響させている。

 

 

(――――――……)

 

 

 不意に足を止めた。

 

 目的地はもう目前。

 廊下の先、あとわずかにまで迫った教室。

 

 本来なら誰もいないはずのそこから、薄く光が漏れている。

 

 騒ぐような声はない。

 けれど気配はこれ以上なく感じ取れた。

 

 中に居るのは――――たったひとりだけ。

 

 

(――――、)

 

 

 少しばかり息をおさえて。

 

 できるだけ大人しく。

 

 ゆっくりと――教室の扉を開ける。

 

 待ち人は、

 たしかにそこへ。

 

 

「――――――」

 

 

 少年は思わず目を見開く。

 視線が合えば向こうもわずかに瞠目していた。

 

 が、それも一瞬。

 

 

「……久しぶりだね」

「……うん」

 

 

 ひときわ静かな自習室のなか。

 

 少女はひとり、机に座って柔らかに微笑んだ。

 どうやらずっと待っていてくれたらしい。

 

 

 〝――――ああ〟

 

 

 胸の熱が勢いを増す。

 

 炉心を回す燃料は迸るように。

 

 それまで寒さで震えていたはずの身体は、一気に温かな色彩を蓄えた。

 

 しわがれた声は若々しく。

 震える指先に傷も歪さもない。

 

 掠れる景色は視力の低下などではなく。

 きっと、嬉しいコトがあったからだ。

 

 

 

「……ごめん。遅くなっちゃって」

「ううん。良いよ。このぐらいなんてコトないってば」

 

「じゃあ許してくれる?」

「許します。だって私と貴方なんだから」

 

 

 

 一歩、彼は近付く。

 一歩、彼女は机から降りる。

 

 ふたりの距離は数字にして十メートルもない。

 

 

 

「少しだけ分かった気がする」

「ん?」

 

「君の気持ち。肯定はしないけどね、絶対」

「……そっか。うん、そうだよね。それが良いよ。私もそう思う」

 

「えー、なにそれ。自分のコトなのに」

「自分のコトだから、だよ」

 

 

 

 言葉を交わしてくすくすと笑い合う。

 

 面白い話ではない。

 特別な会話でもない。

 

 けれど、なにより大事なやり取りだった。

 

 価値がないなんてとんでもない。

 

 ここまで歩いてきたコトは。

 ここまでやってきた時間は。

 

 ここまで生きてきた意味は――たしかにあってくれた。

 

 その事実だけでもう、胸がいっぱいになる。

 

 

 

「……泣いた?」

「たくさん泣いた」

 

「……悲しかった?」

「そりゃあもちろん」

 

「……慰めてあげようか?」

「なにしてくれるの?」

 

「…………は、ハグ……とか……?」

「よしきた」

 

「っ!?」

 

 

 

 途端、離れていた距離はいとも容易く縮まった。

 

 勿体振った空気をそのままぶち壊すような呆気なさ。

 

 教室の机をかき分けるように進んだ彼は、驚いて硬直する彼女をぎゅうっと抱き締めてそのままくるりと回る。

 

 

 

「きゃーーーーーっ!?」

「っ、あははっ! なんて声だしてるのっ」

 

「だ、だだだって急にだし!? 流石に空白(ブランク)があるし!? こう、なんというか! 不意打ちは弱いというか! 慣れてきた耐性も落ちてるというか――!」

「慣れなくていいよっ、だってそのほうが君のかわいい声がたくさん聞ける!」

 

「……………………あう」

 

 

 

 真っ赤になった顔を両手でおさえながら呻き声をあげる美少女。

 そんな彼女を気にもとめずに大回転する元気な少年。

 

 最初(はじまり)の格好はまさしく最後(おわり)に相応しい。

 

 

 

「――――ああ、君だ。ははっ、良かった。ありがとう。大好きだ。愛してる。やっぱり君が一番だ。君じゃなきゃ俺じゃない」

「…………うん、私も。本当良かった。ありがとう。大好き。愛してる。ずっとずっと貴方が一番。貴方じゃなきゃ私じゃない」

 

 

 

 つよく抱き合う。

 唇を重ねる。

 

 世界は遥かに離れて遠い。

 命の形はどこまでもあやふやだった。

 

 だからなんだというのだろう。

 

 関係ない、どうでもいい。

 

 例えなにがどうだとしても、この一瞬が在るのならなにもかもが等しく薄い。

 

 それは夢の終わり。

 旅のはじまり。

 

 長い眠りの目を覚ますとき。

 

 出征と帰還。

 永遠の刹那へ手をかけた瞬間。

 

 ああ、でも。

 

 だからこそ――

 

 今度は彼のほうから。

 間近で恥ずかしがる彼女に向かって。

 

 

 

 

 

「――――ただいま、渚」

 

 

 

 

 

 笑いながらそう呟く。

 抱き上げられた彼女はそれにパッと満面の笑みを咲かせて、

 

 

 

 

 

「――――うんっ! お帰り、肇!」

 

 

 

 

 

 そう言いながら、強く彼を抱き返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――物語はこれにてお終い。

 

 役者も舞台も揃っているけど、カメラが追えるのは劇中だけ。

 

 きっと道は続いていく。

 紡がれる明日は書き切れないぐらいあるだろう。

 

 けれどもそれは、まだまだ形になるまでもない些細なコト。

 

 なればこそいつかどこかの演目まで。

 

 それまで彼らに、甘いだけの日々があらんことを――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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Ex10/プロローグみたいなエピローグ

 

 

 

 

 それは遠い光の彼方。

 

 宇宙(ソラ)に生まれた未来(キセキ)物語(ゆくえ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私がその人のコトを知ったのは高校生のときだった。

 

 知る人ぞ知る有名人。

 

 今をときめくスーパースター……とまではいかないけれど、

 芸術(コチラ)の界隈では知ってて当然ぐらいの著名人だ。

 

 切欠は友達が渡してくれた展示会のパンフレットで、不思議と私はその絵に酷く深い想いを抱いたのである。

 

 それがたとえ、ほんの表層をなぞらえただけの写真だったとしても。

 

 ……言葉にすると難しい感覚。

 

 言ってしまえばコレが良い、というような子供じみたわがままの延長線。

 

 思えばきっとその瞬間、私はその有り様に惚れたのだろう。

 

 色鮮やかさに憧れた。

 美しさに胸を打たれた。

 

 下手の横好きとはいえ美術部の端くれ。

 

 いつかそんなものが描けたならと、その人を目指して頑張ったコトもあったけれど――それもまあ、青い春の淡い夢。

 

 結局私自身に才能なんてこれっぽっちもなくて、高校卒業後はそこそこの大学を出て、絵画とは縁もゆかりもない場所でそれとなく働いている。

 

 諦めと妥協。

 歩くコトを主軸に置いた生き方。

 

 そんなのは別に悲観するようなモノじゃない。

 きっと多くの人間が同じように辿る道。

 

 なら、たぶん私の人生はそれでいいのだ。

 

 大体、娯楽がないワケではないし。

 

 週末に飲むお酒は美味しいし、

 たまの友達との長電話は楽しいし、

 休日にショッピングやミュージアム巡りをする日々は控えめに言って満足だ。

 

 いまは楽しく。

 未来は薔薇色とまではいかずとも希望があって。

 

 なにより退屈な毎日を味わって「物足りない」なんて、ちょっと贅沢がすぎる。

 

 ……うん、なんだかんだ言ったけれど。

 

 私はやっぱり、こういう人生だって悪くないと思う。

 

 

「――――――」

 

 

 仕事帰り、夜の町を歩いて往く。

 

 雑踏に紛れる影は溶けこむように。

 広く大きな都市のなかではひとりの人間の価値など薄い。

 

 人波に混ざって帰路へつく。

 

 今日は色々と大変な一日だった。

 明日もまたあれこれと奔走する羽目になるだろう。

 

 しんどいけれど充実している。

 キツいけど折れるほどではない。

 

 若い頃、胸に抱いた淡い夢はもう風化して()()けれど――――生きていくのに苦労はしない。

 

 だから、まあ。

 

 客観的に見て、いまの私はわりと()せなんだと思う。

 

 

「…………、」

 

 

 ごくごく普通の家庭で産まれて。

 

 優しい両親と周囲の人に恵まれて、元気に育って二十四年。

 

 これまでのコトを思って満たされるのなら。

 これからの話は蛇足にすぎない道程なのかどうか。

 

 雨のように降る足音。

 絶えず響き続ける喧噪。

 

 都会の町はうるさく賑やかだ。

 

 見上げた夜空は明るくぼやけている。

 

 それがなんだか、急に悲しいコトのように思えてきて――――

 

 

「きゃっ」

「あっ、と! ごめんなさい!」

 

 

 ふと、道行く誰かとぶつかった。

 

 見れば物静かそうな男の人である。

 落ち着いた低い声は大人びたものだ。

 

 事実、彼の格好はラフでありながらどこか紳士的で()()()

 

 

「い、いえ。私もそのっ、余所見してたので!」

「や、俺もちょっと周り見えてなかったので……うわ、鞄ごちゃごちゃだ……」

「あっ、拾うの手伝います!」

「いいですよ、全然! 気にしないでください!」

「で、でもっ――――」

 

 

 と、そんな彼を手伝おうとしたときだった。

 

 道に散らばった鞄の中身――遠目に見ても分かる画材道具――と一緒に。

 

 偶然、たしかめるまでもなく。

 目の前の人の写真と一緒に名前が載った、身分証明書(そういうもの)が目に入った。

 

 

「――――――え」

「? あの、なにか……?」

「い、いや、その……えっと……」

 

 

 ――信じられない。

 

 偶々にしては出来すぎで、

 奇跡というには遅すぎる。

 

 そんな感触をどこかで覚えたのはなぜか。

 

 

「――――あ、の。もしかして、貴方は――――」

「ん? ……えと、俺のコト知ってたりします?」

「っ、はい! えっと、あのっ、ずっと前からその、良いなって思ってて!」

「そうなんですかー……あはは、面と向かって言われると照れますね」

「もっ、もちろん絵のコトですよ!?」

「? それ以外になにが……?」

「イエナニモ!」

 

 

 墓穴を掘った、と気付いたがいまはスルーする。

 

 とにかくこれ以上自分の勝手で引き留めるワケにもいかない。

 こんなしがないOLと違って相手は大層立派な本職だ。

 

 ささっと手伝って、ぱぱっと片付けて、しゅばっと立ち去る。

 

 憧れているからこそ、余計な真似はしたくないので。

 

 

「その、応援してます! それじゃあこれで――」

「あ、ごめんなさい。ちょっと良いですか?」

「ひゃいっ!?」

 

 

 手首をつかまれてびくぅん! と跳ねる。

 

 びっくりした。

 ほんとにびっくりした。

 

 思わず彼のほうを振り向く。

 

 いきなり引き留めてきた相手は――あろうことか、なんの罪悪感も持たないような笑顔をつくってくれていやがる。

 

 

「……折角なんで、その、お名前でも……あ、いや。こういうのは訊ねるほうから言うものですよね。すいません」

「えっ!? あ、いえいえ! その、私もう知ってますし!?」

「……それでもです」

 

 

 くすりと彼が微笑む。

 

 瞬間。

 

 なんだか。

 

 とても――――とても、懐かしい。

 

 いまはもう無いはずの、なにかの名残を覚えて。

 

 

 

「俺の名前は――――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 運命は続く。

 

 いつまでも。

 どこまでも。

 

 密やかに、静やかに。

 

 なればこそ、生ある限り()せとなるだろう――――

 

 その()と居ればこそ得られる思いがけない()

 

 まだまだ彼らの行く末には、明るい未来が待っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……And they lived happily ever after.

 

 

The End.

 

 

 















最後までご愛読いただきありがとうございました。

これにて本作「乙女ゲーに転生したら本編前の主人公と仲良くなった。」の全エピソード投稿終了とさせていただきます。

長らくお付き合いいただき誠に感謝申し上げます。


以下あとがき




……で書くコトもあまりないんですが、とりあえず私自身としても満足です。なんだかんだ書いててめちゃめちゃ楽しい本作でした。こう、頭空っぽにしてイチャつくだけの男女からでしか得られない栄養があるんやなって…

前作ギャルゲーでは主人公を苛めに苛め抜いて苛め倒したのもあって今作は「とりあえず余計なコトはいいから幸せなら良いんだよッ!」て感じをメインに押し出したつもりです。

いやほんと前世の因果とか色々とか良いコト悪いコトは置いておいてハッピーが一番。そんな拙作でした。疲れたけど気分は最高です! 物書くのはこれだからやめられねえんだ!


そんなこんなで繰り返しになりますが、読者の皆様には盛大な感謝を。

ありがとうございました。また次回、お暇なときにお付き合いいただけましたら幸いです。



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二週目のApril fool
Af1/気付かせてしまった





注)念のため日付をご確認ください。


 

 

 

 

 

 

 例えばいつか宇宙(ソラ)を跨いでいるのなら。

 例えばどこか異なる世界(ほし)の枠組みから外れたなら。

 

 それはきっと不安定な流れによる賜物だろう。

 

 彼が、彼女が、あるいは彼らがそうであったように。

 

 跳ねた命が迷いこむコトがあるのなら、こんな可能性だってないとは言い切れないように――――

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 ひとつ、夢の終わりを見た。

 

 長い長い時間の果てに、積もりゆく過去(けしき)のなかで、雪のように真白に笑う彼女(だれか)笑顔(ひかり)を。

 

 ひとつ、旅のはじまりを経た。

 

 どこまでも続いていく、遠く険しいけれど幸福に満ちた、廻るような忙しない日々を。

 

 結び付きは強く固く。

 命の運びは鮮烈に。

 

 彼は彼女(だれか)と眠りに落ちていく。

 

 またいつか、決定的に交わる瞬間が来るまで。

 

 それまでしばしの間の辛抱を――――と。

 

 流れていくハズだったのだが、

 

 

 

 

 

(……え、なにこれは)

 

 ふと目を覚ませば、彼は中学三年生の時分にまで戻っていた。

 色々と()()()()()()()()()()()()()、である。

 

(一体なにがどうなってるの)

 

 えぇ……、なんて気の抜けた声を出しながら少年――水桶肇は鏡の前で頬をぐにぐにといじってみる。

 

 アンチエイジングなんて目じゃないレベルの年若い肌。

 絵の具も油の匂いも染み付いていない、まだ胼胝すらできていない綺麗な指。

 そして確実に見覚えがある現役で袖を通していた中学校の制服。

 

 間違いない。

 

 でもなければさしずめ夢でもない。

 

 翅崎彩斗として十九年。

 水桶肇として九十七年。

 

 ――――からの十五歳から人生二週目である。

 

 もはやワケが分からない。

 

 これにはさしもの肇も混乱のあまりベッドから起き上がって即! 洗面所へGO! したぐらいである。

 

 いや本当にワケが分からない。

 

「なんでだ……??」

「肇ー、なにしてんの。学校遅れるわよー」

「あっ、うん。わかっ――――」

 

 と、反射的に返事をしかけた瞬間だった。

 

「――――――、」

「? ちょっとどうし……うわっ、え、なに。あんたなんで急に泣いてるのよ……?」

「あ、いや……その」

「…………なんか辛いコトでもあった?」

「そういう、ワケじゃ……ないと思うん、だけど……――」

 

 自然と頬を雫が伝う。

 

 記憶がたしかなら三十年以上も前のコトになる。

 

 大変だったし、苦労もしたし、当然色褪せてはいたけれど。

 ちゃんとしっかり残っているものが、彼の中にもあってくれたらしい。

 

「……ごめん、変な夢見たっぽい」

「なによそれ……しゃっきとしなさい、しゃきっと、ほら、もう三年生なんだから」

「…………分かってるよ。ありがとう、母さん」

「よろしい」

 

 ニヤリと笑う母に彼も同じく笑みで返す。

 

 それだけでもういっぱいだった。

 

 なんだかんだで最初と違いずっと見守ってくれていた家族だ。

 唯一無二の彼女を除けばトップクラスに長い時間を過ごした相手でもある。

 

 情が湧かないなんてそれこそありえない。

 

「ところで父さんは?」

「もう会社行ったわよ。あたしもそろそろ出るから」

「ん、俺も支度してくる」

「そうなさい」

 

 言われて、肇はとてとてと自室に戻っていく。

 

 なにはともあれ貴重な経験はこれが初めてでもない。

 もとより彼の在り方自体が人の器から逸脱しまくったもの。

 

 変に考え込むだけ無駄な時間だ。

 

 なってしまったのならしょうがない。

 在るものは在るのが世の習わしとも言うのだし。

 

 結局、そこら辺は首を突っ込まないほうが幸せなのだ、たぶん。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 結論からいうと。

 

 それは紛れもなく彼の経験した人生そのものだった。

 

 通っている学校は同じ。

 クラスメートの顔ぶれもおそらくは変化なし。

 

 教師も生徒も覚えているかぎり殆ど一緒だ。

 

 当然決めてあった進学先だってまったくそのとおり。

 県立星辰奏学園――いまさら語るまでもないアレやコレやの舞台になった場所である。

 

(――――でもって)

 

 そこまで共通しているのなら、当然放課後に向かう先も変わりない。

 

 偶然か必然か。

 はたまたすべては()()()()か。

 

 彼が回帰したのは中学三年生の最初。

 まだ季節の暖かさが残る、春の終わり頃だった。

 

 ――ここまで来て、外れるなんてそうそうないだろう。

 

「…………、」

 

 あのときと同じく。

 でも心境はまったく異なるように。

 

 ぺたぺたとスリッパの音をたてて寂しい廊下を歩いて行く。

 

 彼が選んでいたのは当然、町外れのそこそこ大きな進学塾だった。

 

 授業内容は決して悪くない。

 講師の先生もしっかり教えてくれていて、入会金その他の費用も他と比べれば安め。

 

 だというのに立地的な問題か、町中にできた流行りの大手学習塾に人をどんどん取られているのか生徒の数はてんでさっぱり。

 

 規模の割に利用者が多くないそこは、彼と彼女がはじめて出会った場所。

 そして――知らず知らずのうちに、ようやく再会していた場所。

 

 

「――――、」

 

 

 ぺたん、と一度足を止める。

 

 予感は的中した。

 

 廊下の先、あとわずかに迫った自習室からは薄く光が漏れている。

 普段は使われないはずのそこに、誰かがいる証拠だ。

 

(……ああ、やっぱり)

 

 くすりと微笑みながら、扉の前まで移動する。

 

 騒ぐような声は聞こえない。

 響いている音はせいぜいが教室の壁一枚で押さえ込めるぐらいの微かな物音だけ。

 

 なにもかもがなぞるように記憶のまま。

 ならば彼がやるコトなどとうに決まっている。

 

 跳ねる胸をおさえながら。

 少しばかり息を落ち着かせて、大人しく……ゆっくりと自習室の扉を開けた。

 

 中に居るのは――もちろん、たったひとりだけ。

 

 

 

「――――――」

 

「…………、」

 

 

 

 わずかに瞠目する彼に、相手はちいさくコクリと会釈をする。

 

 同年代の、学校にいれば間違いなく人目につくであろう人間だった。

 室内の古びた蛍光灯の下でさえその綺麗さは霞んでいない。

 

 冬の月みたいに冷たく光る銀色の長髪と、暗い紫水晶じみた両の瞳。

 肌は玻璃のように白く、ペンを持つ手は細くてしなやか。

 ひときわ目を引くのは赤い縞模様のカチューシャと、髪を結んだ黄色いリボン。

 

 こんなところにいるのがつり合わないぐらいの、とんでもない美少女。

 

 そして、

 

(……そうだ、そうだった。はじめから、そういう気がしてたんだ――)

 

 初対面のはずなのに、どこかで会ったような錯覚。

 

 前はちっとも分からなかったその正体を、彼はもう知っている。

 ぜんぶまとめて引っくるめて知り尽くしている。

 

 

「――――――」

 

 

 こつん、と一歩踏み出す。

 少女のほうへ足を向ける。

 

 一歩ずつ、たしかめるように。

 

 こつん、こつんと。

 

 彼女は我関せずといったように勉強へ集中していた。

 

 こちらを見ても反応しなかった理由などひとつ以外ありえない。

 

 今度は条件が同じじゃなかったようだ。

 つまり彼は知っていたけれど、彼女はまだまだ昔のまま。

 

 それがどこか楽しくなりそうな気がして、肇は思わずちいさく笑った。

 

(……そうだね。前は紆余曲折あったし、良いものだったけど……)

 

 それはそれ、これはこれ。

 前提が違えばなにもかもが変わってくる。

 

「――――……、」

 

 こつん。

 

 彼女の席の前で足を止める。

 そこで相手はようやく彼のコトを強く認識したようだ。

 

「……? えっと、なにか――」

 

 少し警戒しながら顔を上げる少女。

 

 平坦な声も色のない表情も、すべてがひどく懐かしい。

 ああ、こういう時期もあったものだと、彼は柔らかに微笑んで。

 

 

 

 

 

「久しぶり、陽嫁姉さん

 

「――――――――――――はひぇッ!?!?!?」

 

 

 

 ドストレートに。

 ド直球に。

 

 心構えも準備も何も出来ていないひとりの少女に、ど真ん中百六十キロオーバーの剛速球を投げ込むのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

乙女ゲーに転生したら本編前の主人公と仲良くなった。

 

 

第二部

 

 

恋愛潮流

 

 

いざ、開幕――――!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








――つづかないッ! 以上ッ!!


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