やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。 (鮑旭)
しおりを挟む

アインクラッド編
第1話 開幕


 その日は朝から落ち着かなかった。

 11月6日――カレンダーに赤丸でチェックされたその日、SAO(ソードアート・オンライン)正式サービス開始日がとうとうやってきたのだ。

 この日が来るのをどれだけ待ちわびたことか。正式サービス開始は13時からだったが、逸る気持ちが抑えきれなかった俺、比企谷八幡は朝からそわそわと家の中を歩き回り、どんなステ振りにしようかニヤニヤと妄想し、ソードスキルの練習でもしておこうとリビングで物干し竿を振り回していたら小町にゴミを見るような目を向けられたのでそれから部屋へと引き籠っていたのだった。

 

 高2にもなってまた新たな黒歴史を作ってしまったことに頭を抱えつつ、俺は静かに時を待った。13時まであと5分……この5分が長いんだよなと思いながら俺は灰色のヘッドギア――ナーヴギアを頭に被ってベッドで横になる。

 昼飯は12時に食べたし、トイレも済ませた。体調は万全だ。よく腐っていると揶揄される2つの瞳も今日ばかりは少年のように輝いている気が――いや、気のせいだったわ。

 そんな1人突っ込みを脳内で繰り広げているうちに、5分が経過する。視界の端、デジタル時計で時間を確認した俺は、興奮に若干喉を震わせながら口を開いた。

 

「リンクスタート」

 

 音声入力によりナーヴギアが起動し、急激に視界が変化した。いつか見たSF映画のワームホールのようなものを潜り抜けながらいくつかの起動チェックが行われた後、次いでアカウントの設定画面に移行する。だが俺は既にその設定を終えていたので、適当にすっ飛ばしてゲームを起動した。

 《Welcome to Sword Art Online!》という文章が視界に浮かんで再び視界が一転すると、俺は仮想世界へと放り出されたのだった。

 

 第1層《始まりの街》

 日差しに照らされた、中世ヨーロッパ風の石造りの街並み。ファンタジー感丸出しの装備で行き交うプレイヤーたち。彼方を飛ぶワイバーンの群れ。非現実感漂うその光景に俺は柄にもなく興奮して、仰ぐように周囲を見回した。

 

 ――帰って来たのだ。この世界に。

 

 世界初、フルダイブ型VRMMORPG《SAO(ソードアート・オンライン)

 少々小難しい単語が並んでいるが、要するにゲームの世界に意識をダイブさせて遊ぶオンラインゲームのことだ。

 ゲームメーカー《アーガス》によって先日リリースされたこのタイトルは、ソフトのみで3万9800円という決して安くはない値段にも関わらず、初期出荷分の1万本は即刻完売となるほどの人気だった。今までにもVRゲームはいくつかあったのだが、これ程のクオリティで仮想現実を実現したゲームはなく、SAOは発売以前から世界中のゲーマーの注目を集めていたのだ。

 発売に先駆けて行われたβテストにおいて、運良くそのテスターへと選ばれた俺は既にこのゲームの世界を体験していたのだが、だからこそ俺はまたここへと戻って来たいと切望していたのだった。

 

 しばらく街並みを眺めてようやく興奮が収まってきた俺は、次いで視線を自身の周囲に落とした。サービス開始直後にも関わらず、街はプレイヤーたちで溢れかえっている。きっとみんな俺のように13時を待ってすぐにゲームを始めたのだろう。

 まあそこまでは理解出来るのだが、しかし周囲のプレイヤーを眺めているうちに俺は何か違和感を覚えた。妙に女プレイヤーの数が多いのだ。

 このコアなゲームでこんなに女の比率が高いはずがない。これ絶対半分以上はネカマだろ……。普通のオンラインゲームならまだしも、フルダイブ型のゲームでネカマプレイとかどういう神経してんだ。まあ、ソロプレイの俺には関係ないんだが。

 

 よく訓練されたぼっちを自称する俺、比企谷八幡は仮想世界の中でも勿論ぼっちである。βテストの時には、ついぞパーティを組むことはなかった。情報屋とはそこそこやり取りがあったが、それも必要最低限だけだ。

 まあ集団での行動が煩わしいのは現実世界でもゲームの中でも一緒である。幸いこの世界なら体育の授業でペアを組まされることもないし、むしろぼっちにとって居心地はいいくらいだ。だから俺はゲームの中でも平常運転である。この先誰とつるむこともなく、ソロプレイを極めることになるだろう。

 しかし、そんな俺の予想はこの後すぐに覆ることになるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、俺はまず武器屋と道具屋に向かい、狩りの準備を整えた。

 とは言っても新規プレイヤーに与えられている準備資金で出来ることなど高が知れている。すぐに支度は済んだので俺は早々にその場を後にしようとしたのだが、新規プレイヤーでごった返す街の中、他プレイヤーと肩がぶつかってしまったのだった。

 

「あ、すんません……」

 

 体に染みついたトラブル回避スキルが発動し、俺は咄嗟に頭を下げて謝罪する。ほんの少しだけ目を逸らすのがコツだ。相手の目を見れば「何ガンつけてんの?」となり、目を逸らし過ぎれば「何シカトしてんの?」となるのだ。

 しかしぶつかった相手プレイヤーは想定していたほど面倒な人間ではなかったらしく、俺と同じように頭を下げながら謝罪を口にした。

 

「あ、いや、ごめん。こっちこそよそ見してて……ん? お前、ハチ?」

「え、あ、ああ」

 

 ハチ、というのは、俺のプレイヤーネームだ。Hachi――犬の名前みたいだ。友達がいたらからかわれていたな。ぼっちでよかった。

 そんな自分の名前を呼ばれ、俺はそこでようやく相手プレイヤーの顔を見た。このアバター、βテストの時に何となく見たことがあるような気がしないでもない。

 確か、キリなんとかさんだ。

 

「やっぱりハチか! 久しぶりだな。βテスト以来だから、2ヶ月ぶりくらいか」

「……そうだな。それくらいになるな」

 

 急にフレンドリーな態度で話しかけてくるキリなんとかさん。「こいつ俺の友達なの?」という勘違いをしそうになりつつ、会話を続ける。未だに名前が思い出せないが。

 

「しかし、相変わらずそのアバターなんだな。なんつーか、その、目がくさっ……特徴的だよな」

 

 こいつ、今俺の目が腐ってるって言いかけただろ……と思いつつも、ここで突っかかるのも面倒なので適当に聞き流す。

 

「俺は個性を大事にするタイプなんだよ。周りは皆ガチガチのイケメンアバターで、似たり寄ったりの顔してるしな」

 

 個性だなんだと言うリア充に限って、何故か流行に合わせて皆と同じ様な格好をする不思議。その点俺は自分に自信を持っている。自分大好き。だからアバターも腐った目にしてみた。

 

「まあ言いたいことは分かるけどさ……」

 

 とか言っているキリなんとかさんもイケメンアバターだ。切れ長の瞳にアシンメトリーの黒髪。関係ないが、俺はアシメが嫌いだ。リア充っぽくて。

 

「あ、なあ。俺これから外に狩りに行くつもりだったんだけど、ハチも一緒にどうだ? βテストからかなり空いたし、軽く流すつもりなんだけど」

「……え? は? 俺?」

「ああ。……って何だよその顔?」

 

 今までこんなにナチュラルに誘われた経験がなかった俺はかなりキョドってしまった。しかしそんな俺に構うことなく、キリなんとかさんは話を続ける。

 

「βテストの終盤、ソロだと少し厳しくなってきただろ? だからパーティ組める奴が居るといいなって思ってたんだ。お互いの技量もわかってるし……どうだ?」

 

 どうだと問われ、俺はしばし思案する。

 いつもなら適当に理由をつけてお断りさせて頂くのだが、こいつの言っていることも正しい。βテスト終盤、俺はソロでは対応出来ないアクシデントによって幾度も命を落とした。マヒってボコられてあぼんのパターンは最早トラウマだ。そう考えるとこいつの申し出は美味しいかもしれない。

 βテストの時には俺もキリなんとかさんもお互いにぼっち……もとい、ソロプレイヤーだったので必要以上に面倒な人間関係に巻き込まれる恐れもないはずだ。最悪面倒になったらバックレてしまってもいいし……。

 

「一応聞くけど、ついて行ったら妙に高い壺買わされたりとか、パーティ組んでやったんだからコル払えとか言わ――」

「言うわけないだろ! どれだけ俺のこと信用してないんだよ!」

 

 なんか食い気味に否定された。まあいい。これで一応言質はとった。ちなみに《コル》というのは、ゲーム内での通貨の単位のことだ。

 

「あのなぁ、俺もずっとソロだったから、かなり勇気を振り絞って誘ったんだぞ? それを……」

「悪かった。まあ半分冗談だから気にしないでくれ」

「半分本気なのかよ……」

「MMOで詐欺られたのは1度や2度じゃないからな。まあ本気でお前のこと疑ってるわけじゃねーよ。いいぜ。一緒に行こう」

「なんか納得いかないけど……まあいいか、よろしく頼むぜ、ハチ」

 

 その言葉と一緒に、キリなんとかさんから俺にパーティ招待のメッセージが送られてきた。初めての経験にちょっと感動しつつそれを受諾すると、視界の左上にパーティメンバーの名前が表示される。

 ああ、そういえばこいつこんな名前だったな。

 

「よろしく、キリト」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おおーい! そこのお2人さん!」

 

 俺たちがフィールドへと向かって始まりの街の中を歩いている途中、不意に後ろから声が掛かった。

 振り向くと、そこに立っていたのは頭にバンダナを巻いた赤毛のロン毛男。見覚えのないアバターである。

 もしかしてキリトの知り合いかと思って隣に目線を送ったが、キリトは俺と目が合うと首を横に振った。違うらしい。

 

「その迷いのない歩み! あんたらβテスト経験者だろ?」

 

 赤髪の男は俺たちの顔を交互に見つめ、ドヤ顔で口を開く。その瞬間、俺はこの初対面の男の思惑をおおよそ察することが出来た。どうせゲーム序盤の情報やアドバイスを貰おうと言うんだろう。こういったオンラインゲームでは稀にあることだった。

 だが、俺にはそんなことをする義理も義務もない。そんな奉仕活動は高校の部活だけで十分だ。うん。面倒だから適当に誤魔化して、彼にはお帰り願おう。

 

「いや、俺らは――」

「確かに俺たちはβテストあがりだけど、何か用か?」

 

 あ、この馬鹿……!

 正直に答えてしまったキリトに対して俺は抗議の視線を送ったが、当の本人がそれに気付くことはなかった。そして赤髪の男は自分の予測が当たったことを喜びながら、さらに口を開く。

 

「やっぱそうか! オレは今日から始めたんだけど、分からないことだらけでよ。良かったら序盤のコツをレクチャーしてくれねぇかな?」

「いや、悪いんだけど――」

「まあ、別に構わないよ。なあ、ハチ?」

 

 色々と理由を付けて男の要請を断ろうとしていた俺の言葉を、隣に立つキリトが遮る。もはや退路は完全に塞がれてしまった。ここで俺が反対したら、スゲー嫌な奴みたいじゃないか。このお人好しめ……!

 

「……まあ、いいんじゃないの?」

「サンキュ! 助かるぜー! 俺の名前はクライン! 宜しくな!」

「よろしく。俺はキリト。で、こっちが……」

「ハチだ」

 

 簡潔に自己紹介を終えると、キリトは顎に手を当てて少し考えるような表情をした。

 

「えーと、俺たち今から狩りに行くつもりだったんだけど、一緒に来るってことでいいか? そこで色々教えられると思うけど」

「ああ、それで頼む!」

 

 キリトの提案に、クラインと名乗った男は笑顔で頷いていた。

 そんな流れで、俺たちは簡単なフィールドでソードスキルについて解説しつつ狩りをすることになったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意外なことに、その後はかなり順調に進んだ。

 クラインは最初こそソードスキル発動のタイミングを掴むのにてこずっていたものの、一度コツを掴むとその後は難なくモンスターにソードスキルを当てていた。俺とキリトもすぐに勘を取り戻したので、一通りのレクチャーが済むとどんどん先へ進んでゆき、あっと言う間に3人ともLv3になった。

 ちなみにキリトは片手剣、クラインが曲刀、俺は槍を使っている。それぞれ武器が違い、欠点を補うことが出来たこともパーティが上手くまわった要因かもしれない。ただ1つ問題があるとすれば――

 

「いやー! マジで助かったぜ! オレ1人だったら慣れるまでに5回は死んでたな! サンキュー、ハチ!」

 

 なんとなく予想はしていたが、クラインはかなりやかましい奴だった。悪い奴じゃないんだが、苦手だ。

 

「いや、わかったから、肩組むなって。俺そっちの趣味ないから」

 

 いやマジで。そういうの、戸塚以外NGなんで。

 

「ナハハ! ハチはおもしれーな! キリトも、ホントサンキュな!」

「いや、結果的に俺らも助かったよ。3人パーティなら、結構無理な狩りも行けるんだな」

「そう言って貰えると助かるぜ。あ、もうこんな時間か」

 

 そう呟いたクラインにつられて俺もシステムウインドウを確認すると、時刻は既に5時を回っていた。ゲーム内の空も日が傾いて夕暮れになっている。

 

「オレ、一旦落ちるわ。メシ食ってから、またインするぜ」

「この世界の食べ物は空腹感がなくなるだけだからな。きりもいいし、ひとまず俺も落ちるか。ハチはどうする?」

「腹減ったし、俺も一旦落ちるわ。じゃあ……」

 

 システムウインドウを弄りながら会話に参加していた俺だったが、あることに気付き、言葉に詰まった。そんな俺を見て、キリトが首を傾げる。

 

「ん? ハチ、どうした?」

「ログアウトボタンが、ない……?」

 

 俺のその呟きに続いて、始まりの街の鐘が大きく鳴り響く。その音色は、不吉なものに満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気が付くと、俺たちは始まりの街の中央に位置する大広場に立っていた。

 

「なんだ!? 何が起こってんだ!?」

「強制転移……? 始まりの街に戻されたみたいだな」

 

 大げさに騒ぐクラインに、キリトが冷静な様子で答える。周囲を見渡すと、大広場は俺たちと同じように転移されてきたであろうプレイヤーたちで埋め尽くされていた。

 

「これ、全プレイヤーが招集されてるっぽいな。イベントか何かか……ん?」

 

 そう言って周囲を観察していた俺は、いち早くそれに気付いた。

 空にポツリと浮かぶ、紅く塗られた≪WARNING≫の表示。その表示が瞬く間に増殖し、空一面を紅く覆い尽くす。さらにそこから赤黒い液体が漏れ出し、空中に留まり、別のものへと変化していった。

 

「なんだ、ありゃあ……?」

 

 ぼそりとクラインが呟く。趣味の悪い演出を経てそこに現れたのは、一体の巨大なアバターだった。紅いローブを纏いフードを被っているが、その中にあるはずの顔はない。そいつは空中に漂いながら、大広場の1万人近いプレイヤーたちを睥睨すると大仰な仕草で語りだした。

 

「プレイヤー諸君、私の世界へようこそ」

 

 先ほどまでざわついていたプレイヤーたちは、話が始まった途端水を打ったように静まり返る。俺も上空に浮かぶそいつを呆然と仰ぎ見ながら、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。

 

「私の名前は茅場晶彦。現在、この世界をコントロール出来る唯一の人間だ」

 

 茅場晶彦。

 その名前を聞いた瞬間プレイヤーたちに再び動揺が走ったが、当の本人は意に介す様子もなく話を続ける。

 

「プレイヤー諸君は、すでにメインメニューからログアウトボタンが消滅していることに気づいていると思う。しかしこれはゲームの不具合ではない。繰り返す。これはゲームの不具合ではなく、ソードアートオンライン本来の仕様である。……諸君はこのゲームから自発的にログアウトすることは出来ない」

 

 何でもないことのように語る茅場晶彦。淡々としたその口調に、俺はかえって茅場晶彦の狂気を感じていた。

 

「また、外部からのナーヴギアの停止、または解除による強制ログアウトもありえない。もしそれが試みられた場合、ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが諸君らの脳を破壊し、生命活動を停止させる」

 

 雰囲気に呑まれ静まり返っていたプレイヤーたちが、話が続くにつれてざわついてくる。自分の中で冷静に事態を飲み込もうとする部分と、それを拒否しようとする部分がせめぎ合っていた。

 

「しかし残念ながら、警告を無視してナーヴギアの解除を試みた例が少なからず存在し、既に213名のプレイヤーがこのソードアートオンラインの世界から、そして現実世界からも退場している」

 

 そう言って、茅場は空中に幾つかのウインドウを出現させた。そこにはナーヴギアによる死亡者のニュース映像が流れており、茅場の発言が単なる狂言ではないことを否が応でも理解させられてしまう。

 

「だが諸君が、向こう側に置いてきた肉体の心配をする必要はない。様々なメディアが繰り返しこの事実を報道したことを鑑み、これ以上ナーヴギアの強制解除による被害者が出る可能性は低くなったと言っていいだろう。今後、諸君の現実の体は、ナーヴギアを装着したまま2時間の回線切断猶予時間のうちに病院その他準じる施設へと搬送され、厳重な介護態勢のもとに置かれるはずだ。諸君には、安心してゲーム攻略に専念してほしい」

 

 ざわめきはさらに大きくなり、多くのプレイヤーが茅場に対して抗議するべく喚きたてていた。しかし茅場がそれを取り合うはずもなく、そいつは悠然と語り続ける。

 

「諸君がこの世界から解放される方法はただ1つ。この始まりの街の存在するアインクラッド第1層から第100層までの迷宮を踏破し、その頂点に存在するボスを撃破してこのゲームをクリアすることだけだ」

 

 その茅場の発言にとうとう耐えきれなくなった様子で、隣に立つクラインが叫ぶ。

 

「第100層……? ふざけんなっ……! βテストじゃマトモに上がれなかったんだろ!?」

 

 クラインのその発言は事実で、俺たちβテスターによる攻略では2ヶ月で第8層までしか到達できなかったのだ。それを、第100層までクリアしろというのか。

 

「しかし、充分留意して頂きたい。今後、このゲームにおいていかなる蘇生手段も機能しない。プレイヤーのHPが0になった瞬間、諸君らのアバターは永久に消滅し、同時に――諸君らの脳は、ナーヴギアによって破壊される」

 

 その言葉に、再び広場に静寂が広がった。先ほどまで何やら喚き散らしていたクラインも、唖然と上空のアバターを仰いでいる。

 

『これは“ゲーム”であっても“遊び”ではない』

 

 ある雑誌の取材での、茅場の言葉が頭を過った。

 こいつは、俺たちに“本気”の“デスゲーム”をさせるつもりなのだ。

 

「それでは、最後に、諸君にとってこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう。諸君のアイテムストレージに、私からのプレゼントが用意してある。確認してくれ給え」

 

 その言葉を受け、周りのプレイヤーたちは律儀にアイテムストレージを確認する。

 ちなみに俺は何となく嫌な予感がしたので、何もせず周りの様子を伺うことにした。つーか、こんな状況なんだからもっと警戒するべきだと思うんだが……。

 

「手鏡……? なんだこりゃ……って、うおっ!?」

「クライン!? ……うわっ!?」

 

 いつの間にかアイテムストレージに存在したアイテム、《手鏡》を手に持ったプレイヤーたちが次々と青い光に包まれた。しかしすぐに光は収まり、そこに現れたのは――誰だ、こいつら?

 キリトとクラインが居たはずの位置には、見知らぬ黒髪の少年と髭面の男が立っていたのだった。

 

「誰だ、お前……?」

「お前こそ……って、クラインか……?」

「え、じゃあお前、キリト!? 何だって顔が……?」

 

 周囲を見渡すと、先ほどまで存在していた美男美女のアバターが軒並み平凡な顔のアバターへと変化していた。それを認めた俺は1人で納得し、恐らくキリトとクラインであると思われる2人のプレイヤーに顔を向ける。

 

「多分これ、現実世界の容姿に変えられたってことだろ。周りの連中もみんなリアルっぽい顔になってる」

「そうか……ナーヴギアは高密度の信号素子で顔を覆ってる。顔の形を把握できるんだ」

 

 俺の言葉に、なんだか小難しい単語を口にしたキリトが頷く。

 ちなみに俺は手鏡は使用しなかったのだが、何故か結局強制的にアバターを変化させられていた。手鏡を使用するというポーズは単なる様式美だったらしい。

 

「なるほどな……ってお前ハチだよな? あんまりアバターと顔変わんないんだな……目とか……」

 

 そう口にするクラインにそこはかとなく馬鹿にされているような気がしたが、今は緊急事態なのでとりあえず聞き流す。

 

「でもプレイヤーの体型はどうやって……?」

「あ、確かナーヴギアの初期設定でキャリブレーション……? とかいうので身体を触ったよな。それじゃねーのか?」

 

 キリトの疑問に答えたのは意外なことにクラインだった。そうして俺たちが一通り推察して納得すると、再び茅場が語りだす。

 

「諸君らは今、何故、と思っているだろう。何故茅場晶彦はこのようなことをするのか、と」

 

 俺はその言葉に神経を集中させた。茅場晶彦のこのテロ行為に目的があるのなら、交渉の余地があるかもしれない。だが続く言葉によって、そんな俺の希望は儚く打ち砕かれた。

 

「しかし、既に私に目的は存在しない。私が焦がれていたのは、この状況、この世界、この瞬間を作り上げること。たった今、私の目的は達成せしめられた……」

 

 満足げにそう語った茅場はゆっくりと広場を一望する。

 

「それでは長くなったが、これでソードアート・オンライン正式サービスのチュートリアルを終了とする。プレイヤー諸君、健闘を祈る」

 

 言い終えると、巨大なアバターは耳障りなノイズを立てながら崩れ去っていった。同時に空を覆っていた紅い表示も一瞬にしてなくなり、霞みがかった夕暮れの空が視界に戻ってくる。しかし不気味な演出が消え去っても、広場を支配する言い知れぬ不安だけは決して消えることはなかった。

 こうして、俺たちのデスゲームは幕を上げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その直後、大広場は収集のつかない大パニックになったが、既に俺たちはキリトに手を引かれてその場を後にしていた。

 路地裏に立ち止まったキリトが、真剣な様子で話を切り出す。

 

「2人とも、よく聞いてくれ。俺は今から次の村に向かおうと思う」

 

 その言葉に、俺とクラインは目を見合わせた。急な展開にクラインは頭を抱えながらため息を吐く。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ。まだ頭の整理がつかねぇんだ……つーか、なんだって急に……」

 

 俺もまだ少し混乱していたが、ここはひとまずキリトの話を聞いてみようと目線で続きを促す。クラインが少し落ち着くのを待って、キリトが再び口を開いた。

 

「茅場晶彦の話、全て事実だと思って行動した方がいい。俺たちはこのゲームの中で生き残らないといけない」

 

 その点については特に異議はない。俺もクラインも頷いて次の言葉を待った。

 

「この世界で生きていくためにはモンスターを狩って、経験値と金を稼ぐ必要がある。ゲーム内のリソースには限界があるから、始まりの街周辺のモンスターは他のプレイヤーたちにすぐ狩り尽くされるだろう」

 

 厳密に言えば、単に生きるだけなら経験値も金も必要ない。現実世界の俺たちの肉体は病院で点滴生活ということになるだろうし、ゲーム内でシステム的に餓死することはないのだ。野宿すれば宿代もかからないので、理論上は一銭も使用することなくゲーム内で生活することは可能だった。

 だがまあ現実問題、空腹にひたすら耐えるのは難しいものがあるし、様々なリスクを考えると野宿も控えた方が賢明である。そういった意味ではキリトの言葉は正論だった。

 

「だから、今のうちに拠点を次の村に移した方がいいんだ。俺なら危険なポイントも全部知ってるから、仮にLV1だったとしても安全に次の村に辿りつける」

 

 キリトは迷いなくそう言い切った。その話は一見正しいように思える。だが――と俺が考えた所で、クラインが口を開いた。

 

「今日は別行動だったけど……オレ、他のゲームの知り合いと一緒にこのゲームを買ったんだ。あいつらを置いてはいけねぇよ」

「……その知り合いっていうのは、何人居るんだ?」

「4人だ」

 

 クラインの返事に、キリトが小さく顔を歪めた。その理由が俺にはよくわかる。足手まとい4人を連れての行動は、命取りになるだろう。

 だが、今の問題はそこじゃない。

 

「俺は、今次の村に向かうのはやめた方がいいと思うぞ」

 

 その発言に、意外な顔をした2人がこちらに向き直った。怪訝な目をこちらに向けるキリトと視線が合う。

 

「……なんでだ?」

「お前が持っている情報は、βテストの時のもんだろ? もし正式サービスにあたって何か変更されていれば命取りになる。ここはもっと慎重になるべきだ」

 

 もしモンスターの分布が変更されていたり、フィールドボスの行動範囲が変わっていれば簡単に命を落とすことになるだろう。βテストから正式サービスに移行するにあたって仕様を変更するオンラインゲームなんてざらにあるのだ。

 

「確かに……でも、今日狩りをした感じじゃそんなに変更点はなかったし、そこまで神経質にならなくても……」

「キリト、勇敢で剛胆な奴が生き残れるのはフィクションの世界だけだ。現実世界で生き残るのは、臆病で神経質な奴だと俺は思ってる」

 

 キリトの言葉に、俺は柄にもなく強めに反論した。いつもなら我関せずで済ませるかもしれないが、さすがに今回は命にかかわることだ。そしてそんな俺の言葉に同意するように、隣に立つクラインも深く頷いてくれる。

 

「キリト、ハチの言う通りだぜ。ここは慎重になるべきだろ?」

 

 クラインの台詞に、キリトはしばらく瞑目した。10秒ほどそうしていただろうか。その後大きく息を吐いてから、キリトは自嘲気味な笑みを浮かべて口を開いた。

 

「……そうだな。俺、少し焦ってたみたいだ。2人とも、ありがとう」

 

 

 

 

 

 

 その後、ゲーム開始から1ヶ月で800人が死んだ。

 これが多いのか、少ないのか、俺にはわからない。

 そして、未だ第一層はクリアされていない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2話 第1層攻略

 このデスゲームが始まった日の夜、俺は考えていた。

 俺たちはいつこの世界から解放されるのか、と。

 βテストの時、2ヶ月で到達出来たのは第八層までだった。簡単な計算でも百層攻略するのに2年以上かかる。

 まあβテストの時とはかなり条件が違うから、実際のところクリアまでどれだけ時間がかかるかは未知数だ。プレイヤー数が増えたことでβテストの時より早く攻略が進む可能性だってある。

 

 だが少なくとも、“あいつら”の卒業に間に合うことはないだろう。

 無くしてみて、そして自分の死に直面してみて、よくわかった。

 ぼっちだ何だと気取ってみても、結局俺は“あの場所”が気に入っていたのだと。何度も何度も戒めたのに、もしかしたら、と期待していたのだと。だから、もしあそこに帰ることが出来たら……。

 

 いや、詮の無いことを考えるのはやめよう。

 きっと、俺があの部室へと行くことはもうないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アインクラッド攻略!

 生き残るための、ハチの心得!

 

(1)ビギナーは訓練所を活用すべし!

 モンスターとの戦闘において、ソードスキルは必須である。訓練所のカカシ相手にソードスキルの練習をし、安定して使えるようになるまで精進せよ。然る後に、万全の準備を持ってフィールドへと挑むべし。

 

(2)戦闘に自信のない者は、非戦闘系のクエストを受注すべし!

 始まりの街には、お使い、採集、アルバイトなどの非戦闘系のクエストが存在する。クエストを完遂すればコルと、少量ではあるが経験値が手に入るので、まだフィールドに出ることが出来ないプレイヤーは活用すべし。

 

(3)狩りに出る前に情報収集をすべし!

 SAOにおいて、狩りに出る前の情報収集は必須である。モンスターの分布、特性、行動アルゴリズム。加えてフィールドの特性、罠の有無。それらの情報を把握し、その対策を練って行動すれば百戦危うからず、である。逆にロクな情報を持たずにフィールドに出ることは、自殺行為だと心得よ。

 

(4)βテスト時の情報を鵜呑みにするな!

 ゲームの最初期において死亡したプレイヤーたちには、多くのβテスターたちが含まれている。彼らは己の持つ情報を過信したためにその尊い命を落とすこととなった。βテストから正式サービスに移行するにあたり、随所で仕様の変更が確認されている。彼らの犠牲に学び、我々は情報の真偽をよく見極めるべし。

 

(5)前線の攻略に参加する自信のない者は、支援に回ることも考慮に入れるべし!

 SAOには多くの生産系のスキルが存在する。鍛冶スキルや料理スキルなどで前線で戦うプレイヤーたちを支援することも、ゲーム攻略へと貢献する1つの手段である。多くのプレイヤーで一致団結し、アインクラッド攻略を目指すべし。

 

(6)狩りにおいて、安全マージンは充分に確保すべし!

 安全マージンとは、狩りにおける安全度の余裕である。ゲームに慣れたプレイヤーたちは狩りの効率を優先しがちであるが、SAOにおいてはまず安全を優先すべし。

 狩りでHPゲージが黄色まで減るような場合は、安全マージンが確保出来ていないと言える。常に余裕を持って狩りに挑むべし。

 

(7)狩り場は常に譲り合って使うべし!

 狩り場の独占は争いの元である。そういったプレイヤー同士の軋轢が集団の足を引っ張り、攻略の妨げになることは想像に難くない。

 狩り場の譲り合いなど、マナーを守った行為が結果的に攻略を早め、ひいてはこの世界からの生還に繋がるのである。

 

(8)自暴自棄にならず、冷静な思慮のもと行動すべし!

 SAOは必ずクリア出来る。いくらか時間はかかろうとも、いつか必ずやゲームから解放される時がくる。自暴自棄にならず、生きるために各々が今出来ることを冷静に考え、行動すべし。

 

 

※以上、ガイドブックより抜粋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 デスゲーム開始から約1ヶ月。

 第1層、迷宮区手前に位置する街《トールバーナ》

 

 街の中心に位置する広場には、石積みによって造られた半円形の舞台のようなものが設置されていた。その客席の端っこへと腰掛けた俺、比企谷八幡は視線だけで周りを見渡す。

 

「おお……。意外と集まるもんだな」

 

 視線の先には、俺と同じように石積みの客席へと腰掛ける数十名のプレイヤーたち。身に着けている装備を見るだけでも、レベルが高いプレイヤーたちだということが分かる。間違いなく現時点では彼らがゲーム内のトッププレイヤーだろう。

 そんな彼らを前にして感嘆の声を上げた俺とは対照的に、隣でプレイヤーの数を数えていたらしいキリトは微妙な顔を浮かべていた。

 

「俺らも入れて45人か……欲を言えばあと3人欲しいところだな。6人パーティを8つ組んで、48人のレイドを作るのがベストだし」

「いやそりゃその通りだけど、正直これ以上人数を揃えるのは厳しいだろ。初めてのボス攻略で尻込みしてるプレイヤーが多いからな……。つーか、俺も出来るなら参加したくない。帰っていい?」

 

 そう、個人的には大変不本意ではあるのだが、今俺とキリトがここにいるのはこの広場で行われる予定のフロアボス攻略会議に参加するためだった。

 先日、あるパーティがとうとう第1層のボス部屋を発見したという情報が入ったのだ。次いで、その攻略会議を行うためにめぼしいプレイヤーたちに召集がかけられたのである。第1層で活動しているうちになんやかんやでそれなりにレベルが高くなっていた俺たちにも情報屋を通じて声が掛かったという訳だ。

 

「お、始まるみたいだぞ」

 

 俺のぼやきを無視したキリトが広場の中心に顔を向ける。つられて俺も視線を移すと、騎士風の鎧装備を纏ったイケメンが立っているのが目に入った。

 青髪ロングというなかなかファンキーな髪型をしている男だ。非現実感漂うゲーム内だからだろうか、あまり違和感はない。

 奇抜なヘアスタイルに反して男は爽やかな笑顔を浮かべ、周囲のプレイヤーたちを見回した。そしてこの場の注目を集めるように大げさな身振り手振りで語り始める。

 

「みんな、今日は集まってくれてありがとう! 俺はディアベル! 職業は、気持ち的にナイトやってます!」

 

 その自己紹介に、すかさず周囲から「ジョブシステムなんてないだろ」というツッコミが入り、笑いが生まれる。とりあえず、今のやりとりだけでもあいつがリア充だということがわかった。

 俺とは合わないタイプだな。ちなみに大抵の人間はこのタイプに分類される。

 

「先日、俺のパーティが迷宮区でボス部屋を発見した」

 

 ディアベルと名乗った男は表情を真面目なものへと変えて、そう切り出した。プレイヤーたちの間に緊張が走る。この場にいる全員が息を飲んで続く言葉を待っていた。

 

「このデスゲームが始まってから1ヶ月……少しずつだけど、俺たちは前に進んでる。ここでボスを攻略して、このデスゲームにもいつか終わりが来るってことを始まりの街で待つ皆に教えてやろうじゃないか!」

 

 ディアベルが力強く拳を突き上げる。それに呼応して広場のプレイヤーたちも歓声を上げた。ボス攻略前の演説としては上出来だろう。ちなみに俺とキリトも空気を読んで、何となく右手を上げておいた。

 士気十分なプレイヤーたちの様子に満足したのだろう。ディアベルが笑顔を浮かべて大きく頷く。

 

「よし、それじゃあボス攻略会議を始めさせてもらう。まずは――」

「ちょお、待ってんか!!」

 

 ディアベルの話を遮り、広場の中央に1人のプレイヤーが躍り出た。

 

「ワイはキバオウってモンや!」

 

 小柄な男が、ディアベルの横に立つ。俺はキバオウと名乗ったそのプレイヤーに視線を移すと――衝撃を受けた。

 

 何だ、あの頭。

 トゲトゲとした髪型をしている。蘭姉ちゃんも顔負けのトゲトゲヘアーだ。いや、自分でも何言ってるか分かんないけど、それ以外表現しようがない。あえて言うならこんぺいとうだろうか。さっきは奇抜なヘアスタイルとか言ってごめんディアベル。こいつに比べたらお前は全然普通だった。

 やがて俺は動揺を隠しきれず、隣に座っているキリトに声を掛ける。

 

「な、なぁ。あいつの髪型って、どうなって……」

「ハチ、うるさい」

「え、あ、ごめん」

 

 何故か真剣な様子のキリトに注意された。

 ……え? なんでそんなしれっとしてんの? 俺がおかしいの? いやいや、確かに数々のマイノリティに属してきた俺だが、流石にあの頭は……。

 という俺の思考を遮って、キバオウが話し始める。

 

「会議を始める前に、ワイはこの場で言っとかなあかんことがある!」

 

 話すキバオウは随分と剣幕な様子だ。髪型の件はとりあえず頭の隅に置いておいて、俺もそれに耳を傾ける。

 

「こん中に、今まで死んでった800人の人間に詫びいれなあかん奴らがおるはずや!」

 

 言って、キバオウはプレイヤーたちの顔を見回した。その言葉の意図を察し、俺の頭は急速に冷めていく。隣にいるキリトも硬い表情を浮かべていた。

 

「その……キバオウさんが言っているのは、元βテスターの人たちのことかな?」

 

 隣に立つディアベルが神妙な顔で尋ねると、キバオウは大きく頷く。

 

「そうや! β上がりどもはこんクソゲームが始まった時、ワイらビギナーを見捨てて始まりの街から消えやがった! そん後もボロいクエストやら狩場を独占して、ビギナーのことはお構いなしや! こん1ヶ月で800人も死人が出たんは、β上がりどものせいや!」

 

 憤懣やる方ないという様子で、キバオウは口早に捲し立てた。

 現在、このSAOの世界には元βテスターと正式サービスからの新規参入者との間に確執が存在する。勿論全ての元βテスターがキバオウの言うような行動をとった訳ではないが、一部では事実でもあった。そのため多くのプレイヤーたちはβテスト経験者に不信感を持っているのだ。

 まあゲーム攻略の上では元βテスターの力は欠かせないため、今まで明確な対立は避けられていたのだが、キバオウはそんなことはお構いなしとばかりに不満を爆発させていた。

 

「こん中にもおるはずやで! β上がりの奴らが! ここでそいつらに詫び入れさせて、溜め込んだ金とアイテムを差し出してもらわな、パーティメンバーとして命は預けられんし、預かれん!」

 

 言いたいことを全て言い切った様子で、キバオウはプレイヤーたちの反応を待つように仁王立ちで腕を組んだ。それきりプレイヤーたちの間に険悪なムードが漂う。

 

 ……さて、どうしたものか。

 元βテスターである俺としては色々と反論したいところはあるのだが、今この場でそれを言ってキバオウを納得させるのは難しいかもしれない。こういう対立は大体の場合、理屈の問題じゃなく感情の問題だ。俺みたいな青臭いガキが何か言ったところで納得はして貰えないだろう。

 そして、そもそもこんな空気の中で発言するなんてぼっちにはハードル高い。なんかスゲー帰りたくなってきた。

 

「発言いいか?」

 

 やがて沈黙を破ったのは、渋い大人の声だった。振り返ると、挙手する厳つい黒人のおっさんが視界に入る。頭は剃り上げてスキンヘッドである。

 なに、あの人めっちゃ恐い。日本でゲームやってる奴の風貌じゃないだろ……。そう思ったのは俺だけではないようで、広場の中央に立つキバオウも若干ビビったような表情を浮かべていた。

 

「俺の名前はエギル。キバオウさん、つまりあんたが言いたいことは、今まで多くのプレイヤーたちが死んでいったのは元βテスターたちのせいで、その責任をとってこの場で謝罪と賠償をしろ、ということか?」

「そ、そうや!」

「そうか……。じゃあキバオウさん、あんたは“これ”を知っているか?」

 

 そう言って彼がストレージから取り出したのは、俺も良く知っているある本だった。エギルの強面に若干萎縮しつつ、キバオウはそれに答える。

 

「……道具屋で配っとる、ガイドブックやろ? それがどないしたんや」

 

 エギルは立ち上がって中央まで進み、全員に見えるように本を掲げる。

 

「みんな知っているか? これはあるβテスターたちが自主制作したものなんだ」

 

 その言葉に、プレイヤーたちがざわついた。βテストの情報が載っているんだから少し考えればわかりそうなものだが、どうやら大多数の人間は知らなかったらしい。

 

「情報は開示されていたんだ。特にこの本の冒頭に書かれている《ハチの心得》。これはSAOのノウハウが全くわからなかった多くのプレイヤーたちの命を救ったはずだ。800人の死者が出たのは事実だが、この情報がなければもっと多くの人間が死んでいてもおかしくなかった」

 

 集まったプレイヤーたちの多くもガイドブックを活用していたようで、所々から賛同の声が囁かれる。キバオウはばつが悪そうな表情で舌打ちをし、顔を背けた。

 

「それに、あんたの言うようにβテスターを特定して身包みを剥いだとして、この後の攻略はどうするんだ? 俺はもっと建設的な話が出来ると思ってここに来たんだがな」

 

 エギルのその言葉がとどめになったようで、キバオウはうなだれて元の位置に戻っていった。話に納得した様子ではなかったが、少なくともこの攻略中に話を蒸し返すことはないだろう……と思いたい。

 その後キバオウとエギルが元の位置に着席したのを認め、ディアベルが再び口を開く。

 

「えーっと……じゃあ仕切り直して、これからボス攻略会議を始める! まずは皆、6人パーティを作ってくれ!」

 

 ほっとしたのもつかの間、ぼっちにとっての最大の試練が訪れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボス攻略会議が終わり、俺とキリトは拠点にしている小屋に戻ってきていた。

 SAO内では所々にこういった貸し出し可能な家や小屋があり、上手く利用すれば宿よりも割安だ。経費削減のために俺とキリトはこの小屋をシェアして使っている。他人と四六時中同じ空間に居ると言うのは抵抗があったが、懐事情は厳しく、背に腹は変えられないので妥協することになったのだった。

 帰ってきた俺はまずシステムメニューを操作して部屋着に着替え、ゆっくりと自分のベッドへと沈み込んだ。

 

「あー、疲れた。やっぱ知らん奴と話すのは体力使うな」

「よく言うよ。ほとんど俺任せだったくせに……」

 

 俺と同じように部屋着に着替えたキリトが呆れた表情を浮かべる。

 

「いやほら、俺女子と話をすんのとか苦手だし」

「いや、俺も苦手だから……」

 

 攻略会議のパーティ決めの際、案の定俺とキリトは他の集団からあぶれ、同じようにあぶれていた1人の女プレイヤーと余り物同士3人でパーティを組むこととなったのだ。もちろん女子との会話が不慣れな俺は、彼女とのやりとりは全面的にキリトに委託することにしたのだった。

 キリトは多少人見知りはするが、コミュ障というほどではない。本人に直接聞いた訳ではないが多分まだ中学生くらいだろうし、訓練次第で更にコミュ力は上がっていくはずだ。そういうわけで今後も他人のやり取りはキリトに任せていきたいと思う。

 

「……なあ、ハチ。今日の話さ」

 

 俺がベッドの上でゴロゴロとしていると、キリトがなにやら真面目な表情で話を切り出した。仰向けになりながら、視線だけそちらに向ける。

 

「エギルさんの、あの話。何か報われたよ。わかってくれる人も居るんだなって……。俺たちのしてきたことは、無駄じゃなかった」

 

 キリトの話し方はかなり曖昧だったが、俺はその意図するところを察して頷いた。ベッドから身を起こし、近くの小さな窓から空を見つめる。既に陽は落ち、頼りない光を放つ星々がそこに浮かんでいた。

 

「そうだな。でも……」

 

 ――800人は、死んだ。

 俺がその言葉を続けることはなかったが、その意を察したようにキリトが口を開く。

 

「ハチ、それはお前が全部背負い込まないといけないことじゃない。俺たちは俺たちに出来ることをやって、それで救われた人が居た。それでいいだろ?」

「わかってるよ。そもそも俺が人助けをしなきゃいけない義理も義務もないんだ。俺は単にクラインとお前のお人好しに付き合わされただけだし」

 

 俺は肩を竦めてそう言って、キリトに視線を向ける。目が合ったキリトは何故か呆れたような笑みを浮かべてこちらを見つめていた。

 

「ハチ、お前やっぱり捻くれてるよな」

「……ちょっと、ぶらぶらしてくるわ。先寝ててくれ」

「ああ」

 

 何となくキリトの眼差しに居心地が悪くなって、俺はそこから逃げ出したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 デスゲームが始まった、あの日。

 しばらく始まりの街に留まることを決めた俺たちは、クラインの知り合い4人と合流し、宿の一室で今後の方針について話し合っていた。

 

 俺たちが取りうる選択肢は3つ。1つ目は外部からの助けや他プレイヤーの攻略に期待して、安全圏に閉じこもること。2つ目は積極的に攻略に参加して、ゲームクリアに貢献すること。そして3つ目は――

 

「なあ、オレたちで何か出来ねーかな? 他のビギナーたちのためにさ」

 

 話し合いの中、意を決したようにそう口にしたのはクラインだった。荒い板張りの床に胡坐をかき、どこか遠くを見つめるように顔を伏せている。

 

「たぶん、ほっといたらこれから大勢死ぬ。右も左も分からないようなプレイヤーがよ。オレだって、ハチとキリトに会えてなかったらきっとそうなってた。他人事にゃ思えねーんだ」

 

 そう言ってクラインは全員に視線を向けたが、俺たちは一様に堅い表情で黙り込んだ。

 クラインの言っていることはきっと正しい。正しいが、それは困難な道だ。みんなそれを理解しているからこそ、簡単に頷くことは出来ない。

 部屋に重い沈黙が降りる。やがてそれを破ったのは、クラインの隣でベッドに腰掛けていたキリトだった。

 

「クラインの言っていることはわかる。俺も出来ることがあるなら何とかしたいけど、正直1万人近いプレイヤーたち相手に何が出来るのか……」

「それはほら、希望者集めてレクチャーしたりとか……」

「いや、さすがにそれは無茶だろ。こんな超序盤でそんなことしたら収拾付かなくなるぞ。人数を制限したらあぶれた奴から逆恨みされるかもしれないし」

 

 ひとまず成り行きを見守ろうと思っていた俺だったが、さすがにこれには口を出した。ここにいる俺たちだけで1万人弱のプレイヤーたちを直接的に指導することなど現実的には不可能だ。

 そんな俺の否定的な言葉にクラインは項垂れ、小さくため息を吐く。

 

「そうか……。ハチは何か案はないのか?」

 

 クラインに話を振られ、俺に注目が集まる。ちょっとキョドりそうになりながらも、努めて冷静に答えた。

 

「ないこともないけど……。つーか、その前に確認したいんだけど、その……人助け? するのは決定なのか?」

「ハチは反対なのか?」

「いや、反対というか……もし何かしらのアクションをとるなら、俺とキリトだけじゃなくてクラインとそっちの4人にも結構無理をしてもらうことになると思うし、それでも正直成果が出るかどうかもわからないしな……。だから、予め全員の考えを確認しておいた方がいいと思う」

 

 言って、俺はクラインの後ろに控える4人に視線を向けた。全員見た目は20歳前後の男プレイヤーである。俺の言葉に頷いたクラインも、振り返って彼らへと水を向ける。

 

「正直に言ってくれていい。こんな状況だ。自分のことを優先しても、誰も責めらんねぇしな」

 

 問われた4人は顔を見合わせる。やがてその中の太った男――名前は忘れた――が口を開いたのだった。

 

「むしろ俺たちは助けて貰う側だし……。それでもやれることがあるなら、俺も何かしたい」

 

 その隣で他の3人も同意するように頷く。これでひとまず言質は取れたので、後になって文句を言われることはないだろう。内心ではそんな身も蓋もないことを考えながら、俺も頷き返す。

 

「そうか。それなら一応俺に案……っていうほどのもんでもないけど、考えはある。けどほんとに気休め程度だから、期待しないでくれ」

 

 そう前置きをしてから、俺は自分の考えを語った。

 俺が計画したのは、生き残るために役立つ情報を載せたガイドブックを作ることだった。誰でも思いつきそうな無難な手段だが、SAOの中で実際にこれをやろうとすると色々と問題に直面する。

 まず文書を作成するための《書道スキル》を取得しなければならないし、これを道具屋で印刷して貰うためにもあらかじめいくつかクエストをこなしておかなければならない。当然印刷には費用もかかるので、ある程度の資金は必要になる。そしてなによりビギナーが躓きそうな問題について先取りして情報を与えるためには、これらをなるべく迅速に行わなければならなかった。

 

 活動はその日のうちに始められた。《書道スキル》を取得する班、道具屋のクエストをクリアする班、資金集めにモブを狩る班に分かれて動き、明け方頃にはおおよその下準備が整ったのだった。

 

 その後も休みなしで活動は続いた。まずは重要度の高い項目を《書道スキル》によって書き出し、道具屋に依頼して印刷して、号外として街中にばら撒いた。それが《ハチの心得》である。

 命名はクラインで、8と俺の名前をかけたらしい。というか、俺やキリトがノウハウとして提供したのは6つまでだったのだが、クラインが語呂を合わせるために勝手に2つ付け加えて8つにしたそうだ。その辺りはクラインと他の4人に任せきりで俺は関与していなかった。

 

 それでは俺とキリトは何をしていたのかと言うと、モブを狩って今後さらに必要になるだろう資金を貯めつつ、βテスト時の情報と照らし合わせながらフィールドをまわっていたのだ。

 その後、ある程度の情報が集まってから本格的にガイドブックの制作を開始。ページ数もそこそこあるため、印刷にもかなり金がかかる。さらに道具屋に委託して配布するのにも手数料がかかるので、一時期は金欠でその日食べる飯にも事欠く始末だった。

 その甲斐あってガイドブックは無事完成し、配布が開始されたのだった。

 

 だが、それでも死者は増えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボス攻略前夜。

 キリトから逃げるように小屋を出た俺は、街の外縁に腰掛けていた。

 売店で買った珈琲のようなもの――SAOのゲーム序盤には良くわからない飲食物が多い――を啜りながら、システムウインドウを弄り、メッセージをしたためる。

 メッセージの相手はクラインで、内容は日課の定時報告である。まあ日課といってもキリトと交互に行っているので2日に1回なのだが。

 1冊目のガイドブックが出来上がってからはクラインたちと完全に別行動をとるようになったので、こうしてメッセージでやりとりをしている。別行動をとりはじめたのはクラインからの提案だ。というのも――

 

「制作作業はひと段落ついたし、こっちはオレらに任せてお前らは好きに動いてくれ! ハチとキリトみてぇな強いプレイヤーが街で燻ってちゃ勿体無いしな!」

 

 ――というクラインの後押しにより、俺とキリトも本格的にフィールドへと乗り出すことになったのだった。

 それでも正直俺は最前線の攻略にまで参加するつもりはなかったのだが、第1層の攻略は思った以上に難航していたらしく、キリトと一緒に活動しているうちにいつの間にか最前線に追いついてしまったのだ。

 初動の遅れた俺たちは大勢のプレイヤーたちとリソースの奪い合いになり、しばらくはレベリングもままならず足踏みをすることになるだろう――というのが当初の予想だったのだが、実際には未だ始まりの街に閉じこもっているプレイヤーが多く、俺たちが危惧していたような事態にはならなかったというわけである。

 

 そうして完全にクラインとは別行動をとり始めた俺たちだったが、毎日得た情報だけはメッセージで送っていて、資金も定期的に届けている。既にガイドブックも2度目の改訂版が出されているので、俺たちが居なくても活動は順調のようだった。

 βテスト時の情報だけだが最新版にはフロアボスについても記載されており、昼間の攻略会議でも打ち合わせに使用されたほどだ。

 

「こんなもんか……」

 

 独り言ちた俺はそのままメッセージを送り、定時報告を済ませる。次いで珈琲のようなものを一気に飲み干し、一息ついてから小屋に帰るべく歩き出した。しかし、門をくぐって街に入るところで見知ったプレイヤーを見て足を止める。

 

 フードを被った女細剣使い(フェンサー)

 明日のボス攻略でパーティを組むことになった、アスナとかいう奴だ。

 

「よ、よう」

「……」

 

 アスナは無言で俺の横を通り過ぎていった。無視ですか、そうですか。まあこの程度の出来事は慣れている。問題ない。

 その背中を何となく視線で追うと、彼女はそのまま街の外に出かけて行くようだった。俺はその行動に引っかかるものを感じ、意を決してもう1度話しかける。

 

「おい、お前どこに行くつもりだ? ……おいって。お、おーい? アスナさーん?」

 

 アスナは俺の言葉に振り返りもせずそのまま歩いて行こうとしたが、名前を呼ぶとピクリと反応し、その足を止めた。

 さすがにこれだけ話しかけてシカトされたら俺でも心が折れてたぞ……。そうして若干安堵しつつ、背を向けたままの彼女に更に声を掛ける。

 

「あー……なんだ、もしボス攻略が怖くなって出てくっつーなら別に止めないぞ。ただ、明日の集合時間に探し回るのは面倒だから、もし抜けるなら今ここで言ってくれ」

 

 この時間に街を出ていくということは、きっとそういうことだろう。それについて責める気はない。嫌なことから逃げることは悪いことじゃないのだ。ましてや今回は命がかかることである。キリトが居なければ俺も逃げ出していたかもしれない。

 しかしそんな俺の思惑とは裏腹に、アスナの口から出たのは否定の言葉だった。

 

「レベル上げに行くだけよ」

「……それならまあ、いい。でも明日のこともあるから、ほどほどにしとけよ」

 

 正直明日のことを考えるなら今日はしっかりと休むべきだったが――SAO内では体力は消費しないが、意外と気力は消費する――まあ個人の自由なので、強く引き止めるようなことはしない。

 とりあえず聞くべきことは聞いたので、もう用件は済んだ。そうして俺はアスナに別れを告げて帰路につこうとしたのだが、いつの間にかこちらに振り返っていた彼女に呼び止められる。

 

「ねぇ、あなた。どうして私の名前がわかったの?」

「は? パーティ組んでるんだから、表示されてんだろ? 左上らへんに」

「キ……リト? これ、あなたの名前?」

「俺はハチだ。キリトはもう1人の方な。……つーか、もしかしてパーティ組むの初めてか?」

 

 その問いに、アスナはコクリと頷いた。俺は少し不安になって、もう1つ質問してみる。

 

「えっと……一応聞くけど、スイッチとかわかるか?」

「スイッチ?」

「マジか……」

 

 彼女の返事に、俺は項垂れて頭を抱えた。これは少しまずい事態である。

 俺たちのパーティに割り振られた役割は、人数が少ないこともあってボスの取り巻きへの対処という危険度の低いものだった。だが、流石にスイッチも知らないビギナーでも務まるほど楽な役割ではない。ましてや俺たちは3人だけのパーティなのだ。

 ちなみにスイッチと言うのは、モンスターの攻撃を弾いてその隙に前衛と後衛が入れ替わる技術のことだ。回復などのためのローテーションを回すのに必要となり、パーティの戦闘では必須技術である。

 

「お前、明日のボス攻略はやめとけ。スイッチも知らないビギナーじゃ足手まといだ」

「行くかどうかは、私が決めるわ」

 

 俺の忠告に、間髪入れずにアスナが答える。フード越しで表情は見えなかったが、彼女がムッとしたのは伝わってきた。気の強い女だな……誰かさんを彷彿とさせるわ。

 いつもの俺ならこの時点で戦略的撤退を決め込むところだろう。だが、今回は命に関わることなのでもう一言だけ忠告することにする。

 

「ここで意地はっても、無駄死にするだけだぞ」

「……もしかして、心配してくれてるの?」

「は!? いや、まあ、その……人並みには、な」

 

 盛大にキョドってしまった。死にたい。たがアスナはそれを意に介した様子もなく答えた。

 

「そう。ありがと。でもボス攻略には、参加するから」

「あ、そう……」

 

 急に素直な礼を返されて若干たじろいだが、彼女のその強情さに俺はすぐに冷静になって頷いた。

 これ以上の問答は無駄だろうと悟り、俺は諦めて家に帰ることに決める。しかし続くアスナの言葉によって、それは妨げられたのだった。

 

「だから、その……スイッチっていうの、教えてくれない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今だ! スイッチ!」

 

 俺が声を張り上げるとアスナは恐ろしい速さで敵前へと飛び込み、対峙していたコボルトの喉を右手に持つレイピアで貫いた。その攻撃によって敵のHPは全損し、コボルトは一瞬硬直した後すぐにガラスのように砕け散っていった。

 アスナは剣を収めて息をつき、振り返って俺の顔を覗く。

 

「こんな感じでいいの?」

「ああ、スイッチは上出来だ」

 

 街中での一件から、俺はアスナにフィールドでパーティ戦についてレクチャーすることになったのだった。トールバーナから迷宮区の間に広がる森の中、なるべく開けた場所を選んで既に何度かの戦闘を繰り返している。

 ここに来るまで俺の頭の中は不安でいっぱいだったのだが、実際に戦ってみるとそんな不安は一気に吹き飛んだ。

 驚いたことに、アスナの戦闘技術はかなりのものだったのだ。剣捌きは速く、正確。まあよく考えてみれば当然か。パーティも組まずにこの最前線で戦っていたのだ。状況判断にまだ荒さが残るが、明日のボス攻略においては十分戦力になるだろう。

 

「『スイッチは』って、どういう意味?」

 

 俺の言葉から耳聡く微妙なニュアンスを聞き取ったらしいアスナが尋ねた。槍を背中の定位置へと収めてから、俺はそれに答える。

 

「最後の一撃はオーバーキルだったな。残りのHPを考えれば、ソードスキルを使う必要はなかっただろ」

「オーバーキルの何がいけないの?」

 

 アスナが可愛く小首をかしげる。その仕草に俺はドギマギしつつ、しかしそれを誤魔化すように口を開いた。

 

「あー……。えっとな、例えば複数の敵と戦ってる時なんかは、一体目を倒した後もすぐに動かなきゃいけないだろ? だから、基本的になるべく隙の少ない弱い攻撃でとどめを刺す癖を付けといたほうがいいんだよ。あと、ソードスキルって使いすぎると疲れるし」

「なるほどね」

「なあ、もう終わろうぜ。明日のために早く休んだ方がいい」

 

 というか、俺が限界だった。知り合ったばかりの女子と2人きりとか……ぼっちには難易度が高すぎる。

 まあそれを抜きにしても、もう良い時間だ。アスナも俺の提案に異論はないようで、どちらからともなく街へと向かって歩き出した。

 

「あー疲れた……。さっさと帰って風呂入って寝よ」

 

 それは気を紛らわすために呟いた独り言だったのだが、何故かアスナはその言葉に過剰な反応を見せた。前を歩いていた俺の肩をアスナが乱暴に掴み、引き寄せる。内心ビビりながらも、俺は何とか口を開いた。

 

「な、なんだよ……?」

「お風呂って、あるの?」

「へ? あ、ああ。付いてるとこには付いてるぞ。この辺にはあんまりないけど……。俺が借りてる小屋にはついてんだよ」

 

 妙に剣幕な様子のアスナから距離をとりつつ答えた。しかしアスナはさらにこちらに詰め寄って俺に質問を投げかける。

 

「あなたの家以外に、この辺りにお風呂に入れる所ってないの?」

「俺の知る限りじゃないな。じゃ、そういうことで、またな」

「ちょっと待って」

 

 一刻も早く家に帰りたかった俺はこの場で別れを告げようとしたが、すぐにアスナに呼び止められる。だが彼女はすぐには要件を切り出さず、何やら悩んでいる様子だった。数秒の沈黙の後、やがて消え入るような声でアスナが口を開く。

 

「その……あなたの泊まってる場所のお風呂、貸してもらえないかしら……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハチ、これは一体どういうことだ?」

「いや、なんつーか……成り行きで、としか……」

 

 拠点としている小屋に戻ってきた俺は、既に部屋着に着替えて自分のベッドに腰掛けていた。同じようにキリトも自分のベッドに座り、俺と向かい合っている。いつもの光景だ。ここまでは。

 

「しかしハチが家に女を連れ込むとはなぁ」

「おい、人聞きの悪い言い方すんな。断じて俺が連れ込んだんじゃない、断りきれなかっただけだ」

「そんな自信満々にヘタレ宣言すんなよ」

 

 今現在、アスナは我が家の風呂を使用中である。

 パーティ戦についてのレクチャーの後、どうしても風呂に入りたいというアスナの要請を俺は断りきれなかったのだ。

 それで渋々家に招いたのだが、アスナはろくに礼も言わず、絶対に覗かないようにと再三俺に釘を刺して風呂場へと入っていった。

 というか、何故かキリトには何も言わず俺だけ注意されたんだけど……。解せぬ。あの女、俺の《絶対に許さないリスト》に追加しておこう。

 

「まあ女の子だしな。明日どうなるかわからないし……風呂くらい入っておきたかったんだろ」

「……そうだな。下手すりゃ、明日が最期になるかもしれないし」

 

 キリトの言葉に俺はそう言って頷いた。会話はそこで終わり、静寂が訪れる。しかし、すぐにその静寂を破って玄関の扉からノックの音が響いた。

 俺とキリトは顔を見合わせる。こんな時間の来客に心当たりはなかった。

 だがまあ、ここは圏内であり命の危険はない。ややあってベッドから立ち上がった俺は特に警戒することもなくドアノブへと手を掛けた。

 玄関前、薄暗い通りに佇んでいたのはフードを被った小柄な女だ。アスナと違って装備しているフードには顔を隠すような機能は無いようで、扉を開けた瞬間こちらを見つめる大きな瞳と目が合った。

 

「ヨォ」

「アルゴか……よくここがわかったな」

「情報屋舐めんなヨ? どこに引っ越してもすぐ見つけてやるヨ」

「こええよ。ストーカーか……」

「ニャハハ! ハチのストーカーなんかゴメンだナ!」

 

 そう言ってアルゴは、何が可笑しいのかコロコロと笑っていた。

 この胡散臭い喋り方をしている女は《鼠のアルゴ》などという通り名を持つ、アインクラッドでは割と有名な情報屋だ。《鼠》という異名は、こいつが鼠のような三本線のフェイスペイントをしていることからきている。

 また余談ではあるが、端整な顔立ちとそのマスコット的な格好も相まって、一部のプレイヤーに熱狂的な人気を誇っているそうだ。

 

 こいつとはβテストからの数少ない知り合いで、ガイドブック制作の折にもかなり協力をしてもらい感謝しているんだが……いかんせん考えが読みづらい相手なので、苦手意識は拭えない。

 

「おー、アルゴじゃないか。どうしたんだ今日は?」

「明日ボス攻略なんだロ? 激励しに来てやったんダヨ」

 

 横から顔を出したキリトがアルゴを迎える。アルゴはそれに答えながら、俺の脇をすり抜けて部屋に入っていった。

 

「ヘェ……中々良いトコロに住んでるじゃないカ。ン? あっちの扉はなんダ?」

「ああ、あっちは風呂だ。今は、ハチが連れてきた――」

「今! 俺が風呂に入ろうとしてた所なんだ! 明日はボス攻略だからさっさと風呂に入って寝るつもりだったんだ! と、言うわけで、来たばかりで悪いが今日はもう帰ってくれ!」

 

 キリトが口走りそうになったことを遮って、俺はまくし立てた。

 この女に弱みを握られるのは不味いのだ。俺が家に女を連れ込んで、あまつさえ風呂を貸し出したとアルゴに知れれば、散々ネタにされ弄られるのは目に見えている。下手をすれば口止め料とか言って金をせびられる可能性も……。

 と考えての行動だったのだが、むしろこの場では逆効果だったようだ。

 

「ふぅン。……それで、なにを隠してるんダ?」

 

 フードの中でニヤリと笑みを浮かべるアルゴ。俺は背中に嫌な汗を感じながら……いや、ゲーム内に発汗のエフェクトはないんだが……まあそういったプレッシャーを感じながらアルゴに言葉を返した。

 

「何も隠してないっつーの。な、キリト?」

「あ、ああ……」

 

 視線で釘を刺しつつ、キリトに話を振る。アルゴも俺たちの態度に思う所はあったのだろうが、1つ呆れたように息を吐くと諦めたように頷いた。

 

「……ま、無理に詮索はしないヨ。じゃー、お邪魔みたいだし今日のトコロは帰るとするカ」

「悪いな。あ、夜も遅いし送っていくか? キリトが」

「俺!?」

「心配しなくても大丈夫ダヨ。それじゃあ帰る――と見せかけテ!」

「あ! おい!?」

 

 アルゴはこちらの一瞬の隙をついて、物凄い勢いで駆け出した。その足が目指すのは部屋の奥の扉――風呂場である。

 俺は焦ってすぐにその背中を追いかけるも、スタートダッシュの差は埋まらず間も無くアルゴはドアノブに手をかけた。

 

「ニャハハ! このアルゴ様に隠し事なんて10年早いヨ、ハ……チ?」

 

 アルゴは風呂場の扉を開け放ったままの体勢で固まる。

 その後ろでアルゴを止めるべく追っていた俺は、そいつの視線の先……一糸纏わぬ姿のアスナと、目があった。

 

「え……? き、きゃああぁ!?」

 

 

 

 その後、俺はアスナに罵詈雑言を浴びせかけられ、ソードスキルで小突き回され――圏内なのでダメージはない。但し、物凄い衝撃で揺さぶられるので非常に不快――その後、額に穴があくほど土下座をさせられて、やっと許して貰えた。

 くそ……。こんなテンプレなラブコメイベントに巻き込まれるなんて、一生の不覚だ……。

 このトラブルを引き起こした張本人であるアルゴは

 

「ニャハハ! いや、悪かったヨ。まさかハチが女を連れ込んでるなんて思わなくてナ!」

 

 と全く悪びれる様子なく笑っていた。あいつも俺の《絶対に許さないリスト》に追加しておこう。

 

 たが、帰り際に「死ぬなヨ」と告げていったあいつの顔は、柄にもなく真摯だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 ディアベルに先導されて安全に迷宮区を潜り抜けた俺たちは、既にボス部屋の前へと到着していた。

 巨大な鉄製の扉を前に、ディアベルを中心にして44名が半円状に集合する。ディアベルは集まったプレイヤーたちの顔をゆっくりと見回し、力強い笑顔を見せた。

 

「この場で俺から皆に言うことは1つだけだ……勝とうぜ!」

 

 拳を振り上げたディアベルに呼応して、プレイヤーたちから気合の入った声が上がる。その熱が冷めやらぬうちに、ディアベルは扉へと手を掛けた。半自動的に、両開きの巨大な扉が口を開ける。

 

 ボス部屋は縦に長い大広間だった。

 45人のレイドが立ち回るにも十分な広さである。プレイヤーが扉をくぐると、薄暗かった部屋に明かりが灯り、大広間最奥の玉座に腰掛けていたボスモンスターがおもむろに立ち上がった。

 

《イルファング・ザ・コボルトロード》

 

 その姿は体長3、4メートルはあろうかという巨大なコボルトだ。右手にアックス、左手にバックラーを携えたスタイルである。体毛のない赤い皮膚に丸みのある体は遠目にするとだらしなく太ったような体形に見えるが、その実あれは筋肉の塊だ。その膂力でもって、ボスは巨大な戦斧を楽々と担ぎ上げる。

 続いてボスの前に小型――と言っても人間サイズ――のコボルトが数体ポップする。

 

《ルイン・コボルトセンチネル》

 

 全員身に着ける鎧は同じものだが、武器はそれぞれの個体が異なったものを装備している。個体によって戦闘スタイルが違うことと、全身に纏った鎧のせいで弱点部位が狙いにくいことが厄介なモブである。

 

 俺は遠目にそれら全てを観察し、今のところβテストと差異がないことに内心ホッとした。既に偵察隊からの報告は聞いていたが、この目で見るまでは安心出来ないでいたのだ。

 

「じゃあ俺たちは打ち合わせ通り、ボスの取り巻きの対処だ。もたもたしてると増援がくるから、さっさとカタを付けよう」

 

 パーティリーダーであるキリトの言葉に、俺とアスナは同時に頷く。武器を構え、俺たちは先導するディアベルたちの背中を追ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハチくん! スイッチ!」

「はいよ……!」

 

 アスナと入れ替わり、俺はすかさずコボルトセンチネルの喉を槍で貫く。その一撃で敵は絶命し、ガラスのように砕け散っていった。

 

「グッジョブ。順調だな」

 

 後ろに控えていたキリトがそう声を掛けながら、周りに目を向ける。

 俺たちを除いたコボルトセンチネルを担当している3パーティは、今だにHPの半分ほどしか削れていない。事前の取り決めで混乱を避けるために非常事態以外は他のパーティに横槍を入れないと決まっていたので、ペースの早かった俺たちはしばらく休憩だ。

 

 しかし、ここにきて俺はキリトの強さが異常であることを再確認した。特に反応速度がやばい。普通は後ろに下がったり武器で受けたりする敵の攻撃を、逆に踏み込んで見切り、攻撃を加えているのだ。俺がやったら命がいくつあっても足りない芸当だ。

 そしてそんなキリトには一歩及ばないものの、アスナもビギナーにしては相当強い。おかげで他のパーティの半分の人数なのに、倍のスピードでコボルトセンチネルたちを撃破していた。

 

 さて肝心のボス攻略の方はと言うと、こちらも順調にダメージを与えているようだ。

 ディアベルの指揮する4つのパーティは連携し、危なげなく確実に攻撃を加えている。ボスの残りHPはゲージ1本半といった所か。

 

 ここまでは全て事前の打ち合わせ通りの流れであり、βテスト時との差異もなかった。この後も仕様に変更がなければ、ボスの残りHPがゲージ1本を切った所で最後の取り巻きがポップするはずだ。

 そしてさらにボスの残りHPが減ってゲージが赤くなると、武器を持ち替えて攻撃パターンが変わる。持ち替える武器はタルワール。それ以降《曲刀》カテゴリのソードスキルを使うようになるが、あのパーティなら対処出来るはずだ。

 

 まあ正直ここまで来てしまったらもう成るようにしかならないし、腹を括るべきだろう。それにこのレイドなら多少のイレギュラーには対応出来るだけの能力はあるはずだ。

 ……ただ、完全に別件ではあるのだが、俺には少し気になってることがあった。

 

「なあ、なんかお前今日人使い荒くない?」

 

 露骨に俺から顔を背けているアスナに対し、そう声を掛けた。アスナはそっぽを向いたまま、抑揚のない声で答える。

 

「何? 何か文句があるの?」

「いや、ないけど……」

「そ。あと、お前はやめて」

「はい……」

 

 めっちゃ怒ってるじゃん……。昨日あんだけ俺を小突きまわしといてまだ怒ってるとか、理不尽すぎる。しかもあの風呂シーンも前にアルゴが居たから肝心な所は何も見えなかったってのに。不幸だ……。

 そうやってうなだれる俺に苦笑を向けながら、キリトが口を開く。

 

「ほら、無駄口叩いてるとケガするぞ。そろそろボスの残りHPが一本切るから、構えとけよ」

「……了解」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事件は、ボス撃破までもう一息のところで起きたのだった。

 俺たちのパーティが対応していたコボルトセンチネルも、もう虫の息というところで後方からモンスターの咆哮が響いた。

 振り返って視線をやると、ディアベルの隊に囲まれたボスモンスターのHPゲージが赤くなっており、丁度武器を持ち替える場面だった。

 

 こうなってしまえば、最早戦いは終わったようなものだ。武器を持ち替えると確かにボスの攻撃力は上がるのだが、持ち替えの動作の隙が大きく、その間にパーティ全員で囲んでしまえれば一気にHPを削ることが出来るのだ。

 

「よし! みんな、下がれ!」

 

 しかしセオリーとは違うディアベルの指示が聞こえて俺は一瞬戸惑ったが、すぐに冷静に思い直した。相手が情報通りに動いてくれる保証もないのだ。それならば確かに一旦下がって様子を伺った方が懸命である。

 だがディアベルがさらに続けた言葉に、俺は自分の耳を疑った。

 

「俺が出る!」

 

 そう言って、ディアベルが単身ボスの前に躍り出る。若干戸惑う様子はあるものの、他のプレイヤーたちは全員ディアベルの指示に従って後ろに下がっていた。

 

「あいつ、どういうつも……ッ!?」

 

 俺が気を散らした一瞬の隙に、コボルトセンチネルがこちらに肉薄していた。とっさに槍の石突で敵のメイスを弾き上げる。苦しい体勢だったがなんとか敵の隙を作ることに成功し、俺は後方に控えるアスナにスイッチを呼びかけた。

 すかさずアスナの細剣がコボルトセンチネルを貫き、そのHPを削り切る。そうして敵を撃破したのを確認して安堵したのもつかの間、隣からキリトの叫ぶような声が上がったのだった。

 

「ダメだ!! 全力で後ろに飛べ!!」

 

 俺はキリトを一瞥して、すぐにその視線の先を追う。

 巨大な剣を構えるボスと、相対するディアベル。俺はその時初めて、ボスの構えるその剣がタルワールではないことに気付いた。あれは《カタナ》カテゴリの武器、野太刀だ。

 ――βテストと違う。

 

 このままではディアベルが死ぬ。俺はそう直感し、気付いた時には駆け出していた。やや前方に、同じようにボスを目指して駆けているキリトの姿がある。

 ボスとの距離は30メートルほど。だが既にディアベルとボスは互いにソードスキル発動の動作に入っており、次の瞬間にはもう技を放っていた。

 

 袈裟懸けに野太刀を振り下ろすボスと、横薙ぎに片手剣を払うディアベル。

 ソードスキル発動は両者ほぼ同時だったが、剣速はわずかにボスの方が速い。そしてそのわずかな差が、戦いにおいては決定的な差になった。

 

 ディアベルの剣はボスに届くことなく、巨大な野太刀によって彼は斬り伏せられる。さらに返す刃で追撃を喰らい、大きく後方に吹き飛ばされた。

 

「ディアベル!」

 

 そう叫びながら、キリトは飛ばされたディアベルの方へと駆けていく。走りながら器用にウインドウを操作し、HP回復ポーションを取り出していた。結果、俺は1人でボスと対峙することになる。

 

 ……え、ちょ、マジで?

 と、そんな思いも過ったが、ぼやいている余裕もないので槍を構えてボスに突っ込む。幸いボスはソードスキル発動後の硬直に陥っていたので、体が大きい分いい的だった。

 俺はソードスキルによって刺突2発と横薙ぎに一閃を喰らわせ、ボスを後方へと吹っ飛ばす。大したダメージは与えていないが、時間稼ぎにはなるだろう。

 その隙に後ろを確認し――眼前のその光景に、俺は息を飲んだ。

 キリトの腕の中で、ディアベルがガラスのように砕け散っていったのだ。

 

 ――ディアベルが、死んだ。

 

 先ほどのボスの攻撃で、HPを削りきられたのだ。

 その事実に、ディアベルの指揮下にいた4つのパーティのメンバーは全員呆然としていた。中にはへたり込んでいるものさえいる。俺でさえこれほどの衝撃を受けているのだ。彼と親しかったプレイヤーたちの喪失感は計り知れない。

 

 撤退、という言葉が俺の頭に過った。しかし同時に、ここまで来てという思いもある。

 俺たちプレイヤーは1ヶ月もの時間を掛けてフロアボスの下まで辿り着き、ようやく第1層突破という希望を見出したのだ。この戦いに敗れてその希望を失えば、プレイヤーたちが再び立ち上がるまでにどれだけの時を要するのか見当もつかなかった。

 リスクを承知で押し切るか、否か。正解のない問いだ。しかし悩んでいる時間はない。既にボスは体勢を立て直しつつあるのだ。

 どうすれば――そうして葛藤する俺の横に、いつの間にかキリトが立っていた。

 

「キリト……」

「ディアベルに、ここを託された」

 

 死の間際に、何かやりとりがあったのだろう。悲痛な面持ちのキリトはそう言って、俺の顔を見た。

 

「ハチ……やれるか?」

 

 聞いたキリトの瞳の奥には、強い意志が灯っていた。こいつはきっと、1人でもやるんだろう。それに気付いてしまった瞬間、俺の中にあった迷いは霧散していった。

 

「……まあ、やるっつーなら、付き合ってやらんこともない」

「ホント素直じゃないな、ハチは」

 

 言って、キリトが小さく笑う。俺はそれを無視して槍を握り直し、低く構えた。

 

「私も、やれるわ」

 

 いつの間にか隣に立っていたアスナが、そう言って剣を構える。事ここに至っても全く怖気づいた様子のない彼女に俺は内心で呆れながらも、同時に今の状況では頼もしくも感じた。

 

「わかった。でもアスナは奴の正面には立たないでくれ。あの刀スキルは、初見で捌き切れるものじゃない」

「わかった」

 

 キリトの忠告に素直に頷いたアスナが、俺たちの後ろに立つ。間もなく、体勢を立て直したボスがこちらに向かって突進してきた。

 

「俺から行く!」

 

 叫んだキリトが剣を構えて走り出し、巨大なボスモンスターと相対する。勢いのまま両者ともにソードスキルを放ち、次の瞬間大きな剣戟の音が響き渡った。

 大きく剣を振り抜いた体勢のキリトと、攻撃を弾かれてノックバックを受けるボスモンスター。相手の使用するソードスキルを知り尽くし、かつ一瞬の判断力が求められる芸当だ。

 俺は目の前の光景に内心で舌を巻いたが、今は驚いている余裕もないのですぐに頭を切り替える。キリトの脇から這うように駆け出し、態勢を崩したままのボスモンスターに一撃を放った。アスナもキリトのアドバイス通り正面には立たず、横から追撃を加えている。

 

 ボスモンスターはすぐに体勢を立て直し、再びソードスキルを放つ構えを見せた。しかし俺にはキリトのようにソードスキルを見切って跳ね上げることは難しい。それを分かっていた俺は技を放たれる前に槍の先で相手の武器を巻き込み、横に跳ね上げた。その勢いのままに槍を回転させ、石突でボスの足を払う。少しでも体勢を崩してくれれば上々、そんな考えで放った一撃だったが、思いのほか当たり所がよかったらしくボスモンスターはその巨体を勢いよく転倒させた。

 

 ――チャンスだ。

 

 大きく隙の出来たボスモンスターに対し、3人で示し合わせたようにラッシュを加える。数秒のうちに、みるみる敵のHPが削られていった。

 

「いけるわ!」

 

 そう言って、最後まで攻撃を加えていたのはアスナだ。しかし一瞬、俺の背筋にヒヤリとした感覚が走る。

 

「おいバカ! 出過ぎだ!」

「え……!? きゃあ!!」

 

 横たわったままのボスモンスターの長い尻尾が大きくうねり、その攻撃に足を取られたアスナが転倒する。その後すぐに立ち上がったボスモンスターは、傍らに倒れるアスナに向かって野太刀を振り上げた。次の瞬間その刀身に光が宿り、恐ろしい速さで振り下ろされる。

 あの技は知っている。先ほどディアベルを屠った技だ。斬り伏せ、斬り上げる連撃。

 

 俺の目の前で一撃目がアスナに直撃し、HPゲージが半分以上削られた。そして二度目の剣撃が彼女を襲おうとしたその時――アスナとボスモンスターの間に、俺は体を捻り込ませた。

 

「が……ぁっ!!」

 

 斬り上げが炸裂し、無様なうめき声を上げた俺は抱えたアスナと一緒に上空に跳ね上げられた。辛うじて槍の柄で斬撃を逸らし直撃はまぬがれたものの、それでもHPは三分の一以上削られている。

 吹き飛ばされつつも、俺はなんとか状況を把握しようと視線を走らせた。しかしその瞬間視界の端に捉えたのは、俺たちに止めを刺すべく跳躍するボスモンスターの巨体だった。

 

 ――やばい。

 

「届けぇええぇぇぇ!!」

 

 俺の頭に死が過った刹那、耳を衝いたのはキリトの雄叫び。ボスモンスターの後方には、剣を構えて跳躍するキリトの姿があった。

 放たれるソードスキル。空中でボスモンスターに追随し、青く輝きを放つ一閃が赤い巨体に深く食い込む。その一撃にボスモンスターは一際大きな咆哮を上げた。

 眼前にまで迫っていた赤い巨体。しかしその右手に掲げた野太刀が俺たちへと振り下ろされることはなく――次の瞬間、ボスモンスターは青白いガラス片となって砕け散っていったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「勝った……のか?」

「みたいだな……」

 

 尻餅をついたまま気の抜けた声を発した俺に、同じく隣でへたり込んでいたキリトも力なく頷いた。

 縦に長い大広間。この部屋の主である《イルファング・ザ・コボルトロード》の姿は既になく、代わりに俺たちの前にはでかでかと《Congratulation!!》のシステムメッセージが浮かんでいたのだった。

 俺はフロアボスを倒したのだという実感が湧かず、しばらく呆然とそれを眺めていた。しかしややあって腕の中に抱えたままだったアスナがもぞもぞと動き、我に返る。

 

「あの、そろそろ離してくれると嬉しいんだけど」

「え、あ、うおっ! す、すまん、悪気はなかったんだ!」

「わかってるわよそんなこと……。その、ありがと……」

「へ? あ、ああ」

 

 咄嗟にアスナから身を離した俺はそのまま土下座する勢いだったが、急にしおらしい態度を見せる彼女を前にして動きを止める。

 彼女の顔を隠していたフードはいつの間にかなくなっていた。おそらく先ほどのボスモンスターの斬撃によって剥ぎ取られたのだろう。栗色の長い髪が胸元に落ち、色素の薄い2つの瞳はばつが悪そうに少し伏せられている。

 つーか、昨日風呂場の事件でチラ見した時から思ってたけど、やっぱこいつ整った顔してんな……。

 内心そんな色ボケに染まった思考を展開する俺だったが、しかしすぐに目の前に現れた厳つい黒人によってそれは塗りつぶされる。

 

「Congratulation! 素晴らしいチームワークだったぜ。この勝利はあんたたちのもんだ」

 

 顔に違わずナチュラルな英語の発音で祝福してくれたのは、昨日の攻略会議であのこんぺいとうヘッドとやりあってくれたエギルという男だった。

 

「しかし、すまなかったな。途中、完全に敵に飲まれてしまって何も出来なかった」

「ああ、いや……」

 

 申し訳なさそうに項垂れるエギル。しかし俺には曖昧に言葉を返すことしか出来なかった。キリトに声を掛けられなければ、きっと俺もディアベルの死を前にして頭が真っ白になったままだったはずだ。偉そうなことなど言えるはずもない。

 

 なんとなく気まずくなった俺はエギルとの会話はそこそこに、周囲を見回した。プレイヤーたちの反応は様々だ。へたり込み、安堵に浸る者。興奮冷めやらぬ様子で歓喜する者。死んだディアベルのために涙を流す者。――そんな状況の中、やがて1人の男が叫んだ。

 

「なんでや! なんでディアベルはんを見殺しにしたんや!」

 

 その声の主は、昨日の攻略会議で元βテスターを目の敵にしていた、キバオウだ。キバオウは何故かキリトに対して憎悪のこもった視線を向けていた。

 

「見殺し……?」

「そうやろが! 自分はボスがどないなスキル使うか、知っとったやないかい!」

 

 その言葉を受け、キバオウの隣にいた男が「そういえばあいつ、ボスがスキル使う前に何か言ってたよな……」と呟いた。周りのプレイヤーたちがざわめき始める。

 

「ワイは知ってんねんぞ! ワレが元βテスターだっちゅうことはな! ホンマはあのボスの情報知っとったんやろ!? 知ってて黙ってたんやろ!!」

「違う! 俺は……」

 

 キリトの抗弁はしかし、周りのプレイヤーたちのざわめきの前にかき消された。ざわめきは次第に大きくなっていき、終いにはキリトを糾弾する声に変わっていった。

 

 ――何だ、これは?

 

 俺はその状況を、怒りとも困惑とも取れない感情と共に眺めていた。とんだ茶番だ。みんなまるで状況が見えていない。

 キリトこそが、この場にいるプレイヤーたちを救ったのだ。そしておそらくこれからも、キリトはSAO攻略の核となって多くの人間を救うだろう。こいつはこの世界にとって、なくてはならない存在なのだ。

 そんな人物を、場をかき回すしか脳のない男の扇動に乗って、吊るし上げようとしている。

 

「詫びろや! 這いつくばって詫びいれろや!」

「おいお前! いい加減に……!」

「他にもおるんやろ! 元βテスターども! さっさと出てこいや!!」

 

 この時、既に俺の中にあった感情は明確な怒りに変わっていた。そして、俺は1つの決意をする。

 キバオウを制止しようとするエギルの脇をすり抜け、未だ汚い言葉を喚き立てているそいつの前に俺は立つ。そして――手にした槍の柄で、キバオウをぶん殴った。

 その瞬間、俺の頭上のカーソルはオレンジに変わり、ざわついていたプレイヤーたちが静まり返る。

 

「つぅ……! 何しやがんじゃ、ワレ!!」

 

 尻もちをついたままのキバオウが、抗議の視線を送ってくる。俺はその剣幕にビビりつつも、狙い通り自分に注目が集まったことを確認して語り出した。

 

「俺は元βテスターだ」

 

 その言葉に再びプレイヤーたちはざわついたが、それを無視して話を続ける。

 

「言っとくけど、ボスの事前情報に嘘はなかった。単純にβテスト時から、仕様が変わっていただけだ」

「う、嘘こくなや! 自分らはボスが使うスキルを知っとったやないか!」

「俺らはβテストの時に第8層まで行った。そこで刀を持った敵と戦ったことがあっただけだ」

 

 これが事実であったのだが、キバオウは納得のいかない様子で俺を睨みつけていた。こいつは今、明らかに冷静じゃない。きっとこの場で俺がどれだけ言葉を重ねても納得はしてくれないだろう。それを理解しながら、俺は語り続ける。

 

「大体、お前が何に怒ってるのか知らないけど……ディアベルが死んだのは、ただの自業自得じゃねぇか」

「なんやと!?」

 

 キバオウとディアベルの取り巻きであったプレイヤーたちが色めき立つ。俺は挑発するようにそいつらに視線をやった。

 

「お前ら、LAボーナスって知ってるか? ボスにとどめを刺したプレイヤーには、レアアイテムが手に入るんだよ。きっとあいつはそれを知ってたんだろうな。だから欲を出して1人で突っ込んだんだ。結果は返り討ちにされて無駄死に。これが自業自得じゃなくて何なんだよ」

「それはちゃう! ディアベルはんは――」

「ああ、自業自得より質が悪いか。下手すりゃ部隊が崩れて俺たちも巻き添え食ってたところだし……まあ、死んだのがあいつ1人で助かったよ」

「こ、こん……クソがッ!!」

 

 俺の言葉が相当腹に据えかねたのだろう。激昂したキバオウが立ち上がり、剣を片手にこちらに突っ込んできた。しかし冷静さを欠くためかその動きは酷く単調だ。俺は難なく槍の先で剣を弾き、続いて石突で足を払ってキバオウを転倒させた。

 

「人に剣を向けたんだ。覚悟は出来てるんだろ?」

 

 槍を構える俺と、倒れるキバオウの視線が交わる。怒りを孕んでいたキバオウの瞳は、突きつけられた槍に光が灯るのを見て取った瞬間、恐怖の色に染まった。

 

「死ね」

 

 短い言葉と共に、ソードスキルを放つ。俺の持つ槍の穂先が一瞬にしてキバオウに肉薄し――次の瞬間、横からの斬撃によって大きく攻撃を弾かれた。

 

「何やってんだハチ!! 気は確かか!?」

 

 俺の槍を弾いたキリトが、目の前で叫ぶ。予想通りに動いてくれたキリトに内心で安堵しつつ、俺はガタガタと震えて腰を抜かしているキバオウに視線を戻した。

 

「命拾いしたな。でもまた今度、的外れな理屈で状況をかき回して、攻略を遅らせるようなことしてみろ。次は本気で殺す」

 

 キバオウに、そしてディアベルの取り巻きだったプレイヤーたちに目を向けながらそう釘を刺した。熱に浮かされたように糾弾を叫んでいたプレイヤーたちも、今や冷や水を浴びせ掛けられたように静かになっている。それを確認してから、俺は第2層に向けて歩きだした。しかし、そこにキリトが追いすがる。

 

「おい、待てよ! ハチ!」

「ついてくるなよ。お前ともここでお別れだ。つーか、始めから嫌だったんだよ。クラインとお前のお人好しに巻き込まれるのも、友達ヅラで一緒に居られるのも」

 

 俺はなるべく厳しい言葉を選んだ。ここでついて来られてしまっては、意味がない。

 

「……じゃあな」

 

 キリトが今どんな表情を浮かべているのか、直視することが出来なかった。そうして俺は振り返らずに、再び第2層へと向かって歩き出す。大広間には不自然なほどの静寂が降り、俺の堅い足音だけが響いていた。

 

 全て、上手くいった。そう思った。背中に突き刺さる視線が痛かったが、こんなものは慣れたものだ。

 次の層へと繋がる扉に手をかける。その向こうには薄暗い道が広がっていて、俺は独りでその道を歩き出した。

 感慨はない。元のぼっちに戻るだけだ。

 

 ――あなたのやり方、嫌いだわ。

 

 いつか誰かに言われたそんな言葉が、どこからか聞こえた気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3話 友人

 今回登場する風林火山のメンバー(クラインの他のゲームでの知り合い)は、調べても名前がわからなかったので勝手に命名しました。
 一応原作にもちらっと出てくる彼らですが、もはやほとんどオリキャラと化してますね。
 この辺からオリジナル設定増えてきますが、それでも良ければ読んでください。


 第一層。始まりの街。二階建ての民家。

 そこがクライン率いる風林火山の本拠であり、ガイドブック制作も主にここで行われている。

 ちなみにギルドの結成はまだ出来ないのだが、ガイドブック制作にあたってはわかりやすい旗印があったほうがいいということで、暫定的な寄り合いとして風林火山という団体が結成されたのだった。

 

 風林火山出版の本拠であるこの民家の一階部分には、現在3人の男が集まっており、そのうちの1人――クラインは、今朝からずっと落ち着かない様子でそわそわとしていた。

 今もせわしなく部屋の中を歩き回り、事あるごとに時間を確認し、自分にメッセージが来ていないか再三チェックしている。その様子を見かねて、風林火山のメンバー、ヤスが声をかけた。

 

「おい、少しは落ち着けよ。こっちまで落ち着かなくなる」

 

 その言葉にクラインはようやく立ち止まり、友人に向き直った。

 

「これが落ち着いていられるかよ! 今、あいつらはボスと戦ってんだぜ!?」

 

「そりゃそうだけど、俺らが焦ってもしょうがないだろう」

 

「それはわかってるんだけどよぉ……。はあ、待つ身は辛いぜ……」

 

 その返答にヤスは、「乙女かっ!!」と心の中で突っ込みを入れた。そこでその場にいたもう一人の風林火山のメンバー、トウジが口を挟む。

 

「でも聞いてた開始時間からもう大分経つよね……。そろそろ連絡があってもいい頃じゃ……」

 

 そう言いかけたところで、家の玄関が乱暴に開かれた。

 慌てた様子で飛び込んできたのはギースだった。彼も風林火山のメンバーだ。

 

「た、大変だ!」

 

「ど、どうした? 何かあったのか?」

 

 ギースのその焦った面持ちに不安を感じつつ、クラインは冷静に話を促した。

 

「そこで聞いた話なんだけどよ……攻略組からメッセージを貰った奴がいて、そいつが言うにはボス攻略自体は成功したらしいんだが……その後プレイヤー同士でトラブルがあって、人が1人死んだって……」

 

 プレイヤー同士のトラブル、という言葉にも引っかかったが、それ以上にクラインはその後に続いた言葉に動揺して口を開く。

 

「死んだって、誰が……?」

 

「死んだのはディアベルって奴らしい……」

 

 

 クラインはそれがハチとキリトではないことに安堵し、同時に安堵した自分に自己嫌悪した。だがすぐに、友達の心配をするのは当然だ、と思い直す。

 そこまでの話を聞いて朝から張りつめていた気持ちが弛緩したクラインは大きく息を吐き、置いてあった椅子にへたり込んだのだが……続くギースの言葉に、衝撃を受けた。

 

「それでその……ディアベルって奴を殺したのが……ハチって名前のプレイヤーだって……」

 

「は……?」

 

 クラインは口を半開きにし、間の抜けた顔をした。その後ろに控える2人も、同様の反応をしている。

 その中でクラインはいち早く我に返り、声を荒げた。

 

「ハチがそんな真似するわけねえだろっ!!」

 

 クラインはそういってテーブルに拳を打ち付ける。

 

「お、俺だってそう思うよ! 多分、情報が交錯して間違った話が伝わったんだと思う……。プレイヤーの間で何かトラブルがあったらしいのは間違いないっぽいが……詳しい話は攻略組が戻ってきてからじゃないと……」

 

「くそっ……何がどうなってやがんだ……!」

 

 クラインはそう呟きながら焦った様子でシステムウインドウを呼び出した。

 ハチとキリトに連絡を取ろうとしたのだが、何かに気付いて手を止める。システムウインドウの端に、メッセージを受信したことを知らせるアイコンが点滅していた。クラインは慌ててそれをタップし、内容を確認する。メッセージの主はキリトだった。

 

『ボス攻略は成功した。1人死亡者が出たけど、俺とハチは無事だ。ただ、ハチとは別行動することになった。詳しくは会って話す。第二層のアクティベイトが済んだらそっちに向かう』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二層到達の一報を受けた始まりの街は、お祭り騒ぎだった。

 ボス攻略において犠牲者が1人出ているのでそれは不謹慎とも言えるのだが、何しろこのゲームが始まってから初めての明るいニュースであったので、誰も彼らを諌めるものはいなかった。

 しかしそれに反し、第二層の転移門をアクティベイトして凱旋した攻略組の顔には、皆一様に暗い影が差している。

 特に、その面々の中で最後に転移してきたキリトの顔色は酷いものだった。

 帰還を歓迎してくれたプレイヤーたちに対して作り笑いさえも出来ず、キリトはその場を逃げるように走り去った。

 

 

 

 キリトがまっすぐに向かったのは、風林火山の本拠だった。

 

「キリト……」

 

 クラインはキリトに問い詰めたいことが山ほどあったが、その顔を見た瞬間息を詰まらせた。キリトのその憔悴した顔から、ボス攻略中に何か問題が起きたことが伺える。

 クラインはひとまずキリトを部屋へ招き入れ、椅子にかけるよう促した。

 部屋の中にはキリトの話を聞こうと、風林火山の面々以外にアルゴも訪れている。

 しばしの沈黙の後、クラインが口を開いた。

 

「キリト、ゆっくりでいい。何があったのか、話せることを話してくれ」

 

「……ああ」

 

 促されたキリトは、とつとつと語り始めた。

 

 攻略会議でのキバオウの発言。

 ボスの使用する武器が、βテストから変わっていたこと。

 そのボスに単身で挑み、ディアベルが死んだこと。

 ボスを倒した後に、ディアベルが死んだのは自分のせいだと糾弾されたこと。

 その騒動の中心にいたキバオウを、ハチが殺しかけたこと。

 それについて詰め寄った自分を、ハチが冷たく突き放したこと。

 

 全てを説明するには長い時間を要したが、その間、誰も口を挟むことはしなかった。

 

「あの時は俺も混乱してて……ハチに裏切られたと思って、ショックで……俺はあいつを、追いかけられなかった……」

 

 それだけのショックを受けるほど、既にキリトにとってハチの存在は大きなものになっていた。行動を共にしていた期間はまだ一ヶ月ほどだが、その間、この命がかかったゲームの中で常に互いの背中を守りあっていたのだ。

 

「でも、後になって結果だけ見てみれば……あの騒動で救われたのは、俺だったんだ……。無茶苦茶なやり方だったけど、きっと、ハチは、俺を……」

 

 キリトは拳を強く握り、うなだれた。それ以上の言葉は紡げなかったが、その場にいた全員が彼の意を察していた。

 

「あの捻くれモンが……!」

 

 それまで沈黙を守っていたクラインが、押し殺したように苛立った声を上げた。それに次いで、アルゴが冷静な様子で口を開く。

 

「事情は大体わかったヨ。けど、このタイミングでオレンジプレイヤーになるとはナ……。ちょっとまずい状況ダゾ」

 

 うなだれたままのキリトが、力なくそれに相槌を打った。そのやり取りに困惑した様子のトウジが、口を挟む。

 

「すみません、ちょっとその辺り詳しくないんですけど……。オレンジプレイヤーって、犯罪者プレイヤーのことですよね? どういうデメリットがあるんですか?」

 

 問われたアルゴが、「いつもなら金を取るんだがナァ……」と思いながら答えた。

 

「まあ、まず圏内に近づけなくなるナ。ボスが雑魚に思えるくらいの憲兵がウジャウジャ出てきて排除されるヨ。だから常にフィールドにいなきゃいけない上に、今回の話が広まれば、イカれた正義感に駆られたバカどもがハチの命を狙う可能性もあるナ……オレンジプレイヤーに攻撃しても、こっちのカーソルの色は変わらないしナ」

 

 それに続いて、ようやく顔を上げたキリトが情報を補足する。

 

「……カーソルを緑に戻すための贖罪クエストってやつもあるんだけど……βテストの時は、そのクエストが受注出来るのは第五層からだった……」

 

「じゃ、じゃあハチは第五層に行くまで、街に入れねえってのか?」

 

 クラインの問いに、アルゴが頷いた。

 

「ま、そうゆうことになるナ」

 

 その事実に風林火山の面々は絶句する。説明されなくとも、それがどれだけ危険なことか彼らは理解していた。

 

「ひとまず、オレっちはハチを探すことにするヨ。第二層なら、アイツを匿えそうな場所にあたりもあるしナ。その間にそっちでどうするか考えといてクレ。ハチはオマエラに会いたがらないだろうケド、このままにしとくつもりはないんダロ?」

 

 アルゴの問いかけに、クラインは強く頷いた。

 

「ああ、当然だ。勝手に1人で抱え込みやがって……。どんだけ嫌がっても、ぜってぇここまで連れ戻してやるぜ」

 

 その答えにアルゴは満足したようで、薄く笑みを作った。

 

「それが聞ければ十分ダ。じゃあオレっちは行くヨ。またナ」

 

 そう言ってアルゴは早々とこの場から去っていった。キリトはそれを目線で見送り、再びクラインへと顔を向ける。

 

「……それでクライン、ハチを連れ戻すって、何か考えがあるのか?」

 

 そのキリトの問いに対し、クラインはニヤリと笑った。

 

「あるぜ、とっておきのがよ。ただ、それを成功させるためには……トウジ! お前の力が必要だ!」

 

 クラインの考えとやらを興味津々に聞き入っていたトウジは、急に話を振られて狼狽した。

 

「え!? ぼ、僕!?」

 

 狼狽えているトウジを無視し、クラインは話を続ける。

 

「オレはよ、今回の件、結構頭にきてんだ……。だから、手段は選ばねぇ。あいつが滅茶苦茶嫌がるやり方で、この状況を打開してやるぜ! 目指せ、打倒ハチ!」

 

「打倒してどうすんだよ……」

 

 ヤスが呆れて突っ込みを入れ、風林火山の面々に笑顔が生まれる。そんな光景を見ながら、キリトは自分の心が軽くなるのを感じた。

 

 ハチがこんな状況になってしまったのは、自分のせいだ。だが、まだ手遅れではない。

 

(ハチは絶対死なせない……!)

 

 そう決意したキリトの瞳には、ボスを倒した時以上の強い意志が灯っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第一層攻略から4日が経っていた。

 オレンジプレイヤーになった俺は圏内に入ることが出来なくなってしまったが、何とか今日までしぶとく生き残っている。

 あの事件の後、第二層へと到達した俺はすぐに森林フィールドを拠点に選び、今日までここを中心に活動してきた。今現在も森の中を探索中だ。

 ここを選んだのにはいくつか理由がある。

 まずは食糧確保のためだ。買い物が出来ない俺は、この森の恵みで何とか飢えを凌いでいる。さらにここでは稀に回復効果のある薬草なども手に入るので、補給が出来ない俺にとって非常に都合がよかった。

 次に人目を避けるため。

 この森は狩場としては効率が悪く、あまりプレイヤーは寄り付かないし、仮に遭遇してしまったとしても、ここなら死角も多いので身を隠しやすい。

 そして最後の理由は――アレだ。

 隠蔽スキルを使いながら森を歩いていた俺は、目当てのものを見つけて立ち止まった。短槍を構えた俺が凝視している先に居るのは、5匹の猿の群れだ。

 

 《ヴァイオレントエイプ》

 

 直訳で《獰猛なサル》であるそいつらは、名前の通り気性が荒いだけのただのサルなので大して強くもない。厄介な点と言えば奴らは常に群れで行動していて、その群れのボスを倒さなければ、延々と仲間を呼ぶくらいだ。

 ただ、それも何故か最初の群れの数以上になることはないことと、ある程度近くにいる仲間しか呼べないので精々2~30匹程度呼べば打ち止めになることを考えると、危険度は低い。そして、今の俺にとってその特性はむしろ好都合だった。

 

 相手に気付かれることなく群れのすぐ近くまで来た俺は、すぐにボスザルを見極めた。ボスザルはだいたい偉そうにしているので、リア充を観察する要領で見ればすぐにわかるのだ。

 物陰でソードスキルを構えた俺は、一気に飛び出してその群れのボス“以外”の4匹を横薙ぎの一閃でまとめて屠った。

 あえてボスを残したのは、俺がこいつらのドロップする槍を狙っているからだ。

 カーソルがオレンジになってから、全く武器のメンテナンスが行えていないため、そろそろ耐久値がやばい。ここでこいつらを大量に狩って、早いところ武器を新調したいのだ。出来れば予備の槍も確保しておきたい。

 そう言った思惑で俺はボスザルに攻撃はせず、少し距離を取った。

 俺の期待通り、ボスザルはすぐに仲間を呼ぶために雄叫びを上げる。その声は遠くまでこだまし、それを聞きつけた仲間が――現れなかった。

 

 何故か妙に気まずい沈黙の中、俺たちはたっぷり5秒ほども見つめ合っていた。心なしか、ボスザルが寂しげな顔をしている気がする……。

 そしてどこか投げやりになった様子で突っ込んで来たので、俺はやむなくそいつを撃退した。

 

 モンスターの中にもぼっちっているんだな……。

 と、そんな馬鹿な考えが頭をよぎったが、すぐに冷静になって思案する。

 おそらく、この辺りに他のプレイヤーが居るのだ。ヴァイオレントエイプたちは、既にほとんど狩り尽くされた後だったのだろう。

 俺は他のプレイヤーと接触したくはなかったので、周囲を警戒しつつ来た道を戻ろうとしたのだが……その前に俺はあるものを見つけ、思わず足が止まった。

 ――20メートルほど前方に、人が倒れている。

 俺はβテストの時に行き倒れのNPCを助けると発生するイベントがあったことを思い出したが、すぐにその可能性を否定した。遠目からでも緑のカーソルが確認できる。あれはプレイヤーだ。

 しかし死んでも死体が残らないSAOにおいて、プレイヤーが倒れているというのはそうあることではない。意識を失うような状態異常はないし、考えられる可能性としては――罠か。

 フィクションでよくある手口だ。心配して近づいてきたお人よしを、追いはぎたちが包囲するのだ。

 ならばここは警戒しつつ来た道を戻るのが賢明だな……と思いつつも、俺はその場から動くことが出来ないでいた。何となく、倒れているあのプレイヤーに引っかかるものを感じるのだ。

 しばらくそこで悩んでいたのだが……結局、俺は意を決して近づいてみることにした。

 自慢ではないが、俺の索敵スキルはかなり高い。そんな俺に全く察知されずに埋伏できるプレイヤーは、現時点ではほとんど存在しないはずなのだ。

 とは言いつつも、周囲への警戒は怠らない。俺は槍を構えてジリジリと近づいていった。

 ある程度近づいたところで、その緩やかな服のシルエットから、倒れているプレイヤーが女であることがわかった。右手には細剣を持ったままうつ伏せに倒れている。頭にはブラインド補正のかかったフードを被っていて――と、そこまで見て取ったところで俺は立ち止まった。

 なんか、めっちゃ見覚えがある。

 俺はもはや警戒するのもやめてさっさと歩いていき、フードの中を覗き込んだ。

 

「なにやってんだ、こいつ……」

 

 そこではかつてのパーティメンバー、アスナが健やかな寝息を立てて眠っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ん……はれ? ここ……どこ……?」

 

 アスナがそんな気の抜けた声を出して目を覚ましたのは、あれから数時間が経ち、日が沈もうとしている頃だった。

 まだ寝ぼけているようで、胡乱げな眼差しでキョロキョロと周りを見回している。そして後ろにいた俺と目が合うと――

 

「ひっ……! お、おばけ……!」

 

 このアマ……。

 

「違うっつーの。俺だ、俺」

 

「……ハ、ハチ君?」

 

 アスナは俺の顔をよく確認すると、安堵の声を漏らした。

 

「よかった……。目が死んでたから、てっきり……」

 

「お前な……」

 

 そこでアスナは大きく息をつくと、急に冷静な顔になって俺に尋ねる。

 

「……あれ? なんでハチ君が? それに、ここは……」

 

 そう言ってアスナは改めて周りを見回していた。

 

「聞きたいのはこっちだっつの。森ん中でお前が倒れてんの見つけて、ここまで運んで来たんだよ」

 

 俺がアスナを運んできたのは、森の中に存在する湖のほとりだ。森にぽっかりと穴が開いたように木々が途切れているそこは、モンスターの入り込めないセーフティゾーンとなっている。フィールドや迷宮区にはこういった箇所がいくつか存在するのだ。今の俺はここを寝床にしていた。

 

「あ、そうか……。たしか私、狩りの途中で疲れて……」

 

「疲れて、ってお前……いつから狩ってたんだよ……」

 

 呆れた声を出した俺に、アスナは当然のように答える。

 

「二層にきてからだから……3日間くらいかしら。休み休みだったけど……」

 

 その答えに俺は絶句した。狩りにはかなりの集中力が必要で、普通は数時間もやっていればすぐに限界が来るのだ。

 それをこの女はソロで、しかも来たばかりのエリアで、休み休みとはいえ3日間も続けていたのか。それは疲労で倒れもするだろう。

 アスナはそんな呆れ顔の俺に気付くこともなく、話を続ける。

 

「それでハチ君は……って、それ何してるの?」

 

 そういってアスナは俺の目の前にある焚き火を指さした。

 

「え……? ああ、これは飯作ってんだよ。そろそろいいか……ほれ、お前も食うか?」

 

 何とか気を取り直した俺は、そう言って焚き火のそばで火に当てていた魚を1つ、串ごと引き抜いてアスナに手渡した。

 

「や、焼き魚……?」

 

 そう言ってアスナはこんがりとした焼き色のついた魚を、まじまじと見つめる。

 

「おう。料理スキル持ってると、こういうのも出来んだよ。ちなみにその魚はそこの湖から釣ったよくわからん奴だが、毒はない」

 

 それを聞いてアスナは、何故か険しい顔をした。

 

「料理に、釣りって……そんな無駄なこと……」

 

「食わないのか? さっさとしないと耐久値なくなるぞ」

 

 そう言いながら俺も自分の分の魚に齧り付く。

 

「……いただきます」

 

 しばらく悩んでいたアスナもそう言って、フードをめくってからその小さい口で魚に噛り付いた。その瞬間アスナは驚いたように目を大きく開かせる。

 

「おいしい……」

 

 専業主夫志望の俺としては、ゲーム内とは言え自分の作ったものを褒められて悪い気はしなかったので、上機嫌になりながら口を開いた。

 

「この世界の飯屋はあんまりうまくねえからな。料理スキルは持っといて損はないぞ」

 

 しかし、俺の助言にアスナは顔をしかめた。

 

「料理なんて……そんな無駄なことしている時間ないわ。私たちは一刻も早くこの世界から脱出しなきゃいけないのよ」

 

「……ま、お前の言ってることも間違っちゃいないけどな。それで倒れて死にかけてたんじゃ、意味ねーぞ」

 

 俺の諌言に、アスナは少し俯いた。

 

「確かに今日のことは私の不注意だったわ……でも……」

 

 そこまで言って、言葉を止める。おそらく、今までこいつは色々な気持ちをため込んでいたのだろう。しばらく黙り込んでいたアスナだったが、やがて堪えきれなくなったように、己の心情を吐露しだした。

 

「……私、一層をクリアするまで、ここで死ぬんだと思ってたの。死者はどんどん増えていくのに、外からの助けは来ないし、一ヶ月経っても攻略はろくに進まないし……。だからこのゲームをクリアするのなんて、不可能なんだって、そう思ってた。それならせめて私らしく足掻いて足掻いて……どこかで力尽きて死ぬつもりだったの」

 

 俺は口を挟むことなくその話を聞いていた。アスナは俺に視線を合わせることなく話を続ける。

 

「でも、一層はクリアされて……私たちは先に進むことが出来た。この世界からの脱出も夢じゃないかもしれないって、そう思えたわ。だったら迷ってる暇なんてない。全力を尽くして、ゲームを攻略するべきよ。違う?」

 

 そう言ってアスナは俺に強い視線を向ける。俺はその瞳の中の決意に、危ういものを感じながら口を開いた。

 

「……お前は、正しいよ。俺だってあっちの世界に残してきたものもあるし、早く帰りたいと思ってる。でも、じゃあこの世界で上手い飯を食ったり、好きな時間を過ごすのは間違ってることなのか?」

 

「そんなの、ただの現実逃避じゃない。こんな全部作り物の世界で、そんな時間を過ごすのに何の意味があるのよ」

 

 俺の問いに、アスナはすかさず反論した。その勢いに若干気圧されつつも、俺ははっきりと抗弁する。

 

「俺に言わせりゃ、現実が見えてないのはお前の方だよ」

 

「……どういう意味よ」

 

 予想外の反撃を食らったアスナが、苛立ちつつも冷静に問う。

 

「バーチャルとか、作り物とか、そんなのは関係ないんだよ。いいことがあれば気分が良くなるし、嫌なことがあれば鬱にもなる。その気持ちは本物だ。ここでも俺らはそうやって生きていくんだよ。そこから目を背けてるお前は、そのうち破綻する」

 

 俺の話を聞いていたアスナは、難しい顔をして俯いた。そうして、しばらく沈黙が訪れる。

 そして今さらながらにくさい説教をしてしまったなと徐々に恥ずかしくなってきた俺は、誤魔化すように話を続けた。

 

「……まあ、要は肩の力を抜けって話だ。SAOの中にも面白いもんは色々ある。例えばだな……そろそろか」

 

 その俺の言葉にアスナは顔を上げ、「何が」と口にしそうになり――息を飲んだ。

 

 いつの間にかすっかりと暗くなった森の中。そこにぽつぽつと小さな光が浮かんでいた。七色に光るそれは徐々に数を増しながら、湖へとむかってゆらゆらと飛んでゆく。

 あれはこの世界で《ナナイロホタル》と言われている昆虫で、この時間になるとこの湖へと集まってくるのだ。

 数千匹ものナナイロホタルが湖上を舞う様は幻想的で、それがバーチャルリアリティーであることも忘れてしまうほどの圧倒的な光景だった。

 

 ……言っておくが、俺は別にアスナを口説こうと思ってここに連れ込んだわけではない。この森唯一のセーフティゾーンがこの湖であり、やむを得ずアスナをここに連れてきただけだ。むしろ、こんなオサレスポットに女子と2人きりなんて死ねる。胃が痛い。

 

「綺麗……」

 

 そう言ったアスナの顔からは先ほどまでの気難しさは抜け、うっとりと目を輝かせていた。

 

「……そんな顔も出来るんじゃねえか。お前、さっきまで目が死んでたし……」

 

「ハチ君に……目のことなんて、言われたく……ないわよ……」

 

 そう言ったアスナは、堰を切ったように泣きだした。

 ……え? ちょ……これ、俺のせい?

 イケメンリア充ならこんな時とっさに胸を貸すんだろうが……そんな行為が俺に出来るはずもない。

 俺はこいつが泣き止むまで、ただテンパりながら隣に立っていることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「その……色々と迷惑をかけてごめんなさい……。何度も助けて貰ってるのに、ろくにお礼も言ってなかったし……今日も喧嘩腰になってしまって……」

 

 アスナがようやく落ち着いてそう話を切り出したのは、それから小一時間ほど経ってからだった。食べかけだった焼き魚も、既に耐久度の限界を迎えて消滅している。

 

「別に、気にしてねえよ。お前の言ってることも間違ってなかったしな」

 

 俺は本心からそう答えた。一時は俺の《絶対に許さないリスト》に名前を連ねたアスナだが、今はそれほど気にしていない。こんな異常な状況下で、他人を慮ることが出来るような精神力を持つ人間の方が珍しいのだ。

 しかし未だ申し訳なさそうな顔をしているアスナに、俺は言葉を続ける。

 

「それに、今日のことも別に感謝するようなことじゃない。俺はこの辺でやることがあったからな。ついでだ、ついで」

 

「今日のことだけじゃないんだけど……ハチ君には何て言ってもはぐらかされちゃいそうだわ。でもこれだけは言わせて。本当に、ありがとう」

 

 そう言ってアスナは真っ直ぐ俺の目を見つめた。

 

「お、おう……」

 

 その視線にたじろぐ俺のことなど意に介さず、アスナは話を変える。

 

「それで、ハチ君は何でこの森に? やることがあったってさっき言ってたけど……」

 

「ん、ああ……。この辺りにいるサルのドロップ品目当てでな。あいつら槍を落とすんだよ」

 

「槍? それなら確か……」

 

 そう言ってアスナはシステムウインドウを呼び出し、アイテムストレージを漁りだした。そしてすぐに目当てのものを見つけたようで、それをタップし、アイテムを出現させる。

 

「もしかして、これ?」

 

 アスナが手に持っていたのは、まさに俺が欲していた槍だった。

 

「おお、それだ。……それ、俺に売ってくれないか? 相場の2倍で買うぞ」

 

 買い物の出来ない今の俺にとって、金などいくらあっても無用の長物だ。そう考えて俺は売買の交渉に入るつもりだったのだが……。

 

「お金なんて要らないわよ。あげるわ」

 

「いや、金払うっつーの」

 

 そう言って俺はシステムウインドウからアスナに取引申請を行おうとしたのだが、その前に無理やり槍を押し付けられた。

 

「いいから受け取って。散々助けて貰って、その上ここでお金までとったら私の気が済まないの。どうしても受け取らないっていうなら、このままこの槍を捨てるわ」

 

「……強情な奴だな」

 

「ハチ君に言われたくないわよ」

 

 そう言ってアスナは薄く笑った。

 

「……まあ、その、なんだ……サンキューな」

 

 俺はそうして人生初となる女子からの贈り物(小町を除く)を受け取ったのだった。まあ品物は槍っていうムードの欠片もないものだが。

 そこで会話が一段落ついたので、俺は話を変えた。

 

「じゃあまあ、お前はそろそろ街に戻った方がいいんじゃないか? 宿でしっかり休んだ方がいいぞ」

 

「ハチ君は? 街には戻らないの?」

 

 そう言って、アスナは俺に疑問の目を向けた。

 戻るも何も、俺は今圏内には入れないのだが……そうか、こいつオレンジプレイヤーについて知らないのか。

 

「俺はまだやることがあるからな。1人で帰れるだろ?」

 

「それは大丈夫だけど……」

 

 ここでオレンジプレイヤーについて説明してやることも出来たが、今それを話すといらぬ気を遣わせるかもしれないので、黙っていることにした。

 ただ、少しだけ心配になった俺は1つだけアスナに忠告しておく。

 

「街に戻る前に、一個だけ言っとく。俺みたいにカーソルがオレンジのプレイヤーを見かけたら、そいつには近づくな。これはゲーム内で犯罪行為を働いた奴の烙印みたいなもんなんだ」

 

「犯罪行為って……あ、そうか。ハチ君は第一層でキバオウさんを攻撃したから……」

 

 そう言ったアスナは少し俯き、表情を曇らせた。

 

「まあそういうことだ。……つーか今さらだけど、一層であんなことがあったんだから、俺のことももっと警戒しろよ」

 

「キバオウさんとのこと? でもあれはハチ君の言い分の方が明らかに正しかったし……それにハチ君、キバオウさんのこと殺すつもりなんてなかったでしょ? キリト君が止めに入るのを予想してたんじゃないの?」

 

 そのセリフに俺は絶句してしまった。そんな俺に構うことなく、アスナは言葉を続ける。

 

「ま、ハチ君のことだから否定するんでしょうけど……。でも、見る人が見ればあれがお芝居だってことくらいすぐに分かるわよ」

 

 アスナの推察に、俺は反論する言葉を持たずただ黙っていることしか出来なかった。しばらく沈黙する俺を見つめていたアスナだったが、やがてため息をついてから口を開く。

 

「じゃあ、私は街に戻るわ。街に戻って……ハチ君に今日言われたこと、もう一度よく考えてみる」

 

 そう言いながら立ち上がったアスナにつられて、気を取り直した俺も腰を上げる。

 

「だからそうやって難しく考えるなっての。ただ、道中楽しめってことだ」

 

「……うん。じゃあもう行くわ。元気でね」

 

 そう言ってアスナは俺に背中を向けた。その背中に俺も声をかける。

 

「お前も、帰りに気を付けろよ」

 

 その言葉に、歩き出そうとしていたアスナは動きを止めて振り返った。

 

「その……お前っていうの、やめて。……アスナって呼んで」

 

 以前にも同じようなことを言われたが、その時と比べてずいぶんとしおらしい声音に、俺の鼓動が跳ね上がる。

 

「え、お、おう……アスナ?」

 

「うん、それでよし! じゃあね!」

 

 そう言って満面の笑みを作るアスナ。彼女は大きく手を振って森の中へ駆け去って行った。

 アスナを見送った俺の手には、彼女にもらった槍《ハート・ピアス》が固く握られていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスナと分かれてから、さらに数日後。

 俺は相も変らず森林フィールドを拠点にし、例の湖のほとりを寝床にしていた。

 湖のほとりはセーフティゾーンでありモンスターが侵入することはないのだが、しかし完全に安全地帯というわけでもない。このセーフティゾーン、実はプレイヤー同士の攻撃は通るのだ。

 そう言った理由もあってここでも俺は完全に気を抜くことは出来ないのだが、睡眠は取らなければならない。

 だから俺はいつも索敵スキルを使用しつつ就寝しているのだが……今日、そんな索敵スキルによる警戒網を潜り抜け、俺に接触をはかった奴がいた。

 湖のほとりで寝ていたところを肩を叩いて起こされた俺は、そいつに目を向ける。

 

「ヨォ。久しぶりだナ、ハチ」

 

 俺が目を向けた先に立っていたのは、フードを被った小柄な女情報屋、アルゴだった。相変わらず鼠の髭のような3本線のフェイスペイントをしている。

 

「お前……なんでここがわかったんだよ?」

 

「前にも言ったダロ? どこに引っ越してもすぐに見つけてやるヨ」

 

「こええよ……ストーカーか……」

 

「ニャハハ! それも悪くないかもナ! ハチと居たら退屈しなくてすみそうダ」

 

 そうやって笑っていたアルゴだったが、すぐに一息ついて少し真面目な表情になった。

 

「相当な無茶をやらかしたらしいじゃないカ」

 

 アルゴがボス攻略後の事件のことを言っているのだとすぐに理解した俺は、自虐気味に答えた。

 

「……むかつく奴がいて、我慢出来なくなったんだよ。まあ自業自得ってやつだ」

 

 その俺の言葉に、アルゴは全て見透かしたような顔で応える。

 

「ふぅン……。まあ、そういうことでいいヨ。ハチの捻くれをどうにかするのは、オレっちの役目じゃないしナ」

 

 俺はアルゴのその発言が気になったが、どうせ聞いても「その情報は2000コルダナー」とか言うのが目に見えているので、黙っていた。

 

「さて、今日のオネーサンは商売をしにきたんダヨ。ハチが喉から手が出るほど欲しがる情報を1つ持ってきてやったんだナー」

 

「俺が欲しがる情報?」

 

 そう尋ねると、自慢げな顔でアルゴは語りだした。

 

「この2層に、オレンジプレイヤーでも受け入れてくれる家があるんダ。ボロいが、まあここよりはマシだろうナ。かったいパンだケド、3食飯も出るヨ」

 

 そこで一拍おいて、アルゴはさらに続ける。

 

「この情報は、たぶんオレっち以外に知ってる奴は居ないと思うヨ。街からも遠いし、人に会うこともないだろうナ。……どうすル、この情報、買うカ? 今ならハチの居場所の口止め料も合わせテ……しめて5万コルってところかナ」

 

 決して安くはない値段だったが、確かにアルゴが言うようにその情報は俺にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。ここで生活しだして一週間ほどが経過したが、精神的にはそろそろ限界が近い。

 俺は少し考えてから、アルゴの取引に乗ることを決めた。

 

「その情報、買った。すぐに場所を教えてくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルゴに案内された場所は、俺の拠点にしていた森から距離的にはそう遠くなかった……のだが、その道のりはかなり過酷だった。

 まず4~50メートルはあろうかという岩壁をよじ登り、小さな洞窟を進み、ウォータースライダーじみた地下水脈を滑り――と言った道とも言えないような道を移動して30分ほど進んだところに、その目的地はあった。

 つーか普通、こんな道通らないだろう……。

 なんでアルゴはこんなところにたどり着けたのか俺は気になったが、本人に聞いても「その情報は(以下略」と言われるのがわかっていたので、口にはしない。

 そんな道を経て今俺たちが立っているのは、第二層の東の端に一際高くそびえ立つ岩山の頂上近くだ。そこには岩に囲まれた小さい空間があり、その中に古びた小屋が建っていた。

 

「ここか?」

 

「……ま、ついてきナ」

 

 アルゴはそう言って小屋の中へと入っていく。

 俺も警戒しつつその後についていくと、殺風景な小屋の中には1人のNPCが立っていた。

 筋骨隆々とした、スキンヘッドのおっさんだ。年季の入った空手の道着のようなものを着ている。

 普通NPCはオレンジプレイヤーが近づくと慌てて逃げ出すか、迎撃の体勢に入るのだが……このおっさんは憮然とした表情でただ静かに佇んでいる。

そして、俺の気になったことはもう1つあった。おっさんの頭上に浮いている、金色に光る《!》のマーク。あれはクエスト開始点である印だ。

 

「クエスト……? こんなところで?」

 

 その俺の疑問に、すかさずアルゴが答えた。

 

「あのNPCが、エクストラスキル《体術》を教えてくれるのサ。クエストを受注すればここに居候しながら修行することになるんダ。武術以外のことには無頓着で、オレンジプレイヤーだろうと気にせず受け入れるって設定らしいヨ」

 

「体術……? そんなのβテストの時にも聞いたことないぞ」

 

 そう言って訝しげな表情を作る俺に、アルゴは淡々とした様子で情報を補足した。

 

「まあたぶんだケド、ここにたどり着いたことがあるのはオレっちだけだろうし、情報は出回ってなかっただろうナ。そのオレっちも修行は途中で断念したし……まあ、本来の目的は寝床の確保ダロ? 細かいことは気にしないでとりあえずクエストを受けてみなヨ」

 

「まあ、そうだな」

 

 そうして俺は深く考えることなく、おっさんへと話かけた。おっさんからは散々と修行は過酷だとか、覚悟が必要だとか脅されたが、今の俺にとっては寝床の確保が最優先なので適当に聞き流し、クエストを受注した。これで粗末だが、久しぶりにベッドで眠ることができる。

 そう思って喜んでいた俺だったのだが……

 俺はすぐに、自分の不用意さを後悔することになるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後俺は、おっさん改め師匠……いや、やっぱりおっさんでいいか。そのおっさんに小屋から連れ出され、岩壁に囲まれた庭の端にある巨大な岩の前に立たされた。

 おっさんは高さ2メートル、差し渡し1メートル半はあろうかというその岩をぽんぽんと叩き、語った。

 

「お前の修行はたった1つ。両の拳のみで、この岩を割るのだ。成し遂げれば、お前に我が技の全てを授けよう」

 

 なるほど、確かにこの修行は過酷かもしれない。ぱっと見た感じ、この岩を素手で割ることなど不可能だ。今後筋力のステータスが上がっていけばわからないが、少なくとも今の俺にはできないだろう。

 まあ真面目に修行するつもりのない俺には関係ない話だ。正直体術スキルは気にならなくもないが、ピーキー過ぎて使い勝手が悪いだろうことは容易に想像出来る。修行がクリア出来なくても、適当なタイミングでバックレてしまえば何の問題もないだろう。

 と、その時の俺は暢気に考えていたのだが……。

 

「この岩を割るまで、山を下りることは許さん。お前にはその証を立ててもらう」

 

 そう言っておっさんは懐から壺と筆を取り出し、俺に近づいてきた。

 え、ちょ……どういうこと?

 何やら不穏な展開に、少し不安になった俺は隣に控えるアルゴに視線を送ったが、当のアルゴは何も言わずニヤニヤとしている。

 そして俺が正面に視線を戻すと――次の瞬間、筆を持ったおっさんの腕が恐ろしいスピードで動いた。筆を壺に突っ込んで墨をたっぷりと含ませ、その筆を俺の顔へと――

 

「うぉおお!?」

 

 そのあまりのスピードに俺は反応することも出来ずに、両の頬に3本ずつ、まるで“鼠”のようなフェイスペイントを施されてしまった。

 

「その証は、お前がこの岩を割り、修行を終えるまで消えることはない。信じているぞ、我が弟子よ」

 

おっさんはそう言い残して早々と小屋の中へと帰って行った。そしてこの場に静寂が訪れる。

 

「……おい。アルゴ……」

 

 俺が目線を送ると、アルゴは必死に笑いを堪えながら答えた。

 

「プッ……。な、なんダ? ハチえもん?」

 

 どうやら俺の髭は鼠系ではなくネコ型ロボット系らしい。

 

「お前、βテストの時にこのクエストを受けたのか……」

 

 そこで必死に笑いを堪えていたアルゴは大きく深呼吸をし、少し落ち着いてから話しだした。

 

「フゥ……。その通りだヨ。まあそれで修行を断念してネ。βテスト中にそのペイントのおかげで“鼠のアルゴ”として名前が売れちまったカラ、今もこうして自分でペイントをしてるのサ」

 

 俺は期せずしてアルゴのお髭の秘密を知ってしまったわけだが……いや、今そんなことはどうでもいい。

 

「アルゴ……嵌めやがったな……?」

 

 俺の抗議の視線に、アルゴは平然と答える。

 

「随分な言い草ダナ。ここがオレンジプレイヤーにとって一番安全なのは事実なんダヨ?」

 

 アルゴのその言葉は間違っていなかったので、俺は反論出来なくなってしまった。

 

「むしろ今回オレっちとしては、出血大サービスダヨ。隠れ家の提供に加えてエキストラスキルについての情報と、オレっちのお髭の秘密を教えてやったんダ。いやー、得したナ、ハチえもん!」

 

 このアルゴの全く悪びれない態度に、俺はいっそすがすがしささえ感じていた。

 

「今回はオマケにもう1つ教えといてやるよヨ! その岩……鬼ダヨ!」

 

「だろうな……」

 

 そう言って俺は例の岩を見つめた。

 

「ま、たまにオネーサンが様子を見に来てやるヨ。ガンバレ、ハチえもん!」

 

「……」

 

 こうして、俺の望まない修行の日々が幕を開けた。

 

 余談だが、この一件の功績を認め、アルゴは俺の《絶対に許さないリスト》史上初の殿堂入りを果たしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 修行開始から一週間――そして第二層に到達してから2週間が経過した頃、俺は例の岩場に囲まれた小屋の中で、アルゴからボス攻略成功の一報を受けた。

 話によれば様々なイレギュラーがあったものの、キリトやアスナ他数名の活躍によって犠牲者なしでのボス攻略を成し遂げたらしい。

 ちなみにその際アスナは顔を隠すのをやめ、素顔で攻略に参加していたそうだ。よく笑うようになった彼女は、既に攻略組のアイドル的存在になっているらしい。

 

 そしてその話を聞いたさらに2日後、俺はとうとう巨大岩を素手で破壊することに成功し、体術スキルを習得するとともに髭の呪縛から解放されたのだった。

 晴れて自由の身となった俺は、すぐに新しく解放された第三層へと向かった。

 修行を終わらせず、贖罪クエストが開放されるであろう第五層まで攻略されるのをあの小屋で待っているのも1つの手だったのだが、俺はそれを選ばなかった。

 いざ第五層が開放された時にそこに向かうためには結局三層、四層でレベリングをする必要があるし、それならば中堅プレイヤーたちが上の層に上がってきて人口が増える前にそれを済ませておきたかったのだ。

 

 そう考えた俺は今、第三層に渡るべく第二層の迷宮を上っている。

 オレンジプレイヤーである俺は転移門を使うことが出来ないので徒歩での移動になったのだが、アルゴからマップデータを貰っていたので特に問題はなかった。

 

 途中までは。

 

「いたぞ! こっちだ!」

 

「くそっ……!」

 

 悪態をつきながら、迷宮の奥へと駆けてゆく。

 俺は今、追われていた。

 理由ははっきりとはわからないが、おそらくオレンジプレイヤーに対する粛清であったり、俺の第一層攻略での悪名を聞いた奴らの行動だろう。

 二層に上がってきたばかりの頃にも、何度かそういったプレイヤーとの衝突はあったのだ。ただ、その時は相手も少人数で、なんとか殺すことも殺されることもなくその場を切り抜けることが出来たのだが……。

 

「奥に行ったぞ! そっちで回り込んでくれ!」

 

「了解!」

 

 今回俺を追っている奴らはざっと確認しただけでも十数人いて、しかも妙に組織立っていた。もしかしたら、治安維持のために自警団などが組まれているのかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺は隠蔽スキルを駆使し、モンスターたちをすり抜けて迷宮の奥へ奥へと走っていく。

 圏外で一日中隠蔽スキルを使い、そのレベルを上げた俺だから出来る芸当だ。俺を追うプレイヤーたちはモンスターに阻まれて、足止めを食らっていた。

 マップによればボス部屋はもうすぐだ。このまま第三層へと抜けてしまえば、逃げ切れる。

 

「絶対逃がすな! 追え!」

 

 そんな声を後方に聞きながら、俺は速度を緩めることなく駆けた。前方の曲がり角。そこを右に曲がればすぐにボス部屋があるはずだ。

 俺は速度をほとんど落とさずそのコーナーを駆け抜け、すぐ目の前のボス部屋へと飛び込み――絶望した。

 

「待ち伏せ……!?」

 

 呟いた俺の目線の先では、また十数人のプレイヤーたちが待機していた。ボス部屋の中で、第三層への階段を塞ぐように隊を組んでいるように見える。

 俺はその事実を見て取った瞬間に踵を返そうとしたのだが、後方から俺を追ってきた部隊が既にそこまで迫ってきていた。

 窮地に立たされた俺は、何故これほどまでに統率された組織が俺を追っているのかと疑問に思ったが、すぐさまその思考を頭の端に追いやった。

 

 今考えるべきは打開策だ。イチかバチか強行突破を試みるか、大人しく降伏して助命を乞うか。

 強行突破するならば待ち伏せしていたグループに突っ込むべきだろう。後方のグループを突破しても、再び他のグループと鉢合わせする可能性が高い。しかし、正直あの人数を相手にしてここを切り抜けられる自信はない。ならば降伏した方がいいか。しかし、有無も言わさず殺される可能性もある。ならばいっそ賭けに出た方が、いやしかし――

 

 そうして俺の中の葛藤がピークに達した時、待ち伏せグループの中から1人の男がこちらに歩いてきた。軽装備の優男だ。武器は構えておらず、片手に本のようなものを持っていて敵意はないように見えた。

 

「貴方が、ハチさんですか?」

 

 男が温和な表情で尋ねた。どう答えたものか少し迷ったが、相手の態度が意外と好意的であったので、俺は正直に答える。

 

「……そうですけど、なんか用すか」

 

 俺の発言に、男は予想外のリアクションをとった。

 

「ほ、本物なんですね!? あ、握手を……! それと、これにサインお願いします! 俺、ハチさんの大ファンなんです!!」

 

「……………………は?」

 

 意味の分からない状況に、俺は間の抜けた声を出してしまった。そして、ふと男が差し出している本に目を移す。その表紙に記されていたのは――

 

 《『hachiという漢』 実録! 第一層攻略の真実! 隠された彼の苦悩……!! 著:トウジ 風林火山出版》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「久しぶりだな。ハチ」

 

「……おう。一ヶ月ぶりくらいか……」

 

 久しぶりに合ったクラインは、相変わらずのひげ面で俺を見つめていた。その隣にいるキリトも、俺に視線を向けて口を開く。

 

「ハチ……よかったよ、生きていて」

 

「ああ、まあ、なんとかな……」

 

 手ごろな岩に腰かけた俺たちは、向かい合って言葉を交わしていた。

 俺がさっきの連中に連れてこられたのは、第三層に入ってすぐのところにあるセーフティゾーンだった。森林フィールドの中に大きな岩山があり、その岩壁に囲まれて小さな空間があるのだ。

 そこでクラインやキリト、そして他の風林火山の面々が待っていたのだった。

 久しぶりの再会は、微妙な空気が流れていた。まあ、あんな別れ方をしてしまったんだから、それは仕方のないことだろう。

 いつもなら俺はこの場の空気を読みつつ、大人しくしているのだが……どうしても気になることがあり、こちらから口を開く。

 

「とりあえず聞きたいことがあるんだが……“それ”なんだ?」

 

 俺はそう言って、今クラインが持っている……そして俺を追っていた連中全員が持っていたその本を指さした。

 クラインは「よくぞ聞いてくれた!」とでも言いたげに、自信満々な顔でそれに答える。

 

「これはSAO内でのハチの偉業を余すところなく詰め込んだ、伝記小説だ! 捻くれた主人公が何だかんだ言いながら人助けをするっていう話で、3000部の大ヒット作だぜ! ま、全部ガイドブックと一緒に無料配布なんだけどよ」

 

「んなアホな……」

 

 あの本の表紙を見た瞬間から、半ば予測していた答えではあったのだが……意気揚々と語るクラインを見て、俺は頭が痛くなってきた。

 ていうか、3000部って……今のSAO内で3人に1人が持ってる計算になるんだが……。

 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、クラインは語り続ける。

 

「この世界じゃ娯楽が少ないからな。結構熱狂的なファンが付いてよ。今日お前を捕まえるために協力してくれたのも、そんな奴らさ」

 

 その言葉に、周りに控えていた30名程度のプレイヤーたちが頷く。

 

「ま、タネ明かしはこんなもんでいいだろ。本題はここからだ」

 

 そこでクラインの表情が真面目なものに変わる。

 

「第一層のボス攻略で何があったのかは聞いた。この本にも、ありのままのことが書いてある……お前が他のプレイヤーを殺しかけたことはよ」

 

 そう言いながらクラインが手に持った本をぽんぽんと叩く。

 

「けどオレらだってバカじゃねえ。どうしてお前がそんなことしたのか、わかってるつもりだ。オレらと距離を置いた理由もな」

 

 俺を見つめるクラインの眼差しが、いっそう真剣みを増した。

 

「確かにその場はハチのおかげで丸く収まったかもしれねえ。でもオレは……いや、この場に居るオレらは、このままハチに貧乏くじを全部押し付けて、知らん顔なんて出来ねえんだよ」

 

 その言葉に反応した風林火山の面々が、大きく頷く。

 

「この本が広まって、ハチの悪評はなくなった……とは言い切れねえけど、少なくとも味方は増えたんだ。お前が気にすることなんか何もねえ。オレらと一緒に来いよ」

 

 そう告げたクラインの表情には、嘘も打算も感じられなかった。

 今まで、これほど真っ直ぐに人に求められたことはない。その誘いに俺の心は大きく揺らいだ。

 しかし、理性が感情にブレーキをかける。今さらどの面下げて戻れというのか。

 

「俺は……」

 

 口を開いたものの、俺はそれ以上の言葉を紡ぐことが出来なかった。数秒の沈黙が流れる。

 

「なあ、ハチ」

 

 言葉に詰まる俺を見て、今まで黙って話を聞いていたキリトが口を開いた。足元に視線を落として、キリトはとつとつと言葉を続ける。

 

「このゲームが始まってから、一ヶ月、ずっと一緒に戦ってたよな。お互いに、助けて、助けられてさ……俺、単純だから、ハチのこと親友だと……相棒だと思ってた。いや、今もそう思ってる」

 

 そこでキリトはゆっくりと顔を上げた。

 

「それって、俺だけか?」

 

 その瞳が、俺を捉える。目を逸らすことは出来なかった。

 この感情が何なのかは、自分でもよくわからない。

 ただ、俺はもう自分を偽ることは出来なかった。

 

「……俺も、そう、思ってるよ」

 

 

 

 

 

 この一件の後、俺はまたこいつらと行動を共にすることになった。

 しばらくはオレンジプレイヤーのままだが、圏内に行き来できるグリーンのプレイヤーの協力があるだけでも、危険度はかなり減るだろう。

 例の伝記小説を読んだプレイヤーたちの視線が正直鬱陶しかったが、まあそれもそのうち治まるはずだ。

 

 こうして俺は初めて出来た“友人”と共に、アインクラッド攻略を再開した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4話 サチの決意

 私たちがこのゲームに囚われてから、5ヶ月が経ちました。

 始めのうちはケイタたちも恐がっていたんだけど……今はもうその恐怖心も薄れて、このゲームを楽しんでいるように見えます。

 みんな根っからのゲーム好きだし、男の子だもんね。

 私は……ちょっと無理かな。

 命がかかっているって思うと、モンスターの前に立つのがすごく恐い。体が竦んで、動けなくなる。

 ケイタたちはレベルを上げて、いつか月夜の黒猫団で攻略に参加したいって言ってるけど……私は攻略になんて参加したくない。ホントはずっと街の中に閉じこもっていたい。

 でも頑張っているみんなの前ではそんなこと言えないし、1人だけ安全な場所に閉じこもっているなんて、そんな自分勝手許されるわけない。

 そんな状況で誰にも相談出来ずに、私の心は少しずつ消耗していった。

 私はもう駄目かもしれない。そう思った。

 そんな時に、この世界で一冊の本に出会ったの。

 

 『hachiという漢』

 

 有志のプレイヤーたちが自費出版で無料配布した本で、そこにはハチという男の人が第一層攻略の裏でどんな活動をしていたかが綴られていた。

 タイトルがちょっとアレで、最初は敬遠していたんだけど……読んでみると、その内容に私は衝撃を受けた。

 私たちがこの世界に囚われた時、ハチさんはまず他のプレイヤーたちのために自分に何が出来るか考えたそうだ。

 そして彼は元βテスターである自分の知識を使って、ビギナー向けのガイドブックを作った。その傍ら、ハチさん自身も攻略に参加し、ボスとの戦いでも大活躍したらしい。

 でも、最後にはボス攻略について言いがかりをつけられた友人を庇って、自ら汚名を被って仲間たちの前から消えてしまうのだ。

 この本を読んだ時、私はこの世界にきて初めて涙を流して泣いた。

 誰よりも気高いハチさんのことを思って。そして自分の情けなさに。

 私たちがただ怯えていたその時、同い年のその男の子は人知れずずっと誰かのために闘っていたのだ。

 私は決意した。

 私もハチさんのように、この世界と闘おう、と。

 いや、彼のようには無理でも、自分に出来ることを精一杯やろうと。

 モンスターとの戦いはまだ恐いけれど。それでも逃げないで立ち向かっていこう。

 そうして私は初めて自分の足で歩き出せた。

 未だ見たことのない、彼の背中を追って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第1層。始まりの街。

 商業区から少し離れた一角に、風林火山のギルドホームは存在する。

 その一室。ダイニング。

 諸用でクラインを訪ねていた俺とキリトが部屋に入ると、テーブルに向かって何か作業をしていたトウジが顔を上げた。

 

「あ、2人とも帰ってきてたんですね。攻略の方は一段落ついたんですか?」

 

 トウジは作業の手を止めて、俺たちに尋ねた。

 

「ああ。レベリングも限界だったから一旦帰ってきたんだ」

 

 そのキリトの答えに、俺が渋面を作ってさらに話を続ける。

 

「まあ、またすぐ出かけるんだけどな。クラインの奴、厄介な仕事押し付けやがって……。久しぶりにだらだら出来ると思ったのに……」

 

 俺の愚痴にトウジは苦笑いしていたが、すぐに何かを思い出したように話を変えた。

 

「あ、そういえば、またハチさん宛にファンレターが沢山着てますよ。しばらく帰って来なかったので、どうしようかと思ってたんですけど……」

 

「……全部燃やしといてくれ」

 

 トウジの話に俺はさらに憂鬱になりつつ、そう答えた。そんな俺の気も知らず、キリトはしみじみとした様子で頷く。

 

「ファンレターか……。ハチも有名になったもんだなあ」

 

「おまえ、他人事だと思って……」

 

「でもホントに大人気ですよ。この前もALS所属の女性の方から熱烈な……」

 

「もういいっつーの……。つーか、何であの本、俺だけ実名なんだよ。お前らは偽名で登場してるくせに……」

 

 あの本とは言うまでもなく、『hachiという漢』のことだ。

 その本は俺の許可なく出版した上、俺だけ実名、他の登場人物は全員偽名と言う嫌がらせとしか思えない仕様となっていたのだ。

 そのため俺の苦言は当然とも言えるものだったのだが、その著者であるトウジは特に悪びれる様子もなかった。

 

「当初の目的はハチさんの悪評をなくすことでしたからね。ハチさんが偽名じゃ意味ないですから。他の方が偽名なのはプライバシーの観点からですね」

 

「おい、俺のプライバシーは……」

 

 トウジの発言にさらに抗議をぶつけようとした俺を、キリトがなだめる。

 

「今さら言ってもしょうがないだろ。ま、恥ずかしいことは何もしてないんだから、堂々としてればいいんだよ」

 

 キリトの発言に納得したわけではなかったが、確かに今さら言ってもどうにもならないことではあるので、俺はため息をついて口を閉じた。

 しかし、トウジの前に積まれた紙の束が目に入り、すぐにまた口を開く。

 

「……それ、お前は何してんだ?」

 

「ああ、これは『hachiという漢 第4巻』を執筆中でして……あっ! ちょっとハチさん!? 何するんですか!?」

 

 破り捨てようと原稿に手を伸ばした俺からそれを守りつつ、トウジは必死に弁明する。

 

「し、仕方ないじゃないですか! 続編を望む声が凄いんですよ! ハチという漢を、読者が待ってるんです!」

 

「そんな奴らは一生待たせといていい!」

 

 そう言って詰め寄る俺をキリトが遮った。

 

「ハチ、もう手遅れだ、諦めろ。 ……というか、放っておいたら逆に収拾がつかなくなるぞ。既にハチを題材にした二次創作とか出回ってるし」

 

 その衝撃の事実に俺の思考は停止し、その場に立ち尽くした。

 

「ほら、もう行こう。仕事があるんだから」

 

 そう言うキリトに背中を押され、俺はその場を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺がキリトたちと合流してから3ヶ月半……ゲーム開始からは5ヶ月ほどが経っていた。その間、様々なことがあった。

 

 クエストをこなしてギルドを作ったり

 妙に人間らしいNPCと出会ったり

 アスナに罵倒されたり

 攻略に復帰した俺とキバオウの間で一悶着あったり

 『hachiという漢』の続編が出版されたり

 アスナに罵倒されたり

 贖罪クエストを受けたり

 ギルドメンバーの勧誘をしたり

 アスナに罵倒されたり

 攻略組の中で少しトラブルがあったり

 アスナに罵倒されたり

 

 アスナに罵倒され過ぎだろ俺……。

 まあそんな日々を過ごしながら、アインクラッド攻略は概ね順調に進んでいき、現在俺たちは第23層まで到達していた。

 ここまで攻略が押し進められたのは、3つのトップギルドの存在が大きかったと言えるだろう。

 

 1つは、リンド率いる《ドラゴンナイツブリゲート》……通称DKB。

 リンドというのはディアベルの後継者を自称している男で、彼は第一層攻略後からディアベルの率いていた勢力を受け継ぎ、そのまま攻略組として活躍してきた。

 

 次にキバオウ率いる《アインクラッド解放隊》……通称ALS。

 キバオウについては……まあ、言わずもがなだ。相変わらず元βテスターについては良く思ってないようだが……キバオウ本人は、意外と面倒見の良い性格らしい。ビギナーを中心に勢力を増やし、数だけで言えばALSは現時点でSAO内の最大ギルドだ。

 

 そして最後に、クライン率いる《風林火山》

 現在のメンバーは、クラインのリア友4人に加えてキリトと俺が幹部として存在し、他十数名のプレイヤーが在籍している。

 トップギルドのうちの1つと言っても、風林火山は他の2つのギルドとは少し毛色が違う。

 まず、攻略における貢献度はそれほど高くない。ボス攻略に参加しているのはキリトと俺だけだ。

 では何が風林火山をトップギルドたらしめているのかと言うと、ガイドブック制作と、それと並行して行なっている中層以下のプレイヤーの支援が充実している点だったりする。

 具体的な活動内容については多岐に渡るため、ここでの説明は割愛するが……今、俺もその中層プレイヤーの支援活動に駆り出されていた。

 俺とキリトは攻略組として活動しているのでそっちの仕事はある程度免除されているのだが、攻略のペースに余裕があったりするとお鉢が回ってくる。

 今回の仕事内容は、オファーがあった中層のプレイヤーの元に赴き、狩りや攻略についてレクチャーすると言うものだった。

 お世辞にもコミュ力が高いとは言えない俺にとって、非常に苦手とする類いの仕事だ。

 正直逃げだしたい気持ちでいっぱいだったのだが、上司の命令には逆らえない程度の社畜根性を持つ俺は渋々ながらその仕事を受け持つことになったのだった。

 

「ここか……」

 

 そう独りごちた俺が見つめるのは、一軒の民家だ。クラインの話によると、ここに住む《月夜の黒猫団》というギルドが俺の受け持ちらしい。

 ちなみにキリトとは別行動だ。胃が痛い。

 そこで大きく深呼吸をした俺は、意を決してドアをノックしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第11層。タクト。

 そこに私たちのギルド《月夜の黒猫団》が借りている家があり、私を含めて5人のギルドメンバーが生活している。

 今日はここで人を待っていたので、みんな居間で各々時間を過ごしていた。

 その中で私だけが忙しなく家の中を歩き回り、何度も時間を確認し、逸る気持ちを抑えようと深呼吸を繰り返しーーと、朝からずっと落ち着かない様子でそわそわしていた。

 そんな私を見兼ねて、月夜の黒猫団のリーダーであるケイタが口を開く。

 

「少しは落ち着けよ、サチ。時間まではまだ少しあるし、そもそも“あの人”が来てくれるとも限らないんだぞ?」

 

 私はようやく足を止めて、ソファに腰掛けるケイタに体を向けた。

 

「それはわかってるんだけど……もし、あのハチさんが来てくれたらって思うと……」

 

 そう言った私は、かつてないほどに高揚していた。自分でも頬が紅潮しているのがわかる。そんな私の様子に、ケイタは苦笑いで答えた。

 

「サチはホントにハチさんのことが好きだなぁ……ま、気持ちはわかるけどさ」

 

「す、好きと言うか……その、憧れなの。ハチさんみたいになりたいって…」

 

 私が慌ててそう答えると、ケイタの隣に座っていたダッカーが茶化すように口を開いた。

 

「そりゃあ無理だろ。サチはビビりだしな」

 

 そう言うと、他のみんなも同意するように笑っていた。

 

「何よ、みんなして人をみそっかすみたいに……」

 

 私がみんなに抗議の顔を向けたその時、部屋にノックの音が響いた。みんなの視線が玄関に集まる。

 

「僕が出るよ」

 

 ドアに1番近い位置に居たケイタがすぐに席を立って、ドアノブに手をかけた。開かれるドアの先を、私は息を飲んで見つめる。

 

「あー……ども。風林火山のもんなんだけど、月夜の黒猫団ってギルドはここでいいのか?」

 

 そこに立っていたのは、私たちと同い年くらいの男の人だった。外装はスピード重視の軽装備で、背中には身の丈以上の長さの槍を背負っている。

 それは本に出てくるハチさんの特徴と同じだった。ちょっとアレな感じの目も、本に書いてあった通りだ。

 そこまで見てとった私の鼓動は、早鐘のように鳴り打っていた。

 もしかして、ホントに――

 

「あ、はい、うちであってます。今日は来て頂いてありがとうございます。それじゃあ……」

 

 緊張する私をよそに、礼儀正しく応接するケイタ。しかし、どうしても気持ちを押さえ切れなくなってしまった私は、ケイタを押しのけて彼に詰め寄った。

 

「あ、あの! もしかして……風林火山の、ハチさんですか?」

 

「お、おい、サチ……!」

 

 諌めるようなケイタの言葉など耳に入らず、私は彼の返事を待っていた。やがて彼は頭をかきながら口を開く。

 

「あー……期待してたところ申し訳ないんだが、俺はハチじゃない。エイトだ」

 

「あ……そうですか……」

 

 違った……。

 呟いた言葉と一緒に、私の中で膨らんでいた気持ちは萎んでいった。

 

「おい、サチ! エイトさんに失礼だぞ!」

 

「え……あっ!」

 

 ケイタの声に現実に引き戻された私は、今さらながらに自分の行動を省みて全身から血の気が引いた。

 

「す、すみません! 決してエイトさんが不満だったとかではなく、その……!」

 

 そう言って私は何度も頭を下げた。もしかしたら怒って帰ってしまうかもしれない。しかしそんな私の心配をよそに、当のエイトさんは特に気にした様子もなく答えた。

 

「別にいいよ。ハチが人気なのは知ってるし。むしろ悪かったな、期待させちまって」

 

「いえ、そんなことは……」

 

 一瞬、微妙な空気が漂ったが、すぐにケイタが場をとりもつ様に口を開いた。

 

「立ち話もなんですから、とりあえず入ってください。何か飲みますか? お茶とコーヒーと、オレンジジュースがありますけど……」

 

「あー、じゃあコーヒーを……」

 

 そう言ってケイタがエイトさんを奥のダイニングへと促していった。私はそれを見てホッとしつつ、その後ろについていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 例の本がこの世界に普及してから、俺は一躍有名人となった。

 『hachiという漢 第1巻』は最終的に4000部以上も配布したらしい。その続編である2巻と3巻は2000コルでの販売となったが、それも2000部ほどずつ売れたそうだ。

 ちなみにこの2巻と3巻について、販売前に俺に相談はなかった。というか、クラインとトウジが俺に隠れて計画を進めていたらしい。

 それについて一悶着あり、あわやギルド内部分裂の危機という事態にまで発展したのだが……まあ、ここでは割愛しよう。

 そんな経緯により、期せずして俺はSAO内で最も有名なプレイヤーになったのだが……正直、居心地の悪いことこの上ない。

 あの本では俺の言動に過大な脚色が施されているのだ。身元がバレれて好奇の目に晒されるのも嫌だが、俺の実態を知って失望されるのも胃が痛い。

 そんな事態を避けるべく、俺は第3層以降から偽名を使っていた。

 風林火山のエイト。それが今の俺の名前だ。

 まあ、パーティを組んだりすればすぐに偽名だとわかるのだが、ボス攻略を除いて俺がキリトやアスナ以外の人間とパーティを組むことはないので問題ない。

 そういった訳で、俺は月夜の黒猫団の面々に対しても同様の偽名を名乗っていた。

 そんなことなど露知らず、彼らは俺を風林火山のエイトとして家のダイニングに招き、話し始める。

 

「じゃあとりあえず自己紹介しますね。僕はケイタ。うちのギルド《月夜の黒猫団》のリーダーです」

 

 それに続いて男が3人と女が1人、自己紹介する。

 背の高い男がテツオ。チビ金髪がダッカー。特に特徴のない男がササマル。大人しそうな女がサチと言うらしい。みんな歳は俺と同じくらいか。

 

「みんなリアルで同じパソコン部だったんです」

 

「へぇ……」

 

 俺は出されたコーヒーを啜りながらそれを聞いていたが、1つ気になることがあり、口を開く。

 

「先に言っとくけど、別に畏まらなくてもいいぞ。歳も近いし。そういうの、疲れるだろ?」

 

 俺の言葉に、ケイタたちは顔を見合わせた。しかしすぐに表情を緩ませて、俺に向き直る。

 

「……そうだな。じゃあ堅苦しいのはなしにしよう。エイトって呼ばせて貰うよ」

 

 その後、他の面子も同じように頷いた。それに俺も適当に頷いて答え、本題に入るために話題を変える。

 

「それじゃあまず確認したいんだが、今回は戦闘訓練の依頼ってことでいいんだよな?」

 

「うん。最近、サチが槍から盾持ち片手剣に転向したんだけど……上手くいかなくてさ。そこも含めて、僕ら全体を指導して欲しいんだ」

 

 ケイタはそう言って隣に座るサチに視線を向けた。話に上がったサチは、申し訳なさそうに顔を伏せている。

 

「ふーん……。まあ、パーティのバランス的にはタンクが居た方がいいし、間違ってはいないと思うが……」

 

「何か問題があんの?」

 

 俺の含みのある言い方に、ダッカーが突っ込んだ。

 正直、俺は男4人女1人のパーティでわざわざ女にタンクを押し付けるのが気に食わなかったのだが……まあ、本人たちがそれで納得しているなら、俺が口を出すようなことじゃない。

 そう自己完結した俺は、首を振って答える。

 

「……いや、何でもない。とりあえず、メンバーの情報聞いていいか? レベルとか、武器とか。その後、手頃なフィールドへ行こう」

 

「わかった。ええと、まずみんなのレベルだけど……」

 

 その後、俺はケイタや他のメンバーから話を聞き、必要な情報を確認した後12層のフィールドへと出かけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「参考までに聞きたいんだけど、エイトのレベルはいくつなんだ?」

 

 狩場へと向かう道すがら、ケイタがそんなことを聞いてきた。

 

「今は38だな」

 

「38!? スッゲー……俺らの倍近いんだな……」

 

 隣にいたダッカーがそう言って大袈裟にリアクションをとる。第1印象で何となくわかっていたが、こいつはお調子者タイプのようだ。

 

「他の風林火山の人たちもそんなに高いのかい?」

 

 ケイタは優等生タイプだな――などと詮ないことを考えながら、俺は質問に答える。

 

「いや、うちは攻略組は多くないし……俺とキリトって奴が高いだけで他は30いかない位だな」

 

 その俺の言葉に何かひっかかったようで、後ろにいたサチが声をあげた。

 

「あれ? ハチさんは攻略組なんじゃないの?」

 

 ……やべ。

 サチのセリフに俺はピクリと反応しつつ、努めて冷静にそれに答える。

 

「え、ああ……そうだな。ハチも俺と同じくらいのレベルだったわ」

 

 幸い、みんな俺の言葉に疑問は感じなかったようで、各々頷いていた。その後、少し緊張したようすのサチが俺に尋ねる。

 

「あの、ハチさんって、どんな人なのかな?」

 

「どんな人……?」

 

「サチはハチさんの大ファンなんだよな」

 

 サチの隣で、テツオがそう補足した。

 なるほど、こいつもあの本に影響されてしまったクチか……。

 

「フ、ファンって言うか……その、尊敬してるの。凄い人だなって……」

 

「えーっと……すまんな。俺は風林火山だと新参だから、あんまりハチのことは知らないんだ」

 

「そっか……」

 

 俺の言葉にサチは俯き、わかりやすく落ち込んでいた。

 こいつは重症っぽいな……。

 そう思った俺は、それとなく釘を刺しておくことにした。

 

「けど、見た感じパッとしない奴だったぞ? あの自費出版の本を読んだんだろうけど……あれ、かなり脚色して作ったらしいし」

 

 まさか自分で自分のネガティブキャンペーンをすることになるとは……と、俺は少し悲しい気分になってきたが、頑張って話を続ける。

 

「あんまり過剰な期待はしない方がいい。実際にはハチなんてーー」

 

「そんなことない! 私、色んな人に話を聞いて調べたんだから!」

 

 俺が最後まで言い切る前に、声を荒げたサチに話を遮られた。

 

「お、おい、サチ……。ごめんな、エイト。あいつ本当にハチさんに心酔してて……気を悪くしないでくれ」

 

「ああ、いや……」

 

 俺はサチの剣幕に少しビビりつつ、頷いた。

 

「ほら、サチも落ち着けよ。これから俺らはエイトに色々教えて貰うんだ。そんなに喧嘩腰じゃあ……」

 

 ケイタに宥められてサチも少し冷静になったようで、頷き、小さくごめんなさいと呟いた。

 だが、その後も納得出来ない様子で俺に目線を送っていた。やがて、再び呟くように口を開く。

 

「エイトは、ハチさんのこと嫌いなの?」

 

 非常に答えづらい質問だった。いや、正直に言えば俺は自分のことが大好きなのだが……。

 

「嫌いと言うか、何と言うか……。まあ、色々あんだよ」

 

 結局俺はそうやって言葉を濁し、適当に誤魔化したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目的の草原フィールドについた俺たちは、早速狩りを始めた。

 この辺りに沸くモブは、全長2mほどのカマキリ型モブ《キラーマンティス》のみだ。現在の月夜の黒猫団でも十分に戦えるレベルの敵だったので、ひとまず俺は離れて様子を見ることにする。

 単体のキラーマンティスを見つけたケイタたちが、気合いを入れて戦闘に臨んでいった。

 それなりにパーティ戦闘の心得はあるようで、定石通りの隊列を組み、モブに着実にダメージを与えていく。

 しかし、しばらくすると問題が起こった。

 

「きゃあっ!」

 

 モブの攻撃を受け、サチは何とか盾でそれを弾きながらも、尻もちをついてしまう。

 

「サチ! 下がれ!」

 

 テツオがとっさに前に出てサチを庇った。しかし、それによって隊列は崩れ、対面していた敵がその隙をついて後衛へと襲いかかる。

 ……ここまでだな。

 そう判断し、俺はケイタたちとモブの間に立った。

 するとカマキリが奇声をあげ、右手にあたる大きな鎌を振りかぶって、俺に襲いかかってくる。俺はその大振りな攻撃を大きく踏み込んで外側に躱しつつ、横からソードスキルを放った。 俺の槍がカマキリの弱点部位である腹を貫き、その攻撃によってHPを大きく削られたそいつは、断末魔をあげることもなく無数のガラス片となって砕け散ったのだった。

 その後、俺は一息ついて周りを見渡す。ケイタたちはへたり込み、厳しい表情をしていた。

 

「……とりあえず、今の戦闘だけでも問題点がいくつかわかった。早いけど、一旦街に戻ろう」

 

 ここへ来てまだ戦闘を一回行っただけだったが、街からそう距離もなかったので俺はそう提案した。俺の言葉に、いち早く姿勢を正したケイタが答える。

 

「……わかった。みんな、行こう」

 

「一応、全員ポーション飲んどけよ」

 

 そう声をかけ、俺が先導して歩きだした。みんなそれぞれ思うところがあるようで、移動の間は誰も口を開くことはなかった。

 そうして歩くこと5分。第12層の中心部である、キルギスの街に到着した。

 キルギスの街はアインクラッドに存在する街の中では特に特徴のないごく一般的な街並みをしており、始まりの街と似たような石造りの建造物が並んでいる。正門から見て手前が居住区、奥が商業区となっていた。

 俺たちは正門から街へと入り、広場に休憩用と思われるテーブルと椅子を見つけてそこに落ち着いた。俺はテーブルを挟んで向かい合うケイタたちを見回し、話を切り出す。

 

「ここら辺にいるカマキリは、特別強い敵じゃない。ケイタたちのレベルと装備だったら、問題なく狩れるレベルのモブだ」

 

 ケイタたちは真面目な表情で俺の話を聞いていた。

 

「それなのに、さっきはピンチになった。原因は……まあ立ち回りの問題だな。それぞれ問題点をいくつか見つけたが……それは後で細かく指摘するとして、とりあえず1番の問題は……」

 

 そこで俺はケイタの横に座っていたサチに目を向ける。

 

「サチ、お前だ」

 

 サチも何か言われるのは覚悟していたようで、申し訳なさそうな顔をしながらも俺から目を逸らさなかった。しかし、続く俺の言葉によって、サチの表情は凍りついた。

 

「はっきり言うぞ。サチにタンクは……いや、戦闘は向いてない。この先上の層に上がって行きたいなら、パーティメンバーから考え直すべきだな」

 

 少し遠回しな言い方だったが、要はサチをパーティメンバーから外せということだ。

 何か建設的なアドバイスを貰えるだろうことを期待していたケイタたちは、突き放すような俺の言葉に、一瞬呆気に取られた。しかしすぐに我に返り、俺に抗議するような視線を向ける。

 

「ちょっと待てよ! そんな言い方ないだろ! だいたい、それを何とかするためにあんたを呼んだんじゃないか!」

 

 ササマルは怒気を孕んだ声でそう言ったが、俺は怯むことなく話を続ける。

 

「性格的に戦いに向かない奴がいるんだよ。そういう奴は大抵、どれだけ訓練しても土壇場で動けなくなる。まあ、俺の経験則だけどな」

 

 俺の見立てでは、サチは間違いなくそのタイプだった。戦いに対する恐怖心が克復出来ていない。

 

「足手まといが1人居ればパーティ全員が危険に晒される。遊びじゃないんだ。ただの仲良しパーティのままじゃ、すぐに限界がくるぞ」

 

 俺としては至極当然のアドバイスだったのだが、言い方が気に食わなかったのか、ダッカーが椅子から立ち上がって怒声をあげた。

 

「何だよお前! 好き勝手言いやがって……攻略組がそんなに偉いのかよ! 俺らだってなあ!」

 

「ダッカー。やめろ」

 

 声を荒げるダッカーを、ケイタが止めた。

 

「でもケイタ、こいつ……!」

 

「おい、少し落ち着けよ」

 

 ダッカーは未だに気が収まらない様子だったが、隣のテツオにも宥められてようやく腰を下ろした。

 

「あー……何か気に障ったんなら謝るけどな、別に俺はお前らを馬鹿にしたつもりはないぞ。むしろ、良くやってると思う」

 

 俺は険悪になったこの場を取り持つように、一応のフォローを入れた。俺だって別にこいつらを怒らせようと思って言った訳ではないのだ。

 

「だけど、今までのやり方じゃもうすぐ限界が来る。お前らもそれを感じてたから俺を呼んだんだろ?」

 

 そう言われて、ササマルとダッカーも渋い顔で俯いた。

 

「技術的なことならいくらでも教えられるが、サチの問題はそれ以前のものだ。悪いけど、俺にはそれを解決するようなアドバイスは出来ない」

 

 俺がそう言うと、それきりみんな黙り込んだ。嫌な沈黙が流れる。

 

「わ、私……」

 

 静寂を破ったのはサチだった。

 

「私、恐がりだけど……。その……強くなりたいって、そう思ってるの……だから……」

 

 絞り出したような声は段々と萎んでいき、最後の言葉は聞き取れなかった。そのサチの言葉は明らかに強がりだったが、嘘ではないのだろう。

 だが……と思い、俺は口を開く。

 

「悪いが――」

 

「エイト。今日は、ここまでにしないか」

 

 立ち上がったケイタが、俺の言葉を遮った。みんなを見回して、ケイタは話を続ける。

 

「僕らの認識が甘かったみたいだ……。みんな、今日は先に帰っていてくれ。僕はエイトと2人で少し話がしたい。エイトも、いいかな?」

 

 その提案に、俺も含めて全員が意表を突かれた。まあ俺にはそれを拒否する理由も特になかったので適当に頷くと、それを認めたケイタが話を続ける。

 

「みんなも色々言いたいことはあるだろうけど……ひとまず、僕に任せてくれないか?」

 

 ダッカーとササマルは訝しげな顔でケイタを見ていたが、1人冷静な様子で今までのやりとりを見ていたテツオが口を開いた。

 

「……ケイタ、何か考えがあるんだな?」

 

 その問いに、ケイタは神妙な様子で頷く。

 

「ああ……帰ったら、ちゃんと説明する」

 

 テツオはしばらくケイタの顔を見つめ、息をついた。

 

「わかった。みんな、行こう」

 

 ダッカーとササマルはまだ納得のいかない顔をしていたが、テツオに促されて不承不承と言った様子で歩き出した。俯いていたサチも、それに続くように歩き出す。俺とケイタは黙ってそれを見送った。

 しばらくして彼らの姿が見えなくなったところで、ケイタがゆっくりとこちらに向き直る。そして真剣な顔で口を開いた。

 

「エイト……いや、ハチ。腹を割って話をしよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前……知ってたのか?」

 

 俺のことを『ハチ』と呼んだケイタに、俺は少なからず動揺していた。

 

「クラインさんにこの件を依頼した時に聞いたんだ。多分、ハチが偽名を名乗るだろうってこともね」

 

 クラインの奴め、余計なことを……。つーか、最初から知っていたのか……とんだピエロだ。まさかみんな最初から知っていて、エイトを演じる俺を眺めていたのだろうか。何それ、めっちゃ恥ずかしい。

 そんな俺の危惧を見抜いたように、ケイタが口を開く。

 

「あ、安心して。他のみんなには言ってないから」

 

 表情には出さなかったが、その言葉に俺は心の底で安堵した。

 

「それで、その時クラインさんに言われたんだ。ハチは言い方はきついかもしれないけど、必ず僕らの為になる助言をくれるから、冷静に話を聞いてやって欲しいってさ」

 

「……あいつはホント世話焼きだな」

 

 俺のぼやきにケイタは笑って応えたが、すぐに神妙な顔になって口を開く。

 

「それでハチは……サチを戦いに参加させるべきじゃないって、そう思ってるんだよね?」

 

「ああ。……っていうか、むしろ何であんなに怖がってるのに、未だに一緒に戦わせてんの?」

 

 俺はケイタの問いに対し、逆に問い返した。

 

「そう言われると耳が痛いんだけど……。でもサチ自身は弱音を吐かなかったから……」

 

「アホか。そんなんお前らに気を使ってるからに決まってんだろ」

 

 俺は即行でそう突っ込んだ。その言葉に苦い顔をしたケイタは、俯いて黙り込んでしまった。俺はそれに構わず話を続ける。

 

「プレイヤーの男女比を考慮に入れても、上層から中層の狩場に女プレイヤーは多くない。命をかけて戦おうって女は少ないんだよ」

 

 このデータは俺の主観に基づいたものだったが、それなりに信用出来るものだと自分では思っていた。

 

「俺は……俺たちは、サチに、無理をさせてきたのかな……?」

 

 俯いたままのケイタは、弱々しい声でそう言った。

 

「……まあ、あいつがホントのところどう思ってるのかなんてわかんねーけどな。どっちみち、今のままじゃこの先の層には行けないのは確かだ」

 

 俺はそこで言葉を切り、次いで迫るようにケイタへと言い放つ。

 

「お前らが選べる選択肢は2つ。サチをパーティから外すか、上の層を目指すのをやめるかだ」

 

 それから、しばらく沈黙が訪れた。俯いたケイタの表情を伺い知ることは出来なかったが、握りしめた拳から、こいつの葛藤が見て取れた。

 

「……まあ、別に今すぐ決めなきゃいけないことじゃない。とりあえずギルドで話してみればいいんじゃねーの?」

 

 俺がそう言うとケイタはため息をつき、ようやく顔を上げた。

 

「……そう、だな。うん。みんなと話してみるよ」

 

 とりあえず話が一段落ついたので、俺は椅子の背もたれに身体を預けながら伸びをした。珍しく真面目な話をしたので、凄い疲れた気がする。

 

「あ、済まない。ちょっとメッセージが着たから確認させてくれ」

 

 そう言いながらケイタがシステムウインドウを呼び出す。そしてメッセージを読んでいたケイタの顔が歪むのがわかった。

 

「……何かあったのか?」

 

 その様子を横から眺めていた俺がそう尋ねると、ケイタは焦った様子で立ち上がって言った。

 

「サチが、何処かに居なくなったって……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私なりに、ここまで頑張ってきたつもりだった。

 少しでも、ハチさんのようになりたくて。

 少しでも、強い自分になりたくて。

 弱い自分を叱咤して、ここまで頑張ってきたつもりだった。

 

 でも、今日。

 エイトに、私の怯懦を見抜かれた。

 

 あんなにモンスターと戦ってきたのに。

 レベルだってそれなりに上がったのに。

 本当の私は、何ひとつ変わってはいなかったのだ。

 弱虫の私は、一歩だって前に進めてはいなかったのだ。

 このままじゃダメだ。今変わらなきゃ、私は一生変われない。

 

 気付いた時には、私は駆け出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ホームに戻ってくるまでは一緒に居たんだけど……。その後、いつの間にか居なくなってたんだ……」

 

 俺とケイタが11層にある月夜の黒猫団のホームに駆けつけると、焦った様子のササマルが状況を説明してくれた。

 彼らがサチの失踪に気付いたのは10分ほど前だそうだ。ホームの中やその周辺を探しても見つからず、これはまずいと思ったダッカーがケイタに連絡を取ったらしい。

 俺とケイタが事情を把握すると、眉を釣り上げたダッカーが俺に掴みかかって来た。

 

「あんたが、サチにあんな事言ったからだ! もしサチに何かあったら……!!」

 

「やめろ、ダッカー! エイトを責めてもどうしようもないだろ!」

 

 そう言ってケイタが間に入ったが、俺はダッカーの言葉を取り合うこともなく、口を開いた。

 

「……サチはまだパーティに入ってるのか?」

 

「え、ああ、うん。……HPも満タンのままだし、今はなんともなさそうだけど……」

 

 ケイタは視線を左斜め上に向けながら、そう言った。

 

「そうか……。じゃあ、俺をパーティに入れてくれ」

 

 その言葉に、ケイタたちは訝しむ顔をして俺を見た。彼らの疑問に答えるために、俺はさらに言葉を紡ぐ。

 

「俺は《追跡》スキルを使える。パーティメンバーの位置ならそれで追えるんだ」

 

 エクストラスキル《追跡》

 索敵スキルがある程度の熟練度に達すると修得出来るスキルで、その名の通り、対象としたものの痕跡を視認し、追跡することが出来るのだ。

 俺はまだスキルの熟練度が低いので、フレンドかパーティメンバーしか対象に出来ない上に、層を跨いでの追跡は出来ないのだが……この場ではこのスキルに頼るしかない。

 

「……わかった。今招待する」

 

 俺の言葉に頷いたケイタがすぐにシステムウインドウを操作し、俺をパーティへと招待する。俺はそれを受諾し、次いで追跡スキルを発動しようとすると、隣に居たササマルが困惑の表情を浮かべた。

 

「あれ……名前の表示が、ハチって……?」

 

 そう言えば、偽名のこと忘れてたわ……まあ、仕方ない。緊急事態だし。

 

「あー……すまん。その辺の説明は後でな」

 

 俺はそう言いながらシステムウインドウへと目を戻し、すぐさま追跡スキルを発動した。すると、地面に薄緑の足跡が浮かんでくる。サチの足跡だ。

 点々と続く彼女の足跡は、月夜の黒猫団のホームから真っ直ぐに街の正門へと向かっていた。

 

「……圏外に居るみたいだな」

 

 俺が呟いたその言葉に、ケイタたちは顔を歪めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不思議な洞窟だった。

 地中深くだって言うのに、視界は悪くない。洞窟の中、点々と岩壁から突き出す様に水晶があって、それが青白い光を放っているみたいだ。今までに見たことのない、美しい光景だった。

 

 ここで、私は死ぬのかもしれない。

 

 街を飛び出した私は、結局何も出来なかった。モンスターとまともに戦うことも出来ずに逃げ出し、追ってくるモンスターをやり過ごそうと岩山の麓に身を潜めた時、そこで私は足を滑らせたのだ。急な傾斜になっていた洞窟の入り口を私は滑り台のように滑り落ちてゆき、気が付けば地中深くのこの洞窟へと迷い込んでいた。

 来た道を戻ることも試みたけど、どうしても途中で滑り落ちてしまう。恐らく、この入り口は一方通行なのだろう。となればここから出るには出口を探して前に進むしかないのだろうけど……。

 多分この洞窟は、ダンジョンだ。ダンジョンに生息するモンスターは、フィールドのものより強いというのがこの世界での常識だった。だからここでモンスターと遭遇すれば、きっと私では生き残れない。

 そんな死に対する恐怖が足を竦ませ、私は入り口から一歩も進むことが出来なかった。

 でも、ここでじっとしていても安全だと言う保証はない。

 そして、そんな私の不安は的中した。

 

 洞窟の奥からもぞもぞと、何かが這いずる音が聞こえてくる。私は洞窟内の窪みに身を潜めながら、その音の先を注視していた。そこに現れたのは、体長1mほどの巨大なダンゴムシのようなモンスターだった。

 

《アシッドクロウラー》

 

 視界には聞いたことのないモンスター名が表示されていた。

 こちらに向かってくるそのモンスターを見て、震えながらもなんとか覚悟を決めた私は剣を抜いた。

 見たところあのモンスターの動きは遅い。もしかしたら私でもなんとか戦えるかもしれない。

 しかしそんな私の淡い期待は、すぐに打ち砕かれた。

 

「群れ……!?」

 

 先ほど目視したアシッドクロウラーの後ろに、続々と同じモンスターが現れたのだ。その数5体。

 それを見た瞬間、私の頭は真っ白になった。複数のモンスターとの戦闘経験なんてない。あんな数のモンスター、私に相手が出来るわけがなかった。

 手に持った剣も盾も落として、私は尻もちをついてしまう。

 ――ああ、そうか。私はここで死ぬんだ。

 そう悟った私は、ゆっくりと目を閉じようとした。

 その時――

 

「うぉぉぉおぉ!?」

 

 絶叫と共に、私の後ろに誰かが滑り落ちてきた。勢いそのままに隣にあった岩に激突する。

 

「いった……くはないか……。あー、ビビった……」

 

 そう独り言ちたその人物は、体のホコリを落とす動作をしながら立ち上り……それを見つめる私と目が合った。

 

「……エ、エイト?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺がサチに追いついた時、状況はかなり切迫していた。

 剣と盾を放り出して尻もちをついたサチを囲む様に、俺も見たことのないダンゴムシのようなモンスターたちが迫っていたのだ。

 

「……エ、エイト?」

 

 駆け付けた俺を認め、サチが惚けた声をあげた。

 

「話は後だ」

 

 そう言って俺は槍を構えて駆け出した。相手は6体。動きは遅い。見た目からして、恐らく何らかの特殊攻撃をしてくるタイプだろう。

 そこまで分析しつつ、サチの横を駆け抜けた俺は群の中で突出していた一体に刺突を食らわせ、敵のHPを注視する。

 通常攻撃でHPを3分の1ほど削れたようだ。これならソードスキルを使えばギリギリ一撃で屠れるだろう。

 そう考えて俺は横薙ぎに広範囲を攻撃出来るソードスキルを使おうとしーーその時、周りのモブが一斉に粘液の様な物を吐きかけてきた。キモい。

 俺はそれを反射的に避けようとしたが、すぐ後ろに座り込むサチを思い出して踏みとどまった。虫の粘液を頭から被るのはかなり生理的な嫌悪感があったが……この状況ではやむを得ない。

 モブの粘液攻撃を甘んじて受けつつ、俺はソードスキルを構えた。攻撃を受け切り、状態異常もなく大したダメージも負わなかったことに安堵して、俺は技を放つ。

 横薙ぎの一閃。その攻撃は、俺を中心に半円状に並んでいたモブたちを正確に捉えた。

 狙い通り綺麗にHPを削り切り、6体のアシッドクロウラーたちはガラス片となって消えていったのだった。

 

「す、凄い……」

 

 槍を収めて一息ついた俺を迎えたのは、感嘆するサチの声だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何でエイトがここに……?」

 

 戦闘が終了してからしばらく経って、ようやく少し落ち着いた様子のサチはそんな疑問を口にした。その質問に俺はため息混じりで答える。

 

「そりゃ、こっちのセリフだっつーの……。俺は追跡スキルでお前を追ってきたんだよ」

 

 俺の言葉に、サチは申し訳なさそうな顔を作って俯いた。

 

「あ、そうか……。その……ごめんなさい、私……何かしなくちゃって、焦って飛び出してきちゃって……」

 

 やっぱり、俺に言われたことを気にして飛び出したのか……。

 そのことに俺はちょっと罪悪感を感じつつも、大事に至らなかったことに安堵して口を開く。

 

「……ま、その話は戻ってからでいい。コレやるから、さっさと帰るぞ。使い方はわかるな?」

 

 言い淀むサチの言葉を遮った俺は、アイテムストレージから取り出した青い石……転移結晶を彼女に手渡した。

 

「え……? こ、こんな高価な物貰えないよ……!」

 

「んなこと言ってる場合じゃねーだろ。いいから使えよ」

 

「う、うん……」

 

 俺が強めにそう言うと、サチは躊躇いがちに頷いた。そして右手に持つ転移結晶を掲げて、口を開く。

 

「転移、タクト! ……あれ?」

 

 サチの言葉は、洞窟内に虚しく響き渡った。転移結晶はピクリとも反応していない。もう一度試みたが、やはり転移結晶は使用出来ず、サチは困った様に俺の顔を見つめた。

 ……マジか。

 俺は憂鬱な気持ちになりながら口を開く。

 

「転移結晶使用禁止エリアか……こんなん初めてだな」

 

「う、うそ……そんなこと、あるの?」

 

「まあ、いつかはこんなこともあるだろうとは思ってたけど……」

 

 一方通行の入り口に、転移結晶使用禁止エリアか……かなり性格の悪い作りをしたダンジョンだな。

 

「自力で脱出するしかないってことか……厄介だな」

 

「ごめんなさい、私のせいで……」

 

「さっきも言ったけど、そういう話は帰ってからにするぞ。今はここから出ることを考えねーと……」

 

「うん……あ、これ返しておくね」

 

 サチはそう言って持っていた転移結晶を俺に渡した。俺はそれを受け取ってアイテムストレージにしまいつつ、頭を捻る。

 

「しかし、どうしたもんか……」

 

 そう言って渋面を作った俺を見て、サチは不安そうに尋ねる。

 

「このダンジョンって、そんなに難しいところなの? エイトのレベルでも?」

 

「んー……多分レベル的には余裕なんだが、ちょっと問題がな……これ見てみろ」

 

 そう言って俺は自分のシステムウインドウをサチに見せた。開いていたのは武器防具のステータス欄で、俺は防具の耐久値の部分を指差す。

 無防備に俺に密着してウインドウを覗くサチにドギマギしつつ、俺はなるべく冷静に説明した。

 

「……今日の朝、装備のメンテナンスをしたんだ。だからここに来るまでは防具の耐久値はほぼ100%だったんだが……今は34%しかない」

 

「一気に耐久値が削られたってこと……? あ、そうか。アシッドクロウラー……アシッドって、確か酸のことだから……」

 

 そう、恐らくサチの読み通り、さっきのモブの攻撃によって一気に防具の耐久値が削られたのだ。虫タイプのモブはなんらかの効果を持った特殊攻撃を使うことが多い。あのダンゴムシの吐いた粘液は、防具の耐久値を削る特殊攻撃だったのだろう。

 

「まあ、そういうことだろうな……。さっきのダンゴムシは弱かったが、流石に全部の攻撃を避けるのは厳しいし、多分あと何回か戦闘したら耐久値が0になる。予備の防具は用意してないし……防具なしで戦える程レベルに余裕もないし……」

 

 ……あれ? 詰んでね?

 いや、落ち着け。ダンジョンであるならどれだけ性格の悪い作りをしていても、何らかの攻略法があるはずだ。

 

「防具……? それなら……あ、でも……」

 

「何かあるのか?」

 

 何やら言い淀んだサチに、俺は発言を促した。今はどんな情報でも欲しい。

 

「えっと……私一応、裁縫スキルを持ってて、素材さえあれば皮か布の防具なら作れるんだけど……」

 

「裁縫スキル……?」

 

 意外な言葉が出てきたので、俺は思わず問い返してしまった。

 裁縫スキルとは生産系スキルの1つで、素材を消費して衣類や小物を作成出来るスキルだったはずだ。今まで裁縫スキルで作った物はビジュアル重視で実用性皆無のアバター装備しか見たことがなかったが……そうか、素材があれば防具も作れるのか。

 

「あ、でも針はあるけど、今は生地になる物も糸も持ってないから、あんまり意味ないかも……ごめんなさい……」

 

 サチはそう言ってまた俯いた。しかし、彼女の言葉に少し思い当たることがあった俺は、すぐさま自分のアイテムストレージを確認した。

 確か、さっきのダンゴムシがドロップしたアイテムがあったはずだ。

 ストレージの中に目当てのアイテムを見つけた俺は、それをタップしてアイテムの説明を読んだ。

 

「あー……そういうことか……」

 

 その時、俺の中にあった様々な疑問が一気に解消され、思わずニヤつきながらそう呟いた。ついついキモい笑みを浮かべてしまったのだが、サチはそんな俺に引くこともなく可愛く小首を傾げて不思議そうに俺を見ている。

 俺は咳払いをして真面目な表情を作り直し、サチに向かって口を開いた。

 

「サチ。俺たちがここから生きて出られるかどうかは、お前に掛かってるみたいだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の記憶が正しければ、以前この層に来た時にこんなダンジョンは存在しなかった。

 第11層を攻略していた当時、この辺りのフィールドはくまなくマッピングしたので、見落としがあったとも思えない。

 ならば、考えられる可能性は1つ。

 この洞窟が《エクストラダンジョン》だと言うことだ。

 エクストラダンジョンとは、その出現や入場に特殊な条件があるダンジョンのことである。

 例えば、プレイヤーがある程度のレベルに達していなければダンジョンが出現しなかったり、また、あるスキルを所持していなければ入場出来なかったりする仕掛けがしてあるのだ。

 今回、サチがここに迷い込んだということは、彼女が何らかの条件を満たしていたと考えられる。俺がここに入ることが出来たのは、同じパーティだったからだろう。

 

「えーっと……つまり、私が裁縫スキルを持っていたから、このダンジョンに入っちゃったってこと?」

 

 俺の説明を聞いていたサチが、針仕事をしながらこちらを向いて質問した。手元を見なくていいのか、と俺は一瞬思ったが、どうやらスキルを使用すれば後は勝手にやってくれるらしい。

 

「まあ推測だけど、多分間違いない。そんで、スキルが入場の条件になってる場合、そのスキルがダンジョン攻略の鍵になっていることが多いんだ」

 

 以前、調合スキルを持った者しか入れないダンジョンが見つかったが、そこに生息するモブは特殊な毒攻撃をするものばかりで、その毒は調合スキルによって作られた薬でしか解毒出来ないものだった。

 

「へえ……エイトは色んなこと知ってるね」

 

「まあ、風林火山には色々と情報が集まってくるからな」

 

 そう答えつつ、俺は今更ながらにあることに気付いた。

 こいつ、まだ俺のことをエイトだと思ってるのか。

 まあ、パーティメンバーの表示は視界の端っこにちょびっと載ってるだけだし、気付かないのも無理はない。うん。わざわざ話して気まずくなるのもアレだし、このまま誤魔化すことにしよう。

 

「……ふう。エイト、終わったよ」

 

 裁縫スキルによって防具の作成をしていたサチは、そう言って出来上がった物を俺に差し出した。

 

「一応、エイトから貰った素材で、言われた通りに作ったけど……」

 

 俺がサチに渡した素材とは、先のアシッドクロウラーがドロップしたアイテムだ。

 《アシッドクロウラーの外皮》と《粘着糸》

 俺の予想が正しければ、これで……。

 そんな祈る様な思いで、俺はアイテムの情報を確かめるべくそれをタップした。

 

《クロウラークイラス》

 

 体装備

 

 STR+12 防御力+29 強酸+30

 

「マ、マジか……」

 

 無意識に、俺はそんな声をあげてしまった。

 

「や、やっぱり何かダメだったかな……?」

 

 心配そうに俺の顔を覗いたサチに、俺は慌てて首を振った。

 

「いや、なんつーか……。俺の予想より、かなり強い」

 

 恐らく、強酸+○○というのが、あのダンゴムシの特殊攻撃に対する抵抗力なのだろう。俺はその抵抗力さえあれば他はそれなりでいいと思っていたのだが……。

 

「今、俺が装備してる防具よりも性能が良い……。最前線から10層以上も離れてるのに、これは異常だぞ……」

 

「そ、そんなに強いんだ……」

 

 俺の説明で、ようやく事態を理解したサチも驚きの声をあげた。

 

「サチ、渡した素材はまだ残ってるか?」

 

「うん。あと1つくらいなら何か作れると思うけど……」

 

「じゃあ、下衣を頼む」

 

「う、うん。わかった」

 

 そう言ってサチはウインドウを操作する。裁縫スキルを起動し、先ほどと同じ様にチクチクと針仕事を始めた。

 俺はその作業をしばらく見つめていたのだが、サチが何やらもじもじとしながら口を開く。

 

「その……じっと見られてると、恥ずかしいんだけど……」

 

「え、あ、おお……スマン」

 

 俺は慌てて目を逸らしたが、なんだか微妙な空気になってしまった。しばらく沈黙が訪れる。しかし、すぐにサチが場を取り持つ様に口を開いた。

 

「そ、そう言えば、ギルドの皆はどうしたのかな……? 私、何も言わずに出てきちゃったし……」

 

 俺はサチから目を逸らしたまま、その問いに答える。

 

「ああ、あいつらも俺について来ようとしてたんだが……正直足手まといだったからな。置いてきた」

 

「あはは……。やっぱりエイトは凄いね」

 

 サチは笑ってそう言っていたが、横目に見たそれはどこか自嘲するような笑みに見えた。

 

「……別に、凄くなんかねえよ。足手まといなんて言ったけどな、実際俺とあいつらの違いなんて、レベルと、戦闘のちょっとしたコツを知ってるかどうかだけだ」

 

 仮想世界とは言え、結局はゲームの世界なのだ。その中での強さなど、所詮はその程度のものでしかない。

 俺は本心からそう思っていたのだが、その話を聞いていたサチは首を横に振った。

 

「ううん。エイトは凄いよ。こうやって私みたいなプレイヤーを助けながら、攻略にも参加してるんだもの……本の中のハチさんみたい。私には、絶対真似出来ないよ……」

 

 ハチという名前が出てきて一瞬ドキッとした俺は、動揺を顔に出さないように瞑目した。そのままサチの発言について考え、俺は口を開く。

 

「……別に、真似する必要なんかねーだろ」

 

 その言葉に、ずっと手元を見ていたサチが顔を上げて、俺の目を見つめた。俺はサチから目線を逸らしつつ、話を続ける。

 

「……言っとくけど、俺がこんなことしてるのは、ただの成り行きだぞ? 別に立派な志がある訳じゃない。たまたま戦うのが少し得意で、こういうことになっただけだ。俺はただ出来ることをやっただけ。むしろ苦手なことを必死になってやろうとしたお前の方が、俺より断然凄いだろ」

 

 俺の座右の銘は、『押して駄目なら諦めろ』だ。サチのように、諦めずに頑張ったことなどない。

 しかしそんな俺の言葉など慰めにもならなかったようで、サチは苦々しい顔をして俯いた。

 

「でも、結局私何も出来なかったし……」

 

「何も出来なかったってことはねーだろ。一応この層まで来れたんだしな。まあ、戦うのは向いてないって良く分かったんだし、もう辞めても良いんじゃねーの?」

 

 そんな俺の提案に、サチは明確な拒絶を示した。

 

「そんな、ダメだよ……私だけ逃げるなんて……」

 

 別に逃げても良いと思うんだが……まあ、それじゃあこいつは納得しないんだろうな。

 そこで俺は少し考えて、別の提案をしてみる。

 

「じゃあ、違う形でアプローチをかけてみればいい。そうだな……裁縫師でも開業すれば良いんじゃないか? 布とか皮の装備も割と需要あるし」

 

 俺がそう言うと、サチは間の抜けた顔をしていた。そんな彼女に、俺はさらに言葉を続ける。

 

「別に、出来ないことを無理にやろうとする必要はないだろ。やれることだけやってりゃいい」

 

「私……」

 

 そう言って俯いたサチの手は止まっていた。

 俺は防具の作成が終わったのを見てとり、ゆっくりとサチに近づいた。そしてサチの手から、彼女が作り上げた装備を拾い上げる。

 

「お前が作った装備が、俺の命を守るんだ。それは逃げなんかじゃねーだろ」

 

 そこで俺を見上げるサチと目が合った。俺は気恥ずかしくなってきて目を逸らしつつも、なんとか言葉を続ける。

 

「……後はまあ、俺みたいなのに任せとけばいい。お前は良く頑張ったよ」

 

「……ゔん」

 

 頷いたサチは、堰を切ったように泣き出した。

 何か、このパターン前にもあった気がする……。

 大丈夫。俺は学ぶ男だ。もうこんな状況でもキョドったりしない。

 

「……エイト……」

 

「は、はい?」

 

 余裕ぶっていた脳内とは裏腹に、口をついて出た言葉は盛大に裏返った。死にたい。

 だが、サチはそれを気にした様子もなく俺の顔を見つめて言葉を続けた。

 

「ありがとう……」

 

「……おう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サチが落ち着くのを待って俺たちは洞窟内の探索を始めた。しばらく歩き回ったが、今のところ遭遇したモブはあのダンゴムシだけだ。

 防具は対ダンゴムシ用に新調したし、サチを安全な場所に避難させて対応したので戦闘において特に問題は起きなかった。

 そうやって追加で手に入れた素材で俺の手足の防具や、一応サチ用の防具なども作成し、俺たちはさらにダンジョンの奥に進んで行く。

 俺の勘だとそろそろ出口が見つかるはずなんだが……と思った所で、一際大きな空間に行き当たった俺は“それ”を見つけた。サチも同じものを見つけたようで、緊張した面持ちで口を開く。

 

「ねえ、エイト……あれって……」

 

 そう言ってサチは視線の先にあるものを指差した。

 

「多分、エリアボスの類いだな。しかし、デカイな……」

 

 俺たちの視線の先にいたもの、それは超巨大なダンゴムシだ。全長15mくらいだろうか。あれに赤い目とか付けたら、多分ジ○リに訴えられるな。

 

「エイト、どうする……?」

 

「あれ、何とかしないと先に進めないからな……。まあサイズ的にあそこの空間から出て来れないだろうし、お前はここで待ってろ」

 

「う、うん」

 

 不安そうなサチをおいて、俺は槍を構えて進んで行った。超巨大なダンゴムシはすぐにこちらに気付き、近づいてくる。その下には《キングクロウラー》と名前が表示されていた。

 彼我の距離20mといったところで、俺は全力で駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、エリアボスとの戦闘は時間こそかかったものの、特に苦戦することもなく終了した。

 隙の少ない単発のソードスキルをボスの巨体に打ち込み、すぐに逃げ、また隙を見て打ち込み、すぐに逃げ、というチキンな……いや、頭脳的な戦法で俺は勝利を得たのだ。

 そしてエリアボス撃破後、さらに奥に進んで行った俺たちは、水晶の放つ淡い光とは違う、強い光が洞窟内に差し込んでいるのを見つけた。俺はそれに安堵しつつ、口を開く。

 

「ようやく出口か……」

 

 俺はそこでため息をつき、光が差す方へと向かった。しかし――

 

「あ、エイトッ、足元……!」

 

「ん……? うぉぉおぉぉ!?」

 

 外の強い光に目が眩んでいた俺は、出口が急斜面になっていることに気付かずに足を滑らせた。

 

「エイト! ……きゃあ!」

 

 滑り落ちて行こうとする俺を掴もうとしたサチも、俺の体重を支えきれずに巻き添えを食らったのだった。俺たちは絡み合って斜面を滑って行き、20mほど行ったところでやっと止まった。

 俺は仰向けに倒れ込み、その俺に覆い被さるようにサチが地面に手をついている。見つめ合う俺たち。その距離、数センチほど。

 やばいとは思ったが、俺は下手に動けなかった。俺の方から動けば、ハラスメント警告を受けて最悪の場合《黒鉄宮》行きだ。

 だから俺はサチがどいてくれるのを待っていたのだが……何を思ったのか、サチはそのままの体勢で話し始めた。

 

「エイト……」

 

「は、はい?」

 

 頬を上気させたサチが、テンパる俺を正面から見つめて言葉を紡ぐ。

 

「今日は、その、ありがとう……。私、エイトのおかげで、今度こそ前に進めると思う……」

 

 サチはそこで一呼吸置いて、さらに続けた。

 

「エイト。あのね、私――」

 

「ハチ君。あなた、何してるのかしら?」

 

 サチの言葉を遮ったその声は、妙に聞き覚えのあるものだった。俺は嫌な予感がしつつ、左右に首を巡らせる。

 そこで初めて、俺はここがタクトの街の目の前だと言うことに気付いたのだが……そんなことよりも、今俺たちの隣に立っている人物が目に入り、俺は衝撃を受けた。

 

「ア、アスナ……?」

 

 そこに立って居たのは、静かな笑みを湛えたアスナだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第11層。タクト。

 何とかダンジョンから脱出した俺とサチは、突然現れたアスナに月夜の黒猫団のホームまで連れて来られたのだった。

 サチの無事を喜ぶケイタたちを尻目に、俺はアスナ、キリト、クラインの3人と話をしていた。

 

「ふぅん……。それで、私たちが心配して探し回ってる時に、ハチ君は可愛い女の子と親睦を深めていたわけね。へぇ……」

 

 微笑を湛えるアスナ。でも目が笑ってない。怖い。

 

「いや、その、違くて……あれはその……事故で……」

 

 しどろもどろになって答える俺の横で、苦笑を浮かべたキリトが口を開く。

 

「ア、アスナ? それくらいにしてやろうぜ? ハチだって悪気があった訳じゃないんだし……」

 

「何が? 私、別に怒ってなんかないけど?」

 

 キリトの言葉も、アスナの微笑を崩すには至らなかった。

 つーか、何なのこの状況……。どうして俺がいびられてんの……?

 

「まあ、何事もなかったんだしよ、今はハチとサチちゃんの無事を喜ぼうぜ?」

 

 クラインの言葉に、アスナもようやく気を収めてくれたようで、大きくため息をついた。

 

「まあ、そうね……。2人とも無事で良かったわ」

 

 ひとまずアスナの怒りが収まったことにホッとした俺は、ずっと気になっていたことを尋ねた。

 

「それで、お前ら何でここにいんの?」

 

「ケイタから緊急事態だって連絡を貰ってな。たまたまウチのホームに来てたアスナと、ちょうど帰ってきてたキリトと一緒にハチたちを探しに来たってワケだ」

 

 俺の疑問に、クラインがそう答えた。

 

「あー……悪かったな、世話かけたみたいで」

 

「良いってことよ! 俺らの仲だろ?」

 

 クラインはそういいながら俺の背中をバシバシと叩いた。痛い痛い。

 いつもならここで苦言の1つでも言ってやるんだが……まあ、今回は割と本気で迷惑を掛けたようなので、俺は甘んじてそれを受け入れた。

 

「あ、あの……!」

 

 俺たちがそんなやり取りをしていると、いつの間にか月夜の黒猫団の連中が後ろに立っていた。その中で少し前に出たサチが、緊張した様子で口を開く。

 

「皆さん、今日はご迷惑をお掛けして、本当にすみませんでした!」

 

 そう言って頭を下げたサチに続いて、他のメンバーも謝っていった。

 

「いいのよ。全部ハチ君が悪いんだから」

 

 そう言って微笑むアスナ。どうやら先ほどの怒りはまだ収まっていなかったらしい。

 まあ正直なところ今回の件は俺の落ち度も多分に含まれているので、何も言い返せなかった。

 だが顔を上げたサチが、俺をフォローするように口を開く。

 

「いえ、その……むしろハチさんには凄く助けて頂いて……」

 

 ちなみにアスナと出会ったところで、なし崩し的に俺の偽名はサチにバレてしまっている。意外なことに彼女はそれほど驚かなかったのだが、それから言葉遣いなどは妙によそよそしくなってしまったのだった。

 そんな様子にどうにも居心地の悪さを感じてしまい、俺はサチに声を掛けた。

 

「あー……サチ、そんな畏まらなくていい。むしろそこのヒゲ面とか、罵倒してくれていいから」

 

「うぉいっ!? ……まあ、罵倒は言い過ぎだけどよ。もっと気楽にやろうぜ。あ、ちなみにオレ、クラインっていいます。24歳独身、ただいま彼女募集中で――」

 

「おい、おっさん。高校生に手出したら条例違反だぞ」

 

 キメ顔でサチに視線を送っていたクラインに、俺は一応釘を刺しておいた。俺の発言に顔を歪めたクラインは、頭を抱えて机に突っ伏す。

 

「くそっ……! こんなに可愛い女の子を前にして……! どうしてオレは高校生じゃないんだっ……!」

 

「まあ、おふざけはこれくらいにして……俺たちは全然気にしてないから、ケイタたちも気にしないでくれ」

 

 キリトがそう言って話をまとめたが……多分、クラインは大真面目だったと思うぞ。

 

「それでケイタ。これからのことは話したのか?」

 

 そう言って俺が目線を送ると、ケイタは頷いて口を開いた。

 

「ああ。サチは戦線から外すことにしたよ。今まで、サチには無理させてきちゃったし……」

 

 そこで言葉を切るケイタに続いて、サチが口を開く。

 

「私、裁縫師になろうと思うの。私が作った装備で、誰かを支えられたらいいなって思うから……」

 

 そう言ってサチは俺を見つめた。その瞳に迷いはなく、出会った時よりも随分と生き生きしているように見えた。

 

「……そうか。じゃ、これやるよ。餞別だ」

 

 そう言って俺は、アイテムストレージから取り出したある物を手渡す。

 

「これって……」

 

 両手で丁寧にそれを受けとったサチが、目を見開いた。小さなサチの手の平に乗せられたのは、一本の縫い針だ。ガラスのように透き通るそれは、淡く光を放っていた。

 

 《瞬き水晶の針》

 

「あの馬鹿でかいダンゴムシのドロップ品だ。俺が持ってても意味ないし」

 

「え、で、でも……」

 

 戸惑ったように口を開くサチを遮り、俺は言葉を続けた。

 

「ま、それでまたいつか、俺の装備も作ってくれ」

 

 その一言に、サチは押し黙って俺を見つめる。そしてやがて決心したように、強く頷いたのだった。

 

「……うん! 私、頑張る……いつか、ハチのために最高の装備を作るから!」

 

 

 

 

 

 この一件の後、サチはアスナの紹介で中層の女鍛冶屋と一緒に店を始めたそうだ。まだプレイヤーの武器防具はドロップ品が主流だったが、徐々に客は増えているらしく順調のようだった。

 戦線のメンバーが減ったケイタたちも、その後また風林火山の指導を受けたようで特に問題は起こらなかったそうだ。俺とキリトはあの後すぐに攻略に戻ってしまったので詳しいことはわからなかったが、風林火山の指導の下、順調にレベルアップしているらしい。

 最前線に戻った俺とキリトは、すぐに23層のボス攻略へと駆り出されたのだが、それについても何の問題もなく、1人の死者もなくボスを撃破した。

 

 この時まで、全てのことが順調にいっているような気がしていた。

 しかし、それがただの幻想に過ぎなかったことを、俺たちはすぐに思い知ることになるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5話 第25層攻略 part1

 第24層。迷宮区最奥。

 眼前に立ちはだかるのは、体長5m以上はあろうかという単眼の巨人だった。

 

《サイクロプス》

 

 有名な巨人の名を冠するそいつは、もはや巨大な丸太にしか見えない棍棒を片手で振り回し、自身に群がる大勢のプレイヤー達を豪快に薙ぎ払っていた。

 敵のHPバーが赤くなり、戦闘アルゴリズムが変わってからというもの、ほとんどのプレイヤーはそれに対応出来ずに攻めあぐねている。

 そんな中、もはやお馴染みとなった俺、キリト、アスナの3人組がサイクロプスに突っ込んだ。

 その巨大な単眼でこちらを睨み付けたサイクロプスが、横並びになって駆ける俺たちをまとめて薙ぎ払うべく棍棒を振るう。

 かなりの質量を持った攻撃だ。正面から防ごうとしても、こちらが力負けするのは目に見えている。

 攻撃の前面に立っていた俺はそう判断し、咄嗟に深く踏み込んで下から掬い上げるようにソードスキルを放った。

 武器同士が打ち合った瞬間、まるで壁に向かって突きを放ったような手ごたえに顔を歪めつつも、何とか狙い通り棍棒の軌道を若干上に逸らすことに成功する。

 そうして巨大な棍棒が通り過ぎる風圧を頭上に感じながら、俺たちは紙一重で攻撃を潜り抜けた。

 攻撃を空振ったサイクロプスは、隙だらけの体勢だ。

 キリトとアスナはそのままサイクロプスの懐へと躍り込み、2人同時にソードスキルを放った。その攻撃が敵のHPを大きく削るも、しかしあと一歩撃破には至らない。

 

「ハチ! ラスト頼む!」

 

 キリトの言葉に応えるようにようやくスキル使用後の硬直から立ち直った俺は、下がる2人とすれ違いにサイクロプスへと迫り、次いで跳躍した。

 仰ぐように槍を構えて突っ込む俺と、身を屈めた体勢のサイクロプスの目が合った。俺は目を逸らすことなく、無心でその巨大な瞳へと向かってソードスキルを放つ。そして突き出した槍が、サイクロプスの眼から後頭部までを一気に貫いた。

 それが最期の一撃になったようで、第24層のフロアボスは断末魔をあげながらガラスのように砕け散ったのだった。

 俺はボス撃破の証である《conratulation》というシステムメッセージを視界に捉えつつ、そのまま落下していき――

 

「あがっ……!」

 

 周りのプレイヤーたちの注目が集まる中、盛大に着地に失敗し、無様な呻き声を上げたのだった。

 やりどころのない羞恥を感じつつ、俺が潰れたカエルのような体勢から顔を上げると、苦笑するキリトと目が合った。

 

「締まらないなあ……最後くらいしっかりキメろよ。ほら」

 

「……うっせ。ボスは倒したんだからいいだろ」

 

 俺はそう言って小っ恥ずかしい気持ちを誤魔化しつつ、差し伸べられたキリトの手を取って立ち上がった。

 

「まあ、泥臭いくらいがハチ君らしいわよね。とりあえずお疲れ様」

 

「泥臭いって、お前な……」

 

 キリトの傍らに居たアスナも、何やら皮肉っぽいことを言いながら笑っていた。

 俺たちがそんなやり取りをしていると、先ほどまで呆然としていた周りのプレイヤーたちもようやく我に返ったようで、所々から勝鬨が上がり始めた。今回も犠牲者なしでのボス攻略成功だったので、プレイヤーたちの顔は明るい。

 俺がその様子を何とはなしに観察していると、そんな雰囲気をぶち壊すようにプレイヤーたちの一角から唐突に怒声があがった。

 

「なんでやっ!?」

 

 聞き覚えのあるその声に俺はデジャヴを感じつつ、言葉を発したプレイヤーに目を向けた。

 声の主はALSのギルドマスター、キバオウだ。相変わらずトゲトゲとしたよくわからない髪型をしている。

 キバオウはこちらを睨み付けて、次いで言葉を喚きたてた。

 

「なんでまたLAボーナス取ったんがアイツなんや!!」

 

 アイツ、とは間違いなく俺のことだろう。また面倒臭い奴に絡まれてしまったな、と俺は心の中で毒づいた。

 そうしてうんざりした気分になってどうしたものかと考えていると、おもむろに俺の前に立ったキリトがキバオウを睨み付けた。

 

「LAボーナスは誰が取っても文句なしって決まりだろ。いちゃもんを付けるのはやめてくれ」

 

 キリトにしては珍しく、不快感を隠そうともせずキバオウに対して反論していた。しかしキバオウがこの程度で黙るはずもなく、またすぐに唾を飛ばしながら怒鳴り散らした。

 

「ボーナス取るために無茶な突撃をすんのも禁止っちゅう話やったろが! ジブンらは最後、陣形無視して突っ込んだやないかっ!」

 

 あんな乱戦状態の中、陣形もクソもないと思うんだが……。

 そんな俺の考えを代弁するように、今度は色黒スキンヘッドの大男――エギルがキバオウの前に立ち、口を開いた。

 

「あれだけ陣形を崩されておいて、今さらそんな話もないだろう。それにあそこでハチたちが決めてくれなければ、犠牲者が出ていたかもしれないんだぞ」

 

「せやかてアイツがボーナス取ったんはこれで3層連続なんやぞ!? そんなん可笑しいやろが! 狙ってやっとるに決まっとる!!」

 

 キバオウの主張はもはや完全に言い掛かりで、エギルもキリトも呆れ顔でため息をついていた。

 まあ、結局のところあいつは俺のことが気に入らないだけなのだ。

 第一層でのトラブル以降、一応の和解はしたものの、ことあるごとにキバオウは俺に突っかかってくる。未だにあの時のことを根に持っているのだろう。まあキバオウからすれば一度俺に殺されかけた訳だし、それも当然と言える。

 俺としてはそこに多少の引け目もあるので、正直LAボーナスなんぞいくらでもくれてやって構わないのだが、キバオウのことだ、一度甘い顔を見せれば付け上がってまた無茶な要求をしてくることも考えられる。

 ホントに面倒な奴だな。とりあえず土下座して許して貰うか……。

 俺がそうやって思案していると、また1人のプレイヤーがキバオウの前に立った。

 

「少し落ち着いてくれキバオウさん。貴方が言っていることは言い掛かりに近い」

 

 口を開いたのは、DKBのギルドマスター、リンドだった。攻略組では、キバオウと同等かそれ以上の発言力を持っているプレイヤーだ。キバオウと俺が揉めた時には、リンドが間に入って仲裁するというのがもはやパターンになっている。

 

「何や、ジブンあいつの肩持つんか!?」

 

「私は冷静な者の味方だ」

 

「……けっ! 気取りおってからに……!」

 

 リンドの何処かで聞いたことのあるセリフにキバオウは悪態をつきつつも、ここは分が悪いと悟ったのか、俺たちに背を向けて歩き出した。

 

「もうええ! ワイは先に行かせて貰うで! 分配の話はそこのロイドに任せる! ちょろまかすんやないぞ!?」

 

 そんな捨て台詞を残し、キバオウは数人の取り巻きを連れて第25層へと繋がる階段を歩いて行った。その後ろ姿を睨み付けながら、隣のアスナが悪態をつく。

 

「もう、何なのよあの人……。ハチ君、気にしちゃダメだよ?」

 

「ああ。まあ、やっかまれるのには慣れてるし、問題ねえよ」

 

 アスナと同じようにキバオウの後ろ姿を視線で追いつつ、俺はそう答えた。

 万全を期すのなら、円滑な攻略を行うために攻略組内部での軋轢はなるべく避けるべきではあるのだろう。しかし正直、俺があいつとうまくやれるようなビジョンなど全く持てないし、何より相手方が俺のことを蛇蝎の如く嫌っているので関係の改善など不可能に近い。

 まあキバオウが俺に突っかかってくるのはいつものことだ。今までにもこういったいざこざは度々起こったが大した問題には至らなかったし、それほど深刻視するようなことでもないだろう。

 この時の俺は、こうしてほんの少し抱いた懸念を頭の隅に追いやったのだった。

 それが大きな間違いであるとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第25層到達から5日後。

 俺とキリトは、始まりの街に存在する訓練所に来ていた。この訓練所は《インスタンスマップ》なので、俺とキリト以外には訓練用のカカシが置いてあるだけで他のプレイヤーの姿はない。

 《インスタンスマップ》とは、同じ場所に集まったプレイヤー同士がかち合うことがないように、プレイヤーごとに即席で用意されるマップのことだ。同じパーティのプレイヤーだけがその空間を共有出来る仕様になっている。

 ぼっちに優しいシステムだな。うちの学校にも置いてほしい。

 

「はぁっ!!」

 

 そんな俺の無駄な思考を切り裂くように、気合いの入った声を上げたキリトが上段から剣を振り下ろした。その攻撃の先に居るのは、訓練用のカカシ……ではなく、槍を構えた俺だ。

 キリトの動きを正確に捉え、俺はその攻撃を槍の穂先で弾く。次いで反撃に出ようと踏み込むが、しかしそれを読んでいたキリトに懐に入り込まれてしまった。俺は焦って突き出していた槍を引き戻し、何とかキリトの斬撃を受け止めた。

 この間合いでの打ち合いはまずい。

 すぐにそう判断した俺は何とかキリトから距離を取るべく後ろに下がろうとするも、それを許すほどキリトは甘くなかった。

 上段からの面打ちを2撃、中段から小手を狙った小振りな1撃、続けてフェイントを入れつつ下段からの薙ぎ払い。ソードスキルこそ使ってはいなかったものの、その一撃一撃は重く、鋭かった。俺は何とかそれを凌いでいたが、1合、2合と打ち合うにつれて追い込まれていく。

 そして体勢を崩しつつある俺に畳み掛けるように、キリトは大きな気合いとともにソードスキルを放った。

 上段三方向からの連撃。

 俺は何とかそれを受けきったものの、大きくノックバックを受けて尻餅をついてしまう。

 咄嗟に体勢を立て直そうとしたが、その隙を見逃すはずもなくキリトが俺の首筋に剣を突きつけた。

 ……ここまでか。

 

「……参った」

 

 俺のその言葉を聞いてニカッと無邪気な笑みを浮かべたキリトは、刀身についた露を払うように一度剣を振ってからそれを背中の鞘に納めた。

 

「今日は俺のストレート勝ちだなっ! 約束通りハチの奢りで《跳ね鹿亭》の朝食コースよろしく!」

 

「……キリト、お前敗者に鞭打つような真似して、恥ずかしくないのかよ」

 

「何言ってんだ! この前ハチが勝った時、散々俺に奢らせただろ!」

 

 喚くキリトの声を聞きながら俺は立ち上がり、服に付いた土を手で払った。汚れのエフェクトは時間経過で勝手に綺麗になるが、こうすることですぐに落とすこともできる。

 服の汚れを落としきった俺は、キリトへと目を向けてため息をついた。

 

「しかし最近負けっぱなしだな……。正直最初は勝ち負けなんてどうでもいいと思ってたが、ここまで負けが込むと流石にへこむわ」

 

「修行なんだからそこまで気にするなって。お互い大分対人戦に慣れてきたし、成果は出てるだろ?」

 

「まあな……」

 

 こうして俺とキリトが刃を交えているのは、自身の戦闘スキルを磨くためだ。基本的にはレベルがものを言うゲームの世界だが、SAOの戦闘の形式上、ステータスに依存しないプレイヤー自身の能力もバトルの勝敗に多大に影響を与えると言っていい。

 そのため、始まりの街にある風林火山のギルドホームに帰ってきている間だけだが、俺たちはこうして朝から試合形式の鍛錬をするのが習慣になっていた。試合は先に3本取った方が勝利となり、敗者は勝者に朝食を奢る取り決めになっている。最前線で攻略中はそのまま上の層に泊まってしまうことが多いので、鍛錬の頻度は週に1、2回程度だ。

 早朝の鍛錬など柄ではないと自分でも思うのだが、流石に生き残るための努力を怠るほど俺も怠惰ではない。鍛錬自体は1時間もかからないし、これさえ終わればオフの日は自室でだらだらと過ごせることを考えれば大した問題ではないので、何とか今日まで続けてこられた。

 

「じゃあ早く行こうぜ。そろそろ店も混み始めるだろうし」

 

 システムウィンドウを操作して戦闘用の装備から街歩きの楽な恰好へと着替えたキリトは、そう言って俺に目を向けた。同じように着替えを済ませた俺もそれに頷く。

 

「そうだな。さっさと飯食って、帰ってからもう一回寝るか」

 

 俺の言葉にキリトは苦笑しつつ、一緒に出口に向かって歩き出した。

 今日は風林火山での仕事もなく、久々に完全な休日だった。一日中だらだら出来る日など一月ぶりだ。

 俺は自室で過ごす怠惰な時間に思いを馳せつつ、キリトと共に訓練所を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の奢りで朝食を済ませた後、俺とキリトは真っ直ぐに帰路についた。

 キリトも俺と近しいところがあるので、休日にどこか遊びに出かけようとか、そこら辺のリア充のような発想には至らない。

 まあキリトはかなりのゲーム好きでもあるので、新しい武器やスキルの情報を得てどこかに出かけていることは度々あるが、流石に連日のゲーム攻略によって疲れているのか、今日は俺と同じようにゆっくりと休日を過ごすつもりのようだ。

 そんな訳で俺たち2人はさっさとギルドホームに直帰したのだが、玄関からエントランスへと入ると意外な客がそこで待っていた。

 

「あ、2人ともお帰りなさい」

 

 部屋の片隅に置かれた来客用のソファから立ち上がり、俺たちを迎えたのはサチだった。淡い水色をしたニットのワンピースという、SAOの中としては随分とフェミニンな恰好をしている。

 ワンピースの裾から覗くサチの健康的な太ももに自然と視線が引き寄せられそうになるのを必死になって堪えつつ、俺は口を開いた。

 

「……何でサチがここにいるんだ?」

 

 俺の言葉に何故かサチは怯むような表情をした。

 

「えっと……ハチとキリトが帰ってきてるって聞いたから、その、装備のメンテナンスでもしてあげられないかなと思ってたんだけど……。ご、ごめんね、休日に押しかけて迷惑だったよね……」

 

 話すサチの口調は徐々に弱々しいものになっていき、言い終えると苦々しい顔で俯いてしまう。そのやり取りを横で見ていたキリトに脇腹を小突かれた。

 

「い、いや! 凄い助かるよ! な、ハチ?」

 

「え、あ、ああ……。じゃあ、メンテナンス頼むわ」

 

 睨み付けるように俺に話を振ったキリトに気圧されてそう答えると、サチは俯いていた顔を上げて安堵の笑みを作った。

 

「うんっ。任せて」

 

 そう答えたサチは作業の準備なのか、幾つかの道具を取り出して先ほど腰かけていたソファの前にあるテーブルに並べ始めた。

 俺とキリトはしばらくその様子を眺めていたが、やがてキリトが何かを思い出したように声を上げる。

 

「……あ、俺ちょっとアレがアレだから、一旦部屋戻るわ! じゃ!」

 

「え、あ、おいっ」

 

 キリトはそんな支離滅裂なことを口走って、そそくさと自室へと向かってしまった。サチはきょとんとした顔でキリトの出ていったドアを見つめている。

 

「キリト、どうかしたのかな?」

 

「さあな……」

 

 俺はそう答えて、心の中でため息をついた。

 大方、あまり親しくない女子と同じ空間にいるのが辛くて逃げたか、俺とサチに変な気を回して退散したかのどちらかだろう。

 ああいう振る舞いは俺の専売特許だったはずなんだが……キリトも順調にぼっちとしてのスキルを磨いているようだ。何それ、全然嬉しくない。

 まあサチとは知らない仲でもないので、今さら2人きりにされたところでキョドることもなかった。俺は二言三言やり取りをし、使っていた防具をサチに手渡す。そろそろメンテナンスが必要だと思っていた頃だったので、正直今回のことはありがたかった。

 だが――と思い、作業に取り掛かろうとするサチに、俺は声を掛ける。

 

「……なあ、サチ。わざわざこんなことしなくてもいいんだぞ?」

 

「え?」

 

 俺の言葉に手を止めたサチが、目を丸くしてこちらを見つめた。俺はその瞳から目を逸らしつつ、言葉を続ける。

 

「この間のことを負い目に感じて、それで俺に気を使ってるんだったとしたら、そういうのはやめてくれ」

 

 先日第11層で起こったトラブルを思い返す。エクストラダンジョンの中に迷い込んでしまったサチを助け出したのは俺だった。まあトラブルが起こった要因も俺にあるので実際にはただ自分の尻拭いをしただけなのだが、それでもサチは俺に感謝しているようであれから度々俺のことを気にかけてくれていた。

 過去の経験が俺に警告していた。このままの状況は危険だと。

 早々に関係をリセットして、サチをその負い目から解放してやるべきだった。

 

「……違うよ」

 

 しかしそんな俺の思惑とは裏腹に、呟いたサチの表情は悲しげに見えた。サチは力なくテーブルに視線を落とし、言葉を続ける。

 

「気を使ってるとか、そういうのじゃないの。私は、私のやりたいことをやってるだけ。……でも、もし迷惑だったら言ってね。ハチの重荷にはなりたくないの」

 

「い、いや、迷惑ってことはないが……」

 

 想定外のサチの返答に俺が動揺しつつそう答えると、サチは小さく「良かった……」と呟き、作業を再開した。

 それから微妙な沈黙が流れる。部屋にはサチが手を動かす小さな音だけが響いていた。その沈黙に耐えられず、俺はつい柄にもないことを口走ってしまう。

 

「あー……サチ。正直に言うと、今日のこととか助かってる。……ありがとうな」

 

「……うん」

 

 頷いたサチの顔は少し微笑んでいた。

 その場の雰囲気が少し温和なものになったことに安堵し、俺は小さくため息をついた。どうにも最近は調子を狂わされることが多い。

 その事実に苦々しい思いで頭を掻きつつも、物柔らかな表情で針仕事をしているサチの横顔を盗み見た俺は、それも悪くないかと思い直した。

 そうしてその場にはしばらく穏やかな沈黙が流れていたのだが、突然エントランス奥のドアが乱暴に開かれ、次いで慌ただしい足音が部屋に響いた。

 俺とサチは同じようにびくりと体を震わせ、何事かとそちらに顔を向ける。駆け込んできたのは先ほど自室に戻ったはずのキリトだった。その表情を見るまでもなく、焦ったようなキリトの動作が何か異常事態が起こったであろうことを示唆していた。

 

「ハチ! アスナからのメッセージ、見たか!?」

 

 キリトに問われ、そこで初めて俺はメッセージの新着通知が視界の端に浮かんでいることに気付いた。

 

「いや、気付かなかった。何かあったのか?」

 

 メッセージを確認するよりもキリトから直接聞いた方が話が早いだろうと思い、俺はそう答える。俺に話を促されたキリトは眉を顰め、重々しく口を開いた。

 

「今朝、キバオウたちがALSだけでボス部屋に突っ込んだらしい……」

 

「……は?」

 

 キリトの発した言葉の意味をすぐには理解出来ず、俺は思わず呆けた顔でそう問い返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日のうちに、攻略組を集めての緊急会議が行われた。

 会場となるのは第25層の中心街にある教会だ。2階部分が講堂のようになっており、この層に到達してから攻略会議は常にここで行われている。

 既に会場へと着いていた俺とキリトは、連れだって講堂の隅の席へと腰を掛けていた。開始の時間まではまだ少しあったが、ALSのメンバー以外の攻略組はもうほとんど揃っている。

 まだ来ていないプレイヤーと言えば――と考えたところで、栗色の髪をなびかせたアスナが会場へと入ってきた。

 アスナは入口付近で立ち止まるとキョロキョロと辺りを見回し、すぐに俺とキリトを見つけてこちらに歩いてきた。近くまで来て俺たちと軽く挨拶を交わし、俺の横の席に腰かける。

 こんなにナチュラルに異性の横に座れるなんて、こいつもビッチか……などという無駄な思考を頭の隅に追いやりつつ、俺は口を開く。

 

「アスナ、お前、どこまで知ってる?」

 

 色々と言葉の省略された質問だったが、察しのいいアスナは逡巡することなく淡々と答えた。

 

「メッセージに書いたことが全部よ。私も人伝いに聞いただけだし」

 

「そうか……」

 

 アスナからのメッセージに書いてあったのは、今日の朝キバオウたちがボス攻略に挑戦し、そして失敗したということだけだった。どんな被害状況なのかは、全くわかっていない。

 

「大丈夫よ。どうせすぐに説明してくれるわ」

 

 そう言ってアスナは講堂の奥に位置する壇上へと視線を向けた。つられるように俺もそちらに目を向ける。

 そこに立っていたのはリンドだ。おそらく今回の会議ではあいつが議長を務めるのだろう。

 攻略会議の議長はその層でボス部屋を発見した者の代表が務めることが取り決めになっており、基本的にリンドかキバオウがその大任を任されていた。今回はイレギュラーな事態だが、まあリンドが務めるなら文句は出ないだろう。

 リンドの傍らに控えていたDKB所属の男が壇上で手を叩き、プレイヤーの注目を集めるように声を上げた。その場が静まったことを確認し、次いでリンドがよく通る声で話し始める。

 

「皆、急な召集に応じてくれて感謝する。予定の時間より早いが、メンバーが揃ったので会議を始めようと思う」

 

 いつも通りの堅苦しい口調でそう言いつつ、リンドは集まったプレイヤーたちの顔を見渡す。

 

「おそらく既に各々情報を掴んでいるだろう。今回の議題はALSのことだ。今朝方、キバオウがALSのプレイヤーのみを率いて、ボス攻略を独断で敢行したらしい」

 

 その言葉に、集まったプレイヤーたちに緊張が走った。リンド自身も険しい顔をしている。

 

「それについて、まずはALSの人間に詳しく話を聞こうと思う。シンカーさん、頼む」

 

 リンドとすれ違うように、1人のプレイヤーが壇上に立った。もさっとした髪型の優男だ。年齢は20代後半といったところか。シンカーと呼ばれたその男は、深刻な面持ちで口を開いた。

 

「ALS所属のシンカーです。この度はALSが勝手な行動を取り、他のプレイヤーさま方には大変申し訳なく――」

 

「前置きはいい。何があったのか、簡潔に話してくれ」

 

 珍しく苛立った様子のリンドが口を挟む。シンカーはそれに頷き、再び話し始めた。

 

「今朝方、キバオウがALS内の高レベルプレイヤーをまとめて48人のレイドを作り、迷宮区のボスへと挑みました。結果は……惨敗です。ボスは倒せず、41人もの死者を出しました」

 

 ――41人。

 その数字に、俺は息を呑んだ。

 キバオウの独断専行による無茶なボス攻略だ。それなりの被害があっただろうことは覚悟していたが、それにしたって多すぎる。何故そこまで死者が出る前に撤退しなかったのか。いや、それ以前にどうしてキバオウはそんな愚行に至ったのか。

 想定以上の被害の大きさに、集まった他のプレイヤーたちも騒めき動揺していた。喚き散らしてALSの責任を問うプレイヤーもいる。

 

「静粛に! 責任の追及は話を全て聞いてからだ」

 

 リンドの一喝によりひとまずその場の喧騒は収まるも、剣呑な雰囲気までは拭えなかった。プレイヤーたちの突き刺さるような視線を一身に受けながら、シンカーはさらに話し続ける。

 

「無事に帰還できたのは、転移結晶を使用したキバオウを含む7名だけです。彼らはまだ話せるような状態ではなかったので、今はギルドホームの一室で謹慎させています」

 

 こんな事態を招いておきながら、キバオウ自身はおめおめと逃げ帰ってきたのか。

 その事実に眉を顰めたのは俺だけではなく、隣でキリトとアスナも不快そうに顔を歪めていた。

 

「……何故、今回そのような無謀な行為に至ったのだ?」

 

 リンドのその問いに、シンカーは苦々しい表情をした。

 

「……一番の要因は、確実にLAボーナスを狙う為だと思います」

 

「そんな、理由で……?」

 

 隣に座るキリトが、呟くように言った。その声が届いたのか、シンカーがこちらに目線を送る。

 

「……ここ暫く、LAボーナスをハチさん、キリトさん、アスナさんの3人に独占されていたことに、キバオウは危機感を感じていたようです。このままでは攻略組は駄目になると、しきりに話していましたから……」

 

 LAボーナスで手に入るアイテムは、強力な装備品であることが多い。誰がそれを手に入れるか如何によって、その後の攻略組内部での力関係が変化することもあった。

 普段から毛嫌いしている俺や、その周りにいるキリトやアスナがLAボーナスによって力を伸ばしていることはキバオウにとって面白くなかっただろう。表面にはださないが、リンドや他のプレイヤーにも同じような思いはあったはずだ。

 そしてキバオウは自分こそが攻略組の中核となってゲーム攻略を進めるべきであり、ひいてはそれが全プレイヤーのためになると本気で思っているような男だ。妙な考えで今回のような愚行に走ったとしても不思議ではない。

 第24層ボス攻略後のトラブル。あの時の奴の行動に、俺はもっと気を配るべきだったのだ。

 俺が臍を噛む思いでそう考えていると、再びリンドがシンカーに向かって口を開いた。

 

「シンカーさん。まるで他人事のように話しているが、貴方もこの件に絡んでいるのではないのか? ALS内ではそれなりのポストについているんだろう?」

 

「お恥ずかしい話ですが、ALSの中にも派閥がありまして……私とキバオウは、方針の違いから度々対立していたんです。私に知られれば、今回のことも反対されると思ったんでしょう。自分の息の掛かったものだけを集めて強行したんです。私がこのことを知ったのは、全て終わった後でした……」

 

 シンカーの言葉は言い訳じみて聞こえたが、それが事実なら、実際彼にはどうしようもなかったんだろう。

 自身の知っていることは全て話し終わったようで、その後幾つかの質問に受け答えをするとシンカーはリンドと入れ替わりに壇上から下りて行った。

 その後は今回の事件で死んだプレイヤーの確認と、キバオウに対する今後の処遇についてが話し合われ、その日の会議は終了した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会議終了後、すぐにアスナと別れた俺とキリトは、第1層のギルドホームへと帰るべく転移門へと向かっていた。

 既に日が落ちて人の少なくなった街の中を、2人肩を並べて力なく歩く。

 そんな中、俺が独り言ちるように呟いた。

 

「馬鹿な奴だとは思ってたが、ここまでだったとはな……」

 

 それにキリトは無言で頷き、次いで口を開いた。

 

「ここまでは順調に来てたのに……この後、どうなるんだろうな」

 

「まあしばらくボス攻略は見送りだろうな。ひとまずは攻略組の戦力が増強されるのを待つしかないし……」

 

 俺がそう言ってから一拍おいて、2人のため息が重なった。そこで会話が途切れ、しばらく無言で歩く。

 

「ハチさん、キリトさん」

 

 その沈黙を破るように、不意に後ろから話しかけられた。振り返ると、そこに立っていたのは先ほどの会議で壇上に立っていたシンカーだった。

 

「……何か用すか?」

 

 思わず固い声が出てしまう。シンカーとの面識はなかったし、あのキバオウが率いるALSに所属しているということになれば警戒するのは当然だった。隣のキリトも訝しむような表情をしている。

 しかしそんな俺たちの態度にシンカーは気を悪くした様子もなく、ただ苦笑していた。

 

「そう構えないでくれ……と言っても難しいか。うちのキバオウとは色々あったみたいだし、しかもこんなことがあった後じゃね……。ただ、僕個人としては君たちと敵対したくはないんだ。むしろ、友好な関係を築きたいと思ってる」

 

 そう口にするシンカーは言葉通りに温和な表情で、敵意はないように見えた。

 うん。非常に胡散臭い。

 俺はさらに警戒心を強めつつ、口を開いた。

 

「……貴方のとこのギルマスが居る限り、それは無理だと思いますけど」

 

「それについては安心してくれていい。今回の件で、キバオウはギルドマスターを辞することになる。その後釜に就くのは僕だ。ギルドとしての方針もかなり変えるつもりだし、風林火山さんのようにプレイヤー同士の相互援助などに力を入れていきたいと思っていてね」

 

「……つまり、風林火山とのパイプが欲しいってことすか?」

 

 シンカーの話から、1つのことに思い至った俺はそう口を挟んだ。その言葉にシンカーは苦い顔をしつつも首を縦に振って肯定する。

 

「まあ、有り体に言ってしまえばそうなるかな……」

 

 つまりは下心を持って俺たちに接触を計ったというわけなんだが、その事実に俺は逆に安心した。目的が分かった方が相手を把握しやすい。

 まあこのタイミングでどの面下げて……という気もしなくもないが、会議での話が事実ならシンカーはキバオウの暴走に巻き込まれただけのようだし、こいつはこいつで自分に出来ることをやろうとしているんだろう。

 

「ハチさんとうちのキバオウとは色々あったみたいだし……まずは君に話を通しておくのが筋かと思ってね。もちろんこんなことがあった後だし、すぐに信用してもらおうとは思っていないよ。だから今日はとりあえず挨拶だけでもと――」

 

「あー……そういう話はクラインとかにしてください。俺は別に邪魔したりとかはしないんで」

 

 話を遮って俺がそう答えると、シンカーは意外そうに目を見開いた。

 

「……随分とあっさりしているんだね。結局はキバオウの独り相撲だったということか」

 

「まあ、クラインに話は通しとくんで後は好きにしてください。それじゃ」

 

 これ以上話すこともなかったので、そう言って俺たちはそそくさとその場を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 予想通り、当初予定されていたボス攻略は無期限延期されることとなった。

 理由は2つ。

 1つは、先日の事件で今までボス攻略に参加していたALSのプレイヤーたちが大量に死んだことによる戦力の低下だ。これを補うためには、中層のプレイヤーたちのレベルアップを待たなければならない。

 もう1つは、この第25層のフロアボスが、おそらく今までのボスとは一線を画すほどの強さを持つであろうことが予想されるからだった。

 攻略組のベストメンバーではなかったとは言え、48人のレイドを転移結晶で逃げ帰った7名を残して皆殺しに出来るボスなど、普通では考えられない。生き残ったALSのメンバーからの情報では、第25層のボスは驚異的な火力と機動力を誇る、飛龍型のモンスターだったらしい。

 もしかしたらこの層が第25層という、全体の4分の1にあたる階層であることが今回のボスの強さに関係しているかもしれないと、プレイヤーの間では噂されていた。

 

 そう言った理由で、万全の準備が整うまでボス攻略は見送られることとなったのだが、既にこの層では限界までレベリングを済ませてしまっていた俺とキリトは、停滞する現状に苛立ちつつも、実際問題することがなくなってしまった。

 そんな状況に不謹慎にも『あれ? これしばらく休めるんじゃね?』と期待してしまった俺だったが、クラインやトウジがそんなことを許すはずもなく、それからしばらく風林火山の中層プレイヤー支援の活動に従事することになったのだった。

 

 風林火山とALSが会談をすることになったと聞かされたのはそんな折だ。

 以前にシンカーが俺に話を持ち掛けてきたように、ALSは今後大規模な方針転換を計るらしく、それについてうちのギルドと相談したいことがあるそうだ。たしか中層以下のプレイヤーの互助組織を作っていきたいと話していたので、おそらくはそういった活動を幅広くやっているうちと提携を結びたいのだろう。

 まあ、そういう込み入った話は俺の領分ではない。ギルドの仕事について俺はお手伝い程度にしか携わっていないし、稀に回ってくる仕事も末端の肉体労働が中心だ。

 そのため、その方面において門外漢である俺は会談に出席する必要はないだろうと思っていたのだが……。

 

「なーに言ってんだよ。『風林火山のハチ』って言ったらうちのギルドの看板プレイヤーだぜ? お前抜きで行ったら先方に失礼だろうが」

 

 というクラインからのお達しにより、俺も強制的に参加が決定。

 ギルドマスターであるクライン、実務を取りまとめているトウジ、看板プレイヤー(笑)である俺というメンバーで会談へと臨むこととなったのだった。

 

「言っとくけど、俺に何も期待するなよ? 仕事の話は全くわからないし、キバオウの下に居たような連中とうまくやれる自信なんかないぞ?」

 

 会談の会場へと向かう道すがら、俺はクラインに向かってため息交じりにそう言った。まあ、キバオウのような人種に限らず大抵の人間とうまくやれる自信なんかないのだが。

 

「その辺は安心しろ! オレも仕事の話は全然わかんねーから!」

 

「いや、それのどこに安心出来る要素があんだよ……むしろただの不安要素じゃねーか」

 

 何故かいい笑顔でそう答えるクラインを見て、俺はさらに不安になってきた。

 そこで俺とクラインを挟むように隣を歩いていたトウジが、苦笑した顔をこちらに覗かせて口を挟んだ。

 

「まあ、その辺りの話は僕に任せてくださいってことです。それに相手方の出席メンバーですけど、キバオウの部下というよりはシンカーさんの部下と言っていいみたいですよ。MTD時代からの側近らしいですから」

 

 MTDとは、以前シンカーがマスターを務めていたギルドのことだ。

 当時はプレイヤー同士の支援を目的とした活動をそれなりの規模で行っていたそうだが、どういった経緯か、3週間ほど前にALSによって合併吸収されていた。

 だが結局キバオウとシンカーは馬が合わずにギルド内で度々対立を繰り返していたらしく、そんな中起こったのが先日のキバオウの暴走だった。巻き込まれた元MTDの奴らにはご愁傷様としか言いようがない。

 

「今回はシンカーさんの側近の中から2名の方が会談に同席するそうです。片方の方には以前お会いしたことがあるんですが、悪い人ではありませんでしたよ。とても綺麗で聡明な女の子でしたね。もう1人の方にはお会いしたことはないんですが、こちらも女性だそうです」

 

 どこから仕入れたのか、トウジがALSの会談のメンバーについて情報を補足した。それを聞いて、クラインの顔が驚愕に歪む。

 

「側近が2人とも女だぁ……!? 両手に花とか、羨まし過ぎんだろ!!」

 

「まあ、うちは男所帯ですからね。今日のところは両手に雑草で我慢してください」

 

 頭を抱えて喚くクラインと、それを諌めるトウジ。しかしやがてクラインは何かに気付いたように顔を上げ、訝し気な表情をトウジへと向けた。

 

「ん? つーかトウジ、その可愛い女の子とはどこで会ったんだよ!? まさか、オレらに隠れて彼女を……!?」

 

 そんなクラインの抱いた疑惑を否定するように、トウジは慌てて首を横に振った。

 

「ち、違いますよっ。フレンド伝いに紹介されたんですけど、それは――」

 

「紹介!? やっぱりトウジ、お前……!!」

 

「最後まで話を聞いてください!」

 

 珍しく声を荒げたトウジが熱くなったクラインを制止すると、次いで俺を一瞥して気まずそうな顔をした。

 

「……その女の子、『hachiという漢』のファンなんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なあ、やっぱり俺帰っちゃ駄目か?」

 

 既に会談の場所として選ばれた店の前まで来ていた俺たちだったが、俺はまだ未練がましく何とかこの場を欠席出来ないかとそう提案する。しかし、そんな俺にクラインはすげなく首を横に振った。

 

「ここまで来たんだから腹括れよ。つーか、何が不満なんだ。可愛い女の子がお前のファンだってんだぞ?」

 

「それが嫌なんだっつーの……」

 

 これまでの経験から言って、あの本のファンだと言うプレイヤーが実際俺に会うと大抵微妙な反応をするのだ。勝手に期待しておいて勝手に失望するのはやめてほしい。まあそういった反応には慣れているのだが、自分からわざわざそれを味わうようなことはしたくない。

 

「だ、大丈夫ですよ。その方、ハチさん本人のファンというより、作品自体を好いてくれているみたいですから」

 

 そんなトウジのフォローを聞き、俺はもう諦めたようにうなだれた。

 

「さて、ぐだぐだ言ってねーで入るぞ。待たせてたら悪いしな」

 

 そう言って先導するクラインに従い、憂鬱な気分で店へと足を踏み入れた。

 店内はシンプルな石造りの構造になっていて、間接照明による淡い光が何となく高級感を醸し出していた。ここはアインクラッドによくある大衆食堂のような店ではなく、かなりの高級店仕様となっているようだ。おそらく現時点でここは第一層の中で最もハイクラスな店に分類されるだろう。

 現時点でと言ったのはゲーム攻略が進むにつれて各層に様々な変化が起こっているからだ。この店も第23層に到達した時点で新しくオープンしたものだった。

 店内は個室に分かれており、出迎えてくれたNPCにクラインが予約していた旨を伝えると、すぐさま突き当りの部屋へと案内された。クラインは躊躇うことなくドアに手を掛けると、すぐ部屋の中に入って行く。

 それに続いてトウジと俺も部屋に入ると、部屋の手前に立っていた銀髪ポニーテルの女プレイヤーが目に入った。

 

「お待ちしておりました。どうぞ」

 

 彼女にエスコートされるまま、俺の前に立っていたクラインとトウジは部屋の中央に位置するテーブルの上座へと進んだ。俺もその後に続いて下座の席に着こうとし――その瞬間、視界の端に映ったものに、俺は自分の目を疑った。

 

 腰にまで達する、流れるような黒髪。

 陶器のように透き通る肌。

 仄かに赤みがかった頬。

 理知的で冷たい瞳。

 部屋の奥、シンカーの手前に佇むのは、雪のような少女だった。

 

 朱の差した唇が、わななくように開く。

 

「比企谷君……?」

 

「雪ノ下……」

 

 

 半年ぶりの再会は、そうして唐突に訪れたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

間話 残された者たち

 何事にもやる気を出さない高二病の兄が、妙に熱っぽく語っていたのを覚えている。

 なんでも中二さんに半ば強引に誘われて一緒に応募した、あるネットゲームのテストプレイヤーに当選したらしい。

 

「これが思ってたより凄くってな。仮想現実の中で戦うゲームなんだが、ソードスキルって奴が――」

 

「いや、ゲームの話とかされても小町わかんないし。女の子にそんな話するの、ポイント低いよお兄ちゃん」

 

 私がそう言って話を遮ると、兄は言葉に詰まって悲しげな顔をした。そのままだと流石に可哀想だったので、一応話を広げてあげる。小町優しい。

 

「それで中二さんと一緒にそのゲームやってるの?」

 

「いや、材木座はテスターに落選したんだよ。ざまぁ」

 

「中二さんに何か恨みでもあるのお兄ちゃん……」

 

 そんなやり取りをしたのが確か4ヶ月ほど前。

 その後、ゲームの正式サービスをあと2ヶ月に控えた段階でβテストとやらは終わってしまったそうだけど、それからも兄は「早く始まらないかなー」としきりに話していた。どうにも最近は結衣さんや雪乃さんと上手くいっていないようで、それから逃避するように以前よりも輪をかけてそわそわとゲームのサービスが始まるのを待っているように見える。私はお兄ちゃんがゲームおたくになったらやだなぁ、何て思いつつ日々を過ごし――そして、その悪夢のような日はやってきた。

 

 その日は朝から色んなテレビ番組でそのゲームの話を特集していた。兄が話していた『ソードアート・オンライン』とかいう奴だ。そう言えばお兄ちゃんが今日から正式サービスが始まるとか何とか言ってたなーと思いつつも、小町的には全く興味がなかったのでテレビを消していつものように居間で受験勉強をしていた。

 それは確か午後の3時くらいだっただろうか。私は小腹が空いてきたのでおやつでも食べて少し休憩しようかなと思い、何気なくまたテレビを点けた。いつもなら旅番組やバラエティ番組の再放送をやっているそのチャンネルは、今日は異様な空気で女性キャスターが慌ただしく臨時ニュースを読みあげていた。

 ソードアート・オンライン。茅場晶彦。テロ。ナーヴギア。死亡者。混乱する頭に、そんな言葉が断片的に飛び込んでくる。

 その内容を理解した私は、底無しの穴に落ちていくような恐怖に駆られた。

 

 ――嘘。そんなはずない。

 

 否定する気持ちとは裏腹に、私は慌ただしく居間を飛び出して階段を駆け上がり、一直線に兄の部屋へと向かっていた。部屋の前に立った私は、ノックもせずにドアを開け放つ。

 そこで私が見たのは――灰色のヘッドギアを被り、ベッドに横たわる兄だった。

 

 そしてさらにその日のうちに、雪乃さんも同じゲームへと囚われてしまったことを、私は知ることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千葉県某所に居を構える国立病院。その一室。少し広めの病室に、6つのベッドが2列に並んで置いてある。

 ここに入院しているのは、皆SAO事件の被害者たちだ。6人の患者がヘッドギアを付けて静かにベッドに横たわるその光景は当初異様に見えたものだったけれど、事件から半年以上も経った今ではもうすっかり見慣れてしまった。

 

 私は今、いつものように兄のお見舞いに来ていた。病院は家から自転車で行ける距離にあるので、用事のない日は学校帰りにここへ来るのが日課になっている。

 ベッドの間に仕切りのカーテンなどはなく、病室に入るとすぐに左奥のベッドに眠る兄の姿を確認出来た。聞いた話では防犯上の理由から、こうして視界を確保して監視カメラを設置しているらしい。以前SAO事件によって昏睡する女性に不埒な行為を働こうとした輩がいたらしく、それ以降厳重な警備が取られるようになったそうだ。女性のSAO事件の被害者が入院する部屋には、さらに常時監視員が2人以上付いているらしい。

 人との関わりを極端に嫌う兄はプライベートの守られないこの病室に文句を言いそうな気もするが、うちには兄を個室に移動させられるほどの経済的余裕がないので我慢して貰うしかない。SAO事件の被害者の入院費は全額免除されているが、必要以上の待遇を受けるためにはそれなりのお金が必要になるのだ。

 

 私はベッド横の椅子に腰掛け、静かに眠る兄の顔を見つめた。随分と痩せたように見える。

 

「ゲームのやり過ぎで留年なんて、ポイント低いよお兄ちゃん……早く帰って来ないと、来年には同級生になっちゃうんだからね」

 

 決して答えてはくれない兄に対し、私はそうやって口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 火曜日と木曜日の週に2回、ヒッキーとゆきのんが入院する病院にお見舞いに行くのがあたしの習慣になっていた。2人の入院する病院は学校前の停留所からバスに乗って20分程度の距離なので、基本的に授業終わりでそのまま訪れている。

 今でも放課後は優美子や姫菜と居ることが多かったけど、2人ともあたしが決まった曜日にお見舞いに行くことは知っていたので、その日も帰りのホームルームが終わった後は軽く話をしただけですぐに2人と別れてバスに乗り込んだ。

 

 バスに揺られること20分弱。目的の停留所でバスを降りると、すぐ目の前に大きな病院が建っているのが見えた。この病院にはSAO事件の被害者が多く入院しているそうで、ヒッキーとゆきのんが居るのもこの病院だ。

 そこであたしは一旦踵を返し、近くのお花屋さんに立ち寄ってから病院に向かった。

 

 病院に到着したあたしはまず入ってすぐの受付へと向かい、学生証を提示して2人のお見舞いに来たことを告げた。防犯上の関係でSAO事件被害者のお見舞いは患者の家族か、その家族に許可を受けてリストに登録された人にしか許されていないらしい。あたしは小町ちゃんと陽乃さんにお願いして2人のお見舞いが出来るように登録してもらっていたので、問題なく受付を済ませて病室に入るためのカードキーを受け取った。

 

 その後あたしはエントランス奥のエレベーターに乗って、5階のボタンを押した。ヒッキーの病室は5階に、ゆきのんの病室は12階にあるので、あたしはいつも近い方のヒッキーの病室からお見舞いに行くことにしていた。

 

 階数を示すモニターの数字が徐々に増えてゆき、《5》の表示になって止まる。そこでエレベーターを降りたあたしは真っ直ぐにヒッキーの居る病室へと向かった。エレベーターから出て、突き当りを右に曲がったところから3つ目の病室だ。ドアの横に取り付けられた端末に受付で貰ったカードを翳すと、ロックが解除されてドアが独りでに開く。

 

 ドアが完全に開くのを待ってあたしが病室に入ると、先にお見舞いに来ていた小町ちゃんと目が合った。あたしは軽く手を振りながら、ヒッキーの眠るベッドの横まで歩いてゆく。

 

「やっはろー、小町ちゃん」

 

「あ、結衣さん。やっはろーです」

 

 病室ということでいつもより声を落としつつも、なるべく明るく挨拶を交わすあたしたち。小町ちゃんは椅子から立ち上がって体をこっちに向けると、あたしの左手に目を落とした。

 

「あ、お花持って来てくれたんですね。ありがとうございます。今花瓶の水替えてくるんで、ここで待っててくださいー」

 

「あ、ううん。自分でやるよ」

 

「いえいえ、遠慮しないでください。これも後輩である小町の務めなので」

 

 そう答えると、小町ちゃんは少し重そうな花瓶を両手に持ちながらそそくさと病室を出て行ってしまった。

 

 小町ちゃんが言った「後輩」というのは文字通りの意味だ。この春に総武高校に入学して、小町ちゃんはあたしの2つ下の後輩になっていた。こんなことになってしまって一時期は受験勉強なんて全く手に付かない状態だったけど、何とか立ち直って受験を乗り切ったみたいだ。

 いや、本当は立ち直れてなんかいないのかもしれない。ただ、そういう風に振る舞っているだけで。

 たぶん、あたしも同じだ。いつの間にかヒッキーやゆきのんの前でこうして明るく振る舞えるようになっていたけど、それはきっと本物じゃない。

 

 今でも不安に思うことはある。でも、最初に感じていた気が狂ってしまいそうなほどの恐怖は、時間が経つにつれて擦り切れてよくわからなくなってしまっていた。気持ちの整理はつかないままだったけど、優美子や姫菜の支えもあり、なんとかあたしも普通の日常生活を送れるようになった。

 

 2人がこんなことになってしまっているのに、あたしだけ変わらず日常を過ごしていていいのかな、という思いもある。でも、それ以外の選択肢なんてなかったのだ。今のあたしに出来るのは、2人を信じて待つことだけだった。

 

「ヒッキーとゆきのんなら、大丈夫だよね……いつか、一緒に帰って来てくれるよね」

 

 目を覚まさないヒッキーの横で、もう何度目になるかわからないほど口にしたその言葉を、あたしはまた呟いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第6話 第25層攻略 part2

 その場の空気に、俺は異常な居心地の悪さを感じていた。

 ALSとの会談場所に選ばれた店の一室だ。中央に長テーブルが配置してあるだけの簡素な部屋だったが、古艶を放つ木製のテーブルと椅子が部屋の雰囲気とマッチしていて、そこはかとない高級感がある。

 部屋に置かれているのは10人掛けのテーブルだったが、今は俺を含めて2人のプレイヤーしかいなかった。ドアから向かって右手側、下座から2番目の席に腰かけている俺と、テーブルを挟んで対面の席に座る1人の女プレイヤー。

 

 ――雪ノ下雪乃。

 

 リアルでの俺の数少ない知り合いだった。その関係を簡潔に言ってしまえば、同じ部活の部員である。会えば挨拶を交わし、部活中にはそれなりに会話もするが、お互いの連絡先などは知らない、その程度の関係。まあ俺も雪ノ下も自身の交友関係は壊滅的であるので、相対的に見ればそれなりに親しい関係であると言えなくもないかもしれない。

 

 そんなリアルでの知人との再会という予想外の出来事に水を差された形となってしまったALSとの会談は、一時中断せざるを得なかった。そして事情を察したクラインやシンカーたちの気遣いにより、しばらく2人で話す時間を与えられたのだった。

 

 だが、俺は正直雪ノ下と何を話したらいいのかわからなかった。俺たちがSAOに囚われる少し前、修学旅行や生徒会選挙を経て、俺たちの関係は歪なものに変わってしまっていたし、そしてそれは未だ解消されていないのだ。

 そうした鬱屈した感情を抱えながらも、このままずっと黙り込んでいるわけにもいかなかったので、意を決した俺はようやく口を開いた。

 

「……お前がこんなコアなゲームやってるとは思わなかったぞ」

 

 口をついて出たのはそんな当り障りのない言葉だった。しばしの沈黙の後、雪ノ下もそれに答える。

 

「姉さんに押し付けられたのよ。多分、私の家で母に隠れてやるつもりだったんでしょうね。母はこういったものが嫌いだから……。私自身もVR技術というものには少し興味があったから、姉さんが始める前に少しだけやるつもりだったのだけれど……」

 

「それで巻き込まれたわけか……」

 

 雪ノ下の姉――雪ノ下陽乃には何度か会ったことがある。雪ノ下同様の完璧超人であるがそのパーソナリティは大きく異なり、人当たりのよい外面で意のままに他人を操る魔王のような人間だ。俺の印象では面白そうなことにはとりあえず首を突っ込んでみるような人だったし、SAOに手を出していても何ら不思議はなかった。

 

「あなたこそ、何故このゲームを? ナーヴギアとソフト一式を揃えられるほどの経済的余裕があなたにあるとは思えないし……どんな手口を使ったのかしら?」

 

 訝し気な表情で雪ノ下がそう尋ね、俺はそれに渋面を作って答えた。

 

「人を犯罪者っぽく言うんじゃねぇよ。スカラシップで浮いた予備校代をちょろまかした分とか、色々あったんだよ」

 

「それも十分褒められた手段ではないのだけれど……」

 

 雪ノ下はそう言って頭に手をやり、ため息をついた。

 

 たわいないやり取りだったが、俺はそこに妙な安堵感を覚えていた。心の奥底にあるしこりは未だ解消されていないままだったが、半年以上の空白の時間が俺たちの関係を少しはましなものに変えてくれたのかもしれない。

 そして少し気が楽になった俺は、さらに会話を続けた。

 

「それでお前、今ALSにいるのか?」

 

「ええ……でも、正確にはもうALSではないわ。大幅な方針転換に合わせてギルドの名称も変更されたの。Aincrad Leave Forces――ALF。日本語訳でアインクラッド解放軍よ」

 

「軍って……また厳つそうな……」

 

 一瞬、鬼軍曹の恰好をした雪ノ下が頭を過った。はまり過ぎて怖い。

 そんな妙な想像に頭を働かせていた俺に、今度は雪ノ下が尋ねる。

 

「比企谷君は……風林火山に居るのよね?」

 

「まあ色々成り行きでな」

 

「……お互い色々とあったみたいね」

 

 感慨深げに雪ノ下は呟いた。紆余曲折を経て俺が風林火山に落ち着いたように、雪ノ下にも様々なことがあったんだろう。お互い進んで団体行動をとるような人間ではないし。

 ひとまずお互いの現状を確認したところで、次いで俺はずっと気になっていたことを雪ノ下に尋ねた。

 

「……お前、この世界で他に知ってる奴とかに会ったか?」

 

 その問いに、雪ノ下は間を置かず首を横に振った。

 

「いいえ。あなたに会ったのが初めてよ。まず私の周りにこういったゲームをやりそうな人間が居ないし……」

 

「そうか……」

 

 材木座とかはすげーやってそうなイメージだが……悲しいかな、材木座は雪ノ下に「周りの人間」として認知されていないようだ。ちなみに材木座はβテスターには落選していたし、一般販売分も手に入らなかったと泣き言を言っていたのでSAOの中には居ないはずだ。

 俺の質問の意図をどう解釈したのか、どこか遠くを見るような表情で雪ノ下が再び口を開いた。

 

「少なくとも、由比ヶ浜さんはこの事件には巻き込まれていないと思うわ」

 

「……まあ、あいつはこんなゲームやるような奴じゃねえよな」

 

 そこで会話が途切れ、お互い視線を落として沈黙した。

 

 ――由比ヶ浜結衣。

 

 3人目の奉仕部の部員であり、雪ノ下の唯一と言っていい友人だ。認めるのは少し癪だが、俺にとっても由比ヶ浜はそれなりに親しい知人と呼べるかもしれない。まあこれも俺の乏しい人間関係から相対的に見ての話ではあるが。

 

 奉仕部の中で1人現実世界に残されたあいつは、今頃どうしているのだろうか。それを想像すると、妙に気持ちがざわついた。

 

「……奉仕部、なくなっちまったな」

 

 胸中に沸いた暗い感情を振り切るように、俺は言葉を発していた。その言葉に深い意図はなかったのだが、何故か雪ノ下は驚いたような顔をして俺を見た。その視線に居心地の悪さを感じて、俺は再び口を開く。

 

「……なんだよ?」

 

「いえ……なんでもないわ」

 

 珍しく少し戸惑った様子の雪ノ下は、言葉を濁すようにそう言って俺から視線を逸らした。そして少しの沈黙の後、何かを誤魔化すように口を開く。

 

「……それにしても、茅場晶彦もまだまだね。比企谷君の目の腐り具合が半分も再現出来ていないわ。いえ、この場合は茅場晶彦の想定の上をいったあなたを褒めるべきかしら」

 

「人に褒められてこんなに嬉しくないのって初めてだわ……」

 

 こいつはどんな状況でも俺を罵倒しないと気が済まないのだろうか……。まあSAOに来てからも毎日のようにアスナに罵倒されてきた俺に隙はない。無問題だ。

 

 そこまででとりあえず話すべきことは話し終わったので、そろそろクラインたちと合流するか、と俺が考えていたところに雪ノ下が「そう言えば」と口を開いた。

 

「あなたのプレイヤーネームは何というのかしら? こういったゲームの中で本名を呼び合うのはマナー違反なのでしょう?」

 

「あー、そうだったな。俺の名前はハチだ。お前は?」

 

 SAOでは既に全プレイヤーが顔バレしているので本名なんぞ今更な気がしないでもないが、ゲーム内では未だにそう言った風潮が強かった。雪ノ下を名字以外で呼ぶのには少し抵抗があるが、一応俺たちもそれに倣うべきだろう。

 そう考えて俺は口を開いたのだが、問い返された雪ノ下はそれに答えることもなく、目を丸くして固まっていた。しばらくしてからようやく気を取り直すと、次いで雪ノ下は何故か怒気を帯びた表情で口を開いた。

 

「……ハチ? あなたが?」

 

 

 

 

 

「いやぁ、まさかユキノさんが好きな『hachiという漢』の主人公が、実はリアルでの知人だったとは……何だか運命的なものを感じるね!」

 

 先ほどALS、改めALFと風林火山の会談が再開されたのだが、開口一番シンカーはからかうようにそんなことを口にした。そうして満面の笑みを浮かべていたシンカーだったが、すぐに隣の席から氷のような視線が注がれる。

 

「シンカーさん、この男とそう言った勘繰りをされるのは非常に不愉快です。そもそも私はハチという登場人物に好意を抱いていたわけではなく単純に小説としてあの本を評価しているだけであって彼自身には全く魅力を感じることはありませんしあり得ません。まあこの世界では小説媒体の活字に触れること自体が少ないので日頃より少し過剰な反応をしてしまったことは否めませんがそもそも私は――」

 

「す、すまなかった。邪推だったね。忘れてくれ」

 

 捲し立てる雪ノ下にシンカーが苦笑いを浮かべてそう答えると、雪ノ下もそれ以上追及することはなくため息をついた。そのやり取りを横目に見ていた俺も同じく嘆息する。

 

 会談前にトウジが言っていた『hachiという漢』のファンである女プレイヤーというのは雪ノ下のことだったらしい。まああいつ本好きだし、トウジの言っていた通り作品自体を好いているんだろう。俺は読んでいないので詳しくは知らないのだが、人に聞いた話ではアマの作品にしてはそれなりに文章もしっかりしていて、ハードボイルドな作風で読み物としては中々面白いらしい。だから雪ノ下の発言にも他意はないはずだ。さっきからシンカーと同じく妙な勘繰りをしているであろうクラインが意味深にニヤニヤとこちらに視線を送っていたが、雪ノ下に限ってそんなことはありえないだろう。

 

「それじゃあとりあえず、改めて自己紹介でもしましょうか」

 

 気を取り直したシンカーが場を取り仕切るようにそう言い、彼の促すままにALFの面々が自己紹介をしていった。雪ノ下のプレイヤーネームはユキノ、その隣に座る銀髪ポニーテールの女プレイヤーはユリエールというらしい。

 つーか雪ノ下、下の名前そのまんまじゃねぇか……なるべく名前を呼ばないで済むようにしよう……。

 

「うちのギルドの実務を取り仕切っているのがユキノさんで、こちらのユリエールは僕の秘書のようなものです」

 

 2人の自己紹介の後にシンカーがそう補足すると、続いてクラインが口を開いた。

 

「オレが風林火山のギルドマスター、クラインです。そっちのギルドとは色々ありましたけど、まあひとまず過去のことは水に流して、今日は今後のことを考えて話せたらいいと思ってます。よろしく」

 

 珍しくクラインが真面目な口調で話していた。まあ本人に聞いた話ではリアルではサラリーマンらしいし、その辺りのオンオフの切り替えはしっかりしているんだろう。

 ……などと思って俺は密かに感心していたのだが、次いでクラインは妙なキメ顔を作ってALFの女性陣に視線を送った。

 

「あ、ちなみに自分24歳独身、ただいま彼女ぼしゅ――ぐぉっ!?」

 

 隣に座るトウジに脇腹を殴られ、言葉を詰まらせるクライン。やはりクラインはクラインだったようだ。雪ノ下とユリエールからは、冷ややかな視線を送られている。

 

「場を弁えてくださいね、ギルマス?」

 

「わ、悪い……」

 

 にっこりと笑いかけるトウジに、クラインは気圧されたように頷いていた。トウジは怒らせると怖いのだ。

 

 その場の空気を変えるように咳払いをしてから、トウジが再び自己紹介を始めた。次に俺も適当にそれをすませると、続いてシンカーが全員の顔を見回しながら口を開く。

 

「さて、それじゃあ本題に入りましょうか。ユキノさん、お願い」

 

 目配せを受けた雪ノ下が頷き、ストレージから数枚の紙を取り出して話し始めた。

 

「既にお話は聞いていると思いますが、今回の会談でALFから提案させていただくのは、中層以下のプレイヤーに対する支援活動についてそちらのギルドと提携を計りたいというものです。具体的な案はこちらの資料に目を通していただきたいのですが――」

 

 そうして雪ノ下の進行の下、会談が始められたのだった。

 

 会談は滞りなく進み、2時間弱の話し合いでALFと風林火山はいくつかの活動において協力関係を結ぶことが決定した。具体的な内容のすり合わせはまた後日ということになり、その日の会談はそこで終了したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会談場所を後にして通りに出ると、昼飯時だからか多くのプレイヤーたちが行きかっていた。始まりの街の北門と中央を結ぶこの大通りは攻略が進むにつれて飲食店などが充実してきていたので、第25層まで到達している今でも飯時にはここ利用するプレイヤーは多い。

 

 ALFの面々と別れたクライン、トウジ、俺の3人はギルドホームへと帰るべくその大通りを南へと向かっていた。

 

「いやー、しかしハチにあんなに可愛い女友達がいたとはなぁ。羨ましい奴め!」

 

 人ごみの中を3人で並んで歩いていると、真ん中のクラインがそう言って俺の肩に手を乗せた。身をよじってそれを拒絶しながら、俺は目も合わせずに口を開く。

 

「……別に、あいつとはそんなんじゃない。ただ同じ高校で、同じ部活の部員だったってだけだ」

 

 口に出した声は、自分でも意外なほど苛立って聞こえた。別にクラインの態度が気に食わなかったわけではなく、ALFとの会談が始まってから……いや、ここで雪ノ下と再会してから、俺はずっともやもやとした気持ちを抱えていたのだ。それが何に対する苛立ちなのか、自分でも良くわからなかった。そのことも一層俺を苛立たせた。

 

「へー、ハチが部活ねぇ……。何か勝手に帰宅部をイメージしてたぜ。それで、その部活ってのは……ん? ハチ、どうした?」

 

 俺の態度に何か不穏なものを察知したクラインがそう尋ねた。その横でトウジも訝しむような表情でこちらを伺っていたが、その2人の気遣いさえも今は煩わしく感じてしまう。

 

「……悪い、先帰るわ」

 

「え……? あ、おい、ハチ!」

 

 このままでは無関係な2人に当たり散らしてしまいそうだった。そんなみっともない真似はしたくない。

 

 後ろから呼びかけるクラインの声を無視し、俺は足早にその場から逃げだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ALFのギルドホームも、風林火山と同じく第1層に存在する。

 白い煉瓦造りのその建物は、SAO内最大ギルドALFの本拠ということもあってかなりの大きさだった。しかしそれでも1000人を優に超えるギルドメンバーが全員収まるはずもなく、幹部以外の多くのメンバーは本部とは別に各層に点在する寄宿舎のような所に住んでいる。

 

 ギルドマスターのシンカーとその側近であるユリエールやユキノは当然本部住まいであるので、彼らは会談が終了するとすぐに第1層のギルドホームへと戻ってきていた。

 帰還してすぐにシンカーの執務室へと集まり今後について話し合っていた彼らだったが、ようやくそれも終了し一息ついた頃、部屋の奥の椅子に腰かけていたシンカーが楽しそうに口を開いた。

 

「しかし面白い子だね、ハチ君は。歳の割りに随分と落ち着いているようだし」

 

 そう言ったシンカーは木製の机に肘をつき、向かいのソファに座るユキノへと目線を送った。それにユキノは表情も変えずに答える。

 

「彼の場合は単に擦れて、斜に構えているだけだと思いますが」

 

「そう言うのは老成している、と言うんだよ」

 

 棘のある言葉を放つユキノに、シンカーは諭すように言った。ユキノは何か言い返そうとしたが、再び口を開いたシンカーに遮られる。

 

「そしてそういう人間は往々にして、自分のことを顧みない」

 

 そこまで無表情だったユキノも、その言葉には一瞬ハッとしたような顔をしてシンカーに目線を向けた。そしてシンカーは優しい声色で言葉を続ける。

 

「僕はあの本は読んでいないけど、噂はよく耳にするからね。かなり危なっかしいよ、彼は」

 

 そこで息を継ぐように少し間を置き、シンカーは強い眼差しをユキノに向けた。

 

「ユキノさん。君が望むなら彼のところに行っても――」

 

「そういった勘繰りは不愉快だと言ったはずです」

 

 怒気のこもった声で言葉を遮り、ユキノはシンカーを睨み付けた。対するシンカーは怯む様子もなく、真摯な表情でユキノを見つめている。そうしてしばらくお互いに視線をぶつけていたが、やがてユキノの方が耐えられなくなったように目を逸らし、ため息をついた。

 

「……仕事があるのでこれで失礼します」

 

 そう言ってユキノは返事を待つことなくソファから立ち上がり、足早に執務室から出て行った。残されたシンカーは頭をかきながら自嘲するように顔を歪めている。

 ユキノの対面のソファに腰かけていたユリエールはそれまで目の前の2人のやり取りを黙って見ているだけだったが、そうしてシンカーと2人きりになったところで呆れたようにため息をついた。

 

「無神経ですよ、シンカー。あの年頃の女の子はみんな繊細なんですから」

 

 そう言って眉間に皺を寄せ、シンカーを見つめるユリエール。シンカーは曖昧に笑ってそれに応えていた。

 

「いやぁ、分かってはいるんだけど、どうにも歯痒くてね」

 

「気持ちはわかりますけど……私たちが口を出すようなことじゃありませんよ」

 

「まあ、そうなんだけどね……」

 

 そう言って立ち上がったシンカーは、物思いに耽るように窓際に立って外を眺めた。

 

 すれ違いや挫折も、1つの青春のあり方だろう。多くの人間はそういった過程を経て成長してゆき、いつかあの頃は青かったなと思い返すのだ。そこに部外者であるシンカーが口を出すのは、大きなお世話というものだろう。しかしそれを自覚しつつも、彼は口を出さずにはいられなかった。

 

 若かりし頃の過ちだと、いつか笑って済ませられるのならいい。しかし命が掛かったこの世界では、言えなかった一言が、一生の後悔になることもあるのだ。

 

 そんな自分の懸念がただの杞憂に終わることを祈りながら、シンカーは夕日に染まった空を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 友人を得たと言っても、そうそうぼっちというものの本質は変わらないものだった。

 俺は今でもなるべく人との関わりは避けるようにしているし、1人で時間を過ごすためのベストプレイスを見つけていたりする。

 

 第1層、西の外れ。なだらかな丘陵の続くフィールドにポツリと存在するテーブルマウンテンの上。柔らかな芝の敷き詰められたそこはセーフティゾーンになっていて、ここが今の俺にとってのベストプレイスだった。

 この辺りには元々プレイヤーがあまり来ない上に、このテーブルマウンテンに登るためには体術スキルの壁走りを使う必要があるので、ここで人に会う可能性はほとんどない。そもそもここの存在を知っているプレイヤーが0に近いはずだ。俺は二月ほど前にキリトとほぼ同じタイミングで壁走りを習得したのだが、その時に2人で様々な場所を探索し、たまたまここを発見したのだった。

 

 まあ1人になりたいのならギルドホームに用意された自室にでも籠ればいいのだが、そちらは度々クラインやキリトが押しかけてくるため、あまり落ち着かないのだ。今は、誰とも顔を合わせたくない。

 

 そうして始まりの街から逃げるようにここへと訪れた俺は、夕日に赤く染まった景色の中地面に座り込み、1人考えていた。

 

 ――SAOに囚われ眠り続ける雪ノ下と、その身を案じ彼女の帰りを待つ由比ヶ浜。

 

 ALFとの会談で雪ノ下に出会ってから、そんな光景が頭を過って離れなかった。

 

 雪ノ下は無事だし、由比ヶ浜のことだって葉山や三浦や海老名さんたちがフォローしてくれているはずだ。今さら俺が気にかけたところで意味はない。何度そう自分に言い聞かせても、気持ちは晴れなかった。

 

 何故これほどまでに胸中がざわつくのか。俺は何がしたいのか。何をすべきなのか。いくら考えても、答えは出なかった。そうして苛立ちだけが募っていく。

 

 俺はそれを振り払うように頭を掻き毟り、ため息をついて瞑目した。

 

 5分ほどそうしていただろうか。一陣の風が前髪を揺らすのを感じ、そこでようやく俺は目を開いた。そしてその瞬間、不意に何かが俺の頬に触れた。

 

「……熱ッ!?」

 

 右頬に異常な熱さを感じ、俺は小さな悲鳴を上げて振り返った。

 

 いつの間に現れたのか、そこに立っていたのは悪戯っぽい笑みを浮かべたキリトだった。

 

「会談お疲れさん。これ差し入れ」

 

 呆気にとられている俺に何でもないようにそう言って、キリトは右手に持っていた茶色い包みを放りなげた。咄嗟にそれをキャッチすると、両手に温もりが伝わってくる。

 

「魚肉饅頭……」

 

 包みの中の白い饅頭を確認し、俺は呟いた。確か第21層の露店で売っている奴だ。先ほどの熱の正体もこれだろう。

 

 キリトは自分の分の饅頭を頬張りながら、俺の隣に腰かけた。

 

「いいところだよな、ここ。昼寝には最適だ」

 

 キリトの言葉にようやく気を取り直した俺は、元の位置に座り直しつつそれに答える。

 

「……PKされても知らねぇぞ」

 

「大丈夫、大丈夫。索敵使ってれば滅多なことはないって」

 

 饅頭片手に、キリトはそう言って楽しそうに笑っていた。

 

 そんなキリトを見て、俺は小さくため息をついた。こいつの突然の登場に俺は毒気を抜かれ、先ほどまでの暗澹たる気持ちはどこかに行ってしまったようだった。

 

 キリトは特に何を話すでもなく、黙々と持参した饅頭を食べていた。それを食べ終わると大きく伸びをして芝に寝転がり、ようやく俺に目を向ける。

 

「ん? 食べないのか?」

 

「……いや、食うよ」

 

 そう言って、俺も饅頭に口をつけた。魚肉の淡白な味が口に広がり、魚の臭みを消すための香草の香りが鼻腔に抜ける。ゆっくりと咀嚼しそれを飲み込むと、体の内側から暖かくなっていくような気がした。

 

 何故か、泣きそうになった。それを堪えながら、俺は黙々と饅頭を口へと運ぶ。何も聞かないキリトの態度がありがたかった。

 

 それを食べ終えた俺は、大きくため息をついてキリトへと目を向けた。両手を頭の後ろで組みながら仰向けに寝転び、空を眺めている。

 

「……んで、何しに来たのお前?」

 

 ようやく気持ちの落ち着いてきた俺がそう尋ねると、キリトは姿勢も変えずにそれに答えた。

 

「んー……俺もよくわからない」

 

「なんだよそれ……」

 

 呆れた声を出した俺に向かってキリトは笑って口を開く。

 

「まあハチって1人で放っとくと何するかわかんないからさ」

 

「お前は俺の保護者かっつーの……」

 

 俺はキリトから目線を逸らしながら悪態をついたが、胸中はよくわからない気持ちで満たされていた。

 

 そうして訪れた再びの沈黙の中、俺は横目でキリトに視線を送る。暢気な顔をして寝転がるこいつに、俺は全てをぶちまけてしまいたい衝動に駆られた。

 

 ――きっとこいつだけは、俺を裏切らない。

 

 何を馬鹿な、と以前の俺だったら鼻で笑っただろう。自分に都合のいい幻想を抱き、それを他人に押し付けるなど、俺が最も忌むべき行為だったはずだ。何度も何度も失敗し、自分を戒めてきたのだから。

 

 だが、こんな世界だったからだろうか……俺は自分の中に変化を感じていた。

 

 極限状態の時にこそ人の本性は表れるものだ。俺はこの世界に来てから幾度となく仲間を見捨てて我先にと逃げるプレイヤーたちを見てきた。別に悪いことではない。己の命を懸けてまで、他人を助ける義理はないのだから。

 

 しかし、キリトはどんな状況でも俺を見捨てなかった。俺がオレンジプレイヤーになった時も、迷宮でトラップにかかった時も、プレイヤーとトラブルになった時も、こいつは逡巡することさえしなかった。

 

 きっとこの気持ちは幻想ではない。

 

 こいつだけは、俺を裏切らない。

 

 だから俺も、こいつにだけは誠実でいたかった。

 

「……高校の、部活の奴に会ったんだ」

 

 いつしか、俺は漏らすように呟いていた。キリトは寝転んだまま目線だけこちらに向けている。

 

 全てをキリトに話すことが正解なのかどうか、俺にはわからなかった。だが、こいつはきっとそれを望むだろう。だからこそわざわざこんなところまで俺を追いかけてきたのだ。

 

「俺と、そいつと、もう1人……3人だけの、よくわからん部活。3人目は、多分SAOの中には居ない」

 

 俺がそこまで言うと、寝そべっていたキリトが上体を起こした。そして真剣な目をこちらに向ける。

 

「そっか……。ハチはその2人のこと、どう思ってるんだ?」

 

「……よく、わからん」

 

 それが本心だった。俺にとって、あいつらがどんな存在なのか、自分でもよくわからない。

 

 しかし俺のその返答にキリトは何故か納得がいったように頷いた。

 

「そっか。2人とも大事なんだな」

 

「……いや、お前俺の話聞いてた?」

 

「だってハチがそういう言い方する時って大体そういうことだし」

 

 キリトは自信満々の顔でそんなよくわからない根拠を口にした。俺は呆れてため息をついたが、何故かその言葉を否定する気にはならなかった。

 

「じゃあまあ、早くゲームクリアして帰らないとな」

 

 キリトはそう言って勢いよく立ち上がった。両手を上げて伸びをした後、服に付いた汚れを払い、次いで座っている俺を見下ろす。

 

「ハチ、1人で抱え込まないでくれ。今すぐじゃなくてもいい……いつか、俺たちを頼ってくれ。俺も、アスナも、クラインも、多分みんなそれを待ってるから」

 

 そう言って、キリトは俺に右手を差し出した。

 

 俺はその言葉に呆気にとられ、キリトの顔をまじまじと見返す。

 

「……お前、何なの? ジャンプ漫画の主人公なの? 言ってて恥ずかしくないか?」

 

「う、うるさいな! ハチの方が捻くれ過ぎなんだよ!」

 

 そんなやり取りをしながらも、俺は差し出された手を取って立ち上がった。

 

 西の空に目をやると、太陽はもうほとんど沈みかけていた。俺はそれを眺めながら、消え入るような声で呟く。

 

「まあ……ありがとな」

 

「……ああ」

 

 

 状況は、何も変わっていない。だが、気持ちは随分と楽になっていた。

 

 

 ――そして俺はその日、1つの決心をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ALFとの会談から3日が経った日の正午。

 

 第24層、中心街テトラ。その一角に存在する喫茶店。俺はその中の二人掛けのテーブル席に着き、珈琲を啜りながら人を待っていた。

 

 内装が艶のない暗色の木材で統一された店内はそれなりの広さがあるが、それに対して客はあまり多くなかった。珈琲や軽食の味は悪くないのでもっと人気があってもよさそうなものだが、恐らくは立地の問題だろう。

 生粋のインドア派である俺が何故こんな穴場を知っていたかというと、アルゴから情報を買ったからだ。人と落ち着いて話せる店か何か知らないかとアルゴに聞いたところ、この喫茶店を紹介されたのだった。

 

 持っていた珈琲カップを受け皿に戻し、俺は壁に掛けられた時計に目をやった。約束の時間まではまだ30分ほどある。

 

 さすがに早く来過ぎたか……。そう思いながら再び珈琲カップに手を伸ばした時、入口の方から来客を告げる鈴の音が店内に響いた。

 

 入口へと視線を向けた俺と目が合うと、そのプレイヤーはすぐにこちらに向かって歩いてきた。

 

「ごめんなさい、待たせちゃったかしら」

 

「いや、今来たところだ」

 

 そんな付き合いたてのカップルのようなやり取りをしながら、俺は今日の待ち合わせの相手――アスナへと視線を送った。そして普段とは違うその格好に目を留めて、口を開く。

 

「お前、その服……」

 

「ど、どうかな? この前サチに頼んで作ってもらったんだけど……」

 

 最近は攻略も一時的にストップしているからか、アスナはいつも着ている戦闘用の装備ではなくかなりカジュアルな格好をしていた。ピンク色をしたノースリーブの上に首元の開いたカーキ色のカットソーを重ね、その裾から少し除く程度の赤いミニスカートをはいている。黒いニーソックスにより形成された絶対領域が、かなり目の毒だった。

 

 先日のサチもそうだったが、SAO内でも女プレイヤーは服装に対してかなり気を使っているらしい。まあさすがに圏外でそんな恰好をした奴は見たことなかったが、街中では割と現実世界と変わらない恰好をしている奴が多かった。

 

「……まあ、良く似合ってると思うぞ」

 

 こういう時の対応は、小町から散々口を酸っぱくして教えられていたので、俺はマニュアル通りに答えた。まあ、事実似合っているし。

 

 意外と素直な返事が返ってきたからか、アスナは少したじろいでいたが、すぐに「ありがと」と呟いて俺の対面の席に着いた。

 

「それにしても珍しいわね、ハチ君の方から私に連絡してくるなんて」

 

 椅子に浅く腰かけたアスナはそう言ってこちらを見る。俺はそれから目を逸らしつつ答えた。

 

「いや、まあ何つーか……心境の変化つーか……」

 

「ふぅん」

 

 俺の歯切れの悪い返事に適当に頷くと、アスナはテーブルの端にあったメニューに手を伸ばした。二つ折りのメニューを広げてそれを見るアスナに、今度は俺が声をかける。

 

「ここは俺が持つから、好きなもん注文してくれ。聞いた話だとケーキが中々旨いらしいぞ」

 

 その俺の言葉に、アスナはぽかんと口を開けて唖然とした。しばらくすると、今度は訝し気な表情を俺に向ける。

 

「ホントにどうしたの……? 熱でもあるんじゃない……?」

 

「いや、お前俺のこと何だと思ってんの? ……今日は俺から誘ったんだし、さすがにそれくらいの甲斐性はあるぞ」

 

 俺が眉間に皺を寄せてそう言うと、アスナは戸惑いながらも頷いた。

 

「そ、そうね。ありがとう、それじゃあ今回はお言葉に甘えさせてもらおうかしら……」

 

「おう、じゃんじゃん頼め」

 

「そんなには食べれないわよ……あ、すみませーん」

 

 アスナはそう言って近くにいたNPCを呼び止めると、紅茶とシフォンケーキのセットを頼んだ。注文を受けたNPCはバックヤードへと下がり、すぐに戻ってくる。手に持ったお盆の上にはティーカップとケーキが乗せられていた。SAOの中では実際に料理などを作る必要がないので、どんなものを注文してもタイムラグなしですぐに届けてくれるのだ。

 

 テーブルに注文の品を並べると、NPCは一礼して下がっていった。アスナはミルクも砂糖も入っていない紅茶に口をつけ、一息ついてから俺に視線を向ける。

 

「それで、私に話って何?」

 

「あー……いや、本題に入る前に1つ聞いておきたいんだが……」

 

 俺は頭を掻きながらそう前置きをし、口を開く。

 

「お前さ、何でうちのギルド抜けたんだ?」

 

 俺の問いにアスナは一瞬驚いたように眉を上げ、次いでばつの悪そうな顔をして目を逸らした。

 

 

 以前、アスナは風林火山に所属していた時期があった。

 

 元からキリトや俺と行動を共にすることが多かったので、それは自然な流れであったと言えたが、何故か第10層に到達した時点でアスナは突然風林火山から脱退したのだ。その後も他のギルドには所属していないようだった。

 

 ギルドの脱退についてクラインやキリトは本人に何か聞いていたようで、特に引き止めることもせずに納得していたのだが、何故か俺には事情を説明しなかった。話さなかったということは何か理由があるのかもしれないが――ただ単にはぶられた訳ではないと思いたい――本題に入る前に、出来れば理由を聞いておきたかったのだ。

 

 

「まあ、答えたくないなら無理には聞かないが……」

 

 一応俺はそう声をかけたが、しばらくの沈黙の後アスナはゆっくりと話し始めた。

 

「……あのままだと、私弱くなってしまいそうだったから……だから、皆と距離を置いたの」

 

 俯いたまま、アスナは話を続ける。

 

「あそこに居たら、きっとハチ君に……キリト君やクラインさんに甘えてしまうから。それじゃあ駄目だと思ったの。そのままじゃ、いつまで経っても私は……」

 

 そこまで言って、アスナは黙り込んでしまう。最後まで言葉を紡ぐことはしなかったが、俺はおおよそのことを察することが出来た。

 

 つまり、あれだ。恐らくこいつは意識高い系の女子という奴なのだ。いつかの相模と同じだな。まあアスナはしっかり自立して頑張っている辺り雲泥の差なのだが。

 

 そうして勝手に納得した俺は1人頷き、ようやく口を開いた。

 

「そうか……。それなら、多分、この話はそう悪いものじゃないと思うんだが……」

 

 顔を上げたアスナが、小首を傾げて俺を見た。目線を泳がせつつ、俺は言葉を続ける。

 

「まあ、利害の一致というか……マクロ的な視点で見れば俺たちはゲームクリアっていう目的に対して共闘しているわけで、だからこれはひいてはお互いのためになる話というか何というか……いや、アスナがリスクにリターンが見合わないと思ったなら全然断ってくれても構わないんだが出来れば――」

 

「えっと、話が見えないんだけど……つまりどういうこと?」

 

 言い訳がましく理由を並べていた俺の話を遮り、アスナが尋ねる。咄嗟にはそれに答えられず、俺は俯いてしまった。

 

 今日は腹を括って来たはずなんだが……どうにもいざ話を切り出そうとするとブレーキがかかってしまう。しかし、逃げるわけにはいかなかった。

 

 俺は胃が締め付けられるようなプレッシャーの中、ようやく意を決し、それを口にした。

 

「……頼みがあるんだ。アスナ、お前にしか頼めないことが」

 

 俺の言葉にアスナは一瞬驚くように目を見開いた。

 

 しかししばらくすると、何故か彼女は穏やかな笑みを浮かべたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「静粛に! 何人か人数が足りないが、刻限になったので会議を始める!」

 

 壇上に立っていたリンドが声を張り上げた。その声に集まっていたプレイヤーたちはすぐに静かになり、リンドに視線を向ける。

 

 第25層の中心街にある、教会の講堂だった。攻略は停滞していたが、週に一度、現状を把握するためにここで会議が行われている。

 

 まあ正直、今のところこの会議は意味をなしていない。キバオウの事件から既に4週間ほどが経ち、その間に会議は3回開催されたのだが有益な情報などは全く上がらず、ただ攻略が遅々として進まない現状を確認するだけで終わっていた。

 

 攻略組の面子――特にリンドなどはギルドメンバーを増やして攻略組の戦力を増強しようと奔走しているようだったが、結果は芳しくないらしい。攻略組のプレイヤーたちの間では、もはや自然と中層のプレイヤーたちが強くなるのを待つしかないという空気が漂っていた。

 

 それでも生真面目なリンドは会議を開き、他のプレイヤーたちもそれに惰性で従っていた。まああまり意味をなさない会議に辟易して欠席しているプレイヤーもちらほらいるのだが。

 

 そういう俺の隣も、いつもそこに居たはずのプレイヤーが居なかった。

 

「アスナが来てないなんて珍しいな……。遅刻か?」

 

 リンドの進行で話し合いが進む中、キリトが小声でそう話しかけてきた。

 

 そう、今ここにはアスナが居ないのだ。その理由に俺は思い至ることがあったが、キリトには適当に頷き返しておいた。どうせすぐにわかることだ。

 

 そう思い、俺は話し合われている内容に耳を傾けた。プレイヤーたちがリンドに促され、形だけの活動報告をしている。当然、目ぼしい情報は上がっていなかった。

 

 恐らく、このままの状態が続けば第25層のボス攻略に向かうまではかなりの時間を要するだろう。俺の見込みでは1ヶ月以上……下手をすれば2ヶ月以上かかる。そして、ボスを撃破出来るかどうかはまた別問題だ。

 

「今日も進展はなしか……」

 

 大方の話を終えた後、壇上に立つリンドがそう言って項垂れた。集まっているプレイヤーたちの間にも、微妙な沈黙が流れる。

 

「こんな調子で、ゲームクリアなんて出来るのかよ……」

 

 沈黙の中、誰かがそう呟いた。それにつられるようにプレイヤーたちの間から次々に泣き言や不満が囁かれ、険悪な雰囲気が広がっていく。

 

 それを見かねたリンドが顔を上げ、何事かを言おうとしたその時――講堂の扉が勢いよく開かれ、大きな音をたてた。

 

 その音に、講堂に集まっていた全員のプレイヤーが驚いて振り返る。開け放たれた扉へと目をやると、物々しい雰囲気で十数人のプレイヤーたちが入って来ていた。その集団は装備を白と赤を基調とした鎧で統一しており、颯爽と歩くさまはまるで騎士団のように見えた。

 

 呆気にとられるプレイヤーの中、白いマントを靡かせた赤い甲冑の男を先頭に、彼らは講堂の中央まで歩を進めた。石畳の床を叩く甲高い足音だけが講堂に響く。

 

 先頭に立っていたのは壮年の男だった。赤い甲冑を身に纏ったその男と、傍らに控える女プレイヤーだけがその中から一歩前へと進み出る。

 

「会議中に失礼。少し遅れてしまったようだ」

 

 言葉に反して全く悪びれた様子のないその男は、言いながら周りを見回した。その動作に、後頭部で束ねた灰色の長髪がゆっくりと揺れる。

 

「な、何だあんたらは……?」

 

 突然の出来事に呆気にとられていたリンドが、ようやく口を開いた。訝しむように赤い甲冑の男を見た後、次いでその傍らに控える女プレイヤーへと視線を送った。

 

「アスナさん、どういうことか説明してくれ」

 

 突如現れた正体不明の男の横に立っていたのは、アスナだった。彼女も周囲のプレイヤーと同様に白と赤を基調とした装備を着込んでいる。下衣装備がスカートなのが少し気になるが、今は置いておこう。装備が変わったからだろうか、アスナは普段とは違う雰囲気を纏っているように見えた。

 

 彼女はリンドの質問に答えることはせず、傍らに立つ男に目線を送った。男はそれに答えるように頷き、仰々しく口を開く。

 

「私の名前はヒースクリフ」

 

 そいつはマントを翻し、その場に居る全員に目を向けて宣言した。

 

「我らギルド《血盟騎士団》は、攻略組への参加を希望する」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第7話 第25層攻略 part3

 2週間ほど前から、俺はゲーム攻略が難航しているこの現状を打開するために1つの手を打っていた。いや、手を打っていたなどと言うのは語弊があるかもしれない。今回俺が取った手段は非常に無責任で他力本願なものだった。

 まあ過程はともあれ、その成果は十二分に得られたと言えるだろう。彼らを目の前にして、俺はそう確信していた。

 

「我らギルド《血盟騎士団》は、攻略組への参加を希望する」

 

 大勢のプレイヤーを率い、暗雲が立ち込める攻略会議に颯爽と現れたヒースクリフは声高々にそう宣言した。唐突すぎるその展開に、集まったプレイヤーたちは呆気にとられ、会場である教会の講堂には水を打ったような静寂が広がる。数秒の沈黙の後、ようやく事態が飲み込めてきたプレイヤーたちは騒然としだした。

 

「おい、血盟騎士団なんてギルド知ってるか?」

 

「いや……ヒースクリフって名前も初耳だし……」

 

「でも、あのアスナさんが入ってるんだぞ? それなりに有名なギルドなんじゃないのか?」

 

 講堂の中央付近、10列ほど並べられた木製の長椅子に腰かけている俺の前に座るプレイヤーたちからは、そんな囁きが聞こえてきた。その声は困惑に満ちている。講堂奥の壇上に立つリンドや長椅子に腰かける他のプレイヤーたちも一様に、戸惑うような視線をヒースクリフへと向けていた。

 俺も一応、少し驚いたような表情を作って渦中の人物に視線を送っていたのだが、隣に座るキリトだけは何故か訝しむような顔でこちらを見ていた。キリトには今回の計画に関して何も話していなかったのだが、最近の俺の挙動と彼らの登場に関して何か思うところがあったんだろう。ここでキリトに追及を受けるのは面倒なので必死にそれから目を逸らしていると、再びヒースクリフが口を開き、ようやくキリトもそちらに顔を向けた。

 

「団長を務めるのはこの私、そして副団長はここにいるアスナ君だ。私を含めて団員は総勢18名。平均LVは39。装備も十分に強化してある。何も問題はないだろう?」

 

 ヒースクリフは会場のプレイヤーたちを見回しながら、隣に立つアスナ、そして講堂中央に整然と並ぶ団員に水を向けると、最後にリンドに対してそう問いかけた。ざわついていたプレイヤーたちもリンドの言葉を待つように再び静まり返る。

 ヒースクリフの言葉が事実なら、確かに彼らの攻略組入りには何の問題もない。むしろ攻略が難航しているこの状況では、諸手を挙げて迎え入れても良いくらいだ。

 

「彼らの実力は十分攻略組でも通用するレベルです。それは私が保証します」

 

 ヒースクリフの横に立つアスナが後押しするように口を開く。しかし、リンドは返答に悩んでいるようだった。まあ、予想通りの反応だ。数人ならともかく、これだけ大人数が一度に攻略組入りすることなど前例もない。しかもその大半が最前線で名前を聞いたこともない無名のプレイヤーたちなのだ。いくら現攻略組であるアスナの推薦があったとしても、頭の固いリンドが慎重になるのは当然だった。

 しかし、ここでリンドに渋られるのはまずい。最終的には血盟騎士団の攻略組入りは確実だろうが、その過程でリンド、ひいては彼の率いるDKBと対立するようなことがあれば今後の火種にもなりかねない。

 だから、こういう時は俺の出番だ。

 

「ちょっと待てよ」

 

 プレイヤーが皆押し黙る中、俺の発した声はよく響いた。先ほどまで壇上に立つリンドへと向けられていたプレイヤーたちの意識が、一斉に講堂の後方へと移る。そして椅子から立ち上がった俺を認め、皆一様に訝し気に顔を歪めた。

 

「ハ、ハチ……?」

 

 隣ではキリトがそう言って目を丸くしていたが、俺はそれに取り合うことなくヒースクリフへと言葉を続ける。

 

「問題ないわけねぇだろ。何の実績もない、あんたみたいなぽっと出のプレイヤーを信用なんか出来ると思ってんのか?」

 

 そうやって喧嘩腰に話す俺に対し、この場に居た多くのプレイヤーは「あいつ、何出しゃばってるの?」という顔をしていたが、唯一ヒースクリフだけは不敵な笑みを浮かべていた。

 

「……ではどうすれば認めてくれるのかな? 一緒に狩りにでも行くかね?」

 

 力を見極めるために、一緒に狩りをする。それも1つの選択肢だったが、それでは不確定要素が多い。不測の事態に陥れば、彼らが攻略組に対して不信感を抱くようなこともありうるだろう。まあもしかしたらそれは考え過ぎかもしれないが、出来ることならこちらがある程度コントロール出来るような展開へと持って行きたい。

 だから俺はヒースクリフに対し、もう1つの選択肢を提示することにした。

 

「いや、もっと手っ取り早い方法がある……あんたが俺と決闘(デュエル)するとかな」

 

 俺が発した決闘という言葉に、再び周りのプレイヤーたちは騒然としだした。ヒースクリフも笑みは崩さなかったものの、少し驚いたように眉を上げる。

 SAOの中には、決闘システムというものがある。これを利用すればカーソルがオレンジになることもなくプレイヤー同士対戦が出来るので、これは度々腕試しなどに利用されるのだ。

 

「それは……私が君に勝てれば、というわけかな?」

 

「俺に勝てる奴なんか攻略組にもほとんど居ねぇよ」

 

 ヒースクリフの言葉に俺は鼻で笑って答え、挑発するように攻略組の面々を見回した。ゲーム内でのトッププレイヤーを自負する彼らは俺のその態度に不愉快そうに顔を歪めていたが、幸い誰も口を出すようなことはしなかった。

 

「だから別に勝つ必要はない。実戦で使える奴かどうかは見ればわかるからな。リンドもそれでいいだろ?」

 

 そこでようやく俺は壇上に立つリンドへと視線を送る。俺たちのやり取りを呆気にとられたようにただ眺めていただけのリンドだが、この場で最終決定権を持つのはこいつだ。

 急に話を振られたリンドは戸惑うような顔をして沈黙していた。そしてしばらく考え込むような素振りを見せていたが、最終的にはこの場の雰囲気に押されるようにゆっくりと頷いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 混迷を極めた今回の攻略会議は俺の提案によって一時中断することとなり、俺とヒースクリフの決闘を行うためにその場に居たプレイヤーたちは皆そのまま第25層の転移門広場へと移動することになった。

 会場となっていた教会を後にした俺とキリトも、他のプレイヤーと距離を取りつつ、煉瓦で舗装された大通りを転移門広場へと向かって歩いていた。その道すがら、キリトは近くにプレイヤーが居ないことを確認すると1つため息をつき、呆れたような声で口を開く。

 

「それで、今回はどこからどこまでがハチの企みなんだ?」

 

 何やら人聞きの悪いことを言っているキリトに対し、俺は苦い顔を向ける。

 

「何だよその言い方……。いつも俺が何か企んでるみたいじゃねぇか」

 

「最近アスナと2人で何かコソコソやってるなと思ってたんだよ……こういうことだったんだな」

 

 とぼける俺の言葉には取り合わず、キリトは1人で納得するようにそう呟いた。俺は否定も肯定もせずに黙々と歩いていたが、キリトは気にすることもなく再び俺に問いかける。

 

「で、さっきからアスナが凄い顔でこっち見てるわけだけど……もしかして、さっきのことはハチの独断なのか?」

 

「言うなよ……。今必死に目逸らしてんだから……」

 

 隣を歩くキリトの視線の先、20mほど前方を歩く血盟騎士団の集団の中からアスナがこちらを振り返り、恐ろしい形相で俺を睨んでいた。というか、攻略会議で俺がヒースクリフに突っかかっていった時から、ずっと俺を睨んでいる。その顔には「こんな展開聞いてないんですけど?」と書いてあった。

 今はアスナの立場上俺に話しかけてくるようなことはなかったが、後のことを考えると胃が痛い。まあ自業自得なのだが。

 

「まあ今さら止めはしないけどさ……アスナにも俺にも、後でちゃんと説明しろよ?」

 

「……ああ」

 

 俺が頷くとキリトはとりあえず満足したようで、それ以上の追及はしてこなかった。

 そして歩くこと数分。俺たちは目的の転移門広場に到着した。

 街の中心部に位置するその広場は円形になっており、煉瓦や石造りの建物が続く街並みの中、そこだけぽっかりと空間が開いていた。灰色の石材が敷き詰められた広場の中心には長方形の台座が配置してあり、その上には2本の石柱――転移門が建てられている。

 それを遠目に認めながら俺たちが広場の中に入ると、隣にいたキリトは戸惑ったように立ち止まって周囲を見渡した。

 

「……何かギャラリーが多くないか? どこから聞きつけてきたんだ?」

 

 キリトの言う通り、広場には攻略組以外のプレイヤーたちも大勢集まっていた。転移門は交通の要なので普段から人通りは多いのだが、それにしてもこの賑わいは異常だった。広場の半分をプレイヤーが埋め尽くすような勢いだ。

 疑問に思いながらもとりあえず広場の中を進んで行く俺たち。すると、広場の中で一際プレイヤーが集まっている一角があり、そこから何やら聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「サア、張っタ張っタ! 突然攻略組に現れた新星ヒースクリフと、風林火山のハチの決闘ダヨ! 今のトコロオッズはヒースクリフが高めで――」

 

「何やってんだあいつは……」

 

 呆れて声を漏らした俺の視線の先、そこでは数名の仲間を引き連れたアルゴが集まったプレイヤーたちを相手に何か商売のようなことをしていた。そのやり取りをよくよく聞いてみると、どうやら俺とヒースクリフの決闘(デュエル)をネタに特設の賭博場を設置しているらしい。かなり繁盛しているようで、アルゴはせわしなく動き回っていた。

 

「情報早過ぎんだろ……これ決まったの10分前だぞ……」

 

「さすが情報屋……侮れないな」

 

 呆然と呟く俺に対し、キリトはそう言って頷く。正直そんな簡単な言葉で済ませられるようなことではない気もするが、追及するのも面倒だ。俺たちはその場を横目で通り過ぎ、攻略組が集まっている場所へと向かった。

 先に広場へと到着していた他の攻略組と血盟騎士団のプレイヤーたちは、広場の中直径20メートル程度の空間を丸く囲むように並んでいた。そこが決闘のステージということだろう。既にヒースクリフはその円の中で静かに佇み、俺を待っている。

 

「……ハチ、無茶はするなよ」

 

「わーってるよ」

 

 キリトの言葉に軽く答え、俺は並ぶプレイヤーたちの間を抜けてヒースクリフの前へと立った。彼我の距離は10メートル弱。ゲーム内のシステムアシストの分を考えれば、十分一足一刀の距離だ。

 

「さて、準備は良いかな?」

 

「ああ」

 

 不敵な笑みを浮かべたヒースクリフが俺に問いかける。随分と余裕な態度だ。俺の方はというと内心ビビりまくりで心臓がバクバク言っていたが、それを悟られないようにゆっくりと頷いた。

 

「では取り決め通り、決闘の方式は初撃決着モードで。私から申請しよう」

 

 決闘の決着方法にはいくつかのモードがあり、普通は命の危険のないよう初撃決着モードで行われる。これはその名の通り、先に一撃有効打を当てたプレイヤーの勝利となるモードで、他にも小さな攻撃が蓄積してある程度HPが減ることでも勝敗が決まる。

 

 間もなくシステムウインドウを操作していたヒースクリフから決闘が申し込まれたので、俺は表示された決闘の詳細を確認してそれを受諾した。

 すると俺とヒースクリフの目の前にシステムメッセージが現れ、60秒のカウントダウンが始まる。不意打ちなどを防ぐためか、決闘が始まる前には準備時間が用意されているのだ。

 

 カウントダウンが始まった瞬間から広場にはピリピリとした緊張感が走り出した。攻略組や血盟騎士団の面々はもちろん、先ほどまで賭博場に集まって賑わっていたプレイヤーたちもいつの間にか息を飲むように押し黙り、遠巻きにこちらを見ている。

 しばらくはお互い武器も手にせずに、ただ佇んでいた。徐々に減っていく数字を見つめながら、静かに時が過ぎるのを待つ。残り時間が30秒を切ったところで、ようやく俺は背中の槍を手にし、ヒースクリフも右手で鞘から剣を抜き放ち、左手で背中から盾を取り出した。しかし、互いにまだ構えは見せない。

 構えを見れば相手がどんな戦い方をするのか、ある程度のところまでは分かるものだ。だから対人戦に慣れた者ならギリギリまで構えは見せない。極端な話、お互いの間合いがぶつかり合う瞬間に構えが出来上がるのがベストなのだが、本物の武術の達人でもない限りはそんなことは不可能だ。

 もちろん俺にそれほどの技量があるわけもなく、無難に残り時間が5秒を切ったところで低く槍を構えた。ヒースクリフもほぼ同時に構えを見せる。半身になって左手の盾を前に突き出し、剣は胸元で垂直に構えている。

 

 残り2秒。そこで俺は深く腰を落とし、開始を待つことなく右足で強く踏み切って一気に間合いを詰めた。ヒースクリフへと迫りながら俺は決闘開始のブザーを聞き、それとほぼ同時に下段から突きを放つ。

 開始直後の強襲だったがヒースクリフは全く動揺することなく、難なく盾でその攻撃を受けた。しかし俺はそれに構わず、更に間断なく小刻みに突きを放つ。上段下段、さらには左右から弧を描くように迫り、揺さぶりをかける。雨のように浴びせかけられるその攻撃をヒースクリフは全て盾で器用に弾きつつ反撃の隙を伺っていたが、俺が剣の間合いの外から攻撃を加えているために、うまく攻勢に移れないようだった。そうしてしばらくこちらの攻勢が続いたが、結局俺はその状態で攻めあぐね、仕切り直すために大きく距離を取ったのだった。互いにそこで大きく息をつく。

 

 その間隙に、周りから大きな歓声が上がった。2人ともまだソードスキルさえ使っていない上に正直それほど高度なやり取りでもないのだが、プレイヤーたちはそんなことはお構いなしとばかりに騒いでいる。SAO内では皆慢性的に娯楽に飢えているので、恐らくはただ騒ぎたいのだろう。見世物にされるのは不本意なので、早めに決着を付けたい。

 

 次の一合で勝負を決める。そう決意して俺は槍を構え直し、今度はゆっくりと間合いを詰めるようにヒースクリフに近づいていった。相手も俺の意思を感じ取ったのか、剣を構えるヒースクリフには先ほどとは比べ物にならないほどの気が満ちていた。

 間もなく、互いの間合いがぶつかる。だがヒースクリフは動かない。カウンターを狙っているのだろう。一気に踏み込むのは危険だ。そう考えた俺は左方下段からの突きと見せかけたフェイントを挟み、次いで右方から渾身のソードスキルを放った。緑色のライトエフェクトを纏いながら相手に迫る刺突の一撃。盾で防げたとしても、正面から打ち合えばノックバックは避けられないだろう。しかしその攻撃を放つ刹那、俺が見たのは薄く笑みを浮かべたヒースクリフだった。

 

 絶妙な角度とタイミングで盾を前に押し出し、穂先を受けるヒースクリフ。そうして体勢を崩すことなく盾で刺突を横へと受け流すと、それと同時に右手の剣を上段に構えた。その剣に緑色の光が灯り、間を置かず俺へと振り下ろされる。必殺の一撃を空ぶってたたらを踏む俺に、それを凌ぐ術はなかった。

 

 周囲のプレイヤーが小さな悲鳴を漏らす中、そうして決闘の勝者を告げるメッセージが広場に大きく表示されたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第25層。その中心街の一角に居を構える居酒屋風の店。

 まだ日も沈んでいない時間帯だったが、その店は既にプレイヤーたちで賑わっていた。20名程度のプレイヤーたちがいくつかのグループに分かれて卓を囲み、杯を呷りながら賑やかに歓談している。

 現在のアインクラッドでは街中で戦闘用の装備を着用しているプレイヤーは少なく、基本的に普段着のような楽な恰好をして過ごす者たちが大多数だったが、彼らは皆自らの力を誇示するように赤と白を基調とした鎧を纏ったまま宴会に興じていた。

 その特徴的な装備から分かるように、ここに集まっているプレイヤーたちは血盟騎士団のメンバーである。先刻晴れて攻略組入りを果たした彼らは、この居酒屋を貸切って祝勝会を開いていた。プレイヤーたちは未だ興奮冷めやらぬといった様子で、どの卓でも同じ話題について盛り上がっている。

 

「ハチとかいうあのプレイヤー、あんだけデカい口叩いといて結局あっさり団長にやられてたな」

 

「ああ。ドヤ顔で『俺に勝てる奴なんか攻略組の中にもほとんどいねえよ』とか言ってたくせに、ダサ過ぎだろ」

 

 店内中央の席に着く男たちはそう言い、嘲るように笑っていた。酒――SAO内においてもある程度の興奮作用がある――を呷りながら、話はヒートアップしていく。

 

「つーか俺、前からあいつ気に食わなかったんだよね。胡散臭い本出していい気になっててよ。なんか攻略組の中でも煙たがられてたらしいぜ」

 

「ま、そう言うなよ。あの咬ませ犬のお蔭で俺らも攻略組に認めて貰えた訳だし、逆に感謝しないといけないくらいだぜ?」

 

 男がおどけるようにそう言うと、それを聞いた男たちの笑いが重なった。そこで少し間をおいて、男たちは再び攻略組についての話題に興じていく。

 そんな明るい声が飛び交う店の中、壁際の席に腰かけていたそのプレイヤーだけは唯一浮かない顔をしていた。未成年の彼女の前にはオレンジ色のソフトドリンクが置かれている。

 

「……何も知らないくせに」

 

 悔しそうに呟いた彼女の右手は、強く握り締められていた。その声が誰かに届くことはなかったが、何か異変を感じ取ったのか、隣に座る大人しそうな男が心配そうに彼女の顔を伺う。

 

「アスナさん、どうかした?」

 

「いえ……何でもないです」

 

 そう言いながら、アスナはばつの悪い顔をしてそのプレイヤーから目を逸らした。

 アスナは本心ではすぐにでも後ろで騒いでいる団員の話に割り込み、彼のことを擁護したかった。しかしここにいる者たちがその話を受け入れる可能性は低く、なにより彼はそれを望まないだろう。それがよくわかっているアスナには、ただ口を噤んでいることしか出来なかった。

 隣の男はアスナのその様子にしばらく訝しげに視線を送っていたが、彼女がそれ以上何も口にしなかったので深入りするのはやめたようだった。しかし、次いでアスナの向かいに座る男、ヒースクリフが何かを察したように口を開く。

 

「アスナ君は少し体調が優れないようだね。今日はもういいから、帰って安静にしていた方がいい」

 

 その言葉にアスナが顔を上げると、ヒースクリフは穏やかな笑みを浮かべていた。ややあって、彼女はため息をついて頷く。

 

「……はい。そうさせて貰います」

 

「それなら僕が送って行きましょうか?」

 

 再びアスナに視線を送っていた隣の男がそう提案してくる。その表情に下心などは伺えなかったが、アスナは首を横に振ってそれに答えた。

 

「ありがとうございます。でも今は転移門からすぐの宿に泊まっているので、大丈夫です」

 

 そう言ってアスナは席を立つと、周りのプレイヤーたちに挨拶などを済ませてすぐに店を出て行ったのだった。

 ヒースクリフの言葉もあってか誰も彼女を引き止めるようなことはしなかったのだが、多くのプレイヤーが彼女の帰宅に落胆したのは明らかだった。血盟騎士団唯一の女プレイヤーであり、その端正な容姿からアスナはギルド内でも既にアイドル的存在になっていたのだ。

 そうして少し水を差されたように静まってしまったプレイヤーたちだったが、しばらくすると何事もなかったかのようにまた騒ぎ始める。

 そんな中、ヒースクリフはその輪の中には入らず、店の奥で1人静かに酒を楽しんでいた。手に持ったグラスを揺らし、大きな氷がカランと音を立てる。

 

「……今度は互いに本気で戦いたいものだ」

 

 その小さな呟きは、プレイヤーたちの喧騒の中に消えていく。隣に座っていた男が不思議そうに視線をそちらに向けると、その口元は至極愉快そうに歪んでいた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第8話 第25層攻略 part4

 現在アインクラッドにいるプレイヤーたちは、おおよそ4つのグループに大別することが出来る。

 

 まず1つ目に挙げられるのは言わずもがな、攻略組だ。その名の通りゲーム攻略を牽引するグループで、第25層の事件が起こるまでは50人余りのプレイヤーたちで構成されていた。

 

 2つ目は下層で安全圏に引き籠っているグループ。ゲーム開始当初は半数以上のプレイヤーがここに属していたが、攻略が進むにつれて安全な戦闘のノウハウが普及していったため今ではその数は多くない。戦闘に向かない女子供や、病的なまでにフィールドに出ることを恐れるごく一部のプレイヤーくらいだ。おそらく現在ではその数100人にも満たないだろう。

 

 3つ目は下層から中層で狩りなどをして生計を立てているグループ。それほど危険を冒すことなくある程度の生活水準を維持出来るので、現在多くのプレイヤーはここに属している。ケイタ率いる月夜の黒猫団などもレベル帯で言えばこのグループだが、彼らのように攻略組を目指して活動しているプレイヤーは少数派だ。安全の確立された領域で最低限の活動をしつつ、ゲームクリアは攻略組に期待するというのが基本的な彼らのスタンスである。まあこの層のプレイヤーたちの支援や彼らのもたらすリソースに攻略組が助けられている部分も大きいので、その活動も馬鹿には出来ない。

 

 最後に挙げられるのは中層から上層にかけて活動するグループ、いわゆる準攻略組だ。攻略の最前線に来ることは稀であり、その実力は攻略組に一歩劣るものの、彼らは明確にゲームクリアという目標に向かって活動している。当然その活動には命の危険が伴うため、ここに属するプレイヤーはそれほど多くない。正確に把握しているわけではないがおそらく数は200人から300人と言ったところだろう。

 攻略組に欠員が出た場合、必然的にここからプレイヤーを補充することになる。全体から見れば準攻略組のプレイヤー数は僅かだが、数十人規模で活動している攻略組からすれば補充要員としては十分な数だ。キバオウの暴走によって攻略組で大勢のプレイヤーが脱落した時には、1、2週間もすれば彼らの中から力のあるプレイヤーが台頭して攻略組に合流してくるだろうと考えられていた。しかし――

 

「実際には攻略組の補充はかなり難航した。何でだか分かるか?」

 

 第1層。風林火山のギルドホーム。そのエントランスで俺はこの場に集まったプレイヤーたちの顔を眺めながらそう問いかけた。

 俺の視線の先にはキリトやクライン、トウジと言った風林火山の主要メンバーに加えてアスナとアルゴがおり、女性陣は来客用のソファに座っている。

 キリトとの約束通り、ヒースクリフとの決闘(デュエル)を終えてホームへと帰ってきた俺はそこで事の顛末を説明することになったのだが、その場に居合わせた風林火山のメンバーや押しかけて来たアルゴとアスナがそこに加わり、いつの間にか講習会のような状態になってしまったのだ。

 

 既にこのやり取りを経験済みであるアスナを除いて、その場のメンバーは俺の問いに対して考え混むように視線を伏せる。しばしの沈黙の後、アスナの後ろに立っていたキリトが口を開いた。

 

「攻略組が情報を独占しているから……だな」

 

 その回答に俺は大きく頷き、補足する。

 

「細かく理由を上げればキリがないが、一番大きい要因はその辺だ。旧ALSもDKBも他のプレイヤーに対しては排他的で、ギルドメンバー以外には情報を全く漏らさない。まあ、うまい狩場やらクエストやらを独占したいんだろ。俺らとかエギルんとこの《組合》はなるべく情報を流してるつもりだが、それだけじゃ規模が小さいし限度がある。加えて準攻略組の連中も妙にプライド高い奴が多くて、あんまり俺らに頼ろうとしないしな」

 

 組合とはエギルがマスターを務めるギルドのことだ。《アインクラッド商人組合》――通称、組合。名前の通りアインクラッド内で商人をしているプレイヤーが集まって出来たギルドだ。ギルドとしての団結や拘束力は強くなく、商人同士の情報共有や取引のためのかなりビジネスライクな関係らしい。その中で、エギルを筆頭に一部のプレイヤーは攻略にも参加している。

 

「手っ取り早く攻略組の戦力を増強するなら準攻略組の連中にDKB辺りのギルドに入って貰うのが一番なんだけどな……。その気がある奴はもう既にDKBに所属してるだろうし、現時点でそうしてない奴らは多分リンドと馬が合わないんだろ」

 

 ここまでが俺が現状から分析した攻略組の問題点だった。攻略組のプレイヤーたちが自らの優位性を保とうとしたために、後続のプレイヤーが育ちにくい環境を生んでいたのだ。大局的な視点で見れば馬鹿な話だが、それでも他人より上に立っていたいと思うのが人の性だろう。

 

「ナルホド。だからアーちゃんに頼んで新しいギルドを作った訳ダナ」

 

 アルゴがアスナに視線を送りながらそう言った。俺はそれに頷いて肯定し、再び口を開く。

 

「戦力になりうるプレイヤーたちは元から居たわけだ。ギルドとしてちゃんとまとまって、こっちの言うことを素直に聞いてくれるなら鍛えようもある。そいつらをまとめ上げる看板プレイヤーとして、アスナは誰よりも適任だった」

 

 SAO内では女性プレイヤーの数が圧倒的に少ない。最前線で活躍している女性プレイヤーとなるとアスナくらいだ。しかもそれがかなりの美少女ともなれば、大抵の男はお近づきになりたいと思うだろう。

 

「けどよ、それなら何でアスナがギルドマスターじゃないんだ?」

 

 アルゴの後ろに立つクラインが、顎鬚を撫でながら口を挟む。

 

「SAOのプレイヤーは20代30代の男が多いからな。アスナはいい看板にはなるが、そいつらの心理的には年端も行かない女プレイヤーにトップに立たれるのは面白くないだろ? だからアルゴに頼んで目ぼしいプレイヤーを探して貰って、その中から信用できそうな奴を選んで協力を頼んだんだ」

 

 今回の件に当たっては、アルゴには色々と仕事をして貰っていた。準攻略組のプレイヤーたちについてそのレベル、容姿、能力、性格、素行など多岐にわたって調べて貰い、そこからギルドマスターを任せるに足る人物を探し出したのだ。

 ちなみにアルゴは金を払うと特に詮索もせず仕事を請け負ってくれた。さすがはプロの情報屋と言えるだろう。まあ結局今日全てを話すことになってしまったのだが。

 

「準攻略組のプレイヤーたちをうちに勧誘しようとは思わなかったんですか? 新しいギルドを作らなくてもハチさんとキリトさんならプレイヤーを集める看板として十分ですし、アスナさんに協力してもらうにしてもそちらのほうが効率が良いように思えるんですが」

 

 クラインに次いで、その隣のトウジが疑問を口にした。その方法については俺も考えたが、いくつかの理由から断念したのだった。

 

「アスナと同じような理由で、俺とキリトみたいな中高生じゃ他のプレイヤーたちを牽引出来ないんだよ。一応ギルドマスターはクラインだが、攻略には参加してないし」

 

「ああ……確かにうちのギルマスは名ばかりなところがありますしね……」

 

「何だよ!? オレが悪いっつーのかよ!?」

 

 妙に納得してしまった様子のトウジに、クラインが突っ込みを入れる。

 ここでは口にしなかったが、実は他にもいくつか理由はあった。排他的な雰囲気の攻略組に反発して、準攻略組のプレイヤーたちもこちらを敵視している傾向があるのだ。風林火山も攻略組として名前が売れてしまっているので、彼らには嫌厭されてしまう可能性が高かった。

 

「まあそんな感じでギルドが出来て、アルゴにリストアップして貰ったプレイヤーたちをヒースクリフとアスナが勧誘していったわけだ。その後は集まったプレイヤーをアスナ主導で鍛え上げて、折を見て攻略組入りを果たしたってのが今回のあらましだ」

 

 簡潔にそう言って、俺は話をまとめた。細かい話をしていけばまだまだあるのだが、そこは割愛しておこう。俺が大量のモンスターをトレインして他のプレイヤーに擦り付け、そこをタイミングよくアスナが助けに入り、その後ギルドに勧誘する……というような小賢しい手をいくつか使ったのだが、それを話しても微妙な空気になるだけだろう。

 

「ハチ君、まだあるでしょ?」

 

 話が一段落つき、俺がソファの背もたれに背中を預けた時、向かいに座るアスナがそう言った。

 ……え? 俺がモンスタートレインしたこととか話せってこと? キリトとかに怒られそうだから出来れば話したくないんだけど……などと俺が考えていると、アスナが言葉を続ける。

 

「今日の決闘、どういうことかしら? 私、何も聞いてなかったんだけど?」

 

 そう問いかけるアスナの顔は無表情だったが、全身からは不機嫌な空気を漂わせていた。どうやら俺がヒースクリフに突っかかり、決闘を挑んだことについて追及しているらしい。それを察した俺は背中に汗をかきながら、慎重に言葉を選んだ。

 

「いや、あれは俺なりに色々考えた結果でだな……血盟騎士団とリンドが揉めないように、手っ取り早く攻略組入りを――」

 

「ハチ君が何をしたかったのかは分かるわ。多分、それが必要なことだったってことも」

 

 俺の言葉を遮り、アスナが口を開いた。あの決闘が出来レースだったことにはとっくに気付いていたのだろう。まあ正直本気でやっても負けていた可能性は高いが、最初から勝つつもりがなかったのは事実だ。

 アスナは更に話を続けながら、その顔を少しずつ険しいものへと変えていった。

 

「でも、何でそういうこと話してくれないの? 私ってそんなに信用出来ない?」

 

 言い終わったアスナの顔は、どこか悲しそうだった。それを感じ取ったその場の面々が、俺に非難の目を向ける。その視線に中学時代のトラウマを刺激されつつも、俺は現状について思案した。

 しかし、考えてみてもアスナにどんな言葉を掛けるべきなのかはわからなかった。だから結局、俺はただ正直に話すことしか出来ない。

 

「別に、アスナを信用できないとか、そういう訳じゃない。ただ、敵を騙すにはまず味方からというか……わざわざアスナにそれを話すメリットがなかったってだけだ」

 

「……そう」

 

 頷いたアスナからは、先ほどまでの険悪な雰囲気は感じられなかった。どこか諦めたような表情で目の前のテーブルに視線を落としている。ややあって、アスナはゆっくりと立ち上がった。

 

「……ごめんなさい、今日はもう帰るわ」

 

「え、あ、おい」

 

 俺の呼びかけにも反応せず、アスナは足早にこの場を出て行ってしまう。俺はそれを視線で見送った後、しばらくただ呆然と玄関の扉を見つめていた。そして次の瞬間、唐突に俺の脳天を強い衝撃が襲った。

 

「でっ……!?」

 

 痛みはなかったが、視界が揺さぶられて思わずそんな声を漏らす。

 俺が頭を押さえながら横を見上げると、いつの間にかそこにはクラインが立っていた。俺に拳骨を食らわせたであろう拳を握りしめながら、険しい顔をしている。

 

「ハチ、アスナに謝ってこい」 

 

「へ? いや、でも……」

 

「アスナがどうしてうちのギルドを抜けたか、お前知ってるか?」

 

 俺の言葉を遮り、唐突にそう切り出すクライン。急に話題が変えられたことに困惑しつつも、問いかけるクラインの顔が至極真面目なものだったので、俺は以前のアスナとのやり取りを思い出してすぐに答えた。

 

「……確か、自分を磨くためみたいなことを言ってたが」

 

 2週間ほど前、喫茶店での会話では確かにそう言っていたはずだ。このままでは弱い自分になってしまいそうだから、俺たちと距離を取ったのだと。

 

「そうだな。それは間違っちゃいねえ。けどな、お前は何にもわかってねえよ」

 

 眉間に皺を寄せながらクラインはそう語る。そしてさらに語気を強くし、俺に諭すように言葉を続けた。

 

「アスナはな、もっとお前に頼って欲しかったんだよ。1人で何でもやっちまおうとするお前の力になりたくて、だから強くなろうと頑張って来たんだ」

 

 その言葉に、俺は少なからず動揺した。正直信じがたい話だったが、俺がキリトやトウジに目線を送ると、そいつらは肯定するような顔で黙り込んでいた。その場の空気に押され、しかしどうすべきかもわからず、俺は曖昧に口を開く。

 

「いや、でも謝るったって……」

 

「いいからとりあえず話してこい! 男ってのはな、何も悪くなくても女に悲しい顔させちまったら謝らなきゃいけないもんなんだよ!」

 

 そうやって男を語るクラインに背中を押され、俺は強制的にギルドホームから路地へと放り出されてしまった。外は既に日が沈み、人通りは多くない。

 

「アスナにちゃんと謝って来るまで、うちの敷居は跨がせねぇからな!」

 

 そう言って勢いよく扉を閉めるクライン。オトンかお前は……。

 既にその通りにはアスナの姿は見えなかった。まあ、追跡スキルを使えばすぐに見つけられるだろうが……しかし咄嗟にアスナを追う気にはなれず、かと言ってクラインの言葉を無視することも出来なかった俺は、その場に立ち尽くしてしまった。

 決闘の一件については、俺もアスナは怒るだろうとは予想していたのだ。だが、あんな顔をされるとは思っていなかった。

 アスナの失望したようなあの顔が、いつかの雪ノ下や由比ヶ浜と重なる。思い返すと罪悪感のような、焦燥感のような、よくわからない感情が湧いてきた。

 多分、俺はまたどこかで選択を間違ったのだろう。SAOで過ごす時間の中で俺は少し変われたような気になっていたのだが、その実、結局あの頃から何1つ成長してはいなかった。

 

「ったく……何だってんだよ……」

 

 頭を掻き毟りながら、俺は1人悪態をついた。この苛立ちは多分、自分に対するものだ。

 ややあって、ため息をついた俺はシステムウインドウを呼び出し、追跡スキルを起動した。

 これはあれだ。クラインには締め出しを食らってしまったし、ギルドの件ではアスナに色々と無理を聞いてもらっていたから、その詫びも兼ねて、というやつだ。だから決してそういうあれではない。

 俺は脳内でそんな誰に聞かせるでもない言い訳を繰り返しながら、その場から駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……その、今回のことは、色々悪かったと思ってる。別に、アスナを蔑ろにするつもりとかはなかったんだ」

 

 第1層の転移門広場でアスナに追い付いた俺は、そう言って素直に頭を下げた。

 広場に設置された街灯が俺たちを淡く照らす中、そのまま数秒の沈黙が流れる。その間、転移門を利用するプレイヤーたちが何名か横を通り過ぎて行った。

 そしてまじまじと俺の顔を見ていたアスナが、おもむろに固い表情を崩してため息をつく。

 

「……もういいわ。私もちょっと焦ってたみたい。ハチ君がそういう人だって言うのはわかってたんだけどね……」

 

 疲れたような顔でそう言うアスナを見て、俺もようやく胸を撫で下ろした。

 

「そういう人って何だよ……俺も一応色々と気を遣ってだな……」

 

「ハチ君はさ」

 

 軽口を叩こうとした俺を遮って、アスナが話し始める。俺に向けるその視線は真剣なものだった。

 

「今回のこと、これでいいの? 裏であんなに頑張ってたのに、皆に誤解されて……」

 

 心配するような表情でアスナは俺に問いかけた。俺は頭を掻きながらそれに答える。

 

「別に、誤解ってわけじゃねぇだろ。今回は結局、全部俺の都合でやったことだ。早くゲームクリアして外に出たかったから、他の奴らを引っ掻き回したわけだし」

 

 第25層まで達し、俺には色々と帰らなければならない理由が増えていた。

 まずは生きて帰って戸塚や小町を安心させてやらなければならないし、両親や平塚先生も心配してくれているだろう。材木座も体育のペアを組むために苦労しているはずだ。いや、それは割とどうでもいいな。

 それに何より……由比ヶ浜や雪ノ下とのことも、何とかしなければならない。

 これは全て俺の都合だ。だから、アスナが気に病まなければいけないことなど1つもない。

 しかしそんな俺の思いとは裏腹に、アスナの表情は晴れなかった。だから俺は更に言葉を続ける。

 

「それに俺、元から攻略組じゃ嫌われてたし。今更また嫌われたところでどうとも思わん」

 

「……そう」

 

 俺の言い分に納得してくれたのかはわからなかったが、アスナはそう呟いた。それきり、微妙な沈黙が流れる。

 

「……何か気を遣わせたみたいで悪かったな。今回は色々世話にもなったし……今度何かしら礼をさせてくれ」

 

「別に、そんなこと……いえ、そうね……」

 

 空気を変えようと、俺はそう提案する。アスナは咄嗟に首を横に振って断ろうとしたが、途中で何かを思案するように言葉を引っ込めた。顎に手を当てて少し考えてから、再び口を開く。

 

「この間の、24層の喫茶店。あそこのケーキがいいわ」

 

「……そんなんでいいのか? 別にもっと高いもんでも……」

 

 あまりに欲のない要求に、俺は拍子抜けしてそう問いかける。しかし、それに対する返答もあっさりしたものだった。

 

「それじゃあ、あそこのケーキを私が全種類制覇するまで何度も付き合って貰うってことで。今更やっぱりなしって言っても駄目だからね?」

 

「いや、お前がそれで良いって言うなら良いけどな……」

 

 俺の記憶では、確かあの喫茶店のメニューには十数種類のケーキが書いてあったはずだ。しかしそれを全て頼み、更に飲み物などを追加したとしても最前線で稼いでいる俺からすれば何ということはない。

 また俺にいらない気を回しているのではとも思ったが、楽し気に笑っているアスナはそんな感じでもなさそうだった。

 

 その後はしばらく当たり障りのないやり取りをすると、夜も遅かったのでアスナを宿まで送って行った。圏内なら滅多なことはないだろうが、まあ気持ちの問題だ。

 

 こうして、この一件は俺がアスナにお詫びのケーキを奢るということで手打ちになったのだった。しばらくは第25層のボス攻略で忙しくなるので、行くのはそれ以降ということになるだろう。

 生き残らねばならない理由がまた1つ増えた。アスナとの約束を果たすためにも、万全の準備を以ってボス攻略にあたらねばならない。柄にもなく、俺はそう強く決意したのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第9話 第25層攻略 part5

 血盟騎士団の登場によって、事態は目まぐるしく動き出した。

 

 まずは翌日、戦力が大幅に増強されたことを受けて本格的なボス攻略会議が開催された。そこでは先日までの不毛な会議が嘘のように活発な議論がなされ、順調に作戦が練られていった。皮肉にも以前ボス部屋に特攻をかけたキバオウたちの持ち帰った情報が役に立ち、かなり細かいところまで想定してボス対策を考えることが出来たのだった。

 第25層のフロアボスは巨大な翼を持つ大型のドラゴンという話だ。特記すべきはその高い火力と飛翔による機動力で、壁役のプレイヤーを避けて後衛のプレイヤーへと攻撃を仕掛けてくるらしい。軽装備のプレイヤー……俺やキリト、アスナなどは1度でも直撃を食らえばおそらくHPをほとんど持っていかれるだろう。かなり厄介なボスだ。

 幸いずっと飛び回っているわけではないらしく、基本は地上で戦い、いくつかの攻撃の際に飛翔するのだそうだ。それだけでも壁役のプレイヤーの立ち回りは難しくなるだろうが、前もって対策していれば対処出来ないことはない。

 ともあれ、今回タンクとアタッカーの連携にはかなりシビアなものが求められることになるだろう。急造のレイドでは太刀打ち出来ない可能性が高い。そう言った理由から、今回のボス攻略に当たっては会議だけでなく、実際に演習や訓練のようなものも行われた。ゲーム攻略が始まって以来初めての試みだ。それだけこの第25層のボスが脅威だということだろう。

 ボス攻略の総指揮はリンド。タンク部隊のリーダーとしてヒースクリフとエギル。アタッカー部隊のリーダーはアスナということに決まり、3日間ほどが訓練に費やされた。アスナのような若い女プレイヤーにリーダーを任せるのには反発が出るかもしれないと俺は危惧したが、攻略組の中にはもう既にアスナの実力を疑う者はいないようだった。訓練の過程で血盟騎士団の団員たちも他のプレイヤーに認められていき、攻略組はかつてないほど1つにまとまっている。この様子なら先日の一件でわざわざ俺が憎まれ役を買う必要はなかったかもしれないが、それはまあ結果論だ。

 

 若干の居心地の悪さを感じつつ、俺も一応ちゃんとそれに参加していた。まあ傍から見れば俺は「攻略組の中で増長し、天狗になっていたところを突然現れたヒースクリフに軽く打ちのめされた残念なプレイヤー」であるので、蔑みや憐みの視線を送られることはあっても変に絡まれることはなかった。

 

 さて、そんな日々を過ごしながら迎えた今日。血盟騎士団の登場からは4日が経っていた。対フロアボスを想定した訓練もほぼ終了していたので、その日は軽く調整だけ行って攻略組の面々は再び第25層の教会の講堂へと集合していた。

 そしてその会議で、翌日早朝、とうとう俺たちは第25層ボス攻略に向かうことが決定したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、俺は珍しく外に出ていた。始まりの街、風林火山のホームから少し歩いた大通りだ。その通りの中でも一際目につく大きな白い煉瓦造りの建物、その外周に俺は背中を預け、腕を組んで人を待っていた。まだ日は高く、通りには多くのプレイヤーたちが行き交っている。

 俺は特に何をするでもなくしばらくそこに佇んでいたのだが、通り過ぎるプレイヤーたちからは何故か度々訝しむような視線を向けられた。そして俺と目が合うと一様にギョッとしたような顔をして足早に去って行く。俺ってそんなに不審に見えるのだろうか……。人と待ち合わせをするような場所ではないし怪しむ気持ちも分かるが、さすがに何もしてないうちから犯罪者を見るような目を向けるのはやめてほしい。

 まあ俺の経験上、指を差されてヒソヒソと何事か囁かれるようになった時が危険信号だ。大丈夫、まだいける。

 一応、システムウインドウを開いて時間を確認する素振りなどで「俺、人を待ってるんですよー」アピールをしながらその場で待つこと5分。さりげなく周りのプレイヤーに目を配っていた俺は、目的の人物がこちらに向かって歩いてくるのを発見した。

 

 長い黒髪をなびかせながら歩くそいつは、俺とは違う理由で注目を集めている。無論、良い意味でだ。周りでは何人かの男プレイヤーが話しかけたそうに様子を伺っていたが、そいつの纏う凛とした雰囲気に尻込みしているようだった。服装はアインクラッドでよく見かける群青色の木綿の上着に皮の胸当て、下衣は薄い水色の膝下丈パンツという割と野暮ったいものだったが、目を伏せて優雅に歩く姿には気品があり、まるでどこかの令嬢のように見える。いや、見えるというか実際にそうなのだが……あいつの家金持ちだし、確か父親は県議会議員とかやっていたはずだ。

 

 そんなことを考えている間に、その人物は俺のすぐ前まで来ていた。しかしそこに立つ俺には気付かない様子で、後ろの建物へと入って行こうとする。周りのプレイヤーの注目が集まる中そいつに自分から声をかけるのは少し勇気が必要だったが、俺は腹を括って声を発した。

 

「おい、ゆきのし……ユキノ」

 

 つい雪ノ下と呼びかけそうになった俺は、ややあってそう言い直した。その声に反応し、雪ノ下が顔をこちらに向ける。そして俺の顔を認めると一瞬驚いた表情を見せ、次いで心底嫌そうな顔をしてこちらまで歩いて来た。

 

「……あなたにその名前で呼ばれると怖気が走るわね」

 

「お前が本名でネーム登録してんのが悪いんだろうが……」

 

 まるで挨拶代りとでも言うように悪態をつく雪ノ下に、俺もそうやって苦言を返す。俺のプレイヤーネームも下の名前から取ったものだが、とりあえずそれは棚上げしておいた。雪ノ下も特にそれに突っ込むつもりはなさそうで、1つため息をついてから改めて口を開く。

 

「それであなた、こんな所で何をしているの?」

 

「……お前を待ってたんだよ。ここで待ってりゃ会えると思ってな」

 

 そう言いながら、俺は先ほどまで背にしていた白煉瓦の建物――ALFのギルドホームを見上げた。

 俺と雪ノ下はフレンド登録をしていなかったのでメッセージなどのやり取りは出来ないのだ。故に事前にアポを取ることも出来なかったが、雪ノ下に用があった俺は直接ここへと出向くことにしたのだった。今日は第1層の何処かで風林火山と一緒に仕事の打ち合わせをしていることだけは分かっていたので、それが終わる時間帯に合わせてここで待っていたという訳だ。

 ALFのギルドホームから視線を戻して俺が再び雪ノ下に目をやると、そいつは冷ややかな表情で腕組みをしていた。

 

「……もしかしてストーカー? 少しでも妙な真似をしたら私の全権限を以ってあなたを黒鉄宮送りにするわよ?」

 

「こええよ……安心しろ。俺にお前をどうこうする度胸はない」

 

 何やら物騒なことを言い放つ雪ノ下に俺は戦慄しつつ、そう言い返す。今の雪ノ下のポストなら地味に出来そうなことなのが怖い。

 さすがに黒鉄宮送りは勘弁してほしかったので、俺は慎重に言葉を選んで口を開いた。

 

「……話があるんだ。少し時間くれないか?」

 

 その言葉に雪ノ下は一瞬眉を顰め、顎に手を当てて考えるような姿勢を取ってそれきり黙り込んでしまった。俺の真意を測りかねているのだろう。

 そのまま10秒ほど経っただろうか。やがて雪ノ下はゆっくりと頷いた。

 

「……構わないわ。ギルドホームに応接室があるから、そちらで話しましょう」

 

 その返答は、意外なほどあっさりしたものだった。こちらから誘っておいて何だが、正直予想外の反応だ。一言二言罵倒が飛んでくるだろうことは覚悟していたのだが……もしかしたら雪ノ下にも何か思うところがあったのかもしれない。

 何となく肩透かしを食らったような気分を味わいつつも、別に罵られて喜ぶ趣味はなかったので特に気にすることもなく俺も雪ノ下の言葉に頷いた。

 

「けどいいのか? 勝手に他のギルドのプレイヤーをホームに入れて」

 

「最近は外部の人間の出入りも増えているし、問題ないわ。トウジさんもよくこちらに顔を出しているわよ」

 

「そうか」

 

 旧ALSは他のギルドに対してはかなり排他的な対応を取っていたはずだが、キバオウがトップを退いたからか、その辺りの事情も色々と変化しているようだ。それは良い変化と言っていいだろう。

 

 そのやり取りの後、雪ノ下は俺に付いてくるように促して歩き出した。背中で揺れる長い黒髪を見つめながら、俺もゆっくりとそれに続く。

 この後のことを考えると、締め付けるように胃が痛くなった。しかしここだけは避けて通るわけにはいかない。柄にもないことは自分で分かっているが、ここではっきりさせておかなければ俺はきっと今後もまたぐだぐだと悩み、迷うことになるだろう。そしてここではそんな迷いが死を招くこともある。

 俺は雪ノ下を追いながら門の前で一度立ち止まり、大きく息をついた。そして意を決し、ALFのギルドホームへと足を踏み入れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 案内されたのは、エントランスを抜けてすぐの一室だった。さすがSAO内最大ギルドALFのホームというだけあり、その内装は白い大理石の床や細やかな彫刻の施された柱など荘厳な雰囲気で統一されている。俺の通された応接室も狭いながらに壁にはステンドグラスの採光窓がはめ込まれ、配置されているソファやテーブルにも高級感があった。

 生活感溢れるうちのギルドホームとは大違いだ。まあ、こんな所にずっと居たら疲れそうだから住みたいとは思わないが。

 

 ちなみにこの部屋に来るまでに何人かALFのプレイヤーとすれ違ったのだが、凄く妙なものを見るような顔を向けられた。多分雪ノ下が他の人間を……しかも俺のような男を連れて歩いているのが珍しいのだろう。こいつがALFの中でどんな扱いをされているのかは知らないが、他のプレイヤーと慣れ合ってはいないだろうことは容易に想像がつく。まあ現実世界で由比ヶ浜や雪ノ下と外を出歩くと「なんでこんな男と?」みたいな顔を向けられるのが常であったので、俺も今さら気にするようなことはしなかった。

 

 部屋に入ると、俺は促されるままテーブルの向こうのソファへと腰かけた。雪ノ下はすぐには席に着かず、俺に少し待っているように伝えて部屋の奥の棚に置かれたティーセットに手を伸ばす。そして黄色いクリスタルのはめ込まれたケトル――現実世界で言う電気ケトルのようなもの――にお湯が入っているのを確認しながら口を開いた。

 

「ここではあなたも一応客人ということになるから……本当に遺憾だけれど、それなりのもてなしはさせてもらうわ。紅茶でいいかしら?」

 

「いや、その前置きのせいで全然もてなされてる気がしないんだが……まあ、とりあえず貰っとく」

 

 俺がそう答えると、雪ノ下は黙々と準備を始めた。まずはポットとカップに湯を注ぎ、それをボウルに捨てる。茶葉を入れる前に容器を暖めておくためだ。俺は紅茶の味などよくわからないが、それをやるだけで味が大分変るらしい。SAOの世界でその行為にどれほどの意味があるのかはわからないが、おそらく雪ノ下にはそこに何か譲れないものがあるのだろう。いつか奉仕部の部室で紅茶を淹れていた時のように、1つ1つの所作を丁寧に行っていた。

 2つのカップに紅茶を注いでその1つを俺の前に、もう1つを俺の対面に置くと、雪ノ下はそのままその席に腰を下ろす。俺は小さく礼を言ってそれに口を付け、大きく息をついた。正直プレッシャーのせいで紅茶の味は全然分からない。

 

 さて、そろそろ話を切り出すべきだろう。くつろぐためにここへ来たのではない。

 しかし俺よりも先に、対面の席に座る雪ノ下の方から口を開いた。

 

「そう言えばあなた、また攻略組で色々としでかしたらしいわね」

 

「え、あ、まあ……ちょっとな」

 

 突然の口撃に俺はたじろぎながらそう答えた。

 雪ノ下はヒースクリフとの決闘の一件について言っているのだろう。しかしこいつがどこまで事情を知っているのかはわからなかったので、下手に口を滑らせて藪蛇にならないように俺は言葉を濁した。

 しかしそんな俺の思惑などお見通しだとばかりに雪ノ下は言葉を続ける。

 

「言っておくけど、トウジさんから話は全部聞いているわよ」

 

「全部っつーと……」

 

「あなたとアスナさんと血盟騎士団のことと、それに決闘のことについてよ」

 

 本当に全部じゃねえか……トウジの奴、余計なことを……。

 俺がそうやって心の中でトウジに悪態をついていると、雪ノ下が呆れたようにため息をついた。

 

「あなた、まだそんなやり方をしているのね……」

 

「……別に誰も損してないんだからいいだろ」

 

「あなたの認識の中では、そうなんでしょうね」

 

 雪ノ下はそうやって意味深に呟いた。その声音には、どこか諦めのような感情が滲んでいる。俺は何となくその言葉に苛立ちを覚え、食って掛かるように言葉を返した。

 

「言っとくけどな、今回のことは徹頭徹尾、俺が自分のためにやったことだ。ゲームをクリアして、現実世界に帰るために」

 

 思わず、語気が強くなった。そんな俺に雪ノ下は眉を顰めて視線を向ける。そのまま、部屋には居心地の悪い沈黙が満ちていった。部屋の壁に立てかけられた時計の針の音だけが、嫌に大きく聞こえる。

 おもむろに、俺は大きく息をついた。そうして心を落ち着けて、ようやく本題に入る決心をする。

 

「……俺は、奉仕部が……あの場所が嫌いじゃなかった」

 

 沈黙を破ったのは、俺のそんな呟きだった。唐突に話が変わったからか、それともその内容が意外だったからか、雪ノ下は戸惑った顔で俺を見る。しかしすぐに目を逸らすと、いつも通りの抑揚のない声でそれに答えた。

 

「そう……。でも、もう全て終わってしまったわ」

 

 雪ノ下のその突き放すような物言いに胸を衝かれつつも、俺は努めて冷静に首を横に振った。

 

「いや、俺たちは終われてさえいねぇよ。色んなもんから目逸らして、未練がましく同じところで立ち止まってる……まあ、SAOのせいで色々と曖昧になっちまったけどな」

 

 何度も間違い、すれ違いを繰り返した俺たちの関係は、いつしか決定的に歪んでしまっていた。それをどうにかしようと奔走したこともあったが、結局は俺の独りよがりに終わってしまった。

 故に生徒会選挙以来の俺たちは、互いに踏み込むことも離れることも出来ず、歪な関係にただ必死にしがみついていた。由比ヶ浜が繋ぎとめ、俺が綻びを繕い、虚偽を何よりも嫌う雪ノ下でさえもそれを許容した。SAOの事件がそれを有耶無耶にしたとしても、そんな俺たちの関係が無くなった訳ではない。

 

「この先俺たちの関係を終わらせるにしても……もう一度始めるにしても……多分、3人じゃないと前に進めない」

 

 途切れ途切れにゆっくりと絞り出したその俺の言葉を、雪ノ下はただ黙って聞いていた。伏せたその瞳からは、どんな感情を抱いているのか伺い知ることは出来ない。

 もしかしたらこいつは、もう俺たちの関係を諦めているのかもしれない。決して俺と目を合わせようとしない雪ノ下を見て、俺はそう思った。しかし、俺は既に1つ決心している。雪ノ下の気持ちがどうであれ、それを変えるつもりはない。だからなるべく力強く、俺はさらに言葉を紡いだ。

 

「これから俺は本気でゲームクリアを目指す。明日のボス攻略も、その後も、ずっと全力で。それで絶対に、ここから生きて帰る」

 

 それは普段であれば決して口にしない言葉だ。しかし事ここに至って、今さらニヒルを気取るつもりはなかった。手放しなくないのなら、みっともなくともただ愚直に足掻くべきなのだ。いつか、俺の領域に踏み込んで来たキリトのように。

 

「だから、いつか現実世界に帰れたら……その時、もしお前や由比ヶ浜の中に少しでも俺と同じ気持ちがあったら……もう一度、3人で始められないか?」

 

 今まで決して踏み出すことのなかった一歩。予防線を張って、自ら立ち入ることのなかったその領域に、俺はようやく足を踏み入れた。

 きっと今俺の顔はみっともなく歪んでいるだろう。こんな顔を晒して女子に懇願するなど、間違いなく黒歴史だ。

 しかし雪ノ下はそんな俺を嗤うことなく、ただ戸惑ったような表情をするだけだった。

 

「あなた、やっぱり変わったわね……でも、私にはわからないわ……」

 

 しばらくの沈黙の後、雪ノ下は力なくそう呟いた。俺は昂ぶっていた気持ちを静めながら、ゆっくりとそれに頷く。

 

「今はそれでもいい……。でも、きっと由比ヶ浜はお前が帰ってくるのを待ってる」

 

 そこまで言って、その場には再び沈黙が満ちて行った。心なしか、互いの息遣いが大きく感じる。

 ややあって、俺は気持ちを落ち着けようと、テーブルに置いてあったカップに手を伸ばした。それは既に冷めてしまっていたが、口にした紅茶は先ほどより美味く感じた。

 

「……ま、話はそんだけだ。変なこと言って悪かったな」

 

 冷めた紅茶を一気に飲み干した俺は、カップを受け皿に戻すと立ち上がった。思ったよりも長居してしまったし、早く退散したほうがいいだろう。ステンドグラスから差し込む日の光もいつの間にかかなり伸びていた。

 対面に座っている雪ノ下は顔を伏せ、微動だにしていない。俺の言葉にも特に反応を示さなかったので、俺は1つため息をついてからここを退出しようと歩き出した。

 

「……待って」

 

 しかし、俺がドアノブに手を掛けたところで声が掛かった。か細く、弱々しい声。振り返ると、雪ノ下はまだ同じ態勢で俯いていた。ただ、その両手だけが膝の上で痛々しいほどに握りしめられている。こんな雪ノ下を見るのは初めてだった。

 しばらく、雪ノ下は言葉を探すように黙り込んでいた。そしてゆっくりと目を瞑ると、ようやく口を開く。

 

「……死なないでね」

 

 それは、まるで子供の懇願のようだった。いつもの凛々しい雪ノ下の面影はどこにもない。そんな姿を見せられてしまえば、俺の返すべき言葉など考えるまでもないだろう。

 

「ああ。絶対に生きて帰る」

 

 新たな決意と共に、俺は強く頷いたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第10話 第25層攻略 part6

 翌日早朝、第25層の迷宮区手前の街に集合した俺たち攻略組は、4つのグループに分かれて街を出立した。迷宮区の狭い通路などでは48人ものプレイヤーたちが一緒に行動すると返って危険なため、2パーティずつ少し間隔を空けて移動するのがボス攻略前の基本となっている。

 ボス部屋までの道のりは途中セーフティゾーンで休憩も挟みながら行けば2時間弱といったところか。ルートの安全性もしっかりと考えられているので、危険はないだろう。

 

 俺とキリトは今、第2グループでフィールドを歩いていた。リンドは居なかったが、周りはほとんどDKBのプレイヤーだ。当然その中で俺たちは少し浮いた存在なので、適度に他のプレイヤーとは距離を取りながら歩く。

 道中のモブは第1グループが狩り尽くしているため戦闘になることはほとんどなく、俺とキリトはのんびりと談笑しながら歩を進めていた。始めの頃はボス部屋までの道のりもガチガチに緊張して歩いたものだったが、その経験も5回を超えた頃からそれほど気負わなくなってきた。今回のボス戦は今までのものより不安要素が多いが、俺は意識してそれを考えないようにしている。思い詰めたところで動きが鈍くなるだけだ。

 キリトも俺と同じように考えているのか、その足取りは軽い。迷宮区までの道のりはごつごつとした岩肌を晒した火山フィールドだったが、足場の悪い山道を軽快に上っていた。

 たわいないやり取りをしながら迷宮区を目指して順調に歩を進める俺たちだったが、その途中、俺の前を歩くキリトが何か思い出したようにこちらを振り返った。

 

「そう言えばハチ、昨日の昼どこ行ってたんだ? 珍しく出かけてたよな?」

 

「あー……あれはちょっと野暮用というか……」

 

 キリトの問いに、俺は目を逸らしながら言葉を濁す。

 昨日の昼と言えば、雪ノ下に会いに行っていた時のことだろう。別にキリトに対して後ろめたいことは何もないのだが、わざわざ自分の黒歴史を語りたくはなかった。色々と吹っ切れたのは事実だが、正直昨日の一件は思い返すと転げまわりたくなる。

 しかしキリトは煮え切らない俺の態度を深読みしたようで、胡乱げな眼差しをこちらに向けて来た。

 

「……何だよ。また何か企んでるのか?」

 

「いや、今回はマジでそんなんじゃない。俺の個人的な用事だ」

 

 これ以上勘ぐられることのないように、俺ははっきりとそう告げる。しかしキリトは俺に向ける胡乱げな眼差しをやめようとはせず、ため息交じりに言葉を返した。

 

「ハチは前科もあるし、イマイチ信用出来ないんだよなぁ……」

 

 先日の一件から、どうやらキリトの中における俺の信用度はガタ落ちしているようだった。血盟騎士団について黙っていたことについてはその後、キリトに加えてクラインとトウジにもネチネチといびられて頭を下げたのだが、未だに根に持っているらしい。

 まあ俺としてはあの時キリトとトウジくらいには話しても良かったのだが、人を選んで線引きすると後々トラブルになりそうだったので結局誰にも話さないことを選んだのだ。ちなみにクラインに話すという選択肢はなかった。悪い奴ではないが、秘密の保持とかそう言う点では正直全く信用していない。 

 

「この前の件についてはちゃんと謝っただろ。まだ根に持ってんのかよ……。小さいこと気にしてると碌な大人にならないぞ?」

 

「その台詞、ハチに言われるのだけは何か納得いかないんだけど……」

 

 俺が諌めるように言うと、キリトは渋々ながらもそれ以上の言及はやめたようだった。

 それに一息ついて顔を上げると、いつの間にか他の第2グループのメンバーと大分距離が開いてしまっていた。少し話に集中し過ぎたようだ。

 俺はキリトを促して少し歩を速め、先行するプレイヤーたちの後を追った。

 

 

 途中で数分セーフティゾーンで休憩を挟み、1時間ほど歩き続けた俺たちはようやく迷宮区の入り口に到達した。

 第25層はその北3分の1ほどを火山フィールドが占めるのだが、その巨大な火山の真ん中を貫くように迷宮は存在している。外観は綺麗な円柱になっているが、その内部は入り組んだ洞窟のようになっており、時折壁から突き出した燭台に松明がかけられているのみで薄暗く、視界は良くない。俺たちは警戒心を強めつつ、さらに歩を進めて行った。

 迷宮区の内部へと足を踏み入れても、相変わらずモブとはあまりエンカウントしなかった。ここでは巨大なトカゲや羽虫のようなモブが結構な数沸くのだが、おそらく第1グループが徹底的に狩り尽くしているのだろう。

 とはいえここはフィールドよりも見通しが悪く、警戒は怠るべきではない。物陰にモブが潜んでいる可能性もあった。ボス部屋も刻々と近づいていたので、若干緊張感を増しながら俺たちは慎重に迷宮の奥へと進んで行く。

 迷宮内は複雑な構造になっているが、正しいルートさえ分かっていればボス部屋まではそう時間はかからない。ここから順調に行って2、30分というところか。

 その頃になるとさすがに周りのプレイヤーたちの口数も少なくなり、俺とキリトも黙々と歩いていた。しかし、ボス部屋まであと少しというところで、キリトがおもむろに口を開く。

 

「……なあ、ハチ。本当にアレ使うつもりなのか?」

 

 そう言って俺に目を向けるキリトの顔には、懸念の色が滲み出ていた。曖昧な問いかけだったが、その表情から俺はすぐにキリトの意図を察した。

 俺はこの第25層のボス戦に向けて、1つ奥の手を用意していた。キリトが言っているのはそれのことだ。まあ用意していたと言うよりもたまたま発見したというのが正しく、正直どれだけ効果を発揮するかも怪しいネタのような手段なのだが。

 

「まあ最後の手段って奴だな。使わないに越したことはないが……レッドゾーンに入った時のボスの動き次第だ」

 

 今回のボス攻略で俺たち攻略組が最も危惧しているのは、ボスのHPが残り少なくなり、ゲージが赤くなった時のことだ。俺たちはそれをレッドゾーンと呼んで常に警戒していた。今までの全てのフロアボスはレッドゾーンに入ると同時にその行動アルゴリズム、または技の攻撃範囲や威力などを変化させている。今回も例外ではないだろう。

 攻略組のプレイヤーたちは、このボス戦に向けて連携を磨いてきた。慢心するわけではないが、余程のことがない限りそれが崩れる可能性は低い。だから不測の事態が起こるとすれば、おそらくはボスが新たな動きを見せるその時だ。

 

「……下手すれば、死ぬぞ?」

 

「……どっちにしろリスクは避けられねぇんだ。大丈夫だ、上手くやる」

 

 横で呟くキリトに、俺は目も合わせずそう答えた。雪ノ下との約束もあるし、当然死ぬつもりなどはなかったが、リスクを恐れていては結果は得られない。キリトもそれは理解しているので、食い下がりはしなかった。

 

「まあハチが言っても聞かないのはわかってるよ。けど、せめて1人では突っ走るなよ?」

 

「わーってるよ。そん時はお前も道連れにしてやる」

 

 重苦しい雰囲気を変えるように俺が少し茶化してそう言うと、キリトは不敵な笑みを浮かべ、迷うことなく頷いた。

 

 

 それから間もなくして、俺たちはボス部屋の直前にあるセーフティゾーンに到着した。迷宮区では必ずボス部屋付近にセーフティゾーンが用意されているので、ボス攻略の際、先行していたグループはそこで他のプレイヤーたちを待つことになる。

 俺たち第2グループがセーフティゾーンとなっているその小部屋に入ると、先に到着していた第1グループが目に入った。リンドを含めたDKBのメンバーと、ヒースクリフが率いる血盟騎士団の2つのパーティだ。ちなみにアスナは後続の第3グループに配属されている。

 そこで点呼を取った後、俺とキリトは自然と他のプレイヤーと距離を取った。おそらく全員が揃うまでは後10分ほど掛かるだろうが、その間DKBや血盟騎士団の連中と一緒に居ても気まずいだけだ。奴らも積極的にこちらに関わって来るようなことはないだろう。

 しかしそんな予想を裏切って、間もなく1人のプレイヤーが俺たちに接触してきた。

 

「やあ、ハチ君。キリト君」

 

「……ども」

 

 不審に思いつつも、俺は目の前に立つ男――ヒースクリフに挨拶を返した。キリトも横で軽く会釈をしている。

 血盟騎士団の面々は初めてのボス攻略ということもあってかDKBのメンバーなどと比べて少し緊張しているように見えたが、目の前に立つヒースクリフは随分と余裕な様子だ。ギルドマスターの貫録という奴だろうか。取り巻きさえ連れず、朗らかな笑みを浮かべてそこに立っている。

 

「それで、何か用か?」

 

 正直あまり関わりたくない相手だったので、簡潔に用向きを済ませて貰おうと俺はそう問いかけた。先日の一件もあるし、何か嫌味でも言われるのかもしれない。しかしそんな俺の予想に反し、目の前に立つ男は意外な言葉を口にする。

 

「いや、決戦の前に君に一言礼を言っておこうと思ってね」

 

「……礼?」

 

 訝しみながらそう問い返す俺に対し、ヒースクリフはゆっくりと頷いて更に言葉を続ける。

 

「今回私たち血盟騎士団が攻略組に合流することが出来たのは、君のお膳立てがあったからだ。自力でもいつか攻略組入りは果たすつもりだったが、これほど早くそれが叶うとは正直予想外だった」

 

「何だよそれ……嫌味かよ」

 

 ヒースクリフの言葉に、俺はげんなりとした気分でそう言い返した。俺がヒースクリフに決闘で負けたことで血盟騎士団の攻略組入りがスムーズにいったのは事実だったが、正直それについて礼を言われたとしても皮肉にしか感じない。

 しかし更に続くヒースクリフの言葉を聞いて、俺は息を詰まらせた。

 

「……私が何も気付いてないとでも思っているのかい?」

 

 囁くヒースクリフの顔は、不敵に笑っていた。それはまるで全てお見通しだ、とでも言いたげな表情だった。

 先日の血盟騎士団結成については裏で色々と画策していた俺だったが、ヒースクリフとは一切接触していなかったのだ。絶対に気付かれていないだろうと思っていた俺にとってその言葉は完全に不意打ちだった。

 俺のような奴が裏で手を回していたことが知れれば、計画が上手くいかないかもしれない。そう思って俺は散々とアスナには口止めしておいたし、だからあいつから漏れたということはないだろう。どこかで俺の動きを察知したのか、それとも決闘で俺が本気を出していなかったことに気付いたのか……どちらにしても、食えない奴だ。

 

「まあ、認めないのならばそれでもいい。だが、これは借りだ。近々恩は返させてもらうよ」

 

「よくわからんが……まあ、期待しないで待ってる」

 

 俺の暗躍については特に思うところもなさそうで、至極楽しそうにヒースクリフはそう言っていた。とりあえずトラブルには発展しそうになかったので、俺は安堵しつつ適当に頷いたのだった。

 

 

 そんな予想外の出来事に肝を冷やした俺だったが、ボス攻略の時は刻一刻と迫っていた。その後間もなく第4グループまでが合流し、48人のフルレイドを完成させた俺たちはすぐに迷宮の最奥、ボス部屋へと向かった。

 ここからボス部屋は目と鼻の先だ。小部屋を出たところにある三叉路を左に曲がると、ややあって少し広い空間へと行き当った。リンドの号令がかかり、俺たちはそこで足を止める。

 目の前にあったのは、ボスへと通じる巨大な鉄製の扉だった。錆1つないその門は、薄暗い洞窟の中で酷く不自然に見えた。

 そんな扉を背にするように、レイドを先導していたリンドがこちらを振り返る。この場に居るプレイヤー1人1人の顔を眺めながら、そいつはゆっくりと口を開いた。

 

「……第25層に達してから、既に1ヶ月以上が経過した。こうしてボスの部屋の前に立つまでにそれだけの時間を要し……そして、多くの仲間も犠牲になった。これ以上、血は流したくない。皆、生きて勝とう」

 

 腹に響くような、低く、静かな声だった。誰も声を上げることはなかったが、その場には気が満ちていく。俺も戦う意思を固め、槍を強く握り直して隣にいるキリトやアスナと視線を交わした。

 

「行くぞ」

 

 その声と共に、リンドが扉へと手を触れる。すると扉はゆっくりと独りでに開いていき、その先には薄暗い空間が広がっていた。

 陣を組み、リンドを先頭にその中へと足を踏み入れていく俺たち。扉を潜って辺りを見渡すと、そこは自然の岩壁に囲まれた半球状の巨大なドームになっていることがわかった。障害物などは何もない。

 俺たちは1つに固まったまま、頭上へと注意を向けつつ更にゆっくりと歩を進めた。中央まで至ったところで無数にあった壁の松明に唐突に火が灯ってドーム内を明るく照らし出すと、それと同時にその場に咆哮が響き渡った。ややあって、ドームの天井付近に開いていた横穴から、そいつが姿を現す。

 

「で、でけぇ……」

 

 その姿を認め、隣のプレイヤーが惚けたようにそう呟いた。俺も同じように、呆然とそいつを仰ぎ見る。

 

 青く、爬虫類のような光沢を放つ肌。ギラギラと紅い光を放つ瞳。鋭利な棘が生えた尻尾。躍動する大きな翼。

 上空に現れたのは、全長20メートルはあろうかという巨大な竜だった。

 

《ヴォルヴァライノ》

 

 視界にはそんな名前が映っていた。おそらく固有名詞を持つユニークボスだろう。

 手足は短く華奢に見えたが、広げた翼はその体長よりも大きく、そんな巨大な翼を力強く羽ばたかせていている。その圧倒的な光景は、俺たちの思考を停止させるのに十分なものだった。一瞬、頭が真っ白になる。

 

「――退避!!」

 

 ボスの雰囲気に呑まれかけていた俺を、リンドの声が現実に引き戻す。先ほどまでドーム内を旋回していたそいつは、いつの間にか俺たちの居るドームの中央へと向かって滑空してきていた。それを認めて一瞬パニックになりかけたが、何度も反復して行った訓練のお蔭か、何とか退避行動を取ることが出来た。

 咄嗟にプレイヤーたちは真ん中から二手に分かれ、次の瞬間、その空いた空間にボスが突っ込んでくる。地面が抉られ、飛んできた石つぶてによって軽微なダメージを受けたが、突進の直撃を受けたプレイヤーはいなかった。

 

「皆、訓練を思い出せ! 決して勝てない相手ではない!」

 

 いち早く体勢を立て直したリンドが、プレイヤーたちに向けて檄を飛ばした。そしてヒースクリフ、エギル、アスナが崩れかけていた部隊をすぐにまとめ上げ、一丸となったプレイヤーたちが喚声を上げて一斉に敵へと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「B隊、下がれ! C隊も共に徐々に後退! D、E隊は2隊の回復まで持ちこたえろ!」

 

 ボスからは少し離れた位置で、リンドが大声で指示を飛ばす。それを受けたプレイヤーたちはさながら本物の軍隊のように機敏に立ち回っていた。前衛のタンク部隊が巧みに攻撃を受け流し、その隙にアタッカーが着実に攻撃を加える。そして前線のプレイヤーのHPバーが黄色になる前に、無理なくPOTローテーション――SAOの回復アイテムは1分間かけて体力を回復させるようなものが大半なため、HPの減ったプレイヤーは安全な後衛で回復させる。その為のローテーション――を回していた。

 

 開戦直後は少し狼狽えたものの、その後は皆順調に戦えていた。決して余裕がある訳ではないが未だプレイヤーたちが危機に陥ることもなく、徐々にだが確実にボスのHPを削っている。

 危惧されていた飛翔による攻撃にも上手く対応出来ている。大きく分けて滑空による突撃と上空からの火炎ブレス攻撃があったが、どちらも予備動作が大きく、素早くそれを察知することで何とか凌いでいた。

 

「順調……だな」

 

「……ああ」

 

 現在、俺とキリトは後衛にてHPを回復していた。キリトの言葉に頷きながら、俺は遠目にボスモンスターのHPを確認する。最初4段あったHPバーは、もう少しで残り1本というところまで来ていた。

 ここまでの所要時間は30分強。そのペースから考えても、恐ろしいほどに順調だった。それだけに、俺はレッドゾーン入った時の不安が拭えない。おそらくそれはこの場の全員が感じているだろう。これだけ善戦している状況で、誰一人楽観的な表情を見せる人間は居なかった。

 俺がそう思案しながら渋い顔で戦況を眺めていると、隣のキリトがこちらに視線を向ける。

 

「ハチ、考えても仕方ない。今は目の前の戦いに集中しよう」

 

「……だな」

 

 不安を振り切るように、俺は大きく頷いた。そこで視界の左に表示されている自分のHPゲージに目をやり、そろそろ満タンになることを確認した俺は前衛とのスイッチに備えて槍を構え直す。しかし、それよりも先に前線のプレイヤーたちの声がドーム内に響いた。

 

「飛ぶぞ!!」

 

 その声に、俺は一気に気を引き締める。視線の先では、ボスモンスターがその背にある一対の翼を窄めるように高く構えていた。飛翔前の予備動作だ。

 突っ立っていると羽ばたきによる衝撃波でノックバックを食らうので、プレイヤーたちはみんな膝をついてそれに備える。ややあって激しく翼を振り下ろしたボスモンスターが、一気に数十メートル上空へと飛翔した。そして巻き起こった衝撃波に次いで、翼を横に大きく広げたボスモンスターがこちらに向かって滑空してくる。

 それを認め、後衛にいたタンクの一部隊が俺とキリトを含めた数人のアタッカーの前に出た。そして俺たちを庇うようにしながら、横にスライドしていく。

 いかに強靭なタンクと言えども、あれほど巨大なボスモンスターの突撃を正面から止められるわけではない。だから彼らの役目はアタッカーと共に回避行動を取りつつ、翼や尻尾による追加攻撃をいなすことだ。

 その狙い通り俺たちは何とか直撃を避け、ボスモンスターの着地とほぼ同時に前衛のタンク部隊が尻尾による薙ぎ払いを盾で受け止めた。鉄を削るような鈍い音を間近で聞きながら、俺とキリトはいち早く反撃の体勢に移る。

 滑空攻撃は、上手く凌ぐことさえできればその後は大きく隙が出来るのだ。そこを突かない手はない。タンク部隊を追い越した俺とキリトは、大きく跳躍してボスモンスターに襲い掛かった。

 俺の目の前でキリトがソードスキルを放ち、緑の光を宿した剣でボスモンスターの首筋を斬りつける。やや遅れて、俺も技を放った。二段の刺突から、槍を縦回転させて上方からの叩き付け。その攻撃がボスモンスターの額を捉え、そいつは苦し気な咆哮を上げた。

 その攻撃の後、すぐさま俺とキリトは敵の反撃に備えて一旦距離を取ろうとバックステップを踏んだ。しかしその瞬間、ボスモンスターの頭上にあるものを見つけ、俺たちは足を止める。

 モンスターオブジェクトを示す、赤いカーソル。それを取り囲むように、2つの黄色い星がぐるぐると回転していた。

 

 ――ピヨった!?

 

 予想外のその光景に、俺は驚愕する。

 あれはスタン状態を示すエフェクトだ。頭部を強打することによって引き起こる状態異常であり、それに陥ったユニットは数秒間行動不能になる。

 

「好機だ! 畳み掛けろ!!」

 

 ボスモンスターがスタン状態に陥ることは非常に珍しく、その事実に俺は一瞬呆気にとられていた。しかしリンドのその叫ぶような呼びかけで、すぐに我に返る。そして無我夢中で、俺は再びボスモンスターへと突っ込んで行った。少し遅れて、その場にいた全プレイヤーがボスモンスターの巨体を取り囲む。

 俺は2度、ソードスキルを放った。上、中、下段の3連突きに、石突きのかち上げからの叩き付け。他のプレイヤーたちも、各々渾身のソードスキルを放っていた。

 

「総員、下がれ!」

 

 ボスモンスターがスタンから立ち直る瞬間を見計らい、リンドから指示が飛ぶ。俺は他のプレイヤーと共に、弾けるようにバックステップを踏んだ。反撃を警戒しつつ、そのまま大きく後方へと下がる。

 そしてある程度距離を取ったところで、俺はその異変に気付いた。

 ボスモンスターの頭上に浮かぶ、残りHPを現すバー。もはや残り少なくなったそれの色が、いつの間にか鮮明な赤へと変わっていた。

 その場で、俺は息をのんだ。周りのプレイヤーたちからも緊張が伝わってくる。

 既にスタンからは立ち直っているはずだが、ボスモンスターは攻撃行動に移ることなく静かに佇んでいた。隊列を組み直しながら、俺たちはそれを遠巻きに伺う。不用意に手を出すのは危険だ。俺たちにそう思わせるだけの不気味な雰囲気を、そいつは漂わせていた。

 異常な緊張感の中、そうしてその場に静寂が訪れる。自分の息遣いだけが、やけに大きく感じた。

 数秒後、敵にようやく動きがあった。

 上方に翼を窄め、飛翔する構えを見せるボスモンスター。それを認めた俺たちは、誰に指示を受けるわけでもなく、咄嗟に衝撃に備えて身を屈める。そして襲ってくる衝撃波に耐え、上空へと跳躍したボスモンスターを仰ぎ見た。そいつは空中で羽ばたきながら、息を大きく吸うように体をのけぞらせている。

 

「ブ、ブレスが来るぞ!」

 

 後方のプレイヤーから、そんな声が上がった。ブレスはボスモンスターの位置から扇状に広がる広範囲攻撃だ。火の属性を伴ったそれはほとんど防御が不可能なため、俺たちには回避するしか手段がない。

 ボスモンスターの前方に居た俺とキリトは、すぐに斜め前方に向かって駆け出した。そしてボスモンスターの後方まで至ったところで、轟音と共に背中に異常な熱風が襲いかかった。

 振り返って見ると、一面火の海だった。幸いブレスに呑まれたプレイヤーは居ないようだ。しかしそれを確認しながら、同時に俺は額に冷や汗を流した。明らかに以前よりも威力と範囲が増している。

 そして、異変はそれだけでは終わらなかった。

 これまでボスモンスターはブレス攻撃の後、ゆっくりと垂直に着地するだけですぐには攻撃行動に移らなかったのだ。しかし、今回はブレスの熱気も冷めやらぬうちに上空で首を巡らせ、プレイヤーの一団目がけて滑空してきた。

 その予想外の動きに、何名かのプレイヤーはすぐに回避行動を取ることが出来ない。間もなく、1人のプレイヤーがボスモンスターの巨体に弾き飛ばされた。

 

「うわぁあぁああぁぁっ!!」

 

 銀色の鎧を纏ったそのプレイヤーが、まるで重量のない人形のように宙を舞う。

 そしてそのまま、空中でガラス片となって砕け散った。

 

 1人、死んだ。

 その事実にプレイヤーたちに動揺が走ったが、敵は俺たちに狼狽える暇さえ与えてくれなかった。

 地面すれすれを滑空していたボスモンスターが、地に足を付けることなく再び上空へと舞い上がる。そしてドーム内を旋回しながら品定めをするように俺たちを見下ろし、再びプレイヤーの一団に突っ込んでいく。その先には、レイドの総指揮であるリンドの姿があった。

 反応の遅れたリンドを含む数名が、大きく上方へ跳ね飛ばされる。そいつらは断末魔を上げることすらなく、空中でガラス片となって霧散した。もはや何人が死んだのかもわからない。

 

 それからは、一方的な展開になった。ボスモンスターはもはや地に立つことはなく、飛び回ってプレイヤーたちに対し体当たりを繰り返した。リンドと言うリーダーを失った多くのプレイヤー、特にDKBのメンバーたちはもはや統率を失ってただ逃げ惑っている。

 俺やキリト、アスナ、ヒースクリフなどの一部のプレイヤーは飛来するボスモンスターに対しすれ違いざまに攻撃を加えていたが、あまりダメージを与えることは出来ていない。

 その間にもプレイヤーたちは1人、また1人と脱落していった。このままでは、まずい。比較的冷静に対応していたプレイヤーたちの間にも、焦りが出始めていた。

 その時、そんな俺たちに追い打ちを掛けるようにボスモンスターが一際高く舞い上がり、上空でブレス攻撃の態勢を取った。俺やキリト、そしてアスナ、ヒースクリフを含む血盟騎士団の一団は既にボスモンスターの後方に位置していたが、逃げ惑う大勢のプレイヤーたちはすっぽりとその攻撃範囲に収まっている。冷静さを失った彼らに、おそらくその攻撃は避けられない。

 それを見て取った時、俺は腹をくくった。もはや出し惜しみ出来る段階ではない。

 

「キリト、アスナ、あと頼む」

 

 近くに居た2人にそう声をかけ俺は一歩前へ踏み出した。

 

「ハチ君……? まさか、あれ使うつもり……?」

 

「……今やらなきゃ全員死ぬ」

 

 右手で槍を逆手に構えながら、俺は不安げなアスナにそう答える。キリトは何も答えず、ただやれやれと言った表情で俺の前に立った。その背中が大きく見える。カッコイイなこいつ……。

 

「ハチ、絶対に生きて帰るぞ」

 

「……ああ」

 

 キリトの力強い言葉に頷いて、俺は槍を持つ右手を大きく振りかぶった。目線で、上空のボスモンスターへと標準を合わせる。そして緑の光が槍に宿るのを感じ取り――俺はそれを、思い切りぶん投げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すみません、手伝って頂いて」

 

 書類を手で纏めながら、ユキノがそう口を開く。彼女の対面には、テーブルを挟んでクラインとトウジが座っていた。

 ALFのギルドホームの一室だ。そこはユキノに与えらえた執務室であり、木製の長テーブルといくらかのアイテムが収納できる棚が置いてあるだけの簡素な部屋だった。

 

「いやいや、ユキノさんみたいな美人さんの手伝いだったらいつでも大歓迎だぜ!」

 

 満面の笑顔で、クラインがそう答える。ユキノは反応に困ったような顔をしたが、トウジがその横からすかさずフォローを入れた。

 

「ALFさんのお蔭でこちらも大分楽になりましたから、気にしないで大丈夫ですよ。あ、でもこの人が邪魔だと思ったらいつでも言ってください。すぐに帰らせますから」

 

「おいっ!?」

 

 そんな漫才のようなやり取りをしつつ、彼らも与えられた書類に目を通していく。

 ユキノが誰かの手を借りるなど珍しいことだったが、現在風林火山とALFは共同で行う活動が多く、彼女の独断では進められない案件も多かった。故にその確認として今日2人にALFのギルドホームへと足を運んで貰ったのだが、その流れで何故か細かい仕事まで手伝って貰うことになったのだった。

 嫌な顔1つぜずに作業をこなすクラインとトウジだったが、しかしユキノは未だ気にした様子で口を開く。

 

「でも今日は……ボス攻略の日でしょう。御二方とも、落ち着かないのではないですか?」

 

 その言葉に、2人は手を止めて顔を上げた。そして苦笑を作って頭を掻きながら、クラインがその質問に答える。

 

「ま、確かに正直落ち着かないけどな……。けど何かしてないと悪い想像ばっかしちまって、余計に落ち着かなくなるし」

 

「僕も、同じです。僕らはハチさんとキリトさんのために何も出来ませんから……」

 

 クラインの横で、トウジがそう言って頷く。それを見ていたユキノの顔にも、心なしか影が差した。

 

「ユキノさんはどうなんだ? ハチとは知り合いだったんだよな?」

 

「私は……よく、わかりません」

 

 いつの間にか、ユキノも作業の手を止めていた。クラインの質問に曖昧に答え、目を伏せてしまう。それを見たクラインが、ややあって躊躇いがちに再び口を開いた。

 

「あー……その、余計なお世話だって思われるかもしれねぇんだけどさ、一個だけ言っときたいことがあるんだ」

 

 そう前置きをしたクラインが、目を伏せて一旦言葉を止める。対するユキノは少し眉を顰め、続く言葉を待っていた。しばしの沈黙の後、意を決したクラインがユキノに真面目な表情を向ける。

 

「ユキノさんとハチの間に何があったのか、俺は知らねえ。けどあいつは、たぶん……いや、間違いなく、あんたのことを大切に思ってる。まあ、だからってあいつの想いに応えてくれなんて野暮なことは言わねぇけど……」

 

 そこまで言って大きく息を継いだクラインは、苦し気な表情を作って再び目線を伏せた。

 

「……この世界じゃ、いつ死んでもおかしくねぇんだ。特にハチとかキリトは、いつも危ない橋渡ってやがる。だから、なんつーか、その……少しあいつとのこと、考えてみてくれねぇかな?」

 

 懇願するように、クラインはユキノに視線を送る。ユキノは耐えられないようにそれから目を逸らした。それでも、クラインは更に言葉を続ける。

 

「ハチのことが心底嫌いだって言うなら、それでもいい。それならきっとあいつも納得する。でも、もしも――」

 

「……すみません。今日は帰ってください」

 

 突然椅子から立ち上がったユキノが、クラインの話を遮った。テーブルに両手をついた彼女は、深く項垂れている。長い髪に隠されて、クラインとトウジの2人には彼女の表情を窺い知ることは出来なかった。

 

「お願いです。帰ってください……」

 

 戸惑う2人に対し、ユキノは続けてそう言った。ややためらいがちにではあったが、クラインはゆっくりとそれに頷く。

 

「……すまねぇ」

 

 そう告げて、クラインは席を立った。未だに戸惑っているトウジを促し、彼らはすぐに部屋を後にする。

 2人が去った静寂の中、ユキノはそのまま身じろぎさえせず項垂れていた。やがて絞り出すように、震えた声を上げる。

 

「比企谷君……私は……」

 

 零れ出た彼女の苦悩は、誰に届くこともなくその場に消えてゆくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それを発見したのは、たまたまだった。

 投擲スキルを取得し熟練度もそれなりに上がってきた頃、ソードスキルの一覧を確認すると「ジャベリンスロー」という技が追加されていたのだ。名称通り、槍を投擲するソードスキルだ。ちなみに基本的な投擲スキルは専用の鉄釘を投げるだけで、威力はお察しだ。

 ジャベリンスローは、おそらく槍スキルと投擲スキルの熟練度がある程度に達した者が得られる技だろう。キリトも投擲スキルは俺と同じ程度の熟練度に達していたが、そんな技は習得していなかった。

 このSAOの世界において、戦闘に有効な遠距離攻撃は今まで存在していなかった。投擲スキルも精々モブの注意を引くために使うくらいだ。相当なレベル差がない限りは毛ほどのダメージも与えられない。

 だから俺は突然現れたそのソードスキルに期待した。槍を投げるのだから、それなりの威力が期待出来るかもしれない。そしてその期待通りに、ジャベリンスローによる攻撃は槍のソードスキルと変わらないほどの威力を発揮したのだ。

 しかし、当然問題もあった。まず、武器を手放すことになる。装備している槍を投げるのだから当たり前だ。即座に装備を変更することが出来る「クイックチェンジ」というスキルを併用すれば多少はマシになるかもしれないが、しかしそれでは補いきれないもう1つの致命的な欠陥がこのソードスキルには存在したのだった。

 

 

 

「ハァッ!」

 

 似合わない気合いと共に、俺は右手の槍を投擲した。放たれた槍が緑の光を伴い、かなりの勢いで上空のボスモンスターへと迫る。そして無防備に晒されたボスモンスターの腹部を、槍が一気に貫いた。巨体を貫通した俺の槍は、そのままの勢いで遥か遠方へ飛んでいってしまう。

 その一撃に、ボスモンスターは空中で体勢を崩した。撃破には至らず、撃墜することも出来なかったが、ブレス攻撃をキャンセルさせることには成功したようだった。

 それに安堵しつつ、俺は焦った気持ちで数を数える。

 ――1、2、3……

 そこまで数えたところで、空中で体勢を立て直したボスモンスターが、首を巡らせてこちらを見た。ややあって、大きく翼を羽ばたかせたそいつが、俺目がけて滑空してくる。飛来するそいつと視線を交わしながら、しかし俺は微動だに出来なかった。

 ジャベリンスローの致命的な欠陥、それはスキル使用後の硬直の長さだ。13秒ほども、使用者は身動きが取れなくなる。

 ――4、5……

 気の遠くなるような時間だった。眼前に迫るボスモンスターを眺めながら、俺はただ耐えることしか出来ない。

 6秒、と数えたところで、俺の前に立っていたキリトが走り出した。俺の横に居たアスナも、それに続いて駆け出す。低く滑空していたボスモンスターの巨体に向かって、2人は同時にソードスキルを放った。それは自分の身を顧みない、ほとんど捨て身の一撃だった。

 キリトの斬撃がボスモンスターの腹を裂き、アスナの刺突が喉元を穿つ。危険な突撃が逆に功を奏したのだろうか、2人はすれ違いに尻尾の棘に少し体を引っ掛けられただけで致命傷は追わなかった。しかし、ギリギリ敵のHPを削りきることも出来ていない。

 ――7、8……駄目だ、間に合わない

 もうすぐそこまで迫ったボスモンスターを前に、俺はそう悟った。敵も虫の息だったが、既に俺の周りには追撃に移れるようなプレイヤーは居ない。

 

 絶対に生きて帰る、なんてドヤ顔で言ってしまったのに、情けない話だ。

 俺が居なくなったら、あいつは悲しんでくれるだろうか。いや、むしろ滅茶苦茶馬鹿にされる気がする。

 

 どこか遠くにキリトとアスナの叫び声を聞きながら、俺はそんなことを考えた。人間、死ぬ前に思考が早くなるというのは本当らしい。

 

「……悪いな」

 

 思わず、俺は呟いていた。それが誰に対する謝罪だったのか、自分でもわからない。

 もはや俺は全て諦め、全身の力を抜いた。

 

 しかし次の瞬間、ありえないことが起こった。

 

 全身を拘束していた圧力が、一瞬にして消え去ったのだ。俺は驚愕して、自分の体を見下ろす。

 動く。何故。まだ13秒経っていないのに。

 その瞬間に俺は目まぐるしく思考を働かせたが、すぐにそれを全て捨て去った。眼前の危機は去っていない。

 数メートル先に迫るボスモンスター。既に回避は不可能。

 それを見て取った瞬間、俺は咄嗟に徒手空拳で構えた。このまま迎え撃つしかない。

 

「――これで、貸し借りはなしだ」

 

 迫るボスモンスターの額へと拳を振りぬきながら、俺はどこからかそんな声を聞いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、ハチ!!」

 

「ハチ君、生きてる!?」

 

 呆然と仰向けに横たわっていた俺を現実に引き戻したのは、鬼気迫ったキリトとアスナの声だった。駆け寄ってくる2人を視界の端に捉えながら、俺はゆっくりと口を開く。

 

「……ああ。何とか」

 

 一応そう答えた俺だったが、立ち上がる気力は湧いて来なかったのでそのまま大の字になって寝転がりつつ、ドーム内にでかでかと表示された《congratulation》のシステムメッセージを眺めていた。ややあって俺のそばまで来たキリトとアスナが、その場にへたり込む。

 

「良かった……さっきはホントに……ハチ君、死んじゃうんじゃないかって……」

 

 泣きそうな顔で、アスナが口を開いた。俺はむず痒いような感覚を覚えながら、それに答える。

 

「いや、まあ大丈夫だったんだから、そんな顔すんなよ……」

 

「……うん」

 

 頷いたアスナは、しばらくして落ち着きを取り戻したようだった。隣に居たキリトもそこで安堵したように一息つき、次いで呆れたように声を漏らす。

 

「つーかハチ、何だよあの最後の一撃……ドラゴン相手に素手って……」

 

「武器投げちまったんだから仕方ねぇだろ……。ていうかマジで体術スキル取っといて良かったわ……」

 

 最後、俺がボスモンスターを迎え撃つのに使用したのは、《閃打》と呼ばれる体術スキルの技だ。詰まるところ単なる右ストレートなのだが、一応ソードスキルに分類されるだけあってそこそこの威力を持つ。素手でソードスキルというのも妙な話だが。

 キリトとそんな会話をしていると少し気力も回復してきたので、俺はようやく体を起こした。そして周りを見渡しながら、キリトに向かって問いかける。

 

「……何人死んだ?」

 

「……9人、死んだみたいだ。DKBのメンバーが7人。組合のメンバーが2人」

 

 目を伏せて、キリトがそう答える。勝ち戦のはずだが、無邪気に喜んでいるようなプレイヤーはどこにもいなかった。特にDKBの連中はリーダーであったリンドを失った上に、メンバーの半数弱が犠牲になったのだ。皆その場にへたり込み、呆然としていた。

 その光景を苦い気持ちで眺めていると、不意に後ろから声が掛かった。

 

「ハチ君。よくやってくれた。まさかあんな隠し玉を用意していたとはね」

 

 振り返ってみると、そこにはヒースクリフが立っていた。剣を鞘に納めながら、座っている俺に視線を送る。

 

「だが、あの技はもう使わない方がいい。今回君が死ななかったのも奇跡のようなものだ」

 

「……わかってる」

 

 ヒースクリフの忠告に、俺は素直に頷いた。今回のことはまさに奇跡だったのだ。スキル使用後の硬直が、何故か通常よりも数秒早く解除された。そのことが、辛うじて俺の命を繋いだ。

 バグなのか、それとも何らかの条件を満たしたことにより硬直時間が短縮されたのか……。ジャベリンスローについては、もう1度検証してみる必要があるかもしれない。

 

「さて、酷なようだが、いつまでもここに居る訳にはいかない。多くの仲間が犠牲になったが、ようやく我々はこの第25層を突破したのだ。その戦果に、胸を張って凱旋しよう」

 

 思案に耽っていた俺を、ヒースクリフの声が現実に引き戻す。戦死者を出さなかったからか、血盟騎士団のメンバーたちは比較的明るい表情をしていた。

 

「ここは臨時で私が指揮を務める。アスナ君、皆をまとめるのを手伝ってくれるかい?」

 

「あ、はい!」

 

 ヒースクリフの言葉に、アスナは弾かれたように立ち上がった。

 その後は血盟騎士団が中心になって、攻略組をまとめ上げていった。呆然とへたり込んでいたDKBのプレイヤーたちも少しずつ我に返り、それに従がってゆく。俺とキリトも放り投げた槍を回収した後、それに合流した。さすがに皆疲れ果てていたのでアイテム分配などの話は一旦保留にし、俺たちは解放された第26層へと向かったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、第26層の街に到達した攻略組はボス戦での分配の話もそこそこに、転移門をアクティベートしてそれぞれのホームへと帰って行った。

 以前はボス攻略後の攻略組の凱旋に街のプレイヤーたちはお祭り騒ぎになったものだが、層が上がるにつれてそれぞれ帰る場所がばらけて来たので自然とそう言ったことはなくなっていた。今では精々うちのギルドホームで風林火山の連中とサチが待っているくらいだ。

 そんな訳で俺とキリトは特に気負うことなく帰還したのだが、しかしその日は意外な人物が第1層の転移門の前で待っていた。

 

「お帰りなさい、ハチ君」

 

「……おう」

 

 腕を組み、俺の目の前に立っているのは雪ノ下だ。ALFのホームも第1層だったので最初は偶然会っただけかと思ったが、見たところ雪ノ下は俺に何か用件があるようだった。

 ちなみに、キリトは俺の後ろで気まずそうに縮こまっている。雪ノ下のことは知らないはずだし、仕方ないだろう。「あ、俺先行ってるから」と言って離脱出来ないところを見ると、まだまだぼっちとしてのスキルは俺の方が高いようだ。

 そんなどうでもいい思考に頭を働かせていると、目の前の雪ノ下が再び口を開いた。

 

「一応、無事にボス攻略を済ませたみたいね」

 

「……まあな」

 

 正直、今回の戦果は無事と言い切って良いようなものではなかったが、まあわざわざ空気を悪くするようなことを言う必要はないだろう。

 俺がそうして頷くと、次いで雪ノ下は珍しく少し躊躇うような素振りで話を切り出した。

 

「その……昨日、あなたに言われたことなのだけれど……」

 

 決して俺と目を合わせようとはせず、しかしこの上なく真摯な表情で、雪ノ下はゆっくりと言葉を紡いでいった。

 

「まだ、私には良くわからないわ……でも、今は……あなたが生きて帰ってきてくれて、良かったと……そう思っているから……」

 

 そこまで言って、雪ノ下はゆっくりと瞑目した。

 そんな彼女に、俺は返す言葉が見つけられなかった。ただ、何かが報われたような、そんな感覚に満たされて、呆然としていた。

 そしてしばらく静かに向き合っていた俺たちだったが、ややあって雪ノ下が再び口を開く。

 

「話はそれだけよ。……またね」

 

 返事も待たず、雪ノ下はそう言って踵を返した。少しずつ小さくなってゆくその背中を見送りながら、俺は大きくため息をつく。何か1つ、肩の荷が下りたような気分だった。

 しばらく物思いに耽るように呆然としていた俺だったが、ややあってようやく放置してしまっていた後ろのキリトの存在を思い出し、ゆっくりと振り返った。しかし気まずそうな顔をしているキリトの横に、先ほどまで居なかった人物を認めて俺は息を詰まらせる。

 

「ハチ君、今の女の人、誰?」

 

「おま……何でここに居るんだよ」

 

 そこに立っていたのは、何故か薄ら寒い笑みを浮かべたアスナだった。こいつとは先ほど第26層の転移門で別れたはずなのだが……。

 

「やっぱり1度、クラインさんたちのところにも顔出しておこうと思って。それで、さっきの女の人は?」

 

 やんわりと話を変えて誤魔化したつもりだったのだが、アスナは再び雪ノ下について詰問した。まあそこまで隠さなければいけないことではないので、俺は正直にその質問に答える。

 

「……リアルでの、高校の知り合いだ。同じ部活の」

 

「ふぅん。知り合いね……」

 

 何故か訝しむように呟くアスナ。その横でキリトも「ああ、あれが……」と1人納得するように呟いていた。キリトにはリアルの知り合いに会ったと話したことがあったし、それを覚えていたのだろう。

 その後何か考え込むような仕草をしていたアスナだったが、ややあって、何故か急に話題を変えた。

 

「……ハチ君。今日、24層の喫茶店でケーキが食べたいわ」

 

「え、ちょ、今日? それって俺も行くってこと?」

 

「当たり前でしょ。そう言う約束なんだから」

 

 以前の話を持ち出し、俺にそう告げるアスナ。そう言う約束をしたのは確かだが、俺的には出来れば今日は勘弁して欲しい。ていうかボス攻略終わってすぐとか、アクティブ過ぎるだろ……。

 

「いや、でも今日は疲れてるし……」

 

「疲れたから、甘いものが食べたいの! ……もしかして、約束破る気?」

 

 理由を付けて断ろうとする俺に、アスナがそう言って詰め寄ってくる。つーか、距離が近い。無防備すぎるだろこいつ……。

 もはや俺は返す言葉が見つからず、すがる思いで横に立つキリトへと目線を送った。しかしそいつは俺に助け舟を出すどころか、我関せずといった様子でシステムウインドウを弄っていた。

 薄情者め、と心の中でキリトを罵りつつ、俺はもう観念したように頷いた。

 

「……わかった。行く。行くから」

 

 

 その後俺たちは、一旦風林火山のホームに戻ってクラインたちに今回の戦果を報告した。9人の死者が出たことについては暗い顔をしていたが、すぐに皆俺たちの生還を喜んでくれた。クラインやサチは涙目になっていたほどだ。サチはともかく、良い歳した大人が泣くなよ……。

 今回のボス攻略では色々とあって疲れたので、俺はすぐにでもベッドに沈み込みたいほどだったのだが、クラインの発案でエギルやアルゴなども招いて祝勝会を開くことになった。それも割と早い時間にお開きになったので、さらにその後はアスナと一緒に喫茶店へ。なんかもう今日だけで1ヶ月分のエネルギーを使った気がする。

 今後もこんな日々が続くのだろうかという憂鬱さと、ほんの少しの期待を抱きながら、俺はようやく床に就いたのだった。

 

 こうして、長かった俺たちの第25層攻略は終わりを告げた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第11話 疑惑

 うんざりするような、人の波だった。

 転移門広場から南門を繋ぐ、街の大通りだ。道幅10メートル程の通りが、ほとんどプレイヤーで埋め尽くされている。その光景はアインクラッド中のプレイヤーたちが集結したのではないかと疑う程だった。

 第26層主街区、海辺の街《バルナ》

 海辺――そう、海なのだ。リア充の大好物、海。

 アインクラッドの各層は、基本的に何かのデザインテーマを持って構築されている。分かりやすいところで言えば、第3層の大森林、第4層の水路、第25層の火山と言ったものだ。まあ、たまにネタ切れを感じさせる微妙な層も存在するのだが、この第26層はデザインテーマがはっきりしている方だと言える。

 もう察しがついていると思うが、この第26層のデザインテーマは「海」だ。さらに言うなら、「常夏のリゾート島」と言ったところだろうか。まあアインクラッドで海と言ってもフロアの外縁部までしかないので実質塩辛い湖みたいなものなのだが、砂浜に引いては寄せる波や、沖にサンゴ礁などが見えるその様は、紛うことなき海だった。

 しかもこの層は攻略難易度も低いというおまけつきだ。或いはここは第25層という難所を越えた俺たちへのサービスステージのようなものなのかもしれない。

 街のすぐ近くの浜辺は丸ごとセーフティゾーンになっていて、そこでは擬似的な海水浴をすることもできる。娯楽に飢えた多くのプレイヤーたちがそれに食いつかないはずはなく、当然の如くこの街には連日多くのプレイヤーが押しかけることになったのだった。

 

「何だよこれ……。流石に人増え過ぎだろ……」

 

 門の手前で足を止めたキリトが、圧倒されたようにそう呟いた。無理もない。街の大通りが丸々人で埋まっているのだ。まさにすし詰めといった表現がぴったりだった。

 集まっているプレイヤーたちの恰好は様々だ。青いハイビスカスのアロハシャツ、黒いピチピチのタンクトップ、水玉模様のパレオ、際どいビキニ、派手な海パン……さすがにちょっと浮かれすぎだろ……。

 

「……で、どうする? 引き返す?」

 

 リア充の熱気にあてられて無性に引きこもりたい気持ちになってきた俺は、そう提案した。なんかもう、今すぐ前の村に戻って宿のベッドに潜り込みたい。物見遊山でここに来ているような連中は最前線のフィールドを歩き回れるほどのレベルには達していないから、転移門の置かれていない他の村までは来れないはずだ。

 

「ちょっと遠回りになるけど、東門に回ろう。海の方向じゃないから、ここまで混んでないだろ」

 

 しれっと俺の提案をシカトするキリト。なんかこいつ、最近俺への対応ドライになってない? まあ俺も本気で言ったわけじゃないから別にいいんだけどね……。

 そうしてちょっと悲しい気持ちになりつつも、俺はキリトの言葉に頷いた。目的の転移門まではこの道を真っ直ぐ行くのが1番近いのだが、あのリア充の群れに突っ込む気力はない。そうして俺たちは雑踏を避けるべく東門に向かおうと足を向けた。

 

「ハチ君、キリト君。久しぶりね」

 

 不意に、後ろから声が掛かる。振り返ると、栗色の髪を靡かせて歩くアスナの姿がそこにあった。最近ではもうお馴染みになった紅白の軽鎧姿に、薄い水色の鞘に収められた愛剣のレイピアを腰に佩いている。浮かれたリア充どもを目の当たりにした後だと、こういう恰好は少し安心するな。

 手をひらひらとさせて近づいてくるアスナに対し、俺たちも適当に挨拶を返す。そして何かを探すようにアスナの周りに目をやったキリトが、意外そうに口を開いた。

 

「珍しいな。今日は1人なのか?」

「うん。攻略もひと段落付いたから、今日は一旦戻って装備のメンテナンスでもしようかなって。2人は?」

「俺らも今からホームに戻るところなんだが……」

 

 会話に参加しつつ、俺は南門の向こう側に視線をやった。つられてアスナもそちらに目を移すとすぐに街の中の状況を把握したようで、少し苦い表情を浮かべる。

 

「あー……凄い人ね。あっちから回った方がいいんじゃない?」

「丁度そう言ってたところだよ。行こうぜ」

 

 キリトの言葉に頷いて、新たにアスナを加えた俺たちは再び街の東門へと足を向けた。安っぽい木の板で作られた街の塀に沿って、舗装されていない道を歩いてゆく。一応ここは圏外に分類されるのだが、街のすぐ近くにモブが湧くことは少なく、加えてこの辺りのフィールドは見通しがいいので特に警戒することもなく歩を進めていった。

 

「皆楽しそうね。2人はビーチに行ったりした?」

 

 歩き始めて間もなく、街の方へと目を向けながらアスナが口を開く。ここからでは街の中の様子を見ることは出来ないが、プレイヤーたちの活気は塀越しにも伝わってきていた。

 

「そんな暇ないっつーの。風林火山の仕事もあるし……まあ暇があってもあんなリア充が集まるようなとこには行かないけどな」

「そっか……まあ、ハチ君はそうよね」

「俺も大概だけど、ハチはホントに出不精だよな。休みの日とか全然部屋から出てこないし」

 

 そう言って、2人は残念なものを見るような目をこちらに向けた。アスナはともかく、その年で廃ゲーマーであるキリトにまでそんなことを言われるとは……。

 

「……そもそも休日に外に出るっていう発想が間違ってんだよ。休む日と書いて休日と読むんだからむしろ――」

「はいはい。それで、アスナはこの後サチのところに行くのか?」

 

 俺の言葉を遮って、キリトが話を振る。こいつ、マジで最近俺の扱い適当になってんな……。悲しい……。

 

「その予定だったんだけど、やっぱり今日はちょっと2人について行こうかな。トウジさんたちにもしばらく会ってないし……だめ?」

「俺たちは構わないよ。なあ、ハチ?」

「……まあ、いいんじゃないの?」

 

 2人の言葉に、俺はそう言って頷いておいた。第26層に到達してから既に4日ほどが経ち、ここでのレベリングや探索などがキリのいいところまで終わった俺たちは今から第1層のホームへと帰るところなのだが、今のところ特に何か予定が入っているというわけではない。まあ帰ったら帰ったで何かしら仕事は押し付けられるのだが……少なくとも、急を要するものではないだろう。

 それに今でこそ別行動の増えた俺たちだが、元は同じギルドのメンバーであり、アスナと風林火山の面々との繋がりは未だに強い。アスナが突然訪問したからと言って、迷惑に思う奴なんて居ないだろう。むしろクラインとかは泣いて喜ぶまである。

 

「ありがとう。それじゃあお邪魔させて貰うわね」

 

 柔らかい笑みを浮かべながら、アスナが礼を口にした。そんなやり取りを経て、俺とキリトはアスナを伴ってギルドホームへと帰還することになったのだった。

 まあアスナがうちのホームへと来るのもそこまで珍しいことではないし、特に気を張ることもないだろう。いつも通りホームに帰って、いつも通り少しのんびりして、いつも通りトウジに仕事を押し付けられるのだ。それはそれで少し憂鬱だが、これがアインクラッドで過ごしてきた俺の日常だった。アスナがそこに加わったとしても、それほど変化はないだろう。

 しかし、そんなことを漠然と考えて帰宅した先では、意外な人物が俺たちを待っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「噂には聞いていたけど、あなた本当にソロじゃなかったのね……」

 

 風林火山ギルドホーム。その1階、エントランス。

 帰って来たばかりの俺と、その傍らに立つキリトとアスナに目をやりながら、雪ノ下がそう呟いた。腕を組み、訝しむような視線をこちらに向けている。

 何でこいつがここに? という疑問が湧くが、とりあえず頭の隅に置いておいて俺も適当に言葉を返す。

 

「……いや、最前線でソロとかリスク高すぎだから。俺にそんな度胸あると思うか?」

「まあ確かに、それもあなたらしいわね」

 

 そう言って、表情を和らげる雪ノ下。……あれ? 何か思ってた反応と違うんだけど。

 普段の雪ノ下なら、もっと攻撃的な言葉が返ってくるはずだ。いや、罵倒を期待していたわけではないから別にいいんだが……。

 

「おかえりなさい。今日はアスナさんも一緒なんですね」

 

 俺の思考を遮って、雪ノ下の向こう側から声が掛かる。そちらに視線をやると、テーブルに向かって何やらデスクワークをしているトウジと目が合った。卓上には多くの書類が散らばっている。

 その光景を見ながら、俺は何となく状況を把握した。雪ノ下がうちのホームに来るなど初めてのことだが、おそらく用件はプレイヤー支援活動に関する打ち合わせだろう。

 

「あー、悪い。仕事中だったか」

「いえ、今丁度終わったところです。それに、今日はユキノさんからハチさんに用があるそうですよ」

「俺に?」

 

 訝しむように雪ノ下に視線を向けると、本人はそれを肯定するようにゆっくりと頷いた。

 

「ええ。少し話しておきたい案件があるの。でも、その前に――」

 

 言いながら、雪ノ下は俺から視線を逸らした。そして手持無沙汰そうに俺の横に立っていた2人のプレイヤーに目を向ける。

 

「そちらが攻略組のキリト君とアスナさんね。初めまして。私はユキノ。ALFに所属しているわ。そこのハチ君とは……遺憾ながら、現実世界での知り合いよ」

「いや、その遺憾の意いらないだろ……」

 

 咄嗟に突っ込みを入れる俺。しかしそれは当然の如く雪ノ下に黙殺された。いや、まあ別にいいんだけどね……。

 

「あ、ど、どーも」

「……どうも」

 

 言葉を返すキリトは、大分挙動不審に見えた。テンパったように頭を掻きながら、視線を泳がせている。まるで雪ノ下と初めて会った時の自分を見てるみたいだ。どうでもいいけど、最近キリトのぼっち指数が上昇している気がする。俺の影響だろうか。比企谷菌?

 キリトとは対照的に、アスナは憮然とした表情で会釈を返す。というか、憮然としすぎてもはや喧嘩売っているようにしか見えない。眉間に皺を寄せて、値踏みをするように雪ノ下に視線を向けている。何で急にそんな不機嫌になってんの……。

 

「そ、それで、話ってのは?」

 

 放っておけば煽り耐性0の雪ノ下が喧嘩を購入してしまうことは確実なので、俺は両者の間に入るようにしながら口を開いた。幸い雪ノ下はアスナの視線を気にした様子はなく、腕を組み直しながら俺の問いに答える。

 

「少し込み入った話になるわ。それにあまり公けにはしたくないから、出来れば場所を変えたいのだけれど……」

「つってもうちにはお前のとこみたいに応接室なんてないからな……」

 

 ギルドホーム内を見渡しながら、俺はそう口にする。個人の部屋を除けば、うちにはエントランスとダイニング、それとキッチンと浴場くらいしかないのだ。来客の対応も大体エントランスのソファで済ませてしまう。

 

「あー……とりあえず俺とアスナは席外した方がいいみたいだな」

「いえ、出来れば2人にも同席して欲しいの」

 

 俺たちに気を遣ったであろうキリトがそう提案したが、雪ノ下は答えながら首を横に振った。意外な展開にキリトとアスナは怪訝な表情で顔を見合わせるも、2人が口を開くよりも早く後ろのトウジから声が掛かる。

 

「よかったら奥のダイニングを使ってください。そこの扉から向こうは入室規制がかかってますし、ギルメンも今は皆外に出てるので誰も居ないと思います。僕もこの後、外で用事があるので」

「ありがとうございます。そういうことだから、3人とも今から少し時間を貰えるかしら?」

「ああ。構わない……よな?」

 

 そうやって俺が水を向けると、キリトとアスナも躊躇いがちに頷いた。色々と疑問は残っていたが、そうして俺たちはダイニングへと足を運んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ALFのギルドホームとは比べるべくもないが、うちのホームもそう悪いものではない。白い壁紙と床のフローリングは一般的な住宅として馴染み深く清潔感があるし、広さもそこそこある。一階にあるダイニングも30畳ほどの大きさだ。まあ置いてあるのは安っぽい木製の家具ばかりで見栄えはよろしくないのだが。

 

 ガイドブックの制作には結構な額のコルが必要になるので、風林火山にはホームの内装にまで金をかけている余裕がないのだ。特にダイニングなんかは基本的にギルドメンバーしか利用しないので、かなり粗末な仕様になっている。

 

 まあ別段ホームの格調などで見栄を張るつもりもない。俺は特に気にすることもなく雪ノ下に席を勧め、自分自身も腰を下ろした。十人掛けの長テーブルの端っこに俺、キリト、アスナと並び、向かいに雪ノ下という配置だ。バランスが悪いような気もするが、まあキリトもアスナもいきなりよく知らない奴の隣に座るのは居心地が悪いだろう。俺は俺で知らない奴以上に雪ノ下の隣に座るのは胃が痛い。

 

「それで、話ってのは?」

 

 目の前に置かれたお茶を啜りながら、俺はそう口にする。ちなみにこれは先ほどアスナが淹れてくれたものだ。一時期はアスナもここに住んでいたし、今でも良く訪れるのでその辺の勝手は全部わかっているのだろう。

 俺と同じように、静かにお茶を啜っていた雪ノ下が湯呑をゆっくりとテーブルに置く。そうして一息つくと、意を決したように口を開いた。

 

「話と言うのは第25層事件のことよ。おそらく、あの事件を故意に引き起こしたプレイヤーがいるわ」

 

 瞬間、その場に緊張が走った。驚きに目を見開くキリトとアスナの隣で、俺も飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。どうにかそれを堪えて飲み下し、努めて冷静に聞き返した。

 

「……確かなのか?」 

「決定的証拠はないわ。ただ、状況から見て可能性は非常に高いと言えるでしょうね」

 

 目を伏せて淡々と告げる雪ノ下。言い切ることはしなかったが、ほとんど確信を持っているような話し方だった。こいつにここまで言わせるということは、少なくとも与太話の類ではないのだろう。

 第25層事件――ALSが単独でボスに挑み、返り討ちにあった事件のことを、いつしかプレイヤーの間ではそう呼ぶようになっていた。今までそれは暴走したキバオウによる自爆だと考えられていたのだが、その実あれが誰かによって画策されたものであるというのなら、俺たちとしてはとても看過できる話ではない。

 

「誰が、何のために……?」

 

 動揺を必死に押し殺したような声で、キリトが呟く。横に目をやると、2人とも深刻な面持ちで雪ノ下の言葉を待っていた。

 

「『ジョー』というプレイヤーは知っているかしら?」

「……いや、知らん」

 

 俺は少し考えてから、そう答える。何となく聞いたことがあるような気もするが、顔までは全く思い出せなかった。そんな俺を横目に見ながら、アスナが呆れたように声を上げる。

 

「ハチ君ってホントに人の名前覚えないわよね……。確か、ALSの頃に居た攻略組のプレイヤーだったと思うけど」

「ああ。俺も覚えてる」

 

 頷きながら、キリトもそう答える。言われてみれば、確かにキバオウの横にそんなプレイヤー居たような、居なかったような……。だめだ、思い出せん。

 

「その認識で合っているわ。そのジョーと言うプレイヤーがキバオウを唆したのよ」

 

 眉間に皺を寄せ、雪ノ下は吐き捨てるようにそう口にした。それから、第25層事件の裏で何が起こっていたのか、順を追って説明してくれた。

 雪ノ下の話を纏めるとこうだ。

 そもそも、ALS(現ALF)単独でのボス攻略を進言したのはジョーと言うプレイヤーだったらしい。最初はキバオウも無謀だと言ってそれを一蹴していたのだが、ジョーが持ってきたある情報によってその態度を一変させたそうだ。

『自分の持つ《龍の涙》というクエストアイテムを使用すれば、ボスを弱体化させて簡単に撃破することが出来る』

 

「――けど、そんなアイテムはなかった……ってことか」

 

 話が結論に至る前に、俺はそう口を挟んだ。雪ノ下はそれに頷きながら話を続ける。

 

「ええ、その通りよ。ボス戦ではそのアイテムを使うこともなく、レイドは壊滅してしまったらしいわ。一応《龍の涙》というアイテムとそれに関するクエストについてずっと調べているけれど、それらしい情報さえ全く見つかっていないし、存在しないと考えていいでしょうね」

「つまりそのジョーって人が、嘘の情報を使ってALSをボスにけしかけたってこと?」

「ええ。私はそう考えているわ」

 

 憤りを顔に滲ませたアスナの問いに、雪ノ下が頷く。ジョーというプレイヤーが持っていた情報が単なる勘違いだったという可能性もあるが、雪ノ下が調べて似たような情報さえ見つからないのならその線も薄いだろう。故意に偽の情報を吹き込んだと考える方が自然だ。

 しかしそうなると気になるのは動機だ。私怨か、愉快犯か……。この辺は本人に聞いてみないとわからないだろう。

 

「なあ、1つ聞きたいんだけど……」

 

 俺が1人考察に耽っていると、隣のキリトが戸惑ったような声を上げた。雪ノ下に視線を送りながら、言葉を続ける。

 

「俺の記憶が確かなら……ジョーって奴も、第25層事件で死んだんじゃなかったか? シンカーさんが攻略会議で報告した死亡者の中に、確かその名前もあったと思うんだけど……」

 

 キリトのこの発言に、俺は首を傾げて雪ノ下に目をやった。それが事実なら、ジョーというプレイヤーは自分が引き起こした事件で死んだことになるのだ。さすがに間抜け過ぎる。

 しかし視線を向けられた雪ノ下は、ばつが悪そうな顔で首を横に振った。

 

「ごめんなさい、それについてはこちらの落ち度なのだけれど……それは誤った情報なの。ジョーというプレイヤーは事件の後、ギルドを脱退して行方を眩ませたのよ。ギルドメンバーリストから名前が消えていたから、早とちりした人間が死んだと勘違いしたの。後日生命の碑で確認したけれど、その男は確かに生きているわ」

 

 雪ノ下の口にした《生命の碑》と言うのは、第1層の黒鉄宮内に安置されている全プレイヤーの名前が刻まれた石碑のことだ。ゲーム内で死んだプレイヤーの名前には上から横線が刻まれるので、しばしば安否確認などにも利用される。

 

「事件直後にバックれたわけか。ますますきな臭いな」

 

 顎に手を当てながら、キリトがそう呟いた。俺もそれに頷き、再び雪ノ下に視線を向ける。

 

「それで、当然そのジョーって奴の行方は追ってるんだろ? 見つかったのか?」

 

 半ば答えは予想出来たが、俺は一応そう問いかけた。容疑者が捕まえられているなら、こいつはこんな曖昧な話し方はしないだろう。そしてその予想通り、雪ノ下は力なく首を横に振った。

 

「残念ながら、居場所も掴めていないわ。だから今日は警告の意味も込めて、あなたたちにこの話をしにきたのよ。気になる目撃証言も上がっているし」

「目撃証言?」

 

 俺が問い返すと、雪ノ下は頷いて言葉を続ける。

 

「もう1ヶ月近くも前の話なのだけれど……ALFのプレイヤーが、16層でジョーらしきプレイヤーを見かけたらしいの。顔に刺青のある、黒いポンチョを着たオレンジカーソルの男と話していたそうよ」

 

 ――顔に、刺青。

 

 それを聞いた瞬間、俺はまるで頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じた。まさか、という思いが過る。しかし同時に、やはりという思いも心の底に湧いていた。

 

「……その刺青ってのは、どんなんだ?」

「青い刀傷のような刺青が右頬にあったらしいわ」

 

 雪ノ下は右手で自分の頬をなぞりながら、俺の問いに答える。

 間違いない「あの男」だ。生きていたのだ。

 

「顔に刺青……それってもしかして、一時期噂になったレッドプレイヤーのことじゃないか?」

「そう言えばそんな噂あったわね……。2層とか3層の頃だっけ?」

 

 キリトとアスナの会話が、やけに遠くに聞こえる。気付くと、俺は無意識に両の拳を握り締めていた。その異変に気付いたのか、向かいに座る雪ノ下がおもむろに俺の顔を覗いてくる。

 

「ハチ君、あなたもしかして……刺青の男に何か心当たりがあるの?」

 

 その言葉につられて、キリトとアスナも俺に視線をよこす。俺はゆっくりと頷きながら、押し殺した声で呟いた。

 

「……あいつは、本物の異常者だ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第12話 刺青の男

 その男に出会ったのは、第2層。俺がまだオレンジプレイヤーだった頃だ。

 第1層でキバオウを攻撃してしまった俺は圏内に入ることが出来なくなってしまい、第2層に上がってからはしばらく森フィールドに潜伏していた。決して他のプレイヤーに出会わないよう、そこでは索敵スキルを常時使用して警戒していたのだが、まだスキルレベルが低かったからか森に入って2日目にそのプレイヤーと鉢合わせてしまったのだ。

 膝上まである黒のポンチョを羽織った、壮年の男。フードを目深に被っていて顔は良く見えなかったが、それでも整った顔立ちであることが伺える。そして右頬に刻まれた刀傷のような刺青が、俺に鮮烈な印象を与えた。

 

「よォ」

 

 妙な雰囲気を纏うその男に魅入ってしまっていた俺は、その声で現実に引き戻された。表情は見えないが、至極愉快そうな声色だった。

 いつもの俺ならこの時点ですぐに逃げていただろう。相手がどんな人物であれ、オレンジプレイヤーである俺が接触するのはリスクが高いのだ。しかし目の前の相手が放つ異様な空気が、俺に逃げることを許さなかった。

 相手は1人。距離は20メートルほど。この周辺の地理は熟知している。今からでも遅くない、すぐに踵を返して逃げるべきだ。頭ではそう考えても、足は動いてくれなかった。

 

「オレンジカーソルに、その槍……お前がハチって奴だな」

 

 妙なイントネーションを持った話し方だ。もしかしたら日本人ではないのかもしれない。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、男がゆっくりとこちらに近づいてきた。俺は警戒心を強め、咄嗟に背中の槍を手にして構える。これは逆に相手を刺激してしまう可能性もあったが、この時の俺にそんなことを気にする余裕はなかった。

 幸い、男は特に俺の行動を気にすることはなく、さらに足を進めながら平然と言葉を続ける。

 

「しかし聞いてた話とちょっと違うな。腐っちゃいるが、人殺しの目じゃねえ」

「人殺し……?」

 

 気になる言葉を聞き取った俺は、知らずに呟いていた。男はそこで足を止め、俺の疑問に答える。

 

「ああ。街じゃ噂になってるぜ。ボス攻略の後、お前がディアベルって奴を殺したってな」

 

 予想外過ぎるその情報に、俺は眩暈を感じるほどの衝撃を受けた。俺が、ディアベルを殺した?

 恐らく、どこかで事実が歪曲して伝わったのだ。さすがに人殺し扱いされるのは色々と都合が悪かったが、それを今ここで弁明する手段はなかった。

 

「まあ、その様子じゃあデマみてえだけどな……チッ、白けるぜ……」

 

 しかし男は俺の心の中の動揺を見抜いたのか、そう言って何故か落胆したようにため息をついていた。そうしてそっぽを向きながら、何事か考えるような素振りを見せる。数秒後、踏ん切りが付いたようにこちらに向き直った。

 

「しょうがねえ。なら予定変更して、お楽しみといくか。お前とは――殺し合った方が、面白そうだ」

 

 その時、初めてその男と目が合った。狂気を孕んだ、蒼い瞳。それを見て取った瞬間、全身の毛が逆立ったような感覚に襲われた。

 こいつは、やばい。理屈ではなく、本能でそれを感じ取った。

 

「――It's show time」

 

 間延びした声で、男が呟く。瞬間、弾けるように跳躍した。

 どんな動きをしたのか、自分でも良くわからなかった。攻撃されたことに気付いた時には、既に男と位置が入れ替わっていたのだ。どうやら自分は咄嗟に攻撃を凌いだらしい。ポンチョに隠れて武器はよく見えなかったが、恐らく短剣の類だろう。

 

「ハッ! いい反応しやがるじゃねえか! 俄然ノッて来たぜ」

 

 男が口角を釣り上げて、興奮したように声を上げた。常軌を逸したその行動を目の当たりにし、俺は逆に少し冷静になる。

 こいつは間違いなく異常者だ。俺が今まで絡まれたDQNなんて比較にならないほどに狂っている。こんな奴に付き合っていたら命がいくつあっても足りないだろう。プレイヤー同士の殺し合いなんて、死んでもごめんだ。

 そこまで考えて、俺は大きく息をついた。刺青の男は微動だにせずこちらを伺っている。

 ――逃げるしかない。

 決めたら、もう迷わなかった。次の瞬間、俺は男の位置とは逆方向に全力で駆け出す。

 余計な小細工などは必要ないはずだ。ゲームの中では基本的にステータスがものを言う。移動速度は敏捷性依存であり、攻略組である俺はその数値も現時点ではかなり高いのだ。今の俺に追いつけるプレイヤーはそうそう居ないはずだった。

 

「――連れねえじゃねえか。遊んでいけよ」

 

 しかし、脇目も振らず全速力で走る俺のすぐ後ろから、そんな声が掛かる。悪寒を感じ、俺は振り返るのと同時に脇に抱えていた槍を横薙ぎに払った。背後に居た男がバックステップでそれを避ける。そのままお互いに静止し、再び睨み合いの態勢になった。

 

「逃げ切れると思ったか? 悪いが、AGIはこっちが上みたいだぜ」

 

 愉快そうに、男がそう告げる。俺は先刻の自分の浅はかさを呪いながら、槍を握りしめた。驕っていたわけではないが、相手のレベルを計り違えたのだ。単純な逃走は不可能だと考えた方がいい。

 

「……俺は、お前とやり合うつもりはない」

「そうか。まあ、だったら無抵抗で死んでいくだけだ」

 

 逃げる手段を考えながら少しでも時間を稼ごうと俺は口を開いたが、会話にはならなかった。これが本物のサイコパスってやつか……。

 当然、何と言われようと殺し合いなんてするつもりはない。相手が攻撃を仕掛けてくる前に、俺は再び駆け出した。先ほどは森の中でも比較的歩きやすい道を選んだが、今度は木々が鬱蒼と生い茂る隘路に向かって駆ける。走りながら、俺はシステムコマンドを操作し、隠蔽スキルを発動させた。そのまま目の前の藪を突っ切り、しばらく行ったところで身を潜める。一瞬の間が空いて、俺を追って男が藪の中から現れた。

 

「チッ……隠れやがったか……」

 

 俺の数メートル先で、辺りを見回しながら男が悪態をつく。相手の索敵スキルが俺の隠蔽スキルよりも低いことに賭けての作戦だったが、どうやら上手くいったようだ。

 普通なら木の陰に俺の姿が見えるはずだが、隠蔽スキルが作用している間はかなり視認しにくくなる。注意深く探せば索敵スキルが低いプレイヤー相手でも見つかってしまう可能性は高いが、相手が他の場所を探している隙に再び移動して埋伏することを繰り返せば、そのうち撒くことが出来るはずだ。まあ、諦めて立ち去ってくれるのが一番良いのだが。

 

 そこで、俺はようやく安堵のため息をついた。力が抜けてへたり込みそうになるが、少しでも動けば隠蔽の効果が著しく低くなるため何とかそれを堪える。肩の力を抜きつつも、まだ危機は去っていないのだと自分を叱咤した。

 未だ数メートル先で佇む男に視線を向ける。そいつは俺の居所を探すでもなく、ただじっとそこに立っていた。その後姿に、今さらながらじわじわと恐怖心が湧いてくる。

 あれほどまでに明確な悪意を人に向けられたのは、生まれて初めてだ。過去のトラウマが笑い話に思えてくる。まあ中学時代の話などはよく自虐ネタに使っているのだが、実際ちょっと思い出したくない出来事ではあるのだ。しかしそれが霞むほどに、あの男は強烈だった。

 

 集団の中で少しずつかけ合わさっていったような、陰湿で無自覚な悪意ではない。まるでそれが美徳だと言わんばかりの、能動的で鮮烈な悪意だった。

 あいつと関わってはいけない。長年のぼっち生活で培われた俺の観察眼が、そう告げていた。

 

 それから、1分ほど時間が経っただろうか。相変わらず、刺青の男は何をするわけでもなく静かに佇んでいる。その光景を見ながら、俺の頭に一抹の不安が過った。

 あいつは、何を狙っている? まさか仲間を待っているのか? いや、誰かと連絡を取る素振りはなかったし、その可能性は低いはずだ。しかし、本当に俺はここに隠れているだけでいいのか?

 再び、俺の中で緊張感が高まってゆく。その時、木々の騒めきに交じって、遠くから話し声のようなものが聞こえて来た。

 

「で、でも急に2層になんて上がって大丈夫なんでしょうか……」

「大丈夫だって。この辺の敵は弱いらしいし、1層の奥に行くより安全だよ」

「そうそう。それにいざとなったら、僕が守ってあげるから!」

「お、俺も俺も!」

 

 か細い女の声に続いて、男の声が複数。

 会話の内容から、俺はそいつらが目の前の男とは無関係のプレイヤーだと悟り、安堵した。男女の比率から考えて、おそらく姫プレイでもしてるんだろう。男の媚びるような声が、だんだんこちらに近づいてくる。

 

「おい、聞こえてんだろ?」

 

 突然、刺青の男が口を開いた。低く、囁くような声。目線は近づいてくるプレイヤーたちの方に向けられていたが、その言葉は明確に俺に向けられていた。おもむろに歩き出しながら、さらに言葉を続ける。

 

「まだオレンジカーソルになるつもりはなかったんだが……1度ギア入っちまったら、誰か殺さねえと治まりがつかねえんだ」

 

 フードの端から、ちらりと男の横顔が覗く。狂気に歪んだ口元。右頬に刻まれた刺青が、生き物のように動いた気がした。

 

「――お前のせいだぜ?」

「な……!? 待っ――」

 

 言葉を発するよりも早く、男は動いていた。俺を凌駕する敏捷性を以って、弾かれたように駆けてゆく。そして男が藪の中へと突っ込んでいった次の瞬間――耳をつくような悲鳴が、森の中に響いた。

 一瞬遅れて、俺も藪の中を駆け抜ける。出たのは、少し開けた場所だった。

 力なくへたり込む小学生くらいの女子と、震えながらも剣を構える太った男が目に入る。そしてそれと対峙する、刺青の男。その背後で、2つの大きな塊がガラスのように砕けていった。青白い光を放つその残滓もやがて消えてなくなると、オレンジになった男のカーソルだけが、薄暗い森の中でいやに鮮やかに見えた。それの示す意味を悟り、俺は息を飲む。

 

「お前……!」

 

 怒りとも恐怖とも知れない感情で、俺は声を上げていた。こちらに背中を見せるように立っていたその男は、首だけ捻ってこちらに視線を向ける。その態度は、淡々としたものだった。

 

「何だ、気が変わったのか? まあ、ちょっと待ってろ。お前はこいつらの後だ」

 

 その言葉に、俺の中で何かが弾けた。

 

 咄嗟に槍を低く構え、無防備な男の背中に突きを放つ。しかし槍が届く寸前、男は体を捻りつつ俺の頭上へと跳躍した。眼前に、刃。それを見て取った瞬間、横に転げるようにして回避した。すぐに体勢を立て直し、再び槍を構えて対峙する。先ほどとは互いの位置が入れ替わった形になった。

 

「眉間に直撃コースだったはずなんだが……ホントに良い反応するな」

 

 男はそう独り言ちつつ、俺からゆっくりと間合いを取る。右手に持った短剣をひらひらと遊ばせているその仕草は、奴がこの状況を心底楽しんでいることを物語っていた。

 

「……おい。立て。さっさと逃げろ」

 

 男へと注意を向けたまま、俺は後ろにへたり込む少女に対して言葉を発した。ちなみにもう1人居た太った男は、俺たちの攻防中に既に逃亡している。いや、逃げるのは構わないんだが……こんな女子小学生(多分)を残して1人で逃げる大人ってどうなんだよ……。

 

「ひ、ひぐっ……! わたっ、私っ……」

 

 言葉を掛けた少女は、尻餅をついたまま手足をワタワタと動かしていた。腰が抜けているらしい。……マジか。

 これは本気で腹を括らなければいけないかもしれない。小町と言う妹を持つ俺としては、さすがにこんな少女を置いて逃げることは出来なかった。

 

「……なるほど。お前そういう系の奴か。ますます殺したくなってきたぜ」

 

 言いながら、男は短剣を突き出して半身に構えた。その姿を見て、俺も覚悟を決める。

 殺さず、撃退する。それだけだ。この男もさすがに劣勢になれば逃げ出すはずだ。それに後ろの少女も、時間を稼げば自力で逃げ出してくれるかもしれない。

 そこで俺は恐怖を振り切るように1つ深呼吸をした。正直逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、そんな怯懦を胸の奥に押しやって槍を握り直す。

 

「嬉しいねぇ……。本気の殺し合いなんて久しぶりだ。SAOサマサマだぜ」

 

 男の言葉を無視し、俺はこちらから仕掛けた。攻撃は最大の防御、という奴だ。防戦一方になれば、ジリ貧になるのは目に見えている。

 1合、2合、上手く攻撃をいなされた。間隙を突いて男が斬撃を放つが、何とか石突でそれを弾く。

 大事なのは、間合いだ。こちらは槍で、向こうは短剣。懐にさえ入られなければ、致命傷を食らうことはない。そもそも武器の関係でこちらが有利なのだ。

 しばらく、同じような応酬が続いた。互いにまだソードスキルは使っていない。ソードスキルは威力の高い攻撃だが、同時に使用後の隙も大きい。モブとの戦いならともかく、対人戦においてはここぞと言う時にまでとっておくべきだった。

 大きく、槍を払った。男が身軽な動作でそれを回避し、距離を取る。しばらくの硬直。その隙に俺は後ろの少女の様子を伺ったが、未だ先ほどと同じ体勢でへたり込んでいた。目をパチクリさせながら、俺たちを見ている。出来れば今のうちに逃げといて欲しかったんだが……。

 次いで、俺は彼我のHPゲージに目をやった。軽微なダメージが蓄積し、互いに3分の1ほど削られている。対人戦では、このラインまで来ると地味に危険領域だ。この状態で急所に一撃ソードスキルを食らえば、HPが全損する恐れがある。

 冷静に状況を確認しながらも、俺は内心焦っていた。正直に言って、この男を撃退出来る気がしない。幾度かのやり取りで分かっていたことだが、こいつは相当の手練れだ。しかも何やら対人慣れしている気配だし、勘弁して欲しい。

 

「お互い、探り合いはこんなもんでいいだろ。そろそろフィニッシュといこうぜ」

 

 俺の気も知らず、男は愉快そうに口を開いた。良く喋る奴だ。

 言葉通り、次で決めるつもりなのだろう。男からは先ほどとは比べ物にならないほどの殺気が放たれていた。ゆっくりと、場に気が満ちてゆく。

 もはや、細かいことを考えている余裕などなかった。全力で闘う。それ以外の選択肢はない。

 構えもせずに、男は駆け出した。間合いに飛び込んで来たそいつに、俺は突きを放つ。1合、2合、男が器用に短剣でそれを弾く。3度目の刺突に合わせ、独楽のように回転しながら懐に飛び込んできた。そのままの勢いで、居合のように短剣を構える。瞬間、翻るポンチョの下で、その手に緑の光が宿ったのが見えた。

 退けば、斬られる。受けても体勢を崩すだろう。

 咄嗟に、一歩踏み込んだ。そして相手のソードスキルが発動するタイミングで、体を捻るように跳躍する。短剣が振り抜かれた瞬間、右ひざから先の感覚がなくなった。

 跳びながら、刺青の男と目が合った。胸。突ける。そう思った。しかし間もなく、俺は転げるようにして地面へと落下した。倒れこんだまま、足元へと視線を移す。やはり右ひざから先が無くなっていた。部位欠損の状態異常だ。

 それから、しばらくの間が訪れた。数秒か数十秒か、あるいは数分か。この最悪の状況を前に、既に俺の思考は停止していた。足がなくては、立つこともままならない。失った四肢を回復するには、5分から10分程度の時間が必要だった。

 

「……何で手を止めた?」

 

 不意に、声が掛けられた。ゆっくりと目線を上げると、忌々しそうにこちらを見下ろしている刺青の男と目が合った。短剣を持つその右手は、だらりと力なく垂れ下がっている。

 

「突けたはずだ。あの時」

「……知らねえよ。何となくだ」

 

 開き直ったように、俺は答えた。あの時、確かに突けただろう。ソードスキルを使えば、無理な体勢からでも一撃が放てる。あの状況でも奴の急所を貫けたはずだ。

 だが、躊躇った。何かが俺にブレーキを掛けた。

 

「……白けた」

 

 小さな、呟きが聞こえた。見上げると、男は右手に持っていた短剣をポンチョの中へと収め、再びこちらに強い視線を向けた。

 

「俺を殺さなかったこと、必ず後悔させてやる」

 

 吐き捨てるようにそう言って、男は踵を返す。奴の背中が森の暗がりに消えてゆくまで、俺はただ茫然と見送ることしか出来なかった。

 

 ――見逃された、のか……?

 

 真意は、わからない。ただ、何とか命を拾ったことは確かだった。

 

「あ、あのっ……」

「へっ!? あ、ああ……」

 

 思わず、変な声が出た。かなりの間放心していたようだ。我に返って視線を横にやると、先ほどまでへたり込んでいた少女が怯えた表情でそこに立っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――それで、その後はどうしたんだ?」

「放置するわけにもいかなかったからな。めっちゃ恐がられたけど、何とかそいつを街の近くまで連れてった。まあ、この話はそんなところだ」

 

 そこまで話し終えて、俺は目の前に置かれたお茶に手を伸ばした。かなり長い間話していたので、もうすっかり冷えてしまっている。それをゆっくりと飲み干して一息つくと、向かいに座る雪ノ下と目が合った。

 

「それにしても珍しいわね。あなたが素直に人に優しくするなんて」

「いや、さすがにあの状況で子供を放置するほど鬼畜じゃねえから……。それに俺は基本小学生以下の女子には優しいぞ」

「ああ、確かに、そうだったかもしれないわね。ロリ谷君」

「おい待て。俺はシスコンだがロリコンではない。つーか、本名もじるな」

「ハチ君、シスコンなんだ……」

 

 俺と雪ノ下のやり取りに、アスナが呆れた様子で呟いた。いや、千葉の兄妹だったらそれがデフォルトだろ?

 

「んで、何で今まで俺たちにその話をしなかったんだよ?」

 

 恨みがましい顔をして、キリトが問いかけた。こいつもアスナも、こういうこと隠すと怒るんだよな……。別に今回は意図して隠そうとしていたわけではないんだが。

 

「話すタイミングがなかったんだよ。わざわざ話したい内容でもなかったしな……。それにアルゴに頼んでそれとなくレッドプレイヤーの噂は流して貰ってたから、問題ないと思ったんだ。現にその話は耳に入ってたんだろ?」

「まあ、そうだけど……」

 

 俺の遭遇したレッドプレイヤー――刺青の男に関する情報は、後日第2層で会ったアルゴに、噂と言う形でプレイヤーたちの間に広めてもらっていた。警告の意味を込めて、という訳だ。

 要は件の男が危険人物であるという情報が共有出来ればいいのだがら、俺の体験談などは蛇足になる。だからあえて、今までこの話を人にするようなことはなかったのだ。まあ、単純に思い出したくなかった、という理由もあるが。

 人はあまりに強烈過ぎる恐怖体験などを、人格を守るために記憶から抹消してしまうという話を聞いたことがある。俺の場合、さすがに記憶から綺麗さっぱり消えたわけではないが、努めて思い出さないようにしていた。

 あの時のことを思い出せば、暗い感情が首をもたげてくる。奴に対する恐怖だけではない。あの時俺は選択を間違ったのではないのか、という不安。

 奴がこの世界に悪意をばら撒く存在だということは分かっていた。躊躇うべきではなかったのかもしれない。臆病風に吹かれるべきではなかったのかもしれない。俺が取るべきだった選択肢は――。

 

 刃を交えた、あの時。

 奴と視線を交わした、あの瞬間。

 俺は、この槍で、奴を――

 

「ハチ君。あなた、また馬鹿なことを考えてるんじゃないでしょうね?」

 

 いつの間にか1人思索に耽っていた俺を、雪ノ下の声が現実に引き戻した。伏せていた視線を戻すと、その凛とした眼差しが俺を射抜く。

 

「結果がどうあったとしても、あなたの選択は人として正しいことよ。後悔する必要なんてないわ」

 

 しばらく、呆然と見つめ合っていた。あの雪ノ下が、俺を励まそうとしてくれているのか。そう考えるだけで、気持ちは少し楽になった。

 数秒ほど経っただろうか。隣からアスナの大きな咳払いが聞こえ、我に返った俺はようやく雪ノ下から視線を逸らした。気恥ずかしさに大きく息をつきながら、頭を掻く。雪ノ下も調子を整えるように小さく咳払いをしてから、話を戻した。

 

「ともあれ、以前噂になったレッドプレイヤーは実在したということね。ハチ君の話の人物像を加味して、ジョーというプレイヤーとの繋がりを考えると……」

「まずい状況だな……。ハチの話からすると、刺青の男はオレンジカーソルの仲間を探してた感じもするし……」

 

 相槌を打つように、キリトが口にする。確かに、あいつは俺がレッドプレイヤーだと思って接触を計って来たのだ。結局、それが勘違いだと分かって襲い掛かって来たのだが、当初の目的は自分の仲間を集めることだったのかもしれない。

 つまりは少なくとも2人……或いはもっと集団的に、悪意を持ってプレイヤーを貶めようとする者たちがこのアインクラッドに存在するということだ。

 

「ひとまず、ALFではジョーと刺青の男の情報を集めてみるわ。あなたたちも警戒を怠らないで」

「一般プレイヤーに情報は公開しないのか?」

「混乱を招きたくないから、全てを開示するつもりはないわ。ただ、件のレッドプレイヤーについてだけはそれとなく噂を流して、もう1度注意を促しましょう」

 

 キリトの問いに、雪ノ下は簡潔に答えた。まあ確かに、ジョーに関する情報はプレイヤーに開示したところでプラスには働かないだろう。ジョーの居場所が探しやすくなるかもしれないが、そもそもからして1000人を超えるALFのギルドメンバーの情報力を以ってしても足取りが掴めていないのだ。相当巧妙に身を隠しているのだろう。ならば情報を開示して、疑心暗鬼になったプレイヤーたちがもたらす混乱の方を憂慮すべきだ。

 

「まあ現状、それがベストか……」

 

 顎に手を当てて少し考えるようにしていたキリトも、やがてそう言って頷いた。話すべきことは大方話し終わり、その場に沈黙が降りる。

 静寂の中、一息つくように雪ノ下がテーブルに置かれた湯呑に手を伸ばした。目の前の湯呑を仰視しながらも、何故かその位置を探るような、まどろっこしい所作だった。俺が何となく違和感を覚えてそれを見つめていると、隣のキリトが何かに気付いたように声を上げた。

 

「あ、なあ、ユキノさん。ちょっと話は変わるんだけど……」

「何かしら?」

「えっと……フルダイブの適合度、聞いてもいいかな?」

 

 その一言に、雪ノ下は大きく目を見開いた。珍しい反応だ。俺はと言うと、キリトの質問の意図も、雪ノ下の反応の意味するところもわからず、ただ困惑するだけだった。

 

「……驚いたわ。よくこの短時間で気付いたわね」

「前に1度、FNC判定を受けた奴に会ったことがあるんだ。ユキノさんの動きが、少しそいつと似ていたから」

「……どういうことだ?」

 

 基本他人の会話には無関心の俺だが、思わず訪ねていた。アスナも何か納得するように頷いていたので、置いてけぼりなのは俺だけのようだ。

 FNC……えふえぬしー……ふぬしー……ふぬっしー……ふなっしー? いや、絶対違うな。

 

「FNC――つまりフルダイブ不適合ということよ。人によってはナーヴギアとの互換性が悪くて、接続に障害が出ることがあるの。私の場合は視覚に少し問題があって、物の距離感が掴みにくいのよ」

 

 ふざけた思考を展開していると、雪ノ下が丁寧に説明してくれた。そう言えば、以前キリトがそんな話をしてくれたかもしれない。今さらになって、俺はそんなことを思い出していた。

 

「それは……大丈夫なのか?」

 

 実際それがどの程度の障害なのか分からなかった俺は、雪ノ下に問いかける。距離感が掴めないと言っても、その症状はピンキリだろう。人は片目では距離感が掴めないとよく言うが、慣れれば意外と問題は出なかったりするのだ。

 すました顔で湯呑に口を付けていた雪ノ下が、ゆっくりとそれをテーブルの上に戻す。そして俺に視線を移すと、何でもないことのように口を開いた。

 

「さすがに戦闘行為は難しいけど、日常生活では特に支障はないわ。今は何の不自由も感じていないもの」

 

 “今は”という言い方が、引っかかった。

 もっと早くに気付くべきだったのかも知れない。1人で何でもこなそうとしてしまう……そして大概のことはそう出来てしまうこいつが、組織という枠に収まっていることに疑問を持つべきだった。お為ごかしの嘘が何の役にも立たない、このSAOのような場所でこそ頭角を現すのが雪ノ下雪乃という人間だったはずだ。

 戦闘行為が行えないというのは、このゲームにおいて相当のハンディキャップになる。おそらく、アインクラッドでの生活では多くの困難に遭遇しただろう。シンカーやユリエールといったプレイヤーとは、もしかしたらその頃に出会ったのかもしれない。雪ノ下は簡単に人の好意を受け入れることが出来る人間ではないが、彼らのギルドに属していたということは、どこかで自分の意地と折り合いをつけたのだろう。

 妙に気持ちがざわついた。分かっている。これは、不安だ。

 

「……今日話した件は、こっちでも色々調べとく。お前もあんまり危ない橋渡るなよ」

「あら、心配してくれているのかしら?」

「まあ……人並みには、な」

 

 からかうようにして尋ねる雪ノ下に、俺は目を逸らしながら、そう答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「仲良いのね、ユキノさんと」

「……は? 目腐ってるんじゃないか、お前?」

「ハチ君に言われたくないわよ……」

 

 風林火山ギルドホーム。1階、エントランス。

 用事を終えた雪ノ下をそこから送り出した後、俺とアスナは向かい合って置かれたソファにそれぞれ腰を掛けて、そんなやり取りをしていた。ちなみにキリトはアイテムを整理したいとか何とか言って自室に籠っている。俺がここでアスナの相手をしているのは、「クラインさんたちが帰ってくるまで暇だし、話し相手になってよ」と仰せつかったからだ。いつもの俺ならそんなのは華麗にスルーして自室で寝ているところだが、アスナに対しては色々と借りが多く、基本頭が上がらない。

 

「……凄い人よね。綺麗で、頭も良くて、真っ直ぐで……ずるいわ」

 

 向かいのソファに浅く腰かけたアスナは、そう言って目を伏せた。……何を馬鹿なこと言ってるんだ、こいつは。

 

「いや、お前も似たようなもんだろ……。つーか、お前みたいのが卑屈になっても嫌味にしか聞こえないぞ」

「……どういうこと?」

 

 本気で分からないと言った表情で、アスナが首を傾げた。こいつ、自分がハイスペックだという自覚がないのだろうか……性質の悪い奴だ。仕方ないから、かみ砕いて分かりやすく説明してやろう。

 

「例えばくまモンに敵わないってふなっしーが愚痴こぼしても、チーバ君からしたら嫌味にしか聞こえないだろ? つまりそういうことだ」

 

 いや、俺はチーバ君が1番好きだけどね? だって横から見た姿が千葉県の形してるんだぞ? 千葉愛さえあれば、犬にしてはとんがり過ぎな鼻もチャーミングに見えてくるのだ。ただまあ、やっぱり世間的にはくまモンとふなっしーの足元にも及ばないわけで……。

 

「いや、余計わからなくなったんだけど……チーバ君?」

 

 俺の例え話を聞いたアスナは、さらに疑問が増した様子で首を傾げた。マジか……チーバ君知らねえのかよ……。

 

「……まあ、お前みたいな奴は堂々としてろってことだよ。劣等感を持つのは、俺みたいな奴の特権だ」

「一応、褒めてくれてるのかしら……?」

 

 そう言ったアスナの顔は相変わらず困惑した様子だったが、少し照れたように頷くと、それ以上は言及してこなかった。

 

 それから小一時間ほどアスナとたわいないやり取りをしていると、外での用事を終えた風林火山の面々が徐々にホームへと帰って来た。クライン、トウジと続き、幹部として働いているプレイヤーが数名だ。予想通り、アスナの訪問を知ったクラインはテンションをマックスにさせて喜んでいた。度が過ぎてトウジに鉄拳制裁を食らっていたが、まあそれは割愛しておこう。

 その後、俺は今日雪ノ下からもたらされた情報を、そいつらに順を追って説明した。これは雪ノ下にも許可を取っていることだ。ある程度信用のおける人間とは、情報を共有しておいた方がいい。

 風林火山の面々は一様に暗い顔をしていたが、現状俺たちに出来ることもほとんどないので、しばらくするといつも通り、それぞれの仕事へと戻って行った。その流れに乗って俺も自室へと引きこもろうとしたが、あと少しのところでいい笑顔のトウジに捕まった。「ハチさんは暇そうなので、仕事はいつもの2割増しにしときますね」だそうだ。マジかよ……。

 

 ジョーというプレイヤーに、刺青の男。露わになった問題は、俺たちの前に大きな影を落とした。だが、恐れてばかりもいられない。そうして俺たちは、心に湧いた不安を押し込めて、それぞれの日常へと戻って行ったのだった。




・補足
 原作に出てくるジョーというプレイヤーはジョニーブラックなのではないか、という見方が強いのですが、この2次創作では別物として扱ってます。
 刺青の男はみなさん気付いてると思いますがあの人です。性格とかビジュアルは情報少なかったのでほぼ自分のイメージで書いてあります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第13話 指輪

 10月18日、水曜日。

 SAOの中に囚われてからは日付や曜日の感覚などは乏しくなっていたが、そんな俺たちの感覚とは関係なく無情にも時間は進み、このゲームが開始してから早11ヶ月以上が経過していた。

 気付けば俺ももう18だ。何事もなく高校生活を送っていたならば、今頃受験戦争の真っ只中だっただろう……なんかちょっと現実世界に戻るのが鬱になってきた。

 まあ冗談はさておき、俺とキリトは相変わらず攻略組としてゲーム攻略に邁進している。現在の到達層は第40層だ。100層クリアまでの道のりは長いが、それなりに順調と言っていいペースだろう。ここ4ヶ月ほど――第25層を突破して以降は、何の問題もなく攻略が進んでいた。

 

 アインクラッド第40層。主街区《ビュルカニア》

 如何にも「西洋」と言った感じの、先端の尖がった石造りの建物が並ぶこの街が現在攻略の最前線だ。このフロアには馬車と言う交通手段があり、主街区であるここから様々な場所へと直接行けるので、攻略組の多くはここを拠点にして第40層攻略を行っている。俺とキリトも同様で、このフロアに来てからはずっとここに宿を取っていた。

 現在の時刻は夕刻。街路地に置かれた電灯に明かりが点り始め、既に街には人影も少なくなっていた。この街には特に名物になるようなものもなく、物見遊山に訪れるプレイヤーもあまり多くないのだ。

 そんな閑散とした街中の一角。味のある小さな木製の看板を掲げた居酒屋。既に今日の探索を済ませてフィールドから戻ってきていた俺は、そこで夕食を取っていた。店内の壁に小さなランタンが並べられた、気安くも小洒落た雰囲気の店だ。もちろん居酒屋とはいいつつも俺は未成年なのでアルコール類は頼んでいない。我ながら見上げた順法精神だな。

 いつもの俺なら食事など自炊か買い食いか、店に入ったとしてもカウンター席などで手早く済ませているところだ。しかし今日は普段とは少し勝手が違い、壁際に位置する2人掛けのテーブル席に腰かけていた。

 俺と向かい合うように座る、1人のプレイヤー。ちなみにキリトではない。あいつは「今日はカレーが食べたい!」とか言って、1人で第38層に存在するカレーっぽい何かを出す店に向かった。まあ、無性にカレーが食いたくなる日ってあるよね。

 生憎と俺は今日カレーの気分ではなく、移動するのも面倒なので最前線のこの街に残ったのだが……何か美味い物でもないかと街をフラフラしていた時に、こいつに見つかってしまったのが運の尽きだった。

 

「それでね、そのゴドフリーって人がホントにデリカシーがなくて、この前も――」

「……へえ」

 

 木製の椅子に浅く腰かけた俺の視線の先、テーブルを挟んで向かいに座るのは、トレードマークの紅白の軽鎧に身を包むアスナだった。「騎士たるもの常に戦う気概を持たなければならない」というのがギルドの方針らしく、最近はどこに居る時も戦闘用の装備をしている。息が詰まりそうな話だ。

 やはり色々と日頃の鬱憤が溜まっているのか、アスナは食事そっちのけで口早に愚痴を溢していた。まあ、血盟騎士団の構成メンバーは大体良い歳したおっさんだし、まだ若いアスナとは合わない部分も多いのだろう。彼女の血盟騎士団加入には俺も色々と関わっていたので、その辺りには後ろ暗い気持ちがないこともない。そんな背景もあって、夕食のお誘いを断ることもせず、俺にしては珍しく殊勝にアスナの話に耳を傾けていた。……のだが、さすがにちょっと疲れてきたな。

 

 以前ネットで見た記事の一説によれば、女は話に結論を求めない生き物らしい。大概の場合は単に話を聞いて欲しいだけであり、だからそこを勘違いした男が余計な口を挟むと怒られるそうだ。理不尽な話だな。

 まあその辺の話を加味して考えるに、つまりこういう時は適当に話を聞き流しつつ、相槌を打ちながら「俺、話聞いてますよー」アピールをするのが正しい対応というわけだ。だからむしろちょっと他のことを考えてるくらいの方が丁度いいわけで……お、この料理意外と美味い。ここの店は中々アタリだな。覚えておこう。

 

「ハチ君、聞いてる?」

「へっ? あ、ああ。聞いてるぞ。……で、バタフリーがどうしたって?」

「ゴドフリーよ! 全然聞いてないじゃない!」

 

 プリプリと怒りながら、アスナが勢いよく机を叩いた。くそっ、やっぱり駄目だったか……ヤ○ーニュースに書いてあったことなんか信用するもんじゃないな……。

 俺の態度に鼻息を荒くしたアスナは、次いでヤケ酒を呷るように置いてあった麦茶を一気飲みしていた。何か親父っぽいぞ、それ。某アラサー女教師を彷彿とさせる仕草だ。……SAOが始まってから大分たつけど、平塚先生は今頃何をしているのだろうか。心配だな。主に婚期的な意味で。

 

「や、悪かったって……。ここの飯が意外と美味かったから、ちょっとボケっとしてたと言うか……」

 

 頭では無駄な思考を働かせつつも、俺はそう言って一応のフォローを入れた。どうせこの場からは逃げられないのだから、機嫌は損ねない方がいい。

 エリートぼっち(元)である俺がなけなしの気遣いを発揮してアスナにおべっかを使うこと数分。不承不承と言った様子だが、何とか機嫌を直してくれた。

 

「でも確かにここのご飯美味しいわね。お肉に、カラードグリーンに、ブリーズと……自分でも作れるかしら」

「ん? お前、料理スキルなんか取ってたのか?」

「言ってなかったっけ? もう熟練度も600になるわよ」

「600!?」

 

 さりげなく、アスナがとんでもないことを口にする。初期から料理スキルを取得していた俺でさえ、現時点で熟練度300ちょっとだ。こいつ、いつの間にそんな料理してたんだよ。たぶん、攻略組の中で生産系のスキルをそこまで上げている奴は他に居ないぞ。

 

「マジかよ……。料理スキルなんて無駄だー、何て言って3日も4日も狩りしてた頃のお前からは考えられないな……」

「そ、そんな昔の話持ち出さないでよ。色々いっぱいいっぱいだったのよあの時は」

 

 呆れた声で俺が呟くと、顔を赤らめたアスナが抗議するようにそう言った。昔といってもまだ1年も経ってないのだが、まあアスナにとっては既に忘れたい過去の話なのだろう。うん。その気持ちはよくわかる。黒歴史ってのは誰にでもあるからな。

 そうして俺が勝手にシンパシーを感じていると、苦い表情を浮かべていたアスナの顔に、何故か急に影が差した。

 

「それに……最近はハチ君の方がピリピリしてるじゃない」

「俺が?」

 

 問い返すと、アスナは目を伏せて頷いた。食事をする手が止まり、憂いるような視線を落とす。

 

「……ハチ君、25層過ぎた頃から少し変わったよ。何か、焦ってるみたい」

 

 その言葉は、不意に俺の胸を衝いた。いつかの、雪ノ下とのやり取りが脳裏に過る。自覚はなかったが、確かに俺はあの頃から少し変わったかもしれない。

 

「……そりゃ、気のせいだろ。むしろ怠けすぎていつもキリトにケツ叩かれてるくらいだ」

「そう、かしら……」

 

 アスナの危惧は核心をついていたが、俺はそういってかぶりを振った。認めるのが癪だったのもあるし、この件はアスナには関係のないことだ。

 それから、しばらくお互いに黙り込んでしまった。周囲にはプレイヤーも少なく、居酒屋と言う割には静かな場所だ。その沈黙は余計に重く感じた。耐えきれなかったのか、ややあってアスナが場を取り持つように「そう言えば」と口にする。俺の右手人差し指に目を落として、さらに言葉を続けた。

 

「その指輪つけ始めたのも25層くらいからだよね。いつか言おうと思ってたんだけど、それあんまり似合ってないよ」

「……そういうことはもっと早く言ってくれませんかね」

 

 ……え、マジで? 自分では結構イケてると思ってたんだけど……。くそっ、何か言われたら無性に恥ずかしくなってきた。

 

「……いや、でもこれ、ちげーし。あれだし。ファッションとかじゃなくて、装備品としてつけてるだけだから。別にカッコイイと思ってつけてるわけじゃないし」

「そんな必死に否定しなくても……。でも見た目はともかく、性能はいいわよね、それ。25層のLAボーナスだっけ?」

 

 しどろもどろになって言い訳する俺にアスナは苦笑いで答えつつ、そう問いかける。俺は頷いて、右手人差し指のそれに目を移した。

 龍を象った意匠の、銀の指輪――《火山龍の指輪》。アスナには「見た目はともかく」などと言われてしまったが、確かに性能は破格だ。各種ステータスがそれなりに上昇するのに加えて、何より特記すべきはディレイタイム――ソードスキルを使った後の硬直――が3分の2にまでカットされることだ。こう聞くと地味に思えるかもしれないが、実際に使ってみれば相当な効果であることが分かる。ソードスキルの使い勝手がよくなったので、戦いにおいてはかなり立ち回りが楽になった。少人数の狩りでは、ソードスキルのディレイタイムやクールタイムはいつも悩みの種なのだ。

 第25層のボス攻略でこれを手に入れて既に4ヶ月程が経ち、アインクラッド攻略ももう第40層にまで達しているが、この指輪は未だに現役だった。と言うか、多分最後まで使い続けるだろう。ディレイタイムを縮めるような装備は他に存在しないのだ。

 ボスのLAボーナスで手に入るアイテムは性能の良い装備品が多いが、その中でもこの指輪は群を抜いていた。やはりあの第25層のボスは特別な仕様だったのだろう。プレイヤーたちの間では、おそらくまた第50層、第75層と強力なボスが出現するだろうと予測されている。ちなみにその間隔から、それらはクォーターポイントなどと呼ばれるようになった。……何で日本人ってのはなんでも横文字にしたがるのかね。

 

「あれ? 左手にも指輪してるのね。それはどうしたの?」

 

 今度は俺の左手人差し指に目を移したアスナが、再び口を開いた。いや、違うからねっ。これも別にファッションとかそういうんじゃないんだから、勘違いしないでよねっ。

 頭の中でそんな誰に聞かせるわけでもない言い訳をしつつ、俺もアスナが指し示す指輪に目を移す。こちらは右手にしているものとは違い、割とシンプルなデザインだ。赤い宝石が1つはめられ、添えるように葉っぱのレリーフが飾られている。

 

「あー、これな。《神速の指輪》っていう敏捷性が20も上がる奴で、この前エギルんところで――」

 

 言いかけたところで、背後から大きな物音がたった。地面に何かを打ち付けたような衝撃音。

 俺が驚いて振り返ると、倒れた椅子の近くに1人の女プレイヤーが立っていた。立ち上がった拍子にでも椅子が倒れたのだろう。まあ、そこまでならいいのだが、何故か立ち上がった女プレイヤーは鬼気迫る形相でこちらを睨んでいた。え、何? 俺、何かしました?

 視線が交わった瞬間、ゆるふわウェーブのその女プレイヤーは、紫がかった長髪を振り乱しながら俺の元まで駆け寄ってくる。目の下にそばかすのある地味系の女子だったが、あまりの剣呑な雰囲気に俺は縮み上がることしか出来なかった。間近から俺を見下ろしたその女プレイヤーが、ひったくるように俺の左手に掴みかかる。反射的に間抜けな声を上げてしまったが、そいつは気にした様子もなく俺の左手を仰視していた。

 

「この指輪……間違いないっ……!」

 

 ややあって、女プレイヤーはそう呟いた。握り締める腕の力を強め、憎悪の籠った視線を俺に向ける。

 

「あなたが、グリセルダさんを……!!」

 

 グリセルダ……覚えのない名前だった。しかし当惑する俺をよそに、その女プレイヤーは俺の手を離して腰に佩いていた片手剣に手を添える。これにはさすがに俺も身構えた。圏内なので斬られてもダメージはないが、無闇に斬りつけられるのは勘弁してもらいたい。

 

「お、おい! ヨルコ、どうした!?」

 

 幸い、剣を抜く前に、彼女の連れと見られる男が止めに入った。硬派な感じのイケメンだ。店の中だからか武器は装備していなかったが、頭部以外は重たそうな銀のフルプレートアーマーを装備している。

 話のわかりそうな奴が来てくれてよかった。俺はそうやってひとまず安堵したが、男の制止を振り切って、女プレイヤーがとんでもないことを口走る。

 

「見てカインズ、この指輪! 間違いないわ! こいつがグリセルダさんを殺したのよっ!!」

 

 ――何だそれは。

 

 全く身に覚えのない言い掛かりに、俺は言葉を失ってしばらく立ち尽くしてしまった。なぜだろう、SAOが始まってから俺はよく人殺しに間違えられる。そういう星の下にでも生まれたのだろうか。

 

「ま、待って! この人目が濁ってて性根も腐ってるけど、誰かを殺すような人じゃないわ!」

 

 しばらく俺と一緒に唖然とした表情で固まっていたアスナだったが、ややあってそう言いいながら立ち上がった。おい。2言ほど余計だ。泣くぞ。

 

「落ち着け、ヨルコ。とりあえず剣を収めろ」

 

 予想外の伏兵に俺が再び狼狽していると、いつの間にか俺と女プレイヤーの間に割り込むように立っていた鎧姿の男が、諭すように口を開いた。女プレイヤーはまだひどく取り乱していたが、しばらくの時間その男と見つめ合うと、ようやく少し落ち着きを取り戻したようだった。それを認め、次いで男が振り返ってこちらに視線を向ける。

 

「……済まない。少しその指輪を見せてくれないか?」

「え、あ、ああ」

 

 言われて、俺は気圧されるように頷いていた。この男、地味だがそこはかとなくイケメンリア充の雰囲気を漂わせている。苦手な人種だな。

 そんな分析をしつつ、俺は恐る恐る左手を差し出した。数秒間、男がじっくりと俺の人差し指に嵌められた指輪を仰視する。やがて、そいつは何やら神妙な様子で頷いた。

 

「確かに……あの時の物と同一だ。君、これをどこで?」

「……エギルってプレイヤーの店で買ったんだ。2日前くらいに」

 

 こんなリア充に屈するわけにはいかない。何となくそんな無駄な意地を張った俺は、なるべく毅然とした態度でそう答えた。それを聞いた男は再び1人納得するように頷くと、小さな声で呟く。

 

「……やっぱり、誰かが奪って店に流したのか……」

 

 それきり、男は思案するように黙り込んでしまった。事情はよくわからなかったが、とりあえず誤解は解けたようだった。男の後ろに立ち尽くす女プレイヤーはまだ戸惑うような表情をしていたが、先ほどのような剣呑な雰囲気は纏っていない。

 本格的な厄介ごとに巻き込まれなくてよかった。俺はそう思って、ひとまず安堵した。彼らの事情を察したわけではないが、言葉の端々からは十分に面倒そうな問題の雰囲気が漂っていた。昔の人は言いました。君子危うきに近寄らず、と。まあ俺の場合、危うきどころか大抵の事象は避けて通るのだが。

 しかしそんな思惑とは裏腹に――いや、やはりと言うべきか、俺の横からしばらく成り行きを見守っていたアスナが、お節介にも口を挟んでしまうのだった。

 

「あの、良かったらその話、詳しく聞かせて貰えないかしら?」




・補足
 時系列的には、原作の圏内事件の半年前です。シリカのシナリオからも4ヵ月ほど前になります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第14話 蠢く悪意

 ビュルカニアの街の一角、とある民家。その2階部分は丸々大部屋になっており、俺とキリトはNPCからそこを借り受けて拠点にしていた。南側に2つのシングルベッドが並び、北側に4人掛けのテーブルが置いてある簡素な部屋だ。

 現在、部屋に存在する人影は5つ。それぞれ自分のベッドに腰掛ける俺とキリトに、テーブルに備え付けられた椅子に座るアスナと先ほどの2人のプレイヤーである。……何故こんなことになってしまったのか。

 

 まあ、単純な話だ。居酒屋での一件のせいで俺たちは彼らの話を聞く流れになってしまい、もっと落ち着いて話が出来る場所――俺とキリトの拠点へと移動したのだ。最初はここへと招くつもりなど全くなかったのだが、店を出たところで第38層から帰って来たキリトとばったり遭遇し、事情を知ったそいつがこいつらを招いてしまったのだった。

 「いいよな、ハチ?」じゃねえんだよ。そんな聞き方されたら断り辛いことこの上ないだろ……。キリトのぼっち指数もかなり高くなってきていたように思っていたんだが、たまに妙なところで対人能力を発揮する奴だ。

 

 既に、道中で互いの自己紹介は済ませてある。男の方はカインズ。女はヨルコと言うらしい。こちらが名を告げると、「ああ、噂の……」と言って少し驚いていた。まあアスナは攻略組唯一の女プレイヤーとして有名だし、俺もクラインやトウジのせいで名前だけは売れているので聞いたことがあったのだろう。ただキリトに関しては2人とも聞いたことがなかったようで、本人はちょっとショックを受けていた。いや、名前が売れてもいいことないぞ。マジで。

 

 まあそんな過程を経て、今に至る。部屋は重苦しい雰囲気だ。ヨルコと名乗った女の方は身を固くして目を伏せているし、カインズも硬い表情をしている。いや、話しにくいなら無理に話さなくてもいいんですけど……。そう思いながら俺が視線を送っていると、何やら意を決した表情で顔を上げたカインズと目が合った。

 

「ひとまず、ハチさん。改めて、先ほどは済まなかった。ただ、俺たちは決して君に悪意を持ってあんなことをしたわけではないんだ。それはこれから話す内容を聞いてもらえれば理解してもらえると思う」

 

 そう前置きをして、カインズが居住まいを正す。それにつられて俺も何となく姿勢を正していると、再びカインズが口を開いた。

 

「もう、2週間前になる。俺たちが所属していたギルド《黄金林檎》のギルドマスター、グリセルダという女プレイヤーが、何者かに殺されたんだ」

 

 その言葉に、場の空気が一気に重くなった。キリトもアスナも、口を噤んで険しい表情をしている。俺は何となく、部屋の温度が下がったような錯覚に陥った。

 今までの言葉の端々から、大体話の内容は予想が付いていた。だが改めて話を聞くとなると、それはまだまだ子供の域を出ない俺たちには重い話だった。

 

「全ての始まりは、俺たちがあるレアアイテムを手に入れたことだった――」

 

 それからカインズは、順序立ててその事件のあらましを語りだした。

 

 2週間ほど前のある日、黄金林檎のメンバーで狩りをしていた時に、1匹のレアモンスターがアイテムをドロップしたらしい。それは敏捷性を20も上昇させる指輪という、超のつくレアアイテムだった。

 最初は無邪気に喜んでいた彼らだったが、やがてそのアイテムを巡って諍いが起こった。話の争点はギルド内でそれを使用するか、それとも売ってコルを山分けするか、という点だ。しばらくはメンバー間で揉めたそうだが、最終的には多数決で穏便に決めたらしい。総ギルドメンバー8人で決を採り、5対3で売却という結果になったそうだ。

 しかし、問題はここからだ。少しでも高値で売ろうと、彼らはそのアイテムを最前線で競売に掛けることにした。競売は確かに物が良ければ高値で売れるのだが、時間が掛かる上に運営とのやり取りも頻繁にこなさなければならないというデメリットもある。彼らのホームは下層だったらしく、スムーズにアイテムを競売に掛けるために、ギルドマスターであるグリセルダが泊りがけで最前線の街へと向かうことになったらしい。だが、それきりグリセルダからの連絡は途絶え、そのすぐ後に彼女が死亡したことを彼らは知ったのだった。

 当然、ギルド内では犯人探しに躍起になったそうだが、事件から2週間が経過した今でも捜査には全く進展はなく、そしてお互いに疑心暗鬼に駆られた黄金林檎のギルドはとうとう解散し、事件についても曖昧になってしまったのだった。

 そんな時に現れたのが、グリセルダが持っていた指輪と同一の物を所持した俺だ。それは疑いたくもなるだろう。

 

「レアアイテムを狙って、PKか……」

 

 話のあらましを理解した俺は、そう呟いた。普通のMMOならばそう珍しくもない話だが、このSAOの世界の中では話が別だ。システム上の死が現実世界での死に直結するこの世界で、PKという行いがどんな結果を生むか、分からない人間は居ないだろう。

 ただ、この話にはまだ色々と解せない部分がある。そんな俺の気持ちを代弁するように、隣のベッドに腰掛けるキリトが口を開いた。

 

「間違いなく、PKなのか?」

「はい。間違いないありません。最前線の街……今は39層ですけど、そこの圏内でグリセルダさんの遺品を見つけたんです。圏内で人が死ぬのは、プレイヤー同士が決闘した時だけですから」

 

 キリトの視線はカインズへと向けられていたが、答えたのは隣に座るヨルコだった。彼女は伏せた目を決して上げようとはせず、しかしその口調だけは嫌に冷静に聞こえた。

 

「……良く遺品なんて見つかったわね」

「泊まってる宿屋はわかっていたので……。出発した次の日の朝、グリセルダさんの名前がリストから消えていたから、心配になってすぐにそこへ向かったんです」

「ん? ちょっと待ってくれ。その遺品はどこで見つけたんだ?」

「宿屋の一室です」

 

 色々と疑問は湧いていたが、俺はそのやり取りを黙って聞いていた。まあアスナとキリトが要領よく質問してくれているから問題ないだろう。俺はまだヨルコとかいうプレイヤーには警戒されている可能性もあるし、ここは傍観するのが正解のはずだ。決して面倒臭いわけじゃない。

 

「宿屋……? 確かにシステム的には可能だけど、わざわざそんな所で決闘したのか?」

「これは推測なんですけど、グリセルダさんは寝こみを襲われたんだと思います。ちょっと、見ててください」

 

 再びのキリトからの問いに、ヨルコはそう言って視線を動かした。目が合ったカインズが頷き、彼女の右手を掴む。そして手を添えたままその右手を動かし始めた。

 ……え? 何で急にイチャつきだしたの? 見せつけたいの? そう思って俺は一瞬狼狽えたが、すぐに彼らが何を見せたかったのか理解した。掴んだ右手を動かしているのはカインズのようだったが、システムウインドウの呼び出しコマンド――2本の指を振り下ろす動作――に反応して現れたのは、ヨルコのシステムウインドウだった。そこに現れた画面を、さらにカインズはヨルコの右手を使って操作している。

 

「なるほど……。寝てる相手の手を操って、決闘を申し込んだわけか」

「こんな方法が……」

 

 納得するように頷いたキリトに続いて、アスナは驚いたように呟いていた。目の前の光景に、心の中で俺も小さく戦慄する。非常に単純な方法だが、確かに今まで気付かなかった。これを利用すれば、圏内でのPKが可能になるだろう。

 しかし納得するのと同時に、大きな疑問が浮上した。ここまで傍観を決め込んでいた俺だったが、思わず口を挟んでしまう。

 

「……なあ。だとするとこれ、目的はアイテムじゃないんじゃないか?」

 

 その言葉に、この場の全員が訝し気な視線を俺へと向けた。「何言ってんのこいつ?」みたいな空気だ。そうして俺は一瞬にして心が折れそうになったが、しかしすぐに俺の意を察したキリトが救いの手を差し伸べてくれた。

 

「……そうか。確かにその方法を使えば、何も相手を殺さなくてもアイテムを奪えるんだ。取引申請でも送って、アイテムを差し出させればいい」

 

 その言葉に、カインズとヨルコは雷に打たれたような表情をしていた。おそらく2人は、この事件をレアアイテムありきで考えていたのだろう。レアアイテムを持っていたが故に、グリセルダは狙われたのだ、と。

 しかし、おそらくそうではない。アイテムが奪われた可能性は高いが、それが狙いだったとするなら殺すメリットはないのだ。

 

「つまり犯人の目的は最初からグリセルダさんを殺すことで、アイテムはついでってこと?」

「そもそも本当にアイテムが盗まれたのかもわからないぞ。この指輪が本当にこいつらが知ってるものと一緒かはまだわからんし」

 

 アスナの疑問を受け、俺はそう言ってまとめた。それきり、部屋の中に嫌な沈黙が降りる。カインズとヨルコは、何か深く考え込むような表情をしていた。おそらく、グリセルダを殺す動機を持った人間についてでも考えているのだろう。

 

「……まあ、こういうのは身内だけで探り合ってもこじれるだけだろ。ALFが自治みたいなことやってるから、そこに相談してみろよ」

 

 沈黙に耐えかねた俺は、もうこの話を終わらせようとそう口を開いた。冷たいようだが、こういう話は警察でもない部外者が口を出すべきではないのだ。生憎とアインクラッドの中には警察は存在しないが、現在はALFが暫定的にその役割を担っている。

 再びの沈黙の中、顔を上げたヨルコと視線が合った。その瞳にはもう俺に対する敵意は宿っておらず、彼女はただ疲れたように力なく首を振る。

 

「ALFには、もう相談しました。でも、全然取り合って貰えなかったって、グリムロックさんが……」

 

 グリムロックという名前に覚えはなかったが、察するに彼らのギルドのメンバーだろう。そんなことを考えながら、俺はまた新たに湧いて出た疑問について思案していた。

 ALFが、取り合ってくれなかった? 妙な話だ。今現在ALFでは雪ノ下が相当な権力を持っているはずだが、あいつがそんな中途半端なことを許すはずがない。まあ所属メンバー1000人を優に超えるマンモスギルドであるから、あいつが全体を掌握出来ていない可能性もあるのだが……。

 

「あの、よかったら私たちにも、この事件を調べるの手伝わせてくれませんか?」

「そうだな。レッドプレイヤーがその辺をうろついてるとあっちゃ、おちおち攻略もしてらんないし」

 

 1人思案に耽っていた俺の隣で、アスナとキリトがそんなことを口にした。お前ら、本当に面倒事に首突っ込むの好きだよな……。

 そんな苦い思いで、俺はただ状況を見守っていた。この場じゃ俺が意見を言っても黙殺されるのがオチだろう。

 2人の言葉に、ヨルコは戸惑ったような表情をしていた。まあそれが一般的な反応だ。普通は部外者が首を突っ込むような問題じゃない。だが1人考え込むようにしていたカインズは、やがてヨルコの肩に手を乗せて諭すように口を開いた。

 

「ヨルコ、彼らも興味本位で首を突っ込もうとしているわけじゃないはずだ。素直に力を借りよう」

 

 その一言で、この場の方針は決定したようだった。困惑顔だったヨルコもやがてゆっくりと頷き、「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。

 ……俺まだ何も言ってないんだけど。まあ、マイノリティとして淘汰されるのには慣れている。問題ない。

 事件が解決に向かったわけでもなかったが、この場の雰囲気は少しはましになったようだった。そこで仕切り直すように、キリトが口を開く。

 

「とりあえず、犯人は身内の可能性が高いわけだよな。デフォルトの設定なら、ギルド・パーティメンバーは同じ宿屋に入れるはずだし」

「ああ。俺たちもそう考えてる。当時はギルド内でパーティを組んだままだったから、容疑者は俺たちギルドメンバーだけだ」

 

 キリトの推理を肯定するように、カインズが頷いてそう答えた。キリトの言っている設定というのは、ドアの鍵の開錠設定のことだ。初期設定のままだと宿屋のドアはギルド・パーティメンバーに対して開錠可となっており、自由に入室出来るのだ。

 不用心な話だが、この設定はあまり弄らないプレイヤーが多い。俺なんかは絶対に誰も入ってこれないように設定を変えるのだが、キリトやクラインなどからは気にし過ぎだとよく言われる。いや、知らない間に誰か入ってきたらいやだろ普通。

 

「大体の犯行時間はわかってるんだろ? ギルメンのアリバイはどうなってるんだ?」

 

 正直あまり関わりたくない話ではあったが、俺もそうやって口を挟んだ。キリトやアスナがいる限り無関心というわけにもいかないだろうし、それならなるべく早く問題を解決した方がいい。

 

「ちゃんとしたアリバイがなかったのは、シュミットというプレイヤーだけです。ただ、アリバイがないというだけじゃ問い詰めることも出来なくて……」

 

 沈んだ声で、ヨルコが俺の問いに答えた。まあその辺が俺たちみたいな素人の限界だろう。真実を追求すると言うのは、存外にしんどいものだ。何よりも和を尊ぶような人間関係においては特にそうだろう。

 

「シュミット? 何か聞いたことある名前だな……」

「確か最近聖龍連合に加入したプレイヤーじゃない? ほら、あの大きいランス持ったタンクの」

「ああ、そう言えば居たなそんな奴」

 

 シュミットという名前に心当たりがあったらしいキリトとアスナが、そんなやり取りを交わす。俺も一応シュミットという名前を脳内で検索してみたが、ヒットはしなかった。まあキリトでさえうろ覚えなのに、俺が覚えているはずもないな。

 ちなみにアスナが口にした《聖龍連合》というのは、現在アインクラッドに存在する攻略ギルドの1つだ。現時点で攻略ギルドのトップに君臨する血盟騎士団に勢力としては一歩劣るものの、その影響力や戦闘力は間違いなくトップギルドの一角である。DKBを前身としたギルドで、第25層でリンドを失ったことによって一時期低迷していた力を取り戻すために、他のギルドと合併して生まれたという経緯がある。現在のギルドマスターはハフナーという大剣使いで、こいつはDKBの時代にリンドの補佐をしていた男だ。

 

「シュミットが、聖龍連合に……?」

 

 眉を顰めた様子のカインズが、小さく呟いた。俺たちが視線をやると、怪訝な表情を顔に張り付けたまま言葉を続ける。

 

「それはおかしい。今のあいつのステータスで、聖龍連合に入れるわけがない」

 

 人伝に――というかアスナに――聞いた話だが、聖龍連合というギルドはかなりエリート意識の高い集団らしい。その入団には厳しい審査があるらしく、ある程度前線で通用するステータスがなければ相手にもして貰えないそうだ。

 それが事実なら、そのシュミットというプレイヤーはその厳しい入団テストをクリアしたということになる。しかしカインズの話では、黄金林檎を解散した時点では到底聖龍連合に入団できるステータスではなかったそうだ。

 

「レベルはそんな急激に上げられるものじゃない……なら、考えられるのは……」

「いい装備を揃えて、ステータスを底上げすることだな。……よくそんな金があったもんだ」

 

 キリトの言葉に続いて、俺が白々しく呟く。みなまで言わずとも、この場の全員がその意を察していた。

 

「……1度、その人に話を聞いてみた方がいいみたいね」

 

 アスナの言葉に、カインズとヨルコが頷く。ようやく一歩前進と言ったところか。

 それきり、室内は静寂に包まれた。とりあえず今日ここで話せることはもうなさそうだし、そろそろ解散だろう。そう考えたところで、部屋にノックの音が響き渡った。皆の視線が玄関に集まる。

 来客に、心当たりはない。しかもしている話も内容が内容だっただけに、俺は警戒心を強めた。しかしドアの付近に居たキリトが全く戸惑う動作なしで立ち上がると、誰何もせずにドアに手を掛ける。

 おい、と突っ込みそうになったが、それよりも早くドアが開け放たれた。そこに立っていたのは、色黒スキンヘッドの大男。いや、色黒というか黒人だ。おまけにめっちゃ厳つい。道端で会ったら何も悪いことしてなくても謝ってしまうだろう。土下座も靴舐めも余裕だ。そんな生物的に一瞬で負けを認めてしまうような風貌。まあ、その実、ただの気のいいおっさんなのだが。

 現れたのが見知った人物だったことを確認し、俺は警戒を解いた。おそらく、キリトが呼んだのだろう。カインズが話をしている時に何やらシステムウインドウを弄っていたし、メッセージでも飛ばしていたのかもしれない。

 

「おう、待たせちまったか?」

「いや、むしろよく来てくれたよ、エギル」

 

 言いながら、キリトがそいつを部屋に招き入れる。エギル――SAO世界での、俺の数少ない知り合いの1人だ。攻略組としてアインクラッド攻略を進める傍ら、ゲーム内で商人として商いもしている地味に凄い奴だ。現在は特定の店は持たず、層を渡り歩いて行商のようなことをしているらしい。

 

「丁度この近場にいたからな。ん? こちらのお2人さんは?」

「あー、紹介するよ」

 

 そう言って、キリトが互いを互いに紹介する。カインズとヨルコは突然現れた厳つい風貌の男に戸惑っていたようだが、エギルがゲーム内で商人をやっていると説明し、先日俺が神速の指輪をこいつから購入したことを告げると納得してくれた。

 そう、この指輪はエギルから買ったのだ。黄金林檎でドロップした例の指輪と、俺の持つこの指輪が同一の物かはまだわからないが、流通ルートを探って知ってる名前でも出てくれば相当の手掛かりになるはずだった。

 自己紹介の後は、彼らの事情とここまでの経緯をかいつまんでエギルに説明した。あまり人に吹聴することではないが、事件の解決に必要なことだとカインズとヨルコも了承してくれたので問題ないだろう。

 

「なるほど……そりゃあ、災難だったな。俺が力になれることがあるなら、何でも言ってくれ」

 

 キリトの説明を聞き終わったエギルは、真摯な顔でそう口にした。風貌で誤解されやすいが、なかなか情に厚い奴だったりする。

 まあそんな感じで状況説明も終わり、いよいよ本題に入る。キリトがこちらに視線をやって来たので、俺はゆっくりと頷いた。

 

「じゃあとりあえず聞きたいんだが、この指輪覚えてるよな?」

 

 言いながら俺は左手の指輪をエギルの目の前へと差し出した。一瞬訝し気な表情をしつつも、エギルはそれに目をやって頷く。

 

「ん? ああ、覚えてるぜ。こんなレアアイテム中々扱うこともねえし……って、そうか、さっきの話に出て来た指輪ってのが……」

「まあ、そういうことだ。これの出どころ、分かるか?」

 

 商売柄、毎日相当な数のアイテムを扱うはずだ。だから特定は難しいかもしれない。そんな懸念と共に俺は尋ねたのだが、意外なことにエギルは迷うことなく頷いた。

 

「これは俺が直接プレイヤーから買い取ったもんだ。だからそいつの名前もしっかり覚えてるぜ」

 

 そこで、一瞬の間が空いた。エギルは俺、キリト、アスナの顔を順番に見ながら、さらに言葉を続ける。

 シュミットの名前が出てくれば、事件は一気に解決に近づくだろう。そんな期待と共に俺は耳を傾ける。だが、予想に反してエギルが口にしたそのプレイヤーの名前は、この場の空気を凍りつかせた。

 

「結構前に攻略組に居たプレイヤーだ。お前らも名前くらいは覚えてるかもしれんが……スペルは《Joe》。ジョーってプレイヤーだ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第15話 協力体制

 翌日。ALFのギルドホーム。その応接室。

 以前1人で来た時に通された部屋よりも、一回り大きい一室だ。中央に机、そしてそれを挟むように2つのソファが配置してある。片方はL時型の大きなもので、俺、キリト、アスナ、カインズ、ヨルコの5人が座ってもまだ少し余裕があった。

 向かいのソファに座るのは、ALFの重鎮、雪ノ下雪乃だ。黒い木綿のトレーナーに皮の胸当て、濃い群青色のボトムスという出で立ちをしている。そういえばこいつ、前に接続障害のせいで戦闘行為は出来ないとか言っていたが、見た感じ装備は戦闘用のを着てるんだな。まあ人に弱みを見せるような奴じゃないし、多分ブラフでこういう恰好をしているんだろう。

 

 今日俺たちがここに訪れたのは、言うまでもなく例の事件についてALFに相談するためだ。ヨルコは既に1度断られたと言っていたが、雪ノ下に直接掛け合えば無下にはされないだろう。そしてその期待通り、雪ノ下は真摯に話を聞いてくれた。

 

「事情は分かったわ」

 

 俺たちが全て話し終えると、それまで静かに聞き入っていた雪ノ下がそう言って頷いた。次いでゆっくりとカインズとヨルコに向き直る。

 

「まずは、謝罪を。カインズさん、ヨルコさん。こちらに不手際があったみたいね。本当にごめんなさい」

「あ、い、いえ……」

 

 そう言って頭を下げる雪ノ下に、ヨルコは狼狽して体を縮こませていた。不手際というのは、以前カインズたちがこの事件について相談をALFに持ち掛けた時、それを取り合わなかったことだろう。まあ雪ノ下が悪いわけではないのだろうが、組織というものは得てして上の者が全ての責任を負うものだ。やだ、何それめんどくさい。やはりぼっちが至高か。まあ最近の俺はあんまりぼっちじゃないんだが。

 

「だから、改めてこちらからお願いするわ。この事件の捜査、私たちALFにも協力させてもらえないかしら?」

「……はい。よろしくお願いします」

 

 俺が無駄な思考を働かせているうちに、とりあえず事態は丸く収まったようだった。ヨルコは小さく頭を下げ、カインズも無言で頷いている。

 

「それで、あなたたちも捜査に協力してくれるという認識でいいのかしら?」

「ああ。けどまあ、正直こっちは出来ることも少ないから、ALFが主導で色々やってくれると助かる」

「そうね。そうさせてもらうわ」

 

 ともすれば無責任とも取れる俺の言葉に、雪ノ下は躊躇うことなく頷いた。まあこういうことは慣れない奴が出しゃばっても碌なことにはならないし、妥当な選択だろう。ALFはしばらくアインクラッドで自治体のような役割を担ってきたので、こういったトラブルの対応には熟達しているはずだ。

 ALFが主導で捜査に当たることには特に異議は上がらなかったので、その後は雪ノ下が中心になって話を進めていった。

 

「ではまず、関係者の事情聴取から始めましょう。そちらの2人で元黄金林檎のメンバーには連絡が取れるかしら?」

「あ、はい」

「それでは、ヨルコさんとカインズさんには別室で話を伺います。聴取も兼ねさせて貰うことになるけれど、いいかしら?」

「ああ。何でも聞いてくれて構わない」

 

 そうして雪ノ下と二言三言やり取りを交わしたヨルコとカインズは、しばらくすると現れたALFのプレイヤーに促されて部屋を出て行った。聴取も兼ねているということだから、別室で1人1人取り調べを行うのだろう。

 ドアの近くで雪ノ下の指示を仰いでいたALFのプレイヤーは、話が終わると一礼して部屋を出ていった。そのやり取りはまさに上司と部下のように見える。いや、さっきのプレイヤー明らかに30代くらいのおっさんだったんだけど……。その歳であんなおっさんを顎で使えるとか、マジですげえなこいつ。

 そうして俺が改めてその才覚に感嘆していると、雪ノ下は再びこちらへと戻ってソファに腰を掛けた。

 

「ん? お前は行かないのか?」

「少しあなたたちにも話を聞いておきたくてね」

 

 そう言って、雪ノ下はキリトとアスナに視線を向ける。そして再び口を開きながら、正面に座る俺へと目をやった。

 

「ハチ君。ひとまずあなたの意見を聞きたいわ。この事件、あなたはどう見ているの?」

「は? 何で俺?」

「蛇の道は蛇というでしょう?」

「いや、さらっと人のこと犯罪者扱いすんじゃねえよ……」

 

 げんなりとした気分になりつつ、俺はそう返した。こいつは人のことを何だと思ってるんだマジで。生まれてこの方、悪いことは信号無視とバイトのバックレくらいしかしたことねえぞ、多分。

 

「冗談よ。あなた、人の悪意に敏い部分があるから、単純に見解を聞きたいと思ったの」

 

 顔を顰める俺とは対照的に、雪ノ下は微笑を浮かべてそんなことを口にした。その表情にはっとしつつ、俺は目を逸らす。……こいつ、何か最近雰囲気が変わったよな。少し柔らかくなったというか……。

 まあ、今はそんなことはどうでもいい。色ボケに染まった思考を端に追いやりつつ、俺は真面目に頭を働かせた。

 

「……期待して貰ってるとこ悪いけどな、現状分かんないことが多過ぎて何とも言えねえよ。とりあえず今分かってるのは、シュミットって奴が1番怪しいってことくらいだが……それも何か怪しすぎて逆に怪しくないし」

「どういう意味?」

 

 キリトの隣に座るアスナが、横から顔を覗かせつつ首を傾げる。その拍子に肩から落ちた一房の栗色の髪に目をやりつつ、俺は言葉を続ける。

 

「推理小説とかだとよくあるだろ。話の中盤で1番怪しい奴ってのは、大抵犯人じゃない。ミスリードってやつだ」

 

 まあ、俺は本格的な推理小説ってあんまり読まないんだけどな。高校入ってからはラノベが多かったし。あ、古典部シリーズとかゴシックは一応推理モノに入るか。

 そうして頭の中では盛大に話が脱線してしまったが、俺も別にふざけているわけではない。小説云々の話は抜きにしても、今回のように計画的に殺人を行った人間がこんなに分かりやすく尻尾を出すとは思えないのだ。そしてその意を察してくれた雪ノ下が、1つ頷いて口を開く。

 

「その例えはどうかと思うけれど、確かに言っていることは的を射ているかもしれないわね。そのシュミットという男が犯人だとすれば、詰めが甘すぎるもの。事件後すぐに発覚するようなお金の使い方をするなんて」

「まあ怪しいのには変わりないし、叩けば何かしら出てくるだろ。その辺はALFに任せるとして、問題は――」

「ジョー、か……」

 

 俺の言葉を引き継いで、キリトが呟いた。しばらく、部屋に重い沈黙が流れる。

 

 ――ジョー。おそらく、第25層事件を画策したであろうプレイヤー。レッドプレイヤーと接触していたという目撃証言も上がっている。当然危険人物としてALFや風林火山もその行方を追っているが、依然としてその尻尾さえ掴めていなかった。定期的に第1層の生命の碑で生存確認も行っているので、生きていることだけは分かっている。

 

 そんなプレイヤーが、この事件に関わっているかもしれないのだ。気が重くなるのも当然だった。

 

「偶然とは思えないわ。こんなレアアイテム、滅多にないもの」

「そうね。タイミング的にも、繋げて考えるのが自然だわ」

 

 沈黙を破って口を開くアスナに、雪ノ下が頷いて答える。その2人の視線は俺の左手人差し指に嵌められた指輪に注がれていた。

 神速の指輪。エギルに聞いた話だが、市場にはほとんど出回っていないアイテムらしい。一応組合のメンバーに連絡を取って、他に同じ物が出回っていないか調べてくれると言っていたが、昨日の今日の話なので未だに連絡はない。

 

「けどもしジョーがこの事件に関わっていたとしても、1人でグリセルダさんが泊まっていた部屋に忍び込む手段はないはずだ。システムに何か抜け穴があれば別だけど……正直、それは考えにくい」

 

 目を伏せたキリトが、深く考えるような表情で言葉を紡ぐ。昨夜、何か部屋に忍び込む方法がないかどうか、キリトとアスナと協力して色々と試してみたのだが、システムによる規制は完璧だったのだ。俺たちがその旨を伝えると、雪ノ下はゆっくりと頷いた。

 

「あくまで容疑者は黄金林檎の元メンバーというわけね……」

「まあ、あんまり想像だけで話してもしょうがないだろ。今は情報を集めるのが先だ」

 

 これ以上は話が進展しそうもなかったので、俺は打ち切るようにそう言った。雪ノ下はしばらく考えるように俯いていたが、ややあって軽くため息をつくと、胸元に落ちた長い黒髪を耳に掛けながら頷く。

 

「そうね。ひとまずは事件の捜査と合わせて、ジョーについても引き続き探ってみるわ」

「ああ。それと、俺たちにやれることがあったら何でも言ってくれ。上層の方はALFよりも俺たちの方が詳しいだろうし、その辺りで力になれると思う」

「ええ。頼りにさせて貰うわ」

 

 キリトの提案に、雪ノ下は意外なほど素直に頷いていた。やっぱりこいつ少し変わったな、なんて思いつつ、俺は伸びをしながらソファの背もたれに体を預ける。ひとまずこの話はこれで終わりだろう。

 その後は、軽く今後の確認をしてから解散の流れになった。基本はALFが捜査を進めることになるので、何か進展があれば向こうから連絡をしてくれるそうだ。新しく発見されたPKの手口――「睡眠PK」と俺たちの間では呼ぶようになっていた――についても、ALFが主導でプレイヤーたちに注意喚起を行ってくれることになった。

 ……あれ? これって俺たちすることなくね? と一瞬思ったのだが、先ほどキリトが言った通り、上層についてはALFよりも俺たちの方が詳しいことも多い。エギルとジョーが取引を行ったのは第37層だったそうなので、俺たちはその辺りを探ることになるだろう。

 そうして、俺たちはしばらく最前線から離れることになった。攻略が遅れることに関しては少し危機感もあったが、こういった事件を放置しておけば思わぬところで足元をすくわれる可能性もある。急がば回れということだ。

 

 殺されたグリセルダというプレイヤー。奪われたと思わしき指輪。そしてそれを所持していたジョー。どこまで繋がっているのかはわからない。だが、もしジョーと共にあの刺青の男までこの事件に関わっているとしたら、きっとこれだけでは終わらない。

 そんな危惧を抱きながら、俺は部屋を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃ、世話んなったな」

「……別に、あなたに礼を言われるようなことじゃないわ」

 

 ALFのギルドホームの玄関で、俺は別れ際に雪ノ下とそんなやり取りを交わした。隣のキリトは苦笑していたが、まあこれがこいつの平常運転だし、むしろ俺からしたら逆に安心するくらいだ。……いや、冷たくされるのがいいとか、別にそういう性癖があるわけではない。

 そんなことを考えつつ、俺は帰路につこうと雪ノ下に背中を向けた。しかし足を踏み出す前に、後ろから再び声が掛かる。振り返ると、何やら雪ノ下が居心地が悪そうに腕を組んでいた。俺から視線を逸らしつつ、躊躇うように言葉を紡ぐ。

 

「その……1つ、提案よ。捜査に当たって、やはりお互い連絡は取れた方がいいと思うの。毎回トウジさんを通して連絡するのも迷惑を掛けてしまうし、何より効率が悪いわ。暫定的に協力関係を結ぶと言う意味でもシステム的な繋がりは持っておく必要があるし、だから一応――フレンド登録をしておきましょう」

「……へ? ……あ、ああ。そうだな。確かに、しといた方がいいか」

 

 一瞬、呆気にとられてしまった。まさか雪ノ下の口からフレンドなんて言葉が出てくるなんて、思いもしなかった。

 いや、まあ確かにフレンド登録をしておかないと色々と不便ではあるのだ。いたずらなどを防ぐために、ほとんどのプレイヤーはフレンド以外のプレイヤーからのメッセージを受信拒否する設定にしている。だから雪ノ下とフレンド登録をしていない俺たちは、今日のアポイントを取るのも既に雪ノ下とフレンド登録を済ませているトウジ伝いに連絡を取ったのだ。今後やり取りが増えるなら、確かにそろそろフレンド登録をしておいた方がいいだろう。

 実に実利的な判断だ。雪ノ下らしいと言える。……言えるのだが、正直雪ノ下からフレンド申請を受ける日が来るだろうとは、夢にも思っていなかった。

 

「何をにやけているのかしら、ハチ君。気持ち悪いわ。一応言っておくけれど、フレンドというシステム的な繋がりを持つだけであって、決してあなたと私が友人と言うわけではないわよ」

「……言われなくてもわかってるっつーの」

 

 意外過ぎる雪ノ下の態度に、どうやら思わずにやけてしまっていたらしい。いや、気持ち悪いって……。そこまで言わなくてもいいだろ……。

 そうして雪ノ下はしばらく俺に攻撃的な目線を向けていたが、やがて小さくため息をつくと、右手でシステムウインドウを呼び出した。細い指を上下に動かし、何か操作している。ややあって、雪ノ下からフレンド申請のメッセージが送られてきた。

 ……何だか、感慨深いものがあるな。いや、ゆってもネトゲでのフレンドなんて結構ハードル低いんだけど。俺でさえ数人はいるレベル。

 そんなことを考えながら、俺はその申請を受諾する。すると俺の目の前に浮かんでいたフレンド申請の画面は消え、次いで新しく「Yukinoさんがフレンドに追加されました」というメッセージが表示された。

 

「ふぅん……」

 

 不意に、横から小さな呟きが聞こえた。そちらに目をやると、何故か微妙な表情をしたアスナが俺の脇からそのメッセージを覗き込んでいた。いや、つーか距離が近い。いい匂いするからやめて!

 

「な、何だよ?」

「……別に」

 

 後ずさりながら俺がそう尋ねると、アスナは気のない返事を返した。何なのこの子? 反抗期?

 オーケー、落ち着け、俺。女っていうのは男よりもパーソナルスペースが狭いと聞いたことがある。つまりボディタッチが多かったり距離の近い女ってのは、特に意味があってそうしているわけではないのだ。中学時代の俺がそんなことをされれば「あれ? こいつ俺のこと好きなんじゃね?」と勘違いし、即行で告白して玉砕しているところだったが、もう同じ轍は踏まん。

 そんなことを考えている俺の横で、いつの間にかキリトも雪ノ下とのフレンド登録を済ませていた。次いで、気を取り直した様子のアスナもそれに続く。そしてそれも済ませると、雪ノ下は改めて俺たちに向き直った。

 

「お互い、連絡は密にしましょう。なるべく情報は共有しておいた方がいいわ」

「ああ。何か分かったらすぐにメッセージを送るよ」

 

 キリトがそう返し、俺たちは今度こそ帰宅の途についた。開け放しになっている大きな門を潜り、通りに出る。まだ日は高いが、人通りはまばらだった。

 緩やかな風が、髪を撫でていった。そこで俺は、何とはなしにゆっくりと振り返る。大きく開かれた、白い正門の向こう、不器用な表情で小さく手を振っている雪ノ下と、目が合った気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第16話 進展

 うだるような暑さの中、俺、比企谷八幡は槍を振るっていた。

 見渡す限りの砂漠、そのど真ん中だ。陽を遮るものなど何もなく、灼けるような日差しが地面を照り付けている。

 そんな中俺が対峙しているのは、体長2メートル弱の巨大なサソリ――《アーマードスコルピオン》その数3体。名前の通り鈍く光る黒い外皮は鎧のようで、刺突や斬撃に強い耐性を持っている。もちろんサソリというだけあって、長く伸びた尻尾の先は毒針仕様だ。かなり厄介な敵だと言えるだろう。

 

 3匹のサソリ全てのターゲットを取っていた俺は、砂に足を取られそうになるのを必死になって堪えつつ、何とか敵の攻撃を捌いていた。囲まれないように後退しながら、懸命に槍を振るう。状況を考えれば十分に善戦していると言えたが、全く攻勢には移れなかった。このままの調子で戦い続ければジリジリと追いつめられるだろう……まあ、ソロで戦っていたらの話だ。

 しばらく続いた攻防の後、俺は大きく槍を払って敵と距離を取った。しかし、3匹のサソリはすかさずこちらに追いすがる。それを確認し、俺はモブを挟んだ向こう側でこちらの様子を伺っていた2人のプレイヤー、キリトとアスナに視線を送った。それに気付いた2人が頷き、剣を構えてサソリの背中に跳びかかる。

 

 刃物に対してはかなりの強度を誇るサソリの装甲だが、当然隙間は存在する。頭と胴体のつなぎ目などがそれだ。打撃系の武器で装甲ごと叩き潰すという手段が取れない俺たちにとっては、その隙間を狙ってソードスキルを叩き込むというのが唯一有効な戦法となる。

 しかし俺たちがそれぞれ1対1になって向かい合ってしまうと、大きく突き出した頭が邪魔をして弱点が狙いにくい。そこで重要になってくるのがこの配置だ。俺がまとめてサソリのターゲットを取り、その隙に敵の後ろに回り込んだキリトとアスナが弱点を衝くという布陣になっている。今の2人の攻撃力ならソードスキル1発で敵を屠れるだろう。

 

 ちなみに俺がタンクを務めているのは、単純に細剣や片手剣に比べて槍の方が防御性能に優れているからだ。決して嫌がらせでモブを押し付けられているわけじゃない。……はずだ。え? 違うよね? ちょっと不安になってきた。

 

 と、俺がそんな無駄な思考を働かせてる間にも戦況は動いていた。横薙ぎに片手剣を振るうキリトと、半身になって細剣を突き出すアスナ。ソードスキルの光を宿した2人の剣が寸分違わずサソリの弱点にヒットし、それぞれ敵のHPを全損させた。残るは1匹。

 2匹のサソリがガラスのように砕け散っていく中、残されたその1匹はそこでピタリと動きを止めた。しかしそれも一瞬のことで、次いで甲高い奇声を上げたかと思うと、こちらへと向けていた体を反転させてキリトへと襲い掛かる。

 瞬間、俺は低く槍を構えた。間もなくソードスキルが発動するのを両手で感じ取りながら、突きを放つ。狙うは一点。頭と胴体のつなぎ目、その数センチの隙間だ。

 キリトたちのように寸分違わず――とはいかなかったものの、こじ開けるようにして何とか装甲の隙間を槍が貫く。そして一瞬の硬直の後、目の前のサソリはガラスのように砕け散って行ったのだった。

 

 一応周りにモブが居ないか確認した後、俺は一息ついて背中へと槍を収めた。キリトとアスナも同じように辺りを見渡して危険がないことを確かめると、剣を鞘に収めてゆっくりとこちらに歩いてくる。

 

「……ふぅ。2人とも、お疲れ」

 

 暑さに顔を歪めたキリトが、インナーシャツの裾をパタパタと揺らしながら口を開いた。いつも着ている黒っぽいコートの上に、さらにベージュ色をした防砂用のフード付きロングマントを重ね着している。かなり暑苦しい格好だが、まあこの砂漠フィールドでは必須装備なので仕方ない。砂嵐や強い日差しによるデバフを防ぐために、俺とアスナもいつもの装備の上に同様の物を羽織っていた。

 

「お疲れ様。やっぱりこの辺りの敵は厄介ね」

「サソリは火力でゴリ押し出来ないからな……。また湧いてきても怠いし、さっさと行こうぜ」

 

 アスナの言葉にそう答えながら、俺は周辺に目を移す。視界に広がるのは、見渡す限りの広大な砂漠だ。実際には見た目ほどの広さはないのだが、蜃気楼――というゲーム内設定――のために地平線まで続いているように見えるらしい。

 

 第37層。その東に位置する《貝櫓の砂漠》

 

 俺、キリト、アスナの3人は、ジョーの足取りを追うために雪ノ下との話し合いがあった日の翌日からこのフロアに訪れていた。エギルの話によると、この辺りの村でジョーと指輪の取引を行ったらしい。既にそれから10日以上も経っているのでジョーがまだこのフロアに居るのかは微妙なところだったが、他に手がかりもなかった俺たちはこの周辺を探索することになったのだった。

 

 俺たちがこのフロアに訪れてから、今日で3日目になる。砂漠フィールドには色々と厄介な敵が多いが、既に攻略済みということもあって難なく探索は進んでいた。まあ結論から言うと、結局収穫はなかったんだが……。砂漠に点在する小さな村は全て回ってみたが、ジョー自身はおろか目撃証言さえ見つからなかった。

 

 つーか今さらだけど、アインクラッドの中で人探しって結構ハードル高くない? 宿屋にログは残らないし、街に居るNPCにはそこまで立ち入った聞き込みは出来ないし……ドンピシャでジョー自身を見つけるしか方法がない気がするんだけど。

 それに仮にジョーが見つかったとしても、その後の問題もあるのだ。「話を聞きたいから一緒に来てくれ」と話しかけても、はいそうですかと事は進まないだろう。ゲーム内にはプレイヤーを拘束する手段はいつくかあるのだが、相手もこのゲームに精通した元攻略組のメンバーだ。そう易々といくはずがない。刺青の男や他の仲間と一緒に行動している可能性もあるとすればなおさらだ。

 

 何だか考えれば考えるほど不毛なことをしている気がしてきたな……。まあ俺が泣き言を漏らしたところでキリトとアスナが納得しないだろうから、やるしかないんだが。うわっ……俺のヒエラルキー、低すぎ……?

 

 まあ案の定というか何というかこの砂漠周辺の探索は既に空振りに終わり、現在俺たちは第37層の主街区へと向かっている所だ。マップをよく確認しながら、キリトとアスナを伴って歩を進める。この砂漠フィールドには道がない上に、かなり近くまで行かないと街も肉眼で見えない仕様になっているので迷いやすいのだ。

 マップで確認する限り、目的地までは歩いて10分くらいか。暑いし、モブが湧いてこなければいいなー、なんて思いながら歩いていると、不意に隣を歩くアスナが距離を詰めて来た。

 

「前から思ってたけど、ハチ君ってヘイト管理上手よね。本当はタンクの方が向いてるんじゃない?」

「……タンクっつーのはパーティメンバーありきの役割だろ。ぼっちの俺には向いてねえよ」

「ぼっちねぇ……。でも、あなた基本的にキリト君とコンビ組んでるじゃない」

 

 さりげなく距離を取りつつ俺がそう口にすると、再びこちらに詰めて来たアスナにそう突っ込まれた。まあ確かに最近俺のぼっち指数が低下しているのは自覚しているが……。

 

「……アスナ。ぼっちっていうのは環境の問題じゃなく、生き方の問題だ。例え集団の中に埋もれても、ぼっちたらんとする心意気さえあればそいつはぼっちなんだよ」

「何よその妙なプライド……」

「まあぼっち云々は置いといて、実際コンビ狩りで片方タンクやられても俺としては微妙だしな。このままの方がバランスがいいよ」

「ふぅん。そんなものなのかしら」

 

 俺のぼっち談義をさらりと受け流したキリトの言葉に、アスナはふむふむと頷いていた。なんか最近……というか結構前から、こいつら俺の扱いかなり雑になってるよね。もう小町並に俺のあしらい方が熟達してきてる気がする。

 

 さてそんなやりとりを交えながら歩くこと数分。幸い道中モブに遭遇することもなく、俺たちは目的の街へと到着した。

 

 第37層。主街区《マーファ》

 黄褐色の粘土で形作られた家々が並ぶ、飾り気のない街だ。路面はあまり整備されていないものの、東西南北をしっかりと区分けするように道があるので迷いにくい作りになっている。

 

 圏内ならば砂漠特有のデバフにかかることもないので、街に到着した俺たちはまず暑苦しい防砂用のマントを装備解除した。中学時代には1人自室でカーテンを羽織ってプチコスプレショーしたり、マントという物には多少の憧れを抱いたものなのだが……いざ今になって実際に装備してみると、暑苦しくて動き辛いだけだった。何だか物悲しい。これが大人になるってことか……。

 

 そんな寂寥の念を胸に抱きつつも、先をゆくアスナに続いて俺もマーファの街へと足を踏み入れる。東門から街に入った俺たちは、そのまま真っ直ぐ街の中央に位置する転移門広場へと向かって歩を進めた。このフロアでのジョーの探索はまだ終わっていなかったが、今日は一旦ホームに帰る予定なのだ。そこでアイテム補充や装備のメンテナンスなどを済ませ、また明日から、今度は西回りでこのフロアを回ることになる。この辺って厄介なモブが多いんだよな……。ちょっと鬱だ。

 

「あ、なあ。ハチ、これ」

 

 転移門広場へと足を踏み入れたところで、後方から声が掛かる。振り返ると、広場入口に置かれた掲示板の前でキリトが立ち止まっていた。アインクラッドに存在する大きな街の中には度々こういった掲示板が置かれており、その街で受注出来るクエストなどが掲示されていたりするのだ。一応手数料を払えばプレイヤーも掲示物を貼り付けることが出来るが、それを利用する人間はあまり多くない。

 

 掲示板の前で足を止めたキリトは、食い入るようにそれを見つめていた。何か気になるクエストでも見つけたのだろうか。そう思って俺がキリトの視線の先に目をやると、1枚の新聞の切り抜きが目に入る。《Weekly Argo》と銘打たれたその新聞の大見出しには、でかでかと『睡眠PKにご用心』と書いてあった。

 

「アルゴんとこの新聞か……」

「これって、多分ALFからの依頼よね? 睡眠PKについて注意喚起するって言ってたし」

「だろうな。ALFにも伝手があるのか、あいつ」

 

 アスナとそんなやり取りをしながら、その記事に目を通す。そこには先日新たに発見されたPKの手口《睡眠PK》について、その詳細と注意喚起を促す内容が綴られていた。加えて、小見出しには今までに見つかっているPKの手口が幾つか載せられている。《モンスターPK》に《カウンターPK》に《ポータルPK》に、今回見つかった睡眠PKか……。物騒過ぎだろ。やっぱり外は怖いな。引きこもりたい。

 

「ねえ、このポータルPKって何?」

 

 身を屈めてその記事に見入っていたアスナが、ややあってそう問いかけた。こういったことはキリトの方が詳しいのだが……と思いながらキリトに視線を向けると、当の本人は未だアルゴの新聞を読んでいて話を聞いていない様子だったので、代わりに俺がその質問に答えることにする。

 

「そこに書いてあるだろ。回廊結晶の出口を最前線の迷宮区とかモンスターが多い場所に設定して、殺したいプレイヤーをゲートに放り込むんだ。まあ確実性は低いし、馬鹿高い回廊結晶使ってそんなことする奴は――」

 

 ――回廊結晶?

 

 自分で口にしたその言葉に、俺は何か引っかかりを覚えた。

 回廊結晶――任意で登録した座標に、プレイヤーを送り込むことが出来る消費アイテムだ。制約付きのどこでもドアーだと思えば分かりやすいだろう。ボイスコマンドを唱えたプレイヤーだけが移動する転移結晶と違い、ワープゲートを設置するタイプのアイテムなので1度に大人数が移動できる。もちろんワープは一方通行だ。

 

「なるほどね。……って、あれ? ハチ君どうしたの?」

 

 突然黙り込んでしまった俺の様子を訝しみ、アスナが首を傾げてこちらをのぞき込んだ。しかし1人思索に耽っていた俺はそれに取り合うことなく、キリトへと視線を向ける。

 

「……なあ、キリト。回廊結晶の位置登録って、圏内でも出来たよな?」

「ん? ああ。確か特に制限はなかったような気がするけど、それがどうかしたのか?」

 

 突然の質問に、その意図を理解しかねた様子で2人は俺の顔を見つめた。その訝し気な視線から俺は反射的に目を逸らしつつ、再び思考を巡らせる。

 回廊結晶。殺されたグリセルダ。事件の裏にちらつくジョーの影。そんな雑多な事象が、俺の頭の中で少しずつ繋がりを持ち始めた。

 

「確信はない。でも、もしかしたら……ジョーがグリセルダ殺害にどう絡んでるのか、見えて来たかもしれない」

 

 長い沈黙の末、俺は思考を垂れ流すようにそう呟いた。その言葉に続いて、隣に立つキリトとアスナが呆けたように声を上げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日早朝。第1層、始まりの街。

 10月も下旬に差し掛かり、大分肌寒さを感じるようになってきた街の中を、俺、キリト、アスナの3人は並んで歩いていた。アインクラッドには1年中気候が固定されている層もあるが、大体はこの第1層のように四季が移り変わっていく仕様になっている。

 ちなみに早朝とは言いつつもそこまで早い時間ではないのだが、ゲーマーというのは往々にして活動の時間帯が夜に偏っていく生き物だ。体感的には朝5時くらいに思える。始まりの街はアインクラッドの中でもプレイヤー人口の多い場所だが、やはりまだ大多数のプレイヤーは活動時間を迎えていないようで通りに人はほとんど見かけなかった。

 

 では何故俺たち3人はこんな朝から外を出歩いているかと言うと、日課の朝練を終えて帰るところだからだ。朝練というのは実戦形式の模擬戦のようなもので、第1層に戻ってきている間だけだが一応毎日欠かさず行っている。俺1人だったら確実に三日坊主……どころか、やろうとも思わなかっただろうが、キリトに参加すると約束してしまった手前重たい瞼をこすってなんとか参加している。まあ実のところ毎度キリトに叩き起こされて強制的に参加されられているんだが……。

 

 いつもは俺とキリトの2人だけの訓練だが、今日はアスナも参加している。彼女は昨日からうちのギルドホームに泊まっていたので、朝出かける俺たちを見かけて付いてきたのだ。恨めしそうな顔で「今まで2人でそんなことしてたのね……。私も誘ってくれればよかったのに」などと口にしていたので、ならばとキリトとの朝練はアスナに譲って俺は二度寝でもしようかと思ったのだが、2人にダブルパンチをくらって強制参加を余儀なくされた。解せぬ。

 

 さてそんな経緯で訓練所に赴き、1時間ほどの朝練を終えたので俺たちは一旦ギルドホームに帰るところだ。いつもは模擬戦で戦績の悪かった奴が朝食を奢る取り決めなのだが、泊めてくれたお礼にと今日はアスナが何か作ってくれるということで直帰コースとなっている。施しを受けるのは嫌いだが、お礼と言うのなら吝かではない。今日の模擬戦はキリトとアスナにボコボコにされたので、ありがたくご馳走になるとしよう。

 

「ハチ君さ、何か今日調子悪かった? 模擬戦の時、動き鈍かったけど。手加減してた……とかじゃないよね?」

 

 道すがら、アスナがこちらに目をやりながらそんなことを口にした。こいつ、皮肉とか嫌味とかじゃなくて本気で言ってるんだろうな……。むしろ今日は目覚めも良くて調子が良い方だったし、もちろん手加減もしてない。

 

「お前さ、キリトとか自分基準で考えてるだろ……。自分で言いたかないけど、単純に実力の差だ。つーか地味にへこんでるんだから、追い打ちかけんなよ……」

「え、でもいつもと動きが全然違ったよ?」

「いつもって、それモブ狩ってる時の話だろ? プレイヤーを相手にするのとじゃ勝手が全然違うっつーの」

「それはそうだけど、それとはまた別っていうか……」

 

 俺の返答に対しアスナは何やら納得がいかない様子で首を傾げていたが、結局続く言葉が見つからなかったようで黙り込んでしまう。こいつは何がそんなに引っかかっているのだろうか。そう疑問に思った俺も同様に首を傾げたが、しかしそれを横から見ていたキリトがアスナの言葉を継ぐように口を挟んだ。

 

「多分だけど、ハチは考え過ぎなんだよな。どこから攻めるのが効果的か、とか、攻撃を受け止めるべきか、弾くべきか、避けるべきか、とか。最善を模索し過ぎて、逆に動きが遅れてる感じ。実践だとそんなことないんだけど、こういう模擬戦だと逆に考える余裕があるから」

「あー……なるほど。確かにそれはあるかもな」

 

 頷きながら、キリトの言葉を反芻する。その言葉は俺にとって意外なほど腑に落ちるものだった。この朝練を始めた最初の頃はキリト相手にもそれなりに善戦出来ていたのだが、何となくキリトの動きが目で追えるようになり、矛を交えながらも色々と考える余裕が出てきてから逆に勝率が落ちていったのだ。今までは単純にキリトが急成長を遂げたものだと思っていたのだが、原因は俺の方にあったのかもしれない。

 

「一種のスランプってこと?」

「んー、ちょっと違うんじゃないか? これは剣道やってた祖父ちゃんからの受け売りなんだけど――『稽古で迷いに迷って失敗するからこそ、実践では迷いなく最善の手を選ぶことが出来る』んだってさ。狩りの動きとか見てると、特訓の成果は出てると思うよ」

「ふぅん……。よく見てるのね、ハチ君のこと」

 

 祖父が剣道をやっていたとすると、その影響でキリト自身も剣道をやっていたりしたんだろうか。そう考えればあの尋常ならざる剣捌きも少しは納得できるかもしれないな――などとキリトの話を聞き流しながら俺が考えていると、何やら含みのある表情のアスナがそう呟いた。海老名さんが聞いたら卒倒しそうな台詞だ。まあ当然こっちにその気はないので、変に勘ぐられないうちに話題を変える。

 

「ところでお前ここんとこずっとこっちにいるけど、ギルドの方は大丈夫なのか? 仮にも副団長様だろ?」

 

 カインズとヨルコに会ってからここ数日の間、アスナは血盟騎士団とは別行動を取って俺たちとジョーの捜索を行っていた。一時的ではあっても副団長の戦線離脱は血盟騎士団の中で反発があるかと思ったのだが、案外器の大きい人物なのかヒースクリフからはあっさりと許可が下りたらしい。しかしさすがにここまで長丁場になるのならば少し考え直さなければならないだろう。

 俺の問いに対しアスナは「仮にもは余計よ!」とこちらを軽く睨み付けてから改めて口を開く。

 

「団長とは何度もメッセージのやり取りをしてるし、今のところ問題ないわ。一応40層のボス部屋が見つかったら一旦戻るつもりだけど」

「40層か……俺とハチは迷宮区の浅いところでレベリングだけ済ませちゃったけど、探索の方は進んでるのか?」

「昨日の夜に聞いた話だと、そろそろボス部屋が見つかりそうな感じだって。早ければ今日にも見つかるんじゃないかしら」

 

 キリトの問いに、アスナがそう答える。ボス部屋が見つかれば、アスナだけではなく俺たちも最前線に戻らなければならないだろう。黄金林檎やジョーの件も放置できる問題ではないが、俺たちの最大の目的はSAOからの脱出なのだ。正直どこにいるかも見当がつかない容疑者を、いつまでも探しているわけにもいかない。

 

「ん? あれヨルコさんとカインズさんじゃないか?」

 

 歩を進めながら、キリトがそう言って前方を指差す。そちらに視線を移すと、風林火山のホームの目の前で談笑するヨルコとカインズの姿があった。すぐに2人もこちらに気付いたようで、こちらに向き直って軽く頭を下げる。

 

「おはよう。どうしたんだこんな時間に?」

 

 先頭を歩いていたキリトが、2人にそう声を掛ける。俺はというと、ヨルコとカインズの存在に気付いてからすぐにさりげなくキリトの後ろに身を顰めていた。まあ、俺なりの処世術だ。会話をする上で立ち位置というのは存外重要なもので、少し輪から外れるだけであら不思議、かなり存在感が薄くなる。これでさらにシステムウインドウでも弄っていれば完璧だ。大抵の会話には参加しなくて済むようになる。一種のミスディレクションだな。

 そんな俺の思惑など露知らず、キリトと軽く挨拶を交わしたカインズとヨルコが口を開く。

 

「聴取の方が一旦落ち着いてね。今日は一度17層の家に帰ろうと思ったんだが、その前に君たちに挨拶をしておこうと思って」

「まだ事件が解決したわけじゃないですけど……皆さんのお蔭でやっと手がかりが掴めました。それにハチさんには最初に会った時に失礼なこと言っちゃいましたし……お詫びとお礼を兼ねてと思いまして」

 

 ヨルコがそう言いながらこちらに視線を寄越す。おい、俺のミスディレクション開始数秒で見破られてんじゃねえか。

 1人輪から外れてシステムウインドウを弄りながら我関せずと言ったスタンスを取っていた俺は、突然話題を振られたことに内心びくつきつつも努めて冷静に言葉を返す。

 

「あー……いや、そういうのは別にいい。実害があった訳じゃないし、結局問題はALFの方に丸投げしただけだし」

「いえ、それでも私たちは助かったんです。本当にありがとうございました。それと、色々とご迷惑をお掛けしてすみませんでした」

 

 俺の言葉は謙遜でも何でもなかったのだが、ヨルコとカインズはそう言って頭を下げた。律儀な奴らだな、と思いつつ俺はそれに適当に頷いて返し、今度こそ会話の輪から外れようと視線を外す。そんな不愛想とも取れる俺の態度を横目に苦笑いを浮かべていたキリトが、ややあって真剣な顔になって口を開く。

 

「そういえばさっきホームに帰るって言ってたけど……出歩く時は気を付けろよ。この事件、色々きな臭いことが多いからな」

「ああ、分かってる。今日は少し用事があるんだが……十分注意しよう」

「用事?」

 

 カインズの言葉に、アスナが露骨に訝しむような顔で問い返した。まあ気持ちは分かる。このタイミングで用事なんて色々と不穏なフラグの匂いがプンプンしてくる。そんな俺たちの危惧を知ってか知らずか、カインズは頷きながらその質問に答えた。

 

「黄金林檎の元メンバーでグリムロックという男がいるんだが……グリセルダが生前好きだったフィールドに墓を建てたそうなんだ。まあ、形だけだが」

「今日はグリムロックさんと一緒にそのお墓に行く予定なんです」

 

 死んでも死体の残らないSAOの世界だが、墓を建てるという行為は割と一般的だったりする。供養のためなのか、故人を偲ぶためなのか……。ちなみにシステム的に墓を建てるという行為が出来る訳ではないので、大体何か代用品を故人の墓に見立てていることが多い。

 そういう訳でSAOの中で墓参りというのも、それほど不自然な要件ではない。だが、先ほどカインズは「フィールドに墓を建てた」と言った。つまりその場所は圏外であり、PKの恐れもある。普段であればそれほど警戒する必要もないだろうが、このタイミングでということが気にかかった。それはアスナも同じだったようで言いづらそうに再び口を開く。

 

「こう聞いてはなんなんだけど……そのグリムロックって人は信用できるのかしら?」

「それは大丈夫です。グリムロックさんが犯人だなんてありえません」

 

 問われたヨルコは躊躇うことなくそう言い切った。何故そこまで信用できるのかと逆に俺が訝しんでいると、補足するようにカインズが口を挟む。

 

「グリムロックとグリセルダの2人はゲーム内で結婚していたんだ。本人から直接聞いたわけではないが……現実世界でも親密な関係のようだった。グリセルダが死んだと知った時のあいつの落ち込みようは見ていられなかったよ」

 

 婚姻システム。自分には全く縁のないものだったのでどういった効果が得られるのかまでは知らないが、そういったシステムが存在することだけは聞いたことがある。SAOではアバターがリアルの自分に即したものだし、脱出する手段がない以上、このSAOの世界が今の俺たちにとっての現実だ。だからゲーム上の婚姻とはいえそれほど気安いものではないはずだし、現実世界でも知り合いだったというのなら実際に夫婦関係だった可能性もあるかもしれない。まあそれも推測の域を出ない話だが、2人にそれなりの信頼関係があったのは確実だろう。

 

「……夫婦関係だったからって、無条件で信用するのはどうかと思うぞ。むしろ、近しいからこそ許せないこととかあるだろ」

 

 思わず、口を出していた。血の繋がった家族でさえ時にはすれ違い、いがみ合うのだ。ましてや夫婦など元は赤の他人だし、男女の仲というのは往々にして複雑なものだ。夫婦仲が拗れて事件に発展、なんてのはよくある話だろう。いや、そんなに語れる程ちゃんと恋愛なんかしたことないんだけど。

 

「……君の言っていることも理解はできる。だが、それでも俺たちはグリムロックを信じたいんだ」

 

 俺の無神経な言葉にも気分を害した様子はなく、カインズは真摯な顔でそう答えた。隣のヨルコも同意するように頷く。本人たちがそう言うのなら、他人がとやかく口を出す問題ではないだろう。そう思い、俺はそれ以上の言及を控えた。

 人間関係に絶対などない。あるのは絶対と信じたい自分の心だけだ。リスクを承知でその気持ちに身を委ねるなら、その関係はきっと本物なんだろう。

 

 その後、いくつかのやり取りを交わしてヨルコとカインズは去って行った。街の中心部に消えてゆく2人の後姿を見送った後、俺たちもすぐに自分たちのホームへと帰宅したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギルドホームでアスナの用意してくれた朝食を食べ終えた俺たちは、軽く休憩を挟んでから第34層で経営しているというサチの店に向かった。正確に言えばアスナの知り合いである女鍛冶師と共同経営をしているそうだが、その相手とはまだ話したことがない。というか1度店で見かけたことはあるのだが、ピンク髪ショートの若干ビッチ臭がする女プレイヤーだったのでなるべく関わらないようにしている。確実に俺とは合わないタイプの人間だ。いや、俺と合うタイプの人間なんてほとんどいないんだが。

 

 幸い今日は件の女鍛冶師は留守にしており、午前中だったからか他の客の姿もなかったので気兼ねなくサチに装備品のメンテナンスを頼むことが出来た。ちなみに鉄製の武具は攻略組での需要が高く、それをあてにした中層の鍛冶屋も良く上層の方まで出張してくるので、俺たちの武器やアスナの軽鎧などのメンテナンスは既に済んでいる。

 

 そして小1時間ほどでサチによる装備の修繕も済んだので、次は消耗品の補充かとキリトたちと相談していた時のことだ。システムウインドウの右上に、新着メッセージを知らせるアイコンが点滅していた。事件捜査の進展を告げる雪ノ下からのメッセージが、俺たちの下に届いたのだった。

 

 

 

 

「シュミットが白状したわ」

 

 前置きなどはせず、雪ノ下はそう切り出した。先日、ヨルコやカインズと共に案内されたALFの応接室だ。今日は俺、キリト、アスナの3人しか居ないため、部屋が少し広く感じる。若干の居心地の悪さを感じながら、俺は用意された紅茶に手を付けつつ雪ノ下の次の言葉を待っていた。

 本格的な事件の捜査は全てAFLに任せていたが、一応進行状況などはこちらにも逐一連絡が入っている。昨日の時点の話では、ほとんどの黄金林檎の元メンバーには特に怪しいところもなくアリバイも堅いので既に事情聴取も済ませて保釈したそうだが、シュミットについては証言に一貫しない部分も多く未だ勾留中ということだった。多分この数日の間、雪ノ下にこってり絞られたんだろう。考えただけでも胃が痛くなる話だ。俺だったら1日でノイローゼになる自信がある。

 

「少し癪だけれど、概ねハチ君の推測通りと言ったところだったわ。あなたの情報がなれけばもう少し手間取っていたでしょうね」

 

 情報というのはおそらく昨日俺がメッセージで送った内容のことだ。キリトやアスナとの会話で気付いたことを、何か捜査の手助けになればと雪ノ下に伝えておいたのだ。まあ情報とは言っても確信はなく、単なる思い付きに近い話だったのだが、そこからすぐにシュミットの証言を引き出すあたりはさすが雪ノ下といったところか。こんなことを一晩でやってのけるのはジェバンニと雪ノ下くらいだ。

 そんなくだらないことを考えている俺を尻目に、雪ノ下の話に食いついたキリトが身を乗り出して口を開く。

 

「やっぱり回廊結晶を使った手口だったのか?」

「ええ。少しかまを掛けてみたら青い顔をして色々話してくれたわ。ただ、どこまで信用していいのか判断に困る部分もあるのだけど……」

 

 そこで一旦言葉を切り、雪ノ下は少し言葉を探すように沈黙した。ややあって、シュミットの証言を順を追って語りだしたのだった。その概要はこうだ。

 

 グリセルダが神速の指輪を売りに最前線へと行くことが決まったその日、シュミットはギルドの共有ストレージに自分宛てのアイテムを見つけたらしい。それは回廊結晶と一通の手紙だった。手紙にはこう記してあったそうだ。

 ――指輪を盗んで、売った金を2人で山分けしないか? この話に乗るなら、グリセルダの泊まる宿を訪ねて彼女に気付かれないように回廊結晶の位置登録をして欲しい。位置登録を済ませた回廊結晶を共有ストレージに入れておいてくれれば、後はこちらで何とかする。

 馬鹿な話だが、シュミットはこの話に乗ってしまったらしい。彼が手紙の指示通りに動いた結果、グリセルダは殺され、後日指輪を売って手に入ったであろう大金が彼のもとに送られてきたそうだ。殺人の片棒を担いでしまったという事実に怖くなった彼は、今までそれを黙っていたらしい。

 

「それから彼は『こんなことになるなんて思ってなかった』『殺すつもりなんてなかった』と繰り返しているわ」

 

 そこで雪ノ下の長い語りが終わり、部屋に静寂が降りる。

 雪ノ下の言った通り、確かにどこまで信じていいのかよくわからない話だ。実際にはシュミットが主犯で、罪を逃れるために適当な嘘を言っているというパターンが1番丸く収まるのだが……どうにもそれも腑に落ちない部分が多い。

 シュミットの証言については各々思うところがあったようで、しばらくキリトもアスナも頭を抱えるようにして何か考えていた。やがて困ったような顔で頭を掻いたキリトが沈黙を破る。

 

「色々と反応に困る話だけど……とりあえず、犯行に回廊結晶が使われた可能性は高いって考えていいのかな」

「ええ、それについては同意見よ。よくもまあこんな方法を思い付くものだわ。きっと犯人は相当性格が捻くれているのでしょうね」

「……おい。こっち見んな」

 

 雪ノ下が何やらこちらを揶揄するような視線を送ってきた。いや、確かに気付いたのは俺だけども。

 宿屋の一室を回廊結晶の出口として位置登録を行っておき、夜寝静まった頃にそれを使用して忍び込むという方法。これならば例えドアの開錠設定が利用者以外開錠禁止となっていたとしても難なく部屋に入ることが出来る。グリセルダと顔見知りのプレイヤーだったら泊まっている宿を訪ねるのは不自然なことではないし、回廊結晶の位置登録は簡単なボイスコマンドだけなので宿主に気付かれないように済ませることもおそらく可能だ。

 昨日のポータルPKについての会話からヒントを得てその方法に思い至った俺は、その日のうちにそれを可能性の1つとして雪ノ下に伝えておいたのだ。結果ズバリ予想が的中したという形になったが、正直あまり嬉しくない。事件の複雑さが増しただけだ。

 

「でも、その話ってどこまで信用できるのかしら……」

 

 そこで、当然の疑問をアスナが口にする。ここに来てから事件の形相が二転三転しているのだ。正直何を信じていいのか良くわからなくなってくる。

 だが、俺自身はシュミットの証言は多少信用してもいいのではないかと考えていた。決してシュミットという人間を信用しているわけではないが、話を聞く限りにひしひしと感じるそいつの小物臭からは、こんな事件の黒幕を出来るような印象は受けない。

 

「……案外、全部本当だと考えると辻褄が合うけどな。ジョーのことを考えれば少なくとも1人は共犯がいるわけだし、回廊結晶を使ったんだとすればシュミットが事件当時にアリバイを作るのは簡単だったはずだ。なのにそれがないってのは逆におかしい」

 

 俺の話を、3人は否定も肯定もせずに黙って聞いていた。こちらを見つめる雪ノ下とアスナの視線から目を逸らしつつ、俺は更に言葉を続ける。

 

「それにそのシュミットって奴も色々と間抜けっぽいしな……。こんな手間のかかってる事件の主犯だってよりは、騙されて利用されたって方がまだ納得できるぞ」

 

 事件の主犯だと考えればアリバイを作っておかなかったことを含めて、ここまでの立ち回りが間抜け過ぎる。そんな奴がこんな手の込んだ事件を起こすことが出来るだろうか。真犯人に利用されたと考える方がまだ説得力がある気がする。

 指輪を盗み出す話を持ち掛けられた時にバックレられる可能性を考えなかったのか、とか色々思う部分もある。俺だったら確実にそんな話には乗らないし、金が欲しいだけだったら回廊結晶だけ受け取ってバックレた方が手堅いしリスクもないのだ。だがそれもシュミットがそんなリスク計算も出来ないアホの子だったと考えれば説明が付いてしまう。アホなおっさんとかマジで誰得だよって話だが。

 最終的にはそんな身も蓋もない推理になってしまったが、それなりに説得力はあったようで向かいに座る雪ノ下は瞑目してゆっくりと頷いた。

 

「あなたの考えには概ね同意するけれど、今ここで判断を下すつもりはないわ。ひとまず多方面から調査するつもりよ」

「まあ、それが妥当だな」

 

 雪ノ下の言葉に、こちらもそう言って相槌を打つ。俺としてもこんな無茶な理論を強弁するつもりはなかったし、現時点では雪ノ下の判断が正しいだろう。

 

「けど仮にシュミットの話が本当だと考えてみると……やっぱり他の黄金林檎の元メンバーの中に主犯がいるってことになるんだよな。ユキノさん、それらしい奴に目星とかついてるのか?」

「聴取では怪しい人物は見つけられなかったわ。だからこれからはまず回廊結晶の流通経路から調べていくつもりだけれど――」

「ああ、そのことなら」

 

 そう言って、キリトが雪ノ下の言葉を遮った。システムウインドウを呼び出す動作をしながら、話を続ける。

 

「一応俺らの方でエギルって奴に頼んで、その辺りのことは探ってもらってる。まあ昨日メッセージ送ったばっかだからまだ時間掛かるだろうけど」

「エギルさん――アインクラッド商人組合のギルドマスターね。そんな人に伝手があるなんて、キリト君とアスナさんは顔が広いのね」

「おい。しれっと俺を除外すんな。俺も一応フレンドだから」

 

 さすがユキペディアさん。SAOの中にいるプレイヤー全員把握してるまである。……とか適当なことを考えていたら、何やら遠まわしな嫌味が飛んできた。何かちょいちょい会話中にジャブ打ってくるなこいつ。そろそろボディーに効いてきたんですけど。

 

「……お。噂をすれば、エギルからの連絡だ」

 

 俺がげんなりした気分で雪ノ下に視線を送っていると、隣のキリトがシステムウインドウを弄りながらそう呟いた。エギルから届いたらしいメッセージに目を通しながら、さらに言葉を続ける。

 

「仕事が早いな。とりあえず事件前の1ヶ月間で回廊結晶を買ったプレイヤーをリストアップしてくれたみたいだ。組合に所属してる商人だけの話だからこれが全部じゃないみたいだけど――なっ!?」

 

 何かに気付いた様子のキリトが驚愕の声を上げ、メッセージウインドウをスクロールしていた指先を止める。驚きに目を見開いたキリトの横顔を一瞥し、俺はメッセージインドウを覗き込んだ。

 

「……どうした?」

「これ……!!」

 

 言いながら、キリトは震える指先で何かを差す。訝しみつつ俺がその先に視線をやると、リストアップされたプレイヤー名が羅列される中、見覚えのある名前が目に入った。

 

 ――Grimlock



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第17話 笑う棺桶

「グリムロックさん、今日はお誘いありがとうございます」

「いや、こちらこそ感謝しているよ。彼女も喜ぶだろうしね」

 

 丁寧に頭を下げるヨルコに対し、男は笑みを浮かべてそう返した。ヨルコとカインズが戦闘用の装備を着込んでいるのに対し、グリムロックと呼ばれたその細身の男は黒いハットに揃いのロングコート、丸いサングラスと随分とカジュアルな服装をしている。彼自身のLVが低いことも相まっておそらく戦闘に耐えられる装備ではないだろうが、この周辺はモブのポップ率が異常に低く、加えて非アクティブのモブ――プレイヤー側から攻撃しない限り戦闘にならないタイプのモブ――しか生息していないために問題はなかった。

 

 第19層。主街区からほど近いフィールド《十字の丘》

 

 霧が深く昼間でも薄暗いこのフロアにぽつりと存在するその大きな丘は、ゲーム内で特に語られることはないがおそらく墓地に当たる場所なのだろう。ぽつぽつと点在する枯れ木の合間には、落ち葉に埋まった墓石のようなものが見受けられた。

 その中の1つ。一際大きな、幹の捻じれた巨木の前に鎮座する墓石。ヨルコとカインズをここまで案内したグリムロックは、それがグリセルダの墓だと説明した。明らかな代用品だったが、このSAOの世界では特に珍しいことでもない。招かれた2人は特に疑問も抱くことなく、ただ故人の冥福を祈っていた。

 システム上線香をあげることなどは出来ないが、3人は各々墓前に供えられるものを持参してきているようだった。ヨルコとカインズは19層の街で購入した花を、グリムロックは小洒落た酒瓶をそれぞれアイテムストレージから取り出す。

 

「彼女が好きだったお酒でね」

「へえ……。グリセルダさんって、お酒駄目な人だと思ってました。飲んでいるところも見たことなかったし」

「……あまり人前で飲む人ではなかったんだよ。2人きりの時は良く一緒に飲んでいたんだけどね」

 

 そんな会話を交わしながら2人は墓前に花を添え、グリムロックはさらにストレージから取り出した小さなグラスを4つ並べて酒を注いだ。不思議そうな顔を浮かべるヨルコとカインズを尻目に全ての杯に酒を注ぎ終えたグリムロックは、なみなみと注がれたその杯を両手に持って2人の前に差し出す。

 

「こういうお供え物と言うのは本来、供えた後は皆で頂くものなんだ。故人との繋がりを持つ、という意味でね……。よかったら、一献受け取ってくれないか?」

「……頂こう」

 

 何となく違和感を感じつつも、2人は頷いて杯を受け取った。グリムロックも自分の分を再び墓前から拾い上げ、2人に向き直って小さくそれを前に掲げる。「グリセルダの冥福を祈って」と小さく呟いた彼は、目の前の2人が杯を呷るのを確認してから自分もそれに口を付ける――振りをした。

 巧みな誘導だった、と言えるだろう。違和感を覚えつつも、彼らにはそれを断るという選択肢が選べなかったのだから。杯を飲み干すまで、ついぞ2人はグリムロックの口元に浮かんだ厭らしい笑みに気付くことは出来なかった。

 

「ぐっ!? これは……」

 

 呻き声を上げて、カインズが膝を折る。ほぼ同時にヨルコも蹲るようにして地面に突っ伏した。2人の手から落ちたグラスが、青白い光を放って砕け散る。それを視界の端に収めながら、カインズは自分のHPバーに目をやった。緑色に伸びるHPバーの右隣に点滅する、黄色い稲妻のようなマーク。《麻痺》の状態異常を示すそれが、そこに存在した。

 麻痺――それは現在SAOの中で、最悪のバットステータスだと言われている。ポーションや結晶などのアイテムで治癒が可能なものの、全身が痺れ指先を動かすことさえ難しくなるために自力では治癒が困難であり、戦闘中にソロプレイヤーがこれにかかった場合はほとんどゲームオーバーへと直結する。パーティを組んでいたとしても、複数人がこれに掛かれば被害は免れない。

 

 混乱する頭で、2人は必死に考えていた。何故、誰が、と。それはもはや明確なことであったが、彼らは未だ現実を受け入れることが出来ないでいた。しかしそんなことには構うことなく、この事態を引き起こした張本人であるその男は虚ろな目で2人を見下ろしながら言葉を投げかける。

 

「ごめんね。でも僕が捕まってしまうのも、おそらくもう時間の問題なんだ。こうでもしなければ……」

「グ、グリムロック……お前、何を――」

 

 痺れる舌を必死に動かし語り掛けるカインズだったが、何かに気付いた彼はそのまま言葉に詰まってしまった。自分たちを見下ろすグリムロックのその向こう。薄っすらと人影が現れたのだ。その数4つ。

 黒いポンチョを羽織った、不気味な集団。そのうち2人はフードの下にさらに奇妙なマスクをつけている。そして何よりカインズとヨルコを驚愕させたのは、彼らの頭上に浮かぶカーソルの色だった。

 

 ――犯罪者(オレンジ)

 

 マスクを付けた2人と、大柄な男の頭上には鮮やかなオレンジカーソルが浮遊していた。こちらに近づいてくるその集団を仰視していたカインズは、さらに大柄な男の右頬に青い刺青があるのを見つけて冷や汗を流す。あれは噂の殺人(レッド)プレイヤーではないのか。

 

「おっほォ! ナイスな手際だ! いいねェ、お前みたいなゲス野郎は嫌いじゃないぜェ」

 

 頭陀袋のような黒い布で顔を隠した小柄な男が、嬉々とした様子で声を上げた。その仕草はまるで子供の様だ。グリムロックの隣に立ったその男は、よくやったと言わんばかりにその肩をポンポンと叩く。しかしその隣に立っていた4人の中で唯一グリーンカーソルのプレイヤーが、その様子を見ながらため息をついた。

 

「品がないなぁ。僕あまりこういうの好きじゃないんだけど」

「テメェは気取り過ぎなんだよっ! なあヘッドォ! アレやろうよアレ! 2人で殺し合わせて生き残った方は見逃してやるゲーム!」

「そんなこと言って、ジョニーさん2人とも殺しちゃうパターンでしょ」

「おいジョー! それ言っちゃあゲームになんないだろォ!」

 

 漫才のように、そんなやり取りを交わす2人。それを横目に、ヘッドと呼ばれた刺青の男は呆れたように声を上げた。

 

「ちったぁ静かに出来ねえのかお前らは……。おい。とりあえず身包み剥げ。転移なんかされたらつまんねえからな」

 

 おそらく4人の中で、この刺青の男がリーダーなのだろう。その指示に適当に返事を返した先ほどの2人が、ヨルコとカインズの後ろに立つ。そしてその右手を取ってシステムウインドウを呼び出させると、アイテムを差し出させるべくそれを操作しだした。麻痺に掛かっている彼らに、それに抗う術はなかった。

 そこまできてようやく2人は自分の置かれている立場を、そしてこの状況が示す意味を理解し始めた。しかし一縷の望みをかけて、ヨルコはグリムロックに問いかける。

 

「グリムロックさん……これは、どういうことなの……!?」

「あぁ? まだ分かんねえのかぁ? そいつは自分の女を俺らに売ったんだよ。で、次はお前らってことだ」

 

 ジョニーと呼ばれた小柄な男が、ヨルコの手を取りながら無慈悲にもそう答える。彼女はその言葉には取り合わずグリムロックへと視線を送り続けていたが、グリムロックは決して目を合わせようとはせず、虚ろな瞳を彷徨わせながら沈黙するだけだった。

 何故、何も答えてくれないのか。この男たちは何者なのか。湧き続ける疑問に解答をもたらしてくれるものは何もなく、ヨルコとカインズの胸中には絶望だけが広がっていった。

 

 ――ここで、私たちは死ぬのだろうか。グリセルダさんの無念を晴らすことも出来ず、この男たちに弄ばれて。

 

「おい、無駄口叩いてねえでさっさと――」

「ボス。誰か、来る」

 

 苛立った様子で口を開いた刺青の男の言葉を遮り、今までずっと黙り込んでいた髑髏を模したマスクの男が短く声を上げた。ポンチョを翻し腰に佩いたエストックに手を掛けたまま、その目を虚空へと向ける。視線の先には何もないように見えたが、フードの下で赤く揺れるその瞳は確かに何かを映していた。

 薄暗い視界の中、無数の点が煌めく。刹那、飛来したそれは刺青の男の額、胸、手足を正確に捉えていた。しかし赤目の男が持つエストックが目まぐるしく動き、その全てを叩き落とす。弾き飛ばされたその1つが足元に転がり、カインズはその時ようやくそれが投擲用のナイフだということに気付くことが出来た。

 投げナイフの弾幕に続いて、白と黒の2つの影が駆け抜ける。レイピアを携え紅白の軽鎧を纏う少女と、直剣を片手に黒のロングコートをはためかせる少年。2人はヨルコとカインズのアイテムを漁っていた男たちに一撃を食らわせてそれを引き離すも、互いに武器を合わせただけでダメージを負うことはなかった。彼らはそのままヨルコとカインズを庇うように位置取り、男たちと対峙する。

 そしてそれに一拍遅れて駆け抜ける、3つ目の影。槍を手にしたその少年は刺青の男だけを狙って強襲を掛けた。赤目の男が庇うようにして前に立つも、そのエストックの一撃を槍の柄でいなしつつ這うような体勢から刺青の男に向かって突きを放つ。しかし渾身の一突きは身を捻って悠々と躱され、次の瞬間少年は赤目の男と刺青の男の挟撃に晒された。咄嗟に槍を回転させそれを牽制し、大きく距離を取る。そして互いに武器を構えながら、戦況は硬直に陥ったのだった。

 

 数秒間の息を飲む攻防戦から、一転して訪れる間隙。互いの鼓動さえ聞こえてきそうな静寂が、その場を支配する。やがて永遠とも思えるようなその沈黙を破ったのは、刺青の男の狂ったような笑い声だった。ひとしきり腹を抱えて笑った後、大きく息をついたその男は至極楽しそうに口を開いたのだった。

 

「久しぶりだってのに、随分とご挨拶じゃねえか――ハチ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 考えうる限り、最悪の状況だった。

 刺青の男。ジョー。グリセルダ殺害事件。やはり全て繋がっていたのだ。周囲を見回しつつ、俺は全てを悟った。

 グリーンカーソルのあの見知らぬ男が、おそらくグリムロックだろう。ヨルコとカインズの2人が麻痺を食らってダウンしているのを見るに、奴に騙されて薬でも盛られたのかもしれない。現状攻撃した相手を麻痺させるような武器は確認されていないのだ。

 そして問題は黒いポンチョを羽織った4人組だ。忘れもしない、あの刺青の男。そしてもう1人、中肉中背のあの男には見覚えがある。4人の中で唯一グリーンカーソルの、腰に刀を佩いた短い茶髪の男プレイヤー。おそらくはあいつがジョーだ。残りの2人に見覚えはなかったが、間違いなく刺青の男の連れだろう。

 

 回廊結晶購入者リストの中にあったグリムロックの名前。そして今日彼と共に出かける予定があると言ったヨルコとカインズの2人。そんな断片的な情報から俺たちはここにたどり着いたのだ。

 グリムロックがグリセルダ殺害の犯人だと決まったわけではなかったし、そして仮に犯人だとしてもヨルコとカインズに危害が及ぶ可能性は低いと俺は見ていた。だが万が一ということを考えて2人を追って俺たちはここへと赴いたのだ。フレンド登録を行ったプレイヤー同士は、お互いの位置情報を詳しく知ることが出来る。いつの間にかヨルコとフレンド登録を済ませていたアスナには感謝しなければならないだろう。

 

 正直に言えば今の今までここまでの事態は想定していなかったが、咄嗟に飛び出してきてしまった手前もう後に退くことは出来ない。構えた槍を握り直しながら、俺は覚悟を決めた。

 まず優先すべきは全員が生き延びること。そして叶うことなら奴らの捕縛だ。しかし、後者は厳しいだろう。プレイヤーの捕縛は色々と条件が整わなければ難しいのだ。この状況でその条件を満たせるとは思えない。

 しかし俺たちも何の策もなくここに来たわけではない。最悪の場合に備えて、ALFからの援軍も来て貰える手筈になっているのだ。部隊を召集するのに少し時間が掛かるそうだが、俺たちから特に連絡がなければALFの高レベルプレイヤーたちをこちらに向かわせるよう雪ノ下とは話がついている。つまるところ、俺たちにとって一番現実的な手段とは時間稼ぎだ。

 

 だがもしも戦闘になってしまえば、そんなことも言っていられなくなるだろう。ヨルコとカインズを守りながら、長時間戦うことなど出来るはずもない。そうなってしまえば選べる選択肢は、なるべく早く()()をつけることだけだ。

 大丈夫。俺には出来るはずだ。そう自分に言い聞かせる。今日ここで奴と再び相対するとは考えていなかったが、第2層で奴に、あの刺青の男に会った時から俺はずっと考えていたのだ。再び矛を交えることになった時には、もう迷わないと。

 俺の躊躇いを、以前雪ノ下は「人として正しい」と言ってくれた。確かに、あの時の俺の選択は人として正しいものだったのだろう。だが、きっと比企谷八幡の選択としては間違っていた。王道を歩めるのは力のある者だけだ。俺のような人間は邪道と罵られようとも次善の策を選び取っていかなければならない。それを見誤るから今回のようにどこかに歪みが生じるのだ。

 だから、もう迷うことはしない。いざその時がくれば、俺は、この槍で奴を――

 

「ちょっと見ない間に良い目するようになったじゃねえか。さっきの突きも殺気が籠った良い一撃だったぜ」

 

 思考に耽っていた俺を、刺青の男の声が現実に引き戻した。目を褒められたのなんか初めてだな、と内心自嘲気味に考えながら、俺は気を引き締め直す。

 冷静になれ。まずは柔軟に相手の出方を伺うべきだ。戦いになれば躊躇うべきではないが、ヨルコとカインズが一緒にいる現状ではなるべく戦闘は避けたい。キリトやアスナもPvPを覚悟してここまで来たわけではないはずだ。

 

「ヘッド、なんすかこいつ。知り合いっすか?」

「ああ。前にちょっとな。風林火山のハチっつったらお前らも聞いたことあんだろ?」

「え、マジっすか!? チョービッグネームじゃないっすか!! へぇー、こんなガキが……」

 

 頭陀袋のようなもので口元を隠した小柄な男が、刺青の男とそんなやり取りをしてこちらに視線を向ける。先ほどキリトが一撃を加えてヨルコから引き離した男だ。右手に持つ短剣で上手く受けたようで、こちらから少し距離は取っていたがダメージは負っていない様子だった。それはアスナの一撃をいなしたジョーというプレイヤーも同様で、刀を鞘に収めて遠巻きにこちらを伺っている。アスナもジョーもカーソルはグリーンのままだ。

 先ほどの攻防から受けた印象では、攻略組である俺たちともそれほどレベル差はないように感じる。やはりなるべく戦闘に持ち込むべきではない。

 俺がそうして状況を分析していると、刺青の男が何かに気付いたように声を上げた。俺は警戒しつつ、そちらに視線を戻す。

 

「そういえばこっちの自己紹介がまだだったな。俺のことはPoH(プー)って呼んでくれ。殺人(レッド)ギルド笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の頭張ってる」

「レッドギルド……?」

「Yes.Coolだろ?」

 

 PoHと名乗った刺青の男は、妙に流暢な英語で俺の呟きを肯定した。そして次いで右手袋に印刷されたエンブレムを掲げる。その名の通り、不気味に笑う棺桶がそこに描かれていた。よく見ると、グリムロックらしき男以外は全員体の何処かに同じエンブレムを身に着けていた。

 レッドギルド――殺人行為のことを、ゲーム内では暗にレッドと呼ぶ。ゲーム内で犯罪を犯すとオレンジカーソルになることから転じて、最も重い犯罪である殺人を、オレンジよりも濃い赤で表現したというわけだ。故につまり、レッドギルドというのは《殺人ギルド》ということだ。

 

 殺人(レッド)ギルド笑う棺桶(ラフィン・コフィン)。そしてその異常者たちの頂点にたつPoHと名乗る男。第25層事件も、グリセルダ殺害もこいつらの仕業なのか。

 

「……お前らに、聞きたいことがある」

 

 必死に冷静を装い、俺はPoHに向かって話しかけた。正直時間稼ぎのために駄目元で言ってみただけだったのだが、意外なことにPoHは「言ってみろ」とでも言うように右手を軽く振る。随分と機嫌がいい様子だ。俺はそのお言葉に甘えて、気になっていたことを問いかける。

 

「グリセルダって女プレイヤーを殺したのはお前たちか?」

「グリセルダ……ああ、あの女そんな名前だったか。そうだぜ。俺たちが殺した。そこの男に頼まれてな」

 

 言いながら、PoHはグリムロックと思われるプレイヤーを指差した。その事実にヨルコとカインズの顔が驚愕に歪む。ラフィン・コフィンのプレイヤーたちと対峙している故にまだ彼らの麻痺を治療している余裕はなかったが、麻痺とは時間経過で徐々に動けるようになるタイプの状態異常だ。少し時間が経ったからだろうか、ゆっくりと首を巡らせてヨルコはグリムロックを見据えていた。

 

「そんな……本当なの……?」

 

 そんなヨルコの問いかけにも、グリムロックは答えることはない。しかしそれを肯定と受け取ったのか、彼女は口早に捲し立てた。

 

「どうして……どうしてよグリムロック! あなた、グリセルダさんを愛してたんじゃないの!?」

「……愛していたさ。愛していたからこそ、僕は彼女を殺さなければならなかったんだ!」

 

 たまらなくなったように、グリムロックも大声で怒鳴り散らす。固く拳を握りながら巨木の前に設置された墓を見下ろし、次いで瞑目した。

 

「……彼女は、現実世界でも僕の妻だった」

 

 ぽつり、とそう漏らす。それからそいつは、堰を切ったように語りだした。

 

「可愛らしく従順で、文句のつけようのない完璧な妻だった。でもこの世界に来て、彼女は変わってしまったんだ……。強要されたデスゲームを受け入れることが出来ず、怯え、竦んだのは僕の方だった。彼女は水を得た魚のようにこの世界に馴染んで行ったよ。あんなのは僕が愛したユウコじゃない」

 

 ユウコ、というのは話の流れ的にグリセルダのリアルネームだろう。そこからはグリムロックの1人語りも熱を帯びてゆき、耳の下で切りそろえた黒髪を振り乱しながらまるで演説でもするように言葉を発していた。

 

「だからせめて……彼女が本当に変わり果ててしまう前に……僕が愛した彼女でいるうちに彼女を殺さねばならなかったんだ! 愛が失われる前に! 愛した彼女を永遠に思い出の中に閉じ込めたいと願った僕を、一体誰が責められる!?」

 

 そう捲し立てて、グリムロックはヨルコとカインズに視線を寄越す。あまりに独善的すぎるその独白に、2人は呆れ果てて言葉も出ない様子だった。しかしそれを横から見ていたアスナが、レイピアを構えたまま怒りを露わにグリムロックを睨み付ける。

 

「そんなの……そんなの愛情でも何でもないわ! ただの所有欲じゃない!!」

「君のような子供にはまだわからないだろうね……。たが、いずれ身をもって気付く時が来る。綺麗なままじゃ人を愛せないってことに」

 

 こいつも、きっとどこかが狂っているんだろう。本当の愛がどうのこうのというこっぱずかしい議論をするつもりはないが、最終的に殺しという方法を許容出来てしまう時点でこいつはどうしようもなく歪んでしまっているのだ。

 だからグリムロックの話を肯定する気などはさらさらない。だが、何故だろうか。そいつの呟いた最後の言葉は、俺の耳に重く響いた。

 

「……話は終わったみたいだな」

 

 つまらなさそうに右手の短剣を弄っていたPoHが口を開いた。狂人ではあるが案外空気は読めるのか、こちらのやり取りが終わるのを待っていてくれたようだ。話の途中で頭陀袋の男は耐えきれずに何やら茶々を入れようとしていたが、隣に立つジョーに諌められていた。PoHの隣に立つ赤目の男は最初の攻防戦以来腰に佩いたエストックに手を添えて佇んでいるだけで微動だにしていない。

 

「もういいか……。ザザ、やれ」

 

 PoHが、短く言い放つ。その言葉に俺は警戒心を一気に引き上げたが、それに反応した赤目の男はこちらには見向きもせずグリムロックの元までゆっくりと歩いていき――その胸をエストックで貫いた。

 どこからか、小さな悲鳴が上がる。相当なレベル差があったのだろう。ソードスキルを使っているわけでもないのにその一撃はグリムロックのHPを3分の2ほど削っていた。

 

「な、なんで……!? この2人を差し出せば、仲間に迎えてくれるはずじゃ――」

「悪いな。うちにはお前みたいな小物の席はねえんだよ」

 

 何でもないことのように、PoHはそう言ってグリムロックを突き放す。そして赤目の男が胸に深々と突き刺さったエストックを引き抜き、次いでその脳天へとその切っ先を向けた。放たれた殺気に射竦められてしまったのか、グリムロックはそこから一歩も動くことが出来ずにただ恐怖に顔を歪めるだけだ。

 

「うおぉぉぉぉおおぉ!!」

 

 瞬間、キリトが雄叫びを上げた。弾かれたようにその場を駆け出し、そのままの勢いで大地を抉るように下段から剣を振り抜く。その一撃が赤目の男のエストックを大きく跳ね上げ、間一髪グリムロックは命を繋いだのだった。

 甲高い剣戟の音が響く中、赤目の男とキリトの視線が交差する。そいつはキリトを敵と認識したようで、そのままキリトと交戦する体勢に入った。

 

 あの馬鹿、と俺は内心で毒づく。酷なようだが、あんなサイコ野郎を助けるために俺たちが危険を冒す必要などないのだ。そして同時に、そんな余裕もない。ヒーローが弱者を助けることが出来るのは強者だからだ。この4対3という状況、そしてヨルコやカインズというお荷物の存在を考えれば、今の俺たちは間違いなく弱者だった。弱者は弱者なりに、卑屈に、そして最低に、この状況を打開する方法を考えなければならなかったのだ。

 だが、既に戦端は開かれてしまった。このまま戦闘は避けられないだろう。キリトには後で文句を言ってやる。そう思いながら、俺は腹を括る。

 

 ヨルコとカインズを庇うようにして立つ俺とアスナ。ラフィン・コフィンの4人はそれを囲むように位置している。赤目の男の相手はキリト、俺の正面にはPoH、位置取り的にアスナには残りの2人の相手をして貰うことになるだろう。しかしいかに攻略組屈指の実力を持つアスナと言えども、後ろの2人を守りながらあのジョーと頭陀袋の男を同時に相手取るのは厳しいはずだ。故に、こちらはあまり時間を掛けられない。

 槍を構え、正面に立つPoHを見据える。グリムロックを助けた行動が意外だったのか、その視線はキリトに向けられていた。今なら、その隙を衝ける――殺せる。

 

 一気に、間合いを詰めた。そこでようやく、PoHがこちらに目を向ける。遅い。そう思いながら俺はソードスキルを発動した。

 トリップ・エクスパンド――現時点で俺が使える最強のソードスキルだ。6連撃のそれがフルヒットすれば、間違いなく相手のHPを削りきることが出来る。

 初撃が、PoHの右肩を貫いた。若干狙いを逸らされたことに舌打ちしつつ、半自動的に2撃目を放つ。しかしそれも奴の急所を捉えることは出来なかった。まるで暗器のようにポンチョの中から飛び出してきた短剣が刺突を逸らしたのだ。人間業ではない。続く3度目の刺突、2段の斬撃、一瞬の溜めからの大振りな薙ぎ払い、その全ての攻撃をPoHは舞うような動作で凌ぎ切った。そして肝心のHPは3分の1程度しか削れていない。

 

 スキル使用後の硬直の中、薄ら寒い笑みを浮かべたPoHと視線が交わる。不味い。そう思ったが、意外なことにPoHはソードスキルも、それどころか武器も使うことなく、俺を適当な動作で蹴り飛ばした。数メートル吹っ飛ばされはしたが、HPにほぼ変動はない。

 何故、という疑問はすぐに頭の隅に追いやった。無駄なことに思考を割く余裕はない。そうして俺は追撃を警戒しつつすぐさま体勢を整えたのだが、しかしPoHにはやはり動く気配がないようだった。仕損じたという焦りを胸に押し込めながら、その隙に俺は戦況を把握しようと努める。

 既に後方ではアスナもラフィン・コフィンの2人と交戦に入っているようだった。やはりヨルコとカインズが気になって上手く動けないのか旗色が悪い。キリトの方は優位に戦いを進めている様子だったが、人に刃を向けるという行為を本能的に嫌っているのか、どこか動きに迷いがあるように見えた。

 

 最悪の状況だ。この明らかに手札が足りない場面では、このまま正攻法で押し切れるはずがない。かと言って、既に奇襲は失敗しているのだ。このペースではALFの援軍も間に合うかもわからない。

 俺は思考を目まぐるしく働かせ、この状況を打開する方法を模索する。もういっそヨルコとカインズを見捨てて逃げるか? いや、アスナとキリトがそれを容認するはずがない。ならば何とか転移結晶を2人に使わせて――馬鹿か、そんな余裕があれば既にやっている。

 援軍の存在を仄めかし、撤退させる。もうこれしかない。はったりが通じる相手ではなさそうだが、それでも他に選択肢は思い浮かばなかった。苦し紛れでも、何もしないよりはましだ。

 

「お――」

「おい。お前ら、Show timeは終了だ」

 

 俺の言葉を遮ってPoHが声を張り上げた。それを機に背後で行われていた戦闘の気配が徐々に薄くなってゆく。PoHの言葉の意図を測りかねた俺は、開いた口を閉じることも出来ずにその場に立ち尽くした。そしてこの事態に混乱したのは俺だけではないようで、すぐさま背後から間の抜けた声が上がる。

 

「え? ちょっ、ヘッドォ!? 今めっちゃいいところじゃないっすか!? そりゃないっすよぉー」

「黙れ。最高のActorだ。最高のStageで殺してやらなきゃつまらねえだろ」

 

 仲間の抗議には取り合わず、PoHはぴしゃりとそう言い放った。こちらはまだ戦闘態勢を解くことはなかったが、ラフィン・コフィンの面々は徐々にこちらと距離を取って各々武器を収めてゆく。

 

「そっすね。今日は元からお遊びの予定だったし、僕は賛成っす」

「はぁー、マジかよぉ……」

 

 ジョーはあっさりと了承し、頭陀袋の男も不満を漏らしながらではあったがPoHの指示に逆らう様子はなかった。赤目の男は何やらキリトに耳打ちした後、剣を鞘に収めてPoHの傍らへと歩を進める。

 何のつもりだ? また見逃すつもりなのか? あまりの急展開に、俺の胸に湧いたのは安堵の気持ちではなくそんな疑問だった。

 

「そういう訳だ、ハチ。今日の所は見逃してやる。まあ、安心しろ。焦らなくてもお前はそのうち俺が手ずから殺してやる」

 

 未だに槍を構え続ける俺に向かって、PoHは一方的にそう言葉を投げ掛けた。最後に「So long」と口にして、こちらに背を向ける。他の3人もそれに続いて歩き出した。

 

「――ああ。そう言えば1つ、良いこと教えといてやる」

 

 唐突に何か思い出したようにそう言って、立ち止まるPoH。そしてその振り向きざま、素早く両手を交差させるように振り上げて赤く煌めく何かを投擲した。その数3つ。それが赤い飾り布が柄に取り付けられた投げナイフだということに俺が気付いた時には、凶器は既にグリムロックへと肉薄していた。しかしその傍らに立っていたキリトが咄嗟に剣でそれを叩き落す。3度甲高い音が周囲に響き、グリムロックを狙ったその攻撃は全て未然に防がれた――かに思われた。

 次の瞬間、グリムロックの目が大きく見開かれる。その視線は、自分の胸に深々と突き刺さる黒いナイフに注がれていた。

 

「投げナイフってのは、こうやって使うんだ。覚えとけ」

 

 そう言って、PoHは軽快に笑う。同時にグリムロックはポリゴンになって砕け散って行き、それを最後まで見届けることなくラフィン・コフィンの面々は再び歩き出した。

 赤い飾り布をはためかせた派手な攻撃の陰に、黒く艶消しを施したナイフを忍ばせていたのだ。俺たちはまんまと目眩ましの攻撃に気を取られ、本命のそれを見逃した。

 どこか冷めた気持ちでその攻撃を分析していた俺の背後で、ヨルコが耳を衝くような悲鳴を上げる。次いで怒りに身を震わせたキリトが剣を構えて駆け出そうとしたが、それを予期していた俺は先んじてその前に立ちはだかった。

 

「ハチ……!」

「状況を考えろ……今は、無理だ」

「……くそっ!!」

 

 キリトの叫ぶようなその声が周囲に響く。やるせない苛立ちを含んだそれは、すぐに枯れた木々の間に溶けていった。それを感じ取りながら、俺も強く槍を握る。

 あの時と一緒だ。いや、むしろそれよりも悪化しているのだろう。俺はあいつを、殺すつもりで殺せなかったのだ。

 そんな無力感に苛まれながら、悠々と歩き去る奴らの背中を睨み付ける。いつかの日と同じように、俺は霧の中に消えてゆくそいつらの姿をただ見ていることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 10月16日。この日はおそらくSAOの中で1つの転機になったのだろう。

 グリセルダ、およびグリムロックの殺害。そして一部の攻略組との衝突。この一連の事件によって、殺人(レッド)ギルド笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の存在はアインクラッド中のプレイヤーたちに広く知れ渡ることとなったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第18話 追跡

 第53層。主街区。風の街《ルーラン》

 フロアの外縁から北へと伸びる長大な3つの山稜が一点に交わり、一際高くなった峰にその街は存在する。風の街という名の通り、頑強な石造りの街壁の上には何の用途なのかよくわからない巨大な風車がいくつも配置してあり、西からの風を受けて悠然とその羽を廻らせていた。

 

 フロア全体が山岳地帯と渓谷からなるこの第53層には常に嵐のように風が吹き荒んでいたが、プレイヤーに対するプログラマーたちの配慮なのか、街の中では緩やかな風が頬を撫ぜるだけだ。しかしそれでも2月も下旬に差し掛かったこの寒空の下では地味に体に堪える。こんな日は家に引きこもって炬燵でぬくぬくと撮り溜めたプリキュアでも視聴して過ごすに限るのだが……と、そんなふざけた妄想をしつつ、広場のベンチに1人腰掛けていた俺はコートの襟に首を埋める。

 

 時刻は午後4時過ぎ。いつもよりかなり早い時間だが、今日はアイテムの消費が予想以上に早かったために俺とキリトの2人はフロアの探索を切り上げて街に戻ってきていた。ジャンケンに負けたキリトに消耗品の補充を押し付け、特にすることもなかった俺は宿でのんびりと過ごそうかと思っていたのだが、そんな矢先にある人物から呼び出しを受けたのだった。

 

 具体的な用件は聞いていない。受け取ったメッセージには「本日午後4時15分。第53層。ルーランの街の中央広場」とだけ書いてあった。あまりに雑すぎる呼び出しに正直シカトしてやろうかとも思ったのだが「無視したらハチの黒歴史を全プレイヤーに向けて暴露するヨ」と追加でメッセージが届いたのでそういう訳にもいかなかった。ていうか何でこいつ俺の黒歴史知ってるの? ストーカーなの? つーかそもそもいつもだったらまだ迷宮探索してる時間帯なのに、よくこのピンポイントに暇なタイミングで連絡取ってきたよなこいつ……。ちょっとストーカー説が現実味を帯びて来た気がする。

 

 そんな益体もないことを考えながら、俺は手に持った茶色の紙袋を開く。入っているのは白い湯気を立ち昇らせた熱々の中華まんだ。小腹の空いた俺が先ほどそこの露店で購入したもので、最近は時節的にも温かいものが欲しくなってよく買い食いをしている。直径20センチにも達する巨大な肉まんで価格も安く、コスパは中々だ。

 巨大中華まんを紙袋から取り出し、一口頬張る。大味で如何にもなB級グルメだが、それがいい。ジャンクフードって定期的に食べたくなるよな。これでマッ缶もあれば最高なんだけど……。

 そんな感想を抱きつつ、俺はもさもさとそれを咀嚼して飲み下す。そして広場を行き交うプレイヤーたちを何とはなしに観察しながらさらに二口目を頬張ろうとした俺だったが、不意に背後に人の気配を感じて手を止めた。振り返ると、冬仕様なのかいつもより若干もこもこしたブラウンのフードケープに身を包んだそいつと視線が交わる。

 

「不景気そうな顔してるナ。目が死んでるゾ、ハチ」

「……ほっとけ。目はデフォルトだ」

 

 どこかコミカルなマスコットキャラクターのような雰囲気を纏いつつも、よく見ると端正な容姿が目を引く小柄な女プレイヤー。両頬にペイントされた鼠のような3本髭が特徴の情報屋《鼠のアルゴ》がそこに立っていた。今日の俺の待ち合わせの相手である。

 こちらの軽口にアルゴは「確かにナ」とくつくつ笑いながら頷くと、俺と背中を合わせるように背後に立った。……いや、納得されちゃうのもちょっと悲しいんですけど。

 

「つーか何だよこの位置取り。後ろに立たれると落ち着かないんだけど……」

「人混みの中で背中越しにやり取りトカ、プロっぽくてチョット憧れないカ?」

「わからんでもないが、ゴルゴ相手だったら殺されてるぞ」

 

 まあ確かにスパイ映画とかでたまにそういう演出あるよな。周りに関係を悟られないようにという配慮なんだろうが、逆にあれって凄い怪しく見える気がするのは俺だけなんだろうか。

 

「……で、わざわざ呼び出したってことは、何かわかったのか?」

「まあ、そう急かすなヨ。せっかちな男は嫌われるヨ」

 

 ふざけたやり取りから一転、俺は真面目な表情を作って問いかけた。しかしそれをはぐらかすようにアルゴは再び軽口を返す。

 今日の呼び出しに関する具体的な話は何も聞いていなかったが、俺は何となく用件について当たりが付いていた。あの事件から4ヵ月、継続してアルゴに出し続けていた依頼である。場合によっては、それはゲーム攻略よりも優先して解決に当たらなければいけない問題であると俺は認識している。

 

「お、ウマそうな物食べてるナ。一口くれヨ」

 

 俺の真面目な思考を遮って、アルゴがそんなことを口走る。気付くとそいつはいつの間にか俺の背後から身を乗り出して手元の中華まんを凝視していた。下手をするとお互いの吐息のかかりそうなその距離感に俺はかなりキョドりつつも、身を捩ってそれを拒絶する。落ち着け、勘違いしてはいけない。そう自分に言い聞かせながら、俺は努めて冷静に口を開いた。

 

「い、いや、自分で買えばいいだろ……」

「なんだヨ。ケチ臭い奴だナ」

「否定はしないが、お前にだけは言われたくない」

「随分な言い草ダナー。オネーサン、ハチには結構サービスしてる方なんだケド――はむっ」

「んなっ!?」

 

 会話の中、さらにこちらに身を乗り出したアルゴが俺の手にする中華まんに勝手に齧り付いた。その瞬間、女子特有の柔らかさやら甘い香りやらが俺の理性を襲う。この野郎、顔とか背とかまんま子供のくせに意外と育つところは育ちやがって――って、いや今考えるべきはそこじゃないだろ俺。

 そうして突然の事態に身を強張らせる俺のことなどは意に介した様子もなく、アルゴはもぐもぐと口を動かし「まあまあダナー」などとふてぶてしく呟く。そしてそれをゆっくりと飲み込むと、次いでベンチの背もたれを飛び越して俺の隣に腰を下ろした。

 こいつには恥じらいというものがないのか……。いや、多分気にしたら負けなのだろう。そう思いながら、俺は大きくため息をついて手に持った中華まんをアルゴに差し出す。

 

「はあ……もういい、あと全部やる」

「何ダ? 間接キスでも気にしてるのカ? 意外と初心なんだナ。オネーサンは全然気にしないヨ」

「……用がないならもう帰るぞ」

「ハチは冗談が通じないナア……」

 

 呆れた様子でそう呟くアルゴ。いや、呆れたいのはこっちだっつーの。

 5分にも満たない会話で精神力をごっそりと削られた俺は、せめてもの抵抗として心の中でそう突っ込む。もう帰りたい……。割と真面目に俺がそう思い始めた頃、受け取った中華まんに口を付けていたアルゴが、ぼそりと呟いた。

 

「ラフコフの尻尾を掴んダ」

 

 その一言に、悪ふざけしていた空気から一転、俺たちの間にピリピリとした緊張が走った。頭を切り替え、俺は黙ってアルゴへと視線を送る。

 ラフコフ――殺人(レッド)ギルド笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の略称だ。4ヵ月前に起こった十字の丘での事件から、奴らの存在は一般のプレイヤーたちの間にも徐々に認知されていった。あの一件以来攻略組との衝突はないものの、ラフコフが関係していると見られる事件はいくつも確認されている。通り魔的な突発的PKや計画的な大規模PKなどその犯行に規則性はなく、さらに標的についても低レベル帯プレイヤーから準攻略組にまで及びもはや無差別と言っていい。そしてそれほど好き勝手に暴れているのにも関わらず、俺たちはラフコフについてギルドの規模、アジトの場所、組織体系など、その実態を一切掴めていないのが現状だった。日に日にエスカレートしていく奴らの犯行を目の当たりにし、攻略組も積極的に探りを入れるようになっていたが、今のところ分かっているのは幹部数名の名前とその特徴だけだった。

 

 エストックを携えた撃剣使い《赤目のザザ》

 忍び足(スニーキング)スキルによる不意打ちに長けた短剣使い《ジョニー・ブラック》

 刀スキルによる抜刀術を得意とする《辻風のジョー》

 そしてそんなメンバーたちの頂点に立つ、刺青の男《PoH》。噂によると最近では友切包丁(メイトチョッパー)と呼ばれる魔剣クラスの武器を手に入れ、その高い攻撃力によってさらに猛威を振るっているらしい。プレイヤーたちの間では《狂皇子》などともあだ名され特に恐れられている。

 

 ……余談だが、噂ではPoHという名前は《Prince of Hell》の頭文字をとったものらしく、《狂皇子》というあだ名もそこから来ているとか。最近ではキリトにも《黒の剣士》とか恥ずかしい通り名がつけられてるみたいだし、この世界中二病患者多すぎるだろ。それについてキリトをからかってやろうと思ったら本人も満更でもない反応してたし……そう言えばキリトってまだ中学生だったな。うん。

 

 話が逸れた。まあ詰まる所、俺は4ヵ月前に十字の丘で奴らに接触してから、その動向を調べるためにアルゴに依頼を出していたのだ。今日この時まで有益な情報を得ることは出来ていなかったのだが、アルゴによるとようやくその尻尾をつかんだらしい。

 

「やっぱり、補給とか雑用のために幾つかの下部組織が存在するみたいダ。そこから探っていけば、奴らに辿りつけるかもしれなイ」

 

 俺が黙って視線を送っていると、こちらには目を合わせず、隣に座るアルゴは淡々とそう告げた。会話の途中で巨大な中華まんを一気に頬張りそれを平らげると、指先をぺろりと舐めながら言葉を続ける。

 

「それで1つ、当たりをつけてるギルドがあるんダ。でも、ここからはオレっち1人じゃちょっと手詰まり気味でネ。ハチと、それとキー坊にも、手を貸して欲しいのサ」

 

 そこでようやく、アルゴと俺の目があった。いつもの人を食ったような笑みではなく、アルゴは至極真摯な表情を浮かべている。柄ではないなと思いつつ、対する俺も二つ返事でそれを了承したのだった。

 アルゴの言う「キー坊」というのはキリトのことだ。こいつは大体の人間に対してそう言ったあだ名を勝手につけて呼んでいる。アスナは「アーちゃん」クラインは「クラ坊」とか呼ばれていたはずだ。そして何故だか俺だけ普通に名前呼びなのだが……深く考えてはいけない気がする。

 

 アルゴがわざわざ俺たちに手を貸してほしいと言うことは、十中八九荒事に関することだろう。こいつはレベル自体は高い方だが、敏捷性極振りという偏ったステータスのせいであまり純粋な戦闘には向いていないのだ。今までにも何度か護衛などの頼みごとをされたことがあったし、今回もその類かもしれない。気乗りはしないが、元はと言えばこちらから依頼した件でもあるのだ。キリトの了解は取っていないが、まああいつが誰かの頼みを断ることはそうないだろう。

 

 その後はキリトが帰って来るのを待って、宿でアルゴから詳しい話を聞く流れになった。……あれ、これって俺たち外で待ち合わせする意味あったの? とそんな疑問も過ったが、呼び出した張本人であるアルゴは「デート気分が味わえて得したダロ? オネーサンからのサービスダヨ」などと戯けたことをぬかしていた。そんなアルゴの台詞を適当に受け流しつつ、キリトにメッセージを送った俺たちは広場を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 犯罪者(オレンジ)ギルド巨人の手(タイタンズハンド)

 アルゴは今、そいつらを追っているらしい。

 犯罪者(オレンジ)ギルドというのはその名の通り、ギルドぐるみで犯罪を行っている奴らのことだ。ラフコフも厳密に言えばこれに分類されるが、奴らは自分たちのことを殺人(レッド)ギルドと自称し、実際にその悪辣さも他の犯罪者(オレンジ)ギルドとは一線を画すため、今では明確に区別されている。

 多くの犯罪者(オレンジ)ギルドは殺しまでは行わず、精々がプレイヤーを脅してアイテムを奪う程度の小悪党の集まりだ。その過程でプレイヤーに抵抗されれば殺してしまうこともあるだろうが、それはあくまで手段であり目的ではない。快楽のために殺人を行うラフコフとはその辺りが決定的に異なる。

 そして件のタイタンズハンドというギルドも、主にプレイヤーからアイテムを奪うことを目的としたオレンジギルドだ。しかしこの連中はオレンジギルドの中でも過激な部類に入り、目的を達成するなら殺しも厭わないという話だった。構成メンバー8名と小規模ながら、中層で活動するプレイヤーとしてはレベルが高く、計画的な犯行で多くの被害者を出しているらしい。先日もその標的とされた《シルバーフラグス》というギルドがギルドマスターを除いて皆殺しにされたという話を聞いた。

 アルゴが言うには、このタイタンズハンドのバックにラフコフが付いている可能性があるらしい。ヤンキーとヤ○ザが繋がってるみたいなものだろうか。その詳しい関係性までは俺にはわからなかったが、アルゴがそう言うのならばそうなのだろう。苦手な人種ではあるが、情報屋としてのこいつには一応信用を置いている。

 

「それで、あの赤い髪の女プレイヤーがそのタイタンズハンドってギルドのリーダーなのか?」

 

 第35層《迷いの森》

 その入口手前に鎮座する大きな岩の影に身を顰め、キリトがアルゴに向かってそう問いかける。俺たちの視線の先には、何やら話し込んでいる5人組のプレイヤーの姿があった。男3人、女2人のパーティだ。

 おそらくフィールドダンジョンである迷いの森に入る前に、パーティ戦闘での打ち合わせでもしているのだろう。会話を交えながら、隊列などについて確認している。野良でパーティを組む時にはよくある光景だ。ちなみに野良のパーティというのは、一時的な狩りのために即席で結成されるパーティのことだ。ぼっちの俺には縁のない概念である。

 

 キリトの言葉を受けて、俺はまじまじとその集団を観察する。3人の男のうち2人は身に着けている重そうな鎧から見て壁役だろう。緑のケープを羽織った小柄な男は見るからに軽装備で、腰には短剣を佩いていた。その隣にいる小柄な女プレイヤーも、身軽な軽装備に短剣と似たような恰好をしている。

 そして残りの1人。キリトが口にした、赤髪の女プレイヤー。肩や胸などを局部的に保護する軽鎧を身に纏い、背には穂先が十字になった槍――十文字槍とか言うらしい――を担いだ典型的な中衛プレイヤーだ。鎧もインナーも腰巻のような下衣装備も全体的に黒を基調とした色合いで、結い上げた赤い髪と相まって妙な艶めかしさがある。あれは確実にビッチだな。

 そんなことを考えていた俺の隣で、アルゴがキリトの問いかけに対して無言で頷く。次いで補足するように口を開いた。

 

「プレイヤーネームはロザリア。レベル48の槍使いダ。グリーンカーソルのアイツが野良のパーティをまわって標的を決めテ、機を見て他のギルドメンバーたちが襲うって寸法サ」

「……つまり、あいつは今獲物を物色中ってわけか」

「そうゆうことダ。だから今日すぐに行動に出るってことはないと思うケド……万が一ってこともあるからナ。その時は手筈通りに頼むヨ」

「了解」

 

 そんなやり取りを交わし、俺は再び前方のプレイヤーたちに目を向ける。

 

 今日俺たちがここに来た目的は、犯罪者(オレンジ)ギルド巨人の手(タイタンズハンド)およびその裏に潜んでいると思われる笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の情報を手に入れることにある。昨日話し合った計画では、俺たちでロザリアを尾行し、現れたタイタンズハンドの連中を一網打尽、そしてあわよくばラフィン・コフィンの情報を得る、と言った流れだ。実際ここまで上手くいくとは限らないが、どちらにせよオレンジギルドの連中は放置しておけないだろう。犯罪者の取り締まりはALFの仕事だが、現状あまり高レべルプレイヤーが存在しないALFでは中堅プレイヤーたちが集団で行動することが鉄則であり、こういった隠密行動には向いていない。だからこそアルゴは俺とキリトへと今回のことを依頼したのであり、俺たちもそれを承諾したのだった。

 

「……ん? なあ、あの女の子の周りに飛んでるのって、もしかしてテイムモンスターか?」

 

 何かに気付いた様子のキリトが、そんなことを口にした。その言葉につられて、俺もキリトが指差す女の子に視線を移す。先ほどはただの小柄な女プレイヤーだと思ったのだが、よく見るとまだ幼さの残る小学生くらいの女子のようだった。その年齢と性別だけでもSAOのなかでは珍しい部類に入るのだが、特に俺の目を引いたのはその周りをひらひらと浮遊するモンスターの存在だ。目測およそ全長1メートル弱の、水色の肌をした小さな飛龍型モンスター。遠目にそれをまじまじと観察していると、そいつはまるでちょっと休憩とでも言うように少女の頭へと着陸し、そこにへたり込んだ。

 キリトが言っていたように、あれはテイムモンスターというものだろう。特定のモブとの遭遇時、ある一定の条件をクリアすれば超低確率で対象を使役(テイム)出来るという話を聞いたことがある。まあ現時点でその使役条件が判明しているモブはおらず、その存在もあまり浸透していなかった。俺がテイムモンスターを見たのもこれが初めてだ。

 

「竜使いシリカとか呼ばれてるプレイヤーダナ。中層だとちょっとした有名人で、結構な人気があるみたいダヨ」

「……まあ、あれは人気になるだろうな」

 

 言いながら、件のプレイヤーをよくよく観察する。

 淡いブラウンの頭髪、セミロングのその髪を耳の上あたりで2つ結いにし、活発な印象を与えながらもあざとく可愛らしさをアピールしている。顔もまあ小町には及ばないながらもかなりの美少女と呼べるだろう。ロリコン受けしそうな容姿だ。そして俺調べではSAOをやっているような男ゲーマーたちはその半分以上がロリコンである。それは人気も出るだろう。

 一応釈明しておくと、俺はロリコンではない。……いや、ホントに。

 

「へェ。意外ダナ。ハチはああゆうちびっ子が好みなのカ?」

「一般論で言っただけだ。俺はシスコンだがロリコンではない」

「どっちにしろ胸張って言うようなことじゃないゾ、ソレ」 

 

 そんなやり取りを交わしていると、向こうのプレイヤーたちも事前の打ち合わせが終了したようで、ロザリアを先頭に迷いの森へと向かって歩き出した。アルゴ、キリトと視線を交わして頷き合い、俺たちは息を殺してそれに続く。

 

「目立つ動きをしなけりゃタブン俺っちたちの隠蔽(ハイディング)が見破られることはないだろうケド、会話は《聞き耳》スキルで声を拾われる可能性がアル。迷いの森の中じゃあんまり距離は取れないから、極力口は開くなヨ?」

 

 先を歩くアルゴが、小さな声で囁く。俺たちは無言でそれに頷き、ロザリアたちを追って森の中へと足を踏み入れたのだった。

 

 

 

 

 

 フィールドダンジョン《迷いの森》

 中層に存在するものの中では、中々厄介な部類に入るダンジョンだ。それほど強力なモブが生息するわけではなく、しっかりと安全マージンが取れていればソロでも攻略可能ではあるのだが、ダンジョンのギミックがその難易度を数段跳ね上げている。

 迷いの森と称されるように、この森はただの森ではない。無数に分けられたダンジョンの区画が一定時間ごとにその位置関係を変化させ、道順を変える。あるクエストの報酬品として手に入るガイドマップが無ければ迷うことは必至だ。一応道の入れ替わりには規則性があるらしいのだが、それを初見で看破出来るような奴は滅多にいないだろう。

 ならばガイドマップさえあれば簡単なダンジョンなのかと言われれば、そうでもなかったりする。ガイドマップがあれば迷うことはないが、それでも1度足を踏み入れればその複雑な構造のせいですぐに出られるようなダンジョンではないし、長時間の戦いに耐えられるようなレベルと準備が必要になるのだ。

 もちろん、今日俺たちは十分な準備を以ってここに訪れている。前にキリトと一緒に来た時にはガイドマップを宿に忘れたせいで1日中迷いの森を歩き回ることになったが、もう同じ轍は踏まん。あの時は冗談抜きで死ぬかと思った。

 

 前方を歩くロザリアたちも当然入念な準備をしているようで、モブとの戦闘を繰り返しながら森の深部へと順調に歩を進めていく。俺たちの方は極力戦闘は避けながら、付かず離れずの距離でそれに付いていった。

 今のところロザリアの動きに特に不審なものはなく、周りには俺たち以外にプレイヤーの存在もない。狩り自体も順調に進んでいるようだし、今日のところは特に何事もなく終わりそうだな、と俺が思い始めたころだった。

 既に開始からは1時間半ほどの時間が経過していた。この狩りも中盤を過ぎたということで――集中力の問題もあるので1度の狩りは基本3時間程度、長くとも4時間程が一般的――彼らは一旦アイテム分配の話をしだしたようだった。戦利品にはすぐに使用できる消費アイテムも多いので、狩りの途中で分配の話になるのも珍しいことではない。しかし遠目にそれを伺っていると何やらトラブルが発生したようで、徐々に言い争うような会話がこちらにまで聞こえてきた。騒動の中心に居るのはロザリアと例のロリっ子ビーストテイマーのようだ。

 

「なーに言ってんだか。あんたはそのトカゲが回復してくれるんだから、ヒールクリスタルは分配しなくていいでしょう?」

「そういう貴女こそ、ろくに前衛に出ないのにクリスタルが必要なんですかっ!」

「もちろんよ。お子ちゃまアイドルのシリカちゃんみたいに、男たちが回復してくれるわけじゃないもの」

 

 ロザリアは挑発するようにそう言いながら、長く垂れた前髪を指先で弄っている。シリカと呼ばれた少女も負けじと声を張り上げ、それに応戦していた。呼応するように少女の頭に乗った飛龍もキィキィと声を上げているが……あれって意志疎通とか出来るのだろうか。意外と高性能だ。

 しかし、やはり女というのは怖い生き物だな。そんな感想を抱きながら、息を顰めてそいつらを観察する。他の男たちも剣幕な雰囲気の女2人に若干引き気味だ。それでも勇気を振り絞った男が1人場を収めようとしていたが、少女は怒気の籠った声でそれを遮る。

 

「わかりました、アイテムなんて要りませんっ! 貴方とはもう絶対に組まない! 私を欲しいっていうパーティは、他にも山ほどあるんですからねっ!」

 

 そう捲し立てたロリっ子は、分配のために開いていたであろうシステムウインドウを手早く弄った。おそらくパーティから脱退しているのだろう。そしてそれを済ませると再びロザリアを睨み付け、他の男プレイヤーたちの制止を振り切って、1人歩き出す。男たちはその背中に声を掛けながらも、隣のロザリアが恐ろしいのか、追いかける奴は居なかった。

 

 おい。これちょっと不味くないか? そう思いながら、俺はアルゴに視線を送った。目が合ったアルゴは少しだけ考える表情をした後、黙ったまま右手でキリトと自分を指さし、そのままロザリアに親指を向ける。そして次は俺のことを指差した後、さらに1人木々の間へ消えてゆくロリっ子の背中へと指を向けた。

 ……まあ、そう言うことだよな。さすがにこの場ではぐだぐだと話し合っている余裕もない。そう判断した俺は黙って頷いて、アルゴの指示通りに1人別行動を取り始めた少女の後を追うことになったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第19話 再会

 1時間以上も、1人で森を彷徨っていた。

 森の中とはいえ、このダンジョンは人の手が入ったように道が整備されている。しかしどれだけ歩き続けても、少女はその森から出ることは叶わなかった。真っ直ぐ進んでいるはずなのに、気付くと先ほど通過したはずの道を歩いているのだ。迷いの森と言われる所以であった。

 

 鬱蒼と茂る木々が陽の光を遮っていたが、足元を照らすように巨大な卵のような照明――茸の一種らしい――が所々に配置され、視界は悪くない。明かりがある、そんな些細なことが少女の心を支えていた。しかしそれでも森の中で次々とエンカウントするモンスターたちとの戦闘や、それによって減ってゆく回復アイテムが少女の心に少しずつ不安の影を落としていく。

 1人でパーティを離脱したのは、失敗だったかもしれない。終わりの見えない道を前に、少女は後悔し始めていた。迷いの森がどういったダンジョンかは知っていた。しかし、外に出るくらいなら何とかなるだろうと高を括っていたのだ。

 

 周囲にモンスターがいないことを確認しつつ、少女は足を止める。先ほどの戦闘で、回復結晶(ヒールクリスタル)は使い切ってしまった。ポーション類ならまだ持っているが、あれは一瞬で体力を回復してくれるクリスタルとは違い、戦闘中に使用してすぐに効果が得られるようなアイテムではない。もし次にモンスターと遭遇してしまったら、自分は凌ぐことが出来るのだろうか。そんな不安が心を蝕んでいったその時、少女の視界の端に小さな影が舞う。目の前で水色の肌を持った小型の飛龍が「ピィ」と声を上げ、気遣うように少女の顔を伺っていた。

 

「ピナ……。うん、1人じゃないもんね。ありがとう、大丈夫だよ。ピナがいるから」

 

 言いながら、彼女はその飛龍――ピナを抱きしめる。他人が見れば、ただのデータだと一蹴されるかもしれない。だが命がけのこの世界を、今まで2人で一緒に過ごしてきた時間は間違いなく本物だ。故に彼女にとってピナという存在は自身を支援してくれるテイムモンスターという以上に、大きな心の支えになっていたのだった。

 

 自分も伊達にここまでレベルを上げてきたわけではない。今まで何度か危機はあったが、ピナと一緒にそれを乗り越えてきたのだ。

 頑張ろう――少女は決意し、ピナを抱くその手を解く。その時だった。ピナが周囲を警戒するように鳴き声を上げる。釣られて少女は周囲へと視線を移し、その時ようやく自分を囲むようにポップするモンスターたちの存在に気付いた。

 4体の、巨大な猿だった。左手には陶器の酒瓶を担ぎ、右手には丸太から削りだした棍棒を装備している。《ドランクエイプ》――この迷いの森で最も厄介なモンスターである。常に集団で行動するこのモンスターは、拙いながらも仲間同士で連携して攻撃を行うのだ。

 

 落ち着け、と少女は自分に言い聞かせた。厄介なモンスターであるのは確かだが、安全マージンをしっかりと取っている自分ならソロでも倒せる相手だ。そうして目の前のモンスターと戦うことを決心した少女は、腰を落とし短剣を逆手に構え、最も近くに位置していたドランクエイプへと狙いを定めた。駆け出し、包囲を抜けるようにすれ違いながらソードスキルを放つ。それが敵のHPを大きく削ったことを確認し、少女は表情を綻ばせた。いける、そう思ったが、それが甘い考えであったことを彼女はすぐに思い知らされることになったのだった。

 

 長時間に及ぶ狩りの影響か、少女の集中力は目に見えて低下していた。自覚はなくとも攻撃は雑になり、回避も疎かになっている。そしてそれはモンスターとの戦闘が続くにつれて如実に表れていき、彼女がようやく4体のドランクエイプのうち1体を倒し終えた頃には自身のHPも半分程度削られてしまっていた。

 回復しなければ――咄嗟にそう判断し、腰に括られたポーチに手を伸ばす。しかしそこで回復結晶(ヒールクリスタル)は既に先ほどの戦闘で使い切ってしまったことを思い出し、彼女は一瞬体を硬直させてしまった。その隙を敵が見逃すはずもなく、そこに棍棒を大きく振り上げた1体のドランクエイプが迫る。

 自身に向かって振り下ろされる棍棒。避けられない。そう思った刹那、自分を庇うようにして飛び出した小さな影が攻撃を受け止め、吹き飛ばされた。少女は一瞬唖然とし、次いで隣へと視線を向ける。

 力なく横たわるピナが、そこにいた。

 

「ピナ……? ピナッ!?」

 

 もはや眼前に迫る敵のことなど目に入らず、彼女は傍らに横たわる自分のパートナーへと縋りつく。少女の視界には、先ほどのダメージが反映されてみるみる減っていくピナのHPバーが映し出されていた。抱き上げられたピナは一瞬ピクリと反応するが、すぐに脱力してだらりとその頭を垂れる。

 

「ピナ!? いや! 行かないで!! 私を1人にしないで!! ピナァッ!!」

 

 嘆願虚しく、次の瞬間ピナは少女の腕の中でポリゴンとなって砕け散っていった。青白いその残滓がひらひらと舞う中、少女は声にならない悲鳴を上げて呆然とへたり込む。

 そこで勝利を誇示するように、ドランクエイプたちが咆哮を上げた。少女はどこか他人事のようにその声を聞いている。そして呆然とした様子でそちらに目をやると、自分にとどめを刺そうと棍棒を振り上げる敵と視線が合った。しかし彼女はもはや抵抗することもなく、ただただそれを見つめるだけだ。

 あの一撃は自分の命を刈り取るのだろう。呆然とそんなことを考えていた。しかしどれだけ待っても、大きく振り上げられたその棍棒が打ち下ろされることはなかった。

 束の間その体が硬直したかと思うと、次の瞬間、目の前のドランクエイプはポリゴンとなって砕け散って行ったのだった。そしてそれを追うように、残された他のモンスターたちもすぐに光を放って砕け散る。

 

「……悪い」

 

 青白いガラス片のようなものが舞い散る中、槍を構えて佇むのは少年だった。ばつの悪い顔で謝罪を口にした彼の瞳は、どぶを数日煮詰めたような濁った色をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人を助けないと言う行為は、罪になるのだろうか。

 これはおそらくかなり際どい問題だ。法律的なことは何もわからないが、被害者からすれば見て見ぬ振りをした第三者も、場合によっては加害者とあまり変わりなく思えるだろう。

 例えばこれは小学校の時に軽いいじめを受けていた友達のH君の話なのだが、彼がクラスメイトに上履きを隠された時、誰も助けてくれなかったらしい。隠したのは確実に桜井とその取り巻きの奴らだが、俺にしてみれば――ではなく、H君からしてみれば、見て見ぬ振りをしていたクラスの奴らも同罪だ。別に一緒に探してくれとまでは言わないが、隠し場所を知っていて何もせずクスクス笑っていた奴らは絶対に許さん。

 故に助ける義理はなくとも、助けようと思えば簡単に助けることが出来る立場に立っているのならば片手間にでも助けてくれればいいんじゃね? と俺は思うわけである。

 で、何故唐突に長々とこんなことを語りだしたかと言うと――今回、俺はしくじったのだ。

 

「……悪い」

 

 あまりのばつの悪さに、俺はそう口にすることしか出来なかった。3体のドランクエイプがポリゴンとなって霧散していく中、へたり込む少女と一瞬視線が交差する。

 

 完全に、助けに入るタイミングを誤った。1時間ほどこの少女を尾行していた俺だったが、なるべく関わり合いになりたくないがために、本当に危機的な状況にならない限りは手を出さないつもりだったのだ。4体のドランクエイプが湧いた時も、この少女なら対応を間違えなければ撃破できると判断した。

 しかし、今思えばそもそもそれが間違いだった。長時間の戦闘で集中力が低下していたのか、少女の動きは精細を欠き、徐々に追い詰められていったのだ。それでも確実に少女を助けられる余裕を持って横槍を入れるつもりだったのだが、同じタイミングで主人のピンチにテイムモンスターが予想外の動きを見せ、結果的にその命を落としてしまったのである。予想できなかったこととは言え、完全に俺の過失だった。

 元ぼっちとしての習性が完全に仇となった。少女が1人で行動し始めた時点で接触を計り、押し付けがましくともすぐに森の外へと連れて行ってやればよかったのだ。しかしそんな後悔をしても、今さらどうすることも出来ない。

 

 へたり込む少女は一瞬こちらに視線を向けると、危機が去ったことを理解したのか、次いでテイムモンスターが砕け散ったその場所へと目を落とした。そしてそこに残された飛龍の羽らしきアイテムを掬い上げ、嗚咽を堪えようともせずに口を開く。

 

「ピナ……私を1人にしないでよ……。ピナッ……」

「……すまん。そいつ、助けられなくて……」

 

 罪悪感と共に、俺は少女の背中に声を掛ける。ゲーム上のデータだなどと、馬鹿にするつもりなどはない。そんな価値観は人それぞれであり、この少女にとってあのテイムモンスターは掛け替えのない存在だったのだろう。悲し気に蹲る背中から俺はそれを感じ取り、一層胃が痛くなる。

 しかし気丈にもそんな俺に気を遣ったのか、少女は項垂れたまま首を横に振った。

 

「いえ……私が、馬鹿だったんです。1人で森を突破できるなんて、思い上がってたから……」

 

 言って、少女はこちらに顔を向ける。まだ気が動転しているのか、目の焦点が合っていないような様子だったが、それでも彼女は震える声で「助けてくれて、ありがとうございました」と礼を口にした。

 やばい。こんな子供を泣かせてしまうなんて、罪悪感が半端ない。吐きそう。頭の一部ではそんなことを考えつつも、俺は脳みそをフル稼働して情報を漁る。確か何かあったはずだ。うろ覚えだが、テイムモンスターを復活させるような手段が。

 

「ぁー……。えっと、そのアイテム、名前とかついてるか?」

 

 俺はそう言いながら手にしていた槍を背中へと収め、少女のそばへと歩み寄った。俺の接近に驚いたようにびくりと反応しつつも、少女はそろそろと手に持った羽をタップする。……その反応若干傷付くんだけど。

 まあ俺の感傷は一旦置いておき、タップによって表示されたアイテム名に目を移す。そこには《ピナの心》と表記があった。ピナというのは、あのトカゲの名前だろう。特に説明文などはなかったが、それを目にした瞬間少女は再び泣き声を漏らす。

 

「あ、いや、泣くなって……。テイムモンスターが置いていったアイテムがあれば、蘇生させる手段があったはずだ。……多分」

「ほ、ほんとですか!?」

「あ、ああ。確か、46層……いや、47層だったか? ともかくその辺りに、使い魔蘇生用のアイテムがあるとかなんとか……」

 

 曖昧な情報だったが、それでも少女の瞳に光が点るのがわかった。しかし47層という言葉を聞き、再び表情に影が差す。俺はその反応に焦りながら再度口を開いた。ぼっちと言うのは往々にして小心者であり、こういう反応には弱いのだ。

 

「あー、いや、ほら、今回は俺も手伝うから……まあ、そう気を落とさずに……」

「そんな、悪いです。情報を頂いただけでも――え?」

 

 視線をこちらに寄越した少女が、何かに気付いたように言葉に詰まった。不審に思った俺は自分の後方へと視線を向けるが、特に変わったことはない。苔むし、蔓がぐるぐるに絡まった木々が点々と自生しているだけだ。しかし俺が少女へと視線を戻しても、彼女は相変わらず呆けたような顔をしたままだった。

 数秒、静寂が訪れる。緩やかな風が、木々の騒めきと共に駆け抜けていった。同時にそれは少女の前髪を揺らし、乱したが、当の本人は気を留めることもせず不意に口を開く。

 

「も、もしかして……風林火山の、ハチさんですか……?」

 

 予想外のその問いかけに、俺は一瞬言葉に詰まった。知り合いではない……はずだ。少なくとも俺にはこのロリっ子の顔に見覚えがな――ん? あれ、よく見たらこいつ、どっかで見たことあるような……。

 

「えっと、どこかで会ったか?」

「は、はい。1年くらい前に、2層で私がレッドプレイヤーに襲われた時、ハチさんに助けて貰って……」

「あー……!」

 

 呆けた声を上げ、思い出したのは第2層、森の中で俺が初めてPoHと出会った時のことだ。あの時俺が街まで送り届けた小学生、記憶の中にぼんやりと残るその姿が、目の前にへたり込む少女と重なった。

 

「思い出した。あの時の小学生か……」

「しょ、小学生じゃないです! ……あ、いや、確かにあの時はまだ小学生でしたけど、去年からはもう中学生で……」

「お、おう。そうか。……あれ、でも何でお前俺の名前知って――」

 

 そんな会話の中、俺は言葉を途中で飲み込んで周囲に目を移した。索敵スキルによるアラートを察知したのだ。この感覚はおそらくモブ。まだ少し距離があったが、じっとしていればすぐにこちらに近づいてきそうな気配だ。

 背中の槍を手に取って、立ち上がる。目の前の少女もモブの気配に気付いたようで、座り込んだままだが警戒するように首を巡らせていた。俺も木々の間の暗がりに視線をやりつつ、新ためて口を開く。

 

「……とりあえず、街まで送る。使い魔蘇生の話も、知り合いにそういうの詳しい奴がいるから、知りたいならそこで話そう」

「え、あ……はいっ」

 

 俺の言葉によって我に返った少女は、今だ潤む瞳を右手で擦り、立ち上がる。悲しみから立ち直れたわけではないだろうが、蘇生手段があるとわかったからか、その目にはしっかりとした意志が灯っていた。それを確認して俺は少し安堵しつつも、相手が子供だということに気を遣っていくつか言葉を掛けておく。

 

「あー……その羽、しっかりストレージにしまっとけよ。あとすぐにポーション飲んどけ。転移結晶……は、このダンジョンじゃ使えないか……。まあガイドマップは持ってるからすぐに森は出れると思うが、疲れてるようだったら一旦近場のセーフティゾーンに寄るぞ? まあ最悪俺が担いでってもいいが――」

「だ、大丈夫です。そこまでして貰わなくても……」

 

 若干困ったような顔で、少女が俺の言葉を遮った。まずい、引かれたかもしれない。

 小町という妹がいるからか、どうにも俺はこれくらいの子供、特に女子には過保護になってしまうきらいがあるのだ。故に子守りなんかも得意な自覚があるのだが、俺が子供に構っているとかなりの確率で不審者扱いされるわけで、長年小町の兄として培われた《お兄ちゃんスキル》は基本封印されている。世間で子供好きが許されるのは女とイケメンだけだ。材木座辺りが子供好きとか言い始めたら事案になるまである。世知辛い世の中だ。

 防犯ブザーだけは勘弁してください――などと馬鹿なことを考える俺の横では、少女が言われた通りにアイテムをしまい、回復ポーションに口を付けていた。ガラスの小瓶に入れられたその赤い液体を飲み干すと、再び俺の方へと目を向ける。

 

「その、色々ありがとうございます。私、ずっと前からハチさんに会ってお礼を言いたかったんですけど、今日のことも――」

「あー……いや、そういうのは別に良い。全部成り行きだし……むしろ、色々すまんかった」

「え、何でハチさんが謝るんですか?」

「まあ、色々とな……。その辺は追い追い話すから、とりあえず行くぞ」

「あ、はいっ」

 

 そんなやり取りを交わしながら、ストレージから迷いの森のガイドマップを取り出す。それに目を通して進路を決めた俺は、傍らの少女に気を配りつつ、すぐにその場を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女の名前はシリカといった。

 彼女がSAOの中へと囚われたのは、12歳。その誕生日を既に先月に迎え、数ヶ月後には小学校の卒業式を控えるという冬の始めだった。休日に仕事が舞い込んだ父に変わり、興味本位で手を出したそのゲームが彼女の運命を大きく変えたのだった。

 

 ゲーム開始当初こそデスゲームと化したこの世界に恐怖し、他の子供たちと同様に圏内に閉じこもっていた彼女だったが、生来の順応力の高さ故か、今では中堅プレイヤーとしてそれなりに安定した生活を送っている。

 当然圏内から足を踏み出すことには危険もあったが、彼女が活動を始めた時期には既にプレイヤーの間にガイドブックが普及していたことに加え、その端整な容姿に惹きつけられた男性プレイヤーたちの保護を受けることによって徐々にではあるが確実に彼女のレベルは上がっていったのだ。多くの大人が自分を甘やかし、守ってくれる。そんな状況に安心感を覚え、彼女が舞い上がってしまうのも無理のない話だった。しかしある日、そんな彼女を恐怖のどん底へと突き落とす出来事が起こる。

 

 ゲーム開始から1ヶ月以上が経ち、攻略組による第2層解放の一報が届いてすぐの折だ。第1層で一緒にパーティを組み、自分にゲームのノウハウを教えてくれていた30代の男性プレイヤーが第2層へと足を運ぼうと言い出したのだ。βテスターであったというそのプレイヤーが言うには、第2層の東に広がる森林フィールドは出現するモンスターのレベルが低く、今の自分たちでも十分に攻略出来る難易度だという話だった。多少の不安はあったが、1ヶ月以上もの時間を始まりの街とその周辺フィールドで過ごし、変わり映えのしないそんな生活に飽きていた彼女は最終的にその提案に頷いてしまったのだ。それでも決して慢心していたわけではなく、入念に準備を整え、さらによくパーティを組んでいた男性プレイヤー2人も伴って彼女たちは第2層へと渡ったのだった。

 

 運が悪かった、としか言いようがないのだろう。転移門で第2層へと赴き、危険なポイントを避けて森林フィールドへとたどり着いた自分たちを待ち受けていたものは、モンスターではなく1人のプレイヤーだった。

 右頬に刀傷のような刺青がある、黒ポンチョの男。出合い頭、右手に構えたその短剣で、彼女のパーティメンバーである2人の男性プレイヤーのHPを一瞬で全損させたのだ。シリカは怯えてその場にへたり込むことしか出来なかった。そして彼女と共にその場に残された元βテスターである男は怯えながらも状況を把握し、剣を構えて刺青の男へとそれを向けたが、やがて更に濁った目の犯罪者(オレンジ)プレイヤーが現れ刺青の男と交戦し始めると、その隙を突き、少女を置いてその場を逃げ出してしまったのだった。

 彼女にとって彼は、この世界の中で最も信用していたプレイヤーの1人だった。そんな人物が自分を見捨てて1人逃げ出してしまったのだ。その事実に彼女の心は大きく傷付いたが、取り乱す隙さえ与えてくれないほど、その状況は少女にとって困惑するものだった。

 目の前で矛を交える、2人の犯罪者(オレンジ)プレイヤー。1人は自分の仲間2人を殺した刺青の男であり、もう1人は身の丈以上の槍を持つ、死んだ魚のような目をした少年だった。自分より数段レベルが上であろう2人のプレイヤーの戦いは、少女にはその動きを目で追うことすら出来なかった。

 

 仲間割れだろうか。そんな思考を働かせる少女を傍らに、やがてさらに不可解な形でその決着がつく。最終的に傷を負って膝をついたのは少年の方だったが、いくつかのやり取りを交わした後、その場から立ち去って行ったのは刺青の男の方だった。残された少年はしばらく呆然としていたが、やがて我に返ると半ば強引に少女を連れてその場を後にしたのだった。オレンジカーソルのその少年に助けられたのだということに少女が気付いたのは、自分を街のすぐそばまで送ってくれた彼と分かれた後だった。

 

 

 

「――それで、後になってあの『Hachiという漢』を読んで……この人だっ! って思ったんです」

「……なるほどな」

 

 道すがら、先ほど期せずして同行することになった少女――シリカからそんな身の上話を聞いていた。眼前に青々と広がる、緩やかな丘陵。後ろを歩くシリカに度々目を向けながら、俺はとぼとぼとその道を歩く。

 既に、迷いの森のダンジョンからは脱出していた。後は5分ほどこの道を進めば街に着くだろう。そんなことを考えつつ、俺は再びシリカへと目をやる。

 

「つーか、良くそんなことがあった後にまた圏外に出るつもりになったなお前」

「さすがにあの後一月くらいは圏内に閉じこもってましたけど……。お金も無くなってきて、このままじゃいけないって思ってた頃にハチさんの本を読んで勇気づけられたんです。それでも私1人だったらどこかで挫けてたかもしれませんけど、苦しい時はいつも、ピナが隣に居てくれたので……」

 

 いじらしく視線を伏せてそう語るシリカの声は徐々に小さくなっていき、やがて俺たちの間に静寂が訪れた。……気まずい。俺はキリキリとした胃の痛みに耐えながら、なるべく明るい雰囲気を作って口を開く。

 

「ま、まあ、蘇生手段はあるらしいし、少しの辛抱だ。俺も手伝えることがあれば手伝うし……」

 

 そう言いながらさりげなくシリカの顔色を伺うと、こちらをじっと見つめるそいつと目が合った。咄嗟に視線を逸らすことも出来ず俺が曖昧に目を泳がせていると、少女がその年齢に不釣り合いな微笑を浮かべる。

 

「ハチさん、優しいんですね。やっぱり私が想像してた通りの人でした」

「……あの本読んでそう言ってるなら、とんだ見当違いだぞ。あれノンフィクションとか言っといて、相当話をねつ造してるからな」

「そ、そうなんですか?」

「ああ。だからまあ何というか……あんま期待しないでくれ」

 

 そんな俺の台詞に、シリカは曖昧な答えを返す。子供の夢を壊すようなことを言って悪いが、こういうことは早めに言っておかないと、後になってもっと失望することになるのだ。少女に夢を与えるのはプリキュアの仕事であって俺の仕事ではない。

 まあ実際の所、例の本がどこまで物語をねつ造しているのか俺は全く知らないんだが。さすがに全てをノンフィクションにすると色々と角が立つため適度に脚色しているという話はトウジから聞いているが、俺はその本に目を通していないので実際どこまで話が変わっているのかは知らないのだ。

 そんな訳で話のねつ造云々の話は過分に俺の想像、というか希望を含んでいるのだが、あの本を読んだと言う人間に対しては基本的に同じことを話している。過度な期待を寄せられることほど胃が痛くなることはないのだ。

 

 その後は微妙な空気が流れる中、ぽつぽつと会話を交えながら街までの道のりを歩いた。大きな石積みの門が視界に映り、ようやく目的地についたことに安堵して俺はほっと溜息をつく。

 

 第35層。主街区《ミーシェ》

 整備された石畳の道に暗色の木材と煉瓦で建てられた家屋が並び、通りに面した店の前などにはランタンや鉄細工の装飾看板などが掛けられている。良く言えば洒落た感じの街なのだが、どうにも気取った感じがして俺はここが好きではない。ららぽの女性向けショップが並ぶ場所に男1人取り残されてしまったような居心地の悪さがある。

 加えて、俺たちがミーシェに到着した頃には既に日も沈み、街はフィールドから帰還したプレイヤーたちで賑わっていた。こういう雰囲気苦手なんだよなあと思いつつも、避けて通る訳にもいかなかったので恐る恐る俺は門を潜って街の中へと足を踏み入れたのだった。

 

「お前、ホームはどの辺なんだ?」

「特に決まってません。最近はこの街に宿を取ってますけど」

「そうか」

 

 そんなやり取りをしつつ、人混みを嫌った俺たちはひとまず街に入ってすぐの広場の片隅で足を止めた。俺はシリカに少し待つように言ってから、システムウインドウを呼び出し、トウジとキリトにメッセージをしたためる。それを送信した俺は今後について考えながら、傍らに立つ少女に目を向けた。

 

「蘇生アイテムの件は、詳しそうな奴にメッセ送っといた。だからとりあえずその返信待ちなんだが……お前も疲れてるだろうし、一旦宿で休んで来たらどうだ? 連絡来たら教えてやるから」

「えっと、その間ハチさんはどうするんですか?」

「適当に時間潰すつもりだ。ちょっと腹も減って来たし、どっかで軽く飯でも済ませるかな」

「あ、あの! それだったら、ご一緒しませんか? まだちゃんとお礼も出来てないですし……」

 

 頬を上気させたシリカが、意を決したようにそう提案する。……そういう反応やめて貰えませんかね。お兄さん勘違いしちゃうんで。

 まあ控えめに見ても、おそらく嫌われているということはないだろう。こいつの視点から見れば、俺は危ないところを助けてくれたヒーローなのだ。だが、実際にはそんな綺麗なものじゃない。

 

「あー、いや、ホントそう言う気遣わなくていいから……」

「そういう訳にはいきません! 2度も助けて貰って、何のお礼も出来てないし、ピナのことだって……」

 

 熱心なシリカの眼差しが、こちらに向けられていた。そこに込められているのはおそらく純粋な好意と感謝だ。だからこそ俺は彼女を直視出来ず、視線を逸らしてため息をついた。後ろめたい気持ちが胸中に広がってゆく。

 俺がこれから話そうとしていることは、きっと余計なことなんだろう。頭のどこかではそう理解しつつも、懺悔するように俺は口を開いていた。

 

「……これ、本当は話すつもりなかったんだけどな」

 

 苛立ったように頭を掻きながら、そう前置きをする。多分、今の俺の目はいつも以上に濁っているだろう。シリカの反応は待たず、矢継ぎ早に俺は言葉を紡いだ。

 

「迷いの森でお前が猿4体に襲われてた時、ホントはもっと早く助けに入れたんだ。でも、色々ぐだぐだ考えて、結局遅れた。だから、お前のピナが死んだのには俺にも原因がある」

 

 あの時俺は、こちらの都合を優先して助けに入るのを逡巡したのだ。まあ最終的には助けに入った訳だから責められる謂われはないが、無条件に感謝されるのも少し違うだろう。

 そこで、息を継ぐように一瞬間を空ける。シリカがどんな表情をしているのかはわからない。俺は広場で談笑している他のプレイヤーたちにぼんやりと目を向けながら、さらに言葉を続けた。

 

「第2層の時のことだって、そもそもPoH……あの刺青の男は俺のことを狙ってたんだ。それで逃げ回ってたら、ああいうことになっちまった」

 

 苦い記憶が、頭を過る。最初から逃げたりせずに戦っていれば、無関係な人間を巻き込むこともなかったのだろうか。そしてあの時あいつを殺しておけば、多くの人間が殺されることもなかったのだろうか。既に幾度も自問した内容だ。

 

「……だからまあ、お前が俺に感謝するのは筋違いってことだ」

 

 そこまで言って、俺はようやく目の前に立つ少女の顔を見る。こちらを真っ直ぐと見据える大きな瞳からは、どんな感情を抱いているのか窺い知ることは出来なかった。狩りから帰還したプレイヤーたちの喧騒が街に漂う中、俺たち2人の間には重い沈黙が降りる。

 ……やばい、どうしようこの雰囲気。やはり話すべきではなかったか。道化を買って出てでも、最後まで嘘を貫き通した方がお互い幸せだったかもしれない。

 

「……私は、ハチさんが悪いとは思いません」

 

 やはり余計なことを話してしまったなと俺が後悔しだした頃、呟くようにシリカが口を開いた。視線を伏せ、両手は胸の前で重ねるように握り締めている。

 

「ピナが死んじゃったのは、悲しいけど……それも元はと言えば、私が1人でパーティを抜け出しちゃったせいなんです。それに、ハチさんが私を助けてくれたことには変わりありません。第2層のことだって、悪いのはあのPoHって男の人で、あの時もハチさんは私を守ろうとしてくれたじゃないですか」

 

 少し熱を帯びた声が、その場に響いた。隣を通り過ぎたプレイヤーが何事かとこちらに視線を寄越したが、それに構うことなくシリカは言葉を続ける。

 

「それでもハチさんが気が引けるっていうなら、お礼っていうのは取り消します。今は、1人になりたくないんです……」

 

 言って、シリカがこちらに一歩詰め寄ってくる。そして震える右手で俺の服の裾をぎゅっとつまみ、上目使いでこちらに視線を寄越した。反射的に身を縮ませてしまった俺はかなり挙動不審に見えただろうが、シリカは特に意に介す様子はなく、まじまじとこちらを見つめていた。

 

「だから……お願いです。ご飯、一緒に食べてください」

 

 駄目押しをするように、小さくそう呟く。それに圧倒されてしまった俺には、もう頷く他に選択肢を選ぶことは出来ないのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第20話 画策

 シックでオサレな雰囲気が漂うミーシェの街と同じように、ランタンによる暖色の明かりが灯された店の中は落ち着いた雰囲気に包まれていた。客がそれほど多くないことも相まって、ぼっち気質の俺にとっても居心地は悪くない。

 石畳の床、木製のテーブルとイス、壁は下半分が煉瓦で上部は白地の粘土で形成されている。等間隔で設置された嵌め殺しの窓からは、半分の月が覗いていた。

 

 ミーシェの街の一角。シリカが泊まっているという宿に併設される形で店舗を構えた食堂の一席だ。そこで向かい合うようにして俺たちは腰を下ろしていた。広場でのやり取りで気圧されるように食事のお誘いに頷いてしまった俺は、もうそのまま流されるようにしてここまで来てしまったのだった。

 いや、まあ、さすがにこんな幼気な少女にあんなあざとい態度を取られてしまったら、元エリートぼっちのこの俺と言えども無下にすることは出来ないのだ。もしあれを無意識でやってるんだとしたら、お兄ちゃんこの子の将来が心配です。いや、意識的にやってるんだとしたらもっと心配なんだが。

 そんな俺の心配をよそに、少し元気を取り戻したらしいシリカはテーブルに置かれたメニューを手にして楽し気な声を上げていた。

 

「ここ、チーズケーキが凄く美味しいんですよ」

「へえ……」

「ここは私が持つので、是非食べてみてください」

「いや、ホントそういうのいいから……。つーか、さすがに子供に奢られるほど落ちぶれてねえぞ」

「こ、子供って言うのやめてくださいっ。もう中学生なんです! 電車に乗る時だってもう大人料金なんですよ!」

「お、おう。そうだな」

 

 いや、中学生って十分がきんちょなんだけどな……。まあ背伸びしたい年頃なのか、と勝手に納得した俺は適当に頷く。これくらいの子供の扱いは心得ているつもりだ。

 そんなやり取りを経て、お互いに注文を決めた俺たちは店内を歩くNPCを呼び止めてそれを伝える。軽めにサンドウィッチと、デザートにチーズケーキ。シリカも似たようなメニューを注文していた。

 一礼して下がるNPCを見送った後、「そういえばもう中学生って芸人いたよな」「誰ですかそれ?」などというくだらない会話をしている間にすぐ食事が運ばれてくる。地味なジェネレーションギャップにショックを受けつつ、俺は皿に置かれたサンドウィッチに手を伸ばした。

 育ちが良いのか、シリカは食べる前に「頂きます」と呟いた後は黙々と食事を口に運んでいた。嫌な沈黙ではない。そして10分ほどでお互いにデザートのチーズケーキまで食べ終え、テーブルに置かれた麦茶に口を付けて一息つく。うん、おすすめするだけあって中々旨かった。

 

「そう言えば、ハチさんは何で迷いの森に居たんですか? ハチさんみたいな高レベルプレイヤーが来ても、特に何もないと思いますけど……」

「……いや、まあ、ちょっと仕事でな。ガイドブックの補完のために後になって結構下層とか中層にも行くんだよ」

 

 至極当然の疑問を投げかけるシリカに対して、俺は適当に嘘をつく。実際にそう言った理由で中層以下のフロアに潜ることもあるので、説得力はあるだろう。シリカは特に疑う様子もなく、感心するように頷いていた。

 もちろん俺がここに来た本来の目的は犯罪者(オレンジ)プレイヤー共の捕縛にあるのだが、それをわざわざ他のプレイヤーたちに言いふらすような真似はしない。今回の作戦はタイタンズハンドの連中に俺たちの存在を悟られないようにすることが大事なのだ。それを考えると俺がこの辺りでのんびり飯を食べてるのもあまりよろしくないのだが……まあ、目立つ行動を取らなければ大丈夫だろう。ミーシェの街はそこそこ大きいし、ロザリアと鉢合わせる可能性は低い。ロザリア以外のタイタンズハンドの連中はそのほとんどがオレンジカーソルらしいから、街の中には入れないはずだ。

 色々と予想外の事態が重なったから本当はすぐにでもキリトたちと1度合流したいのだが、こちらから送ったメッセージにも反応がないので、おそらくまだ圏外にいるのだろう。メッセージのやり取りが出来るのはセーフティゾーンや圏内などの限られたエリアだけだ。

 

「風林火山の人たちってやっぱり忙しいんですね……。ハチさんにお礼がしたいと思って、前に何度か第1層にあるギルドホームに行ったことがあるんですけど、誰もいないことが多くて……。結局ハチさんにも会えませんでしたし……」

「あー、俺は攻略中は最前線から帰らないことが多いからな。他の奴らもフィールドに出てることが多いし。……つーか、よくうちのギルドホームの場所知ってたな。あんまり知られてないはずなんだけど」

「色んな人に聞いて、頑張って調べたんです! あ、安心してください。言いふらすようなことはしてないので!」

 

 シリカはいい笑顔でそう答えたが、多分言うほど簡単なことではなかったはずだ。面倒な来客を回避するために、ギルドホームの場所はあまりおおやけにならないようにしているのだ。第1層の中でも何度か引っ越しをしているし、アルゴにも口止めをしている。つまりは情報屋に頼らず自力で見つけたということなのだが……意外とバイタリティあるなこいつ。

 そんな会話をしていると、不意に視界の端で見慣れたアイコンがポップする。新着メッセージの通知だ。俺はシリカに一言断ってから、システムウインドウを開く。メッセージの送り主はトウジだった。

 こちらから送ったのは「テイムモンスターの蘇生アイテムについて情報が欲しい」という簡潔な一文だけだ。しかしトウジはそれについてしっかりと調べてくれたらしく、メッセージウインドウいっぱいにその情報が載せられていた。少し申し訳ない気持ちになりながら、俺はそれを黙々と読み進める。

 

「……シリカ、良い知らせと悪い知らせがある」

 

 おそらく《人生で1度は言ってみたい台詞ベスト10》に入るだろうその言葉を口にしつつ、俺はシリカに視線を送る。いや、別にふざけているわけじゃない。本当に朗報と悲報があるのだ。こういう場合は続いて「どっちから聞きたい?」と問うのが定石だが、話をスムーズに進めるために、その辺りはこちらが主動になって会話を進める。

 

「まずは良い知らせだ。第47層の南、《思い出の丘》ってところで手に入る《プネウマの花》ってアイテムが、テイムモンスターを復活させる効果があるらしい」

「ほ、本当ですか!?」

「ああ。確かな情報だ」

 

 悪い知らせという言葉に反応して不安げな表情を浮かべていたシリカが、一気に頬を緩めた。

 風林火山は曖昧な情報を許さない。誤った情報は即プレイヤーたちの死に繋がるからだ。故に全ての情報は真偽を確かめるために自分たちで裏を取っている。トウジが自信をもって知らせてくれた情報ということなら、信頼できる情報のはずだ。

 

「47層……今の私じゃ難しいけど、時間をかけてレベルを上げれば……」

「あー、それで悪い知らせの方なんだけどな……。2つある」

 

 1人呟くシリカの言葉を遮って、俺は口を開く。目が合ったシリカが、再び不安そうに顔を曇らせた。何となく少し申し訳ない気持ちになった俺は彼女から視線を逸らしつつ言葉を続ける。

 

「……プネウマの花を手に入れるには、テイムモンスターを失ったプレイヤー本人が行く必要があるらしい。代わりに他のプレイヤーに取ってきてもらうっていうのは無理ってことだ。だからピナを復活させたいなら、お前自身が47層の思い出の丘を攻略する必要がある。ここまで分かるな?」

 

 確認するように視線を送ると、シリカは真剣な顔でゆっくりと頷いていた。まあ元から自力で攻略するつもりのようだったし、ここまでは問題ないのだろう。しかし、ピナを復活させるうえで1番問題となるのはこれから話す内容だ。

 

「それで、もう1つは……ちょっと《ピナの心》のアイテムテキスト出してみてくれるか」

「え? あ、はい」

 

 急に話を振られて一瞬困惑の表情を浮かべたシリカだったが、すぐに俺の言った通りにアイテムストレージを開いて《ピナの心》のアイテム欄をタップする。そしてテーブルに身を乗り出し、俺に見えるようにウインドウを向けた。それを確認し、俺はアイテムの耐久値を表す部分を指し示す。

 

「ここ。耐久値が減ってるだろ? ストレージに入れておいても、徐々に耐久値が減っていくらしい。話によれば、3日経つと全損して《形見》ってアイテムに変わるそうだ。テイムモンスターの復活にはこの《心》とプネウマの花が必要になるから……」

「つまり、タイムリミットは3日間だけってことですか……?」

「そういうことになるな」

「そんな……」

 

 3日程度では、どれだけ必死に経験値を稼いだとしてもおそらく3レべル前後上げるのが精々だ。一般的にフロアを安全に攻略するための適正レベルは階層の数に10を足したものだと言われているので、第47層の場合は57レベルということになる。

 今の自分のレベルでは攻略出来ないということを理解しているのだろう。俺の話を聞いたシリカは泣きそうな顔になって項垂れていた。

 

「お前、今レベルいくつだ?」

「45です……」

 

 消え入るような声でそう答える。やはり適正レベルには達していない。だが――と考えながら、俺はしばらく前の記憶を掘り起こした。

 第47層、思い出の丘。ほとんど一本道のフィールドダンジョンであり、そこに生息する植物系のモブは毒を付与するいやらしい攻撃を行ってくるが、その攻撃力自体はあまり高くなかった。故に毒に対する対策さえしてしまえば、それほど難易度の高いダンジョンではないはずだ。

 

「……そのレベルなら、47層でも即死することはない。俺がついていけば、多分思い出の丘もクリアできるはずだ」

「え?」

 

 突然の俺の言葉に、シリカは目を大きく見開いてこちらを見る。それから視線を逸らしながら、俺は小さくため息をついて頭を掻いた。テーブルの上に置かれた、麦茶の入った陶器のコップを眺めながら言葉を続ける。

 

「今回お前のテイムモンスターが死んじまったのは、俺も無関係じゃないからな……。でも、勘違いするなよ。俺が付いていったとしても、リスクはゼロじゃない。絶対に守ってやるなんてことは言ってやれない。それでもお前がそいつを生き返らせてやりたいって言うんだったら……まあ、俺も手を貸す」

「ハチさん……」

 

 我ながら、情けないと思う。ここで「安心しろ。俺が絶対守ってやる」と爽やかに言ってのけるのがヒーローというものだろう。だが、俺はそんな根拠のない自信は持てない。不慮の事態が絶対に起こらないと言う保証はないのだ。

 リスクはある。それを理解し、結論を出すのはこいつ自身だ。俺に出来るのは精々それを尊重し、手を貸してやることだけだ。

 数秒の沈黙。考えるようにして目を伏せていたシリカが、その顔を上げる。悩むまでもなかったのだろう。目が合ったその瞳には子供ながらに強い意志が灯っていた。

 

「ピナは大事な友達です。ハチさんが手伝ってくれるって言うなら……お願いしますっ! 力を貸してくださいっ!」

 

 言って、シリカは深く頭を下げる。それを認め、俺も大きく頷き返したのだった。目が合ったシリカがほっとした表情を浮かべ、再び頭を下げて感謝の言葉を口にする。落ち込んだり喜んだり忙しい奴だなと思いながら、俺も口を開く。

 

「まあさっきは散々脅すようなこと言ったけど、思い出の丘自体はそんなに難易度の高いダンジョンじゃない。しっかり準備して行けばよっぽどヘマしない限りは大丈夫だ。ただちょっと問題が――」

「あらぁ? シリカじゃない」

 

 話の途中、背後から人を煽るような甘ったるい声が掛かる。嫌な予感を抱えつつ、俺は咄嗟に盗み見るようにして後ろを伺った。

 俺の視線の先、店の入り口に立つのは真っ赤な髪の女プレイヤーだった。その後ろには、まるで侍らせるように3人の男プレイヤーたちが立っている。

 

「ロザリアさん……」

 

 若干怯えるような表情で、シリカが呟く。そう、声をかけて来たのはあのロザリアだった。後ろの連中にも見覚えがある。迷いの森で一緒にパーティを組んでいた奴らだろう。狩りを終え、そのままパーティメンバーで飯を食べに来たと言うところか。

 そこまで見て取った俺は、頭を抱えるようにして項垂れた。最悪だ。こんなところで鉢合わせするなんて。

 

「良かったわねぇ。1人で森から脱出出来たんだ?」

 

 俺の気も知らず、ロザリアはそんなことを口にしながらこちらに歩み寄ってくる。

 落ち着け。最悪なのは攻略組がこの辺りをうろついているのに気付かれて、タイタンズハンドの連中に警戒されることだ。名前だけは無駄に売れている俺だが、顔はあまり知られていないし、見られても攻略組の人間だと気付かれる可能性は低いはずだ。

 だがまあ、まず顔を見られないに越したことはない。俺は不自然にならない程度に、顔を逸らしてロザリアの様子を伺った。

 

「あれ? あのトカゲどうしたの? もしかして……」

 

 テーブルの横で立ち止まったロザリアが、シリカの周りを軽く見回しながらにやけた表情を隠そうともせずそう口にする。マジで嫌な奴だなこいつ。ちょっとこのレベルで嫌な奴って中々いないぞ。さすがは犯罪者(オレンジ)ギルドのリーダーをしているだけはある。文化祭の時の相模が可愛く思えてきた。

 大事なパートナーをトカゲ呼ばわりされたのが気に障ったのか、眉間に皺を寄せたシリカは睨み付けるようにロザリアに視線を送っていた。

 

「ピナは死にました……。でも、絶対生き返らせてみせます!」

「へぇ……。じゃあ思い出の丘に行くんだ。でもあんたのレベルで攻略出来るの?」

「それは、私1人じゃ無理ですけど……」

 

 シリカはそう言いながら、こちらに視線を送る。え? このタイミングでこっちに話振るの? そうやって俺が内心狼狽えていると、品定めするようにロザリアが俺の顔を見た。やばい。そう思ったが、幸いロザリアはこちらに侮蔑の目を向けるだけだった。いや、それを幸いと言っていいのかわからんけど……。

 

「あんたもこいつにたらしこまれちゃったクチ? 見たとこ大して強くもなさそうだけど……。こんな奴に頼るなんて、あのシリカちゃんも焼きが回ったもんねぇ?」

「ば、馬鹿にしないでください! この人はふうりんかざ――むぐっ!?」

 

 余計なことを口走りそうになったシリカの口を、咄嗟に右手で塞ぐ。敏捷性が高くてよかった。ロザリアは訝し気な視線を送っていたが、それには取り合わず俺はそのままシリカの後ろに回り込む。

 

「あー……いや、ちゃんと準備すればそんなに難易度の高いダンジョンじゃないから、俺みたいのでもクリア出来るんだよ。じゃ、そういう訳で……。行くぞシリカ」

「むーっ!!」

 

 ヘコヘコと頭を下げつつ、俺は腕の中で暴れるシリカを無理やり引きずってその場を歩き出す。口を押えられて苦しいのかシリカは顔を真っ赤にしていたが、今手を放して余計なことを喋られるわけにはいかなかった。

 つーかこれ雪ノ下に見つかったら問答無用で黒鉄宮の監獄エリアにぶち込まれそうな光景だな……。そんな想像に内心ビクつきつつも、手早く会計を済ませた俺はその店を後にしたのだった。

 

 通りに出た俺は、もうロザリアの目がないことを確認してため息をついた。次いで口を塞いだままだったシリカを開放する。文句を言われるかと思ったが、少女はこちらには視線すら向けずその場でぷるぷると身を震わしていた。

 やばい。下手すりゃハラスメント判定が出ているかもしれない。そんな危惧を抱いた俺はフォローを入れるために口を開こうとしたが、不意に後ろから声を掛けられ、言葉を詰まらせた。

 

「――何やってんだ? ハチ……」

 

 振り返った俺の視線の先、佇むのは2人の人影だ。

 胡乱げな眼差しをこちらに向けるキリトと、新しいおもちゃを見つけた子供のように笑顔を浮かべるアルゴが、そこに立っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――という訳で、他意はない。俺はロリコンじゃない」

 

 宿屋の一室。シングルベッドが1つ、隅に配置された小部屋。

 ベッドサイドには小さめの木製の丸テーブルと、それを挟むように丸椅子が2つ置かれており、その1つに俺は腰かけていた。もう1つの椅子にはキリトが座り、向かって右側の壁にはアルゴが立ったまま寄りかかっている。

 先ほどキリトとアルゴの2人と合流した俺は、この宿屋に場所を変えてここまでの経緯を説明していた。シリカが借りている宿屋の一室だ。立ち話も何だからとキリトやアルゴ共々彼女に招かれたのだった。

 知り合ったばかりの人間を仮宿とは言え自室に招くのは危機感が足りてないのでは、と忠告したのだが、「ハチさんとそのお知り合いだったら大丈夫です!」と、シリカは俺に良くわからない信頼を寄せているようだった。子供は思い込みが激しいし、おそらくは相当あの本に毒されているんだろう。これは徐々にネガティブキャンペーンを進めていかなきゃな……と1人考えていた俺の横でアルゴが勝手に話を進め、俺たちは先ほど食事していた食堂と隣接しているシリカが泊まる宿に訪れることになったのだった。

 道すがら、ここでロザリアのマークを外していいのかと不安になった俺はその件をアルゴに耳打ちしてみたが、「バイトを雇ってるから大丈夫ダヨ」との返事があった。どうやらロザリアの動向を24時間監視するために他の情報屋を何人か雇っているらしい。

 

 さてそんな経緯で今に至る。シリカと出会ってからここまでの一通りの話を終えた俺は、キリトとアルゴに視線を送った。俺と目が合ったアルゴは「何だつまらん」とでも言いたげにため息をついてから口を開く。

 

「マァ、今回の件でハチを弄るのはまた今度にするとシテ――」

「おい」

「チョット厄介なことになったナ。どうしたもんカ」

 

 俺の突っ込みには取り合わず、顎に手を当てたアルゴは考えるように視線を彷徨わせる。対面に座るキリトも同様に渋い顔をしていた。

 部屋に微妙な空気が漂う。ばつが悪くなった俺がそれから目を逸らすと、隣のベッドに腰かけているシリカと視線があった。互いの自己紹介を終えてからは黙ってこちらの話を聞いていた彼女だったが、悪くなった雰囲気を敏感に察知したのか申し訳なさそうな表情を浮かべて口を開く。

 

「あ、あの、ご迷惑おかけして本当にすみません……。やっぱり何か都合が悪いんでしょうか?」

「あー、いや、シリカが謝るようなことじゃないんだけど……何て言ったらいいかな……」

「俺っちたちは、これからあるフラグモブを追うつもりだったんダヨ。情報じゃあここ数日中に現れるって話でネ」

 

 キリトの言葉を引き継いで、アルゴがしれっと嘘をつく。まあ正直に全てを話すわけにもいかないから仕方のないことだろう。キリトは一瞬だけ驚いたような顔をアルゴに向けたが、すぐにそれを理解したのか話を合わせるように頷いていた。

 ちなみにフラグモブというのはある特定の条件下で出現する特殊なモブのことだ。大抵のフラグモブはレアなアイテムをドロップするので、それを追って下層や中層に潜る高レベルプレイヤーも多い。つまり俺たちがこの辺りをうろついていたとしても不自然ではないということだ。

 やっぱ嘘の付き方が上手いなこいつ。そんな感心と呆れが入り混じった感想を抱いている俺の横では、シリカが不安そうな表情を浮かべていた。それに気付いたキリトが、気遣うように声を掛ける。

 

「あー、大丈夫。絶対に3日のうちにはシリカが思い出の丘に行けるように手伝うから。ただちょっとタイミングが……」

「マァ、敵のレベルを考えれば最悪こっちの件はキー坊1人でも余裕だからナ。下手にタイミングを計るより、ハチにはさっさと思い出の丘に行ってきてもらった方がいいかもしれないゾ」

 

 言いながら、アルゴはこちらに視線を送る。その話を聞きながら、俺は事前に聞いていた情報を思い出していた。

 タイタンズハンドに所属するメンバーは総員8人、その平均レベルは45程度らしい。対する俺たち2人のレベルは現在78だ。これだけのレベル差があれば、例えまともに攻撃を食らったとしてもほとんどこちらがダメージを負うことはないだろう。ましてや本気を出したキリトがそう簡単に他のプレイヤーの攻撃を食らうとは考えづらいので、アルゴの言う通りソロでもタイタンズハンドの連中を制圧することは十分可能のはずだ。

 だが、何事にもイレギュラーはつきものだ。ここで俺とキリトが別行動を取るのはやはりあまり得策ではない。

 言いだしたアルゴ自身もそれは分かっているのだろう。フードの下には少し渋い表情が張り付いていた。

 

 さてどうしたものか。一応シリカの件をクラインたちに連絡を取って手伝って貰うという手もあるが、それは最終手段だ。あいつらはあいつらでガイドブック製作のためにいつも忙しく駆けまわっているのだ。あまり世話はかけたくない。それに現在のあいつらのレベルでは、第47層でシリカを守りながら攻略するというのは難しいかもしれない。

 ロザリアたちが活動していないだろう時間、深夜から明け方にかけての時間を狙って、さっさと思い出の丘に行ってくるというのが1番現実的か。

 そんなことを考えながら俺がぼんやりと視線を彷徨わせていると、視界の端で壁にもたれかかっていたアルゴが不意に何かに気付いたように顔を上げた。おそらく誰かからメッセージでも受け取ったのだろう。一言断りを入れたアルゴが、2本の指を顔の前で下に向かって滑らせる。すると、シャランという鈴を転がしたような音を立ててシステムウインドウが現れた。

 静寂の中、ウインドウを弄る効果音だけが部屋に響く。俺はぼんやりとアルゴの白く細い指先の動きを眺めていたが、刹那、フードの下で彼女が眉を顰めたのを見逃さなかった。

 何かあったのだろうか。このタイミングでメッセージが飛んでくるということは、ロザリアたちに何らかの動きがあった可能性もある。そんな危惧と共に口を開きかけたのだが、さらにその瞬間妙な違和感を覚えた俺はそれを止めた。首だけで振り返り、この部屋唯一の出入り口である古ぼけた木製のドアに視線をやる。

 ――廊下に、人の気配がある。

 システム的なスキルで察知したわけではない。ただの勘だ。だが、この世界での勘と言うものは案外馬鹿に出来なかった。ゲーム内での勘というものは「データの読み込み過程で発生する若干のラグなどを無意識のうちに感知する能力」なのだ。まあこれは全部キリトからの受け売りなのだが。

 物音がするわけでも、匂いがするわけでもない。だが確かにドアの向こうには人の気配があった。そしてそれはたまたまそこを通りかかったと言うわけでもなさそうで、部屋の中を伺うように身を顰めているようだった。ドア越しの声はノックをしなければシステム的に聞こえないようになっているが、《聞き耳》スキルの熟練度が高ければその限りではない。

 誰が、何の目的で。俺はいくつかの可能性を頭の中で思考したが、しかしそれはしっかりとした形を持つ前に、ある人物の言葉によって遮られた。

 

「――まったく、付き合ってられないヨ。もういい、オマエは1人でそのがきんちょと一緒に思い出の丘でもどこでも好きに行けばいいサ。ここからは別行動ダ。ホラ、行くヨ、キー坊」

 

 唐突にわざとらしく声を上げたアルゴが、もたれかけていた背を壁から離す。先ほどの発言とは打って変わったその態度に俺を含めた3人は言葉を返すことも出来ず呆然とした顔を彼女に向けたが、当の本人はそんなことは意に介さず、ぶつくさと文句を垂れ流しつつおもむろにドアに向かって歩き始めた。そしてドアの前まで到達すると、ドアノブに手を掛けてゆっくりと外を伺うようにそれを開く。

 その瞬間、逃げ出すような慌ただしい足音が部屋の中へと響いた。廊下に留まっていた人の気配が一気に遠ざかっていく。それを確認したアルゴが「行ったみたいダナ」と呟きながらゆっくりと扉を閉めた。

 

「おい、アルゴ……。まさか――」

「ウン。多分ハチが考えている通りだと思うヨ」

 

 こちらの様子を伺う人の気配に、今のアルゴのわざとらしい態度。色々と思うところのあった俺は口を開こうとしたが、それを遮るように肯定の言葉が返って来た。その事実に、俺は眉を顰める。考えられることは1つしかない。

 全く悪びれる様子はなく、アルゴがこちらを見つめていた。シリカは事態が全く呑み込めないという表情で、オロオロとしている。キリトは俺と同じ考えに至ったのだろう。渋い顔で腕を組んでいた。

 アルゴから目を逸らし、俺は頭を掻きながらため息をつく。確かに、最良の選択肢だろう。俺も当事者でなければ、迷わず同じ選択をしていたはずだ。

 だが、と俺はシリカへと視線を送る。不安そうな表情でベッドに腰掛けるその姿が、いつかの森でPoHに襲われ、力なくへたり込んでいた彼女の姿と重なった。

 

「……シリカにも、全部説明しろ。話はそれからだ」

 

 沈黙の後、俺は呻くようにそう口にした。それが、今の俺に出来る最大の譲歩だった。

 再び訪れた静寂の中、俺はアルゴへと視線を送る。目が合ったアルゴは何故か眩しいものを見るようにこちらを見つめていた。しかしやがて大きくため息をつくと、ゆっくりと頷いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから俺たちは、シリカにここまでの経緯を包み隠さず説明した。

 

 殺人(レッド)ギルド笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の情報を得るために、繋がりがあると思われる巨人の手(タイタンズハンド)という犯罪者(オレンジ)ギルドを追っていたこと。

 巨人の手(タイタンズハンド)の連中を一網打尽にするため、そのギルドのリーダーであるロザリアを今日一日尾行していたこと。

 そして――

 

「わ、私が、ロザリアさんたちに狙われてるんですか……?」

 

 ベッドに座ったままのシリカが、そう呟いた。堅く握られた両手は、不安を押し込めるように胸の前に置かれている。本来快活であろう少女の瞳には、怯懦の感情が色濃く映っていた。それを認め、やるせない気持ちが俺の中に広がっていく。

 そう、今回タイタンズハンドの連中に獲物として目を付けられたのは、シリカだったのだ。先ほどアルゴが受け取ったメッセージは、情報屋仲間からのタレコミだったらしい。その内容は「第47層思い出の丘にて、プネウマの花を手に入れたシリカとその同行者をタイタンズハンドの連中が襲う計画を立てている」というものだった。

 そのメッセージを受け取った後のアルゴの不自然な言動は、奴らをおびき寄せる囮としてシリカを利用しようとした故のものだ。ドアの外に感じた気配。あれはタイタンズハンドの手の者だろう。それを察知したアルゴが一芝居うったと言うわけだ。あまり大人数で行動しては標的として敬遠されるかもしれないと考え、思い出の丘へと向かうのは俺とシリカの2人だけということを奴らに印象付けたのだ。

 おそらくアルゴは、俺が何も言わなければシリカには黙ってそのまま囮として利用していたのだろう。悪い手段ではない。下手に話せば不安を煽るだけだし、俺とキリトが関わっているのならリスクはそれほど高くはないのだ。

 だが第2層での出来事を考えれば、シリカにその役目を背負わせるのは荷が重いかもしれない。トラウマを刺激されれば、取り乱したシリカがどうなるかわからなかった。

 だから俺は、全てを正直に話すことを選んだのだ。話した上でシリカ本人に選択させた方が、どちらに転んだとしても心の傷は浅く済むかもしれない。

 

 一通りの説明を終え、部屋の中は最悪の雰囲気で満たされていた。これだったらキリトと役割を変わればよかったな、と思いながら俺はドアの方を見つめた。盗み聞きされることを防ぐため、現在キリトは廊下で見張り中である。

 

「今さっき情報屋仲間からタレコミがあったんダ。間違いないヨ」

「な、何で私が……」

「サア。それはロザリア本人に聞いてみるしかないナ」

「そんな……」

 

 不安に顔を曇らせるシリカのことなど何処吹く風で、アルゴは淡々と言葉を交わしていた。その態度に俺は若干眉を顰めつつ、ため息をつく。もうちょっと気を使えよ……。そう思いながら、俺はあらかじめ用意してあった選択肢をシリカに提案する。

 

「シリカ。お前が望むんなら、うちのギルドホームでお前を保護してやることも出来る。ただ……」

「その場合は、お嬢ちゃんのテイムモンスターを復活させることは難しいと思うヨ。3日のうちにこの一件を収めテ、それから思い出の丘に行くのはタブン無理ダ」

 

 一瞬言葉を躊躇った俺に代わり、アルゴがそう告げる。本当に、言いづらいこともズバズバと口にする奴だ。虚言を嫌う誰かさんを彷彿とさせるものがある。だがしかし、おそらくこいつはそれよりもさらにいやらしく、もっと強かなのだろう。畳み掛けるように、アルゴはさらに話を続けた。

 

「だからそれを踏まえテ、お嬢ちゃんにお願いしたいんダ。タイタンズハンドの連中をおびき寄せるために、ハチと一緒に思い出の丘に行って欲しイ。もちろんプネウマの花を手に入れるのには協力するヨ」

 

 心持ち優しくなった声音が、諭すようにシリカに投げかけられる。しかしこれはお願いとは名ばかりの脅迫だ。ここまでの経緯から、シリカとそのテイムモンスターであるピナとの繋がりをおそらくアルゴは察し、頼みを断れないことを理解している。しかし言っていることが全て真実なだけに、俺も口を挟むことは出来なかった。

 

「ハチはこんな性格だから自分からは言わないだろうケド、客観的に見てこいつの実力はゲーム内でもトップレベルダ。さっきのキー坊もナ。俺っちたちもばれないように後ろからついていくから、安全は保障出来るヨ」

 

 アルゴの評価は俺を買い被り過ぎているような気もするが、実際ステータスで見れば確かに俺はゲーム内でもトップレベルではある。まあ、その辺は色々と規格外な能力を持ったキリトのおこぼれを与っている部分が大きいのだが……。

 そこまでで言うべきことは言いきったようで、アルゴは返答を待つようにシリカへと視線を送っていた。一方のシリカは深く考えるように視線を伏せている。

 

「……先に言っとくけど、別に俺たちに気を遣うようなことはしなくていいからな。こいつはこんなこと言ってるが、絶対に安全ってわけじゃない」

「ハチは心配性ダナ」

「お前が楽観的過ぎるんだよ……」

 

 深い思索に耽るシリカを傍目に、アルゴとそんなやり取りを交わす。命が掛かっているのだ。神経質になるのも当然だった。俺はアルゴやキリトのように、豪胆な性格にはなれない。卑屈に、慎重に、俺はここまで生き抜いてきたのだ。

 一瞬アルゴに向けた目線を、対面に座るシリカへと戻す。すると、既に決心するように顔を上げていたシリカと目が合った。

 何だかんだと諌めるようなことを言いながら、俺はこの少女がその結論を出すであろうことを心の底では予想していたのかもしれない。決意に満ちた少女の瞳を、俺はどこか納得するような気持ちで眺めていた。

 

「ピナは大事な友達なんです。何があっても、助けてあげたいんです。それで、それがもしハチさんたちの手助けにもなるんだったら……」

 

 そこで息を継ぎながら、俺とアルゴに強い視線を向ける。シリカは語彙を強くしながら、さらに言葉を続けた。

 

「私、思い出の丘に行きます。いえ、行かせてください」

 

 凛とした声が、部屋の中に響く。その残響に浸るように瞑目し、俺はゆっくりと頷いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、思い出の丘の攻略についてとタイタンズハンド対策について打ち合わせを済ませた俺たちは、その決行を明日と決め、今日のところはもう解散する流れとなった。

 だが、気丈に振る舞っていてもやはり不安なのだろう。シリカは1人になることを嫌がったため、アルゴが1人だけ同じ部屋に泊まっていくことになった。金にうるさく腹黒い奴だが、基本的に悪い奴ではない。シリカのケアは同性であるアルゴに任せ、俺とキリトは部屋を後にしたのだった。

 部屋を出てすぐのところで、俺はため息をついて立ち止まる。それなりに大きな宿屋で、長く伸びる廊下には8つの部屋が並んでいた。ドアの向かいにはそれぞれ両開きの窓が設置されており、3階に位置するここからは月明かりに照らされて表の通りを眺めることが出来る。

 

「余計なお世話だったのかもしれないな」

「ん? 何がだ?」

 

 ぽつりと呟いた俺の独り言に、キリトが反応する。えんじ色の絨毯が敷かれた廊下を再び歩き出しながら、俺はそれに答えるべく口を開いた。

 

「シリカのことだよ。あいつ前にもレッドプレイヤーに襲われたことがあるから、今回のことに巻き込んだらトラウマ刺激するんじゃないかと思ったんだけどな……」

 

 言いながら、俺はシリカの決意に満ちた表情を思い出していた。まだまだ子供だと思って色々と気を回していたのだが、思えばあの少女もSAOの世界をここまで生き抜いてきたプレイヤーだったのだ。しかも聞いたところギルドには所属していないようだったし、その辺のプレイヤーよりも肝が据わっているのかもしれない。

 

「ああ……。まあ、いざっていう時はそう言うの、男より女の方が精神的に強かったりするよな」

「確かに」

 

 隣を歩くキリトが、妙に達観した様子でそう口にする。その台詞に、俺も何故か妙に納得してしまった。思い浮かぶのは雪ノ下、アスナ、アルゴの姿だ。……最近俺の周りにいる女性陣はかなり図太い神経を持っている気がする。胃が痛くなるラインナップだな。

 そんなことを考えているうちに、階段へと差し掛かる。そこを下りながら、キリトは「さて」と口にしてこちらに向き直った。

 

「ハチも今日はここに泊まるつもりなんだろ? 部屋はどうする? 多分ここ2人部屋もあると思うけど」

「普通に別々でいいだろ。最近そんなに金欠ってわけでもないし」

「そうだな……」

 

 そう呟いたキリトの表情は、何故か若干残念そうだった。……え、なにその反応。薔薇? 薔薇なの?

 と、一瞬そんなくだらない思考も過ったが、さすがに俺も本気でそんなことを危惧しているわけではない。おそらく、キリトも明日のことが不安なのだろう。俺だって、不安がないと言えば嘘になる。

 何となく微妙な雰囲気のまま、俺たちは宿屋のカウンターへと向かった。幸い1人部屋がいくつか空いていたので、手早く部屋を取る。2階の西側、キリトの部屋とは隣同士だ。特に用事もなかったので、俺たちはそのまま部屋へと向かった。

 

「……なあ、ちょっと話さないか」

 

 宿屋2階、俺が取った部屋のドアの前で、キリトがおもむろにそう口にした。ドアノブに伸ばしかけていた手を引っ込めて振り返ると、少し陰のある表情を浮かべたキリトと目が合う。何とはなしに、お互いにすぐに目を逸らした。

 

「……わかった。入れよ」

 

 言いながら、俺はドアを開けて部屋へと入って行った。ドアを越えると、独りでに薄暗い室内に明かりが灯る。

 間取りはシリカが借りていた部屋と全く同じだった。向かって右奥にベッドがあり、その手前には木製のテーブルと椅子が2つ。ドアの隣にはクローゼットと何だかよくわからない観葉植物が置かれている。

 後ろをついてくるキリトの足音を聞きながら、俺はシステムウインドウを呼び出して手早く装備を解除した。部屋着へと着替えるためにそのままアイテムストレージを弄りながら、俺は振り返りもせずに口を開く。

 

「不安なのか?」

 

 漠然とした問いだった。キリトからの返事はない。俺がストレージを弄る澄んだ音だけが、しばらく部屋の中に響いていた。

 ……あれ? これもしかしてシカトされた? と俺の方が少し不安になってきた頃に、ようやくキリトが小さく「ああ」と言って頷いた。着替えを済ませた俺は内心少しほっとしつつ、ベッドへと腰かける。すると、ドアの前で仁王立ちしたままのキリトと目が合った。

 

「……ハチは、恐くないのか?」

「んなもん超恐いに決まってんだろ。言っとくが俺はかなりのビビりだぞ」

「いや、何でそんな自信満々なんだよ……」

 

 そう言って力なく苦笑するキリトから視線を外し、俺は大の字になってベッドへと横になった。板張りの天井を見つめながら、考えに耽る。

 死ぬかもしれないことが、恐いわけじゃない。キリトもそうだろう。そんな感情は既に擦り切れて良くわからなくなってしまっていた。第53層に至るまでの道のりで、死を覚悟したことなど1度や2度ではないのだ。

 人を相手取るという、漠然とした恐怖。18年間という俺の人生で培われた小市民的な倫理観が、人を殺すという行為を忌避していた。

 

「……まあ、それでも、この世界じゃ俺たちがやるしかない。嫌でも腹括るしかないだろ」

 

 ぼんやりと天井を眺めたまま、呟いた。ゲームクリアという目標に向かって活動するのなら、いずれ笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の連中は大きな障害になるのだ。明日のタイタンズハンドとの対峙では相手を殺すまでの事態には発展しないかもしれないが、それでも覚悟だけはしておかなければならない。

 静かな部屋の中、キリトの息遣いだけが妙に大きく聞こえた。俺はしばらく瞑目した後、ゆっくりとベッドから体を起こす。

 

「明日、もし万が一戦うことになったら……迷うなよ?」

「……ハチは、もう覚悟出来てるのか?」

「ああ。……もう散々後悔した後だからな」

 

 お互いに目は合わせず、言葉を交わした。それでも、キリトが今どんな表情を浮かべているのか、俺には分かるような気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第21話 囮

 シリカとの出会いから、一夜明けた翌日。

 俺とシリカの2人は、既に第35層の宿を後にして目的のフロアへと到着していた。

 

 第47層主街区《フローリア》

 白い石材で統一された清潔感のある街並みに、アクセントの強い赤い煉瓦の石畳が走る。そしてこの街1番の特徴は、街中のみならずフィールドにまで所々配置された色とりどりの花壇だ。フロア全体に鮮やかな花々が植えられており、プレイヤーの間でこのフロアは《フラワーガーデン》などとも呼ばれて親しまれている。アインクラッド屈指のオサレスポットだ。

 

 シリカを伴って転移門を抜けた俺は、そのまま広場へと出る。フローリアの転移門広場はフィールド付近の外縁部に設置してあり、外壁のほとんどない開放的な作りになっているため見晴らしがよかった。フロア全体に起伏が少ないことも相まって、遠く広がる草原には花々が虹のようなグラデーションを作っているのが見て取れる。目の前の広場にもこれでもかと言わんほどの花壇が一面に広がっており、吹き抜ける風が小さな花弁と共に甘い香りを運んできた。幸いこのフロアは気温が20度前後で固定されているので、寒さは感じない。

 辺り一帯を見渡し、隣でシリカが小さく感嘆の声を上げる。対して俺は、げんなりした気分でため息をついていた。生粋のインドア派ぼっちの俺には、こういうオサレスポットは肌に合わないのだ。

 

「わぁ……。すっごく綺麗ですねっ」

「あー、うん。まあ、そうだな」

「夢の国みたい……」

 

 そんな乙女チックなことを口にしてうっとりと目を輝かせるシリカに適当に相槌を打ちつつ、歩を進める。まああまり思い詰められてもやりづらいし、こういったことで気が紛れるなら良いことだろう。シリカからは昨日ほどの深刻な雰囲気は感じられなかった。

 興奮した様子で先を歩くシリカが、花壇のそばまで走り寄って身を屈める。そしてしばしご満悦な表情で花々を眺めていたが、ややあって何かに気付いたように表情を強張らせる。俺はそれに怪訝なものを感じて口を開いた。

 

「何かあったか?」

「あ、いえ……」

「……見張られてる可能性は高いが、行きで襲われることはまずない。変に気張っても疲れるだけだぞ」

「えっと、そう言うことじゃなくて……」

 

 言いながら、シリカは広場にいる他のプレイヤーたちへと目を向ける。つられて俺もそちらに目をやって、ようやくシリカの言わんとしていることに気が付いた。

 広場の所々で談笑する、男女のプレイヤー。中にはこっちが恥ずかしくなるくらいいちゃついているカップルもいる。アインクラッド屈指のオサレスポットであるここは、当然そのままアインクラッド屈指のデートスポットでもあった。

 

「あー……悪い、気が回らなかったな。とりあえずさっさと行くか」

「え、あ、はい!」

「さすがに別行動するわけにはいかないが……まあ、気になるようだったらちょっと離れて付いてきていいぞ。圏外に出るまでだけどな」

「え? どういうことですか?」

「いや、こんなとこ一緒に歩いてたら色々と勘違いされるだろ。それが嫌だったんじゃないのか?」

 

 いわゆる「一緒に帰って友達に噂とかされると恥ずかしいし……」というやつだろう。2で寿さんと一文字さんに何度も下校イベントをキャンセルされた俺が言うのだから間違いない。あれってガチで言われると結構へこむよな……。

 まあ、俺たちが並んで歩いていたところで精々似てない兄妹くらいにしか見えないだろうが――とも思ったが、子供扱いされることを嫌がるシリカに気を遣ってその言葉は飲み込んだ。ませた子供にとっては俺くらいの高校生との歳の差などあってないようなものだろう。

 しかしシリカも俺に気を遣ったのか、はたまた単純に俺の思い違いだったのか――出来ればその方が嬉しい――慌てたように首を振って、俺の言葉を否定した。

 

「ち、違います! ちょっと恥ずかしかっただけで、別にハチさんと一緒に歩くのが嫌だってわけじゃ……」

「そうか……。まあどっちにしろここには用もないし、さっさと行くぞ」

「は、はいっ!」

 

 口を開きながら俺が歩き始めると、快活に頷いたシリカが小走りに俺の隣へとやってきた。それを認めてから、俺は再び周囲へと視線を走らせる。

 今のところ周囲に怪しい影はない。広場の至るところでバカップルどもがイチャイチャとしているだけだ。ぼっちというものは他人の視線に敏感で、自分に向けられる悪意に敏いものである。俺に至ってはさらに自意識が強すぎて無駄に被害妄想を繰り広げることまである。その俺を以ってして特に悪意ある眼差しを感じられないのだから、おそらくタイタンズハンドの連中が今近くに潜んでいるということはないだろう。

 やはり昨日のタレコミ通り、俺たちがプネウマの花を手に入れてから襲うつもりなのだ。思い出の丘の攻略は順調に行って往復1時間程度。俺たちが宿を発った時間さえ把握していれば、帰り道で待ち伏せすることは難しくないはずだ。そのパターンならば、俺たちの計画に変更はない。

 俺とシリカはひとまず普通に思い出の丘を攻略。キリトとアルゴの2人はその俺たちを遠くから尾行、もしくはタイタンズハンドの連中が俺とシリカを尾行していた場合には2重尾行する手筈になっている。その後はタイタンズハンドの連中が襲って来たところを返り討ち、といった流れだ。

 まあ、先のことばかり考えても仕方ない。まずは安全に思い出の丘を攻略することだ。無駄に装備品やアイテムを収集する癖があるキリトからシリカ用の装備をいくつか受け取っているのでステータスはかなり底上げされているが、それでもまだ彼女には思い出の丘は少し難易度が高い。油断は出来ないだろう。

 圏外へと足を踏み入れる前に今一度気合いを入れ直しつつ、俺は花の都フローリアの南、フィールドダンジョン《思い出の丘》へと向かったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後フローリアを発ってから10分足らずで、俺たちは目的の《思い出の丘》入口へと到着した。

 至るところでモブが湧く迷宮区やダンジョンと違い、フィールドではまばらにモブが出現するポイントが決まっているため、その位置さえ知っていれば戦闘を避けて通ることが出来る。昨日のうちにキリトからその辺の情報は聞いていたので、俺たちはモブと遭遇することなくここまでやって来ることができた。

 ていうかあいつ、よく1ヶ月くらい前に攻略したこの辺の情報とか覚えてるよな……。さすがあの歳で廃ゲーマーとして鳴らしているキリトさんだ。俺とは脳みその構造が違うらしい。

 

 そうしてダンジョン入口に差し掛かった俺は、攻略の前に今一度いくつかの注意事項をシリカに確認する。

 危険だと感じたら、すぐに転移結晶で街に飛ぶこと。俺より先には進まないこと。絶対に俺の指示に背かないこと。

 ……最後の項目を幼女に強いるのはちょっと危険な匂いもするが、シリカは特に疑うこともなくうんうんと頷いていた。いや、俺は大丈夫だけど、世間には変態が多いからね。あんまり人を信じすぎるのもどうかと思うぞ。俺は大丈夫だけどね。

 

 そんなこんなで最終確認も終えて、いざ俺たちは思い出の丘へと足を踏み入れた。とは言っても、ここまで歩いてきた道のりと劇的に景観が変わる訳でもない。入口の立札が無ければここがフィールドダンジョンだとは誰も気付かないだろう。まあそれでもダンジョンはダンジョンなので、多少モブのレベルやエンカウント率は上がる。俺は警戒心を少し引き上げながら、赤い煉瓦の石畳の上を歩いていった。

 

「あー……、昨日はちゃんと寝られたか?」

「はい。アルゴさんが一緒にいてくれたので……。私がちゃんと寝られるまで、いろんなお話をしてくれました」

 

 周囲を警戒しながらも、隣を歩くシリカの精神状態を気遣って俺は声を掛けた。朗らかな笑みを浮かべて受け答えする彼女の表情には無理をしている様子はない。やはり精神的に強い奴だなと俺は感心しつつ、会話を続ける。

 

「お話ねぇ……。あいつは金が絡まない話は急に適当になるから、話半分に聞いとけよ?」

「そんな言い方酷いですよ……。凄く優しかったですし、ハチさんのお話もいっぱいしてくれましたよ」

「俺の話……」

「はい。迷宮でトラップに掛かった話とか、子供のプレイヤーを保護しようとして不審者に間違われた話とか」

「おい。話のチョイスに悪意があるだろ」

 

 あの野郎……と内心アルゴに悪態をつく。いや、徐々にネガティブキャンペーンを進めていくつもりではあったんだが、他人にやられると腹が立つのが人の性だ。せめてもうちょっとマシな話があっただろ。アスナにデュエルでボコボコにされた話とか、船から落ちて溺れかけた話とか、ストーカーに間違われてALFに通報された話とか……あれ? 俺の思い出、黒歴史しか出てこなくね?

 そんなふざけた思考を展開していた俺だったが、周囲に何となく違和感に気付いて足を止めた。右手でシリカを制しながら、10メートルほど前方の茂みに視線をやる。

 おそらく、何かがいる。人の気配ではない。

 突然の俺の態度に驚いたのだろう。シリカは訝しげにこちらに視線を向けていた。

 

「どうかしたんですか?」

「あそこの茂み……多分モブが隠れてる」

「え? でも植物系のモンスターが擬態してる時って、索敵スキルじゃ見つけられないはずじゃ……」

 

 シリカの言う通り、植物系のモブが普通の植物に擬態している時はそれを索敵スキルで感知することは出来ない。そしてこの思い出の丘に生息するのは植物系のモブのみで、エンカウントするまでは基本的にその身を隠している。

 故にシリカの言葉は至極正しいものであったのだが、俺はそれに頭を振って口を開いた。

 

「スキルじゃなくて、勘だ。まあ見とけ」

 

 言いながら、俺は右腿のレッグシースから小型のスローイングナイフを引き抜く。そのまま右手を振りかぶり、ソードスキルの光が宿るのを感じて、すぐさまそれを投擲した。

 システム的な補正を受けたそれは緑色の軌跡を描き、俺の狙いに寸分たがわずヒットする。瞬間、5メートルほどの巨大な植物系モブが奇声を上げて茂みの中から飛び出してきた。巨大な赤い蕾から緑の触手が無数に生えたグロテスクな姿。それを認め、シリカが驚愕の声を上げる。

 

「ほ、ホントにいた……!」

「モブが隠れてる空間と、何も居ない空間じゃデータ量も違うからな。データ量が違えばにロードに掛かる時間も変わってくる。敏感な奴だとその辺何となくわかるんだよ。まあ絶対ってわけじゃないから過信は禁物だが」

 

 俺はドヤ顔でそう言いながら、内心ではちょっとほっとしていた。あんな思わせぶりな態度を取っておいて、「何もいませんでした」じゃ恥ずかしすぎる。こういった危機察知能力だけがゲーム内でキリトに勝てる唯一の俺の長所なのだが、それでも絶対ではない。黒歴史が増えなくてよかった。そう思いながら、俺は背中の槍を手に取った。

 

「……どうせだから、ついでに色々レクチャーするぞ。俺とここ回ってればいくらかレベルは上がるだろうけど、プレイヤー自身のスキルは自分で上げるしかないからな」

「は、はいっ!」

 

 普段ならば絶対にこんな差し出がましい提案はしない。だが、色々と思うところのあった俺は老婆心からそんなことを口にしていた。幸い、シリカは嫌な顔1つせずに俺の言葉に頷く。

 ステータスばかり上がって経験が伴わないという状態は、個人的に1番危険だと思っている。昨日は結構な時間シリカを尾行して戦う姿を観察していたので、俺には彼女の欠点もよく見えていたのだ。このままレベルだけ上がってしまえば、いずれどこかで躓くだろう。そしてその躓きがゲームオーバーへと繋がることも珍しくない。

 

「じゃあとりあえず、パーティ戦闘の練習だ。俺が壁役やるから、お前は好きに攻撃してみろ」

 

 そう言って、俺は槍を構えて前へと進む。元気の良いシリカの返事を背中に聞きながら、俺は強く槍を握り直した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――っつーわけで、お前は追撃に拘り過ぎなんだよ。短剣ってのは敵と正面から打ち合うのには向いてないんだから、基本一撃離脱するくらいの気持ちでいた方がいい。他の武器よりバックアタックボーナスが高めに設定されてるから、それでも案外DPSは稼げるぞ」

「なるほど……」

 

 思い出の丘攻略開始から、20分ほどが経過していた。プネウマの花が入手できるダンジョンの最奥までの行程は残り半分と言ったところだ。良いペースとは言えないが、特に危険はなく進むことが出来ていた。

 戦闘を1つこなしては反省会、また戦っては反省会というのを繰り返しながら、ゆっくりとダンジョンの最奥を目指している。シリカは飲み込みも早く、素直に俺のアドバイスを聞いていた。

 ゲーム用語を特に説明しなくても理解してくれるのも地味に八幡的にポイント高い。こういうのは女には伝わらないことが多いし、場合によっては引かれるからな……。

 ちなみに《バックアタックボーナス》というのはモブを背中から攻撃した時に発生するボーナスダメージである。そして最後の《DPS》というのは《damege per second》の略で、秒単位の平均ダメージ効率……まあ要するに長い目で見て敵に対してどれだけのダメージを与えられるか、といったものである。

 

「ほれ、とりあえずポーション飲んどけ。まだ先は長いし、もう少し行ったところにセーフティゾーンがあるから、そこまで行ったら一旦休むぞ」

「あ、はいっ」

 

 ここに来て幾度目かの反省会を終えた俺たちは、そんなやり取りを交わして再び歩き出す。マップによればここから少し歩いた場所に休憩所のような場所があるはずだった。

 誰かを守りながら戦うというのは、想像していたよりも疲れるものだ。いつもはキリトと持ちつ持たれつ……いや、むしろキリトに任せて割と怠けていることが多いので、余計大変に感じる。

 そんなことを考えながら歩いていると、俺はふと隣から何やら視線を感じとった。咄嗟にそちらに目をやると、何故か小さく笑みを浮かべているシリカと目が合う。

 

「な、何だよ……」

「あ、いえ……」

 

 何となく居心地が悪くなった俺がそう問いかけると、シリカは気恥ずかしそうに目を逸らした。しかしややあって、ぽつりと独り言を溢すように口を開く。

 

「……昨日会った時にも思いましたけど、何だか、ハチさんってお兄ちゃんみたいですね」

「は? 俺が?」

「はい。私は1人っ子なんですけど……もしお兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかなって」

 

 そう言いながら、シリカは遠い目をして顔を伏せる。SAOの中をここまで1人生き抜いてきた少女。その年相応の素顔を、俺はその時初めて見られた気がした。

 一時は人間不信に陥ったこともあるそうだが、少なくとも俺のことは多少信用してくれているようだった。両親と離れ離れになってこんな世界に閉じ込められてしまった少女が、そんな相手に「家族」を求めるのは無理のないことなのかもしれない。

 

「……まあ、実際俺妹いるしな。俺がこうやって色々口出すとウザがられるんだが」

「ふふっ。きっと素直じゃないんですよ。ハチさんの妹さんですし」

「おい、どういう意味だそれ」

 

 そんなぬるいやり取りが、何故か心地良い。柄にもなくそんなことを思いながら、俺たちはさらにダンジョンの奥へと進んで行ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、セーフティゾーンでしばらく休憩を挟み、さらに先へ進むこと15分。少し開けた広場のような場所でエリアボスと思われる巨大な植物系のモブを倒した後――ここはさすがに危険なので、俺がソロでさっさと片付けた――すぐに200メートルほどの緩やかな上り坂に差し当たった。そこを一気に上り切ると、丘のてっぺんは再び少し開けた空間になっており、中央には幾何学的な祭壇が配置してあるのが目に入った。

 

 もはやお互い無言になって、俺とシリカはその祭壇に近づく。そのすぐそばまで歩み寄ると、鉄を鳴らしたような音を立てながら祭壇が光を放ち、その上に1輪の白い花が現れた。植物には詳しくないが、百合の花に似ているような気がする。

 その光景に見とれていたシリカが、ややあって怯えたようにこちらへと視線を向ける。目が合った俺はなるべく相手を安心させるように頷くと、シリカも堅い顔でこちらに頷き返し、大きく息をついてから祭壇の上、白く光を放つ1輪の花へと手を伸ばした。

 白く細い指がそれに触れた瞬間、花は独りでに茎の中ほどから折れ、その体を委ねるように少女の手の中へと納まる。それと同時に、アイテムウインドウが音を立てて俺たちの前に現れた。

 

《プネウマの花》

 

「これで、ピナが……」

「ああ、そのはずだ」

 

 呟くシリカに、俺も頷いて言葉を掛ける。彼女はそれからしばらく呆然とプネウマの花を見つめていた。

 

「昨日も言ったけど、ピナを復活させるのは街に戻ってからだ。まだ色々と危険があるからな」

「……はい。わかってます」

 

 「色々と」という言葉に含まれたニュアンスに、シリカの顔が少し険しくなる。俺はため息をつき、踵を返してゆっくりと歩き出した。プネウマの花をストレージにしまったシリカが、すぐにその後を追いかけてくる。

 

 本番は、ここからだ。そう自分に言い聞かせながら、俺たちは来た道を引き返し始めた。お互いに口数が減り、緊張した空気のまま歩を進めてゆく。もはや戦闘のレクチャーをするという雰囲気でもなくなってしまったので、道中現れる敵はサクサクと俺が処理をし、復路は往路よりもかなり早いペースで進むことが出来た。途中で一旦休憩も挟み、俺たちは30分弱でダンジョン入口付近にまで到達したのだった。

 

「……シリカ、止まれ」

 

 小川に掛かった石橋の先、赤い煉瓦の道が伸びる横には並ぶように針葉樹がいくつも植えられてあった。ダンジョン入口までは後数百メートルほどという距離の場所だ。俺は石橋を渡りきる手前で足を止めて、シリカへと目をやった。少女の不安げな表情が目に映る。

 

「転移結晶、用意しとけ。なんかあったら、絶対にすぐに使えよ」

 

 その言葉にシリカが頷き、ストレージから青いクリスタルを取り出した。それを認めてから俺はその場から一歩踏み出し、虚空に向かって声を上げる。

 

「……おい、そこにいる奴ら出て来いよ」

 

 木々の間に、俺の声が虚しく響いた。そのまま数秒の静寂が流れる。

 ……あれ? もしかして俺の勘違いだった? という不安が過った刹那、木陰から1人のプレイヤーが歩み出てくる。そうして黒塗りの十文字槍を手にした赤い髪の女プレイヤー、ロザリアが俺たちの前に姿を現したのだった。

 そいつは不敵な笑みを浮かべながら、値踏みするような視線をこちらに投げかけてくる。ややあって、こちらを嘲笑するように口を開いた。

 

「……ふーん。死んだ魚みたいな目してるくせに、私の隠蔽を見破るなんて案外索敵スキルが高いのねアンタ」

「や、目は関係ねえだろ……」

 

 げんなりした気分で、俺はそう突っ込む。何で会ったばっかの奴にそんなこと言われなくちゃいけないんだ……。

 まあ案の定というか何というか、俺の言葉には取り合わず、ロザリアはいやらしい笑みを浮かべたまま言葉を続ける。

 

「その様子だと、プネウマの花はちゃんとゲット出来たのかしら。まあ、どっちにしろ持ってるものは全部置いて行って貰うんだけどね」

 

 言って、ロザリアは指を弾く。それを合図に、左右に並んだ木々の影からさらに7人のプレイヤーたちが現れた。曲刀、片手剣、刀、各々得物を構えた男プレイヤーたちだ。1人を除いて、そいつらの頭上に浮かぶカーソルはオレンジに染まっていた。

 男たちの登場にシリカは怯むような表情を浮かべたが、俺は逆に安堵していた。装備品から見るに、レベルの高いプレイヤーはいない。そんな俺の態度が意外だったのか、ロザリアはつまらなさそうに声を上げた。

 

「あらぁ? あんまり驚かないのね。それとも、言葉も出ないのかしら?」

「いや、知ってたからな。お前ら、犯罪者(オレンジ)ギルド巨人の手(タイタンズハンド)の連中だろ?」

 

 相手の挑発するような言葉に、俺は努めて冷静に答える。正直冷静に見えるのは表面だけで心臓は早鐘のように鳴り打っていたが、それを悟られては駄目だ。

 ちなみにここでのやり取りは、一応事前に想定して台詞を用意してある。昨日のうちにアルゴに暗記させられたその口上を思い出しながら、俺は言葉を続けた。

 

「お前ら、やり過ぎたんだよ。《シルバーフラグス》ってギルド、覚えてるか?」

「ああ。あの貧乏な連中ね。それがどうかしたの?」

「……リーダーの奴以外、5人、皆殺しにしたらしいな。生き残ったそいつからの依頼で、俺はお前らを捕まえに来たんだよ」

 

 全く悪びれることのないロザリアの態度に苛立ちながらも、俺は何とか台詞を続ける。そしてストレージからアイテムを取り出しながら、さらに口を開いた。

 

「依頼人が有り金叩いて買った回廊結晶だ。これで黒鉄宮の監獄エリアに飛んでもらう。俺はお前らみたいな奴らは全員死ねばいいと思ってるんだが……依頼人が出来た人間でな。全員殺さずに捕まえて罪を償わせたいそうだ」

 

 そこまで言いきって、俺は心の中で一息つく。この話は半分嘘で半分本当だ。真の目的はラフィン・コフィンについて探りを入れることだが、シルバーフラグスのリーダーから依頼を受けたことも嘘ではない。そいつは最前線の転移門広場で仇討してくれるプレイヤーを探していたらしく、それを見つけたアルゴがこちらに話を持ってきたので、俺たちはそれに乗っからせて貰うことになったのだ。

 まあ犯罪者どもにこんな話をしたところで、はいそうですかとお縄を頂戴できるわけもない。その予想通り、ロザリアは俺の話を鼻で笑った。

 

「マジになっちゃって、馬鹿じゃないの? ここで死んだって、現実世界で死ぬ保証なんて何もないし」

「……そうか」

 

 呟きながら、俺は回廊結晶をストレージにしまう。ここまでクズな人間相手にならば、別段心も痛まないな。そう思いながら俺は次いで背中の槍を手に取り、その切っ先をロザリアへと向けた。

 

「気が変わった。お前だけは殺す」

「ハ、ハチさんっ……」

 

 狼狽えたように、シリカが後ろで声を上げた。その言葉にロザリアの隣に立っていた1人の男プレイヤーが反応する。「ハチ……?」と小さく呟きながらこちらを観察していたそいつが、ややあって大きく目を見開いた。

 

「死んだ魚みたいな目に、あの槍……。ロ、ロザリアさんっ! あいつ《風林火山のハチ》だ!! 攻略組の!!」

 

 曲刀を右手にぶら下げていたその盗賊風の男が、焦ったように声を上げた。その言葉に他の男たちもざわつきだす。しかしリーダーであるロザリアだけはそれを馬鹿にするように笑っていた。

 

「はあ? そんな有名人がこんなとこにいるわけないでしょ! どうせ名前騙ってるだけの勘違い野郎よ。ほら、いいからあんたら、さっさとやんな!」

 

 そう言って、ロザリアは男たちをこちらにけしかける。最初は躊躇うようにお互い目を見合わせていた男たちだったが、やがてロザリアの剣幕に押し切られたのか、俺を包囲するように動き出した。

 その光景を眺めながら、俺は1つため息をついた。心を落ち着けて、槍を構える。

 大丈夫。命懸けでも、これはゲームだ。今の俺なら、相当なへまをしない限り負けることはない。自分にそう言い聞かせながら、俺は気合いを入れた。

 

 刹那、雄叫びを上げながら、2人が同時に斬りかかってきた。大ぶりな曲刀の振り下ろしを踏み込んで避けながら、一方の男の直剣を槍の柄で弾く。筋力パラメータに大きな差があるため、その軽い一撃で男は大きくのけ反った。そして大きく開いた腹部に蹴りを入れるとその男は十数メートル吹き飛ばされ、後ろにいた数人の男たちを巻き込んで倒れこむ。曲刀を空ぶった男はそれを見て驚愕の表情を浮かべ、数歩後ずさりしたが、俺は容赦なくそいつにも同様に蹴りをぶち込んで吹っ飛ばした。

 一連の動作の後、俺は敵のHPバーに目を移す。相当なレベル差はあったがソードスキルも武器も当てなかったため、それほどダメージは負っていないようだった。それに安堵し、俺は一息つく。次いで、信じられないといった顔をしたロザリアと目が合った。

 

「あ、あんた、まさか本当にあの風林火山の……!?」

「……俺が誰かなんて、どうでもいいだろ。問題は、俺がその気になればお前ら全員簡単に殺せるってことだ。今のは手加減してやったからな。次はない。だから、変な気は起こすなよ」

 

 釘をさすように、俺はそう口にする。倒れこむ男達に目をやると、全員が怯えたようにこちらを伺っていた。今まで散々人を手にかけて来たくせに、弱者の立場に立った途端その有様か。そんな苛立ちを覚えながら、俺は再びロザリアへと視線をやる。

 

「さて、さっき言ったこと覚えてるか?」

 

 俺を睨み付けるようにしていたロザリアが、その言葉に反応して怯むような表情を浮かべた。しかしそれも一瞬のことで、咄嗟に槍を構えたロザリアがふてぶてしく口を開く。

 

「グ、グリーンの私を攻撃すれば、あんたがオレンジに――」

 

 言い切る前に、俺は動いていた。槍を右手で後ろに構えたまま、半身になって突っ込む。それに驚いたロザリアが槍を構えたまま全身を引きつらせたが、それに構うことなく俺はその間合いに飛び込んで足を止めた。

 体を硬直させたままのロザリアの槍の穂先に、左手で軽く触れる。すると俺に対し軽微なダメージが発生し、ロザリアの頭上のカーソルがオレンジに染まった。

 

「これで問題ないな」

「あ、あんた、本当にわた、私を……!?」

「この世界で死んだとしても、現実世界で死ぬ保証なんてないんだろ?」

 

 言って、俺は槍を構える。目が合ったロザリアの顔から、血の気が引いていくのがわかった。

 一閃、大ぶりな一撃を振るう。ロザリアは咄嗟にそれを槍で防いだが、大きくノックバックを受けて尻餅をついた。次いで俺が槍の切っ先をその鼻先に向けると、情けない声を上げたそいつは武器を放り投げて地べたを這いずるように逃げ出した。

 無様だな。そう思いながら、俺はゆっくりと歩いてそれを追う。すると、ロザリアは必死に逃げながらシステムウインドウを呼び出してアイテムストレージを漁りだした。

 狙い通りの展開だ。俺はそこで足を止め、あえてロザリアの次の動きを待つ。そうしてしばらくの時間待っていると、ようやくロザリアは目当てのものを見つけたようで、震える指でそれをタップした。取り出したそれを握り締めながら、声を上げる。

 

「て、転移ぃ!! リィングラム!!」

 

 瞬間、ロザリアを青い光が包み込んだ。そしてすぐにその光が収まると、既にその場にロザリアの姿はなく、彼女が置いて行った槍が置かれているだけだった。

 上手くいった。そう思いながら、俺ははるか後方、人の気配がする藪の中へと視線をやる。そこに佇む2つの人影。目が合ったアルゴとキリトが頷き、2人も青い光を放ってすぐに姿を消した。

 俺の役目はここまでだ。後はあの2人に任せるしかない。そこまで考えて、俺は緊張の糸が切れたように大きく息をついた。

 まあ、まだこっちもやることはあるんだが。それでも後は事後処理のようなものだ。

 

「あー……お前ら。ロザリアはこっちの都合で見逃してやっただけだからな。変な気起こすなよ?」

 

 言いながら、俺は残されたタイタンズハンドの連中へと視線を向ける。放心したようにへたり込んだそいつらは、もはや抵抗する気もないようで、俺の言葉に力なく頷いた。俺は再び一息ついて、次いでシリカのそばへと歩み寄る。

 

「ハチさん……」

「悪かったな、色々巻き込んで」

「あ、いえ……」

 

 俯いたシリカは、俺に掛ける言葉が見つからなかったようでそのまま黙り込んでしまった。まああんな場面を見れば、イメージも悪くなるだろう。あるいは恐がられているのかもしれない。一応シリカにも今回の作戦の全容は説明していたのだが、聞くと見るとじゃ大違いだろう。

 今回の作戦。それはロザリアを散々脅かして逃走させることで、上部組織であるラフィン・コフィンのメンバーに接触を計らせるというものだ。それをアルゴが尾行し、奴らのアジトを突き止める算段になっている。キリトが付いて行っているのは万が一敵に見つかって戦闘になった時のための保険だ。

 手間のかかる作戦だが、普通にロザリアを捕まえたとしても俺たちが欲しい情報を素直に吐いてくれるとは限らない。このSAOの世界では過剰な痛みはシステムにカットされてしまうし、拷問などは意味をなさないのだ。まあそもそも俺たちにそんな真似が出来るかという問題もあるのだが……。

 そんなわけで今回のような手段を取ることになったのだが、やはりシリカには刺激が強かったらしい。出来ることならしばらくそっとしておいてやりたかったが、このままタイタンズハンドの連中を放置しておくわけにもいかないし、シリカをここで1人にするのも危険だ。そんな事態に頭を悩ませながらも、俺はこの場を収拾するべく口を開いた。

 

「……とりあえず、こいつらを監獄エリアに突っ込んだら街まで送る。ALFには連絡取ってあるから、あんまり手間はかからな――」

「へえ。面白いことしてるんすね」

 

 俺の言葉を遮って、後方から何者かの声が掛かる。気が抜けていたからか、俺は今の今までそいつの接近に気付かなかった。

 再び、俺の鼓動は早鐘のように鳴り打ちだした。20メートル先。街の方向からこちらに歩いてくる1人の男に、俺の目は釘づけになる。

 

「……シリカ、すぐに転移結晶で街に飛べ」

「え?」

「早くしろ!」

 

 もはや気遣う余裕などなく、俺は声を荒げていた。額に嫌な汗が流れる。俺はそれを拭うことなく、槍を低く構えた。

 ――何故、こいつがここにいる。

 

「つれないなぁ。人数は多い方が楽しいじゃないですか。ねえ、ハチさん?」

 

 男が、そう言って笑い掛ける。中肉中背、茶色い短髪の酷く印象の薄い男だった。しかし黒いポンチョを羽織り、腰に刀を佩いた男の左手には――不気味な棺桶が、薄ら寒い笑みを浮かべていたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第22話 辻風

 刀――曲刀からの派生で発現する斬撃系統両手武器スキル。刀と言えば多くの少年の中二心をくすぐる定番中の定番の武器であり、SAOの中ではその使い勝手の良さも相まって使用者は多い。

 下段からの斬り上げで敵を浮かし、コンボの始動技にもなる《浮舟》や、自身の周囲一帯を広範囲に渡って斬り払うことの出来る《旋車》など、ソードスキルには使いやすいものが揃っているのが特徴である。いずれの技も出が早く、硬直は短い。しかしそんな使いやすく纏まったソードスキルが揃っている中で、刀スキルには1つだけ異色を放つ技が存在した。

 《辻風》――刀スキル唯一の抜刀系のソードスキル。いわゆる居合と呼ばれる技だ。納刀した状態から一瞬で抜刀し、そのままの勢いで敵へと一閃を食らわせる。

 その一撃は刀スキルの中でも最高の威力を誇るが、取り回しにくさから多くのプレイヤーからは使用を敬遠されていた。突進力が皆無のため辻風はカウンター技に分類されるのだが、命が掛かったこのゲームの中で敵の攻撃を待つという行為はプレイヤーにかなりのストレスが掛かる。それに加えて納刀した状態からしか発動出来ないと言う特性上、戦闘では基本的に初撃でしか使い道がないが、先制攻撃から主導権を握るという戦法が好まれる中、わざわざ敵の攻撃を待ってカウンター技から戦いを始めるプレイヤーはほとんど居ないのだ。

 故に、ゲーム内でそのスキルにお目にかかることは滅多にない。稀に酔狂なプレイヤーが格下のモブに対してお遊びに使用している程度だ。実戦で使えるほどにそれを使い込んでいるプレイヤーは、俺の知る限り1人しかいない。

 

 殺人(レッド)ギルド笑う棺桶(ラフィン・コフィン)幹部の1人、《辻風のジョー》

 

 

「ジョ、ジョーさんっ!!」

 

 タイタンズハンドのメンバーの1人、道端にへたり込んでいた短髪の男が、現れた人影に目をやって顔を綻ばせた。黒いポンチョを羽織った、中肉中背の優男――ジョーの突然の登場に、他のタイタンズハンドの面々も同様に安堵の表情を浮かべている。俺は槍を強く握り締めながら、その光景を眺めていた。

 やはりアルゴの読み通り、タイタンズハンドは笑う棺桶(ラフィン・コフィン)と通じていたのだ。しかし何故このタイミングでこいつがここに現れたのか。罠に嵌められたのか。そんな疑問は尽きなかったが、今はそれを頭から振り払い、俺は後ろに立つシリカの様子を伺った。

 

「おい、早く街に飛べ。場所はどこでもいい」

「で、でも、あのエンブレムって殺人(レッド)ギルドの……」

 

 現れたジョーの左手、黒い手袋のその甲に刺繍された不気味に笑う棺桶に目を移しながら、シリカが不安げな声を上げる。このSAOの中に、あのエンブレムの意味が分からないプレイヤーは居ない。だからこそこの状況で俺1人を残して逃げることに、後ろめたさを感じているのだろう。シリカは躊躇うような表情をこちらに向けてきた。

 

「俺は、あいつに用がある。お前が居ると足手まといなんだ」

 

 無遠慮に突き放す俺の発言に、シリカは怯むような顔を浮かべる。その表情に多少の罪悪感が湧いてきたが、しかし今の俺には言葉を選んでいられるような余裕はなかった。いつジョーがこちらに襲いかかって来てもおかしくないのだ。

 俺の発する空気から、危険はシリカも十分承知しているのだろう。ややあって、苦悩するように強く目を瞑った少女は絞り出すように声を上げた。

 

「応援を、連れてきます……! だから、絶対に死なないで下さい……!」

 

 その言葉に、俺は少し躊躇ってから無言で頷く。それを確認したシリカが胸に押し当てていた青いクリスタル――転移結晶を軽く上に掲げ、口を開いた。

 

「転移、始まりの街!」

 

 そのボイスコマンドに反応して、シリカの体が青い光に包まれる。そして一瞬のうちに、彼女はこのマップ上から姿を消したのだった。

 始まりの街――おそらく風林火山かALFのプレイヤーを連れてくるつもりなのだろう。だが、ここは主街区からは少し距離が離れている。援軍が到着するのは早くとも15分以上は掛かるはずだ。恐らく待っていられる猶予はない。そこまで考えた俺は今一度気を引き締め直し、状況を伺った。

 ジョーとの距離は約15メートルほど。その間からやや右にずれるように、残されたタイタンズハンドの連中がへたり込んでいる。視線をやると、遠巻きにニヤニヤとこちらを見つめていたジョーと目が合った。

 

「残念。帰しちゃったんすか。まあ、僕としてはハチさんが残ってくれればそれでいいんすけどね」

 

 まるで友人と話すような軽い態度。しかしその実、体からは隠し切れない殺気が滲み出ていた。それに気圧されないように気を保ちながら、少しでも情報を引き出そうと俺も口を開こうとする。しかし、それを遮るようにタイタンズハンドの連中がジョーの側へと走り寄って行った。

 

「ジョーさん! 助けてくれ、あいつが――えっ?」

 

 助けを求める男たちの声が、不意に途切れた。その瞬間、小さな影が3つ宙に舞う。

 そのうちの1つと、視線があった。そいつは何が起こったのかわからないと言った表情のまま、空中でポリゴンとなって消えていった。

 

「ちょっと取り込み中なんで、静かにしててくださいよ……って、もう聞こえてないか」

 

 ジョーはそう言って、いつの間にか抜き放っていた刀を流れるような所作で鞘に収める。その視線はつまらないものでも見つめるように、ひらひらと舞うガラス片に向けられていた。その光景に、残されたタンタンズハンドの面々は悲鳴を上げてジョーから後ずさる。

 

 仲間を、殺しやがった。何の躊躇いもなく。

 

「お前、何を……!」

「あ、これっすか? 知らなかったでしょ。正確に首を狙ってオーバーキルすると、頭が吹っ飛ぶんすよ。いやー、最初にこれ気付いた時は爆笑しちゃって――」

「そんなことじゃねえ……! そいつら、仲間なんじゃないのかよ!」

「え? さあ、少なくとも僕はそう思ったことはないっすけど……。下請けとか、そんな感じっすかね」

 

 俺の言葉に、ジョーは何でもないことのようにそう答える。まるで取り乱している俺の方が不自然だとでも言いたげな様子だった。

 狂っている。息をするように人を殺すことが出来るこいつを、俺は心の底から怖いと思った。

 

「正直、もう用済みなんすよね。こいつらの周りを嗅ぎまわってる連中がいるから、PoHさんに様子見て来いって言われたんすけど……。そしたら、鼠と風林火山のお2人が居るじゃないっすか。これはもう色々ばれてるんだろうなーと思って、だからしばらく様子見てたんすよ」

 

 俺が改めて相手の異常性に戦慄していると、ジョーは聞いてもいないことを1人で語りだした。残されたタイタンズハンドの連中は話の途中で悲鳴を上げて逃げ出して行ったが、それにももはや関心はないようで、ただ俺に向かって気さくな様子で話を続ける。オレンジギルドの連中を逃がしてしまうのは痛かったが、俺も奴らに構っていられる余裕はなく、見逃すことしか出来なかった。

 

「いやー、さっきの見世物は面白かったっす。欲を言えばあのロザリアのこと殺してくれれば嬉しかったんすけどねー。自分、あの人あんまり好きじゃないんで」

 

 そう言って笑うジョーと不意に目が合った。口元には穏やかな笑みを浮かべつつも、フードの奥に覗く瞳には冷たい光が宿っていた。

 

「ハチさんたちが何をしようとしてるのか。何となく分かりますよ。ロザリアを使って僕らのこと探ってるんでしょう? 今僕がアジトに戻ってそれを伝えたら、鼠とキリトさんは大ピンチになるんだろうなぁ……」

「お前……!」

 

 その白々しい呟きに、俺は構えていた槍を強く握り絞める。しかしそんな俺の焦りなど意に介さず、ジョーはさらに言葉を続けた。フードから覗くその顔が、狂喜に歪む。

 

「それを防ぎたいなら――僕を殺すしかないっすよ。今、ここで」

 

 言って、ジョーは腰に佩いた刀へと手を添えた。既に鯉口は切られている。

 

「ずっと、あんたとやりたかったんだ。こんなチャンスは、きっともう来ない」

 

 一瞬にして、ジョーの纏う雰囲気が変わる。ギラついた視線は、ただ俺だけを捉えていた。

 戦闘狂――おそらく、それがこいつの本性なのだろう。そこで俺は、既に目の前に選択肢がないことを悟ったのだった。

 

 そうだ。いつだって、俺には手段を選ぶ余裕などなかった。だから大丈夫。いつも通り、俺は俺に与えられた役割をただこなすだけだ。それが間違っていたとしても、俺に出来ることはそれしかないのだから。

 

 場違いなほど穏やかな風が、頬を撫ぜて行った。風に飛ばされた花びらたちが、視界の端を通り過ぎてゆく。

 心が、冷めていく。それをどこか他人事のように感じながら、俺はゆっくりと槍を低く構えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ。潤いが足りねぇ」

 

 第1層。風林火山のギルドホーム。

 エントランス端に置かれたカウチソファに体を沈ませたクラインは、そう言って大きくため息をついた。トレードマークの赤いバンダナを外し、ラフな部屋着に着替えたその様は、まだ正午前だというのに随分と疲れた様子だった。

 それに対し対面のソファに座るトウジはネクタイこそしていないものの、グレイのスーツを身に纏い、机に向かって何やら書き物をしている。クラインの呟きにも反応せず、黙々と作業を続けていた。

 

「なんだってうちのギルドは野郎ばっかなんだ……。俺もシンカーさんみたいに美女を侍らせながら仕事したいぜ……」

「またそれですか……」

 

 うんざりした様子で言葉を続けるクラインに、作業の手は止めず、しかしこちらもうんざりした様子でトウジが返事を返す。遠征――ガイドブック製作のための数日間に渡る情報収集や狩りのことをそう呼んでいる――から帰ってくる度にこれだ。トウジはクラインがフィールドから持ち帰った情報を纏めながら、心の中でため息をついた。

 確かに、彼らの所属する風林火山はほぼ完全な男所帯である。実を言うと女性メンバーが1人だけ存在するのだが、彼女には第1層に存在する教会でゲーム内で自立した生活をすることが出来ない子供の保護を行って貰っており、時折資金のやりとりや定時連絡を交わすだけで、それほど顔を合わせることはない。圏内に籠って事務を取り仕切っているトウジはともかく、ガイドブック製作のためにいつもせわしなく各層を調べ回っているクラインがその女性メンバーと顔を合わせることなど、この1年で数えるほどしかなかった。

 故に、クラインは出会いに飢えていた。健全な男なら無理からぬことである。しかし所謂草食系男子に分類されるトウジは、目の前の男を少し気の毒に思いつつも諭すように口を開いた。

 

「ないもの強請りをしても仕方ないでしょう。よそはよそ、うちはうちです。大体シンカーさんのところが特別なんですよ。そもそも女性プレイヤーの総数が少ないんですから」

「そうだけどよぉ……。そこを何とかさぁ。それにそろそろ新しくギルメン増やしてもいい頃だろ?」

「まあ確かにそうですけど……」

 

 そう言って、トウジは少し考える素振りを見せる。

 風林火山は常に慢性的な人手不足であったが、メンバーの補充は慎重に行っていた。ギルドの人員の多くは情報を収集する遠征組に割かれるのだが、その仕事の特性故基本的に未だ情報の少ない未開エリアに赴かねばならない。当然危険が多く、足手まといを連れていくことは出来なかった。即戦力になるようなプレイヤーが加入することなど稀なので、少しずつ信用に足るプレイヤーを勧誘し育成を繰り返してきたのだ。笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の事件があってからはいっそう慎重に新メンバー勧誘を行うようになってきたので、現在でも風林火山のギルドメンバーは30人にも満たなかった。

 しかもここ数ヶ月は攻略のペースも順調だっただけに調べなければならないフロアも増え、その忙しさ故にギルドメンバーの勧誘は完全にストップしていた。しかしこの先さらに多くのフロアが開放されることを考えれば、ここで少し無理をしてでも人員を増やしておいた方がいいかもしれない。

 

「でも女の子は難しいですよ。というか現時点でギルドに入ってない女性プレイヤーなんてほとんどいないんじゃないですか?」

「はぁ……。やっぱそうだよなぁ……」

「まあ、新メンバーの勧誘の方は考えておきますから、今はこっちの仕事です。ほら、落ち込んでないで次のマップデータ出してください」

「へいへい」

 

 そこで話は一段落付き、2人は先ほどまでこなしていた作業へと戻る。トウジがいくつか質問を重ねながら、クラインたちが得た情報をノートにまとめていった。

 それから10分ほど経った頃だろうか。2人のやり取りだけが響いていたエントランス内に、唐突に玄関のドアを激しくノックする音が響いた。続いて、焦った様子でこちらを伺う声が掛かる。

 

「なんだぁ?」

「女の子の声、ですね。今日は特にアポイントはなかったはずですけど……」

 

 顔を見合わせるクラインとトウジ。その間にも、ドアを激しくノックする音は続く。心当たりはなかったが、妙な胸騒ぎを覚えたクラインはすぐに席を立ち、誰何をすることもなく玄関の扉を開けた。

 そこに立っていたのは、まだ幼さの残る少女だった。ブラウンの髪を耳の上辺りで2つ結いにした、可愛らしい少女だ。

 まあ、将来美人にはなりそうだけど、流石に年齢的に今は対象外だな――などと失礼なことを反射的に考えたクラインであったが、少女の差し迫った表情に、すぐに現実に引き戻される。

 

「ふ、風林火山の方ですか!?」

「そうだけど、何か――」

「助けてください!! ハチさんが……ハチさんが……!」

 

 泣きそうな表情で、少女が口を開く。しかし混乱しているのか、上手く言葉にならないようだった。

 対するクラインも、「ハチ」という名前を聞いた途端から内心穏やかではなかったが、努めて冷静に少女に説明を促す。

 あいつは、また俺たちに何も言わずに何かやらかしたのか――そんな思いをひとまず飲み込み、少女の話に耳を傾ける。あいつに言ってやりたいことは山ほどあるが、とりあえず目の前の問題が片付いてからだ。

 

 少女から話を聞き終えたクラインは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 あの馬鹿野郎! 心の中でそんな声を上げながら、考えを巡らせる。思い出の丘――急いでも恐らく20分弱。道中でモブに捕まればそれ以上の時間が掛かる。間に合うか? いや間に合わないとしても、行くしかない。

 一瞬のうちにそこまで考えを巡らせたクラインは、ややあって目の前の少女に視線を戻して礼を言った。そして力強い笑顔を浮かべ、不安げな表情を浮かべる少女を安心させるべく「大丈夫だ」と口にした。

 それからクラインは玄関の中へと踵を返し、今動かすことの出来るメンバーの中で戦える者をすぐにまとめ上げた。そして案内をしてくれるという少女と共に、すぐにギルドホームから駆け出して行ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 予測の話ではあるが、現在、恐らく笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のプレイヤーの平均レベルは攻略組のそれに及ばない。

 理由は単純だ。効率のいい狩場は、基本的に攻略組が押さえているのである。

 様々な取り決めにより、後続のプレイヤー育成を妨げないよう攻略組が狩場を独占することはなくなっているが、逆に言えばそのような行為をなくすために攻略組――主にトップギルドである血盟騎士団と聖竜連合――によって厳密に管理、監視されているのだ。レッドギルドのプレイヤーが入り込むような余地はない。

 それでなくても攻略組やALF――今では《軍》などとも呼ばれている――による追跡を逃れるために、奴らの活動は相当制限されていたはずだ。装備品まではランダムドロップや強化、略奪品もあるため一概には言えないが、素のステータスに限って言えばこいつらよりもこちらの方が高いはず、というのが俺の見解だった。

 

「……わかってるんだろ? ステータスは、俺の方が高いってこと。勝てると思ってるのか?」

 

 思い出の丘、ダンジョン入り口付近。

 ジョーと武器を構えての睨み合いをしながら、俺はそう言って相手に揺さぶりを掛けた。既に戦いは避けられないが、少しでも動揺を誘えれば儲け物だ。しかし、いや、やはりと言うか、ジョーがその程度のことを意に介すはずもなかった。

 

「ハチさんこそわかってるんでしょう? この一撃だけなら、僕の方が速いってこと」

 

 そう言って、にやりと笑う。対して、俺は黙り込むしかなかった。

 こいつのこの言葉は、おそらくはったりではない。辻風の一撃は、若干のステータス差など覆してしまうほどに速いのだ。俺が今現在使えるどのソードスキルでも、その速度には勝てないだろう。

 

「まあ、待ちに徹されたら詰んじゃうんですけどね。けど、今この場の主導権は僕にある」

 

 刀に手を添えたまま、身じろぎ1つせずにジョーは言葉を続ける。

 

「さっきの娘が援軍を連れてくるまで早くて15分ってところですかね……。余裕を持って、制限時間は10分にしましょう。10分たったら、僕はアジトに鼠とキリトさんのことを――」

「心配すんな。……本気で殺しに行ってやるよ」

 

 俺の台詞に、ジョーは喜色を浮かべる。もはや言葉は不要とばかりに、そのまま互いに武器を構えたまま睨み合った。

 意識が、沈んでゆく。俺とジョーの2人しかいない世界。そんな錯覚に陥りながら、さらに槍を低く構えた。

 一太刀目さえ凌ぐことが出来れば、勝てる。頭にあるのはそれだけだった。

 気が満ちてゆく。そして何かが弾けるのを感じ取り、駆けだした。数歩も行かぬうちに、間合いがぶつかる。

 獣のように低く駆ける俺と、柳のように自然に構えるジョー。視線が交わった刹那、鞘に緑の光が宿るのを捉えた。考える前に、こちらもソードスキルを発動する。走る緑の剣閃。それに吸い込まれるように、槍の穂先が突き上げられた。

 衝撃。手に、痺れが走る。互いに大きく攻撃が弾かれ、次の瞬間には数歩後退していた。

 ――凌いだ。そう思い、追撃を加えようと気が逸る。しかし、互いにソードスキルがキャンセルされたためにペナルティの硬直に陥った。場に一瞬の間隙が訪れる。

 硬直が解けたのは、ほぼ同時。距離を取ろうと下がるジョーと、それを追う俺。しかしレベル差がものを言ったのだろう。一瞬で距離は詰められた。

 再び納刀する隙を与えてはならない。一心不乱で、槍を突き出した。しかしその穂先が届く前に、ジョーは右手に持っていた刀を手放す。何故――そう思う前に、違和感を覚えた。

 奴の左手。妙な動きをしている。人差し指を立て、何かをタップするような。

 ざわりとした感覚が、胸を過る。同時に、薄く嗤うジョーと目が合った。

 次の瞬間、機械的なサウンドエフェクトと共にジョーの腰元に現れたのは、納刀状態の刀だった。

 

 ――クイックチェンジかッ!!

 

 気付いた時には、既に相手の間合いだった。後退を――いや、間に合わない。

 ジョーの右手が腰に佩いた刀に添えられる。次いで、緑の光が鞘へと宿った。

 考える前に、跳躍していた。空中で身を捻る。視界を緑の剣閃が通過していった瞬間、右膝から先の感覚がなくなった。

 逆転する視界の中、ジョーと視線が合う。まるで時間が止まったようだ。

 ジョーの姿が、いつかのPoHの影と重なった。だが、俺はあの時とは違う。

 

 突ける。思った瞬間には、既にその胸を俺の持つ槍が貫いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー……くそ。自分の奥の手だったんですけどね……」

 

 呆然とする俺を現実へと引き戻したのは、ジョーのそんな呟きだった。

 奥の手というのは、クイックチェンジを使った辻風の2段攻撃のことだろう。ショートカットキーを押すことによって装備を瞬時に交換出来るクイックチェンジと呼ばれるスキルを使うことによって、辻風に必要な納刀の動作を省略したのだ。正直完全にしてやられたが、なんとか致命傷は避けることが出来た。

 HPにはまだ余裕がある。だが、先ほどのジョーの一撃によって右膝から先が欠損していた。立ち上がることは出来ずに、膝をついたまま後方のジョーへと視線を向ける。

 

「やっぱりレベル差は如何ともしづらいですね……。ソードスキル一発で全部削られるとは……」

 

 そう言ったジョーの視線は虚空へと向けられていた。減ってゆく自分のHPバーでも眺めているのだろう。1度に大きなダメージを食らった場合、それが反映されるまでに少しのタイムラグが存在するのだ。

 既にジョーは己の死を悟っているのだろう。流れるような所作で刀を納めると、その体が光を放ち始めた。

 

「まあ、楽しかったんで良しとします。それじゃ、お先に」

 

 軽い様子でそう言いながら、ジョーはこちらに振り返る。目が合った瞬間、その体がガラスのように砕け散って行った。俺はただ、それを呆然と見つめることしか出来なかった。

 罪悪感などではない。心中に去来するのは、妙な虚しさだけだった。

 

 どれだけの時間、そうしていただろう。凪いだ心で、遠くを眺めていた。草花を揺らす風の音が通り過ぎる。右足の部位欠損は、まだ完治していなかった。

 不意に、肩を叩かれた。振り返ると、見慣れた髭面がどアップで視界に入る。

 

「おい! ハチ! ちゃんと生きてんな!?」

「クライン……」

 

 そこにいたのは、見慣れた面々だった。クラインや風林火山のメンバー数名に加えて、シリカの顔もある。やはり、第1層のギルドホームへと援軍を呼びに行ってくれていたようだ。相当急いで駆けつけてくれたのだろう。緊張の糸が切れたのか、目が合った瞬間、クラインとシリカの2人は脱力するようにその場にへたり込んでしまった。

 

「よかった……。ハチさん、生きてて……本当によかった……」

「ハチ、おめえよぉ……心配させんなよ……」

「……悪い」

 

 2人にはかなり心配させてしまったようだ。シリカは泣きそうな顔で呟き、クラインは疲れたようにため息を吐いた。後ろに立つ他の風林火山のメンバーも、安堵した表情を浮かべている。

 少し落ち着いたのか、しばらくして項垂れていたクラインが顔を上げる。しかし俺の右足へと視線を落とすと今度は大きく目を見開いた。

 

「ってお前、足切れてんじゃねえか!?」

「……ああ。ジョーに、やられた」

「ジョー!? ジョーって《辻風のジョー》か!?」

 

 にわかに気色ばんだクラインが、そう問いかける。俺はそれに頷いて答えた。

 

「そ、それで、そのジョーはどこに――」

「殺した」

「え?」

 

 話を遮って、そう答える。言葉に詰まるクラインたちに向かって、俺は再び口を開いた。

 

「俺が、殺した」

 

 それきり、嫌な沈黙が流れる。だが、俺の心はただ凪いでいた。

 クラインはこれでなかなか正義感の強い男だ。責められるかもしれない。まあ、それも覚悟のうちだ。そんなことを考えていたが、クラインは小さく「そうか」と呟いただけだった。

 

「……とにかく、一旦街に戻るぞ。キリトの方も心配だ」

 

 言いながら、クラインが立ち上がる。大方の事情はシリカから聞いていたようだ。

 クラインともう1人風林火山のプレイヤーに肩を借りて、俺も立ち上がる。部位欠損の状態異常が直るためには、もう少し時間が必要だった。2人に挟まれるようにして、赤い石畳の道を歩き始める。

 

「……ハチ、おめえは悪くねえからな」

 

 歩きながら、隣のクラインがそう呟く。その気遣いに感謝しながら、俺は小さく頷いた。

 ふと、ジョーの顔が脳裏に過る。フードの下、目が合ったのはおそらく幾らか年下の少年だった。それを思い出して、良くわからない感情が胸の中に渦巻く。

 

「……笑ってた」

 

 ぼそり、と呟く。聞き取れなかったのか、両隣の2人がこちらに視線を寄越した。石畳の道を片足で歩きながら、再び口を開く。

 

「死ぬ瞬間、あいつ笑ってやがった。すげえ楽しそうに」

 

 その言葉は今度こそ確かに届いただろうが、誰も何も言わなかった。俺もそれ以上の言葉は飲み込み、黙々と歩き続けた。

 

 

 

 

 

 その後はモブに遭遇することもなく、十数分ほどで圏内へとたどり着いた。その頃には俺の部位欠損の状態異常も完治していたので、自分で歩くことが出来た。

 タイタンズハンドの連中は取り逃がしてしまったが、ひとまずこれはALFにでも任せるしかない。それよりも今はキリトやアルゴと合流するべきか、否か――街へと至る道中で俺たちはそんなことを話し合っていたのだが、全ては杞憂に終わった。街に着いた瞬間に、キリトからのメッセージを受け取ったのだ。

 

 ――アジトを見つけた。今はアルゴが張り込んでくれてる。すぐに攻略組を集めよう。

 

 簡潔な文だった。だが俺は、いよいよ迫る決戦の空気をそこに感じていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第23話 決戦前夜

「これほど急な招集を掛けたからには、余程重要な用件なのだろうな?」

 

 苛立ちを孕んだ声が、部屋に響いた。

 第53層。風の街ルーラン。その一角に建てられた公会堂の一室だ。外壁と同様、内壁まで全てが白い石材で作られている。

 俺たちのいるこの部屋はメインホールの横に位置する控室にあたるのだが、それでも20人ほど収容出来る広さがあった。しかし今は、俺を含めても6人のプレイヤーしか居ない。

 大きめの長テーブルの短辺に位置する、所謂お誕生日席に俺とキリトが並び、向かって右には血盟騎士団の団長であるヒースクリフと副団長であるアスナが。向かって左には聖竜連合の長であるハフナーとその側近のシヴァタが席に着いている。

 先ほど苛立った声を上げたのは、ハフナーだ。まあ、無理もない。用件も何も伝えずに急にこちらが呼び出したのだ。文句を言いつつも来てくれただけで御の字だろう。

 ハフナーの言葉に合わせて、こちらに視線が集まった。この会合は、俺とキリトが主催したものである。事前の打ち合わせ――という名のジャンケン――でキリトが司会進行を務めることになっていたので、俺は丸投げするように隣に視線を送った。目が合ったキリトが渋々頷き、口を開く。

 

「先に言っておく。これからの話は他言無用でお願いしたい。出来るなら、それぞれのギルドメンバーにも直前までは話さないでほしい」

 

 その前置きに集まったメンバーは訝し気な表情を浮かべたが、口を挟むことはなかった。とりあえず話を聞いてみようという様子だ。

 キリトはそこで全員の顔を見回し、一呼吸の間を置いてから本題を切り出した。

 

笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のアジトを突き止めた」

 

 その発言に、にわかに部屋が色めき立つ。

 

「本当か!?」

「ああ。今は情報屋のアルゴが張り込んでくれてる」

「……確かな情報かね? しかし、一体どうやって?」

 

 前のめりになって声を荒げるハフナー。対してヒースクリフは一瞬目を見開いたものの、冷静な様子で訪ねてきた。キリトはそれに頷いて答え、次いで詳しい説明を始めたのだった。

 

 笑う棺桶(ラフィン・コフィン)と繋がりを持つであろう巨人の手(タイタンズハンド)という犯罪者(オレンジ)ギルドに当りをつけ、先日からその動向を探っていたこと。

 そのギルドを壊滅させ、ギルドリーダーであるロザリアが笑う棺桶(ラフィン・コフィン)に助けを求めるように仕向けてそれを尾行し、アジトを突き止めたこと。

 

 後半は、つい数時間前の出来事だ。笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の連中にこちらの動きに気付かれて、逃げられてしまっては今までの苦労が水の泡になる。見張りをしているアルゴの負担も相当なものだし、なるべく早く次の一手を打てるように、俺たちはその日のうちにこの会合を開いたのだ。

 

 集まった4人は、黙ってキリトの話を聞いていた。……アスナだけは何か言いたそうな表情でこちらを睨んでいたが。また除け者にされたことが気に入らないのだろうか。いや、でもお前違うギルドだし、仕方なくね……?

 

「――それでそのロザリアって女プレイヤーは、アジトの目星がついた時点で捕まえた。今は黒鉄宮の監獄エリアだ。戻って余計なことを話されると、勘付かれるかもしれないからな」

 

 俺が必死にアスナから目を逸らしつつ脳内で言い訳を繰り広げていると、キリトはそこまで説明して言葉を切った。

 ちなみに監獄エリアはかなり特殊な仕様になっていて、メニューウィンドウを操作することができない上に、全てのアイテムは使用不可となっている。だからロザリアにメッセージ機能によって笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の連中と連絡を取られる心配もない。思い出の丘で逃がしてしまった他の巨人の手(タイタンズハンド)のメンバーだけが気がかりだったが、先ほどALFと風林火山の手によって全員捕縛出来たと雪ノ下から連絡があった。

 

 さて、ここまでで大方のことは説明を終えたはずだが、1つだけ言っておかなければならないことが残っている。気は進まないが、敵の戦力にも関係する情報だ。俺はキリトの話に次いで口を開いた。

 

「……それと、1つ補足だ。巨人の手(タイタンズハンド)とのやり取りの途中に、辻風のジョーが出張って来た。俺たちの作戦が全部ばれていた訳じゃないみたいだが……そのまま戦闘になって――俺が、殺した」

 

 その言葉に、場が凍り付く。一瞬の沈黙の後、口を開いたのはハフナーだ。眉根を寄せ、抗議するような視線をこちらに向けていた。

 

「辻風のジョー……笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の幹部か。しかし、殺す必要があったのか? 私たち攻略組の力なら、殺さずに無力化することも――」

「俺には、殺す以外の選択肢は取れなかった。それだけだ」

「ふん。疑わしいな。大体、お前ら……特に、お前の行動はいつも目に余る。今回の独断専行もそうだ。お前のその驕りが、殺すという結果に繋がったのではないのか? 犯罪者だからと言って、殺していいわけでは――」

 

 ダンッ、という大きな音が部屋に響く。横を見ると、強く握り締められたキリトの拳が木製のテーブルに打ち付けられていた。

 

「……ジョーとの戦いで、ハチは右足が切断されるほどの深手を負っていたそうだ。そんな相手に、手加減をして、殺さずに無力化しろっていうのか? あんたにはそれが出来るのか?」

 

 表情こそ普段通りであったが、キリトのその言葉には有無を言わさぬ怒気が込められていた。それにたじろぐハフナーからすぐに視線を離し、全員を見回しながら言葉を続ける。

 

「俺も一度だけ奴らと対峙したことがある。一筋縄でいく連中じゃない」

 

 それきり、部屋には微妙な空気が流れる。しかしすぐに雰囲気を変えるように、ヒースクリフが口を開いた。

 

「話を戻そう。それで君たちは、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の捕縛――もしくは討伐戦を行うために、私たちに招集を掛けたと言う認識でいいのかね?」

「ああ。ここに、奴らのアジト付近につながる回廊結晶がある」

 

 言いながら、キリトは懐から四角い青のクリスタルを取り出しテーブルに置く。転移結晶よりも一回り大きいこれは、回廊結晶と呼ばれるものだ。任意に地点登録した場所へと繋がるワープゲートを設置できるアイテムであり、中々市場に出回らない高級アイテムである。キリトの取り出した回廊結晶は中に赤い光が宿っているが、あれは既に地点登録を済ませた証だ。キリトの話では、奴らのアジトからほど近い場所と繋がっているらしい。

 これがあれば一気に笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のアジトへと大人数で移動することが出来る。お膳立ては十分ということだ。

 ちなみに俺とキリトではアジトを発見した後のことまでは頭が回っていなかったのだが、そこはアルゴの入れ知恵である。アジトの目星がついた時点でアルゴは懐から回廊結晶を取り出し、位置登録を済ませると「値段は相場の3倍でいいヨ」と言いながらそれをキリトに手渡したそうだ。さすがアルゴ汚い。

 

「俺たちは、攻略組で奴らのアジトに奇襲を仕掛けるべきだと思う。奴らは危険だ。野放しには出来ない。例え、もし殺すことになったとしても……奴らは止めなくちゃいけない」

 

 年齢に似合わない大人びた表情で、キリトはそう告げる。そして反応を促すように4人へと視線をやると、まずヒースクリフが大きく頷いた。

 

「私も、同意見だ。ゲーム攻略のためにも、後顧の憂いは絶つ必要がある」

 

 その言葉に続いて、アスナも頷く。先ほどのキリトとのやり取りからばつが悪そうな表情を浮かべていたが、ややあって聖竜連合の2名も同意するようにそれに頷いた。それを確認したキリトは、1つ息をつく。

 

「それじゃあ詳しい話を始めよう。まず奴らのアジトは49層の――」

 

 話しながらキリトはアイテムストレージからミラージュスフィア――ホログラムを使った立体的な地図のようなもの――を取り出す。そして笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のアジトに奇襲を掛けるための、具体的な作戦を立てていったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜。

 まだ時刻は午後8時を回ったばかりだ。だが、疲れていた俺は既に床に就いていた。

 第1層のギルドホーム。俺に与えられた小さな個室である。攻略中はあまりこちらに帰ってくることもないので私物はほとんど置いていない。部屋にはベッドとテーブルと椅子、そして端っこに申し訳程度の観葉植物が飾られているだけだ。

 いつもならここに帰って来た時にはクラインや他のギルドメンバーにうざいほど絡まれるのだが、今日は色々とあった俺に気を遣ったのかそれほどでもなかった。腫れ物に触るように……というほどではないが、何となく雰囲気が違う。まあ、正直ありがたい。今日は他人と話したい気分ではなかったし……あれ? それっていつものことじゃね?

 

 自分でも意外なことに、気持ちは随分と落ち着いていた。緊張感も、罪悪感も存在しない。

 俺って案外メンタル強かったんだなーなどと思いながら、天井を眺めていた。そして、今日の出来事を1つ1つ思い返す。

 

 思い出の丘攻略。巨人の手(タイタンズハンド)とのやり取り。ジョーとの戦い。作戦会議。

 そして、明日には笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のアジト奇襲作戦が控えている。

 

 作戦会議では、明日の夜明け前に奇襲を掛けることが決まっていた。ヒースクリフによればその時間帯が奇襲の定石らしい。少しでも早い決行がいいとは思いつつも、今すぐに、という訳にもいかない。多少の準備や休息は必要なため、特に揉めることなくそう決まったのだった。ジョーの死に気付いた時に笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の連中がどんな行動を取るかは気がかりだったが……まあ、考えても仕方のないことに気を揉んでも疲れるだけだろう。

 ちなみにクラインなどの他の風林火山のメンバーには奇襲作戦について話していない。また後になって文句を言われそうだが、これには色々と事情がある。

 以前のジョーのように攻略組内部に笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の息の掛かった者が居ないとは言い切れないために、攻略組でもごく一部の人間にしか話を通していないのだ。今日集まったメンバーの他には、エギルにしか声は掛けていない。ギルドメンバーにも直前までは具体的な話はしないようにハフナーやヒースクリフにはこちらから頼んでおいたので、その手前こちらだけ情報を漏らすわけにもいかないのだ。

 まあ、それでも多分クラインたちは何となく気付いているだろう。俺たちが笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のアジトを突き止めたことは、昼の一件でなし崩し的に知られているのだ。だが、あえて聞いてくるようなことはしない。トウジは言わずもがなだが、クラインもあれでいて中々気が遣える奴だった。

 

 明日、俺はきっとまた人を殺すことになるだろう。ジョーのように。

 だが、やはり罪悪感は湧いてこなかった。それどころか、何の感慨もない。こんなものかと思っただけだ。

 

 ただ、あの表情――ジョーが死に際に見せたあの顔だけが、頭から離れなかった。

 

「――あの、ハチさん……。今、少しいいですか?」

 

 あてどもない思考に耽っていた俺を、そんな呼び声が現実に引き戻す。ドアの向こう、シリカの声だ。

 彼女がここにいるのは、うちのギルドに加入したからだ。詳しい経緯は不明だが、どうやらクラインから勧誘したらしい。将来性を買った、などと言っていたが……あのクラインのことだ。能力的な話だけではないだろう。あのエロガッパめ……。

 ちなみに昼間の一件以来、シリカとはまだあまり話をしていない。軽く今までの礼を言われたくらいだ。

 そのため、会うのは少し気まずいのだが……居留守をするのも、どうにもばつが悪い。ほとほと俺は年下に甘いなと思いながら、適当に返事をして彼女を迎えるべくドアに手を掛けた。

 甘い石鹸の香りが、ふんわりと漂う。シャワーでも浴びて来たのだろうか、髪を下ろしたシリカが少し頬を上気させてそこに立っていた。

 

「あ、あの、遅くにすみません」

「いや、別にいいけど……」

 

 恐縮した様子のシリカに、俺はそう返す。どうせ寝付けなかったところだ。

 しかし、何の用だろうか――と考えながらシリカを眺めていた俺は、何となく違和感を覚えた。タイトなTシャツに、ホットパンツ……最近の子供は露出が高いな。小町がこんな格好をしていたら、俺はすれ違う全ての男たちの目を潰さなきゃならん……。って、そうじゃなくて。

 

「お前、あのちびドラゴンはまだ復活させてないのか?」

 

 妙なところに飛んでいた思考を引き戻し、そう問いかける。

 そう、シリカの周りにはまだあのちびドラゴン――確かピナとか言う名前の――が居なかったのだ。プネウマの花は無事手に入れたはずだし、既に復活させたものだとばかり思っていた。

 

「はい。ハチさんと一緒に手に入れたプネウマの花ですから、最後も一緒が良いなって……」

「そうか……。まあ、入れよ」

 

 律儀な奴だな……。そう思いながら、立ち話もなんなのでシリカを部屋の中へと招く。緊張した様子で小さく「お邪魔します」という彼女の言葉を背に、俺は部屋の奥へと歩いて行った。

 

「じゃあ早速復活させてやれよ。そこのテーブル使っていいから」

「あ、はい」

 

 部屋奥にある椅子に腰かけながら、そう言ってシリカにも席を勧める。テーブルを挟んで対面に座った彼女は、次いでメニューウィンドウを開いてストレージを漁り始めた。

 まずシリカは白い羽――《ピナの心》を取り出し、丁寧な動作でそれをテーブルの上に置く。そして再びストレージを操作すると、今度は百合のような白い花――《プネウマの花》を手の中に出現させた。それを大事そうに両手の指先でつまみ、確認するようにこちらへと目をやる。なるべく安心させるように俺がそれに頷くと彼女も頷き返し、テーブルに置かれたピナの心へと再び視線を落とした。

 手に持ったプネウマの花を、少し傾ける。するとその花弁から一粒の雫が滴り落ち、ピナの心に当たって弾けた。一瞬の静寂の後、ピナの心が青白い光を放ち始める。そして目が眩むような光を一瞬放った後、現れたのは――。

 

「ピナッ!!」

 

 光が収まりきる前に、シリカが飛びつく。目を潤めながらしきりに「ごめんね」と呟いていた。

 シリカの手の中に収まっているのは、水色の羽毛を持った小型の翼竜だ。

 ……いや、小型と言っても近くで見ると意外とでかい。感動の再開に水を差すようで悪いが、俺は若干ビビっていた。犬とか猫なら大丈夫だが、鳥類(?)はあまり馴染みがないのだ。

 俺に紹介しようとシリカが抱いたままピナの顔をこちらに向けるが……だ、大丈夫? 噛みついたりしない?

 俺が恐る恐る手を出すと「きゅーきゅー」言いながら、指先を舐めた。おお……。うちのカマクラより愛嬌があるな……。

 若干慣れてきた俺は、シリカの手から離れたピナとしばらくじゃれ合う。竜というイメージで想像していたよりも、手触りは柔らかい。こいつの羽毛で布団作ったら最高じゃね? とか考えていたら噛みつかれそうになった。心を読まれたのだろうか……。

 

「ハチさん。ピナを助けてくれて、本当にありがとうございました」

 

 1人ピナと戯れていると、シリカは改めてそう口にして深々と頭を下げた。こう真っ直ぐに礼を言われると、どうにも居心地が悪い。俺はテーブルの上に腰を下ろしていたピナを抱き上げ、シリカの頭の上にポンと乗せた。

 

「いや、まあ今回のことはお互い助かったからな。むしろ、色々巻き込んですまなかった」

 

 そう言って、顔を上げたシリカから目を逸らす。今回は彼女自身も危ない目にあったし、子供の教育上よくないような修羅場も見せてしまった。

 微妙な沈黙が、部屋に降りる。それを破ったのは、先ほどよりもより一層真剣な表情になったシリカの言葉だった。

 

「……あの後何があったのか、私にはわかりません。でも、今私とピナがここに居るのはハチさんのお蔭なんです。だから――そんなに悲しい顔、しないでください……」

 

 その台詞に俺は虚をつかれ、言葉に詰まった。

 俺は、そんな顔をしているのだろうか。こんな少女に心配されるほど。

 

「思い出の丘から帰ってきてから、ハチさん少し変です。目も、いつもより酷くなってるし……」

 

 ……ん? 何気に今酷いこと言われなかったか? そんな思考が一瞬過ったが、シリカの瞳に大粒の涙が溜まっているのを見て取り、俺は再び言葉を失う。

 

「ハチさんは、私やピナのために……皆のために戦ってくれたんですっ……。何も悪くないっ……誰にも、悪いなんて言わせませんっ……! だから……!」

 

 とうとう堪えきれなくなったのか、シリカはボロボロと涙を流しながら言葉を続ける。最後まで言い切ることは出来なかったが、その意図は十分俺へと伝わっていた。

 シリカの頭に乗っていたピナが、徐に翼をはためかせる。そしてふわりとその小さな体を浮かせると次いで俺の頭の上へと着地し、嗚咽を漏らす主人ではなく何故か俺の方を心配するようにこちらを覗き込んだ。

 

「あー……まさかこんなちびドラゴンにまで心配されるなんてな……」

 

 自重するようにそう漏らし、ため息をつく。

 何のことはない。ただ、自分を騙していただけだったのだ。何でもないと、言い聞かせていただけだったのだ。死にゆくジョーのあの顔を、忘れることが出来ない。それが何よりの証拠だった。

 だが、後悔はなかった。後悔が出来るのは、他に選ぶ道がある奴だけだ。何度あの戦いをやり直すことが出来たしても、きっと俺の槍は奴を貫くだろう。それに――。

 考えながら、シリカの頭に右手を置く。くしゃくしゃと、感謝を伝えるようにそれを撫でながら、俺は口を開いた。

 

「俺は、大丈夫だ。……ありがとうな」

 

 自分の行動の責任を、誰かに押し付けるような真似はしない。誰かのための行動はいつかそれを後悔した時、誰かのせいになるだろう。だから俺は誰かのために戦うことはしない。全ては自分のためだ。今日の戦いも――そう、思っていた。

 だがそんな考えとは裏腹に、俺はシリカの言葉に救われていた。最初の気持ちを思い出してしまった。なんと浅ましいのだろう。

 

 だが、それでも今だけは――俺にも誰かを守ることが出来たのだと、そう思いたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……もうこんな時間か。そろそろ部屋に帰った方が良いぞ」

「あ、はい」

 

 泣きじゃくるシリカをあやすこと十数分。ようやく落ち着きを取り戻した彼女に、俺はそう促した。

 まだ時計は午後9時前を指しているが、明日は午前3時にはここを発つことになるし俺も少し休んでおきたい。認めるのは癪だがシリカのお蔭で気持ちも多少楽になった。少しくらいは眠れるだろう。

 別れの挨拶代りに、シリカの頭の上に乗ったピナの体を撫で繰り回す。「ピィ」と気持ちよさそうに鳴き声を上げて目を細めていた。愛い奴だ。

 

「じゃあ、またな」

「はい。……あ、あの、泣き出したりして、すみませんでした……。それじゃあおやすみなさい」

 

 若干鼻声で、シリカがそう口にする。SAOの中では、こう言った声や表情も割と忠実に表現されるのだ。ちなみに目元も赤く泣き腫らしている。目薬のアイテムを使えば一瞬で直るらしいが……まあ手持ちにはないし、時間経過でも勝手に直るはずだ。そこまで気を遣う必要もないだろう。

 部屋に帰るシリカを一応出口まで見送ろうと、その後ろに俺も立つ。そしてシリカがドアを開けると――意外な人物が、そこに立っていた。

 白いワンピースを着た、右頬の泣き黒子が印象的な少女――サチだ。丁度ノックをしようとしていたところだったのだろう。右手を上げた奇妙な体勢で固まっていた。

 サチは俺と目が合った後、視線を落とし、俺の前に立つシリカへと顔を向けた。黙って、その顔を見つめること数秒。消え入るような声で、呟いた。

 

「女の子……こんな時間に? しかも子供……ふ、不潔っ!!」

「お、おい待て……。違うぞ」

 

 青みがかったショートカットの髪を振り乱し、サチは俺から逃げるように後ずさる。ゴミを見るような目線をこちらに向けていた。

 確かに、客観的に見れば中々危険な状況かもしれない。夜更け――と言うにはまだ早いが、それでもこんな時間に幼気な少女を自室に連れ込んでいたのだ。しかも、その少女は目を赤く腫らしている。

 慎重に言葉を選ばなくては、社会的に死ぬことになるかもしれない……。そんな静かな戦慄を覚えながら、俺は口を開いた。

 

「いや、サチ、これはな――」

「あれ? サチじゃない。どうしたのこんな時間……に……」

 

 悪いこととは、重なるものである。俺は今それを身をもって感じていた。

 新たに現れたその人物は、先ほどのサチと同じように俺とシリカを交互に見て、固まった。いやサチもそうだけど、どうしてお前がこんな時間にうちにいるんだよ……。

 

「あっ。アスナッ、ハチが部屋に女の子……しかも子供を連れ込んでて……!!」

「いや、違う。違うから。――おいそこ、通報しようとすんな」

 

 唐突に現れたアスナは、サチの言葉を聞いて「軍に……ユキノさんに連絡しなくちゃ……!」などと呟いてメッセージウィンドウを弄り始める。いや、それはマジで洒落にならないから勘弁してくれ……。

 

 

 

 

 

 

 

「……うん。私はハチのこと信じてたよ」

「そうよね。ハチ君にそんな甲斐性ないものね」

 

 ところ変わってギルドホーム、ダイニング。

 先ほどまではかなり混沌とした状況になっていたが、元々が誤解だったために、詳しいことを説明したら2人はなんとか納得してくれた。いっそ清々しいまでの手のひら返しである。そしてアスナには何やら失礼なことを言われているような気もするが、まあそれは置いておこう。

 ちなみにシリカはアスナたちと軽く自己紹介を済ませた後、子供はもう寝る時間ということで部屋に帰しておいた。あいつも今日は色々とあって疲れていたのだろう。若干名残惜しそうではあったが、促すとすんなり部屋へと帰って行った。

 

「……で、お前らはなんでいんの?」

「ご、ごめんなさい。特に用事はないんだけど、ハチが帰ってきてるって聞いたから……」

「あー、いや、別に責めてる訳じゃないから……」

 

 俺の問いかけに、サチは怯むような表情でそう答えた。こちらが悪いわけじゃないはずだが、そんな顔をされると申し訳なくなる。咄嗟に俺がフォローを入れていると、次いでサチの隣に座るアスナが口を開いた。

 

「私も用事というか……53層で会った時、何となくハチ君の様子がおかしかったから顔を見に来たのよ。いつも以上に目が死んでたし……でも、今はなんだか平気そうね」

「……まあな」

 

 若干罵倒が混じったが、つまりは俺のことを心配してくれていたらしい。自分も明日は笑う棺桶(ラフィン・コフィン)との戦いが控えているというのに出来た奴だ。

 しかし俺からすれば、むしろ心配なのはアスナの方だった。攻略組の中でも、キリトとアスナは圧倒的に若い。幼いと言い換えてもいいだろう。それでもその圧倒的なセンスでゲーム攻略を牽引してきた彼らだが、人との争いはモンスターを倒すのとはわけが違う。

 まだ精神的に未成熟な彼らが、それに耐えられるのか。本音を言えば、明日の戦いには参加して欲しくなかった。それについてはキリトには直接言ってみたが、当然の如く断られてしまった。

 まあキリトの方はまだいい。明日も基本的に俺と一緒に戦うことになるはずだ。いつでもフォローに回ることは出来る。だが、アスナとは状況によっては別行動だ。血盟騎士団の連中を信用していないわけではないが、やはり気がかりだった。

 

「なあアスナ。やっぱりお前、明日は――」

「行くわよ。絶対に」

 

 会話の途中、とりあえず言うだけ言ってみようと口を開いたのだが、言い切る前に遮られてしまった。アスナは鋭い目つきで、こちらを見つめている。

 

「私も、覚悟は出来てるから」

 

 何の、とは聞くまでもないだろう。

 俺はため息をついて、頭を振った。まあ、最初からそう言うだろうことは何となく分かっていた。頑固なアスナのことだ。こうなっては梃子でも動かない。

 曖昧な言葉のやり取りに疑問を持ったのだろう。その場にいたサチが首を傾げていた。恐る恐ると言った様子で口を挟む。

 

「明日、何かあるの?」

「……ちょっと大がかりな作戦があるのよ。ごめんねサチ、あまり詳しくは言えないの」

「そう……。ごめんね、力になれなくて……」

「ううん。助かってるわ、すごく」

 

 失敗した。サチの居るこの場で、明日の話題を出すのは不用意だった。俺は少し後悔しながら、2人のやり取りを聞いていた。しかしそれをフォローするように、アスナが少しおどけた声で口を開く。

 

「それにハチ君なんてサチの作った装備が無かったら、今まで10回は死んでるわよ? 無茶な戦い方ばっかりするんだから……」

「ええっ!?」

「いや、さすがにそれは盛り過ぎだろ……多分」

 

 アスナの話に顔を青くするサチ。一応突っ込みを入れておいたが、完全に否定は出来なかった。

 

「……誰か1人だけの戦いじゃないのよ。いろんな人の想いを受けて、戦ってるんだから」

 

 真剣な表情になって、アスナが呟く。その瞳は俺に向けられていた。

 戦果も責任も、共に分け合える仲間がいる。アスナは今日、そんなことを俺に伝えに来てくれたのかもしれない。うぬぼれかもしれないが、俺はそんなことを思ってしまった。

 いつもの俺ならば、鼻で笑ってしまうような仲良し理論だ。しかし、アスナの言葉だからだろう。すんなりとそれを受け入れることが出来た。

 

「だから、負けるわけにはいかないわ」

 

 続くアスナの言葉に、小さく頷く。柄にもなく、体には静かな闘志が満ちていた。

 

 決戦前夜。こうして俺たちの夜は更けていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第24話 笑う棺桶討伐戦

 気付けば、暦の上ではもう春に差し掛かっていた。

 冬至を越えて既に2ヶ月ほどだ。日の出の時間も徐々に早くなっていたが、さすがに午前4時前の現時刻ではまだ空は暗闇に覆われている。もっとも、今はダンジョンの中にいるためにそれを確認することは出来ないのだが。

 

 第49層。南の鉱山地帯。《スターリングヒル大空洞》

 回廊結晶によって現れた光り輝くゲートを通り抜けた俺は、硬い岩盤を踏みしめつつ周囲を見回した。ここはプレイヤーの間では《大空洞》という略称で呼ばれており、その名の通り鉱山内にも関わらず巨大な空間が広がっている。ダンジョン内は岩壁そのものが光を放っているようで、不自然なほどの明るさに包まれていた。

 普通山の中にこんな空間があったらすぐに崩落が起こりそうなものだが、そこはゲーム仕様である。細かいことを気にしてはいけないのだろう。

 また、ここは《浮遊石》という特殊な石が採れる鉱山――という設定で、ダンジョン内にもそれを利用したギミックが存在する。簡単に言えば浮かぶ足場だ。ダンジョン入口から先は切り立った崖のようになっていて、無数に漂う浮遊石を足場にしながら先へと進んで行くことになる。崖の下は底が見えないほどの落差で、落ちればおそらくゲームオーバーだ。

 幸い1つ1つの足場はそれなり大きく設計されていて、特にモブが沸く箇所などは基本的に20メートル四方以上の四角形の足場になっている。さすがに縁に手すりなどは用意されていないが、気を付けて立ち回れば落下することはまずないだろう。

 だが、それでも即死級のギミックというのはプレイヤーに相当な恐怖を与える。ダンジョンの位置的に攻略には関係なく、狩場としても別段おいしいわけではないので、プレイヤーたちが足を踏み入れることはほとんどなかった場所だ。故に、未踏のエリアがかなり存在する。

 

「大空洞か……。言われてみれば、隠れるのにここほど適した場所もないな」

 

 周りを眺めながら独り言ちる俺。隣に立つキリトも無言で相槌を打っていた。俺とキリトも、ここは第49層攻略当時に少し散策をしただけだ。他の攻略組の面々も似たようなものだろう。

 そうして俺たちが周囲を伺っているうちに、後ろのゲートからプレイヤーたちがぞろぞろと現れる。聖竜連合の面々に、エギル、それと彼が纏めるプレイヤーたちが続き、最後にゲートから現れたのは血盟騎士団の団員達だった。最後尾からヒースクリフがゲートを潜り抜けると、風が吹くような音をたててゲートは消えていった。

 今俺たちが立っているのはダンジョンの岩壁に出来た大きな横穴の中だ。テニスコート2面分程度の大きさがあるので、攻略組のフルメンバーが集結してもまだ多少余裕があった。

 

「全員、揃ったな」

 

 先頭を歩いていたハフナーが崖の縁を背にして振り返り、この場に集まった50名弱のプレイヤーたちに目を向ける。少しは察しがついている者もいるようだが、未だ何のために集められたのか理解していない大多数のプレイヤーたちは困惑の表情を浮かべていた。リーダー格のプレイヤー以外には、ただ遠征としか伝えていない。

 

「これから我々は、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のアジトへと奇襲を掛ける」

 

 ハフナーの突然のその言葉に、プレイヤーたちは騒然となった。しかしその混乱をねじ伏せるように、ハフナーはさらに声を張り上げる。

 

「先日、奴らのアジトがここ第49層の《大空洞》にあることがわかったのだ。犯罪行為に手を染め、自らを殺人(レッド)ギルドなどと名乗る奴らを、野放しにしておくことは出来ない。これは攻略組である我々の責務である。異議のあるものは居るか?」

 

 そう言って、ハフナーはプレイヤーたちの顔を見回す。集まったプレイヤーたちも少しずつ状況を理解し始め、動揺は次第に収まっていった。そして異議を唱える者は居なかったが、高圧的なハフナーの態度に不満を抱いたプレイヤーは多かったようで、特に血盟騎士団のメンバーたちは憮然とした表情を浮かべていた。それをフォローするように、ハフナーの隣へと進んだヒースクリフが口を開く。

 

「急な話で済まないと思っている。情報の漏えいを防ぐために、こういった形を取る他なかったのだ。諸君らの力を貸して欲しい」

「……私たちは従うだけです。団長はただ命じてくれればいい。なあ、みんな?」

 

 集合した血盟騎士団の中で先頭に立つ、顎ひげをもっさりと生やしたおっさんがそう答える。すると同意するようにその場の面々も頷き、ようやく場の空気が緩んだようだった。

 

「恩に着る。他の者たちはどうだね?」

 

 そうしてヒースクリフが未だ沈黙を保つ他のプレイヤーたちに水を向けると、ややあって彼らも首を縦に振ったのだった。

 さすがにここまで攻略を推し進めてきた歴戦の猛者たちだ。混乱はあったが、今さら殺人(レッド)プレイヤーに物怖じするものはいない。

 元より指揮系統などはしっかりと決められているので、その後はハフナーが中心となって奴らのアジトの位置の確認と、捕縛方法の確認などが行われた。最悪殺し合いになることも覚悟しておくように、とその場を締めくくり、ハフナーの先導で俺たちは笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のアジトへと向けて出発したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……妙な動きをした奴は居なかったな」

「ああ」

 

 列をなしてダンジョン内を進む攻略組。その最後尾で俺は呟き、キリトが頷く。

 笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のスパイが攻略組の中に紛れているのではないか、と俺はずっと警戒していたのだ。ジョーのような前例もある。それでも可能性は低いと考えていたが、万が一奇襲を悟られて逃げられてしまっては今までの苦労が水の泡だ。今も俺は最後尾から監視の目を光らせていた。そんな俺の視線に気付いたのか、キリトが諭すように口を開く。

 

「後はもう、なるようになるしかない。仲間ばっかり疑っててもしょうがないぞ?」

「癖みたいなもんなんだよ。ていうか、そもそもあいつら俺の仲間じゃないし」

「……なんか色々捻くれてるなぁ」

「うっせぇほっとけ」

 

 そんな軽口が叩ける程度には、気持ちには余裕があった。あるいは空元気のようなものなのかもしれないが、それでもないよりはましだ。しかしさすがに談笑するような雰囲気でもなかったので、その後俺たちは黙々と歩を進めていった。

 回廊結晶で登録した地点から、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のアジトまでは10分程度。大空洞には隠し通路や隠し部屋などが多く、奴らが根城にしているのは《忘れられた庵》と名のついた隠しエリアだ。セーフティゾーンではないそうだが建物がいくつかあるらしく、おそらく交代で見張りでも立てているのだろう。

 まずは2隊に分かれ、1隊は逃げられないように周囲を囲み、もう1隊は敵陣へと乗り込んで奴らへと打撃を与える手筈になっている。暢気に降伏勧告などから始めていては転移結晶で逃げられてしまう可能性があるからだ。ぶっつけ本番の作戦だが、そこは攻略組の実力でカバー出来るはずだ。

 ちなみに俺とキリトは先鋒組である。狭い室内での戦闘は長柄武器には少し不利だが、なんとかするしかない。幸いそう言った戦闘の経験がないわけではないし、キリトと一緒ならいくらでもやりようはある。

 

 脳内で作戦のシミュレーションをしつつ、周囲を警戒して歩くこと5分。目的地まではまだ少しあるはずだが、列の先頭の方からざわめきが起こった。俺とキリトが警戒心を引き上げつつ前方を伺うと、1人の小柄なプレイヤーがこちらに迫ってくるのが目に入る。

 

「敵か!?」

「ま、待ってくれ! 俺たちの仲間だ!」

 

 武器を構えようとするハフナーを制するように、キリトが前方へと走っていく。階段のように並ぶ浮遊石を駆けのぼり、たどり着いたのは一際巨大な浮遊石のエリアだ。30メートル四方ほどだろうか。途中の心許ない足場に若干ビビりつつも俺もそれに続き、列の先頭へと追い付く。

 

「ハチ! キー坊!」

 

 息を切らし、そこに現れたのはアルゴだった。こいつには笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のアジトの監視を頼んでおいたはずなのだが、何か異変があったのか、アジトへと向かう俺たちに気付いて接触を計ってきたようだ。アルゴは俺たちの目の前まで走り寄ると、深刻な表情で口早に話し始めた。

 

「どうにも奴らの動きが妙ダ。タブン、こっちの動きが読まれてル」

「……逃げられたのか?」

「いや、むしろあれは――フニャ!?」

 

 キリトと言葉を交わすアルゴ。話の途中で俺はその首根っこを掴み、思い切りこちらに抱き寄せた。アルゴが上げた奇声から一瞬遅れて、先ほどまでアルゴが立っていた場所にナイフが突き刺さる。

 

 ――くそっ。やられた。

 

 俺は内心でそう毒づいた。

 どこで悟られたのかは分からない。だが、完全に後手に回ってしまった。

 アルゴを左手で抱きかかえたまま、俺は周囲を見回す。

 

 左右の岩壁。先ほどまで何もなかったそこに出現していたのは、おそらく隠し通路だと思われる横穴だ。そしてそこからから這い出て来たのは、下卑た笑みを浮かべた大勢のオレンジプレイヤーたち。皆体のどこかに、 不気味に笑う棺桶のエンブレムがあしらわれていた。

 

笑う棺桶(ラフィン・コフィン)!?」

「か、囲まれてるぞ!」

「何故だ!? 気付かれていたのか!?」

 

 攻略組に動揺が広がる。その間にも、移動する浮遊石のギミックで笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の連中が左右からこちらに近づいてきていた。想定よりも人数が多い。ざっと見ても俺たちと同数以上は居るだろう。各々、既に武器を構えて喊声をあげている。対話の余地がないだろうことは一瞬で見て取れた。

 

「狼狽えるな! 相手から出向いてくれたのならむしろ好都合だ。ここで一網打尽にするぞ!」

 

 タワーシールドと片手剣を構えたヒースクリフが檄を飛ばす。それによって浮足立っていたプレイヤーたちも少しは冷静になったようだった。

 そうだ。一番警戒していたのは、奴らとぶつかる前に逃げられることだったはずだ。予定とは違うが、ここで戦うのも悪い選択肢ではない。左右から挟まれる形になってしまったのは痛いが、いっそ乱戦に持ち込んでしまえば個々のステータスが勝るこちらが有利なはずだった。

 1つ息を吐き、心を落ち着ける。

 

「アルゴ、お前は転移結晶で街に戻れ。キリト、やれるな?」

「……ああ」

 

 アルゴを腕の中から解放しながら、キリトへと視線を向けた。頷くキリトは背中から剣を抜き、ゆっくりと正眼に構える。笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のけたたましい鬨の声に囲まれる中、その所作だけがひどく静かに見えた。

 

「……済まなイ。死ぬなヨ」

「任せとけ。自己保身に掛けては定評があるからな」

 

 珍しく殊勝な言葉を口にするアルゴにそう答え、俺も槍を手に取る。街へと転移するアルゴを背に、低く槍を構えた。

 

「総員戦闘準備! 向かってくるなら容赦はするな!」

「最低限パーティで纏まって戦え! 来るぞ!」

 

 ハフナーとヒースクリフの声が後方から響く。笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のプレイヤーたちが移動する浮遊石からこちらに飛び移ってきたのはそれとほぼ同時だった。

 普段の攻略では俺とキリトは基本的に余り物のパーティに組み込まれるのだが、今日はその限りではなく、2人だけのパーティだった。ボス戦などと違ってパーティ数の制限などがない為だ。

 まあ好き勝手動ける分、俺としては好都合だった。キリトとアスナの2人とならともかく、他人と足並みを合わせるのは苦手だ。

 

「キリト。先に突っ込む。カバー頼んだ」

 

 その言葉にキリトは目を見開いてこちらに視線を向けたが、返事も待たずに俺は駆け出した。

 おそらく、誰かが口火を切らなくてはならないのだ。奴らは人を殺すことに抵抗はないが、こちらはそうではない。しかし殺さずに、などと甘いことを言っていられる戦いにはならないだろう。追い詰められればこちらもいずれ容赦はなくなるだろうが、それまでに犠牲が出ないとも限らなかった。

 だが誰かが手を汚せば、自ずとそれに流される。「あいつがやっているんだから、自分も」と自分を正当化することが出来る。人とはそういうものだ。

 誰かがやらなければならない。ならば、それはきっと俺だ。この戦いが始まる前から、俺はそう決めていた。

 

 前方。突出して駆けている刀装備の男と、それに続くダガー装備の男が数人。いずれも粗末な装備品を身につけている。幹部の姿はこちらにはないようだった。

 この程度の連中相手になら、駆け引きなど必要ない。俺はソードスキルを発動し、ぶつかった瞬間上段に刀を構えた先頭の男を薙ぎ払った。

 振り上げられた両腕ごと、男の首が宙に舞う。ガラス片となって砕け散っていくその体を突っ切り、さらに後方のプレイヤーの頭を俺の槍が貫いた。数瞬のラグの後、光を放って砕け散る。

 

 これは、ゲーム攻略などではない。

 純粋な人と人との殺し合いの幕開けだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 血に酔うとは、今のようなことを言うのかもしれない。

 槍を振るいながら、何処か冷めた心でそんなことを考えていた。

 血の流れないこの世界でも、訪れる死と恐怖は本物だ。死臭に塗れたこの戦場で、冷静な判断を下せる人間がどれだけいることだろう。

 皆、死にもの狂いで剣を振るっていた。そこに慈悲はない。それはキリトやアスナも例外ではなかった。だが、それを誰が責められるのか。殺さなければ殺されるのだ。自分だけではなく、その仲間まで。

 

 戦場となった巨大な浮遊石の上は、敵味方入り混じっての乱戦になっている。俺とキリトはお互いの背中を守りながらその中を駆け回っていた。

 戦況はこちらが有利だ。これだけの乱戦になっていてもはっきりと見てとれるほどに攻略組が押している。だが、俺は内心焦っていた。

 敵の剣を弾きながら、周囲へと視線を走らせる。多くの笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のプレイヤーは、黒いポンチョを羽織っていた。故に個人の判別が付きづらいのだが、それでも俺は必死になってある人物を探していた。しかし、一向に見つけられない。

 PoHが居ないのだ。そのことが俺の心にじわじわと不安を抱かせた。赤目のザザとジョニーブラックらしき人物は遠目に確認出来たが、肝心のPoHはその影も感じられない。

 奴だけは絶対に逃がしてはならない。殺人プレイヤーの象徴であり、この不毛な争いの元凶であるあいつを排除することで、ようやくこの戦いが終わるのだ。

 何処かでこの戦場を眺めているのか。既に優勢になったこの場は他のプレイヤーに任せて、俺はPoHを探すべきなのではないか。

 戦況を眺めながら俺はそんな思いを巡らせる。刹那、首筋にひやりとしたものを感じ取り、咄嗟に身を伏せた。紙一重でナイフが頭上を通り過ぎる。間髪入れずに繰り出される追撃を槍の石突きで弾きながら、転がるように距離を取った。再び槍を構えながら視線を上げると、子供のように笑顔を浮かべるそいつと目が合う。

 

「ヒャハッ! ヘッドに聞いた通りだ! 良い反応しやがる!」

「……ジョニーブラックか」

 

 苦々しく呟く俺の視線の先。右手に持った鋭利なナイフをひらひらと遊ばせ、遠巻きにこちらを伺うのは笑う棺桶の幹部の1人、ジョニーブラックだった。乱戦の中でも要注意人物としてマークはしていたつもりだったのだが、いつの間にか接近を許してしまったようだ。

 幹部の登場に後方のキリトもこちらに意識を向けたが、今は他の敵を捌くので手一杯な様子だった。一対一で戦うつもりで、俺は槍を握り締める。しかし当のジョニーブラックはおどけた動作でこちらから更に距離を取った。

 

「おっと、お前とマトモにやり合うつもりはねぇよ。俺はヘッドからのメッセージを預かってきただけさ。『俺を殺したきゃ、1人で来い。ショーはミッドナイトに』だそうだ」

 

 そう言って、懐ろから取り出した一輪の花をこちらに投げる。血のような赤に、特徴的な捻れた花弁。地面に転がったその花に、俺は見覚えがあった。あれは確か――

 

「さぁて、そろそろ潮時か」

 

 一瞬別の思考に陥ってしまった意識を、俺は慌てて引き戻す。そしてジョニーブラックへと視線を戻すと、その左手には青いクリスタル――転移結晶が握られていた。

 

「まだまだ遊び足りねぇけど、捕まるのは御免だからな。また会おうぜハチ!」

「逃がすと思って――」

「ヒャハッ!!」

 

 ジョニーブラックは後退しながら、右手に持ったナイフを投擲した。俺を狙ってのものではない。青い軌道の先にあるのは、キリトの背中だ。

 瞬時にそれを悟り、ナイフを弾き飛ばす。腕に若干の痺れを感じながら、俺はすぐに前方のジョニーブラックを睨みつけた。そいつは頭陀袋のようなマスクの端から、にやけた表情を浮かべていた。

 

「甘ぇなァ! 転移、アブル――」

「逃がさないわよ!」

 

 ナイフを跳ね上げた体勢のまま前方を睨みつけていた俺の視界を横切って、颯爽と白い影が駆ける。

 恐ろしい速さでジョニーブラックへと肉薄したそれは、正確無比なレイピアの一撃で奴の持つ転移結晶を弾き飛ばした。次いでそのままの勢いで、その体へと無数の突きを浴びせる。ジョニーブラックはそれによってHPを大きく削られ、ノックバックを受けてダウンした。

 まさに《閃光》という通り名が相応しい。そんな惚れ惚れするような気持ちで、俺はその横顔を眺めていた。目の前に現れた栗色の髪の少女――アスナは、こんな殺伐とした戦いの中にあっても静謐な表情を湛えているように見えた。

 アスナの攻撃に続き、遅れて追いついた数名の血盟騎士団のプレイヤーがダウンするジョニーブラックを押さえつける。それを見下ろし、アスナは諭すように口を開いた。

 

「もう、降伏しなさい。これ以上は無意味よ」

「……ッ! クソがッ!!」

 

 悪態を吐くジョニーブラックを無視し、血盟騎士団のプレイヤーが専用のアイテムを使って手際よく拘束する。対犯罪者(オレンジ)プレイヤー用の拘束ロープで手足を縛れば、2時間は自由に動けなくなるのだ。

 気付けば、もう戦いも終わりへと差し掛かっていた。あたりを見渡せば、あれだけ大勢居た笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のプレイヤーたちが半数以下にまで減っている。既に無力化されている者も多く、残る敵も幹部であるジョニーブラックが負けたことで明らかに戦意を喪失していた。未だ激しく抵抗する者も、もう長くは保たないだろう。残る幹部のザザも、いつの間にかキリトを含む大勢のプレイヤーに囲まれていた。

 

「へッ! 偽善者ぶりやがって。気持ちワリィんだよ。テメェらだって一皮剥きゃあ俺らとなンも変わんないくせによォ!」

 

 押さえつけられたままのジョニーブラックが、アスナを恨みがましく睨みつけながら口を開いた。アスナは表情を変えず、相手を見下ろしている。

 

「……私たちは、貴方とは違うわ」

「一緒さァ! 気に入らねェヤツを殺したんだろ? 多いか、少ないかだけの差だ。可愛い顔してよォ……お前、今日何人殺したんだ?」

「――ッ」

 

 言葉に詰まるアスナを、ジョニーブラックがニヤついた顔で見上げる。

 血が、沸騰したような錯覚を覚えた。俺は辛うじて怒りを抑え、痛いほどに槍を握り締める。そして未だ何か口にしようとするジョニーブラックに歩み寄り、俺はその鼻先へと槍を突きつけた。

 

「黙れ。それ以上喋ったら首を飛ばす」

 

 その脅しが効いたのかどうかは分からない。しかしジョニーブラックは何故か楽しそうな笑みを浮かべた後、それ以上口を開くことはなかった。

 鳴り響いていた剣戟の音が、いつの間にか消えていた。攻略組の勝利である。しかし、勝鬨は上がらない。ハフナーとヒースクリフの指示の下、多くのプレイヤーは事後処理を黙々とこなしていた。

 

「ハチ君……」

「……今は、何も言うな。まだ終わってない」

 

 隣に立つアスナの顔を見ることが出来ず、俺はそう呟いた。

 この場でいくらでも耳触りのいい言葉を並べることは出来ただろう。だが、安い言葉で誤魔化したくはなかった。それに、まだ全てが終わったわけではない。この場は攻略組の勝利だが、大仕事が1つ残っている。

 地面に投げ出された、一輪の赤い花に目をやる。気障な男だ。

 

『ショーはミッドナイトに』

 

 PoHからのメッセージが頭に過った。いいだろう。受けて立ってやる。

 周りに悟られないように、赤い花をアイテムストレージに収納する。不意に、開いたシステムウィンドウの端の時刻表記が目に入った。

 午前4時16分。夜明けは、まだ先になりそうだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第25話 燻ぶる悪意

 その日、アインクラッド中がその話題で持ちきりだった。

 笑う棺桶(ラフィン・コフィン)討伐戦――攻略組6名、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)32名の死亡者を出した過去最大のプレイヤー同士の戦闘。その噂は、討伐戦が行われた数時間後には多くのプレイヤーたちの間に広まっていた。

 ここまで早く討伐戦についての正確な情報が流布したのは、攻略組が自らそれを開示したからだった。後の攻略組に対する批判を恐れたのだ。

 いくら相手が殺人(レッド)ギルドのプレイヤーであろうと、それを殺すことは決して褒められたことではない。場合によってはそのなじりを受けることもあるだろう。

 いっそ隠蔽してしまうことが出来れば良いのだが、人の口に戸は立てられず、いずれこの事件は多くのプレイヤーたちの知ることとなる。ならば先んじて正確な情報を公開し、大義はこちらにあるということを印象付けた方が得策だという判断だった。

 その甲斐もあってか、この笑う棺桶(ラフィン・コフィン)討伐戦は多くのプレイヤーに好意的に受け入れられていた。笑う棺桶(ラフィン・コフィン)が壊滅し、アインクラッドの治安も良くなるだろうと皆安堵したのだ。

 しかし、同時に多くの者たちは気付いていた。

 殺人(レッド)ギルド笑う棺桶(ラフィン・コフィン)。その狂気と恐怖の象徴であるプレイヤーは、未だ捕まっていないということに。

 

 

 

 

 

 第1層。始まりの街、黒鉄宮。

 捕えた笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のプレイヤーたちをそこで《軍》へと引き渡した俺たちは、その後ハフナーの簡単な挨拶を聞き、1度解散した。

 当然祝勝会を開くような雰囲気では無く、皆同様に疲れた表情を浮かべ、それぞれのホームに帰って行ったのだった。黒鉄宮で顔を合わせた雪ノ下も、珍しくこちらを気遣うような様子だった。いつもの5割り増しで目が腐っている自信があったのだが、さすがにこの状況で俺を罵ることが出来るほど無神経な奴ではない。不器用な表情で「お疲れ様」とだけ声を掛けられた。

 今はキリトと2人、風林火山のギルドホームへと向かって歩いている途中である。まだ日の出前で、プレイヤーはおろかNPCの姿さえほとんどなかった。いまだ眠りから覚めて居ない街の中を、とぼとぼと2人で歩く。

 討伐戦を終えても、俺が思っていたよりキリトの精神状態は安定しているように思えた。アスナも同様である。少なくとも俺よりはまともな倫理観を持っているだろう2人のことは心配していたのだが、今すぐに心を病んだりだとかそう言ったことはなさそうだった。顔色は優れないが、話しかければいつもと同じような反応が返ってくる。

 だがそれでも、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)討伐戦がキリトやアスナの、いや、攻略組全員の心に大きな傷を負わせたことは間違いないなかった。これから多くの人間が、自分が手にかけた相手のことを思い出し、眠れない夜を過ごすのだろう。仕方のないことだったと理屈ではわかっていても、湧いてくる感情は別だ。

 こればかりは最終的に自分で乗り越えるしかない。他人に出来ることは精々気休めを口にすることくらいだ。まあそれも本人からすれば十分ありがたいのだろうが、正直俺が気の利いた慰めを口に出来るとも思えなかった。

 一応攻略組の精神面での健康状態を気遣って、ゲーム攻略はしばらく休止することがハフナーとヒースクリフの口から告げられている。現状を鑑みれば妥当な判断だろう。

 

「なあ、ハチ」

「ん?」

 

 黒鉄宮を出てから5分ほど。ここまで黙々と歩いていたキリトだったが、不意に俯いたまま俺の名を呼んだ。思考に耽っていた意識を現実に引き戻して俺が返事をすると、白い息をゆっくりと吐き出しながらキリトがこちらへと視線を向ける。

 

「俺に、何か隠してるだろ」

 

 キリトは半ば確信を持ったように、俺に問う。心当たりが多すぎて、逆に何と答えたらいいのかわからなかった。

 先週勝手に食べてしまったキリトの分のプリンのことか。それともこの前たまたま手に入ったラグーラビットの肉を1人で食べてしまったことか。いやそれとも――

 そんなふざけた思考が少しだけ頭を過るが、このタイミングで聞いてくると言うことはおそらく別件だろう。とぼけようかとも思ったが、それよりも先にキリトが再び口を開く。

 

「ハチがジョニーブラックと何か話してたのを見たんだ。PoHのこと、何か聞いたんじゃないのか?」

「……」

 

 キリトの真っ直ぐな瞳がこちらに向けられていた。それに耐えきれなくなって視線を逸らし、俺はしばらく無言で歩く。

 討伐戦の最中の、ジョニーブラックとの会話。剣戟と雄叫びが入り混じる乱戦の中で他人の会話を気にする余裕のある者など居ないと思っていたが、誤算だったようだ。ここまで確信をもって聞いてくるということは、断片的に内容も聞かれていたのかもしれない。

 さてどうしたものか。誤魔化すのは多分無理だが、正直に話して付いて来られても困る。それにこれ以上こいつに負担を掛けるのは……。そう考えたところで、その俺の思考を読んだようにキリトがまた口を開いた。

 

「ハチ、俺のことなら心配いらないぞ」

 

 その歳に不相応なほどの真剣な眼差しが、俺を射抜く。すぐに目線は伏せられたが、それでもその瞳に宿った光に陰りは見えなかった。

 

「場に流されて剣を取っていたら、いつか今日のことを後悔したかもしれない……。でも、そうじゃない。俺は俺の意志で剣を取ったんだ。だから、大丈夫だ」

 

 キリトのその言葉に圧倒され、俺は言葉に詰まった。再び訪れる沈黙。たっぷりと数秒の間キリトと見つめ合った後、俺は目を瞑って大きくため息を吐いた。

 

「はあ……。お前、ホントに中学生かよ……達観し過ぎだろ」

「まあ、そろそろ中学も卒業だからな」

「嘘つけ。留年だろお前は」

「うっ……。でも、ハチも人のこと言えないだろ」

「俺は良いんだよ。義務教育じゃないし」

 

 その場の空気が軽くなり、そんな軽口の応酬をする。それが一旦落ち着いたところで、俺は真面目な表情を作り直した。

 もはやぼっちは名乗れないな。そんなことを考えながら、キリトへと視線を送った。

 

「……いくつか、お前に頼みたいことがある」

「頼みたいこと?」

「ああ」

 

 勝っても負けても、おそらく次がPoHとの最後の戦いになる。何故かはわからないが、あいつは俺に固執していた。俺と一対一での本気の殺し合いを望んでいるのだ。だからこそ第2層の森や第19層の十字の丘で俺を見逃したのだろう。

 だが、俺は奴のその良くわからないこだわりに付き合ってやる気はなかった。俺は俺のやり方で決着をつけるつもりだ。

 

「……何でもかんでも自分の思い通りにはならないって、あの野郎に思い知らせてやる」

 

 ホームへの道を歩きながら、俺は強くそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハチッ! おめえ帰ってきてたんならそう言えよ!!」

 

 未だ寝ぼける俺の視界にいきなり飛び込んできたのは、顎に無精ひげを生やした赤髪の男だった。戦闘着ではなく、ラフなトレーナーとスラックスを履いている。それがクラインだと認識するのに数秒かかった。

 うるさく構ってくるクラインを無視し、首を巡らせる。簡素な作りの1人部屋。ここはギルドホームの自室だった。鍵は掛けていたはずなのだが、クラインはギルドマスターの権限を行使して無理やり入ってきたようだ。

 ベッドから体を起こし、システムウインドウを呼び出して時刻を確認する。午後3時を少しまわったくらいの時間だった。数時間は眠ることが出来たようだ。

 

「今朝早かったから、ちょっと昼寝してたんだよ……。それで、何か用か?」

「何か用、ってお前なぁ……」

 

 そう言って脱力するクライン。そう言えば討伐戦から帰って来てからはまだ会ってなかったな。今朝の奇襲については直接教えていたわけではないがクラインなりに何か悟っていただろうし、もしかしたら心配してくれたのかもしれない。

 

「はあ……。まあ、お前らが無事ならそれでいいよもう……。それで、キリトはどこだ? 一緒じゃないのか?」

「あー、昼前くらいまでは一緒だったんだけどな。ちょっと用事があるらしくて別れた。そろそろ帰って来るんじゃないか?」

「あいつも疲れてんだろうに、まだ何かやってんのかよ……。まあ、わかった。……っと、そうだ。お前に客が来てんだよ」

「俺に?」

「ああ」

 

 どうやらクラインはそれで俺を呼びに来たらしい。来客に言われるまで、俺がギルドホームに帰って来ていることには気付かなかったようだ。システムウィンドウのフレンド欄を見れば一発でわかるのだが、そこまで頭が回らなかったらしい。

 

「ユキノさんとサチがさっき来てな。今はエントランスで待って貰ってるぞ。ユキノさんは軍の仕事っぽかったけど、サチはこれ見て心配してきてくれたみたいだな」

 

 そう言ってクラインはポケットに入っていたらしいくしゃくしゃになった1枚の紙を取り出した。『笑う棺桶(ラフィン・コフィン)壊滅』という大きな見出しが目に入る。アルゴが出している新聞《Weekly Argo》の号外のようだ。

 相変わらず仕事が早いな。あいつも昨日からほとんど寝ていないはずなんだが……。

 そう思いながらベッドから立ち上がり、クラインの手からそれを受け取る。その号外には討伐戦における死亡者や捕縛者の名簿などが詳細に載っていた。

 

「……大変な戦いだったみてぇだな」

「まあ、な……」

 

 号外に目を通す俺に、クラインが声を掛ける。一瞬沈黙が部屋を支配したが、すぐに雰囲気を変えるようにクラインが俺の背中を大きく叩いた。

 

「ま、何はともあれ、お疲れ様だ! ほれ、さっさと美少女2人に癒されて来い!」

「……サチはともかく、ユキノは会っても胃が痛くなるだけだろ」

「バッカお前、そこがまたいいんだろ?」

「いや、クライン、お前それレベル高すぎるから……」

 

 クラインの発言に若干引きつつ、俺はため息を吐いた。

 こいつと一緒に居ると疲れる。だが同時に、ブルーな気分に浸っていられるような余裕もなくなっていた。これはこれで人徳なのかもしれない。少なくとも今の俺にとって、クラインの態度はありがたかった。

 そんなことを思いながら、俺はクラインと共に部屋を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 ギルドホームのエントランスへと俺が足を運ぶと、すぐに来客用のソファで向かい合って談笑する雪ノ下とサチの姿が目に入った。攻撃的な雪ノ下にしては珍しく、2人の間には友好的な雰囲気が漂っている。

 知り合いだったのだろうか? そんな疑問を感じて俺が突っ立っていると、こちらに振り返ったサチと視線が合う。

 

「あ、ハチ」

「あー……。悪い、待たせたか?」

「いえ、私もサチさんもついさっき来たばかりよ」

「そうか」

 

 気をとり直して2人とそんなやり取りを交わしながら、俺もソファへと腰掛ける。幸いエントランス内には2人掛けのソファが2つに、1人掛けのソファが1つ配置されていた。女子と同じソファに肩を並べて座るのは未だぼっち気質の俺には難易度が高いので、当然空いていた1人掛けのソファに着席する。

 ちなみに先ほどまで一緒にいたクラインは、廊下でトウジに捕まって連行されて行った。どうやら仕事を放り出して来ていたようだ。クラインを見つけた時のトウジの笑顔が怖かった。御愁傷様。その後はトウジから討伐戦について労いを受け、軽く挨拶を済ませてから1人でこちらへと向かったのだった。

 ソファへと深く腰掛け、俺は一息つく。

 サチに、雪ノ下に、俺の3人。改めて見ると妙な組み合わせだな。そう思いながら、俺は先ほどから思っていたことを尋ねる。

 

「ところで、お前らって知り合いなのか?」

「うん。ユキノはうちのお店のお得意さんでね。いつもオーダーメイドで猫とかパンダのパンさんのぬいぐる――」

「サチさんのお店をたまに利用させて貰っているだけよ。プレイヤーの男女比率の問題なんでしょうけど女性向けの衣類というのはこの世界ではあまり扱われていないから。ねえ、サチさん?」

「え、う、うん……」

 

 サチの話を遮って口早に捲したてる雪ノ下。

 うん。お前らの関係性だいたいわかったわ。ていうか今さら隠してもお前の猫好きとパンさん好きはバレてるぞ雪ノ下。まあ面倒なことになりそうだから突っ込まないが……。

 ちなみにぬいぐるみ類は裁縫スキルが600以上で作れるようになると以前サチから聞いた。その出来はシステム的な熟練度よりもプレイヤー自身の技術に大きく左右されるようだが、雪ノ下が贔屓にしているということはサチは腕が良いのだろう。雪ノ下の、特にパンさんに掛けるこだわりは異常だからな。

 どうでも良いけど、パンさんのぬいぐるみの販売は版権的に大丈夫なんだろうか。ディスティニーは版権に煩いことで有名だ。まあさすがにSAOの中でまで問題になることはないだろうが……。

 

「まあ私たちの話はいいわ。それよりもキリト君は一緒じゃないのかしら?」

「ん、ああ。あいつは野暮用で今ちょっと出てる。早けりゃそろそろ帰ってくると思うけどな」

 

 話を変える雪ノ下の問いに、俺は適度に答える。野暮用というか俺に頼まれたお使いなのだが、詳しく話すとややこしくなるためにぼかしておいた。

 

「そう。凄いバイタリティね。まだ日も跨いでいないのに」

 

 雪ノ下がそう呟く。「日も跨いでいない」とは「笑う棺桶(ラフィン・コフィン)討伐戦から」という意味だろう。サチもすぐにそれを理解したようで、何となく場の空気が重くなる。しかしそれを嫌ったのだろう、すぐに努めて明るくサチが口を開いた。

 

「2人とも無事で、ホントに良かったよ……。新聞を見た時は、心臓が止まるかと思ったもん」

「ええ。私も朝5時にそこの男からメッセージを受け取った時は、少し怖気が走ったわ」

「おい。お前のそれはただの悪口だからな」

 

 しばらくご無沙汰だった気がする雪ノ下の毒舌に、俺は突っ込みをいれる。ちなみに俺が送ったメッセージというのは、捕らえた笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のプレイヤーの引き渡しについてのものだ。朝5時という非常識な時間になってしまったが、幸い雪ノ下が起きていてくれたので助かった。

 一瞬の間の後、目が合った雪ノ下がふと優しい笑みを浮かべた。その意図がわからず俺は怪訝な表情になってしまったが、そんなことは意に介さず雪ノ下は再び口を開く。

 

「……安心したわ。いつものハチ君みたいね。今朝より顔色もよさそうだし」

「え、お、おう」

 

 そんな雪ノ下の不意打ちに、俺はドギマギして口ごもる。え、何? こいつこんなにツンデレだったっけ? 俺のこと好きなの?

 重苦しい空気は消え去ったが、今度は逆に微妙な雰囲気が漂い始める。雪ノ下自身には実際のところ特に他意はなさそうで澄ました表情で目を伏せていたが、サチは何か勘ぐるように俺たちの顔を交互に見つめると、やがて意を決したように口を開いた。

 

「あ、あの……。2人はリアルで知り合いだったって聞いたんだけど、その……つ、付き合ってたりとか――」

「断じてあり得ないわ。サチさん、私だって怒ることくらいあるのよ?」

「え? ご、ごめんなさい……?」

 

 言葉通りに身体中に怒気を滲ませ、サチに笑顔を向ける雪ノ下。その笑顔に圧倒されて、何故かサチが謝っていた。

 うん。知ってた。こいつと俺がそんな甘い関係になることなどありえないのだ。いや、別に負け惜しみじゃないし……。

 雪ノ下がおもむろにもう一度大きなため息をつく。それで怒りも収まったようで、次いで真剣な顔で話を切り出した。

 

「それではそろそろこちらの用件を済ませてしまいたいのだけど、いいかしら?」

「あ、うん。私はハチとキリトの顔を見に来ただけだから……。大事な話なら、外した方がいいかな?」

「いいえ、気にしなくても大丈夫よ。誰かに聞かれて困る話でもないわ」

「キリトが帰ってくるまで待たなくてもいいのか?」

「こちらも色々と立て込んでいるから、あまりのんびりもしていられないのよ。必要ならあなたから伝えておいて頂戴」

 

 討伐戦での捕縛者の処遇や残党の捜索などはほとんど軍に丸投げしてあった。その対応に追われているのだろう。ここに訪れたのもおそらくは事後処理の一環だ。

 雪ノ下の言葉に頷き、話を促す。すると雪ノ下は幾つかの書類とアイテムをストレージから取り出しながら早速本題に入った。

 

「あなたたちが捕まえた笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のメンバーに尋問を行っていたのだけど、いくつかわかったことがあるわ。まず、攻略組の奇襲が前もって気付かれていた件ね」

 

 討伐戦での奇襲の失敗。結果的に攻略組が勝利することが出来たが、だからと言って無視していい問題ではない。

 あれだけ警戒していたのに、こちらの行動がバレていたのだ。裏切り者の可能性を考え、軍にはどうして奇襲が悟られたのか調べるようにお願いしていたのだった。

 俺は十中八九攻略組の中に裏切り者の存在があると思っていた。だが、雪ノ下から告げられたのは意外な内容だった。

 

「攻略組の中に裏切者が居た可能性は低いと思うわ。単に相手の斥候が優秀だったようね。これを見て」

 

 言いながら雪ノ下は先ほどストレージから取り出していたミラージュスフィアをテーブルに置く。それを起動させると、大空洞の詳細なマップデータが表示された。先日キリトが持っていたものよりもかなり詳しいところまで調べられているようだ。俺は少し驚きながらそれをまじまじと眺める。

 

「これ、どうしたんだ?」

「アルゴさんにお願いしたのよ。マップデータだけならすぐ集められると言ってくれたから」

「マジか……。すげえなあいつ……」

 

 おそらくはモブとの戦闘を全て避けてダンジョン内を走り回ったのだろうが、熟練度が最大になった隠蔽(ハイディング)を駆使しても俺にはそんな短時間でこれだけのマッピングが出来る気がしない。隠し部屋や隠し通路の発見も簡単なことではないのだ。最前線からは少し離れた第49層のダンジョンだとは言え、人間業ではなかった。

 ていうかこれ討伐戦の後に作ったんだよな。笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の連中がいる間はさすがにダンジョン内を探索することは出来なかったはずだし……。

 昨日の朝から考えて、ロザリアの尾行、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のアジトの監視、《Weekly Argo》の発行、大空洞のマッピング。あいつ、本当に一睡もしてないんじゃないか? 今回の件で1番の功労者はアルゴのような気がしてきた。……まあほとんどの仕事は有償なんだが。

 

「それで、この道なのだけれど――ちょっと。ちゃんと聞いているのかしら?」

「え、あ、ああ。悪い、続けてくれ」

 

 他のところに飛んでいた意識を、慌てて引き戻す。雪ノ下は少し呆れたようにため息を吐いたが、すぐにまたミラージュスフィアを使っての説明を始めた。

 話をまとめると、単純な仕掛けだった。

 雪ノ下が指し示したのは、幾つかの隠し通路。それは攻略組が通ったルートと、笑う棺桶のアジトがある《忘れられた庵》を繋いでいた。

 つまり、この隠し通路を使って見張りを立てていたということだ。雪ノ下によれば捕縛者の証言とマップデータによってほとんど裏は取れているらしい。

 下手をしたらロザリアを追ってキリトたちが大空洞を訪れた時から既にばれていたのかもしれない。

 

「普通に気付かれてたってことか……。逃げられなくて助かったな」

「どうやらPoHが自分で迎撃の指示を出したそうよ。当の本人は途中で逃げてしまったみたいだけど」

 

 何故全員で逃げることを選ばなかったのか。勝てると踏んだわけではないだろう。戦力差は明らかだったのだ。

 

「捕縛したプレイヤーのフレンド欄を遡ってみたけど、PoHの名前は見つけられなかったわ。追跡を警戒して登録を切ったみたいね。それでも4名ほどの残党は捕まえることが出来たわ。捕縛者の名簿に目を通すかしら?」

「いや、いい。どうせ見たって誰かわかんないし」

「そう」

 

 そこまでで用件は済んだようで、雪ノ下はテーブルの上に出していたアイテムをストレージに仕舞い始めた。今まで黙りこんで話を聞いていたサチが、それを見ながら大きく息をつく。

 

「本当に大変な戦いだったんだね……」

「まあな。でも、もう終わった」

 

 まだ、終わりではない。心の中ではそう思っていたが、この場を収めるために俺は嘘をついた。しかしその言葉が何か引っかかったのが、片づけをしていた雪ノ下が手を止めてこちらに視線を送る。

 

「……何だよ?」

「……いえ、何でもないわ」

 

 歯切れの悪い言葉を呟き、雪ノ下は再び手を動かし始める。何故か、その場にはまた微妙な空気が流れていた。俺の言動に何か気付くものがあったのかもしれない。しかし、あえて追及するつもりはないようだった。

 その後はギルドの仕事があるという雪ノ下を見送り、サチと共にキリトの帰りを待つことになった。フレンド欄の位置情報を見ると丁度始まりの街に転移してきたところだったので、もうすぐギルドホームに着くだろう。

 時刻は午後4時前。約束の時間は、刻一刻と迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜も深まり、街灯が爛々と光る始まりの街の中を1人歩く。通りに面した店ではまだプレイヤーたちが騒いでいたが、すれ違う人通りはあまり多くなかった。

 現在の時刻は午後11時半。これから転移門を通り、奴の指定した場所へと向かう。日付が変わる前には着けるだろう。

 

『俺を殺したいなら、1人で来い。ショーはミッドナイトに』

 

 ジョニーブラックが口にした、PoHからの伝言を反芻する。

 ミッドナイトとは、つまり真夜中。深夜12時に俺を待つということだろう。

 場所の見当もついている。ジョニーブラックが持っていた赤い花には見覚えがあった。ほとんどのプレイヤーはその存在すら知らないだろうが、あれは《ヘリカルレッド》と呼ばれる少量のHP回復効果を持つ花だ。一時期はかなりお世話になったからよく覚えている。そしてそれの自生している場所は俺の知る限り1つしかなかった。

 そんなことを考えていると、すぐに転移門広場へと行き当った。アインクラッドでは交通の要だが、この時間ではあまり人も多くない。だから、転移門の側に1人ぽつんと立っているそのプレイヤーがすぐに目に入った。相手もすぐにこちらの存在に気付き、険しい目つきでこちらに歩いてくる。

 

「本当に1人で行くつもりなのね」

 

 綺麗な栗色の髪を耳に掛けながら、アスナが口を開く。普段通りの紅白の軽鎧。それが何故か、いつもより儚げに見えた。

 

「キリトに話は聞いたんだろ?」

「……うん。だから、止めないわ。ちょっと顔を見に来ただけ。私は私に出来ることをするつもりよ」

 

 そう言ったアスナの瞳は伏せられていたが、言葉には力が込められていた。俺はそれに半ば呆れるようにため息をつく。

 

「……強いな、お前もキリトも。無駄に心配してた俺が馬鹿みたいだ」

「そう見えるなら、それはきっとハチ君のお蔭よ」

 

 何と返すべきか分からず、俺は一瞬言葉に詰まった。そんな俺に気を遣ったのか、アスナがすぐにまた口を開く。

 

「あまり引き止めてもいられないわよね……。行ってらっしゃい。絶対に、帰って来てね」

「……おう。じゃ、行ってくる」

 

 目は合わせずに、すれ違う。この場がそれほど重い雰囲気にならなかったのは、俺への信頼があるから……だと思いたい。まあわざわざ見送りに来てくれると言うことは、さすがに俺のことなどどうでもいいと思っているわけではないだろう。

 そうして俺はアスナと別れ、転移門へと進んだのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第26話 PoH

 第2層。南東の森。

 かつて俺が犯罪者(オレンジ)プレイヤーになってしまった時に、身を潜めていた場所だ。その一角に、ヘリカルレッドの咲き乱れる群生地が存在する。当時は回復アイテムの補給もままならなかったために、かなりお世話になったのだ。

 森の中に入っても、道を選べば月明かりのお蔭で視界はそれほど悪くなかった。俺が記憶を頼りに進んで行くと、少し木々が開けた場所に背の低いヘリカルレッドの花が並んで咲いている場所が目に入る。その中央、花々に囲まれるようにオレンジカーソルの男が静かに佇んでいた。

 頭から腰下までを覆う黒いポンチョに、くすんだモスグリーンのカーゴパンツ。右手のグローブには、不気味に笑う棺桶が刺繍されていた。

 こちらの存在に気付いた男が、ゆっくりと顔を上げる。そして俺と目が合うと、嬉しそうに笑みを浮かべた。それにつられて右頬に刻まれた刀傷のような刺青が歪む。

 

「よォ。感心だな。約束の時間丁度(ジャスト)だ」

「……待つのも待たせるのも好きじゃないからな」

 

 軽口を返しながら、俺は目の前の男――PoHを睨み付ける。余裕綽々といった様子だ。俺は既に槍を手にしていたが、PoHは未だその得物さえ見せていない。

 

「……ちゃんと1人で来たみたいだな」

「生憎とぼっちだからな。まあお前1人くらいなら俺だけで十分だ」

「ハッ! 言うようになったじゃねえか」

 

 予測されるステータス差を考えれば俺の発言もあながちただの強がりでもなかったのだが、PoHはそれを笑い飛ばした。

 底の知れない相手だ。昨日相対したジョーのように何か奥の手があるのかもしれない。そう考えて警戒心を引き上げる俺をよそに、PoHは感慨深そうに周囲を見回していた。

 

「お前とこの森で初めて会ったのも、もう1年以上前か……。ここまで長かったな」

 

 今すぐに刃を交えるつもりはなさそうで、PoHは棒立ちでそんなことを語り始める。隙だらけの体勢だ。このまま切り伏せてしまおうかという考えも過ったが、そんな不意打ちが通用する相手ではないことは俺が良くわかっている。ここはひとまず相手の会話に乗ってやろうと決め、俺も口を開いた。

 

「お前は結局、何がしたかったんだ。犯罪者(オレンジ)たちを従えて、無関係なプレイヤーを殺して……悪役気取りでロールプレイか」

「おいおい。そりゃあ言い掛かりだぜ。この世界のプレイヤーに悪役(ヒール)なんて存在しねえ。ただ1人《茅場晶彦》だけが全プレイヤー共通の敵だ。俺たちに出来るのは、精々ゲームのシステムが許す範囲で遊ぶことだけ。言ってみりゃあプレイヤーの正当な権利だ。それを行使して何が悪い?」

 

 PoHはさも当然のことのようにそう口にする。こんなものは当然屁理屈だが、芝居がかった話術も相まってか妙な説得力があるように感じられた。奴が笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の中でカリスマと崇められていた理由が少しわかった気がする。

 

「そうやって口車に乗せて、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の連中を操ってたのか?」

「人間なんて皆お互いを殺したがってる生き物だろ。俺は見込みのある奴らの背中を少し押してやっただけだ。まあ、最後は拍子抜けだったがな。今朝の殺し合いはもう少し面白い見世物(ショー)になると思ったんだが……」

 

 そう言ってPoHは大げさにため息を吐く。しかしすぐに気を取り直すように顔を上げると、フードの向こうで爛々と輝く瞳が俺を射抜いた。

 

「まあ、そんなことはもうどうでもいい。今までのことは全部安い前菜(オードブル)みたいなもんだ。そろそろ主菜(メインディッシュ)と行こうぜ」

 

 殺気を放ちながら、PoHがようやく武器を構える。背中から取り出したのは、板斧かと見間違えそうな形状の短剣――友切包丁(メイトチョッパー)だ。

 PoHの愛剣として有名なそれは、四角い刀身から見て分かるように突きの攻撃力は皆無に等しい。しかし、それと引き換えに斬る攻撃力は現存する全武器の中でも破格である。短剣のソードスキルには突属性と斬属性の技がバランスよく含まれるため、つまりはそのほぼ半分が使い物にならなくなるというかなりピーキーな武器だが、使いこなせば魔剣クラスの強力な武器だ。

 PoHの放つ禍々しい殺気に顔を歪めながら、俺もゆっくりとした動作で槍を構えて覚悟を決めた。

 これが、俺と奴との最後の戦いだ。負けることは許されない。

 互いに低く腰を落とし睨み合う。虫の音さえ聞こえない静寂の中、木々の騒めきが俺たちの間を掛け抜けて行った。

 

「さあ――Show timeだ」

 

 先手を打ったPoHが、獣のように地を這って駆ける。

 懐への侵入を嫌い、俺は牽制するように槍を振るった。1合、2合、PoHが短剣で俺の槍を弾き、次いで跳躍する。槍は空を切ったが、間合いを詰められる前に石突で迫る相手の短剣をかち上げた。似たような応酬が、数秒の間に幾度か繰り返される。

 相変わらず、ズバ抜けた戦闘センスだ。おそらくキリトにも匹敵するだろう。だが、やはりレベルの差が大きかった。1つ1つの動きは俺の方が速いし、武器のリーチの違いもある。

 攻防を繰り返す中で、徐々にその差が浮き彫りになる。こちらは無傷だったが、その過程でPoHには浅い傷が蓄積していった。このまま焦らずに長期戦に持ち込めば、いずれこちらに軍配が上がるだろう。

 そんな安易な考えが頭を過るが、そう易々と勝たせてもらえるはずもない。

 不用意に放ってしまった突き。それを甘んじて右肩で受けたPoHが、そのままソードスキルを構える。

 下段から水平に薙ぎ、そのまま回転してから中段の一撃。初撃は足元の草花ごと俺の足を浅く刈ったが、二撃目は何とか単発のソードスキルで弾き返した。

 ヘリカルレッドの赤い花弁が舞い散る中、一際大きな剣戟の音が響く。お互いに大きくノックバックを受け、そのまま距離を取った。森に再び静寂が訪れる。

 今のは危なかった。大きく息を吐きながら、俺は彼我のHPバーを注視する。今の攻防戦でお互いに4分の1ほど削られていた。

 平均的なステータスはこっちが勝っているはずなのに、ここまで五分かよ。勘弁してくれ……。うんざりとそんな感想を抱いたが、俺の心情などお構いなしにPoHは生き生きとした笑みを浮かべていた。

 

「Cooooool!! Excellentだ、ハチッ! ああ、これだ……。これが、俺が求めていたものだッ!! This is it!!」

 

 狂ったような笑い声を上げ、PoHが天を仰ぐ。その豹変ぶりに若干引きながら、俺はその光景を眺めていた。ひとしきり笑って少し落ち着いたのか、PoHはその後ゆっくりと息を吐く。

 

「……が、さすがにレベルの差がでけえな。少し分が悪いか。まあこの綱渡り感も悪かねえんだが」

「……大人しく捕まるなら、殺しはしないぞ」

「ハッ! 面白いジョークだ!」

 

 俺の降伏勧告を笑い飛ばし、PoHは再び短剣を構える。

 まあ、そうなるわな……。さすがに俺もこの状況でPoHが白旗を上げるとは思っていない。言ってみただけだ。

 予定に変更はない。隙を見て、用意しておいた奥の手(・・・)を使うのだ。まあこいつ相手にその隙を作るというのが骨が折れるんだが……。

 

「さて……かなりノッて来たからな。ハチ、面白いモン見せてやるよ」

 

 腰を落とし、左手を前に突き出した体勢で担ぐように短剣を構えるPoH。それを目にし、俺は妙な違和感を覚えた。不吉な予感が頭を過る。

 曲がりなりにも攻略組で最前線を張っている俺は、既存のソードスキルは大体記憶している。その対処法も頭に叩き込んであった。短剣のような使用者も多い武器ならば情報も出尽くしているために、知らないソードスキルはないと言う自負があった。

 だが、あんな構えは見たことがない。

 ソードスキルではないのか? だが、通常の動きだけでこの間合いから俺に仕掛けるには、あの構えはあまりに稚拙――

 そこまで考えたところで、俺はその光景に目をみはる。

 PoHの構える、友切包丁(メイトチョッパー)。その刀身に禍々しい黒い光(・・・)が宿った。

 

「小手調べだ。まだ死ぬなよ?」

 

 言って、PoHが大きく一歩踏み出す。同時に、黒い剣閃が振り下ろされた。

 踏み込みが浅い。そして、それほど突進力のある攻撃でもない。この距離では完全に俺を捉えることは出来ないはずだ。

 ギリギリまで踏み込んで空振りを誘い、スキル後の隙を衝けば勝てる。そこまで瞬時に見て取った俺だったが、同時に嫌な感覚を覚えていた。故に深入りはせず、この一撃は見に徹する判断を下して後ろに下がる。だがその瞬間、ありえないことが起こった。

 

 ――リーチが伸びたッ!?

 

 慌てて槍を起こし、その柄でなんとか剣撃を受け流す。しかしバランスを崩して大きく後方へと飛ばされた。

 咄嗟に体勢を立て直し、槍を構える。しかしPoHはすぐに追撃をするつもりはなさそうで、ただニヤニヤとこちらを伺っていた。俺の反応を楽しんでいるようだ。

 視線を自分の右手に移す。上手く受け流したと思ったが、小指が切断されていた。

 この程度ならば戦いには影響はない。だが、事態は最悪だ。

 

 黒いエフェクト。伸びるリーチ。高い切断判定。

 そんな特徴を持つソードスキルなど聞いたことがない。これは、つまり――

 

「ユニークスキル、か……」

 

 苦々しく、口を開く。その呟きは、夜の闇の中に溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユニークスキルとは、その名の通り固有スキルのことだ。

 公式にユニークスキルというものがある訳ではなく、厳密に言えばエクストラスキルに分類されるのだが、その取得条件が不明であり、現状ではアインクラッドで1人しか扱うことのできないスキルのことを便宜上ユニークスキルと呼んでいる。

 まあこんな定義付けをしたところで、現在ユニークスキルと呼ばれているのはヒースクリフが持つ《神聖剣》だけだ。第48層攻略中に俺はそのスキルの存在を知ったのだが、初めはユニークスキルなど眉唾ものだと思っていた。たまたま、まだ他のプレイヤーが取得していないだけのエクストラスキルだと考えていたのだ。レベルの高い攻略組が他のプレイヤーを差し置いて最初にエクストラスキルを取得するのは当然のことだ。だが、後になって俺はその認識を改めた。

 第50層のボス攻略。あの時の衝撃を未だに覚えている。

 クォーターポイントのフロアボスである双頭の巨人は強かった。その強力な攻撃に幾度となくタンク部隊が吹き飛ばされ、陣形を崩された攻略組は危機に陥った。しかしその度に、大盾を構えたヒースクリフがただ1人で戦線を支えたのだ。

 フロアボスと1対1で対峙出来るなど、尋常ではない。それがクォーターポイントともなればなおさらだ。しかもヒースクリフはその間、常に半分以上はHPに余裕があった。相当の苦戦が予想されていたクォーターポイントのボス攻略。しかし蓋を開けてみれば、ヒースクリフの活躍によって1人の死者を出すこともなくそれは達成されたのだった。

 圧倒的な防御力に、見たことのない剣技。ゲームバランスを崩壊させるほどのそのスキル。こんなものを多くのプレイヤーが所持してしまえば、ゲーム攻略の難易度は格段に下がってしまうだろう。

 故に固有(ユニーク)スキルなのだ。選ばれたものだけが手にすることが出来る、規格外のスキルだった。

 

 

 

 

正解(Exactly)!」

 

 俺の小さな呟きに、PoHが楽しそうに答える。その声は夜の森の中に響き渡った。

 

「《暗黒剣》ってスキルだ。情報屋のデータベースにも載ってない奴だぜ」

 

 相当気分がいいのだろう。PoHは聞いてもいないのにそんなことを説明してくれた。一気に劣勢に立たされた俺は内心かなり焦っていたが、それを相手に悟らせないようにしながら頭を働かせる。

 暗黒剣――名前からして、ヒースクリフの神聖剣の対になるようなスキルだろうか。神聖剣は俺の知る限り防御特化のスキルだったはずだ。つまり暗黒剣は攻撃特化の可能性が高い……かもしれない。

 まあ、決めつけるのは危険だ。そもそも奴の発言がブラフだという可能性もある。

 

「レベルはお前の方が上。だが、俺にはユニークスキルがある。状況は五分だ。楽しくなって来ただろ?」

「ふざけんな、何が五分だっつーの……。リーチが変わるとか反則だろ」

「まだそんな口を利ける余裕があるなら十分だ。さあ、第2ラウンドと行こうぜ」

 

 微妙にかみ合っていない会話を終え、PoHが再び短剣を構える。未知のユニークスキルに対して、どう対抗するか。そんなことを考える間もなく、PoHが黒い剣閃と共に突っ込んで来た。

 

 ――速いッ!!

 

 先ほどのソードスキルとも違う。横薙ぎの一撃。

 俺も咄嗟にソードスキルで応戦し、攻撃を弾いた。そして、一瞬の間隙。次いでPoHは俺よりコンマ1秒早くスキル後の硬直から抜け出し、こちらへと距離を詰めてくる。頭を狙った一撃を何とか柄で受け、俺は筋力値にものを言わせて強引にPoHを弾き飛ばした。

 ただでさえ間合いが分かり辛くてやりにくいのに、更に暗黒剣は通常のスキルよりもディレイタイムが短いようだ。ソードスキルを打ち合っていればジリ貧になりかねない。

 6合ほど、そのまま切り結んだ。剣戟の音と、PoHの高笑いが夜の森に響く。こちらの隙を見て、再びPoHがソードスキルを構えた。俺はそこで打ち合いではなく、回避を選択する。

 身を伏せて1撃目をやり過ごし、2撃目を槍で何とか受け流す。しかし上から振り下ろされた3撃目が俺の額を浅く斬った。若干バランスを崩したが、なんとか踏み止まる。俺はそこから反撃を試みようとしたが、既にPoHは槍の届かない位置へと下がっていた。そのままお互いに距離を取って対峙する。

 乱れた息を整えながら、俺は歯噛みした。ここまで、常に戦いの主導権を握られているのだ。こちらから仕掛ける余裕が全くない。そしてそんな状況に追い打ちを掛けるように、俺は1つの事実に気付いてしまった。

 奴の頭上に浮かぶHPバー。先ほどまで4分の1ほど削られていたそれが、いつの間にか全回復している。回復アイテムを使う余裕などなかったはずだ。これは、まさか――

 

「気付いたか?」

 

 俺の目線を察知したのだろう。にやけた表情でPoHが呟いた。

 

「ドレインか……?」

「Yes.暗黒剣は敵の命を吸いとるんだ」

 

 俺の言葉を、PoHが肯定する。

 攻撃した相手のHPを吸収する能力――反則すぎる。これでは持久戦など望めるはずもない。ユニークスキルというのはこんなにも理不尽なものなのか。

 俺の心に、じわじわと絶望が広がって行った。どんな戦い方を想定しても、こいつに勝てるビジョンが持てない。既に俺のHPも半分を割っている。おそらく暗黒剣のソードスキルが1度でも急所に直撃すればゲームオーバーだろう。

 押して駄目なら諦めろ。そんな俺の座右の銘が頭を過った。

 退くべきなのかもしれない。PoHを逃がしてしまうのは痛手だが、それは俺がここで殺されても同じことだ。

 

 ――だが、まだ手はある。

 

 出来れば相手の隙を衝いて、余裕を持って実行したかった。しかしもうそんな保守的なことを言っていられる状況ではない。玉砕覚悟で臨むべき状況だ。

 

「……PoH、お前の言う通りだったぞ」

「あ?」

「初めて会った時、お前を殺さなかったことを死ぬほど後悔した」

 

 ――俺を殺さなかったこと、必ず後悔させてやる。

 

 かつてPoHが俺に投げかけた言葉は、事実となった。あの時、あの瞬間、奴の心臓をこの槍で貫かなかったことを、幾度となく後悔した。そして今ここで奴に背を向ければ、きっと俺はまた後悔するのだろう。

 突然の俺の告白に、PoHは訝し気な顔をこちらに向ける。だが、俺は構わず語り続けた。

 

「あれから、人も殺した。そんで今、お前とこうして殺し合ってる……。きっと、全部お前が思った通りの展開なんだろうな。でもな――最後までお前の思惑に乗ってやるつもりはないぞ」

 

 自分を鼓舞するようにそう言って、俺はPoHを見据える。

 いつから俺はこんな熱いキャラになってしまったのか。多分、誰かさんたちの影響だろう。自嘲気味にそんなことを考えつつも、もう逃げる気はなくなっていた。

 槍を低く構えた俺と、PoHの視線が交差する。PoHは、嬉しそうに笑っていた。

 

「全部、終わりにしてやる」

「上等だ! 来い! ハチッ!!」

 

 同時に、弾けたように駆け出す。先に仕掛けたのは、向こうだった。

 駆けながらソードスキルを構えるPoH。黒いエフェクトが短剣に宿るのを見つめながらも、俺は構わずその間合いに飛び込んだ。

 走る黒い剣閃。それがこちらへと達する前に、俺は持っていた槍を投げ出した。次いで懐へと手を滑らせ、そのコマンドを口にする。

 

回廊よ開け(コリドー・オープン)ッ!!」

 

 俺が取り出したのは、赤い光をその中に宿した回廊結晶。それが光を放って砕け散るのと、PoHの短剣が振り下ろされるのは同時だった。

 辛うじて、身を捻る。しかし訪れる斬撃と共に、俺の左腕が宙に舞った。その瞬間、HPバーが一気に残り数ミリまで減少する。だが俺はそれに構わずさらに足を踏み出した。

 バランスを崩し、倒れそうになる体。しかし食いしばって駆ける。無意識に雄叫びを上げ、俺はPoHへと肉薄した。

 視界にあるのは、驚愕するPoHの顔と――その後方に立つ、光り輝くゲートだけ。

 残った右手で、俺はPoHへと飛びついた。

 

 ――ざまあみろ。

 

 自然と笑みが浮かぶ。

 そうして俺たちは、もつれ込むようにして光の中へと飛び込んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 端から、1人で勝てるなどとは思っていなかった。

 相手はあの犯罪者(オレンジ)たちのカリスマ、PoHなのだ。そもそもステータスで勝る俺とわざわざ一対一での対決を望むあたり、何か秘策があるだろうことは予測できる。だから俺も、いざという時のために用意をしておいたのだった。

 俺が懐に忍ばせていたのは、キリトに用意して貰った回廊結晶。既に位置登録も済ませて貰ってある。

 あとは奴を巻き添えにして、攻略組のプレイヤーが待ち伏せるフィールドへと転移すればいい。お膳立ては全てキリトに頼んである。言ってみればこれは、《ポータルPK》の要領だ。

 正々堂々と悪を倒すヒーローなどではない。浅ましく結果だけを得ようとする、小者(おれ)らしい手段だった。

 

 

 

「Shit!!」

 

 瞬時に状況を理解したPoHが悪態をつく。嵌められた苛立ちと、勝負に水を差された怒りが合わさっているのだろう。先ほどまでの愉快な表情は消え、鬼の形相を浮かべていた。

 PoHと共にゲートを潜り抜けた、その先。鬱蒼と茂る森の風景に代わりはなかったが、そこでは十数人のプレイヤーがこちらを待ち構えていた。攻略組、その中でも更に精鋭と言っても差支えのないプレイヤーたちだ。当然、キリトやアスナの顔もある。

 状況を横目で確認し、安堵したのもつかの間、俺は腹に蹴りを食らって突き飛ばされた。幸い、ダメージはほぼない。

 俺を突き飛ばしたPoHは、尻餅をついていた体勢からすぐに立ち上がる。そしてすかさず懐から青い転移結晶を取り出し、それを掲げた。

 

「転移! ノルン!」

 

 珍しく焦ったようなPoHの声が、森に響く。しかし、PoHの掲げた転移結晶は沈黙したままだった。

 

「無駄だ。ここは第35層の《迷いの森》。転移結晶使用禁止エリアだ」

 

 そう言ってプレイヤーの中から一歩踏み出したのは、ヒースクリフだ。既に盾と剣を構えて臨戦態勢になっている。

 そう、ここは第35層の迷いの森だ。奴を絶対に逃がさないために転移結晶使用禁止エリアであるここへと飛んだのだ。回廊結晶でもここからゲートを開いて出ていくことは出来ないが、逆に地点登録をしてこちらに来ることは出来る。監獄エリアへと直接ゲートを繋げることが出来れば手っ取り早かったのだが、あそこは全アイテムの使用が禁止されているために不可能だった。

 PoHは転移結晶を懐に仕舞いながら、舌打ちをする。次いで、睨み付けるように周囲に視線をやった。既に他のプレイヤーたちも武器を構え、遠巻きに包囲を完成させている。逃げ道はない。

 

「だ、大丈夫かハチ!? 待ってろ、すぐに回復結晶(ヒールクリスタル)を……」

 

 攻略組の集団から1人抜け出して来たキリトが、そう言って俺の側へと膝をつく。しかし、俺にはそれに構っている余裕はなかった。PoHの目の前に立つヒースクリフへと視線を向ける。

 暗黒剣による不意打ちを食らえば、万が一がある。友切包丁(メイトチョッパー)という魔剣クラスの武器とも相まって、その攻撃力も相当なものだ。

 故にそれについて忠告しようとしたが、俺と目が合ったヒースクリフは先んじて口を開いた。

 

「ハチ君、よくやってくれた。後は私たちに任せ給え」

「ま、待てッ、そいつは――!」

 

 俺の言葉が届く前に、PoHが動く。右手の短剣に宿るのは、黒いエフェクトだった。

 最悪の想像が、頭を過る。しかしそれは俺の杞憂に終わった。

 黒い連撃を、ヒースクリフは難なく全て大盾で凌ぎきったのだ。真正面から受けたと言うのに、ノックバックを食らった素振りさえない。そして敵のソードスキルが終わったタイミングで、右手の剣を相手へと突きつけた。

 初見のソードスキルを、ここまで完璧に捌き切れるのか。その事実に驚愕したのは俺だけではないようで、PoHも訝し気にヒースクリフの顔を睨み付けていた。

 

「てめぇ……まさか――」

「見たことのない技だな。エクストラスキル……いや、ユニークスキルかね?」

 

 PoHが何か言いかけたが、ヒースクリフの言葉に遮られ、黙り込む。新しいユニークスキルの存在に驚くこともなく、ヒースクリフは淡々と言葉を続けた。

 

「しかし、それだけではこの包囲は抜けまい。まだ抵抗すると言うのなら引導を渡してやるが、どうするかね? 言っておくが、私は彼のように優しくはないよ」

 

 言って、ちらりとこちらに視線を寄越す。

 数秒の沈黙。この場全員の視線が、PoHの一挙一動へと向けられていた。風と共に木々の騒めきが駆け抜けていき、やがて痛いほどの静寂が訪れる。

 

 PoHの命を助けてやる義理などない。いや、むしろ殺されて然るべき人間だろう。それだけのことを奴はこの世界で犯したのだ。

 だが俺は奴が降伏するならば、命までは取らないと決めていた。そしてそれは、攻略組の総意でもある。

 俺たちは、人を殺した。だが、感情に任せて命を奪った訳ではない。

 俺たちが人として、自分自身を許せるか否か。酷く曖昧でいて、しかし確かに存在するそのライン。無抵抗な相手を殺してしまえば、きっとそれを踏み越えてしまう。

 

 再び、風が吹いた。PoHの黒いフードの裾が揺れる。

 やがて沈黙を破ったのは、奴のふてぶてしいため息だった。

 

「――やられたな……。自殺の趣味はねえ」

 

 そう言いながら、PoHは右手の短剣を放り投げた。そのまま両手を上げる。

 場の緊張感が、一気に和らいだ。そしてすぐにヒースクリフの指示が飛び、血盟騎士団のプレイヤーの手によってPoHは拘束される。俺はその光景を、呆然と眺めていた。

 

「終わった……」

 

 やがて俺は項垂れ、小さく呟いた。

 ゲーム攻略には関係のない、しかし大きな戦いだった。それが、全て終わったのだ。

 張りつめていた心が、一気に弛緩する。

 

「お、おいハチッ――」

 

 どこか遠くに、キリトの声が聞こえる。何を焦っているんだと俺も口を開こうとしたが、言葉にはならなかった。

 視界が、白く霞んでいく。

 眠い。思った次の瞬間には、俺は意識を手放していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暖かい陽の光に包まれて、目を覚ました。

 見慣れた天井。柔らかいベッド。部屋の隅に置かれた名前のわからない観葉植物。

 すぐに第1層にあるギルドホームの自室だと思い至った。窓から差す陽の光に目を細めながら、俺はベッドから体を起こす。

 どうにも体が怠い。昨日は何をしていたんだったか――いまいち働かない頭でそんなことを考えたが、その答えに至るよりも先に、俺は目の前の光景に絶句した。

 備え付けられた机に突っ伏すようにして眠る、キリトとクライン。その隣には、壁にもたれかかりながらトウジが膝を抱えて眠っていた。

 そして極めつけは、ベッドの傍らで健やかな寝息を立てる少女たち。床にへたり込みながら無防備にベッドへと体を委ねるのは、アスナ、サチ、シリカの3人だ。シリカの使い魔であるピナも、俺の足元で体を丸くしながら就寝中だった。

 

「いつから俺の部屋は難民キャンプになったんだ……」

 

 自然とそんな言葉が口をついて出てしまう。

 6畳程度の小さな個室だ。そんな部屋に集まる7人と1匹。明らかに容量オーバーだ。

 ていうかそもそも年頃の娘がこんな男どもと雑魚寝とか……危機感足りないだろ。そう思いながら俺の右手側すぐに突っ伏すアスナに視線をやる。いつも通りの鎧姿だったが、乱れた髪が妙に艶めかしかった。そして何故か目元に赤く泣き腫らした跡がある。

 ごくり、と喉を鳴らす。

 う……うろたえるんじゃあないッ! ドイツ軍人はうろたえないッ! いや、俺ドイツ軍人じゃないけどッ!

 脳内でそんな1人芝居をしながら、なんとか平静を保つ。

 ……ていうか冷静に考えたらこの状況アレじゃないか? 親父の言ってた美人局(つつもたせ)って奴じゃないのか? この後恐いお兄さんが現れて俺の女を傷物にしやがって云々と言って慰謝料をふんだくられるパターン――

 と考えていたところに、部屋のドアが開く。ベッドの上で飛び跳ねそうになったが、俺の前に現れたのは恐いお兄さんではなかった。

 

「お。起きたみたいダナ」

「な、なんだ、アルゴか……」

「なんダとはなんダ。人が心配して様子を見に来てやったのに、失礼な奴ダナ」

「あ、悪い……」

 

 そう謝りつつも、俺は現れたアルゴの顔を見ながら安堵のため息を吐いた。幸いアルゴはそれほど気にした様子もなさそうで、部屋の様子を見回しながらベッドの前まで歩いてくる。

 

「ウーン、しかし凄い状態になってるナ……。ゆうべはおたのしみでしたネ?」

「いや、違うから……。つーかそのネタ、平成生まれには多分あんまり伝わんないぞ」

 

 視線を女性陣の寝顔に向けながら、某ゲームの有名な台詞をアルゴが口にする。いや、この状況だと洒落にならないからやめてくれ。

 そんなどうでもいい話をしてるうちに、俺もようやく目が覚めてきた。

 

「昨夜のこと、覚えてるカ?」

「……何となく。PoHと戦って……そうだ、あいつと一緒に回廊結晶のゲートに突っ込んだところまでは覚えてる」

「オイラは直接見たわけじゃないケド、その後はPoHがヒースクリフに負けて、そのまま攻略組に捕まったらしいヨ。ハチはそれを見て気を失ったそうダ」

「あー……」

 

 そう呟きながら、俺は頭に手を当てる。そうだ。何となく思い出してきた。ヒースクリフがその圧倒的な力で、PoHを下した光景。そして降伏するPoHを見届けた後、急に意識が途切れたのだ。

 ゲームの中で気を失うことなんてあるんだな……。かなり前にアスナにそんなこともあったが、あれは連日寝ずに狩りをしていたらしいから寝落ちに近いはずだ。今回の俺はそれほど疲労が蓄積していたわけではなかった。

 

「まあ、それだけ気を張っていたってことだろうネ。暗黒剣なんてもの相手にしてたら無理もないサ。しかし良く生きてたナ、ハチ」

「全くだ……。ん? あいつのユニークスキルのこと、知ってるのか?」

「うん。ユーちゃんが張り切って取り調べをしてるからナ」

 

 「ユーちゃん」というのは、確か雪ノ下のことだったはずだ。初めて聞いた時は由比ヶ浜以外にあいつにあだ名を付けるような怖いもの知らずがいたことに少し驚いたが、まあアルゴなら何となく納得だ。おそらくなし崩し的にではあろうが、雪ノ下がそんな呼び方を許しているところを見るに2人の関係は案外悪くないのかも知れない。

 まあそんなことはともかく、雪ノ下が取り調べをしているということは、既にPoHは軍の監視下にあるということか。そう予想はしつつも、確認のために俺はアルゴに問いかける。

 

「……PoHは今、どうしてるんだ?」

「夜のウチに黒鉄宮の監獄エリアに投獄されたヨ。きっともう出てくることもないだろうナ。それで、ユーちゃんから伝言ダ。『後のことは全部ALFに任せて、あなたはゆっくり休みなさい』だってサ」

「そうか……」

 

 呟いて、俺は項垂れた。脱力するように息を吐く。

 

「本当に、全部終わったんだな……」

「ああ。だから、今はゆっくり休みなヨ」

 

 存外に優しい言葉をかけられ、俺はアルゴの方に目をやる。しかしアルゴはこちらから目を逸らすと、ゆっくりと踵を返しながら再び口を開いた。

 

「それじゃあオイラはもう行くヨ。皆も昨日は遅かったみたいだから、しばらく寝かせといてあげナ」

「あ、ああ……。今回は、色々世話になったな」

「なに、オイラとハチの仲ダロ? 安くしておくヨ」

 

 ニヤリと笑いながら、アルゴはそう言って部屋から出て行った。ぶれない奴だ。

 1つ大きく息を吐いて、部屋を見渡した。

 キリト、クライン、トウジ、アスナ、サチ、シリカ。

 今の俺を取り巻く、日常。

 この世界からの脱出が近づいたわけではない。だが、今俺の胸にあるのは確かな満足感だった。

 ここに帰ってくることが出来て、よかった。

 素直にそう思い、俺は再びまどろみの中へと落ちていくのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第27話 潮騒洞窟

 洞窟の中には、滴る水の音が響いていた。

 1つ、2つ、規則的な間隔で音が反響する。巨大な空洞の大部分には静謐な水面が広がり、弾ける水の波紋だけがゆっくりと胎動していた。岩壁に設置された淡く青白い光を放つ松明と相まって、神秘的な雰囲気を漂わせる空間だった。

 これが現実世界ならパワースポットなどと銘打って、いかにも偏差値の低そうな雑誌に特集されるのだろう。俺も静かな場所は嫌いじゃないが、わざわざ労力を払ってまで行きたいとは思わない。そもそも俺、比企谷八幡にとっての1番のパワースポットは自室のベッドの上だ。PFPとスマホがあればなお良し。パワーが溜まり過ぎてそのままベッドから出られなくなるまである。

 

 ぼんやりとそんな思考を巡らせる俺を現実に引き戻すように、甲高い剣戟の音が響く。目の前では黒いコートを靡かせたキリトが1体のモブと交戦していた。

 相手取るのは頭に橙色のバンダナを撒き、錆びたタルワールを振り回す骸骨――スケルトンクルー。いつでも加勢出来るように、キリトのやや後ろではトレードマークの紅白の軽鎧を身に纏ったアスナが油断ない表情でレイピアを構えていた。

 これ、俺の出番なんかあるの? と言いたくなるような布陣だ。そもそも俺たちのレベルならソロでも問題ない敵だし、この2人なら万が一もないだろう。まあ完全にサボっていると後でアスナに小言を貰うことになるので、一応槍は構えておく。

 などと考えているうちに、キリトの剣が敵の首を断ち切った。その一撃が綺麗に敵のHPを削り切り、一瞬の硬直の後、スケルトンクルーはその粗末な装備と共に光を放って砕け散っていったのだった。

 洞窟内に再び静寂が訪れる。キリトは辺りを見回し、増援が居ないことを確認してから背中の鞘へと剣を納めた。それに続いてアスナも警戒を解く。一息ついてからお互いの労をねぎらい、俺たちは肩を並べて歩き出した。

 

「情報の少ないダンジョンだからちょっと警戒してたけど、さすがに大丈夫そうね。モンスターのレベル的にはソロでも余裕かな」

「まあ、まだダンジョンも浅いしな。先は長そうだしサクサク行こうぜ」

「だなー」

 

 アスナとキリトの会話に俺は適当に頷いた。気の抜けた返事にキリトは苦笑いしていたが、幸い特に何を言われることもなく俺たちはダンジョンの奥を目指して歩を進めていく。周囲には人の気配はなく、洞窟の中には俺たちの足音が大きく響き渡っていた。

 

 笑う棺桶(ラフィン・コフィン)討伐戦から、3日が経っていた。

 呆気ないほどに、俺たちは日常を取り戻している。まあアインクラッド内での狭義の意味での日常ではあるのだが。

 人間というのは案外図太いものだなと、この3日間しみじみと思った。

 ジョーとの戦いや討伐戦でのことは、罪悪感がないと言えば嘘になる。だが、それに押しつぶされるようなことはない。キリトとアスナを含む、多くの攻略組のプレイヤーたちも多分同じだろう。

 グダグダと悩んで罪の意識に苛まれるのは、きっとそいつに余裕があって、暇だからだ。俺たちにはまだまだやらなければいけないことがある。自分の行いについて悩んでいる余裕などなかった。発展途上国よりも先進国の方が自殺率が高いという話を聞いたことがあるが、多分同じような理由なんじゃないかと思う。

 

 何だか話が脱線したが、要は俺たちは笑う棺桶(ラフィン・コフィン)が現れる前の普段の生活を取り戻したということだ。一応攻略はしばらく休止されることになっているが、血気盛んなプレイヤーたちは既に迷宮へと潜っているらしい。かく言う俺たちも、最前線ではないが所用でこのダンジョンを訪れていた。

 

 周りに視線を走らせながら、3人で肩を並べて洞窟内を歩く。少し薄暗いが、辺り一帯を見渡せる広い空間だ。あまり警戒する必要もないと思ったのか、隣を歩くアスナが表情を緩めながら口を開いた。

 

「この3人でパーティ組むのも、結構久しぶりよね」

「そうだな。しばらく立て込んでたし……。まあ俺とハチは基本一緒だったけど」

「ふぅん……。良いわよね、2人は。いつも一緒で楽しそう」

「……血盟騎士団は居心地が悪いのか?」

 

 妬ましそうにじっとりとした目線をこちらに向けるアスナに、俺はそう問いかけた。公にはなっていないものの、アスナの血盟騎士団入団には俺も色々と関わっているので他人事ではない。しかし俺の心配を他所に、アスナは首を横に振った。

 

「ううん、別にそう言う訳じゃないよ。副団長として必要とされるのは嬉しいし。けどやっぱり2人みたいに『友達』って感じじゃないのよね」

「色々大変そうだな……。まあいつでも遊びに来いよ。クラインも喜ぶし」

「うん。ありがと」

 

 キリトの言葉に、アスナは嬉しそうに頷いた。女子にさりげなく優しい言葉をかけてやれるなんて、さすがキリトさんだ。俺に影響されてぼっち道に片足を突っ込みつつあるが、やっぱり生来的にこいつはリア充側の人間なんだろう。

 しかしアスナの口にした「友達」というのは俺とキリトの関係を指しているのか、それともアスナと俺たちの関係を指しているのか……。その辺りは少し気になったが、わざわざ聞くのもなんかアレなので俺はだんまりを決め込んだ。

 

「さて。じゃあ今日は気晴らしも兼ねて、3人でダンジョン攻略だな」

 

 そこで気分を変えるように、キリトが明るく口を開いた。次いでこちらへと視線を向けて、言葉を続ける。

 

「一応一番の目的はハチのインゴットだけど……」

「まあ、見つかんなかったら見つかんなかったでいい。とりあえずコルが稼げればなんとかなるしな」

「確かここって、大昔の海賊の財宝が眠ってるんでしょ? ちょっと楽しみね」

「トレジャーハントって奴だな。じゃあ、張り切って行こうぜ!」

 

 キリトは無邪気にそう言って、歩調を速めた。明るく返事を返したアスナと、適当に頷いた俺もそれに続く。そうして俺たちはダンジョンの奥へと進んで行くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は、数時間前に遡る。

 

 第一層。風林火山のギルドホーム。その一階のダイニングで、俺は朝飯を食べていた。

 2列に木製のテーブルが並んだ30畳ほどの部屋には俺以外にも20人以上のプレイヤーが席についており、各々食事を取っていた。その中にはキリト、クライン、トウジ、シリカの姿もある。風林火山には食事担当のギルドメンバーがいるので、望めば朝と夜の決まった時間には給食が食べられるのだ。

 まあ俺はこの人の多さにどうにも居心地の悪さを感じてしまうので、いつもは朝の鍛錬を終えた帰りにキリトと2人、外で朝食を済ませている。だが笑う棺桶(ラフィン・コフィン)討伐戦以降の3日間は疲れて外に出る気力も沸かなかったので、ここの給食を利用していた。初めは食事だけ受け取って部屋に籠ろうと思っていたのだが、クラインにしつこく引き止められてなし崩し的にここで食べることになったのだった。

 まあ実際多くの風林火山のメンバーとはそれなりに長い付き合いなので、おおよそ俺との距離の取り方は分かってくれている。向かいの席に座って茶碗から米をかっ込んでいるクラインを除き、面倒な絡みをしてくる人間は居なかった。

 これからはここで朝食を取るのも悪くないかもしれないなー、とそんなことを考えながら俺はB定食の焼き魚を箸でつつく。見たことのない小振りな魚だが、味は鯖に近く中々美味い。セットの味噌汁も出汁が利いていて俺好みの味だ。しばらくゆっくりとそれらを咀嚼し、その味に浸る。

 

 今までの疲れが一気に押し寄せたのか、この3日間はほとんど自室で寝て過ごしていた。肉体的疲労が存在しないこの仮想世界だが、それ故に精神的な疲労は如実に表れる。連日のゲーム攻略と笑う棺桶(ラフィン・コフィン)討伐戦により、俺たちの疲労はピークに達していたのだ。あのキリトでさえ俺と同じようにこの数日は惰眠を貪っていた。

 それでも未だ疲労は色濃く残っているが、しかしさすがにそろそろ活動を始めないと不味い。スポーツなどは1日休むと勘を取り戻すのに3日掛かるとよく言われるが、この仮想現実においても似たようなことが言えると俺は思っている。最近はオフの日もキリトと朝練をしていたのでしばらくそう言ったことはなかったが、以前2日ほどサボった時にはかなり動きが鈍くなったのをよく覚えている。

 この状態でいきなり最前線に戻るのも危険だし、まずは難易度の低いフィールドで軽く流すべきだろう。とりあえずキリトを誘って最前線から少し離れた階層にでも行くのが無難か。この数日は戦闘どころか槍にさえ触ってなかったし……。

 ……ん? 槍?

 

「あ」

「ん? どうした、ハチ?」

 

 呆けた声を上げた俺の顔を、隣で朝からA定食のハンバーグをモリモリ食べていたキリトが覗き込んだ。俺はひとまずそれを無視し、システムウィンドウを開いてアイテムストレージを漁る。しかしストレージの一番下までスクロールしても、探していた物は見つからなかった。

 やっちまった……。

 俺は頭を抱えながら再び呟くように声を上げる。

 

「槍、忘れてた……」

「槍?」

 

 問い返すキリトに視線をやり、俺はため息を吐きながら頷いた。

 3日前、PoHとの一騎打ちに赴いた時のことだ。俺は奴を攻略組の待ち伏せるフィールドへと引きずり込むため、回廊結晶によって呼び出したゲートに一緒に飛び込んだ。そしてその際、奴の虚をついて懐へと飛び込むために俺は装備していた槍を放り投げたのだ。結果その企みは成功したのだが、PoHを捕縛し極度の緊張から解放された俺はそのまま気を失い、その後槍を回収するのを完全に忘れてしまったのだった。

 そんなことを掻い摘んで説明すると、キリトは俺に同情したような表情を浮かべて口を開く。

 

「あー……あれから丸二日以上たってるし、さすがに消えてるだろうな」

「だよなぁ……。しくった……」

 

 フィールドに放置されたアイテムは徐々に耐久値が減っていくので、時間が経てばいずれ消滅する。武器は消費アイテムなどに比べて耐久値は高い方だが、さすがにそう何日も持つものではない。ただでさえPoHとの戦いでゴリゴリ耐久値が削られていたので、とっくにポリゴンとなって砕け散っているだろう。

 手塩に掛けて強化した武器をロストする。この手のゲームをやったことのある人間ならよく分かるだろうが、その喪失感は尋常ではない。仏教の四苦に並ぶレベル。

 そうして俺が頭を抱えていると、こちらの話を聞いていたのだろう、向かいに座るクラインが箸を置いて声を掛けてきた。

 

「いい機会だし、新調すりゃあ良いんじゃねえのか? あれ、確か5層くらい前のドロップ品だろ?」

「まあな。けどミスなしでかなり強化出来た奴だったからもう少し先まで使う予定だったんだよ」

「予備の武器とかはないんですか?」

「あるにはあるけど……さすがに最前線で使うにはなぁ」

 

 クラインの横で俺と同じB定食を食べていたシリカも口を挟んだが、俺はストレージを確認しながら首を横に振った。予備の槍――というか前に使っていた槍なのだが、さすがに10層以上前のドロップ品なので最前線でこれを使うのは遠慮したい。主に《頑丈さ》の数値の問題なのだが、これが適正値に満たないと耐久値の損耗が一気に激しくなるのだ。この槍を装備して最前線で戦えば、下手をすれば5、6戦した程度で武器破壊ということもありうる。

 

「じゃあ今日はオークションにでも行くか? エギルの所に行くっていう手もあるけど」

 

 話しながら飯を食べ終わったらしいキリトが、麦茶を飲みつつそう提案する。

 攻略組が使うような高性能な装備品は基本的にプレイヤー主催で行われているオークションに流れている。そしてエギルの店に並んでいるのは大体中層のプレイヤーが使うような型落ち品――こう言うとエギルは怒るのだが――だった。稀に掘り出し物もあったりするが、望み薄だろう。まあ見るだけならタダだし新しい装備を買うならエギルの店から回る方が楽だろうが、どちらにしろ先立つものが必要になる。

 俺はシステムウインドウに視線を走らせ、その端っこに表示された心許ない数字を見つめる。それを確認しながら、再び力なく首を横に振った。

 

「……いや、最近出費が多かったからあんまり持ち合わせがな」

「何なら少しギルドの予算から出せますよ。ハチさんの武器に使うなら誰も文句は言いませんし」

「いや、いい。俺は養われるつもりはあるが、施しを受ける気はない」

 

 クラインの隣で話を聞いていたのだろう、ギルドの財布を握るトウジからの甘い提案も断固として拒否し、俺はシステムウインドウを閉じる。「その2つって、どう違うんだ……?」というキリトの発言を聞き流しつつ、俺が再び飯を食べ始めると、クラインが何か思い出したように声を上げた。 

 

「あ、そう言えばトウジ。何かこの前レアなインゴットが取れるダンジョンの話聞かなかったっけか?」

「ああ。そう言えばありましたね。確か資料が……」

 

 そう言いながら、トウジがストレージを漁る。すぐに目当ての物は見つかったようで、タップすると何枚かの資料が手元に現れた。角が止められた書類を捲り、目を走らせながらそれを読み上げる。

 

「第49層、《潮騒洞窟》。数百年前、大海賊が財宝を隠していたとされる洞窟で、今もその最奥には様々な高価なアイテムが隠されている――という設定のダンジョンです。出てくるモンスター自体はあまり強くないみたいですけど、色々と厄介なトラップがあって難易度はそれなりみたいですね。噂では相当レアリティの高いインゴットが手に入るとか。まあ、裏は取れてないんで、眉唾な情報ですけど」

 

 そう言ってこちらに視線をやるトウジ。少し考えながら俺はキリトと顔を見合わせる。

 

「インゴットか……。材料持ち込みならかなり安くなるだろうし、いいんじゃないか? 最近はプレイヤーメイドの武器も相当強くなってきてるし」

「49層なら予備の槍でもギリギリ何とかなるか。キリト、お前罠解除のスキル持ってたよな?」

「一応な。ちょっと熟練度が心許ないけど……」

 

 そうして早くもダンジョン攻略について打ち合わせを始める俺たち。もう確認するまでもなく2人で行くことが決定していたが、それについては誰も口を挟まない。エリートぼっちを自称していた俺にはあるまじきことだが、このSAOが始まってからはキリトと別行動を取っている時間の方が圧倒的に少ない。難易度は低くとも初見のダンジョンなどは危険度が高くなるので、単独で攻略に挑むことはほとんどなかった。

 

 そんな感じでトントン拍子に話は進み、俺とキリトはその日のうちに第49層の潮騒洞窟の攻略へと乗り出すことになった。いい笑顔のトウジに「あ、ついでにダンジョンの情報収集もお願いしますね」との指示も賜り、若干げんなりとした気分になりつつも上司命令には逆らえないので頷いておいた。

 

「そういやぁ、血盟騎士団もまだしばらく攻略は休みらしいぜ。せっかくだからアスナも誘ってみたらどうだ?」

 

 適当な打ち合わせを終え、食事も済んだので食器を片付けるために席を立とうとした俺に、クラインがそんな言葉を投げかける。

 

「……いや、なんでわざわざアスナを誘うんだよ」

「ここ何日かブランクもあるし、お前ら2人だけだと無茶しそうで心配なんだよ。ホントは俺らがついて行きたいんだけどな……レベル差考えると足手まといになりそうだしよ」

 

 問い返す俺の言葉に、クラインはばつが悪そうに頭を掻きながらそう続ける。足手まといとまでは言わないが、確かにクラインたちと俺たちでは足並みを揃えるのは少し難しいだろう。

 しかしクラインのことだから先ほどの提案は下世話なお節介なのかと勘繰ってしまったが、意外と真剣に俺たちのことを考えてくれているようだ。心の中でクラインに謝っておこう。

 

「それにこういうの誘ってやらねぇと、後で拗ねるぞアスナ」

「そうだな。とりあえず誘うだけ誘ってみるか」

 

 あれこれと考えているうちに、クラインとキリトが勝手に話を進める。まあ断固拒否するような理由もなかったので、俺も適当に頷いておいた。

 その後キリトがアスナへとメッセージを送ると、そう間を置かずに色よい返事が返ってきた。そのまま待ち合わせの場所と時間を適当に決め、準備を済ませた俺たちは第49層へと向かったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――しかしダンジョンに居る方が落ち着くなんて、もはや病気だよな」

 

 第49層。潮騒洞窟。

 入り口付近の巨大な空洞になっていた地点よりも少し奥へと進み、今は幅5メートルほどになった通路を歩きながら俺は呟いた。先頭にはキリト、間にアスナを挟み、殿に俺という陣形だ。

 キリトは前方を警戒しつつも、俺の言葉にゆっくりと頷く。

 

「確かに……。仕事中毒(ワーカホリック)って奴かな」

「ハチ君はともかく、キリト君はその気質在りそうよね」

「おい、ともかくってなんだよ。めっちゃギルドの社畜してるだろ俺」

「ハチ君はいつも嫌々じゃない……」

「馬鹿お前、嫌よ嫌よも好きのうちって言うだろ。とりあえず文句言いながらやるのが俺のスタンスなんだよ」

「つくづく面倒な性格してるわよね、あなた」

 

 なんだか散々な言われような気もするが、正直自覚はあるので言い返せない。

 そうして雑談を交えながら、俺たちは徐々にダンジョンの奥へと進んでゆく。緊張感が足りないと言われそうだが、実際これくらいが丁度いいのだ。集中力とはそう何時間も続くものではなく、長時間のダンジョン探索などでは適度に気を緩めながら進んでいく必要がある。

 しかしだからと言って無警戒で歩いているわけでもない。長く攻略組として活動してきたおかげか、何となく危険なポイントには鼻が効くのだ。

 

「ん……15メートル先、左、何か居るぞ。構えとけ」

 

 途中、俺は徐ろにそう口を開く。索敵スキルが敵を感知したわけではなかったが、前の2人は疑うこともなく頷き、武器を構えた。

 じりじりと歩を進めて行くと、洞窟内の窪みとなった部分にバラバラになった人骨が散らばっているのが目に入った。こういったものはダンジョン内ではよく見るオブジェクトで、言ってしまえば雰囲気作りのための飾りのようなものだ。

 故に普通ならば警戒するまでもないのだが、今回は何となく違和感があった。そしてその予想通り、俺たちがさらに近づくと人骨が音もなく組みあがり、スケルトンクルーへと変貌する――が、完全に組み上がるその前に、キリトが片手剣の一閃でそれを破壊した。そして駄目押しとばかりにアスナがソードスキルによる刺突を浴びせ掛ける。2人の攻撃によってスケルトンクルーは息絶えたらしく、そのままガラス片となって砕け散っていった。

 ……うん、まあ、プリキュアじゃないしね。変身するまで待ってあげる義理はないんだけど……それでも何となくモブを不憫に感じてしまった。

 しかしそんなやり切れない思いを抱えていたのは俺だけのようで、キリトとアスナは軽く一息ついて武器を収める。

 

「……前から思ってたんだけど、先頭に居るキリト君の索敵よりも先にモンスターに気付くってどういうことなの? ちょっと反則じゃない?」

 

 そう言って振り返るアスナと視線が合った。別に俺のことを責めているわけではないのだろうが、心底不思議だと言うように軽く眉をひそめている。

 

「いや、反則とか言われても……。ただの勘だし。まあぼっちっていうのは視線に敏感なもんなんだよ」

「そんな理由で片付けていいのかしら……」

「多分データ量の差なんかを肌で感じてるってことなんだろうけど……。まあ理由がわかったところで真似出来るようなものじゃないし、細かいことはいいんじゃないか?」

「そうね……」

 

 アスナはそうしてまだ考えるようにしていたが、やがてキリトの言葉に納得したようで小さく頷いていた。

 周囲には他に敵も居なかったので、俺たちは再びキリトを先頭に歩き始める。しかし数歩歩いた瞬間、先頭のキリト目がけて横の壁から何かが発射された。気が緩んだタイミングの不意打ちにキリトは妙な奇声を上げつつも、なんとかそれを回避する。

 

「あぶなっ! ト、トラップか……」

 

 そう言って、壁に突き立てられた小さな矢に視線をやるキリト。矢はすぐにガラス片となって消えていった。俺が向かいの壁を確認すると、先ほどの矢が発射されたであろう小さな穴が開いていた。一応追加の罠がないかしばらくの間立ち止まって警戒したが、特に危険はなさそうなのを確認してため息を吐く。

 

「おい、キリト。今の罠、気付けなかったのか?」

「あー、うん。やっぱり熟練度低いからなぁ」

 

 キリトは罰が悪そうに頭を掻きながら答えた。キリトの持つ《罠解除》のスキルには罠の察知能力も含まれるのだ。その精度はスキルの熟練度に依存するので、レベルの高いダンジョンの罠を察知するためには相応の熟練度が必要になる。本人が言うようにスキルの熟練度が低いため、キリトではこのダンジョンの罠を安定して察知するのは難しいようだ。それについては事前に話していたので、今さらキリトを責めるようなことはしない。

 

「ねえハチ君。スキルなしでモンスターの気配に気付けるんだから、トラップも分かんないの?」

「いや、無茶言うなよ……。そもそもモブも絶対分かるってわけじゃねえぞ」

「行動アルゴリズムが組まれてるモブと違って、トラップはデータ量も軽そうだしな。さすがにハチにも難しいんじゃないか」

 

 アスナの無茶振りに俺が苦い顔で答えると、更にキリトが尤もらしい理由を補足してくれた。アスナも本気で期待していたわけではないようで、すぐに頷いて納得する。

 

「けど、これ結構危ないよな。罠関係は全部キリト頼みだし……。最悪、一旦引き返した方が良くないか?」

 

 立ち止まって先ほど矢が出てきた小さな穴を眺めながら、俺はそう口にした。二度手間になるが、やはり安全が第一だ。気は進まないが、ここを攻略するならアルゴを誘って再挑戦した方がいいかもしれない。あいつはこういったダンジョン探索に必要なスキルは一通りカンスト――カウンターストップの略。上限値に達していると言う意味――しているのだ。

 

「んー……、でもトラップの分差し引いても俺たちのレベルならゴリ押し出来るだろ。それに一応大掛かりなトラップになるほど察知しやすくなるし、全部に引っかかるってわけじゃないぞ」

「……まあ、それもそうか」

 

 キリトの言葉に、俺は少し考えてから頷いた。確かにこのダンジョン程度ならゴリ押しが効くだろう。仮に大量のモブに囲まれたタイミングで罠を踏み、俺たち3人とも麻痺に掛かってリンチされたとしても、5分程度なら耐えられる。そして5分もあれば体は大分動くようになるし、状態異常回復結晶(キュアクリスタル)を使う余裕も出来るはずだ。さすがにここまで安全マージンが取れているダンジョンで慎重になり過ぎるのはナンセンスだな、と俺は思い直した。

 余程のアクシデントがない限りはこのまま攻略しようという結論に至り、俺たちは再びダンジョン攻略を開始する。

 

「しかし数はともかく、今のところは聞いてたほど厄介なトラップはないな。まだまだ先があるってことか」

「そこそこ歩いたけどまだ一本道だしな。隠し通路を見落としてるってんでもなければそろそろ何かでかい仕掛けがあっても良い気がするけど」

 

 キリトの言葉に俺はそう言って相槌を打つ。インディージョーンズばりの罠を想像してきたのだが、まだちゃちな落とし穴や先ほどのように壁から矢が飛んでくる程度のものにしか出会っていない。この程度のものなら普通のダンジョンにもたまにあるし、まだまだ先があるということだろう。

 

「隠し通路を見落としてるパターンだったら面倒だな……。まあとりあえず進めるところまで進むか。……ん?」

 

 言って、キリトが立ち止まった。通路は15メートルほど先で曲がり角になっていて見通せないが、微かに人の声のようなものが聞こえる。その場で耳をすませると、怒りで声を荒げる女の声がはっきりと聞こえた。

 

「この声、プレイヤーか。近いな」

「あまり穏やかじゃなさそうね」

 

 何だかトラブルの匂いがする。そしてキリトやアスナはこういったトラブルに顔を突っ込むのが大好きだ。若さ故か、こいつらは自分が正しいと思うことをするのに躊躇いがない。

 案の定「急ごう」と口にして足早に歩き出すキリトに、頷いたアスナが続く。この場で俺が反対しても黙殺されるのがオチなので、ため息を吐きつつも俺もその背中についていく。途中このダンジョン初めての分かれ道があったが、キリトは迷わずに声がする方へと進んで行った。

 

「だから、何度も断ってるじゃない!」

 

 響いたのは、女の声だ。

 歳は俺よりも少し下くらいか。赤味がかったブロンドは毛先が撥ね、勝気な上がり目と合わさって威圧的な印象を受ける少女だった。

 見たところ大の男5人組に絡まれているようだったが、臆することなく仁王立で男たちを睨んでいる。

 

「そんなツンケンすんなって。こんなダンジョンの奥に女の子1人じゃ危ないだろ?」

「そうそう。それに俺たち中層じゃそれなりに名前の通ったギルドなんだぜ。獅子の咆哮っつうんだけど……」

「知らないわよそんなギルド」

 

 パーティの勧誘を巡るトラブルのようだ。普通なら1度断られて終わりなのだが、見るからに柄の悪そうな男たちがしつこく食い下がっているのだろう。

 不良に絡まれる少女。フィクションの世界ならありがちだが、現実では中々遭遇することのないシチュエーションだ。しかし、実はSAOの世界では割と頻繁にこう言ったトラブルは発生する。

 ゲーム内では《軍》――ギルド《アインクラッド解放軍》の略称。今では《ALF》よりもこちらの方がプレイヤーの間で根付いている――が警察機構のような役割を担っているが、圏外、特にダンジョン内などは目が届かない場所も多く、そういった場所は無法地帯とはいかないまでも治安はあまり良くなかった。

 オレンジカーソルになればシステムによる制裁を受けることになるためその一線を越えるプレイヤーは少ないのだが、逆に言えばそのラインさえ犯さなければ問題ないと考える小悪党は多い。

 加えてたちが悪いのはそういった問題を起こすのはそれなりにレベルが高いプレイヤーが多いことだ。ゲーム内での自分の力に酔い、勘違いし、調子に乗ってしまうのかもしれない。

 余談だが攻略組は基本的に真面目な人間が多く、さらにはヒースクリフやハフナーなどのギルドのトップがしっかりと目を光らせているので何か問題を起こすことは少なかった。

 

「おいお前ら、強引な勧誘はマナー違反だぞ」

「あ? 何だてめぇ?」

 

 俺が遠巻きに状況を伺っているうちに、キリトがそう言って男たちと少女の間に割り込んだ。その隣にアスナも続く。

 突然現れた闖入者に男たちは食って掛かろうとしたようだが、キリトの隣に立つアスナの姿を認めると驚いたような声を上げて動きを止めた。

 

「おい、あの後ろの女の子って……」

「閃光アスナ様じゃねえか!」

「え、あの血盟騎士団の!?」

 

 そうして色めきだった男たちの無遠慮な視線に晒されアスナは少し不快気に顔を歪めたが、この程度のことには慣れているのだろう、それを無視し、キリトの後ろに立つ少女を気遣うように声をかけていた。少女も最初は戸惑っていたようだが、2人が自分を庇おうとしてくれるのを察すると、少し表情が柔らかくなる。

 ……ちなみに俺は思うところがあって、少し離れた位置から状況を伺っている。隠蔽(ハイディング)スキルを使っているので男たちには気付かれていないだろう。俺が突然消えたことにキリトやアスナは少し戸惑ったようだったが、意図があることを察してくれたのか、特に何か言われることはなかった。

 

「へえ。お前が噂の閃光アスナか」

 

 そう言って、男たちの中でも一際大柄なプレイヤーが一歩前に踏み出す。その横柄な態度から男がこのパーティのリーダー格なのはすぐにわかった。

 身長190センチ以上のガッチリした体型の男。刈り上げた側頭部にはラインが走っていて、見るからに柄の悪いチンピラだった。現実世界だったら絶対に関わり合いたくないタイプの人間だ。

 声をかけられたアスナは不快気な表情を隠そうともせず男を睨みつけた。普段から一回り以上歳の離れたギルドメンバーたちを相手にしているからだろうか、チンピラ相手にも臆すことはないようだった。

 

「……だったら何だって言うのよ」

「まだガキだけど案外可愛い顔してんじゃねえか。なあ、こんな青臭い小僧より俺らと一緒に行こうぜ。別にギルドメンバーってわけじゃねえんだろ?」

「お断りよ。貴方たちみたいな人よりキリト君の方が100倍頼りになるわ」

「ハッ! 気の強い女は嫌いじゃないぜ」

 

 そう言って下卑た笑みを浮かべるチンピラたち。

 これは話し合いだけで解決しそうにないな。そう判断した俺は、来た道を足早に引き返した。

 このまま帰るのが精神衛生上一番よろしいのだが、そうするとまた後が怖いのでやめておこう。アスナとキリトにソードスキルで小突き回されそうだ。

 先ほど通った丁字路まで引き返し、俺は走る速度を上げつつそのまま反対の道へと進んで行った。駆けながら索敵スキルで何体かのモブを察知しつつ、そいつらをあえて挑発するように通り過ぎる。スケルトンクルー、シルバーウルフなど4体ほどのモブのタゲを取ったことを確認し、俺は再び来た道を引き返した。

 モブを引き離し過ぎないように注意しながら、先ほどの場所まで戻る。時間にして5分も経っていないだろうが、見るとチンピラたちとキリトたちは互いに武器を構えて一触即発の状況にまで発展していた。

 やっぱりこじれたか。そう思いながら、俺も武器を構える。モブを引き連れたまま、チンピラたちの傍らまで駆けつけた。

 

「な、なんだ!?」

 

 そう言ってチンピラたちは武器をこちらに向けるが、俺はそれに構わず振り返り、モブへと槍を振るう。青い光を灯した槍が先頭に立っていたスケルトンクルーとその後ろのシルバーウルフの体を軽く掠めた。

 臆病者の一突き(カワーズランジ)と呼ばれるソードスキルだ。ダメージソースとなる技ではなく補助的なもので、その効果は「攻撃によるヘイト上昇値を最も近くに居るプレイヤーへと譲渡する」というものである。要は近くのプレイヤーにタゲを押し付けられるのだ。

 トレインしてきたモブたちのタゲが上手くチンピラたちへと移ったのを確認し、俺は再び走りだす。

 

「行くぞ」

 

 短く言ってキリトたちの前を通り過ぎると、俺の意図を察した2人が弾けるように動きだす。アスナは傍らの少女の腕を取ってダンジョンの奥へと向かって駆け出し、キリトは追い縋ろうとするチンピラたちを牽制しながらその後を追った。チンピラたちは初めこちらに付いてこようとしたが、俺がトレインしてきたモブたちに阻まれてすぐに断念したようだった。

 

「クソがッ! テメェら覚えてやがれッ!!」

 

 チンピラたちの悪態を背中に受けつつ、俺たちはダンジョンの奥へと駆けて行った。

 

 

 5分以上無言でダンジョンの中を走り抜け、たどり着いたセーフティゾーンの小部屋で俺たちはようやく息をついた。ここに来るまでいくつか分かれ道があったし、俺が押し付けたモブを処理するのにも少し時間がかかるだろうからしばらく奴らに追いつかれることはないだろう。

 

「ハチ君って、いつもやることは間違ってないんだけど、やり口が姑息なのよね……」

「おい、第一声がそれか」

 

 手頃な岩に腰掛けて一息つく俺を、アスナが胡乱気な眼差しで見下ろしていた。

 アスナには姑息などと言われてしまったが、実際話の通じない相手にはこれが1番スマートな方法なのだ。

 実は今までも同じようなトラブルに何度か遭遇したことがあるのだが、ああいった手合いに話が通じることは少なく、大抵の場合刃傷沙汰になる。それでもまだ決闘(デュエル)で決着が付けば良いのだが、本当に頭の悪い相手の場合そのまま戦闘になることもあった。流石にどちらかが死ぬまで戦うようなことはなかったが――というか基本俺とキリトが勝つので見逃してやる――立ち回りをミスるとこちらがオレンジカーソルになってしまうこともあった。

 だからああいった状況では逃げてしまうのが1番いいのだ。そして上手く逃げるためにはモブを押し付けてしまうのが最も効果的である。

 

「まあ今回は正直助かったよ。こんな所でオレンジカーソルになるのも馬鹿らしいしな」

 

 今までの経験から俺と同じ結論に至っているであろうキリトが、そう言って俺をフォローする。若干納得がいかなさそうだったが、アスナも「まあ、そうね……」と頷いた。

 

「……あの」

 

 それまで蚊帳の外だった少女が小さく声を上げた。俺は顔を上げ、前に立つ少女へと目を向ける。

 つり上がった瞳からは、少しだけ戸惑いの色が見て取れた。俺と目が合うと、ライトブラウンの髪を弄りながらさりげなく視線を逸らす。

 今さらだが、中々煽情的な衣装の少女だった。青い布地に胸部だけ鉄製のプレートが縫い付けられたトップスは露出が高く、上に群青色のケープを羽織ってはいるものの鎖骨も臍も丸見えだった。下衣装備も際どい白のショートパンツであり、膝丈上までの黒いソックス、そして極めつけは生足部分に巻き付けられた革製のレッグポーチである。まだ若干幼さの残る美少女のそんな姿に俺は思わず生唾を飲み込みそうになったが、何とかそれを堪え、何でもないように視線を宙に漂わせる。

 そんな不埒な思考を働かせる俺をよそに、アスナが口を開いた。

 

「あ、ごめんね。あいつらに絡まれて迷惑そうだったから連れてきちゃったけど……。もしかして余計なお世話だった?」

「ううん。助かった。ありがとう」

 

 そこで初めて少女が笑顔を見せた。

 

「私、フィリア。えっと、アスナ……様って呼んだ方が良いのかしら?」

「お願いだから、様はやめて……」

 

 そう言ってアスナは苦笑いを浮かべる。最近では「閃光アスナ様」などとあだ名され、血盟騎士団の中でも「アスナ様」呼びが定着していたが、本人的には不服らしい。「言っても止めてくれないのよ……」とよく愚痴っていた。

 

「一応、紹介しておくわね。こっちがキリト君で、あっちの目が死んでる人がハチ君」

「ねえ、何か俺にだけ一言多くない?」

「キリトとハチ……って、風林火山の?」

「まあ、そうだな」

 

 フィリアの視線を受けてキリトが頷く。俺の突っ込みは完全に黙殺された。解せぬ。

 

「まさかこんな所で3人も有名人に会うなんてね……不思議な感じ」

「有名人とかやめてくれ。背中が痒くなる」

 

 しげしげとこちらを見つめるフィリアに、キリトは苦笑を浮かべてそう答える。

 俺とアスナは言わずもがな、ひと月前くらいからキリトの知名度も相当高くなっていた。第50層のフロアボス戦で大活躍し、ラストアタックを取ったことが《Weekly Argo》の一面に載ったことが大きかったのだろう。始めは少し嬉しそうにしていたキリトだったが、最近は煩わしそうにしていることの方が多い。

 

「2人もさっきはありがとう。しつこく絡まれて困ってたのよ」

 

 フィリアがこちらに視線を向けた。俺とキリトは適当に頷いて答えると、ややあって彼女は少し険しい表情を浮かべる。

 

「でも、あいつら大丈夫かな。さすがに死んじゃったら寝覚めが悪いんだけど……」

「この階層に来れる奴らだったらあれくらい大丈夫だろ。見た感じ装備も結構いいの揃えてたし」

 

 フィリアの懸念に俺は間を置かずに答えた。相手がチンピラとは言え命に関わることなので、そこは一応気を使っている。チャラい態度とは裏腹にタンク3、タンク寄りのアタッカー2の堅実なパーティだったので、無理にこちらを追って来たりしない限りは問題ないはずだ。

 

「けどこの後どうするよ? ダンジョンの中でまたあいつらとばったり鉢合わせとか絶対に嫌だぞ」

 

 話を変えるように俺は口を開いた。正直チンピラたちの命よりもそちらの方が心配だ。どんなに長引いても2~30分もすれば奴らも押し付けたモブの処理を終えて俺たちを追ってくるだろう。奥に来てダンジョンの構造も入り組んで来たので可能性は低いが、遭遇する確率はゼロじゃない。

 そんな俺の言葉に、キリトは曖昧に頷く。

 

「そりゃあ俺もそうだけど、このまま帰るってのもなぁ」

「私は絶対に嫌よ。このまま帰ったらなんか負けた気がするじゃない」

「お前って妙なところ意地っ張りだよな……」

 

 どうして俺の周りはこう鼻っ柱が強い女が多いのか……。そう思いながら俺がアスナを見ていると、有無を言わさぬ力強い眼差しのアスナと視線が合った。

 

「要はあの人たちに追いつかれない速さでダンジョンを攻略すればいいんでしょ? 何も問題ないわ」

「……ああ、うん。そうだな」

 

 俺はもう諦めたように頷いた。

 ただ、万が一先ほどのチンピラたちと遭遇した場合には、トラブルに発展する前に転移結晶で撤退することを取り決めた。不承不承と言った様子だったが、最終的にはアスナもそれに同意してくれた。

 

「フィリアさんはソロで来てたのよね?」

 

 話が一段落つき、アスナがフィリアへと水を向けた。彼女は気さくに「フィリアでいいよ」と一言断ってから再び口を開く。

 

「うん。ホントはちょっとレベル足りてないんだけどね。罠が厄介な代わりにモンスターのレベルは高くないって聞いたから1人で来てみたんだけど……。やっぱりちょっと戦闘がきつくて引き返そうと思ってたところだったの」

 

 ゲーム攻略の適正レベルはその階層に10を足したものだとよく言われるが、当然ながらモブの分布などによって多少上下する。このダンジョンはフィリアの言う通りモブのレベルは低く適正レベルは57~8と言ったところだろう。

 しかしこの適正レベル云々はそもそもパーティ攻略前提の話なので、ソロとなるとまたかなり話が変わる。ここを安定してソロ攻略出来るようになるのは、低めに見積もっても準攻略組レベルのはずだ。

 はっきりと分かるわけではないが、フィリアの装備品を見る限りそこまでのレベルに達しているようには見えない。おそらく引き返そうとした彼女の判断は正しい。

 フィリアの話を聞いたアスナが、何か問いかけるように俺とキリトに視線を向ける。キリトがそれを察して頷くと、それを確認したアスナが話を切り出した。

 

「ねえ、もしよかったら私たちと一緒に行かない?」

「フィリアはソロで来るくらいだから罠解除スキルのレベルも高いんだろ? 俺たち戦う分には問題ないんだけど、そっちの備えが心許なくてさ」

 

 俺に断りも入れず、フィリアをパーティに勧誘する2人。なんだかもうこの雑な扱いにも慣れてきたので、俺は口を挟むことなく成り行きを見守ることにした。この場で1人反対して空気を悪くするのも面倒だ。

 まあ冷静に考えて、この場でのパーティ勧誘はお互いにとって悪い話ではない。罠解除のスキルを持つのは俺たちの中ではキリトだけで、今まで頻繁に使う機会もなかったのであまり熟練度が高くなかった。フィリアの発言からすると罠解除のスキルレベルは相当高そうだし、お互いに足りない部分を補えるはずだ。

 先ほどのチンピラたちの勧誘も、ダンジョン攻略という観点だけで見ればフィリアにとって悪いものではなかったのだろうが、いかんせん態度が悪すぎた。

 

「一応罠解除のスキルは熟練度カンストしてるけど……いいの?」

「いいも悪いも、こっちからお願いしてるんだ」

 

 突然の勧誘に少し戸惑いを見せるフィリアだったが、キリトの言葉にややあって頷いた。

 その後、パーティリーダーであるキリトが手早くパーティ申請を送り、新しくフィリアをパーティメンバーに迎え入れた。陣形やアイテム分配などの打ち合わせもそこそこに、俺たちは再びダンジョン攻略を開始したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「フィリアって、まさに女盗賊って感じよね。メインウェポンのソードブレイカーに、スピード重視の軽装備、偵察系のスキルも充実してるし」

「あ、わかる? 一応そういうコンセプトでカスタムしてるんだ。トレジャーハンターとかそういうの憧れでさ」

「そういうこだわりって大事よね。うちはギルドの方針であんまり装備弄れなくってさー」

「あー、血盟騎士団って色々大変そうよね。でもアスナの装備って統一感あってかっこいいし、この小物とか凄く可愛いよね」

「あ、これね、知り合いの子に作ってもらったの。他にもね――」

 

 ……女3人寄れば姦しいと言うが、2人寄るだけでもやかましいな。

 前を歩く2人を眺めながら、俺はそんなことを考える。

 しかし、盗賊とトレジャーハンターはイコールで結んでいいのだろうか。RPGなどの職業では2つとも似たようなスキル構成になりそうではあるが、どうにもトレジャーハンターのイメージがカウボーイハットを被ったハリソンフォードに引っ張られてしまうので盗賊という感じはしない。堅気な商売ではないという点では似たようなものなのかもしれないが。

 まあジョブシステムの存在しないSAOでは肩書きなど些細な問題だ。しっかりと仕事はこなしてくれているし、野暮なことを口を出すのはやめておこう。

 

 フィリアをパーティに加えてからも、特に問題が起こることもなくダンジョン攻略は進んでいた。斥候的なポジションである彼女は本来なら先頭を歩くべきなのだろうが、不意打ちなどの危険も考慮して先頭にはキリト、真ん中にアスナとフィリアが並んで殿が俺という陣形を取っている。アスナと楽しげに会話しているフィリアだが、ちゃんと周囲は警戒しているようで、度々罠を発見してはそれを危なげなく処理していた。戦闘の方もあまり出しゃばり過ぎず淡々と自分の仕事をこなしてくれている。

 

「キリト、ちょっと止まって」

 

 唐突にフィリアが声を上げ、キリトを呼び止める。立ち止まったキリトを追い越し、フィリアは一見すると何の変哲もない場所にしゃがみ込んだ。

 

「トラップか?」

「うん。落とし穴系かな……。これで良し、と」

 

 そう言ってシステムウインドウを弄っていたフィリアが一息つく。どうやら仕掛けられていた罠を解除出来たようだった。罠解除の際には何かパズルのような要素があるらしく、それをクリアすることで安全に罠を解除することが出来る仕組みだった。

 

「やっぱりフィリアをパーティに誘って正解だったな……。今のトラップとか、俺のスキルの熟練度じゃ察知も出来なかったし」

「まあ、それだけが取り柄だしね。でもあんまり信用し過ぎないで。スキルじゃ感知出来ないタイプのトラップもたまにあるから」

「あー。トラップっていうより、ダンジョンのギミック的な奴だな」

 

 キリトとフィリアは会話を続けながら、再び歩き出す。

 アルゴに聞いた話だが、フィリアが言うようにスキルによる感知が出来ないタイプの罠が稀に存在するらしい。それは大抵非常に大掛かりな罠で、小部屋の天井が迫ってくるものだったり、床が崩れてくるものだったりという話だ。罠解除のスキルが通用しないという特性とその規模の大きさから言って、それは罠ではなくゲーム内のギミックに分類されるものなのではないかというのが多くのプレイヤーの見解だった。

 実際にはそれが本当に感知が出来ないタイプの罠だったのか、それとも単純に熟練度不足、または不注意による見落としだったのかは判別することが出来ないのだが、過去に何度かそれに遭遇したことがあるらしいアルゴ曰く「普通の罠だったらオレっちが見落とすハズがないダロ」とのことだった。

 その人となりはともかく、アルゴの探索者としての能力について俺は疑いを持っていない。事の真偽は不明だが、あの鼠に感知出来ない罠ならどっちにしろほとんどのプレイヤーに感知できないだろうということだけは確かである。そう言った厄介な罠が存在すると仮定して用心した方がいいだろう。

 

「でも、そういうのもダンジョン攻略の醍醐味だよな。フィリアが居てくれて助かってるけど、ゲーマーとしては何もないってのもちょっと寂しいというか……」

「あはは。まあ気持ちは分かるけどね」

 

 ――ガコンッ。

 

 キリトとフィリアの会話を途切れさせるように、ダンジョン内に不吉な音が響き渡った。前を歩く3人がゆっくりとこちらを振り返る。

 

「……ハチ?」

 

 そう呟いたキリトの視線は、俺の足元へと注がれていた。

 右足で踏み抜くように出来た、不自然な四角い窪み。15センチほど地面に沈み込んだ足の裏から、「カチッ」という何かのスイッチを押したような嫌な感触が伝わってきた。

 ゲーム内で地形が変化するのは、何がしかのギミック、もしくは罠が発動した時だけである。俺は右足を踏み出したままの体勢で固まり、抗議するようにキリトへと目を向けた。

 

「お前が妙なフラグ立てるから……」

「いや、俺のせいじゃないだろッ!?」

「馬鹿なこと言ってないで! 何か来るわよ!!」

 

 アスナが一喝し、後方へと視線をやる。釣られて振り返ると、いつの間にそこにあったのか幅5メートルほどの通路をぴったりと埋めるような大岩がゆっくりと転がってくるのが遠くに見えた。それは徐々に速度を増しながら、こちらへと迫ってくる。

 

「走れ!」

 

 お約束過ぎるだろッ! と俺は心の中で妙なつっこみを入れつつも、キリトの叫び声と共に既に走り出していた3人の後を追った。

 後方からこちらへと迫りくる大岩。それから逃げるように走りながら、俺は周囲を確認する。見える範囲ではしばらく一本道だ。退避出来るようなスペースはなく、しばらくはあの大岩と追いかけっこをしなければならない。幸い周りにはモブの気配はなかった。

 

「あれが噂の感知出来ない罠って奴か!?」

「わかんないけど、多分そう!」

 

 大岩の転がる轟音に負けじと声を張り上げるキリトとフィリア。先頭を走るキリトはまだ速度に余裕がある様子で、チラチラと後ろを確認している。そのすぐ後ろを走るアスナも同様に、度々フィリアへと視線を向けていた。2人ともフィリアの走る速度に合わせているのだ。

 SAOでの足の速さは敏捷性の数値に依存している。装備の重量や補正などでも多少変化はあるため一概には言えないが、基本的にレベルが高いプレイヤーほど足が速くなると考えていい。

 準攻略にも及ばないであろうフィリアと俺たちではステータスにおそらく相当な差がある。つまり攻略組である俺たちが全力で走ると、フィリアが1人だけ取り残されてしまうのだ。

 こんな危機的な状況でも協調性を持って行動出来ることは美徳と言えるだろう。ただ、今この場に限って言えば、その行動は特に意味を持たない。そう考え、俺は前を走る2人に向かって声を張り上げる。

 

「キリト! アスナ! お前ら2人で先行ってろ!」

「えっ!? で、でも……」

「この状況で固まっててもしょうがないだろ! もし先にモブが居たら蹴散らしといてくれ!」

「……わかったわ!」

 

 俺の指示にアスナは一度躊躇うような返事をしたが、さらに続く言葉に納得したように頷いた。キリトも無言で頷き、そのままアスナと視線でやり取りすると、一気にスピードを上げる。

 

「俺らが居ないからってフィリアに変なことするなよ!」

「そう言うのいいから! さっさと行け!!」

 

 去り際にキリトはそんな戯けたことをぬかしていった。この状況で冗談を言えるとは大した胆力だ。

 全力で走り出したキリトたちのスピードは恐ろしく、ものの数秒で数十メートルもの差がつく。小さくなった2人の背中を見つめながら、フィリアは苦い表情を浮かべていた。自分に気を遣われている自覚があるのだろう。俺がここに残ったのも、万が一の時にフィリアをフォローするためだった。

 

「ごめんなさい。足手まといね、私……」

「今はそんなこといい! とりあえず転移結晶用意しとけ! 下手すりゃ追いつかれるぞ!!」

「……うん!」

 

 今はへこんでいる場合ではない。フィリアもすぐにそれを理解し、気持ちを切り替えるように大きく頷いた。次いで俺の言った通りにポーチから手のひら大の青い結晶――転移結晶を取り出す。俺も同じように転移結晶を取り出して右手に構えた。

 大岩の転がる轟音は、少しずつ大きくなっていた。まだある程度距離はあるが、緩やかな坂道を下っているせいで大岩は徐々に加速している。このままではそのうち追いつかれるのは確実だった。

 あの大岩に巻き込まれたら、どうなるのか。あのサイズの岩があのスピードでぶつかれば大ダメージは必至だ。というか、普通に即死する可能性がある。

 さすがに追いつかれる前に回避スペースがあるだろうとは思うが、最悪の場合も想定しておいた方がいい。

 

「やばいと思ったら、何処でもいいからすぐに転移しろよ!」

「わかった!」

 

 俺の言葉に、フィリアは再び頷く。しかし俺は口にした言葉とは裏腹に、最悪転移結晶が使えないのではないかという危惧も抱いていた。

 これだけ大掛かりなギミックだ。経験上、こういったものは転移結晶使用禁止エリアとセットになっていることが多い。しかしそこまで話せば無駄に不安を煽るだけなので、口には出さなかった。その分転移結晶が使用できなかった時にパニックに陥るかもしれないが、どちらにしろその時には次の手を打つ余裕もない可能性が高い。

 そんなことを考えていると、いつの間にか先を行くキリトたちの背中は見えなくなっていた。通路は緩やかなカーブになっているのだ。そして、後ろに迫る大岩は更にこちらとの距離を縮めてきていた。

 じわじわと危機感が募る。何か手はないかと周囲に目をやりながら走ること数十秒。ここまでひたすら狭い通路を走っていた俺たちだったが、急に視界が開け、同時に周囲の空気ががらりと変わったのを感じた。

 一瞬もう助かったのかと思ったが、現実はそう甘くはなかった。確かにそこは開けた空間になっていたのだが、左側は数十メートルの崖になっていて、崖下には地下水脈が濁流となっているのが見えた。落ちたら即死はしないまでも、あの流れの速さでは溺れて死ぬ可能性が高い。右は壁になっているので結局道幅は狭く、退避出来るような場所はなかった。体術スキルの壁走りで岩壁を登れないかとも考えたが、反り返りがきつく難しそうだ。

 何かの衝撃であの大岩が崖下に落ちてくれれば……とそんな期待を抱いたが、大岩は速度を緩めることもなく相変わらず俺たちを追ってきていた。

 

 これは本格的に不味いかもしれないな、と心の中で呟く。視界が開けたお蔭で道の先も良く見えるようになったのだが、まだしばらく道幅の狭い一本道だ。このマラソンのゴールまで、下手をすればまだ数キロはありそうだった。

 幸いSAOの中にはスタミナという概念はない。故にシステム的には何時間でも全力で走り続けることが出来る。しかしそれも、気力さえ持てばの話だ。

 

 俺は隣を走るフィリアに目をやった。息を荒げ、険しい表情を浮かべるその様子には、全く余裕はない。キリトたちには及ばないとはいえ、現実世界ではありえないほどのスピードで走っているのだ。道も舗装されていない洞窟でこんな全力疾走を続ければ、消耗するのも仕方がないというものだった。大岩に追われているというプレッシャーも考えればなおのことだ。

 

「フィリア、もういい。余裕があるうちにそれ使え」

「……うん。ごめん」

 

 限界が近いという自覚があったのだろう。俺が促すと、悔しそうにフィリアは頷いた。

 帰ったら連絡するね、と一言断ってから、フィリアは右手に持った転移結晶を掲げる。

 

「転移、アルゲード! ……って、あれっ!? なんでッ!?」

 

 フィリアの掲げた転移結晶はボイスコマンドに一切反応せず、沈黙したままだ。焦った様子でフィリアは何度もコマンドを唱え直すが、やはり反応はない。

 ……やっぱりか。なんでこのゲームのダンジョンはこうも性格が悪い作りをしていることが多いのか。相当性格が捻くれた奴が作ったに違いない。

 転移結晶を使えない事実に軽くパニックを起こしてしまったフィリアが、俺の隣で足をもつれさせた。そして小さな悲鳴を上げて、その場に転んでしまう。

 すぐにブレーキを掛けて立ち止まった俺が振り返ると、怯えた表情のフィリアと目が合った。しかし彼女はすぐに恐怖を振り切るようにかぶりを振ると、その目に気丈さを取り戻す。

 

「……私のことは良いから、行って!!」

 

 震える拳を握りしめながら、フィリアはそう叫ぶ。しかし俺はそれを無視し、この危機的状況を脱するために頭を働かせた。

 大岩にソードスキルをぶち込んで、軌道を変えさせる? いや、不可能だ。力負けするだろうことは感覚的に分かる。ならば――。

 

 視線を崖の先へと走らせる。地下水脈を挟んだ向こう側。切り立った岩壁に、複数の横穴が開いていた。穴は奥へと続き、どこかに繋がっているように見える。

 大岩は、もうすぐそばまで迫っていた。迷っている余裕はない。

 俺は持っていた転移結晶を仕舞いながらへたり込んでいるフィリアへと近づき、左腕で抱え込んだ。彼女は小さく悲鳴を上げたが、俺は構わず声を張り上げる。

 

「飛ぶぞ! 掴まれッ!!」

「えっ……? きゃあああああああああっ!?」

 

 助走をつけて、崖の縁に足を掛ける。フィリアの叫び声と同時に、俺は走り幅跳びの要領で思い切り踏み切った。フィリアが腰に抱き着いているのを確認しつつ、背中から槍を取り出す。

 ステータスにものを言わせての、大ジャンプだ。あまり助走は取れなかったが、十数メートルは飛んでいる。しかし、このままでは向こう側までは届かない。丁度中間あたりの距離だった。

 巨大な地下空間。眼下に流れる濁流。妙な開放感に何故か恐怖よりも若干の興奮を感じつつ、俺は槍を構えた。

 突進系の単発ソードスキル。青い光が槍に灯ると、物理法則を無視して空中で一気に体が加速した。

 そのままの勢いでかなり直線的な軌道を辿り、俺たちは岩壁に開いた横穴へと突っ込む。受け身も取れずに2人でもみくちゃになりながらも、なんとかダメージもなく地面へと着地した。

 仰向けに倒れ込んだ俺。その腰にしがみつくように、フィリアが上に重なっている。俺たちは放心したように、しばらくその場で固まっていた。

 

「た、助かった……」

 

 俺の腹へと顔を埋めながら、やがてフィリアは脱力するようにそう呟いたのだった。




フィリアはゲームのキャラです。
ホロウエリアに囚われてないので少し性格は明るめになってます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第28話 ダンジョン探索

「結局、キリトたちは戻ってこないか……」

 

 崖の縁に足を掛け、崖下の地下水脈を挟んだ向こう側を眺めながら、そう呟く。

 俺が立っているのは、巨大な地下空間の中、迫りくる大岩から逃れるように飛び込んだ横穴だった。かれこれ15分ほど、フィリアと2人きりでここに待機していた。ここは向こう側の崖よりも少し低い位置にあるので元の道には戻れそうにはないが、一応キリトたちが引き返してくる可能性を考えて俺たちはここで少し待つことにしたのだった。

 だがこれだけ時間が経っても戻ってこないとなると、何かこちらに戻って来れない理由があるのかもしれない。このダンジョンは罠やそれに準じたギミックも多いし、その可能性は十分に考えられた。フレンド欄によるキリトたちの位置情報には《潮騒洞窟中層》と表記してあったので、まだこのダンジョンにいることだけは確かである。フレンドのマップ追跡機能はダンジョン内では使用できないので、詳しい位置まではわからなかった。

 さて、そうだとすればこれ以上待つのは時間の無駄だ。そう思い、フィリアに向かって振り返る。少し先で壁を背にして体育座りをする彼女とすぐに目が合った。

 

「多分、このままここで待っててもあいつらとは合流出来そうにない。どうする? ここなら転移結晶も使えるかもしれないし、引き返すか?」

 

 一応フィリアを気遣うつもりで、そう提案する。アスナも居ない中、俺と2人きりではこいつも落ち着かないだろう。自分で言うのも悲しいが、俺が一般的に女子ウケがあまり良くないだろうことは何となく自覚している。

 まあそれにそう言った感情を抜きにしても、先ほどダンジョン内で死にかけたのだ。大事をとって撤退するのも不自然なことではない。

 しかしそんな俺の考えを他所に、フィリア自身は首を横に振った。

 

「えっと、ハチさえ良ければ、このままダンジョン攻略続けたい……かな」

「……まあ、俺は構わないけど」

「よかった。ありがと」

 

 俺としては、フィリアの提案は願ってもないことだ。彼女の探索系のスキルはこのダンジョンではかなり重宝するし、俺とレベル差があるとは言っても戦闘では足手まといになるほどではない。むしろソロとペアでは安全度が格段に変わってくるのでありがたい。

 ただ、先ほどのトラップの一件でわかるように、フィリアにとってこのダンジョンの危険度が高いのは間違いない。それは俺が言うまでもなく彼女自身よく理解しているだろう。

 その点について危惧することがないではないが、しかし極端なことをいえばそもそもSAOにおいてリスクのないゲーム攻略など存在しないのだ。本人がリスクを承知で挑むと決めているのなら、俺から特に口を出すことはなかった。

 

 俺に礼を言ったフィリアは笑顔を浮かべながら立ち上がり、ショートパンツについた土を手で軽く払っていた。次いで洞穴の奥へと視線を向ける。

 

「けど、ここってどこに繋がってるのかな?」

「正規のルートじゃないことは確かだな。ショートカットコースだったら嬉しいんだけど」

「どうだろう……。でも明かりはあるし、マッピングもされてるし、何処にも繋がってないデットスペースってことはないよね」

「だな。とりあえず、先に進んでみるか」

 

 そう言って、俺を先頭にして歩を進める。

 キリトたちが居なくなったことによって、当然移動時やバトルの立ち回りも変わってくる。その辺りのことを手早く確認しながら、俺たちは再びダンジョンの奥へと向かって進んで行ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高校ではエリートぼっちで通っていた俺、比企谷八幡であるが、このデスゲームが始まってからの1年と数ヶ月で、自身のコミュ力がかなり上がっているのを感じていた。

 いや、元からコミュ障という訳ではなく人並みのコミュ力は持っていたのだ。女子と話せば人並みにキョドり、大勢の前に立てば人並みにテンパり、リア充を前にすれば人並みに委縮する程度のコミュ力はあった。これは極一部のリア充を除いた思春期の男子高校生基準で考えれば極々普通のレベル(当社比)である。

 だがこのSAOが始まってからというもの、必要に迫られて多くの人間と関わりを持ったせいか、最近では女子の前でキョドることは少なくなり、知らない人間ともそこそこ自然に会話が出来るようになった。これはかなり大きな進歩と言えるだろう。

 

 まあだからと言って積極的に他人と関わろうとか、そんなつもりは全くない。だがSAOはMMORPGというその特性上どうしてもパーティプレイが推奨されるような場面が多々あるし、そう言った場合に円滑に、というか無難にコミュニケーションが取れるようになったのは俺にとっても悪いことではなかった。

 最前線ではグループが固定されているためにほとんど機会はないが、中層以下では行きずりのパーティを組むことは間々あることだ。今回俺たちがフィリアとパーティを組むことになったように。

 

「――ふぅん。それじゃあ今日の目的はハチの武器を作るためのインゴットなのね」

「ああ。まあ金策も兼ねてだけどな」

 

 そんな会話を交えながら、ダンジョン奥へと進んで行く。再び探索を始めてから既に1時間ほどが経っていた。

 ここまで数回モブと遭遇し戦闘になったが、何も問題は起こらなかった。むしろ戦闘においてはキリトたちが居ない方が丁度いいくらいだ。このダンジョンでは単体で現れる小型の敵が多いので、あまりパーティの人数が多いと誰かしら手持無沙汰になってしまう。

 罠関係も引き続きフィリアが処理してくれている。キリトたちとはぐれたことにより最初は彼女も少し気を張っていたが、ダンジョン攻略が順調に進むにつれて余裕が戻ってきたようで口数も増えていた。

 

「トップギルドの人たちって最前線でガンガン稼いでるイメージがあったけど、意外と地道なんだね」

「他のところがどうかは知らないけど、まあ風林火山はそうだな。ていうかそもそもうちは知名度が高いってだけで、攻略ギルドってわけじゃないし」

「そう言えばそっか。攻略に参加してるのはハチとキリトの2人だけだもんね」

「良く知ってるな」

 

 マップと睨めっこをしながら歩いていた俺が振り返ると、すぐ後ろのフィリアと目が合った。戦闘は基本俺頼みなので、後方からの不意打ちでもすぐにフィリアをフォロー出来るようにかなり距離を詰めている。俺は若干の気まずさにすぐに目を逸らそうとしたが、フィリアは気にした様子もなくドヤ顔をして胸を張るようにわざとらしく腰に手を当てていた。

 

「トレジャーハンターたるもの、色んな情報を持っておかないと。基本ソロだから余計にね。Weekly Argo、ガイドブック、Hachiという漢全巻、あとはプレイヤーの噂話までよく調べてるよ」

 

 ……なんだか余計なものが1つ混じっていた気がするが、そこはスルーしよう。「さすが自称トレジャーハンターだな」と俺が褒めると「自称って言わないで!」と突っ込まれた。

 

「ギルドに入ってないのも、何かこだわりがあんのか?」

「あー、いや、それは何というか……」

 

 例の本について話題が移ることを嫌って今度はこちらから話を振ってみたのだが、フィリアは罰が悪そうに口ごもってしまった。話のチョイスを間違ったか。

 SAOの世界ではフレンドやパーティメンバーになると、相手の所属ギルドについて知ることが出来る。HPバーの横にギルドのエンブレムが表示されるようになり、ウィンドウを開けばギルドの名前も確認出来るのだ。

 フィリアについてはウィンドウを開くまでもなく、ギルドエンブレムが表示されていないのですぐに無所属なのだとわかった。ギルドレベルが低かったりするとエンブレムが作成出来なかったりするが、その場合はエンブレムの部分が灰色に表示される。

 新たにプレイヤーが増えることのないSAOの中では、未だにギルドに入っていないフリーのプレイヤーは貴重だ。それが数の少ない女性プレイヤーともなれば、多くのギルドから熱烈な勧誘を受けることは間違いないだろう。そんな彼女が未だに無所属を貫いていることにはそれなりの理由があるはずだった。

 地雷を踏んでしまったかもしれないな。そう思いながらも、俺はフォローするように口を開く。

 

「あー、話したくないことなら無理に聞かないぞ。そこまで興味があるわけでもないし」

「その言い方、何気に酷くない?」

 

 フィリアはそう言って苦笑いを浮かべていた。しかしややあってそれは自嘲するような笑みに変わっていく。そうして訪れた数秒の沈黙の後、やがてフィリアはとつとつと語りだした。

 

「……攻略組の人にこんなこと言うと怒られちゃうかもしれないけどさ、私は何だかんだ今の生活が楽しいんだよね。SAOからの脱出を諦めたわけじゃないけど、楽しめるものは楽しんで行こうって思ってるの。こうやってダンジョンを攻略して、お宝を見つけて……そういうことに憧れて、私はSAOを始めたんだから」

 

 呟くように語るフィリアの話は中々興味深いものだった。しかし先ほどのギルドの話との繋がりが理解できずに内心首を傾げつつ、俺は次の言葉を待つ。そうしてしばらく横目でフィリアを見つめていると、彼女は自嘲するような笑みを更に深くして続く言葉を語った。

 

「でも、前に一度ギルドに所属していた時に言われたの。そういう私の態度は不謹慎だって。その話でちょっと揉めて……結局、そこに居られなくなっちゃった」

「ああ、なるほど……。不謹慎厨ってのは、どこにでもいるもんだな」

 

 フィリアの話に合点がいった俺は、そう言って頷いた。要は人間関係のトラブルが面倒でギルドという深い関わりを持つことが嫌になったのだろう。過去、孤高のぼっちを気取っていた俺にはその気持ちが良くわかった。

 SAOでは実際に死人が出ている。そのSAOを楽しみたいというフィリアの態度を不謹慎だと責めたそのプレイヤーの主張は理解できないこともないが、正直俺としてはあまり興味のないことだ。むしろそう言ったことに過敏に反応してそれを他人に押し付けるような人間の方が実害が大きい。

 

「……ハチは、何とも思わないの? 私みたいな奴のこと」

「特に思うところはないな。つーか、攻略組にはお前みたいな奴の方が多いと思うぞ。責任感だけで命掛けられるほど出来た人間はそういねえよ」

 

 俺の周りではキリトなんかが特にそうだろう。ゲームはゲームとして、あいつは大いにこのSAOを楽しんでいるように見える。むしろ命懸けだからこそ、ただのゲーム以上にこのSAOの世界にのめり込んでいるのだ。

 初期のアスナのようにゲームからの脱出だけをひたすら切望して攻略に参加している人間は、おそらく攻略組にはもう残っていない。そんな張り詰めた精神状態ではいずれ限界が来るのだ。結果、アインクラッドが半分以上攻略された現在では、それなりにこのゲームを楽しめる余裕を持ったプレイヤーたちだけが攻略組に残ったのだと思う。

 

「そうなんだ……。じゃあ、ハチは? ハチは今、楽しい?」

「俺か? 俺は――」

 

 その問いに、俺はすぐに答えることが出来なかった。

 俺は、どうなんだろうか。

 少なくともこの数日は、そんな心の余裕はなかった。笑う棺桶(ラフィン・コフィン)をアインクラッドから排除すること、そればかりを考えていたと思う。そしてそれを終えた時に得られたものはささやかな達成感と、果てしのない後味の悪さだけだった。

 それ以前はどうだっただろうか。キリトと共にゲーム攻略に邁進する日々は充実したものだったと思う。しかし、楽しんでいたかと聞かれると、首を傾げざるを得ない。

 

『これから俺は本気でゲームクリアを目指す。明日のボス攻略も、その後も、ずっと全力で。それで絶対に、ここから生きて帰る』

 

 いつか、雪ノ下の前で口にした言葉が頭を過った。

 

「……まあ、俺のことは別にいいだろ。少なくとも身を粉にしてゲーム攻略してるつもりはないし。それにそもそも俺たちはお前のためにゲーム攻略してる訳じゃないんだから、お前も俺たちに気を遣う必要なんてないんだぞ」

「そっか。……でもさ、気を遣うとかじゃなくて」

 

 ダンジョン奥へと歩を進めながら、そうして吐き捨てるように言葉を口にした俺に、しかしフィリアは優しく諭すように返事を返す。

 

「せっかくこうして知り合えたんだからさ、こういう機会は楽しみたいじゃない? どうせなら一緒にいる人にも楽しんでほしいし……いや、まあ、私の自己満足なんだけど」

 

 途中で自分の台詞に恥ずかしくなってきたのか、最後の言葉は自嘲するような響きがあった。そしてその照れ隠しをするように、少しおどけた様子で捲し立てる。

 

「それにほら、そんな仏頂面ばっかりだと幸せが逃げてくよ? 目も死んでるし」

「いや、目は元からだから」

「あはは。まあ、最前線じゃそう簡単にはいかないかもしれないけどさ……。今日くらいは一緒に楽しんでくれると、私としても嬉しいかなーと」

 

 少し間延びする声でそう言って、伺うように上目使いでこちらに視線を寄越すフィリア。何故かあざとさを感じさせないその仕草に俺は内心ドギマギしつつも、平静を装って思考する。

 自慢ではないが、俺はそれなりに人を見る目がある方だと思う。卑屈な目線でひたすら人の輪の外から人間観察を繰り返してきた俺は、今さら薄っぺらい言動に惑わされるようなことはない。

 そんな俺から見て、フィリアはきっと優しい女の子なのだと思う。その仕草や表情、言動全てに、それが滲み出ていた。

 優しい女の子は、嫌いだ――そんな風に思っていた時期が、俺にはある。俺に優しい女の子とは、誰にでも優しいのだ。しかしそれがただの優しさだと分かっていても、心はざわついてしまう。幾重にも張られた心の予防線を以ってしても、もしかしたらと期待してしまう。しかし、やがて決定的に思い知らされるのだ。そんなものは幻想でしかないことを。

 いつだって期待して、勘違いして、いつからか希望を持つのをやめた。だから俺は、優しい女の子は嫌いだった。

 だが、今は少し違う。今の俺には、優しさはただ優しさだとそれを受け止めるだけの余裕がある。きっとそれは、ただの優しさではないと、そう思えるものを手に入れたからかもしれない。

 そんなこっぱずかしい考えが過り、軽くかぶりを振って思考を切り替える。それをフィリアは少し怪訝な顔で見ていたが、俺は気を取り直すように1つ咳ばらいをしてから口を開いた。

 

「……まあ、前向きに検討するわ」

「何よ、その胡散臭い政治家みたいな返事……」

 

 そう言って再び苦笑いを浮かべるフィリアだったが、やがて小さくため息を吐くと「ま、いいか」と呟いた。前を歩く俺にはその表情を窺い知ることは出来なかったが、何故かその声は弾んでいたように思えた。

 そうして心なしか空気が軽くなったのを感じながら、引き続き俺たちはダンジョンの奥へと向かって行くのだった。

 

 その後、何度か休憩を挟みつつ、2時間ほど2人でダンジョン攻略を行った。攻略しながら分かってきたことなのだが、潮騒洞窟は大きく分けて浅層、中層、深層の3つのエリアからなるかなり大きなダンジョンになっていた。エリアを繋ぐ通路も複数存在し、その構造は複雑だ。改めて歩いてきたマップデータを見てみると、渋谷駅構内図ばりに入り組んでいる。渋谷駅の構造って「作った奴の嫌がらせなんじゃないの?」と疑うくらい複雑だよな。やっぱり東京は怖い。千葉が1番だ。

 まあそれは置いておいて、今はダンジョンの話だ。その複雑な構造に加えて、謎解きのギミックがいくつか設置されていたので探索には思いのほか時間が掛かった。TVゲームでよくある「鏡を使って壁の紋章に光を当てると、隠された通路が現れる」とか、そう言ったタイプのギミックだ。「これぞトレジャーハントよね!」とフィリアがノリノリで謎解きに取り掛かっていた。俺もこういった仕掛けものは嫌いではないので、2人でダンジョンを回りながら順調に攻略していった。未だにキリトとアスナとは合流出来ていないが、あちらはあちらで位置情報が《潮騒洞窟深部》となっていたので、おそらく順調に攻略出来ているのだろう。

 ダンジョンに潜ってからそれなりに時間は経っているが、戦闘は多くなかったのであまり疲労はない。道中それなりに金になりそうなお宝はゲットしていたが、目的のインゴットはまだ見つかっておらず、未探索エリアもまだかなりありそうだったのでダンジョン攻略はもうしばらく続きそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――甘っ!? ちょ、甘すぎない!? ……あ、でもこれ意外と癖になるかも」

 

 透明なボトルに入った茶色い飲料に口を付けながら、フィリアがそう口にする。俺の自作のMAXコーヒーもどきだ。意外と気に入ってくれたようで、何だかんだと言いながら何度も口に運んでいる。

 潮騒洞窟深部。その最奥へと続くであろう通路の一歩手前。小さく区切られた空間がセーフティゾーンになっており、時間も丁度昼頃だったのでそこで昼食を取る運びとなったのだった。

 ベンチ代わりの手ごろな岩に2人で並んで腰を下ろし、それぞれ自分の昼食を取り出そうとしたところ、俺がストレージから出したそのボトルにフィリアが興味を示したので1本おすそ分けしたのだ。俺の数ヶ月に及ぶ試行錯誤からようやく先日完成した、自作のMAXコーヒーもどきである。MAXコーヒー――その殺人的な甘さから千葉、茨城、栃木を中心とした地域で長年愛されているコーヒー飲料だ。俺の大好物ではあるが、手元にはまだ10本ほどあるので1本くらいは問題ない。耐久値が低くてあまり保存がきかないことと、それなりの材料とキッチンなどの設備が必要になるので基本的にホームに戻ってきた時にしか作成できないことが難点だが、味はかなり本物に近く、うまく再現出来ている。

 

「千葉県民のソウルドリンクMAXコーヒーだ。まあ、自作だからもどきだけどな。再現すんの大変だったんだぞ。練乳が見つかんなくてな」

「へえ、私神奈川だから初めて知ったよ。ていうかコーヒーなのに練乳とか入ってるんだ、これ……」

 

 俺の言葉に突っ込むこともなく頷き、しみじみとボトルを見つめるフィリア。ちなみにMAXコーヒーは分類上、含まれるコーヒー豆の比率からコーヒー()()とされ、厳密に言えばコーヒーではない。これ豆な。

 

「自作ってことは料理スキル持ってるの? それとも調合?」

「料理の方だ。飲み物も嗜好品系は全部料理スキルに分類されるみたいだぞ」

「へえ。攻略組の人も生産系のスキルとか持ってるんだね」

「まあ確かに周りにはあんまり居ないけどな。けど自作料理はドーピング効果も高いし、割と有用スキルだぞ。このMAXコーヒーも飲むとVITがちょっと上がるし。いや、ホントちょっとだけど」

 

 もさもさと持参したカツサンドを食べながら、そんなやり取りを交わす。

 ものにもよるが、アインクラッドでプレイヤーが作る料理には大抵何かしらのステータス補正が掛かる。このカツサンドのトンカツで言えばSTR上昇効果だ。効果時間はこれもまたものによるが大体3時間ほどで、補正値は僅かだが最前線で命を懸けてギリギリの戦いをしている俺たちからすれば馬鹿に出来る数値ではない。

 この辺りの話はアインクラッドに暮らすプレイヤーにとってはもはや常識の範囲だが、何故かフィリアはしみじみと俺の話に頷いていた。

 

「なるほどねぇ。攻略組ともなるとそういう小さい数値も気にするものなのね」

「何が生き死にを分けるか分かんねえからな。攻略してる時の朝飯と昼飯は気を遣うようにしてる。まあ最前線にはそれ当てにした料理人のプレイヤーとか来るし、自分で作る必要はないんだけど」

「あー。そう言えば前に最前線の街を見物に行った時に、なんか出店が多いなと思ったのよ。そういうことだったんだ」

 

 そんな攻略組事情を口にしながら、食事を進める。食の細い俺とは対照的に、フィリアは年頃の女子にしては健啖家なようで、会話に興じながらも少し大きめな弁当をパクパクと食べていた。手早くサンドイッチを食べ終えた俺は食後のMAXコーヒーもどきをちびちびと飲みながら、何となくその光景を横目に眺める。

 

「な、何? 私の顔に何か付いてる?」

「あー、いや……。よく食べるなと思って」

「うっ。い、いいじゃない別に。SAOの中ならいっぱい食べても太らないし……」

「いや、別に責めてる訳じゃないんだけど」

 

 そんな毒にも薬にもならない会話をしながら、休憩時間は過ぎていった。その後まもなくフィリアも食事を終え、2人で食後のMAXコーヒーを満喫する。会話は自然とこの後のダンジョン攻略についてに移っていった。

 

「んで、そろそろダンジョン最深部な訳だが……」

「エリアボス、どうしよっか?」

 

 俺が言わんとした事を先んじて、フィリアが口にする。そしてお互いに微妙な表情を浮かべて顔を見合わせた。

 そう、ダンジョン攻略において1番の懸念材料はエリアボスの存在だ。この規模のダンジョンなら確実に存在するはずである。当然ダンジョン最深部付近に居座っているはずなので、そろそろエンカウントしてもおかしくない。

 まあボスとは言ってもエリアボスはフロアボスと比べると格段に難易度は落ちるので、この階層ならば俺1人でも倒せないことはない。ただ、どうしてもアイテムの消費が激しくなるので、コストや労力で考えると出来ればキリトたちと合流してから戦いたかった。

 

「んー、まあ回復結晶(ヒールクリスタル)ガンガン割れば俺たちでも倒せないことはないと思うけど……ただでさえ金欠だからな。あんまりやりたくない」

回復結晶(ヒールクリスタル)も安くないしね……」

 

 個人負担にするとタンク役が割りを食うので、消耗品については使った分をパーティで等しく負担する約束になってはいるが、それでも節約するに越したことはない。

 キリトたちと合流出来ればPOTローテーション――ポーションで回復する時間を作るための前衛後衛のローテーション――を回せるようになるので格段に楽になるんだが……。そう思いながらマップを開いてみるが、やはり近くには居ないようだった。50メートルほどの距離まで近くにくれば、パーティメンバーはマップに表示される。

 

「《徘徊型》だったらなるべく回避、《定点型》だったら……その時、考えるか。途中でキリトたちと合流出来れば問題ないわけだし」

「そだね」

 

 そうして頷きあい、どちらからともなく腰掛けていた岩から立ち上がる。

 ちなみに徘徊型と定点型というのはエリアボスのタイプのことだ。徘徊型はある程度の範囲を自由に歩き回っているタイプのボスで、反対に定点型はフロアボスと同じように決められた部屋からは絶対に出てこない。

 徘徊型は不意のエンカウントという不安要素はあるが、素早く察知出来れば戦闘を回避して通過出来る。逆に定点型は分かりやすいボス部屋があるため不意にエンカウントすることは滅多にないが、マップの要所に居座っているためダンジョン探索をする上では避けて通れない。故に、今の状況では定点型の方が面倒だった。

 

「よしっ、そろそろダンジョン攻略も大詰めね。張り切って行きましょ」

「……おう」

「何よー、返事に気合いが感じられないんですけど?」

「いや、めっちゃ気合い入ってるから。気合い入りすぎて逆にもう帰りたいくらいだから」

「逆にって何!?」

 

 文節に「逆に」と挟めば、大抵のことは許されてしまう不思議。いや、今に限って言えばあまり許されてないような気もするが。

 そんなやり取りを交わしつつも、休憩モードから頭を切り替えた俺たちは小部屋になっていたセーフティゾーンを後にする。そこに面しているのは細い通路だ。近くにモブの気配はなかったが、気を緩めずに俺たちは薄暗い通路をゆっくりと進んで行くのだった。

 

 それから5分も掛からず、細い通路からやがて少し開けた空間へと出る。その瞬間前方からモブの気配を感じ取った俺はすぐに槍を構えた。同じように気配を察したのだろう、フィリアが短剣を抜き放つ澄んだ音が後ろから響く。そして数秒も待たず、うす暗い洞窟の中、白銀に煌めく小さな3つの塊が現れた。

 

「……げ。3匹かよ。珍しいな」

 

 現れたのは美しい毛並みを湛えたシルバーウルフだ。狼とは本来群れで生活する生き物だと聞くが、こいつは大抵の場合御1人様である。SAOの中では群れでの行動が設定されていないモブ同士は出会っても合流することはないので、こうして3匹同時にエンカウントするのは珍しいことだった。

 もしかしたら近くにモンスターハウスでもあるのかもしれないな、とそんなことを考えながら、一歩踏み出す。

 

「俺が突っ込んでタゲ取る。囲まれないように適当に動くから、それに合わせて1匹ずつ削ってくれ」

「わかった!」

 

 フィリアの返事と同時に、俺は駆け出した。

 先頭を駆けていたシルバーウルフがすぐに単独で跳びかかって来たが、長柄武器を持つ俺にとっては良い的以外の何物でもない。思い切りフルスイングした槍の柄がヒットし、1匹は後方へと大きく吹き飛んだ。次いで2匹のシルバーウルフが同時に掛かってきたが、片方を槍の石突で弾き、もう片方には蹴りを食らわせて少し距離を取る。

 ソードスキルを使っていないので大してダメージは与えていないが、多勢を相手取る時に強引な攻めは禁物だ。キリトとのパーティなら無理をしてもお互いカバーしあえるが、今日は慣れない即席パーティである。

 ひとまず3匹のタゲを取ることには成功した。これで疑似的なタンクとアタッカーの陣形が完成だ。あとはアタッカーであるフィリアにヘイトが集まらないように俺がチクチクと攻撃しながら、囲まれないように立ち回ればいい。

 レベルの問題で大したダメージは食らわないので、俺が被弾覚悟でソードスキルを使ってゴリ押しするという手もあるのだが、防具の耐久値がゴリゴリ削られそうなので却下だ。それにそういう戦い方に慣れてしまうと、変な癖がついて最前線での戦いに影響が出そうなので自重している。

 

 フィリアが1匹のシルバーウルフの後方からソードスキルを放つ。4連撃のそれが全てヒットすると、バックアタックボーナスもあるためか半分近く敵のHPを削った。俺はすぐにフィリアを庇うように位置取り、彼女へと移りかけていたモブたちのタゲを再び取る。

 タゲは単純に与えたダメージ量で決まる訳ではない。立ち位置、ヒット数、攻撃順、対峙時間など様々な要素に左右される。頭で考えると面倒だが、タゲ取りに慣れると管理は案外なんとかなるものだ。

 

 その後も危なげなく同じ流れを繰り返し、5分程度で1匹目のシルバーウルフを撃破した。残り2匹のHPもそれなりに削れていたので、まとめて一気にソードスキルで片を付けるつもりで俺は槍を構える。

 緑の一閃が煌めく。その一撃は2匹のシルバーウルフの胴体を正確に捉えた。

 しかしその刹那、俺は違和感を覚える。

 

 ――視線?

 

 妙な気配に気を取られつつも、放たれたソードスキルは狂うことなく2匹のシルバーウルフを貫いていた。それがとどめの一撃となり、2つの塊がガラス片となって砕け散る。その残滓がひらひらと舞う中、俺はすぐさま首を巡らせてダンジョンの奥へと目を向けた。

 視線を感じた方向には、これと言って不自然なものは何もなかった。プレイヤーもモブも居ない。ただ薄暗い空間が広がっているだけだ。

 

「お疲れ様! やっぱりハチは強いねー。……ん? どうかした?」

「……いや、何でもない。気のせいだ」

 

 こちらへと近づいてきたフィリアは気づかわし気にそう口にしたが、俺はかぶりを振って答える。槍を収めてフィリアへと労いの言葉を返しながら、俺は胸に湧いたその小さな疑念を振り払った。

 

 あの視線の正体がキリトたちなら隠れる必要はないし、そもそもパーティメンバー同士ならある程度近くにいればマップに表示される。ウィンドウに表示されたマップにはそれらしいマーカーはなかった。

 最悪なのはフィリアに絡んでいたあのチンピラたちに見られていたというパターンだが、奴らなら逃げるよりもむしろこちらに絡んでくるだろう。まあ仮に奴らが何か画策していたとしても、攻撃を受けるほどに近づいて来れば流石に察知出来る。

 

「……そろそろダンジョン最深部だ。慎重に行くぞ」

「うん」

 

 頭を切り替えるようにそう言って、俺は歩き始めた。マップを開いて自分の位置を確認しつつ、考えを巡らせる。

 これは今までの経験からくる勘であるのだが、マップの構造を見るにそろそろ終着点のはずだ。明確な理由が説明出来るわけではないが、「何となくそろそろボスだろうなー」という感覚がある。

 そんな俺の感覚を裏付けるように、そこからすぐに俺たちはこれまでとは雰囲気の違う大部屋へと行きついたのだった。

 50メートル四方ほどもある大部屋。俺たちが入ってきた通路の他に、左右に1つずつ同程度の道幅の通路が繋がっている。しかしそちらよりも気になるのは、突き当りの壁面に設置された窪みのある大きな石板だった。

 

「……意味深な窪みだな」

 

 石板の前に立った俺は、そう呟きながらまじまじとそれを観察する。

 直径2メートルほどの円盤石の左右には1つずつ窪みがある。縦に伸びる楕円――と言うには少し歪な形のその窪みは人の頭部程の大きさで、右の窪みは金に、左の窪みは銀に塗られていた。

 

「はい。じゃあここであらかじめ用意しておいた2つの髑髏を取り出しましょう」

「3分クッキングかよ」

 

 軽口を叩きながらフィリアがストレージから取り出したのは、それぞれ金と銀の輝きを放つ2つの髑髏だ。どちらもこの潮騒洞窟内で手に入れたアイテムである。

 銀の髑髏の方を一旦俺に渡し、窪みのサイズと合うか確かめるようにフィリアは金の髑髏を掲げる。

 

「うーん、ピッタリっぽいね。……どうする? 髑髏を嵌めたらエリアボスとご対面ってパターンが1番ありそうだけど」

 

 掲げていた金の髑髏を下ろしたフィリアはそう言ってこちらに視線を寄越す。

 キーアイテムを壁の窪みに嵌めるとボス部屋への通路が現れる――RPGのダンジョンなどでは鉄板のパターンだ。だが、単に宝物庫に通じているパターンもある。

 

「このエリアなら多分閉じ込められることはないだろうし……とりあえず嵌めてみようぜ。お宝が出てくる可能性もあるし。いきなりボスが出てきたら一旦下がって作戦会議でもするか」

 

 俺は周囲を見回しながらそう口にした。この部屋に通じる通路はかなり大きく、しかも3つも存在する。それが全て塞がれるとは考えにくいし、とりあえず髑髏を嵌めてみても逃げ道は確保できるはずだ。

 俺の提案に異議は無いようで、フィリアは頷いて金の髑髏を掲げた。俺も同じように銀の髑髏を掲げ、目の前の窪みに押し込む。予想通り2つの髑髏はピッタリと窪みに嵌り、しばらくするとそれぞれ金と銀の輝きを放ち始めた。

 次いで、轟音が大部屋に響き渡る。気付くと、目の前の岩壁が髑髏を嵌めた円盤と共に地面に沈み始めていた。俺とフィリアは後ずさりしながらその光景を眺める。

 30秒ほどで地殻変動は終わり、目の前に現れたのは岩壁を削るようにして作られた小部屋だ。その中央には何重にも鎖で封を施された、古びた大きな宝箱が配置されていた。そしてそれ以上に俺たちの目を引いたのは、その宝箱に腰かけて項垂れる人影だった。

 人影が、ゆっくりと立ち上がる。黒いインクを垂らしたような虚ろな眼窩と視線が交わると、そいつはけたたましい笑い声を上げた。

 

《スケルトン・キャプテンロバーツ》

 

 2メートルほどの巨躯に、朽ち果てたジャケット。擦れた海賊帽を左手で抑え、スケルトンだと言うのにその顔にはニヒルな笑みを浮かべているように見える。そのダーティな雰囲気に中二心をかなりくすぐられつつも、俺は状況を把握するべく頭を働かせた。

 固有名が付いているし、間違いなくあいつがエリアボスだろう。周囲に取り巻きは居ない。身長2メートルとはいってもボスにしては小型で、右手にぶら下げている曲刀も錆ついていること以外はごく一般的なものだ。パッと見、ソロでも割と普通に倒せそうな気がする。

 

「得物はタルワールか……。ボスにしては小型だし、意外とこのまま行けるか?」

「その辺の判断は全部ハチに任せるよ」

「よし、じゃあ――」

「うわああああああああああああああっ!!」

 

 俺の言葉を遮って、後ろから野太い声が響き渡る。ボスを警戒しつつも後ろを振り返ると、そこには大部屋に駆け込んでくる3人の男たちの姿があった。数時間前、ダンジョン内でフィリアに絡んでいたチンピラたちだ。

 こんなタイミングで……。舌打ちをしたい気分でそう思い、フィリアと共にこの場を離れようかという考えが頭を過る。しかし、すぐにチンピラたちの挙動が可笑しいことに気付いた。

 走るチンピラたちは俺たちのことなど眼中にないようで、鬼気迫る形相で大部屋の中央を駆け抜けてゆく。こちらに絡んでくる心配はなさそうだなと思いつつも、俺の中で嫌な予感は膨れ上がる。

 何かに追われているのか? いや、そもそもあいつらは5人パーティだったはずだ。あとの2人は何処に行った。そんな疑念が湧いた次の瞬間、なだれ込むように大量のモブたちが通路から押し寄せてきた。

 

「……おいおい。どうなってんだアレ……」

「ハ、ハチ! 他の通路からも……!!」

 

 そう言ったフィリアの視線の先、他の2か所の通路からもモブたちが大量になだれ込んでくる。大部屋の中で挟み撃ちにされる形になったチンピラたちは逃げ場を求めるように周囲を見回して俺たちと目が合うと、「助けてくれッ!」と大声を上げながらこちらに駆け寄ってきた。

 どの面下げて……という思いが頭を過るが、今は言い争っている余裕はない。槍を構えながら、フィリアと共に壁際へと下がった。その間にも、通路からは続々とモブが押し寄せてくる。

 

「何をしたらこんなことになるんだ……。つーか、お前らの仲間はどうした?」

「リ、リーダーが悪いんだッ! 《血肉》を使って、あんたらを嵌めようって言いだして……でも、そしたら思った以上にモンスターが集まってきちまって……リーダーたちは、自分だけ転移結晶使って逃げちまったんだ!!」

 

 俺の問いに、チンピラの1人が口早に状況を説明する。若干支離滅裂ではあったが、俺はおおよその状況を把握した。

 俺がここに来る前に感じた視線――あれはやはり気のせいではなく、俺たちを見つけたこいつらの視線だったのだろう。チンピラどもは一旦その場を離れ、俺たちを嵌めようと画策していたのだ。

 《モンスターの血肉》――通称《血肉》と呼ばれるそのアイテムは、一部のS級食材を調理し、それに失敗した時に低確率で手に入るアイテムだ。周囲のモブを引き寄せるという迷惑極まりない効果があり、SAO内では軍によってその使用を禁止されているほどである。

 チンピラたちはそれによって集めたモブたちを俺たちに押し付けるつもりだったようだが、予想以上に集まってきたモブたちのせいでその企みは失敗、今に至るといったところだろう。このタイミングで狙ってきたと言うことは、ここの髑髏の仕掛けの向こうにあるであろうお宝を掠めとることまで考えていたのかもしれない。

 傍迷惑すぎるチンピラたちの行動に苛立ちを通り過ぎて脱力しそうになるが、すぐに頭を切り替えて口を開く。

 

「お前ら、転移結晶は?」

「そんな高価なもん持ってねえよ!」

 

 3人のチンピラたちが、口々にそう答える。

 ……まあ、そうだよな。離脱手段があるならこんな所で油を売っているはずはないだろう。

 周囲に目を走らせる。押し寄せてくるモブは今まで遭遇してきたスケルトンクルーとその亜種や、シルバーウルフばかりで脅威となるものは居ないが、その数は恐らく50は下らない。まだ動き出していないものの、エリアボスもいつこちらに襲い掛かって来てもおかしくはない。

 一度、大きくため息を吐く。それから俺はポーチから3つ転移結晶を取り出し、それをチンピラたちへと放り投げた。咄嗟にそれを受け取ったチンピラたちはポカンとした顔を浮かべる。

 

「それ使って帰れ。使い方くらいはわかるだろ」

「――ッ! すまねぇ!!」

 

 俺の意図を理解したチンピラたちは殊勝にもそう口にして、それぞれ転移結晶を掲げると、すぐに青い光を放って消えていった。

 

「……で、フィリア。お前転移結晶何個持ってる?」

「一個しか持ってないけど……。ってハチ、もしかして」

「ああ、うん。さっきので全部渡しちまった」

「バカ……」

 

 呆れた顔でこちらに視線を寄越すフィリア。色々と言い訳はしたかったが、大部屋へとなだれ込んできたモブたちがもう目前まで迫ってきており、そんな余裕はなさそうだった。

 

「フィリア、お前は――」

「私も残る! 足手まといにはならないから!」

 

 俺の言葉をそう言って遮り、フィリアは短剣を構える。その意志は固そうだった。それでも俺は考え直すように説得しようと口を開こうとしたが、その瞬間ヒヤリとした感覚が首筋を過り、それは遮られた。

 ――パァン! と渇いた音が響き渡る。咄嗟に身を伏せた俺の頭上を、高速で何かが通り過ぎていった。すぐにその音が鳴り響いた方向へと視線を向ける。

 スケルトン・キャプテンロバーツ。いつの間にかその左手に構えていた古めかしい年代物の拳銃の銃口から、硝煙が立ち昇っていた。使い終わったそれを投げ捨てると、次いでジャケットをまくって腰へと手を伸ばす。そこにはおそらく既に装填済みであろう拳銃がいくつも用意してあった。

 そんなんありかよ……。そう思って頭を抱えそうになる俺の後ろで、フィリアが冷静に呟く。

 

「遠距離攻撃もあるわけね……。ハチ、私がボスのタゲを取って時間を稼ぐ。だから他は全部よろしく!」

「あ、おい! ……ああもう! くそっ!!」

 

 俺が返事をする間もなく、フィリアは小部屋でタルワールと拳銃を構えるボスへと向かって行ってしまう。もはや俺はやけくそになりながら、目前に迫っていたモブの大群へと突っ込んだ。

 この場を2人で乗り切るためには、おそらく最善手だろう。モブの大群を相手にしながらボスのタゲを取ってしまえば、身動きが取れなくなったところを狙撃される可能性が高い。いかに俺のレベルが高いとは言っても、エリアボスの攻撃を無視できるほどではない。故に雑魚の大群とボスはタゲを2つに分散させる必要があった。

 それが分かっているからこそ、俺はフィリアの提案に乗るしかない。

 

「30分だ! 30分で全滅させる! それまで耐えろ!!」

「了解!」

 

 この状況ではフィリアを信じて任せるしかない。そう腹を括り、俺は眼前の敵目がけて槍を突き出したのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第29話 死域

 これほど気持ちの高ぶりを感じるのは、いつ以来だろう。

 危機的状況を前に、場違いにもフィリアはそんなことを考えていた。

 彼と共に、命を懸けた戦いをしている――その事実が、フィリアに酩酊にも似た高揚をもたらした。しかし、この場を託してくれた彼の信頼に応えるためにも、逸る心を必死に諌める。浮ついた気持ちで乗り切れるような局面ではなかった。

 

 キリト、アスナ、そして――ハチ。

 フィリアは以前から、同世代でありながらアインクラッドの最前線で日々戦う彼らに憧れにも近い感情を抱いていた。その中でもとりわけハチはフィリアの愛読書『Hachiという漢』の主人公であり、好意を抱くなという方が無理があった。

 このダンジョンで彼らと出会った時、実を言うとフィリアは心臓が飛び出るのではないかというほど驚愕していたのだ。しかしあまりミーハーな反応をしてしまうと彼らに嫌がられるのではないかと考え、なるべく何でもないように振る舞ったのだった。

 パーティに誘われた時など、本当は天にも昇る気分だった。自然と緩んでしまう頬を悟られないようにするのが大変だったほどだ。

 それでもフィリアは心の中で自分のことを必死に諌め続けた。自分が彼らに抱いている人物像は、自分が勝手に伝聞から作り上げたものだ。それを独りよがりにも本人に押し付けることはとても失礼なことだと思ったし、ハチが小説に書かれた通りの人物であるのなら、その行為を酷く嫌うはずである。だからフィリアは先入観に囚われないように努めていたのだった。

 

 しかし、結果から言えばそんなフィリアの努力は徒労に終わった。

 彼らの振る舞い、言動、実力、その全てがフィリアの期待していた通り、いやむしろそれ以上だった。アスナは意外と気さくで話しやすく、キリトは性根が真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐで、そしてハチはやっぱり卑屈で捻くれていて――それでいて、心根はどこまでも優しい少年だった。

 

 彼に惹かれているという自覚はあった。だが、最前線で命を懸けて戦っている彼らの間に、自分が入り込む余地はないということもよくわかっていた。だからせめてこの場だけでも彼の力になれたらいいと、フィリアはそう思っていた。

 

 恐怖は、ある。そもそもフィリアは本来もっと臆病で引っ込み思案な女の子だった。だが、今ここにいるのはそんなか弱い女の子ではない。

 いつか見た、アニメの登場人物。どんな状況でも取り乱さず、ニヒルな笑みを浮かべながら危機を乗り越えてゆくトレジャーハンター。このSAOの世界でなら、自分もそんな憧れの存在に近づける。

 現実世界の何も出来ない女の子ではなく、今の自分はSAOのフィリアだ――彼女はそう自分に言い聞かせる。それは自分に酔っている、と言えるのかもしれない。それを自覚しつつも、しかしフィリアはそれでも良いと思っていた。それで彼の力になれるのだから。

 

 荒い息を整えながら、フィリアは相対する敵をよく観察する。

 スケルトン・キャプテンロバーツ――海賊の財宝が隠されているとされるこの洞窟で船長(キャプテン)の名を冠するのだから、間違いなくボスモンスターに当たるはずだ。当然、フィリア1人では荷が勝ちすぎる相手だった。

 無理にダメージを与える必要はない。タゲを取りながら、少しでも時間を稼ぐ。格上の敵を前に、フィリアは全神経をそれだけに集中していた。

 

 近づけば右手のタルワールで、離れれば左手の拳銃で攻撃を仕掛けてくる。常に気を抜くことは出来ない。

 幸い拳銃は1発撃つごとに装填が必要なタイプで、連射はきかないようだった。撃った後はあらかじめ用意しておいた新しいものに持ち替えているので、もしかしたらどこかで打ち止めになるかもしれないという希望もあった。

 銃口の向きからおおよその弾道を予測するのは難しくない。だから近づいてタルワールを捌くよりも遠巻きに拳銃を警戒する方が楽だ。大部屋の中央で戦っているハチにタゲが向かないように隙を見ては投擲スキルでチクチクと攻撃しながら、常にある程度の距離を取って戦う。ハチは大部屋を駆け回って上手くタゲを管理しているようで、フィリアに向かってくる他のモブはまだ一体もいなかった。ただ、詳しい戦況は分からない。気にしている余裕がないのだ。ボスから目を離した瞬間に銃弾が飛んで来ないとも限らない。

 

 距離を詰めてくるボスの剣戟を捌き、バックステップで再び距離を取る。度々撃ってくる拳銃の弾を、弾道を予測して何とか避ける。ひたすらにそれだけを繰り返しながら、ただ時を待った。

 なんとか致命傷は避けられているが、それでも完全に攻撃を回避出来るわけではない。ここまでの攻防で、5つ用意してあった回復結晶(ヒールクリスタル)は既に残り1つになっていた。

 

 あとどれだけ時間を稼げばいい。自分はあとどれだけ耐えられる。

 焦りが、胸中に広がってゆく。だがフィリアは、自分の選択を後悔するようなことだけはしないようにと心を強く持った。

 

 遠巻きにこちらを伺っていたボスが再び急接近する。咄嗟に短剣を合わせるが、勢いに乗ったタルワールの一撃は捌き切ることが出来ず、フィリアは後方へと大きく吹き飛ばされた。地面を転がりながらも何とか体勢を整え、追撃に備えようと顔を上げた瞬間乾いた発砲音が鳴り響く。

 銃口から立ち上る硝煙。銃弾はフィリアの胸部を貫き、HPは一気に半分ほども削られた。フィリアは迷わずに回復結晶(ヒールクリスタル)を使い、瞬時にHPを全回復させる。

 ここからが正念場だ。フィリアは自分にそう言い聞かせ、気合いを入れる。

 

 対するボスはこれまでと同じように使用した拳銃を放り投げ、新しい拳銃を求めて腰元を探る。しかしどうやらもう打ち止めらしく、苛立った様子で再び掲げた左手には何も持っていなかった。

 これでもう遠距離攻撃はない――そう安堵したのもつかの間、ボスは雄叫びを上げながら左手を頭上へと掲げる。それに呼応するように、地面から無数の骸骨たちが這いずるようにして出現した。

 その光景に一瞬ぎょっとしたフィリアだったが、すぐに冷静になる。ランクの高いモンスターではない。ここまでに散々見かけたスケルトンクルーだ。ボスにもう遠距離攻撃がないのであれば彼らを壁に使うことも出来るので、時間を稼ぐことだけを考えればむしろ好都合である。しかし生み出されたスケルトンクルーたちはフィリアの予想外の行動に出たのだった。

 地面に点々と散らばる拳銃。ボスが今まで投げ捨てていたそれを拾い、何やら作業を始めたのだ。空になった拳銃に弾を装填しているのだと気付いたフィリアは慌ててそれを止めようとしたが、2体のスケルトンクルーを倒すのが精一杯だった。

 数体のスケルトンクルーが、装填を終えた拳銃をボスへと手渡す。それを受け取ったボスは腰のホルスターへとそれを仕舞い、残った一丁を手に取った。

 

 振り出しに戻された――いや、スケルトンクルーが8体追加である。そして用意してあった回復結晶(ヒールクリスタル)は既に底をついている。その状況にフィリアは息を呑みながら短剣を構え直した。

 細かいことを考えるのは、もう止めだ。あとは全力で戦うしかない。そう腹を括ったフィリアは先手を打つべく先頭に立つスケルトンクルーへと踊り掛かった。

 突き、斬り、足元を蹴り払って転倒させる。囲まれる前に大きく下がりながら、ナイフを投擲。ボスの射撃を地に臥せって回避しつつ、再びスケルトンクルーの群れへと突っ込む。もはやフィリアに恐怖はなく、思うがままに剣を振るうだけだった。

 

 生きている。私は今、生きている。戦っている。生きるために戦っている。

 そう叫びたくなるような衝動が、体を駆け巡っていた。

 

 一手でも選択を誤れば、形勢は一気に敵へと傾くだろう。そんな綱渡りのような攻防を続けながら、何とか1体、2体とスケルトンクルーを屠っていく。HPにはまだ余裕があった。だが、極限状態での集中力はそう長くは続かなかった。

 振り下ろされる、眼前の刃。受けるべきか、避けるべきか――そんなミスとも言えないような一瞬の逡巡が、致命的な隙になった。

 一拍、反応が遅れた。そこを狙ってここぞとばかりにスケルトンクルーたちが攻撃を畳みかける。捌き切れない。そう悟った刹那、フィリアの目が捉えたのは振り上げられたボスのタルワールだった。

 胸部に走る衝撃と共に、大きく後方へと跳ね飛ばされる。受け身も取れずに転げまわり、そのまま岩壁へと衝突した。視界の端のHPバーが赤く点っているのを確認したのも束の間、左手に拳銃を構えるボスモンスターと視線が交わった。

 避けられない。その瞬間、フィリアは時が止まったかのような錯覚を覚えた。

 

 ――楽しかったな。

 

 何故か酷く緩慢に映る世界の中、頭に過ったのは場違いにもそんな感情。フィリアは存外に穏やかな心境で、ゆっくりと目を閉じる。

 次の瞬間、洞窟内に渇いた銃声が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何か壁を1枚、越えたような感覚があった。

 

 視界を埋め尽くすほどのモブの軍勢。それを少しでも早く殲滅するために、俺は我武者羅に槍を振るった。

 5合、6合、武器を合わせてから、生じた隙を突く。それが俺の戦闘のリズムだった。凡庸な俺にふさわしい保守的な戦い方だ。それはそれで使いどころはあるのだが、しかし今は状況がそれを許さなかった。

 今求められるのは、もっと強引な攻めだ。相手の動きを見極め、大胆に踏み込んで一気に押し切る――思い描くのは、キリトの動きである。

 槍を短く構え、波のように押し寄せる攻撃を掻い潜って懐から敵を突き崩す。そんな俺の立ち回りは理想(キリト)とは程遠いものであったが、この場ではステータスにものを言わせてごり押すことが出来た。槍を疾らせ、1体2体と順調にモブを屠ってゆく。しかし当然、消耗も激しかった。

 普段の狩りとは、わけが違う。数十体のモブを相手に、休むことなく全力で攻め続けなければならないのだ。

 目まぐるしい動きと慣れない立ち回りに、自然と息が上がる。人間の全力運動とは本来、数秒しか持たないものだ。この仮想世界には肉体的疲労がないとは言え、やはり精神にもそれに準じた限界があった。むしろ肉体というリミッターがない分、脳に掛かる負担は現実世界の比ではない。

 体が重い。息が苦しい。そんな思いを捻じ伏せて、槍を振るう。しかし確かに限界は迫りつつあった。

 

 倒したモブの数は10を超えたあたりから数えるのをやめたが、敵の軍勢はだいたい最初の半数ほどにまで減っていた。ここまで時間にして20分弱。ペースとしてはそこまで悪くない。しかし、もはや体は鉛のように重く感じていた。

 

 突き、薙ぎ払い、踏み込んでソードスキルを放つ。技後の硬直から立ち直った瞬間にまた駆け回る。スケルトンクルーの持つ剣の切っ先が頬を掠めるが、ダメージを気にしている余裕はない。

 チカチカと視界が白く霞み始める。食いしばって意識を保ちながら、何とか槍を突き出した。我武者羅に槍を振るいながら、それを何度も繰り返す。

 もう、限界だ。いいじゃないか。俺はよく頑張った。今諦めたとしても、きっと誰も俺を責めはしない。そんな仄暗い感情が首をもたげるが、その度に何故かキリトやアスナの顔が頭にちらつき、俺に諦めることを許してくれなかった。

 あいつらなら、きっと諦めない。いや、あんな規格外な奴らの不屈の精神と同等のものを俺に求められても困るのだが、それでも俺のちっぽけな矜持が、少なくとも今ここで諦めることを是とはしなかった。

 1度、大きく雄叫びを上げた。ここで槍を置くわけにはいかない。疲弊によって混濁する意識の中、もはや何のために戦っているのかも曖昧になっていたが、そんな意地だけが残っていた。

 

 こうなったらトコトンまでやってやる。そう半ばやけくそ気味に腹を括った瞬間、何故かふと体が軽くなったような感覚を得た。同時に、視界が途端にクリアになる。そしてあれだけ息苦しかったのが嘘のように呼吸が楽になった。

 何だ、これは。そう困惑しながらも、槍を疾らせる。

 敵の動きが、止まって見える。俺はモブの間を縫うようにして駆け抜け、すれ違い様にスケルトンクルーの首を3つ飛ばした。

 妙な感覚だ。ただ、調子が良いだけではない。いつまででも戦えるような気分だ。自分が限界だと思っていたライン。そこを踏み越えると、不思議な空間が広がっていた。

 もう何も怖くない――いや、死亡フラグだ、コレ。と、そんなふざけたことを考える程度に思考にも余裕が生まれていた。

 

 そこからは、蹂躙だった。こちらを囲むモブたちの剣や牙はもはや俺に届くことはなく、一呼吸のうちに2体、3体と敵を屠ってゆく。敵の数が残り少なくなり、ようやく終わりが見えてきた。

 そこで一旦息を吐き、俺はフィリアとボスの様子を伺う。モブたちのタゲは上手く管理していたつもりだ。だが、俺の視線の先にはスケルトンクルーたちに囲まれるフィリアの姿があった。

 

 馬鹿な、何故――そんな思考が頭を過るが、原因を探っているような余裕はなかった。次の瞬間、乱戦の中ボスモンスターの振るったタルワールがフィリアに直撃し、大きく吹き飛ばされた。

 咄嗟に、フィリアの元へと駆け出した。途中残っていたモブたちが道を阻んだが、駆け抜けながらその体を両断する。青白いガラス片が舞い散る中、フィリアへと拳銃を向けるボスモンスターの姿を視界に捉えた。

 無心で、ソードスキルを放った。急加速し、大きく槍を払う。渇いた銃声が響いたのとほぼ同時、穂先が小さな鉄球を弾いた手ごたえを感じた。弾道は大きく逸れ、フィリアを貫くはずだった銃弾は後ろの岩壁に着弾する。

 マジか。その結果に自分で驚愕する。これ、もう1回やれって言われても絶対無理だな……。そんなことを考えつつ、フィリアを背にして槍を構え直し、口を開く。

 

「悪い、待たせた」

「……ハチ」

 

 呆けた声を上げるフィリアに、ポーチから回復結晶(ヒールクリスタル)を取り出し投げて渡す。ボスモンスターとその取り巻きはすぐに動く様子はなく、こちらを伺っていた。

 

「後は任せて、お前はそこで休んでろ」

「う、ううん。私も……」

「いや、足元フラフラじゃねえかお前。無理しないで休んでろ。それに今、俺、何か調子がいい」

「でも――」

 

 なおも食い下がろうとするフィリアを目線で制し、俺はなるべく安心させるように強く頷いた。ややあって、フィリアは力なく頷き返す。そしてそれを待っていたかのように、ボスモンスターたちが動き出した。同時に、俺も地を這うように駆け出す。

 

 取り巻きなど、今さらものの数ではない。目の前のスケルトンクルーたちを蹴散らし、奥に立つボスモンスターへとソードスキルを放つ。それは無防備に拳銃を構えようとしていたボスモンスターに直撃し、大きく後方へと吹き飛ばした。

 訪れるスキル後の硬直。その隙を狙って周囲のスケルトンクルーたちが俺に斬りかかるが、寸でのところで硬直から抜け出し、回避しながらカウンター気味に槍を走らせる。それを受けた敵が2体、3体、とガラス片となって砕け散った。いまだ体勢を崩したままのボスモンスターを横目に確認しながら、残りのスケルトンクルーたちに躍りかかる。武器を打ち合わせることなく強引に押し切り、一息のうちに全てのスケルトンクルーを撃破した。

 

 体勢を立て直したボスモンスターと、視線が交わる。2メートルに達しようかという巨躯に、虚ろな眼窩。普段ならば気圧されてしまいそうなその雰囲気に、しかし何故か今は微塵も恐怖を感じない。

 手に馴染む重みを妙に心地よく感じながら、槍を低く構える。油断するわけではないが、全く負ける気がしなかった。

 

 先に仕掛けたのはボスモンスターだった。接近し、タルワールを振り下ろす。その安易な一撃を真正面から弾き飛ばすようにソードスキルを放ち、敵の胸部を穿つ。刺突系の攻撃はスケルトン系モンスターには相性が悪いが、正中線を捉えたからかその一撃は大きく敵のHPを削った。

 敵の動きが鈍る。やがて立ち合いを仕切り直すべく敵は下がろうとしたが、硬直から立ち直った俺が追いすがる方が早い。俺の槍に2合、3合と何とかタルワールを合わせるが、やがて捌き切れなくなったところで俺の渾身のソードスキルが放たれる。それを体で受けたボスモンスターは骨を軋ませながら耳障りな悲鳴を上げたが、俺は追撃の手を緩めずにひたすら攻め続けた。そうして休む間もなく何度もそれを繰り返し、敵のHPを削ってゆく。

 感覚が、研ぎ澄まされていた。敵の剣筋、足さばき、その一挙一動に至るまでが良く見える。耳をすませば、相対する敵のその衣擦れの音まで聞こえる気がした。

 

「これで、終わりだッ!!」

 

 戦いの中、妙なテンションになっていた俺は柄にもなくそんな声を上げた。明らかな劣勢に立たされたボスモンスターも最後になんとか俺に一矢報いようとしたのか、下がりながら左手の拳銃を構える。

 光を灯した穂先が突き出されたのと、拳銃の発砲音が鳴り響いたのは、ほぼ同時。鉛玉が頬を掠めるのを肌で感じながら、俺はボスモンスターの眉間を刺し貫いた。その一撃が、数ミリ残っていた敵の赤いHPバーを削りきる。

 

「凄い……」

 

 まだ洞窟内に銃声の反響が残る中、感嘆するようなフィリアの呟きが後を追う。

 眉間を貫かれたボスモンスターはその瞬間動きを止め、口から漏らすように小さな呻き声を上げた。そして銃を構えたままだった左手をだらりと下げ、一瞬の硬直の後、青いガラス片となって砕け散っていった。俺は大きく息を吐きながらそれを眺め――糸が切れたように、大の字になって仰向けに倒れ込んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《死域》と呼ばれる境地があるらしい。

 以前トウジから聞いた話だった。普段は大人しいイメージのトウジが、珍しく熱っぽく語っていたのを覚えている。

 

 ――僕の好きな作家さんが作った設定、造語なんですけどね。まあ僕は本当にあると信じてます。一流の武術家が極限まで自分を追い詰めてようやく至れる境地で……ゾーン体験とランナーズハイが同時に訪れるとイメージすれば分かりやすいでしょうか。

 人間の体力には限界があります。でも、一般的に限界と言われるラインよりも、本当の限界はもう少し先にあるんです。一般的に限界だと言われるラインというのは、限界ではなくその手前にあるリミッターなんです。そして弛まぬ鍛錬によって、人はそのリミッターを振り切ることが出来るようになる。

 そうしてそこを踏み越えた人間は、驚異的な力を発揮出来るんです。疲労はなくなり、頭は冴え、体は思うように動かせる。

 そんなリミッターと(本当の限界)の間にだけ存在する境地、故に《死域》というわけです――

 

 

 

 

 

 

 

「ちょ……!? だ、だだ、大丈夫ッ!?」

「……ああ。ちょっと疲れただけだ」

 

 一瞬飛びかけていた意識を、フィリアの声が現実に引き戻す。焦って駆け寄ってくる彼女をぼんやりと視界に入れながら、俺は何とか返事を返した。薄暗い洞窟の天井を眺めながら、そのまま再び大きく息を吐く。

 妙に調子のよかった先ほどから一転、今は指一本動かすのさえ億劫になるような疲労を感じていた。肉体的な疲労はないはずの仮想現実だが、体を動かしていれば脳が《疲れた》と錯覚することは間々あることだった。もちろんその程度は現実世界とイコールではないために無理は利くのだが、度が過ぎれば今回のようなことになる。

 

 しかし、死域か。今回、俺はその境地へと至ったのだろうか。

 疲労が吹き飛び、時が止まったのかと錯覚するほど思考が冴えわたる感覚。無心でいながら、頭を様々な情報が駆け抜けていく感覚。リラックスしていて、それでいて異様に集中している感覚。

 死域――その言葉以外に、あの感覚をどんな言葉にすればいいのかわからなかった。

 

 トウジの話では一流の武術家のみが至れる境地という話だった。だが、もちろん俺はそんなものではない。いくらSAOが始まってから戦い漬けの毎日だったとは言え、ずぶの素人が1年や2年でそこまでの域に到達出来るはずがない。

 だが、この仮想世界での身体能力だけを考えてみればどうだろうか。今の俺のステータスならば、現実世界ではあり得ないほどの能力を有している。つまり肉体だけで言えば合格点で、あとは極限まで自分を追い詰めれば死域へと至れる――のかもしれない。

 

 トウジからは「死域というだけあってそのままの状態で動き続けると本当に死んでしまうので気を付けてください。ある程度のところで動くのをやめれば自然の状態に戻れるそうですけど」と聞いている。気を付けるも何も、そもそも俺は一流の武術家じゃないし……とその時は聞き流していたのだが、今後また同じような体験をしたら気を付けた方が良いかもしれない。今回は多分大丈夫だと思うけど……。え? 大丈夫だよね?

 

 しかし死の間際で覚醒して急に強くなるとか、なかなか中二心をくすぐられる設定だ。サ○ヤ人的な。

 

「ハチ? 何ニヤニヤしてるの? もしかしてどっかで頭打った?」

「いや、真面目に心配しないで。悲しくなるから」

 

 フィリアの声に再び現実に引き戻された俺は、そう言っていつの間にか緩んでいた頬を引き締めた。そして言い訳をするように言葉を続ける。

 

「……何か楽しかったな、と思ってな。こんな何も考えずに槍ぶん回したのは久しぶりだ。疲れたけど、嫌な疲れじゃない」

 

 本当のところは自分が死域(らしきもの)に至ったことについてニヤついていたわけだが、今の言葉も嘘ではない。疲労と共に、今の俺は妙な清々しさを感じていた。

 いつからか、しがらみに足を取られながら戦っていたのかもしれない。洞窟の天井を仰いだまま、俺は悟ったようにそんなことを思った。

 攻略組である、ということの責任感。ゲームをクリアしなければならない、という使命感。俺がやらなければならない、という強迫観念。きっと知らず知らず、そんなものを抱え込んでいた。

 

 久しぶりに、そこから解放されたような気分だった。余計なことが頭に過る余裕もなくなるほど我武者羅に戦い、そして勝利を掴み取ったのだ。あの境地に達するまでにはかなりの苦痛も伴ったが、喉元過ぎれば何とやらだ。

 何を求めて、SAOを始めたのか。そんな最初の気持ちを思い出せた気がした。

 

「そっか……。うん。ハチが楽しかったなら、私も嬉しい」

 

 母性を感じさせるような優しい笑みを浮かべながら、フィリアが頷く。その笑顔に少しドキリとしたが、それに狼狽える間もなく、気が付くとフィリアが浮かべていた笑みは妙にギラついたものへと変わっていた。

 

「でも、一番のお楽しみはまだ終わってないよ。トレジャーハントの醍醐味は、ここからなんだから」

 

 言って、フィリアは俺へと手を差し伸べる。その言葉の意図するところを察した俺は、いやに男前な彼女の振る舞いに苦笑いしつつその手を取った。

 ふらつく体を度々フィリアに支えられながら、エリアボスが待機していた小部屋の奥、巨大な宝箱の前まで移動する。人間が2、3人くらい入るのではないかという大きさだ。鎖でグルグル巻きにされて過剰なまでに封が施されていたので一瞬開くのか不安になったが、フィリアが軽く右手で触れると鎖は砕け散っていった。

 フィリアと顔を見合わせ、頷き合う。そして2人で同時に宝箱の蓋へと手を掛け、ゆっくりとそれを開いた。

 

「うわっ、すっご……!!」

「おお……」

 

 感嘆の声を上げるフィリアの隣で、俺も軽く息を漏らす。

 巨大な宝箱を埋め尽くす金貨。さらにそれに混じって高そうな宝石やアクセサリーなどもちらほら存在し、パッと見ただけでも換金すれば相当な額のコルになるだろうことは想像がついた。

 

「高価な素材アイテムとか、換金アイテムばっかりだよ……。あ! これ! ハチの探してたインゴットじゃない?」

 

 そう言って、フィリアは宝箱の中に手を伸ばす。金貨をかき分け、彼女が両手で大事そうに掴み上げたのは青い輝きを放つ綺麗な地金だった。

 

《マリンブルーインゴット》

 

 目の前に、アイテム名が浮かび上がる。風林火山に集まる情報の中でも聞いたことのない、珍しいインゴットだ。詳細をチェックするまでもなく、俺が求めていたアイテムであることがわかった。

 差し出されたそれを受け取り、再びフィリアと顔を見合わせる。嬉しそうにはしゃぐ彼女の様子を見ていると、様々な感情が込み上げてきた。

 柄ではないのは分かっているが、こういう事は1度はちゃんと言葉にしておかなければならないだろう。そう自分を鼓舞し、やや躊躇いつつもやがて俺は意を決して口を開いた。

 

「あー……。フィリア」

「ん? なーに?」

「いや、その、なんだ……。今回のこと――」

「あー! やっと見つけたー!!」

 

 俺の言葉を遮って、聞き覚えのある女の声が響いた。振り返ると、男女の2人組が遠くからこちらに駆け寄ってくる姿が目に入る。横目でフィールドマップを確認すると、パーティメンバーを表すマーカーがフィリアを含めて3つ点灯していた。

 潮騒洞窟最深部、エリアボスの居なくなったその部屋で、俺たちはようやくキリトとアスナの2人と合流を果たしたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第30話 心の澱

「やっぱり先越されてたかー……。途中結構トラップで時間食ったのがまずかったなぁ」

「別に競争してたわけじゃないでしょ。目的のインゴットも見つかったみたいだし、よかったじゃない」

「まあそうだけどさー」

 

 不貞腐れた表情でそう口にするキリトを、呆れ顔のアスナが宥める。先ほどエリアボスと対峙した大部屋の端に腰を下ろし、俺たちはお互いの状況報告をしていたのだった。キリトは拳銃を使うスケルトンのエリアボスに興味津々で、実際に戦ってみたかったようだ。筋金入りのゲーマーだな。

 エリアボスは俺とフィリアが討伐したが、キリトたちも俺たちとは別ルートで色々と収穫はあったらしい。結果的にほとんど別行動になってしまったので分配の話は改めてすることになったが、それはとりあえず街に戻ってからと言う話になった。

 

「じゃああらかた目的も達成したし、もう撤収ってことでいいか?」

「ああ。今日はマジで疲れたから、さっさと帰りたい」

「ハチはいつも同じこと言ってるけどな」

「いや、今日はマジでヤバイんだって。どのくらいヤバイかっていうと、マジヤバイ」

「ごめん。全然伝わらないんだけど」

 

 キリトとそんな馬鹿なやり取りをしながらも、ゆっくりとその場から立ち上がる。ちなみに狩りから帰る時は基本的に徒歩だ。転移結晶はそれなりに高価なので、緊急時以外はあまり使うことはない。そう考えるとチンピラたちに3つ渡してしまったのは中々の痛手なのだが、まあ人の命には代えられない。

 若干フラフラとしながら立ち上がった俺を、フィリアが気を遣って支えてくれる。それに少しドギマギしつつも、大丈夫だと断りを入れようとしたところで、訝し気なアスナの視線がこちらに突き刺さった。

 

「……ねえ。ちょっと2人、なんか距離が近くない?」

「あ、いや……ハチ、さっきのバトルで本当に疲れてるみたいだったから、ちょっと肩を貸してるだけで……」

「そう。なら、わた……キリト君に変わってもらった方がいいんじゃない? フィリアも疲れてるでしょ?」

「え、あ、うん」

「まあ俺も構わないけど、そうするとこの先のモブはどうする――って、噂をすればだな」

 

 キリトがそう言って視線を向けた先には、カタカタと骨を鳴らしながらこちらへと歩いてくるスケルトンクルーの姿があった。まだかなり距離はあるが、俺たちを狙っているのは明らかだ。

 4人で、顔を見合わせる。正直なところ未だにかなり体がしんどいので戦いたくはない。そんな俺の意志が通じたのか、アスナは大きく息を吐くと腰に差したレイピアを鞘から抜き放った。

 

「……この状況だと、私とキリト君で戦うのがベストよね。ごめんねフィリア、やっぱりハチ君のことお願い出来る?」

「う、うん。任せて」

 

 頷くフィリアを認めると、アスナはキリトと声を掛け合ってスケルトンクルーへと向かって行った。そして数十メートル行ったところで剣を交え始める。あの2人なら5分も掛からずに敵を倒すことが出来るだろう。

 俺を支えるフィリアの横顔を、ちらりと盗み見る。凛とした目鼻立ちに、少し朱の差した頬が妙に艶めかしい。しかしそんな色ボケした思考を振り払い、俺は意を決して口を開いた。

 

「あー……フィリア、ありがとうな」

「いいよいいよ、全然このくらい」

「いや、今のことだけじゃなくて。ボス戦の時のこととか……いや、それだけでもないんだけど……まあ今回のこと、色々助かった」

 

 先ほどはキリトとアスナの登場によって遮られてしまったが、ようやくそう口にすることが出来た。

 今回のダンジョン攻略、本当にフィリアの存在に助けられたと思う。あれだけ清々しい気分でエリアボス戦を制することが出来たのも、彼女のお蔭だと思っている。

 しかし本人にとってはそんな俺の言葉が意外だったのか、フィリアは焦ったような表情を浮かべていた。

 

「ちょっ、止めてよ、急に改まって……。ていうか私の方が色々助けられたし……」

「いやまあ、俺はレベル的に出来ることだけやってた感じだし。お前はエリアボスの相手とか、かなり無茶してくれただろ」

「……アレを『出来ること』って割り切れちゃうハチもかなり凄いと思うけど」

 

 呆れたように、フィリアが呟いた。まあこれはレベル帯が違うと理解しづらい感覚なので、無理にわかって貰おうとは思わない。そうして俺が曖昧な表情で返すと、次いでフィリアが再び口を開いた。

 

「まあ私の方もちょっとハイになって柄じゃないことしちゃっただけというか……。あの場のノリというか……。だからホントに気にしないで」

 

 そう言って、フィリアは苦笑を浮かべる。素直に礼を受け取ることが余程居心地が悪いのか、一拍置いてからさらにまくし立てるように言葉を続けた。

 

「何て言うかさ、一種のロールプレイって言うのかな。仲間のために命張るなんてカッコいいこと、現実世界の私じゃ出来ないけど、SAOのフィリアになら出来る、みたいな?」

 

 少し茶化したようにそう口にした彼女は、やがて心なしか遠い目をして軽く息をついた。そんなはずはないのに、何故かその瞳は俺を見透かすようにこちらを覗いている気がして、俺は息を詰まらせる。

 

「現実世界の何も出来ない私じゃない。ここでなら、SAOのフィリアになれるの。……って、ごめん! 何言ってんだろ私――」

 

 そう言って笑うフィリアは、気恥ずかしさを誤魔化すように更に話を続ける。しかし、その声は最早俺の耳には入っていなかった。

 

 『現実世界の何も出来ない私』

 

 その言葉が、耳の奥でゆっくりと木霊する。やがてそれは、俺の心の奥深く、澱のように沈み込んでいたものを浮かび上がらせた。

 

「あれ? ハチ、どうかした?」

 

 黙り込む俺の様子を妙だと思ったのか、いつの間にかフィリアが気遣わし気にこちらを覗き込んでいた。我に返った俺はかぶりを振り、なるべく不自然にならないように口を開く。

 

「……いや、お前が言ってること、よくわかると思ってな」

「え、それって――」

「おーい。終わったぞー」

 

 フィリアの言葉を遮って、キリトの声が大部屋に響く。見ると、戦闘を終えて剣を収めた2人がこちらに向かって軽く手を振っていた。

 

「……行こう」

「あ、うん」

 

 言って、フィリアの肩を借りながら歩き出す。

 その後俺の体力が戻るまでにはしばらくの時間を要し、結局戦闘に参加することは出来なかったが、モブはキリトとアスナによって迅速に処理されていった。トラップの類も一度来た道を戻るだけなので特に脅威になることはない。それなりに時間は掛かったが、問題なくダンジョンの出口へと辿り着くことが出来たのだった。

 こうして長かったダンジョン攻略はようやく終わりを告げ、俺たちは潮騒洞窟を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へえ、フィリアちゃんは無所属なのか。ならうちのギルドなんかどうだ? ハチたちとパーティ組んでたってことは結構レベルも高いんだろ?」

「えっと、私は……」

「クライン、フィリアが困ってるだろ。そもそも今日は飯だけって話で連れて来たんだから、そういう話はなしだ」

「わりぃわりぃ。ま、気が向いたら仮入だけでもいいから声かけてくれよ」

 

 風林火山のギルドホーム。そのダイニングで食事の席に着きながら、クライン、フィリア、キリトの3人はそんなやり取りを交わす。フィリアは少しだけ気まずそうに苦笑いを浮かべていたが、キリトからの牽制が入ったおかげか、その後は始終穏やかな雰囲気で食事を勧めていた。

 ダイニングには他に俺を含めた風林火山のメンバーが数名と、アスナが食卓を囲むようにして席に着いている。時刻はまだ6時前だったが、少し早い夕飯ということでここで食事を取っていた。

 

 潮騒洞窟から無事帰還し、既に3時間程が経っていた。

 サチと共同で武具店を経営しているという女鍛冶師に依頼し、既に武器の生成も済ませてある。その結果、現状アインクラッドにはこれ以上の槍はないだろうと断言できるほどのステータスの武器が完成した。槍の性能が高すぎて要求筋力値がギリギリでヒヤっとしたほどだ。

 その後はフィリアも含めて打ち上げがてらみんなで飯でも、という話になった。最初は俺とキリトが第一層で良く行くレストランにでも行こうと思っていたのだが、そこでたまたま通りかかったクラインに捕まって「飯? そんならうちのギルドで食ってけよ! うちの給食担当の飯は美味いぜ?」という誘いがかかり、何故か風林火山のギルドホームで夕食を食べることになったのだった。

 まあ、確かにうちのギルドの給食担当の料理は美味い。料理スキルのレベルが高いので、下手な店で食べるよりも味は確かだ。だが、さすがに知らないギルドのホームで飯を食うのには抵抗があるのではないかとフィリアに気を遣って俺は断る流れを作ろうとしたのだが、意外とフィリアがうちのギルドに興味があったようで、そのままトントンとここまで至ってしまったのだった。

 

「まーたハチはそんな無茶やらかしやがったのか……。フィリアちゃんも大変だったろ?」

「あ、いえ。私も好きで付き合ってたので」

 

 今日のダンジョン攻略について詳しい話を聞いていたクラインが、呆れたように呟く。「無茶」とは、潮騒洞窟最深部でのエリアボス戦の話だろう。キリトやアスナも同意するように頷いていたが、話を振られたフィリアは食事の手を止めて、俺を庇うようにそう口にした。

 

「つーか今回のことは不可抗力だからな。あの状況で全員生き残るにはあれが一番よかったんだよ」

「全員って、噂のチンピラたちも入れてってことか? 大量のモブ引っ張ってきたのもそいつらなんだろ? 自業自得なんだからそんな奴らほっとけばいいんだよ」

 

 いつも割と無茶をしている自覚は少しあるが、今回のことに限って言えばそれなりにベストを尽くしたつもりだった俺はそう抗議したが、クラインはバッサリと俺の言葉を切り捨てた。冷たいようだが、クラインの言うことは正論だ。俺もそれ以上言葉を継ぐことは出来なかった。

 

「まずは自分の命を第一に考えろ。ハチが死んじまったら、オレは泣くぞ?」

「大の大人が情けないこと言うなよ……」

 

 キメ顔でそんな情けないセリフを口にするクラインに、俺はそう言ってため息を吐いた。俺の身を案じてくれていることについては嬉しいが、それを悟られるのも何だかこそばゆい。ゆえに俺は憎まれ口をたたくように言葉を続けた。

 

「まあ、今回のことは勝算があったからやっただけだ。知らない奴のために命懸けたりなんかしねえよ」

「だといいんだけどなぁ……」

 

 遠い目をしてそう呟くクライン。そこまで黙って話を聞いていたキリトとアスナの2人だったが、やがてそれを宥めるように口を開いた。

 

「まあ、結果良ければ全てよしだろ。いつもは俺も付いてるしな。今日は色々とイレギュラーが重なっちゃったけど」

「そうね。私たちがもっと早く合流出来てれば、もう少し余裕もあっただろうけど……。フィリアが一緒にいてくれてよかったわ」

 

 そこで話が一段落付く。

 全員、食事をあらかた食べ終えたようで、各々のんびりと食後の珈琲などを楽しんでいた。俺もアイテムストレージからMAXコーヒーもどきを取り出し、それをマグカップに注いでチビチビと口にする。隣のフィリアが少し羨ましそうな顔をしていたので、昼食の時と同様一本おすそ分けしておいた。アスナもそれが気になったようで、せがまれてコップに少し注いで分けてやったが、それに口を付けるや否や顔を歪めて「甘ッ!?」と叫んでいた。お気に召さなかったらしい。

 

「何よこの砂糖の塊……珈琲に対する冒涜よ……」

「そ、そこまで言うか。まあ、俺もあんまり好きじゃないけど」

 

 アスナの呟きに、キリトが苦笑いを浮かべる。風林火山の面々は試作の段階で既に何度も試飲しているので、MAXコーヒーもどきの味は大体知っていた。

 そんな一幕を経てそろそろこの場もお開きかなと俺が考えたところに、クラインが思い出したように話を切り出す。

 

「で、新しく作った槍っての見せてくれよ! 相当強いんだろ?」

「今ところ間違いなくゲーム内トップの性能でしょうね。作った本人、リズも驚いてたくらいだもの」

 

 クラインとアスナの言葉に、俺に視線が集まる。特に断る理由もなかったので、俺はストレージを漁ってすぐに件の槍を取り出した。クラインがテーブルの食器を脇に避け、スペースを作る。この場全員の注目が集まる中、俺はそれをテーブルの中心に置いたのだった。

 

《フェイクネスピアス》

 

 穂から石突に至るまで、澄んだ青の色彩を発する槍だった。華美な装飾こそされていないが、シンプルな中に妙な気品の漂う一品である。

 

「おおっ、やっぱこれくらいのレアリティになるとかっけぇな……! って、重ッ!?」

 

 恐る恐るという様子で槍に手を伸ばしたクラインが、そう口にする。俺でさえ要求筋力値がギリギリの槍だ。クラインでは持つだけでも一苦労だろう。クラインはゆっくりと槍をテーブルへと戻し、大きく息を吐いていた。それを見ていたキリトも、少し興奮したように小さく唸り声を上げる。

 

「まだ+4なのにこのステだろ? いいなぁ、俺もどこかでインゴット手に入れて作って貰いたいなぁ」

「キリト君は50層のLAボーナスがあるでしょ? あれも相当強かったわよね?」

「いや、あれ装備するにはまだ筋力値が足りないんだよ。最近は筋力値極振りにしてるんだけど、それでもあと3レべルくらいは上げないと……」

「ならレベリング頑張らないとね。あ、それなら明日、何処かレベリングに行かない? ねえ、ハチ君も」

「え? お、おう」

 

 ぼやくキリトを宥めていたアスナが、急にこちらに話を振る。あまり話を聞いていなかったので、俺は適当に頷いておいた。それに対しアスナは少し訝し気な表情を浮かべていたが、そんな俺に助け舟を出すように、エントランスからこちらを呼び掛ける声が響いたのだった。

 声の主は割と古くから居るギルドメンバーの男だ。エントランスへと続くドアから顔を覗かせ、俺と目が合うとそこで手招きをしながら口を開いた。

 

「ハチにお客さんだってよ。男の3人組で、今日潮騒洞窟ってダンジョンでお世話になったとか何とか」

 

 その言葉に、団らんとしていたダイニングの雰囲気が変わる。心当たりは1つしかなかった。隣に座っていたフィリアが、俺の服の裾を掴みながら不安気な表情を浮かべる。

 

「……ハチ」

「……ああ。1人で良い。圏内だし、滅多なことはないだろ」

 

 そう言って、俺は席を立った。念のためテーブルの上に置いてあった槍を手に取り、いつでも構えられるように背中へと納める。クラインやキリトなどは何か言いたげな顔をしていたが、声を掛けられる前に俺はさっさとエントランスへと向かった。

 正直居留守を使っても良かったのだが、こういうのはしっかりとケリを付けておいた方が後々楽だということもある。放置しておいてギルドに迷惑を掛けるのも避けたかった。

 そんなことを考えながら、そこそこの広さになっているエントランスを横切って玄関の前に立つ。特に警戒する必要もないだろうと、俺は押戸となっている扉に手を掛けてすぐにそれを開いた。

 日も落ちて人通りが少なくなった始まりの街。玄関の先、石畳の通りに立っていたのは、やはり今日潮騒洞窟で出会ったチンピラたちだ。俺が転移結晶を渡した3人で、あとの2人は目に入る範囲には居ないようだった。

 さすがにいきなり襲い掛かって来るような様子はない。俺はうんざりする気持ちを抑え込みながら、口を開いた。

 

「やっぱお前らか……。何かよ――」

「すみませんっしたッ!!!」

「……は?」

 

 俺の言葉を遮って、3人が揃って頭を下げた。その光景に呆気に取られている俺を余所に、チンピラの1人が話を始める。

 

「風林火山のハチさんッスよね? 昼俺たちと潮騒洞窟で会った」

「え、お、おう」

「自分、ウォルラスっていいます。こいつはフリー。こいつはゲフャッハーっていいます」

 

 そう言ってそれぞれ頭を下げる。……いや、最後の奴の名前、何て発音したの?

 

「潮騒洞窟でのこと、本当にすみませんでした。色々、目ぇ覚めたッス。俺ら、ハチさんたちにあんだけ迷惑なことしたのに、あの土壇場で貴重な転移結晶まで貰って助けて貰って……」

「自分らが、どんだけ思い上がってたのか、思い知らされたッス……。自分で自分が情けなくて……」

「俺らで話し合って、ここに来たッス。せめてけじめだけはつけとこうって」

 

 チンピラたちは神妙な顔でそう捲し立てるが、イマイチ話の内容が頭に入ってこない。っていうかなんか頭の悪い運動部みたいな話し方だな。そもそも俺こいつらに名前教えてないんだけど、わざわざ調べて来たのか?

 

「転移結晶は、すぐには無理だけど、いつか返します! ホントすみませんっした!!」

 

 俺が余計なことに頭を働かせていると、先頭に立ったチンピラがそう締めくくり、再び頭を下げる。それを見て、さすがに俺も状況が飲み込めてきた。

 言葉通りに受け取るならば、こいつらは俺に謝罪をしに来たのだろう。潮騒洞窟での出来事を考えればあまり信用したくもないのだが……しかし、考えてみればフィリアにしつこく絡んでいたのはここには居ない2人だったような気もする。それに俺とフィリアを嵌めようとしたのは、確かこいつらのリーダーだという話だったはずだ。

 人間とは流されやすい生き物だ。その場の空気を読み、同調し、雰囲気に流される。そしてその雰囲気を作るのは、群のリーダーであることが大半である。そいつが黒と言えば黒になり、白と言えば白になる。これは一種の洗脳だ。高校時代の葉山のグループなんかはいい例だろう。あいつらはそこまで極端ではなかったかもしれないが。

 しかしそんな関係が、今回こいつらはリーダーに見捨てられたことで崩壊した。そして自分たちで考え、ここに謝罪に来たのだとしたら、こいつらは案外――

 

「案外、悪い奴らじゃなかったのかしら」

「……フィリア」

 

 気付くと、後ろには少し意外そうな表情を浮かべたフィリアが立っていた。1人で良いとは断ったが、どうやら気になって付いてきていたようだ。さらにその後ろで玄関から覗くようにしてキリトやアスナが顔を出していたが、何となく状況を把握したのか、安心したような顔をして再びホームの中へと戻っていく。

 まあ、これ以上トラブルにはならないようでよかった。そう思い、俺は適当に返事をしてこの場は手打ちにしようと思ったのだが、俺に先んじてフィリアが口を開く。

 

「まあ、でもホントに反省してよね。ハチだったからよかったけど、普通あんな大量のモンスター相手にしたら死んじゃうわよ」

「え? あの後、転移結晶使って帰ったんじゃ……」

「ハチは自分の持ってた転移結晶全部あなたたちにあげちゃったからね。あの後ほとんどハチ1人で倒してなんとかなったけど」

 

 その言葉に、チンピラたちはぽかんと口を開けて呆然としていた。いや、攻略組ならあれくらい出来る奴は割といるから――と俺が口にする前に、チンピラの1人がポツリと呟く。

 

「……兄貴」

「は?」

「兄貴と呼ばせてくれ! その心意気に惚れた!!」

 

 恐らく俺よりも年上だろうチンピラたちが口々にそんな馬鹿なことを言い出し、暑苦しくこちらに迫ってくる。チンピラたちが俺に向けているのは、間違いなく羨望の眼差しだった。

 

 ――やめろ。

 

 むさくるしい男たちに熱っぽく迫られて喜ぶ趣味はない。だがそれ以上に、男たちのそんな態度は俺の心をかき乱した。

 一体、誰を見ているんだ、こいつらは。

 

「リーダーとはもう縁を切ったんだ! 雑用でも何でもいい! 俺をあんたのギルドで使ってくれ! 俺は、あんたみたいな奴の下で働きたい!」

「俺もだ! 俺たちに恩返しをさせてくれ!」

「お、俺も――」

「やめろッ!」

 

 知らず、大声で叫んでいた。チンピラたちはそれに気圧されたのか、その場に水を打ったような静寂が降りる。

 

「ハ、ハチ……?」

 

 怯えたようなフィリアの声で、我に返った。しかし俺は彼女に顔を向けることは出来ず、目を伏せたまま再び口を開く。

 

「……俺は、お前たちが思うような奴じゃない」

 

 ポツリと、呟くようにそう溢した。その声がチンピラたちに届いたかどうかは分からない。

 

「……うちのギルドに入りたいってんなら、ギルマスに話は通しておいてやる。後は好きにしろ」

 

 そこまで言って、俺は踵を返した。こちらを気遣うフィリアの視線を振り切り、玄関へと手を掛ける。ホームの中に戻ると、エントランスにはキリト、アスナと一緒にクラインも待機していた。それを認め、俺は手短に用件を伝える。

 

「何か、うちのギルドに入りたいらしい。多分悪い奴らじゃないから、話だけでも聞いてやってくれ」

「おう! ……って、ん? 何でそんな話になってんだ?」

「さあな、本人たちに聞いてくれ。……悪いけど、俺疲れたから部屋戻るわ」

「え、お、おう」

 

 少し戸惑うクラインを置いて、俺はすぐにエントランスを後にする。階段を上って3階。突き当りの角部屋。自室として割り振られたそこに、俺は逃げ込むようにして入り込んだ。

 ドアを背にしてもたれかかり、大きく息を吐く。そこで背中の槍の存在を思い出し、それを手に取ってぼんやりと眺めた。

 

 現実世界の何も出来ない私――。

 ダンジョンの中で聞いたフィリアの台詞が、リフレインする。チンピラたちの羨望の目、そしてキリト、アスナ、クラインたちの顔が頭に過っては消えていく。

 そうして不安とともに心の奥底に沈めていた澱が、ゆっくりと顔を覗かせた。

 

 別に、今さらになって気付いたわけじゃない。その葛藤はずっと俺の中にあったのだ。ただ、ずっと考えないようにしていただけだ。

 この仮想世界と、現実世界の間に確かに存在するギャップ。その意味を。

 

 《風林火山のハチ》それが今の俺の肩書きだ。最前線で活躍出来るだけの実力を持ち、知名度は高く、ギルドメンバーからの信頼も厚い。そんな今の状況に自惚れがないと言えば嘘になるだろう。だが、同時に思うのだ。こんなものは本物ではないと。

 現実世界の俺は、もっと卑屈で、怠惰で、どうしようもない奴だったはずだ。スクールカーストの最底辺。いつも教室の隅で1人蹲り、居ても居なくても変わらないような人間。俺はそんな自分も嫌いではなかったが、きっと周囲はそうではない。

 肩書きや権力というものは、人の気質を変化させる。気弱ないじめられっ子が圧倒的な力を手に入れた時、果たして気弱なままいられるだろうか。自分を虐げてきた者たちに復讐を果たし、やがては増長してゆくのではないか。

 俺がやっているのは、きっとそれと同じことだ。

 SAO内でのレベルやステータス。現実世界では虚構でしかありえないそんなものが《風林火山のハチ(今の俺)》を支えている。力があるから、危険に身を晒せる。敵を打倒し、誰かを守ることが出来る。

 しかし、だからこそ考えてしまう。それは、俺が本来持っていた気質なのだろうか。アスナやキリトが信頼を寄せる《ハチ》とは、本当に俺なのだろうか。そしていつかこの先SAOをクリアして現実世界へと戻り、その仮初の力を失った時、俺たちの関係は――。

 

 そこで、俺は思考を振り払った。この考えは危険だ。

 どんな結果を生むとしても、俺のやることは変わらない。帰らなければいけない理由があるのだ。ゲームをクリアする。その意志に迷いなどあってはならない。

 もう一度、大きく息を吐いた。そうして浮かび上がった不安に蓋をし、再び心の奥底へと沈め込む。気分は最悪だったが、何度も俺は大丈夫だと自分に言い聞かせた。

 

 やがてもたれかかっていた背を伸ばし、2つの足で真っ直ぐに立つ。戦う意思を固めるように右手に持っていた槍を握りしめ、その青く澄んだ切っ先を見つめた。

 虚偽を穿つ者(フェイクネスピアス)か。なんて皮肉な名前なんだろう。そう、思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第31話 休日

 2024年4月某日。

 早朝。日が昇ったばかりの街の中はまだまだ肌寒かったが、露地に植えられた桜は満開を迎えつつあった。ここ、始まりの街は西洋風の街並みになっているので少し違和感はあるが、これはこれで趣がある。そもそも海外にも桜の名所は多いので、違和感を覚える方が不自然なことなのかもしれない。

 空は雲一つない快晴だ。こんな日は外でシートでも敷いて花見でも――している奴らを家の窓からヌクヌクと眺めていたいところだ。4月ってまだ結構寒いよな。こんな中わざわざ外で花見をしている奴らの気が知れない。

 などと考えながらも、今日も今日とて俺はキリトとともに訓練所まで足を運んでいた。少し前まではアスナもよくこの朝練に参加していたのだが、最近はギルドの方が忙しいらしく俺たち2人だけでの活動だ。

 そうして対人戦を意識した訓練をこなし、いつもの如く模擬戦でキリトにボコボコにやられた後のことだった。

 

「――二刀流?」

 

 訓練所の片隅、藁で作られた打ち込み用のカカシの隣で座り込んで息を整えていた俺は、間の抜けた声を上げて振り返った。視線の先、戦闘用の装備から街歩きの楽な服装に着替えていたキリトが小さく頷く。相変わらず服の配色は上から下まで黒一色だ。

 

「ああ。この前スキル一覧眺めてたら見つけてさ。いつの間にか追加されてたみたいなんだ」

「へえ。ちょっと見せてみろよ」

 

 そう言って立ち上がり、キリトが開いていたシステムウインドウを覗き見る。スロットに様々なスキルが並ぶ中、確かに《二刀流》という名前のスキルがそこに存在した。

 キリトがそれをタップし、詳細を表示する。俺はそれを眺めながら、小さく唸り声を上げた。

 

「これは……すげぇな」

 

 まず攻撃力の補正が異常である。二刀流というだけあって片手剣を両手に装備できるようなのだが、単純に片手ずつ攻撃力が設定されているわけではなく、両手の剣の攻撃力を加算した後に0.75倍した数値が自身の攻撃力になるらしい。

 要するに片手剣の攻撃力の1.5倍になるわけだ。剣を2つ装備したことによって手数が増えることも考えれば、それ以上の効果を発揮することも想定される。さらには通常攻撃のダメージ倍率も高めに設定されているようで、ソードスキルを使用せずに戦った場合でも相当なDPSが稼げそうだった。

 

「さすがにぶっ壊れ過ぎだろ……。ソードスキルが弱いパターンだったりすんのか?」

「まだ熟練度たまってないから初期のやつしか使えないんだけど……」

 

 そう言いながらキリトはシステムウインドウを弄り片手剣を2つ装備すると、それをクロスするようにソードスキルを構えた。視線の先にあるのは訓練用のカカシだ。このカカシは破壊不能なのだが、攻撃を打ち込むことで与えたダメージ量を数値化して計ることが出来る。

 一瞬の溜めの後、放たれたのは2連撃。両手を時間差で払うようにして繰り出された斬撃は、恐ろしいほどのダメージ量をたたき出していた。

 

「……ぶっ壊れ過ぎて産廃ラッシュだな。あれ? もしかして俺もう働かなくていい?」

「んなわけあるか」

 

 俺のふざけた呟きにキリトは呆れて突っ込みを入れる。システムウインドウを弄って再び装備を解除しているキリトを眺めながら、次いで俺は真面目に口を開いた。

 

「しかしこれ、マジでチートクラスだぞ。ユニークスキルなんじゃねーの?」

「ああ、俺もそう思う」

 

 現在アインクラッドは第59層にまで到達しているが、ヒースクリフの神聖剣、PoHの暗黒剣が見つかって以来、ユニークスキルと見られるスキルは発見されていない。

 ユニークスキルは、このSAOのゲームバランスを崩すほどの性能を持っている――と、プレイヤーの間では認識されている。長い間攻略組でトッププレイヤーを張っているヒースクリフの神聖剣については言わずもがな。暗黒剣については能力を十全に発揮する前にPoHが監獄エリアへと収監されることになったので確かなことは言えないが、その能力の片鱗だけでも相当な性能だったことが伺える。かつて俺がPoHと対峙した時、もし奴が暗黒剣の熟練度をカンストしていたなら俺は手も足も出ずに瞬殺されていたことだろう。

 そんな規格外なユニークスキルが新しく発現したとなれば、これは相当なゲーム攻略の手助けになることは確実だ。しかしそれを手に入れた当の本人、キリトは微妙な表情を浮かべてこちらを見ていた。

 

「ハチは、これどうすればいいと思う?」

「どうするも何も、こんなおいしいスキル使わない手はないだろ」

「いや、まあそうなんだけど……多分、騒ぎになるよな」

「まあ、新しいスキルが見つかったら大抵そうなるからな。頑張れ」

「他人事だと思って……」

 

 そう言って恨みがましい視線をこちらに向けるキリト。「いや、実際他人事だし」と返すと大きくため息を吐いていた。「それでもハチとキリトゎ……ズッ友だょ……!!」とさらに追い打ちを掛けると無言のキリトに腹を一発殴られた。割とマジだった。

 

「で、実際どうすればいいと思う? 出来れば隠しておきたいんだけど……」 

「まあ、お前が舐めプで戦って、そのせいで誰かが死んでも良いって言うんだったら隠しておけばいいんじゃないの?」

「ぐっ……」

 

 そうして言葉に詰まったキリトは、眉間に皺を寄せて考え込んだ。ちなみに「舐めプ」とは「舐めたプレイ」の略だ。対戦ゲームなどでやると煽りになるので非常に嫌がられる。

 SAOでは命が掛かっているので、敵を舐めてかかるようなプレイヤーはほぼ存在しない。奥の手を温存しておくという考え方もあるが、このゲームでは基本的に敵は人間ではないのでそんな高度な駆け引きが必要になる場面は少なかった。

 

「まあボス戦以外は最前線で誰かに会うことも滅多にないし、しばらくお試しで使ってみてから考えろよ。熟練度上げてみないと最終的な使い勝手もわからないしな」

「……だな。そうするよ」

 

 さすがに可哀想になってきたので助け舟を出すように俺がそう言うと、キリトは再びため息を吐いて頷いた。

 最近はゲーム攻略も非常に順調なので無理をする必要もないかもしれないが、余裕があるに越したことはない。一度の躓きが大きな損害に繋がることなど珍しくもなかった。決して「キリトが強くなればその分俺が楽できるんじゃね?」などと言うことは考えていない。まあ結果的に俺が楽になるのなら大歓迎だが。

 

 そうしてキリトはその日から二刀流を使い始め、順調に熟練度を上げていった。しかし強力無比だと思われた二刀流にも致命的な欠点が――などということはなく、使い込めば使い込むほどにその有用性は増すばかりだった。うん。間違いなくユニークスキルだわ、コレ。

 結局アルゴを通じてその情報をすぐに公開することになり、吹っ切れたキリトはその後のボス攻略では二刀流を駆使し大いに活躍していた。そうして3人目のユニークスキル持ちプレイヤーとしてゲーム攻略を牽引し、キリトは《黒の剣士》としてアインクラッド中に名を知られていくことになるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白い部屋の中、真ん中にポツリと存在する昇りのエスカレーターを見つめていた。

 足は鉛のように重く、踏み出すことは出来ない。手を伸ばしても、決して届くことはない。昇り続けるエスカレーターを、俺はただただ見つめていることしか出来なかった。

 やがて、そんな俺の目の前をキリトとアスナの2人が通り過ぎる。2人は楽しそうに笑みを浮かべながら、そのエスカレーターへと乗り込んだ。

 

 ――待ってくれ。

 

 その呼びかけは声にはならず、2人は俺の存在に気付かずにゆっくりとエスカレーターに運ばれて行ってしまう。どれだけ叫び続けても、2人は無慈悲に遠ざかっていった。

 どれほどの時間が経ったのだろう。既にキリトとアスナの姿は見えなくなり、その場には俺だけが立ち尽くしていた。

 白い部屋へと、不意に濁流が押し寄せる。俺はその中で溺れ、誰かに助けを求めることも出来なかった。

 

 そんな異常事態の中、却って俺は冷静になる。ああ、これは夢だ、と。

 水の中なのに、呼吸は出来る。夢の中でよくある感覚。

 最悪の夢見だ。早く覚めろと念じながら、俺は目を閉じて蹲った。しかしその瞬間、何故か本当の息苦しさが俺を襲う。

 

 あれ? ちょ、コレ夢じゃないの? マジで息が出来ないんですけど……! ちょ、マジで冗談抜きで苦し――

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ぶはぁッ!?」

「あ、起きた」

 

 大きく息を吐き出しながら、飛び起きた。

 生きている。水の中ではない。俺はその事実に安堵しながら、荒い息を整えた。そして俺は状況を確認しながら、周囲に視線を走らせる。

 自室のベッドの上である。いつの間にか、俺の手の中には妙にモサモサした物体Aが抱えられていた。物体Aは俺と目が合うと目を細めて「ピィ!」と元気よく鳴き声を上げる。俺の呼吸を妨げていた正体はお前か、と思いながらそれを睨み付ける。若干まだ顔に温もりが残っていた。

 

「お、おはようございますハチさん。ごめんなさい、そんなに驚くとは思わなくて……」

「いいのよシリカ。こんな時間まで寝てるハチが悪いんだから」

「お前な……」

 

 そう言って俺が抗議の視線を向ける先、ベッドサイドに立っていたのはシリカとフィリアの2人だった。申し訳なさそうに目を伏せるシリカとは対照的に、フィリアはいたずらっぽい笑みを浮かべてこちらを見つめていた。

 女というもの、とりわけ美少女というものに分類される奴らというのは卑怯である。そんな無邪気な顔をされては怒る気にもならず、俺はため息を吐いた。

 もし相手が材木座などならば数日間ねちっこく嫌味を言ってやるまである。そして戸塚だったら無条件で許す。むしろご褒美です。

 抱えていた物体A――フェザーリドラのピナをその主であるシリカへと手渡してから、俺は重い瞼を擦る。部屋の窓から外に目をやると、既に相当日が高くなっていることに気付いた。

 

「あー……。今、何時だ?」

「もう12時過ぎですよ」

「もうそんな時間か……」

「寝過ぎよ。ていうか朝キリトと訓練してたんじゃないの? 二度寝?」

「まあ、うん」

 

 頷いて、俺はベッドに腰かけたまま大きく伸びをする。寝起きは悪い方だが、ばっちり昼過ぎまで二度寝していたので頭は割とスッキリしていた。

 

「……で、お前らなんで居んの?」

「トウジさんにハチを起こしてきてくれって頼まれたのよ」

 

 俺の問いに、フィリアがそう答える。美少女2人が部屋まで起こしに来てくれるとか「これなんてエロゲ?」という思考が過ったが、口にはしない。まあベッドに潜り込んできたのはモサモサしたちびドラゴンというオチの誰得イベントだったのだが。

 しかしわざわざトウジが俺を起こすように2人に頼んだということは、何か仕事でも押し付けられるのだろうか。俺が若干憂鬱な気持ちでそう考えていると、シリカがその疑問に答えるように口を開いた。

 

「今ホームにユキノさんが来てるみたいですよ。ハチさんかキリトさんに、何か話があるって言ってました」

「あいつが? また何か厄介ごとじゃないだろうな……。キリトは居ないのか?」

「『今日は新しい剣を作るんだー』って言って少し前に出かけましたよ」

「ああ、そういえばそんなこと言ってたな……」

「ほらほら。ユキノさん待たせてるんだから、早く支度して」

「わかった、わかったからつつくな」

 

 ちょっかいを掛けてくるフィリアをあしらいながら、重い腰を上げる。支度とは言ってもここですることなどほとんどないので、軽くベッドを整えた後、すぐに俺たちは部屋を後にしたのだった。

 フィリアとシリカは午後から予定があるらしく、その後はそそくさと2人で出かけて行った。あの2人を見ていると仲の良い姉妹のようだ。うちは男所帯なので、数少ない女性メンバー同士気が合うところがあるのだろう。上手くやってくれているようでなによりである。

 2人を見送った俺はひとまず顔を洗いに洗面所へと向かった。SAOでは寝ぐせも付かないし睡眠中に顔が汚れることもないが、まあ気分的なものだ。そうして手早く支度を済ませた後、俺は応接室へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 2024年6月26日

 第62層主街区《パストラル》

 牧歌的な情緒漂うこの街の一角、一際大きな木造の屋敷を数棟の家屋が取り囲む一帯がギルド《風林火山》の現在のホームとなっていた。

 今や風林火山もメンバー数が50名を越える中規模ギルドだ。ちなみにフィリアも数ヶ月前に風林火山に加入している。過去の経験から最初のうちはまだギルドに対して拒否反応があったようだが、うちに何度か通っているうちにそれも薄れていったようだった。今ではシリカと合わせて風林火山の美少女姉妹などと呼ばれているらしい。

 

 そんな感じでなんやかんやとギルドメンバーが増え、手狭になってきた第1層のギルドホームから第62層へと引っ越しをしたのが1ヶ月ほど前だった。

 このパストラルは上層にしてはかなり土地が安く、かつては万年金欠だった風林火山もそれなりに資金に余裕が出てきた頃だったので、なんとかこの一帯を購入することが出来たのだ。屋敷には牧場が併設されているが家畜は置いておらず、風林火山ではそこを訓練所代わりに使用していた。俺とキリトの朝練も最近ではここを利用している。

 

「あ、兄貴! おはざまーす!!」

「……兄貴はやめろっつってんだろ」

 

 廊下を歩いていると、短い金髪をツンツンに逆立て、左耳と唇の端にピアスを装備した見るからにチンピラといった風貌の男に声を掛けられた。俺はうんざりとした気持ちを隠そうともせず、男を見つめる。

 フィリアと同時期にうちに加入した、チンピラその1だ。確か名前はウォル……ウォルなんとかさんだ。かつて潮騒洞窟というダンジョンで起こった一連の出来事を経て、何を血迷ったのか俺のことを「兄貴」と呼んで慕っている。ちなみにチンピラその2とその3も似たようなものだ。

 その風貌に気圧され、こいつらが風林火山に加入した当初はその対応にかなりテンパったりもしたのだが、今ではもうすっかり慣れてしまった。見た目は中々厳ついが、その中身は案外悪い奴ではない。ただ頭が弱いだけなのだ。総武高の戸部に輪をかけて馬鹿にした感じである。

 チンピラその1は俺の話を聞いていなかったのか、「兄貴、兄貴!」と言って言葉を続ける。

 

「見ました? 何か今うちのホームにめちゃマブい女の子が来てるんスよ! 俺ああいう黒髪清楚系の子がめっちゃ好みで……」

「……ああ、うん。そう。でも絶対お前は関わらない方が身のためだぞ」

 

 「マブい」って単語久しぶりに聞いたわ……と思いながら、俺はチンピラその1にそうやって忠告してやる。雪ノ下のことを言っているのだろうが、間違いなくこいつとは反りが合わない。「混ぜるな危険!」と顔に書いてあるレベル。

 

「あれ? 知ってたんスか? もしかして兄貴のコレっすか?」

「んなわけねぇだろ。お前、本人の前でそれ絶対言うなよ。殺されるぞ、俺が」

 

 小指を立てるチンピラその1に、俺は身の危険を感じながらつっこんだ。しかしそんな俺が抱いた危機感はこいつには伝わらなかったようで、何故か訳知り顔のチンピラその1はうんうんと頷きながら言葉を続ける。

 

「まあ、安心してくださいよ。兄貴のオンナに手を出すような真似はしないッスから。フリーとゲフャッハーにも良く言い聞かせとくんで」

 

 相変わらずその2人目の名前はどうやって発音してるんだ……。という疑問をとりあえず頭の隅に追いやり、俺は否定の言葉を口にしようとしたのだが、それを遮るようにしてチンピラその1は再び声を上げる。

 

「あ! そういや自分、クラインさんに呼ばれてるんでした! 失礼しゃす!!」

「あ、おい……」

 

 呼びかける間もなく、チンピラその1はその場を走り去る。本当に全然人の話を聞かないやつだな……。何となくひき逃げにでもあったような気分だ。俺はそうしてため息を吐きながら、その背中を見送ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ノックをして俺が応接室の中へと足を運ぶと、そこにはテーブルを挟んで向かい合わせに座る雪ノ下とトウジの姿があった。

 応接室とは言っても簡素なもので、小さな部屋の真ん中に木製のテーブルと椅子が6脚おいてあるだけである。ここを来客が利用するのは雪ノ下がうちのギルドに仕事の打ち合わせに来た時くらいなので、実質会議室や執務室と言った方がいいのかもしれない。

 

「久しぶりね。元気そう……ではないみたいだけれど、何かあったの?」

 

 げんなりとした気分が表情に出ていたのか、俺の顔を見て雪ノ下がそう口にした。トウジの隣の席に腰を下ろしながら、俺は首を振って答える。

 

「いや、大したことじゃない。ちょっとそこでチンピラに絡まれただけだ」

「チンピラ……確かに、あなたって何かと絡まれやすそうな風貌をしているわよね」

「そこ納得しちゃうのかよ……。まあ、否定できないけど」

 

 何を隠そう俺は千葉でカツアゲをされた実績がある。ぼっちというのはそういった標的にされやすいのだ。それ以来、俺はカツアゲ対策として現金はいくつか分けて持ち歩くことにしている。靴下の中にお札を入れておくとジャンプさせられてもバレないのでオススメだ。しかし稀にその存在を忘れてそのまま洗濯してしまうので要注意である。……なんだか少し泣けてきた。

 隣に座るトウジは愛想笑いを浮かべていたが、ややあってテーブルの上に散らばっていた書類を片付け始める。いつものように、中層から下層のプレイヤー支援について打ち合わせをしていたのだろう。しばらく前から若年層プレイヤーを対象とした学業指導なども本格的に行い始めたようで、最近はますます忙しくしているようだった。

 全ての書類をストレージへとしまい終えると、トウジは一息ついてこちらへと視線を向ける。

 

「ではこちらの話はもう済んだので、僕は失礼しますね。今日は一日ホームに居る予定なので、何かあったら呼んで下さい」

「はい。今日もありがとうございました。またよろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ。ではごゆっくりどうぞ」

 

 そう言って席を立つトウジに、雪ノ下も立ち上がって頭を下げる。割とビジネスライクな関係なんだなと俺は妙な感想を抱きつつ、そこでトウジを見送った。

 まあ俺と雪ノ下の関係も、今のところいうほど友好的なものではない。トウジが出て行った後、特に雑談などを交えることもなく本題に入っていった。

 

「それで、俺かキリトに話があるって聞いたんだけど?」

「話、というほどのことでもないのだけれど……。近いうちに、軍の部隊が最前線に復帰するかもしれないの」

「へえ……。ん? それってなんか問題あるのか?」

 

 言いながら、俺は首を傾げる。

 今では一般的に《軍》と呼ばれるようになったギルドALF。その前身となったALSの時代には一部のプレイヤーは攻略組として最前線で活躍していたが、第25層事件を機にその力は失われてしまっていた。それ以来、今まで最前線で《軍》の活躍を聞くことはなくなっていたが、それでもその規模から考えても潜在的には大きな力を持ったギルドだ。《軍》の一部のプレイヤーが最前線へと復帰するのは不自然なことではないし、戦力が増えるのなら攻略組としても歓迎すべきところだった。

 だが、何故か雪ノ下の言葉には何かを懸念するような響きがあった。そしてそれは勘違いではなかったようで、雪ノ下はため息を吐くように俺の疑問に答えたのだった。

 

「軍に所属する高レベルプレイヤーは、大体がキバオウの息がかかったプレイヤーなのよ」

「ああ、なるほど……。キバオウチルドレンってことな」

「言い得て妙ね……」

 

 そうして、俺は雪ノ下が言わんとするところを理解して頷いた。

 しかしその名前、かなり久しぶりに聞いた気がする。キバオウと言えば、あのトゲトゲとした奇抜な頭部のシルエットが特徴のプレイヤーだ。未だにあの髪型してるのかな、あいつ……。

 

「あなたとは因縁が深い相手だと聞いているわ。過去の不祥事があるから実際に指揮権は持たせないようにしているけれど……曲がりなりにも第25層までは攻略組を牽引していた男だから、未だにギルド内での発言力は強いのよ。シンカーさんの派閥には武闘派が居ないからなおさらね。今のキバオウは部隊の顧問のような立ち位置にいるわ」

「顧問ってことは、キバオウ自身が前線に出てくることはないのか?」

「ええ。それはまずないと思っていいわ。ただ、あなたもわかっているでしょうけど、キバオウは独善的で自尊心の高い男よ。部隊に何を吹き込んでいるかわかったものではないわ」

 

 雪ノ下は俺に警告するようにそう口にする。

 こいつの他人に対する人格評価は過剰に辛口であることが多いのだが、キバオウに至っては俺も同じような印象を持っていた。そんなトラブルメーカーが、ゲーム攻略という一点においては地味に優秀な能力を持っているというのも厄介なところだった。

 そんなキバオウと俺の関係はあまり良好とは言えない。第1層で俺がキバオウをぶん殴った事件は言わずもがなだが、一応の和解を経たその後もあいつが最前線にいた頃は何度か衝突を繰り返していた。

 

「まあ、だからっつって俺に何か仕掛けてくるってこともないだろうけど……。あー、けどキバオウチルドレンっていうと、なんか暴走して突っ走りそうな気はするな」

「私も概ね同意見よ。身内の不始末を押し付けるようでとても心苦しいのだけれど、気に留めておいてくれると助かるわ」

「ん、覚えとくわ」

 

 そんな雪ノ下の頼みに、俺は素直に頷いた。攻略組に合流するというのなら最終的にはヒースクリフやハフナーの指揮下に入ることになるのであまり俺には関係ないかもしれないが、一応頭の片隅に留めておく。

 大方用件は終わったのだろう。雪ノ下は目を伏せ、小さくため息を吐いていた。長いまつ毛が目元に落ち、白い肌と相まってその主張を一層強くする。不覚にも俺がそれに見とれていると、ポツリと呟くように雪ノ下が口を開いた。

 

「それにしても、組織というものは中々ままならないものね」

「……珍しいな。泣き言か?」

「いいえ。ただの感想よ」

 

 間を置かず、雪ノ下は毅然とした態度で返答する。だが、心なしか雪ノ下の疲れたような表情が一瞬垣間見えた気がした。そこに若干の不安を覚えたが、他のギルドの内情について俺が深く踏み入ることなどできはしない。それはシンカーやユリエールに任せるしかないのだろう。

 俺が気を揉んだところで無駄なことだ。そうして懸念を振り払うように、軽く頭を掻いた。しかし、雪ノ下がほんの少し見せた儚げな印象だけが、何故か俺の心の中に強く残って消えてくれないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪ノ下を見送った後、すぐに俺も1人ギルドホームを後にした。今日は特にクラインやトウジから指示がなかったので、久しぶりの完全なオフだ。

 とは言いつつも、何だかんだとやることは多い。適当な店で飯を済ませた後は消耗品の買い出しにNPCの店を回り、それが終わるといくつかのプレイヤーの店を見て回った。

 現実世界では具体的に買いたいものがある時だけ買い物に行くタイプの俺だが、SAOの中ではそうもいかない。常に市場をチェックしていなければ、有用なアイテムや装備などはさっさと他のプレイヤーに買われてしまうのだ。攻略組の強さがそのままゲーム攻略の速度に繋がるため、エギルのところや一部の店舗は攻略組に対して優先的に品物を売ってくれたりするが、相手も商売なので絶対というわけではない。迷宮を攻略している間などはあまり他の層を回っている余裕もないので、こういった休みの日に市場を見て回るのはほとんど日課になっていた。

 それでも基本的に収穫がある日の方が少ない。今日も特に気になるアイテムなどはなく、プレイヤーの経営する商店をただ冷やかして回るだけに終わりそうだった。エギルの店の品物をチェックした後は装備品のメンテナンスのため第48層でサチが経営している店へと向かったのだった。

 

 

 

 第48層、主街区《リンダース》

 主街区とは言いつつも、ここはそれほど発展した街ではない。高台から見下ろす景観には赤茶けた桧皮葺(ひわだぶき)の屋根がぽつぽつと並び、その中に点在する茅葺も相まって田舎臭い印象を受ける街並みだった。

 それでもこの街に店舗を構える生産職プレイヤーは多い。その大きな要因は、街の中を縫うように駆け巡る水路と、それを利用した水車という動力の存在だ。現実世界でも脱穀、製粉、製糸などに広く利用されていたという水車だが、このゲーム内でも生産系スキルの使用に際し多岐に渡って利用されている――らしい。まあ、この辺の話は全部サチからの受け売りだ。

 

 転移門から徒歩3分。俺は迷うことなく《L&S》と看板に書かれた店舗へと足を運んだ。

 店内はそれなりに広く、大きく戦闘用の装備品と普段使いの衣類の2つに分かれて陳列してあった。衣類はその大体が女性もので、店内を物色しているのも女性プレイヤーばかりだ。奥まった場所には下着コーナーなども置かれているらしい。

 ぼっちの男性客にとってはあまり居心地のいい空間とは言えないので、さっさと用件を済ませることにする。店内奥、清算カウンターに待機している店番NPCに声を掛けると、「少々お待ちください」と口にしてバックヤードへと下がっていった。そして間を置かず、作業着なのだろう可愛らしい青のエプロンドレスを身に纏ったサチが顔を出した。

 

「あれ、ハチ? どうしたの急に?」

「いや、装備のメンテナンス頼もうと思ってな」

「そんな、連絡してくれればこっちから行ったのに……」

「いや、そんな気遣わなくていいから。お前も忙しいだろ」

「ハチほどじゃないよ。それに好きでやってることだし」

 

 そう言って薄く笑顔を浮かべるサチ。最近は店も繁盛しているようだし、充実した日々を送っているようだ。そんな忙しい仕事の合間を縫って度々風林火山のギルドホームまで出張メンテナンスサービスに来てもらっているので、本当にサチには頭が上がらない。

 

「とりあえず、中に入って? 今ちょうどアスナも来てるんだ」

「あ、いや、別にここで……」

「いいからいいから」

 

 返事を待たず、サチは先導するように店の奥へと入っていってしまう。固辞する理由もなかったので、俺は潔くその背中へと付いて行くことにした。

 店の奥には下へと続く階段があり、その先がサチの作業場になっている。表通りよりも一段低地の水路に面した立地なので地下という訳ではなく、窓からは陽の光が差し込んでいた。ここは店を一緒に経営しているという女鍛冶屋の作業場も共用となっているようで、奥には炉や鍛冶に使用するのであろうよくわからない道具が乱雑に放置されていた。

 その一角、テーブルと椅子が用意された休憩スペースと思われる席には先客の姿があった。血盟騎士団のイメージカラーである紅白の騎士服を身に纏った少女――アスナは俺と目が合うと軽く手を振って声を上げる。

 

「ハチ君。やっぱり来たんだね」

「よう。……ん? やっぱりってなんだよ?」

「ハチ君も休みだって聞いてたから、ここに来るんじゃないかなと思ってたのよ」

「ああ……。まあ攻略組って大体行動パターンが似てくるよな」

 

 サチに勧められるままアスナの向かいの席に腰かけ、そんなやり取りを交わす。心なしかアスナの機嫌が良さそうだ。たまの休みだし、仲の良いサチのところに顔を出して英気を養っていたのだろう。

 作業場の端に置かれた棚からカップを取り出し、サチがお茶を淹れてテーブルへと置いてくれる。それに礼を言って返すと、サチはシステムウインドウを開きながら俺の横に立った。

 

「じゃあ、いつも通り装備のメンテナンスだよね?」

「ああ。防具だけでいい。よろしく」

「わかった。少しかかるからゆっくりしてて」

 

 装備品の修繕について、システムウインドウを弄って手早く取引を済ませる。サチはすぐ隣の作業台へと向かい、準備を始めた。

 

「表の店の方はいいのか?」

「うん。最近は他の人とかNPCに任せて私はここで仕事してることが多いの。その、接客ってやっぱり苦手で」

「ああ、うん。よくわかるぞ。俺もコンビニのバイト始めて3日でバックレたことがある」

「さすがにそれはちょっとどうかと思うよ……」

 

 サチの冷たい視線が俺に突き刺さる。いや、千葉ってヤンキー多いからコンビニの接客は辛いんだって。さらにはバイトの先輩もヤンキーのパターンまである。

 などと言い訳をしても俺がC級バックラーである事実は変わらない。アスナも残念なものを見るような視線をこちらに向けてきていたので、俺は咳ばらいをして話を変えた。

 

「そういや、今日はあの鍛冶屋は居ないんだな」

「リズベットね。いい加減名前くらい覚えなさいよ」

「いや、覚えてもほぼ絡む機会ないし」

「それはハチ君が避けてるからでしょ」

 

 言って呆れた表情を浮かべるアスナから、俺は目を逸らす。いや、だってあいつ今どきの女子って感じが強くて絡み辛そうなんだよ……。

 苦笑いを浮かべたサチが、再びこちらに視線を寄越した。手慣れた手つきで針仕事を始めながら、ややあって俺の質問に答えてくれる。

 

「リズなら今日はキリトと一緒に出かけたよ。武器を作るインゴットを探しに行くんだって言ってたけど。聞いてない?」

「あー、キリトが確かそんなこと言ってたな……。けど、2人でか?」

「うん。なんかマスタースミスが一緒じゃないと手に入らないインゴットがあるんだって」

 

 マスタースミスとは鍛冶スキルをカンストしたプレイヤーを指す俗称だ。どうやらキリトは武器を作るインゴットを手に入れるために、マスタースミスであるリズなんとかさんを連れてどこかに出かけたようだった。

 キリトも今まであの鍛冶屋とはほとんど絡んでいなかったはずなのだが……やっぱり地味にコミュ力高いよなあいつ。

 

「あ、そうそう。聞いてよ。それで今日キリトが来た時にね――」

 

 思い出し笑いを堪えるようにしながら、サチが口を開く。その間も決して淀むことなく作業を続けるサチの手元を魅入るように眺めつつ、俺は話に耳を傾けた。

 どうやら本日のキリトとリズなんとかさんのファーストコンタクトにはひと悶着あったらしい。リズなんとかさん力作の片手剣を、キリトが店内で叩き折ったというのだ。耐久を試したいと言って、持参した自分の武器と打ち合わせたそうだ。アホだな。隣のアスナも呆れたように笑っていた。

 戦いの中では恐ろしいほどの冷静さで的確な判断を下すことのできるキリトだが、私生活では割と年相応のポカをやらかすことが多い。なるほど、これが所謂ギャップ萌えか……。誰得なの、それ?

 

 そうしてしばらく3人で談笑しているうちに、装備品の修繕が終わる。作業開始から15分も経っていないだろう。装備品一式を全て修繕したことを考えると、かなり早いタイムだ。やっぱりサチは腕がいいなと感心しながら、俺は料金の支払いと装備品の受け取りを済ませる。

 SAOの世界には、ブーストと呼ばれる技術が存在する。これはソードスキルなどのシステムアシストの動作にさらに自分の動きを合わせることで、その速さや攻撃力が底上げされるというものだ。本来は戦闘用の技術として普及していったものだが、生産系のスキルでもこれを応用することで作業時間の短縮を図ることができるらしい。ちなみに結構難易度の高い技術なので、知識としては知られていても実践できるプレイヤーはあまり多くない。

 

 さて、女子トークの邪魔をしては悪いし、用件も済んだのでこの場はさっさとお暇しよう。そう考え、俺はカップの中に残っていたお茶を一気に飲み干して席を立つ。しかしそんな俺に先んじて、何故か同じように席を立ったアスナが口を開いた。 

 

「ハチ君、この後の予定は?」

「ん? 適当なフィールドで軽く体慣らしとこうと思ってるけど……」

「ならちょうどよかった。ちょっと付き合ってくれない?」

「……何かあんのか?」

「サチが《レッドボムビークス・モリーの繭》ってドロップアイテムが欲しいんだって。あんまり市場に出回らないらしくて」

 

 アスナの言葉に、サチが申し訳なさそうに頭を下げる。どうやらアスナはこの後サチの頼みで素材アイテムの収集に行くつもりのようだった。

 レッドボムビークス・モリーと言えば、確か第60層に生息する巨大な虫型のモブだったはずだ。サチのレベルでは厳しい敵だし――そもそもサチはしばらく圏外にすら出ていないはずである――ドロップアイテムが市場にも出回っていないとなれば、誰かに頼んで直接収集に行ってもらうしかないのだろう。

 レッドボムビークス・モリーには幼虫、蛹、成虫の3種類が存在し、その全てが虫のくせに炎を吐いて攻撃してくる。炎は完全回避しないと防御を貫通して地味にダメージを与えてくるというタンク泣かせなモブだが、スピード型の俺たちにとってはあまり問題にならない。

 軽く体を動かすにはちょうどいい相手だ。サチには日ごろから世話になっているし、たまには彼女のために働くのも悪くないだろう。そう考え、俺はアスナの提案を承諾する。

 

「わざわざごめんね。お金は多めに払うから」

「だからそんな気遣わなくていいっつーの。むしろいつもこっちが世話になりっぱなしだからな。それに本気で面倒な時はちゃんと断る男だぞ、俺は」

「そこで『何でも任せろ』って言わないあたりがハチ君よね……」

 

 アスナのつっこみを聞き流し、俺はその場を後にするべく歩き出す。まだ仕事があるというサチに別れを告げ、俺とアスナはそのまま第60層へと向かったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第60層《緋の森》

 名前の通り、緋色の葉を茂らせた特殊な桑の木が並ぶ森のフィールドである。森とは言っても下生えは綺麗に刈り込まれたようになっているので歩きやすい。

 緋の森は層全体の5分の1程度の面積を占め、フロア中央に位置する高台から遠目に眺めると山火事かと見まがうほど鮮やかな木々が広範囲に広がっている。一見すると紅葉のようでアインクラッドの中でもかなり景観が良いフィールドであると思うのだが、しかしここはあまりプレイヤーに人気がない狩場だった。

 

 先に言った通り、ここに生息するレッドボムビークス・モリー、通称《赤ボム》はタンクとは相性が悪い。そして基本的にこのSAOではタンクと相性が悪い敵は嫌厭される傾向が強かった。一般的にタンクが最も生存率が高いという考えがプレイヤーの間に浸透しているために、デスゲームと化したSAOではタンク職を選ぶ人間が多かったのだ。そしてそれは上の層に行けば行くほど顕著になる。

 

 そんなわけでタンクと相性の悪い上に第60層というかなり上層に位置するこのフィールドには、他のプレイヤーの姿が全く見当たらない。まあ問題なく赤ボムを狩ることが出来る俺たちにとってはかえって好都合だ。他のプレイヤーとモブを取り合う必要がないので素材の収集が非常に捗る。ここに着いてから2時間程が経つが、俺たちは既に相当な数のモブを狩っていた。

 

「目視2体。奥の木にもう1体蛹がいるっぽい。とりあえず正面任せた」

「了解!」

 

 レイピアを構えたアスナが、短く声を上げる。正面に立つのは2体の巨大な赤い芋虫――赤ボムの幼虫だ。それをアスナへと丸投げした俺は、レッグシースから取り出した投げナイフを構える。アスナが敵に突っ込み、2体のモブのタゲを取ったことを確認してから俺は右手に構えたそれを投擲した。

 正面敵の後方、背の高い木の梢に向かって青い一閃が走る。瞬間、赤い茂みの中から、これまた赤い繭を纏った赤ボムの蛹が転げ落ちた。

 ピィピィと煩い声を上げるそいつに、次いで俺は槍を構えてソードスキルを放つ。蛹は地面に落としてしまえば最早まともに動くことすらままならないので、しばらく攻撃を繰り返すとあっさりと荒いポリゴンとなって砕け散っていった。

 その頃にはアスナも赤ボムの幼虫を1体倒し終えていたので、残りの1体を挟み撃つように2人で攻撃する。度々吹きかけてくる炎の息に注意しながら着実に敵のHPを削っていった。そうして間もなく敵はHPを全損し、断末魔を上げて消えて行ったのだった。

 

 一息ついて、槍を納める。投擲したナイフもすぐ近くに落ちていたので回収しておいた。貧乏くさいと言われそうだが、こういった消耗品の値段も積もり積もれば馬鹿にならないのだ。

 その後アスナと互いの労を労いつつ、システムウインドウのログを弄って今のドロップ品を確認する。サチに頼まれたアイテムも既に結構な数が集まっていた。

 

「結構時間掛かっちゃったけど、目標数くらいはいったかな」

「だな。そろそろ引き上げるか」

「うん。もう少しで夜になっちゃいそうだし」

 

 そう言って、隣に立つアスナが空を見上げる。足元の影は既に相当長く、西に沈もうとする夕日は緋の森をさらに赤く染め上げていた。

 遥か彼方を飛ぶワイバーンの鳴き声が、どこか物悲しいBGMのようになってフロア全体に響いている。そんな中、俺たちはどちらからともなく帰路を求めて歩き始めた。

 

「それにしても、やっぱりハチ君と一緒だと狩りが楽ね。索敵のために1パーティに1人は欲しいかも」

「その言い方だとなんか家電みたいだけどな」

 

 おそらくは褒めてくれているのだろうが、なんとなく気恥ずかしいので俺は茶化すように言葉を返した。それを聞いたアスナが軽く笑い声を上げる。

 ここに生息する赤ボム、その中でもとりわけ蛹タイプは木の上からの奇襲を得意とするので、索敵を疎かにすると思わぬ攻撃を受けることとなる。体中に火を纏った赤ボムの蛹がいきなりターザンしてくる光景は中々ホラーだ。まあ俺はモブの気配などを探るのが得意なので、不覚を取ることはほとんどなかった。何故かアスナにはよくズルいなどと言われるが、別に悪いことをしているわけではない。

 

 その後もぽつぽつとアスナと言葉を交わしながら足早に歩く。転移門のある街まではあと15分ほどだろうか。気まずいというほどではなかったが、あまり会話は続かない。

 

「……ねえ、ハチ君。もしかして、最近何か悩み事でもある?」

 

 しばらくの沈黙の後、不意にアスナがそう切り出した。その表情は至極真面目なもので、丸い大きな瞳は真っ直ぐにこちらを見つめていた。

 ――本当にこいつは、どうしてこんなにも敏く優しいのだろうか。

 胸を衝かれたような気分だった。しかしそれでも、心を伏せるようにアスナからゆっくりと目を逸らす。俺にはその問いに頷くことが出来なかった。

 

「何だよ急に。言っとくけど、この目は元々だぞ」

「それは知ってるわよ。……って、そうじゃなくて」

 

 多分、自然に振る舞えたと思う。だがアスナは引き下がらずに話を続ける。

 

「少し前から思ってたんだけど、なんとなく最近元気ないでしょ。ハチ君って定期的に変になる気がするのよね」

「気のせいだろ。つーかもともと元気キャラじゃないし。元気いっぱいの俺とか、むしろ気持ち悪いわ」

「すぐそうやって誤魔化すんだから……頼ってもらえないのも、結構寂しいんだからね」

 

 最後の言葉は、消え入るような呟きだった。それは確かに俺の耳まで届いたが、俺は気付かなかった振りをして歩を速めた。

 

「おい、あんまりのんびりしてると夜になるぞ」

「あ、ちょっと待ってよ」

 

 アスナの硬い具足の靴音が背中に響く。それでも俺は振り返らずに歩き続けた。

 心底、自分が嫌になる。救いようのないほど肥大した自意識。歪な虚栄心。命を預けても構わないと思える相手にさえ、俺はその殻を破ることが出来ない。

 欲しいものが、確かにあったはずなのに。そしてひと時でも、それを手に入れたと思えたはずだったのに。今の俺には、もはやその輪郭さえ捉えることが出来なくなってしまっていた。

 だがそれでも、立ち止まることは許されない。

 

 東の地平は、既に菫色に染まっていた。もう間もなく日が沈むだろう。

 若干の疲労を体に感じていたが、俺は構わず歩き続ける。長く伸びた自分の影が、何故だかこちらを見つめているような気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第32話 酔いと本音

 原作『心の温度』の舞台となる雪山は本来第55層という設定ですが、この話では第58層に改変しています。原作内でも「第55層はフロア全体が氷雪地帯」という設定と「第55層のグランザムには血盟騎士団のギルドホームが存在し、その周囲には荒野フィールドが広がっている」という矛盾した設定が存在しているようなので、適当にずらしました。
 あと今回ゲーム内にお酒が出てくるのですが、それについても設定ちょっと変えてます。原作では「どれだけ飲んでも全く酔うことはない」という話ですが、「実際お酒の味と香りがする飲み物を飲んだら人によっては思い込みで酔うのではないか?」という雑な考察により改変しています。ご了承ください。


「リズたちが帰ってきてない?」

「うん……。まだ圏外に居るみたいで……」

 

 リンダースに居を構える店舗の中。その奥、作業場となっている一室へと再び俺たちを迎え入れたサチは、素材収集の礼を丁寧に述べた後、不安げな表情を浮かべて話を切り出したのだった。

 昼過ぎに出かけて行ったキリトたちが、まだ帰って来ていないらしい。時刻は既に19時過ぎだ。順調に目的を済ませたのならば、もうとっくに帰って来ていていい時間だった。

 

「58層の西の山に行くって言ってたけど……。今の位置は《雪山地下坑道・白竜の巣》ってところになってて、しばらくそこから動いていないみたいなの。メッセージ送っても反応がないし……」

「雪山地下坑道か……。知らないダンジョンだな。それに58層のドラゴンとは戦った覚えがあるけど、白竜の巣なんて場所あったか?」

「私も聞いたことない」

 

 そう言ってアスナと顔を見合わせる。サチの話では、位置情報を見る限りキリトたちは既に1時間以上は同じ場所に留まっているようだった。ちなみにフレンドシステムによるマップ追跡は対象プレイヤーがダンジョン内などにいる場合には機能せず、現在地の階層と大まかな地名までしかわからない。

 

「けど、確かあそこのドラゴンって夜行性だったわよね。その湧きを待ってるって可能性は?」

「夜行性って言っても午後3時くらいには動き出してるはずだぞ。それはない」

「そっか……」

 

 そうして言葉を交えながら、状況を確認する。

 とりあえずフレンド欄で生存は確認出来るので、キリトも例の鍛冶屋もまだ生きている。何らかの理由で足止めを食らっているということだろう。二刀流というユニークスキルを持ち、攻略組でもトップクラスの実力を誇るキリトが第58層程度の敵に苦戦するとも思えないので、おそらくモンスター以外の要因だと考えられた。

 

「キリト君が一緒にいるなら大丈夫だとは思うけど……。もしかしたら厄介なトラップに掛かって帰って来れないのかも」

「まあ可能性としてはその辺だろうな。キリト1人ならまず大丈夫だとしても、パーティメンバーを庇って、みたいなパターンはありそうだ」

 

 アスナと俺はそうして同じ結論に至り、頷き合う。

 

「とりあえず、58層に行ってみましょう」

「さすがにほっとくわけにもいかないしな……」

 

 個人的にはあまり心配していないが、万が一ということもある。何もせずに最悪の事態に至ることだけは避けたかった。

 第58層はフロア全体が極寒の雪原地帯となっている。サチが店の在庫から特製の防寒具を持ってきてくれたので、これはありがたく受け取っておいた。対策を怠ると凍傷などの状態異常にかかることもあるのだ。ギルドホームには防寒具一式が揃っているが、今はそれを取りに行く時間も惜しかった。防寒具の代金については払おうとする俺と固辞するサチの間に押し問答があったのだが、時間もないのでひとまず後日相談ということに落ち着いた。

 一応トウジとクラインに帰宅が遅くなる旨をメッセージで伝えておく。そうして手早く準備を整え、俺とアスナは再びサチの店を後にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 第58層、西の山。

 夜の帳が落ちた雪山の裾野を、星明りを頼りに駆け抜ける。周辺には俺たちが雪を踏む音だけが響いていた。俺とアスナ、2人だけの強行軍である。

 一面、白の世界だった。視界は悪くない。雪が降っていないのは幸いだったなと思いながらも、気を抜かずに山道を登る。

 目線の先、白く染まる山道にはぼんやりと光る足跡が点々と続いている。追跡スキルによって可視化したキリトの足跡だ。ランダムに行き先が決定される転移系トラップに掛かったのでもなければ、これを追って行けばキリトの居る場所へとたどり着けるはずである。

 

 後方にはピッタリとアスナが付いてきていた。敏捷性はアスナの方が高いはずなので、俺がどれだけ急いでも振り切ってしまうということはない。追跡スキルの他に索敵スキルを使用して周囲を警戒しながらも、俺はかなりの速さで走り続けた。

 モブとのエンカウントはなるべく避け、それでも避けられないものはアスナと2人で素早く処理する。それを繰り返しながら、2、30分ほどで山頂までたどり着いた。

 

 目の前に広がるのは、水晶の草原とも言うべきものだった。四方を氷壁に囲まれた広大な空間。山肌に積もった雪を突き破るように水晶の柱が突き出しており、それが一面を埋め尽くしている。この水晶群は一応破壊可能オブジェクトに分類されているので、道を塞ぐ邪魔なものは破壊しながら進んでゆくことが出来る。

 

 その神秘的な空間の中央。貪るようにして水晶へと頭を突っ込んでいる白い巨体の存在が目に入る。そいつは接近する俺たちの存在に気付いたようで、長い首をもたげてこちらに鋭い視線を向けた。

 

《ホワイトドラゴン》

 

 名前の通り、氷のように白い鱗を持つドラゴンである。そいつは背中の翼を大きくはためかせてその場から飛び立つと、上空でホバリングしながらこちらを伺うように見下ろした。俺はそんな白竜を見上げながら、内心首を傾げる。

 本来は第58層の北の村で受注できる《白竜討伐クエスト》でフラグを立てたプレイヤーだけが出会うことのできるフィールドボスである。そして当然だが今回俺たちはそのクエストを受注しているような余裕はなかった。

 

「ここに白竜がいるってことは……キリトたちが湧かせたけど、倒さずに途中で戦線離脱したってことか?」

「考えるのは後にしましょう。来るわよ」

 

 隣からアスナがレイピアを抜き放つ澄んだ音が響く。俺も頭を切り替えて、背中の槍を手に取って構えた。ひとまず白竜を倒さなければ、周囲の探索も出来ない。

 

 咆哮を轟かせながら、白竜が滑空する。真っ直ぐにこちらに向かってくる巨体を正面から見据えながら、俺たちはそれを迎え撃った。

 白竜の狙いは俺のようだ。隣のアスナには目もくれず、大口を開けてこちらに迫る。迫力だけは大したものだが、既に何度も同タイプのモブと戦ったことのある俺たちにとってはただの大振りな攻撃でしかない。俺は冷静に白竜の鼻先を石突でいなし、そのまま身を捻って跳躍しながらソードスキルを構える。

 狙うは左翼。その太い骨格の中心に、光を宿した槍を突き立てる。ほぼ同時、示し合わせたようにアスナも左翼へとソードスキルを叩き込んだ。その攻撃によって大きくバランスを崩した白竜が、錐揉みしながら落下する。

 

 《クロススタブ》と呼ばれる連携技だ。交差するようにソードスキルの入射角を合わせて同時に攻撃することにより、通常よりも大きく敵をノックバックさせることが出来る。判定が中々シビアな上に成功させてもダメージ量自体は変わらないのであまり使用されない技だが、白竜のような大型モブを相手取る際には割と役に立つ。それでも普通こんな打ち合わせもなしにいきなり発動させられるような技ではないのだが、そこは偏に卓越したアスナの剣捌きのお蔭である。

 

 群生する水晶の柱へと頭から突っ込んだ白竜は轟音と共に水晶の破片をまき散らしながら転がり、しばらく行ったところで静止した。舞い上がった粉雪が治まると、大きくダメージを負った白竜が視界に映る。

 ソードスキルよりも落下のダメージが大きそうだな、などと思いながらアスナと共にすかさず追撃を掛ける。左翼が大きく損傷しており、もはや飛ぶことは出来ない様子だった。

 ドラゴン系モブの最も厄介なところはその飛翔能力にある。地に落としてさえしまえば後は大味な攻撃ばかりなので、冷静に対処すれば苦戦することはない。その後10分ほどアスナと共にチクチクと攻撃し、俺たちは難なく白竜を撃破したのだった。

 

 青白いガラス片が舞い散る中、アスナと顔を見合わせながら一息つく。一応増援を警戒しつつ軽く周囲を見回したが、特に危険はなさそうだった。だが同じように辺りに視線をやっていたアスナが何かを見つけたようで、声を上げる。

 

「ねえハチ君、あれ……」

「ん?」

 

 アスナの示す先、そこにあったのは直径10メートルほどもある巨大な縦穴だった。水晶の草原のど真ん中に開いたその大穴は切り立った崖のようになっていて、縁に立っても底は見えないほどの深さがある。

 水晶の柱に囲まれるようにして存在するその大穴だが、よく見るとその一部がなぎ倒されるようにして道が出来ていた。俺たちの戦闘跡ではないはずである。

 まさか、という考えが頭を過り、俺は再び追跡スキルを発動してそこを調べる。すると大穴へと伸びるようにして出来た道に点々と光が灯り、そしてそれは崖の縁で途切れていた。その光景に俺は頭を抱えてため息をつく。

 

「なあ、アスナ。お前ロープか何か持ってるか?」

「……あるにはあるけど、さすがにあの穴の下まで届くような奴は持ってないわよ」

 

 俺の言動から事情を察したのだろう。言葉を返すアスナの顔は苦虫を噛み潰したようだった。しかし気を取り直すように1つため息を吐くと、真面目な表情を作ってこちらに向ける。

 

「キリト君とリズはこの下に居るってことでいいのよね?」

「ああ、ここから落ちたのはまず間違いない。そう言えばこの穴、白竜の巣って設定だったはずだ。フレンド欄の位置情報とも一致する」

 

 状況証拠だけだが、俺はそう判断した。水晶がなぎ倒されるようにして出来た道。大穴の縁で途切れた足跡。今キリトたちがいるエリアの名称。さすがにこれだけの情報が揃っていれば他に考えられない。

 

「足跡見る限りキリトは自分から突っ込んだっぽいな。鍛冶屋が白竜の攻撃で吹き飛ばされて、キリトはそれを助けようとした……ってところか」

「……2人ともちゃんと生きてるのよね?」

 

 俺の話を聞いていて不安になってきたのだろう。アスナがフレンド欄で再び2人の安否確認をしていた。確かにこの大穴に落ちて生きているなんてちょっと信じられない。おそらく何らかの方法で上手く落下の衝撃を和らげたのだろうが、やってみろと言われても俺は絶対に遠慮したい。

 隣で安否確認を終えたらしいアスナが一息ついた。そのフレンド欄の情報を横目に見ながら、俺は思考を垂れ流すように口を開く。

 

「《雪山地下坑道・白竜の巣》か……。多分この穴の下、ダンジョンの一部なんだ。けどここから落ちるのは明らかに正規ルートじゃない。その辺りが理由で帰って来れないんじゃないか?」

「なるほどね。ってことは私たちが正規ルートでダンジョンを降りて行ったら、2人を迎えに行ける?」

「多分な」

「ならダンジョンの入り口を探さないとね……。あ、けどその前に2人に私たちが助けに来たってこと、ここから伝えられないかしら」

 

 言いながら大穴の縁に立ったアスナが崖下を見下ろす。恐る恐る俺もその隣に立って下に目線をやったが、夜と言うこともあり奥は闇に覆われて何も見えなかった。一応アスナが大声で2人の名前を呼んでみたが、その声は暗闇の中に虚しく響くだけだった。

 

「まあここから大声出しても届かねぇよな……。紙とペンでもあれば何か書いて下に落とせるけど」

「そういうものは持ってないわね。何か私たちだってわかるものを適当に投げてみる?」

「下手な物投げてキリトたちにぶち当たったらオレンジカーソルにならねぇかそれ……。この高さからだと多分ダメージも馬鹿にならないぞ」

「それもそうね……」

 

 その後もあれこれと話し合ってみたが、妙案が浮かぶことはなかった。このままここで思い悩んでいても時間の無駄なので、俺たちは頭を切り替えて次の行動に移る。

 

「今は2人を迎えに行くことを優先するしかないか……。手分けしてダンジョンの入り口を探しましょう。とりあえずこの水晶のエリア一帯ね。私はこっちから見ていくから」

「ああ。わかった」

 

 言うが早いか、俺たちは分かれて周辺を探索し始めるのだった。

 正直この辺りに俺たちの探すダンジョンの入り口があるかどうかは微妙なところだったが、他に当てもない。雪山地下坑道という名称とあの大きな縦穴と繋がっているという点からこの山の何処かにダンジョンの入口があるだろうことは確定しているが、それでもこの山でプレイヤーの立ち入れるエリアはかなり広かった。最悪の場合、広大なエリアを虱潰しに駆け回って探索しなければならないだろう。

 まさか休日の夜にこんな時間外勤務をこなさなければならないとは……。キリトに会ったら絶対に文句を言ってやろうと決意しつつ、俺は周囲の探索を続けた。

 

 5分ほど経った頃だろうか。俺が水晶の柱を足場にしながら駆けまわっていると、後ろから声が上がった。振り返って見ると遠くでこちらに手を振るアスナの姿が目に入る。駆け足でそちらに向かうと、アスナの指し示す先、一際巨大な水晶の裏には地下に通じる階段があったのだった。

 

「前に来た時はなかった気がするな。どっかでフラグ立ったか?」

「そうね。とりあえず行ってみましょう」

 

 短くやり取りをして頷き合う。道幅は3メートルほどと槍を振り回すには若干不安な広さだったので、ひとまずアスナを前衛にして中へと入って行くことになった。

 石の階段は100メートルほど続いていた。周囲は崩落が起こらないように木の枠組みで補強されているものの、ほとんど土壁がむき出しの状態だ。等間隔でランタンが設置されていたので、視界はむしろ外よりも良いくらいだった。

 武器を構えて警戒して歩を進めていったが、モブが現れる気配はない。階段を下り終えて平坦になった道をしばらく進むと、大きく開けた空間に行き当ったのだった。

 

「これは……圏外村?」

「みたいだな」

 

 辺りを見渡しながらアスナと呟き合う。

 ドーム状の大きな空間に、煉瓦と粘土で固められた家々が並んでいる。こんな辺鄙な場所にある割りには、それなりの規模の村のように思えた。時間帯のせいかあまり数は多くないが、通りにもNPCの姿がちらほら伺える。間違いなく圏外村である。

 圏外村とは、その名の通りアンチクリミナルコード有効圏外に存在するNPCの集落のことだ。NPCの商店や宿が利用できる点は普通の村や街と同じだが、プレイヤー同士の攻撃が通る点、オレンジカーソルのプレイヤーやモブが侵入できる点などが異なる。まあ基本的にモブは故意に引き込みでもしない限り村には近づかないのでそれなりに安全ではある。NPCが自分たちで自警団のようなものを作っている村もあった。

 そこで俺たちは武器を納めて警戒を解いた。そしてこれからどうするか考えようとしたところで、後方から野太い声が上がる。振り返って視線をやると、そこに立っていたのはずんぐりむっくりとした体形のおっさんだった。

 

「こりゃ珍しいな。おめえら人間か?」

「え、あ、ひゃい」

「ここはティントの村だ。オラたちドワーフしか住んでねえが、まあゆっくりしてってくれや。村長は奥のデカい家にいるから、ちゃんと挨拶しとけよ」

「はあ……」

 

 全力でテンパる俺の様子は完全に不審者だっただろうが、NPCの小さなおっさんは気にすることなく頷くと、すぐに村の中へと歩いて行った。そのやり取りを横で見ていたアスナが、小さく笑い声を上げる。 

 

「ハチ君、すっごい挙動不審」

「……うっせ。急に話しかけてくるのが悪いんだよ」

「ごめんごめん、拗ねないでよ」

 

 最近それなりにコミュ力は上がったものの、未だに不意打ちには弱い。俺は気恥ずかしさを誤魔化すようにアスナから顔を背けてため息をつき、話題を変える。

 

「それにしてもドワーフの村か。確かにファンタジー系のゲームじゃ地下とか洞窟に住んでるのが鉄板だよな」

「そういうものなの?」

 

 リアルでは普段ゲームなどしてこなかったらしいアスナが首を傾げた。まあ俺もしばらくはスマホゲームばかりで言うほどコアゲーマーという訳ではないので、にわかゲーム知識で適当に説明してやる。

 

「鍛冶とかが得意な種族って設定だからな。だから鉱物とか石炭とかが採れるところの近くに住んでるんじゃねーの?」

「なるほど。じゃあ雪山地下坑道ってダンジョンもここから行ける可能性が高いわね」

「だな。とりあえずさっき聞いた村長の家とやらに情報収集に行くか」

 

 アスナから特に異議も上がらなかったので、そうして俺たちは先ほどのNPCが教えてくれた一際大きな家に向かって歩き出したのだった。

 先ほど見回した時は気付かなかったが、本当にこの村には人間が居ないようだ。すれ違うNPCは老若男女問わずに子供のような小さな身長で、しかしそれに見合わない肥大した筋肉を備えている。よくあるファンタジーのドワーフ像そのものだ。

 周囲を観察しながら村の中を進んで行く。NPCの種族が違う以外は特に普通の村と変わったところは見つからなかった。やがて目的の大きな家へと到着し、ノックもせずに俺たちはその扉を開いて中に入る。

 完全に不法侵入だが、このアインクラッドではこれが平常運転だ。プレイヤーのプライベートエリアでもない限りはノックをして伺いを立てるようなことはしない。最初こそその行為に何となく居心地の悪さを感じたものだが、最近ではもう慣れきってしまったのだった。

 

 村長の家は大きいとは行っても屋敷というほどではなく、中は部屋がいくつかあるだけで普通の作りになっていた。リビングルームらしき場所では白い顎髭を生やしたドワーフの老人が椅子に腰かけ、暖炉の前で寛いでいる。

 

「暖炉……こんな地下で酸欠にならないのかしら」

「……まあ、細けぇこたぁいいんだよ」

 

 そうしてさらに歩を進め、おそらく村長だと思われるドワーフの老人の前に立つ。すると老人の頭上に金色の【!】マークがポップした。クエスト開始点である証だ。

 とりあえず情報収集が目的だった俺たちは、そこで一度動きを止める。村長のように重要なポストに居るNPCは簡単なやり取りが可能なことが多いのでそれを当てにして来たのだが、クエスト開始点となると話は別だ。こちらから話しかければ、絶対にクエストについての会話になってしまうはずだ。

 

「クエスト……。討伐系ね。あ、ここ! 場所が雪山地下坑道ってなってる!」

 

 当てが外れたかと思いつつその場で表示されたクエストの詳細ログを眺めていたところ、不意にアスナがそう声を上げた。

 

「とりあえずこれ受領すれば場所はわかるっぽいな」

「だね。推奨レベルも62だし……あれ、そういえばハチ君って今レベルいくつ?」

「85だな。キリトと一緒だ」

「むっ、また離されてる……」

 

 確かアスナのレベルは82だったはずだ。それでも攻略組の平均レベルよりは高いはずだが、俺とキリトにまた差を付けられたのが気に食わないらしく顔をむくれさせている。いや、うちにはレベリング大好きな廃ゲーマーキリトさんがいるんでね……。

 

「まあレベリングは少人数の方が効率いいからな。また今度キリトがレベリング付き合ってやるから機嫌直せよ」

「そこは他力本願なのね……。というかハチ君も付き合ってよ」

「ああ、まあ、うん。気が向いたらな」

 

 そんなやり取りをしてから、俺たちは村長に話しかけてクエストを受領する。詳しい内容は後でクエストログを確認するとして、村長の話は適当に聞き流した。その後はすぐに村長の家を後にしたのだった。

 

 クエストの内容を簡単に説明すると、坑道内に住み着いた巨大な蟹のモンスターを討伐して欲しいというものだった。恐らくエリアボスクラスのモンスター討伐クエストだろう。まあ俺たちのレベルなら問題ないだろうということで、村長の家を出た後、早速クエストの詳細に記された場所へと向かった。

 予想通り、ダンジョンの入り口は村の内部にあった。どうやら坑道内に現れたというモンスターのせいで入口は閉鎖されていたらしく、一度門番らしきドワーフたちに呼び止められることになった。俺たちは既に村長の許可を貰っていたので一言二言交わしてから難なく通して貰えたのだが、恐らくクエストを受領してフラグを立てていなければ通せんぼを食らっていたのだろう。二度手間にならなくてよかった。そう思いながら、俺たちは《雪山地下坑道》のダンジョンへと入って行ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ダンジョン内の構造は割と単純なもので、細い通路をしばらく行くとモブとエンカウントすることもなくすぐにボス部屋らしき場所へとたどり着いた。

 そこで俺たちを待っていたのは鋼の甲羅を持つ巨大な蟹のモブ《フルメタルハガー》

 横幅15メートル以上もある鈍色の巨体は中々の迫力だった。唯一の弱点部位である瞳以外は攻撃してもほとんどダメージが通らないという敵で、狙えるポイントがかなり限られているために大人数のパーティで挑む場合にはかなり厄介な相手だ。

 まあ大人数のパーティが強みにならない代わりに、少人数のパーティであることが弱みになることもない相手である。その点では2人パーティの俺たちとは相性が良いと言ってもよかったかもしれない。

 

 ここまで大型の蟹のモブは初見だったため最初こそ慎重に見に回ったが、攻撃パターン自体は分かりやすい敵だったのですぐに攻勢に移り、特に苦戦することもなく撃破できたのだった。

 そこで「やっぱり副団長様は強いな」などと今さらながらに感心しつつ、さて改めてキリトたちを探すためにダンジョン攻略と行くかと意気込んだところである。野太い歓声とともに、何故かNPCのドワーフ数名がボス部屋へとやって来たのだった。

 

 

 

「どうしてこうなった……」

 

 ティントの村。その片隅にある会館。恐らくは宴会用に作られたのだろうホールの真ん中で座布団の上に胡坐をかきながら、俺はそう呟いた。

 目の前で行われているのは、ドワーフたちによる飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎだ。坑道に住み着いた蟹のせいで鉱石が採取できずに最近は商売あがったりだったらしく、それを討伐してくれた俺たちに礼をしたい、という名目の宴らしい。酒の他にも、豪華な料理が足の短い長テーブルの上に並べられていた。

 蟹を倒した後、ボス部屋へと現れたドワーフたちにあれよあれよという間にここまで連れて来られ、気が付いたら宴がセッティングされていたのだ。俺とアスナを確保したあの筋力と敏捷性があれば絶対あの蟹自力で倒せただろお前ら。

 ちなみにこの宴は強制イベントらしく、既に何度か抜け出そうと試みたがドワーフたちに阻まれて失敗に終わっている。仕方なく隣の席に座っていた村長に話を聞いてみると、しばらく坑道の奥まで手を入れることが出来なかったので、今ドワーフの若い衆に安全確認をさせているらしい。1、2時間ほどでそれが終了するので待っていて欲しいとのことだった。

 

 早くキリトたちを迎えに行かなければと思いつつも、強制イベントとあっては抜け出すことも叶わない。仕方なく俺とアスナはこの飲み会へと参加することを決め、その席へと着いたのだった。

 「キリト君たちも今すぐ危険があるってわけじゃなさそうだし、ここは諦めて参加しましょう。どうせなら楽しまないと損だし」とはアスナの談である。前向きで結構だが、俺自身はこういった所謂「打ち上げ」の雰囲気は肌に合わない。リア充ってことあるごとに適当な名目で打ち上げをやるよな。あいつら何をそんなに打ち上げてるの? 弾切れにならないの?

 

 目の前のドワーフたちは本当にNPCかと疑いたくなるほど、美味そうに酒を呷っている。まあドワーフの酒好きはファンタジーではよくある設定だ。それについては別にいい。どうぞ勝手に飲んでくれと思うのだが、問題は俺とアスナの前に置かれたこの盃だ。

 恩人のためにとっておきの酒を用意したから、存分に飲んでくれと瓶ごと置いて行きやがったのだ。しかも「酒が無くなるまで宴は終わらんぞ!」的なことを言い残していった。

 「もしかしてこれ飲まないとイベント終わらないんじゃない……?」というアスナの呟きは恐らく間違っていない。なんて面倒なイベントなのか。というか飲酒を強要するとかこのご時世パワハラで訴えられるぞ。ましてやこっちは未成年である。

 と、文句を言ったところで問題は解決しない。仕方なく目の前に置かれた瓶を飲み干すという結論に至ったのだった。まあ現実世界の肉体に悪影響があるわけではないので、そこまで構える必要もないはずだ。

 この世界の酒は、少し特殊である。プログラム的には人間を酔わせる要素は含まれていないらしいのだが、プラシーボ効果と言っていいのかノーシーボ効果と言っていいのか「酒を飲んだ」という思い込みによって酔うのである。まあビールだと言って泡立ち麦茶を出したら人は酔うという実験を耳にしたこともあるので、仮想世界で味も匂いも完全に酒の飲み物を飲んだ時に酔うということも驚くようなことではない。一応仮想世界での酔い方には個人差があるようで、実際に酒を飲んで酔ったことのない人間は酔い辛いと聞いたことがある。

 ちなみに最初は瓶から酒を捨ててしまおうかとも思ったのだが、隣に座る村長に恐ろしい形相で睨まれて断念した。下手をしたら戦闘イベントになりそうな勢いだった。

 

「ほら、やっぱりこういうのって男の子の方が得意じゃない? 私お酒なんて飲んだことないし……」

「俺だってないっつーの。せめて半分ずつにしてくれ。そうすりゃ大した量じゃないだろ?」

「ちょっと、女の子酔わせてどうするつもりよ」

「安心しろ。お前が酔っても絶対何もしない自信がある」

「なんかそれはそれで納得いかない」

 

 というやり取りがあり、結局半分ずつに分けることになったのだった。

 そうしてアスナと形ばかりの乾杯をして、その酒に口を付けた。ドワーフの持ってきた酒と言うことで警戒していたが、口当たりは優しく何か果実の甘い味がする飲みやすい酒だった。ただ鼻から抜ける酒精の香りはそれなりに度数が高い酒を想起させた。

 ちゃっちゃと飲んでイベントをこなしてしまおう。大した量ではないし、ここをすぐに終わらせればキリトたちを迎えに行ってそうそう遅くならずに帰れるはずだ。

 そう思っていたのだ。さっきまで。

 

「どうしてこうなった……」

「なによー。はちくんきいてるー?」

 

 再び頭を抱えるように呟いた俺の隣、そこには顔を真っ赤にして若干呂律の回らなくなった口調で絡んでくるアスナの姿があった。

 まさかこいつがこんなに酒に弱く、しかも悪酔いする性質だったとは……。「あ、これ意外とおいしい」などと言って1、2杯を一気に呷っていたのが良くなかったのだろう。既に酒は取り上げたが、しばらくはこの調子かも知れない。

 

「だいたいねー、ズルいのよー。はちくんときりとくんばっかりいつも一緒でさー……。そうやっていつもわたしのこと仲間はずれにしてー」

「ああ、うん。そうだな」

「別に血盟騎士団に不満があるわけじゃないのよ? みんないい人ばっかりだし……あ、けどゴドフリーはちょっとデリカシーが足りないかなって思う時があるけど」

「うんうん。そうだな」

 

 適当に頷きながら、アスナの話を聞き流す。こいつも色々溜まっているものがあるんだろうなとは思うが、絡み酒は勘弁して欲しい。そんな酒乱キャラは某アラサー女教師だけで十分だ。いや、平塚先生の酒乱キャラは単なる俺のイメージなのだが。

 

「ちょっと、さっきからちゃんと聞いてる? んくっ、んくっ……」

「おい、お前その酒どこから出した!? もうそれ以上飲むなって!」

「あ、勝手に取らないでよー!」

 

 宴会場の何処からか調達したらしい酒を呷るアスナを止め、それを奪い取る。しばらく酒を求めて暴れていたが、やがて大人しくなるとボソリと呟いた。

 

「はちくんもさー、最近何か冷たいわよねー。元気もないしー」

 

 じっとりとした目線を俺に向けるアスナ。そしてしなだれかかるようにしてこちらに身を寄せ、耳元で口を開く。

 

「何か悩んでるんでしょ? 話しなさいよほらほら」

「いやマジ勘弁してください。いやホント自分お金持ってないんで」

 

 適当なことを言いながら俺はアスナと距離を取る。その対応が不服だったのか、アスナはむくれっつらになってこちらを睨み付けた。

 

「ハチ君のそういうところ、私よくないと思うの。もっと私たちを頼ってくれてもいいんじゃない? 仲間でしょ?」

「……仲間、ね」

 

 アスナの言葉に、俺は少し冷めた気分になって呟く。その呟きに何か不穏なものを感じ取ったのか、アスナは焦ったように口を開いた。

 

「な、何よ。違うっていうの……?」

「い、いや、俺もそう思ってるけど……言わせんな恥ずかしい」

 

 捨てられた子犬のような表情を浮かべるアスナにそう返す。命を預けられるほど信頼している相手を仲間と呼ばずして何と呼ぶのか。そうは思うが、こうして口に出すのはやはり気恥ずかしかった。

 だが――と、纏まらない頭で考える。俺も少し酔っているのかもしれない。普段ならば口にしなかっただろう不安の欠片を、ぼそりと呟いてしまったのだった。

 

「けど俺たちって、現実(リアル)じゃ会ったこともないんだよな……」

「……ふぅん。ねえ」

 

 何かを察したような表情を浮かべたアスナが、居住まいを正すようにして俺の正面に座り直す。フローリングの床に置かれた紅い座布団に綺麗に正座した姿は気品があり、どことなくアスナの育ちの良さが窺えるようだった。

 

「私、本名は結城明日奈っていうの。16歳。世田谷在住。小中学校は女子校で――」

「お、おい。どうしたんだよ急に」

「いいじゃない。聞いてよ」

 

 急に妙なことを口走り始めたアスナを俺は止めようとしたが、彼女はそれに構わず話を続ける。

 

「お母さんが厳しくてね。中学校もそれなりに良い女子校に通ってたの。テストの成績が全て、みたいな学校。ずっとそんなところにいたからさ、私にとっても成績が全てで、それ以外は無価値だった。だから成績の悪い、努力しない人たちを陰で見下してた。友達も全然いなかったし、今思えばホントに嫌な子だったと思う」

 

 流暢に話すアスナからは先ほどまでの酔いの雰囲気は感じられず、真面目な表情で話していた。伏せた視線は何処か遠くを見つめているようで、過去の自分に思いを馳せているのだろうことが窺えた。

 どうしてそんな話を俺に、という疑問はひとまず胸の奥に押し込んだ。アスナがこれほど真剣に話を切り出したのだから、きっと何か意味があるのだろう。

 

「このSAOに閉じ込められた時、絶望したわ。私がここで無為に時間を消費してる間に、同世代の子たちはどんどん成績を伸ばしてって、私は置いて行かれちゃうんだって。自分の価値が無くなっちゃうって、そう思ったわ。だから最初は、早くゲームを終わらせなくちゃって必死だったの。少しでも早く後れを取り戻すために、私の価値を取り戻すために……」

 

 俺はSAOが始まったばかりの頃のアスナの姿を思い出していた。張り詰めた雰囲気で身を切るように攻略に邁進する彼女の姿に、鬼気迫るものを感じていたのを覚えている。あれは1つの正しい人の姿だったのだろうが、いずれ訪れる破綻は目に見えていた。だからこそ俺も慣れない忠告を繰り返した。

 そこで視線を上げ、アスナが柔らかい表情を浮かべる。そうして自嘲するように言葉を続けた。

 

「まあ、誰かさんたちのお蔭で今じゃもう色々馬鹿らしくなっちゃったんだけどね。私が今まで無価値だって切り捨てて来たものも、本当はすごく大切なものなのかもって気付いちゃったから」

 

 それは1つの挫折とも言うべきものだったのかもしれない。最後までそうして駆け抜けることが出来たのなら、それに越したことはなかったのかもしれない。だが、後悔はないとでも言うように顔を上げたアスナの表情は随分と晴れやかなものだった。

 

「自分の視野の狭さに気付いて色んなことに目を向けるようになってからは、すごく気が楽になったわ。友達も増えて、毎日がすごく楽しくなったの」

 

 言って、アスナは一息つく。少し声を落としながら、彼女は再び少し視線を伏せた。

 

「このゲームで手に入れたものは、私にとってすごく特別で大切なもの。だからアインクラッドの攻略が後半に差し掛かって、少しだけゲームクリアが見えて来た時怖くなったわ。ゲームが終わったら、私たちの関係ってどうなっちゃうのかなーって……。良い成績を取ること以外何もなかった私に戻っちゃうのかなって……」

 

 アスナの瞳が、俺を見つめる。怯えと、少しの期待を内に孕んだ瞳だった。

 

「ハチ君はさ、現実世界の私の話を聞いて、失望した? もう一緒に居たくないって、そう思った?」

「……んなわけねぇだろ」

「よかった……。じゃあ――現実世界に帰っても、一緒にいてくれる?」

 

 宴の喧騒の中、アスナのその声だけが凛と響いたような気がした。陰りのない大きな瞳。俺はやがてその視線に耐えられなくなり、逃げるように目を伏せた。

 

 こいつは、きっと気付いたのだ。俺の抱える心の澱、その正体に。

 だからそれと近しい不安を抱える自分の心情を吐露してみせたのだ。嘘ではない。だが、その根底にあるのはきっと俺に対する気遣いだ。

 なんと利発で情の深い女の子なのだろう――そして、だからこそ俺は感じてしまう。

 そんな人物の隣に立っている、自分という存在の不自然さを。

 

「違うんだよ……。前提から間違ってるんだ……」

 

 気づくと、唸るように言葉を発していた。

 

「俺は……本当の俺は、お前らが思うような奴じゃない」

 

 隣のアスナが、首を傾げる。俺はそれに構わず吐き捨てるように言葉を投げかけた。

 

「お前やキリトみたいに、誰からも愛されるような資質を持った人間じゃない。むしろ正反対、現実世界じゃスクールカーストの最底辺だ。俺は本当は、居ても居なくてもいいような奴なんだ。本来お前らみたいな奴と一緒にいるような人間じゃないんだよ」

 

 溢れ出した言葉はもう止まらなかった。ため込んでいた不安、苛立ち、自己嫌悪、ぐちゃぐちゃになったよくわからない感情が、頭の中でグルグルと回っている。

 

「この世界の俺は、偽物だ……。《風林火山のハチ》なんて嘘っぱちだ。高いレベルとステータスを笠に着て、大物ぶってるだけの痛い奴なんだ。リアルの俺に期待なんかするな。お前は何もわかってない。本当の俺は――」

「本当のハチ君って、なによ」

 

 感情を吐き出すように声を荒げる俺を、アスナの一言が制止した。呟くような一言が、しかし有無を言わせぬ響きがあった。

 再びアスナと視線が交差する。俺を見つめるアスナの表情には何故か怒りが滲み、詰め寄るようにして言葉を発した。

 

「今まで私と一緒に戦ってくれたハチ君は、偽物だったの? 命懸けの戦いが、嘘っぱち? かけてくれた言葉も? 辛かった時のことも? 私たちと過ごした時間が、全部偽物?」

 

 白い細腕が、乱暴に俺の胸倉を掴んだ。同時に色素の薄い大きな瞳がこちらを睨み付ける。

 

「――馬鹿にしないで」

 

 そのアスナの声は、震えていた。怒りなのか、悲しみなのか、潤んだ瞳は叱りつけるように俺だけを映していた。

 

「私はそんな薄っぺらい偽物に騙されるほど馬鹿じゃないわ。あなたのレベルが高いから、あなたが強いから、あなたに助けられたから、そんな理由で私はあなたを信頼したわけじゃない。私は私の目で見てあなたを信じたの。私が信じたハチ君は、絶対に偽物なんかじゃない! 私を……私たちの関係を、馬鹿にしないで!」

 

 捲し立てるように言い切ったアスナが、少し距離を取る。その言葉に打ちのめされた俺は、何も言い返すことが出来なかった。やがて語気を和らげたアスナが再び口を開く。

 

「確かにこの世界と現実世界は色んなことが違うわ。帰れば私たちの関係も違ったものになるかも知れない。でもだからって、ここであったことが全部嘘になる訳じゃない。それに、変わらないものもあるわ」

 

 震える声で、しかし揺るぎない意志を感じさせるように、アスナは言葉を続ける。

 

「現実世界のハチ君がどんなに頼りなくて情けなくても、私はあなたを信じてる。仲間を信じ続けられる自信がある」

 

 そう言い切ったアスナから、俺はもう目を逸らすことが出来なくなってしまった。そのまましばらく無言のままアスナと見つめ合う。

 やがて我に返ったように動き出したのはアスナだった。潤んだ瞳を隠すように目を擦り、俺の席の前に置いてあった盃をひったくるようにして奪い取る。俺が声を上げる間もなくそれを一気に呷ると、大きく息をつくのだった。

 

「だいたいねー、今さらなのよ。ハチ君が全然友達の居ないジメジメ陰湿な根暗なオタクだなんてみんな知ってるんだから」

「いや、俺もそこまでは言ってないんだけど……」

 

 ヤケ酒を煽って愚痴るアスナが、うなだれたままこちらを睨み付けた。そして俺の制止も聞かずに手酌で再び杯を煽る。気付くと、渡された酒は全てなくなっていた。

 フラフラとしながらアスナが目の前に置かれたテーブルに突っ伏す。眠そうに眼をしばたかせながら、ボソボソと言葉を呟いた。

 

「みんな知ってるのよ……。みんな知ってて、それでも……そんな、ハチ君のこと……が……」

 

 一拍おいて、アスナは健やかな吐息を立て始めた。これだけ酔っていれば無理もない。俺は脱力して、アスナのだらしのない寝顔を見つめた。

 宴の喧騒の中、しかしどこか静かな時間が俺たちの間を過ぎて行く。ドワーフの村長が宴の終了を宣言するまで、俺はアスナの寝顔をただただ眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 酔いつぶれたアスナを近くの宿屋のベッドへと運んだ俺は、大きく息を吐いた。明かりを消した個室の窓からは外灯の光が差し込み、健やかな吐息を立てて眠るアスナの顔を優しく照らしていた。

 アスナは戦闘用の装備のまま寝入ってしまったので若干寝苦しそうだったが、さすがに俺が着替えさせるのは障りがある。我慢してこのまま寝て貰おうと思いながら、その寝顔を眺めた。

 白い肌に、上気した頬。さらりとした栗毛が目元にかかり、小さく影を落としていた。

 

「――ありがとな」

 

 ベッドに腰かけ、眠るアスナの前髪を梳かすように頭を撫でる。くすぐったそうにして身じろぎするアスナを眺めながら、俺はしばらくの間そうしていた。起きている時にはこんなこと絶対に出来ないが、今だけはと酔いを言い訳にして衝動に身を任せた。

 これだけ心穏やかにいられるのは、いつ以来だろう。

 不安が全てなくなったわけではない。完全に納得したわけでもない。酒の席での戯言といってしまえばそれまでだ。

 だが、俺は浅ましくもこの少女の言葉に希望を見出してしまった。頭ではなくもっと心の深いところで、彼女の気持ちを痛いほど感じ入ってしまった。俺のために怒ってくれたアスナの言葉は、俺の中にあった心の澱を確かに掬い上げてくれた。

 仲間の言葉1つで救われてしまうなんて案外俺も単純だよなと自嘲気味に考えながら、小さくため息を吐いた。

 

「よしっ、行くか」

 

 立ち上がり、気持ちを切り替えるように頬を叩いた。アスナは寝入ってしまったが、まだキリトたちを迎えに行くという仕事が残っている。俺1人でも行くしかないだろう。まあ正直今は1人で頭を冷やしたい気分だったので丁度よかった。というか今アスナが目を覚ましでもしたら気恥ずかしさで死ねる。

 俺は最後にもう一度だけベッドの上のアスナを見やり、部屋を後にする。圏外村でも宿の中は鍵をかけておけるので安全である。戦闘の準備も万全だったので、俺はすぐに雪山地下坑道のダンジョンへと向かった。

 

 キリトにもいずれ、全て話そう。抱えていた不安。苛立ち。その心の澱を全て。

 きっと最初からそうするべきだったのだ。望む答えが得られるとは限らないが、きっと今より前に進むことは出来るだろう。随分遠回りをした気がするが、あの少女のお蔭でやっと正解にたどり着けた気がする。

 

 ダンジョンを進む足取りは軽かった。そして通路は狭いが、道行きは明るい。NPCに聞いた話では白竜の巣までそれほど長い道のりではないようなので、あまり時間を掛けることなくキリトたちを迎えに行けるだろう。

 今日の時間外勤務について、キリトには文句を言ってやるつもりだった。だがまあ、今回だけは勘弁してやるか。

 軽くなった心で、俺はそんなことを考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――後日。

 

「あー、わかるわかる。ネトゲ友達とオフ会で初めて会うのってハードル高いよな。まあ、俺たちはただのネトゲ友達ってわけでもないし別に問題な――ん? どうした、ハチ?」

「……いや、なんかお前の話聞いてたら悩んでたのがスゲー馬鹿らしく思えてきた。とりあえず一発殴らせてくれ」

「なんでッ!?」

 

 俺が長い間抱えていた不安は、最終的にキリトとのそんなやり取りでおおよそ払拭されてしまったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第33話 予告

「調子に乗るなよ小僧ッ! 決闘(デュエル)だ!! 私と決闘(デュエル)で勝負しろ!!」

 

 多くのプレイヤーたちが行きかう転移門広場に、そんな声が響き渡った。

 こんな街中でいきなり決闘(デュエル)吹っ掛けるとか、いったいどこのデュエリストだよ……。などと思いながらも、まあ俺には関係のないことである。露天商で買い物をしていた俺、比企谷八幡は店主からホットドックを受け取ってそれに齧り付きながら歩き出した。

 

 第69層主街区、ガラス工芸の街《フラノリア》

 謳い文句通り、ガラスの工芸品に彩られた華やかな街である。街路には石畳の代わりに七色のガラスがグラデーションを作るように敷き詰められ、街全体を彩っている。街の中で最も目につくのは中央に立つ教会にはめ込まれた薔薇を模した巨大なステンドグラスだが、それ以外にも街中のそこかしこに素人目には価値がよくわからないガラスの工芸品が飾られていた。

 意識高い系の人間が好きそうな街だ。かく言う俺も自意識高い系の人間であるが、その方向性は斜め下だとよく評されるほどなので、この街はちょっと肌に合わない。

 

 では何故そんな俺がこの街に来ているかというと、今アインクラッドの攻略の最前線がこのフロアだからだった。時刻は現在午前10時前。今日はこれからこのフロアの迷宮区へとレベリングに行く予定だった。

 いつもは基本的にキリトとコンビ狩りに勤しんでいる俺だが、今日は血盟騎士団の活動がオフということでアスナも参加予定である。この転移門広場で待ち合わせの約束だったのだが、少し早く着いてしまった俺は一旦キリトと別れ、アスナが来るまで適当に時間を潰していたのだった。

 

 そろそろアスナも来る頃だろう。そう思いながら人混みを縫うようにして歩き、キリトが待つ転移門の前まで戻る。しかしその途中で、道を行くプレイヤーたちから妙な会話が聞こえてきた。

 

「おい、風林火山のキリトと血盟騎士団のメンバーが決闘(デュエル)だってよ!」

「え? キリトってあのユニークスキル持ちの奴だろ? 勝負になるのか?」

「わかんねぇけど、こりゃ見なきゃ損だろ!」

 

 囃し立てるようにして、プレイヤーたちが走ってゆく。「何やってんだあいつ……」と小さく独り言ちながら、俺も騒動の中心へと向かって歩いて行った。

 

「おい。どうなってるんだこれ?」

「あ、ハチ君」

 

 転移門の前に1人立っていたアスナへと声を掛けた。キリトは少し離れた位置で血盟騎士団のメンバーと思われる男と向かい合いながら何やらやり取りをしており、その雰囲気は穏やかな物とは言い難い。さらにはそれを見物するように周囲に人垣が出来ていた。

 隣に立つアスナはばつが悪そうな顔をしながら、ここまでの経緯を説明してくれる。

 

「えっと……あのプレイヤー、クラディールは私の護衛なんだけど……。前にも話したことあったじゃない? ちょっと最近過干渉というか、護衛が行き過ぎて困ってたの。今日もオフなのに私のこと付けて来てたみたいで……。それでキリト君と言い争いになって、こうなっちゃったというか」

「は? あのおっさん、休みにまでお前をストーキングしてたってことか?」

「まあ、うん。そういうこと」

「……最近の血盟騎士団、何かおかしくないか? メンバーはちゃんと選んだ方がいいぞ」

「私もそう思うけど、ギルドの方針で一気に人が増えたから……」

 

 俺たちがそんなやり取りをしている間にも、事態は進んで行く。キリトも相手に挑まれた決闘(デュエル)を承諾したようで、2人の間に60秒のカウントダウンを告げるシステムメッセージが浮かび上がった。

 

「安心しろ。二刀流は使わないでおいてやるよ」

「小僧ッ……! 崇高なる血盟騎士団を侮ったこと、すぐに後悔させてくれる!!」

 

 黒の片手剣を右手にぶら下げたキリトと、紅白の騎士服に両手剣を携えた男が言葉を交わす。キリトの二刀流を使わないという判断は相手を侮っているわけではなく、安全のためだろう。初撃決着モードだったとしても、二刀流の火力では下手をすると相手のHPを全損させる恐れがある。

 

「アスナ様! 私以外に貴方の護衛は務まらぬということを、今ここで証明して見せましょう!」

 

 システムメッセージによるカウントダウンが行われる中、血走った眼でアスナに視線をやった男が叫ぶ。職務に忠実なのは結構だが、さすがにここまで行くとただの病気だ。隣に立つアスナも苦い表情を浮かべていた。

 

「……ちなみに、あのクラなんとかさんってレベルいくつなんだ?」

「クラディールね。79よ」

「79って……勝負にならねぇじゃねえか。え、もしかして剣術の達人だったりすんの?」

「ううん。多分技術も並くらい」

 

 ……これは本格的に勝負にならなさそうだな。あのクラディールというプレイヤーはボス攻略では見たことがなかったので、恐らく本気になったキリトの実力を知らないのだろう。

 ちなみに現在キリトのレベルは92である。文字通りクラディールとはレベルが違う。この差をひっくり返すには相当な技量が必要とされるが、相手にはそれもないという話である。そんなことを考えながら顔を上げると、残りカウントは10秒を切っていた。キリトとクラディールがゆっくりと構えを取る。

 

 遠巻きに見守る野次馬プレイヤーたちにも緊張が走る。それが最高潮に達した瞬間、カウントが0となり決闘(デュエル)開始を告げるブザーが響き渡った。

 途端、色ガラスの床を蹴ってクラディールが距離を詰める。同時にソードスキルを発動して、キリトへと斬りかかった。――対人慣れしていないプレイヤーによくある悪手である。

 相手のソードスキルの発動を見て取った瞬間、キリトもそれに対抗するソードスキルを放った。レベル差に加えて武器の違いもあるので剣速は段違いだ。後の先を取ったキリトの剣が、一瞬早く相手に届く。

 キリトの剣が捉えたのはクラディール本人ではなく、その手に持つ両手剣だ。その横っ腹目がけて一閃が振るわれる。瞬間、甲高い剣戟の音が広場に響いた。

 勢いそのままに2人の位置が入れ替って静止する。それと同時に、場には水を打ったような静寂が降りた。やがてそれを破ったのは、クラディールの情けない声だった。

 

「ば、馬鹿な……」

 

 視線の先に映るのは、その中ほどからぽっきりと折れてしまった自分の両手剣。しばらく信じられないように見つめていると、やがて剣はガラス片となって砕け散って行ったのだった。

 

「す、すげー……武器破壊だ」

「え? あれって狙ってやったのかよ……?」

 

 そんな観衆の声が耳に入る。武器破壊はかなり難易度の高い技だが、まあキリトさんならお手の物だ。なんの駆け引きもなくいきなりソードスキルを使ってくるような相手など、あいつにとってはいい鴨だろう。

 しかし決闘(デュエル)で武器破壊とか、かなりエグイことするなあいつ……。もしかして結構怒っているんだろうか。そう思ってキリトに目をやると、ため息を吐いて背中の鞘に剣を納めていた。

 

「武器を変えて仕切り直すっていうなら付き合うけど……。もういいだろ?」

「お、おのれ……!」

 

 キリトの言葉で額に青筋を立てたクラディールが、ストレージを漁って武器を取り出す。両手剣の予備はなかったのか、その手に構えたのは短剣だった。不意を打つように、武器を構えてさえいないキリトへと向かってその短剣を突き出す。

 瞬間、俺の横を風が駆け抜けていった。同時にクラディールの短剣は弾き飛ばされ、ガラスの床に転がり落ちる。

 

「そこまでよ、クラディール」

「ア、アスナ様……」

 

 キリトとクラディールの間に割って入ったのはアスナだった。その乱入によって行われていた決闘(デュエル)は中断され、2人の間に《No contest》と表示が浮かぶ。しかし決闘(デュエル)を見ていた観衆には誰が勝者か一目瞭然だった。

 アスナは短剣を弾き飛ばしたレイピアを、そのままクラディールへと突きつける。それを見つめ、クラディールは大きく顔を歪めた。

 

「い、今のは違う! そいつが何か卑怯なことをしたんです!! そうでなければ私がそんな小僧に――」

「クラディール」

 

 アスナの言葉には有無を言わせぬ響きがあった。血盟騎士団副団長としての威厳を見せつけるように続けて言い放つ。

 

「現時刻を以って、貴方の護衛役の任を解きます。別命があるまではギルドホームで待機。これは血盟騎士団副団長としての命令よ」

「な……!?」

 

 クラディールは驚愕によって唇をわななかせる。しかししばらくすると事態を飲み込めて来たのだろう。両の拳を強く握りしめながら、その屈辱と恥辱に顔を歪ませる。

 

「こんな……こんなことがッ……!!」

「2度は言わせないで。行きなさい」

 

 構えていたレイピアを鞘へと納めながら、アスナは再び冷たく言い放つ。それでもしばらくキリトとアスナを睨み付けていたクラディールだったが、やがて意気消沈したように脱力すると転移門へと向かって歩き出した。

 「あ、短剣忘れてますよ」などと口に出来る雰囲気でもなく、俺はクラディールが転移門から消えてゆくのをそのまま見送ったのだった。

 騒動が終わったことを悟った野次馬連中も、若干興奮気味だったもののしばらくすると何処かへと散っていった。そして不意に大きく息を吐いたアスナが、緊張の糸が切れたように項垂れる。

 

「……ごめんね。面倒なことに巻き込んで」

「俺は別に構わないけど……大丈夫なのか、あれ」

「うちのギルドの問題だからね。何とかするわ」

 

 キリトの言葉に力なく笑みを浮かべたアスナがそう答えた。2人へと歩み寄りながら、俺もため息を吐いて頭を掻く。

 

「……ま、何かあったら言えよ。キリトがなんとかするからな」

「ふふっ。うん。ありがと」

「なんでハチはそこで素直に俺に頼れよって言えないかなぁ……いてっ!」

 

 余計なことを口走るキリトの横っ腹を小突いて、俺は1人先にフィールドへと向かって歩き出した。ぶーぶー文句を垂れるキリトと、クスクスと笑い声を上げるアスナがその後に続く。そうして俺たちはようやく当初予定していたレベリングへと向かったのだった。

 

 最近の血盟騎士団は、以前のものとは何かが決定的に変わってしまったように感じる。迷宮区へと向かって歩きながら、俺は1人そんなことを考えた。

 以前はメンバーは少数ながらも1人ひとりの実力が高く、もっと一体感があったものだ。しかし少し前にギルドの方針が変わり大幅にメンバーを増やしたようで、それからギルドとしての影響力は増したものの、全体を掌握出来ているとは言い難い状況だった。あのクラディールもその時期に大量加入したプレイヤーの1人だろう。

 今後上手く扱うことが出来れば攻略組の大幅な戦力アップに繋がるのは間違いないのだが……クラディールの様子を見る限り、ちょっと厳しそうである。

 まあ現時点では俺に出来ることもないので、そこはヒースクリフとアスナの今後の手腕に期待するとしよう。そう思い、俺は気持ちを切り替えたのだった。

 

 出鼻こそ挫かれたものの、その後の狩りでは何の問題も起こらなかった。既に探索済みのエリアを回って堅実にレベリングだけを行ったので、このメンバーなら特に危険があるはずもない。ハプニングと言えば、アスナが用意してくれた昼食の《照り焼きチキンのマヨソースサンド》が美味すぎてキリトとおかわりの争奪戦を繰り広げた程度だ。結局それも「喧嘩するなら没収します!」というアスナの胃袋の中に納まってしまったのだった。

 

 既にこのフロアのボス部屋は発見されている。明日、血盟騎士団による偵察戦が行われた後に攻略会議を挟み、その翌日にボス攻略が予定されていた。

 故に今日は無理はせず、午後にアスナのレベルが1つ上がるのを待って本日のレベリングは終了となった。その後は日が落ちるまでキリトと共にアスナの買い物や装備のメンテナンスなどに付き合い、晩飯は第62層のアスナのプレイヤーハウスで手料理をご馳走になるというリア充っぽいイベントを消化してから彼女と別れたのだった。

 

 少し前まではキリトやアスナとこういった時間を過ごす度に、俺は現実世界とのギャップに悩まされていた。だが、今はもうそんな不安はない。もはや何の憂いもなく、俺はゲーム攻略に臨むことが出来ていた。

 こいつらのお蔭だな……と若干こそばゆい気持ちになりながら、隣を歩くキリトの横顔を盗み見る。絶対口には出さないが、まあ心の中では素直に感謝していた。

 俺のそんな思いなどどこ吹く風で、キリトは能天気にアインクラッドのフロアの隙間から見える星空を見上げていた。そうして和やかな雰囲気のままに、俺とキリトも風林火山のギルドホームへと帰宅したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2024年9月10日。

 第69層。迷宮区最奥。むき出しの土壁がドーム状になった大部屋。

 そこで俺たち攻略組のフルレイドと相対していたのは、黒い毛並みを持つ巨大なモグラだった。

 

 《ケイヴ・ザ・ジュエルイーター》

 

 全長10メートルほどの巨体、そしてその巨体にさえも不釣り合いに思えるほど発達した前足とかぎ爪は、正面から受けてしまえば攻略組屈指の超重量タンク部隊でも軽々と吹き飛ばすほどの威力を持っていた。

 普通にやり合ってもかなり厄介な相手である。そんな相手がボス部屋中に掘られた穴を通って縦横無尽に駆け回り、背後から奇襲を仕掛けてくる。そして万が一穴に引きずり込まれてしまえばひとたまりもない。ここまでの戦いで既に2名のプレイヤーが犠牲になっていた。

 だが攻略組もただやられていたばかりではいない。穴へと煙玉を投げ込み、煙を嫌って出てきたボスを叩く。そんな戦いの繰り返しで、初め4本あったボスのHPバーはもう残り1本を切っていた。

 

「キリト君、そろそろ良いわよ!」

「了解ッ!!」

 

 前衛でボスとやり合っていたアスナが、後ろで待機していたキリトへと指示を飛ばす。待ってましたと言わんばかりにキリトが駆け出し、下がるアスナとすれ違いに一気にボスへと肉薄した。一応、俺もその後ろへと続く。

 ヒースクリフの率いるタンク部隊が、地上に出てきたボスを引きつけていた。こちらから見えるボスの後ろ姿は隙だらけだ。走りながら白と黒の二刀を構えたキリトが、その背中にソードスキルを放った。

 目にも留まらぬ2つの剣閃がボスを斬り刻む。高いステータスに加えてキリト自身がブーストを掛けたソードスキルだ。その攻撃は1本残ったボスのHPバーを見る見る削っていった。

 その剣速に「いよいよ人外じみて来たなこいつ」という身も蓋もない感想を抱きながら、俺も横からオマケ程度の攻撃を放つ。それにどれだけの意味があったのかは分からないが、キリトの16連撃のソードスキル《スターバースト・ストリーム》、その最後の一撃が振るわれた時には綺麗にボスのHPを削り切っていた。

 ボスは金切り声のような悲鳴を上げて硬直した後、そのままガラス片となって四散した。一瞬の沈黙の後、四方で焚かれていた青白い松明の炎が徐々に赤い色味を帯びていき、ボス部屋を一層明るく照らしてゆく。部屋の中央には、大きく【Congratulations!!】とシステムメッセージが表示されていた。

 少し遅れてプレイヤーたちから怒涛のような勝鬨が上がる。最期こそ呆気ないものだったが、そこに至るまでかなり際どい戦いだった。フロアボス戦で犠牲者が出るのは久しぶりのことだった。

 

 張り詰めていた空気が、一気に弛緩する。犠牲となったプレイヤーのために顔を歪める者も何名かいたが、多くはボス攻略成功の熱気に浮かされていた。薄情だとは思わない。戦いの最中、仲間の死に動揺してしまえば部隊はそこから崩れてしまうからだ。ボスを倒したとは言え、圏内へと帰るまではまだ危険も多い。そこまで気を緩めることは出来なかった。

 

 幸い、というのも不謹慎だが、今回犠牲となったプレイヤーたちはあまり俺とは関わりのない人間だった。柄ではないので周りのプレイヤーのように雄叫びを上げるようなことはしないが、場の空気に浮かされて少し高揚しながら、俺も剣を納めたキリトと無言でハイタッチを交わす。

 この戦いで最も戦功を上げたのはキリトに間違いなかったが、しかし何故かその表情は浮かない様子だった。理由は大体見当がついている。軽く声を掛けてやろうと俺は口を開こうとしたが、その前に1人のプレイヤーが割って入ったのだった。

 

「よくやってくれた、キリト君」

「いや……」

「君はベストを尽くした。顔を上げたまえ」

 

 そう口にするのは、血盟騎士団の団長を務めるヒースクリフである。この男もキリトの苦悩を見抜いたのだろう。周囲のプレイヤーが勝利に浮かれる中、それに気付いて声を掛けてくれたようだった。

 

 フロアボスのHPバーをほとんど一本一気に削り切れるキリトの火力は異常だった。レベルや素のステータスはあまりキリトと変わらない俺だが、《両手槍》カテゴリの中で最も威力の高いソードスキルをフルヒットさせても精々ボスのHPバーを10分の1削ることが出来ればいい方である。

 二刀流とはそれだけ強力なスキルだった。だが、それ故にレイド戦では扱いが難しい。

 あまりキリトにばかり突出したDPSを稼がれると、ヘイト管理が出来なくなるのだ。二刀流は攻撃面においては異常な火力を発揮するが、防御性能はそれなりである。大きなダメージを与えてヘイトを稼いでしまい、ボスのターゲットが集中し続ければやがてキリトから崩れてしまうことになるのだ。

 だから最後のトドメ以外、キリトにはDPSを抑えて戦って貰っているのだった。それは戦術であり手抜きとは違うのだが、キリト自身は全力で戦っていない自分に負い目を感じている様子だった。

 

 キリトの肩をヒースクリフが励ますように軽く叩く。その後ヒースクリフは俺にも軽く労いの言葉を掛け、再びプレイヤーの間を縫うようにして歩きだしたのだった。

 

「皆、よくやってくれた!」

 

 ボス部屋の中心に立ったヒースクリフが、注目を集めるように声を張り上げる。そうして静かになったプレイヤー1人ひとりの顔を確認するように目線を走らせながら、大仰な口調で語り始める。

 

「犠牲は大きかったが、これで我々はまた一歩ゲームクリアへと近づくことが出来た。とうとうこのアインクラッドも第70層だ。ここまで諸君と共に到達出来たことを誇りに思う」

 

 その言葉に、プレイヤーたちから再び歓声が上がった。それが軽く収まるのを待ってから、さらに言葉を続ける。

 

「今日は体を休め、英気を養ってくれたまえ。ただ3日後には《13日の金曜日》も控えている。第70層の攻略進度については各々の判断に任せるが、情報収集だけは怠らないでほしい」

 

 周囲のプレイヤーたちが頷くのを確認し、ヒースクリフが満足げに頷き返す。

 

「では15分の休憩を挟んだ後、血盟騎士団は第70層のアクティベートに向かう。共に来るものは声を掛けてくれ。私からは以上だ」

 

 言って踵を返し、ヒースクリフは血盟騎士団の集団の中へと戻って行く。静まり返っていたプレイヤーたちも慌ただしく動き出し、それぞれボス戦の事後処理へと移っていった。

 こうして俺たちは第69層のフロアボスを倒し、第70層の扉へとその手を伸ばしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《13日の金曜日》

 英語圏の多くなどで迷信として不吉とされている日である。その起源はキリストが磔にされた日だとか、不吉な数である13と不吉な曜日である金曜が合体して特に不吉な日とされただとか諸説あるらしいが、はっきりとしたことは分かっていないそうだ。

 まあそんなうんちくはどうでもいい。問題はこのアインクラッドにおいても13日の金曜日は特別な意味を持つということだ。

 このSAOの正式サービスが始まってから既に2度ほど13日の金曜日が訪れているが、そのどちらにおいても特別なイベントクエスト《不吉な日》が用意されていた。アインクラッド中を巻き込んだ大規模な討伐イベントで、その報酬もかなりおいしいものだったのだ。

 

 そんなイベントが開催されることになればプレイヤー同士の競争になるのが常なのだが、《不吉な日》クエストは普通のものとは毛色が違う。ギルドの垣根も越えて他プレイヤーと協力しなければクリアできないような難易度に設定されているのだ。去年の10月13日の金曜日にはいくつかのフロアにボスモンスターが現れ、それを複数同時進行で倒していかなければイベントが進まないというクエストだった。

 

 そういった経緯があり、今では《不吉な日》クエストについては多くのプレイヤーが一丸となって攻略に当たるというのが暗黙の了解となっている。過去2回の《不吉な日》クエストでは数日前から様々な場所で情報を集めることが出来たので、今回も何処かにクエストの兆候があるはずだと多くのプレイヤーたちは躍起になってアインクラッド中のNPCに聞き込みを行っているはずだった。

 その例に漏れず、俺とキリトも第69層のフロアボス攻略を終えてからの2日間、上層のフロアを点々としながら情報収集に当たっていた。もう明日には《不吉な日》クエストが迫っている。調査を始めた当初はすぐに何かしらの情報が掴めるだろうと思っていたのだが――

 

 

「目ぼしい情報全然ねえな……」

 

 俺のそんなぼやきは、うだるような暑さの中に溶けていった。

 第65層の西に位置する圏外村。その一角、露地にせり出した飲食店の一席である。一応頭上には幌のようなものが張られて日陰を作っていたが、それでも暑いものは暑い。もう9月も中旬に差し掛かるというのに、どうしてこんなに暑いのか。テーブルに置かれたキンキンに冷えたジュースのコップも大量に汗をかいていた。意外とこういうディティールに凝ってるよなこのゲーム。

 しかし俺の向かいの席でゴクゴクと炭酸飲料を飲んでいるキリトは何故か涼しい顔である。こいつ暑いのとか寒いのに強いんだよな……。本人曰く、鍛え方が違うらしい。

 だがそんなキリトも全くイベントの情報が手に入っていない現状にはうんざりしているようで、持っていた炭酸飲料を一気に飲み干すとため息を吐いて俺の言葉に頷いた。

 

「これだけ探しても見つからないってことは、今回はゲリライベントなのかもな……。まあとりあえず、トウジに頼まれたガイドブックの情報収集だけでも済ませちゃおうぜ」

「だな。最悪俺らが収穫ゼロでも、ジェイソンイベの情報は他の奴らが手に入れてくれてるかもしれないし」

 

 ジェイソンイベとは《不吉な日》のイベントクエストの俗称だ。もちろん由来は某有名スプラッター映画からである。

 そうしてキリトと頷き合い、気分を切り替える。俺はストレージからいくつかの資料を取り出し、それをテーブルへと広げてみせた。

 

「今回はクエストの攻略情報いくつか拾って来いって話だったか? えっと……《彷徨いし魂と導なき墓標》クエと《魔障の狂気は永劫を輪廻す》クエか……。なんかこの辺のクエストのネーミングセンスすげえな」

「ああ。カッコいいよな」

「え? あ、おう。そうだな」

 

 ……そう言えばキリトさん年齢的にはまだ中学卒業したばかりだったな。うん。恥ずかしくないぞ。誰でも一度は通る道だからな。

 そんな生暖かい視線を向ける俺のことなど露知らず、キリトはトウジから貰った資料を手に取って立ち上がる。

 

「さて、そろそろ休憩も終わりにしようぜ。墓標の方はすぐそこのNPCからクエスト受けられるみたいだし、さっさと済ませちゃおう」

「ああ」

 

 一刻も早く仕事を終えて涼しいエリアへと引きこもりたい。そう思いながら俺も席を立ち、会計を済ませてからその場を後にした。

 古代オリエントのような風景の村である。黄褐色の日干し煉瓦の住居が、強い日差しに照らされて目に痛い。時刻はもうすぐ13時。本格的に暑くなる時間帯だった。顔に当たる日差しを手で遮りながら、俺は先行するキリトの背中を追った。

 

 幸いここはそれほど大きな村ではない。ほどなくして俺たちは金色の【!】マークを頭上に表示するNPCの老人を見つけた。クエストの開始点の印である。

 コミュ力は割と高いくせに何故かよく人見知りをするというよくわからないパーソナリティを持ったキリトだが、NPC相手には特に緊張することもないらしい。慣れた様子ですぐにNPCの老人に声を掛けようとし――その瞬間、けたたましいアラート音と共に目の前に現れたシステムメッセージによってそれは阻止された。

 

「うおっ!?」

「な、なんだッ!?」

 

 泡を食った俺たちは2人揃って情けない声を上げ、身を固くする。システムメッセージはキリトだけでなく俺の目の前にも表示されていた。

 いったい何が――そう思いながら俺は表示されたメッセージに目を走らせる。

 やがてアラート音が収まり、先ほどのやかましさが嘘のような静寂が周囲を支配した。それを破るように、俺たちは声を震わせながら口を開く。

 

「おいキリト、これ……!」

「ああ……さすがにこれは予想外だったな」

 

 突如俺たちの前に現れたシステムウインドウ。おそらくアインクラッド中の全プレイヤーに向けて通知されているのだろう。そこに書かれたメッセージを理解した瞬間、俺たちの間に戦慄が走ったのだった。

 

 『緊急クエスト発生!

 《始まりの街に襲来する軍勢を撃退せよ》

      【不吉な日・侵攻イベント】』



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第34話 不吉な日

 第一層《始まりの街》

 西部に位置する公会堂。

 その一室、テニスコート2面分ほどのホールには50名以上のプレイヤーが一堂に会していた。皆一様に深刻な表情で口を真一文字に結んでおり、異様なほどの沈黙が場を支配している。

 その中心で1つの卓を囲むのは攻略組の中でも主だった面々と、攻略組ではないもののアインクラッドで有力者として名を知られているプレイヤーたちだ。

 血盟騎士団からは団長のヒースクリフと副団長のアスナ。聖竜連合からはギルドマスターのハフナーとその側近シヴァタ。組合からはエギル。風林火山からはクラインとキリト。ALFからはシンカーと雪ノ下。有力な情報屋としてアルゴもその席に着いていた。

 ちなみに俺、比企谷八幡は部屋の隅っこからそれを見守っている。最近の俺はユニークスキル《二刀流》を持ったキリトさんの腰巾着扱いなので、攻略組での発言力は強くないのだ。

 

「状況を確認しよう」

 

 険しい表情で口を開いたハフナーへと視線が集まる。前回の攻略会議では血盟騎士団が議長を務めたため、今回は臨時で聖竜連合のハフナーが議長を務める流れとなったようだった。

 

「明日9月13日の金曜、時刻は午前10時。悪魔の軍勢と呼ばれる者たちが始まりの街へと向かって侵攻するイベントが発生する。イベント中は始まりの街のアンチクリミナルコードが無効化され、場合によっては市街が戦場となる可能性がある」

 

 この場に居るプレイヤーたちにとっては既知の情報であったが、改めてそれを口に出すことで緊張が走った。

 アンチクリミナルコードの無効化――アインクラッドに住むプレイヤーたちが最も恐れていた事態である。

 アインクラッドにおける多くの街や村は、犯罪禁止(アンチクリミナル)コードと言われるシステムによって安全が約束されている。睡眠PKなどの抜け道はあるが、基本的にアンチクリミナルコードの有効圏内ではプレイヤーにダメージが発生することもなくモブが侵入してくることもないのだ。

 デスゲームとなったSAOの中で、唯一命の危険に晒されることなく休むことが出来るエリアである。それが一時的に、そして始まりの街限定のこととは言え、初めて侵されるのだ。この圏内侵攻イベントが通知された時、プレイヤーたちに走った動揺はかなりのものだった。

 

「私たちは始まりの街を守るために悪魔の軍勢と戦わなくてはならない。これは言ってみれば全プレイヤー強制参加型のグランドクエストだ。プレイヤー側の勝利条件は複数存在する敵の指揮官である黒騎士たちを全て討ち取ること。勝利すれば戦功に応じた報酬が各々に分配されるとのことだ」

 

 ハフナーが1人話を続ける。その間、誰も口を挟むことなく聞き入っていた。

 

「そして敗北条件はこの始まりの街中央に位置する黒鉄宮、その内部に黒騎士の侵入を許すこと。その瞬間始まりの街は悪魔の軍勢に占拠され、プレイヤーが使用できるそのほとんどの機能を失う。アンチクリミナルコードの無効化もそのままだ。更には全フロアの物価高騰、モブの強化など様々なペナルティが課せられる」

 

 それは重すぎるペナルティだった。始まりの街にはプレイヤーにとって有用な様々な施設が集まっており、それを当てにしてギルドホームなどの本拠を置いている者たちも多い。敵に占拠されるということは、そこを放棄しなくてはならないということだ。物価高騰も地味に痛いし、モブの強化に至っては最前線で戦いを続ける攻略組にとっては死活問題である。

 

「アインクラッド中のプレイヤーが一丸となって戦わなくてはならないイベントだ。何か補足や新たな情報はあるか?」

 

 ハフナーはそうして話を一旦締めくくり、他のプレイヤーたちへと水を向けた。

 ここまでの話は2時間程前にシステムメッセージで全プレイヤーに向けて通知された内容である。そこに必要最低限の情報は記されていたが、大規模な防衛戦となれば事前にもっと敵の情報なども手に入れておきたいところだった。

 とはいえ昨日までの情報交換では《不吉な日》関連の情報は全く上がっていない。この場ではこれ以上の情報は出ないかもしれないなと思いながら俺は成り行きを見守っていたのだが、意外なことにすぐに発言権を求めて挙手をする人物が現れた。

 

「昨日までは全然情報が手に入ってなかったんだケド、今日の通知が来てから《不吉な日》関連の情報がいくつか拾えたヨ。アレが情報解禁のトリガーになってたみたいダネ。とりあえず分かった情報だけを資料にまとめたから目を通してクレ」

 

 そう言って資料を配り始めたのはアルゴである。胡散臭い口調は相変わらずだが、今日は会議に出席しているということもあってかフードは被っていない。ライトブロンドの猫っ毛をふわふわと跳ねさせながら席を回って資料を配っていた。さすがに今日は金は取らないらしい。

 しばらくすると全員に資料が行き渡り、自分の席に戻ったアルゴが再び口を開く。

 

「敵のレベルとか特性もある程度分かってるケド、その辺は後で攻略組で話し合って貰うとしテ……とりあえず今確認しておきたいのは最初の5行ダ」

 

 渡された10枚程度の紙にはびっしりと情報が書き込まれていた。《不吉な日》イベントの通知が来てからまだ2時間も経っていないのに、どうやってこれだけの情報を手に入れたのか……。そんな思いをひとまず胸の奥にしまい込み、アルゴの言う最初の5行に目を通す。

 

 始まりの街の図書館に保管されている文献によれば、悪魔の軍勢と呼ばれる勢力は過去にも幾度か始まりの街へと侵攻してきたことがあるという設定らしい。奴らは予告してきた時刻になると何処からともなく現れ、攻撃を開始したのだという。潜伏中の悪魔の軍勢を発見するのは不可能だと文献には記されていたそうだ。

 

「詳しい説明はALFに任せた方が早いだろうナ。ユーちゃん、あとヨロシク」

 

 もう自分の仕事は終わりだとばかりに匙を投げたアルゴに、隣に座っていた雪ノ下は若干呆れたような視線を向けたが、気を取り直すように息を吐くと次いでいつもの凛とした表情で語り始めた。

 

「既にALFで第1層全域に斥候を放ちましたが、悪魔の軍勢と見られるエネミーは今のところ発見出来ていません。引き続き偵察は続けますが、ここにあるアルゴさんの情報と照らし合わせても明日のイベント開始前にエネミーを発見出来る可能性は低いと考えています」

「なるほど。こちらから敵の拠点に奇襲をかけるような作戦はとれないということか。明日のイベント開始と同時に、始まりの街周辺または内部に敵が湧くと想定しておいた方が良さそうだ」

 

 雪ノ下の意図するところを理解したヒースクリフが呟くように口を開く。

 これは逆に考えれば明日のイベント開始時刻まで絶対に戦闘になることはないということだ。予告された時刻まで猶予はないが、残された時間は全て準備に当てることができる。

 

「ひとまず防衛のための部隊を整える班と、始まりの街のプレイヤーの避難誘導を行う班に分けようと思う。他に何か意見があるものは居るか?」

 

 しばらく黙って話を聞いていたハフナーが、そうして全体の流れを決める。異を唱える者はおらず、ハフナーは続けて指示を出すように口を開いた。

 

「では避難誘導の班はシンカーさんたちに一任したい。始まりの街に根を張るALFならば適任だろう。もちろんALFの中で戦う意思のある者が居ればこちらに回してくれて構わない。防衛部隊については軽く攻略組で案を煮詰めてから戦力を募集しよう。おそらくいつもの50人弱のメンバーだけでは始まりの街全域をカバーすることは難しいからな。一般のプレイヤーに向けて触れを出すのもその時だ」

 

 ハフナーの言葉に従ってプレイヤーたちが慌ただしく動き出す。

 ALFのメンバーやアルゴはそれぞれに与えられた役割をこなすためにすぐにその場を後にして行った。作戦本部はここに置くということが決まり、その後は残った攻略組たちだけで明日の作戦が練られていく。

 防衛部隊編成の基礎案は簡単なものだったので特に揉めることもなく速やかに決定した。その後、一般のプレイヤーに向けて攻略組の声明を発表して戦力を募集。そうして最終的な編成は改めて夜に行われたのだった。

 

 攻略組に籍を置く俺とキリトは当然のことながら、今回はクラインを含む風林火山の中でも一部の高レベルプレイヤーは防衛戦に参加することが決定していた。事前の情報によれば敵部隊の一般兵はレベル60から70程度ということだったので、準攻略組レベルに位置するクラインたちでも十分に戦力になるだろうという見込みである。さすがに相手指揮官の黒騎士を含む部隊を相手にするのは厳しいと思われるので、そこは上手く攻略組が当たることになっている。

 そうして普段ボス攻略には参加しない層のプレイヤーたちを加え、防衛部隊の総数は200人を越える規模になっていた。戦闘には参加出来ないプレイヤーたちからも消費アイテムなどの支援物資が届けられたりと、イベントクエスト《不吉な日》はいよいよアインクラッドに住むプレイヤーたちの総力戦となっていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 23時にまで及んだ作戦会議もようやく終了し、公会堂を後にした俺とキリトはプレイヤーのほとんど居なくなった夜の始まりの街を歩いていた。

 多くのプレイヤーは他の層に避難しているのに加え、明日のイベントの影響なのかNPCさえその姿が見えない。ぽつぽつと周りを歩くのは俺たちと同じように会議を終えて帰宅の途につく攻略組のプレイヤーばかりだった。

 俺たちも今日はもうギルドホームへと帰り、明日に備えてゆっくりと休む予定である。クラインたちは第1層で運営していた孤児院の避難誘導などもあったので、割と早い段階で公会堂を後にしていた。

 

 始まりの街は広いので転移門までの道のりもそこそこある。長時間に及ぶ作戦会議で凝り固まった体をほぐしながら、俺たちはゆっくりと転移門を目指していた。

 しばらく行ったところで、俺は徐に周囲を見回して他のプレイヤーが居ないことを確認する。そこでようやく俺は会議中ずっと気になっていたことを口にしたのだった。

 

「……おい。あいつ会議中ずっとお前のこと睨んでたぞ」

「あいつ?」

 

 首を傾げるキリトの視線を受けながら、俺は頭に手を当てて必死に記憶を掘り起す。

 

「えーっと……ほら、あいつだよあいつ。この前お前が決闘(デュエル)で剣をぶち折った血盟騎士団の奴。アスナの護衛だった……名前何て言ったっけか。クラ、クラ……クライヴ?」

「ああ、クラディールな」

「あ、そうそう、そいつだ」

 

 キリトの言葉にちょっとしたアハ体験を覚えつつ、頷く。

 先日キリトに決闘(デュエル)でコテンパンにやられたクラディールだが、準攻略組レベルの力はあるので今日の会議の夜の部には出席していた。まあ特に発言権はなく本当に居ただけだったが、その間ずっと部屋の隅っこからキリトのことを忌々し気に睨み付けていたのだ。

 

「あれは絶対根に持つタイプだぞ。如何にも陰湿な顔してるし」

「うーん。ハチが言うと説得力があるな……」

「おい。どういう意味だそれ」

 

 そう言いつつもキリトはあまり深刻には考えていない様子だった。俺もそこまで心配しているわけではないが、少しだけ気になったので一応忠告しておく。

 

「まあ明日は部隊も別だから大丈夫だろうけど、油断してるとそのうち後ろから刺されるぞ」

「恐いこと言うなよ……。というかハチこそ大丈夫なのかよ。明日は1人だけヒースクリフの部隊配属だろ? 血盟騎士団の奴らとちゃんとやれるのか?」

「安心しろ。最近は黒の双剣士様が目立ってくれるお蔭で俺の影が薄かったからな。トラブルの火種になるようなものがない。というか認知されていないまである」

 

 混ぜっ返すキリトに、俺も茶化しながら言葉を返した。キリトのお蔭で最近俺の影が薄かったのは事実である。色々と事情があって明日はキリトとは別にヒースクリフの指揮下に入ることになっているが、それほどの摩擦は起こらないだろうと俺は思っていた。

 

「けどわざわざ俺と別の部隊を志願したってことは、明日はアレ使うつもりなんだよな? ヒースクリフの神聖剣は集団戦にはあまり向いてないだろうし……」

 

 不意に真面目な表情を浮かべたキリトがこちらを覗き見る。「アレ」などとぼかした言い方をしたが、俺にはそれが何を指しているのかすぐに分かった。

 

「……まあな。けど状況次第だ。そんなに使い勝手の良いもんでもないし」

「ズルいよなぁ。俺の二刀流は隠さずに使えって言ったくせに、自分はそうやって……」

「別に隠してたわけじゃないぞ。俺のは大型ボスとか相手にしても役に立たないし、使いどころがなかっただけだ。それにそもそも実戦で使えるレベルになったのも最近だし」

 

 そんなやり取りをしながら、しばらく歩く。もう転移門広場のすぐ近くまで来ていた。

 

「ハチと別れて、本気で戦うっていうのも久しぶりだな」

 

 ぼんやりと空を眺めながら歩いていたキリトが呟く。

 確かに、イレギュラーでもない限り俺たちが本気で戦う時はだいたい2人一緒だった。もちろんお互い1人では戦えないということはないのだが、多少の不安はある。

 それでも既に決まってしまったことだ。後は全力を尽くすのみである。俺は改めて腹を括りながら、隣を歩くキリトの顔へと視線をやった。

 

「……死ぬなよ」

「そっちこそ」

 

 言って、良い顔をしたキリトが拳を突き出す。

 ……こいつ、意外とこういうの好きだよな。俺は柄じゃないから勘弁して欲しんだけど……まあ、たまには付き合ってやるか。

 少し目を逸らしながら、俺も右の拳を突き出した。小さな音と共に、拳が打ち合わされる。触れた拳の先から、何かジンジンと熱いものが伝わってくる気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部隊は大きく4つに分かれていた。

 始まりの街はフロアの最南端に位置し、外縁部に張り付くようにして出来た半円状の街である。周囲は堅固な外壁に囲まれ、街に入るための道は東門、西門、北門の3つしかない。その門をそれぞれ守る部隊が合わせて3隊と、黒鉄宮を中心に市街地を守る部隊が1隊という内訳となっていた。

 

 北門を守るのはギルドマスターのハフナーが率いる聖竜連合。その数50名弱。ギルドのほぼ総力である。1つのギルドで統一された隊なので集団戦での連携は取りやすく、安定した戦いが臨めるだろう。

 東門を守るのは混成部隊だ。主な構成員はキリトとクラインを含む《風林火山》の面々と、エギル率いる《組合》のプレイヤー、コーバッツというプレイヤーが率いる《軍》のプレイヤーたちである。この隊には攻略組の最大戦力の1人であるキリトが配属されているので、他の隊との戦力のバランスをはかるために準攻略組のプレイヤーが多めに割り振られている。

 西門を守るのはヒールクリフ率いる一部の血盟騎士団のプレイヤーたちと、主要なギルドに属さないプレイヤーたちである。今回は俺もここに含まれている。ヒースクリフもキリトと並んで攻略組の最大戦力であるが、あいつの持つ神聖剣は今回のような集団戦では相性が悪い。血盟騎士団の精鋭たちを中心に堅実に戦っていくことになるだろう。

 そして黒鉄宮を含む市街地を守るのは、アスナ率いる残りの血盟騎士団のメンバーたちと一部の軍のプレイヤーたちだ。今回のイベントの最終防衛ラインになるが、実際に戦いになる可能性は低いと考えられている。そのため構成員もいつも攻略には参加していない若干レベルが低いプレイヤーたちが多かった。

 

「まあ黒鉄宮を空けるわけにもいかないし、必要な部隊だっていうのは分かってるんだけど……。それでもやっぱり私だけ市街地に配置されてるのは納得いかないわ」

「いや、それを俺に言われてもな」

 

 《不吉な日》当日の朝。隣に立つアスナがそう愚痴を溢していた。

 始まりの街、その大広場である。イベント開始時刻まではまだ1時間以上あったが、既に多くのプレイヤーたちが集まっている。おおよそ部隊やギルド別に分かれており、戦いの前の緊張した空気が場を支配していた。

 そんな中で血盟騎士団のプレイヤーに交じってポツリと佇むプレイヤーが1人。俺である。こんな集団の中でもぼっちになれるとは、俺のぼっち力もまだまだ捨てたもんじゃないな、などとふざけたことを考えていたところ、俺を発見したアスナがこちらに接触してきたのだった。

 どうやらアスナは自分が受け持った部隊が前線から離れていることが気に入らないらしい。本当にどうしてこんなに血の気が多いんだこいつは。少しでも戦功を上げて良い報酬が欲しいというプレイヤーがいるのはわかるが、多分こいつは単に前線で戦いたいだけだ。

 アスナはじとっとした目線をこちらに向けると、軽くため息を吐く。

 

「どうせハチ君も今日はアレ使って好き勝手に暴れまわるんでしょう? 小型モンスター相手なら相性いいものね。私も久しぶりに本気のハチ君を見たかったわ」

「俺がいつも手抜いてるみたいな言い方やめろ。与えられた仕事にはいつも全力だからな。なるべく仕事を与えられないようにしてるだけで」

 

 さすがに命懸けの戦いで手を抜けるほど図太い神経はしていない。そう思って反論したが、アスナには「はいはい」と適当に頷いて流された。

 

「それで、わざわざそんな愚痴こぼしに来たのか?」

「違うわよ。準備も終わったから、予定よりも早めに出発するって団長が。ちゃんと伝えたわよ」

「ああ、了解」

 

 お互い、あまり時間に余裕があるわけでもない。システムウィンドウで時間を確認したアスナは気合いを入れ直すように「よしっ」と声を上げ、改めてこちらに向き直った。

 

「あまり心配はしてないけど、気を付けてね。いつもと色々状況が違うし」

「お前もな。あの部隊まとめ上げるのはちょっとめんどくさそうだぞ」

 

 クラディールを筆頭に色々と問題のあるプレイヤーが多いと聞いていた。加えて今回は軍のプレイヤーも数名混じっているようだし……と考えながら視線をアスナの後方、彼女が受け持つその部隊へと向ける。

 当然ながら、知らない顔が多い。軍所属のプレイヤーに至っては全員知らないプレイヤーだ。だがランクの高そうな装備やその落ち着き払った態度を見るに、それなりに戦えそうな雰囲気ではある。

 そうして俺が軍のプレイヤーを遠巻きに観察していると、視線に気付いたのか、その中の1人がこちらに振り向いた。軍で揃いの灰色の兜を目深に被った、小柄な男。そいつは俺の方を見ながら、口を微かに歪めて笑ったような気がした。

 

「――ハチ君? どうかした?」

「え? あ、いや……。なんでもない」

「ちょっと、しっかりしてよね」

 

 言ってアスナが俺の肩を叩く。それに「大丈夫だ」と答えながら、俺は気持ちを切り替えた。

 

「じゃあ、お互い頑張りましょう」

「……おう」

 

 何かを確かめるように、お互いに頷き合う。そしてアスナは俺に別れを告げ、すぐに自分の部隊へと戻って行ったのだった。

 その後、俺はなんとなく先ほどの男を探したが、もう人ごみに紛れてしまって見つけることは出来なかった。

 軍の男の妙な態度が少しだけ気にかかったが、俺はすぐにその懸念を振り払う。今は些事に気を取られている場合ではないだろう。時刻を確認し、俺も自分に与えられた仕事を全うすべく動き出したのだった。

 

 

 その後すぐに部隊は動き始め、それぞれが防衛を担当する地点へと散っていった。俺はヒースクリフ率いる血盟騎士団員と、十数名の他ギルドのプレイヤーと共に西門へと向かう。フロアボス戦と違いパーティ数などの制限はないので、特に誰とパーティを組むこともなかった。

 始まりの街の周辺は基本的に広大な草原フィールドとなっている。西門から北西に抜けた地点には深い森が広がっているが、さすがにそこまで戦線が伸びることはないだろう。

 作戦の基本は、野戦に打って出て敵の指揮官である黒騎士たちを討ち取ることである。外壁と門を利用して籠城戦のように戦う選択肢もあるのだが、プレイヤー側の勝利条件が全黒騎士の討伐なので防衛戦とは言いつつも基本的にはこちらから攻める方針だった。

 

 隣に立つヒースクリフは地形を確認するように周囲を見回している。普段ならばフレンジーボアと呼ばれるイノシシ型のモブが点々と生息しているのだが、イベントの影響か今は見渡す限り1匹も存在しなかった。

 

「意外だったよ。君がこちらの部隊に志願するとはね」

 

 遠くに視線をやったままのヒースクリフがおもむろに口を開いた。急に話しかけられたことに若干きょどりながらも、俺はその横顔をちらりと盗み見て言葉を返す。

 

「ああ、うん。俺もそう思う。出来れば部屋で寝てたいところだったんだけど」

「ふっ。面白い冗談だ」

 

 いや、9割くらい本気なんだけど……。

 そうして笑みを浮かべていたヒースクリフだったが、不意に真剣な表情をこちらに向ける。

 

「君のことだから何かあるんだろう?」

 

 全てを見透かしたようなヒースクリフの瞳が俺を見つめる。

 これだからこいつは苦手なのだ。とは思いつつも、今回だけは話が早くて助かった。どうせ既に色々とバレているのだろう。アレは今まであまり使う機会がなかっただけで、別段隠そうとしていたわけでもないのだ。そう思いながら、俺は正直に口を開く。

 

「新しいスキルがある。大型モブ以外なら、多分かなりの数の敵を同時に相手に出来る奴だ。昨日も言ったけど、状況見て動きたいから俺は遊撃扱いってことでいいんだよな?」

「ああ。元より兵法など何もない、乱戦覚悟で野戦に打って出るつもりだったところだ。ソロで好きに動いてくれたまえ。他の隊の者にもそう伝えておこう」

「助かる」

 

 ヒースクリフは二つ返事で俺の要請に頷いた。この度量が血盟騎士団でカリスマと称される所以だろうか。

 こうして俺は希望通り遊撃扱いとなり、戦場の中を自由に動くことが許された。元々おみそ扱いの兵隊だったので、周りも俺が居ない方が連携を取りやすいだろう。

 

「さて……そろそろか」

 

 システムウィンドウで時間を確認したヒースクリフが呟く。次いで自分の後ろに整列する部隊のプレイヤーたちに目を向けた。

 

「諸君、間もなく刻限だ。なに、そう固くなる必要はない。我々の力を以ってすれば必ずや勝利を手にすることが出来るだろう」

 

 静まり返った平原にヒースクリフの落ち着いた声は良く通る。プレイヤーたちは無言で頷いただけだったが、静かに闘気が満ちていくのを俺は感じていた。

 ヒースクリフがタワーシールドを左手に取り、右手で剣を抜き放つ。強者の余裕なのか、その顔は不敵に笑っていた。

 

「総員、戦闘体勢を取れ! 来るぞ!」

 

 ヒースクリフが檄を飛ばしたのと同時、その視線の先、だだっ広い草原の真ん中に巨大な黒い靄が降りる。次の瞬間には靄は払われ、そこには黒い具足に身を包んだモンスターの軍勢が立っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クライン、突っ込むぞ!」

 

 走りながら二刀を構えたキリトが叫ぶ。部隊から1人突出していたキリトは、クラインの返事も待たずに目の前の軍勢へと斬り込んで行った。

 指揮官クラスの敵は未だ奥に控えているようで、そこに居並ぶのはゴブリンやオークと言った兵隊クラスの亜人系モブだ。レベルもそう高くないので、キリトにとって1体1体は全く脅威にはならない。ソードスキルによって紙細工のようにモブが蹴散らされる。しかし押し寄せる軍勢はまるで雪崩のようで、やがてソードスキルによる連撃が終了するとキリトを押し包むようにモブが展開した。

 そこでようやく後続のクラインたちがキリトへと追い付く。クラインの部隊が崩れた敵の陣形に楔を打つようにしてさらに突き崩し、他の部隊のプレイヤーたちもそれに追随して敵部隊を押し込んだ。

 踏み止まろうとするモブたちとしばらく押し合いが続いたが、地力の差もありやがて敵部隊は潰走を始めた。しかしプレイヤーたちも深追いはせず、一旦下がって部隊を整えるのだった。

 

 荒い息を整えながら、クラインは周囲を見回した。普段の戦闘とは勝手が全く異なるが、何とか戦えている。色々と不安材料もあったが、今のところは戦死者もなく善戦していた。

 だがそれも結果論だ。クラインは先ほど敵軍に1人で突っ込んで行った風林火山の問題児その1を睨み付ける。

 

「おいっ、キリト! オレらに合わせろとは言わねぇけど、あんまり1人で突っ込むなよ!」

 

 クラインはキリトの頭にぐりぐりと拳骨を押し付けた。キリトは身をよじってそれから逃げながら罰の悪そうな表情を浮かべる。

 

「悪い悪い。ついハチと一緒に戦ってる時の癖でさ」

「オレらじゃあいつほどキリトに合わせらんねぇんだからな」

「いや、十分助かってるよ」

 

 そう言って笑うキリトの顔を見ながらクラインはため息を吐く。頭を切り替えて、敵の陣営を見渡した。

 

「しかし本当に(いくさ)って感じだな」

「ああ。モブのアルゴリズムも変わってるみたいだ。普通ならプレイヤーから逃げることなんてそうそうないし」

「一応このまま門を守ってれば負けることはねぇんだろうけど……」

「それじゃあ勝ちもないからな。このまま消耗戦になったら不利になるのはこっちだ。あっちは疲れ知らずだし、どこかで勝負をかけて黒騎士を討ち取らないと」

「だな。ちょっと作戦考えるか」

 

 経験値はおいしいのだが、さすがに何時間もこんな戦いを続けることは難しい。やはりどこかで勝負をかけるべきだ。

 キリトとの会話でクラインはその結論に至り、頭を捻って作戦を考え始める。敵の軍勢は崩れた部隊を編成し直しているようだったので、こちらから攻めない限りはしばらく戦闘にはならないだろう。

 その後近くに展開していたエギルたちとも1度合流し、今後について話し合う。しかし作戦とは言っても既に正面から向き合ってしまった状態では取れる選択肢もかなり限られていた。エギルの部隊が後退しながら敵を引きつけ、横合いからキリトが切り込むという単純な作戦に落ち着きかけたところで、クラインの後方から怒号が響いたのだった。

 

「おい! 何故先ほどあのまま追撃しなかったのだ!!」

 

 振り返ると、そこに立っていたのは《軍》のプレイヤーのパーティリーダーであるコーバッツという男だった。目深に被った鈍色の兜のせいで表情は読み取り辛いが、癇癪を起したように喚きたてるその様子からは明らかな不満と怒りが見て取れた。

 

「あんたには奥の敵本隊が見えないのか? 下手に突っ込めば囲まれて終わりだぞ。数は向こうの方が多いんだ」

「レベルはこちらの方が高いのだろう? そのまま敵本隊に攻撃を掛けて黒騎士を討ち取れば終わりではないか!」

「いや、そんな単純な話じゃ……」

「ふんっ、もういい!」

 

 キリトの言葉にも聞く耳を持たず、コーバッツは踵を返す。

 

「お前たちが攻略組とは名ばかりの腑抜け揃いだということはよくわかった! 我々は好きにやらせてもらうぞ!!」

「あ、おいっ」

 

 《軍》の部隊へと戻っていくコーバッツの背中を呆然と見つめながら、微妙な沈黙が場を支配する。剃り上げた頭をポリポリと掻きながら、やがてエギルが口を開いた。

 

「おい。どうする、あいつら」

「あの様子じゃあどうしようもないだろ。下手に足並みを合わせた方が危険だ。ある程度のところまでは好きにさせよう」

「それしかないか……」

「しっかしよ、混成部隊にしたのは間違いだったんじゃねぇのかコレ」

「戦力のバランス的には間違ってないんだけどな」

「他のところもトラブルになってなきゃいいけどよ」

 

 3人でそんなやり取りをしながら、クラインはここには居ない人物に想いを馳せる。風林火山の問題児その2。あいつがアスナ以外の血盟騎士団のプレイヤーと上手くやっているヴィジョンが全く持てない。やはり1人で行かせたのは間違いだったのではないだろうか。

 しばらく腕を組んでそんなことを考えていたが、やがて頭を振ってその思考を振り払った。今は目の前のことに集中するべき時だ。

 

「ま、やれるだけやるっきゃないか。気合い入れて行こうぜ!」

「ああ。じゃあエギル、囮役頼んだぜ」

「おう。任せとけ」

 

 巨大な戦斧を肩に担ぎながら、エギルが不敵な笑みを浮かべた。それを見てクラインとキリトも頷き合い、それぞれの持ち場へと散っていく。敵部隊も隊列を整え、攻撃の構えを取り始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 濁流の中に打ち込まれた、一本の杭のようだ。

 全体の戦況に目を配っていたヒースクリフが抱いたのは、そんな感想だった。

 押し寄せるモブの軍勢の中、彼は1人その場に留まり続けていた。ヒースクリフが率いる部隊とは別方面から1人で敵軍へ攻撃を仕掛けている遊撃手、ハチである。敵の軍勢に視界を遮られて彼の戦いぶりは他の者からほとんど見えなかったが、遠目にも舞い上がる青白いエフェクトが確認でき、相当な数のモブを屠っているだろうことは容易に見て取れた。

 

 ヒースクリフ率いる本隊が正面から当たり、左方から敵軍に食い込んだハチが陣形を乱す。細かく打ち合わせをしたわけではないが、即興でのその作戦は上手く回っていた。これで2度目のぶつかり合いになるが、始終プレイヤー側が圧倒していた。

 ヒースクリフは最前線で剣を振るいながらも、1人で戦うハチを意識して薄く笑う。

 

 ヒースクリフは、彼のことを中々に気に入っていた。際立って非凡な才能を持つというわけではない。それなりに優秀だとは言っていいだろうが、そういった意味では才能の塊であるキリトのような人間とは比べるべくもなかった。むしろ彼を彼たらしめているのは、持たざる者故の自罰的な人間性とその矜持である。そんな彼がこの世界で足掻く様は、常々ヒースクリフを興じさせた。

 だが、だからと言って彼にばかり功を譲るつもりはない。

 

「押せ! 黒騎士はすぐそこだ!!」

 

 戦いは佳境へと迫っていた。左方から圧力をかけるハチのお蔭で敵中央の守りが薄くなっている。ヒースクリフの檄に応えるように雄叫びを上げながら、プレイヤーたちは敵の軍勢の中を突き進んだ。

 そうして怒涛の勢いで進撃するヒースクリフたちだったが、いくらもしないうちに強大な敵の塊と突き当たった。

 

 立ちはだかるのは、黒の甲冑に巨大な両手剣を携えたボスクラスの敵。悪魔の軍勢の指揮官である《黒騎士》である。さらにその周囲を、直属の部隊と思われる人型モブ《レッサーヴァンパイア》が固めている。劣等(レッサー)とは言っても、今まで戦っていたゴブリンやオークとは一線を画す強さの敵だった。

 

「黒騎士は私と麾下の者で討つ! 他の者は纏まって近くの敵へと当たれ!」

 

 予め決まっていた指示を飛ばし、ヒースクリフが先頭となって黒騎士直属の部隊に躍りかかった。敵軍勢の懐深くへと押し込み、ほとんど包囲されたような不利な状況だったが、黒騎士さえ討ち取ればその指揮下の敵は崩れるはずである。ここを押し切れるかどうかが勝負の分水嶺だった。

 

 士気はかつてないほどに高まっている。血盟騎士団の精鋭たちは言わずもがな、今回飛び入りで参加した無所属の者たちも思いのほか練度の高いプレイヤーであった。

 憂いはない。ヒースクリフは意図せず笑みを浮かべながら、高くソードスキルを構える。

 

 ――刹那、背中に衝撃が走った。

 

「なッ……!?」

 

 背後からの不意打ちによって、技がキャンセルされる。右手の剣を取り落としそうになるのは何とか堪えたが、いかにヒースクリフと言えどもペナルティによる体の硬直を回避する術はなかった。

 

「だ、団長ッ!?」

「貴様ァ! 何をしているッ!?」

 

 麾下の者数名の怒号が飛ぶ。なんとか状況を確認しようと、ヒースクリフは視線だけを背後へと向けた。

 彼の目が捉えたのは、自分の左脇腹に深々と突き刺さるダガー。そしてそれを強く握り込みながら、愉快そうに口を歪める1人のプレイヤーだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第35話 裏切り

 不意に、敵からの圧力が強くなった。

 四方を敵に囲まれた状況だ。何故、などと考えている余裕はない。元々かなり無理をして何とかここに踏み止まっていたのだ。既に10分ほど休みなく戦い続けている。十分仕事はこなしたはずだ。そう判断し、俺はすぐにこの場から撤退することに決めた。

 

 気合いを入れ、1度大きく槍を払う。周囲の敵はその攻撃に大きく吹き飛ばされて一瞬の間隙が生まれた。次いで陣が乱れている場所を見極め、一気に突っ切る。すれ違いに武器を引っ掛けられたりと軽微なダメージを負ったが、ステータスにものを言わせて駆け抜けた。

 

 十数秒で敵陣を抜け、開けた草原が視界に入る。一旦ヒースクリフたちと合流しようと周囲を見回すと、数百メートル先、始まりの街の門その一歩手前まで後退しているプレイヤーたちの部隊が目に入ったのだった。

 

「くっそ! なんでだッ、ほぼ確定で相手を麻痺させるレアアイテムだぞ!? なんで効かねぇんだよ!!」

 

 俺が近づいていくと、男の喚き散らす声が響いた。怪訝に思いながらもさらに部隊の中へと分け入っていくと、体を縄で縛られたオレンジカーソルの男が1人座り込んでいたのだった。

 状況が飲み込めず、俺はその場で足を止める。この男、確かヒースクリフの部隊に組み込まれたギルド無所属のプレイヤーだったはずだ。それが何故オレンジカーソルになり、縛られているのか。

 そうして立ち尽くす俺の前に、重装備のプレイヤーが1人歩み寄る。ハッとして顔を上げると、少し疲れたような表情を浮かべたヒースクリフと目が合った。

 

「ハチ君か。無事で何よりだ。すまない、君に撤退の合図を出す余裕がなかった」

「それは別にいい。それより、何だこの状況?」

 

 俺はオレンジカーソルの男に視線を向けながら尋ねた。男は両脇を血盟騎士団のプレイヤーに挟まれながらも、口汚くまだ何か喚き散らしている。

 

「黒騎士まで今一歩というところまで行ったのだが……少々イレギュラーが起こってね」

「そこのオレンジカーソルの奴か?」

「ああ。と言っても、幸い被害はなかったのだが」

 

 ヒースクリフ曰く、乱戦の中であの男にPKされかかったらしい。攻撃対象に高確率で麻痺の状態異常を付与するダガーで後ろから刺されたそうだが、運良くヒースクリフは麻痺に掛からず、軽微なダメージを負っただけで済んだようだった。

 

「私でもあの黒騎士の前で行動不能に陥れば危なかっただろう。今回は運に助けられたようだ。だが、部隊は混乱してね。あの状況では撤退を選択せざるを得なかった」

 

 悪意を持ったプレイヤーに殺されかけたというのに、ヒースクリフの言葉は妙に淡々としたものだった。その態度と話の内容に俺は何か違和感を覚えたが、ひとまず今はそれを振り払って別の思考を走らせる。

 妙な胸騒ぎがする。何か、大きなものを見落としているような気がしてならない。

 

「乱戦の中でPK……そんなことして、何の得があるんだ。下手すりゃ自分も死ぬぞ」

「本人に事情を聞いてはいるが、要領を得なくてね。今のところはなんとも――」

「だ、団長ッ! これ見てください!!」

 

 プレイヤーの焦った声が上がる。振り返ると、縛られた男が血盟騎士団のプレイヤーに押さえつけられて装備をはぎ取られていた。恐らく念のため武装解除させていたのだろう。その過程で何かを見つけたらしい血盟騎士団の男が、押さえつけられている男の脇腹辺りを指さす。

 細身の体にフィットするように作られた、黒いインナー。無地のものが一般的だが、その男の脇腹にはあるエンブレムの刺繍が施されていた。それを見たプレイヤーたちの間に戦慄が走る。

 

笑う棺桶(ラフコフ)……!?」

 

 静寂の中、誰かが呟いた。男の脇腹に刺繍された、笑う棺桶のエンブレム。攻略組で、あのエンブレムの意味が分からないプレイヤーは居ない。

 

「ま、まだ残党が居たのか? 目的は攻略組に対する復讐……?」

 

 動揺を隠せない様子で、周りのプレイヤーたちが口々に声を上げる。

 笑う棺桶(ラフィン・コフィン)討伐戦から既に半年ほど経っている。その間、プレイヤーによる犯罪はほとんど起こらなかったし、PKに至っては一件も報告されていなかった。それ故、アインクラッドに住むプレイヤーたちにとって、もはや笑う棺桶(ラフィン・コフィン)という名前は過去のものとなっていたのだ。

 だが、違った。奴らの残党は姿を隠し、静かに爪を研いでただひたすらに機を伺っていたのだ。

 

 押さえつけられた笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の男は、何も言わずに薄く嗤っていた。それを見て、俺は考える。

 笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党は、こいつ1人だけなのか。もし他にもいるとすれば、どうする。ヒースクリフを殺して、それで終わりなのか。そんなはずがない。今この状況で何か仕掛けるとすれば、むしろ本命は――

 

 俺は1つの結論に至り、血の気が引いた。何故、今までそれに気付けなかったのか。

 

「――ヒースクリフ、ここ任せるぞッ!」

「1人で行くつもりかね?」

 

 恐らくヒースクリフも俺と同じ思考を辿ったのだろう。急に態度を変えた俺に驚くこともなく、ただそう言葉を返した。

 話が早くて助かる。そう思いながら、俺はアイテムストレージを弄って転移結晶を取り出した。ここからなら、アイテムで飛んだ方が早い。

 

「ここもそんな余裕ある訳じゃないだろ。何とかする」

「わかった。ここは任せたまえ。そちらも健闘を祈る」

 

 頷き、俺は青く輝く転移結晶を掲げる。

 間に合ってくれ。祈りながら、俺は大声でボイスコマンドを唱えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クラディール……! あなた、これはどういうつもりッ……!?」

 

 黒く冷たい石の床へと膝を付きながら、アスナは目の前に立つクラディールを睨み付けた。しかし当のクラディールはそれを意に介すことなく、厭らしく唇を歪ませる。周囲の薄暗さとも相まって、その笑みはアスナに強い嫌悪感を抱かせた。

 

 黒鉄宮。そのエントランスホール。ここを守護するために配備されていた多くのプレイヤーたちは、アスナと同じように苦し気に膝を付いていた。麻痺毒による状態異常である。

 膝を付くプレイヤーたちには、未だに状況が把握できていなかった。自分たちは《不吉な日》イベントによって襲来する悪魔の軍勢に対抗するために警戒をしていたはずである。それが何故、プレイヤー同士の争いに巻き込まれているのか。

 

 始まりは、突然現れた黒ポンチョの集団だった。武器を構えて黒鉄宮へと押し寄せた彼らの存在に、部隊のプレイヤーたちには動揺が走った。しかしそこは彼らもこのSAOで戦い続けてきた歴戦の猛者たちである。混乱しながらも咄嗟に戦闘の体勢を取り、敵を迎え撃つべく動き出した。

 だが、そこでさらに予想外の出来事が起こった。仲間だと思っていたプレイヤーたち数名の裏切りよって、背後からの攻撃を受けたのだ。突如部隊に反旗を翻した者の中には、《軍》のプレイヤー数名に紛れてクラディールの姿もあった。

 彼らは攻撃した相手に麻痺毒を付与する短剣を使用し、あっという間にアスナを含む半数以上の部隊のプレイヤーを無力化した。何とかそれを回避した者たちも、襲撃者たちに囲まれて身動きが取れない状態だった。

 

 麻痺毒を付与する短剣は、ゲーム内ではかなり希少である。その上に耐久力が低く、修復不可という特性のためにほとんど消耗品のようなものだ。それをあれだけの数を用意していることから見ても、この襲撃がただの急場の勢いではないということが見て取れた。

 そして何より、あの頭から膝丈までをすっぽりと覆う黒ポンチョの姿。それはアスナに、戦慄と共にあるギルドを思い起こさせた。

 その考えを肯定するように、クラディールは左手のガントレットを外し、腕に刻み込まれた刺青を見せつける。そこには不気味に笑う棺桶のエンブレムが描かれていた。

 

「そのエンブレム、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の……」

「私の力を認めようとしない貴女たちが悪いのですよ。私は、こんな下っ端で終わっていい人間じゃないんだ」

 

 ――そんなの、貴方の逆恨みじゃない!!

 そう口に出しそうになるのを、アスナは必死に堪えた。下手に刺激して機嫌を損ねればどうなるかわかったものではない。アスナだけではなく、血盟騎士団の多くのプレイヤーが身動きが取れない状態なのだ。なんとか麻痺を治療しようとしても、アイテムを取り出すそばから邪魔をされてしまうという状況だった。

 ゴドフリーを含む数名の血盟騎士団の精鋭たちが不意打ちを回避したのは幸いだったが、それでも断然敵の方が数が多い。今は膠着状態になっているが、いつ殺し合いに発展してもおかしくなかった。

 

「彼らと手を組んだのは最近ですがね。色々と面白いことを教えてもらいましたよ。効率のいいPKの方法などをね」

 

 ガントレットを付け直しながら、にやついた顔で語るクラディール。そこには罪悪感など欠片も無いようだった。

 

「……クラディール、思い直して。今ならまだやり直せるわ」

「やり直せる? 何言ってんの?」

 

 一縷の望みをかけて何とかクラディールを説得しようとするアスナだったが、すぐに横やりが入った。鈍色の兜を被った、小柄な男。アスナの指揮下にあったはずの《軍》のプレイヤーだった。

 敵の集団の中央から歩いてきたその男は、アスナの前に立つと兜を取ってそれを適当に放り投げた。長い黒髪が肩に落ち、目つきの悪い三白眼でアスナを見下ろす。そして馴れ馴れしくクラディールの肩に手を置くと、男は鋭い犬歯をむき出しにして笑いかけた。

 

「むしろこいつはこれからだよ。黒鉄宮を襲撃した笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党とやり合って、生き残った数少ないプレイヤーになるんだから」

 

 静まり返った黒鉄宮の中、男の声が響いた。

 その素顔に見覚えはないが、周りのプレイヤーの態度から伺うに恐らくこの男が部隊のリーダー格なのだろう。アスナは咄嗟にそう判断したが、言葉の意味までは理解できずに首を傾げた。男はそんなアスナの顔を覗き込むように姿勢を低くする。

 

「筋書きはこうだ。始まりの街のアンチクリミナルコードが解除されたタイミングを狙って、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちが黒鉄宮を襲撃した。その戦力は強大で、お前らは抵抗虚しくその大半が死亡。何とか生き延びた俺たちは、PoHの脱獄と笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の復活を他のプレイヤーたちへと伝えるんだ」

「PoHの脱獄……それが貴方たちの狙い?」

「まあ他にも色々とやってるけど、概ねはそうだな」

 

 言って背を伸ばし、男はやれやれと言ったふうに首を振る。

 

「いやあ、ここまで苦労したんだぜ? 大好きな殺しも我慢して、いざと言う時のためにレベル上げて装備も整えてよ。俺なんか軍に潜り込んで、攻略組(お前ら)に気付かれないように水面下で頑張ってたんだ。――そして!!」

 

 芝居がかった仕草で男が両手を広げて天を仰いだ。靴音を響かせながら、黒鉄宮の冷たい床の上を歩き出す。

 

「ようやく力を付けてきたところに始まったのが、この《不吉な日》イベントだ! 運命を感じたね! イベントに夢中になってるプレイヤーどもの不意を突いて殺して、さらにPoH(リーダー)も助けられる! 最高の一日だ!!」

 

 隠れて力を蓄え、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちは虎視眈々と時機を待っていたのだ。彼らの存在に、そしてクラディールの裏切りに気付けなかった自分の不明に臍を噛む思いだったが、今のアスナにはどうすることも出来なかった。

 広間の中央まで歩いて行った男が振り返る。アスナと目が合うと、急にクールダウンした調子で再び口を開いた。

 

「あ、態度次第でお前は生かしてあげてもいいよ。ゲーム内でも、女には使い道があるから」

「……あなたは人間の屑ね」

「ふーん。まだ自分の立場わかってねぇみたいだな」

 

 嫌悪感を堪えきれず吐き捨てるように言葉を口にしたアスナに、男は無表情で視線を向けた。再びアスナへと歩み寄ると、満面の笑みを浮かべる。次の瞬間、男の足がアスナの頬を思い切り蹴り飛ばした。

 

 ゴドフリーたち血盟騎士団の怒号が上がる。しかし当のアスナは呻き声を漏らすことなく、倒れたまま男を睨み付けた。今の状況では手も足も出ないが、それでも心だけは屈しまいと彼女は強く決めていた。

 

「おい、新入り。麻痺がきれねえうちにコイツふん縛っとけ。身包み剥がすのも忘れんなよ」

「は、はいっ」

 

 指示を受けたクラディールが、アスナに縄をかける。もはや興味はないとばかりに男はアスナに背を向けて周囲を見回した。

 

「お前ら、奪えるものは粗方奪ったな? よーし、じゃあそろそろショータイムといきますか」

 

 声を弾ませながら、男は腰に佩いた剣を抜く。細身の片手剣を構え、それを血盟騎士団のプレイヤーたちに向けた。

 鋭利な瞳がギラついた光を放つ。もう堪えきれないとばかりに不気味な笑みを溢しながら、男は短く呟いた。

 

「――殺せ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺が黒鉄宮へとたどり着いた時、遠目に見えたのは四散する青白いガラス片だった。

 オレンジカーソルの黒ポンチョの集団に囲まれて、嬲られる血盟騎士団の男たち。確認出来るのは2人だけだ。そのうち1人も、数による暴力によってすぐにその体を飛散させることになった。

 俺は無心で槍を構え、駆ける。しかし背中を守っていた仲間が居なくなったことで、残された最後の1人も間もなく敵の凶刃に倒れることになった。

 HPが全損するその瞬間、倒れる男と視線が交わる。見たことのある顔だ。もみあげと顎鬚がつながった、男くさい壮年の男。名前は確かゴドフリーと言ったか。相手も俺の顔を覚えていたのだろう。最期の瞬間、ゴドフリーは懇願するように叫び声を上げた。

 

「頼む、少年……アスナ様を――ッ!」

 

 言いかけて、砕け散る体。俺は足を止めて、呆然とその光景を眺めた。

 間に合わなかった。あれだけいたはずの防衛部隊のプレイヤーたちが、ほとんど残っていない。見覚えのあるプレイヤーも、今この状況で黒ポンチョの集団と肩を並べているということは、元から奴らの内通者だったということだろう。

 他の者たちは全員殺されてしまったのか。いや、ゴドフリーは最期にアスナの名前を口にした。彼女だけはまだ生きているはずだ。

 

「ハチ……くん……?」

 

 微かに耳に届いた小さな呟き。俺は黒鉄宮の中、薄暗い屋内に目を走らせた。そして黒ポンチョの集団に紛れて、蹲っているアスナを見つける。装備を剥ぎ取られて無力化され、薄ピンク色のインナー1枚の姿で縛られていた。彼女は大きな瞳に涙を浮かべながら、呆然とこちらを見つめていた。

 俺はアスナの無事に安堵し、同時に沸々と自分の中に黒い感情が湧くのを感じた。

 

「あれ? 攻略組の援軍でも来たのかと思ったけど、お前1人か?」

 

 立ち尽くす俺に、1人の男が声を掛ける。その顔に見覚えはない。だが、周囲の雰囲気から察するに恐らくこの集団のリーダー格なのだろう。小柄な体に、長い黒髪。釣りあがった眼が特徴的な男のプレイヤーだった。

 兜は被っていないが、その体の装備からするに《軍》の人間だ。今朝、始まりの街の広場で集合した時、俺に意味深な笑みを向けたプレイヤーと背格好が一致する。

 

「お前、風林火山のハチだろ? もしかして俺たちの計画に気付いて駆けつけちゃった感じ?」

「お前らの目的はPoHの奪還か」

「ああ、うん。後はあわよくばヒースクリフとかも殺せるといいかなと思ってたけど……あっちの部隊に居たはずのお前がこっち来てるってことは、失敗したっぽいな」

 

 余裕のある表情で、男は俺の言葉を肯定する。今さら俺1人増えたところで脅威にはならないと思っているのだろう。

 確かに今の状況はこちらの分が悪いどころの話ではない。敵はざっと見積もっても30人以上だ。レベルも低くはなさそうである。それでもまだ俺の方が総合ステータスは高いだろうが、この人数差をひっくり返せるほどの違いではない。

 このままやり合えば、俺に勝ち目はないだろう――普通なら。

 

「……悪いけど、今、手加減出来る気がしない。死にたくなかったら今すぐ武器を捨てて投降しろ」

 

 胸に沸々と湧く感情を押し殺しながら、俺はなるべく冷静に口にした。それは今の俺に出来る最大限の譲歩だったのだが、奴らには狂言にしか聞こえなかったようだ。一瞬、間の抜けた表情を浮かべた後、奴らは嘲けるように笑いだした。

 

「すげーよこいつ! 俺らのこと雑魚扱いだぜ! かっくいーっ!!」

「この人数相手に、何粋がってんだこいつ?」

「こいつキリトとか言う奴の腰巾着だろ? それで自分が強いとか勘違いしてんじゃねーの?」

 

 ひとしきり笑い声を上げた後、それを制するようにリーダー格の男が手を上げる。

 

PoH(リーダー)はなんかお前のこと買ってたみたいだけど、俺にはどこが良いのかさっぱりわかんねぇな……。まあいいや。こっちも立て込んでるから、さっさと死んでくれ。まだこれから監獄エリアの《軍》の看守とやり合わなきゃいけないし」

 

 言って、男が周りに目配せをする。それを受けた黒ポンチョのプレイヤーたちは下卑た笑みを浮かべ、武器を構えて包囲を狭めるようににじり寄ってきた。

 警告はした。これ以上、こいつらに情けを掛けてやる義理はない。

 

 戦う意思を固め、軽く息を吐いた。意識が深く沈んでゆき、やがてふと体が軽くなる。死域に至ったのだと感覚的に分かった。

 1度目の経験以降、訓練を繰り返すうちに最近では意識的に死域へと入ることが出来るようになってきていた。まだ完璧というわけではないが、命が掛かるような場面ではある程度制御出来る。

 

 包囲を狭めるように、にじり寄る笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のプレイヤーたち。余裕ぶった態度とは裏腹に随分と慎重なようだ。数にものを言わせてじわじわとこちらのHPを削るつもりなのだろう。

 だが、拙い。集団戦の経験が少ないのか、その隙が今の俺にはありありと見て取れた。最も脆い部分に目を付け、こちらから仕掛ける。

 

 弾けるように駆けだし、ソードスキルを放った。本来なら悪手だが、今の俺ならばなんとかなる。

 俺の攻撃に泡を食った笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の下っ端の1人が、2合と持たずに崩れる。目を見開いたまま、砕け散る体。飛散するポリゴンを顔に浴びながら、俺は続けてソードスキルを放ち続けた。

 

 突き、薙ぎ払い、叩き伏せ、かち上げる。本来は単発技のそれを繋ぎ合わせ、1つのソードスキルへと昇華する。止むことのない連撃。勢いのまま、俺は5人のプレイヤーのHPを全損させた。

 徐々に笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の連中に動揺が広がる。さらに2人ほど討ち取ったところでようやくその異様さを感じ取ったのか、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のプレイヤーたちは浮足立ってこちらと距離を取ったのだった。それを認め、俺は一旦ソードスキルを止める。

 

 耳を刺すような激しい剣戟の音から打って変わって、周囲に静寂が下りる。息をするのも忘れてしまったように、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のプレイヤーたちはその場で固まっていた。

 

「な、なんだそりゃ……。今の、何連撃だ? 《両手槍》にそんなスキルはなかったはずだぞッ」

 

 焦った様子でリーダー格の男が呟くが、当然そんな質問に答えてやる義理はない。俺は無言で槍を握り直し、今度はアスナの側に立っているそいつへと穂先を向けた。男は一瞬怯んだようにたじろいだが、すぐに怒りの形相を浮かべてこちらを睨み付けた。

 

「くそッ! テメェらぼさっとしてんじゃねえ!! 一斉に斬りかかれば何とかなる! 殺せッ!!」

 

 苛立った男の言葉に反応して、我に返ったプレイヤーたちがこちらに襲い掛かる。肌を刺す殺気を感じながら、俺も気合いを入れ直した。

 まだやるつもりなら、とことんまで付き合ってやる。頭に来ているのはこちらだって同じなのだ。

 胸に渦巻く黒い感情。もはやそれを押さえつける必要もない。俺は激情に身を任せるように、槍を大きく払った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《無限槍》

 それが俺に発現したスキルの名前だった。

 

 発現条件は分からない。キリトの《二刀流》と同じように、気付いたらスキル一覧に並んでいたのだ。それを確認したのが2ヶ月程前である。

 強いかどうかはさておき、無限槍はかなり変わったスキルだった。その1番の特異性は、ソードスキル同士をいくつも繋げて発動できるという点だ。

 無限槍のソードスキルには終了間際に僅かな再入力時間があり、それを利用することでディレイタイムなしに続けてソードスキルを放つことが可能だった。理論上は気力が持つ限り無限にソードスキルを打ち続けることが出来るだろう。

 まあ実際には色々と問題があってそんなに使い勝手のいいものではないのだが、使いこなせることが出来れば非常に強力なスキルなのは間違いない。特に対人、対多数戦においては無類の強さを誇るスキルだった。

 

 

「クソッ、クソッ、何だよコレ! こんなん反則(チート)だろッ!!」 

 

 大量の青白いガラス片が舞い散る中、リーダー格の男が叫んだ。その声が黒鉄宮の薄暗いエントランスホールの中に虚しく響く。その間にも1人、また1人と笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のプレイヤーたちは脱落していった。

 槍を振るうたびに、敵がポリゴンとなって砕け散る。もはや笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の連中に最初の余裕ぶった表情はなく、その多くが及び腰になっていた。それでもリーダー格の男に怒鳴り散らされて、連中はやけくそ気味に俺へと攻撃を繰り返している。

 

 無限槍の強みは、50種類以上もの単発系ソードスキルを繋げて繰り出すその変幻自在の攻撃だ。ソードスキルの再入力時間がかなりシビアで難易度が高いために普段は予め決めておいたパターンをなぞるように使用するのだが、死域に入った今なら即興でソードスキルを繋げていくことが出来る。

 逆に1つ1つのソードスキル自体はそこまで強くないため、敵のソードスキルと真正面から打ち合えば硬直に陥りこの状況では敵の数に圧殺されてしまうだろう。故に攻撃を上手くいなすという立ち回りが求められるのだが、今の俺ならばなんとか敵を捌くことが出来た。

 

 敵の数は既に最初の半分以下になっている。俺もそれなりに攻撃を受けていたが、戦闘中徐々に体力を回復してくれる《バトルヒーリング》のスキルでギリギリ相殺される程度のダメージに抑えられていた。

 

「む、無理だッ! 勝てるわけねぇ!!」

「こんなの聞いてねぇよ! 俺は降りるぞ!」

「お、おいッ、テメェら!!」

 

 もはやリーダー格の男の制止も聞かず、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のプレイヤーたちは情けない声を上げて逃げ始めた。最初の数人がそうして逃げ出すと、クモの子を散らしたようにそのほとんどが去ってゆく。

 黒鉄宮から出ていく連中のその背中を、俺は黙って見送った。奴らを取り逃がしてしまうのは口惜しいが、今はアスナの安全が最優先だった。

 

「後は、お前らだけだぞ」

 

 急激に人口密度の減った黒鉄宮のエントランスホール。俺の視線の先にあるのは、縛られたアスナの側に立つ2つの影。リーダー格の男と、逃げるタイミングを失ったのか呆然と立ち尽くすクラディールだけだった。

 

「ク……ソがッ……! クソがクソがクソがクソがァアァッ!!」

 

 男は頭を掻き毟りながら、癇癪を起したように叫んだ。

 

「見下してんじゃねえッ!! この日のために、俺が、俺がどれだけ……!! お前が居なけりゃ全部上手くいってたんだ!! 全部お前のせいだッ!! クソがァ!! ぶち殺してやる!!」

 

 喉が裂けるほどに叫びながら、男が片手剣を構える。俺を睨み付ける血走った眼は、もはや正気には見えない。男は片手剣を振り上げると、そのままソードスキルを発動した。

 冷静さを失っているからか、その太刀筋は酷く隙だらけだ。俺は振り下ろされる斬撃を弾くように突き上げ、次いで薙ぎ払う。それは男の急所を捉え、そのHPを大きく削った。

 そのまますれ違い、一瞬の沈黙が降りる。男は膝を付くと、右手に持っていた片手剣を取り落とした。甲高い金属音がホール内に響く。

 

「ク……ソ……がァ……」

 

 膝を付いたまま、男が恨みがましい目でこちらを振り返った。そうして呟いた悪態が断末魔の言葉となり、男の体は荒いポリゴンとなって四散していったのだった。

 

「動くなァ!!」

 

 再び黒鉄宮のホール内に絶叫のような声が響く。見ると声の主であるクラディールは短剣を構え、その切っ先をアスナへと向けていた。

 

「お前ッ……」

「う、動いたらこの女を殺すぞッ!!」

 

 かつてはアスナの護衛まで勤めていたはずのクラディールは、今やそのアスナの命を盾にして歪な笑みを浮かべている。

 こいつはどこまで墜ちれば気が済むのだ。奴の短絡的な行動に俺は眩暈がするほどの怒りを覚えたが、歯を食いしばってそれを飲み込んだ、

 

 アスナは今かなり無防備な状態だ。恐らく麻痺毒を食らい、その間に装備品を剥ぎ取られたのだろう。薄ピンクのインナー姿のアスナの周囲には、彼女のものと思われる武器防具が散乱していた。

 SAOでのプレイヤーの防御力は、装備品頼りなところが大きい。今の状態ではいかに高レベルであるアスナと言えども、下手をすればソードスキル1発でHPが全損する。

 クラディールとの距離は10メートル弱。ステータスを考えれば一足一刀の間合いだが、さすがに俺の攻撃が届くよりもクラディールがアスナを攻撃する方が早い。上手く不意を突ければ可能性はあるが、やはり下手には動けない。

 

「私は! 私はこんなところで終わっていい人間じゃないんだ!! ましてやお前みたいな小僧に潰される器では……!!」

 

 クラディールは焦点の合わない瞳で、そんなことを口走る。この肥大した虚栄心に付け込まれ、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の連中に利用されたのだろう。だが予想外の事態に混乱し、今さらに破滅的な行動に出ようとしている。

 刺激するのは危険だ。俺はその場から動かず、宥めるように口を開いた。

 

「落ちついてくれ。今ここでアスナを殺しても……」

「いいの、ハチ君」

 

 俺の言葉を遮ったのは、腕を後ろ手に縛られたままのアスナだった。2つの大きな瞳には悲しみをこらえるように涙を湛えていたが、眼差しにはいつも以上に強い意志があった。そこに宿る覚悟を感じ取り、俺は息を詰まらせる。

 

「こんなところでハチ君の足を引っ張るくらいなら、死んだ方がマシだわ」

「アスナッ!? やめ――」

「ぐあっ……!?」

 

 急に体を仰け反らせたアスナが、クラディールの鼻づらに頭突きを食らわせた。無様な呻き声をあげてよろめいたクラディールだったが、すぐに短剣を構え直すと怒りの形相でアスナを睨み付ける。

 

「こ、この女ァ!!」

 

 光を宿し、突き出される短剣。その凶刃がアスナの白い首筋へと迫る。

 気付いた時には、槍を突き出していた。その一閃はアスナへと達する寸前の短剣を弾き上げ、そのままの勢いでクラディールの胸を貫いた。

 硬直するクラディールの体。俺は激情のままに、さらに2度3度槍を振るう。ふと我に返ると、握り締めた槍でその体を貫いたまま、俺は項垂れるクラディールと組み合うようにして立っていた。

 その目には急激に減ってゆく自分のHPバーが映っているのだろう。虚ろな瞳のまま、クラディールはぼそりと呟いた。

 

「わた、私はこの世界で英雄になるんだ……。こんなところで……」

「……英雄なんかじゃない。ただの人殺しだ。お前も、俺も」

 

 吐き捨てるように、そう口にした。その言葉がクラディールに届いたかは分からない。一瞬の沈黙の後、クラディールの体は青白いガラス片となって砕け散って行った。

 支えを失った俺は、よろめいてその場に膝を付いた。床の冷たさと共に、徐々に体に疲労が返ってくる。死域から脱したのだ。気怠さからその場に寝転んでしまいたい衝動に駆られたが、食いしばって耐える。槍を杖変わりにして、何とか立ち上がった。

 

「ハチ君……」

 

 振り返ると、その場にへたり込むアスナと視線が合った。HPはほとんど減っていないようだ。そのことに安堵しながら俺はすぐに彼女の下へと駆け寄り、彼女を拘束していた縄を解く。

 拘束から解放されても、アスナは呆然と座り込んだままだった。俺はかける言葉が見つからず、彼女から目を逸らす。

 笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党によって率いていた部隊を全滅させられ、自分だけ生き残ってしまったのだ。彼女の無念は計り知れない。この場で下手な慰めを口にすることは憚られた。

 

 ふと、黒鉄宮の床に散らばる装備品が目に入る。見慣れたその紅白の装備品は、間違いなくアスナのものだ。高レベルプレイヤーの装備品一式となるとかなりの重量である。笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の奴らは武装解除するためにアスナからそれを剥ぎ取ったはいいものの、邪魔になって適当に放置していたのだろう。

 いつまでもインナー1枚の姿では色々と問題がある。ひとまず散らばっている装備品を集めようと立ち上がったが、アスナはそれを引き止めるように俺の服の裾をそっと掴んだ。

 

「ごめんなさい……」

 

 その言葉に、振り返ってアスナに視線を向ける。俯いて嗚咽を堪える彼女の姿は酷く頼りないものに見えて、胸を衝かれた。普段攻略の最前線でギルドの指揮を取る副団長の面影はない。そこにあるのは歳相応にか弱い少女の姿だった。

 

「謝るな。お前は何も悪くねぇだろ」

「でも皆、死んじゃった……」

「未然に防げなかったってことなら、みんな同罪だ。1人で背負い込むな」

 

 俯く彼女に手を伸ばしかけ、止める。こういうのは柄じゃないだろう。そう言い訳をして、行き場を失った右手を握りしめた。

 

「……お前が生きていてくれてよかった」

 

 無意識に口をついて出たその台詞は、掛け値なしの本心だった。

 クラディールがアスナへとその刃を向けた時の、あの感情。我を忘れるほどの不安や怒りを覚えたのは初めてのことだった。今思い出しても体が震える。

 

 不意に顔を上げたアスナと目が合った。大粒の涙が一筋、彼女の頬を伝う。何がきっかけになったのか、やがて彼女は縋るようにして俺の胸に飛び込み、声を殺して泣き始めた。俺は一瞬驚きに身を固めながらも、それを受け止める。

 左手で槍を強く握りしめ、胸の中でむせび泣くアスナを静かに見つめた。彼女の心情を思えばしばらくこうして傍にいてやりたい。だが、今は状況がそれを許さなかった。

 

 まだ《不吉な日》のイベントは終わっていないのだ。黒鉄宮を守護する部隊が居なくなってしまったのなら、俺1人でもその代わりを努めなければならない。そして可能なら監獄エリアにいるはずのPoHの様子も確認しておきたかった。ないとは思うが、先ほどの奴らが別動隊を先に監獄エリアへと向かわせていた可能性もある。

 

 静かに頭を働かせ、今後の予定を立てる。そしていざ動こうとした時、この場に似つかわしくない軽やかなサウンドエフェクトと共に、目の前にメッセージウィンドウが出現したのだった。

 

『プレイヤーによって、全ての黒騎士が撃破されました。《不吉な日・侵攻イベント》は、プレイヤーサイドの勝利となります。現時刻を持ってイベントを終了とし――』

 

 そこまで読み、俺は全身の力を抜いた。終わったのだ。他のプレイヤーたちがやってくれたのだ。

 大きく息を吐いた。アスナの震える肩を抱いたまま、薄暗い黒鉄宮のエントランスホールを見上げる。天窓から差す頼りない光が、今は何よりありがたく思えた。

 

 2024年9月13日金曜日。多くのプレイヤーたちを巻き込んだイベント《不吉な日》は、襲来した笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちによって大きな爪痕を残しながらも、プレイヤーサイドの勝利という形でその幕を閉じたのだった。




ストックが底をつきました。
また少し間が空きますがご了承ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第36話 探り合い

 笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちによる襲撃という波乱の事態が発生した《不吉な日》圏内侵攻イベント。東門の防衛戦でも別件でひと騒動あったらしく、最終的に防衛部隊における死者は49名にも上った。

 その詳細はアスナが率いていた部隊からクラディールなどの内通者も含めて41名と、東門に配属されていた《軍》のプレイヤー8名である。《軍》のプレイヤーたちは独断で敵の軍勢に無謀な突撃を敢行し、結果返り討ちにされた挙句散々に追い散らされて壊滅したという話だった。

 

 イベントはクリアされたもののそうして防衛部隊はかなりの痛手を負うことになり、その事後処理も煩雑を極めた。まずは襲撃事件についての詳細を防衛部隊の首脳陣だけで把握し、逃走した笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちへの対処を話し合った。その後、黒鉄宮に残されたプレイヤーたちの遺品の帰属についてや、クエスト報酬の配分について、被害の大きかった部隊についてその責任の追及など、議題は多岐に渡った。

 当然俺の持つ《無限槍》スキルについても言及されたが、やましいことは何もないので正直に全てを話すことに決めていた。ゲーム内でユニークと見られるスキルもこれで4つ目だ。それほど大きな騒ぎとなることもなく、《無限槍》の存在はプレイヤーたちに受け入れられたのだった。

 

 《軍》や《血盟騎士団》の中に裏切者が潜んでいた件についてはプレイヤー全体の士気に関わることなので緘口令(かんこうれい)が敷かれることとなり、表向きは『防衛部隊の一部が笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちと交戦、多くの犠牲者を出しつつも何とか敵を撃退した』ということになっている。まだ他に内通者が居ないとも限らないので、水面下ではその調査も行われることになった。

 《軍》のプレイヤーが大量に死亡したことについて怒り狂ったキバオウが会議に乱入するという事件も起こったが、《軍》の戦闘部隊に笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちが大量に潜んでいた件について逆にキバオウが責任を追及されることとなり、キバオウがしどろもどろになっていたのを覚えている。しかし結局これについては表立って処罰することも出来ないので、中途半端な形で手打ちとなった。

 

 波乱続きとなった今回のイベント。その後の会議も深夜にまで及んだが、そうして《不吉な日》はひとまずの終息を迎えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第55層《グランザム》

 その一角に悠然とそびえ立つギルド《血盟騎士団》の拠点。

 小さな城砦とも言うべき外観となっている彼らの居城の中は現在、静謐な空気で満たされていた。時折、窓際に止まった小鳥のさえずりが遠く響く。

 

 時刻は午前11時。俺、比企谷八幡はキリトと共に、所用でヒースクリフの下を訪ねていた。

 小さな応接室へと案内された俺は黒く艶を放つレザーのソファに腰かけ、給仕に差し出されたお茶を啜る。隣に座るキリトはそれには手を付けず、真剣な表情で対座のヒースクリフを見つめていた。ヒースクリフはいつもの悠然とした表情を崩さず、その心の内を読み取ることは出来ない。

 

 おい、なんだよこの緊張感。やっぱ来なきゃよかったわ……。

 そう悔やんでも、もはや後の祭りである。ならばなるべく早く用件を済ませて帰るのがベストだろうとは思うものの、この空気の中で自分から口を開くのはハードルが高いのでとりあえず再度お茶を啜って気を紛らわした。気まずい時って無駄に飲み物に口を付けたりするよな。

 

 テーブルの上に軽いお茶請けまで用意してくれた給仕の女性が一礼して部屋を後にする。その姿が見えなくなるのを待ってからヒースクリフが口を開いた。

 

「君たちの方からこちらを訪ねてくれるとはね。歓迎する……と言いたいところだが、生憎とそんな空気でもなさそうだ」

「ああ。別に遊びに来たわけじゃないからな」

 

 キリトの言葉には若干険が混じっていたが、ヒースクリフはそれを意に介した様子もなく頷く。

 わざわざアポイントを取ってまで俺たちが今日ここへと訪れたのには当然理由があった。メッセージで済ませることも出来たのだが、顔を出すのが筋だろうと言う意外なところで律儀なキリトの言葉によって訪問が決まったのである。

 

「では早速用件を聞こうか。と言っても、おおよそ見当は付いているが」

「なら話が早い」

 

 キリトが言って、少し言葉を区切る。無言で視線を交わす2人の間には、まるで立合いでも始まるのかという空気が漂っていた。

 

「しばらくの間、アスナを風林火山で預かりたい」

 

 キリトの言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。ヒースクリフは眉1つ動かさずにキリトを見つめている。

 

「《不吉な日》の一件でアスナがかなり精神的に参ってるのは知ってるだろう。しばらくゲーム攻略から離れて休ませてやりたいんだ。うちには歳の近い女の子もいるし、ここよりは療養に向いてると思う。それに――」

 

 言いながら、キリトの顔が一層険しくなった。その責を問うように、ヒースクリフに鋭い視線を向ける。

 

「正直、今の血盟騎士団の在り方に俺は疑問を持ってる。クラディールの裏切りは、あんたの監督責任でもあるんだ。そのことを言いふらすつもりはないが、もう一度ギルドの在りようを見直してほしい」

「……あ、ちなみにこの話はアスナももう同意済みだ。あいつもここに来ようとしたんだけどな、まだ本調子じゃなかったから置いてきた」

 

 そうして俺からも少し話を補足する。既に昨晩からアスナは風林火山のギルドホームに宿泊しており、今も滞在中のはずだ。気丈に振る舞ってはいるが、憔悴しているのは誰の目にも明らかだった。

 副団長という立場上、クラディールの裏切りについてはアスナにもその責任があるのだろうが、今の彼女にそれを問うのは酷だろう。そもそも彼女の役割は攻略やレベリングでの戦闘指揮の部分が大きく、ギルドの方針などに関われることは少なかったはずだ。謹慎中のクラディールを防衛部隊に組み込むことを決めたのも、ギルドマスターであるヒースクリフの判断だと聞いている。

 ヒースクリフ自身もアスナに責任を負わせるつもりはないようで、しばしの沈黙の後、かすかに自嘲するような笑みを浮かべて大きく頷いた。

 

「返す言葉もないな。了解した。アスナ君のことは君たちに任せるとしよう」

 

 あまりにあっさりとし過ぎたその返事に俺は肩透かしを食らった気分になり、キリトと顔を見合わせる。

 

「彼女と最も近しい君たちがそう判断したのなら、それがベストなのだろう。私には彼女の心のケアをすることは難しいからね。話はそれだけかね?」

「ああ、いや……それともう1つ」

 

 キリトがそう言って俺の顔を見る。頷いて、俺は話を引き継いだ。

 

「あの一件で結構な数の団員を失った上に、アスナまで居なくなったんじゃギルドとしてかなり痛手だろ? 俺たちだってこれで血盟騎士団の力が弱くなって、攻略が遅くなるようなことは望んじゃいない。だからこれは提案なんだけど……一時的に、俺かキリトのどっちかが血盟騎士団に出張してもいいと思ってる」

「ほう」

 

 珍しくヒースクリフが驚いたような表情を浮かべた。それもそうだろう。自分から言っておいてなんだが、相当意外な提案をしているという自覚はある。

 隊を率いる指揮能力は俺もキリトもアスナには劣るだろうが、個人的な戦闘力で言えば十分代わりは務まるはずだ。俺たちが所持するユニークスキルも考慮に入れれば、この提案は血盟騎士団にとって決して悪くない話のはずだった。

 ちなみに俺の《無限槍》スキルも既にアルゴの新聞を通じてアインクラッド中に知れ渡っている。放っておくと噂に尾ひれがついて広まってしまいそうだったので、俺の方からアルゴに頼んで正確な情報を流布してもらったのだ。

 

 しかしヒースクリフは俺たちの提案にすぐには答えなかった。こちらを見つめるその表情は、俺たちの意図がどこにあるのかを探っているかのように見える。ややあって、ヒースクリフは瞑目して首を横に振った。

 

「せっかくの申し出だが、遠慮させてもらうとしよう。ユニークスキルを持つものが動くとなれば、無用に他のギルドを刺激しそうだ」

「……そうか」

 

 食いつかなかった――その口惜しさをヒースクリフに悟られないように、俺は頷いて返す。

 

 用件は済んだので、その後は話もそこそこに俺たちは間もなくその場を辞去した。門の外まで案内してくれた侍女風のプレイヤーに礼を言って、俺とキリトの2人は転移門へと向かって歩き始める。今日はこのまま一旦ギルドホームに帰る予定だ。

 俺は周囲に他のプレイヤーが居ないことを確認しながら、一息ついた。次いで隣のキリトへと声を潜めて話しかける。

 

「……警戒されてる、のか?」

「どうだろうな。言い分はもっともだったし。まあ、どっちにしろそうそう尻尾を掴ませるような相手じゃないはずだ。また次の手を考えよう」

 

 お互いに険しい顔を浮かべて頷き合う。

 俺たちの今日の訪問には、アスナの件以外にもある目的があった。しかし結論から言えばそれは完全な空振りに終わり、結局何の手がかりも掴めずこうして今帰宅の途についている。

 前途は多難だ。だが、俺たちの持つ違和感はもはや放置することは出来ないほど大きくなっていた。

 

 ――ヒースクリフを信用するな。

 

 暗がりの中、そう言った男の顔を思い浮かべる。一番信用できない奴が何を言ってるんだとも思うが、その言葉には無視できないほどの重みがあった。

 《不吉な日》イベント終了後、黒鉄宮監獄エリア。その最奥に収監された刺青の男。

 グランザムの街の中を歩きながら、俺はその時のやり取りを思い出していた――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へえ……。珍しい顔が居るじゃねえか」

 

 黒鉄宮監獄エリア。無機質な鉄と石で構築されたそのエリアの最奥に男は捕らえられていた。

 四畳半程度の広さの、薄暗く湿った牢獄。簡易なベッドの他には何も置かれておらず、数日でもこんな場所に閉じ込められたら常人は気が狂ってしまいそうだ。しかしその男――PoHは半年以上もこの牢獄に監禁されているにも関わらず、俺の顔を見るなり自然な笑みを浮かべたのだった。

 

「おいおい、無視かよ。悲しいねぇ」

 

 黙りこくる俺の顔を見ながら、PoHが茶化すように口を開く。それには取り合わず、俺は小さく息を吐いた。

 《不吉な日》イベント終了後、俺はすぐに始まりの街へと戻ってきたプレイヤーたちにアスナを任せ、ここにPoHの様子を確認しに来ていたのだった。

 襲来した笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちが狙っていたのはPoHの脱獄である。そのほとんどは俺が殲滅したが、別動隊がPoHと接触した可能性も否定しきれなかった。しかしどうやらそれは俺の杞憂だったようだ。

 PoHは久しぶりに話し相手が現れたことが嬉しかったのか随分と機嫌が良い様子だったが、生憎と俺はこんなところで無駄話に付き合うつもりはない。用も済んだので早々にこの場を立ち去ろうとしたのだが、その前にPoHの口からついて出た台詞に俺は足を止める。

 

「お前がここに来たってことは、あいつらは失敗したみたいだな」

「……知ってたのか?」

 

 意味深な発言をしたPoHに対し、俺は堪えきれずに問い返していた。ようやく反応が返ってきたことにPoHは軽く笑みを浮かべる。

 

「まだいくらか外にうちのメンバーが残ってるのは分かってたからな。始まりの街のアンチクリミナルコードが解除されるなら、動くだろうと思っただけだ。その反応からするにアタリだったみたいだな」

 

 どうやら《不吉な日》の告知はPoHにも届いていたらしい。そして自分の脱獄のチャンスが潰されたことまでも理解しているようだったが、特に気落ちした様子はなかった。むしろ楽しそうに目を細め、その頬に刻まれた刺青を歪ませる。

 

「お前、血の匂いがするぜ。随分と楽しんだみたいだな」

 

 掛けられた言葉に内心で舌打ちをして、俺は今度こそこの場を去ろうと踵を返した。しかし再びPoHに後ろから呼び止められる。

 

「おっと、ちょっと待てよ。お前に1つだけいいこと教えておいてやる」

 

 何と言われようと、もうこのまま去るつもりだった。奴と話していても俺の気が滅入るだけだ。しかし次いで発せられた言葉を俺は無視することが出来なかった。

 

「ヒースクリフを信用するな」

 

 その一言に、頭の中に様々な思考が過る。それを悟られぬように、俺は振り返らないまま言葉を返した。

 

「どういう意味だ?」

「言わなくても、お前も本当は分かってるんじゃねぇのか? 今まで、あいつに何の違和感も感じなかったか?」

 

 質問には答えず、PoHは問い返す。まるで俺が答えを知っているのを確信しているかのような口ぶりだ。そして非常に癪なことだが、それは間違っていなかった。

 

 いつからだろう。ヒースクリフの立ち振る舞いに、どこか胡散臭さを感じるようになったのは。

 ヒースクリフという男は、おおよそこのSAOという世界において必要とされる能力を全て持ち合わせていた。何事にも動じない精神性と思慮深さ。そしてその戦闘力は言わずもがな、ゲーム内における知識量もかなりのものだ。

 この世界において、奴という存在は完璧だった。ともすれば不自然なほどに完璧過ぎるのである。

 しかしそれだけならまだ才能や努力と言う言葉で片付けることも出来た。血盟騎士団の団長という立場上、完璧を演じなくてはならないという重責もあるだろう。

 

 俺が初めて明確な違和感を持ったのは、第50層のフロアボス戦の後だ。2度目のクォーターポイントのボスということで苦戦は必至だと思われたが、実際にはヒースクリフの活躍によって犠牲者を1人も出すことなく突破してしまった。しかもヒースクリフにおいては始終HPには余裕があるほどだった。

 そして、その時俺はふと気付いたのだ。ヒースクリフの頭上に浮かぶ、そのHPバー。今までの長いゲーム攻略の過程を全て通しても、それが半分を割ったところを1度も見たことがないということに。

 

 挙げていけばきりがないが、それ以来俺の中にはそんな小さな違和感が積もっていった。1つ1つは些細なことである。今までの俺はそれをただの考え過ぎだと、自分の思考に蓋をしていた。

 しかし今日、さらに妙なことが起こった。《不吉な日》イベントの防衛線でのこと、ヒースクリフは乱戦の中で笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党に背後から襲われたという話だったが、傷付けた相手にほぼ確定で麻痺の状態異常を付与するナイフによって攻撃を受けたにも関わらず、彼は運よく麻痺を回避し、大事には至らなかったという。

 《不吉な日》イベントの事前情報では、敵に麻痺を使うようなモブは存在しなかった。何か特別に麻痺対策をしていたということはないはずだ。つまりは大した対策もせずに、ほぼ確定と言われる麻痺を回避したということである。これをただの幸運で片付けていいのか。

 

「誰にも見せたことのなかった俺の《暗黒剣》を、あいつは初見で完璧に捌きやがった。強いとか弱いとか言う問題じゃねぇ。あれは確実にこっちの手札を知ってる奴の動きだった」

 

 俺の思考を後押しするように、PoHが口にする。半年前、迷いの森でPoHが捕縛された時のことだろう。その一件の直後俺は気を失うように眠ってしまったので半ば記憶から消えかかっていたが、思い返せば確かに妙である。

 

「……どうして俺にそんな話を?」

「俺も一生こんなところで暮らすのは御免だってことだ。期待してるのさ、お前に」

 

 牢獄の中、PoHが肩を竦める。それを一瞥し、俺は今度こそその場を後にした。

 

 ――ヒースクリフを信用するな。

 

 監獄エリアを出た後も、しばらくその言葉が耳について離れなかった。

 俺の頭の中を支配するのは、恐ろしい想像だった。多くのプレイヤーを率いてゲーム攻略に邁進するかの英雄が、実は全プレイヤー共通の敵――ゲーム運営側の人間であるという可能性。

 しかしその仮定がもし当たっていたとして、俺に何が出来るというのか。ヒースクリフを殺す? 確信もないのに? その後のことも予想が付かないし、そもそも不意を打ったとしても俺ではヒースクリフを倒すことは難しい。

 

 答えの出ない問題に直面し、俺はかぶりを振って大きくため息を吐いた。なんだか最近ため息が増えた気がする。

 ひとまずキリトにでも相談してみるか――そう考えたところで、ひとり自嘲する。あれだけ孤独を愛していたはずなのに、今や自然と誰かを頼れてしまうことが少しおかしかった。だが、悪い気分ではない。

 

 その日のうちにキリトには話を打ち明けた。どうやらヒースクリフについてはキリト自身も薄々違和感を覚えていたようで、話の最中は取り乱すこともなく黙って頷いていた。

 頭の切れる奴である。俺が気付く程度のことには既に辿り着いていたらしい。しかしそんなキリトも現状を打開するような妙案は持っておらず、今後から少しずつヒースクリフに探りを入れて行こうという結論に至った。

 俺たちの見解では、ヒースクリフが運営側の人間だとするならそれは茅場晶彦本人である可能性が高い。SAOにプレイヤーたちを閉じ込めデスゲームを演じさせるという行為は、何の生産性もない愉快犯のようなものだ。そうそう茅場晶彦と同じ思想を持った協力者が居るとは思えなかった。

 故に、ヒースクリフに張り付いていればログアウトする現場を押さえられるかもしれない。協力者がいないとすれば自分自身で現実世界の身体を管理しているはずなのだ。まあ相手も警戒しているだろうからそこを発見できるかというと望み薄ではあるのだが。

 

 しかしこれは何処まで行っても仮説の域を出ない話だった。その上、アスナにとっては自分の上司が敵かもしれないという情報である。仮に彼女にこれを伝えるとしても様子を見てからにしようと取り決め、しばらくこの件は俺たちの間だけで胸に秘めておくことになったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスナを風林火山で預かることが決まってから、数日が経った。

 責任感の強い彼女は当初血盟騎士団を離れることに後ろめたさを感じていたようだが、その辺りはキリトや風林火山の女子ーズが上手くフォローを入れてくれている。適度にうちのギルドの仕事を手伝って貰ったりと、アスナがこの状況を気負いすぎないようにクラインたちも気を遣っているようだった。

 その甲斐あってか、アスナも少しずつ元気を取り戻し始めている。本当の意味で彼女が立ち直るのにはまだまだ時間が掛かるだろうが、キリトたちが居ればきっと大丈夫だろう。

 ちなみにその間、俺はトウジによって馬車馬のように働かされていた。うん。まあ、適材適所だ。俺は傷心の女子を慰めるような技能は持ち合わせていないし、特別アスナと接触を図るようなことはしなかった。精々夕食の席で軽い雑談をする程度だ。ゲーム攻略も一時的にストップすることが決まっていたので、俺は数人の風林火山の面子と一緒にガイドブックに載せる情報を求めてアインクラッド中を駆け回っていたのだった。

 キリトとアルゴが夕食の席で妙な話を持ち掛けたのは、そんな折だった。

 

 

「――温泉ッ!?」

 

 そう声を揃えて気色ばんだのは、アスナ、フィリア、シリカの3人である。シリカの頭の上で寛いでいたピナも、つられて何事かと鳴き声を上げる。

 風林火山のギルドホーム。その1階に設けられた広いダイニングルームでのことだった。料理担当のギルドメンバーが給食を提供してくれる時間にはある程度決まりがあるので、自然と夕食などは大勢で揃って取ることになる。

 今も30人程度のプレイヤーたちが席に着いており、どうやら今日1日キリトと一緒に活動していたらしいアルゴもちゃっかりと同伴していた。俺の隣でロールキャベツをもぐもぐと咀嚼していたアルゴが、ゆっくりとそれを飲み込んでから口を開く。

 

「第65層の西側、山岳エリアになってるトコロの中心に温泉街があるみたいなんだヨ」

「65層っていうと確か雪原フロアだったよね。けど西側ってほとんど侵入禁止エリアじゃなかったっけ?」

「手前の圏外村で受領できるクエストをクリアすると抜け道を教えてくれるんダ」

 

 食い気味に質問するフィリアに対し、アルゴの態度は淡々としたものだ。話の途中で夕食のロールキャベツを食べ終えたアルゴは、厨房に向かって大きな声でお代わりを頼む。

 ちっこい割に良く食うなこいつ。その栄養はどこに行ってるんですかねぇ……。と、俺は黙々と食事を食べ進めながら、アルゴの胸元をちらりと盗み見る。いや、この世界で栄養補給も何もないんだけど。

 

「今日、俺とアルゴでそのクエストをクリアしてきたんだよ。抜け道はインスタンスマップだけど俺らとパーティ組めば行けるはずだし、せっかくだからみんなで行こうぜ」

「ま、みんなって言ってもオイラとキー坊も入れて定員は12人だけどナ」

 

 キリトの台詞にアルゴがそう付け加える。SAOのシステムでは1つのパーティにつきリーダーを含めて定員は6人までなので、キリトとアルゴでそれぞれ別のパーティを作ったとして最大12人ということだろう。

 しかし、アルゴが金も貰わずにこういった情報をペラペラと喋るのは珍しい。もしかしたらアスナを元気付けようとアルゴなりに気を遣ってるのかもしれない。いや、既にキリトから金を貰っている可能性もあるか。

 そんな邪推に頭を働かせる俺の正面、食事の途中で箸を置いたフィリアが真っ直ぐに手を上げる。

 

「はい! じゃあ女子3人とも参加希望でお願いします! ……ってことでいいよね、2人とも?」

「は、はい。出来れば行きたいです」

「えっと、私は……」

 

 躊躇いがちに頷いたシリカに対し、アスナは言葉を濁した。あのお風呂大好きなアスナのことである。彼女が温泉に行きたくないはずがなく、今の自分の立場やら何やらを考えて遠慮しているのは明らかだった。どんなに隠しても、その顔には「温泉行きたい!」と書いてある。近くの席で話を聞いていたクラインもそれに気付いたらしく、すかさず口を挟んだ。

 

「アスナ、変な気ィ遣うなよ。休める時にしっかり休んどくのも大事なことだぜ」

「そ、そうかな。……うん、そうね。ありがとう」

 

 アスナは少し悩む素振りを見せ、ややあって頷いた。

 現在アスナを風林火山で預かっているのは主に休養を取らせるためだ。温泉でのんびりと過ごせるならその目的にもかなうだろう。そもそもキリトたちがこの話を持ち掛けたのもアスナのためだろうし、定員12名と言いつつアスナの参加は決定したようなものだった。

 1人黙々と食事を進めていた俺は、最後に残っていたロールキャベツを白いご飯とともに頬張る。モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由でなんというか救われてなきゃあダメなんだ、独りで静かで豊かで……と、かの井之頭さんも言っていた。つまりこの場では1人静かに箸を取る俺こそがジャスティス。決して会話に混ざれなかったわけじゃない。

 最期の一口をそうしてゆっくりと味わって飲み込み、一息つく。次いで俺は食器を持って席を立った。

 

「……ごっそさん。まあ、楽しんで来いよ」

 

 オーケー俺、超クール。この何気ない一言で「別に誘われなくても俺全然気にしてないし」アピールが出来たはずだ。後はこの場を去って自室で1人枕を濡らせば問題ない。いや、別に全然行きたいとか思ってねえし。

 比企谷八幡はクールに去るぜ……。そうして歩き出した俺を、しかし口を開いたキリトが呼び止める。

 

「何部外者面してるんだ。ハチは強制参加だぞ」

「え」

 

 その場で固まる俺を無視し、キリトはさらに話を続ける。

 

「65層の敵はそんなに強いってわけじゃないけど、それでもそこそこ上層だしな。ある程度の戦力は確保しときたい。だからアスナの参加も決定として、女子が少ないと心細いだろうしフィリアとシリカの2人も決定かな。あとの枠は7人だけど――」

「はい、はーいッ! オレも参加したい!!」

「あっ、ズリィぞギルマス!」

 

 残りの枠を巡って、風林火山のメンバーたちがやいのやいのと一斉に声を上げだした。大人げなく大声を上げて参加を希望するクラインに対し、アルゴは食事の手を止めて白い目を向ける。

 

「言っておくケド温泉はちゃんと男女別になってるヨ? システム的に覗きも出来ないハズだし」

「わ、分かってるっつーの! オレはただ純粋に温泉に浸かって日々の疲れを癒したいだけで……」

「どうだかナー」

 

 アルゴの台詞に目を泳がせるクライン。そんな2人を横目に、ややあって我に返った俺は隣に座っていたトウジへと声を掛けた。

 

「……つーか、そもそもそんなに人が抜けてギルドの仕事の方は大丈夫なのかよ」

「みんなのお蔭で最近はかなり余裕があるので問題ないですよ。むしろ温泉のリポートも兼ねて何日かゆっくりしてきてください」

 

 実質的に風林火山での仕事を取りまとめているトウジからは笑顔でゴーサインを返され、その場からは小さく歓声が上がった。

 

「よし、トウジの許可が下りた! あとは誰が行くかだな!」

「希望者も多いしジャンケンで決めたらどうですか? あ、ちなみに僕も参加希望です」

 

 それって結局トウジが温泉行きたかっただけじゃねえのか……。

 心の中で突っ込む俺のことなどおかまいなしに、ダイニングでは大ジャンケン大会が始まろうとしていた。もはや口を挟める雰囲気ではなくなってしまったので、俺はとりあえず手に持ったままだった食器を厨房へと運ぶことにする。背後からは男たちの仁義なきジャンケンバトルの熱気が押し寄せて来た。

 まあ仮想世界のこととは言え、美少女たちと行く温泉巡りの旅だ。娯楽に飢えたSAOのプレイヤーたちにとっては垂涎ものの旅行プランだろう。俺だって本当のところは行きたくないと言えば嘘になる。ただ積極的に話に参加するアクティブさは持ち合わせていないので、とりあえずはことの成り行きを見守ることに決めた。

 食器を片付けた俺がダイニングへと戻ると、目に入ったのは熾烈なジャンケンバトルを勝ち抜いたのであろうクラインが雄叫びを上げて(グー)を力強く突き上げる姿だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第37話 一時の休息

 善は急げということで、温泉旅行の決行はすぐ翌日ということになった。

 メンバーはキリト、アルゴ、アスナ、フィリア、シリカ、俺に加え、ジャンケンで勝ち残ったクラインとトウジを含めた男プレイヤー6名である。

 残されたプレイヤーたちからはブーイングの嵐だったが、また後日改めてギルド全員での旅行を企画するということで何とか治まった。今回は抜け道の関係で人数が制限されてしまったが、一度通ったプレイヤーなら次は新たにパーティメンバーを加えて通れるという話である。つまりネズミ算式に行ける人数が増えるので、次回はギルド全員で行ってもなんとかなるはずだ。

 

 そんな訳で今回は下見のようなものだ。周囲の安全確認なども含めて情報収集を行うために、とりあえず2泊3日というスケジュールになっている。

 

「お、何か温泉っぽい匂いがしてきたな」

「硫黄の香りですね。そろそろ出口が近いのかな」

 

 薄暗い洞窟の中に、クラインとトウジの声が響いた。言葉通り、ゆで卵を割ったような硫黄の匂いが鼻を衝く。この匂い少し苦手なんだよなと思いつつ、俺は槍を構えたまま歩を進めた。

 第65層の西、温泉街へと続くという洞窟の中を歩いていた。インスタンスマップなのでキリトたちとは別行動である。こちらのパーティメンバーはアルゴ、アスナ、クライン、トウジ、俺、それに加えて風林火山の最古参の1人であるギースという男だ。

 洞窟に入って既に20分ほど経過している。ここまで長い一本道だったが一度もモブと遭遇することはなかった。今も危険な気配はないので或いはモブが生息していないのかもしれないが、一応警戒は怠らずに進んでゆく。

 

「温泉地ってたまに有毒ガスが出るとかで立ち入り禁止になってる場所あるよな。これ下手したら毒ダメとか食らったりする?」

「ちょっと、怖いこと言わないでよ」

 

 俺の適当な思いつきの発言に、隣のアスナが眉を顰める。寒さ対策にブラウンのPコートというカジュアルな格好をしているが、その手には油断なくレイピアが構えられていた。ここのような視界の悪いフィールドでは臨戦態勢のまま行動するのが定石である。

 

「事前の調べじゃそんな情報はなかったヨ。まあ念のためハチを先頭にして進んだ方がいいかもナ」

「しれっと人をセンサー代わりに使うなよ。……いや、まあ、行くけど」

 

 アルゴの発言に文句を言いながらも、俺は先頭に立って歩く。この中で一番耐久力があるのは俺である。さすがにこの層で俺が即死するような初見殺しはないだろう。

 その後さらに5分ほど行くと、洞窟の中、遠くに光が差し込んでいるのが目に入った。身を切るような冷たい風が吹き込んでくるのを感じながら、俺たちは残りの道を一息に抜ける。

 

「おー……」

「いいところね」

 

 洞窟から抜け出すと、強い日差しと冷気が俺たちを包んだ。隣に立つアスナと共に、周りを見渡しながらゆっくりと息をつく。

 目の前に広がるのは一面の雪景色である。山脈に囲まれた処女雪の平原。抜けるような空の蒼さと相まって、まるで地表から色が抜け落ちてしまったかのように思えた。

 切り取るように丁寧に除雪された一本の道は、遠く山裾の集落へと繋がっていた。あれが噂の温泉街だろう。

 しばらくすると、隣までやってきたクラインが目を見開いて声を上げる。

 

「おー! トンネルを抜けるとそこは……ってヤツだな!」

「洞窟に入る前から既に雪国でしたけどね。それと、正確には『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』です」

「細けぇこたぁいいんだよ! フインキだ! フインキ!」

 

 風林火山ではもはやお馴染みとなったクラインとトウジの夫婦漫才を聞き流しながら、俺は手に持っていた槍を背中に収めた。それとクライン、正確には雰囲気(ふんいき)な。

 不意に細かい雪を巻き上げながら風が吹いた。俺は咄嗟にコートのポケットに両手を突っ込み、襟に首を埋める。寒さ対策はしているが、それでも寒いものは寒い。吹きさらしのこの場所にあまり長居はしたくなかった。

 

「うー、さむ……。この辺り一帯全部安全地帯っぽいし、さっさと行こうぜ」

「そうね。えーっと、多分あそこが温泉街よね? とりあえず行ってみましょう」

「よーし! 待ってろよ温泉!!」

 

 キリトたちとは現地集合という打ち合わせになっている。妙に張り切って先導するクラインに従って、俺たちはすぐにその場を後にしたのだった。

 

 その後は特にアクシデントもなく、10分ほどで目的の温泉街へと到着した。

 煤こけた木造の建物が並ぶ、古き良き宿場町のような景観である。宿や茶屋、的当てなどの遊戯店が立ち並び、アインクラッドでは一般的な武器屋や道具屋などは逆に見当たらない。おそらくそう言ったコンセプトの街なのだろう。

 さらに街の中へと入っていけば、大通りの真ん中には長く伸びた木組みの水路のようなものが無数に並んでいた。街を中央から縦断するように走り、もうもうと湯煙を上げながら湯を運んでいる。これは地下から汲み上げたばかりの熱すぎる源泉を冷ましつつ街の温泉施設に供給するための装置らしい、というのはトウジの談である。

 ゲーム内のことなのでこんなことをせずともプログラムを弄ればお湯の温度なんてどうとでもなるのだろうが、SAOでは妙なところがリアルだったりする。きっとクリエイターのこだわりなんだろう。特にこの温泉街は色々と無駄なところが作り込まれているように思えた。

 

 土産屋などを軽く冷やかして回っているうちに、遅れてキリトたちが街へと到着した。合流を果たした俺たちはひとまず今日泊まる宿を取ることに決め、折角だからと街の中央、最も大きいと思われる旅館へと足を向けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「的当てって言うのは基本的に景品の左上か右上を狙うのが定石なんだ。あと気を付けるべきは入射角。垂直に当たるのがベストだけど放たれたコルクは放物線を描くわけだから、それを計算に入れて銃は下から構えて少し上に向けて撃つ。最後は銃を打つラインも重要だ。力を殺さないために、腕のリーチも使ってなるべく景品に近い位置で構える。つまり――こうだッ」

 

 うんちくを垂れながらコルク銃を構えていたキリトが、気合いのこもった声と共に引き金を引いた。放たれたコルクは狙い通りに景品の左上を捉えるも、コツンと情けない音を立てて呆気なく弾かれる。台に置かれた景品はビクともしていない。その結果にキリトは今にも「なん……だと……!?」と呟きそうな表情で立ち尽くした。

 

「惜しかったな兄ちゃん。ほれ、残念賞だ」

 

 NPCのおっちゃんがそう言ってキリトの前に飴玉を置く。キリトはしばらく呆然とそれを眺めていたが、やがてその姿がいたたまれなくなったのか隣のシリカが気を遣ったように声を掛けた。

 

「ざ、残念でしたね。そういう時もありますよ。ほら、元気出してください」

「ていうかこれバネ弱すぎてムリゲーだろ。妙なところでリアルだよなこの世界」

 

 キリトが使っていたコルク銃を弄りながら俺もそう口にする。現実世界の祭りの屋台などではよくある手法だ。向こうも簡単に景品を取られては商売あがったりなので、コルク銃のバネを弱くなるように細工していたりする。

 

「いや、絶対に何か攻略法があるはずだ! 俺はあの景品のアクセを手に入れるまで諦めないぞ!」

「ああ……うん。頑張れよ。じゃあ俺らは他のとこ見てるから」

 

 ゲーマー魂に火がついてしまったらしいキリトにそう声をかけ、俺はシリカを伴って射的屋を後にした。

 

「あの、キリトさん放っておくんですか?」

「ああなったら手の付けようがない。マジであの景品手に入れるまで動かねえぞ」

「そ、そうですか」

「さてと……他の奴らはどこ行ったんだ?」

 

 言って、周囲を見回す。街の大通りには多くの人々が行きかっていた。アルゴが言うにはまだ俺たち以外のプレイヤーは居ないということだったが、この街は他の場所に比べてNPCが多く表面上は中々賑わっているように見える。

 

 宿を取った後、俺たちはいくつかのグループに分かれて各々自由な時間を過ごしていた。

 キリト、アスナ、シリカ、フィリア、俺の年少組は街の中を見て回り、クライン、アルゴを含む年長組は――アルゴは年齢不詳だが、諸々の発言から考えるに俺よりは上のように思う――宿の娯楽室で遊んでいる。どうやら麻雀卓があったらしく、男連中はえらく興奮していた。トウジは今日中に終わらせておきたい作業があるとか何とかで、1人宿の部屋に籠っている。

 俺もひとまず宿でゆっくりしようかと思っていたのだが、下手をするとトウジに仕事を押し付けられそうな気がしたので逃げてきたのだった。

 

 しばらくキョロキョロと辺りを見渡していると、通りの向こう側、行き交うNPCの影に紛れてフィリアとアスナの姿を発見した。向こうもこちらに気付いたようで、人波をかき分けてこちらに駆け寄ってくる。2人の両手には何やら白い包み紙が握られていた。

 

「あっちでクレープ売ってたのよ。はいこれ、シリカの分」

「あ、ありがとうございます!」

 

 フィリアが右手の包みをシリカへと手渡す。包みの中には小麦の生地に赤い果実と生クリームがたっぷりとのせられていた。同じ種類のものを、アスナが俺の前に差し出す。

 

「はい、ハチ君にも。甘いもの大丈夫だったよね?」

「あ、ああ。じゃあ金を」

「別にいいわよこれくらい」

「俺は養われる気はあるが施しを受ける気は――」

「はいはい。早く受け取って。耐久値なくなっちゃうわよ」

「……」

 

 若干俺の主義に反するが、ここで押し問答しても時間の無駄なのは分かっている。結局俺は素直に礼を言って、アスナからそれを受け取ったのだった。

 

「キリト君の分もあるんだけど、どこいったのかな」

「ああ、あいつはちょっと取り込み中だ。そこの的当てでムキになってる。多分しばらく掛かるぞ」

「あー、いつものアレね……」

 

 射的屋を覗き込んだアスナが、呆れたように笑う。キリトのああいった行動は今に始まったことではなく、よく一緒にいる俺やアスナにとってはいつもの光景だ。ああ言う凝り性というか負けず嫌いな部分があいつをこの世界でトッププレイヤーたらしめているのは間違いないのだが、度々無意味だと思えることにもムキになるのが玉に瑕である。付き合わされるこちらの身になれば堪ったものではない。

 しかも今回は景品である限定アクセという付加価値もあるので、いつもよりも長引きそうだ。

 

「じゃあとりあえず私たちだけで見て回ろうか」

「そうだね。えーっと、まだ行ってないのは西側かな。アスナとシリカは何処か行きたいところある?」

 

 そうして和気あいあいと話し始める女子たち。ていうか俺の希望は聞いてくれないんですねフィリアさん。などと思っていた俺の恨みがましい視線に気付いたのか、フィリアは「あ、どうせハチは帰りたいとか言うから却下ね」と口にした。最近風林火山の女子陣の俺に対する扱いが酷い気がするんですけど……。

 

 結局、適当にぶらぶらしながらまだ行っていない場所を回ろうというプランに決定し、キリトに一声かけてからその場を後にすることになった。しかし俺1人で女子たちに交じるのは居心地が悪いどころの話じゃない。これならまだトウジの仕事を手伝った方がマシである。

 ここは若い者に任せてぼっちは退散するとしよう。そう思って口を開きかけた俺だったが、先んじてフィリアがこちらに身を寄せてくる。

 

「ねえ」

「ん、んだよ。つーか近いんだけど……」

「話があるの。アスナのこと」

 

 前を歩くアスナとシリカに聞こえないように、フィリアが声をひそめる。その真剣な表情に俺は若干面を食らって押し黙った。

 

「やっぱりなんか元気ないの。話してても、何処かうわの空っていうか」

「……お前も話は聞いてるだろ。あんだけのことがあったんだ。すぐに元気いっぱいって訳にはいかねぇよ」

「それはそうだけど……。お願い。少しでいいから、ハチも気にかけてあげて」

 

 その提案に俺は渋面を作る。《不吉な日》の一件以来、アスナが本調子ではないことは重々承知している。だが俺が気に掛けたところでどうにかなる問題ではないということも分かっていた。

 

「いや、何で俺? そこは同性の方が色々と都合いいだろ」

「私じゃ駄目なのよ」

 

 フィリアが目を伏せる。眼差しには苦渋の色が満ちていた。

 

「最前線で命を懸けて戦ってきたわけじゃない。ずっと安全なところで戦ってきて、人が死ぬ場面だって見たこともない。そんな私と、今まで最前線で戦い続けてきたアスナとじゃ立場が違いすぎるでしょ」

「それは別に悪いことじゃ……」

「うん。でも、それじゃあきっと深いところまではアスナを理解してあげられない。多分私がどれだけ言葉を重ねても、安っぽくなっちゃう気がするの」

 

 顔を上げたフィリアが、真摯な瞳でこちらを見つめる。その視線に居心地が悪くなった俺は咄嗟に目を逸らしてしまった。

 

「今アスナの力になれるのは、本当の意味で今まで一緒に戦ってきた仲間だけだと思う。それは私じゃなくて――」

「ハチさーん、フィリアさーん! どうしたんですか? 置いてっちゃいますよー?」

 

 フィリアの言葉は最後まで続かなかった。声のする方へと目を向けると、遠くでシリカが手を振っているのが目に入る。いつの間にか随分と離されてしまっていたらしい。

 軽く手を上げてシリカに応える。俺はフィリアとの話を打ち切るつもりで歩調を速めて歩き出した。

 

「行くぞ」

「……うん」

 

 気持ちを切り替えるように、フィリアが声を上げて頷いた。

 

 今まで、俺は俺に出来ると判断したことだけをやってきたつもりだ。

 出来もしないことに手を出して、余計に事態をややこしくするのは愚か者のやることである。無能な働き者ほど厄介な存在はいない。大事なのは分をわきまえることだ。

 その点で言えば、俺は同年代の男子の中では自分を正しく認識している方だろう。いつか隠された力に覚醒するかもしれないと期待していたのは中学の頃までだし、自分には特別な力が宿っているなどと妄想することももうない。

 そこそこ優秀な基本スペック(数学を除く)を持つ、ちょっとぼっちな普通の男の子。それが俺だ。SAOの世界に来て多少の成長はあるものの、根本的なところでは大して変わっていない。人の本質はそう簡単に変わるもんじゃない。

 

 そんな俺が、今のアスナに対して何が出来るのだろうか。繊細な少女の心の機微など、俺にわかるはずもない。それが分かるなら、かつて俺は奉仕部で選択を間違えることもなかったはずだ。

 不用意にアスナの心に踏み込むべきではない。下手をすればかえって傷付けるだけだ。問題はきっと時間が解決してくれるだろう。アスナは強い人間だ。

 

 言い訳がましくそう考えながら、街を歩いた。

 気分を変えるように大きく息を吸う。冷たい空気が肺を満たし、その刺激に少しだけ思考がクリアになる。しかし心に重くのしかかった黒い靄は、いつまでたっても晴れることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あぁー……極楽だぜぇ……」

 

 肩まで湯船に浸かったクラインが、気の抜けた声を上げる。トレードマークのバンダナを外し、いつもはガチガチに逆立てている髪の毛も今はくたびれたようにしな垂れていた。

 旅館に設けられた露天風呂である。洗い場と併設して大小様々な湯船が並び、雪の積もる大きな庭園を眺めて寛げる作りとなっていた。

 陽も落ちて宿に帰って来た俺たちは、この街へ訪れた一番の目的である温泉に来ていた。現在俺たち以外には人の姿はなく、風林火山の貸切状態である。

 一足先に湯船に浸かるクラインやキリトたちを横目に、俺は洗い場で備え付けのシャンプーを手に取ってガシガシと頭を洗う。ゲーム内ではどれだけ体を洗わなくても臭くなったりすることはないが、まあ気持ちの問題だ。

 

「なんかそれおっさん臭いぞクライン」

「おっさんたぁ何だ! オレはまだピチピチの20代だぞ!」

「ピチピチって……。というか若く見られたいならその髭どうにかした方がいいんじゃないのか?」

「このワイルドさが分からんとは……。キリトはまだまだお子ちゃまだな」

 

 シャワーで泡を洗い流す俺の耳に、そんなキリトたちの会話が届く。俺にもそのワイルドさはよくわからない。あれかな。デニムのベストにデニムの短パンを合わせて、1.5リットルペットボトルコーラの蓋をすぐに捨てちゃう人のことかな。あの人、今はどこにいるんだろうか……。

 その後、体の隅々まで洗い終えた俺は、クラインたちとは離れた小さい湯船へと向かった。人ひとりが入れる大きさの壺のようなものがいくつか並び、その中に湯が沸きだしている。壺湯とでも呼ぶべきだろうか。御1人様専用といった感じで、まさに俺好みだ。その1つに沈み込むと、一気にあふれ出した湯が大きく飛沫を上げた。

 湯加減はちょうどいい。壺の縁に頭を預け、俺は大きく息を吐いた。

 

「お疲れみたいですね。隣いいですか?」

「……別に俺のじゃないし、好きにしろよ」

 

 体勢を変えないまま、いつの間にか近くまでやってきていたトウジにそう答える。ややあって、隣からお湯の溢れる音が響いた。

 

「どうでしたか? 今日1日街を回ってみて」

「なんか本物の温泉街って感じだったぞ。色々遊ぶところもあったし、時間潰すのには困らないだろうな」

「なるほど。情報を纏めておきたいのでまた後で詳しく聞かせて貰えますか?」

「また仕事の話かよ……。お前も少しは休めって」

「あはは。すみません、何かしてないと落ち着かない性分で」

「いやもう性分っつーか病気だろそれ。こっちに移すなよ」

「酷い言われようですね……」

 

 過労というものは病気のように伝染するとよく言われる。隣でめっちゃ仕事してる奴がいると自分も働かなきゃいけないような気がしてくるものなのだ。逆に言えば隣に働いていない奴が居ると働かなくてもいいような気がしてくる。つまり働き過ぎによる病死や自殺が問題視される現代社会においては、俺のように能動的に働かない人材が求められているのかもしれない。違うか。違うな。

 

「ところで、あそこで死んでる奴らはどうしたんだ?」

 

 露天風呂の端、浅い湯船に死屍累々と横たわる風林火山の男たちに視線をやりながら話題を変える。昼間、クラインやアルゴと一緒に宿で麻雀をしていた連中だったはずだ。

 

「アルゴさんに麻雀でボコボコにやられたらしいですよ。コルも賭けていたみたいで」

「ああ……」

 

 アルゴは金が絡む勝負事にはめっぽう強いイメージがある。男どもを鴨にするアルゴの姿が目に浮かぶようだった。クラインは途中からトウジに引っ張られて仕事に付き合わされていたらしく、難を逃れたそうだ。

 ふと、何とはなしにクラインの方へと視線をやる。いつもやかましいくらいに騒いでいるのに、何故か今は妙に静かである。

 クラインは既に湯船から上がっていたようで、素っ裸で石畳の上に仁王立ちし、露天風呂を囲む仕切りの板を見上げていた。寒くないのかあいつ。というか前隠せよ。

 

「向こうが女湯なんだよな……」

 

 クラインの小さな呟きが風に乗って俺の耳まで届いた。ホントぶれない奴だな……と半ば感心しながら俺はため息を吐いた。クラインの近くで湯船に浸かったままのキリトも呆れた表情を浮かべている。

 

「アルゴも言ってたけど、システム的に覗きは出来ないぞ」

「わーってるっての! けどちょっとくらい向こうの声とか聞こえたっていいよなぁ。うら若き乙女たちが今、向こう側でキャッキャウフフしてるワケだろ?」

「……ああ、うん。そうだな」

 

 もう付き合うのも馬鹿らしいと適当に頷くキリト。しかしその態度が気に食わなかったようで、クラインは急に声を荒げながら振り返った。

 

「なんだぁ、その気のない返事はぁ! お前にもあるはずだぞ! 思春期の滾るリビドーが!!」

「いや、リビドーって……」

「正直になれよ! 男同士腹を割って話そうぜ!」

「いやだから俺は……って近い近い! 素っ裸で近づいてくるな!」

 

 迫るクラインに、逃げるキリト。海老名さん大歓喜のそのむさ苦しい絵面に辟易しながら、俺はゆっくりとその場から立ち上がった。

 

「じゃ、俺先に上がるわ」

「あ、はい。じゃあ僕もサウナの方に避難しようかな」

 

 面倒事に巻き込まれる前にこの場からの撤退を決めた俺は、トウジに別れを告げてすぐに風呂から上がる。背後からは助けを求めるキリトの声が響いていたが、俺はそれを振り切るようにして歩いた。キリトは犠牲になったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「酷い目にあった……」

 

 俺が脱衣所で涼みながら売店で買ったコーヒー牛乳をチビチビと飲んでいると、背後から疲れた声が耳に届く。振り返ると心なしか目が死んでいるキリトの姿がそこにあった。おい、キャラ被ってんぞ。

 クラインのウザ絡みからなんとか生還を果たした様子のキリトだったが、しかしもう動く気力は残ってないようで、雑に体を拭いた後はタオルを腰に巻いたまま化粧台に突っ伏した。さすがに気の毒になって来たので余分に買っておいたコーヒー牛乳を差し入れしてやる。キリトは礼を言ってそれを受け取ると一気にそれを飲み干し、少し元気を取り戻したようだった。

 

「クラインたちはどうしたんだ?」

「サウナで我慢大会してるよ」

「元気だなあいつら……」

 

 未だ姿の見えないクラインたちが気になって俺が尋ねると、キリトからはそんな言葉が返ってきた。いやゲーム内で我慢大会とか、終わりが見えないんですけど。システム的に水分補給も必要ないし熱中症にかかることもないから、頑張ればそのままサウナの中で暮らすことも可能なはずだ。

 まあ別にあいつらを待つ必要もないし、もう少しここで涼んだら部屋に戻って晩飯までひと眠りするとしよう。ちなみに晩飯は旅館が7時に用意してくれることになっている。ここはそれなりに値段の張る旅館だったので、食事にも期待できそうだった。

 そんなことに想いを馳せる俺の横、ふと目をやると、もう元気を取り戻したらしいキリトが何やらボディビルのようなポージングを決めながら化粧台の鏡を眺めていた。妙に静かだと思ったら、何やってんのこいつ。

 

「……何してんの?」

「あ、いや……」

 

 悪ふざけでもしているのかと思ったが、声を掛けるとキリトは微妙に真剣な表情を浮かべた。予想外の反応に困惑しながらそれを見つめていると、キリトは再び丸椅子へと腰掛けて軽く息を吐く。

 

「自分のアバター見てたら少し考えちゃってさ。現実世界の自分の身体のこと。寝たきりの点滴生活でガリガリになってるんだろうなって」

 

 え、この流れでそんな重い話始めちゃう? と心の中で妙な突っ込みを入れながらも、真面目な顔をしたキリトに茶々を入れるのは憚られた。そして俺もひとまず頭を切り替えることにして、目の前のキリトの身体と自分の身体を見比べる。

 お互い筋肉はあまりついていないが、2人ともそれなりに均衡のとれた健康的な身体だ。ゲーム内では顔以外の箇所についてはそれほど厳密に再現されているわけではないが、まあSAOを始めた当初の自分と比べてもそれほど差があるようには感じない。

 だが、キリトの言う通り現実世界の自分の身体はもうすっかり変わり果てていることだろう。SAOが始まってから2年近くもの時間が経とうとしている。いくら日本の医療が発展していると言っても、それだけの期間寝たきりの状態で体形を維持することは不可能だ。現実世界の自分の姿。それを想像すると、ジワリとした恐怖心が首をもたげる。

 

「そんな状態で身体に負担がかからないはずがない。今は大丈夫だと思っていても、現実の身体には取り返しのつかない後遺症が残ってる可能性だってある。多分、俺たちが思ってるほどこのゲームのタイムリミットは長くない」

 

 俺の抱いた恐怖心を形にするように、キリトが言葉を続ける。アインクラッドで暮らす多くのプレイヤーたちがみな薄々気付きながらも、考えないようにしている事実だった。

 現在の到達層は第70層である。残り30層、順調に進んでも恐らくまだあと1年弱はかかるだろう。終盤になるにつれて難易度が上がっていくことを考えれば、さらに時間がかかる可能性は高い。

 そこまで考えて、しかし俺はその思考を振り払った。

 

「まあ言ってることはわかるけど、そんなこと今さら考えるだけ損だぞ。どうせ俺らのやることは変わんないんだし」

「……だな。ごめん、この世界じゃ普段あんまり鏡なんて見ないし、色々と考えちゃって……あ」

 

 苦笑いを浮かべていたキリトの表情が何かに気付いたように一瞬固まり、それきり黙り込んでしまう。困惑する俺を放置し、たっぷり10秒ほど何か思案する。やがて口を開いたキリトの顔には、若干の興奮が滲み出ていた。

 

「ハチ、ちょっといいこと思いついたかもしれない」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第38話 屋台にて

 夜も更け、同室の男どもが寝静まった頃。夕食前にひと眠りしたせいか妙に眼が冴えてしまった俺は1人部屋を抜け出していた。

 旅館の長い廊下には人の気配はなく、物音ひとつしない。システム的にドア越しに音が漏れることはないので気を遣う必要もないのだが、それでも深夜に大きな物音を立てるのはなんとなく憚られて気配を殺しながら歩いた。カンストしている隠蔽(ハイディング)スキルと相まって、今の俺なら誰にも存在を気付かれないまである。あれ、それって平常運転じゃね?

 

 不意に肌寒さを感じ、コートの裾に顔を埋めた。もうロビーの近くだ。外の空気が吹き込んできたのだろう。

 俺はこれから街に出て、昼間チェックしておいたとある麺類を出す屋台へと行くつもりである。昼間は女子たちに付き合って他の店に入ってしまったので手が出せなかったのだ。

 

 今さら言うまでもないことだが、このゲーム内での食べ物は現実のものとは似て非なるものが多い。料理の見た目は現実にあるものと全く同じなのに、食べてみると味は全然違うなんてことは珍しくない。ゲーム攻略が進むにつれて食べ物もまともなものが増えてきているのだが、それでも現代日本の豊かな食文化に慣れてしまったプレイヤーたちを満足させられるほどのものは中々見つからないというのが現状だった。

 

 そんな中で相対的に見れば俺の食事情は恵まれている方だろう。風林火山には料理専門のプレイヤーがいるし、稀にご相伴にあずかるアスナの手料理だって絶品だ。だがそんな俺でもずっと前から求めてやまない食べ物がある。そう、ラーメンである。

 

 以前第50層で食べた《アルゲードそば》は見た目だけはラーメンっぽかったが、ラーメン好きからすると食えたものではなかった。むしろ中途半端にラーメンっぽいものを食べてしまったせいでそれから無性にラーメンが食いたくなってしまったのだった。

 

 この街で見かけた屋台も看板にラーメンとは表記されていなかったが、漂う雰囲気はラーメン屋台そのものだった。今度こそアタリであって欲しい。ていうかもう完全にラーメンの口になってしまっているので、これで全く違うものだったらもう立ち直れない。

 

「あれ、ハチ君?」

 

 外に出たところで、暗がりから声が掛かった。突然のことにドキリとしながらそちらに視線をやると、目が合ったのは玄関脇のベンチに座るアスナだった。

 七宝柄の温泉浴衣に紺の羽織を上に重ね、髪は大雑把に纏めて右に流している。妙に隙のあるその姿に今度は違う意味でドキリとしつつ、俺は平静を装って口を開いた。

 

「こんな時間に何してんの、お前」

「なんだか寝付けなくって。ハチ君こそどうしたの?」

「いや、小腹が空いたから飯でも食いに行こうかと」

「こんな時間に?」

「太る訳でもないし、別にいいだろ」

 

 既に日付も変わって時刻もそろそろ1時近くになる。こんな時間にラーメンを食べるなど現実世界なら自殺行為だが、仮想世界なら特に問題ない。まあ元から太りやすい体質というわけでもないので、現実世界でもそれほど気を遣っていないのだが。

 俺の言葉にアスナは少し納得のいかない表情を浮かべていたが、反論するつもりもないのかやがて「それもそうね」と言って頷いた。それきり場に沈黙が降りる。

 

 最近アスナがあまり眠れていないという話は、フィリアやシリカからそれとなく聞いていた。ほぼ間違いなく《不吉な日》の一件によるストレスが原因の不眠だろう。

 俺はそれを知っていたのだ。知っていて、何もしてこなかった。

 だが、既に多くの人間から慰めの言葉を掛けて貰ったであろうアスナに対し、これ以上俺から何を言うことが出来るというのか。

 

 ――今アスナの力になれるのは、本当の意味で今まで一緒に戦ってきた仲間だけだと思う。

 

 昼間のフィリアの言葉が頭を過った。しかしその理屈で言うなら、その役目はヒースクリフやキリトでもいいはずだ。むしろ俺よりもよっぽど適任である。

 確かにアスナには今、誰かの支えが必要なのかもしれない。だが、それは俺である必要性があるのか。俺が動く必然性があるのか。

 考えるのはそんなことばかり。常に外へと理由を求めなければ何ひとつ自分から動くことの出来ない、まるで木偶の坊だ。誰かに頼まれたから。依頼だから。適任だから。そんな理由(いいわけ)ばかりの自分が嫌になる。

 

 沈黙の中、月明かりに照らされたアスナの瞳が小さく揺れた。その瞬間を盗み見てしまった俺には彼女の姿が酷く儚いものに感じられて、息が詰まる。

 《不吉な日》黒鉄宮。泣き崩れるアスナの姿を思い出してしまい、俺の中に様々な感情が駆け巡った。

 

 誰かに与えられた理由じゃない。俺自身の気持ちは、いったいどこにあるのだろう。

 俺は……俺はアスナに――。

 

「……あー。ちょっと昼に見つけたラーメン屋台っぽいところ行くつもりなんだけど……お前もどうだ?」

 

 頭の中、考えは纏まらないままだったが、いつの間にかそう口に出していた。

 しかしすぐに羞恥と後悔が押し寄せてくる。顔が熱い。何を口走っているんだ、俺は……。

 アスナはたっぷり数秒間ポカンとした表情で固まり、再び静寂が場を支配する。完全にやらかした。いっそ殺してくれ……。沈黙に耐えきれず俺がそう思い始めた頃、アスナは吹き出すようにして半ば呆れ顔の笑みを浮かべた。

 

「普通、こんな時間に女の子をラーメンに誘う?」

「……普通やら当たり前やらが理解出来るなら長いことぼっちやってねえっつの。別に、嫌なら来なくていい」

「もう、嫌だなんて言ってないでしょ。行くわ」

 

 悪態を吐くように言葉を返した俺に、アスナはたしなめる様にそう言った。それは思いのほか悪くない反応に見えて、少し気が楽になる。

 言葉とともにベンチから腰を上げたアスナがこちらに歩み寄る。その表情は心なしか先ほどよりも軽くなったようだった。

 よかった。まあ、ラーメンは皆好きだよな。表ではパンケーキが好きですとか言ってるスイーツ()な女子も、裏では案外なりたけでギタギタにニンニクをぶち込んでいたりするのだ。

 

「でもこの時間にまだやってるの? もう1時近いけど」

「そこは確認済みだ。深夜2時まで営業だって看板に書いてあった」

 

 昼間屋台の前を通った時に、営業時間だけはしっかりチェックしておいた。ちなみに開店時間は15時。どうせNPCの経営なんだから全部24時間営業でいいだろと思うのだが、案外アインクラッドの中ではそう言った店は少ない。店舗によっては定休日もあったりするくらいだ。お前らもっと働けよ。あれ、なんかブーメラン飛んできた。

 

 そんなことを考えながら、俺は改めて目の前のアスナを見下ろす。温泉浴衣の襟元からチラ見えする鎖骨がエロい――じゃなくて、さすがにこのまま街に出るのは不味いだろう。

 

「けどお前、その格好じゃ寒いだろ。ここで待ってるから着替えて来いよ」

「あ、そうね。それじゃあちょっと待ってて」

 

 ゲーム内では着替えもシステムウインドウで装備を変えるだけだが、その際一瞬チラッとインナーが見えたり見えなかったりするので、女プレイヤーが人前で着替えることはあまりない。

 そうして一旦宿へと戻るアスナの背中を黙って見送る。ややあって、俺は白い息をゆっくりと吐きながら、何とはなしに夜の空へと目をやった。

 

 別に、俺がアスナの悩みを聞いて解決してやろうなどと、そんな高尚なことを考えているわけではない。ただ、美味いものでも食べて、少しでも彼女の気が晴れればいい。そんな浅ましい思いつきだ。

 アスナにはたくさんの借りがある。気落ちする彼女に一杯のラーメンを奢るくらいのことは、きっと俺にも許されるだろう。

 いまだ未練がましくそんな言い訳を考えながら、俺は寒空の下でアスナを待った。

 

 

 その後、すぐによそ行きの恰好に着替えて戻ってきたアスナとともに夜の街へと繰り出す。

 通りには暖かい光を灯す丸い提灯が並び、街並みを淡く照らしていた。そんな明かりひとつで昼間とは風情ががらりと変わり、まるで別の街へ来てしまったような気分だ。まだ外を出歩くNPCの姿も多く、居酒屋のような店舗が並ぶ通りには賑やかな空気が漂っていた。

 目的の屋台は俺たちが泊まっている旅館からそう遠くない。未だNPCで賑わう大通りから脇道に一歩入った路地。雪かきの名残なのだろう、道の端に積み上げられた雪の塊と肩を並べるように、その古ぼけた屋台はひっそりと佇んでいた。

 

 暖簾を潜り、木組みの長椅子にアスナと肩を並べて座る。うん。妙に油ぎったテーブルがB級感満載で良い感じだ。お品書きは木板に黒々と筆で大きく書かれた《(おとこ)そば》のみである。

 2人分の注文を告げると、店主である壮年の男は黙って調理を始めた。渋い。頑固な仕事人を絵に描いたようなNPCだ。頭に巻いた白いタオルと黒Tシャツが決まってるぜ。彼ならきっと俺の期待に応えられるラーメンを作ってくれるはずだ。というかこれだけ雰囲気を出しておいて、なんちゃってラーメンを出されたら訴訟も辞さない。

 

 待つこと5分。不愛想な店主が俺たちの前に湯気が立ち上る2つの椀を差し出した。澄んだスープに、薄黄色の縮れ面。トッピングはシンプルにネギのみ。そこにあったのはまごうことなきラーメンの姿だった。

 テーブル中央に置かれた箸を手に取り、もう待ちきれないとばかりに麺を啜る。その瞬間、俺は全身に電撃が走ったような衝撃を覚えた。

 数秒硬直し、次いで弾かれたように再び麺を啜る。スープまで一通り味わい尽くしたところで、俺は天を仰いで息を吐いた。

 

「あー、やばい。美味い。泣きそう。もう俺ここのうちの子になるわ……」

「そ、そんなに?」

 

 アスナが若干引いた様子でこちらを見ていた。いや、仕方ないだろ。むしろこの程度の反応で済んでいる俺を褒めてもいいくらいだ。ここが某料理漫画の世界だったら俺は今頃視聴者サービスのために服が弾け飛んで全裸で悶えていたことだろう。いや、誰得だよ。

 

「でも確かに美味しいわね。ちゃんとしたラーメンって感じ」

「そうだろうそうだろう」

「なんでハチ君が自慢げなのよ」

 

 俺が育てた、とばかりに頷く俺に対しアスナは胡乱げな眼差しを向けていた。

 そんな会話をしながらお互いラーメンを食べ進める。実際には何の変哲もないラーメンなのだが、久しぶり過ぎて最高に美味く感じる。俺はすぐに出されたラーメンを平らげ、替え玉を注文した。それを横から見ていたアスナが再び呆れた表情を浮かべる。

 

「まだ食べるの?」

「次いつ食いに来れるかわかんないからな。ゲーム内でラーメンに近い食い物なんて《アルゲードそば》しかなかったし。あれは食えたもんじゃなかった」

「ああ、あの醤油なし醤油ラーメンみたいな奴ね……」

「俺はあれを断じてラーメンだとは認めん」

「そんなこと言いながら、あなたよくキリト君と食べに行ってたじゃない」

「いやあれは一時的措置というか、苦肉の策というか。喫煙者がニコレット噛むみたいなもんだ」

「ラーメンってそんなに依存性の高いものだったっけ……」

 

 話しているうちに麺が茹で上がったようで、店主が替え玉を皿にのせてテーブルに置いた。すかさずそれをスープの入っている椀にぶち込み、再び麺を啜る。ゲーム内なら替え玉をしてもスープが薄くならないので、たれは必要ない。

 しばらく無心で麺を啜っていた俺だったが、ふと隣からの視線を感じてその手を止める。アスナは1杯目のラーメンを完食して満足したようで、セルフサービスのお冷を飲みながらじっとこっちを観察するように眺めていた。

 

「……そんなに好きなら、今度作ってあげようか?」

「え、なに? お前ラーメン作れんの?」

「材料さえあれば似たようなものは作れると思う。この間《料理》スキルカンストしたし」

「マジか。じゃあそん時はヤサイニンニクアブラカラメで頼む」

「何それ? 呪文?」

 

 アスナが可愛く小首を傾げる。リアルじゃいいとこのお嬢様らしいし、油ギトギトのラーメンなんて食べたことないんだろう。そんな彼女に詳しく説明してやると、そんなものは食べ物じゃないとばかりに顔を顰めた。いや、美味いんだってこれが。

 ここのノーマルなラーメンも美味かったが、やっぱり1番好きなのは油ギトギトのこってりラーメンだ。なりたけのギタギタなんて食うとあれ1杯で寿命が1年くらい縮みそうな気もするけど、好きなものはやめられない。

 

 そうこうしているうちに替え玉も平らげ、ようやく一息つく。本物のラーメン屋台だったら食べ終えたらすぐに席を立つべきなのだろうが、他に客もいないし気を遣う必要もないだろう。店主も屋台奥に置かれた丸椅子に座り込み、腕を組んで眠るように沈黙している。これ余裕で食い逃げできそうだな。いや、オレンジカーソルになるからやらないけど。

 テーブル端に置かれた透明なコップを手に取り、お冷を注いで口を付ける。今さらながら気付いたが、この屋台の中にいるとかなり暖かい。外はかなり寒いし嬉しい仕様だ。お冷はキンキンに冷えていたが、気にならなかった。

 

 ラーメンの味の余韻に浸りながら、静かな時間が過ぎる。明日は他の奴らも誘ってやるか。けどこの屋台キャパ少ないし、あんまり情報が広まって行列ができるようになってもいやだな……。いや、そもそもこの街に来れるレベル帯のプレイヤーはそんなに多くないだろうし、気にすることもないか。

 そんな暢気なことを考えている俺の横。しばらく1人俯いていたアスナが、ぼそりと溢すように呟いた。

 

「……ごめんね」

「あ?」

 

 急な謝罪の意図が読めず、俺は思わず呆けた声を上げた。アスナは困ったような力ない笑みを浮かべて、こちらを見る。

 

「私に気を遣ってくれたんでしょ? こういうの、ハチ君から誘ってくれることなんて滅多にないもんね」

 

 言って、小さく息をついた。俺はそれを否定しようと思ったが、咄嗟に言葉は出てこなかった。

 

「この街に来たのだって、多分そうだよね。私、色んな人に気を遣わせちゃってる。みんなの気持ちはすごく嬉しいけど……きっと、このままじゃ駄目」

 

 アスナの視線はテーブルの一点を見つめたまま微動だにしない。なんとなく、俺は場の空気が冷えてゆくような錯覚に陥った。息を継ぐような数秒の沈黙の後、アスナは再び口を開く。

 

「あの襲撃があった日、きっとゴドフリーたちだけなら逃げられたはずなの。でも、そうしなかった。……私がいたから」

 

 話すアスナの横顔は、さながら懺悔する罪人のようだった。

 《不吉な日》黒鉄宮で笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちの襲撃が行われた際、防衛部隊に所属する何人かのプレイヤーたちは不意打ちによる麻痺を回避し、応戦したと聞いている。アスナが言っているのはそのことだろう。

 ゴドフリーとは、俺も最前線で顔を合わせることが多かった。そしてあの日、彼が倒れる瞬間をよく覚えている。黒鉄宮に駆け付けた俺の目の前で、ゴドフリーは笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちに殺されたのだ。今際(いまわ)(きわ)に、アスナを頼むと俺に言い残して。

 

 正直、ゴドフリーのことはあまり好きではなかった。暑苦しく、脳筋で、デリカシーもなく、話しているだけで疲れてくるような相手。これに関してはアスナもよく愚痴を溢していた。

 だが、共に最前線に立つプレイヤーとして、心のどこかではゴドフリーを認めていたように思う。ずっと同じギルドで活動してきたアスナも、きっとそうだろう。

 無駄に正義感の強い男だった。そんな奴がアスナを見捨てて逃げることなど出来るはずもない。そしてゴドフリーは仲間とともに最期の時まで雄々しく戦ったのだ。

 そうして故人に思いを馳せる俺を、続くアスナの言葉が現実に引き戻す。

 

「それに、私がもっとしっかりしてれば、クラディールの裏切りに気付けたかもしれない。不意打ちに気付いて、もっと誰かを助けられたかもしれない」

「お前……」

「ううん。別に、全部自分のせいだって言うつもりじゃないの。ただ、そう出来た可能性もあったんだろうなって思うだけ」

 

 こいつはまた気負う必要のないことまで1人で抱え込んでいるのではないか、と俺は不安になって口を挟もうとしたが、それを遮るようにしてアスナは否定の言葉を口した。しかしその言葉とは裏腹に、アスナの表情には割り切れない感情が滲み出ているように思えた。

 それはそうだろう。理屈だけで割り切れるような問題ではない。ましてや事件からそれほど時間も経っていないのだ。

 

 いわゆるサバイバーズ・ギルト。生き残ってしまったことに対する罪悪感。

 きっとアスナの心の奥底にあるものはそれだろう。

 

 俺にも似たような思いはある。俺がもう少し早く黒鉄宮にたどり着けていれば、ゴドフリーたちを助けられたかもしれないのだ。しかし、目の前で仲間たちを無残に殺されたアスナの無念は、俺とは比べ物にならないだろう。

 それでもアスナは割り切れない感情を飲み下し、自分のなすべきことをなすために、今立ち上がろうとしている。

 

「あの日から気持ちの整理が出来ないまま、ずっと流されてきちゃったけど……。ここで立ち止まってちゃ駄目だわ。あの日死んでいった人たちのためにも、私が頑張らなくっちゃ。みんなに甘えるのは、この旅行で最後にする」

 

 そう言ったアスナの表情にはもう陰りはなかった。前を向いた瞳にも、力強い意志が灯っているように見える。

 今そこにあるのは、かつてのアスナの姿。美しくも雄々しい才気あふれる少女、血盟騎士団副団長、閃光アスナの姿だった。

 

 やはり俺の助力なんぞ必要なかったのだろう。アスナは1人でも立ち上がった。あとは無難な言葉を返して、彼女の希望通り送り出してやればいい。それですべて解決だ。アスナは前にもましてゲーム攻略に邁進し、多くの人々を救うだろう。

 頭ではそう考えていた。だが、俺の口から零れ出た言葉は彼女の決意に水を差すものだった。

 

「……別に、いいんじゃないの。甘えても、立ち止まっても」

「え?」

 

 アスナがこちらを振り返る気配がしたが、俺は顔を合わせることが出来ずに俯き、手に持ったコップをじっと見つめた。

 俺が口を出すようなことではないというのは分かっている。独りよがりな余計なお世話、無能な働き者そのものだ。銃殺されても文句は言えない。

 だがそれでも……俺は嫌だと思ってしまったのだ。死者のためにと言いながら、身を切るようにゲーム攻略へと邁進してしまうであろうアスナを想像し、嫌だと思ってしまったのだ。

 

「少なくとも俺は……あの時、俺がお前を助けようとしたのは……お前にゲーム攻略をして欲しかったからじゃない」

 

 途切れ途切れに、しかしはっきりと言い切った。夜の静寂の中、その言葉は思いのほか強く響いた気がして、次第に気恥ずかしさが増してくる。だが、今さら吐いた唾を呑むようなことをするつもりはなかった。

 言葉に偽りはない。笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たち相手に槍を振るった時、打算的な考えなどは微塵も頭になかった。ただ彼女を死なせたくなかった。それだけだ。そして、それはきっと俺だけではない。

 

「あいつらはどうだったんだ。お前を助けようとした奴らは、お前が役立たずだったら見捨てちまうような奴らだったのか」

 

 言いながら、意地の悪い質問だと思った。だが、その答えが否であるということを俺は確信していた。ゴドフリーたちとは直接会話をした経験こそ少ないが、傍から見ているだけでもその人となりを推し量ることは出来る。

 沈黙の中、隣でアスナが首を横に振ったのが気配で分かった。不意に、冷たい風が屋台を揺らす。なんとなく、俺はその風が止むのを待ってから再び話し始めた。

 

「……なら、死んだ奴らのために、なんて言い方はやめろ。俺だったら……誰かの生き方を縛るような死に方は、したくない。それが近しい人間だったらなおさら」

 

 死というものが身近に存在するSAOの世界では、間々あることだった。故人の遺志を継いでと言えば聞こえはいいが、それはある種の呪いのようなものだ。生者の人生を縛り、時に破滅へと導いてしまうこともある。俺は長いSAOでの暮らしの中で時にそれを目の当たりにし、ああはなりたくないと思ったものだった。

 

 例えばキリトは、俺が命を落とせばきっと悲しんでくれるだろう。そしてその状況によっては俺の死に責任を感じ、俺が成し遂げられなかったゲームクリアという目標に向かってその身を捧げるように攻略に勤しむようになるかもしれない。だが、仮に俺がどんな死に方をしたとしても、俺自身はそんなことは望んじゃいないのだ。

 生き残ってしまったからには、そいつは自分の人生を生きていくべきだ。そうでなければ、生き残った意味がない。

 

「このゲームを攻略することだけが、お前の価値じゃない。お前は、お前が好きなようにしていいんだ。それは何も悪いことじゃないし、誰もお前を責めない」

 

 言って、目を瞑った。途端、耳の痛くなるような静寂が場を支配する。時折、屋台を揺らす風の音だけが耳に届いた。

 

「……悪い。先帰ってるわ」

 

 やがて沈黙に耐えられなくなった俺は、アスナの反応を伺うこともなく席を立った。手早くシステムウインドウを弄って2人分の会計を済ませ、その場を後にする。しかし屋台を出て数歩歩いたところで、強い力で右手を掴まれた。

 

「待って」

 

 薄暗い路地に、アスナの言葉が響く。屋台の外は相変わらず肌を刺すような厳しい寒さだったが、握られた右手だけは熱いほどの温もりを感じていた。

 俺は躊躇いながらも、振り返ってアスナを見やった。屋台の明かりを背にした彼女の表情は良く見えない。ただ、少し乱れた髪の間から、2つの大きな瞳がこちらを覗いていることだけがわかった。

 呼び止めた彼女自身もまだ頭の整理が出来ていないのか、すぐに言葉を口にすることはなかった。流れていく沈黙の中、しかし掴んだ右手だけは離さない。俺はしばらく呆けるように立ち尽くしていたが、やがて緩やかな風が頬を撫ぜて行き、それを追うようにようやくアスナも言葉を紡ぐ。

 

「……このゲームを攻略したいっていうのは、他の誰でもない、私自身の意志だよ。だから今の話を聞いても、私のすることは変わらないと思う」

「……そうか」

「でもね」

 

 握られた右手に、いっそう力がこもる。暗がりの中、相変わらずアスナの表情は窺い知ることは出来なかったが、その瞬間、何故か俺には彼女が柔らかく微笑んだように思えた。

 

「ありがとう。ハチ君の言葉、嬉しかった。それだけで、私は頑張れるから」

 

 夜の街に、少女の言葉が凛と響いた。同時に俺の右手を包んでいた温もりも離れて行ってしまったが、触れられていた場所は未だに熱を持っているように火照って感じた。その温もりを逃がしてしまうのは何故か惜しく思えて、俺は右手を握ったままコートのポケットに突っ込む。

 

 アスナは、きっともう大丈夫だ。

 夜の闇の中、佇むアスナをぼんやりと見つめながら、漠然とそう思った。根拠はない。ただそう言い切れるだけの確信めいた思いが俺の中にあった。

 張り詰めていた感情が弛緩し、大きく息を吐く。冷気と混じり合って白く染まった俺の吐息は、再び吹いた緩やかな風に流されてすぐに消えて行った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第39話 少女

 旅行2日目。温泉街の周囲を取り囲む広大なセーフティゾーン。

 雲ひとつない晴れやかな蒼穹の下、一面に広がる雪原には赤揃えの鎧武者たちの姿があった。

 俺、キリト、トウジや女子陣など一部のプレイヤーは着用していないが、ギルド《風林火山》のユニフォームである。デザインは完全にクラインの趣味嗜好だが、俺から見てもそれなりに格好いい装備だ。

 けどまあさすがに自分ではちょっと着る気にならない。俺が着ても落ち武者だ何だと揶揄されるのは分かり切っている。目か。目がいけないのか。

 

 そんな完全武装のプレイヤーたちが駆け回り、やんややんやと雪原を騒ぎ立てていた。鎧姿の男たちに交じってフィリアやシリカ、アルゴの姿もある。ちなみにクラインとトウジの2人は野暮用で他所に出かけているのでここには居ない。

 雪原を賑やかす彼ら彼女らは時に雪を高く積んだ陰に身を隠し、時に雪の上を獣のように駆け回り、それぞれ手に持った雪玉をさながら合戦の如く激しく投げ合っている――そう、雪合戦である。

 2つのチームに分かれて雪玉を投げ合いながら、敵陣に置かれたフラッグを奪うか敵を殲滅するかすれば勝利というルールだ。雪玉が体に当たったプレイヤーは死亡扱いで退場となる。

 

「おい! 投擲スキルは反則だぞッ!?」

「あぶなッ!?」

「くそ! ディレイの間に畳みかけろ!! ……今だ! 撃て撃て(ファイアファイア)ッ!!」

 

 いや、お前らガチすぎるでしょ。どこぞの軍隊か何かか。あと投擲スキルなんて使って雪玉当てたら普通にオレンジカーソルになるからな。ここ圏内じゃなくてセーフティゾーンだし……今さらだけどプレイヤー同士の攻撃は通るのにセーフティとは、もうこれ分かんねえな。

 遠く離れた位置で1人雪ウサギ作りに励んでいた俺は、心の中でそんな突っ込みを入れる。お、この雪ウサギ、かなりいい出来だな。今にも「ねえ、知ってる?」とか言い出しそう。いや、それ豆しばだ。

 

 そうして計6体目になる雪ウサギを地面に並べる。1人で時間を潰すことにかけては定評のある、どうも俺です。

 ……いや、別にハブられているわけじゃない。俺とキリトとアスナはステータスが高すぎるという理由で雪合戦に参加していないだけだ。ちなみにキリトとアスナは雪玉が当たったかどうか判断するための審判として雪合戦組に交じっている。あれ、やっぱり俺ハブられてね?

 

「へえー。上手いもんね」

 

 7体目の制作に取り掛かろうとしていた俺の耳に、感心するような声が届いた。見上げると、中腰でこちらを見下ろすフィリアと視線が合う。どうやら雪玉に当たってゲームから脱落し、暇になってこちらに来たらしい。俺の隣に腰を下ろし、雪ウサギの1つを手に取って眺めている。それを横目に、俺は再度7体目の制作に取り掛かった。

 

「まあ、大抵の1人遊びはある程度こなせるからな。お手玉とかあやとりとか得意だぞ」

「なんかのび太くんみたいね」

 

 フィリアがそう言って笑う。のび太くん。うん、まあ確かにちょっと親近感が湧くキャラではある。

 違いがあるとすれば俺にはドラえもんもしずかちゃんもジャイアンもスネ夫もいないということだ。ここまでなら俺の大敗北だが、こっちにはとっておきのラブリーマイシスター小町という存在がいる。よってこちらの逆転大勝利。やだ、小町ちゃんすごい。

 ……あ、いや、そういえばしずかちゃんなら俺の周りにもいたな。けどヘビースモーカーで酒癖の悪いアラサーしずかちゃんは子供の夢を壊しそうなのでちょっと勘弁して下さい。

 

「ハチはみんなと一緒に雪合戦しないの?」

「いや、さすがにステータス差がでかいし」

「そこはほら、適当にハンデ付けてさ。装備全部解除したりすればいいんじゃない?」

「お前このくそ寒い中、俺にインナー1枚になれっていうの? イジメ?」

 

 俺のツッコミに、フィリアはあははと無邪気に笑って応える。いや、笑い事じゃないんですけど。

 そんなやり取りをしながらも、俺は雪ウサギ制作の手は止めない。丸めた雪にウサギの目となる赤い石と耳となる葉っぱを付けるだけの簡単なお仕事だ。ちなみにこの石と葉っぱはストレージから出した素材アイテムである。実はこれ、それなりに高価なアイテムだったりする。

 そうして7体目も作り終えた俺は再び地面にそれを並べた。先ほど手に取った雪ウサギをしばらく愛でていたフィリアも俺に合わせるようにそれを戻す。すると何故か彼女は意味深な笑みを浮かべてこちらに向き直ったのだった。

 

「ねえ、そういえばさ。アスナ、ちょっと元気になったよね。妙にスッキリした顔してるっていうか」

「……そうか? まあ、お前がそう言うならそうなのかもな」

 

 急に話題が変わったことに少し驚きながらも、俺は素っ気なく言葉を返した。しかし何故かフィリアはいたずらっぽい笑みを深くし、首を傾けて俺の顔を覗き込むように見ると、嫌に空々しく言葉を続ける。

 

「昨日何かあったのかなー。私、昨日の夜は結構早く寝ちゃったんだけど、夜中の1時くらいに1度目が覚めてね。そしたらアスナが部屋に居なかったんだよねー。ハチはどこ行ってたか知ってる?」

「さあ……」

「ふーん。あとさ、これはキリトから聞いたんだけど……ハチも同じくらいの時間に部屋には居なかったらしいじゃん。どこにいたの?」

 

 ……君のような勘のいいガキは嫌いだよ。

 そう口走りそうになるのを何とか堪えつつ、俺は隣でにやけ顔を浮かべるフィリアに目をやった。こいつ、昨日の夜、何かがあっただろうことを完全に確信して問い詰めてやがる。

 

 昨夜のアスナとのやり取りを思い出しながら、遠くを見やる。別にやましいことは何もないのだが、深夜に年頃の男女が2人きりで街に出かけたなどと知られれば要らぬ誤解を受けるかもしれない。何と返すのが正解だろうか……。

 そうして答えに窮する俺を見て、何が可笑しいのか、やがてフィリアは吹き出すように笑い声を上げた。

 

「あはは! ごめんごめん! 別に根掘り葉掘り聞こうってわけじゃないから安心して。けど……ありがとね」

 

 最後、少し真面目な表情を浮かべたフィリアは呟くように礼を言った。それはきっと、アスナが元気を取り戻したことに関してなのだろう。

 これ以上とぼけても無駄だということを悟り、俺は観念して大きくため息を吐いた。まあ実際、フィリアに詳しく知られたところで問題ないだろう。そういうことを吹聴して回るような人間ではない。

 

「……別に、俺が何かしなくてもアスナはもう大丈夫そうだったぞ。ていうかそもそもお前が礼を言うようなことでもないし」

「ううん。昨日私、ハチに責任感じさせるような言い方しちゃったし……。ハチって案外頼まれたら断れないタイプじゃない? 余計なこと言っちゃったかなと思ってちょっと反省してたの」

「それこそ余計な気を遣うなっつの。別に俺はお前に頼まれたからってわけじゃなくて……その、なんだ、成り行きだ成り行き」

「……うん。そうだね。きっと私が何も言わなくたって、ハチは同じことしたんだろうね」

 

 こちらをを見透かすような笑顔で頷くフィリア。俺は妙に居心地が悪くなって、頭を掻きながらフィリアから視線を逸らした。

 いつかも誰かと、似たようなやりとりをしたような気がする。あれは夏の日の夜だったか。

 

 ――事故がなくたってヒッキーはあたしを助けてくれたよ。

 

 花火大会の帰り道。由比ヶ浜の言葉だ。

 あの時、俺は彼女の言葉を咄嗟に否定した。人生にもしもはなく、それは意味のない仮定だと切り捨てようとした。

 だが何故だろう。今のフィリアの言葉を、俺は否定するつもりにはなれなかった。

 俺は、変わったのだろうか。今の俺は、過去とは違った答えを出せるのだろうか。

 

 そんな取り留めのないことを考え、微妙な沈黙が場に広がる。しかしそれを打ち破るように、不意に遠くから歓声が響いた。釣られてそちらを見やると、ドヤ顔のアルゴがフラッグを掲げている姿が目に入る。そうして我に返った俺の隣、フィリアも気を取り直したようにその場から立ち上がった。

 

「終わったみたいだね。行こ」

「……いや、俺行っても意味ないし、先に宿帰ってるわ。あいつらにそう言っといてくれ」

「けど、何かハチのこと呼んでるみたいだよ?」

「は?」

 

 過去の記憶に思いを馳せ、若干メランコリックになっていた俺はもうこの場を後にしようとしたが、それはフィリアによって引き止められた。彼女が指差す先を見ると、何故かこちらに向かって大きく手招きするキリトと目が合う。俺はしばらく訝しんで立ち止まっていたが、やがてフィリアに手を引かれてそちらに向かった。

 

 フラッグを奪ったMVPであるアルゴを囲みながら、いまだ盛り上がる風林火山のプレイヤーたち。そこに近づいて行くと、やがてその輪の中からキリトがこちらに駆け寄ってきた。そして俺が何か言う前に、手に握り込んでいたものをこっちに投げて寄越す。俺は反射的にそれを受け取り、手に取ってマジマジと眺めた。

 

「何だよこれ。指輪か?」

 

 キリトから渡されたのは、ゴテゴテの装飾が施された金の指輪だった。しかし今これを俺に渡す意図が読めず、首を傾げる。さすがに愛の告白じゃないはずだ。……え、違うよね?

 若干背筋とケツに冷たいものを感じながら、キリトに目を向けた。そんな俺の内心など何処吹く風で、キリトの態度は飄々としたものである。

 

「いや、さっきまで完全に忘れてたんだけどさ、もしかしたらこの指輪使えるかもしれないと思って。昨日の射的屋で手に入れたアクセなんだけど、ちょっと面白い効果があるんだ」

 

 言いながら、キリトはストレージから同じ指輪をもう1つ出した。昨日は1人で射的屋に噛り付いていたキリトだったが、その甲斐あって狙いの景品は手に入れていたようだ。それも見たところ複数個所持しているらしい。昨日の夜にそれとなく成果を聞いた時には適当にはぐらかされたので、勝手に駄目だったものと思い込んでいた。

 

「へえ、どんな効果?」

 

 隣で見ていたフィリアが興味ありげにそう聞くと、キリトがニヤリと笑って指輪を右手の人差し指に嵌める。

 

「この指輪を嵌めるとな……武器が光るんだ!」

 

 言って、いつの間にかストレージから取り出していた片手剣を正眼に構える。黒い刀身のキリトの愛剣エリュシデータは、まるでソードスキルを放った瞬間のように眩い光を放っていた。そのまま、俺たちの間に数秒の沈黙が流れる。

 

「……」

「……じゃ、先帰ってるわ」

「いやちょっと待てよ!」

 

 閉口するフィリアに声を掛けて踵を返そうとした俺を、すがるようにキリトが引き止める。いや、そんなネタ装備を自信満々に見せられても……。

 

「そんなに馬鹿にしたもんでもないんだって! ソードスキル発動のタイミングが分からなくなるから、対人戦の駆け引きとかで使えるだろ?」

「それはまあ……一理ある、のか?」

 

 なにやら必死にもっともらしいことを言うキリトに向かって、俺は曖昧に頷いて返した。装備できるアクセサリーの数にも限りがあるので、その枠を1つ潰してまでやる必要があるのかは疑問だが、確かに言っていることの筋は通っている気がする。

 

「まあデメリットもあって、全ステータスが30%ダウンするんだけどな」

「完全に実用性皆無のゴミ屑じゃねえか」

 

 追加で提示された情報に、俺はすかさずツッコミを入れる。ネタ装備にしてもデメリットがエグすぎるだろアホか。けどこういう「使いどころあるの?」とツッコミたくなるネタ装備ほどキリトさんのお気に入りだったりするのだ。何故かガチゲーマーって妙なもの集めたりするの好きだよな……。

 そうして呆れかえる俺の隣、フィリアもしばらく苦笑いを浮かべていたが、やがて何かに気付いたように声を上げたかと思うと、次いで納得した表情を浮かべて頷いた。

 

「けど確かにそれ使えばみんなで雪合戦できるかもね。ハチとキリトとアスナにはいいハンデでしょ? あ、でも30%ダウンはちょっとやり過ぎかな」

「そこは技量でカバーするよ。攻略組に必要なのはステータスだけじゃないってところを見せてやるさ。な、ハチ?」

「いや、俺はやるとは一言も言ってないんだけど……」

 

 内心では「あ、これ何だかんだ強制参加させられるやつだ」と思いながらも、一応乗り気ではないというポーズを取っておく。いや、ここで食いついてがっついてるみたいに思われるのも嫌だし? 別に雪合戦したいとか全然これっぽっちも思ってないし? こういうのは2回までは断るのが礼儀みたいな? ……うん。我ながらつくづく面倒臭い性格してるな、俺。

 

「……ん? なあ、あれクラインたちじゃないか?」

「あ、ホントだ」

 

 俺が無駄な思考に頭を働かせていると、キリトとフィリアが遠方を見ながら声を上げる。彼らの視線の先を追うと、雪原の中を歩いてこちらに向かってくる2つの人影があった。よく目を凝らすと、確かにクラインとトウジの2人のようだ。

 2人はこの温泉街周辺を取り囲む広大なセーフティゾーンの正確なマップを作るために、朝から俺たちとは別行動を取っていた。ひとまずクラインとトウジで外縁を把握し、その後に全員で手分けして内側をマッピングしていくという打ち合わせになっていたはずである。

 ざっと見積もってもこのエリアの円周は5kmほど。進入禁止エリアなどを探りながら進まなければならないことを考えれば、2人のマッピング作業にはそれなりに時間が掛かるだろうと予想していたが、思っていたよりも大分早い帰還となったようだった。

 

「聞いてた予定より早いな。何かあったのか……ん?」

 

 そう呟いていたキリトが、2人を見つめたまま訝し気に眉を顰める。日差しを遮るように右手を額に当てて、小さく唸り声を上げながらさらに目を凝らした。

 

「クライン、何か背負ってるな。あれは……女の子か?」

 

 言われて、俺も再びクラインの姿をよく確認する。正面からなのでよくは分からないが、確かに誰かを背負っているように見える。黒く艶のある長い髪と華奢な手足から判断するに、それはかなり幼い女の子のようだった。

 背負われている少女には意識が無いようで、クラインが歩くたびにその手足が力なく揺れる。その体は暖を取るために毛布でくるまれていたが、そこから覗く手足は素肌のままで、この雪原地帯ではかなり寒々しい印象を受けた。

 そうして状況を分析しているうちに、クラインたちがこちらに到着する。その間黙って何か考えている様子だったキリトが、やがて戦慄したように口を開いた。

 

「お、おい、クライン……。お前まさか、その子誘拐して――」

「んなわけねぇだろッ! フィールドで行き倒れてんのを見つけて担いで来たんだよ!!」

 

 がなり立てるクラインを無視して、トウジの方へと視線をやる。すると彼はクラインに同意するように頷いたので、俺たちもようやく胸を撫で下したのだった。それを見ていたクラインは悲し気に「俺ってそんなに信用ねえのか……?」と呟いていた。

 ……いや、俺は信じてたぞクライン。まさかあまりの彼女欲しさにその辺の幼女を捕まえて光源氏計画でも始めたんじゃねえのかこの変態、とか全然思ってないし。

 まあ冗談はさておき、俺は改めてクラインが担いでいた件の紫の上(おんなのこ)に目を向けた。

 

 大人になったら美人になるんだろうな、と確信できる整った顔立ち。歳の頃は小学校低学年くらいだろうか。このフロアはアインクラッドの中でもかなり寒いエリアになるのだが、掛けられた毛布以外は白いワンピースしか身に着けておらず、防寒具はおろか靴さえ履いていない。クラインの言う通りこの少女がこの辺りのフィールドで行き倒れていたのだとしたら、かなり妙な話である。

 同じように少女をまじまじと観察していたキリトもこの異常な事態に違和感を覚えたようで、困惑した表情を浮かべている。

 

「けど、何でこんな小さい子が1人で……。しかもこんな上層に……ん?」

「気付きましたか?」

 

 呟きながら、何かに目を留めたキリトがいっそう困惑した表情を浮かべる。トウジが訳知り顔で言葉を返すが、俺には何の話をしているのかすぐには理解できなかった。しかし疑問に思った俺が「何が」と口にするよりも早く、少女の頭上を見つめていたキリトが小さく呟く。

 

「カーソルが、ない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とりあえずこの子を暖かいところで休ませてあげましょう、というアスナの常識的な言葉によって我に返った俺たちは、すぐにその場を後にして拠点にしている宿に戻ってきていた。

 もしかしたら何らかのバッドステータスに侵されているのかもしれないと、念のため少女に治癒結晶(キュアクリスタル)を使用してみたりもしたが特に変化は現れなかった。現状これ以上は打つ手がなく、意識のない少女のことはひとまず女性陣に任せ、男たちは自分たちの部屋に集まってクラインとトウジに詳しい話を聞いてみることになった。まずは簡単な状況の整理だ。

 

 当初の予定通りセーフティゾーンの外縁をマッピングするためにフィールドを歩き回っていたクラインとトウジだったが、その途中、深く積もった雪の中に1人倒れる少女を見つけたらしい。

 初めは何かのクエストの開始点かと思ったそうだが、少女に接触してもそれらしい反応はない。訝しんだ2人が少女を詳しく調べていると、やがてそれに気付いたのだ。少女の頭上、そこにあるはずのカラーカーソルが影も形もないということに。

 

 通常、アインクラッドに存在するキャラクターにはNPC、プレイヤー、モンスターオブジェクトを問わず、その頭上にはカーソルが存在する。特性によってカラーリングが変わったりはするが、カーソルが存在しないという事態は今まで確認されたことはなかった。

 

 かなりイレギュラーな事態だが、ともあれこの雪原フィールドに意識のない少女を放置しておくことは出来ない。そう判断したクラインとトウジは予定していたマッピング作業を一旦切り上げ、少女を保護して帰ってきたというわけだった。

 

 

「何かゲームに不具合が起こってるのは間違いない。問題はこの子がNPCなのかプレイヤーなのかってことだけど……」

「少なくともただのNPCにゃ見えねえな」

 

 キリトの呟きに言葉を返したクラインが、ちらりと部屋のソファを見やる。そこには先ほど目を覚ましたばかりの少女が、アスナとフィリアに挟まれて座っていた。

 少女は2つの小さな手のひらで大きめのマグカップを大事そうに持ち上げ、ゆっくりとココアを飲んでいた。そしてクラインの視線に気付くと、そのまま不思議そうに首を傾げる。なにこの子可愛い。

 

 少女の名前はユイと言うらしい。

 幸い宿に着いてから5分ほどで意識を取り戻したようだ。そしてこちらの部屋に来る前にアスナたちは本人に軽く事情を聞いてみたそうだが、今のところあまり有益な情報は得られていない。

 どうやら記憶が大きく欠落しているらしく、少女は自分の名前を名乗るのが精いっぱいだった。さらにその振る舞いは見かけの年齢よりも一段と幼く見え、幼児退行のようなものも引き起こしているのではないかと思われた。

 何か相当怖い目にあったのかもしれない。そう言って少女を見つめるアスナの瞳には慈愛が満ち、何かと甲斐甲斐しく世話を焼いていた。少女の方もこの短い時間でかなりアスナに懐いているようで、少女のことは彼女に任せておくのが一番良さそうだと感じた。

 

「NPCって言っても色んな奴が居るから一概には言えないけど……この場合はプレイヤーだと考えた方が自然かな。NPCだとしたら最初にクラインが接触した時点で警告が出るはずだ」

 

 女性NPCなんかの身体に男プレイヤーが触れると、割と簡単にハラスメント警告を受けることになる。キリトが言っているのはそのことだろう。プレイヤー同士でも同様の警告は出るのだが、NPCと比べると大分その基準は緩い。

 

「NPCでもプレイヤーでも関係ないわ。こんな小さな子を1人で放っておけないもの」

「だな。もしかしたらどっかにリアルの知り合いとか、親御さんが居るかもしれねぇし、とりあえずうちで保護してその辺探してみるか」

 

 強い意志を感じさせるアスナの言葉に、クラインも同意して頷いた。

 クラインの言う通り、この少女がプレイヤーだとするのなら保護者的な立場の人間が一緒にログインしている可能性もある。……生きていれば、の話だが。

 まあ悪いことばかり考えても仕方がない。クラインの提案自体に異議はないので、とりあえずことの成り行きを見守って全体の方針に従うとしよう。

 

「サーシャさんにも連絡を取ってみましょう。もしかしたらあそこで保護されている子供たちと関係があるかもしれません」

「それならもう直接行った方が良くないか? この辺大体セーフティゾーンだって言ってもこんな上層に子供を置いとくのちょっと怖いぞ」

「そうですね。じゃあもうここは早々に切り上げて――」

 

 トウジとクラインが中心になって、話を詰めていく。この分ならさっさと決まりそうだな。そう思いながら俺は立ったまま壁にもたれ掛かり、何とはなしに窓の外へと視線を移した。

 いい天気だなー……などとぼけーっと考えていると、不意に何者かに服の裾を引かれる。そしてそちらに目を向けると、いつの間にか近くまで来ていた白いワンピースの少女、ユイの大きな瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていたのだった。

 

「ん、どした?」

 

 体に染みついたお兄ちゃんスキルがオートカウンターの如く発動し、自然な動作でしゃがみ込んで少女と視線を合わせる。ユイは俺をじっと見つめたまましばらく動かなかったが、ややあって躊躇いがちに口を開いた。

 

「……な、まえ」

「ん? ああ、そう言えばまだ自己紹介してなかったな。俺の名前はハチだ」

「あ……ち?」

「ハチな。まあ好きに呼んでいいぞ」

「あ、ち……あち。……ぱぱ?」

「パパはやめろ」

 

 妙なことを口走るユイに、つい語気を荒げて突っ込んでしまった。いや、でもここはしっかりと否定しておかなければならないだろう。こんな子にパパなんて呼ばれてしまった日には、きっと新しい扉を開いてしまう。お巡りさん、俺です。

 俺の突っ込みに驚いたユイはびくっと体を震わせて後ずさりし、後ろに立っていたアスナへとしがみついた。アスナは宥めるようにユイの小さな肩を抱きながら、俺を睨み付ける。

 

「ちょっと、ユイちゃんを怖がらせないでよ」

「あ、いや、スマン。けど、パパはまずいだろ」

「……なんでよ。いいじゃない、呼び方くらい」

「いやお前よく考えろよ。自分にこんな可愛い娘がいたとして、その子がどこの馬の骨とも知れない小僧のことをいつの間にかパパとか呼んでたら、俺だったら発狂するぞ。相手の男を殺して俺も死ぬまである」

「さすがにその親バカっぷりにはちょっと引くけど……」

 

 一瞬、冷たい目をこちらに向けるアスナだったが、俺の言葉に対してそれなりに思うところもあったようで、しばし考えるように黙り込んだ。そうして何かを思い悩む様子で視線を伏せていたが、やがて決心するようひとつ頷いて顔を上げる。

 

「でも確かに、一理あるかもしれないわね。私も――」

「ママ?」

「ん、なーに? ユイちゃん?」

「おい」

 

 ユイのママという言葉に反応し、緩み切った笑みを浮かべるアスナ。俺がツッコミを入れると我に返ったようで、「はッ。つい……」などとベタなことを呟いていた。うん。今の流れで大体のことは理解できた。

 大方さっきの俺の自己紹介と同じようなやり取りをして、アスナはママ呼びを受け入れてしまったのだろう。というか、さっきの満更でもないアスナの反応を見る限り、もはや彼女は新しい扉を開けてしまっているようだ。お巡りさん、こいつです。

 

 ただまあ、それはきっとアスナの優しさでもある。何処かでユイのことを心配しているかもしれない両親のことよりも、彼女は今ここにいるユイの心を慮っているのだ。それは決して間違っていることではない。

 だから、今はアスナのその意志を尊重しよう。そう思いながら、俺は改めて口を開く。

 

「……ま、非常事態だしな。お前が良いなら良いんじゃないの。相手の親も許してくれるだろ」

「そ、そう? うん、そうよね」

 

 躊躇いがちに頷くアスナ。それを認め、俺は次いで彼女が大事そうに手を添えているユイへと視線を移した。

 

「さっきはごめんな。仲直りしよう」

 

 言って、右手を差し出す。ユイはまだ不安気な表情でこちらを伺っていた。

 

「俺はパパにはなれないけど……まあ、とりあえずお友達ってことで。それじゃ駄目か?」

 

 アスナの意志を尊重するとは言ったが、それと俺がパパ呼びを許容するかはまた別の話だ。というかアスナがママと呼ばれているなら、なおさらパパなんて呼ばせられるはずがない。親代わりとなってユイの心のケアをするのはアスナに任せて、俺は別のアプローチで攻めるとしよう。

 

「……おとおなち?」

「ああ。お友達だ。一緒に遊んだり、何処かに出かけたり、自分の都合のために講義の代返を押し付けたりするあのお友達だ」

「なんか最後だけおかしくなかった?」

 

 アスナから突っ込みが入ったが、別におかしくはない。なんなら普段は全然話さないのにテスト前だけノートをコピーさせてくれと頼みに来るあいつらだって世間一般的にはオトモダチのはずだ。ぼっちというのは大体が割と真面目に授業を受けていてノートもきっちりと取っているので、テスト前にはよく使われ……いや、頼りにされるのである。

 

 ユイは差し出された手を見てしばらく固まっていたが、やがて俺と目を合わせて小さく頷いた。同時にひんやりとした小さな手が、俺の指先を躊躇いがちに包む。その手を優しく握り返すと、ようやく彼女は笑みを浮かべてくれた。

 ほっと胸を撫で下ろし、俺も自然と頬が緩む。しかしすぐに妙な視線を感じて顔を上げると、何とも言えない表情を浮かべたアスナと目が合った。

 

「……ハチ君って、小さい子に対しては妙に素直で優しいわよね」

「いや、子供相手に意地はって厳しくする奴の方が珍しいだろ」

「そういうことじゃなくて……まあ、いいわ。よかったねユイちゃん。お友達が出来て」

 

 アスナは諦めたような表情でかぶりを振ってから、再びユイへと笑顔を向けて語り始めた。戯れる2人の姿を見ていると母娘というよりは姉妹のようだ。まあアスナの年齢を考えれば当然だろう。

 ふと、俺は周囲が妙に静かになっていることに気付いた。いつの間にかクラインとトウジの話は終わっていたようで、今は全員の注目がこちらに集まっている。

 さっきのやり取りを一部始終見られていたのだとしたら、ちょっと恥ずかしいんですけど……。そんなことを考える俺の耳に、部屋の隅から必死に笑いを堪えるような声が届く。

 

「ぷっ……お友達……。いつもぼっちがどうとか言ってるあのハチが、お友達だって……!」

「ちょっとフィリアさん、笑っちゃ悪いですって……」

「おいそこ、聞こえてんぞ」

 

 こそこそとやり取りをするフィリアとシリカ。俺は気恥ずかしさを隠すように、ガシガシと頭を掻きながら声を上げたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第40話 始まりの街の異変

 始まりの街。転移門広場。

 白い石畳が敷かれた広場の中央には巨大な時計塔がそびえ、その下部には転移ゲートが青く揺らめいていた。中心のそれを囲むように幾重にも細長い花壇や白いベンチが設置されており、暑さもだいぶ和らいできた今日び、ここを憩いの場として利用するプレイヤーたちの姿があってもよさそうなものだが、意外なことにそんな人影は欠片もない。

 それもむべなるかな。この場所にはデスゲームの開始地点というあまり良くない思い出が詰まっているために休憩スポットとしては人気がないのだ。パラパラと行き交うプレイヤーたちも、そそくさと何かに追われるようにして転移門に出入りするだけである。

 

 転移結晶を使用してその場に降り立った俺は、首を巡らせてそんな光景に目をやり、息を吐く。一時期はこの街に風林火山のギルドホームが存在したためにここも良く利用したものだが、最近はめっきり来ることも少なくなった。まあ、ついこの間のイベントクエストでここに来ているので、それほど久しぶりと言うわけでもないのだが。

 

「ここに来るのも《不吉な日》以来ね……」

 

 隣に立つアスナがぼそりと呟く。自責、悲哀、憤り、決意――ちらりと覗いた彼女の横顔には、そんな形容しがたい感情がごちゃ混ぜになって滲んでいる気がした。

 やはり多少立ち直ったとは言ってもまだ連れてくるべきではなかったのでは、と考えてしまうが、しかしここに来たのは他ならぬ彼女自身の意志である。

 

「ママ、かなしいのいっぱい? げんきだして?」

「……うん。大丈夫よ。ありがとうユイちゃん」

 

 そんな心の揺らぎを間近で感じ取ったのか、傍らに立つユイがアスナの手を取る。少し驚いた表情から一転、優しい微笑みを浮かべるアスナを見て、俺も小さくほっと息を吐いた。

 しかしあれだな、ユイとの触れ合いはアニマルセラピー的な効果がありそう。癒し効果のある超音波か何かを体から発しているに違いない。

 

「それで、どうですかユイちゃん。この辺りの景色に見覚えは?」

 

 若干失礼なことを考えていた俺の隣で、トウジがユイに声を掛けた。ユイは軽く辺りを見渡し、うー、と唸りながら難しい顔を浮かべる。

 

「わかんない……」

「そうですか……。まあ、始まりの街も広いですからね。歩いているうちに何か思い出すかもしれません」

 

 子供相手にも敬語で接するトウジさんマジ紳士だな、などと取り留めのないことを考えながら俺はそのやり取りを見つめていた。ただ最近のネット界隈で紳士と言うと大抵は変態のことを指すので誉め言葉かどうかは微妙なところである。

 

 第65層の宿屋で話し合った後にもユイに負担を掛けない範囲で色々と聞いてみたが、やはり記憶のほとんどは失われたままだった。少なくとも高レベルプレイヤーには見えないので始まりの街など物価の安い低層で暮らしていたのではないかと予想はつくが、やはり本人に思い出して貰わないことには問題は解決しない。いずれは攻略に戻らなければならない俺やアスナがどこまで付き合えるかは分からないが、地道にやっていくしかなさそうだ。

 

「じゃあ、まずは予定通りサーシャさんのところに行きましょうか」

「えっと、東七区の川べりにある教会だって言ってたっけ?」

「はい。僕は何度か行ったことがあるので案内しますよ。こっちです」

 

 言って、トウジがゆっくりと歩き出す。その先導に従って俺はその場を後にしようとしたが、不意にユイに裾を引かれて足を止めた。

 

「ハーちゃん、だっこ」

 

 無邪気な笑顔でこちらを見上げながら、そう言って大きく両手を広げるユイ。え、なに、この可愛い生き物。

 ……いや、しかしここで甘やかすのは教育上良くないかもしれない。だからここは厳しく「はぁーやれやれ今回だけだぜ」的な雰囲気を出しながら頷くことにしよう。結局甘やかしてんじゃねぇか。

 ちなみに俺の呼び方についてはなんやかんやあってハーちゃんに落ち着いた。最初は上手く言えずにあーちゃんと呼んでいたが、次第に意識がはっきりとして滑舌も良くなってきている。

 

「ハチ君って娘が出来たら絶対親バカになるわよね。あ、もう既に兄バカなんだっけ?」

「うっせえほっとけ。ていうかお前こそ親バカだろ」

「そうだけど、悪い?」

 

 俺はユイを片手で抱き上げながら、アスナとそんな会話を交わす。アスナの顔には全く悪びれる様子はない。こいつ、完全に開き直ってやがる。

 

「ママ、おやばかってなに?」

「私もハーちゃんもユイちゃんのことがだーい好きってことよ」

「ユイもっ。ユイもママとハーちゃんのこと、すきっ」

 

 満面の笑みを浮かべるユイ。やばい。本当に俺も新しい扉を開いて紳士になってしまいそうだ。しかし数秒の葛藤の末、俺はなんとか小町一筋の信念を貫ききることに成功する。結局どっちに転んでも世間的には紳士扱いされてしまいそうだがそんなことは気にしない。

 

 アスナとユイのそんな微笑ましいやり取りの後、ようやく俺たちも移動を始める。しかし先を歩いていたトウジはこちらを振り返り、何故か妙に居心地の悪い顔をしていた。

 

「なんだか僕、凄い異物感があるんですけど……もう帰っていいですかね」

「いや、馬鹿なこと言ってないでさっさと歩けよ」

「ハチさん最近僕の扱い酷くないですか……?」

 

 トウジはいっそう苦い表情を濃くしてため息を吐いたが、それ以上は口答えすることもなく黙って歩き始めた。その寂し気な背中に、腕の中のユイがそっと手を伸ばす。

 

「ユイ、トージのこともすきだよ?」

「ユ、ユイちゃん……!」

 

 泣きそうな顔で破顔するトウジの頭を、ユイの小さな手がよしよしと撫でる。いやこの子、この歳でバブみ高すぎでしょ。いつも風林火山の仕事に忙殺されてるトウジさんがそろそろオギャり始めそうなんで止めてあげてください。

 

 

 

 転移門広場での馬鹿なやり取りを終えた俺たちは、その後すぐに目的地に向かって街の中を歩き始めた。

 先ほどの話にも出たが、向かう先は始まりの街、東七区の川べりの教会である。そこではサーシャという女プレイヤーがまだ幼いプレイヤーたちを集め、保護しているという話だった。

 元々はSAO開始直後、このデスゲームに囚われた幼い子供たちのことを憂いた彼女が1人で始めた活動だったそうだが、やはり1人で大勢の子供たちを養っていくのは中々難しいものがあった。そこでたまたま彼女の活動を知った風林火山が支援を申し出て、今では主に資金面で彼女の活動に協力しているのだった。

 そんな経緯で一応サーシャさん自身も風林火山のギルドメンバーとして登録されているのだが、俺自身との関わりは全くないと言っていい。彼女の活動に関わっているのは風林火山の中でも一部のメンバーだけだ。トウジは風林火山における活動すべてを取りまとめている存在なので、当然その一部に含まれている。

 そんなトウジに案内されて今俺たちがサーシャさんの活動する教会へと向かっているのは、言わずもがな、ユイのことについて話を聞くためである。

 

 既にトウジがメッセージでサーシャさんには確認を取っており、ユイが彼女の保護下からはぐれたわけではないということは分かっている。だがそれでも今までこのアインクラッドで子供の保護に全力を尽くしてきた彼女の話は何かの手掛かりになるかもしれない。事情があって直接保護は出来ないまでも、ゲーム内で活動している幼いプレイヤーたちの多くは彼女と何らかの関わりを持っているという話だった。

 

 そんなわけで俺、アスナ、トウジの3人は、第65層の宿屋でユイの体調を見つつもう一泊した翌日、彼女を連れてこの始まりの街を訪れる運びとなったのだった。他のメンバーはユイが倒れていた付近で直接その知り合いを探したり、その他様々な伝手を使ってユイの情報を集めようとしているところである。

 

 宿屋での一件から、ユイについて追加で判明したことがいくつかある。まずは彼女の身を取り巻くシステムのバグがかなり深刻だということ。

 何とか彼女のシステムウインドウを開くことには成功し、俺たちでその画面を確認することは出来たのだが――他人のシステムウインドウを勝手に見るのは重大なマナー違反だが、場合が場合ということでやむを得ず敢行した――そこには一般的なプレイヤーのメニュー表示は存在せず、ステータスも何もかも確認できないという状態だった。これはシステム的に自分を強化していかなければならないこのゲームにおいて、致命的なバグである。

 

 加えて、システム内においてユイはプレイヤーと認識されていないらしく、俺たちからの取引申請やパーティ申請は一切受け付けることが出来なかった。幸いだったのは転移結晶などのアイテム類は問題なく使えたことだろう。そうでなければ転移門がなく、周囲にはインスタンスマップの通路しかないあの温泉街から彼女を連れだすことも出来なかったはずだ。

 

 これは余談だが、始まりの街へと出かけるにあたり、ユイもいつまでも白のワンピース1枚だけの姿では色々と問題があるだろうということで、上着や靴なども新しいものを着用している。しかし装備品の即時着脱はメニューウィンドウを弄らなければ出来ないので『装備をオブジェクト化して実際に着こんでおくと時間の経過によってやがて所持者の情報が書き換えられ、さらに着用しているプレイヤーの装備品として認識されるようになる』という仕様を利用して着替えさせたのだった。

 

「……妙、ですね」

 

 しばらく無言で歩いていたトウジが、ぼそりと呟いた。

 大通りから幾分離れた路地でのことである。そろそろ目的の教会に着くはずだが、まだそれらしき建物は目に入らない。

 トウジは先ほどから街の様子に何か不審な物を感じていたようだった。しかし、俺にはその違和感の正体が何なのか皆目見当もつかず、問い返す。

 

「何がだ?」

「プレイヤーが全然見当たりません。普段はもっと多いはずなんですけど」

「《不吉な日》のイベントの影響じゃないのか。戦えない奴らは全員他の層に避難させたんだろ?」

「イベント後、アンチクリミナルコードが復活してからすぐにほとんどのプレイヤーは帰って来ているはずです。なのでこんなに閑散としているはずはないんですけど……」

 

 トウジにそう言われてしまえば、俺には曖昧に頷き返すことしか出来ない。

 転移門広場からここまで既に10分ほど歩いているが、確かに全くと言っていいほど他のプレイヤーとすれ違わなかった。今思えば、ゲーム内での交通の要である転移門広場でさえも人通りがまばらだったような気がする。

 俺たちの知らないところで、この街に何かが起こっているのだろうか。そんな懸念が頭を過ったが、腕の中で首を傾げるユイと目が合い、我に返った。

 

「ま、それについては後でいいだろ。今はこいつのことだ」

「そうですね。すみません、余計なこと言って」

「いや、別に……ん?」

 

 ふと、遠くから男たちの怒声のようなものが響いた。内容までは聞き取れないが、誰かを脅かすように怒鳴り散らすその気配は間違いなくプレイヤーのものだ。突然のことに、俺たちは目を見合わせる。

 

「何だ? 喧嘩か?」

「……この声、教会のある方から聞こえますね」

「何かトラブルがあったのかも。行ってみましょう」

 

 言うが早いか、アスナが駆け足で声のする方へと向かって行った。やや遅れて、俺とトウジもその背中を追う。

 なんか前にもこんなことあったような気がするな……。のんきにそんなことを考えながら走っていると、今度は前方から先ほどとは違う、女性のものらしき声がはっきりと届いた。

 

「子供たちを返してください!!」

 

 途端、隣を走っていたトウジが苦い表情を浮かべる。走る速度を上げながら「多分、サーシャさんの声です」と俺に向かって小さく呟いた。

 2つ目の角を曲がって細い路地に入るとすぐに大勢のプレイヤーたちの姿が目に入り、足を止めた。青ざめた表情で佇む黒縁メガネの女性と、それを通せんぼするかのように道を塞ぐ十数名の男たち。

 あの女性が噂のサーシャさんだろうかと思ってトウジへと視線を向けると、彼は肯定するように頷いた。男たちの方は鼠色の重装備という特徴的な姿から《軍》のプレイヤーであるということはすぐにわかった。

 

「人聞きの悪いこと言うなって。すぐに返してやるよ。ちょっと社会常識ってもんを教えてやったらな」

「そうそう。市民には納税の義務があるからな」

 

 ニヤニヤとした表情で語る《軍》のプレイヤーたち。『納税』などというSAOの中では聞き慣れないワードに困惑しながら、俺はひとまず状況を把握するためにそのやり取りに耳を傾ける。

 《軍》の連中は突然現れた俺たちに一瞬ちらりと目をやったが、とりあえずこちらに絡んでくるつもりはないようで、すぐにサーシャさんへと視線を戻した。サーシャさんの方は後ろに立つ俺たちの存在にはまだ気付いておらず、《軍》のプレイヤーたちを忌々し気に睨み付けると次いで彼らの向こう側に向かって大声で呼びかける。

 

「ギン! ケイン! ミナ! そこにいるの!?」

「先生……先生、助けて!」

「お金なんていいから、全部渡してしまいなさい!」

 

 サーシャさんの声に反応して、怯えたように助けを求める子供の声が上がった。そのやり取りを聞いて、俺は何となく状況を理解する。

 男たちは人数にものを言わせて通路を塞ぎ――《ブロック》と呼ばれる手法。圏内ではプレイヤー同士攻撃も出来なければ相手を移動させたりすることも出来ないので、集団で通路を埋め尽くせば他のプレイヤーの通行を妨害することが出来る――隔離した子供たちを脅して金銭を巻き上げようとしているのだろう。

 ならば金を渡してしまえばいいのかと思えば、ことはそう単純ではないらしい。

 

「先生……それだけじゃ駄目なんだ……」

「あんたら、俺たちの再三の催促もシカトしてくれたからな。今さら金だけじゃあ足りないんだよ」

「ああ、こりゃあ装備品も置いて行ってもらわないとなぁ。防具も全部……何から何までな」

「デュフフ、コポォ」

 

 そう言って下卑た笑みを浮かべる男たち。あろうことかこいつらは年端も行かぬ少年少女たちに着衣までも解除しろと迫っているようだ。

 しかし始まりの街に住む子供たちの装備など、売っても二束三文にしかならないのは分かり切っている。故にこれは単なる嫌がらせか、男たちの特殊な性癖による行動だろう。というか1人だけ2ちゃんのコピペのような笑い方をしていた奴が混じっていたので、恐らく後者だ。

 これが現実世界ならリアルにお巡りさんこいつですといきたいところなのだが、生憎とゲーム内にお巡りさんはいない。というか暫定的にその役割を担っていたはずの《軍》のプレイヤーたちがこの始末だ。だが、幸いここにはお巡りさんよりも恐ろしい……いや、頼りになるプレイヤーが存在した。

 

 俺とトウジのやや前方、今までのやり取りを黙って見つめていたアスナの様子を恐る恐る伺う。ここからでは表情を確認することは出来ないが、俺は静かに佇む彼女のその背中から殺意にも似た怒気が発せられているのを感じていた。あ、これ、やばいやつだ。

 潔癖症のアスナのことである。あんなゲスい奴らと対面したらどうなるか、結果は火を見るよりも明らかだった。

 そうして戦慄する俺をよそに、アスナは静かにストレージから愛剣を取り出す。うん。明らかに()る気スイッチ入ってる。

 

「ハチ君、ユイちゃんのことよろしくね」

「あ、ああ。えっと、アスナ……」

「1人で大丈夫よ」

「あ、はい」

 

 いや、お前のことは微塵も心配してない。むしろ「ほどほどにしといてやれよ」と言いたかったのだが、俺は言葉を飲み込んだ。ガチ切れモードのアスナさんに口を出すなんて俺には不可能である。

 圏内における戦闘ではダメージは発生しないために命の危険こそないが、高レベルプレイヤーの攻撃ともなってくるとかなりの衝撃やノックバックが発生するようになる。これは誤って殺してしまうということがない分、急所を思い切り狙って攻撃出来るので、下手をすれば圏外での戦闘より恐い。「圏内戦闘は恐怖を刻み込む」などと言うプレイヤーもいるくらいだ。

 

 俺の知る限り、今の《軍》にはアスナに対抗できるプレイヤーなど存在しない。始まりの街でくだを巻いている目の前の十数名の男たちなど、全員同時に相手どっても余裕だろう。

 俺は男たちの未来を想像して少し気の毒になってきたが、まあ自業自得だ。骨は拾ってやらないけど強く生きてくれ。

 

「……ユイ。ハーちゃんと一緒に少し向こうに行ってようか」

「ママは?」

「ママはあそこの人たちとちょっとお話があるんだ。邪魔にならないようにしないとな」

「……うん」

 

 あまり教育にいいものでもないし、ここはユイと一緒に避難しておこう。多分アスナも大の男たちをいたぶる自分の姿など、ユイには見られたくないはずだ。

 トウジにも一言断ってから、俺はユイを片手に抱いたまま足早にその場を後にした。遠くから男たちの悲痛な叫びが聞こえてきたのは、それから間もなくのことだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第41話 急転

「先ほどのこと、本当に助かりました。なんとお礼を言えばいいか……」

 

 木製のテーブルと椅子が並ぶ食堂らしき一室の端、日当たりのよい窓辺の席。向かいに座る黒縁メガネを掛けた暗青色のショートヘアの女性、サーシャさんは俺たちに礼を言うと深々と頭を下げた。

 路地での《軍》とのトラブルから後、子供たちの無事を確認した俺たちは改めてサーシャさんと接触し、この教会に案内されてやって来たのだった。既に道中で何度も感謝の言葉を貰ったのだが、サーシャさんは駄目押しとばかりに再び頭を下げる。

 

「あの、本当に気にしないで下さい。当然のことをしただけなので」

 

 そう言ってむず痒い表情を浮かべるのはアスナだ。大の男たち十数人を相手に大立ち回りを演じるのは当然のことではない気がするが、まあ突っ込むのも野暮だろう。

 しかし、ここまで感謝されると逆に申し訳なくなってくるな。別にお礼や見返りを期待しての行動ではないので、気にしないで欲しい。いや、俺は本当に何もしてないんだけど。

 俺とユイがあの場を一旦離れた後はアスナが1人で《軍》のリーダー格の男を徹底的にボコボコにし、追い払ったそうだ。最近ではあまり言われることはなくなったが、かつての《狂戦士》という二つ名は伊達じゃない。

 

「あ、ごめんなさい。これでは逆に気を遣わせてしまいますね。でも、本当にありがとうございました。それで、本日のご用件ですけど……」

 

 居心地が悪そうにするこちらの表情に気付いたのか、サーシャさんが最後にもう1度だけ礼を言って話を変えた。俺たちは顔を見合わせて頷いた後、ユイに視線をやる。

 

「色々と聞きたいことが増えましたけど、まずはユイちゃんのことを済ませましょう」

 

 そう言ってトウジが場を仕切る。聞きたいことが増えた、とは先ほどの《軍》の非常識な行動のことだろう。《軍》の連中が何か暴走しているのなら、風林火山としても放置しておくわけにはいかない。

 まあ、それもまずは当初の目的を済ませてからだ。トウジの話に異議があるわけもなく、俺たちは黙って続く言葉を待った

 

「ユイちゃんについては事前に連絡させて頂いた通りです。今は一旦風林火山で預かりながら保護者や知り合いを探しているところでして、サーシャさんにもご協力頂けないかとこちらに伺った次第です」

「はい。もちろん、私に出来ることなら最大限協力させて頂きます。ただ……」

 

 サーシャさんは口ごもりながらちらりとユイを見やると、申し訳なさそうに首を横に振る。

 

「ユイちゃん、ですか……。ごめんなさい、今まで見かけたことはないと思います。少なくとも始まりの街に住んでいた子ではないかと」

「そうですか……」

「ま、この辺に住んでたわけじゃないってわかっただけでも収穫だろ」

「……うん。そうね」

 

 俺のフォローに頷きつつも、アスナの表情は晴れない。いつかは攻略に戻らなければならない俺たちではユイとずっと一緒に居ることは難しいし、内心焦っているのだろう。ここで手掛かりが掴めないとなると、この後の捜査はかなり難しいものになる。

 早く攻略に戻らなければならないという使命感と、せめて保護者が見つかるまではユイと一緒にいてあげたいという気持ちの板挟み。そんな心情を察知したのかどうかはわからないが、隣に座っていたユイが心配そうにアスナの顔を覗き込んだ。話の内容はよくわかっていない様子だったが、心の機微には敏いところがあるようだ。一瞬ハッとした表情を浮かべたアスナはすぐに笑顔を作り直し、「大丈夫よ」と言ってユイの頭を撫でた。

 

 その後はサーシャさんが知っている限りの始まりの街以外に住む子供たちの情報を貰い、今後について話し合った。この教会とはまた別に保護者と共にゲームにログインしている子供たちが集まって暮らしている場所があるらしく――この教会に住んでいるのは多くがゲーム内に保護者の居ない子供たちである――彼らと面識のあるサーシャさんに渡りをつけてもらえることになった。

 

 そうして話を進めるトウジとサーシャさんを横目に、俺はちらりとこの部屋唯一の扉に視線をやった。いつの間にか半開きになっていた扉の向こうから、無数の気配が感じられる。耳を澄ませてみると、ひそひそと囁き合う声が聞こえて来た。

 

「あれが風林火山のハチか……本当に目が腐ってるんだな……」

「隣のきれいな人がせんこうのアスナさん?」

「うん、めちゃくちゃ強かったし間違いないよ。たくさんいた軍の奴らを1人でボコボコにしたんだぜ」

 

 ボリュームを抑えながらも若干興奮した様子で交わされる会話は、おそらく教会に住む子供たちのものである。大事な話があるということで、ここに来る前にサーシャさんが半ば押し込むようにして別の部屋に待機させていたはずだったが、やんちゃ盛りの子供たちが大人しく言うことを聞くはずもない。どうやら部屋を抜け出して扉越しにこちらを伺っているようだ。

 

 ていうか俺、やっぱり目が腐ってるで認知されてるんですね。そのうち腐眼のハチとか呼ばれそう。……あれ? ちょっとカッコイイかもしれない。

 ひとりそんなことを考えていると、扉の向こうがにわかに騒がしくなった。何やら揉めている雰囲気が伝わってくる。

 

「ねえちょっと、見えないんだけど。もっと詰めてよ」

「俺も俺も。俺にも見せてくれよ」

「わっ! ちょっ、押すなって!!」

「うわっ!」

 

 バタン! と音を立てて大きく開かれる扉。そして男女10人近い子供たちが折り重なるようにして部屋の中になだれ込んだ。下敷きにされた最前列の男の子は割と悲惨なことになっているが、まあそこは圏内なので問題ないだろう。

 驚いたサーシャさんが振り返ってその光景を見やると、穏やかだった表情を一変させ、まなじりを吊り上げて子供たちに雷を落とした。

 

「こら! あなたたち! 今はお客様が来てるから向こうで遊んでなさいって言ったでしょ!」

「だ、だって先生……」

「だっても何もありません!」

 

 有無を言わさぬ口調でそう言い放ち、サーシャさんが子供たちの前に立つ。先ほどまでの物腰柔らかな女性の姿はそこになく、防御力下がっちゃうんじゃないのと心配してしまう勢いで子供たちをにらみつけた。鋭い眼光に射竦められた子供たちはもう既に半べそである。

 その豹変ぶりに若干ビビりつつも、きっとこれだけのバイタリティが無ければ大勢の子供たちの面倒なんて見れないんだろうな、と俺は妙なところで納得してしまった。

 それではこれから説教タイムかと思いきや、トウジがそこに横やりを入れる。

 

「まあまあ、サーシャさん。そう怒らなくても」

「ですが……」

「こちらの2人はゲーム内では有名人ですからね。気になっても仕方ないですよ」

 

 そう言って微笑むトウジに、同意するようにうんうんと頷く子供たち。それに毒気を抜かれたのか、サーシャさんはため息を吐いて脱力した。それでもキチっと「ごめんなさい」を言わせてから改めて子供たちを部屋から退室させる辺り、しつけはしっかりとしているようだった。

 

「どうですか、アスナさん。ユイちゃんを連れてあちらで子供たちと遊んで来ては。ユイちゃんも難しい話ばかりでは退屈でしょう」

 

 部屋を出ていく子供たちの背中を見ていたトウジがそう提案する。アスナは少し考える素振りを見せてから、頷いた。

 

「そうね。ユイちゃん、一緒に行きましょう。きっと新しいお友達が出来るわ」

「……うんっ」

 

 俺の方を一瞬ちらりと見やったユイだったが、ややあって頷く。一応サーシャさんの許可も貰い、そうして2人は子供たちの後を追うようにして部屋を出て行った。

 扉が音を立てて閉まると、一気に人口密度が減った部屋の中に静寂が降りる。改めて席に座り直し、俺たちは若干重い表情で顔を向き合わせた。

 

「……で、あの《軍》の連中は何だったんすか?」

 

 俺は単刀直入にそう切り出した。

 ここに来る前の一件。《軍》がカツアゲ紛いの行為を行っていた件である。正直他人のご近所トラブル、しかも金銭絡みの問題になど首を突っ込みたくはなかったが、さすがに放置しておけるほど小さな問題でもない。ユイに関する話はとりあえず一段落ついたので、次はこの件について話を聞くべきだろう。

 とはいえユイの前であまり重々しい話をするのもどうかなーと思っていたところだったので、トウジが上手く外に誘導してくれて助かった。

 サーシャさんもこの件について聞かれることは予想していたのか、悩む素振りもなくすぐに俺の質問に答える。

 

「わかりません……。少し前から、急に徴税だと言って金銭を要求してくるようになったんです」

「徴税、ですか」

「第1層に住んでいるプレイヤーたちからは例外なく請求しているみたいです。自分たちは全プレイヤーのために戦っているのだから、その為にお金を払うのは当然のことだ、というのが彼らの主張だそうです」

 

 淡々としたサーシャさんの説明に、俺とトウジは黙り込んだ。

 徴税とは、大きく出たものだ。確かにゲーム内における行政や司法の分野についてその多くを担ってきた《軍》はアインクラッドの自治政府のようなものだと言えなくもない。だが実際のところ彼らはゲーム内においてそれほど強い権力を持つわけでもなく、あくまで暫定的に、騙し騙しその役割を担ってきたに過ぎなかった。その上、先日の《不吉な日》によって《軍》はその力を大きく落としたばかりだ。或いはその傷を癒すための方針とも考えられるが、どうにも腑に落ちない。

 

「《軍》の方にはお世話になったこともあるので、本当にお金に困っているなら協力したい気持ちはあるのですが……どうにも妙な気がして」

「妙というのは?」

 

 トウジが話を促す。サーシャさんは言葉を選ぶように少し考えてからゆっくりと語りだした。

 

「今までも《軍》の中には一部横柄な振る舞いをする人たちは居ました。でも組織としての規則や規律みたいな根っこの部分ではしっかりしていた気がするんです。だから始まりの街に住む多くのプレイヤーたちも、これまで大人しく《軍》の方針に従っていたんだと思います。でも、今回の徴税の件に関しては不明瞭で筋の通らないことが多くて」

 

 サーシャさんの持つ《軍》に対しての印象は的を射ていると言っていいだろう。一時期は専横な態度をとるプレイヤーの多かった《軍》だが、雪ノ下が幹部に就任してからは相当締め上げたらしく、今ではそれほど悪い噂を聞くことはなくなっていた。

 だがどこかでそのたがが外れてしまったのか、サーシャさんが語る《軍》の現状はあまりいいものとは言えないようだった。

 

「徴税の対象者や金額は曖昧だし、納付のための書類や証明書も一切なし。集めたお金を何に使うつもりなのかの説明もなく、事前の通告もなしにいきなり押しかけて来たかと思えば、金を払えの一点張りでした。私にはどうしてもこれが《軍》の組織全体としての方針には思えなくて」

 

 サーシャさんの言葉に、俺とトウジは同意するように相槌を打った。《軍》のギルドマスターであるシンカーやその補佐をしている雪ノ下という人物を知っている俺たちからすれば、今回の徴税について彼らが主動しているとは考えられない。

 

「だから差し当たって徴税の件はお断りしていたんです。もしこれが《軍》の中の一部のプレイヤーの暴走だとしたら、そのうち治まるだろうと。でも、そうしたら今日こんなことになってしまって……」

「なるほど。状況は把握しました」

 

 話に聞き入っていたトウジが、そう言って顔を上げた。次いでサーシャさんを安心させるように笑みを作る。

 

「サーシャさんの判断は間違っていなかったと思います。僕も《軍》幹部の方々とは面識がありますが、そんな無茶苦茶な要求をするような人たちではありませんし、今回のことは一部のプレイヤーたちの暴走と見ていいでしょう。その辺りは僕が探りを入れてみます」

 

 トウジは顎に手を当てて、何か考えるように視線を彷徨わせた。しかしそれも一瞬のことで、すぐにサーシャさんへと視線を戻す。

 

「《軍》幹部の方々に話が通りさえすればこの件はすぐに落ち着くと思いますが……その間の一時的措置として、風林火山から何人かここに護衛を付けさせます。命の危険はないとはいえ、今日のようなことが続いては子供たちの情操教育に良くないでしょう。子供たちにはしばらく外に出ないように言って頂いて、《軍》への対応はこちらに任せてください」

 

 果断即決、とばかりにトウジが提案する。その判断は至極妥当なものだろう。うちは《軍》の中枢とは太いパイプがあるし、トウジの言う通りシンカーや雪ノ下に話を付ければおそらくすぐに解決する問題だ。

 サーシャさんにとっても悪い話ではないはずだが、急な話で頭が追いついていないのか、彼女は少し目を見開いた状態で固まり、ややあって気おくれしたように頷いた。

 

「あ、はい。すみません、何から何まで……」

「いえ、むしろこういうことでもないと僕らは役に立てないですから。サーシャさんこそ1人で子供たちの面倒を見るのは大変でしょう。何かあればいつでも声を掛けてください」

「お気遣いありがとうございます。でも、好きでやってることですから」

 

 そうしてサーシャさんは硬い表情を崩し、笑顔を作った。

 しかし、さすがは今まで実質的に風林火山というギルドを中心で支えてきたトウジさんだ。俺が口を挟むまでもなくポンポンと話が決まっていく。楽で助かるけどちょっと自分の存在意義について考えてしまうのでほどほどにして欲しいと思わないこともない。

 そうして若干置いてけぼりになっていた俺は黙ってその場の趨勢を見守っていたのだが、唐突にトウジはくるりと首を巡らせてこちらに目を向けた。

 

「と、いう訳でハチさん。僕は早速《軍》とコンタクトを取ってみます。ハチさんはアスナさんとユイちゃんと一緒にここに残ってもらっていいですか」

「護衛ってことか?」

「そうです。ユイちゃんのことはすぐには動けませんし、まずはこっちを何とかしましょう。お2人が居ればとりあえずの護衛としては十分……というかお釣りが来ますし。《軍》が来た時の対応はお任せします。一応また後から交代要員も呼ぶので、その後の指示はまたその時に」

「……わかった」

 

 少し考えつつも、結局俺はトウジの指示に二つ返事で頷いた。一応トウジは俺のギルドでの上司に当たるわけで、真面目な場面での指示は断れないし断る必要もなかった。こういうトラブルはさっさと解決してしまって欲しいところだ。

 

 ここからなら直接行った方が早いということで、トウジはその後すぐに《軍》のギルドホームへと出かけて行った。俺はトウジの指示に従い、やんちゃ盛りの子供たちにおもちゃにされながら、護衛役としてアスナとともに教会に残ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事態が急変したのは、トウジが出かけて行ってから数時間後のことだった。

 

 当初危惧していた《軍》の連中が教会へと押しかけてくるようなことはなく、大勢の子供たちを相手にするのが想像以上に大変だったことを除けば特に問題は起こらなかった。日も傾き、夕方になって何者かが訪ねて来た時には少し警戒もしたが、ノックの後に続いた声はトウジのもので、すぐに警戒を解いて招き入れた。

 

 帰ってきたトウジの隣には1人のプレイヤーの姿があった。銀色の長髪をポニーテールに束ねた、長身の女性。確か《軍》のギルドマスターであるシンカーの側近、ユリエールというプレイヤーだったはずだ。個人的に話をしたことはないが、雪ノ下と同様、度々うちのギルドホームにも訪れていたので、それなりの頻度で顔は合わせていた。

 

 しかし何故、今そのユリエールがトウジと一緒にいるのか。そんな疑問を口にしようとして、俺は途中で言葉を飲み込んだ。妙に憔悴したユリエールの様子とトウジの固い表情が、緊急事態であるということを物語っていた。

 それを察してか、サーシャさんは子供たちと共に別室へと籠っている。教会のエントランスではトウジとユリエールの他、俺とアスナとアスナにべったりとくっ付いたユイが顔を合わせていた。

 

「まずいことになりました」

 

 開口一番、トウジが言った。口元に添えられた手は小さく震えていて、俺は珍しく彼が取り乱していることに気付いた。

 

「《軍》内部で、キバオウがクーデターを起こしたようなんです」

「……は?」

 

 トウジの言葉に、俺は呆けた声を返した。

 キバオウが、クーデター? クーデターとは、つまり武力による権力の奪取だ。誰から? 《軍》内部で強い権力を有していたのは、俺の知る限りでは3人。ギルドマスターであるシンカーと、その側近であるユリエール。そして、もう1人は――。

 

 纏まらない頭でそこまで考えて、はっとした。まさか、とシステムウインドウを開く。震える手でそれを操作し、フレンドリストを表示した。

 俺のフレンドはそう多くない。だから、探している名前はすぐに見つかった。濃い黒字で書かれた《Yukino》の文字。雪ノ下雪乃のプレイヤーネームは、その生存を主張するようにちゃんとそこに存在していた。

 

 死んだプレイヤーの名前は、フレンドリストでは灰色に表示される。つまり、現時点で雪ノ下はちゃんと生きているということだ。

 その事実に、俺は大きく息を吐いて安堵した。だがそれも束の間、フレンドリストに記された雪ノ下の現在の位置情報が視界に入り、自分の目を疑った。

 

 ――第1層 虚ろの九天 深き場所

 

「これは……ダンジョンの中にいるのか?」

「はい。そのようです」

 

 誰ともなしに呟いた俺に、トウジが頷いて返した。

 

「シンカーさんもユキノさんも今のところは無事です。ただ、状況はよくありません」

「……どういうことだ。説明を――」

「キバオウがっ……!」

 

 俺の言葉を遮って、ユリエールが声を荒げた。強く握られた拳は見ているこちらが痛々しいほどで、今にも泣き出しそうな表情で言葉を続ける。

 

「キバオウが、2人を回廊結晶でどこかのダンジョンへと飛ばしてしまったんです! 私には、何も出来なかった……! このままでは、2人が……」

 

 不意に顔を上げたかと思うと、ユリエールは涙を湛えた瞳で俺を見つめた。次いでその場に膝を付いて懇願する。

 

「お願いします……。シンカーとユキノさんを助けて下さいッ……。お願いします……!」

「ユ、ユリエールさん、落ち着いてください」

 

 もはや嗚咽を堪えきれずに泣き崩れてしまったユリエールを、トウジが支える。突然の事態に俺も先ほどまで内心かなり動揺していたが、自分以上に取り乱すユリエールの姿を見て、逆に冷静さを取り戻していた。

 事態はおそらく急を要する。だが、まずは状況を把握しなくてはならない。

 

「何があったのか、知ってることを全部話してくれ」

「……はい」

 

 ユリエールを宥める様に肩を抱いたまま、トウジは固い表情で頷いた。

 それから、トウジは順を追って説明してくれた。

 

「《第25層事件》以降、キバオウの《軍》内部での力が弱くなっていたのはご存知の通りだと思います。それでも一部の実戦部隊の顧問についたり、この間まではそれなりの立場に居たようですが……先日の《不吉な日》での失態が、とどめになったみたいです」

 

 笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の内通者にキバオウがそそのかされ、《軍》の部隊が壊滅に陥った第25層事件。それ以降、キバオウの動静は大人しいものだったが、先日の《不吉な日》では久しぶりに動きがあった。自分の肝入りの部隊のプレイヤーを強引に防衛部隊へと捻じ込み、あまつさえその編成に口を出してきたのだ。

 直属の部隊に防衛戦で手柄を立てさせることによって、ギルド内での自分の立場を取り戻そうとしたのだろう。だが実際には先走った《軍》のプレイヤーたちの暴走、および笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党による襲撃によって部隊は壊滅し、立場を取り戻すどころの話ではなくなってしまった。キバオウ直属の部隊に笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の残党たちが多く潜り込んでいた件についても責任を追及されていたようだった。

 

「ギルド内に派閥を作り、度々対立を煽るキバオウというプレイヤーは、正直私たちにとって厄介な存在でした。今回のことの責任を取らせ、もう少しで奴をギルドから放逐出来るというところまで行ったのですが……」

 

 少し落ち着きを取り戻したユリエールが、トウジの説明を継いだ。声は震えていたが、それでもつかえることなく言葉を紡ぐ。

 

「4日前、追い詰められたキバオウは、私たちを罠にかけるという強硬策に出ました。出口をダンジョンの奥深くに設定した回廊結晶を使って、シンカーと、その時一緒にいたユキノさんを転移させてしまったんです。その時シンカーは、キバオウの『お互い丸腰で話をしよう』という言葉を信じたせいで非武装で……。ユキノさんについてはほとんど戦闘の経験もありませんし、とても2人でダンジョンの最深部から脱出できるような状態ではありませんでした。2人とも転移結晶も持っていなかったようで……」

 

 知らず、俺は拳を強く握りしめていた。

 雪ノ下はナーヴギアとの接続不良の影響で物との距離感が掴み辛く、それはこの世界での戦闘に耐えられるような環境ではない。生産系スキルの使用やクエストのクリア報酬によってそれなりにプレイヤーレベルは上がっていると本人から聞いているが、気休めにもならないだろう。シンカーの戦闘力に関しては未知数だが、非武装状態ではやはり期待できない。

 

 ダンジョンの奥深くに閉じ込められたシンカーと雪ノ下。《虚ろの九天》というダンジョンに聞き覚えはないが、わざわざポータルPKに利用するような場所だ。それなりにレベルが高い場所だろう。つまり、もし2人がモンスターと遭遇してしまえば命はない。

 ポリゴンとなって砕け散る雪ノ下の姿が頭を過り、俺は胸を掻き毟って叫びだしたい衝動にかられた。しかし、今はそれを腹の奥深くに沈め込む。

 

「この4日間、私もギルドホームの一室に軟禁されていました。それでも何とか今日、隙を突いて抜け出しまして……」

「そこで、僕と会ったというわけです」

 

 2人の救出を阻むために、キバオウはユリエールを軟禁したのだろう。奴は本気でシンカーと雪ノ下を殺そうとしている。それでも事件から4日もの時間が経過し、まだ2人が生きているのは幸運だと言えた。

 まだ、手遅れではない。まだ、助けられる。

 俺は自分にそう言い聞かせ、腹の中で渦巻く衝動を何とか押さえつけた。

 

「状況は大体理解してもらえたと思います。僕たち風林火山としては、ユリエールさんからの依頼を受けて、これから2人の救助を試みるつもりです。ハチさん、アスナさん、協力してもらえますか?」

「ああ」

「ええ」

 

 トウジの問いかけから間を置かず、俺とアスナの返事が重なった。しかし返した答えは同じでも、その内に抱えるものは大きく違う。アスナはきっとその強い正義感や狭義心から。対する俺が抱えるのは、もっと個人的な感情だった。

 こんなところで、雪ノ下を死なせるわけにはいかない。奉仕部のことも、由比ヶ浜とのことも、何もまだ前に進めてはいないのだ。

 

 その後、俺たちはすぐに今後の詳しい方針を話し合った。ユイの身元捜索はしばらく保留となってしまうが、この状況では仕方がないと割り切るしかない。シンカーと雪ノ下の救出は一刻を争う。

 今は1秒の時間さえ惜しい。手早く戦闘用の装備に着替えた俺は、槍を片手に駆けるようにして教会を後にした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第42話 激情

 今回の話の中で、SAOのゲームシステムの一部を改変しております。
 原作ではユリエールがフレンドのマップ追跡機能を使ってダンジョン内に居るシンカーの下に辿り着きましたが、この作品内では『ダンジョン内ではマップ追跡機能は使用できない』としています。ご了承下さい。


 SAOにおいてエリア区分はまず犯罪防止コードの有効圏内と圏外の2つに分けられ、さらに圏外は大雑把にフィールド、ダンジョン、迷宮区の3つに分類される。

 モンスターが出現する草原や森林などを総称してフィールドと呼び、対して固有の名前が付けられた地下や塔などある程度閉じられた空間のことを――例外も多いが――ダンジョンと呼んでいる。迷宮区もダンジョンに近いものがあるが、アインクラッドの層と層を繋ぐ無骨な円柱の中のエリアは、次の層へと到達するためには必ず攻略しなければならないエリアとして明確に区別されていた。

 

 そんな3つのエリアだが、プレイヤーによってただ便宜上そう分類されているというわけではなく、ゲームシステム的にもそれぞれの特徴、傾向を持っている。細かいことを上げて行けばきりがないが、そのうち押さえておくべき要点は主に2つだ。

 1つは、基本的にダンジョンや迷宮区内に出現するモンスターはフィールドのものより強力であるということ。もう1つは、ダンジョンや迷宮区に入ると、フィールドや街の中で使用出来る一部のシステムメニューに制限が掛かることである。

 

 今、重要なのは後者。ダンジョン内で使用できなくなるシステムメニューの中には、フレンドシステムのマップ追跡機能、メッセージ機能、ギルド共有ストレージの使用などが含まれる。つまり今回シンカーと雪ノ下の救出に当たって、俺たちには2人の詳細な位置情報は分からないし、メッセージによって連絡を取ることも不可能、《軍》のギルド共有ストレージを使って転移結晶などのアイテムを送ることも出来ないということだった。

 

 現時点で俺たちが持っている情報は、第1層のどこかに存在する《虚ろの九天》というダンジョンの《深き場所》というポイントで2人が身動きが取れなくなっているということだけだ。虚ろの九天という名前に覚えのなかった俺たちは、まずは第1層を駆け回って情報を集めることになった。

 

 プレイヤー向けのガイドブックを作成しているという関係上、風林火山にはゲーム攻略に関する多くの情報が集まる。しかし虚ろの九天というダンジョンは、もはやフロアの隅々まで探索され尽くされたはずの第1層に存在するにも関わらず、俺たち風林火山にさえ認知されていないというダンジョンだった。ほぼ間違いなく、最近解放されたエクストラダンジョンだろう。一応アルゴにも確認を取ったが、彼女も何も知らないようだった。

 

 サーシャさんと子供たちの住む教会の一室を一時的に救出作戦本部として借り受けた俺たちは、すぐに風林火山に所属するほぼ全てのメンバーを招集し、虚ろの九天を探す班とキバオウを探す班の2つに分かれた。キバオウを探すのは、奴から情報を得るためである。虚ろの九天を直接探し出すか、或いはキバオウを見つけて情報を吐かせることが、俺たちの前に立つ第一の課題だった。

 

 直接虚ろの九天を探す班を希望した俺は、第1層北部に広がる山地を1人で駆けずり回った。今さら第1層で警戒するものなど何もなく、パーティを組んで行動する必要もない。それぞれ事前に割り振られた地域を手分けして探索、村などがあった場合には情報収集を行い、それをトウジへと逐一報告することを繰り返した。迂遠な方法にも思えるが、現状他にやりようがなかった。

 

 第1層は、広い。アインクラッドは上層に行くほど先細ってゆく構造をしているため、当然のことながら第1層が最も広大な面積を持つ。ほぼ真円を描くフロアの直径は10キロメートル、面積は約80平方キロメートルにも及んだ。

 風林火山の総力を以ってしても、その全域を捜索するには数日掛かり、下手をすれば1週間以上もの時間が必要になる。そんな当初の予定より探索自体は順調に進んだが、それらしきダンジョンを見つけることは出来なかった。

 

 1日、2日、俺は夜を徹して探索を続けた。何の成果も得られず、焦りだけが募る。数時間おきにフレンド欄で雪ノ下の生存を確認する作業が、ひどく恐ろしく感じた。

 

 ――死なないでね。

 

 いつか、雪ノ下に言われた言葉。

 違う、そうじゃない。俺のことなど、どうでも良いのだ。雪ノ下こそ、絶対に死んではならない人間だった。

 

 歯を食いしばって、駆け続けた。不安と苛立ちをぶつけるように、次々と遭遇するモブを蹴散らす。そうして、さらに2日の時が過ぎていった。

 

 

 

「――このエリアは、全部調べた。それらしいもんは何もなかった」

「そうか……」

 

 俺の報告に暗い表情で頷いたクラインが、マップにチェックを入れる。マップに記されたほとんどのエリアは濃い藍色で塗りつぶされ、わずかに薄緑色で残されているのは中央に近い沼地エリアだけだった。

 第1層北西部に位置する圏外村。宿屋に併設された食事処でテーブルを囲みながら、俺とクラインとキリトの3人は顔を合わせていた。

 しばらく無言でマップを睨んでいたクラインが、低く唸る。

 

「こんだけ探して見つからねえなんて、なんか見落としてんのか? 入るのに特別な条件が必要なダンジョンだったりしたら……」

「それなら何処かで情報が拾えないとおかしい。ノーヒントで入場条件も厳しいダンジョンなんてゲームとして破綻してる」

 

 クラインの懸念に、キリトが冷静に返した。キリトの言うことはもっともである。元から存在を知っていないとたどり着けないようなダンジョンなど、ゲームとしては完全に欠陥品だ。認めるのは業腹だが、SAOはその辺りのゲームバランスは良心的である。

 アルゴにも頼んで第1層で情報を集めているが、まだそれらしき報告はない。特殊な入場条件があるダンジョンならば、逆に情報は集まりやすいはずだった。

 まあ、まだ完全に行き詰ったわけではない。そう思いながら、俺は席を立つ。

 

「まだ探してないエリアも残ってるだろ。とりあえず俺はそっちに回るから、トウジへの報告は頼んでいいか」

「ああ。それは構わないけど……」

 

 答えるキリトに礼を言って、俺はすぐにその場を後にしようとした。しかし、足を踏み出した瞬間、視界が明滅する。一瞬不快な浮遊感が体を支配し、次いでぐらりと地面が揺れた。

 

「お、おいっ!? ハチ!?」

「……わり。ちょっと躓いた」

 

 気付くと、クラインに支えられるようにして立っていた。すぐに足に力を込めて、身を離す。気合いを入れ直すようにその場で大きく息をつくと、真剣な表情でこちらを見つめるクラインと目が合った。

 

「ハチ。おめえ、最後に寝たのいつだ?」

「……休憩は取ってる。大丈夫だ」

「大丈夫なわけあるか! 足元フラフラじゃねえか!」

 

 言って、クラインは眉間の皺を深くした。すぐにそこから目を逸らしたが、隣のキリトも険しい顔でこちらを見ていることに気付き、俺は苛立ちを込めて再び息をついて顔を伏せた。

 確かに、しばらく睡眠をとっていなかった。だが、それが何だというのだ。今何よりも優先すべきは、雪ノ下とシンカーを見つけ出すことだった。自分のことは、後でいい。

 しかしそんな俺を否定するように、クラインは待ったを掛ける。

 

「おめえが倒れたんじゃ元も子もねえだろ。今は一旦休め」

「……だから、大丈夫だって言ってんだろ」

「ハチ、ギルマス命令だ。休め」

「うるせえなっ! 関係ねえだろッ!!」

 

 伸ばされたクラインの手を払いのけながら、叫んでいた。苛立ちが全身に溢れ、かっと体が熱くなる。しかし、癇癪を起した俺に全く臆することなく、クラインは真っ直ぐにこちらを見据えていた。

 

「関係ある。仲間だからな」

「な――」

 

 そんな一言に、圧倒されてしまった。馬鹿みたいにポカンと口を開けたまま、数秒間沈黙する。ややあって、急速に頭が冷めていった俺は大きく脱力して額に手をやった。体に充満していた苛立ちはいつの間にか霧散し、代わりに罪悪感が立ち込める。

 俺は今、きっと酷いことを言ってしまった。俺とこいつらが、関係ないはずがない。

 

「……悪い。八つ当たりだった」

「わかってるっつーの。おめえが性根の曲がりまくった捻デレちゃんだってことはな」

 

 妙に懐かしいと思える造語を耳にして、俺は苦笑いを浮かべた。いや、「捻デレ」って共通語じゃないよな? などと馬鹿なことを考える。

 

「おめえがユキノさんのことをすげえ心配してんのはわかってる。けど、そのままじゃ助けに行く途中でダウンしちまうぞ。どうせダンジョンが見つかったら、自分で中に入るつもりなんだろ? だったら、ここはオレたちに任せて、1度ちゃんと休んどけ」

「……わかった」

 

 今度は素直に頷いた。冷静に考えれば、休息は必要だ。このまま自滅してしまっては、助けられるものも助けられない。

 幸い、宿屋はすぐそこである。そこで仮眠を取り、再び探索を開始しよう。冷静になった頭でそう考えた。

 キリトとクラインにそう告げると、2人は安堵の笑みを浮かべた。かなり気を遣わせてしまっていたようだ。

 そうして2人と別れて宿屋へと向かおうとした時だった。ピコン、と機械的な音がその場に響いた。

 

「ん? トウジからメッセージか」

 

 呟くキリトと同様に、俺とクラインもシステムウインドウを開く。どうやら一斉送信のメッセージのようだ。手早くそれをタップし、メッセージを開封する。

 恐らく、相当急いで打ったのだろう。いつもの丁寧なトウジの言葉はそこになく、簡潔な一文だけがそこに記されていた。

 

 ――キバオウ発見。始まりの街南部。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すぐに転移結晶で始まりの街へと飛んだ俺は、転移門広場に着いたことを確認すると同時に駆け出した。数人、おそらくキリトとクラインの2人が後ろから俺を追ってくる気配があったが、今は待っていられるような余裕はなかった。

 前方に注意しながら、システムウインドウを開く。トウジの位置情報が始まりの街南部となっていた。おそらく、キバオウはそこにいる。

 手早くマップ追跡機能を起動し、トウジを対象に選択した。それが正常に作動したことを確認して、俺はさらに足を速める。《軍》の影響で街にプレイヤーの姿が少ないことは幸いだった。閑散とした大通りを、全力疾走で駆け抜けた。

 

 始まりの街もかなりの広さがあり、トウジの座標まではそれなりに距離があったが、今の俺のステータスで思い切り走ればそれほどの時間は掛らない。5分もしないうちに、目的の場所に到着した。

 

「シンカーさんたちをどこにやったのかと聞いているんです!」

 

 遠目にプレイヤーの集団を確認した時、耳に届いたのはトウジの声だった。鈍色の鎧を纏った《軍》のプレイヤーたちと、風林火山の赤揃えの鎧を纏ったプレイヤーたちが、険悪な雰囲気で対峙している。その中で1人だけ私服風のトウジは弱々しく見えたが、毅然とした態度でキバオウを睨み付けていた。

 

「せやから知らん言うとるやろ! いちゃもんも大概にせいや!!」

「しらばっくれないでください! 確かにユリエールさんが……」

「やかましいわ! 知らんゆうたら知らん!!」

 

 声を荒げるトウジに負けじとその場でがなり立てるのは、トゲトゲとした奇抜な髪型の男。その姿を見紛うはずはない。雪ノ下とシンカーを罠に嵌めた張本人、キバオウだった。

 その姿に目を留めた瞬間、腹の底に抑え続けてきた黒い感情がゆっくりと湧き上がってくる。

 

「だいたい、あん2人がどうなったところでジブンらに何か関係あるんかいな。うちのギルドの問題に他所モンが首突っ込むんやないで!」

 

 ふてぶてしく言い放ったキバオウが、話は終わりとばかりにその場を立ち去ろうとした。しかしその瞬間、駆け付けた俺と正面から鉢合わせる。

 一瞬驚いた表情を浮かべたキバオウだったが、それはすぐに厭らしい笑みへと変わった。

 

 ああ、この顔は良く知っている。他者を貶めることに喜びを覚え、そのことになんの違和感も抱かない下衆の笑みだ。

 俺と雪ノ下の関係を、ある程度知っているのかもしれない。彼女の命を握っているキバオウは、俺に対し優位に立っていると思っているのだろう。

 

 そこに、かつて攻略組で部隊を率いて戦っていたキバオウの面影はもうなかった。我が強く、度々他のプレイヤーと衝突を繰り返していても、あの頃のキバオウは全プレイヤーのためにと大義を掲げて戦っていた。

 時間が、キバオウを変えてしまったのだ。そのことに俺は却って安堵した。これなら、遠慮はいらないだろう。

 

「あん? なにガン付けとんじゃワレ。なんか文句あるん――がッ!?」

 

 チンピラのようにこちらを睨み付けてきたキバオウの鼻っ面に、ソードスキルを放った。青く澄んだ槍の柄が、キバオウを大きく吹き飛ばす。これで、こいつを殴るのは2回目か。頭の片隅でそんなことを考えながら、俺は無限槍を発動してさらに追撃を掛けた。

 都合6回、俺の槍を食らって大きくかち上げられたキバオウが、宙に浮いたまま路地の壁に叩き付けられる。そのまま壁に縫いとめるように、俺は槍の石突でキバオウの首を押さえつけた。

 

 足をばたつかせながら、キバオウがくぐもった声を上げる。槍を押しのけて必死に逃れようとしたが、圏内ではソードスキルでも使わなければ他人に大した干渉はできない。この状態ではもはや自力で動くことは叶わないだろう。

 少し遅れてキバオウの取り巻きたちが色めきだち、剣を抜いたが、それを遮るようにして風林火山のプレイヤーたちが前に立つ。その中にはキリトやクラインに加え、いつの間にか合流していたらしいアスナの姿もあった。

 

 これなら邪魔は入らない。そう判断し、改めてキバオウに視線をやった。

 意外なことに、頭は冴えていた。怒りはあったが、決して感情に任せてキバオウを打ちのめしたわけではない。あくまで、こちらの目的は情報を引き出すことだった。

 キバオウは首にあてがわれた槍に手をやって苦し気に顔を歪めていたが、実際に苦痛を感じているわけではないはずだ。どれだけ首を圧迫しようと、ゲーム内ならば会話は出来るはずだった。

 

「ユキノとシンカーをどこにやった?」

 

 今さら前置きなど不要だろう。単刀直入にそう聞いたが、やはり素直に答えるつもりはないようで、キバオウは反抗的な瞳でこちらを睨み付けた。

 

「ワレ、こんなことしてただで済むと……」

「質問に答えろ。ユキノとシンカーをどこにやった?」

「だ、だから知らんゆうて……」

「キバオウ」

 

 要領を得ないやり取りに、抑えきれない苛立ちが沸々と湧いてくる。俺はキバオウの言葉を遮って、口にした。

 

「前に1度、警告したな。今度余計なことをしたら、お前を殺すって」

 

 あれは第1層フロアボス戦後のこと。最早1年半以上も前のことだったが、キバオウも覚えていたのだろう。目が合った瞬間、その瞳が恐怖に揺れるのが分かった。

 

「ああ、安心しろ。あれは本気じゃない。ただ脅すだけのつもりだった。――でもな、今度は違うぞ」

 

 槍を握る手に、自然と力が込もった。抑えつけていた憎悪が、腹の底から顔を覗かせる。もはや取り繕うこともなく、俺は感情のままに声を荒げた。

 

「あいつに何かあったら、お前を殺す……! どこに隠れても、必ず見つけ出して殺してやるッ……!」

 

 低く震える俺の言葉は、静まりかえった始まりの街に響いた気がした。

 これ程までに、誰かを殺してやりたいと思ったことはない。このまま雪ノ下が帰らなければ、きっと俺はその衝動に抗えないだろう。例え無益な行いだとしても、キバオウを許すことなど出来るはずもなかった。

 

 俺の言葉がはったりではないということが伝わったのだろう。先ほどまでの反抗的な眼差しは何処かに行ってしまい、キバオウの表情には深い怯懦の色が満ちていた。そこにはもう抵抗の意志など微塵も感じられない。

 そこで槍を収め、俺はキバオウを開放する。キバオウは足腰が砕けてしまったようにその場にへたり込み、体を震わせていた。

 小さく息を吐き、昂ぶっていた感情を静めてキバオウを見下ろす。

 

「もう1度、よく考えて答えろキバオウ。ユキノとシンカーをどこにやった?」

 

 数秒の沈黙が場を支配する。やがて、キバオウはしわがれた声で口を開いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハチという人間があれほどまでに感情的になった姿を、アスナは初めて目にした。

 

 常に本当のところでは自分の気持ちを表に出さない人だった。他人の領域に踏み込むことも滅多になければ、こちらから近づこうとしても離れて行ってしまう。まるで警戒心の強い猫のようだと、何度か思ったものだった。傍から見れば誰かのためだと思える行動も、自分のためだと嘯いて、いつも自己責任で自己完結しようとしてしまう。そんな、捻くれた男の人だった。

 

 だから、キバオウを相手に怒りを露わにする彼を見て、アスナは驚いた。強い自意識の壁を越えて、初めて目の当たりにした彼の激情。そこに、まだ自分の知らないハチという人間の一面を見た気がした。

 

 きっとユキノという女性の存在が、彼を焚きつけるのだろう。それに気付いた時、アスナの心は大きく波打った。それは、ユキノに対する暗い感情。そして、そんな感情を覚えてしまった自分自身に対する戸惑いだった。

 

 ――いずれ身をもって気付く時が来る。綺麗なままじゃ人を愛せないってことに。

 

 頭に響いたのは、いつの日かグリムロックと言う男が口にした言葉だった。愛ゆえにと口ずさみながら、自分の妻の死を望んだ男。

 自分と彼は違う。そう思いながらも、しかしアスナはその中に1つの答えを得てしまった。

 

 ああ、そうか。自分はきっと、ハチ君のことが――。

 

「アスナ? 大丈夫か? ぼーっとして」

 

 思索に耽っていたアスナを、キリトの声が現実に引き戻した。

 キバオウとの対峙を終えて、まだそれほど経っていない。キバオウの情報をもとに、これからシンカーとユキノが閉じ込められたダンジョンへと向かうところだった。

 

「ううん、大丈夫。ちょっとさっきのこと考えてたの。あんなに怒るハチ君、初めて見たなって思って」

「だな。それだけユキノさんのことが大事ってことかな。本人は絶対認めないだろうけど」

「……そうね」

 

 ズキンとした胸の痛みを覚えながら、頷く。ユキノに対して抱いた暗い感情は、もはや否定しようもなくアスナの中に存在していた。それを自覚しながらも、しかしアスナの強い自尊心は、そんな感情に身を任せることを是とはしなかった。

 

「絶対、助けましょう」

 

 自分の決意を表明するように、アスナは強い口調で言った。個人的な感情と、今回の事件は別物だ。自分の心と向き合うのは、全てが終わってからでいい。

 隣に立つキリトが、アスナの言葉に力強く頷いた。そうしてアスナはキリトとともに歩調を速め、先を行くハチの背中を追ったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第43話 虚ろの九天

 キバオウが、知っていることを全て吐き出した。

 俺の脅しが相当効いたようだった。あの後、奴は心が折れてしまったように、覇気のない表情で俺の質問に淡々と答えた。その弱々しい姿は一瞬にして老け込んだように思えてしまうほどだったが、同情する気は全く起きなかった。

 

 逆に勘ぐってしまうくらいにキバオウは全ての質問に素直に答えたが、おそらく口から出まかせを言っているということはないだろう。シンカーと雪ノ下にポータルPKを仕掛けたことを認め、キバオウがこちらに提供した情報の中には、《虚ろの九天》内部のマップデータも含まれていた。

 

「ここか……。しかし、始まりの街ん中にダンジョンがあるなんてな」

 

 クラインがそう言って見上げるのは、始まりの街最大の建造物。黒く重厚な艶を放つ宮殿、黒鉄宮だった。キバオウによれば、虚ろの九天はこの黒鉄宮の地下に広がるダンジョンだという。

 2ヶ月ほど前、誰よりも早くその存在に気付いたキバオウは、このダンジョンを《軍》、それも自分の派閥に属する者たちだけで独占しようと考えた。結局、当時のキバオウたちには難易度が高過ぎてほとんど攻略は出来なかったそうだが、1度だけモンスターに散々追い回された末にたまたま最深部まで辿り着き、そこで回廊結晶の地点登録をしたらしい。シンカーと雪ノ下のポータルPKに使用した回廊結晶はその時のもので、2人を殺そうという計画はかなり前からあったようだった。

 

 俺たちは黒鉄宮の正門には入らず、裏手に回る。宮殿を囲む高い壁と深い堀の間の細い道をしばらく歩いていくと下りの階段が目に入り、その先、右の石壁には暗がりへと続く通路がぽっかりと口を開けていた。ここから宮殿の下水道に入ることが出来るらしく、ダンジョンへの入り口はその先にあるようだった。

 

 ひとまずその手前で立ち止まった俺たちは、全員で顔を見合わせる。俺、クライン、トウジ、キリト、アスナに加えて風林火山のメンバーが数人。さらに誰かにくっ付いてきたらしいユイの姿まであった。かなりの大所帯だが、まさかこのまま全員でダンジョンに突入するつもりもない。

 

「本当にいいんだな、3人で」

 

 聞いたのはクラインだ。キリトは迷わずに頷いて答える。

 

「ああ。クラインたちには悪いけど、道さえ分かってれば俺たちだけの方が早い。敵のレベルは60層相当って話だし、仮にエリアボスに当たっても問題ないはずだ。ま、基本スルーで行くつもりだけど」

 

 俺たちの手元には、キバオウから入手したダンジョン内のマップデータがある。それによってシンカーと雪ノ下が飛ばされた座標とそこまでの経路は把握しているので、ここは小回りの利く少数精鋭部隊で迅速に救出に向かうのがベストだと思われた。敵のレベルが第60層程度ならば、俺、キリト、アスナの3人で問題なく攻略出来る。3人のうち2人がユニークスキル持ちだということを考えれば、むしろ戦力としては過剰であると言えた。

 

 実質戦力外通告されてしまったクラインたちにも思うところはあるだろうが、現在の差し迫った状況を理解している彼らは、真剣な表情でゆっくりと頷き返すだけだった。

 シンカーと雪ノ下がダンジョンに閉じ込められてから既に8日もの時間が経過している。ここまで2人が生きていることを考えれば、おそらくセーフティゾーンを見つけてそこに退避出来たのだと思われるが、ダンジョンの中と言う過酷な環境下にそれだけの時間閉じ込められれば自暴自棄になってしまってもおかしくはない。もう一刻の猶予もなかった。

 

 ダンジョン突入前に、3人で装備品やアイテムなどの最終チェックを行う。重苦しい空気が場を支配する中、しかしそれまでずっと黙り込んでいた1人の少女が唐突に声を上げた。

 

「ユイもっ。ユイも行く!」

 

 その言葉に、全員の注目がユイに集まった。俺たちは一瞬だけ顔を見合わせたが、すぐにアスナが諭すようにユイへと言葉を掛ける。

 

「ごめんねユイちゃん。中は危ないから、クラインさんたちと待ってて。すぐに戻って来るから」

「でも――」

「ごめんね」

 

 なおも食い下がろうとするユイの頭を撫でて、アスナは済まなそうに笑いかけた。ここで押し問答をしている余裕はなかったし、ましてやユイをダンジョン内に連れて行くことなど出来るはずもなかった。

 

「じゃあ、ユイちゃんのことよろしくお願いします」

「ああ。任せとけ」

 

 力強く頷くクラインにユイを預け、俺たちは暗がりの中へと入って行く。後ろからはアスナを呼ぶユイの声が響いていたが、俺たちは振り返らずに歩を進めた。

 

 

 

 

 

 情報通り、ジメジメとした下水道を抜けた先には、さらに地下へと続くダンジョンの入り口が存在した。その中へと足を進め、マップで現在地の情報を確認するとダンジョン名は虚ろの九天と表示されており、俺たちは頷き合って更に先へと進んで行った。

 

 マップによれば、虚ろの九天はかなり大きなダンジョンである。まともに探索して行けば最深部に着くまで2、3時間程度は掛かる規模だが、今回は目的地までのマップデータがあるので大幅に時間を短縮できるはずだった。

 

「ハチ、結局あれから休憩取れてないだろ。途中の雑魚は俺が相手するから休んでろよ」

「私も戦うわよ。しばらくちゃんと戦ってなかったから、体鈍ってそうだし」

 

 血の気の多い2人にそう提案され、俺は素直に頷いた。

 キバオウとの対峙以降、妙に気持ちが高ぶってあまり疲労は感じていなかったが、これがどこまで持つかは分からない。ダンジョン深部でエリアボスとエンカウントする可能性を考えれば、体力は温存しておきたかった。俺は道中の索敵とサポートに専念することを決め、薄暗いダンジョンの中を進んで行った。

 

 キリトとアスナの気合いの入った声が、ダンジョンに響く。その度に、相対するモンスター群は紙細工でも切り裂くかのように蹂躙されていった。

 この辺りは水棲タイプの敵が多いようで、黒光りする外殻を持ったザリガニ型モンスターや、全身がヌメヌメとした粘液で覆われた巨大なカエル型モンスターが群れとなって出現した。敵とのエンカウント率こそ高くかなりの頻度で戦闘になったが、しかしその程度アインクラッドでも屈指の実力を持つキリトとアスナの前では物の数ではない。高レベルプレイヤーがレベルの低い狩場を荒らすのはあまり褒められた行為ではないが、周囲には他にプレイヤーも居ないので自重することもなく敵を蹴散らしていった。

 

 ダンジョン中層まで潜るとゾンビだのゴーストだのといった所謂オバケタイプの敵が出現するようになり、そう言ったものが苦手なアスナは途中で戦線から後退するという事態も発生したが、もとからキリト1人でも問題のない相手である。攻略のペースは落ちることなく、俺たちは順調に先へと進んで行ったのだった。

 

「2人が飛ばされたのは、この辺りか……」

 

 もはや何体目になるかもわからない黒い骸骨剣士を撃破した後、キリトは一息ついて周囲を見回しながら呟いた。

 ダンジョンに突入してから既に1時間以上が経っていた。ここまではそれなりに入り組んだ道が続いていたが、今は大きな一本道だ。見渡す限りでは敵の気配はない。

 俺はマップを確認し、キリトの言葉に頷いて返す。

 

「キバオウが寄越したマップデータもここまでだな。来た道にはセーフティゾーンなかったし、シンカーたちが居るとしたらこの先か」

「そろそろエリアボスが出て来てもおかしくない頃合いよね。ちょっとペース落として慎重に行きましょう」

「……ああ」

 

 急く気持ちをなんとか抑えつけて、頷いた。度々フレンド欄で雪ノ下の名前を確認しているが、まだ無事である。その位置情報を見る限りでは移動もしていないし、ここは急ぐよりも確実に行くべきだった。

 

 それからは3人とも無言になり、5分ほど歩いた。ダンジョンも最深部に近づいてから、明らかに雑魚敵とのエンカウントが減っている。その静けさは不気味なほどで、アスナの言う通りエリアボスの出現ポイントが近いのではないかと思えた。

 そうして俺は警戒心を強める。しかし、ダンジョンに突入してから常にアクティブにしていた索敵スキルがこの場で捉えたのは、モンスターの気配ではなかった。それを確認して、俺は口早に呟く。

 

「プレイヤーが、2人……この先だ!」

「あっ、あそこ! 何か光ってる!」

 

 しばらく一本道だった通路の先にあるのは、大きな十字路。そのさらに向こう、アスナが指差した先には、薄暗いダンジョンの中、暖かな光が漏れる小さな通路があった。目を凝らすと、その中に人影のようなものが映る。線の細いシルエットは、恐らく女性。

 

 ――雪ノ下。

 

 気付くと、駆けだしていた。

 遠く見えていた明かりが段々と近付き、その中に見えていた人影も徐々にはっきりとしてくる。黒く艶を放つ長い髪に、華奢な身体。一目見ただけでも鮮烈に印象に残る、冷たい美貌。その姿を、俺が見紛えるはずもない。そこにあるのは、間違いなく雪ノ下雪乃の姿だった。

 

 少し、やつれただろうか。無理もない。こんな場所に数日間も閉じ込められたのだ。だが、生きている。それだけで、もう十分だった。

 

 俺の存在に気付いた雪ノ下が、大きく目を見開いた。そのまましばらく固まっていたが、次いで慌てて何事かを口にする。雪ノ下が声を張り上げるなんて珍しいな。そんな暢気な思考が俺の頭を過った。

 

「来てはだめ――っ! その通路は……っ!!」

「ハチ! 止まれッ!!」

 

 雪ノ下とキリトの声が、同時に耳に届いた。その意味を理解する前に、我に返る。

 右方。巨大な気配。気付いた瞬間、全力で後ろに跳んだ。

 一瞬遅れて、先ほどまで俺が立っていた場所を何かが通りすぎた。地面を転がりながら、それを視線で追う。最初に目に入ったのは、黒く巨大な鎌だった。

 

《The Fatal-scythe》

 

 視界にモンスター名が表示される。運命の鎌という意味であろう固有名と、それを飾る定冠詞。ボスモンスターの証だった。

 

 息を呑み、槍を構える。

 薄暗いダンジョンの中、虚空に浮かぶのは2メートル半はあろうかと言う人型のシルエット。身に纏うぼろぼろの黒いローブの中には実体のない闇が蠢き、赤い眼球だけがこちらをぎょろりと見下ろしていた。

 

 虚ろの九天。その深き場所に座して俺たちを待っていたものは、赤い血の滴る大鎌を携え、命を刈り取る死神の姿で揺らめいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒鉄宮裏手。地下の暗がりへと続く小さな通路の前。

 ハチ、キリト、アスナの3人がダンジョンに突入してから既に10分ほどの時間が経過していたが、クラインたちはずっとその場から動かず、彼らの帰りを待っていた。

 虚ろの九天の最深部に到達するまでは攻略組の3人と言えどおそらく数時間かかる。加えて転移結晶で帰還する可能性があることも考えれば、ダンジョン入り口のこの場所で待ち続ける必要はなかった。それでもクラインたちが移動しなかったのは、ユイがこの場を動こうとしなかったからだ。

 

「ユイちゃん、3人なら大丈夫ですよ。すぐに帰ってきますから、僕たちと一緒にサーシャさんのところで待ちましょう?」

 

 トウジが声を掛けても、ユイは頑なに首を横に振るだけだった。目を離すと1人でもアスナたちを追ってダンジョンへと向かおうとしてしまうため、風林火山のメンバーの数人は通路をブロックするように立っている。

 

 ユイが何故ここまでアスナたちのことを心配しているのか、トウジは腑に落ちないものを感じていた。この数日、ユイはアスナとずっと一緒にいたというわけではない。昨日までは、フィールドに探索に出かけるアスナを笑顔で見送っていたのだ。

 もしかするとユイは、この場所に何かを感じているのかもしれない。そしてそれは、彼女の失われた記憶に関係しているのではないか。トウジはそう考え始めていた。

 

「……ここは、ダメ。ここはダメなの。危ない……あれが、あるから……」

 

 ユイの小さな呟きをその耳に捉え、トウジの中にあった疑念は確信へと変わった。

 

「あれ、とは? ユイちゃん、何か知っているんですか? もしかして、ここに来たことが……」

「あれ……あれって、何……? あたし、あたしは――」

 

 次第に、ユイの呟きが支離滅裂になってゆく。これはまずいと思ったトウジが彼女を落ち着かせようと手を伸ばしたが、触れた体は発作を起こしたように小さく震え、それは次第に大きくなっていった。

 

「あたし、ここには居なかった……もっと、ずっと、暗いところで……!」

「ユ、ユイちゃんっ!?」

 

 深い悲しみを滲ませた声を上げ、ユイの体が弾かれたように仰け反った。同時に、周囲に異変が巻き起こる。

 頭が痛くなるほどの、耳鳴りのような金切り音。始まりの街の景観を蝕む、黒いノイズ。

 そんな中トウジはユイを強く抱きしめたが、彼女の小さな体は一瞬大きくぶれたかと思うと、まるで質量を失ったかのようにトウジの腕をすり抜けてしまった。

 目の前の光景に驚く間も無く、さらに強まる金切り音にトウジは頭を抱えて蹲る。

 10秒ほどが経過し、ようやくその異変は収まった。

 

「な、なんだぁ!? 今のは……」

 

 周囲を見回しながらクラインが言った。

 先ほどの金切り音が嘘のように静寂を取り戻した始まりの街。既に異変は去ったかに思えたが、同様に周りを伺っていたトウジはあることに気付くと焦って声を上げる。

 

「クライン! ユイちゃんが居ません!!」

「はぁ!?」

 

 見える限りの範囲に、ユイの姿はなかった。周囲は黒鉄宮を囲む高い壁と深い堀に挟まれた細い道が続いており、街の中へと向かったのならその姿が見えるはずである。

 クラインは咄嗟に黒鉄宮の地下へと続く暗がりに目をやった。通路をブロックしていた4人の男たちは、ようやく先ほどの異変から立ち直ったところだった。

 

「おい、おめぇら! ユイちゃんそこ通ったか!?」

「わ、悪い、わかんねぇ……。妙な音のせいで、まともに立ってらんなくて……」

 

 1人が答えると、他の3人も頷いた。この場の全員の顔に焦りが浮かぶ。

 

「まずいです。もし1人でダンジョンの中に向かったんだとしたら……」

 

 ユイは戦闘用の装備品を一切身につけていない。バグの影響でプレイヤーレベルは確認出来なかったが、第60層相当の難易度と言われるこのダンジョンを単身で突破出来るとは思えなかった。

 先ほどの妙な現象のことも気になるが、今はまずユイのことだ。このままあの少女の身に何かあれば、アスナたちに顔向け出来ない。クラインはそう考えて、すぐにその場のプレイヤーたちに指示を飛ばした。

 

「とりあえず、トウジは他の奴らと連絡とって一応街の中を探してみてくれ! 他の奴は俺と一緒にダンジョンに入るぞ!!」

 

 クラインは返事も待たずにダンジョンへと向かって駆け出した。暗がりへと続く道を走りながら、彼はひたすら少女の無事を祈り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一閃、振り下ろされた。

 音も無く迫る、黒く巨大な鎌。いち早く反応したのはキリトだった。一瞬遅れて、俺とアスナもソードスキルを放って迎え撃つ。

 交叉する剣閃。打ち合わされた瞬間、複数の剣戟の音は同時に響いた。

 

 想像以上に重い手応えに、目を見開く。辛うじて攻撃を相殺するも、俺たちは大きく後方へと弾き飛ばされた。

 冷たい床を転がり、止まる。すぐに槍を構えなおしたが、幸い、相対する死神は不気味に沈黙していた。

 

「……3人がかりで、これかよ。洒落になんねぇぞ」

 

 戦慄とともに呟いた。

 鈍重な大型のボス相手ならばともかく、目の前の死神はボスとしては特別大きいわけではない。手にしている大鎌も重さで押し切るタイプの武器ではなく、高い切断判定と鋭さが強みの武器だ。それにも関わらず、3人合わせて放ったソードスキルを相殺され、力任せに大きく弾き飛ばされた。おそらく、相当なステータス差があるのだ。

 

 敵に注意を向けつつ、ちらりと隣を伺う。

 俺たちの中で唯一《識別》スキルを持つキリトならば、遭遇した敵のステータスやスキルを測ることが出来る。しかし、剣を構えるキリトの表情は固かった。

 

「あいつ、やばい。俺のスキルじゃステータスが全然見えない。多分、強さ的には90層クラスだ」

「90層って……」

 

 アスナが目を見開く。俺も息を呑み、槍を持つ手が強張った。

 第90層クラスのボスモンスター。アインクラッドの攻略がまだ第70層までしか到達していない現在、第1層のダンジョンでエンカウントする敵としては異常な強さだった。

 過剰なまでに安全マージンを取っている攻略組ならば絶対に対抗できない強敵というわけではないはずだ。しかしそれもフルレイドを組み、犠牲を覚悟した上で戦った場合の話だった。正規のタンクも居ない今の俺たちのパーティでは、まともにやり合える相手ではない。先ほど3人で敵の攻撃を弾いた方法も、それなりに知能の高いAIを積んでいるボスモンスターが相手ではそう何度も通用するものではなかった。

 

 何故こんな場違いなボスモンスターがここに居るのか。いや、今はそれよりもどうやってここを切り抜けるかだ。

 何か手はないかと考えるが、どうにも思考が鈍い。頭の中に靄が掛かってしまったかのようだった。この4日間、寝ずに探索を続けていたツケが今まわってきていた。

 

「……俺が囮になる。2人は奥のセーフティゾーンに走れ」

「1人じゃ無茶よ。私も残る」

 

 抑揚のない声でキリトが提案し、すかさずアスナもそう口にした。キリトは何か言いたげにアスナに目を向けたが、すぐに説得が無駄だと悟ると苦い顔で頷いた。

 

「いや、お前ら――っ」

 

 ハッとして、声を上げた。そんな提案など、到底許容できるはずもない。しかし俺が口を挟むより先に、静かに漂っていた死神が動き出した。

 薙ぎ払われる大鎌。今度は、回避を選択した。1人でまともに受け太刀すれば、耐えきれずに大ダメージを食らうだろう。

 

 紙一重で、大鎌が俺たちの鼻先を通過する。攻撃を空振った死神は、すぐに目の前のキリトに向かって再び大鎌を振り下ろした。

 スピードだけなら対処できないレベルではない。だが、このままではジリ貧なのは明らかだった。それを理解しているだろうキリトは、死神の攻撃をなんとか回避しながら俺の顔を見て、叫んだ。

 

「行けッ、ハチ! どっちにしろ3人一緒には逃げられない!!」

「でもっ……!!」

「お前は何のためにここに来たんだ!! ユキノさんを助けたかったんじゃないのか!!」

 

 キリトの言葉が俺の胸を衝いた。

 そうだ。雪ノ下。俺はあいつを助けるために、ここに来た。だが、そのためにキリトとアスナを見捨てるのか。

 答えの出るはずのない葛藤に、意識が朦朧としてくる。

 

「行って! ハチ君!」

「こっちは自力で何とかする! 俺たちを信じろ! 行け!!」

 

 2人の声が、頭に響く。俺は半ば思考を放棄するように駆けだした。雪ノ下の待つ、ダンジョンの最奥へと向かって。

 

 光の中に佇む、雪のような少女。普段のような鋭利な目つきはなく、今は焦った表情でこちらを見つめていた。

 生きて帰れたら、何と言葉を交わそう。お前に話したいことが、聞きたいことが、本当はたくさんあるんだ。

 

 そんな思考を、途中で振り切る。セーフティゾーンまでの道半ばで足を止め、俺は槍を構えて振り返った。

 キリトたちを狙う死神の虚ろな後姿が目に入る。そこを目がけ、思い切り槍を投擲した。

 投擲スキルは使用していない。しかし槍は吸い込まれるように死神の背中へとヒットした。軽微なダメージが発生し、死神がゆらりとこちらを振り返る。

 キリトとアスナが逃げるだけの時間を稼ぐのだ。セーフティゾーンまではまだ距離があるが、これ以上離れると俺の攻撃が届かない可能性が高かった。

 

 死神のターゲットがキリトから俺に移ったことを確認して、再び走り出した。武器を手放した分、速さは上がっている。それでも死神を振り切って雪ノ下の下まで辿り着けるかは微妙なところだった。

 走りながらポーチから2つの転移結晶を取り出し、空いた両手で握り締める。最悪、これをセーフティゾーンまで投げることが出来れば雪ノ下とシンカーは助かるはずだ。

 

 背後に、巨大な気配が迫った。追いつかれる。そう悟り、俺はすぐに転移結晶を放り投げた。2つの青い石は、硬い音を立てて雪ノ下の足元へと転がった。

 

 安堵する間もなく、頭上から振り下ろされる殺気。直感に従って、横に回避した。大鎌が地面を削り、火花を散らす。なおもセーフティゾーンを目指して走る俺を狙って、再度死神は大鎌を振るった。

 2度、3度、黒い刃が頬を掠める。死神に背を向けて走り続ける俺がそれを避けることが出来たのは、奇跡に近かった。しかし、そんな運が長く続くはずもない。

 セーフティゾーンまで、あと少しのところだった。死神の大鎌が、俺の右二の腕を浅く刈った。それだけで俺のHPバーは一気にレッドゾーンまで突入し、右腕が切断された。

 

 急に軽くなった右半身に、バランスを崩す。しかし、這いずるようにしてなんとか走った。やがて、意識が混濁してゆく。自分が生きているのか、死んでいるのか、それすらわからなくなった。それでも走り続けた。

 

 不意に、暖かい光が俺の体を包む。白く、狭い部屋。気付くと俺はそこに立ち、目の前には雪ノ下の姿があった。

 俺を見る雪ノ下の瞳が揺れる。酷い顔だ。今にも泣いてしまいそうな、弱々しい表情。

 

「あ、あなた、腕が――」

「雪ノ下……」

 

 手を伸ばす。もう大丈夫だと、言ってやりたかった。しかしそれは言葉にならず、視界が明滅する。足がもつれてよろめいた俺を、いつの間にか雪ノ下が抱き留めていた。

 温かい。ナーヴギアの電気信号が作り出す、偽りの温もりだ。だが、今ここで、彼女は確かに生きていた。

 張り詰めていた感情が急激に弛緩していった。同時に、長い間ずっとわだかまっていた心も解きほぐされてゆくような気がした。

 

「雪ノ下、俺のとこに……風林火山に、来い」

 

 朦朧とする頭で、うわ言のように呟いた。

 口をついて出たのは、多分ずっと前から心の奥底に沈められていた言葉。

 

「俺は、俺は……お前たちのこと――」

 

 意識が、遠く霞んでゆく。何を口にしたのか、自分でもわからない。ただ俺は、今腕の中にある確かな温もりを、強く抱きしめていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第44話 雪解け

 初めに気付いたのは、全身を包む異様な怠さと、硬く冷たい床の感触だった。

 次いで、何か柔らかくて温かいものが俺の頭を支えていることに思い至る。まどろみの中、身じろぎをすると、ふわりと甘い香りが立ち込めた。

 

「ハチ君? 気が付いたの?」

「……雪ノ下?」

 

 重い瞼をゆっくりと開けると、目の前にあったのは上下逆さになった雪ノ下の顔だった。

 互いの吐息が掛かりそうな距離である。俺はギョッとして身を固くしたが、対照的に雪ノ下は穏やかな笑みを浮かべて安堵したようだった。

 

 あの雪ノ下が、俺の顔を見て頬を緩めている。しかもこのアングル、いわゆる膝枕とか言われるシチュエーションである。え、これなんてエロゲ?

 混乱し、思考がフリーズする。しかしやがて気持ちが落ち着いて視野が広くなってくると、自分が白く狭い部屋にいることに気付いた。

 

 ここは、どこだ。

 壁と床を構成する石材は古めかしく、見覚えはない。淀んだカビ臭い空気は何処かの地下室のようで、まるでダンジョンの中に居るみたいな――。

 そこまで考えて、ようやく意識が覚醒する。その瞬間、俺は弾かれたように身を起こした。

 

「キリトとアスナは!?」

「落ち着いて。2人は無事よ。ただ……」

 

 顔を横に向けると、少し離れた位置にキリトとアスナの姿があった。2人ともHPバーは満タンである。しかしその事実に安堵するよりも先に、俺の頭の中は現在の状況に対する困惑でいっぱいになった。

 キリトたちの後ろに立っているのは、クラインを始めとする風林火山のプレイヤーたち。このダンジョンへと突入する段階で彼らとは別行動になったはずだ。それが何故かダンジョンの最深部であるこの場所まで至り、今は苦渋の表情を浮かべて佇んでいた。

 

「……なんでクラインたちがいるんだ? それに、あの死神は……」

「詳しいことは街に戻ってから話そう」

 

 疲れた顔でキリトが言った。俺はその時初めて、キリトの傍らに座るアスナが涙を流して泣いていることに気付いた。その手は何か大事なものを抱えるように、胸の前で強く握られている。

 セーフティゾーンの前には、あの死神の姿はなかった。何らかの手段を用いてあれを倒したのだろうか。しかし仮にクラインたちが援軍に来てくれたのだとしても、それだけであれを倒すことは不可能だったはずだ。

 

 そんな困惑を、ひとまず胸にしまい込む。雪ノ下とシンカーは生きていたし、今は差し迫って対処しなければならないことはない。キリトが街に戻ってから全て説明してくれるというのなら、それに従えばいいだろう。

 

 ゆっくりとそこまで考えて、立ち上がった。しかし未だ本調子とは言えない俺の体はその場で大きくふらついてしまい、隣に立っていた雪ノ下に支えられた。

 

「大丈夫?」

「あ、ああ……。いや、悪い」

「無理しないで。この数日、ろくに休んでいないのでしょう」

「いや、それ言ったらお前らの方が……」

「精々床が固くて寝苦しかった程度よ。保存のきく食べ物もいくらか持っていたし」

 

 こちらを見る雪ノ下の眼差しは柔らかかった。その態度には過去、俺に向けられていたようなとげとげしさは一切含まれていない。この状況では当然と言えば当然なのだが、どうにも居心地の悪さを感じてしまった俺は、すぐに雪ノ下から身を離して話題を変えた。

 

「あー……。これ、もしかして俺待ちだったのか」

「ええ。でも、あなたが気を失ってからまだ10分も経っていないわよ」

 

 体感的にはかなり眠ってしまったような気がしていたのだが、違ったらしい。それほど長い時間待たせてしまったわけではないことに安堵する反面、この数日ずっとダンジョン奥に閉じ込められて憔悴しているはずのシンカーや雪ノ下まで付き合わせてしまったことには若干の罪悪感が湧いた。

 

「案外時間経ってないのか……。けど、別にお前とシンカーまで待ってなくても――」

「あなたを置いて先に帰れるはずないでしょう」

 

 強い語調の雪ノ下に遮られて、俺は閉口する。少しの沈黙が場に降りた。やがて、雪ノ下が躊躇いがちに再び口を開く。

 

「その、ハチ君、さっきのことだけど……」

 

 さっきのこととは、俺が気を失う前の話だろうか。しかし、かなり記憶が曖昧だ。死神に右腕を切り飛ばされたところまでは何となく覚えているが……。そう思いながら右手に手をやると、そこには瑕疵ひとつない俺の右腕があった。気を失っている間に回復したのだろう。

 そんな俺を前にしばらく言葉を探すようにして俯いていた雪ノ下だったが、ややあって彼女は力なく首を横に振った。

 

「……いえ、やっぱりこれも街に戻ってからにするわ」

「え? あ、おう」

 

 なんだかよくわからないうちに、雪ノ下が言葉を引っ込めた。その意味深な発言に困惑する間もなく、立ち上がったキリトが全員の顔を見回しながら声を上げた。

 

「転移結晶は全員分あるみたいだ。ひとまず何処かの街に戻って、落ち着いて話そう」

 

 その場に居る全員が頷いた。

 クラインたちの重苦しい表情、アスナの涙、雪ノ下の意味深な態度。分からないことだらけだったが、シンカーと雪ノ下を助けるという当初の目的は達成できたはずだ。ひとまずはそう割り切り、俺は転移結晶を使ってダンジョンを後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 第62層に存在する風林火山のギルドホーム。その中でも会議などで使用される広めの一室だった。

 現在は虚ろの九天から帰還したグループにトウジとユリエールを含めたメンバーが一堂に会している。軍のギルドホームにはまだキバオウの手の者が潜んでいる可能性があったので、シンカーたちもひとまずこちらに身を寄せることになったのだった。

 

「ユイが、人工知能(AI)だった……?」

 

 思わず、聞き返していた。もたらされた事実に理解が追いつかず、俺は呆然とキリトの顔を見つめる。

 

「ああ。《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》、その試作一号、コードネーム《Yui》。それが自分だって話してくれたよ」

 

 キリトの説明は淡々としたものだった。周りの人間は暗い顔で俯くだけで、その言葉が嘘ではないということを否が応でも思い知らされた。

 この場で驚いた表情を見せていたのは俺、トウジ、ユリエールの3人だけである。既に他のメンバーは知っていたのだろう。俺が気を失っていた10分程度の時間に、何かがあったのだ。

 

 しかしユイがAIだったなどとは、にわかには信じられない。出会った当初はNPCである可能性も考慮に入れていたが、あの活発な少女に触れるにつれ、次第に人間であるということを疑わなくなっていた。

 それだけ高度なAIだった、ということなのだろうか。喜怒哀楽、その豊かな感情表現だけではない。誰かを思いやるような優しささえ持ち合わせていた。それはもはや、人間の持つ心と何も変わらないのではないか。

 

 それからキリトはユイについて知っていることを全て、順を追って説明してくれた。

 

 本来プレイヤーのメンタルケアを使命とするAIだったユイ。しかし彼女はSAOの正式サービスが開始された時点で、何故かカーディナル――SAOにおいて自動でゲームバランスの調整や、メンテナンスを行うシステム――によって「プレイヤーに対する一切の干渉禁止」という命令を下されてしまった。

 やむなくプレイヤーのメンタル状態のモニタリングだけを続けるユイだったが、デスゲームと化したSAOの中でプレイヤーたちの精神状態は最悪と言っていいものだった。それを目の当たりにしながらも自分の使命を果たすことが出来ないという状況の中で、彼女はエラーを蓄積させていった。

 

 そんな時、ユイは俺たち風林火山のプレイヤーを見つけたらしい。過酷なデスゲームの中でありながら良好な精神状態を保ちつつ、その活動によって他のプレイヤーたちにも安らぎを伝播させていくギルド。そうして彼女は俺たちに興味を持ち、接触を図りたいと思うようになったらしかった。

 蓄積されたエラーによって、その頃にはもうユイのプログラムは相当壊れていた。記憶は欠落し、言語能力も失われるほどのバグの塊だった。だがそれ故にカーディナルの命令を無視し、あの日第65層の雪原地帯で俺たちと接触を図ることが出来た。

 

 俺たちと過ごす時間は彼女にとって心地よいものだったようで、蓄積されていたエラーも緩やかに解消されていったらしい。それでも失われた記憶を取り戻すほどではなかったはずだったが、あることが引き金になってその事態は急変した。

 虚ろの九天。最奥に位置するセーフティゾーン。その小部屋の中央に存在していた黒い石は、GMがシステムに緊急アクセスするために用意されたコンソールだったらしく、それに偶然触れてしまった彼女は全ての記憶を取り戻したのだった。あの場所に場違いなほど強力なボスモンスターが配置されていたのも、そのコンソールを守るためだったらしい。

 

「……いや、ちょっと待て。そもそも何であの場にユイが居たんだ?」

 

 話の途中、俺は口を挟んだ。

 ダンジョンに突入する前に、外で待機するクラインたちにユイを任せて行ったはずだ。少なくとも俺が覚えている範囲ではダンジョンの中でユイの姿は見ていない。

 そう思ってクラインに目をやると、彼は辛そうな表情で頭を下げた。

 

「悪い。オレの責任だ……。オレがちゃんとユイちゃんを見てなかったから……」

「いえ、あれはあの場に居た全員の責任です。弁解の余地もありません」

 

 暗い表情でトウジも口を開いた。詳しく話を聞くと、どうやら俺たちと別れたしばらく後、俺たちを追うようにユイも1人でダンジョンに入ってしまったのだそうだ。

 

「ハチがセーフティゾーンに向かって走り出したのとほとんど同時に、ユイが来たんだ。ユイはそのままハチを追って行って……」

 

 慌ててユイを追いかけたキリトとアスナは、その後ボスモンスターの隙を突いてなんとか彼女をセーフティゾーンに避難させたのだと言う。そして、ユイは例のシステムコンソールに触れてしまったという訳だった。

 

「記憶を取り戻したユイは、システムに直接アクセスして死神を消し去ったんだ。そのおかげで俺たちは助かったんだけど……その時、ユイはカーディナルにゲーム内の不具合として感知されてしまったんだ」

「じゃあ、ユイちゃんは……カーディナルに、消されてしまったんですか……?」

 

 震える声でトウジが言った。

 SAOを根幹から支えるシステムである、カーディナル。感知した不具合を、何もせずに放置しておくはずがなかった。

 俺がダンジョン内で意識を取り戻した時の、あの重苦しい雰囲気。涙を流していたアスナ。今の話を聞く限り、それの意味するところは明確だった。何より、今この場にユイの姿がない。

 ユイは、消されてしまったのだ。その結論に至り、俺はテーブルの下で強く拳を握りしめた。しかし俺の前に座っていたアスナは、穏やかな顔で首を横に振った。

 

「ユイちゃんは、生きているわ」

 

 言って、アスナはその手で握り締めていたものをそっと俺の前に差し出す。彼女の白い手のひらの上に置かれていたものは、大きな涙の形をしたクリスタルだった。複雑にカットされた石の中央では、とくん、とくんと白い光が瞬いている。

 

「これは……?」

「ユイの心だ」

 

 言ったキリトの顔に視線を向けると、彼はアスナの手の中にあるクリスタルを慈しむように見つめていた。

 

「ユイが起動したシステムコンソールの管理者権限が切れる前に、ユイ本体のプログラムをどうにかシステムから切り離してオブジェクト化したんだ。今は話したりすることは出来ないけど……あの子は確かにそこで生きてる」

 

 さらっと何やら凄いことを口にするキリト。コンピュータ関連に造詣が深いことは知っていたが、その知識や技術は俺の想像以上のものだったようだ。

 

「それにSAOがクリアされた時には、クライアントプログラムの環境データの一部として、俺のナーヴギアのローカルメモリに保存されるようになってる。容量ギリギリだったけどな。頑張れば、きっと向こうでユイとして展開させることも出来るはずだ」

 

 理系用語バリバリの内容に、もはや俺には半分以上何を言っているのかわからなかった。それでも、ユイが無事だということは何となくわかる。今の俺にはそれだけ分かれば十分だった。

 

「だから、クラインたちも自分を責めなくていい。多分、遅かれ早かれユイはカーディナルに見つかってたんだ。むしろこのタイミングじゃなかったら、ユイの心をこうして残せなかったよ」

 

 キリトは話をそう締めくくり、クラインたちを見た。彼らはばつの悪い顔を浮かべつつも、やがては小さく頷いたのだった。そして少しだけ、部屋の中の空気が軽くなった。

 

 次いで、シンカーと雪ノ下が改めて今回の救出についての謝辞を述べ始める。しかしユイについての話も終わり、一気に気が緩んでしまった俺は途端に猛烈な眠気に襲われていた。

 襲い来る睡魔に懸命に抗いながらも、やがてうつらうつらと舟をこぎ始めてしまう。数秒後、はっとして顔を上げると、苦笑いを浮かべるトウジと目が合った。

 

「ハチさんも限界みたいなので、あとのお話は後日改めてということにしましょうか。シンカーさんとユキノさんも疲れているでしょうし」

「だな。ほら、ハチ。部屋まで行くぞ。ここで寝るなよ」

 

 言って、キリトが俺の肩を担いだ。

 そのあと最後の力を振り絞って、なんとか自室まで辿り着いた。部屋に入るや否や、戦闘用の装備をキリトに乱暴に引っぺがされ、俺はベッドへと放り投げられる。雑な扱いに対して抗議の視線を向けたが、当のキリトは穏やかな表情でこちらを見下ろしていた。

 

「お疲れさん。起きたら、ちゃんとユキノさんとも話しろよ」

 

 そう言葉を残し、キリトは部屋を出て行った。

 

 雪ノ下、か。

 誰も居なくなった部屋で、小さく呟いた。

 

 先ほどまではユイのことで頭がいっぱいになっていたが、それまでここ数日はずっと雪ノ下と奉仕部のことばかり考えていた。

 今さら、ただの知り合いなどとうそぶくことは出来ない。俺にとって雪ノ下雪乃という存在がどういった意味を持つのか。それを思い知らされた。

 

 だがそれも、俺の心の中だけでの話だった。今回の件で俺たちの関係が何か変わったわけではない。律儀な雪ノ下のことだからしっかりと礼は言うだろうし、何かしらの形で恩を返そうとするかもしれないが、それだけだ。

 今はそれだけでいい。全ては、現実世界に帰ってからだ。

 

 それまで《軍》のギルドに雪ノ下を置いておくことは不安があるが、俺が口を出せるような問題ではない。今回のことでキバオウが放逐、あるいは監獄エリアに投獄されることになれば《軍》内部の環境もましになるだろうし、今はそれで良しとしよう。

 

 ゆっくりと、目を閉じた。数日ぶりのベッドの感触が心地よい。ダンジョンの奥底から帰ってきた雪ノ下も、今頃同じように安らぎを感じているだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えているうちに、意識が深く沈んでゆく。そうして俺は、泥のように眠りについたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 連日の無理が祟ったのか、シンカーと雪ノ下の救出作戦後、俺はしばらくギルドホームで睡眠と食事だけの日々を繰り返した。合間にシンカーやユリエール、雪ノ下が見舞いがてら謝礼に訪れたがまだ体も本調子でなかったため、事務的なやりとりがあっただけだ。

 

 《軍》のその後について聞いたところによると、キバオウとその側近数名は殺人未遂の罪状により監獄エリアへと投獄され今回の事件はほぼ収束とあいなったようだ。

 一部のシンパからは熱烈な支持を受けていたキバオウだったが今回の殺人未遂が明るみに出たことによって急速にその力も弱まり、当のキバオウ自身も牙を抜かれたように大人しくなってしまったことも重なって事後処理は呆気ないほど順調に進んでいるらしい。混乱した軍内部を再び掌握するにはまだ時間が掛かるそうだが、当面は大きな問題はないようだった。

 

 そうしてさらに数日が過ぎ、俺もそろそろ攻略に戻らなくてはならないかと思い始めた頃だった。

 時刻は午前9時過ぎ。夜型のプレイヤーが多いアインクラッドではそれなりに早い時間帯だと言えるが、風林火山に限って言えばもっと早くから活動を始めているのでこの時間になるとギルドホームにはほとんど人は残っていない。料理担当のギルドメンバーも買い出しやらなにやらに出かけているはずなので、そんな時間まで寝過ごしてしまった俺は朝飯は厨房から適当に残り物でも漁るかと考えてダイニングへと足を運んだのだった。

 しかし、俺はそこで意外な人物と遭遇する。

 

「あら、おはよう。今、朝食を用意するわ。食べるわよね?」

「……え、あ、うん」

「じゃあ適当な席に着いて待っていて貰えるかしら」

 

 そう言って厨房へと向かったのは、今は《軍》に所属しているはずの雪ノ下雪乃である。

 混乱するこちらを他所に、彼女は手際よく俺の分の朝食を用意してテーブルに並べ始めた。具だくさんのサンドイッチに、サラダとスープ。最後に紅茶を淹れて俺の前に差し出すと、彼女は当然のように向かいの席へと腰を下ろした。

 

「どうぞ。熱いから気を付けてね」

「お、おう。サンキュー……って、いや、なんでお前ここにいんの?」

 

 若干ノリ突っ込みのようになりながら、ようやくその疑問を口にした。俺からすればその問いは至極真っ当なものだったのだが、しかし雪ノ下は呆れたような眼差しをこちらに向ける。

 

「何を寝ぼけたことを言っているの? あなたが言ったんじゃない。『風林火山に来い』って」

「……」

 

 身に覚えのない台詞である。

 ……いや、違う。実は心当たりがないこともない。虚ろの九天の最深部で雪ノ下と合流した時、内容までは覚えていないのだが、朦朧とする意識の中で何かこっ恥ずかしい台詞を口にしたような気がしていたのだ。

 言葉に詰まる俺の様子を見て、雪ノ下はため息を吐いてやれやれと首を振った。

 

「やっぱり覚えていなかったのね……。まあ、そんなことだろうとは思っていたわ」

「……ホントに、俺が言ったのか?」

「ええ。疑うならシンカーさんにも証言して貰えるけど?」

「いや、大丈夫っす……」

 

 言って、俺は居心地の悪さを誤魔化すように食事へと手を伸ばした。雪ノ下は素知らぬ顔で自分の分の紅茶を淹れ、寛いでいる。もさもさとサンドイッチを咀嚼しながらその様子を伺っていた俺は、ゆっくりと思考を巡らせた。

 雪ノ下がこんなくだらない嘘を吐く奴ではないということはよくわかっている。だからその証言通り、きっと俺が彼女を風林火山へと勧誘したのだろう。そして今彼女がここに居るということは、つまりそれを承諾したと言うことなのか。

 

「えっと……じゃあ、今お前うちのギルドメンバーなのか?」

「ええ。でも、知らなかったの? あなたにはクラインさんが伝えてくれたと聞いていたのだけれど」

「いや、聞いてないぞ……。くそっ、面白がって黙ってたな、あいつ……」

「なるほどね。ふふっ、つまりドッキリ成功ということかしら」

「お前な……」

 

 俺は抗議の視線を向けたが、いたずらっぽい笑みを浮かべる雪ノ下に毒気を抜かれてしまい、力なくため息を吐いた。

 食事を勧めながら、そうしてやり取りを交わす。全く予想していなかった展開に最初こそ動揺したが、しかし落ち着いて考えれば別に悪いことでもなかった。

 いや、正直に言えば、むしろ俺はほっとしていた。今回のような事件が起こってしまったことで、このまま雪ノ下を《軍》へと置いておくことに不安を覚えていたからだ。風林火山に居れば絶対安全などと言うつもりもないが、俺が全く知らない間に危険に巻き込まれているという事態は避けられるだろう。

 

 それに、ギルドとしても雪ノ下のような有能なプレイヤーが加入することは歓迎すべきことだ。戦闘行為が出来ないとはいえ、彼女の事務処理能力の高さは折り紙付きである。慢性的に人手不足に陥っている風林火山にとって、今後大きな力となるだろう。

 だが、逆に言えば《軍》はそんな人材を手放してしまったということでもある。期せずして雪ノ下を《軍》からヘッドハンティングしてしまった形になるのだが、ちゃんと向こうと話がついているのか少し気になった。

 

「けど、よくシンカーが許したな。つーか、お前もそれでいいのかよ」

「シンカーさんはむしろ快く送り出してくれたわよ。私自身も風林火山で働くことに不満はないし、それに――」

 

 言いながら、雪ノ下はどこか遠い目をして視線を伏せた。

 

「あなたが私たちを助けに来てくれた時……あの時のあなたにはどこか鬼気迫るものを感じたわ。認めたくないけど、私が圧倒されるほど。だから頷いてしまったのよ。あの時、あなたの誘いに」

 

 不意に顔を上げた雪ノ下の、2つの大きな瞳が俺を捉える。その時彼女は、はっとするほど穏やかな笑顔を浮かべていた。

 

「知ってる? 私、暴言も失言も吐くけれど、虚言だけは吐いたことがないの」

「……そうかよ」

 

 一言、そう返すのが精一杯だった。いつかのやり取りの焼き増し。しかしその時に比べて随分と吹っ切れたように思える雪ノ下の表情は、とても眩しく感じた。

 

「改めて、言わせてもらうわ。ありがとうねハチ君。助けてくれて」

 

 言葉に詰まる俺に畳みかける様に、雪ノ下が礼を口にする。不意打ちでそれは反則だろう……。そう思いながら、俺は視線を逸らした。

 

「……別にいいっつの。もうギルドを通して礼は受け取ってるし」

「それは形式的なものでしょう。これは私からあなたへの個人的なお礼よ」

「それこそ無駄な気ぃつかうなよ。俺個人でやったことじゃないし、別にお前だから助けたってわけでもないし」

「そう……。でも、あの時のあなたの言葉は、間違いなく私に向けられていたわ」

 

 言って、雪ノ下は大きく息を吐いた。

 彼女の言う、俺が口にした言葉とはいったい何なのだろうか。いまいちダンジョン内でのやり取りを思い出せない俺はそれを歯がゆく感じながらも、黙って雪ノ下の話に耳を傾ける。

 

「あのダンジョンの奥に閉じ込められて……私はここで死ぬのかもしれないと思った時、色々なことを考えたわ。家のこと、学校のこと、由比ヶ浜さんのこと、そして……あなたのこと」

 

 その言葉に、俺の鼓動は波打つように早くなった。動揺を悟られぬように目を伏せたが、雪ノ下は気にした様子もなく言葉を続ける。

 

「学校での、あの生徒会選挙の後。私たちの関係が狂い始めた時、その程度で終ってしまう関係なら、そこまでのものだったのだと割り切るつもりでいたわ。本当に望むものが手に入らないのなら、いっそ突き放してしまおうとさえ思っていた」

 

 語られたのは、かつての彼女の思い。それは正しく俺の知る雪ノ下雪乃の姿そのもので、いっそ無慈悲と言えるまでの彼女の頑なさに胸が締め付けられた。

 かつての俺ならば、きっとその強さに憧れを抱いただろう。俺もそうありたいと願ったことだろう。でも、今の俺は――。

 

「でもね、あの暗く深い穴の底で自分の死を近くに感じ取った時、そのことをとても……とても後悔したの」

 

 ハッとして、雪ノ下に目をやった。力なく視線を伏せる彼女からはかつての強情さは感じられず、まるで見知らぬ少女がそこに座っているのかのような錯覚を覚えた。

 

「あの時の私は、つまらない見栄に囚われて本当に言いたかったことも、本当に聞きたかったことも、何ひとつ言葉に出来なかった。言わなくてもわかってもらえる、聞かなくてもわかっている、そんな関係に憧れて……」

 

 独白するように語る雪ノ下の言葉は、まるで自分のことのように胸に落ちた。俺たちはきっと、心の底では同じものを求めていたのだ。それが、いつしか何処かですれ違ってしまった。

 

「でも、そんなのは全て詭弁だったのよ。私は、ただ逃げていただけ。自分の本当の気持ちを言葉にすることが怖かったから。言わなくてもわかって欲しい、聞かなくても理解したい……まるで子供の我儘ね。でもあの時の私はそれこそが私の求める関係だと……上部だけの薄っぺらいものじゃない、本物の関係だと思っていたの。けど、違った。そんなものは私にとって都合のいいだけの関係だった」

 

 過去の自分を責め立てる雪ノ下の言葉は、そのまま俺の心にも突き刺さった。

 

「理解して貰おうとする努力も、理解しようとする努力も放棄して、本物の関係なんて手に入るはずがない。対価を支払わずに手に入るものに価値があるはずがないもの。きっと私は……私たちは、痛みを厭わずもっと正面からぶつかり合うべきだったんだわ」

「……そうかもな」

 

 脱力するように頷いた。紆余曲折を経て、ようやくたどり着いた答えはそんな当たり前のことだった。

 慣れ合い、群れることは弱さだと嘯き、他人に頼らず、求めず、独りで立ち続けることが正しさだと思っていた。今でもその全てが間違っているとは思わない。だが、過去の俺はそれを都合のいい言い訳にして、自分の心から逃げていただけだ。本当の気持ちをさらけ出すのが怖くて、耳触りのいい理由を盾に自分の殻に閉じこもった。

 

「もう随分遅くなってしまったけれど……私も、もう逃げないわ。だから以前あなたに言われたこと、今度は私から提案しようと思うの」

 

 顔を上げた雪ノ下の面持ちには強い意志が宿っているように思えた。普段の俺ならばすぐに目を逸らしてしまうだろう、真っ直ぐな瞳。俺は息を呑んで、その視線を正面から受け止めた。

 

「私、奉仕部(あの場所)が好きだった。あなたと、由比ヶ浜さんがいる奉仕部(あの場所)が。あれからどれだけ時間が経っても、その気持ちは変わっていないわ。だからもしこの世界から生きて帰ることが出来たら、3人で話をする機会が欲しい。もう1度、私たちの関係を始めるために」

「……ああ」

 

 瞑目し、頷くことしか出来なかった。

 奉仕部(あの場所)が好きだったと雪ノ下が口にした瞬間、俺の胸の内からは様々な感情が溢れ出そうになった。歓喜、悔恨、自責、羞恥……ごちゃ混ぜになった感情の奔流を押し留めるためにただ頷いた。

 

 かつて俺が憧れを抱いた少女。孤高で迷いなど微塵も感じさせぬ凛々しい姿。しかしそんな彼女にも弱さはあった。いつかは身勝手にもそれに失望しかけたこともあったが、今はその瑕疵すらも愛おしく感じる。そして弱さを自覚し、それを克服しようとする彼女の芯には確かな強さがあった。

 俺は雪ノ下のことをまだ何も知らなかったのだなと、自嘲するように感じ入った。そしてそれはきっと雪ノ下のことだけではない。単純そうに見える由比ヶ浜にも、まだまだ俺の知らない部分が沢山あるのだろう。

 この世界から生還することが出来れば、もう1度彼女たちを知る機会を与えられるかもしれない。雪ノ下と由比ヶ浜にその意思があるのなら、もう俺に迷いはなかった。

 

 大きく息をついて、妙に清々しい気分で顔を上げる。まだスタートラインにすら立っていないのに、俺の心の中にあったわだかまりはもはや綺麗に無くなっていた。すべきことが明確に存在し、既に腹も括っているからだろう。

 まあ奉仕部の3人でもう1度話したところで、過去の問題がすんなりと解消するとまでは思っていない。俺自身譲れないことはあったし、雪ノ下と由比ヶ浜だってそうだろう。きっと、ぶつかり合うことになる。それでも俺たちが心の底で同じものを求めるなら、何処かで折り合いを付けることが出来るはずだ。

 

 場には温かい沈黙が流れていた。雪ノ下が淹れてくれた紅茶に口を付けながら俺はその穏やかな時間にしばらく身を任せていたが、対面に座る雪ノ下はニコリとわざとらしい笑顔を浮かべ、口を開く。

 

「言質は取ったわよ? 過去のことはもう私の中で折り合いはついているし、こちらにも非があったことは認めるけど、それでもあなたには言ってやりたいことが山ほどあるわ。覚悟しておいてね」

「……え? あれ? ここってそういうノリなの?」

 

 この場はなんかいい感じにふんわり終わるのかと思っていたが、しかし雪ノ下はそう甘くなかったようだ。俺が狼狽えながら言葉を返すと、雪ノ下は軽く吹き出すようにして小さく笑った。

 いや、まあ、腹は括っている。大丈夫だ、問題ない。そう自分に言い聞かせるように考えながら、キリキリとした胃の痛みを誤魔化すように紅茶を飲み下した。

 

「……ごっそさん。飯、美味かった」

「そう。お粗末様でした」

 

 やがて食事を終えた俺は食器を重ねて傍らのトレイに載せる。今度こそこの話も終わりだろう。そう思い、俺はトレイ片手に席を立ったが、しかし雪ノ下は呼び止める様に「そう言えば」と声を上げた。

 

「先にこれだけはあなたに伝えておこうと思うの。あなた、いつ死んでもおかしくないような生活をしているみたいだし」

「縁起でもねえこと言うなよ……」

 

 いや、自覚はあるけどな。キリトやアスナがいなければ多分10回くらいは死んでる自信がある。

 しかし、改まって今伝えておきたいこととは何だろうか。雪ノ下のことだ。恐ろしい罵詈雑言が飛んでくることも覚悟しなければならないかもしれない。しかし過去のことは色々とやらかした自覚もあるので、非難は甘んじて受け入れるべきだろう。

 内心そうして構えながら、俺は雪ノ下の続く言葉を待った。しかし当の雪ノ下は彼女らしくない少しの逡巡を見せた後、やがて頬を薄く赤らめながら口を開いたのだった。

 

「私、あなたのこと好きみたい」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第45話 宴会の片隅で

 風林火山のギルドホームが存在する第62層の気候設定は、現実世界の四季と連動している。今年ももう10月に入り、長く続いた残暑も秋の風に押し流されるようにしてようやく過ごしやすい時節となって来ていた。この数日は天気もよく、絶好の行楽日和である。

 

 そんなある日のギルドホームに併設された広大な牧場。家畜も居らず、普段はギルドメンバーの戦闘訓練くらいにしか使われていないこの場所だが、今はその一角に様々な料理が用意されたテーブルが並び、即席のパーティー会場となっていた。

 会場には既に多くのプレイヤーが集まっている。風林火山の面々に加え、シンカーやユリエール、月夜の黒猫団、サーシャさんやその保護下の子供たちの姿もあった。

 全員の視線の集まる先、会場の前方に設置された台の上には柄にもなく真面目な顔をしたクラインが立っている。右手にはビールらしき液体が並々と注がれたグラスが握られており、軽く一礼をしてから挨拶を始めた。

 

「えー、この度は皆さんお集まりいただきありがとうございます。本日はお日柄もよく……」

「うわっ、クラインが真面目な話してやがる! 気色悪ぃ!!」

「堅苦しい挨拶なんていらねぇんだよっ!」

「そうだそうだ引っ込めー!」

 

 クラインの言葉を遮って、集まっていたプレイヤーたち――主に風林火山の男たち――の野次が飛んだ。俺の隣に座っていたトウジも「今日は赤口なのであまりお日柄もよくないですしね」などと冷静に呟いている。

 

「うっせーな! オレだってたまにはビシッと決めることもあんだよ! ……あー、もういい!」

 

 先ほどの真面目な雰囲気は何処へ行ったのか、ガシガシと頭を掻いたクラインは開き直るようにいつもの口調で話を始める。

 

「あー、今日はユキノさんとアスナの歓送迎会やらハチの快気祝いやらをまとめたパーティってことで、みんな楽しんでいってくれ。ホントはちゃんと別々にやりたかったんだけどよ、時間と予算の関係でまとめてってことになっちまった。勘弁な」

 

 言って、クラインは本日の宴席の主役である雪ノ下、アスナ、そして俺、比企谷八幡が並ぶテーブルへと視線を移した。

 クラインの言う通り、今日のパーティは2人の歓送迎会やら俺の快気祝いやらを兼ねた催しである。ダンジョン《虚ろの九天》を攻略してからの数日間、その疲労からずっと寝込んでいた俺だったが、先日ようやく槍を持って戦えるまでに回復した。そんな俺の快気祝いも兼ねているという話だが、まあ正直なところそれはおそらくオマケ扱いだろう。メインは雪ノ下とアスナの歓送迎会である。

 

 先日、正式に風林火山へと加入することとなった雪ノ下のことについては今さら補足することもない。今日のパーティにシンカーとユリエールが出席しているところを見るに、本当に《軍》からの脱退についてはなんの問題もないのだろう。

 対して、アスナはしばらく籍を置いていた風林火山から離れ、血盟騎士団へと戻ることになっている。始めから一時的に休養を取るためという名目でうちのギルドに預けられていたので、その期限がやって来たというだけだ。

 

 歓迎会と送迎会を同時にやるのってどうなの? と少し思わなくもないが、クラインの言っていた通りそこは時間と予算の関係でやむを得ずといったところである。娯楽の少ないこのSAOの世界では何かと理由を付けて宴会が開かれることが多いのだが、うちのギルドに至ってはあまり自由に使える金も時間もないのでそう頻繁にこういった席が設けれられることはない。

 

 その辺りのことをよく理解している雪ノ下とアスナの2人は、申し訳なさそうに頭を下げるクラインを見て首を横に振った。

 

「いえ、風林火山の皆さんがご多忙なのは承知していますから。むしろお忙しい中こういった席を用意して下さってありがとうございます」

「うん。私も、ここにいる間にもう随分よくしてもらったし……ありがとうね」

「ああ、そう言ってもらえると助かるぜ」

 

 2人のフォローに表情を軽くしたクラインが、気を取り直して右手のグラスを高々と掲げる。

 

「じゃあそろそろ始めるか! みんな、グラスは持ってんな? じゃあ、カンパーイ!」

 

 クラインの声に応じるように、プレイヤーたちがグラスを掲げて声を上げる。そうして風林火山主催の立食パーティーが始まったのだった。

 

 

 

 

 

 

 ――人の中にいるときには孤独を感じるが、自然の中を歩くときは寂しいとは思わない。

 

 ある海外の作家が残した言葉である。これはぼっちの真理を的確に表している格言だと俺は思う。人の中にあってこそ、ぼっちはぼっちたりえるのである。

 

 危機的な状況を除き、周囲に誰もいない環境を心細いと感じるのは未成熟な子供だけだ。多くの人は1人で過ごせる時間こそを安らぎと感じているだろうし、それでなくともどんな人間にも1人になりたい時というのは存在するものである。仕事の昼休憩などは1人で過ごしたほうがストレス値が下がるとテレビで偉い人も言っていたし、これはつまり多くのぼっちが行っている便所飯というのは医学的に見ても非常に理にかなった行為だということ……かもしれない。

 

 まあそんなわけで1人で過ごす時間というのは決して悪いものではないし、それを孤独とは呼ばない。真の意味での孤独とはもっと社会的で抽象的な孤立である。人の中にあり、そして相容れぬ他者と対面してこそ、人は本質的には自分が独りであるということを思い知らされるのだ――と、小難しい言葉を並びたててはみたものの、今ここで俺が言いたいことは至極単純だったりする。

 

「……帰りたい」

 

 パーティ会場の端っこで身を縮こまらせながら、俺はため息交じりに呟いた。

 少し考えればわかることだったのだ。青空の下で立食パーティーなんて言うリア充を絵に描いたようなイベントに、俺が馴染めるはずもないということに。

 別に誰が悪いということでもない。自然と人の輪から外れてしまうからぼっちはぼっちと呼ばれるのである。この世界で過ごして多少マシになったとは言え、未だぼっちを自称する俺も例に漏れず人の輪から外れていた。

 

 パーティー会場の端っこで1人寂しくチビチビとグラスを傾ける俺はまさに壁の花……いや、雑草か。そもそも適当な野外会場だから壁も何もないんだけど。なんてくだらない思考で暇を潰しながら、ただただ時が過ぎるのを待つ。

 余りの手持ち無沙汰にシステムウインドウを開いてみるが、そこに表示された時間を見るとまだパーティーが始まってから10分ほどしか経っていなかった。マジかよ……体感じゃもう1時間以上1人で突っ立ってた気がするんだけど……。

 

 そうして打ちひしがれる俺の足元に、不意に影が差す。顔を上げると、もう随分と見慣れた童顔の少年、キリトと視線が合った。キリトは手に掴んだ鶏肉をもっしゃもっしゃと咀嚼した後に飲み下し、こちらに声を掛ける。

 

「辛気臭い顔してるな、ハチ。食わないのか?」

「いや、なんかあっち人多いし……」

「何言ってんだ。みんな今さら知らない仲じゃないだろ」

 

 キリトが呆れたような目でこちらを見る。いや、確かにその通りなんだけど、それはギルドでの事務的な付き合いがほとんどだし、俺が個人的に話が出来るかどうかはまた別問題というか。自分、仕事とプライベートは分けるタイプなんで……。

 まあそれとはまた別に、俺には人混みを避けている理由があった。今少し会いたくない相手と言うか、気まずくて顔を合わせたくない相手がいるのだ。先日ちょっとした事件が起こり、以来俺はその人物との接触を避けている。

 そんなことを考える俺の後ろから、不意に大きなため息の音が響いた。

 

「あなた、よくそんな調子でギルドになんて入れたわよね」

「あ、ユキノさん」

「――ぶふっ!?」

 

 ちょうど今頭に思い浮かべていた人物がそこに現れ、驚いた俺は飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。

 振り返ると、いつの間にか俺のすぐ後ろに立っていた雪ノ下雪乃と目が合う。俺は気まずさからすぐに目を泳がせたが、対する雪ノ下は特に思うところもなさそうで真っ直ぐにこちらを見つめたまま再び口を開いた。

 

「あなたが好きそうなものをいくつか見繕ってきたわよ。食べる?」

「え? あ、お、おう?」

 

 差し出されたプレートには、確かに俺の好きなものが盛られていた。まさか俺のために取ってきてくれたのかという驚きと、子供舌で割と分かりやすい好みをしているとは言え、あの雪ノ下が俺の好物を把握しているという事実に、俺は戸惑いを隠せなかった。

 

「何を驚いているの? 私、こう見えて好きな相手には案外尽くすタイプなのよ」

「え、好きってどういう……」

「ちょっ、おま……!? こっちこい!」

 

 恐ろしいことを口走った雪ノ下に、キリトが反応する。しかし俺はそれを振り切って雪ノ下をその場から連れ出したのだった。

 パーティの人の群れからさらに離れ、人気のない場所で雪ノ下と向かい合う。俺の恨みがましい目線に気付いたのか、こちらが文句を言う前に雪ノ下が口を開いた。

 

「別に隠すようなことでもないでしょう」

「お前ってそんな男らしい奴だったっけ……」

「そう言うあなたは女々しいわよね。そんなところも嫌いじゃないけれど」

「……」

 

 ずけずけと物を言う彼女に圧倒され、閉口してしまう。べ、別に照れてるわけじゃねぇし……。

 

「まああなたが知られたくないというのならなるべく黙っておくわ。私もあえて言い触らそうとは思わないし」

「……ああ、そうしといてくれ。俺の精神衛生のために」

 

 一拍の間を置いて、そう返すのが精一杯だった。妙な疲労感にため息を吐きそうになったが、一息いれる間も無く遠くのクラインがこちらを呼ぶ声が届く。

 

「うぉい! なに2人でイチャイチャしてんだよ! オレも混ぜろー!!」

 

 普段からうざいほどのテンションで絡んでくるクラインだが、今日はそれにさらに輪をかけて喧しい。あいつ、早速酔ってやがるな……。

 先ほどとはまた違う意味でげんなりとしつつ、俺は今度こそ大きくため息を吐いた。

 

「じゃあ、戻りましょうか」

「……ああ」

 

 頷いて、踵を返す。雪ノ下の柔らかい眼差しから目を逸らしながら、どうしてこうなってしまったのかと、俺は先日の出来事について想いを馳せていた。

 俺たちの関係を決定的に変えてしまった、あの日のやり取りを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私、あなたのこと好きみたい」

 

 ギルドホームのダイニング。雪ノ下が風林火山へと加入することを告げたその日、そのまま彼女は衝撃の言葉を口にした。

 空になった食器を持って席を立とうとしていた俺は、妙な体勢のまま身体が固まってしまう。対面に座る雪ノ下の頰は、仄かに赤く染まっていた。沈黙の中、お盆を持つ手が震え、乗せられた食器がカチャリと音を鳴らす。

 

「一応誤解のないように言っておくけれど、異性として、という意味よ。多分、ずっと前から惹かれていたのよ。似た者同士だと思っていたはずのあなたが、私にはないものを沢山持っていたから……。あなた自身は気付きもしなかったでしょうけど」

 

 呆気に取られたまま、話を聞いていた。ぽかりと口を開けたまま硬直する俺は雪ノ下の目には相当間抜けに映っただろうが、彼女はちらりと俺の目を見たかと思うと、恥じらうように目を伏せるだけだった。……え、なに、この可愛い生き物。

 多分、雪ノ下もいっぱいいっぱいなのだろう。そう思い至ると、少しだけ気が落ち着いてきた。そうして多少冷えた頭で、ゆっくりとこの状況について考える。

 

 ――私、あなたのこと好きみたい。

 

 耳から離れない、雪ノ下の言葉。

 何かの間違いだろう、と思った。俺と、あの雪ノ下雪乃である。釣り合いが取れるはずもなかった。

 彼女の言葉を疑おうというわけではない。罰ゲームか何かで嘘告白なんて、あの雪ノ下がやるはずもないことは俺もよく分かっている。雪ノ下は俺が信用できる数少ない人間だった。

 だが、それでも。

 

 ――それでも俺は、恋愛というものを信じることができない。

 

「……安心して。別にあなたの返事が欲しいわけじゃないの。少なくとも今は」

 

 深い思考の渦に沈みかけた俺を、雪ノ下の声が引き戻した。顔を上げると、彼女は何かを諦めたような表情でこちらを見つめていた。

 

「あなたの言いそうなことくらい予想がつくもの。どうせ吊り橋理論だとか、一時の気の迷いだとか言って認めないつもりでしょう?」

 

 否定の言葉は、出てこなかった。

 むしろこのタイミングでそれを疑うなという方が難しい。先日のキバオウによるポータルPK事件、その危機から脱した安心感と高揚感、それを俺への好意と勘違いしてもおかしくない。嘘や虚言を嫌う雪ノ下にも、思い違いはある。

 吊り橋理論、ゲレンデマジック、その類の現象だ。よしんばそうでなかったとしても、既に2年近くもSAOに閉じ込められているというこの異常な状況下で、こと恋愛という繊細な問題に対し今の俺たちが正しい答えを出せるとは思えなかった。

 

「私は一時の熱に浮かされているわけでも、感謝と好意を混同しているわけでもないわ――なんて口で言っても、あなたは納得出来ないのでしょうね」

 

 言って、雪ノ下は目を伏せて立ち上がった。右手で髪を耳に掛け、その場で姿勢を正した彼女はやがていつも通りの凛とした視線をこちらに向けた。

 

「だから、今は返事はいらないわ。これも現実世界に帰ってから、また落ち着いて話をしましょう」

「え、あ、ああ」

 

 有無を言わさぬ雰囲気の雪ノ下に圧倒され、頷いた。

 しばらくこちらを見つめていた雪ノ下は、やがて空気を変えるように1つ息を吐くと、呆然と立ち尽くす俺の横へと歩み寄り「私が片付けるわ」と口にして食器の乗ったお盆を手に取った。そして彼女は自分の使っていたティーカップもその上に乗せると、そのままこちらに背を向けて厨房へと向かって行ってしまう。

 

「ああ、でも」

 

 しかし何か思い出したように声を上げて、雪ノ下は扉の前で立ち止まった。ゆっくりとこちらに振り返りながら、言葉を続ける。

 

「ここに居る間、もう何もしないというわけではないわよ」

 

 瞬間、目が合った雪ノ下が笑みを浮かべる。その笑みは好戦的で、嗜虐的で――それでいて、蠱惑的な妖しさを纏っていた。

 

「私がどれだけあなたのことを好きなのか……。嫌と言うほど、分からせてあげるわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの、ハチ君と何かあったんですか?」

 

 宴もたけなわを過ぎ、人もまばらになったパーティー会場。そんな中、アスナは周囲に人の居なくなったタイミングを見計らってユキノに問いかけた。

 以前から気になっていたことである。最近、ユキノに対するハチの態度は明らかに妙だった。ダンジョンからユキノを救い出した直後は2人とも普通に言葉を交わしていた覚えがあるので、それ以降に何かがあったのは確実だとアスナは思っていた。

 

 そうは気付いても、普段のアスナならば不用意に他人のプライベートに踏み込むような質問はしなかっただろう。ユキノとはそれほど親しい間柄というわけでもない。

 それでも今日この問いを口にしてしまったのは、嫉妬や焦燥、自身の心の底に巣くうそんな仄暗い感情を理解しているからだった。そんなものを1人で抱え続けるよりは、正面からぶつかってしまった方がよい。ギルド異動のごたつきのせいでしばらくユキノと話す機会に恵まれなかったが、このパーティならばどこかでタイミングがあるだろうとアスナは意気込んでいたのだった。

 

 そうして前々から胸に秘めていた彼女の問いかけに、しかしユキノはとぼけるように首を傾げた。内心しっかりと心当たりはあったが、つい先ほどハチに釘を刺されたばかりである。嘘を吐くつもりはないが、べらべらと聞かれたこと全てに正直に答える気もなかった。

 

「何かって?」

「いえ、なんだかハチ君、最近ユキノさんに対してよそよそしい気がして……。ごめんなさい、こんなこと聞いて」

「別に構わないわ。けど、よく見てるのね。彼のこと」

「い、いえ、そんな……」

 

 アスナは否定するように手を振って、気恥ずかしげに目を伏せた。その様子を見ていたユキノは腕を組み、思案する。ただの好奇心で聞いているわけではないということは明確だった。そんなアスナの態度に思うところのあったユキノは、ややあってぼそりと呟くように口を開いた。

 

「そうね……。あなたには話しておくべきなのかもしれないわ。この世界で、彼と一緒に死線を潜り抜けてきたあなたには」

「え? えっと、それはどういう……?」

 

 言葉の意図を汲み取れずに聞き返すアスナに、ユキノは真っ直ぐな視線を向ける。

 

「私、この間彼に告白したの」

「ええっ!?」

 

 アスナの上げた大声に、一瞬だけ周囲の注目が集まった。周りの視線に気付いたアスナは恥ずかしさに顔を伏せて沈黙したが、やがてほとぼりが冷めた頃に軽く息を吐き、今度は声を潜めて問いかける。

 

「あ、あの……それじゃあ今、2人は付き合っていたりするんですか……?」

「いいえ、返事は保留して貰っているわ」

 

 ユキノの返事に、アスナは知らずほっと息をつく。そして同時に、最近のハチが挙動不審だった理由にも納得がいった。同性のアスナから見ても魅力的であるユキノという少女にアプローチをかけられては、ただでさえコミュニケーション能力が高いとは言えないハチがたじたじになってしまうのは仕方のないことだろう。

 

「大方、あの男のことだから恋愛に関して何かトラウマでもあるのでしょう。人の好意を真っ直ぐに受け入れることが出来ないのよ。この世界に来てから多少はマシになったみたいだけど……友人としてならともかく、恋愛関係となると彼の中ではまだまだハードルが高いみたい」

「な、なるほど……。確かに、ユキノさんが言っていること、わかる気がします」

 

 ハチと信頼関係を築くこと、その難しさを身をもって理解しているアスナにとって、ユキノの言葉はすとんと腑に落ちた。ハチとの関係は、今でこそ共に戦う仲間というポジションに落ち着いているが、ここまでも紆余曲折を経てようやくたどり着いたのだ。さらに恋愛関係に発展させるなど、一筋縄ではいかないことは容易に想像がついた。

 

「彼はきっと、好きという感情を理屈で理解したいのよ。理解して、証明して、勘違いでも偽りでもないと確信して、前に進みたいの。けど、恋愛感情ってそういうものじゃないでしょう? 言葉を尽くすことは出来ても、それで理解出来るのはほんの上辺だけ。本質は伝わらないわ。彼でなければならない理由なんて、私の心の中にしかないのだから」

 

 常に凛とした雰囲気を纏った、隙のない女性。ユキノに対してそんなイメージを持っていたアスナは、物憂げな表情で胸に手を当てる彼女を見てハッとした。今アスナの眼に映っているのは、恋に悩むひとりの少女だった。

 

「言葉以上に彼の心を揺さぶる何か……きっと、それが必要なのよ。けど、今の私では彼の心に届かないわ。だから、ゆっくりと攻めて行くことにしたの」

 

 先日のダンジョンでの一件から、ハチがユキノを大切に思っていることは間違いなかった。そんな彼女の言葉ですら、まだ彼には届かない。

 では、自分はどうなのだろう。この気持ちは彼に伝わるのだろうか。考えても、アスナにはわかるはずもなかった。

 

「本当、面倒な男よね。性根も眼も腐ってるし、シスコンだし、根暗だし、オタクだし、未だに専業主父になりたいだなんだと戯けたことをぬかしているし……。時々、あんな男に付き合っている自分が虚しくなるわ」

「ほ、本当にハチ君のこと、好きなんですか……?」

 

 散々な言い草に、ついアスナは尋ねてしまった。普段はアスナ自身大概な言い草でハチを罵っているが、こうして人の口から聞くと思うところはある。

 しかし対するユキノは全く迷いを見せることなく頷いた。

 

「ええ、これが惚れた弱みというやつなのかしら。もうどうしようもないくらい、彼のことが好きなのよ」

 

 恥ずかしげもなく言い切るユキノに、アスナは面を食らって押し黙る。そんな彼女に畳み掛けるように、ユキノは真っ直ぐな視線を向けて言葉を続けた。

 

「多分……あなたが彼を想う気持ちに、負けないくらいにね」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第46話 作戦準備

 あれは中学時代。俺がまだ恋愛と言うものに甘い幻想を抱いていた頃の、ある日の放課後のことだ。

 当時想いを寄せていたクラスメイトの女の子と、教室に2人きりだった。降り注ぐ陽光に、揺らめくカーテン。そんな光景まで覚えている。そこで俺は心臓をバクバクと鳴らしながら、彼女に想いを告げたのだった。

 今にして思えば、駄目な告白の典型だった。事前のアプローチなど何もなしに、いきなり一方的に想いを伝えたのだ。そんな独りよがりな気持ちが通じるわけもなく、俺はあえなく撃沈した。

 

 そこまでなら、まだよかった。この話がそれで終わっていれば、ただのほろ苦い思い出として俺の記憶に刻まれただけだっただろう。

 問題に気付いたのは翌日。俺の告白は、既にクラス中の人間が知るところになっていた。

 誰かがあの現場を見ていたのか、彼女自身が周囲に話したのか、それはわからない。わかるのは、そうして俺はクラスの晒し者になってしまったという事実だけだ。やんちゃ盛りの男子中学生がそんな面白いネタを放っておくわけがなく、それからは毎日のようにからかわれた。

 

 いじめと言うほど大したものではなかった。誰かに殴られたわけでも、蹴られたわけでも、何か物を取られたわけでもない。ただ、ずっと胸の内で大切に秘めていた想いを嗤われることは、俺の存在そのものを否定されているような気がした。ひとつひとつは些細な言葉でも、それが毎日のように続けば多感な中学生の心を歪ませるには十分だった。なにより、好きだったあの子さえも周りの空気に合わせるように、その光景をただ笑って眺めているだけだったのが悲しかった。

 

 人の噂も七十五日。流行り廃りの早い中高生ならば一月もしないうちに俺への興味など失うだろう。そう自分に言い聞かせ、ただ耐える日々が続いた。

 無遠慮な男子たちからの揶揄にも、遠巻きにする女子たちからの好奇と侮蔑の混じった視線にも、ただ蹲って耐えて、耐えて、耐えて……気付けば、かつてあれほど色付いて思えたあの子への恋心は、暗く淀んだ想いへと歪んでしまっていた。

 

 俺は、失望したのだ。彼女に。

 そしてなにより、この程度のことで手のひらを返し、彼女を逆恨みしてしまう浅はかな自分自身に。

 

 確かに1度は好きになったはずなのに。

 彼女を幸せにしたいと願ったはずなのに。

 彼女のためなら命だって懸けてみせると、馬鹿な妄想を大真面目に考えていたのに。

 かつて間違いなく抱いたはずのそんな想いは、まるで最初から嘘だったかのようにもう心のどこにもなくなってしまっていた。

 

 恋とは、もっと純粋で綺麗なものであるべきだ。もっと献身的で、揺るぎない想いであらなければならないはずだ。簡単に揺らいでしまう気持ちなど、本物ではない。見返りを期待する恋愛など、ただの自己愛だ。

 そうして、俺は思い知ってしまったのだ。

 かつて俺が大事に大事に胸に抱いていたはずの恋心は、どうしようもなく偽物だったのだと。

 

 だから俺は、恋愛というものを信用することが出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい! ハチ!」

「――んおっ!?」

 

 焦りの込もったキリトの声が響く。思考の海に沈んでいた俺が唐突に我に返ると、眼前には牙をむき出しにした狼のモブが迫っていた。

 間抜けな声を上げながらも、体に染み付いた動きで咄嗟に攻撃をいなし、そのままモブをキリトに押しつけるように立ち回る。キリトは間髪入れずにソードスキルを発動し、その高い攻撃力で一気に敵のヒットポイントを削りきった。

 青白いポリゴンが舞い散る中、お互いに一息つく。石壁に囲まれたダンジョンの小部屋である。周囲には他のプレイヤーはおらず、閑散とした小部屋に静寂が広がった。

 そんな中、一旦剣を収めたキリトが責めるような視線を寄越す。

 

「おい、しっかりしてくれよ。全然マージン取ってないんだから、気を抜いたら冗談抜きに死ぬぞ?」

「……わり」

 

 俺は素直に謝って、うな垂れた。

 

 アインクラッド攻略最前線、第70層の最北端に位置する地下迷宮(ダンジョン)《愚者の霊園》――現在、俺たちがレベリングに利用しているこの場所である。

 謎解きギミックの多いダンジョンで、選択肢を誤ると大量のモブに囲まれたりエリアボスクラスの強力なモブが湧いたりと、なかなか気の抜けないダンジョンである。しかし幸い謎解きについては周辺の街などでヒントが得られるので、しっかりと準備していれば探索についてはそう難しくない――のだが、俺たちはあえて難易度を上げるようにしてダンジョンに挑んでいた。

 

 強力なモブをポップさせるギミック。本来はペナルティであるはずのそれだが、倒せば経験値自体は手に入る。敵の強さの割には貰える経験値が少ないという欠点はあるが、元々がこの階層には不相応なほど高レベルな敵である。多少目減りしていようとも今の俺たちにとっては十分な経験値だった。さらにここのギミックは繰り返し何度でも発動させることが出来るので、普通の狩りのようにリポップを待つ必要がなく、出てくるモブを倒し続けることが出来るならかなり効率が良い。それを利用し、俺とキリトはしばらくこの場所を狩場としているのだった。

 まあ効率が良い分、リスクは高い。常に十分な安全マージンを心がけているアインクラッドのプレイヤーたちならばこんな狩場は選ばないだろう。俺たちはユニークスキルでゴリ押しているが、それでも一歩間違えればゲームオーバーとなってしまうような危険な狩場である。だというのに、先程は敵が残り少なくなって来たことで油断し、完全に上の空になってしまっていた。

 

「またユキノさんのことか?」

 

 キリトに図星を突かれ、言葉に詰まった。何だかんだあって、先日の雪ノ下の告白については既にキリトもあらかた事情を知っている。というか、あれだけ不自然な態度を取っていれば誰だって気付く。

 項垂れたままの俺を見て、肯定だと受け取ったのだろう。キリトはひとつため息をついて、再び口を開いた。

 

「今日はもうやめとくか?」

「……いや」

 

 頬を叩いて、気合いを入れる。さすがにこんな理由で狩りを中断してはキリトに申し訳ない。

 

「悪かった。こっから集中するわ。時間もないしな」

「ああ。じゃあ、頼むぜ」

 

 その後、HPの回復を済ませてから狩りを再開した。

 ギミックを起動して大量のモブを湧かせ、2人で殲滅する。それをひたすらに繰り返す作業である。幾度となくHPはレッドゾーンにまで差し掛かったが、どちらも途中でやめようとは言い出さなかった。

 俺たちには、目的があった。

 

 現在アインクラッドの最前線が第70層。クォーターポイントである第75層まではあと5層ある。トラブルがなければ基本的に1フロア攻略にかかる時間は10日前後のため、猶予は1月半程度だ。

 第75層のフロアボスに挑むまでに、ケリを付ける。俺たちは話し合って、そう決めていた。これはそのための強行軍だ。作戦の決行までに、なるべくレベルを上げておきたい。

 奴を――ヒースクリフを、倒すために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――数日前。

 

「ヒースクリフさんが、茅場晶彦……」

 

 トウジの呟くような声が部屋に響いた。黙って考え込むトウジの顔は、しかしそれほど驚いているようにも見えない。隣の席に座る雪ノ下も同様である。

 

 ギルドホームの一室だった。現在は俺とキリトを含む4人でテーブルを囲んでいる。少し話があると、俺たちがトウジと雪ノ下の2人を呼んだのだった。ここしばらく俺は雪ノ下を避けていたのだが、さすがに今日は重要な話であるので腹を括ってこの場に臨んでいた。

 

 ギルド《血盟騎士団》の団長であり、現在アインクラッド攻略の最前線を牽引するプレイヤーであるヒースクリフ。そんな人物が、俺たちをSAOの世界に閉じ込めた張本人である《茅場晶彦》と同一人物である可能性。

 クラインあたりなら飛び上がって驚いてくれそうなネタだが、目の前の2人は冷静に考え込むだけだった。

 やがて頭の中で整理がついたのか、トウジがゆっくりと顔を上げる。

 

「確かに、言われてみればあの茅場晶彦がプレイヤーの中に紛れているという可能性は高いように思えます。ただ、それがヒースクリフさんだと言うのは……」

「考えうる最悪のパターンね」

 

 雪ノ下の言葉は、部屋に重く響いた。最強の味方が一転して最強の敵になってしまう可能性を考えれば、それは過言ではない。

 

「一応、根拠を伺っても?」

「確たる証拠はない。根拠といえば、奴が不自然に強いってところかな」

「まあ一応細かく言ってけば理由はいくつかある。ほぼ確定だって言われてるパライズダガーの麻痺毒が何故かあいつには効かなかったこと。誰もその存在を知らなかったはずのPoHの《暗黒剣》をまるで元から知ってたみたいに完璧に捌ききったこと。今までの長い攻略の過程で1度もあいつのHPが半分を割ったところを見たことがないこと……色々と不自然なんだよ」

 

 トウジの問いにキリトが答え、俺も補足するように言葉を続けた。疑惑の域を出ない話ばかりだったが、全てが偶然だと片付けるには出来過ぎていた。

 そんな俺たちの推察に耳を傾けながら、内容を咀嚼するように深く頷くトウジと雪ノ下。確信はないにせよ、それなりの理由に2人は一応の納得はしてくれたようだった。

 

「なんにせよ、その仮定を否定するだけの材料を私は持ち合わせていないわ。だから今はあなたたちの話を信じるとして……それで、2人はどうするつもりなの? わざわざこんな席を設けたのだもの。話はそれで終わりではないのでしょう?」

 

 頭のいい奴は話が早くて助かる。そんなことを考えながら俺はキリトと頷き合った。

 

「俺たちはヒースクリフの正体を暴いて、このゲームを終わりにしたいと考えてる」

 

 キリトの言葉に、2人の目が大きく見開かれた。

 SAOからの解放――多くのプレイヤーが切望しその目的へと向かって邁進しながらも、ゲーム開始から2年近くもの時間が経った今でもゴールまでは未だ遠い道のりであった。俺たち攻略組ですら心の何処かでは本当に実現可能なのかと不安に思ってしまうような、そんな大望。

 それが第70層という道半ばで転がり込んできたのである。2人が呆気に取られるのも無理はなかった。

 

「……それは茅場晶彦と交渉して、アインクラッド第100層クリア以外の方法でこのゲームを終わらせる、ということでいいのかしら?」

「ああ。まあ交渉って言っても、最終的には戦うことになると思うけど」

「ちょ、ちょっと待ってください。色々と聞きたいことは多いんですが……。御二人の作戦ではどういった経緯を辿るにせよ、最終的には茅場晶彦次第ということですよね。不確定要素が強すぎませんか。最悪、自分の正体に気付いた御二人を口封じに殺してしまう可能性もあるでしょう?」

「その辺りは他のプレイヤーも巻き込んで、簡単に口封じ出来ないようにするつもりだけど……どちらにしろ、リスクがあるのは確かだな」

「なら……」

 

 そうして食い下がろうとするトウジに、しかしキリトははっきりと首を横に振った。

 

「このままゲームクリアを目指すのだって安全じゃないんだ。どちらにしろリスクがあるなら、俺は少しでも早くこのゲームを終わらせるべきだと思う」

 

 キリトの言葉に反論出来ず、トウジは押し黙った。トウジの危惧は一見もっともにも思えるが、今さらどうあがいてもリスクのない手段など存在しない。

 それに、俺から言わせればそもそもトウジは前提条件から間違っている。

 

「つーか不確定要素が強いっていうけどな、普通にゲームクリアを目指すのだって似たようなもんだと思うぞ。第100層までクリアしたって、本当にこのゲームから解放してくれるのかどうかなんて結局のところ茅場晶彦次第だ。気まぐれでやっぱり全員殺される可能性だって否定できないんだからな」

「あなた、70層まで攻略してきて、今さら身も蓋もないこと言うのね……」

 

 「解放してやったぜ……くくく、恐怖からな!」とか言いながら大量虐殺しちゃう爆弾魔(ボマー)さんは有名である。まあ、個人的に茅場晶彦はそこまでの鬼畜外道ではないと思っているけど。

 

 しかし結局、SAOの中に居る限り何処まで行っても俺たちは茅場晶彦の手のひらの上であることは変わりない。このゲームから解放されるためにどんな手段を取るにしても、最終的にはある程度茅場晶彦の良心性に期待せざるを得ないのである。どちらにせよ不確定な方法ならば、少しでも早くこのゲームから解放される方を選ぶべきなのは明確だ。

 

「ヒースクリフは、頭のいい男だ」

 

 会話の流れをぶった切るように、キリトが言った。自分に集まった視線をゆっくりと受け止めて、言葉を続ける。

 

「あいつが本気で自分の正体を隠そうとしていたら、もっと上手くやることも出来たはずなんだ。そうなれば、きっと俺たちはあいつを疑うことすらしなかっただろう」

「……つまり自分の正体に辿り着けるよう、あえてヒントを与えていたと言いたいのね」

「ああ。きっと茅場自身がプレイヤーの中に紛れ込んでいることも、ゲームの演出の1つなんだ。そうして与えられたヒントから、俺たちがあいつの正体を暴いたとなれば……」

「こちらの交渉に応じる可能性はある、というわけですか……」

 

 ヒースクリフにとっては、恐らく自身の正体が暴かれる可能性も織り込み済みなのだ。そもそも《神聖剣》スキルが発現した後ならともかく、その以前から誰も奴のHPバーが半分を割ったところを見たことがないというのは異常である。こんな露骨な不自然を晒している時点で、奴には自分の正体を何が何でも隠し通そうとする意志はなかったのだろうと思う。

 故にヒースクリフの正体を暴いたところで、俺たちを口封じに殺してしまう可能性は低いと考えていた。そして上手く交渉に持ち込めば、こちらの提案を飲ませることも不可能ではないはずだ。

 

「でもそれでは、全てのリスクをあなたたち2人に押し付けることになるわ」

 

 鋭い視線を俺に向けながら、雪ノ下が口にする。良い意味でも悪い意味でもプライドの高い彼女のことだ。リスクを他人に丸投げして、自分は利だけを得ようなどと、そんなことを許せるはずもないのは当然だった。

 しかし他に妙案がないことも理解しているのだろう。雪ノ下の鋭い視線の中には、現状に際して無力な自分への苦々しい感情と諦念が混じっていた。

 

「それが最善手なら、仕方ないだろ。俺もキリトも納得してる」

「……本当、勝手よねあなたは。こっちの気も知らないで……。まあ、事前に相談してくれるだけ、まだマシになったとも言えるけれど」

 

 言葉を返した俺から視線を外し、雪ノ下は脱力するように呟いた。

 

「一応、もう作戦は考えてあるんだ。ギルドとして、2人にも手を貸して欲しい。頼む」

 

 そう言って、キリトは頭を下げる。

 『ギルドとして』と言いつつギルドマスターであるクラインはナチュラルにこの場からハブられているのだが……。まあ、あれだ。あいつ腹芸とか無理そうだし。正直実務を取りまとめているトウジと雪ノ下の2人にさえ話が通っていれば作戦には問題ないのだ。仮に今後クラインの協力が必要となったとしても、きっとトウジの方から声を掛けてくれるだろう。

 

「私個人としてはもう反対しないわ。でも、最終的にはギルドとしての判断に従います」

 

 改まって頭を下げるキリトに対し、雪ノ下はすぐにそう答えて判断をトウジへと委ねた。この場の視線がトウジへと集まる中、しばらく目を閉じて考えていた彼はやがてゆっくりと頷く。

 

「わかりました」

 

 見開いた瞳を、俺とキリトへと向ける。普段より数段力強い口調で、やがてトウジは宣言したのだった。

 

「ギルド《風林火山》は、御二人の作戦に全面的に協力します。このゲームを終わらせて、皆で生きて帰りましょう。現実世界に」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、きっつ……。連日これはしんどいわ……」

「言うなよ。こっちまで疲れてくるだろ」

 

 俺とキリトの2人、《愚者の霊園》からの帰路であった。それほど遠くない位置に街があるので、普通に徒歩での帰宅である。ここ数日はその街を拠点として、睡眠時間さえ削ってレベリングを行っていた。

 薄暗くジメジメとしたダンジョンの中を、2人して覚束ない足取りで進む。休み休みとは言え15時間くらいはダンジョンに籠っていたので、俺だけでなくキリトまで心なしか目が死んでいた。互いに精魂尽き果てた表情で、最後の力を振り絞ってなんとか帰路を辿っているのだった。

 

 ヒースクリフを打倒すべく、既に俺たちは水面下で動き始めていた。とは言っても陰謀智謀を巡らせてヒースクリフを追い詰めようという訳ではなく、やっていることは主に俺たちのステータス強化というある意味正攻法である。

 理想通りにヒースクリフと交渉が進んだとして、最終的には奴とゲームクリアを賭けての戦いになるだろう。それに備えてのステータス強化だ。これはいくらやっておいてもやり過ぎと言うことはない。

 ステータス強化となれば俺とキリトのレベリングは当然のものとして、風林火山の力も借りてアイテムや装備品の収集、有用なスキルの取得などを行うことになる。まあ普段やっていることの延長線だが、そのスケジュールや負担はかなり無理を押したものとなった。

 正直レベリングはかなりしんどかったが、その甲斐あって既にこの数日だけでLVは3つも上がっている。今までは1LV上げるのに1週間ほどかかっていたので、これは異常な速度だ。

 

「まあ明日からは息抜きも兼ねて迷宮区攻略の予定だし、少しはマシだろ」

「息抜きに迷宮区……」

 

 前向きなキリトの言葉に俺はうんざりした声で返した。あー、あれな。あの受験生がやる『数学で疲れたから息抜きに古文でもやるかー』って奴ね。それホントに息抜けてるの? って奴。

 まあそうでも思わないとやってられないこともある。人間こうやって自分を騙しながら大人になってゆくのだ。おとなになるってかなしいことなの……。

 

「アスナの話じゃそろそろボス部屋も見つかるだろうってさ」

「ようやくか……。このフロア、かなり時間食ったな」

 

 俺は言いながらシステムウインドウを確認する。今年ももう10月だ。確か第69層を突破したのが9月の13日の金曜日(ジェイソンイベ)の数日前だったはずだから、3週間ほどもこのフロアに留まっていたことになる。

 

「ジェイソンイベじゃ攻略組にも少し被害が出たからな……。血盟騎士団も聖竜連合も攻略のペースは落として地盤固めと戦力の補強に走ってたみたいだ」

「まあ俺たちも攻略とは関係ないことばっかしてたしな。丁度いいと言えばよかったか」

 

 ガイドブック製作に始まり、温泉旅行、《軍》でのいざこざ、さらに俺が数日間寝込んでいたことも含めると相当な時間を消費している。その間にすわボス攻略だと言われても参加は出来なかっただろう。

 

「あと3日、4日で70層のフロアボスに挑むとして……猶予はあと一ヶ月半くらいか。時間、あるようでないな」

「ああ」

 

 俺は帰路を進む歩みを止めず、ただ頷く。

 予定では、ヒースクリフとの決戦は第75層と決めていた。なるべく準備期間を取りつつ、犠牲が必至となるだろう強大な第75層(クォーターポイント)階層主(フロアボス)の前には決着を付けたいという意図が重なり、そう決まったのだった。

 正直、よく考えれば色々と穴だらけの作戦なのだが……他に妙案もなく、もはや腹を括るしかない段階にきてしまっている。

 

「なあ、本当に最後までアスナに黙ってるつもりなのか?」

 

 しばらく黙って歩いていたキリトが、唐突に切り出した。

 アスナにはまだヒースクリフが茅場晶彦である可能性について伝えていない。当然、俺たちがヒースクリフに挑む作戦についてもだ。

 アスナに全てを知らせた場合と、黙っていた場合のメリット、デメリット。それを比較した時、どうしても天秤は黙っている方に傾く。頭では冷静にそんな勘定を行っていた。

 だが同時に、理屈など無視して彼女には全て話してしまいたいという気持ちは、紛れもなく心の奥底に存在していた。そして数日前の温泉街、あの屋台でのやり取りによってアスナの芯の強さをまざまざと見せつけられ、俺の中でその気持ちはより大きなものへとなっていた。

 

「知らせない方が良いって理屈も、分かる。けど、やっぱりアスナには――」

「ああ、話しとくべき……かもな」

「……へ?」

 

 声を上げて、急に足を止めるキリト。俺が振り返ると、間抜けな顔でこちらを見つめていたそいつと目が合った。

 

「んだよ。その顔は」

「あ、いや。ハチは絶対渋るんだろうなーと思ってたからさ」

「まあ、実際ちょっと前まで迷ってたけどな。けどあいつメンタル強いし、クラインに比べりゃ100倍信用できる。血盟騎士団を内部から監視できるっていうメリットもあるし。それに……このまま黙ってこのゲームクリアしたら、現実世界(リアル)に帰ったあとすげえ文句言われそうだしな」

「帰ったあと、か……」

 

 呟くようにそう言ったあと、何が面白いのかキリトは弾けるように笑って足早に俺の横へと並んだ。

 

「ハハッ。確かに、リニアーで小突き回されてるハチが目に浮かぶよ」

「いや、リアルでそれやったら洒落で済まないからな……?」

 

 良い顔でとんでもないこと言ってやがんなこいつ。けど俺自身、その光景が簡単に想像出来てしまうから恐ろしい。うん。やっぱりアスナには話しておくべきだな。別に暴力に屈したわけではない、決して。

 俺は軽くかぶりを振って恐ろしい想像を脳内から追い出しつつ、冷静に考える。実際問題、アスナに話すとは言っても難しい問題があった。

 

「けどアスナに話すっつっても、タイミングがな。ヒースクリフも俺らに疑われてることには気付いてる節があるし……今、下手にアスナに接触したら絶対勘繰られる。さすがにメッセージで済ませるにはアレな内容だし」

「ああ。アスナもあっちのギルドに復帰したばっかで忙しいみたいだし、しばらくは自然に会うのは無理だな。1番タイミングがいいとすれば……第73層まで行って、作戦が第2段階になった時か」

「第2段階ね……。確かに、向こうから押しかけてくるだろうな」

 

 ヒースクリフを倒すための作戦は、いくつかのフェーズに分けて進行している。俺とキリトで話し合った段階ではもっと大雑把な流れを考えただけだったのだが、トウジと雪ノ下というインテリ組の協力を得たことで、まるで会社のプロジェクトのような形にまとまってしまったのだった。

 そうしてフェーズ分けされたプロジェクトを、キリトと共に睡眠時間まで削って着々とこなしているのである。最近、俺の社畜度がぐんぐん上昇している気がしてならない。もうどこに出しても恥ずかしくないレベルの社畜になれたのではないだろうか。何それ嬉しくない。

 

「まあ確定ではないし、結局アスナについてはしばらく保留かな。時機を見て、どこかでコンタクトを取ろう」

 

 憂鬱になってきた俺の思考を遮り、キリトがそう締めてこの話題は終了となった。

 その後は互いに取り留めもない話題に興じながら、とぼとぼと帰路を辿る。丸一日におよぶレベリングで精神は疲れ果てていたが、俺は何となく肩の荷が1つ下りたような気がしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この3日後に、攻略組による第70層のフロアボス攻略が決行された。

 13日の金曜日(ジェイソンイベ)での痛手により1度は戦力低下が危ぶまれた攻略組だったが、当のイベントでのクエスト報酬がかなり美味しかったらしく、グレードアップした装備などによってむしろ個々の実力は上がっていたほどで、俺たちは難なく第70層を突破することが出来たのだった。

 

 その後は今までの停滞が嘘のようにゲーム攻略は順調に進み、大きな犠牲もなく第71層と第72層を突破。わずか2週間ほどで俺たちは第73層へと足を踏み入れることとなった。

 結局その間アスナとコンタクトを取る機会には恵まれず、俺たちは当初の予定通りだたひたすら水面下で打倒ヒースクリフのための作戦を着々と進めていった。

 そうして第73層到達から数日が経ったある日のことである。

 

 キリトが斃れたという知らせが、攻略組を駆け巡った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第47話 戦線離脱

「どういうことだ!? 説明しろ!!」

 

 部屋に、ハフナーの声が響いた。

 第73層主街区。俺とキリトがこのフロアの拠点として使用していた民家の一室である。しかし現在、この場にキリトの姿はない。

 一堂に会するのは、攻略組の中でも主だった面々だ。血盟騎士団からはヒースクリフとアスナ、聖竜連合からはハフナーとシヴァタ、アインクラッド商人組合からはエギル。リビングにあたる一室はそれなりの広さがあったが、フル装備の攻略組プレイヤーが数人も集まってテーブルを囲むと、さすがに少し手狭に感じた。

 

「落ち着きたまえ。そう興奮しては話すものも話せないだろう」

「これが落ち着いていられるか!」

 

 諌めるヒースクリフには取り合わず、ハフナーは声を荒げたまま言葉を続けた。

 

「攻略組の最高火力(アタックホルダー)だぞ!? それが戦線を離脱するなどと……!」

 

 ハフナーは群青色のガントレットをテーブルに打ち付け、強く握りしめた。沈黙と共に、深刻な空気が部屋に広がった。

 既に各々メッセージによって粗方の事情は知っているのだろう。冷静に装ってはいても、この場に集まる全員が内心穏やかではないのは確実だった。

 

「順を追って話す。3日前から、キリトが体調が悪いと言い出したんだ」

 

 テーブルの一点を見つめたまま、俺は口を開いた。全員の視線が、ゆっくりとこちらに向けられる。

 

 今日この場に攻略組のメンバーを集めたのは、キリトの現状について詳しい話をするためだった。

 3日前から体調不良を訴えだしたキリト。しばらくすれば勝手に治るのではないかと様子を見ていたが、この3日症状の改善は見られなかった。現状、ゲーム攻略に参加させられるような状態ではなく、しばらく風林火山のホームで養生させることに決まったのだった。そして今日、攻略組の最大戦力の1人であるキリトの戦線離脱に際し、事情を説明するためにこの場に攻略組のプレイヤーを集めたのである。

 

 ――という()()()を頭に浮かべながら、俺は話を続ける。

 

「ずっと目眩と耳鳴りが止まらないらしい。休んでいれば少しは楽になるみたいだけど、しばらくするとまた同じ症状を繰り返すみたいだ。風林火山の中に医大生がいたから診てもらったんだけど、症状はメニエール病って奴に近いそうだ」

「メニエール病……聞きかじりだが、確か内耳の異常で起こる疾患だったか」

 

 俯きながら、ヒースクリフが呟くように言った。

 俺自身は知らなかったが、メニエール病とはそれほど珍しい病気ではないらしい。不摂生やストレスが重なると発症しやすい病気だと聞いている。その症状は耳鳴りや眩暈がしばらく続くというもので、今のキリトの状態と一致していた。

 

「ああ、診てくれた奴もそんなこと言ってた。最近の薬を使えば長くても大体1ヶ月以内には完治するらしいけど、この世界じゃそれは無理だ。薬に頼らなくても治るは治るらしいけど……」

「しかし、そもそも症状が似ていると言うだけで、キリト君がメニエール病だと言う可能性はありえないはずだ。ほとんどの現実世界の身体の感覚はナーヴギアによって脳幹と脊髄でカットされる。仮にメニエール病を患ったとしても、末梢神経の疾患である限りこの世界にいる私たちにはそれを知覚することは出来ない」

 

 小難しい言葉を並べて、自分の考察を口にするヒースクリフ。俺自身はその内容を飲み込むのに少し時間が掛かったが、この場に集まった他の面々はすぐに理解したように頷いていた。

 ヒースクリフの言い分はもっともである。メニエール病では均衡感覚などが可笑しくなるわけだが、そもそも現実世界の俺たちの身体は病院のベッドに横たわっているのだ。その状態がこの世界に反映されてしまえば俺たちは身体が横になった感覚のまま立ったり歩いたりするという妙な現象が起こってしまう。現実世界の身体の感覚が全てカットされているからこそ、俺たちはこの仮想世界で何の違和感もなく動けるのである。

 

「よって考えられるのは中枢神経、それも脳の疾患。あるいは……ナーヴギアの機能面における異常だ。どちらにせよ、外的な処置なしに原因を取り除くのは難しいだろう」

「つまり……今後キリトの戦線復帰は絶望的ということではないか……!」

 

 テーブルの上に置かれたハフナーの両手が再び強く握りしめられた。

 既にキリトはヒースクリフと並んで攻略組を支える主柱の1つとなっていた。フロアボスのラストアタックボーナスを高確率で攫って行くキリトに対し他のプレイヤーは複雑な思いを抱いていただろうが、それでもなおキリトに頼らざるを得ないほど、その力は攻略組の中でも突出していた。

 そんなプレイヤーが、この第73層という道半ばでの戦線離脱。さらに第75層(クォーターポイント)という難関を目の前にしたこのタイミングでとなれば、この戦力低下は相当な痛手だ。

 嫌な沈黙が、再び場を支配する。

 

 10秒ほどそうしていただろうか。沈黙を破ったのは、これまで口を真一文字に結んで静かに話を聞いていたエギルだった。

 

「いつの間にか、俺らはキリトに頼り過ぎてたのかもしれないな……」

 

 呟きのような声は、静まった部屋によく響いた。一拍の後、深刻な空気を一掃するように力強く息を吐いたエギルが、集まった面々の顔を力強い眼差しで見渡す。

 

「けど、ここで立ち止まるわけにはいかないんだ。これからキリトなしでどうやって戦っていくか、それを話し合うべきだ。そうだろ?」

「……ああ。その通りだな。取り乱してすまなかった」

 

 素早く気持ちを切り替えるように、ハフナーも頷く。

 さすがにここまで最前線でアインクラッドを攻略してきたプレイヤーたちだ。皆、深刻な現状を冷静に受け止めながらも、その上でこの状況をどうにか打開しようと頭を切り替えたようだった。

 

 その後、キリトの抜けた攻略組における今後の方針がすぐに話し合われた。

 その光景を眺めながら、俺はほっと一息ついたのだった。

 なんとか騙し通せたようだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜。俺は風林火山のホームへと戻っていた。

 既に飯も風呂も済ませ、今はキリトの部屋で寛いでいる。いつもなら自室に籠っているところなのだが、今日は諸事情によってキリトの部屋に訪れていた。

 

 とは言っても今のところ特に何をするでもなくベッドサイドの椅子にだらりと腰掛け、一冊の本を広げて時間を潰している。本のタイトルは『やはり俺の妹の友達がこんなに少ないのは間違っているだろうか? D×D ツヴァイ』である。なんかもう色々と詰め込み過ぎた感の凄いラノベだが、まあ素人作品にしては中々面白いと思う。リアルでこんな本出したら色んな方面から怒られそうだが、そこは安心のアインクラッドクオリティである。あの版権にうるさいディスティニーのグッズですらパチモンが出回っているのだから、いまさら怖いものなどない。一種の治外法権のようなものだと言えるだろう。

 

 風林火山によって例のあの本が出版されてからというもの、それに影響されたのかゲーム攻略などそっちのけで創作活動に勤しんでいるプレイヤーがそれなりの数存在している。今では同好の士が集まった専門のギルドも複数存在するようだ。元々SAOなんてコアなゲームをやるくらいだし、この世界にはオタク気質な人間が多かったのだろう。

 さらに余談だが、彼らは他の生産職などとは違い直接的にはゲーム攻略になんの恩恵ももたらさないため、一部のプレイヤーとは折り合いが悪かったりする。人間こういう息抜きも必要だろうと個人的には思うのだが、まあ不謹慎だなんだと余計な口を挟んでくる奴らはどこの世界にもいるものだ。気に入らないなら関わらなきゃいいのに、なんでわざわざ絡んでくるんだろうなああいう奴らって。

 

 なんだか読書という気分でもなくなってきてしまったので、本をストレージにしまって一息ついた。ついでにシステムウインドウで時刻を確認すると、もう20時を幾らか過ぎている。

 そろそろかな。そう思ってドアの方にチラリと目をやると、丁度ノックの音が部屋に響いた。こちらの「どうぞ」という返事を待ってから、神妙な表情を浮かべたアスナが顔を覗かせた。

 

「……こんばんは。キリト君、お見舞いに――え?」

「お、アスナ。久しぶりだな」

 

 ドアを開けたままの体勢で固まるアスナ。そんな彼女に声を掛けたのは、部屋の中で元気に剣の素振りをしていたキリトである。アスナの反応も無理はない。キリトが床に臥せっていると聞いて、彼女はお見舞いにやってきたのだ。

 素振りを終わらせたキリトは大きく息を吐くと、持っていた2本の剣をストレージにしまってアスナに椅子を勧めた。しかし彼女はまだ状況を飲み込めていないようで、怪訝な表情を返すだけだ。

 

「え、いや、だって……え? どういうこと?」

「あー、うん。説明するから、とりあえず入ってくれ。他の奴らには聞かれたくない」

「……わかった」

 

 色々と飲み込めないものはあるだろうが、俺がそうして促すとようやくアスナはドアを閉めて勧められた席に着いた。部屋には2脚しか椅子がなかったので、キリトは自分のベッドへと腰掛ける。

 妙な沈黙が場を支配していた。アスナは怪訝な表情を顔に張り付けたままである。そんな中、口火を切ったのはキリトだった。「まずは」と口にしてアスナに向かって頭を下げる。

 

「騙すようなことしてごめん。俺の体調が悪いっていうのは嘘なんだ」

「う、嘘? どうしてそんな嘘を……?」

「それは順を追って説明する」

 

 キリトと互いに目を合わせて頷く。それから俺たちは、ゆっくりと口を開いたのだった。

 

 ヒースクリフが茅場晶彦なのではないかと疑っていることと、その根拠。

 その正体を暴き、茅場晶彦と直接交渉してこのゲームのクリアを目指していること。

 

 アスナは最初こそ驚きに目を見開いたが、その後は取り乱すこともなくじっと黙って話を聞いた。その態度は淡々としたものに見えたが、行儀よく膝に置かれた両の拳は何かを抑え込むかのように固く結ばれていた。

 一通り俺たちが語り終えると、アスナは視線を伏せて小さく「団長が……」と呟いた。

 

 それは彼女にとって認めたくない可能性のはずだ。俺たちがヒースクリフを疑うのとはわけが違う。アスナは血盟騎士団の副団長として、第25層からずっとヒースクリフのことを支えてきたのである。その信頼関係が最初から全て茶番だったなどと、どうして認められようか。

 

 だが彼女は、感情的に全てを否定しようとはしなかった。努めて冷静に、その可能性を飲み込もうとしていた。

 もしかしたら、ずっとヒースクリフの近くにいた彼女だからこそ気付くこともあったのかもしれない。あるいは、ヒースクリフよりも俺たちのことを信じてくれたのか。

 本当のところ彼女の心の中でどんな葛藤があったのかは分からない。ただアスナは時間を掛けて俺たちの推論を飲み込み、最終的に理解を示してくれたのだった。

 

「もし……もし2人の言うことが本当で、団長があの茅場晶彦なんだとしたら……私、許せない」

 

 呟いたアスナの声は小さなものだったが、そこには隠し切れない怒気が滲んでいた。

 

「あの人を信じて、ゲームクリアの夢を託して死んでいった団員たちだっているのよ。それが、最初から全部嘘だったとしたら……」

 

 伏せられた瞳には、散っていったかつての仲間たちの姿が映っているのだろう。握り締めた拳に一層力が込められ、やりきれない想いにアスナは身を震わせた。

 その怒りは至極正当なものだと言えるだろう。だが、今の時点でアスナに先走った行動をされるのはまずい。そんな一抹の不安を覚えた俺は、彼女を諌めようと口を開いた。

 

「まあ、まだ可能性の話だ。今その辺りの話をしても――」

「でも2人はそう仮定して、もう行動を起こしてる。そうなんでしょう?」

「……ああ」

 

 アスナの問いに、俺は肯定を返すことしか出来なかった。それきり、部屋に静寂が降りる。

 張り詰めた空気の中、アスナの放つ怒気はますます強くなってゆくかのように思えた。だがしばらくの沈黙の後、彼女は不意に大きく息を吐き、脱力するようにかぶりを振った。

 

「……ごめんなさい。少し冷静になるわ。ハチ君の言う通り、今怒っても仕方のないことなんだよね」

「……いや、無理もねえよ」

「ううん。2人とも、私を信じてこの話をしてくれたんでしょう。それには、ちゃんと応えたいもの」

 

 言って、アスナは微かに目を細めた。

 やはりアスナに全てを打ち明けてよかった。この瞬間俺は強くそう思ったが、同時に気恥ずかしさを覚えて彼女から目を逸らした。隣に座るキリトも、照れを隠すようにガシガシと頭を掻いている。

 そんな俺たちを気にした様子もなく、アスナは気を取り直したように「それで――」と話を続けた。

 

「2人が、団長を疑ってることはわかったわ。その正体を暴いて、このゲームをクリアしようとしてることも。けどその話と、今日のキリト君の病気の話はどう関係してるの?」

「ああ、それはな……」

 

 俺は頭の中で話を整理しながら、息を継いだ。今回の作戦のほとんどを考えたのは俺なので、その説明も一任されている。まあ日常会話とは違い、こういったプレゼンのようなものは苦手ではないので問題ない。

 

「俺たちの計画通りにヒースクリフとの交渉が進んだとして、最終的にはゲームクリアを賭けての戦いになる。でも俺もキリトも、正直タイマンであいつに勝つ自信はない。つーか、1人であいつの《神聖剣》の防御を抜ける奴なんて、多分今のところこの世界にいないだろ」

 

 渋い顔で、アスナが小さく頷いた。ヒースクリフの強さは、ずっとそばにいたアスナの方がよくわかっているだろう。

 《神聖剣》の防御性能は異常である。大型フロアボスの攻撃でさえ、あのタワーシールドで真正面から受け止めてしまうのだ。プレイヤーの攻撃など、渾身のソードスキルでさえ難なく受けきってしまうだろう。

 通常、同レベル帯のプレイヤー同士の場合、ソードスキルによる攻撃を真正面から盾で受け止めれば、ソードスキルの方が押し勝つ。それだけで勝負が決するわけでもないのだが、そこから相手の体勢を崩していく戦法は、1対1で盾持ちの敵を相手にする時の定石だ。だから逆に盾を使うスタイルのプレイヤーはその流れに持ち込ませないよう、上手くシールドバッシュと呼ばれるソードスキルを合わせたり、攻撃をいなしたりする必要がある。

 しかし、ヒースクリフの《神聖剣》にはそんな駆け引きなど必要ない。敵の攻撃を全て真正面から受けきった上で、あとは動きの止まった相手にカウンターを食らわせればそれで終わりなのだ。こと1対1の戦いにおいて、あいつは反則じみた強さを持っている。

 俺の《無限槍》のスキルならばソードスキルで攻め続けて何処かで隙を衝くことも可能なのだろうが、十中八九ヒースクリフが崩れるよりも俺が消耗する方が早いだろう。

 

「だから、1対1では戦わない。1人で勝てない敵には、勝てる戦力や舞台を揃えて挑むべきだ。多少汚い手を使ってでも、勝てればいい」

「汚い手?」

 

 聞き返すアスナに、俺はつい「ふひっ」と自分でもちょっとどうかと思う笑みを浮かべて答えた。

 

「俺がヒースクリフと一騎打ちをすると見せかけて、タイミングを見てキリト(こいつ)に後ろから不意打ちさせるんだ。そこで態勢が崩れたところを、そのまま2人で一気に叩く。あのヒースクリフでも2人で袋叩きにすれば倒せる」

「……」

 

 アスナの真剣な顔が一転、微妙な表情となってこちらを見つめた。

 いや、いいだろ。みんな大好き《友情・努力・勝利》というジャンプ漫画の三拍子が揃った作戦だぞ。友情(2人で袋叩き)だけど。

 

「いや、まあ、言いたいことは色々あるだろうけど、とりあえず全部聞いてくれ」

「……わかった」

 

 何か言いたげなアスナに先んじて、そう断りを入れた。彼女が頷くのを確認して、俺は説明を続ける。

 

1対1(タイマン)じゃ勝てない。2対1ならほぼ確実に勝てるだろうけど、最初からその条件じゃあ、こっちに有利過ぎてさすがにヒースクリフも交渉に乗ってこない可能性が高くなる。いや、逆にその条件を飲むようなことがあれば、自分のステータスをボス仕様に変えちまう可能性もあるな。そうなると相手の強さは茅場の匙加減になるし、出来ればそれは避けたい。だからこその騙し打ちだ」

 

 俺は一旦言葉を止め、隣のキリトに目をやった。

 

「んで、キリトの病気云々の話になるけど、あれはヒースクリフを油断させるための嘘だ。ヒースクリフの正体を暴いて、そのまま俺とあいつが戦うことになれば、多分周りに居る他のプレイヤーは邪魔にならないように無力化される。だからキリトにはその影響の範囲外、何処か離れた場所で待機しててもらわなきゃならない。けど、ヒースクリフはその場に居ないキリトのことを当然警戒するはずだ。ゲーム攻略する時、俺とキリトは大抵セットだしな。だから、キリトが戦線離脱するのに不自然じゃない状況を作りたかったんだ」

 

 SAOの正式サービス開始からもう2年近くもの時間が経つ。その間、ずっと病院で寝たきり生活を送っているだろう現実世界での俺たちの身体に加え、24時間稼働しっぱなしのナーヴギア。そんな状態では、どちらかに不具合が生じてもおかしくはない。実際、後発的にFNC(フルダイブ不適合(ノンコンフォーミング))判定を発症したプレイヤーの存在は複数確認されていて、少し前の《Weekly Argo》にも掲載されていた。だから仮にキリトがそうなったとしても不自然ではないのだ。

 

 全ては第75層でヒースクリフを倒すための布石である。現時点でのキリトの戦線離脱は第73層、第74層の攻略に相当な負担となるだろうが、その負担こそが『もうキリトは戦えない』と信じさせる要素になる。実際に何処まで騙し通せるかはわからないが、違和感を抱きこそすれ、いかにヒースクリフと言えども今この状況でキリトの体調不良を嘘だと断ずることは出来ないはずだ。そこに、きっと付け入る余地がある。

 

 そんなことを掻い摘んで説明すると、アスナは理解を示すように1つ頷いた。

 

「大体のことはわかったわ。けどそんな方法で勝って、だんちょ……いえ、茅場晶彦は納得するの?」

 

 訝し気な表情で、アスナがこちらを見つめる。彼女のその疑問は当然のものだった。

 俺たちだってそれを考えなかったわけじゃない。だから交渉の段階で上手く会話を誘導して1対1とは明言せず、どういった経緯にせよ『HPがゼロになった方の負け』という言質を取ってから勝負に挑むつもりではある。

 だが、それも苦し紛れの方法だ。どちらにせよ茅場自身が負けを認めなければ、約束など反故にされてしまう可能性もあるのだ。

 ただ、俺は個人的にそうはならないと踏んでいる。

 

「俺も、最初はこんな作戦どうかと思ってたよ。けど、今は案外いけるんじゃないかと思ってる」

 

 そう言ってアスナの疑問に答えたのはキリトだった。自信のこもった強い口調で、言葉を続ける。

 

「この世界の死は本物だ。どんな経緯があっても、そこにどんな理不尽なことがあっても、HPがゼロになれば死ぬんだ。相手が汚い手を使ったからノーカン、なんてことにはならない。他の誰でもない、茅場自身が決めたルールだ。自分が当事者になったからって、今さら文句なんて言わせないさ」

 

 キリトの言葉に、アスナは目を見開いた。

 道理の通った話である。HPがゼロになれば死ぬ。それはこの世界で絶対のルールである。もしこれが覆るようなことがあれば、このSAO(デスゲーム)は途端にチープなものへとなり下がってしまうだろう。プライドを持ってSAOを作り上げたであろう茅場晶彦が、そんな堕落を許容するはずがない。

 つまりHPがゼロになれば、あのヒースクリフも例外ではなく死亡(ゲームオーバー)となるということだ。

 死人に口はない。ゲームオーバーとなった茅場の文句など、俺たちが聞いてやる筋合いはないのだ。

 

「つまり倒しちまえばこっちのもんってことだな。ま、どっちにしろ、あいつの性格的にちょっと汚い手使われたくらいで後から文句は言わないだろ。たぶん」

「……まあ、そうね。本当に団長が茅場晶彦なんだとしたら、私もそう思う」

 

 認めるのは癪だが、ヒースクリフはあれでなかなか懐の深い男だ。最初の交渉さえ上手くいけば、後のことは何とかなるだろうと思っている。

 この時点で、アスナに伝えるべきことはもう全て話し終えたので、俺は肩の力を抜いて息をついた。

 

「んなわけで、俺らはしばらく前から打倒ヒースクリフのために色々準備してたわけだ。……悪かったな、黙ってて」

「ううん。私はずっと団長の近くに居たし、慎重になるのは仕方ないよ。実際、まだちょっと信じられない部分もあるし……」

「けどこれだけ準備して、結局俺たちの盛大な勘違いだったら笑うな」

「いや、笑えねえよ。どんだけきついスケジュールで準備してると思ってんだ」

 

 ふざけたことを言ってけらけらと笑うキリトに突っ込みを入れる。

 周囲には体調不良という嘘をついているので、ヒースクリフとの決戦までキリトはもう普通に外を出歩くことは出来ない。風林火山のギルドメンバーでさえトウジと雪ノ下以外には全てを話していないので、ほとんど自室に籠ることになるだろう。

 つまり、俺を差し置いてキリトはここ最近のレベリング地獄から解放されるのだ。まだしばらくレベリングを続けなければならない俺とは違い、いい気なものである。

 

「くそっ、やっぱり役割逆にするべきだったか……。俺も部屋に籠って一日中だらだらしたい」

「いや、そこはちゃんと話し合って決めたんだから蒸し返すなよ。それに、部屋には籠るけどだらだらはしないぞ。生産系スキル使えば多少は経験値も稼げるし」

 

 俺の恨みがましい視線を、キリトは涼しい顔で受け流した。

 まあとりあえず文句は言ってみたものの、役割分担については俺も仕方がないと理解している。火力の高いキリトの方が奇襲役には適しているし、ヒースクリフと真正面から戦うなら《二刀流》よりも《無限槍》の方が相性がいい。互いに決まるべくして決まった役割というわけだ。

 

「ねえ、しばらく前から結構無理してレベリングしてたって言ってたけど、2人は今レベルいくつなの?」

「えーと、今は98だな」

「きゅうじゅうはち!?」

 

 キリトの答えに、アスナは素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。

 

「ちょ、ちょっと待って! 少し前まで90を少し超えたくらいじゃなかった!? 私なんてまだ91になったばかりなのに……」

「ここしばらく食うか寝るかレベリングしかしてなかったからな。しかも全然安全マージン取ってない効率だけ考えた狩り。……いや、マジでよく生きてたな、俺」

「あれくらいで根を上げるようじゃ、ハチもまだまだだな」

「いや、むしろお前は何でそんなに元気なの? 頭にマクロでも入ってんの?」

 

 比較対象である俺自身が元々それほど集中力が長く続く方ではないのだが、それを抜きに考えてもキリトは異常である。なんで睡眠時間3時間であんなに元気よく狩りが出来るんだ。ゲーム廃人ってのはホント頭おかしいと思う。当のキリトは俺の言葉を冗談だと思って笑って受け流していたが、半分は本気だ。

 

「そのレベリングって、明日からはハチ君だけで続けるの?」

「いや、さすがに1人じゃな……。2人だからなんとかカバーしあえてた部分がでかいし、明日からはちょっとペース落とすつもりだ」

「とか言って、サボるなよ」

「…………………………わかってるっつーの」

「おい。今なんか妙な間があったぞ」

 

 こちらを凝視するキリトから目を逸らしながら頬を掻く。いやほら、サボるとかじゃなくて、適度に息抜きした方が作業効率上がったりするじゃん。テスト勉強中に部屋の掃除を始めたりするやつ。……いやこれ、古い漫画見つけて全然勉強出来ないパターンだな。

 そんなことを考えていると、何やら考え込んでいたらしいアスナと不意に目が合った。

 

「……明日からのレベリング、私も一緒に行くわ」

「は? いや、何で?」

「さっきの作戦聞いた限りだと、私に出来ることってあんまりないんでしょ? だったら、レベリングくらい手伝いたい」

 

 アスナにはヒースクリフの動きに何か怪しいものがないか監視をお願いしたかったのだが、本人によると普段はそれほどヒースクリフと一緒に居ることもないらしく、あまり力にはなれないだろうということだった。無理に監視を敢行しようとすれば却って怪しまれてしまうので、結局アスナには普段通りの生活を送ってもらうという話に落ち着いていた。

 だからまあ、俺とレベリングに行くという選択肢もないではない。だが、いくつか懸念する材料もあった。

 

「けどお前、ギルドの方は?」

「しばらく忙しかったけど、最近はもう落ち着いたわ。団員の指導も一通り終わっちゃったし、今はギルドに拘束されてる時間ってあんまりないの」

「そうか……。いやでも、このタイミングで俺とレベリングっていうのは、どうなんだ?」

「団長に怪しまれないか、ってこと? 私たちが一緒に居るなんて、今さらおかしいことじゃないでしょ。むしろ、キリト君が戦えなくなった今、ハチ君を1人で放っておくほうが不自然だわ」

 

 そう言われてみれば、確かにそんな気もする。アスナとはSAOの中では長い付き合いだし、彼女が血盟騎士団に所属するようになってからもよくパーティを組んでいたのだ。ヒースクリフを警戒するあまり、神経質になり過ぎていたかもしれない。

 そうして少し考え込む俺の顔を覗き込んで、しばらく黙って話を聞いていたキリトが口を挟んだ。

 

「いいんじゃないか? アスナが一緒に居てくれた方が俺としても安心だし」

「いや、お前は俺の保護者かよ」

「んー、保護者と言うよりは……ダメな兄の世話を焼く弟、みたいな感覚の方が近いかな」

「あ、その表現すごくしっくりくる」

「……ダメな、は余計だ」

 

 思わず、と言った様子で膝を打ったアスナ。俺は苦い顔でそれに突っ込みつつも、正直自分としてもちょっと納得していた。兄や姉の失敗を見て育つから、下の子の方が要領がよかったりするものだ。うちの小町も世渡りという点では俺より大分上手である。

 

「まあ冗談は抜きにしてもさ、実際今の上層でソロ狩りはちょっと怖いだろ? 70層を越えたあたりから、モブのアルゴリズムにイレギュラー性が増してきてる。この先、ソロじゃ対応しきれない場面もあるはずだ」

「まあ、確かにな」

 

 真面目な表情で語るキリトに、俺は頷いて返した。

 モブのアルゴリズムの変化は、最前線で戦う者なら全員気付いているだろう。従来、同種族のモブならば別個体であっても大抵は同じような行動パターンを取るものである。それを見極めてこちらの《勝ちパターン》を構築し、狩りの安定化と効率化を図るのがこういったアクションゲームの鉄則である。

 しかし第70層を越えたあたりから、同種族のモブにおける個体差というか個性というか、そういったものが如実に表れるようになったのだ。ステータス自体が大きく変化するわけではないが、好んで使用するソードスキルや攻撃パターンが変わるために、今までの《勝ちパターン》が通用しなくなってしまうことも多かった。

 そんなモブそれぞれの《癖》とも言うべきイレギュラー。第73層まではキリトと互いにカバーしあって問題にはならなかったが、ここからソロで行くのならば大きな障害になるだろう。

 未だにぼっちの習性が体から抜けきらず、俺は1人で出来ることはなるべく1人でやろうとすることが多い。それが悪いとも思わないが、今回のことに限って言えばリスクを減らすためにアスナを頼るべきだろう。

 最終的にそう結論を出した俺は、じっとこちらを伺っていたアスナに視線を返した。

 

「そうだな……。じゃあアスナ、悪いけどパーティの件頼んでもいいか?」

「だから、最初からそう言ってるでしょ。ハチ君がダメって言ってもついて行くからね」

 

 言いながらシステムウインドウを操作していたアスナが、パーティを申請する。それを承諾し、俺は視界の端に映るアスナのHPバーを確認した。

 

「これでよし、っと。じゃあ改めて、明日からよろしくね」

「お、おう」

 

 微笑むアスナになんとなく眩しさを覚え、俺は目を逸らしながら頭を掻いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第48話 約束

 翌朝、時刻は午前7時。既に支度を済ませ、俺は風林火山のギルドホームを後にしようとしていた。

 どうせ今日は一緒に行くのだからとアスナもここに泊まっていくように勧めたのだが、準備もあるし一度自宅に戻ると言って、彼女は昨日のうちに帰っていった。そんなわけで、アスナとは第73層の転移門で待ち合わせることになっている。

 

 ギルドホームの中は仕事の準備に動き出したギルメンたちでもう大分騒がしくなっていたが、一歩通りに出ると打って変わって静かなものである。既に日は登り始めているが、まだNPCや他のプレイヤーたちは活動していないようで、朝特有の静寂が街を支配していた。

 10月も下旬になり、朝晩はそれなりに冷え込む。ギルドホームの玄関から俺を見送りに来た雪ノ下も肩にショールのようなものを掛けており、不意に通りを吹き抜けた風に少しだけ目を細めていた。

 しかしそんな寒さの中でも彼女の所作に淀みはなく、手に持っていたカラフルな薬剤の入った小瓶を1つ1つ俺に確認させて、丁寧に説明を口にする。

 

「はい、ハチ君。こっちの3本はストックもまだ沢山あるから気にせず使ってね。赤い瓶が各種ステータス増強、黄色い瓶が状態異常予防、青い瓶が獲得経験値アップの効果よ。効果時間は1時間だから、タイマーをセットするなりして上手く使って。こっちの緑の瓶はHPの回復量を倍増させるポーションだけど、効果時間が10分だしあまり数もないから使う場面は選んでね」

 

 口早に言い終えると、雪ノ下は持っていた小瓶を一旦ストレージにしまって、合計50本ほどになる各種ポーションをこちらに送る。俺は少し圧倒されながら、それを受け取った。

 

「お、おう。サンキュー。……しかし、改めて聞くと凄まじいなこれ。《錬金術》スキルだっけか」

「ええ。有用なのは確かだけど、あまり量が作れないのが難点ね。しばらくはテストも兼ねてハチ君に使って貰うのが精々かしら」

 

 先日、雪ノ下が発現させた生産系のエクストラスキル《錬金術》。《調合》スキルの上位互換だと思われるそれは、恐ろしいほどの性能を有していた。

 特記すべきは先ほどの説明にもあった、獲得経験値アップのポーションと、HP回復量倍増のポーションだろう。経験値アップの数値は5%と微々たる量だが、使うのと使わないのとでは長い目でみれば馬鹿にならない差になる。そしてHP回復量倍増の効果も、バトルヒーリングスキルと組み合わせれば、もう他に回復手段要らないんじゃないかってレベルの効果を発揮するだろう。

 ちなみに、どちらも今まで同系統の効果を持ったアイテムは確認されていない。最前線で戦うプレイヤーたちからすれば、喉から手が出るほどのアイテムである。

 

 視覚系統の不具合によって戦闘行為が実質不可能である雪ノ下は、ギルドでの仕事以外にも、こういった生産系スキルによるサポートでゲーム攻略に貢献しようとしてくれている。《軍》に所属するよりももっと前、シンカーが立ち上げた《MTD》に居た頃から、《調合》や《料理》と言った生産系スキルのレベルを上げていたようだ。

 

 《調合》はSAOに数ある生産系スキルの中でも、不遇とされている不人気スキルである。

 安価に消費アイテムが自作出来るという利点はあるものの、その効果は店売りのアイテムより少し性能が良い程度で、《調合》でしか手に入らないようなアイテムは今のところほとんど存在しない。

 そうして得られる恩恵が少ないくせに、《調合》を行うには色々と設備が必要だったり、スキル行使の工程が複雑だったりで、今までアインクラッドでは《調合》を使い込んでいるプレイヤーはあまりいなかった。

 

 雪ノ下は《調合》が不遇スキルと知りつつも、随所にゲームバランスのこだわりの見られるSAOで、ただ使い勝手が悪いだけのスキルが存在するのかどうか、そう言った検証も兼ねて《調合》を使っていたらしい。そんな地道な努力が実を結び、先日《錬金術》スキルを発現したと言うわけである。

 既に《錬金術》スキルの存在は《Weekly Argo》によって公表されている。その有用性を目の当たりにした多くのプレイヤーたちの後追いにより、今アインクラッドでは空前の《調合》ブームが起こっているそうだ。しかし今のところ、雪ノ下以外に《錬金術》スキルを発現したというプレイヤーの噂は聞かない。

 

「生産系ギルドに掛け合ってスキルの発現条件も調べてもらっているけど、今のところ成果は上がっていないのよね。せめて攻略組に行き渡るくらいの数を揃えるためにも、同じスキルを使える人間がもっと欲しいのだけれど……」

「まだお前しかこのスキル持ってないんだよな。下手したらユニークなんじゃねーの?」

「可能性は否定出来ないわね。けどそうなると……頭の痛い話だわ」

「……まあ、ほどほどにな」

 

 ため息を吐く雪ノ下に、俺は労わるように声を掛けた。

 これほど有用なアイテムである。他ギルドのプレイヤーから販売の要請も多く、全く生産が間に合っていない状態だった。雪ノ下自身はここ数日、寝る間も惜しんでアイテム製作に取り組んでいるようだが、それでも俺が使う分と一部の攻略ギルドにサンプル品として渡す程度の数しか作れていない。

 見栄っ張りな雪ノ下のことである。あまりそうとは見せないのだが、過密なスケジュールのせいで疲れているのは確実だった。《錬金術》がユニークスキルとなれば、雪ノ下は今後ずっとそんな生活を続けなくてはならなくなるだろう。

 しかしそんな俺の危惧をよそに、雪ノ下は気丈にも笑顔を見せた。

 

「心配してくれているのね、ありがとう。けど、最前線で命をかけているあなたたちに比べれば何ということはないわ。それに、私嬉しいのよ? こうやってあなたの力になれるんだから」

「……いや、そんなん今さらだろ。いつだってお前、誰かしらのためになることしてたし」

「不特定多数の誰かのためにはね。でも私、特定の誰かに何かをしてあげたいって思ったこと、あまりないのよ。だから、あなたは特別」

 

 言いながら、雪ノ下はアイテムストレージから何かを取り出した。手のひら2つ分くらいの四角い箱が、可愛らしい猫の柄のクロスに包まれている。

 

「というわけで、はい。あなたのために作った愛妻弁当よ。味わって食べてね」

「いや、おま……愛妻って」

「冗談よ」

 

 いたずらに笑う雪ノ下から弁当を受け取る。俺はどぎまぎしながらも、内心の気恥ずかしさを誤魔化すようになんとか言葉を返した。

 

「雪ノ下……お前、キャラ変わり過ぎだろ」

「ただ素直になっただけよ。言ったでしょう。私、好きな相手には案外尽くすタイプなの」

 

 以前も聞いた雪ノ下のその言葉に、偽りはなかった。高校時代、こいつの由比ヶ浜に対する態度から何となく察していたが、一度気を許した相手にはとことん甘くなるタイプだ。最近はもう俺に対しても甲斐甲斐しく世話を焼いている。このままではダメ人間になってしまうと、この俺が危惧するレベルだ。

 

「それと前から気になっていたのだけれど、その『雪ノ下』と呼ぶのはやめてくれないかしら。マナー違反よ」

「え、ああ、悪い……。いや、けど今は俺たちしかいないし、別にいいだろ? さすがに他に誰かいる時はその名前で呼ばないぞ」

「何処に人の目があるかなんてわからないじゃない。あの物陰に私のストーカーが潜んでいる可能性だってあるのよ」

「それはまあ確かに否定できないが……」

 

 今さら言うまでもないことだが、雪ノ下は自他共に認めるほどの美少女だ。言い寄ってくる男性プレイヤーなどすげなくあしらっているらしいが、それでも彼女に好意を寄せる人間は後を絶たない。むしろその冷たい態度がたまらないという変態もいるようだし、ストーカーの1人や2人いてもおかしくはないだろう。

 街中ということで《索敵》のスキルも使っていなかったし、確かにここで『雪ノ下』と呼ぶのはちょっと不用心だったな、と俺は少し反省する。

 

「それにあなた、咄嗟の時いつも私のこと本名で呼ぼうとするじゃない。普段からプレイヤーネームで呼ぶ癖を付けておいた方が良いわ」

「いやプレイヤーネームってかお前、そっちも本名じゃねえか。しかも下の名前。……呼びにくいんだよ、察しろ。つーかオンゲの名前に本名使っちゃうとか、お前のネットリテラシーどうなってんの?」

「それについては反省しているわ。そもそもこのゲームをそれほどやり込むつもりもなかったから、軽くサインするつもりで名前を入力してしまったのよ。当初は軽くVRというものを体験してみるだけのつもりだったし……」

 

 混ぜっ返す俺の言葉に、雪ノ下はばつが悪そうに顔を歪めていた。まあこの場ではこちらにも非があったので、俺はこれ以上追及することもなく会話を打ち切る。

 

「まあ、名前の件はこれから気を付ける。それじゃ、そろそろ行くわ」

「ええ、気を付けて行ってらっしゃい。アスナさんにもよろしくね」

 

 軽く手を振る雪ノ下に見送られ、俺はようやくその場を後にする。

 思ったより随分と話し込んでしまったようだ。アスナを待たせると後が怖い。システムウインドウに映る時間を確認し、俺は足早に転移門へと向かっていったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第73層の大部分には草木も生えぬ不毛な大地が広がっており、所々に荒廃した機械都市や遺跡が点在している。

 基本ファンタジーテイストな作りが多いSAOでは珍しい雰囲気のフロアだ。出現するモブの多くも古びたロボットのような姿をしており、これが中々手ごわい。挙動が生物的なセオリーから外れたものが多く動きが読み難い上に、金属なのか石なのかよくわからない物質で出来たボディは斬撃での攻撃が通りにくい。しかも機体によっては遠距離攻撃可能な銃火器を搭載しているという鬼畜仕様である。

 まあ敵が強い分、実入りは良い。ドロップするロボットのパーツはNPCの商店で高値で売れるし、貰える経験値も多かった。

 

「こうして戦ってると、やっぱりレベルの違いを実感するわね」

 

 荒野フィールドで何度目かの戦闘を終えた後、アスナが言った。

 彼女の言う『レベルの違い』というのは、言葉通り俺とのレベル差のことだろう。現在、俺のレベルが98でアスナは91である。これだけ差があればステータスにもそれなりに違いが出てくるのは仕方のないことだ。それでも決してアスナが足を引っ張っているというわけではない。

 第73層で合流した俺とアスナは、現在特に目的地を決めずに適当にマッピングをしながら狩りをしていた。敵は手ごわいものの今のところ危なげなく戦えていたので、俺は彼女とパーティを組んでよかったと感じていたのだが、本人的には思うところがあるようだった。

 

「いや、まあ実際レベルの差もあるし、最近は装備にも金使ってるからな。あと、ドーピング効果もでかい」

「ユキノさんが作ったバフポーションのこと? 《錬金術》だっけ? あれ、凄いわよね」

「ああ。つーか、本当にお前は使わなくて良いのか? 今なら何本か渡せるぞ」

「ユキノさんがハチ君のために作った物なんでしょう? 貰えないわよ」

「んな細かいこと気にする奴じゃねえって。まず実益を優先するタイプだぞあいつは」

「ふぅん……。なんか、分かり合ってるって感じ?」

 

 何か勘繰るような視線でこちらを見つめるアスナ。俺はそれを一蹴するようにかぶりを振った。

 

「ちげーっつの。あいつが分かりやすいだけだ」

「そう。でも、やっぱりやめておくわ。まだあんまり量産出来ないみたいだし、中途半端に使うとバフに体を慣れさせるのが大変だもの」

 

 敏捷性(アジリティ)が一時的に上昇するバフアイテムなどは、体を動かす感覚が変わってくるのであえて使わないプレイヤーも多い。俺の場合は常用出来るから良いが、そうでないなら早さの調整に苦労するだろう。

 それを理解していた俺はこれ以上アスナにバフポーションを勧めることはせず、マップを確認して探索を再開した。

 

「とりあえず、あっちの山の方行ってみるか。ぱっと見、他にはなんもないし」

「そうね。南西に遺跡があるって街のNPCが言ってたし、探してみましょう」

 

 そうしてどちらともなく、遠くに見える山の方へと歩き出した。

 本来ならある程度範囲を絞って狩場とする方が、効率面でも安全面でも良いとされる。だがこの第73層は解放されてから日も浅く、効率的なレベリングスポットもまだ見つかっていなかったので俺たちはまず探索を優先していた。迷宮区に向かう道筋には他の攻略組プレイヤーが集中しており、消去法でひとまず違う方面へと歩を進めていたのだった。

 

 向かった先は赤土のはげ山で、荒野フィールドと同様ほとんど生き物の気配は感じられない。やはり出現する敵は基本的にロボット系モブで、あとは稀に穴倉から出現する大型のネズミのようなモブを相手にする程度である。

 

 ちまちまとした戦闘を繰り返し、山の谷間に遺跡の入口を見つけた俺たちはさらに探索を続け、気付けば遺跡の最深部と見られる場所まで辿り着いていた。

 

「やっぱりあんまり大きくないダンジョンだったみたいね」

「だな。まあNPCの話じゃこの辺は小さい遺跡が点々としてるみたいだったし、デカいダンジョンはもっと南にあるんだろ」

 

 セーフティゾーンの小部屋で手ごろな岩に腰かけながら、アスナと言葉を交わす。時間も良いタイミングだったので、俺たちはここで昼休憩を取ることにしたのだった。

 

「どうする? 休憩したらもっと南に行ってみる?」

「いや、今日はとりあえずこの辺でレベリングして終わろうぜ。エリアボスと遭遇(エンカ)したら俺らだけじゃ火力不足だしな」

「そう? 時間さえかければいけると思うけど……」

「あんま効率よくないだろそれ。俺のスキル的に大物狙いより、雑魚を虐殺(スローター)した方がいいし。どっちにしろ南のダンジョンはもう少し情報集めてからにしようぜ」

「そうね……。まあ最初からハチ君のレベリングに付き合うって話だったし、それでいいわ」

「この辺でレベリングするなら……とりあえずさっきのネズミが大量に出てきたところ試してみるか」

 

 ここに来る少し前に通った大部屋で、ドーム状の天井にびっしりと並んだ巣穴からネズミ型モブが大量に降ってくるというハプニングに遭遇した。ド○えもんだったらショック死するレベルの光景だったが、モンスターハウス系の罠には慣れていた俺たちは慌てず騒がず閉じ込め系の罠でないことを確認して、邪魔な敵だけを蹴散らしながらさっさとその場を後にしたのだった。

 急なことだったのであの時はとりあえず撤退してしまったが、準備して臨めばモブを殲滅することも可能だろう。ロボット系の敵に比べて、ネズミ型のモブは耐久力も低くそれほど厄介な敵と言うわけでもない。

 俺の頭の中ではそんな結論に至っていたのだが、しかしアスナは驚いた表情で声を上げた。

 

「え、あんなところ!? あれって(トラップ)でしょ? さっきだって2人で逃げてきたじゃない」

「まあさっきは準備も何もしてなかったからな。HP回復量倍増ポーション……名前なげえなコレ……まあ例のポーション使えばゴリ押し出来るだろ」

 

 俺がそう反論するとアスナは一瞬言葉に詰まり、その後脱力しながら大きく息をついた。

 

「キリトくんと2人で、そういう無理なレベリングばっかりしてきたのね……。レベルも離されるはずだわ」

「いや、あれくらいならそんなに危なくもないだろ。やばくなっても地形的に逃げるのは難しくないし」

「……なんだかもっと危ないレベリングしてきたみたいな言い方ね」

「……さて、とりあえず飯にするか」

 

 訝しむアスナの視線を切って、俺は弁当を取り出した。明らかに不自然な話題転換だったが、ありがたいことにアスナはそれ以上追及してこなかった。その代わり、どうやら彼女の興味は俺の取り出した弁当の方に移ったようだった。

 雪ノ下の手作り弁当だと知られると妙な勘繰りをされるかもしれないので、弁当箱を包んであった可愛らしい猫のクロスは予め取ってある。だが俺が開いた弁当をチラリと覗き見ると、アスナは少し驚いた表情で口を開いた。

 

「そのお弁当……もしかして、ユキノさんが作ったの?」

「……よくわかったな」

 

 どう答えたものか一瞬迷ったが、結局俺は正直に頷いた。嘘を吐いた方が、何かやましいことがあるのだと勘繰られてしまうだろう。

 

「だって、なんだか女の子っぽいもの。おかずとか、配置とか」

「そ、そうか」

 

 女の観察力って怖い。俺、浮気とか絶対バレる自信があるわ。いや、浮気とかしないけど。つーかそもそも浮気どころか本気もないけど。

 ちなみに風林火山の構成メンバーはほとんどが男で、調理担当に至っては全員が男だ。うちに所属する女プレイヤーの中で料理スキルを取っているのは雪ノ下だけなので、アスナはその辺りから俺の弁当の制作者に当たりを付けたのだろう。

 

「ユキノさんとは、リアルでの友達なんだよね?」

「友達というか……まあ、知り合いだな」

 

 互いに昼食を食べ進めながら、言葉を交わす。

 もう雪ノ下のことをただの知り合いだなどとは思っていないが、今さら友達と言い表すのも何となくしっくりこない。だから俺としては、とりあえず今まで通りの距離感でいるのが心地よかった。まあ最近、雪ノ下からは今までの距離感どころか、もはやゼロ距離でグイグイと押し寄せてくるのだが……。

 しかし、アスナからこういった現実世界の話を聞いてくるのは珍しいな。そう思いながら視線をやると、少し思い詰めたような表情の彼女と目が合った。

 

「ねえ、マナー違反かもしれないけど……ハチ君のリアルの話、聞かせてくれない?」

「は? いや、俺のリアルの話なんて、何も面白くねえぞ」

「聞きたいの。お願い」

「いや……そう言われてもな……」

 

 別に、俺のリアルについてアスナに知られるのが嫌なわけじゃない。ただ、こうして改まって話すのが気恥ずかしいだけだ。

 そうして渋る俺の顔を、アスナがジトっとした目で見つめる。

 

「……私のリアルの話は聞いたくせに」

「は!? い、いや、あれは酔ったお前が勝手に……つーか、お前あれ覚えてたのかよ」

 

 思い返すのは、第55層のドワーフの集落でのこと。

 ある日武器製作用のインゴットを求めて出かけたらしいキリトと女鍛冶屋の2人は、陽が落ちても中々フィールドから戻らず、それを心配した俺とアスナは彼らを追って雪山フィールドへと赴いた。その途中辿り着いたのがドワーフの集落であり、成り行きで発生した強制イベントによって俺たちは宴会への参加を余儀なくされたのだ。

 ゲーム内の酒でも、個人差はあるが大体のプレイヤーは『酒を飲んだ』という思い込みによって酔ってしまう。アスナもその例に漏れずかなり酔っぱらってしまい、話の流れで自分の本名やら住んでいる場所やら通っていた学校のことなどを暴露していた。

 しかし宴会以降その話題に触れることはなかったので、酔いとともにあの日の出来事は忘れてしまったのだとばかり思っていたが……まさかしっかり覚えていたとは。

 

 予想外の追及にしろどろもどろになった俺を、アスナはじっと見つめていた。しかしやがて彼女は大きくため息を吐くと、力なくかぶりを振った。

 

「……ごめんなさい。やっぱり、こういうの良くないわよね。今の話、忘れて」

 

 言った彼女の横顔はどこか寂し気に見えて、俺の胸に小さな罪悪感が湧いてくる。いや、冷静に考えて俺は悪くないはずなのだが……。しかし、アスナにこんな顔をさせてしまうのは本意ではなかった。

 俺は数秒間悩んだ末に、ガシガシと頭を掻きながら唸るように声を上げた。

 

「……先に言っとくけど、俺のリアルの話なんて、マジでなんも面白いもんじゃないからな」

 

 言い訳をするようにそう前置きをして、俺はアスナの反応も待たずに話し始めた。

 

 高校入学直後に事故にあったこと。

 それによって高校生活のスタートダッシュに乗り遅れ――元からほぼ確定していたのだが――高校ぼっちが完全に確定したということ。

 そうしてぼっちのまま日々を過ごし、高校2年になって『高校生活を振り返って』という作文でリア充爆発しろなどと舐め腐った内容を書いた俺は、生活指導担当である平塚先生に奉仕部と言う部活に強制入部させられたこと。

 その部活動の中で、雪ノ下や由比ヶ浜という生徒たちと知り合い、幾度もすれ違いを繰り返しながらも、様々な依頼を通して彼女たちという人間を知っていったこと。

 しかし些細な行き違いによって、やがて俺たちの間には決定的な溝が出来上がってしまったこと。

 そして、それを解消することが出来ないまま、SAOへと囚われてしまったこと。

 

 雪ノ下の話題から派生したのだから、アスナが聞きたいとすればきっとこの辺りの話だろう。そう当たりを付けて、俺は内容を選びながら口を開いた。

 アスナは時々相槌を打ちながら、始終興味深そうに話を聞いていた。

 

「平塚先生って、いい先生ね。私の行ってた学校にはそういう面白い先生は居なかったなあ」

「まあ、そうだな。拳でのスキンシップがちょっと過激なのと、婚期を逃している以外は基本いい先生だ」

「婚期って……そんなことばっかり言ってるから怒られるんでしょ。ハチ君って、絶対子供の頃好きな女の子に意地悪してたタイプよね」

「……ノーコメントで」

 

 呆れた視線を向けるアスナから目を逸らし、俺は食後の自作MAXコーヒーもどきを口にした。小学生の頃に気になっていた女の子にちょっかいを掛けて、帰りの会で「本当にやめてほしい」と女子陣から本気のバッシングを食らった苦い記憶が頭を過ったが、コーヒーの甘さでなんとかそれを押し流した。やっぱり人生が苦い分、コーヒーは甘くなくちゃいけない。

 

「……ねえ」

 

 しばしの沈黙の後、改まってそう呼びかけたアスナは、しかしすぐには次の言葉を口にしなかった。どうしたのかとチラリとアスナを伺うと、真剣な表情の彼女と視線が交わる。

 

「やっぱりハチ君はさ、ユキノさんのことが好きなんじゃないの?」

 

 唐突な問いに、俺は言葉に詰まった。

 動揺とともに様々な思いが頭を過ったが、俺はとりあえず質問には答えずに問い返す。

 

「お前、もしかしてあれのこと知ってんのか?」

「……うん。ごめんね、聞いちゃったの」

「そうか」

 

 舌足らずなやり取りだったが、互いに意味は通じただろう。あれのこと、とは言わずもがな雪ノ下の告白の件である。

 あまり周りには知られないようにしていたのだが、アスナまでもが知っているということは案外広まってしまっているのかもしれない。そんなことを考えながら、俺は言い訳がましく口を開いた。

 

「いや、つーかあれは俺がどうとかじゃなくて……。あいつが、ちょっと血迷っただけだ。そもそもありえないだろ。あいつと俺が……なんて。ぶちスライムとダークドレアムを配合するようなもんだぞ」

「えっと、ごめんなさい、その例えはよくわからないけど……要は2人じゃ釣り合わないってことよね? 私はそうは思わないけど」

 

 アスナにドラクエネタは通じなかったようだ。知らないなりに意味を理解し、フォローするようなことを言ってくれたが、しかし正直これはあまり意味のないやりとりである。内心どう思っていても、馬鹿正直に「そうだね、2人じゃ釣り合わないね」なんて言う奴はまずいないからだ。鼻っ柱は強くとも、アスナは根っこの部分では人一倍優しい女の子だった。

 まあ本気で釣り合いがどうとか、そういったことを気にしているわけじゃない。全く気にならないと言えば嘘になるが、少なくとも1番の問題ではなかった。

 

「……ねえ、じゃあもしもさ。もし私が――」

「ん? あっ。ちょっと待ってくれ」

 

 アスナが何事か言いかけたが、俺はそれを遮って声を上げた。

 なんとなく気まずくて目を泳がせていた先。陽の差さないダンジョンの中で視界を明るく照らしていた、光るコケ。単なる環境オブジェクトだろうとこれまであまり気にしていなかったのだが、手慰みにそれを撫でていたところ、唐突にアイテムテキストが表示されたのだった。

 

「妙に明るいと思ってたけど……これ、採取可能オブジェクトなのか。上手く加工出来れば……使えるかもしれないな。煙幕と組み合わせて……」

「……使えるって、何に?」

 

 ぶつぶつと呟く俺の顔を、アスナが怪訝な表情で覗き込む。

 

「ああ、ヒースク――じゃなかった。『例のあいつ』と戦う時用にな。色々と小細工を考えてんだよ」

 

 ヒースクリフとの決戦に備えて、ただステータスを強化する以外にも俺は細々とした作戦をいくつか用意していた。本命はキリトによる不意打ちだが、それより前に少しでもあいつのHPを削っておくに越したことはない。煙幕やら音爆弾やら、使えそうなものは何でも使うつもりである。

 ちなみにヒースクリフと言いかけて『例のあいつ』と言い直したのは、あまり外でこの話題をしない方が良いと話し合ったからだった。そんなわけで俺たちの間で今ヒースクリフは『名前を呼んではいけないあの人』扱いである。決闘する時はちゃんとお辞儀をしなければいけないな。

 あと、どうでも良いけどハリポタ映画の日本語吹き替え版でヴォルデモート卿の一人称を『俺様』にした奴は頭おかしいと思う。

 

 そうして脳内で話が完全に脱線したところで、俺は何やら難しい顔をして黙り込むアスナに気付いた。

 

「ああ、わり。最近ずっとなんか使えるもんないかと思って探してたから……。なんの話だったっけ?」

「……ううん。何でもない」

 

 アスナは力なく首を横に振ると、大きくため息を吐いた。そうしてそのまま項垂れて、何故か恥じ入るように両手で顔を隠してしまった。

 

「それよりなんか、もう……ごめんなさい」

「は? いや、何の謝罪?」

「うん……なんていうか、ホントもう、ごめんね……」

「いや、だから何の話だよ」

 

 要領を得ない返答に困惑しながら、俺は再度聞き返した。するとアスナは顔を覆っていた両手を下ろし、申し訳なさそうにこちらに視線を向ける。

 

「そうだよね。ハチ君、今あの人との戦いで頭がいっぱいなんだよね。こんな時に、変なことばっかり聞いてごめん」

「ああ、そういう……。いや、別に変な気を回さなくていいから。それにどっちかって言うといつも通りでいてくれた方が楽だし」

「うん……けど、やっぱりこの話はもうやめておくわ」

「そうか。まあ、別にいいけど」

 

 アスナが良いと言うのなら、俺に異存はない。言いかけて途中でやめられるとちょっと気になるが、わざわざ蒸し返すほどのことではなかった。

 

「なんだか、ちょっと焦ってたみたい。最近あんまりハチ君と話せなかったし……。色々聞きたいことが多くて」

「ふーん……。まあ好きに聞けよ。聞くだけならタダだからな。答えるかは分からんけど」

「その言い方、全然答えてくれる気がなさそうなんだけど……。けど、そうね。何でも聞くだけならタダよね」

 

 何事か少し考え込んでいたアスナは、ややあって座っていた岩から腰を上げた。それから服についた砂埃を軽く払って、こちらに振り返る。

 

「じゃあさ、ハチ君。1つ、約束しない?」

「約束?」

「うん、約束」

 

 見上げると、頷く彼女と目があった。

 

「私ね、私たちの関係が、この世界だけのことだなんて思ってないし、思いたくない。だからもし全部が上手くいって、現実世界に帰れたら……また、あっちで会いましょう。それから初めましてって言って、自己紹介するの。他の皆も一緒にね」

 

 アスナの真っ直ぐな瞳が、じっと俺を見つめていた。その大きな瞳に飲み込まれてしまうような錯覚に陥りながら、しばし呆然としてしまう。

 

 彼女は、いつだって俺の先を歩んでいる。

 

 俺だって、俺たちの関係がこの世界だけのことだなんて思いたくはなかった。現実世界に帰ったとしても、この関係を終わらせたくはなかった。だが、それをちゃんと言葉にすることは酷く恐ろしいことのように思われた。

 それでも、いずれはどこかで言わなければならないとずっと考えていた。正直に、自分の心の内を伝えなければならないと。それを厭って、今まで何度も失敗してきたのだから。

 だが俺は、まだ時間はある、今はタイミングが悪いと、ずるずると問題を先延ばしにしてきてしまった。キリト相手にさえ、ゲームクリア後の話をまだ具体的にはしていない。

 

 そうして俺が避けて通ってきた道を、この少女は瑕疵のない笑みすら浮かべて切り開いたのだ。その眩しさに圧倒され、そして自分の矮小さを改めて自覚し、なんだか可笑しくなってきてしまった俺は吹き出すようにして笑った。

 

「……今さら、自己紹介かよ」

「大事なことでしょ? だって私たち、また始めなきゃいけないんだから」

「まあ、そうだな。……わかった。覚えとく」

 

 俺がそうして頷くと、アスナは花が咲くような笑みを浮かべて返した。

 

「よし、じゃあ約束ね。はい、手出して」

「手?」

 

 言われるがまま、咄嗟に右手を差し出す。するとアスナはするりと自分の小指を俺の小指へと絡めた。こちらが驚く間もなく、アスナはさらにその手を軽く上下へと振る。

 

「はい、指切りげんまん。嘘ついたらリニアー千本だからね」

「……ぜ、善処します」

 

 満面の笑みで恐ろしいことを口にするアスナに対し、俺は戦慄をもって頷いた。

 ちなみに指切りげんまんの『げんまん』とは『拳万』という漢字を書く。つまり『嘘をついたら拳骨を1万発食らわせますよ』ということで、さらにリニアー千本ともなれば実質的に殺害予告のようなものである。なにそれこわい。

 

 いや、まあ、さすがに言葉の綾のようなものだろう。かつて《狂戦士》という2つ名を冠していたアスナだが、いくらなんでも現実世界でそんなことはしないはずだ。……しないよね?

 

「じゃあ、もう十分休憩も取ったし、そろそろ行きましょう。今日はここでレベリングするんでしょ?」

「お、おう。そうだな。……あ、ちょっと待ってくれ。この辺の光るコケ採取してく」

「そう言えばそれ、具体的にどう使うの?」

「ああ。これはな――」

 

 その後、休憩を切り上げた俺たちは予定通り大量のネズミを相手にレベリングを夜まで行い、この日は解散となった。しばらくは最前線の街に泊まりながら、探索とレベリングを繰り返していくことになるだろう。アスナも数日はこちらに付き合ってくれるようなので、その間にソロになっても安定してレベリングを行えるポイントを見つけるつもりである。そろそろ最終決戦に向けて体調も調整していかなければならないため、今後は今までほどきついレベリングにはしない予定だった。

 

 ――もし全部が上手くいって、現実世界に帰れたら……また、あっちで会いましょう。それから初めましてって言って、自己紹介するの。

 

 その日の夜。宿屋のベッドに横になりながら、俺は何度も何度もその言葉を反芻した。

 

 アスナと交わした約束。それは俺にとって福音となった。

 SAOという世界で暮らすことへの慣れ。そして現実世界への帰還という恐怖。今アインクラッドで暮らすプレイヤーたちには誰しも、多かれ少なかれそれがあるはずだ。

 長く牢獄で過ごした囚人たちは、塀の外へ出ることを恐れるようになる。それと同じだ。普通の社会に戻った時、そこに適応出来るのか。1度社会の歯車から外れてしまった自分たちに、帰る場所などあるのか。そんな不安が、囚人たちの心を牢獄(安心できる場所)へと押し込める。

 当然、俺にもその気持ちはあった。以前ドワーフの集落でのアスナとの会話でその不安の大部分は解消されたものの、それでも未だ現実世界に戻ることに対する一抹の不安は消えなかった。

 ゲームからの解放を願い行動しながらも、そうして胸の内に抱えていた矛盾。その矛盾した心が、ヒースクリフとの戦いで足を引っ張るのではないかと俺は危惧していた。

 

 しかし今はただ、現実世界に帰りたいと強く思う。誰1人欠けることなく。

 アスナと交わした約束が、矛盾する心を吹き飛ばした。不安を、恐怖を、未来への期待が塗り潰してくれた。

 

 この日から、俺はじっと自分の右手を見つめることが多くなった。その度に、彼女と約束を結んだ小指が熱を帯びるような感覚を覚えるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第49話 偽物

「さてと……この部屋か」

 

 周囲を見回しながら、独り言ちた。

 薄暗い、石造りの古代遺跡風の部屋だった。第75層、迷宮区のセーフティゾーンである。ボス部屋の少し手前にある大部屋であり、恐らくボス攻略に当たっては攻略組のレイドが事前に訪れるであろうポイントだ。

 この場所で、俺、比企谷八幡はヒースクリフに挑むつもりである。今日ここに訪れたのはその下見だった。

 

「えーっと……あっちから来るとして、この辺で仕掛けて、俺とあいつの立ち位置がこの辺だろうから……こっちか」

 

 1人で長いこと探索していると、どうにも独り言が多くなる。ここ数日は誰とも顔を合わせずソロで迷宮区をうろちょろしていたので、思考が完全におひとり様モードになっていた。まあやばいレベルになるとモブ相手に天気の話をし始めたりするので、まだまだ正常な域である(当社比)

 

「この辺でいいか。登録(エンター)

 

 唱えると、右手に持っていた回廊結晶が一瞬強い光を放ち、黄色いクリスタルの中央に赤い光が灯った。地点登録が完了した証である。これを使って、キリトはヒースクリフへと奇襲をかける手筈である。

 

「いよいよだな……」

 

 興奮を滲ませながら、呟いた。

 とうとう、ここまで来たのだ。あと数日の内にボス攻略会議が開かれ、攻略組はここに訪れるだろう。第75層フロアボス攻略直前のタイミング、そこで俺はヒースクリフに――いや、茅場晶彦に挑む。このゲームのクリアを賭けて。

 命懸けで駆け抜けてきたこの2年間。月並みな感想だが、長いようで短かったように思う。そんなことを感慨深く考えると自然とアインクラッドで過ごした2年間の記憶が頭を過ったが、俺は強引にそれを振り払った。今はまだ思い出に浸るような時間はない。そんなものは、全てが終わってからで十分だ。

 

 回廊結晶をストレージに仕舞った俺は、息を大きく吐き、背負っていた槍を手に取った。

 ひんやりとした柄の感触。手に馴染む重み。それをどこか心地よく感じながら、俺は青く澄んだ切っ先を虚空へと向けて構える。

 これから相対するのは、かつてないほどの強敵だ。攻略組最強の男。それと戦うと考えるだけで、身が竦んだ。1人で戦って勝てるイメージは、微塵も沸かなかった。

 

 鋭く息を吐きながら踏み込み、渾身の突きを放つ。見据えているのは、茅場の幻影。それを打ち倒そうと、俺は槍を振るい続けた。突き、打ち、払い、次第にリズムを上げてゆく。茅場の幻影と共に、己の怯懦を消し去ろうとした。

 

 茅場晶彦に勝つ。それ以外を考えられなくなるまで、俺はその場で槍を振るい続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キリトが不在となった攻略組によるゲーム攻略は、しかし意外なほど順調に進んでいた。

 攻略組最大戦力の1人であるキリトが居なくなったことによって危機感を抱いたプレイヤーたちは、今まで以上に強く団結するようになったのである。第73層、第74層ともに普段よりも日数は掛かったが、ボス攻略において攻略組に死者は出なかった。

 これについてキリトは攻略が順調に進んでいることを喜ぶ半面、自分が居なくなっても割と上手く回っている攻略組に対して複雑な感情を抱いているようだった。まあ世の中そんなもんだ。代えがきかない人間など、世の中そうそう居るもんじゃない。それで言うと俺なんて居なくなっても気付かれないレベルである。

 実際のところキリト不在の穴を埋めるための苦労は相当だったはずだが、突出した個の力に頼らなくてよくなった分、かえってレイドとしての安定感は増している。怪我の功名という奴だろう。

 

 そうして攻略組がなんとかゲーム攻略を進めている一方、キリトは部屋に閉じこもって生産系スキルで経験値を稼いだり、体が鈍らないように素振り等を行っていたらしい。部屋に籠りっぱなしで気が滅入るのもそうだが、お見舞いに来てくれるプレイヤーたちを病気の芝居で騙さなければならないのが辛かったと語っていた。

 だが、それも今日までだ。

 先日、血盟騎士団主導でボス攻略会議が開催された。そしてそこで本日11月26日の午後、第75層フロアボス攻略戦が行われることが決定したのだった。

 

 

 

 

回復結晶(ヒールクリスタル)、ちゃんとポーチに入れたか? ポーション類も忘れるなよ? あと煙幕と蛍光玉と手鏡と……ああ、それと装備の耐久値は――」

「お前は俺のオカンか。大丈夫だっつーの」

 

 捲し立てるキリトの言葉を遮って、俺はため息交じりに答えた。

 ボス攻略に発つ前に顔を出しておこうとキリトの部屋に寄ったら、これである。準備は昨日のうちに済ませてあるし、さすがに直前になってバタバタとするようなことはなかった。

 ここまで長い時間をかけて散々準備を重ねてきたのだ。当日忘れ物をしてその全てを台無しにするようなことは俺だってしたくない。持ち物や装備の耐久値については今日だけでもう5回はチェックしていた。

 

「ようやくここまで来たんだなあ」

「感傷に浸るのはまだ早いけどな」

「……だな」

 

 苦笑いを浮かべながら、キリトは頷いた。気持ちを切り替えるように大きく息を吐いてから、キリトは真面目な顔になってこちらを見つめる。

 

「本当は色々話したいことがあるけど、今はやめておくよ。全部終わらせて、また現実世界(あっち)で会おう」

「……おう」

 

 どちらからともなく、拳を付き合わせた。こういった内輪での無意味な儀式的行為は嫌いだったはずなのだが、今では自然とそれが出来てしまう。慣れと言うのは怖いものだ。

 そんな無駄な思考を振り払って、俺はキリトに背を向ける。

 

「じゃ、行ってくる」

「ああ。また後でな」

 

 これを今生の別れにするつもりはない。だから俺はゲンを担ぐつもりで、あえて普段通りの挨拶をした。そうしてキリトの部屋を後にする。

 

 この後は第75層の主街区へと向かい、集合した攻略組のメンバーと共にボス攻略に向かう予定である。普段は迷宮区手前の街から徒歩でボス部屋へと向かうのだが、今回は少しでもプレイヤーの消耗を抑えるために回廊結晶を使ってボス部屋の前まで行く手筈だ。

 つまり、もう決戦まであまり猶予はないということである。俺は改めて戦う覚悟を固めながら、ゆっくりと歩を進めた。

 しかしホームの玄関を開けたところで俺を待っていた光景に、心の中で高まっていた緊張感はあっさりと霧散していってしまったのだった。

 見慣れた顔のプレイヤーたちが、ワイワイと集まってギルドホームの前に並んでいる。風林火山のプレイヤーに加え、月夜の黒猫団やら軍やら外部のプレイヤーも混じっているようだった。

 

「なんだこれ……」

「お、来たか!」

 

 呆然とする俺の前に駆け寄ってきたのはクラインだった。笑顔を浮かべながら、この状況について説明してくれる。

 

「今日は大一番だからな。みんなお前の顔を見に来てくれたんだよ。そんで折角だから、オレらも集まって見送りしようと思ってよ」

「……ああ、なるほど」

 

 クラインを含めほとんどの人間は打倒ヒースクリフの作戦を知らないはずだが、それを抜きにしたって今日は第75層(クォーターポイント)のフロアボス攻略である。気合いが入るのも無理はなかった。

 先ほどからなんとなくホームの中が静かだなと思っていたのだが、ほぼ全てのメンバーは外で待っていたようだ。そうして俺が納得していると、やかましく声を上げたクラインがヘッドロックを仕掛けてくる。

 

「おいおい、嘘でもちったぁ嬉しそうな顔しろよ! ホント不愛想だなお前は!」

 

 そうは言いながらも、クラインは特に気を悪くした様子もなく笑っていた。単なるじゃれ合いである。この状況で変に水を差すのもアレだし、別に痛いわけでもないのでされるがままになっていると、そのうち他のプレイヤーたちもわらわらと集まり、バシバシと俺の身体を叩きながらそれぞれ激励の言葉を投げかけてきた。

 

「頑張れよ!」

「俺らなんにも出来ねえけど、応援だけはしてるからよ!」

「死ぬなよ!」

「兄貴、やっちまってくだせえ!」

「絶対、生きて帰って来て下さいね!」

「ここがお前の帰ってくる場所だぞ!」

「ちくわ大明神」

「誰だ今の」

 

 なんか1人か2人悪ふざけしている奴が居たが、突っ込むのも面倒なのでスルーしておく。きっと俺の緊張をほぐそうとしてくれたのだろう、と好意的な解釈で受け取っておいた。

 そうして一通りやり取りを終えた後、クラインが表情を真剣なものに変えて改めて口を開いた。

 

「今日のボス戦、相当厳しいことになると思う。一緒に戦ってやれなくて、わりぃ。オレらに出来んのはこうやって見送ることぐらいだけどよ――」

「あぁ……いや」

 

 クラインの言葉を遮るようにして俺は口を開いたが、気恥ずかしさのせいで次の言葉は中々出てこなかった。

 まあ旅の恥はかき捨てというし、SAOを1つの旅と考えれば最後に1つくらい恥をかいておいてもいいだろう。今日の作戦がどう転んだとしても、俺がこの世界でこいつらと言葉を交わせるのはこれが最後の可能性が高い。

 そうやって自分に言い聞かせ、やがて躊躇いながらも俺はなんとか口を開いた。

 

「……最前線で体を張ることだけが、戦うことじゃない。お前らが大勢のプレイヤーのために戦ってきたことはみんな知ってるよ。俺だって、お前らには……感謝してる」

 

 言って、ちらりと周りの反応を伺う。先ほどまでの喧騒が嘘のように皆静まり返り、ほとんどの人間が呆気にとられたようにポカンと口を開いていた。しかしやがて我に返ったようにざわつき始める。

 

「……ハチがデレた」

「お、おい! 今の誰か録音してないのか!?」

「大丈夫? 熱でもあるんじゃない? 今日のボス攻略はやめておいた方が……」

「ていうかこれって死亡フラグって奴じゃ……」

「お、おい。縁起でもないこというなよ。否定できないけど」

「お前らな……。もう2度と言わねえ」

 

 あんまりな反応に俺が吐き捨てるようにそう言うと、クラインがすぐにフォローするように口を開く。

 

「ははっ! 悪かったって、拗ねんなよ! 面と向かってそう言われるとむず痒くってよ」

 

 クラインの瞳は、心なしか潤んでいるようだった。それを誤魔化すように鼻を啜りながら、力強く俺の肩を叩く。

 

「絶対生きて帰ってこい! オレらみんな、待ってっからな!」

「……ああ。行ってくる」

 

 込み上げてくる様々な感情を全て飲み込んで、頷いた。クラインに続いて、集まったプレイヤーたちから色々な言葉を投げかけられたが、俺は振り向かずに転移門へ向かう道を歩き出した。

 次に会う時は現実世界で、だ。

 俺は改めて、強くそう決意した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遅刻という訳ではないはずだが、俺が集合場所に着いた時点でもうほとんどの攻略組プレイヤーは揃っていた。見送りに来たのか冷やかしに来たのか、それを取り巻くように攻略組以外のプレイヤーも大勢集まっている。

 第75層主街区コリニア。古代ローマ風の街並みで、転移門の前には巨大なコロシアムも存在する。そのすぐ横に位置する広場が今日の集合場所となっていた。

 第75層のフロアボスとの戦いはまず間違いなく厳しいものになると予想されるが、集まったプレイヤーたちの間に暗い空気はない。皆それぞれ談笑しながら、自然体で来るべき決戦の時を待っていた。

 恐怖がない、という訳ではないはずだ。だがここまで最前線で戦い続けて生きた猛者たちの中に、今さら恐怖で取り乱すような人間は居ないということだろう。

 浮ついた空気ともまた違う、静かな闘気と緊張感が漂うこの空間は、決戦を前にした俺にとっても心地よかった。攻略組の集団の中に紛れ、ゆっくりと深呼吸をする。

 

「こんにちは、ハチ君」

「ん、おう」

 

 人混みの中から俺を見つけ、声を掛けてきたのはアスナである。「昨日はよく眠れた?」「まあ……」なんて当り障りのない会話を一言二言交わし、互いに沈黙する。

 今日、第75層のボス攻略が行われることはない。俺たちの仕掛ける作戦がどう転んだところで、その後すぐにボス攻略へと乗り出すことはまずありえないからだ。だから俺たちの作戦に組み込まれていないアスナは他のプレイヤー同様、今日戦うことはないだろう。それはアスナ自身も理解しているはずなのだが、長い沈黙の後、俺の顔を見つめた彼女はどこか覚悟を決めたような表情をしていた。

 

「ハチ君たちが今日のためにずっと準備してきたこと、知ってる。だから今さら止めたりしないけど……いざという時は、自分の命のこと最優先に考えてね」

「……ああ、わかってる」

 

 少し考えてから、頷いた。俺だって死にたいわけじゃない。生きて現実世界に帰るために、ここまで最善を尽くして準備を進めてきたのだ。

 だが心の奥底には相反する想いも存在した。命を危険に晒さずにして勝てるほど、ヒースクリフは生易しい相手ではないはずだ。用意してきた手札が全て破られた時、俺は自分の命をベットすることを躊躇わないだろう。

 そんな俺の考えを見透かしたかのように、アスナは言葉を続ける。

 

「お願いよ……。ハチ君が死んじゃったら、私……」

 

 懇願するように言葉を発するアスナの顔を、俺は見ることが出来なかった。

 何と言って返すべきか。俯いて言葉を選んでいるうちに、やがて集まっていたプレイヤーたちの間から声が上がった。

 

「諸君、時間だ」

 

 そう言って注目を集めたのはヒースクリフだった。第75層のフロアボス攻略については、血盟騎士団に指揮権が与えられている。当然、それを主導するのはそのギルドマスターであるヒースクリフだ。

 集まったプレイヤーたちが静まり返る中、ヒースクリフはストレージから黄色いクリスタルを取り出して頭上に掲げる。

 

「今からこの回廊結晶を使って、第75層迷宮区最奥へと向かう。細かな隊列の確認などは向こうで行う予定だ。何か質問のある者はいるかね?」

 

 その問いかけに攻略組プレイヤーたちは沈黙で応える。ヒースクリフは満足げに1つ頷き、言葉を続けた。

 

「では、出発する。回廊よ開け(コリドーオープン)

 

 手に持ったクリスタルが砕け散り、光り輝く巨大な門が出現するのと同時に、ヒースクリフを先頭にして攻略組が動き出した。その背中に、集まっていた周りのプレイヤーたちからの声援が飛ぶ。

 

「ハチ君……」

「行くぞ」

 

 さすがにこの場でゆっくりと話をしている時間はない。俺はアスナの視線を振り切って、先を行くプレイヤーたちの後を追った。

 眩く輝く門を潜り抜けると、目の眩むような光の本流から一転、薄暗い遺跡の中へと転移していた。第75層迷宮区、ボス部屋直前のセーフティゾーンである。

 ひんやりとした空気をゆっくりと吸い込みながら、辺りを見回した。既にヒースクリフは周りへと指示を出し、班ごとにプレイヤーを纏めているようである。

 

 事前に想定していた立ち位置と、それほど差異はない。最初の条件はクリアである。

 振り返って、アスナの顔を見た。言葉は交わさず、頷いてみせる。アスナは何かを言いたげな顔をしていたが、やがては全ての感情を飲み込むようにして頷き返してくれた。

 1つ息を吐いて、心を落ち着ける。俺は再びヒースクリフへと視線を戻し、プレイヤーの間を縫うようにして歩き出した。

 

 作戦開始だ。もう、後には引けない。

 

「あー……、なあ。ちょっといいか?」

 

 平静を装って、ヒースクリフへと話しかけた。部下と何か話し合っていたヒースクリフが、意外そうな表情を浮かべてこちらを見る。

 

「ん、なんだね」

「いや、ちょっと気になることがあってな……。これを見てほしいんだけど」

 

 言って、俺はあるアイテムをストレージから取り出した。相手が何か反応する前に、俺は有無を言わせずそのアイテムを無理やりヒースクリフへ握らせるように手渡す。

 強引な俺の行動を訝しむヒースクリフだったが、それも束の間のことだった。手に持たされたアイテムに目を落とした瞬間、その瞳が驚愕に見開かれる。

 

「む、これは――!?」

 

 白銀に輝く無骨なガントレット。

 その大きな手に収まっていたのは、小さな四角い《手鏡》だった。

 

 ――それでは、最後に、諸君にとってこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう。

 

 2年前、デスゲームが始まったあの日。あの時のあいつの言葉が、頭を過った。

 

 ヒースクリフの体を、唐突に白い光が包み込む。それを見た周囲のプレイヤーたちが驚いて声を上げたが、2、3秒もするとすぐに光は霧散した。攻撃や転移の罠を食らった訳ではなさそうだとプレイヤーたちが安堵したのも束の間、その変化に気付いた者たちは、あまりの出来事に息を呑んだ。

 

 光が収まり、そこに現れたのは元のヒースクリフの姿――ではなかった。

 小ざっぱりと切り揃えられた黒髪。研究者然とした、冷たい印象を与える鋭利な眼差し。メディアへの露出を嫌いながらも、しかしこのSAOというゲームをプレイしている人間ならば知らぬ者はいないだろう、その男。

 永遠とも思える沈黙の後、やがて誰かが呟いた。

 

「茅場、晶彦……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正直、上手くゆくとはあまり思っていなかった。

 きっかけはキリトのちょっとした思いつきだったのだ。

 

「――ハチ、ちょっといいこと思いついたかもしれない」

 

 キリトが若干の興奮を滲ませてそう言ったのは、もうずいぶんと前のことのように思う。

 第65層、西の温泉街。その旅館の脱衣所でのことである。

 既に入浴を済ませた俺とキリトは涼みながら色々と話をしていたのだが、不意に脱衣所の鏡に目をやって何やら考え出したキリトが、やがてそう口にしたのだ。

 

「あん? なんだよ急に。何の話だ?」

「ハチさ、SAOが始まった時のチュートリアルで茅場が配った《手鏡》まだ持ってたよな?」

「《手鏡》? ……あー、あったな、そんなん」

 

 2年前の古い記憶をなんとか掘り起こし、頷いた。SAOの正式サービス開始時に、茅場がデスゲームの宣告した時のことだ。その説明の最後に、茅場は「全てのプレイヤーのストレージにあるアイテム入れておいたから見て欲しい」と言って《手鏡》を手に取らせ、プレイヤーたちのアバターを現実世界の姿に則したものに変化させてみせたのである。俺自身は警戒して《手鏡》はストレージから出さなかったのだが、結局アバターは変化させられた。

 後で知ったことだが、《手鏡》はストレージから出してしばらくすると消滅してしまうらしい。あの時どれほどのプレイヤーが律儀に茅場の言葉に従って《手鏡》を取り出したのかは不明だが、今のところ全く同じアイテムは見ていないし、現状《手鏡》はチュートリアルでしか手に入らない結構レアなアイテムに分類されている。かといって何か使い道があるわけでもないので、レアだからどうしたって話だが。

 捨てるタイミングもなかったので、《手鏡》はしばらく俺のアイテムストレージの肥やしとなっていた。現在は自室のタンスの中で眠っている。

 

「もし茅場晶彦が姿を偽ってヒースクリフを演じているんだとしたら……その《手鏡》使えると思わないか?」

「は? いや、使うったって……。え、そういうこと? ……いやいや、それは無理だろ」

 

 キリトの意図するところを理解した俺は、咄嗟にそう言って否定した。

 《手鏡》を使って、ヒースクリフのアバターを現実世界(リアル)の茅場晶彦の姿へと変換する――キリトはそう言っているのだ。だが、おそらくそれは不可能である。

 

「そもそも俺、あの《手鏡》ストレージから出さなかったのに結局アバター変えられたんだぞ? ってことは《手鏡》にそういう効果があったわけじゃないってことだろ」

「あの時、確か俺たちの姿が変えられたタイミングにはズレがあった。俺とクラインがほぼ同時で、ハチだけ10秒くらい遅かったはずだ。《手鏡》自体に姿を変える効果があって、それを手に取らなかったプレイヤーだけを後で茅場がシステムを操作してアバターを変えた可能性もある」

「よく2年も前のことそんな細かく覚えてんな……。けど、さすがに希望的観測過ぎないか」

「でも絶対にないって否定出来る要素もない」

 

 真剣な顔でそう口にするキリトに、俺は反論することが出来なかった。さらに畳み掛けるように、キリトは言葉を続ける。

 

「それに《手鏡》はストレージから出してしばらくしたら消滅するし……多分、消費アイテム扱いなんだ。あと前にアイテムテキスト見せて貰った時、『覗き込んだ者の真実の姿を映し出す』とか書いてあっただろ」

「いや、それはいわゆる香り付け(フレーバー)テキストって奴なんじゃ……」

 

 前に話のタネとして《手鏡》のアイテムテキストをキリトに見せたことがあったのだが、それを覚えていたらしい。しかしそれはアイテムの効果を保証するものではない。SAOでは一見しただけではフレーバーテキストなのか、実際の効果を表したものなのか判別しないアイテムも多かった。

 どれだけもっともらしい理由を並び立てても、結局は不確定要素が強すぎる話である。しかし、もし上手くいくとすれば、これほど魅力的な話はなかった。

 

「……けどまあ、試してみる価値はあるか。失敗しても大したリスクはないし。けどそうなると、茅場の正体を暴いた後どうするかも考えないとな」

「むしろそっちの方が本題だな。ちょっと作戦考えてみるか」

 

 そんな一幕を経て、打倒ヒースクリフの作戦は発足したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「正解だよ、ハチ君」

 

 その男――茅場晶彦は、口元に笑みを浮かべてそう言った。焦った様子も、悪びれた様子もない。その口ぶりは、まるで難問を解くことの出来た子供を褒めるかのようだった。

 攻略組が集結する迷宮区の一室には、時が止まってしまったかのような静けさが広がっていた。あまりに想定外の事態に、多くのプレイヤーは身動ぎすることさえ出来ないようだった。そうして唖然とする周囲のプレイヤーたちを置き去りにして、茅場晶彦は1人言葉を続ける。

 

「私に辿り着くための手段はいくつか想定していたが……まさか《手鏡》を使うとはね。2年前のチュートリアルで配布した一見無価値なアイテムを、ここまで大事に持っているプレイヤーがいるとは思わなかったよ」

「……貧乏性なもんでな」

 

 平静さを保つために、俺はあえて茶化した答えを返した。

 第一段階はクリアした。《手鏡》が通用しなければ、恐らくHPが半分以下にはならないように設定されているだろうヒースクリフに攻撃をして、システムの不自然な挙動を指摘するつもりだったのだが……失敗する可能性も高かったので、正直助かった。

 

 次は、上手く交渉に持ち込まなければならない。俺が頭をそう切り替えたところで、ようやく事態を飲み込み始めたプレイヤーたちがざわつきだした。

 

「さっきの光は……もしかして、チュートリアルの時の……」

「だ、団長? これは、何かの間違いですよね……?」

「いや、でもあの顔は間違いなく……」

「まさか、俺を……俺たちを、騙していたのか……?」

「ああ。その通りだ」

 

 動揺する血盟騎士団の団員たちを冷たく一瞥し、事もなさげに茅場は頷いた。

 

「この世界を作り上げ、諸君に望まぬデスゲームへの参加を強いた張本人である茅場晶彦は、いちプレイヤーに扮してゲームを内部から操っていた、というわけだ。私の計画では第95層をクリアした時点で正体を明かすつもりだったのだが……。随分と予定が前倒しになってしまったよ。まあ、それも想定の範囲内ではあるが」

 

 やはり、茅場は自分の正体が見破られる可能性も織り込み済みだったのだ。だから《手鏡》などという、奴の不利にしかならないアイテムが存在したのだろう。

 その事実を確認し、俺はほっと小さく息を吐いた。少なくともこれで、自分の計画を狂わされた茅場が逆上して俺たちを皆殺しにするという可能性はなくなったと見て良いはずだ。

 そうして内心安堵した俺とは対照的に、裏切りの事実を突きつけられた血盟騎士団のプレイヤーたちは怒りの感情を露わにして声を上げた。

 

「ふ、ふざけるなぁ!! 俺が、俺たちが、一体どれだけのっ……!! 俺たちの忠誠は! 信頼は! 全部茶番だったっていうのかッ!!」

「ああ。君たちには本当に済まないと思っているよ。だが、これもこのSAOを完成させるためには必要なことだった」

 

 あくまでも淡々と、他人事のように受け答えをする茅場の態度が火に油を注いだようだった。体を震わせて激昂した血盟騎士団の団員たちが、怒りのままに武器を取る。

 

「こ、のッ……!! クズ野郎があぁぁあああぁぁッ!!」

「悪いが、しばらく静かにしていてくれ。これから少し彼と話をしなければならないのでね」

 

 茅場へと襲い掛かろうとする団員達。しかし先手を打って茅場が何かシステムウインドウを操作すると、彼らは唐突にその場に蹲って動かなくなった。頭上に稲妻のようなマークが表示されているのを見るに、強制的に麻痺の状態異常を付与されたようだ。その後茅場はついでとばかりに、この場に居る俺を除いた全てのプレイヤーたちを麻痺によって拘束していった。

 しばらく恨み言を口にしながら、なんとか体を動かそうと必死にもがいていた血盟騎士団の団員たちだったが、やがて心が折れてしまったのか抵抗を断念し、ついには小さな嗚咽の声さえ聞こえてきた。

 その光景を前に、無関係な俺の胸中にさえやるせない思いが湧いてきたが、当事者である茅場は特に思うところもなさそうに「これでゆっくりと話が出来る」などと口にした。

 血盟騎士団の連中には悪いが、俺もあいつらに構ってやれるような余裕はなかった。茅場が対話を望んでいるのなら、ありがたくそれに乗らせて貰うつもりである。

 

「何故私に気付いたか……とは今さら聞くまでもないことか。私も少しヒントを与えすぎてしまったと反省していたところだ」

「……ああ。つーか、怪し過ぎだろ。お前のHPが半分を割ったところ、1回も見たことなかったしな。不死属性か何かついてんのか?」

「ああ、ご名答だ。私のHPは半分以下にはならないように設定されている。それを逆手にとって、私に対して攻撃を加え、その正体を暴くと言うルートも存在したのだが……」

「ああ。《手鏡》が使えなかったら、そうするつもりだった」

 

 俺の返答に、茅場は微笑んで満足そうに1つ頷いた。ゲームの制作者側としては、自分の用意した仕掛けを認知しておいてほしかった、ということだろうか。まあ、気持ちはわからないではない。用意しておいたいたずらをスルーされると悲しいしな。

 

「さてハチ君、本題に入るとしよう。私に何か提案があるのではないのかね? 君が何の考えもなしにこのようなことを仕掛けてくるとは思えないが」

 

 この場でどうやって話を切り出したものか、必死にそれを考えていた俺は、茅場のその言葉に内心苦笑した。茅場晶彦は、やはり本物の天才のようだ。常に先を行かれている感覚が拭えない。

 だがまあ、この場ではそれにあやかるとしよう。

 

「……なあ、茅場。お前の作ったこの世界、すげえよ。2年前にデスゲームが始まったあの日から、まぎれもなくここが俺たちの現実になった」

 

 心を落ち着けて、言葉を紡いだ。

 茅場晶彦にこちらの提案を飲ませるため、ずっと前から準備していた前口上である。ここでしくじる訳にはいかなかった。

 幸い、茅場はひとまず話を全て聞いてみる姿勢のようだ。黙り込み、興味深そうにじっとこちらを伺っている。

 

「この世界で死ねば、本当に死ぬ。それだけで、目に見えるもん全部の価値観が変わった。手に入れたアイテムも、育てたステータスも、隣に立つプレイヤーも、起こった全部の出来事が、俺たちにとって紛れもない本物になった。だから必死になって装備を揃えたし、馬鹿みたいにレベリングもしたし、本気でアインクラッド(この城)の頂上を目指して戦ってきた。この世界が、俺たちにとってもう1つの現実だったからだ」

 

 俺は、ずっと考えていた。

 茅場晶彦は、このゲームに何を求めていたのか。

 築き上げた地位も名誉もかなぐり捨てて、何を手に入れたかったのか。

 

 現実に倦んでいたのかもしれない。夢の世界に逃げ込みたかったのかもしれない。いつか見た空想の世界を、本物へと近づけたかったのかもしれない。

 それらしい理由は、いくらでも思いついた。だが、本当のところはわからない。茅場晶彦のような本当の天才が考えるようなことは、所詮一般人である俺には分かりようもないとも思う。

 だが、1つだけ強く疑問に思うことがあった。

 

 ――茅場晶彦は、今この状況に本当に満足しているのだろうか。

 

「お前、昔何かの雑誌で言ってたよな。『これはゲームであっても遊びではない』って。ああ、その通りだ。今この世界で、このゲームが遊びだなんて言う奴は居ないだろうな――たった1人を除いて」

 

 強く、茅場を睨み付ける。その時初めて、茅場晶彦と言う天才の顔に陰りが見えた気がした。

 強制的に命を賭けさせ、ログアウトという逃げ道を塞ぎ、ゲームからの解放という餌で俺たちに戦う理由を与えた。そこにはもはや、お遊びなどという要素はない。俺たちはこの世界で、本当の意味で戦っていた。

 だが、目の前に立つ男はどうだ。

 

「お前、さっき言ってたよな。死なないように設定弄ってあるって」

 

 既に言質は取ってある。

 SAOという本当に命が掛かったゲームにおいて、こいつだけが異物なのだ。

 どれだけゲームに介入しようと、結局は安全圏で物語を眺めているだけの部外者なのだ。

 

「滑稽だと思わないか。何もかもが本物のこの世界で、それを作り上げた本人、お前だけがどうしようもなく()()だ。お前とってだけは、このゲームは()()()だ」

 

 死の危険性はなく、その気になればログアウトも出来る。それどころか、システムを弄れるならば今すぐにゲームをクリアすることも可能だろう。そんな状況で、ただゲームで遊ぶ以上の何が手に入ると言うのか。

 

「自分が作った世界でチート使って俺ツエーして、それで満足か? 違うだろ。こんなテロみたいなことまで仕出かして、お前がやりたかったことは、そうじゃないだろ」

 

 全てを投げ打って、このSAOという世界を作り上げた男。

 単純な損得勘定で測れる相手ではない。こいつと交渉するのなら、その心に訴えかけねばならない。

 俺は槍を構え、目の前の男の心を揺さぶるように、その提案を持ち掛けた。

 

「命を懸けて、今ここで戦え茅場晶彦。俺がお前を本物にしてやる」




手鏡については自分の恣意的な解釈に基づいて書いております。
独自設定ということで適当に流して頂ければと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第50話 決戦

 耳が痛いほどの静寂が場を支配していた。

 麻痺によって拘束されている周りのプレイヤーたちも、固唾を飲んで趨勢を見守っている。今この瞬間、この交渉にSAOクリアが掛かっているということに、彼らも気付いているのだろう。

 そんな中、俺は沈黙する茅場を静かに見つめ、槍を構え続ける。

 

 ――乗ってこい。

 

 平静を装ったまま、心の中で叫んだ。

 茅場に対する俺の挑発は、全くの的外れというわけではないはずだ。奴がこの提案に乗ってくる可能性は低くない……はずである。

 緊張で、口の中が渇いてきた。胃も痛い。いや、どっちの感覚もシステム的には感じないはずだから、ただの錯覚なのだが。

 

 この場の全員が、茅場の一挙一動に注目している。沈黙の中、どれだけの時間が経っただろう。ようやく反応を見せた茅場が発したのは、大きな笑い声だった。愉快そうな表情を顔に張り付けたまま、言葉を続ける。

 

「最高の口説き文句じゃないか。まさか君のような少年に、そこまで看破されるとは……。ああ、君の言う通り、その葛藤は常に私の中にあった」

 

 葛藤――デスゲームの中にありながら、1人安全圏に立っていたということ。この状況を作り上げた張本人でありながら、本質的には部外者であったということに対する忸怩たる思いだろう。

 

「ゲームを完成させるためには、アインクラッド第100層の最終ボスであるこの私が途中退場するわけにはいかない。しかし、この世界で生きる君たちの息吹を間近で感じたいという欲求は日々大きくなっていった。だから1つの演出として、私もこのゲームに参加することにしたのだよ」

 

 茅場自身が、このゲームの最終ボス。なるほど、それなら確かに途中退場は許されない。道中のモブに倒されてラスボスが不在になる、などという間抜けな終わり方はゲームとして到底許容できるものではない。

 

「先ほども言ったが、第95層をクリアした時点で私は自分の正体を明かすつもりだった。長らく攻略組を率いてきたトッププレイヤーの1人である私が、一転して最強の敵となる。ベタだが、悪くない演出だろう?」

「悪趣味だな」

「見解の相違だね」

 

 茅場がおどけたように首を振る。まあゲームの演出としてはともかく、アインクラッド攻略終盤でそんなことが起きればプレイヤーたちに与える衝撃は相当なものとなっただろう。

 

「まあ、それもただの建前さ。ただ眺めているのが退屈だったから参加した。君たちに交じってゲーム攻略に邁進する日々は楽しいものだったが……虚しくもあった。君の言う通り、私だけがこの世界で偽物だったからだろう」

 

 息を継ぐように、茅場はしばし沈黙した。そしてやがて大きな決断を下すように、大きく頷く。

 

「君の申し出、喜んで受けさせてもらおう」

 

 ――食いついた。

 

 俺は興奮して目を見開いたが、すぐに努めて頭を冷やした。まだ細かい条件を詰めていない。この場で勝負し、茅場を倒したところで、結局SAOがクリアされないのならば意味はないのだ。

 

「一応確認しとくけど、お前を倒したらゲームクリア……ってことでいいんだよな?」

「ああ、安心したまえ。SAOの最終目的はアインクラッド第100層《紅玉宮》の主たるこの私を打倒すること。随分なショートカットとなるが、私さえ倒すことが出来ればゲームはクリアとなる。その場合、現時点で生き残っている全プレイヤーたちを速やかにこの世界から解放することを約束しよう」

「……わかった」

 

 黙って趨勢を見守っていたプレイヤーたちが、騒めきだした。無理もない。2年間あれだけ切望していたSAOからの解放が、いまや手を伸ばせば届く場所にあるのだ。

 

決闘(デュエル)の形をとるかね?」

「いや、いらないだろ。どうせどっちも降参(リザイン)なんかしないんだ。死んだ奴の負け。その方がわかりやすいだろ?」

「……いいだろう」

 

 茅場は少し考える様子を見せたが、やがてはそうして頷いたのだった。

 死んだ奴の負け。細かいルールについての言及はない。そして俺は今まで一言も『()()勝負しろ』とは言っていない。もし俺以外のプレイヤーがこの場に乱入して茅場を倒したとしても、奴が死にさえすれば俺たちの勝利である。

 

 これで、全ての条件はクリアされた。

 

 小躍りしたくなるような気持ちが胸に広がったが、それを飲み込んで大きく息を吐いた。まだ前提条件をクリアしただけだ。本当の戦いはここからである。

 用意した全ての手札を以ってして、ここで茅場晶彦を倒さなければ――いや、殺さなければならない。

 不意に、麻痺によって蹲るアスナと目が合った。その瞳からは明らかな不安が見て取れたが、彼女をなるべく安心させるように、力強く頷いてみせた。

 俺は今、1人でこの舞台に立っているわけじゃない。だからきっと、大丈夫だ。

 

 構えていた槍を軽く握り直し、茅場へと視線を戻す。まだ剣も抜いていないことを確認し、俺は腰に装着されたポーチから素早く虹色の飴玉を取り出して口に放り込んだ。小さなそれを奥歯で噛み砕くと、奇妙な味が口の中に広がるのと同時に、視界の左上、HPバーの横に各種バフが付与された証である様々なマークが表示された。

 雪ノ下お手製の、各種バフ効果を持つ飴玉である。《錬金術》スキルの熟練度が上がったことで、数種類のポーションを混ぜ合わせて固形化することが出来るようになったのだ。この状態ならば戦闘中だったとしても、一瞬の隙を見て飴玉を口に放り込むことが出来るので重宝している。

 

 ――死ぬことは、許さないわよ。

 

 この飴玉を手渡した時の、雪ノ下の言葉を思い出す。言葉だけは高圧的だが、その眼差しも声音も俺への気遣いで溢れていた。

 アスナにしろ雪ノ下にしろ、このSAOがクリア出来るかどうかという瀬戸際で、人の心配ばかりだ。本当に、俺には勿体ないような仲間たちだった。

 

 ちらりと、茅場がこちらを伺う様子を見せる。さすがに奴も俺が何か口にしたのは気付いただろうが、特に見咎められることはなかった。まあ、ちょっとバフを盛ったくらいで、今まで本当の意味でチートを使っていた奴に文句なんて言われたくないが。

 

「準備は終わったかね。さて、では始めようか」

「ああ」

「しかし、開始の合図がないと言うのはどうにも締まらないな。月並みに、コインでも投げてそれが地面に落ちたら勝負開始としようか」

「西部劇かよ……。お前、意外とそういうお約束が好きだよな」

「ふっ。童心を忘れない質なのでね」

 

 キザな笑みを浮かべた茅場が、ストレージから銀色のコインを取り出した。よく見えるようにコインを掲げながら、俺から少し距離を取るように数歩後ずさる。彼我の距離10メートルというところで立ち止まった茅場は、ガントレットを付けたままの指で器用にコインを宙へと弾き飛ばした。

 

「では、尋常に」

 

 コインが高く放物線を描く中、茅場が静かに剣を抜き、盾を構えた。

 悪いが、尋常な勝負に付き合ってやるつもりはない。心の中で俺はそう毒突いた。どんな手を使ってでも、お前を殺す。その覚悟を決めて、ここに来たのだ。

 

 コインが落下していく様子は、心なしかゆっくりに思えた。茅場の姿を真っ直ぐに見据え、コインの行方を目の端で捉えながら、俺は槍を一層低く構える。

 銀色の軌跡が視界を縦断していった。やがてか細い金属音が、部屋に響き渡る。

 

 最後の戦いは、そうして静かに始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本命はキリトによる不意打ちではあるが、俺は俺で茅場を倒すために全力を出さなくてはならない。最初から囮のつもりで戦えば、勘の良い相手にはすぐに他に狙いがあることを悟られてしまうだろう。本気でやるからこそ、囮は囮になりえるのだ。ジャンプの某バレーボール漫画でもそんなことを言っていたから間違いない。

 だがしかし、ある程度の時間は稼がなければいけないと言うのも事実だ。迷宮区の中から街に居るプレイヤーと連絡を取る手段はない。だからキリトは特に合図などはなく、予め決めておいた時間に回廊結晶を使ってここに来る手筈となっている。

 茅場に勝負を仕掛ける前に時計を確認しておいたが、約束の時間までまだあと5分以上はあった。少なくともそれだけの時間は稼がなければならない。

 

 初めから無限槍で勝負を仕掛けるのは、少し難しいだろう。死域に入れば恐らく5分程度なら問題なくソードスキルを使い続けられるだろうが、茅場が相手では絶対の自信はない。1度でもミスをすれば技後硬直にカウンターを食らい、ゲームオーバーである。神聖剣は特別攻撃力の高いスキルではないはずだが、それでも軽装備アタッカーである俺の紙装甲など貫通して一気にHPを全損させるだろう。

 まあそもそも、初っ端から切り札を切ることが本気で戦うということではない。探りを入れ、崩しにかかり、ここぞと言うところで渾身の攻撃を仕掛けるのが俺のスタイルだ。むしろいきなりイチかバチかの攻撃に出れば、逆に勘ぐられそうなものである。

 

 長々と語ってしまったが、まあ要はいつも通り戦うべきだということだ。

 いつも通りしつこく、いやらしく、ねちっこく、汚い手を使って戦うのである。その為に、今日は色々と準備をしてきてある。

 

 コインの落ちた音が耳に届いた瞬間、駆け出した。対する茅場は動かない。

 10メートル程度の距離など、現在の攻略組アタッカーからすればあってないようなものだ。次の瞬間にはぶつかり合い、勢いそのままに俺は茅場の頭上を通過しながら槍を振るう。刹那、鈍い金属音が三度響いた。着地し、さらに探りを入れるように攻撃を加える。

 

 やはり、容易に茅場の防御を抜くことは出来ない。神聖剣による破格の防御性能に加え、茅場自身の盾の扱いも巧みだ。初手以降も俺は走り回り、少しでも相手の体勢を崩そうと何度か仕掛けたが、茅場はほとんどその場から動きもせずに全ての攻撃をいなした。まあ、想定通りだ。ソードスキルを使えなければ、どうしても決め手に欠ける。

 

「ふむ。いつの間にか、随分とステータスが強化されているな。かなり無茶なレベリングをしたのではないかね?」

「おかげ、さまで、な!」

 

 俺の攻撃に剣を合わせながら、茅場が言った。その余裕な態度に少し腹が立った俺は悪態を返しながら槍を振るい、最後に鬱憤を晴らすように、槍の柄を茅場の盾へと思い切り叩き付ける。その反動に乗って、一旦大きく距離を取った。

 茅場は、追って来なかった。自分から仕掛けてくるつもりはないらしい。静かに剣と盾を構えたまま、薄く笑みを浮かべている。

 

「私を倒すために、水面下で準備を進めてきたと言うわけか……。ふっ、これは気を引き締めてかからねばならないようだ」

「……その割に随分と余裕そうだな」

「そういう性分なのでね。気を悪くしたなら申し訳ないが」

 

 そう言って、茅場はくつくつと笑った。この状況を楽しんでいるのは間違いないようである。

 茅場の言う通り、俺はこの場に臨むために短期間で相当なステータス強化を行っている。現在、俺のプレイヤーレベルは105。これは間違いなく今SAOにいる全プレイヤーの中でトップの数値のはずだ。対する茅場のレベルは――奴がデータの改ざんを行っていないというのが大前提だが――高く見積もっても恐らく100は超えないはずである。

 トウジと雪ノ下を引き込んだことにより、ギルドの予算をかなり横流しして装備も整えている。錬金術スキルによるバフアイテムの効果も高い。数値上のステータスだけで言えば、俺は茅場のそれを大きく上回るはずだった。

 

 だが、今のところのそのステータス差を実感できるほどの手ごたえはない。ちょっと神聖剣強すぎませんかね……。まあ心の中で愚痴っていても仕方がないので、俺はすぐに頭を切り替える。

 

 正直、あまりのんびり構えている余裕はないのだ。奇襲の成功率を上げるためにも、茅場の意識はなるべく俺に集中させておきたかった。探り合いはこれくらいにして、そろそろ仕掛けなければならない。この時のために、とっておきの小細工を用意したのだから。

 

 茅場を中心に円を描くように、俺は駆け出した。同時にレッグシースに差された投擲用ナイフを右手で抜き取り、そのまま振り上げて茅場に向かって投げる。ソードスキルは使用していなかったが、その攻撃は正確に茅場の体を捉えていた。

 着弾を確認する間もなく、俺は次々にナイフを投擲する。システムアシストの掛かっていない投剣など直撃しても大したダメージにはならないだろう。だが茅場は訝し気な表情を浮かべながらも、律儀にそれを盾で受け止める選択をしたようだった。硬質的な音が、断続して辺りに響く。

 

「戦法を変えてきたようだが、こんなものでは牽制にもならないぞ。なんの意図が……む?」

 

 パシャンッ、という場違いな水音が響いた。その瞬間、俺は足を止めてほくそ笑む。投擲ナイフの中に紛れ込ませた本命のアイテム――蛍光玉が、茅場の盾にヒットしたのだ。

 蛍光玉は、言ってみれば強い光を放つ防犯用のカラーボールのようなものである。多数の同一モブを相手にする際、その中の1体を集中的に攻撃したい場合などに目印として使用されることがあるが、まあ使える状況がかなり限定的なのもあってあまりプレイヤーには認知されていない。だが、使いどころを考えれば中々有用なアイテムである。

 ちなみにこの蛍光玉は例によって雪ノ下の《錬金術》スキルによる特別製であり、発する光の強さも従来のものより大分強くなっている。

 

「これは、蛍光玉か? 一体何を――」

 

 疑問を口にする茅場を無視し、俺はさらにポーチからアイテムを取り出した。

 直径5センチ程度の、白い布の帯でグルグルに巻かれた玉。それを3つ、茅場を囲むように放り投げる。次の瞬間、小さな破裂音と共に白い煙が発生し、瞬く間に周囲を飲み込んで行った――煙幕である。

 次いで俺はシステムウインドウを開き、クイックチェンジによる装備セット変更のショートカットを選択する。軽やかなシステム音と共に白いマントが出現し、周囲に白い煙が立ち込める中、その存在を隠すように俺の体を包み込んだ。

 

「なるほど……これは、少しまずいな」

 

 珍しく、少し焦りを孕んだ茅場の呟きが聞こえた。

 そう、俺が作り出したかったのは、この状況だ。薄暗いダンジョンの大部屋に、立ち込める煙幕。加えて保護色のマントで身を包み非常に視認しにくくなっている俺に対し、爛々と輝く蛍光玉の塗料によって茅場の位置は丸わかりである。

 常にパーティで行動し、斥候系スキルを周囲のプレイヤーたちに任せていた茅場が索敵スキルを所持していないことは調べがついている。奴はこの状況で、五感によって俺の位置を探るしかないのだ。

 

 間を置かず、俺は攻撃を仕掛けるべく動き出した。悠長にしていては、茅場も何か対策を講じてしまうだろう。仮に蛍光塗料の付着した装備を変更されてしまえば、この場での俺のアドバンテージはほとんどなくなってしまう。

 そんな隙は与えてはいけない。奴が少しでも動揺しているうちに、仕留めるのだ。

 

 音を殺し、回り込むようにして茅場へと肉薄した。煙幕とは言っても、さすがに槍が届く距離まで来れば薄っすらとその姿が確認できる。無防備に晒された茅場の背中へと向かって、俺はこの戦いで初めて《無限槍》のソードスキルを放った。

 刹那、俺の接近に気付いた茅場が身を捻る。初撃は肩を掠り、二撃目が二の腕を浅く刈った。三撃目が胸を貫こうとした瞬間、茅場の持つ剣に光が宿り、すんでのところで俺の槍を跳ね上げた。

 

 この状況で、これだけの反応を見せるとは。やはりユニークスキルやステータスを差し引いても、茅場は強い。俺は一段と警戒心を強め、技後硬直が解けた瞬間、再び茅場から距離を取った。

 

「ふはははははははっ!! 今のは少し危なかったな!!」

 

 何だか妙にハイになっている茅場を無視し、白い煙幕が立ち込める中、俺はヒット&アウェイを繰り返す。恐ろしい対応力を見せる茅場に対し、俺は致命的な一撃を与えることこそ出来なかったが、軽微なダメージによって奴のHPは削られていった。

 茅場は《戦闘中常時回復(バトルヒーリング)》スキルを持っていない。そのためHPを回復するにはアイテムを使用するしかないが、1対1での戦いのさなかにそんな余裕を与えるほど俺も迂闊ではない。

 

「この昂揚感! そして死に対する一抹の不安! なるほど、これがこの世界で本当に生きるということか!!」

「ごちゃごちゃうるせぇよ!」

 

 再び茅場に肉薄する俺の槍を、奴の剣が弾く。なんとか上手く盾を使わせないように立ち回り、カウンターを食らうことはなかったが、やはり攻め切ることも出来なかった。

 戦況は悪くない。しかし蛍光玉も煙幕も、そろそろ効果が切れる頃合いだった。アイテム自体はまだ持っているが、同じ手が何度も通用するような相手ではないだろう。

 

 アイテムの効果が残っているうちに、最後にもう1度だけ勝負を仕掛ける。

 茅場から再度距離を取った俺は、システムウインドウを開いてクイックチェンジを発動した。新たな装備セットが俺の身を包んだ瞬間、右手に持つ槍に光が灯る。俺はそれを担ぐようにして構え、未だ煙幕が立ち込める中、塗料によって強い光を放っている茅場目がけて槍を投擲した。

 

「――む!?」

 

 困惑する茅場の声が響く。

 それはそうだろう。槍による投擲スキル《ジャベリンスロー》は技後硬直13秒という、リスクの大きすぎる技だ。俺は装備品によって多少その時間を短縮しているが、それでも1対1の戦いにおいて使用するような技ではない。

 煙幕の中と言えど、光を伴って投擲される槍を察知することは難しくない。攻撃の方向から俺の位置も割り出せるだろう。投げられた槍を盾で防ぐか避けるかすれば、後は数秒間動けない俺が残るだけである。茅場にしてみれば唐突に勝利が転がり込んできたようなもの――だと考えるはずだ。

 

 煙幕の中、鈍い金属音が響いた。茅場が投げられた槍を盾で防いだのだろう。

 その音が耳に入った時――俺は、既に駆け出していた。

 

「軽い……!? これは――ッ!!」

 

 再びクイックチェンジによって装備を戻す。青い輝きを放つ愛槍、フェイクネスピアスを手に取り、茅場へと肉薄した。

 《ジャベリンスロー》は、フェイクだ。茅場の油断を誘うための。

 大きくステータスをダウンさせる代わりに、武器を光らせるというよくわからない効果を持った指輪――キリトが第65層の温泉街の射的屋で手に入れたアクセサリーである。完全なネタ装備だと思っていたものが、まさか対茅場戦で役に立つとは……人生、何があるかわからない。

 

 本物のソードスキルの光を灯した槍が、茅場を捉える。次の瞬間、鋭い切先が茅場の肩を深く貫いた。その衝撃に、茅場は大きく体勢を崩す。

 

 ――押し切れる。

 

 この機を逃すまいと、俺はさらにソードスキルを繋げた。

 放たれた2度目の攻撃は、倒れ込むようにして身を捻った茅場に回避された。しかし、もはやここから体勢を立て直すことは不可能である。

 無防備に晒された胸元。隙と見た瞬間、渾身の突きを放った。茅場の命を絶つことに、今さら何の躊躇いもない。

 

「ぬおおおおおおおおおおおッ!!」

 

 似合わぬ雄叫びと共に、茅場の持つタワーシールドに光が灯った。重量級の盾が物理的にはありえない加速を得て横薙ぎに振るわれる。茅場の心臓に届こうとしていた槍の切先が、あと数センチというところで大きく跳ね上げられた。

 地面へと倒れ込む茅場と、ノックバックを受けた俺の視線が交差する。追撃は――無理だ。技後硬直から立ち直った茅場は既に盾を構えてその陰に身を隠していた。

 攻め切れなかったことを悟った俺は、その口惜しさを腹の底に沈めて一旦距離を取った。息を整えながら、ゆっくりと状況を分析する。

 

 盾を用いた攻撃スキル――初めて見る技だった。まず間違いなく、神聖剣のスキルの1つだろう。その一撃には、両手斧スキルに匹敵するほどの衝撃があった。

 何か隠し玉を持っているだろうことは想定していたが、知らないソードスキルなど正直警戒のしようもなかった。まあ手札を一枚切らせたと言うことで、ここはひとまず満足するべきだろう。

 

 とはいえ、用意しておいた渾身の小細工が凌がれてしまった。その事実に俺は大きく息を吐いた。まだいくつか細々とした嫌がらせグッズは用意しているが、ここまでの茅場の対応力を見るに、おそらく大した効果は見込めない。

 まあ、俺の戦いなどただの前哨戦である。本命はキリトによる奇襲だ。ここを凌がれてしまうのも計算のうちだし、全く持って問題ない――そう心の中で唱えて、俺は何とか気持ちを持ち直した。……いや、全然負け惜しみとかじゃないし。

 

「ふっ、今のはさすがに私もヒヤリとしたよ。つい柄にもなく、熱くなってしまった。これが、命を懸けた戦いというものか」

 

 アイテムの効果切れによって、煙幕が晴れていった。大部屋の中、未だ麻痺によって蹲るプレイヤーたちと、剣を構える茅場の姿が視界に映る。ほくそ笑む茅場の瞳が、じっとこちらを見つめていた。

 

「さて、第二ラウンドと行こうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、皆さん。ちょっといいですか?」

 

 トウジの声が、表通りに響いた。

 第62層主街区パストラル。風林火山ギルドホーム前。

 第75層フロアボス攻略に臨む――という体の――ハチを見送ったすぐ後のことである。その場にはまだ風林火山のギルドメンバーの他、親交のある他ギルドのプレイヤーたちや情報屋アルゴの姿もあった。

 第75層(クォーターポイント)のフロアボスという強敵を前に、ここに居残るプレイヤーたちの間にも緊張感が漂っていた。ハチの前では努めて明るく振る舞っていたが、その姿が見えなくなると皆一様に神妙な顔つきで黙り込んだ。

 そんな空気の中でのトウジの言葉である。何事かと、その場の全員の注目が彼に集まった。

 

「大事なお話があります。このSAOの攻略に関する、とても重要な話です。風林火山のメンバーは全員ダイニングに集まってください。他ギルドの方々も、よろしければご同席下さい。強制するつもりはありませんが、聞いておくことをお勧めします」

「は? いや、おま……ゲーム攻略に関するって」

「申し訳ないですが、ここではこれ以上お話し出来ません。詳細を聞きたい方は中にお願いします」

 

 問いただそうとするクラインに対してにべもなくそう返すと、トウジはそそくさとギルドホームの中へと入っていってしまった。残されたプレイヤーたちは皆戸惑う様子を見せたが、やがてはその場の全員がトウジの後を追うようにしてギルドホームの玄関をくぐっていった。

 

「皆さんご出席頂けたみたいですね」

 

 ダイニングの奥で待っていたトウジが、集まった全員の顔を見回して言った。近くまで歩いてきたクラインが少し呆れた表情を浮かべる。

 

「そりゃあ、あんな思わせぶりなこと言ったらみんな気になるっつの。んで、重要な話ってのは?」

「まあそう焦らないで下さい。今お茶を用意させるので、皆さんお好きな席にお掛けになってお待ち下さい」

 

 いつの間にかキッチンでお茶の準備をしてたらしいユキノが、お盆に大量のティーカップを乗せて現れた。それを見たクラインは腑に落ちない表情を浮かべながらも、ひとまず頷いて近くの席に腰を掛ける。

 風林火山に所属するプレイヤー、そのほぼ全員に加えて、他ギルドのプレイヤーなど20名ほどがこの一室に集まっている。総勢70人近い人数ともなれば給仕するのも一苦労で、全てのテーブルにお茶が行き届くころには10分ほどの時間が経っていた。

 

「……そろそろいいかな」

 

 システムウインドウで時間を確認していたトウジが、そう呟いた。訝し気な顔をするクラインを横目に、トウジが改まって声を上げる。

 

「皆さん、お待たせしました。それじゃあ、話を始めさせて頂きたいと思います」

 

 場が静まり、トウジに注目が集まる。至極真剣な表情で、トウジは口を開いた。

 

「まず初めに……今日、第75層のフロアボスが攻略されることは、まずないでしょう。おそらく、あと少ししたら攻略組はそれどころではなくなるはずです」

「……はあ?」

 

 クラインが呆けた声を上げた。集まった他のプレイヤーたちの間にも騒めきが起こったが、トウジはそれを無視して話を続ける。

 

「2ヶ月ほど前から、僕たちは皆さんに隠れて1つの計画を進めてきました。今日これから、その作戦が決行されます」

「……僕たち、というのはどなたのことでしょうか? そしてその作戦というのはどういったもので?」

 

 ゆっくりと手を挙げて問いを返したのは《軍》のギルドマスター、シンカーである。トウジは1つ頷き、ダイニングの中央を横切るようにして歩き出した。歩を進めながら、トウジはシンカーの疑問に答える。

 

「作戦に関わっているのは、僕を含めて5人です。ハチさん、アスナさん、ユキノさん、そして――どうぞ、入ってきて下さい」

 

 話しながらダイニングの入り口まで辿り着いたトウジが、おもむろにドアを開け放った。そうしてその人物を部屋に招き入れた瞬間、再び場に動揺が走る。

 

「キリト!? おめぇ、今まともに動けねぇはずじゃ……」

 

 背中に白と黒の二刀を背負い、完全武装を済ませたキリトの姿がそこにあった。キリトはその場で深く頭を下げて、謝罪を口にする。

 

「みんな、騙すようなことしてごめん。俺が戦線離脱するのも、作戦のうちだったんだ」

「さ、作戦? じゃあ、調子がわりぃってのは嘘だったのか?」

「詳しいことは僕が説明します」

 

 放っておけばキリトが質問攻めにあうのは目に見えていたので、トウジが割って入るようにしてそう口にした。それからトウジは簡潔に、ここまでの経緯を説明したのだった。

 

 ヒースクリフが茅場晶彦その人なのではないかと疑いを持ったこと。

 その正体を暴いて交渉に持ち込み、直接対決によってゲームをクリアしようという計画を立てたこと。

 茅場晶彦に勝利するために、この2ヶ月間レベリングや装備品収集によってハチとキリトのステータスを強化していたこと。

 病気と偽ってキリトを戦線離脱させ、茅場晶彦との直接対決における奇襲要員として温存していたこと。

 そしてその計画の実行が、本日、第75層フロアボス攻略の直前――まさに今なのだということ。

 

「作戦が上手くゆけば、あと数分のうちにSAOはクリアされます。さすがに全てを隠したままゲームクリアを迎えるのは不義理だと思いまして、今日この席を設けさせて頂きました」

 

 トウジはそう言って話を締めくくった。騒めいていたプレイヤーたちはいつの間にか水を打ったように静まり返っている。

 この降って湧いたような話を、皆どう受け止めたらよいのか分からなかった。ゲームがクリアされるのなら、喜ばしいことなのは間違いない。だがあまりに現実感がなく、手放しに喜べるような状況ではなかった。

 しばらく奇妙な沈黙が続いた。そんな中、呟くように言葉を発したのはクラインだった。その体はだらしなく、椅子の背もたれにしな垂れかかっている。

 

「ヒースクリフが茅場晶彦? んで、上手くすりゃあ今すぐゲームがクリアされるかもしれねえって? ははっ……話がぶっ飛び過ぎてて、頭がパンクしそうだぜ……」

 

 力なく笑顔を浮かべるクライン。しかしやがて椅子の背もたれから体を起こすと、真剣な表情でトウジとキリトへと視線を向けた。

 

「それで、あいつは……ハチは今、1人で戦ってんのか?」

 

 冷静になって事態を受け止めてみれば、真っ先に思い浮かぶのは茅場晶彦と対峙するハチの姿である。あいつはまたひとりで無茶をやらかすのではないかと、クラインは不安を覚えていた。

 

「いや、そうじゃない」

 

 強い言葉で、キリトはそれを否定した。しかし先のトウジの説明通りなら、今ハチは茅場晶彦と一対一で対峙しているはずである。

 それを理解してなお、キリトは力強く首を横に振った。ハチも自分も、1人でここまで来たわけじゃない。キリトは、本気でそう思っていた。

 

「色んな奴の協力があって、今俺たちはここに立ってる。まあ、計画のことは隠してて悪かったけどさ……それでも、ここにいる皆の助けがあったからここまでこれたんだ。だから、ハチは1人で戦ってるわけじゃない」

 

 装備品やアイテムと言った実利的な部分でも、精神的な部分においても、ハチとキリトの2人は周りからの多くのサポートを受けてきた。その上で1人で戦っている気になれるほど、2人は傲慢ではなかった。

 ポーチから、黄色のクリスタル――回廊結晶を取り出す。中に赤い光が宿ったそれをクラインへと見せながら、キリトは茶化すようにして言葉を続けた。

 

「それに、俺もこれから合流するしな。……もう約束の時間だ。黙ってて悪かったな、クライン。みんな、また現実世界で会おう」

「……おうっ」

 

 咄嗟に口にしかけた「オレも行く」という言葉を飲み込んで、クラインは頷いた。ついて行ったところで、自分では足手まといになるだけである。クラインはそれを十分理解していた。

 クラインに続いて、この場に居合わせたプレイヤーたちから怒涛のように声が上がった。激励、感謝、再会を願う別れの言葉。波のように押し寄せるそれを全身で受け止めて、キリトは力強く笑顔を返した。

 

「じゃあ、行ってくる! コリドーオープン!」

 

 キリトが回廊結晶を掲げて声を上げる。そして右手に持った黄色のクリスタルが砕け、目の前に眩い光を放つ門が現れる――はずであった。

 しかし、掲げられた回廊結晶は沈黙したままである。

 息を飲むような静寂が、部屋に広がった。キリトは焦った表情を浮かべて、再びボイスコマンドを口にする。

 

「コリドーオープン! コリドーオープンッ! オープンッ! まさか……クソッ!!」

 

 最悪の想像がキリトの頭を過り、血の気が引いた。

 回廊結晶の地点登録は確実に済ませてある。これが発動しないということはシステムの不具合か、あるいはシステム管理者による意図的な妨害である。今この状況で考えられるのは、間違いなく後者だった。

 回廊結晶の無効化。計画が、自分の奇襲が、どこかで勘付かれた。あの茅場晶彦に。

 

 ――ハチ。

 

 過ったのは、相棒の顔だった。回廊結晶が使えなかったとしても、このまま、ただここで待つことなど出来るわけもない。不測の事態が起こった場合ハチは茅場との戦いを放棄する手筈になっているが、茅場がハチを見逃すとは限らないし、そもそもハチが計画通りに白旗を上げるとも限らない。

 

「アルゴ! 75層の地図(マップ)は――」

「持っていきナ!!」

 

 キリトが言い終わるよりも早く、アルゴから地図(マップ)データが送られてきた。礼を言いながらそれを受け取り、回廊結晶を放り投げるようにして手放したキリトはポーチから青い転移結晶を取り出した。

 

「転移! コリニア!!」

 

 転移結晶も使用できない可能性はあったが、幸いにして、手にした青いクリスタルはキリトのボイスコマンドに反応して砕け散った。一瞬の後にその体を青白い光が包み込み、キリトはその場から姿を消したのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第51話 終局

 目潰しに、音爆弾。今日のために用意した全ての手段を用いて、戦った。

 戦況は悪くない。蛍光玉と煙幕のコンボほどの効果は得られなかったが、少しずつ茅場のHPを削ることには成功していた。

 だが、用意した小細工はもう全て打ち尽くしてしまった。

 

 ――おかしい。

 

 約束の時間は、もうとっくに過ぎているはずだ。時計を確認する余裕などなかったが、戦いが始まってから体感でもう15分以上は経っている。とうにキリトが来ていていい時間のはずである。

 

「どうかしたのかね? 何か気になることでも?」

 

 訝しむ俺の様子が伝わってしまったのか、対峙を続ける茅場がそう口にした。そんなに顔に出してしまったのかと自分を諌めながら、俺は首を振る。

 

「別に、お前が気にすることじゃない」

「ふふっ。……いや、済まない。意地の悪い質問をしてしまったな」

 

 意味深な言葉を口にする茅場に、俺は眉をひそめる。その意図を探ろうとする間もなく、茅場はさらに言葉を続けた。

 

「キリト君は来ないよ」

「……何の話だ?」

 

 動揺を顔に出さなかった自分のことを、褒めてやりたかった。しかし無慈悲にも、茅場は全てを見透かしたような表情でこちらを見つめている。

 

「あくまで惚けると言うならそれもいいがね。残念ながらこれは単なる鎌かけではない。申し訳ないが、この付近に登録されていた回廊結晶は無効化させて貰ったよ。この部屋にも、システム的防壁を張らせて貰った。つまりキリト君は、この部屋に入ることは出来ないということだ」

 

 茅場の話に耳を傾けながら、俺は脱力して大きく息を吐いた。キリトの奇襲は、悟られていたのだ。

 不思議と、何故とは思わなかった。茅場の言葉に最初こそ内心取り乱したが、しかし冷静になってみればむしろ当然のことのように思われた。茅場ならばナーヴギアを通してキリトの脳波をモニタリング出来る。それだけではキリトの仮病を見抜けないにしても、あいつが日中ギルドホームの一室で活発に動いていることには気付くだろう。

 

「さすがに私も君たち2人を同時に相手取るのは分が悪いからね。これくらいの自己防衛は許してくれ給え。さて、どうするハチ君。降参するかね。先の条件では死んだ方の負けということだったが……まあ、負けを認めるというなら命は取らないよ。私としては不本意な結果ではあるが、牙の折れた相手を甚振る趣味はない」

「……随分優しいんだな」

「私は常に、自分の心の赴くままに行動しているだけさ」

 

 茅場の言葉に、嘘はないだろう。自然とそう思えた。

 そもそも茅場はやろうと思えばいつでも俺を殺せるのだ。ナーヴギアに仕掛けられた機能で、俺の脳を破壊すれば済む。少なくとも奴の目的は誰かを殺すことではない。

 ここで白旗を上げれば、ひとまず命を繋ぐことはできるだろう。

 

「頼みの綱であるキリト君には期待できない。しかし、私のHPは既に半分以上削られている。ゲームのクリアはもはや目前だ。どうする? このチャンス、ふいにするかね?」

 

 その茅場の問いかけは、悪魔の囁きのように思えた。

 

 不測の事態に陥った場合、事前の取り決めでは降伏する手筈になっていた。だが、茅場の言う通り、このデスゲームのクリアは目前だ。俺は、このチャンスを逃すのか。

 真正面から戦って、俺が茅場晶彦を倒せる確率は低い。だがここで白旗を上げて生き延びたとしても、ヒースクリフという戦力を失った攻略組が今後アインクラッドの最上階まで辿り着けるかどうかはわからない。つまり、ここで退いても僅かばかり命を繋ぐだけの結果になりかねない。

 しかし、どうしても1人で茅場に勝つビジョンが持てなかった。ここで無駄死にをするよりは、僅かでも後に希望を残した方が良いかもしれない。だが現実世界での俺たちの肉体のことを考えれば、ここで決着を付けなければ……いや、それでも――。

 

 リスクを承知で押し切るか、否か。正解のない問いに、眩暈がしてくる。

 俺は、どうすればいい。

 

 ――ハチ……やれるか?

 

 葛藤が最高潮に達した瞬間、頭に過ったのはかつてのキリトの声だった。

 ああ、そうだ。あの時もそうだった。第1層フロアボス攻略。押すべきか退くべきか、思い惑う俺を導いたのはキリトだった。

 総指揮であるディアベルが死ぬという絶望的な状況の中、あいつだけが諦めていなかった。あの時、瞳の奥に強い意志を灯したキリトを見た瞬間、俺は思ったのだ。

 こいつはきっと、1人でも戦うのだろう、と。

 

「俺は……俺は、逃げない」

 

 知らず、呟いていた。心の中にあった迷いは、いつの間にか霧散していた。

 あいつならきっと諦めない。いや、実際今も諦めていないだろう。おそらく、キリトはこの場へと向かっているはずだ。

 ならば、俺が今ここで諦めるわけにはいかなかった。

 

 その答えが意外だったのか、茅場は少し驚いたように声を上げる。

 

「ほう。君ならばここで退くと思っていたが……まだ何か策があるのかね?」

「さあ、どうだかな」

 

 もはや策などないが、少しでも警戒してくれるのなら儲けものである。俺ははったりをかますつもりで曖昧に答えておいた。

 ここからが、本当の勝負だ。俺か茅場、どちらかが死ぬまで止まることは許されない。決死の覚悟を以って、俺は槍を構え直した。

 

「駄目よッ、ハチ君!!」

 

 最後の戦いに臨もうとする俺を、その声が引き止めた。

 槍を構えたまま、声の主に目を向ける。麻痺によって地面に蹲ったままのアスナが、そこにいた。目が合った彼女は悲痛な表情で、半ば叫ぶように声を上げる。

 

「あなた、言ってたじゃない! 奇襲が失敗したら諦めるって! 自分ひとりじゃ団長には勝てないからって!!」

「……可能性は、ゼロじゃない。このチャンスは逃せない」

「でも、だからって……!!」

 

 語気が、弱く萎んでゆく。しかし、それでもアスナはなおも食い下がった。

 

「そうやって、ハチ君ばっかり1人でどんどん先に行っちゃって……私は、いつも置いてけぼり……。そんなの、もう嫌なの……!」

 

 アスナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女はそれを隠すように顔を伏せ、言葉を続けた。

 

「お願い……お願いよッ……! もしハチ君が死んじゃったら、私……!!」

「……悪い。けど、死ぬつもりはない」

 

 懇願するアスナに、俺はただそう返した。彼女の言葉に思うところがないわけじゃない。それでも、ここで退くことは出来ない。

 もはや引き止められないと悟ったのだろう。アスナはそれきり項垂れて、黙り込んでしまった。

 

「別れの挨拶は済んだかね?」

「お前こそ、言い遺すことがあれば聞いてやるぞ」

 

 強気な俺の言葉がお気に召したようで、茅場は肩を揺らしながらくつくつと笑った。やがてひとつ息を吐くと、茅場はゆっくりと剣を構えて俺に向けた。

 

「さて、では私たちの最後の戦いを始めようか」

 

 静かに息を吐きながら、槍を低く構えた。

 茅場だけを見据えて、全神経を尖らせる。集中と共に意識が深く沈んでゆき、やがてふと体が軽くなった。死域に至ったのである。

 

 これが、俺の切り札だ。この世界で培った全てを、今お前にぶつけてやる。

 駆け出すと同時に俺は《無限槍》を発動し、盾を構える茅場晶彦へと躍りかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 街中を、フィールドを、迷宮区を、キリトは全力で駆け抜けた。

 アルゴから受け取った地図(マップ)データのお蔭で、迷うことはない。ほぼ最短だと思われるルートを、キリトは走っていた。

 それでもモブとの遭遇は避けられない。しかし今、律儀に敵と戦っている余裕があるはずもなく、ダメージを受けることも厭わずにキリトは襲い掛かるモブを無視して走り続けた。

 

 約束の時間から、どれだけ経ったのか。ハチは、今どうしているのか。生きているのか。自分は間に合うのか。間に合ったとして、ハチと茅場の戦いに介入することが出来るのか。

 そんな雑念を、振り切って走った。どれだけ考えたところで、立ち止まるという選択肢はなかった。

 

 ふと気付けば、HPは半分を切っていた。煩わしく思いながらも、キリトはポーチからヒールクリスタルを出してHPを回復する。ここで死んでしまっては元も子もない。

 

 そんな強行軍を続けながら、キリトはようやく目的地の近くまで辿り着いた。ボス部屋近くの、大きなセーフティゾーン。索敵スキルが、大勢のプレイヤーの存在を感知した。更に歩を進めれば、かすかな剣戟の音と共に闘争の気配が伝わってくる。

 

 ――間に合った。

 

 状況に光明を見出したキリトは、知らずに笑みを浮かべた。しかし、浮ついた自分をすぐに諌める。重要なのはここからである。

 走り続ける足を止めず、背中の鞘から2本の愛剣を抜き放った。茅場晶彦を倒す。その覚悟を決めて、キリトは走る勢いそのままに、ハチが待つであろうセーフティゾーンへと飛び込もうとした。しかしその瞬間、目に見えぬ何かがキリトの進行を阻んだ。

 

「――がッ!?」

 

 突然の衝撃に、何が起こったのか理解出来なかった。呻き声と共に、固く手に握っていたはずの愛剣たちを取り落としてしまう。

 硬く冷たい地面に転がりながら、やや遅れて何かにぶつかったのだと理解したキリトは、己の行く手を阻んだ存在を確認しようと顔を上げた。瞬間、目に入った文字の羅列に、息を飲む。

 

 《Immortal Object》

 

 システム的に破壊不能であるという事実を告げる、そのテキスト。それが、通路の虚空に浮かんでいた。

 立ち上がったキリトは、恐る恐る前方に手を伸ばした。やがて指先に、何か硬いものが触れる。その存在を探るように、次いでキリトは両手でペタペタとそれに触れた。

 見えない壁である。通路を塞ぐように、それは張り巡らされていた。

 

「そんな……」

 

 見えない壁に頭を押し付けるようにして、キリトは項垂れた。

 懸念はしていた。回廊結晶を無効化された時点で、奇襲が悟られていることは分かっていたからだ。ハチと茅場晶彦の一騎打ちに誰も介入出来ないよう、さらに何らかの仕掛けを施してある可能性は考えていた。

 だが、これはあまりにも無慈悲だ。

 

「ふざ……けるなっ……!」

 

 キリトの胸に、沸々と湧いてきたのは怒りだった。

 自分たちは打倒ヒースクリフの作戦が発足してからこの数ヶ月間……いや、このデスゲームが始まった2年前から、ずっとこの世界のルールに従って戦ってきたのだ。奇襲が卑怯だ何だと言われようが、全ては茅場晶彦が強いたシステムに反しない範囲でのことだ。奴が決めたルールの上で、必死に頭を絞ってここに辿り着いたのだ。

 それを、こんな後出しジャンケンのような手段で阻むのか。こんな薄っぺらい1枚の壁で、俺たちを否定するのか。

 

 ――諦めて堪るか。

 

 キリトは強く拳を握り、見えない壁に打ち付けた。衝撃から一瞬遅れて、《Immortal Object》のシステムテキストが浮かび上がる。しかしそれに構わず、キリトは何度も何度も己の拳を打ち付けた。

 

「開けッ! 開けよッ!! 俺は、ここで止まる訳にはいかないんだッ!!!」

 

 薄暗い迷宮の中、キリトの声が響く。やがて一際大きく振りかぶって叩き付けられたキリトの拳が、目には見えないシステムの壁を大きく揺らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無限槍のスキル連鎖は、酷く神経を使う。

 相手の動きや状況に合わせて適したソードスキルを選びながら、僅かな再入力時間にスキルを発動し続けなければならないのだ。頭で考えていたのでは間に合わない。体に染みついた感覚と勘だけが頼りだった。

 集中力を切らせば、そこでゲームオーバーである。故に、出来ることならこちらが消耗する前にさっさと押し切りたいところだが、万全の茅場を相手にして一気に勝負を決めることが出来るような瞬発力を、俺は持ち合わせていない。攻め続け、茅場が集中力を乱して隙を晒す瞬間を待たなければいけないのだ。

 

 つまり、勝負は持久戦となる。

 茅場の防御が崩れるまで攻め続けることが出来れば、俺の勝ち。俺が消耗しきるまで耐えることが出来れば、茅場の勝ちである。

 分の悪い賭けだということは理解していた。常にソードスキルを使って攻め続けなければならない俺に対し、茅場はその場で盾を構えて耐え続ければいいだけなのだ。どちらの消耗が早いかなど、考えるまでもない。

 

 あれから、どれだけの技を繰り出しただろう。どれだけ茅場の盾に阻まれただろう。数えるのも億劫になるだけの攻防が繰り返されたが、しかし俺の槍は未だ茅場を捉えることは出来ないでいた。奴は俺の攻撃を時には受け、時には回避し、油断ならない瞳で常に反撃の機会を窺っていた。

 もはや、時間の感覚はない。朦朧とする意識をなんとか繋ぎとめながら、スキルを繋ぎ続ける。しかし不思議と気分は悪くなかった。死力を尽くした戦いに、相手も全力で応えてくれる。これほど得難い体験も中々ないだろう。

 多分、俺は自然と笑っていたと思う。対する茅場も、かつてないほどに生き生きとして見える。命を懸けた決闘という状況下で、俺たち2人の間には妙な一体感が存在した。

 

 俺は元々、茅場に対して特別な感情は持っていなかった。

 SAOに囚われた人間ならば、その首謀者である茅場に恨みを抱いてもおかしくないはずだ。だが俺にはそれがない。このデスゲームで親しい人間が犠牲になっていればまた違っただろうが、運のよいことにこの世界で俺は多くのことに恵まれていた。

 

 この世界で手に入れたものもある。いや、この世界でしか手に入らなかったものがある。

 だから俺は現実世界に帰還することを切望する反面、この仮想世界を去ることへの名残惜しさも感じていた。その思いが茅場に向ける刃を鈍らせることなどないが、どうしようもない物悲しさが胸に去来するのは事実だった。

 

 だから俺は、茅場晶彦を恨んでいない。

 例え――ここで死ぬことになったとしても。

 

 歯車が狂ってゆくのを、感じていた。

 突き、踏み込み、かち上げ、振り払い、跳躍し、また突きを放つ。ひとつひとつの動作が、俺の意識する動きからほんの少しずつずれてゆく。コンマ一秒にも満たない、動作の遅れ。しかしどれだけ必死になっても、決して取り戻すことは出来ない遅れだった。

 わかっている。限界が、訪れたのだ。蓄積された遅れが、システム的に致命的なズレになるのに、もうそれほどかからないだろう。俺は必死になって遅れを取り戻そうと技を繋げ続けながらも、頭の何処かでは冷静に状況を分析していた。

 目の合った茅場が、心なしか物悲しげな表情を浮かべた。奴も、この戦いに終わりが近づいていることを感じ取ったのだろう。

 

「ハチ君。君に、最大限の敬意と感謝を」

 

 そう口にした茅場の息は乱れていた。俺も少しは、この男を追い詰めることが出来たのだろうか。

 小さく払った槍を引き戻し、突きを放とうとした。しかし、もやは意識に体がついて来ていない。致命的な遅れ。そうして、破綻は訪れた。

 スキル連鎖ミス。システムにそう判断された瞬間、体が硬直する。

 

「そして――」

 

 視線だけで、茅場を見上げた。高く掲げられた茅場の剣に、力強い光が灯ったのが見てとれた。

 

「さらばだ」

 

 諦念と共に、瞼を閉じる。せめて見苦しくならぬよう、悔しさと恐怖心を腹の底に閉じ込めた。そして小さく「ごめん」と、誰にともない謝罪を呟く。

 しかし、死を覚悟した俺に、その必殺の一太刀が振るわれることはなかった。

 

「なにっ!?」

 

 刹那、茅場の動揺した声が響く。同時に、温かい衝撃が俺を包み込んだ。ふわりとした甘い香りが鼻先に漂う。

 驚いて目を見開いた。乱れ舞う、栗色の髪。アスナだ。アスナが、俺を茅場から庇うようにして抱きしめている。

 

 何故。どうやって。考える間もなく、茅場の構えた剣が振り下ろされる。致命の威力が込められたその一撃は、被さる様にして俺を抱きしめるアスナの背中を、深く深く切り裂いた。

 動かない体で、俺はただ呆然とその光景を眺めていた。眺めていることしか出来なかった。

 

 アスナとともに、地面に倒れ込む。やがてスキル連鎖ミスによる硬直が解けた瞬間、俺は弾け起きてアスナを抱き起した。

 目に映るのは、俺の腕の中で力なく横たわるアスナと、急激にその数値を減らしてゆく彼女のHPバー。《(ゲームオーバー)》という言葉が、俺の頭に過った。

 

「アスナッ……! な、なんでっ……」

 

 あるはずのないことが起きた。あってはならないことが起きた。俺は目の前の状況に頭が追いつかず、咄嗟に口をついて出たのはそんな台詞だった。

 腕の中のアスナが、身じろぎする。薄く開かれた2つの瞳が、真っ直ぐに俺を見つめた。薄紅色の唇が弱々しく言葉を紡ぐ。

 

「好き」

「は……?」

「好きなの、ハチ君のことが……」

 

 アスナの言葉が、理解出来なかった。しかし彼女は優しげな微笑みを浮かべ、なおも続ける。

 

「だから……」

 

 アスナが、弱々しく手を伸ばす。白く細い指先は、俺の頬を優しくなぞり――

 

「死なないで」

 

 砕けて、消えた。

 

 

 

 

 

 なんだ、これは。

 ひらひらと舞う、青い残滓を呆然と見つめていた。左手から取り落とした槍が、カラカラと音をたてた。

 

 槍。そうだ。俺は、戦っていたはずだ。俺の命を懸けて、茅場と戦っていたはずだ。

 だが、何のために。

 

 俺は一体、何のために戦っていたのだ。

 

「かぁやぁばあぁぁあぁーッ!!!」

「ぬぅッ!?」

 

 唐突に響いた誰かの怒声。

 呆然と見上げた、その視線の先。

 俺がこの場で最後に見たものは、白と黒の二刀が、茅場の胸を貫く瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと気付けば、崩れゆく巨大な城を空から眺めていた。

 浮遊城アインクラッド。この2年間、俺たちが命懸けでひた駆けて来た城である。

 その城が、この仮想世界の終焉を示すように崩壊してゆく。黄昏の空の中、未だ見たことのないこの世界の大地へと瓦礫を撒き散らし、消えてゆく。

 

 ゲームは、クリアされた。キリトの手によって。

 どんな手段を以ってか、キリトはあの場に駆けつけたのだ。そして完全に油断していた茅場を、背中からその二刀で貫いた。

 紆余曲折を経たものの、結局俺たちの作戦は成功したということである――1人のプレイヤーの犠牲の上に。

 

「ごめんっ……ハチ、アスナ……!! ごめんっ……!!」

 

 傍らにはキリトが立っていた。滂沱と流れる涙と共に、謝罪の言葉を繰り返し呟いている。

 

「俺が……俺が、あと少し早く着いてれば……アスナは……」

 

 彼女が茅場の凶刃に倒れる瞬間を、目にしてしまったのだろう。キリトは、自分を責めていた。

 だが、それは違う。茅場はあの場にキリトが来れないように、システム的障壁を張ったと言っていた。つまりキリトは、茅場の仕掛けた絶対的とも言える障害を打ち破って駆けつけたのだ。

 そんなことが、キリト以外の誰に出来るだろう。こいつは常人には出来ないことをやってのけ、茅場を倒したのだ。それがもっと早ければなどと、これ以上を求めるようなことが出来るはずもない。

 

「違う。お前のせいじゃない」

「でも……!!」

「俺だ」

 

 何故か、涙は流れなかった。ただ、頭の中で1つの疑問がぐるぐると回っていた。

 何故、俺は生きているのだろう、と。

 

「俺が、死ぬべきだった」

 

 口に出してしまえば、その考えはもう止まらなかった。

 そうだ、俺が死ぬべきだった。むしろ何故、俺は生きているのだ。アスナが死んだというのに、何故俺が生きているのだ。

 

「ハチ……。それは……それは違う……! それは、違う……!!」

 

 キリトは悲痛な表情をさらに歪めて、俺の言葉を否定した。

 しかし、何が違うというのだ。

 茅場との戦い。おそらく俺があと10秒でも長く耐えることが出来ていれば、キリトは間に合っただろう。耐えられなかったのは、俺のミスだ。

 俺のミスで、俺が死ぬ。自業自得。因果応報。それだけの話だったのだ。それだけの話だったのに。

 何故、アスナが死ななければならなかったのだ。

 

 ――好き

 ――好きなの、ハチ君のことが……

 ――だから……

 

「――ッ!!」

 

 込み上げた嘔吐感を、俺は必死になって堪えた。

 

 ありえない。

 認められるわけがない。

 それを認めてしまえば、俺はきっと、耐えられない。

 

 だって、アスナは、もう――

 

「アスナ君は生きているよ」

 

 不意に背後から響いた、聞き覚えのある声。その内容に、俺は目を見開いて弾かれたように振り返った。

 立っていたのは、白衣を着た痩せぎすの男。その男の怜悧な瞳が、しかし心なしか柔和さを伴って俺たちを見つめていた。

 

「か……やば……?」

「最後に少し君たちと話がしてみたくてね。SAOの終了シークエンスが完了するまでの僅かな時間だが、付き合ってくれないか?」

 

 茅場は飄々とした態度で、そんな提案を口にする。しかし俺たちにとって今はそれどころではなく、掴みかかるようにして茅場に詰め寄った。

 

「アスナッ……アスナは、生きているのか!?」

「ああ。ただ、彼女を今ここに呼ぶと、私との対話どころではなくなりそうだからね。悪いが、感動の再会は現実世界に帰った時に取っておいてくれ給え」

 

 迫る俺とキリトを回避し、茅場はいつの間にかまた俺たちの背後に立っていた。空振りを食らった俺たちはその場に膝をついたまま、茅場の言葉に大きく安堵の息をついた。

 アスナが、生きている。その事実を知った途端、全身から力が抜けていった。

 茅場の言葉を疑いはしなかった。この期に及んで、俺たちを謀るようなことはしないだろうという、妙な信頼があった。

 気が抜けてしまったからか、俺は急激な疲労を覚えてその場に座り込んだ。対して、隣のキリトはハッと何かに気付いたようにして顔を上げ、立ち上がる。

 

「じゃあまさか、今まで死んでいったやつらも……?」

「いや、死者は蘇らないさ。現実世界でも、この世界でも、それは同じことだ。アスナ君のことは……そうだな。魔王を倒した勇者たちに訪れたたった1度の奇跡とでも思ってくれ。存外、私も物語というものはハッピーエンドが好きなものでね。このゲームを1つの物語として考えるなら、主役は間違いなく君たちだっただろう」

 

 アスナが生きていると告げた口で、そのまま茅場は数千人の命を奪った事実を、なんでもないことのように言ってのける。そのアンバランスな人間性に、やはりこいつは俺の理解の及ばぬ存在なのだということを再確認した。

 

「最後の戦いは、驚きの連続だったよ。そして、私の完敗だ。まさか、あの場にキリト君が現れるとはね。自分が作り上げたゲームだと言うのに、まるで知らない世界に迷い込んでしまったかのような気分になったよ。君たちのお蔭で、私は最後にフルダイブ型ゲームの新たな可能性を発見できたようだ」

 

 些末な話題はもう終わりとばかりに、茅場は話を変えた。

 俺もこれ以上先ほどの話を掘り返すつもりはなかったが、しかし素直にこいつの話に付き合ってやる気にもなれなかった。戦いの疲労感とアスナが生きていたという安堵感で、頭が全く働かない。というか、一刻も早く寝たい。その気持ちを表すように、俺は大きくため息をついて首を横に振った。

 

「……正直、疲れてるからそういう話は後にして欲しいんだけど」

「ははは。まあそうつれないことを言わないでくれよ」

 

 ヒースクリフという仮面を脱ぎ捨てたからか、茅場の印象はかなり変わって見えた。笑っている様子だけを見ると、気の良さそうなおっちゃんである。それを眺めていると、どうにも妙な気分になって毒気が抜かれてしまった。

 しかし隣に立つキリトはそうではなかったようで、険しい顔を茅場に向けていた。

 

「なあ、茅場。あんたはどうしてこんなことをしたんだ?」

「ふむ。こんなこと、とは?」

「SAOを、脱出不能のデスゲームに仕立て上げたことだ。築き上げた地位も名誉も全部捨てて、何千人もの人間を犠牲にして、あんたはこの世界で一体何を手に入れたんだ」

 

 問いかけるキリトには、怒りの感情は伺えなかった。純粋な疑問ということだろうか。キリトも俺と同様、茅場に対する個人的な恨みは持っていないのかもしれない。根拠はなかったが、俺は何となくそう思った。

 問われた茅場は少しだけ考える様子を見せたが、やがて特にもったいぶることもなく語り出す。

 

「地位も名誉も、私にとって大した問題ではなかったのさ。私が焦がれていたのは、この世界。あの城の中で生きることだった」

 

 茅場は崩れゆくアインクラッドへ顔を向け、目を細める。崩壊する城を通して、どこか遠い記憶に想いを馳せているようだった。

 

「子供は次から次へと様々な夢想をするものだろう。空に浮かぶ鉄の城の空想に私が取りつかれたのは、いつの頃だったか……。きっと多くの人間は、大人になる過程でそういったものを忘れてゆくのだろうね。しかし私の中から、その情景はいつまで経っても去ることはなかった。むしろ年を経るごとに更にリアルに、大きく広がっていった。この地上から飛び立って、あの城へ行きたい……長い間、それが私の唯一の欲求だった」

 

 茅場が、薄く笑みを浮かべる。

 

「私はね、まだ信じているのだよ。どこか別の世界には、本当にあの城が存在するのだと」

「……そうか。ああ、そうだといいな」

 

 頷いたのは、キリトだった。そして顔には出さなかったものの、俺の中にも通じる思いはあった。

 決して、茅場のやったことを肯定するわけじゃない。だがこの2年という長い時間をアインクラッドで過ごしてきた俺たちには、茅場の言葉を一笑に付すことは出来なかった。

 きっと茅場にも、この世界でしか得られない何かがあったのだ。それに焦がれ続け、全てを投げ出してここに辿り着いたのだ。

 多少なりともその気持ちが理解出来てしまう俺たちに、茅場のことを非難することは出来なかった。俺に出来るのは、精々揶揄の言葉を返すことくらいである。

 

「……しかし随分とまあ、ロマンチストなんだな」

「はは。君にそう言われるとはな」

「いや、何だよその言い草……。自分で言うのも何だけど、割と現実見据えてる方だろ俺」

「現実見据えてる奴は専業主夫なんて志望しないと思うぞ」

 

 俺の言葉にツッコミを入れたのはキリトである。おい、お前は俺の味方じゃないのかよ。

 まあお互い、軽口が叩けるまで精神状態が回復したと言うことだろう。それでも俺は未だに極度の疲労からは回復していなかったが、全てが丸く収まったという達成感と安堵感からか、気分は少し高揚していた。

 

「いやお前、世知辛い現代社会を正しく見据えてるからこその選択だろそれは」

「ハチが見てるのは物事のネガティブな面ばっかりだろ。あえて言うならそこは悲観主義者だな」

 

 俺は言葉に詰まって、キリトから目を逸らした。うん。正論過ぎて反論出来ない。

 茅場は薄い笑みを顔に貼り付けたまま、俺たちのやり取りを眺めていた。軽口の応酬が収まるのを待って、再び口を開く。

 

「突き詰めたリアリストこそ、その実、誰よりもロマンチストなものさ」

 

 言葉の意図が理解出来ず、俺たちは2人揃って首を傾げた。茅場はそれを予期していたのか、間を置かず、さらに説明するように言葉を重ねる。

 

「誰もが皆、本当に求めるものを手に出来るわけではない。いや、むしろそんな恵まれた人間はほとんど居ないと言っていいだろう。代用品を見つけて妥協し、それが本物だと自分を騙すことこそが、多くの場合において賢い選択であり、現実的なのさ……。私が、この世界を作り上げたようにね。本物を求め続けると言う行為は、時に空虚なものだ」

 

 茅場その言葉には、どこか自嘲のような響きが混じっていた。

 自分を騙すことこそ、現実的な選択。その理屈はよくわかる。本当に自分が求めるものを追い続け、それを手に出来る人間など世の中にほんのひと握りだろう。

 どれだけの努力を重ねても、本当に欲しいもの、その本物が手に入るとは限らない。故に、例え手にしたものが偽物であったとしても、それを本物だと自分に言い聞かせて満足した方が現実的なのだ。現実逃避が最も現実的な生き方だというのは、皮肉な話である。

 

「……じゃあ、あんたが手に入れたものは、偽物だったっていうのか?」

 

 眉をひそめてキリトが聞くと、茅場は困ったように肩を竦めて応じた。

 

「さあ、どうだろうね。もう自分でもよく分からないよ。だが、あの最後の戦い。ハチ君、君と命を懸けて戦ったあの時間だけは、きっと私にとって……。いや、語っても詮無いことか。これは余人に理解できる感情ではないだろう」

 

 茅場は力なく首を横に振って、その話を打ち切ってしまった。崩壊するアインクラッドを見つめていた視線をこちらに向け、話を変える。

 

「君たちには感謝しているよ。君たちのお蔭で、この世界は一層真に迫ったものになったことは間違いない。それに、最後に面白いものも見れたしね」

 

 最後の一言は、キリトと、ここには居ないアスナに向けられたものだろう。2人はゲームの世界の中にあって、そのシステムに縛られない行動をしてみせた。チートツールやバグなどという安っぽいものではない。俺でさえ柄にもなく、人の意志の力のようなものを感じたのだ。ゲームの制作者である茅場にとっては、その衝撃も大きかっただろう。

 

「君たちがこの世界で手に入れたものが、本物であることを願っているよ。では、私はそろそろ行くとしよう」

 

 言って、茅場は白衣を翻して歩き出した。遠くに見える夕日に向かって、ゆっくりと歩を進める。

 

「ああ、そうだ。ひとつ言い忘れていたな」

 

 立ち止まり、振り返る。夕日を背にした茅場の表情は、よく見えなかった。

 

「ハチ君、キリト君。ゲームクリアおめでとう」

 

 俺たちが言葉を返す間もなく、茅場は白い光となって消えて行った。

 しばらく、俺たちは黙ってその場に立ち尽くした。やがて大きなため息をついて、うんざりしながら俺は口を開く。

 

「最後まで気障な奴だったな」

「ああ。あんなにかっこつけられると、なんだか勝った気がしないよ」

「だな。けどまあ、生き残ったもん勝ちだろ」

 

 おそらく茅場は、この後自殺を図るだろう。命を懸けた戦いで敗れたのである。茅場ならば、命惜しさに約束を覆したりはしないはずだ。アスナを助けたことについては、茅場自身が「たった1度の奇跡」だと口にしていた。2度目の奇跡は訪れない。

 

 心の中で、茅場に別れを告げた。

 敵ではあったが、嫌いな相手ではなかった。

 

「うおっ。もうログアウトまで時間なさそうだな」

 

 驚いたように声を上げたのはキリトだった。足元から、少しずつ光に包まれている。

 

「あー……。色々話したいことあるけどさ、まあ、また現実世界(あっち)で会った時でいいよな」

「だな。くっそ疲れた……。リアルに戻ったら、多分ソッコーで寝落ちするわ……」

「ははっ。ハチらしいな」

 

 大の字に寝転んで、キリトを見上げた。キリトは呆れたように笑いながら、俺の横に腰を下ろす。その距離感は、なんだか妙にしっくりときた。

 アインクラッドで戦い続けた2年間。隣にはいつもこいつがいた。俺が拒絶しようとも、気付けば隣に居てくれた。強引に手を取って、相棒だと言ってくれた。俺が、それにどれだけ救われたことか。

 最後に何か特別な言葉を送るべきだろうかと少し考えて、やめた。ここで俺たちの関係が終わる訳じゃない。きっとまた、いつでも会えるだろう。

 

「じゃ、またな。キリト」

「おう。またな。ハチ」

 

 どちらからともなく、拳を突き合わせた。硬い手ごたえと共に、熱が行きかう。顔は見えなかったが、きっと互いに笑っていただろう。

 不意に、体から吹き出す光の粒の勢いが増した。次の瞬間、俺の意識は光の渦の中に飲み込まれていった。

 

 

 3000人以上もの死者を出したデスゲーム《Sword Art Online》

 ゲーム開始から2年以上もの時間が経った2024年11月26日。

 閉じ込められた多くのプレイヤーたちの尽力によって、この日、ようやくゲームはクリアされたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

フェアリーダンス編
第1話 帰還


 どこか、見覚えのある女性だった。

 病室に置かれた花瓶の水を入れ替えたところだったのだろう。サイドテーブルにガラスの花瓶を置いて、彼女は軽く息を吐いた。その横顔を、俺はぼんやりと見つめる。

 薄茶色の、ミディアムショートの髪。ハーフアップでサイドにまとめられたお団子ヘアーは、高校時代幾度となく目にしたものだった。この2年で随分と大人びたようだが、俺が彼女を見間違えることはなかった。

 

「ぅぃ……が……はま……」

「え?」

 

 2年ぶりに発した声は上手く言葉にならなかったが、確かに彼女に届いたようだった。目が合った彼女――由比ヶ浜結衣は驚きに目を見開き、そのまま、まるで時が止まったかのように動かなくなった。

 俺はベッドから体を起こそうとしたが、上手く力が入らず、すぐに断念した。左腕には点滴の太い針が刺さっていて、動かそうとするとじわりと痛みが広がる。この2年、久しく感じることのなかった感覚に、現実世界に帰ってきたのだという実感が湧いてきた。

 腕だけならば、辛うじて動かせそうだった。ベッドに寝転がったまま、ナーヴギアに手を掛ける。震える腕でなんとか灰色のヘッドギアを脱ぎ捨てると、長く伸びた髪が鬱陶しく首にまとわりついた。

 

「ヒッキー……?」

「その、呼び方も……久し、ぶりだな……」

 

 上手く回らない舌を酷使し、なんとか言葉を紡ぐ。俺がぎこちなく苦笑を浮かべると彼女はようやく状況を理解したようで、途端にその大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

「い゛っぎぃー!!」 

「おぐッ……!?」

「夢じゃない!? 夢じゃないよね!?」

「おま……もうちょっと、手加減……」

 

 顔をくしゃくしゃにして涙を流す由比ヶ浜の頭突きが腹部に炸裂し、俺はくぐもった声を上げた。……いや、多分本人的には抱擁のつもりだったのだろう。

 一言文句を言ってやろうかと思ったが、俺にしがみついて子供のように泣く由比ヶ浜を見ては、すぐにそんな気もなくなってしまった。

 

「よがったぁ……! よがったよぅ……! あたし、もし、このままヒッキーたちが居なくなっちゃったらって、ずっと、ずっと……!! うぅ――!!」

 

 由比ヶ浜の言葉は支離滅裂だったが、その心の内は伝わってきた。俺と雪ノ下がSAOに囚われ、奉仕部で1人残されてしまったこいつの心労はどれほどのものだったか。ベッドサイドに飾られた生花を見るに、きっとかなりの頻度で見舞いにも来てくれたのだろう。申し訳なさと、ありがたさが俺の胸に広がった。

 

「……悪い。心配、かけた」

「うん、うん……! いっぱい……いっぱい心配したっ! けど、いいの……ちゃんと帰って来てくれたから……!」

 

 俺の腹に顔を押し付けて泣いていた由比ヶ浜が、ようやく顔を上げてこちらを見た。目が合うと、再びその相貌に大粒の涙があふれる。

 

「ヒッキー……ヒッキーだっ……! ホントに……帰ってきたんだぁ……」

「ああ……」

「そ、そうだ! ゆきのんは!?」

「あいつも、帰って来てるはずだ……。ここに?」

「うん! ゆきのんも、ここの病院に……」

「行ってやれ。俺のことは、いいから」

「……うん!」

 

 少しの逡巡の後、由比ヶ浜が頷く。彼女は服の袖でゴシゴシと涙を拭い、勢いよく立ち上がった。それを視線で追った俺の眼に、ようやく周囲の状況が映る。

 病院の中は、既に大混乱になっているようだった。廊下からも騒がしい雰囲気が伝わってくる。そして同じ病室には、俺と同じようにナーヴギアを外してベッドに横になる患者の姿が並んでいた。きっと、SAO被害者が多く入院している病院なのだろう。

 

「お、おい……。あれ、風林火山のハチじゃ……」

「あ、あんな可愛い子と……」

「リア充許すまじ」

「あとでサイン貰お……」

 

 気付けば、同じ病室のSAO帰還者らしい男たちから、何やら妙な視線が向けられていた。いや、サインなんか絶対書かねえからな。

 

「あ、そうだ! 小町ちゃんたちにも連絡しないと! あ、でも、ここ病院だし、電話は……」

「い、いいから、とりあえず雪ノ下のとこ、行ってやれ。どうせ、すぐにニュースになる」

「あ、そっか」

 

 どうにも妙な空気になってきた病室からさっさと追い出すように、由比ヶ浜を促す。頷いた由比ヶ浜は「また後で来るから!」と言い残して、足早に歩き出した。

 しかし、病室のドアの前で立ち止まった由比ヶ浜は、振り返って俺に目をやった。また泣き出しそうになるのを、必死になって堪えているのがわかる。それを誤魔化すように大きく息を吸って、彼女は口を開いた。

 

「ヒッキー……おかえりっ!」

「……ああ。ただいま」

 

 立ち去る彼女を見送って、俺はゆっくりと目を閉じた。茅場晶彦との戦いによって溜まっていた疲労が、今になって体に返ってくる。思わぬ再会によって少しだけ目が覚めたが、脱力してベッドに体を預けるとすぐに睡魔が襲ってきた。

 病院の中に蔓延する喧騒を他所に、俺は睡魔に身を委ねる。帰還の満足感と達成感に浸りながら、俺の意識は微睡みの中へと落ちて行った――のだが。

 

「お゛に゛い゛ぢゃーんッ!!」

「おぐッ……!?」

 

 最愛の妹からの抱擁(頭突き)によって俺が叩き起こされたのは、それから間もなくのことだった。

 いや、だからお前らもうちょっと手加減を……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰ってきた兄は、以前とはどこか変わって見えた。

 悪夢のようなあの日から2年以上もの時間が経ったのだ。当然と言えば当然だけど、高二病を拗らせたあの兄が、と考えると信じられない変化だった。

 

 3000人以上の死者を出した未曾有の電脳テロ《SAO事件》

 私の兄、比企谷八幡はその被害者だった。不運にも兄はその電脳世界に囚われ、そして幸運にも2年の時を経て生還を果たした。

 ゲームの中にいた2年間について兄は多くを語らなかったし、私もあえて聞き出そうとはしなかった。国のSAO事件対策課からもあまり詮索しないように注意されていたし、公式にもSAO内部のことは今のところほとんど情報公開されていない。だから確かなことは何も言えないけど、あの兄のことだからずっと安全な場所にでも引きこもっていたんじゃないかと私は思っている。

 まあ何があったとしても、兄は兄だ。今は生きて帰ってきてくれただけで十分だった。

 兄の変化と言うのも悪いものではない。身に纏う雰囲気は柔らかくなったし、前よりは素直に自分の気持ちを口にするようになったと思う。

 

「小町的にはポイント高いけど……大丈夫? 個性死んじゃってるよ?」

「いや、別にキャラ付けのためにやってたわけじゃねーから……」

 

 そんな話をしたのが、兄が帰ってきてから1ヶ月くらい経った頃。リハビリの合間の休憩時間のことだった。柄にもなく毎日真面目な顔をしてリハビリに励む兄を見て、やっぱり変わったなと私はしみじみと感じたのだった。

 

 それから更に時間は流れて、そろそろ兄の退院が見えてきた頃だった。兄の友人を名乗る少年が、見舞いに訪れたのだ。

 話を聞くにどうやら彼もSAO事件の生還者らしい。まだ松葉杖をつきながらだけど、それでももうちゃんと1人で歩いていた。

 兄より一足先に退院し、様子を見にきたのだそうだ。私は兄にゲーム内で友達が居たことに驚きつつも、すぐに彼を病室に招き入れた。

 少年は桐ヶ谷和人さんと言うらしい。第一印象は可愛らしい男の子だった。見た目はなんだかジャ○ーズジュニアとかに居そうな感じで、多分歳は私と同じくらいだと思う。だけれど、桐ヶ谷さんにはなんとなく同世代とは思えない独特の空気があった。

 上手くは言えないけど、妙に余裕があると言うか、凄みがあると言うか。奇しくも、最近兄から感じる雰囲気に近い。雪乃さんも大分雰囲気が変わっていたし、SAOからの生還者はみんなそうなのだろうか。

 桐ヶ谷さんの顔を見た兄は驚き、そしてとても喜んでいた。本当に友達だったんだと少し失礼なことを考えながら、再会に水を差すのも悪いので飲み物でも買ってくると言って私は一旦席を外したのだった。

 病院の廊下をゆっくりと歩くうちに、私は自分の頬が自然と緩んでゆくのを感じた。SAOがクリアされたと聞いたあの日から、兄を取り巻く環境は全てが上手く回っているように思えた。

 こうして生きて帰ってこられたことについては言うまでもなく、さらにはあんな笑顔を向けることが出来る友達まで連れて戻ってきたのだ。一時期微妙だったらしい結衣さんと雪乃さんとの関係も、いつの間にか修復されて3人とも今まで以上に仲良くやっている。このまま上手くいったら、2人のどちらかが本当に私のお義姉ちゃんに、なんて展開もあるかもしれない。

 いや、SAOの中で友達を作って帰ってきたあの兄のことだ。もしかしたら勢いに乗って既に彼女まで作っていたり……うん、流石にそれはないか。

 ともあれ、そんな兄の先行きが明るいのは間違いないと思えた。兄も雪乃さんも、多分あと1、2週間のうちに退院となるだろう。国のSAO生還者への社会復帰支援はかなり充実しているから、これからの生活についても心配はない。多分SAO生還者のための特別支援学校に通うことになるはずだ。

 学年的には私と同じか1つ下。来月の学力テストの結果次第でその辺りが決まる。そのため兄はリハビリの合間に勉強にも励んでいた。曰く、小町と同学年になれれば、辛い大学受験も一緒に乗り越えられる気がするらしい。シスコン過ぎてちょっとキモい。まあ勉強を頑張ること自体は良いことだし、大目に見てあげようと思う。

 その後、病院のロビーでしばらく時間を潰した私は、これからの明るい未来に思いを馳せながら兄の病室へと戻った。けどそんな気分とは対照的に、私を迎えた兄と桐ヶ谷さんの間にはどこか重い空気が漂っていて――。

 兄が時々思い詰めたような表情をするようになったのは、それからのことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それじゃあ、ゆきのんとヒッキーの退院を祝って、カンパーイッ!」

 

 由比ヶ浜の音頭で、コップが打ち合わされる。ソフトドリンクが満たされたプラスチック製のコップからは、安っぽい音が響いた。

 1月某日。千葉市内のとあるファミレスである。4人掛けのテーブルを2つくっ付けて、懐かしい顔ぶれがそこに並んでいた。

 俺、雪ノ下、由比ヶ浜の元奉仕部3人に加えて、戸塚、川崎、平塚先生。

 俺と雪ノ下を除いた学生組は皆順調に進学し、現在それぞれ別の大学に通っているらしい。進路が分かれても交流は続いているようで、総武高ではないものの他校で教員を続けているという平塚先生にも連絡を取り、今日ここで俺と雪ノ下の退院祝いを開催してくれたというわけだった。

 SAO事件当初から2年以上も経ち、俺の記憶にある各々の姿からは随分と雰囲気が変わっていた。由比ヶ浜も川崎も大人っぽくなったし、戸塚に至っては少し髪も伸びて妙に艶っぽくなった。そしてビールジョッキを片手に持つ平塚先生はやさぐれ度が増した気がする。

 

「平塚先生、昼間からビールっすか……」

「祝いの席なんだ、固いことを言うな比企谷。ああ、でもお前らは飲むなよ。私の管轄じゃなくなったとはいえ、まだ未成年なんだからな」

 

 そういってグビグビとジョッキを傾ける平塚先生の左手薬指に、未だに指輪はなかった。……よし、その辺りの話題には触れないでおこう。

 

「……で、別にいいんだけどさ。なんでサイゼなの?」

「だってヒッキーがここが良いって言うんだもん。ゆきのんはどこでも良いって言うし」

 

 川崎と由比ヶ浜の視線が俺に刺さった。俺は目の前に置かれたミラノ風なドリアをつつきながら目を逸らす。

 

「いや、いいだろサイゼ。コスパ最高だし、混まないし、間違い探しもある」

「間違い探し、必要?」

「必要に決まってんだろ。誰かと来た時、間が持たなくなってもこれで30分は時間潰せるぞ」

 

 サイゼに用意されたキッズメニューの表紙には、お楽しみ要素として間違い探しのイラストが描かれている。子供向けのお遊びかと思いきや、大人がやっても意外と難易度が高いと評判だ。2つのイラストの中に10個の間違いがあるのだが、1時間近く探しても最後の1つが見つからないなんてこともある。

 もちろん俺はこの間違い探しを毎月欠かさずチェックしている。間違い探しのないサイゼなんて考えられない。

 

「つーか、そもそも間が持たなくなるような相手と来なきゃいいでしょ」

「いやお前……色々あるだろ。付き合いとか」

「あんたって案外流されやすいよね」

「ほっとけ」

 

 そんなやり取りの中、川崎が浮かべた表情は心なしか柔らかかった。雪ノ下のほどではないにしろ、彼女もここ2年で丸くなったのかもしれない。俺たちが仮想世界で駆け回っていたように、こいつらも現実世界で色々とあったのだろう。そんな当たり前のことを俺はしみじみと考えた。

 

「けど、材木座くんは今日来れなくて残念だったね」

「インフルだっけか、あいつ」

「そうみたい。薬飲んでもう体調はよくなったみたいだけど、まだ移るかもしれないからって」

「まあ残当だな。万が一にでも戸塚に移したら死刑だし」

「あはは。でも大丈夫だよ。大学でもテニスで体鍛えてるから」

 

 そう言って右手で力こぶを作る戸塚。うん。正直可愛さしか伝わってこないです。とつかわいい。

 

「材木座くん、ね……」

「どしたの、ゆきのん?」

「いえ、ちょっとあの時の衝撃を思い出してしまって……。彼、少し……いえ、かなり変わったわよね」

「あー、そだね。あたしはヒッキーのお見舞いの時とかに結構会ってたからあれだけど、いきなりああなってるの見たら驚くよね」

 

 遠い目をした雪ノ下に、由比ヶ浜が相槌を返す。その会話を聞きながら俺も深々と頷いた。

 ここにいる面々も2年間のうちにだいぶ見た目や雰囲気が変わったと思うが、材木座の変貌ぶりはその比ではなかった。

 

 2年前。SAO事件発生直後。俺がSAOに囚われたと知った材木座は、まず自分を責めたらしい。

 まあ経緯を考えればわからない話ではない。俺がSAOをやるきっかけとなったのは材木座からの誘いだったのだ。材木座から半ば無理矢理SAOのβテストに一緒に応募させられ、そして俺だけが当選した。その後材木座は限定1万本の正規版ソフトも入手出来ず、俺だけがSAOに囚われることとなったのだった。

 SAO事件の発生当初、材木座からは号泣しながら土下座されたと小町や両親から聞いている。まあ俺自身は材木座のせいだなどとは思ってないし、小町や両親も同じように伝えたそうだ。それでも1度芽生えた罪悪感というのはそう簡単に拭えるものではない。材木座はストレスによってみるみる痩せ衰えてゆき、無駄に蓄えられていた大量の贅肉はごっそりと削がれ、ついには男子高校生の標準体型になってしまったのだという。それなんてダイエット?

 病院に見舞いに訪れた材木座と再会した時には、冗談抜きに「誰?」と口にしてしまった。あいつ痩せたら割とイケメンなんだよな……。キャラ死んでるぞ。いや、別に妬んでるわけじゃない、決して。

 

「厨二臭さもなくなっちまったし、元の要素皆無だろ。ホントに別人なんじゃねぇの」

「あ、でもらのべ? はまだ書いてるみたいだよ」

「そういや、なろうに投稿してボロクソに叩かれたとか泣いてたな……」

 

 俺も材木座が投稿したものを読んでみたが、まあ叩かれても仕方のないような地雷要素満載の作品だった。しかし内容はともかく、以前は叩かれたくないからネットには投稿しないと言っていたので一応成長はしているのだろう。

 そうして互いの近況などを語らいながら、食事を進める。しばらくは和やかな雰囲気で歓談していたが、ドリアとポテトフライばかり食べていた俺を見咎めるように、雪ノ下が鋭い視線をこちらに向けた。

 

「ちょっとハチくん。ちゃんと野菜も食べなさい。ゲーム内では大目に見ていたけれど、現実世界ではバランスよく食べなきゃだめよ」

「母ちゃんみたいなこと言うなよ……。いや、それにほら、ポテトフライってじゃがいもだし、野菜取ってると言えなくもなくね?」

「それを本気で言っているのならあなたの正気を疑うわ。ほら、屁理屈言ってないでちゃんとサラダを食べなさい。取り分けるから、この分は義務よ」

「わ、わかった。食う。食うから、トマト増し増しにするのだけは勘弁して下さいお願いします」

 

 そう言って俺の皿にサラダを盛り付けている雪ノ下に苦い顔を向ける。女子力高いを通り越して、もはやオカン力が高い。

 しかし俺の懇願が届いたのか、雪ノ下はため息をついて盛ってあったカットトマトをいくらか自分の皿へと移して減らしてくれた。あ、1個だけは義務なんですね。

 そうして雪ノ下からサラダを受け取る俺を見て、隣に座る平塚先生が引きつった笑みを浮かべる。

 

「ず、随分と親しげなんだな君たちは……。なにやら呼び方も変わっているようだし?」

「ええ、まあ。もうゲーム内での名前で呼ぶのに慣れてしまって。あなたも、私のことをユキノと呼んでいいのよ?」

「勘弁してくれ……」

「そう。残念ね」

 

 そうして悪戯っぽく笑う雪ノ下を見て、平塚先生がさらに顔を引きつらせる。その後しばらく平塚先生は何やら1人で百面相をしていたが、やがて全ての感情を飲み込むように大きく頷いて次の言葉を口にした。

 

「まあ何はともあれ、元気そうで何よりだ。リハビリは順調だと聞いたが、退院してみて実生活で何か不便はないかね?」

「あ、なんか平塚先生がせんせーっぽいこと言ってる」

「私は正真正銘の教師だ馬鹿者」

 

 茶々を入れた由比ヶ浜にそう返しながらも、平塚先生は既に2杯目になるビールジョッキを豪快に傾けていた。教師とは……。

 

「ま、まあ特に不便はないっすね。むしろリハビリのお陰で前より動けるまでありますよ」

「ええ、私も同じです。こちらに帰ってきてから、何故かことあるごとに姉が私の世話を焼こうとするので、それが煩わしいといえば煩わしいですが」

「ははは。それくらいは大目に見てやれ。君がSAOに囚われたと知った時の陽乃は、かなり憔悴していたからな」

「ちょっと想像出来ないっすね……」

 

 そうは言ったものの、雪ノ下姉は元から少し歪んだタイプのシスコンだったし、納得と言えば納得かもしれない。甲斐甲斐しく妹の世話を焼くあの人を想像すると、少し鳥肌が立つけど。

 

「けど本当に、八幡たちが無事に帰ってきてよかったよ。一時期はSAOからの解放は絶望的だ、なんてニュースで言ってたから」

 

 ――来たか。

 戸塚が切り出したその話題に、俺は内心冷や水を浴びせ掛けられたような気分になった。しかし、想定していたことだ。SAOからの生還を祝うこの席で、その話題が避けられるはずはなかった。

 

「……まあ、そうだな。正攻法で攻略してたら、未だにゲームの中だっただろうし」

「じゃあ正攻法以外でクリアしたってこと?」

「一部のプレイヤーたちが、プレイヤーの中に紛れてた茅場晶彦を見つけ出して、倒したんだ。それでSAOはクリアされた」

 

 淡々と、他人事のように答えた。

 SAO内部の話をするのは、別にこれが初めてではない。警察の人間には覚えている限りのことを説明したし、無神経な報道関係者からの質問を受けたこともある。その度に無難な答えでやり過ごしてきたのだ。

 だから、表面上は冷静に答えることが出来たと思う。雪ノ下の方からこちらを案ずるような視線を感じたが、俺は意識して目線を逸らした。

 

「へえ。じゃあそいつらはまさに英雄ってわけだ」

「ああ。俺たちも含めて、数千人の人間を助けたんだ。本当に、すごい奴らだよ。……わりぃ、ちょっとトイレ」

 

 強引に話を切り上げ、俺は席を立った。

 少し、不自然だったかもしれない。そう思いながらも、しかしもうこれ以上あの話題について語ることは出来なかった。

 脳裏に過るのは、あの瞬間。無力だった自分。その温もりだけを残し、砕け散ってゆく彼女の身体。

 込み上げる嘔吐感を堪えながら、俺は歩みを速めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あたし、何かまずいこと言った?」

 

 話の途中で急に席を立った比企谷に不審なものを感じたのか、川崎は微妙な表情を浮かべてそう口にした。原因に心当たりのない者たちは、しばらく困惑して顔を見合わせる。やがて彼らの視線は、沈痛な面持ちで俯いていた雪ノ下へと向かった。

 

「川崎さんは何も悪くないわ。けど、やっぱり下手に隠すよりきちんと話しておくべきだったわね」

「何かあったの?」

 

 話を促す戸塚の言葉に、彼女は小さく頷いた。そして慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。

 

「私たちと……いえ、特に彼と親しかった知人の1人が、まだ目を覚ましていないの」

「目を覚ましてない? あ、300人の未帰還者……」

「ええ」

 

 それとなく事情を察したその場の面々は、それぞれ神妙な顔をして俯いた。

 ナーヴギアと呼ばれるヘッドギア型端末によって、1万人もの人間を電脳世界へと閉じ込めた《SAO事件》。多くの犠牲を払いながらも、プレイヤーたちの尽力によって2年という時を経てゲームはクリアされ、生き残った人々は全員無事解放された――かに思われた。

 実際、大多数のSAO事件の被害者たちは解放されていた。しかしその明るいニュースによって世間が湧く中、何故か一部の被害者たちだけは目を覚ますことはなかった。ゲームクリアから2ヶ月ほどが経つ現在もその原因は解明されておらず、解決の目途は立っていない。

 

 《300人の未帰還者》

 未だナーヴギアを装着し眠り続ける彼らを、人々はそう呼ぶようになっていた。

 

「……ごめん。SAOでのことは、気軽に聞いていいことじゃなかったね」

「僕も、ごめん……。2人が生きて帰って来てくれて、舞い上がってたかも。けど、そうじゃない人も沢山いるんだよね」

 

 謝罪を口にする川崎と戸塚に、しかし雪ノ下は力なく首を横に振って返した。そして遠い目で、居なくなった比企谷の席を見つめる。

 

「どうせいつかは向かい合わなければいけない問題よ。それに、この場でSAOの話をするなという方が無理があるわ。彼自身、あまり露骨に気を遣われるのも嫌がるでしょうし」

「……全く、相変わらず難儀な奴だな。この2年で少しは変わったかと思ったが」

 

 ため息交じりに平塚が口を開く。しかしすぐに空気を切り替えるように、わざとらしく明るい声音で言葉を続けた。

 

「おおよそ事情は理解したよ。しかしそれは君たちが再会を喜び合ってはいけない理由にはならない。だから、そう暗い顔をするな。今日は祝いの席なんだからな。楽しくやろう」

「……そうですね」

 

 首肯した雪ノ下が表情を緩めたことで、その場の空気が少し軽くなった。

 

 この祝いの席で、彼の沈んだ気持ちが少しでも紛れればいい。雪ノ下はそう考え、今日この場に臨んでいた。例えそれが、ほんの気休めに過ぎないとしても。

 比企谷が心の内に抱える問題を、雪ノ下も多少は理解しているつもりだった。ゲーム内で親しかったあの人が目を覚まさないことに胸を痛めている……という単純な感情だけではないはずだ。SAOのクリアが懸かったあの最後の戦いの顛末を、雪ノ下はキリトから聞いていた。

 きっと彼は――自分を、責め続けているのだろう。

 

 トイレから戻ってきた比企谷は、何でもない風を装って再び席に着いた。皆それが痩せ我慢だと気付いていたが、誰もそれを指摘することはなかった。

 どこかぎこちない雰囲気を孕みながらも、その後は始終穏やかに時間が過ぎて行った。この穏やかな日常の中で、彼の傷が少しずつでも癒えていってくれればいいと、雪ノ下は願ったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2話 鬱屈

 ――ねえ、あなた。どうして私の名前がわかったの?

 

 夢を見る。彼女の記憶を。

 

 ――その……お前っていうの、やめて。……アスナって呼んで

 

 誰よりも真っ直ぐで、あの死の世界を鮮烈に駆け抜けて行った彼女の記憶。

 

 ――もっと私たちを頼ってくれてもいいんじゃない? 仲間でしょ?

 ――ありがとう。ハチ君の言葉、嬉しかった。それだけで、私は頑張れるから

 

 彼女の側に立つに足る、そんな男になりたくて。

 

 ――じゃあさ、ハチ君。1つ、約束しない?

 ――現実世界に帰れたら……また、あっちで会いましょう。それから初めましてって言って、自己紹介するの

 

 彼女と交わした、その約束を守りたくて。その気持ちは、間違いなく偽りないもので。

 なのに、あの時、俺は。

 

 ――好き

 ――好きなの、ハチくんのことが。だから……

 ――死なないで

 

 何も、出来なかったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お兄ちゃん、何か昨日の夜うなされてなかった?」

 

 リビングで少し遅めの朝食を取っていた時のことである。向かいの席に座る小町が、そんなことを尋ねたのだった。

 部屋の隅では石油ファンヒーターがごうごうと音を立てて熱風を吐き出していたが、それでも室内はまだ薄ら寒い。俺は温かいみそ汁を啜りながら、モコモコといかにも暖かそうなカーキ色のパーカーに身を包む我が妹に目をやった。そして口の中のものをゆっくりと飲み込み、惚けた表情を作る。

 

「ん? さあ、自分じゃよくわからんけど……。悪い、うるさかったか?」

「んーん。そう言うんじゃないけど……。最近、ちゃんと寝れてる?」

「別に、いつも通りだよ」

「ふーん……」

 

 端的に答えて、箸を進める。小町は腑に落ちない様子でじっとこちらを見つめていたが、俺はそれについてこれ以上言葉を重ねることはしなかった。

 

「……げ、もうこんな時間か。もう出るわ。昼は外で食ってくるから」

「あ、うん。いってらっしゃい」

 

 茶碗の飯を一気に掻きこみ、席を立つ。手早く食器を片付けて身支度を整えた俺は、逃げるように家を後にしたのだった。

 

 1月も下旬。もう2月に差し掛かろうかという時期だった。

 玄関を出た俺は雲一つない空を仰ぎ、肌を刺す冷たい風に煽られてすぐに身を縮こまらせる。何重にも巻いたマフラーに首を埋め、足早に駅へと向かって歩き出した。

 

 小町には、詳しいことは話していなかった。話しても気を遣わせるだけだろう。だから、極力その話題は避けていた。

 あの世界で、かつて共に戦ったアスナという名の少女が居たこと。

 そして彼女が、未だに目を覚まさないという事実を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれはSAOクリアから1ヶ月ほどがたった頃。未だ入院中の俺の病室に、キリトが訪れたのだ。既に当面のリハビリを終えて、つい先日退院したのだという。

 キリトは自らを桐ヶ谷和人と名乗った。再会を喜び合いながら自己紹介を交わすという奇妙な体験を経て、互いの近況などを報告する。話が尽きることなどなかったが、始終キリトの表情にはどこか陰があった。

 それについて俺が訝しんでいると、やがてキリトは1つため息をついて口を開いた。

 

「……その様子じゃあ、まだ知らないんだな」

「ん? 何がだ?」

「アスナが目を覚ましていないらしいんだ」

「は?」

 

 キリトの言葉が飲み込めず、俺は呆けた声を上げた。キリトは目を伏せ、悲痛な表情で言葉を続ける。

 

「《300人の未帰還者》の話は聞いてるだろ? その中に、アスナも居るんだ」

 

 300人の未帰還者――そうだ、そんな言葉を聞いた覚えがある。しかしそれはSAOクリア直後のことで、サーバーの処理にともなうタイムラグだろうと誰かが言っていた。だから、さほど重要なことでもないだろうと、その情報はいつしか俺の頭の中から抜け落ちていた。

 しかし、それは間違いだったということなのか。既にSAOクリアからは1ヶ月ほどが経つ。それだけの時間が経ってもまだ目を覚まさないなど、明らかな異常事態だった。

 

「ゲームクリアのすぐ後、俺のところにSAO事件対策本部の捜査員が来た。俺はその男と取引して、SAO内部の情報を提供する代わりに、皆の情報を貰ったんだ。ハチに、アスナに、クラインに、トウジに、まあギルドメンバーは大体だな。それで、アスナだけまだ目を覚ましてないことを知った」

 

 間の抜けた表情で、俺はキリトの話を聞いていた。300人の未帰還者。未だ眠り続けるアスナ。徐々に、事態が飲み込めてきた。同時に頭から血の気が引いてゆく。

 まさか、と思った。

 キリトによれば、俺たちの中で目を覚ましていないのはアスナだけだと言う。ならば、その原因はなんだ。1つだけ、思い当たることがあった。ゲームクリアのあの瞬間、あの状況。

 彼女の姿が、脳裏に過る。乱れた栗色の髪。儚げな瞳。俺の頬をなぞる、冷たい指先。そして、俺の腕の中、砕けて散ってゆく彼女の身体。

 

「まさか、あの時、俺を庇ったせいで――」

「それは違う」

 

 はっとして、顔を上げる。いつの間にか、キリトの力強い手が俺の腕を掴んでいた。その時、俺は初めて自分の身体が震えていることに気付いた。

 

「未帰還者は300人もいるんだ。SAOがクリアされたあの瞬間、その全員がアスナと同じ状況になったとは考えられない。だから、それとこれとは別問題だ」

「でも――」

「ハチのせいじゃない。だから、変なことは考えるな」

 

 キリトの言葉に、反論することは出来なかった。理屈は通っているのだ。300人ものプレイヤーが、SAOクリア目前のあの瞬間にゲームオーバーになったとは考えづらい。それは分かる。しかし、1度生まれてしまった疑念は俺の胸の内に留まり続けた。

 あの瞬間のゲームオーバーによって、アスナのログアウトに何らかの不具合が生じてしまったのではないか、と。

 それは、つまり、俺のせいだ。

 

「未帰還者の件については、SAO事件対策本部がちゃんと捜査してくれてる。俺の方でも、出来る限り調べてみるつもりだ。だから、ハチはひとまず自分のことに専念してくれ。リハビリを終わらせて、退院して、全部はそこからだ」

「ああ……」

 

 気遣わし気なキリトの視線を感じた。俺は、力ない頷きを返すことしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よっ」

「おう」

 

 小町から逃げるように、家を出た後。

 駅前で待ち合わせていた俺とキリトは、顔を合わすなり雑な挨拶を交わし合った。自転車を押すキリトと並んで歩き、人通りが少ない場所まで出てから2人乗りで目的地まで向かう。

 

「たまにはハチが前で漕げよ!」

「悪いな、俺の後ろは小町専用なんだ」

「……色々言いたいことはあるけど、とりあえずそろそろ妹離れしろ」

 

 そんないつものやり取りを交わしながら、俺たち2人を乗せた自転車は進んで行く。

 目的地は埼玉県所沢市、郊外に建つ総合病院だ。その最上階にある病室で、アスナは今も静かに眠り続けている。

 俺とキリトは、こうして連れだってよく彼女の見舞いに訪れていた。俺が病院に行ったところで、何が出来る訳でもない。それは良く理解していた。それでも、何かしなければならないという焦りだけがあった。

 15分ほどキリトが自転車をこぎ続けると、目的の総合病院に到着する。見舞いの手続きなどは慣れたもので、もはやキリトとは顔見知りになったらしい守衛のおっちゃんからカードキーを受け取って――多分俺の顔は覚えられていない――病室に向かった。

 しかし病院の廊下を一歩一歩進むにつれて、俺は自分の足が段々と重くなってゆくのを感じていた。世界が色をなくしていくような、深い水の底に沈んで行くような、そんな感覚が体を支配する。

 やがて《結城 明日奈》と表記されたプレートの前に立つ頃には、両足は地面に張り付いてしまったように、それ以上先に進むことは出来なくなってしまった。眩暈と共に、嘔吐感が襲ってくる。

 

「……悪い。桐ヶ谷、やっぱり……」

「ああ。わかった。無理はしなくていい。ロビーまで付き添うか?」

「いや、いい。大丈夫だ」

 

 そこで俺は踵を返し、キリトと別れたのだった。必死に吐き気を堪えながら、ノロノロと病院の廊下を歩く。

 見舞いに訪れたものの、アスナの病室に入ることも出来ず、引き返す。このところ、俺はずっとそんなことを繰り返していた。彼女の病室の前に立つと、もうそれ以上先に進むことが出来なくなってしまうのだ。

 1度だけ、病室の中まで入ったことはある。初めてここを訪れた時のことだ。あの時は、悲惨だった。静かに眠るアスナを視界に収めた瞬間、俺はその場に嘔吐し、過呼吸に陥った。

 医者からはPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断された。それ以来、治療としてカウンセリングは受けているものの、結局彼女の病室に足を踏み入れることは出来ないでいる。

 我ながら、貧弱だと思う。

 アスナと向き合うことが出来ないのだ。

 

 彼女を見ると考えてしまう。

 もしあの時、アスナがゲームオーバーにならなければ。

 もしあの時、俺があと5秒でも長く耐えることが出来ていれば。

 もしあの時、アスナが俺を庇わなければ。

 もしあの時、アスナではなく――俺が、死んでいれば。

 

 そうすれば、アスナは無事に現実へと帰還を果たしていたのではないか。

 家族と再会し、今頃は穏やかな日常を取り戻していたのではないか。

 あの病室に眠り続けていたのは俺で、アスナは家族や友人と幸せな日々を過ごしていたのではないのか。あの、花の咲くような笑みを浮かべて。

 

 その全てを、奪った。俺が。

 

 いや、違う。俺じゃない。キリトも言っていたじゃないか。あの時のことは、未帰還者たちとは関係ないと。

 けど、本当に? 本当に関係ないのか。未だ原因はわからないという話だ。ならば、俺のせいだという可能性も、否定出来ないんじゃないのか。

 1度そう考えてしまえば、もはや思考の渦から逃れることは出来なかった。

 

「おや、確か君は」

「あ……」

 

 声を掛けられ 我に返った。エレベーターの前、鉢合わせたのは見覚えのある初老の男性だった。

 素人目にも価値が分かる、仕立ての良いブラウンのスーツ。オールバックにした頭髪には白いものが多く混じっていたが、精悍な顔つきには如何にもやり手と言った精力が満ちていた。

 アスナの父親である。似ている、というほどでもないのだが、どことなく品のある目鼻立ちに、彼女との血のつながりが感じられた。

 この人とは、キリトと一緒に何度か面識があった。レクトとかいう電子機器メーカーの社長らしく、自己紹介された時は隣でキリトが非常に驚いていたのを覚えている。レクトと言えば、そっち方面にあまり詳しくない俺でも名前くらいは聞いたことのある大手企業だ。

 

「比企谷君、だったね。またお見舞いに来てくれたのか。娘も喜ぶよ」

「あ、いえ……はい」

 

 俺は曖昧に頷いた。実際には病室にも入れず、こうして引き返して来ている。しかし、わざわざそれを説明する気にもなれなかった。

 

「社長、比企谷君というと、彼が?」

 

 不意に、割り込むように声が響いた。そちらに視線を向けると、アスナの父親の後ろ、秘書のように控える1人の男が目に入る。

 長身痩躯にダークグレーのスーツ。やや面長の顔に、高そうなフレームレスの眼鏡を掛けている。薄いレンズの向こうに覗く瞳は、糸のように細かった。

 

「ああ、君とは初めてだったか。紹介しよう。比企谷君、彼はうちの研究所で主任をしている須郷君だ」

「よろしく、須郷伸之です。君が、あの風林火山のハチ君か」

「……比企谷八幡です」

 

 差し出された手を握りながら、軽く頭を下げる。

 一見、人の良さそうな男だった。顔に張り付けたような笑みは何処か胡散臭さも覚えるが、まあ俺には関係のないことだ。今後、この男と深く関わることなどないだろう。

 《風林火山のハチ》という言葉には苦い思いが過ったが、聞き流した。本来SAOの内部事情は口外禁止ということになっていて、当然俺のことを知っている人間もそう多くないはずだった。それを知っているということは、この男も関係者ということなのだろう。

 SAO事件当時、レクトという会社はサーバーの維持を委託されたり、事件解決のために捜査に協力したという話を聞いている。そこの会社の研究所主任というのなら、SAO内部のことを知っていても不思議ではなかった。

 

「私たちは今から娘の病室に行くつもりだが……比企谷君は、帰るところかね?」

「はい。桐ヶ谷は、まだ病室にいると思いますけど」

「桐ヶ谷君……キリト君か。SAOを終わらせた英雄2人に立て続けに会えるなんて、今日は運が良いな」

 

 俺は、英雄なんかじゃない。

 須郷が口にした言葉に咄嗟にそう返しそうになり、堪えた。ここで口を出したところで、意味のないことだ。

 

「……じゃあ、俺は先に失礼します」

「ああ。引き止めて悪かったね」

「またね、比企谷君。機会があれば、君の武勇伝も聞かせてくれ」

 

 にこやかな顔で、須郷は軽く手を振った。俺は会釈をして、エレベーターに乗り込む。

 最後の言葉。須郷という男の、あの視線。俺を持ち上げる言動とは裏腹に、その目には俺を蔑むような、侮るような、そんな意識が見て取れた。

 あの男とはもう関わりたくないな。そう毒づき、下ってゆくエレベーターの中、俺は1人ため息を吐いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 病院のロビーでマッ缶を啜りながら、人の流れをぼんやりと眺めていた。黄緑色のフェイクレザーのソファに浅く腰掛け、項垂れるように脱力する。

 どれだけの時間そうしていただろうか。ふと、右手に持つマッ缶が空になっていることに気付き、小さく息を吐く。俺は最後の一滴まで味わうつもりでそれを大きく呷り、ゴミ箱を探しながら立ち上がった。しかしこちらに向かって歩くキリトの姿が目に入り、足を止める。

 

「悪い、待たせた」

「や、別に……」

 

 むしろ謝るべきは別行動をとった俺の方なのだが、まあどちらにしろ形式的なやり取りだ。俺は適当に言葉を返すだけにとどめた。

 しかし、確かにいつもよりも時間が掛かった気がする。ちらりと腕時計を確かめ、キリトの顔を見る。その時、俺はキリトの表情がいつもより硬いことに気付いた。まるで、湧いてくる怒りを必死になって押しとどめているようだ。俺は眉を顰めて、キリトの顔を伺う。

 

「何かあったのか?」

「……ああ。後で話す。とりあえず、ここを出よう」

「ん、わかった」

 

 キリトの言葉の端々には、やはりどこか怒気が滲んでいた。こいつがこれほど不機嫌さを露わにするのは珍しい。その詳細が気にはなったが、ひとまず疑問は飲み込んで頷いた。

 キリトは足早に病院を後にしようとしたが、俺は一声待ったを掛けて、空になったマッ缶を通路脇のゴミ箱へと放り込む。そうしてキリトの元へと戻ると、少し毒気を抜かれたような表情のキリトと目が合った。

 

「……また、アレ飲んでたのか」

「ん? ああ。埼玉でマッ缶売ってるの珍しいしな。ここの病院は良い病院だ」

「病院の判断基準そこなのかよ」

 

 キリトは苦笑し、歩き出す。それからキリトの放っていた怒気は多少和らいだが、表情は硬いままだった。

 

「須郷って男、会ったか?」

 

 病院の自動ドアを潜ったところで、キリトが口を開いた。歩を進めながら、頷いて返す。

 

「ああ。今日、病院の廊下ですれ違ったぞ。結城の父親に紹介された」

「あいつ、相当食わせ者だ。……ああ、くそッ。思い出しただけでイライラしてきた」

「……いや、ホントに何があったんだよ」

「アスナが、あいつと結婚するらしい」

「は?」

 

 つい足を止めて、呆けた声を上げた。今のアスナの状態に全くそぐわない言葉に、一瞬頭が混乱する。しかし俺はすぐに我に返って、かぶりを振った。

 

「いや、結婚って……。不可能だろ。第一、あいつの意思確認はどうすんだ」

「俺もそう言ったよ。実際に結婚は出来ないから、須郷を結城家の養子に入れて、それを結婚の代わりにするって話らしい。須郷と結城家は家族ぐるみの付き合いで、元々結婚の話はあったみたいなんだ。今後アスナの目が覚めるか分からないから、せめて綺麗なうちにウエディングドレスを着せてやりたいんだとさ!」

 

 話すうちにその時の怒りが蘇ってきたのか、最後の言葉は強く吐き捨てるようだった。立ち止まったキリトは項垂れて、強く拳を握りしめている。荒くなった息を軽く整えてから、言葉を続けた。

 

「彰三さんが居なくなった途端、厭味ったらしくべらべら喋りだしたよ。須郷は、アスナの昏睡状態を利用して結城家に取り入るつもりなんだ。アスナに意識があれば、きっと結婚を断られるから……」

 

 訥々と語るキリトの背中を、俺はただ黙って見つめた。俺たちの間を、冷たい風が通り抜けてゆく。

 この歳で、親の決めた結婚。時代錯誤のドラマのようだ。まるで現実感の湧かない話だったが、アスナが俺たちの手の届かない場所へ行こうとしていると言うことだけは分かった。

 

「あいつは、それを正当な権利だって言ったよ。今、SAOサーバーの維持を委託されてるのはレクトのフルダイブ技術研究部門――須郷の部署だから」

 

 ふと、アスナの肌に触れる須郷の姿が脳裏に過る。いつの間にか、ドロドロとした暗い感情が腹の底に溜まっていた。風は緩やかに吹き続けていたが、俺は身動(みじろ)ぎもせずに立ち尽くした。

 

「彰三さんは、あいつの本性に気付いてない……部外者の俺たちじゃ、手を出せない」

 

 この感情の正体が怒りなのか、妬みなのか、自分でもわからない。どちらにせよ、それを誰かにぶつけるのは筋違いだと思えた。

 あの時、何も出来なかった俺に、そんな資格があるはずがない。

 

「……実際どうしようもないし、よそ様のうちの事情だろ。他人が口出していいようなことじゃない」

「ハチ……お前、それ本気で言ってるのか」

「……」

 

 キリトの鋭い視線が、俺を射抜いた。真っ直ぐなその瞳に耐えられず、俺は目を逸らして沈黙する。

 ただの、負け惜しみだ。何も出来ない自分の惨めさを誤魔化すために、嘯いただけ。しかしそれを自覚すると、惨めさは増すばかりだった。

 そんな俺の内心を見抜いたのだろう。キリトは小さくため息をつき、呆れたような、険の取れた目で俺を見た。

 

「ハチ、一戦やるぞ」

「……は?」

 

 やがてキリトの口から突然飛び出した言葉に、俺は首を傾げた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3話 叱咤

 病院での一幕の後、俺たちが向かったのはキリトの自宅だった。

 キリトの漕ぐ自転車の荷台で揺られること30分強。到着したのはうちよりも一回り大きい戸建だった。話には聞いていたが、やはりキリトはいいところの坊ちゃんだったようだ。当然のように広い庭付きで、離れには小さめではあるが剣道場があった。

 キリト曰く「土地と道場は爺ちゃんの頃のものだから、別にうちが金持ちってわけじゃないよ」とのことである。その余裕のある態度が余計に金持ちっぽい。

 そうしてキリトを冷やかしているうちに、俺は道場の中へと案内されたのだった。

 

「ほら」

「うおっ……!?」

 

 道場の奥から顔を出したキリトが、何かを放り投げた。驚きつつもとっさにそれを掴み取り、手元に視線を落とす。

 

「……なんだこれ?」

「競技用の薙刀だよ。長さは1番長い奴選んどいた。それでもちょっと短いけど、使えないことはないだろ?」

「薙刀ってお前……」

「リハビリがてらハチとやれたらいいと思ってさ。用意しといたんだ」

 

 自前の道場でリハビリがてらに立合いとか、やっぱり金持ちは考えることが違うな。

 俺は呆れ半分、感心半分でため息をついたが、せっかく用意してもらったのだから使わなければ勿体ない。何故突然こんなことを言い出したのかは定かではないが、キリトとの稽古自体はSAOでは半ば日常化していたことであり、今更(いや)はなかった。病院で溜まった陰鬱な気分を晴らすのにも、ここで体を動かすのは悪くないとも思えた。

 そうして頭を切り替えて、軽く薙刀を振ってみる。長さは悪くない。SAOでは直槍ばかり使っていたせいで反りのある穂先には違和感があるが、稽古では実際に刃筋を立てて使わなければいけないわけでもないし問題はないだろう。柄は少し細く感じるが、取り回しに難があるほどでもなかった。ただ、問題を上げるとすれば。

 

「……軽いな。重心が手元に近いから余計にそう感じる」

「ははっ。俺も竹刀握った時に同じようなこと言ったよ」

「まあほんとに重い武器持っても使いこなせないだろうけど」

 

 SAO時代の感覚通りに重い武器を全力で振り回したりすれば、一発で身体を壊すだろう。2年以上という長い時間を仮想世界で過ごしてきた俺たちには、身体を動かそうとする感覚と、実際にそれに応える身体のスペックとの間に、大きな齟齬(そご)がある。

 簡単に言えば、意識に身体が追いついて来ないのだ。息子の運動会で久しぶりに走った父親がアキレス腱を切るようなものである。違うか。

 

一本先取(初撃決着モード)でいいよな。防具のない箇所への攻撃は禁止。脛当(すねあ)て用意しといたから足への攻撃はありだ」

「足アリね……。かなり俺に有利なルールじゃないか?」

 

 剣道三倍段という言葉がある。剣で槍に対抗するためには、相手の三倍の段位が必要であるという意味の言葉だ。現代日本に段位のある槍術など残っていないから最早形骸化した言葉ではあるが、当然槍の有利性がなくなったわけではない。出足を狙いやすい槍からすれば、この勝負はかなり有利なはずだ。

 SAOではバトルにおけるバランスを取るためにリーチが短い武器種ほど何かしらの優遇措置が取られていたが、それでも尚、対人戦において長柄武器はそれなりに有利だった。

 

「ハチは相当ブランクがあるだろ? 俺はここで素振りとかもしてるし、ちょうどいいハンデだよ」

 

 俺を挑発するようにそう言って、キリトはにやりと笑った。

 まあそんな安い挑発にいきり立つほど青くはない。というか実際、しばらく槍になんて触っていなかったし、元よりPvPの戦績はキリトに軍配があがる。ここはありがたくハンデを受け取っておくことにしよう。

 入念なウォーミングアップの後、キリトに教えて貰いながら防具を装着する。そうして準備を終え、互いに獲物を構えて向かい合うと、もはやどこか懐かしく思えるような戦いの緊張感が場を支配した。

 道場の前、通り過ぎる車の音。小窓に差す陽の光。素足から伝わる板敷の冷たさ。そんなものをどこか遠くに感じながら、槍を低く構える。

 対峙するキリトは半身になって二刀を構えている。左の竹刀はこちらを牽制するように低く前に突き出し、右の竹刀は中段で身体の後ろである。スタンスは広く、低い。どっしりと構えて俺の出方を窺うつもりのようだ。

 二刀流とは本来防御に偏重した戦法である。ソードスキルという例外を除けば、剣速、剣圧ともに両手で扱う一刀には及ばない。故に手数で相手の攻撃を凌ぎ、カウンターを狙うのが定石である。ステータスによる補正もなく、ソードスキルという決め手に欠ける今、キリトもこの定石から大きく外れることはないはずだ。

 

「いつでもいいぜ」

「ああ」

 

 頷いて、1つ息をついた。

 戦う前に考え過ぎてしまうのは、俺の悪い癖だ。結局のところ勝負は単純。遠間からキリトを仕留められるか、否か。間合いを潰されればキリトに軍配があがるだろう。

 ごちゃごちゃとした思考を振り払い、ゆっくりと前に出る。キリトは動かない。互いの間合いがぶつかろうかという瞬間、一歩踏み出した。

 竹刀を弾き上げながら、突きを放つ。喉。肉薄したが、キリトは持ち直した左の竹刀で刺突を逸らし、回避した。引き際、抜き胴と見せかけて(すね)を狙うが、キリトは器用に手首を返し、再び左の竹刀でこれを防いだ。

 

 全て、左だけで防がれた。完全に動きを読まれているということだ。舌打ちしながら、弧を描くように足を運ぶ。揺さぶりを掛けるつもりで何度か仕掛けたが、キリトは冷静に、一合、二合とこれを捌いた。

 三度、同じような攻防が続いた。キリトからも何度か仕掛けてきたが、深く踏み込んで来ることはない。出足を狙われることを警戒しているのだろう。

 

 すぐに、息が上がってきた。薙刀を持つ腕も重い。まだ数度打ち合っただけである。自分の貧弱さを情けなく思ったが、現実ではこんなものだろうとも思った。

 キリトは俺の踏み込みを待っているのだろう。そして、それを食い破るつもりでいる。乗ってやろう。ふと、そう思った。どのみち、このままでは体力がもたない。

 三合、斬り結んだ。足。斬り払うと見せかけ、深く踏み込む。左の竹刀は下がったままだ。突き上げた穂先が、キリトの喉に迫った。届く。そう思ったが、握りしめた薙刀は虚しく空を切った。

 右の竹刀で刺突を滑らせると同時、キリトは前に出ていた。視線が合う。防具で顔はよく見えなかったが、不敵に笑ったのがわかった。

 

「貰ったッ」

 

 穂先を滑らせた竹刀が、翻り、眼前に迫る。受けられるかどうか、際どい。考える前に体は動いていたが、しかし結果から言えばそれは徒労に終わったのだった。

 竹刀を振り下ろそうとしていたキリトが「い゛ッ……」と奇声を上げてピタリとその動きを止めたのである。フェイントか何かと警戒し、俺は咄嗟に後ずさって距離を取る。しかしそんな俺をよそに、妙な体勢で息を詰まらせていたキリトはやがてゆっくりと膝を折り、その場にうずくまってしまったのだった。

 隙だらけの体勢である。もはや警戒する必要もないのは明確だった。俺は大きく息を吐いて、ピクピクと震えるキリトを見下ろす。もうオチは読めていたが、一応声をかけた。

 

「おい、どした?」

「つ、つった……!」

「……」

 

 久しぶりの俺たちの真剣勝負は、こうして情けない幕引きとなったのだった。

 

 

 

 

 

 

「もう、どうすればこんなところつるのよ」

「いや、ちょっと熱くなりすぎて……」

 

 道場横。桐ヶ谷家自宅。庭先にせり出した縁側でうつ伏せになり、少女に背中をさすられるキリトの姿があった。

 少女はキリトの妹のようだった。試合後、身動きの取れなくなったキリトに肩を貸してここまで移動した後、家に居たらしい彼女に介抱を任せたのだった。

 妹の存在については、SAO時代に話だけは聞いたことがあった。本当の兄妹ではないという話だったが、何処となくキリトと雰囲気が似ている。綺麗に切り揃えられたショートカットの黒髪に、利発な印象を受ける大きな瞳。着ている制服は多分中学校のものだと思われるが、その胸元を押し上げる2つの双丘は恐ろしいほどのボリュームであった。

 

 ……え? これで本当に中学生? しかも美少女の義妹とか、それなんてエロゲ?

 そんな下世話な思考を働かせる俺を諌めるように、庭先を冷たい風が通り抜ける。俺もキリトも防具を脱いだだけの道着姿だったが、運動後の火照った体には心地良かった。

 

「湿布とかあったよな?」

「つった時は冷やさない方がいいの。だから湿布も駄目。温めて、軽くストレッチするくらいがいいよ」

 

 そう言うキリト妹の傍らには学生鞄と竹刀袋が置いてあった。妹も剣道をやってるのか。まあ家に道場があるくらいだしな。ぼうっとそんなことを考えていた俺に、キリト妹が振り返って視線を寄越す。

 

「初めまして、妹の直葉(すぐは)です。比企谷さんですよね? 兄からお話は伺ってます」

「ああ……ども」

「比企谷さんも剣道やるんですか?」

「いや、俺はなんというか……」

「あ、薙刀……ですか? 珍しいですね」

 

 俺の右手に目をやって、キリト妹はそう呟いた。その時になって初めて、俺はまだ自分が薙刀を握りしめていたことに気付いた。キリトをここまで運ぶ時に、無意識に手に取ってしまったらしい。

 SAO時代の癖である。当時、外を歩く時は常に武装していたために、現実世界に帰ってきた今でも外では武器を持っていないと落ち着かないのだ。最近になって少し改善されてきたのだが、キリトと矛を交えて当時の感覚に戻ってしまったのかもしれない。

 こんなものを持ってうろつく人間など完全に不審者だが、幸いキリト妹は気にした様子もなく頷いていた。

 

「ハチのは薙刀って言うより、アインクラッド流槍術ってところかな」

「あいん……? お兄ちゃん、もしかしてまた頭打った?」

「またってなんだよ。またって」

「だってお兄ちゃん、最近変なことばっかり言うじゃない」

 

 軽口を交わし合う兄妹の関係は、それなりに良好に見える。以前キリトに聞いた話では義理の兄妹ということもあり、少し微妙な関係になっていたそうだが、SAOから帰還してから多少は改善されたようである。

 

「あ、もうこんな時間!」

 

 腕時計を確認したキリト妹が、そう言って立ち上がった。学生鞄と竹刀袋を手に取ってこちらに頭を下げる。

 

「すみません、今日これから学校に行かなきゃいけなくて、これで失礼します。比企谷さんはゆっくりしていって下さい」

「ああ、いや、お構いなく」

「お兄ちゃん、台所の下の棚にお茶菓子あるからね。じゃあ、行ってきまーす」

「おう。車に気を付けろよ」

 

 うつ伏せになったまま、キリトが手を振る。去ってゆくキリト妹の背中に目を向けながら、俺は呟くように言葉を溢した。

 

「出来た妹だな……」

「ああ、全くだ。あれで剣道の腕も凄いぞ。全中ベストエイトだってさ。この前模擬戦したらボコボコにされたよ」

「マジかよ」

 

 全中という言葉にあまり馴染みはないが、察するに中学校の全国大会のことだろう。それのベストエイトともなれば地元ではちょっとした有名人だ。

 

「ふう……。ようやく良くなってきた」

 

 言って、キリトが体を起こした。体の調子を確かめるように肩や首を回しながら、言葉を続ける。

 

「やっぱり課題は身体(フィジカル)だな。体力(スタミナ)は多少ついてきたけど、筋力(ストレングス)が全然足りてない」

STR(ストレングス)ってお前、ゲームじゃねえんだから……。つーか、なんだ? 本格的に剣道やんのか?」

「そういう訳じゃないけど……。リハビリで筋トレするにしても、他に目的があった方がハリがあるだろ?」

「まあ、そうだな」

 

 最近は軽いストレッチ程度しかこなしていない俺は、気のない返事を返した。キリトの方は退院してからもしっかりとリハビリを続けているらしい。SAO被害者はスポーツジムなどに通う際に国から補助金が出るので、やる気がある人間はその辺りを上手く活用しているようだった。ちなみに俺もジムには行くだけ行ってみたが、しっかりと三日坊主で終わっている。

 

「その薙刀、ハチにやるよ。家で素振りにでも使ってくれ」

「は? いや、貰う理由がないし。俺は養われる気はあっても施しを受ける気は――」

「そういうところ、ホント変わらないなハチは。良いから受け取れよ。俺が持ってても使わないし」

 

 言葉を遮られ、俺は右手に持った薙刀に目を落とす。キリトが使わないというのは本当だろうし、こいつから物を貰うこと自体にそれほど抵抗があるわけではなかった。

 だが薙刀(これ)を貰って、俺はどうするべきなんだろうか。

 

「それに今日は不完全燃焼だったしな。お互い鍛え直して、またやろうぜ」

「鍛え直して、ね……」

「なんだよ。今日ので満足だっていうのか?」

「いや、そういう訳じゃねえけど……。もう、戦う理由もないだろ」

 

 薙刀に目をやったまま、呟くように言った。深く考えて口にした言葉ではなかったが、その言葉は自分でも意外なほどストンと腑に落ちた。

 そうだ。戦う理由もなく、戦うべき敵も見えないこの状況で、俺は武器を手にして何をすればいいのか。ただ己を鍛えるためだけに修練を積むことが出来るほど、俺はストイックな人間ではない。

 

「戦う理由ならある」

 

 固く、意志を感じさせる言葉だった。ハッとして顔を上げると、キリトの真っ直ぐな瞳と目が合った。

 

「アスナを、助けたくないのか?」

 

 その言葉に、息が詰まった。キリトの迷いのない瞳。見つめていると、まるで不甲斐ない自分自身を突きつけられているような気分になった。耐えきれずに目を逸らし、言い訳をするように言葉を漏らす。

 

「いや、助けるって、お前……」

「このままじゃアスナ、本当に俺たちの手の届かないところに行っちゃうぞ」

「それは……仕方ないだろ。俺が口出せるようなことじゃない」

「ハチ……いつまでそうやっていじけてるつもりだ。アスナの最後の言葉、忘れたわけじゃないだろう」

 

 最後の言葉――乱れた栗色の髪。薄く開かれた2つの瞳。薄紅色の唇からこぼれ落ちた、力ない言葉。

 脳裏に過ったそれを、咄嗟に振り払った。

 

「……あんなのは、気の迷いだろ。勘違いだよ。そもそもあり得ねえだろ。あいつが、俺を、なんて……」

 

 動悸が抑えられず、手にした薙刀を強く握った。俯いたまま、俺はぼそぼそと言葉を並べ立てる。

 

「だいたい、馬鹿なんだあいつは。熱に浮かされてたんだ。だって、割に合わないだろ。ヘマした俺なんか庇って……」

「ハチ、お前」

「初めから全部間違ってたんだ。見ただろ、あいつん()。住む世界が違ったんだ。それを俺は、勘違いして、舞い上がって……。あいつも、俺も、馬鹿だ。俺なんか、あの時、茅場の手で――」

「もういい」

 

 いつの間にか目の前に立っていたキリトが言葉を遮った。苛立ちを伴った口調。強く握られた拳。顔を見なくとも、キリトが本気で怒っていることがわかった。

 

「お前の言いたいことはよくわかった。……歯ァ、食いしばれッ」

 

 頬が、熱い。最初に感じたのはそれだけだった。気付けば俺は固く握っていたはずの薙刀も取り落とし、庭先の地面に無様に倒れていた。口の中に血の味が広がる。キリトに殴られたのだと理解したのは、一拍後のことだった。

 

「住む世界が違う? 気の迷い? ふざけんなッ!! あの時のアスナの言葉が……命懸けの、あいつの言葉が! お前は信じられないっていうのか!」

 

 キリトの鋭い言葉が降りかかる。その言葉が、俺の心の中の何かを揺さぶった。不意に胸の内からこぼれ出しそうになるそれを、俺は必死に押しとどめる。しかしそんなことなど構うことなく、キリトは俺を引き起こすようにして胸倉を掴み、言葉を続けた。

 

「いい加減目を覚ませよ! いつまで腑抜けてるつもりなんだ! そんなんじゃ、本当にアスナを失うことになるぞ! それでいいのか!?」

「――うるせえ!」

 

 気付けば、叫んでいた。衝動のままに拳を握り、キリトに打ち付ける。キリトは俺を掴んでいた手を放し数歩後ずさったが、その瞳はまっすぐ俺に向けられたままだ。その姿に苛立ちを覚え、俺は痛いほど握りしめた拳を何度も何度も打ち付けた。しかしキリトは避けることすらせず、黙って全てを受け止め、ただひたすらに俺を見据えていた。

 

「知ったような口ばっかききやがって! 俺だって分かってる! 分かってるんだよそんなことは!」

 

 追い詰められ、癇癪(かんしゃく)を起した子供のように喚き散らした。血を吐きながら、ため込んでいた感情を爆発させる。

 

「でも……あの時の、アスナの言葉を受け止めて……このままあいつが帰ってこなかったら、俺は……俺は……!!」

 

 いつの間にか流れた涙が、頬を濡らしていた。それを拭うことすらせず、俺はやがて(すが)りつくようにキリトの胸倉を掴んだ。

 

「俺はどうすればいい……! キリト、俺は、どうすれば……」

 

 胸にあるのはもはや恐怖と後悔だけだった。目の前で凶刃に倒れる彼女の姿が、腕の中砕け散ってゆく彼女の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。

 

「何も……何も出来なかったんだ。あの時、俺は……俺だけが……」

 

 キリトは、システムの壁を打ち破って茅場晶彦を討った。

 アスナは、システムの(いまし)めを振り切って俺を救った。

 俺は、ただ見ていただけだ。システムに抗うことも出来ず、凶刃に倒れる彼女を、黙って見ていただけだ。

 英雄なんかじゃない。俺は、何も出来なかった。何の価値もない男だ。

 せめて、あの場で茅場晶彦の手に掛かって死ぬべきだった。死ぬべき場所で死ぬことも出来ず、生き残ってしまった俺は、ただの(うつ)けだ。

 

「……やっぱりあの時のこと、ずっと後悔してたんだな」

 

 そう呟いたキリトの言葉からは、もう怒りは感じられなかった。キリトから身を離し、俺は糸が切れたように冷たい地面へと膝を付く。

 現実世界へと帰還し、アスナの現状を知ってからずっと抱えていた感情。その全てを吐き出した。もう溢れ出る感情を留めることは出来ない。俺は人目も(はばか)らず、嗚咽(おえつ)を漏らした。

 

「なあハチ……俺だって、怖いよ」

 

 どれだけの間そうしていただろうか。不意に響いたキリトの弱々しい声に、俺は現実へと引き戻された。流れ落ちた涙が、地面に小さく染みを作っている。

 

「アスナのゲームオーバーは、未帰還者たちとは関係ない……俺も口ではそんなこと言っといてさ、ひとりになると考えるんだ。あの時、俺があと少し早く駆け付けていれば……アスナを助けられていれば、今こんな状況にはなっていなかったんじゃないかって……」

 

 現実世界に帰還してから、初めて聞くキリトの弱音だった。まるで不安などないように振る舞い、心の弱い俺を隣で励まし続けてくれたキリト。だが、そんなこいつにも後悔はあったのだ。

 当たり前だ。あの戦いは、俺ひとりで戦っていたわけではないのだから。

 

「もしも次、もう一度しくじったら、今度こそ本当にアスナを失うことになるかもしれない。考えただけで、身が竦む。ハチも、そうだろ」

 

 キリトの言葉に、俺は同意を示すように深く項垂れた。もう一度同じ失敗を繰り返すようなことがあれば、俺はもう耐えられないだろう。

 

「でも、だからって……お前はそこで諦められるのか」

 

 弱々しかったキリトの言葉が、不意に熱を持った。ゆっくりと顔を上げて、俺の前に膝を付くキリトを見上げる。滲んだ視界の中で、キリトは真っ直ぐに俺を見つめていた。

 

「アスナは、お前にとってその程度の存在だったのか?」

 

 小さく、庭先を冷たい風が吹く。キリトに打たれた頬が、キリトに打ち付けた拳が、ジンジンと熱を持った気がした。

 

「何度だって立ち上がれよ! ずっとそうやって戦ってきただろう、俺たちは! あの世界で戦い続けた俺たちの時間を、嘘にしないでくれ……!」

 

 キリトの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 その瞬間、過ったのは、かつての記憶。鋼鉄の浮遊城(アインクラッド)で戦い続けた2年間。挫折や衝突を繰り返し、時には立ち止まり、それでも前に進み続けたあの時間。

 いや、違う。キリトは今もまだ進み続けているのだ。そして、俺が再び立ち上がるのを待ってくれている。

 

「……ソードアート・オンラインは、まだ終わってない。俺たちは、まだ何も失っちゃいない」

 

 目の前に、手が差し伸べられた。見慣れない、しかし、よく知った手だ。この手が、あの世界で幾度も俺を救い上げてくれた。

 

「助けるぞ、ハチ。アスナを、俺たちの手で」

 

 返事は、出来なかった。今のキリトを前にして、安い言葉を口にしたくはなかった。

 あの時の絶望を、忘れることなど出来ない。砕け散ってゆく彼女の身体。消えてゆく温もり。思い出せば、心が折れそうになる。けどそれでも、こいつが一緒に戦ってくれるのなら、俺は――。

 道着の袖で、涙を拭った。鼻を啜って、顔を上げる。目の前にあったのは、かつての相棒《黒の剣士》キリトの姿だった。

 無言で、その手を取る。力強い手に支えられながら、俺はゆっくりと立ち上がった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4話 手がかり

「落ち着いたか?」

「……ああ」

 

 ジンジンと痛みを放つ頬を氷嚢で冷やしながら、頷いた。

 キリトの自室である。モノトーン調のベッドと机以外あまり物が置かれていない、キリトらしい簡素な部屋だ。

 庭先でのひと悶着の後、シャワーを借りて汚れた道着から着替えた俺は、キリトに「見せたいものがある」と部屋に招かれたのだった。

 

「けどお前、もうちょっと加減しろよな……。めっちゃ腫れてきてんだけど」

「あはは。悪い悪い。けど、気合いは入っただろ?」

「まあな……」

 

 一応抗議はしてみたが、俺も本気でキリトに文句があるわけではなかった。正直、さっきまでの自分は殴られても仕方ないほどの腑抜けだったと思う。それに頬は痛むが、心は随分と軽くなったように感じる。憑き物が落ちたようだった。

 ただ1つ納得がいかないのは、俺に殴られたはずのキリトがまるで堪えた様子もなくピンピンとしていることだ。キリトが一発だけだったのに対し、俺は何度も殴りつけたはずなので、むしろあっちの方がダメージを負っていていいはずなのだが……え? 俺の腕力、低すぎ……?

 

「エギルが、妙なスクショを送ってきたんだ」

 

 デスクトップPCを立ち上げながら、キリトが口にした。俺は意識を切り替え、視線をそちらに送る。

 

「妙なスクショ?」

「ああ。つーかハチ、皆とメールのやり取りしてないだろ。アドレス教えてやったのに」

「あー、うん。まあそのうちな」

「……まあいいや。とりあえず、これ見てくれ」

 

 キャスター付きの椅子で、キリトが体をスライドさせる。ディスプレイを覗き込んだ俺の目に映ったのは、画質の荒い一枚の写真だった。

 一見しただけで、現実世界で撮った画像ではないということは分かった。キリトがスクショと言った通り、ゲームか何かの画像、見たところおそらくポリゴン製の仮想世界の映像だろう。

 手前一面には、装飾された金色の格子が並んでいた。その向こう、偶然映り込むようにして撮られていたのは、白い椅子に腰かける1人の女性。その横顔を目に捉えた瞬間、俺は息を飲んだ。

 

「アスナ……?」

「やっぱり、ハチもそう思うか」

 

 知らず、彼女の名前を呟いていた。

 いや、確信はない。かなり荒い画像だ。おそらく、スクリーンショットの一部を拡大した画像なのだろう。個人を識別出来るほどの画質ではない。

 しかし、この凛とした横顔。栗色の髪。身体を形作るなだらかなライン。その1つ1つが、よく見知った彼女を想起させた。

 

「何の写真なんだこれは!?」

「落ち着け。ちゃんと全部話すから」

 

 気付けば、指が食い込むほどに強くキリトの肩を掴んでいた。冷静なキリトの言葉に我に返り、手を離す。悪い、と一言謝罪して後ずさった。そんな俺にひとつ頷き返してから、キリトが説明を始める。

 

Alfheim Online(アルヴヘイム・オンライン)。今人気のVRMMOだそうだ」

「アルヴ……?」

「アルヴヘイム。妖精の国って意味らしい。まあ、名前の割にそんなほのぼのしたゲームじゃないらしいけど」

 

 言いながら、キリトがインターネットブラウザを開く。そのままブックマークをクリックすると、(くだん)のゲームの公式ホームページらしきサイトが画面いっぱいに開かれた。

 トップ絵では背中から虫っぽい(はね)の生えた人型のアバターが、幾人も舞うように空を飛んでいた。これが妖精だろうか。それぞれ髪の色や(はね)の作りが違うので、多分いくつかの種族があるのだろう。

 

「PK推奨、プレイヤースキル重視。結構ハードなゲームみたいだぜ」

「え、何その殺伐としたゲーム……。絶対やりたくないんだけど。つーか、そんなゲームが流行ってんのかよ」

「ああ。なんでも、一番の売りは《飛べる》ことらしい。フライト・エンジンってのを搭載してて、慣れるとコントローラなしでも自由に飛びまわれるんだってさ」

「へえ……」

「へえって……反応薄いな。これ、結構凄い技術なんだぞ。人には元々(はね)はないから、任意でそれを動かすのに――」

「あー、そういうのはいいから。さっさと本題に入ってくれ」

「……わかったよ」

 

 こいつにこういう話を語らせ始めると長くなる。俺が急かすように口を挟むと、キリトは若干残念そうな表情を浮かべつつも頷いた。

 

「さっきのスクショが撮られたのは……ここ。世界樹ってエリアだ」

 

 ゲームの公式サイトをスクロールしたキリトが、出てきたマップの中央を指さした。

 

「全プレイヤーの当面の目標は、他の種族に先駆けてこの世界樹の上にある城に到達することらしい」

「ふーん……ん? そんなん飛んでいけば一発じゃないのか?」

「なんでも滞空時間が決まってるらしくて、無限には飛べないんだと。普通に飛んだらこの樹の一番下の枝にも到底たどり着けない。けどまあ、何処にでもこういうルールの抜け穴を突く奴はいるもんで」

 

 話しながら、キリトがディスプレイに向けていた視線をこちらに寄越す。

 

「5人のプレイヤーが体格順に肩車して、多段ロケット方式で樹の枝を目指したんだ。目論見は成功して、枝にかなり近付いたらしい。まあ結局ぎりぎり届かなかったみたいだけどな。その後すぐに緊急メンテで修正が入って同じことは出来なくなったけど、例の5人目のプレイヤーが最高到達高度の証明にしようと何枚も撮った写真がネットに上がって、一時期話題になったってわけだ」

「じゃあそれに写り込んでたのが、さっきの……」

「ああ。拡大する前の写真は、枝からぶら下がるでかい鳥籠だったって話だ」

「鳥籠……?」

 

 その不穏な響きに、俺は眉を顰めた。

 仮想世界で鳥籠に囚われている、アスナに似た女性。現実世界でナーヴギアを被り、眠り続ける彼女。

 根拠も証拠もない。だが、俺にはどうしてもその2つに繋がりがあるように思えてならなかった。

 

「300人の未帰還者、その原因は色々と憶測が飛び交ってるけど、世間じゃ3つの説がよく取り上げられてる」

 

 キリトが、唐突に話を変えた。目をやると、キリトは真剣な表情で指を1つ立てる。

 

「1つは、茅場の陰謀が続いてるって説。ニュースとかだとこれが一番有力視されてるけど……個人的には、それはないと思ってる」

「まあ、俺も同意見だな」

 

 例の画像から頭を切り替えながら、キリトの話に相槌を打つ。思い出すのは崩壊するアインクラッドを前に、長年抱え続けてきた想いを吐露(とろ)する茅場晶彦の姿だった。敵同士ではあったが、俺たちと茅場の間には妙な信頼関係があった。この期に及んで、あいつは俺たちを謀るような真似はしないだろう。

 俺の同意を得られたところで、キリトは2本目の指を立てながら話を続ける。

 

「2つ目、単なるシステム的な不具合によるもの。これはまあ、あり得ないとは言い切れないけど、個人的には可能性は低いと思う。SAO事件が起こった当初、世界中のエンジニアが集まって人質の解放に当たったって聞いてる。2年以上もそれを阻止し続けた茅場が、最後だけそんなミスをやらかすとは思えない」

 

 技術的な話は、俺にわかるものではない。しかしキリトの言にはそれなりの説得力があるように思えて、俺は黙って話の先を促した。そしてキリトはゆっくりと3本目の指を立てる。

 

「だから、俺が支持するのは3つ目――第三者の介入による意図的なもの」

 

 瞬間、俺たちの間に緊張が走った。

 第三者の介入による意図的なもの――つまり、アスナの精神は悪意ある何者かの手によって囚われていると、キリトはそう言っているのだ。

 鳥籠の中に囚われているという、白い服の女性の画像に再び目をやった。

 

「それで、ここまでの話を踏まえて、これを見てほしい」

 

 そう言ってキリトがデスク横の棚から取り出したのは、ゲームのパッケージらしきプラスチック製の薄い箱だった。受け取り、それをまじまじと見つめる。描かれているのは、先ほどPCのサイトで見た妖精たちの姿だ。

 

「これは……」

「アルヴヘイム・オンラインのパッケージだ。裏のメーカーのところを見てくれ」

 

 言われるがまま、パッケージを裏返す。右下に印字されていた会社名は、どこか既視感のあるものだった。

 

「レクト、プログレス?」

「ああ。調べてみたら、レクトの子会社みたいだ。……関係ないと思うか?」

「……須郷」

 

 知らず、呟いていた。

 300人の未帰還者。眠り続けるアスナ。この状況が何者かが意図したものだとすれば、それによって利を得ている存在がいるということだ。キリトによれば、レクトに所属するあの男はアスナの昏睡状態を利用して結城家に取り入るつもりらしい。

 そこまで考えて、しかし俺は自分の推論を否定するように(かぶり)を振った。

 

「いや……いやいや、さすがにあり得ないだろ。結城の家に取り入るためだけに、300人も巻き込むか? リスクがでかすぎる。そんな馬鹿な奴には見えなかったぞ」

「ああ。仮に須郷がこの事件に絡んでいるとしても、目的はそれだけじゃないと思う。事件の規模的に単独犯とも考えにくいし、協力者はいるはずだ。だからきっと、組織的な旨味がある」

「組織的な旨味?」

「考えたくもないけど……。300人の生きている人間のサンプルがあるんだ。ナーヴギアを使えば人間の脳に直接干渉できる。倫理的な問題さえ無視すれば、いくらでも利用価値はある」

「それは……人体実験ってことか?」

 

 キリトは言葉を返さなかった。ただ、厳しい表情を浮かべるだけだ。

 腹の底で、どす黒い激情が渦巻いた。アスナの身体(からだ)が、精神(こころ)が、悪意ある者の手によって弄ばれている。考えただけで、怒りで気が狂いそうだった。

 そんな激情を、しかし俺は咄嗟に押さえつけた。拳を握りしめ、歯を食いしばって大きく息をつく。

 アスナを救うためなら、鬼にでも悪魔にでもなる覚悟はある。だが、それは今ではない。今は状況を見極めなければならない時だ。

 荒くなっていた呼吸を整えると、段々と冷静な思考が戻ってきた。右手に持っていたゲームのパッケージを再びまじまじと見つめる。

 

「……お前は未帰還者たちの件に、レクトが絡んでると考えてるんだな?」

「ああ。アーガスが潰れた後、SAOのサーバー維持を委託されたのはレクトだ。この写真や須郷のことを抜きにしても、まず疑うべきはそこだろう」

 

 筋は通っている。というか、300人の未帰還者の件で利を得ている存在がいるとすれば、現状それは茅場晶彦かレクトしか考えられなかった。

 

「この話、警察には?」

「いや。ただの推察で、証拠も何もない話だしな……。というか俺がこんな簡単に考え付く可能性に、警察が気付かないはずないよ。それでも尻尾を掴ませないってことは、本当にレクトは関係ないか、あるいは相当上手く隠してるんだと思う。だから、俺たちは警察とは違うアプローチで攻めてみようと思うんだ」

「違うアプローチ?」

 

 俺が問い返すと、キリトはニヤリと笑みを浮かべて答えた。

 

「ゲームを攻略して、彼女に会おう。死んでもいいゲームなんて、俺たちにはぬるすぎるくらいだろ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、おかえりお兄ちゃん。ねえ、なんかお兄ちゃん宛てに大きい荷物が――って、どうしたのその顔!?」

 

 キリトの家から帰宅した俺を迎えたのは、驚愕する小町の声だった。たまたま玄関を開けたところで鉢合わせをした小町は、青く腫れあがった俺の左頬を見つめてポカンと口を開けている。

 如何にも『殴られました』と言うような痣だ。普段喧嘩どころか虫も殺さないような俺がそんな傷をこさえて帰ってきたとなれば驚きもするだろう。

 小町を心配させてしまうのは本意ではないが、さすがに今日の出来事を仔細説明するのは気恥ずかしい。俺は腫れた頬を隠すように小町から顔を逸らし、靴を脱ぎながらその場を誤魔化すように口を開いた。

 

「いや、なんつーか、その……青春してきた」

「せ、青春……? 夕暮れの河川敷でマブダチと殴り合ってきたってこと……?」

 

 俺が口にした適当な台詞に、小町はそんな呟きを返した。我が妹ながら、青春のイメージがステレオタイプ過ぎる。今日日マブダチなんて言葉聞かねーぞ。まあ、シチュエーション以外はそう間違ってもいないんだけど……。

 

「……いや、冗談だ。大丈夫、ちょっと転んだだけだよ」

「ふーん……? ホントに大丈夫?」

「大丈夫だ、問題ない」

「それってダメな時の台詞じゃない?」

 

 そんなやり取りを交わしながら、リビングに上がる。小町はずっと疑わし気な視線を向けて後ろをついてきたが、俺はあえて無視してリビングの中を見回す。目当ての物はすぐ隣、ドアの横に置いてあった。

 

「荷物ってのはこれか」

「あ、うん」

 

 小町の声を背中に受けながら、大きなダンボールに張られた送り状に目を落とす。依頼主の欄には『総務省総合通信基盤局高度通信網振興課第二分室』という見慣れない文字が並んでいた。物々しいにも程がある。

 確か、通称『仮想課』とか言われる部署だったはずだ。SAO事件の調査やその他VRMMO世界の監視などを行っている……と、キリトが言っていた。

 

「なんか送り主の名前のところが凄いことになってるんだけど……。お兄ちゃん、何かしたの?」

「いや俺がっていうより、桐ケ谷がな……」

「桐ケ谷さん?」

「ま、色々あんだよ」

 

 誤魔化しながら、荷物を持ち上げる。見た目の大きさほど重くはない。最近リハビリを怠っている俺でも十分持ち運べる重さだ。

 

「悪いけど、ちょっとやることあるからしばらく部屋籠るわ。晩飯には降りてくるから」

「え、あ、うん。わかった」

 

 言って、そそくさと歩き出す。小町からは始終こちらを窺うような視線を感じたが、呼び止められるようなことはなかった。しかしリビングを後にする直前、俺は少し考えて足を止める。

 小町にはSAOの事情は何も話していないし、俺が抱える問題も極力悟られないようにしてきたつもりだ。しかし兄妹だからだろうか、それとも小町が特別敏いのか、最近は何かを察したように俺を気遣ってくれることが多かった。

 問題が解決したわけではないが、ひとまず俺の心の中では一区切りついたつもりだ。これ以上小町に心配をかけないためにも、ここは一言言っておくのが義理というものかもしれない。そんなことを考えながら、口を開く。

 

「あー……、小町。最近は色々心配かけて、悪かったな。もう大丈夫……ってわけでもないけど、とりあえずお兄ちゃん頑張ってみるから」

「え、何、急に。素直なお兄ちゃんとか、ちょっと気持ち悪い……」

「……」

 

 引き気味の小町から、冷たい視線が飛んでくる。解せぬ。さっきまでの兄を気遣う優しい妹は何処に行ったんだ……。

 そうして俺が閉口していると、しかし小町はやがて堪えきれないように笑みをこぼした。

 

「けど……うんっ。小町的にはポイント高いよ! なんかわかんないけど、頑張ってねお兄ちゃん」

「……おう」

 

 

 

 

 

 

 

 

「あいつ、マジでやったのか……」

 

 自室に戻り、早速届いたダンボールを開封した俺は、思わずそう独り言ちた。

 丸めた厚紙の緩衝材とともにダンボールの中に収められていたのは、少し古ぼけたヘッドギア型ゲーム機器。それは忘れもしない……2年前、俺たちをデスゲームと化したSAOへと誘い、閉じ込め続けた悪魔の機械――ナーヴギアだった。

 

 ダンボールから取り出し、繁々とそれを見つめる。元は濃紺に輝いていた外装は所々塗装が剥げてしまっていて、小さい傷も散在しているが、一見するとまだ十分使えそうである。まあ、あの茅場晶彦がデスゲームのために開発した機械だ。そう簡単に壊れるものではないだろう。

 本来ならこんな一般家庭にあっていいものではないのだが……ALOをプレイするためにキリトが調達したものだ。どんな手を使ったのか知らないが、俺とキリトが使用していたものを総務省から奪い返したらしい。

 

『どうせアミュスフィア買う金なんかないだろ? それにスペック調べた感じだとナーヴギアから安全面を強化しただけみたいだし……むしろ出力を抑えてない分、ナーヴギアの方が性能はいいんだぜ。解像度とか』

 

 そんなことをいい笑顔でのたまっていたキリトのことを思い出す。ゲームオタクであり機械オタクでもあるキリトにとっては、安全面より解像度の方が大事らしい。SAO被害者に対してナーヴギア送り付けるとか、頭おかしいんじゃないのあいつ。

 とは言ったものの、正直なところ俺はナーヴギアそのものに対してトラウマだとか、恐怖を抱いたりするようなことは特になかった。SAOに囚われていた間ナーヴギアを意識するようなことはなかったし、世間のイメージとは裏腹にSAO事件当事者である俺たちにとってはナーヴギアが恐ろしい機械だといわれてもあまり実感はないのだ。

 

 それでも世間的には多くの人間を死に至らしめた悪魔の機械である。安全性に問題ありということで国に押収されていたのだが、今回キリトのお節介によって手元に戻ってきた。これ、他所にバレたら結構やばいんじゃないだろうか。

 実のところSAO事件の慰謝料の一部を両親から受け取っていたので、アミュスフィアを買う程度の資金はないこともなかったのだが、まあ節約できるに越したことはない。ここはありがたく使わせてもらうとしよう。

 

 既にALOのソフトは用意してある。準備のいいキリトが『この春、友達と一緒にALOを始めよう! お得なダブルパック!』とやらを購入していたらしく、その片割れを譲り受けてきたのだ。

 パッケージから取り出したソフトを差し込み、ナーヴギアを装着する。電源に接続して起動ボタンを押すと、問題なく稼働を始めた。Wi-Fiなどの設定を手早く済ませ、ベッドに横になってひとつ息をつく。

 トラウマなどはない――などと言っておきながら、いざとなるとちょっと緊張してきた。それでも、今の俺に逃げるという選択肢はない。もう一度大きく息を吐き、ゆっくりと目をつむった。

 

「リンク・スタート」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ALOについては帰りの電車の中、スマホを使って色々と調べた。

 アルヴヘイムという大陸を舞台とした今人気のVRMMOであり、いわゆるキャラクターごとの《レベル》は存在しない。そのためプレイヤーごとにステータスの差が大きく開くということはなく、戦闘能力はプレイヤーの運動能力に大きく依存するという仕様だ。各種スキルは反復使用で上昇していくようだが、それもステータスにはほとんど影響しないらしい。

 個人的には普段手を出さないようなハードなゲームだ。だが今回だけは、さっさと世界樹の攻略に向かいたい俺とキリトにとってありがたい仕様である。

 プレイヤーの最終目標が世界(ワールド)の中心にある世界樹を攻略することだというのは既にキリトから聞いていた通りだ。だが調べていくうちに、その攻略の得点というのが中々きな臭いものだということがわかった。

 

 まず大前提として、プレイヤーが作成できるキャラクターには9つの種族が存在する。

 

 武器の扱いと攻撃に長け、主に火属性魔法が得意な火妖精族(サラマンダー)

 飛行速度と聴力に長け、風属性魔法が得意な風妖精族(シルフ)

 回復魔法と水中活動に長け、水属性魔法が得意な水妖精族(ウンディーネ)

 トレジャーハントと幻惑に長け、幻影魔法が得意な影妖精族(スプリガン)

 武器生産及び各種細工を生産することに特化した工匠妖精族(レプラコーン)

 敏捷性に長け、モンスターのテイミングを得意とする猫妖精族(ケットシー)

 耐久力と金属等の採掘に長け、土属性魔法が得意な土妖精族(ノーム)

 暗視・暗中飛行に長けた闇妖精族(インプ)

 歌唱、楽器演奏による支援魔法に長けた音楽妖精族(プーカ)

 

 このうち、世界樹を攻略し、その上に住まうという妖精王オベイロンと一番最初に謁見を果たした種族だけが光妖精族(アルフ)と呼ばれる上位種族に進化することができ、飛行時間の制限がなくなるらしい。

 そう、クリア特典を受け取ることが出来るのは『一番最初にオベイロンと謁見を果たした種族だけ』なのである。これでは他の種族と協力プレイなど出来るはずもないし、むしろ蹴落としあうのが道理だ。他でもない運営が種族間の対立を煽っているのだ。他種族のPK推奨などと言われる所以(ゆえん)である。

 しかし個人的に、これはゲームデザインとして不自然なように思う。武器戦闘が得意な種族、回復が得意な種族、サポートが得意な種族など、明らかに他種族同士での協力プレイを意識した作りになっているにも関わらず、実質種族混合でのパーティプレイが出来ないようになっているのだ。

 

 これがただの運営のミスなのか、それとも意図したものなのか。意図したものだとすれば、その目的は何なのか。

 ネットでは世界樹の攻略は難易度が高すぎて、単一種族での攻略は不可能だなんて言っている奴もいた。あえて種族間の協力を妨害しているのだとしたら、運営はまだプレイヤーたちに世界樹を攻略させるつもりがないのかもしれない。

 

 そんな状況で、俺とキリトは世界樹の攻略を目指さなければならないというわけだ。キリトは「死んでもいいゲームなんてぬるすぎるぜ!」などと決め顔で言っていたが、そう簡単な話ではないかもしれない。

 まあやる前から状況を憂いていても仕方ない。とりあえず情報収集しながら世界樹を目指し、一度ダメ元で挑戦してみるべきだろう。それこそ死んでもいいゲームなのだから。

 

「キリトはスプリガンにするとか言ってたか。あいつ、ホント黒いのが好きだよな……」

 

 ゲームのオープニングをすっ飛ばし、初期設定入力画面までたどり着いた俺はそう呟いた。

 キリトはこういうのは案外直感で決めるタイプである。ネットで評判を見た感じだとスプリガンはあまり人気がないようだったが、まああいつならどの種族でも使いこなしてみせるだろう。

 ちなみに俺はキャラメイクには時間をかけるタイプだ。モンハンではハンターのみならずオトモアイルー、オトモガルクともに拘って作ったものだ。その無駄な拘りのせいでプレイするまでに数時間かかるのだが。

 幸いALOは種族と名前だけ決めたらプレイヤーのアバターはランダム生成してくれるタイプである。余計な時間を食うこともないだろう。

 

 360度、見渡す限り続く霞色(かすみいろ)の空間の中、目の前に突然光るキーボードが出現する。俺は女性の合成音声に従ってそのキーボードを操作し、アカウント設定などを手早く済ませた。次いでキャラクターネームの入力画面となり、手を止める。少し迷ってから、俺は結局《Hachi》と入力することに決めた。

 この名前は、SAOでは少し有名になり過ぎた。だから変えておきたいという気持ちも若干あるのだが……。まあSAO内の情報は基本的に秘匿されているし、他の場所で同じ名前を使ったところで実害はないはずだ。それにTVゲームならともかく、VRゲームでは馴染みのない名前にすると混乱するし、結局どんな名前にしたところでキリトは俺のことをハチと呼ぶだろう。ならばここで時間を使って考えるだけ無駄である。

 

 ネカマプレイをする気もないので性別は迷わず男性を選ぶ。次に合成音声はキャラクターの作成を促した。とは言ってもここで出来るのは種族の選択だけだ。見本アバターなのだろう9体の妖精族が目の前に出現する。……ちょっとビビったのは内緒だ。

 それで、肝心のどの種族を選ぶのかだが……正直、まだ決めあぐねている。

 キリトと同じスプリガンを選ぶというのも、まず1つの選択肢だ。新規プレイヤーはそれぞれの種族の領土からスタートすることになるらしいので、同じ種類を選べばすぐに合流出来るというのは利点だろう。しかし、やはり単一の種族ではお互いの不得意な部分をカバーすることが出来ないので、最終的に世界樹の攻略を目指すことを考えれば別種族で始めた方がいいように思う。

 となると他の選択肢は、単独での戦闘力が高いと思われるサラマンダー、シルフ、ケットシーあたりだ。ケットシーの一番の強みはテイミングなので、モンスターの育成などを考えると大器晩成型になる。今回はなるべく早く世界樹の攻略にかかりたいので、まずケットシーは除外となる。

 

 飛ぶことが出来るゲームでシルフの飛行速度に優れるという特性は結構なアドバンテージだろう。ただ、空中戦闘については相応の慣れかセンスが必要という話であり、個人的にその辺りはあまり自信がない。もし空中戦闘に適性がないということになれば、宝の持ち腐れということにもなりかねない。

 そうなると、武器戦闘に長けるというシンプルに強い種族であるサラマンダーが一番か。序盤から終盤まで腐りにくい個性だし、勢力的にもサラマンダーは今最も力を持っていると聞いた。その恩恵に与れるのも大きいだろう。

 赤いし暑苦しそうな種族だからあまり好みではないのだが……まあ、ここは大人しく実利を優先しよう。

 

 キーボードを操作してサラマンダーの種族を選択をする。キャラメイクのやり直しはきかないらしいので、しつこいくらい確認の選択肢が出てきたが、俺は適当に連打して先に進める。

 ようやく全ての初期設定が終わったらしく、「幸運を祈ります」という合成音声に送られて、俺は光の渦に包まれた。床の感覚が消え、妙な浮遊感の中、徐々に視界が開けてくる。

 眼下に広がるのは、月明かりに照らされた広大な砂漠だ。なだらかな砂丘が続く中、俺の目を引いたのは異様な存在感を放つ巨大な都市。四方で大きなかがり火を焚く様はまるで城砦のようだった。

 あれがサラマンダーのホームタウンか。まずは装備を整えるところから始めないとな、などとのんきに考えているうちに、視界はぐんぐんと都市へと近づいていき――。

 その時、唐突に全ての映像がフリーズした。 

 

「な、なんだ……!?」

 

 困惑する俺に追い打ちをかけるように、視界にはノイズが走り始める。さらにモザイク状に視界がぼやけていき、やがて世界が解け崩れていくように消えて、視界が暗転した。同時に、身体を支配していた浮遊感が消えて猛烈な落下の不快感が襲ってくる。気付けば俺は途方もなく広い暗闇の中を、果てしなく落ち続けていた。

 

「どうなってんだぁぁぁぁぁ」

 

 誰に届くわけでもない俺の叫び声が、虚空の中にむなしく溶けていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5話 妖精の国

 木花(このはな) (かおる)は、才色兼備、文武両道を地で行く優等生だった。

 

 小柄で可愛らしい容姿。県内でも有数の進学校に通いながら、成績は常にトップを維持。中学高校と続けている剣道は、華奢な体に見合わず全国ベスト16に入るほどの腕前だった。

 加えてその人柄には嫌味がなく、温厚質実。しかし時には強引に人を引っ張っていくようなリーダーシップも持ち合わせており、傍から見ればおおよそ欠点など見当たらない――本人としては背の低さがコンプレックスであったのだが――そんな一廉(ひとかど)の人物だった。

 

 そんな彼女が今まで全く縁のなかったVRゲームへと関心を持ったきっかけは、5つ歳の離れた妹がソードアート・オンラインへと囚われてしまったことだった。

 普通なら逆に嫌悪し、遠ざけてしまうような出来事だ。実際彼女たちの両親はナーヴギアを悪魔の機械と称していたし、VR業界全体を敵視するようになっていた。薫自身もVRゲームにネガティブなイメージが全くないと言えば嘘になる。

 しかし、彼女はそれ以上に興味を持ったのだ。

 妹は今、どんな世界で、何を感じて生きているのだろうか、と。

 

 しかし興味を持ったとは言っても、当時はそう簡単にVRゲームを始められる状況ではなかった。SAO事件の影響で、世間ではVR業界に厳しい目が向けられていたし、そもそも薫は当時大学受験を目前に控えた受験生だったのだ。

 結局彼女が仮想世界を体験することが出来たのは、SAO事件から一年後。ナーヴギアの後継機であるアミュスフィアが発売されてからだった。

 VRゲーム全体を嫌悪する両親を説得するのは骨が折れたが、ようやく仮想世界にフルダイブした薫はその甲斐もあったと全身を喜びに震わせた。電気信号が作り出した大地が、風が、街並みが、確かに仮想世界の息吹きを持って薫を惹きつけたのだ。

 妹もこんな世界で生きているのだろうか。元気にやっているのだろうか――そんなことを殊勝に考えていたのは初めのうちだけで、やがて妹のことなど関係なしに、薫はどっぷりとVRゲームにハマっていった。

 

 そうしてさらに月日は流れて一年後。SAO事件から二年もの月日が流れた頃。

 ソードアート・オンラインがクリアされ、妹――美琴が意識を取り戻したのだった。

 

「ええ!? フルダイブのゲームやってんの!? あのお姉ちゃんが!?」

 

 都内のマンションの一室。大学生の一人暮らしには少し広すぎる間取りに、妹の大きな声が響いた。

 既に一通りのリハビリを終えて病院から退院していた美琴が、この日は勉強を教えてもらうという名目で薫の家に訪れたのだ。美琴は勝手に家の中を散策し、目ざとく寝室にアミュスフィアが置かれているのを見つけたのだった。

 

「ああ。美琴がSAO事件に巻き込まれてから、何となく興味が湧いてな」

「普通そこは怖がるところなんじゃないの……。けど、ふうん。あのお姉ちゃんがねー。なんて奴やってんの?」

「アルヴヘイム・オンラインってやつだよ」

「え、今めちゃくちゃ人気の奴じゃん! いーなー、いーなー! あたしもやりたい!」

 

 寝室のベッドの上で、アミュスフィア片手に子供のように手足をばたばたとさせる妹の姿に、薫は苦笑した。この二年、SAOに囚われている間にも体は成長し、既に妹の身長は薫よりも大きくなっていたが中身は昔と変わらないようだ。

 

「美琴はまず勉強に専念しなさい。母さんたちに心配をかけないように。……というか、美琴こそ怖くないの? VRとか、アミュスフィアとか」

「んー、そういう人もいるかもしれないけど、あたしは大丈夫かな。怖いこともあったけど、楽しいこともたくさんあったし。それにほら、《Hachiという漢》が読めるのは、SAOだけ!」

「なんの宣伝だよそれは……」

 

 最近、妹の話す話題はそればかりだ。どうやらハチというSAOプレイヤーに、多大な恩義を感じているらしい。

 妹曰く、命の恩人であり、目の腐った英雄であり、相棒とのカップリングが捗る存在らしい。

 最後の話は薫にはよくわからなかったが、妹がハチという男性プレイヤーに心酔しているのはよくわかった。最初は変な男に騙されているのではないかと心配したが、実際にゲーム内で会ったのは1度しかないらしい。

 

「ふっふっふ。今日も語りつくしてあげよう。風林火山のハチの偉業を……いてッ」

「お前は今日これからわたしと一緒に勉強だ、馬鹿者」

「そんなー」

「まあ、ノルマが終わってからな。最近わたしもその話を聞くのが楽しみになってきたよ」

「お? お姉ちゃんもハチラーになっちゃう?」

「なんだその頭の悪そうな造語は……。あ、でも美琴、あんまりその話をよそでしないようにな。SAO内部の話は一応口外禁止と言われているし」

「え? う、うん。わかってる……ヨ?」

「なんだか歯切れが悪いぞ」

「そ、そんなことより勉強! ほら早く勉強教えて!」

「全く……」

 

 急かす美琴に背中を押され、そうして居間での勉強会が始まったのだった。

 姉妹仲は良好だった。SAO事件よりも前は美琴に思春期特有の壁を感じることもあったが、意識を取り戻してからはそれもなくなった。世間ではSAO事件による心的外傷やストレスのことばかり取り上げられているが、少なくとも妹にとってはそういった悪影響はないように見えた。

 退院後の体調も、勉強の進度も順調のようだし、あとは両親さえ説得できればいずれ2人で一緒にアルヴヘイム・オンラインを遊ぶことも出来るだろう。そう考えるだけで胸が躍った。

 

「あ、そう言えばお姉ちゃん、アルヴヘイム・オンラインはどの種族でやってるの? 10種類くらいあるんだよね?」

「おい、今は勉強に集中を……まあ、いいか。少し休憩にしよう」

 

 時計を見れば、勉強を始めて1時間半ほどが経っていた。薫は席を立って、キッチン脇に置かれた電気ポットで紅茶を淹れながら口を開く。

 

「種族は全部で9種類だよ。わたしがやってるのはシルフだ。風魔法が得意で、飛ぶのが速い種族だな」

「へえ、魔法かあ。いいなあ、SAOにはなかったし、使ってみたい」

「実際に呪文を唱えないといけないから結構大変だぞ。わたしも多少は使っているけど、戦う時はもっぱらカタナばかりだな」

「あー、お姉ちゃん剣道鬼強いもんね……。こんなにちっこいのに」

「ちっこい言うな」

 

 紅茶のカップを差し出しながら、睨みつける。美琴は悪びれもせずに笑いながら、それを受け取った。

 

「けどアルヴヘイム・オンラインのアバターは性別と種族以外ランダム生成だからな。ゲーム内でのわたしはグラマラスで背の高い大人の女だ。ふふっ、美琴がゲームを始めたら、上から見下ろしてやるぞ」

「ええー、大きいお姉ちゃんとか、違和感すっごい……。ていうか、そっか。ランダムなんだ。あたし可愛くないアバターになったらやだなあ」

「そこはもう運次第だな。まあまだ先のことだろうけど、もしゲームをシルフで始めたら色々教えるよ。わたしはシルフの領主だからな」

「領主?」

「そういうシステムがあるのさ」

 

 紅茶を啜りながら、薫は窓の外を眺めた。

 実のところ、薫はゲーム内で自分を取り巻く環境に少し倦んでいた。

 サービス開始から1年以上が経ってもクリアの見えないグランドクエスト。ログインしても政務に忙殺される日々。種族内での不和。悩みの種は尽きない。

 特に領主を始めてから、色々と窮屈に感じることばかりだ。最後にあの空を自由に飛び回ったのは、いつのことだろうか。少し憂鬱な気分で、そんなことを考えた。

 

 その日、なんだかんだと夜遅くまで話し込んでしまった美琴は薫の家に泊まっていき、翌日の朝早くに帰っていった。何やら友達と用事があるらしい。休日ではあったが、薫もゲーム内で予定があったので都合がよかった。

 兼ねてから進めていたケットシーとの同盟計画が、ようやく実を結ぼうとしている。会談の準備や移動、予定は山積みだ。領主になってから、ホームタウンから少し外出するだけでも一苦労である。

 この同盟が成れば、憂鬱な気分も少しは晴れるだろうか。そんなことを考えながら、薫はアミュスフィアを装着してベッドに横になる。

 

「リンク・スタート」

 

 こうして木花 薫――シルフ領主サクヤは、いつものようにアルヴヘイムの世界へとダイブしたのだった。

 いつもの街並みに、いつもの顔ぶれ。変わり映えのしない仮想世界での生活が始まる。領主館の自室に積まれた書類を前に、彼女は漠然とそう考えていた。

 

 しかしこの日、彼女はひとりの少年と思わぬ出会いを果たすことになる。

 突然空から落ちてきた、サラマンダーの少年。そんな彼の瞳は、何処かの英雄と同じように腐っていたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ぐへっ!」

 

 途方もなく長い落下の末、受け身に失敗した俺は情けない声を漏らした。潰れたカエルのような体勢のまま、しばらく悶絶する。

 あわやHP全損かと思ったが、何とか生きているらしい。猛烈な速度で落ちてゆく途中、先ほど見た砂漠とは打って変わって眼下にはちらりと森が見えた気がしたが……などと考えながら顔を上げると、幾人かのプレイヤーが目に入った。

 

「サ、サラマンダー!? 何処から湧いて出やがった!?」

「あ、や、えっと、俺は……」

 

 混乱する頭で、状況を把握しようと努める。

 森の中。目の前には十人ほどのプレイヤー。(はね)の色が緑っぽいので、おそらくシルフの種族のはずだ。その全員がもれなく武器を構えて殺気立っている。

 

「情報が漏れたのか!?」

「待て、詮索は後だ! まずはこいつを排除するぞ!」

「え、ちょ……!?」

 

 言うや否や、一番近くにいた三白眼の男が剣を片手に斬りかかってくる。俺は武器を求めて咄嗟に背中へと手を伸ばしたが、かつてそこにあったはずの槍はなく、その行為はただの空振りに終わった。

 内心舌打ちをしながら、しかしすぐに迎撃から回避へと思考を切り替えて一歩下がる。幸い男の踏み込みは鈍く、剣速も大したことはない。次の瞬間には、剣先は俺を捉えることなく通り過ぎた。それに安堵したのも束の間、左右から挟み込むように新手が襲い掛かってくる。

 

「待て! 俺は戦うつもりは……」

「問答無用!」

「マジかよ!」

 

 悪態を吐きながら、回避に専念する。ロングソードの袈裟斬り、短剣の刺突、上空から太刀の振り下ろし。飛翔するプレイヤーからの攻撃には一瞬ぎょっとしたが、空中で足腰が安定しないせいかその太刀筋に冴えはない。回避は容易だ。だが慣れない徒手空拳かつこの多対一の状況では、反撃の余地はなかった。

 状況はわからないことだらけだ。だが、激しく身体を動かすうちに思考は冴えてきた。SAO当時の、あの頃の感覚が戻ってくる。

 目視、敵は12人。囲まれれば終わりだが、幸いここは木々が生い茂る森の中だ。集団戦に適した場所ではないし、空中戦もある程度封じることができる。不利な状況には変わりないが、上手くすれば逃げることも可能かもしれない。

 

「この……ちょこまかとッ!!」

「魔法を使う! 下がって!」

 

 ――魔法!?

 地形を利用し、地面を這うように攻撃を回避し続けていた俺の耳に、そんな言葉が届く。そういえば、このゲームには魔法が存在するのだ。

 後衛の女性プレイヤーが、何やら詠唱を始める。すると燐光を放つ、見たことのない文字が空中に浮かび上がった。プレイヤーが詠唱を重ねるにつれて、文章を作るように文字も追加されてゆく。

 未知の攻撃を前にして、身体が強張る。ただの直線的な遠距離攻撃なら、避ける自信はある。だがホーミング機能があるものや広範囲攻撃だった場合は……。

 

「――待て!」

 

 凛とした女性の声が、戦場に響いた。

 その一言によって、対峙していたシルフのプレイヤーたち全員が動きを止める。魔法を準備していたらしいプレイヤーの詠唱は中断され、燐光を放っていた文字はくすんだ灰色となって崩れ落ちていった。

 どうやら魔法は失敗したようだと悟り、ほっと息を吐く。次いで、周囲のシルフたちを鶴の一声で静止させたプレイヤーへと視線を向けた。

 長い髪を深緑に染め上げた、長身の女性プレイヤーだ。豊満な胸部を惜しげもなくさらけ出すような松葉色の着流しに、紫の帯。腰には大太刀を佩いている。

 つり目がちの瞳には意志の強さが垣間見え、端正な顔立ちとも相まってその佇まいには人の上に立つ者の気品が満ちていた。間違いなく彼女が、この集団のリーダーだろう。

 

「矛を納めろ。戦う意思のない相手をキルすることはわたしの信条に反する。そこのサラマンダー君、部下が失礼したね」

 

 髪と揃いの深緑の瞳が、俺を捉える。どうやらこれ以上戦う気はなさそうだと察した俺は安堵の息をついたが、最初に俺に斬りかかってきた三白眼の男は納得のいかない表情で口を開いた。

 

「しかしサクヤ様、こいつは……」

「落ち着いてよく見てみろ。相手はガチガチの初期装備だぞ。というか、武器すら装備していないじゃないか」

「だから怪しいんじゃないですか! サラマンダー領からここまで、どれだけ距離があると思ってるんです! あんな装備の初心者(ニュービー)が一人で来れる距離じゃない!」

「まあ、それも一理あるな」

 

 その会話から、俺は改めてここがサラマンダーの領地外なのだということを理解した。本来ホームタウンからスタートするはずだったが、何らかのアクシデントによってここに飛ばされたのだ。あの時発生した映像のフリーズやノイズから察するに、システムのバグか何かだろう。

 本来なら運営側に連絡をして対応してもらうのが筋なのだが……あまり運営の人間に目を付けられたくはない。幸い進行不能系のバグではないし、黙ってこのままゲームを始めるべきだろう。

 そうと決まれば、まずは目の前の危機に対処しなくてはならない。俺は敵対の意思がないことを示すように両手を上げながら口を開いた。

 

「なあ、俺は本当にあんたたちと戦うつもりはないんだ。どっかに行けって言うなら、すぐに消える」

「きみが本当に初心者(ニュービー)なら知らないのかもしれないが、シルフとサラマンダーは長いこと敵対関係にあってね。ここはシルフ領の奥地だし、悪いがこのまま見逃すわけにもいかないんだ。いくつか質問させてもらっても?」

「……ああ」

 

 シルフとサラマンダーが敵対関係にあるというのは、知らない情報だった。開始早々バグに遭遇した上に敵対勢力のど真ん中に落とされるなど、いよいよ運がないようだ。

 

「おっと、その前に自己紹介がまだだったな。わたしはサクヤというものだ。きみの名前は?」

「ハチだ」

「ハチ……? ふむ」

 

 サクヤと名乗った女性プレイヤーは、俺の名前を聞くと少し目を見開いた。しかしそれも一瞬のことで、ひとつ頷いて会話を続ける。

 

「じゃあまず聞かせてくれ。きみは何故サラマンダー領から遠く離れたこの場所に居たんだ? しかもそんな装備で」

「……このゲームは今日始めたばかりなんだ。けどちょっとアクシデントがあって、気付いたらここにいた」

「アクシデント?」

「俺にもよくわからない。いきなり飛ばされたんだ」

「領地を追放されたのか? 普通は中立都市に飛ばされるはずだが……」

 

 良い言い訳が思いつかず、俺はやむを得ず正直に答えた。運営に通報されないか内心冷や冷やしていたが、サクヤは何か勘違いしてくれたようで、思案顔で何やら呟いていた。都合がいいので俺はそれを訂正せず、次の質問を待つ。

 

「しかし先ほどの立ち回り、きみは随分と戦い慣れているように見えたぞ。とても今日始めたばかりの初心者(ニュービー)とは思えない」

「長いこと他のVRゲームやってたからな。そのおかげだと思う」

「他のゲーム、ね……。それで、この後はどうするつもりだい?」

「いきなりこんなことになったから、具体的にはまだ考えてなかったけど……とりあえず、何処かで装備を整えたい。んで、最終的には世界樹に行きたいと思ってる」

 

 言いながら、首を捻って遠くを見つめた。夜の闇を突き抜けるように、その巨大樹は佇んでいる。ここから世界樹までまだ相当距離があるはずだが、あれはこの大陸なら何処からでも見えるほどにでかいらしい。

 

「ふうむ。その様子だと、やはり脱領者(レネゲイド)か」

「レネゲイド?」

「自分の種族の領地を出奔、あるいは追放されたプレイヤーを指す言葉さ」

 

 それを聞いて、俺は眉を顰める。領地を出たプレイヤーにわざわざ名称を付けるなんて、このゲームは種族への帰属意識が相当高いようだ。

 なんかギスギスしてそうでやだな……。ゲームなんだから好きにやらせてくれよ。やっぱりノルマとかあるんだろうか。『モンハンは遊びじゃないんだよ!』という迷言が頭を過った。

 

「しかしそうなると……よし」

 

 妙な思考を走らせる俺の前に、いつの間にかサクヤが歩み寄っていた。警戒するこちらをよそに、サクヤは朗らかな笑みを浮かべて手を差し伸べる。

 

「これも何かの縁だ。わたしたちと一緒に行かないか?」

「サクヤ様!? こんな目の腐った、得体のしれないサラマンダーを信用するのですか!?」

 

 彼女を守るように横に控えていた三白眼の男が声を上げる。

 ……え? また俺の目、腐ってるの? ランダム生成のアバターなのに?

 猛烈に自分のアバターを確認したい欲求に駆られたが、生憎と手近に鏡になるようなものはない。代わりに自分の顔や頭をぺたぺたと手で触ってみたが、少し髪が長くなったことくらいしかわからなかった。

 そういえば今更だけど、背丈は現実世界とあまり変わっていないようだ。あんまり極端に体形が変わると体を動かす感覚を掴むのに苦労するから、これは幸運だったといっていいだろう。……この際、目が腐っているのは許容しよう。

 

「それに万が一密偵だったら、今回の会談は……!」

「密偵にしてはお粗末すぎるだろう。それに、信用できないのなら尚のこと手元に置いておいた方がいい。妙な動きをすれば、その場で斬ればいいからな」

 

 腰に佩いた大太刀に手を添えて、サクヤがぞくりとするような笑みを浮かべる。それに気圧されたのは俺だけではないようで、反対していた三白眼の男も押し黙ってしまった。 サクヤがシルフたちの顔を軽く見回す。これ以上反対する声はないようで、彼女は満足げに頷いた。

 

「ここから少し北に行った場所に中立の村がある。今回はわたしの部下が迷惑をかけたからな。一杯おごるぞ?」

「……わかった。よろしく頼む」

 

 少しためらってから、俺はその提案を飲むことに決めた。

 というか、他に選択肢はないだろう。これを拒否すればまた戦いになってしまう可能性もある。それにそれを抜きにしたとしても、わざわざガイドを買って出てくれるというのだから乗らない手はない。右も左もわからないこの状況ではまさに渡りに船だった。

 個人的には初対面の相手、それもこんなに大人数といきなり同行することになるのは胃が痛いのだが……そんなことは些細な問題だ。俺には何としてでもあの世界樹へと辿り着かなければならない理由があるのだから。

 差し出された手を取って、サクヤの深緑の瞳を見つめる。どこか、底の見えない女性だ。こちらを騙しているとも思えないが、彼女が語ったことが全てとも限らないだろう。警戒しつつ、利用できる点は最大限利用させてもらうとしよう。そう決意する。

 しかしそんな悪ぶった思考を働かせる俺とは対照的に、サクヤはニカっと少年のような笑みを浮かべた。

 

「よし、決まりだな! それじゃあ早速出発……の前に」

 

 シルフたちの顔を見回していたサクヤが、思い出したように再びこちらを見やる。彼女の視線は、何も持っていない俺の両手に向けられていた。

 

「武器くらいは装備しておいた方がいいんじゃないか? 最初は初期装備の片手剣がストレージにあったはずだが」

「ん、ああ、そうだな」

 

 そういえば、素手のままだった。片手剣などほとんど使ったことはないが、それでもないよりはマシだ。槍が手に入るまでの繋ぎとして、とりあえず装備しておこう。

 システムメニューを呼び出すのはどうやるんだったか……。考えながら、とりあえずSAOと同じように右手の指を立てて振り下ろしてみる。しかし、システムは何の反応も示さなかった。そんな俺の動きを見ていたサクヤが口を挟む。

 

「ウインドウの呼び出しは左手だよ。……本当に初心者(ニュービー)なんだな」

 

 言われた通りに左手を動かすと、ようやくシステムメニューが現れた。サクヤに礼を言って、目の前のウインドウを確認する。

 ステータス、装備、アイテム、スキルなどの欄が並ぶ中、一番端にはログアウトのボタンがある。当たり前のことだけど、内心ちょっと安心した。

 気を取り直して、アイテムの欄をタップする。用意されているのは初期装備とせいぜいちょっとした回復アイテムくらいだろう……そう考えていた俺の目の前に現れたのは、予想外の文字の羅列だった。

 

「ん? どうかしたか?」

「あ、いや……なんでもない」

 

 動揺を悟られないように、努めて冷静に言葉を返した。他人のシステムウインドウを勝手に覗くのはマナー違反だから大丈夫だとは思うが、一応他のプレイヤーの目に触れないよう注意しながら、ストレージを弄る。

 初期状態のはずのストレージには、何故か大量のアイテムが詰まっていた。しかもそのほとんどが見たことのない漢字や意味のない記号などで表記されており、いわゆる文字化けの状態になっている。

 完全にバグってやがる……。こんな場所にいきなり放り出されたこともそうだし、ちょっとおかしいぞ。ALOは既に1年以上サービスが続いている大手のゲームだし、普通こんなにバグが頻発するはずがない。

 サーバー側の問題だとは考えにくいし、そうなるとやはり……ナーヴギアのせいだろうか。キリトは互換性があるから大丈夫だと言っていたが、他に原因は思い当たらなかった。

 まあ原因の追究は後回しだ。後でログアウトしたらキリトにでも連絡を取るとしよう。

 

 ストレージをスクロールしているうちに、いくつか文字化けしていないアイテムが混じっているのを発見した。そのうち《初心者用ショートソード》と表記されたものをタップし、装備を試みる。すると軽やかなサウンドエフェクトとともに、背中のホルダーに粗末な片手剣が現れた。

 問題なく装備できたことに安堵し、ストレージを閉じる。顔を上げると、こちらを見つめていたサクヤと目が合った。

 

「さて、今度こそ出発するとしようか。きみ、飛行の経験は?」

「悪いけど、まだない。どうやって飛べばいいんだ?」

「初めてなら、まずはコントローラだな。左手を、こう、ゆるく握るように構えてみてくれ」

 

 言われた通りにゆるく手を握ると、先端にボタンのついた棒状のハンドルが現れた。それを認めたサクヤが説明を続ける。

 

「手前に引けば上昇、押し倒すと下降、左右で旋回だな。加速は上のボタンだ。放せば勝手に減速する。ドローンの操作よりも簡単だよ」

「いや、ドローンの操作なんてやったことな……うおっ!」

 

 言葉を返しながら、コントローラーを操作してみる。背中の(はね)が独りでにパタパタと動き出し、身体がふわりと浮き上がった。

 妙な感覚だ。ワイヤーで吊り上げられているような感覚になるのかと思ったが、違う。身体が重量を感じないのだ。水に浮いている感じに近いだろうか。完全に無色透明で、重さを感じない水だ。

 これは、ちょっと楽しいかもしれない。柄にもなく興奮して、俺は簡単な操作を繰り返した。そうしてしばらく夢中になって空中遊泳を楽しんでいたが、不意に我に返る。12人のシルフたちの視線が、俺に突き刺さっていた。

 

「わ、悪い、待たせた」

「ははは、構わないさ。飛ぶのは楽しいからな。初めてならなおさらだ。それで、感覚は掴めたかな?」

「ああ、とりあえず真っ直ぐなら飛べると思う」

「上出来だ。では行こうか」

 

 サクヤが言うと、シルフ全員がふわりと浮き上がった。コントローラを使っているプレイヤーは半数ほどだ。

 

「目的地はリュナンの村だ。フリック、先導を頼む」

「了解です」

 

 サクヤが三白眼の男――フリックとやらにそう言うと、彼の指示でシルフたちが隊列を組み始める。俺は適当に後ろからついていこうと思ったのだが、サクヤに引っ張られてその真ん中に位置することとなった。

 

「まだ飛行には不慣れだろう? 一応、はぐれないようにな。道すがら、良ければこのゲームのことをレクチャーさせてもらうが?」

「……助かる」

 

 何故こんなに良くしてくれるのかという疑問は、一旦頭の隅に置いて頷いた。下手に突っついて藪蛇になっても困る。ひとまず情報さえもらえたなら、後で厄介なことになったとしても最悪バックレてしまえばいいのだ。

 サクヤに腕を引かれて、森の上に出た。一気に視界が開けて、仮想世界の全貌があらわになる。

 

「さあ、初心者(ニュービー)くんの記念すべき初フライトだ」

 

 満天の星空。果てしなく続く大地。連なる山稜の向こうに、天を衝く世界樹がそびえて見えた。木々の騒めきとともに、一陣の風が頬を打つ。

 大地が段々と遠ざかってゆき、空が近くなっていった。若干の恐怖や心細さとともに、大きな興奮が訪れる。

 息をのんで、見入ってしまった。こんな光景はSAOでも出会ったことがない。このゲームが人気だという理由が、よくわかった。

 不意に、俺の腕を引くサクヤと目が合う。彼女はまるでこの世界を自慢するように、どこか誇らしげな笑顔を浮かべて口を開いた。

 

「ようこそハチくん。アルヴヘイム・オンラインの世界へ」




 ソースは見つかりませんでしたが、シルフ領主サクヤのリアルネームは薫だという情報をネットで見かけました。原作では書かれていませんが、原作者様の頭の中ではそう決まっていたとのことです。
 そんなわけで下の名前は薫。苗字はサクヤという名前から適当に連想して木花とつけました。リアルの設定などはすべて捏造なのでご注意ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第6話 伏した想い

 1月下旬。千葉県某所。

 駅前の商業施設に居を構えるカフェテラスには、コーヒーの香りが立ち込めていた。

 路地に面したテラス席には柔らかな陽が差し込んでいたが、2月も間近に迫った今日は冷え込みも厳しく、利用客の姿はない。対照的にガラス張りの店内は盛況で、若い女性客を中心に席が埋まっていた。

 その一角、窓際のテーブル席。

 腰かける3人の少女たちは、既に買い物を済ませたのだろう。どこかのブランドの紙袋を脇に置いて、会話に花を咲かせていた。

 

「さっちーに、シリカちゃんに、フィリアちゃんに……ちょっと、ヒッキーの周りに可愛い女の子多すぎない!?」

 

 そう言って頭を抱えるのは、サイドハーフアップのお団子ヘアーが特徴の少女、由比ヶ浜結衣だった。その隣で、さっちーと呼ばれたショートヘアーの少女、寿(ことぶき)沙知(さち)が恥ずかし気にコーヒーカップを弄る。

 

「か、可愛いなんてそんな……」

「そういえば沙知さん、ゲーム内で一度ストーカー男に言い寄られていたわよね」

 

 澄ました顔でコーヒーを口にしていた少女、雪ノ下雪乃はなんでもないことのようにそう呟いた。しかしそれを聞いていた由比ヶ浜は、驚きに大きく目を見開く。

 

「ええっ、ストーカー!? 大丈夫だったの!?」

「う、うん。ユキノに相談したら、すぐ来てくれて……」

「その時私は自警団のようなギルドにいたのよ。再三の警告にも従わないから実力行使で排除したわ」

「あ、あははは……。頼もしいけど、ちょっと怖いね……」

 

 引きつった笑みを浮かべ、由比ヶ浜はそう溢したのだった。

 

 SAOがクリアされた後も、一部のプレイヤー同士での交流は続いていた。特に歳も近くもともとゲーム内で親しくしていたユキノとサチの2人は、現実世界に帰還してからも一緒に買い物に出かけるほどの関係である。

 由比ヶ浜とサチの出会いはつい最近だったが、底抜けに明るい由比ヶ浜と引っ込み思案のサチは相性が良かったのか、既に友人と呼べるほど親しくなっていた。今日のように3人で遊びに出かけるのは初めてのことだが、始終和気あいあいと会話を楽しんでいたのだった。

 

「……ねえねえ、さっちーもやっぱり、ヒッキー狙いなの?」

「ええ!? その、えっと……」

「それは私も気になるわね。どうなの?」

 

 神妙な顔をした由比ヶ浜が、ちょっとした爆弾を投入した。サチは助けを求めて雪ノ下の顔を見たが、無情にも興味ありげな視線が返ってくる。そんな両者に挟まれて逃げ場がないことを悟ったサチは、やがて恥じらうように顔を伏せ、口を開いた。

 

「いや、その、狙ってるっていうか……。そ、尊敬してるし、戦ってるところとかはカッコいいなって思ったりしたけど……その、最近はあんまり話もできないし……わ、わたしは……」

「うーん。ゆきのん、この反応は?」

「クロね」

「ええっ」

 

 即断で有罪判決を受けたサチは、しかし抗弁することなく顔を赤く染めて俯いた。そんな彼女を横目に、由比ヶ浜はため息をついてテーブルへと突っ伏す。

 

「はあー。なんかもう、ヒッキーすっごいモテモテじゃん……」

「そうね。でもSAOでの彼は控えめに言ってもとても格好良かったから、それも仕方のないことかもしれないわ。ダンジョンに私を助けに来てくれた時の彼なんて、それはもう……」

「ゆきのんがストレートに惚気(のろけ)てる!?」

 

 恥じらくことなく少女の顔を見せる雪ノ下に、由比ヶ浜は戦慄したように声を荒げた。彼女はそのままの勢いで、まくし立てるように言葉を続ける。

 

「そ、それでさっ! ゆきのんはヒッキーに告白したんだよね!? この前はあんまり聞けなかったし、詳しく教えて!」

 

 俯いていたサチもこれには興味があったのか、さりげなく耳をそばだてる。雪ノ下はそれに気づいていたが、特に気にすることもなくあっさりと答えたのだった。

 

「詳しくといわれても……告白して、返事は保留してもらってる、それだけよ。その後ゲーム内でお弁当を作ったり、毎朝起こしに行ったり、ボディタッチを増やしてみたり色々とアプローチしてみたけれど、あまり効果は感じなかったわ」

「すごい色々してるじゃん!」

「ユキノって、結構肉食系なんだね……」

「それについては私自身も驚いているわ。私ってこんなに彼のことが好きだったのね」

「肉食系ゆきのん……ダメ、勝てる気がしない……」

「あはは……」

 

 脱力するように呟く2人。しかし雪ノ下は一呼吸置くようにコーヒーに口を付けたあと、ゆっくりと首を横に振った。

 

「でも、最近は私もあまり彼とは話せていないわ。どうしても……その、少し後ろめたい気がしてしまって」

「……それってやっぱり、アスナちゃんのこと?」

「そうね」

 

 コーヒーカップをソーサーに戻し、目を伏せる。店内には軽やかなジャズのBGMが流れていたが、3人の間には重苦しい空気が広がっていった。

 やがて、再び雪ノ下が口を開く。その物憂げな口調には、少しの嫉妬と羨望が込められていた。

 

「SAOでのことは詳しく言えないけど……ハチくんと、桐ケ谷くんと、結城さんの3人は特別なのよ。悔しいけど、余人には決して入り込めないような、そんな強い関係」

「そうだね……。アスナが目を覚まさないのはわたしも悲しいけど……ハチとキリトは、そんなわたしから見ても痛々しいくらいだもん。何かしてあげられたらいいんだけど」

「結城さんが帰ってこない限り、根本的な問題は解決しないでしょうね」

 

 SAOプレイヤー《閃光》アスナ――結城明日奈のことを、由比ヶ浜は名前だけ知っていた。断片的に伝え聞く情報だけでも、ゲーム内で比企谷八幡と相当親しかったのだということはわかる。

 それに嫉妬の感情が湧かないといえば嘘になる。だが根が善良な女の子である由比ヶ浜は、純粋に彼女のことを心配していた。

 

「……アスナちゃん、目を覚まさないのかな」

「ニュースを見る限りだと、まだ捜査に進展はなさそうね」

 

 それは世間一般での共通認識だった。SAOクリアから2か月ほどが経つが、その後めぼしい情報は一切上がっていない。そんな現状に苛立ちを覚えながらも、ただの学生に過ぎない雪ノ下にはどうすることも出来なかった。

 それきり、3人の間を沈黙が支配した。重苦しい空気の中、やがて店内のBGMが煩わしく思えてくる。その時、不意に電子音が鳴り響いた。

 

「あ、ごめん、電話だ。……小町ちゃん?」

 

 テーブルに置いてあったスマートフォンを手に取った由比ヶ浜が、画面を見て呟く。比企谷八幡の妹であり、高校時代の後輩でもある小町とはそれなりに親しい間柄だったが、最近はあまり連絡を取っていなかった。

 急に電話なんて、何の用事だろう。そうして内心首をかしげながら、由比ヶ浜は電話を取った。

 

「やっはろー。どしたの小町ちゃ……え?」

 

 瞬間、笑顔だった由比ヶ浜の顔が固まった。目を見開き、震えた手でスマートフォンを握る。

 何やらただ事ではないらしいと、雪ノ下とサチは案ずるように彼女に視線を送った。しかし当の由比ヶ浜にはそれに応える余裕はなく、震える声で呆然と呟いた。

 

「ヒ、ヒッキーが――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 途中、何度かの休憩を挟みながら、俺たちは目的地であるリュナンという村に到着した。

 シルフ領であるという森――古森(ふるもり)というらしい――を抜けた先の草原に位置する中立の村だ。中立の村や都市というのは、その名の通りどの種族にも属さないNPCの集落のことで、他種族との会合などは基本的にこういった場所を利用するらしい。

 どうも自領の集落においてプレイヤーはシステム的に保護される仕様のようで、つまり他種族を一方的に攻撃できるということだ。PK推奨とまで言われるこのゲームで、他領の集落に入るような度胸を持ったプレイヤーはそういないのだろう。

 

 道すがらサクヤからそんな説明を受けながら、村に着いた俺たちは適当な店を選んで腰を落ち着けた。宿屋と併設された酒場のような店だ。

 

「ここはわたしが持つから好きに注文してくれ」

「……どうも」

 

 俺は養われる気はあっても施しを受ける気は――などと咄嗟に断りそうになったが、堪える。ここは流れ的にも素直に受け入れた方がいいだろう。

 サクヤはオサレなシャンパンのようなものを注文していたが、一応まだ未成年である俺は酒類は固辞して適当な軽食を頼む。食べ過ぎるとリアルに帰った時に晩飯が食えなくなるからな。小町に怒られないように腹八分目にしておかなければ。

 サクヤの部下だというシルフのプレイヤーたちも、各々テーブルについて勝手にくつろぎ始めている。だがフリックと呼ばれた三白眼の男だけは、サクヤを護衛するように仁王立ちでそばに控えていた。なんでこんなにピリピリしてんのこいつ。

 そんな俺の視線に気付いたのだろうか、サクヤは苦笑して口を開いた。

 

「こいつは少し融通の利かないやつでね。いつものことだから気にしないでくれ」

「いや、本人がそれでいいならいいけど……」

 

 いわゆるロールプレイという奴だろう。さしずめ『戯れに市井を見物する貴人の護衛騎士』と言ったところか。アバターからして別人になりきれるこういったVRゲームでは、こういうプレイヤーも珍しくない。

 護衛を侍らせながら特に気取ったところのないサクヤも、貴人としての振る舞いが堂に入っている。薄々感じてはいたが、こいつは結構大物なのかもしれない。

 村の大衆酒場といった雰囲気の店で、上品にグラスを傾けるサクヤは少し場違いに思えた。しかし本人はそんなことを気にした様子もなく、会話を楽しんでいるようだった。

 

「――それできみは今後、槍を使うつもりなのか」

 

 俺がゲームについて質問をして、サクヤが答える。しばらくそんな問答を続けていたが、いつの間にか話題は俺の話へと変わっていた。

 べらべらと自分のことを話すのはあまり趣味じゃないが、聞かれて不都合がある話でもない。素直に装備について相談するつもりで、俺はサクヤの言葉に頷いて返した。

 

「ああ。前にやってたゲームじゃずっとそれだったし」

「盾は?」

「使わない。欲しいのは両手持ちの2メートルくらいの奴だな。できれば反りのない直槍がいい。そういうのが買える場所、この村にあるか?」

「それはもちろん。ここは村と言ってもそれなりに大きいからな。武具を扱っているNPC商店はいくつもあるし、資金さえあればすぐに望みの装備は整うだろう。ただ……」

 

 少し難しい顔をして、サクヤがグラスを置いた。俺も食事の手を止めて彼女を見つめる。

 

「そうなると、随意(ずいい)飛行の習得は急務だな」

「随意飛行?」

「コントローラを使わない飛び方さ。両手武器を使うなら、コントローラは使えないだろう?」

「ああ、確かに」

「戦う時に飛べないとなると、かなり不利だからな」

 

 戦いでは基本、上を取った方が強いとされる。攻撃に重力を利用しやすかったり、相手の頭部を狙いやすかったり、色々利点があるのだ。まあ普段マスゲーをやってる奴にとっては常識だな。

 複雑な空中戦闘では一概にそう言えるものでもないだろうが、そもそも飛べなければ話にもならない。飛行ユニットとはそれだけで強みになるのだ。

 

 しかし、随意飛行か……。コントローラなしとなると、どうすればいいのか全くわからないぞ。そもそも練習の仕方すら想像できない。

 そんな俺の疑問に答えるように、サクヤが背中の(はね)を見せながら説明してくれる。

 

「こう、肩甲骨に意識を集中して、(はね)を羽ばたかせるんだ。細かい操作は実際やってみて身体で覚えるしかないな。センスがある奴ならすぐに出来るようになるよ。まあ、逆に苦手な奴はどれだけ練習してもダメだったりするけどな」

「運動神経は悪くない方だと思うんだけど……」

「わたしの経験上、そういったものとはまた別の才能だよ。仮想世界の適性とでも言うのかな」

「仮想世界の適性ね……よくわからん」

 

 SAO事件のせいで2年以上も仮想世界にどっぷりと浸かっていたわけだから、適性がないことはないと思うのだが……。言われた通り肩甲骨に意識を集中してみたが、(はね)を動かす感覚はよくわからなかった。まあ、こんな店の中でいきなり飛んでしまっても困るのだが。

 そうして首を傾げる俺に、サクヤは励ますように声をかける。

 

「まあ森でのきみの立ち回りを見た感じだと、筋は良いと思うよ。よければこの後――」

「サクヤ様、そろそろ」

「……ああ。もうそんな時間か」

 

 フリックの耳打ちにサクヤはすっと表情をなくし、まだ飲みかけのシャンパンをテーブルに置いた。

 

「すまない。楽しくてつい話し込んでしまった。ちょっと都合があってね。私たちはこのあたりでログアウトさせてもらうよ」

「そうか、わかった」

 

 サクヤが声をかけるまでもなく、彼女の部下だというシルフたちは席を立ち始めていた。彼らの姿を何となく目で追うと、そのまま併設された宿屋のカウンターに声をかけている。

 ホームタウン以外で安全に即時ログアウトするには、宿屋に泊まるか、専用アイテムを使用してキャンプ地を作る必要があると説明を聞いた。彼らはここを利用してログアウトするつもりなのだろう。

 残された食事を一気に頬張り、飲み下す。一息ついて、俺は目の前のサクヤに軽く頭を下げた。

 

「色々と教えてくれて助かった。このあと俺はもう好きにしていいんだよな?」

「構わないよ。きみが本当に初心者(ニュービー)らしいということはわかったからな。色々と付き合わせて悪かったね。ただ、シルフ領に引き返すことはおすすめしない。他のシルフたちに出会えばほぼ間違いなく戦闘になるだろう」

「ここで準備したら世界樹の方に向かうつもりだから、それは問題ないな」

「そうか。それならいい」

 

 立ち上がったサクヤはしかし、少しためらうような仕草をして立ち止まった。席に座る俺を観察するようにじっと見つめている。そんな彼女の様子に、後ろに控えるフリックも少し困惑した表情を浮かべた。

 居心地の悪さを覚え、それを誤魔化すために俺が適当に口を開こうとした瞬間、意を決したようにサクヤが言葉を発した。

 

「なあ、ハチくん。もしかして、きみは――」

 

 そこまで言って、言葉は途切れた。彼女はしばらく言葉を探すように視線を漂わせていたが、やがて諦めたように目を伏せ、首を横に振った。

 

「……いや、なんでもない。機会があればまた会おう。わたしたちはこれで失礼するよ」

「ん、ああ。じゃあな」

 

 そんな妙な雰囲気の中、別れを交わしたサクヤは部下を連れて2階の宿屋へと消えていった。

 最後のサクヤの態度に疑問を覚えながらも、俺はすぐに頭を切り替えてこれからのことを考える。少し迷ったが、やがて俺も一旦ログアウトすることに決め、彼女たちを追うように宿を取ってその場を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イレギュラーが重なったし、一旦リアルでキリトに連絡が取りたい。向こうも向こうでゲームを始めているはずだし、まずは情報交換するべきだろう。

 早々にALOをログアウトすることを決めた俺の頭には、そんな考えがあった。

 

 まあそれを抜きにしてもフルダイブ型VRゲームでは意識してこまめに休憩を取らないと危険なのだ。さすがに衰弱死するようなことはないと思うが、ちょっとした粗相くらいはしてしまうかもしれない。この歳でお漏らしとか勘弁して欲しい。万が一そんな姿を小町に見られてしまったら、もう生きていけない。

 

 宿屋のベッドで横になってログアウトのボタンを押した俺は「お疲れ様でした」という女性の合成音声に見送られ、仮想世界を後にする。徐々に身体の感覚が曖昧になってゆき、視界が暗くなっていった。

 死ぬときって、こんな感じなんだろうか。そんなことを考えているうちに、意識が現実へと引き戻された。同時に身体の感覚が鮮明になる。

 急に現実世界に放り出されるような感覚。正直あまり気持ちのいいものじゃないが、いずれは慣れるだろう。

 大きく息をつき、気だるい身体を動かしてナーヴギアを外す。そうしてベッドから起きた瞬間――俺は目に入った光景に驚愕し、全身を硬直させた。

 六畳程度の、手狭な部屋だ。ベッドと本棚と学習机で手一杯の、見慣れた自分の部屋。しかしそこに立っているのは、本来この部屋にいるはずのない人物だった。

 

「ハチくん。そこに直りなさい」

 

 腕を組み、仁王立ちで俺を見下ろすのは雪ノ下雪乃である。氷のような視線に射竦められ、俺は挙動不審になって口を開く。

 

「え? ……は、え? 雪ノ下? なんでうちに」

「いいから、そこに座りなさい。正座よ」

「アッ、ハイ」

 

 全身から怒気を放つ雪ノ下。元から愛想のある奴ではないが、ここまで怒りをあらわにするのも珍しい。そんな彼女を前に反論など出来るはずもなく、俺は訳もわからないままベッドから降りて正座の体勢に入った。しかしそれを邪魔するように、俺の懐に小さな影が飛び込む。

 

「おにいぢゃんっ!!」

「おぐっ!?」

 

 不意打ちで腹部にタックルを食らった俺は、くぐもった声を上げた。こみ上げる嘔吐感を堪えながら、懐に飛び込んできた小町を見下ろす。小町は顔をくしゃくしゃに歪め、俺に縋りつくように泣き崩れていた。

 何処か、既視感のある光景だ。そうだ、あれはSAOをクリアして帰還した日の――と、そこまで考えてハッとした。

 雪ノ下にばかり気を取られていたが、部屋には他にも人影があった。目元が赤く腫れた少女と、不意に視線が合う。

 

「ヒッキー……」

「由比ヶ浜……。それに、サ……寿(ことぶき)まで」

「あはは……。お、お邪魔してます」

 

 部屋の隅で涙を堪えるように小さくなっている由比ヶ浜に、それに寄り添うサチ。徐々に、状況が理解出来てきた。同時に罪悪感が胸に広がる。

 すすり泣く小町の声だけがしばらく部屋に響いていたが、やがて傍らに立つ雪ノ下が怒気を散らすように大きくため息を吐いた。

 

「小町さんから連絡をもらったのよ。あなたがまたあのナーヴギアを被って、自室で眠っているってね」

 

 それを聞いて、項垂れた。

 つまりはそういうことだ。ナーヴギアを被って眠っている俺を発見した小町が、驚いてこいつらを呼んだのだ。

 きっと、2年前のあの日を思い出してしまったのだろう。小町はまだ胸の中で泣きじゃくっている。落ち着かせるように、俺はそっとその背中に手を置いた。

 

「下手をすれば警察沙汰になっていたわよ。全く……心配させないで」

「悪い……」

 

 雪ノ下の言葉からはもう怒りは感じられない。冷静な瞳で、俺の傍らに置かれたナーヴギアを見つめていた。

 

「それで、何故またそんなものを被っていたのか……説明してくれるわよね?」

「……ああ」

 

 全ては俺の説明不足が招いた結果だ。SAO内部のことから今までの経緯、俺の醜態まで全部含めて包み隠さずに話そう。

 そう決意して、俺は頷いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小柄な女子ばかりとは言え、総勢5人ともなると俺の部屋では手狭である。その後俺たちはすぐにリビングへと場所を移すことになった。両親はいつものように仕事で遅くなるはずなので問題ない。

 ひとまずお茶を淹れて、一息ついた。そうしてすすり泣く小町が少し落ち着くのを待ってから、話を始めた。

 

 SAOの中で過ごした2年間について。

 俺の傍らにはいつもキリトと、アスナという名の少女がいたこと。ゲーム攻略の過程で、多くの苦難を2人に助けられてきたこと。

 SAO終盤、茅場晶彦とのゲームクリアを賭けた戦いの中。キリトによって茅場晶彦は討たれたものの、下手を打った俺を庇ってアスナがゲームオーバーになってしまったこと。

 茅場の計らいによってアスナの死は免れたが、SAOクリア後も彼女が目を覚ますことはなかったということ。

 そんな現実に打ちひしがれ腑抜けていた俺を、キリトが立ち直らせてくれたこと。

 ようやくアスナの手がかりを得て、彼女を助けるために動き出したこと。

 

 時間をかけて、ゆっくりと説明した。ふと見ると、窓から差す光はもう赤く伸び始めている。熱めに淹れたお茶も、既に冷めきっていた。

 俺が語る話には言葉足らずな部分も多くあったが、その度に雪ノ下やサチが補足をしてくれた。世間一般にはあまり知られていないだろうSAOの内情に、小町と由比ヶ浜の2人は最初こそ驚きに目を見開いていたが、今は話の内容を反芻するように静かにテーブルの上を見つめている。

 沈黙の降りたリビングにはストーブが温風を吹き出す音だけが響いていた。やがて、事実を確認するように由比ヶ浜がぽつりと呟く。

 

「ヒッキーが、SAOを終わらせた英雄……」

「違う」

 

 すぐに否定の言葉を口にした。思いのほか強くなってしまった語調に、由比ヶ浜は驚いたようにこちら見る。俺は目を逸らし、苦い気持ちで口を開いた。

 

「茅場を倒して、SAOを終わらせたのはキリトだ。あの時俺は……結局、何も出来なかった」

 

 キリトに喝を入れられて立ち直ったとはいっても、後悔がなくなったわけではなかった。あの時キリトやアスナのように、俺もシステムに抗うことが出来ていれば――その忸怩たる思いは決して消えることはない。

 

「あなたが自分を責めるのは、あなたの勝手だけれど」

 

 苦い記憶に思考が沈んでいく俺を、ふとすくい上げたのは雪ノ下の言葉だった。迷いのない強い口調で、彼女は真っ直ぐ俺に語り掛ける。

 

「自分が積み上げてきたものまで否定するのはやめなさい。あなたが、あなたたちが戦い続けてきたからこそ、あの茅場晶彦に手が届いたのよ。最後の戦いであなたが何もできなかったのだとしても、それでそれまでのあなたの行いがなくなったわけじゃない。少なくともわたしは、あなたに命を救われたわ」

「わ、わたしも」

 

 雪ノ下に続いて、意を決したようにサチが口を開いた。強く握りしめた両手がテーブルの上に置かれている。

 

「ハチがいなかったら、今ここに居なかったと思う。たぶん何処かでモンスターに負けて、ゲームオーバーになってた。ハチが、そんなわたしを助けてくれたんだよ。戦わなくてもいい、道はひとつじゃないって、そう教えてくれたんだよ。だから、わたしにとって……ハチは間違いなく英雄(ヒーロー)だよ」

 

 俺は何か言葉を返そうとして口を開き、しかし形にはならなかった。2人の強い目線に押されるように、目を伏せる。

 

「胸を張りなさい。あなたはSAOを終わらせた英雄。そして、これから結城さんを救うのでしょう。不甲斐ない姿は見せられないわよ」

「……そうだな」

 

 雪ノ下の言葉に、俺は決意を示すように深く頷いた。

 自分を許したわけではない。だが、卑屈な思いに囚われたままでは駄目だ。キリトやアスナの隣に立っていたいのならば、このままでは駄目なのだ。

 英雄という名の重荷を背負って立つ。そしてアスナを救い出し、今度こそSAOを終わらせるのだ。

 

「お兄ちゃん、またナーヴギアを被るの……?」

 

 しかし俺の覚悟に水を差すように、小町が震える声で口を開いた。赤く泣きはらした瞳で、じっと俺を見つめている。

 

「ねえ、もうやめよう? お兄ちゃんがやらなくても、警察の人が何とかしてくれるよ。もしあれを被ったまま、お兄ちゃんが帰ってこなかったら……」

 

 話すうちに、小町の瞳に大粒の涙がたまってゆく。妹にこれほどの心労をかけてしまう自分に罪悪感が湧いたが、それでも俺には首を縦に振ることは出来ない。俺は目をそらさず、真っ直ぐに小町を見据えた。

 

「心配かけて、悪い。けど、これは絶対に俺がやらなきゃいけないことなんだ」

 

 言い切って、じっと小町を見つめる。俺の覚悟を窺うように、小町もしばらくこちらを見つめていたが、やがて根負けしたように目を伏せて口を開いた。

 

「……もうっ、もうっ! そんな顔で言われたら、止めらんないじゃん! 人の気持ちも知らないで!! あほ! すかぽんたん! とーへんぼく! 八幡!」

「おい八幡は悪口じゃないだろ」

 

 軽口を返しながらも、いつもの調子が戻ってきた小町を見て俺は安堵した。

 袖でゴシゴシと目元を拭って、小町が言葉を続ける。

 

「小町にこんな心配させて……ちゃんとアスナさん連れて帰ってこなかったら、許さないんだからね!」

「ああ、わかってる」

 

 テーブルに置いてあったティッシュを乱暴な動作で取り、小町が大きな音を立てて鼻をかんだ。もう言いたいことは言い切った様子で、それきり黙り込んでしまう。

 妹のそんな年頃の少女らしからぬ仕草に苦笑しつつ、俺は軽く息を吐いた。次いで、隣に座る雪ノ下たちに視線を向ける。

 

「あー……。お前らも、今日は悪かったな」

「ううん。ちょっと驚いたけど、わたしは別に……」

「私も大丈夫よ。謝罪なら由比ヶ浜さんに。取り乱して大変だったんだから」

「ちょ、ちょっとゆきのんっ」

 

 由比ヶ浜が焦ったように口を開いたが、雪ノ下は素知らぬ顔でそれを受け流した。やがて俺と視線が合うと、由比ヶ浜はばつが悪そうに顔を伏せる。

 

「……あたしもさ、ホントは小町ちゃんと同じ気持ちだよ。けど、止めない。ヒッキーがそこまで言うんなら、絶対止めらんないもんね」

 

 言って、顔を上げた由比ヶ浜の大きな瞳が俺を見つめる。目元は赤く腫れていたが、そこに迷いや躊躇いはないように思えた。

 

「だから、応援する。あたしにも出来ることがないか考えてみる。ヒッキーに助けてもらったのは、あたしも同じだから……今度は、あたしも力になりたい」

「由比ヶ浜……」

「アスナちゃんのこと、大切なんでしょ?」

「……ああ」

 

 由比ヶ浜の問いに、俺は誤魔化すことなく頷いて返した。ここで言葉を濁すことは、不誠実なことだと思った。俺の力になりたいと言ってくれた彼女に、そんな態度は取りたくなかった。

 そんな俺の返事を聞いて、由比ヶ浜は笑顔を浮かべた。ただ、俺の思い違いでなければ、その笑みは何処か悲し気に見えて――。

 

「じゃあ、絶対助けなきゃ! 頑張ろうね、ヒッキー!」

 

 そう力強く言い放つ由比ヶ浜を前にして、俺は余計な思考を振り払った。彼女の決意に水を差すようなことはするべきではない。そう思った。

 この場の全員の視線が、俺に集まっていた。拳を強く握る。由比ヶ浜の瞳を真っ直ぐに見つめて、俺はもう一度大きく頷いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第7話 実戦

「ところで、その顔の痣はどうしたの?」

「いや、これはキリトに喝をいれられた時に……」

「なるほど……つまり、叩けば直るというわけね。今後の参考にさせて貰うわ」

「いや違うから。人を古い電化製品扱いすんな」

 

 別れ際にそんな馬鹿なやり取りを終えて、雪ノ下たちの帰宅を見送った後。

 自室に戻った俺は、早速キリトに連絡を取っていた。スマホ越しに、キリトの声が部屋に響く。

 

「あー、やっぱりハチの方もバグったか」

「やっぱりって、お前もか?」

 

 キリトも俺と別れた後からALOにダイブし、切りのいいところで戻ってきたらしい。俺がゲームを始めた途端に妙な場所に放り出されたことを告げると、得心がいったように頷いたのだった。

 

「ああ。ナーヴギアに残ってたSAOのデータが反映されたらしい。それで位置座標もバグって、スプリガンで始めた俺もシルフ領に落とされたよ」

「ってことは俺ら結構近くにいたのか……。つーか俺、サラマンダーで始めたからいきなりシルフの奴らに殺されかけたんだけど」

「あー、シルフとサラマンダーは仲悪いんだっけか? はははっ、ご愁傷様」

「お前、他人事だと思って……つーか、そもそもお前がナーヴギア押し付けたせいだろうが」

「結局死にはしなかったんだろ? それにナーヴギアのことは悪いことばっかりじゃないんだぜ」

 

 不満げな俺に対し、キリトは全く悪びれることなく言葉を続ける。

 

「アイテムの類はほとんど全滅だったけど、スキルはSAOと共通する奴ならそのまま使えるはずだ。俺なら片手剣、ハチなら両手槍とか」

「ああ、確かに。熟練度カンストしてた気がするな」

「一部は別のスキルに置き換わってたりしたし、探せば他にも使える奴はあるかもな。まあ完全にチートだからちょっと気が引けるけど」

「気持ちはわからんでもないけど、俺は使えるもんは何でも使うぞ」

「今回は事情が事情だからな。俺もそのつもりさ」

 

 言ってみれば今回俺たちがやっていることは、データの改ざんだ。まごうことなき不正行為(チート)である。キリトは根が真っ直ぐな廃ゲーマーなのでチートには忌避感があるだろうが、今回だけは容認してくれるようだ。

 

「それと、いい報告があるんだ。俺のアイテムストレージに保存されてたユイのデータを、ALOの中で展開出来たんだよ」

「……は? ユイ? ユイって、あのユイか?」

「ああ。今はナビゲーションピクシーっていう姿で俺と一緒にいる。早くハーちゃんとママに会いたいって言ってたよ」

 

 アインクラッド第65層。

 極寒の雪景色の中で出会った少女の姿を思い出す。

 共に過ごした時間は長くない。いや、長くないどころか、ほんの数日だったはずだ。だが、アスナと笑い合うユイの姿は本当の家族のようだったのを覚えている。

 SAOを管理する人工知能(AI)のひとつだったという彼女は、紆余曲折の末に物言わぬデータとなってキリトに保護された。死んだわけではないとは言え、ユイの消失は彼女に関わった全ての人間の心に影を落とした。

 中でもユイと最も繋がりの深かったアスナのショックは相当なものだっただろう。ユイが復活を果たしたとなれば、アスナは間違いなく喜んでくれるはずだ。

 

「……そうか。じゃあ早くアスナにも報告しないとな」

「ああ」

 

 久しぶりの吉報に、自然と頬が緩んだ。だが、まだ気を緩めるべきではない。俺は気持ちを入れ替えるように、ひとつ息をついた。

 まだまだ課題は山積みだ。それをひとつずつ片付けていくために、まずはキリトと情報交換をしなくてはならない。

 さて、何から話すべきか。そうした俺の思考を遮って、キリトが何かを思い出したように声を上げた。

 

「あ、そうだ! 文字化けしてるアイテムは全部削除しとけよ。エラー検知システムに引っかかるかもしれないから」

「げ、マジか」

「まだ持ってるなら早めにな。スキルの方はとりあえず他人に見せなければ大丈夫っぽい」

「わかった。じゃあこの後すぐログインしたいから、手短に現状報告だけしとくか」

 

 その言葉を皮切りに、お互いにゲーム開始からの出来事をざっと説明してゆく。

 驚いたことに、キリトも俺と同じような経緯を辿っていた。たまたま出会ったシルフの女プレイヤーの協力者を得て、街へと案内して貰いながら色々とレクチャーを受けたらしい。最終的にスイルベーンというシルフのホームタウンでログアウトしたようで、明日の午後にまた待ち合わせをして世界樹へと案内してもらう手筈となっているそうだ。

 

 コミュ力たけぇなこいつ……。前半はともかく、世界樹までの案内となるとかなり長い旅路になるし、ハードルが高いはずだ。それを初対面の女子プレイヤーに頼めるとは……これから心の中で、キリトのことをジゴロと呼ぼう。

 というか、SAO時代の初期とかキリトはもっとぼっち寄りだったような気がするんだが。いや、その頃からリア充の片鱗はあったか。

 割と単独行動を好む節はあるが、必要とあらば高いコミュ力で集団行動も出来る。こいつも小町と同じくハイブリッド型のぼっちというわけだ。

 俺も今回は途中までサクヤたちと同行していたのだが、正直なところ不審者として連行されたようなものである。

 

 本当はまだ色々と聞いておきたいことはあったが、先ほどのキリトの話を考えればあまりのんびりはしていられない。情報交換は早々に終了し、軽く今後のことを打ち合わせる。お互いの現在地、リュナンの村とスイルベーンは意外と離れているようなので、ひとまず合流は目指さずに別行動することになったのだった。

 

「じゃあとりあえず別行動で世界樹目指して攻略。アルンで合流を目指すってことで」

「ああ。またなんかあったら連絡する」

「了解。お互い頑張ろう」

 

 簡単に別れを告げて、電話を切る。スマホをベッドへと放り投げて、俺はフルダイブの準備を始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 再びALOへとログインする前に、小町には一声かけておいた。

 またナーヴギアを被ることについてひとまず納得してもらったとは言え、やはりまだ不安は残るのか、小町にはなんとも言えない顔で送り出された。だが今回は晩飯までには必ずログアウトすることを約束したので、もうさっきのような事態にはならないだろう。今日の一件でつくづく報連相というのは大事なのだと思い知った。

 

 そういうわけで、今度は何の憂いもなくナーヴギアをセットしてALOへとログインする。

 宿屋の安っぽいベッドの上で目を覚ました俺は、ひとまずキリトに言われた通りにアイテムの整理に手を付けた。文字化けしているアイテムを選択し、削除する――というか、初期装備以外は全てバグっていたので結局丸々捨てることになった。

 そこにはSAO時代に手塩にかけて強化した装備品も含まれているはずなので、少し躊躇う気持ちもあったのだが、冷静に考えればバグってしまったアイテムなどもう無用の長物だ。そう自分に言い聞かせて、全てのアイテムを削除(デリート)したのだった。

 去来する喪失感を誤魔化すように、頭を切り替えてスキルのチェックをする。キリトの言っていた通り、SAO時代から見慣れたスキルと熟練度が並んでいた。両手槍1,000、武器防御1,000、体術962、料理463などなど。無限槍など一部のスキルはなくなっていたが、逆に見慣れないスキルも並んでいた。火魔法、飛行制御などがそれだ。SAO時代の何かしらのスキルがそれらに置き換わったのか、熟練度も軒並み900代である。

 

「こりゃマジでチートだな……。魔法は使えそうだし、そのうち試してみるか。……ん?」

 

 システムウインドウを弄っているうちに、俺はあることに気付いた。右上に表示されている数字。その桁が、えらいことになっているのだ。ユルドという単位になっているが、恐らくこれがこの世界の通貨だろう。

 そうか、金もバグってるのか……。まあこれもそのまま使えそうだし、ありがたく利用させて貰おう。

 SAO時代、俺はあまり金を貯めこむ質ではなかったし、最終決戦に向けた準備でそれなりに消費もしたが、それでもまだかなりの額が残っていた。店売りの装備品くらいなら武器から防具まで一式揃えることは出来るはずだ。

 サクヤによればこの村にはいくつか武器防具を扱う店があるらしい。同じ村に複数の店があるということは品揃えや値段などが変わってくるということだろう。とりあえず適当に見て回って、自分に合った装備を見繕うとしよう。

 そうと決まればもたもたしている時間はない。晩飯までタイムリミットは3時間ほどだ。装備を揃える以外にも色々とやりたいことはあるし、早速出かけるとしよう。

 システムウインドウを閉じて、宿屋を後にする。現実ではまだ夕方ごろだったが、ゲーム内時間はもう深夜1時を回っているようだ。すっかり夜も更けた村の中を、俺は足早に散策し始めるのだった。

 

 

 

 その後、装備品を見繕うのにあまり時間は掛からなかった。

 わかりやすく前衛重装備の店、前衛軽装備の店、後衛魔術師の店とそれぞれ別れていたのだ。俺はSAO時代と同様、バランス型の軽装備アタッカーでいくつもりなので、当時と同じような装備を選べばいいだけである。

 槍はぐるぐるとぶん回すような使い方をすることもあるので、ひらひらした防具は邪魔になる。マントやコートをはためかせて戦うのにも憧れはあるのだが、如何せん邪魔くさいのだ。そういえば某ゲームの槍使い(ランサー)もピチピチの青タイツ着てたな。あれは実用性があったのか。

 そんなわけで、さすがにタイツとまではいかないが、少しタイトな防具類を選んでおく。余談だが、試着室で鏡を見てみたらやはりアバターの目は腐っていた。これがアトラクタフィールドの収束か……。

 幸い、髪の色はサラマンダーにしてはかなり落ち着いた感じのダークレッドだった。真っ赤な髪とかキャラじゃないしな。長さはリアルより少し長くなったくらいである。髪色に合わせて、防具の色彩も暗色系の赤にしておいた。

 防具は割と適当に決めたが、武器選びには少し拘った。重さ、柄の太さ、長さ、穂先の形状。一言に槍と言っても様々な違いがある。

 攻撃力が高い槍をいくつか試してみて、最終的に選んだのは青い槍だった。SAO時代、最後に俺が使っていた得物と似ている。穂先から柄まで青い色彩を放ち、ひんやりとした質感とずっしりとした重みが気に入った。

 そうして装備一式を揃え、店を出たところである。月明かりが照らす閑静な村の中、見覚えのあるプレイヤーが通りかかったのだった。

 

「おや、また会ったな」

「お前……」

 

 深緑の瞳と視線が交わる。瞳と同じ色の長髪を風に揺らしながらこちらへと歩いてきたのは、シルフの女プレイヤー、サクヤだった。

 周囲に他のプレイヤーの姿はない。ログアウト前はあんなに部下を侍らせていたのに、これはどうしたことか。そう思い、口を開く。

 

「ひとりか? 護衛の奴らは?」

「今はいないよ。内緒でログインしたんだ。いつもああして脇を固められていると肩がこってね」

「……あのフリックって奴が聞いたら卒倒するんじゃないか」

「ははは。まあ、たまの息抜きくらい大目に見てくれ」

 

 いたずらっぽく笑顔を浮かべるサクヤ。まあ護衛については俺には関係のないことなので、別に目くじらを立てるようなことでもないだろう。

 

「もう装備は整えたんだな」

「……ああ。その辺の店で適当に見繕った」

「ふむ。なかなか様になっているじゃないか」

 

 そう言って、サクヤが俺の立ち姿をまじまじと見つめる。装備の購入資金のことを突っ込まれたらどう誤魔化そうかと俺は内心冷や冷やしていたのだが、幸いサクヤはそれについて気にした様子もなく話を続ける。

 

「世界樹に向かうと言っていたが、すぐに出発するのか?」

「そうしたいところだけど……まだ随意飛行とやらも試してないし、とりあえず今日はこの辺で練習しようと思ってる」

「まあ、それが賢明だろうな。よかったらレクチャーしようか?」

 

 サクヤが自然にそう提案し、俺は言葉に詰まる。

 いつもなら条件反射的にお断りするところなのだが……この村まで案内して貰った段階で、こいつが悪い奴じゃないだろうことは何となく察している。この申し出も純粋な善意からだろう。面倒見が良すぎる気もするが、だからこそあれだけの部下に慕われていると考えれば納得もゆく。

 よしんば俺の見立てが完全に間違いで彼女が何か企んでいるんだとしても、現時点で失って困るものはあまり多くない。多少のリスクを負ってもこの提案に乗るメリットは十分にある。正直コントローラなしでどうやって飛べばいいのか全くわからない状態だし。

 そこまで考えて、俺は曖昧に言葉を返す。

 

「助かるけど、いいのか? たまの息抜きなんだろ?」

「いや、インしてみたは良いものの、ひとりではどうにも味気なくてね。ちょうど話し相手が欲しいと思っていたところだったんだ」

「……悪いけど、気の利いた話なんか出来ないぞ」

「ははは、安心してくれ。別に接待を期待しているわけじゃないさ」

 

 笑いながらそう言って、サクヤは周囲を見回す。

 

「じゃあ、フィールドの方に行こうか。月が出ているし、風も穏やかだ。飛ぶにはいい夜だよ」

 

 そう言って再びこちらに視線を戻し、次いで先導するように歩き出す。

 知り合って間もない女プレイヤーとふたりきり。SAO時代にかなり矯正されたとは言え、俺にはちょっとハードルの高いイベントだ。だが、四の五の言っている余裕もない。今は世界樹へと向かうことが最優先なのだから。

 そう腹を決めて、サクヤについてゆく。緩やかな風が、頬を撫ぜた。ふと空を見上げると、大きな月が中天に浮かんでいるのが目に入る。

 確かに、飛ぶにはいい夜かもしれない。そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうそう。上手いじゃないか」

 

 槍を構え、上下左右に飛行する俺を地上から眺めながら、サクヤが口を開く。

 草原フィールド。リュナンの村から少し北に離れた場所で、俺たちは随意飛行の練習をしていた。

 練習を始めてまだ1時間ほどだが、彼女のレクチャーのお陰で俺は既にコントローラなしでもある程度飛べるようになっていた。彼女からは筋がいいと褒められたが、それ以上に彼女の教え方が上手かったのだと思う。

 肩甲骨の辺りに意識を集中し、動かす。サクヤに背中を触られたり(はね)をつままれたりしながらそれを実践しているうちに、(はね)を動かすという感覚が何となくわかってきた。それからは前進と停止を繰り返し、その次に後退。そして左右にスライド、旋回と、俺はサクヤが考えるメニューをこなしていった。

 彼女にレクチャーを頼んで正解だった。自力でここまで飛べるようになるためには、下手をすれば何日も時間を浪費していただろう。

 しかし順調に飛べるようになってきたからこそ、見えてきた課題もあった。

 

 しばらく適当に飛び回っていると、不意に飛行速度が落ちた。滞空時間の限界が来たようだ。この時間感覚も把握しておかないと、何処かでポカをやらかすかもしれない。そう思いながら、一旦サクヤの隣に着地する。

 

「何となく飛べるようにはなったけど……これで戦うってなると、やっぱハードル高いな」

「空中戦は急加速と急制動がミソだ。この辺りは反復練習するしかないだろう」

「飛んでると踏ん張りも効かないし、急加速とか言われてもあんまりイメージ湧かないんだけど」

「地上戦とは何もかも違うからな。まあ、安心していい。そのレベルで戦える奴はゲーム内にも滅多にいないよ」

 

 キリトなら一足飛びにそのレベルに達しそうだな。

 サクヤの言葉に耳を傾けながら、そんなことを考える。あいつは意外と大雑把で感覚派だから、こういうのは得意だろう。「時には、歩くより、まず走れ」を地で行く奴である。

 対極的に俺は慎重派なので、地道にひとつひとつこなしていくしかない。

 

「ちょっと実戦もやってみたいな。ここってモンスターは出ないのか?」

「出ることは出るが、この辺りはまだ村も近いし遭遇率は低いな。戦いたいなら古森の方に戻るか、少し進んであの山の麓まで行った方がいいだろう」

「森だと空中戦は難しそうだな……じゃあ、山の方に――」

 

 不意に、妙な気配を覚えた。言葉を止め、辺りを見回す。

 草原のど真ん中だ。起伏もなく、一見すると周囲に気になるものはない。口を閉ざせば、風が草花を撫ぜる音だけが耳に届く。

 しかし、SAO時代に散々鍛えられたこの感覚は勘違いではない。近づいてくる。段々と気配が強くなる方向へと目を凝らすと、小さな影が6つ、こちらへと飛んでくるのが目に入った。

 

「どうした?」

「あっちから何かくるぞ」

「何か?」

 

 訝し気に、サクヤが西に目を向ける。しばらくじっとそちらを見つめていると、やがて呟くように口を開いた。

 

「プレイヤー……だな。あれはケットシーか? きみ、よくあの距離で気付いたな。サーチャーでも放っていたのか?」

「サーチャー? いやよくわからんけど……って、おい。なんかあいつら真っ直ぐこっちに来てるぞ」

 

 言いながら、嫌な予感を覚えた。杞憂であってほしいと願いながら、俺はサクヤに問いかける。

 

「……なあ、このゲームって他種族のPK推奨なんだよな?」

「ネットではそう言われているみたいだな。まあ、流石にそこまで殺伐としているわけじゃないんだが……」

 

 そんな会話をしている間に、遠くにいたプレイヤーたちはどんどんとこちらに近づいてくる。男ばかりの6人パーティ。サクヤの言葉を信じるなら、あれがケットシーという種族だろう。全体的に小柄で、猫のような耳と尻尾が生えている。

 男の猫耳とか、何処に需要があるんですかね……。そういうのは戸塚だけにしてくれ。

 街の酒場でサクヤに聞いた話によれば、ケットシーとシルフは貿易も盛んで種族の仲は悪くないらしい。サラマンダーとは領地も少し離れているから、その関係は可もなく不可もなくといったところだろうか。さすがにシルフとサラマンダーのように出会ったら即PvPとなる可能性は低いはずだ。

 しかしその予想に反し、俺たちの目の前に降り立ったプレイヤーたちの態度は友好とは程遠いものだった。

 

「おっ、ラッキー! 女がいるじゃん! しかも美女アバター! こいつ俺の獲物な!」

「バカ、そこは早いもん勝ちだろ」

「シルフとマンダーか。珍しい取り合わせだな」

 

 武器を構え、ケットシーたちは好き勝手に騒ぎ出した。野卑な雰囲気だが、猫耳の野郎どもがやるとちょっとシュールな光景だ。

 

「悪いな、異種族狩りって奴だ。まああんたらもたった2人で中立地帯をうろうろしてたんだ。覚悟は出来てるだろ」

「へへっ、アイテムと装備全部置いてくなら、そっちの男は見逃してやるぜ?」

 

 やはりというか何というか、プレイヤーたちの目的はPKだったようだ。そんな彼らのあまりに型にはまった子悪党っぷりに、俺とサクヤは呆れた表情で顔を見合わせる。

 

「……まあ、時にはこういうクズな連中もいる」

「何処の世界にもいるもんだな、こういう奴ら」

「女を殺すのが趣味なのさ。反吐が出るね」

「倒しちまっていいんだよな?」

「問題ないが……大丈夫か?」

「まあ、やるだけやってみる」

 

 サクヤの返事を聞いて、俺は槍を低く構える。敵との距離は10メートルもない。既に間合いの中だ。

 隣に立つサクヤはとりあえず手を出すつもりはなさそうで、のんびりと佇んでいる。

 そんな俺たちの態度を見て、ケットシーのひとりが茶化すように口笛を吹いた。

 

「カッコいいねぇ。この人数相手に余裕だよ」

「もしかして俺ら舐められちゃってる?」

「まあいいじゃねえか。抵抗してくれた方が楽しめるしよ」

「だな。久しぶりのPKだし、すぐに終わっちゃつまんな――へ?」

 

 刹那、大きく踏み込んだ。反応する間もなく、青く澄んだ槍の切先が敵の額を貫通する。槍を引き戻し、勢いのまま横薙ぎに振るった。隣に立つ2人のケットシー。青い一閃は、2人の首筋を正確に捉えた。

 次の瞬間、傷を負ったケットシーたちの身体から橙色の炎が噴き出す。それは全身を溶かすように燃え広がり、間もなく小さな灯火(ともしび)だけを残して消失した。

 派手な死亡エフェクトに紛れて、一旦距離を取った。感覚を確かめるように槍を握り直しながら、呟く。

 

「……やっぱ、あんまり気持ちのいいもんじゃないな」

 

 本当に死ぬわけじゃないとわかっていても、どうにもSAO時代のことを思い出してしまって気が滅入る。当時のことは既に俺の中で折り合いがついているのでトラウマというほどのものではないのだが、そもそもPvPに苦手意識もあった。

 驚愕の表情を浮かべる残りのケットシーたちと目が合った。俺は気を取り直して口を開く。

 

「で、どうする? まだやんのか?」

「お、お前……!?」

 

 一気にパーティの半分が倒されたのだ。ちょっと脅かせばここで撤退してくれるかもしれない。

 そんな期待を持って少し高圧的に問いかけたのだが、逆に挑発になってしまったようだ。顔を真っ赤にしたケットシーたちが、武器を構える。

 

「くそがッ! 舐めんじゃねぇぞ!!」

「おらぁ!」

 

 両手剣を振りかぶった男と、短剣を構えた男が並んで突っ込んでくる。残ったメイスを持ったケットシーはその場で呪文の詠唱を始めた。

 舌打ちしながら、槍を構える。先ほどは不意を突けたからあっさりと3人を討てたが、こうして戦いが始まってしまっては同じようにはいかないだろう。連携されればかなり厄介だ。

 そうして警戒心を強めた俺だったが、駆け出した前衛の2人の動きには冴えがなく、思った以上に単調だった。というかそれ以前に、デバフでも掛かっているのかと疑うレベルで動作が遅い。最低限後衛をカバーしようとする動きはあるものの、そもそもここまで練度が低ければ話にならない。

 拍子抜けしながらも、俺は迎え撃つべく駆け出した。前衛2人とすれ違いざまに、槍を2度振るう。武器を打ち合わせるまでもなく、槍の切先はケットシーたちの急所を貫いた。2つ、橙色の炎が燃え上がる。

 あっさりと倒された仲間たちを目の当たりにして、動揺からか後衛のケットシーは呪文の詠唱を失敗した。魔法というのは呪文を噛んだり間違えたりすると失敗するようだ。

 俺はそのまま最後のひとりに槍を向けようとして、ふと足を止めた。そういえば、空中戦の練習をしておきたいんだった。

 (はね)に意識を集中し、身体を浮かせる。いまだ呆気に取られている敵に向かって、俺は上空から飛び掛かった。

 足腰が安定せず、槍に上手く力が乗らない。俺は顔を顰めながら、敵の頭上から拙い刺突を浴びせかけた。相手は持っていたメイスで攻撃を弾こうとしたが、2合と持たずに崩れる。直後、頭部を貫かれたケットシーが傷口から橙色の炎を噴き上げて倒れた。

 俺は燃え上がるケットシーの横に着地し、周囲を見回す。そうして安全を確認してから武器を納めた。

 

 空中戦についてはまだまだ課題が残ったが、久しぶりのまともな戦闘だったし、まあこんなものだろう。そんな反省をしながら一息ついていると、目を見開いて固まっているサクヤと視線があった。

 

「……驚いた。強いなきみは」

 

 そんなことを呟きながら、サクヤがこちらに歩み寄る。

 

「初めて会った時の立ち回りから何となく察してはいたが……まさかここまで速いとは」

「あーいや、まあ、前にやってたゲームはそれなりに長いことやってたしな」

 

 人に褒められ慣れていない俺は照れ臭くなり、頬を書きながらサクヤから目を逸らした。そして周囲に揺らめく灯火に目を向けながら、話題を変える。

 

「ところで、あの残ってる炎は何なんだ?」

「ん、ああ。あれはリメインライトというやつだ。プレイヤーが死亡しても1分間はあの炎が留まって、アイテムや魔法を使えば蘇生出来る。あれがある間はプレイヤーの意識もそこに残っているから、あまり迂闊なことは口走らない方がいい」

「あの状態でも見たり聞いたり出来るってことか?」

「そういうことだ。この会話も聞かれているだろうから、彼らも自分を倒したのがリメインライトのことも知らない初心者(ニュービー)だと理解したはずさ」

 

 いたずらっぽい笑みを浮かべながら、サクヤが皮肉を口にした。俺は顔を顰めて言葉を返す。

 

「そういう煽るようなこと言うなよ……。粘着されたら嫌だぞ俺は」

「強いくせに弱気だなきみは。その時はまた返り討ちにしてやればいいだろう」

 

 サクヤの強気な発言に苦笑しながら、俺は周囲に散らばるリメインライトとやらに目を移す。蘇生可能時間である1分が過ぎていたようで、既に最初に倒したケットシーの灯火はなくなっていた。その後を追うように、周囲の灯火もひとつずつ揺らめいては消えてゆく。

 残された最後のひとつが消滅すると、それを待っていたようにサクヤが「さて」と声を上げた。

 

「彼らが脱領者(レネゲイド)でなければもう自領で復活しているだろう。ケットシー領はすぐそこだから、下手をすれば仲間を連れて報復に来るかもしれない。今のうちに場所を移した方がいいな」

「だから煽るなって言ったのに……」

「ああいう奴らはどんな対応をしても変わらないさ。まあ、今回のことで少しは懲りてくれればいいんだがな」

 

 言いながら、サクヤが(はね)を羽ばたかせて飛翔する。低空でホバリングしながら、南へと視線を向けた。

 

「とりあえずリュナンの村に戻ろう。完全な安全地帯というわけじゃないが、村の中なら色々と自衛手段もあるんだ」

「ん、わかった」

 

 小町と約束した時間まではあと一時間程度だ。ここから先に進んでもログアウトのタイミングがなくなってしまうだろうし、今日のところはサクヤと一緒に村に戻るのが賢明だろう。

 俺の滞空可能時間があまり回復していなかったので、その後は途中ランニングも挟みながらリュナンの村へと戻ることになったのだった。

 草原の中、隣を走るサクヤに目を向ける。長い髪と着流しの袖を風になびかせながら月明かりの下を疾走する姿は妙に様になっていた。両手をだらりと後ろに回して格好良く忍者走りする彼女にちょっと感動を覚えつつ、すぐに頭を切り替えて先ほどの小競り合いの最中から気になっていたことを口にする。

 

「なあ、なんかあいつら妙に耐久力低くなかったか? みんな大体一発か二発で死んでたけど……あんなもんなの?」

 

 あのケットシーたちはよくPKをしているような口ぶりだったし、俺のように初心者(ニュービー)ということはないだろう。ぱっと見た感じ装備もしっかりしていたし、それがあれほどの紙耐久だというのには違和感があった。

 サクヤはちらりとこちらを一瞥し、走る速度を緩めることなく俺の質問に答えた。

 

「ALOではHPがほとんど伸びないんだ。装備で防御力は上がるが、鎧の隙間を狙えばクリティカル判定でダメージが跳ね上がる。まあそれにしたって普通なら一撃で倒せるようなものではないんだが……」

 

 息を継ぐように1度言葉を止め、サクヤは再びこちらに視線を寄越した。それでも足を止めることはなく、つらつらと話し始める。

 

「与えるダメージの総量は互いのステータスとクリティカル判定、あとは攻撃のスピードで決まる。このスピードというのが曲者でね。重量による制限で動きが遅くなることはあっても、逆に敏捷性を上げるような装備はこのALOにほとんど存在しない。だから基本的にスピードの優劣を決めるのは、純粋にプレイヤー自身の運動能力だということだ」

「運動能力か……それってそんなに差が出るもんなのか?」

「ああ。単純な走力だけで言っても、実力差があれば二倍以上差がつくことも珍しくない」

「マジか」

 

 現実世界ではありえない格差に、俺は思わずそう漏らした。速さが二倍以上ともなれば、戦力差としてはそれ以上だ。白兵戦ではもはやチートレベルの存在である。同数の敵ならまず負けないし、集団を相手取ったとしても布陣や地形で有利を取られなければかなり戦えるだろう。

 思えば、2倍とまでは言わないにしても、さっきのケットシーたちと俺の速度にはかなりの差があった。あのレベルの相手なら、2ー30人を一度に相手にしても勝てる自信はある。まあさっきの戦いでは相手がミスで魔法を不発にしてくれたから助かった部分もあるので、一概には言えないが。

 しかしこれは嬉しい誤算だ。個人でこれだけ戦えるのなら、キリトと2人での世界樹攻略も現実味を帯びてくる。

 

「まあ、要するにきみは凄いということさ。あれほどの速さのプレイヤーを、わたしは今まで見たことがない」

「……そりゃあ、どーも」

「ん? なんだ、照れているのか?」

「い、いや、別にそんなんじゃねーし……」

 

 からかうようにしてこちらを覗き見るサクヤから視線を逸らし、俺は気恥ずかしさを誤魔化しながら大きく跳躍する。そのまま翅を羽ばたかせ、草原を這うように飛行を始めた。すぐにサクヤも飛び立ち、俺の後方にピッタリとくっつく。

 練習のつもりで思い切り翅を動かし加速すると、冷たい夜風が強く体を打った。そうして頭を冷やしながら、考えを巡らせる。

 サクヤは手放しに俺の強さを褒めてくれたが、それを簡単に鵜呑みにするほど青くない。単純にお世辞ということもあるだろうし、サクヤだってまだ実力を全く見せていないのだ。少なくともここまでの疾走を見る限り、先ほどのケットシーたちよりも彼女の速さは数段上だろう。

 魔法という不確定要素もあるし、油断は禁物だ。上には上がいるしな――と、変態的な反応速度を誇る黒の剣士を思い浮かべる。あいつSAOじゃ軽戦士アタッカーのくせに敏捷性を上げないで持ち前の反応速度でゴリ押すとかいう意味わかんないスタイルだったからな。命懸けのゲームでSTR極振りビルドとかマジで頭おかしい。

 ALOでは持ち前の運動能力が強く反映されるというのならば、キリトの強さはSAO当時以上のものとなるだろう。世界樹の攻略で、俺が足を引っ張らなければいいのだが――そこまで考えて、はっとした。

 

 また、キリトやアスナに助けてもらうつもりなのか、俺は。

 いや違う。そうじゃないだろう。今度は俺が、俺自身の手で、助けなければいけないのだ。

 ヒースクリフに敗れた、無力な自分。アスナはそんな俺の身代わりになった。もう、あんな思いは絶対にごめんだ。

 だから俺はもっと強くならなければならない。ヒースクリフにも、キリトにも負けないくらいに。

 

 羽ばたく翅に、いっそう力を込めた。月明かりが照らす草原に、赤い燐光が煌めく。後ろを飛ぶサクヤは、少し遅れて付いてきていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第8話 交渉

「なあ、提案なんだが、わたしに雇われないか?」

 

 リュナンの村。宿屋に併設された大衆居酒屋。その一角。

 少し話がしたいというサクヤの誘いに応じて数時間前に1度訪れたこの店に再び腰を落ち着けたのだが、NPCに注文を終えるや否や、彼女は前置きもせずにそう切り出した。飲み物を運ぶNPCを横目に、俺は疑問を返す。

 

「雇う? どういうことだ?」

「傭兵というやつさ。とりあえずは当面の護衛として。最終的には世界樹の攻略にも同行して欲しい」

「……詳しく聞かせてくれ」

 

 世界樹の攻略という言葉につられて、食いついた。

 しかしあまり必死な様子を見せると足元を見られるかもしれない。内心の焦りを悟られないよう、俺はなるべく冷静な態度を装ってサクヤを見た。

 

「少し長くなるが、構わないか?」

「ああ」

 

 横目で時間を確認してから頷く。小町と約束した時間にはまだ余裕があった。

 

「ではまずこちらの事情について話そう。実はわたしはシルフ領の領主なんだ」

「領主?」

「領主というのはプレイヤーの投票で決まる役職でね。それぞれの種族にひとりずつ存在して、様々な特権を持っている。まあその辺りの詳しいことを知りたければ後でネットでも使って調べてみてくれ」

 

 それぞれの種族にひとりずつ。つまり彼女は、このALOに9人しかいない領主のひとりということになる。ALOのプレイヤー数など詳しくは知らないが、その人気を考えればおそらく数万人は下らないだろう。

 サクヤの話が本当だとすれば、彼女はその数万人の中の頂点の一角ということになる。思った以上の大物である。

 しかし、この情報を鵜呑みにするのは危険だ。新手の詐欺という可能性もある。領主の名前などはネットで調べられるだろうし、あとで裏を取っておこう。そんな若干失礼なことを考えている俺をよそに、サクヤは話を続ける。

 

「今知っていておいて欲しい情報はひとつだけだ。領主を他種族のプレイヤーがキルすれば、その種族から莫大な額の資金(ユルド)を奪うことが出来るということ」

 

 資金(ユルド)を奪う――それにどれだけのメリットがあるのか、このゲームを始めたばかりの俺にはどうにも実感が湧かず、少し考え込んだ。通貨そのものにどれだけの価値があるのかは、それぞれのゲームで違う。

 しかし大抵のMMORPGにおいて、資金とは力に直結する。強い装備を購入すればその分強くなれるのは自明の理だ。キャラクターレベルが存在せず、ステータスのほとんどを装備に依存するこのALOにおいては、それを購入するための通貨の重要性も高いものとなるかもしれない。

 

 つまり、他種族が領主を倒すメリットはかなり大きいと予想できる。サクヤがその領主だというのなら、多くの護衛を侍らせていたのも納得だ。あれはただのロールプレイではなかったということだろう。

 

「以前、私の前の領主がサラマンダーにキルされたことがあってね。その時は領主館に保管されていた資金がごっそりと持っていかれたよ。他にもスイルベーンでの取引に税金がかけられたり、それはもう散々に絞り取られたんだ。だからサラマンダーは今9種族の中で最も力を持っているし、逆にシルフたちは他種族の後塵を拝することとなった」

 

 サクヤはそこで一旦言葉を止めた。周囲に他の客の姿はなく、店内に流れるBGMと厨房から届く喧騒が場を支配する。

 なるほど。そんな経緯があったからシルフとサラマンダーの仲は険悪なのだろう。初めて会った時に護衛の連中が殺意マシマシだったのも納得だ。

 しかし色々と腑に落ちたのと同時に、ひとつ疑問も残る。何故この状況で他種族の……それも、サラマンダーである俺にその話をしたのかという点だ。

 

 俺自身はその話を聞いたからと言って、じゃあサクヤを殺して資金を奪い取ろうなどとは考えないが、客観的に見れば俺がそういった行動をとる確率は低くないはずだ。リスクを考えれば、今ここで話すべき内容ではない。

 彼女は様子を伺うようにこちらを見つめていた。俺も視線を返し、少し顔を顰めるようにして抱いた疑問を口にする。

 

「どうしてその話を俺に? しかも護衛も居ない今のこの状況で」

「あまり隠す必要がないからさ。私がシルフの領主だということは調べればすぐにわかることだし、それに私だっていざという時の自衛手段くらいは持っている。君と真正面からやり合って勝てるとも思わないが、ひとまず身を守りつつすぐそこの宿屋に逃げ込むことくらいは出来るというわけだ」

 

 澄ました顔で、サクヤは手に持ったグラスに口を付ける。まあ言われてみれば、領主という立場のプレイヤーが何の保険もなく危険に身を晒すことはないか。

 

「とはいえ、確かにこの状況に少しでもリスクがあるのは間違いないな。だが――」

 

 言って、彼女は中身が半分ほど残っているグラスをテーブルへと置いた。次いで不敵な笑みを浮かべて、強い眼差しで俺を見つめる。

 

「私はそれ以上に、きみという戦力に魅力を感じている。あ、もちろん人間的にもハチ君に興味を持っているよ」

「そりゃどうも」

 

 俺は脱力するように頷いて、適当に聞き流した。前半はともかく、後半は明らかなリップサービスだ。それに、今はさっさと話を先に進めたい。俺が本当に聞きたい部分の話は、まだ聞けていないのだ。

 

「まああんたが護衛を必要としているのは分かった。けど、今回の話はそれだけじゃないんだろ? 世界樹の攻略に関してってのはどういうことだ。1つの種族しか光妖精族(アルフ)って奴になれないから、世界樹を他種族と攻略することはないって聞いたぞ」

「ああ。きみの言うことは間違っていない。だからこそ今まで世界樹の攻略は難航してきた。……いや、難航してきたなんて言い方は正しくないな。何の進展もないと言った方がいいだろう」

 

 サクヤは自嘲するようにそう語った。領主を務めるほどこのゲームに精通している彼女がそういうのなら、それは間違いないのだろう。

 

 ALOのサービス開始当初からプレイヤーたちに課せられていたグランド・クエスト《世界樹の攻略》

 グランド・クエストとは言わば物語の最終目標にあたる。だからこそそう簡単にクリアできるものではないという理屈は分かるのだが、サービス開始から1年以上が経っても攻略に全く進展がないというのは異常だ。

 

 何か見落としがあるのか、そもそも根本的に攻略法が間違っているのか……。どちらにせよ、これまでと同じやり方を続けていては今後もめぼしい成果は期待できないだろう。世界樹攻略を進めようと思うのなら、きっと何かしらのテコ入れが必要なのだ。

 

 まあそんなことは初心者(ニュービー)の俺に言われるまでもなく、サクヤならば十分わかっているだろう。彼女は瞳に強い意志を浮かべ、今後の展望を語り始めた。

 

「だから私は、この状況を打破するためにそのやり方を変えようと考えたんだ。他種族と協力しての世界樹攻略、私はそれを成そうと尽力している。今ここで詳しく話すことは出来ないが、その目途も立ちつつあるんだ。きみのように実力があって、種族に囚われないプレイヤーには是非それに参加してもらいたいと思っている」

「ふうん……。けど結局、光妖精族(アルフ)になる件はどうすんだよ? そこを解決しないと最終的に仲間割れになっちまうだろ」

「それについては一旦保留だ。世界樹の上にたどり着いてから考える」

「いや、保留ってお前……」

 

 ただの問題の先送りじゃねえか。そう突っ込もうとしたが、遮るようにしてサクヤが口を開く。

 

「そもそも、ひとつの種族しか光妖精族(アルフ)になれないという情報も確定ではないんだ」

「そうなのか? ネットじゃ確定情報みたいに言われてた気がするけど」

「可能性が高いのは確かだ。だが――」

 

 言いながらサクヤが目をつむり、優雅な動作で胸に手を当てた。そうして芝居がかった仕草で、大袈裟に話し始める。

 

「偽の情報が種族間の不和を招き、アルヴヘイムでは長い長い争いの歴史が始まってしまった。しかしやがて争いの醜さや不毛さに気付いた妖精たちは、種族の壁を乗り越え、互いの手を取り合って世界樹の攻略を成功させるんだ。そうして訪れた妖精王オベイロンの下で、勇者たちはみんな仲良く高位種族である光妖精族(アルフ)へと至る……。どうだ? 性格の悪いゲームクリエイターが考えそうなことじゃないか?」

「いや、そりゃあまあ否定は出来ないけど……。つーか、お前自身そんな話を本当に信じてるわけじゃないだろ」

「まあね」

 

 芝居がかった仕草から一転、サクヤは脱力して苦笑を浮かべる。テーブルに置かれたグラスを手に取って口をつけると、彼女は軽く息をついた。

 

「さすがにこんな与太話を支持しているわけじゃない。けど実際のところ、単一種族での世界樹攻略に拘ると下手をすれば数年規模での準備が必要になる。そんな捕らぬ狸の皮算用を続けるよりも、まずはなりふり構わず世界樹を攻略してみるというのも悪くないかと思ったんだ」

「まあ、確かに」

 

 サクヤの話は十分理にかなっていると思う。世界樹の攻略さえ成功させてしまえば彼女が光妖精族(アルフ)になれる可能性は十分あるし、もしなれなかったとしても何かしらのクリア報酬は手に入るだろう。

 何よりグランド・クエストがクリアされるのだ。ALOというゲーム全体に変化が起こるだろうし、それは種族を問わず多くのプレイヤーたちにとって朗報だろう。足の引っ張り合いを続けて停滞しているよりもずっといいはずだ。

 

 ここまでサクヤの話を聞いて、俺は世界樹攻略については彼女に協力してもいいと考え始めていた。そもそも俺の目的は光妖精族(アルフ)になることではないし、他種族と組むことにデメリットはないのだ。

 ただ問題があるとすれば、攻略のスケジュールを彼女たちに合わせなければいけないということだ。おそらくレイドを組んでの攻略になるだろうし、準備にはそれなりに時間が掛かるだろう。

 

「ちなみにその他種族と協力しての世界樹攻略が実現するとして、実際にアタックをかけるのはいつぐらいになるんだ?」

「んー……。まだ具体的には何とも言えないが、まあ早くて1、2か月先といったところかな。もっと先になる可能性もあるが、早まることはないと思う」

「そうか……。悪い、ちょっと考えさせてくれ」

 

 俺が顔を顰めながらそう言うと、サクヤは再びグラスを手に取りながら頷いた。俺はテーブルの上で手を組み合わせ、思案する。

 世界樹の攻略まで1、2か月……そんなには待てない、というのが正直な感想だ。準備さえ整えば、俺は今すぐにでも世界樹に向かいたいのだ。

 しかし、サブプランとして考えれば悪くないかもしれない。俺とキリト、2人だけでの世界樹攻略が難しいとなれば、次の方法を考えなければならないのだ。

 しかしサブプランなどというふざけた態度ではサクヤも快くは思わないだろう。それに彼女らと共同で世界樹を攻略するなら、他にもいくつか飲んでもらわなければならない条件がある。

 しばらくの沈黙の後、俺が顔を上げるとこちらを伺うサクヤと目が合った。

 

「考えはまとまったかい? 護衛と世界樹攻略、どちらか片方だけでも構わないんだが」

「……世界樹攻略については、協力してもいいと思ってる。3つ、条件を飲んでくれるなら、だけど」

「ふむ。聞こうか」

 

 サクヤは迷うことなくそう返した。これは交渉慣れしてる奴の反応だ。

 そんな彼女の態度に一瞬気後れしそうになったが、すぐに気を持ち直す。失敗しても命を取られるわけじゃない。交渉の経験など多くはないが、修羅場ならば散々通ってきた。

 そうして自分を鼓舞しながら、口を開く。

 

「ここで雇われたとしても、俺はそれより先に個人的に世界樹攻略に挑むつもりだ。それを認めてほしい」

「ああ、それは構わないよ。傭兵として雇うとは言っても、ずっと拘束するわけじゃない。仕事以外の時間にきみが何をしていても、それは君の自由だ」

 

 拍子抜けするほど、サクヤはあっさりと頷いた。

 個人での世界樹攻略などどうせ不可能だと、高を括られているのかもしれない。まあ、それならそれで好都合だ。俺はそう好意的に捉えて、次の条件を口にする。

 

「2つ目は……俺の他に、もうひとり世界樹攻略に加えて欲しい奴がいる。俺と一緒でこのゲームを始めたばっかの奴だけど、実力は保証する」

 

 言わずもがな、これはキリトのことだ。この条件ついてはさほど問題はないだろうと思っている。会ったばかりの俺を雇おうとするくらいだし、サクヤはそれだけ戦力を欲しているということだ。キリトの実力を知れば、むしろ向こうから頼み込んできてもおかしくはない。

 そんな俺の予想は間違っていなかったようで、サクヤは軽く笑みを浮かべて頷いた。

 

「戦力が増えるのなら大歓迎だよ。一応テストも兼ねて強さは確かめさせてもらうが、まあきみのお墨付きというのなら問題ないだろう。サラマンダーの友人か?」

「いや、種族はスプリガンだな。今は俺とは別行動で世界樹を目指してる」

「スプリガン……? はははっ、きみたちは自由だな」

 

 一瞬呆けた顔をしたかと思えば、次いでサクヤは額に手を当てて笑い出した。何がそんなに可笑しいのか理解できず、俺は困惑しながらしばらくそれを眺める。

 やがてサクヤは大きく息をつくと、そこでようやく戸惑う俺の様子に気付いたのだろう、軽く頭を下げた。

 

「ああ、いやすまない。別に馬鹿にしたわけじゃないんだ。ただ長い間このゲームをやっていると色々と(しがらみ)が増えていってね。自由なきみたちが羨ましかったのさ」

「……あんたは、随分と窮屈そうだな」

「まあね。少し領地を出て、他の種族と話をしようとするだけでも一苦労さ」

 

 そう言ったサクヤの顔には、疲労の色が滲んでいた。本来なら楽しむべきゲームにおいてそんな重荷を背負ってしまうことは本末転倒にも思えるが、話はそんな単純なものではないのだろう。

 まあ俺もイライラしながらゲームすることあるしな。剥ぎ取っても剥ぎ取っても宝玉が出ないことなんてザラだし、理不尽な当たり判定に文句を言いながらもハンターは狩りを続けるものなのだ。

 

「話が脱線してしまったな。じゃあ、最後の条件を聞こうか」

 

 俺も脳内で盛大に話が脱線していたが、再び頭を切り替えて気を引き締める。最後の条件、これが一番の難関だった。

 幸い、サクヤの機嫌は悪くなさそうだ。にこやかな表情で、俺の言葉を待っている。それを見つめ、俺は意を決して口を開く。

 

「俺の目的は、光妖精族(アルフ)になることじゃない。だから世界樹の上にたどり着いた時、オベイロンに会いに行くお前らとは別行動を取るかもしれない。それでもいいか?」

 

 俺が目指しているのは、世界樹の枝にぶら下がっているという鳥籠の中だ。世界樹の上までたどり着いたとして、まず間違いなくサクヤたちとは別行動を取ることになるだろう。

 これは予め許可を取っておかないと、土壇場でトラブルになりかねない。世界樹の上で仲間割れになるなど御免だ。

 

「薄々感じてはいたが、やはり目的は光妖精族(アルフ)ではないのか。しかしそうなると、きみの目的とやらは一体何なんだ?」

「……」

 

 その問いに、すぐ答えることは出来なかった。話してわかってもらえるとも思えないし、そもそもSAOでのことから遡って説明しなければならない。そんなことまでべらべらと口にするつもりはなかった。

 だが、何もかもを隠してサクヤたちと一緒に世界樹を攻略することは難しいだろう。だからある程度、話せる情報だけは話さなければならない。

 

「……世界樹の上に、会いたい奴がいるんだ。会って、確かめたいことがある」

 

 良い嘘も思いつかず、考えがまとまらないままそう口にしていた。至極曖昧な俺の答えに、サクヤは首を傾げる。

 

「会いたい人物? 妖精王オベイロンではないとすると……まさか、鳥籠の姫君か?」

「……鳥籠の姫君?」

 

 眉を顰めて、聞き返す。聞き覚えのない言葉だったが、鳥籠という単語に引っかかった。

 サクヤは意外そうな表情を浮かべ、俺の問いに答える。

 

「知らないのか? 少し前にネットの掲示板に貼られていた、世界樹の枝にぶら下がる鳥籠のスクリーンショット。それに移りこんでいた女性のことだよ。会いたい人物というのはてっきりそのことかと思ったんだが……」

「あ、いや……あってる。俺が会いたいのは、そいつだ」

 

 少し動揺したが、すぐに冷静になって頷いた。そう言えば、あのスクリーンショットはエギルがネットから拾ってきたものだという話だ。それについて知っている人間がALOにいてもおかしくはない。きっとネット上では《鳥籠の姫君》という通称で呼ばれていたのだろう。

 

「その鳥籠の姫君ってのは、有名なのか?」

「ALOプレイヤーなら知っている人間は多いと思うよ。数少ない世界樹の上の情報だし、一時期はかなり話題になったからな。まあスクリーンショット以上の情報は出てこなかったから、すぐに話に上がらなくなってしまったが」

「……そうか」

 

 アスナについて新たな情報が得られるかと思ったが、そううまいことはいかないらしい。やっぱり直接会いに行って確かめるしかなさそうだ。

 

「よし、いいだろう」

「……え?」

 

 アスナについて考えていた俺を、サクヤの声が現実に引き戻した。思わず間抜けな顔で聞き返すと、彼女は真剣な表情で言葉を続ける。

 

「ハチ君の提示した3つの条件を飲もう。よろしく頼むよ」

 

 言って、彼女は右手を差し出した。雰囲気に流されて俺は咄嗟にその手を取ろうとしてしまったが、寸前で思いとどまる。

 

「い、いやいや、ちょっと待て……。本当にいいのか? 正直、自分でも結構無茶言ってる自覚があったんだけど」

「何だ? こちらが良いと言っているのに、何が不満なんだ?」

「いや、不満とかじゃないんだけど……」

 

 最後の条件は、自分でもかなり厳しいだろうと思っていた。世界樹の上では別行動をしたいなどと言えば、抜け駆けをして報酬の独り占めを企んでいると疑われても仕方がないからだ。拒否される可能性は高かったし、少なくとも渋られるだろうと予想していた。それが蓋を開けてみれば、あっさりと快諾である。

 裏切られるリスクを抱えこんでまでも、何が何でも戦力を確保したいのだろうか。いや、サクヤの態度にはそれほど切羽詰まっている様子は見られない。

 そもそも、彼女の言動から下心を感じないのだ。それなりに人の悪意には(さと)い方だと自負しているが、彼女の言葉には裏がないように思えた。初めて会ってからここまで色々と疑ってはみたものの、全ては杞憂に終わっている。

 俺が彼女から感じるのは、俺に対する妙な信頼感だけだ。

 

「……なあ、なんでこんなに良くしてくれるんだ」

 

 思わず、問いかけていた。

 サクヤは何故か俺に対して強い信頼を抱いているように見える。だからこの場でリスクを取ってでも彼女の事情を話してくれたのだろう。

 しかし、その理由がわからない。彼女の信頼を得るようなことを、俺は何ひとつやった覚えがないのだ。

 理由のわからない好意というのは怖いものだ。訳も分からず手に入れたものは、訳も分からず失ってしまうリスクを孕んでいる。

 

「ん? 世界樹攻略のことなら、私にもメリットがあるからだが……」

「それだけじゃない。随意飛行やALOのことを色々と教えてくれたこともそうだし、そもそも種族間の対立が激しいこのゲームで、領主であるサクヤが俺みたいな怪しいプレイヤーに関わろうとする時点でおかしいだろ」

「ああ、なるほど。そういうことか」

 

 サクヤは曖昧に頷いて、顎に手を当てて考え出した。じっとそれを見つめていると、やがてサクヤは俺に視線を返して口を開く。

 

「そうだな。私がきみに関わろうとする訳……あえて理由を挙げるなら――君の目が腐っていたから、かな」

「……んん?」

 

 一瞬、頭が混乱して、俺は妙な声を漏らした。

 今こいつ、なんて言った? 俺の目が腐ってるからって言ったか? なんで急にディスられたの?

 

「いやちょっと待て、『君の目が澄んでいたから――』とかは小説とかでよくあるパターンだけど、逆は聞いたことないぞ」

「はははっ、まあただの冗談……というわけでもないんだが」

 

 俺の反応が可笑しかったのか、サクヤが声を上げて笑う。しかしすぐに真剣な表情に戻ると、何故か急に話題を変えた。

 

「きみはSAO事件は知っているかい?」

 

 ぎょっとして、返事に詰まる。

 知っているも何も、俺は事件に巻き込まれた当事者だ。しかし、それを吹聴するつもりはない。

 少し考えて、俺はなるべく無難になるように言葉を返す。

 

「そりゃあ、知らない奴の方が珍しいだろ。あんだけニュースになったんだ」

「私の妹がそれに巻き込まれたんだ。ゲーム内での死が、現実世界での死に繋がるあのゲームに」

「それは」

 

 色々な想像をして、俺は再び言葉に詰まってしまった。あの事件では、多くの人間が犠牲になったのだ。

 しかしそんな俺を見て、サクヤは安心させるように首を横に振る。

 

「ああいや、大丈夫。幸い、妹はちゃんと帰ってくることが出来たんだ。今は以前にも増して元気にしているよ」

「……そうか」

「そんな妹がね、最近嬉しそうに話すんだ。SAOで活躍した、青い槍の英雄の話を」

 

 青い槍の英雄――うん。中々かっこいい二つ名だ。英霊召喚とかされそう。

 ……いや、まあ、ちょっと落ち着こう。俺もSAOでは最終的に青い槍を使っていたが、とりたてて珍しい装備というわけではない。自分のことかと勘違いして、恥ずかしい思いをするのはごめんだ。いや、そもそも名乗り出るつもりもないけど。

 

「妹は1度だけそのプレイヤーに会ったことがあるらしい。街の外、危険なモンスターが跋扈(ばっこ)するフィールドでひとり迷子になってしまって、いよいよ死を覚悟した時、彼に助けられたそうだ。安全圏である街まで彼に送ってもらって、妹は生き残ることが出来た」

 

 不自然にならないよう、適当にふんふんと相槌を打ちながらサクヤの話を聞く。

 ……つーか、なんか聞き覚えのある話だな。いや、聞き覚えというか、身に覚えというか。あ、でも待てよ。確かその時って、街に着いた後に――。

 

「ただ、どうにも彼は死んだ魚のような目をしていたそうでね。傍から見たら完全に不審者で、妹と一緒に街に到着した途端、誘拐犯に間違えられて治安部隊に取り囲まれてしまったそうだが」

 

 そこまで話して、サクヤはおかしそうにくつくつと笑う。いや、笑い事じゃないから。もうちょっとで本当に黒鉄宮にぶち込まれるところだったんだぞ。

 しかし、これはもう誤魔化しようがない。青い槍の英雄とは、俺のことだろう。さっきの話は身に覚えがありすぎる。

 

 ただそうなると、問題はサクヤがこの話をした意図だ。

 俺の正体に気付いているわけではない……と、思いたい。くそっ、やっぱりプレイヤーネームは変えておくべきだったか。サクヤの話ではハチという名前は出てきていなかったが、妹がSAO生還者だというのならその名前も知っている可能性が高い。

 

「……言っとくけど、俺はその英雄とやらとは関係ないぞ」

 

 先手を打って、否定しておいた。少なくとも、俺の正体について確信を持っているわけではないはずだ。ここは惚けておくのが正しい選択だろう。

 サクヤ自身は好意的なようだが、俺はSAO時代には色々と恨みも買っている。ここで俺がSAOプレイヤー《Hachi》だと知られることがプラスに働くのか、マイナスに働くのか、正直予想することが出来ない。だったら隠しておく方が無難だ。

 しらを切り通してやる――そう決意しながら、サクヤの反応を伺う。しかし俺の心配は杞憂だったようで、彼女は軽く笑って首を横に振った。

 

「あはは。私もきみが本当に英雄と同一人物だと思っているわけじゃないさ。そもそも、詮索するつもりもない。だからまあ、私がきみにお節介を焼く理由は、単なる自己満足だな」

 

 サクヤが優し気な微笑みを浮かべる。それはALOプレイヤーであり領主であるサクヤの顔ではなく、愛すべき妹を持ったひとりの姉の顔に見えた。

 

「かの英雄によく似たきみに施しをして、少しでも妹が受けた恩を返した気になりたいだけなんだ。だから、きみが気に病む必要はない」

 

 彼女の言葉になんと返していいかわからず、俺は曖昧に頷く。

 

 ――最後の戦いであなたが何もできなかったのだとしても、それでそれまでのあなたの行いがなくなったわけじゃない。

 

 不意に、雪ノ下の言葉が頭に過った。

 SAO時代に、たまたま俺が助けた少女。その縁が巡り巡って、今の俺を助けてくれたのだろうか。そうだとすればサクヤと繋がるこの縁は、とても尊いもののように思えた。

 

「それで、どうかなハチ君。私に雇われてくれるか?」

 

 再び、サクヤが問う。いつの間にかその表情は、シルフ領の領主サクヤのものに戻っていた。

 その顔をまじまじと見つめる。もはや、彼女を疑うような気持ちは微塵も湧いてこなかった。

 

「わかった。よろしく頼む」

「交渉成立だな」

 

 笑みを浮かべて、サクヤが手を差し出した。今度は迷うことなく、俺はその手を取るのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第9話 模擬戦

 サクヤとの交渉が成立した翌日。

 ポーションなどの消耗品の買い出しを既に終え、旅支度を整えた俺はリュナンの村の入り口付近に佇んでいた。昇り始めた太陽から、さんさんと陽光が降り注ぐ。

 時刻は現実時間で正午過ぎ。ALOのゲーム内時間では明け方ごろを指していた。

 

 ALOでは1日が16時間周期で巡るらしく、現実の時間とはかなりズレがある。これは夜しかゲームが出来ないようなプレイヤーでも、様々な時間設定のゲームを楽しんでもらいたいという運営からの計らいのようだ。

 四季については存在しないようで、2月に差し掛かろうかという今時分でもこの辺りのフィールドはぽかぽかと温かいほどだった。気候については日によって多少差異がある他、地域によって熱帯や寒帯なども存在するらしい。

 ケットシー領に近いここは温暖な地域のようで、今日は天気もいい。絶好の行楽日和と言えるだろう。世界樹に向かうのを行楽と言っていいかは微妙だが。

 

 そんな晴れやかな陽気を全身で味わいながら、静かに佇む俺。しかし、その内心は晴れやかとは言い難いものだった。遠くの山々を眺めていた視線を戻し、隣に立つサクヤを見やる。

 村の入り口。草原に面した粗雑な村の門の前では、今まさにトラブルが起ころうとしていた。

 

「――と、いうわけで、しばらく護衛として同行することになったハチ君だ。みんなよくしてやってくれ」

「何が『というわけで』ですか!?」

 

 三白眼のシルフ族の男――フリックの声が、高々と周囲に響いた。その目つきの悪い瞳で、サクヤと俺を交互に睨みつける。

 この場には昨日、サクヤを護衛していたシルフの面々が揃っていた。サクヤも含めて、シルフ族は総勢12人。おそらく6人パーティが2つという内訳なのだろう。フリック以外の面々は押し黙って口を開くことはなかったが、その表情を見れば俺のことを快く思っていないのは一目瞭然だった。

 しかしそんな周りの空気など何処吹く風で、サクヤは飄々とした態度で口を開く。

 

「なんだフリック。文句があるのか?」

「ないと思ってるんですか!? こんな得体の知れない目の腐ったサラマンダーを信用出来る理由があるのなら、ぜひ教えて欲しいですねえ!!」

 

 血管ぶち切れるんじゃないかと心配になる勢いで、フリックが喚き散らす。

 まあ、彼の言っていることには割と共感できる。少なくとも俺だったらこんな会ったばかりの他種族プレイヤーは信用しない。

 しかしそんな彼の剣幕にもサクヤは一切動じることなく、冷静にうんうんと頷いて口を開いた。

 

「それなんだがな、昨日の夜、お前たちに内緒でひとりALOにログインしたんだが」

「は?」

「そこでたまたま彼と再会して、流れで一緒に草原フィールドに行くことになって」

「はぁ!?」

「そこでケットシーのパーティに襲われたんだが」

「はぁあぁあぁッ!?」

 

 フリックが素晴らしいリアクションでハァの三段活用を見せる。

 ハァハァ三兄弟かよ! と突っ込みを入れたくなったが、何とか堪えた。結構古い漫画だし、たぶんアイシールド21ネタがわかる奴はこの場にいない。

 ちらりと横目でサクヤを伺うと、冷静を装ってはいたが必死に笑いを堪えているのがわかった。おいお前、絶対こいつのリアクション見て楽しんでるだろ。

 なんとなくこいつらの関係性が見えてきた。自由奔放な領主であるサクヤと、それに振り回される真面目で常識人なフリック。きっと、彼は日々苦労しているのだろう。ちょっと同情したくなってきた。

 

「まあそこで、ハチ君に助けてもらってね。異種族狩りを趣味にしている6人組のプレイヤーを、ひとりであっという間に全滅させてしまったんだ。はっきりと言うが、私以上の実力者だよ。その力を見込んで、事情を話して勧誘させてもらったというわけさ」

 

 俺としては世界樹攻略についてだけ了承したつもりだったのだが、その後なし崩し的に護衛も引き受けることになってしまった。

 事情を聞いたところ彼らはケットシーと同盟を結ぶための会談に向かっているところらしい。その目的地が世界樹の少し手前ということで、途中まで同行することになったのだ。

 サクヤの話を聞きながら悶えるように手と口をわなわなと動かしていたフリックが、やがて大きく脱力してため息を吐く。そして恨みがましい視線をサクヤに向けて、淡々と口を開いた。

 

「……色々とサクヤ様に言いたいことはありますが、過ぎたことはとりあえず置いておきましょう。今はそこの男のことです」

 

 フリックがちらりとこちらを一瞥する。居心地の悪さを感じ、俺は目を泳がせた。

 ここで俺が口出しをしても事態をややこしくするだけだろう。沙汰が下るまで、ここで大人しくしていよう。そう考えて、俺はだんまりを決め込んだ。

 

「前領主様がサラマンダーに討たれた事件を忘れたわけではないでしょう。モーティマーは狡猾な男です。またどんな汚い策略を巡らせて、我々を狙っているのか知れたものではありません」

 

 モーティマーとは、確かサラマンダーの領主の名前である。昨日ALOをログアウトした後、念のためサクヤがシルフの領主であることを確認しておこうとネットで調べた時にその名前を見つけたのだ。彼は《知将》などと呼ばれ謀略に長ける人物で、フリックの言う通りシルフの前領主を罠に嵌めて討ち取ったことがあるらしい。

 

「サクヤ様が何をもってその男を信用したのかは知りませんが、昨日今日会ったばかりのサラマンダーを仲間に引き入れるなど迂闊過ぎます。しかもこの遠征のタイミングで接触してくるなんて、作意があるとしか思えない」

 

 フリックの進言には、断固たる意志が込められていた。絶対にサクヤを守るという意思だ。

 客観的に見て、彼の言葉は正しいと言えるだろう。実際のところ俺がサクヤたちと出会ったのは完全に偶然なのだが、シルフ達の事情を知れば勘繰られるのも無理はないと納得してしまう。ナーヴギアのせいでバグったこととか色々と隠し事も多いし、それによって疑いはさらに増していることだろう。

 これ、説得は無理じゃないの……? そう不安に思ってサクヤを伺うが、彼女の横顔に迷いは一切感じられなかった。

 

「フリック。お前が懸念するようなリスクがあることは認めよう。だがな、それを考慮に入れても、彼という戦力を引き入れることのメリットは大きい。私はシルフ領領主としてそう判断した」

「……サクヤ様の言葉を疑いたくはありませんが、にわかには信じられません。そこの初心者(ニュービー)が、それほどのものだと?」

「ああ。だがまあ、これは口で説明しても伝わらないだろう。いっそここで模擬戦でもやってみるか」

「え」

 

 だんまりを決め込むつもりが、驚いてつい声が漏れてしまった。間抜け面のまま固まる俺に向かって、サクヤが声をかける。

 

「どのみち戦闘テストはするつもりだったからな。ここで済ませてしまおう。構わないだろう、ハチ君?」

「いや、まあ、いいけど……」

 

 場合によってはそのうち俺の戦闘テストもするかもしれない――そんな話は昨日のうちに聞いていた。まさか今日早々に戦うことになるとは思ってなかったけど。

 まあやれと言われるのならばやるだけだ。戦闘経験を積めるのなら、むしろありがたいくらいである。昨日のケットシー戦では勝つことが出来たが、やっぱりブランクによる衰えは否めないし早めに勘を取り戻しておきたい。空中戦闘についてもまだまだ慣れていないし。

 予想外の展開にもそう前向きに考えて、すわ戦闘と俺が意気込み始めたところである。さらに続いたサクヤの言葉に、すぐに出鼻を挫かれた。

 

「ではフリックを含めて、6人パーティで彼の相手をしてみろ。メンバーはニナと、ビクトールと――」

「え、ちょ、ちょっと待って。6対1なの? タイマンじゃなくて?」

「1対1ですぐに決着がついてしまっては、実力が判断しにくいだろう? あと、出来ればきみの戦闘能力の限界値も知っておきたいしな」

「いや、そう言われてもな……」

 

 言いながら、ちらりとシルフの面々を横目に見る。

 古森で初めて会った時の小競り合いを思い返せば、彼らは昨日のケットシーたちよりも強いのは間違いない。そもそも領主の護衛に選ばれるようなプレイヤーたちだ。その辺りのプレイヤーよりも強いのは当然だろう。

 そう考えて、俺は苦い顔を浮かべて言葉を続ける。

 

「正直、自信ないぞ。昨日の連中は最初の不意打ちで何人か倒せたのがデカかったし」

「別に勝つ必要はないんだ。実力が証明出来ればそれでいい。あと、キルされたとしてもデスペナルティの無いようにその場で復活させるから安心してくれ。だから彼らに遠慮する必要もない」

「まあ……そういうことなら」

「……お前、俺たち6人を相手にして、勝負になると思っているのか?」

 

 侮られたと感じたのか、フリックが敵愾心丸出しで俺を睨む。いや、言い出したのは俺じゃないからね?

 

「いや、だから自信ないって言ってるだろ……。けど俺は雇われてる側だし、やれって言われたらやるだけだ」

「……ふん」

 

 社畜根性丸出しの俺の返事に納得したのかわからないが、フリックは俺を睨んだまま鼻を鳴らした。そんな彼をからかうように、サクヤがすかさず口をはさむ。

 

「お前らこそ油断するんじゃないぞ。昨日古森で戦った時は全員掛かりで無手の彼に翻弄されていただろう」

「あれは……!!」

 

 おい、火に油を注ぐな。睨まれるのは俺なんだぞ。

 それに俺が言うのもなんだが、昨日の遭遇戦のことはあまり参考にならない。集団戦に適していない地形だったのもあるし、そもそもフリックたちの一番の目的はサクヤの護衛だ。見晴らしの悪い森の中では周囲の警戒も怠れなかっただろうし、あの状況では全てのリソースを俺に割いていたというわけではないはずだ。

 そんな理由を上げてゆけば、フリックはいくらでも自分を擁護することは出来たはずだ。しかし彼はそれをせず、一切の不満を飲み込むようにして頷いた。

 

「……いえ、言い訳はしません。この模擬戦でこの男を下し、傭兵など必要ないことを証明してみせます」

 

 言って、フリックは冷静な瞳で俺を見据えた。煽り耐性が低そうに見えたが、案外そうでもないらしい。

 挑発に乗って突っかかって来てくれた方が、対処はしやすかっただろう。肉体的なコンディションが存在しない仮想世界では、精神状態が大きく戦闘力に作用する。

 これは、手強いかもしれない。元から侮っていたわけではないが、俺はより一層気を引き締めた。サクヤとの同行を決めたのだから、俺もそれなりに自分の有用性を証明しなければならないのだ。

 

 その後、模擬戦の簡単なルールを決め、草原の見晴らしがいい場所に移動した。ルールとは言っても最初の立ち位置を決めたくらいで、アイテムの使用以外は基本何でもありのデスマッチだ。……デスマッチの模擬戦とはこれ如何に。

 一応サクヤが用意した蘇生魔法要員への攻撃は禁じられている。1分過ぎたら蘇生できなくなるらしいから、妨害しないように気を付けなくてはならない。まあ、逆に言えば注意すべきルールはそれくらいだろう。

 

 草原を緩やかな風が撫ぜる。周囲一帯、短い芝草ばかりだ。障害物もなく、地形を利用しての立ち回りは出来そうもない。

 地力のぶつかり合いになるな。目の前に並ぶ6人パーティを眺めながら、そう分析する。お互いの腕を試すにはちょうどいいだろう。

 決められた立ち位置に移動し、俺は槍を手に取った。相対する6人も真剣な表情で武器を構える。

 

「双方準備はいいな? では――始めっ!!」

 

 天高く掲げたサクヤの右手が振り下ろされる。同時に、俺は槍を低く構えて駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

◆ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 両手槍という武器は、ALOにおいてあまり人気のない装備だ。

 そもそも両手武器を扱っているプレイヤーが多くない。随意飛行を会得しなければ、飛びながら両手で武器を扱うことが出来ないからだ。

 初めから随意飛行を実践出来るプレイヤーなど本当に一握りであり、多くの初心者(ニュービー)はまず片手武器を選択する。そしてその武器に慣れていき、後に随意飛行を習得したとしてもそのままメインウエポンとして使用し続けるのだ。

 

 かく言うフリックもALOを始めた当初からずっと片手剣を使い続けている。今では随意飛行も習得したが、変わったのは空いた左手に盾を装備するようになったことくらいだ。

 そうした段階を踏んでもなお、随意飛行による空中戦に慣れるのにはフリックもかなり時間を要した。あんな初心者(ニュービー)が、一足飛びに『両手武器による空中戦闘』などという高等技術を習得出来たとは思えない。

 

 開始の合図とともに飛び立ち、奴の不慣れな空中戦で仕留める。フリックはそう考え、武器を構えた。

 油断しているつもりはなかったが、この時の彼はほとんど自分の勝利を疑っていなかった。だがそんなフリックの余裕は、一瞬にして吹き飛ぶことになる。

 ぬぼーっとした顔の、サラマンダーの男。目が腐っていることを除けば、何処にでも居そうな男だ。しかしそんな彼が槍を構えた瞬間、周囲の空気が変わったような感覚に陥った。

 

 サクヤの合図とともに、サラマンダーの男が動く。虚を突かれたわけではない。しかしフリックにはその初動を捉えることが出来ず、気付けば敵は目の前へと迫っていた。

 眼前に迫る青い切先。咄嗟に盾で防いだが、大きくよろめいて数歩後ずさる。速い。そして、重い。

 想定外の事態に一瞬動揺したが、すぐに持ち直して追撃に備えた。だが、敵はすでにフリックの前から消えていた。

 

「――ぐッ!」

 

 刹那、後方から声が上がる。振り返ると、男の持つ槍が後衛の女シルフ――ニナの胸を刺し貫いていた。次の瞬間には、彼女は薄緑色のエンドフレイムに包まれる。フリックは目を見開いて、額に冷や汗をかいた。

 

 一撃でHPが全損――どれだけの攻撃力を持っているのだ、こいつは。いや、今はそれより倒されたニナのことだ。

 まず後衛の魔術師を落とすのは、パーティ戦闘の定石だ。ニナは護衛団の中でも最も魔法に秀でたプレイヤーだった。初見でそれを悟られないように装備を偽装しているが、昨日の遭遇戦の時に彼女が魔法を使う場面は見られていた。それを覚えていたのだろう。

 完全に戦い慣れしているプレイヤーの立ち回りだ。フリックは敵に対する警戒を一気に引き上げた。

 

「囲め!! 挟み撃ちにするんだ!!」

 

 敵の背中に斬りかかりながら、叫んだ。幸い、深く踏み込んで来たせいで既に半分包囲するような形になっている。

 フリックの剣が振り下ろされる。完璧に捉えたかと思ったが、背中に浅い傷を負わせただけに終わった。そのまま畳みかけようとしたが、サラマンダーの男は牽制するように大きく槍を振り回し、一瞬の隙をついて包囲を抜け出した。そしてすれ違いざまに、シルフのひとりに刺突を浴びせかける。2合と持たずに崩れ、薄緑色の炎が上がった。

 半端な包囲では、互いにカバーが出来ずに各個撃破されてしまう。瞬時にそれを悟ったフリックは、先ほどの言葉を撤回するように新たに指示を飛ばした。

 

「各自散開! 上で陣形を組み直す!!」

 

 当初の考え通り、空中戦で削る。地上戦では思わぬ不覚を取ったが、敵はまだ飛行に不慣れな初心者(ニュービー)だ。飛行速度が速いというシルフの種族特性も加えて考えれば、空中戦では有利に立ち回れるはずだ。

 空にさえ逃げることが出来れば――そんなフリックの考えは、しかしすぐに崩れ去ることになった。

 

「がッ!?」

「きゃあ!?」

 

 飛び立ったシルフ達の無防備な背中を、男の槍が貫く。赤い(はね)を羽ばたかせて追いすがる男の速度は異様なほどで、空中戦に不慣れだなどと言う自分の見立てはとんだ見当違いだったのだとフリックは理解した。

 陣形を組みなおすどころか合流することすら出来ず、ひとり、またひとりと仲間が打ち取られてゆく。気付けば、生き残っているのはフリックとサラマンダーの男だけになっていた。

 

 空でフリックと向かい合いながら、サラマンダーの男は一度大きく息を吐いた。そうして息を整えて、改めて槍を構え直す。フリックは戦慄と共に、その姿を凝視する。

 初心者(ニュービー)などという言葉にはそぐわない、堂に入った構え。少なくともこのALOを始める前から、槍術に心得があったのだろう。しかしどんな経験を経れば、これほど実戦的な技術を得ることが出来るのか。

 

「まさか、お前……」

 

 ふと、フリックの頭に過るものがあった。ここ最近、よく耳にするようになった噂話だ。

 妙に強い初心者(ニュービー)たちが、アルヴヘイムの各地に続々と現れているという噂。出現する領地や、その種族、性別、年齢などに一貫性はなく、ただここ1か月程度の間にALOを始めたということと、その強さだけが彼らの共通点である。

 ALOでは運営の厳しい管理によって複数アカウントの取得が難しいため、経験者によるサブアカウントという可能性も低い。そもそもサブアカウントを作る目的の多くは他種族へのスパイ行為だ。わざわざ目立つ行動を取る必要はない。

 つまり噂されている彼らは、本当に言葉通りの意味の初心者(ニュービー)だということだ。しかし、何の経験もない初心者(ニュービー)がいきなり強くなれるほど、このALOは甘くない。

 

 考えられるのは、何か他のVRゲームの熟練者たちがこのALOに流入してきているという可能性。そこまで考えが至れば、()()()()()と彼らの関連を疑ってしまうのも無理のないことだった。

 2か月ほど前。2年間もの時を経てようやくクリアされたVRMMO。多くの人々の命を奪い、世界を震撼させたあのデスゲーム。

 

 青い槍が煌めいた。まるで吸い込まれるように、澄んだ切先がフリックの胸を貫く。この圧倒的に不利な状況において、もはや半ば心が折れていた彼にそれを防ぐ術はなかった。

 

「SAO……生還者(サバイバー)……」

 

 薄緑色のエンドフレイムに包まれながら、フリックは小さく呟いた。それは誰に届くこともなく、炎の揺らめきと共に晴天の空に消えていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第10話 其々の抵抗

 魔法によって蘇生されたフリックは、微動だにせず草原に横たわっていた。大の字になって空を見上げたまま、しばらく呆然とする。そんな彼の顔をサクヤが上から覗き込んだ。

 

「気は済んだかフリック」

「サクヤ様……」

 

 フリックの返事には模擬戦前のような威勢の良さはなかった。ノロノロとした動作で起き上がり、ため息を吐く。

 たった1人を相手に、6人掛かりで手も足も出なかった。その事実はサクヤの護衛として日々精進してきたつもりの彼を打ちのめすのに十分なものだった。

 

「不甲斐ありません……。あれだけ啖呵を切っておきながら、私は……」

「そう落ち込むな。今回は相手が悪かったよ」

 

 意気消沈するフリックの背中に、サクヤは明るく声をかける。(くだん)の相手であるハチに視線を向けると、先ほどの戦いで見せた強者の雰囲気が嘘のように、今はひとり居心地が悪そうにしながら槍を弄っていた。その落差がなんだか可笑しく思えて、サクヤは小さく笑う。

 

「しかしまあ、これでわかっただろう。今さら警戒するだけ無駄なのさ。彼にその気があったのなら、これまで私を討とうとするチャンスはいくらでもあったんだ。あれだけの実力を持っているのだからな」

 

 言いながら、彼女はフリック以外の仲間たちにも視線を送る。完全に納得したわけではないだろうが、護衛団のメンバーはお互いに顔を見合わせつつ、小さく頷いた。

 

「彼がサラマンダーの密偵だという危惧も要らぬ心配さ。モーティマーなら彼をもっと上手く使うだろう」

「そうですね……」

 

 頷いて、フリックがようやく立ち上がる。

 ハチというプレイヤーは、密偵として使うには過ぎた駒だ。知将と呼ばれるモーティマーならばそんな采配は取らないだろう。その見解はフリックも一致していた。

 

「……ただ、ひとつ気になることがあります」

 

 フリックは声を潜めてそう言った。サクヤに歩み寄り、小さく耳打ちをする。

 

「最近アルヴヘイム各地に出現している妙に強い初心者(ニュービー)たちの話はサクヤ様もご存じでしょう。彼らはあのSAOの生き残りだという噂があります。もしかしたら、あいつも――」

「フリック」

 

 その先を遮るようにして、声を上げた。穏やかな、しかし有無を言わさぬ意志を持った瞳で、サクヤはフリックを見つめる。

 

「その詮索はマナー違反だ。そして意味のないことでもある。大事なのは彼が我々に友好なプレイヤーであり、強力な力を持っているということだ。違うか?」

「それは……いや、そうですね」

 

 フリックは圧倒されるように頷き、ひとつ息を吐いた。そうして少し考え事をするように俯き、やがてその視線をいまだひとり居心地が悪そうに立っているサラマンダーの男に向けた。

 

「お前……いや、ハチと言ったか」

「ん、ああ」

 

 ハチの目には警戒の色が見て取れた。また突っかかって来られたら面倒だなと彼は内心で危惧していたが、そんな予想に反してフリックは深々と頭を下げる。

 

「悪かった。侮っていたのは私の方だったようだ。お前のような男がサクヤ様の護衛に力を貸してくれるのなら心強い。よろしく頼む」

「え、あ、ああ……。よろしく」

 

 ハチは挙動不審になりながらも、何とか差し出された手を取った。どうやらこれ以上のトラブルは避けられたようだとほっと息を吐く。そんな彼の下にサクヤも歩み寄っていった。

 

「しかしきみ、なんだか昨日より強くなっていないか? もしかして、力を隠していたのか?」

「いや、そんな器用な真似できないっつの……。勘を取り戻そうと思って、ちょっと自主練したくらいだよ」

「自主練? 昨日、あの後でか?」

「昨日の夜と、今日の朝だな。その辺で槍振り回したり、適当にモブと戦ってきた」

「それだけであれほど変わるものなのか……」

「いやまあ、結構ブランクあったし……。あ、それよりちょっと魔法のことについて聞きたいんだけど、いいか?」

「構わないが、魔法のことなら私よりニナに聞いた方がいいな。ええと……」

「サクヤ様」

 

 会話を続ける2人を制止するように、フリックが割り込んだ。彼は時刻を確認しながら言葉を続ける。

 

「模擬戦で時間を取ってしまったので、あまりのんびりしている余裕がありません。申し訳ありませんが、お話は道すがらということでよろしいですか」

「おっと、そうだったな。ハチ君、悪いがそういうことだ。ひとまず出立を……の前に、せめて全員の自己紹介くらいはしておくか。まだ名前も把握してないだろう?」

 

 そう言ったサクヤが護衛団を整列させて、順番に簡単な自己紹介を行う。1度に全員の名前を覚えきる自信は全くなかったが、ハチは空気を読んでうんうんと頷いていた。

 その後はハチも組み込んだ隊列について軽く打ち合わせをして、すぐに出立となった。しばらくは見晴らしの良い草原でモンスターの出現率も低いため一行に緊張感はなく、雑談も交わしながらの和やかな行軍である。

 もっともサラマンダーを敵視していたフリックが態度を軟化させたため、護衛団の他のプレイヤーたちもハチを受け入れる空気を作り始めていた。積極的にハチに話しかけようとするメンバーも存在し、雰囲気は悪くない。話しかけられた当の本人は、少し居心地が悪そうにしていたが。

 薄緑色の(はね)を持つ妖精たちの中に、ひとり交じって異彩を放つ赤い燐光。北へと飛び立つ一行の中で、彼の濁った瞳は山脈の向こう側――遠くアルヴヘイムの中心に(そび)え立つ世界樹を見据えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 現実時間、午後7時頃。

 既に風呂も晩飯も済ませた俺は、上下スウェットという楽な格好で自室のベッドに横たわっていた。スマートフォンを耳に押し当て、電話の向こうのキリトに話しかける。

 

「つーわけでひと悶着あったけど、その後は割と順調だな。今は蝶の谷とかいうところの手前でキャンプ地作って休憩してる」

「あーなるほど、ハチは西回りで行ってるのか。俺は今ルグルー回廊の手前だよ」

 

 会話の内容は、言わずもがな互いの状況報告である。ログアウトする度にメールを送り合ってはいたが、タイミングが合わずこうして通話するのは昨日と合わせてもまだ2回目だった。もっと小まめに連絡を取りたい気もするが、互いのパーティメンバーの都合もあってログアウト時間を合わせるのが難しい。現状大きな問題もないので、しばらくはゲーム攻略優先で連絡は二の次ということになっていた。

 今回はたまたまタイミングが合ったので、こうして通話でやり取りをしている。直接話さなければ取りこぼしてしまう情報も多いので、ここでキリトと話が出来たことは正直助かった。

 

 どうやらキリトの方も順調に世界樹に向かっているようだ。アルヴヘイムの中心に位置する世界樹は四方を山脈に囲まれているのだが、この山脈は標高が高く頂上付近は飛行制限区域に設定されているため空からの山越えは不可能であり、ここを抜けるにはいくつか存在するルートを選んで通る必要がある。

 そのルートのひとつが蝶の谷であり、ルグルー回廊だ。シルフ領から世界樹に向かうのならばキリトの言うルグルー回廊を通るのが最短ルートのようだが、俺は開始位置が若干西よりだったことと、シルフとケットシーの会談場所の関係で蝶の谷を通ることになったのだった。

 俺がシルフ領領主サクヤに傭兵として雇われることになった経緯は、既にキリトに説明してある。世界樹攻略においてはキリトもセットで雇われることについても了承済みだ。

 

「今日中にアルンで合流は……微妙なところかな。明け方までやってれば着ける気もするけど、リーファ……あ、俺のパーティメンバーの名前な。彼女の都合もあるし」

「まあ明日合流出来ればいいだろ。こっちもシルフとケットシーの会談に付き合うことになってるし、それが夜中の1時の予定だからな」

 

 顔合わせを兼ねてということで、俺も2種族の会談に出席することになっている。ただサラマンダーの俺がいきなり顔を出すと要らぬ混乱を招く可能性があるので、正式に同盟の調印が終わって、俺という傭兵をひとり雇ったことをケットシーに説明してからになる予定だ。それまでは少し離れた場所で待機ということになるだろう。

 

「2種族の同盟か……それは協力して世界樹を攻略するために、ってことでいいんだよな?」

「ああ。細かいことは他にも色々あるっぽいけど、メインはそれだ」

「そこに一枚噛ませて貰えるのは大きいな……。俺たちだけでの世界樹攻略を諦めたわけじゃないけど、正直難易度が高いのは事実だし」

「まあな。けど全部順調にいっても準備に時間が掛かるから、実際に動けるのは最短でも1、2か月は掛かるって話だ。最初からそれを当てにはしたくない」

「わかってるよ。俺だって、少しでも早くアスナを助けたいんだ」

「……なあ。俺たち、アスナに近づいてるんだよな」

 

 弱音を吐くつもりなどなかったが、気付けばそう口にしてしまっていた。キリトとALOを始めてから、ずっと感じていた不安だった。

 あの鳥籠の姫君という存在は、本当にアスナと関係があるのか。実は俺たちの推察は全くの見当違いで、ALOと未帰還者たちの間には何の関係もないのではないか。そうなれば、俺たちがしていることはただの時間の浪費だった。

 当然キリトも俺と同じ不安を感じているはずだ。しかしキリトは少しの沈黙の後、迷いを振り切るように言葉を発した。

 

「今は、そう信じて進むしかない。それに迷ってる余裕もないぞ。俺たちの推測通りなら、一刻の猶予もないんだ。アスナたち未帰還がどんな扱いを受けているかはわからないけど……300人も拉致するような奴らだ。ろくでもないことを企んでるのは間違いない」

「……そうだな。悪い、馬鹿なこと聞いた」

「まあ弱気になる気持ちもわかるさ。でも、今は全部置いておこう。全ては世界樹の上に辿り着いて、鳥籠の姫君とやらに会ってからだ」

「ああ」

 

 不安を拭い去ることなど出来るはずもなかったが、俺は努めて気丈に頷いた。キリトだって、目的さえはっきりと見えないこの状況を手探りで進んでいるのだ。俺だけがここで折れるわけにはいかない。

 あるいはアスナも、何処かで足掻いているのだろうか。いや、鼻っ柱の強いあいつのことだ。大人しく囚われの姫君になっているわけはないだろう。

 

「あ、やべっ。リーファとユイを待たせてるんだった。そろそろ行かないと……」

「わかった。ちょっと早いけど俺もインしとくか」

「オーケー。じゃあ、また後でな」

「おう」

 

 通話を切って、スマートフォンをベッドサイドに置く。次いでナーヴギアを手に取った俺は、それを頭に装着してベッドへと横になるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルヴヘイムの中心、天高く聳える巨木《世界樹》。

 その一端。長く伸びた枝葉の先には、巨大な鳥籠が吊るされていた。

 金色の格子で造られた鳥籠の中は思いのほか殺風景で、広い空間には白い大理石の丸テーブルと椅子、その傍らに天蓋付きのベッドがぽつりと置かれているだけである。純白の天蓋には精巧な細工が施されていたが、調度品の少ないこの部屋ではかえって空々しさがあった。

 《鳥籠の姫君》と呼ばれるかの少女――結城 明日奈は、長い間この檻の中に囚われていた。時折訪れる小鳥たちと戯れる以外の時間は、硬く冷たい椅子に腰かけて日がな一日格子の隙間から外を眺めるだけ。そんな生活を、彼女は既に2か月ほども続けている。

 四方を囲む金色の格子ひとつひとつの間隔は大きく、一見簡単に間を通り抜けられそうに見えるが、実際には決して外に出ることが出来ないようシステムに設定されている。ここ唯一の出入り口はアルヴヘイムには似つかわしくない鈍色の自動ドアで、キーパッド入力による暗証番号でロックされていた。

 

 アスナはいつものように白い椅子に腰かけ、これからのことを静かに思案していた。事態はどんどんと悪い方へと向かっている。おそらく、猶予はもう幾ばくも無いだろう。これから自分は、どう立ち回るべきか――。

 

 そんな彼女の思考を邪魔するように、唐突に自動ドアが開いた。現れたのは、豪奢な衣装を着こんだ長身の男。彼は苛立たし気に足音を響かせながら、アスナへと歩み寄った。

 

「全く! きみは本当にじゃじゃ馬だなぁ!!」

 

 長い金髪を振り乱しながら、男は恫喝するように大声を上げた。アスナは彼に一瞥もくれなかったが、男は乱暴に彼女の頬を掴んで顔を向けさせる。

 

「部下に報告を聞いて、飛んで帰ってきたよ。一体どうやってここを出たんだい?」

 

 質問には答えず、アスナはただ男を睨みつけた。今すぐにでも男の手を振り払って一発パンチをお見舞いしてやりたいところだったが、この仮想世界のシステム管理者であるこの男には何をしても無駄である。せめてもの抵抗として、アスナは固く口を閉じたのだった。

 

 男の言う通り、アスナは既に一度ここからの脱出を試みていた。そして、その半ばで失敗した。

 システム上の抜け穴を利用して自動ドアの暗証番号を手に入れ、この鳥籠から出るまではよかった。しかしこの仮想世界からログアウトするにはシステムコンソールが必要であり、それを見つけ出してログアウトボタンを押す前にアスナはここの職員だという男たちに発見されてしまったのだった。現在のアスナは戦闘能力をほとんど保持しておらず、必死の抵抗も空しく結局は再びこの鳥籠へと連れ戻されることになった。

 

 当然の如く自動ドアの暗証番号は再設定されてしまった。同じ方法での脱出は難しいだろう。

 しかし、全てが振り出しに戻ってしまったわけではない。この鳥籠を出た先の通路の構造を多少でも把握できたし、コーンソールの位置も確認出来た。それに何より、ひとつ()()()を手に入れることが出来た。

 ここで男にそれが発覚すれば、間違いなく取り上げられてしまうだろう。絶対に隠し通さなければならない。その意思をもって、アスナは男を一層強く睨みつけた。

 

 数秒間の睨み合いの末、根負けしたのは男の方だった。苛立ちを吐き散らすように息を吐いて、アスナを掴んでいた手を解放する。

 

「……だんまりか。まあ、いい。どうやってここから出たのかは知らないが、もう同じことが出来るとは思わないことだ。これからは監視を強化させるし、扉のコードも随時変更させて貰う」

 

 言って、男はアスナの表情を伺うように再び彼女に視線をやった。しかし無表情に沈黙を続ける彼女の様子を見て、期待した反応を得られなかったのか、拍子抜けしたように肩をすくめる。

 

「ふん。もっと絶望した顔を見せてくれるかと思ったけど、まだそんな目が出来るんだねティターニア」

「私の名前は結城 明日奈よ。妙な呼び方をしないで、須郷さん」

「ここでは妖精王オベイロンだと言っただろう。興が冷める」

 

 須郷と呼ばれた男は目を細め、アスナを見下ろした。それを見つめ返しながら、彼女は顔を顰める。

 目の前の男の姿はリアルの彼とは似ても似つかないブロンドヘアの美丈夫だったが、そんな表情をすると何処か面影があるような気がするとアスナは思った。常に何処か人を小馬鹿にしたような、あのいけ好かない糸目の男の面影だ。

 

 須郷 伸之――レクトフルダイブ技術研究部門の主任であり、アスナとは家族ぐるみの付き合いがある人物である。父からは婚約の話も勧められるほどの関係だったが、しかしアスナ自身は昔からこの男が嫌いだった。

 何か明確なきっかけがあったわけではない。だがそんな自分の感性は間違っていなかったのだと、今のアスナは確信していた。

 

 2か月前、茅場晶彦との戦いでハチを庇ってゲームオーバーになった後、アスナは気が付けばこの鳥籠の中に横たわっていた。まさかここが死後の世界なのかと困惑するアスナの前に現れたのは、妖精王オベイロンの姿をした須郷伸之だった。

 混乱するアスナに対し、自己顕示欲の強い彼は得意げに全てを語りだした。

 SAOサーバーに繋がるルータに細工を施し、ゲームクリアの瞬間一部のプレイヤーたちをこの世界へと拉致したこと。そして彼らを利用し、ナーヴギアやアミュスフィアの放つ電子パルスによる思考、感情、記憶の改変を行う実験を行っているということ。

 

 つまり目の前に立つ男こそ、自分をこの鳥籠に閉じ込めた張本人。そして、本来ならば解放されるはずだった300人ものSAOプレイヤーを再び電脳世界に拘束し、非人道的な人体実験に利用する姑息な犯罪者であった。

 

「……こんな企み、長く続くはずがないわ。いつか誰かが貴方に辿り着く」

「ははははっ! 誰が辿り着くっていうんだい? 政府や警察は無能ばかりさ。この情報世界のことを何も理解しちゃいない」

 

 須郷のこの発言はただの虚勢ではなかった。実際警察は須郷の企みに気付いていなかったし、事件との関与に疑いこそ持っていたが結局その尻尾を掴むには至っていない。サーバー維持費の節約というちゃちな理由でALOというゲーム内に研究所を構えている須郷だったが、それが隠れ蓑として機能している側面もあった。

 そんな警察の捜査事情などアスナは知る由もなかったが、実際にこの2か月の間に救助が現れることはなかった。だからこそ傲慢に笑う須郷に反論することも出来ず、アスナは黙って拳を握りしめた。そんな彼女の様子を見て、須郷はいやらしい笑みを一層深くする。

 

「ああそれとも、もしかして彼らに期待しているのかい? SAOを終わらせた、あの英雄くんたちに」

 

 堪えきれないとばかりに、須郷は再び不快な笑い声を上げた。興奮に息を荒げながら、言葉を続ける。

 

「これはお笑い(ぐさ)だねぇ! SAOでどんな活躍をしたのか知らないが、あんなのは現実世界じゃあ何の役にも立たないただのガキどもさ!」

「……2人に会ったの?」

 

 目を見開いて、アスナが問いかけた。須郷はその反応を楽しむようにじっとりと彼女を見つめながら唇を舐める。

 

「ああ。きみの眠る病室で僕たちの婚約のことを話して煽ったら、キリトとかいうガキは悔しそうに顔を歪めていたよ。もうひとりの目の腐ったガキは……ハチとか言ったかな。どうにもPTSDを患っているようでね。きみの顔すらまともに見れないみたいだよ。ははははっ! とんだ英雄サマもいたもんだっ!」

 

 心底可笑しそうに笑う須郷の前で、アスナは表情を隠すように顔を伏せた。それが失望からの反応だと考えた須郷は、さらに追い打ちをかけようと嬉しそうな表情で口を開く。

 

「ん? どうしたんだい? もしかしてショックだったのかな? きみのゲーム友達が、役立たずの能無しだったと知って」

「……出て行って。もう、気は済んだでしょう」

「ふん。そうやって普段からしおらしくしていれば可愛げもあるんだけどねぇ」

 

 俯いて声を震わせるアスナを見て満足したのか、須郷は軽く息を吐いて彼女から距離を取った。

 

「まあいい。研究は完成間近だ。もうすぐきみの感情は、僕の思うがままになる。そうなったらたっぷりと可愛がってやるさ」

 

 捨て台詞のようにそう言って、須郷は鳥籠の中から出て行った。それを見送ってから、アスナは俯いたまま心の中で喜びの声を上げた。

 

 ――ハチくんは……ハチくんは、生きてる!

 

 この鳥籠に囚われてから、それがアスナの最大の憂慮だった。

 SAOがクリアされる以前、アスナが覚えている最後の記憶は、ハチと茅場晶彦の一騎打ちの光景だ。そしてその一騎打ちは、ハチの敗北という形で終わってしまった。

 ハチの死が目前に迫った瞬間、アスナの頭の中は真っ白になった。そして次の瞬間には、彼の下に駆け出していた。

 システムによる拘束をどうやって抜け出したのか、自分でもわからなかった。ただ気付けばハチを庇い、彼に振り下ろされるはずだった刃をその身に受けていたのだった。

 アスナの無防備な背中を切り裂いた凶刃は、一撃で彼女のHPを全損させた。予想外の事態に戸惑うハチの腕の中で、そうしてアスナはゲームオーバーを迎えたはずだった。

 しかしアスナの意識は消失することなく、気付けばこの鳥籠の中で囚われの存在となっていた。そしてそこに現れた須郷信之によって、SAOがクリアされたことを告げられたのだ。

 

 SAOがクリアされたということは、自分がゲームオーバーになった後に誰かが茅場晶彦を倒したということだろう。しかし、あの状況からハチがもう一度戦うことが出来たとは思えない。きっと他の誰かが、おそらくはどうにかしてあの場に駆け付けたキリトが茅場晶彦を倒したのだ。

 

 しかしそうなると、気になるのはハチの安否だった。自分が庇ったことで1度は命を繋いだとは言え、茅場晶彦にその気があれば彼を殺すことなど造作もないことだったろう。もしあの後、再び茅場晶彦の剣が彼に振り下ろされていたとしたら――。

 

 ここに閉じ込められるようになってから、アスナは幾度もそんな想像をして、その度にそれを否定してきた。きっと彼は生きている。そして無事に現実世界に帰還したはずだ。祈るように、何度も何度もアスナは自分にそう言い聞かせてきた。

 しかしどれだけ前向きに考えようとしても、不安は確実にアスナの心を蝕んでいた。先の見えないこの状況では、どれだけ気丈に振舞っても彼女の心は弱っていたのだ。

 

 しかしハチの生存という吉報が、アスナの心に火を灯した。他でもない須郷信之が、アスナの不安を綺麗に打ち払ってくれた。

 当の本人はアスナの心を折ろうとしたのだろうが、見当違いもいいところだった。自分を絶望させるためには、彼らは死んだと嘘を吐くべきだったのだ。

 まったく、頭はいいのかもしれないが、詰めの甘い男だ。自分が一度ここから脱出出来たこともそうだし、きっとこの状況でもまだ何処かに付け入る隙はあるだろう。

 しかし喜んでばかりもいられない。須郷によれば、ハチはPTSDを患っているという話だ。まず間違いなく、要因のひとつは自分だろう。なんだかんだと言って責任感の強い彼のことだ。戦友のゲームオーバーと未帰還者たちの件を繋げて考えて、自分を責めているに違いない。それを救えるのは、きっと自分だけだ。

 

 アスナは大理石の椅子から席を立って、豪奢なベッドへと腰を下ろした。左手で大きな枕の下をまさぐると、硬い感触が指先に触れる。

 ここからの脱出は、きっとこれが鍵になる。前回の脱出未遂の際に手に入れた戦利品――銀色のカードキー。

 システムコンソールに刺さりっぱなしになっていたそれを、アスナは何とかここまで隠して持ち帰っていた。アクセスできるシステムコンソールそのものがなければ役には立たないが、今はこれが外に繋がる唯一の手掛かりだ。

 枕の下から取り出して眺めることはしなかった。部屋は監視されている可能性が高いし、見つかれば取り上げられてしまうのは間違いないだろう。

 誰にも見られないよう、アスナは強くカードキーを握りしめた。そして、強く決意する。

 一刻も早く、ここから脱出して彼に会うのだ。彼の前に立って、もう大丈夫だよと笑ってみせよう。そして今度こそ、あの約束を果たすのだ。

 

 ――待っててね、ハチ君。

 

 遠く、鳥籠の外を眺める。その瞳には、揺らぐことのない不屈の意思が宿っていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。